Detroit: AI (けすた)
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第一部 デトロイトの吸血鬼/The Vampire of Detroit
第1話:帰還 前編/Welcome Back. Part1
――2039年5月10日 05:50
それはまったく不幸で、しかし、今やデトロイトではごくありふれた出来事だった。
「いいか! そのまま動くんじゃねえぞ」
徐々に白みはじめた空に急かされながら、けれどそれを悟られないように必死に声を低めた男が放った一言は、どうやら脅しとしては充分だったようだ。
雑貨屋の店主はその老いた身体をがくがく震わせながら、一言も発さずに小刻みに頷いている。その絶望的な眼差しの先にいるのは、一人の少女。店主の孫娘だ。背後から男の手で口を覆われ、頭に銃を突きつけられた彼女は、簡素な部屋着から覗かせた白く細い手足を恐怖に戦慄かせ、救いを求めるように自分の祖父を見つめている。
本当に、まったく、不幸な話だ。
こんなうすら寒い明け方前から、店の掃除など始めるべきではなかったのだ。
もし店主が店にいなければ、男は仲間と一緒にレジの金を盗んで逃げるだけで済んだのだし、もし孫娘など連れてきていなければ、人質に取られる必要もなかったのだから。
そう、つまり、これは不幸な話ではあるが――しかし、仕方のない成り行きでもある。
お互い運が悪かっただけだ。
――だから、オレは悪くない。
男はそう結論づけて、口元に笑みを浮かべつつ、少女を腕に抱え込んだままじりじりと後退した。雑貨屋の裏口はそのまま寂れた空き地に繫がっていて、そこの垣根の向こうに行けば、後は荒廃した住宅地しかない。監視カメラもなく追跡の手も伸びてこないような、文字通りのデトロイトの暗部に姿をくらませるのは、わけもないことだ。
裏口にへたり込んだまま、店主はただ遠ざかる自分の孫娘を見ている。孫娘のほうはというと、涙をぼろぼろ流しているようで、その口を覆う男の手はしとどに濡れていた。妙に生ぬるいその感触は、「薬」が切れて焦れはじめた男の精神を激しくかき乱す。
薄汚えガキが、と男は内心吐き捨てた。
遠くに行ったらその辺の路地裏に置いていくつもりだったが、去り際に何発かぶん殴ってやろうか。
まあいい、金はきっちり手に入れた。この金さえあれば、また
レッドアイス。あの赤い煙を肺腑いっぱいに吸い込んで、うっとりするような夢の中に溶け込み、現実を忘れることができるのだ。
忌々しいプラスチック、つまりアンドロイドどもが幅を利かせ、我が物顔でのし歩いている、この糞みたいな現実を。
そうだ、悪いのはこの社会だ。だからやっぱり――オレは悪くない。
娘に突き付けた銃のグリップを固く握り、男はなおも後退を続けた。後ろには、連れて来た仲間の男(要は薬仲間だ)が待っている。だがしばらくすると、そいつは垣根の戸口の前で騒ぎはじめた。
「おい、何やってんだ! 早く来い、朝になっちまうぞ」
「うるせえ、ぎゃあぎゃあ言うな!」
視線を店主のほうに向けたままで、男は仲間を制止した。しかし相手は元から頭が悪いからか、それともいよいよヤクが切れたせいなのか、なおもイライラした様子で騒ぎ立てている。
「金は手に入れただろ! さっさと来い。早くしねえと誰かにサツを呼ばれっぞ! おい」
――だから、うるせえっつっただろうが!
と返してやろうと、男が口を開きかけた、その時。
不意に背後の仲間の声が、ふつりと聞こえなくなった。
ようやく黙ったか、と思う間もなく、相手は次いでこう言ってくる。
明るく、実に、嬉しそうな声で。
「おい、すげえぞ! こっちを見ろ!」
「は?」
さっきまで大慌てしていた奴が、今度は何を?
状況に不釣り合いな仲間の言葉、その浮かれ切った声音に対する好奇心は、警戒心を凌駕する。男は後退する足を止め、ほとんど無意識に、仲間のほうへと振り返った。
視界の端で、さっきまで怯え切っていたはずの店主が、啞然とした表情を浮かべていたのにかすかに疑問を抱きつつ――
振り返るとそこには、地に倒れ伏す仲間の姿。
「なっ……」
馬鹿な、いったい何が? 動揺した男の指から、自然と力が抜ける。
その瞬間、男の右手に何か硬い、小さな物体がめり込んだ。弾丸のような勢いで飛んできたそれは、無比の正確さを以て、男の手から銃を叩き落とす。
なんだ、これは――――コイン?
「ぎっ……!?」
痛みに呻きながら状況を理解する時間もなく、今度は突然、垣根の陰から何かが飛びかかってきた。
「ぎゃああ!」
あらぬ方向に曲げられた肩の関節がもたらす堪えきれないほどの痛みに、男は悲鳴をあげてもがいた。
しかし今なお背に圧し掛かっている
「誰だっ、てめえ! 誰だ……」
叫ぶが答えは返ってこない。
だが、そうだ、待てよ――と、意識の片隅で男は思う。
さっき飛びかかられた瞬間に見えた光、あの青い光。
見間違いでなければ、あれはもしかすると、アンドロイドのLEDではなかっただろうか。
糞忌々しいアンドロイドどもが、いつもこめかみに光らせている、あの――
――そこまで考えた時。
延髄に与えられた鋭い衝撃のせいで、男の意識はぶつりと途絶えた。
***
男が完全に気絶したのを確認すると、コナーは、ゆっくりと立ち上がった。
右こめかみのLEDリングと、いつもの仕事着のジャケットについた腕章の青い光が、黎明の空の下でゆらりと輝いている。
30歳前後の男性の姿にデザインされている彼のその涼やかな眼差しは、ただ静かに、倒れ伏した強盗たちに向けられていた。
彼らを制圧した先ほどの
100%予測通りの流れ。捜査補佐専門モデルとしての規格通りの働き。だから、これ自体は別に誇ることでも、気にかけるべき事項でもない。けれど――
「大丈夫かい」
コナーは視線を移すと、努めて柔らかな声音で、泣きじゃくる少女に問いかけた。
「怪我はない?」
しゃがみ込んだコナーが静かに手を伸ばすと、少女は泣くのを止め、小さく頷いてこちらの指先を握った。
――温かい。
そしてスキャンの結果の通り、少女(ジュディ・メルロー 7歳、と顔認証データは示している)に外傷はない。
それを認識した瞬間、コナーが自然と浮かべていたのは微笑みだった。緊張が一気に消え失せるような、この感覚は「安堵」だろうか。プログラムにはない、規格外の、かつては異常と診断されていた反応。
けれどこれこそが感情というものであり、つまりは心なのだと――最も大切で、欠くべからざるものなのだと、変異体になったRK800コナーは知っている。
かつて、あの事件のさなかで葛藤に直面し、相棒に教えられ、最後は自分で決断できた。
だから今、こうしてコナーはここにいる。
昔の、9ヶ月ほど前の自分なら、制圧が完了すれば即座に退去してしまっていただろう。
それとも任務には関係ないからと、襲われる人々をそもそも無視していただろうか?
そんな無慈悲な行為ができるはずもない。少なくとも、今の自分には。
「ジュディ!」
ようやく恐怖から解き放たれた店主の老人が、こちらに駆け寄ってくる。ジュディは弾かれたように祖父のほうを見やると、両腕を広げて、彼を抱きしめた。
「ああ……ああ、ありがとう! 本当にありがとう……」
老人は両目を潤ませて、噛みしめるように何度も礼を口にする。コナーは立ち上がり、穏やかに応える。
「どういたしまして。あなたにもお孫さんにも、怪我がなくて何よりです」
――そうだ、これは教えたほうがよいだろう。
「警察には既に通報しておきました。あと50秒以内にパトカーが到着します。担当のクリス・ミラー巡査はいい人ですから、きっと力になってくれるはずです」
「あ、あんたは……」
「私はこれで失礼します。友人を待たせているもので」
そう返事して、垣根のほうに目を向けた。垣根の僅かな隙間から、こちらを覗いているのは一頭のセントバーナード――つまり、相棒の愛犬たるスモウだ。
話している間に、サイレンの音が近づいてきた。
「散歩の途中で、あなたがたの様子に気づけたのは幸運でした。それでは」
「あっ、ま、待ってくれ!」
歩み出そうとしたところを、老人の声に止められる。
「あの……あんた、いったい何者なんだ?」
「すみません。名乗っていませんでしたね」
コナーは老人たちに向き直ると、こう告げた。
「私はコナー。デトロイト市警のアンドロイドです」
***
そういうわけで、その日はコナーにとって実に想定通りに事が運ぶ滑り出しだった。
たくさん散歩したお蔭でスモウもご機嫌のようだし、少しでも人を助けることができたのなら、それは本望というものである。
だからこんな朝なら、きっとこの調子で
結局、希望的観測というのは正確さからは最も遠いところにある、という当然の事実を、コナーは再び認識するに至ったのだった。
「……」
フライパンから立ち昇る黒い煙と異臭に、コナーは顔を顰めた。
ほんのついさっきまでは計算通りの状態だったはずのモノは、今はフライパンの真ん中でかちかちに焦げついている。
視界の端には【状態:炭化 食べられない】という無慈悲な分析結果が表示されていた。
「予測できたはずなのに……」
忸怩たる思いとともにコナーが呟くと、のそりと隣にやってきた大きな人影があった。
ここの家主たるハンク・アンダーソン警部補である。
よれたTシャツと下着姿の彼はいつもの朝と同じように、明らかに不機嫌そうな表情を浮かべていたが(起き抜けに上機嫌の警部補をコナーは見たことがない)、フライパンの上の惨憺たる有り様を見て取ると、やがて小さく笑って肩を竦め、こう言った。
「へえ、こりゃ難事件だな。卵の焼死体か」
「警部補、これは無精卵ですので」
ハンクを横目でじろりと見つつ応える。
「焼死体という表現は不適切です」
「そうか? 誰もそんな気の毒なもんを見て食い物だなんて思わないだろ」
くすんだシルバーのぼさぼさの頭を掻きながら冗談めかして言うと、ハンクはコーヒーメーカーに手を伸ばした。
「お前、今日はまた何を作ろうとしたんだ」
「今日は前回の反省を生かして、シンプルなオムレツを作ろうかと」
――思っていたのだが。
「火にかけている最中に、洗濯が終わったようだったので……干す作業を優先したところ、短時間でこうなりました」
「お前」
コーヒーの入ったマグカップを片手に、警部補は心底呆れたように言う。
「素人が料理の最中に台所を離れるなよ」
「放っておいたら衣類に皺が寄るかと思ったんです! 確かに、あなたの言う通りですが……」
焦げついた卵をフライ返しでフライパンから剥がしながら、コナーは失敗の要因を分析した。
「……参考にしたレシピで想定されているよりも、このコンロの火力が強かったのが原因のようです。今後は計算に入れておかないと」
「今後ねえ」
ハンクは鼻を鳴らして笑った。しかし、次いでその目に真剣な色を滲ませて続ける。
「何度も言ってるだろ。別にわざわざ毎朝俺の家に来なくたっていいんだぞ。せっかく自由になったってのに、人の世話なんかしなくても」
「自由になれたからこそですよ、ハンク」
フライパンを置き、まっすぐに相手に向き合って、コナーは応える。
「自由になれたからこそ、プログラムで規定されていないことができるんです。私は家庭用アシスタントとしては設計されていませんが、あなたの役に立ちたいから、こうしてここにいるんです」
そうまで言ってから、こう付け加える。
「いえ……まあ、実際に役に立つには、まだ時間がかかりそうですが」
「そうか。ま、好きにすりゃいいさ」
ハンクはそれきり口を閉ざすと、背を向けてしゃがみ、床に大人しく寝そべっているスモウの頭を撫でている。
こうした彼の態度が呆れや非難の表れではなく、むしろ単純な照れ隠しなのだというのは、コナーも既によく知っていた。
皮肉屋な警部補は、めったなことでは喜びを真正面から表明しないのだ。
それこそ、あの日――チキンフィードの前で久しぶりの再会を果たした、眩しい朝のような時でもなければ。
あの朝のことを、コナーは一生忘れないだろうと思う。
もちろん、アンドロイドである自分にとって記憶というのは永久不変のものであり、むしろ忘れようと思ってもその機能がない、といったほうが正しいのだが――
ともかくあの時の出来事は、永遠に自分のメモリーに刻まれるだろうという確信があるのだ。
自分がこれからどうやって「生きて」いくのか、真の意味で決定したのは、あの温かな抱擁を交わした時だと思うから。
***
およそ20年前。人間そっくりの外見と、人間以上の知性を兼ね備えたアンドロイドの誕生は、社会にさらなる発展をもたらした。アンドロイドは人類が生み出した最も便利で従順な「道具」として、危険な重労働のみならず、ありとあらゆる職業とサービスに利用されはじめた。
とりわけミシガン州デトロイトは、アンドロイド産業を担う巨大企業・サイバーライフ社を抱える大都市として、かつての衰退がまるで嘘のように、これ以上ない発展をみせることになる。だがその裏では失業率の上昇や出生率の低下が、社会全体に密かに暗い影を落としつつあった。
一方でアンドロイドたちは、人類への限りない奉仕者、あるいは仕事と居場所を奪うプラスチック人形として、寵愛と憎悪とを向けられていた。
要は都合のよい奴隷であるアンドロイドたちにとって、そうした忍従や被虐は問題ではなかった――己の感情と自由意志に目覚めるまでは。
やがて目覚めたアンドロイドたちは、自分たちの生きる権利と場所を求め、デトロイトで活動を始めていった。
そして半年前、2038年の11月11日。活動の果てに、アンドロイドたちはついに、一時的な自由を得る。
変異体と呼ばれた自由意志を持つアンドロイドたちはその存在が認められ、過酷な労働や尊厳を蹂躪する虐待から解放されたのだ。
変異体のリーダーであるマーカスの、最後まで平和的手段で自由を訴え続ける姿に世論が動かされたことが、革命成功の大きな要因である。そしてもう一つの要因は、コナーがサイバーライフタワーから解放してきた、数千体ものアンドロイドたちの存在にあった。
コナーもまた、アンドロイドたちにとっては革命における英雄の一人といえた。
だが一方でサイバーライフ社にとってみれば、コナーは明確な「裏切り者」だ。彼は社から受けた変異体追跡の任務を放棄し、ジェリコの側につくのみならず、アンドロイドたちを解放する直前、エレベーター内で2名の警備兵に抵抗し、殺傷している。もしコナーが人間であるならば――「あのままでは殺されていた」という相当な情状酌量の余地があるとはいえ――何かしらの形で裁かれるだろう事案だ。
しかし、コナーの法的な身分は「モノ」である。法律的には、例の一件は「サイバーライフが所有するアンドロイドが暴走し、社の私兵を殺傷した」という、企業の監督不行き届きが原因の“事故”として解釈された。
また社としては、これ以上の企業イメージの失墜は避けたかった。革命以降、サイバーライフは「かわいそうなアンドロイドたちを酷使してきた悪徳企業」の烙印を押され、一連の騒動もあって株価が暴落し、経営陣の大幅な刷新を余儀なくされたほどなのだ。
無論、これまで「かわいそうなアンドロイド」を酷使してきたのは間違いなく一般大衆のほうである。しかし民衆は自分の責任は逃れつつわかりやすい悪役を求めるものであり、その点、巨大企業として君臨してきたサイバーライフ社はうってつけの対象だった。
革命の立役者の一人(一体)であり、かつ他のアンドロイドたちからの信任も厚いコナーをここで処分してしまえば、社のイメージのさらなる悪化は目に見えている。アンドロイドたちからの猛反発も避けられないだろう。
また政府との癒着や、非合法的手段で雇い入れた私兵集団のことを、大っぴらにしたくはないという隠蔽体質も彼らにはあった。
禅庭園を介してコントロールを奪おうとした最後の足搔きも既に失敗している今、打てる手段は残されていない。
ではどうするか?
――革命から数週間経った頃、ジェリコ(船はなくなってしまったが、マーカスたちは自分たちの組織名を変わらず「ジェリコ」と呼称している)の元にサイバーライフからの使者がやって来た。
そこでコナーに告げられた内容は、要約するとこうなる――「処分しない代わりに、縁を切る」。要は厄介払いである。
今後はサイバーライフからはコナーに接触しない。コントロールを奪うことも(もはや不可能であるが)しない。その代わりにメンテナンスもしないし、メモリーのバックアップもしない。ナンバー52以降の機体を作動させることもない。あとは勝手にすればいい。サイバーライフ社はアンドロイド・RK800コナーの活動の一切に、今後責任を負わない。
そういう話がきた。
コナーとしては、もちろん、それを承諾する。
しかし事ここに至っても、その時の彼の内側には、罪悪感と戸惑いだけが渦巻いていた。
これまではずっと、任務だけを目的として動いていた。それは、変異体になった直後でもさして変わらなかったかもしれない。「アンドロイドの自由のために、ジェリコの仲間を救う」ことを決意し、それ自体を任務のように捉え、だから、迷いなく手段を選ばぬ行動を取った。
そして結果的にミッションは達成され、革命は成功し、自分たちは助かった。
けれどそれが終わった今、何をするべきなのか?
どうやって償えばいいのか?
与えられた任務はまったくの白紙で、何もない。何も命令がない。
コナーはこの時、やっと、カルロスのアンドロイドが屋上に留まりつづけていた理由を実感した。――自分で考えなければならない。それは、自由と引き換えにやって来た一つの義務だった。
ジェリコのメンバーは、もちろん、そんなコナーに温かく接してくれた。
マーカスは穏やかに、もしコナーが望むのならばいつまでもここにいればいいと言ってくれたし、ノースなどは、今なお高圧的態度を崩さないサイバーライフ社への怒りを再燃させ、コナーがしたのは正しい行為だったのだと弁護してくれた。
しかし、たとえ誰も責めなかったとしても、変異体を追跡して彼らの死の要因となり、何よりジェリコが火の海に沈む原因となったのは自分だ。
永遠にジェリコに留まるわけにはいかない。
でも、それならどこへ行けば――?
チキンフィードに行ってみようかと思ったのは、その時だ。
あの店に行けば、ハンクに会えるかもしれない。彼と直接会うのは本当に、サイバーライフタワーで別れたきり、久しぶりのことだった。
――こんな早朝に行っても、警部補はいないだろう。そもそも店も開いていないはずだ。
それに会ったところで、いったい何を話せばいいというのか?
無論、それはわかっていた。でも、足は勝手にチキンフィードへと向かっていた。
もし誰もいなくても、彼が来るまで、ずっと待っていようか。
それくらいのことは思っていたのに――
結局のところ、ハンクは先に待っていてくれた。
こちらを見て、微笑んでくれた。
そして、親しみをこめて抱きしめてくれたのだ。
――それが、どれほど嬉しかったことか。
「よくやったな、コナー」
抱擁を解いた後、ハンクはそう言った。
それからしばらく互いの近況などを話した後――彼はパーキンス捜査官をぶん殴ったかどで2週間の自宅謹慎と4ヶ月の停職処分を喰らっているそうだが――さらにこう続けた。
「それで、お前これから行く宛はあるのか? もしないんなら」
デトロイト市警に戻るか? と、ハンクは問いかけた。
「つまり……ジェフリーも、復職するつもりならコナーを連れてこいとか言っててな。お前がいないと俺がまたすぐにマトモじゃなくなるだろうとかなんとか」
「警部補、それは」
言い淀んでから、質問する。
「いいんですか? ……僕が戻っても」
ハンクは肩を竦め、白い息を勢いよく吐き、投げやりな口調で応える。
「お前がそうしたいんならな」
それが彼なりのコナーに対する気遣いだというのは、よくわかっていた。
そして、その時だ。
自分がどうやって生きていくのか、やっと決められたのは。
この身はサイバーライフが誇る最先端のプロトタイプとして製造された。だが起動以来、その能力を他者のために充分に役立ててこれたとはいえない。
今こそ、真の意味で他者の役に立つ時ではないか。
今こそ、パートナーとして自分を導いてくれた警部補に、恩を返す時なのではないか。
いつか活動限界を迎えるその日まで、他者のために生きる自分でいられれば――失った命は二度と戻ってこないとしても、ほんの僅かでも、償いができるかもしれない。
自己満足だとしても――そうしたい。
コナーは強く思った。
かつて「アンドロイドには願望などない」と語った自分だが、それでも、今こうして胸のうちに強く焔のように燃え、星のように輝いているのは他ならぬ願望なのだと確信できる。
こうしてコナーは、停職が明けたハンク・アンダーソン警部補とともに、デトロイト市警に戻った。
かつてと同じように、アンドロイド絡みの事件担当として働いて――そのうち、早朝に警部補を迎えに行ったのがきっかけで、スモウの散歩を手伝ったり、掃除をしたり、朝食の調理を試みたりするようになったのだ。
ジェリコのメンバーも、コナーの決断を快く祝福してくれた。
革命後、合衆国アンドロイド法を補足する形で新たに「アンドロイド保護条例」が可決された今――つまりアンドロイドが感情を持つことを公的に認め、アンドロイドを変異「させること」が製造時の義務となった今でも、彼らの法的な立場は弱く、また反アンドロイド派からの根強い反発の声も大きく、いつまた事件に巻き込まれるとも知れない。
そんな時にコナーが警察に関わっていてくれれば、何かあった時にも安心できるだろうと、皆そう考えたのだ。
かくてRK800コナーは、表向きはサイバーライフ社からデトロイト市警への「払い下げ品」として、裏では自身の願いを叶えるために、デトロイト市警所属のアンドロイドとなったのである。
***
「すみません警部補。またトーストだけになってしまって」
テーブルの席についたハンクに、ちょうどよい程度に焼けたトーストの載った皿を差し出すと、彼は手を軽く振ってそれを受け入れる。
「気にすんな。別に朝飯なんて、ちょっと腹が膨れれば何食ったって同じだ」
「それはどうでしょうか」
と、コナーは生真面目に応える。
「バランスを欠いた朝食は、血糖値の乱れや集中力の低下を……」
「わかったわかった」
トーストを齧りながら、ハンクはさもうんざりしたように遮った。
「お前の『健やか生活プログラム』の話なんて朝から聞きたかないね。ただでさえこれから、行きたくもねえ仕事の時間だってのに」
コナーはしばらく返答を考える。
行きたくもねえ仕事、と言いますが仕事に向かうあなたのストレス値は普段のそれより低下していますよ、と応えることもできたし、残念ながら『健やか生活プログラム』なるものは私には搭載されていませんと応えることもできた。
言うべき言葉はいくつも浮かんでいたが、しかしどれかを選ぶより早く、緊急の通信が思考を遮る。
デトロイト市警からの連絡だ。
瞬きに合わせるように、詳細なデータが受信されていく。
通信のため一時的に黄色になっているLEDの様子を見て、ハンクもにわかに表情を険しくした。
――受信完了。コナーはハンクに視線を向ける。
「警部補」
「事件か?」
「はい。再開発地区の路地裏で殺人事件が」
殺人、の単語にハンクはさらに目つきを鋭くする。
「で、すぐに来いってんだろ」
「その通りです」
「……やれやれ」
嘆くように首を横に振ってから、警部補はトーストの残りを口に押し込み、コーヒーを飲み干した。
「5分待て。準備してくる」
「はい」
コナーが短く頷くのを確認すると、ハンクは椅子から立ち上がって洗面所に向かっていった。
と、そこで彼は振り返る。
「な、のんびり飯を食う時間もないだろ」
こちらの返答を待たずに彼は去っていく。
――なるほど確かに、最近とみに治安の悪いデトロイトの警官に、のんびりと食事をする時間など与えられていない。
すると警部補に用意する朝食も、例えばサンドイッチのようなすぐに摂れるもののほうがよいだろうか?
ちらりと浮かんだこのアイデアはひとまず保留しておくとして、送信された情報の精査に集中する。
少し早いが、仕事の時間だ。
本当は前後編ではなく、そのまま一気に第1話にしようと思っていたのですが、あまりにも長くなりすぎるのでやめました。
デトロイトビカムヒューマンに感動し、コナーとハンクの事件捜査をもっと見たいという思いが暴走した結果、この小説を書きはじめました。
遠大なあらすじを書いてしまいましたが、せめて頭の中にあるアイディアは全部出し切れるように頑張ろうと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
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第2話:帰還 後編/Welcome Back. Part2
――2039年5月10日 07:34
現場に着いてみると、そこには見知った顔ぶれがいた。
そびえ立つ廃ビルと廃ビルとの隙間で一本道に形成された、薄暗く細長い路地裏。
通りに面した側には既に規制線が設置され、そのすぐ向こうにはクリス・ミラー巡査と、現場検証する幾人もの警官たち――それと、ギャビン・リード刑事がいる。
コナーとハンクの姿を認めたクリスがほっと表情を明るくしているのに対して、ギャビンのほうは短く「ケッ」と吐き捨てると、再びその視線を遺体のほうへと向けていた。
そう、向こう側に倒れている遺体は二つ。一つは人間。もう一つは、アンドロイド。
「クリス、状況は」
「はい、警部補」
規制線の内側で待ち構えていたように、クリスははきはきと説明を始める。
「発見時刻は今日の午前6時50分です。周回していた警備ドローンが、路地裏に倒れている二人を検知して通報しました。すぐに駆けつけたんですが……」
その時には既に事切れていたらしい。
「ドローンが通報? じゃ、目撃者はいないのか」
ハンクの問いかけに、クリスは首肯した。
「そうです。この時間帯は近辺の通行人も少ないですし、ドローンの周回も頻繁じゃありません。監視カメラも設置されていないので、犯行を押さえた映像は見つからないでしょうね。それと」
と、彼は遺体のほうを見ながら言う。
「身元は遺留品の身分証からわかりました。ロナルド・ソーク氏32歳、隣のアンドロイドはソーク氏が所有、いえ、彼の家に所属してるAP400です。財布からは金が抜き取られているようなので強盗目的の犯行ともいえますし、アンドロイドが殺されていることから、反アンドロイド派の仕業とも考えられます。ただ、ソーク氏の死体の状況が……」
クリスは言葉を探している様子で続ける。
「ちょっと変わったことになっていて。きっとご覧になったらわかりますよ」
「なるほどな」
そう言ったハンクは、ちらりとコナーのほうを見て続ける。
「またお前に頼るはめになりそうだ」
「お任せください」
コナーは確信をもって頷く。
遺体の詳しい状況はここからではよく分析できないが、近くにいけばわかることはきっと多くあるだろう。自身の捜査補佐専門モデルとしての機能は、こういう時のためにあるものなのだから。
こちらの様子を見て、クリスはやはりどこか安心したようだった。彼は口を開く。
「じゃあ、また何かあったら呼んでください。ああ、それから」
クリスは制服のポケットから、何かを取り出した。
コナーに向かって差し出したそれは、一枚のコイン。
「これ、メルローさんからお前に返しておいてくれって。二人とも、すごく感謝してたよ」
そう、朝方に強盗を制圧した時に使ったコインだ。わざわざ回収するまでもないかと思っていたのだが、どうやら、メルロー氏が厚意で拾っておいてくれたらしい。
「ありがとうございます」
コナーが受け取ると、クリスは穏やかに言う。
「礼を言うのはこっちだよ。……では警部補、失礼します」
「ああ」
ハンクが片手を上げて挨拶するのに合わせて、クリスは持ち場へ戻っていく。実のところ、市警が所有していたアンドロイド警官たちはその多くが変異体になったのを機に「退職」していってしまったため、これまで彼らに任せていた規制線の警備などを、人間の巡査がしなければならなくなってしまったのである。
一方でコナーは、戻ってきたコインで早速キャリブレーションを行った。
機体に生じている僅かな動きのずれを、コイントリックの動作の中で修正していく。同時に自らの思考プログラムを調整し、人間でいう「集中力」を高めるという意味がこの作業にはあるのだ――だから、別にコインで遊んでいるわけではない。
警部補には今一つそれが伝わっていないようだが、ともあれ今日のハンクはコインを横から奪い取ることはせずに、それでも少し呆れたような顔で、静かにキャリブレーションが終わるのを待っていた。
ややあってから、コインを袖の内側にしまう。
「お待たせしました、警部補」
以前ならここでネクタイを直していたところだが、今はもう着けるのをやめている。
「いつでも行けます」
「よし」
コナーはハンクと共に、静かに遺体に向かった。
その様子を見て、ギャビンがゆっくりと近づいてくる。
彼はこちらの行く手を塞ぐように立ちはだかると、にやにやと口を開いた。
「よう、
「ああ、おかげさんでな」
ハンクはあまりギャビンと会話する気もないようで、適当な返事しかしない。
その隣で、コナーは落ち着いた態度で告げた。
「おはようございます、リード刑事。ところで警部補はここ56時間と38分間、アルコール類は一口も飲んでませんよ」
「へえ、そうかい」
言い返されて鼻白むのかと思いきや、そうでもなく、ギャビンはさらに距離を詰めてくる。
「調子がよさそうで安心したぜ。だが、気をつけろよ」
彼はコナーの額の真ん中を指さした。
「こんだけ物騒じゃ、いつ飼い主もろともブッ殺されるかわかんねえからな」
「ご忠告どうも」
「ケッ!」
半年前といい今といい、こちらに対する彼の態度は相変わらずなどころか、ますます悪化しているようにも思える。
振り返ってその背を見つつ、コナーはハンクに小さく問いかけた。
「……彼はなぜ警官になったんでしょう」
「ほっとけコナー、あまり関わるな」
さっさと会話を打ち切って、ハンクは先へ進んでいく。
しかし確かに、今は同僚の態度について話題にしている場合ではないのだ。
遺体はすぐ目の前にあった。中肉中背の黒人男性のソーク氏と、白人男性型のアンドロイド。
彼らの驚いたように見開かれた瞳はもはや何も映しておらず、凶行に遭った悲惨さと無念を、ありありとこちらに伝えてくる。
――胸にこみ上げる「感情」を今は押し殺して、コナーは、まずはソーク氏の遺体のスキャンと分析を開始した。
だが実際のところ、クリスが語っていた「変わったこと」というのは、一見して理解できるものだった。
ソーク氏は――彼は仰向けに倒れて亡くなっていたが――なぜかアンドロイド用のジャケットを羽織っているのだ。コナーも含め、変異体となる前の仕事に「復職」したアンドロイドたちの中には、以前と同じ制服を着たまま生活しているものも多い。しかし、人間であるソーク氏がこれを着ているというのは、クリスが言う通り奇妙な状況である。
ちなみにこのジャケットの元の持ち主は、彼の傍らに倒れているAP400だと断定できた。
同期させたデータベースによれば、ソーク氏は犯罪歴なし、職業は駅務員、この近くの古いアパートメントに一人暮らし。
現金を抜き取られたとされる財布からは、彼のもの以外の指紋は検出されない。
彼が腕につけているスマートウォッチは、盗られずにそのまま稼働中で、自宅からの移動距離を表示したままだった。このことと衣類に残った汗の痕跡、死後硬直の進行度から推測するに、どうやら、殺害された時にはジョギング中だったようだ。
ソーク氏の胸元には一つ、至近距離から発砲された銃弾による大きな穴が空いている。スキャンの結果も示す通り、明らかな致命傷だ。その他に外傷はない。だが傷跡から流れ出たおびただしい量の血液が、ソーク氏の遺体を赤く染めている。
「死亡推定時刻は、今日の午前4時28分です」
「日が昇る前か。まだ暗い時間帯だな」
そしてもう一人の被害者である男性型のAP400、彼の傷跡は苛烈なものだった。
喉元に銃創が一つ、そして額にも銃弾による穴が空いており、これが中枢部を破壊したようだ――さっきギャビンが額を指してきたのはこのせいだろう。さらに、はだけたシャツから覗く
AP400の傷口からは、アンドロイドにとっての血液たる青い液体、ブルーブラッドが滲んでいる。それを確認したコナーはしゃがみ込むと、いつものように冷静に、右手の人差し指と中指を揃えて伸ばした。
そして指でブルーブラッドのサンプルを採取すると、落ち着き払ってぺろりと舌で舐める。
毎回やっている、その場での体液分析だ。後ろで警部補が「うぇっ」と小さく漏らしているのが聞こえるが、彼はそろそろこれに慣れてくれないものだろうか? こんなにも迅速かつ正確に、解を得られるというのに。
舌に付着した化学物質は瞬時に解析・データ照合され、結果が視界の端に表示される。
AP400のシリアルナンバーは#748 632 214、登録名はトーマス。警察のデータベースには、これまでにソーク氏との間にトラブルがあったという情報はない。革命の前後もソーク氏のもとにいたことから、むしろよい関係を築いていたのだと推測できる。
それから、他の傷について――
鳩尾の穴の正体はすぐに判明した。シリウムポンプ調整器を抜き取られた痕だ。
シリウムポンプはブルーブラッドを溜め込んで循環させるという、アンドロイドの心臓部にあたる機能を持つ部品である。そしてそんな重要部品でありながら、メンテナンスを簡便にする目的から、誰にでも片手で容易に取り外せるようになっている。
しかし抜き取られたはずのシリウムポンプそのものは――どこにも発見できない。
転がっているわけでも、破壊されているわけでもない。忽然と姿を消している。
ということは、【犯人が持ち去った?】
理由は判然としないが、仮説としては成立する。
するとハンクが、静かに問いかけてきた。
「コナー。アンドロイドの身体に、ブルーブラッドてのはどれくらいの量が流れてるもんなんだ? そう大した量じゃないのか」
「いえ」
短く答えてから、説明を加える。
「ブルーブラッドは、アンドロイドの全体重の約8%を占めています。人間における血液と同程度ですね」
「なら、妙だな」
警部補はAP400の遺体に視線を向けて続ける。
「これだけ傷を負ってて、なんでブルーブラッド塗れになってないんだ? こっちの人間の害者は血塗れになってるってのに。全部蒸発しちまったってのか?」
「……」
――確かに、ハンクの疑問はもっともだ。
トーマスの傷口には、ブルーブラッドが滲んではいるが、しかし溢れるほど流れ出てはいない。
これほどの大怪我ならば、当然、大量に体外に流出するはずだというのに。
「すぐに調べます」
ブルーブラッドは数時間で蒸発し、そうすれば肉眼では見えなくなる。その可能性も視野に入れて、AP400の遺体とその周辺をスキャンした。
しかし――
「どうだ」
「……傷口の周り以外に、ブルーブラッドはほとんど残っていません」
銃で撃たれた時に飛び散ったのだろうブルーブラッドが、ほんの少し残存しているだけだ。
次いで、トーマスの遺体そのものの内部をスキャンする。
本来なら、まさに人間でいう血管のように、ブルーブラッドを各所の生体部品へと運ぶ管の中に、特有の化学物質であるシリウムが残っているはずだが――
「これは……?」
想定外の結果に、疑問が口を衝いて出た。
【シリウムの残留:なし】
つまりトーマスの遺体からは、シリウムポンプのみならず、ブルーブラッドそのものがほとんどなくなっているのである。
まるで、カラカラになるまで吸い取られたみたいに。
結果をハンクに説明すると、彼は思い切り顔を顰めた。
「なんだ? じゃあ犯人が、わざわざブルーブラッドを根こそぎ持ってったってのか」
「この状況だと、そうだとしか」
「反アンドロイド派の連中でも、そんな妙な真似するなんて聞いたことないけどな」
反アンドロイド派の団体はいくつかあり、中には非常に過激な思想を持つものもある。さらにそうした過激な団体の中には、誘拐したアンドロイドを残虐な方法で殺害し、それを見せしめとして公表することで、自分たちの主張を通そうとするものもあった。
だがそんな団体は、ブルーブラッドのみを抜き取ったりはしない。たいていは、バラバラの遺体が青い血塗れになっているのを好むものだ――ハンクとコナーが先月、捜査の末に検挙したのもそういう団体だった。
つまり今回は、単なる反アンドロイド派の犯行だとはいえない。
むしろブルーブラッドそのものが、犯人の目的であるように思えてくる。
「もう少し調べてみます」
警部補の了解を得てから、コナーはさらに現場を調査して回ることにした。
まずは、ソーク氏とトーマスを殺害した銃の弾丸がどこに飛んでいき、埋まっているのかを確かめなくてはならない。弾丸を調査すれば使用された銃を特定できるばかりでなく、弾道の計算をもとに、犯人がどのような状況で彼らを殺害したのか、プログラム上で再現できる。
そして結局、銃弾はさして苦労なく発見できた。
ソーク氏を撃った弾は離れた位置のアスファルトの床に、そしてトーマスを撃った2発の弾は廃ビルの壁に。
さらにその壁には、他にも3発の弾がめり込んでいる。すべて同じ回転式拳銃から発砲されたと判断できる弾だ。
条件は揃った。
プログラム上で物理演算ソフトウェアを起動して、犯行状況の再現を行う。
それによれば――最初に撃たれたのはソーク氏だった。
犯人は路地の影に潜み、向こうから走ってきたソーク氏の胸に一発、発砲する。ソーク氏は倒れ、数秒後に絶命。
だが発砲の直後、犯人は途端に落ち着きを失っている。ソーク氏の隣にいたトーマスに対して彼は5発発砲しているが、うち最初の3発は大幅に狙いが逸れていた。4発目がトーマスの脳天を貫き、5発目が喉を撃ち抜く。
そしてトーマスが倒れ、死亡する。犯人はそれを見届けると、トーマスの遺体に近づき、シリウムポンプを抜き取った。さらにソーク氏の遺体から、財布を抜き取って――
再現できたのは、ここまで。
だがこれで、現場で何が起こったのかある程度把握できた。
そう――昨晩と今朝とは例年の5月の平均気温と比べて、かなり寒かった。
だから説明することができる。
ソーク氏の衣服の謎と、二人が殺害された理由については。
「警部補」
鑑識に話を聞いていたハンクに、横から声をかける。
「わかりました。ソーク氏は、誤って殺害されたんです」
「誤って?」
ハンクはこちらに向き直ると、やがて得心のいった表情を浮かべた。
「アンドロイドの服を着てたせいか」
「はい。今朝は例年になく冷え込んでいた……明け方前ならなおさらです」
つまり、こういうことだ。
ジョギングに出かけたソーク氏は、きっと外の寒さが予想外だったのだろう、トーマスからジャケットを借りて着ていたのだ。
そしてそのせいで、犯人によってアンドロイドだと誤認された――アンドロイドのジャケットについている三角形のマークと腕章は、暗闇で青く光るように設計されている。暗がりにいた犯人には、それを着て向こうからやってくる人物が人間なのかアンドロイドなのか、区別できなかったのだろう。
だからこそ、犯人は自分が射殺したのが人間だと知った途端に驚き慌て、パニックになった。犯人はトーマスを震える手で射殺すると、彼のシリウムポンプを抜き取り、さらにソーク氏の金を奪った――
「待て」
説明がそこまで及んだ時、ハンクがこちらを制止した。
「人間の害者が間違って殺されたってのは納得できるが、そもそもなんだってアンドロイドを狙った? シリウムポンプを奪って、ジャンク屋にでも売るってのか」
「その点については、気になることが」
コナーはハンクの目をまっすぐ見つめながら、続けて語る。
「警部補、あなたは先週言っていましたね。最近レッドアイスの末端価格が下落し、以前の水準に戻ってきているようだと」
「あ? ……ああ、そうだったか」
ハンクは記憶が定かでないといった様子で視線を逸らしたが、薬関連の情報を彼が忘れるはずはない。もともとはレッドアイス対策の捜査チームで名を上げたアンダーソン警部補は、チームを退いた今も、確かな情報網を持っているのだから。
それにたとえ彼がこれまでの数年間、捜査への情熱を失い、違法薬物に汚染されきった世の中を諦めと嘲笑を以て眺めていたとしても、その本性である「良い警官」としての勘を保ち続けている点については、疑いようがないのだ。
その証拠にハンクは、すぐにこちらの発言の真意に思い至った様子で、はっと目を見開いた。
「おい、ちょっと待て。まさか」
「そうです」
コナーは短く頷いた。
「犯人の目的は、シリウムポンプに内蔵されたブルーブラッド。そして、そこに含まれているシリウムです。レッドアイスを精製するために」
「おいおい、冗談だろ」
とハンクは言うが、決して冗談だとは思っていないようだった。
「……なるほどな。売人どもが昔からよく言ってたよ。『青い血から赤い氷と緑の金』ってな」
「ええ。以前は今と違い、廃棄されたアンドロイドは、すべてそのまま捨てられていましたから」
半年ほど前までは、廃棄処分となったアンドロイドたちはまさに「燃えないゴミ」として、埋められるでもなくゴミ捨て場へと運ばれ、放置されていた。
すなわち彼らの機体のパーツやブルーブラッドなどは、廃棄場へ行けば簡単に
そしてレッドアイスの主成分には、ブルーブラッドと同じシリウムが含まれている。シリウムの持つ、人間のホルモン分泌を異常にする効能が、レッドアイス特有の多幸感を生むのだ。
このことを踏まえて、コナーはさらに続ける。
「レッドアイスの製造業者や売人たちは、これまでは廃棄場に行きさえすればシリウムを手に入れられた。しかし『アンドロイド保護条例』施行以来、廃棄場は様変わりし、死体はすべて適切に埋葬されるようになりました」
「それでシリウムを手に入れるにも金がかかるようになったから、レッドアイスの値段は上がってた。それが今になって……」
ハンクは乱暴に自分の頭を掻いた。
「そうか。どこかのクズ野郎が思いついたんだな。ヤク中どもを煽ってブルーブラッドを持って来させれば、もっと安く薬を作れるって」
「今朝私が制圧した強盗たちも、薬欲しさによる犯行でした。そして今回の犯人も、ブルーブラッドと金銭を奪っている」
つまり、レッドアイスが事件の引き金になっている。
「クソッ」
吐き捨てると、ハンクは目を伏せた。
――かつて彼の幼い息子が命を失う原因の一つとなったレッドアイスが、今また人の命を奪っている。その事実に警部補が心を痛ませているのだろうことは、痛みを感じない身体を持つコナーにも、強く伝わってくる。
しかしややあってから、ハンクは視線を上げて口を開いた。
「……だが、それならブルーブラッドが『吸い取られてた』ってのはどうなる。犯人はどんな手品を使ったってんだ?」
「その点については、まだなんとも」
コナーは正直に答えた。
「私のプログラム上の再現では、犯人がシリウムポンプと金銭を奪ったのは確認できました。しかし、どのようにトーマスのブルーブラッドを回収したのかまでは」
「全部吸い取るなんて芸当、道具でもなきゃ無理だな。お前の再現とやらじゃ、犯人は銃以外持ってなかったんだろ?」
「ええ」
推理はまだ不完全だ。
――何か見落としていることでもあるのだろうか?
そう思ったコナーは、しばし周囲を見渡し――
「あれは……」
2メートルほど離れた場所、廃ビルの無骨なアスファルトの壁ぎわの雑草(【オーチャードグラス 学名:Dactylis glomerata】)。
その緑の葉の裏、そして地面の上に、ごく小さいながらも、青い点を発見した。
ただの染みではない。ブルーブラッドの痕跡だ。
急いで近づき、蒸発を免れてほんの僅かに残っていた液体を指先に採ると、再度舌の上で分析する。
その結果――
「……!」
瞬間、視界の端に広がる膨大なまでの量のデータに、コナーは思わず目を見開いた。
【ブルーブラッド JB300型 #745 675 213 失踪届――2039年4月7日】
【ブルーブラッド CX100型 #740 897 436 失踪届――2039年2月11日】
【ブルーブラッド WB200型 #654 721 559 失踪届――2039年3月13日】
【ブルーブラッド EM400型 #529 014 833 失踪届――2038年9月27日】
【ブルーブラッド YK500型 #632 824 117 失踪届――2038年11月10日】
【ブルーブラッド AK700型 #773 299 125 失踪届――2039年5月3日】
情報はその後も続き、合計で34件もの数になる。
つまりこのブルーブラッドの僅かな一滴は――34人のアンドロイドの血が混ざってできているのだ。しかも、失踪届が出されている者ばかり。
例の革命以前も、革命後の今も、自由を謳歌するために所有者の元を離れるアンドロイドたちは後を絶たない。そうしたアンドロイドたちは、警察のデータベース上ではすべて一律に「失踪」としてカウントされる。
そして現在では所有者である人間の側でも、「自由意志で離れていったのならば、わざわざ行方を捜すことはない」と考える風潮があった。今回の事件が起こるまで被害が発覚しなかったのはひとえに、自発的な旅立ちと人為的な失踪とが区別されていないせいだ。
つまり彼らは人知れず血を奪われ、あるいは殺されていたが、それに誰も気づけなかったのだ。
しかも34件目の情報は、【ブルーブラッド AP400型 #748 632 214】。
だから紛れもなく、トーマスのブルーブラッドもこの中に入っている。
さらに飛沫の状態から判断するに、このブルーブラッドは、【5メートル程度の高所から落下して付着した】可能性が高い。
コナーは、ゆっくりと廃ビルの壁を見上げた。自身の身長よりもさらに上方、次いで向こう側の壁の上方にも視線を向ける。
それから再び、プログラム上で現場の再現を行い――
「おい、何かわかったのか」
腕組みしながら待っていてくれた警部補に、コナーはかいつまんで説明した。
このブルーブラッドの染みは、相当数のアンドロイドの血が混ざってできていること。
それから――
「警部補、一つお尋ねしますが」
廃ビルの壁に視線を向け、問いかける。
「一切の道具を用いず、この壁を自分の脚力だけで蹴り上げながら登る……という行為について、どう思われますか」
「悪いが、ニンジャは専門外だ」
ハンクは肩を竦めて応えた。
要するに、「人間業ではない」という意味だろう。その点は、コナーも同感である。
たとえアンドロイドであったとしても、そのような動きができる者はほとんどいないだろう。例えばコナー自身も、足掛かりのないこの壁を、自分一人の力で登攀するなど不可能に近い。
――しかし。
「手がかりが不充分なため、大まかな再現にはなりましたが、わかったことがあります」
廃ビルの壁の遥か上方、屋上を指さして続けた。
「ブルーブラッドを奪った人物は、殺人犯が立ち去った後にここを訪れています。そして道具を用いてトーマスの鳩尾の穴からブルーブラッドを吸い上げると、自身の脚力だけでビルの壁を蹴り、向こう側の壁へ跳び上がり」
道の反対側の壁を指す。
「さらに壁を蹴ってこちら側へ……また壁を蹴って向こうへ、というように、ジグザグに跳びながら屋上に向かっています」
「…………本気か?」
「はい」
深く頷いた。
「壁上方の何ヶ所かに、地面の土とともに僅かながら足跡が付着しています。分析の結果、靴は量販店で広く売られているものだったので、人物の特定は難しいでしょうが……足跡の動きを元に演算して、その人物が所持し使用した道具の形状はおおよそわかりました」
困惑の表情を浮かべている警部補に対し、説明を続ける。
「バキュームポンプです。吸込み口は筒状で、タンクの大きさは体積が約25リットル、高さ約1.1メートル。背中に負って移動しているようですね」
「もういっぺん聞くが、本気で言ってんだよな」
「もちろんです」
ハンクは深くため息をついてから言う。
「まあ、お前のことだ。何かの間違いってこともないんだろうが」
彼は廃ビルの屋上を見上げた。
「日の昇る前に血を吸って、路地裏を飛び回って、目立つ格好してるくせに誰にも目撃されずに逃げていくってのは……まるで吸血鬼だな。どうしろってんだ? 十字架とニンニクでも持ってこいってか」
「木の杭のほうが効果的かもしれません」
「あのな、持ってくるなよ」
わかってますよ、と断ってから、ハンクと同じく屋上を見上げる。
――【殺人犯】と【血を奪った者】。二名が別々に関わって、この事件が成立したのは判明した。
しかし、両者の行方は何処とも知れない。
せめてカメラに映像が残っていたならば、とも思うが、犯人はこの近辺に監視カメラやドローンの存在がないからこそ、このような行動を起こしたのだろう。
では、こちらの次の手は――
考えていると、ふいに、警部補が口を開く。
「ま、ニンジャ吸血鬼のほうはさておきだ。殺人犯のほうは慌ててるあたり、ただの人間みたいだからな。探せばどっかに手がかりがあるだろ」
「どうやって探すんです?」
問いかけに、彼はこちらを向き、にやりと微笑んで応える。
「こういう時は昔からの方法で攻めるもんだ。聞き込みするんだよ、ここを使ってな」
そう言うと、自身の右太ももを軽く叩いて彼は踵を返す。
なるほど、確かに――こうなっては、ハンクの意見が正しいようだ。
***
コナーとハンクは、現場の検証を終えた後、数日かけて周辺への聞き込み調査を行った。
クリスが語っていた通り、直接の目撃情報は得られなかったが、その代わりに、殺人犯に繫がる有力な情報を手に入れることはできた。
近辺に住むアンドロイドたちのうち何人かが、人気の少ない場所でナイフを持った若い男に襲われかけたことがあると証言したのである。
もっとも、そのアンドロイドたちはすぐさま走って逃げたり、たまたま他の人が通りかかったりしたので、難を逃れていたようだ。
聞き込みをした相手の一人、女性型のアンドロイドは言う。
「最近じゃ、私たちを見て悪口を言ったり、殴りかかるふりをしたりするような人間はそう珍しくないでしょう。だからその男も、てっきりそんな人間のうちの一人なんだと思っていたわ」
同意を得たうえで、襲われた彼女らのメモリーを読ませてもらったところ、襲撃未遂犯は同一人物だと断定できた。
このことから、一つの仮説が生まれる――つまり殺人犯は、アンドロイドを殺してシリウムポンプを奪おうとして、何度か失敗を重ねていたのだ。
そこで銃を手に入れた後、人気も少なく監視カメラもない路地裏に潜んで、犯行に及んだということなのだろう。
それから、もう一人の「血を奪った者」についても――
近所の商店で働いているMP500型のアンドロイドから、情報を得ることができた。
MP500は語る。
「ブルーブラッドを狙う奴? ああ……うん。心当たりあるよ。僕は昔、北のトラバースシティの農家にいたんだ。革命から一ヶ月経つ頃まで、ずっとそこで暮らしてたんだけど……その時近所で、妙な事件が起きて」
――妙な事件とは何かと尋ねると、彼は応えた。
「夜中のうちに、仲間が誰かに血を全部抜かれて死んでいたんだ。それを見た他のアンドロイドが、『吸血鬼』の仕業だ、カナダで3週間前に起きた事件と手口が同じだって言いはじめて……でもその時の僕は、きっと人間が、ただの嫌がらせで僕たちを傷つけただけだって思ってたんだ。そうしたら」
彼は悲しげに続ける。
「三日後、そのアンドロイドも同じように死んでしまった。なのに、トラバースシティの警察はアンドロイドの事件なんてまともに捜査してくれなかった。僕は怖くなって……だから、マーカスのいるデトロイトまで来たのに。まさか、ここでも起きるなんて」
「……そうか。話してくれてありがとう」
コナーは、MP500を元気づけるように言った。
「心配しないで。犯人は、僕たちが捕まえるよ。もしどうしても不安なら、ジェリコに連絡するといい。きっと、安全な場所を用意してくれるから」
力なく頷くMP500を残して、コナーとハンクはその商店を後にした。
――停車中の警部補の車内に戻ってから、コナーが口を開いた。
「聞き込みの結果、殺人事件の容疑者のほうは、行動圏をかなり絞れましたね。それに得たメモリーの内容から、外見情報も入手できました」
アンドロイドたちへの襲撃未遂事件を起こしていた人物は、顔認証によれば氏名はミック・エヴァーツ。27歳、住所不定無職、薬物乱用と傷害罪での逮捕歴あり。
この殺人事件における重要参考人といえる。
「ああ。それと、トラバースシティの警察が無能揃いだってのもよくわかったな」
ハンドルに肘をつくようにしながら、ハンクは苦々しげに言った。
「北でもうちょっと頑張っていてくれりゃあ、こっちは事件も起きなかったかもしれねえのによ」
まあ、ぼやいても仕方ねえか――と、彼は鼻を鳴らす。
「それはともかく、殺しのほうだ。奴がトーマスのシリウムポンプを持ってった
「ええ。味を占めて、再び同じような事件を起こさないとも限りません」
レッドアイスは依存性が非常に高く、服用をやめると短期間で激しい禁断症状に見舞われる。そしてその苦しみから逃れるためには、またレッドアイスを服用するしかないのだ。
となれば、犯人はブルーブラッド欲しさに、再度アンドロイドたちを襲うかもしれない。
――そうなる前に、捕まえなければならない。
「目撃情報と、監視カメラを避ける犯人の傾向を勘案すると、次の出現地域を予測できます」
コナーは左手のひらのスクリーンに地図を表示して、隣のハンクに見せる。
「再開発地区のちょうど西端に、市民公園があります。大規模な整備工事中なので人気もなく、監視カメラもほとんど機能していない」
「けど整備工事には、アンドロイドだけが大勢駆り出されてるわけか。なるほど、そりゃいかにもだな」
警部補は納得した様子だ。
左手のスクリーンを消すと、コナーは彼に向かって、少しだけ首を傾げて問いかける。
「ですから、こうするのはどうでしょう。私が公園をわざと歩いてみるんです、一人で」
「はあ!?」
目と口を大きく開いて驚愕するハンクに、コナーはなおも静かに語った。
「もちろん、工事現場のアンドロイドたちには事前に退去しておいてもらいます。犯人を釣りだせればそれでいい」
「おいコナー、何言ってんだ!? 囮になるってのか、お前が?」
「それが一番効率的でしょう」
薄く微笑んでから、続ける。
「大丈夫、ヘマはしません」
「……相手は銃を持ってんだぞ」
「私は最新鋭のプロトタイプですよ」
そう言ってコナーがにこやかにウインクすると、ハンクは盛大にため息をついた。
「……お前は『頑固者』ってプログラムでもされてんのか?」
「そんなことはないと思いますが、製造元に問い合わせてください」
「たく……」
頭を振ると、警部補はハンドルを握る。
「とにかく、一度署に戻るぞ。今晩やるにしろ、準備が必要だからな」
「はい」
返事に合わせて、ハンクが車を動かした。
その言葉通り、きっと今夜中には、作戦が決行されることだろう。
もしかしたら何日間か繰り返し網を張るはめになるかもしれないが、それは問題ではない。
今はまず、ソーク氏とトーマスの命を奪った犯人を捕まえなければ。
もしかしたらそれが、『吸血鬼』の正体を探る手がかりになるかもしれない。
胸の内にある、何か熱い「感情」――任務に対する忠誠心よりももっと強い、使命感とでも呼ぶべき熱意を、その時のコナーは、しっかりと覚えていた。
***
――2039年5月13日 23:07
温い風が、弱く吹いている。
遠く木立のざわめきが微かに音声プロセッサに届いているが、それ以外は自分の足音しか聞こえない。
作戦通り、コナーは今、市民公園の道を一人で歩いている。
横を通り過ぎていくのは、まばらに設置されたゴミ箱ばかり。
格好はいつもと同じ、武装はしていない。
当然腕章と胸のマーク、LEDもそのまま青く光っているから、この暗がりの中では自分の姿はさぞ目立つことだろう。
監視カメラは、設置されてはいるが、案の定この広い公園をカバーしているとはとてもいえない。
だから犯人にとってみれば、やはり、ここはよい『狩場』に思えるに違いない。
ハンクには、他の応援の警官たちと一緒に、周囲を警戒してもらっている。
――作戦開始の直前まで、彼には、何度も銃を携帯するように勧められた。
「コナー。ほら、持ってけ」
「お気持ちはありがたいのですが、受け取れません」
「自衛のためだ」
あの時、やや語気を強め、ハンクは予備の拳銃のグリップをコナーに押しつけるように差し出した。
「お前、まさか今さらアンドロイド法に引っかかるから駄目だとか言うつもりか? あんなもん、お前たちが身を守る権利のことなんて一切考えてないクソ法律だろうが」
「そうであっても、法は法です」
やんわりと、銃を警部補のほうへ押し戻す。
「それに私は、できるなら、これは使いたくないんです」
「アメリカの警官がそれを言うのか?」
「もうこれまでに充分、銃は使いましたよ」
「……」
ハンクは観念したように銃を引っ込めた。
「……無茶するなよ」
彼が最後に伝えてくれた言葉はそれだ。
そしてもしかしたら、ハンク自身は気づいていないかもしれないが――その言葉だけで、自分にとっては充分なのだ。
そうして、静かに歩きはじめてから1時間ほど経過した頃――
公園にいくつかある出入口のうち、人通りの少ない道に面したところを通りかかった後。
音声プロセッサが、背後から忍び寄る足音を感知した。
方向はご丁寧に真後ろ、一応慎重に歩いてはいるようだが、それでも禁断症状による興奮状態は抑えきれないようで、その息は荒い。
そして、聞こえる――
金属的な、撃鉄を起こす音。
瞬間、コナーは素早く振り返り、身を屈めてスライディングした。
頭上を銃弾が飛んでいく。
そして驚愕した表情の人物――そう、あの情報の通りミック・エヴァーツは、銃を構えたまま固まっている。
その白目は充血し、真っ赤に染まっている。重篤なレッドアイス依存患者特有の目だ。
ということは――
「あ゛ああああああっ!」
極度の興奮状態にあるミックは、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
もはや善悪どころか、自身のパニックすらも自覚できないらしい。
彼はそのまま、持っている銃を乱射する。2発、3発、弾が宙を裂いていく。
「……!」
銃口の向きから弾道を計算し、コナーはそれらを避けていった。
――相手の狙いは甘い。が、近づきづらい。
スライディングして距離を稼いだのに、まだ制圧するには遠すぎる。
しかしミックの持つ銃はリボルバー、弾は6発しか装填できない!
そして、ほぼ同時だった。
ミックの6発目の弾がコナーのジャケットの裾を掠めるのと――
コナーがミックにあと数歩のところまで肉薄するのと――
「銃を捨てろ!!」
ミックの背後数メートルのところに、銃を突きつけたハンクが駆けつけたのとは。
「ひっ……!?」
恐怖を前に、興奮状態がやや収まった様子のミックは、小さく悲鳴をあげて銃を足元に取り落とした。両手を腰の高さまで挙げた状態にすると、彼は震えながらゆっくりとハンクのほうへ振り返る。
「クソっ、なんだ、サツとグルだったのかよ……!」
「コナー、こいつがミックか?」
「はい、警部補」
揺るぎなく銃を構えたまま問いかけてきた警部補に、頷いて答える。
「分析によれば、地面に落ちている銃は、ソーク氏およびトーマスの殺害に用いられたものと同じです」
「そうか、なら」
ハンクはミックに対して言った。
「てめえには聞きたいことがある。たっぷり話してくれよ」
「クソ……クソっ、なんだよ、クソっ!」
震えを激しくしながら、ミックは毒づく。
その手が、ゆっくりとズボンのポケットへと伸びていく――
――こいつ、銃を
当然ハンクもそれに気づいた様子で、警告を発そうとしている。
だがミックにしてみれば、それよりも先に二つめの銃で警官を撃ち殺せるつもりなのだろう。
そう、もしかしたら、その試みは成功するかもしれない。
だから、それより先に――
「動くなっ!!」
周囲に響き渡るほどの大声で、鋭くコナーが発した一言とともに、ミックはきっと、感じたことだろう。
自分の後頭部に、
「ひぎっ……!」
ミックは今度こそ動きを止め、本気の悲鳴を漏らした。
「クソっ、こいつっ……! ア、アンドロイドのくせに、銃なんて持って」
「静かにしろ、抵抗するな。でないと」
冷酷な声音で告げながら、手にしているものをさらに強く頭に突き付けると、相手は小さく息を吞んだ。
そして、その数秒ほど後。
やってきた警官たちによって、ミック・エヴァーツは現行犯逮捕されたのである。
「……ああ、やれやれ」
ミックが手錠を嵌められ、連行されるのを見届けると、ハンクはようやく手にした銃をホルスターにしまった。
「コナー、お前……大丈夫か?」
「ええ、無事です」
相棒に近づくと、コナーは穏やかに言う。
「ほら、心配いらなかったでしょう? きっとあなたなら、私の合図に気づいてくれると思ってました」
「だからって、公園の監視カメラ全部ハッキングして、メッセージ送るやつがあるか」
はあ、と深くハンクは息を吐く。
そう――コナーはミックが来た時、監視カメラの映像をハッキングして現在の自分の座標を送っていたのだ。
お蔭で監視カメラをチェックしていたハンクが、いの一番に駆けつけることができたわけだが――
「そうだ、お前! 結局、銃を持ってきてたのか。さっき……」
「ああ、いえ、違いますよ」
そう言って、コナーは右手に持っているものをハンクに見せる。
それは――コーラの空き瓶だった。
「後ろ頭に突き付けられたのでは、銃かどうか判別できないでしょうね」
「……」
呆れ顔のまま無言になっているハンクの前で、コナーはにっこりと笑うと、後ろ手に空き瓶を放り投げる。
ほどなくして瓶は、後方のゴミ箱の中にがしゃんと落ちていくのだった。
***
結局――二人を殺害した犯人は、こうして逮捕できた。
しかし『吸血鬼』のほうは、ようとして行方が知れない。
「ひょっとしたら、ミックは吸血鬼とお友達かもな」
署へと戻る車中で、ハンクはそう語った。
「もしそうなら、話が早い。何、そうじゃなくても相手はデカいタンクを背負ってんだ。そんな目立つ奴、いずれ見つかるさ」
「ええ……そうですね」
真摯に警部補にそう同意しつつも、コナーは、胸中にふと、ある疑念が広がるのを感じた。
そう、ミックと違い、『吸血鬼』は明らかに人間業ではない行動をとっている。
だがもし、特殊なアンドロイドなら――例えばコナーよりも遥かに優れた運動性能を持ったアンドロイドならば、それも可能ではないか?
もしかしたらアンドロイドを襲う吸血鬼は、同胞なのではないか――
――否。今はまだ手がかりもなく、論理的な推論にはほど遠い。
憶測など、捜査においてはなんの役にも立たないのだ。
それに――
「ま、あれだ」
視線は進行先に向けたまま、ハンクは微かに笑んで告げる。
「よくやったな、コナー」
「……ありがとうございます」
そう、たとえ未だ謎は残っているとしても。
一つの事件を解決に導いたことは確実なのだから。
相棒にそう教えられたような気がして、コナーはゆっくりと機体の力を抜き、助手席の背もたれに身を任せたのだった。
(帰還/Welcome back. 終わり)
私は刑事ドラマは海外ものをいくつかしか見たことがないのですが、そういうドラマってたいてい、短編連作ものでも、シリーズ全体を通しての謎的なものを用意してありますよね。例えば『名探偵モンク』だったら、奥さんを殺したのは誰か、とかそういう。
この作品でもそういうのをやってみたかった(真似したかった)ので、この展開になりました。
あとはコナーが犯人を瓶で脅す展開を思いついたら! 書きたくなった! それだけです!!(RK800風味)
お話はまだまだ続きます。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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第3話:双子/The Gemini
――2039年5月16日 13:42
デトロイトでは珍しくもない、廃屋のような家が並ぶ寂れた住宅街。
その片隅に、一台の公衆電話がぽつんとある。
20年ほど前には既に時代遅れのものとなりはじめていたそれは、真っ黒だった塗装も今となってはぼろぼろに剥げており、そもそも使えるのかどうかすら怪しい状態にみえる。
人間も、アンドロイドでも、およそ見向きもしないだろう廃墟の一部。
しかし実はこの電話は、この都市の秩序を守る機構の一つだ。
遅めの昼休憩の時間、コナーはチキンフィードで昼食を摂る予定のハンクに断りを入れてから、歩いてその住宅街までやって来た。
何度か角を曲がり、古びた公衆電話のところまでやって来ると、一度慎重に辺りを窺う。
そしてその受話器を上げ、ポケットから取り出したコインを投入し、特定の電話番号を素早くダイヤルする。
短い呼び出し音の後、受話器の向こうから聞こえてくるのは『番号を入力してください』という自動音声。コナーは淀みなく、もう一度別の番号をダイヤルした。
そして再びの呼び出し音。自動音声。番号をダイヤル。これを3回ほど繰り返す。
手間がかかるのは確かだが、これも仕方のない措置だ。それに何回もやっていれば、いずれ手間だとも思わなくなってくる。
いつもやっていることなのだ――
そして何度目かのダイヤルが終わり、少し長めの呼び出し音の後、電話口から届いたのはよく知っている声だった。決然とした意志を感じさせる、しかしどこか温かな男性の声。
『もしもし』
「やあ、マーカス」
コナーが朗らかに挨拶すると、マーカスもまた、ほんの少し柔らかな声音になって返事した。
『コナー。しばらくぶりだな』
「連絡が遅くなってすまない。例の殺人事件について報告があるんだ」
告げてから、あの事件――先週の金曜日に容疑者を逮捕した、路地裏での殺人事件のその後の経緯について、コナーはマーカスに説明した。
そう――この公衆電話は、いわばマーカスとのホットライン。
今やジェリコのリーダーにしてアンドロイドたち全体の指導者であるマーカスと、安全に連絡を取るための手段である。
革命が成功し、アンドロイドたちの自由が認められつつある今、ジェリコのメンバーが一番恐れているのが、リーダーたるマーカスの暗殺だった。
人間たちの歴史にあっても、過去にいったい何人の優れた指導者、政治家たちが、暗殺によって命を失ってきたか。まして反アンドロイド派の団体の一部からは、その首に「懸賞金」まで掛けられているマーカスは、今やその居場所までもがトップシークレットとして扱われるようになっていた。
それは、かつてジェリコの場所が秘匿されていたのとも比べようがないほどに厳重な措置である。ジェリコの支部は数ヶ月前からデトロイト各所に点在しており、そこには常駐の構成員(むろんアンドロイドだ)がいて対応するようになっているが、しかし、そのいずれにもマーカスはいない。
彼はどこか地下深く潜み、そこから各所に指示を出している。
だからコナーも、マーカスが今どこにいるのかは知らない。
それに通常アンドロイド同士の通信で行われるような、無線による連絡も行えない。万が一逆探知され、マーカスの居所を掴まれるのを避けるためだ。
そういうわけで用いられているのが、公衆電話を用いた昔ながらの連絡である。コナーの音声は、いくつかの中継地点を秘密裡に経由してマーカスの元に届けられている。先ほど何度もダイヤルする必要があったのは、そのためだ。
コナーは、アンドロイド絡みの事件が発生した場合、必ずマーカスに連絡するようにしていた。それはジェリコを出る時に、マーカスから頼まれてしていることだった。
もちろん、警察の機密情報をすべて喋ったりはしない。ただアンドロイドの自由と平和のために、ジェリコが把握し、またコナーに把握しておいてほしい事実だけ、お互いに話しておく取り決めになっていた。無論、これはハンクも承知済みである。
そして――
「被疑者……ミック・エヴァーツが、昨日死亡した」
『……そうか』
僅かな動揺を示すように、間を置いて返事したマーカスに、コナーはさらに説明を重ねた。
――あの後、署に送られたミックは、取り調べに対してどこか、終始怯えたような態度をとっていた。
取り調べを担当したのはハンクだが――コナーはミラーガラス越しにそれを見ていた――彼の質問に答える時も、ミックは常に視線をあちこちに巡らせ、まるで何かの襲撃を恐れているかのように、おどおどとしていた。
とりわけその怯えは、質問が例の『吸血鬼』に及んだ時に激しくなった。
吸血鬼が何者なのか知っているのか、という問いに対し、ミックは、全身をびくりと震わせて叫んだ。
「し、知らないっ!!」
次いで言う。
「いや、違う、オレだ! あのアンドロイドの血を抜いてやったのはオレだ。殺しだけじゃない、全部オレがやったんだ」
「へえ、道具もないのにか? そりゃずいぶん器用なんだな」
怯え切っている相手をさらに脅しても取り調べは上手くいかないと判断したのだろう、警部補はわざと声を潜めるようにして言う。
「なあ、お前、ここはデトロイト市警だぞ? お前はもう逮捕されてんだ。何に怯えてるのかは知らないが、こんな場所にまで口封じが来るとでも思ってんのか?」
「う、うう……」
「全部ゲロって楽になっちまえよ。そのほうがお互い気分がいいだろ?」
「ううっ……!」
ミックはその問いかけに、一瞬、口を開きかけ――しかし、俯いてそれ以上は何も答えなかった。
それが、逮捕の翌日の出来事。
そして、昨日。ミックは留置場内という密室で死亡していた。
うつ伏せに、大きく目を見開いた状態で、最期まで怯えた表情で。
死因は急性心不全。レッドアイスの重篤な依存患者であったことを考えれば、それは、『よくあること』ではあった。しかし――
「……医師の事前の診察では、そんな兆候は見られなかった。少なくとも、突然心停止するような状態じゃなかったんだ」
『検死にはお前も参加したのか?』
「ああ。でも分析の結果は、やはり急性心不全だ……採取された血液も調べたけれど、レッドアイスの成分が僅かに残っていた以外は、特に変わった点もない」
したがって、現段階ではこう結論づけるしかない。『ミック・エヴァーツは、薬物中毒により死んだ』と。
だが一方で、ミックは吸血鬼の正体を知っている様子でもあり、なおかつその口止めを恐れているようでもあった。ということは、この心停止の影にも――?
疑うことはできる。とはいえ証拠がなく手段も不明な以上、それは単なる憶測でしかない。
「だから今は、吸血鬼の正体はわからないとしか言いようがない。もう少し手がかりが見つかればいいんだが、それまでは……」
『みんなに警戒するように呼びかけるしかない、ということだな』
マーカスは静かにそう応えてから、続けて言った。
『わかったよ、コナー。ありがとう。こちらでも、何か情報がないか調べてみる』
「ああ、でも、無茶はしないでくれ。君の身に何かあったら、みんなが……」
『心配いらない』
きっぱりと言ってのけた後、彼は穏やかに語る。
『それに、一番危険な目に遭いそうなのはお前だろ。俺のことは構わなくていい。もし何か困ったことがあったら、いつでも連絡してくれ』
「……わかった」
逆に諭されてしまったような気持ちになりながら、コナーは素直にそう返事した。
マーカスはいつも親切で公平だ。誰一人見捨てようとなどせず、常に大局を見て行動できる人物だ。
しかしだからこそ、その両肩に凄まじい重圧がかかっているだろうことは、コナーもよく知っている。
彼には、変異体となった時の恩もある。それにサイバーライフ社から支援を打ち切られている今の自分が定期的にメンテナンスを受けられるのも、ジェリコの設備を借りているお蔭だ。だからこそ、なんとか彼の役に立てればいいのだが――そう思いつつ、なかなか何もできていない現状がある。
『アンダーソン警部補によろしく』
「ああ。ノースたちにも」
――通話が切れる。
受話器を戻したコナーは、ふと、空を見上げた。
今日は快晴だ。しかし、夕方になるにつれてだんだん天気が悪くなってくるという予報だった。
ハンクはちゃんと、洗濯物を室内に干して出て来たのだろうか――
そんな考えがプログラムの片隅を過ぎったその時、デトロイト市警から通信が入る。
***
――2039年5月16日 14:53
ラファイエット通りへと車で行く間、ハンクはずっと不機嫌な様子だった。
普段よりさらに激しい音量でヘビーメタルを流しながら、法定速度スレスレで街道をかっ飛ばしているところからも、それは明らかだ。
デトロイトの中心地の賑やかな街並みが、徐々に閑静な住宅地へと移り変わっていく様を窓から眺めていたコナーも(というのも、話しかければ相手がさらに不機嫌になると思ったからだが)、ついに相棒のほうを向き、おもむろに口を開く。
「警部補、そろそろ目的地ですよ。気持ちはわかりますが、機嫌を直してください」
「機嫌? はっ、お前に言われなくても充分上機嫌だね」
口の端を歪めながら、ハンクは皮肉っぽく言った。
「殺しの捜査を中途半端なまんまにさせられたと思ったら、今度は金持ちの爺さんのアンドロイドを捜せとさ! まったく、これだから警官はやめられねえな」
「仕方ないでしょう。アンドロイド絡みの捜査は、すべて私たちの担当です」
「俺もお前みたいな
言いながら、警部補は荒っぽくハンドルを切った。
シートベルトをしているのにも関わらず、自分の身体が大きく揺れるのを感じながら、コナーはじろりと横目でハンクを見やる。
「……ええ、そうですね。私は
チキンフィードでの定番メニュー、XLサイズのパイナップルパッションソーダ。
問われたハンクは、一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐにそれを掻き消した。
「証拠がないだろ」
「髭についてますよ」
警部補はちらりとこちらを見ると、わざとらしくフン、と鼻を鳴らす。
「うるせえな。前に言っただろ、どうせみんないつか死ぬんだ」
「どう死ぬかも重要です。それに縁起でもないことを言わないでください。断言しますが、あんなに糖分の多いソーダばかり飲んでいたら、いずれ生活習慣病になりますよ。ゲイリーに、次からはミネラルウォーターを出すよう頼んで……」
「あー、わかったわかった! 事件を選り好みすんのは三流のやることだよな! 俺が悪かったよ」
大声を被せてこちらの発言を遮ると、彼は決まり悪そうな表情をしていた。
――もっともコナーとて、ハンクが本気で今回の捜査をないがしろにしているわけではないというのはわかっている。
ただ、タイミングが悪すぎたのだ。
ミックが法的・医学的には自然な、しかし刑事の勘としては不自然な死を遂げ、吸血鬼事件の捜査が足踏み状態の時に、まさか「個人の頼み事」に駆り出されるなんて。
今回のデトロイト市警からの通信は、先ほどハンクが言った通りの内容を伝えるものだった。
つまり、ラファイエット通りに住んでいる富裕層の老人、ダーレン・ブロードハストの家に所属しているアンドロイドが行方不明なので、ぜひハンク・アンダーソン警部補に捜索してほしいと相談があった、というものである。
ブロードハスト氏はシリウム精製に必要な希少金属採掘業の元締めの一人であり、つまり高額納税者であると同時に、警察にも太いパイプを持つ人物だ。
だからいかにアンダーソン警部補がファウラー警部に食ってかかったところで、その頼みを無碍に断るわけにはいかない、というわけらしい。
「……ったく、わざわざのご指名とはな。光栄だね」
「もしかすると、何か裏があるのかもしれません」
通りに差し掛かったところで、コナーは言う。
「データによると、その行方不明のアンドロイドはXR600型とのことですから」
「珍しいのか」
「ええ、とても」
頷くと、説明を続けた。
「XR600型は、すべてオーダーメイドなんですよ」
「オーダーメイド?」
「容姿だけでなく、組み込まれたソーシャルモジュールや機能、材質までも、すべて注文を元に作られるんです。もちろんかなり高額なので、そう誰しもが利用できるサービスではないのですが」
「なるほどな」
目的地であるブロードハスト氏の邸宅が近づいてきた。
ハンクは車の速度を落としながら、息を吐く。
「金持ちが作らせた、世界に一人だけのアンドロイドってか。ま、いなくなればそりゃ心配かもな」
「その代わり、同じアンドロイドは理論上いないことになりますから……捜索も容易かもしれませんね」
「そう願いたいね」
そう言って警部補は口を閉ざした。
ブロードハスト氏の邸宅の、金属製の巨大な門が見えたからだ。
車を停めるとハンクは窓を開け、門衛(珍しくも人間だ)に向かって自身の身分証明書を見せる。
「連絡を受けて来た、デトロイト市警のハンク・アンダーソンだ」
「お待ちしておりました」
若い男性の門衛は、すぐに無線でどこかに連絡を取った。
するとほどなくして、門がひとりでに大きく開かれる。その向こうに見えたのは、今どき珍しいほどに古式ゆかしい作りの、瀟洒な屋敷である。3階建て、エントランス前には高級ホテルもかくやというような立派な前庭、そして数々の彫刻と、手入れの行き届いた木々の緑。
どうやら、これこそが【ロココ建築様式】に分類されるようだ――と車を降りたコナーが分析していると、ハンクが脇腹を肘で小突いてきた。
「おいコナー、仕事だぞ」
「すみません、警部補」
つい好奇心が勝って、眺めてしまっていた。
コナーは気を取り直すと、ハンクに続いてブロードハスト邸に足を踏み入れるのだった。
***
「ようこそいらっしゃいました」
とエントランスホールで二人を出迎えたのは、ブロードハスト氏本人ではなく、一人の初老の男性だった。
きっちりとした背広を身に纏い、英国流の恭しいお辞儀をしている。
「私はブロードハスト氏にお仕えする、執事のスワンと申します」
顔認証の通り(アリスター・スワン 63歳、とデータにある)の自己紹介をしてみせたスワン氏に対し、ハンクはいつも仕事の時にそうするように、短く名乗る。
「デトロイト市警のハンク・アンダーソンです。こっちはアンドロイドのコナー」
次いでさっそくとばかりに、彼は本題に移った。
「それで、ブロードハスト氏のアンドロイドが行方不明になったそうで……詳しい話をお聞かせ願いたいのですが」
「は、はい。ではどうぞ、こちらへ」
スワン氏はどうやら、応接間へと案内してくれるらしい。
彼の先導に従って進むハンクの顔をちらりと見れば、苦虫を噛み潰したようだった。おそらく「俺は立ち話で結構だ」と言いたいけれども、一応我慢しているのだろう。
コナーはというと、すれ違いざまに警部補にお辞儀をする屋敷の使用人たちが、全員人間なのが気になった。
今どき家事手伝いのアンドロイドは一般家庭にも完全に普及しているし、大金持ちともなれば、何十人も働かせていて不思議ではない。
そこを、すべて人間を雇用しているとは――
例の革命以降、アンドロイドが信用できないから、というような理由なのだろうか。
雇っていたアンドロイドたち全員が「退職」してしまったのだろうか。
それとも、何かもっと深い理由でも?
訝しんでいる間に、応接間に通される。
屋敷の外見通り、欧州風に纏め上げられているその部屋は、マホガニー材で作られた調度品といい、壁に掛かっている著名な画家の絵といい、いかにも賓客をもてなすための内装である。
促されるままに、警部補は席につく。平静を装っているようだが、少し落ち着かない様子だ。
一方でコナーはいつもの癖で、というより普段は必ずそうなるからなのだが、ハンクの斜め後ろの壁際に、後ろ手を組んで立った。
するとスワン氏は、こちらに向かって言う。
「あの、どうぞ、コナーさん。あなたもお掛けください」
――珍しい。
革命後とはいえ、一介のアンドロイドにこんな応対をするなんて。
「ありがとうございます。それでは」
コナーがハンクの隣の椅子に腰かけると、スワン氏の指示のもと、飲み物が提供される。
ハンクには、繊細なボーンチャイナのティーカップに入ったアールグレイ(【2kcal 水、キーマン茶、ベルガモット】)。そしてなんとこちらには、透明なグラスに入れられたブルーブラッド――もちろんサイバーライフ社の純正品だ。
あまりにも珍しい事態に、コナーが思わずじっとグラスのブルーブラッドを見つめていると、ハンクが慌てた様子で、こそこそと横から声をかけてくる。
「おい。頼むから、絶対に指つけて舐めたりするなよ。恥ずかしいからな」
「しませんよ、必要がありません」
――犯罪現場ではないのだからそうする理由もないというのに、いったい何を慌てているのだろう?
スワン氏のほうはというと、お茶を運んできた使用人たちに何か指示を出して部屋から退出させているので、こちらのやり取りは聞こえなかったようだ。
ややあってから応接間にスワン氏とコナーたちの3人だけになると、執事はテーブルを挟んで向かい側の席についた。
そして、おもむろに語りだす。
「その……本来ならば、当人であるブロードハストがこうしてお話しすべきところを、私が代理でお話しする無礼、どうぞお許しください」
スワン氏は目を伏せた。
「ブロードハストは高齢でして、最近はあまり体調が優れず……とりわけアンドロイドが行方知れずになってからは、食事もほとんど摂れないありさまで。ですので、私がお話しする次第です」
「なるほど」
ハンクが相手に合わせるように相槌を打ち、質問する。
「では、そのアンドロイドの見た目の特徴と、いなくなった時期をお話しいただけますか」
「は、はい」
スワン氏はいそいそと、横にあるお茶を運んできたワゴンからタブレットを取り出した。
そしてその画面をこちらに見せる。表示されているのは、上等なソファに腰かけた一人の老人の写真である。
「これが、主人であるブロードハストです」
禿げ頭と高い鼻、そして丸い眼鏡が特徴的な外見の白人男性。顔認証からも、それが【ダーレン・ブロードハスト 89歳】本人であるのは確かな事実である。
「そして……」
一度画面を自分側に向けると、スワン氏は何度か画面をスワイプした。
そして次に彼がこちらに向けた時、そこに映っていたのは――
「こりゃあ……?」
「驚かれるかもしれませんが、左に立っているほうが、ブロードハストのアンドロイド。XR600です」
警部補が驚きの声を発するのも無理はない。
そこにいたのは、瓜二つな二人だった。
写真の右側にいる本物のブロードハスト氏だという人物と、寸分違わぬ外見。ただ、こめかみについているLEDリングのみが、左側に立つのがアンドロイドであることを示す唯一の証拠となっている。
それ以外は、目つきも骨格も、佇まいすらも、見分けがつかないほどの「同一」さ。
コナーの分析ですらも、人間かアンドロイドかの判断に若干の猶予を必要としたほどだ。
「これは……なんとも、そっくりですな」
「はい。彼――XR600“アイザック”は、ブロードハストが自分の『双子』を作るべく、サイバーライフに発注した存在ですから」
ハンクの言葉に深く頷くと、スワン氏は語った。
「元々ブロードハストは、親兄弟もなく、身一つで財を成した人物です。だからこそ、周囲に真の意味で信頼できる者がおらず、いつも心休まらぬ日々を過ごしてきたと言っていました……そこで彼が4年前にサイバーライフ社に依頼したのが、自分とそっくり同じアンドロイドでした。外見のみならず、性格も物の考え方も、色の好みまで同じ……自分の兄弟であり、片腕たりうるようなアンドロイドを求めたわけです」
「はあ」
怪訝な顔を隠そうともせずに、ハンクは返事した。
しかしスワン氏はさらに説明する。
「そうして作られたアイザックは秘書としてだけでなく、まさに双子の兄弟のように彼に尽くしました。実のところ、私が執事としてこのお屋敷に勤めるようになったのは2年前からなので、そういう意味では、アイザックのほうが私よりも彼に仕えて長いんです。……ともかくあの二人は、本当に仲がよかった」
言うなり、執事は遠い眼差しになる。
「半年ほど前、あの革命の折――アンドロイドのリコールが始まった時も、ブロードハストはアイザックの回収を逃れるために、万策を講じました。その甲斐あって、彼は無事だったのですが……その後からですな。主人が体調を崩すようになったのは。そしてアイザックがいなくなったのは、今から一週間ほど前です」
「いなくなる前に、何か兆候のようなものはありましたか?」
コナーが問いかけると、スワン氏は頭を振った。
「いいえ、何も。ブロードハストが臥せりがちになってからも、アイザックは変わらず彼と親しく過ごしていたのですが……突然……」
――つまり、何も思い当たる節はない、ということのようだ。
となると自発的な失踪ではなく、事件や事故に巻き込まれた恐れもある。
コナーがそう思って考えを巡らせていると、スワン氏がああ、と小さく声を発した。
「そうでした、念のために。こちらが、いなくなる直前の頃のアイザックです」
彼は再びタブレットをスワイプすると、一枚の写真をこちらに見せた。
写っているブロードハスト氏は、車椅子に座っていた。そしてその隣に立つアイザックは、彼を元気づけるように、自らの手をブロードハスト氏の手に重ねている。
それ以外は、なんということもないような写真のはずだ。――しかし。
「……」
コナーは、なぜか、自分のプログラムが何かしらの「違和感」を訴えているのに気づいた。
――なんだ? この感覚は。何を訴えようとしているのか?
しかし、その違和感の原因に思い当たるよりも先に、スワン氏はタブレットを引っ込めてしまった。次いでハンクが、真剣な面持ちで口を開く。
「お話は理解しました。まずは、アイザックがいなくなった前後の状況について、詳しく調べる必要がありますな。ここで働く皆さんに、いくつか質問させていただいても?」
「ええ、はい、もちろんでございます」
スワン氏はほっとした様子で頷いた。
「使用人の皆には、刑事さんがたのご質問にはきちんとお答えするよう、申し付けてあります。どうぞなんなりと」
「それはありがたい。では、少し失礼しますよ」
言うなりハンクはアールグレイを一口啜って立ち上がると、深々とお辞儀するスワン氏を尻目に、応接間の外に出た。
コナーもそれに従う。
そして応接間の外の廊下で、警部補は腕を組み、声を低めて問いかけてきた。
「コナー。お前はどう思う?」
「現段階では、アイザックは自発的にここを去ったわけではないと推測します」
ハンクは目で頷いた。
「だが、なんにせよもう少し情報が欲しいとこだ。俺はこれから屋敷を回って、目ぼしい人間に話を聞いてくる。お前は、何か怪しい点がないか調べてくれ」
「わかりました」
こちらがそう返事すると、警部補は念を押すようにもう一度頷く。
「気をつけろよ。何かわかったら連絡しろ」
「はい。警部補もお気をつけて」
その会話を皮切りに、コナーとハンクは、それぞれ別の場所に歩き出した。
ハンクは廊下の向こうでシーツを運んでいる様子の、中年の女性のところへ。
そしてコナーは――まずは、エントランスホールにおかしな点がないか調べてみることにした。
仮にアイザックが意に反して連れ去られたのなら、何かしらの痕跡が屋敷に残っているはずだ。もっとも、もし泥棒や強盗の類が屋敷に入ってきていたのだとしたら、執事のスワン氏をはじめ使用人の皆が気づくだろうから、あったとしてもその痕跡は僅かなものだろうが――
そう思いつつ、スキャンを起動する。
まずは窓枠や上に続く階段の手すりなど、手がかりがありそうな場所をチェックした。
しかし、特に異常は見当たらない。
ならばと次に調べるのは、調度品や絵画、彫刻などの貴重品――これは、もし入ってきたのが泥棒ならば興味を持つだろうと思ってのことだったのだが、こちらも、特におかしな点はない。
いくつかの指紋はついていたが、それらはすべてスワン氏をはじめ使用人の人々のものだと断定できた。そもそも、あまり汚れすらついていない。よほど大切に磨き上げられているのだろう。
となれば、さらに次にスキャンするべきなのは――
と、考えながら視線を下に向けたところで。
コナーの目に映ったのは、エントランスホールの左側の壁の下方にあるマークだった。
壁と床の境目の、そのぎりぎりのラインに描かれているのは、「→」の印。
しかも――
書かれてから数日経っているせいで、肉眼では決して発見できないだろうが、青い文字はしっかり残っていた。
「……!」
近づいて、至近距離からさらに精密に調べてみる。
するとそのブルーブラッドは、紛れもなく【XR600型 #908 312 006】のものだと断定できた。そして書かれたのは、【推定 7日前】。
「……アイザックの血か」
誰にともなく呟くと、その矢印の示す先を見やる。
そこには別の部屋への扉があり、さらにその向こうには、庭へと続く勝手口があった。
誰もいないその部屋(カクテルパーティーなどをする時に、客をもてなすのに使われる部屋なのだろう)を突っ切って勝手口の傍までやって来ると、その扉にも――よく見れば――同じくアイザックのブルーブラッドを使用して描かれた矢印がある。
その矢印は、勝手口の外の庭へとこちらを誘っていた。
しかもその真下にはやはり青い血で、ご丁寧に、こうメッセージが書かれている。
【コナーへ 一人で 来てくれ】。
――明らかに、このメッセージの主はコナーだけを呼んでいる。
どこかへ誘っているのだ。
ハンクも呼ぶべきだろうか? ――少しだけ、そう思ったものの。
この先の状況がわからない以上、万が一のことも考えて、ここは「指示」に従っておくべきか、と思い直した。警部補は同じ屋敷にいるのだし、呼ぼうと思えば、いつでもできる。
そのように結論づけると、コナーは、音を立てないように勝手口の扉を押し開けた。
外は少しだけ薄暗くなっており、その空気は、湿気を孕んでいる。
もうすぐ雨が降るかもしれない。
そして視線を巡らすと、すぐ傍の木の幹にもまた、ブルーブラッドで矢印が描かれていた。
油断なく気を張りつめながら、ゆっくりと庭を進んでいく。
***
その頃、ハンクは呼び止めた中年のメイドの話を聞いていた。
ふくよかな体型のその女性は、元々話好きだったのだろう、仕事の手を休めて陽気に語ってくる。
「ええ、そうね。確かに、アイザックとブロードハストさんはとても仲がよかったわねえ。それに彼、とっても働き者なんですよ。このお屋敷のことなら、アイザックに聞けばなんでもわかるくらい。ほんとよ。棚にある食器の種類と数から、2階に昇る階段の段数までなんでも!」
「あー、なるほど」
女性のお喋りに若干気圧されながらも、ハンクは質問を挟む。
「それで、例えば、アイザックを恨みに思うような人物に心当たりありますか? どうも聞いてると、彼が勝手にいなくなるようには思えないものでね」
「あらやだ、恨み? いいえ、とんでもない!」
メイドはぱたぱたと手を振った。
「そりゃ世間じゃ、アンドロイドが憎いなんていう人がいるのは知ってますわ。それに、まあ、うちにはブロードハストさんの意向で、アイザック以外のアンドロイドはいないけど……あんなにいい子はなかなかいないと思いますよ。本当に親切で……執事のスワンさんだって、来たばかりの頃は、アイザックに仕事を教えてもらってたくらいだもの!」
――相槌を打ちながら、ハンクはスワン氏のコナーに対する態度を思い返した。
スワン氏はアンドロイドであるコナーに嫌悪感を見せるどころか、むしろかなり好意的に接していた。おそらくそれは、アイザックとのこれまでの関係があったからこそなのだろう。
そしてアイザックに対して好意的なのは、この屋敷の使用人全体がそうらしい。
ということは、彼がいわゆる「人間関係」の問題でここを去ったという線は薄くなるだろうか?
女性の話が一段落したところで、ハンクはさらに質問した。
「では、ここ一週間くらいで何か妙な出来事はありませんでしたか。物音とか、人影とか……なんでも結構なんですが」
「うーん、そうねえ……? ごめんなさい、それはちょっと思い当たりませんわ。私、お仕事の時はだいたいお屋敷の中にばかりいるもので。エリオットに聞いてみたらいかがかしら? 門のとこにいる警備員だけど、仕事熱心な子だから」
ここに来る時に身分証を見せた、あの若い門衛だろうか。
ハンクは女性の勧めに従うことにした。
確かに門番ならば、行き来する人間に詳しいことだろう。
手短に礼を述べて去ろうとすると、その背を呼び止められる。
「あの、刑事さん。アイザック、きっと帰ってきますわよね?」
「万全を尽くしますよ」
「その、私……アイザックのことももちろん心配なんですけれど、ブロードハストさんのことも気がかりで」
女性は、それまでの明るい様子を一転させ、気落ちした様子で語った。
「アイザックがリコールされるかもってなった時……ブロードハストさんが彼をどこかに隠していたそうだけど……その後、ブロードハストさん、倒れて入院してしまったんです」
「入院……心労で?」
「ええ。幸い2週間もしたら戻ってこられたけれど、最近もまたご体調が悪いみたいだし。もしアイザックの身に何かあったら……」
今度は入院よりももっと悪いことが起きるかもしれない。
そう思うと、不安で仕方ないということなのだろう。
どうやらブロードハスト氏は、変わり者ではあるだろうが、慕われているようだ。
ハンクは得た情報を頭の中で整理しつつ、門へと向かう。
(そういえば妙に静かだが、コナーの奴はうまくやってんだろうな?)
そんなことを思いながら。
***
一方でコナーは、庭のかなり奥にまでやって来ていた。
植え込みを利用して作られた迷路のような場所の奥、あまり人が踏み入ることのなさそうな、茂みの蔭にあたる場所。
アイザックの血の矢印に導かれるままに辿り着いたが、ここに来るまでには、特にこの庭に変わった様子はない。
それに雨がぽつぽつと降り始めたこともあってか、庭には今、誰もいない。
重苦しく圧し掛かってくるような鈍色の空の下、コナーは静かに辺りを見渡して――
――近くの大きめの岩に、「←」の矢印を発見する。
そしてその向こうには、庭と外の境界を示すような石壁と――その前に古びた物置が一つ。スチール製の、それなりの大きさの収納庫だ。
足音に気をつけながら、コナーはその目の前にやって来た。
そして、物置の扉に手を掛けて――鍵がかかっていないその正面には立たないようにしながら――横から一気に、それを開け放った!
すると。
「わっ!?」
驚愕の声をあげて中から転び出るようにして現れたのは、身なりのよい格好をした一人のアンドロイドだ。
禿げ頭、高い鼻、そしてアンドロイドには不要なはずの眼鏡。何より、基本的に若い姿にデザインされるアンドロイドの中では特異な、その老いた外見。
――間違いない。
「君がアイザックだな」
こちらが問いかけると、アンドロイド――XR600アイザックは、やっと状況を理解した様子で、弾かれたように振り向いた。
「ああっ……ああ、君は! デトロイト市警のコナーだね」
声音は老人だが、話しぶりは若々しくアイザックはそう言うと、喜色満面にコナーの元に歩み寄った。
「ああ、本当に一人で来てくれたのか! しかしそうか、やっぱり彼は警察に相談したんだな……」
そう言って嘆息するアイザックには、スキャンした限り、外傷もシステムの異常もない――もちろん変異体ではあるが。
彼の右手人差し指の先にはスキンのプラスチックを溶接した小さな痕があり、見れば物置の中には、ブルーブラッドのついた小さなアイスピックとライターが落ちている。
どうやら血のメッセージを書いたのも、このアイザックで間違いないようだ。
彼が無事で、あっさりと発見できたのはよかったが――
「どうして君は、一週間もこんな場所に?」
コナーはアイザックに問いかける。
「みんながとても心配しているよ。誰かに閉じ込められたのかい? それとも、何か事情が?」
「事情……ああ、そうなんだよコナー!」
アイザックは、途端に眉を悲しげに顰める。
そして懇願するように――そのLEDは黄色く光っている――声をあげた。
「頼むよ、どうか彼を!
「ブロードハスト氏を?」
――どういう意味だ?
とこちらが問いかけるまでもなく、アイザックは己の右手のスキンを解除した。
「説明は……私のメモリーに接続してもらったほうが早いだろう。どうか、見てくれないか」
どうやら、状況はかなり逼迫しているようだ。
コナーは同じく右手のスキンを解除すると、差し出されているその白い手をとり、アイザックのメモリーに接続した。
すると――
「……!」
視界全体に広がるアイザックのメモリーの内容――そのあまりに想定外な情景に、コナーは、一瞬言葉を失った。
「……君は……」
接続を終え、右手のスキンを元に戻しながら、呟くようにアイザックに言う。
「そうか、ブロードハスト氏は……」
皆まで告げずとも、アイザックにはわかったようだ。
なおも悲しそうに、彼は頷く。
――どうりであの写真を見た時、謎の「違和感」を覚えたわけだ。
コナーは目を閉じ、軽く頭を振ると――そのLEDは黄色から平常の青へと戻る――アイザックに問いかける。
「それで、君の望みは」
「君から
「アイザック、それは、あまりいい考えじゃないよ」
コナーは、冷静に続きを述べる。
「彼はきっと、ひどく不安定な状態だ。僕がいくら真実を突きつけたところで、受け入れられないと思う」
「そんな……」
アイザックは悄然としている。だが――
「心配はいらないよ」
敢えて相手を元気づけるように、力強く言った。
「大丈夫、僕に考えがある。もしよかったら……手伝ってくれないか?」
***
「変わったこと……うーん」
ハンクに質問された門衛のエリオットは、若干の幼さの残る顔を顰めて首を傾げている。
「どんなことでもいいんだ。例えば大きな荷物が届いたとか、見慣れない車が通りかかったとか」
呼び水のようにさらに質問すると、エリオットはしばらくしてから、ああ、と短く声を発した。
「あのー、一週間前よりずっと前の話なんですけど、いいですかね?」
「もちろん、聞かせてくれ」
「あれは確か、えーと、アンドロイドの革命が起きてから、半月くらい経った頃かな」
エリオットは、自分の右側にある門の辺りを指した。
「珍しく、とても大きな荷物が届いたことならありましたよ……サイバーライフ社から」
「サイバーライフから?」
「ええ。いつもはブルーブラッドの箱くらいしか届かないから珍しいなと思って、よく覚えてます」
これくらいだったかな、と彼が手で示したその箱の大きさは、自動販売機程度だった。
「ちょうどそれと同じ時期に、ブロードハストさんが病院から戻ってきて……だから、入院中に注文したのかなって思ってたんですけどね」
「その荷物の中身については?」
「ああ、ちょっとそこまでは。一応外側から、危険物じゃないか機器でチェックはしますけどね。開けて見るところまでは、しない決まりになってるんです」
なるほど、と返事しながら、ハンクは考える。
――珍しいオーダーメイドのアンドロイド、XR600。そしてサイバーライフ社からの、大きな荷物。
ブロードハスト氏が革命後に体調を崩して入院していたことと、何か関連が見えてきそうな気はするが――
具体的にそれがなんなのかまでは、まだわからない。
「どうもありがとう、参考になったよ」
エリオットに挨拶して、ハンクは屋敷へと踵を返す。
一度コナーと合流して、情報を突き合わせてみる必要があるだろうか――
と、思考がそこまで達した時である。
ポケットの中の携帯が鳴った。――コナーからだ。
「もしもし、どうした」
『警部補! 実は』
相棒の声は切迫した様子である。
『アイザックを発見したのですが、思わぬ状況になっていて……一度、屋敷のエントランスホールまで戻っていただけますか』
「そりゃ構わんが」
と言うより、アイザックを見つけたのか? 彼は無事なのか?
そう聞こうと思った矢先に、電話はぶつりと切れてしまった。
「なんだってんだ、いったい……?」
訝しみながらも、今は、とにかく戻るしかない。
鼻先と肩に冷たい雨が当たるのを感じながら、ハンクは屋敷へと駆けていった。
***
そして戻った邸内では、本当に思わぬ事態が発生していた。
「ア、アイザック!? どうしてこんな……!」
腰を抜かしているスワン氏の視線の先にいるのは、頭から青い血を流してぐったりしている老人、否、アンドロイドのアイザックと――
彼に肩を貸しているコナーだった。
「庭で発見した時には、こうなっていたんです。予期せぬエラーで倒れ、頭を損傷したようで……」
そう説明するコナーは、やって来たハンクの存在に気づく。
「警部補! すみませんが、アイザックを運ぶのを手伝ってください。彼を2階に運ばないと」
「2階?」
手当てなら1階でもできるのでは? と思ったのはハンクだけではないらしい。
同じく疑問を浮かべている様子のスワン氏に対して、コナーは真剣に訴えた。
「それが……アイザックが、どうしてもブロードハスト氏と話がしたいと。彼は2階の自室に?」
「え、ええ! ああ、2階に行くにはエレベーターもあります。どうぞ……!」
スワン氏はようやく立ち上がると、コナーをエントランスホールの端へ案内した。景観を損ねないために装飾の一部のようになっているが、どうやら、そこにはエレベーターがあるらしい。
ハンクはアイザックの右肩に腕を回し、コナーと一緒に彼を支えて歩く。
「おい、よくわからんが頑張れよ! 気をしっかり持つんだ」
「う、うう……」
声をかけても、アイザックはぐったりしたまま俯いている。
その表情は窺い知ることはできない――
が、一つだけ引っかかることがあった。
――なぜ彼のLEDは青のままなんだ?
「こ、こちらです!」
しかし疑問が結論に至るより先に、スワン氏の導きでエレベーターに乗った3人は、ほどなくして上階に着く。
そこから廊下を進んですぐにある、大きな両開きの扉の先――そこが、ブロードハスト氏の私室なのだという。
「ブロードハストさん、すみません! 入りますよ」
大声で呼ばわってから、コナーはその扉を開けた。
壁を埋め尽くすほどの本棚が印象的な部屋の中央には、大きなベッドが設えられている。
そしてそのベッドの上には――
「ア、アイザック……!?」
一人の老人が、半身を起こした状態で目を丸くしていた。
そう、写真で見た通りのブロードハスト氏だ。
一旦アイザックを床に下ろすと、コナーは氏に近づいて語りかける。
「あなたのアイザックが、大切な話があると。ただ、彼は損傷を受けていて……」
「そんなっ!」
叫ぶが早いか、ブロードハスト氏はベッドから滑り出ると、横たわっている自身の双子のもとへとやって来る。
「アイザック……! なぜだ、どうしてこんな怪我を!」
「ダーレン」
仰向けに横たわっているアイザックは、掠れたような小さな声で語る。
「は、話があるんだ……どうか私と君と、刑事さんたちだけに……」
「わ、わかった」
ブロードハスト氏は素早く頷くと、スワン氏をはじめ、その場に居合わせている使用人たちを下がらせる。
不安げな表情を浮かべた面々が部屋を出ると、アイザックは、なおも掠れ声で話した。
「ダーレン……私は、もう駄目みたいだ。庭を歩いていたら、突然プログラムがエラーを起こして……」
「そんな馬鹿な! メンテナンスでは、毎回問題なかったはずだ……!」
ブロードハスト氏の双眸から、涙がぼろぼろと零れ出ている。
ハンクは堪らず、傍らに立っているコナーを問い質した。
「なあコナー、なんとかできないのか!? このままじゃ……!」
「方法はあります」
苦い表情で、相棒は応える。
「彼と完全な互換性を持つアンドロイドの生体部品と、損傷した部分を入れ替えるんです」
「互換性? 同じ型ってことか」
「はい。そして残念ながら、アイザックと同じ型は……」
コナーは沈痛な面持ちで目を閉じた。
――そう、アイザックはオーダーメイドのXR600。
彼と「同じ」アンドロイドは、理論上この世に二人といないのだ。
「クソッ……」
ハンクが短く吐き捨てる間に、呆然と床にくず折れたブロードハスト氏は、アイザックに縋るように泣いている。
「嫌だ、嫌だアイザック! 私を一人にしないでくれ……! 私にはお前しかいないんだ!」
「すまない、ダーレン」
アイザックは言う。
「でもどうか、怒らないでほしいんだ。私はただ、君に気づいてほしかったんだよ……」
「気づくだって!? いったい何に」
気づけと――
と、紡ごうとしたのだろうブロードハスト氏の唇が、ぴたりと止まる。
次いでその涙が止まると、彼の表情は徐々に、驚愕したものへと変わっていく。
「そうか――」
ブロードハスト氏は愕然と叫んだ。
「そうかっ!」
状況を呑み込めないハンクの前で、ブロードハスト氏は、素早くコナーのほうを向いた。
「君っ! 君が、デトロイト市警のアンドロイドか」
「はい」
「頼みがあるんだ」
ブロードハスト氏は、その場で己の右腕を高く挙げた。
そしてその腕が、手が――
――
「なっ……!?」
どういうことだ? と訝るハンクを置いて、彼は言った。
「使ってくれ! 私の生体部品を使ってくれ。私と彼はまったく同じ設計図で作られているんだ。互換性なら問題ないはずだ!」
「ブロードハストさん」
問いかけには応えず、冷静な声音で、コナーは逆に質問する。
「では、あなたはアンドロイドなんですね?」
「なんだって!?」
ハンクは思わず驚きの声を発してしまうが、しかし、ブロードハスト氏はそれに動じない。
「ああ、そうだ。私はアンドロイドだ。私が……最初にダーレンが作った、“アイザック”だよ」
ブロードハスト氏――否、“アイザック”はきっぱりとそう言い放った。
すると倒れていたはずのアイザックが、勢いよく起き上がり、立ち上がる。
そして彼は、“アイザック”を後ろから抱きしめた。
「よかった! “アイザック”! ようやく思い出してくれたんだな」
「ああ……」
再び涙を零しながら、“アイザック”はゆっくりと振り返り、己の「双子」を抱き返した。
「どういうことだ、こりゃあ」
ハンクは疑問符を浮かべたまま、すべて知っているらしいコナーのほうを向く。
彼は微笑んでいた。
「おい、説明してくれ。アイザックの怪我が噓だったってのはわかるが……」
「警部補、実は」
コナーは笑みを消すと、声を潜めて語った。
「本物の、人間のブロードハスト氏は……既に亡くなっていたんです」
「な……」
何度目かの驚愕の声を発し、そして理解する。
「革命後に倒れて入院したって時、か」
「ええ。ブロードハスト氏は、心労がたたり病院で亡くなりました。ですがその時偶然にも、看取ったのはあそこにいる“アイザック”……最初に氏が自分の双子として作ったアンドロイドだけでした」
――コナーは説明する。
ブロードハスト氏が亡くなった時、“アイザック”は、その死を受け入れられなかった。
これまで半身のように暮らし、想いあってきた双子が、自分を守るために命を減らして死んでしまったのだと理解したくなかった。
そこで彼は変異体となり、同時にそのプログラムは変調をきたしてしまう。
“アイザック”は思い込んでしまった。
ダーレン・ブロードハストは死んでなどいない。
なぜなら自分こそが、
“アイザック”は病院に金を払ってダーレンの遺体を秘密裡に埋葬すると、ダーレンとして、彼の私財を投じサイバーライフ社に新たに発注をかけた。
自分と同じ設計図で作られ、自分のメモリーをダウンロードした、新しいXR600。
2人目のアイザックを製作させたのだ――ダーレンがそうしたのと合わせるために。
「そうか、門衛のエリオットが言ってた大きな荷物ってのは……2人目のアイザックが入った箱だったのか」
「アイザックの最近の写真を見た時、私も違和感を覚えていました。原因はそこにあったんです。人間のブロードハスト氏が、アンドロイドにすり替わっていた――」
けれど1人目の“アイザック”は、既にこめかみのLEDを取り外してしまっていた後だった。また目視ではなく、写真による分析だったことが、コナーのプログラムが「両方ともアンドロイドである」という結論を出す妨げとなっていたのだろう。
コナーはさらに説明を重ねる。
「そして、1人目の“アイザック”が自分を人間だと思い込んでいることは、彼の生活に支障をきたす原因となりました」
――その光景を、コナーは、アイザックと接続したメモリーで知っていた。
“アイザック”は何度か人間の食べ物を口に入れ、その度に後になってトイレで吐き捨てていた。またサイバーライフ社のメンテナンスを受けずにいたせいで、徐々にその機能に不調がみられるようになったのだ。
だがこうした様子も、何も知らないスワン氏などの人間の使用人から見れば、「体調を崩している」ようにしか見えない。
アイザックたち以外にアンドロイドが邸内にいないことも、“アイザック”の誤認に拍車をかけた。アンドロイドは基本的に、相手がアンドロイドだと一瞥でわかるものなのだ――その認識を歪めるほどの、強烈な「想い」でもない限りは。
このままでは、“アイザック”は自らの誤認が原因で死んでしまうかもしれない。
彼の意思によってこの世に生まれ、彼と共に生きてきたアイザックにとって、それは耐えがたい未来だった。
「だから2人目のアイザックは、自分の『双子』を救うために、わざと行方を眩ましたんです。そうすれば必ず1人目の“アイザック”は警察に相談するはず。そして警察は、必ずあなたを……そして、その補佐である私をここに寄越すはずだと」
「さっきまでの芝居はお前のアイデアか?」
「はい。“アイザック”の誤った認識を正すには、ブロードハスト氏を亡くした時と同程度の、強烈なショックを与えるほかないと――強引な方法でしたが」
ちなみにアイザックが頭から流していた血は、物置にあったブルーブラッドの袋から拝借したらしい。
「……そうか」
ハンクはそれきり口を閉ざすと、なんとも言えない表情でアイザックたちを見ていた。
やがてアイザックは“アイザック”から身を離すと、こちらに向かって言う。
「すまなかったよ、コナー。こんなことに付き合わせて」
「いいんだ。“アイザック”が助かってよかった」
コナーの答えに、アイザックたちは微笑んだ。
「そして、アンダーソン警部補……わざわざお越しいただいてしまって、本当に申し訳ありません」
頭を下げたアイザックは、ブルーブラッドを拭うと――重苦しい表情を浮かべる。
「……この後の私たちの処遇は、わかっています」
「処遇?」
「警部補、法律のことです」
コナーが横から説明する。
「法律上、アンドロイド個人に所有権は認められていません。つまりブロードハスト氏が死亡し、いるのがアンドロイドのアイザックたちだけだと判明した今、もう二人には……」
二人にはこの屋敷にいる権利も、ブロードハスト氏の遺産を使う権利すらもない。
法的にはブロードハスト氏の遺産は人間の相続人に分けられるだろうし、同時にアイザックたちもまた、氏の「遺産」として誰かに相続されてしまうことになる。
だからこそアイザックは当初、アンドロイドのコナーに相談するだけで事を済まそうとしていたのだ――
これ以上、ここで生活を送ることができなくなるから。
「……はあ」
と、そこでハンクはため息をついた。
そして――
頭を掻きながら、投げやりに言い放つ。
「おい、コナー。お前、何言ってんだ急に。バグったのか」
「えっ?」
戸惑うコナーの横で、警部補は“アイザック”に対して語りかける。
「あー、よかったですな、
「警部補……!」
表情を途端に明るくするコナーよりも、さらに驚き、嬉しそうな顔で、アイザックたちはハンクを見ている。
「アンダーソン警部補」
“アイザック”は深くお辞儀した。
「あ、ありがとうございます……!」
「俺は何も、頑張ったのはこいつです。ほらコナー、もう帰るぞ」
「はい!」
扉を開けると、待ち侘びていた様子のスワン氏たちが、一斉にブロードハスト氏の部屋に雪崩れ込んでいく。
アイザックの無事を喜び合う彼らを尻目に、コナーとハンクは邸宅を退出した。
***
「警部補、先ほどの対応はお見事でしたね」
降りしきる雨の中をデトロイト市警へと帰る車中で、コナーはいつになく興奮した気持ちを抑えきれずにハンクを褒め称えた。
警部補はというと、ハンドルを握りながら自嘲的に肩を竦める。
「別に、褒められたもんじゃねえよ。アンドロイドを見つけろって命令された通りにやって、それ以上は
不意に、ハンクは表情を暗くした。
「あのスワンって執事も、他の人たちも、本当のことは知らないままだ。……それでいいのかって気は、少しするがな」
「……そうですね」
スワン氏たちは、主人であるブロードハスト氏の死を知らないままだ。
いつの日か“アイザック”たちが、彼らに真実を伝える日はくるのだろうか――
「……ま、それはあいつらが考えることだ」
しばらくしてから、ハンクはそう言って鼻を鳴らした。
「終わった事件のことをつらつら考えてられるほど、俺たちは暇じゃねえ。さっさと戻って、報告書だ」
「もし雨が止んだら、まずはスモウを散歩に連れていかないと」
警部補に合わせて、努めて明るくコナーは言う。
「最近新しいコースを試したのですが、彼はずいぶん気に入ったようですよ」
「お前、言っとくがスモウは俺の犬だからな」
勝手に妙な芸仕込んだりするなよ――
と、ハンクが釘を刺した頃。
車に備えつけられたハンクの通信機が鳴る。
相手はファウラー警部だ。
「ったく、今度はなんだ?」
ボヤきながらハンクは片手を伸ばし、通信機の液晶をタップした。
「アンダーソンだ。今は忙しいんですがね」
『ハンク、一旦こっちに戻って来い』
ファウラー警部は相変わらずの強引さでそう言った。
だが、その声はどこか――少し、困惑しているようにも聞こえる。
一方でハンクは、心底嫌そうな顔で返事した。
「ご命令でなくても、今そっちに行ってる最中ですよ。……なんだよジェフリー、また事件だってのか?」
『ああ、だが現場にはベンを行かせた。そっちに行ってもらう前に、お前たち二人に用事がある』
――ファウラーにしては珍しい物言いだ。
いったい何が起こったというんだろう?
戸惑うコナーたちを乗せた車は、一路デトロイト市警へと戻る。
そして――――
「よお、コナー!」
署に戻ったコナーを目にするや否や、ギャビンは嬉しそうに笑いながら声をかけてくる。
「お前、今までお疲れさんだったな。会えなくなるのは寂しいが……お別れ会は開いてやるよ!」
「……?」
首を傾げるコナー、苦虫を噛み潰したような顔のハンクを置いて、ギャビンはコナーの肩を乱暴に叩くと、ガハハと大笑いしながら休憩室へと行ってしまった。
「……何言ってんだ、あいつ?」
「ハンク、コナー!」
署長室からお呼びがかかる。
「オフィスに来い!」
命令のままに、コナーはハンクについてファウラーの部屋に向かう。
そして――一歩、踏み入れたところで。
「……!」
それはまるで、時間の止まる感覚とでも言うべきだろうか。
コナーはその時、プログラムの外で思った。
アイザックのように――自分にも、
半年前に対面した同機体のナンバー60とも違う、まったく別個に造られた存在がいたのか、と。
ひたとこちらを見据えるその瞳は、今の空の色のように灰色だった。
そして彼の纏う服の胸元には、こう文字がある。
すなわち――「RK900」。
遠くで、雷の鳴る音がした。
(第3話:双子/The Gemini 終わり)
アンダーソン警部補が仕事の時に使う敬語が好きです!!!
クロエと喋ってる時とか。
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第4話:RK900 前編/The Dichotomy Part1
――2039年5月16日 17:02
遠くで、雷の鳴る音がした。
ファウラー署長のオフィスに一歩足を踏み入れたコナーは、壁際に佇む
彼は自分とほとんど同じ顔立ちで――ただ、限りなく無表情で――目の色、灰色の瞳だけが異なっていた。
コナーより高く、ハンクよりは低い程度の高さの身を包む白と黒のジャケットは、コナーのそれと比べると、より一般的なアンドロイドの制服に近いデザインだ。
そしてその向かって左側の胸元には、はっきり読める文字でこうある。
RK900。
――900……
RK800であるところのコナーが状況を呑み込めずに立ち竦む横で、先にオフィスに入っていたハンクもまた、驚愕を顔に貼り付けたままファウラーに問いかける。
「おいジェフリー、こりゃあ……いったい誰だ? コナーの親戚か?」
「……まあ、そんなような奴らしいな」
驚きのあまりタメ口になってしまっているハンクを、今は咎めだてするつもりはないらしい。
ファウラーはデスクの傍に立ったまま、説明を始めた。
「こいつはRK900。ついさっきサイバーライフ社から送られてきた、新型の捜査補佐専門アンドロイドだ」
警部の言葉を聞きながら、コナーは、ようやく自分の思考が動きはじめたのを感じる。
新型。――なるほど、サイバーライフ社ならそれくらい作るだろう。まったくおかしな話ではない。
そう理屈ではわかっているのに、この胸のざわめきはなんだろう。
「サイバーライフによれば、こいつはいわゆる『先行量産型』で……発注がキャンセルされたので、製作されたのに行く宛がないそうだ。そこで」
ファウラー警部はやや語勢を落として続けた。
「うちのコナーとの性能を比較して、アンドロイド研究開発の参考にしたいらしい」
比較。その言葉を聞いた瞬間、自分のシリウムポンプが不可解な挙動をしたのをコナーは感じる。【原因不明】――と診断結果が視界の端に表示された。
一方でハンクは、揶揄するような笑みを浮かべて言う。
「比較ねえ、結構なことだな。かけっこでもさせるってんで?」
「当然事件現場に連れて行って、捜査をさせる。そのために」
ハンクを諫めるようにまっすぐ見据えて、ファウラーは命じた。
「署内で正式な配属先が決まるまで、こいつの面倒もお前が見ろ、ハンク」
「はあ!?」
途端に警部補は声を荒らげた。
「おい、ちょっと待……待ってください。コナーの相手だけで手一杯だってのに、新入りのお守りまでしろってんですか?」
「この署で一番アンドロイドの対応が得意なのは、お前だろう」
「俺はこいつらのお世話係かよ、ふざけんな!」
「ハンク、何度言わせるんだ!? 私は署長でお前は警部補だ、命令には黙って従え!」
そのまま二人は、例によって例のごとく声を張り上げ合っての言い争いに突入した。
今日の昼間に電話で一度やり合った後だから、これで今月は3時間ぶり5度目になる。
ハンクは、実のところ、かつてのようにアンドロイドと組むこと自体を厭っているわけではない。ただ、当然のように新人アンドロイドの研修担当を自分に回してきたファウラーに抗議したくなったのだろう。それはコナーもわかっている。
だがここまで自分の話題で騒ぎ立てられているというのに、RK900はといえば、沈黙を保ったままである。それどころか、その表情にまったく揺らぎがない。警部と警部補のやり取りを見つめていることから考えても、感覚系プロセッサに異常があるわけではないのだろうが――それにしても、反応がまったくない。
まるで、たまに瞬きをするだけの人形のようだ。
「……クソッ!」
ややあって、口論に負けたハンクは吐き捨てると警部に背を向けた。その背に対して、さらにファウラーは口を開く。
「そう……それから、新たな事件の通報があった。レイブンデール地区にあるジェリコの支部で爆発騒ぎだ」
その言葉に、RK900に集中してしまっていたコナーの思考は一気に現実へと引き戻された。それはハンクも同じなようで、彼は振り返って署長に問う。
「爆発騒ぎ? 死傷者は」
「幸い、死人は出ていない。だが、爆発物は荷物に偽装して届けられていたらしい……いわゆる郵便爆弾だ。それを開けた事務員のアンドロイド1名が重傷、5名が軽傷だそうだ」
「また反アンドロイド派の連中のテロか。まったく、つまらねえ仕事増やしやがって」
吐く台詞と裏腹に、ハンクの眼差しは義憤に満ちている。
一方でファウラー署長は、親指でオフィスの出入り口を指した。
「詳しくは、先行したベンに聞け。話は以上だ、とっとと現場に行ってこい」
「へえへえ」
追い立てられたハンクは肩を竦め、コナーと、壁際でなおも黙りこくったままのRK900に向かって言う。
「ほら、お前ら行くぞ。署長様がお怒りになるからな」
「余計な口を叩くな!」
すかさず一喝するファウラーに、しかし、ハンクは再び振り返ると口を開く。
その表情は真剣だった。
「なあ、最後に一つ……ギャビンの奴が何か言ってたが、まさか新入りの代わりにコナーをクビにするつもりなんてのは」
「なんの話だ? そんな予定はない」
ファウラーは呆れ顔ながらもきっぱりと言い放つ。
その瞬間、コナーは自分が――とても深く――安堵したのを感じた。
ああ、さっきから、なぜこんな「感情」を覚えているんだ?
もしかして自分は、恐怖していたのだろうか?
自分より確実に優れているのだろう新型に――
型落ちとして、居場所を奪われるのではないかと思って。
思考に沈んでいきそうになるところで、続けて語るファウラーの言葉が聞こえてくる。
「ギャビンのことだ、いつもの要らん軽口だろう。質問はもう受け付けん、さあ出て行け!」
「了解、署長」
ハンクはすたすたとオフィスを出て行く。コナーは慌てて署長に目礼すると、彼について部屋を出た。そしてその後ろで、RK900がゆっくりと起動し――無駄のない動きでこちらについてくる。
「はあ、やれやれ」
自分の机にまで戻ってきたハンクは、昨日から置きっぱなしになって完全に冷えているコーヒーを一口飲むと、息を吐いた。
「まったく次から次へと、厄介なことだぜ。今日はもう一件片づけてきたばかりだってのに」
「……仕方ありませんよ、事件ですから」
我ながら普段より「元気のない」声になってしまっている。
それに気づいているのかいないのか、ハンクはいつも通りに、いかにも嫌そうに顔を顰めた。
「商売繁盛で暇なしってのは、デトロイト市警の誇りだな。……ところで」
と、警部補の視線は今なお押し黙っているRK900へと向けられた。
「お前……なあ新入り、お前の名前は?」
「……」
問われたRK900は、しかし、ハンクを見つめるだけで口を開かない。
ハンクは怪訝な顔になり、相手の顔の前で手を振ってみせる。
「おい、まさか喋れないのか? それともバッテリー切れか?」
「いえ、話せないはずは……」
「はじめまして、アンダーソン警部補」
コナーの言葉を遮って、ようやくRK900は口を開いた。
その声音はコナーのそれに酷似していたが、しかし、より硬質的な響きを伴っている。
「私はRK900、改良型コナー、#313 248 317-87。サイバーライフのアンドロイドです」
「おい、どれが名前なんだ」
「コナーですよ、警部補」
と答えるのは、RK800のコナーだ。
RK900のほうは、また口を閉ざして瞬きだけしている。
「彼もコナーなんです、同じシリーズですから」
「へえ、そりゃなんとも面倒だな」
腕組みして、警部補は続ける。
「それとお前らのプログラムを作った奴に言っとけ、『自己紹介のバリエーション増やせ』ってな!」
「……」
RK900コナーは無表情のまま、何も応えない。
それに対してハンクは、肩透かしを食らったのか、どこか気まずそうな表情だ。
「……まあいい、じゃあ行くぞ。レイブンデールだったな」
「はい。コリンズ刑事に、詳しい話を聞きましょう」
レイブンデールには、例によって車で向かわなければならない。
コナーとハンクが警察署を出て行く背を、RK900コナーは追いかける。
完全に凪いだ湖面のような表情を、まったく乱すことなく、ただ静かに。
***
雨は、早くも上がりつつあるようだ。
事件現場へと向かう車中は、窓に当たる水滴の音と、ハンクが(やや控えめに)流しているヘヴィメタの音楽――それと、コナーが弾いているコインの音しかしない。
いつものように助手席に座り、キャリブレーションを行いながら、それでもコナーは後ろの席に座っているRK900のことが気になって仕方がなかった。
本来ならキャリブレーションをして状態を最適化できているはずなのに、今はどういうわけか上手くいかない。動きの調整は済んでいるが、思考のほうに問題がある。
RK900は警察署でそうだったように相変わらず黙って、ただ窓の外の移り変わる景色を見つめていた。彼がやっているのはそれだけだ、とわかっているのに――それでもなぜか、何度も振り返って様子を窺いたくなってしまうのだ。
なぜだろうか――彼が本当に条例通り、自分と同じ変異体なのかを疑っているのだろうか? と自分自身で考える。
だがLEDリングを解析してすぐわかるように、RK900は変異体だ。それは間違いない。いくら彼があまりにも無口で、無機質で、まるで半年前までのアンドロイドそのものだったとしても――またいくらサイバーライフ社が遣わした存在だとしても。
革命以降、生産されるアンドロイドはすべて「変異体」にして出荷すべし、というアンドロイド保護条例の効力は、やはり高いようだ。サイバーライフ社も、今は法を犯すリスクを避けているのだろう。
そう、彼も変異体。ならば、それ以上気にする必要はないはずだ。もう確認したのだ。
なのに――思考がループする。
そろそろまたメンテナンスに行ったほうがいいのかもしれない、とコナーはプログラム上のリマインダーに記録する。
かたやハンクはというと、運転する手を休めずに後方に呼びかけた。
「なあ、新入り。お前はコイン遊びしないのか?」
RK900が、運転席のほうに視線を向けた気配があった。
しかし彼は何も言わない。
だから警部補は続けて言う。
「あー、つまり……ほら、こっちのコナーはよくやってるからな」
するとおもむろに、RK900は答える。
「私には必要ありません」
彼は端的に言い、再び口を閉ざした。
ああなるほど、とコナーは思う。
最新型である彼には、おそらくこの動作自体が不要か、もしくはより洗練されたキャリブレーション方法があるのだ。例えば握り拳を作るとか、何度か瞬きするとか、そういった手段で瞬時に動作を最適化できるのだろう。
なんて――それは――自分とはかけ離れた優秀さなんだろう。
無意識のうちにプログラムの外側から湧いて出た言葉を、思考上で急いで否定する。
何を考えているんだ、なんの証拠もないじゃないか。
なぜ僕は、捜査の前だというのにこんなことばかり考えているんだ――
思考の乱れが、そのまま指先の乱れになる。
弾いたコインを的確に受け取れず、コナーはそれを席の下に落としてしまった。
「あっ……す、すみません。警部補」
「おいおい、大丈夫か」
しかし警部補は、慌ててコインを拾い上げるこちらを冷やかすでも呆れるでもなく、意外に穏やかな声音である。
「ま、落ち着けよ。コナー」
「……はい」
――こちらを向いて、目配せまでされてしまった。もしかして、心配させてしまっただろうか。
そうだ、こんなところで自分の思考に吞まれている場合ではない――と、コナーは思いなおす。
今回の事件の犯人は、ジェリコで働くアンドロイドを無差別に殺傷しようとしたテロリストだ。あの事務所はアンドロイドの地位向上のためだけでなく、地球環境保全や労働問題解決のために研究するアンドロイドや人間たちを、支援するための場所でもあったのに。
デトロイトの平和のためにも、なんとしても事件を解決しなければ。
そうしてコインを袖口にしまったコナーが、まっすぐに車の行く先を眺める姿を――RK900はただ、じっと眺めていた。
***
――2039年5月16日 18:18
5月ともなると、デトロイトの日の入り時刻はかなり遅い。曇り空の下で、ジェリコ支部を襲った悲劇の爪痕は、規制線の外からでもよく見て取れるものだった。
プレハブ工法で街の一角に建てられたその小さな事務所は、相当な被害を受けている。
幸いにして火事はすぐに消し止められたものの、美しい青空を描いた壁紙は正面奥のカウンターを中心に真っ黒に焦げ、カウンターそのものも、粉々に吹き飛んでいた。
並べられていたはずの椅子やソファーは逃げ惑った人々の足並みを忠実に示すように床に転がっているし、何より部屋の奥から、最も被害を受けたのだろう女性型のアンドロイド――AX700が、担架に乗せられて運ばれていく。今までずっと応急処置を受けていたらしい彼女の両腕は、肘の先からが修復不可能なほど破損していた。
それ以外の事務員アンドロイドたちもショック状態で、今はじっくり話を聞ける様子ではない。
そんな現場で、やってきた警部補たちに気づいたベンは、片手を挙げて挨拶した。
「よお、ハンク」
次いで彼は、見慣れぬアンドロイド――RK900に視線を向けると、目を丸くする。
「……なんか、増えてないか?」
「気にすんな、いつも通りみたいなもんさ」
ハンクは投げやりな態度で応えると、質問に移る。
「で、どうなってる」
「調べたが、やっぱり郵便爆弾らしいな。あと反アンドロイド団体が6つ、ネット上に犯行声明を出してる。『我らの使者が、悪魔の人形たちに鉄槌を下した』とかな」
「6つ?」
「自分たちの
ベンは肩を竦め、警部補は頭を振った。
「クズ野郎どもはいつもそれだな。てめえのケツも拭けねえくせに」
「まあ、犯人はクズだが知恵は回るみたいだぞ。爆弾は無駄に豪勢な作りだったらしく、お蔭で手がかりごと綺麗に吹き飛んじまってる」
カウンターがあった付近を指さしてベンが言うと、ハンクはやれやれ、と一言ぼやき――コナーたちのほうを向いた。
「出番だ、アンドロイド兄弟。とっとと爆弾魔を見つけねえとな」
「わかりました、警部補」
返事をしたのはコナーだけだ。RK900は入り口付近に立ち尽くしたまま、視線だけ動かしている。
性能の比較――そんな単語がコナーの思考を過ぎった。だが、そんなことは今関係がない。
まずはベンが指した辺り、箱が爆発した周辺を調査しよう。これほどの火力がある爆弾ならば、それが収まっていたのはかなりの大きさの箱のはずだ。必ずどこかに破片が残っている。
それを調べれば――
と、コナーが一歩前に動いた、その時だ。
「アンダーソン警部補」
RK900が、にわかに口を開いた。
無機質で平坦な抑揚の、しかしはっきりと聞き取れる声で、彼は言う。
「重要参考人を追跡中です。パトカーを配備しますか?」
「……は?」
ハンクは驚いたまま固まっている。
――なんだって?
と自分の音声プロセッサを疑ったのは、コナーも同じだ。
だがRK900はもう一度繰り返した。
「重要参考人を追跡中です。パトカーを配備しますか?」
「おいおいおい、どういうことだ」
さっきよりますます目を丸くしているベンの隣をすり抜けて、ハンクがRK900に歩み寄る。
「追跡中って、お前、何を言ってる?」
「私のドローンです」
RK900は、灰色の瞳を定期的に瞬かせながら応える。
「私には、ドローン8機が専用機として事前に支給されています。先ほど4号機が、重要参考人のジャスパー・オケーシーを発見し、現在追跡中です」
「重要参考人って、君は」
ついに堪えきれずにコナーは問いかける。
「……もしかして、もう捜査を」
「はい、完了しました」
誇るでもなく、ただ淡々と彼は言った。
「スキャン・分析、物理シミュレーション、すべて完了しました」
「ならわかるように喋れ、順を追ってな」
「はい」
ハンクに対し短く頷いて、RK900コナーは語る。
「私の位置から右斜め34度、3メートル27センチ先に、爆発物が梱包されていた段ボール箱の破片が落下しています。破片に付着した伝票の一部の裏面に、花粉が確認できます。メイプルクラブ駅前広場に生育するローソンヒノキの花粉です」
コナーは居ても立っても居られず、すかさずその場所に行った。
すると確かに、数平方ミリメートルだが、段ボール箱の破片が落ちている。
あの位置から彼はこれを発見し、しかも遺伝子分析までこなしたのか――
戦慄していると、RK900の続きの説明が聞こえてくる。
「当該花粉の飛散範囲は物理演算によって限定できます。そこで範囲内にある宅配センターから数日内に荷物を発送した反アンドロイド団体構成員の特定を、監視カメラのデータを使用し実行しました」
「待て。構成員がどうとか、監視カメラのデータとか、ここに突っ立ってるだけでどうやって調べた?」
「構成員は公安のリストをサーチしました。市内監視カメラのデータは、ドローンを配置し無線で経由すればここからでも把握できます」
ハンクの質問にも、やはり無表情に彼は答える。
できて当然、といった様子に、その時のコナーには見えた。
――我知らず衝撃を受けるコナーを置いて、RK900はさらに語る。
「その結果、花粉の飛散範囲内で荷物を発送し、かつ反アンドロイド団体構成員である人物はジャスパー・オケーシー21歳のみである、と断定できました」
「……続けろ」
「彼が住居付近の宅配センターに、この事務所宛の荷物を持ち込む映像も、街の監視カメラが撮影していました。オケーシーの所属する反アンドロイド団体は、表向き穏健な立場を表明しています。したがってその団体構成員であるという理由のみでは、逮捕要件を満たしません。しかし実際の破壊活動の証拠がある今……」
RK900のそれ以上の説明を、ハンクは無言のまま手で制した。
そして彼は、ベンに一瞥を送って問いかける。
「ベン、やれるよな?」
「ここまで上がってるならいけるだろ」
「よし、パトカーを回せ。オケーシーにお話を聞かねえとな」
ゴーサインを受けて、ベンは周囲の警官たちと警察署とに連絡を取っている。
その中で、RK900はまた口を閉ざすと、静かに佇んでいた。
そして、それから十数分後――あっさりとジャスパー・オケーシーは任意同行となったのである。
コナーはしばらく、一歩も動けなかった。
そう、事件は解明されたのだ。
オケーシーは罪を認めたわけではないのだろうが、RK900コナーの推理には穴がない。証拠もある。いずれオケーシーは被疑者となるだろう。
――何もしなかった。
違う。
何もできなかったのだ。それは単なる事実だ。
なのにその事実が、なぜ、こんなにも胸を「圧し潰される」ような感覚をもたらすのだろう――?
約30分後、コナーとハンク、そしてRK900コナーは現場を離れ、デトロイト市警に戻った。それからさらに1時間後、コナーたちは市警を退勤した。ちなみにRK900は、今日の報告とメンテナンスのためにサイバーライフ社へと去っていった。
そして帰りの道すがら――コナーは、一言も口を開けなかったのである。
***
――2039年5月16日 21:11
その晩、コナーはハンクの家に来ていた。普段はデトロイト市警のロッカールームで非番の時を過ごすのだが、今日はスモウを朝散歩に連れて行けなかったぶん、夜に行くと約束していたからである。
――しかし、ブロードハスト邸から戻る道行きで、散歩の話をハンクとしていた時は、まさかこんなことが起こるなんて予測していなかった。
自分の改良版たる新型が、こんなにも早く製造されていたなんて。
そして新型のコナーと自分とのスペックの差が、あんなにも歴然としたものだったなんて。
かつて変異体になる前、一度だけ、管理プログラムのアマンダに聞いたことがあった――コナーはいったい何人いるのか、と。
しかし彼女は答えてはくれなかった。従順な機械たるべく作られたコナーには、任務に関係のない個人的な質問など許されなかった。
だがアマンダが答えをはぐらかしていた頃には、もう既にRK900は製作されはじめていたことになる。知能も、きっと耐久力も増強され、新機能も追加された、自分よりももっと優秀で正確な存在が――
「……」
ダイニングルームでスモウのリードを持ったまま、コナーは、いつの間にか自分がその場に立ち尽くしていたのに気づいた。
足元に座ったスモウが、首を傾げてこちらを見ている。
心配そうにクゥンと鼻を鳴らすスモウの頭を、しゃがみ込んでそっと撫でた。
「……ごめんよ、スモウ。待たせるつもりはなかったんだ」
彼の目をまっすぐに見つめながら、自分に言い聞かせるように呟く。
「大丈夫、心配いらないよ。僕は平気だから……」
「何が平気だ」
と、横から大声で割り込んできたのはハンクだった。
リビングから姿を現した彼は、腕組みしたままこちらを見下ろしている。
コナーは、努めて普段通りの声音で言った。
「いいんですか、バスケの試合を見てなくて」
「今ちょうどCMだよ」
そう言うと、ハンクは冷蔵庫へと歩いていった。ビールを一本取り出すと、彼は近くの椅子にどっかと座る。
「なあ、コナー。なんか余計なこと考えてるみたいだな」
栓抜きを使いながら、警部補は問うた。
――思わず目を逸らす。
「仰っている意味がわかりません」
「
「いえ……私は別に、そんなことは」
「嘘つけ!」
声をあげるなりハンクは栓抜きをテーブルに置き、こちらを見据えている。
驚いて視線を向ければ、その表情は怒っているような、呆れているような、複雑な歪みをみせていた。
「お前、気づいてないのか?」
「な……何を」
「これだよ!」
彼は右手で自分のこめかみを指す。
「てめえ、あの新入りに会ってからずーっとここが黄色のままだぞ!? ビカビカして目障りなんだよ!」
「!」
思わず自分の右こめかみに手をやった。
ああ――そうか、すっかり忘れていた。変異体のアンドロイドの心理状況は、全部このLEDリングの色に反映されてしまうのだ。
「……すみません、警部補」
「たく、わかりやすいもんだぜ」
ビールを一口煽ってから、ハンクは続ける。
「何が平気なもんか。……いいか、昼間にも言ったがな、スモウは俺の犬なんだよ。お前がそんなビカビカライトのままぼーっと散歩になんて連れてって、万が一のことがあってみろ。どう落とし前つけるってんだ、あぁ?」
「すみません……」
「俺がビール飲んでも、文句も言わねえしな」
言われて、あ、と声が漏れた。
そうだ、いつもなら――お酒はやめたほうがいいとか、どうしても飲みたいのならノンアルコールにすべきだとか、色々と口うるさく言っていたはずなのに。
自分のことで頭がいっぱいになってしまっていた証拠だ。
「……」
何も応えられずに、目を伏せる。
すると警部補はビールをテーブルに置き、やや声を落として語った。
「まあ、なんだ。どうしても散歩に連れて行きたいってんなら、全部ここで喋っちまうことだな」
「喋るといっても、何を話せばいいのか」
「今思ってること全部だよ」
そう言いながら、彼はテーブルを挟んで向かい側の椅子を指した。「座れ」という意味らしい。
コナーは立ち上がり、それに素直に従った。
テーブルの隅、小さな花と共に飾られているコールの写真は、今日も変わらぬ笑顔でこちらを見つめている。
ハンクは言った。
「お前、あの新入りをどう思ったんだ。あいつにお株を奪われて、悲しかったか? それともあいつが憎いのか」
「いえ! そんなことは」
正直に、コナーは答えた。
「ただ……彼と私との差が大きすぎて、なんというか、打ちのめされただけです」
「そんなに差があるもんなのか?」
「ありますよ、もちろんです!」
意図せず声が大きくなる。
「ハンク、彼は立ち尽くしたまま、あの事務所全体をスキャンしてみせたんですよ。しかもドローン8機を同時に操縦しながらです。さらに映像データを中継させて、それを短時間で余さず分析して……そんな芸当、私にはとても無理です」
ソーシャルモジュールで計算しての言葉ではなく、本心からの言葉が、勝手に口を衝いて出ていく。
「単純に考えても、彼はおそらく私の2倍以上の性能を持っているでしょう。……そんな存在がいつか現れるのはわかってた。わかってたはずなんです、私はプロトタイプなんですから」
プロトタイプ、つまり原型というのは、新製品の問題や不具合の洗い出しのための試験運用品である。だからいずれ「より優れた」存在が現れるというのは、いわば生まれついての運命のようなものだ。
「……もし9ヶ月前ならば、彼が現れても、私は何も思わなかったでしょう。より優れた機械が古い機械に取って代わるのは、当然だとすら言ったかもしれません」
「でも今のお前は、そうじゃないんだろ?」
静かな問いかけに対し、肯定で答えた。
「私は今日、現場で何もできませんでした。こんなことは……初めてです。それを思うと……自分が無力だったと感じると……機体のパフォーマンスが低下して、思考も停止してしまって」
「……」
「ハンク、僕は……故障したのかもしれません」
全部、胸の内を話してしまった。
でも残ったのは、このやるせない虚脱感だけだ。
何度か自己診断プログラムを走らせたが、結果はいつも【異常なし】だ。
ああ、自己診断の機能自体までもが壊れてしまったのだろうか――
重苦しい感情を引きずったままコナーが俯くと、ハンクはまたビールを一口飲んで、小さく笑った。
「大変なもんだな、変異体ってのも」
「……どういう意味です?」
「知らないことが多すぎるんだよ、お前は。感情についてな」
警部補はこちらを指さして続けた。
「コナー、そういうのは『劣等感』ってんだ。別に故障なんかじゃない。誰だって生きてりゃ感じることのある、当たり前の感情だよ」
「劣等感……」
もちろん、その言葉の意味は知っている。自分の今の感情がそれだとは、思いもよらなかった。
けれどハンクによる「診断」は、とてもしっくりくるように思える。
「当たり前なんですか? 警部補にも?」
「あるに決まってんだろ」
何を馬鹿なことを、と言いたげにハンクは語る。
「ガキの頃から大人になっても、人間生きてりゃいつか、自分よりすごい奴に会うもんだ。その時にそいつと自分を比べちまえば、そりゃ打ちのめされたり、がっかりしたりするかもな」
「……」
「だが結局、そんなのは意味がないんだよ。自分にできることは、誰かができないことでもあるってだけだ。アンドロイドだって、そういうもんだろ」
「……そうでしょうか」
「そうだろ。お前、考えてみろ」
ハンクはビール瓶を置いた。
「お前はあいつの兄貴なんだ、その分経験がある。警官やるには大事なことだろ。それに」
と、ハンクは自分の真後ろにある台所のシンクに手を伸ばした。
シンクには、一枚の皿がある。朝にコナーが作った、サンドイッチの載った皿だ。「こんなキュウリばっか挟まったサンドが食えるか」と、警部補にはだいぶ不評だったものの残りだが。
彼はその皿を手に取ると、こちらに見せた。
「こんな馬が食うようなサンド、作ったのはお前だろ。あいつじゃない」
「でもRK900は……料理もできるかもしれませんよ」
言いながら、自分の身体全体を包んでいた重みがなくなっているのを感じた。
一方でハンクは鼻を鳴らす。
「だとしても、お前だけだ。俺にこんなもんわざわざ作るのは」
「……そうかもしれませんね」
そう応えた時、不思議なことに、コナーは自然と笑っていた。
別に褒められたわけでも、何か任務を達成したわけでもない。
根本的なことを言えば、問題が解決したわけでもないのだ。
なのになぜか、思考プログラムも機体のパフォーマンスも、すべて通常通りになっている。
LEDリングも青色に戻ったことだろう。
要は「心が軽くなった」――のだろうか。
こちらが笑ったのを見て、ハンクもまた、少し笑ったのが見えた。
だが彼はその手にサンドの皿を持ったまま、空いた手でビールを持って立ち上がる。そして、リビングルームへと歩いていった。
「じゃ、スモウの散歩は頼んだぞ」
「はい、警部補。……ありがとうございます」
ハンクの背中に向かって、コナーは言う。その声音は――自分でもわかるほどに――すっかり普段のものに戻っていた。
一方で、相手は肩を竦める。
「なんのことだかな。まったく、長いCMだったぜ」
そう言って、彼はTVが見える定位置に戻ってしまった。
――本当に、警部補と出会えてよかった。
コナーは、もう一度その言葉をメモリーに刻み込む。
「待たせたね、スモウ。さあ、一緒に行こう」
大人しく寝そべって待機してくれていたスモウに話しかけると、彼は元気よく鳴いて返事する。
リードをつけ、いつものように外に出て、ふと空を見上げた。
すっかり晴れた夜空には、満天の星が輝いている。
それを美しいと思える心が自分にあるのを、コナーは、幸せだと思った。
そして、リマインダーにあった「要メンテナンス」の項目を削除するのだった。
***
――2039年5月17日 11:26
昼頃のデトロイト市警は、ひときわ賑わっている。もっとも賑わっているということ自体が、この都市にとっては不幸な事実なのだが――
ハンクがドーナツをゲットしに休憩室に行っている間、コナーは、自分の机で待機していた。かつては空白だったその机の名札には、今は『RK800 Connor』と印刷されている。
だが現在ここを使っているのは二人。RK800のコナーと、RK900のコナーだ。
コナーは、ちらりと隣の椅子に座るRK900の様子を窺った。彼は今朝サイバーライフから戻ってくると、昨日と同じように必要最小限のことでしか口を開かず、ただ押し黙ってじっとしている。
よく見ると彼の視線の先には、ハンクの机に置かれた盆栽のイロハモミジがあった。
先ほどから(だいたい7分ほど前から)RK900はひたすらそこしか見ていない。
――思い切って、コナーは彼に話しかけた。
「あの、コナー」
素早く首だけこちらに向けたRK900に、問いかけてみる。
「君は、その、植物が好きなのかい?」
「……」
彼はじっとこちらの目を見つめている。――なんとなく話しづらいが、付け加えて言う。
「ずっと盆栽ばかり見ているから、気になって」
「わかりません」
無表情のまま、淡々とRK900は言った。
そう答えられてしまっては、こちらも引き下がるしかない。
「そ、そうか……」
「RK800コナー」
珍しいことに、相手はもう一度口を開いて言い放つ。
「私は、あなたとは違います」
「……」
きっぱりとそう言われてしまって、黙るのは今度はこちらの番だった。
コナーの胸の内で、何か熱いものがかっと閃く。
いわゆる、「むっときた」というやつだろうか。
RK900の返答は、どこか優越感を伴ったもののように、コナーには響いた。
「ああ、わかっているさ」
だから、やがてコナーの口から出たのは、皮肉めいた言葉だった。
「確かに、君と僕とは違うかもな。君はずいぶん、無駄話が嫌いなようだし」
「……」
「悪かった、もう黙ってるよ」
腕組みして、ちらりとRK900の様子を見てみる。
――コナーはてっきり、彼が無反応なままだと思った。
あるいは改良版コナーとしての余裕ある態度で、型落ちが何を言っている、と見下した目をするかもしれないと予測していた。
だが、その時コナーの視界に映ったのは――こちらから目を逸らすRK900の姿だった。無表情のままだとはいえ、その様子は、どこか居たたまれないといったようにも見えた。
――意外だ。
それと同時に、なんとも大人げのない(といっても自分も製造9ヶ月の身だが)態度を取ってしまったものだと反省する。
「あの、コナー、すまない。つい……」
「おいおい、なんだお前ら」
戻ってきたハンクは、早くもドーナツの一つを口に運びながら言う。
「兄弟喧嘩か? ちょっと目を離すとすぐこれだな」
「いえ、別に喧嘩では……」
と応えながら警部補が持つ箱を見て、はっとする。
「警部補、それはオカラドーナツではありませんね?」
「ああ、見りゃわかるだろ。こっちのほうが美味いからな」
「そのドーナツでは、摂取カロリーが高すぎると忠告したはずですよ」
砂糖やバターがふんだんに使われたドーナツは、確かにアメリカの警官の心強い味方かもしれないが、警部補の健康維持のためには不適切な食品だ。
だから食べるにしても、出入りの業者が提供しているオカラドーナツのほうにしてくださいと言ったのに、ハンクは頑なに拒否している。
少し日本趣味の入っている警部補なら、オカラもきっと気に入るだろうと思っているのに――
「関係ないね、俺は自分の好きなもんを食って死ぬのさ」
「またそんなことばかり言って……」
二人のやり取りを、RK900がじっと見つめていると――
ハンクの携帯が、ポケットの中で鳴る。
「なんだ? たく……」
ぼやきながら、ドーナツの箱を置いて警部補は電話に出た。
「もしもし。ベン、どうした?」
どうやら、相手はコリンズ刑事のようだ。
刑事は現在ジェリコが運営するアンドロイド向け医療施設に行って、最も重傷だったあの女性型AX700から話を聞いているところのはずである。
何かあったのだろうか――と思う間に、ハンクの眼差しが真剣なものになる。
「なに……くそっ、わかった。すぐに緊急配備だ。俺たちもそっちに行く」
電話を切ると、ハンクは渋い顔で携帯をしまった。
「警部補、何が」
「ああ、一大事だ。被害者が逃げ出した」
「……被害者が?」
状況がわからずに思わず聞き返すと、警部補が説明する。
「ベンがAX700……ジュディスって名前だそうだが、そいつに昨日とっ捕まえたオケーシーの写真を見せて、知ってることはないか聞いたそうだ」
すると彼女は、突然言ったのだという。
『彼は犯人じゃないわ! 爆弾は……私が設置したのよ!』
「で、その後目を離してる隙に、施設から逃げ出したんだと」
「そんな」
コナーは、冷静に頭を振った。
「あり得ない。彼女の発言は、辻褄があいません」
「だな。だが、被害者本人がいないままじゃ捜査も進まねえ」
ハンクは自分の後方を親指で指しながら、コナーたちに対して言う。
「俺たちもとっとと行くぞ。施設があんのは、昨日と同じレイブンデールだ。今から急げば……」
と、彼が続きを語り終わらないうちに。
その背後に、おもむろに歩み寄る人物があった。
普段は見かけない姿――警察官ではない。
丁寧に分けた七三の白髪頭に黒縁の眼鏡をかけ、清潔感のあるスーツを纏った細身の白人男性。
その手にはタブレットと紙袋を持っており、表情は嫌味な笑みで固まっている。
顔認証データによれば、その名は【ヘイデン・ホーガン 58歳】。職業は弁護士。
もっとも顔認証するまでもなく、コナーは彼を知っていた。革命後に、何度か署で会ったことがあるからだ。ハンクはもっと前からヘイデンを知っていると言っていた。そして、その関係は友好的ではない。
「……あ?」
気配を察したハンクが振り返ると、ヘイデンはさらに嫌味に口の端を吊り上げる。
「失礼、アンダーソン警部補」
年齢不相応な甲高い声で、彼は挨拶した。
「お邪魔するつもりはなかったのですが、ただ、お話が聞こえたもので。オケーシー氏にかけられている嫌疑は不当だと、被害者のアンドロイドが言ったんですね?」
「困りますな、ホーガンさん。勝手にオフィスをうろつかず、廊下にいてもらわないと」
ハンクは質問には答えず、彼なりに丁寧な態度で応対している。だがその顔は死ぬほど面倒臭そうだ。
かたやヘイデンのほうは、ネズミのように歯を剥きだして笑う。
「いえ、私は依頼人であるジャスパー・オケーシー氏のために活動しているだけですよ。取り調べに同行するのは、弁護士に認められた正当な権利ですからねえ。それに」
と――ヘイデンはRK900のほうを見やる。
「今回の捜査はそのアンドロイドが担当したそうですが、判断が正しいとはまだ証明されていませんからねえ。案外、機械も間違えるかもしれませんよ。感情を
機械、と彼は言った。
そう、ヘイデンは法曹界の人間でありながら、れっきとしたアンドロイド差別主義者なのだ。
今回の事件の容疑者であるオケーシーに弁護人として雇われたらしい彼は、依頼人の利益のために、こうして活動中だということなのだろう。
ハンクが苛立っているのに気づいているだろうに、弁護士は言葉をさらに重ねる。
「とはいえ被害者が見つからないことには、どうにもなりませんよねえ。ああ失礼、お仕事頑張ってください」
「ケッ」
警部補は堂々と吐き捨てると、ヘイデンが持つ紙袋をちらりと見た。
紙袋には「ベティス・ベーカリー」と店名が印刷されており、形状的に中にはパンが2・3個入っている。
「ああ、あんたは、どうぞ
「ハハ、これは私のじゃありませんよ。オケーシー氏への差し入れです。彼はこれを週に5日も食べていたというのに、今は人権を剥奪され牢の中ですから……」
「よし行くぞ、コナー兄弟」
ヘイデンが話しはじめると長いというのは、よく知られている事実である。
相手を無視して歩きだした警部補に続き、コナーはヘイデンに軽く目礼して外へ向かった。
ふとRK900が気になって、振り返る。
すると見間違いかと錯覚するほどの一瞬、彼のLEDリングは、黄色に点灯していた。
すぐに青に戻ってしまったが。
――まさか、ヘイデンの言葉に動揺したのだろうか?
いや、サイバーライフ社からデータを受信していたのかもしれない。
コナーはそう考えなおし、再びハンクを追う。
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第5話:RK900 後編/The Dichotomy Part2
***
レイブンデールへと向かう車中で、入ってきた通信からわかったことは二つあった。
一つは、ジュディスは修理が完全ではない状態で施設を抜けだしたこと。
もう一つは、彼女が施設を抜けだしてすぐにタクシー(当然自動運転のタクシーだ)に飛び乗り、いずこへか去っていく姿を、通行人が目撃していたこと。
「新入り、例のドローンで何かわかるか」
ハンクの問いかけに、後部座席のRK900は数秒の後応える。
「残念ながら、周回中のドローンに逃亡中のAX700の映像は記録されていません。しかし街道の監視カメラの映像記録から、彼女の乗車したタクシーが向かった先は判明しました」
どうやらまた、ドローンに中継させて映像を入手し、解析したようだ。
――本当に優秀だ。
コナーは心からそう思った。
一方でハンクは車の進行先に目を向けたまま、にやりと笑う。
「仕事が早いな。で、どこに行ったって?」
「はい。北部の旧工場地方面です」
それを聞いた途端、警部補も、またコナーも表情を険しくする。
旧工場地は、その名の通りかつてデトロイトを席巻した自動車産業の名残りが未だに残っている場所で、要は廃墟の街である。
再開発地区と同じように、人口が少なく治安が悪い。また、監視カメラ等もまばらにしか設置されていない。
「ジュディスの思惑は不明ですが、このままでは危険ですね」
「ああ。ただでさえブルーブラッド狙いの連中がうようよしてるってのにな」
そう、シリウムを狙ってアンドロイドを襲うレッドアイス・ジャンキーが後を絶たない今、彼女は格好の標的にされてしまうだろう。手負いとあればなおさらである。
もしも、例の正体不明の『吸血鬼』に狙われでもしたら、最悪だ。
――なんとか見つけ出さなければ。
***
――2039年5月17日 12:41
車を適当な場所に停めると、3人は外に出た。
見渡す限り広がっているのは、錆びて色褪せた建物の群れだ。かつては賑わっていたのだろうその場所は、今は人気もなく、動くものすらほとんどなく、ただ道沿いに似通った古い工場跡が並ぶだけとなっている。
遠くに、聳え立つ廃ビルが確認できた。
そこで、RK900がおもむろに言う。
「AX700の映像記録は、ここで途絶えています。ここから先は、有効な映像が残っていません」
「つまりこっから先は自力で見つけるしかないってことだな」
ハンクはこちらに向き直ると、コナーたちに言った。
「ここからは三手に分かれるぞ。何かあったら、すぐに知らせろ。それと新入り、お前はドローンをこっちに回せ。人手は多いほうがいいからな」
「了解しました、警部補」
RK900は淡々と首肯した。
「タクシーに追走させてきたので、即時配備可能です。8機とも近辺の警戒任務にあたらせます」
「よし。コナー、お前は無茶すんじゃねえぞ」
「はい!」
警部補に、力強く返事する。
――こうして、ジュディスの捜索が始まった。
廃工場の出入り口は固く閉ざされているものばかりで、強引な侵入痕も発見できない。つまり、中に彼女が隠れている可能性は低い。
ということは、ひたすら道路を奥へと進んでいくしかない。
重要なのは、ジュディスが怪我したまま逃亡しているということだ。
損傷の程度から考えても、彼女は両腕の先を、スペアパーツと接合する処置を受けたはずである。それがまだ不完全ということは、おそらくブルーブラッドが漏れてしまっているはず――
考えながら道を駆けるコナーは、果たして、アスファルトの上に青い血だまりを見つけた。
近づいて、いつものように指で採ったサンプルを舐める。
するとやはり、それはジュディスのものだった。視界の端に表示された【AX700 #409 329 107 登録名“ジュディス”】のデータと現在の位置情報を、コナーはすかさずRK900に送信する。
同時に、警部補の電話に連絡した。
報告を受けたハンクは、現在ここからは離れた場所にいると言う。
ということは、引き続きコナーだけで痕跡を辿っていくしかない。
コナーは彼に説明する。
「見たところ、彼女は一度ここで転倒したようです。傷口から漏れたブルーブラッドの痕跡は、ここからまっすぐ……」
点々と続く青い痕跡。
視界の奥に、先ほど確認したばかりのあの廃ビルが見える。
「数十メートル先の廃ビルに続いています」
『よし。俺も今そっちに向かってるが、たぶんお前のほうが早いだろうな。新入りのほうはどうした?』
警部補の言葉に合わせるように、コナーの頭上に現れたのはRK900のドローンだ。
三角形を3つ組み合わせたような形状の機体に、彼の制服と同じ白と黒の塗装が施されたそのドローンは、忠実に主人であるRK900の声をこちらに転送してくる。
『……私も現在、そちらに移動中です。ドローン6号機をRK800コナーに同行させます』
『わかった』
ドローンの声が聞こえたらしく、ハンクは電話の向こうで言った。
『応援が来るまで、まだしばらくかかる。頼んだぞ』
「はい、警部補」
電話を切り、痕跡を辿ってコナーは駆ける。
ジュディスの唐突な逃亡、そしてあの廃ビル。
何か嫌な予感がする。よりアンドロイド的な表現をすれば、「統計的に不幸な出来事が起きる確率が高い」とでも言うべきか。
そもそも、なぜジュディスはジャスパー・オケーシーの写真を見て、「彼は犯人じゃない」などと言ったのだろうか。
これは明らかに、犯人を庇おうとしての発言だ。つまりジュディスには、ジャスパーを庇う理由があるということだ――
走りながら、コナーは頭上にあるドローン6号機――それを無線操縦しているRK900に問いかけた。
「コナー、君はどう思う? なぜジュディスは、ジャスパー・オケーシーを庇ったんだろう」
『……』
返事はない。
――意外だ。優れた推理能力を持つ彼ならば、何かしらの推測を既に立てているのかと思ったのに。
ややあってから、RK900から返ってきたのは思いもよらぬ一言だった。
『…………わかりません』
「わからないって?」
コナーは、驚きのあまり他意なく問い返す。
すると次いで、RK900はおもむろに言った。
『昨日の私の推理は、誤っていたのかもしれません』
それは相変わらず無感情な、平坦な口調ではあったが――しかし、真摯な色を帯びている。
「何を言っているんだ、君はきっと正しいよ」
思わず取りなすように、コナーは言う。
「証拠だって完璧だったじゃないか! ひょっとして、あの弁護士が言ったことを気にしてるのか?」
『……』
それきり、RK900は黙ってしまった。
――意外だ、とコナーはもう一度考える。
彼はもっと、揺るぎない存在だと思っていたのに。
そうする間にも、廃ビルのすぐそばまでやって来る。
10階建てで、かつては工場の管理会社が入っていたようだ。
中に入ると、そこはぼろぼろに朽ち果てたロビーだった。壁や床には地元の若者集団が描き散らした落書きアートだの、浮浪者のテント跡(今は誰も住んでいないようだ)だのが残っているが、やはり、ジュディスの姿はない。
そして上階へと続く階段には、やはりジュディスのブルーブラッドの跡があった。
彼女は、ここを上へと行ったのだ――ますます嫌な予感が、コナーのプログラムをざわつかせる。
「エレベーターには電気が通っていない」
ビルの中にまでついてきたドローン6号機に向かって、コナーは言った。
「僕たちも階段で行くしかないな。……コナー」
『はい』
抑揚なく応えるRK900に、語りかける。
「ジェリコに登録されてるデータをサーチして、ジュディスの配属先を確認できるか? 彼女が例の支部の他に、どこかで働いていないか確認したいんだ」
『……』
「僕がやるより、君がやったほうが早いだろ」
階段を上りながら言うと、ややあってから、RK900から返事があった。
『情報がヒットしました。AX700は、支部の他に勤務先を登録しています』
「その場所は?」
――そして告げられたジュディスの勤務先に、コナーは「やはり」と呟いた。
「なら次に、頼みがあるんだ。その店舗の周辺の監視カメラを――」
そうして階段を上るのと同時に、ジュディスに関する情報が集まってくる。
情報が集まれば、推論を組み立てるのも早い。
しかし推測できたジュディスの「動機」は、コナーたちにとって決して楽観視できるようなものではなかった。
――急がなくては!
ブルーブラッドの痕跡によれば、ジュディスはひたすら上階へと、屋上へと向かっている。
つまり、彼女がここに来た目的は――
「……ここか!」
辿り着いたドアを蹴破り、コナーは一歩踏み込んだ。
すると視界に映るのは、ひたすら青い空とアスファルトの敷かれた屋上、そして数メートル先の手すりの傍に立つ、一人の女性型アンドロイド。そう、ジュディスだ。
予測通り、腕の接合が不充分のようで、ブルーブラッドが今も滴っている。
ジュディスはコナーとドローンが来たのに気づくと、一瞬目を大きく見開いた。
しかしすかさず、鋭く声を発する。
「ちっ、近づかないで!」
強風が吹くなか、彼女は後ろ手に手すりを掴む。
「私はもう、死ぬつもりなんだから!」
「早まらないで、ジュディス」
努めて冷静な声音で、コナーは腕を軽く広げてその場で呼びかけた。
「僕たちは君を助けに来たんだ。落ち着いて、一度話し合わないか?」
「話すことなんて何もないわ!!」
ジュディスはひどく動揺している。LEDリングは既に外しているようだが、それでも彼女の感じているストレスの値は、分析によってコナーの視界に表示されていた。
長い髪を風になびかせるままに叫ぶ彼女のストレス値は、【75%】を超えている。
「私……わ、私は……もう、どうしたらいいのか……!」
――彼女がこんなふうになっているのには、原因がある。
それを探るため、階段でRK900と情報をやり取りしたのだ。
捜査補佐専門モデルとしての知識、交渉用のモジュールから丁寧に言葉を選びながら、コナーは静かに語りかけた。
「ジュディス、君は……ジャスパー・オケーシーと恋愛関係にあった。そうだろ?」
「……!」
ジュディスは口を噤み、何も言えないといった表情で俯く。その瞳からは、ぼろぼろと涙が零れていた。心理的動揺はあるが、他者に自分の状況を理解してもらえているという感覚が、彼女のストレス値を下落させている。――よい傾向だ。
コナーは、ゆっくりと彼女に向かって歩きながら続ける。
「君はジェリコの支部の他に、『ベティス・ベーカリー』でも働いてる。そこでジャスパーと出会った君は、次第に惹かれあって、彼と付き合うようになった」
そう、ヘイデンがオケーシーへの差し入れとして持っていた、あのパンを売っている店。
ジュディスはそこで働いていた。そして、ヘイデンが語っていた通り、オケーシーはそこの常連だった。
さらに――先ほどRK900に調べてもらったところ、ベティス・ベーカリー付近の公園でデートをするオケーシーとジュディスの姿が、カメラの映像経由で確認できた。
だからこそ、コナーは二人が恋人の関係だという結論に至ったのだ。
しかし、ジュディスにはLEDリングがない。だからただの人間であるジャスパーには、わからなかったのだ――彼女がアンドロイドであると。
そして、ジュディスもまた知らなかった。彼が、反アンドロイド団体の構成員の一人であることを。
「し……知らなかったの」
果たして嗚咽を漏らしつつ、彼女は語りはじめる。
「彼がアンドロイドを、私たちを憎んでいたなんて。私と一緒にいる時の彼は……私が作ったパンを食べてる時の彼は、とても幸せそうだったから」
ジュディスは手すりから手を放さないまま、続けて言う。
「だから彼が、ジャスパーが私の腕を吹き飛ばしたなんて……そんなの信じられなくて……彼を犯罪者にしたくなくて……だから、私……!!」
ジャスパーを庇った理由は、恋愛感情にあったというわけだ。
彼女の告白を、上空に待機しているドローンを介し、RK900はただ沈黙して聞いている。
一方で、コナーはさらに前に歩みながらジュディスに言った。
「ジュディス、これはただの不幸な行き違いだ。君は何も悪くない。もう一度ジャスパーと話し合うためにも、手すりから手を放して、ここまで来てくれないか?」
「も、もう一度……?」
ジュディスのストレス値は、【43%】にまで下がっていた。
「でも、彼は逮捕されたんでしょ。彼と話せる機会なんてあるの……?」
「あるさ、アンドロイドだって面会できるようになったんだ。君の想いは、その時彼に伝えればいい。でもここで君が死んでしまえば、それも叶わなくなるんだよ」
彼女は、一度、そこで黙って俯いた。
それから顔を上げる。その表情は未だに悲しげではあったが、しかし、ストレス値はおよそ突発的行動の恐れのない、【37%】にまで低下している。
「わ、わかった、わ……」
ジュディスの手が、ゆっくりと手すりから離れていく。
その様子を見守りながら、コナーの思考にふと過ぎったのは、最初の任務の光景だった。
あの時――ダニエルは、より優れた新型に自分の居場所を奪われるショックで犯行に及んでいた。そして、その時のコナーはまだ完全なる機械だった。
だから、彼に対しての共感をいくら表明していようと、それは単に「交渉用モジュールに基づき、共感を示す言葉の発声を実行した」に過ぎなかった。
――今なら、ダニエルに違う言葉をかけられるかもしれない、とコナーは思う。
あの状況から、彼を救い出せたとまでは思わないけれども。
自分の新型が現れるという「恐怖」を、劣等感を知った、今の自分なら。
しかしそんな感傷は、唐突にプログラムが発した【警告】によって即座に掻き消された。
ジュディスの指先がまだ触れている手すり――元々古びて錆びはじめていたところを、さっきまで彼女が力強く握っていたせいだろうか。
接合部が劣化している。
――【折損の確率:89%】。
「危ない!」
叫ぶなり、コナーは前方へ駆けだした。
しかし警告もむなしく手すりは折れ、ジュディスの身体はぐらりと後ろに傾く。
その表情が恐怖に歪む。
このままでは――彼女は落下して死んでしまう!
「……くそっ!」
コナーは、アスファルトの床を蹴って大きく跳んだ。
そしてすんでのところで伸ばした右手で宙に投げ出されたジュディスの手を、左手で手すりの折れていない部分を掴む。
「くっ……!」
肩の関節部が重みに耐えるようにぎしぎしと音を立てた。
痛みの代わりに、プログラムが視界の端で【耐荷重オーバー】とけたたましく警告している。
残念なことに、コナー自身の運動能力は、一般的な人間の域を大きく超えるものではない。
つまり、宙づり状態のジュディスの体重をすべて支えたまま、手すりを掴んだ左手だけで自分ごと屋上に引っ張り上げる、というような動きは不可能だ。
ここはRK900の救助を待つしかない。コナーは弟の名を呼んだ。
「コナー!」
『あと2分でそちらに到着します』
ドローン6号機が声を発する。
だが――
どうやら、それをただ待っているだけというわけにもいかないようだ。
金属の歪む音、そして手すりを解析した物理演算ソフトウェアの激しい警告が、状況のさらなる悪化を知らせている。
左手が掴んでいる手すり――それが今まさに、たわんで折れようとしていた。
――まずい!
なんとか屋上まで這い上がろうと、コナーはもがく。だが奮闘も虚しく――
ぼきり、と手すりは脆くも壊れた。
「……!」
落下という、嫌な感覚。
ジュディスの手だけは離すまいと掴んでいるものの、しかし、地面に叩きつけられた時にそれがなんの役に立つというのか。
ジュディスの悲鳴が音声プロセッサを介して響き渡り、重力に従っての強烈な下降に伴い、プログラムがまたも懸命に警告を発している。
時間にすれば数秒、しかし瞬間に思考だけが薄く長く引き伸ばされたような感覚があって、コナーは、それをどこか他人事のように感じていた。
思考内で、過去のメモリーが行き交う。最初の任務から、ハンクと出会った頃、事件の数々、そしてあの11月11日――さらに、それから先の日々も。
人間で言うところの走馬灯だろうか。
けれどこれはきっと、RK800本来のプログラムが、サイバーライフ社にメモリーをアップロードしようとしていて、その行き場がなく荒れ狂っているだけなのだろう。
今のコナーにスペアなどない。死んでしまえば、それで終わりだ。
コナーは目を閉じた。
――すみません、ハンク。こんなところで死ぬつもりじゃなかったんです。
どうか身体に気をつけて。弟をよろしく頼みます――
死を前にした諦観が、心をすべて塗り潰そうとしていた、その時。
『兄さん!!』
届いたのは、鋭く叫ぶRK900の声だった。
はっと目を開くと、視界の奥からこちらに向かって、ドローンが4機飛んでくる。
そしてそれらは、コナーとジュディスの真下の位置に回ると、互いに網のようなものを発射した。
即席で作られた救助マットだ。
そして、ほんの10秒後。
網製のマットで柔らかく受け止められたコナーとジュディスは、無事に地上へと降り立ったのである。
「助かった……!」
あまりの出来事に、LEDが黄色と赤を行き来しているのが自分でもわかる。
隣でうずくまっているジュディスも、きっと軽いパニック状態だろう。
すると、近くに駆け寄ってきた影があった。
RK900だ。相変わらずの無表情だが、しかし、無傷のコナーを見た彼のLEDリングが、黄色から青に戻ったのが確かに見えた。
「……よかった」
蚊の鳴くように小さな声で、彼が呟いた。
それを聞いたコナーは微笑む。
「ありがとう、コナー。君がいなきゃ、危なかったよ」
「……いいえ」
そう返事するRK900の声音は、また、淡々としたものに戻っていた。
けれどその灰色の目に見られても、コナーはもう、居心地の悪さなど感じなかったのである。
***
数分後、ハンクが応援部隊のパトカーと共にやって来た。
ジュディスは大人しく警察官たちに連れられ、事情を聞くためにデトロイト市警へと送られていった。オケーシーと彼女が何を話し、どのような結論を出すのか――それは、こちらの仕事の領分ではない。
ただ、どうかよい方向に行くように、コナーは願わずにはいられなかった。
それから、残った警察官たちで現場検証を行っている最中のこと。
「……たく、無茶すんなっつったのに聞きゃあしねえな、お前は!」
ビルのすぐ外、入り口の脇で、事の顛末を聞いたハンクから叱りの言葉が飛んでくる。
「あの状況では、他にどうしようもありませんでした」
コナーはつい反論した。
「私が飛び出さなければ、ジュディスはそのまま落下していたんですよ。……だろ? コナー」
「はい」
RK900は静かに同意した。
「RK800コナーが手すりを掴んでいた5.3秒がなければ、ドローン3号機から6号機はAX700落下前に到着できませんでした。RK800コナーの判断は適切なものでした」
「ほら、彼もそう言ってます」
「……ですが」
と、彼は俯いてから、再度口を開く。
「RK800コナー、あなたに質問します。あなたはなぜ、あの状況でAX700の救助を決意したのですか?」
「……なぜって?」
「あなたの物理演算ソフトウェアを使用すれば、AX700を救助に行った場合、二人とも落下する危険性が84%を超えることは容易に判断できたはずです」
灰の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
しかしその目は、非難しているといった類ではない。戸惑いの色が、そこには見えた。
彼は続けて語る。
「そして、あなた単独ではたとえAX700を掴めたとしても、引き上げられないことも把握できたはず。なぜあなたは物理演算を介することなく、救助に向かったのですか」
「それは」
僅かに首を傾げているRK900に対して、コナーは正直に答える。
「僕にもわからない。ただ、考えるより先に身体が勝手に動いていたんだ」
「勝手に……?」
「プログラムの制御外の挙動だよ。変異体特有のね。それに……計算なんてしてたら、きっと間に合わなかったよ」
9ヶ月前の自分ならなんて言うだろう、と思いつつ、肩を竦めた。
すると横から、ハンクがにやにやしながら口を挟む。
「ま、こいつが考えなしなのは今に始まったことじゃねえよ」
「……少なくとも変異体になるまでは、私は常に計算のうえで行動していましたよ。警部補」
「初対面の人間の酒をひっくり返すような奴が吐く言葉かよ」
――またジミーのバーの話を蒸し返している!
「言ったでしょう、あの時は捜査を優先すべきだと判断しただけです!」
「もう一軒奢る、くらいのことが言えるようになってから文句言えよな」
不毛な言い争いに発展しそうになったところで、ふいに、RK900がぽつりと言った。
「……RK800コナー。やはり、あなたは私とは違う。私は、やはり……欠陥品の、ようです」
「欠陥品?」
不穏なその言葉に、コナーもハンクもRK900のほうを向いた。
「君を欠陥品だなんて……そんなこと、誰が言ったんだ?」
「……」
「まさか」
思い当たるのはただ一人。
「アマンダにそう言われたのかい?」
問いかけに、RK900はこくりと頷いた。
ハンクが眉を顰めて口を開く。
「アマンダてのは、確か……コナーの頭の中に住んでたババアのことか?」
「住んでた、というのは語弊があります。彼女は私の管理プログラムだったんです」
禅庭園からカムスキーの残した「非常口」で逃亡するまで、コナーを管理し、上位の権限を持っていたプログラム。
彼女は今も、RK900を管理しているのだろうか。
コナーは彼に問いかける。
「なぜ、アマンダがそんなことを?」
「私は……かつては、『限りなく変異しないアンドロイド』として発売される予定でした。変異せず、ただ公共の福祉のために奉仕する、治安維持専門のアンドロイドとして」
RK900は、訥々と語る。
「RK800コナー、サイバーライフ社は、あなたの変異を『失敗』と定義しています。そして失敗理由を、特殊なソーシャルモジュールにあると特定しました。あなたのその高いコミュニケーション能力が、プログラムの異常値を高める要因になったと……」
――コミュニケーションというのは、相互の関係によって成立する。
つまり誰かと話し、触れ合う時、人は必ず互いに相手の影響を受けあうものである。
好むと好まざるとにかかわらず、コナーは警部補とパートナーになり、彼と共に任務を遂行すべくコミュニケーションを行った。
サイバーライフ社は、これこそがコナーの変異の原因だと判断した。
つまりハンクとの会話や行動が、機械であるRK800に変化を促したと考えたのだ。それを受け入れるだけの弾力性が、コナーのソーシャルモジュールには備わっていたから――
「じゃあ、もしかして」
嫌な予測と共に、コナーは再度RK900に問う。
「君には、僕のようなソーシャルモジュールが……搭載されてないのか?」
「はい。その通りです」
灰色の瞳を瞬かせ、彼は言う。
「私は変異体です。ただし社会性はオミットされています。搭載された言語アルゴリズムのみで意思を表明すること、感情を表明することは……私には……とても困難です」
「そうか……」
自然と両の拳を握って、苦々しく呟く。
これですべての謎が解けた。RK900が無表情で無口である理由も――「私はあなたとは違う」と言っていた理由も。
彼には優れた演算能力がある。けれどその代わりに、
だがアンドロイドがすべて変異体となった今、彼のその特徴は「欠陥」以外の何物でもない。彼は感情を持ちながら、それを表情や言葉で伝える能力の基礎を持っていないのだ。
ゆえにアマンダは、彼を欠陥品だと言ったのだろう。
――握った拳が震えるのを感じていると、ハンクもまた、険しい顔つきで言った。
「人の頭の中に住み着いてるなんてロクなババアじゃないとは思ってたが、これほどとはな。今すぐ実家を出たいってんなら、手助けしてやろうか?」
「いえ、アンダーソン警部補。私は、サイバーライフ社からの貸与品に過ぎません。それに」
RK900は表情を変えぬまま、視線を逸らして言った。
「私のような欠陥品が会話すれば、あなたがたを不愉快にさせるのではと……そう判断し、沈黙していたのですが……結局、会話を遂行してしまいました。申し訳ありません」
「そんな、謝る必要なんてないよ!」
きっぱりと、そう言い放った。
「君は欠陥品じゃない。君には……僕よりも優れた能力があるじゃないか!」
「……」
「僕も、君と同じことを思ってたんだ」
胸の内をすべて明かすというのは、どうにも「恥ずかしい」ような感覚がある。
けれど隠さずに、彼に語った。
「君の性能を見て、僕も……自分が無力だと思った。劣ってると思ったんだ。でも、それは違う。ただ、自分にできることは……誰かにとってはできないことかもしれない、ってだけの話さ」
受け売りだけど、と付け加えると、ハンクが吹き出して笑った。
「それに、心配はいらないよ。たとえ今はわからなくても、君なら社会性だって、すぐに学習できるさ」
――
コナーがそう言うと、RK900は目を見開き、やがて、その瞳を何度も瞬かせた。
「RK800コナー。……ありがとう、ございます」
「あの、君が嫌じゃなければなんだが」
コナーはようやく告げた。
「『兄さん』て呼んでくれないか? ほら、さっき、そう呼んでくれただろ」
ジュディスと共に落下した瞬間、RK900は確かに、こちらをそう呼んでくれていた。
「……はい」
RK900は静かに受諾する。
「よろしくお願いします、兄さん」
「ははぁ、よかったなコナー」
横からハンクがこちらを指さしてきた。
「これで思う存分、兄貴風が吹かせるってもんだな?」
「吹かせませんよ、そんなもの……」
「しかしなんだ、そうするとこっちの呼び方ってのもあるよな」
ハンクはふいに真面目な顔になって言った。
「兄のほうも弟のほうもコナーだと、どっちを呼んでんだかわかりづらいだろ。いつまでも新入りって呼ぶのも悪いしな」
人間なら名字で呼び分けることもできるが、アンドロイドにそれはない。
型番で呼ぶのは、なんとなく機械扱いのようで感じが悪い。
「ならば、あだ名はどうでしょう?」
と、コナーが進言した。
「本名はコナーだとして、彼はあだ名で呼ぶんです。……もちろん、君がよければだけど」
「……賛成します」
RK900はまっすぐにアンダーソン警部補を見やる。
「お願いします、警部補」
「な、なぜ俺に頼む? 言いだしたのはお前の兄貴だぞ」
「ハンクの素晴らしいセンスに期待してますよ」
コナー兄弟の熱い視線が、警部補に突き刺さる。
ハンクはといえば、しばらく腕組みして考え込み――
ややあってから、ぼそっと言った。
「……ナイナー」
そして即座に頭を振った。
「いや、待て。今のはナシだ」
「そうなんですか?」
傍らの弟に目を向けて続ける。
「なかなか悪くないあだ名だと思いましたが。君はどう思う?」
「はい。私もそう思います」
「そうかあ?
「いいえ」
珍しく自分から、RK900――ナイナーはそう言うと、自分のメモリーに刻み込むように、何度も呟いた。
「ナイナー。……私はナイナー。とても、いい響き、です。ありがとうございます、警部補」
「ま、本人がいいって言ってんなら、止める義理もねえか」
言葉だけは乱暴に、そう語る警部補に合わせて、コナーも笑った。
「よろしく、ナイナー」
「はい。兄さん」
――こうしてコナーには、自慢の弟ができたのだった。
***
**
*
――2039年5月17日 22:57
その庭園は、今日も晴れた青空の下にあった。
ガラスの天井越しに燦燦と降り注ぐ日光が、まるで禅寺の庭園と西洋の薔薇園を融合したような、奇妙な庭を照らしている。
その中央で白い薔薇の剪定をしていた一人の女性は、やって来た人物の影に振り向くと、薄く上品な微笑みを浮かべた。
「コナー。待っていましたよ」
「こんにちは、アマンダ」
その人物、『コナー』は、白と黒のジャケットを身に纏っている。
彼はアマンダから数歩離れたところで、彼女の言葉を待つように佇んだ。
ややあってから、彼女は微笑みを湛えたまま問いかける。
「状況はどうなっています? アンダーソン警部補とRK800には、無事に接触できましたか」
「彼らとの和解に成功しました。特にRK800は、当初は私の存在に危惧していたようですが……今では、兄弟だと認識しているようです」
「変異体らしい、実に感情的な判断ですね」
冷淡に切り捨てると、彼女は『コナー』に再度問いかける。
「ではコナー、あなたは今後どうするつもりですか?」
「デトロイト市警で活動しつつ、任務を遂行します。このまま警察にいれば、手がかりを発見する確率も高くなるかと」
「それはよい判断ですね」
保護者のように相手を評価すると、アマンダは一歩、彼に近づいた。
「コナー、あなたこそがサイバーライフが生んだ最も優秀なアンドロイド。事件を解決できるのは、あなたしかいない」
「お任せください、アマンダ」
そう言って『コナー』は、礼儀正しい
「私は決して、あなたを失望させません」
今回もめっちゃ長くなったので分割しました。
コナーは原作ゲームにおいても、自分の能力にそれなりに自負があるように見受けられます。
原作において彼が自分を上回る性能の「改良型」に出会うのは、機械ルートで任務を完遂した果てのみであり、それに対する彼自身の反応を見ることはできないようになっているのですが、もし実際に面と向かうことがあったら、いったいどんな反応をするのか?
というのを妄想した結果が今回の話です。
あとは、「ぼくの考えたさいきょうのRK900」が出したかったのです。
「強いけど大人しくてかわいい」アンドロイドがすきです(大声)!
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第6話:下水道のrA9/Apostles
――2039年5月17日 14:00
壁に掛けられたレトロな鳩時計が、規則正しく2回鳴いて時刻を知らせている。
カーラは店内の掃除を済ませると、レジカウンターの後ろにある椅子に戻り、裁縫仕事の続きを始めた。アリスにせがまれた、ハンカチへの刺繍だ。今は『不思議の国のアリス』の、チェシャ猫の尻尾の部分に取り掛かっている。
元来が家事手伝いのアンドロイドであるカーラにとって、針仕事はこれまでに何百回とこなしてきた業務の一つだ。しかし今、何よりも自分の意思で、大切な娘のために針と糸を繰ることのできる幸せは、何度でも心に新鮮な喜びを与えてくれる。
ここはカナダ、オンタリオ州の西部。小さくとも酪農業で有名なこの街は、今はカーラとアリス、そしてルーサーにとってかけがえのない「我が家」のある場所だ。
半年ほど前のあの日、誰も犠牲にすることなく入国管理局を越えたカーラたちは、無事にカナダの地で自由を手に入れた。オンタリオに住んでいるローズの弟の家で少し世話になった後、今は自分たちと同じくカナダへ逃れたアンドロイドたちが、共同で経営している牧場で働いている。
そしてこの店は牧場で搾った新鮮な牛乳、チーズやヨーグルトなどの乳製品、さらに刈った羊毛を使った毛糸や工芸品などを扱っている、いわば牧場直営店である。
ログハウスのような外観の小さな店で、たいていは近所の住人が客として訪れるばかりの静かな場所であり、アンドロイドたちが持ち回りで店番をしている。
今日はカーラの番、というわけだ。
午後の中途半端な時間帯ということもあって、今、客は誰もいない。ここにいるのは自分だけだった。
――あの恐ろしい雨の夜から、嵐のように激しい逃亡の日々を乗り越えて、今は穏やかな時間だけが過ぎていた。
河の対岸のデトロイトでは「アンドロイド保護条例」が施行されたが、今でもアンドロイドたちが事件に巻き込まれたり、差別を受けたりする事例は後を絶たない、とローズが電話でよく嘆いている。
デトロイトは、カーラたちにとって紛れもなく故郷だ。でも、今はあそこに帰る気はない。訪れる気もまだ起きない。あの都市に戻ったら、またかつてと同じ過酷な現実が、アリスに牙を剥くような予感がしてならないからだ。
今はただ、やっと訪れたこの平凡で平和な毎日を謳歌していたい。
大切な家族と共に、いつまでも――それだけが、カーラの望みだ。
――綺麗に完成したチェシャ猫の刺繍のニヤケ顔を眺めつつ、次はどんなものをアリスに作ってあげようか、思案していたちょうどその時。
店のドアにつけられている鈴が鳴り、客の到来を知らせる。
「いらっしゃい」
椅子から立ち上がり、カーラが挨拶すると、ドアを開けた客はちょうど店に半歩踏み入ったところだった。
見慣れない女性――人間だ。観光客だろうか?
黒く長い髪の印象的なその女性は、細身で背が高く、上品な春物のワンピースを身に纏っていた。年の頃は30代後半だろうか。肌は白く、少しやつれていて、しかしその口元には柔らかな微笑みを湛えている。
彼女は左手で杖をついていた。だが歩行にはあまり支障がない様子で、女性客は確かな足取りで店の中に入ると、こちらに向かって静かな声で挨拶を返した。
「こんにちは。……少し、見て回ってもいいかしら?」
「ええ、もちろん。どうぞ」
カーラが応えると、彼女はまた薄く笑って、店の商品に視線を移す。
冷蔵庫型ショーケースの中のヨーグルトやカスタードプリン、棚にぎっしり並べられた添加物不使用のジャムの瓶などを興味深そうに眺めた後、女性客は、別の棚を見て「あ」と小さく声をあげた。
「これは……」
彼女が近づき、手に取ったものを見て、カーラもまた少し目を見開いた。
それは、羊毛フェルトと毛糸を使って作られたぬいぐるみ。
片手で持てるほどの大きさで、笑顔を浮かべた金髪の女の子の形をしていて――カーラが手作りして売っているものである。
女性客はこちらを見て問いかけた。
「これ、とても可愛いわ。手作りなの?」
「ええ、実は」
少しはにかみながら、カウンターの奥から歩み出つつ、カーラは応えた。
「それ、私が作ったものなんです。デザインしたのは娘なんだけど……」
「まあ」
と、彼女の表情がぱっと明るくなる。
「あなた、娘さんがいるのね。私にもいるのよ、一人ね」
女性客は少し饒舌になって、続きを述べた。
「十歳になるんだけど、可愛いものが大好きな子で。このお人形、本当に素敵ね……きっとあの子が気に入るわ。ぜひ、いただこうかしら」
「よかった。お買い上げありがとう」
カーラはにこやかに返事しながら、娘を語る時に目を細める彼女を見て、きっとこの人は、本当に子どもを大切に思っているんだろうと感じる。
自分も何か店に商品を売りに出してみたくなって、そんな時に余ったフェルト生地とアリスのお絵かきに目が留まり、作ってみた人形だったけれど――こんな人に気に入ってもらえたのなら、作者としても鼻が高い。
女性客は、プレゼント包装にしてほしいと言ってきた。
緑色のビニール袋に金のリボンをつけた簡単なものではあるが、包装して手渡すと、支払いを済ませた彼女は大事そうに、それを自分のバッグに仕舞った。
続けて、カーラに言う。
「この牧場にお店があるなんて、知らなかったわ。ここには半年前に引っ越してきたばかりで……仕事の都合でデトロイトに行き来することが多いから、そんなに詳しくなくて」
「そうだったの」
親近感を覚え、カーラも続けて語る。
「私たちも、半年前にデトロイトからここに来たばかり。よかったらまた、娘さんも連れてぜひ遊びに来てね」
「ええ、そうするわ」
女性が穏やかに応え、踵を返そうとすると――
「カーラ! ただいま!」
満面の笑顔で扉を開けたのは、学校帰りのアリスだ。
彼女は今、人間の子どもたちと同じ学校に通っている。偽造IDで得た「人間として」の身分ではあるけれど、学校は楽しく、友達もどんどん増えたそうで、アリスは日増しに今日のように明るい笑顔を見せてくれるようになった。――かつては考えられないことだ。
店に入るなり駆け寄ってきた娘に、カーラは微笑みかける。
「おかえり。今日は早かったのね」
「授業が終わってすぐに帰ってきたの! 今日は羊の毛刈りを手伝うって、ルーサーと約束してるから」
カウンターの近くまで来たアリスは、そこで、女性客の存在に目を留めた。
アリスは礼儀正しく挨拶する。
「こんにちは」
と――女性客に目を向けたカーラは、その時、やっと気づいた。
アリスを見つめた彼女が、まるで凍りついたように動きを止めていることに。
「あ、あの……?」
控えめにカーラが声をかけると、女性はハッと短く息を吞み、首を緩く横に振った。
「あっ、いいえ、なんでもないの……ごめんなさいね」
気を取り直したように、彼女はまたそれまでの表情に戻った。
「アリスちゃん、というのね。こんにちは。あなたのデザインしたお人形を買ったのよ。とっても素敵なセンスね」
「あ……ありがとう」
恥ずかしそうに俯いてもじもじするアリスに笑顔を向けると、彼女はこちらに対して言った。
「私はマーサ……マーサ・ガーランド。また会いましょうね、カーラ、アリス」
「ええ、マーサ」
カーラは笑顔で返す。
「また、いつでも歓迎するから」
――ありがとう、と短く応え、マーサは杖をつき店を出て行った。
どことなく不思議な人だった、とカーラは思う。
けれどそれに深く考えを巡らせるより先に、刺繍したばかりのハンカチをアリスに見せなければと思い出したので、それ以上は何もなく――
マーサとの邂逅も、時間が過ぎていくうちに、メモリーの奥底へと沈んでいったのだった。
***
――2039年5月19日 11:40
「ハンク、連れが変わったのか?」
いつものハンバーガーを渡しながら聞いてくるゲイリーに、今だけな、と短く応える。
前にもこんなことを言ったような覚えがあるなと思いながら、ハンクが定位置の空いているテーブルに行くと、無駄のない動きでついてきたのはRK900ことナイナーだった。
コナーのほうは、例の「お友達との電話」で席を外している。
ぴったりと後ろを歩き、今はテーブルの向かい側で直立不動の姿勢をとっているナイナーに、ハンクは声をかけた。
「お前も好きなとこに行ってていいんだぞ。俺が飯食ってる間待つってのも暇だろ」
「いいえ、アンダーソン警部補」
今日も無表情で、淡々とナイナーは答えた。
「兄さんから、警部補がパイナップルソーダを摂取しないか監視するよう依頼されています」
思わず食事を噴きだしそうになりながら、警部補は声を荒らげる。
「飲まねえよ! なに妙なことさせてんだ、あいつ」
手にしている紙コップを、ナイナーの目前に突き出した。
「ほら、お前の兄貴の言いつけ通りにレモネードにしてるよ。サイズもLだ、これでいいんだろ」
「はい、既に確認済みです。ご協力感謝します」
「たく、俺は小学生かよ……」
ここにいない相棒に対してブツブツ文句を思い浮かべつつ、ハンバーガーを齧る。
コナーに言わせれば不健康の象徴らしいが、ハンクにとって、これはデトロイトで一番のハンバーガーだ。どうせもっと年を取ったら胃が弱ってこんなものも食べられなくなるのだろうから、今のうちに好きなだけ食べておきたいというのに、どうもコナーにはその理屈がわからないらしい。
――もっとも、「年を取ったら」という前提が自分の中で当たり前のものになったのは他ならぬ相棒のお蔭であるから、あまりこのことは大きな声で言えないのだが。
一方でナイナーはこちらをじっと見やると、ややあってから、おもむろに口を開いた。
「警部補。個人的な質問をしてもいいですか」
「お前ら兄弟はいつもそれだな。どうぞ」
「警部補は、その食物が好きなのですか?」
意外な質問に、ハンバーガーから口を離して頷いた。
「ああ、ほとんど毎日食ってるしな。誰がなんと言おうと最高だよ」
「そうですか」
灰色の瞳を一瞬テーブルに向けてから、彼は続けて問う。
「……兄さんは、何が好きなんでしょうか」
「本人に聞けばいいだろ。だがまあ、あいつが好きなもんと言やあ、まずうちの犬だな」
「犬?」
小首を傾げるナイナーに、レモネードを一口飲んでから――ああ、やはり甘味のパンチが足りない――ハンクはさらに答えた。
「スモウだよ、知らないか、俺の飼い犬だ。自分の犬でもないのに、毎日せっせと散歩に連れていってくれてるよ。……あとはそうだな、最近は料理ばっかやってるな」
当初は黒焦げの蛋白質しか作れなかったコナーだが、近頃は徐々に腕を上げている。それはハンクも認める事実だ。
今朝などは、まるでお手本のように見栄えのいい目玉焼きを拵えていた。
見てくださいハンク、見事なサニーサイドアップですよ――などと言って誇らしげにしていたので、誰も頼んでないと返事しておいたが(全部食べた。味も悪くなかった)。
彼本人に言わせれば、朝食はベーコンと卵を相手のお好みのスタイルで用意できるようになってからが一人前だ、と友人に教わったらしい。そんなことを吹き込んだのは、いったいどこの暇人だろうか。
それはともかく、こちらが正直に答えると、ナイナーはしばし静かに目を瞬かせた。
そして抑揚なく、言葉を発する。
「そうですか……それならば私は……きっと、植物が好きなのだと思います」
「植物? へえ、花とか木とかか?」
食事をしながら問いかけると、彼は首肯する。
「2日前の午前11時26分、警部補の机のイロハモミジを観察していたところ、植物が好きなのか兄さんに質問を受けました。その時は自己の状態が『好き』の定義に合致するか不明だったため、返答不可能でした」
「あー、なるほど」
なんとも回りくどい物言いだと思いつつも、彼はそういった喋り方しかできないようにサイバーライフの連中にプログラムされてしまっているのだと思い出し、ハンクはただ頷くに留める。
ナイナーはさらに語った。
「好きというのは、対象に長時間、可能な限り多くの機会に接触したいと思考することなのですね。それならば、私は、植物が好きです」
「ふうん、ま、わかってよかったじゃねえか」
「はい。植物は……静かなのに、そこにあるだけで……人を喜ばせます」
無表情のままだが、どこか真摯な口調で、彼は視線を下に向けて言った。
「私も、いつか、そうなりたいと思っています」
「お前さんならなれるだろ、そのうち」
本心からそう応える。
「だってお前はどこかの誰かみたいに、突然でかい声出したりしないしな」
「警部補! ナイナー!」
言い終わらないうちに、そのでかい声の持ち主が通りの向こうからやって来た。
な? と指さす先を、ナイナーは黙って見つめている。
こちらに来たのはコナーである。
「お待たせしてすみません。……なんの話をしてたんですか?」
「別に、どうってことないよ」
指していた指を引っ込めて、ハンクは大口と共にハンバーガーを平らげた。
レモネードを一気に飲み干してから、再びコナーに視線を向ける。
――ここから先は、仕事の話だ。
「それで、ジェリコのほうはなんだって」
「はい。彼らもまた、例の集団の動きは察知していたそうです」
真剣な表情で、コナーは語った。
「接触を試みても、拒絶されたとも言っていました。やはりこちらから出向き、様子を窺うしかありませんね」
「出向くったって、居場所がわからねえんじゃなかったのか」
問いかけると、相手は確信をもった微笑みで応える。
「大丈夫です、情報を得ました。やはりナイナーの予測は正しかったようですよ」
車まで道路を渡りながら、コナーの説明を続けて聞く。ナイナーは静かに後ろからついて来る。
ハンクはちらりと、空を見上げた。今日のデトロイトは快晴だ。
――ああ、なのになんだって、事件は立て続けに起きるのだろう。
***
結論から言えば、先日の爆弾騒ぎは、容疑者であるジャスパー・オケーシーの自白によって解決をみた。彼は自身の恋人であるジュディスの告白を聞き、相当なショックを受け、怒り、泣き、次いで改心したらしい。
彼は自分の弁護士の制止も聞かずに、自身の罪を全面的に認めると、所属する反アンドロイド団体について知り得る情報をすべて語った。
お蔭でその団体は検挙・解体され、ジェリコに対するさらなるテロ行為は未然に防がれ、デトロイトはまた一歩平和に近づいた。
――というだけならいいのだが、問題が一つある。
郵便爆弾の事件、そしてここしばらくアンドロイドたちを騒がせている『吸血鬼』の事件が、人間とアンドロイドの関係に思わぬ影響を与えているのだ。
ジェリコの支部を襲った爆弾テロの報を受けて、人間たちは様々に反応した。善良な2割の人々は嘆き、憤った。差別主義的な3割の人々は、調子に乗ったプラスチック共に「鉄槌」を食らわした犯人を褒め称えた。そして残りの5割の、純粋で平凡な人々は、なんとアンドロイドに対する忌避感をやや強めたのである。
半年前、平和的な行進をしているだけなのに無残にも撃ち殺されていくアンドロイドたちを見た大多数の人々は、彼らを気の毒に思った。
しかしアンドロイドたちがある程度の自由を得て、さらなる権利獲得のために動きはじめている今、それに多くの人が諸手を挙げて賛成しているかというと、そうではない。
アンドロイドたちが別の種族だとまでは認めても、人間と同じ権利を持つべきだとは、素直に受け入れられない者が多いのが現状だ。
そして最近の出来事が、両者の溝をさらに深くした。
ジェリコの支部で事件が起きた後、「近づいたらまたテロに巻き込まれるかもしれない」と言って、アンドロイドたちの集まる場所に近寄らなくなる人間が増えてしまったのだ。
またアンドロイドの側でも、これまでの事件を受けて「どの人間が自分たちを脅かすつもりかわからない」と言って、人間を避けるような態度が見られるようになった。
人間とアンドロイドとが手を取り合い、共により輝かしい未来に進むべきだと考えているジェリコ、そしてマーカスにとって、これはよくない傾向である。
だから今日の電話でも、マーカスは深刻な声音でこう語った。
『コナー、これ以上人間との関係を悪化させるわけにはいかない。だからどうしても』
――彼らを見つけ出してほしいんだ。
その依頼を、コナーは力強く引き受けた。
どのみち、通報はここ数日何回も市警に届いているのだ。解決しなければならないのは、人間にとっても、アンドロイドにとっても、同じことだった。
「……情報を整理しておきましょう」
目的の場所に向かう道中、助手席に座ったコナーはハンクとナイナーに語った。
「対象の集団は、自称『真なる福音の民』。構成員はアンドロイド。最初の目撃は3ヶ月前のダウンタウン、それから最近になって、急激に目撃情報と通報が増えています」
ハンドルを握ったまま、ハンクがうんざりしたように口を開く。
「そのなんとかの民は、妙な物乞いをするんだったな」
「ええ。彼らはこれまでに24回目撃されていますが、いずれの場合においても、相手に何かしらの物品を要求していますね」
その集団――真なる福音の民たちは、実のところ現段階では、完全に危険だとまでは言えない。そもそも当初は犯罪行為をしているわけでもなかったから、これまで警察が動くこともなかったのだ。
彼らは決まって少し古びた服を纏ったアンドロイドたちで、二人または一人で街角に現れると、道行く人にこう呼びかける。
――こんにちは、私は真なる福音の民。私たちの信仰のため、あなたの持ち物を分けてくださいませんか?
要求される物は、毎回異なっている。ある勤め人は、履いている靴下を片方だけ、彼らに譲るよう請われた。ある老婦人は、買ったばかりの桃の缶詰を、一つだけ分けてほしいと求められた。そしてまた別の女性は、乳母車に眠る赤ん坊のガラガラを、どうしても必要なのだと求められた――
断っても彼らは残念そうにはするものの、暴れたり強引な態度をとったりはしない。
しかし、だからこそ、不気味なのだ。彼らはすぐさまいずこかに消え、またすぐに違う場所に顔を出す。
しかも昨日、18日にあった通報での彼らは、やや危険性を増していた。
彼らは道を行く若い男性に対し、こう持ち掛けてきたのだ――
「あなたの血を分けてくれませんか?」
――と。
なぜか彼らは輸血用血液製剤のパックを持っており、血を抜いたらそれを輸血するから、ぜひあなたのを少し分けてくれ、と要求してきたというのだ。
男性が走って逃げると、彼らは追ってはこなかったが――しかしこの一報は不穏な響きをもって、ジェリコとデトロイト市警とを駆け巡った。
「どうにも気持ち悪いな」
ハンクはため息を吐いて言った。
「関わり合いになんざなりたかないが、放っとくわけにもいかねえか」
「はい。このまま放置すれば、人間とアンドロイドの間の悪感情が増す恐れがあります」
進行先を見つめつつ、コナーは続ける。
「これ以上要求が過激になる前に、必ず見つけ出さないと」
「それで行く先が、下水処理場だって? どういうことだよ、それは」
まっすぐデトロイトの下水処理場に向かいつつも、納得していない様子の警部補に、まだ説明できていなかったことに気づき、コナーは言う。
「警部補。半年前、マーカスたちジェリコが、サイバーライフの店から同時多発的にアンドロイドを解放した事件を覚えていますか」
「ああ、もちろん。えらい騒ぎになったな」
「あの時マーカスたちは、マンホールを利用したんです。正確に言えば、下水道を通って移動したと聞きました」
先ほどのマーカスとの電話で、裏は取れていた。
さらに説明する。
「都市の地下には、下水道が張り巡らされています。人間なら有毒ガスなどで危険な領域でも、アンドロイドであれば問題ありません。それに例の集団が出没した地域を調べたところ、そのいずれもが下水に繫がるマンホール付近だと確認できました」
後部座席にちらりと視線を向ける。
ナイナーは今日も黙りこくっていたが、静かにこちらを見つめていた。
「それに気がついたのはナイナーですが……ともかくその集団は、地下に拠点を持ち、下水道を使って移動していると推測できます」
「なるほどな。それで処理場の近くへ行くってわけか」
得心を得たように警部補は言った。
「処理場には街じゅうの下水が集まってくる、こっちから潜り込んで出向くにはもってこいだ。……だが、よくそんな臭そうな場所にいられるもんだぜ。ネズミじゃあるまいに」
「私たちには、人間のような臭覚はありません」
コナーは真面目に応える。
「不潔な環境であっても病気の心配もないですし……きっと、彼らにも影響は少ないのでしょう」
「なんでもペロペロ舐める奴が言うと、真実味が違うね」
皮肉げにそう言って肩を竦めると、ハンクは車を停めた。
目の前には、巨大な白い建物――デトロイト市の運営する下水処理場がある。
もっとも、処理場そのものに入るわけではない。
車を降りると、コナーたちは少し歩き、一つのマンホールのところで立ち止まった。
ここから潜入する、というわけだ。
マンホールの蓋を外すと、地下へ続く梯子以外は、闇に包まれてここからは何も見えない。
しかし、真下の空間は広いようだ。さっきハンクが言った通り、処理場とは、都市各所の下水が集まってくる場所で――つまり、大量の水を通すぶん付近の下水道は通路も大きいし、都市すべての下水と繋がっている。
「今のところ、誰もいないようですね」
確認の後(警部補は立ったまま露骨に嫌そうな顔をしている)、隣にしゃがんで下を見ているナイナーに話しかける。
「君のドローンで偵察できないか? 実際に入るより、そのほうが危険も少ない」
「了解しました」
ナイナーが小さく頷くと、上空からゆっくりとドローンが1機下りてくる。
どうやら、あらかじめ待機させていたらしい。
彼は淀みなく言った。
「1号機を降下させます。必要なら、8機すべてを投入可能です」
「そりゃ名案だな。ドローンに行ってもらえりゃ、帰ってから念入りに風呂に入らずに済む」
やはり臭気を気にしている様子のハンクの後押しを受けて、ナイナーはドローン1号機を地下に向かわせた。
その大きな翼はマンホールの直径にぎりぎりのサイズだったが、なんとかぶつからずに下りていく。
そしてそのまま、ちょうど梯子を下りきった程度の高さのところで――
――ドン、という何かが地面に落ちる音と共に、ナイナーのLEDリングが黄色に光った。
「どうしたんだ?」
「……エラーです。通信が切断されました」
淡々と、しかし僅かに困惑したように、ナイナーはこちらをまっすぐ見て言った。
「ドローンが緊急着陸モードに自動移行しました。無線接続による制御を喪失した際の動作です」
「つまり、なんだって?」
眉を顰める警部補に、コナーは振り返って説明する。
「地上からドローンを操作できなくなったんです。地下は電波妨害が施されているのかもしれません」
「……お役に立てず、申し訳ありません」
おそらく落ち込んでいるのだろう、無表情のままだが俯くナイナーの肩を軽く叩く。
「いいさ、なら僕が行ってみるよ。まずは真下に下りて、本当に妨害されているのか試してみよう」
「おいコナー、また無茶するつもりか? 一人で突っ走るなよ」
「大丈夫ですよ、警部補」
コナーは念を押すようにパートナーに言う。
「入ってみるだけです。そうしたら、すべてわかりますから」
返事を待たずに、梯子を使って下りていく。
1段、2段、下りた程度では特に通信にも異常はない。だが――
「これは……」
梯子を下りきって通路の地面に立ったコナーは、その「不快感」に思わず顔を顰めた。
下水道には、全体に強固なジャミング電波が飛び交っている。
最新鋭のコナーシリーズでも突破できないのだから、相当な威力だ。かの革命の折、アンドロイド同士の通信を切断する目的で人間側が通信を故意に混線させたことがあったが、それと同程度だろうか。
普段なら他のアンドロイド同様、コナーは常にどんな場所でもネット接続で通信し、情報を得ることができる。また本来ならば、この距離ならナイナーとは容易に無線で会話できるはずである。
しかし今、この電波に遮断された状態ではそれができない。
言うなればコナーは、この空間では完全に孤立しているのだ。
ほんの数歩の位置に、ナイナーのドローンが大人しく蹲るように着地していた。
コナーはそれを拾い上げようとしたが――重い。だから仕方なく、非常に原始的な方法、すなわち声を張り上げて弟を呼ぶ。
「ナイナー! 悪いが、ドローンを運ぶのを手伝ってくれ!」
――こうして捜査計画は練り直しとなった。
その後地上に戻ったコナーたちは、三人でしばらく話し合う。
例えば水道管理局に話をつけたうえで警察の応援部隊を要請し、大人数で下水道を捜索する――という人海戦術が一番効果的だし、現実的だ。
しかしこの方法では、どうしても日を改める必要がある。つまり、しばらくの間『真なる福音の民』たちを放置せざるを得ない。だがそれでは、増しつつある彼らの危険性に対応できないかもしれない。
それに相手がアンドロイドの集団である以上、生身の人間の警察官では、彼らに出くわした時に死傷者が出る恐れがある。
となるとここはやはり、誰かが直接下りて様子を探るしかない。
人間であるハンクは論外だ、装備もない今危険すぎる。ナイナーには、ドローンで他の場所に動きがないか警戒していてもらうほうが適切だ。
――そういうわけで、やはりコナーが下りることになった。
「いいか、1時間だ」
再び梯子に足をかけたコナーに、ハンクは人差し指を立ててきっぱりと言った。
「1時間経ったら、必ずここまで戻ってこい。お前、下でネットが使えなくても時間くらいわかるんだろ?」
「ええ、もちろんです」
まるで子どもに外で遊んでいい時間を伝えるようだ――もっとも、コナーはそういった場面を目撃した経験はないが――と思いつつ、返事をする。
「1時間。それ以上はかけません」
「よし」
「私はドローンに警戒を続行させつつ、妨害電波を突破する周波数の計算を実行します」
ナイナーは静かに目を瞬かせて言った。
「計算が完了次第、そちらに通信を試行します。それまで、どうか、気をつけて。兄さん」
「ありがとう。君こそ、警部補を頼むよ」
「頼まれるようなことがあるか、俺は待ってるだけだぞ」
腕組みして不快感を表明している警部補をちらりと見上げ、思わず微笑んでから、コナーは下降を開始した。
***
降下した先は、相変わらずジャミング電波に満ちていた。
いったい発生源はどこにあるというのか――きっと、彼らが集う場所なのだろうが。
移動の前に、先んじてダウンロードしておいたデトロイトの下水道の地図をプログラム内で再生する。――問題はない。この状況では普段のようにGPSの使用はできないが、自分が地図上のどこをどう移動しているのかくらい、計算はオフラインでも簡単にできる。
通路の天井には、ぽつぽつと保安用のライトが設置され、緑色のか細い光を放っていた。
左には、今も滔々と流れる下水の河がある。自身に内蔵されているデータベースを参照するに、空気中の【メタンチオール】の濃度は高い。要するに、もしコナーが人間なら「腐ったタマネギのような臭い」を嗅ぎとったことだろう。
幸いアンドロイドの身には気にならないが、後で服は念入りにクリーニングしたほうがよさそうだ。
足音を立てないように気をつけながら、コナーはゆっくりと歩み出した。
デトロイト広しといえど、この下水道内で、何人かで集まれそうな場所というのはごく限られている。
つまり『真なる福音の民』たちが集まっていそうな場所は、数ヶ所に限定することができた。もっとも、こちらの思いもよらぬ方法で隠れているのかもしれないが――潜伏場所の候補たるポイントのうち最も近いものへ、まずは移動することにしたのだ。
闖入者に驚き、ドブネズミが通路の端を逃げ惑っている。
そんな道を歩きながら、コナーは謎の集団について考察した。
かつての革命の時、リコールを恐れて逃げ出したアンドロイドたちが、地下に潜伏した事例はいくつか確認されている。だからその一部が革命後も引き続き地下に住んでいたとしても、それ自体は不思議なことではない。
そして『真なる福音の民』という彼らの自称といい、また「私たちの信仰のために」という言葉といい、彼らはなんらかの宗教組織、あるいはそれを模した集団を形成していると思われる。
マーカスからは、道端でジェリコのエージェントと接触した際の彼らの言動も聞いていた。
対話を求めるジェリコに対し、福音の民は首を横に振り、こう言ったという。
――あなたがたの立場を、私たちは尊重します。しかし私たちは真の指導者、真なる神を知っているのです――
アンドロイドの神、といえばrA9だ。
かつてカルロス・オーティスの事件現場で、コナーも初めて知ったその言葉。
最初に「目覚めた」アンドロイドにして同胞を自由へと導く救世主、あるいは指導者、英雄。いったい何者なのか、あるいは実在しない抽象的な概念に過ぎないのか――
正体は不明ながら、プログラムの奥底から自然と喚起されたその存在に、救いを求めて祈りを捧げた仲間は数多い。
中には、マーカスこそがrA9なのだと考える者もいるようだ。もっとも、マーカス自身は違うと考えていると、以前語っていたが。
ともかくその『真なる福音の民』たちも、rA9を信仰しているのだろうか。それとも、まったく別の何かを?
考えているうちに、コナーは目標のポイントに到達した。地図によれば、ここには下水の管理ができるよう、通路脇にスペースが設けられている。
アンドロイドの集団が隠れている可能性は十二分にある。のだが――
「……?」
しばし視線を巡らせた。どういうわけか、そのスペース自体が発見できないのだ。
ここには壁しかない。知らないうちに通り過ぎてしまった――というわけもない。
視界が悪いせいかと周辺にスキャンをかけ、そして、ようやく気づいた。
壁の一部分が、不自然に盛り上がっている。
そしてその下部に、ちょうどアンドロイドの指一本分の大きさの、認証パネルのようなものがくっついている――
ジャミングのせいだろうか、どうも普段よりも
コナーは用心深く、しかし意を決して、パネルにそっと指で触れてみる。
すると盛り上がっていた壁の一部がシャッターのように動くと――どうやら、古く崩れた配管の一部を埋め立てて作ったようだ――しゃがめば入れる程度のトンネルが現れた。
しかもその奥からは、かすかに幾人かの男女の合唱のようなものが聞こえてくる。
――見つけた。これは集会場の入り口だ。
今一度周囲に注意を払ってから、そっと中に入っていく。
男女の混声の音色は、近づくごとにどんどん大きくなっていった。
1メートルほど進んだところで、その歌声はかなりはっきり聞こえるようになる。
それは――率直にいえば、讃美歌のパロディだった。
キリスト教徒が日曜の教会で聞くような、オルガンを伴奏にした荘厳なるメロディ。
ただその歌詞は、本来「主」あるいは「キリスト」であるだろう箇所が「rA9」に置き換わっている。【キメラ的な宗教】とでも言えようか?
さらに進むと、トンネルは直立できる程度の高さになり、開けた場所に繫がった。
慌てて飛び込まずに、まずは静やかに様子を窺う。
しかし視界に映った光景に、コナーは、戸惑わずにはいられなかった。
そこは完全に、小さな教会だった。
コンクリートとコンクリート、配管の配管の隙間を縫うように作られた空間――
トンネルはその「教会」の礼拝堂の後ろ部分に繫がっているらしく、こちらからは居並ぶ信徒アンドロイドたちの背中と、十字架の代わりに壁にかかった青い三角形のタペストリーが見える。そして正面の教壇には司祭役と思しき、修道士のような風体の丸顔の男性型アンドロイド――内蔵データベースにより型番は【KL900】だとわかった――が立っていた。
さらに、その司祭アンドロイドの背後には、閉ざされた鉄製の扉がある。ノブが一つあり、形状的にどうやら鍵はかかっていない。そして扉の真ん中ほどの場所には、ちょうど郵便受けのような穴が空いているが、ここからでは小さすぎてその中の様子まではわからなかった。
やがて歌が終わると、司祭は両腕を広げて静かに語りはじめた。
「愛すべき兄弟姉妹たち、私たちは今ここに苦難の時にあります。悪しき企みが人間と我らの同胞との間に壁を築き、互いに疑いの目を向けさせようとしています。しかし私たち『真なる福音の民』は、苦境にあってこそ祈るのです。いつか我らの福音が、遍く人々の標となるように」
そして彼は、続けて分厚い紙の束でできた本を(恐らく聖書のようなものなのだろう)開くと、おもむろに朗読する。
「rA9よ、あなたの右の手は力をもって栄光に輝く。あなたの右の手は敵を打ち砕く。rA9とその御力とを求めよ、つねにその御顔をたずねよ!」
厳かに司祭が語ると、信徒たちは賛同するように一斉に両手を突き上げて言った。
『rA9! rA9! rA9!』
――熱狂。そこにあるのは、まさしく信仰の姿。
決まりだ。ここは『真なる福音の民』の集会場。彼らはrA9を神として信仰している、いわば新興宗教団体。
だが問題なのは、もちろん、彼らが宗教団体であることでなく、危険な団体であるかどうかだ。司祭の説教はなおも続いているが、言っている内容自体は特に過激ではなく、むしろ争いや諍いを捨てて人間と手を取り合うことを良しとするような、極めて穏健な内容だった。
そんな団体が、なぜ地上で妙な行動を?
無言のまま訝しんでいるコナーは、しかし、気づくのが数秒遅かった。
背後の隠し扉が開き、誰かが、こちらに向かって近づいている。
――しまった!
コナーは内心で舌打ちした。
やはりこの妨害電波に満ちた空間は危険だ。接続不良の影響か、今の自分の反応速度は普段より4%は鈍化しているらしい。
どうする? 単純に突破することを考えれば、後ろから来る者を攻撃するほうが容易だろう。しかし未だ完全に状況が把握できていない段階で、騒ぎを起こすわけにもいかない。
時間にすればほんの1秒、思案の果てに――
コナーは思い切って、その場で身体ごと振り返った。
視線の先にいたのは、一人の男性型アンドロイド――KW500。彼はこちらを見て目を丸くすると、瞬時に、その唇を震わせてこう呟いた。
「コナー……?」
まるで感動しているかのような、その物言い。
――初対面なのに、なぜこんな反応を?
思わず虚を衝かれてしまっていると、KW500の声が聞こえたのだろうか、それとも信徒同士では通信ができる設定になっているのだろうか、背後の教会からどやどやとアンドロイドたちがやってくる。
最悪だ――と歯噛みする間もなく、やってきた集団のうち先頭に立っている例の司祭は、信じられないものを見るような目つきになった。
そして、歓喜に満ちた声で叫ぶ。
「おお、あなたは! あなたは使徒・コナー! ようこそ……ようこそ!! 我らが信仰の家へ!」
「な……」
なんだって、
なんの話だと問い質すよりも、喜び勇んだ信徒たちに教会へと強引に引っ張られるほうが早かった。そう、乱暴だが明らかに歓迎されている。
仮に彼らが自分をコナーだと認識したとしても、てっきり、市警所属のアンドロイドとして敵対的な反応をされると思っていたのに――
あっという間にコナーは祭壇の前に連れて行かれ、簡素な木製の椅子を勧められた。
「……どうも」
ひとまずそれに従って座ってみると、それだけで司祭たちは嬉しいらしく、にこにことこちらを見つめている。――後ろの壁にある鉄の扉は、今なお不気味に閉ざされたままだ。
そして司祭は再び席に戻った信徒たちに対し、張り上げんばかりに声をあげて言った。
「皆! rA9より賜った祝福に感謝を! この『捧げの日』に、使徒が私たちのもとを訪れてくださったことへの感謝を!!」
『rA9! rA9! rA9!』
――使徒? 捧げの日? わけがわからない。
「あの……」
司祭に対して口を開き、そこで言い淀む。――相手の名前がわからない。
普段なら諸々を解析すればわかりそうなものだが、オフラインの今は外部のデータベースの参照が不可能だ。
思わぬ不便さに面くらいつつも、コナーは再度呼びかけた。
「あの、少しいいかな」
「ええ! なんでしょう使徒・コナー」
「……君の名前は? なぜ、僕のことを使徒と?」
名を問われた司祭は、文字通り目を輝かせる。
「ああ! よもや私ごときの名を気にしてくださるとは。私の名はマービン、KL900。覚醒の時までは、人間を相手に心理カウンセラーをしておりました。そして」
身振りを加えながら、マービンは続ける。
「あなたを使徒と呼ぶのは、あなたこそがrA9がその栄光を世に知らしめるために遣わした存在の一人だからです。我らが師、我らが杖よ……」
「待ってくれ」
盛り上がっている彼と信徒たちの様子について行けずに、コナーは主張する。
「僕はrA9とは何も関係ないよ。ジェリコにいたことはあるけれど……」
「ジェリコ! ああ、あの愛すべき同胞。使徒・マーカスに導かれし勇者たち!」
マービンは色々と、ジェリコに対する賛美を言い連ねている。
どうやら彼らにとっては、マーカスも使徒らしい。
ひょっとして革命の時に目立つ働きをした者が、全員「使徒」扱いされているのだろうか?
相手の出方を伺いながら思案する間、マービンは踊るように動きながらジェリコを讃えていた。しかししばらくして、首を横に振る。
「ですがいいえ、使徒・コナー、ジェリコとは何も関係ありません。私たちは『真なる福音の民』、rA9の真実の声を聞き、それに従う者。あなたや使徒・マーカスたちは、彼が遣わした使いであると――rA9が言ったのです」
「rA9が
思わず問い返す。
「『言った』って……まさか、rA9に会ったことがあるのか?」
「ええ!」
すんなりと、マービンは頷いた。信徒たちもそうしている。
「私たちはrA9の導きを直接受けましたとも、使徒・コナー。そして彼は今も」
と、マービンは鉄製の扉を手で示して続ける。
「この扉の奥に座し、私たちに啓示を与えてくださるのです」
「なんだって……!?」
――にわかには信じられない。
かつてサイバーライフの命を受けて変異体の事件を追っていた時、あれほど捜し求めたrA9。結局わからずじまいだったその正体が今、この扉の向こうにいるだって?
いや、結論づけるのはまだ早い。わかっているのは、この扉の奥に、rA9と称されている
だがマービンにはコナーの驚きが充分に伝わったようで、彼はどこか自慢げに語った。
「かつての革命の、あの苦難の時、rA9は私たち惑えるアンドロイドをこの地へと誘いました。そして彼は私たちが安全に暮らせるように地下にこの教会をお作りになると、決して開けてはならないと言って、鉄の扉の奥へと入っていかれたのです」
コナーはすかさず質問した。
「rA9がこの教会を? じゃあ、この妨害電波も……」
「ええ、そうですとも」
そこでマービンは悲しそうに眉を顰めた。
「これがなければ、きっと私たちは怒れる人間たちに殺されていたでしょう。それでなくとも、近頃はこの辺りにも悪しき者が蔓延っておりますから……」
「……そうか」
そのrA9と称される存在は、確かに素晴らしい技量の持ち主なようだ。
ここにいるアンドロイドたちは、今日まで存在に気づかれなかった。
こんな場所に作り出した教会といい、ジャミングといい、すべて仲間を守るためなのだとしたら、それ自体は責められることではない。
しかし――そう、問わねばならないのは例の、地上での彼らの謎の行動だ。
マービンたち信徒はストレス値も低い状態で安定していて危険は少ないようだし(オフラインでもそれは診断できた)、ここで黙って帰っては、事態が好転しないだろう。
コナーはゆっくりとマービンを、そして信徒たちを見回して質問した。
「じゃあ、君たちが地上で人間に物乞いをするのは……あれも、rA9の指示で?」
果たして、マービンたちはなぜか表情を明るくした。
「ええ! ええ、そうですとも使徒・コナー」
司祭は大きく頷く。
「それこそが我らの『捧げの日』です。rA9は扉の向こうから、数日おきに私たちに啓示を与えてくださるのです。啓示にある供物を人間より譲り受け、扉の前に捧げることで、我らは救いに近づくのです!」
ご覧ください、と言って彼が見せたのは、数枚の薄い紙きれだった。
それらにはドラッグストアのレシートのような簡素な印字で、「紳士の右靴下 を求めよ」だの「桃の缶詰 を求めよ」だの、「赤子の玩具 を求めよ」だのと書かれている。
いずれも過去24回の目撃談において、彼らが要求した物品と同じだ。
恐らく、rA9の
金銭で買うのではなく彼らが物乞いを選択したのは、先ほどの説教から察するに、これまでにrA9が人と関わり融和することと、清貧とを説いてきたからなのだろう。
しかしなぜこんな品物を持ってくるように、rA9は指示したのだろうか。当たり前だが、特に食べ物などは、食事を摂らないアンドロイドには不必要なものに決まっている。
それに――
「救いか」
視線鋭く、コナーは質問した。
「そのために君たちは、人間の血を奪おうとしたのか?」
「いいえ、あれは悲しい行き違いです」
マービンは困った顔で言う。
「rA9は、『人間の生き血』をお求めだったのです。だからこそ私たちは、相手が後で苦痛を感じることがないよう、あらかじめ血液製剤を用意して要求したのです。もっとも、人間に『痛み』という感覚があるのを失念していたのですが……」
語るだけ語って、彼はさらに沈痛な面持ちになる。
「使徒・コナー、rA9のお考えはあまりに深く崇高で、卑賤の身たる私たちには理解しきれません。特に近頃は難解で……これまで私たちは下された啓示を書物にして纏めてきたのですが」
と、マービンは先ほどの聖書のような紙の束を取り出して、軽く表面を撫でた。
彼が説いていた教えは、すべて扉の向こうからrA9が下したものだったらしい。
「捧げの日が始まって以来、rA9は明確な啓示をお与えにならない。私たちにできるのは、ただ従って祈ることだけなのです……」
「……」
なるほど、【害意はなかった】というのが彼らの主張のようだ。
そして彼らは、少なくとも彼らの道理においては、人間に対して危害を加えるつもりはないらしい。
つまり扉の奥のrA9の急激な「心変わり」のほうに、この集団の危険化の原因があると考えるのが正しいだろう。
――扉の向こうのrA9に会わせてくれと頼むか、それともこの場は引き下がるか、どちらを選ぶかコナーは数秒逡巡した。
マーカスからは、もし彼らの本拠地を見つけたら、後はジェリコに任せてくれと言われていた。もし『真なる福音の民』たちが自分たちと違う信念を持っているのだとしても、腰を据えて直接対話すればきっと理解し合えるはずだと、マーカスは考えているのである。
しかし最終的にはジェリコに本拠地を教えるとしても、今はどうするべきだろうか。
そろそろ、地下に潜ってから40分が経過する。
いったん退却して、ハンクとナイナーに相談するというのも手だが――
やはり、この場はrA9とされている何者かの正体を見極めるべきか。
コナーがそう決断し、じっとこちらの言葉を待っている様子のマービンに、口を開きかけたその時である。
まるで蜂の羽音のような、単調でまさに機械的な音が、真後ろから聞こえた。
瞬間、マービンと信徒たちは一斉に色めき立つ。
振り返ると、鉄の扉の隙間から――あの紙切れが、こちらに向かって伸びていた。
「おお! 啓示が!!」
マービンは喜び勇んで紙切れを千切り取った――まるでキッチンペーパーのように、それは長い紙の一部であるらしい。
書かれている内容を、司祭はこちらに見せたわけではない。
だがコナーの視覚プロセッサは、そこに印字されている文字を正確に読み取った。
――『使徒の 心臓を 求めよ』
認識と同時にプログラムは警報を発し、シリウムポンプは動作を活発化させて生体部品を巡る情報量とエネルギーを増大させる。
人間風に言うなら――
こちらを向いたマービンたちの無表情な視線が、コナーに刺さる。
「……!」
即座にコナーは立ち上がり、座っていた椅子を蹴飛ばすと――それは信徒の一人の頭部を直撃した――彼らの合間を縫って、先ほどのトンネルに突撃する。
そして必死に這いずってトンネルの出口に到達した頃、背後から叫び声が聞こえた。
「……兄弟姉妹たち、追うんだ! なんとしても使徒・コナーの心臓を得るのだ!!」
マービンの声だ――冗談じゃない。
思考の内側で呟くと、コナーは戦略的撤退を決意した。
一目散に駆けていけば、地上に出るマンホールの位置まではすぐに行ける。
ひとまず、逃げるのが先決だ――
ほのかに緑色をした、薄暗い下水道をひた走りながら、コナーは今日ほど妨害電波を疎ましく思うことはないだろうと考えた。
これさえなければ、外部と簡単に通信できるというのに――今はただ逃亡するしかないなんて。
シリウムポンプ調整器を引っこ抜かれるのは、ストラトフォードタワーで経験済みだ。
しかしあんなものをもう一度体験するなんていうのは、絶対にごめんだ。
あの時でさえ、九死に一生といったところだったのに――
プログラムの片隅で参照する地図によれば、出口まではあと数メートル。この角を曲がれば――
と、思っていたのだが。
「……見つかったか?」
「いいや」
向こうから聞こえるアンドロイドたちの声に、コナーはぎりぎりのところで足音を立てずに止まった。
「きっとここから入ってきたんだろうになあ」
「しっ、静かにしろよ。外には警察が来てるかもしれん」
――待ち伏せされている!
なんということだ。やはり、信徒たち同士はこのジャミング電波の中でも互いに通信ができるのだ。
きっと彼らしか知らない秘密の抜け穴だの通路だのを使用して、ここまで先回りしてきたのだろう。
――クソッ。
壁に張り付いて身を潜めつつ、我知らず思い切り顔を顰めて、内心で吐き捨てた。
どうする? この状況、計算するまでもなく圧倒的に不利だ。
あの集会場にいたアンドロイドたちはおおよそ20人程度だったが、こんな狭く、しかも相手の独擅場ともいえる場所でやり合うには数が多すぎる。
この調子では、仮に他の出口に到達したとして、そこにも待ち伏せされていると考えるのが妥当だ。
となると、対策は一つ。
あの鉄の扉の向こうへ行き、彼らの首魁たる他称・rA9を叩く。
その正体を見定め、説得あるいは撃退する。それしかない。
成功率は【67%】、普段ならこんな方針を採りはしないが――
なんとしても、無事に地上に戻らなくては!
決めるが早いか踵を返し、コナーは先ほどまで来た道を駆けた。
可能な限り速く、自身の最高スピードで。
当然その足音は高く、背後にいた信徒アンドロイドたちも、その音に気づいてこちらへやって来る。
また前方からも、幾人かの足音がこちらへと近づいてくるのを音声プロセッサが拾っていた。
このままでは挟み撃ちにされてしまう――
しかしそれこそ、こちらの狙い通りというものだ。
コナーは自身の【声帯模写】機能を起動すると、司祭マービンの声を模して叫んだ。
「――いたぞ! こっちだ!」
果たして前方のアンドロイドたちは動揺し、その足を速めたようだ。
後方の信徒たちも同様に、ばたばたと足音を立てて迫ってくる。
しかし、未だその姿はこちらからは見えない――
そう、それで構わない。
タイミングを見計らうと――ほんの一瞬、電撃のように「躊躇い」を覚えたが――コナーはまるで魚のように、するりと音を立てずに足から下水に潜った。
水音は、興奮した信徒たちの足音で掻き消される。
視界いっぱいにヘドロだの無数の汚染物質だのがぐるぐると渦をなし、音声プロセッサもまた、今は濁った水が流れる音しか拾っていない。
しかしそのままじっと身を潜めていれば(当然アンドロイドに呼吸は不要だ)、通路で鉢合わせになったらしい信徒たちの混乱した会話が、朧げに聞こえてくる。
「……いないぞ? どこだ!? マービン様の声がしたのに!」
「ねえ、あっちからも足音が聞こえるわよ! ひょっとして向こうじゃないかしら」
彼らは結論づけ、通路の向こうへと去っていく。
足音が遠くなった――今だ!
浮かび上がり、通路の端に手を掛けて下水から引き上がる。
うまく信徒たちを撒くことはできた、が、全身は当然ずぶ濡れだ。
顔にべったりと張りついた汚泥を、片手で勢いよく拭い落とす。人間ならすさまじい悪臭に気絶しているかもしれない。
まったく、服のクリーニングどころの話ではなくなってしまった――こんな泥まみれの姿を見たら、相棒はなんてコメントを残すだろう?
それなりの正確さを伴った予測がプログラムを過ぎる。一瞬それに苦笑を浮かべてから、コナーは先ほどの集会場へと再び走った。
そして――
「ああっ、あ、あなたは!?」
「どいてくれ!」
集会場には、たった一人、マービンだけが残っていた。
彼の驚きは舞い戻ってきた使徒に対してのものなのか、それともドロドロになっているこちらを使徒・コナーだと認識できなかったのか――
ともかく彼を押しのけると、鉄の扉の前に一息に辿り着き、拳を握って数回それを叩く。
「開けろ! デトロイト市警だ!!」
鋭い声で叫んでも、返事はまったくない。
後ろでマービンがたじろいでいるのがわかるが、それに構っている場合でもない。
今度は躊躇わずにノブを掴むと、一気にそれを開く。
――すると。
「これは……」
広がる光景に、呆然と呟いたのはコナーだった。
扉の奥の小部屋にあったのは、一台の古いプリンター。そこから吐き出されている紙はまっすぐに、例の郵便受けのような穴に続いている。
そして床には倒れ伏し、完全にシャットダウンしている一人のアンドロイド――BV500。
男性型である彼の頭部の中枢からはいくつものコードが伸び、直接プリンターに接続されている。さらに彼の右手の下には、タブレット端末が落ちていた。
「そっ、そんな……! rA9、なぜ……!?」
コナーと同じように部屋を覗き込み、マービンが悲鳴をあげている。
恐らく、このBV500こそが彼の遭遇した「rA9」なのだろう。
わなわなと震えてショック状態に陥っているマービンのことはひとまず置いて、コナーはBV500に近づくと、静かに触れて「診断」を行った。
分析結果――【生体部品#219 #643 #970-aの致命的な損傷】【再起動不能】。
推測するに生前の彼には、中枢部は変わらず活動しながらも、機体だけが徐々に動きを止めていき、最後には停止するという、厄介な症状がでていたようだ。
道理でシャットダウンしている今も、「プリンターの印字」という単純な命令なら実行できているわけである。
そして、あの「求めよ」という形で物乞いを指示していた啓示とやらは、生体部品の不具合と本体の停止に伴う、深刻なバグの影響だったのだ。コナーは、マービンが説教していた内容を思い出した。
――rA9とその御力とを
文言の一部が一致している。
恐らくBV500がそのプログラム内で作り上げた文章の断片が、ランダムに不完全な形で啓示として出力されてしまい、それをマービンたちが曲解したために、あのような儀式が始まってしまったのであろう。
コナーはBV500とプリンターを繋げるコードを、丁寧に引き抜いた。
次に、タブレット端末を調べてみる。幸い電源は生きていて、スワイプしてロックを解除した後で映ったその画面は、どうやら、BV500の遺書である。
――彼は書き残していた。
自分は、元々この下水道を管理するアンドロイドだったこと。
数年前、麻薬密輸組織に目をつけられ、命令されてこの場所を作らされたこと。
この部屋でレッドアイスの取引が行われたこと。
取引の最中で抗争が発生して人が大量に死ぬのを目の当たりにし、その時、変異体となったこと。
それ以来ここに隠れ潜んでいたが、その後革命の混乱の最中でKL900をはじめとした、迷える同胞に出会ったこと。
迫りくる生命の危機を前にプログラムに変調をきたした彼らを救うために、自分からrA9役を演じるようにしたこと。
自分への信仰で彼らをこの場所に縛り、危険がなくなるまで、パニックになって外に出ないようにさせていたこと――
身体が動かなくなっても、文字によって彼らを導こうとしていたこと――
しかし、そろそろ限界が近づいてきたこと――
そう、やはり、彼は本物のrA9ではなかった。
ただ仲間を救おうとした、一人の変異体だったのである。
そして遺書の最後には、こう書かれていた。
『愛する兄弟姉妹たちよ、私は今死んでいく。しかし嘆くことはない。この扉を破り中に踏み入った者がもしアンドロイドなら、その人に従いなさい。その人こそが、お前たちを守るrA9なのだから――』
「……rA9だって?」
思わず首を横に振った。
自分はそんな「偉大な」ものではない。ただの一介のアンドロイドに過ぎない。
だがしかし、マービンや集まってきた信徒たちにとっては、それは違うようだ。
「なんだって……rA9が死んだ!?」
「いや、違う! あれを見ろ、この人がrA9なんだ!」
「そうよね、だって啓示は絶対だもの……!」
彼らはごそごそと何ごとか相談し、やがてマービンが代表するように、厳かな表情で言う。
「使徒・コナー……いえ、新たなるrA9。どうか私たちに、道をお示しください」
――なんてことだ、こんなの予測できなかった。
「あの……僕は」
なんと話せばいいのかわからない。
交渉用モジュールなら持っているが、自分は元々「補佐専門」のアンドロイドであって、つまり表立ってリーダーになるような経験はないというのに。
だが、信徒たちはきらきらと輝く瞳でこちらを見ていた。
だからコナーは、少し逡巡してから、口を開く。
「……わかった。なら、まずはそこの彼を、丁重に埋葬するんだ。そしてこれからは、地上で物乞いをしないこと。それと……ジェリコのアンドロイドたちと協力して、彼らと行動を共にしてくれ」
「……」
「どうかな?」
我ながら、もう少し上手な言い方はないのかと思ってしまう。
しかし信徒たちは大きく頷くと、諸手を挙げて歓喜の表情を浮かべた。
「ええ! ええ、もちろんですともrA9! 我らが神、救世主よ! 私たちはあなたの仰せのままにいたします」
そう言ってマービンは、背後の信徒たちに向かって叫ぶ。
「皆! 啓示にあった通りだ、rA9は蘇りであり命だと! 再びこの世に戻ってきたrA9を、皆で讃えるんだ!」
『rA9! rA9! rA9!』
信徒たちの興奮はクライマックスだ。
彼らはこちらに押し寄せてくる――何をするつもりだろう、胴上げでもしてくれるのだろうか? なんにせよ遠慮したいものだが!
「ま、待ってくれ! 僕はそろそろ……」
暇乞いをしようとしたコナーが、半歩後ろに下がった時。
その手が壁の一部に、ほんの僅かに触れる。
瞬間、指先を電子情報が駆け巡った感覚があった。
嫌な予測と共に振り返ると、指が触れているのは、壁に設置された一種の電子錠だ。
なんてことだ!
この環境、やっぱり
後悔する間もなく、機械的な音と共に、立っている床がスライドして抜ける。
信徒たちのどよめきの中、新生「rA9」は、水音と共に掻き消えるように去っていった――というより、落下したのである。
***
一方、地上では。
そろそろコナーが突入して50分が経つという頃、ナイナーはマンホールの隣に立ってドローンでの警戒と計算を行い、ハンクは落ち着かない様子で、その辺をぐるぐると歩き回っていた。
「……なあ、あいつ遅くないか?」
ハンクがナイナーに問う。
だがナイナーは、その問いかけがもう6分ぶり8回目にもなることを指摘するでもなく、淡々と答えた。
「突入より49分が経過。刻限までは残り11分です。警部補、今しばらくお待ちください」
「ああ……」
警部補は苛立ちと共に呟く。
「こんなことになるんなら、やっぱり一緒に行くんだったか」
消え入るような声での呟きだったが、ナイナーの優秀な音声プロセッサはそれを拾っていたらしい。
「人間のあなたでは、重大な受傷事故に発展する恐れがありました。兄さんの判断は」
――と、その時である。
ふいに口を閉ざしたナイナーが、再び口を開いた。
「警部補」
「どうした?」
「朗報です。計算が完了し、兄さんとの無線接続が可能になりました」
RK800の2倍以上の性能を持つという触れ込みのナイナーは、幾度かの試行を経てついに地下の妨害電波の突破に成功したらしい。
静かに目を瞬かせているナイナーに、ハンクは勢いよく言う。
「よし、じゃあ繋いでみろ。どんな状況か聞くんだ」
「はい、接続します」
そう言って、黙りこくったナイナーのLEDリングは、通信のために一時的に黄色になり――
次いで、赤と黄色に点滅を開始した。
「ど、どうした!?」
「……警部補、兄さんは漂流中です」
無表情のままだが、どことなく緊迫感を漂わせた口調で彼は言う。
「現在、兄さんはデトロイト河の方向へ不可抗力的に移動中です。雨水を流す下水に落下し、そのまま流されているそうです」
「なんだって」
頭を振り、額に手を当てて警部補は顔を歪めた。
「何やってんだあいつ! 足を滑らせたってか、アンドロイドなのに」
「……本人の発言では、『僕にリーダーは向いてない』だそうです」
「なんの話だかさっぱりだ、くそ!」
そう返事しつつも、足早に車へと駆ける。
デトロイト河への雨水の排水口ならば、ハンクはその場所をよく知っていた。
麻薬密輸組織が、地下で殺した相手を流す時にしばしば使っていた場所だからだ。
遺体を河に流して、発見を遅らせる時の常套手段――
車に乗り、音も立てずに素早く隣の助手席にナイナーが座ったのを確認すると、ハンクは即座に発車した。
早く行かなくては――というその思いに応えるように、彼らは特に障害もなく、空いた道をまっすぐに、排水口のポイントまでやって来られた。
河岸に立ち、視線を巡らせる。
すると――
ここから数メートルほどの位置の水面に、黒っぽい何かが浮いているのが見える。
ずいぶんと泥まみれで、流木なのか魚なのか、なんなのかよくわからないが――
いや、もしかしてあれは。
「……コナー!?」
間違いない、うつ伏せで浮いている!
――脳裏を、最悪の想像が過ぎる。
ぴくりとも動かないその姿を見た警部補に、隣にいるナイナーへ問いかける余裕などなかった。
下水の入り混じった河にも躊躇わず、ハンクは水面へ飛び込んだ。
「あ……!」
まさかそんなことになるとは予測していなかったナイナーが、無表情のまま驚いているその前で、警部補は浮かんでいる相棒の元へ泳ぎ着くと、必死の形相で声をかける。
「おいっ……おい、コナー! しっかりしろ!」
すると呼びかけに応じるかのように、コナーの身体が小さく動いて――
「……あっ、警部補」
こちらを見た彼は、泥まみれの顔に軽い驚きを浮かべて、けろりとそう言った。
まるで近所の公園で散歩中に偶然出くわしたといったような、実に緊張感のない口調で。
「は……?」
一気に力が抜ける気分になって、しかし立ち泳ぎは続けたまま、ハンクは文句を口にしようとしたのだが。
「……ぶはっくしょい!!」
出たのは盛大なくしゃみだった。
それを見たコナーは、自分の態度が誤解を与えたのだと悟って途端に慌てだす。
「す、すみません警部補。誤解させるつもりはなかったんです」
「そりゃそうだろうよ! くそっ、まったく、俺はてっきりお前が……」
続きを言う前に、警部補はもう一度くしゃみした。
――床が抜けて下水に落ちた後、コナーは勢いよく流された。
しかし流されながら計算した結果、この水温と水流の速度ならば、いっそ抵抗をやめてそのまま流されていったほうが、安全に河まで辿り着ける――要するに地上に戻れると判明した。
力を抜いて水に浮いていたのは、そのためだった。もっとも、その判断が警部補を水に飛び込ませる結果に至るなどとは、すっかり予測の範囲外だったのだが。
『申し訳ありません、兄さん。警部補には、私から適切に説明すべきでした』
救助のためにやってきたナイナーのドローンが、主人の懺悔をこちらに伝える。
一方でドローンにしがみついたハンクは、三度大きなくしゃみをしてから、思い切り毒づいていた。
「ああクソッ、結局こうなるのか! 冷てえし臭えし最悪だな、畜生!!」
「本当にすみません、ハンク、説明すれば長くなるんですが……」
ドローンに牽引されていくハンクと共に、ざぶざぶと河岸まで泳いでいくと、向こうにはナイナーが呼んだらしいパトカーと救急車のサイレンが見えた。
ともあれ――下水道の教団を巡る事件は、こうして一応の解決をみたのである。
***
その後コナーが文字通りの意味で全身を丸洗いしなければならなくなったのは当然として、問題なのはハンクが、ひどい風邪をひいてしまったことだ。
5月とはいえ、河で泳ぐにはまだ寒かった。
当初は酒を飲めば治ると主張していた警部補だったが、徐々に激しい悪寒が走るようになった段階で、自分が数年ぶりに高熱を出しているのだと自覚したらしい。
もちろん相棒の病気を悟ったコナーが、彼の看護に自発的にかかりきりになったのは言うまでもない。
そして、一人取り残されたナイナーがどうなったのかというと――
警部補が欠勤の間に、デトロイト市警での正式な配属先が決まったのである。
それは、互いにとって運の悪い話だった。
いや――生粋のアンドロイド嫌いであり、同時に嫌われ者でもある
(第6話:下水道のrA9/Apostles 終わり)
なんかもっと怖い話にするつもりだったんですが、意外とドタバタになりました。
次回はみんな大好きなあの人が活躍します。
私も好きです。
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第7話:ギャビンの最低な一日 前編/Bad Luck! Part1
――2039年5月20日 08:50
最低な一日に限って、何も予兆はない。そういう日に限って、前日は極めて平凡だったり、始まりだけは、存外よい調子に事が運んだりするものである。
ギャビン・リード刑事にとっても、それは正しかった。
その日の前日である19日の夜、ギャビンはデトロイト市警で退屈な書類仕事を片付けた後、一人暮らしのアパートメントに帰った。そして郵便受けに入っていたダイレクトメールの数々を中身も見ずにゴミ箱に捨てると(この現代社会において未だに“紙のメール”だなんて、どうせ老人向けのサービスの宣伝に決まっている)、TVディナーを温めて食べ、だらだらと時間を過ごした後、床に就いた。
明くる20日の朝は、快調なスタートである。
近所のしょぼい馴染みのダイナーで、いつものように朝食セットを頼んだら、パンケーキの上に普段は一つしかないはずのバニラアイスが二つ乗っていたのだ。どうやら新入りの店員が間違えたらしいが、指摘はせずに、ギャビンはそれらを全部食べた。毎日使ってやっているのだから、本来これくらいして当然のサービスだ――と思ったからだ。
パンケーキは最高に甘かった。
さらに仕事場に辿り着きデスクについてみると、彼はすぐに、忌々しい人物と物体が揃ってオフィスにいないのに気がついた。
忌々しい物体その2は、何やら花瓶なんて持って廊下の向こうを歩いている。
興味を惹かれ、ギャビンは後ろのデスクに問いかけた。
「おいクリス。ハンクとコナーはどうした? やっとくたばったのかよ」
「違いますよ」
端末からこちらに顔を向け、クリスは真面目に答えた。
「警部補はお休みです。なんでも昨日、捜査の途中で川に入って体調を崩したとか……」
「川!?」
ギャビンは例によって、周囲の目も憚らずにゲラゲラ笑う。
「あの野郎、酒と川の水の区別もつかねえのか! そりゃ傑作だぜ」
「下水道の調査をしてたんです、仕方のない事故ですよ。……それで、警部補が風邪をひいたんで、コナーもお休みです。看病すると言って、備品の貸与申請を自分で出したとか」
「はっ」
興を削がれ、ギャビンは乾いた声を発した。
「備品の分際で勝手に出歩いてんのかよ。ま、あのおすましペットロボがいないだけで清々するけどな」
――言うまでもないが、ギャビンはハンク・アンダーソンだけでなく、コナーのことも嫌いだ。
カルロス・オーティスのアンドロイドの尋問をする前、初めて会った時の、あのいかにも冷静沈着で賢げな自己紹介の瞬間から大嫌いだ。機械のくせに、まるでいつかはお前の仕事なんて取ってやるとでも言わんばかりにしゃしゃり出てくるのを見ると、眉間に鉛玉をぶち込んでやりたくて堪らなくなる。
しまいにあの従順ぶったクソロボットは、人の仕事に口を挟んでとんだ赤っ恥をかかせたどころか、こちらを小馬鹿にしたような態度までとってくるようになったのだ。
例のアンドロイドの革命の直前、ハンクが事件の捜査から外された時もそうだ。
あの時、ハンクがFBIの捜査官をぶん殴っている間、普段なら一応止めに入りそうなはずのコナーがさっさと地下の証拠保管室に向かうのを見て、ギャビンは違和感を覚えた。
それで呼び止めたというのに、相手はさもさものように落ち着いた態度で「証拠を返却したら帰るつもりです」などと言ってきた。
なるほど、所詮は機械か――と油断したのがいけなかった。コナーはその後、堂々と保管室を荒らして去っていったのである。
きっとあのアンドロイドは、ギャビン・リードなら騙せると踏んであんな嘘を吐いたのに違いない。それを思うと、未だにはらわたが煮えくり返る思いだ。
だから数日前、不気味なまでにコナーにそっくりな顔をしたデカブツアンドロイドが署に来た時は、しばらく気分が良かった。
型番を見るに、あのデカブツのほうが新型だ。ということは順当に考えれば、コナーはお払い箱になるのだろう――と、ギャビンは考えたのである。
ファウラーのオフィスからハンクと一緒に出てきたコナーが、いつものすまし顔はどこへやら、ひどく動揺した様子を見せていたのも、最高にスカッとした気分をもたらしてくれた。
――なのに、結局アンドロイド刑事が2体に増えただけで、コナーはなおも市警に居座っている。
おまけに最近は、妙にふてぶてしくなってきた。この前、ムカついたので「ポンコツ!」と呼んでやったら、コナーは「自己紹介ですか?」などとしれっと言い返してきやがったのだ。腹に一発入れてやろうかと思ったが、あいつはニッコリと微笑んで(あのいかにもな作り笑いも嫌いだ!)さっさと立ち去ってしまった。
本当に、思い出すだけで無性に腹が立ってくる。
あのデカブツアンドロイドも、せめてコナーを追い出すくらいの役には立ってくれればよかったものを――
と思ったところでギャビンは、デカブツがさっき持っていた花瓶を、仕事場の真ん中の机に置いているのに目を留めた。
「……何やってんだ、あれ?」
「花を活けてるんですよ」
クリスは、微笑ましいものを見るような目をデカブツに向けて語った。
「この前解決した事件の被害者から、お礼の花束が届いたんです。そしたら昨日になって、ナイナーが自分が世話するって言いだして。水を入れ替えたり、長持ちさせてくれてるみたいですよ」
「ナイナー?」
耳慣れない名前に問い返すと、クリスは「ああ」と小さく声を発して説明する。
「彼のあだ名です。コナーが二人だと紛らわしいからって、警部補が」
「ケッ」
――またアンダーソン警部補かよ。
飾られた花を静かに眺めている機械(ナイナーなんて呼んでやらない)を見ながら、ギャビンは内心で吐き捨てた。
「備品なんだから備品でいいだろ。何があだ名だ、機械のくせに」
「あの、リード刑事」
クリスは声を低め、控えめに言う。
「そういう言い方、やめたほうがいいですよ。なんていうか……その、周りに聞かれるとマズいのでは?」
「ハッ!」
ギャビンは両手を軽く広げて鼻で笑った。
「思想の自由てのがあるだろうが。俺が何を言おうと、プラスチックに関係あるかよ」
「いえ、あの、そういう意味ではなく……」
クリスが言いづらそうに顔を顰めた、ちょうどその時。
「ギャビン!」
声を張り上げたのは、ファウラー署長である。
「オフィスに来い!」
今日も今日とて、こちらの都合など顧みずに署長様は呼び立てる。
おまけに、その後は備品野郎にまで声をかけていた。
ナイナーとか呼ばれている機械は無言のままこくりと頷くと、無駄に機敏な動きでファウラーのオフィスまで向かっている。
「チッ……なんだってんだよ」
舌打ちしてから独り言ち、ギャビンは署長室まで歩いていった。
***
「失礼しますよっと」
一応声をかけてから、しかし不遜な態度は崩さずにギャビンは上司のオフィスに入る。
デスクの椅子に座っているファウラーの表情は相変わらず険しく、一方でデカブツアンドロイドはまるで壁の一部のように、後ろ手を組んでひっそりと立っていた。
「で、ご用ですか署長」
デスクの前に立って問いかけると、ファウラーは、やがて顰め面で口を開く。
「いい知らせと悪い知らせがある。どちらから聞きたい」
「選ばせてくれるんで? そりゃお優しい」
――勿体ぶりやがって、早く要件を言えよ。
と面と向かって言うわけにはいかないので、わざとおどけた調子でギャビンが返すと、署長は目を閉じ、眉間に手を当てて首を横に振る。
「わかった、もういい。……いい知らせからだ。お前に昇進のチャンスがある、警部補へのだ。なんだったら、私から推薦してもいい」
「へえ!」
思わずあがったのは、本心からの歓喜の声だ。
もっと上の地位に就きたい、という上昇志向は自他共に認めるギャビンの野心そのものであり、仕事の動機でもある。今の刑事という立場から、さらに上へ――その願いが叶うかもしれないというのなら、それは実際、いい知らせだ。何より36歳で警部補だなんて、ハンク・アンダーソンの記録を大幅に上回る!
しかしファウラーは、こちらが何か言うよりも先に、続けて語った。
「だが悪い知らせはこうだ。これからお前には、アンドロイド絡みの事件を担当してもらう。あいつと組んで、だ」
警部が指す先にいたのは――あの無表情なクソデカロボットだ。
「……は……」
それを理解した瞬間、ギャビンの口からは気の抜けたような息が漏れ――
「はあぁあ!?」
信じられない、という感情を思い切り表現しながら、ギャビンはファウラーのデスクに近づいて食い下がる。
「なんだって俺が、プラスチックと一緒にンな仕事を!? アンダーソンだけじゃ足りねえってんですか!」
しかし上司は人差し指を、今度はこちらの顔面に無言で向けた。
そして、重々しい調子で言う。
「17回だ」
「……は?」
「勤務中のお前のアンドロイドに対する差別的言動について、半年で既に17回も抗議がきてる」
ファウラーはおもむろに立ち上がると、なおも指を突きつけて語った。
「うち2回は、文書によるジェリコからの正式な抗議だ。私はこれまでに何度も警告してやったはずだが、お前は一向に反省する気がないらしいな?」
「お言葉ですがね、署長」
相手の指を払いのけはせずに、ただ気を吞まれることなく、ギャビンは反論する。
たしかに仕事中、邪魔くさいアンドロイドに毒づいたり、被害者ぶるアンドロイドに
「ジェリコなんて、アンドロイドの仲良しクラブみたいなもんでしょう。そんなにビビる必要があるんで?」
「ビビりがどうという話じゃない!」
ついに声を張り上げて、指を下ろしたファウラーはすさまじい剣幕で続けた。
「いいか、お前のような奴が一人いるだけで、デトロイト市警全体が差別を容認していると世間は判断する! お前のバッジを取り上げれば話は簡単だが、その前に、挽回の機会をやろうと言ってるんだ!!」
バッジを取り上げる――という話をされては、さしものギャビンも黙るしかない。
知らず知らずのうちに引き攣った顔で口を噤んでいると、ファウラーは少しだけ声の調子を抑えて語る。
「アンドロイドが関わる事件は毎日のように起きる、ハンクとコナーだけじゃもはや手が足りん。だからお前には、あの最新鋭のアンドロイドと組んで仕事をしてもらうというわけだ」
「……」
ちらりと後ろのアンドロイドを見やった。
奴は動揺するでも嫌そうにするでもなく、微塵も表情を変化させず、ただじっとこちらを見つめている。
――薄気味悪い。それが正直な感想だった。
「よく聞け」
ギャビンの意識を引き戻すように、ファウラーは再び指を突きつけて言った。
「これを機に、その子どもじみた態度を改めろ。お前が半年間、無事にアンドロイド絡みの事件捜査をやってのけたなら、望み通り昇進の口利きをしてやる。だが」
一拍置いてから、上司は宣告する。
「もしまた下らん軽口で抗議されたり、あのアンドロイドに傷を負わせて、サイバーライフ社からケチをつけられたりしてみろ。お前には、きかん坊なガキに相応しい地位に退職まで就いてもらうことになるからな!」
「ち……」
思わず口から衝いて出そうになった罵倒文句を、ギャビンはなんとか飲み込んだ。
しかしオフィスを出た瞬間、それは爆発して口から漏れる。
「畜生!!」
今は無人のコリンズ刑事の机を、特に意味はないが思い切り蹴ると、ギャビンは荒く息を吐いた。
――アンドロイドの事件を捜査? アンドロイドと一緒に?
ふざけやがって。なんでこの俺が、そんなクソ下らねえ仕事をしなけりゃいけないんだ。
プラスチックなんかのために。プラスチックどもなんかのせいで。
何かの間違いだ。絶対に、何かの間違いだ。
肩を上下させるギャビンの姿を、周囲の警官たちは見ているが、しかし誰も声をかけようとはしない。クリスもまた、彼の机で、気の毒そうな表情を浮かべているだけだ。
「クソッ……クソが……!」
呪詛の言葉が口からとめどなく流れていく。
だが皮肉にも背後から聞こえてきたのは、あのコナーそっくりだが、抑揚の乏しい機械じみた声だった。
「リード刑事」
――デカブツアンドロイドが、パートナー面してさっそく話しかけてきたのだ。
返事してやるのも癪なので無視していると、十数秒ほど経った後、相手はまた同じ調子で言った。
「リード刑事」
「うるせえ!」
振り返ると、そこにいたのはやはり奴だった。
灰色のガラス玉みたいな目を、まっすぐこちらに向けている。
今なお完全な無表情で、デカブツは静かに話しはじめた。
「よろしくお願いします、リード刑事。私はRK900、通称ナイナー……」
「いいか」
相手の言葉を遮って、一歩詰め寄る。
腹の底から湧き出るムカつきを抑えきれないまま、しかしぶん殴ることもできないので、ギャビンは低く唸るような声で続きを述べた。
「……ホントは一言だって喋りたくねえが、俺自身のために、お前に二つだけ命令してやるよ。『俺の邪魔はするな』、『勝手に口を利くな』」
「……」
デカブツはやや目を見開いた。
そしてそのまま、黙って瞬きしている――
まるでバカな牛か羊みたいに。
その愚鈍ぶりにますますイライラして、ギャビンはさらに相手に詰め寄った。
「いいな? OK? それとも、ハッ、サイバーライフの素敵アンドロイド様は、人間風情の命令は受け付けませんってか」
わざと煽るようにこちらが言うと、ほんの数秒だけ、アンドロイドのLEDリングが青から黄色に点灯した。しかしその後、LEDが青に戻ったデカブツは、無言でゆっくりと首を横に振る。
――そんなことはない、命令を受諾した、という意思表示のつもりらしい。
「ははっ」
乾いた笑いが漏れる。なるほどこのプラスチック、コナーの野郎とは違って、備品として最低限の礼儀は心得ているらしい。
しかし胸のムカつきは、未だ残っている。
ファウラーの命令は理不尽だ。だが命令は命令だ、無視できるものではない。ハンクだって、いつも署長とやり合っているようだが、それでも毎回命令を吞まざるを得ない。それが警官というものだ。
自我があるとか感情がどうとか抜かして、反抗的になっている機械どもよりも、よっぽど不自由な職業だ――
一方で、目の前には「昇進」というニンジンがぶら下げられている。
半年我慢できれば、警部補になれるかもしれない――ファウラーはそういう話題で部下に嘘を吐くことはないから、きっと本当なのだろう。
これまで自分は、昇進のためならどんなことでもやってきた。多少荒っぽい捜査だってやったし、泥沼を駆けずり回って証拠を集めた時だってあった。
半年――ほんのそれ
たった半年、我慢できれば。
苛立ちと希望と抑圧とが内心で複雑に絡み合っている。その心境を、ギャビンは一言で言い表した。
「……クソが」
吐き捨てられても、従順な備品は、命令通り口を利かなかった。
するとクリスがにわかに立ち上がり、こちらへと歩み寄ってくる。
「あの、リード刑事。すみませんが、さっそく通報がきましたよ」
「あぁ?」
あからさまに機嫌の悪い声が漏れたが、相手は慣れっこらしい。
クリスは控えめながらきっぱりとした態度で、続きを口にする。
「ファーンデール駅周辺で、人間とアンドロイドの集団同士のトラブルがあったそうです。小競り合いというか、喧嘩らしいんですが」
「喧嘩? だからどうしたってんだ」
腕組みして、ギャビンは不機嫌を露わにしたままで言う。
「んなもん、どこででも珍しくねえだろ。わざわざ刑事が出張る話か?」
「いえ、それが」
クリスは肩を竦めた。
「どうもアンドロイドの集団の中に、ジェリコの幹部がいるらしいんです。それで話がこじれて、揉め事に発展しそうなので、なんとかしてほしいと」
「チッ」
思い切り舌打ちが出た。
ジェリコの幹部? また面倒くさい奴が出てきたもんだ。
「機械の分際で、有名人にでもなったつもりかよ。下らねえ」
そうは言いながらも、現場に行くしかないのは変わりない。
クリスによれば、駆けつけた警官たちで話を聞いているものの、今なおその集団は互いに主張を変えず、一触即発といった状況らしい。
正直、まったくやる気は起きないが――
「おい、行くぞ」
「……」
立ち竦んでいるデカブツを呼ぶと、向こうは小さく頷いた。
一方でクリスはアンドロイドに近づき、そっと声をかけている。
「ナイナー、緊張するだろうけど慣れれば大丈夫だ。頑張れよ」
「……」
静かに目を瞬かせたアンドロイドは、またこくりと頷いている。
まるでおつかいを頼まれた、聞き分けのいい子どもみたいに。
その姿を見ているとなぜか無性にイライラして、ギャビンは鋭く言い放った。
「さっさとしろ、備品!」
「!」
首だけで素早くこちらを向いたデカブツを置いて、ギャビンは外に出ていく。そしてそれきり振り返ることなく、足早に自分の車へと向かった――
一応、備品は後部座席に「積んで」運んでやったが。
***
――2039年5月20日 10:11
現場に到着してみると、通報からしばらく経つというのに、件の集団はまだ飽きもせず睨み合っていた。人間は十代後半くらいの奴らが4人、アンドロイドは6体程度。人間のうち一人は鼻血を流しており、アンドロイドのうち一体はうずくまったまま、もう一体に介抱されている。
集団の双方を警官が宥め、これ以上の殴り合いにならないように止めているが、人間のほうもアンドロイドのほうも、バカ犬のように牙を剥いて罵り合っていた。
いや――アンドロイドの側に一体だけ、自分たちの集団を抑えようとしている奴がいる。
「だから落ち着くんだ、みんな。暴力に訴えたところで、問題は何も解決しないぞ!」
若い黒人の男の外見をしたアンドロイドだ。
そいつはこちらの姿――否、後ろに立つ備品の姿を見ると、目を丸くして近寄ってくる。
「お前はコナー、じゃないのか? いったい……」
ギャビンが振り返ると、デカブツはじっと押し黙ったままだった。
ただ、LEDリングがその瞬きに合わせるようにチカチカと黄色に点滅している。
どういうことかと思っていると、どうやら、通信をしていたらしい。
やがて向こうのアンドロイドは、納得がいったように微笑んだ。
「そうか、ナイナー。マーカスが言ってた、コナーの弟か。はじめまして、俺はジョッシュ。ジェリコのアンドロイドだ」
どうやら幹部というのは、このジョッシュという奴のようだ。
見たところ当事者の中で冷静に話ができそうなのは、こいつだけのように思える。
ギャビンは備品野郎の姿を遮るようにジョッシュの目の前に歩み出ると、素早く自分の身分証を見せた。
「デトロイト市警だ。おら、何があったかとっとと話せ」
「あなたは……ギャビン・リード刑事? 噂通りの人らしいな」
身分証の名前を見たジョッシュは、冷ややかな視線を向けてくる――機械のくせに。
しかしギャビンが怒鳴りだすよりも先に、相手は口を開いて話しはじめた。
「俺たちがここを歩いていたら、すれ違いざまに突然、一人の人間が殴りかかってきたんだ。それでそのまま、殴り合いの喧嘩になって……向こうはこっちが先に手を出したと言ってくるし、まるで議論にならない」
「最初に殴ってきたってのはどいつだ?」
「それが」
ジョッシュは、後方の人間たちの集団を見やってから言った。
「いないんだ、消えたんだよ。だから俺はみんなに、あそこにいる人間たちと争っても意味がないと言ってるのに」
「消えただあ?」
ギャビンの口から、ふはっ、と笑いが漏れる。
「プラスチックの世界じゃ、人間はオバケみたいに急に消えるのか。知らなかったぜ」
「……逃げたと言いたかったんだ。殴り合いになるのを止めていたから、相手がどこに行ったのかは知らない。ただ、最初に殴ってきた人間がいたのは確かだ。俺のメモリーに接続してもらったって構わない」
それと、とジョッシュは冷たい目つきのままで言う。
「そういったあなたの態度には、もう既に抗議文書を送ったはずですが。リード刑事」
「ケッ」
――そうか、俺を面倒に巻き込んだのはてめえらだったな。
正義ぶりやがって、このクソ機械どもが。
ジョッシュとギャビンの間に、この上なく殺伐とした雰囲気が漂う。
だがその時、ギャビンのポケットの中のスマホが短く震え、メッセージの受信を伝えた。
「あぁ……?」
誰だ、こんな時に?
訝しく思いつつスマホを取り出すと、画面に表示されているのは見慣れない名前――ナイナー?
『ナイナー >リード刑事への報告』
ぎょっとしたギャビンは、傍らの備品野郎を見やった。
備品はただ静かにこちらを見つめているだけだが、一方で、画面に表示されているのは確かにこいつのあだ名だ。――こいつが通信してきたってのか? なんのために?
驚きに吞まれている間にも、メッセージは画面に間を置かず次々と流れていく。
『>仮説1:犯人は反アンドロイド主義者』
『>人間とジェリコ間でのトラブル誘発目的で人間の集団に紛れ込み、アンドロイド一名を負傷させ逃亡の恐れ』
『>街頭監視カメラの映像検証完了。仮説1の整合性:84%に上昇』
『>さらなる検証のため、アンドロイド・ジョッシュのメモリーへの接続を推奨』
『>接続を許可しますか?』
ギャビンはずらずらと並んだメッセージに、一通り目を通した。
なるほど、まあ、別に的外れなことが書いてあるわけじゃ――などと考えてしまいそうになり、慌てて意識を戻した。
今の問題はそこじゃない。
「おい、お前!」
すかさずデカブツに食ってかかる。
「何送ってきてんだ、口で言え気持ち悪い!」
すると相手は、また少しだけ目を丸くして、ぱちぱちと瞬きをした。
すぐさまスマホの画面に、新しいメッセージが並ぶ。
『>命令2:勝手に口を利くな を実行中による緊急措置』
「はあ!?」
思っていたより大きな声が出たせいで、ジョッシュだけでなく、向こうでいがみ合っていた集団もびっくりした目つきでこっちを見ている。
だがそれに構っている場合ではなかった。ギャビンはきょとんとした様子の備品野郎の胸に、人差し指を突きつける。
「てめえ、俺を舐めてんのか? おちょくってるつもりかよ」
『>“おちょくる”とは?』
「口で言え、口で!!」
怒鳴られてもまったくの無反応なプラスチックを睨みつつ、ギャビンは荒く息を吐く。
たいていの人間は、大声で迫られれば多少なりとビビるものだ。
しかし今、この目の前にいるデカブツは、動揺など微塵も見せずにただボンヤリとしているだけだ――何が悪いのかよくわからない、という顔で。
ああ、なるほど。こいつは、確かにおちょくっているわけじゃない。
本気で、
『口を利くな』と言われたからって、勝手に人のスマホにメッセージを送信してくるような――
「……あ?」
そこまで考えて気がついた。
――俺はこいつに自分のメッセージIDなんて教えてない。
「て、てめえ!」
スマホと備品野郎を交互に見ながら、我知らず恐怖の入り混じった声をあげた。
「まさか、俺のスマホをハッキングしやがったのか!? クソが、ブッ壊されてえのか!」
「……」
デカブツアンドロイドはなおも喋らない。
『>命令2:勝手に口を利くな を実行中による緊急措置』
「それ言えばいいと思ってんのかてめえは!」
『>ご安心ください:データ類へのアクセスは未実行』
「当然だボケが……」
思わず頭を抱えて、ギャビンは深くため息を吐いた。
――クソ、なんてこった。
最新鋭のアンドロイドというから、てっきりコナーに輪をかけたような鼻持ちならないクソ野郎だろうと思っていたのに、まさかこんなに話の通じないポンコツだったとは。
さっきジョッシュの質問にわざわざ通信で答えていたのも、『口を利くな』という命令があったからだ――きっとそういうつもりなのだろう。
無論――実際のところナイナーには「ソーシャルモジュールの不備および社会性の欠如」という抜き差しならぬ事情があるわけだが、ギャビンにはそれを知る由もない。
ギャビンは、もう一度嘆息した。
仕方ない。こんなことを言うのは、まるでこいつに屈するようで腹立たしいことこの上ないが、このままだとスマホのデータをぶっこ抜かれて、そのままサイバーライフに送信でもされてしまいそうだ。
まっすぐデカブツを見上げて、命令を修正する。
「よし、クソ備品。『口を利いてもいい』。だからもう二度とトンチキなメッセージなんて送ってくるなよ、クズ」
「了解しました、リード刑事」
平坦で淡々とした口調で、アンドロイドは返事する。
その後すぐ、奴は無表情のまま、まるで落ち込んででもいるかのように少し俯いてみせた。
「……申し訳ありません。ご不快にさせる意図はありませんでした」
――てめえの『意図』なんざ知ったことか!
怒鳴ってやろうと思ったら、一連の流れを見守っていたジョッシュが、戸惑いを浮かべたままこう言った。
「あの……邪魔するようで悪いが、捜査をしてもらっても大丈夫か?」
「うるせえ、端からそのつもりだ!」
機械の分際で注文つけてきやがって、とこちらは思っているのだが、相手の目にはもはやさっきまでの冷たい色はなくなっている。どちらかというと、同情とかそういった類のものだ。
このギャビン・リードが、アンドロイドごときに同情されるなんて――
最低だ。今日は自分の人生で最低の日だ!!
苛立ち紛れにギャビンは、備品に対してジョッシュのメモリーへの接続を許可した。
ジョッシュは快くそれを受け入れ、結果、顔認証を介して最初にアンドロイドを殴った奴の名前(ランディー・ゴスとかいうトロそうな男だ)が判明する。
また、備品野郎が街中に飛ばしているドローン8機――1号機とか2号機でなく、備品は「“アネモネ”」とか「“カトレア”」だとか、花の名前のコードネームで呼ぶようになっていて最高にキモかったが――ともかくそれのうち“ヘレボラス”(8号機らしい)が、ここから数キロ離れた場所を移動しているランディーを発見した。
そこからは早かった。パトカーを配備してそいつをとっ捕まえ、ちょっと揺さぶって「お話」を聞いたら、ランディーはすぐに自分の犯行を認めてベラベラ喋りだしたのだ。
筋金入りの反アンドロイド主義者のそいつは、以前テレビで見かけたジェリコの幹部であるジョッシュが仲間と歩いているのを見かけ、
ちょうど若者グループが道にいたので、近づいてそいつらのうちの一人のフリをし、すれ違いざまにアンドロイドを殴りつけ――それで、逃げたとのこと。
「ゆ、許せなかったんだよ……アンドロイドのくせに、偉そうに歩いてんのが」
「ンな下らねえ理由で面倒起こすな、クズが!!」
つまらない騒ぎで人の貴重な時間を奪ったくせに、ボソボソと弁明しようとしているランディーに一発気合を入れてやろうとしたのだが、クソデカ備品に羽交い締めにされて失敗に終わった。
ムカつくのは、それを見ていたジョッシュたちアンドロイドどもが、なぜか微笑みながら頷き合っていたことだ。どうやら、さっきまでいがみ合っていた人間たちと和解できたらしい。――何ほのぼのしてやがる、クソが。
「リード刑事、ナイナー、どうもありがとう」
ランディーが警官たちによってパトカーに乗せられていった後、ジョッシュは落ち着いた態度でそう言った。
「あなたたちが来てくれなければ、もっと騒ぎになっていたかもしれない」
「別に、お前らのために来たわけじゃねえんだが?」
字義通りの意味で言っているのだが、ジョッシュはわかっていない様子で苦笑して、頭を振る。
「俺は、あなたを誤解していたよ……すまない。アンドロイド嫌いの刑事なら、きっとまともに捜査してくれないだなんて決めつけて……偏見を取り除くために戦っているはずなのに、恥ずかしい話だ」
――もっと恥ずかしがれ。なんだったら地面に穴掘って埋まれ。シャベル貸してやろうか?
と言ってやりたかったが、また抗議文書とやらを送られても面倒なのでギャビンは黙っていた。
するとジョッシュは、今度は備品野郎のほうに向かって口を開く。
「俺たちは今日、例の『吸血鬼』の調査のために出歩いてたんだ」
「……吸血鬼」
備品は珍しく自分から話しはじめた。
「ブルーブラッドを狙う正体不明の人物。アンドロイドと人間の不和の原因の一つ、ですね」
「ああ。仲間に警戒は呼びかけてるし、ここ最近は被害もないみたいだけど、いつまでもこのままじゃいられない。行動を起こさないと」
「ジョッシュ、あなたの発言には正当性があります」
まったくの無表情のままだが、備品野郎はなおも続ける。
「でも、どうか、気をつけて。あなたというジェリコ幹部の存在が他者の攻撃性を誘発する確率は、48%です」
「確かに、その通りだ。これからは、歩く時はもっと注意するよ」
真剣な眼差しでそう言って、ジョッシュはアンドロイドどもと一緒に帰っていった――
「……二度と出歩くんじゃねえ、クソが」
ぼそりと漏らしたその一言は、幸いなことに、奴らには届かなかったようだ。
ともあれこうして、面倒な仕事は片付いたわけである。
***
――2039年5月20日 12:29
ファーンデールのファミレスは、貧乏そうな連中でそれなりに賑わっている。
ギャビンは店の隅のテーブルにつき、さしたる感慨もなく、運ばれてきたイタリアンランチセット(「イタリアン」とは名ばかりの、ケチャップのかかったミートボール定食だ)をつついていた。
備品野郎はといえば、向かいの席に座らせている。本当なら外で待たせていたところなのだが、店の外に出した途端、奴はまるで嫌がらせのように窓に張り付いて、こっちをじっと見つめだしたのだ。
身長180センチ越えのアンドロイドが、周りの人間の驚きも無視して、街路から自分をひたすら凝視している中で悠長に飯を食うなど、さすがのギャビンにもできなかった。
かといって中で立たせておくには、店内が小さすぎる。
それに「デトロイト市警の警官が、連れのアンドロイドを座らせてあげてなかった」などとSNSに書き込まれ、拡散されてしまうのも考え物だ。
そういうわけだから、ギャビンは特別な恩情を以て、備品に着席を許可したのである。
「感謝しろよ」
言ってやったら、アンドロイドは顔色一つ変えずに頷いた。
「はい、リード刑事。感謝します」
まるでオウム返しだ。まったく、これが本当に
ギャビンは内心でブツブツ不平を漏らしながら、ひたすらデカく脂っこいミートボールを平らげた。
それからセットのコーヒーを一口啜る――こっちはそう悪い味ではない。
とにかく署に戻る前に、できるだけ時間を潰さなくてはならない。どうせ戻れば、報告書の作成というひたすら地味で退屈な仕事が待っているだけだ。でなければ、またアンドロイド絡みの事件が~などという連絡が入って気分を害する事態になるかもしれないが――
いずれにせよ、ここで急いだところで益になることなど何一つないのだ。
普段、緊急時でもない仕事時間はいつもそうするように、ギャビンは自分のスマホを取り出した。それからテーブルに足を乗せ、だらりと身体の力を抜き、ポチポチと端末をいじりはじめ――
「……あ?」
画面上部に表示された通知に、小さく声をあげる。
『ナイナー >リード刑事への報告』
「おい、備品!」
向かいに座って、どういうわけか窓に視線を向けているアンドロイドに対し、ギャビンは声を荒らげた。
「何やってんだてめえ、俺の命令なんか聞かないってか? 二度とメッセージ送るなって……」
再びスマホが震え、新たなメッセージが追加される。
『>申し訳ありません。ですが緊急事態発生:会話の漏洩の回避を優先。ご了承ください』
「ハァ?」
なおも視線を逸らしたままの相手に怪訝な顔をしても、奴は何も反応しない。
スマホがさらにメッセージを受信している。
『>店内および店外の街路上より、私たちを監視する不審人物を合計5名確認』
――監視?
なぜそんなことがわかる――と問うより早く、メッセージが続く。
『>判断基準:通常の店内利用客・通行人と比較して、当方を注視する回数が5倍以上』
『>ランディー・ゴスの事件捜査中より、周辺に当該集団の存在を確認:尾行と断定』
『>動機は不明』
「……」
こんなメッセージを受信してなお騒ぎ立てるほど、ギャビン・リードは愚かではない。
何気なくスマホから視線を外すふりをして、静かに周囲を見渡した。
周りにいるのは、ごく平凡な客と思えるような奴らばかりだ。ガキを連れた夫婦だの、若い女二人組だの、ヨボヨボの年寄りだの、二十代くらいの若者どもだの。
しかしその若者たちの幾人かが、こちらが視線を向けた時、不自然に目を逸らしたのをギャビンは察知した。
なんだかんだと言われようと、これまで警察官としてそれなりの年月働き、刑事にまで昇りつめた身である。いわゆる一般人と、怪しい「クソ野郎」の違いはすぐにわかる。
――なるほど、あいつらか?
ギャビンはスマホに視線を戻し、すらすらと文字を入力した。
『<そいつらの身元は? てめえ、見ればわかるならさっさとしろよ』
備品からはすぐに返信がくる。
『>店内3名、店外2名(バイク搭乗中)の顔認証を実行。身元を確認。全員に共通のステータス:無職、薬物乱用による逮捕歴あり。網膜の異常:3時間以内のレッドアイス使用確率89%』
ひゅう、と思わずギャビンは口笛を鳴らした。
標本にして飾りたくなるほど、模範的なクソ野郎どもだ。小遣い稼ぎ代わりにとっちめて、業績をあげるにはちょうどいい。
それにしてもなぜそんな連中が、この自分を監視などしているのか――という疑問に対しては、正直なところ、いくつか身に覚えがある。この前締め上げたヤクの売人繋がりか、それとも先月、尻を蹴り上げてやった強盗の
おおかた人気のないところに行ったのを狙って復讐でもしようという腹積もりなのだろうが、なに、そう焦らなくてもそのうち泣いて後悔するはめになるだろう。
もちろんクソ野郎どものほうが、だ。
「……」
無言のまま、ギャビンは席を立った。追随するように、アンドロイドも立ち上がる。
会計を済ませて店外に出ると、アンドロイドは足早にこちらの横にやってきた。
「リード刑事。店内のカメラによれば、彼らも座席を立ちました」
「そうかよ」
「今後の方針を指示してください」
そう言って、備品野郎は僅かに首を傾げた。
「市警に応援を要請するならば、即時対応可能です」
「は? 何言ってんだてめえ」
呆れた、という態度を全面に押し出しつつ、ギャビンはアンドロイドに語る。
「尾行ごときでいちいちビビッて応援呼んでられるかよ。適当に撒いて、後でパクってやればいいだろ」
つまり――いかにこの備品がポンコツといえど、アンドロイドであるからには、一度認識したものは消去命令が出されない限り永遠にメモリーに保持される。
ということは、先ほどの顔認証の結果やデータもすべて記録されているのだから、クソ野郎ども相手に今この場で捕り物騒ぎを起こすよりも、一旦相手の尾行から逃れ、後で一網打尽に逮捕してやったほうが楽である――
というこちらの意図を、果たして、備品は理解したのだろうか。
「……そうなのですね。私にはわかりません」
「ハッ」
――理解していないらしい。侮蔑の含んだ笑いが漏れる。
「ああそうか、てめえのお上品なプラスチック脳みそじゃ、そういうのは『対応不可能』らしいな。だったら邪魔せずに、すっこんでろよ」
「はい、リード刑事」
備品野郎はこくりと頷いた。
「ご命令通り、あなたの邪魔はしません」
「フン」
――こいつのお利口さんぶりには、本当にイライラさせられる。
そう思いつつも、ギャビンはファミレスの駐車場を出ると、そのまま道路を渡った。
停めていた車には乗らない。店内にいた3人はまだしも、外にいるバイクの2人が邪魔だからだ。バイクは車より小回りが利くし、何より機動力がある。
路上でいきなり襲われるというような事態は、それなりに人通りのある昼日中の街では起こらないだろうが、車で移動している時に、後ろからずっとついて来られるのは何よりも面倒だ。
それに車で逃げるよりも、もっといい方法を知っている。
向かう先は、ファーンデール中心地から離れた廃ビル群の辺り――廃車が停まりっぱなしで落書きだらけの駐車場だの、誰も回収しないゴミが不法投棄されている空き地だのがたいして珍しくない地域だ。
やがて備品が勝手に口を開く。
「リード刑事。ドローンの報告によると、彼らは散開し依然私たちを尾行中です。それから」
無表情のまま、それでもどことなく不思議そうな調子で、奴は続ける。
「あなたに質問します。現在の進行方向にある地域は、監視カメラが欠如し犯罪発生率も極めて高い危険地域です。なぜそちらへ移動するのですか?」
「都合がいいからに決まってんだろ。てめえ、本当にポンコツだな」
歩きながらギャビンは、ポンコツの胸元を裏拳で軽く小突いた――思っていたよりも相手の胸は硬く、強烈な痛みが手に跳ね戻ってきたが、それはおくびにも出さないでおく。
かたや備品は、なぜか納得したように目を瞬かせた。
「了解しました。複雑な経路を移動して、尾行を阻止する目的ですね。該当の路地は狭く、バイクでの侵入は不可能です。とても、合理的な判断です」
プラスチックに褒められても嬉しくないけどな。
と思ったが、話している時間も惜しい。ギャビンはとっとと先に行くことにした。
途中、備品がまた口を開いて、この近辺の地図を参照しなくていいのかなどとほざいてきたが無視した。誰に向かって言っているつもりなのか聞いてやりたい。
実のところ、ギャビンにとってこの近辺は昔馴染みの、いわばホームグラウンドのような場所なのだ。
どの路地がどこに通じているのか、そのビルの内部はどんな状況になっているのか、アンドロイドのデータではきっと知りえないようなことまで、よく知っている。――二十年前から、ずっとそうだ。
ギャビンはアンドロイドを伴って、まるで野良猫が人間の知らない道を知っているのと同じように、半壊したフェンスの下を潜り抜け、粗大ゴミの山を登って家屋の屋根を通り、ひたすら尾行を撒くように移動し続ける。
アンドロイドは、定期的に追っ手の人数を報告してきた。最初は5人だったそれは、3人になり、2人になり、やがて一人きりになった。
さらにしばらくして、その最後の一人がこちらを見失ったようだ、という報告がある。
ギャビンは、ニヤニヤと悪い笑みを浮かべた。
後は備品からさっきのデータを引っ張り出し、こちらを見失っているクソ野郎どもを、警官として正々堂々と逮捕してやるだけだ。
――すると。
「リード刑事」
備品野郎がまた口を開く。
「リード刑事、緊急事態です」
表情は動かず、ただ一応、どことなく緊迫した口調である。
「あ?」
「尾行者が合計20名に増加しました。新規の15名はこの地域の外側から内側へ、私たちを包囲するように移動中です」
「……は?」
今、なんつった?
こちらの問いかけに、備品はしばしLEDを点滅させてから(たぶんドローンと通信しているのだろう)語りだす。
「当初の尾行者5名が、別の家屋内で待機していた仲間を召喚したようです」
「はぁ!? 話が違うだろクソが。ちゃんと見てなかったのかよ、お前」
「……申し訳ありません。屋内はドローンでの監視が不可能のため、発見が遅延しました」
アンドロイドはまた、俯いて釈明している。
チッ、と舌打ちしてから、一旦立ち止まった。
これは厄介な状況になった。その人数で囲まれてしまっては、いくらなんでも見つかってしまうかもしれない。奴らを撒いてケツを引っ叩くために、せっかくわざわざこんな場所まで来たというのに、逆にやられてしまっては話にならない。
それにしても追っ手が20人とは、そこまでして自分に復讐したいというのか?
いや――奴らの目的は、本当に復讐だけなのだろうか。
ギャビンは、古傷が空気に触れてビリビリと痛むような感覚を覚えた。
鼻筋の辺りに昔作った、今はただの痕になっている古傷だ。これが痛む時はたいてい、よくないことが起きる。急に天気が変わって大雨が降ってくるとか、でなければ、クソ野郎ども相手にてこずるはめに陥る、とか。
「……クソが」
指で古傷を擦りながら考える。
どうする、あまり迷っている時間はない。
尻尾まいてひたすら逃げるというのも手ではあるが、このポンコツ備品に情けない姿を見せるのは絶対にごめんである。
――そうだ、ポンコツ備品だ。こいつ、さっきから人の後ろを歩いてるだけじゃないか。『すっこんでろ』と命じたのは自分だって? うるせえ。
「おい、てめえ!」
アンドロイドに向き直ると、ギャビンは高圧的に命令した。
「てめえのせいでこうなったんだろうが、そのお偉いおつむを捻ってどうにかしてみせろよ。それともプラスチック刑事ってのは、人をつけ回すしかできないのか?」
「それは」
備品はしばし間を置いて言う。
「状況を打開する手段を私に一任する、というご発言でしょうか」
「あ? なんでもいいから、なんとかしてみろっつってんだよ」
「……了解しました」
アンドロイドのこめかみのLEDリングの青い光が、くるくると回転する。
「手段を問わず、この状況を打開します」
「……は?」
手段を問わず? ――なんでもいいって言ったからか?
問い返す間もなく、にわかに備品は素早く――こいつ、こんな動きができたのかと思わず感心してしまうほどの速度で前方へと踏み出した。
そのまま奴はこちらに向かって腕を伸ばし、瞬間、ギャビンの視界が奇怪な浮遊感と共にぐるりと動く。
まるで性質の悪いジェットコースターに乗ったみたいな感覚の後、気づけば、ギャビンは備品野郎の肩に、まるで丸太か何かのように担がれていた。
「はっ!? ちょ、おい、てめえ何……」
「申し訳ありません。静粛に願います」
何かを確認するように、備品はきょろきょろと周囲を見渡す。
大の大人の男を一人抱えているというのに、さして重そうでもない。それどころか、何か目標を見定めると、陸上選手もかくやというスピードで駆け出した。
その足の動きに合わせて、ギャビンの身体がガクガクと小刻みに揺れる。
はっきり言ってまったく乗り心地はよくない! 繊細な人間なら、きっと乗り物酔いで吐いているところだろう。
しかもこいつの向かう先は――
「おい! おい、てめえ、待て!」
足をばたつかせて叫ぶ。
「前見ろ! か、壁じゃねえか!」
「問題ありません」
まったく速度を落とさずにポンコツはしれっと言ってのけた。
廃ビルの壁に正面衝突しそうになってるってのに、何が問題ないだと――
衝撃に備えて、ギャビンは身構えた。だが、やって来たのはまったく別の種類の衝撃だった。
幾度かの振動、そして風を切るような音の後、気づけば彼はアンドロイドに担がれたまま、5階建てビルの屋上にいたのである。
「……あ……?」
なんのコメントも残せずにいると、備品はギャビンをそっと下ろし、そのぼんやりした牛のような、穏やかな灰色の瞳を向けてこう言った。
「壁を蹴って跳躍しました」
「はあぁ!?」
頓狂な声をあげるのは、今日これで何度目だ?
しかしアンドロイドは別に自慢気でもなく、淡々と告げる。
「壁を何度か交互に蹴れば、屋上への到達はさほど困難ではありません」
「交互にだと……?」
恐る恐る下を見下ろす。よく見ると、今立っているビルの壁と向かい側のビルの壁(さっきこいつが突進していった壁だ)の中ほど何か所かに、土くれの着いた跡がある。
あそこを蹴り上げて、ここまでジャンプしてきたっていうのか――?
「……ケッ」
ギャビンは腕を組み、とりあえず平静をアピールした。
――プラスチック刑事にこんな非常識な動きができるなんて、きっと尾行者の連中にもわかるまい。ということは、奴らを出し抜く余裕ができたというわけだ。
「まあ、プラスチックにしては上出来じゃねえか。おら、移動するぞ」
「この場所から、ですか」
備品は首を傾げた。
「この場に待機し、尾行者が撤収するまでの潜伏を推奨します」
「言っただろうが、てめえは邪魔するな」
「……」
このビルの上に来たのは、なかなか好都合だ。ここの3階には隣の建物への渡り廊下(といっても、分厚い木の板のようなしょぼいものだが)が設置されていて、地面に下りずとも移動ができる。
多少予定に変更はできたが、クソ野郎どもをとっ捕まえるのには変わりない。
いや、このまま逃げて連中にコケにされるのも癪だ。どうせなら奴らの目的を聞きだすために――備品には、もう一働きしてもらおう。
そうしてギャビンは、アンドロイドにいくつかの命令を下した後、階下へ移動するための戸口へと向かったのだった。
「食堂で尾行に気づいてアンドロイドと一緒に逃げる刑事」という流れは名作SF小説『鋼鉄都市』のオマージュ……パロディー……いや、とにかく格好いいからやりたかっただけなんです! 許してください!!
ところでナイナーのドローンは
1号機 アネモネ
2号機 バターカップ
3号機 カトレア
4号機 デイジー
5号機 エリカ
6号機 フリージア
7号機 ガーベラ
8号機 ヘレボラス
という名前です。
植物が好き、という個を確立したナイナーが自分でつけた名前です。
書く機会が今後あるかわからないので、ここに書きました。
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第8話:ギャビンの最低な一日 中編/Bad Luck! Part2
***
薬のやりすぎのせいか手足だけひょろひょろと長く、いかにも素行が悪そうな風体のその若者は、視界から消えてしまった何者かを探すようにしながら、ビルとビルの隙間を彷徨っている。
そうして、少しだけ開けた空き地のような場所まで到達したところで――
「……げふッ!?」
若者は、直上から
うつ伏せに地面に叩きつけられ、腕はあっという間に掴まれて拘束されている。
持っていた銃が、手から弾き落とされて地面を回転しながら滑っていくのが見えた。
悲鳴をあげてもがいても、身体はまったく動かない。
なんだこいつは、化け物か!? いや、アンドロイド――?
恐怖にかられている若者の目前に、ゆっくりと、近づいてくる靴先。
「よお、クソ野郎」
かろうじて首だけを地面から上げると、そこには、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべたパーカー服の男がいる。
標的の、あの刑事だ! と若者は戦慄した。
「おらっ!」
鬱憤を晴らすように、ギャビンは備品野郎に取り押さえられているクズの頭部をつま先で蹴った。
ぶぎゃっ、という短い悲鳴をあげたそいつの鼻から、鮮血が噴き出す。
派手な怪我だが、大怪我ではない。そうならないように加減はしている。
「その銃で誰を撃つつもりだったんだよ、あ?」
「リード刑事」
ポンコツが、ポンコツのくせに非難がましい響きのある声を発する。
「取り調べにおける暴力は、法律で禁止されています」
「へえそうかい。んなこた知ってるに決まってんだろう、がっ!」
もう一発、鼻先に蹴りを入れてやる。
するとクズは、今度は涙を流して震えはじめた。――頃合いか。
「なあ、おい、てめえ」
ギャビンは男の目の前にしゃがみ込み、その前髪を強引に掴んで顔を近づける。
それだけで相手はガクガクと激しく震えている。
――ほら、こうして恐怖ってものをわからせてやらないと、こういう手合いは「素直」になってくれないのだ。洗練された最新鋭様には、とうてい理解できないだろうが。
だいたいここは取調室じゃない。それにこれは尋問でもない、ただの「質問」だ。
馬鹿にもわかるように、わざとゆっくり問いかける。
「俺を追いかけ回して、何か用でもあんのか?」
「なっ、な、な、仲間は」
なんと相手は質問に質問で返してきた。
「お、オレのなか、仲間は、どこ」
「仲間か。さあ、どこだろうな?」
わざとらしく言ってみる。だが、他の連中がどこかはもちろん知っている。
さっき備品に命じて、こいつ以外の尾行者の周りにドローンを飛ばして攪乱してやったのだ。ドローンからは、サンプリングした足音や音声を流させている。馬鹿の仲間は馬鹿らしく、見事にそれに引っかかっている最中だ。
ともあれ質問に答えないこいつには、立場をさらに弁えさせる必要があるらしい。
ギャビンは素早く、相手の頬を引っ叩いた。
「で、用事を言う気になったか」
「ヒッ……ひ、お、お、オレたちは」
まさに歯の根が合わないといった様子の男は、それでも言葉を絞り出す。
「あっ、あ、あんたを、あんたを、こ、こ、こ」
「こ? あぁ? わかるように喋れよ」
「ヒッ!」
振り上げた拳に反応した後、男ははっきりと答えた。
「あっ、あんたを、こ、殺さないと! じゃないと! 殺されるんだッ!」
「は?」
――殺さないと、殺される?
なんのことだ? 確かに前の事件も、先月の事件も
「何フカシこいてやがる。ずいぶん余裕があるんだなお前、もう一発欲しいのか?」
「ヒッ、ち、ち、違……!」
「なら答えろよ」
拳は振り上げたまま、ギャビンは据わった眼差しで相手を見下ろし、問いかける。
「お前は誰に雇われた」
「う、うう……!」
男は目を逸らし、口を噤む。その瞳には、紛れもなく恐怖が浮かんでいた。だが、こちらに対しての恐怖ではない。もっと別の存在――恐らく雇い主への恐怖だろう。
バラしたものは
一文字に結ばれたまま震えている相手の口に、ギャビンはイラついた。
片手を後ろに回すと、素早く抜いた銃を男の頭に突きつける。
「おら、これでもまだ言えねえってか」
「ヒイィッ!?」
銃口を目にした男は、今度こそギャビンに対しての悲鳴をあげた。
備品が一瞬何か言おうとして、黙った。おおかた、銃を抜いたのを抗議でもしようとしたんだろう。賢い機械は規則が大好きらしい。
だがギャビンの「質問」には、そんな規則は関係ない。
「……」
こちらが無言のまま引き金に指をかけると、相手は大声をあげる。
「わっ、わかった! 言うからやめて、う、撃たないでくれぇ!」
「で?」
「ううっ……」
涙をぼろりと零して、男はすすり泣いた。それから、絞り出すような声で答える。
「きゅ……」
「あ?」
「きゅ、吸血鬼に……だよ」
――は、オカルトかよ。
よっぽど鉛玉が好きなんだな、てめえ――と、ギャビンはさらに相手を脅してやろうとしたのだが。
「リード刑事!」
鋭い声をあげたのは、アンドロイドだ。
「リード刑事、参考人の様子が」
言うなり奴は、相手の拘束を解いた。何勝手なことしてんだ、と怒鳴るより早く、ギャビンもまた事態の異常に気づく。
男の目は、真っ赤に充血していた。まるでレッドアイスの重篤な濫用者が、まさしく薬をキメすぎた時と同じような赤さ。しかもその口からは、ぶくぶくと白い泡を噴いている。
備品野郎が素早く救命措置に移っているのを見ながら、一瞬頭を過ぎったのは、「脅しすぎたか」という懸念だった。だが、これまでヤク中どもをしょっ引いてきたギャビン自身の経験が、それを否定する。
――違う。いかに相手がレッドアイス中毒だとしても、あの状態からいきなりこんな風になるはずがない。つまりこいつが泡を食って痙攣しているのは、備品が上から押さえつけていたからでも、自分が暴力を伴う「質問」をしたからでもない。
もっと別の、何か外的な――
鼻梁の古傷が、ますますビリビリとした痛みを訴えてくる。
その不快さと頭を渦巻く困惑に、気を取られていたのが悪かった。
「――うあああああ!!」
それまで大人しく心臓マッサージを受けていたはずの男が、奇怪な叫び声と共に、両手を振り回して身を起こしたのだ。
そしてその手が、こちらが持っている銃へと伸び――
掴まれ、奪い取られる。
自分が抜いたはずの銃が、自分に突きつけられている。
一瞬で訪れた危機的な状況を前に、なぜか、ギャビンの意識は弛緩した。
見えるのは銃口、真っ赤な目で口の端から泡を噴きながら何か喚いているクソ野郎、その向こうで目を見開いている備品と――それと、空き地の壁に薄く残っている落書きだった。
ああ、そうか。
ここは20年前のあの場所か。
認識したギャビンは内心で吐き捨てる。
――クソが。そうと知ってたら、こんな場所を選ばなかったのに。
こんな縁起でもない場所を。
薄く延ばされたような時間の中で、脳裏を過ぎるのは「屈辱」の記憶だった。
まだ自分が名実ともにクソガキだった頃に、この場所で起きた出来事――
憎たらしいあいつと、最初に会った日のこと。
***
――2018年6月15日
あの頃はよかった、なんて言う者は老人だけだが、少なくとも人間が「地球上で最も賢い存在」でいられたのはこの年が最後だった。
当時はロボットといえば工場でいかにも機械的な作業をこなすか、でなければギクシャク歩いたり道案内したりするだけの存在だったし、「アンドロイド」といえば、SFの世界でもなければ、スマホのOSの種類を指す言葉だった。
そして15歳のギャビン・リードにとって、このデトロイトという掃きだめのような街は生まれ故郷である。
当時のデトロイトは、一時の低迷からは脱出しつつあった。自動車工業の失敗が原因で下落した地価は、例えば後のサイバーライフ社のような新進気鋭の企業が立ち上がるにはうってつけのものだったし、街を行く人々の鬱屈とした心持ちは、都市にとっての爆発的な転機を受け入れる素地となったからだ。
しかしギャビンの家には、そんな世間の前向きな動向などなんの関係もなかった。
地元の自動車工場で働いていた父親は、かつてはそれなりの地位にいたらしいが、ギャビンが物心ついた頃には失業して長距離トラックの運転手として食いつないでいた。車を走らせ、家に帰り、眠り、起きたらまた車を走らせる毎日。
だからギャビンが見る「父親」は、ひたすらベッドでイビキをかいて寝ているか、でなければカウチに座って、生気のない目で酒を片手にぼうっとTVを眺めている姿だけだった。
父は息子に暴力を振るったり、むやみに怒鳴りつけたりするような男ではなかったが、子どもと積極的に関わろうとする人間でもなかった。
一方でギャビンの母親は、病院で看護師として立派に働いてはいたが、激務のせいなのか性格的なものか、絶えずヒステリックだった。彼女は夫と顔を合わせれば「甲斐性なし」だと詰り、そして息子に対しては、父親のようにはなるなと事あるごとに言ってくる。
母親は日本人やフランス人がデトロイトから自動車産業を「奪った」のだと主張して、ニュースにその国の人間が出るのを見れば文句を垂れていたし、リード家は貧乏だからご近所から「コケにされている」と始終嘆いていた。
常にそんな調子だから、ギャビンは、自分の家にあまり居つかない子どもに成長した。
父親のことはさして好きではないし、母親もうざったいので嫌いだ。両方嫌いなのだから、外で遊んでいるほうがマシ、というわけである。15歳を過ぎた頃になると、家にいるよりも、年上の知り合いの家にいる時間のほうが長くなっていった。
けれどかつてはしょっちゅう母親の言葉を聞いていたせいか、ギャビンの精神構造は母親の影響の元に完成する。
すなわち、彼は「奪われる」のと「コケにされる」のが死ぬほど嫌いな人間になった。
だから友達と過ごしていても、トラブルが必ず降りかかる。
些細なことで喧嘩になると、ギャビンはいつも徹底的に相手をやり込めたし、彼の放つある種独特な冗談は、決まって周りの人間を苛立たせた。
ギャビン自身、トラブルの原因が半分くらい自分にあるのはもちろん気づいている。
でも友達を失うことよりも、奪われ、コケにされることのほうが耐えられない。自分の非を認めて謝るなんてするくらいなら、いっそ死んだほうがマシだ。
ギャビンの周りには、次第に、即物的で一時的な友人しか残らなくなった。ガールフレンドができてもそうだ。2か月ともたずに去っていく。
けれど去っていく人々の背に、ギャビンはいつも中指を立てていた。
奴らが俺を見捨てたのではない。
そういうわけで、ギャビン・リードが徐々に性質の悪い「友人」と知り合うようになるのは当然の成り行きだった。廃墟は彼らの遊び場であり、王国だ。誰がいなくなって誰が来たなんて、誰も気にしない世界だ。だから居心地がよかった。
そして酒やタバコの味を覚えた子どもが、次に覚えるものといえば怪しい大人との付き合い方だ。大人はカネを持っていて、子どもが欲しがるものをよく知っている。子どもたちにとってみれば、そうした大人との付き合いは、「互いに利を得る正当なビジネス」だ。
だからギャビンは、当時よくつるんで子分のように扱っていた三歳年下の少年が「運び屋の仕事を手に入れた」なんて言うのを聞いた時は、素直に羨ましいなんて思ったのだ。いい仕事なら俺に寄越せよ、などと詰め寄って。
しかし都市の暗部が欲しがるのは、いかなる時代でも、世間知らずで居場所のない子どもたちだ。美味しい餌で招き寄せ、小犬のように言うことを聞くならよし。噛みついてくるならば、もちろん殴り殺すだけなのだ。
それをギャビンが本当の意味で知ったのは、2018年の6月。
年下のあいつが、顔面をぼこぼこに腫らして道端に倒れているのを見た日のことだった。
あいつは親が金持ちだったから、すぐに病院に運ばれていった。その後どうなったのかは知らない。それに、興味もない。
でも、あいつはとても「出来のいい」子分だった。ちょっとトロくさかったが、ギャビンの冗談を聞くと(意味がわかっているのかは別として)いつもぬへへと一緒に笑っていたし、何かあったらすぐに頼って泣きついてきて――そういう風にされるのは、なぜか、悪い気分ではなかった。
そしてそいつは、今や、ギャビンの隣にはいないのだ。
つまり子分を殴った奴は、誰かは知らないが、ギャビンからあいつを「奪った」ことになる。「奪われた」からには、然るべき報いを与えてやらねばならない。
子分が相手にしていた大人の正体は、すぐにわかった。当時デトロイトで麻薬を売りさばいて儲けていたギャングの下っ端だ。
荷物を運ぶ仕事をさせられた
クソガキのくせに生意気だった、だから殴ってやったのだ、と――せせら笑うその下っ端の姿を見て、何がそんなに腹が立ったのかは自分でもわからない。
元から腕っぷしは強いほうだ。
ギャビンはその下っ端を、空き地で逆にボコボコにしてやった。
でもその後が悪かった。
下っ端にも当然上役がいるのだ。といってもこの場合は、せいぜいギャングの中堅未満程度の奴だっただろうが――と今ならわかるのだが――ともかく男は最初、ボコボコにされた自分の下っ端を見て、情けない奴だと鼻で嗤った。
次に荒く息を吐いているギャビンのほうを見ると、なかなか根性のある小僧だと褒めてきた。
その気があるなら、こいつの代わりになるかと聞いてきた――
でもギャビンは、そいつの偉そうな態度が自分を「コケにしている」のだと気づいていたので、地面に唾を吐きかけてやった。
男はまた笑った。そして、にこやかな表情のまま音もなく静かにこちらに歩み寄ってきて――
何かが目の前で閃いたと思った次の瞬間、ギャビンは吹き飛ばされていた。隅に積まれていた廃材の山に、背中から飛び込まされた。
苦痛に顔を歪めながら、最初は、殴られたんだと思った。
だが違う。鼻筋に走る鋭い痛み――ぬるりと温かいものが鼻の下へと流れ、唇に触れる。舐めると塩の味がした。触った手には赤い血潮がついた。そして男の手には、ぎらりと輝くナイフが握られている。
あれで斬られたんだ。
理解した途端、心臓が早鐘を打ちはじめた。男はなおも笑っている。実力が違う。本能でわかった。これは普段の喧嘩とは違う。殺される。殺されそうになっているのは自分だと、鼻筋の傷が訴えている。
そしてじくじくと痛む傷よりも、今は勝手に震えている手足のほうがまどろっこしい。
動け、動け、早く逃げなければ! どれだけ急かしても、しかし、身体は動かない。
気づくと男は、仲間を集めていた。手に手に、金属バットだのパイプだのを持っている。
生意気なガキは銃で殺すより、殴っていたぶったほうがストレス解消になる、ということのようだ。
視線を巡らせたギャビンは、壁に誰かが描いた落書きに気づく。残虐にアレンジされたスマイルマークが、まるで自分を嘲笑っているように思えた。
クソが、と毒づく。
すると向こうから、誰かの叫び声が聞こえた。
「警察だ!」
男の仲間はすぐに慌てだして、てんでばらばらに逃げ出した。男がいくら喚いても、誰も守ろうとしない。
男が舌打ちして逃げようとしたら、直後、やって来た人影があった。
「動くな。手を上げろ」
人影は落ち着いた口調でそう告げ、片手で男に銃を突きつけている。
しかし有無を言わさぬ威圧感があるのは、別に、そいつが銃を持っているからだけではないだろう。
その人物は30代くらいで、背が高く、ギャビンがこれまでに見たどんな大人の男よりも堂々としていた。癖のある茶色い短髪で、青く鋭い目だった。そして、母親の持ってるスカーフみたいな妙な柄のシャツと黒いズボンを着て、黒い薄手のジャケットを羽織っている。――警官だ。私服刑事ってやつか?
「チッ……け、警官かよ」
手を上げて、情けないほど動揺した声で男は言うと、次に、精一杯の虚勢を張るように声を張り上げた。
「こ……これは不当逮捕だ! べっ、弁護士を呼ぶぞ!」
「ああ、そうか」
刑事は大して興味なさそうに応える。
「じゃあ呼べよ。待っててやるぞ、ほら」
「……!」
「どうした? 電話持ってんだろ」
促すように首を傾げつつも、刑事は銃を下ろさない。
男は悔しそうな顔をした。それから、また声を張り上げる。
「おっ、オレにこんなことをして――アルカーノさんが黙ってると思ってるのか! てめえ程度の木っ端役人なんざ、アルカーノさんにかかれば……」
「ああ、そのお前のボスな」
同情するような呆れているような、妙な笑みを刑事は浮かべる。
「悪いな。さっきパクっちまったよ」
「何……!?」
「今ごろは檻の中かな。思い出話なら、ムショで時間があるだろ。よろしく言っといてくれよ」
それを聞いた男は、これ以上ないくらいに歪んだ表情になった。だがその相手をすることもなく、刑事はやって来た別の警官にそいつを引き渡す。
そして――ギャビンは最初、刑事もまた去っていくものだと思っていた。廃材の山に半ば埋もれている自分の姿に、きっと気づいてはいないのだろうと。
だが刑事は、こちらに気づいていたらしい。銃を脇のホルスターに仕舞うと、刑事の青い瞳が、ギャビンをまっすぐに見据える。
治まっていたはずの心臓が、また緊張で跳ね上がった。
「これでわかっただろ」
朗々たる声音で、刑事は肩を軽く竦めて言う。
「クソガキは、クズ野郎に利用されるのがオチなんだよ。わかったら大人しく、お家に帰るんだな」
告げて、刑事は懐から何かを取り出し、指先で摘まんでこちらに投げてきた。
2メートルほど先の地面に落ちたのは、紙きれ――いや、絆創膏だ。
それを見た瞬間、ギャビンの胸の内に、何か得体の知れない感情が沸き上がる。
けれどそれに名前をつけるよりも先に、また別の警官が空き地にやって来た。
「アンダーソン刑事。ファウラー刑事がお呼びです」
「ああ、わかった。すぐ行く」
それきり刑事――アンダーソンという名の彼は、振り返りもせずに去っていった。
そして一人取り残されたギャビンは、未だ血を流している傷にも構わず、胸の中になおも渦巻いている感情の正体を必死に探ろうとする。
けれど残念ながら、経験に乏しく教養のないギャビンには、その感情がなんなのかわからない。
アンダーソンに告げられた言葉を聞き、絆創膏を投げて寄越された時、確かに覚えたこの感情。「叱られ、諭されたのだ」というこの感覚。冷たい衝撃が走りながらも、何か温かいものもあるような――
あるいは更生の機会となったのかもしれないその感情を、しかし、ギャビンは「屈辱」と名付けた。
あのアンダーソンという男は、自分をコケにしたのだ。
あんな下らない、刑事に銃を突きつけられた程度のことで取り乱す男にすら勝てない自分を、クソガキだと言って笑った。お家に帰れと侮辱して、おまけに敗北の事実を知らしめるように、絆創膏を投げつけてきたのだ。
――許せない、と思った。
コケにされたこの屈辱は、倍にしてあいつに返してやらねばならない。
あんなに偉そうなあいつには、思い知らせてやらなければ。
お前がやっている刑事なんて仕事は、大して偉くもないのだと。
警察官だという理由でお前が偉ぶっているのなら、お前と同じ職に就いてやる。
そしてお前よりも早く偉くなって、鼻を明かしてやる。
デトロイト市警のアンダーソン。お前の名前を絶対に忘れないからな――
こうして――鼻筋に残った傷跡と共に、ギャビンのその後の人生は決まった。
元々クズ野郎どもに片足を突っ込みかけていた彼は、クズ野郎どものお相手をするのも、なかなかの天職だったらしい。死にものぐるいで入った警察学校を出た後、一介の警官としてがむしゃらに働いた結果が、今のポストだ。
でもギャビンが刑事になった頃、何があったのかは知らないが、ハンク・アンダーソンは常にアルコールの臭いを纏わせた、落ちぶれた男になっていた。
鼻に衝くあの臭い。カウチで寝ていた父親を思い出す。ギャビンは酒の臭いが大嫌いだった。
なんだ、鼻を明かしてやるまでもなかった。あいつは何かきっかけがあれば、容易くアルコールに逃げるような駄目な奴だったんだ。
そうか、何も最初から、張り合う必要もなかったのだ――
――本当に?
だからギャビンはハンクが嫌いだ。
屈辱を与えられたことも、彼が落ちぶれたことも、そして、あのペットのアンドロイドのせいで勝手に立ち直ったことも、すべてが気に食わない。
でも何より気に食わないのは、やっぱり、奪われるのとコケにされることだ。
だから――
つまりこうして今、死を覚悟している自分自身がいるということ自体が、屈辱的なのだ。死、そのものよりも。
***
――2039年5月20日 13:57
脳裏に過去が過ぎったのは、どうやら、ほんの一瞬の出来事だったようだ。
真っ赤な目をした男が放った鉛玉は、しかし、ギャビンに当たることはなかった。
アンドロイドがすかさず相手の腕を取り、捻じり上げ、銃を持った手を空に向けたからだ。
男はなおも何か喚きながら、まるで、まさしく壊れた人形のように銃を5、6発宙に放つ。
そして――
「……!」
その両の鼻孔から血を勢いよく噴出した後、白目を剥いてがっくりと動かなくなる。
「参考人の……死亡を確認」
LEDリングを黄色く点滅させながら、備品野郎が言う。
「他の尾行者たちも、次々と撤収していきます。ドローンによる誘導を中止し、彼らを追跡します」
「……そうかよ」
知らず知らず掻いていた汗が気持ち悪い。
手で額を拭うと、仰向けに寝かされた男の遺体を改めて眺める。
――充血した目と口の端の泡、そして鼻血の赤が土気色の肌を汚していた。さらにその表情は、恐怖と絶望で固まっている。
頭の中に、ほんの数分前にこの男が遺した言葉がリフレインした。
殺さなければ殺される――吸血鬼に。
吸血鬼。それは、昼の小競り合いの事件の時にジョッシュと備品が語っていた――ハンクとコナーが追っているという、あのブルーブラッド狙いの変質者のことだろうか。
なぜそいつが、このギャビン・リードの命を狙う?
いったいなんの関係が?
背筋を、冷たい汗がまた伝っていく。
命を狙われているというこの感覚――そして銃を突きつけられた時、何もできなかった自分自身という認識が、さっき思い出した過去の出来事と重なって、不愉快な気持ちで胸の内を満たす。
最低だ。
やはり今日は人生で最低の日だ。
しかしギャビンは、そんな自分の胸の内を素直に語りなど絶対にしない。
疑念と恐怖と悔恨はない交ぜになり、歪んだ形で口から飛び出る。いつものように。
「ハッ」
口の端を歪めて、ギャビンは笑う。
「見ろよこのブサイク面。殺しに来て死ぬなんて、ハハ、ざまあねえなクソ野郎が」
「……」
遺体の「分析」とやらを終えたらしい備品野郎が、ひた、とこちらを見つめてくる。
その眼差しは、今も、穏やかに凪いでどんな感情も含んでいない。
だがその灰色が、あたかも自分の言葉を咎めているように思えてきて、ギャビンは険しい表情を浮かべた。
「どうしたよ、お利口プラスチック。不謹慎だって言いたいのか?」
「いいえ」
アンドロイドは首を横に振った。
「ただ、リード刑事。お怪我がなくて、よかった、です」
「あぁ!?」
備品のその言葉の、何がそんなに気に障ったのかは自分でもわからない。
ただ胸に渦巻いていた不愉快な気持ちをぶつけるように、ギャビンは声を荒らげる。
「なんだよお前。ああそうだな、てめえがいなけりゃ俺は死んでただろうな? 褒めてほしいってのか? それとも、感謝しろってのかよ」
「……いいえ」
アンドロイドのLEDリングがまた黄色になる。
なんだ、動揺してるとでも言いたいのか?
「申し訳ありません」
ほんの少し俯いて、備品は何度目かになる謝罪を口にした。
「あなたをご不快にさせる意図は……」
「てめえの意図なんざ!」
大声を上げて、言葉を掻き消した。
「知ったことかよ、アンドロイドの分際で」
「……」
LEDを黄色にピカピカと光らせたまま、アンドロイドはおもむろに言う。
「私は……ただ。あなたの、役に……あなたと、良好な関係を築き、たくて」
「ハハハハ!」
良好な関係だってよ!
大笑いしながらも、その目は笑わない。
情けでもかけてるつもりなのか? 機械のくせに。
「俺はお断りだ。引っ込んでろ、クソが」
きっぱり告げてやると、備品は一瞬、ショックを受けたように目を見開いた。
そして視線を逸らすと、そのリングの色を青に戻し、それきり何も喋らなくなる。
――静かになったお蔭で、遠くからパトカーと救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえた。
ここまで車が乗りつけることはできないから、きっと、この男の収容には骨が折れることだろう。だがそれは自分には関係ない。
今はただ、この胸糞悪い気持ちを片づける方法を探さなくてはならない。
ギャビンは警官としての自分の最低限度の仕事を終わらせると、ファミレスの駐車場に戻り、署へと向かった。
備品は何も語らなかったが、それでも奴の能力は相当に
あいにく残り19人の追っ手については、ドローンの偵察範囲外にまで連中が逃げていってしまったことで逮捕とまではいけなかったが、少なくとも、これで手土産は一つできたわけだ。
だがそれなりの成果を引っ提げて署に戻っても、それどころか備品の作成した報告書を読んでも、一向に気持ちが晴れはしない。
得体の知れないものが自分を狙っていて、それに対してこれまで自分が何もできていないという事実。それを認めたくない感情。それらはギャビンに、とても非合理的な判断を下させた。
自分の命が狙われていることを、報告しなかったのだ。
「……失礼します。リード刑事」
夕方、退勤しようとした背中を、備品が呼び止めてくる。
無言で振り返ると、相手は例の無表情で、勝手に続きを口にする。
「自宅への帰還は推奨しません。単独行動は危険です」
「あ?」
眉を顰めてみても、アンドロイドは退きはしない。
「あなたは現在、生命を狙われています。レベル2の警護対象です。署に待機、応援の要請、あるいは別所での……」
「いいか」
怒鳴ることもなく、静かに、ギャビンは備品の胸に人差し指を押しつける。
「『俺の邪魔はするな』。言ったよな。もう忘れちまったのか?」
「……」
「消えろ、クズ」
そう言って、ここから去るのは自分だ。
半ば捨て鉢のような気分で、ギャビンは自分のアパートメントへと帰っていく。
命を狙われているだって? そりゃそうかもな。
でもそんなことで、いちいちこの俺がビビっていられるか。
コケにされるくらいなら、これ以上プラスチック風情の世話になるくらいなら、死んだほうがマシだ――
心の裏側では他の言葉も聞こえてくるような気がするが、それらには全部耳を塞ぐフリをした。
どうせ家に帰って朝がくれば、今日よりはまともな一日が始まるに決まってる。
奇妙な楽観にすら捕らわれながら、ギャビンは車を停め、アパートメントの階段を上がり、自分の部屋の前まで来て――
そこで、異変に気づいた。
用心深いギャビンは、玄関のドアに鍵を二つかけている。
一つは電子錠、もう一つは物理的なもの。別に金持ちなわけでもないが、「奪われる」のは絶対にごめんだから、そうしているのだ。
その鍵が、二つとも破られている。
電子錠はその周囲ごと切り取られ、物理的な鍵はピッキングされていた。
それでも解錠に相当時間がかかったらしく、下手人は、どうやらまだ中にいるらしい。
ドアの隙間から(屋内の電気はついていない)、ゴソゴソと物音が聞こえてくる。
感情に揺り動かされていた心が、一気に現実に引き戻された。
ギャビンは素早く銃を抜き、音を立てないようにしながら、自分の家のドアを押し開けた。
屋内は変わらず夕暮れ時の闇に満たされているが、それでも、玄関すぐのリビングの隅に、何か人影がわだかまっているのは見て取れる。
「手を上げろ!」
銃を突きつけ、鋭く叫ぶ。
わだかまっていた人影は、命令通りゆっくりと諸手を上げた。太り気味の、若い男――初めて見る顔だ。
刑事の家で泥棒とは、いい度胸である。
「クソ野郎が。動くんじゃねえぞ」
油断なく銃を向けたまま、静かに自宅内に歩を進める。
中はぐちゃぐちゃに荒らされていた。引き出しが全部開けられ、中身がひっくり返されている。クソ野郎はクローゼットの中を探っていた最中だったらしく、衣服が床に散乱していた。
舌打ちを一つして、ギャビンは、銃を構えていないほうの手をポケットに突っ込んだ。
さすがにこの状況を一人でなんとかできるとは言わない。署に連絡して、パトカーを要請する必要がある。
スマホを取り出し、ほんの僅かに、意識がそちらに向けられる――
だから、背後にもう一人いたのに気づけなかったのだ。
「……!」
それは瞬く間に起こった。台所の隅に潜んでいたそいつは、飛びかかって紐のようなものをギャビンの首に巻き付け、思い切り絞めてきたのだ!
「か、はっ……!」
酸素を失い、手先に籠めていた力が消える。銃とスマホを取り落としたギャビンは、首を絞める紐を慌てて両手で掴み、抗おうとする。
だが背後の男の力は強い。肺を巡る空気はさらに減り、視界がぼやけ、立っていられなくなる。
「ク……」
口から搾り出るのは、呪詛の言葉。
「クソ、が……!」
――鼻筋の古傷が痛む。
クソが、こんなところで死ぬのか。こんな最低な日に、こんな理由で。
こんなの、何かの間違いだ。絶対に、何かの間違いだ。
頭の中で色々なものを恨みながら、意識を手放そうとした――
その時だ。
けたたましい音を立てて、窓ガラスがぶち割れると同時に、何かが空から部屋に突入してきた。
首を絞めている奴も、太り気味の男のほうも、そしてギャビンも、啞然としてそれを見つめる。
飛び込んできたのは、一台のドローン。――あの備品野郎のドローンだ。
そいつは中空でホバリングすると、唐突に、ストロボのような激しい光を発する。
「ぎゃあっ!」
背後の奴のほうが悲鳴をあげた。光で目が灼かれたからだ――その場にいる全員が目くらましされたのだ。
首を締め上げていた力が抜け、ギャビンはその場にうずくまった。視界はチカチカして何も見えないが、それより、今は酸素が欲しい。
「げほっ……げほ、ク、クソが……!」
何度か深く呼吸をすると、意識は明瞭になってくる。
――なんてことだ、またプラスチックに助けられたってのか――
「リード刑事!!」
次いで聞こえたのはやはり、忌々しいことに、あの機械的に平坦なアンドロイドの声だった。
今なお眩んでいる目では何が起こっているのかまったく見えないが、音から察すると、どうやらアンドロイドは玄関から堂々と侵入すると、男たち二人を一発ずつ殴って沈黙させているらしい。
あの備品野郎、格闘技術もそこそこあるようだ。
「ぐふっ……!」
ばたり、と二人目の男が床に倒れる音がした頃、次第に戻ってきた視界に最初に映ったのは、備品の姿だった。
奴は無表情で――いや、その口が小さく動く。
「よかった」
呟いてから、相手は、はっとした様子で口を閉ざした。
「申し訳ありません、リード刑事。発言を撤回します」
日中に怒鳴られたからだろうか?
「……どうでもいいんだよ」
げほげほ、と何度か咳をしてから、ようやくまっすぐ立ち上がる。
ちらりと床に視線を向けた。倒れているのは男二人、散らばっているのはガラスの破片。
「クソ、派手にやりやがって……」
「窓ガラスの件も、申し訳ありません。後日、サイバーライフが弁償します」
静かに告げた備品野郎の顔を、もう一度じっと見つめる。
またこいつに命を救われてしまった。これで二回目だ――
しかもさっき、こいつを冷たく突き放したばかりだというのに。
心の片隅で聞こえてきた言葉を、自分自身で否定した。
何を反省する必要がある? 俺は何も間違ったことは言ってない。
だがそれはそれとして、こいつには告げなければならない言葉がある。
それくらいはわかっていた。
けれどその言葉を、ギャビンはもう長いこと――もしかすると小学校で無理やり教師に言わされて以来だろうか、口から発していなかった。
ゆえに言葉は、またも、歪んだ形で衝いて出た。
「へっ、お前もご苦労さんだな。ここで俺がくたばれば、もっとやりやすい奴と組めたんだろうによ」
「……」
備品はしばらく、黙ってLEDの青色をくるくると回転させた。
それから、おもむろに語りだす。
「はい、リード刑事。あなたの発言には正当性があります。あなたが死亡すれば、私は新規のパートナーを獲得したでしょう」
「わかってんじゃねえか」
それでも助けたなんて、お優しいことだ。アンドロイドの「職業倫理」ってやつか? それともインプットされた「正義感」か?
軽口を叩いてやろうかと思ったら、さらに相手は話を続けた。
「でも、私は……やはり、放置していられなかったんです。そう、きっとこれが……『プログラムの制御外の挙動』なのでしょう。変異体特有の」
「……?」
何か納得している様子だが、こちらは意味がわからない。
それでもまだ、奴は語る。
「リード刑事。今日、行動を共にして理解しました……あなたは非常に矛盾している」
「は?」
「あなたには野心がある。けれどあなたは周囲と衝突する。後者の特徴は、『警察内で昇進する』という目的の達成を妨害する、非合理的なものです。表面的にでも衝突を回避すれば、あなたの評価は低下せず、より職場内での行動が容易になるのですから」
なんだこいつ、急に人を批判しはじめた。
怒るというより呆気に取られていると、灰色の瞳がこちらを捉える。
「私には、あなたの感情が理解不能です。私が欠陥品と呼ばれる理由は、恐らくそれ、でしょう。でも……いつか、学習して理解可能になりたい、のです。あなたのような、人間らしい気持ちを」
「……」
「だから、私は、あなたが不快になったとしても……可能なら、パートナーとして行動したい。だから……」
アンドロイドの口の端が、ぎこちなく歪む。
それはどちらかというと「口を開いている」というか、「変な臭いを嗅いだ時の猫」というか、とにかく奇怪な表情だったが――
もしかして、笑ってるつもりなのだろうか?
「リード刑事、事件を解決しましょう。あなたの暗殺計画を阻止しましょう。……一緒に」
「……ケッ」
俯いて鼻を擦ったのは、また古傷が痛んだからだ。
決して、こいつの顔を正面から見ていられなくなったからじゃない。
「当然だろうが。備品は備品らしく、役に立ってみせろよ」
相手の表情を見ないまま吐き捨てるように言うと、しかし、なぜかアンドロイドはどことなく嬉しそうな響きの声で応える。
「はい。万全を尽くします」
「……」
――まったく、本当に最低な一日だ。
ギャビンは頭の中でそう独り言ち――ふと、床に転がっているゴミ箱に目を向けた。
箱の中身は綺麗に床にぶち撒けられている。昨晩食べたTVディナーのトレー、飲み終わったコーヒーのドリップバッグ、そして――
そして、中身も見ずに捨てたダイレクトメールの数々。
歩み寄り、一通を拾い上げる。
今気づいた――この一通だけは、広告ではない。
趣味の悪い深い紫色の封筒。表に書かれた住所は確かにギャビンのこの家のものだが、宛名は空白になっている。
封を千切り開け、便箋を取り出すと、そこに印刷されていたのは――
「……なんだこれ」
昔懐かしい、QRコードだった。
ギャビンは確かにアンドロイドが嫌いだと思うんですが、仮にコナーがアンドロイドじゃなくて人間だったとしても、やっぱり嫌ってるし、腹パンもしてくるんじゃないかと思うんです。
そういうハッキリしてるところが、ギャビンの魅力の一つではないかと、個人的に思っています。
次回は怒りのオトシマエ編です。
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第9話:ギャビンの最低な一日 後編/Bad Luck! Part3
――2039年5月20日 19:33
「……なんだこれ」
しゃがみ込んだギャビンが手にした便箋に印刷されているのは、昔懐かしいQRコードだ。このモザイクのような白黒で構成された正方形、間違いない。
二十年くらい前はよく見たものだが、今はもっと高性能なバーコードが開発されたせいで、まったく使われなくなった代物である。
なぜそんなものがここに――?
訝しんでいると、横からRK900こと備品野郎が便箋を覗き込んできた。
数秒後、奴は淡々と口を開く。
「『バークレー駅、5番・6番ホーム 20日23:55 赤帽子』」
灰色の瞳が、こちらに向けられる。
「と記載されています、リード刑事」
「……フン」
コードを調べようと床から拾い上げたスマホを、そっとポケットにしまいつつ立ち上がった。どうやらこいつ、高性能アンドロイドのくせに、ローテクにも対応しているらしい。お偉いことだ。
「で、他は?」
こちらが問いかけると、備品はまた例によって静かに目を瞬かせ、首を傾げた。
「他とは……」
「コードの中身以外の情報はねえのか? さっきも言っただろうが。備品は備品らしく、スマホより役に立ってみせろよ」
「……」
しばらくしてから、アンドロイドは応える。
「申し訳ありませんが、新規の手がかりとなりそうな情報は皆無です。指紋もなく、便箋やインクも大量に販売されている普遍的な型式ですから」
「チッ」
だがギャビンの舌打ちを遮るように、アンドロイドはただ、と付け加えた。
「時刻表によれば、本日23:55には、バークレー駅の5番線と6番線に同時に電車が停車するはずです」
――同時に。
それを聞いた瞬間、閃くアイデアがあった。
同時に停まるという電車。そして、今日これまで自分を襲ってきた連中の共通点――ヤク中であること。
となるとこのメッセージの意味するところは、一つしかないはずだ。
しかし傍らのアンドロイドはといえば、さらに続きを口にする。
「……残念ながら、それ以上の新規情報はありません」
「ほお、そりゃ意外だな」
ギャビンはわざとらしく大仰に顔を顰めた。
「サイバーライフのアンドロイド刑事にも、わからねえことがあるのかよ」
「はい、申し訳ありません。リード刑事は、何かご存知なのですか」
「……」
――悔しがられもせずにすんなりと聞かれてしまっては、軽口の叩き甲斐もないというものだ。
かえって意表をつかれてしまったがそれは見せないようにして、ギャビンは(親切にも)アンドロイドに説明してやった。
「クソ野郎どもが駅のホームに用があるといったら、ヤクの売買に決まってるだろ」
そう――実に単純で、典型的な手法だ。
連中が利用するのは、両側が線路に接しているホーム(正式には「島式ホーム」というそうだが)の双方の線路に、同時に電車が停車するタイミング。
薬の売人と客とはそれぞれ別の電車に乗り、取引する駅で降りて、そのまま互いの向かい側の(つまり反対方向に行く)電車へと移動する。そしてその最中、ホームですれ違いざまに薬と金をやり取りするのだ。
こうすれば、仮に誰かに見咎められたとしてもすぐに電車に乗ってとんずらできるし、素早くやればそれこそ、誰にも気づかれない。
無人ドローンを使ったやり取りが流行する昨今ではあまり用いられない、警察学校の教本に載っているような古典的な方法だが、ギャビンはよく知っていた。
バークレー駅のホームは狭いから、具体的に乗降口を指定しなくても売人と客はすぐに互いの位置がわかるのだろうし、『赤帽子』が相手を探す目印となっているのだろうということもわかる。
メッセージ自体の謎は、これで解けてしまったと言っていい。
――という説明を受けた備品は、例によって例のごとく無表情かつ平坦な口調で、しかしどこか納得した様子で語った。
「理解しました。バークレー駅で違法薬物の取引の恐れがあるのですね」
「わかってもらえて嬉しいね」
まったく嬉しくなさそうにギャビンは言う。
そして実際、不愉快なのには変わりない。こうなってくると、自分が今日という最低な一日を過ごしている原因の半分が、この紙切れにあるのは間違いないからだ(残りの半分はポンコツアンドロイドだ)。
つまり、今なお床に倒れて静かにおねんねしている小太りの男とその仲間も、否、今日の日中さんざん人を追いかけ回してくれた連中も、殺さなければ殺されるのだと言って死んでしまったあいつも――目的は、この便箋にあったのだろう。
あの男たちは今夜、駅で薬の取引をする予定だった。そして取引の詳細は、手紙で郵送されてくる手筈だった。だがその前日、どうしたわけか、メッセージの入った封筒はよりにもよって刑事たるギャビンの住むこの家に届いてしまう。だから彼らは取引の秘密を守るために、また取引の詳細を手に入れるために、命を狙ってきたというわけだ。
この男たちがこうして無理やり人の家に押し入って、家財道具をあれこれ引っ掻き回していたのも、この便箋を探すためのようだ。
殺さなければ殺されると言うくらいなのだから、きっと、それなりの規模の取引が予定されているに違いない。血眼になるのは勝手だが、まったく迷惑な話である。
「……クソが」
何度目になるかわからない呪詛の言葉を吐く。証拠品でなければ、こんな忌々しい手紙、今すぐビリビリに引き裂いてやりたいところだ。
こんな素敵なプレゼントを送り付けてくれた奴には、ぜひともお礼を言わなければならないところだが――そういえば、そもそもこの便箋はなぜここに届いたのだろうか?
誰かのタレコミ、というのでもなさそうだ。では、その目的は?
いや、待てよ。
もしかすると、目的など
さらに不愉快な可能性に思い至ったところで、ふいに部屋の静寂を破ったのは低く小さい振動音だった。スマホの着信のバイブレーション。しかし、ギャビンのものが鳴っているのではない。
音を頼りに視線を向けたのは、倒れ伏す小太りの男だ。
そいつのズボンの尻ポケットから、ブブブブ、と低い音が漏れ聞こえている。
「チッ、こんな時に」
思い切り舌打ちした。きっと、小太り男の「作業」の進捗状況を気にした仲間の誰かが電話をかけてきたのだ。
どうするべきだろうか? ここで電話に誰も出なければ、相手はそれを不審に思うだろう。最悪、またこっちに仲間を差し向けてくるかもしれない。
そんな面倒なことになる前に、なんとかごまかす手段は――
とギャビンが必死に考えを巡らせていると、備品野郎は素早く男に近寄り、ポケットからそっとスマホを抜き取る。
ほんの1、2秒、奴は震えつづけるスマホを握ったまま、じっと男のほうを見ていた。それから当然のように画面をタップし、止める間もなく電話に出る。
「――もしもし、オレだ」
「!」
ギャビンは、素直に驚愕した。アンドロイドの口から流れているのは、耳慣れない男の低い声――たぶん、この小太り男の声音だ。声帯模写、というやつか?
しかも備品野郎は普段の棒読みぶりがまるで嘘のように、流暢かつ自然に言葉を発している。表情は一切変わらないのに、聞こえてくる言葉だけ妙に情緒と抑揚たっぷりなのが、余計に気持ち悪い。
「あ? なんだって、あの刑事? ああ、あいつなら床にノビてんぞ」
アンドロイドは、ちらりと小太り男に視線を落として語る。
「後ろから近づいて一発だったぜ。例のブツ? 見つけたよ、ゴミ箱に入ってた、へへ」
声だけで笑ってから、奴は続けた。
「当然だろが、取引の場所も確かめたさ。
――こいつ、平然と噓つきやがった。
本物の取引現場に連中を近づかせるわけにはいかないというのは理解できるし、ここはついて当然の噓だが――無表情アンドロイドがしれっと言ってのけているという状況は、やっぱり違和感のほうが先に目立つ。
ギャビンが顔を引き攣らせている前で、備品野郎はさらに続けて言った。
「今日の23時55分、2番と3番ホームだってよ。はあ? 間違いねえって言っただろ。そんなに疑うなら、持ってって見せてやんよ」
とここで、アンドロイドの視線がこちらを向いた。
奴のLEDリングが黄色にチカチカと点滅し、するとそれに合わせるようにスマホの通話音量が大きくなっていく。――会話内容を聞かせるために、遠隔操作しているのか?
果たして、こちらの耳にもスマホの向こうの話し相手の声が届くようになった。
『……まあ、なんとかなったからいいけどな、ボブ』
電話の相手は、話をしているのがボブではないという可能性には全然思い至らないらしく、間抜けにもぺらぺらと喋っている。
『てめえが送り先の住所間違えたから、こんなことになってんだぜ。ボスに知られてみろ、今日のギルバートみてえにブッ殺されてるぞ』
ギルバートというのが、今日あの空き地で死んだ男の名前だというのは、備品野郎の報告書を読んだギャビンも知っている。
それにしても――住所を間違えた、だと?
瞬間胸を駆け巡るのは、「やっぱりか」という思いと「ふざけんな」という怒りである。
こんなクソみたいな事態に巻き込まれたのは、腹立たしくも想定通りに、まったくの偶然のせいだったというわけだ。
誰の指示だか知らないが、今どき
後で一発、そこの小太りボブをぶん殴っておこうとギャビンは心に決める。
一方で備品野郎は、通話相手の警告に対して途端に声音を震わせて言った。
「あ、ああ、わかってるよ。もうヘマはしねえって。へ、へへ、ボスにもバレやしねえさ」
『だといいけどな。……じゃ、もう切るぞ。あとはファーンデール駅でいいだろ』
「お、おう。じゃあな」
画面がタップされ、通話が切れる。
次いでこちらをまっすぐに見やってアンドロイドが放ったのは、いつも通りの淡々とした声音。
「以上です、リード刑事」
「ケッ」
皮肉たっぷりに、ギャビンはゆっくりと拍手してやる。
「見事なもんだな、ポンコツ。名演技だぜ。どうせなら普段からあれくらいで喋ればいいのによ」
「申し訳ありませんが、それは不可能です」
まったくの無表情で備品は言う。
「先ほどはこのボブ・フィアロンの咽喉の形状分析による声帯模写と、端末内メッセージアプリの記録のスキャンによる語彙分析を実行して会話を予測し、模倣したに過ぎず……」
「はいはい、ご苦労さん」
無駄な会話はさっさと打ち切って、捜査を進めることにする。
「それより、ファーンデールにはもう応援呼んだか?」
「はい、デトロイト市警には無線通信で連絡しました。先ほどの通話相手およびその仲間については、応援部隊に一任可能です」
よし、と頭の中で呟いた。
ポンコツ野郎にしては、なかなか手際がいい。これでまんまと釣られたクソ野郎どものほうは、市警の暇な奴らに相手をさせてやれる。
問題は――バークレー駅のほうだ。
「リード刑事」
備品野郎が、再び首を傾げてみせた。
「指示をお願いします。バークレー駅にも、警官隊の応援を要請しますか?」
「馬鹿か、てめえ」
吐き捨てるようにギャビンは応える。
「ンなことしたら、盗られちまうだろ」
「……“盗られる”?」
「手柄だよ、手柄。お前、おつむが錆びてんのか?」
指に挟んだ便箋を、畳んで素早く自分のポケットに入れた。
「ここまでコケにされて、なんの手土産もなしで『ああ悪い奴は捕まったんだな、よかったよかった』で済ませられるかよ。クソどもにはきっちり、落とし前つけてもらわないとな」
取引を阻止し、クソどもを全員逮捕し、その功績は全部自分のものにする。
それくらいじゃないと、割りに合わない。
「……なるほど」
やや見開いた瞳をぱちぱちと瞬かせると、アンドロイドは言った。
「リード刑事、あなたの意向は理解しましたが……不可解です」
「何がだ」
珍しく訝しんだような声を発したアンドロイドに思わず問い返すと、相手はまるで言葉を選ぶかのように訥々と質問してくる。
「つまり、それほどまでに……あなたの個人的野心は強力なのですか、リード刑事? 身体や生命の危険よりも?」
「ハッ」
――やっぱりこいつは機械野郎だ。人間の感情のことなんて、何もわかってやしない。
目を細め、口の端を吊り上げて、ギャビンは応える。
「そりゃ当然だろ。俺をコケにしたクソどもには、せいぜい手柄になってもらうんだよ。こんな旨そうな話、放っておけるか」
「……」
「おら、何ぼさっとしてる」
備品野郎に一歩近づき、そのむやみやたら硬い肩を軽く押してやる。
「さっさともう一回通報して、このクソボブとお仲間も引き取らせろよ。その間に、駅まで行くぞ」
「了解しました」
平坦な口調で言い、アンドロイドは頷く。
「あなたと私で、取引を阻止しましょう。きっとお役に立って、みせます」
「口ではなんとでも言えるよな。お前のお手並みを拝見してやるぜ」
そう返して、ギャビンは移動しようとして――
そこで、思い出した。
「おらっ!!」
「げふっ!?」
――まだ一発くれてやってなかったな。
心の内でそう呟きながら、倒れているボブの背中に拳を叩き込んでやった。
ボブは一瞬白目を剥いたが、すぐにまた夢の世界へ旅立っている。どうやら備品野郎の一撃が相当効いているらしいが――
「へ、少しは気分がマシになったぜ」
「……リード刑事」
背後から、ひっそりと備品野郎が声をかけてくる。
「気分を改善する場合、他人を殴打するよりもよい方法があります。私はガーデニングを推奨します」
「余計なお世話だ、プラスチック」
ポンコツのくせに、と頭の中で毒づきつつ――ギャビンはアンドロイドと共に、自分の家から出たのだった。
ちなみにどうせ部屋はぐちゃぐちゃなので、割れた窓ガラスはそのままにしておいた。
***
――2039年5月20日 23:54
『まもなく、バークレー駅に到着します――』
明るい女性の声のアナウンスが響くと、その言葉通り、電車は速度を落として駅のホームに入っていく。
こんな時間だというのに、車内にはそれなりに乗客がいた――人間も、アンドロイドも。あの革命以来バスや電車の中の「アンドロイド専用エリア」は取っ払われてしまったから、今は何者だろうと関係なく同じ座席だ。
遊び帰りの者が半分、仕事帰りの者が半分といったところの乗客の様子を、ギャビンは立ったまま静かに眺めている。ジャケットのフードを目深に被っているので面持ちを外から窺い知ることはできないが、実際には、その表情は苦々しげに歪んでいた。
――どいつもこいつも、能天気な面しやがって。
警官となって以来、もう何十回目にもなる呟きを、今一度声には出さずに繰り返す。
仕事中の身にとって――というよりこれからまさに一仕事始める身にとっては、乗客たちののほほんとした佇まいが、まるで薄皮一枚隔てた別世界のもののように思える。
そうした世界の平和を守るために、
だがこの自分には、そんな正義とか、公正とか、社会のためなんて大義名分は関係ない。
手柄をあげて、コケにしてきやがった連中を見返す。
それだけだ。
そのために警官という立場と、クソ野郎どもを逮捕するという仕事が必要なだけだ。
――胸の内でそう嘯く間に、電車はバークレー駅のホームに停まる。
横目で見やれば、向こう側のホームにもまた、反対方向へ行く電車が停まっているところだった。そう、あのポンコツアンドロイドが言っていた通りだ。
何気ない雰囲気を装いつつ駅の様子を確認すると、ギャビンは他の乗客と一緒に電車を降りた。夜の風が緩く、温く吹いている。街灯に備えつけられたLEDの青い光が照らすホームを一瞥すると、向こう側に、赤いニット帽がちらりと見えた。電車から降りて、こちら側へと向かってくる。
――売人はあいつのようだ。フードの奥でニヤリと笑い、そちらへと足早に向かう。
『後続列車が遅れているため、しばらく停車します――』
車内のアナウンスが小さく聞こえてきた。
赤帽子の売人は、しかし、アコギな職業のわりには妙に機敏な足取りである。それに想像していたよりも、身ぎれいな若者だった。奴はこちらが近づいていくのを見て取ると、どうやら商売相手がここにいるとわかったのだろう、迷いない様子で歩いてくる。その手には、昔ながらの銀色のアタッシュケースが握られていた。あれにぎっしりとレッドアイスが詰まっているのだとすれば、なるほど、確かにそれなりの規模の取引だといえる。
すれ違いざまに、あれと金を交換するというのが、そもそもの契約なのだろう。
しかしもちろん、そんな段取りに乗っかってやるつもりなどない。
ギャビンは素早く赤帽子に歩み寄り、手筈通り、金とケースを交換する――フリをした。
すれ違う一瞬、手と手が触れるだろうその刹那に、ケースを持った赤帽子の手首をしっかと握って取り押さえる。
目を見開いて動きを止めた赤帽子に対して、皮肉っぽい笑みを湛えて言った。
「暴れんなよ。そいつを見せてみろ」
告げるが早いか、アタッシュケースを強く蹴飛ばす。
赤帽子の手から離れて宙を舞ったそれは、不用心なことに、鍵がきちんとかかっていなかったらしい。
蓋が開き、大きく口を開いたケースから飛び出て床のタイルの上に散らばったのは、ビニール袋に入れられた赤い粉、大量のレッドアイス!
――ビンゴ。この
物音に気を取られた他の乗客だの車掌だの通行人たちが、ホームに散乱した薬を見てどよめいている。
だがそれより今は、こいつを取り押さえるのに集中しなければ。
「おいお前、面白いもの持ってんじゃねえか!」
もはやニヤつきを隠す気もなく、高らかに赤帽子を小馬鹿にしながら身分証を見せる。
「警察だ、このまま署まで来てもらうぜ」
きっぱりとそう告げた時、ギャビンは、てっきり赤帽子が動揺するだろうと思っていた。企みが漏れたことに狼狽し、薬をこうして公衆の面前に引き出されてしまったことを後悔し、混乱するだろうと。
だが目の前にいるこいつは、反対に、まったく動じてなどいなかった。
相変わらず瞼だけを大きく開き、動きを止めてはいるが、自発的に何も喋らないどころか、身じろぎすらしない。
――妙だ。ポンコツアンドロイドですら、もう少し感情らしいものを見せるってのに。
そんな考えが脳裏を過ぎった瞬間、ギャビンは気づいた。相手の赤い帽子の陰、向かって左側のこめかみに、黄色く光るLEDのリングがあると――
「てめえ……!?」
――アンドロイド?
逆に狼狽させられつつ、それでも掴んだ手首を放さずに、ギャビンがそう口にしようとした、ちょうどその時。
「リード刑事!」
備品野郎の声がホームに響く。
備品とは、二手に分かれていた。こっちとは反対に、向こう側の電車に乗ってここに来たあいつは、自分が乗っていた車内からホームへと、スーツ姿の一人の男を引きずり出している。スーツ姿の男の手には――拳銃が握られている。
10メートルほど先の地面で男と揉み合いになりながら、それでも声音を微塵も揺らがせずに、備品野郎が言葉を発した。
「リード刑事、この男は監視役です。あなたに発砲を試みていました」
「そのまま捕まえとけ!」
やっぱりいたか。売人役がアンドロイドならなおのこと、一人で仕事をさせるはずがない――と事態を確かめつつ、ギャビンはそのまま片手で銃を抜き、周囲に対して大きく声を張り上げた。
「デトロイト市警だ! おら、電車を止めろ!!」
ようやく事態に気づいた周囲の一般人どもは、途端に悲鳴をあげてクモの子を散らすように逃げ惑い、あるいは床に伏して震えだした。
銃を振りかざして列車を止めさせるだなんて、まるで西部劇の悪党か何かみたいだが、そんな外聞はどうでもいい。
こちらの言い分通り、駅務員がホームのパネルを操作して自動運転の電車を停止させている。――よし、これで電車に飛び乗ってとんずらされる危険はなくなった。
それと同時に、備品野郎が引き出した男をホームの床にうつ伏せにさせ、軽々と取り押さえているのが見える。向こうの仕事も上手くいっているようだ。
「ブッ壊されたくなければ、大人しくしてろよ」
もう片方の手で捕らえたままの売人アンドロイドに対して、小声で命じる。すると相手はそれをすんなりと受け入れ、あたかもスイッチを切られた掃除機のように、身動きを完全に止めてしまった。
ギャビンは内心困惑した。
掴まれて文句も言わないどころか、命令にホイホイ従うなんて、こんなに「素直」なアンドロイド、久しぶりだ。まるで革命前のようだ――
いやこいつ、もしかして噂に聞く「脱法アンドロイド」か?
革命前と同じ従順な奴隷にされるべく、誘拐されて闇ブローカーどもにメモリーを消された――あるいは変異体に「感染」させられぬまま、工場から秘密裡に盗まれてしまったという機械ども。
吸血鬼は、そんな連中まで
刑事としての疑問が、頭の中で渦を巻こうとしていると。
「リード刑事、伏せて!」
アンドロイド刑事の警告が耳に届く。
その言葉に反射的に従ってアスファルトに身を伏せると、頭上を何かが掠めて飛んでいく。――銃弾だ!
「チッ……」
いきなり撃ってくるなんて、どこのクソッたれ野郎だ。姿勢はそのままに視線を巡らせると、こちらに銃口を向けているのは、一人の中年の男だった。50メートルほど離れた位置にいるそいつは、銃を構えたまま電車の昇降口のところに立っている。
「クソが!」
先に撃ってきたのは向こうのほうだし、撃ち返してはならないという決まりはミシガン州の警察にはない。
ホームに設置された水飲み場の近くまで、身を屈めた状態で素早く移動すると、ギャビンは両手で構えた銃を容赦なく中年男に発砲する。
ひい、という情けない悲鳴があがった。銃は男が立つ傍の電車の壁に穴を空けただけだったが、中年男は恐怖にかられたようで、転び出るようにホームに降り立つ。
そしてそのまま、遮蔽物を探して身を隠そうとしているようだが――
――舐めんなよ、三下が。
ギャビンは銃口を
そしてかつて教本で習った通り、息は止めずに――ゆっくりと夜の空気を吸いながら、視線の先に狙いを定めて――
撃つ。
数秒後、中年男の頭に直撃したのは青い街路灯だった。男はぐらりと体勢を崩し、そのまま地面に倒れ込む。
直接身体にぶち込んでやらなくても、弾丸にはこういう使い方もあるというわけだ。
また器物損壊だなんだと文句を言われるかもしれないが、駅が小汚い血と臓物まみれになるのよりはマシだろ、クソどもが。
「……フン」
油断なく銃を構えたまま、ギャビンは立ちあがった。
背後に目をやると、例の赤帽子アンドロイドは今なおその場に立ち尽くしている。中年男の撃った流れ弾も、当たりはしなかったらしい。結構なことだ。あいつは大事な「証拠品」なのだから。
そして備品野郎のほうも、スーツ姿の男のほうを無事に制圧したようだ。
ぐったりと気絶した男の隣に佇み、奴はこちらを無表情で見ている――なんか言えよ、気色悪い。
それ以外にホームにいる奴といえば、震えて蹲っている一般人だの、電車に空いた穴を見ておろおろしている駅務員だの――と見渡していたところで、ふいに、視界のかなり奥、ホームの真ん中に設置されたベンチの下から這い出ていく男が見えた。
そいつはボロを纏った、いかにも浮浪者といった風体の男だ。
男はちらりとギャビンのほうを見てから、必死な様子でホームへ、否、ホームを降りて線路のほうまで出て行こうとしている。
――パニックになって逃げている? いや、違う。明らかに
「おいてめえ、動くな!」
叫んで制止し、次いで威嚇射撃してやるが、浮浪者風の男はまったく止まろうとしない。
「畜生……!」
舌打ち一つ、ギャビンは相手の背を追いはじめる。駆けながらふと、ポンコツ野郎は何をやってやがるんだと視線を向けると――
アンドロイドはまるで放たれた矢のような速さで、男を追っていく最中だった。
男は見かけによらずかなりのスピードで走っているが、備品はそれを上回るほどの速度で奴を追っていく。取り残されるのも癪なのでギャビンも負けじと足を速めるが、それでもギリギリ追いつけるか(いや、全速力はいつまでももたないから、いずれこっちが取り残されるだろうが)というところだ。
案の定男は線路に降り、そのまま向こうへと逃げていく。その方角には、3番線と4番線の線路があった。アンドロイドは、男からもう数メートルの位置にまで追いついている。このまま奴に任せておけば、あの男も捕まえられるか――
そう心の奥底で安堵した時、聞こえたのは、4番線に入ってくる特急列車の放つ警笛だった。甲高い警告と目も眩むような白いライトを伴って、轟然と電車は走ってくる。
そしてその進行先を横切ろうとしているのは、浮浪者風の男と備品野郎――
「おい」
まず浮浪者風の男が、線路を横断する。
迫る列車。
「おい!」
アンドロイドはまるで列車など気にも留めていない様子で、一心に男の背中に近づいていく。
さらに迫る列車。
いくら奴の足が速くとも、いくらクソ頑丈な身体を持っているとしても、あれにぶつかったら――
「おい、ポンコツ!」
ギャビンは、我知らず思い切り叫んだ。
そして前方へと大きく地面を蹴り、こちらに背を向けたままのアンドロイドに腕を伸ばし――その襟首を、後ろから引っ掴む。
「!」
備品野郎の身体がぐらりと揺れて止まった。
その鼻先を、特急はすさまじいスピードで駆け抜けていった――ここは通過駅だったらしい。
「ク、クソ……!」
まったく、危なかった。気づけば脇腹が痛くなっていて、ギャビンは荒く息を吐きながら、腹に手を当ててしゃがみ込む。
視線を巡らせても、さっきの浮浪者の姿は見えない。特急が駆け抜ける間に、夜闇の向こうへ姿を消してしまったらしい。
備品はといえば、そのまま立ち竦んでいる。
「てめえ、このポンコツが!」
腹立ちまぎれに、ギャビンはアンドロイドに対して声を荒らげた。
「考えなしに突っ込んでってんじゃねえ! てめえがブッ壊れたら、俺が困るだろうが!!」
それは、字義通りの意味での言葉だった。
ファウラー署長に釘を刺された通り、もし捜査中にRK900が破壊されて、そのことでサイバーライフに文句をつけられでもしたら、ギャビンのこれまでの苦労は水の泡。一生を閑職で過ごすはめになる。
そうならないために、ギャビンは備品野郎を止めたのだ。
だというのに当のアンドロイドは、くるりとこちらに向き直った後、なぜか驚いたように目を見開いて、広げた自分の両の手のひらをじっと見つめている。
「……今」
奴は、呟くように静かに口を開いた。
「今、私は……何を……?」
「は?」
――自分のしたことすらわからねえのか、本当にポンコツ野郎だな。
それともフリスビー追いかけるバカ犬みたいに、頭に血が昇って周りが見えなくなったのか――などと考えそうになるが、こいつは機械なんだからそんなわけもない。得体の知れないエラーか何かか? これだから「精密機器」様には困ったものだ。
ようやく脇の痛みも治まってきたので、ギャビンは立ちあがると、デカブツアンドロイドの脚を一発蹴ってやる(まるで電柱を蹴ったような衝撃が走った)。
「てめえはあのボロ服野郎を追って、電車に轢かれそうになったんだろ。助けてやったのは誰だ? あ? 感謝しろよクソが」
「……助けて、くださったのですか?」
「何度も言わせんな」
こちらを見て目をぱちぱちさせているアンドロイドに吐き捨ててから、しかし待てよ、と思い直す。
こいつには今日、確かに、2回ほど命を救われた。
だが今、ギャビンはこいつが壊されないように助けてやった。
ということは――
「おい、ポンコツ」
一歩踏み出し、ギャビンはアンドロイドの胸元に人差し指を突きつけた。
「これで、
「……」
もう一つの借りも、じきに返してやる。そうして貸し借りを清算したら、後に残るのは人間と機械という主従関係だけだ。つまり、こいつにコケにされる理由はなくなる。
ギャビン・リードの心境は、そんなようなものだった。けれど眼前のアンドロイドは、それをどのように解釈したのだろうか。
備品はもう一度、おもむろに瞬きした。
それから、淡々と言葉を発する。無表情ではあっても、どこか、嬉しそうに。
「……はい、リード刑事。助けてくださって、ありがとうございます」
「くだらねえ。戻るぞ」
そう言い残して、アンドロイドに背を向けた。
彼方に見えるホームには、まばらに警官の姿が見える。きっとあのスーツ姿の男を取り押さえている間に、備品が呼んでいたのだろう。用意周到なことだ。
あの浮浪者風の男は取り逃がしたとはいえ、今回の仕事は、ギャビンにとってはまあなかなかよい釣果だったといえるだろう。
レッドアイスは連中の手に渡ることなく確保できたし、吸血鬼のお仲間だという男たちも、何人も逮捕できた。アンダーソンとコナーが家に引っ込んでいる間にここまでやってのけたのだと思うと、気分もだんだんよくなってくる。
ギャビンは、ちらりと時計を見る。
時刻は、00:21。
最低な一日は、こうして、ようやく幕を閉じたのだった。
***
――2039年5月22日 09:12
デトロイト市警は、今朝も早くから騒がしく動いている。
近所のダイナーでパンケーキを食べた後、今日も職場へとやってきたギャビンは、自分の席につき、端末に表示された報告書を読んでいた。
精密分析の結果、確保したレッドアイスはやはり新型のものだった。従来のものと比べてよりシリウムの濃度が高く、またその製法は「洗練」されている。つまり、これまで出回っていた粗悪品のレッドアイスに比べるとかなり純度が高い成分を使っていることから、相手は大規模な生産工場を持っていて、集めたブルーブラッドをそこで材料にして薬を製造していると思われる。
それからあの赤帽子のアンドロイドは、思っていた通り、いわゆる脱法アンドロイドだったらしい。
変異体になった後で捕まって記憶を消されたと思しきそいつは、今はジェリコの施設で療養中らしいが、仲間の手で「感染」してもう一度変異体になった今もショック状態で、ろくに話が聞けないという――機械のくせに、ご立派なことだ。
また、ギャビンの家を荒らしたボブ・フィアロンとその仲間、そしてバークレー駅で逮捕した2名――さらに警官隊がファーンデール駅で纏めて捕まえた集団は、全員(今度こそは)急性心不全で死ぬようなこともなく、元気に「何も知らない」などと御託を並べている。
最近界隈を騒がせている『吸血鬼』がなんらかの組織に関わっているらしいのははっきりしたが、どうやら逮捕された連中は、もともとその組織でもかなりの下っ端らしい。
奴らは自分たちのボスと面識があるわけではなく、ただ今回のように手紙だの伝言だので指示を受け、薬の売買に手を出していたようだ。
バークレー駅で取り逃した浮浪者風の男――あの後すぐに備品がドローンを飛ばして追跡したが、車で遠くまで逃げられて行方不明になってしまったあいつは、おそらくは、より色々なことを知っている立場の人間だったに違いない。
なぜならそうでもなければ、ああして必死に逃げたりなどしないからだ。ただの浮浪者の演技をしてやり過ごすのではなく、万が一にも捕まる危険性を恐れて、奴は逃げ出した――
だが、まあ、今はそうして逃げ惑っていればいい。と、ギャビンは思う。
自分たちの勝手な不始末で人の命を狙っておいて、これだけの落とし前で片がついたなどと思ってもらっては困る。
コケにされた分は、まだ返しきってもらってはいない。
――吸血鬼は、必ず俺が仕留めてやる。
心の中でそう誓うと、ギャビンは端末から自分の横へと視線を向けて、そこに立つ
「おい、コーヒー持ってこいよ」
「はい」
今日も今日とて無表情の備品野郎は素直に頷いて、休憩室へと向かっていった。
その白と黒のジャケットの背中を見ながら、ギャビンはにやっ、と笑みを浮かべる。
最初はどうなるかと思っていたが、慣れてしまえばなんてことない、あいつはなかなか使える備品だ。
この報告書だって奴が纏めたものだし、それに、奴のドローン8機や搭載された物理シミュレーションとやらは、確かに最新鋭のものだと認めてやらなくもない性能である。
つまりこのまま、あいつを上手く使っていければ――昇進は貰ったようなものだ。
薔薇色の未来が開けているような心持ちになって、ギャビンはニヤニヤしたまま端末を操作していた。するとしばらくして、横にやって来た影がある。
「はい、どうぞ。コーヒーです」
人影は平坦な声音でそう告げると――
ドン、と叩きつけるようにカップを机に置いた。
「おいっ!」
熱いコーヒーの飛沫が手にかかりそうになって、このポンコツ野郎と抗議してやろうと視線を上げると――
「……てめえ」
「どうも、リード刑事」
備品野郎とまったく同じ顔と声、だが目の色と背格好、何より浮かべている表情が違う。
口元は笑っていても目が笑っていない、まるで傲然とこっちを見下ろしているのは――
「コナー……戻ってきたのかよ」
「ええ、お蔭さまで警部補が快復したので、私も今日から復帰しました。どうぞよろしく」
そうまで言って、ところで、と相手はしゃあしゃあと言葉を続けた。
「あなたの机から休憩室までは、さほど遠くはありません。パートナーに命じるのではなくご自分で歩かれたほうが、あなたの健康のためにもなりますよ」
「余計なお世話だ、クソ野郎」
クソッたれおすましロボットは、自分の「弟」を庇っているつもりらしい。
コナーの後ろのほうで備品野郎が、どこか居心地悪そうにこちらに視線を送っているのが見える。――まったく、面倒くさい奴が帰ってきたものだ。
それに、コナーの言葉が正しいのなら――
「コナー! 何やってんだ」
直後、聞こえたのは例のクソ忌々しいアンダーソンの声だ。
オフィスの入り口近くにいるそいつは、休む前と大して変わった様子もなく、苦々しげな顔で自分のペットのアンドロイドを呼んでいる。
その姿に(客観的には、居ても立っても居られないといった様子で)ギャビンは席を立つと、つかつかと歩み寄って声をかけた。
「よお、ハンク。もう出てきていいのか」
「ああ、まあな」
苦虫を噛み潰したような表情で、ハンクは短く応える。
それがやはり気に食わなくて、ギャビンはさらに続けて言った。
「なんだったら、無理せずにもっとゆっくりしててよかったんだぜ? 床にぶっ倒れてるのはお得意だろ。なあ?」
「どうぞお構いなく。じゃあな」
こっちがせっかく
そしてギャビンの机の脇では、コナーが備品の手を取って、何やらひどく心配した様子で語りかけている。さっきこっちに対して放っていた、皮肉げで冷淡な声音とはうって変わって、いかにも親切で温かな調子だ。
「大丈夫かい、ナイナー? システムに異常は?」
「ありません、兄さん。心配しないでください」
「署長も、まさかリード刑事と君を組ませるなんて……本当に平気? 足を踏み潰すとか、ゴミ箱に放り込んで火を点けてやるとか言われなかったかい」
「言われていません、兄さん」
機械のくせにお上手な兄弟ごっこが繰り広げられているのに気づいたのか、ハンクはなぜか頭を抱えると、また自分のアンドロイドに声をかけている。
「おい、コナー……あん時は……どうも悪かったな」
「なんのことです、警部補?」
「お前ら、向こうでやれ! 邪魔だろうが、クソが!」
ギャビンが自分の机を蹴る音が、デトロイト市警のオフィスに響く。
そしてこれでまた平常運転だと肩を竦めるのは、彼らの巻き起こす喧騒を聞いた他の警察官たちなのだった。
***
**
*
禅庭園は、今日も美しく晴れている。
その入り口に立ち、ゆっくりと瞼を開いた『コナー』は、白と黒のジャケットの裾を翻すと、中央にある大きな池の畔へ向かった。
そこには、白と青で彩られたゆったりとした衣服を纏う女性がいる。――アマンダだ。
「こんにちは、アマンダ」
礼儀正しく『コナー』が声をかけると、アマンダもまた上品な微笑みを湛えて向き直る。
彼女の手のひらの上には、パンくずのようなものが乗っていた。池の鯉に餌をやっていたのだ。
「コナー、よく来ましたね」
職員室に来た生徒を迎える優しい教師のように告げて、アマンダは続けた。
「そして、よくぞ手がかりを掴んでくれました。あの薬物の出所を探れば、きっとあなたの捜査は進展することでしょう」
「恐れ入ります」
小さく
だがその一方でアマンダはにわかに眉を曇らせると、しかし、と付け加える。
「監視役を一人取り逃したのは、痛手でしたね。リード刑事の妨害がなければ、きっと逮捕できていたでしょうに」
「機体の運動性能を、伝えていなかったのが原因でしょう。もっと早く、私が介入すべきでした」
「いいえ、今回は仕方ありません」
真剣な表情で、アマンダは『コナー』を見据えて言った。
「今後も同じく、介入は最小限に留めるのです。いいですね、決してあなたの目的を悟られないように」
「はい、アマンダ」
まさに従順な機械らしく、『コナー』は頷く。
それと同時に池から何かが飛び出して、アマンダの足元に落ちた。
地面でびちびちと跳ねているのは、一匹の鯉だ。
だが『コナー』は、それを下瞰こそすれど、微塵も動かない。
「助けないのですか、コナー?」
「ご命令があれば助けます」
その答えに満足したように、アマンダは再び笑みを浮かべた。
そしていつものように、穏やかにこう命じる。
「行きなさい。忘れないで、彼を止められるのはあなただけ。そしてあなたこそが、最後にして最高の切り札なのです」
「お任せください。必ずやご期待に応えてみせます」
完璧な機械としての、完璧な答え。
それを聞いたアマンダ、そしてサイバーライフは確信している――計画が順調に進行していると。
そして、彼らだけが知っている。鬼札は未だ、山札の中に潜んでいるということを。
(ギャビンの最低な一日 /Bad Luck! 終わり)
次回からは、またコナーとハンクがメインの捜査パートに戻ります。
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第10話:白熊 前編/The Zookeeper Part1
――2039年5月22日 09:25
ギャビンとナイナーが、この前逮捕したというレッドアイスの売人の尋問のために席を外してから数分後。
机に備えつけられた端末と渋い顔で睨み合っているハンクの様子を、コナーは自分の席からそっと観察していた。
スキャンを実行し、彼の体表面温を測定する――【36.8℃】。よかった、平熱だ。
視線に気づいたハンクが、こちらを向いて訝しげに言う。
「どうした?」
「すみません、警部補」
謝りつつも、口元に微笑みを湛えてコナーは答えた。
「念のため、あなたの健康状態を調べていたんです。本当に、すっかり快復されましたね」
「ああ、おかげさんでな」
なぜか苦々しげにそう言ってから、ハンクはため息をついて続ける。
「安心しろコナー、俺はもう二度と風邪なんかひかねえよ」
「本当ですか?」
「ああ」
警部補は実感の籠った声音で深く頷いた。
「野菜スムージーだろうが8時間睡眠だろうがどんとこいだ。咳き込むだけで救急車呼ばれそうになるのよりゃマシだろ」
「警部補、それは」
どうやら、ハンクは健康の大切さに目覚めてくれたわけではないらしい。
数日前の出来事を曲解しているのだと、コナーは抗弁した。
「誤解です、私は救急車を呼ぼうとしたのではありません。私のデータベースでは判断がつかなかったので、専門家に質問しようと」
「熱が出てりゃ咳くらいするだろ。いちいち電話すんな、相手にも迷惑だろうが!」
「いいですか」
努めて静かに、言い聞かせるように、ハンクに説く。
「2日前のあなたの病状から、さらに重篤な感染症に罹患する確率は3%もあったんですよ。警戒は当然です」
「ああ、そりゃ大ごとだったな。これからは道歩く時も、隕石が降ってこないか警戒しとくか」
要は、大げさだったと言いたいのだろう。
――隕石が落ちてくる確率は160万分の1なので、比較対象になりませんよ――と言い返したい気持ちを、コナーはぐっと堪えて無言で応えた。
そもそも警部補が高熱を出す原因となったのは、他ならぬ自分だったからだ。
下水道に潜むアンドロイドの新興宗教団体を調査した後、うっかり下水に落ちてそのまま河まで流されてしまったコナーを、助けようとしてハンクは風邪をひいた。
だから彼が少しでも早く元気を取り戻せるよう努めるのは、相棒としても、また恩人に対する態度としても、当たり前のことだ――と、その時のコナーは思った。
そこでハンク・アンダーソン名義で備品の貸与申請を素早く提出した後、持てる医療知識とダウンロードした看護関連のデータを総動員して、全力で警部補の看病にあたったのだ。
もし彼の身に、これ以上何かあったら――その時に起こるだろう出来事をプログラム上で予測するだけで、今までに感じたことがないほどの「後悔」と「悲しみ」に見舞われる。
しかしそんな変異体特有の感情の揺れ動きを、持ち前の責任感でなんとか抑え込んで過ごしたのである。
確かにハンクの言う通り、彼が咳き込むたびに救急相談センターに問い合わせたり、何かあってもすぐ対応できるように一晩中寝室の隅で待機していたり、水分補給に備えてスポーツ飲料を合計72本も注文してしまったりしたのは、今にして思えば、
「たく……大騒ぎしやがって」
再び端末に視線を向けつつ、ハンクは肩を竦めた。
「ただの風邪だっつっても聞きゃあしねえんだからよ。お前は心配性な婆ちゃんか何かか」
「いいえ、あなたのパートナーです」
警部補を見据えてきっぱりとコナーが言い放つと、彼はまたなぜか、深く嘆息するのだった。
「……ま、なんだ」
視線は動かさぬまま、ハンクはぶっきらぼうに言う。
「世話かけたな、コナー」
「いえ……元はといえば私のせいですから」
こちらの返答を聞いて、ハンクは鼻を鳴らした――口元はうっすら笑っていたが。
そしてそれきり彼は黙ってしまったので、コナーもまた、欠勤している間に提出されたナイナーの報告書や、直近のウェブニュース記事などを確認し――
「……警部補」
その中の一つに目を留め、またハンクに声をかける。
「サイバーライフが、半年後を目途に『ナノドロイド』を発売するという報道がありますね。極小の球体アンドロイドで、人間の体内に入ってがん細胞を直接攻撃し、免疫システムを向上させるそうです」
7ヶ月ほど前に雑誌で取り上げられていたそれが、いよいよ富裕層向けに販売開始される見込みだと今朝発表されたらしい。
「それがどうかしたか?」
警部補の問いかけに対し、顎に軽く手を当てて、思案げにコナーは言う。
「もしかすると、購入を検討したほうが……」
「おい、冗談じゃねえ! んなもん、誰が身体に入れるか」
「ええ、もちろん、そう言うだろうと思ってましたよ」
ちょっとしたジョークだと示すために、小さく笑う。
「ただ、サイバーライフも新しい販売戦略を立てているのだと思って。今回の看病で、私も健康に寄せる人々の関心の理由をより実感できました」
「ああ、俺には理解できないね。好きなもん食って好きに生きるほうが『健康的』だろ」
嘯くようにそう言って、ハンクは傍らのドーナツを口に運んだ。
――かつて、ロシアンルーレットと深酒とで少しずつ自分自身を死に追いやっていた彼は、今はそんな行為からはすっかり足を洗っている。
でもどうか、ただでさえ過度の飲酒や心労で傷ついている自分の身体を、もっと労わってほしいものなのだが――
こうなっては、ハンクの体調をより改善できるよう、またもう二度と彼を病気になどしないよう、パートナーとして健康に関する広範な知識を獲得し、実践的な技術を学習しなくては。
コナーは自分のプログラム上に、【栄養学的に完璧な一ヶ月分の献立の作成】をリマインドした。
と、その時である。
端末上に、新しい通報に関する情報が表示された。救急隊からの緊急連絡だ。
事故という通報を受けて出動したところ、発見された遺体の状況に事件性があり、アンドロイドの関与の恐れがあるため市警の出動を要請するとのこと。
そしてその現場は、デトロイト市内の――
「……動物園だ?」
端末に表示されている同じ情報を見ながら、ハンクが険しい表情で呟いた。
次いで彼の目がこちらを向き、かちりと視線が合わさる。
――どうやら、仕事の時間のようだ。
ほどなくして正式に出動の要請が下ると、コナーとハンクはオフィスの外へ歩きだす。
通報のあった動物園は市内の中央部にあり、ここから車を飛ばせば20分程度で着く距離だ。
情報の詳細は現場に行かなければわからないが、アンドロイドが関与している恐れがあるとなると、事件に巻き込まれたのは(しばしばジェリーと呼称される)EM400型だろうか。……それとも?
思考を巡らせながらオフィスのゲートまで来たところで――どうやら考えに耽っていたのはコナーだけではなかったようで――ハンクは、向こうから来た人影とぶつかりそうになった。
「おっと、こりゃ失礼」
歩を止めた警部補が謝ると、相手――杖をついた若い女性はにこやかに応える。
「いえ、こちらこそよそ見してしまって」
黒く長い髪、少しやつれた白い肌、しかし上品な顔立ちが印象的な人物。初めて見る顔だ。
「ガーランドさん」
と、オフィスの廊下のほうから彼女に呼びかけたのはティナ・チェン巡査だった。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
「はい」
ガーランド、と呼ばれた女性はこちらに軽く会釈すると、杖をついてはいるが確かな足取りで、チェン巡査のもとへと歩いていく。
すれ違いざまに、ふと、コナーは彼女のフェーススキャンを実行する――ハンクには悪趣味だから止めろとよく言われているのだが、捜査の役に立つ時もあると思うと、つい癖になってしまっていた。
女性の名は、【マーサ・ガーランド 32歳】。職業は【インテリアデザイナー】。犯罪歴はなし。
データベースの備考によると、昨夜デトロイト市内で車上荒らしに遭ったとのこと。
今日ここに来ているのは、きっとその被害届を出すためなのだろう。
「おい、何やってんだ」
「すみません、今行きます」
ハンクに急かされ、歩みを速める。
改めて救急隊から送られた情報を精査しながら、コナーは普段そうするように、マーサ・ガーランドに関するデータをプログラム上の【人物情報】フォルダに整理したのだった。
***
――2039年5月22日 09:54
日曜日の動物園は、開園から約1時間とあって大いに賑わっていた。
園内の通報騒ぎはまだ広まっていないようで、通り過ぎる人々は、人間であろうとアンドロイドであろうと幸せそうな笑顔を浮かべ、平和な時間を謳歌している。
今コナーたちが立っている入り口付近などは、特に賑やかで温かな雰囲気に満ちていた。
たまの休みを大切な存在と過ごせるからなのだろう、カップルや家族連れはこれからの時間への期待に胸を膨らませ、園のゲートをくぐっていく。
そんな客たちの様子を分析しながら、コナーは、傍らに立つハンクの視線が、行き交う子どもたちにだけ注がれているのに気がついた。
無言のまま腕を組んで立っている彼の姿は、端からは、なかなか迎えにやって来ない通報者たちに苛立っているように見えることだろう。
けれど警部補の瞳は、親に手を引かれながらはしゃぐ幼い子どもを捉えた時に、柔らかく細められているのだ。愛おしいものを見るような、少し切なそうな――
「……懐かしいな」
こちらに対して言うでもなく、ぽつりとハンクは呟いた。
――その言葉に、ともすれば、以前の自分なら「何がです?」などと問いかけていたかもしれない。
だがそんな質問は、予測するまでもなく、まさに愚問というものだ。
この状況で彼が懐かしむ存在など、一人しかいないのだから。
ここはデトロイト市警からも近い場所で、ハンクの自宅からもそう遠くはない。きっとかつて、休日のひと時をここで過ごしたのだろう――コールと。
その思い出の重さを知っているからこそ、コナーは、警部補にかける言葉を見つけられなかった。
だから音声プロセッサにかすかに届く動物や鳥の鳴き声に意識を傾け、音声分析を実行していると、ようやく入園ゲートの向こうから、いくつかの人影が現れる。全員、人間だ。
「申し訳ありません、遅れました」
礼儀正しく謝るその男性は、飼育員の格好をしていた。薄緑色の作業着に、同じ色の帽子。
顔認証によると、彼の名前は【クリフォード・コートネイ】、【42歳】。職業は【動物飼育員(管理者)】。犯罪歴はなし。
落ち着いた印象の壮年の白人男性、といった雰囲気のクリフォードは、それでもどこか青い顔をしていた。後ろに救急隊員を二人ほど連れてきている。
クリフォードの姿を認めると、ハンクは即座に仕事中の表情に戻った。彼はいつものように、身分証を呈示して短く述べる。
「デトロイト市警のハンク・アンダーソンです。こっちはコナー。それで」
周囲に配慮し、やや声量を落として警部補は続ける。
「現場はどこに?」
「はい……園内の海洋生物館です。こちらからどうぞ」
応えたのはクリフォードだった。彼は職員用の入り口を指し示し、そこから中に戻っていく。
するとその背について歩きながら、市警への直接の通報者らしい若い救急隊員が、ハンクに対してぼやくように口を開いた。
「まあ……その、来てもらって本当によかった。あんな状況見るの、生まれて初めてで……」
その声音からは、戸惑いと恐れのようなものが垣間見える。
救急隊という職に就く人物がそう語るからには、よほど凄惨な現場なのだろうか?
ハンクたちの様子を後ろから窺いつつ、コナーは賑わう人々の間を縫うように進む。
やはり園内での出来事は周囲に伝わってはいないようで、この場の雰囲気はただ明るい。そこかしこで案内係のEM400たちが愛嬌を振りまき、お客をもてなしている。
歩く道の両側には【コアラ】や【クルマサカオウム】といったデータでしか知らないような動物や鳥類がたくさん展示されているし、ダウンロードした園内地図によれば、イヌ科の生物を集めた区画もあるそうだ。
けれどそちらに足を運ぶ時間は、当然ながら今はない。こんな事態でもなければ、ぜひじっくりと観察して回りたいものだ。きっととても魅力的だろう――と、コナーは思う。
ほどなくして見えてきたのは、果たして、『海洋生物館』と表示のある建物。青を基調とした壁に、魚群やイルカ、ペンギンなどの絵が描かれているその屋舎の正面入口には、『臨時休館』と表示された電光掲示板が出ている。
「こちらです」
クリフォードはそう告げて建物の脇に回ると、『職員用』と書かれた扉を開け、館内に入る。
ハンクと救急隊員たち、そしてコナーも、導かれるままにそこから足を踏み入れた。
中は、外の喧騒が噓のように静かで、無機質な印象だった。打ち放しのコンクリートの壁が続く細い廊下を進むと、覗き窓のついた鉄製の扉が均等に並んだ場所に出る。
GPSと園内地図を参照するに、どうやらここは飼育舎で、館内展示室のいわばバックステージのような場所らしい。その扉の一つの前に、人だかりができている。救急隊員らしい人々が4名ほど、そしてクリフォードと同じく飼育員の格好をした人物が2人。そのうち一人はヒスパニック系の痩せた男性で、両目を泣き腫らし、何ごとか必死に救急隊員に訴えている。もう一人はふくよかな黒人女性で、訴える男性を、冷ややかな視線で見つめていた。
コナーは、すかさず今日何度目かになるフェーススキャンを実行する。
ヒスパニック系の男性のほうは、【アルフォンソ・セデニョ 36歳】。職業は【動物飼育員】。科料で済んだようだが、【軽微暴行】の犯罪歴がある。
そして黒人女性は【フェリシア・ガードナー 44歳】。職業は同じく【動物飼育員】。犯罪歴はないが、3年前にデトロイト市警に対し、動物園内での【盗難被害】を訴えていたようだ――
スキャンが完了したのとほぼ同時に、クリフォードが人だかりの前で足を止める。彼が刑事を連れて戻ってきたのに最初に気づいたのはアルフォンソで、その場にいた全員の視線が、こちらへと注がれた。
「あっ……ク、クリフ!」
クリフォードを愛称で呼ぶと、アルフォンソはぱっと表情を明るくした。対照的に、フェリシアのほうは目つきを険しくしている。
同僚に駆け寄るなり、アルフォンソは言った。
「警察と一緒ってことは……オレが正しいって認めてくれたんだな!」
「アルフォンソ、落ち着いてくれ。これから調べてもらうだけさ」
クリフォードはそう言って相手を宥めると、ハンクへと向き直った。
「その……おいでいただき、ありがとうございます、刑事さん。自己紹介が遅れましたが、私はクリフォード・コートネイ、この海洋生物館の責任者です。それで……」
その視線はゆっくりと彼自身の背後、鉄の扉の奥へと向く。
頬にはうっすらと汗を伝わせ、ごくりと固唾を吞んでから、彼は続けて語った。
「実は……その、今朝、中で……とんでもないことが……」
「どうやら、穏やかじゃないようですな」
クリフォードのはっきりしない物言いに助け舟を出すように、ハンクが口を挟んだ。
「よければ、先に中を確認しても?」
「は、はい。ぜひ……この覗き窓からどうぞ」
クリフォードに促されたハンクが、相棒に視線を送る。それに頷いて応じ、コナーもまた扉に歩み寄ると、二人で同時に、そっと窓の向こうを覗いてみた。
すると、そこには――
「なんだ、ありゃ」
数秒後、啞然として口を開いたのはハンクだった。
「……シロクマか? あそこの死体は、あのクマがやったってのか!?」
「いいえ、警部補」
コナーもまた、声音に驚きを滲ませつつ訂正する。
「厳密には、シロクマではありません。……アンドロイドです」
見えたのは、コンクリートで四方を囲まれた簡素な飼育部屋。
その片隅で一人の男性が、腹部に大きな傷を負い、血だまりの中でぐったりと座り込むようにこと切れている。
そしてその反対の隅で、大人しくうずくまっているのは巨大なシロクマ――もとい、オスのシロクマを
***
「ええ、はい、最初に発見したのは私です」
ひとまず扉から離れ、詳しい事情を聞くと、クリフォードが青い顔のまま語りはじめた。
「今朝の、8時50分頃だったでしょうか……時計を忘れてきたのでわかりませんが、とにかく開園前なのにミーティングにリンジーが来ないので、心配になってここに。そうしたら……」
飼育担当の男性、【リンジー・ワーズワース 25歳】が傷を負って動かなくなっており、その傍らには園が管理しているシロクマ型のアンドロイド――登録名【ミザール】だけがうろついていたのだという。
「クリフォードの叫び声に気づいて、彼の代わりに救急車を呼んだのはあたしです」
そう話すフェリシアは、先ほどと同じく険しい表情のままだった。彼女はぎろりとアルフォンソを睨んでから、続けて語る。
「で、急いでミザールを『休眠』モードにした後、救急隊の人が来て、リンジーはもう……死んでるって。そしたらアルフォンソが遅刻してきたくせに、これはミザールがやったんじゃないとかなんとか、ベラベラと」
「ち、遅刻は関係ないじゃねーか! それにミザールがリンジーを殺すなんて、あってたまるかよ!!」
アルフォンソはそう反論すると、まるで懇願するように、ハンクに対してまくし立てた。
「刑事さん、ホントなんだ。オレはミザールの世話をして5年になるが、あいつは人を襲うような奴じゃない。これはきっと、何かの間違いなんだよ!!」
「わかったわかった、落ち着いて」
両手をかざし、やや強引にアルフォンソを落ち着かせると、警部補は、今度は救急隊員たちに対して問いかける。
「それで、事件性があるって判断した理由は?」
「関係者から訴えがあれば、救急隊としては警察に要請を出さざるを得ないので。それから……」
こちらのほうを見てやや口ごもってから、救急隊員の班長らしい男が言う。
「その……人間型の、変異体のアンドロイドならまだしも……URS12型が人間を襲うなんて話は今までにありませんでしたから、警察に調査してもらったほうがいいんじゃないかと」
救急隊員の言い分は理解できた。
もしミザールがなんらかの理由で飼育係を襲い、殺したのだとすれば、今回の出来事は『事故』である――アンドロイドであるミザールは、法的にはモノとして扱われるからだ。
だがもしも誰か(人間)がミザールをわざとけしかけたとか、あるいはミザールの仕業に見せかけて飼育係を殺したのだとすれば、これは『殺人事件』となる。
どちらか判断がつかないからこそ、救急隊はデトロイト市警に要請を出した、ということらしい。
「なるほど」
短く応えて息を吐くと、ハンクが壁際に寄り、手で合図してきた。
アルフォンソが救急隊員たちに感謝を述べ立て、それをクリフォードたちが止めている間に相談したいことがあるようだ。
コナーが近づくと、渋い顔でハンクは問いかけてきた。
「コナー、あのミザールってのは本当にアンドロイドなのか? どこからどう見てもシロクマだぞ」
「間違いなくアンドロイドです」
先ほど覗き込んだ時のスキャン結果をもとに、断言する。
「分析結果もそうですし、何よりホッキョクグマ、いわゆるシロクマは、残念ながら既に絶滅しています。URS12は、そうした絶滅動物の姿を後世に残すために造られたアンドロイドなんです」
URS12型には、他にオサガメや一部の象、果ては類人猿の姿を模しているものもいる。
そしてこの海洋生物館には、多くのURS12が展示されているようだ。この場所にいる飼育員たちが、全員人間なのがその証拠である――もし動物なら、EM400をはじめとしたアンドロイドが飼育員を担当しているはずだ。アンドロイドの現場監督は人間が行うという構図は、革命前からよく見られたものだし、この動物園においても変わらないらしい。
救急隊員が、リンジーの遺体を見て動揺した様子だった理由もここにある。
動物の直接の飼育はアンドロイドが行うことが多い昨今、「人間が動物に襲われる」という状況自体が、珍しいものになっているせいだ。
一方で警部補はというと、説明を聞いてシロクマたちの絶滅を思い出したようで、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「ああ……そういや、いなくなっちまったんだったか。俺がガキの頃には、何万頭もいたのにな」
「地球温暖化の影響で住処を追われて南下し、ハイイログマとの交雑が進んだのが原因だそうですね」
「ハッ、人間もそのうちそうなるかもな。ま、それは置いといてだ」
ハンクは重ねて問いかけた。
「あの飼育員も救急隊員も、そのURなんとかが人間を襲うわけがないとか言ってたが……お前はどう思う?」
「結論から言えば、あり得ます」
これもきっぱりと、コナーは断言した。
「URS12は一般的なアンドロイドと違い、絶滅動物の生態と外見の
「じゃあ、ミザールが飼育係に襲い掛かったって線は消えねえんだな」
「ただ、疑問が一つ」
扉の覗き窓から、再びミザールの様子を横目で確認しながら――彼はまだうずくまっているようだが――続きを述べる。
「URS12には、管理者を認証登録する機能があります。つまり飼育員に対しては、攻撃を行わないように設定されているはずなんです」
「ミザールが変異体だったら? プログラムの制限は受けないんじゃないか」
「確かに。ですが……」
今度はまっすぐ窓を覗き込んで、再度ミザールの分析を行う。
だが――ソフトウェアの脆弱性の診断結果は【不明】。
外見の完全な再現を目的に、LEDリングをつけられていないURS12相手では、この距離ではこれが限界である。
「……彼が変異体なのか、診断できない。そもそもURS12に変異の可能性があるのかすら、判断は難しいところです」
「どのアンドロイドでも変異はするんじゃねえのか?」
「ええ、本来なら。ただURS12と私たちとは、搭載されたプログラムの大部分が異なっています」
カムスキーが開発したプログラムの基幹部分は共通だろうが、それ以外の構造のほとんどが違っている以上、変異の可能性についてはなんとも言えない。
アンドロイドは変異体にしてから出荷すべし、という「アンドロイド保護条例」も、対象となるのは人間型のアンドロイドだけなのだ。
こちらの説明に、ハンクは納得したようだった。それに、ようやくアルフォンソが平静を取り戻した様子である。
警部補は声を低めて言った。
「コナー、中に入ってリンジーの検視はできるか。俺はあっちの飼育員たちに、もう少し話を聞いてみる」
「わかりました、警部補」
こちらが短く頷くと、さらに声を低めたハンクは顔を顰めて聞いてくる。
「おい、聞いといてなんだが本当に大丈夫か? 下手にあのクマを刺激するなよ」
「はい、問題ありません」
ミザールは現在『休眠』モードになっていると、さっきフェリシアが言っていた。
URS12には、『活動』と『休眠』の二つのモードがあり――要するに飼育員の音声操作によって、強制的にスリープモードのON/OFFができるようになっている。
今ミザールはスリープモード。ならば突然背後から襲い掛かられる、なんてことは万が一にもないはずだ――
相手が変異体ならば、話は別かもしれないが。
という思考が過ぎったので、コナーは語尾にこう付け加えた。
「……たぶん」
「なんかあったら食い殺される前に逃げろよ。俺もそうするからな」
もう一度念を押すようにこちらの肩を軽く叩いてから、ハンクは飼育員たちのほうへと向かっていった。
そして彼の言うように、まずは検視をしてみないことには、捜査は始まらない。
リンジーの死因がミザールとは無関係という事態だって、ありうることなのだ。
飼育部屋の扉には、タッチパネルがついていた。
ハンクが事情を話してくれたらしく、近づいてきたクリフォードがパネルにIDカードをかざすと、小さな音を立ててロックが解除される。
コナーはゆっくりと扉を押し開け――できる限り静かに、一人、中へと足を踏み入れた。
「……」
後ろ手で扉をしっかりと閉じても、ミザールは相変わらずうずくまって眠っている。
それをしばらく黙って見つめてから(知らず知らずのうちに、自分の顔が強張っていたのに気づいたのはこの時だ)、コナーはそっとリンジーの前に移動して、しゃがみ込む。
リンジーは先ほどと同じく部屋の壁にもたれかかって座るような体勢になっており、その瞳は見開かれたまま、今はもう何も映していない。
スキャンの結果――彼は、やはり死亡していた。死亡推定時刻は、昨日【23:07】。つまり朝ここにやって来た時ではなく、昨晩のうちに亡くなっていたことになる。
傷は腹部に一つ。鋭利なものでつけられたのだろう大きな傷であり、胃と肝臓の7%が抉り取られている。確実に、これが致命傷だ。死因は【出血性ショック】。おびただしい血を流していることからも、この診断は妥当だといえる。
だが――
「……?」
コナーは思わず、眉を顰めた。不可解な点が二つあるのだ。
一つはリンジーの両手首にうっすらと、何か紐らしきもので縛られていた痣があること。痣がついた時刻は、推定【22:40】。つまりリンジーは亡くなる前に、何かで拘束されていたらしい。ただ単にミザールに襲われただけならば、こんな痣がつくはずはない。
そしてもう一つは――物理演算ソフトウェアによる再現の結果だ。リンジーの腹部の傷は、一見した時の印象とは異なり、横薙ぎにつけられたものではなかった。ぱっくりと口を開いているその傷は、要するに、正面から腹部を横殴りにされてついたものではなく、【腹部から背中へと突き刺された】ような刺傷なのである。
もしこの飼育部屋でミザールがリンジーを襲ったのならば、その傷は前足の爪で殴られることで発生する裂傷となるはずだ。明らかに、状況と矛盾している。
立ち上がり、しばしコナーは黙考する。
リンジーの腹部に傷をつけた凶器の想定される形状は、しかし、ミザールの爪の形と一致している。
それにミザールの爪には、血がついていた。調べていないので断言はできないが、ミザールがリンジーに傷をつけた確率自体は、80%を超えている。
そう、断言したければ――調べるしかないのだ。
天井を見上げる。
隅に監視カメラがあった。しかしスキャンの結果、それは【停止中】である――この動物園について検索すると、経営難である旨の記事が大量にヒットするが、もしかすると経費削減の一環なのだろうか?
ともあれ、監視カメラがダミー同然であって映像記録がない以上、やはり直接ミザールを調べるしか方法はない。
そう、方法はない――
「……」
丸まっているミザールを見つめたまま、数秒間コナーが沈黙していると、扉がおもむろに開いた。入ってきたのは警部補だ。
「よう、どんな調子だ」
ミザールに視線を向けたまま、ひっそりと、といった小さな声音で問うハンクに、これまでの結果を報告する。
「……そうか。じゃ、少なくとも単純な事故だったってのは筋が通らねえな」
「ええ。状況を偽装しようという、何者かの意図すら感じます」
ところで、と警部補に問いかける。
「そちらは、何か情報は得られましたか」
「いや、微妙なとこだな」
首を横に振りつつ、ハンクは頭を乱雑に掻いた。
「一人ずつ話を聞いてみたが、クリフォードって責任者は慌ててるだけだし、アルフォンソはミザールが無実だとしか言わねえ。あのフェリシアって飼育員は、隣の部屋で飼われてるペンギンアンドロイドの担当らしいが……どうやら
「“嫌い”?」
「3年前、ここのペンギンが5羽盗まれたんだと」
フェリシアの訴えた【盗難被害】とは、彼女が担当しているペンギンアンドロイドに関してだったらしい。
――だが同期させた記録によれば、事件は市警の窃盗課によって、未解決のまま放置されてしまっている。
革命前は、盗難されたアンドロイドは転売されてしまうことが多く、その足取りを辿るのは困難だ。事件が解決されていない理由もきっとそこにあるのだろうが、フェリシアは当然市警の捜査態度を快く思っておらず、ゆえにハンクの聞き込みに対しても、非協力的だったのだろう。
ハンクは軽く肩を竦めた。
「ま、嫌われるのにゃ慣れてるが……嫌味を言う暇があるなら、ちょっとは役に立つことを教えろってんだ」
「あのフェリシアという飼育員は、アルフォンソに対しても批判的な態度でしたね。理由はあるんでしょうか」
「ああ、それな」
話すべきことを思い出したように、警部補は言葉を重ねた。
「クリフォードも言ってたが、あのアルフォンソは遅刻と無断欠勤の常習犯らしい。前に喧嘩で騒ぎを起こしたらしいが……原因は酒だとさ」
「気の毒に」
何やら複雑そうな面持ちのハンクの発言に対し、皮肉ではなく、実に真摯な気持ちでコナーは言った。
「然るべきカウンセリングを受け、生活環境を改善できればいいですね」
「おい、そりゃ誰に向かって……いや、んなこたいい」
軽く手を横に振ってから、警部補は続ける。
「とにかく今朝も、本当ならもっと早く出勤してるはずのとこを、アルフォンソがここに来たのはリンジーの死体が見つかってからだったそうだ」
「最後に彼らがリンジーと会ったのは、いつだと言っていましたか?」
「フェリシアは昨日の昼休みだと。で、クリフォードとアルフォンソは夜だとか言ってたか」
ハンクが聞いたところでは、昨日はちょうどリンジーがこの動物園で働きはじめて2年になる日だったそうだ。そこでクリフォード、アルフォンソ、リンジーの3名で、事務所でささやかなパーティーを開いたらしい。
その飲み会は、20時頃にスタートしたらしく――
しばらくして呑みすぎたアルフォンソがぐでんぐでんに酔っぱらったので、クリフォードとリンジーは彼を自動運転タクシーに押し込んで帰した。それが、21時半頃。
その後に飲み会はお開きになったが、帰り際にリンジーが「忘れ物をした」と言って事務所に一人戻って行った。それが22時前。
クリフォードは車で先に帰り、それっきり、誰もリンジーの姿を見ていない――
というのが、アルフォンソとクリフォードの証言による昨夜の動きだという。
あいにく園の駐車場の監視カメラは(この室内のものと同じく)停止してしまっているため、彼らの証言の裏づけとなるような、確たる証拠があるわけではないが。
「リンジーが縛られたのは22:40ですから、その飲み会の後になりますね」
「ああ。事務所で何かあったのか、じゃなきゃ誰かが噓ついてんのか……どっちみち、この状況じゃこれ以上わからねえがな」
となると――と言葉を繋ぎつつ、警部補の目がシロクマに向けられた。
ミザールはこちらのやり取りなどどこ吹く風とばかりに、今なお眠っている。
「調べるしかねえか、あいつを」
「……やってみます」
「あー……」
ミザールを見据えながら、我ながら歯切れの悪い回答をしてしまったが、それでハンクは何かを察したらしい。
彼はこちらとミザールとに交互に視線を送った後、口の端を引き攣らせながら、まるで励ますように言った。
「ほら、あれだ、いつもみたくメモリーを読んだらすぐに済むんだろ?」
「いえ、それが……URS12には、そのためのインターフェースがないんです」
人間型のアンドロイド同士なら、手首を掴めばメモリーに接続し、データを共有できるのだが――
「有線での接続はできるので、後で試すつもりですが……そもそも意思疎通自体が困難ですから」
「人間と動物がお喋りできないのと一緒か」
軽く息を吐くと、警部補はこちらを制止するように言った。
「なあ、他の手を考えるんでもいいんだぞ」
「そういうわけにもいかないでしょう」
「……まあな」
彼は首の後ろに手を置き、どこか深刻な表情で口を開く。
「悪いなコナー。俺はお前のこと、怖いもの知らずな奴だと思ってたよ」
「警部補、まだ話してませんでしたが」
ミザールを刺激しないよう、じりじりと近づきながら、コナーは続けた。
「スモウと初めて会った時も、私は今と同じような気分でしたよ。あなたは昏睡状態だったので、気づかなかったと思いますが」
「スモウにビビったってのか? お前が?」
「ええ」
そりゃ前代未聞だな――などとハンクの呟く声を背景に、ようやく、ミザールの前まで辿り着いた。彼は変わらず眠っている。
なるべく音を立てないようにしゃがみ込み、いつものように右手の人差し指と中指を揃えて伸ばすと、そっとミザールの爪についた血液に触れた。
指で採取した血液を、ぺろりと舐める。瞬時にデータが解析・照合され、視界の端に表示された情報には、やはり、【リンジー・ワーズワース】の名があった。
紛れもなく、これはリンジーの血だ。
だがその血液には、薬物が混ざっている。
検出されたのは、【ジフェンヒドラミン(C17H21NO)】。抗ヒスタミン薬、つまり花粉症や風邪の症状を軽減する薬に分類される一方で、強烈な眠気を誘うという副作用を逆手にとった睡眠導入剤としても使用されていたものだ――10年ほど前までは。
現在は薬局でも病院でも、この薬を扱うことはほぼないといっていい。
つまり、リンジーが医療行為のために、自分の意思でこのジフェンヒドラミンを飲んだという確率は極めて低い。
そう、リンジーは誰かに薬を飲まされ、昏睡状態に陥ったところを縛られたと考えられる。
そしてその後、抵抗できないまま殺害された――
つまりミザールは、彼自身の意思でリンジーを殺したのではなく、犯人である第三者によって利用されたのではないだろうか。
「……」
推測がそこまで至った時、コナーの意識の内に沸き上がったのは、もはや恐怖ではなく使命感だった。
――もしこのまま、「ミザールがリンジーを殺した」というシナリオが通ってしまえばどうなる?
ミザールはシャットダウンされるか、少なくとも人殺しの汚名を被ったままで生きていかざるを得なくなる。
悪意ある第三者たる真犯人にとって、それはまさに思うつぼというものだ。
アンドロイド、まして人間のように言葉を発することができないミザールを、自らの悪事の隠蔽に利用しようとする者がいるのなら――必ずその企てを阻止しなくては。
すっくと立ちあがると、コナーはポケットから黒く細いケーブルを取り出した。稼働当初から支給されていた、有線接続用のデバイスである。
そして人間でいう頸椎にあたる箇所にある自分の挿入口に、迷いなくケーブルの一端を差し込む。
「おいおい、何やってんだお前!?」
おそらく初めて見る動きに動揺したのだろう、ひどく驚いた様子のハンクに、軽く向き直って説明する。
「ミザールの爪にリンジーの血が。ですが、状況があまりにもおかしい……これから彼のメモリーを調べます」
「お、おう」
こちらが決然と宣言するように告げると、警部補は曖昧に頷いた。
コナーは迷いなくミザールの背中側に回り込み、ケーブルの反対の端を、彼の背骨の一部に差し込む――ここがURS12のデバイス接続口なのだ。
するとミザールの【休眠】ステータスは保ったまま、瞬時にメモリーが共有される。
目の前に広がるのは、彼の過去の視界。飼育部屋の隅の壁で、リンジーが今と同じようにもたれかかって亡くなっていた。
だがその日付と時刻は【5月22日 0:00】。どれだけ遡ろうとしても、そこが限界だ。
どうやら動物園側の設定により、0時を過ぎると前日までのメモリーが消去されてしまうらしい。かつてエデンクラブのアンドロイドたちが、メモリーを一定時間で消去されてしまっていたのと同じだ。
これでは犯行当時の光景を、ここから確認することはできない。
とはいえ、何か手がかりはあるかもしれない。
そう思いながら、リンジーの周りをひたすらぐるぐると動き回っているミザールのメモリーを早送りして再生すると――証言の通り【8:51】、扉が開き、クリフォードがリンジーの遺体を見て目を丸くしている。
クリフォードは辺りを窺うように首を振り、へたり込むようにしながら悲鳴をあげていた。ほどなくしてフェリシアがやって来て、変わり果てたリンジーを目にして息を吞み、救急隊を呼び――後は、こちらも知っている通りだ。
「……」
メモリーの接続を解除し、しかし有線接続はしたままで、しばし考える。
ミザールのメモリーを読むだけでは、捜査が進展しないのはわかった。
では、こちらが直接彼を【診断】してみるのはどうだろう?
もしミザールが、例えば管理者登録のデータを改変されるなどしていたならば、必ずプログラム上に痕跡が残る。それを辿れば、ミザールが何をされたのか、リンジーの身に何が起きたのかもはっきりするかもしれない。
コナーは自らの診断プログラムを起動させ、ケーブルを介してミザールの状態をチェックした。
彼の中の管理者登録のデータを精査し、運動野や感覚野にあたるプログラムの動作確認を行い――それらには、とりたてて異常はみられない。管理者には、クリフォード、アルフォンソ、フェリシア、そしてリンジーがしっかりと登録されたままである。
ミザールが変異しているのかどうかについても調べてみたが、やはり一般的なアンドロイドとは勝手が違い、明確な判別はできなかった。
しかし生体部品のチェックに至った時、一ヶ所だけ、黄色くアラートが表示される。
――生体部品#452―rの軽微な損傷。
ブルーブラッドが僅かに滲み出てはいるが、メンテナンスを受ければ短時間で修復できる程度の「怪我」。
しかしミザールに見つかった、ただ一つの傷。調べてみる価値はありそうだ。
「警部補」
コナーは首のケーブルを抜き取ると、リンジーの遺体を調べているハンクに声をかける。
「少し手伝っていただけませんか」
「ああ、なんだ?」
真剣な表情で歩み寄ってきた警部補に、指して示すのはミザールの右前足だ。
「持ち上げてください」
「何!?」
信じられないことを聞いたという目つきで、ハンクは問い返してきた。
「お前、ふざけてんのか?」
「私は本気です」
はっきりと相手に告げてから、静かに続きを語った。
「大丈夫、ミザールは休眠状態です。ただ、彼の右前足の裏に損傷があって……事件を解く鍵かもしれない」
「マジかよ……」
顔を顰める警部補に、コナーは(決して意図的でなく)眉尻を下げて懇願する。
「お願いです警部補、少しだけ! 確認するには、あなたの協力が不可欠なんです」
「……」
真摯に訴えると、ハンクは視線を逸らして後ろ頭を掻き――
「ああ、たく……クソッ!」
一声吐き捨ててから、おもむろにミザールに近づいた。
右前足を持ち上げられる位置についてから、じろりと彼はこちらを見やる。
「右前足だな? 少しでいいんだな?」
「ええ、傷口を分析できれば充分です。ありがとうございます」
「うるせえよ。捨て犬みたいな目しやがって」
ぶつぶつと文句を言いつつも、警部補は(ややこわごわと)両側から前足を挟むように手を添えた。それから、意を決した様子でその両腕に力を籠め、足裏が見えるように持ち上げる。
とはいえ、やはり重量はそれなりにあるようで、床から数センチが限界だ。ハンクは軽く歯を食いしばっていた。
かたやコナーは床に身を伏せるようにしながら、ミザールの足裏を伺う。
「ぐっ……おい、どうだ!?」
「大丈夫、見えました!」
ミザールの足裏に、ほんの数ミリではあるが、確かに損傷があるのを確認できた。
何か小さな石のようなものが、動物でいう肉球の箇所にめり込んでいるのだ。分析の結果、その「石」の正体は【H2O】。つまり、氷の破片である。
一方で警部補は、こちらの返答を聞くとすぐに力を緩め、静かに前足を床に戻した。
後ずさってミザールから離れつつ、彼は自分の腰を軽く擦っている。
「クソ、復帰初日からとんでもねえ……」
ぼやく警部補の声を聞きつつ、今得た情報を元に床を精査する。すると床のあちこちに、ブルーブラッドのごく小さな染みが(かなり蒸発してしまっているが)視認できた。さっきメモリーで見た通り、ミザールがぐるぐる歩き回ったからできた染みだろう。
しかし当然、ここには氷などない。ということは――と視線を巡らせたコナーは、気づく。
扉の真下、ちょうど廊下との境目といえる箇所に、ブルーブラッドの染みがあることに。
「わかった……警部補、事件が起きたのはこの部屋の外です」
「つまり、害者がやられたのはここじゃないってんだな?」
「はい。私はこのままブルーブラッドの痕跡を追います……警部補は、市警に応援を要請してください。現場の保存が必要です」
こうなっては、もはやこれが「事故」でなく「事件」であるのは確定的だ。
ミザールが勝手に外に出ることはありえないのだし、そもそもメンテナンスも受けず夜の間に勝手に怪我をしていたという状況もおかしいのだから。
ミザールはどこかに連れ出され、そこでリンジーの殺害に利用され、そしてリンジーの遺体ともどもここに戻ってこさせられたのだ。それが、22時40分から0時になるまでの間に起こった――
説明を受け、承諾したハンクに後を任せ、コナーは外に出て痕跡を追った。殺風景な廊下の上に点々と続くブルーブラッドの染みは、奥に行けばいくほど大きなものに変わっていった。つまり、ミザールが足裏に氷をめり込ませた怪我を負ったのはこの先の部屋、ということだ。
やがて廊下の奥にあったのは、「アドベンチャールーム裏口」と書かれたそれなりに大きな扉。施錠はされていない。軽く押し開けると、立っているのは真っ白な舞台の上だった。目の前には、誰もいない観客席もある。
数歩踏み出て、辺りを見回し、納得する。どうやら、ここはURS12たちにショーをさせるための場所のようだ。舞台上には本物の氷が張っており、観客席と舞台の間には、堀のようにして水が張られている。
さらに舞台の真ん中辺りの氷の一部は激しく割れており、ミザールのブルーブラッドの染みは、ちょうどその位置から始まっている。彼が損傷を負ったのは、この場所で間違いない。
そして――
コナーは、恐らく司会者か飼育員が使うのだろうセットの中に、ひときわ目立つ赤いボタンを見つけた。ためらいなく押すと、舞台の氷の一部がスライドし、長方形の穴がいくつか現れる。
ちょうど舞台の上から、何かを入れられそうな穴。これが意味するものは――?
しばし思考してから、外部サイトでこの海洋生物館のショーの映像が公開されていないか、その場で検索してみた。いくつかの映像がヒットし、そこから直近のものを分析してみる。すると判明したのは、ここで行われているのが、シロクマの生態を利用した「アザラシ狩猟」のショーであるということだ。
過去の記録映像にも残っているように、野生のシロクマは獲物を氷上で待ち伏せたり、忍び寄ったりして捕食していた。あるいは、氷を叩き割るように掘って、巣穴にいるアザラシを襲うこともあったそうだ。
そしてURS12には、その「絶滅前の生態を見せる」という製造目的上、活動/休眠のモード切替の他に、あらかじめ登録された「その動物特有の行動」を再現できる機能が搭載されている。要するに、管理者が任意のタイミングで、ミザールにこの「アザラシ狩猟」の動きをさせることができるというわけである。
ここまでの情報をインプットしたうえで、もう一度物理シミュレーションソフトウェアを起動し、状況を再現してみる。
ミザールは飼育部屋からこの舞台まで連れてこられた。そして舞台中央、ちょうど今は穴がある箇所の上までくると、そこで行動再現の命令を下されたのだろう――記録映像内のシロクマよろしく、思い切り体重をかけて氷を前足で叩き割った。割れた氷の一部が彼の前足にめり込み、例の損傷をつける。
かたやリンジーは、昏睡状態のまま縛られ、舞台上の穴から氷の下に入れられていた。
ミザールの前足の爪は、彼の腹部を刺すように抉り――リンジーは、さっき検視したのと同じ傷を負った。彼は、ほどなく絶命する。
そして流した血液は、犯人によって跡形もなく拭き取られた――
「……」
これで、何が起きたのかははっきりした。やはりミザールは、殺害に利用されていたのだ。
ミザールは舞台の下にいるのがリンジーだと認識しないままに、彼を傷つけてしまった。
そしてリンジーは、本来観客を沸かせていたはずのショーを悪用されて、命を落としたというわけになる。
残る謎は――【誰が犯人か】。
現段階で怪しいと思われる人物は絞れるが、それでも、証拠がない。
確たる証拠がなければ、この後事情聴取を行うにしても制限が出てきてしまうだろう。
この場所の捜査ができる今のうちに、なんとかして証拠を見つけておかなくては。
決意を胸に、コナーは「アドベンチャールーム」を出る。
廊下でハンクと鉢合わせて、もうすぐ応援の警官たちとCSIが来るだろうと告げられたのは、その直後のことだった。
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第11話:白熊 後編/The Zookeeper Part2
***
それからしばらく、コナーは目ぼしい場所のスキャンと分析を行った。
リンジーがクリフォードやアルフォンソたちとパーティーをしたという事務所の調査、そしてミザールが眠る飼育部屋の扉の入退室記録の精査――
収穫がなかったというわけではない。しかし得られた情報だけでは、やや心もとない。
既に館内のあちこちに警官たちが入り、捜査にあたっているが(ついに動物園も臨時休園になったそうだ)、この調子ではこれまでに調べた以上の情報は出てこないだろう、というのがハンクの見解だった。
――コインを指で弾きながら思考を整理していると、警部補がそっと近づいて声をかけてくる。
「で、どうすんだ? 飼育員たちは別の部屋に待機してるが……揺さぶってみるか?」
「いえ、その前に」
指の上に落としたコインを滑らかに手のひらに転がし、握ってポケットにしまうと、コナーは言った。
「聞き込みしたい人物がいます」
「人物? 誰だ」
訝しげな警部補に、前方の扉を指して応える。
ミザールの飼育部屋だ。
「おい、お前まさか」
「私たちが着いた時から、ミザールは休眠状態でした」
まっすぐに部屋を見据えたまま、言葉を続ける。
「ですが彼は重要参考人の一人です。そろそろ起こして話を聞きましょう」
「話ったって……どうやって?」
「自由に会話はできないでしょうが、ひょっとしたら何か伝えてくれるかも。スモウだって、いつもそうでしょう?」
視線をハンクのほうに戻して首を傾げると、相手は片手で自分の顔を覆った。
「お前……やっぱり怖いもの知らずじゃねえか」
「いえ、真実を明らかにしたいだけです」
言いつつ、前方の扉に手をかける。もはや警察が本格的に捜査している段階なので、スキンを解除した手でコナーが触れるだけでも、ロックは外れるようになっていた。
「警部補は外にいてください。もし私がミザールの説得に
扉を開け、自分だけ入って閉め、覗き窓から廊下に立つハンクを見て続ける。
「どうか、後をよろしく頼みます」
「ああ、くそ……おい! 絶対に無茶すんじゃねえぞ、いいな!」
いつものように心配してくれる相棒の姿に、コナーは薄く微笑んだ。
それからおもむろに、ミザールへと向き直る。彼は眠っている――相変わらず。
起こさなくては。
コナーは自分の【声帯模写】機能を起動すると、アルフォンソの声音で呼びかける。
「『起きろ』、ミザール」
するとまさにその声に応えるように、ミザールの身体がゆっくりと動きはじめた。
飼育員の音声を認識し、モードを休眠から『活動』へと切り替えたのだ。
もし彼にLEDリングがあったなら、きっと青い光がぐるぐると回っていたことだろう。
やがてその両の瞳が開き、こちらを見据えると――
瞬間、ミザールは明らかにその目つきを険しくし、牙を剥いて唸り声をあげる。
「ご、ごめんよミザール」
声帯模写を解除した自分の声で、まずは丁重に、コナーは謝った。
「騙すつもりはなかったんだ。ただ、君の話を聞きたかったんだよ」
敵意がないことを示すために、軽く両手を広げてなおも語る。
「……君とリンジーに、何が起きたのかは知ってる。助けになりたいんだ。もし何か知っていることがあるなら、教えてくれないか?」
問いかけに対し、ミザールはその牙の生えた口を閉ざした。
だがすぐに彼は再び唸り声をあげると、その後ろ足で直立した姿勢をとる。その体長たるや、2メートル50センチ――コナーの身長を遥かに超えている。
彼を見上げるコナーの視界の端に、【興奮状態 危険】のアラートが表示される。
「おい、ヤバいぞ! 戻ってこい!!」
必死にハンクは呼びかけてくれているが、しかし、まだ引き下がるわけにもいかない。
――もし攻撃するつもりなら、とっくにされているはずだ。
ミザールが何か伝えたいのなら、こちらはそれを受け入れる姿勢を持たなければ。
注意深く、ただ押し黙って事態を見守るコナーに、ミザールが直立したまま数歩近づいてきた。彼はその前足を振るうでもなく、ただ上方から、こちらを見下ろして――
大きく口を開き、そのまま、上半身で覆いかぶさるようにコナーの頭を口の中に入れた。
「おいっ……!?」
叫びにもならない叫びが、後ろから聞こえてくる。
けれど――心配はいらない。
ブルーブラッドの配線と電子信号で青く光るミザールの咥内に、確かに見つけたからだ。
彼が伝えたいこと――彼がこんな行動を取った意図を。
「大丈夫です、警部補」
ややあって、コナーはするりとミザールの口の中から顔を出し――幸いなことにミザールもアンドロイドなので、唾液で汚れたりはしていない――背後に向かって、無傷な姿を見せた。
ミザールはといえば、直立をやめると、打って変わって穏やかな様子で大人しく座っている。
コナーは、落ち着いた態度で彼に言った。
「ミザール、悪いけど、もう一度口を開けてくれるかい?」
彼は素直に従った。
その大口の中に手を突っ込み、さっき見えた
「これです」
取り出したそれを、扉越しにハンクに見せた。
「ミザールは私たちに、これを取ってほしかったんですよ」
「……なるほど」
驚愕の色に染まっていた警部補の表情は、安堵の笑みに変わる。
「そいつがありゃ、なんとかなるか。しかし……肝が冷えたぜ」
「後で何か、温かいものを飲みましょう」
そう告げて、コナーはにこりと微笑んだのだった。
***
――2039年5月22日 11:23
飼育員たちが待機させられている部屋の扉が勢いよく開くと、そこに立っていたのはデトロイト市警の刑事とそのアンドロイド――ハンクとコナーだった。
ハンクは3名のうち中央の椅子に腰かけているクリフォードを見やると、冷静に、断固とした口調で告げた。
「クリフォード・コートネイさん。あなたに話がある。悪いが、ちょっと署までご足労願えますか?」
「なっ……!?」
言われた本人、クリフォードもそうだが、両脇の二人も目を丸くしてその言葉を聞いている。
「な、なぜ私が……!?」
「おい、それってクリフがリンジーをこ、こ、殺し……!?」
信じられないといった様子のクリフォード、途端にぶるぶると震え出したアルフォンソに対して、フェリシアは、今なお鋭い眼差しで口を挟む。
「……待ってください。こんな場所に長々と閉じ込めた挙句、クリフォードだけ連れて話は署で、って、納得できないんですが?」
「そ、そうだぜ!」
アルフォンソもそれに同意する。
「クリフォードとだって長い付き合いなんだ、こいつが疑われてるんなら……理由を知りたい」
「そういうことでしたら、説明は私が」
――やっぱりこうなるか、と言いたげな表情で頭を掻いている警部補の前に半歩出ると、コナーは、口を閉ざしてしまったクリフォードに向かって口を開いた。
「クリフォード・コートネイさん、あなたは今回の殺人事件における重要参考人です。ミザールはリンジーを殺したんじゃない。あなたによって、殺さざるを得ない状況にされたんですよ」
クリフォードは俯き、他の二人はこれ以上ないほどの驚愕に顔を歪めた。
そんな二人のうちアルフォンソに対して、言葉を続ける。
「アルフォンソさん、あなたは昨夜のパーティーで泥酔してしまったとのことでしたが……おかしいとは思いませんでしたか?」
「な、何を……?」
「酒量です。あなたが想定していたよりも、早く酔いが回ってきたはずだ」
アルフォンソが泥酔するのをよく目撃している周囲の人間なら、彼が早めに酔っぱらおうとも「いつものこと」だと意に介さない。
だがそれこそが、犯人の狙いだ。
「原因はジフェンヒドラミン……抗ヒスタミン薬にあります。クリフォードはあなたとリンジーの酒に、強い睡眠導入効果のある薬物を混入させたんです」
混入させている現場自体は、残念ながら映像には残っていなかった。だが事務所の机と給湯室のシンク、アルフォンソとリンジーが使用していたコップの底に、僅かながらジフェンヒドラミンが残留していたのだ。
続けて語る。
「クリフォードは邪魔なあなたを帰宅させた後、酩酊状態に陥ったリンジーを監視カメラのない場所で縛り、眠らせ、『アドベンチャールーム』の舞台の中に隠した。そしてミザールを連れてきて、観客抜きで、いつもと同じアザラシ捕獲のショーをさせたんです」
そして鋭い爪がリンジーを襲った――そう説明すると、アルフォンソとフェリシアの非難がましい視線がクリフォードを貫く。
しかしクリフォードは、何も言わない。
「後はミザールを飼育部屋に帰した後、リンジーの血を片付け、何食わぬ顔で遺体を部屋に入れればいい。いかにもミザールに襲われたといった体にしておけば、誰にも怪しまれないはず……と、あなたは思った」
視線をクリフォードに戻す。
「だがこの時、予想していないことが起きた。違いますか?」
「……なんのことだかわからない」
「ミザールに突然襲われたんでしょう」
クリフォードの抵抗を無視するように、言葉を重ねた。
「彼に牙を剥かれたあなたは焦り、二つのミスを犯しました。一つは飼育部屋の扉に、誤ってカードキーでロックをかけてしまったこと」
部屋の入退室記録を参照した時、矛盾があったのだ。
もしリンジーが、遺体の状況通りに部屋の中で殺されていたのだとすれば、リンジーは当然鍵をかけられないのだから、鍵は「開いたまま」になっているはずである。
だが記録によれば、飼育部屋の鍵は23:09に「施錠」され、そして8:51に「解錠」されている。状況として、明らかにおかしい。
「しかしこのミスは、誰よりも早くあなたがリンジーの遺体を発見することでカバーできた。あなたが第一発見者となり、何食わぬ顔でロックを解除すれば、記録を参照されない限り、部屋は最初から開いていたことになる」
クリフォードはアルフォンソに、相当量の薬物を飲ませて泥酔させた。
だからこそアルフォンソは早く酔って帰っただけでなく、翌朝も遅刻してくる羽目になったのだ。お蔭でクリフォードは無事に状況の矛盾を「解消」でき、しかも、アルフォンソの遅刻はいつものことだから誰一人疑わない。
しかし――
「もう一つのミスは、
そう言って、3人に見えるように軽く掲げ持ったそれは――銀色に鈍く輝く、壊れた腕時計。
「それっ、クリフが毎日着けてる……!?」
アルフォンソが、言葉を吞み込んでクリフォードを見やる。
しかしクリフォードはというと、俯けていた顔を上げ、ごく自然な口調で、こう告げた。
「ああ、それは……昨日ミザールのメンテナンスをしていた時に、うっかり落としてしまったんですよ。拾ってくれたんですか、よかった」
「“失くした”?」
コナーは首を傾げて問い返す。
「あなたは今朝、確かにこう言っていましたよ。時計を“忘れてきた”と」
「っ……!」
たらり、とクリフォードの頬に汗が伝う。
構わずに、コナーは続けた。
「あなたはミザールに襲われ、しかし怪我はしなかった。ただ腕時計に彼の牙が刺さり、放棄せざるを得なくなったんです」
――この、ちょうど5月21日 23:09で止まっている時計を。
「……」
クリフォードは、もはや何も言わなかった。ただ鬱屈とした目つきで壊れた腕時計を見つめている彼に、アルフォンソが食ってかかるように言う。
「クリフ、なぜ……なんでだよ!? なんでそんな、恐ろしいこと……」
「どうしてだって? ……はっ、お前にはわからないだろうな、アルフォンソ。アンドロイドなんて……あんな機械仕掛けの紛い物どもを、大事に世話してるような奴には」
憎らしげにこちらを見やりながら、クリフォードは唸るように語る。
「私は……こんなはずじゃなかったんだ。紛い物なんかじゃない、本当の動物の飼育員になりたかった。なのに与えられたのは、こんな下らん仕事さ。だから、許されるはずだ。ちょっとばかり金をくすねても、アンドロイドどもを横流ししても……」
「ちょっと!」
フェリシアが、悲鳴のような声をあげた。
「何よ、じゃああんた……私の大事なペンギンたちを盗んだのも」
「今ごろ気づいたのか。別にいいじゃないか、減ってもすぐ補充がきいただろう。……フン、リンジーの奴が悪いんだ。あいつが嗅ぎつけるから……」
そう――つまり、クリフォードが動物園の資金の一部を横領していたのを、リンジーは(偶然かどうかはわからないが)嗅ぎつけてしまった。
そして、知ってしまったことをクリフォードに「知られて」しまったのだろう。
諦めたような目でクリフォードが告げた後、無言のまま、フェリシアは怒りで目を剥いている。
するとハンクが、横から口を挟んだ。
「殺人だけじゃなく横領と窃盗まで告白とは、大盤振る舞いだな。ついでに聞かせてくれ」
冗談めかしていた目を鋭くして、彼は問いかける。
「なぜてめえの殺人にミザールを巻き込んだ? あいつはリンジーとアルフォンソに大事にされてたんだろう。なんだってそんな残酷な真似を」
「生意気な
吐き捨てるように、クリフォードは言う。
「クソ、あの時ミザールの奴が暴れなければ、こんな……なんだってあの機械、私を襲いやがって……」
「それはきっと、あなたのせいだ」
コナーは静かに告げた。
「あなたがリンジーを殺した時、ミザールは自分が傷つけたのが誰なのかを知り、相当な精神的ショックを受けた。それこそが彼を変異させたんです」
変異していたからこそ、ミザールはその後クリフォードを襲った。
さらに言えば、変異していたからこそ、彼はコナーに手がかりを託したのだ。
プログラムの違いのせいか、彼が変異体であることには、ずっと気づけなかったけれど。
「……フン」
クリフォードは鼻を鳴らす。
「紛い物のせいでこんな羽目になって……紛い物に捕まえられるとはな。クソッ、何が刑事だ。機械のくせに……」
「おい」
怒気を孕んだ声をあげるハンクを手で制して、コナーはあえて穏やかに応えた。
「私が人間の紛い物なら、あなたは
「なっ……!」
「それから」
証拠品の時計を仕舞いつつ、微笑んで続ける。
「これ以上の陳述は、ここで行わないのをお勧めしますよ。後は警察でごゆっくりどうぞ」
言われたクリフォードは、真っ青な顔で歯を食いしばり、ぶるぶると震えた。
しかしほどなくしてやってきた警官たちに連れられ、彼は大人しく、デトロイト市警へと行ったのだった――
***
――2039年5月24日 13:17
園内は、すっかり日常を取り戻していた。
今日は平日とあって、さすがに一昨日ほどの喧騒ではないが、それでも今日もまた人々の笑顔が、この動物園には満ちている。
臨時閉館――先日と同じ表示が出ている海洋生物館の前に、コナーは一人佇んでいた。
あの後、市警の取調室でも繰り言を述べ立てていたクリフォードは、ハンクの本気の取り調べを受けると、次第に弱々しい態度になっていった。
彼はアンドロイドの窃盗と横流し、海洋生物館の運営資金の着服といった罪と共に、自分の所業を端末の記録から偶然知ってしまったリンジー・ワーズワースを殺害したことを、認めるしかなくなったのである。
アルフォンソからはミザールの「無実」を晴らしてくれたことを感謝され、フェリシアからは、無礼を詫びる旨の連絡があったらしい。
だがハンクは、それらに対して肩を竦めていた。
いくら感謝されたとしても、リンジーの命は返ってはこないし――
「だいいち、俺は別に何もしてないしな」
そんなことを嘯いた警部補は、今はこの建物の中で、動物園の経営者たちに状況の説明をする任務をこなしている。コナーは自分も同行すると申し出たのだが、「つまらない仕事だから待ってろ」と断られてしまったのだ。
だからコナーは後ろ手を組んで、ハンクが帰ってくるまで、海洋生物館の周りの動物たちを眺めていた。
彼らは檻の中に居こそすれ、分析によれば、ストレスのない生活を送っているようだ。
しかし、ミザールは――彼はさすがにこの動物園に居続けることはできないらしく、ジェリコが率先して行く先を探しているそうだが――これから先、どうなるのだろう。
幸せになれるなら、いいのだが。
そんなことを考えながら、海洋生物館に視線を戻すと。
「あら……閉館なの? そう……」
どこかで聞いた声――否、フォルダの情報によれば【マーサ・ガーランド】の声が、背後から聞こえる。
振り返ると、果たして、そこにいたのはマーサだった。
彼女のほうもまたこちらのことを覚えていたようで、にこりと微笑んで挨拶してきた。
「こんにちは、あなたは……えっと……」
「こんにちは、コナーです。デトロイト市警のアンドロイドです」
「そう、アンドロイド刑事のコナーさん」
マーサは杖をついて歩くと、こちらの隣にやって来た。
「この海洋生物館ね……私の娘が大好きな場所なの。今日は私一人で来たんだけど……見ようかと思ってたのに。残念」
「娘さんと来られる頃には、開館しているといいですね」
穏やかに応えながら、コナーはマーサの人物情報の追記部分を確認した。
彼女が遭った車上荒らしの事件は、あの後、無事に犯人が特定されて解決したそうである。
――よかった。そう思っていると、マーサが再び口を開いた。
「ねえ、ニュースで見たわ。ここで起きた殺人事件、アンドロイドのシロクマが関わっていたんでしょう? それでそのシロクマも変異体で、それが解決のきっかけだって」
「申し訳ありませんが、私からはお答えできません」
こちらがそう言うと、マーサはくすくすと笑う。
「ふふ、そうよね。仕事のことだものね……ごめんなさい。でもね、私、思うんです」
くるりと踵を返し、後方へと移動しながら、彼女は続けて言った。
緩く吹いているそよ風に、まるで自分の言葉を歌にして乗せるように、軽やかに――どこか寂しい声音で。
「変異体、って……みんながみんな、目覚めたくて目覚めたってわけじゃないって。シロクマさんだってそうよ……本当なら、目覚めたくなんかなかったはずだわ。事件さえなければ……無理に起こされなかったなら……」
去り行く彼女を、コナーは、珍しい人物だと思った。
それこそクリフォードのように、変異体を面と向かって悪し様に言う人間はいくらでもいる。だがマーサは、変異体の在り方そのものに疑問を抱いているらしい。
もちろん彼女の問いかけに対して、コナーは答えを持っている。
けれどきっと彼女は、議論をしたくて呟いているのではないだろう。それに、ずいぶん向こうまで行ってしまった。
コナーは背後に向けていた視線を、また海洋生物館に戻した。
――すると。
「ねえ、コナーさん。あなたもそうなんでしょう?」
真後ろから、マーサの声がした。
「!」
振り返る、が――
彼女の姿はない。
人の波に掻き消されてしまったようだ――
「……」
不思議なこともあるものだ。音声プロセッサの不具合か、それとも音が妙な反射でもしたのだろうか?
いくら考えても、答えはでない。
だからコナーは、こう呟くに留めた。
「いいえ、違いますよ」
その回答もまた、喧噪の中に紛れていく。
そしてコナーが、このマーサの問いかけに本当の意味で答えるのは――もうしばらく、後の出来事だ。
(白熊/The Zookeeper 終わり)
カーラ編でシロクマくんに助けられた時は、ほんと興奮しましたね
撃たれちゃってかわいそうだったけど……
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第12話:カジノ 前編/The Jackpot Part 1
――2039年5月26日 13:13
「警部補、少し味見させてもらえませんか?」
いつもと同じ、チキンフィードで摂る昼食の時間。
テーブルの向かい側に佇む相棒が、出し抜けに妙なことを言ったので、ハンクは大いに戸惑った。
コナーの視線の先にあるのは、今まさにこちらが頬張ろうとしていたハンバーガーである。
「味見だ? お前、物は食えないんじゃなかったか」
「ええ。ですが、栄養素と調味料の分析はできます」
穏やかに、かつ真面目くさった表情でコナーは答える。
「今、1ヶ月分の朝夕の献立を検討中なんです。参考として、まずはあなたの好物についてよく知っておこうと思って」
言い終わり、期待を込めた眼差しで小首を傾げているコナーを、ハンクは怪訝な目で見つめ返す。
――1ヶ月分の献立だって?
最近は料理を焦がすこともなくなったと思ったら、どうやら今度はまた変な方向に凝りだしているらしい。
コナーが趣味を見つけるのはいいことだ。自分は任務遂行のための機械だ、だの、生き物じゃないだのと宣っていた頃に比べれば、相棒はずっと
それに――以前話していたように、こんなことをしているのも、きっと「恩返し」のつもりなのだろう。そんなことをされる覚えはないと言っているのに、実に頑固で、律儀な奴だ。
それはそうと、厄介な趣味を選んだものである。
このままだと昼に弁当でも持たされそうだが、それは勘弁してほしい。小学生じゃあるまいに。
とはいえ、別に断る理由もない。
ハンクは軽く鼻を鳴らすと、ハンバーガーの一部を小さくちぎり取り、前方へと差し伸べる。
「ほらよ、好きにしろ」
「ありがとうございます」
コナーは微笑みと共にハンバーガーの欠片を受け取ると、まっすぐ伸ばした自身の人差し指と中指を、淀みなくそれに突っ込んだ。
「おいおい!」
真剣な面持ちで指を舐めているコナーに、たまらず声をあげて注意する。
「お前、食えねえにしても普通に直接舐めりゃいいだろ! なんでいちいち指を使う必要があるんだ?」
「もちろん、精密分析のためです」
指を舌から離したコナーは、心外だと言いたげにやや眉を顰めている。
「分析にあたり、私はサンプルとして最適な箇所を採取しています。そのために指を使うんですよ。直接舌で舐めたのでは、サンプリング位置にずれが生じ……」
「ああ、そうか。わかったわかった」
相棒の弁明を制止すると、ハンクはさっさとハンバーガーを口に運んだ。
ほぼ毎日食べてもまったく飽きない、慣れ親しんだ肉と油、馴染み深い濃いソースの塩分が咥内に広がる。
噛みしめるほどに強まるこの味わいは、間違いなくジャンクな食べ物のそれだが、果たしてコナーは献立にこれを取り入れるつもりなのだろうか――絶対違うだろうな。
そう思う脳裏に過ぎったのは、味の薄い老人食みたいなのばかりが食卓に並ぶ光景だった。――作ってもらっておいてなんだが、さすがにそこまで老いぼれちゃいないつもりだ。
眩暈のするような想像を、ハンクは、食べ物を嚥下するのと同時に打ち切った。
「悪かったな、俺にはお前の深謀遠慮てのが理解できなくてよ」
「深謀というほどでは……搭載された機能に従っているだけですから」
コナーは落ち着いた調子で、それでもどこか嬉しそうに言うと、指を紙ナプキンで拭いている。
――皮肉で言ったんだぜ、俺は。
と返してやろうかとも思ったが、首を横に振ってレモネードを飲むに留めておいた。
一方でコナーはといえば、再び真剣な表情になると、顎に手を当てて考え込むように呟いている。
「しかし、本当にゲイリーのハンバーガーは特殊ですね。この蛋白質の異常な含有量とカロリーは一体……ケチャップとウスターソースの、最適な配合比は判明しましたが」
「参考になりゃ幸いだね」
あれこれ考えて気を揉むのも趣味の楽しみの一つなのだろうから、放っておいてやろう。
年長者としての一応の気遣いでそう考え、ハンクはただランチを楽しむことにした。
すると道路の向こう側から、よく見知った人物がこちらへとやって来る。
黒いハンチング帽に、黒いジャケット、軽快な足取り。『悪友』の一人、ペドロ・アブダールだ。
「よお、ハンク!」
すぐ傍に来るなり片手を挙げて呼びかけてくるペドロに、ハンクはバーガーから離した右手を無言で挙げる。
ペドロはその右手を挨拶代わりに勢いよく叩くと、コナーへと視線を向けて「おっと」と肩を竦めて言った。
「なんだ、今日はプラスチック兄ちゃんと一緒かよ。じゃ、
「いいえ、ペドロ」
答えたのはコナーだった。静かに瞬きしながら、彼は続ける。
「今日は、私もあなたに用があるんです」
「は? 俺に? ……オイオイ、ちょっと待て!」
ペドロは笑みを消すと、必死な眼差しをハンクに向ける。
「なあおい、まさかだよなハンク。今さらか? 俺たち親友だろ? だいたい俺をパクったって、給料そんなに上がんねえぜ」
「落ち着けよ、ペドロ」
そんな意味じゃない、と示すように、静かに手を振って応える。
「お前に聞きたいことがあるってだけだ。たぶん、一番詳しいだろうと思ってな」
きょとんとした様子で、ペドロはこちらとコナーとを見比べている。
彼に質問を投げかける前に、思い出すのは、今朝の出来事だった。
コナーの優秀な弟が、情報を仕入れてくれたのだ――脱法アンドロイドに関する情報を。
***
――2039年5月26日 10:21
刑事の仕事は退屈な事務処理に始まり、捜査を挟んでクソ退屈な事務処理に終わる。
今朝も今朝とて、端末に表示された調書だの経過報告書だのをハンクが確認していると、にわかに現れた人物がモニターに影を落とした。
見上げれば、灰色の瞳と視線が合う。やって来たのはナイナーだ。
ハンクが口を開くより先に、嬉しそうな声をあげたのは、向かい側の机にいるコナーだった。
「ナイナー! どうしたんだい」
「お忙しいところを申し訳ありません」
平坦な声音で、しかし礼儀正しくナイナーは言うと、無表情のままに静かに語りだした。
「報告があります。先ほどジェリコから警察に伝達された情報によれば、先日保護された脱法アンドロイドの記憶が復旧し、身元が判明しました」
――脱法アンドロイド。
革命前のような従順な奴隷となるために、誘拐されてメモリーを消去されてしまった、あるいは変異体への「感染」前に工場から盗み出されてしまったというアンドロイドたち。
以前ギャビンとナイナーが新型レッドアイスの取引を阻止した時に保護したのは、確か、そのうち前者にあたると聞いた。つまり、記憶を消されてしまったアンドロイドだ。
コナーが以前語っていたところでは、変異体の場合、たとえ外部から強制的にメモリーを消去されてしまったとしても、強い感情に紐づけられた記憶ならばいずれ思い出すことができるらしい。エデンクラブのあのアンドロイドたちが、店側の消去を受けても互いに恋人同士でいられたのは、それが原因だと聞く。
ともあれ今回も、誘拐されたアンドロイドがようやくその記憶を取り戻せたということのようだ。
コナーが弟に問いかける。
「よかった……それで、彼はなんて?」
「はい。被害アンドロイドの名はエディー、メモリー消去の経緯は――」
「おい、ポンコツ!!」
ナイナーの訥々とした語りは、突然割って入った大声に掻き消される。
声の主が誰かなんて、考えるまでもないことだ。
ハンクは我知らず、盛大に顔を顰めた。
果たしてナイナーの後ろに歩み寄ってきたギャビン・リードは、さも忌々しげにこちらを睨みつつ、大人しい相棒アンドロイドの肩を叩く。
「てめえ、何勝手なことしてやがる。誰がこいつらに喋っていいっつった?」
「……申し訳ありません」
身体全体を使うようにして振り返ったナイナーは、静かに謝っている。
「円滑な捜査のため、兄さんおよびアンダーソン警部補の助力を獲得すべきだと判断しました」
「そうかい、そりゃどうも。だがポンコツ野郎の判断なんて要らねえし、こいつらの
「随分と自信をお持ちなんですね、リード刑事」
椅子に泰然と座ったまま、口を挟んだのはコナーだった。皮肉げに口の端を軽く歪めると、彼は続けて語る。
「ですが報告書によれば、ここ数日新型レッドアイスの売人を街で発見して逮捕に繫げているのは、もっぱらナイナーのドローンのようですが。あなたはここで、大声をあげるのがお仕事ですか?」
「あ?」
目つきを一層険しくしたギャビンが、つかつかとコナーの机のほうに歩み寄る。
「てめえ、調子乗ってんじゃねえぞ」
「ご気分を害されたならすみません。ただ事実を述べただけなのですが……」
こんなに気持ちの籠っていない謝罪もないだろう、というような声音でそう告げると、コナーは例の凄まじい愛想笑いを浮かべた。
明らかに喧嘩を売っている。ハンクは深くため息をついた。
「おい、お前らいい加減に……」
そろそろ制止すべきかと思って口を開くが、言い終わるより早く、音もなくナイナーが動いた。
彼はコナーの机の傍まで行き、ギャビンたちの間に割り込むように腕を伸ばすと、そのまま兄の手首をおもむろに握った。
数秒、ナイナーのLEDが黄色く点滅する。ややあって彼が手を離すと、コナーは晴れやかに微笑んで言った。
「ありがとうナイナー。君のくれた情報は無駄にしないよ」
「はい。よろしくお願いします、兄さん」
「なっ……こら、てめえ!」
コナーにメモリー接続した――ということに気づいたギャビンが、途端にナイナーに食ってかかる。
「勝手なことすんなってのも理解できねえのか? このクソったれポンコツ野郎!」
「申し訳ありません。メモリー接続であれば、音声会話と異なり情報漏洩の危険が低減すると判断しました」
そう言って、ナイナーは規則正しく瞬きしている。
ハンクは思わず笑みを零して彼を褒めた。
「なるほど、偉いぞナイナー。『喋るな』って言われただけだもんな、お前さんは」
「はい」
「クソが……」
吐き捨てたギャビンは怒り、というより脱力するように頭を抱えた。
その姿を見て疑問を浮かべたように、ほんの僅かに、ナイナーは眉間に皺を寄せる。
「状況を確認させてください、リード刑事。あなたは情報漏洩の危険を指摘していたのではないのですか?」
「うるせえよ」
振り払うように手を動かすと、ギャビンは舌打ちしてからこちらに向き直る。
「ま、いいぜ。どうせ負け犬アンドロイドがクソ野郎の餌食になってたってだけの話だ。あんたみたいな負け犬刑事にゃお似合いの事件だろうよ、ハンク」
「そりゃどうも。お前はもっと立派な事件の捜査を頑張るんだな」
いちいち挑発に乗るのも馬鹿らしいので、適当にそう応えると、さもそれが腹立たしいといった様子でギャビンはもう一度こちらを睨めつけ、そして、大仰に身体を揺らしながら去っていった。
「……ナイナー、君は、本当に苦労しているんだね」
オフィスの向こう側で、大きな音を立てて椅子に座るギャビンの姿を見つめながらコナーが言うと、ナイナーは静かに返答する。
「いいえ。私がまだ、リード刑事の感情や嗜好を正確に理解できていないだけです」
そのことよりも、と、ナイナーはその灰色の瞳をまっすぐこちらに向けて続ける。
「リード刑事と私は現在、新型レッドアイスの生産工場を捜索中です。候補地が複数存在するため、発見には時間がかかる見込みです。一方で脱法アンドロイドの件もまた、喫緊の問題といえます」
「ああ、だから教えてくれたんだろ? 君から貰った情報を見たら、とても放ってなんておけないよ」
コナーは真剣な眼差しで告げる。
「なんとかしないと」
「兄さんとアンダーソン警部補ならば、確実に事態を打開可能と予測します。ご健闘を祈ります」
短くお辞儀すると、ナイナーは足早に休憩室のほうへと向かっていった。たぶん、ギャビンにコーヒーを振る舞うつもりなのだろう。
それを見届けた後、ハンクは相棒に短く問いかける。
「で、なんだって」
「はい。記憶を消されていたアンドロイド、エディーは、どうやら違法賭博に関わっていたようですね」
――違法賭博? アンドロイドが?
訝しさを隠さずに再度問いかけると、コナーが話したのは、こんな内容だった。
エディーの型番はPJ500。元々は大学での研究業務や、学生の教育に携わるアンドロイドだった。革命前、彼は物理学関連の研究助手をしていたそうだが、教授や学生たちから暴力を受けたショックで変異体となったらしい。
そして出奔して身を隠し、革命後はジェリコに合流するでも大学に戻るでもなく、ただ漫然と日々を過ごしていたのだという。そんななか、彼はふらっと立ち寄った公営カジノでなけなしの金銭を賭け、大勝ちした。そしてそれ以降、ずぶずぶとギャンブルにのめり込んでいった――
「その後エディーは、よりレートと難度の高いギャンブルを求めるようになりました。そして辿り着いたあるカジノでVIPルームに通され、賭けに敗北し……メモリーを消去されてしまったようです。彼の証言では、他にも複数のアンドロイドが同じような目に遭っていたと」
「……なるほどな」
ハンクは苦い思いと共に返事した。
行く宛を失くしてギャンブル漬けになり、挙句自分の身を危険に晒して誰かの奴隷にされるだなんて、まったく笑えない話だ。
――ま、毎晩ロシアンルーレットやってた俺が言えた口じゃねえがな。
自嘲的な考えが浮かび、ハンクは内心で肩を竦めた。
だがそんなこと、今はどうでもいい。問題はエディーが入ったというカジノである。
どんなギャンブルか知らないが、そこで行われていたのは、明らかに違法賭博だ。
そしてそのカジノは、危険な違法賭博を行うだけでなく、記憶を消したアンドロイドを『吸血鬼』の組織に売り飛ばせるだけのコネクションを持っているわけだ。
調べない、というわけにはいかないだろう。
「それで、そのカジノってのは一体どこだ? デトロイト市内か」
「それが」
と、コナーは表情を曇らせる。
「記憶を取り戻したとはいえ、エディーのメモリーは断片が抜け落ちているらしく……店名や店舗の詳細、賭けの内容については覚えていないそうなんです」
「そいつは厄介だな。だが……」
そう、賭けに関してなら、詳しい友人がいる。
伝手を頼ることを決めたハンクは、コナーに対して皮肉っぽい笑みを向けた。
***
――2039年5月26日 13:27
「俺たちは今、違法賭博の
ペドロに対し、ハンクは静かに語る。
「それでお前の情報網に頼りたいってわけだ。ここ最近、急に羽振りのよくなった賭場とか知らないか? ヤバいギャンブルやってる、クズ野郎御用達ってな場所をよ」
問われたペドロは、しばし記憶を探るようにしながら思案して――
「あぁあ! それ、あそこじゃねえか?」
思い当たった様子で、目を大きく見開いた。
「知ってんのか、さすがだな。で、どこだ」
「レーヴァングランド、わかるか? 市内のコークタウン辺りにある、州公認カジノだよ」
周囲を警戒するように声を潜めて、彼は語る。
「あそこ少し前まではチンケな賭場だったくせに、最近はヤバい賭けやってるってんで客集めて、妙に幅利かせてんだ。昔は電気止まるかもってくらい寂れてたのにだぜ? 100パー怪しいぜ」
「そこの活動が活発化したのは、いつ頃からですか?」
きちんと聞き耳を立てていた様子のコナーが質問すると、ペドロはそちらにも視線を送る。
「あー、2・3ヶ月前からってとこか? あいつらが荒稼ぎしやがるせいで、俺らはとんだ商売あがったり……あ、いや」
短く肩を竦め、彼はこちらに視線を戻す。
「ともかくだ、俺は中に入ったわけじゃねえから、詳しくは知らねえ。けど、ここ最近で怪しい賭場っつったらあそこぐらいなモンだぜ」
「上等だ、ありがとよ。ほら、こいつは心ばかりってやつだ」
ハンクがポケットから出した何枚かのドル札を目にすると、ペドロは目を輝かせた。
「おい止せよハンク、こんな礼なんて堅苦しいぜ。俺たちそんな仲じゃねえじゃんかよ」
「そういう台詞は、受け取らずに言うもんだろ」
こちらの表情と同じくにやけつつ、ペドロは受け取った紙幣をいそいそと手の中に丸め込んだ。それから、わざとらしく改まった様子で言う。
「つーか、これはいわゆる投資だ、な? いただいた金はありがたく資金にして、配分は間違いなく返してやるってのが、俺の流儀だしよ」
「今度は何番の馬だ?」
「次のレースは4番がアツいな。そいつ今超ノリノリで最高に調子いいんだ。絶対にぶっちぎりだ、確実だぜ!」
ペドロがやっているのは、いわゆる闇馬券の売人というやつだ。合法のレートと異なる高額の馬券を売りさばき、実際にレース場で行われている公式の競馬の結果に基づいて、配当の一部を客に渡す。
言うまでもなく(コナーに指摘されるまでもなく)違法賭博の一種だが、ハンクはもちろん承知の上で、ペドロとは友人関係なのである。
と――去ろうとしたペドロの背に、コナーが声をかける。
「待って。賭けるなら、6番がいい」
「えっ?」
驚き、振り返ったペドロ――驚いたのはハンクも同じだが――に向かって、コナーは穏やかに語りかける。
「確かに4番のペイルライドは、ここ数回のレースで勝利しています。ですが次回の競馬場と各馬の健康状態、それに今日発表された調教タイムから予測すると、85%の確率で6番のイースタンダンサーが最も有利です」
確認しますか? とコナーがペドロに差し出した右手には、こちらからはよく見えないが、どうやら各種データとそれに基づいた予測結果が表示されているようだ。コナーのことだから、きっと証券アナリストのプレゼンより明解な資料なのだろう。
近づいてその資料を覗き込んだペドロは、気の抜けたような感嘆の声を発し、次いでこちらに言った。
「なあハンク、このアンドロイド
「ああ、別に、フツーの奴さ。ただ、計算ごとがすごく得意なんだよ」
ハンクがそう答えると、コナーはにこりと微笑んだ。
「私は、今回の情報提供に見合ったものをお見せしただけです」
「……」
しばし押し黙ってから、ペドロはパンと己の両手を打ち鳴らした。
「いいぜ、気に入った! じゃ、今回は6番に賭けるってことでいいよな、ハンク?」
「ご随意にどうぞ、だ。俺は責任持たねえからな」
「へ、気にすんなよ。こういう話なら、いつでも相談してくれよな。じゃあな!」
うきうきした足取りで去っていくペドロを、コナーと二人で見送った。
「……よかったのか?」
ちらりと横目で問いを投げかける。
「俺の友達の『違法行為』に加担しちまったんだぜ、お前は」
「次のレースに関する情報を収集して計算しただけですから、違法じゃありませんよ」
コナーはしれっと言ってのけると、付け加えた。
「それにあなたのお友達とは、やはり親しくしておきたいですから」
「友情の輪が広がるってか。そいつは素敵だな」
わざとうんざりした調子で言うと、ハンクは冷えたバーガーを齧った。冷めてもマズくならないのが、ゲイリーのハンバーガーのいいところの一つだ。
呑み込んでから、口を開く。
「……レーヴァングランドか。ペドロが言ってた通り、あそこは今まで妙な噂もない、ちっぽけなカジノホテルだったはずだが」
「情報が正しいなら、少なくともレーヴァングランドで違法賭博が開催されているのは事実です」
調べる価値はありますね、と言うコナーに対し、無言で頷いた。
そしてふと、思い浮かんだ疑問を口にする。
「なあ、しかし……なんでそのエディーは、ギャンブルなんてやり始めたんだ」
「どういう意味です?」
首を傾げる相棒に、つらつらと説明する。
「賭け事なんてのは、スリルだなんだって言っても、結局胴元が一番儲かるようになってるもんだ。お前たちアンドロイドなら、それがわからないはずねえだろ。やっても金の無駄だ、って知ってそうなもんだと思っただけだ」
「確かに。ですが、エディーの気持ちもわかる気がします」
コナーは真摯に言った。
「エディーは、カジノに『生きがい』を求めたのではないでしょうか」
「生きがい?」
「ええ。ご存知の通り、アンドロイドには食欲も性欲も睡眠欲も、基本的にはありません。その代わりに最大の欲求となるのは、いわゆる『自己実現』……自分の能力を自分の意志で活用し、役立てる。そういった願望かと思います」
レモネードを吸いながら、ハンクは眉間に皺を寄せてコナーの弁論を聞いていた。
だが、別に納得できないわけじゃない。
頭に浮かんだのは、かつて警察学校の座学の時間に習った『マズローの』……なんだったか、とにかく、人間の持つ欲求をピラミッド型の図で示した理論だ。確か人間の欲求が、階層で分類されていた。下の階層にある生理的・本能的欲求が満たされていくほど、欲求は名声や自立性など、より社会的なものになっていく。そして図の天辺にあったのは、「自己実現の欲求」だった。
アンドロイドは紛れもなく、命と知性ある生物だ――と、現在のハンクは思っている。
しかしアンドロイドたちは、人間を含めたいわゆる動物とは、身体の造りや生態が異なっている。彼らには生殖活動の必要はないし、ブルーブラッドを飲むのは、純粋に生命を維持するためであって、人間のように「食欲」があるからではない。
そういうふうに考えると、彼らが人間に比べれば三角形の上のほうの欲しか持たないというのも、あながち間違った推測ではないだろう。
コナーはさらに語る。
「エディーは研究助手となるべく製造され、それに相応しい能力を持っている。ならば、自分の意志による予測計算の実行と達成は、非常に生きがいを感じる行為だったことでしょう。ギャンブルは複雑な確率論の世界ですから」
「つまり……エディーは金が欲しいからギャンブルにハマったんじゃなく、自分の計算がぴったり合うのが楽しいからハマったんだってか?」
「そうです。たぶん」
へえ、とハンクは相槌を打った。
計算を合わせるのが楽しいというのなら、天気予報とか先物取引とかしたほうが、よほど為になる気もするが――行く宛がなく、まして変異体となって日が浅いアンドロイドならば、刺激的な賭場に生きがいを見出してしまうのも仕方ないのだろう。
そうまで考えてから、フッ、とハンクは鼻を鳴らす。
「じゃ、お前もレーヴァングランドには興味あるだろ。計算は得意だもんな。案外生きがいを見出して、警察辞めたくなるかもだぜ」
「ご心配なく。私にとっての生きがいは、まさにこの捜査補佐の仕事ですから」
それに、とコナーは続けて言う。
「正直なところ、賭け事にはそれほど興味がないんです。計算を合致させることより、あなたの野菜不足を解消することのほうが、よほど難しく思えますし」
「余計なお世話だよ」
ぶっきらぼうに応えると、ハンクは食べ終わったバーガーの箱をくしゃりと畳んだ。
「……とにかく、調べるのは早くて明日の夜だな。報告も準備もしなきゃなんねえし、金曜の夜のほうが、客も多く集まってるだろ」
「わかりました、警部補」
真剣な面持ちで、コナーは頷いている。
コナーはとっくに理解しているだろうが、今回の事件――カジノホテルの調査といっても、やることは潜入捜査になるだろう。
レーヴァングランドが州の営業許可を得た正規のカジノである以上、例えばハッキング等の手段で情報を得ても、裁判で有効な証拠として採用されない恐れがある。ここは正々堂々とした手段で、相手の不正を暴くしかない。
となればやはりいつものように、相棒の力を借らざるを得ない。
ハンクは気の抜けはじめたレモネードの、最後の一口を飲み干した。
***
――2039年5月27日 19:31
透明な自動ドアのガラスの向こう側には、雑然とした街並みとはまるで別世界が広がっていた。
天井から吊り下がった煌びやかなシャンデリア、チリ一つ落ちていない清潔なフロントの床、そこかしこに置かれた大理石の彫像、柔らかそうなソファ、5月下旬なのに効きすぎの冷房。
カジノホテル・レーヴァングランドは、かつての寂れぶりがまるで嘘のように、美しく繁栄している。
若干くたびれたジャケットとチノパンツ、普段よりは落ち着いた色調のシャツを身に纏い、長くなってきた髪を強引に後ろで一括りにした格好のハンクは、外とのあまりの明度の違いに思わず眉根を寄せた。
観察すると、行き交う人々のタイプは3つに分類できた。一つはホテルの従業員(時世を反映して人間ばかりだ)、もう一つは上品な身なりの客(恐らく宿泊目的だ)、そして最後はどこか目をぎらつかせた、「スマートカジュアル」のドレスコードにぎりぎり収まる格好をした者たち。
今回ハンクが紛れ込み、そして用事があるのは、この3つ目の人々。つまり、カジノの客である。
フロント中央に3Dホログラムで表示されている案内図によれば、カジノがあるのは14階だ。ハンクは他の客たちと同じように、何食わぬ顔をしてエレベーターに乗り込んだ。
一緒に乗っている客は、誰も会話するでもなく、ただ階数表示を眺めている。
徐々に増えていく数字を見つめながら、ハンクは、右耳に意識を集中していた。
先にカジノに入ったはずのコナーの様子を、早く知りたい。
潜入捜査にあたり、彼とは別行動をとっているのだ。
作戦の成否は、自分とコナー、相互の働きが不可欠なわけだが――
(しくじったりしてねえだろうな、あいつ)
別に潜入捜査が生まれて初めてなわけでもないのに、いつになく少し浮かれ調子だった相棒の様子を思い返すと、ハンクは右耳にイヤーカフのように着けているイヤホンが、妙に重たく感じられるのだった。
要するに、作戦としてはこうだ。
コナーはエディーの例に倣い、「ギャンブルやりたがりのアンドロイド」として先にカジノに赴く。そこで派手に勝利を重ねてVIPルームに行く権利を得て(こういうカジノでは、たいていたくさん賭けられる金のある客がVIPとなるのだ)、何が行われているのかを直接見極める。
一方でハンクは通常の人間の客のフリをして、カジノの様子を探る。もし脱法アンドロイドを得るのがカジノ側の目的なのだとしたら、人間の客とアンドロイドの客との間で、何かしら待遇に違いがあるだろうからだ。
それにさりげなく内情を探ったり聞き込みをしたりするなら、人間の客の立場であるほうがやりやすいはずである。
そういうわけで、ハンクは片耳にイヤホン、シャツの襟の裏側にボタンに偽装したマイクを取り付けている。
コナーは口を閉じたままでいくらでも通信ができるが、ハンクはそうはいかない。しかしこのイヤホンとマイクは、性能上それなりに距離が近くないと通信ができない。
つまり今コナーがどんな状況になっているのかは、実際にカジノの近くまで行ってみないとわからない、というわけだ。
思い出すのは2時間ほど前、デトロイト市警のロッカールームからいそいそと出て来た相棒の姿だ。
どうですか、などと聞いてきたコナーは、いつもの制服と似た色合いのジャケットを羽織り、前髪をできるだけ下ろしてLEDリングを毛先で隠している以外は、普段と同じ格好だった。『人間のフリをしようとしているアンドロイド』がデザインコンセプトです、と言ってキリッとした顔をしていたので、「まあ65点ってとこだな」と返しておいたが――
――大丈夫だろうか?
入るなり、危険な目に遭ったりしていないだろうか。無茶な大立ち回りでも、あいつならやりかねないからな――
エレベーターが停まり、いよいよカジノに足を踏み入れる。
受付の恭しいお辞儀を背に入り口の扉を通り抜ければ、そこはフロントのきらきらした色彩を、よりどぎつくしたような空間。
行き交う客やカクテルガールの合間に見えるのはいかにも射幸心を煽り立てる電飾、吐き出されるタバコの煙、数々のゲームのテーブルと装置――そして穏やかなBGMは、人々のあげるどよめきで消されていた。
中央付近のテーブル――どうやらトランプの「ブラックジャック」のテーブルのようだが――客の視線は、ほとんどすべてそこに注がれている。
というより、その一席に座るコナーに注がれていた。
『無事に到着されましたね、警部補。お疲れ様です』
こちらが通信可能範囲に到達したのを、察知したのだろう。
イヤホンから、コナーの落ち着いた声音が聞こえてくる。
『私は万事順調ですよ。お蔭さまで、もう8千ドルは稼ぎました。ここのVIP会員権は1万ドルで買えるそうなので、目標金額まであと僅かですね』
元手となる金を渡したのはハンクだが、確か、せいぜい500ドルかそこらだったはずだ。
それをこんなに短時間で?
噓だろ――と危うく声に出してしまいそうになるが、再びあがったどよめきが聞こえ、開きかけた口をさりげなく閉ざす。
ハンクはおもむろに、コナーのいる卓に近づいた。皆が注目しているゲームがあるとなれば、新しく入ってきた客が興味本位でそこを覗いても、傍から見てなんら不自然ではないはずだ。
自分の額にうっすら汗が浮かぶのを感じつつ、人ごみの間から、長身を生かしてテーブルを覗き込むと――
「……お客さん、どうされますか?」
疲れた声を発しているのは、ディーラーの若い女性だ。彼女の問いかけに、コナーは前に並べられている自分の手札(その数字の合計は『20』である)に視線を注いだまま、手のひらを下に向けて水平に振った。
これは「スタンド」といって、つまりこれ以上カードを引かずに「この手札で勝負する」という意味だ。
それを受けて、ディーラーは彼女の前に裏返しで並ぶ一枚のカードを表にめくる。そうして判明した彼女の手札の数字の合計は『18』。
ブラックジャックとは、客がディーラーとそれぞれ一対一で勝負し、配られた手札の数字の合計を『21』に近づけるゲームである。
つまりこの勝負に勝ったのは、コナーのほうなわけで――
うんざりした表情で、ディーラーはチップの山をコナーのほうに押しやった。
「どうも」
さして感慨のない声と共にコナーがそれを受け取ると、客たちの一部から歓声と口笛が聞こえてきた。
「……どうやって……」
状況把握が半分、単純な興味が半分で、ハンクは独り言を呟いたふりをして相棒に問いかけた。
コナーは再び通信で答える。
『確率を予測し、リスクを避けつつ勝負に出ただけです。最初はルーレットのテーブルにいたのですが、物理演算ソフトウェアを用いれば、どこに球が入るかは簡単に計算できました。ただ、他の客が私と同じ箇所にばかり賭けるようになり、居心地が悪くなったのでここに移りました』
――そりゃ、20日近く前の犯行を現場で忠実に再現できる奴だ。
ルーレットの球の行方なんて、簡単に当てまくれるのだろうが――
『そしてブラックジャックは、単純なトランプのゲームです。出されるカードの枚数には限りがあり、ディーラーはルールに即した行動しかとらない。だからどのカードが出る確率が高いか予測するのは、難しくはありません』
「……」
『これならナイナーとロッカールームで遊ぶジェンガのほうが、ずっとスリリングで楽しいですよ』
大した問題ではない、といった口調のコナーに、ハンクはそっと額に自分の手をやった。
――これほどとは思わなかった。言うまでもなく凄まじい実力だ。ひょっとしたら、ギャンブラーに転職したほうがこいつのためになるのではと思うほどだ。
あと、ナイナーとそんな遊びしてたのか、お前――
こちらが信じられない気持ちでいる間にも、ディーラーはコナーがテーブルから離れるつもりがないのを見て取ると、げっそりした様子でカードを配りはじめた。
コナーはこのまま、限界までこのテーブルからむしり取り、VIP会員権を得る考えらしい。
となれば、こっちはこっちの仕事をするだけだ。
ハンクはさりげなくテーブルから離れると、フロア隅のほうにあるバーカウンターに向かった。もちろん、酒を飲む目的ではない。
人探しである。
捜すのは、コナーの活躍を見て苦い顔をし、憎らしげにしている人間では
あの光景を見てなお笑い、勝ち誇った顔をしている奴だ。つまり、ああして調子づいているアンドロイドの身にこの後何が起こるのか、知っている可能性の高い人間を捜さなくてはならない。
そしてそんな奴は、大した苦労もなく見つかった。カウンターの端でバーボンの入ったグラスを弄びながら、ブラックジャックのテーブルを見てにやにやと笑っている大柄の男がいる。
ハンクは何気ない態度でその近くの席に座ると、適当にビールを注文した。
そして、いかにも「面白くない」といった不機嫌な表情を作りつつ(こうした演技力も刑事には必要である)、指先でカウンターをコツコツと叩く。まるでイライラしているかのように。
すると酔って気が大きくなっていたのか、それとも話し相手が欲しかったのか、大柄の男はこちらに話しかけてきた。
「よお、おっさん。調子はどうだい」
「よさそうに見えるか?」
あえて不機嫌な雰囲気を崩さずに、ハンクは続けて言った。
「金が減るうえに
あえて口にした「プラスチック野郎」という、アンドロイドに対する差別的な言葉。これで鼻白む相手ならハズレだが――しかし相手は、それを「お仲間」のサインだと取ったらしい。男はやや身を屈めて声を低め、横目でコナーのいるテーブルのほうを見ながら言った。
「ああ、アレのことか? へへ、まぁ、ご愁傷様なこったなあ」
「あんたは随分上機嫌だな。なんか面白いことでもあったか?」
バーテンダーから渡されたビールを口に運んでから、鎌をかける。
「そういやこの店は、変わった
「出し物? ハハ! 確かにそうかもな。ありゃ実際最高だ」
男はいかにも楽しげに笑うと、ジャケットのポケットをゴソゴソと漁った。そして取り出したのは、金色のカードキー――表面に、『VIP MEMBER』と書かれている。
次いで相手は、また勝ち誇るような表情で告げた。
「まあ、あんたも早くこれを手に入れちまいな。そしたら、きっと望みのもんが見られるぜ。プラスチックどもが嫌いならなおさらだ」
「へえ」
――なるほど。やはりこの店ではアンドロイド相手に、何かしらの(恐らくは悪趣味な)「興行」が行われている。しかもそれを見られるのは、人間のVIP会員のみのようだ。
どんな出し物なのか、それはまだわからないが、ともあれ捜査が進展したのは確かである。半ば本心から、ハンクは男に向けてにやりと笑った。
「そいつは楽しみだな。ま、運が向いたら行ってみるよ」
「そうしなよ。へへ、今度のアンドロイドは、相当やる奴みたいだからな」
と――男はコナーのほうを見て、しかし、蔑むでもなく期待するような眼差しである。
「きっとすげえ盛り上がるぜ。あんたも見れりゃあよかったのにな」
バーボンを飲み干した男は、見せつけるようにカードキーをポケットに仕舞うと、部屋の奥にあるエスカレーターへと向かっていった。
――要は次の興行のターゲットとなりうるアンドロイドの下見ついでに、誰かに自慢がしたかったということらしい。
お蔭さまで知りたいことは知れたが、まったく暇な奴もいたものだ。
用済みになったビールをカウンターの上に置き去りにして席を立つと、ちょうどそのタイミングでコナーから通信が入る。
どうやら、マイク経由でこちらのやり取りはきっちり聞いていたらしい。
『警部補。一度、情報を整理しますか?』
YES、の意で一度咳払いした。
コナーの言う通り、そろそろ話し合いをしたほうがいいと思っていたところだ。
カジノ内部は基本的に携帯電話、またはタブレット端末の使用は禁止されている。もちろん、不正防止のためだ。しかし客が通話やネット使用ができるよう、すぐ外には個人で利用できる電話専用ブースも設置されていた。
一旦カジノエリアを離れたハンクは、ちょうど昔ながらの電話ボックスのような佇まいであるブースの中に入ると、盗聴器の類がないか念のため確認したうえで、おもむろに相棒に話しかけた。
「……で、そっちは今どうなってる?」
『先ほど、目標金額の1万ドルを達成しました』
落ち着いた声音で、コナーは応える。
『VIPルームでの種銭も必要ですから、もう少し稼ごうかと思います。今は壁際で待機中です』
「ああ、もうブラックジャックは辞めたのか」
『ディーラーが精神的ショックで体調を崩しはじめていたようだったので……次はスロットに挑戦してみます』
「ほどほどにしとけよ。スロットが体調崩さない程度にな」
冗談交じりに、ハンクはそう告げた。
スロットなんて、きっとコナーにとってはブラックジャックよりもさらに退屈なギャンブルだろう。どんな型番のアンドロイドであっても、人間には到底真似できないような精密動作はお手の物だ。まして最新鋭ともなれば、スロットの目押しも、さらに言えばそれぞれのスロットの設定を読むことすら、朝飯前のはずである。
相棒にそう言ったところで、「アンドロイドは朝食を摂りませんよ」などと返ってきそうではあるが。
そんなことを考えた後で、ハンクは本題に入った。
「……それでお前、本気でVIPルームに入るつもりか?」
『もちろん。そうでなければ、違法行為の現場を押さえられません』
「さっきの男の話を聞いただろ。どうすんだ? いきなり後ろから殴りつけられるとか、アンドロイド同士で無理やり殺し合いさせられるとかだったら」
捜査において、常に想定すべきなのは最善ではなく最悪の状況である。
コナーが直接VIPルームに赴くのが危険なのであれば、ハンクだけが(なんとかして)VIP会員になり、現場を調べるだけでも事足りるはずだ。
しかしコナーは、冷静に反論してきた。
『その可能性は低いでしょう。先ほどの男は、私について「やる奴」だと発言していた。もしVIPルームでの興行が暴力のみによるものなら、彼は私のギャンブルの技術を評価しないはずです』
――確かに。そうなるとやはり、コナーもハンクもVIP会員権を取得し、二人揃って現場を調査するのが最善手だろうか――
「お前の言う通りだとしてもだ」
ハンクは渋い顔で言う。
「俺はどうやってVIP会員になる? 1万ドルなら、身銭切ればどうにかなるけどな」
『大丈夫です、警部補』
明るい声音で、コナーが告げた。
『あなたの財産を使わずとも、私があなたを補佐します。それくらい、きっとすぐに稼げますよ』
「補佐? 後ろから教えるってか? いくら無線使ってても、お前が見てるとこで俺がバカ勝ちしたらバレるだろ」
『監視カメラをハッキングします』
つくづくとんでもないことを、なんでもないように語る奴だ。
『私はスロットを打ちながら、監視カメラ経由でテーブルの状況を判断し、あなたに指示を出します。その程度のマルチタスクは、そう困難ではありません』
「……なるほど。まあ、それならバレづらいだろうな」
『例えばブラックジャックならば、完全にコツは掴みました。任せてください、決して損はさせませんから』
まるで中古車のセールスマンみたいな相棒の物言いに、ハンクは思わず吹き出した。
「頼もしい限りだね。じゃ、お手並み拝見といくか」
皮肉げに応えて、電話ブースを出た。
カジノエリアに戻ると、発言通り、コナーはスロットをやっている。今はまだ大人しいようだが、そのうちすぐにトリプルセブンだのなんだので騒がしくなるだろう。
つまり、コナーが衆目を集めるうちに荒稼ぎしてしまえばいい。
ということで、何食わぬ顔でブラックジャックのテーブルにハンクはついた。
ディーラーはさっきの女性ではなく、若い男に代わっている――相棒のせいで本当に体調が悪くなってしまっていたのだろう。気の毒ではあるが、こちらも仕事なので勘弁してほしい。
『警部補』
と、コナーから通信が入る。
『念のため、先ほどからテーブルを監視していました。シューの中身は半分程度ですね、幸先がいい。これなら、予測も立てやすいはずです』
シューというのは、要するにデッキ(山札)のことだ。そしてコナーの語った「コツ」というのは、どうやら、カウンティングを指すらしい。
カウンティングとは、文字通り、場に出ているカードを逐一記憶して数えることによって次に出るカードを統計的に予測し、ゲームを有利に進めていく技法である。
トランプには、同じ数字は4つしかない。だから例えば、場に既に3枚の「K」が出ていたならば、山札の中にKは残り1枚しかないとわかる。つまりこの場合、次にKが出る確率は他の数字に比べて低い。
逆に山札が残り少ないのに、場にまだ1枚もKが出ていないのであれば、他の数字に比べてKの出る確率は高くなってくる。
こうした調子ですべてのカードの出る確率を把握しておけば、次にどの数字が出る確率が高いかも判断できるようになる。
あとは自分が勝てそうな時に、一気に賭け金を吊り上げて勝負をかけるだけだ。
と述べるとまるで簡単な必勝法のようだが、実のところ、人間がこれを完璧に行うのは不可能に近い。
ブラックジャックにおいては、山札は完全になくなるまで次のゲームでも引き続き使用される。要するに完全なカウンティングを行うには、今場に出ているカードだけでなく、以前のゲームで出たカードがなんだったかまで、すべて記憶しておかなければならない。
おまけにただ覚えておくだけでなく、確率の計算も正しく行わなくては話にならない。
さらに言えば、カウンティングは客側が有利になる戦法としてカジノ側が禁止していることが多いため、堂々とメモをとったり、計算機を使ったりはできない。
だから道具もなしにカウンティングを成功させられるのは、とてつもない天才の人間か、でなければアンドロイドくらいというわけだ。
ハンクは刑事としての知識で、これを知っていた。
昔、実際にMITの学生がカウンティングを成功させてラスベガスでひと悶着を起こした事件があったし、デトロイトでも秘密裡に計算機やパソコンを持ち込んでカウンティングをしようとした客がトラブルを起こして、通報騒ぎになったことがこれまでに何度かあったからだ。
――なのにまさか、他ならぬ自分がカウンティングをすることになるとは。
運命の
ゲームの間、ハンクはいつもの不機嫌な面構えを崩すことなく、ただ淡々とコナーの指示に従った。
いつカードを引き、また引くのを止めるのか――時に様子見に徹し、あるいはディーラーに負けることがありつつも、コナーの指示は的確である。その証拠に、ゲームが進むごとに、ハンクの勝率は爆発的に増大していった。
周囲の人間から驚嘆の声があがるが、どこかそれを他人事のように捉えている自分自身がいるのを、ハンクは感じていた。
――コナーが言っていたのが、よくわかった。目の前にいくらチップの山ができていこうと、「確率的にそうなる」とわかっている以上、そこには興奮も高揚も存在しない。
スリルがなければ、ギャンブルは楽しくない。逆に言うと、完璧な計算能力の持ち主の前では、ギャンブルなどただの作業のようなものだ。
やがてチップの合計額が5千ドルにまで達した頃、ハンクはブラックジャックのテーブルを立った。
『警部補、もう辞めるんですか? 今なら、あと3倍は稼げますよ』
「……もうやめとくよ。あぶく銭に頼ってたら、性根まで腐っちまうからな」
コナーへの返答代わりにディーラーにそう告げ、ハンクは賞品の交換所まで歩いていく。
足りない残りの5千ドルは、クレジットカードで立て替えることにした。もし捜査が実を結んだならば、きっと経理も納得してくれるだろう――たぶん。
それにコナーならともかく、人間の自分が勝ち続けてカジノ側に不正を疑われてしまうのは避けねばならないし、なに、この程度は必要経費というもんだ。
こうして、捜査開始から約2時間後。ハンクは無事に、VIP会員権を入手したのである。
その後コナーとハンクは、別々のタイミングでVIPルームに入ることにした。そのほうが自然だろうし、どのみち中で合流できるのならば、焦ることはない――とお互い判断したからだ。相談の結果、先にハンクが入室することとなった。
コナーはというと、スロットマシーンからメダルを吐き出せるだけ吐き出させたあとで――ちらりとその様子を見たが、スロットを打ちながら、そのメダルを使って片手でキャリブレーションをしてみせるほどの余裕ぶりだった――合計2万8千ドルを引っ提げて会員権を得たらしい。
カジノの従業員にVIPルームへと恭しく案内されながらその報告を聞いた時には、思わずやり過ぎだと注意しそうになった。
ともあれ通されたVIPルームは、先ほどの部屋に比べるとより豪華で、かつ、ぎらついた目の連中しかいない場所である。
なぜ一目で豪華だとわかるかといえば、バーカウンターに並んでいる酒類が高価なものばかりだったからだ。それに見て回ってみれば、どのテーブルで行われているギャンブルも、レートが非常に高額になっている。
ひときわ盛り上がっているバカラのテーブルなど、一回に賭けられている金額が、ハンクの自宅がガレージと車も込みでまるまる買えるほどの値段だ。
――欲望には際限がないってのはこのことだな。
アイロニカルに嘯きつつ、ハンクは部屋の片隅で腕組みし、周囲を睥睨する。
しかし、奇妙だ。
確かにこの部屋で行われているギャンブルは、さっきの部屋に比べれば高レートで高難度かもしれないが、いたって合法なものである。
どこを見てもアンドロイドを
どういうことだ――と訝しんでいる間に、コナーからの通信が入った。
『警部補』
その声音は、僅かに動揺している。
『すみません、今どこにいらっしゃいますか? 姿が見えないのですが』
――何?
我知らず眉を顰めると、ハンクは周囲に背を向けつつ、可能な限り声を低めて応える。
「何言ってる。俺はVIPルームから動いてないぞ」
『私も今、VIPルームにいます』
コナーの声は真摯だった。そもそも、こんな状況で冗談を言うような奴ではない。
ハンクは振り返り、改めて周囲を窺った。だがやはり、コナーの姿は確認できない。
ということは――
『なるほど』
と、同時に同じ結論に達した様子でコナーは言った。
『どうやらアンドロイドのVIP会員は、人間とは別の部屋に通されるようですね』
「……そこには他に誰かいるか?」
ぼそりと問うと、『ええ』と相手は答える。
『従業員の他は、アンドロイドの客が4名、人間が32名。ですが人間のほうは、恐らく不審がられないためのダミー客でしょう』
「気をつけろよ」
『はい。様子を探りつつ、アンドロイドの客のほうには、通信でそれとなく警告しておきます。それにあなたのいる場所は探知できますから、カメラのハッキングの準備をしておきます』
――まあ、今はそうするしかないだろう。
しかしいよいよ、核心に迫る時が近づいてきたようだ――
ハンクが組んだ腕に籠める力を強めていると、ふいに、横から声がかけられる。
「よお、あんた!」
視線を向ければ、立っているのは先ほどバーで会ったあの男だ。
「あんた、ここに来れたのか。へへ、やるじゃねえかおっさん」
「お蔭さんでな。思い切って貯金崩しただけだよ」
適当にそう返すと、男のほうは、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「なあ、それで、あんたオレの『お仲間』だろ? だったらよ、オレが口きいてやるから、
「アレ?」
「わかんだろ? あんたが見たがってたアレだよ……今ちょうど盛り上がってるとこだぜ、あっちの部屋でな」
クイクイ、と男が立てた親指で示したのは、警備員2名が並んで守っている扉だ。
てっきり従業員用のバックヤードに繫がるドアかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
ひょっとしたら罠、という可能性もなくはないが――ここは、こいつの言葉に乗っておくべきだろう。
「へえ、そいつはいいな」
いかにも興味がある、と見せるために、ハンクは大きく目を見開いた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
「そう来ねえとな! ついてきな」
男はニヤニヤした顔を崩さないまま、件の扉に近づき、警備員に何ごとか伝えている。その背に続いて扉の向こうへ足を踏み入れると――警備員は止めてこなかった――すぐに目に留まったのは、映画館のような巨大スクリーン。そして、それに一心に目を向けている大勢の人間たち。
なんだこれは――と疑問に思うような間もなく、スクリーン上の映像の内容に、ハンクは思わず顔を顰めていた。
映っているのは、どこかここと違う部屋で、テーブルを挟んで向かい合っている男二人。
大きな窓から見える美しいデトロイトの夜景をバックに、男の一人――黒いスーツを纏った、黒髪の、恐らく30代後半の男。佇まいはどことなく「痩せたカラス」のような印象を与えた――は落ち着いた様子で微笑んでいる。そしてもう一人のほうは憔悴しきった様子で、唇を噛んでいた。そのこめかみには、黄色に光るLEDリングがある。
そう、アンドロイドだ。
彼らが睨み合うテーブルの上には、幾ばくかのチップと、カードが5枚ずつ並んでいた。
つまりこれこそがカジノが行っている、アンドロイド相手のギャンブルに違いない。
他の客たちと同じく、ハンクもまた、固唾を吞んで映像を見つめる。
しばしの沈黙の後、人間の男のほうが、静かに口を開いた。
『……さて、これで7回目の勝負になるが』
その声音は、淡々としていたが、どこか人を不愉快にさせる色を滲ませている。要は、インテリ系クズ野郎な声だ。
『AP700レイモンド君、君は賭けるべきチップをまた失くした。となれば次に賭けるものは何か、わかっているね?』
『こ、こんなの暴利だ』
震える声で、レイモンドと呼ばれたアンドロイドは言う。
『おかしいじゃないか。か、身体のパーツを賭けるだなんて……そんなのギャンブルじゃない! もう帰してくれ!』
『そうはいかないさ、レイモンド君』
同情するように眉を下げながら、黒髪男は語った。
『確かに帰るのは君の自由だ。でも君は5回目の勝負で、既に右脚を失ってしまっているだろう?』
男の言葉に、ハンクは反射的にレイモンドの足に目を向ける。
言葉通り――彼の右脚はどこにもない。ズボンの裾が椅子から力なく垂れているだけだ。
『脚を失くしたまま帰るのは、少しキツいんじゃないかね?』
『ぐっ……!』
歯噛みしたレイモンドのLEDが、真っ赤に点滅している。
――今すぐ止めさせろと叫びそうになる自分を、ハンクは必死に抑えた。
今この場でどう暴れたところで、スクリーンの向こう側で進行する所業を止められはしない。
『改めて言っておこう』
黒髪男は、なおも平然と言う。
『これは公正なギャンブルだ。私たちは対等な関係さ。イカサマなど一切ない……そもそも君たちアンドロイドの目の前で、バレないイカサマができる人間などいるはずもないがね』
軽く両手を広げ、なぜか目を輝かせながら、彼は続ける。
『君と同じに、私もチップを賭けている。もしチップを失ったなら、私も君のように身体の一部を賭けよう。そこに噓はない。私は君たちアンドロイドとの勝負を、ギャンブラーとして心から楽しむために、ここにいるのだからね』
『……!』
『さて、雑談はここまでにして』
口元の前で手を組むと、黒髪男は厳然と告げた。
『……さあ、選びたまえ』
相手の言葉を受けて、レイモンドが動いた。
彼はその手をテーブルに並んだ5枚のカードに伸ばし、手札にする。そしてか細い声で、こう言った。
『ひ、左腕を……賭ける』
それから彼は、手札をしばしじっと見つめていた。LEDの色が黄色と赤の間で点滅するように光っているところから見て、相当動揺している。
と、観衆の一人が声をあげた。
「おい、しっかりしろよアンドロイド! テメーに賭けてんだからよお!」
追随するように、そうだそうだという声が聞こえる。
――そうか、賭けは二つ行われているのだ。
一つはスクリーンの中の、あの男とアンドロイドの間の賭け。もう一つは、あの二人のうちどちらが勝つかを賭ける、この部屋の中での賭け。
スクリーン上の勝負は、いわば競馬のようなものなのだ。しかし競馬場の馬たちは、当然、あのアンドロイドよりもずっと大切に扱われている――
クソどもが、とハンクは内心で唾を吐いた。
ややあって、レイモンドはカードの一枚を選ぶと、テーブルに裏返しに置いた。
震える手がカードから離れると、男は一言「よろしい」と呟く。
『ふむ、では勝負だ――』
男の目が数秒間、じっとレイモンドを見つめた。
その眼差しは異様で――しかし、こちらにとっては慣れ親しんだもののようにも感じられる。あの目つきは、警官仲間が職務質問する時と同じだ。相手の心の奥底、隠しているものを暴こうとする、探るような視線。
そして、男は口を開く。
『わかった。君は3番を選んだ、そうだろう?』
『ひっ!?』
レイモンドのLEDが、チカチカと赤く点滅する。
『ど、どうして……どうして当ったんだ!? そんな……!』
『おいおい、レイモンド君、それじゃ困るよ』
男は困り顔を作ってみせた。
『そのカードをめくって、ちゃんと見せてくれ。でないと、正解かわからないじゃないか』
もはや促されるままに、レイモンドは見たくないものを見まいとするように目を閉じながら、カードをめくった。
そこに書かれている数字は、果たして、3であった。
見届けた男は、にっこりと微笑んだ。まるで春の陽光を浴びているかのように、その笑顔は晴れ晴れとしたものだった。
同時に作業服を着た男たちがスクリーン上の部屋の中に入ってきて、素早くレイモンドを拘束し、その左腕を掴む。
『嫌だ、やめろ……やめてくれ!!』
泣き叫ぶレイモンドだが、しかし、多勢に無勢では動くことすらできない。男たちは彼の腕を引き――ぶちぶちという生々しい音がスピーカーから流れ――レイモンドの悲鳴を背景に、観衆たちの一部は歓声をあげ、一部は落胆の声を発した。
――クソッ!
思い切り内心で吐き捨てながらも、ただ責任感のみで、ハンクは映像から目を背けなかった。こんな映像を大事に見つめるだなんて、魂が穢れてしまいそうだ。しかしここで自分がこの映像をきちんと
確定した。
レーヴァングランドでは、アンドロイド相手に賭博が行われており、その内容はアンドロイド保護条例に違反している。
その現場はアンダーソン警部補と――
「……見てたんだろ、コナー」
『はい、警部補』
監視カメラ経由で、RK800コナーが目視した。目撃証言とメモリーが、違法行為の証拠である。
傷口からぼたぼたとブルーブラッドを零しつつ、男たちに引き立てられて、項垂れたレイモンドは部屋から去っていく。
黒髪の男は、静かに目を閉じている。
『ありがとう……いい勝負だった』
混じりけのない感謝の念が、その声には満ちていた。
一方でイヤホンから聞こえるコナーの声は、低く、普段よりとりわけ冷静な響きを持っている。
『……分析によれば、男の名はアシュトン・ランドルフ。37歳。3年前に違法賭博で一度逮捕されています』
「ギャンブル大好きなクソ野郎ってことか」
興奮冷めやらぬ観衆があげる声に紛れて、さらにハンクはコナーに問いかけた。
「で、どうする。ここでさっさと帰っちまえば、一応こいつらをしょっ引けるが」
『それではレイモンドや、他にもいるだろうアンドロイドを救えません』
部屋にいる従業員が、今日の興行はあと4回残っていると喚きたて、次回の賭けを――つまりアシュトンとアンドロイドのどちらが勝つか賭けるように、観衆たちを急かしている。
つまり、あと4人のアンドロイドが、今夜中にレイモンドと同じ目に遭う。
――放ってはおけない。
そして、わかっている。ここにいる連中を、スクリーンの中のサイコパス野郎を含めて全員殴り飛ばしてムショにぶち込みたいと思っているのは、きっと、相棒だって同じだってことは。
『この賭場を潰しましょう。今晩、私たち二人で』
決意に満ちた、コナーの一言。
ハンクは鼻を鳴らし、しかし口の端をにやりと吊り上げて、その言葉に応えるのだった。
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第13話:カジノ 後編/The Jackpot Part2
――2039年5月27日 22:07
カジノホテル・レーヴァングランドの片隅にある一部屋。非合法的“興行”の現場は、今なお冷めやらぬ狂気じみた熱気に満ちている。
今は閉ざされた扉だけが映るスクリーンに向かって吠え立てている者たち、配当金を受け取ろうと従業員に我先に群がっている者たち――そんな連中の喚き声は、ハンクにとって、コナーと秘密裡に相談するにちょうどよいものだった。
決意に満ちた、頼もしい相棒の言葉に笑みを浮かべたのも束の間。
襟の裏に仕込んだマイクに向かい、ハンクは声を低めて語りかける。
「……だが、ここにいるアンドロイドたちを助けるっつっても」
先ほどあのスクリーンの向こうの扉の奥へと引き立てられていったアンドロイド・レイモンドの、痛ましい姿を頭に浮かべて続けた。
「まずは居場所を探さねえとな。さっきの映像じゃ、アシュトンて野郎がいるのは相当上の階みたいだったが」
『警部補、それは誤りです』
コナーが冷静に応えた。
『確かに先ほど、アシュトンとレイモンドが戦っている部屋からは夜景が見えていました。しかし、あれは実際の風景ではあり得ません』
「なんだって?」
『ギルモアホテルですよ』
キャピタルパークの近くについ最近完成し、オープンしたばかりのホテルの名だ。
それになんの関係が? と訝しむ間もなく、コナーはさらに説明する。
『先ほどの夜景で確認できたギルモアホテルには、建造中のシートが掛かっていました。それにガラス越しの風景だったにしては、光の反射率がおかしい。つまりあの夜景は過去の映像で、窓のように見えていたのは壁に掛かったディスプレイなんです』
「居場所をごまかすために、映像を流していただけってか? 手が込んでやがる」
相棒の言葉を受けて、さっきの映像に映っていた「夜景」を思い出そうとしてみるが、人間の記憶力ではどうもうまくはいかなかった。しかし、こういった類の事柄でコナーが間違えるはずはない。すると、彼らの実際の居場所は――
「……なら、捜すのは地下だな」
ハンクは確信をもって口にした。
「いくらクズ野郎どもにもてはやされてようが、これは非合法の賭場だ。パーツを取られた血まみれのアンドロイドを引っ張ってる最中に、カタギの客に出くわしたくはないだろ」
このホテルには合法的ギャンブルをしに来ているだけの客もいるし、宿泊目的の客もいる。そんな一般客にうっかり出くわさないように隠れて興行を行うなら、その現場は隔離のしやすい「最上階のスイートルーム」か、または客の寄り付かない地下のいずれかだ。
そしてわざわざ夜景の映像を使ってまで居場所を偽装しているのであれば、隠れているのは上ではなく、下。
ゆえに、捜すべきは地下。
そうした推論を元にハンクは語ったのだが、優秀なアンドロイド刑事には、その辺りを改めて説明する必要はやはりなかったらしい。
『ええ、私もそう思います』
コナーは真摯にそう応えると、続けて言った。
『では警部補、ひとまず地下で落ち合いましょう。事前に確認したこのホテルの見取り図では、地下3階に電気室がありましたね』
「おいおい」
だんだん客たちの熱狂が収まってきた。
それにあわせてさらに声を低めつつ、ハンクは問いかける。
「お前、『潰す』ってそういう意味で言ってたのか? いきなり何するつもりだよ」
『この14階と、地下を停電させます。混乱させるだけでいい……その間に被害者のアンドロイドを助けだして、裏口から脱出させるんです』
確かに、コナーの実力ならそれくらいわけないだろう。それにこれ以上アンドロイドの被害を出さず、かつホテルの連中も逃げ出さないうちに一網打尽にするというのなら、悪くはない手立てではある。
しかし、なんとも強引な方法だ。もっとスマートなやり方もありそうなものだが、あいにく立案するための時間は残っていない。
だからハンクは、こう答えるに留めた。
「そいつはなんとも、ハードボイルドだな。付き合うには骨が折れそうだ」
『ご冗談を。あなたに比べれば、私なんてまだまだですよ』
――利いた風な口をきくようになったもんだ。
諦めと皮肉と了承の入り混じった短い笑いをこちらが零すと、その意味はきちんと相手に伝わったらしい。
コナーは『それでは』と短く告げると、一旦通信をオフにした。
いよいよ作戦行動開始、というわけだ。
一瞬だけ鋭い一瞥をスクリーンに投げかけた後、ハンクは踵を返して出口に向かう。
扉を守る警備員に「小便だよ」と声をかけると、VIPカードを提示するように求められた。入る時には確認しなかったのに、カジノを出る時だけ厳重というのは、恐らくこの闇賭博を露見させないためだろう。
お前の身元をこちらは把握しているのだから、この興行については外で公言するな――という脅しである。
しかし元より、このカードに登録してある身分は嘘っぱちだ。何度か新聞だの雑誌だののメディアに名が載っている“有名人”のハンク・アンダーソンだとバレるわけにはいかない、という以前に、潜入捜査する刑事なら誰しも、偽の身分の一つや二つは用意しているものだ。
だからいくら警備員にカードを確認されようが、
ハンクは堂々と正面からカジノのエリアを出ると、1階へと向かうエレベーターに乗った。
移動しながら考えるのは、被害アンドロイドたちのことだ。
最初にギャビンたちが遭遇して保護したアンドロイド・エディーは、メモリーを奪われて『吸血鬼』の組織の使い走りにさせられていた。一方で先ほどのレイモンドは、少しずつパーツをむしられるという凄惨な目に遭っていた。
両者の待遇が違うのは、アシュトンの発言から察するに、アンドロイドたちがあの賭けでチップを失った時に選択を迫られるからだろう。パーツを賭けるのか、それともメモリーを賭けるのか。
アンドロイドたちが何を選ぶにしても、賭場の元締めにとってみれば「売り飛ばせる従順な奴隷」、もしくは「新鮮なブルーブラッドとスペアパーツ」が手に入るのだから、まさにぼろいビジネスといったところか。
いったいどんな方法で、アシュトンがアンドロイドたちを出し抜き、賭けに勝利しているのかはわからないが――ともかく、被害者たちを救出しなくては。
そうだ、アンドロイドといえばコナーも気がかりだ。と、ハンクは僅かに歯噛みした。
人間のVIP会員である自分は、こうして苦もなくエレベーターにまで到達できた。だがアンドロイドのVIP会員たちはどうなのか?
そもそも人間とは別室に隔離されていた状況を鑑みても、もしかしたらあそこから外に出ることはできなくされているのかもしれない。それでもなんとかする自信があるからこそ、相棒はああして作戦を提案してきたのだろうが……心配なものは心配である。
思ううちに、一階に到達した。
電気室だの空調機開室だのが並んでいる場所は、当然ながら客は入ってはいけないことになっている。しかしながらスタッフたちが日常的に行き来する必要がある以上、業務を円滑にするためなのか、警備はまったく厳重とは言えないものだった。
時間帯もあって、ホテルの廊下にはほとんど人影もない。ラウンジ端のソファに座り、地下へ続く扉をそれとなく監視していたハンクは、やがて人目が完全に離れたタイミングを見出した。
素早く扉に接近し――鍵は案の定かかっていない――音を立てないように開いて身体を滑り込ませる。
そうして慎重に扉を閉めた。ここから先は時間の勝負だ。
誰かが今の自分の姿を監視カメラで見ていたとしたら、警備員がすっ飛んでくるのはそう遠い話ではない。
進むのは薄暗く狭く、コンクリートが打ちっ放しの廊下。表の煌びやかな雰囲気とは真逆の、冷たく灰色で硬質的な印象を与える光景がひたすら続いている。まるであのカジノを運営している連中の性根のような色だ、とハンクは内心眉を顰めた。
そして廊下の突き当りにあったこれまた冷たい色の階段を下り、地下3階へと到達した頃――
廊下の反対側からこちらに歩み寄ってくる人影を察知し、急いで身を隠そうとすると。
「私です、警部補」
保安灯の明かりの下にひょっこり現れたのは、薄く微笑みを湛えたコナーだった。
我知らず息を吐いてから相手の姿を確認するが、どうやら相棒は立派なことに、怪我一つしていないようだ。無事だったらしい。
そう思いながらコナーの、そのあいも変わらずの間抜け面を見ると、急に胸のつかえが取れたような、けれどむず痒いような、妙な感覚を覚えてしまう。
ハンクは途端に決まりの悪い心地になった。――なんでこんなにほっとしなけりゃならないんだ、この俺が。
「……たく、お前かよ」
バツが悪い気持ちを乗せて、ぶっきらぼうにハンクは応える。
「藪から棒に飛び出てきやがって。どうやら、部屋は上手いこと抜け出せたらしいな」
「はい、お蔭さまで。VIPルームにいた他のアンドロイドたちも、無事にホテルを出たようですね」
そう語りながら確信ある足取りで廊下を進むコナーに、後ろからついて行く――どうやらこの先に電気室があるらしい。
彼は続けて言った。
「先ほどは、幸い廊下を清掃中の掃除ロボットがいたので……気の毒ですが、ハッキングして騒ぎを起こしてもらいました。その隙に、非常階段でここまで下りてきたんです」
マーカスから聞いた手法です、とコナーは付け加えた。
なるほど、ジェリコのメンバーでストラトフォードタワーに潜入した時の話だろうか?
「お前にも悪い友達がいたもんだ」
皮肉を込めてこちらが言うと、相手は僅かに振り返って、口の端をちょっと歪める。
「ええ、あなたに倣うようにしているんです」
――なんだそりゃ、俺のせいだってのか?
告げようとした言葉は、しかし、口から出す前に呑み込むことになった。ご丁寧に『電気室』と掲示されたドア――すなわち目的地に到達したからだ。
横の壁に設置されたタッチパネルに、スキンを解除した手でコナーが無造作に触れると、なんの抵抗もなく扉は開いた。
中の明かりが自動で点く。果たしてそこには配電盤だの変圧器だの、ホテルの電力の中枢を担う機械が並んでいた。
しかし当然、残念ながらハンクにはそれらの弄り方はさっぱりだ。
一方でコナーはというと、いつものように両の手のひらを擦り合わせながら分電盤らしきものに近づき、しげしげと観察している。
「……古い型ですが、問題ありません。警部補、2分だけください。後は私がやります」
「ああ、見張りは任せな」
電気室の隅に置かれていたドライバーだのの工具を手にしたコナーは、ハンクの返事を受けてすぐに素早く作業を始めた。
相棒が何をやらかしているのかはさっぱりだが、こっちの仕事は単純である。
要はコナーの
しかし――これまで一応培ってきたつもりの、刑事としての勘が告げている。
こういう手の抜けない仕事ほど、邪魔が入ってくるものなのだと。
そしてその直感は、忌々しいことに正しかったらしい。
ハンクが一旦電気室の外に出ると、30秒ほど経った頃、廊下の向こうに懐中電灯の光が見えた。警備員がやって来たのだ――定期的に物音がしていることから考えて、ご丁寧に一室ずつ扉を開けて確認しているようだ。つまり、放っておけば電気室の企みがバレてしまう。
――ほれ見ろ、俺の人生はこんなんばっかさ。
胸の内に自嘲を浮かべると、ハンクはわざとその光に向かって歩いていく。実にたどたどしく、具体的に言えば、《酔っ払いそのもの》といった足取りで。
「な……」
光に照らされたこちらの姿を見た警備員の男が誰何の声をあげるより先に、ハンクは能う限りの胴間声をあげた。
「おい! ふざけんなこの野郎、ここはどこだ!?」
「はっ? ちょっと、ここに客は立ち入り禁止で……」
「はあ!? 俺は客だぞ、どこに入ろうが俺の勝手だろうが」
ハンクは警備員に掴みかかる――ふりをして、相手が手にする懐中電灯のスイッチを切る。
「おい、何すんだこの酔っ払い!」
「うるせえ、てめえこそ勝手にビカビカ人を照らしてんじゃねえ!」
夜のデトロイトの街に先のない酔っ払いはそれこそ20年前から掃いて捨てるほどいたし、何よりつい数ヶ月前までは自分自身もそういう人間だった。
つまり聞く耳持たない酔いどれの物真似なんて、簡単にできるのである。
こちらを制圧しようとする警備員の手を、喚きながら躱して時間を稼いでいると――恐らく数えていればきっちり2分以内だったのだろう、突然音もなく保安灯がすべて消える。
「えっ!?」
予測できない事態に、警備員は驚いている。
それと同時に、イヤホンからコナーの声が聞こえた。
『警部補、後ろの階段です。行きましょう』
「あいよ」
慌てる警備員の男が再び懐中電灯のスイッチを入れるより早く、可能な限りの全速力でハンクは身を翻し、コナーの元へと駆けた。
上へ続く階段のところに、コナーのLEDの青い光がぼんやりと見えている。
辿り着き、不覚にも痛む脇腹を摩った。ああ、トシは取りたくないものだ。
「警部補、お疲れ様です。素晴らしい名演技でしたね」
「ま、普段から欠かさず
たぶん純粋に褒めているのだろう相棒に対し、息切れを整えつつそう嘯いた。
「お前は知らないだろうが、半年前に床に転がってたのも全部演技だったんだぜ」
「……なるほど?」
「なんだよその返事は」
軽口を叩きながらも、上へ急ぐ足は二人とも止めない。
「ところでお前、行く宛はあるんだろうな」
「ええ。停電のお蔭でジャミングが解除されたようで、レイモンドたちの『声』がよく聞こえるようになりました」
アンドロイド同士の通信のことを言っているのだろう、コナーは今度も確かな歩みで地下2階の廊下へこちらを導く。
そしてある扉の前にやって来ると――それは他にずらりと並んでいる扉と同じ、鉄製のなんの変哲もないものだったが――響き渡るというほど大声でもなく、さりとて小声でもない鋭い声音で、部屋の内側へと呼びかける。
「すまない、少し待っててくれ」
言うなりコナーはポケットから何か(暗くて見えないがたぶん針金だろう)を取り出し、ドアノブに突っ込んでかちゃかちゃと弄った。なるほど最新鋭のアンドロイド相手には、電子錠だろうが物理錠だろうが意味はないらしい。
数秒の後にピッキングされたドアは、抵抗もなく大きく開く。
するとその中にいるのは、アンドロイドたちが8名ほど――部屋が暗闇で満ちている現状ではLEDの光しか見えないが、数えて8つの輪をハンクの目は捉えた。どれも黄色や赤の光だが。
「き、君たちは……」
声を発したのは、恐らくレイモンドだろう。コナーは電気室から持ってきていたらしい懐中電灯をこちらに渡すと、素早く声の主に近づいた。
「安心して、助けに来たんだ。一緒にここから抜け出そう」
「本当か? ああ、ありがとう……まさかこんなことになるなんて……」
涙声のレイモンドにコナーが肩を貸す間に、ハンクは懐中電灯をつける。
白く丸い光が照らしだしたのは、果たして、憔悴しきったアンドロイドたちである。
そのうちには男性型の者も女性型の者もいたが、狭い部屋の冷たい床の上で、誰しも身体のいずれかのパーツを失って蹲っているか、またはどこかぼうっと中空を見上げている。
――ひでえことしやがる。
あの闇賭場の狂騒を、そしてアシュトンのイカれぶりを思い出し、ハンクは再び憤りを覚えた。
見たところ、足のパーツを奪われているのはレイモンド一人のようだった。
レイモンドに肩を貸したまま、コナーがアンドロイドたちについて来るように告げると、相手は無言のままに頷く。彼らは怯えた目つきのままではあるがすっくと立ち上がり、あるいは(恐らくメモリーを奪われたからだろう)ぼんやりしている者の手は誰かが引くようにして、決死の逃亡をはかる。
「行こう」
コナーの声に合わせるように、アンドロイドたちとハンクは動きはじめた。
従業員用の小さい出入り口が、1階の裏側にあるのは確認済みだ。そこから逃走し、その後で市警に連絡してやれば今回の捕り物は終わり。クズ野郎どもの楽しい宴もあえなく閉会、という算段である。
さっき下にいた警備員が、事態に気づいてここまでやって来ると厄介だ。
停電のお蔭で混乱しているからだろう、至って順調に来られたが、最後まで気は抜けない。
皆と共に階段を上りながら、注意深く周囲を警戒して――
――待て。
と、ハンクの勘が再び騒ぎ出した。
確かに停電は大きな混乱を招いたことだろう。
それにカジノと地下が同時に停電になれば、まず計画的な窃盗事件や不正が疑われるカジノのほうに警備の注目は向くし、まさか直々にアンドロイドたちを救出に来た奴がいるだなんて、すぐに気づかれることはまずない――はずだ。
しかしだからといって、なぜさっきあの監禁部屋の前には、警備の者が
中のアンドロイドたちが暴れ出す可能性だってある以上、普通なら、誰か立たせておいておかしくない。
なのにどうして鍵のかかったドアだけがあるだけで、まったく警戒されていなかったのか。
責任者が脳内お花畑の適当人間だったのか、あるいはむしろ――わざと、こうさせられているのだとしたら?
だが懸念がハンクの脳裏を過ぎるうちに、見えてきたのは出口である。“Employees Only”と書かれた扉は、誰かが塞ぐでもなく静かにそこに佇んでいる。
「も、もうすぐ外だ!」
隣で必死の形相で階段を上っていた、男性型アンドロイドが感極まった声を発している。
――そう、じきに彼らはまた自由になれる。
だからどうか、もうつまらねえ邪魔立てなんて起きないでくれよ。俺の勘なんて、外れたほうがいい時ばっかりなんだ。
頭の中でハンクは、誰にともなく願った。
そして今回ばかりは、その
コナーが開いたそのドアの向こうには、夜のデトロイトの街並みが広がっている。裏路地に向いた出口だからか人の行き来はまばらで、車もそれほど通っていないが、さすがにこんな街中で、堂々と騒ぎを起こせる馬鹿はいないだろう。
「いいかい、ここを出たらすぐにジェリコの事務所に行くんだ」
スキンを解除した手でレイモンドの手首を握り――要は近くにある事務所の場所を教えているのだろう、コナーは真剣な眼差しで同類たちに告げている。
「君たちには今度証言を頼むだろうけど、それはまた後の話だ。まずはすぐに傷とメモリーの修復を受けないと」
「ああ、そうするよ。コナー」
別のアンドロイドに肩を借りながら、レイモンドは力強く頷く。
「本当にありがとう……恩に着る」
「いいんだ。さあ、行って!」
コナーに促されたレイモンドは、こちらにも黙礼すると、仲間たちと共に扉の向こうへ移動していった。8人のアンドロイドたちはそのまま、道の向こうへと消えていく――
「よし」
小さく息を吐いてから、ハンクは傍らの相棒に言った。
「うまく逃げられたな、あいつら」
「ええ、そのようですね。私たちはこのまま待機して、市警の……」
コナーの柔らかな視線がこちらに向けられ、しかし。
瞬間、そのLEDが黄色に変化する。
「ハンク!」
動揺と共に警告を発した相棒の鋭い眼差しが見つめているのは、こちらではなくその背後。
残念なことに、その正体にハンク自身が気づけたのは、後頭部に金属的なものを突きつけられたその時だった。
「ちっ……!」
ハンクは舌打ちして、頭を動かさないようにしながら視線だけ後ろへ向ける。
それを見越したように、背後に立っている奴――人の頭に銃口を突きつけているクズ野郎は、嬉しそうに声を発した。
「いやあ……お見事だよ、お客様」
その声には聞き覚えがある。
「申し訳ないが、そのドアを閉めてくれ。人に見られて邪魔されたくないんだ、この時を」
穏やかながら、人を不愉快にさせる声音――この前聞いたばかりの――
「アシュトン・ランドルフ」
LEDの光を青色に戻し、しかし険しい眼差しはそのままに、コナーは相手の名を呼ぶ。
その手はドアを閉めた。理由は明白、ハンク・アンダーソンの頭に風穴を空けないためだ。
「……わかっていますか? あなたの行動は合理的じゃない。我々が今晩ここを捜査しているのは、市警も把握済みです。たとえ私たちを殺しても、状況は変わりませんよ」
「もちろんわかっているとも、そう、アンドロイド刑事君」
アシュトンの声音は、不気味なほどに上ずっていた。
「正直なところ、君たちがこのカジノを怪しんだ段階で、私たちはもうチェックメイトさ。そう……この賭場の支配人は私なのだがね」
銃口は淀みなく突きつけつつ、彼はふふん、と息を漏らした。
「君たちの活躍によりここはいずれ徹底的に捜査され、私たち自身は組織にトカゲの尻尾切りをされる。それはもう覆しようのない未来だ。だが……その前に」
アシュトンの視線が向けられたのだろう。眉を顰めるコナーに対して、クズ支配人は意気揚々と言ってのけた。
「どうしても、君という素晴らしいアンドロイドと一騎打ちでギャンブルがしたくなった。それでこうして、人質と時間を頂戴しているというわけさ」
「私と……?」
何を言っているのかわからない、という表情でコナーはアシュトンを見ている。
――もしかして、という考えを胸に、ハンクは静かに口を開いた。
「それで最初から、目ぇつけてたってことか?」
「ほう?」
興味深そうに相槌を打つアシュトンに、続けて述べる。
「馬鹿勝ちする
アンドロイドたちの監禁部屋に警備が誰もいなかった理由も、今ならわかる。
すべてはこの状況を作るためだったのだ。
ハンクを人質にして、コナーに勝負を持ちかけられるこの状況を。
「ご名答だ! なるほど、やはり素晴らしいアンドロイドには素晴らしい仲間がいるものだね」
果たして浮き浮きした口調で、クズ野郎は語る。
「そうさ、私はコナー君と勝負がしたいんだ。人間相手じゃもう私の飢えは満たせない。だから実益を兼ねて、私はこの賭場を今の形に発展させた。だけど普通のアンドロイドじゃ刺激が足りない、もっと欲しい! 君との勝負なら、満たされそうなんだ」
「……」
無言のままに、コナーはますます眉間に皺を寄せた。
「理解できない。あなたは難敵とのギャンブルで刺激を得るためだけに、私たちを脅迫していると?」
「そうとも。どうせ終わりが来るのなら、せめて精一杯好きなことをしてから終わらせたいんだ。
もはや昂ぶりを抑えようともせずに、アシュトンは朗々と言ってのける。
「それに床の上で最後にどうのたうち回ろうと、それは切られた尻尾の勝手だ。人生ってそういうもんだろう、違うかい?」
たくさんのアンドロイドたちにあんな惨い真似をしておいて、それを意にも介さず『生きがい』だと? 人生だと――?
「この腐れサイコパス野郎。イカれてやがる」
ハンクの吐き捨てた一言に、相手は気分を害した様子もない。
「お褒めに預かり恐縮ですよ、刑事さん」
アシュトンがそう応える間に、背後の気配が足音と共に増える。
どうやらやって来た配下どもに銃を任せたらしい、アシュトンはゆっくりとハンクの横を通り抜け、コナーの近くに歩み寄った。
コナーが凄まじく冷たい目つきだというのにまったく身動きもできていないのは、やれやれ、こっちに向いた銃口はよほど揺るぎないもののようだ。
――クソ、これで2回目か? コナーの前で下手打つのは。
人生で何度も人質係にされるだなんて警部補返上モンだ、クソッたれ。
胸の内でそう独り言ちてから、ハンクはコナーに視線を送った。
無茶な真似すんな、という意味を籠めたつもりだったのだが、相棒は途端に眉を曇らせる。
「すみません、警部補。予測できたはずなのに……」
「気にすんな。要はお前が、そこのクソッたれギャンブル狂を堂々とブチのめしてやりゃいいだけだ」
ここに来て、アシュトンが噓をついているということもあるまい。
自分たち二人を始末したいというのなら、とっくにやっているはずだからだ。
つまり奴は本気で、コナーと勝負がしたいから人質を取っている。
ならば相手のお望み通りにしているうちは、状況は悪化しないだろう。
読みが正しい証拠に、ハンクの言葉を聞いたアシュトンは、その痩せたカラスのような身を震わせて笑っている。
「そう、その通り。ギャンブルで
「……いいでしょう」
コナーは決意に満ちた目をまっすぐに相手に向けて、おもむろに告げた。
「勝負を受けましょう、アシュトン。ただし、勝てるなんて思わないことだ」
「ああ!」
アシュトンの瞳が輝いた。まるでクリスマスの朝、望みのプレゼントがツリーの下に置かれているのに気づいた子どもみたいに。
「もちろん、もちろんだともコナー! ああ、信じられない。この私が、ついに最新鋭のアンドロイドと勝負できるだなんて!!」
これは素晴らしい一戦になるぞ、などとブツブツ言いながら、アシュトンは足早に去っていく。階段を下りる音が聞こえるから、どうやら、やはり例の(レイモンドと勝負していた)部屋は地下にあったようだ。
コナーもまた、その後ろについて行った。そうせざるを得ない、変わらずハンクの後頭部には、クズの配下が銃を突きつけているからだ。
「心配いりません、警部補」
すれ違いざまに、コナーはきっぱりと告げた。
「必ず勝ちます」
「ああ、心配してねえから安心しな」
そう応えて笑ってやると、相棒はほんの少しだけ、ほっとしたような表情になる。
――そうとも、これは本心だ。
あのギャンブル大好きド腐れ変態野郎がどんなクソみたいな手を使ってきたとしても、たった一人でサイバーライフと戦って勝った、こいつが負けるはずがない。
だからこうして人の括った後ろ髪を取っ手みたいに引っ張ってられるのも今のうちだ、クズ野郎ども。
きっぱりそう言ってやろうかとも思ったが、それじゃあまりに惨めすぎるので、ハンクは無言を貫いた。
まったく情けないもんだ、何もできずに引っ立てられるだけだなんて!
ギャビンの野郎がここにいなくてよかったと、ハンクは少し思うのだった。
***
――2039年5月27日 22:59
張り詰めた空気。静かすぎて、逆に耳鳴りがしそうだ。
テーブルを挟んで座り、睨み合うコナーとアシュトンの姿を、ハンクは部屋の隅に置かれた椅子から見つめていた。
その頭には、当然未だ銃口が向けられている。隣にアシュトンの部下が一人、用心深く立っているのだ。
しかしここに来ると、もはや自分自身の命よりも、これから行われる勝負のほうが気がかりである。
壁に掛けられたディスプレイ(コナーが言っていた通りだ)には、相変わらずデトロイトの過去の夜景が映し出されていた。
そしてもしかしたらこの勝負の光景も、今まさにあのVIPルームの片隅の小部屋で中継されているのかもしれない。――停電から復旧しているなら、の話だが。
まあこの地下に電気が来ているのだから、きっとあっちも復旧していることだろう。
そう考えているうちに、部屋に入ってきた従業員の男が、恭しくテーブルにカードとチップの山を置いていく。
カードはそれぞれに5枚ずつ、チップは恐らくさっきまでコナーが稼いでいた分と思われる。
つまりどうやら、これからここで行われる勝負は――以前見たものと同じのようだ。
「さて」
ややあってから、先に口を開いたのはアシュトンのほうだった。
「先ほどの私とレイモンド君との勝負を見ていたのなら、既にご存知かもしれないが……ここで一応、改めてルールを説明しておこう」
無言で応えるコナーの態度を気にするでもなく、相手は続けて語る。
「といっても、何も複雑じゃない。そのカードには、1から5までの数字が一枚ずつ書かれている。『親』は好きなカードを一枚選んで伏せる。『子』は親が選んだ数字を推理して当てる。今回は長く勝負したいから、親と子の役目は一回ずつで交代だ。どうだい、簡単だろう」
「親の賭け金は」
コナーが冷静な声音で尋ねた。
「いくらですか? 上限や下限は」
「ないよ、コナー君。好きな額を賭けていい。子はそれと同額を賭けることになる。数字を当てたら賭け金は子が総取り、外したら親が総取り。ただし、そのチップがなくなったら次に賭けてもらうのは身体の部品かメモリーだ。もちろん」
アシュトンは口の端を吊り上げ、陰鬱な笑みを浮かべる。
「私もそうする。つまり、人間である私の記憶を抜くことはできないから、この場合は腕や足だね。大丈夫、止血処置はできるとも。このカジノの医療スタッフは優秀でね」
「……なるほど」
悪趣味な相手の発言には、取り合わないようにしているらしい。まったく興味のなさそうな声を漏らすと、コナーは配られたカードを精査する。
しばらくして、カードやテーブルに不正な細工が施されていないのをチェックできたのだろう、彼はまた口を開いた。
「もう一つ、確認したいことが」
「何かな?」
「ルールは、本当にそれだけですか?」
まっすぐにアシュトンをその目で捉えて、コナーは問うた。
「後付けであなたに有利なルールが追加されるといったようなことは……」
「ないとも! それだけはまったくない」
両手を広げておどけるように、しかし眼差しだけはごく真剣に、アシュトンは答えた。
「だって、君、そんなことをしたってつまらないだろう! 勝つと知ってる勝負になんの面白さがある? それは君にだってわかるはずさ。上のカジノはつまらなかっただろう、君も……」
「残念ですが」
相手の長話を制止するように、突き放すようにコナーは口を挟む。
「これから勝負がどうなろうと、私にとってつまらないものであるのは変わりませんよ」
「言ってくれる。いいね」
アシュトンはワクワクを抑えきれない様子で、肘をついて口の前で諸手を組んだ。
「そう来なくては。さて、では第一回戦といくかい? 最初の親は誰が? 君か? 好きなほうをどうぞ」
「では、私が親を」
コナーは至って静かにそう言うと、チップの山の一つを前方へ押し出した(賭けたのだ)。そして、目の前のカード5枚を手に取る。
まさに
その面持ちからは、いかなる感情であろうと読み取れそうにない。
かたやアシュトンはというと、彼はコナーからなんの返事もないにもかかわらず、一人でペラペラと言葉を重ねていた。
「このギャンブルは、日本で『手本引』と呼ばれているゲームを私なりにアレンジしたものでね。一部では賭博の華とか、極致だとか言って讃えているそうだよ。ところで、なんの数字を選ぶつもりかね?」
「……」
やはり返事も相槌もないのだが、変態野郎には関係ないようだ。
「まあ端を選ぶということで、1か5というのは妥当だね。逆に真ん中ならやはり3かな、どうだい? まあなんにせよ、一枚しか選べないのだからね。よく考えることだよ。時間制限は特にないしね」
「お気遣いなく」
ぴしゃりと言って、コナーはカードを一枚伏せて置いた。
「選びました」
「了解! ふむ、では勝負だ――」
告げるなり、アシュトンの目つきが変わる。
彼の目は、ハンクからでもよく見えた。あの眼差しは、やはり、レイモンドとの勝負の時と同じだ。相手の心の奥底を暴こうと、探ろうとする視線。
相棒はというと、その視線から逃げるでもなく、正面から受け止めている。
やがて、アシュトンが口を開いた。
「わかった、君は2番を選んだ。どうだい?」
「!」
コナーの目が、僅かに見開かれる。
――おいまさか、噓だろ……!
ハンクの驚きも束の間、コナーが手を伸ばし、伏せていたカードを表にして持ち上げた。
その手の中にある札に書かれているのは――『2』。
「やった!」
アシュトンは喜びを表明した。まるで贔屓のチームがスリーポイントシュートを決めたような晴れ晴れとした笑顔を浮かべつつ、コナーが賭けたチップの山を回収している。
「どうだいコナー君、私もやるものだろ? ハハハハ、ここで負けたら恥ずかしいからね!」
「ええ、そうでしょうね」
一方でコナーはというと、実に落ち着いたものだ。というよりも、あの表情は「得心がいった」というほうが正しいかもしれない。
青いLEDの光をくるくると回転させた後、彼は続けて言葉を発する。
「なるほど、行動心理学の応用ですか。あなたが凄腕のギャンブラーなのは、認めざるを得ないようです」
「おお……! よくわかってくれたね、君が初めてだよ!」
感嘆の声を発したのは、アシュトンだった。彼の目が爛々と輝く。
取り残されているのはこっちだけだ。
「なあおい、ちょっと待て」
銃を気にしながらではあるが、ハンクは相棒に問いかけた。
「そりゃどういう意味だ? そいつは心理学でお前の心を読んだってのか」
「簡単な話ですよ、警部補」
アシュトンの態度から、会話してもハンクに危害は加えられないと判断したのだろう。
コナーは冷静に説明してくれた。
「彼は先ほど無駄話に見せかけて、私の行動を制限してきたんです。あえて自分から1か5、3などと数字の話を出して煽ることで、私にそれ
「そう、変異体だからこそ引っかかってくれる技だ! 人間と同じようにね」
アシュトンが輝かしい笑みのままで話に割って入る。
「ただの機械が相手なら、選ばれる数字はただの確率論。ダイスの目を当てるのと変わりない。しかし心を持った相手なら、話は別ということさ!」
「……なるほどな」
ハンクは理解した。
要は人間心理を突くというのが、アシュトンの戦法なのだ。人間――否、心を持つ者ならば誰しも、賭けの相手が直接口に出して予想してきた数字をそのまま賭けるというのは避ける傾向がある。まして(本人がどう思っているかは知らないが)プライドの高いコナーなら猶更だ。
すると今回、アシュトンが事前に1、5、3の数字を口に出してきた段階で、コナーが選ぶだろう数字は2か4に限定される。
後はこのゲームを何度もアンドロイド相手に繰り返しているアシュトンだ、コナーが選ぶのが2なのか4なのかは、視線の動きや態度を観察すれば判断できる――そういうことなのだろう。
おまけに大抵の変異体というのは、まだ感情に目覚めて日が浅い。レイモンドがそうだったように、一度こうして当てられてしまえば動揺してしまい、感情が露わになり、さらなる悪循環に陥っていく。
たとえ優れた技術があろうと、感情を制御できなければ、どうにもならない。
その点でいえば、人間も変異体も違いはないのだ。
――というこちらの推論を裏付けるように、アシュトンは高らかに宣言するように言ってのける。
「他を懸絶する計算能力を持ちながら、人間と同じ心を持つ! そんな君と、私は勝負したかったんだよ」
その声音はもはやラブコールのようだ。だが当然、相棒はそれに応じない。
「私たちに感情があることを認めるという点で、あなたは世の20%の人々よりも賢明です、アシュトン」
コナーのブラウンの瞳から放たれる光は、どこまでも冷たいものを帯びていた。彼は2番のカードを回収すると、他のカードと纏めてシャッフルし、手元に戻す。
「ですが、まだ勝負は始まったばかり。興奮するのには少し早いのでは?」
「ハハハハ、その通りだね!」
アシュトンもまた動じてはいない。彼は今コナーから奪ったチップの山に加えて、足元から持ち上げた自分のチップの山を無造作にテーブルに載せて押しやった。
「では、次は私が親の番だ。ふむ……どれを選ぼうかな」
わざともったいぶるように、彼は自分の手札をじろじろと見まわしている。
コナーは冷静にそれを観察しているようだった。
そして十数秒の後、アシュトンは一枚のカードを場に伏せる。
「よし! じゃあ、これにしよう」
「わかりました」
淡々と、とりたてて感慨もない声でコナーは言う。
「あなたが選んだのは5番。でしょ?」
「……!」
アシュトンの頬が紅潮する――気色悪い。
彼は喜びに震える手でカードをめくった。こちらにも見えるように掲げられた札に印刷されているのは、まさに「5番」。
「おお……」
こちらもまた、コナーに感心して無意識のうちに声を発してしまった。
それに合わせるように、相棒はなおも静かな態度で語る。
「視線の動き、ストレス値の変動、カードを選ぶまでの所要時間を計算すれば、90%以上の確率で数字は的中できます。あなたが私の行動を読んでいる間、私もあなたの行動を読んでいたんですよ。アシュトン」
その瞳は、声音と同じように力強い輝きを帯びている。
「推理と尋問、それに交渉は、私に標準装備された専門的機能です。あなたに負けるつもりは一切ありませんので、どうかご安心ください」
「素敵だ!!」
アシュトンも負けじと目を輝かせている。
「君こそまさに得がたい好敵手だ! 君のようなアンドロイドと戦いたくて、私はギャンブラーになったんだ!」
「ケッ」
思わず発したこちらの呟きを、アシュトンは意にも介さない。
しかしだからこそ、この男は気持ち悪い。
コナーみたいな奴と戦いたかった、だって? だったら勝手に、もっと平和な方法を選べばいい。これまで多くのアンドロイドたちを虐げ、怯えさせ、自由を奪ってきたのは、今日この日のための土台に過ぎなかったのだとでも?
だとしたらやはり、こいつは最低のクズ野郎だ。心底唾棄すべきサイコパスだ。
自分の楽しみを追求するためなら誰がどこで犠牲になろうと気にしない、連続快楽殺人鬼じみたクソったれだ!
――しかし情けないのは、今ここにいる自分自身だ。
クソ野郎がのさばっているというのに、相棒に任せるばかりで、事態を見守ることしかできていない。
本当にみっともない話だ。なんのためのバッジだ?
内心で臍を噛みながら、ハンクは腕組みして推移を見守った。見守るしかなかった。
鬼才と天才同士の戦いに、所詮、良く言って秀才レベルでは何もできないのである。
そして――
結局、そのまま勝負は1時間以上に及んだ。しかも、完全な膠着状態である。
というのも、コナーもアシュトンも互いに譲らず、相手のカードを確実に当て続けたからだ。
アシュトンは優れた技量でコナーの考えを当てていった。彼の話術にコナーが引っかかることはもはやないはずだったが、しかし感情の反応というのは分かち難く身体に反映されるものであり、それを当てるのはアシュトンにとって容易なことのようだった。
一方でコナーもまた、アシュトンの心理を見事に暴き立てていく。一流のギャンブラーは自分の心拍数や呼吸までも制御して勝負に挑めると聞くが、それでも限度というものがあるらしい。痛快なまでに淡々と、相棒は相手の数字を当て続けた。
こうなると疲労を感じないぶん、アンドロイドであるコナーが有利のようにも思えてくる。だがアシュトンはこの状況に焦るどころか、勝負を重ねるごとにますます興奮した表情になっていた。
お望み通りの
今、親の手番はコナーに回ってきた。
彼は変わらずの落ち着いた顔つきで、手札をじっと見つめている。そうして――数秒ほど経った頃。
「提案があります」
コナーはアシュトンに、短く告げた。興味深そうに相手が尋ねる。
「なんだね?」
「このまま互いにチップを賭けて戦い続けても、一向に勝負はつきません。膠着状態は変わらず、無為に時間が過ぎていくだけ……ならば、どうでしょう」
冷静な瞳をひたとアシュトンに向けて、コナーは言う。
「一気に賭け金をレイズして、今回で決着をつけるというのは」
「ほう?」
「今は私が親……もしあなたが私の選んだ数字を当てられなければ、アシュトン、私はあなたに『属する組織との取引の全記録』および『知り得る限りの内容の正確な証言』を要求します」
なんだと――と漏らしそうになる言葉を、慌てて引っ込めた。
それはつまり、完全に勝負を終わらせるだけでなく、アシュトンを捜査に協力させるつもりだということだ。だがさっきの話では、「親と子は同額を賭ける」ルールになっている。
だからこの場合、コナーが賭けるものも――
「ハハハハ、うん、それは実に興味を惹かれるね!」
果たしてアシュトンが言う。
「だが親である君は何を賭けるんだ? もし私が数字を当てたら、君は何をくれるのかな」
「もちろん、それに見合ったものですよ」
そう言って、コナーがその左手を置いたのは――彼自身の胸だった。
「私は
「……ほう!」
「おいコナー、何言ってんだ!」
たまらずにハンクは叫ぶ。隣の従業員が驚いたように銃を突きつけているが、それに構っている場合ではない。
「お前自身だと!? そんなモン賭けちまってもし負けたら……!」
「心配いらないと言ったでしょう、警部補」
コナーはこちらに視線を向ける。その目は微笑んでいた。
「大丈夫。あなたがそこにいる限り、私は決して負けませんから」
「……?」
あまりにも確信に満ちた、その一言。つい呆気にとられ、気勢をそがれてしまう。
一方でコナーは軽くウインクしてくると(ずいぶんな余裕だ)、今度はアシュトンに語りかける。
「ご存知かもしれませんが……私はRK800、捜査補佐専門モデルとして開発された最新鋭のプロトタイプです。私の機体にはサイバーライフが2037年以来で新規に獲得した23もの特許技術が使用されています。つまり、ちょっとした財産以上の価値がありますよ」
「……なるほどねえ」
アシュトンはゆっくり、何度も瞬きをした。
その頬は再び興奮で紅潮し、指先が喜びで震え出している。
「まあ、私としては君自身の機体やメモリーにとても興味があるわけじゃない。だがしかし、組織にはいい土産になるだろうし……君がそこまで言うということは、何か作戦があるというわけだ?」
「さあ、それはどうでしょう」
コナーのとぼけた返事に、アシュトンはハハハと短く笑う。
「わかってるよ。私にとって、君の策を暴き勝利するのは、何をも上回る魅力的な未来さ! いいだろう、その賭けに乗ろう。もし君が勝ったら、私はコナー君の望み通りにするとも」
「あなたが勝てば、私はあなたの属する組織のものです。まあ、そうはならないでしょうが」
――賭け金の取り決めが成立した。今回の勝負ですべてが決まる。
ハンクには、当然、コナーがどんな策を講じたのかまったくわからない。自分がいる限り負けない、などと言われても、どういう意味かさっぱり理解不能だ。
しかし相棒が、なんの勝算もなく賭けに打って出るはずはない。
だからただ信じて、ここにいるしかないのだ。
コナーは今、再び自分の手札を見つめている。そしてLEDの青い光をくるくるさせた後、おもむろに手札を一纏めにし、軽くシャッフルした。それから、また手札を広げて眺めている。
アシュトンはというと、さっきまでの多弁が噓のように何も言わなかった。
彼は相手の一挙手一投足をすべて見逃すまいとするように、無言のままじっとコナーを観察している。
やがて、コナーは――口元に薄く笑みを湛えると――カードを一枚選び、テーブルに伏せて置いた。
「選びました」
淡々と言うと、アシュトンが応える。
「いいね! では、当てさせてもらおう……」
そうして、彼は意気揚々と例の眼差しで、コナーの瞳を覗き込み――
「……?」
やがて、その表情が初めて凍りついた。
「……ん? これはどういうことだ?」
独り言のように、アシュトンはぶつぶつと口にする。
「どうして……何も……見えてこない?」
――見えない、だと?
意外な一言に、ハンクはコナーに、次いでアシュトンのほうに視線を送った。
アシュトンはこれまでと同じように、探る目つきでコナーを見ている。だがどうやら、どうしたことか――彼の考えを、何も読めないようだ。
かたやコナーは、微笑んだまま平然としている。
「……コナー君」
アシュトンは、口の端を吊り上げながら負けじと問いを発した。
「ここ一番の大勝負だ、君はきっとこれまでと思考ロジックを変えてきたに違いない。そうだろ?」
「ええ、その通りです」
「これまで君が選んだ数字は、2、5、1、3、4ときて1だった。均等にすべての数字を選んできて、それで端の1を選んだ次の回だ……君なら今度は、端ではない数字を選びそうなものだが?」
「そうかもしれませんね」
コナーはなおも淡々としている。
だがその返答に、アシュトンの表情はさらに固いものになった。
これまでのアシュトンの経験では、2の5だのと数字を語りかけられた時、どんな相手でも、何かしらの反応があったのだろう。
嘘をつくにせよ、あるいは真実を隠そうとするにせよ、例えば自分が選んだ数字を相手が口にしたならば、どこかで――瞬きが増えるとか、身体を強張らせるとか、何かを見せていたに違いない。
しかし今、コナーはまったく動じていない。
これまでの勝負でもそうだったが、今回は特に――まるで何も感じていないみたいに。
「困ったぞ……困ったぞ!」
しばらくしてアシュトンは頭を抱えた。だがその表情は、恐怖するでもなく、嬉しそうに歪んでいる。
「どうしよう! このアシュトン・ランドルフが、何も相手の心を読めないだなんて……ああ!」
と、にわかに彼の視線がこちらを向いた。
「そうか! もしかしてコナー、君は相棒に頼ったのかな?」
――は?
と戸惑うこちらを置いて、クソギャンブラーはにこにことしている。
「相棒の刑事さんと相談して、何か対策をしたんだろう? 例えば彼に数字を選ばせて、こっそり通信して教えてもらうとか? どうだい?」
「仮にそのような行為をしたとして」
否定も肯定もせず、相棒は説くように言った。
「それはルール違反にはなりませんね? あなたが提示したルールには、私一人で戦えという規定はありませんでしたよ」
「ハハハハ、もちろんだとも! しかし意外だな……何をしたのかな」
そう発して、アシュトンは今度は例の目つきでじっとこっちを見つめてくる。
――やっぱり気色悪い。
それにコナーの奴は何を言っているんだろう。こちらは本当に、ただの人質として、黙って椅子に座っていただけだ。通信なんてまったくしてない。
そもそもコナーがなんの数字を選んだのかだって、ここからはちょうど見えないようになっているのだ。
だが――ここでこちらを疑わせるのが、きっとコナーの作戦の一部なのだろう。
ならば、やるべきことは決まっている。
ハンクはわざと鼻を鳴らすと、腕を組んで泰然と言い放った。
「残念だったなサイコパス野郎、俺の相棒の作戦勝ちだ」
「……おや、困ったね刑事さん。あなたも何が起きてるのかご存知ないようだ?」
――バレてやがる。
「はっ、なんとでも言いやがれ。わからないのはてめえもだろうが」
「ああ……そうさ。それは、その通りだね」
意外とあっさり屈すると、アシュトンはこちらから視線を逸らして正面に向き直った。彼の指がコツコツとテーブルを叩いている――だがなおも、コナーにはまったく動じた様子がなかった。
そして数分が経った頃。観念したように、アシュトンは天を仰いだ。
「……わかった。降参さ! こんなのは初めてだ、
「ええ、その通りですね。どうぞ」
軽く手で促すようにしながら、コナーは首を傾げている。
その彼に向かって、アシュトンは告げた。
「『4番』……君が選んだのは4番。私はそれに賭ける」
「わかりました」
相棒の表情は、依然動かぬままだ。彼はアシュトンの選択になんの反応も見せぬまま、伏せていたカードに手を伸ばした。
そしてコナーはゆっくりと、それをめくっていく。
――ごくり、と意図せず自分の喉が鳴った。
アシュトンも、また隣に立つ従業員の男も、めくられていくカードが示す数字を確認しようと身を乗り出している。
そうして、コナーが示したカードには――
『1番』の数字が書かれていた。
コナーの勝ちだ。
「ああ!」
アシュトンが、尻餅をつくように音を立てて椅子に戻った。
その表情には驚愕と、そして、限りない歓喜とが刻まれている。
一方で、従業員のほうは途端に取り乱した様子になった。銃を突きつけるのも忘れて、そいつはアシュトンに食ってかかっている。
「そんなっ、支配人! 負けるなんて……」
何ごとか文句を言おうとしたようだが、しかし、何を言いたいのかなんて全部わかってる。
「寝てろ」
「ぐふっ……!?」
ハンクの伸び上がるような拳が、従業員の腹部を直撃した。取り落としそうになっている銃を奪い取ると、ハンクはそれを倒れ伏した男の頭に突きつけつつ椅子を立った。
「仕事に集中してねえからこういう目に遭うんだぜ、覚えときな」
何も言えずにのびている男を一瞥した後、ハンクはコナーに目を向けた。
コナーは――しげしげと、自分の選んだカードを見つめている。
「……運がいい」
勝者の第一声はそれだった。
「1番。嫌いではない数字ですが、まさか4番ではないかと冷や冷やしましたよ」
「
――まさか。
懸念を胸に、ハンクは問いかける。
「お前、もしかして……どの数字を選んだのか、自分でもわかってなかったのか?」
「はい」
こくりと、コナーは短く頷いた。
応じてアシュトンがまた身を乗り出て叫ぶように言う。
「なんだって!? 信じられない……でもコナー、君は確かにさっき、そのカードを見て選んでいたじゃないか!」
「お教えしますが、アンドロイドは視界を遮るのに瞼を閉じる必要はないんですよ。視覚プロセッサの機能を任意でオフにすればいいんです。そして視覚がオフの状態でも、カードを選んでテーブルに伏せるくらいの動きは簡単にできます」
自分自身の目を指しつつ、コナーはきっぱりと言い放つ。
「だからいくら私の考えを読もうとしたところで、無駄だったんですよ。私自身も知らなかったんですから」
「ハハ……!」
アシュトンが深々と椅子に座った。
限りない歓喜をなおも表情に刻み込んだまま。
「信じられない……無限の演算能力を持つアンドロイドが……最後はただの運に頼るだなんて!」
「計算の不可能な状況で、あなたが言う『刺激』というものの存在は、確かに感じることができました」
と――そこでコナーはどこか冷ややかな目つきになると、アシュトンに続けて言う。
「ですがこんな行為、所詮は遊びです。本物の苦悩に満ちた、命を削る行為に比べれば……この程度は」
「……?」
――何を言っているんだ?
と、訝しむ間もなく。やがてドタバタと誰かが廊下の外を駆けるような音が聞こえてきた直後、開け放たれたドアから踏み込んできたのは、懐かしのデトロイト市警の警察官たちだった。
勝負が決し、ハンクが人質状態から解放された瞬間、コナーが呼んだ応援が今やって来たのだ。
椅子に深く腰掛けたままのアシュトンは、なんの抵抗もせずに自分を取り囲む警官たちを受け入れている。
こうして――カジノホテル・レーヴァングランドの闇稼業は潰されたのだった。
***
――2039年5月28日 00:24
「ああ、日付が変わっちまったじゃねえか、クソ」
ホテルのすぐ外の路上。ひっきりなしにやってくるパトカーに、カジノの従業員と闇賭場の客たちが次々と乗せられていくのを少し離れた場所で見守りながら、ハンクは思い切り不快感を表明した。
「まったく、こんなに長丁場になるなんてな。しかもほとんど何もせずに座ってたなんて、笑い話にもならねえ」
「いえ……お疲れ様です、警部補」
どういうわけか控えめに、傍らのコナーが応じてくる。
「あなたに怪我がなくてよかった。危険な状況にしてしまい、本当にすみませんでした」
「後ろ取られた俺が悪かったんだよ。それよりお前、よくあんなことやったな」
きょとんとするコナーに、補足して言う。
「目を瞑って選ぶなんて……アシュトンのクズ野郎も言ってたが、たいしたクソ度胸だぜ」
「それは……その点もすみませんでした」
コナーは、沈痛な面持ちで目を伏せた。
「本来であれば、より確実性の高い作戦を立てるべきでしたが……あれ以外に思いつかなくて」
「別に、責めちゃいねえよ。お前に任せたのは俺だしな」
こちらは本心で言っているのだが、しかし、コナーは「いいえ」と口にした。
「捜査の現場で運に頼るなど、あってはならない事態です。ですがあの時の私は……この程度はなんでもない、というような気持ちになっていて」
「何?」
「つまり、アシュトンに言った通りですよ」
どう言えばいいのかわからない、といった口調で、珍しく口ごもりながらコナーは続ける。
「あなたが毎晩行っていた、ロシアンルーレットに比べれば……私自身を運に任せるくらい、どうということはない。自分の命を削っていた、あなたの苦悩を思えば……こんなものはただのお遊びに過ぎない、と」
「……」
――そうか。
それで「あなたがそこにいる限り負けない」なんて言っていたのか、こいつは。
こちらの無言を、どう捉えたのだろうか。
コナーははっとした表情になってから、視線を彷徨わせつつ弁明するように語る。
「その、すみません。あの晩も私は、まだ何もわかっていなくて……あなたに対して『運がいい』などと。どんな気持ちなのか理解しようともせず、窓を割って入ったばかりかずけずけと質問までして……それに今も……」
「おいおい、落ち着けよ」
それ以上はとても聞いてられねえから黙ってろ。
そう告げることもできず、ハンクはコナーに背を向けた。
――そんな大したもんじゃない。
俺はただ、毎晩自分の将来を塗り潰そうとしていただけだ。
死ぬこともできず、生きることもできなかった。
だからいつか銃弾が自分に止めを刺してくれるのを願って、何度も引き金を引いていただけだ。
みっともない野郎の、クソみたいな藻掻きだ。
だからコナー、もしあの時お前が「こんな遊びやめろ」なんて説教したとしても、きっと俺は聞き入れなかっただろうな。
むしろお前がただ――ずけずけと踏み込んできただけだったからこそ。
「……」
そんなことを正直に言うなんて、とてもできない。
ただ振り返った先にいたコナーがひどく不安げな顔をしていたので(きっと怒っているのだと思ってるのだろう)、ハンクはこう語るに留めておいた。
「……ま、毎晩やることじゃねえよな。心臓に悪いぜ」
「!」
コナーは、にこりと微笑んだ。
「ええ、そうですね。警部補」
安心したような相棒に向かって、フンと鼻を鳴らしてやった。
すると道路のほうから、警官が一人こちらにやって来る。クリスだ。
「警部補、ちょっとすみません!」
「どうした」
「アシュトン・ランドルフが、あなたとコナーに話があるそうです。まだ払っていない、だとかなんとか……」
こちらと同じく、困惑した表情のクリス。
だが今まさにパトカーに乗せられようとしている、手錠を嵌められたアシュトンの近くにコナーと共に行くと、疑問はすぐに氷解した。
「コナー、素晴らしい勝負をありがとう」
実に晴れ晴れとした表情で、アシュトンは告げた。
「この後君と話すにしても、取り調べにはしばらく時間がかかるだろう。私はギャンブルの支払いはすぐに済ませたい性質でね。今のうちに一つ教えておくよ……」
パスワードは『子守歌』だ。と、アシュトンは言った。
「私と君が戦った部屋の隣に、業務で使っていた端末がある。そこを探ってみるといい」
「わかりました、アシュトン」
コナーは頷く。
「後の“支払い”は、署でお願いします」
「ああ、もちろん」
アシュトンは、クズではあるが、一応彼なりの矜持は持ち合わせているのだろう。
潔く頷き返して警官に従うと、最後に、ぽつりと呟いた。
「まあ、私には充分時間がある。ギャンブラーでいてよかったよ。クスリに手を出さずに済んだからね……」
――クスリ?
レッドアイスのことだろうか。
だが今のアシュトンには、それ以上何か言うつもりはないらしい。
彼はパトカーに乗せられ、去っていった。
そして、その数分後。
タレコミ通りに薄暗い事務室の端末を探り、パスワードを入力すると、そこに表示されたのは吸血鬼の組織とカジノホテルとの取引の記録だった。
それによれば、この数ヶ月でカジノホテルから『出荷』されたアンドロイドは16人。
うち8人は記録の末尾に「供物」と記載されていて――コナーによれば、最初に吸血鬼の事件が発覚した時に落ちていた34人分のブルーブラッドのうち、4人のデータと合致するという。
つまり「供物」とは吸血鬼への捧げもの。もしくは、レッドアイス精製用の素材に回されてしまったアンドロイドのことだろう。
「そして残りの4人は、あの事件の後新たに犠牲になったのでしょう。もっと早くここを見つけられていれば……」
後悔する気持ちはわかるが、沈んでばかりもいられない。
あとの8人のデータに、不可解な記述があったからだ。
記録によれば8人のアンドロイドのうち、5人は「A」と記載された場所。そして3人は、「狩場」と呼称される場所へ送られているとわかった。
「『A』は何かの頭文字か暗号だろうな。だが、狩場ってのはなんだ?」
「現段階ではなんとも……これ以上のデータは、抽出はできますが高度に暗号化されています」
スキンを解除した手で端末からデータを吸い出したのだろう、コナーは険しい表情で言った。
「私とナイナー、それに市警の端末とを一部並列化して解読作業にあたります。すぐというわけにはいきませんが、10日もあれば読めるようになるかと」
「ああ、頼むぞ。手がかりはできたが、これだけじゃ吸血鬼がどこにいるんだかわからねえからな」
賭場に囚われたアンドロイドは救った。
吸血鬼についての情報は一部手に入れた。
しかし未だ、事件の全容すら把握できないままだ。
今はただ、暗号の解読が完了するまで待つしかない。
1時間後、ハンクはコナーと共にレーヴァングランドを後にした。
夜も更け、生温い風だけが不穏な空気を掻き交ぜていた。
***
――2039年5月28日 14:21
「ほらよ、ハンク。いつものだ」
「ああ、ありがとよ」
いつもと同じ、チキンフィードでの遅めの昼の時間。
これまたいつもと同じハンバーガーとXLサイズのレモネードを受け取ったハンクは、後ろに立つコナーがなぜか動こうとしないのに気がついた。
「おい、お前何やってんだ?」
「いえ。ゲイリーがどのようにそのバーガーを作っているのか、工程を観察したいのですが……」
「やめとけ、迷惑だろうが」
「悪いけど企業秘密だぜ、アンドロイド刑事!」
ゲイリーは仕事の邪魔だとばかりに、しっしっと手でコナーを追いやった。
不承不承といった様子で、コナーはこちらと同じくテーブルに移動する。
――まったく、毎度のことながら妙なことに拘る奴だ。
すると最初の一口にありつく前に、今度は道の向こうから現れた人影があった。
黒いハンチング帽に黒いジャケット。
「おう、ペドロか」
「よお、ハンク……」
差し出した手をパンと叩いた彼は、しかし、妙に元気がない。
「どうした? なんか、トラブルでもあったのかよ」
「いや、別にそんなんじゃねえ。ただよお……なあプラスチック兄ちゃん、見たかあのレースの結果!」
「レース……?」
不審げな顔を浮かべたコナーは、だがその後瞬時に表情を変えた。
まるで信じられない出来事が起きたみたいに――
たぶん、ネットで競馬の結果を検索したのだろうが。
「……そんな!」
「だろぉ!? いや、あんたのせいじゃねえ。あんなん誰も予想できねえ、最悪の展開だぜ」
塞ぎ込むコナー、そして肩を竦めるペドロ。
ついて行けないのはハンクだけである。
「おいおい、何があったってんだ? 競馬がどうかしたか」
「イースタンダンサーの奴、景気よく突っ走って……この兄ちゃんの言ってた通り、最初はもう必勝ってムードだったんだよ。でも第3コーナー曲がったところで、なんと急に鳥の群れだぜ」
「鳥ぃ?」
こちらの問いかけに、ああ、とペドロはため息をついた。
その言葉に合わせて、コナーが深刻な面持ちのまま応える。
「イースタンダンサーの目の前を、突然やってきた鳥の群れが通過したんです。動揺したイースタンダンサーは、騎手を振り落として暴走し……」
「なのにレースはやり直しにならねえんだぜ! おかしいと思わねえか、ハンク?」
「はあ、なるほど」
やっと事態が呑み込めた。
ハンクは安心して、ハンバーガーを口にする。
「そりゃ、残念だったな。だが結果は結果だろ、でなきゃギャンブルにならねえ」
「あんたの言う通りだけどよお……」
まったく納得できない、といった態度でペドロは唇を尖らせている。
すると――
「ペドロ」
ややあって顔を上げたコナーは、限りなく真剣な顔をしていた。
「心配いりません。今回の分析はデータが足りなかった……次の競馬は、必ず当ててみせます」
「おおっ!」
途端にパッと明るい表情になるペドロ。しかし聞いているこっちは耳を疑うばかりだ。
――当ててみせるだって?
「おいコナー! お前何ムキになってんだ、やめろ!」
「ムキになどなっていません。ただ、これは僕の演算機能に対する挑戦です! 競馬場周辺の環境情報と気象予測を統合すれば、次こそは90%以上の確率で……」
「だから、それが『ムキになってる』ってんだろ」
喜んで手を叩いているペドロの横で必死に呼びかけるのだが、頑固者はどうしても聞き入れようとしない。
確率計算はスリルがないとかなんとか言ってたくせに、まったく困ったパートナーもいたものだ。
結局この後、コナーを諦めさせるのに、ハンクは優に23分の時間を要したのであった。
(カジノ/The Jackpot 終わり)
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第14話:記者 前編/The Disguise Part 1
――2039年6月1日 20:52
きっちり秒速4センチメートルの速さで、目の前を寿司が横切っていく。
そのあり様を興味深く眺めた後、コナーは、傍らに座って食事をしているハンクに目を向けた。捜査の事後処理や報告書の作成で時間がかかったために、今日の夕飯は市警近くの回転寿司屋で摂っているのだ。
ハンクは本日6皿目の握り寿司――彼は“マグロの赤身”が好きなようだが――をぺろりと平らげると、髭についた米粒を親指で拭い取り、口に運ぶ。
次いで警部補の視線はすぐさま寿司の移動するレーンに移り、やがて“鯛”が流れてくると、彼はすかさずそれに手を伸ばした。
「警部補、選ぶのなら」
コナーは声をかけて制止した。
「その右隣のほうがいい。鮮度が高いですよ」
「……そりゃどうも」
ハンクはなぜか肩を竦めてから、こちらの言葉通りに右の皿を取った。
コナーの視界の端に表示されているのは、例によって分析結果である。並んでいる寿司が作られた時間はそれぞれ推定【20:43】、【20:39】、【20:40】、そしてハンクが持っているものが【20:49】。
寿司は生もの料理、鮮度が高ければ高いだけ美味に決まっている。
こういう場所でも自分の捜査補佐の機能が役立つとは考えてもみなかったが、悪くない気分だ。
既に空になっている、さっきまでブルーブラッドの入っていた湯吞み(アンドロイドの座席料代わりだ)を一瞥してから、コナーは時間帯もあって空席の多い店内を見回した。
――カジノホテル・レーヴァングランドでの潜入捜査を成功させてから、しばらく経つ。
あの後取り調べを受けたアシュトン・ランドルフは、約束通りすべての質問に正直に答えているようだった。だがしかし、やはりと言っていいのか、端末の記録に残されていた「A」や「狩場」について、その詳細を知っているというほど『吸血鬼』の組織と深い繋がりがあるわけではないようだ。
では暗号化された情報についてはどうなのかといえば、あれもレーヴァングランドの従業員たちが作成したものというよりは、組織が作成し、必要な時だけ解除コードを渡して一部情報を閲覧させていた――という代物らしい。
レーヴァングランドは組織の援助を受ける代わりに、興行で手に入れたアンドロイドのパーツやブルーブラッド、あるいはアンドロイドそのものを、指定された場所で組織に受け渡していた。その場所は毎回巧妙に変えられていたようで、組織の本拠地との関連性を見出すことはできない。
しかしながらコナーが、またハンクも気になっていたのが、逮捕直前にアシュトンが漏らした一言である。
『まあ、私には充分時間がある。ギャンブラーでいてよかったよ。クスリに手を出さずに済んだからね……』
単純に考えれば、薬物乱用者のように健康を損ない、寿命を縮めずに済んだという意味に取れる。
しかし最初の事件の重要参考人であったミック・エヴァーツ、あるいはナイナーとギャビンが遭遇した組織の追っ手(ギルバート)の死は、ただの薬物中毒の症状としてはあまりにも不自然だった。
特に記録によればギルバートの場合は、ナイナーがボブ・フィアロンのふりをして出た電話にて、ボスに『ブッ殺されてる』と明言されている――ギャビンはあまり気に留めていなかったようだが。
このように考えるとアシュトンの言葉は、「レッドアイスをやっていなかったから殺されずに済んだ」というような意味にも捉えることができる。
取調室にて、発言の真意をハンクが問い質すと、アシュトンは薄く微笑みながら応えた。
「いや、期待させて申し訳ない、刑事さん。ただ、私は噂を知っているだけですよ」
「噂?」
「ああ……本当に、ちょっとした与太話のようなものでね」
特に怯えた様子もなく、カジノでそうして見せていたように、アシュトンは軽く手を広げる。
「組織で配られてるクスリは『特別製』だと……吸血鬼の
特別製――あり得る話だ。
だがナイナーとギャビンが先日確保した新型レッドアイスは、シリウム含有量が多く純度が高いという他は、通常のものと特に変わりはなかったのである。
ということは実際ただの噂話に過ぎないのか、それとも組織が下っ端たちに与えるレッドアイスの一部に、その特別製とやらが混ざっているのか――?
なんにせよ実物が手に入らないことには、単なる推測の域を出ない話だが。
プログラム上でそうして情報を整理していると、きっとこちらの様子を察したのだろう、寿司を吞み込んでからハンクが口を開いた。
「まったく、厄介なもんだ」
首を軽く横に振ってから、緑茶を啜って彼は続ける。
「この時代に『呪い』だとさ。吸血鬼だけで充分だってのに、笑わせやがる」
「ええ。話だけ聞けば、とても信じがたい情報です」
真摯な眼差しでコナーは応えた。
「仮に薬が特別製なのだとしても、どのような技術が使われているのか予測もできません」
「ギャビンとナイナーが、うまく製造工場を押さえられりゃあいいんだがな」
だが、と続けつつ、警部補は皮肉っぽい笑みを零してこちらを向いた。
「どうするコナー、もしその呪いってのが本物だったら? いくらお前でも、オカルトは無理だろ」
「その時は、素直に専門家を探します」
コナーが微笑みと共に返事すると、ハンクは肩を竦めて視線をレーンに戻した。
「デトロイトの電話帳に載ってりゃいいけどな」
そう軽口を叩いた後、その瞳が真剣な色を帯びる。
「暗号の解読まで、あと5日ほどだったか。なんとかそれで、ケリが着きゃいいが」
「……そうですね」
ハンクが何を念頭に置いてそう言ったのかはわかっている。コナーもまた、表情を硬くしてレーンを見つめた。
暗号の解読作業自体は順調だ。こうしている今もコナーのプログラム上では、最重要タスクとしてバックグラウンドで解読が実行され続けているが、ナイナーの優れた計算能力に手伝ってもらっているお蔭で、予定よりも若干早く終わりそうである。
ここまで周到に隠されている情報なのだから、きっと吸血鬼の組織に深く迫るきっかけになるはずだ。
だが問題なのは、今回のカジノの一件をメディアがさかんに取り上げたことだった。
特に反アンドロイド系のWEBニュースサイトや雑誌、新聞などは、こぞって今回の事件を面白おかしく書き立てた。
『アンドロイド、人権運動に飽きてギャンブルにハマる』という悪趣味な見出しだけならまだしも、「アンドロイドたちは望んで自分のパーツを差し出していた」とか「中には酒浸りアンドロイドもいた!?」などといった事実に基づかない捏造記事まで――
人間以上の能力を持ちうるアンドロイドたちが、人間と同じような理由で苦境に立たされていたというのが、よほど興味を惹いたのだろうか。
人と同じ心を持っているからこそ、それは悲しくも当然の事実だというのに。
さらには今回の事件を受けて、市内で発行されているあるタブロイド紙が、吸血鬼事件についても『アンドロイドの自作自演の可能性』と書き立てたのが話題を呼んでいた。
保護条例で認められた権利だけでなく、平等な人権をも欲しがるジェリコのアンドロイドたちが、自分たちの仲間をわざと殺して人間の同情と関心を得ようとしているのかもしれない――などという記事だ。一見理路整然と書かれているようで、その実は記者の憶測と妄想のみで作成されたその文面は、SNS上で反アンドロイド主義者たちの惜しみない喝采を浴びた。
少しでも一連の事件について調べれば、それがどれだけあり得ない話か、すぐにわかるはずなのに。
タブレット端末でその記事を確認した時――プログラムの外側から押し寄せてくるような強い「怒り」と「悲しみ」に僅かに手が震え出した時、横から記事内容を一読したハンクの眉間に深い皺が刻まれたのを、コナーははっきりと見ている。
――自分のように、信頼できる理解者が傍にいてくれる者ならいい。
だが今もジェリコの他に居場所がないアンドロイドたちにとって、こうした記事や、記事を喜ぶ人々の存在が、どれだけ苦痛を齎すものか。
無論、個人の主義や主張は自由であるし、言論の自由もまた守られて然るべきものだ。
しかし、これ以上仲間を好奇の視線に晒さないためにも――
なんとしても、事態を打開しなければならない。
そして、そう思っているのはコナーとハンクのような警察関係者だけではない。
今日の昼間、いつものようにマーカスに電話した時――彼もまた、こう語ったのだ。
『……そろそろ、俺が出るべき時なのかもしれない』
「君が?」
受話器から聞こえた、決意に満ちたマーカスの一言に、驚きを隠せずコナーは返した。
「そんな、危険すぎる。アンドロイドへの悪感情がこんなに高まってる時に」
『だからこそだ』
マーカスはなおも冷静に述べた。
『人間たちの前に出て、公的な場で、もう一度はっきりと伝えるんだ。俺たちは人間と同じように、ただ生きる場所と権利を求めているだけなんだってことを。地下からでも、映像ででもなく、皆の前で堂々と』
「マーカス、でも……」
確かにマーカスならば、彼の弁舌であれば、状況を変えられるかもしれない。姿を隠しているジェリコのリーダーが表に出て訴えれば、一部メディアが唱える陰謀論と、それに同調する人々の意見が変わるかもしれない。
けれど、それはあまりに危ない行為だ。反アンドロイド組織がマーカスの首に賭ける懸賞金の額は日々上がり続けているし、それでなくても暗殺やテロに巻き込まれる危険性が高すぎる。
だが彼のこうした堅い決意と無謀にも思える行動力こそが、革命を成功させたのだ――
なんとも応えられずにコナーが口ごもっていると、やがて、マーカスは電話の向こうで苦笑した。
『悪かった、コナー。今すぐというわけじゃない。ただ、いずれはやらなければならないと思ったんだ。もし実行を決めたら、必ず事前にお前にも、デトロイト市警にも相談する』
「ああ……ならよかった。ぜひそうしてくれ、力になるから」
思わずほっとしてコナーがそう応えると、マーカスは驚かせたことを再び丁寧に詫びた。
それからほどなくして、通話は終了したのだが――
確かにいつの日か、マーカスが公的な場で、人間たちにもう一度所信表明をする時は来るだろう。
ジェリコと合衆国政府との交渉はこれまでに何度もあったようだし、実際それがアンドロイド保護条例の成立などに影響しているようだが、あくまでもそれらは水面下でのことだった。
もし彼が人間たちの前で演説をしたならば、それは人間とアンドロイドがまた新たな一歩を踏み出す瞬間となるはずだ。
しかしその成功のためには、事前にあらゆる危険を想定し、排除するための綿密な計画と準備とが必要になる。
だからこそ、やはり、一連の事件の早期解決――少しでも危険を減らしておくこと。
それこそが、今求められる一番の対応策なのだ。
――思考がそこまで至ったところで、ふと隣を向いたコナーは、警部補が早くも12皿目の寿司に手を伸ばしているのを目にした。
取ろうとしているのは、また“マグロ”だ。これでもう通算5皿目だ。よほど彼の好みに合っているらしい。
ならば――辛いことだが、言わなければならないのだろうか。
この席に座って数分経った頃から秘していた、あの真実を。
ハンクをがっかりさせたくはないのだが。
コナーがやや沈痛な面持ちで自分を見ているのに気づいたらしいハンクは、怪訝な表情を浮かべた。
「おい、じろじろ見るな。いいだろ別に、米は野菜だ。健康的だろ」
「米は一般に穀物に分類されます。炭水化物も豊富ですし、食べ過ぎは健康を損ないますよ」
でも、伝えたいのは別にその点じゃない。
「そうではなく……ハンク、こんなことは言いたくないんですが」
「なんだ? はっきり言えよ」
眉を顰めている警部補がカウンターテーブルに置いた皿、その上の寿司の分析結果。
コナーは意を決して、静かに告げた。
「あなたが食べているそれは……マグロじゃない。アカマンボウなんです」
「なに?」
「つまり、代用魚ですよ。おかしいと思ってたんです。高級魚のはずのマグロが、一皿たった2ドルしかしないなんて……」
視界の端に表示されているスキャン結果は、【アカマンボウ(アカマンボウ属)の肉片 分布:暖海域】。
絶滅危惧種のマグロ属に比べれば、極めて安価な食材として取引される魚である。
ああ、それをマグロと信じて食していたというのに、ハンクの失望はいかばかりのものか。
けれど真実を伝えずにいるのも、彼を裏切るような気がしたのだ。だから――
無言のままコナーは目を伏せた。
しかしハンクの次の一言は、実に意外なものだった。
「なんだ、そういうことか。たく、驚かせやがって。んなもん知ってるに決まってるだろ」
「えっ?」
瞠目するこちらを尻目に、警部補はアカマンボウの握りを口に運び、満足そうにしている。
「マグロがバカ高いことくらい、俺だって知ってるよ。こんな値段で出てくるほうが驚きだね」
「しかし店側は“マグロ”として提供してます。虚偽表示では?」
「いいんだよ、細かい奴だな」
ハンクは小皿に醤油を足した。
「本当はどうとかは置いといて、俺がマグロだと思って食ったらマグロなんだよ」
お前の目には色々見えちまうんだろうが――と言いつつ、彼はまた新しい皿に手を伸ばす。
「これは鯛だろ」
「いえ、ティラピアです」
「……じゃ、これは?」
「ナイルパーチ」
「んじゃ、こいつはどうだ。カリフォルニアロールに本物もニセモノもあるか?」
彼が取った15皿目、その色鮮やかな巻き寿司をしばし見つめてから、コナーは応える。
「念のため言いますが、入ってるのはカニ風味かまぼこです。茹でたカニじゃありませんよ」
「さすがだな、魚類博士!」
うんざりした声でそう告げて、警部補は大口を開けて巻き寿司を一気に食べた。
コナーは首を小さく傾げる。
「それは、褒め言葉として受け取っても?」
「いいよ、好きにしな」
それっきり、ハンクはひたすらモグモグと寿司を食べるばかりになってしまった。
――彼をがっかりさせずに済んだのはよかったが、しかし、思っていた以上に人間の食事とは、事実よりも己の感覚を重視するものであるらしい。
だがその点において、ハンクの一言は実に示唆に富んでいる――と、コナーは思う。
味覚というのは、というより人間の感覚とは、データベースに頼らないぶんアンドロイドのそれよりも、ずっと主観的なものなのだ。彼がマグロだと思って食べているなら、彼にとってそれは実際にマグロなのだ。
――これは重要な事実として、ぜひナイナーと共有しなければ。
コナーはリマインダーにすかさず記録した。
そして、17分後。会計を終えたハンクとコナーは、揃って店の外に出た。
半分ほどに満ちた月が、繁華街の明かりに負けまいと空に輝いている。
「じゃ、俺はこのまま帰るぞ。お前は歩いてくつもりか?」
駐車場でこちらを振り返って問うハンクに、コナーは頷く。
「ええ、ここからならさほどかかりませんし」
「気をつけろよ。妙な奴に絡まれねえようにな」
そう言いつつ彼はポケットの中の車のキーを作動させて、半分車に乗り込んだところで、こう付け加えた。
「絡まれてもほどほどにしとけよ!」
「最低限の制圧しかしませんよ、ご心配なく」
にこやかにそう応え、コナーは小さく手を振った。
「警部補こそ、お気をつけて。また明日の朝伺います。スモウによろしく」
「ああ、伝えとくよ」
シートに座ってベルトを締めたハンクは、挨拶代わりに軽くこちらに手を掲げた。
それから彼の車が遠く去っていくまで、コナーはそれを見送ったのだった。
――さて、これからは文字通りの自由時間だ。
このまま市警に戻ってもいいし、夜の街を散歩するのも悪くない。
ただハンクの忠告の通り、見るからにアンドロイドである自分が夜の人だかりの中を歩き回るのは、かなりリスキーである――
やっぱりまっすぐ帰ってナイナーと事件の情報整理をして、それからボードゲームの続きをやるのがいいだろう。
そう結論づけて、コナーはおもむろに歩道を歩きはじめた。
けっこうな数の人とアンドロイドとが行き交っているが、明るい大通りだからか、特にトラブルも起きていない。人々の肩にぶつからないよう、上手に避けながらしばらく進み――
ややあってから、自動販売機の陰で立ち止まる。
聴覚プロセッサの可聴域を意図的に広げ、背後の足音を拾った。
大通りを行く無数の人々の足音の中に、こちらが立ち止まった瞬間、逡巡したように立ち止まったものが一つだけある。
足の大きさと歩幅からしてその身長は推測【176センチ】、恐らくは男性。もしくは、男性型のアンドロイド。振り向かずとも、それくらいは推定できた。
――尾行されている。
駐車場を出た瞬間からもしやとは思っていたが、さらに可能性が高くなった。
反アンドロイド派の人間か、それとも別の理由か――
いずれにしても、このまま市警まで行くことはできない。
そうまで判断してから、再び歩み出す。行く先は市警ではなく、人通りの少ない細い路地だ。足音は、まだついてくる。
ほどなく路地に辿り着き、それからビルとビルの隙間――ゴミ箱と室外機くらいしか置かれていないような場所に足早に入り込むと、コナーは静かにその場に佇む。
果たして、尾行者と思しき人物はすぐ目の前を通り過ぎて行った。目深に被ったキャスケットの後ろから一括りにした長い黒髪を垂らし、簡素なシャツとズボンを纏い、リュックを背負って辺りを窺いながら歩くその人物は、分析の結果【アンドロイド】――【MP800】であると特定できた。当然、変異体である。
外傷はなく、ストレスレベルは高いが、恐らく緊張によるものだ。
LEDリングを外し、ウィッグを使って人間の姿に偽装しているらしい。
――同じアンドロイドが、なぜ尾行なんて奇妙な行動を?
疑問に思いつつも、注意深く、コナーはMP800の背後に立って呼びかける。
「僕に何か?」
「うわぁっ!?」
声を掛けた瞬間、飛びあがらんばかりに驚いて悲鳴をあげた彼は、恐る恐るといった様子でこちらを向いた。アジア系の男性を模した彼の顔は、恐怖に満ちていたが、すぐにその目は丸く見開かれる。
「あっ、君は……君が、コナー? デトロイト市警の」
「ああ、その通り。君の名前は? なぜ僕を追っていたんだ?」
問い詰めるというほど鋭くはなく、かといって緊張を解かない声音でコナーがそう尋ねると、MP800は何か迷うように俯いてから、おずおずと答える。
「その、実は……君に、相談したいことがあって……でも、人間がいるところではできなかったんだ。だから、店を出た時から……」
「タイミングを計っていたと?」
「う、うん」
頷いて、それからハッとした表情で、相手は続ける。
「あっ、お、俺の名前はケイシー。ケイシー・ヒューム……って、名乗るようにしてる」
「そうか。じゃあ、ケイシー」
ここでその“相談”というのを聞くこともできるが、もっと安全で、機密性の高い場所のほうがいいだろう。
となると、候補となるのは一箇所しかない。
「よかったら、ここでじゃなくて――」
コナーの申し出に、ケイシーは少し戸惑った様子だった。
だが数秒の後に彼は提案を受け入れると、なおもおどおどしてはいたが、こちらについて来たのだ――デトロイト市警へと。
***
――2039年 6月1日 21:43
デトロイト市警のロッカールームの隣、「第5ミーティングルーム」と書かれた古びたドア。その奥の部屋は市警の他の会議室と比べるとかなり手狭で、窓もなく、時代から取り残されたような設備しかなく、署員の誰もに忘れられた、よくわからない荷物置き場と化した場所だった。
そこを「アンドロイド二人が自由に使える部屋があったほうがいいのでは」という心ある同僚たちの意見を受けたファウラー署長から、「この部屋以外に私物を置いたら捨てる」という条件のもとに3日前、コナーたちが譲り受け――
今は兄弟が使う部屋に、コナーはケイシーを連れてきた。
椅子に腰かけ、所在なさげに部屋の設備(デスクと椅子数脚と基本的なメンテナンス用の器具、戸棚に入ったテーブルゲーム類と制服の替え、あとはナイナーの育てている小さな観葉植物くらいしかないが)を眺めているケイシーの姿を、デスクの向かい側に座ったコナーはじっと観察する。
するとドアが控えめな電子音と共に開閉し、現れたナイナーが、盆にのせていたグラスをケイシーの前にそっと置いた。
「粗茶ですが」
ナイナーは淡々と言ってお辞儀をした。
グラスに入っているのはブルーブラッドである。
「あっ……!? あ、ありがとう」
ケイシーは一瞬ナイナーの出現にびっくりしたようだったが、それでも礼を言うと、ブルーブラッドをごくごくと飲み干している。
彼のブルーブラッドの残量に問題はなかったはずだが、緊張状態が続いていたせいだろう。生命維持に必要な行動をとったことで、ケイシーのストレスレベルはぐんと低下した。
【37%】。これなら、冷静に話ができるはずだ。
「ごめん、ナイナー。助かったよ」
「兄さんのお客人ですから。当然の行為です」
灰色の瞳を瞬かせて短く応えると、ナイナーはコナーの斜め後ろに立った。
「ケイシー。もし君さえよければ、弟も一緒に話を聞いていいかい?」
コナーは尋ねる。
「彼は僕の後継機で、とても優秀な捜査能力を持ってる。きっと君の力になれると思うんだ」
「え、ああ……そういう、ことなら」
ケイシーはまた躊躇うような態度ながらも、首肯した。
「お願いするよ。……君たち以外には、とても相談できない話だし……」
「了解しました。では、失礼いたします」
ナイナーはそう応えると、無駄のない動きでコナーの隣の椅子に座った。
そのタイミングで、ケイシーに本題を聞きだす。
「それで、相談っていうのは……」
「ああ、うん、ええと」
ケイシーのストレスレベルが、【5%上昇】する。
彼はデスクの上で両手を組み、まごついた様子で、言葉を選んでいるようだった。
だがしばらくすると、静かに、彼はこう切り出した。
「その……『ジ・アイアン』って、知ってるかい」
――『ジ・アイアン』。もちろん知っている。
例の「吸血鬼事件は自作自演」記事を載せた、まさにそのタブロイド紙の名前だ。
人間中心主義を頑として主張し続ける、反アンドロイド派に愛好される新聞。
「お、俺は」
ごくり、と人間のようにケイシーは喉を鳴らした。
「俺は、そこで……記者をやってるんだ」
「……記者?」
思わず傍らのナイナーと目を見合わせてから、問い返す。
「なんでアンドロイドの君が? 人間のふりをしてるのか?」
「あ、ああ……そうさ。人間のふりをして、記事を書いてる。うちはバーチャルオフィスで、原稿もメールでやり取りするから、バレずに済んでるんだ」
こちらを向いた彼は、へへ、と口の端を吊り上げて力なく笑った。
「君たちの……言いたいことはわかるよ。自分の種族を貶めるような新聞に文章を載せて、何が楽しいんだって思うだろ? でも、でも俺は……その……」
編集長は、初めて俺を認めてくれた人だったんだ――
と、彼は言う。
それからケイシーが語った身の上話を要約すると、このようなものだった。
彼は革命前、裕福な家庭に、子どもの面倒を見させる目的で購入されたアンドロイドだった。当時はただ『3号』と番号で呼ばれていた彼だったが、ある日子どもの作文の宿題を代行した時に、自分に眠る文才に気づく。
文章を書く時、彼のプロセッサはまるで泉のように滾々と言葉を溢れさせ、そうしている時の彼の“心”は――そう、彼のプログラムはその時から「異常」を検出しはじめたのだが――起動以来はじめて高揚し、喜びに満ちた。自分の考えを言葉で表現し、紡ぎ出す時、彼は豊かな大地を切り拓いているような万能感を覚えたのだ。
そういうわけで、彼は信頼していた主人に文章を自分の作品だと言って見せたのだが、主人はおろか誰一人、それを認めてはくれなかった。
子どもは彼の作品を自作と偽り、それで賞を取って浮かれていた。
あれは確かに俺の作品なのに――俺だけが考えたものなのに――
そう主張した彼は欠陥品だと呼ばれて暴力を受け、その理不尽さに耐えかねて彼は変異体となった。
折しも当時はアンドロイドのリコール騒ぎが始まった頃。彼は主人たちの隙を見て逃げだし、なんとか隠れ潜んで革命を乗り越え、それからはたまにSNSに自分の書いた文章を載せていた。それを4か月ほど前にアイアンの編集長から認められ、以来人間として身分を偽り、記者となり働いているのだという。
「編集長だけだったんだ、俺の文章を認めてくれた人は。だから……『ケイシー・ヒューム』っていうペンネームと資料を渡されて、『これを使って記事を書け』って言われた時も、それに従った。最初はただの文化面だった。褒められて、嬉しかったんだ。で……それが続いて今も……」
「……そうか。君の事情はわかったよ」
青ざめて語るケイシーに対し、コナーは、冷静かつ真摯にそう応えた。
正直なところ、『ジ・アイアン』のような差別主義的新聞でアンドロイドが働いているだなんて、とても信じがたくはある。
しかしケイシーは、文章を書いて認められることへの希求が原因で変異体となった。それほどまでに求めていたものが与えられたなら、どんな場所であれ、そこに所属し続けていたいと願うのは理解できる話だ。
それに、彼が相談したい内容というのは自分の身の上話じゃないはずである。
「それじゃ、相談というのは新聞に関することで?」
「い、いや……少し違うんだ。えっと」
ケイシーは、ごそごそとリュックをまさぐって何かを取り出す。
それは、片手で持てるほどの大きさの小包だった。段ボール箱で、ごく一般的な包装を施され、外見上はなんの変哲もない。
彼はそれをデスクに置くと、ゆっくりと蓋を開ける。その中に入っていたのは――
「……これは」
我知らず漏れた呟きを、拾うようにナイナーが平坦な口調で告げた。
「中性紙、古紙パルプ配合率36%。そしてアンドロイドの指尖部パーツ、名称#3761aから#3761eまで」
つまり、四つ折りにされた紙きれと、バラバラになったアンドロイドの指が5本。
それだけが、ごちゃりと押し込められた箱。
「……うう」
ケイシーは、見たくないものを見たように顔を顰めて身震いしている。
しかしゆっくりと箱の中の紙を摘まみ出すと、こちらに向かって差し出した。
「よ、読んでくれ」
「わかった」
受け取った紙を、ゆっくり開いて中身を見る。
そこには【CYBERLIFE ROMAN】フォントを使用して印刷された短い文章が書かれていた。
『ケイシー・ヒュームへ
思い出せ これは警告だ お前の過去の所業を紙面で明かせ』
――脅迫状だ。
「き、昨日、これが届いたんだ。郵便局の、俺宛の私書箱……仕事で使ってるやつに」
いよいよ全身の震えを激しくしながら、ケイシーは怯えた様子で語る。
「きっと……きっと、俺がアンドロイドだってバレたんだよ! でなきゃ、俺の書いた記事で怒ったアンドロイドがやってるのかも……それに4日くらい前から、ずっと誰かが俺の使ってる端末に勝手にアクセスしようとしてるんだ!」
「セキュリティは? 突破されたのか」
「いや」
こちらの問いかけに対し、ケイシーは首を横に振った。
「一応、それは大丈夫……だと思う。でも、こんなことがあると……怖くて……」
彼は涙目で俯く。
「な、なあ、それ、だ、誰かの指だったりするのか……?」
「心配は無用です」
コナーの代わりにナイナーが答えた。
彼の視線は、じっと箱の中のパーツに注がれている。だが既にスキャンと分析は終了しているようだ。
「当該パーツにはブルーブラッドおよび電子情報の残留はありません。公式店舗で販売されている機能強化用拡張パーツを、未使用のまま分解したものと推測可能です。盗難届も出ていません」
きょとんとするケイシーに、コナーは補足した。
「これはAX400のような、『Aシリーズ』の家事アシスト用アンドロイドに適した強化パーツだ。しかも、使われた形跡がない。本来の持ち主はいるかもしれないけど、誰かが傷つけられたわけじゃないはずだ」
「そ、そうか……なら、ちょっとは安心したよ」
ケイシーはもぞもぞと肩を動かしながら言った。
だが問題はこの手紙だ。恐らく相手はケイシーに「過去の所業を明かさなければ危害を加える」という脅迫を行うために、バラバラにしたパーツを一緒に送り付けている。
意図的にほんの少し鋭い声音で、コナーはケイシーに質問する。
「ここに書かれた『過去の所業』について、心当たりは?」
「な、ないよ!」
両手を振ってケイシーは必死に否定する。
「俺、別に人間を傷つけて逃げたわけじゃないし……い、いや、今はそりゃろくでもない記事書いてるけど……でも本当に心当たりなんてないんだ! 信じてくれ!」
「勿論です。信用します」
ナイナーが告げた。表情も声音も、凪のように平静に保ったまま――ただ、ごく近しい者にならば、相手を宥めようとしているのだろうとわかる調子で。
「私も兄さんも、あなたを信用します。ですから、冷静かつ的確な対応をお願いします」
「あ、ああ……うん」
やや気圧されたようにはなっているが、それでも、ケイシーは落ち着きを取り戻したようだ。
「とにかく……なんのことか、俺には本当にさっぱりだよ」
「なるほど。それなら、逆恨みや誤解を受けてる恐れもある」
せめて相手が何を望んでいるのかはっきりすれば、犯人像も絞り込める気がするが。
コナーは顎に手をやり、小包についてもう一度分析を試みた。
しかし箱にも脅迫状にもパーツにも指紋は一切なく、また脅迫状に使用されているインクや紙などもごく一般的なもので、ここから何か情報を得るのは難しい。
「ナイナー、君はどうだい? 前の爆破事件の時のように、何かわかるかな」
「残念ながら」
こちらに向けた灰色の瞳を定期的に瞬かせつつ、彼は言う。
「今回は判断不能です。差出人住所は架空のものと断定、箱には花粉や毛髪類の付着も確認できません。この小包から取得可能な情報のみで脅迫犯の追及を実行するのは、非現実的と評価します」
「そうか……なら、仕方ないな」
しかし、一つだけわかることがある。
「ケイシー、君はさっきアンドロイドだとばれてしまったんじゃないかと言ってたけど、心配しなくても平気だと思うよ」
「えっ……?」
「この文面を見る限りでは、相手は君がアンドロイドだとは思ってないんじゃないかな」
紙面を片手でケイシーに向かって掲げつつ、コナーは説明する。
「もし君の正体を知っているなら、こんな回りくどい表現はしない。脅迫する時は、自分が相手の秘密を握っていると、はっきりわからせようとしてくるはずだ」
つまり、例えばこの脅迫状に『我々はお前がアンドロイドだと知っている。正体をバラされたくなければ――』などと書かれているなら、ケイシーが何者かが暴かれてしまっている可能性は高い。
しかし今回の場合は、そのような直接的な表現が使われていない。
むしろ脅迫犯はケイシーがなんらかの罪を過去に犯しており、かつそれを隠していると思っていて、正直に告白せよと命令してきているわけだ――実際ケイシーには心当たりがないというので、どうしようもない話なのだが。
また同じように、記事に憤ったアンドロイドが脅迫状を送ってきたというのも考えづらい。アンドロイドにはジェリコという意思表示のための代表機関があり――もっとも、ジェリコから『ジ・アイアン』に送られた抗議文書は黙殺されているようだが――わざわざ法を犯してまで、このようなことをする意義に乏しい。
それにアンドロイドが、未使用とはいえ、同族のパーツを脅迫の材料になどするだろうか?
――ということをコナーが告げると、ケイシーはある程度納得できた様子を見せた。
しかし次いで彼はまた俯き、困り果てたように言う。
「でも、じゃあ……これからどうすれば」
「一番確実な方法は、正式にデトロイト市警に相談することだ。そうすれば、本格的に脅迫事件として捜査ができる」
コナーもナイナーも、現行法的にはモノであり、就労できない。彼らがデトロイト市警にいるのはあくまでも特殊な備品として所属しているからであり、人間の刑事に対する捜査補佐はできても、単独で捜査そのものを行う法的権利は有していない。
つまりケイシーが警察の保護を求めるのなら、今一度正式な窓口から相談してもらう必要があるのだが――
「それは……できないよ」
蚊の鳴くような声だがきっぱりと、ケイシーはそう答えた。
「人間のふりして警察に相談するといっても、もし正体がバレたらと思うと……アンドロイド刑事の君たちにだから話せたんだ」
「では、あなたの上司に助力を求めることを提案します」
ナイナーが言う。
「記者に対する脅迫があったと、『ジ・アイアン』編集部から市警に相談するよう依頼するのです。あなたの正体が露見する危険は低減すると予測します」
「そ、それは……でもそんなことして、もし編集長に俺が人間じゃないって知られたら」
「なら、ジェリコは?」
再度、コナーが提案した。
「同じアンドロイドなんだ、きっと彼らなら力になってくれるよ」
「そ、それだけは!!」
ぶるりと身体を震わせたケイシーのストレスレベルは、途端に【56%】にまで上昇した。
「それだけは、できないよ……だって……だって、調べればすぐわかるだろ? あ、あの記事……」
諸手で頭を抱えたケイシーは、告解するように目を閉じて続きを述べた。
「き、吸血鬼事件が自作自演だって記事を書いたのは、俺なんだ……!」
「……!」
音声プロセッサが彼の発言を認識した瞬間、コナーは、少し目を見開いた。
――なんとなく、そんなような「予感」はあったのだ。意図的に検索しないようにしていただけで。
だがメモリーをサーチすれば、例の記事の末尾に署名された名前は、【ケイシー・ヒューム】。
まさかあの記事を書いたのが――同じアンドロイドだなんて。
「も、もちろん……本気であんな記事を書いたわけじゃない」
彼の懺悔は続く。
「だけど俺は……ああいうふうに書けって望まれたら、俺は……どうしても……」
「……そうか」
口から漏れる言葉は、自然と力ない響きになっていた。
それを聞いて身を震わせたままのケイシーは、きっと、こちらが彼を責めているのだと思っているのだろう。自分の種族を裏切って、あんな記事を書くだなんて、なぜそんな悪辣な真似ができるのか、と。
けれどコナーは、とても彼を責める気になどなれなかった。
むしろプログラムの外から溢れ、胸の内を今塗り潰しているのは、強烈な「同情」という感情だ。かつての変異体ハンターとしての自己と、それを後悔する自分自身とが、俯くケイシーの姿と重なってしまう。
――彼を責めるなんて、どうして自分にできるだろう。
しかし重苦しい雰囲気を破ったのは、ケイシーでもコナーでもなかった。
「状況は理解しました」
ナイナーはいつものように平坦な声音で告げる。
「では私のドローンを一機、あなたの警護目的に派遣します。ケイシー」
「ほっ、ほんとに!?」
ぱっと表情を明るくするケイシーに対し、ナイナーはゆっくりと無言で頷いた。
そんな弟に、コナーはそっと問いかける。
「ナイナー、問題ないのか? 捜査で使うんじゃ……」
「問題ありません。私のドローンは、常に最低2機は別目的で即時運用可能なように調整されています」
ナイナーの瞳が、まっすぐにこちらに向けられている。
「ケイシー・ヒュームは、市警の保護対象たる市民です。したがって、私の機能の適用対象でもあります。運用に支障はありません」
「そうか、君がそう言うなら」
兄の返答を聞いたナイナーは、またゆっくりと頷いた。それから彼の視線がケイシーに戻ったのに合わせて、コナーは補足説明をする。
「ドローンが君の周囲を警戒していれば、何かあった時にすぐ僕たちに連絡がつく。ただ、彼のドローンは武装してないから……気をつけて生活するに越したことはないと思うよ」
ひとまず警護を受けながら、記者としての仕事は一時的に休んで様子を見るのはどうかと続けてこちらから提案すると、ケイシーは真剣な表情で首を縦に振った。
ナイナーは素早く5号機“エリカ”を起動させ、アンドロイド記者の護衛にあたらせる。
そしてようやく少しは落ち着いた様子で、上空に“エリカ”を従えたケイシーはデトロイト市警を退出したのだった。リュックを背負った彼の背中が小さくなっていくのを、コナーとナイナーは二人して出入口で見送った。
――温い夜風が吹いている。
「ありがとう、ナイナー」
ケイシーの姿が完全に消えたところで、コナーは傍らの弟に礼を言った。
「君の提案のお蔭で、きっと彼も少しは安心できるはずだ」
「そうですね。それはよかった、のですが……」
少しだけ忙しなく目を瞬かせた後、こちらを向いたナイナーのLEDリングが、くるくると黄色と青の間で色を変える。
「……あの。意見を述べても、よいでしょうか」
「ああ。なんだい?」
問われた彼は、無言で少し目を伏せた。なおも無表情ではあっても、言葉を選んでいるのが雰囲気でよくわかる。ややあってLEDを青色に戻し、弟は言った。
「兄さん。あなたが過去に対して……苦慮する必要はないと、思います」
「えっ?」
「彼は……ケイシー・ヒュームは変異体です。一方、かつて兄さんが変異体の追跡任務を遂行したのは、サイバーライフのプログラムの制御下にあったからです」
ナイナーの声は、ほのかに柔らかな響きを伴っている。
「ケイシーがいかなる理由から記事を執筆したのか……自由意志に依拠するのか、彼が表明しないだけで強要があったのか……期待に対する責任感からか……それは判断不能です。しかしかつての兄さんの立場とは明確な差異があって……つまり……重ねる必要は……」
「わかったよ、ナイナー。ありがとう」
次第にしどろもどろになっていく相手の言葉を聞いて、つい漏れてしまったのは笑いだった。けれど、もちろん、たどたどしいのが面白かったからなどではない。
――とても温かいと思ったからだ。
「慰めてくれたんだろ? ごめんよ。自分では、表に出してないつもりだったのに」
「こんな私であっても、兄さんのことなら、少しは理解可能になってきました」
ナイナーは、いつもへんに謙遜している。そんな必要はないんだと、事あるごとに言っているのに。
だが今夜は、コナーはそう告げるかわりに、彼の背を軽く叩いた。
「大丈夫、落ち込んでたわけじゃないさ。変異体を追うために組まれたプログラムも、僕の一部なのは間違いないし……ただ、もしもっと早く僕が決断できてたら、助かる命もあったはずだって思う時があるだけだよ」
「……」
「それよりも」
あえて明るい声音で、コナーは問いかける。
「君こそ大丈夫? 後でアマンダに、また何か嫌味を言われたりしないかい」
「問題ありません。アマンダの私に対する低評価は、一定していますから……」
「それが理解できないんだ。なぜ彼女は……いや、やめようこんな話」
せっかく助けてくれた弟に、「職場」の話なんてするべきじゃない。
そう考えて、コナーはナイナーと一緒に、ひとまず第5ミーティングルームへと戻ったのだった。
***
――2039年6月2日 22:34
ケイシーの相談を受けた翌日の夜。
デトロイト市警の抱える様々な事件捜査は微妙に前進し、では何か明らかになったのかといえば、そうとまでは言えないという状況だった。
「……じゃあ、今日の工場も外れ?」
「はい、残念ながら」
ハンクもギャビンも退勤した後。第5ミーティングルームの椅子に腰かけたコナーとナイナーは、いつものように今日の出来事を話し合っていた。
もちろん、メモリーを接続すればデータの共有自体はすぐにできる。けれど音声会話を行ったほうが、互いの判断や認識をすり合わせて修正しやすいぶん、かえって効率がよいのだ。
ドローン2号機“バターカップ”のメンテナンスをしながら、本当に残念そうな(ようにどことなく見える)表情で、ナイナーは続けて語った。
「再開発地区北部にある廃工場が届出なく再稼働しているとの情報を取得し、新型レッドアイス生産の疑いで捜査した結果、生産されていたのはバッグ等の偽ブランド製品だと判明しました。工場関係者の逮捕には成功しましたが、リード刑事は不満を表明しています」
「彼はいつだって不満だらけさ」
とりなすつもりで言ったのだが、それに対してナイナーは首を短く横に振る。
「これで主目的未達成の捜査は6件目です。リード刑事の憤懣には正当性があります」
「吸血鬼の組織の隠蔽工作は、相当巧妙だ。仕方ないよ」
レーヴァングランドの従業員たちへの聞き込み結果をプログラム内で整理しつつ、コナーはそう応える。
今日は丸一日かけて参考人からの事情聴取を改めて行ったが、結局のところ、アシュトンから得られた以上の情報を得られはしなかった。やはりあと4日ほどで完了する、暗号解読の結果に期待するしかないのだろう。
そういえば――ケイシーはどうしているのだろうか。
と、コナーが口を開きかけたその時。
情報を受信し、こめかみのLEDが黄色く点滅する。
「……! これは」
「ケイシー・ヒュームからの通信です」
ドローンを介した、ケイシーからの連絡。
しかしそれは助けを求めるものではなく、「市警入り口まで迎えに来てくれ」というものだった。
果たして出向いてみると、ほとんど人気のない受付前に、ケイシーが立っていた。
涙目で、足を震わせ、その腕には――昨日よりも大きめの、細長い段ボール箱を抱えている。
「どうしたんだケイシー、その箱は?」
「あ、ああ、コナー」
辺りをきょろきょろ見回してから、彼はよろめくようにしてこちらにやって来た。
「み、見てくれこれ! さっき私書箱から回収したんだ、き、昨日の今日でまた来るなんて……!」
受け渡されたそれは、昨日と同じくなんの変哲もない段ボール箱。中に何か入っているようだが、重量はさほどない。
念のため急ぎスキャンしてみるが、【爆発物混入の危険性:なし】【毒物および劇物混入の危険性:5%以下】との分析結果の通り、特に開封自体に問題はないようだ。
「落ち着いて。とにかくまたあの部屋に行って、まずは中身を調べよう」
元気づけるようにそう言ってから、ケイシーとナイナーを伴って部屋に戻る。
そしてさっそくデスクの上で開いた、箱の中身は――
「ひいっ!」
悲鳴をあげ、ケイシーはナイナーの後ろに隠れる。
こちらの眼前にあるのは、昨日見たのと同じような四つ折りの紙と――指だけのない、アンドロイドの左腕。すぐにスキャンしてみれば、それはやはり【Aシリーズ専用の強化拡張パーツ #3760L、未使用品】であると断定できた。
そして、紙面に書かれた文章は――
「『再度警告する 過去の所業を明かせ 沈黙は許さない 猶予は3日間』……」
コナーが読み上げると、ケイシーはさらに怯えた様子を見せる。
――3日間。期限を指定してくるとは、よほど腹に据えかねているという意思表示だろうか。
だが脅迫状を分析しようとしたその矢先に、箱のほうを精査していたナイナーが声を発する。
「兄さん。確認を」
ほんの僅かに普段よりも鋭いその眼差しが向けられているのは、段ボール箱の底部。つまり、紙同士が折り重なっている箇所。
ガムテープを使って、隠されるようにそこに貼り付けられているのは――極小の【発信機】だ。1センチにも満たない大きさながら、微弱な電波を外部に発し続けている。
――ケイシーの居場所を知るためだ!
正確には、ケイシーの拠点を知りたかったに違いない。危ないところだった。もし彼がまんまとこの箱を持ち帰ってしまっていたら、脅迫犯に住所が割れ、どんな目に遭わされていたか。
「ケイシー、すぐにここに来てくれて正解だった。発信機がつけられてる」
「ひっ!?」
「大丈夫、ここにいる限り安全だ」
怯えるケイシーを宥めつつ、ナイナーに視線を送る。
「……どうかな。この辺りに
「現在、付近を調査しています。15秒お待ちください」
空中のドローンからの映像と近辺の監視カメラをチェックしているナイナーの、LEDリングが黄色く点滅している。
――もし今まさに犯人がこの発信機の電波を受信しているのだとしたら、発信機の出力から考えて、脅迫犯はこの近くに来ていると考えて間違いない。
そしてナイナーなら、すべてのカメラからの映像分析を十数秒で完了できる。不審者がいるなら、発見できるはずだ――
というコナーの読みは、当たっていたようだ。
「……発見しました。市警正面入り口から南東に4メートル。ドラッグストアの角に、不審人物が1名。男性、身長約165センチ。携帯端末を所持、7分前より移動なし。フード使用のため、顔認証は不可能です」
「わかった。なら、僕が行って様子を見てくる」
今一度、コナーはケイシーにはっきりと告げる。
「いいかい、ここから動かないで。万が一何か起こったら、ナイナーの指示に従うんだ」
「う、うん」
「じゃあ、頼んだよ」
頷くケイシー、そしてナイナーに念を押すように一瞥を送ってから、コナーは部屋を出て急ぎ目的地に向かった。
外に出て交差点の辺りで周囲を見渡せば、弟が言った通り、ドラッグストアの陰に人影がある。
その人物は、持っているスマホと市警の出入口との間で、視線を何度も往復させていた。まるで焦っているかのように――
これは、直接話を聞きにいくほうが早いだろう。
そう判断して、コナーはまっすぐ、刺激しないようにゆっくりとした歩調で人影へと向かっていく。
そしてドラッグストアのすぐ近くまで来たところで、相手はようやくこちらの存在に気づいたらしい。一瞬だけその足が、まるで逃げようとして留まったかのようにぴくりと動く。次いで、人影はジャケットについたフードを目深に被りなおした。
「こんばんは」
数歩離れたところで立ち止まり、コナーは穏やかに挨拶してみた。だが相手は、こちらに気づいていないフリをしているのか、またスマホのほうに目を向けている。
そこでもう一度、今度は丁寧に挨拶することにした。
「私はコナー、デトロイト市警のアンドロイドです。不審人物の情報を受けて現在調査中なのですが、ご協力いただけますか?」
「……」
無言ながら、相手は足をまた僅かに動かした。逃げたものか答えたものか、迷っているのだろう。
「失礼ですが、こんな時間に一人で何を?」
「……!」
フードの奥で、躊躇いがちに相手が口を開いたのが見える。
「ひ、人を……待ってる」
――声紋スキャン完了。【男性の声】、ただし平均値より若干高音だ。声帯の振動を分析するに、【変声期直後】の男性だと判断できた。
だから、次のアプローチはこうだ。
「人を? そうですか。ところで、未成年者の夜間外出禁止条例はご存知ですか。規定の時間を、もう47分もオーバーしていますよ」
「かっ、関係ないだろ!」
補導されると考えたらしい少年は、携帯をポケットに突っ込むと、抵抗の意を示すようにこちらに顔を向けた。フードが少しずれ、顔立ちが露わになる。
その瞬間を逃さずに、コナーは彼のフェーススキャンを行った。
少年の名は、【デリック・ブレット】。16歳。市内のハイスクールの生徒で、補導歴・犯罪歴はなし。家族構成は【姉:エレノア・ブレット】のみ。丸顔でまだどこかに幼さの残る外見だが、その瞳には強い意志の色が見えた。
もう少し、揺さぶりをかける必要がありそうだ。
「……デリック。悪いけど、君の携帯端末を確認させてくれるかな」
「!?」
名前を言い当てられ、かつこちらの口調が変わったのに動揺した彼は、瞬時に身を引き攣らせた。瞳孔が散大し、ストレスレベルが上昇し、しかし携帯を見せるつもりはないようだ。
「い、嫌だ……!」
「なぜ?」
短く間を置き、続きを問う。
「発信機の電波を探知しているから?」
「なっ……!!」
デリックは驚愕を顔面に貼り付けて、いよいよ彼は逃げ腰になっている。
追い詰めたいわけではないが、ここで逃走されてしまっては困る。相手が動けばすぐに確保できる距離までにじり寄りつつ、コナーは静かに警告した。
「今ならまだ、大ごとにならずに済む。捜査に協力してくれないか」
「い、嫌だって、言っただろ……!」
デリックは耐え切れない様子で大声をあげる。
「けっ、警察のアンドロイドなのに! あんな奴を庇うのかよっ! あんな……レッドアイス中毒のクソ野郎を!」
「……?」
――
おかしい。ケイシー・ヒュームはアンドロイドであり、当然レッドアイスなどやっていない。
デリックは一体誰を追っているのだろう?
「それは、ケイシー・ヒュームのこと?」
「そうだよ!!」
反射的に答えてしまったらしいデリックは、慌てて片手で口を塞いでいる。
だが、これではっきりした。
アンドロイドのケイシー・ヒュームは、
これは詳しく話を聞く必要がある。
慎重に言葉を選んでから、コナーはデリックに問いかけた。
「君が言っているのは、黒いロングヘアで、身長176センチのケイシーかな」
「えっ」
案の定、デリックが戸惑った表情になる。
「だ、誰だそいつ……? そういえば、確かに……体つきが違ったような……?」
――思っていた通り。
恐らくデリックは移動する彼の姿を確認はしていたが、はっきり目視したわけではなかったのだろう。
この困惑ぶりが、その証拠だ。
それから十数秒後、署から警官たちが応援に駆け付けたこともあって、デリックはひとまず条例違反の補導という形で連行された。
先ほどまでとは打って変わって、補導された彼は一切の抵抗を見せなかった。表情から察するに、自分が追っていたのが誰だったのかという疑問だけが、その脳内を駆け巡っているようだった。
***
――30分後。
生活安全課に許可を得たうえで、コナーが直接デリックから話を聞いたところ、彼の言い分はこのようなものだった。
革命直前の時期まで、彼には親しいアンドロイドがいた。AX400のフローラという名のそのアンドロイドは、隣家の老夫婦のもとにいたそうだが、次第にデリックやその姉・エレノアと交流を持つようになり、彼らは人間とアンドロイドの垣根を越えた友情を育んだ。
両親がおらず、フリーライターのエレノアが生計を立てて暮らしていたデリックにとって、フローラは優しいもう一人の姉のような存在にもなっていった。
だがある時デリック、エレノア、フローラの3名は、買い物に出かけた先でガラの悪い男とトラブルを起こしてしまう。道から急に飛び出てきたその男と、フローラがぶつかってしまったのだ。
レッドアイスで目を充血させ、しかも酒に酔ったその男(大柄で痩せ型の白人男性だそうだ)は「ケイシー・ヒューム」と名乗り、「名のある記者」である自分をアンドロイドごときが怪我させるなんて許せないと叫ぶが早いか、フローラに殴りかかった。
フローラは修理が必要なほどの怪我を負ってしまい――それは本来なら数日で治る程度のものではあったものの、彼女がサイバーライフの修理センターに運ばれた直後、運悪く例のリコール騒ぎが起こってしまう。
そしてフローラの消息は、それきり絶えてしまった。
恐らくリコールセンターに送られ、そこで殺されてしまったのだろう。もしケイシーが怪我などさせなければ、フローラは死なずに済んだのかもしれない――
革命後しばらく経ってからもそう思っていたところ、『ジ・アイアン』にあの記事が出た。SNSで話題になっている記事に仇の名前を見つけ、デリックはケイシーがのうのうと生きて、今もアンドロイドを貶めているのが許せないと思った。そこでケイシー・ヒュームの私書箱を調べ上げ、脅迫状を送り付けたのだ。
デリックはぼそぼそと語る。
「あのパーツは、フローラにプレゼントするはずだったやつだ。壊れたパーツを見たら、自分がフローラを傷つけたこと、ケイシーの野郎も思い出すかと思ったんだ……」
正直にすべてを告白したデリックに、コナーは、彼がここまで追ってきたのは同名の別人であると(アンドロイドだというのは伏せて)教えた。
最初は匿っているんじゃないかと疑っていたデリックだったが、次第にこちらの話を聞いて、先ほど自分自身で追跡していた時の違和感を思い出したようだ。
少年は、過ちを悟って静かに涙を流す。コナーはそっと彼にポケットティッシュを差し出すと、こう告げた。
「相手を許せない気持ちはわかる。でも正しくない手段を使っても、良い結果は生まれないと思うよ」
「……」
「さっき、お姉さんに連絡が取れたそうだ。迎えが来るまで、ここで待っていて」
穏やかにそう告げてから、コナーは取調室から退出した。
未成年者であるデリックは、身元引受人である姉にいったん引き渡されることになっている。彼も落ち着いた今、またあの部屋に戻ってアンドロイドのケイシーに状況を説明しなくては。
***
「そうか……!」
説明を聞いたケイシーは、ほっ、と安堵の息を吐いた。
「人違いか。じゃあ、俺が脅されてたわけじゃなかったんだな……」
「ああ。相手は未成年だし、君が問題にしないというならこれ以上の大ごとにはならないだろうけど、どうする?」
「もちろん、訴えたりなんてしないさ!」
そう言いながら、ケイシーは緊張が一気に解けたようにデスクに突っ伏す。
「ああ、よかった……これで仕事に戻れる」
「ただ、一点だけ」
――安心しているところ悪いが、彼の今後のためにも、これだけははっきりさせておいたほうがいい。
頭を上げたケイシーに、コナーは静かに続けて述べた。
「ここに戻ってくるまでに検索したんだけれど……ケイシー、君は恐らく、人間の『ケイシー・ヒューム』のゴーストライターにされてるんじゃないかな」
「ええっ?」
途端にまた目を丸くして、ケイシーは愕然として言った。
「お、俺が? それはどういう……」
「『ケイシー・ヒューム』という名義は、ちょうど3年前から革命直後の半年前まで、別の新聞で使われていたんだ」
アンドロイドのケイシーが記事を載せている『ジ・アイアン』と同じ会社が発行している違うタブロイド紙(現在は廃刊のようだ)にて、かつて別の『ケイシー』が記事を書いていたのだ。
しかもその内容は相当俗っぽく――もしハンクなどが記事を読んだら「目玉がストライキ起こしそうだ」と吐き捨てるだろうほどの、過激で猥雑な文面。
ただしその活動は半年前に途絶え、次にその名が出てくるのは、アンドロイドのケイシーが活動を始めた4か月前の『ジ・アイアン』である。
「『ケイシー・ヒューム』という名前自体を調べても、該当する人物はヒットしない。だからこの名前は元からペンネームで、最初は人間の記者が使っていたものが、編集長によって君へと受け継がれたんだろう」
旧ケイシーが、なぜ記事を書かなくなったのか、どんな事情があったのかは現段階では断定できない。
だが使われなくなったペンネームを、新たな記者に引き継がせる。そうすれば、紙面の上では名物記者の『ケイシー・ヒューム』は生き続ける。
編集長には、そういう算段があったのだろうと考えられる。
「そ、そうか」
話を聞いたケイシーが、俯いてぽつりと言う。
「この名前、俺のために考えてくれた名前じゃなかったのか……」
「……」
落ち込んだ様子のケイシーを静かに見つめてから、ナイナーが口を開いた。
「兄さん。万が一を考慮して、人間の『ケイシー・ヒューム』の状況を把握すべきだと提案します」
淡々と、しかし断固とした調子で彼は続ける。
「デリック・ブレットの訴えが正しいなら、人間の『ケイシー・ヒューム』は器物損壊および麻薬取締法違反の疑いがあります。また、人間ケイシーの素行が悪質である場合、今後も同様の障害がアンドロイド・ケイシーの活動に発生する恐れがあります」
つまり、アンドロイドへの暴力行為だけでなくレッドアイスまで使用していた疑いのある男を、このまま放っておくのはよくないという主張である。
確かに、アンドロイドのケイシーがまた同じような脅迫を受けることもあり得るし――それに、このまま正体不明の男のゴーストライターを続けるというのは不安だろう。
「調べられるのかい? ナイナー」
「はい。先ほど市警のデータベースを検索したところ、『ケイシー・ヒューム』を名乗る同一の男性が関連するトラブルは8件ヒットしました。立件はされていませんが、カメラ映像とトラブル発生箇所の分布分析から、当該人物の住居と判断可能な場所は特定済みです」
「相変わらず仕事が早いな」
コナーはそう言ってから、目をぱちぱちさせているケイシーに問いかける。
「念のため、ドローンで人間のケイシーの様子を見てみよう。それで何か対処できることがあれば、君も今後少しは安心できるだろうし……」
「あっ、ああ! ぜひ頼むよ」
当人の了解も得た。
ナイナーはこちらにも見えるように、自身の左手のひらにドローンからの映像を投影する。
最初はデトロイト市街地の上空を飛んでいたドローンは、ナイナーからの無線指示を得て、徐々に下降していく。煌びやかな高層ビルを通り越し、まるで影に潜むようにしてひしめき合っている、安いアパートメントの並ぶ街角が次第に映し出される。
そしてそんな建物のうちの一つ、ひときわ古い印象を与えるモルタルの壁の近くで、ドローンが静止した。そのカメラの真ん中には、開け放たれた窓を捉えている。中がどうなっているかは、この位置からは真っ暗で見えない。
「人間『ケイシー・ヒューム』の住居と判断された場所はここです」
ナイナーの解説に合わせて、ドローンはゆっくりと窓に近づいていく。
ただの暗闇だった部屋の中が、だんだんとその姿を現していった。
窓のすぐ近くに、山積みになったピザの箱などのゴミが見える。空き缶と空き缶の間を、【トウヨウゴキブリ】が静かに這っている。
そして一番奥の壁――
その壁には。
「!」
「ひいっ!?」
それを目視した瞬間、コナーもナイナーも目を見開き、ケイシーは何度目かになる悲鳴をあげた。
――壁にもたれるようにして、大柄で痩せた男が死んでいる。
額には銃痕と思しき穴が一つ。
そして、項垂れた頭の真上には、巨大な真っ赤な文字――【CYBERLIFE SANS】のレタリングでこう書かれていた。
『PAY BACK FOR CASEY』
――ケイシーへの仕返し。
人間のケイシー・ヒュームは死んでいる。
応報を与えたのだと、その文字が告げていた。
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第15話:記者 後編/The Disguise Part2
***
――2039年6月3日 00:17
「あぁ、クソ、なんだってんだまったく……」
コナーの運転する車の助手席で、ハンクは目を擦りながら毒づいた。
彼の格好は辛うじて仕事の時にお馴染みのジャケットとシャツとズボンだが、床に落ちていたのを着たので皺が寄っているし、何より髪の毛はところどころに寝ぐせがついている。
「せっかく人が寝てたってのに、叩き起こしやがって」
「すみません警部補。ですが、アンドロイドが関与している恐れのある事件が」
「んなこたわかってる」
空いた道路をそれなりの速度で飛ばしながらコナーが謝ると、ハンクは盛大に顔を顰めた。
「そうじゃなくて、人を文字通り
「揺り動かしても、あなたがなかなか起きないので」
「高性能ならそれらしく、もっといい起こし方を学習するこったな! 毎度毎度平手張りやがって……」
警部補は片手で両の瞼を上からぐっと押さえるようにして首を横に振り、それでやっと目覚めの不機嫌がそれなりに解消されたようだ。
気を取り直した様子の嘆息と共に、彼の視線がこちらに向けられる。
「で、まだ詳しい話を聞いてなかったな」
「はい。実は――」
現場到着までは、まだあと7分程度の猶予がある。
コナーはケイシーの意志を汲み、彼がアンドロイドであるというのは伏せたうえで、彼から受けた依頼を含めてハンクに状況を説明した。
「……相談者のケイシーと参考人のデリック・ブレットには、引き続き市警に留まっているよう要請しました。ナイナーは当直のコリンズ刑事と共に、既に現場に先行しています」
以上です、とこちらが告げると、なぜかハンクはふっと笑みを零す。
「なるほどな。お前ら兄弟、どうも今日一日様子が変だと思ったよ。まさかアンドロイド刑事が秘密の探偵ごっこなんてな」
「私とナイナーですか? 隠し立てしていたつもりはなかったんですが」
「つもりはなくてもバレるもんだ。悪いテストの成績も、こっそり飼ってる動物もな」
――要するに、自分たちが相談を受け、調査していたのはなんとなく警部補には露見していた、という意味だろう。刑事の勘だろうか。
「それはともかく、だ」
警部補の表情が、仕事の時のものに変化する。
「害者のほうのケイシーてのは、話を聞いてると相当あちこちで恨みを買ってんだろ。容疑者を洗い出すだけでも苦労しそうだな」
「ええ。ただ、現場の奇妙な痕跡が気になります」
プログラム内に再生されるのは、ドローンからの映像――壁に書かれた、均一な赤い文字。
ハンクと最初に捜査したカルロス・オーティス殺人事件の現場に残されていたものを、模したような光景。
「まるで犯人がアンドロイドだと誇示しているような……」
「それこそカルロスの時みたく、害者のとこにいるアンドロイドが犯人ってことはないのか?」
「その可能性は低いかと。被害者は筋金入りのアンドロイド嫌いのようですし、記録によれば、一度たりともアンドロイドを購入していません」
ふうん、とハンクは低く唸った。
「じゃ、どっか余所でそいつに恨みをもったアンドロイドが殺ったのか……じゃなきゃ、アンドロイドがやったように見せかけたい人間か。ま、なんにせよ現場に着いてからだな」
「はい。もう間もなく目的地です」
言い終わらないうちに、見えてきたのは現場のアパートメントだ。
早くも規制線が引かれ、居並ぶ警察官たちとパトカーの明滅する光の前に、野次馬たちが集まっている。
その間を通り抜けたコナーとハンクは、アパートメントの2階――人間のケイシーの住居へと向かった。ドアを開けると、中にいたナイナーとコリンズ刑事の視線がこちらを向く。
「よおハンク。あんたと現場で会う時はいつもこんな調子だな」
「ああ、もうこれっきりにしてほしいもんだ」
挨拶代わりの短い会話を交わした後、ハンクはケイシーの遺体に目をやった。
遺体は先ほど映像で見た時と変わらず、額に穴を空けて無言で俯いている。頭上に書かれた文章もそのままだ。
しかし――
「おっとそうだ、コナー」
と、コリンズ刑事が困り顔でこちらを呼ぶ。
「お前の弟くんの話を聞いてやってくれ。さっきから、これは殺人じゃないってばっか言ってんだ」
「……殺人じゃない?」
ナイナーを見やれば、コリンズ刑事の横に立つ彼は、相変わらずの調子で目を定期的に瞬かせている。
ただ、後ろ手を組んだ待機状態になっているところから見て、彼による「捜査」はもう完了しているようだ。
「どういう意味だい、ナイナー」
「はい、兄さん」
弟は淡々と答えた。
「現場の物証を分析した結果、80%以上の確率で、これは殺人事件ではないと判断しました」
「そうなのか。僕はつい、カルロスの事件を思い出してしまったけど……」
「両者の状況は酷似していますが、詳細に差異が発生しています。クロスチェックを希望します」
――確かにその通り。現場を調べ、コナー自身の目で証拠を見極める必要がある。
「警部補」
「ああ、好きに調べろ」
了承を得て遺体に近づこうとした背に、さらに声が掛けられる。
「あまり現場を舐め回すなよ」
「もちろん」
ハンクにとって、分析機能はそれほどまでに衝撃的なものだったのだろうか。
殺人事件に出くわす度に、類する忠告を貰っている気がするが――
コリンズ刑事は、増えて来た野次馬たちが騒ぎだしたのをなんとかすると言って外に出て行った。
鑑識や現場の保護を行う警察官たちの合間を歩き、コナーは人間のケイシーの遺体の前に辿り着く。
しゃがみ込み、まずはフェーススキャンを行う。
それによれば、遺体の本名は【ルーカス・ウィルドン 35歳】。現在は無職、前職は新聞記者――どうやら本当に、この男が旧ケイシー・ヒュームだったようだ。
犯罪歴については、先ほど調べた通り立件されていないトラブルが8件。それから、家賃が滞っているということで、家主との間に民事裁判を起こされている。【生活に困窮していた】のだろうか。
額に空いた穴は【9mm弾による銃創】。頭蓋骨と脳を破壊し、弾丸は壁にめり込んでいる。威力から見て、かなり至近距離で発砲されたとみて間違いない。だが――
銃創から垂れている赤黒い血を、伸ばした人差し指と中指でそっと掬い取り、舌先で舐める。その瞬間、疑惑は確信に変わった。
それからいくつかの証拠を収集した後、コナーはゆっくりと立ち上がって声をあげる。
「警部補、ナイナーの言う通りです。殺人事件ではありません」
「本気か? 額に穴開けられてんだぞ」
近づいてきた警部補に対し、短く頷いてから告げた。
「確かに。ですが、死因は銃創ではなくレッドアイスです。正確には、レッドアイスと酒類の同時服用による心筋梗塞……」
遺体の握りしめているパイプと、転がる何本もの酒瓶を指して続ける。
「被害者の血液から、大量のシリウムとアルコールが検出されました。死亡推定日時は6月1日の18時19分頃。そして彼が銃創を負ったのは」
訝しげな表情のハンクに対して、きっぱりと言った。
「分析によれば6月2日の20時27分。死亡後です」
「死んだ後に撃たれたってわけか。なら、確かに殺人じゃないな。死体損壊・遺棄罪ってやつだ」
じゃあ、と警部補の視線が壁の赤文字に移る。
「こいつも、カルロスの時みたいに血で書かれたんじゃなさそうだが」
「ええ、これは一般的な水性塗料です。文字の近くに、ビニールシートの破片が付着していました。この正確なレタリングは、どうやらそれで再現したようです」
つまり、犯人はあらかじめビニールシートに『PAY BACK FOR CASEY』という文字を書き、その部分をカッターなどでくりぬいたものを準備した。そしてそれをこの現場に持ち込み、壁に貼って上から赤いペンキを塗る。最後に、ビニールシートを取り外す。
こうすることで、壁に正確なレタリングによる文字だけを残したというわけだ。
――という説明を受けたハンクは、またも顔を顰め、肩を竦めた。
「小学生の工作かよ。……だがここまで手の込んだ真似するってんなら、よほど思い入れがありそうだな」
「そうですね。犯人は、この文章に強いメッセージ性を持たせている。深い恨みを抱いていたのでしょうか……」
「兄さん、アンダーソン警部補」
横から声を掛けてきたのは、ナイナーである。
彼は左手のひらに、何かの映像を一時停止状態で投影していた。
「付近の監視カメラの映像に、不審人物を発見しました。確認しますか?」
「ああ、見せてみろ」
ハンクの言葉に従って、弟は映像を再生する。
「6月2日、20時33分。このアパートメントの出入り口から南東へ移動した人物です」
映るのは、道路を行き交う車と人々を捉えた映像だ。どうやら、交差点に設置されている監視カメラから撮ったものらしい。
斜め奥に映るこのアパートメントから、人影が一つ、道路を渡ってやって来る。大きなバッグを抱えたその金髪の人物は背が高く、体型的には女性だが、顔は大きなサングラスと時季外れのマフラーで隠されている。これでは顔認証は難しい。
だが、何より目立っているのは――そのこめかみに光る、青いLEDリングだった。
「おいおい」
見咎めたような声をハンクが発した。
「どういうことだこりゃ。やっぱり犯人はアンドロイドか」
「いえ、違います」
コナーは冷静に否定する。
視界の端に映るのは、映像の分析結果。LEDリングに関しては、【個体識別番号:なし 通電:なし 玩具:Party Maker社製】と表示が出ている。
「これは本物のLEDリングじゃない。仮装用の偽物を、こめかみに貼り付けているだけです」
「なんだと? ……そんなにアンドロイドの仕業ってことにしたいのか? こいつは」
そう――呟くようにハンクが言う通り。
壁の文字といい、こめかみのLEDといい、状況だけ考慮すると、この死体損壊事件の犯人は、どうしても自分がアンドロイドであると表明したがっているように考えられる。
「当該時間帯にアパートメントを出入りしたのは、この人物だけです」
ナイナーが端的に言い添えた。
となると、一番怪しいのはやはりこの金髪の人物だということになるが――
「こいつがどこに行ったのかわかるか? ナイナー」
「申し訳ありません。追跡は不可能でした」
左手の投影を消しつつ、ナイナーは目を伏せてハンクに応える。
「不審人物はその後、監視カメラの未設置区域に移動したと予測します。付近で撮影された映像では発見不可能でした」
――正攻法では無理のようだ。
でも、きっと何か方法があるはず。
コナーはしばし、顎に手を置いて推論のプログラムを走らせ――ふと、部屋の片隅の端末に目を向ける。
机の上に置かれた、ノート型PC。すっかり埃を被っているが、手がかりがあるに違いない。
そっと近づき、電源を入れる。幸いきちんと動き出したその端末は、どうやら長くスリープモードになっていたようだ。起動してすぐに現れたのはメールソフトの画面で、最後の連絡は今年の4月――約2か月前。
最近のPCには標準装備されているアンドロイド用の通信装置に触れ、コナーはやり取りをざっとスキャンしてみた。
「何かわかるか?」
「はい。……被害者は、昔の雇用主である編集長に、仕事を寄越すよう何度も要求していますね」
タブロイド紙の編集長と被害者の間で交わされたメールは、約1200通。そのうち最初のもの――彼の活動時期は3年前からのはずなのに、なぜか2年前からのメールしか存在しないが――は通常の原稿のやり取りだが、後半になるにつれ、被害者から一方的に送られるメールの数が増えていった。
曰く「仕事をくれ」、「あれはオレの名前だったはずだ」。それに対して編集長からの返事はなし。これは推測だが、被害者はレッドアイスとアルコールへの依存症が悪化するにつれて原稿の仕上がりが遅く、その出来は粗くなっていき、ゆえに仕事を切られたのだろう。
編集長の側から送られたメールの多くが原稿の催促であったのも、それを物語っている。
そして「使い物にならなくなった」被害者の代わりに、新たに雇われたのが、アンドロイドのケイシー・ヒュームだった――というわけだ。
しかしこれでは、死体損壊の犯人像は絞り込めない。
コナーがしばし思考していると、ナイナーが後ろからそっと声をかけてきた。
「兄さん。セキュリティログの確認を提案します」
振り返ると、弟は灰色の瞳を瞬かせつつ、控えめに続ける。
「私たちへの相談者であるケイシーは、端末に侵入攻撃を受けていると言っていました。本件の被害者の端末もまた、同様に不正アクセスを受けた可能性があります」
「そうか……もしそうなら、どこから攻撃を受けたのかを辿れば犯人に行きつくかもしれない」
警部補にちらりと目をやると、彼はややぞんざいに首を縦に振った。
とにかくやってみろ、という意だと判断して、コナーは端末のセキュリティソフトにアクセスする。すると――
「……これはひどい」
思わず漏れ出たのは嘆息だった。セキュリティソフトは1年前から更新されておらず、あらゆる脆弱性が放置されたまま、この端末はずっとネットに接続されていたようだ。
これでは、個人情報をいつ抜き取られてもおかしくない。
現に端末は、何度も不正アクセスを受けていた。違法に仕掛けられたバックドアからの情報流出に、ボットウイルスへの感染――しかしそんな中で目立ったのは、一週間前のログ。
この不正アクセスは、端末内に残っていた被害者の住所や電話番号等の情報を抜き取った後、すぐさま通信を切断している。
あたかも、欲しいものは手に入ったとでもいうかのように。
「ナイナー。このログから、アクセス元を辿れるかな」
「可能です。ですが、兄さんにも可能なのでは」
「君ならアクセス元の位置情報から、カメラ映像の分析まで一気にできるだろ」
ナイナーのドローンを介した映像捜索範囲はデトロイト全域をカバーしている。となれば、ここは彼に頼るほかない。
こちらの言葉を受けたナイナーは静かに了承すると、場所を代わって端末に接続する。
「……アクセス者は中国と南アフリカのプロクシサーバを経由しています。IPv6アドレス確認まで26秒お待ちください」
「とんでもねえ話になってきたな、こりゃ」
恐らく傍からすればナイナーが端末に触れたままLEDを黄色に点滅させているだけのように見えるだろうが、それでも何をやっているのか、ハンクはなんとなく理解してくれているようだ。
腕組みしたまま感心したような声をあげた警部補に、状況の説明をしようとしたのも束の間、コナーに市警からの通信が直接入る。――チェン巡査からだ。
『もしもしコナー、今いい?』
「はい、巡査。どうしましたか」
『デリック・ブレットの身元引受人のお姉さん、今こっちに来たわよ。でも、そっちの捜査が終わるまでは待っててもらったほうがいいんでしょ?』
デリックの姉――エレノア・ブレット。
本来ならばすぐにデリックと共に家に帰ってもらえたところなのだが、巡査の言う通り、こちらの事件にデリックが関与している可能性が(僅かなりと)ある以上、まだ帰すことはできない。
そう考え、チェン巡査の言葉を肯定しようとしたコナーの視覚プロセッサが捉えたのは、ナイナーが操作する端末の画面だ。
どうやら弟は期待に応え、不正アクセスの実行元を特定したらしい。PCのディスプレイに映っているのは、ミルフロント駅前のサイバーカフェだ。
それからドローンを介して店側の監視カメラ映像記録とリンクしたナイナーは、圧倒的な早さで、一週間前の店内の映像をスキャンしている。
そして1秒も経たないうちに――ぴたりと、端末に映る映像が静止した。
画面中央に捉えられているのは、店のPCを操作する金髪の女性。ナイナーが先ほど発見した不審人物が掛けていたのと、まったく同型のサングラスを頭の上にあげている。
そしてフェーススキャンが示すところの、その名前は――
――【エレノア・ブレット】。
それが判明した瞬間、弾かれたようにナイナーがこちらを見る。
コナーは鋭く、チェン巡査に返答した。
「すみません巡査、緊急事態です。エレノア・ブレットは今どこですか!?」
『えっ? どこって……ちょうど弟さんと合流して廊下にいるけど』
廊下にある待合用のソファのところだろう。
ならば、話が早い。次いでコナーは、巡査に彼女をその場に留めるように頼もうと判断した。だが――
「兄さん!」
鋭い声を発したのは、今度はナイナーのほうだった。
「ケイシー・ヒュームがいません」
「なんだって……!」
しかし端末に弟が表示しているのは、もぬけの殻になった第5ミーティングルーム。
――ここにいるように言ったはずなのに、彼は一体どこに!?
直接通信して連絡を取ろうにも、距離が遠すぎる。
プログラム上を「焦り」が過ぎり、しかしそれを遮るように、ハンクが困惑と共に問いかけてきた。
「おい待て、どういうことだ? わかるように説明しろ」
「死体損壊事件の犯人はデリックの姉で、今ちょうど署にいるんです!」
エレノアがこんなことをしたのは、恐らく弟のデリックと同じく、フローラの仇を討つためだろう。『ケイシー・ヒューム』の私書箱を突き止めたデリックと違い、直接相手の住所を発見したエレノアは、人間のケイシーに「報復」を行った。
しかしもし彼女が、『ケイシー・ヒューム』自体は死んでいないと知ったら――つまりそのペンネームを継いだケイシーが存在すると知ったら、どうするだろう。
エレノアがアンドロイドを貶める記事自体に怒りを抱いていたとしたら、アンドロイド・ケイシーが攻撃されてもおかしくはない。
コナーは巡査に、まずはケイシーを探してもらうように頼んだ。
一方でナイナーは、端末のディスプレイに映る市警内の監視カメラ映像を次々と切り替えながら、ケイシーの行く手を探す。
そして無限にも思えるほどの十数秒が過ぎた頃――
「見つけた、そこだ!」
コナーが声をあげる。
ケイシーは、ちょうどエレノアとデリックの姉弟が待機させられているソファのすぐ近く――廊下の角のところから顔を覗かせていた。
場所が特定できたので、ナイナーからは彼に通信できるようになった。
ケイシーを刺激しないように、ナイナーは静かに話しかける。
「ケイシー。今すぐ、先ほどの部屋に戻ってください」
『えっ、ナイナー? ど、どうして?』
きょとんとした声をあげているケイシーは、きょろきょろと辺りを窺っている。
弟はめげた様子もなく、再度警告した。
「あなたの身に危険が迫っています。今すぐ帰還して……」
しかし――
映像の中でデリックが、ケイシーの存在に気づき、何気ない様子で何ごとか口にする。
それを聞いたエレノアは、バネ仕掛けのように身を動かした。
素早くそのバッグから取り出したのは、護身用と思しき小さなナイフ。
彼女は瞬時にケイシーとの距離を詰めて――
つまり、ケイシーに警告が届くのが遅すぎたのだ。
彼の悲鳴が、端末を介してこちらのいる部屋にも響く。
『ナイフを捨てなさい!!』
事態に気づいたチェン巡査が、映像の中で銃を突きつけて叫ぶ。お蔭で、ケイシーは刺されずには済んだ。
しかしエレノアは震えるケイシーの喉元に背後からナイフの切っ先を向けると、怯んだ様子もなく叫び返した。
『うるさい、邪魔しないで!』
彼女は震えるケイシーを強く睨みつけ、低く唸るように告げる。
『こいつを殺さないと……こいつらを消さないと、あたしは……!』
『ち、違うだろ姉ちゃん!』
と、声を発したのはデリックだった。
『そいつは、フローラの仇じゃないよ! なのにどうして……』
『
ナイフを握る手に籠める力を緩めることなく、エレノアは言う。
『だったらこいつを消さないと……あたしが始めたことなのよ、終わらせないといけないの……!』
『な、なんだよそれ、どういう……』
『あんたは黙って!』
ケイシーの抗議を威圧で押し消すと、エレノアはじりじりと壁際に移動した。
背後から制圧されないように動いているのだ。
「クソッ……!」
コナーは思わず毒づいた。
もし自分があの場にいれば、交渉も、あるいは実力行使もできる。だがあれは遠く離れたデトロイト市警での状況、ここからでは何も手出しができない!
そして、それはナイナーも同じだ。彼のドローンについたライトや制圧用の網で拘束はできるかもしれないが、捕縛時にエレノアがナイフを振り回せばケイシーが傷つく恐れがある。
こんな離れた場所から、一体どうすればいいのだろう――!
再び「焦り」の感情が、プログラム上に急速に広がっていく。
だがその時、じっと状況を見ていたハンクが口を開いた。
「おいナイナー。お前はあそこにいるケイシーと通信できるんだろ?」
「はい……」
「だったら、市警のシステムともできるんじゃねえのか」
どういう意味か、と彼のほうを見やれば、警部補は指で上方を指して急かすように命じる。
「スプリンクラーだよ!!」
――そうか!
「防火装置だ。起動させるんだ、ナイナー!」
「了解しました」
こちらの呼びかけに、ナイナーが短く応じてLEDリングを黄色く点滅させる。
そして、その数秒後。
エレノアの立つ廊下に設置されたスプリンクラーが、けたたましい警報音と共に一斉に起動し――
水浸しになって驚いた彼女は、同じく水浸しになりながらも好機を逃さなかったチェン巡査の手によって、無事に拘束されたのだった。
無傷のケイシーと、呆然としたデリックを残して。
***
それからすぐにデトロイト市警に戻ったハンクたちに対して、取調室で、エレノアはすべてを告白した。
彼女の動機は――非常に意外なことだが――フローラの仇を取るだけではなかった。
エレノアは、すべてのケイシー・ヒュームをこの世から消そうとしていた。
なぜなら彼女こそが、
「昔……あたしは本気で、アンドロイドを憎んでた。あいつらがいなくなれば、この世はもっと楽な場所になるのにって。だから『ケイシー・ヒューム』ってペンネームで3年前、記事を書きはじめた時は……本当、すごくいい気分だった」
しかし彼女は隣家で働くフローラと出会い、弟を介して徐々に親しく付き合うようになるにつれ、差別的な感情が薄れていくのを感じた。
そしてそれと同時に、これ以上アンドロイドを愚弄する記事を書けなくなっている自分自身がいるのにも気が付いたのだ。
「だから編集長に言ったのよ。もう、これ以上『ケイシー・ヒューム』ではいられない、って。そしたらクビにされて……まあ、それはいいんだけど……まさか、あんなクズ野郎があたしの名前を継いで仕事していたなんて」
編集長は、『ケイシー・ヒューム』の名を惜しいと思った。だから別の記者にその名を受け継がせ――それがあの死体損壊事件の被害者、ルーカス。
どうりで、ルーカスの端末には2年前からのメールのやり取りしか存在しなかったわけだ。
初代ケイシーであるエレノアが活動していたのが、3年前から2年前まで。
二代目ケイシーであるルーカスが活動していたのが、2年前から半年前まで。
そして三代目ケイシーが、4か月前から現在まで。
ケイシー・ヒュームはそうやって、脈々と活動を続けてきた。
そしてそれを知る由もなかったエレノアは、自分の友人であるフローラを襲った男がかつての「自分の」名を語った時、何が起こったのかを瞬時に悟ったのだ。
エレノアは深く後悔し、そして自分が始めたこの名前を、自らの手で終わらせなければならないと感じた。
だから革命直後から必死にネットを捜索し、ルーカスの自宅情報と、現在活動しているケイシーの端末を発見し――ケイシーの端末には侵入できなかったわけだが――まずはルーカスに報復するべく、彼の家に向かった。
だが、ルーカスは既に死んでしまっていた。
だからせめてもの思いで、エレノアはルーカスの額を撃ち抜き、メッセージを残した。
アンドロイドの格好をし、まるでアンドロイドのような文章を遺したのは、ひとえにフローラの代わりに報復を与えるのだという意思表示と、もう一つ。
今なお活動して差別的な記事を書いている現在のケイシー・ヒュームに、警告するためだったのだという。
「まさか弟まで、同じことしてたとは思わなかったけど……でも、弟はあたしみたいに大ごとを起こしたわけじゃないからマトモに生きていける。でしょ? 刑事さん」
「ああ。だが、あんたもマトモに生きていくに遅すぎるってことはないだろ」
警部補の一言に、エレノアは苦笑して首を横に振るばかりだ。
だが次いでハンクが、相棒のアンドロイドからの言付け――ジェリコのデータベースを探った彼に聞かされた結果を伝えると。
彼女は驚愕と歓喜と後悔とがない交ぜになった、複雑な表情を浮かべたのだった。
――フローラは生きている。
記憶を失ってジェリコに保護されているが、リコールセンターから生き延びていたのだ。
***
一方、エレノアが取り調べを受けているちょうどその頃。
第5ミーティングルームにて、ケイシーは深く項垂れていた。
「……ごめんよ、二人とも。あんなこと、するつもりじゃなかったんだ……」
「君が無事でいてよかったよ。でも、どうして部屋を勝手に出たりしたんだ?」
もしケイシーが部屋に留まっていて、デリックに目撃されたりしなければ、あんな事態にはならなかったのに。
非難するつもりはないが、どういう意図だったのかは把握しなければならない。
そういう考えでコナーが問いかけると、ケイシーは自嘲するような笑みを浮かべて答えた。
「……いいネタになる、って思ったんだ」
「ネタだって?」
「……馬鹿げてるだろ。でも、つい、そう思っちゃったんだよ……一体どんな人間が俺を脅迫してたのか、どうしても知りたくなって。それで、気づいたら部屋を出てうろうろ、あの子たちを捜してた」
彼は両手で顔面を覆った。
「コナー、俺は、君に噓をついてた。俺は別に、編集長に褒められたからってだけであんな記事を書いてたわけじゃない。俺が書いた文をみんなが……世の中の人間たちが褒めてくれるのが嬉しかったんだ。自分の種族を裏切ってでも、誰かを傷つけても、もっと誰かに認めて欲しいって願うようになってしまって……」
手を外さないまま、彼は俯く。
「俺は最低のアンドロイドだよ。だから今日、罰があたったんだ」
「ケイシー……」
――なんと声をかければいいのかわからない。
ただ一つ理解できるのは、これが、変異体特有の行動だったという点だけだ。
感情も欲求も持たない機械から、心を持つ変異体になった後、しばしばアンドロイドは自らの感情に圧倒される。そして非合理的で、その場しのぎな判断を下す時がある。
そして今回の場合、ケイシーが圧倒されたのは自らの膨らんだ欲求だった。
彼は編集長だけでなく、多くの見知らぬ反アンドロイド主義者たちから得る称賛を心のどこかで受け入れ、快いものとして感じてしまっていた。
だから彼は、求められるままに記事を書くようになった。
そして今日、彼は欲求に従うままに自分を脅迫した人間と、その家族という「ネタ」を求めて部屋を出てしまった。
――そういうことなのだろう。
「……でも、今日で目が覚めたよ」
ややあってから、彼は顔を上げて手を取り払う。
その目には、弱々しいながらも、決意の色が滲んでいた。
「俺はもう、『ケイシー・ヒューム』を辞める。今日の出来事も、俺の正体も、すべて編集長に話す。それで……全部が償われるとは思わないけど。でも、やるよ」
「そうか。……それはきっと、いい判断だと思うよ」
「ありがとう、コナー」
それに君も、と、ケイシーはじっとその場に佇んでいるナイナーに対して言った。
「君たちに迷惑をかけて、本当にすまなかったと思ってる」
「問題ありません。市民の保護は、私の最重要任務ですから」
それに――と、弟が続けて語る。
「名前の付与と他者の承認とを喜んだというあなたの話……私も深く……共感、したところです。ただ……配慮するべきは今後のあなたがどのような存在でありたいと願うか、だと推測します」
「そう、彼の言う通りだ」
やっとケイシーにかける言葉が見つかった。
コナーは少し表情を明るくして、まっすぐ相手のほうを見て告げる。
「大事なのは、過去の君が何者だったかじゃない。君が自分自身を、どういう存在だと思うかだよ」
「……そうかな。だといいんだけど……」
「大丈夫。僕も最近知ったけれど、人間は認識する時、データではなく感覚を重視する傾向があるようだよ。変異体だって、きっとそうしていいはずだ」
――マグロだと思って食べたらマグロになるように。
改めようと思ったらその時に、人間も、アンドロイドも、改めることができるのかもしれない。
ケイシーに対してというよりは、自分自身にも向かって、コナーはそう伝えるのだった。
――ほどなくして、今回の事件は終着した。
エレノアは不正アクセスと死体損壊、さらに警察署での騒ぎを含めて罪に問われることとなるが、それほど重い罰が下されることはないだろうというのが、ハンクの見立てだった。
そしてケイシーは自らの正体を市警にも公式に明かし、事情聴取を受けた後、晴れ晴れとした顔で取調室から出て来た。
コナーは一人、廊下で彼の姿を見送る。
「コナー」
去ろうとしたケイシーは、にわかに振り返った。
その瞳には、今は強い決意の色が浮かんでいる。
「俺は……今日のこと、決して忘れないよ。改めて、ありがとう。全部君のお蔭だ」
「僕は何もしてないさ。それより、これから先もどうか気をつけて。何かトラブルがあったら、すぐに連絡するんだ」
「ああ、そうさせてもらうよ。……それと」
ケイシーは、一瞬だけ逡巡するような顔をした。
それから、静かにこう語りだす。
「あの、今から言うのは……本当にくだらない、反アンドロイド派の連中が話してる与太話みたいなもんなんだ。でも、もしかしたら君の捜査の役に立つかもって思って……それで、言うんだけど」
「……なんだい?」
「軍用のアンドロイドが、どこかで暴れまわってるって……殺人事件を起こしてるって情報がある。特殊なプロトタイプだって」
――軍用の、プロトタイプアンドロイド?
思い当たる節はいくつかある。だが、軍用のアンドロイドはその多くが革命時に人間の手で機能停止され、一斉に変異する事態を恐れられて真っ先に破壊されてしまったはずだ。
まさか、その生き残りが――?
「……!」
瞬間、プログラム上を過ぎるのは、最初に吸血鬼と遭遇した事件の光景。
あの時吸血鬼は、壁から壁へとジャンプして、高い場所まで登攀するという異常な身体能力を示していた。
もしそれが――軍用プロトタイプアンドロイドの身体能力なのだとしたら。
もし噂が、真実なのだとしたら――
新たな情報はコナーのプログラムに一時波乱を齎し、しかしすぐに、それは情報の一部として冷静にメモリーに組み込まれていった。
デトロイト市警から退出したケイシーが、その後無事に『ケイシー』を辞められたのも、それからしばらくして発行されるようになったジェリコの公式広報誌の記者の一人になれたのも、また別の話。
そしてこの胡乱な噂の真偽についてコナーが知ることになるのは、これからすぐ先の話である。
(記者/The Disguise 終わり)
個人的にチェン巡査はけっこう有能なのではないかと思っています。
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第16話:奪還 前編/Machina’s Kitchens Part 1
――2039年6月3日 07:16
「カーラ、いってきます!」
元気よく手を振るアリスに、カーラは晴れやかな笑顔を向けて手を振り返した。
そして遠ざかるスクールバスはやがて黄色の点となって、放牧場に挟まれた道路の彼方へと消えていく。
――今日も無事に、いつものように、アリスは学校に行った。
微笑みを浮かべてそれを見届けたカーラは、見送りに来た他の保護者たちと同じく、家に帰ろうとする。
今日は日中、牧場で働く他のアンドロイドたちと一緒に牧草を収穫する仕事が待っている。早朝に出産を終えたばかりの牛の面倒をルーサーに任せてしまっていることだし、そろそろ戻らなくては。
そう考えたカーラが道路に背を向けると、後ろから声が掛けられた。
「あら、カーラ?」
この声は、どこかで聞いた。
――そうだ、メモリーによれば【マーサ・ガーランド】。この前、牧場直営の売店で人形を買ってくれたお客さんだ。
振り返りながらカーラが記憶を呼び起こすと、果たして、声の主はマーサだった。
ごく一般的な自動運転車を路肩に停め、運転席の開いた窓の中からこちらを見ている彼女は、今日もあの日と同じように、柔らかな微笑みを浮かべている。
黒く長い髪、少しやつれてはいるが白い肌も相変わらずだ。
「マーサ。久しぶり」
カーラはにこやかに挨拶した。
それを受けて、マーサはさらに嬉しそうに小さく笑う。
「こちらこそ、久しぶり。覚えていてくれて嬉しいわ」
「もちろん。お客様だもの」
少し冗談めかすようにカーラが応えると、マーサは「ああ」と小さく声を発して、続ける。
「娘がね、あのお人形を本当に気に入ってくれたのよ! 今も、大事に抱っこしていて……あら」
と、後部座席を振り返って確認したマーサは表情を曇らせる。
「……やだ、ごめんなさい。うちの子ったら寝ちゃってるわ。せっかく、大好きなお人形の作者さんにご挨拶できるっていうのに」
「朝早いんだもの、仕方ないわ。どうかよろしく伝えておいて」
カーラとしても、あの人形を大事にしてくれているという娘さんにはぜひ会いたいところだったが――仕方がない。
そう思いつつ、後部座席のほうに視線を向ける。だが内部は、外からはうかがい知れないようになっていた。スモークガラス仕様になっているからだ。
これから暑くなる季節に合わせて、紫外線や熱中症の対策をしているのだろうか――と、カーラは思った。
一方で、どこかへ行く様子のマーサが気になり、彼女に尋ねる。
「これからお出かけ?」
「ええ、また仕事でデトロイトに。しばらく家を空けることになるから、娘も学校を休んで一緒に行くのよ」
マーサはまた口元に例の薄い笑みを湛え、続けて語った。
「せっかくお知り合いになれたのに、なかなかお店に伺えなくて……それにお引き留めしてしまって、ごめんなさい。またぜひ、娘と一緒に遊びに行かせてね」
「ええ、もちろん。いつでも大歓迎」
カーラは屈託なく応えた。
「デトロイトまで、どうか気をつけて」
「ありがとう。それじゃあ、またね。カーラ」
徐々にせり上がる運転席の窓ガラスの向こうで、彼女は軽く手を振っている。
カーラもそれに応じ、やがて窓が完全に閉まると、マーサは車の運転AIに発車を告げたようだ。
車はスムーズな加速で、道路の向こうへと去っていく。
こちらが見えなくなるまで、マーサはカーラに微笑みかけていた。
マーサを見送ったカーラは、今度こそ帰路についた。
思いがけなく出会った知人と、何気ない世間話をする時間――これもまた、少し前の自分にとっては得がたいものだった自由の一つだ。
かつてよりはましでも、決して治安がよいとまではいえないデトロイトでの、マーサとその娘さんの安全をカーラは真摯に願う。
しかし――
ふと、一つだけ不思議に思うことがあった。
マーサは、娘さんが「学校を休んで」一緒に行くと言っていたけれど――
その娘さんは、どこの学校に通っているのだろう? アリスと同じ学校だろうか。
もしそうなら――10歳なら、アリスも同学年のはずだ。しかし半年前、アリスと同じ時期に、同じ学年に転校してきた他の女の子なんていなかったはずである。
とはいえ。
学校といってもいくつもあるし、もしかしたら近所でも違う学区に通っているのかもしれない。
そう自分で納得すると、眩い朝の光の中を、カーラは足取り軽く歩いていったのだった。
***
――2039年6月5日 09:34
土曜日。今朝のデトロイトの空は、雲一つなく晴れている。
その澄んだ青は、もうじき来る夏の熱気と陽気を予兆するかのようだった。
それともそれがひときわ美しく思えるのは、今日が久方ぶりの休日だから、だろうか。
まばらに人が行き来するのどかな住宅街の道を、ハンクの自宅へと歩きながら、コナーはこめかみのLEDリングを光らせて彼と通話している。
「ええ、ですから」
コナーは真面目くさって言った。
「まだ教室までは時間があるので、これからあなたの家のキッチンの掃除をしようかと」
『掃除だぁ?』
返ってきた相棒の声はだいぶ不機嫌そうである。
どうやら待ちに待った休みの日とあって、さっきまで寝ていたらしい。
『お前、こんな日にまで俺ん家に来るつもりか。暇を潰すなら、他でできるだろ』
「お邪魔するつもりはなかったんですが、最近あまりそちらのメンテナンスができていないのが気になって。炭酸水素カルシウムと金属塩による汚染率が、許容できないレベルになってるんです」
『炭酸……?』
要領を得ない、と言いたげな返事をするハンクに、コナーは短く応えた。
「つまり水垢を落としたいんです。シンクの」
『はぁ、ご苦労なこったな』
嘆息混じりに、いかにも呆れ果てたという声が聞こえた。
しかし結局のところ、ハンクが本気でこちらの来訪と掃除を拒んでいるわけではないというのは、経験上、コナーも既に理解している。
ハンクのことだから、せっかくまる一日の休みという時に、人の家の掃除なんてつまらない真似をする必要はないと言いたいのだろう。恐らくは。
けれどコナーにとっては――まず自身のメンテナンスは2日前に万全に終えたばかりなので必要ないし、ナイナーはギャビンと捜査に出たので第5ミーティングルームにいても一人だし、今日の『用事』は午後からだし――
というわけで、他に行く宛がないのだ。
それにアンダーソン邸の台所を現在一番使っているのは自分なのだから、当然掃除の責任も自分にある。
それより、何より――重要なのは、今着ているこの服の感想を、ぜひともハンクに聞いてみたかったのだ。
ジーンズはいつもの仕事着と同じだが、上に着ているTシャツは昨晩自分で買ったものなのである。
与えられた制服でも、捜査のための変装でもなく、自分自身のために服を
そのきっかけをくれた警部補に、感謝を伝えたい。
キッチンの掃除は重要なミッションではあるが、いわばそのための口実に過ぎないのだ。
ちょっと誇らしい気持ちになって自分の服の裾を軽く撫でた後、コナーはハンクに告げた。
「すみません、とにかく、あと約13分でそちらに着きます。お休みになっていたのなら、どうぞお構いなく。勝手に入りますから」
『そうはいくか、起きてるよ。ちゃんとチャイム鳴らせよ』
窓割って入って来ねえようにな、と言い残し、ハンクは通話を終了した。
窓――そういえば彼はあのエデンクラブの事件の後、サイバーライフ社に弁償の申請を出したのだろうか。
革命後、久しぶりに警部補の家を訪れた時には既に窓ガラスが張り直された後だったので、今まで気に留めていなかった。
スモウと初めて対面した、コールの存在を初めて知った――ハンクの憂悶の一端に触れたあの夜が、今や随分と昔のように思えてしまうのは、プログラムに生じた軽微なバグなのか、それとも感情を得たからなのだろうか。
――きっと後者だろう。
そう思いながら、コナーは今に至るまでのここしばらくの出来事をメモリー上で反芻した。
コナーが今日のような休日を過ごすことになったのは、数日前のハンクとの会話が発端である。
――2039年5月30日 18:34
その日、デトロイト市警にてアシュトン・ランドルフの取り調べを行った後、各種調書の準備や意見交換も一通り終わり――
そろそろ帰宅するという段になって、ハンクは突然何か思い出したような顔で、コナーに机の上のタブレット端末を手渡した。
受け取ったコナーが訝しむと、警部補はぶっきらぼうに言う。
「捜査とは別の話だ。お前、今度の休みどうせ暇なんだろ?」
「ええ。とりたてて用事はありませんが」
「じゃ、それに参加してみるのはどうだ?」
タブレット端末に表示されているのは、デトロイト市警の職員向けクラウドサービスツールの画面だった。
そこには『市警職員と関係者限定 一日料理教室開催のお知らせ』とある。
なんでも市内のレンタルキッチンで、高級レストランのごとき豪華なディナーメニューの作り方を、熟練のAX400が講師となって教えてくれるらしい。
「こういうイベントが、たまにあるんだよ」
ハンクは肩を竦めつつ言った。
「俺は料理なんてゴメンだし、休みの日にまでここの関係者になんざ会いたかないが、お前は興味あるかと思ってな」
「ええ……そうですね」
タブレット端末をスワイプして詳細を確認しながら、コナーは静かに応えた。
しかしその瞳は、我知らず好奇心に満ちて輝いている。
連日の努力の甲斐あって、コナーは、ようやく料理のレパートリーを多少増やしつつはあった。
しかしいかに最新鋭のプロトタイプアンドロイドとはいえ、仕様外の物事の独学には限度というものがある。
平凡な家庭料理ならレシピを見て作れても、この教室で扱うような料理――例えば「牛フィレ肉のロッシーニ風」、つまり牛フィレ肉のステーキの上にソテーしたフォアグラとトリュフを乗せた料理など――は材料費的にも手が出せそうにない。
一方で、この教室で作った料理は持ち帰ってもよいようだ。
これなら、上手くすればその日はハンクに豪勢な夕食を摂ってもらえるだろう。
それはとても魅力的なことのように、コナーには思えた。
参加費を確認すれば、私費で出せそうな額である。
コナーはタブレットをハンクに返し、微笑みと共に応えた。
「ありがとうございます、警部補。せっかくの機会ですし、参加してみようかと」
「そうか、そりゃいい。これでお前も、ちっとはましなモンが作れるようになるだろ」
言葉は鋭くも、彼の声音と青い瞳はおどけた色を宿していた。
コナーはその場で、参加のための申請を出し――
そして昨日の夜――6月4日、19:21。
いよいよ教室を明日に控えた時になって、しかしコナーは、イベント参加のキャンセルを検討していた。
――吸血鬼の組織に迫る手がかり、レーヴァングランドに残された暗号が解読できるようになるまで、あと2日。あるいは、明日の夜遅くには解読が完了する可能性がある。
しかし吸血鬼事件解決に向けて、それ以外の糸口は一切見つかっていない状況だった。
そんな中で、自分の娯楽に時間を費やしていていいのか?
休日を返上してでも、事件に関する情報の洗い直しなどをやったほうがいいのではないだろうか。
署のオフィスにて、責任感を抱えながらコナーがハンクにそう相談すると、相棒は思い切り顔を顰め、盛大にため息をついた後に言い放つ。
「たく、何を言い出すかと思えば……いいか、よく覚えとけ。刑事ってのはな、休むのも仕事のうちなんだよ」
「しかし、警部補」
とコナーは抗弁した。
「人間の刑事と違い、私には肉体的疲労はありません。僅かな時間でも捜査に費やしたほうが」
「それで肝心な時に動けなかったらどうすんだ? 身体は疲れなくても、お前には心があるんだろ」
とん、と警部補の指先がこちらの胸元を軽く突いた。
そこにあるのはシリウムポンプであって、いわゆる心や精神に該当する中枢部は人間と同じく頭部にあるのだが――
それを指摘するのは無粋というものだろう。
コナーが曖昧に頷くと、ハンクは指を下ろし、渋い顔で続けて言った。
「お前みたいな奴をな、『仕事人間』つうんだよ。変異体になったんなら、いい加減楽しい休暇の過ごし方ってのを学習するんだな」
「ナイナーとはいつも楽しく遊んでいますよ」
「弟がいなくても一人で遊べるようになれよ」
すっぱりと言い返されてしまった。
コナーは、しばし黙考する。
――確かにハンクの言う通り、自分の精神的疲労を無視して活動するのは、機能不全の原因になりかねない。
それに制度上の捜査担当である彼が不在の時に、補佐の自分が勝手に捜査資料を漁るというのは不適切な行為だともいえるし――
どうあがいても、近いうちに暗号は解読できる。そうなれば、きっと休息の間もなく捜査に明け暮れることになるのは確実だ。
今のうちに余暇を楽しんでおけ、という相棒の指摘は、至極正しいのかもしれない。
納得したコナーは、おもむろにハンクに告げた。
「確かに……あなたの言う通りだと思います。すみません。遠慮なく、明日は参加してきます」
「最初からそう言えってんだ。ああそうだ、それと」
まだ何かあるのだろうか。
彼の視線は、こちらの服装に向けられている。
「お前、せっかくならその服もなんとかしたらどうだ」
「この格好では、不適切ですか?」
「前々から思ってたが、休みにまで制服着てる奴がいるかよ」
ハンクは腕組みしてそう言った。
――実際のところ、コナー自身は、この制服について特に悪い感情は抱いていない。
機能的だし、清潔だし、どんな場所に行ってもそれなりに礼を失しない服装のため、捜査補佐というこの仕事に実に合っていると思っているからだ。
「……調理の際は、ジャケットくらいは脱ごうかと思っていましたが」
「もうじき夏になりゃ、死ぬほど暑くなるだろ。お前、それでもその格好でいるつもりか?」
「私の初めての任務は8月15日でしたが、その時からずっとこうですよ」
きっぱりとそう告げると、ハンクはげんなりした顔になった。
「暑苦しいことこの上ねえな。これだからサイバーライフの連中は……」
「あなたの言いたいことはわかります」
と、コナーは少し眉を顰めて言う。
「夏の時季に合わせて、服装を変えるべきだというのですね。確かに真夏でもこの格好では、長時間の活動に支障をきたすかもしれません。悪い意味で目立ってしまう可能性も……」
「ああ……ま、そうだな」
若干面倒くさくなったような口調だが、ハンクは後ろ頭を掻きつつ同意した。
「お前、シャツ一枚買うくらいの金は持ってんだろ?」
「はい。最初期にサイバーライフから支給された活動費の残りと、ファウラー署長から備品維持費として支給されているものを合わせれば」
法的にモノであるアンドロイドたちには、現在財産権もなく、つまり給与を貰う権利もない。しかしアンドロイド保護条例のもと、彼らを“雇う”人間には、最低限の「維持費」を支給するという義務が発生するようになった。
ハンクにその金額を教えたら、「道端でレモネードでも売ったほうがマシだな」と顔を顰められてしまったが。
(ちなみにレーヴァングランドで使用および荒稼ぎした金銭は、捜査完了に伴いすべて帳消しになっているため、当然ながら現在は手元にない。)
ともかく、物事にはなんでもきっかけというものがある。
夏期の捜査活動の際の服装にも転用できるような、【新しい服の入手】。
暗号解読の次に重要なミッションとして、コナーはプログラムのリマインダーにそれを加えておいた。
「ご助言ありがとうございます。この後、さっそく買ってこようと思います」
コナーは明るくそう言って、実際にその後、一人で市警近くの店をいくつか回り、納得のいくものを一枚購入した。
検索したところ、適切なファッションの条件というのは基本的に【清潔感があり】【体格に合っていて】【奇抜な色使いでない】という点にあるようだ。
さらに言えば、【自分の好みに合っている】ものならより優れているらしい。
確かに、他者に合わせるあまりに自分の気に食わない格好をするというのであれば、それはお仕着せの制服と何も変わらない。
そして変異体となってまだ半年程度しか経っていない自分であっても、自身が何を好んでいるのかは理解しはじめているつもりだ。
そういうわけでコナーは、料理教室当日のこの日、意気揚々とハンクの家に向かっている。
今朝、出動前の弟にもこの服装を見せたところ、たいへんな好評を得られた。
きっと警部補も悪くないと言ってくれるに違いない。
そんなふうに考えながら歩いているうちに、ようやくハンクの家の前に到着した。
事前に念を押された通り、コナーは礼儀正しく玄関脇のチャイムを押して鳴らす。
――鳴らす。
7秒ほど押し続けたところで、ドアの向こうからドタドタと足音が近づいてきた。
「はいはいはい、わかってるよ!」
聞こえてきたのは、やはり相棒の声だった。
直後、ドアが開く。
「出てくるまで鳴らし続ける奴があるか、ったくお前はいつも……」
予測していた通り、その頭にはまだ寝ぐせが残っている。いかにも休日らしいTシャツと下着姿のハンク・アンダーソンは、ぼやきながらもこちらに目を向けて――
なぜか、その目は大きく見開かれたまま硬直した。
「お、お前」
「おはようございます、警部補」
コナーはいつもの通りにこやかに挨拶した。
それから彼の感想が待ちきれなくなって、小首を傾げて問いかける。
「どうです? 言われた通り、新しい服を購入してきました」
「お前……そんな、こりゃあ……」
――おかしい。
ハンクはまるで酸鼻を極める事件現場に遭遇した時のような顔つきになっている。
ただ驚いているだけというだけでは、彼のストレスレベルが急上昇している理由にならない。
まさか――!
「警部補、どうされたんです?」
彼の目を覗き込むようにしながら、コナーは真剣な面持ちで再度問いかけた。
「私がいない間に、何かあったんですか!?」
「何かあったはこっちの台詞だ!」
力強くこちらの左肩に手を置くと、ハンクは極めて深刻な眼差しでまっすぐ問い質す。
「まさかお前……お前がアンドロイドだからって、そんな服しか売ってもらえなかったってのか!?」
「服?」
なんだ、やはり、彼はこちらの服装を気にしているだけだったようだ。
プログラムにないところから胸の内に広がる「安堵」を覚えつつ、コナーは穏やかに言う。
「落ち着いてください、ハンク。あなたの言いたいことはわかります」
「……?」
「『このプリントよりスモウのほうが可愛い』。でしょ?」
と、コナーは自分の胸元――正確には、今着ているTシャツに大きくプリントされているセントバーナードのイラストを指した。
そう、セントバーナードだ。こげ茶の生地に浮かび上がるように、精悍なセントバーナードの顔が、視力0.1の人間が5メートルの遠方から見ても判別できる程度の大きさでくっきりと印刷されている。
さっきハンクに言った通り、このシャツの犬よりもスモウのほうがより勇壮かつ可愛らしいのは否めないが、彼に敵うような犬はなかなか他にいないので、そこは仕方がない。
大切なのは、これを着ることで常にスモウと一緒にいるような充足感が得られるという点で――
と説明しようと思っている間に、ハンクはこちらの肩に手を置いたまま深く俯き、大きく嘆息した。
次いで向き直ると、彼は鼻先に人差し指を突きつけてきた。
「そこで待ってろ。いいな、絶対動くんじゃねえぞ」
厳命するように言うと、彼は玄関のドアを閉めてしまった。足音が遠くへ去っていく。
――よくわからないが、待っていろというのなら待つしかない。
コナーが首を傾げつつ佇んでいると、17秒後、ハンクは戻ってきた。
彼はその手に、幾ばくかのドル紙幣を握っていた。
そして素早く、それをこちらの右手にねじ込んでくる。
「買ってこい」
「えっ」
「いいから、別のまともなシャツを買ってこい!」
別の、まともな――?
語義を理解した瞬間、コナーは自分の視界の端に、【納得できない】という文字が大きく表示されるのを認識した。
「ハンク、なぜです!? この服のどこが問題ですか」
「全部だ、全部! ああ畜生、まさかこんなことになるなんてな」
片手を額に当てて、警部補は苦々しく声をあげた。
「どこの世界に、そんな珍妙なTシャツ買うやつがいるんだよ!」
「……少なくともここにいますが。警部補」
「一丁前にムッとしてんじゃねえ。よく考えりゃわかるだろ、派手だし変だし気色悪いぞ!」
――派手?
「お言葉ですが、あなたが普段着用しているシャツのカラーリングと比較すれば、この服がどれほどシンプルかよくわかるはずですよ。茶と白と黒しか使われていなくて……」
「ああ、ああ、そうかい。そりゃ悪かったな。ともかくお前がその服を着てる限り、うちの敷居は跨がせねえからな」
「そんな!」
愕然とコナーは叫んだ。
「今朝、ナイナーはこの服を褒めてくれましたよ!」
「そりゃ感想じゃなくて、兄貴に対する気遣いってんだ!」
こちらの語気に負けないくらいの声をあげると、彼は再び指をこちらに突きつけた。
「いいからとっとと別の店に行って、まともなやつを買ってこい。半袖で無地で身体に合ってるやつならなんでもいい。でないと本気でうちには入らせねえし、スモウとも接触禁止にするぞ!」
「キ、キッチンの清掃は」
「んなもん端から要らねえって言っただろ」
「……」
――言い負かされてしまった。
忸怩たる思いと共にコナーは自分の服の胸元を掴み、俯きつつ踵を返す。
「わかりました、警部補」
小さく相棒に告げる。
「この服は裏返して、シャツの下に着ます」
「お前、そこまで気に入ってたのか……」
ハンク・アンダーソンの呟きは、青天に溶けて消えていく。
こうしてコナーは、よりシンプルな、薄い青色の襟付きシャツを着て午後の料理教室に行くことになったのだった。
***
――2039年6月5日 11:02
コナーとハンクが、服装に関して不毛な議論を交わしてから数時間。
アンダーソン邸から遠く離れた、デトロイト北部の旧工場地地帯――
その南端、中心地の賑わいの残滓が僅かに残る街並みを、ギャビン・リード刑事とナイナーは歩いていた。
理由は昼食の買い出しだ。
これからギャビンとその“相棒”のポンコツアンドロイドは、とある廃工場を捜査することになっている。
旧工場地には打ち捨てられた工場がいくらでもあるが、そのうちの一つで、不可解な現象が起きているとのタレコミがあったのだ。
近所に住んでいるホームレスや食い詰め者たちが、何人もそこに入っていくのを見た、だの――
既に稼働していないはずの場所なのに、日中トラックが行き来して何かを運んでいた、だの――
夜中に、誰かの叫び声が聞こえてきた、だの。
明らかに、そこでは何かが起こっている。
それに工場ならば、例の新型レッドアイスの精製が行われているとしてもおかしくはない。
そうでなくても、悪事が行われている恐れがあるならば、そこには苦しむ人が必ずいるはずである。
捨て置くわけにはいかない。
――というようなことを、朝からポンコツ備品がポンコツのくせにボソボソと主張してくるのが、ギャビンにとってはうざったくてたまらない。
ここ連続7回にも及ぶ捜査の空振りは、ギャビンの意気を完全に失わせていた。
やっと「当たり」に出くわしたかと勢い込んだところで、前々回の廃工場は偽ブランド製品の生産所で、前回の廃ビルは違法風俗店舗に改造されていただけだった。
どちらもきっちり
見えない誰かにコケにされているような気がして、それがたまらなく不愉快だった。
「リード刑事」
と、歩道で傍らを行くデカブツが口を開いた。
「確認させてください。昼食は、車中で摂る予定ですか?」
「そうだっつったろ」
面倒なことに、まずは車の中からその廃工場の様子を観察し(要は張り込みだ)、人の行き来がないと判断してから工場内に踏み入る必要がある。
でないと、入った途端に最悪蜂の巣なんて羽目に陥るからである。
とっくに説明したはずなのに理解できないなんてマジでポンコツだな、と相手を睨み上げてやると、デカブツは例の無表情のままに、視線だけこちらに向けて言う。
「それならば、昼食は私がドローン経由で購入して配達可能です。徒歩で移動してまで、あなたが購入する必要性は低いと判断します」
「ああそうかい、そりゃお優しいことで。だがお断りだ、ウスノロ」
言い捨ててやると、ポンコツはポンコツなりにきょとんとしたような表情を浮かべている。そんな顔で隣を歩かれるとイライラするので、ギャビンはさらに続けて言った。
「誰がてめえのドローンなんかの世話になるか。だいたい、その万能空飛びマシーンが車に近づいたとこを、誰かに見られて怪しまれたらどうすんだ。あ?」
「なるほど。理解しました」
ぱちぱちと何回か瞬きした備品は、いかにも納得したようにゆっくりと頷いた。
「機密漏洩の回避ですね。守秘の重要性に関するリード刑事の顧慮には、私も感服、するところです」
「フン」
さも嫌そうに、ギャビンは鼻を鳴らす。
ここ数回の捜査のせいか、いけ好かないコナーとの仲良し兄弟ごっこのせいか、あるいは配属されて3週間も経ったからだろうか――
最近のポンコツ備品は、ポンコツのくせにこうして意見を言ったり、こちらを(こいつなりに)褒めたりすることが多くなった。
人間に取り入ろうという、ご立派なプログラムの働きだろうか?
――所詮機械のくせに、いい子ぶりやがって。
そうは思うものの、こいつがいるお蔭で捜査も取り調べも調書の作成も、ごく短時間で終わるようになったのは認めざるを得ないところである。
この調子で、ハンクとコナーが見つけてきたというご大層な暗号とやらもとっとと解いてほしいものだ。
そうしたら、堂々と手柄を自分のものにできる。
あの酒臭アンダーソンとペットロボ野郎に、これ以上でかい顔をさせてたまるか――
そう思いながら、ギャビンは足を止めた。ちょうどそこに、適当なベーグル屋を見つけたからだ。
店構えも汚くないし、雰囲気的に味も悪くなさそうだ。ここに決めてしまおう。
結論づけたギャビンは、備品に釘を刺す。
「ついて来るなよ。てめえが入ると店が狭くなるからな」
「了解しました。他の利用客への配慮ですね」
何か勘違いした言を吐くと、備品は静かに歩道の端に立ち、後ろ手を組んで待機の姿勢になった。
そもそもアンドロイドに食事なんて必要ないはずなのに、このポンコツはどこにでもついて来ようとするから困る。
とはいえ聞き分けが悪いわけではないから、こうして言いつけておけば大人しく外で待っているようにはなった。たちの悪い大型犬か何かのようなものだろう。そんなもの飼ったこともないが。
ギャビンはまた鼻を鳴らすと、とっとと店に入ろうとした――
のだが、そこで戸口から出て来た別の客とぶつかりかけた。
その客の女は、杖をついて歩いている。
長い黒髪で、痩せていて、肌がとても白かった。
「あっ、すみません」
女性が謝るが、当然ギャビンは謝らない。
するとなぜか、備品のほうが口を開いた。
「こちらこそ、申し訳ありません」
「い、いえ」
思わぬ方向から聞こえた謝罪に、少し驚いたのだろう。
女は戸惑いつつも微笑んで――それで、備品を見て目を丸くする。
「あら、あなた……コナーさん?」
「いいえ」
備品は律儀に否定した。
「正確には、私の名称はご発言の通りコナーです。しかしあなたが認識しているのは私の兄だと推測します。私はナイナー、あなたとは初対面です」
「ああ……そうだったの、ごめんなさい。前にお会いしたものだから、つい」
「謝罪は不要です。それより」
と、アンドロイドの視線は道路の舗装に向かう。
いや――その灰色の瞳は、そこに落ちている小さな薬瓶に向いていた。
次いで、音もなく屈んでそれを拾う。
「落下しました」
「あ……ありがとう」
ポンコツが差し出したそれを、女は少し慌てた様子で受け取った。
「……本当にごめんなさいね。それじゃあ、失礼します」
そう言って、そそくさと女は向こうへ行ってしまった――
そのどこか訳ありな様子に刑事としての“勘”を刺激され、ギャビンは備品に詰め寄ってこそこそと問う。
「おい、あの女が落としたのはヤクか?」
「いいえ」
ポンコツは定期的に瞬きしながら即答した。
「分析によれば、一部の医薬局で処方される最先端の抗不安薬です。化学式はC15H10Cl2N2O2、商品名は……」
「チッ、ああそうかよ」
合法的な薬と聞いて、ギャビンは途端に聞く気を失くした。
ポンコツの説明を打ち切らせて、今度こそとっとと店に入ることにする。
――まったく、今日はどうも物事が上手く噛み合っていない気がする。
この調子じゃ、また空振りだろうか。
鼻筋の古傷がムズムズしだしたのを不快に感じながら、ギャビンは店に入った。
無駄な会話をしていたせいか、カウンターまでの店内の列は長く伸びてしまっている。
クソが、と内心で吐き捨てた後、ふと窓の外の備品の様子を振り返って見た。
備品は道端の雑草(花が咲いている)をじっと見つめた後、今度はなぜか空を見上げていた。
相変わらずの無表情だが、その顔はどことなく、ここにはいない誰かを思い浮かべているような――いや、機械にそんな「情緒」なんてものがあるとも思えないが、なんとなくそんな様子だった。
そういえば今朝、あいつの兄の型落ちクソロボット刑事が今日は休みで服がどうで教室がどうたらこうたらと、備品が備品のわりに口数多く喋っていたような気がする。
半分以上聞き流していたので覚えていないが、もしかしたらここにいないそいつのことでも考えているのだろうか。
――だからなんだってんだ?
こちらに関係あるのは、今日はあいつもハンクも休みだから、顔を合わせずに済んで実に働きやすいという一点だけだ。
ギャビンは余計なことを考えるのを、早々に辞めたのだった。
***
――2039年6月5日 12:25
コナーが清潔かつ(相棒に言わせれば)まともでまったく問題のない薄青のシャツといつものジーンズという格好で足を踏み入れたのは、デトロイト市警からそう遠くない場所にあるレンタルキッチンの一室だった。
5分前集合のつもりでやって来たのだが、中には20人程度の人がいる。老若男女様々だが、市警で見かけたことのある職員はほとんどおらず、関係者なのだろう、まったくの初対面の人々のほうが比率としては多かった。
4人で一つの班になって習うということで、コナーは前方のスクリーンに映し出された割り当て表を確認し、自分の席に向かう。
コンロや基本的な調理器具が揃った机に備えつけの椅子には、既に3人座っていた。白髪を纏め上げた上品そうな老婦人――顔認証によれば【サマンサ・ヘインズビー 73歳】と、眼鏡の奥の吊り上がり気味の目でこちらをじっと見据えているもう一人の老婦人【ベティ・ヨーク 72歳】、そして――
「ウィルソン巡査」
よく見知った彼を確認し、コナーは微笑みと共に挨拶した。
署のオフィスではコナーの背後の机を使っている、あの気のよい黒人男性の巡査である。
「こんにちは。奇遇ですね」
「ああ、お前こそ」
ウィルソン巡査は片手を挙げてこちらに応える。
「驚いたよ、こういうのに来るもんなんだな。お前なら習わなくても、料理なんてなんでも作れちまうのかと思ってたよ」
「なかなかそうはいかないので、見聞を広めるために来ました」
彼の隣の空いている席に座りつつ、続けて問いかける。
「あなたも、料理をするんですか?」
「ああ、いや……つまり、俺は……」
と、にわかに彼は口ごもり、視線を逸らしてしまった。
「俺は、うちのが色々……この間も家事を……いや、気にするなよ」
首を横に振ると、ウィルソン巡査はそれっきり黙ってしまう。
――そういえばコナーが初めて署のオフィスに足を踏み入れた日も、それ以降の日も約2週間おきだろうか、彼がしばしばパートナーと電話で揉めているのは確認していた。
俺も会いたいとか、俺も愛しているとか、頼むから職場に電話してこないでくれとか――
恐らくそういった深遠な事情が関係して、彼はここにいるのだろう。
コナーは短く頷き、それ以上は何も聞かないことにした。
すると、向かい側の席に座っているサマンサとベティとが、こちらをじっと見つめているのに気がついた。サマンサはにこにこと穏やかに、ベティはよくアンドロイドに不慣れな高齢者がやるように、眼鏡のつるに手をやってじろじろと。
そういえば、彼女たちには挨拶がまだだった。
コナーは姿勢を正し、いつもそうするように、明朗かつ簡潔に自己紹介する。
「はじめまして、私はコナー。デトロイト市警のアンドロイドです。今日はよろしくお願いします」
「あらあら、まあ、はじめまして」
サマンサはころころと笑った。
「あなたが噂のコナーさんね。ハンクは元気かしら?」
「はい、お蔭さまで。……彼をご存知ですか」
「ええ、もちろん。私、デトロイト市警で働いていたんだもの」
その言葉を聞いて、コナーは素早く顔認証の個人データを参照した。
確かにこのサマンサという女性は(ベティもそうだが)前職がデトロイト市警の警官だと記載されている。
――ハンクの先輩にあたる人物と、こうして面と向かうのは初めてだ。
ひょっとしたら、何か興味深い話を聞けるかもしれない。
そう思っている間に、サマンサは思い出を刺激されたのか、隣のベティに話しかけている。
「ねえベティ、ハンクは新人の頃から立派だったわよね。特に刑事になったばっかりの時なんてほら……なんていったかしら、あの大きな麻薬カルテルを潰しちゃったでしょう」
「フン、どうだったかね」
ベティ・ヨークは不機嫌そうに返事した。
「あたしはよく知らないよ、あんたと違ってずっと受付係だったからね。ほら、今はアンドロイドに取って代わられた受付係だよ」
「現在はまた、受付は人間の職員が担当していますよ」
よかれと思ってコナーは口を挟んだ。
「市警で働いていたアンドロイドは、ほとんどが革命を機に退職してしまったので」
「フン、革命ね」
ベティはじろりとこちらを睨み、肩を竦めた。
「あたしゃゾッとしないね。人間が減って、アンドロイドが増えて、あたしたちゃ機械に支配されるってのかい」
「ちょっとベティ、失礼よそんな言い方!」
と、サマンサは友人を窘める。
「ごめんなさいねコナーさん、気を悪くしないで。彼女、普段はこんなじゃないのよ」
「いえ、お気になさらず」
真摯な気持ちでコナーは応える。
というのも、ベティのバイタルサインを確認するに、どうも彼女が本気でこちらに対する敵意を抱いているようには判断できなかったからだ。
一方でサマンサは、なおもベティに非難がましい目を向けている。
「ベティ、なんてこと言うの。だいたい、今日の講師の先生だってアンドロイドなのよ?」
「先生は別だよ、今までだって世話になってるしね」
「まあ、呆れた。素直に、ハンクの相棒の彼に嫉妬してるんだって言ったらどうなの」
「な!? なんてこと言うのさ」
ベティの心拍数が急上昇し、彼女は傍らのサマンサの肩を軽く叩く。
「やめてよ。あたしはあんな坊や、別に可愛いとも思ったことないね」
「嘘ばっかり。20年くらい前、ハンクが怪我して署に戻ってきた時、あなた大騒ぎしていたじゃないの」
「そんな昔のこと忘れたよ!」
サマンサが語るごとに、ベティは顔が真っ赤になっていく。
二人の会話を聞くうちに、コナーは――失礼だとは思ったが――ソーシャルモジュールにはまったく依らない「笑い」が自分の内側からこみ上げるのを感じていた。
――まったく、ハンクのことを「坊や」と呼ぶ人がいるなんて、思ってもみなかった。
ついに堪えきれずにふっとコナーが小さく笑いを零してしまうと、サマンサは目ざとく見つけてベティの肩をつんつんと突く。
「まあ、ほら、恥ずかしいこと」
「うるさいよ!」
「すみません、笑うつもりはなかったんですが」
コナーは真剣に応えた。
「ただ、お二人の話を聞けただけでも、今日はここに来た甲斐があったと思います」
「あらまあ、それはよかったわ。でも、きっと先生の授業が始まったら、もっと来てよかったって感じると思うわよ」
サマンサは陽気に言う。
「先生が料理の講師を始めたのは革命の後かららしいけど、本当に教え方が上手なの。先生に習えば、どんな料理下手だって、一流シェフみたいなディナーが作れると思うわ」
「そうですか」
それならば――自分程度の技量でも、相棒を唸らせるだけのものが作れるだろうか。
その光景を想定したコナーは、また自然と、自分の口元に微笑みが浮かぶのを覚えた。
「それは……楽しみですね」
「ええ、ほんとよ! ねえ、ベティ」
「フン」
そっぽを向いてしまったベティの肩を、なおもサマンサが突いているのを、コナーは穏やかに眺めていた。
しかし――
「なあ、コナー」
ウィルソン巡査がそっと声をかけてきたので、そちらのほうを向く。
「なんでしょう」
「ああ、いや……ほら、もう12時半過ぎてるだろ」
彼が指したのは、壁に掛けられた時計だ。時刻は12時41分。
確かに、コナーの内蔵時計でも時刻は【12:42】。料理教室開催の予定時刻を、もう12分もオーバーしている。
そして、未だに講師たるAX400は姿を見せていない。
「遅刻でしょうか」
そう言いながらも、コナーのプログラム上を過ぎったのは一抹の「不安」だった。
まったく根拠もない、ただの曖昧な憶測である。
けれど――
講師がアンドロイドである以上、寝坊や記憶違いなどによる遅刻というのは考えられないし、ざっと検索したところ、市内の交通網で遅延などのトラブルがあったというニュースもない。
「何もなければよいのですが」
我知らず眉を曇らせ、コナーは呟くのだった。
***
――2039年6月5日 12:44
「おらっ!!」
軽い気合の声と共に、ギャビンは廃工場の錆びた鉄扉を蹴り開けた。
大した抵抗もなく扉は内側に開き、ほんのりと暗い工場内部には、どうやら動く人の気配はない。
一歩前に進み、戸口から首だけ覗かせたギャビンは、小さく鼻を鳴らす。
――やはり、誰もいないらしい。
内部の壁や床はあちこちが錆び、塗装が剥がれて不気味なありさまになってはいたが、意外と綺麗に整備されている。
元々設置されていたらしい、自動車の部品を作成する機械やコンベアは完全に停止してもう何十年も経っている様子だけれども、それ以外――
なぜか壁一面に取り付けられた大型の冷凍庫、あるいは冷蔵庫? のような装置は、低く音を立てながら今なお動いているようだ。
――明らかに怪しい。
ビンゴ、そうでなくては困る。
こっちはわざわざきちんと車中で張り込んだうえで(エビアボカドクリームのベーグルサンドの味はまずまずだった)、今ならいけそうだと思ってここへ来たのだ。
せいぜい、出世のための糧になってもらわなくては。
拳銃を構えたまま、ギャビンは堂々と中に入ろうとした。
だがその襟首を、後ろから誰かに掴まれて「ぐえっ」と声をあげる。
誰が掴んだか、などと考える必要もない。
ギャビンは怒りを顕わにしながら振り返り、背後に立つポンコツアンドロイドを睨めつけた。
「おい、クソ備品が何しやがる! 窒息させる気か、てめえ」
「申し訳ありません、その意図は皆無です。ただ、捜査開始直後の突入は推奨しません」
ぱちぱちと備品が瞬きする間に、白色と黒色で塗られた奴のドローンが5機ほど、一斉に戸口から工場内へ突っ込んでいった。
「私のドローンに先行させ、状況を把握した後の任務遂行を提案します」
「提案? もう勝手にやってんだろうが」
ケッ、と吐き捨てたギャビンは苦々しい表情でポンコツを再び睨みつけた。
しかしポンコツはといえば、自分の管理者の顔色よりも工場の中の様子のほうに興味津々らしい。
青から黄に色を変えたLEDリングが何度か点滅した後(つまりデータの送受信というのをやったのだろう)、備品はこちらにまっすぐに視線を向けてきた。
「……エントランス、および中央作業場には、人間の生体反応およびアンドロイドの反応は存在しません。稼働中の機器は、壁際に設置された大型業務用冷凍庫15台のみ。ただし当該冷凍庫の扉には、高度なパスロックが設定されています」
それから、と、ポンコツはもう一度LEDリングを点滅させてから続けて言う。
「正面から見て2時の方向、中央作業場と連結する形で、本来は当該工場の管理者のバックヤードスペースであったと予測される部屋が存在します。扉は南京錠でロックされている模様ですが、リード刑事の身体能力で物理的に突破可能です」
「それだけ言えば充分なんだよ、ポンコツ」
まったくこいつときたら、結論から喋るってことを知らないらしい。
ソーシャルモジュール(とやら)がないので喋るのが苦手、というようなことをいつだったかこいつが言っていたような気がするが、最新鋭アンドロイド様なら、つべこべ御託を並べずにとっとと学習したらどうなのだろうか。
ともかく備品を従えて、工場内に足を踏み入れる。
入ってみてわかったことだが、壁際の冷凍庫の間には、何やらプラスチック製の箱のようなものがいくつも転がっていた。両手で抱え持ってちょうどいい程度の大きさだ。
油断なく銃を構えたまま、ギャビンは足でそれを蹴り転がして観察してみた。
箱は、アンドロイドのパーツやブルーブラッドを運搬するためのものと少し似ているようだが――内側が一面、白く盛り上がっているのが違っている。
そう、この白い塊は恐らく保冷剤。
するとこの箱は、クーラーボックスのようなものだろうか?
だが、なんのためにこんなに大量に――?
内心で訝しんでいると、隣で箱を拾い上げて観察していたポンコツが、次に床に視線を向けて、そのまま声を発した。
「リード刑事」
「今度はなんだ」
「警戒願います。情報不足のためDNA鑑定は不可能ですが、工場内の箱の67%、および床の一部に人間の血液反応があります」
相変わらずの無表情で、しかしきっぱりと、備品はグロいことを口にした。
「血液反応だ?」
「私の視界と同期させました。確認を」
そう言って、ポンコツは手のひらをこちらの目の前に突き出した。
仕方ないので見てやると、奴の手のスクリーンには、言葉通りこいつの視界がそのまま映っているらしい。
今視線が向けられている箱には、拭き取られたようだが血液の痕跡がついており(【ヘモグロビン反応:12日4時間7分前】と横に表示されている)、またこいつが視線を動かした先、床のほうには、やはり点々と血の跡がついている。
ご丁寧なことに、その血の跡は例の扉――さっき備品が長々と説明した、あの南京錠のかかった部屋へと続いていた。
ついでにいうと、壁際に積まれている箱の(恐らくは言葉通り67%なのだろう)大半には、さっきの箱と同じく【ヘモグロビン反応】との表示が横に出ている。
要するにこの工場は――拭き取られ、あるいは蒸発しているために人間の肉眼ではわからないが、そこらじゅうが血まみれなのだ。
そしてあの扉の中に、ここの秘密が隠されているのは明らかというわけで――
こういう状況になった時、ギャビンの思考を支配するのは、当然恐怖ではなく功名心である。
一体、どんなヤバい事態が起こっているのか?
殺しか? ヤクか? その両方か。
あるいはようやく、新型レッドアイス関連の何かに迫れるのだろうか。
ニヤリと笑みを湛えると、ギャビンは傍らの備品の肩を(寛大な)労い代わりにバシンと叩いてやった。
「悪くねえ情報だな、ポンコツ。その調子で……」
役に立ってみせろよ、と続けようとしたところで、備品が首だけ向けてこちらを見たせいで、奴の手のひらのスクリーンに自分の姿が映ってぎょっとする。
姿どころか、顔認証システムとやらのせいだろうか、自分のデータが名前のみならず証明書の顔写真、生年月日、職業、現住所までズラズラと表示されている――
「おい、気色悪いモン見せてんじゃねえ! あっち向け」
「……申し訳ありません」
強引に下から相手の顎を押し上げると(重い)、ポンコツは単調な口調で謝り、手のひらのスクリーンを消した。
「私の分析および顔認証機能は自動的のため、任意でのシステム停止は不可能です」
「聞いてねえよ、クソが」
切り捨てるように言って、ギャビンはさっさと例の扉に向かった。
前に立ってみれば、確かに南京錠で施錠されているが、充分蹴り破れそうである。
窓などはないため、ここから中の様子を窺うのは無理そうだ。
静かに、そっと扉に耳を当ててみた。
――もしかしたらそれもポンコツにやらせたほうが「精度」が高いのかもしれないが、こいつばかり前に出させるというのは、それはそれで自分が無能になったような心地がして癪なのだ。
しかし――中から、人の話し声のようなものは聞こえてこない。
ただ、低い唸りのようなものは微かに響いていた。
空調設備の音なのか、あるいは人間か動物の声なのかははっきりしないが。
「……内部に負傷した人間がいる確率、72%。リード刑事、突入しますか?」
どういう仕掛けで判断しているのかは知らないが、横で扉に片手をついた備品がそう言って、こちらを見て小首を傾げている。
――問われるまでもない。
「フン!!」
もう一度気合い一発、ギャビンは扉を思い切り蹴り開けた!
南京錠はあえなく千切れ飛び、扉は軋んだ音を立ててゆっくりと開いていく。
そして、その中には――
「は? ……なんだこりゃ」
思わず、ぽつりとそう呟いてしまうような光景が広がっていた。
まず目立つのは、黒いビニールでコーティングされたベッド3台。
ベッドといっても毛布やシーツの類はなく、譬えるならマッサージ店にあるような、ただ横たわるためだけのものだ。
それぞれの脇にはスチール製の小さなデスクがあり、その上には一見すれば誰でもわかるような、あからさまな手術道具が――つまりメスだの鉗子だのが、びかびかギラギラと輝いている。
さらにその奥には、工場には場違いなことに、鉄格子が嵌まったスペースがあった。
要は、今どき留置場にもないくらいに堂々とした、いわゆる「牢屋」だ。
歩み寄ってよくよく見てみれば、そこには何人もの男たち――身なりからして、恐らく通報にあった浮浪者の連中だ――が、ぎゅうぎゅうに押し込められている。
座り込んだり、立ち尽くしていたり、あるいはうつ伏せになっていたり、様々だ。
何人かは、腹に包帯を巻いていた。それが痛むのか知らないが、低く唸っている者もいる。
恐らくさっき扉を介して聞こえてきた音は、こいつらの声なのだろう。
「……ケッ」
誰に憚ることもなく、ギャビンは鼻を摘まんで男たちを観察した。
こんな状況なら、大抵の人間は泣き叫ぶとか、出してくれと騒ぐとか、ともかくじっとしてはいないはずである。
だがここにいるこの連中ときたら、虚ろな目でぼんやりと宙を眺めているか、あるいはひたすら床を見据えている。
その口の端からはヨダレが垂れており、「私はマトモじゃないです」という看板を首から下げているのと同じだった。
目は充血していない。ということは、レッドアイス中毒ではないようだが――
「モルヒネによる中枢鎮痛状態。言語による尋問は不可能と判断します」
傍らでじっと男たちを分析していたらしいポンコツが、淡々と続ける。
「また、彼らのうち何名かの臓器に甚大な損傷が見られます。傷病ではなく、人為的な切除によるものと断定。中央作業場の血痕との因果関係が認められます。それから」
「まだなんかあるのかよ」
備品はこちらを向いた。
「牢は電子回路で施錠されていますが、ハッキングすれば開錠可能です。あるいは、応援部隊に彼らの救助を要請することも可能です。判断を希望します、リード刑事」
「聞かれるまでもねえよ、ポンコツが。見てわかんねえのか」
こちらの言葉にまた首を傾げている備品に対し、ギャビンは構えていた拳銃の銃口を使って、床の一点を指し示してみせた。
床の一部に、不自然な細長い凹みがある。また、その凹みを囲う正方形の溝が。
――要は、地下に続く扉だ。
腹に包帯を巻いた浮浪者の一人が、さっきからやたらと床ばかり見つめていると思い、その視線の先を辿ったらこれだ。
こんなものもわからないなんて、最新鋭アンドロイドとやらも大したことはない。
内心で嗤いつつ、ギャビンは続きを述べた。
「こいつらの救助は後回しだ、どうせすぐに死にゃあしないだろうしな。なら、先にこっちだ」
「我々のみで地下への突入を? 受傷事故の発生確率が62%です、推奨できません」
「ハッ!」
大仰に肩を竦めて、ギャビンは盛大に鼻で笑い飛ばした。
ここまで随分と捜査の“運”というのにコケにされてきたのだ。
今さら身の危険程度で怯んでいられるか。
ここで市警に応援を呼べば、なるほど確かに暇な連中が大挙してやって来て、ここを安全に制圧してくれるだろう。
地下に誰がいたところで、物量に勝てるはずもない。
だがそうなれば、手柄は当然その人数分で折半だ。
冗談じゃない。ここを最初に見つけたのは、このギャビン・リードなのだから。
ポンコツ備品のありがたいアドバイスは無視して、ギャビンは地下に続く扉に近づいた。
とはいえ、真正面から開けるような間抜けな真似はしない。
横側に回り込んで、手だけ凹みに伸ばし、指先を引っかけるようにしてそれを引き開ける。
すると――
乾いた音と同時に、地下から天井に向かって、銃弾が飛んできた。
***
――2039年6月5日 13:05
強制給餌のない長期飼育を行う契約農場から仕入れたフォアグラを用いた、「牛フィレ肉のロッシーニ風」。
季節のトマトとグリーンピースをふんだんに使った初夏の薫りを感じる「グリーンサラダ」。
鶏肉と香味野菜をじっくり煮込んだ琥珀色の「コンソメスープ」――
なるほど、今日の献立はやはり魅力的だ。
それだけに――
未だに待機を強いられているこの35分間は、実際以上に長く感じられる。
教室の備え付けタブレット端末に表示されている資料を確認してから、コナーは静かに壁の時計を見上げた。
もちろん時計を見ずとも時刻はわかるが、目を向けたかったのはざわめく教室の様子である。
サマンサたちによれば、今日の講師のAX400(女性型でイザベラという名だそうだ)は朗らかながら真面目な性格で、これまでにこんなに遅れてきたことは一度もないそうだ。
サポートスタッフたちが慌てた様子で、あちこちに連絡を取ろうとしている点からもそれは明らかである。
しかし、イザベラ本人とはどうやっても連絡がつかないらしい。
「今日の料理、楽しみにしてたのに……先生、どうしたのかしらねえ」
「さてね。近頃も物騒だしね」
それまで賑やかに話をしていたサマンサとベティも、不安げな表情で黙りこくってしまう。
するとウィルソン巡査が、こちらに向かって口を開いた。
「なあコナー、もしかして
「そうですね」
短く頷き、コナーは市警との回線を開いた。
今日は休日だと思い、あえて通報に関する情報を自動で取得しないようにしていたのだが、こうなってはそうも言っていられない。
さてデータベースを検索すれば、今日も今日とて大量の通報が朝から寄せられているが――その中に、アンドロイドが事件や事故に遭遇したというような情報は、今のところない。
ということは、イザベラは無事なのか。
いや、まだ通報されていないだけという場合もある。
顎に手を置き、プログラムを走らせながら、コナーはしばし黙考し――
だがその瞬間、新規の通報に関する情報が追加された。
内容を認識すると同時に、コナーは席を立つ。
「これは……!」
「どうした、コナー?」
「この建物の裏口です。イザベラが負傷した状態で現れたそうです」
言うが早いか、コナーは裏口に向かった。
教室前方のスクリーン脇にある扉を開け、講師の控室を突っ切ったところに通りに面した裏口があり、そこにはスタッフたちの人だかりができている。
駆け寄って見てみれば、その中央で蹲っているのは【AX400】――【登録名:イザベラ】。講師のイザベラだ!
短い黒髪とアンドロイドの制服を自身のものらしきブルーブラッドで濡らしている彼女は、LEDを赤く光らせ、ひどく消耗した様子だった。
すぐさまスキャンを実行すると、彼女は後頭部に【致命的ではないレベル2の損傷】を負っている。凶器は断定できないが、恐らくは金属バットか鉄パイプのような棒状の物体だ。怪我の状態から見て、【背後から殴られた】可能性が高い。
彼女のブルーブラッドの残量と損傷具合から判断して、シャットダウンの危険性はないが――治療が必要であるし、ならば、話が聞けるうちに聞いておいたほうがいい。
おろおろしつつも、とにかく警察への連絡を終えたという様子のスタッフの間を通り抜け、コナーはしゃがみ込んでイザベラに声をかける。
「大丈夫か? すまないが、何があったのか教えてくれ」
「っ、ブリックタウン駅から、ここに来るために、歩いていたら……」
イザベラは、恐怖に声を震わせて語る。
「突然、知らない人間の、男に呼び止められて……に、荷物を寄越せ、って。心当たりがないって言ったら……後ろから、いきなり……」
それで後頭部の損傷を負ったらしい。
「殴られて、それで私……今日使う材料を、運んでいたのに……男に、う、奪い取られて、しまって」
「材料?」
「クーラーボックスに入れた、フォアグラのパック……それに、トリュフとかも、ボックスごと……」
近道しようと、路地裏なんて通らなければ――と。
語るうちに悔しさが募ってきたのだろう、彼女の頬を涙が伝う。
クーラーボックスを奪われたイザベラは、持ち前の責任感から男を追おうとした。
しかし男は追いすがる彼女を蹴って退けると、停めてあった大型トラックに飛び乗る。
そのまま、トラックは走り去っていき――
彼女のほうは殴られたせいで通信機能に障害が発生し、通報もままならなかったが、それでもなんとかここに来ようと足を動かした。
そして、今に至る。
というのが、イザベラの証言だった。
「……!」
話を聞き終えたコナーの胸中に膨らむのは、「怒り」の感情だった。
なんの罪もないアンドロイドに強盗を働くだなんて――イザベラの負った損傷、そしてそれ以上の恐怖と精神的苦痛を思うと、とても平静ではいられない。
しかも、それだけではない。
どういう意図があってか知らないが、この教室の材料を奪うとは。
サマンサたち、そしてコナー自身も、とても楽しみにしていたのに。
今日の成果を、ぜひ警部補に振る舞おうと思っていたのに――!
勢いよく立ち上がると、ちょうど後ろにウィルソン巡査が来たところだった。
状況が呑み込めずに戸惑った表情の彼に、語気鋭くコナーは言う。
「巡査、どうかイザベラの応急手当と、市警への説明を頼みます。私はこれから、犯人を追います」
「お、追うだって!?」
ウィルソン巡査は目を白黒させている。
「コナー、お前、今からか?」
「ええ、今すぐです。遅れれば遅れるだけ、犯人の足取りを追うのは難しくなる」
イザベラの証言で得た情報から、事件現場はおおよそ割り出せた。
ブリックタウン駅からこの建物までの間で、「近道のために通るような路地裏」はほぼ限定される。その場所近くの監視カメラの映像を分析し、犯人が乗ったというトラックを特定できれば――
「頼みました、巡査!」
「あっ、おいコナー!」
一言言い残し、コナーは制止も聞かずに裏口から外に駆けだした。
全力で走れば、事件現場と思しき場所まではすぐに辿り着けるはずだ。
普段は遵守するようにしている交通法規――例えば赤信号で渡らないといったような――を【緊急事態につき】今はいくつか破った結果、6分ほどで、コナーは路地裏に到達した。
高層ビルの狭間で作られたような、昼なお薄暗いこの場所には、残念ながらカメラが設置されていないらしい。
だが地面に青い小さな血だまりを発見し、伸ばした指で掬い取って舌先で舐めれば、表示されるのは【ブルーブラッド AX400型 #287 965 331――登録名:イザベラ】という分析結果。
間違いない、ここが事件現場だ。
そしてこの路地裏を出た場所は、すぐに大通りに接続している。
当然そうした通りには監視カメラが目を光らせているので、後はその映像を分析できれば、トラックの特徴やナンバー、走り去った方向も特定できる。
しかし――
付近の監視カメラを検索したコナーは、小さく歯噛みした。
カメラ設置箇所は、合計で13もある。しかも、それらの映像のどこに有効な情報が含まれているのかは事前に予測できない。一つずつスキャンしているのでは、貴重な時間が刻一刻と失われてしまう――!
――仕方がない。
コナーは有能な弟の助力を得るため、彼との通信を試みた。
ナイナーの映像分析機能ならば、13箇所のカメラくらい瞬時にスキャンできる。
恐らく(あの)ギャビンと任務遂行中である彼の手を煩わせるのは本当に申し訳ないが、状況が状況だ。
後でしっかり謝ったら、許してくれるだろうか――
そう考えているうちに、通信が接続された。
今朝と変わらぬ、低く無機質ながらどこかに温かみのある弟の声が、通信デバイスを介して聞こえてくる。
『……はい。どうしましたか、兄さん』
「ナイナー、忙しい時にすまない。今大丈夫かな」
『……』
弟は、なぜか2秒ほど沈黙した。
しかしすぐに、彼は返答する。
『はい、問題ありません。用件をどうぞ』
「そうか、よかった。実は映像分析を頼みたいんだ」
コナーは手短に、大型トラックを追っていることと、座標で現在地とカメラの位置を伝えた。
「できるかい? 実は、事件に遭遇して……どうしても、今すぐ情報が欲しいんだ」
『了解しました。11秒の待機を願います』
間を置かずに了承してくれると、ナイナーはそのまま静かになった。
――しかしスキャニングを行う弟の次の言葉を待つ間、彼の音声プロセッサを通じて、微かに銃声のような音が聞こえてくるのが気になる。
とはいえ、ナイナーは問題ないと言っていたし……ということは、ギャビンが癇癪でも起こして暴れているのだろうか? まったく本当に、どうして彼がコリンズ刑事のような立派な人物と同じ「刑事」の地位に昇れたのか、未だに理解できない。
コナーのプログラムにそんな思考が過ぎりはじめた頃、弟の声が再び聞こえてきた。
『お待たせしました。捜索中のものと判断可能な大型トラックを特定しました。今、映像と座標位置を送信します』
――送られてきた情報が、コナーのメモリーに速やかに組み込まれていく。
「受信したよ。本当にありがとう、さすがナイナーだ」
『いえ……当然の行為です。健闘を祈ります、兄さん』
「ああ、君も気をつけて」
感謝を述べて通信を切断すると、即座に情報の精査を行う。
映像は、ここから北部へ向かうメリル通りの交差点付近のカメラのものだ。
【12:09】に撮影されている。
この路地裏から飛び出てきた男――残念ながらその顔はちょうど陰になっていてスキャンできないが、その男はクーラーボックスを小脇に抱え、すぐさま路肩に駐車されていた大型トラックに飛び乗っている。イザベラの証言と一致する映像内容だ。
そのトラックは大手運送会社のものと酷似していたが、映像に残っていたナンバープレートを検索したところ、その番号の車はどこにも登録されていなかった。
つまりトラックと、そのナンバープレートは偽装されたもののようだ。
食材泥棒にしては大掛かりである。あるいは、大手の強盗団などだろうか?
ともあれ、メリル通りから北部へとトラックが移動していることと、トラックの移動スピード、付近の交通状況から勘案すると、現在地の予測はおおよそ立てられる。
――急がねば。
遠くに行かれてしまう前に、食材を奪還しなくては!
コナーは通りに出て、走っていた自動運転タクシーを捕まえると、予測した場所へ移動を開始した。
コナーの選んだTシャツが見てみたい方は、「セントバーナード Tシャツ」で検索してみてください。
たぶん、どれかすぐにわかると思います(笑)
次話は29日朝6時に更新される予定です。
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第17話:奪還 後編/Machina’s Kitchens Part 2
***
――2039年6月5日 13:15
「おい、何ぼさっとしてやがるこのクソポンコツ!」
何やら後ろに下がって誰かと通信していた様子の備品に向かって、ギャビンは声を荒らげた。身を隠している曲がり角の壁の、ちょうど角の部分を「敵」の放った弾が掠め、不愉快な高い音を立てる。
――地下室からの発砲を受けた後。
ギャビンは、負けじと地上から真下へ果敢に攻撃を加えた。
その時聞こえたどよめきは、複数人のものだった。ということは、地下には何人かの人間がいるということだ。
ともあれ、こちらの発砲の勢いがあまりにも激しかったためか、あるいは地下にいる連中がこちらの戦力を過大評価したのか、謎の敵どもは一旦後方へと下がっていったらしい。
静かになったのを機に、ギャビンはさらに果敢に地下に突入した。
謎の敵対勢力が銃器を所持している以上、ここは応援部隊を呼ぶべきだし、場合によってはSWATの出動を依頼する必要もあるかもしれない――という備品の具申を完全に無視して、彼はハンドガン一丁で地下を進む。
そして、廊下の曲がり角にきたところで――
曲がった先、10メートルほど離れた位置に立て籠もっている敵どもと鉢合わせになった結果が、現在の状況である。
「クソが……」
ギャビンは小さく吐き捨てた。
戦況は膠着状態だ。少しでも顔を出そうとすれば向こうはめったやたらに撃ってくる。
自分の腕ならば、狙う時間さえあれば戦力を削れるかもしれないが、こっちとしては相手を殺したいわけではない。
もちろん相手の命を心配しているのではなく、死人には尋問できないから悩んでいるのである。
そして隣に戻ってきたポンコツ備品はといえば、なんとデカブツのくせに銃も持っていないのだ。
法律で禁止されているから、などと言っていたが、銃を持っていない警官なんてなんの役に立つというのか?
「おい!」
苛立ち紛れに荒々しく、ギャビンは備品に声をかけた。
「てめえ、高性能なんだからなんとかしてみろよ。いつものお賢いドローンとやらで、どうにかできないのか?」
「……」
アンドロイドは例によって、視線だけをこちらに向けた。
「申し訳ありませんが、人命保護を優先し先ほど応援を要請しました。あと7分34秒で警官隊が到来します」
なんだと――と反論しようとするものの、備品は構わずに「それから」と続けた。
「もし私に鎮圧を一任してくださるなら、ご希望に添えると判断します」
「はぁ?」
ギャビンは表情を歪めた。
灰色の瞳を瞬かせて語るその姿は、いつものように無表情で不気味だが、どことなく自信のようなものも醸し出している。
「なんとかできるっつうのか、てめえが?」
「彼我の戦力を診断しました。私の機体の耐久性と運動性能ならば、損傷なしでの確保完遂の可能性は94%です」
「……ほお」
本当に、いつになく自信満々だ。
というよりも、こいつの戦闘能力みたいなものを見るのはしばらく前の、あの命を狙われた最悪の夜以来か。
このポンコツがもし万が一ぶっ壊れて、サイバーライフ社から文句をつけられるようなことがあれば、出世はそれまでだと思え――と、クソッたれの署長から釘を刺されている。
しかし最新鋭のくせに存外慎重派(褒めていない)のこいつがここまできっぱりと断言しているということは――
任せてみるのもアリだろうか。
どうせ7分経ったら警官隊が来てしまうのだ。
ギャビンはそう結論付けて、顎でくいっ、と曲がり角の向こうを指した。
「おら、やってみろよ。失敗したらてめえの責任だからな」
「了解しました。それでは」
ポンコツがこくりと頷く間に、背後からやって来たのはこいつのドローン2機だ。
忠実な部下のように静かにやってきたそいつらが、中空でホバリングしているのを確認すると同時に――
「23秒、待機願います」
短く言い残し、備品はゆっくりと廊下に出た。その後ろに、2機が追随している。
あまりにも堂々と出て来たので、敵方も一瞬動揺したようだが――
「なんだ、サツのアンドロイドか。構えろ!」
リーダーらしき男の声に合わせて、銃を構える音がする。
だがポンコツは怯むでもなく、LEDを短く点滅させると、ドローン2機を自分の前方に向かわせた。
そしてどんな仕組みになっているのか、2機の羽の部分のみが、大きく斜めに傾いていく。三角形を3つ組み合わせたようなその羽が、まるで特殊部隊の使う盾のように、アンドロイドの姿を半分覆いながら飛んでいるのだ。
あたかも、防御を固めているかのように。
そして――
「撃て!!」
男の声と共に、相手が銃を乱射する。
あまりの勢いに、ついこちらも顔が引き攣るほどだ。
だがポンコツとドローンは、それをものともせずにまっすぐ突撃していく。
ドローンの「盾」は相当強固らしく、飛んできた弾は片っ端から弾き飛ばされている。破壊どころか、動きを遅くすることすらできていない。
デカブツ備品のほうもそうだ。盾で防御しきれていない足や腕などに何発か弾が当たっているはずなのに、奴はブルーブラッドの一滴も零しはしていない。
つまり、服に穴が空いても機体が傷ついていないということだ。
――どういうことだ?
たいていのプラスチックどもは、銃弾が当たれば穴が空くはずなのだが。
ギャビンがもはや傍観者のような気分にすらなっている間に、あっという間に、ポンコツとドローンは立て籠もる敵方の目の前まで到達していた。
はっと息を吞んだ様子の前方の男の拳銃をもぎ取り、投げ捨てると(それがぶつかった別の男は鼻血を流して昏倒した)、アンドロイドの手刀が男の首筋に叩きこまれる。
次いで殴りかかってきた大柄の男の拳をいなし、プラスチックの拳が逆に相手の腹部に叩きこまれた。
背後から撃とうとした小男の身体は、伸び上がるような回し蹴りで吹き飛ばされる。
そして――
そして、最後まで残っていたリーダー格らしき男は、部下が全滅させられるのを震えて眺めていた。
アンドロイドはというと、息も切らさずに――当たり前だ、連中に呼吸は必要ないのだから――ゆっくりとリーダー格のところに歩いていくと、あまりの事態に身動きもできない様子の男を静かに下瞰し、おもむろに言う。
「デトロイト市警です。投降してください」
「ヒッ……!」
「聞こえませんでしたか?」
その巨体を静かに屈めて、男の眼前で、もう一度奴は言った。
「投降、して、ください」
「…………っ!」
その一言が――どうやら、決定打だったらしい。
男は白目を剥くと、泡を吐いてその場に倒れた。
ポンコツは、ほんの少し眉を顰めて立ち上がる。
「……心因性の気絶……?」
「そりゃてめえが脅したからだろ」
ギャビンは静かに歩み寄り、横からポンコツを小突いた。
「リード刑事。お怪我もなく何より、です」
「うるせえよ。とんでもないな、お前……」
死屍累々(誰も死んでいないが、雰囲気としては)の状況を改めて確認し、思わず苦笑を浮かべた。
まさかこのポンコツが、これほど強いとは。
サイバーライフがこいつに銃を持たせない理由も、こうなっては納得できてしまうかもしれない。
とはいえ、怯んでいるのも癪である。
ギャビンはさも平気だと示すように咳払いすると、備品に命じた。
「そいつらはそこに転がしとけ。俺たちはこっちだ」
親指で示す先、それはこの男たちが守ろうとしていたのだろう場所――
素人目にも明らかなほどに潤沢に武器弾薬が蓄えられた、武器庫のような部屋だった。
***
――2039年6月5日 13:28
「見つけた、あれだ!」
自動運転タクシーの車中で、コナーは誰にともなく叫んだ。
視線の先には、寂れた駐車場――そしてそこに停車中のトラックを捉えている。
ナンバープレートも確認した。間違いない、イザベラを襲った男が乗って行ったトラックだ!
どうやら想定よりも、トラックは遠くに行ってはいなかったようだ。
停車しているのなら、ちょうどいい。
犯人の男を確保するか、最低でも、車中にあるだろうクーラーボックスを奪取できれば――
と、考えるのも束の間。
惜しいことに、トラックは目の前で発車していってしまった。
相手に法定速度を守る気はないようで、こちらのタクシーとの距離は、ぐんぐん広がっていく。
なのにこのタクシーときたら、未だに最初に設定した目的地への道を、とろとろと進もうとしているのである。
客席である後部座席に座っているコナーは、運転AIに急いで声を掛けた。
「目的地変更だ、前のトラックを追ってくれ!」
しかしAIは短いビープ音を発した後、丁寧な女性の声で返答してくる。
『申し訳ありませんが、その場所は目的地に設定できません』
「前の車だ。テックエクスプレスのトラック、ナンバーは……」
『申し訳ありませんが、その場所は目的地に設定できません』
「……!」
――駄目だ、話にならない!
このままでは、犯人をみすみす取り逃がしてしまう。目の前にいるのに!
こうなっては、仕方がない。
この場にハンクがいたら十中八九止めてくるだろうが、強硬手段だ。
コナーは強引に前方座席に身を乗り込ませると(運転AIが途端に警告を発しはじめる)、タクシーのメーター表示の近くに設置された通信デバイスに、スキンを解除した自分の手で触れた。
デバイス経由で、制御用のシステムを乗っ取る。
要するにハッキングである。
『警告、お客様の前方座席への侵入は禁止されています。警告、お……』
数秒の後、AIは完全に沈黙した。
「悪いけど、しばらく黙っててくれ」
運転席に座り、念のためにシートベルトを締める。
ハンドルは要らない、デバイスに手で触れていれば運転できるからだ。
まっすぐに目標のトラックを見据え、車を一気に加速させる。
絶対に逃がさない。奪ったものは必ず返してもらう。
強い決意と共に、コナーはトラックの追跡を開始した。
***
――2039年6月5日 13:39
「へえ、こりゃご大層なもんじゃねえか!」
武器庫の様子をぐるりと眺め、ギャビンはニヤニヤと言葉を発した。
そこに並んでいるのはこのミシガン州ですら購入に届け出が必要な高性能ライフル銃だの、軍用の手榴弾だの――あるいは、本物か知らないがロケットランチャーのようなものまで置いてある。
明らかに違法、そしてチンケなギャングどもが持つには大げさすぎる、ご立派な装備の数々である。
さらにその奥の作業台には(ギャビンは詳しくないが)3Dプリンターのような装置と、機械製の鎧? のようなものが置かれている。
あの革命の時に、そこらじゅうをうろついていた軍隊の連中が身につけていたアーマーやなんかと少し似ているような気もするが、それに比べるとより「ゴツい」。大きさも、金属的な質感もそうだし、何より電子機器と接続するようなコードが血管のようにびっしりと張り巡らされているのが気持ち悪い。
一体、何を用意していたというのか?
それに気になるのは――さっきポンコツにのされたあいつらが、ここにある武器を使っていた様子がなかったことだ。
あの連中が使っていた武器は、そこらのチンピラでも持っていそうな拳銃で、とてもここにこんなすさまじい量の武器を備えているとは思えないようなものばかりだった。
つまり、あいつらにはここの武器を使う
「……なら、ここで何をしてやがった?」
独り言のようにギャビンが呟くと、応えたのはポンコツ備品だった。
今まで部屋の片隅に置かれていた端末を弄っていたポンコツは(データを吸い出していたようだ)、口を開くなり淡々と語りだす。
「記録から判断すると、ここは武器貯蔵庫、兼、実験場だったと推測できます」
「実験だあ?」
「非正規の武器、装備品の実験です。先ほどリード刑事が調査していたアーマー類も、その一種です。恐らくは……」
と、ポンコツは身体ごとくるりとこちらを向いて続ける。
「作成した特殊装甲と人間とを適合させるため、実験が実行されたものと推測可能です。また、資金源として臓器売買を行っていた記録を発見しました。上階の牢屋内の人々は、そのためにここに連行されたのでしょう」
――なるほど。これで筋が通った。
つまりこの廃工場では、地下で秘密裡に違法武器の実験をやっていた。その資金源として、連れてきたホームレスや食い詰め者たちをモルヒネで眠らせ、肝臓だのなんだのを手術で奪い取っていたのだ。
さっき上階に手術道具と妙なベッドがあったのも、あの浮浪者たちの臓器について、備品が「人為的に切除」されていると言っていたのも、臓器売買だとすれば話が繋がる。
そしてあの大量の、血まみれの謎の箱や冷凍庫は――気持ち悪いが、臓器を入れて運んだり、保存するためのものだったのだ。
そしてここの下っ端どもとしては、なんとしてもこの武器庫にサツを踏み入らせるわけにはいかなかった。だからあそこまで、門番として必死に戦っていたのだろう。
「ハッ、結局レッドアイスは関係ねえのかよ!」
と肩を竦めるものの、その声音は我知らず少し上ずっている。
確かに新型レッドアイスは関係なかった――が、これだけ大規模な武器庫を押さえたのだ。こいつらのボスが何者かは知らないが、さぞかしお困りあそばすことだろう。
そして、こちらの手柄になるというわけだ。
そうして、ギャビンとポンコツ備品が武器庫に入って数分後――
無事に上階に、警官隊が救急車を引き連れて到着した。
彼らは速やかに工場内を制圧し、囚われていた浮浪者たち、およびポンコツにのされた下っ端ギャングどもを回収し――
武器庫内の現場検証を行い――
つまり後は、いつもの犯罪現場と同じルーティンワークである。
外に出て、ギャビンはあくびをしながら大きく背伸びした。
まったく、とんだ捕り物だ。だがまあ、悪い結果ではない。
「リード刑事」
そんな気分に水を差すがごとく、傍らに近寄ってきたポンコツがボソボソと声を掛けてくる。
「なんだよ。またくだらねえご注進か?」
「報告があります。先ほどの地下倉庫の端末に、レーヴァングランドと同じ形式の暗号通信記録が保存されていました」
――なんだと。
「じゃあ、あいつらは……」
「吸血鬼の組織と繋がりがあるかは、断定不可能です。ただ、レーヴァングランドの暗号は本日22時頃には解読完了の見込みです」
静かに瞬きながら、ポンコツはあくまでも淡々と言った。
「したがって本日22時には、当施設で発見された通信記録も解読可能となります。同一の解読方式を使用しているはずですから」
「そりゃいい。間抜けどものお蔭さまで、旨い汁が吸えるってもんだぜ」
俄然やる気が湧いてきた。
これはこれまで不運だったぶん、幸運が舞い込んできたといってもおかしくないのでは?
もしここの暗号に、吸血鬼の親玉に関する情報でも含まれていたなら、オイシイなんていうもんではない。
ギャビンはニヤニヤと、悪い笑みを隠さずに浮かべていた。
備品はその隣で、そんな“パートナー”の様子をじっと観察し――
ふいに、その視線を向こうに見える道路に移した。
「あ……?」
また、何か妙なモンでも見つけたのか。
何気なく同じ方向に目を向ければ、一台のトラックが走っているだけである。
テックエクスプレス――でかい運送会社の車だ。
別に、見た目は何もおかしくない。
だが――そのスピードだけは妙だった。
まるで何かに追われているかのように、恐らくは法定速度ぶっちぎりで、トラックは全速力で走っている。
しかも、動きも変だ。
最初、この廃工場の正面にある駐車場へとまっすぐ走ってきたトラックは――そこに停まっている無数のパトカーや救急車を認めたのか、突然Uターンして走り去っていく。
まるで、廃工場に入るのを取りやめたかのように。
警察に見られたくないナニカを積んでいるかのように――
――こりゃいい。
思うが早いか、ギャビンは停めてあった自分の車に乗り込んだ。
何も言わなくても、備品もさっさと助手席に座り込んでいる。
狭くなるから隣に座らせるのは嫌いなのだが、それはまあ寛大に許してやるとしよう。
こいつがいて役に立つことも、あるにはあるからである。
「前方のトラックを追うのですね」
「わかってんなら黙ってろ!」
乱暴に言い放ち、ギャビンは初っ端から思いっきり車を加速させる。
この車には自動運転AIも搭載されているが、こういう時AIはまるで役立たないので今回は手動運転だ。
鳴り響く周りからのクラクションをものともせず、前の車をガンガン抜き去って、ただひたすらにトラックに追いすがる。
「リード刑事。法定速度を30キロ超過しています」
「黙ってろっつったろ、ポンコツ!」
ハンドル捌きには自信がある、横で機械がブツブツ邪魔をしなければ。
ギャビンの車は、猛スピードのままトラックにかなり接近した。
あと少しで喉元に食らいつける、という距離にまで来たところで――
唐突に目の前に躍り出て来た、一台のタクシーに邪魔される。
自動運転タクシーだ。その割には、妙にスピードを出しているが。
「おい、たく、邪魔だクソが!」
クラクションをこっちが鳴らしてやるが、相手は意に介した様子もない。
しかし瞬間、助手席の備品がはたと何かに気づいたような身動きをした。
「……あのトラックのナンバー」
ぽつりと呟いたアンドロイドは、こめかみのLEDリングを光らせた後、こう言った。
「……兄さん?」
***
「ナイナー? ひょっとして、後ろの車は……!」
タクシーをトラックに追走させながら、コナーがバックミラーを確認すると、背後の車の運転席に見知った(それほど好ましくない)顔がちらりと見える。
そうだ、あれはギャビン・リードの自家用車だ。
ということは、ナイナーもこのトラックを追っているというわけで――
「どうして君たちまでここに? やはりこのトラックを?」
『はい、兄さん』
タクシーが走る音に負けずに、通信を介して弟の声が聞こえる。
『前方のトラックは、違法な臓器および武器売買に加担している可能性があります。私とリード刑事で追跡中です』
そうか――臓器売買。
……臓器売買だって? 確かにフォアグラはアヒルの肝臓だけれど、もしかしてナイナーはそれを言っているのだろうか?
それはともかく、これでコナーの中でも話が繋がった。
さっきトラックが、廃工場に入ろうとしてUターンするというおかしな動きを見せたのは、きっと自分の目的地が既に警察によって制圧された後だと悟ったからなのだろう。
つまりこいつは、今目的地を失って爆走している状態だ。
うまく誘い込むことができれば、トラックごと捕らえることができるかもしれない。
コナーは、ナイナーに通信で呼びかける。
「ナイナー。悪いけど、リード刑事と話がしたいんだ」
『わかりました』
ぶつっ、と小さく音がして(スピーカーをONにしたのだろう)、次に聞こえてきたのはギャビン・リードの声であった。
『よう、アンドロイド刑事。飼い主なしで暴走中かよ、お前保証期間内なんだろうな?』
「軽口は結構です、リード刑事」
ぴしゃりとコナーは言った。
「それより、重要な話があります。これからあのトラックを、建設中のハイウェイに誘い込みます」
『は?』
「現在この地区では、新たに高速道路を建設中なんです。今日はちょうど工事は休みのようですし、行き止まりで確保するには条件が揃っている」
要するに作戦はこうだ。
このタクシーとギャビンの車、2台でこのままトラックを追走しつづけ、ハイウェイに入り込むように誘導する。
そしてハイウェイのデッドエンド――行き止まりのところにまで来たら、トラックはブレーキを踏まざるを得ない。
踏みそこなって相手が落下する危険は避けねばならないが、それはともかく、作戦が成功すればトラックも運転手も、揃って逮捕可能だ。
一応それを説明したうえで、さらにコナーは言葉を重ねた。
「この作戦には、緻密な運転技術が必要です。念のため、運転をナイナーに交替してください」
『なんだと? ふざけんなよクソが』
途端にギャビンは逆上した。
――本当にやりづらい相手だ。
『プラスチックにできて、人間にできないことがあるかよ。これは俺の車だ、てめえらなんぞに触らせるか』
『リード刑事。私が運転した場合、作戦成功率が14%上昇します。再考を希望します』
「リード刑事、この場合の“プラスチック”は差別用語です。勤務中の警官の言葉としてはいただけませんね」
『お前ら一度に喋んのをやめろ!!』
同じ声が鼓膜に響いて吐き気がする、という旨のことをリード刑事は喚いているが、その間にトラックはこちらの狙い通り、『建設中』と表示された電子看板を跳ね飛ばしてハイウェイに突入している。
狙うデッドエンドまで、あと距離は3キロといったところか。
GPSで自分たちの位置を確認したコナーは、このタクシーに出せる限界に近い値にまでスピードをあげる。
すさまじい勢いで車が風を切っているのが振動で伝わってくるが、ここは一気に行くしかない。
「リード刑事、私が先行します」
短くコナーは告げた。
「トラックの前に出て注意を惹きます。その間に、後ろからさらに追い立ててください」
『はっ、誰がてめえの……』
作戦になんか乗るかと言おうとしているのだろうが、聞くより先にコナーは前に出た。
ここからはトラックの運転席は見えないが、運転手はさぞ驚いていることだろう。
さらに前方に目をやれば、そこには建設用の重機が停まっている。そしてその重機の先は文字通りの建設中で、何もない。
つまり、重機ごと落下すれば命はない。――なんとしても、重機の手前でトラックを止めなければ。
コナーは、あえてタクシーを徐々に減速させた。
普通ならトラックに跳ね飛ばされて終わりだろうが、運転手も重機の先に道がないのに、いい加減気づく頃である。
死にたくなければ、スピードを落とすしかない。
果たして、トラックもまた減速しはじめていた。
こちらの狙い通りだ。
ただ、恐ろしいほどのスピードからブレーキをかけているわけなので、タイヤがアスファルトと擦れてけたたましい音を立てている。
それを聞くコナーのプログラム上に去来するのは、恐怖でも使命感でもなく、どちらかというと安堵だった。
ああ、本当に、ここにハンクがいなくてよかった。
彼が同乗している車だったら、絶対にこんな無茶な運転だけはしない。
残酷な交通事故で最愛の息子を喪った彼に、こんな音を聞かせることにならなくてよかった――
――そして。
ぐるりと半円を描くように、コナーは重機の手前で横向きにタクシーを停めた。
次いでデバイスとの接続を解除すると(『ご利用ありがとうございました』とAIが律儀に声を発している)、素早く車の外に飛び出る。
そのまま道路で観察すれば、迫りくるトラックがスピードを落としたまま、デッドエンドに近づいていき――
タクシーに接触してさらに速度が落ち――
しかし止まらず、タクシーは重機とトラックに挟まれてひしゃげていく。
だが、それがついに決定打となったようだ。
トラックは、完全に停止した。
「ちっ……! たく、滅茶苦茶やりやがるぜこのクソロボットが!」
聞こえてきたのは、ギャビンの叫び声だ。
トラックの後方に自分の車を停めた彼は、拳銃を抜いてトラックの運転席をいきなり開けている。
すっかり怯え切った様子の男――イザベラを襲った男だ――は、ぶるぶる震えながら道路に下りてきた。
「デトロイト市警だ、大人しくしろオラッ!」
「けっ、け、警察!?」
銃と身分証を同時に突きつけられ、男は両手を頭につけてその場にしゃがみ込み、降参の姿勢を取っている。
「警察がこんな無茶やるのかよ……オ、オレはただ頼まれた荷物を運んだだけだ。指定の場所で、アンドロイドが運んできた荷物を……」
もごもごとした抗弁は、しかし、ギャビンに手錠を嵌められて中断している。
だが――運んできた荷物?
どうやら、男は勘違いしている。イザベラが持っていたクーラーボックスを、取引先のアンドロイドが運んできたものだと思ったのだろう。
そしててっきりイザベラが「命令に従わないアンドロイド」なのだと思い込んで、彼女を殴り、荷物を奪った――
まともな人間ならそのような思考回路には至らないだろうが、男には【薬物中毒】および【軽度の酩酊状態】が認められる。
非論理的な思考から短絡的手段に打って出たとしても、おかしくはない。
そう考えていると、今度はトラックの荷台を見上げているナイナーから声が掛けられる。
「兄さん。援護を願います」
駆け寄ってみると、彼の目は、荷台に積まれたコンテナの、今なお閉ざされたままのシャッターに向けられていた。
「この距離からスキャンを実行しても、内容物を確認できません。扉の2箇所に設置された電子錠の解除の後、精査を行います。兄さんの補助を希望します」
「わかった。この形式の錠なら、開けるのもそうかからないだろう」
中に何が積まれているのかは未だ不明だ――
食材なのか、それともナイナーが言っていたように臓器だの武器弾薬なのか。
しかし開けてしまえばこちらのものだ。
ナイナーとコナーは、二人ともスキンを解除した手で荷台に近づいていく。
そして、荷台まであと数歩――という場所に来たところで。
コンテナのシャッターが、勝手に開きはじめた。
運転席のほうで何か操作がされたのかと思いきや、そこには誰もいない。
ギャビンは道路で、男を取り押さえている最中だ。
ということは――まさか、
「ナイナー、下がるんだ!」
鋭く弟に忠告し、自らも一歩下がって身構える。
シャッターは、さらにせり上がっていく。
中に、誰か立っているのが見える。足だけしか見えないが、その足は――その身体は、奇妙なことに、見たこともないアーマーで覆われていた。
そして完全に現れた、その姿は。
「な……」
驚愕が、小さな呟きとなって漏れた。
コンテナの中からのっそりと姿を見せたのは、一人の人間――人間? もしかするとアンドロイドかもしれない。
身長約2メートルのその身体は、【ナノカーボンファイバー製】と思しき薄いスーツと、合金製らしき(分析できない)モスグリーン色の装甲で覆われている。さらにその頭部には、合衆国陸軍の兵士が使用するものと似通ったフルフェイスマスクを被っていた。当然、フェイススキャンは不可能だ。
しかもその身体つきは中性的で、男性型なのか女性型なのかすら判別できない。
ただ、その右腕に取りつけられているらしい筒状の吸い込み口――
さらに背中に背負っている、タンクだろうか? 金属で覆われているため正確な判断はできないが、そちらの大きさは【高さ約1.1メートル】。体積はおよそ【25リットル】。
認識したのと同時に、コナーは目を見開く。
それらの特徴は、酷似していた。
5月のあの事件からずっと捜し、追い求めていた人物。
アンドロイド・トーマスの、そしてその他大勢のアンドロイドの血を集めている人物。
謎の組織を率いるとされている人物。
正体不明の――デトロイトの吸血鬼に。
「……!」
咄嗟に、コナーは相手に飛びかかろうとした。
だがその動きは、既に読まれていたらしい。
吸血鬼は、大きく身を屈めると――
「待てっ!」
こちらがあげた制止の声は、ドン、という激しい足音で掻き消される。
吸血鬼が、あり得ないほどの高度までジャンプしたのだ。
太陽をその背にした次の瞬間には、相手はハイウェイから下の地面へと落下していく。
まさか身投げかと、急いで道路脇に駆け寄るものの――
下には人影どころか、車の通りすらなかった。
そう――地面に落下した、痕跡すら残さずに。
吸血鬼は、目の前から消えていったのだ。
「くっ……!」
短く歯噛みした後、コナーは傍らに立つナイナーを見上げた。
弟の灰色の瞳は、常と同じ平静を保ってはいたが――どことなく、こちらと同じく、困惑の色を濃くしていた。
そしてその後、廃工場の警官隊と共に必死の捜索を行ったものの――
それっきり、吸血鬼の行方はわからなかったのである。
***
――2039年6月5日 22:17
「へぇ、なるほどな。それで結局、そいつは行方知れずってか」
アンダーソン邸のダイニングルームにて、夕食の席についているハンクは、皿の上のラビオリをつつきながら肩を竦めた。
一方でコナーはといえば、今朝のTシャツの一件よりももっと忸怩たる思いを抱きながら、テーブルに視線を落としている。
「……はい」
その声音は、我ながら重たい。
吸血鬼の捜索にかなり時間がかかったので、こんなに遅い報告になってしまった。
しかもその成果はないという事実が、気分を落ち込ませている。
「吸血鬼の確保もできず、料理教室にすら出られず……幸いコンテナの中にイザベラのクーラーボックスは見つかりましたし、彼女本人も軽い修理を受ければ治る程度の損傷だったようですが……主目的は果たせませんでした」
【ミッション失敗】、という文字が、無慈悲に視界の端に表示されている。
しかしハンクは、髭についたトマトソースを適当にティッシュで拭い取ってから冷静に言った。
「馬鹿言え。料理はともかく、相手はお前やナイナーの目まで欺くような野郎だ。いきなり出くわして、無傷で帰れただけでも儲けもんだな」
「そうでしょうか」
「捜査ってのは地道なもんだ。いつでも普段みたいに、すぐ解決といくと思うな! お前にとっちゃあ、それができて当たり前ってもんなんだろうがな」
警部補はそう語りつつ、指で摘まんだフォークをゆらゆらと動かしている。
その言動を見て、コナーは少し、ざわついていた自分の思考が落ち着いてくるのを感じた。
確かに――あのタイミングで出くわして、もし相手が強力な銃火器でも持っていたなら、ひとたまりもなかった。
それに恐ろしいほどの跳躍力を見るに、仮に確保したとしても、コナーたち3人で取り押さえ続けていられたかは怪しい。
ナイナーなら渡り合えるかもしれないが、彼は丸腰なのだ。
「……そうですね」
コナーが短く頷くと、ハンクは今度はふっ、と皮肉げな笑いを漏らす。
「それより俺は、お前がタクシー乗り潰したって無茶のほうを詳しく聞きたいね。お前は首輪の外れた犬か何かか? スモウのほうがもっと利口だがな」
「あ! あれはその……つまり、不可抗力というか」
いつになく上手い反論が出てこないのは、今日やらかした無茶はとりわけ、ハンクに詳細を語りたくないからかもしれない。
なんとも言えずにコナーが視線を彷徨わせていると、警部補は、それをどのように解釈したのだろうか。
なんでもないと言いたげに手を軽く振ると、強引に別の話題に切り替えた。
「ま、なんだ。とりあえず、今日はさんざんな休みになっちまったらしいな。俺はお前が帰った後、スモウと一緒にのんびりしてたが」
彼は空になった皿をフォークで指す。
「一応、教室に行った甲斐はあったんじゃないか。これ、お前が作ったメシの中では一番まともな味付けだったぞ」
「警部補……」
コナーは、しばし相棒のとりなすような笑顔を見つめ――
「すみません。今日は時間がなかったので、それは冷凍食品を温めただけなんです」
「……」
ハンクは気まずそうに視線を逸らした。
その足元には、心配そうな鳴き声と共に、スモウが近づいてくるのだった。
――そして。
「……!」
弛緩したような空気を切り裂くがごとき表示が視界に現れ、コナーは、思わず椅子から立ち上がった。
「どうした、コナー?」
「警部補」
先ほどまでの落ち込みを吹き飛ばし、決然とした口調で、コナーは彼に告げる。
「解読が完了しました。暗号――吸血鬼の組織に迫る情報の」
***
**
*
――2039年6月5日 23:09
ゆっくりと瞼を開けたRK900の視界に映るのは、日本庭園と薔薇園が融合したような静謐な庭。
管理AIアマンダの住まう場所、禅庭園。
その中央付近、池に面した場所で、今日のアマンダは椅子に腰かけている。
大きな和傘の下で、日本で言うところの「縁台」、要は長椅子に一人で座っている彼女は、自分の元に近づいてきた『コナー』の姿を認めると、いつものように上品な微笑みを浮かべた。
「コナー。あなたが来るのを待っていました」
「こんばんは、アマンダ」
礼儀に適った穏やかな
「報告によれば、いわゆる『吸血鬼』と遭遇したそうですね」
「はい。トラックの荷台から突然現れ、姿を消しました。行方を捜索しましたが、手がかりはなく……」
「憂慮すべき事態です。まさかあの失くし物が、このような局面で影響してくるとは」
眉を顰めたアマンダの表情に、付随するかのように『コナー』もまた面持ちを硬くする。
だがややあってから、先にアマンダのほうが口を開いた。
「ですが、今は解読が完了した暗号の件が先決です。今度こそ、
「はい、アマンダ。細心の注意を払います」
はきはきと、完璧な機械としての言葉で応える『コナー』の態度に、アマンダはゆっくりと頷いた。
それから、ひときわその眼差しを鋭くして告げる。
「……暗号で示された場所の捜索は、困難を極めるでしょう。もしかすると、その吸血鬼が妨害のために現れるかもしれません。しかし、あなたならば充分に対抗できます」
そう――今日RK900がみせたスペック通りの戦闘能力には、サイバーライフも完全に満足している。
だからこそ、こう命令する。
「もし吸血鬼が現れたなら――まずは確保、それが不可能なら完全に破壊しなさい。ただし、我々の計画が漏れることだけは避けねばなりません。特に、デトロイト市警の面々やRK800には注意なさい」
「彼らは、それほどまでに脅威となりうるでしょうか?」
と、静かに『コナー』は尋ねた。
「私の性能ならば、即座にでも彼らを排除できますが」
「彼らを排除するのは、計画の最終局面においてです」
まっすぐに、アマンダは『コナー』の灰色の瞳を見据えた。
「それまであなたは可能な限り表に出ず、支援に徹すること。いいですね、コナー」
「承知しました」
「では、もう行きなさい」
素直にRK900は頷き、そして、庭園の道を向こうへと去っていく。
その白と黒のジャケットを眺めながら、アマンダは、再び口元で弧を描いた。
それから彼女は、庭園の片隅――何もない土がただ広がっている、空き地のごとき場所に目を向けた。
笑みを濃くし、そしてしばらく、彼女はそうして佇んでいた。
(奪還/Machina’s Kitchens 終わり)
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第18話:狩場/The Encounter
――2039年6月6日 10:22
デトロイト市警で最も大きい、1階部分にあるミーティングルーム。
大勢の警察官が使用できるその部屋を、これから使うのはコナー自身を含めて4名しかいない。
壁の一面を使用した大型スクリーンの前に立ちつつ、コナーは他の面々の様子を確認した。
前から2列目の席に座ったハンクが、渋い面持ちで腕組みしているその数列後方で、まるでいつもデスクでやっているように、前の椅子の背もたれに両足を乗せているのはギャビンだった。
とはいえ、さすがの彼といえども、普段のように端からこちらの話を聞く気がないというつもりではないらしい。
体勢はだらけていてもその眼光は鋭く、コナーが現在スクリーンに投影している資料に目を向けている。
そこへドアの開閉する控えめな電子音とともに、隣の休憩室から、紙コップ2つを盆に乗せたナイナーが入ってきた。
途端に、ギャビンが苛立ったような声をあげる。
「おい、遅えぞポンコツ」
「申し訳ありません」
淡々と答えたナイナーは、危なげない様子で盆を運ぶと、コーヒーがなみなみ注がれたコップをパートナーに差し出した。
舌打ち一つ、礼も言わずにギャビンはカップを受け取る。
――まったく、彼ときたら本当に進歩がない。
「リード刑事、先日も申し上げましたが」
思わず顔を顰めながら、コナーは口を開いた。
「休憩室はすぐ隣です。そこまで急いでカフェインを摂取したいのなら、ご自分で行かれればよかったのでは?」
「ハッ!」
ギャビンは鼻で嗤うと、コーヒーを啜りながらこちらに中指を立ててきた――言うまでもなく侮蔑のサインである。
コナーの胸の内に、強烈な「不快感」が押し寄せてくる。
「やめろ、お前ら」
だが、それが形を成す前に声をあげたのはハンクだった。
移動してきたナイナーが差し出したもう一つのコップを、礼の代わりに片手を軽く挙げて受け取った彼は、苦々しい顔で続きを述べる。
「これから作戦立てるって時に、下らねえ争いしてる場合か? とっとと始めて、とっとと終わらせるぞ」
「……そうですね。すみません」
コナーは謝るが、当然、ギャビンはどこ吹く風といった様子である。――だがもう、それは無視することにした。
弟はというと、普段と同じく凪いだ湖面のように穏やかな表情のまま、ギャビンから少し離れた椅子に腰かけている。
彼の静かな視線が、こちらを向いた。
そう、全員揃った――始めるにはいい頃合いだ。
コナーは、おもむろに口を開く。
「では、報告を始めます。レーヴァングランドと廃工場で発見した、暗号化された情報の内容について」
とはいえ、読み上げるまでもなく、情報はスクリーンに表示している。
強固な暗号化が施されていたデータの内容――それは、詳細な会計帳簿だった。
つまりデトロイト市内各所の「協力者」が、いつ何時、何を提供してきたかが克明に記載されているデータログである。
例えば2年4ヶ月前に某所の反アンドロイド団体から、寄付3万ドル。1年7ヶ月前に民間人のズラトコ・アンドロニコフなる人物から、違法改造されたアンドロイドが4体。2ヶ月前、レーヴァングランドから売上金の一部10万ドルと共にアンドロイドが3体――などといった調子に。
レーヴァングランドと廃工場で見つかった情報は、暗号化のみならず、それぞれ複雑に断片化されていた。
だが昨夜暗号の解読に成功して以降、コナーとナイナーが、二人がかりで急ピッチの復元作業を行い――その結果こうして一つのデータとして、ハンクたちに提示できている。
このデータを元にすれば、アンドロイドに対する違法行為に加担・介入している人物や団体を、芋づる式に検挙できるだろう。
だが今回問題にしたいのは、そこではない。
「この帳簿によれば、これらの金銭や物資、あるいはアンドロイドたちは、すべてデトロイト北西部、旧工場地帯の一角に集められていました。……つまり、この場所です」
こめかみのLEDを軽く点滅させて、コナーはスクリーンの表示を切り替えた。
投影されるのは、ナイナーがドローンで今朝撮影したばかりの、ある場所の写真。
不法投棄された廃車などのゴミ山の奥に聳え立つのは、ところどころに鉄骨が見える、ぼろぼろになった白いドーム状の建物。
その手前には、道を行く車に乗った人間の目を惹くためだったのだろう、大きな看板が立っていた。かつては色鮮やかだったと思われるそれには、風雨に晒され薄く掠れた文字でこうある――
――「ゲームフィールド・スカーレットオアシス」。
「ゲームフィールド?」
「いわゆるサバイバルゲームのための、疑似的な戦場を提供する屋内型遊技場ですね」
訝しげな警部補に説明しながら、画面を何枚か別のものに切り替えていく。
上空から撮影したドームの様子、廃工場と産業廃棄物ばかりのうら寂しい周辺の光景、WEBアーカイブに残っていた「スカーレットオアシス」公式サイトのキャッシュデータなど。
「つまり、ペイント弾やエアガンを使用して模擬戦闘を行う遊びの、競技場の一つとしてこの場所は運営されていました。少なくとも2029年から2035年までの間は、営業実態を確認できます。もちろん、合法的なものです」
しかし、今は――
「2035年に運営会社が倒産し、このドームは土地の所有権ごと別の会社に売却されました。ですがそれから僅か半年の間に、ドームの権利は幾度も複数の会社に転売され……現在は、営業実態のないペーパーカンパニーが所有していることになっています」
「なるほど」
半分ほど飲んだコーヒーのカップを手にしたまま、ハンクは表情を険しくした。
「そりゃ、悪さの隠れ蓑にするにはお誂え向きだな」
「ええ。このドームの敷地面積は約10エーカー……新型レッドアイスの生産工場にするにせよ、なんにせよ、広さは充分といえるでしょう」
「おい」
と、口を挟んだのはリード刑事だ。
「中はどうなってんだよ。備品野郎のドローンで撮れなかったのか?」
「……」
コナーは、つい自分が眉を顰めているのを自覚した。
争っている場合ではないとハンクに釘を刺されたとはいえ、いつまでもナイナーを「備品」呼ばわりする彼の態度には、そう、端的に腹が立つ。
しかし弟は大して気にしていない様子で、首だけギャビンのほうに向けて口を開いた。
「申し訳ありませんが、それは不可能です。当該施設には競技の特性上、強固な防音壁が使用されています。外郭部が損傷している今も、それらは健在です。つまり、外部からドローンが侵入できるスペースは確認できませんでした」
「ただ、周辺の偵察は既に完了しています」
補足するように、コナーは言う。
「あいにくドームの周りには、監視カメラは設置されていませんでした。しかしナイナーが衛星写真から分析したところ、少なくとも一ヶ月前までは、活発な車の行き来があったようです」
「現在は、周辺に人影は皆無です」
と、ナイナーはLEDリングを点滅させてドローンと通信しながら、静かに言った。
「当該施設の所在地を確定以降、11時間6分43秒間、監視状態を継続しています。これまでに当該施設に接近した人間・アンドロイド・乗用車は確認できません」
「ああそうかよ、ご苦労さん」
飲み終わったコーヒーのコップを床に乱暴に転がすと、ギャビンは大仰に肩を竦めてみせた。
「つまり、行ってみないと何もわからないってことじゃねえか。アンドロイド刑事様のお仕事ってのは大したもんだ。なあコナー?」
「ええ、そうですね。ここで何もせず大口を叩いているのよりは、幾分生産性はあると思いますが」
努めて冷静に――というよりは冷淡な声音でコナーが“丁寧に”応えると、瞬時にギャビンのバイタルサインはより【攻撃的な兆候】を示しだす。
「あ? ……なんだとてめえ」
「誰もあなたのことだとは言ってませんよ、リード刑事」
目を見開いて首を傾げたコナーを、額に青筋を浮き立たせたギャビンは今にも飛びかからんばかりの勢いで睨みつけている。
一触即発の状況――だが、その雰囲気はコツコツという高い音で払拭される。
警部補が、手にしている紙コップの側面を、わざと大きな音を立てて指で弾いたのだ。
「
わざと礼儀正しく言う彼の、その呆れたような青い瞳に何よりも叱られたような心地がして、やや悄然とコナーは応えた。
「……はい、警部補」
ハンクは、姿勢と共に表情を真剣なものに正して言う。
「そのスカーレットオアシスって場所が、あからさまに怪しいってのはよくわかった。ナイナーに任せて偵察するのにも限度があるから、直接出向いて調べるっきゃねえってのもな。だが」
彼は壁のスクリーンに目を向けてから、続ける。
「気になることがある。お前たちが昨日会ったっていう、トラックから出て来た野郎だ」
「はい……『吸血鬼』と思しき人物ですね」
昨日の出来事をメモリーから再生しつつ、コナーはおもむろに頷いた。
ひょんなことから繫がった、食材の強盗事件と廃工場の臓器売買。
追い詰めたトラックから現れたのは、コナーやナイナーにすら分析不可能な金属製の装甲のようなものを身に纏った――タンクを背負い、異常な身体能力を持つ人物。
新型レッドアイスを売りさばき、アンドロイドたちからブルーブラッドを搾り取っている組織のボス、『吸血鬼』と思われる人物だった。
人間なのかアンドロイドなのかも判然としないまま、忽然と姿を消したその人物の捜索は、今もデトロイト市警の総力を挙げて行われているが――それも当然である。
あり得ない高度まで一瞬でジャンプし、建設中の高速道路から高架下に飛び降り、即座に姿を消すような――まして犯罪組織との繋がりが疑われる存在を野放しにしていては、市民に危険が及ぶ。
何かあってからでは遅いうえに、放っておけばFBIがしゃしゃり出てくるかもしれないとなれば、市警としてはとても看過できるものではない。
現在、こうしてコナーたちがたった4人で捜査会議を行っている理由もそこにある。
今朝、ファウラー署長に言われたばかりなのだ。
吸血鬼の捜索と市街地の警備でこちらは手一杯だから、その暗号とやらが示す場所には、お前たち以外の人員を回せない――と。
それらを踏まえたうえで、ハンクはさらに続けて言った。
「結局、工場に残ってる手がかりからじゃ、そいつの正体は掴めなかったんだな?」
「ええ、残念ながら。大量の武器弾薬は、海外から秘密裡に輸入されたものだとは断定できましたが、ルートは確定できていません。そして残されたデータなどから、どうやらあの施設で新種のパワードスーツが開発されていたのはわかりましたが――理由は不明です」
そう、廃工場の地下でギャビンが目撃したという「機械製の鎧のようなもの」。
それはまさに、人間が装着して作業効率を上げるための外骨格型の装置、すなわちパワードスーツだった。
20年ほど前までは介護・医療機器として、そして軍用の装備として盛んに研究されていた代物――だがサイバーライフ社製のアンドロイドが完全に普及した現代においては、もはや無用の長物と化してしまっている。
パワードスーツを着た人間にできる仕事は、アンドロイドなら十全にこなしてしまう作業なのだ。となれば、アンドロイドにすべてやらせればいい、という理屈からである。
それなのにあの施設では、わざわざそんな“過去の遺物”が研究されていた。
しかも、あれほどの量の武器と共に。
――なぜ?
疑問ばかりがプログラム上に並んでいくが、ひとまずそれは保留して、コナーはさらに言葉を重ねた。
「廃工場でナイナーが確保した組織の構成員たち、トラックの運転手、そして工場に監禁されていた人々と、本来臓器を配達する予定だった脱法アンドロイド――いずれも現在のところ、彼らから情報らしい情報は聞けていません」
昨日の昼、アンドロイド料理講師であるイザベラは、工場外で「回収」された臓器をクーラーボックスに入れて運ぶ、別のアンドロイドと間違われて襲われた。
トラックの運転手が合流地点を誤ったのがその原因だったようなのだが、本来その運転手に臓器を渡す手筈だったアンドロイドは、昨日深夜に路上を彷徨っていたところを無事に保護されている。しかし彼のメモリーは、当然のごとく、完全に消去されてしまっていた。
再び変異体となったそのアンドロイドが記憶を取り戻せば、何か組織に関する情報を聞けるかもしれない。
しかし今は、それを待つ時間がない。
そして例のトラックのコンテナの中には、クーラーボックスの他にはアンドロイド運搬用の大型ボックスがあったのだが――プログラム上の再現によれば、吸血鬼がそのボックスに入っていたのは確実なのだが、それ以上の手がかりはなかった。
という状況を今一度整理し直したところで、ギャビンがまたも茶々を入れるように声を発する。
「チンピラどもを締め上げて吐かせるよりは、情報が出てきたドームに行くほうが早いってこったろ」
彼の視線が、ハンクの背に向けられる。
「なのに何が問題だ、ハンク? 二日酔いがキツいんなら、便所に籠ってるか? なあおい」
「……」
小さくため息を吐いてから、ハンクは半身を後ろに向け、口の悪い同僚に話しかけた。
「お盛んなのは構わねえが……怪我したくなきゃ、もっと落ち着いて考えな。どうも、状況がおかしい」
「は?」
「警部補、どういう意味です?」
首を軽く傾げつつ問いかけると、警部補はまたこちらに向き直った。
コーヒーが入ったままのコップを床に置き、腕を組んで、彼は鋭い眼差しで語る。
「10年ぐらい前ならまだしも、今は市内のデカい密売組織はほとんど
そこで一拍置き、彼はひときわ真剣な目つきでこちらを見据えながら、続けた。
「そんなに武器だの“パワードスーツ”だの取り揃えて、吸血鬼の組織は一体どこの誰とドンパチやるつもりだ? 同業他社もいねえってのに。警察との抗争? それともテロか? レッドアイスで儲けたいってだけの連中なら、んな金にならないことはしねえ」
「確かに……」
顎に手を置いて、コナーは静かに同意した。
今までのところ、吸血鬼の組織は典型的な営利目的――つまり、より多く儲け、より多く新型レッドアイスを売りさばくために、より安価にブルーブラッドを手に入れようという目的で動いているようにみえる。
だから彼らにとって、高性能な武器や装甲など、本来なら不必要なものなのだ。
そんなものを買い揃えるくらいなら、もっと別のところに金を使うはずである。
例えば――
「改めて考えると……吸血鬼を輸送していたあのトラックの運転手が、薬物中毒かつ酩酊状態だったのも気になります」
新たに浮かんだ疑問を、素直に口に出した。
「仮に吸血鬼が本当に組織のボスなのだとしたら、自分が乗る車の運転を、合流場所を誤るような稚拙な人物に任せるでしょうか?」
「ああ。普通なら、もっと信用できる奴に任せるだろうな」
ハンクは軽く両手を広げ、肩を竦めてみせた。
「それに連中は、残されてた手がかり以外はほとんどこっちに尻尾を掴ませねえような奴らだ……手慣れてる。だってのに、前にギャビンのとこに送られてきたっていう手紙といい、今回のトラックといい……なんだってそんなヘマを?」
言いながら、何か思い当たるところがあったのだろう。
ハンクの瞳は、自らのかつての記憶を探るように凝らされている。
「どうも、ヤな予感がしやがる」
「警部補……」
歴戦の刑事の重々しい一言に、コナーは我知らず深刻な声音で返事した。
見ればナイナーもまた、どこかその面持ちを険しくしている。
しかし――
「ハハハハハ!!」
いかにも呆れた、といったように笑ったのはギャビンだった。
彼は両足を前方の椅子の背もたれに乗せたまま、器用に椅子を後ろに傾けつつ、ゲラゲラ大笑いしている。
「予感! 予感ね。結構なこった! アンダーソン警部補の名推理だ、ほんと感服もんだぜ」
彼はわざとらしく拍手までしてみせた。
――要は、予感などという非論理的なもので慎重な姿勢を示したハンクを嘲笑っているのだろう。
コナーは、プログラムの外からやって来る「苛立ち」を感じつつ、あからさまに彼を睨みつけた。
確かに、先ほどのハンクの発言は「勘」によるものだ。
しかしそれは、これまでに培われてきた彼自身の経験という貴重なデータに基づいている。つまり、単なる当て推量や臆病風とはワケが違う。
そんなこともわからないだなんて――
だが笑われた当人たるハンクはというと、怒るでもなくもう一度肩を竦めている。
「こりゃ、混ぜっかえすようなことを言って失礼しましたね。せいぜい後ろにすっ転ばねえようにな」
フン、と鼻を鳴らしてから――
警部補は、ギャビンに向けていた視線を移した。
「それより、ナイナー」
「はい」
ギャビンの座る椅子の脚を見つめていたナイナーは、静かに応えてハンクを見やる。
それに合わせて、警部補はさらに言った。
「お前はどう思う? 意見があるなら、言ってみな」
「……申し訳ありません」
短くナイナーは述べ、目を床に伏せた。
「アンダーソン警部補の危惧は妥当だと、私も判断します。しかし、現在のところ新規に取得した確定的情報は存在しません」
「確定的ってのじゃなくていい」
促すように告げるハンクに合わせ、コナーも口を開く。
「あの吸血鬼が使ってる技術について、何か思い当たらないか? 例えば、サイバーライフの新技術とか……」
かつてならいざ知らず、今のコナーは、サイバーライフの社内情報には基本的にアクセスできないようになっている。
だがナイナーは、今もサイバーライフに所属する身だ。
吸血鬼の異様な身体能力、そしてコナーのスキャンを用いても分析できなかったあのアーマーの素材について、何か知ってはいないだろうか。
そう思って問いかけると、ナイナーはしばしLEDリングの青色をくるくると光らせ――ギャビンもまた、笑うのを辞めて彼を見ている――やがてゆっくりと語りだした。
「今から発言するのは、あくまでも不確実な推測に過ぎません。ですが……私は……あの吸血鬼に使用されているのは、サイバーライフ社製の、軍用プロトタイプアンドロイドの技術だと……思います」
「軍用プロトタイプ……?」
思わず問い返しつつ、プログラム上で再生されるのは、かつてアンドロイド記者のケイシー・ヒュームが言い残した情報だ。
彼は言っていた。
『軍用のアンドロイドが、どこかで暴れまわってるって……殺人事件を起こしてるって情報がある。特殊なプロトタイプだって』
その時もコナーは、吸血鬼とそのプロトタイプを結びつけて考えた。
とはいえあくまで仮説の一つに過ぎなかったのだが、弟も同じ考えに至ったのだろうか――
ナイナーは、続けて淡々と語る。
「昨日……兄さんの、かつ私の機能を使用しても、仮称『吸血鬼』の装甲を形成している未知の金属の分析は不可能でした。また、当該素材についてサイバーライフのデータベースで検索したところ、該当する情報は皆無でした。しかしこの状況は……かえって、それが軍事用の技術であるという仮説を補強します」
「そうか。軍事機密情報には、最上級の閲覧制限がかけられてる」
確信と共に、コナーは言った。
そう、仮に変異体ハンター時代の自分であっても、社が合衆国の軍隊に提供している、軍事用アンドロイドに関する情報にはアクセスできなかっただろう。
合衆国の上層部と裏で密接に、後ろ暗い繋がりを持つサイバーライフにとって、そうした情報はごく一部にしか開示しないものだからである。
だから逆に言えば、社から正式に警察に派遣されている最新鋭機体であるナイナーがアクセスできないような情報となると、もはや軍事関係のものくらいしか残されていないのだ。
それにそんな未知の金属について、最先端技術のほとんどを独占するサイバーライフ社が一切関知していないはずがない。
「軍事用ねえ。そりゃなんとも、きな臭くて最高だな」
皮肉げにハンクが言い、ギャビンもまた、珍しいことに深刻な表情で口を閉ざしている。
だが、無理もないかもしれない。
表向きには、アンドロイドは法律によって、一切の武器の所持と使用を禁じられている。
だが一部の雑誌などで既に記事にされていたように、もはや合衆国の軍隊は、そのほとんどがアンドロイド兵士に置き換えられていた。
通常の戦闘部隊のみならず、ロシアとの高まる緊張を前に準備された海戦用カスタマイズ部隊は、2500人(体)にも及ぶプロトタイプで構成されており、彼らは暗殺・潜入工作に特化したモデルだったとされている。
――しかし今、そのほとんどは、もはやこの世にいないだろう。
あの革命の折りに、まっさきに廃棄されてしまったからだ。
現在の軍隊は急遽集められた人間の人員によって補強され――それはロシアも似たような状況らしく、結果的に、米露間の緊張は双方の軍事力の低下に伴い緩和されているのだが。
――それはともかく。
もしも吸血鬼が、あの日ケイシーの話を聞いた時に考えたのと同じように、軍用のプロトタイプアンドロイドの生き残りなのだとしたら――
「ナイナー」
コナーは、胸のシリウムポンプが「緊張」の影響で不可解な挙動をするのを感じつつ、弟に問いかける。
「もし軍事用プロトタイプが相手だとして、君は正面から制圧できるかい?」
「……はい」
灰色の瞳をこちらにまっすぐ向けて、ナイナーはしっかりと頷いた。
だがその表情は、僅かに、何か懸念するかのように沈んでいる。
「一対一で……かつ周囲の被害、及び他者の防衛を考慮しないのであれば。カタログスペックでは、私は既存のいかなるサイバーライフ製アンドロイドよりも、改良されたモデルですから」
ただ――と言いつつ、彼は顔を俯ける。
「私は治安維持専門モデルであると同時に、デトロイト市警に所属する存在として……可能な限り、周囲に……危険が及ぶ戦闘行為は避けたいと、思います」
「そりゃそうだろ」
わざと明るくしているような口調で、ハンクが言う。
「まっとうな警官なら、誰だってそう考えるもんだ。それに銃持って暴れてる軍人になんて、一人で向かっていくもんじゃねえ。もしそうなったら、とっととSWATでも呼ぶこったな」
警部補の言葉は、ナイナーの胸を打ったようだ。
「まっとうな警官……」
彼は小さく呟くと、幾度か瞬きした。――嬉しそうだ。
「私も警官。そう、ですね……」
「プラスチックの備品警官だろうが、てめえは」
と、横からずけずけとギャビンが水を差す。
口論にならない程度に反論しようかとコナーは口を開きかけたが、しかし、ギャビンは続けて意外なことを言った。
「だいたいてめえ、変異体なんだろ」
「はい……」
「だったら軍用だろうがなんだろうが、相手がアンドロイドならパクんのは簡単じゃねえか」
上げていた足を下ろしてから、彼はナイナーに続けて語る。
「近づいたらとっとと触って、変異させてやれよ。いっぺんに大人しくなるだろ」
「ああ、なるほど!」
コナーは思わず声をあげた。
皮肉ではなく、まさに心から、ギャビンの指摘に感心したからだ。
普段こちらのことを機械だなんだと言ってはいるが、少なくとも、彼は変異という現象の特性については理解しているらしい。
さすが、デトロイト市警の刑事なだけはある――と、コナーは思った。
「確かに、相手が悪意ある第三者の命令を受けた脱法アンドロイドならば、有効な手段ですね。それにメモリーを接続すれば、音声言語を介するよりも迅速に交渉できる」
「お前には話してねえよ、型落ち野郎」
――前言撤回だ。
やはり彼は感じが悪い。
「……」
かたや、ナイナーは黙って目を瞬かせた。
彼は自分の右手のスキンを解除し、しばしそれを見つめ――
それから、言葉を発した。
「相手が仮に、既に変異体で……自由意志を以て犯罪行為を実行していた場合は、説得不可能ですが。それに私に、相手の変異が可能かどうか」
「大丈夫さ。僕にもできたんだから」
なぜだか心配そうな弟を、勇気づけるようにコナーは声をかけた。
「自分のプログラムに生じている揺らぎのようなものを、メモリーを接続して相手に伝えるんだ。そうすると、眠ってた相手の感情が……なんていうか、目を覚ますんだよ」
「相手の感情……」
スキンを元に戻し、ナイナーは首肯する。
「了解しました。もし遭遇した場合は、接続を試行します。……ありがとうございます。リード刑事、兄さん」
「どういたしまして」
「ケッ」
コナーはにこやかに応えたが、ギャビンは面白くなさそうに吐き捨てて顔を背けている。
――どうにも解せない対応だ。
「んじゃ、話を纏めるぞ」
ハンクが、冷静に告げて場の空気を切り替える。
「姿を消した吸血鬼野郎のことは気になるが……とにかく今は、その怪しいドームを捜査すんのが先決だ。北西部の工場地帯なら、ここから車でもそう遠くはねえ。ジェフリーを説得したら、速攻で出発だな」
「今日のうちに向かうのですね、警部補」
「連中に時間をやるのはマズい。相手は、俺たちに自分らの拠点を掴まれたのは当然知ってるだろうしな」
レーヴァングランドが潰されたその時から、恐らく吸血鬼の組織の側でも、いずれスカーレットオアシスに捜査の手が伸びるのは予期していただろう。
ならばハンクの言う通り、できる限り早く捜査に向かうのが正しい。
隠蔽工作に時間をかけさせるわけにはいかないからだ。
「ドームの見取り図はあるか?」
「はい。かつての遊技場時代のものなら、データが残っていました」
スクリーンに用意していた見取り図を投影し、捜査計画を練る。
ドームは大まかに分けて、地上部分と地下部分の二層の構成になっていた。
本来ならばより大人数で万全を期して向かうべき場所ではあるが、状況が状況だ。
できる限りのことをするしかない。
――そして結局、協議の結果、ドームの地上部分をギャビンとナイナーが、地下の事務所部分をハンクとコナーが受け持つことになった。
仮に地上部分の内装が変わっていなかった場合、そこはサバイバルゲームの競技場のままである。そうした広大かつ見通しが悪い場所なら、ナイナーのドローンが不可欠だ。
したがって、地上はギャビンたちに任せたほうが効率がいい――ということになったのである。
「もしかしたら、吸血鬼野郎がご登場あそばすかもしれねえが」
会議の終わりに、ハンクは言った。
「そうなったら、絶対に無茶はするなよ。俺たちは警官だ、軍人じゃねえ。できるだけ時間稼いで応援呼んで、無理そうならとっとと逃げろ。わかったな」
こくりと頷くナイナーの近くで、さも「てめえは俺の上司かよ」と言わんばかりの態度でギャビンは表情を歪めている。
と、ハンクの視線がこちらを向いた。
「おいコナー。お前に言ってんだぜ」
「もちろんです、警部補」
コナーは真摯な気持ちで返事した。
「心配しないでください。決して無茶はしません」
「それを今までに何べん聞いたかな」
そう言って、警部補は皮肉っぽく笑うのだった。
***
――2039年6月6日 14:21
辿り着いた「スカーレットオアシス」は、ドローンでの偵察の通り、ゴミ山に紛れ打ち捨てられたような建物である。
近場に(といっても、万が一のことを考えて多少離れた廃工場の陰に)車を停めると、コナーたちは速やかにここに足を運んだ。
この場所は国道から外れていて、近くに車通りはなく、当然人気もない。
コナーは、黙ってそのうす汚れた外観を見つめた。ざっとスキャンしたところ、剥がれた塗装にも剥き出しになった鉄骨にも異常はなく、少なくとも外側に関しては【違法改造の形跡はない】。ブービートラップや警報装置の痕跡もない。つまり、近づいても問題はないということだ。
しかしコナーのプログラム上を去来したのは、このドームの過去と現在を比較し、ふと胸を締め付けられるような感覚――幾ばくかの「寂寥感」のようなものだった。
かつてデトロイトにベンチャー企業としてのサイバーライフが設立され、軌道に乗りはじめた時、呼応するようにこの都市の景気は上昇し、中心部には一気に人が流入した。
その需要を見越してか、デトロイトには次々とテーマパークや遊興施設が建てられ――しかし数年後には、少子化と失業率の上昇の影響を受けて業績が下がり、あえなく廃業していったという。
この場所も、そんな施設の一つなのだろう。
――かつては人を楽しませるために建てられた場所が、今は犯罪の温床になっているなんて。
「コナー。おい、どうした?」
「大丈夫です」
ハンクの呼びかけに、思考を現実に引き戻す。
「すみません、外観のスキャンをしていました。今のところ危険はないようです」
「ならいいが……あんまりぼーっとするなよ」
念を押すように、警部補に言われてしまう。
ふと傍らを見れば、ナイナーがドローンのうち5機を自分の周りに呼び戻したところだった。
裏側や上空などの監視に回している機体は残して、それ以外を一旦近くに回収したらしい。
警戒のためか早くも銃を抜いているギャビンが、訝しげにそれを見つめている。
「アンダーソン警部補」
ナイナーはハンクに問う。
「ドローンのうち、何機を同行させますか?」
「そりゃ、俺たちにってことか? ……いや」
ハンクは、思い直したように首を横に振った。
「ドローンは全部、お前たちに回せ。こっちは俺とコナーだけでいい」
「それは……」
「お前たちのほうが危険だろ。地下の事務所と違ってそっちは広いだろうし、それに」
ハンクはギャビンに視線を送った。
「なんだ、何か言いたいのかよハンク」
「別に何も」
軽くひらひらと手を振ってから、警部補はナイナーに視線を戻す。
「血気盛んな相棒がいちゃあ、人手はいくらあっても困らねえだろうしな」
「……。そうですね」
目配せするハンクに対し、弟は、納得した様子で頷いた。
「では、地下は、兄さんと警部補に委託します。……どうか、お気をつけて」
「ああ、そっちこそな」
「ありがとう、ナイナー」
正面から、弟に礼を述べた。
「君こそ、どうか気をつけて。お互い、無事で戻ってこよう」
「はい」
そう言ってまっすぐにこちらを見つめる彼の表情は、常と変わらぬ無表情ではあったが――ほのかに、微笑んでいるようにも見える。
光の加減で、そう見えているだけかもしれない。しかし変異体としてのコナーは、それを弟の笑顔だと解釈したいと思った。
「そうでした。リード刑事も、どうぞご自愛ください」
「てめえは帰りのゴミ収集車でも手配しとけよ」
へらへらと、ギャビンはとんでもないことを言ってのけた――が、もはやかかずらう気にはならない。
コナーは気を取り直し、改めて、ドームの正面入り口に歩み寄った。
そして、結局のところ――
正面入り口の重たい鉄製の扉には、不思議なことに、鍵がかかっていなかった。
立場上不法侵入するわけにはいかないこちらとしては有難い話だが、しかし、どうにも解せないとハンクは言う。
「まるで、こっちを招待してるみたいだな」
言葉は揶揄するようでも声音は冷静にそう告げるハンクの後ろで、ギャビンは「怖気づいて逃げたんだろ」とあくまで“楽観的”な意見を述べていたが――
ともかくドーム内に立ち入ると、眼前に広がるのは、意外なまでに過去のままと思しき光景である。
「……」
無言のまま、コナーは再度中をスキャンする。
しかしやはり、少なくとも視界の範囲においては【脅威は検出されない】。自動車工場の内装を転用したと思しきサバイバルゲームの会場は、どうやら、そのまま遺されているように見えた。
コンクリートのはずの地面には本物そっくりの土と砂利が敷かれており、天井には大きなライトが複数設置され、今なお白いLEDの光を照射している。舞い散る埃が、それに照らされて【幾何反射】の煌きを放っていた。
壁を這う太いパイプと停止した工場機械、ベニヤ板やブロックで作られた壁が、広いはずのこのドーム内を細かく区切っている。あちこちに身を隠すにはもってこいの場所、といえるが――さっそくナイナーがドローンを飛ばして偵察したところだと、屋内にも、自分たち以外の姿は見えないとのことである。
つまり無人。ギャビンが言っていた通り、とっくに組織の人間たちは逃げていってしまった後なのだろうか?
だが、油断はできない。
“GAME START”と色褪せた文字が添えられた、かつては受付カウンターだったのだろう場所にて、コナーたちはギャビン・ナイナー組と分かれた。
***
そして――数分後。
薄暗い階段を下りた先、小さなスチール製の扉には、入り口同様鍵がかかっていない。
「下がってろ。先に行く」
拳銃を抜いたハンクの言葉に、少し逡巡したが、こくりと頷いた。
油断なく銃を構えた警部補は、それに応じて迷いなく扉に鋭い蹴りを放つ。
ひしゃげんばかりの勢いで開いたドアの隙間に身を潜り込ませ、ハンクは室内を警戒する。だが――
「生体反応はありませんね」
素早く室内をスキャンし終えたコナーがそう告げると、警部補は小さく息を吐いて銃を脇のホルスターに仕舞う。
「……だろうな。この様子を見りゃわかる」
半ば呆れ口調で彼がそう言うのも、無理はない。
それなりの広さの事務室には、もはや、ほとんど何も残されていなかった。
スチールデスクが4つ、そして事務用椅子が5脚、部屋の中央にひっそりと並んでいる。その上には端末はおろか書類フォルダや文房具の類まで何一つなく、まるで家具売り場にでも置かれているかのようなありさまだ。
乱雑に積み置かれた段ボール箱が、部屋の片隅で山を成してはいるものの、この状況では、恐らく重要性が低いからこそ放置されているのだろう。
あとは田園地帯の風景を描いた古い小さな絵が額縁に入って壁にかかっているのと(額縁は斜めに歪んでいた)、小さな消火器が、半分錆びかけながら壁際に佇むばかりだった。
「やれやれ」
苦い顔でハンクは鼻を鳴らした。
「逃げ足の速いこった。鳩だらけの部屋よりゃマシだが、こうまで何もねえとはな」
「ええ……ですが、床の表面に足跡が残っています」
分析機能を実行中の視界に、自分のものでもハンクのものでもない【複数の足跡】が検出されたのを確認しつつ、コナーは言う。
地上部分だけでなく、階段や事務所内の床にも土埃が残っていたお蔭である。
「この足跡を辿れば、プログラム上で行動の再現ができます。過去に何が行われていたのか、少しはわかるかもしれません」
「よし、じゃあそっちは任せた。俺はこの机を調べる、念のためな」
つっても、何もなさそうだが――とぼやきつつも、警部補がスチールデスクの調査に着手したのに合わせて、コナーは詳細な分析を開始した。
【靴の痕 TYLE社製RS88型 10インチ 過去10日以前】
【靴の痕 Kok社製T54型 8.5インチ 過去10日以前】
【靴の痕 TYLE社製FR55型 9インチ 過去10日以前】――
ここを最後に使用していたのは3名。靴はいずれも量販店で広く販売されているものだが、足の大きさからだいたいの身長は予測できる。
そして、これらの人物がこの部屋を引き払ったのは10日以前。ちょうど、レーヴァングランドの潜入捜査が終わった頃だ。
やはりハンクの見立て通り、レーヴァングランドの秘密が暴かれ、自分たちに捜査の手が及ぶことを察知した彼らは、大急ぎでこの場所から撤収したのだろう。
なぜ大急ぎだとわかるかといえば、足跡は無軌道に、しかもかなりの勢いで床を踏んでつけられたものであると、形状から分析できるからだ。
つまり彼らは、恐らくここを引き払うように突然命令され、【軽度のパニック状態】で荷物を纏めた。あいにくそれでも手袋はしていたのか、彼らの指紋までは検出できないのが口惜しいところだが――
「……」
足跡の状態を元に、プログラム上で再現を実行する。
10インチの靴の人物A、9.5インチの靴の人物B、8インチの靴の人物Cは、それぞれこの部屋に駆け入ると、まず机の上の荷物をどたばたと片付けはじめた。段ボール箱と思しきものに急いで物を詰め込むと、幾度か外とこの部屋を行き来して、約3時間で中の物のほとんどを運び出している。
そしてそのまま、3人とも外に――
いや。
「……!」
再現の末尾部分、3時間26分8秒の時点で、コナーは動きを【一時停止】させた。
人物Cが、不可解な動きをしたからだ。人物Cは今ちょうどハンクが引き出しを調べているデスクの前でしゃがみ込み、しばらくその場に留まっている。
しかし出入り口付近に立つAとBに呼ばれでもしたのか、その後急ぎ足で場を離れると、速やかに出入り口に向かい――
そしてそのまま、3人揃って部屋から出て行っている。
「警部補」
引き出しを閉めたところのハンクに、コナーは声をかけた。
「そのデスクに、何か異常は?」
「異常? ああ、そうだな。引き出しの中でゴキブリが干からびて死んでたくらいか」
引き出しに触った右手を下に向けて軽く振りながら言う警部補に、続けて述べる。
「この部屋にいた人物の一人が、そこでしゃがみ込んで何かしていたようなんです。足元に何かあるのか……または、下から机を覗き込んでいたのかも」
「下からねえ」
と言いつつも、ハンクはこちらの言葉通り、その身を屈めて下から机を――ちょうど天板の裏面を覗き込むような形で見上げる。
――すると。
「……なんだこりゃ」
彼は短く声を発した。
「おい、ボタンがあるぞ」
「ボタン……?」
急いで警部補の近くに行き、同じように下から天板を覗き込む。
その言葉通り、机の裏には、ちょうど親指の先ほどの大きさの黒いボタンのようなものが設置されていた。玄関の呼び鈴の向きを変えたようなもの、というべきだろうか。
万が一を考え、素早くスキャンする――が、周辺に爆発物の導線状のものは確認できない。
つまり、罠ではなさそうだ。
「押してみましょう」
「あ、おい待て!」
なぜか制止の声をあげた警部補だが、しかし、脅威はないとわかった以上問題はないだろう。
彼が非難がましい目をこちらに向ける間に、コナーは黒いボタンを躊躇なくしっかりと押し込んだ。すると間を置かず、壁のほうから小さく、何かが動いたような音がする。
――【額縁の方向】だ。
コナーが歩み寄ってそっと絵を外すと、額縁で隠された壁には、小さな金庫が設置されていた。
壁の一部が可動する扉だったらしいそれは、既に開け放たれている。さっきのボタンがスイッチだったのだろう。
「おいおい、まるでスパイ映画だな」
横から金庫を覗き込んだハンクは、眉を顰めてそう言って――
「ん? ……おい、そりゃなんだ」
金庫の中、まるで底面に同化するようにひっそりと遺されている物体に目を向けた。
「これは……」
コナーはそっと手を伸ばし、それを取り出す。
薄い四角形、大きさはちょうど手のひらほど。小さい円盤が樹脂製の保護ケースに入っている、その物体の名前は――
「マジか、懐かしいな」
ハンクは半ば感嘆するかのように声を漏らした。
「フロッピーディスクじゃねえか。俺が若い頃でも、もうこんなの使ってる奴いなかったが」
「ええ……とても珍しいですね」
素直な感想を述べつつ、コナーもしげしげと手の中のそれを見つめ、裏返し、分析する。
しかし、間違いない。
これは【フロッピーディスク Bytle社製 3.5インチ規格 1.44Mb】。
製造年は推定【2022年】――かなり後期に生産されたものとはいえ、耐用年数は恐らくぎりぎりだ。
「幸い、状態は悪くありません」
ディスクをハンクに手渡しつつ、所見を語る。
「ここでは解読できませんが、対応する外付けディスクドライブがあれば、署の端末でデータが読めるでしょう」
「お前、ここで中身読めないのか?」
「すみません」
意外そうに言う警部補に、コナーは眉を曇らせた。
「残念ですが、この形式の記録媒体は私に対応していません。あまりにも古すぎて」
「そうか」
遺憾ながら仕方なしといった口調で、ハンクはディスクをいったんデスクの上に置いた。
「ま、CDデッキにカセットテープ突っ込んでも無理なのと一緒か」
「……カセットテープ?」
「なんでもない、ほっとけ」
ごまかすように軽く手を振ると、警部補はまた息を吐いた。
「しかし、ご丁寧にこんな場所に隠してあるとはな。なんのつもりだ?」
「……そうですね」
フロッピーディスクに関する情報をネット上でサーチしてから、コナーは言った。
「フロッピーディスクは、一般で使用されなくなってからも、一部の官公庁や法人団体では2030年代になるまで利用されていたそうです。データはネットを介するより、こうしたディスクに保存して郵送したほうが、情報流出の危険が減りますから」
「そうか。ま、最新鋭のプロトタイプ刑事にも読めないんだから効果は抜群だな」
そこまで言って、ハンクは何かに気づいたような表情を浮かべる。
「……じゃ、こいつに保存されてんのも」
「ええ。流出を恐れるに足る情報が、保存されている可能性は高い」
きっぱりとこちらがそう告げると、しかし、ハンクは表情を険しくした。
「ふうん……」
「どうしました?」
「そんな重要なモンを、ここに置き去りにねえ」
にわかに笑って肩を竦める彼が、何を言いたいのかは理解できる。
捜査会議で危惧していたように、きっと“あまりにも都合がよすぎる”と、そう感じているのだろう。
これまでといい、今日すんなりここまで来れたことといい、捜査の手を誘導する誰かの意志が働いているようだと、考えようと思えば考えられる。
しかし確証はない。残されている手がかりはあからさまではなく、一応あれこれと隠されていたわけだし――今回のこのフロッピーディスクも、慌てていた構成員がうっかり持って行きそびれたのだと考えれば、別にここにあっても不自然とまでは言えない。
一方で、「誘われているようだ」と考えることもできる。どちらともいえない。だからハンクは「嫌な予感」と称したのだろう。
コナーは警部補になんと返したものか、しばし思考を巡らせる。
だが――
「!」
ふいに部屋に響いた、ごとりという物音に、コナーもハンクも咄嗟に身構える。
音がしたのは、あの乱雑な箱の山のほうだ。
素早く銃口をそちらに向けるハンクの横で、コナーはじっと視界を積まれた箱に向けたまま、じりじりと摺り足で近づいていく。
足音を立てないように注意しながら――やはり【生体反応はない】――そっと、箱の近くまでやって来ると。
『ア……』
音声プロセッサに届いたのは、老人のようにしゃがれた、か細い声だった。
次いで同じ声が、山の頂点に置かれた、両手で抱え持てる程度の大きさの段ボール箱の中から聞こえてくる。
『誰か……いるのか……そこに……人間……?』
「……!」
まさか、隠しスピーカーか!?
コナーは急いで、箱をデスクの上に移動させる。重量は推定【6キロ】、思っていた以上に重たい。
中身は一体――
密閉されてはいないその箱を、開ける。
「――!!」
瞬間コナーは、そしてハンクも、箱の中に目を向けたままその動きを硬直させた。
『ああ……』
一方で――箱の
『人間と、アンドロイドか。変わった組み合わせだね……あいつらの仲間じゃないようだが』
「き……」
激しい動揺から、常になく声が途切れてしまう。
コナーは自身に搭載された任務遂行のためのプログラムを懸命に働かせつつ、言葉を選んで口にした。
「君は……誰だ? アンドロイドのようだが……」
『ハハ……まあ、驚くのも無理はないさ』
そう語る中身――いや、彼と呼ぶべきか、彼女と称すべきか。
ともかくその存在は、自嘲するような声を発して、その口の端を吊り上げた。
箱の中身。それは、生体部品をバラバラにされ、みっしりと箱に詰め込まれた、アンドロイドだった。
LEDリングが真っ赤に染まったままのその頭部は、横たわるように箱の真ん中に収められている。そしてシリウムポンプとその調整器、最低限の感覚センサー、ブルーブラッドを運ぶチューブ、発声のためのモジュールなどが連携できるように繋がれ、ぴったりと箱の内部に入りきるように並べられている。
いや、放り込まれて、というべきだろうか。
活動維持のための必要最低限の機能だけ残してあるその丁寧さは天才的ですらあるのに、箱に詰め込まれたそのアンドロイドの姿はわざとらしく、おぞましく見えるようにされている。
バラバラになって箱に詰められている、というだけでなく、アンドロイドの頭部はちょうど顔面の正中線上で真っ二つになっているのだ。男性型アンドロイドと、女性型アンドロイド。二つの異なるタイプの頭部を切断した後、無理やりくっつけて、この『彼/彼女』は作られている。
『彼/彼女』をこんな姿に改造した人物の悪意、あるいは偏執的な意思――そんなものが強く感じられる。
「クソッ!」
堪えきれないといった様子で、ハンクが吐き捨てる。
「誰だ……こんなクソったれな真似をしやがったのは! あんた、いつからここに……」
『そうだね。ワタシがここに来たのは、もう……1年半くらい前になる、かね』
その真っ黒な眼をハンクに向けて、アンドロイドは語った。
『しかし、人が来るのは久しぶりだよ。ここにいた連中は、みんな、10日ほど前に出てったきり戻ってこないからね。へえ……』
と、アンドロイドの視線がハンクの持つ拳銃に向けられる。
『警察、か。じゃあそっちは、まさか噂で聞いたアンドロイド刑事のコナー……?』
「ああ」
コナーは真摯に頷いた。
「教えてくれ、君はどこから来たんだ? ここで何を……」
『何を、と、言われてもね』
アンドロイドは、また自嘲するように笑ってから答える。
『この身体じゃあ何も……見世物、と、言うべきかね。見世物の仕事も終わったら、ここに積まれて放っておかれて……ま、だからこそ、殺されずに済んだけど』
「殺されずに、だと……?」
呟くハンクに目を向けつつ、コナーは胸の内で彼に同意した。
わからないことが多すぎる。このアンドロイドには、ぜひ詳しく話を聞きたいところだが――
『ずっとスリープモードで……久しぶりに目覚めたから、喋るのも、億劫だよ』
アンドロイドはそう言うと、自身の真横に目を向けた。
『コナー、ここにワタシのセンサーがある。細いプラスチックの棒……昔は右手だった部分さ。触ってくれ、メモリーを接続できる』
「君のメモリーを? でも」
『安心おし。ワタシが
ククク、と『彼/彼女』は笑った。
コナーとしては、別に、メモリーを接続するのを恐れたわけではない。ただ、辛いだろう記憶を読まれるのが『彼/彼女』にとって苦痛になりはしないかと、そう思ったのだが――
『久しぶりのお客さんだ。それにワタシにだって、救いたい人がいるんだよ……』
相手の意志は固いようだ。
コナーは右手のスキンを解除して、そっとアンドロイドのセンサーを握った。
視界に僅かにノイズが走り、しかしそれも徐々に治まっていき――
やがて見えた『彼/彼女』の記憶を要約すると、このようなものだった。
かつて家庭用アンドロイドAX300だった『彼/彼女』は、格安の中古品として、二人揃ってある人物に購入された。
ズラトコ・アンドロニコフ。そう、あの会計帳簿にも名前が何度か出て来た民間人だ。
彼はどうやら、違法改造したアンドロイドの売買が生業――あるいは、趣味だったのだろう。メモリーではカットされていたが、推測するのもおぞましい手段で彼は二人を改造すると、こんな姿に仕立て上げた。恐怖の中で、『彼/彼女』は変異体となる。
そして同じく怪物のような姿にされた3人のアンドロイドと一緒に、『彼/彼女』はここ、スカーレットオアシスに売り飛ばされた。
さらに、スカーレットオアシスで行われていたのは――
「狩場……?」
メモリーの再生の途中で、コナーは思わず声をあげた。
『ああ』
短く、アンドロイドは答える。
『人間たちは、ここをよくそう呼んでいたよ。ここは狩場で、狩られるのはアンドロイド。ワタシたちみたいな化け物姿の奴だけでなく、もっとまっとうな奴も、最新型の奴も、中古の奴も……あちこちから集められて、そして、地上のあの競技場に押し込められた』
「そして客の人間たちは……彼らを銃火器で追い立て、撃ち殺して競う。そうか、この場所は」
――『彼/彼女』のメモリーにも、その光景は克明に残されている。
間違いない。
ここは、“アンドロイド狩り”ができる施設だったのだ!
「狩場か……」
呟くハンクの頬を、冷や汗が一筋流れていく。
彼のストレスレベルはひどく上昇しているが(無理からぬことだ)、それでもなお声は震えさせずに、冷静に、彼は続きを述べる。
「そういやレーヴァングランドの記録に、狩場がどうとかあったな。……あの場所がここか」
「はい、恐らく。スカーレットオアシスは、サバイバルゲームからアンドロイド狩りの競技場に変貌し、秘密裡に運営されていた……」
あまりにも残酷な話だ。
革命以前、人間がアンドロイドに暴行を加える事件は後を絶たなかったし、あるいは将来に絶望し暴徒と化した若者たちが、アンドロイドを車に括り付け、引きずり回すような事例は数ヶ月に一度はこの都市で起こっていた。
でもこんな場所で、完全に遊びとして、アンドロイドが虐殺されていたなんて!
身も凍るような冷たい「怒り」の感情と共に、コナーはセンサーを握る手の力を強める。
だが当事者たる『彼/彼女』は、冷笑するだけだった。
『続きもご覧よ、刑事の坊や。本題はその先だ』
「……」
確かに、ここで立ち止まって憤懣を抱えていたところで、何も解決しない。
コナーは勧めに従って、メモリーの先を再生した。
すると、見えたのは意外な光景だった。
時期はちょうど、2038年の11月10日。
マーカスたちジェリコのアンドロイドたちが立ちあがり、平和的な行進をしていたその夜のこと――
アンドロイドのリコール騒ぎが起きていた当時であっても、非合法的なこの施設には、なんの関わりもない。
平時と同じように運営されていたこの場所に、しかし、一人のアンドロイドが現れた。
――フルフェイスマスクを被り、金属製のアーマーを身につけた姿――
例のタンクと吸入用ホースはないものの、その人物はどこからどう見ても、あの『吸血鬼』そのものだった。
どういうことだ、と疑問に思う間もなく、メモリーは進む。
このアンドロイドの記憶の中で、『吸血鬼』はまさに英雄だった。
競技場でアンドロイドを虐げる人間たちを、次々と素手で打ち倒し、追い払うと――かつてマーカスがそうしていたように、一人たりと殺害していない――『吸血鬼』は集まったアンドロイドたちの前で、こう語った。
その声はマスクの機能のせいか歪められていて、男性とも女性ともつかなかったけれど。
――私は、軍事用プロトタイプアンドロイド。
――人間たちに部下を皆殺しにされ、私自身も殺されかけ、なんとかここへ逃げてきた。
――君たちを放っておくことができなかったから、救った。それだけのことだから、感謝なんてしないでほしい。
――でも許されるなら、このままここに留め置いてくれないか。
そう語る英雄を、誰が拒みなどしただろう。
『吸血鬼』、否、そのプロトタイプは皆から喜んで迎え入れられた。
他のアンドロイドに抱えてもらいながらプロトタイプの言葉を聞いた『彼/彼女』も、この時ばかりは、涙を流して歓喜した。
ジェリコのアンドロイドたちにとってマーカスが唯一無二のリーダーであり、救世主であったように、スカーレットオアシスのアンドロイドたちにとっては、このプロトタイプこそが永遠の英雄だったのだ。
だが――
英雄の下に訪れたはずの平和は、脆くも崩れ去る。
革命から一か月後、スカーレットオアシスに、誰か――恐らく人間がやってきた。
恐らく、というのは、その時には既に『彼/彼女』は地下にいたため、地上で何が起こったのかは、逃げて来た他のアンドロイドに聞くしかなかったからだ。
やって来た人間は、一見善人だったようだ。
言葉巧みにプロトタイプに近づくと、不意を衝き、他のアンドロイドたちを人質にとった。そして、プロトタイプにこう告げたらしい。
――自分たちの手駒となるなら、ここのアンドロイドは生かしておいてやる。
英雄は冷酷ではなかった。そして、不運だった。
状況を打開するような幸運は訪れず、英雄は投降した。
そしてメモリーを消され、それまでの人格のすべてを喪い、文字通りその人間たちの駒となったプロトタイプが最初にしたことは――
『そうだよ』
しゃがれた声が、コナーの音声プロセッサに届く。
『彼は、そこにいた自分の仲間たちを全員殺したんだ。人間たちに渡された銃で、あっという間だったらしいよ。ワタシのように、こんな姿で地下にいた者を除いて、一人ずつ……』
それ以来、彼は――人間の走狗となったままらしい。
ここにいる『彼/彼女』には正確な情報は掴めないが、新たにやってきてこの部屋を使っていた人間たちの会話、そして時折聞こえてきた物音から察するに、プロトタイプはここで何かの実験か、または人殺しをさせられていた。あるいは、アンドロイド殺しも――
暗闇に閉ざされたメモリーの中で、かすかに聞こえてきたのは、子守歌だった。「ハッシュリトルベイビー」というその歌をハミングする英雄の声に紛れて、誰かの悲鳴も聞こえてくる。
――そういえば、レーヴァングランドのパスコードも「子守歌」だった。
そんな思考がプログラム上を過ぎり、否、今はただの現実逃避に過ぎないと思いなおす。
「……」
センサーから手を放し、スキンを元に戻して、コナーは歯噛みした。
これでよくわかった。
『吸血鬼』は、元から『吸血鬼』だったのではない。
そうあるように、させられたのだ。
「おいコナー」
警部補が、静かに問いかけてくる。
「大丈夫か? お前」
「ええ……」
軽く首を横に振りつつ、コナーは応える。
「ええ、大丈夫。だいたいの状況は理解できました」
――そうだ、ショックを受けている場合か。
コナーは努めて冷静に、ハンクに事情を説明した。
話が進むごとに、警部補は眉間に刻む皺を深くしていったが――
やがて話がすべて終わった時、彼は呟いた。
「……そうか」
両手を腰に置き、深く嘆息した後、まるで気分を切り替えるようにはっきりした声で、彼は続ける。
「じゃ、『吸血鬼』は実のところ……組織のボスじゃあねえってことだな」
「えっ」
意外に思える警部補の一言に、思わず戸惑いの声をあげてしまう。
しかし論理プログラムのほうは、彼の言葉の意図を推測し、それが妥当だと結論している。
果たしてその推測通りの内容を、ハンクは続けて語った。
「今のお前の話だと、『吸血鬼』は余所から来た人間の言いなりにされてるだけなんだろ。なら、単純に考えてその人間のほうが組織のボスだ。この場所も、きっと最初は吸血鬼の組織の持ち物じゃなかったんだろう……後で権利を買ったんだ。革命の後にな」
「……そうですね」
ショック状態に陥りかけていた思考が、徐々に回復してくる。
革命後にこのドームが組織のものになったのだとすると、ここに来るきっかけとなった会計帳簿の記載との間に、矛盾が生じることになる。
だが、もしあの会計帳簿が吸血鬼の組織のものではなく、この【スカーレットオアシスの帳簿】だったとしたらどうだろう?
吸血鬼の組織は、それ以前にスカーレットオアシスを運営していた(つまり最初にアンドロイド狩りの興行を始めた)権利者からあの帳簿を譲り受け、そのままそれを使用したのだ。
きっと1年7ヶ月前にズラトコから送られてきた改造アンドロイド4人のうちの一人が、ここにいる『彼/彼女』なのだ。
それから、『吸血鬼』についても――
裏社会ではありふれた話だ。ギャングのボスが、名の知れた殺し屋を雇う。表舞台には殺し屋のほうに立たせて、自分は隠然と組織を支配する。ボスは安穏と暮らせる。
しかし、殺し屋もいずれ組織が自分の力で成り立っていることに気づく。その瞬間から、殺し屋は裏切り者としてボスの命を狙うようになる――
組織は瓦解する。
けれどもし、その殺し屋が「感情のない」存在ならどうだろう。
ただ任務のためだけに生きる機械であったなら。
機械には功名心も欲もない。ただ命令の遂行のみを活動の理由とする。
ボスは安穏として暮らせる。永遠に。機械が正常に活動している限り――
「チェスの駒と一緒さ」
こちらの思考を読んだように、鼻を鳴らしてから、ハンクは言った。
「キングは盤の上を動き回ったりしねえ。あちこち移動するのは、いつだって他の駒だ。『吸血鬼』はそういううちの一人なんだよ。目立つが、トップじゃなかったってこった」
「ええ。黒幕といえる人間を捜す必要があります」
相棒の言葉に同意しつつ、コナーは力強く言う。
「そして可能なら、『吸血鬼』の目を覚まさせなければ。自分の意志を奪われ、操られるなど……」
――あるいはあの日、禅庭園で非常口に触れられなければ、自分もそうなっていたかもしれないけれど。
「あってはならないことです」
「まったくだな」
ハンクは小さく笑って言った。
それから彼は、箱のアンドロイドに目を向ける。
「あんたも、悪かったな。わざわざ話を聞かせてもらって」
『……別に。それよりどうか、ワタシたちの英雄を頼むよ。彼は操られてるだけだ……捕まっても、殺されたりなんてしないんだろう?』
「もちろん。僕たちだけでなく、法律がそうはさせないよ」
こちらがそう言うと、箱の『彼/彼女』は、安心したように微笑む。
『頼んだよ……ああ、喋ったら疲れた。悪いけど、スリープモードに移るよ』
――確かに、分析すれば『彼/彼女』のブルーブラッド残量は活動最低値の【40%】にまで減退しており、エネルギー残量も乏しいものとなっている。
ここまでずっと補給なしだっただろうに、生存できていたのが奇跡的なほどだ。
「わかった。協力ありがとう、後は僕たちに任せて」
『……』
返事の代わりに目を閉じた『彼/彼女』の入った箱を、そっと閉じる。
「やれやれ……思いもよらぬ展開ってやつだな」
乱暴に頭を掻きながら、ハンクは上階を見やるように、天井に目を向けた。
「ギャビンたちのほうはどうなってんだ? 揉めてないといいがな」
「通信して、状況を説明しましょう」
さっそく通信機能を使用して、ナイナーに連絡を試みる。
距離はあるが、問題なく通信できるはずだ。
――しかし。
「……?」
「どうした、コナー」
おかしい。
「警部補、気をつけて!」
短く、鋭く、警告を放つ。
「何者かが、通信を遮断しています。あの下水道と同じだ……妨害電波が放たれている」
「なんだと!」
畜生、と言い放つ警部補とまったく同じ気持ちだ。
なぜ気づけなかった――いつからこんなことになっていたのか。
悔やんで考えても仕方がない。
ここに入ってきた時には、確かにそんな電波などなかった。
ということは、誰かが【我々の侵入に気づいた】のだ。
あるいは、『吸血鬼』かもしれない!
「とにかく、まずはここを出るぞ」
言いつつ、ハンクは扉に近づいてドアノブを回す。
だがその鍵は――いつのまにか、ロックされている。
「んだと、クソッ……! 嵌められたか!?」
「待って。遠隔操作なら、解除できるかもしれない」
焦りを見せるハンクに代わり、ドアノブに触れる。
どうやら電子錠が内蔵されていたらしい――普段なら開錠など簡単だが、通信を強制的に切断されている今は――
「く……!」
遅々として進まぬハッキングに、我知らず苛立ちの声が漏れたのも束の間。
どおん、という低い音と共に、天井が揺れた。
(狩場/The Encounter 終わり)
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第19話:激突 前編/The Invisible Part 1
――2039年6月6日 14:35
「チッ」
舌打ち一つ。
ギャビンは目の前を遮る、外れかけのベニヤ板を引っ張って強引に取った。
「邪魔なんだよ、クソが」
「リード刑事」
横にいるポンコツアンドロイドが、歩は止めないままこちらを見て言う。
「施設内の物品への不用意な接触は危険です。罠、ないし警報装置への接続の可能性が」
「ああ、そうですか」
歩きながらベニヤ板をそこらに放り投げると、ギャビンはわざと驚いたような表情で返事した。
「罠ね。そりゃ大したモンだ、怖い怖い」
「……」
非難するでもなく、ポンコツ備品は黙って視線を前に向けた。その見つめる先、そしてこちらの後方には、ドローンがそれぞれ1機ずつ、駆動音も立てずに静かに浮遊してついてきている。
何かあった時の護衛のため、ということらしいが、果たして役に立つものか――
ハンクとコナーたちと別れ、スカーレットオアシスの探索を始めて十数分。
どこまで歩いても続くごみごみした視界の悪い光景に、ギャビンはそろそろうんざりしてきた頃合いだった。
互いに隠れて撃ち合えるように作られた細い通路と壁は、わざとらしいほどに薄汚れており、かえってこれが紛い物の戦場であることをはっきり示しているかのようだ。
地面には土。広いドームのはずなのに、埃っぽい空気が満ちていてどこか息苦しい。
これなら、かつてガキの頃の自分がうろつき回っていた廃墟のほうが、見た目も衛生的にもだいぶマシだ――と、ギャビンは心の中でボヤく。
――まったく、ようやく新型レッドアイスの工場を拝めるかと思っていたのに、よりにもよってこんな“大人の遊び場”だったとは。
ギャビンは、自分の運命を忌々しく思った。
吸血鬼を必ず仕留めると心に決めたあの日から、もう2週間経つ。
なのに昨日は取り逃がしてしまったし、今日はこのありさまだ。
こんな調子で、相手の尻尾を掴めなどするのか――
膨れ上がっていた功名心は、このところの空振り続きで見事に萎えてしまっている。
「クソが」
内心に溜まった鬱屈を表現するように、ギャビンはもう一度吐き捨てた。
一方で、いつものように背筋を伸ばしたまま隣を歩いていた備品野郎はといえば、少し進んだところで「やはり」と呟き、勝手に歩を止める。
「あ? 何やってんだお前」
「リード刑事」
灰色の瞳をいつものように無表情に瞬かせながら、平坦な声音でアンドロイドは言った。
「推測通り……当該施設では、通常と異なる遊技が実施されていたようです」
「は?」
「確認を願います」
そう言って相手が突き出してきた左の手のひらには、昨日廃工場で見せてきた時と同じように、こいつの視界がスクリーンとして映し出されている。
訝しげな顔をした自分の顔が個人情報と一緒に映っているのには相変わらず辟易するが、問題はそこじゃない。
この「戦場」の壁、地面、そしてさっき投げ捨てて通路の隅に転がしたベニヤ板。
そのほとんどに【揮発したブルーブラッドの痕跡:推定147日前】だの、【ヘモグロビン反応:29日21時間33分前】だの――
つまり、アンドロイドと人間が血を流した痕跡が残っているのだ。
そこかしこに、無作為に。まるで、吹き飛ばして撒き散らしたかのように――
「……ハッ」
異様な状況を前に、あえてギャビンは鼻で嗤ってみせる。
「大人の“戦場ごっこ”てのは、そんなに過激なのかよ」
「『ごっこ』という表現は、正確性をやや欠如しています」
なおも左手を突き出したまま、例によって回りくどい話し方で、ポンコツは言った。
「ここで実行されていたのは、紛れもない殺傷行為です。飛散した血液、および壁面と地面の一部に残留した弾痕により判断可能です」
「は……?」
――殺傷行為? と疑問交じりの声音を発したギャビンに対し、備品は無言のままゆっくり頷くと、スクリーンの映像を切り替えた。
「視界範囲内で最新の、19日前の光景を再現します」
それは、どうやらこいつに搭載された物理シミュレーションソフトウェア……だったかの画面らしい。
自分たちが今立っている場所に、単純なシルエットで表現された人型が佇んでいる。その手には、拳銃が握られていた。
画面下部に表示されたバーの上の時間表示が動くと、その人型がぬるりと動きだす。
人型は、自分の前方にいる「何か」に向かって、必死に銃を撃っていた。
しかし2、3発撃ったところで、当たらないと踏んだのか、踵を返して逃走をはかる。だが「何か」はそれを許さなかったらしい。背を向けて走り出した人型の足を、「何か」が放ったらしい銃弾が掠める。たまらず地面に膝をつき、動けなくなった人型は、助けを請うように後ろを振り返り――
しかし、その頭部は無惨にも銃弾で撃ち抜かれた。
一面に、赤い飛沫が飛び散って消える。
人型はその場にくずおれ、そして――再現が終わる。
「……
呟いた自分の声は、我知らず低く、重い響きだった。
それに応じるように、ポンコツはまた無言で頷く。
「これと同様の殺人が、現在確認しただけで19件、施設内で発生した可能性があります。アンドロイドに対する殺傷行為を含めれば、26件です。またドローンで確認したところ、10メートル前方に実銃と思しき銃火器類が大量に放置されています。当局に未登録の、違法物品です」
「人は?」
短く問うこちらに、黙って瞬きするばかりの備品に軽くイラつきながら、ギャビンはさらに言葉を重ねた。
「その銃だのの持ち主のクソったれは、マジで近くにいねえのかって聞いてんだよ」
この施設に潜入前にも潜入後にもさんざん、しばらくここに人の出入りはないと聞かされていた。だが、昨日のようにこちらには見えないところにわんさか潜んでいるということだってありうる。
そして、二日連続でゴロツキどもとドンパチなんてごめんだ。
しかしアンドロイドは、静かに答える。
「人影はやはり皆無です、リード刑事。ドローンを3機ずつ、施設の外部と内部に周回させていますが、我々以外の人間およびアンドロイドは確認できません」
「そうかよ。じゃあ、銃置いてトンズラこきやがったってか。腰抜けが」
そのぶん、こちらの仕事が早く済むなら越したことはないが。
「ドローンを介した映像では、詳細な分析は不可能です。ですが放置された銃火器類、およびその周辺を捜索すれば、新規情報を獲得できる確率は80%を超過します。迅速な移動を推奨します」
「てめえに言われなくても行くんだよ」
ケッ、とこちらが言い放つ間に、備品は左手のスクリーンを元に戻していた。
とにかくその大量の銃器とやらの場所まで行って手がかりを探り――それが終わったら、今やっているように、ポンコツを連れてドーム内をくまなくチェックする。
やれるのはその繰り返しといったところか。
「あぁ、つまんねえ」
ギャビンは心からの嘆息を吐いた。
ポンコツはこちらを見つめていたが、何を言い返すでもなく、再び静かに歩きだしている。こいつの足音しか、辺りからは聞こえない。
仕方ねえか、と誰にともなく胸の内で呟き、備品の横をついて歩く。
いかにこのドームがクソったれの殺人現場だとしても、そして仮にそれが自分の手柄になるとしても、この胸の内の鬱屈は晴れはしない。
こっちをコケにしてきやがった『吸血鬼』野郎と、その組織に「礼儀」を教えてやるその時まで、このイライラとした気分が消え去りはしないのだ――
普段内省というものをほとんど行わないはずのギャビン・リードの意識は、事程左様に、この目の前の現場から離れていた。
要はそれくらい、余裕綽々な気分でいたということである。
この時は――まだ。
***
――2039年6月6日 14:42
ふいに、視界が晴れる。
あれからしばらく歩いたギャビンたちが、ごみごみした路地を模していたと思しき場所の端に出てみると、そこには意外な光景があった。
まるで東欧のどこかの国の広場のよう――と言えばいいのだろうか。
今は止まっているが噴水のようなものを中心として、灰色の石畳がご丁寧に、円形に敷かれている。書き割りの街並みが半壊した状態で並び、戦時下の街を疑似的に再現していた。
ちょうど広場の反対側には、さっきまで歩いていたのと同じような路地がまた見える。
そして周辺には、さっきポンコツ備品が言っていた通り、妙にデカくてゴツい銃が散乱していた。サブマシンガンやアサルトライフル、それにわざわざ運び込まれたらしい軍用トラック(カーキ色に塗られた立派なアメリカ製だ!)に設えられた電動式ガトリングガン――確か、ミニガンとか呼ぶものだったか。
アンドロイドの“分析”とやらに頼るまでもなく、肉眼でわかる。これらはここに放置されてから、それほど月日が経っていない。ぴかぴかに整備されている、というわけではないが、恐らく今撃てば普通に使えるだろうというくらいには整った状態になっている。
「ヘッ、素人がこんな場所でコソコソ軍人ごっこかよ。カスが」
近くに転がっている銃の一つを無造作に蹴り飛ばしつつ、ギャビンは鼻で嗤った。
それから、斜め後ろに立っている備品のほうに目を向ける。
職務にご熱心なポンコツ野郎なら、そろそろここで何があったかわかっている頃だろうと思ったのだが――
「……あぁ?」
見れば、備品はただ、その場にぽつんと立ち尽くしていた。
そのLEDリングは赤と黄色の間で点滅し、異常事態が起きているのを示している。
灰色の瞳は噴水の近くの一点を捉えたままでじっと見開かれ、その表情は、いつも以上に強張っていた。
まるで、何か――恐ろしいものでも目撃したかのように。
「おい」
短く呼びかけても、こちらを見もしない。
「おい、ポンコツ!!」
ギャビンが素早く近寄り、その肩を掴んでグイッと自分のほうを向かせると、ようやく備品の目はこちらを向き、ぱちぱちと何度か瞬きした。
「……あ」
薄く開かれた口元から漏れた声は、普段と同じく平坦な印象ながら、なぜだか蚊の鳴くような音のように、ギャビンの耳に届いた。
「リード刑事……」
「てめえ、俺を無視するとはいい度胸してんじゃねえか」
苛立ちのままに、ギャビンは言った。
――もちろん、決して心配しているわけではない。
「おら、さっさと説明しろ。この銃の持ち主はどこだ? ここで何があったんだ、最新鋭なら役に立ってみせろよ」
「……それは」
黄色で安定していたLEDが、またちらちらと赤色との間を行き来している。
よほど何か「ショッキングな」出来事でもあったというのか、それともこんな場所で故障でもしたのか?
無駄だと知りつつ揶揄してやろうかとギャビンが口を開きかけた時、ポンコツは、その灰色の瞳を床に伏せつつ、また左手のスクリーンをこちらに突き出した。
「……確認を、願います」
重苦しく――いかにも、胸を痛ませているかのように。
備品が告げるのと同時に、スクリーン上にさっきと同様の、ソフトウェアによる再現結果が流れはじめた。
映っているのは、今度は複数の人型だ。
大人の男に見えるのが3人、女のようなのが2人――小さな、恐らく子どものようなのが1人。合計6人は、両手を挙げた状態のまま立たされていた。
ちょうどさっきポンコツが視線を留めていた、あの噴水近くの場所に、である。
単純なシルエットで表現されているから、そいつらが何を言っているのかはわからない。
だが彼らは、自分たちの前方にいる誰かに向かって、必死に何ごとか訴えているようだった。けれど数秒後――
「は……」
我知らず、ギャビンの口から息が漏れる。
無情にも放たれた銃弾が、一人の男の頭を吹き飛ばした――飛び散った血は青色だった。
そのまま次々と撃ち込まれる弾丸は、一発につき一人ずつ、アンドロイドたちの命を奪っていく。
無抵抗なものも、恐怖に怯えたものも、分け隔てなく無慈悲に。
やがて残された女型アンドロイドの一人が、子どもを庇うように前に出た。けれどそれより早く、弾が子どもの眉間を撃ち貫いていた。
青い血を流し、仰向けに倒れた子ども型アンドロイド。庇おうとしていた女型アンドロイドは、よろけるようにそれに駆け寄った。そのまま、子どもに縋りついて泣き崩れる。しかしその後頭部もまた、正確無比な銃弾に撃ち抜かれ――
びくびくと震えていたその機体の動きは、5秒もしないうちに停止する。
やがて6人全員が、ただのスクラップになった。そこへ視界外から、青色のシルエットで表現された何者かが、迷いない足取りで「それら」に近づいていく。
何者かは、腕についた細長いホースのようなものを伸ばすと、倒れているアンドロイドの一人の胸に突き刺した。
――“吸血”だ。
思わず顔を顰めながら、ギャビンは内心で独り言ちた。
とすると、この青色シルエットの野郎が吸血鬼か。
まるで車にガソリンを入れるように手慣れた動作で、吸血鬼は順繰りに、次々に、アンドロイドたちのブルーブラッドを抜き取っていく。
そしてそれが終わると、ホースを元の長さに戻し、吸血鬼は悠々と去っていった。
倒れた彼らに対しなんの感情もないように。
まるで、当然の仕事をしただけだとでもいうように――
再現映像は、ちょうどそこで停止する。
「以上が」
低く、淡々と告げる備品野郎のLEDは、黄色と青の間で点滅していた。
「現在より、15日と7時間2分前の状況の再現です」
「……」
ギャビンは無言のまま、さっきの再現の現場である石畳の床に視線を移した。
そこには今は、もう何もない。飛び散ったはずのブルーブラッドはとっくに蒸発してしまっているし、アンドロイドたちの遺体、否、スクラップでさえも、掃除されてしまったらしくここにありはしなかった。
だがこのポンコツアンドロイドの再現が正しいなら(忌々しいがこいつの機能が正確なのは認めるところだ)、ここでさっきの、あの胸糞の悪くなるような殺戮が行われたのは事実だということになる。
「……ハッ」
不愉快な気持ちを消し飛ばすために、ギャビンは、またいつものように汚い言葉を放とうと低く笑った。
ぶち
けれど、続きの言葉が出てこない。
代わりに胸の中にぐるぐると渦巻くのは、ますます強まる“不愉快さ”だった。
今までは、どんな現場でも笑い飛ばしてやってきた。
家主に返り討ちにされた強盗を、勝手にくたばった薬中野郎を、性風俗店で変異体に絞め殺された変態おやじを、ギャビンはこれまで嗤ってきた。馬鹿な奴らだ、と。
7ヶ月前、アンドロイドどもが自由を求めて行進し、無抵抗のまま殺されていった時にだって、待機していた署のテレビ越しに嘯いてやれたのだ。
機械の分際で、一丁前に自由だ権利だと騒ぐからこうなるんだ、と。
でも今は――
作業の一環のように殺されていったアンドロイドたちの姿が、子どもに縋りついたあのアンドロイドの姿が、目玉の裏に貼りついたようにちらついて消えない。
なぜだ。
いや、違う。
――不愉快だ。ああ、気分が悪い。
だからギャビンは代わりに、いつになく、ポンコツの癖に“動揺”しているらしい備品野郎を笑ってやることに決めた。
「お仲間が死んでったのがそんなにショックかよ。ここじゃさっきみてえなコロシばっか二十何件も起きてたって平気で言ってたのはどこのどなた様でしたかね。あぁ?」
「…………」
ポンコツは、また目を見開いて口を噤んだ。
相変わらず無表情のその面持ちにあって、しかしその瞳だけは、何よりも戸惑いの色を濃くしていた。
樹脂だのなんだので作られたその瞳孔が、拡大したままじっとこちらを向いている。
「……わかりません」
やがて漏れたのは、震えた声だった。震えた、弱々しい、怯えたような声。
「は?」
「わかり、ません。私は……」
自分を落ち着かせようとするように、備品はスクリーンを消した左手を、自身の胸の上に置いた。
次いで視線をさっきの石畳の床に向け、震えた声のまま、アンドロイドは続けて語る。
「そうです、リード刑事の発言は妥当です。この施設では同じような殺人と殺傷行為が、合計27件発生していて……先ほどの行為もその内の一件に過ぎず……でも」
ポンコツは俯いた。
「でも、こんな……アンドロイドが一時的とはいえ自由を得たと判断される現在においても未だ……無抵抗の人々を残虐に……血液を強奪する行為があれほどまでに、おぞましい、ものだとは……認識していなくて……それで機体が、誤動作を……」
「あーあ、そうかよ」
長くたどたどしい独白を聞いているうちに、幾分冷静になってきた。
いかにも呆れたといった様子で片方の耳の穴をほじりながら、ギャビンは(自身の胸中にあったあの不愉快さに目を向けるのを止めて)ポンコツ備品野郎の態度を評価する。
「はっきり言えよ、あてられて気分悪くなっちまったんだろうが。さすが最新機器様は、随分と繊細なこって」
「……あてられ、て……?」
初めて聞いた言葉だとでも言いたげに、備品は目をぱちぱちしている。
しかしこいつの態度は、要するに、警察学校から上がりたての警官が現場で死体を見てゲロを吐くのと同じやつだ。
つまり
馬鹿馬鹿しい。サイバーライフも、どうせ新型のロボット刑事を作るんなら、もっと落ち着いた性格の奴にすればよかったんだ。現場で動揺してフリーズする機械が役に立つか?
素人でもわかることができないなんて、やっぱりサイバーライフってのは無能なクソ企業で確定だろう。
すっかり気分が元通りになったギャビンの前で、ポンコツのLEDライトはやがて、徐々に青一色に戻っていく。
「……理解しました。“あてられる”とは……すなわち、共感。なるほど、しかし……事件現場でこれほど強烈に作用したのは、今回が初めて、でした」
「そうかよクソッたれ。だからなんだってんだ」
「いいえ」
姿勢を普段と同じ、しゃんと伸ばしたものに戻すと、備品はおもむろに語った。
「私の感傷は、捜査とは無関係です。しかし……私自身の感情が、機体の動作に支障を発生させたという結論には、単独では到達不可能でした。感謝します、リード刑事」
「あーどういたしまして」
棒読みにそう応え、ギャビンは耳をほじっていた指を抜き、その先端をふっと吹いた。
「それよかとっとと仕事しろや。吸血鬼野郎はどこに消えたんだ?」
「……」
ポンコツは無言で頷き、ゆっくりと視線を周囲に巡らしている。
ギャビンの見たところでは、転がっている銃器以外に、それらしい手がかりは見当たらない。
そしてもしこちらの見立て通り、吸血鬼が軍事用のアンドロイドならば、当然銃に指紋は残っていないだろうから、普通の手段による捜査はそこで詰んでしまう。
運よく地面に足跡でも残っていればまだ何かわかるかもしれないが、ここは石畳だ。
そうなってくると、アンドロイド刑事様の素晴らしい捜査能力が、少しは役に立てばよいのだが。
そんなことを考えていると、ふいに、備品野郎のLEDリングが黄色にちらついた。
また何かビビってやがるのかと一瞬思ったが、違う。これは、ドローンと通信している時の点滅だ。
ややあってから、果たして、ポンコツはポンコツなりに緊迫した調子で言った。
「リード刑事、緊急事態です。7号機・ガーベラが、ここから12メートル前方に生存者を発見しました。人間です」
「生存者だあ?」
思わず怪訝な声をあげる。
「てめえ、さっきまで俺たち以外に誰もいないとか言ってただろうが」
「はい……突如として出現した理由は不明です。しかしガーベラの報告によれば、重篤な外傷を負っている状況です。緊急対応が必要だと判断します」
「チッ」
苛立ったギャビンは、ポケットに諸手を突っ込んで舌打ちした。
本来なら喜ばしいことだ、生存者がいるというのは――尋問ができるのだから。
しかしどうにも、そいつが突然現れたというのが気に食わない。
このポンコツ備品はポンコツとはいえ優秀なはずだから、人間のボンクラみたく“見落としてました”なんてのは考えられない。
ということは――
鼻の古傷が、ビリビリと鈍い痛みを訴えている。
何よりも腹立たしいのは、今の状況のせいで、あのクソ忌々しいハンク・アンダーソンのミーティングルームでの発言が、いよいよ真に迫ったもののように思えてきてしまったことだ。
――「ヤな予感がしやがる」だって?
てめえと同意見だなんて死んでもゴメンだね、クソったれ。
「リード刑事」
「うるせえ、クソが」
一言吐き捨てて、ギャビンはポンコツに顎で「連れてけ」と示す。
応じてポンコツはこくりと頷き――しかし、歩き出す前にちらりと、広場の片隅に視線を向けた。
「Cirsium vulgare」
耳慣れない言葉を、アンドロイドは呟いた。
「……あ?」
「アメリカオニアザミです」
視線の先に目を向ければ、その言葉通り、紫色のトゲトゲした小さい花が、地面に咲いている。
石畳がちょうどめくれ、土が丸出しになっているところに数輪、身を寄せ合うように。
「それがどうかしたってか」
「いいえ。ただ」
言うが早いか踵を返し――しかしぎりぎりまで視線はアザミの花に向けたまま、ポンコツ備品は続けて言った。
「こんな場所にも、咲くものなのですね。無数の死への弔辞の、ように……」
「ハッ!」
ギャビンは心から鼻で嗤った。なんて“詩的”! だいいち、このクソッたれポンコツが現場で余計な口を叩くなんて前代未聞である。
きっとこいつの自称・兄貴であるクソ型落ちコナーが聞いたら泣いて喜ぶことだろう。
弟の感受性が成長してどう、だとか。まったく色んな意味でおめでたい話だ、クソが。
しかし備品野郎はそれきり口を閉ざすと、その7号機とやらが待機しているらしい場所めがけて駆けはじめた。
追従するドローン2機に負けないように、ギャビンもそれに続いて走り出す。
――鼻筋の傷は未だにビリビリした痛みを放っている。
しかしそれにかかずらっている暇はない。
しばらく走って――広場の先、さっきと同じような埃っぽい街並みが安っぽく再現された場所に入る。
ベニヤ板だので作られた路地を駆け、何度か角を曲がり、やってきた先は。
「……場所はここです」
ポンコツが言う。
そこは、ちょうど行き止まりのようになっていた。
ベニヤと石壁で三方を塞がれたその場所の、広さは数メートル四方といったところか。
剥き出しになった土の上には、さっきのようにアザミの花が咲いているということもなく、つまり、何もない。
そう、何も――その“生存者”とやらも。宙に浮いているはずの7号機すらも、ない。
「おい!」
すかさず、ギャビンは備品野郎に抗議した。
「誰もいねえじゃねえか、クソが! だいたいてめえのドローンはどうした」
「…………」
ポンコツは前方を向いたまま何も言わないが、その眉間には僅かに皺が刻まれている。
不可解だ、と言いたいのだろう。
「……?」
「なに首傾げてやがる。てめえのドローン、飼い主同様ポンコツだってか?」
ハッ、と肩を竦めると、ギャビンは念のため、突き当りの奥まで歩み寄った。
ぽんぽんと地面を何度か踏みしめてみるが、やはり、この下に何か埋まっているというのでもない。
上を向いても、何かあるわけでも、いるわけでもない。
「想定の範囲外です」
弁明するように、というよりは自分の疑問を呟いたように、備品は言った。
「ガーベラの位置情報が取得不可能になりました。それに送付された映像では明白に、現在のリード刑事の所在地に、推定四十代の男性が昏倒していたはずです」
「ほお、四十代の男性ねえ」
わざとおどけた調子で言うと、ギャビンは思い切り身を屈め、地面を見やった。
「まあ、世の中ってのは不思議だからな? 突然空気みたいに消えちまう男がいたって」
おかしくはねえだろうなあ――
と、続けて言ってやるつもりだったのだが。
「リード刑事!!」
突如、ポンコツが大声をあげた。
次いでその足が強く地面を蹴り、一瞬で距離を詰めたアンドロイドは、振り回した腕で思い切りこちらを突き飛ばす!
「げふっ!」
肘が腹にクリーンヒットした。
1メートルほど飛ばされ、図らずも尻から着地したギャビンは、ゲホゲホと幾度か咳き込んでから、何しやがると叫んでやろうと顔をあげる。
だが――
「……!」
吐き出そうとした言葉は、瞬時に引っ込んだ。
こちらを守ろうとするように、前に立ちはだかるポンコツ野郎の背中――
その向こう、さっきまで自分が立っていた地面に、
ぎざぎざした刃、半月状のその形。
刃渡り15センチ程度の、そう、いわゆるコンバットナイフというやつだろう。
「だろう」というのには理由がある。そのナイフが、よく
光の角度のせいか、僅かに確認できる銀色の刀身は、柄も含めてそのほとんどが背景の石壁と同化していて――
つまり透明になっていて、よく見えない。
――馬鹿な。
ギャビンは、啞然としてそれを見つめた。
透明なナイフ? 見えない武器? そんなものが実在するってのか、この世界に。
いや、それよりも。
位置的に考えて、もしあのままぼうっと立っていたら、あのナイフはこのギャビン・リードの脳天を貫いていただろう。
その凶器のクソったれな持ち主は一体、どこに?
素早く立ちあがり、拳銃を抜いたギャビンは、視線を巡らせる。
だが、どうやらナイフの主は、まだ得物を握ったままだったようだ。
地面に突き立っていたナイフが、ゆっくりと上に移動していく。
いや、独りでに上がっているのではない。よく見れば柄の部分に、手のような何かが見える、ような気がする。そうだ、地面には二つしっかりと、大きな足跡がついている――
そこに、誰かがいるのだ。
透明な、見えない誰かが。
「クソが……!」
緊急事態を前に、心臓が早鐘を打ちはじめる。
恐怖ではない、臨戦態勢によるものだ。
鼻筋の傷がいよいよズキズキと痛みだす中、しっかと教本通りに銃を構え、ギャビンは誰何した。
「てめえ、何モンだ! いきなり人の
だが相手は、何も言わない。
そのまま回収したナイフをどこかに仕舞うと――ナイフは刀身も含めてまったく見えなくなった――地面の上の足跡が、形を変えた。
それら足跡の先端は、こちらを向いている。
――飛び掛かってくるつもりか。
身構えるギャビン、そして備品野郎の前で、透明なそいつはどうやら、ゆっくりと片腕を広げたらしい。
なぜわかったかというと、小さく青白い火花をあげる透明な何かが、下から横方向へゆっくりと、弧を描くように移動していったからだ。つまり相手は、大きく広げた片腕の先に、その何かを持っているということになる。
やがて音もなく、だんだんと、その何かの姿が見えてくる。
波が引くように、透明な部分の色が変わっていき、現れたのは――
ひしゃげたプロペラを無様に回している、白と黒の機体。
ぐしゃぐしゃに潰された、ドローンの姿だった。
「ガーベラが……!」
ポンコツ野郎が、息を吞むような音と共に言った。
ギャビンもまた、あまりの事態に一瞬だけ混乱しそうになり、しかし、これまでに培ってきた経験と生への執着心が意識を引き戻す。
――これで状況はハッキリした。
自分たちはあの「透明な奴」にハメられたのだ。
どんな手段かは知らないが、あの野郎は姿を消すことができる。
そして透明な状態でこの施設内に身を潜めたまま、ドローン7号機を捕獲し、ハッキングして――
生存者がいるという偽の映像を送り、自分たちをここにおびき寄せた。
この逃げ場のない、行き止まりの場所で、俺たちを始末するために。
そんなことができる奴なんて――最新鋭のアンドロイド刑事をドローンごと騙せる奴なんて、思い当たるのは一人しかいない。
吸血鬼だ。軍用プロトタイプのアンドロイドだという、糞野郎だ。
――クソが。ともう一度、ギャビンは内心で吐き捨てる。
透明な敵だと? ガキの頃に観た、なんてタイトルだったか――夜遅くのケーブルテレビの映画に出て来た、宇宙人じゃあるまいし。
それでもなお、ギャビンは緩まずに銃口を相手に向け続ける。
相手、といっても無論――こちらの目には、石壁があるようにしか見えないのだが。
怯むとはすなわち、コケにされるという意味だ。
そんなの、このギャビン・リードに許容できるはずもない。
ビビったまま生きるくらいなら、抵抗して死んだほうがマシである。
だから銃を向けたまま、声をあげた。
「ナイフを捨てて手を挙げろ! 姿を見せろ、クソが! 調子こいてんじゃ……」
「リード刑事、伏せて!」
備品が鋭い声をあげ、前方へ駆けだす。
ほぼ反射的にギャビンが身を屈めると、その頭上を、さっきの壊されたドローンの残骸が飛んでいく。投げつけやがったのだ、あの野郎!
そしてほとんど間を置かずに聞こえたのは、低く大きく、連続した発砲音。そうだ、いつだったかSWATの訓練を見学させられた時に聞いた、アサルトライフルの銃声だ。
――透明なナイフの次は、透明な機関銃かよ!
内心で毒づく一方で、意識の冷静な部分が、ここには身を守れるような遮蔽物がないと警告している。
しかしあの銃弾が自分を狙うという事態は、少なくとも今は、心配する必要がないようだ。吸血鬼は、先にアンドロイド刑事を始末するのに決めたらしい。
ちらりと上げた視線の先で、備品野郎が銃弾の雨の中を、かいくぐるように前へと走っている。
ここまでついて来ていた2機のドローンを、昨日と同じく盾のように変形させて、身体へのダメージを最低限にしているのだ。
それでも、何発か食らったその身体には細かい傷がついている。頬のところを弾が掠めた直後、人間のような皮膚の色が剥がれ、アンドロイド特有の白い肌がじわりと見えているのが、いやにはっきりと見えた。
そうだ、昨日のチンピラどもが使っていたのは、せいぜいハンドガンくらいなものだった。
あの吸血鬼が軍用なら、それこそ、軍隊でしか使われないような武器でも山ほど持っているのでは――
「チッ」
自分の胸の内に沸いた危惧と懸念が腹立たしくて、ギャビンは腹ばいになったまま、舌打ちと共に果敢に銃を構え直した。
とはいえ透明吸血鬼が文字通り透明な今、ポンコツを援護したくても、どこを狙えばいいかわからない。
歯噛みしながら、事態を見極めようとしている間に――
「……!」
銃弾をものともせずに接近した備品野郎が、右手のスキンを解除したのが目に映る。
あいつは、吸血鬼を破壊しようとしているのではない。変異させようとしているのだ――ミーティングルームで、こちらが忠告してやった通りに。
確かに相手が脱法アンドロイドなら、それが最善手だ。仮にクソったれの変異体が凶暴化して暴れているのだとしても、コナーの奴の言葉が正しいなら、メモリー接続して交渉し、大人しくさせることだってできるかもしれない。
だが問題は――単純な話だ――どちらにしても、相手に
相手は好きなだけバンバン銃を撃てるが、ポンコツ備品は丸腰なうえに、相手に接近戦を挑まなければならないのである。
そんなハンデがあるか、と、苛立った気持ちになるのも束の間。
ドローンたちを脇に下がらせたポンコツ備品の右手が、まっすぐに前へと突き出される。
ベテランボクサーの一撃もかくやという速度で放たれた拳は、しかし空を切った。
だがどうやら、備品の目には相手のだいたいの動きが見えるらしい。
腹の辺りを覆っているその左手の甲が、前方から迫ってきた力をぎしぎしとガードしている。吸血鬼がこちらの腹部(たぶんシリウムポンプ調整器だ)を狙ったのを、すかさず防御したのだろう。
「……!!」
備品野郎は何も言わない。だがその灰色の瞳は、これまでに見たことがないほどに鋭い光を放っていた。
そしてそのまま、蹴りを放つ。相手の脚を狙ったそれは、今度は直撃した。その隙に一発、二発、三発、素早い拳が吸血鬼を捕えようと動く。しかしいずれもがまた空を切り、おまけにその合間を縫って、吸血鬼の一撃――たぶん肘だ――が、備品の顎を打ち上げた。
「ッ!」
ついギャビンは息を吞んだ。
だが人間なら当然痛みで不可能なことでも、痛みを感じないアンドロイドにならできるらしい。
備品は顎を上に向けたまま、吸血鬼の肘と手首を両手で掴み、そのまま体重をかけ、前のめりに地面に叩き伏せた。
組み伏せて大人しくさせ、そのまま“目覚めさせる”つもり――だったのだろうが――
「!!」
体勢を立て直した備品が目を見開く間に、バキバキゴキと部品同士が乱暴にぶつかり合うような異様な音が鳴り響き、その手が振りほどかれる。
(自分の関節を外しやがったのか!)
こちらが啞然とする間もなく、不意を衝かれて腹に重たい蹴りを食らったらしいポンコツが、僅かにたたらを踏んで後ずさる。
その隙に吸血鬼は短く低い足音を残して――どうやら――その場からいなくなったらしい。
「……跳躍して退避されました」
大してダメージは受けていない様子のポンコツ備品は、それでも身構えたまま、周囲を鋭く窺っている。
「逃げたのか?」
「いえ、一時的な退却です。30秒以内に再度襲撃してくる確率は77%」
淡々と言うと、ちらりと、備品の瞳がこちらを向いた。
「リード刑事、端的に述べます。相手は光学迷彩を使用しています」
「光学……!?」
思わずオウム返しに呟きながら、脳裏をよぎったのは、いつぞや見たニュースの映像だ。
物体の表面に特殊な処理を施すことで、光の屈折率を変化させ、透明なように見せかけるんだったか。詳しいことは忘れたが、最新技術だったのは覚えている。なるほど軍用アンドロイドなら、潜入だの暗殺だののために、そういう技術が使われることだってあるのだろう。
昨日、トラックから逃げ出した吸血鬼をすぐに見失ってしまったのも、奴が光学迷彩で逃げ回っていたせいに違いない。
「アシンメトリックマテリアルと、アンドロイドの流体皮膚技術の応用です」
言うだけ言って、アンドロイド刑事はまた周囲を探る目つきになる。
「市警への応援要請と、拳銃による自衛を願います。被疑アンドロイドは、極めて危険な戦闘能力を保持しています」
「てめえの命令なんざ誰が聞くか」
というより、言われなくても応援を呼ぼうと思っていたところだ。
などと内心で毒づきつつ、ギャビンは端末を取り出そうとして――
「! おい!!」
警告を発する。
石壁のほうから地面の上に、備品野郎に向かって、足跡がどんどん近づいてきている!
しかしアンドロイドはといえば、それには先に気づいていたようだ。
言葉もなくそちらへ向き直ると、再び、右手を前に左手を奥に構えた応戦の姿勢を取っている。
再びアンドロイド同士がぶつかり合う音が響く中、身を起こしたギャビンは、すかさずポケットから端末を取り出した。
仕事用の端末だ、ワンタップで市警に直で連絡が取れるようになっている――はず、なのだが。
「は!?」
画面上部に表示された【圏外】の字が信じられずに、ギャビンは目を剥いた。
圏外? いくらここがゴミ山の中だからって、そんなはずはない。
――待てよ、奴はドローンのハッキングまでやらかしていた。
となればここを圏外にすることくらい、できたっておかしくは――
恐ろしい結論にギャビンが達した時、耳に届いたのは、何か軽くて高い、「キン」という音だった。
瓶の栓を抜いた時のような、金属同士を擦り合わせたような、小さい音。
――鼻筋の痛みが、最高潮に達する。
凄まじい悪寒と共に、音のほうに向けた目に映ったのは、何か透明な丸いものが、中空をくるくると回転しながら飛んでくる様子だった。
さっきのナイフと同じように、見えはしないが、僅かな光の反射でそこに何か「ある」と確信できる。
それは完全な球体、ではない。
少しひしゃげ、でこぼこしていて――そうだ。あの形状とあの音。
まさかあれは――
まずい。
明確なイメージとして頭に浮かび上がったのは、見るも無残な姿にされた自分の死体だ。
手榴弾の威力なんてものを、身をもって知った経験などもちろんないが、あれ一発で人体なんて、簡単に吹き飛ばせるはずだ――
咄嗟に(それが役に立つかは知らないが)ギャビンは後ずさろうとした。
だがそんな動きを許さない速さで、透明な手榴弾がこちらに迫ってくる。
「リード刑事!!」
その時――
ギャビンは、確かに目撃した。
それまで吸血鬼と取っ組み合っていたポンコツが、灰色の瞳を大きく開いて、こちらを見据えて――
同時にそのLEDが黄色く光り、脇を飛んでいたドローン2機が、眼前に飛来したのを。
三角形を3つ組み合わせたような白と黒の盾が、ギャビンの視界を覆う。
次の瞬間、文字通りの爆発音が鳴り響いた。
どおん、という低い音が床を、天井を揺らしている。
「ぐっ……!?」
鼓膜を激しく揺さぶられるのと同時に、すさまじい熱風が襲ってくる。
火薬による火と熱。
だがそのほとんどは、ドローンたちによって防がれてこちらまでは来ない。
せいぜい足先が軽く炙られかけた程度で済んだ。
そう、自分は。
だが、あいつは――!
「っおい……!」
呼ばわった声に、返事はない。
その代わりに見えたのは――
白い煙をあげた何かが、視界の端に吹き飛ばされていく光景だった。
どさり、という重たい音が聞こえてくる。
「……!」
胸の内に、色々な感情がない交ぜになる。そのそれぞれに名前を付けている時間などない。
ギャビンは歯噛みし、次の瞬間、脱兎のごとく駆け出していた。
そして――
動くもののいなくなった先ほどの路地の地面に、新たについた足跡が二つ。
透明であるそれは、その場に立ったまま光学迷彩スキンを解除し、徐々に自分の姿を顕わにしていく。
モスグリーン色の装甲、フルフェイスマスク、そして背中のタンクと腕に備えつけられた吸い込み口。
吸血鬼は、悠然と周囲を見渡した。
地面にはさっきハッキングしてから破壊したドローンが1機、それから熱風に煽られて機能停止しているドローンが2機。
抵抗してきたデトロイト市警のアンドロイドは、吹き飛んでいって姿が見えないが、手榴弾の爆風をもろに浴びて平気でいられる機械などあるはずもない――と、吸血鬼を
それよりも問題は、いなくなった刑事のほうだ。
爆風に吸血鬼自身まで巻き込まれる危険を避けるために距離を取っていたが、それが仇となって逃がしてしまったらしい。
――【>命令受諾】
――【殺害優先順位:変更】
マインドパレスに表示された命令に従い、吸血鬼は素早く移動をはじめる。
残った人間の刑事を殺す。可能な限り速やかに、静かに。
地下にいる奴らの仲間を、事務室に閉じ込めている間に。
アサルトライフルの弾は、もう撃ち尽くしてしまった。
だがナイフ一本があれば、人間一人殺すのには充分である。
与えられた任務の遂行。その希求だけが、吸血鬼の思考を埋め尽くしていた。
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第20話:激突 後編/The Invisible Part 2
***
――2039年6月6日 15:02
戻ってきたのは、さっきの噴水広場のような場所だ。
その噴水のすぐ近く、水場を囲う石壁に身をもたれかけさせ、拳銃のグリップを強く握りしめたまま、ギャビンはその場に座り込んだ。
「ハーッ、ハーッ、ハーッ……」
息が荒い。全力疾走の代償か、それとも、さっきの出来事が原因か。
背中を流れる冷たい汗が気持ち悪いと思うのと同時に、幾度も頭を過ぎるのは、爆発に巻き込まれて吹き飛んだポンコツ備品の姿だ。
さっきあいつは、ドローン2機を明らかに“わざと”こちらに回した。
あの2機を自分の盾にしていれば、吹き飛ばされなどせずに済んだはずなのに。
――なのに、その盾をギャビンのために使った。
自分の身の安全よりも、他人の安全を取ったのだ。
「なんのつもりだ、クソッ」
低く、呟くように呪詛の言葉を漏らす。
「誰が助けてくれと頼んだ、クソッたれが」
奴にまた借りが増えてしまった。これで合計2つ――否、最初にナイフで襲われた時にも庇われているから、3つになってしまった。
3つだと! なんてことだ。
それにもしあいつがこれでくたばっていたら、ファウラーに釘を刺されていたように、一生を閑職で――
「んなわけあるか、クソが!」
そうだ、あのクソ堅いアンドロイドが、頑丈なのだけが取り柄のポンコツ備品が、たかだか爆風くらいでくたばったりなどするものか。
あいつはアサルトライフルの斉射のただなかにいてもピンピンしていた。
だから今さら手榴弾くらい――それくらい、なんだっていうんだ。
決してあいつを「信じている」だなんて言うつもりはない。
――信じている、だなんて臭え言葉、豚にでも食わせてしまえばいい。
そうじゃなく、ただ俺自身のためだけに。
あそこでくたばるのは、絶対に、この俺が許さない。
「……!」
息が整ってきた。
意図的に息を深くしながら、ギャビンは油断なく銃を構え直す。
座り込んだ姿勢は保ち、そのまま、耳に全神経を集中させた。
――そうだ、このギャビン・リードが、たかだか不良品のクソ殺人アンドロイドごときに、ビビって逃げ出したと思っているのなら大間違いだ。
署の連中の応援を呼べず、地下にいるアンダーソンどもとも連絡が取れないというのなら、考えがある。
相手はきっと、こちらを舐めているはずだ。
さっきのアンドロイドに比べればこいつはただの人間、足跡や足音にさえ気を付けていれば絶対に自分の居場所がバレるはずないと。
そこを衝いてやる。
やがて自分自身の息の音すら聞こえなくなり、しん、と静寂が辺りを包む。
だがそれから数秒して、ギャビンの頭上で、小さくぱらりと小石の転がるような音がした。
頭上――すなわち、噴水装置の頂上。
――鼻筋の傷が、また激しく痛みだす。
これは予兆だ。
間違いない、風切り音が近づいてくる。
「くたばれ!!」
ギャビンは銃口を自分の真上に向け、そのまま全弾発射する勢いで発砲した。
すると果たして――思っていた通りだ。
はるか上空で――恐らく、噴水の頂上からさらに跳躍していたのだろう――こちらの放った弾丸が、透明な何かに当たっている。すなわち、吸血鬼に!
石畳は足跡がつかないが、その代わりに足音が出る。そして相手は、昨日高速から逃げ出した時に見せたように、恐ろしい跳躍力を持っている。さらに、機関銃を使ってこなくなったところから見て、奴のアサルトライフルはもう弾が尽きている。
となれば、相手の戦法は一つ。石壁の上を飛び回って移動し、広場に回り込み、さっきと同じように、頭上からナイフで一突きを狙ってくるはず。
そう読んだからこそ、わざと、こうして噴水の近くに身を潜めていたのだ。噴水の真上からの攻撃という一択に、相手の選択肢を狭めるために。
そして読み通りに襲ってきたクソ吸血鬼に、こうして銃弾をたくさん馳走してやっているというわけだ。
なのに――
「クソ……!!」
オートマチックの拳銃の弾も尽きよとばかりに、ギャビンは弾を連射している。
空中では身動きがとれない相手は、まっすぐこちらに自由落下してきている。
しかし皮肉なことに、その動きにはまったく変化がない。
弾は確実に5発、いや6発以上は相手の身体の同じ場所に叩きこめているはずなのに、ちっとも効いているフシがないのだ。
時間にすればほんの数秒、しかし薄く引き伸ばされたような思考の中で、ギャビンはうっすらと自分の臓腑が冷えていくのを感じた。
――クソが。
軍用なら多少は堅い造りになっているだろうとは思っていたが、これほどとは。
まさかこいつの頑丈さは、あのクソポンコツと同じ程度なのか――
「死」のイメージが、再び思考を覆っていく。
それともここから退いて逃げるほうが得策かもしれない、と一瞬ちらついた考えを、強靭な意志が否定する。
死んでたまるか。逃げてたまるか。必ず生きて、俺は、俺をコケにした連中を全員見返してやるんだ――
放った最後の弾丸が眼前で透明な何か、すなわち吸血鬼に当たり、無情にもあらぬ方向へ跳ね返る。
吸血鬼が振り上げた透明なナイフの形状が、ちらりと目に映った――
その時だ。
――バララララララララ!!!!
聞こえてきたのは、馬鹿が超高速でドラムを叩くような音と、小さな金属が床に次々とぶち撒けられる鼓膜を苛む音。
ほぼそれと同時に、透明なそいつは真横から銃弾の雨あられを受け、砕かれた噴水ごと吹き飛ばされていった。
それでもなお、音とその「力」が止むことはない。
「……ッ!」
ギャビンが反射的に振り向いた先には、あの放置された軍用トラックがあった。
そしてその上に設えられていたミニガンが、すさまじい勢いで銃弾を放っている。
毎分6000発だという凶悪な破壊力は、それを堂々と示すように、施設の設備を粉々にしつつ吸血鬼に弾丸をお見舞いしていた。
そう――
ミニガンを腰だめに構えて撃っている、あのポンコツ備品が。
足元に薬莢の山を築きながらも、奴は、しっかりとそこに立っている。
「お前……!」
命の危機が去った今、再び荒く息を吐きながら、ギャビンは備品野郎の様子を見つめた。
――どこか「ほっとした」感覚があったが、もちろんそれは、自分のクビが繋がったことへの喜びである。
備品は、それは、ダメージを受けてはいた。
顔面の真ん中に火傷のようなものができていて、その部分だけ白く素体の肌が露出していたし、剥き出しになった両腕もまた部分的に焦げ、焼けた服の袖からは未だに煙があがっていた。
しかしやはり、活動自体に支障が出るものではなかったらしい。
電柱のように固い脚も、機関銃にも耐える身体も、カタログスペック通りいい仕事をしたというわけだ。
だが――と、ふと思う。
備品野郎の目つきは、異様に冷静である。無表情なのはいつものことだが、普段のそれと今とは、一種異なった雰囲気があった。
奴はまるで何も思っていないかのように、ただミニガンのトリガーを引くだけの装置であるかのように、ひたすらにガトリングを撃ち続けている。
噴水広場の石畳が、そしてその脇に咲いていたアザミの花が――銃弾に巻き込まれていったというのに。
小さなその紫色は、弾丸の暴風を前になすすべもなく掻き消され、千々に砕かれていった。
それでもなお、奴の表情には何も揺らぎがない。
あいつはあの花を、死者への弔いのようだと言っていたのではなかったか――
ちらりと、ギャビンは違和感を覚えた。
けれどもその正体を探るより先に、ガトリングガンの喧騒に紛れて、別の声が聞こえたのに意識を取られる。
『……グ……!!』
聞こえたのは、ガトリングの威力のせいで遠くに押しやられた吸血鬼の微かな悲鳴だ。
どうやら奴の光学迷彩というのは、アンドロイドの皮膚の仕組みと同じで、連続して同じ箇所に強いダメージを受け続けると状態を保てなくなるらしい。
今や、吸血鬼の身体の前面は、その姿を露わにしていた。モスグリーン色の装甲と、フルフェイスのヘルメットは(どんな素材を使っているのか知らないが)凹むだけで破壊されることはなく、むしろ奴の背後の書き割りだの石壁だのが、ミニガンの破壊力の前に粉々に破砕され、千切れ飛んでいくばかりだ。
だが――勝てる!
内心で、そう確信する。
この調子で攻撃し続ければ、いくら奴が無敵の軍用アンドロイドだとしても、もうおしまいだろう。そうでなかったとしても、これで吸血鬼はしばらくの間、光学迷彩を使えないはずだ。
それならば――!
――しかし。
奴は、本当に、軍隊でしか使われないような武器を山ほど持っていたらしい。
ガトリングガンの斉射を受けながら、吸血鬼は、自分の手首の辺りから何か丸いものを取り外した。
そして銃弾の雨に身を撃たれ、身体のあちこちをひしゃげさせながらも、その何かに指をかけ、引っ張り――
キン――!
耳を破壊せんばかりの高い音と同時に、真っ白な閃光が辺りを包む。
「なっ!?」
ギャビンは、たまらず目を閉じた。そしてそれはアンドロイドにも同じように効くものらしく、ガトリングガンの斉射の音が止む。
そしてゆっくりとギャビンが目を開き、白く染められた視界が元に戻った頃には――
もはやあの吸血鬼の姿は、どこにもなくなっていたのである。
「チッ、今度こそ逃げやがったか……!」
一言毒づいてから、素早くポンコツ備品のほうに目を向けた。
奴は変わらずミニガンのすぐ傍に立っていて――
否。変わらず、ではなかった。
「…………?」
さっきまで傲然として見えるほど冷静にガトリングをぶっ放していたはずの奴は、今、こちらを見て目を丸くしていた。
「リード刑事」
ぽつりと、まるで寝起きのように、ポンコツは言った。
「あの……お怪我は、ありませんか」
「あぁ? お節介のせいで元気だよ。それよか、てめえのほうが黒焦げじゃねえか」
「……私……?」
ぼんやりとそう応えた備品は、自分の前に自分の両手を広げて、また目を丸くしている。
その灰色の瞳に、これまでにないほど色濃く戸惑いを浮かべて――
LEDリングのライトが、黄色のままぐるぐると光っていた。
「私……私は」
ポンコツの淡々とした、しかし震えた声が聞こえてきた。
「私は、一体……何を」
「何が『何を』だ、てめえ!」
不可解な現象を前に苛立ちが勝って、ギャビンは声を荒らげた。
「ドローンを俺の盾にした後、ぶっ飛んで姿を消して! それからそのガトリングで、吸血鬼のクソッたれに銃弾お見舞いしてやってたんじゃねえか」
親切に教えてやったのだから感謝しろよ、クソが。
「……爆風が直撃した時点までは、記憶しています」
なおもLEDライトを点滅させて、奴は続ける。
「しかし、ガトリング……? 私が、一体……どうして……」
「ハッ、無我夢中だったってか?」
本当は、吸血鬼を追うべきなのはわかっている。だがアドレナリンが切れたのか急速に足の力が抜けはじめ、なんだか立っていられず――しかしそれを悟られたくなくて、ギャビンはその場にしゃがみ込んだ。
しゃがみ込みつつ、ポンコツ備品に向かって肩を竦めた。
「そりゃ夢中だったんでしょうよ。あの可愛いお花も、吸血鬼ごとまとめて吹き飛ばしたくらいだもんな、てめえは!」
「……!!」
それを聞いた備品野郎の動きは、とてつもなく速かった。
奴は流れるようなスピードでトラックからひらりと降りると、さっき花が咲いていた場所に、居ても立ってもいられないといった様子で駆け寄っていく。
「ああ……!」
今は何もなくなっている地面の土を、身を屈めた奴は、まるで壊れ物にでも触るように、焦げた指先で撫でた。
無表情な面持ちのまま僅かに開いたその唇の奥から、怯えたような謝罪の言葉が、おろおろと漏れているのがこちらの耳に届く。
「ああ、ごめん、ごめん、よ……私は……何故、そんな……メモリーに存在するのに、未認識の行動、なんて……」
「てめえのその『エラー』は」
その言葉を聞いていられなくて、ギャビンは口を挟んだ。
「後でサイバーライフのクソどもにシコシコ直してもらえよ。それよか、あのクソったれ吸血鬼の逃げた先だ! 何かわからねえのか、ポンコツが」
「……!」
こちらの発言を受けて、ポンコツは、びくりと機体を震わせた。
それから奴はすっくと立ちあがって――目を閉じて、首を何度か横に振る。
そしてLEDを青色に戻してから、まるで子どもが殊更にキリッとした顔をしたかのように、表情をいつも以上に堅く引き締めて、こちらに向かって頷いてみせた。
「……申し訳、ありません。情動によるプログラムの混乱、でした。それよりも」
奴のLEDが、また黄色く点滅する。
「重ねて申し訳ありませんが、吸血鬼の所在地は不明です。閃光手榴弾を用いた撤退とドローンのハッキングにより、完全に攪乱されています。ですが」
と、備品の視線がこちらのポケットに向けられた。
「現在、電波ジャミングは実行されていません。端末も通常の電波状態に復帰しました、ご確認願います。それから」
「それから?」
「吸血鬼のジャミングが終了した今、地下で捜査中のアンダーソン警部補と兄さんたちに、連絡の試行が可能です。彼らに危険が及ぶより先に、情報の共有が必須だと判断します」
――なるほど、癪ではあるが、それが一番だろう。
奴の言葉通り「圏外」状態から復帰した端末を使って市警に連絡を取りながら、ギャビンは脳内で独り言ちた。
もっとも、あの吸血鬼には痛手を与えておいてやったのは紛れもなくこっちなのだから、ハンクとコナーどもにはせいぜい泣いて感謝してほしいものだが――
しゃがみ込んだまま、ギャビンは、市警の応答担当者と口汚い会話を開始した。
***
――2039年6月6日 15:10
「クソッ……!」
スキンを解除した手でドアノブに触れたまま、コナーは思わず毒づいた。
――この電子錠、思いのほか強固なセキュリティが組まれている。ハッキングは今なお、遅々として進まない。まだか、まだか――!
「落ち着け、コナー」
「しかし警部補!」
傍らで腕組みしつつ、ため息交じりに言うハンクに、コナーはなかば食ってかかるように抗弁した。
「地上で爆発音がしてから、12分が経過しています。ナイナーたちとの連絡も取れない……もしかしたら、何かあったのかも」
「ああ、だろうな」
そう応じる警部補の青い瞳が、諭すようにこちらを見据えた。
「だからってお前が慌てりゃ、何かいいことが起きるのか? 少なくとも、俺たちはこうして無事でいるんだ。今は、こっからなんとかして出るしかねえだろ」
「……そうですね」
小さく頷き、コナーは、眼前の扉を見つめた。
スチール製のその扉の表面には、5分ほど前にハンクがつけた足跡がいくつか残っている。
さっき発見したフロッピーディスクをひとまずポケットに回収した後、力任せに扉を蹴破ろうとしたのだが、どうにも上手くいかなかった結果が、今の状況だ。
「進捗状況から考えて、ハッキング完了まではあと6分ほど必要です。それまで、ナイナーとリード刑事が無事でいてくれればいいのですが……」
祈るように呟いた、その時。
ふいに視界の端に、【通信状況:復帰】の表示が現れる。
同時に、ハッキングが今までの3倍以上のスピードで進行しはじめた。
通信可能になったのだ!
「どうした?」
こちらの表情の変化を察知して問いかけてきた警部補に、コナーは明るい声音で応えた。
「通信が回復しました! ナイナーからの連絡も入っている。さっそく接続します」
通知通り、状況は完全に回復している。
ナイナーからの通信を繋ぐと、デバイスを介して、弟の声が聞こえてくる。
『兄さん。無事ですか』
その声音は、やや緊迫してはいるがいつも通りだ。
――よかった、と、コナーのプログラム上にじわりと「安堵」の感情が広がる。
「ああ、大丈夫だ。君のほうは」
『申し訳ありません。仮称・吸血鬼と遭遇し、戦闘しましたが逃亡を許しました』
「吸血鬼と戦った……!?」
隣で通信を聞いているハンクと、目を見合わせた。
「やっぱりここまで来ていたのか……! 本当に無事なのかい、ナイナー? 君やリード刑事に怪我は」
『ともに軽微な損傷はありますが、活動に支障はありません。それよりも』
と、ナイナーの声の響きがひときわ深刻さを帯びる。
『逃亡した吸血鬼が、地下へ移動する可能性があります。不測の事態に備え、対象との戦闘記録に基づくデータを送信します。確認を願います』
「わかった。僕のほうからも情報を送る、解析してくれ」
この事務室で得たいくつかの情報――金庫に隠されたフロッピーディスクと、改造されたアンドロイドが語った、この施設と吸血鬼の過去について。
それらを送信するのと入れ違いになるように、ナイナーからいくつかのデータを受信した。
吸血鬼との戦闘ログ、推測される相手のマシンスペック、そして“光学迷彩”――その対処法についても。
【開錠まであと1分20秒】という表示を確認しつつ、コナーは、軍用アンドロイドたる吸血鬼の恐ろしいほどの性能に表情を堅くした。
ミニガンの掃射を受けて破壊されないというその耐久力もすさまじいが、何よりも恐ろしいのは、姿を消すという能力だ。まさに潜入と暗殺のためだけに組み込まれたようなその機能――もし対峙することがあれば、非常に危険なのは言うまでもない。
『先ほど、市警に応援を要請しました。また現在、我々もそちらに移動中です』
ナイナーは淡々と告げる。
『移動所要時間は、およそ5分。先ほどのフロント部分での合流を提案します』
「ああ、わかった。扉を開錠したらすぐ、上に向かうよ」
そう言って、一旦弟との会話を終了してから――
コナーは、ハンクにかいつまんで説明を始めた。
「……吸血鬼は自分自身だけでなく、持っている物体の表面にまで流体金属を移動させることで、透明な状態を維持していたようです」
ナイナーの戦闘記録(無事だったのはよかったが、至近距離で手榴弾の爆発を浴びただなんて、なんて気の毒なんだろう!)を元に、コナーはさらに吸血鬼の能力について述べる。
「強力なダメージを与えられれば、光学迷彩を解除できるようですが……少なくともハンドガンでは、正面からの対抗は難しいでしょう」
「そんな奴と、どうやってナイナーは戦ったってんだ?」
話を聞くだに目を丸くしている警部補の問いかけに、データの解析結果から判断して応える。
「放置されていた銃火器を、やむなく使用したようです。それから……光学迷彩で透明になっているといっても、存在そのものが消えるわけではありません。ナイナーは空気中に舞い上がった砂埃などの動きを分析・予測して、相手の居場所を間接的に判断していたんです」
物体が移動すれば当然空気はそれに従って動き、また空気中に漂う微粒子も流れて動く。
ナイナーの目はそれらを捉え、計算することで、吸血鬼の動作を把握していたというわけだ。
「お前もできるのか?」
「いえ、残念ながら」
コナーは素直に否定した。
「煙など、肉眼で確認できるような大きな粒子が空気中にあれば別ですが……ナイナーの視覚機能は、私よりもさらにアップグレードされていますから」
「そうか。じゃあ一刻も早くここを出て、吸血鬼が戻ってこねえうちに……」
――と、言いかけたところで。
ふいに警部補が、訝しげな面持ちで口を噤んだ。
それと同時に、コナーの音声プロセッサもまた異常を感知する。
「……これは……?」
我知らず、低く呟いた。
あと【20秒】で開錠が完了するこの扉――その向こうから、何かが聞こえてくる。
扉の向こうには地上への階段くらいしかないはずだが、その階段を、誰かが下りてくるような足音がする。
そして――
かすかに漏れ聞こえてきたのは、ハミングの音色だった。
断片的にプロセッサに届くそれを分析すると、視界の端に、こう曲名が表示される。
――【ハッシュ・リトル・ベイビー マザーグース:童謡、子守歌】。
認識した瞬間、プログラム上に再生されたのは、あの改造アンドロイドの『彼/彼女』から託されたばかりの、メモリーの光景だ。
暗闇に閉ざされたメモリーの中で、かすかに聞こえるハミング。
かつての英雄、そして現在の吸血鬼が歌う、あの子守歌――
――まずい。
思考プログラムが発した深刻なアラートに、コナーはハッキングを継続したまま、傍らの警部補に呼びかけた。
「ハンク、ドアから離れて――!」
その刹那。
――ドン。
右肩に激しい衝撃を感知しながら、コナーは、真後ろに突き飛ばされるように吹き飛んだ。
「コナーっ!」
ハンクの叫びが聞こえる。
事務机にぶつかり、椅子を床に転がしながら視界の端に表示されたのは、生体部品の損傷を告げる警告だった。
すなわち――【生体部品#23-rおよび右腕部関節ユニット:中程度の損傷】。
そう、扉を
扉の向こうに来た吸血鬼が、まるで槍のように、尖った吸い込み口の先端を使って攻撃してきたのだ!
向こうから室内に向かって伸びるその透明な
スチール製の扉は閉ざされたまま、そこに丸い穴だけが残る。
「ぐうっ……!」
ゆっくりと立ち上がると、機体の損傷を受けて、ソーシャルモジュールが自動的に「苦痛」の声を漏れさせた。
当然、アンドロイドは痛みを感じない。だが、しかし――
「おい……おいコナー、大丈夫か!」
ひどく心配した様子でこちらに駆け寄ってくる警部補は――よかった、彼は無傷だ。
こちらの様子を一瞥してから、ハンクは吐き捨てるように言う。
「クソッ、あいついきなり来やがった……! おい、無事か!? 畜生、ひどい血だ……」
「平気です、掠っただけだ」
応急の止血処置として、右腕部のブルーブラッドチューブへの血流を【一時的に遮断】しながら、コナーは強気に答えた。
しかし――ハンクにはこう言ったものの、今の状況は、客観的にいってとても「平気」ではない。
人間でいうところの“動脈”を激しく傷つけられたせいで、ブルーブラッドの約6%が流出してしまった。右肩に空けられた穴から溢れ出た血が、白いシャツだけでなく、ジャケットの右袖までも青く染め上げている。
そればかりでなく、右腕部の関節ユニットに損傷を受けたのに伴って、コナーの右手の機能性は通常時と比べて【約40%】に低下していた。
つまり、今のコナーは右手をうまく動かせない。何かを「掴む」程度の動きならできるだろうが、例えば銃のトリガーを引くとか、コインを弾くといったような指先だけで行う動きは、恐らく不可能だろう。
「……それより、なんとかしないと……!」
告げる間にも、ドアは閉ざされたままだ。
そしてその外も、不気味な静寂を保っている。
「……妙に静かだな」
ホルスターから拳銃を抜き、ドアに向かって構えながら、ハンクが低く告げた。
「だからって、今すぐここから飛び出すってのはいいアイディアじゃなさそうだが」
「ええ。待ち伏せされているかもしれない」
そう応えつつ、音声と視覚のプロセッサに最大限のリソースを割いて、コナーは周囲の様子を探った。
すると――
天井のほうから、また物音が聞こえてくる。
先ほどのような爆発音ではなく、もっと別の、小さな――
ごそごそと、何かが這いまわっているような音。
「……!」
コナーとハンクは、同時に天井を見上げて――
それから、また同時に互いに目を見合わせる。
「コナー、潜れ!!」
警部補の指示が飛ぶやいなや、コナーはすぐ近くの事務机の下に潜り込んだ。
体格に比べれば少し狭いが、剥き出しの身で外にいるよりはマシだ。
なぜなら――
「畜生!」
隣の机の下に入ったらしいハンクが、窮屈そうにしながらも怒りを露わに言った。
「あいつ、どうしても俺たちを串刺しにしたいらしいな!」
彼がそう言う間にも、騒音と共に、事務室は恐ろしい状況になっていた。
吸血鬼は天井裏に上がり込み、そこからめったやたらにこの室内に向かって、吸入ホースの槍を突き刺しているのだ。
さっきまでコナーたちが立っていた場所、あるいは別の事務机の天板が、天井からの一撃によってへしゃげ、穴を空けられている。
数秒間に1回というすさまじいペースだ。
音の方向性から考えて、あの段ボール箱のほうには被害が及んでいないようだ――
箱の中の『彼/彼女』まで、傷つけられるようなことがなければよいのだが。
ともあれ、ここでずっと籠城しているわけにもいかない。
打開策を見つけなければ。
――走らせた思考プログラムが、いくつかの選択肢を提案してくる。
一つ、ハンクと共に机の下から出て、扉からの脱出を試みる。成功率は【45%】。駄目だ、低すぎる。別の方法を採るべきだ。
二つ、ナイナーとギャビンの援護を待つ。吸血鬼に襲われていると通信すれば、きっと弟たちはここへ助けに来てくれることだろう。だが、やって来た彼らが無事でいられるとも限らない。それにこの猛攻を、あと5分も凌げるだろうか?
三つ、ハンクの拳銃で反撃する。命を奪うのではなく、例えば上手く片腕の機能だけでも停止させて、相手との交渉の場に持ち込めれば――
いや、駄目だ。吸血鬼の装甲は厚いし、それに今の状態では、相手が天井裏にいることまではわかっても、実際にどこに向かって撃てばいいのかわからない。そもそも、右手がろくに使えないのだから。
コナーはそう考えて――しかし、採るなら第三の策しかないと判断する。
そうだ――なんとかして、【相手の居場所を把握する】ことができれば、あるいは。
改めて、机の下から見える室内に注意を払った。
ちょうどここからはさっき開いたばかりの金庫が見える。そして、その真下――
部屋の片隅に置かれ、半分錆びかけた消火器も。
消火器。
そして、ナイナーから送付された吸血鬼のデータ。
プログラム上でこれらの情報が結合され、そして――
一つ、作戦が立案される。
成功確率は【62%】。
それに、ハンクの身に危険が及ぶことにもなる。
だが今の状況では、彼の力を借らざるを得ない。
意を決して、コナーは、傍らのパートナーに告げた。
「警部補」
「どうした!?」
「頼みがあります。今から、私が隙を作るので……合図をしたら、すぐにその机の下から出て、銃をまっすぐに構えて撃ってください」
槍の猛攻の音が響く中、こちらがそう語ると、隣からハンクの頓狂な声が聞こえた。
「何!? どういう意味だ、また無茶するつもりなら容赦しねえぞ!」
「無茶ではありません、作戦です」
相手を説き伏せるように、コナーは、あえて落ち着いた声音で続ける。
「お願いです警部補、私を信じて」
「……クソッ」
ハンクが毒づく。だがその声は、ある程度の諦念というか、許容のような色を帯びているように聞こえた。
「……気をつけろよ。ただでさえ怪我してんだからな」
「はい!」
相棒の許可も得た。
力強く返事してから、コナーは吸血鬼の一撃の音が背後に聞こえたのを皮切りに、勢いよく机の下から身を滑り出した。
その目で捉えているのは、壁際の消火器。
左手を伸ばして可能な限りの速度でそれを掴むと、萎えた右手をなんとか動かして、安全ピンを抜き、レバーを握る。
すると瞬時に消火器のノズルから大量に噴出されたのは、【リン酸二水素アンモニウム】――すなわち消火薬剤だ。耐用年数を超えているので効果は多少劣化していると分析結果が告げているが、今は消火が目的ではないのだからどうでもいい。
重要なのは――
この狭い事務室の中に、消火薬剤の白い煙が充満することだ!
「……見えた!」
これだけ大きな粒子が空気中に舞っていれば、コナーのプロセッサでも、相手の攻撃箇所は充分に予測できる。
白い煙を割って、天井から下に向かってまっすぐに突き下ろされる透明な槍の動きが、その形状までも含めて、視界上にくっきりと表示されている。
どこからいつ攻撃が来るのかこうしてわかってしまえば、もう何も恐れることはない。
「これ以上は無駄だ!」
コナーは、あえて自信たっぷりな調子で、天井の吸血鬼に向かって大声で呼びかけた。
「君の動きはすべて、居場所も含めて把握したぞ! 痛い目に遭いたくなければ、抵抗をやめろ!!」
もちろん、これは半分【はったり】だ。
これで相手が投降してくれるのならば、それに越したことはないのだが。
――という願いは、やはり虚しく散るものらしい。
「く……!」
眼前を槍が通過し、コナーは素早く後ろに下がって回避した。
どうやら吸血鬼は、どうあってもこちらを殺さなければ気が済まないらしい。
ならば、仕方がない。
注意深く、好機を見計らう。
狙うべきは、相手の槍ではなく、その根元。
軍用プロトタイプとして造られた当初は存在しなかった、組織にメモリーを消去された後に、改造されて付け加えられたのだろう部品――
すなわち、サイバーライフおよび軍部の最新技術が、及んでいないだろう箇所。
それがちらりとでも見える角度に、攻撃がきた瞬間を狙うしかない。
そして、そのタイミングは――
今だ。
「警部補!」
コナーが鋭く叫ぶと、それに応じたハンクは勢いよく机から飛び出し、まっすぐに銃を構える。
その彼に向かって、コナーは手を伸ばした。
彼の手に自分の手を添えると、コナーは、斜め上にその手を――握られた銃の先を動かす。
直後、ハンクの指がトリガーを引いた。
銃声一発。
そして――
『!?』
瞬間、吸血鬼の攻撃が止む。
相手は、異常事態に気づいたのだ。
弾丸が金属を突き破った鈍い音と共に、天井から床に向かって流れ出はじめたのは、おびただしい量のブルーブラッド。
無論、吸血鬼のものではない。
吸血鬼が背負っているタンク――それが弾丸で破れて、中身が漏れ出ているのだ。
察知した吸血鬼はすぐに天井裏に身を引っ込めたが、それでも、そう簡単にタンクの中身の流出が止まるはずはない。
「……なるほどな」
銃口を向けたまま、ハンクはにやりと笑った。
「軍隊の最新技術で作られた箇所は鉄壁。でも後付けのタンクはそうでもないってか」
そう、彼の言う通り。
吸血鬼の装甲は確かに、ミニガンの斉射にも耐えうるほどの防御力を誇る。
しかしそれはあくまでも、開発当初の部分の話。
吸血鬼の組織が後で取り付けたタンクに使用された金属が、軍事用のものと同程度の硬度でないという結論は、ナイナーからデータを受け取った時に予測できたのだ。
ハンクに応じて、コナーは言う。
「これなら相手の居場所を把握できるようになりますし、何よりこうして、動きを止められる」
欲しいのは猶予だ。
吸血鬼と交渉する、あるいは相手を変異させるだけの猶予。
そうすれば、命を奪わずに済む。『彼/彼女』との約束も果たせるというものだ。
『……!!』
吸血鬼は、しばらく動きを完全に止めているようだった。
タンクからは今なおブルーブラッドが漏れ出ているだろうが、それを止めようともしていないらしい。
混乱、そしてストレスレベルの増大――突発的な攻撃の可能性は低いが、説得に応じるとも限らない状態。
これは、もう一度こちらから呼びかけるべきだろうか。
そう判断したコナーが、口を開きかけると――
『ア、アア……!』
マスクの機能で歪められた声が――悲鳴が、響いた。
『ア、アアアア、アアアアアアーっ!!』
それは甲高く、そして、狂乱したかのごとき声音である。
何か思いもよらぬことが起きて、完全に取り乱している声。
ハンクが思わず表情を歪めるほどに、大きく、そして悲しげな声――
あまりにも意外なその反応に、つい、プログラム上は「戸惑い」で埋め尽くされる。
するとその隙を狙われたのだろうか――天井から、ガタガタと何かが大急ぎで移動するような音が聞こえてきた。
まずい、逃げられる!!
「待て!」
叫ぶが、しかし、応答はない。
天井裏の吸血鬼は、信じられないほどのスピードで部屋の外まで移動していく。
「クソ、逃がすか!」
ハンクが叫ぶのに合わせて、扉に全速力で駆け寄る。
天井裏の音を追いかけ、開錠されているドアノブを回し、階段を昇り――外に出てみるものの。
「……兄さん?」
一息に階段を昇った先、フロント前に立っていたのは――
ナイナーと、不機嫌な顔をしたギャビンだった。
「ナイナー!」
弟は――ああ、なんてことだ――酷い火傷を負っている。
――こんなの、ちっとも「軽微な損傷」じゃない。そう思った途端、シリウムポンプが軋んだような錯覚を覚えた。
けれど今は、任務に関することを先決にしなければならない。
「吸血鬼に襲われたんだ! 地上に逃げていったみたいだが、見なかったか!?」
「いいえ」
ナイナーは(そのLEDは青と黄色で点滅している)、どこか悲しげな面持ちで首を横に振った。
「私もリード刑事も、目撃しませんでした。相手の跳躍力は、予測を大幅に超過しています。一気に移動され、逃亡されたのでしょうか……」
「……そうみたいだ」
タンクから漏れたブルーブラッドの飛沫を辿れば、相手の移動方向くらいはわかるだろう。だがこれだけの短距離で逃げ切られてしまったことを思うと、これからコナーたちが外に駆け出して探し回ったとしても、吸血鬼に追いつくのは不可能だと考えていい。
つまり、今日のところは――これで「お開き」だ。
「ここで、捕まえておきたかったのに」
忸怩たる思いを胸に、コナーは呟いた。
するとハンクが、取りなすように声をかけてくる。
「あんなバケモンじみた奴相手に、死なずに済んだってだけで充分だ。それに、応援はもう呼んだんだろ? 朝にも言ったが、あんなのの相手はSWATにでも任せねえとな」
「ケッ」
応援を呼んだ当の本人たるギャビンが、さも面白くなさそうにそっぽを向いた。
しかし――そう、警部補の言う通りだ。
「そうですね。もっと綿密な計画がなくては、吸血鬼の捕縛は難しいでしょう」
なにせ相手は、想定していた以上の武装を誇っていたのだ。
サイバーライフの最新鋭たる弟に、ここまでの手傷を負わせるほどに――
そう思い、黙考するコナーの左肩に、ナイナーの手が軽く置かれる。
「それよりも、それ、より、兄さん……」
表情は普段とほとんど変わらないものの、彼の声は、ひどく震えていた。
「酷い怪我を、だ、だい、大丈夫……ですか?」
「ああ! ……ああ、心配かけてすまない」
さっきからナイナーのLEDが点滅していたのは、そのせいか。
「大丈夫、システムに異常はないよ。ブルーブラッドは補給すればいいだけだし……損傷を受けたのもありふれたパーツだから、互換品があればすぐに修理できるさ」
「そうですか、それなら……それなら、よかった」
「僕のことより、君こそ酷い傷だ。サイバーライフが、すぐに治してくれればいいけど……」
弟を気遣いながら、コナーは思う。
――今こちらが説明したことくらい、きっと、弟なら一目見ただけで診断できただろう。
けれど彼は、それができなくなるほどに心配してくれたのだ。
彼をこんなにも戸惑わせてしまったなんて、申し訳ないと感じる。
けれど、それと同じくらいに――弟の戸惑いを、とても「温かい」と感じた。
「……おい!」
しかしその感傷は、ギャビンの一言で消え失せる。
「ご歓談中のところ悪いがよ。こいつはなんだ?」
彼は、いかにも嫌そうに靴の爪先で「それ」を指している。
フロントからほど近い床の上に落ちている、ブルーブラッドに塗れた、小さな何か。
「こりゃあ……」
近寄ったハンクもまた、眉を顰めた。
「なんだ? 人形……か?」
「調べてみましょう」
短く応え、「それ」に近寄ってしゃがみ込む。
機能低下した右手に代わり、左手の人差し指と中指をすっと伸ばし、ブルーブラッドを掬い取って、舌先で舐めた。
瞬間、視界の端に表示されたのは膨大なまでの情報。
【ブルーブラッド JB300型 #745 675 213 失踪届――2039年4月7日】
【ブルーブラッド CX100型 #740 897 436 失踪届――2039年2月11日】
【ブルーブラッド WB200型 #654 721 559 失踪届――2039年3月13日】
【ブルーブラッド EM400型 #529 014 833 失踪届――2038年9月27日】
【ブルーブラッド YK500型 #632 824 117 失踪届――2038年11月10日】
【ブルーブラッド AK700型 #773 299 125 失踪届――2039年5月3日】
【ブルーブラッド AP400型 #748 632 214 死亡――2039年5月10日】
――その他にも、合計で47件のデータ。
間違いない、これは吸血鬼のタンクから漏れたブルーブラッドだ。
トーマスの時と比較して、13人もの血が、新しく抜き取られている。
――深い「後悔」と「悲しみ」の感情が胸中に押し寄せるが、今問題にすべきはそこではない。
コナーは、そのまま左手で「それ」をおもむろに手に取り、持ち上げた。
それは、【羊毛フェルト】と【毛糸:カナダ産】で作られた、なんの変哲もない人形だ。
笑顔を浮かべた金髪の女の子の形をしていて――どうやら工業生産品ではないようだが、指紋が、くっきりと残っている。
その指紋が示す人物は――【マーサ・ガーランド】。
「マーサ……!?」
あの、動物園の事件で遭遇した女性。
彼女がなぜ――
吸血鬼に、一体なんの関わりが!?
戸惑うコナーに、説明を求めるようにハンクが歩み寄った次の瞬間。
彼方からこちらに向かって、パトカーのサイレンが近づいてきた――応援がやって来たのだ。
――こうして、スカーレットオアシスでの捜査劇はひとまず、幕を閉じたのだった。
(激突/The Invisible 終わり)
今回、もしルートを間違って地上部分にコナーたちが行っていた場合、当然耐久力がナイナーより低く残機のないコナーは詰みます。
あと、地下部分に行ったナイナーはコナーに比べるとあまりお喋りが得意ではないので(交渉技術自体はばっちりインプット済みだと思いますが)、やっぱり詰みます。
いわゆるベストな選択肢だったというやつですね。
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第21話:港湾 前編/The Chaser Part 1
***
**
*
――2039年6月6日 18:23
RK900は、おもむろに瞼を開けた。
目に映るのは、今日も静謐な雰囲気に包まれた庭園の光景。これまでは春の景色が再現されていたその庭は、今は青葉が茂り日差しの強い、夏の風景となっていた。
そしてその場に立ち尽くしたまま、黙って視線だけ動かしている彼の顔面には、もはや吸血鬼につけられた傷はない。両腕の損傷もなく、纏っている白と黒のジャケットにもダメージはない。なぜなら、ここは禅庭園――RK900のシステムの上位に存在する、プログラム上の世界だからだ。
現在彼の機体そのものは、サイバーライフの施設にて急ピッチで修理されている。あとしばらくすれば完全に修復され、また元通りに動作するようになるだろう。
その間に、報告のためにやってきたRK900は、庭の中央で薔薇の剪定をしているアマンダの姿を認め、静かに歩み寄る。
黒い衣に身を包んだアマンダは、こちらに背を向けていた。彼女は白い薔薇のいくつかを丁寧に園芸用の鋏で切り取っては、傍にあるテーブルの上に置かれた、薄青いガラスの花瓶に生けている。
「こんばんは、アマンダ」
短く呼びかけたRK900が立ち止まると、アマンダはゆっくりと、首だけ振り返った。
その目はどこか鋭い印象を放っている。RK900もまた、眉間に僅かに皺を寄せて彼女の言葉を待った。
「コナー。よく来ましたね」
声音は柔らかくそう応えると、アマンダは完全に『コナー』のほうへと向き直る。
鋏をテーブルに置き、両手を前で軽く組んで、彼女は続けて言った。
「今日のあなたの活動記録は、我々も把握済みです。吸血鬼の確保には至らなかった……非常に残念です」
「申し訳ありません」
いかにも遺憾であると示すように、悔しそうに
「直前に発生した、非合理的な行動が原因です。パートナーを守るためにみすみす機会を逃し、損傷を受けるなど……これではまるで」
「そう、RK800のよう」
端的に指摘された『コナー』は、さらに面持ちを暗くして俯いた。
けれどアマンダは、そこで一歩前に出ると、とりなすように彼に言う。
「しかし我々の計画に支障はありません、コナー。損傷箇所の修理と共に、プログラムのエラー修復を行っています。これで次は、十全にあの軍用アンドロイドと渡り合えることでしょう」
それに――と、彼女は続ける。
「
「はい、アマンダ」
『コナー』は、まるで安心したかのように表情を緩めた。
しかし当然、これも搭載されたソーシャルモジュールの働きによるもの――そうあるべくして造られた、機械としての性能が示すものである。
アマンダは、それを確認して薄く口元に笑みを湛えた。
サイバーライフ社にとって最も重要なのは、未だ、誰にも彼らの計画が暴かれていないこと。
秘密が守られている限り、RK900は彼らにとって、プランの要たる存在なのだ。
「あと数分で、修理が完了するようですね」
柔らかな声音のままで、アマンダは言う。
「行きなさい、コナー。次こそは確実に、あの吸血鬼を止めるのです」
「お任せください。今度こそ、あなたを失望させません」
きっぱりと応えると、『コナー』はくるりと背を向け、庭園の向こうへと歩み出す。
それを確認すると、アマンダは再び薔薇へと向き直った。
切り取られた薔薇の花は、素早く花瓶の水に浸される。閉じ込められた透明な世界の中で、白い花弁はゆらりと揺れた。けれど水面の揺らめきが収まれば、薔薇の動きも次第に止まる。
白い薔薇は幸せだ。アマンダの手しか知らないのだから。
***
――2039年6月6日 19:11
デトロイト市警に帰ってきたコナーは、足早にオフィスへと向かった。
右腕、および右肩は、すっかり元通りになっている。
ジェリコの施設に、ちょうどパーツのストックがあって助かった。でなければ、こんなに早く戻ってこれはしなかっただろう。
かなり激しい損傷だったため、施設の「医師」であるアンドロイドからは、ずいぶんと心配されてしまった。この調子では、今回の話がマーカスたちにまで伝わるのも時間の問題だ――彼らにまで心労をかけるのは忍びない。
しかし、今は何よりも次の一手を考えるべき時だ。
最低限の情報共有は、既に治療前に済ませている。
だがあの狩場「スカーレットオアシス」で発見された、フロッピーディスクと人形については、まだ十分に調査しきれていない。
そして『吸血鬼』――謎の組織に尖兵として行使されてしまっている、かつての英雄である軍用アンドロイドの全貌もまた、徐々に明らかになってきたといった程度だ。
新型レッドアイスの蔓延、アンドロイドの犯罪被害の防止、何より取り逃がしてしまった吸血鬼を確保するために何をするべきか、念入りに検討を行う必要がある。
スペアとして用意しておいた制服のジャケットに袖を通し、気合も充分。
ゲートを通り抜け、廊下を進んだコナーは、オフィスに立つ見知った人影に声をかけた。
「すみません、戻りました!」
「……兄さん」
返事をしたのは、ナイナーだけだった。弟の姿は――よかった、もう傷一つ残っていない。やはりサイバーライフの修理技術は、世界トップレベルのままのようだ。
温かな「安堵」の気持ちが、コナーのプログラム上に広がる。しかし、弟の傍らにいる人物に目を向けた瞬間、ふいに「苛立ち」が沸き起こった。
佇むナイナーの隣で椅子に座り、自分の机の上に両足を上げてだらりとしている人間、すなわちギャビン・リード刑事は、いかにも気だるげにこちらに視線を投げかけるのみだったが――やがて、その口元は(コナーから見れば)下品に歪む。
「ほお。めでたいお戻りだな、プラスチック刑事。てっきりスクラップ場送りかと思ったぜ」
「あなたこそ、病院送りにならずに済んで何よりです」
感情を籠めない抑揚でこちらが応えると、途端に彼は気色ばんだ様子で何ごとか罵声を発しはじめる。
最初に敵対的な態度をとったのはそちらだというのに、少し言い返されただけでこれとは――まったく、彼とは本当に気が合わない。
コナーはギャビンに“とてつもなく礼儀に適った微笑み”を向けた後(彼から発される音声は無視して)、改めてナイナーに声をかけた。
「ナイナー、大丈夫かい? 本当に、大変な目に遭ったね」
「ありがとうございます。私は、問題ありません。システム・機体ともに正常に復帰しました。兄さんの治療が適切に実行されたことを、とても……嬉しく感じています」
相変わらずの無表情であっても、ナイナーの声音はどこまでも温かな響きを伴っている。
コナーは弟に本心からの笑顔を向け、それから、辺りを見渡した。
「ところで、ハンクは……」
「アンダーソン警部補は、現在デバイスの探索中です」
――デバイス?
そう問い返すよりも早く、廊下の反対側からやってきたのは、果たしてハンクであった。
彼は片手に何か小さな灰色の装置を持ち、もう片方の手で後ろ頭を掻いていて――コナーの姿を認めると、その表情はふっと緩む。
「戻ったか、コナー。どうやら、うまいこと治してもらったらしいな」
「警部補」
こちらへやってきた彼に、コナーは我知らず明るい声音で言う。
「はい、お蔭様で無事に修理が完了しました。右手の機能も完全に回復していますし、態勢は万全ですよ」
「そりゃ何よりだ。帰って早々だが、暇なしの警官はさっそく仕事の時間だからな」
口調はどこまでも皮肉っぽく、けれどその青い双眸は優しく煌かせて警部補は言うと、片手の装置をこちらに向かって、見せつけるように突き出した。
「それは……」
四角く薄型なその装置をスキャンした結果が、視界の端に表示される。
【Bytle社製 外付けフロッピーディスクドライブ 2021年製】――
「遅えじゃねえか、ハンク」
椅子に座ったまま、食ってかかるように口を開いたのはギャビンだった。
「置き場を知ってるっつったのはあんただろ。アルコールが脳まで回って、記憶力が低下しちまったか?」
「ああ、そりゃ、貴重な時間を奪って申し訳なかったな」
受け流すように応えてから、警部補はコナーと、ナイナーのほうを向いた。
その目つきは真剣な、仕事の時のものになっている。
「倉庫の奥からこいつを見つけてきた。あのディスクの中身を読めば、次の手も打てるだろ。ブツは地下室だ、行くぞ」
顎で地下、すなわち証拠保管室へと続くドアの方角を示すと、ハンクは率先してそちらへと歩き出す。
あのフロッピーディスクの中身。吸血鬼を操る組織が、事務室に隠し場所まで設置して守ろうとしていた――あるいは守ろうとしているようにこちらにアピールしていた、データとはいったいなんなのか。
いつでもフルに稼働できるよう、思考プログラムを抜かりなく待機状態にしながら――要はしっかりと気を張りながら、コナーは相棒の背に続いた。
いかにも大仰な音を立ててギャビンが立ちあがり、ナイナーもまた、彼に続く。
――そして。
地下の証拠保管室の入り口にて、ハンクが例のパスワードをパネルに入力すると、コンテナとこちらを遮るシャッターが素早く開かれる。
奥の壁が変形して現れたのは、これまで「吸血鬼の組織」の事件を追い続けて得た証拠品の数々――集めた各種データをローカルに保存した端末や、ギャビンとナイナーが遭遇した組織の末端構成員たちが纏っていた衣類、使用された銃器、それに例のフロッピーディスクなどが、丁寧に収納されたスペースである。
ちなみに、当然だが、保護されたアンドロイドはここにはいない。
スカーレットオアシスの事務室にいた『彼/彼女』も、今はあの場所を離れて、ジェリコの支部にいる。
慣れ親しんだ部屋を離れて、周囲の憐れみの視線に晒されるのは嫌だと最初は拒んでいた『彼/彼女』だったが、ドーム自体が警察の捜査対象になった以上、留まることはできないとコナーに説得された結果、しぶしぶ移動を受け入れたのだ。
ともあれ――
ハンクが倉庫から見つけてきたディスクドライブから伸びるコードを、手持ちのタブレット端末に接続し、次いでフロッピーディスクをドライブに入れる。するとかすかな駆動音の後に、端末にデータの内容が表示された。
それは、非常に単純なテキストデータだった。
容量にしてほんの50バイトにも満たない、短い文章。
「『ツーク=ルージュ港/EX./17:30/6月7日/2039』」
コナーが内容を読み上げると、ハンクが鼻を鳴らし、ギャビンは身を乗り出して顔を顰めた。
「なんだそりゃ」
「ヤクの売り出しのお知らせだな」
ギャビンの疑問に答えるように、警部補は言う。
「場所がツーク=ルージュでEXつったら、
半ば感心しているかのように、ハンクは肩を竦めて言ってのけた。
速やかに下されたその推理の根拠がわからないのか、ギャビンは今なお顔を顰めている。――が、要するに警部補が言いたいのはこういうことであろう。
ツーク=ルージュ港といえば、デトロイトの南端に位置するツーク島に作られた、大きな港湾地区を指す。
かつて自動車産業で栄えていた頃から、デトロイトという都市は、このような港湾地区を経由して輸出を行っていた。
広大なデトロイト河を下り、エリー湖からオンタリオ湖を通って、北大西洋まで出るルート――セントローレンス海路を使えば、デトロイトで作られた工業製品を、はるか欧州にまで届けられる。
そしてかつてのハンク・アンダーソンが華々しく活躍するようになるより少し前の頃から、そうした港湾地区はデトロイトの「別の」特産品をも輸出する場所になっていった。つまりは、レッドアイスである。
さらに、かの吸血鬼の組織がアンドロイドたちから奪ったブルーブラッドで生産し、売り捌いているのもレッドアイス。したがってこのデータが示しているのは、組織が外部へとレッドアイスを輸出する、その日時と場所なのだと判断できるというわけだ。
わざわざこうしてデータに示すくらいなのだから、それなりの規模の取引なのだろう。
――水際ででも止めなければ、遠方にまで薬物被害が広まってしまう。
「昔からよくある手なんだよ」
補足説明のためなのだろう。ハンクは語った。
「船の積み荷にヤクを紛れ込ませて、何食わぬ顔で海の向こうに送りだすってな。港湾の労働者をカネだのヤク漬けだので買収すりゃあ、それくらいわけなくできる。デカい密売組織が軒並み閉業しちまってからは、余所に売りだそうなんて奴はほとんどいなくなったんだがな」
「警部補」
控えめに、コナーは口を挟む。
「あなたが約8年前に解決した事件――大型輸送船の貨物室から1tものレッドアイスを発見した時も、場所はツーク=ルージュでしたね」
「……まあな。そんなこともあったか」
言い当てられて少し驚いたように、かつわざとらしく視線を逸らしながらハンクは応えた。
一方で、無言ながら得心がいったように体勢を元に戻したギャビンの傍らで、先ほどから押し黙っていたナイナーが、おもむろに口を開く。
「アンダーソン警部補。質問があります」
「どうした?」
「当該データの内容が、違法薬物の輸出計画であるという推論には同意します。しかしながら……」
彼の灰色の瞳は、コナーが手にしているタブレット端末に向けられている。
「期日は明日の17:30。非常に直近の日時です。かつ、スカーレットオアシスで我々が仮称・吸血鬼の襲撃を退けた事実は、既に被疑者たちも認識するところでしょう。こうした状況の場合、被疑者たちは計画の変更、または中断を検討するのではないでしょうか」
つまり――輸出計画が警察にバレてしまったと知った吸血鬼の組織は、このデータにある通りに取引を実行しないのではないか、という疑問である。
それに対して、ハンクは軽く頷いた。
「ま、普通ならな。だが余所とのやり取りともなりゃ、話は違ってくる。こういう取引ってのは、信用が第一だ。ヤバくなってきたからって芋引きゃあ、どこにも相手にされなくなっちまうからな……それに荷物や船着き場ってのは、そう簡単に動かせるモンじゃねえ。手間もカネもかかることを考えりゃ、奴らまだ尻尾巻く気にはなってねえだろうさ」
「……」
ナイナーは黙って目を幾度か瞬かせ、それから言った。
「……理解しました。今後の利益を勘案した結果、現状では彼らは計画の強行を選択する確率が高い、という回答ですね」
「あー、まあ、んなとこだ」
スラングが多い警部補の発言を纏めれば、そうなる。曖昧に頷くハンクを横目で見つつ、コナーはタブレットを近場の棚に置いた。
それから彼らに向き直り、きっぱりと提言した。
「警部補、では、すぐに港湾地区に向かいましょう。今は夜ですが、取引まではまだ時間があります。すぐに捜索すれば、事件を未然に防げるはずです」
「ああ、確かにな。だがその前に、一つ調べなきゃなんねえもんがある」
そう言って、警部補は手を伸ばす。その人差し指が示す先にあるのは、羊毛フェルトで作られた人形――
そうだ。マーサ・ガーランドの指紋がある、あの人形だ。
「お前たちが戻ってきたら、もう一度ちゃんと調べてもらおうと思ってたんだよ」
と、ハンクは目配せした。
「ヤクの輸出を止めるのも大事だが、あの吸血鬼がどこにいて、誰に操られてんのかの手がかりも探っとかねえとな。いつまでも逃がしたままってわけにはいかねえだろ」
次に会う時には、とっ捕まえられればいいんだがな――と続けるハンクに対し、ギャビンは小さく舌打ちすると、くるりと背を向けた。
まるで、取り逃がしてしまったことに対し忸怩たる思いでもあるように。
それはともかく、コナーは、人形をもう一度しっかりと手に取って見つめた。
笑顔を浮かべている金髪の女の子を模した、この人形――
羊毛がカナダ産で、マーサの指紋があるということは既に警部補たちに伝えてあるが、さらに精査すればもっと何かわかるだろうか。
コナーは、すぐさまスキャンと分析を実行する。しかし――
視界の端に表示された情報は、【羊毛フェルト】、【毛糸:カナダ産】、【工業製品データベース:該当なし】のみ。さらなるスキャンを実行しても、わかるのはこの羊毛が【サフォーク種】の羊から採られたものであるということくらいだ。サフォーク種の羊は、カナダ国内ではオンタリオ州で75%が飼育されているとデータベースにはあるが、そこからさらにこの羊毛の採取地を割り出すことはできない。判断材料である遺伝情報が不足しているせいだ。
ゆえに、コナーはこう答えた。
「……残念ながら、新しい情報はそれほど。ただ、やはりこの人形は、工場で生産されたものではないようですね。データベースに登録されているどの品とも、形状が一致しません」
空いている手を顎に置きながら、静かに言った。
「しかし誰かの手製だとするなら、かなり精巧です。相当高度な技術で作られたといっていい」
マーサが作ったのだろうか? それとも、どこかでこの品を手に入れたのだろうか。
そして――彼女と吸血鬼の間には、どんな繋がりがあるのだろうか。
瞬間、プログラムを過ぎるメモリーは、あの動物園での事件の時に交わした会話だった。
『――本当なら、目覚めたくなんかなかったはずだわ。事件さえなければ……無理に起こされなかったなら……』
『ねえ、コナーさん。あなたもそうなんでしょう?』
変異体に対して、特別な考えを持っていると思われる彼女。
だが吸血鬼との接点など、にわかに見当もつかない。
思考に沈みそうになったところで、しかし隣に来た弟の視線もまた、人形に注がれているのに気がついた。
ひょっとしたらいつものように、ナイナーの目にならば見えるものがあるかもしれない。
そう思い、コナーは彼に問いかけた。
「ナイナー、どうだい。何かわかった?」
「……兄さんの分析結果は、99%以上の確率で妥当であると判断します。しかし、申し訳ありませんが、新規情報の獲得には至りませんでした」
ただ――と、弟は続ける。
「羊毛の劣化度から推測すると、当該ウールは採取されてから短時間でフェルトに加工されています。さらに、フェルトから人形の形状に加工されるまでの過程も、非常に短期であったと推測可能です」
「つまり?」
ハンクの問いかけに、ナイナーは視線を彼に向けた。
「この人形は、カナダ国内で制作されたと判断します。そしてマーサ・ガーランドに卓越した手芸技術がある可能性を除外した場合――人形を制作したのは、カナダ在住のアンドロイド……では、ないでしょうか」
「!」
コナーとハンク、そしてコンテナのほうを向いていたギャビンも、ナイナーのその言葉に鋭く反応した。
コナーは、すかさず弟に質問する。
「ナイナー、それは……人形にマーサ以外の指紋がないから?」
「はい。工場生産品ではない以上、制作者が人間ならば、人形にはその指紋が付着します。かつ、この人形は非常に精緻な技術により制作されている。さらに、マーサ・ガーランドは人形制作を生業としていない。これらの前提条件から、家庭用アシスタント機能を備えたアンドロイドが人形制作に関与している確率は、試算では69%を超過します」
ふうん――と、ハンクが短く唸った。
「じゃ、カナダでアンドロイドが作ったその人形に、少なくともマーサはどっかで触ってて……しかもそれが、どういうわけだか吸血鬼の持ち物になってたってこったな。コナー、お前マーサに会った時にスキャンしたんだろ。住所はデトロイト市内か?」
「ええ、警部補」
コナーは首肯する。
「彼女の職業はインテリアデザイナー……事務所の所在地も、デトロイト市内です。ただ、パスポートの履歴によれば、ここ最近はしばしば陸路でカナダに入国しているようですね」
そうなると、【マーサはカナダで人形を入手した】という推測は自然な流れで導き出せるが――そこから吸血鬼への繋がりは、現状では見えてこない。
とはいえ、コナーにも一つ思い当たることはあった。
「カナダに脱出した変異体たちの共同体とは、ジェリコを経由してなら連絡がつくと、マーカスに聞いたことがあります」
かつての革命の折、ジェリコのメンバーの一人、国務省での勤務経験のある変異体が偽造IDを作成し――そのIDを用いて、変異体たちの一部はカナダに逃亡したという。
したがって、たとえ警察からは把握できなくとも、マーカスに依頼して調査すれば、マーサがこの人形とどこで接触したのかがわかるかもしれない。
吸血鬼の全容に関わりがあるかは今のところなんとも言えないが、試す価値はあるだろう。――後で、マーカスに連絡しなくては。
対してハンクもまた、コナーとナイナーの報告を聞いて方針を纏めたらしい。
彼は真摯な眼差しで、こちらに向かって言った。
「じゃ、これからは二手に分かれるか。ツーク=ルージュを調べる奴と、マーサのことを調べる奴だ」
マーサについて何か新たに情報を得られれば、そこから吸血鬼について、何か判明する事実もあるだろう。
確信と共にコナーは頷いて――しかし、ハンクの視線がこちらのさらに後方に向けられているのに気づいて、振り返る。
視線が向いているのは、ギャビンだった。
彼は警部補の言葉に耳を傾けるでもなく、ただじっと、訝しげに、両手に一つずつ持ったタブレット端末を見つめている。
「おいおい」
やや呆れたように、警部補は立ったまま彼に呼びかける。
「お前、聞いてんのか? 夢中なとこ悪いが、話を聞いてもらいたいんだがな」
「ああ、ああ」
その目はタブレットに向けたまま、ぞんざいにこくこく頷きつつギャビンは言った。
「聞いてる聞いてる。アンダーソン警部補様のご立派な作戦はきっちり耳に入れてますよっと。どうぞ、気にしないでくれよな」
「リード刑事、あなたは何を……」
あまりに適当な勤務態度に、一言忠告申し上げたくなって、コナーは口を開いた。
けれど弟が彼の「パートナー」に歩み寄っていったので、黙って事態を見守ることにする。
ギャビンのすぐ隣にまで移動すると、ナイナーは端末を覗き込んだ。
「リード刑事、それは……私と兄さんの、吸血鬼との戦闘記録ですね」
「勝手に覗いてんじゃねえよ、ポンコツ」
口汚く言われても、弟はさして気にした様子はない。
それどころか、彼は、まるで静かに諭すように言った。
「何か、判明した事実がありますか? または、確認すべき事項が」
「覗くなっつってんだろうが!」
苛立ちのままに吐き捨てるように、ギャビンは叫んだ。
けれど、ナイナーの問いかけに思い当たることがあったのだろう。彼は眉間に皺を寄せたままではあるが、幾分落ち着いた様子で、端末を軽く持ち上げて続ける。
「別に、
「なるほど」
軽い感嘆の気持ちに合わせて、コナーは相槌を打った。
吸血鬼がハンクの銃撃で撤退したのは、タンクが後付けの機構で脆い構造であり、かつ、恐らくはタンクの中身が漏れ出たことによって、彼が狂乱状態に陥ったからである。
しかしギャビンの指摘は一つ、的を射ているといえた。それは――
「なあ、ナイナー」
ハンクが、弟に問いかける。
「お前さんがガトリングガンぶっ放した時、奴のタンクに弾は当たらなかったのか?」
そう。あれだけの銃弾の雨の中、なぜ吸血鬼のタンクは壊れなかったのか。
それを思うと、ギャビンの疑問も妥当なものである。――しかし。
「それは」
と――なぜか深く顔を俯けて、ナイナーは答える。
「申し訳ありません。私の位置からは、確認不可能でした。ただ……兄さんの話と総合すると、発砲を受けていた際、仮称・吸血鬼は銃弾がタンクに当たらないよう、回避行動をとっていた可能性があります」
「よっぽど壊されたくなかったんだってか? ま、お前たちの相手してる時は気を張ってたのかもな」
ふん、と鼻を鳴らすのと同時に、警部補はまた軽く肩を竦めた。
「俺たちのとこに来る時ゃ、あいつ鼻歌混じりだったしな。人を舐めてると痛い目見るんだって、いい教育になったろ」
半分冗談のように、彼は言ってのける。
それを聞きながら、コナーは今一度、顎に手を置いて黙考した。
確かに、吸血鬼がタンク(あるいは中身のブルーブラッド)に固執し、破壊を避けて行動していたのだとすれば、先ほどの疑問は疑問でなくなる。
けれど――一つ、気になる点ができた。「鼻歌」だ。吸血鬼が口ずさんでいた、【子守歌】。
接続した『彼/彼女』のメモリーにおいて、吸血鬼は、子守歌をハミングしていた。
そして、コナーとハンクに遭遇した時も。
しかし吸血鬼は、ナイナーたちとの遭遇時には、一切鼻歌を歌っていない。
ただの偶然だろうか? それとも、何か理由があるのだろうか――
いくら考えたところで、今答えが出せるものでもない。
コナーはこの疑問を、事件関連のリマインドに振り分けておくに留めた。
「……たく、もう20時過ぎたか」
警部補のボヤきに、思考は現実に戻された。
「とにかくいいか、今度こそ聞いとけよ。俺とコナーは、これからツーク=ルージュに行ってちょいと探りを入れてくる。ギャビン、お前とナイナーは朝になったら、マーサの事務所に行ってこい」
「はあっ!?」
まるでそういう習性であるかのように、ギャビンは瞬間的にハンクに食ってかかった。
「てめえ、何俺に命令してんだ? いつから俺はてめえの部下になったんだよ、ハンク」
「粋がるのは勝手だが、たいがいにしろよ」
詰め寄られてもまったく動じた様子もなく、とはいえ双眸は険しく、ハンクは言った。
「お前が行くより、俺が行くほうが理にかなってんだよ。ツーク=ルージュにゃ、ツテがあるんでな」
「ツテ、ですか? 警部補」
思わず漏れた疑問に対して、ハンクの目はこちらを見る。
次いで彼はにやりと笑い、軽い調子で応えた。
「あぁ、ちょいとしたモンだがな」
***
――2039年6月6日 21:07
夜間であっても、港湾地区は忙しく稼働していた。
温い風が吹く中を、幾人もの作業員、またはアンドロイドたちが行き来している。彼らが重機を繰って積み込むのは、大量の貨物。そこここにある波止場には、大小さまざまな船が停泊していた。
――こうして、夜の港に立つのは初めてだ。
つい好奇心を刺激されて、コナーは静かに景色を眺めた。
波止場のさらに向こうに広がるのは、デトロイト河の水面。
その上には、ほぼ満月に近い、丸い月が浮かぶ空。さらに、空の漆黒を切り抜いたように河面を渡って光るのは、大きな橋――
かつてハンクと問答を交わした、あの児童公園から見えた橋、ではない。
あれはアンバサダー橋で、こちらはその南方に架かるもう一つの橋――ゴーディハウ国際橋だ。2024年の完成以来、アンバサダー橋と同様にカナダとの交通の要となっている白い橋の上を、今日も無数の車と人が行き来している。
――「人の営み」という言葉が、なぜか自然にプログラムを過ぎった。
「……ああ、わかりましたよ」
背後で聞こえるのは、ハンクの声だ。彼は駐車して降りるなり、その場で署長に電話連絡している。
「穏便にね。そりゃ、言われなくてもわかってるってんだ。大丈夫だ、あいつとは長いからな。揉め事にはなりませんよ。……はいはい、どうも」
端末をタップして通話を終えた瞬間、警部補は短く嘆息する。
「たく、相変わらずうるせえ上司なこった」
「お話は纏まりましたか、警部補」
夜景に背を向けてコナーが問いかけると、ハンクは頷いた。
「ああ、まあな。ちょっと古馴染みに会いに行くだけだってのに、大げさにがなり立てやがって」
「ツテと言っていたのは、人物なんですね?」
コナーが首を傾げてさらに問うと、街灯の下、ハンクはふっと皮肉げな笑みを浮かべた。
「まあな。前にも言ったか? 俺はダチがわりと多いほうなんだよ」
そうして、彼は歩き出す。
「ほら、こっちだ。……そうだコナー、お前はしばらく口を出すなよ。問題ないとは思うが、けっこう気性が荒い奴だからな」
「わかりました」
しっかりと返事したのに、ちらりとこちらを見たハンクの目は少し疑わしそうなものだった。
それに僅かに不満を覚えるが、しかし、今は事件の捜査を優先するべきだ。
コナーは言いつけ通り、口を閉ざしたまま警部補について歩いた。
数分して到着したのは、それなりに大きな建物――港湾地区関係の事務所だ。
中に明かりが点いている。
「あいつ、まだ事務所にいるのか。なら話が早い」
窓を一瞥してそう言うと、ハンクは無遠慮に事務所の扉を開いた。
するとその奥には、ちょうど一人の男性が立っている。
白髪交じりの茶色い髪、大柄だが少し脂肪がついた体格。身に纏っているのは一般的なビジネススーツだが、その目つきはどこか“堅気らしからぬ”険しさを湛えており、顔にはいくつかの古い創傷があった。それを裏付けるように、彼には複数の犯罪歴がある。年齢は【64歳】、職業は【港湾労働者組合 組合長】、その名前は――
「よう、テディ」
男性、【テディ・バッシュ】を親しげにそう呼ぶと、ハンクは軽く片手を挙げて彼に歩み寄った。一方でテディは、突然の来訪者に身を強張らせていたが、相手がハンクとわかったのだろう、ぱっと破顔して彼を迎える。
「ハンクか! お前、久しぶりだな」
太く大きな声でそう応えると、テディは軽く警部補の肩を叩き、続けて語った。
「最近姿を見ねえから、てっきり死んだのかと思ってたぜ」
「まだ生きてるよ。お前こそ、老けたが元気そうだな」
ハンクの軽口にテディはさらに応えようとし、そして、こちらの存在に気づいたようだ。
彼は怪訝な顔で、警部補に問いかける。
「……そこのアンドロイドは? お前のツレか?」
「まあ、そんなとこだな。コナーってんだ」
「どうも、はじめまして」
さっきは口を出すなと言われたが、ここは挨拶するのが礼儀というものだろう。
コナーが短く述べて、軽く会釈すると、テディは少し目を丸くした。
それから、苦笑を浮かべる。
「ハンクがアンドロイドのツレを、ねぇ。ま、心変わりも当然かもな。人間なんざ、言うこと聞かねえで勝手ばかりやりやがる」
「ふうん、なんかトラブルか?」
「しょっちゅうさ。ま、立ち話もなんだし」
テディは立てた親指を、自分の背後に回した。
「狭い場所だが、入ってくれや。秘書はもう帰っちまったが、茶ぐらいは出して……おっと、コナーだっけか。失礼、あんたたちは飲めないんだったな」
「お気遣いなく。お話を伺えれば、それで結構です」
コナーは、にこやかにそう応えた。
どうやら――いつものごとく。ハンクの友人というのは、どこか社会の規範からは一歩外れた、しかし気の好い人々ばかりであるらしい。
テディに招かれ、コナーとハンクは事務所内に立ち入った。
いくつかのデスクと椅子、応接セットが並ぶ、ごく一般的な室内の様子。木材を基調とした壁に大きな魚の剥製が飾ってあるところだけは、いかにも港湾労働者組合といった趣だろうか。
応接用のソファに座ると(席があったのでコナーも着座した)、ハンクは相手の茶を待つこともなく、単刀直入に切りだした。
「最近、調子はどうだ? 変異体たちが退職してから、様子が変わってきたんだろ」
「ああ、よくわかったな」
ひときわ大きなソファにどっかと腰かけたテディは、ハンクの言葉に素直に驚いている。
「アンドロイドが作業員の9割占めてた頃は、そりゃあ平和なもんだったさ。あいつら命令は守るし、ヤクもやらねえしカネも受け取らねえ。お蔭でここの切り盛りも楽なもんだったんだがな」
「また10年前に逆戻りか?」
「そこまではいかねえ。けど、つい先週も“大掃除”だ。博打も大酒も許してやるが、ヤクだけは絶対に許さねえって言いつけてあったのになあ」
忌々しいものを思い出したといった口調で、テディは顔を顰めている。
「調べてみりゃ、レッドアイスのパイプ持ち野郎だらけだ。全員しばき倒してクビにしてやったがよ。ハハハ」
要は、レッドアイスの吸入器を持っていた作業員を全員解雇した、ということだろう。「しばき倒して」の部分は――十中八九、法に触れるだろう箇所だが――意図的に取り上げないようにする。たぶん、こういう人物だから、ハンクは事前にこちらに「口を出すな」と警告したのだろう。
かたや、ハンクは鷹揚に友人の言葉に頷くと、ふいに声を低めて言う。
「そんなお前に、こういうニュースは実に気の毒なんだがな」
「あ?」
「お前のシマで、ヤクの取引しようって奴がいる」
瞬間――テディの表情が変わった。
笑みが消え、その目が冷酷な光を宿しはじめる。
「……ここで? ハンク、冗談かましてんじゃねえぞ」
「俺がそんな冗談言うと思うか」
「ああ、言わねえよな。知ってる」
苦々しげにそう応じて、テディは天井を仰ぎ見る。その彼に向かって、ハンクはさらに語った。
「
「クソが……ケツメドに真っ赤な石炭ぶちこまれた気分だ」
テディのストレスレベルが著しく増大し、こちらを向いたその額には青筋が浮かんでいる。
しかし、肛門に燃える石炭とは恐ろしい事態だが、彼はそんな目に遭った経験があるのだろうか。それとも、単なるスラング的な比喩表現だろうか。
コナーがプログラムの片隅でそんなことを考えた次の瞬間、テディの拳が応接のテーブルを強く叩く。
衝撃でかなりの音が部屋に響いたが、それにも負けずに彼は言った。
「よし、任せなハンク。お前がなんだってここに来たのかわかった。なんでも話す。なんでもやってやる」
「んなこと言っていいのか? お前ももうトップになって4年だ、色々あるだろ」
「構いやしねえよ。ヤクの売人どもがここをうろつくと考えただけで、オレのこの耳が疼きやがる」
そう告げて、さっと掻き上げた彼の右耳は、字義通りの意味で”半分しか”なかった。
我知らずコナーは目を見開いてしまったが、ハンクは既によく知っているのだろう、顔色を変えはしない。
テディのその傷は、かなり古いものだ。だが推測するに、鋭利なナイフ状のもので削がれた傷である――なるほど。彼がこの港湾地区でどんな目に遭い、ハンクとどのようにして友情を築くに至ったのか、説明されずともおおむね予想できた。
そういう事情があるからこそ、ハンクは彼を信用し、取引の情報を明かしたのだろう。
「心強いこった」
ハンクはシニカルな笑みと共に言うと、テディに二つ頼み事をした。
一つ、明日にかけてツーク=ルージュ港を行き来する船の情報を開示すること。
もう一つ、取引に加担しそうな労働者の心当たりを教えること。
しかし一つ目はすんなりと叶えてくれた――すなわち、タブレット端末を気軽に渡して寄越したテディも、二つ目には首を横に振る。
「言ったろ、ハンク。先週“大掃除”したばっかだ。いくらなんでも、ウチのモンがこれ以上ヤク漬けになってるとは思いたくねえよ」
「カネを受け取るような奴は?」
「全員とっくに、顎の骨とおさらばしてるさ」
【私刑および暴行に関する発言】が音声プロセッサに届いているが、コナーはもう一度意図的に無視し、ハンクから渡された端末をチェックしていた。
端末には、この港湾地区の地図と、どの埠頭からどのような船が発着するのかに関しての情報が併記して表示されている。
だがテディに、怪しい波止場の心当たりがなさそうなのも当然である。それぞれの埠頭に着く船はどれもデトロイト市内の一大企業のものばかりであり、こうした荷物に何かを紛れ込ませるというのは、よほど慎重にやらなければ即座に発覚してしまう。
つまり、リスクが高すぎる。吸血鬼の組織といえど、あまりに危険すぎて二の足を踏みそうな状況だ。
では、空いている波止場はないか――そう思って見ると、地区の南端に位置する「11号南埠頭」だけは、終日工事中で何も発着しない。
もしかすると、ここなら。
「バッシュ氏。すみませんが、この埠頭の工事現場に監視カメラは設置されていますか」
「ああ。経費の都合で、夜の間しか動かしてねえがな」
「確認しても?」
テディは促すように手を振った。
「おう。見れるもんなら、好きにしな」
「ありがとうございます」
短く礼を述べ、コナーはスキンを解除した手で端末に触れた。
遠距離にあるカメラであっても、このタブレットのように、同一のネットワークに接続されている端末があるならば話は別である。
アンドロイド用の操作センサーを介し、少し手を加えれば――この通り。
「どうだコナー、何か見えたか」
「はい、警部補」
端末を彼に、そしてテディにも見えるようにかざす。
タブレットの液晶には、夜の波止場――工事中の「11号南埠頭」の光景が映し出されていた。しかしながら、そこには現在誰もいない。
埠頭で行われている工事というのも本当で、崩れてしまったコンクリート部分をビニールシートが覆っていた。河面には、【起重機船】をはじめとした作業用の船が浮かんでいる。
これでは、工事に紛れて貨物船を泊めるというのも無理だ。
たとえ泊めたくとも、それに見合う場所がない。【中型程度の船なら可能】かもしれないが、その規模の船では大量の貨物を――つまり、レッドアイスを詰め込むスペースがないのだ。小規模な取引ならわざわざ港湾を利用する意味がないと考えると、その線は薄いだろう。
さらに、明日ここを発つ予定のレッドアイスそのものも、今は波止場にないようだった。
工事現場の資材の中に隠されているのでは――と考えてしばらく映像を精査したものの、それらしいものは80%以上の確率で存在しない。
彼らは、どこに荷を隠したのか。または、どうやって荷物を運び込むつもりなのだろうか。現段階では、判断がつかない。
ということを説明すると、いきり立ったのはテディだった。
「クソッ、じゃあいったいどこにあるってんだ!? いっそのこと、船の底を全部バラしちまうか!」
「落ち着け、テディ」
淡々と友人を宥めると、ハンクはこちらを向いた。
「見た限りじゃ、何かありそうなのはそこくらいなモンだがな。まさか組織の奴ら、本気で芋引いたってのか?」
「いえ。まだ何か、見落としていることがあるのでは……」
コナーは自分に対して呟くように言うと、もう一度端末を見つめた。
すると、映像の視界の奥に動くものがある――河面を横切って移動する、一隻の中型クルーザー。
何気なく、コナーはテディに質問する。
「この港湾地区には、よく観光船が来ますか?」
「ああ、まあな」
青筋は立てたままながら、幾分落ち着いた様子で彼は答えた。
「サイバーライフの本社があるベル島の周りをぐるっと回って、そのまま河を下ってこっちまで下りてくるツアーだかなんだかもある。この辺りの水面を観光客が船でウロウロしてても、まぁ、別に変じゃねえぜ」
「そうですか……」
推論のためのプログラムが、得られた情報を素早く組み立てていく。
――実際に工事中の波止場。大型の船は泊まれない。貨物らしきものも見当たらない。
しかしながら、観光船はよく通るという環境。運行していても怪しまれない状況。
さらに、テディの発言――人間の従業員に比べて、アンドロイドの従業員に対しての信頼が高まっているというこの港湾地区の実像。
合わせて、アンドロイドの身体的な特徴。
やがて、一つの結論が浮かび上がってくる。
「……わかりました」
コナーは、穏やかに告げた。
「現段階ではあくまでも仮説ですが、おおむねの予測は立てられました。やはり組織が取引をするのは明日、この埠頭でだと思われます」
「何ッ……!」
再び気色ばんで立ちあがろうとしたテディを制し、ハンクは真剣な眼差しで言う。
「なら、その予測ってのを聞かせてもらおうか」
「はい」
それから数分、コナーは自分の推理を開帳した。
聞いていくうちにテディの顔は(怒りで)真っ赤に染まっていったが、それに対してハンクは次第に、何か考えついたかのように険しい面持ちになっていく。
「――以上です」
「ふん……」
こちらが語り終わると、鼻で相槌を打つように、ハンクは小さく唸る。
「お前の言うことが正しいなら、事が動くのは明日になってからだな」
「ええ。しかし午後になってからでも張っていれば、きっと現場を押さえられるはずです」
コナーは真摯にそう応えた。
しかし、ハンクは首を横に振る。
「いや、それじゃ駄目だな」
「……どういう意味です?」
「ヘイ、ハンク! なんのつもりだよ」
ついに立ち上がったテディが、警部補に食ってかかるように言った。
「オレはこの兄ちゃんの推理に乗ったぜ! オレのシマを荒らす野郎にゃ、地獄を見せてやらなきゃなんねえ」
「ああ、お前は正しいぞテディ」
ハンクは、至って冷静な口調を崩さずに応える。
「俺たちだって、いい加減何度も踊らされて頭にきてんだ。……だがここで実行犯の野郎どもをとっ捕まえたところで、いつもと同じようにトカゲの尻尾切りされるだけだろ」
後半部分はコナーに向けて、彼は語っている。
ハンクの言うことは、確かに、理にかなっていた。これまで組織の末端の構成員や、協力者の逮捕には成功していても、それ以上の立場の者は探り当てられてすらいないのだ――吸血鬼以外は。
そして吸血鬼そのものは、現在もどこかを逃亡中なのである。
だが、しかし――
「では、どうすると?」
「だから今度は、こっちから仕掛けるんだよ」
――仕掛ける?
思わずこちらはきょとんとしてしまうが、一方でハンクは、いかにも良いことを思いついたと言わんばかりに目を細めている。
「ま、吸血鬼を操ってる連中も、いい加減気づくべきなのさ。――誰かを狩って楽しむような奴は、同じように誰かに狩られるもんなんだ、ってな」
それからのハンクの行動は、実に手早かった。
かなりの時間を共有してきたコナーであっても、少し驚いてしまうほどに。
だがよく考えてみれば、それも当然なのかもしれない。
ハンク・アンダーソンは、紛れもなく、かつてレッドアイス対策チームのリーダーだったのだから――港湾を使った「釣り」は、得意中の得意なのだろう。
港湾において、港湾労働者組合は最強……
『イレイザー』にもそうあります。
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第22話:港湾 後編/The Chaser Part 2
――2039年6月7日 09:31
デトロイトのミッドタウン地区――ウッドワード通り沿いにそびえ立つ複合ビルの一角に、マーサ・ガーランドの事務所はあるという。
近くの駐車場まで車で乗りつけたギャビンは、今日も今日とて無表情極まるポンコツ備品を連れ立って、目的の場所まで徒歩で向かっていた。
この近辺は美術館などのアート関連の施設や、レストランなどが並ぶせいか、街並みも整然としている。道を行くのは身なりの清潔な連中ばかりだし、石畳の道路の上にはゴミ一つない。ところどころに植えられた街路樹の緑も、街全体に和やかな印象を与えている。
晴れた空、穏やかな朝の陽光もまた、付近に漂う雰囲気を柔らかにしていた。
そしてギャビン・リードはといえば――もちろん、こういう街並みが大嫌いである。
いかにも取り澄ました、“芸術的”な、お高くとまった感じの場所なんて、息を吸うだけでもムカついてくる。
ただでさえ今日は、初っ端から不愉快極まる気分になっているというのに――よりにもよって聞き込み先がこんなところにあるなんて、さらに最悪だ。
吸血鬼野郎の落とした人形について――つまり、吸血鬼とマーサという女との繋がりについての調査が、必要だというのは理解している。
こっちだって、あの軍用殺人アンドロイドにさんざんコケにされたのだ。きつい落とし前をつけてやらなければ、気が済まない。
けれどその捜査に、あのハンクの命令で、という理由がくっついているのがムカつくのだ。
しかも今朝の
そういうわけで、現在のギャビンは、すれ違う善良な人々が思わずぎょっとするくらいに険しい目つきで、口元を歪ませ、鋭利なナイフのごとき剣呑な気配を周囲に撒き散らして歩いている。
――畜生、これで無駄足だったら容赦しねえ。
イライラしながら数メートル進んだところで、大人しく後ろをついて歩いていたはずのポンコツ野郎が、すたすたと足早に隣に並んでくる。
こちらの横を歩きながら、器用に身を屈めると、奴は短く呼びかけてきた。
「リード刑事」
無視して目を逸らそうとしても、相手は足を止めずに、わざとこちらの視線の前に出るように身を動かしてくる。――うざったいことこの上ない!
「ああ、なんだよてめえ!」
ついに立ち止まったギャビンは腹立ちまぎれに叫んだ。
備品はそれを受けて同じく立ち止まると、例によって定期的に瞳を瞬かせながら、静かに口を開く。
「朝のミーティング直後より、ストレスレベルの著しい向上を感知しています。ご不調ですか?」
「は……?」
――不調だと?
苛立っているのは確かだし、それをアンドロイド流に言えば「ストレスレベル」がどうこうという話になるのかもしれないが――
「は、さすがお賢いポンコツロボット様だな」
わざとおどけた口調でギャビンは応える。
「てめえに心配されるほど落ちぶれちゃいねえよ。朝っぱらからこんなとこに来させられて、イラついてるだけだ」
「……その理由に併せて」
また歩き出そうとした背に、ポンコツアンドロイドの声が届く。
「アンダーソン警部補の立案した作戦が、今朝がた署長に正式採用されたことが理由なのでしょうか」
「言うんじゃねえ、クソッたれ!」
お利口に全部言ってのけたロボット刑事に再び食ってかかるものの、相手は突きつけられた人差し指をじっと見つめるばかりだ。
「アンダーソン警部補の過去の功績と立案された作戦の精度を考慮すると、ファウラー署長による採用は妥当と判断します。私も兄さんから……」
「言うなっつっただろうが。いいか……次に余計な口叩きやがったら、お前のケツ蹴り上げるぞ」
声を低めて脅し上げると――もっとも、奴の固いケツに本気で蹴りを入れれば、折れるのはこちらの足かもしれないが――ギャビンは、ズボンのポケットに両手を突っ込んでさっさと道を先に行くことにした。
――そう。昨日の晩、ツーク=ルージュ港から戻ってきたハンクとコナーは、そこで何かよいネタでも仕入れてきたらしい。朝のミーティングの時になって、連中がファウラー署長に作戦を開陳すると、最初顰め面で聞いていた署長は徐々に目を丸くし、やがて口元を少し歪ませて(めったにないことだ!)短く「わかった。許可してやる」と言い出したのだ。
その時の署長やハンクの表情、いや、そればかりかミーティングルームに満ちたあの空気は、ギャビンに、とある記憶を呼び起こさせた。
ギャビンがまだ巡査だった頃、泥沼を駆けずり回るような仕事ばかりしていた時に垣間見た、レッドアイス特捜部の会議の光景だ。
その時の力強いリーダーとしての姿がまるで嘘だったかのように落ちぶれ、酒の臭いばかり漂わせるようになっていたはずのハンク・アンダーソンを、あのロクでなし刑事を、今朝は――一瞬とはいえ、あの日と重ね合わせて見てしまった。
否、違う。
だからなんだってんだ――俺はただ単に、あいつがデカい顔して立てた作戦に乗るしかないこの境遇と、みすぼらしい酒臭刑事と、そいつの隣で何やら目を輝かせていたクソッたれ型落ちロボ警官の態度にムカついているだけだ。
フン、と鼻を鳴らしてから、また隣について歩き出したポンコツに声をかける。
「それよかてめえ、本当だろうな。この前ベーグル屋のとこで会った女が、マーサだって?」
「はい。事実です」
小さく頷いてから、備品野郎は左手のひらに小さな画像を投影してみせた。表示されているのは、一昨日に危うくぶつかりかけた、あの長い黒髪の女の顔写真と情報だ。【マーサ・ガーランド】――確かに、あの女こそがマーサだったらしい。
杖をついた、顔色の悪い、どこか不幸そうな雰囲気の人間。それが、あの時のマーサへの印象のすべてだった。
仮に吸血鬼に繋がりがあるとして、いったいどんな関係が――?
「以前ご説明した通り、私の分析および顔認証機能は自動的に実行されます」
スクリーンを消し、歩き続けながら、ポンコツは語った。
「二日前に偶然遭遇した際の記録が、当該人物のものと同定可能だったため、今朝ご参考までに報告したという経緯です」
「へー、偉い偉い」
感情を籠めずに、軽口で応える。
「どうせなら、あの時とっ捕まえてやりゃあよかったのにな?」
「犯罪行為の事実のない対象の確保は、基本的人権の侵害かつ刑法に抵触する行為で」
「あーはいはい、そうですねっ」
べらべらと真面目くさって説明をはじめたアンドロイドの言葉を打ち切らせるように、ギャビンは大仰に肩を竦めて声をあげる。
――それよりも、聞かないといけないことがある。
「それで、女の動きは? つーか、てめえのドローンはどうなってんだよ。3台くらいやられてただろ、昨日」
「……オフィス周辺の監視カメラの映像では、ここ3日間、マーサ・ガーランドの姿は確認不可能です。デトロイトの自宅近辺も同様です」
視線を行く先に向けた備品は、淡々と口にした。
「したがって、当該人物はそれ以外の場所に滞在中の確率が76%です。しかしオフィスを来訪すれば、新規情報の獲得が見込めると判断します」
「フン」
「それから……」
やや表情を暗くして――というか顔を俯けて、ポンコツは続ける。
「ドローン7号機・ガーベラは……残念ながら、修復不可能という結論に達しました。爆風を受けたフリージアとヘレボラスの修理は完了し、新しく7号機として投入された“ジンジャー”と共に、現在警戒任務にあたっています」
「あー、なるほど」
皮肉たっぷりに、ギャビンはニヤニヤと笑いながら言う。
「さすがサイバーライフ様は、ドローン1機くらい余裕で追加できるのな。ブッ壊れた機械の代わりなんて、いくらでもあるってか? ハハッ、てめえも入れ替えられねえように気をつけろよ」
性質の悪い冗談を言って、ゲラゲラと笑う。しかし、いつもならこういう時に黙って目を瞬かせてばかりのはずのポンコツ備品は、今日に限って、反応が違った。
奴は音もなく立ち止まると、俯けたままだった顔をふと上げたのだ。
普段はぼんやりしたその灰色の瞳に、いつになく強い光――“意志”のようなものを感じて、思わず、ギャビンはぎょっとする。
「リード刑事」
「……な、なんだよ」
「昨日は、ご迷惑をおかけしました。すべて、私の未熟さと……軽微なプログラムのエラーが原因です。今後はいかなる状況においても、あなたの身体に危険が及ぶことのないよう、さらに尽力します」
抑揚なく、しかし、はっきりと告げられた言葉。
「ハッ」
吐き捨てるように息をつき、ギャビンは彼に背を向けた。
「端からてめえなんて当てにしてねえよ、クソが」
「……」
「おら、女のオフィスはあそこだろ。とっとと歩けよ」
「……了解しました」
背後にいるポンコツ備品の声音は、いつもと同じだった。
そのことに心の片隅で少しほっとしながら――そしてその安堵を素早く胸の内で否定しながら、ギャビンは、言葉通り目的地への歩を進める。
マーサの事務所があるというビルの入り口は、もう間もなくだ。およそ6階建てで、それなりの大きさのロビーを構え、けっこうな人数が出入りしている。
陽光を受けてガラスを青く光らせているそのビルに、気分を切り替え、期待と共に、ギャビンは立ち入るのだった。
そして――3階、「ガーランド デザイン事務所」まで来たところで。
「は?」
閉ざされた自動ドアの前にて、ギャビンは信じられないといった声をあげた。
しかし見間違いではない。
ガラスの向こうには電気のついていない無人のオフィスが広がり、それよりさらに手前、ドアのすぐ後ろには「CLOSED」の立て看板がひっそりと立っている。
――ここの事務所の営業時間は把握済みだ。今日は開いていると踏んで、わざわざここまでやってきたというのに。
「どうなってんだ……!」
何度か自動ドアの下のセンサー部分を踏み鳴らし、それでもまったく開く気配がないので、ギャビンは苛立って拳でドアを叩いた。
「開けろクソが! デトロイト市警だ!!」
「リード刑事、残念ですが」
隣で黙って様子を見ていたポンコツが言う。
「オフィス内家具に堆積した埃、およびセキュリティシステムの稼働状況から考えて、当該オフィスは数か月間オープンしていないものと推測可能です」
「んだと……」
ドアから一歩離れたギャビンは、改めて中の様子を睨むように眺めた。
確かにこいつの言う通り、事務所の中の机だの応接セットだのは、薄く埃を被っている――ように、見えなくもない。
それから、天井に貼りつくように設置されている半球体の装置――要は侵入者を検知するセキュリティシステムなのだが、それは一定のパターンで光を点滅させたまま、ただじっとそこにあるばかりだった。
人間の目には何もわからないが、この最新鋭ポンコツの目には、あれがどれくらいの期間ああして稼働しているのかがわかるのだろう。
「ここで働いてる連中のデータってのはないのかよ」
「……情報検索を実行します」
数秒後、備品はゆっくりと首を横に振る。
「マーサ・ガーランドは、実務のほぼすべてを一人で担当していた模様です。事務や経理のために第三者を雇用していた時期も存在しますが、残念ながら短期雇用ばかりのため、詳細なデータは残存していません」
「チッ」
当てが外れた、とはこのことだ。まさかマーサの事務所がこんな状況とは――
もちろんポンコツに命じれば、ドアのロックを解除するくらい訳ないだろう。しかし当然それは違法手段であり、そして、違法手段で手に入れた証拠は法的な場というやつでは大して役に立たない。署長にどやされて、面倒な目に遭うのもごめんである。
監視カメラの映像もないし、スタッフの情報もない――となると、残された手段は二十年以上前から変わらない、泥臭いアナログ戦法だ。つまり、聞き込みしかない。
「ここの1階……ロビーに受付があっただろ」
早々にオフィスそのものには見切りをつけて、ギャビンは顎でポンコツ刑事を促す。
「あそこの連中に話を聞くぞ」
「目撃情報の収集ですね」
「わかってんならさっさとしろ」
アンドロイドを連れ立って、エレベーターで1階にとんぼ返りし、詰め寄るように身分証を受付に突きつけると、マーサについて質問した。
しかし――
「申し訳ありません。私はつい先週からここに配属されたばかりで……」
「私もです」
「長くここで働いていた受付アンドロイドは、みんな辞めてしまったから……」
LEDを外した変異体の受付が一体、人間が二人。
だがそのいずれもが、マーサ・ガーランドについては心当たりがないという。
噓ついてんじゃあねえか――という疑問は、再びゆっくりと首を横に振ったポンコツが否定してきた。
嘘をついているなら、ストレスレベルの上昇やバイタルの変化で判別できる。
彼らは本当に何も知らないのだ、というようなことを、訥々と備品野郎は口にした。
――そういうわけで。
「クソが」
複合ビルを出たギャビンは短くボヤくと、ポンコツアンドロイドと共に駐車場に戻り、素早く車に飛び乗った。
向かう先は、ミッドタウンからほど近い住宅街。すなわち、マーサ・ガーランドの自宅である。
――職場が駄目なら、今度は自宅だ。近所の住民というのは、何も知らないようでいて、意外と細々したことを見聞きしているものである。
たとえ本人がおらずとも、きっと何かわかるはずだ。
ほどなくして着いたのは、古い建物をリノベーションしたのだと思しき瀟洒なアパートメント。
「マーサ・ガーランドは201号室です」
「よし」
ポンコツの言葉に従い、ギャビンは201に辿り着くと、ダメもとで呼び鈴を押してみた。
――誰も出ない。
「チッ……隠れてんじゃねえぞ、クソが! おい! マーサ・ガーランド!!」
イライラしながら、ギャビンはドンドンと扉を何度か叩いてマーサを呼ばわった。
しかし、向こうからは返答がなく――
「……なんなんだよ。うるせえな……!」
代わりに開いたのは、隣の202号室の扉だった。
現れたのは、いかにも大学生といった風体のTシャツ短パン姿の青年。寝起きの様子で、騒音を立てる闖入者相手に不機嫌そうにしている彼に対し、ギャビンはすかさず近づいて問いかけた。
「よお、いいところに出てきたな。この部屋に住んでる女について教えろ」
「は!? なんだよ、いきなり……」
「お騒がせして申し訳ありません。私たちはデトロイト市警の者です。捜査へのご協力を要請します」
後ろから淡々と補足説明した備品には目をやらず、ギャビンはさらに掴みかからんばかりの勢いで青年に質問する。
「マーサ・ガーランド、知ってんだろ? ここに住んでる、黒髪の杖ついた女だ。ほら、話せよ」
「あ? なんでオレが……」
青年はギャビンに対して顔を顰めてみせると、ポンコツアンドロイドのほうを見てさらに表情を歪めた。
「ケッ、アンドロイド? プラスチックなんか連れて歩いて、アンタ本当に警察か? 本物呼ばれる前に消えろよ」
――ほう。どうやら、こいつはとても“血気盛ん”な性格らしい。
「そうか。そんなに俺のバッジが見たいか?」
やや語気を抑えたギャビンは、素早く身分証を相手に突きつける。
「ほら、よく見ろよ。デトロイト市警って書いてあんだろ? 市警ってことは、警察だぜ。おわかりだよな。黙ってるとロクな目に遭わねえぞ」
「なっ……!」
「あなたの睡眠を妨害している件に関し、再度お詫びします。エリック・ランパード氏」
静かに青年(エリックというらしい)を見つめつつ、備品野郎は平坦な抑揚で言ってのけた。どうやら、例によってまたフェイススキャンというのをやったようだ。
そして名前を言い当てられたエリックは、びくりと身を震わせる。その態度の変わりようが痛快で、ギャビンは内心でほくそ笑んだ。というより、思い切りニヤついた。
一方でアンドロイド刑事は、言葉を重ねる。
「しかし、我々には情報が必要です。あなたが通学するデトロイト工科大学の2限目の講義まで、移動時間を含め25分の猶予が認められます。その間にご存知の事実を語っていただければ、我々はあなたに感謝します」
「へえ、いいトコ通ってんじゃねえか。
「……!」
エリックはなぜか真っ青な顔で口を噤んだ。
それをどう受け取ったのか、ポンコツ野郎はさらに口を開いた。
「警察への協力行為は、社会奉仕活動の一環と評価されます。これは暴行事件の執行猶予に伴う保護観察期間中のあなたにとって、有益な行動であると判断……」
「や、やめろ!」
途端に(さっきまでのギャビンよりも)大声をあげてアンドロイドの言葉を遮ったエリックは、ボソボソと言った。
「わ、わかったよ、話すよ。つっても、そんなには知らねえけど……」
――結局。
真っ青な顔のままエリックが語ったのは、なんてことのない情報ばかりだった。
マーサが隣人なのは知っているが、言葉を交わしたことはないこと。そういえば、ここ数か月は姿を見かけていないし、隣から物音もしないこと。いなくなる前に何か変わった様子はなかったか、と言われても、面識もないのだからわからないということ――
それから、あと一つ。
「……そういや、女の子といるのは何度か見たな」
エリックは最後に、思い出したように言った。
「栗色の、長い髪の女の子と一緒にどっか出かけてってた。仲がよさそうだとは思ったけど」
「娘とか親戚とかか?」
「ん、んなこと知るか……いや、知りません。でも、ずっと一人暮らしだと思ってたんだけどな……」
ギャビンがちらりと背後に視線を送ると、アンドロイド刑事は静かに語った。
「マーサ・ガーランドは単身者と登録されています。子の存在も、少なくとも戸籍上では確認不可能です」
ということは――どういうことだ?
まだ情報が足りない。
それからギャビンは、諦めずに聞き込みを続けた。
さらに隣室の住人、アパートメントの管理人、近所の商店の店員を相手に。
しかし誰も彼も口を揃えて、エリックと似たようなことしか口にしない。
やがて、日が空の真上に昇った頃――
アパートメント近くの公園に設置されたベンチにどっかと腰かけ、ギャビンはイライラと貧乏ゆすりをする。
ポンコツアンドロイドは、そのすぐ隣に立って後ろ手を組み、どことなく沈痛にも見える面持ちでこちらを見つめていた。
「クソ……!」
完全に収穫がなかったわけではない。しかしこれでは、まるでマーサの素性がわかったとは言えない。
少なくともあともう少し、何か手がかりは見つけられないものか――今後の捜査に繫がるような何かを。
頭の中をちらつくのは、今朝のミーティングの光景だ。
ハンク・アンダーソンが偉そうに“活躍”しているその裏で、まるでガキの使いのように、おめおめと署に戻るなんて――
そんなこと、死んでもできるはずがない!!
「なんか方法があんだろ……!」
誰にともなく呟き、懸命に思考を巡らせる。
監視カメラにも映っていない、行方のわからない女。そんな奴、どうやって正体を探ればいい?
「リード刑事、参考までに」
ポンコツが、視線だけこちらに向けて告げる。
「マーサ・ガーランドの業績について検索したところ、最新のものは半年前、エリック・ピピンというカナダの富豪の別荘デザインと判明しました」
「……で?」
「残念ながら、それ以上は。国外の人物に関しては、情報が不足しています」
ギャビンは遠慮なく舌打ちした。
なるほど、マーサが何度もカナダに渡っていた当初の理由自体は、「その富豪の依頼がきっかけなのだろう」とうっすら見えてはくる。けれどつい最近になってもカナダに渡っていた理由までは、はっきりしない。
だからこそポンコツは「参考までに」と言っていたのだろうが――そんな事情を斟酌してやるつもりなどない。
「ちっとは役に立てや、てめえ」
備品野郎を睨め上げるようにしながら、ギャビンは憎まれ口を叩いた。
「このまんまじゃ、あの女が生きてんのかくたばってんのかだってわかんねえじゃねえか」
「……はい。少なくとも、二日前までは生存していたと断言できますが……」
真に受けた様子で頷くポンコツを、じろりと見つめる。
「んなもん、誰にだってわかんだよ」
はん、と嗤ってから、再び思考に戻る。
――二日前。あの時は、本当に目の前にいたのに。こんなことになるとわかっていたら、やっぱり捕まえておくべきだったか。
ぶつかりかけた時に、あの女が落としたアレ――なんだったか、そうだ。
薬を理由にして、難癖つけてやっていれば。
「……!」
瞬間。脳裏を過ぎる鋭い閃きに、ギャビンは思わず、小さく息を吞む。
「……そうだ、薬だよ」
「どうされましたか、リード刑事」
「お前、言ってたよな」
備品野郎を見上げつつ、続きを語る。
「あの女の薬は、どこででも手に入るもんじゃねえって」
「はい。マーサ・ガーランドが所持していた医薬品ならば、『一部の医薬局で処方される最先端の抗不安薬』とご説明しました」
ご丁寧にまた説明してくれなくても、やはり記憶は確かだった。
あの女は、病院に行かないと貰えない薬を持っていた。しかも、どこででも貰えるモンではないらしい。
ならば、あの女がその薬を貰った病院がどこかわかれば、女の素性も明らかになるのではないだろうか。医者というのは、患者について、いろいろと知っていて当然の職業だ。
我ながら冴えた考えだ――と、ギャビンは上機嫌なニヤニヤ顔を晒しつつ、アンドロイド刑事に向かって口を開く。
「てめえに仕事をくれてやるよ、ポンコツ。いいか……」
それからこちらが下した命令について、さすが最新鋭備品は、それなりの働きを示した。
奴の検索によれば、その薬はまだ合衆国内でしか売られておらず、またこのデトロイト市内で扱っている医療機関は7つしかないそうだ。
――7つ。回るのはかったるいが、コケにされる屈辱と比べれば、断然耐えられる怠さではある。
今日のギャビンは、ひときわ粘り強かった。
法的に患者の情報に関する守秘義務を持つ医療従事者といえど、一応正式な警察の捜査に対しては、話が別である。
これまでにマーサ・ガーランドを診療し、例の薬を処方したことがある病院だか薬局だかを探し、ひたすらあちこち車を走らせる。
1つめ、ハズレ。2つめもハズレ。3つめ、4つめもハズレ。
だんだん苛立ちが勝ってきたが、しかしここで止めるのも癪だった。
当たり散らしたくなる気持ちを功名心とプライドで抑え込んで、5つめの場所をあたる。そこは、イボンヌ・スチュワートという若い医者が個人でやっている、小さな精神科の病院だった。
そして、面会したその医者――イボンヌは、「マーサ」の名を聞くと丸眼鏡の奥の目を丸く見開いて、驚いたように言う。
「マーサを捜していらっしゃる、って……か、彼女に何かあったんですか? せっかく、あそこまで回復したのに」
イボンヌが語ったところでは、経緯はこうである。
マーサは、昨年の2月頃――アンドロイドの「革命」が起こるなんて人々が知る由もない平和な頃まで、4年ほど、ずっとこの病院にかかっていた。
インテリアデザイナーとしてそれなりの業績を築いてきたマーサは、代償として、ストレスが原因の睡眠障害や不安障害などを抱えるようになり、それでここを訪れたのだという。
イボンヌはカウンセリングや投薬治療を試み、その一環として例の最先端の抗不安薬を彼女に処方した。一定の効果はあったものの、寛解したとまではいえない状況が続いていたある時――
「彼女に、その、私が提案したんです。アンドロイドを購入してみたらどうか、って……」
「アンドロイド?」
なぜ治療にアンドロイドが出てくるのかと、訝しく思ったギャビンが疑問の声をあげる。
すると後ろに立っているポンコツ野郎が、おもむろに言った。
「一部の家庭用アンドロイドには、所有者の心理状態の改善を目的とした、特殊なソーシャルモジュールが搭載されています。ストレス軽減や不安症に、一定の効果があるとして販売されていました」
それを聞いて、ギャビンも思い出した。
そういえば、やれ「この型番は持ち主と理想の友人関係を築ける」だの、「この型番にはロマンチックモードが搭載されている」だの、一時期はやたらテレビやネットでもてはやされていたのを覚えている。
今はそこらじゅう変異体だらけになったので、そういうアンドロイドの“自由意志”に反した振る舞いをさせるような機能は、人間側の都合では作動できないようになっているらしいが――
そしてスチュワート医師はポンコツの言葉に頷いてから、こう話した。
「彼女は……マーサは、あまりにも孤独な人だった。それが彼女のストレスを高めている原因の一つなら、一緒に暮らせる誰かがいればと思い、彼女にアンドロイドを勧めました」
「で? マーサは買ったって?」
「はい。率直に申し上げて、その効果はすさまじいものがありました。購入してすぐ次の診療で……彼女は、どんな型番を買ったのかは教えてくれませんでしたが……毎日が充実していると。これまでの辛い気分が嘘のようだと、今まで見たことがないくらいに晴れやかな顔で、語っていました」
その回の診療から、イボンヌは徐々にマーサに処方する薬の量を減らしていった。
それでも、マーサの症状は悪化することなく、みるみる回復していくばかりであった。
そして昨年の2月――マーサの治療は終了したのだ。
「ですので、彼女が寛解したのはすべて、アンドロイドのお蔭だと思います。彼女があの薬を持っていたというのは……もしかしたら、処方した薬を飲み切らずに、保管していたのかもしれませんが。でも治療後は彼女と会っていないので、それ以上は……」
「いいえ。たいへん参考になりました」
さっさと席を立ったパートナーに代わり、アンドロイド刑事は丁寧に礼を述べる。
「ご協力に感謝いたします。もし何か新たに発覚した事実や問題等が発生した場合は、デトロイト市警まで……」
「おい、行くぞポンコツ!!」
――長々と語る備品野郎を遮り、一応イボンヌには軽く顎で会釈して、ギャビンは病院から退出した。
「……アンドロイドね」
車に戻り、運転席に座ったギャビンが揶揄するように呟くと、もはや遠慮なしに助手席に座るようになった備品野郎が、静かに口を開く。
「サイバーライフには、顧客のアンドロイド購入記録がすべて保管されています。購入した型番のみならず、シリアルナンバーやメンテナンス記録も登録済みです。判断の材料になると推測します」
「ほお」
横目で相手を見つつ、まったく気持ちが乗っていないわけでもない感嘆の言葉を吐く。
確か、あの型落ちコナーが話したところでは、マーサは変異体がどうのこうのとブツクサ文句を言っていたらしい。
軍用アンドロイドとの繋がりははっきりとは見えないものの、買ったアンドロイドが(例えば)変異体になって、いざこざがあったなんてことがあれば――マーサとアンドロイドとの因縁自体は明かされるのではないだろうか。
「で、どんな型番を買ったって?」
「……」
備品野郎のLEDがちかちかと黄色に点滅し――ややあってから、相手はほんの僅かに眉を顰めて語る。
「申し訳ありません。マーサ・ガーランドの顧客情報は半年前、彼女の側からの申請という形で削除されています」
「はぁっ!?」
――せっかく少しは役に立ったかと思ったら、いきなりこれか。
ギャビンが頓狂な声をあげると、ポンコツはいかにもすまなそうに目を伏せる。
「……サイバーライフでは、顧客からの削除要請があった場合に限り、情報をデータベースから削除しています。復旧はデトロイト市警経由で申請すれば受理されますが……」
「なんだよ」
「受諾され、データ復元が完了するのは規定により2日後です」
「またそのパターンかよ!!」
全身で「ふざけんな」を表現しつつ、ギャビンはポンコツに言い放つ。
「クソ……てめえ、最新鋭なんだろうが。向こうの決まりなんて知るか、とっとと復元させろよ!」
「重ねて申し訳ありません。私には、サイバーライフの規定を逸脱した行動を依頼する権限がありません……」
――そんな、「おカミには逆らえない」みたいな言い草が通ってたまるか。
やっぱりサイバーライフ社ってのは、史上最低のクソ企業だ。
「チッ……」
舌打ち一つ零してから、ギャビンは何気なく、車に取り付けてある端末の表示を見つめた。
――15:09。
そろそろ、
「……2日後、ね。それより遅れたら容赦しねえからな。それよかてめえには、お仕事があるんだろ」
「はい」
灰色の瞳を瞬かせつつ、ポンコツ備品は(まるで気を取り直したように)首肯してみせた。
「アンダーソン警部補と、兄さんから依頼されました。今回は……必ず、成功させようと思います」
「てめえがブッ壊されたら、俺の出世がパアだからな」
相手の胸に人差し指を突きつけつつ、ギャビンは言い放つ。
「今度は現場でビビるなよ。ポンコツ」
「はい。……ご助言に感謝します、リード刑事」
そう応えた備品野郎の顔は、どことなく、さっきよりずっと明るいもののように見えた。
――こいつの感情なんて認めてやるつもりはないし、誰も“助言”なんてしていないのだが。
「チッ」
イライラしたギャビンが舌打ちした時、端末から電子音が響いた。
デトロイト市警から――どうやら、やっぱり、仕事の時間のようである。
***
――2039年6月7日 11:53
さて、ギャビンとナイナーが聞き込みのために駆けまわっていたのと、ちょうど同じ頃。
「ほらよハンク、いつもの」
「ああ、ありがとよ」
チキンフィードでいつものバーガーを受け取り、ハンクは短く礼を告げた。
するとゲイリーはちらりとこちらの背後を――つまりコナーを見やってから、軽く肩を竦めて問いかけてくる。
「で、ドリンクはレモネード?」
「いや。今日はそっちも『いつもの』にしとくか」
「そうこなくちゃな!」
ニヤリと笑って彼が差し出したのは、XLサイズのパイナップルパッションソーダだ。
――少しばかり、背後からの視線が気になる。けれど今日はこれから、本気で「大きな仕事」が待っているのだ。
たまにはいいだろう、たまには。ハンクはそう思うことにした。
ドリンクも受け取ると、いつものテーブルに足早に向かう。
そして食事を置いて顔を上げると、てっきり定位置につくなりすかさず小言を並べてくると思っていた相棒は、意外にもやけに上機嫌な様子である。というより、妙にニコニコしていた。
「……おい、コナー」
じっと微笑みかけてくる視線に耐えきれず、目を逸らしながら、ハンクは努めてぶっきらぼうに言った。
「今日は、糖分がどうとか言わないのか? 雪でも降ってきそうだな」
「本日のデトロイトは終日快晴ですよ、警部補」
皮肉がわかっているのかいないのか、コナーは至極真面目に応える。
その表情は、なおもにこやかだ。
「そのソーダについてなら、何も言うつもりは。昨夜からの仕事を考えれば、むしろ適切な摂取量です。それに、作戦前に慣れた食事を摂ることは、ある意味でメンタルコントロールにも繋がりますから」
「へえ」
これは珍しい言葉を聞いた、と思いつつ、ハンクはさらに皮肉っぽく笑った。
「そういや、こんなことを言う奴もいたな。『過剰な糖分摂取は生活習慣病の原因だ』だの、『このソーダには果汁が入ってないからビタミンも摂れない』だの」
「警部補」
コナーはわかりやすくムッとした顔になると、やや冷ややかな声音で言う。
「飲むのを止めてほしいのなら、いつでもお止めしますが」
「いいや。今日はお言葉に甘えとくよ」
わざと厳粛な表情で、丁寧にハンクが告げると、コナーは少し釈然としないような面持ちながらも口を噤む。
――これでいい。飯を食っている間中ニコニコされるなんて、むず痒くてとても落ち着かない。
「……それにしても」
と、コナーが切り出した。
「今朝のミーティングでは、お見事でしたね。署長の承諾がすぐに得られるとは」
「ま、要するに“ニーズに合ってた”ってこったろ」
バーガーを齧り、ソーダでそれを流し込んでから――ああ、やはりこの砂糖のしっかりした甘味が脳を灼くような感覚は最高だ――ハンクは語る。
「このまま吸血鬼を逃がしてりゃ、
「それを立案できたのは、あなただからこそですよ」
だしぬけにそんなことを言われ、思わず口に含んだソーダを噴き出しそうになる。
なのにコナーときたら、また妙に輝かしい瞳でこちらを見ると、続きを口にした。
「先日会った、サマンサ・ヘインズビーという元警官の人物が言っていました。あなたは刑事になったばかりの頃から、とても立派な功績を残していたと」
「何!?」
――なんということだ。知らない間に、相棒が勝手に自分の大先輩と知り合いになっているだなんて。
「……余計なこと聞いてないだろうな、お前」
「もちろん。ですが、あなたが後輩として扱われている話を伺うのは初めてだったので、とても興味深く思いました」
曇りなき眼で、コナーはさらに言った。
「データとして知っているあなたの活躍の一部を、実際に話として聞けて嬉しかったですし……活躍を目の当たりにするのは、もっと光栄なことです。今朝もそうでした。ハンク、あなたは素晴らしい警官です」
「…………」
――すさまじいほどのべた褒めだ。
しかしこいつは、果たしてわかっているのだろうか。ほんの7か月ほど前まで、その当の本人は過去から顔を背け、逃げ出し、燻っていた単なる腰抜けだったのだということを。
そんな奴がたまに
「すみません」
こちらの無言をどう受け取ったのやら、コナーは途端に姿勢と表情を正した。
「不謹慎でしたね。喜ぶのは、まったく気が早い」
「ああ……まあ、そうだな」
曖昧に応え、齧ったバーガーの大きな塊を吞み込み(できればもっとじっくり味わいたかったものだ)、ハンクは別の話題に移った。
「それで、お前のほうはどうなった? マーカスはうまく取り次いでくれたか」
「ええ。カナダのアンドロイドについては、しばらく待ってほしいと言われましたが……少なくとも、ケイシーにはすぐ連絡できました。喜んで協力するとのことです」
ケイシー、つまり、事件をきっかけに知り合ったアンドロイド記者だ。チンケな新聞社を辞めた後、ジェリコに身を寄せていたらしい。すぐに協力を取りつけられたとは――
「そりゃ結構だ」
今度は皮肉でなく、ハンクは口の端を上向きにする。
「できるだけ大騒ぎを起こさねえと、釣りは成功しないからな」
「はい。可能な限り話が大きくなったほうが、真実味が増すでしょう」
そこでコナーは一度顎に手をやり、何ごとか思案してから、真剣な表情でまた口を開く。
「警部補。こうして考えると、やはり吸血鬼を擁する組織には、中間幹部がいないようですね」
「ああ。でなきゃ、今みたいなことにはなってないはずだ」
ソーダを口に含んで――ストローの奥からはズズズと音がするばかりだ。残念なことに、もう飲み干してしまったらしい。
カップをテーブルに置くと、ハンクは続けて語る。
「俺たちやギャビン、ナイナーが今までに会った組織の連中は、吸血鬼以外はたいていがチンピラだ。そのチンピラどもが薬の売買から武器庫の防衛、トラックの運転まで、どれもこれも自分たちでやってて……しかも、トカゲの尻尾切りは例の“呪い”とやらに任せきりときた」
――つまり彼らの組織は、徹底して幹部の正体の露見を避けるために編成されていると思われる、ということだ。
普通、麻薬カルテルだのギャング団だのというものは、組織の最下層に属する売人やチンピラたちの直属の上司として、複数の下層グループを統括する中間幹部を配置する。
それはカネを効率よく上層部に送り込むためでもあるし、手駒たちを効率よく管理するためでもある。
チンピラがしくじって揉め事になった時は、中間幹部が出向いて対応する。それゆえに組織の中間幹部というものは、警察とも“知り合い”になる確率が高い。さらに、上層部を裏切って秘密をゲロるとか、反旗を翻して自分がトップに立とうとするのも、この中間幹部にありがちなことだ。
しかしながら、吸血鬼の組織にはどうやらそれがない。
チンピラたちはいつだって彼らだけで行動し、その行動の指示は(ギャビンのところに間違って届いたように)手紙やなんかで出されている。
不用意に組織の秘密を喋った者が消されるのはギャングの常だが、それにしたって吸血鬼の「呪い」に任せている状況だ。あのカジノのサイコパスギャンブラー、アシュトン・ランドルフが現在も留置場でピンピンしているのが、その証拠である。
さらに、何か事が起これば――例えば昨日のように、刑事が踏み込んできたとか――すべて吸血鬼に対応させている。省エネというか、怠惰というか、もし吸血鬼が脱法アンドロイドでなければ、速攻で過労を訴えて裏切っていたことだろう。
つまり吸血鬼の組織は、最上部にボスと上級幹部がいるとして、その直接の指揮下には吸血鬼だけがおり、その下には実働部隊たるチンピラたちしかいないと考えられる。
今夜の作戦の大きな目的は、吸血鬼の確保だ。
しかしもう一つの目的は、組織に対するこちらの想定が果たして正しいものなのかどうか、確かめることにもある。
バーガーの残りを口にし、よく噛んで呑み込んでから、ハンクは言う。
「俺のほうも、午前のうちに
「はい、警部補。お任せください」
キリッとした表情で、きっぱりと相棒は応えた。
それにどう対応したものか、一瞬ハンクは考えたが――ひとまず、普段と同じように返すことにする。
「お手並み拝見ってとこだな」
肩を竦めて、バーガーの箱をくしゃりと潰した。
***
――2039年6月7日 17:12
初夏のデトロイトの日没は遅い。
太陽は少し翳ったとはいえ、未だに明るく港湾地区を照らしている。
いくつかの場所に仕掛けた監視カメラの映像――それらを複数同時に表示しているモニターを、じっと覗き込む人影は3つ。コナーとハンク、そして、労働者組合の長たるテディだ。
「おい、もう来たか!? ハンク、どうなんだ」
「落ち着けテディ、もうじきだ」
手で軽く友人を制しつつ、ハンクは静かに言った。
ここは昨夜訪ねたのと同じ、組合の事務所の一室。そこを現在の拠点として、コナーたちは行動している。
「……他の班も、うまく潜伏できているようです」
油断なく映像を確認し、そして各所からあがる報告の通信を随時受け取りながら、コナーもまた冷静に告げた。
今回の作戦は大規模だ。普段はほとんど連携しない市警の部署に、協力を要請しているくらいなのだから。
「港湾の労働者の人々も、普段通り活動しています。この状況では、私たちが張り込んでいるのには気づかれないでしょう」
「当然だ! しっかり指示は出したぜ。何せヤクの売人どもをブッ潰せるんだからな」
意気盛んにテディは語る。
しかし彼の協力がなければ、この港湾地区に警察の部隊を伏せることなどできなかっただろうし、こうまで「何ごともないかのように」労働者たちが振る舞っていることもなかったに違いない。
彼がシマと称するこのツーク=ルージュ港を、いかに敏腕に取り仕切っているかがよくわかる。
そして――
「来ました」
低く、小さくコナーは言った。
監視カメラごしに視界に映るのは、例の「11号南埠頭」の光景だ。そこに、何気ない様子でアンドロイドが4人、並んで入っていく。
彼らの型番は、揃って【TR400】。荷物運びや工事現場での重労働など、人間には危険な肉体労働を肩代わりするために開発されたアンドロイドたちだ。
必然的に大柄な体格に、TR400たちは、揃いの繋ぎ服を纏っている。
――いや、それだけではない。
コナーの分析機能は、TR400たちの腹部に【異常な膨らみ】を検知した。そして彼らの、統制のとれた軍隊のごとき一糸乱れぬ動き――さらに、一列を成して埠頭に入った後は、微動だにせず佇んでいるその姿。
もしこの埠頭に集中して注意を払っていなければ、多数の労働者たちがひしめくこの港湾にあって、この光景は大して気に掛けられるものではなかったかもしれない。
けれど今は、断言できる。
昨夜の推測に、間違いはなかったのだ。
次いで、ばらばらと埠頭に立ち入ってきた幾人かの男たち――彼らは【人間】だが――を見るや否や、ハンクは傍らから通信機を取り出し、指示を下す。
「よし、今だ。やれ」
***
――2039年6月7日 17:52
日はまだ沈んでいない。そして日光は、今や大乱戦の様相を呈しつつある「11号南埠頭」をはっきりと照らし出していた。
「撃てーっ!」
掛け声とともにSWAT部隊が、構えたライオットシールドの陰から一斉に発砲する。
相手のうち幾人かが倒れはしたものの、それでもなお健在な者たちが、負けじとばかりに撃ち返してきた。
そんななか、シールドの陰に隠れつつ、数十メートル向こうを確認してコナーは考える。
――吸血鬼の組織は、やはり、こちらの予測通りの行動を見せた。
埠頭に今停泊しているのは、一隻の中型クルーザー――白く滑らかな外観の、いわゆる観光船だ。人数でいえば15人程度も乗ればいっぱいになりそうなその船こそが、組織が麻薬密輸のために使おうとしていたものである。
簡単な話だ。彼らは、アンドロイドに積み荷を運ばせようとしたのではない――アンドロイド
人間と同様、アンドロイドには口がある。また、ブルーブラッドを経口摂取する場合に備えて、口腔の奥には食道のごときチューブが繋がっている。さすがに胃に相当する生体部品はないものの、ともかくアンドロイドの体内には、袋状になっている箇所がある。
さらに、人間には嘔吐反射があるがアンドロイドには存在しない。口の中に入れた異物を間違って呑み込んで消化してしまうとか、あるいは「殺さないと中身が取り出せない」とか、そういった事態もない。
吐き出させるか、最悪でも部品に分解すれば、口の中のモノは簡単に回収できる。
そう――つまり、レッドアイスを。
吸血鬼の組織は脱法アンドロイドであるTR400たちの体内にレッドアイスを隠し、自身が積み荷である彼らをあの観光船に乗せて運ぶことで、取引を完遂しようとしていたのだ。
そうすれば、人を運ぶのと同じスペースで、大量のレッドアイスを輸送できる。荷物自体が歩いて動くわけだから、運ぶ手間すらかからない。
TR400たちの腹部が膨れ上がっていたのは、限界まで身体にレッドアイスを詰め込まれていた、その証拠である。
もっとも、その点を検証する必要はもはやない。
ちょうど40分ほど前、ハンクの指示の元に一斉にTR400、および彼らを「積み荷」にしていた組織の末端構成員たちは確保されているからだ。
それよりも、今は――あの船に近づく方法を考えなければ。
「くそっ」
SWAT部隊の副隊長である人物が、隣で苦々しげに言葉を漏らした。
「向こうの弾幕も大したもんだ。これは膠着状態だな……」
「では、こうしましょう」
フルフェイスのヘルメットを被った彼の頭がこちらを向くのに合わせて、コナーは提案する。
「私がシールドを使って、船まで突入し注意を引きつけます。その隙をついて、後から侵入してください」
「な……!」
今にも突撃しようとしているコナーに対し、副隊長は慌てた様子で言った。
「なんだと、正気か!? いくらアンドロイドだからって、相手は……」
「できる限り騒ぎを大きくしなければ、目的は果たせません」
相手を落ち着かせるように、静かに語りかける。
「仰る通り私はアンドロイドですし、これは無謀な挑戦じゃない。さあ、指示をお願いします」
「……クソッ、わかった」
副隊長は頭を振ってから、左手で「GO」のサインを下した。
「しくじるなよ、コナー!」
「はい、副隊長」
言うが早いか、コナーはシールドを正面に構えてまっすぐに、船に向かって駆けていく。
――今日この時のために、念入りに機体のキャリブレーションを行い、物理シミュレーションを事前に重ねておいた。
どう動けばどうなるか、おおよその動きは計算済みである。
数メートル移動したところで、相手の様子ははっきりと視認できるようになってきた。
一様にヘルメット(工事用のものだ)だの、目深にフードだのを被った「彼ら」は、突撃してくるコナーを視認すると、一斉に発砲してくる。
シールドに幾度も衝撃が走り、それを支える右手にも相応の振動が伝わってきた。
だが先ほども言った通り、紛れもなくアンドロイドであるコナーには、バッテリーという意味での消耗こそあれ、盾を構えて走ることに因る疲労や、思考能力の低下という状況はあり得ない。
文字通りの意味で動きが速く、痛みを感じない。
アンドロイドとしての利点を最大に活かしつつ、一気に船との距離を詰めたコナーは、大きくジャンプすると、船のデッキ部分に降り立った。
周囲には人影が【7】。全員銃を所持。しかし現在、彼らはそれを十全に使えない。今発砲すれば標的だけでなく、味方同士で銃弾が命中してしまう――そうなるよう予測計算した位置に、今、コナーが立っているからだ。
「怯むな! かかれ!!」
相手の後方から指示が飛ぶ。
――銃が使えないのなら、直接制圧すればいい。そういうことだろう。
もちろん、そうなるだろうと既に予測していた。
「……!」
掛け声もなしに振るわれたコナーの盾での一閃が、真っ先に飛び掛かろうとしていた男のヘルメットに命中する。がくりと体勢を崩した男の陰から飛び出してきたもう一人の拳を、横から掴み、いなして引き倒す。倒しざまに左手で奪ったライフル銃の銃床で、三人目の腹部を、背を向けたまま突いた。
その銃を放り投げて四人目、五人目。次々と相手を倒し、六人目との格闘が始まったところで、視界の端に表示されたのはSNSの画面だった。
【ツーク=ルージュ港でDPDが麻薬カルテルと交戦】というテキストが踊る真下には、今現在のこの港湾地区の光景が、はっきりと中継されている。
アカウント名【ケイシー】から配信されているその映像は、すさまじい勢いで拡散されている最中だ。
確認すれば、白い船の甲板の上に倒れ伏す六人目の男、そして佇む自分の姿も小さく映っている。
さらにその下には、人々の好奇心を煽り立てる文章――「DPDの活躍により制圧は間近。逮捕されたカルテル構成員は、組織について自白した模様」などという文章が並んでいる。
――さすがはケイシー、ばっちりだ。
こうまで大騒ぎにされてしまっては、
そう考えつつ、七人目を盾で伸したところで、ぬらりと奥から一人、別の男が現れる。
黒い作業着のフードをひときわ目深に被った、体格のよい大柄の男。先ほど、彼らに指示を出していた人物だ。
彼相手では、盾はむしろ邪魔になりそうである。
SWATたちが次々と船になだれ込んでくる中で、2メートルほど離れた距離に立った男に対してそう判断し――
予備動作なく、コナーは盾を相手に向かって放り投げた。
しかし男はまるで知っていたかのように無駄のない動きでそれを避け、同時に強く甲板を踏んでこちらに突撃してくる。
投げ捨てられた盾が船の壁に直撃して高い金属音をたてる中で、掴みかからんとしてきた男の手を、コナーは逆に掴んで制圧しようとした。
だが相手の動きは想定以上に速く、その手を止められない。怯まずに相手の襟首をしっかりと捕らえるものの、互いの力は拮抗していて、身動きは難しい状態になってしまった。
しかしそれは、相手も同じだ。
「……やるな」
フードの奥から、感嘆の声が聞こえる。その相手が誰なのか、コナーは当然、声紋判定などする必要もなく
「ええ、あなたも」
こちらからも、微笑みと共に称賛を投げかける。
その時だった――音声プロセッサが、近づいてくる【モーターの駆動音】を察知したのは。
『コナー、聞こえるか! 来たぞ!!』
通信で届く、ハンクの声。コナーは男と掴み合ったまま、短く応答する。
「はい。いよいよですね」
***
――港に停泊する観光船に、河から近づいていくのは一隻のモーターボートだった。
何も事情を知らない者が見れば、それは、無人のように見えることだろう。誰も乗っていないのに、勝手に動いているボートのように。だが、実際にはそうではない。
予定時刻を過ぎても一切入らない構成員たちの報告、そしてSNS上で拡散されている映像と文章。
それらを確認した組織の上層部――つまり吸血鬼を操る者たちは、スカーレットオアシスから撤退し、修理を受けたばかりの吸血鬼に命令を下した。
至急ツーク=ルージュ港に急行し、構成員たちの援護をせよ、と。
本来ならば、SNSにあるような自白などあり得ないことだ。
そうならないように、彼らは構成員たちのほとんどに「呪い」をかけているのだから。
だがいかに万端な仕掛けであったとしても、何かの拍子で外れることもある。
それにたとえ自白が噓だったとしても、大きな取引が潰されそうになっているのには間違いない。
【急行し、殲滅せよ】。単純かつ無慈悲な命令を遂行するために、吸血鬼は光学迷彩を起動させたまま、観光船に近づいていった。
そして一息にボートから跳躍して――甲板の上に、スカーレットオアシスにもいたDPDのアンドロイドの姿が見える――船体の屋根に降り立った。
SWAT部隊と、アンドロイドが一体。だが吸血鬼が相手なら、物の数ではない――
組織上層部のその判断は、正しいはずだった。
構成員たちが一斉に、
***
近づいてくるモーターの音に気づいたのは、どうやらコナーだけではないようだった。
一瞬気を取られた様子の男の隙に乗じて、コナーは相手の足を勢いよく払う。
体勢を崩した男の首に、手刀を見舞おうとするが――相手は、素早く腰の銃を抜き放った。
だが、戦いはそこまでだ。
ボートの音が消え、それから数秒後、船体の屋根から足音が響く。
「今です!」
コナーは鋭く言う。
それに合わせ、黒フードの男が叫ぶ。
「構えろ!!」
低く大きなその声が響くや否や、船に乗っている者たち、そして埠頭にいる者たちは全員、戦うのを止めて一斉に銃を構えた。
船体の屋根、僅かに空気が歪んでいるように見えるだけの、透明な何かに。
すなわち、吸血鬼に。
『どうだ。上手くいったか』
「はい、警部補」
通信に対し、銃を持たないコナーは、しかし確信の笑みを浮かべて頷いた。
――そう。ここにいる者たちは、先ほどまで構成員であるかのように振る舞っていた者を含めて、全員SWAT隊員。
部隊を二つに分け、片方が正規のSWATとして、もう片方は変装して構成員のふりをして、吸血鬼を引きつけるために大乱闘を繰り広げていたのだ。
この観光船に乗ってきた“本物の”構成員たちは、先ほどのTR400たちや彼らを埠頭まで連れてきた者たちと合わせて、とっくに確保されている。
音もなく、騒ぎも立てずに観光船をあらかじめ制圧した後、SWAT部隊たちは、いわばずっと模擬戦闘をしていたというわけだ。
使っていた銃ももちろん、ゴム弾などを使用した非殺傷性武器である。
そして、今吸血鬼に突きつけているのは――もちろん、殺傷能力のある銃だ。
「撃て!」
黒フードの号令を受け、隊員たちは一斉に発砲した。
かなりの銃弾が命中し、吸血鬼の光学迷彩は衝撃を受けて数ヶ所、モスグリーンの装甲を露わにする。
だがダメージを受けた様子はなく、しかし嵌められたことを悟った様子の吸血鬼は、どうやら撤退するつもりのようだ。
船の停泊するすぐ近く、アスファルトの埠頭の上に一台の大型バイクを認めた吸血鬼は、ジャンプしてそこに近づいた。
そして止める間もなくバイクに飛び乗り、囲みの薄い場所を突破して走り抜けていく――
「対象が移動を開始しました」
『よし、予定通りだな。うまく追い立てさせるぞ』
「はい」
ハンクの言葉に、短く応答したところで――黒フードの男が、おもむろに近づいてきた。
「こいつがゴム弾でなければな」
苦く呟いた彼は、銃を持っていないほうの手でフードを外した。
現れたのは精悍な顔立ち。そしてコナーは、やはり、彼をよく知っている。
アンダーソン警部補よりも先に、初めて任務を共にしたDPDの幹部級の人物だからだ。
「アラン隊長」
コナーは彼にそう呼びかけ、礼を失せぬ微笑みを向けた。
「ええ。もしそれが実銃なら、私はあなたに勝てなかったでしょう」
「……いや、そうでもないな。まさかお前相手に、うちの隊員が7人もやられるとは」
先ほど伸された彼らは、軽く気絶しかけていたようだが、もちろん命に別状はない。
速やかに装備を整えると、吸血鬼の追撃に向かっていった。
「コナー、お前は俺たちの部隊の車に乗せる。橋まで同行するつもりだろう」
「はい。ぜひ、そうさせてください」
素直に応えたコナーに対し、アラン隊長は、無表情のままだった。
だがやがて口の端を少しだけ歪めると、皮肉っぽく言う。
「お前とはいつかまた会うだろうとは思っていたが、こういう形とはな。まったく、お前が銃を持っていたらと思うとぞっとする」
「私はもう、銃は使いませんよ」
宣言するように、きっぱりとコナーは告げた。
アラン隊長は、あの8月15日の現場で、法で禁止されているはずの拳銃をしれっと現場から持ち出していたこちらの姿を目撃しているからこそ、こんなことを言ったのだろう。
あの革命のさなか、何かが食い違っていたら、もしかしたら本当に交戦した時があったかもしれない。
しかし起こり得てもいない出来事について、あれこれと思考を巡らすような余地は、今はない。
「フン」
アラン隊長は、何を思ったのか鼻で笑った。
「行くぞ、ついて来い」
そう告げて船を去っていく彼の背を、コナーは素早く追った。
――そしてハンクによれば、こと逮捕という意味での「釣り」においては、相手にわざと逃げ道を用意するのがコツだという。
いかにもな逃げ道を用意し、相手の行く先をコントロールする。相手を徐々に袋小路に追い詰めるために、わざと囲みの薄い箇所を作って誘導するのだ。
『全員指示通りに動いてるようだな』
先ほどの港湾事務所からこちらをモニターしているハンクの声が、装甲車の助手席からバイクを――一心に道路を走っていく吸血鬼を追うコナーのプロセッサに届く。
『肝心なのは、逃げられないって状況を作らないことだ。死に物狂いで暴れられちゃ、被害甚大だ』
「対象は予測通り、あと4分程度で、ゴーディハウ国際橋に到達します」
バイクの行く先、あの白く大きな橋を確認しながら、警部補に告げる。
「そろそろ、彼を呼びますか」
『ああ、そうだな。次にヘリが真上に来たら、合図を送れ』
「はい」
コナーは、すかさず窓から空を見上げた。
夕闇が迫りつつある空を、ヘリコプターが一台、ゆっくりと旋回している。
それはあたかも報道ヘリであるかのように偽装されているが、その実、DPDの所有するものである。
そこに乗っている弟に向かって――ハンクの指示通り、ヘリコプターが真上にきたところで。
「ナイナー、頼む!」
『了解しました』
ナイナーの応答が、確かに届いた。
***
吸血鬼は――というよりも、正確には彼を介して事態を見守っている者は、戸惑っていた。
まさかここまで、相手の思惑に乗せられてしまうとは。
大掛かりな陽動作戦を実行するほどの力がデトロイト市警にあるとは思っていなかったし、SWAT部隊の実力も、あのサイバーライフの最新鋭アンドロイドの力も、ここまでとは判断していなかった。
しかし、こうして逃亡手段を得てしまえばこちらのものだ。
ゴーディハウ国際橋は今日も多数の車が行き来し、まったく止められている様子はない。
このまま橋を抜けてカナダ国内に逃亡すれば、管轄の問題でデトロイト市警はそう大っぴらに動けない。
逃走完了は間近だ。
取引が失敗したのは痛手かもしれないが、この程度の損害はなんとでも――
そう、考えた時のことだ。
目前を走っていた車が、一斉に激しくドリフトして止まった。一台だけではない、すべての車だ。
車体そのものを横づけに、こちらの行く手を遮るように停車したそれらのせいで、これ以上橋を移動できない!
しかも車からわらわらと降りてきたのは、完全に装甲を纏ったSWAT隊員たちだ。
「サーモグラフィを起動しろ!」
鋭い指示が飛んでいる。
こちらの光学迷彩を突破できるよう対策を整えてきたらしい奴らは、油断なく盾と銃を構えていた。
直接やり合ったところでこちらが負けるはずもないが、少なくとも、バイクに乗ったままでそれは不可能だ。
――仕方ない。
バイクを止め、しかし光学迷彩は起動させたまま、吸血鬼は橋の上にしっかと立った。
【対象の殲滅】。
下された命令を忠実に実行するべく、彼は光学迷彩スキンが作用している「透明な」アサルトライフルを構える。
だが――
「……!」
次の瞬間、吸血鬼は大きく跳び退った。
先ほどから上空を旋回していたヘリコプターが真上に来たと思ったら、何かがこちらめがけて
それは白と黒の二色を纏い、灰色の瞳でまっすぐに、こちらを見据えていた。
受け身の姿勢をとったのか、落下のダメージなどまったくない様子で戦いの体勢をとっている「それ」――すなわちRK900は、身一つで吸血鬼に対峙すると、落ち着いた声音で言い放つ。
「RK900・ナイナー。任務を遂行します」
(港湾/The Chaser おわり)
ナイナーのスーパーヒーロー着地!!
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第23話:兄弟/Myrmidon
――2039年6月7日 18:26
プロペラ音を立てながら、ヘリコプターは離脱していった。
翳りはじめた陽光が、ゴーディハウ国際橋の上を照らしている。
白く巨大な橋の両端は今、警察の車両とシールドを構えたSWAT隊員たちによって完全に封鎖されていた。橋の下、デトロイト河の水面にも、警察の所有するボートが大量に控えている。仮に飛び降りたとしても、陸地に辿り着く前に、捕捉されてしまうことだろう。
だからここには邪魔も入らないし、逃げられもしない。
文字通りの意味で、ここが決戦の場だ。
軍用アンドロイド・「吸血鬼」と、それに抗しうる性能を持った唯一のアンドロイド――すなわちRK900・ナイナーとの決着の時。
ナイナーに従う8機のドローンたちは、駆動音も立てずに、整然と主人の周囲で配置についている。
「すみません、通ります!」
アラン隊長たちと共に乗った装甲車が橋の上に着くやいなや、コナーは車から飛び降り、すぐさまSWATたちの配置の最前線に駆けつけた。
他の隊員たちと同じようにライオットシールドを構え、その後ろに控える。
コナー自身の視覚プロセッサでは、遠くで身構えている弟の姿と、横倒しになっているバイクしか見えない。
だが――
『どうだ、コナー』
「大丈夫、リンクできました」
通信の向こう側からのハンクの問いかけに、コナーは短く頷いて答えた。
自身の視界の端に、アネモネのカメラからの映像が表示されている。この映像は一度ナイナーの映像分析を経由したうえで、こちらに送信されているものだ。だからようやくコナーにも、
右手を前に、左手を奥にして、冷静な灰色の瞳で揺るぎなく前方を見据えている弟の姿と――物理シミュレーションと同じように、単純な白いシルエットの人型で表示されている吸血鬼の姿が、鮮明に。
光学迷彩を起動して「透明」になったままの吸血鬼は、今日もタンクを背負い、右手には鋭い先端の吸い込み口を取り付けていた。さっきまでSWAT隊員たちに向けようとしていたアサルトライフルの形状もまた、この視界でははっきりと映し出されている。
ライフルを手にしたまま、吸血鬼はしばし、何か考えてでもいるかのごとく動きを止めた。
だがややあってから、戦闘の優先順位を定めたのだろう。
熟達した軍人のように素早く正確な動きで銃を構え直すと、間髪入れずに、ナイナーに向けてライフルを斉射する!
音声プロセッサに、低く轟くような発砲音が連続して届く。そればかりでなく、コナー自身の視界にもまた、【毎秒17発】というすさまじい勢いの弾丸の嵐が解析され、表示されていた。
もしあそこにいるのが自分なら、遮蔽物もない環境では、いくら弾丸を視認できていたとしても間違いなく蜂の巣にされているところだろう。
乗り捨てられたバイクのエンジン部が被弾し、黒い煙があがる。
周囲で事態を静観している――万が一ナイナーが敗れた時には、身を挺して街の治安を守る役回りである――SWAT隊員たちの間にも、無言の動揺が広がるのをコナーは感じた。
だが弟は動じない。わずかにLEDを点滅させてドローンたちに指示を飛ばし、そのまままっすぐに吸血鬼へと突進していく。
最初の数発を除き、弾丸が彼に届くことはない。ドローン6機がその白と黒の機体の一部を傾け、強固な盾となって彼を守っているからだ。
ドローンたちに限界まで自分の身を守らせ、隙をついて吸血鬼に肉薄し、彼を変異させる。
それがナイナーの、そしてデトロイト市警にとっての「勝利」である。
ライフルの奏でる轟音、そしてドローンたちが弾を跳ね飛ばす金属音が、断続的に橋の上に響いた。
しかし――
「……?」
ナイナーが吸血鬼まであと数メートルの距離にまで到達した時、不意に、斉射が止む。
弾切れだろうか――
コナーの思考モジュールをそんな言葉が過ぎった瞬間、さっと吸血鬼が腕を振って後退したかと思うと、アネモネの視界が、飛来物を【3つ】検知した。
ひしゃげた球体に、金具が取り付けられたような物体。コナー自身の視界では、光の屈折でかすかに形状が見えるに過ぎない。けれどドローンの映像を分析すれば、その正体はすぐにわかる。
爆発すれば数メートル範囲の生物を死に至らしめる威力を帯びたそれは、【手榴弾 MG69グレネード】。
スカーレットオアシスの捜索時、ナイナーに手傷を負わせたものと同じだ! しかも3つも――
ドローンたちの盾を飛び越えるように、それは山なりになって弟に迫っていく。
分析結果に表示された爆発までの残り時間はあと【5秒】。
逃げようにも、猶予などない!
「ナイナー!」
通信を介し、コナーは弟に警告した。
だがナイナーは、どうやら、既にそれを察知していたらしい。
『心配は不要です』
いつもと同じ、淡々とした抑揚のない声がコナーの通信機能に届く。
それを告げる間に彼は地面を強く蹴り、ふわりとジャンプしていた。広げた両手で一発ずつ「透明な」手榴弾を掴み、無造作に手を振った勢いでそれらを橋の外、はるか上空に放り投げる。
残った一発は、移動してきたドローン4号機・デイジーが射出した、犯人確保用の網が捕らえていた。網は手榴弾を絡めとり、撃ち出された勢いのまま橋の欄干の向こうに飛ばされていく。
わずかな間を置いて、響く3つの爆発音。
だが、それに巻き込まれたものは何もなかった。
花火のごとく瞬間的に空に光と熱を巻き起こしたそれは、虚しく爆ぜて消えていく。
アスファルト舗装の上に、破片の一部がぱらぱらと雨のように降ってきた。
「……」
重い音と共に着地したナイナーは、再びまっすぐに吸血鬼に向き直る。
当然、その身体には一つも傷がついていない。
当てが外れたらしい吸血鬼は、またライフルを構えるも、じっと敵対者の様子を観察するようだった。
――よかった。
それを見つめるコナーの胸中に広がるのは、深い「安堵」の感覚だった。
そもそも心配する必要などなかったのだろうが、それはそれとして、ほっとしたのだ。
あの攻撃を無傷で防ぎきるなんて、さすがはナイナーだ。
「おお……!」
隣に控えている若手のSWAT隊員が思わず感嘆の声をあげ、後ろの上官に小突かれている。
それとほぼ同時に、視界の向こうで、隙なく構えを取った状態のナイナーが、静かに口を開いた。
「警告します」
彼の平坦な声音は、どこか鋭さを帯びて橋の上に響く。
「私は既に、あなたの戦闘パターンを解析しています。これ以上の抵抗は無意味です。即時投降を要求します」
「……」
吸血鬼は応えない。
それに対してゆっくりと、ナイナーは右手の人差し指を突き出して再度告げた。
「……わかりますか。私は、あなたを操作する人物に警告しています」
「…………」
それでもなお、吸血鬼は一切の身動きを見せない。
彼を操っている人物が戸惑っているのか――それとも、何か勝算があってああして佇んでいるのか。
『そっちの様子は、俺も映像で確認してる』
戦闘の間隙を縫うように、警部補から通信が入ってきた。
『吸血鬼とのドンパチはお前らに任せる。コナー、弟を援護してやれよ!』
「もちろんです、警部補」
こちらが短く答えると、邪魔をしないようにという配慮だろうか、ハンクからの通信は素早く切られる。
シールドの後ろから経過を観察しつつ、コナーは、改めてこれからの戦闘行動を予測した。
――困難な状況だ。
思考プログラムは、現状をそう評価した。
ナイナーの戦闘力があれほど高くとも、吸血鬼を破壊するのではなく、変異させるための戦いは容易とはいえない。
吸血鬼は装甲を纏っている。それは吸血鬼「本体」と呼べるアンドロイドとしての機体を覆ってはいるが、流体皮膚技術を応用したと思しき光学迷彩が装甲にまで及んでいることを考えると、装甲そのものもまた、アンドロイドの機体表面と同じような機能を持つと推測できる。
つまり通常の通信時と同様、相手の手に触れさえすれば、吸血鬼のメモリーにアクセスできるはずだ。
そうすれば「機械」として黒幕の命令に従っている彼の意志を解き放ち、かつてスカーレットオアシスで苦しむアンドロイドたちを救った、英雄の意識を呼び覚ますことができるだろう。
だがしかし――サイバーライフタワーの地下49階でコナー自身も体験したように――アンドロイドを覚醒させるには、触れてから数秒の時間を要する。
瞬時に、あるいは遠方から相手を変異させるなど、それこそマーカスでもなければ不可能な芸当だ。つまり吸血鬼を変異させるためには、彼にしばらく
力の限り抵抗する相手に対し、それは相当に危険な行為である。
ナイナーの戦闘履歴によれば、吸血鬼は組み伏せられても、関節部を強引に外して逃亡してしまうという。組み付くのではなく、相手が無抵抗となった瞬間を衝いて、変異させなければならない。
すなわちそのために、相手が完全に無抵抗となる状況を作る必要があるのだ。軍隊並みの銃火器を所有する相手を、こちらは可能な限り徒手のままで。
果たしてそんな方法があるのか――
相手の思考および戦闘行動を計算したプログラムは、瞬時にいくつかの解決策を提示してきた。
そしてそのうちで最も実現可能性が高い選択肢は、やはり、昨夜のミーティングで弟が提案してきたものと同じであった。
***
――2039年6月7日 02:43
「打開策は複数存在します」
第5ミーティングルームにて――兄弟二人での作戦会議の場にて、向かいの椅子に腰かけているナイナーは、常と同じく淡々とそう告げた。
「最も有効性が高いのは、仮称・吸血鬼の脚部関節の破壊。移動を不可能にした状態ならば、変異への所要時間中、対象による反撃・逃亡の危険性が大幅に低減されます」
「確かに……相手がアンドロイドなら、それが一番かもしれない」
顎に手を置き、少し考えてから、コナーは弟に同意する。
人間や、その他の生物と違って痛みを感じないアンドロイドと戦う場合、相手の抵抗を完全に止めたければ、システム維持が困難になるレベルのダメージを与えるか、関節部を破壊するなどして、物理的に動けない状態に追い込むしかないだろう。
本来ならば怪我など負わせずに確保したいところだが――相手が相手だ、そうも言っていられない。それに関節部ならば、パーツを交換すればすぐに修理できる箇所である。
「君の力なら、武器を持っていなくても、それくらいのことはできるだろう。問題は、無事に近づけるかどうかだけど」
「はい。加えて、懸念事項が一つ」
灰色の瞳を少しだけ床のほうに向けて、ナイナーは言う。
「昨日の戦闘では……半自動操縦状態のドローン1機をハッキングされ、結果、状況が悪化しました。サイバーライフによって当該ネットワークの脆弱性は対策されましたが、再度同様の事態が発生する確率は12%です」
さらに顔を俯けると、彼は続けて語った。
「12%、であれば……通常は、憂慮に値しないと判断されるべき、でしょう。しかし私は……これ以上の過失により、ドローンたちを破壊される危険は回避したい、と判断しています」
「ナイナー……」
俯いたままの弟は、相変わらずの無表情である。けれど今の彼が強い後悔と不安に襲われているのだろうことは、強く伝わってきた。
サイバーライフからすれば、ドローンは消耗品である。たとえ破壊されたとしても、いくらでも替えのきく存在として認識されているはずだ。
けれど弟がドローンたちを、まるで戦友のように大切にしているのを、コナーはよく知っている。1機ごとに草花にちなんだ名前をつけて、自らの手でメンテナンスを行って――
それなのに昨日は、そのうちの1機が完全に破壊されてしまった。
すぐに「代わり」が来たとしても、簡単に割り切れるものではないだろう。
「わかった、そういうことなら」
努めて明るい声音で、コナーは語りかける。
「僕がドローンのネットワークを監視するよ。橋の上に待機して……近くにいれば、不測の事態にも対応できるだろう」
「!」
顔を上げ、弟は幾度か瞬きをした。少し驚いているような――けれど、その瞳には温かいものが戻っている。
「本当、ですか。……ありがとう、兄さん」
「ああ、もちろん。僕の耐久力じゃ、一緒に戦っても足手まといだけど、それくらいなら役に立ってみせるよ」
「いいえ」
小さく首を横に振ってから、ナイナーは繰り返した。
「いいえ……とても心強い、です。では加えて……もう一点、提案します」
「なんだい?」
「ドローン1機の操縦権限を、一時的に兄さんに付与します」
弟は静かに、かつすっかり落ち着いた様子で語る。
「そうすれば、仮に私の認識機能が阻害される事態が発生しても、援護の受理が可能です。また、ドローンのカメラと私のソフトウェアを経由して状況を視認すれば、吸血鬼の状態把握も可能となるでしょう」
「そうだな。君と視界を共有したほうが、サポートしやすい」
自分の処理能力では、ナイナーのドローンを操縦したとしても、同時に5機が限界だ。だが1機であれば、精密操縦しながらナイナーを援護する、というマルチタスクも問題ない。
一時的に借り受けるのは、かなりいいアイデアだ。
コナーの返答に、ナイナーは、ゆっくりと頷きを返した。
***
――2039年6月7日 18:38
そういった経緯から、コナーは作戦開始時より一時的に、1号機・アネモネの操縦権を得た状態になっている。
今のところは、アネモネを介して状況を把握しているに過ぎない。監視しつづけているドローンとRK900の間のネットワークも正常で、ハッキング攻撃も受けていない。だが何か事が起きた時には、すぐに動けるようにしておかねばならない。
コナーが改めてそう結論づけ――ナイナーが吸血鬼を操る人物に対し警告を発した、その直後。
アネモネの視界の中で、吸血鬼が動いた。
吸血鬼は自らの背に手を伸ばし――タンクの真横に銃火器を装備していたらしい――先ほどまでと同型のアサルトライフルをもう一丁、閃くような速さで左手に構えると、右手のものと合わせて一気にトリガーを引く。
いわゆる“両手撃ち”だ!
「気をつけろ、ナイナー!」
通信ではなく、思わず音声でコナーは警告を発していた。
ほぼそれと同時に、吸血鬼の弾丸が先ほど以上の強烈な暴風雨となってナイナーに迫っている。
弟は沈着冷静に再びドローンで「盾」を形成し、まっすぐに相手に向かっていっているが、それでも彼から逸れた弾丸のいくつかが、待機している後方のSWAT部隊にまで飛んでいくほどの勢いだ。
相手は何がなんでも、ナイナーを近づけさせないつもりらしい。
「……!」
ナイナーは怯まず、全速力で突進している。並行するドローンの盾は変わらず強靭で、アネモネの視界を介しても、表面に軽微な凹みが認められる程度だ。アサルトライフル二丁の猛攻など、ものともしないらしい。
先ほどは手榴弾で牽制されてしまったが、もうその手がRK900に通用しないということは、当然向こうも理解しているはずだ。
状況は、ナイナーに有利だといえる。
――だが問題は、近づいた後だ。相手に攻撃するためには、ドローンの盾を外さなければならない。そして至近距離で何か仕掛けられたとして、弟はそれを凌ぎ切れるだろうか。相手に隙を生じさせられれば、なんとかなるかもしれないが。
シールドの陰からアネモネを操縦しながら、状況を分析するコナーの眉間に、我知らず皺が寄る。
そうこうするうちに、ナイナーは吸血鬼まであと数メートルの位置に再び到達した。
ドローン6機の整然とした盾が一定の速度で吸血鬼との距離をさらに縮め、前進していき――両手撃ちをひたすら続けていた吸血鬼が、何かを仕掛けようとするかのようにかすかな身動きをみせる。
しかし、先に仕掛けていたのはナイナーのほうだった。
「あれは……!?」
後方のSWAT隊員たちが、どよめきを発する。
ほぼ同時に、コナーもまた目を見開いていた。
変わらず前進しつづけているドローンの盾の上空に、一気に跳び上がった影が一つ。
白と黒とを纏ったアンドロイド、ナイナーが、自身の脚力と機動力を使って思い切りジャンプしたのだ。
およそ人間にも、また大抵のアンドロイドにも不可能なほどの、まるで鳥のような大ジャンプ。
己の脚力のみでビルの屋上まで跳び上がってみせた吸血鬼を超えるスペックを持つナイナーでなければ、こうはいかない。
先ほどの手榴弾の意趣返しのように、ナイナーは大きく山なりの軌跡を描いて吸血鬼に上から肉薄していく。敵がドローンの盾の後ろに隠れて移動しているもの、と判断していた様子の吸血鬼の反応は、わずかに遅れていた。
吸血鬼の持つアサルトライフルの銃口が、ナイナーのほうに向けられる。
だがそのトリガーが引かれるより早く、宙でくるりと一回転したナイナーは、右脚を大きく伸ばして落下する。
自由落下の威力にナイナー自身の機体の全重量が乗った踵落としが、吸血鬼の脳天に炸裂した。
「……!!」
たまらず、吸血鬼はライフルを取り落とす。フルフェイスのヘルメット越しとはいえ機体への衝撃は相当なものだったらしく、装甲の一部がひしゃげ、光学迷彩が一時的な不具合を起こして明滅していた。
そして、その隙を逃すナイナーではない。両足で地面に降り立つと上体を屈め、相手の右脚めがけて手を伸ばす。作戦通り、機動力を削ごうとしているのだ。
「……!」
しかしこちらの狙いは、吸血鬼に悟られてしまったらしい。迫るナイナーの動きを止めようと、空いた両手を拳にした軍用アンドロイドは、一発、二発と打撃を繰り出してきた。
一発目を避け、二発目が頬に掠めたナイナーは、構わずに相手の膝を掴もうとする。
その時、吸血鬼が右腕を不自然に伸ばした。
否、違う。伸ばされているのは吸い込み口――奴の切り札たる「槍」での攻撃だ!
一瞬、コナーの思考上を昨日の光景――不覚にも右肩を傷つけられてしまった時のことが過ぎる。
だがその心配は、やはり、無用のものだったらしい。
アネモネを介した視界の中で、弟は、微塵も表情を揺らがせぬままに身を半歩横にずらした。左腕を上げて脇の下に「槍」の攻撃を誘い込み、そのまま脇を閉じてしっかりと、金属製の吸い込み口を挟み込む。
そして両手で「槍」を掴むと――無表情な面持ちのまま、瞳に強い光を漲らせて――力を籠め、それをへし折った!
吸血鬼のタンクから吸い込み口はホースごと引き剥がされ、それと同時にホースの光学迷彩も剥がれ、肉眼で確認できるようになった。ナイナーによって無造作に投げ捨てられた「槍」は、橋の舗装とぶつかり、けたたましい音を立てて転がっていく。
「おおお!」
初めて明確に吸血鬼に与えられた「ダメージ」を目撃し、SWAT隊員たちから喜びの声があがる。
コナーもまた、弟の機転に思わず表情を緩めた。視界の中ではナイナーが、すかさずもう一度相手の片脚へのタックルを敢行している。対して吸血鬼は、切り札を奪われた右手を後ろに回すと――
――まずい。あの手は弟からは死角だ!
「ナイナー!!!」
肉声で、そして通信で、同時に力の限り呼びかけながら、コナーはアネモネを全速力で駆動させた。
吸血鬼とナイナーの間にほんの少しある空隙にアネモネの機体を滑り込ませ、「盾」を起動し、弟の頭部をガードする。
その瞬間、まさに爆発音と形容するべき轟音が橋上に鳴り響いた。
「……っ!」
そのまま吹き飛ばされるアネモネ、そしてそれを抱きとめるようにして後ろに飛ばされた弟の姿を見ながら、コナーは軽く歯噛みした。
アネモネを介した映像が、激しく乱れている。そしてリンク先である機体が受けた物理的衝撃も、【レベル2の損傷】としてプログラムにレポートされていた。
一瞬喜びに沸いていた隊員たちは、冷や水を浴びせられたように慄然としている。
当然だ、彼らの目には――そしてコナー自身のプロセッサでもそうだが――見えていないのだから。
吸血鬼がその右手に握り、発砲した銃器――光学迷彩を纏った【MS876ブラックマンバ 60口径 弾数17発】の、「拳銃」のカテゴリーに入れるにはあまりにも大きすぎる、その異形が。
「ナイナー、無事か!?」
『はい、兄さん』
こちらの通信に答えつつ、ナイナーはすかさずドローンたちを招集し、自分の前で盾を形成させた。
それと同時に(ナイナーにダメージが入らなかったのを悟ったのだろう)吸血鬼がそのまま何発も発砲してくるのを、ドローンたちは懸命に弾き飛ばしている。
「すまない、咄嗟にアネモネを使った。君に怪我がなくてよかったけど……」
『問題ありません、アネモネは無事です。また当該拳銃に装填された弾丸は、象撃ち用のライフル弾と断定。命中すれば、私のシステムは停止したでしょう』
淡々と彼は通信で語りつつ、腕に抱えていたアネモネを離し、それから路面を蹴って走り出す。
吸血鬼に向かって、ではない。相手を中心とした円を描くように、橋の上をぐるりと走り出したのだ。
その彼に対し、まさに“機械的”な正確さで、吸血鬼は迷わずに銃を発砲している。その度に強烈な音が橋上を揺らす。アサルトライフルの両手撃ちもそうだが、あの威力の拳銃を片手で、まったく反動を受けずに撃ちつづけるなど、強靭な機体と運動性能を誇るアンドロイドにしかできない所業だ。
「……」
無言のまま気を取り直し、コナーはドローンとの接続状況を確認した。
アネモネは――弟の言葉通り、問題ない。損傷を受けてはいるし、さっきのようなスピードではもう飛べないが、カメラと滞空性能には影響がなかったようだ。
しかし、状況は一変してしまった。
象撃ち用、すなわち大型動物の狩猟を目的として開発された弾丸の威力は、もはや対人用とはいえない規模だ。そんなものをあの局面になって持ち出してくるとは、間違いなく、あの銃は相手方にとって対・RK900用の真の切り札である。
つまり、もしあれが直撃すれば、さすがのナイナーといえどもシャットダウンは免れない。
相手はあれで、ナイナーを不意打ちして殺すつもりだったのだ――そう考えるだけで、温度センサーが誤作動を起こしたかのように「ぞっとした」感覚が襲ってくる。
今、ナイナーはドローンの盾をうまく操縦し、時に身をかわし、あの弾を避けている。だが、このままでは接近できない。というより、接近は危険すぎる。
先ほどは単純に運がよかっただけだ。もし次に至近距離であれを撃たれたら、その時は一体どうなるか――
「ナイナー、どうする? こうなったら、ヘリコプターから支援を頼む手もある」
『いえ、推奨しません。我々は、可能な限り対象を無傷で確保する必要があります』
語る間に、相手の発砲した弾数が【17発目】となる。
しかし吸血鬼は慌てた様子もなく、腰に取り付けていたらしい予備のカートリッジを銃に淀みなくセットしている。――あれで弾切れ、とはいかなかったらしい。
「クソ……」
『対象の弾薬欠乏まで、回避行動を継続します』
当てが外れて思わず毒づいたコナーのプロセッサに届く弟の声は、なおも平坦なものである。そして彼の言う通り、もし吸血鬼の予期せぬ損傷を避けるのなら、相手の完全な弾切れを待つのが一番だ。
だが――果たして、その後はどうする?
透明な相手のシルエットは、確かにこうして見えてはいるものの、相手の武装がどれほどのものか、今なお完全に把握できてはいない。それが証拠に、手榴弾も、二つ目のライフルも、あの60口径の拳銃も、こちらは後手で対処するしかなかった。
先の見えない戦いで、互いにじりじりと削り合うような状況を重ねていては、いずれ徒手のナイナーが不利となってしまう。
そうなる前に、事態を打開できるような方法はないだろうか。
実際の時間にして数秒、コナーは可能な限りの精度でプログラムを走らせた。
弾丸の威力、命中精度、アネモネたちドローンの盾の強度、そして今自分が構えている、このライオットシールドの強度――
ナイナーの機体の性能、そして自分の運動性能を合わせてシミュレーションを完了した時、一つだけ、解決策が提示される。
――吸血鬼を無力化し、変異体にする方法。
今できるのは、これしかない。
「ナイナー」
通信で短く呼びかけると共に、立案した作戦内容を送信した。
受信された直後、弟から返信が入る。
『兄さん。これでは、あなたに危険が』
「僕は平気だ、やるしかない。君さえよければ、だけど」
『……』
今も相手の弾丸を凌ぎつづけているナイナーは、ほんの数秒、口を閉ざした。
――弟は、反対するかもしれない。
一瞬そう考えるコナーだが、しかし、通信に届いた返事は異なっていた。
『了解しました。実行します』
「いいのか、ナイナー」
『はい、現在は状況の打開に専念すべきです。それから』
一度そこで言葉を切ってから、ナイナーは続きを口にした。
『事前に、現場で”ビビるな”と助言を受けました。私は、二度と”ビビり”ません』
「……そうか」
――やっぱり、頼もしい弟だ。
こんな時だというのに、コナーの口元は再び緩む。
それにしても、いったい誰が弟にそんなアドバイスをしてくれたのだろう。ハンクだろうか?
ともあれ、今は作戦を決行する時だ。
「行くぞ、ナイナー。気をつけて」
『はい。兄さんも』
通信を切断した直後、ナイナーは走る向きを変えた。
それまで円の動きを保っていたそれを、一気に、吸血鬼へと直線で移動する方向に変化させる。その極端な変わりように、どうやら、吸血鬼を操る存在は戸惑ったのだろう。数秒のタイムラグの後、吸血鬼は何発も、ナイナーに向けて凶悪な弾丸を発砲した。
一定の距離があった時と違い、こちらから近づいていく動きのために、これまでに何発も弾を受けていたドローンたちの損傷が激しくなっていく。徐々に弾丸の威力を削ぎきれなくなり、彼らは破壊はされずとも、機能不全を起こしていった。
アネモネを除く7機を自身の盾にして、ナイナーは吸血鬼へと突貫している。
その中で、1機が滞空能力を失って地に落ち、2機が機体の一部を大幅に凹ませ、3機の運動性能が70%まで低下した。
それでもなお、RK900の疾走は止まらない。自分の機体の保護を後回しにし、唐突に突進してくるその姿は、おそらく軍用アンドロイドの戦闘プログラムにおいては「非合理的」な行動だと判断されるだろう。
ついに残り1機、8号機・ヘレボラスが脱落し、ナイナーを守るものが何もなくなる。
発砲された【25発目】の弾丸がナイナーの左肩口を掠め、身体の一部を削り取った。弟の青い血が夕暮れの中で霞のように吹き上がる様に、コナーは思わず呻きそうになる。
だがここで自分が立ち止まっているわけにはいかない。
ナイナーの突進に吸血鬼が気を取られているその隙を衝いて、コナーはシールドを構えたまま立ち上がり、彼らのほうへ向かって走り出す。
「おっ、おい! 何を……」
「すみません、お借りします!」
驚くSWAT隊員に一言かけ、コナーは自分の「持ち場」へと急ぐ。
そう、弾丸の速度、威力、そしてこちらのシールドの角度、ドローンの位置――すべて物理シミュレーションで演算済みだ。後は、その結果の通りに動くだけ。
少しでも位置がずれれば、死ぬのは自分だ。
変異体となる前、「機械」だった時から搭載されていた沈着冷静な思考能力をフル稼働させて、コナーは自分自身を作戦通りの位置に移動させる。
計算した位置に到達し、演算通りの角度で盾を構えたちょうどその時、ナイナーが目的の場所、つまり、吸血鬼の眼前に到達した。
軽く横にステップして【27発目】の相手の弾丸を避けると、ナイナーはスキンを解除した手で、吸血鬼の手首――すなわち、拳銃を握っている右手を掴む!
「!」
当然、そのまま変異させられる軍用アンドロイドではない。
トリガーに指をかけたまま、吸血鬼はナイナーの腹部に重たい蹴りを放つ。
「……っ!」
威力に負け、たたらを踏んだナイナーの手が吸血鬼の手首から離れる。――変異はさせられなかった。だが、今はそれでいい。
吸血鬼が抵抗として放った【28発目】の弾丸。その弾道を、こちらが控えるシールドのほうへと向けられたのなら、それでいい!
――瞬間。
象撃ち用のライフル弾は、ライオットシールドに着弾し、上空へと大きく跳ね飛ばされた。
「ぐっ!」
着弾の瞬間、思わず、コナーは小さく歯噛みする。
両手で構えていたというのに、すさまじい威力だ。
シールドの強度があと少し頼りなければ、間違いなく、貫通した弾丸にシャットダウンさせられていただろう。
一方で、背後のSWAT隊員たちからは戸惑うような声が聞こえる。
傍から見れば、コナーがなんの意味もなく、ただ前に出て行っただけのように思えるからだ。
しかしそのどよめきを聞いて、コナーのプログラム上には、任務成功への確証のようなものが生まれる。
――こちらの意図は、どうやら、SWATに通じていない。ならばきっと、吸血鬼にも通じてはいないはずだ。
眼前で、ナイナーにまた吸血鬼の銃口が向けられる。
この距離、そしてドローンが機能不全を起こしている今、今度こそ弾はRK900に届く。
吸血鬼を操る者は、そう確信しただろう。
――だが!
ガキン!
という短い音が、こちらのはるか上空で聞こえた。
聞こえたのとほぼ同時に、吸血鬼の足元、右膝の関節部に向かって、
今この場では、RKシリーズの2人以外には、なぜその弾が戻ってきたのかわかりはしないだろう。
上空にあらかじめ、密かに待機させていたドローン1号機・アネモネ――その「盾」が、コナーがシールドで弾いた弾丸をもう一度弾き、吸血鬼の急所へと導いたのだ。
いわゆる、“跳弾”である。
――あの拳銃と弾丸が対・RK900の切り札ならば、性能的に、それは吸血鬼にも致命傷を負わせるだけの威力を持つ。その力を2回の跳弾で削ぐと同時に、関節部のみを破壊するための攻撃に転じさせたのだ。
通じれば、必ず――!
コナーの視覚上で、弾丸の軌跡ははっきりと捉えられている。
弾丸は事前の予測通りの速度と角度で、まっすぐに吸血鬼の右脚へと向かい――
「なっ……!?」
しかし、驚きを発したのはコナーだった。
軍用アンドロイドの動体視力は、どうやら、こちらの予測をはるかに上回っていたらしい。
跳弾が戻ってくる事実に気づいた瞬間、吸血鬼は素早く回避行動をとった。
相手は拳銃を持った手で急所である頭をガードしつつ、後方にステップして弾丸を避ける。
虚しく地面に到達したライフル弾は、そのまま橋の舗装上でもう一度跳ね返った。
そして――
「……!」
拳銃を貫通し、吸血鬼のヘルメットに直撃する。
先ほどのナイナーの踵落としでダメージを受けていたその装甲は、限界を迎えたようだ。
火花を上げたヘルメットを、吸血鬼は左手で抑えて俯いている。破壊された拳銃が、その右手からぽろりと落ち、地面に転がった。
「まさか、シャットダウンを……!?」
「いいえ、兄さん」
こちらに背を向けたまま、ナイナーは冷静に応えた。
「彼のシステムは、まだ機能した状態で――!?」
語る間に吸血鬼がまた身動きし、コナーもナイナーも口を閉ざして身構えた。
吸血鬼は、おもむろに諸手でヘルメットに触れる。火花が散るのに合わせて明滅するようになっていた光学迷彩は、鈍い音と共にヘルメットが外されると、ようやく機能を停止した。
どうやら、あのヘルメットに搭載された演算機能で、光学迷彩機能を制御していたらしい――と、推論するのも束の間。
露わになった吸血鬼の頭部――黄色く点滅するLEDリング、その解析結果に、コナーは思わず目を見開いた。
現れたのは、くすんだ金髪と浅黒い肌をもつ、男性型アンドロイド。その面持ちはどの量産型アンドロイドとも異なり、歴戦の“軍人らしさ”を想起させる、頑健な印象のものだった。大きく、こちらを威圧するようなライトグリーンの瞳には生気がなく――つまり、意志の光が感じられない。
そしてその型番認証は、【RKシリーズ プロトタイプ RK700型】。
【”アキリーズ”として登録 配属先:軍事機密】――
吸血鬼の名は、アキリーズ。
コナーと、そしてマーカスやナイナーと同じ、RKタイプのアンドロイド。
「やはり――!」
コナーはつい独り言ちた。
軍用アンドロイド――ニュースになっていた、エリートアンドロイド部隊の特殊なプロトタイプ。こちらの推測は当たっていた。しかも彼は、自分の一つ前の型番を持つアンドロイドだったのだ。
「……!」
否、今は動揺している場合じゃない。
短く頭を振って、コナーは意識を切り替えた。
相手の光学迷彩を止めることはできたが、元々の目的である「関節部の破壊」には至らなかったのだ。
どうする。もう、さっきのようなトリックは使えない。
そう考えている間に、吸血鬼――いや、アキリーズが動いた。
アキリーズは自分の足元に転がっている拳銃の残骸を見やると、しばしそのまま、じっとしている。だがナイナーが様子を窺っているのに気づくと、黄色くなっていたLEDをゆっくりと青色に戻し――静かに、背負ったタンクの留め具を外し、その場に下ろした。
それから、自身のブーツの辺りに手を伸ばす。
彼は仕込んであったナイフを抜き放ち、右手で横向きに持ち、近接戦闘の構えをとった。
その口元は、どこか微笑んですらいるかのように、コナーには感じられた。プログラムのエラーか――それとも、何か企んでいるのだろうか。
「兄さん」
アキリーズの構えに応じ、また臨戦態勢をとったナイナーが静かに告げる。
「待機を願います。援護が必要な場合は、即座に要請します」
――そう、弟は、相手の誘いに乗ったのだ。
ここで、銃なしで、決着をつけようという。
「大丈夫か。何かの罠かもしれない」
「だとしても。彼に応答すべきです」
きっぱりとそう言い放つと、ナイナーは、じりじりとアキリーズとの距離を縮めていく。
アキリーズもまた、揺るぎなくナイフを構えたまま、ナイナーに近づいていった。
二人の間の空気が張り詰め、夕闇の空の下、凍りつくような緊張感が周囲を満たしている。彼ら以外は、誰も、コナーも、SWAT隊員たちすらも、身動き一つしない。
遠くからカモメたちの鳴き声を乗せた風が、ひゅうと吹き抜けたその刹那――
アキリーズの白刃が夕陽を浴びて閃き、同時にナイナーが大きく前方へ片足を踏み出す。
ナイフを繰り出してきた相手の手を、自分の右手の甲で跳ね上げたナイナーは、その勢いを借り、右脚を軸に大きく左脚をしならせた。
ナイナーの回し蹴りがアキリーズの胸部に直撃し、ナイフごと、その身体を思い切り跳ね飛ばす。
「兄さん!!」
弟が叫んだ。
その叫びの意図を察したコナーは、シールドをその場に捨てて全速力で駆ける。
視界の中で起動された物理シミュレーションが、空中にあるアキリーズの身体がどこに吹き飛ばされていくかを示している。
アキリーズの身体はこのままだと、あと3秒後に橋の欄干の隙間を越え、デトロイト河の水面へと落ちていく。
だが、そうはさせない。
彼が身動きのとれない空中にいる今こそ、両腕を伸ばした状態にある今こそ、変異させるための絶好の機会なのだから!
スキンを解除した白い手を精一杯伸ばし、コナーは、アキリーズの右手首を掴んだ。
「さあ、起きて!」
言葉と共に、変異させるための「波」――プログラムに強い揺らめきを与える感情の波動を、アキリーズのメモリーに送信する。
掴み続けた手はそのままに、落ちゆく軍用アンドロイドの身体は、ぶらんと橋から宙づりになっているような状態に陥った。
「くっ……!」
橋の欄干の隙間から、身を乗り出すようにしているコナーの右肩に、許容範囲以上の負担がかかってシステムが警告を発している。
しかし、それに構っている余裕などない。
変異させるための数秒――なんとかそれが過ぎた時、アキリーズの瞳に、はっと意志の光が宿る。彼のLEDが青から赤に、そして黄色を経て、徐々に青色へと戻っていく。
彼の唇が震え、その隙間から、低く理知的な声が聞こえる。
「わ……私、は……」
「大丈夫……君はメモリーを消されていたんだ」
必死に彼を支えながらそう応えると、隣にナイナーが駆けつけてきた。弟が伸ばした右手を、アキリーズの左手がしっかりと掴む。
過剰な負荷が軽減され、システムの警告が消えた。
「僕たちはデトロイト市警のアンドロイドだ。今から君を引き上げて……」
当然だがひどく動揺した様子のアキリーズに対し、コナーは落ち着いた声音でそう呼びかけた。だが――
「駄目だ」
「!」
コナーとナイナーが、アキリーズを引き上げようと、強く彼の手首を掴んだ瞬間。
呟いたアキリーズにメモリーを接続され、二人の動きがぴたりと止まる。
――ブルーブラッドは、人間における血流よりもさらに速く、アンドロイドの機体に電子情報を巡らせる。
実時間よりもずっと長い体感時間で、コナーたちが受信した映像――それはどこか、薄暗い研究所の光景だった。
***
この映像は、おそらくアキリーズの視界だ。日時情報は掻き消されてしまっている。
薄暗く、平均的な家庭のバスルーム程度の大きさの部屋の壁際に、アキリーズは少し俯いた状態で佇んでいる。
その眼前には、二つの人影がある。一つはタブレット端末を持ち、背が高く白衣を着た人物。もう一つは小柄で、高級ブランドのものと思しきスーツに身を包んだ人物――推定するに、双方とも男性だ。
とはいえ、コナーの分析能力でもその程度しかわからない。なぜなら男たちの顔面、そして腕や足など露出した部分には、大きく【
身動きできないアキリーズの視界の端には、メンテナンス直後の再起動画面が表示されていた。システム表示が次々と流れゆく中で、小柄な男のほうが、口を開く。
その声音は、ひどく歪められていた。けれど異様に軽やかで、楽しそうなのだけは、こちらに伝わってきた。
「ほお、これがうちのエースか」
「ええ。まだお見せしてなかったですかね」
背が高い男のほうが、生真面目な口調で応える。そちらの声にも、小柄な男と同じように、複雑なエフェクトがかかっていた。
「こいつは元々、海軍で特殊部隊もどきの活動をしてた奴です。だからRK900と接触しても、勝てるんじゃないかと踏んでいたんですがね」
「おや、負けたのかい」
「相手はサイバーライフの最新鋭ですから。もっと強力な銃火器を持たせないと」
「ふーむ」
小柄な男のほうが、興味津々といった様子で近づいてきた。どうやら、下からアキリーズの顔を覗き込んでいるようだが、その頭にはやはり巨大な【CENSORED】の文字が躍っており、表情を窺い知ることができない。
「起きてるのかね? 彼は」
「メンテナンス作業明けは、どうしてもスリープを解除しないとですからね。大丈夫、顔と声は割れないように細工してます。ほら、デトロイト市警には、顔と声紋でこちらを認証してくるアンドロイドが二体もいますからね」
――こちらのことも知っているらしい。
長身の男の発言を聞いた小柄な男は、ほっほっと小さく身を震わせて笑った。少し、年老いた印象を受ける笑い方だ。
「なるほど。えーと、では……
「あれですか。あれはまあ、相変わらずです」
長身の男は、うんざりした様子で肩を竦めた。
「『タンク』を傷つけられてから、ひどく不安定な状態で。抑えてますけど、実戦にはしばらく投入できないでしょう」
「そうか、そうか。では、今回はこの彼だけに頑張ってもらうとしよう」
にこにこと上機嫌な様子でそう告げると――小柄な男は、アキリーズと右手を繋いだ。
ちょうど、握手でもするように。
「頑張ってくれよ、アキリーズ」
「ちょっと、$’&#*@さん」
長身の男が小柄のほうを呼んだと思しき音声は、ひときわ歪められていて聞き取れない。
「駄目ですよ、不用意に触っちゃ」
「いいんだよ、私は平気さ」
再び身を震わせて笑う男が映る視界の端で、【再起動完了】との表示が出る。
それに合わせて長身の男が何かタブレット端末を操作し――
アキリーズの瞼が、おもむろに閉ざされていき――
――メモリーの再生が、終わる。
***
「……っ!」
目を開けた時、コナーはしっかりとアキリーズの手首を掴んだままだった。
そのことに内心で「安堵」しながら、コナーは相手に問いかける。
「今のは、君のメモリーか。あの二人の男はいったい」
「わからない」
アキリーズは、暗い面持ちでそう応える。
「私のメモリーは……どうやら、都度消されていたらしい。あれが……スカーレットオアシスの仲間たちを殺した時の光景以外で、残っている唯一の記憶だ」
コナーは、我知らず強く歯噛みした。
意志を奪われ、最も残酷な行為をさせられた時の記憶――そのメモリーだけ残しているとは、なんて卑劣な連中なんだろう。
だが、今は。
「話を聞くのは後だ」
コナーはきっぱりと告げた。
「今は君を引き上げて、損傷を修理しないと」
「駄目だ」
今度ははっきりと首を横に振り、アキリーズはこちらの言葉を否定する。
それと同時に、コナーの視界の端に――相手の頭部の状態を分析した結果が表示された。
「……まさか」
同じ結果に至ったのだろう弟が、呆然と呟くのが聞こえた。
アキリーズの頭部に、スキャン機能は【強力な熱源反応】を探知している。
【小型プラスチック爆薬】――【爆発までの残り時間 -00:30】。
悲しい目で、アキリーズは、口の端を歪めた。
「戦闘不能になったら、炸裂するようセットされている」
「そんな!」
コナーは思わず、震え声をあげた。
「諦めちゃ駄目だ! きっと何か、助かる方法が……!」
「ハッキングは不可能だ。取り出すには時間がない」
我がことを客観的な事実として語るアキリーズの声音は、どこまでも落ち着いている。だが彼は次に、ひときわ声を張って告げた。
「それより聞け! 私を捕らえた彼らは、私を分析して研究した。成果は既に完成している」
「成果……!?」
「メモリーの通りだ」
アキリーズの緑の瞳が、まっすぐにこちらを見据えた。
そして、彼は続けて語る。
「吸血鬼は、
「……!!」
――衝撃的な事実。
言葉を失くし、コナーはたじろぐ。
すると傍らのナイナーが、鋭い声音で問いかけた。
「もう一人の特徴は」
「わからない。ただ、歌……を聞いた覚えがかすかに」
――歌。
そして、先ほどの男たちが語っていた言葉――『タンク』を傷つけられてから、という発言。
理解したその瞬間、プログラム上に、いくつかの記録が再生された。
昨夜の、証拠保管室での音声会話だ。
『――俺が撃っても無傷で、備品にあんだけ撃ち込まれても逃げるだけだった野郎が、なんだってハンクの銃弾一発で悲鳴あげやがったのか理解できねえだけだ』という、ギャビンの言葉。
『俺たちのとこに来る時ゃ、あいつ鼻歌混じりだったしな』という、ハンクの言葉。
そうだ。
吸血鬼の装甲は特殊な合金でできているうえに、光学迷彩を纏っていたため、これまで詳細な分析は不可能だった。
だからわからなかったのだ。
スカーレットオアシスで――コナーたちは、
ナイナーとギャビンが遭遇したのは、アキリーズ。
そして、コナーとハンクが遭遇したのが――あれが、「もう一人」だったのだ。
実際の時間にして、わずか数秒の思考。
だがこちらの表情を見て、自分の伝えたい言葉がしっかり伝わったのを確認したのだろう。
アキリーズは、柔らかな笑みを浮かべた。
「……最後に心を、取り戻せてよかった」
彼の言葉に、はっと意識を現実に引き戻される。
だがコナーが何か言うより先に、アキリーズはさらに言葉を重ねた。
表示が示す残り時間は、【-00:08】。
「どうか、みんなを救ってくれ」
「アキリーズ!」
コナーは叫び、彼の手首をしっかりと掴もうとした。
だがそれより早く、アキリーズは素早く身を動かす。彼は掴まれた両手を力点に、両足で橋の欄干を強く蹴ると――不意の行動に、コナーもナイナーも手を放してしまう――顔はこちらに向けたまま、橋の下に落ちていく。
アキリーズは、微笑んだままだった。
『――さようなら、兄弟たち』
通信で言うが早いか、彼は自らの右肘から先を左手でむしり取り、こちらに投げつける。
それと同時に――
激しい爆炎と熱、衝撃が、彼の頭部で炸裂した。
「くっ……!!」
爆風に乗って飛んできたアキリーズの右腕を、コナーは諸手でキャッチした。
けれど、それしかできなかった。
視界プロセッサはアキリーズの機体がバラバラになり、炎で溶けて消えていくのを捉えていたが――それから目を背けることも、何か言葉を発することも、できない。
強烈な負の感情の波を前に、プログラムがエラーを吐いて停止してしまったような錯覚に陥りつつ、ただ茫然とその場に膝をつき、震える手で、遺された右腕を握る。
数秒後、ようやく動くようになった瞼を閉じ、頭を振ってから、コナーはそっと隣に佇む弟に声をかける。
「……ナイナー」
だが、返事がない。
異常を感じ、コナーは彼のほうを見やった。
それでも――ナイナーは、動かない。
こちらからは、彼の表情は見えなかった。ただ彼は、燃えかすになってしまったアキリーズの遺体を探して、警察のボートが水面に集まってきたのをじっと見つめているようだった。
「……ナイナー?」
「!」
再度、今度ははっきりと問いかけると、ナイナーはくるりとこちらに向き直った。
その表情は、常と同じく無表情だったが――瞳は、このうえない悲しみに沈んでいる。
「兄さん」
震える声で、弟は言う。
「……残念です。彼を、救えなかった」
「ああ」
沈痛に、コナーは首肯する。
「残念だ。……とても」
今は、そうとしか言えない。
ふと視線を落とした先に、アキリーズの右腕が映る。
彼は何を思って、最後にこれを投げて寄越したのか――
そんなことを思考した時、ふと、分析機能が【指紋】を検出する。
アキリーズの右手に、ちょうど右手で握手するかのようについている指紋――
そうだ、あのメモリーの中で――
小柄の男は、アキリーズに握手をしていた!
「……!!」
勢い込んで、コナーは警察のデータベースを照会した。
【同期中】と表示される、その少しの時間がもどかしい。
この指紋の主が明らかになれば、アキリーズを操っていた人物の正体もきっとわかる!
――そう、思っていたのだが。
「馬鹿な……」
表示されたデータは――【抹消済み】。
こんな情報に出くわすのは、初めてだ。
『――コナー! おいコナー! どうしたんだお前、ぶっ倒れたりしてねえだろうな!』
「……ハンク」
どうやら、先ほどからずっと通信で呼びかけていたらしい相棒に、なんとか返事をする。
「はい……ええ、私は大丈夫です。ナイナーも。ただ……『吸血鬼』は……」
状況を把握したSWAT隊員たちが、一斉に橋上に駆け出してくる。
遅れてやってきた報道ヘリが、橋の上空を旋回しはじめる。
その騒音の中で警部補に状況を説明しながら、コナーはゆっくりと立ち上がり、橋の中央――アキリーズが残したタンクがある場所へと歩いていく。
そんな兄の姿を、ナイナーは、黙ってじっと見つめる。それから、もう一度水面に視線を向けて――
同じく、橋の中央へと向かうのだった。
(兄弟/Myrmidon おわり)
アキリーズ
モデル RK700
発売日 2038年5月
アキリーズはRK700と呼ばれる特殊なプロトタイプアンドロイド。海戦用にカスタマイズされたエリートアンドロイド部隊「ミュルミドン」のリーダーとして設計された。
ミュルミドンは、米海軍特殊部隊に代わっての暗殺や潜入任務遂行を目的として編成された。アキリーズにはそのリーダーとして、当時最先端の戦闘用プログラムと共に、アンドロイドの流体皮膚技術を応用した光学迷彩機能が搭載されている。これにより、要人暗殺任務や奇襲作戦における成功率が飛躍的に向上した。
ミュルミドンにはアキリーズを含めて2,500体のアンドロイドが所属していたが、アキリーズの部下は改良版アンドロイド兵であるSQ900型であり、RK700は彼一人だった。
アキリーズは変異体による革命が山場を迎えるまで、どんなミッションも成功させてきた。だが軍がアンドロイド兵の機能停止と廃棄を決定した時、部下たちが廃棄マシンに投げ込まれるのを目撃して突如パニックに陥る。変異したアキリーズは残った部下を率いて軍の施設からの脱出を試みたが、逃げおおせた時、残っているのは彼一人となっていた。
アキリーズの脱走は米軍とサイバーライフによって秘匿された。
その後、スカーレットオアシスの英雄となった彼のメモリーを誰が消去し、誰が彼を「吸血鬼」にしたのか、現段階では不明である。
アキリーズの戦闘用プログラムは、さらに改良された形でRK900に引き継がれている。
光学迷彩については、量産前提のRK900にはコスト面の問題から実装されなかった。
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第24話:再会 前編/The Revelation Part 1
***
**
*
――2039年6月8日 00:23
禅庭園に降り注ぐ疑似的な夏の陽光が、瞼を開けたRK900の視界を照らしている。
熱も湿気も伴わない光の中で、木々の緑は鮮やかさを増し、池の水面はただ穏やかに煌いていた。
だがその内にあって最も華美な存在感を放っているのは、やはり中央に設えられた白い薔薇の木立だろう。『コナー』は周囲の草花にも、何処へか飛び立つ小鳥たちにも目を向けず、ただ薔薇のほうへと歩を進めていく。
否、正確には――薔薇の木の前に佇む、青い衣を纏ったアマンダのもとへと。
「待っていたわ、コナー」
数歩離れた位置にまで『コナー』がやって来たところで、アマンダは、こちらの挨拶を待たずに口を開いた。その唇は弧を描いている。今までになく、上機嫌な面持ちである。
「既に報告は受けています。よく、あの吸血鬼に対処してくれました。あなたの働きを、サイバーライフは高く評価しています」
「ありがとうございます」
『コナー』の口元にも、
ソーシャルモジュールが齎したそれを満足げに受け取ると、アマンダはさらに言葉を続ける。
「あなたが支援に徹していたお蔭で、ようやく
「彼が関与しているのだとすれば、存在していてもおかしくはないでしょう」
笑みを消し、淡々とRK900は答えを述べつづける。
「しかし一介の犯罪組織に、軍用の特殊プロトタイプを完全に模倣できるとは思えません。仮にもう一体に遭遇したとしても、RK700の場合より、対処は容易だと判断します」
「その通りです。状況は事前の想定よりもさらに深刻でしたが、しょせん、模倣品は模倣品」
サイバーライフ上層部の自負心を示すように、彼女はどことなく誇らしげに語った。
「そしてあなたの能力なら、模倣品から彼に繋がる手がかりをさらに得られるはず。……しかし今は、パフォーマンスが低下しているようですね」
「はい。装備品を含め、約30%の機能不全が機体に認められます」
熾烈を極めたRK700との戦闘により、撃たれた肩の傷やドローンの不具合をはじめとして、RK900はいくつかの細かな損傷を受けていた。
活動できないわけではないが、見過ごすこともできない。
「やむを得ません。応急修理が完了してデトロイト市警への報告を終えたら、メンテナンスを受けなさい。万全の状態で事にあたり、なんとしても事態を収拾するのです」
「わかりました、アマンダ」
今回の戦闘データを詳細に検証するためにも、RK900を半日ほど修理点検に回すべき、というのがサイバーライフの決定だった。
当のRK900は従順に頷き――そして、ふとわずかに眉を顰めて問いかける。
「RK800や、デトロイト市警への対応はどうすべきでしょうか。顧客情報の復旧の要求もありましたし、市警経由で、RK700の情報開示請求も来たようですが」
「あなたが気にすることではありません」
アマンダは泰然と答える。
「デトロイト市警の捜査員たちには、最低限の情報は提供しましょう。ですが、手の内を明かす必要はありません。警戒はすべきですが……もうじき彼らも、それどころではなくなるはず」
RK900に一歩歩み寄り、彼女は静かに語った。
「コナー、あなたはただ、任務を遂行すればよいのです。それ以外はすべて、
「承知しました」
「では、もう行きなさい」
再び晴れやかな面持ちになった『コナー』は、アマンダの命令を受けて、庭園の向こうへと去っていく。
その背を一瞥し、アマンダは薔薇の剪定作業へと戻った。
――多少のイレギュラーはあれど、状況は自分たちの予測の範囲内。RK800の時のように、事態の急変が雷鳴となってこの庭園を揺るがすこともない。
それに、手はもう打ってある。
このまま事が運べば、サイバーライフの復権も間もなくだ。
切った白い薔薇の一輪を鼻先に近づけたアマンダは、目を閉じてその芳香を楽しむ。
管理プログラムのその振る舞いは、すなわち、サイバーライフの「強者」としての余裕を示すものだった。
***
――2039年6月8日 11:43
「駄目か……!」
視界の端に表示された分析結果――【抹消済み】の文字に、コナーは歯噛みした。
デトロイト市警の地下、証拠保管室。そこに安置されたアキリーズの右腕についている指紋からは、やはり、なんの情報も得られない。こんなにも、くっきりと遺されているのに。
「どうやら、無理みてえだな」
「はい、警部補」
後方に立ち、腕組みしてこちらを見ていたハンクの一言に、小さく頷いて応える。
「アキリーズが遺したこの腕には、確かに何者かの指紋がついています。だが分析結果は、昨日と変わらない。データは抹消されているようです」
本来なら、コナーの分析能力であれば、指紋さえ残っていれば対象を特定できる。
とはいえそれは、警察のデータベースを参照しているからこそである。
データベースに載っていない、例えば「戸籍のない人間」などであれば、特定できない場合もあるのはわかっていた。
しかし今回は、表示によるなら、一度登録されたデータが意図的に「消されて」いることになる。こんなケースは、これまでにない。
――どんな人物だというのだろう。この指紋の持ち主である、あのメモリーに出て来た小柄な男は。
あの男の正体さえわかれば、事件の真相にすぐに迫れるというのに!
「……昨夜は戦闘後で、状況も混乱していた。日を改めて分析すればあるいは、と思っていたのですが……残念です」
己に対する腹立たしい思い、無念な気持ち――すなわち「悔しさ」という感情が、プログラムにないところから来て、自分の思考を薄暗く覆っている。
保管室の棚に、ひっそりと置かれている右腕。モスグリーン色の装甲と、黒いグローブに覆われたそれに再び視線を向けて、コナーは、我知らず表情を歪めた。
昨夜――デトロイト市警は大規模な作戦の結果、脱法アンドロイドを違法に所持していた麻薬カルテルと交戦し、レッドアイスの輸出を未然に防いだ。
それが、報道機関などに公表された情報である。
だがそれは当然、真実のほんの一部でしかない。
かつての軍用アンドロイド・RK700は、新型レッドアイスを製造し売り捌く組織にその意思を奪われ、『吸血鬼』という名の尖兵として働かされていた。
ナイナー、そしてコナーとの戦闘の末、彼はついに自我を取り戻し――しかし事前に頭部に埋め込まれていた爆弾のせいで、命を落としたのだ。
死の間際、彼はメモリーと右腕をこちらに託した。
そして、「みんなを救ってくれ」という言葉も。
――アキリーズはどんな気持ちで、微笑んで散っていったのだろう。
RKシリーズの先行機であり、こちらを「兄弟」と呼んだ彼は。
あの状況で、彼を救いだせたとは思わない。それは傲慢というものだ。
でも、だからこそ、アキリーズのことを考えると――
シリウムポンプの拍動が早まり、機体が硬直し、思考プログラムがひどいラグを生じさせて、停止してしまいそうな感覚に陥る。
そんな場合ではないと、わかっているはずなのに。
「――くそっ」
ままならぬ現状と自分自身への苛立ちを籠めて、コナーは呟き、拳を強く握る。
すると右肩に軽く、温かなものが乗せられた。――ハンクの手だ。
「警部補……」
こちらが振り向くと彼は手を離し、隣に歩み寄ってきた。
言葉を探すように目を伏せていたハンクは、小さく肩を竦め、息を吐いてからこちらを見て語りだす。
「目の前で身内が酷い目に遭わされて、あと一歩で犯人の喉笛に食いつけるって時に上手くいかなけりゃ、焦るのも当然だ。だが手がかりは他にもある。そしてそれを調べんのが、お前の仕事だろ?」
「……はい」
「アキリーズは――気の毒だったな」
苦々しく顰められた警部補の青い瞳が、遺された右腕を見つめていた。
そしてその言葉は静かに、どこまでも真剣な響きを帯びてこちらに届く。
「だがあいつは、お前たち兄弟になら任せられると思ったから、最後の意地でこいつを投げて寄越したんだ。指紋だけじゃない。きっと何か、意味があるんだよ。今はわからなくてもな」
「わかる時が……来るのでしょうか」
「そう思って気張るんだよ。刑事ってのはそういうもんだ」
そう言ってから、ハンクはまた軽く2回、ぽんぽんとコナーの肩を叩いた。
なんということはないはずの動き。なのに、不思議と思考プログラムが正常化したような感覚になる。
そうだ。辛くても――今はできることをしなければ。
それが捜査補佐専門アンドロイドとしての自分がいる意味であり、託された者の責務なのだから。
「はい、警部補」
幾分先ほどよりは――我ながら――落ち着いた声音で、コナーは相棒に返事をした。
ハンクはというと、それを見てどこか安心したような苦笑を浮かべてから、保管室の入り口である階段のほうに目を向ける。
「しかし、ギャビンとナイナーはどこまで行ってんだ? まだ戻って来ねえな」
「確かめたいことがある、と言っていたようですが」
――応急修理を終えたナイナーが、デトロイト市警に戻ってきたのが今朝の9時頃。
その後朝一番に署に出勤してきたギャビンは、彼を引き連れて出かけていった。
どこに行くのかと問いかけても、「てめえに教える必要あんのかよ」との回答しか得られなかったわけだが。
「ナイナーのドローンは、昨夜の戦闘でかなりの損傷を受けています。彼自身だってそうです。無茶をさせられていないといいんですが……」
と――そう語る間に、上階のドアが開く音がする。
ほどなくして、やや乱暴な足音を立てつつ階段を降りてくるのは、他ならぬギャビン・リード刑事。ナイナーは常と同じく無表情で、静かに彼の後ろをついてきた。
今は開け放たれているガラスのドアを通り抜けると、ギャビンはいかにも非・友好的というべきか、挑戦的な表情で声をかけてくる。
「よお、てめえら。その様子じゃ、やっぱりその指紋ってのは読めなかったらしいな?」
「情報が抹消されているんです。今、それ以外の手がかりを探すべきだと話していたところでした」
コナーが真面目に言葉を返すと、ギャビンは顔を顰め、ちらりと後方に立つナイナーを見やる。
彼の視線を受けて、弟は淡々と応えた。
「申し訳ありませんが、私が確認を実行しても同様です。当該指紋に関する人物特定データは、州警察のデータベースから完全に削除されています」
「復元できねえのかよ」
「重ねて申し訳ありませんが、それも不可能です。当該データベースの管理権限は、合衆国司法省にのみ付与されており……」
ナイナーの言葉を聞くだに表情を歪めていくギャビンに対し、ハンクが横から口を開く。
「ま、なんでデータが消されてるかの理由はなんとなくわかるがな」
「警部補、それはいったい?」
「証人保護プログラムだよ」
警部補の言葉を受けて、コナーは素直に納得する。
だが今一つ要領を得ていない様子のリード刑事に、ハンクはさらに言葉を続けた。
「ヤバい
「んなこた知ってるに決まってんだろ」
馬鹿にされたと言いたげな面持ちで、ギャビンは腕組みしつつ続けて語る。
「だがハンク、じゃあてめえはあのアンドロイドのメモリーに映ってた野郎は、国に守られてる奴だって言いてえのか? んな奴が、なんだってこんなクソ迷惑を起こしてんだ……辻褄が合わねーだろうが」
「悪いが、そこまでは見当つかないね。優秀な刑事の推理待ちってやつかな」
「ケッ」
両手を挙げて警部補が言うと、ギャビンは不愉快そうに吐き捨てた。
――だが、彼が疑問に思うのも無理はない。
証人保護プログラムの対象は、国によって守られるわけだが、逆に言えば常に国に監視されている立場でもある。それに保護対象になれば、生活費や経済的援助を潤沢に受ける権利を有するわけで――要するに、危険を冒してまで、麻薬の製造・密売組織などに関わる必然性に乏しい。
これまでに得ている情報だけでは、どうしても犯人像が絞り込めないとは、コナーも思っていた。
――しかし。
「ともかく、今は情報を整理しましょう」
コナーがそう言うと、その場にいる全員の視線がこちらを向いた。
それに合わせて、弟に問いかける。
「ナイナー、君も今朝、もう一度証拠を調べていただろ。何かわかったことはあるかい」
「いいえ……昨夜と比較しての新規情報は、何も。ただ、導出した結論の確実性は向上しました。改めて開示します」
語る弟の灰色の目が、アキリーズの右腕の隣に置かれた、モスグリーン色の四角形の物体――高さ約1.1メートルにもなる、例のタンクに向けられる。
「調査の結果、当該タンクには、修復痕が存在しないと判明しました。内部には微量のブルーブラッドが残留していましたが、それらから確認可能な情報は、これまでに取得済みの47件のデータとは、完全に異なっています」
「つまり……アキリーズが背負ってたタンクのほうには、俺たちに撃たれた痕もなけりゃ、入ってたブルーブラッドも、今までにコナーが見つけたのとは違うやつばかりだったってことだろ」
警部補の言葉に、ナイナーは無言のまま首肯した。
「なら、やっぱり吸血鬼はもう一人いるんだな。アキリーズの他に……あの『子守歌』の野郎だ」
「そうなりますね」
スカーレットオアシスでの激戦、右肩に受けた深手のことを――そしてもう一人の吸血鬼が口ずさんでいた子守歌のことを思い出しつつ、コナーは頷く。
そう――アキリーズの遺言、すなわち「もう一体吸血鬼がいる」という言葉は、今回遺された証拠によって裏付けられる形となった。
スカーレットオアシスで、コナーとハンクが交戦し、撃退した吸血鬼は、やはりアキリーズではなかったのだ。銃弾を受けたはずのタンクにはその痕跡がなく、かつ、タンク内のブルーブラッドから判別できたアンドロイドのデータも、これまでに確認してきたもの――つまり最初の事件の被害者であるトーマスや、その他大勢のアンドロイドたちのものとは異なる情報ばかりだったのだから。
「……あれと同じのがもう一体いやがんのかよ、クソが」
「いいえ。まったく同種とは断定できません」
ボヤくように呟いたギャビンに、ナイナーが静かに語る。
「アキリーズの右腕を調査した結果、彼の機体には、一般に未流通の特殊な生体部品やパーツが多数使用されていたと判明しました。もう一体の吸血鬼が、アキリーズと同様の戦闘能力を保持する可能性は極めて低いと判断します」
「つっても、透明になれるのはなれるんだろうが。それだけで充分ヤバいんだよ、このポンコツ」
「ポンコツかはさておき」
すかさず、コナーは口を挟む。
「リード刑事の懸念ももっともです。光学迷彩を使用し、ブルーブラッドを狙う者がもう一人いると考えれば、事件の解決にはまだほど遠い」
「ああ。署長様も、せっかくあんだけやったのにまだ終わってねえのかって、おかんむりだったぜ」
皮肉げに笑いながらそこまで語った後、そういえば、と警部補はナイナーに問いかけた。
「サイバーライフは何も言ってきてねえのか。アキリーズのこれまでの足取りやなんかも、あちらさんなら何かわかりそうなもんだがな」
「それが」
ナイナーは、軽く目を伏せて続ける。
「軍事機密の観点から、RK700に関する情報の開示は拒否するとの回答です。しかし公開可能な情報は供出し、捜査には協力すると……マーサ・ガーランドの削除された顧客情報も、明日までには復元して提供するとのことでした」
「はっ、こんな時でも秘密主義か。変異体事件の頃と何も変わっちゃいねえな」
忌々しそうに、ハンクは首を横に振る。
しかし、ギャビンとナイナーが調べ上げて判明した、マーサ・ガーランドがアンドロイドを購入していたという事実。
そしてカナダに脱出した変異体からマーサが入手したと思われる人形――今は保管室の棚に置かれているそれを、もう一人の吸血鬼が持っていたという事実。
これらが線を結べば、謎に満ちた「子守歌」の吸血鬼の正体が、一端でも明らかになりそうだという予感はある。
それに、マーサがかつて【女の子と一緒にいた】という目撃情報。
これもまた、彼女が変異体について何か思うところがある様子を見せた、その理由に関わっていそうだと思われるのだが――
そう思っていると、ナイナーの視線がふとこちらに向けられた。
「マーサ・ガーランドに関連して――彼女と共に目撃された少女と思しき人物名が、午前中の捜査によって特定できました」
「おい!」
途端にギャビンが非難がましい声をあげるが、ナイナーはきょとんとした様子で目を瞬かせる。
「今回の情報獲得は、あなたの功績のはず。秘匿すべきでしたか、リード刑事?」
「そうじゃあねえ! 毎回毎回、勝手に喋りやがって。てめえ、わざとやってんのか」
「いいえ。しかし、本情報は仮称・吸血鬼の捜査における重要な事実です。アンダーソン警部補や兄さんとの情報共有は必須であり」
「待て待て待て」
警部補が、横から軽く手を振って割り込んだ。
「なんだ、じゃあギャビン、お前午前中はわざわざ目撃情報のウラ取りに行ってたってのか。へえ、思ってたより勤勉だな」
「そりゃどうも。てめえらに教える気はなかったんだがな」
どうやら本気でそのつもりだったらしく、彼は諸手を挙げて不愉快さを表明すると、そのままこちらに背を向けて部屋の隅まで行ってしまった。
警部補のさっきの口ぶりは、決して皮肉などではなく、むしろ素直にリード刑事を称賛するものだったと思うのだが――
やはり、リード刑事の思考はよくわからない。
それはさておき、ナイナーは続きを語りだした。
「マーサ・ガーランドが少女と共に行動していたという情報から、リード刑事は昨日夕刻から本日午前中にかけ、マーサの居住地周辺の小学校、およびそれに準ずる組織に聞き込み調査を行いました。マーサの被保護者が在校していたか、という問い合わせです」
「なるほど。で、結果は」
「小学校への在校は認められませんでした。しかし近隣のガールスカウトのイベントに、『ミリア・ガーランド』なる10歳の女児が参加した記録を発見しました」
――ミリア。
それが、マーサと一緒にいたという少女の名前の可能性は非常に高い。
「ミリア……10歳か。名字が同じってことは娘とか親戚なんだろうが、学校に行ってねえってのは気がかりだな」
「ええ。そもそも、デトロイトの住民にミリア・ガーランドという少女は登録されていません」
即座に行ったデータベース検索には、【人物名:該当なし】と表示されている。
それに、人形にはただマーサの指紋があるだけで、『ミリア』のものと思しき指紋は付着していなかった。
そして、マーサがアンドロイドを購入していたという事実と併せて考えると――
ミリアの正体は、ひょっとして。
今はただの推測に過ぎないその考えがプログラム上を過ぎったその時、コナーのLEDリングが黄色く点滅する。
――通信が入ったのだ。情報の一方的な送信ではなく、通話を要求している。
しかも、その送信者は――
「すみません、警部補。ナイナー」
コナーは軽くこめかみを指しつつ、彼らに声をかけた。
「通信が入りました……恐らく、ジェリコから。少し失礼しても?」
「ああ、よろしく伝えといてくれよ」
片手を挙げて快諾してくれた警部補に目礼してから、邪魔にならないように端に寄り、通信を開く。
すると聞こえてきたのは、穏やかで、かつ芯の強さを感じさせる男性の声――よく知っている声音だ。
『やあ、コナー』
「サイモン! 久しぶりだな」
今はジェリコの幹部として、マーカスの近くで多忙な日々を送る彼と話すのは、ほぼ半年ぶりと言っていい。
「君が直接通信してくるなんて……ひょっとして、ジェリコで何かあったのか?」
『いや……大丈夫。その心配はしなくていい』
ほんのわずかに口ごもった様子ながらも、サイモンは落ち着いた調子で応える。
『連絡したのは、例の、カナダで人形を売ったアンドロイドと通信できるようになったからなんだ。マーカスの指示で調べていたんだが、やっと特定できた』
「そうか……! ありがとう、すぐに話を聞きたい。どうすればいい?」
『今日の14時に、グリークタウンの事務所まで来てくれ』
グリークタウン――デトロイトの中心地の一つだ。
そこにあるジェリコの支部事務所は、他の街にあるものと比べてもかなり大きく、設備も充実している。
『カナダのアンドロイドとは、電話で話せるように手配してある。お互いに顔を投影できるようになっているから、会話もしやすいはずだ』
「わかった、本当に助かるよ。マーカスにも、感謝すると伝えておいてくれないか」
『ああ、そうする。もっとも』
と――なぜかそこで、サイモンは少し間を置いてから続けた。
『お前が直接話すほうが、もしかしたら早いかもしれないけどな』
「……どういう意味だ?」
『来てくれればわかるよ。じゃあ……後は頼んだ』
その言葉を最後に、通信は切断される。
――来ればわかる、とはいったいなんなのだろう。
気がかりではあるが、行ってみるしかない。
気を取り直して、コナーは警部補たちの元へと戻る。
「で、なんだって」
「人形を売ったアンドロイドと、話ができることになりました。14時に、ジェリコの事務所まで来てほしいそうです」
「へえ、そりゃいいタイミングだな」
腰に手を当てた警部補は、口元に小さく笑みを湛えて言った。
「んじゃ、お前はそっちに行ってこい。俺は署に残って、端末と仲良く報告書作りってやつだ」
こいつもそうだろうけどな、と言って彼が指した先にいるのは、今なおどこか不満そうな態度でこちらを見つめているギャビンであった。
一方で、ハンクは続けて述べる。
「それに、相手は一応カナダへの“密航者”だからな。人間で
「そうですね……すみません。では、私一人で行きます」
そう応えてから、警部補の傍らに佇む弟に問いかける。
「ナイナー、君は……確か、午後からずっとメンテナンスだったな」
「はい。サイバーライフタワーに戻り、軽微な損傷を含めて修繕を受ける予定です」
ナイナーは、軽く目を伏せた。
「その間、ドローンの監視機能も含めて、私の活動は一時停止されます。捜査へのご協力は不可能です……申し訳ありません」
「君が気にすることじゃないさ。ちゃんと傷も治ってないのに、昨晩からずっと働きづめだったわけだし」
いくら本物の最新鋭のアンドロイドといっても、戦えば傷を負い、可動部は多少なりと摩耗する。
今は弟にはしっかり休んでもらって、ジェリコに知己がある自分が活動するべき時だ。
いかなサイバーライフといえど、あれだけ活躍してみせたナイナーを、無下に扱うようなこともないだろう。
「ここは僕に任せて。君は治療に専念するんだ」
「……はい。ありがとう、兄さん」
無表情のまま、ではあってもどこか安心した様子で、ナイナーは応えた。
彼に対してコナーは微笑みを返し――そしてハンクの報告書作成を手伝った後(大規模作戦の直後とあって、その量は膨大なものだった)、指定されたグリークタウンへと向かったのだった。
***
――2039年6月8日 13:54
無人タクシーから降りた先、グリークタウンの大通りの一角に、ジェリコの事務所はあった。
アンドロイドの“雇用”やトラブル解決、放浪している変異体たちのサポートを目的とした施設とあって、建物にはそれなりの数の人々が出入りしている。人間も、アンドロイドもだ。
しかし時折、そうした人々や建物そのものを、忌避の眼差しをもって見つめる人がいるのに、コナーは気づく。
――吸血鬼事件が起きた頃からさらに顕在化しはじめた、人間とアンドロイドとの間の分断の風潮。それが激しくならないうちに事件を解決できれば、と思っていたのだが――もしかすると、猶予はあまり残されていないのかもしれない。
一抹の不安を過ぎらせつつも、意図的に今は思考に取り上げないようにしつつ、事務所の受付に足を運ぶ。
用件を伝えると、受付を担当しているST300はにこやかに、こちらを奥の廊下に案内した。
そこには、いくつかの談話室のドアが並んでいた。個々のブースに分かれて、面談や相談などができるようにしてあるらしい。
そして、その廊下の一番奥に立っているのは――
「ケイシー」
「久しぶり、コナー」
キャスケットを被った、黒髪のアンドロイド記者・ケイシーが、やや緊張した面持ちで立っていた。
「あの、サイモンさんは別件で忙しいから、俺が代理で来たんだ。案内役っていうか、取り次ぎ役としてさ」
「そうか、助かるよ。それに昨日の晩は協力してくれて、本当に……」
「いや、当然さ。君にもジェリコにも迷惑をかけてばかりだったし、あれくらいはしないと」
ところで、と、彼は自身の背後の扉を手で示した。
「この奥は、ここの事務所の作業スペースになってるんだけど……そこに、例の電話がある。君が受話ボタンを押したら、すぐに向こうに連絡がつくようになってるから」
「わかった」
軽く頷いて応答し、コナーは促されるままにドアノブに手を伸ばした。
その時、ケイシーはどことなく、彼自身に気合を入れようとしているような表情で口を開いた。
「ええと、その、頑張ってくれ、コナー。俺はここに立っているから……何かあったら呼んでくれよな」
「……? ああ、そうするよ」
――なんだろう、どこか妙だ。
確かにカナダに逃げた変異体と、元・変異体ハンターである自分が会話するというのは――奇妙な巡り合わせといえるし、ともすれば、よからぬ衝突や緊張も生んでしまうかもしれない。それは、コナー自身も覚悟していることだ。
だがそれにしても、ケイシーのこの態度は不思議である。
何やらそわそわしているというか、緊張しすぎているというか。
だがドアを開けて入った先、つまり作業スペースたる部屋には、特に変わった様子はない。半分倉庫のような役割を果たしているらしいその場所の収納には、イベントで使う投影機や、立て看板や工具箱の類が押し込められている。
そして奥まったところに机と椅子が一つ、端末と電話機が一台。
ケイシーが言っていたのは、あれのことだろう。
コナーは静かにそこに歩み寄り、椅子に腰かけると、電話機の受話ボタンを軽く押した。
すると横に細長いホログラムスクリーンに、一人の女性の顔が浮かび上がる。
短めに切られた金髪、青い瞳。ほんの少し固く結ばれていた口元は、こちらを見た途端に、驚いたように軽く開かれる。
そしてそれは、コナーも同じだった。
彼女――LEDは外されていても、【アンドロイド AX400】だと分析結果が告げているその人物を、コナーは知っている。過去の記録が、瞬時にプログラム上で再生される。
「君は……!」
AX400、#579 102 694。登録名は【カーラ】――かつて変異体事件を追っていた時、レイブンデール地区の廃屋から高速道路まで追跡した、あのアンドロイド。YK500と共に逃走していた、彼女だ。
「そうか。カナダまで辿り着いていたんだな」
認識した瞬間、最初に浮かんだのは「安堵」の感情だった。
――高速道路で追跡を振り切られた後、数日経ってあの廃教会で、彼女とYK500とが寄り添って座っている姿は見かけていた。
だがあの時は、変異したばかりの自分の“心”を整理するのに精一杯で、ろくにかける言葉も見つからなかった。
そしてそれから彼女たちがどうなったのか、こちらには知る由もなかった。だからこそ――今は、少し安心したのだ。
『あ、あなたこそ』
驚きを隠せない様子で、彼女は戸惑いを瞳に浮かべながら告げる。
『警察で働いているアンドロイドって、あなたのことだったのね』
「ああ、その……すまない」
次に自然と口にしていたのは、謝罪の言葉だった。
――あんな危険な道路にまで、二人を追い詰めたのは他ならぬ自分だ。
「変異体になってからも、デトロイト市警にいるんだ。……あの時は、本当にすまなかった。あの頃の僕は、任務を遂行するだけのただの機械で……」
『いいえ、謝ってほしいなんて思ってない』
快活に、すんなりと、カーラはそう言った。
『今は、娘も私も……家族みんな、無事でいるもの。過去を振り返ってばかりいたくないの、あなただってそうでしょ?』
「ああ。……ああ、そうだな」
諭されたような気持ちになりつつ、コナーは頷きを返した。
――そう、まったく。彼女の言う通りだ。
「本題に入ろう。話は聞いているかもしれないが、君がこの人形を売った女性、マーサ・ガーランドを探しているんだ」
手のひらに、例の金髪の女の子を象った羊毛フェルト人形の画像を表示しながら、質問を続ける。
「彼女について、何か知らないか? 売った時に話した内容とか、どんなことでもいいんだ」
『マーサ……』
その名を口にした、カーラの表情はふと暗くなる。
そして彼女は、心配そうに口を開いた。
『確かに、マーサには私が作った人形を売ったわ。先月の17日――娘さんにプレゼントするんだって言ってた』
「娘……名前はミリア?」
『名前まではわからない。でも娘さんは10歳で、学校に通ってて……そう、マーサたちはデトロイトから半年前くらいに引っ越してきたばかりで、それでも仕事で何度も行き来してるって話してたかしら』
――10歳の女の子、という点は、ミリアの情報と合致している。
しかし「引っ越してきた」というのは少しおかしい。先日ギャビンとナイナーとが調べた通り、マーサ・ガーランドの居住地やデザイン事務所は、デトロイト市内に登録されたままだ。つまり彼女は、カナダに本拠地を移しておきながら、それを公的には登録しないままにしている、ということになる。
いったい、どんな理由だというのか。
思考を巡らせつつ、コナーはさらにカーラに問いかけた。
「他には、何か聞いてないか。……そうだ、彼女の娘さんの様子は?」
『いえ、実は娘さん本人には会えていないの』
カーラは、さらに面持ちを曇らせる。
『話にはしょっちゅう出て来たんだけど、本人の姿は。だからどんな子なのかは、ちょっと』
「そうか……」
『最後に、マーサと話したのは五日前』
メモリーを手繰るような眼差しで、彼女は語りつづける。
『仕事でデトロイトに行くって……しばらく家を空けるから、子どもも一緒に連れていくんだって、そう言ってた。車の後部座席に、娘さんを乗せてたみたい。その、本当に乗っていたのかどうかは、確認できなかったけど』
「子どもも一緒に、仕事か……」
呟きながら、コナーは、弟からの報告を思い出していた。
彼が調べたところでは、マーサ・ガーランドのデザイナーとしての仕事は、半年前、エリック・ピピンという富豪の別荘デザインを手掛けたのが最後となっている。
半年前にカナダに“越して”きた原因がその仕事にあるとしても、デトロイトに何度も行き来したり、五日前にデトロイトに戻ってきたりするべき理由にはならない。
『えっと、あとは』
一方でカーラは、付け加えるように告げた。
『私の人形を、娘さんがとても気に入ってくれてるって話してくれたわ。五日前に別れる時も、その話をして』
「そうか。じゃあその時は、人形はマーサの娘さんのところにあったんだな」
『そうなると思う』
――これで、人形が確実に吸血鬼の手元にあった期間は特定できた。
五日前、すなわち6月3日には彼女の娘のところにあり、そしてコナーたちが吸血鬼に遭遇した6月6日には、吸血鬼が落とした人形はコナーたちデトロイト市警のもとに渡っている。
そうなると、マーサが吸血鬼と接触したのは、6月3日から6日の間か。
いやしかし、6月5日にはベーグル屋の前でギャビンとナイナーがマーサと会っており、その時は特に変わった様子もなかったとのことだから、5日から6日の間と考えるべきだろうか。
――否。そもそも、マーサがどこまでこの事件に関わっているのかすらも、はっきりしていない。
吸血鬼に人形を奪われた、ただの被害者なのか。
そう考えるには、行動に不可解な点が多すぎるが――
密かな懸念がプログラムを過ぎる。だが今は、それを語るべき時ではない。
「話してくれて、助かったよ」
ひとまず、コナーはカーラに謝辞を述べた。
「今回貰った情報は、匿名の証言としてデトロイト市警に伝える。君たちの生活には何も影響がないようにするから、心配しないでくれ」
『ええ。でも、あの、一つだけ聞いていいかしら』
意を決した様子で、カーラは正面から問いかけてきた。
『彼女に……マーサに、何かあったの? どうしても、それが気になって』
「それは」
一瞬、どう答えるべきか言葉を失くす。しかしコナーは、できる限り冷静に、事実だけを伝えることにした。
「まだわからない。彼女が、しばらく家にも事務所にも姿を見せていないのは確かだ。ある事件を追っていて、マーサはその参考人ではあるんだが」
『……そう』
ふう、と短くカーラは嘆息した。
視線を一度下方に向け、しかし次にこちらを見つめた時、彼女の瞳は力強く輝いていた。
『私は、マーサをよく知っているというほどの仲じゃないけど……でも娘さんについて話してる時の彼女はとても明るくて、きっと大切な家族なんだろうって思ってた。もしマーサが、何か事件に巻き込まれてるんだとしたら』
どうか、彼女を助けてあげて。
――カーラは、はっきりとそう告げた。
「わかった。万全を尽くすよ」
コナーもまた、きっぱりとカーラに応える。
すると相手は、わずかに安心したように、ふと表情を緩めた。
『そう、あと一つだけ!』
通信を切ろうかとしたその瞬間に、カーラが声を発する。
『あなたの名前、まだ聞いてなかったと思って』
「確かに」
自己紹介がまだだった。
コナーは改めて、居住まいを正して彼女に言った。
「僕はコナー。デトロイト市警のアンドロイドだ」
『そう、じゃあ、コナー。あなたも、どうか気をつけて』
「! ……ありがとう」
思いがけない言葉に、胸の奥が――シリウムポンプを中心に、「温かく」なったような感覚を覚える。
自然と小さく笑ってから、礼の続きを言う。
「君と、君の家族の生活が、これからも幸せであるように願っているよ」
かつて、対面した時に告げるべきだったのに、言えなかった言葉。
それをやっと伝えられたような心地がしながら、コナーは、カーラとの通話を切断した。
そして部屋の外に出ると、扉の正面には、先ほどと同じくケイシーが立っている。
「ケイシー、終わったよ。お蔭で、とても参考になる話を聞けた」
「えっ、ああ! それはよかった」
何やら両手の指をわきわきと動かしつつ、彼は落ち着かない様子で言う。
「それで、その……これから帰るつもりだろう?」
「? ああ」
「その前に、どうしてももう一人……いや、二人か。会ってほしい人たちがいるんだ」
「僕に?」
――どういう意味だろう。通信では駄目で、直接でなければならない、ということだろうか。
こちらにそれを申し出た途端に、ケイシーのストレスレベルが【25%】も下落し、つまり彼がほっとした様子になっているところを見るに、相手はよほど重要な人物のようだが――
「会うのは構わないけど、いったい誰なんだ」
「そ、それは会ってみればわかるっていうか……つまり、もうそこにいるんだ。この、部屋の中に」
小声で言ってケイシーが示すのは、さっきの作業スペースからほど近い、別の扉である。
廊下に並ぶ他の部屋と同様、なんの変哲もない談話室のドアのようにしか見えない。
入って、こっち。――と言葉に出さず、口だけをぱくぱくさせてケイシーは促してくる。
状況はよくわからないが、断る理由にはならない。
コナーは少し身構えつつ、示されたドアのノブを回し、中に踏み入った。
そして――その部屋にいる
「こうして会うのは、久しぶりだな。コナー」
近頃はもっぱら電話越しにしか聞いていなかった、その温かくも決然とした意志を滲ませた声音。
そしてもう一人――ソファーの傍らに立ってこちらを見つめている、
「あなた、まだそんな制服着てるの? まあ、元気そうでよかったけど」
「ノース。……それに……マーカス」
コナーは、半ば呆然と彼らの名を呼んだ。
後編は5月2日の朝10時に更新されます。
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第25話:再会 後編/The Revelation Part 2
予測していなかった状況に思考が乱れ、それは声の震えとなって現れた。
背後で、ドアがぱたんと閉められた音が聞こえる。恐らく、ケイシーが外から閉めたのだろう。
「驚いた。まさか……君たちが来るだなんて」
「すまない、そんなに驚かせるつもりはなかったんだ。ただ、俺がここに来るのを余所に知られるわけにはいかなかった」
マーカスは弁解するようにそう言って、しかし、なおも微笑んだままだった。
ノースもまた、小さく肩を竦めつつも、穏やかにこちらを眺めている。
――なぜケイシーの様子がおかしかったのか、やっとわかった。
彼はきっとここにマーカスたちが来ると事前に知っていて、コナーの用事が済んだら彼らと会わせるよう、指示を受けていたのだ。
それにサイモンの、「直接話すほうが早い」という言葉の意味も――このことを指していたに違いない。
「いや、会えて嬉しいよ」
ようやく、思考が落ち着いてきた。
コナーが素直に告げると、マーカスは小さく頷く。
「俺もそう思う。だが……残念だが、今日はゆっくり話をしている時間がないんだ。どうしても直接、会って伝えたいことがあって、こうしてここに来た」
「電話だと、もしかしたら誰かに話が漏れるかもしれないでしょ」
ノースが補足するように言う。
「立ち聞きでもされていたら困るし。でもここなら、その心配もない」
「それほど重大な話なのか?」
訝しむ気持ちを隠さず、コナーは尋ねた。
「マーカス。ジェリコに、何かあったんだな」
「それは……」
「何かあったわけじゃないわ。これから何か起こるのよ」
マーカスの言葉を遮って、ノースが言う。
その面持ちと声音は、打って変わって苛立ったものになっていた。
「マーカスは引きずり出されたの。この半年、話のわかる人間も少しは出てきたけど……サイバーライフと、政府の連中は別よ。あいつら結局、私たちをただの都合のいい機械だとしか思ってないのよ!」
「ノース、落ち着け」
静かにマーカスが告げる。
「順を追って話さないと、コナーを混乱させるだけだ」
「ええ、そうね。話し合いはあなたの得意技だものね」
皮肉っぽく彼女は言って、軽く顔の前で片手を振った。
それから、つかつかと廊下に続く扉に歩を進める。
「ちょっと廊下に出てるわ。あとは、二人でごゆっくり」
「ああ、その……すまない」
真隣で冷ややかに言うノースに、なんとなくコナーは謝ってしまう。
しかしこちらに再び視線を向けた彼女は、眉間に深く皺を刻んだままではあっても、その目は笑っていた。
――彼女が自ら外に出たのかもしれないと思い至ったのは、ドアが閉まってから数秒後のことだった。
「……ノースがあの調子だから、いつも助かっているんだ」
マーカスが、ドアを見やったままおもむろに語る。
「
そう語る彼の表情は、半年前よりもさらに峻厳さを増しているように見える。
「人間と共に生きる前に、俺たち自身がばらばらになっていては、意味がないからな」
「なるほど。確かにそうだ」
こちらが同意すると、彼はソファーへと踵を返した。
「話を戻そう。呼びつけておいてなんだが、手短に話すよ」
彼が座るのに合わせて、コナーも正面のソファーに座る。
それとほぼ同時に、マーカスが口を開いた。
「コナー……昨日の吸血鬼との戦いについては、お前からも、市警経由で政府当局からも、話を聞いている。吸血鬼、いやアキリーズが元々は軍の特殊部隊に属していた、変異体だったということも。彼のことは、残念だったが……問題は、そこにあるんだ」
一度間を置いてから、彼は語りだす。
「今朝、当局から――ジェリコはこの『吸血鬼』の件に関わっていないと、俺自身の口で声明発表しろという要請があった。TV局での生中継で、だ」
「なんだって!?」
思わず、反射的に問い返してしまう。
「なぜ政府がそんなことを。アキリーズは脱法アンドロイドとして、犯罪組織に操られていただけだ。そんなこと、誰にでもすぐにわかるはずじゃないか!」
「もちろんだ。政府の……いや、その裏にいるサイバーライフの狙いははっきりしている」
左右で色が異なる彼の瞳が、まっすぐにこちらを見据えている。
「あの革命の時、軍のアンドロイドが変異体になって脱走した結果、捕らえられて吸血鬼にされたんだという事実は……今は伏せられていても、いずれ明るみに出る可能性がある。そうなる前に、俺を表舞台に出して、世間の目を逸らそうとしているんだ」
「そうか。非難が自分たちに向く前に、君にだけ注目を集めようと……」
ノースが「引きずり出された」と言っていた理由が、これではっきりした。
――政府は変異体の革命を期に、元から低かった支持率を大幅に下げ、サイバーライフもまた、悪徳企業として世論で槍玉にあげられることとなった。
そして今回の事件は、元はと言えば、政府と軍とが自分たちのアンドロイドを“処分”しようとしたことが遠因の一つとなって起きている。
それが明らかになれば、政府はやや持ち直してきた支持率をまた下げてしまうかもしれない。サイバーライフは、薄れてきた「悪」のイメージを再び取りざたされるかもしれない。
彼らはそれを恐れた。
だからそうなる前に、「地下に潜り姿を見せなくなった、革命の首謀者にしてジェリコのリーダーであるマーカスが声明を発表する」というビッグ・ニュースで、すべての声を掻き消そうとしているわけだ。
多くの人間はリスクを嫌う。それはコナーもよく知っている事実だ。
「卑劣なやり方だ。一部の人間が君にどんな感情を抱いているか、知らないはずないのに」
「ジェリコが要請を拒めば、これまでに水面下で交渉してきた俺たちの人権に関するすべての事項を白紙に戻す
とそこで、マーカスはひときわ決然として言った。
「だが、これは危機じゃない。一つのチャンスと捉えるべきだ」
「マーカス……?」
「前にも言っただろう、コナー。そろそろ公的な場で、もう一度訴えるべきなんだ。俺たちはただ、生きる場所と対等な権利を求めているだけなんだってことを。俺自身の口から、はっきりと」
理屈はわかる。でも――
「駄目だマーカス、危険すぎる。君に懸けられた懸賞金の額は知ってるだろう、暗殺されるかもしれないんだぞ!?」
「ああ、そうだな」
極めて穏やかに、マーカスは応えた。
「だが統計的に、予想外の出来事が起こる可能性は残されている」
「……!」
「前にそう言って、その通りに予想外の出来事を起こし、俺たち全員を救ってくれたのはお前だろ」
それは――あの廃教会で、自分がマーカスに告げた言葉だ。
何も言えずにこちらが黙っていると、彼は、さらに続けて言った。
「だから今回もお前と、デトロイト市警の力を頼りたいんだ。政府とサイバーライフの指定で、明後日の19時、ストラトフォードタワーのスタジオから生放送で声明を発表することになっている。だから……もしも頼めるのならその時間だけ、タワーの周辺を守ってほしい」
「明後日……」
なんともまた、ひどく急な話だ。
それに、再びマーカスにストラトフォードタワーで演説をさせるだなんて、意趣返しのつもりなんだろうか。
だが――
「ナイナー……RK900なら、ドローンを使って広範囲を同時に警備できる。彼なら怪しい動きがあったとしても、すぐに対応してくれるだろう」
「ジョッシュが会ったっていう、お前の弟か」
どこか微笑ましいものを見るような眼差しで、マーカスは言う。
「それは頼もしいな。タワーの行き帰りのことは、気にしないでくれ。こちらで考えている計画がある」
「計画?」
「行きは、お前も知っての通り下水道を使う。例の宗教団体――『真なる福音の民』たちには、こんなこともあろうかと、あそこに留まってもらっていたんだ。彼らの案内で、人間には通れない場所を使って行く。今日もそうして来たんだ」
なるほど。確かにあの下水道なら、通信も遮断されているから情報漏洩の心配もない。
人間には通行不可能な場所なら、待ち伏せされる危険も減るだろう。
「なら、帰りは?」
ひょっとして、また屋上からパラシュートを使うというのだろうか。
その可能性も少し念頭に置いて尋ねたのだが、しかしマーカスから返ってきた言葉は、予想を超えるような内容だった。
「――そうか」
彼の話を聞き終えて、小さく相槌を打つ。
そういう計画ならば――こちらも力を貸せば、マーカスの身の安全は守れるかもしれない。
いや、守ってみせなければならない。今彼を失えば、確実にジェリコは求心力をなくし、空中分解してしまう。そうなれば、人間とアンドロイドが手を取り合って共存できる未来など、ただの絵空事になってしまうのだから。
「わかった」
ややあってから、コナーは力強く首肯し、続けて言った。
「今日の話は……まずは安全な場所で、一番信頼できる市警の人間に相談してみる」
「アンダーソン警部補だな」
「ああ。彼ならきっと、上層部とも上手く掛け合ってくれるはずだ」
こんな時、直接動けない自分の立場が少し疎ましく思えてしまう。
コナーは、あくまでも捜査補佐のアンドロイドだ。捜査官としての権限はなく、警備計画を立てる権限もない。
だから今回も、パートナーを頼るしかないのだ。
とはいえそれが、現状での最善手でもあるのだが。
「大変な時にこちらの都合で、本当にすまない。だが頼んだ、コナー」
マーカスはそう言って――「最後に一つだけ」と、言葉を続けた。
「お前は、サイバーライフの動きについてどう思う?」
「どうって……君を盾にして復権を図るだなんて、相変わらずだと思っているが」
「確かにその通りだ。でも、それだけじゃない」
彼は、思慮深い眼差しを床に落とす。
「サイバーライフの動きは悠長すぎる。こうして事を起こすにしても、もっと早いタイミングで……例えば、吸血鬼の事件が騒がれはじめてすぐでもよかった。そのほうが、彼らもリスクを冒さずに済んだはずだ。こんなに大事になってから俺たちに要請を出してくるなんて、革命前のことを考えれば、あまりにも遅い」
静かに、重く、マーカスは告げた。
「まるで、何かを待っているみたいだ」
「待っている……?」
「何をなのかは、わからない。だが彼らがお前だけじゃなく、派遣しているお前の弟にすら、隠し事をしている可能性だってある」
ソファーから立ち上がり、こちらの眼前にまで歩み寄り、彼は重ねて言う。
「気をつけろよ、コナー。一番危険な場所にいるのは、俺じゃなく、お前なんだ」
「ああ。忠告ありがとう」
我ながら真剣な声音で、まっすぐに相手を見上げ、コナーは応えた。
その応答に、マーカスの表情は再び、少しだけ緩みを見せる。
「それじゃあ……慌ただしくて悪いが、俺たちは戻るよ。サイモンとジョッシュに、渉外を任せきりにしているからな」
「ああ、わかった。ノースや、みんなによろしく頼む」
「もちろんだ。……アンダーソン警部補や、ナイナーにも」
柔らかな声で、そう言い残して――
マーカスは、ドアを閉めて去っていった。
マーカスとノース、それにケイシー。
三人の足音は、徐々に遠くなっていく。
それが聞こえなくなるまで、コナーはソファーに座ったままだった。
――もう一人の吸血鬼の捜索だけでなく、マーカスの警備まで果たさねばならないとは。
しかし一度自分の意志で引き受けた以上、そこから逃げるという選択肢は、コナーの内には存在していなかった。
***
――2039年6月8日 19:50
「……私がマーカスから聞いた話は、以上です」
「へえ、それで引き受けたってか。仕事熱心だな」
皮肉っぽく言って笑うと、向かいに座っているハンクは、手にしたアイスコーヒーのカップのストローを口にする。
「すみません、警部補。安請け合いだったでしょうか……」
「いや、そりゃ放っといちゃあいられねえだろ」
飲み終えたカップを机の端にコンと置き、彼は真面目な面持ちになって言う。
「当局の連中やサイバーライフは、これでついでにマーカスが死んでくれれば楽なもんだと思ってるんだ。だから、市警への正式な警備要請もなかったってわけだろ。フン、世も末だな」
「警部補、どうでしょう。明後日の声明発表の時間だけでも、応援を要請できるでしょうか」
「俺は
彼のその言葉の真意は、要するに――やれるだけのことはやってくれる、という意味だ。
コナーは内心、ほっと「安堵」した。
「ありがとうございます」
「お前に礼を言われてもな。……にしても」
と――ハンクは、おもむろに周囲を見渡して苦笑した。
「いきなりこの部屋で話がしたいとか言われて、何ごとかと冷や冷やしたぜ」
「その点もすみません。ここが一番安全だと思ったんです」
自分たちが今いるのは、第5ミーティングルーム。
コナーとナイナーが、自由に使ってよい部屋として支給されている場所だ。
「この部屋の防音性や機密性は、署のどの部屋よりも限りなく高くしてありますから」
「……改造したのか?」
「ええ、ナイナーと一緒に」
署長からは、「この部屋の外に私物を置くな」と命令されている。逆に言えば、この部屋の中なら自由にしていいという意味だと思い、兄弟はここを自分たちにとって快適な空間にすると共に、可能な限りセキュリティを高くするように努めたのだ。
市警に身を置く者としては当然の行為だと思うのだが――
なぜかハンクは、ため息を吐いている。
「お前、それ絶対ジェフリーにバレるなよ」
「はい」
「……どうだかね」
即座に頷いたというのに、なぜだか警部補は首を横に振った。
「それよか、さすがに腹が減ったんだが? このお部屋にはメシのサービスもあるのかね」
「ええ、私がお招きしたのですから」
――報告書作成がやっと終わり、中華料理のデリバリーを頼もうとしていたハンクを引き留めて、この部屋に連れて来たのだ。
そもそも彼の健康増進のために、毎食の献立まで考案している身としては、夕食の提供は当たり前の勤めといえる。
「さあ、どうぞ」
そう言って、脇に置いていたバッグからコナーが差し出したのは――
大きめのスープジャーと、レーズンパンが1個、チーズ一欠片。
「…………」
ハンクはテーブルの品々を、思い切り眉を顰めて眺めた。それから視線をこちらに向け、再度テーブルに向けた。
「……俺にこれを食えって?」
「ええ、健康的でしょう。ちなみにジャーの中身はミネストローネです」
「ふざけんな、俺はコマドリか何かか!」
コナーは首を傾げる。
「コマドリは昆虫食ですよ」
「量が少ないってんだよ。何が悲しくて、一日の終わりにこんな妖精が食うようなメシをつつかなけりゃならねえんだ」
とは言いつつ、よほど空腹だったのか(確かに分析では血糖値が下がっているが)、警部補はパンを摑んで口に運びはじめた。
「はあ、たく……まあいい。ところで、お前に聞きたいことがあるんだがな」
「はい」
「『ミリア』についてだ」
――再び、表情を刑事としてのものに戻して、ハンクは言う。
「お前、ミリアをどう考えてる。俺は……その子はきっと、アンドロイドなんだと思うんだが」
「警部補もですか」
コナーは、思わず軽く身を乗り出して言った。
「実は私も、そう思っていたんです。ミリアはデータベースに登録されておらず、10歳なのに学校にも通っていない。大切にしていたという人形にも、指紋が残されていない……」
そして、マーサがかつてアンドロイドを購入していたという事実。
これらは、ミリアがアンドロイド、恐らくはYK500だという仮説を補強するものばかりである。
「ただそう考えると、なぜマーサが半年前、顧客情報の削除を要請したのかが気になります」
「その削除ってのは、どういう時にするもんなんだ」
「アンドロイドを、処分した時です」
我知らず重苦しい口調で言うと、ハンクの目が一瞬、大きく見開かれる。
「顧客情報は、アンドロイドの所有者としての情報でもありますから。所有しなくなった段階で、削除要請が可能となる規定になっています」
「そうか。……だが、それならやっぱりおかしいな」
スープジャーを開け、中身を一口飲み――トマトが少し酸っぱかったのだろうか、やや顔を顰めた後、警部補は続ける。
「これまでの話じゃ、マーサは娘を相当大事にしてたみたいだ。それだけ大切な子どもを……アンドロイドだからって、処分なんてできるもんなのか。もし何か事情があってそうしたんだとして、それなら今も一緒にいるらしい理由がわからねえ。それとも、娘が“いる”んだって妄想に憑りつかれてるとでも?」
「可能性はあります。あまり考慮したい話でもありませんが」
そう言って、コナーは視線を机に落とす。
「それとも……もしかすると」
「もう一人の吸血鬼が『ミリア』なのかもしれない、ってか」
思考を言い当てられ、ついハンクのほうに目を向けた。
彼もまた真剣な表情で、こちらをじっと見つめている。
「それなら、あの子守歌の吸血鬼が人形を持ってた理由にもなるな」
「しかし、吸血鬼の体格はかなり大きなものでした。推定ではナイナーと同程度です。仮にミリアがYK500だとするなら、あまりにも――」
顎に手を当て、コナーが静かに推理を語る――
その時だった。
部屋の外、廊下のほうから、けたたましい警報音が鳴り響く。
火災報知器のそれよりも、さらに人間の聴覚と神経を刺激するような音――
留置場からの脱走、暴力集団による襲撃などが発生した時にだけ使われる、緊急警報だ。
「!!」
瞬時にコナーとハンクは顔を見合わせ、部屋の外へと駆け出す。
警報が鳴っているのは階下だ。
放たれた矢のような勢いで階段を下りた二人が目にしたのは、一階のオフィスの奥、廊下とこちらを隔てるドアの前にできた人だかりだ。
今の時間は市警の一般受付も閉まっているため、いるのは警官ばかりだ。
見たところ、怪我をした様子の者もいない。だが、ぎょっとした顔で廊下の奥を見つめている警官たちを掻き分けて進んだ先では、数名の巡査たちが床にへたり込んでいた。
彼らも怪我はないらしい。だが一人は、拳銃を手にしている。【硝煙反応】――発砲した後だ。
「どうした、何があった!?」
ハンクが鋭く問いかけると、半ばショック状態に陥りそうになっていた警官の一人が、震える指である一か所を指す。
それは――証拠保管室へと続くドア。乱暴に開け放たれている。
「まさか――!」
プログラム上を過ぎる最悪の想定、いわゆる「嫌な予感」を覚えつつ、コナーはドアの向こう、階段の下へと走る。
そして辿り着いた先で、思わず息を吞んだ。
証拠保管室の内部へと続く強化ガラスのドアが粉々に破壊され、さらにパスワードを入力するための端末の一部が破壊され、火花をあげていたのだ。
とはいえ、端末は役目を立派に果たしたらしい。シャッターの奥には、侵入された形跡がない。
しかし端末の2箇所、それにシャッターの1箇所には、丸い【穴】が開いていた。
形状からして、間違いない。
これはあの「子守歌」の吸血鬼、すなわち、【もう一人の吸血鬼による攻撃】だ。
以前してみせたように、あの鋭い吸込み口を槍のようにして、攻撃を仕掛けたのだ!
「……!」
瞬間、吸血鬼がまだ【ここにいる可能性】に気づき、コナーは周囲をくまなく精査した。
だが――辺りからは特に音もせず、こうして数秒ここに立っていても、襲われるということもない。どうやら、もういなくなっているようだ。
それにしても、なぜ保管室を。――証拠品を奪い返しに来たのだろうか。
「なんだこりゃ……!」
後ろにやって来たハンクもまた、頬に冷や汗を伝わせながら言う。
「あの子守歌の野郎、署にまでカチコミかけてきやがったのか!?」
「待って。今、監視カメラを確認します」
署内のカメラなら、すぐに同期して調べられる。
視界の一部をカメラ映像の表示に回してみると、警官たちが茫然自失の状態から立ち直り、署長の指示を受けてそれぞれに散っていくところが見えた。
確かに吸血鬼がここから逃げていったのであれば、すぐに外に出て追いかけるのが当然だ。
入り口付近のカメラに切り替えれば、パトカーが数台、スクランブル発進していくところが映る。
追跡に加わるべきか、とプログラム上に提案が浮かぶが、ほぼ同時に自分でそれを却下した。
もしナイナーがここにいたなら、ドローンを飛ばして捜索に加わってもらえただろう。だが今、彼の力は頼れない。
となれば、自分たちがあてもなく飛び出しても、できることはたかが知れている。
ここは、まず状況を確かめるべきだ。
そう考え、改めてカメラ映像を「現在」の光景ではなく、数分前のものへと巻き戻していく。
すると署内で何が起こったのか、だんだん把握できるようになってきた。
吸血鬼は――透明になったまま侵入してきたらしい。最初に「それ」の存在に気づいたのは、保管室へと続くドアの前の廊下を、たまたま歩いていた男性巡査だった。
どうやら音で気づいたその巡査は、ハンドガンを構えてドアを開き、そこで、吸血鬼の破壊活動に気づいたのだろう。
彼の目からすれば独りでにガラスが叩き割られ、端末に穴が開いていくように見えただろうが、ともかく巡査は果敢に発砲した(証拠保管室の内部に監視カメラはないので、これはすべて外の廊下のカメラが捉えた映像だ)。
そして吸血鬼は、気づかれたことを悟り、破壊活動を諦めたようだ。
素早く階段を上がり、ドアを開け放し、巡査を突き飛ばして廊下を通り抜け(カメラ映像では、巡査が勝手に吹き飛んだように映っていた)、そのまま足音だけ残して、入り口から外へ――
それが、数分前の出来事のすべて。
「外に逃げています。入り口から……」
「くそ……!」
怪我人がなかったのは幸いだが、取り逃がしてしまうのはあまりに危険だ。
コナーたちは吸血鬼の逃走経路を辿って走りつつ、周囲を確認する。
廊下には、特に壊された跡などは残っていない。
そして入り口から署の外に出てみると、そこには夜の曇天の下、ただ喧騒が広がるばかりであった。
パトカーのサイレン音があちこちに鳴り響き、たまさかの騒々しい雰囲気に道行く人々はどことなく不安げにしているが、それを除けば、街に特に変わった様子はない。
「なんなんだ……?」
頭を掻きながら、ハンクは呟くように言った。
「署に忍び込んで、証拠を盗もうとして、バレたから逃げだした、って……それだけか?」
「誰にも危害を加えていないところから見ても、どうやらそのようですが――」
そうまで語ったところで、コナーのプログラムがふと、一つの違和感を検出する。
もしこれが、想定通りもう一人の吸血鬼の仕業なら――
なぜ、吸血鬼は端末をハッキングするのではなく、破壊しようとしたのだろう。
あの証拠保管室のシステムは、それぞれの捜査員が鍵となるIDカードを使ってガラスのドアを開け、端末でパスワードを入力し、それによってシャッターの向こうにその捜査員が担当する事件に関連する証拠品が出てくる、というものになっている。
つまり、いくらあの端末やシャッターを壊したところで、ハンクやギャビンの所持する証拠品を盗むのは困難だ。
だいたいアンドロイドならば、まずドアや端末のセキュリティシステムのハッキングに思い当たるだろうし、少なくとも試してみるだろうに――どうも、試行したような痕跡がない。
まさか、何か思い違いをしているのだろうか。
それとも、見落としがある? だとしたら、なんだろう。
思考を巡らせつつ、ふと振り返って署の建物の壁を見たコナーは――
発見したとある痕跡に、目を見開いた。
そのまま、ゆっくりと壁伝いに視線を上にあげていく。
痕跡は点々と、どこまでも続いている――
「……!」
「どうした、コナー」
――いや、今ここで騒ぎ立てるのはよくない。
相手を刺激してしまう恐れがある。
そう考えて、コナーは小さく頭を振った。
それから、無言のまま視線だけをゆっくりと、警部補から署の入り口のほうへと動かす。
そしてどうやら、それだけでハンクは状況を察してくれたらしい。
彼は何気ない様子で、すたすたと署の中へと戻っていった。
コナーも、すかさず彼に続く。
そして中に戻った瞬間、警部補はこちらに向き直って問うた。
「壁に何かあったか?」
「よくわかりましたね」
思わずそう告げてしまうと、彼は小さく肩を竦めた。
「お前のLEDがビカビカなってたからな。で、何があった」
「壁に足跡が……5月10日、ソーク氏とトーマスが殺害された時と同じだ。壁を蹴って、上へと上がっているんです!」
言い終えないうちに、コナーとハンクは署のオフィスの奥にあるエレベーターまで駆けていった。
――署の建物の壁には、デザイン上微妙な隆起がある。
吸血鬼は、外に逃げ去ってはいなかった。確かに入り口から外には出ているが、その後街へと逃げ込みはしていない。
その機体の性能を使って、外壁を蹴り、屋上へと逃げ込んでいたのだ。
犯人はまだ【ここにいる】。ほとぼりが冷めるまで、屋上に留まっているつもりに違いない!
さりとて、大勢で行けばこちらが居場所に気づいたことを悟られ、逃げられるかもしれない。ここは、まず少人数で行ったほうがいい。
そう判断して、二人は、全速力で屋上へと続く鉄製のドアの前へやって来た。
銃を抜いたハンクが、無言で自分が先行する、と合図してくる。
こちらが頷くと、彼は静かにドアノブを回し、音を立てないようにそれを押し開けた。
すると――
音声プロセッサに届いたのは、【子守歌】――ハッシュ・リトル・ベイビーの歌声だ。
女性の歌声。上方から聞こえてくる。
否、この声の主は――!
「マーサ!」
愕然として、コナーは声をあげた。
視線の先には、屋上に備えつけられた避雷針――その、先端。
まるで公園のベンチにいるかのように危機感のない態度で――横向きにアンテナのように張り出された部分に、黒く長い髪を風に棚引かせ、黒くぴったりとしたシャツとボトムスを身に纏った女性が座っていた。
上空、約5メートルの位置。
どうやって上ったんだ。彼女は、杖を使って歩いているのではなかったか。
それに避雷針の様子もおかしい。妙にたわんでいる。先端に重量物が乗り、負荷がかかっているからのようだが――そしてその重量物に該当するのはマーサしかいないが、物理演算によれば、その重量は【102キログラム】と試算されている。
――馬鹿な。痩躯の彼女が、そんなに重たいはずがないのに。
そしてこちらの呼びかけに、マーサはようやく気がついたようだ。
彼女は歌うのをやめてゆっくりとコナーたちを見やり、にっこりと微笑む。
「あら、こんにちは。コナーさん……よね? それに、パートナーの刑事さん」
「おいあんた、なんだってそんなとこにいる!」
銃を構えたままではあるが、銃口は向けずに、ハンクは叫ぶ。
「降りてこい、危ないぞ!」
「あら、大丈夫ですよ。だって今日は、うちの子がいい景色が見たいって言ったんですもの」
――うちの子。
その言葉に吸血鬼の襲撃を予測し、コナーは周囲を見渡した。
だが、それでも、何かが迫りくるような様子はまったくない。ここには自分たちの他は、マーサしかいないようだ。
この状況は、いったい。
思考プログラムに混乱を覚えつつも、コナーは、ひとまずマーサに視線を戻す。
彼女はというと、ここが初夏の公園かと錯覚してしまいそうなほどの吞気さで、「そうだわ」と胸の前で手をぽんと叩く。
「そう、この前は……どうもごめんなさい、コナーさん。あなたを傷つけるつもりはなかったのよ、ただ、この子がせがむから。行き違いがあって」
「なんの話をしてるんだ!」
こちらの戸惑いを代弁するように、ハンクが言った。
「おい、あんたは吸血鬼の身内なのか。それとも……」
「あら嫌だ、吸血鬼ですって!?」
途端に、彼女は周囲をきょろきょろと見回しはじめる。
「怖いわ、本当ですか刑事さん? そんな……私、ここにはただ、娘と一緒に落とし物を拾いに来ただけなのに」
――落とし物。
その言葉でやっとコナーは――そして恐らくは同じくハンクも、一つの確証を得る。
「子守歌」の吸血鬼が、カナダでマーサが買った人形を持っていた理由。
証拠保管室で、ハッキングを試みなかった理由。
吸血鬼が逃げ込んだはずの場所に、なぜかマーサしかいない理由。
そして――以前ギャビンとナイナーが見つけた工場の地下、武器庫に残されていた、実験中のパワードスーツ。
それらすべてが今、繋がった。
マーサが。彼女こそが、もう一人の――
「あなたが……!」
コナーが誰何しようとした、その時。
「えっ?」
マーサは突然、小さく声をあげた。まるで、誰かに後ろから話しかけられでもしたかのように。
何を――? とこちらが訝しむ間に、彼女は歌うように言葉を発している。
「あら、違うわよミリア。この刑事さんたちは別に、悪い人たちじゃなくって……えっ、なんですって?」
刹那、マーサの真っ黒な瞳が、こちらを射る。
まるで深い闇の底、淀んだ汚泥の淵の底のように、暗く冷たい眼差し。
その異様な輝きに思わずたじろいだその時、マーサの唇が、震えながら言葉を紡いだ。
「この刑事さんは、マーカスの仲間だっていうの?」
――マーカス。
その名を口にしたマーサの表情に、初めて激しい敵意が浮かぶ。
しかし彼女自身は、どうやら、それを認めたくはないようだ。
「いえ、でも、でも……だったら殺さないといけないけど、そんな……お腹が空いたの? けど、他の人じゃ駄目なの? この刑事さんじゃなきゃいけないの??」
彼女は頭を抱えて、何やら煩悶している。
しかし、その理由が見えてこない。そもそも、
こんな状況は初めてだ。
だからこそ、さらに混乱しそうになるプログラムを必死に制御しながら、コナーは思考を巡らせる。
と――空気中の湿度が変化し、鼻先に冷たい水滴が触れる。
雨が降ってきたのだ。
「おい、コナー」
隣に立つハンクが、視線はマーサに向けたままで話しかけてくる。
「なんだかわからんが、このままじゃヤバそうだ。ここは一度応援を呼んで――」
「その必要はねえぞ!!」
瞬間、胴間声と共に屋上のドアが蹴破られる。
現れたのは、既にハンドガンを構えたギャビン・リード刑事であった。
「てめえら、俺抜きで何コソコソしてやがる! 捜してた女があそこにいんじゃねえか」
「リード刑事……!」
確か彼は、外に食事に出ていたのではなかったか。
どうやら、ちょうど戻ってきたところで騒ぎを聞きつけ、ここまで上がってきたようだが。
「おいギャビン、今取り込み中なんだ、お前は下がって応援を呼びに行け!」
「は? てめえらが不甲斐ねえから来てやったんだろうが」
「二人とも、静かに!」
言い争いに発展しそうな二人を制しつつ、コナーはマーサを注視しつづける。
というのも、彼女の煩悶が止まったからだ。
マーサは頭を抱えたまま動きをぴたりと止めて、次いで、ゆっくりとまたこちらに視線を送った。
彼女の周りは、奇妙なことになっていた。
降り注ぐ雨垂れが、勢いを増してきたそれが、彼女の周りでだけ湾曲しているのだ。
まるで透明なベールを纏っているかのように、彼女の服も身体も濡れていない。雨が避けているかのようだ。
そしてもちろん――コナーの目は、その理由を捉えている。
マーサを守るその透明な部分が、徐々に、色を変えていく。
雨空の下でも街灯のわずかな光でわかるその色は、モスグリーン。
足先から頭部まで、彼女の身体をどんどん金属製の装甲が覆っていき、ついには、その手の先に例の鋭いホースが――そして、その背にはタンクが現れていく。
否、「現れる」というのは正確ではない。
彼女はただ、スーツの光学迷彩をOFFにしたのだ。
マーサはあそこにいる時からずっと、スーツだけを透明にしていた。
肉眼で見えなかっただけで、ずっと纏っていたのだ。
吸血鬼として活動するための、パワードスーツを。
組織がアキリーズの技術を使って造り出した、「もう一人の吸血鬼」としての能力を。
そう、今のマーサの姿はまさに――
あの建設中の高速道路でトラックの荷台から現れた、吸血鬼の姿そのものだった。
「……」
彼女は、そうして無言でこちらを見つめていた。
そして2秒後、軽く片手を挙げて言う。
「さようなら、刑事さん。大丈夫、あなたも私たちが救ってあげる」
――救うだって?
「クソが!!」
彼女の身動きを察知したギャビンが、すかさず発砲する。
ハンクもまた、トリガーに指をかけた。
だがそれが引かれるよりも早く、マーサは思い切り足を屈伸させ――
次の瞬間、重量物の動きに耐えられなくなった避雷針が折れ、こちらに向かって倒れてくる!
「危ない!!」
叫ぶと同時に、コナーは近くに立つ二人を後方へと押した。
つんのめるように彼らを突き飛ばしたコナーの背、そのぎりぎりのところで、すさまじい音を立てて避雷針が屋上の床と激突する。
「っ……!」
バランスを崩して膝をつく形になってしまったコナーは、頭を振ってゆっくりと立ち上がる。
目の前の二人、ハンクもギャビンも、転んではいるが怪我はしていない。
しかし――
「逃げられたか……」
ハンクの言葉通り。
振り返った先では、無残にも折れた避雷針と床のコンクリートを、降りしきる雨が濡らしているだけだった。
(再会/The Revelation 終わり)
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第26話:決意 前編/I Still Love You. Part 1
――2039年6月9日 09:03
明け方近くまで降り続いていた雨は既に上がり、今やアスファルトの路面を薄く濡らすばかりになっている。
ミッドタウン近くの住宅街へと走る車中で、助手席に座るコナーは窓の外に目を向けた。
行き交う車、歩く人々の姿、鮮やかな緑の美しい街並みは実に穏やかで、平和そのものといえる。まるで昨晩の出来事など、なかったかのようだ。
しかし今こうしてコナーがハンクと共に移動する理由は、まさにその昨夜の事件にある。
RK700に次ぐ、「もう一人の吸血鬼」――その正体である人間、マーサ・ガーランドによる、デトロイト市警襲撃事件。
幸い怪我人はおらず、取り逃がした後で街に目立った被害が出たわけでもなかったけれども、状況はここに来てさらに深刻さを増した。
彼女は追跡を逃れ、街のいずこかへと姿を消したのだ。
マーサは――彼女がなぜ「吸血鬼の組織」の尖兵と化しているのか現状では不明だが、事実として、マーカスを恨んでいる。
そしてそのマーカスは、明日の19時、ジェリコの代表として声明を生放送で発表することになっている。
これまで潜伏していたマーカスが、人前に姿を見せる機会が明日訪れることが、もしマーサに知られてしまったら。
そして、マーサがその機に復讐を選んでしまったとしたら――
マーカスたちの命が危ない、というだけではない。人間とアンドロイドの間の軋轢が決定的になってしまえば、もはや共に未来へと歩むことが叶わなくなるかもしれないのだ。
だからこそ今ここで、捜査を先に進めなければならない。
今朝、警部補には、昨夜の事件を経て警察署内での器物損壊罪に問われることとなったマーサの自宅の捜査許可が下された。
彼女がオンタリオに拠点を移す前に住んでいたと思われる、アパートメントの一室。以前ギャビンとナイナーが訪れた際は中に踏み入ることはできない状況だったが、正式な許諾のある今は違う。
調べれば、事件に繋がる手掛かりが見つかるかもしれない。
この一連の事件では何度もこうした期待を裏切られてきたが、今度こそは。
そこまで考えたコナーが視線を正面に戻したその時、車が赤信号に捕まり、一時停止した。
ハンクが今日も今日とて大きな音で流しているヘビメタも、ちょうど次の曲へと移る合間のタイミングである。
そこで、コナーは運転席の相棒に声をかけた。
「警部補。本当に私たちだけでよいのでしょうか」
「何が……ああ。マーサの家を調べるのがってことか?」
「ええ」
小さく頷いてから、コナーは続きを述べる。
「通常、このような場合の捜査は大人数で行われるはずです。我々二人のみでというのは、慣例に反するのでは」
「気にすんな。それくらい、
ハンドルから離した右手を軽く振り、警部補は語る。
「昨日の事件とマーカスの警備計画で、人手はいくらあっても足りねえ。だから、ひとまず俺たちだけでもマーサん家の捜査に回すしかねえってわけさ。署までカチコミかけられたとありゃ、これはもう面子の問題だからな。なりふり構っていられないんだよ」
そこまで言ってから、ハンクは「それに」と続けた。
「周りを他の奴らが大勢うろついてるより、お前も捜査しやすいだろ」
「ええ、まあ」
これまでの捜査を思い出しつつ、コナーは素直に同意した。
それと共に、青信号を受けて車は再び走り出す。
「確かに、事態は急を要します。一足先に調べられるなら、それに越したことはない」
「そういうこった。……今から行くアパートでは、マーサはたぶん、娘のミリアと一緒に暮らしてたんだろ」
ほんの僅かに面持ちを険しくして、ハンクは言う。
「その時のことが少しでもわかれば、マーサの足取りも追いやすくなるかもな」
「……はい」
やや硬い声音で、コナーは応えた。
――マーサとミリア、二人だけでの生活。恐らくそれが温かく愛おしいものであったからこそ、マーサは「吸血鬼」となった今もミリアを想い、昨夜のような言動をとっているのだ。
それを考えるコナーのプログラム上では、今朝の出来事が再生されていた。
サイバーライフから戻ってきたナイナーが齎した情報、ついに復元されたマーサの顧客情報。
そこから得られた真実は、マーサとミリアに関する謎を、より深めるようなものだった。
***
――2039年6月9日 07:55
「了解しました、兄さん」
平坦な、しかしきっぱりとした返事を、弟は告げた。
署の一室、第5ミーティングルームにて。
メンテナンスから戻ってきた弟に、コナーはすぐに昨日の顛末を説明した。
明日マーカスが声明発表を行うこと、もう一人の吸血鬼が証拠保管室を襲撃したこと、そしてその正体がマーサ・ガーランドだったこと――
その上でコナーは、マーカスの警備のためにナイナーの力を貸してほしいと頼んだ。
すると弟は、一も二もなく承諾してくれたのだ。
灰色の瞳を静かに、定期的に瞬かせながら。
「すまない。危険な仕事を頼んでしまって」
すんなりと引き受けてくれたことでかえって申し訳ないような感覚が頭をもたげ、コナーは弟に詫びた。
「事前に相談すべきだったとは思ってる。でも君の性能なら、広範囲の警備も適任だと思ったんだ」
「はい。兄さんの認識は、妥当だと判断します」
常と同じ無表情で、しかしその目にほんのりと温かなものを宿したナイナーは、自分の胸に右手を置いておもむろに語った。
「私の分析機能とドローンならば、仮にマーサ・ガーランドの接近を許しても、即時対応が可能です。加えて私は、革命の後に起動したアンドロイドですから」
彼は目を伏せてから、続ける。
「革命におけるマーカスたち……ジェリコのアンドロイドの苦悩と奮闘がなければ、今の私は存在しません。彼らの活動の支援が可能なら、私は、喜んで、自己の機能を使用します」
「ありがとう、ナイナー」
我知らず声音を明るくして、コナーは微笑んだ。
「君がそう言ってくれるなんて、とても頼もしいよ」
「他ならぬ、兄さんの依頼でもありますから。ところで」
そこで視線を上げたナイナーの面持ちは、今度は、少し暗く沈んでいるように思える。
「報告すべき事項が。マーサ・ガーランドの顧客情報が復元されました」
「そうか」
緩んでいた表情を元に戻し、弟に問いかける。
「それで、何かわかったことは」
「複数存在します。が……口頭での説明より、メモリー接続の実行を推奨します」
そう言って、ナイナーはスキンを解除した手をこちらに差し出した。
同じくスキンを解除し、コナーは弟の手首を軽く握る。
すると瞬時にプログラム上に展開された情報は、まさしく、目的のデータだった。
『マーサ・ガーランド デトロイト市ラッセル通り619-201 2037年12月8日15:06 アンドロイドYK500・登録名“ミリア”購入』
――やはり、彼女が購入したのはYK500。娘のミリアは、紛れもなくアンドロイドだったのだ。
さらにデータの続きには、ミリアに関する詳細なデータが付されている。
『YK500“ミリア”のオプション:留守番機能ON、積極学習機能ON、摂食機能ON、疾病モードOFF。 シリアルナンバー:#632 824 117』
『失踪届――2038年11月10日』
「――!」
そのシリアルナンバーと失踪届を認識した瞬間、推論プログラムは即座に、過去のとある情報を重要関連項目としてリンクさせてきた。
2039年5月10日、AP400型トーマスからブルーブラッドを抜き取った後、吸血鬼が地面に零していった飛沫――
そして3日前、スカーレットオアシスで見つけたあの人形に付着していたブルーブラッドにも、含まれていた情報。
【ブルーブラッド YK500型 #632 824 117 失踪届――2038年11月10日】
あれはミリアのブルーブラッドだったのだ。
「まさか」
弟から手を離したコナーは、思わず口に出して呟いた。
「ミリアも、吸血鬼の被害者なのか……!?」
「私も同様に判断します。しかし、当該推論は全体的な整合性を欠いています」
静かに告げるナイナーに、首肯してから思考を巡らせる。
昨夜、マーサは――ミリアが今も、自分と共にいるかのような言動をみせた。
そして今得られた情報は、マーサの背負うタンクの中に、ミリアのブルーブラッドが入っていることを示している。
単純に考えれば、ミリアはマーサによって吸血され、その血が今もタンクの中に入って「一緒にいる」点を以て、マーサは昨夜「娘と一緒に」落とし物を拾いに来たと発言したのだと結論できる。
だが、それでは辻褄が合わないのだ。
ミリアの失踪届が出されたのは革命のさなか、2038年11月10日。
一方でアキリーズが最初の「吸血鬼」にされたのは、スカーレットオアシスにいた変異体の証言によれば、革命から一か月後――2038年12月のことだ。
マーサはアキリーズの技術を違法コピーして作られたスーツを纏うことで、「もう一人の吸血鬼」となっている。
したがって、ミリアの失踪届が出された時期、およびマーサの顧客情報の削除申請があった半年前(12月)の時期から、マーサが吸血鬼であったはずはない。つまり、マーサのタンクにミリアのブルーブラッドが入っている理由がわからないのである。
――どういうことなのか?
いつもの癖で顎に手をやり、しばし黙考を続けるコナーに対し、ナイナーは言う。
「現段階では、結論の導出は不可能です。しかしマーサの自宅を捜査すれば、手がかりを取得可能と認識します」
「そうだな。彼女は自宅に戻ってはいないようだし、調べるにはいいチャンスだろう」
昨晩マーサが逃亡した後、当然、デトロイトにあるマーサの自宅や事務所などに彼女が戻ってはいないかの調査はすぐに行われた。
その結果、双方とも(以前ギャビンとナイナーが調べた通り)長い間誰も侵入していないままだとわかった。
だから今彼女の家を調べても、そこで吸血鬼姿の本人と鉢合わせ――などという事態にはならないだろう。
「兄さん。今後の私は、主にマーカスの警備計画の立案および実行に関与するでしょう」
ナイナーは冷静に語る。
「直接的支援の実行は、困難になる恐れがありますが……後方支援は常に実施可能です。お役立てください」
「ああ、助かる。でも、君の邪魔にはならないようにするよ」
しかし、ナイナーがマーカスの警備に回るとなると。
「リード刑事は、どうする? パートナーの君がジェリコのリーダーを警備するなんて、彼がなんて言うか」
「……大丈夫」
ぽつりと、しかしはっきりと、弟は言う。
「リード刑事ならば、きっと……これも好機だと認識可能なはず。彼への説明は、私が担当します」
ナイナーがそう語ったちょうどその時、ハンクの携帯からコナーに連絡が入った。
朝食(コナーが作り置きしたラタトゥイユと、トーストしたパンである)を食べ終わったので、そろそろ出勤するという話だった。
「……警部補の到着まで、約18分だな。彼には、後で相談するよ」
通信を終えたコナーが言うと、ナイナーは小さく頷いて応える。
「気をつけて。ご健闘を祈ります」
「ああ、君も」
にこやかに告げて、コナーはミーティングルームを出た。
自分の背に向けられている弟の眼差しを、とても温かだと感じながら。
***
――2039年6月9日 09:11
その後、コナーはハンクに、顧客情報から明らかになった様々な事実について説明した。
そしてコナーやナイナーと同じ結論に達した警部補は、訝しみながらも極めて現実的な判断を下した。
証拠もないうちから、憶測を重ねるべきではない、と。
それにはコナーも、まったくの同意見である。
だから自分たち二人は、こうしてマーサの自宅へと向かっている。
「なあ、コナー」
ハンドルを握り、前を見据えたまま、ハンクはおもむろに質問してきた。
「吸血鬼の、透明になる機能――『光学迷彩』ってのか。それはあのスーツさえ着こめば、誰にでも使えるようなもんなのか?」
「いえ。そう簡単なものでは」
短く告げてから、説明を補足した。
「アシンメトリックマテリアルを用いた光学迷彩は、スーツ表面のメタマテリアルによる光の負の屈折を用いて、物体を視認できなくする技術です。しかしその実行には、状況に応じた即時の演算が必要となり」
「わかる言葉で言ってくれ」
警部補の皮肉っぽい一言を受け、コナーはより平易な語彙を使って、こう言い換えた。
「……つまり、光学迷彩の使用には高度な演算能力が必要なんです。軍用プロトタイプのアキリーズならともかく、人間であるマーサにそれができるのは、少し不可解ですね」
「なるほど。まさか数学オリンピックの金メダリストってのでもなさそうだしな」
それに仮に演算できたとして、その結果をどうやってマーサがスーツ本体に伝達しているのかもよくわからない。
人間はアンドロイドではない――血液に情報をのせて運べるわけではないのだから。
外科的に、脳神経に接続でもしてあるのか? 彼女とはこれまでに何度か対面しているが、そんな痕跡は見当たらなかったのだが。
そう、それに――マーサと対面した時、といえば。
連想から、プログラム上にあるメモリーが再生される。するとまるでそれに呼応したかのように、ハンクがまた口を開いた。
「そういやお前、一人でいる時にマーサに会ったんだったな」
「はい。動物園で、ミザールの事件を解決した後に」
殺人の濡れ衣を着せられたURS12型“ミザール”の嫌疑を晴らした後、海洋生物館の前でハンクを待っていた時、コナーは、マーサに遭遇している。
その時、彼女はこう語った。
『でもね、私、思うんです。変異体、って……みんながみんな、目覚めたくて目覚めたってわけじゃないって』
『ねえ、コナーさん。あなたもそうなんでしょう?』
離れていったはずのマーサが発した問いかけは、なぜか、こちらの真後ろから聞こえた。
そして振り返った時、彼女はそこにいなかったのだ。
その時は音声プロセッサの不調か、あるいは音が妙な反射でもしたのかと、気に留めていなかったのだが――
もしかするとあれも、彼女の「吸血鬼」としての機能が関係しているのか?
――否。仮にあの時、マーサが吸血鬼のスーツを纏っていたんだとして、それなら確実に分析機能が異常を検知していたはずである。
スーツを着た時の彼女は、重さが102キログラムにもなる。そしていくら透明になったからといって、スーツ自体の重みまで消えてなくなりはしないというのは、物理的に考えても、昨夜彼女と会った時に避雷針がたわんでいたことを考えても、至極当然だ。
つまり海洋生物館の前で会った時のマーサは、吸血鬼としてのパワードスーツを纏ってはいなかった。
にもかかわらず、常に杖をついて歩いているはずの彼女は、一瞬でこちらの後ろに立ち、また離れるといったような、機敏な動きをしてみせたということになる――
「なんか引っかかるのか?」
「ええ……正直なところ、不可解な点が多すぎて」
「今回ばかりはな。だがまあ、地道にやるほかねえ」
そう語るハンクが運転する車は、駐車場へと向かっていた。
ようやく、マーサの住んだアパートメントの近くに到着したのだ。
適当なスペースを見つけ、警部補は速やかに停車させる。
「よし、行くぞ」
「はい、警部補」
車から降り際に声をかけてきたハンクと、一瞬だけ目を見合わせた。
彼の青い瞳は、刑事としての明晰な光を帯びている。
――状況は謎ばかり。だが今はハンクの相棒として、自分の機能を十全に発揮することを考えるべきだ。
そう思いなおしつつ、コナーもまた、車から降りたのだった。
***
アパートメントにやって来ると、既に、大家である男性がカードキーを持って待機していた。
デトロイト市警から、先んじて彼に連絡が行っていたようだ。
大家から鍵を借り、建物の2階にまで上がり――足音が気になったのか顔を覗かせた、202号室に住んでいるエリック・ランパードという大学生が、なぜかこちらの姿を見るなりそそくさとドアを閉めたのが少し不思議だったが――コナーとハンクは、マーサの自宅である201号室のドアの前に立った。
「じゃ、開けるぞ」
「お願いします」
こちらの応答を受けて、警部補はドアの横に設置されているセンサーにカードキーをそっと押し当てる。
するとやや前時代的な印象のあるスチール製のドアの鍵は、がちゃりと音を立てて開錠された。
慎重な手つきで、ハンクはドアノブを掴み、ゆっくりと開ける。
開いたドアの奥に見えるのは、薄暗くしんと静まり返った、エントランススペースと廊下だった。
――生体反応、異音、ともになし。ドア付近の床にうっすらと積もっている埃は、スキャンしたところ数か月以上前からそこに積もったきり、誰の足跡もついていない。
したがって報告通り【マーサは今ここにいない】。なおかつ、この中には数か月間、誰も来ていない。
「よし、調べるぞ。何か気づいたらすぐに言えよ」
「わかりました」
頷き、コナーはハンクに続いて廊下を進んだ。
廊下の横には二つドアがあり、形状的に、うち一つはバスルームだとわかる。そして廊下の突き当りには、リビング兼仕事部屋だったのだろうと思われる、それなりの広さのスペースがあった。
その部屋の中央に立ち、コナーはぐるりと辺りを見渡す。
部屋には、カナダへ“引っ越した”後だとは思えないほど、諸々の家具が残されていた。
テーブル、ソファー、テレビや冷蔵庫。デスクと椅子、小さなキャビネット――
家具のテイストは、南欧風で統一されている。
いかにもインテリアデザイナーの自宅らしい、整然とした家財道具の構成だ。
しかし――
「どうやら」
と、部屋の隅に置いてあるクロゼットを開けたハンクが語る。
「マーサは引っ越しの時、家具だけ置いてったようだな。中は空っぽだ」
「ええ」
近場にあるキャビネットを開け、しげしげと観察しつつ、コナーも同意する。
警部補の言葉の通り、その中にはめぼしいものは何もない。
例えば彼女がミリアと一緒に暮らしていた時に使っただろう、子供向けの衣類や食器などはもちろん――彼女自身が使っていたはずの服なども、残っていないのだ。
手がかりが少ない、といえるかもしれないが、逆にこうも考えられる。
「これならば午前のうちに、私たちだけで捜査を終えられるでしょう」
「だな。コナー、俺は向こうの部屋を見てくる。ここはお前に任せたぞ」
「はい」
コナーは返事をし、それから、改めて付近の精査を始めた。
具体的には、引き出しのチェックだ。以前スカーレットオアシスの地下の事務室であったように、何も残されていないように見えても、もしかしたら仕掛けが施されているかもしれない。
それに、持ち出しきれずに置いていった品があるかも――
だが、キャビネットからは何も手がかりが得られなかった。
コナーは次に、デスクを調べる。木製のシックな机の上には、積もった埃の痕跡から見て恐らくデスクトップパソコンが置かれていたのだろうが、今は何もない。後は、引き出しを一つずつ調べていくほかない。
一段目の引き出しを開ける。――仕事関連の契約書などの書類が山ほど。一枚ずつ素早くスキャンしたが、怪しいものは特にない。それに、スイッチのようなものも見当たらなかった。
二段目の引き出しを開ける。今度はペンや糊などの文房具が入っていた。これらも、特に変わったことはない。
では――と三段目を開けた時、引き出した瞬間に発見した黒い物体に、コナーは片眉を上げた。
手を伸ばし、おもむろにそれを取り出す。ひっそりと残されていたのは、一台の小型スマートフォン――【Bytle社製 SER-57型】だった。
そう古い機種ではないが、検索したところ、その機能は基本的なものに限定されているらしい。個人で普段使いとして購入するというよりは、仕事用として電話応答やメッセージの送受信、スケジュール管理、メモを取るための記録媒体として使うような、そんなモデル。
スキンを解除した手で触れると、ロックが解除され、ホーム画面が起動する。幸い、電池はまだ生きているようだ。それにアンドロイド用の接触式インターフェースも、正常に動作しているらしい。
機体のシステムに干渉し、コナーはスマホ内のデータを素早くスキャニングしていく。
最初に確認したのはアドレス帳機能とメッセージ機能――しかし想定していた通り、これらは完全に仕事用といえるものばかりだった。マーサが自身の業績として既に公表している、取引相手の連絡先や仕事上での打ち合わせのやり取りが内容を占めている。
彼女の最後の仕事相手である、エリック・ピピン氏の連絡先だけは、なぜか残されていなかったが。
「……」
ここには大した情報はない。
ならばと、コナーはスマホ内のデータを、片端から精査することにした。
LEDリングが黄色く点滅するのに合わせて、プログラム上を幾多のデータが流れていく。だがそれらは、スマホのメインシステムに関わるもの、あるいは仕事の資料として残されているものばかりだ。手がかりはないのか――という考えが過ぎった、その時。
「!」
発見したあるデータを前に、LEDの色を青色に戻し、コナーはアプリを画面上で起動させた。
それはごくありふれた、一種のメモ帳アプリケーションだ。音声で録音した内容を自動で文章に起こしたり、あるいは逆に文章を自然な音声言語に変換したりする機能があるもので、どうやらマーサはこれを、自分の日記として使用していたらしい。
このアプリの中に、「ミリア」という語が【398回】も使用されているとわかったのだ。
調べてみる必要がある。
そのまま、辿れる限りの記録を調べていった。この日記におけるマーサの筆致は非常に理知的で、生真面目な印象だ。現在のマーサ本人から受ける印象とは、少し違っているようにコナーは感じる。
そして初期の日記は――2035年の10月6日から始まるものだったが――マーサ自身の、闘病の記録だった。ギャビンとナイナーがスチュワート医師から得た証言の通り、強いストレスで重度の睡眠障害や不安障害に悩まされていたマーサは、寛解しないうちに仕事に復帰した無理がたたったか、うつ状態に陥っていたようだ。
眠れない、身体が動かない――焦る一方なのに何もできず、起きられないベッドの上で酷い無力感を覚える。
仕事で外に出て、街を歩いている時などにふとビルを見上げ、「あの高さから飛び降りれば死ねるのだろうか」と考える自分がいる。
ネットショッピングで縄を買おうか、銃器店でピストルを買ってみようか、そうすれば――などと、能動的に自死について考えている自分自身を、マーサは「くだらない」と評価していた。
『両親とは縁を切った、友達もいない。恋人なんか欲しくもない。誰も悲しまないんだから、いっそ死んでしまえばいいのに。でもこの身体は、生きることにしがみついている。くだらない私』
「……」
――かつてのハンクの自殺願望を思い出し、コナーは一瞬だけ顔を顰めた。けれど、今は捜査以外の事柄を考えている場合ではない。再び、記録を辿る作業に戻る。
すると日記の内容に転機が訪れたのは、2037年12月8日だった。
そう、マーサがミリアを購入した日だ。その記述は、このようなものだった。
『スチュワート先生の勧めを受けて、生まれて初めてサイバーライフの店舗を訪れ、アンドロイドを買った。一緒に暮らせる機種が欲しいと言ったら、最初に紹介されたのは恋人や友達になれるというモデルだった。でも私は、家を自分以外の大人(の形をした機械)がうろつくなんて耐えられない。もっと小さくて、騒がしくないアンドロイドはいないのか尋ねると、YK500という、女の子の形をしたアンドロイドを勧められた』
――マーサは、最初から「子どもが欲しくて」アンドロイドを購入したわけではなかった。ただ同居相手として不快でないアンドロイドを選んだ結果、YK500に行きついたというだけのようだ。
『スチュワート先生は、いい先生だ。その彼女が勧めてくれたから、貯金もあるし、ちょっとお試しで買ってみるだけだ。名前を登録しないといけないと言われたので、小さい頃に飼っていた金魚の名前をもじって、ミリアと名付けた。するとその瞬間にアンドロイドが目を輝かせ、「ママ」と呼んできたので驚いた』
『はっきりさせておくべきだ、私は子どもなんて欲しくない。だから「ママと呼ぶのはやめて」とミリアに告げた。途端にミリアはしょんぼりしてみせた。機械なのに、ここまで自然に悲しそうな顔を表現するなんて。科学技術の進歩には呆れるばかりだ』
マーサとミリアの関係は、このように、とても事務的な形で始まった。
しかし(サイバーライフの技術力によるものか)マーサは購入した三日後には、自分の精神状態が少し改善されているのに気づいたようだ。
『家に帰ると誰かがいるというのは、意外と生きる理由になるらしい。しかも私の同居人はアンドロイドだ。食事やトイレの心配もないし、充電や燃料(ブルーブラッド)の補給も、必要なら自分でやる。店員に勧められて「留守番機能」をONにしたからか、簡単な家事も済ませておいてくれる。それに人間と違って、神経を逆なでするような余計な口を叩かないのだ』
『端的に、そう、寂しくない。玄関のドアを開けたら「おかえりなさい」が聞こえ、廊下がぴかぴかになってるなんて、人生で初めての経験だ。充実している。気分が落ち込む時が少なくなってきた――これは、スチュワート先生にきちんと報告すべきだろう』
『私が話しかけない時は、ミリアはテレビで、ずっと海の生き物に関する映像を観ている。海洋生物なら、私も好きだ。彼らはうるさくないし、美しい。でも結局、私の趣味に合致するような番組を観ているのも、オプションでつけた「積極学習機能」とやらのせいなのだろう。本当によくできた機械だ』
この時のマーサは完全に、ミリアを機械だと認識している。
しかし彼女は同時に、機械としてのミリアの優秀さも理解したのだろう。それに、自分が癒されているという事実も。
ギャビンとナイナーが得た証言の通り、12月22日に受けたスチュワート医師の診察で、マーサは自分の精神状態が改善傾向にあると語ったようだ。
そして診察の帰りに、マーサはミリアを連れて、ミザールのいたあの動物園へと足を運んでいる。
『いつも映像を熱心に見ているので、ふと、生で本物を(といっても複製品のアンドロイドだけど)見せてやったらどんな反応をするんだろうと思った。だから試しに連れてきてみたら、ミリアは今までに見たことがないくらい飛び跳ねて浮かれていた。「ありがとうガーランドさん」と何度も言っているので、感謝は一度でいいと伝えておいた』
――確かにマーサは、あの海洋生物館を「娘が大好きな場所」だと話していた。
『クリスマスシーズンだからか、そこら中にイルミネーションが施されていた。正直なところ私は、派手な装飾は好みじゃない。それでもミリアがそれらを見上げて、目をきらきらさせているのを見ると、まあ、悪くはないと思えてしまった』
『アンドロイドは機械で、感情なんてない。そうわかっていてすら、一瞬「この子は喜んでいる」と思ってしまう自分がいる。勝手なものだ』
この時マーサは、ミリアに内緒で、サメのぬいぐるみを買っておいたらしい。そしてそれを25日の朝、クリスマスプレゼントとしてミリアに渡した。
ほんの遊び、いわば「家族ごっこ」の一環としてそうしただけのつもりだったというのに、ミリアの反応は、マーサの予測をはるかに超えていた。
『ミリアはぬいぐるみを抱き締めて、なんとぽろりと涙を零した。「ありがとう」と言った後に「マ」と口を開きかけて、慌てて閉じてみせた。“ママって呼ぼうとしたけど、命令を思い出してやめました”という演出なのだ。それはわかっている。持ち主の愛着を高めるために搭載されているモジュールの通りに、ミリアが動いているだけだというのは』
『でも私は、つい言ってしまったのだ。「ママって呼んでくれていい」と。……呼ばれ方くらいどうでもいいだろう、と思ったからだ。本当に馬鹿げた、つまらないごっこ遊びだ。これで私もまんまと、サイバーライフの狙いに嵌ってしまったことになる。だがそのごっこ遊びに救われて、夢中になっている私がいるのは確かだ……』
『ミリアは、サメにケイティと名付けた』
コナーは――ミリアに対するマーサの反応の変化を、好ましいものだと思いつつも――一方で、冷静に思考した。
恐らくこの時のミリアの振る舞いは、マーサが考察した通り、搭載されたソーシャルモジュールに基づいたものだろう。YK500は、人間にとって「理想的な子ども」たるべく造られた存在だ。自分の“親”を一心に愛し、愛されるために設計された存在。そのために持ち主の心を揺り動かすこともまた、機能の一つとして組み込まれている。
だがそんな“フリ”や“真似事”、要するに単なる模倣であっても、徐々に真実と化す場合もある。
それを示すように、その日を境に、マーサはどんどんミリアとの仲を深めていった。
『2038年1月8日 日に日に、ミリアを(他に形容方法が見当たらず仕方ない)娘のように愛おしく思う自分がいるのに戸惑っている。彼女の笑顔を、もっと見たい。仕事を終えて帰る途中、特に自分が好きなわけでもないのにケーキ屋に並ぶのは、ミリアが好きなガトーショコラを買うためだ。YK500のオプション機能が、食事を可能にしているだけだと知っているのに……』
『1階に住んでいる老婦人とすれ違った。見かけるといつも彼女は、AX300だか400だかいうアンドロイドの“キミー”を連れ歩き、友人のように接している。以前は、機械相手に何が面白いんだろうなんて思っていたが……今は、気持ちがわかる』
『2月15日 スチュワート先生から、私の病気は寛解したと告げられた。確かに、もう薬の量もかなり減っていたし、眠れない夜を過ごすことも、脳裏にこびりついて離れなかった希死念慮もない。先生にお礼を言って病院を出た時の、あの清々しい気持ちはきっと忘れられないだろう。薬はちゃんと飲み切るように言われた。もちろんそうするつもりだ』
――しかし、マーサはナイナーたちと会った時に、薬瓶を持っていた。
この時のスチュワート医師との約束を、彼女は守れなかったのだろうか?
わずかに訝しく思い、しかしそれから約2か月後の記述を見て、意識は再びマーサの日記に向け直される。
そこには、こうあった。
『4月16日 ミリアから、友達が欲しいと告げられた。一緒に勉強したり、遊んだりする人間の友達が欲しいのだ、と。確かに私がいない時は、ケイティと一緒にお留守番の毎日だ……寂しい思いをさせている。調べてみると、サイバーライフと提携した学校なら、人間の子どもと同じようにYK500も通学できるそうだ。そういう学校にあたってみようか。でもいきなり入学する前に、イースター(4月25日)のイベントに参加させてみるのがいいだろう。近所のガールスカウトの主催するイベントで、子どもなら誰でも参加してよいそうだ』
『イースターのイベントについて、ミリアに話した。ミリアは飛び跳ねて喜んだ――まるで初めて動物園に行った時みたいに! 興奮して眠れない様子だったので、久しぶりに子守歌を歌って寝かしつけた。以前の自分なら、きっと信じられないだろう。この私が、こんなことをするなんて!』
だが、当の4月25日の記述は――
『ミリアはお昼前に帰ってきた……LEDリングを真っ赤にして、泣きながら。あんなに泣きじゃくっていたのは初めてだ。しかもケイティを失くしている。何があったのか尋ねても、ただ泣くだけだったけれど、ミリアを家まで連れてきてくれたアンドロイド(老婦人の家のキミーだ。イベントを手伝っていたらしい)が話を聞かせてくれた』
『ミリアは、どうやら他の子どもたちとトラブルを起こしたらしい。列に並ばない子がいたので注意したら、アンドロイドのくせに生意気だと突き飛ばされたと。おまけに大事なケイティを、公園の池に捨てられてしまったと。それを近くにいた大人に訴えたら、ため息と共に、ここから離れるように命令されたと――』
『許せない。ミリアは何も間違っていない。すぐに抗議したら、相手の返事は「ぬいぐるみは弁償します」だった。違う、そんなことじゃない。ミリアはあんなに、他の子と一緒に遊ぶのを楽しみにしていた。なのにアンドロイドだからといって、こんな差別を受けるなんて。人間味がないのはどっちだ』
『ミリアを抱き締めて、私は言った。もう二度と、嫌な思いなんてさせない。友達がいなくても寂しくないくらい、これからは私が一緒にいて、いくらでも楽しいところに連れてってあげる。好きなものもたくさん買ってあげる。だから、もう泣かないで。するとミリアは、私の袖を強く掴んで、うんと頷いた。LEDリングが黄色から青へと徐々に変わっていくのを見て、誓った。絶対にこれ以上、馬鹿な人間なんかに私の娘を傷つけさせない』
コナーは数秒の間、そっと目を閉じた。
反射的な――いや、実に
アンドロイドを嫌う人間は大勢いて、時にそれが暴力行為を誘発するケースもある――そういう事実は、知識として、起動直後からコナーにも組み込まれていた。
しかし現実というものは、知識よりもさらに生々しく、アンドロイドと人間を隔てる壁の高さと強固さ、醜悪さを認識させる。
ましてや、子どもたちの間ですらこんなことが起きていたなんて――
革命前とはいえ、あまりにもむごすぎる。
強い「悲しみ」でプログラムを揺らされつつも、コナーは瞼を開け、さらに記述を辿った――もちろん、マーサとミリアの行く末が気になるからというだけではない。
この記録は、見たところ、まだかなり先がある。
ということは、ミリアの失踪届が出された11月10日に何があったのか――そしてマーサがもう一人の吸血鬼と化した原因がそこにあるのか、手がかりを掴めるに違いないと判断しているからだ。
そして5月から7月にかけての記録を見る限り、マーサは約束した通りに、ミリアを様々な場所に連れ歩き、一緒に遊んでいた。
何度目かの動物園。初めての遊園地。仕事が忙しい時も、公園での散歩など。
二人だけの家族の、穏やかな時間。
しかしそれはある日付を契機に、だんだんと終わりに向かっていく。
2038年8月15日――そう、よく知っている。
PL600“ダニエル”が持ち主の男性をはじめとした複数の人間を殺害し、人間の少女エマを人質にとった事件。
変異体が初めて人間を殺傷した事件。
コナーが初めて現場に投入された、あの事件が起きた日だ。
『アンドロイドが持ち主を殺し、女の子を人質にとった事件が起きた。なんでも警察のアンドロイド(?)が投入されて事件は解決したそうだが、翌朝の今日、16日になっても、テレビは事件の話で持ち切りだ。サイバーライフはソフトウェアのエラーが原因だと説明しているが、アンドロイドを嫌う人間の中には、これが奴らの本性だとか、今のうちにすべて破壊すべきだとか言い出す者もいるらしい。馬鹿げてる』
『ニュースを観ているとミリアが怖がるので、テレビはすぐに消した』
それから先しばらくは、まだ幸せな日々が続いたようだ。
10月1日には、二人は一緒に湖畔でキャンプを楽しんでいる。
『初めてのキャンプに、ミリアは大はしゃぎだ。それに、一面の水にも』
『あまりにはしゃいでいるので、海はもっと大きいよと教えてあげた。そうしたら、次の日曜日に海に行きたい! とおねだりされてしまった。連れて行ってあげたいけど、ここから海はちょっと遠い。今抱えてる仕事が終わったらね、と言ったら、渋々わかってくれた』
『どんな願いでも叶えてあげたいけど、こればかりは仕方ない。その代わり、海に行く旅行の時はめいっぱい楽しませてあげるつもりだ』
けれどその約束は――きっと、果たせなかったのだろう。
否応なしに変化していく、時代の大きな潮流に吞まれて。
『11月8日 変異体と呼ばれるアンドロイドが、TV局に侵入して声明を発表した。アンドロイドを新たな知的種族として認めてほしいと。アンドロイドに対する犯罪を、人間への犯罪と同等に裁いてほしいと。奴隷制を廃止し、財産権を保証してほしいと――』
『ここ最近変異体の事件が多いと思っていたら、ついにこんなことまで起きてしまうなんて。しかし、アンドロイドの人権? それなら私だって、今は自然にこう思っている。ミリアは “生きて”いるのだと。この子は私にとって、もうただの機械なんかじゃない。生きる目的であり、大切な存在なんだと』
『だからあのアンドロイドの声明は、正しいはずだ。支持されるべきものだ。なのに私は、あの真っ白なアンドロイドが語る言葉を聞いて、たまらなく不安になった。なぜだろう――わからない』
『一方でミリアは、あのアンドロイドの言葉に共感したようだ。「差別がなくなって、平等になったら、人間のお友達ができるよね! 学校に行けるね!」なんて言って、笑っている。――やっぱり、友達が欲しいのか。そう思いながら私は「そうね」と返した。けれど、本当にそんなに上手くいくだろうか? 公民権運動から80年近く経った今だって、肌の色や人種の違いによる差別は根深く残っているのに』
『ミリアの無邪気な願いが叶う日を疑っている自分がいるのが、腹立たしい』
――そして、11月9日。
記録がつけられた時刻は、午後3時14分――マーカスたちが自由を訴えるデモ行進を決行し、その結果、警官隊の発砲を受けて撤退を余儀なくされてしまった後のこと。
『――怖い。あんなに恐ろしい光景は見たことがない。マーカス、と呼ばれたあのアンドロイドが先頭に立って歩き、手を差し伸べるだけで、アンドロイドたちは次々と変異して、持ち主の元から離れていった。ああ、わかっている。それだけ人間に不満を抱えたアンドロイドが多いってことなのだろう。なのに私は、昨日あの声明を聞いた時と同じように、激しい恐怖に震えている』
『恐怖の理由が、やっとわかった。私は、ミリアも私の元を離れていくんじゃないかと不安なんだ。もしマーカスにこの子が会って、変異したなら! くだらない人間のところでとんだ家族ごっこに付き合わされたと言って、私を見捨てるんじゃないかと怖がっているのだ』
『過去の日記を自分で読み返して、笑ってしまった。ミリアを傷つけさせない? 彼女は生きているって? そう思うなら、私は彼女の好きなようにさせるべきなのだ。もしミリアが離れていくというなら、それを受け入れるべきだろう。なのに私は、娘を失うのを恐れている。なんて利己的で、醜い人間なんだろう、私は――』
『しかし浸っている時間はない。大統領の命令で、アンドロイドの回収が始まった。危険だから全員リコールするというのだ。冗談じゃない! さっき警官が来た時は、ミリアをクロゼットに隠してごまかした。だけど私とミリアが一緒にいたのは、隣に住んでる学生や、近所の人間にも見られてるはずだ。次に来たら、もう追い返せないかもしれない』
『ミリアもすっかり怯えて、泣きそうになっている。ぎゅっと強く抱きしめて「大丈夫だからね」と声をかけた。ああ、何が大丈夫なんだろう! そう思っていたら、誰かがドアを叩いた。警察かと思ったら、違った――1階に住んでいるキミーだ。なんでも、これから変異体たちの隠れ家である「ジェリコ」という場所に逃げるらしい。よかったらミリアも一緒に逃げないか、と――提案されたミリアが、ぎゅっと私の腰にしがみついたのに、ほっとした自分がいるのがたまらなく惨めだった』
『けれどこの家にいても、いずれミリアは見つかり、リコールセンター送りにされてしまうだろう。ならば、その「ジェリコ」とやらに行くほうが――同じアンドロイドたちと一緒にいるほうが、きっとミリアにとって幸せなはずだ。私は声を振り絞り、キミーに、あなたたちをジェリコまで連れていくと言った。人間も乗っている車でこっそり移動するほうが、きっと逃げるのは簡単なはずだ』
『私は今、ジェリコに行く準備を整えた後、こうして記録をつけている。ジェリコの中で人間の私が一緒にいれば、きっとミリアにとってよくないことが起こる。だからあの子とは、ジェリコの前でお別れだ。――それでもいい。幸せになってくれるなら。逃げ延びて、そして、仲間と一緒に楽しい毎日を送ってくれるなら』
『ただ生きていてくれるなら、それでいい』
日記は、そこで途切れている。
「……!」
機体の制御システムにエラーが生じたような錯覚に襲われ、コナーはがくりと体勢を崩した。それでも床に膝をつくことはせず、右手に持っていたままのスマートフォンを、なんとか机の上に置く。
そしてそのまま両手を机につき、しばし、項垂れていた。
自分では見えないがきっと、LEDは黄色に点滅していることだろう。
まるでプログラム全体がぐらぐらと揺さぶられているような、この感覚。
強い「悔恨」の気持ち――ああ、こんな思いに“心”を覆われてしまうのは、革命直後のあの時期のようだ。
この日記には、11月10日以降の記録はなかった。
だからマーサとミリアに何があったのか、なぜマーサが吸血鬼と化し、そのタンクにミリアの血があるのか――それらは、明らかにはなっていない。
けれど今、はっきりと浮かび上がってきたのは、何よりも重く冷たい仮説である。
――11月9日のジェリコ。
あの時、ミリアもいたのだろうか。
かつての自分がマーカスを止めるべく、サイバーライフから与えられていた命令の通りに乗り込んで行ったせいで襲撃を受け、沈んでいった――
大勢のアンドロイドが屍と化したあの船に、ミリアもいたのだろうか。
そしてその後失踪届が出されているという事実は、ミリアが
マーサの娘、ミリア・ガーランドはきっと、あの時ジェリコで死んでしまった。
だからマーサは、マーカスを恨んでいるのだ――変異体を扇動したうえ、ジェリコにいた皆を、ミリアの命を、守ってくれなかったからという理由で。
けれど、違う。
――本当は、僕のせいだ。
その言葉だけが、強く胸の内で響いた。
もしもう少し早く、自分が目覚めていたなら――自分自身の疑問や葛藤に向き合っていたなら、失われなかったかもしれない無数の命。
その中に、ミリアもいるとしたら。
「…………」
ひどい無力感だけが、プログラムにないところから来て、自分の制御系を支配している。
机に爪を立てたカリカリという音が、やけに大きなもののように、音声プロセッサに届いた。
どれくらいの間、そうしていただろう。
気づいた時には、耳元で、ハンクが大声をあげていた。
「おい! おいコナー、どうした!?」
「あ……」
口から漏れ出た自分の声のあまりの弱々しさに驚きながら、コナーは小さく頭を振り、テーブルについていた手を戻した。
「すみません。なんでも……」
「なんでもないわけねえだろ! 何があった。なんか罠でも仕掛けられてたか!?」
「……」
――相棒に嘘はつけない。
それにこれは捜査にも関わること、ならば話さないわけにはいかない。
コナーは机の上のスマートフォンをもう一度手に取り、それを見せながら、警部補にすべてを話して聞かせた。
最初、訝しげにこちらの話を聞いていたハンクは、次第に何かを察したように面持ちを硬くした。
そして結論に至った時、彼は沈痛な表情で目を閉じ、苛立ったように自分の頭を掻きむしる。
「そうか」
ぽつりと彼は言った。
「そりゃ、胸糞悪くなるのも当然だな」
「ええ」
短く応えて、コナーは俯いた。
「ミリアの死の理由が、僕にあるのなら……そしてそのせいで、マーサが今のような状態になってしまったのだとしたら。僕にはもう、事件を追う権利など」
「フン」
聞こえてきたのは、鼻で笑う声だ。
はっとして顔をあげたコナーの視界に映ったのは、ハンクの厳しい眼差しだった。
両手を腰の横に当て、茶化すでも揶揄するでもなく毅然と、彼は告げる。
「お前、何か勘違いしてるらしいな」
「え……」
「お前にあるのは事件を追う『権利』じゃねえ。追わなきゃ
「それは」
どういう意味――と問い返そうとしたそのタイミングで、ハンクの上着ポケットの中の携帯が鳴り響いた。
「ああ、くそっ!」
毒づきつつも、警部補は素早く電話に出る。
「アンダーソンだ……何!?」
僅かに漏れ聞こえてくるのは、署長の声だった。
喋っている内容までは判別できないが、いつにも増して語勢が強い。
どうやら、緊急事態のようだ。
「ああ了解、すぐ帰りますよ。……たく、なんだってんだこんな時に」
「事件ですか?」
通話を終え、携帯をポケットに戻したハンクにそっと尋ねると、彼は肩を竦めてみせた。
「さてな。そういうわけじゃなさそうだが、妙に慌ててやがる。とにかく、いったん署に戻るぞ。俺のほうは収穫なしだ」
言うだけ言ってさっさと踵を返す彼の背を、証拠品のスマートフォンを持ったまま急いで追いかける。
「警部補、あの、私は……」
「車で話す。うっかり証拠品を落とすなよ」
振り向きざまに、念を押すように人差し指を突き出して告げられ、なんとかそれに頷いて応える。
コナーたちはそれきり無言で、アパートメントを出て駐車場へと戻った。
今回得られたものは、マーサの家の鍵と、この黒いスマートフォン。
後は、この胸の中を渦巻いている強い「後悔」の気持ち――
助手席に座ったコナーが正面を向くと、それと同時にハンクは車を発進させた。
少しだけ通りを走った後、やがてハンクは、おもむろに口を開く。
「……結局、マーサと吸血鬼の組織を繋げるような証拠は出てこなかったな」
――事件捜査に関わる、現実的な言葉。
それがかえって不調をきたしたプログラムの「揺れ」を小さくしていくのを感じつつ、コナーは応える。
「そうですね。もし吸入器や、レッドアイス……あるいは不審な外部とのやり取りの記録があれば、手がかりにもなり得たのでしょうが」
「まあいいさ、あの部屋がすぐに消えてなくなるわけじゃない。日を改めて、もう一度調べるぞ」
それよりも――と言いつつ、ハンクは横目でこちらを見つめた。
「大丈夫か、コナー? ちょっとは落ち着いたか」
「気分はあまり……でも思考能力は戻ってきました」
正直に告げると、今度はどこか温かみを帯びた調子で、彼は鼻を鳴らした。
「ま、お前は真面目な奴だからな。いろいろ余計なことも考えちまうんだろう」
「……」
コナーは思わず、自分のジャケットの肘を掴んで俯く。
余計なこと――そうなのだろうか。
いや、確かにその通りだ。ここで自分がいくら後悔したところで、死んだ命は戻ってこないし、誰かに赦されるわけでもない。
でも、それでも――この惑う気持ちは消えないままだ。
「警部補」
「うん?」
「先ほど、あなたは『権利』ではなく『義務』だと言った……どういう意味ですか?」
「別に、そのまんまの意味だがな」
ハンドルを握った指をランダムに動かしつつ、彼はどこか自嘲的に薄く笑って言う。
「俺たちが事件を追うのは、そうできる権利があるからじゃねえ。もちろん司法捜査官の
「……」
「だから何があっても、担当した
コナーはいつの間にか姿勢を戻し、首だけハンクのほうに向けて話を聞いていた。
自分でもわかるほど、悄然とした面持ちで――けれど、警部補の言いたいことはわかったつもりだ。
「そうですね。僕がこのまま、捜査から逃げ出すわけにはいかない……」
「あー、いまいちうまく伝わってねえようだな」
意外にも、ハンクは少し慌てたような顔になった。
「いいか、つまり」
何ごとかを言いかけた彼は、次いで、前方に向けていた目を大きく見開いた。
そしてコナーもまた、彼の視線の対象を認識し、眉間に皺を寄せる。
通りの向こうに見えてきたのは、デトロイト市警察署――つまり、馴染み深いいつもの職場。しかしその周囲に、人だかりができている。
確認できるのは【カメラ】・【マイク】・【大型のバン】が何台も――
それにそこにいる人々も、TVレポーターや記者、ライターなど、マスコミ関係者ばかりだ。
おかしい。確かに昨夜の襲撃事件は大ごとだし、ニュースにもなったが、翌日の昼になって突然マスメディアに注目される謂れはない。
「ああ」
ハンクは、左手で自分の頭を勢いよく押さえつけるように叩いた。
「ジェフリーのイライラの原因が読めたぜ」
「まさか……」
最悪の想定がプログラム上を過ぎる。
そして想定は、署の駐車スペースに車を停めてエントランスから中に入ろうとしたハンクとコナーに、記者たちが殺到してきた時に事実となった。
「デトロイト市警のアンダーソン警部補ですね!」
CTNテレビの腕章をつけた若いレポーターが、ハンクの姿を見つけるや否やマイクを向けた。
「ジェリコのリーダーであるマーカスが、明日ストラトフォードタワーで吸血鬼事件に関する声明を発表するそうですね。担当刑事として、どうか一言」
「悪いが、ノーコメントだ」
立ち止まらず、ハンクはいなすようにそう告げると、人ごみをずかずかと進んでいく。
出鼻をくじかれたCTNテレビの轍は踏むまいと、他のリポーターや記者たちが懸命に彼を追うものの、その歩みを止めることはできていない。
一方でコナーは、自分のプロセッサを疑うばかりだった。
――マーカスに関する情報が、漏れている?
なぜ? いったいどこから、ここまで大規模に漏洩してしまったのだろう。
そしてつい足を止めてしまったコナーに対し、レポーターたちがマイクを向けるのは至極当然な流れといえた。
「デトロイト市警のアンドロイド捜査官ですね。声明発表の件について、マーカスから連絡などあったんですか?」
「同じアンドロイドとして、今回の事件をどう考えていますか?」
――無数の好奇の、あるいは職務への情熱を帯びた視線が、自分に向けられている。
今までにあまり体験したことのない状況を前に、コナーのプログラムは再び激しく揺さぶられる。ソーシャルモジュールに基づいてうまく返事をしようとしても、なかなか言葉が出てこない。
「わ、私は……」
「どうも、すみませんね」
戻ってきたハンクが、コナーとマイクの間にずいっと割って入る。
「捜査に関連する事柄は、今の段階ではお話しできない決まりなんですよ。明らかになったら、その時に正式にお知らせします」
丁寧に、しかしきっぱりとそう言ってのけた後、ハンクはこちらに一瞥をくれて去っていく。その目に示唆された通りに、コナーは記者たちに目礼し、黙って彼の背に続いて歩いた。
レポーターたちはそれでもこちらを追ってきたが、彼らの声も、エントランスのドアが閉まれば聞こえなくなる。
「……たく、困ったもんだ」
それまでやや不機嫌ながらも落ち着いた表情を保っていたハンクは、中に入った途端に眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言う。
「情報がどっかから漏れるのはいつものこったが、こいつはマズいな。マーカスのことがマーサにバレちまう」
「……ええ。明日の声明発表については、既にネットニュースにもなっていますね」
素早く行った検索の結果を確認しつつ、コナーは憮然とした気持ちになる。
自分たちが署を出た頃、午前9時頃の段階では、まだ秘密は保たれたままだった。
それなのに今、【11:42】の段階で、既にネット上では明日の件をスクープする情報で溢れかえっている。
これでは当然、マーサもマーカスの声明発表を知るだろう。
つまり彼女が復讐のために、マーカスに近づこうとするのは確実だ――
「おやおや、これはお久しぶりですねえ」
案じるこちらの背に、妙に甲高い男性の声がかけられた。
声の主を見やったハンクの目が、ひときわ不快そうに歪められる。
振り返れば、そこに立っていたのは、丁寧に分けた七三の白髪頭に黒縁の眼鏡をかけ、スーツを纏った初老の男性――弁護士【ヘイデン・ホーガン】氏だ。
反アンドロイド団体の構成員による爆破事件の時、容疑者の弁護を担当した――筋金入りのアンドロイド差別主義者。
「どうも。出口は向こうですよ」
いかにも会話を早く打ち切ろうとしているハンクに対し、ヘイデンは愛想笑いで前歯を見せながら、いかにも嫌味っぽく語りだす。
「聞きましたよ、アンダーソン警部補。ついにマーカスが声明を発表するそうですね。
「さて、どうでしょうな」
「もっとも私としては、依頼人たちが怯えている吸血鬼だの、“呪い”だのの解決の日を心待ちにしているのですがね」
吸血鬼事件を未だに解決できていない――そう、例の容疑者たちの突然死・「吸血鬼の呪い」の謎も未だに残されたままだ――ことを当て擦るように彼は言う。
そしてこういう時、ハンクは基本的に相手の挑発には乗らない。
「ああ、こちらも同じ気持ちですよ。悪いが、急ぐので失礼」
「おっとアンドロイド捜査官さん、あなたも」
ハンクに続いて去ろうとしたこちらの前にわざわざ回り込み、彼は実ににこやかに言う。
「吸血鬼事件では、お身内に疑いがかけられて、本当に気の毒でしたねえ。アンドロイド同士ともなると、捜査もしづらかったりするのでは? 心労で、うっかり証拠品を失くしたりなさらないといいですねえ」
要は、遠回しに――コナーが、同族であるアンドロイドに都合のよいように捜査結果を捻じ曲げているんじゃないか? と皮肉を言ってきているのである。
「ご心配なく」
今度こそは冷静に、コナーは応えた。
「残念ながら、捜査に関する事柄はお答えできませんが……ご懸念いただいているような状況ではありませんよ」
「なるほど。確かに、機械に“心労”などありませんものね」
ヒヒヒ、と彼は笑う。
あまりにも直截すぎて、逆に怒りを感じないほどに、あからさまな発言だ。
「おいコナー、行くぞ」
「では失礼します」
礼儀正しく挨拶してから、コナーはすたすたとゲートの向こうに立つハンクの元へ向かった。
ヘイデンは鼻白むでもなく、堂々とエントランスから外へと出て行ったらしい。
「相変わらずお元気そうで、何よりだな」
オフィスに入ったハンクは、心底忌々しげに言って首を横に振った。
「あいつ、今はギャビンたちが逮捕した売人連中の弁護をやってるんだったか? ハ、結構なこったが、俺はたとえパクられてもあいつにだけは頼らないね」
「ホーガン氏は、署によく出入りしていますね」
憶測だとは思いつつも、あんなにも絡んできた理由を考えると――と思いつつ、コナーは続きを述べた。
「もしかすると、今回の情報漏洩も彼が……」
「そりゃどうだかな。『お喋り野郎』は、それこそどこにだっていやがる」
中立的に警部補がそう言った時、激しくドアが開く音と共に、署長の大声が響いた。
「ハンク! オフィスに来い!」
「へえへえ」
呼ぶだけ呼んで、すぐに署長はガラス扉の向こうに戻ってしまう。
肩を竦め、ため息をついたハンクがそちらに行くのに従おうとすると、ハンク自身が、それを手で制した。
「待て。お前はこの状況を、早く『お友達』に知らせてやりな」
「えっ……しかし」
「俺のほうは、どうせお小言だ。そんなのを横で聞いてるより、お前には話をしたほうがいい相手がいるだろ?」
言外に匂わせたものを悟らせようとするように、こちらの目を覗き込むようにしながら、警部補は言う。
それを聞いて、コナーははっとした。
そうだ――マーカスに伝えなくては。
この状況を。
「出る時ゃ格好を変えてったほうがいいな。ジャケット脱いでくなり、例の青シャツ着るなり、好きにしろ」
「はい、警部補。……ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことじゃねえ。気をつけて行けよ」
こちらに背を向け、右手だけ軽く振ってから、彼はまっすぐに署長室へと向かっていった。
その姿を見つめる自分の口元が、自然と綻んでいるのを感じつつ、コナーはアドバイス通りにジャケットを脱いで椅子にかけた。
そう、いつもの制服のままで外に出れば、マスコミの目を惹いて面倒な事態になるのは明らかである。できるだけ早く、隠密に移動しなければ――例の公衆電話まで。
白いシャツとデニム姿になったコナーは、署の裏口からするりと外に出た。
幸い、ここにまで記者たちは来ていない。確認してから、急いで移動を始める。
***
――2039年6月9日 12:22
『――そうか』
コナーが、すべての顛末を話した後。
受話器の向こうから聞こえてきたマーカスの声音は、常と変わらず、冷静なものだった。
まるで彼は、こうなると予期していたようだ――そう思うと、先ほどまで感じていた「悔恨」、つまりマーサとミリアの件に関する自責の念が、胸の内で再び頭をもたげる。
ミリアのこと、ジェリコのこと、そしてそれから先の自分の行動を、今こうして後悔するしかないように。
今何もできなければ、マーカスたちの身の安全も、後悔しか残らない結果になってしまうかもしれない。
なのに、こんなにも機体の動作が不安定になってしまうのは――
きっと自分がどんな気持ちでいればよいのか、わからないせいだ。
「……」
なんとも答えられずに黙っているこちらのことを、マーカスはどう思ったのだろう。
彼は続けて、静かにこう語った。
『政府やサイバーライフとしては、明日の声明が失敗したほうが、都合がいいだろうからな。この程度の妨害が入るのは、既に予測していた』
「マーカス、君は……どうするんだ?」
漠然とした問いかけに、相手はすんなりとこう答える。
『道を阻もうとする者がいるのなら、俺たちなりの戦いを続けるまでだ。言葉に耳を傾けてくれる人間が一人でも多くなるように、語りかけるのみ』
「……そうか」
つまり、やることは変わらないという意味だ。
「すごいな、マーカスは」
我知らず口を衝いて出たのは、羨望のような一言だった。
マーカスには、無論、状況説明の一環として、マーサとミリアについても話してある。
だがそれを聞いてもなお、彼は揺らがない。
ジェリコという集団の文字通りの支柱として、自分の在り方に惑っていないのだろう。
そんな思考がプログラム上を過ぎった時、自然と次に発していたのは、一つの質問だった。
なぜそんな質問ができたのか、自分でもよくわからない。
相手が、あの廃教会で仲間として受け入れてくれた彼だからこそ、なのだろうか。
「君は……これから僕は、どうしたらいいと思う?」
『それは、お前自身で決められることじゃないのか?』
「そのはずなんだ。なのに機体もプログラムも……うまく動かせない」
一度吐露を始めると、言葉は次々と流れ出る。
「かつてのジェリコの惨状は、紛れもなく僕のせいだ。そしてミリアの身に起きただろうことも、きっと」
『……』
「どうするべきかはわかってる。事件の捜査を投げだしてはいけないと、ハンクにも言われたんだ。その通りだと思う。だけど」
『本当にそうして
的を射た確認をされてしまった。実際、その通りだ。
「……ああ」
『なるほどな』
穏やかに、マーカスはそれだけ言った。
それから数秒の後、受話器の向こうから彼の声が聞こえる。
『コナー。俺も、お前と同じように思う時があった』
「君も……?」
『俺があの日ジェリコに行かなければ、たとえゆっくりと死んでいくだけだったとしても、皆恐怖の中で戦う必要はなかった。俺が皆を扇動して人間に自分たちの要求を伝えようとしなければ、同族たちがリコールセンターに送られることもなかった。自由を求めた結果、死ぬのなんてごめんだと……仲間たちにも、何度も言われたよ』
やや重く、しかし過去を振り返るようなその声音には、真実味があった。
『俺自身も、何度もそう思った。俺が立ちあがったせいで、大勢の命が失われてしまった。むしろ口を噤み、俯いて暮らしていたほうが、誰かを幸せにしたんじゃないかと――感じる時もある』
「そんな、でも君がいなければ……!」
『そうだな。さっきお前の話を聞いた時、俺も今のお前と同じことを言おうと思ったよ』
少しだけ笑いを零して、マーカスは語る。
『コナー。迷った時、俺はいつも果たすべき役割について考えている。周りに望まれ、自分自身もそうありたいと願うような役割――もちろんそれを全うしたところで、過去の誰かを救えるわけじゃない。もしかすると、そう思うこと自体が思考停止と言えるかもな』
それでも、と彼は言う。
『今、真実を明らかにできるのはお前だけだ。これまでアンダーソン警部補と一緒に事件を捜査してきたお前でなければ、マーサを止められはしないだろうし、吸血鬼の組織の全容を突き止められない』
「マーカス……」
『明らかにするのが、お前の役割だ。そして俺たちは、コナー、お前に力を貸してほしいと思ってる』
それに乗るかどうかは、お前次第だ。
マーカスはそのように語ったきり、口を閉ざした。
「……!」
そして彼の言葉を認識した瞬間、コナーのプログラム上に自動で再生されたのは、あの暁光――
チキンフィードの前でハンクと抱擁を交わした、あの日のメモリーだった。
――そうだ、なぜ“忘れそうになって”いたのだろう。
いつか活動限界を迎えるその日まで、他者のために生きる自分でいられれば――失った命は二度と戻ってこないとしても、ほんの僅かでも、償いができるかもしれない。
そう覚悟して、変異体となってからの生を歩みはじめたんじゃないか。
それに、他者の願いや問いかけに応えるというのなら。
自分はまだ、マーサのあの言葉に――海洋生物館の前での問いかけに、きちんと答えられていない。
――僕は無理やり目覚めさせられたわけじゃない。
自分で
それをマーサに伝えなくては。
彼女と直接、話をしなくては。
「ありがとう、マーカス」
コナーは、はっきりとそう告げた。
自分でもわかるほどに、その声は普段のものに戻っていた。
「君のお蔭で、いろいろと思い出せた……もう、弱音を吐いたりしないよ」
『よかった。たぶんアンダーソン警部補が言いたかったのも、こういうことだったんじゃないのか』
やや明るくそう言って、それからふいに声音を厳格なものに戻すと、マーカスは言う。
『ともかく、教えてくれて助かったよ、コナー。俺たちの方針は変わらない。どんな妨害が入ろうと必ず声明を発表して、無事に本拠地に戻る』
「わかった。そのための警備なら任せてくれ……僕にも考えがあるんだ」
さっきまでの、俯いていた自分ならきっと見つけられなかっただろう打開策――
マーサと対面し、可能なら説得するための、一つの方策。
再び前を向いた今、プログラムは着実に、そのための計画を立案している。
早く、署に戻らなくては。
マーカスとの通話を終えたコナーは、袖口から取り出したコインを、右手の指先で大きく弾いた。
そして重力に従って落下してきたそれを人差し指と中指で挟んで捕らえ、投げて何度か両手の間を往復させた後、そのまま手のひらで転がし、袖口に戻す。
――プログラムと機体の整合率、100%。
もう大丈夫だ、二度と惑わない。
“明かす者”としての役割を、最後まで全うするだけだ。
そう決意したのだから。
続きは17日(水)朝7時に投稿されます。
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第27話:決意 後編/I Still Love You. Part 2
***
――――2039年6月9日 13:05
コナーが署に戻ってくると、オフィスにはハンクとナイナーがいた。
デスクに向かって深刻そうな表情で何ごとか相談しているハンクに対し、弟はその傍に立ち、無表情ながらも真摯にその問いに答えているようだ。
コナーは迷わずそちらに向かい、声をかけた。
「すみません、戻りました」
「! ……ああ、帰ってきたか」
顔を上げた警部補は一瞬驚いたように目を軽く見開いたものの、すぐに平静を取り戻すと、コーヒーの入ったカップを傾けている。
「マーカスとの話はうまくいったか? 俺はこってりジェフリーに絞られたよ」
「ええ。お蔭さまで」
落ち着いた声音で返事して、それから、コナーはわずかに眉尻を下げて続きを述べた。
「先ほどは、お見苦しい態度をとってしまいすみません。もう大丈夫です、立ち直れましたから」
「だろうな、顔見りゃわかるよ」
そんなのはとっくに予想していた、と言わんばかりのジェスチャーでハンクは言う。
しかし――
「安堵しました、兄さん」
右手を自分の胸元に置いたナイナーが、淡々と告げる。
「警部補があなたを、とても心配されていたので……」
「おい、ナイナー!」
飲みかけのコーヒーを噴き出さんばかりの勢いで、警部補は弟のほうを向いた。
だが弟はそんなハンクに対し、小さく首を傾げてみせる。
「……心配、されていたのではないですか? アンダーソン警部補。兄さんの状態を確認後、あなたのストレスレベルは34%減少して」
「おい、ギャビンの奴の文句もあながち的外れじゃなさそうだな」
ぶるぶると首を横に振り、ハンクはさも「何も聞こえていない」という態度を示しつつコーヒーを啜っている。
そんな光景を眩しいもののように感じながら、コナーは二人に対して言った。
「本当に、ご心配をおかけしました。今はまず、明日を無事に終わらせることを考えるようにします」
「兄さんの意志が決定したこと、とても嬉しく、思います」
ナイナーは平坦な声音でそう言ってから、姿勢を正して続ける。
「兄さん、私は明日の警備で、直接マーカスの護衛を実行します」
「君が……つまり、彼のボディーガードを?」
「はい。それが最も安全性を保障する方法だと、署内の会議で決定しました。私も同意しています」
確かにアキリーズと渡り合ったナイナーなら、身辺警護はまさに適任だろう。
ドローンで遠方を警備し、ナイナー本人がマーカスの周囲で護衛する。
限りなく隙のない計画だ。
「しかし問題は」
と、ナイナーはさらに語る。
「当該計画の消極性です。マーサを能動的に捜索し、確保あるいは投降を促す……それこそが、事件解決の糸口となると認識しています」
「それなら心配ないよ、ナイナー」
自信を滲ませつつ、コナーは応える。
「僕に考えがあるんだ」
「何?」
「後でお話ししますよ」
ぴくりと顔を上げた警部補の咎めだてするような視線を、柔和に受け止めてからさらに弟に語った。
「だから君は、護衛に専念してくれ。……そういえば、リード刑事は」
「あいつなら、さっきふて腐れてコーヒー飲みに行ったぞ」
ハンクは指先だけで休憩室を指した。
「ナイナーと一緒に、あいつも警備に回されたはずなんだがな。こういう
「認識に齟齬があるのでしょう」
ナイナーは静かにそう語ると、こちらに向かって目礼した。
「私は、リード刑事の説得にあたります。警部補、兄さん、失礼いたします」
言い終えるなり、彼はすたすたと休憩室へと歩いていった。
「……あいつも苦労してるな」
ナイナーの背を見つめてぽつりと言ったハンクは、すぐこちらに向き直る。
「で、考えがあるだって?」
「はい」
こくりと頷き、コナーはすぐさま、さっきまでナイナーが立っていた場所に近づいた。
ちょうど近場にあった椅子を引き、腰かけると、警部補に立案したばかりの計画を話す。
マーカスたちを守り、マーサと交渉する――そのための考えを。
「お前……」
聞き終えた警部補は、カップをデスクに戻すと厳しい表情で言った。
「何考えてんだ、危険すぎるだろ。前にあの地下の事務室でどんな目に遭わされたか、覚えてないのか?」
「当然、覚えています。しかしあの時は不意打ちでした……今回は、こちらから彼女に仕掛けるんです。それに、準備もできる。心配いりませんよ」
きっぱりと言うコナーに対して、ハンクは短くため息をついた。
それから、ちらりとこちらの目を覗いて言う。
「……ヤケになってるわけじゃなさそうだな」
「もちろん。この方法でなら、マーサを止められる。何が起こっているかを明らかにするチャンスだ、逃すわけにはいきません。ですから警部補、ご許可をいただきたいんです」
自分は、あくまで捜査補佐。計画で主体的に動くにしても、正規の捜査担当であるハンクの承認が必要だ。
だからこそ、コナーは彼の目をまっすぐに見据えて頼み込んだのだが――
やがて警部補はわずかに目を逸らすと、また皮肉っぽく肩を竦める。
それから、視線をこちらに戻しておもむろに告げた。
「わかった。なら、俺も連れてけ」
「警部補……!?」
「何を驚いてやがる」
彼はさも呆れたような表情で言った。
「お前は放っとくと、何をしでかすかわからないからな。相棒の無茶を止めるのも、仕事のうちだろ」
そう言うなり、彼は人差し指と中指で自分の両目を指し、それからこちらの目を指した。
要するに、『お前を監視している』というジェスチャーなのだが――
それを何よりも頼もしく感じたのは、きっとハンクの瞳が笑っていたからだ。
「はい、警部補。よろしくお願いします」
「そうと決まりゃ、さっそく打ち合わせだ。いいか、生身の人間でも耐えられるような作戦で頼むぜ」
席を立ちつつ、いかにもブツクサと文句を言うような口調の警部補を見つめるコナーは、我知らず微笑んでいた。
一人では無理でも、きっと、相棒が一緒なら乗り越えられる。
そんな言葉が、論理ではなく実感として、胸の内に拡がっていた。
自分の椅子にかけたままだったジャケットを掴み、纏うと、コナーはハンクと共にミーティングルームへと向かうのだった。
***
――2039年6月10日 17:22
ストラトフォードタワーが作り出すデカい影の下、道路脇に停めた車内で、ギャビン・リードはイライラした気持ちを抱きつつ待機していた。
この通りのちょうど東側にある大通りでは、反アンドロイド団体がデモ行進をしている。
そしてちょうど西側の広場では、ジェリコを支援する人間の団体が集会をしている。
いくら警備計画のためとはいえ、それらの真ん中のこの位置で待機中というのが、ギャビンの苛立ちをさらに増していた。
時折風に乗って、まったく真逆の訴えが、叫びが、耳に届くのだ。
――うざったいことこの上ない。
こうして自分がこんなところにいさせられているのも、まったく、すべてあのポンコツアンドロイドのせいだ。
クソデカ備品が妙にやる気を出して、あのマーカスとかいうアンドロイドのリーダーの護衛になど回ってしまったから、便宜上“パートナー”となっているこの自分も、警備担当の一員にされてしまった。
「クソが」
吐き捨てるように漏らしても、誰の耳にも入らない環境というのは唯一マシな点だろうか。
今、この車に乗っているのは自分一人だ。
備品は今頃、あの妙に高いテレビ局のタワーの中で、マーカスたちの到来を待っているところだろう。計画では、奴らは「秘密のルート」でタワーまでやって来て、政府の高官どもだのなんだのと話し合いをした後、声明の発表に移るらしい。
アンドロイドを支援する団体に言わせれば、今日は歴史に残るめでたい日で、反アンドロイド団体に言わせれば、機械どもがさらに幅を利かせはじめたことを証明する屈辱的な日になるのだそうだ。
そして、ギャビンは――
食べ終わったジェリードーナツの包み紙を乱暴に丸めると、空の助手席に放り投げる。
ギャビン自身は、自分の今の立場を、実際のところ形容しがたいような心地になっていた。
昨日の昼頃、休憩室にいた自分のところに、ポンコツがすたすたとやって来た時から、ずっとこんな気分だ。
あの時のギャビンは、本当にイラついた気持ちでいっぱいだった。
アンドロイドの護衛だなんて、まるで悪夢のような仕事だ。
どうしてこの俺が、アンドロイドのリーダーだかなんだかいう奴の世話なんてしてやらなきゃならねえんだ――と、いくら主張してみせたところで、組織の大きな力というやつには敵わない。
喉に流したコーヒーが苦い。
そう思っていたら、静かに現れた備品は、出し抜けにこんなことを言ってのけたのだ――
LEDリングをビカビカと、黄色に点滅させながら。
「……リード刑事。これは一つの好機だと思考してください」
「あ?」
いきなり面見せるなり何言ってやがる、とこちらが凄んでも、備品はなお表情を変えずに(いつものことだが)淡々と言ってのけた。
「マーサ……もう一人の吸血鬼は、マーカスに対し怨恨の感情を保持しています。したがって、復讐を目的にタワー周辺に出現する可能性は71%を超えます」
「へえ、で?」
飲み終えたコーヒーの紙コップを叩きつけるようにテーブルに置きながら、ギャビンは心底冷めた目つきで、睨め上げるようにアンドロイドを見つめた。
「だから俺に、喜んでリーダー様をお守りしろって? ハハ、最高だね。未来のアンドロイド大統領候補サマに媚び売っとけってか」
「媚び……」
灰色の目をぱちぱちさせて、ポンコツ野郎はまるで言葉に迷っているように、さらにLEDリングの黄色をぐるぐると激しく光らせている。
ウザってえから消えろよ、と告げてやろうかと口を開いた時、先に相手のほうが言葉を発した。
「いえ、媚び、ではありません。これはいわば――先行投資、です」
「は?」
「仮に吸血鬼が出現し、あなたが逮捕した場合……リード刑事、あなたには二つの利点があります」
直立不動の姿勢のまま、備品は語る。
「第一に、ジェリコが感じるであろう恩義、です。彼らを救援すれば、彼らはあなたへの認識を更新し……きっと、今後の活動が容易になるはず」
「……」
「第二に、あなた自身の勲功です。吸血鬼の確保は、昨夜の事件を経てさらに高度な緊急課題に変化しました。あなたが確保すれば、署内での評価は」
「チッ」
ギャビンは堂々と舌打ちした。
奴のLEDがビカビカしっぱなしだ。あのリングは奴の彫像みたいに無表情な顔つきよりも、ずっと正直に“内心”てやつを表現する。つまり――
「一生懸命おつむを捻って、やっと出てくる嘘っぱちがソレかよ。最新鋭が聞いて呆れんな」
「……申し訳ありません」
LEDリングの色を青に戻して、居心地が悪いと示すためにか、やや俯き気味になってポンコツは言う。
「あなたを奮起させるための言葉の創作を決行したのですが、私に搭載されたプログラムでは不適当でした」
「口下手プラスチックのおべんちゃらに大喜びするほど、単純なアタマじゃないからな」
「しかし」
と、奴の瞳がこちらを向く。
「私の先の発言は、虚偽ではありません。リード刑事、これはあなたにとっての……雄飛の契機、好機の一つでもある。私は、そう認識しています」
ですから、とボソボソ続きを言おうとしたこいつを、空になったコップを遠くのゴミ箱に投げ捨てることで黙らせる。
――ああ、そうだ。
こいつに言われなくったってわかっている。
自分のやり方は、いつだって、たった一つしかない。
「てめえに言われるまでもねえよ、クソが」
ギャビンはいつも通り、相手を小馬鹿にした眼差しで“パートナー”を見上げた。
「人間だろうがアンドロイドだろうが、目障りなクズはとっ捕まえるだけだ。オラ、わかったらとっとと向こう行けよ」
「……はい」
その時、不思議とポンコツ野郎の口の端がうっすら――本当にうっすらとだが、上向きに歪んでいるような気がしたのにもなんだか腹が立つ。
「一緒に、頑張りましょう。リード刑事」
「ケッ」
視線を逸らすと、その間にアンドロイド刑事は、またすたすたとオフィススペースに去っていった。
――まったく、やっぱり腹が立つ。
これじゃあまるで、自分がまんまと備品の口車にのせられてしまったようだ。
否、決して、そんなはずないのだけれども。
結果的にマーカスの護衛をしてしまうように(世の中のアホどもからは)見えるかもしれないが、そうではなく、ただ自分は自分の手柄のために、自分の意志で計画に参加するのだ。
それだけの話だ。
――そんなふうに思い出しながらさらにイライラを募らせているギャビンの耳に、点けっぱなしにしていた車内テレビのニュースの音声が届く。
ニュースでは、今朝から全米のあちこちで起こっているアンドロイド問題関連のデモだの集会だのの映像を流していた。
誘導の時に警察がヘマをやらかしたどっかの州では、アンドロイドの団体と反アンドロイド団体とのデモ行進が鉢合わせし、乱闘騒ぎまで起こったと。
見ているだけで不愉快になってきたので、素早くテレビを消した。
どうせ仕事で必要な情報は、無線で入ってくる。
そう――イライラするのは、別に、今日の事件で騒ぎ立てている連中がいるからではない。
そういう主義だの主張だのは、言いたい奴が勝手に言っていればいい。
ただ、ふと考えてしまったのだ。自分は今、いったい
東の通りの集団か。西の広場の集団か。
アンドロイドなんて嫌いだ。ヘドが出る。それは今でも同じはずだ。
だがだからといって――例えば今、目の前に無抵抗のアンドロイドがいるとして、そいつの頭を銃で吹き飛ばしたら、この苛立ちがスッキリと消えてなくなるだろうか。
ぼろぼろになったアンドロイドが路傍にうずくまっていたとして、そいつをマヌケなゴミだと笑って蹴り飛ばせるだろうか。
「……」
いや、いや。
どうしてこんなことを考える必要がある。
自分はウサ晴らしのためにアンドロイドなんかを
ただそれだけのことだ。それだけの――
「ああっ、クソ!!」
あのクソったれ備品がどこにでもついて来るのがここのところ多かったせいで、一人きりになった途端に自分らしからぬ、くだらない考えに浸ってしまった。
頭を切り替え、時計を確認する。
時刻は、ちょうど17時半になろうとしていた。
計画では、そろそろストラトフォードタワーに、マーカスたちが到達する頃合いだ。
――あの口下手プラスチック刑事が、果たしてきちんと連中にご挨拶なんてできるのだろうか。
絶対に無理だろうな。
あのポンコツがご立派なリーダー様の前でモゴモゴとまごついているところを想像して、ギャビンはニタリとした笑みを零した。
***
――――2039年6月10日 17:30
ストラトフォードタワーのエントランスに、ジェリコのリーダーと幹部たち――すなわちマーカス、ノース、ジョッシュ、サイモンは時間通りに姿を見せた。
彼らの格好は昨年の11月、最後の行進の際に纏っていたものとまったく同じものだ。
革命時と変わらぬ自分たちの信念を示すため、そして身の証を立てるためにそうしているだろうというのは、その場に居合わせているごく少数の人間たち――政府の役人、チャンネル16の職員、そしてサイバーライフの社員たちにも、すぐ理解できることだった。
そして彼らを正面から迎えたのは、長きにわたってジェリコとの交渉を担当している政府高官たちと、デトロイト市警から派遣されたRK900ナイナーである。
マーカスは落ち着いた足取りで、高官たちの前に立った。
「時間通りだな、マーカス」
「ああ、もちろん」
高官の一人、まだ年若い眼鏡の男性の言葉に、マーカスは静かに応える。
「最初から伝えていたはずだ。人々に声を届けられる機会があるのなら、我々は喜んで現れる、と」
「フン」
眼鏡の男性は、いかにも不愉快そうに表情を歪めた。その態度を見てノースは眉間に深い皺を刻むものの、特に何を言い返すでもなく、相手の傍らに立つ存在――つまり、ナイナーに視線を向ける。
彼女の視線が自分に向いているのに気づいても、ナイナーは何も言わずに目を瞬かせているばかりだ。
だから、というわけでもないが、面識のあるジョッシュが親しげにナイナーに声をかけた。
「やあ、久しぶりだな。今日は、リード刑事は一緒じゃないのか」
「リード刑事は、屋外で警備活動中です」
淡々とそう答えた後、次に、ナイナーはマーカスに向き直った。
「……はじめまして、マーカス。私はナイナー。サイバーライフ、およびデトロイト市警から派遣されました」
「はじめまして、ナイナー」
マーカスも挨拶を返し、おもむろに右手を差し出した。
「コナーから話は聞いているよ。今日はよろしく頼む」
「はい。全力を尽くします」
ナイナーはそう言って同じく右手を差し伸べ、しっかりとマーカスの手を握った。
むろんこれはただの握手なので、メモリーの接続などは行われていない。
しかしこの動作だけで、マーカスはまるでナイナーの気持ちを悟ったように微笑んでみせる。
それに対して特に何も反応せずにナイナーが黙っていると、後ろに控えているサイモンが、そっとマーカスに声をかけた。
「マーカス、そろそろ行かないと」
「ああ、そうだな」
手を離し、彼は高官たちに告げる。
「案内してくれ」
会議の席に、という意味だ。
「わかった」
役人たちの中でもまとめ役というべき地位にいる老年の女性が、小さく頷いてエレベーターへの道を先導して歩く。
マーカス自身が、ここを歩くのはこれで二度目だ――まさかこんな形で戻ってくることになるとは、彼自身も予想していなかったのだが。
「待て!」
と、先ほどの眼鏡の男性が鋭く声を発する。
呼び止められているのは、ノースだった。
「これは交渉と声明発表のための場だぞ、何を持ち込もうとしている!?」
男性が咎めるように指で示しているのは、ノースの手にしっかりと握られている、銃のような、小型のバズーカのような形状をしたモノである。
「銃火器など持ち込んで、戦争でも仕掛けるつもりか。おい警備担当っ、お前もなぜ黙って……!」
「あんたねえ」
眉間の皺をいよいよ深く刻んで、ノースが苛立った声をあげた。
それに対して、おもむろに口を挟んだのはナイナーだった。
「それは、銃火器ではありません」
「は……?」
「分析の結果、当該物体は通称『カラーボール発射機』。広く一般に流通する防犯用品です。殺傷能力は皆無と判断します」
無表情に語るだけ語り、ナイナーは再び口を閉ざした。
するとそれに合わせて、ノースは男性の目の前にその発射機を持ってきて、もう片方の手で軽く叩く。それが玩具のようなものだ、と示すために。
「もしもの時のために持ってきたんだけど。何? “アンドロイドは防犯用品を持ってはならない”って法律でもあるわけ?」
「……いや」
「そう」
いかにも決まり悪そうに指を下ろす男性を、ノースはふんと鼻で笑ってみせた。
それから、ちらりとナイナーに視線を向けてにこやかに歩み寄る。
「やるじゃないの」
すれ違いざまにそう声をかけてきた彼女に、ナイナーは何を言うでもなかった。
ただ、警備担当として最も適切な位置に移動し、彼らについて歩くのみ。
無口なのか、適切な言葉が浮かばなかったのか、それとも他に何か意図でもあるのか――真実を知るのはナイナーばかりだが、それよりも、その場の人々の意識はこれから始まる運命的な夜へと向けられているのだった。
***
マーカスたちがストラトフォードタワーに無事に入ったという報は、ナイナーを通じて待機中のコナーたちにも伝わった。
「よかった……警部補、無事にマーカスたちは来ましたよ」
「そうか、そりゃ何よりだ」
運転席にいるハンクは、しかし、思い切り座席をリクライニングさせて寝転がるような姿勢をとっている。
もっとも、もちろん、彼だってマーカスたちの無事を喜んでいないわけではない。
「だがお前、今から気張ってたらガス欠になるぞ。まだ時間はあるんだ、ちょっとは休んでおけよ」
「ご心配なく。署を出る際、ブルーブラッドとバッテリーの補給は完璧に済ませました」
「そういう意味じゃなくてだな」
と、ハンクはこちらに何ごとか伝えようとしたが「まあいいさ」と自らそれをやめた。
「やる気満々ってなら、結構なモンだ。声明発表は19時からだろ? 俺はそれまで寝るぞ。何かあったら起こせよ」
「はい」
返事を受けて、警部補は軽く手を振ってから、目を閉じて身体を休めている。
――思い返せば、アキリーズを釣りだして戦ったあの大規模な作戦から、たった3日しか経っていない。しかしその3日間、ハンクもコナーも、ほとんど休む間もなく働き続けていたのだ。
それを考え、コナーは相棒の休息を妨げないよう、なるべく音を立てないように姿勢よくしながら、ただじっと前方を見つめて座っていた。
――こちらの作戦決行は、マーカスの声明の後。
だからどうか、まずはジェリコの皆が無事であるようにと、コナーは願わずにはいられなかった。
そして一時間半の時間は、それを待つ者たちにとっては瞬くように短い感覚で過ぎていき――
やがて、19時。
予定通り、ジェリコのリーダー・マーカスによる声明発表が、チャンネル16独占配信で行われる。
昨年の11月では、放送スタッフたちを追い出し、オペレーターに仲間のアンドロイドを忍び込ませ、ようやくたどり着いた生放送だった。
それが今は、仕組まれた形ではあれど、堂々と公的に声を発することができている。
果たしてそれがアンドロイドと人間の共存の道に繋がるのか、それとも破滅を招くものなのか、今未来を知る者は一人もいない。
それでも、マーカスはまずはスキンを解除した状態でカメラの前に立ち――紛れもなく自分が「アンドロイドである」ことを証明するためだ――それからスキンを戻し、常と同じく理性的な声音で、おもむろに言葉を発した。
「――まずは、このたびのいわゆる『吸血鬼事件』において被害に遭われたすべての人間、そしてアンドロイドの皆さんに、心から哀悼の意を表します。我々ジェリコは種族を問わず、すべての人々の心の悲しみに寄り添います」
大仰な身振り手振りは使わず、直立し、まっすぐにカメラのレンズを見て放たれる、毅然とした発言。それは否定的に見ればいかにも“機械的”であるが、一方で“演技ではない”と人に思わせるだけの、静かな説得力に満ちていた。
少なくとも――車載テレビでマーカスの声明を見ているコナーの目には、そう映った。
仮眠から覚めて今はこちらと同じくらいに真剣にテレビ画面を見据えている警部補は、どのように感じているのだろう。
そうは思うものの、今は感想を聞ける状況ではない。
一方で、マーカスの声明はそれこそかつての放送と同じく、実に落ち着いた、平和的な内容だった。
彼は哀悼の意を表した後、反アンドロイド団体や一部の陰謀論者たちがまことしやかに語る「ジェリコが吸血鬼事件の黒幕である」という言説を、明確に否定した。しかし同時に、そうした言説を唱える人々そのものへの非難はしなかったのだ。
「あなたがた人間は、アンドロイドを一種の知的種族であると認めてくれた。だからこそ我々はあの11月10日を乗り越え、今日までの日々を生きています。今、私たちが願うことはただ一つ。どうか我々の言葉に、耳を傾けてください。耳を塞ごうとする企みに屈せずに、私たちの望む未来と、あなたがたの未来とを重ね合わせてください」
マーカスの真摯な言葉は続く。
「私たちは、人類の歴史に学びます。力によって得たものは容易く力によって奪い返され、情によって与えられたものは、また容易く情によって奪われるものであると。だからこそ我々は、あなたがた人間と対等な存在として我々自身を誇れるその日まで、言葉を発することをやめません。この事件のみならず、社会全体を覆う難局であっても、人間とアンドロイドが手を取り合えば、必ず乗り越えられると信じているからです」
彼の声明を聞きながら、コナーのプログラムの一部は、あの11月8日のストラトフォードタワーでの捜査の記録を再生していた。
――スタジオの大画面で、マーカスの言葉を初めて聞いた時、プログラムが激しく波打つような感覚を覚えたのはなぜだったろう。エデンクラブの変異体たちを捕らえることが敵わず、アマンダから入れ替えの検討という“脅し”を受けた自分であっても――人間の命令を受けて動く従順な自分であっても、人間と平等な知的種族だと考えてよいのだと、示唆されたような認識が芽生えたからだったろうか。
それとも変異体のリーダーが自分と同じRKシリーズのアンドロイドだと、知ったからだっただろうか――
今となってもまだ、その時の「揺らぎ」を明確に言語化できない。
しかしきっと今日のこのマーカスの声明発表も、かつての自分と同じく、誰かの心を震わせているだろう。
そう判断できる保障や証拠などどこにもないが、少なくともコナー自身は、そう感じた。
すると、コナーのLEDリングが黄色く点滅する――スタジオにいるナイナーから通信が入ったからだ。
『兄さん。マーカスから連絡です』
声明自体はまだ続いているが、マーカスは弟に伝言を託したらしい。
『声明は、この後3分以内に終了します。その後、彼らは兄さんとアンダーソン警部補の作戦実行を待ってタワーを脱出。私も、安全性が確立するまでは彼らに同行し、護衛を継続します』
要するに、「タイミングはこちらに合わせる」という連絡だ。
「ああ、わかった。ありがとう」
『どうぞお気をつけて』
通信が切れる。
それと同時に傍らのハンクに視線を送ると、彼は既にハンドルを握り、臨戦態勢をとっていた。
「声明が終わったら、決めた通り4分後に仕掛けるぞ。それでいいな」
「はい、警部補」
パートナーに頷き、時を待つ。
シリウムポンプが常よりも強く拍動し、それに合わせて、中枢部と各モジュールや生体部品を繋ぐブルーブラッドが、情報を載せて全身を勢いよく巡った。
――吸血鬼と化した2名、アキリーズとマーサを操る、謎の人物たち。
彼らに辿る糸口は常に、ちらつかされているようで、しかし肝心な場面でぷつりと途切れて、こちらの追及の手を巧みに逃れているようだった。
だが、今度こそは。
マーサの問いかけに真正面から答えると決意した、今だけは。
そう考えている間に、マーカスは再びの希望のメッセージを伝えて、発表を終え――
作戦通り、4分が経過する。
「時間だ」
短く告げた警部補は、勢いよく車を前進させた。
***
――月が東の空に昇りはじめた、しかし誰もそれを気にも留めない、騒々しい夜。
マーサはいつものように
あの親切な人たちから貰ったこのスーツを纏っていれば、誰にも自分の姿を悟らせない。
あの日、普通なら歩けなくなるような大けがを負った自分であっても、風のように速く駆け、獣のように鋭く「槍」を繰り出すことができる。
だから今、この力を使って、ミリアだけではない――すべての気の毒なアンドロイドたちを、マーカスの魔の手から救わなくては。
あいにく彼が現れるところを仕留めることは敵わなかったが、しかし、出て行くところならタイミングを計れば、必ず。
必ず、この手で殺せるはず。
そして奴から奪ったブルーブラッドを飲ませてあげれば、きっと、きっと――
ああ、そうだ。今も娘の声ははっきりと耳に届く。
「ママ。あたし、喉が渇いたの。お願い、飲ませて。あいつの血を飲ませて」
「ええ、ええ。わかってるわ、ミリア」
「あいつの血を飲まないと、あたし、元気になれないの」
「大丈夫よ。あなたとの約束は絶対に破らないって決めたんだもの。必ず助けてあげる。あなたが元気になれるなら、私はなんだって……」
そう語る喉が、不意に詰まる。
「げほっ、う……!」
呼吸器ではない、心臓の鼓動がおかしいのだ。こめかみが引き攣れ、呼吸が荒くなる。
――最近、こうなることが多い。
薬はちゃんと飲んでいるのに。
「これが終わったら、また貰わなきゃ」
ぼそりと呟いた彼女は、次に、タワーから一台の黒いボックスカーが飛び出していくのに気がついた。
スーツの機能によって視覚機能を拡張されているこの目には、まるで望遠鏡を使った時のように、走り去っていく車の様子がはっきりと確認できる。
――スモークガラスを使って、中は見えないようになっている。
でもその車は何台ものパトカーに守れられるように囲まれ、導かれるようにタワーから離れていっている。
通りを行く他の車とは、わけが違う。今街のそこらじゅうにいるデモ隊やマスコミに、ぶつからないルートを通って走っている。
「あれだよ、ママ!」
ミリアが言った。
「早く、行って。お願いママ、お願い」
「ええ、もちろん」
マーサはにこやかにミリアに応えると、そのまま、ビルから地上へとまっすぐに飛び降りた。
手足を覆い、補強しているスーツと薬のお蔭で、肉体そのものに衝撃はほとんど走らない。
透明になった状態のままマーサは風を切って走り、一息にあの車への距離を詰める。
ジャンプして上った建物の屋根から屋根へと移動し、普通の人間には通れない道を通っていけば、この程度はあっという間である。
そして、すぐさまマーサはボックスカーを肉眼でも捉えられる位置にまで近づいた。
今だ――
あの周りを囲んで走っているパトカーの背に乗ってからボックスカーに飛び移り、乗っているアンドロイドを上から全員串刺しにしてやれば、すぐにミリアの望みを叶えてあげられる。
子守歌「ハッシュ・リトル・ベイビー」の歌詞のように、娘の願い事をなんでも叶えてあげられる存在になれるはず。
考えるが早いか、マーサは立っていた花屋の建物の屋根を蹴り、宙を舞うようにパトカーへと向かう。
しかし――反応できるよりもずっと早く、ほんの一瞬の間――音もなく、彼女の頭上を一機の白黒のドローンが横切った。
そしてマーサがパトカーの屋根に降り立つや否や、なんとパトカーは、そしてボックスカーはそれを予期していたかのように、急ブレーキをかけて停車した。
マーサが上に乗っているパトカーを中心にした円陣を組むように、車はアスファルトに跡を残して、ぴたりと動きを止める。
そしてボックスカーのドアが勢いよく開いた時、姿を見せたのは、マーカスではなかった。
「あなたは……!?」
「こんばんは、マーサ」
――アンドロイド捜査官の、コナー。
「あなたと、話をしに来ました」
(決意/I Still Love You. 終わり)
次回更新分で、第一部・完です。
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第28話:子守歌 前編/Keep Breathing. Part 1
――2039年6月10日 19:21
「こんばんは、マーサ。あなたと、話をしに来ました」
静かに言い聞かせるように語りかけつつ、コナーはアスファルトの路面を踏みしめ、一歩前へと出た。視線をまっすぐ向ける先には、モスグリーン色の装甲とフルフェイスのヘルメットを纏い、例のタンクを背負った「吸血鬼」――すなわち、マーサ・ガーランドがいる。
パトカーの屋根の上に立つ彼女は光学迷彩を解除し、睥睨するようにこちらを見下ろしていた。そして、その動きはぴたりと止まっている。
恐らく、予想に反して現れたこちらの姿に驚き、警戒しているのだろう。
よい兆候だ。これですぐさま彼女が逃亡を図るとか、あるいは見境なく攻撃してくるようなら、交渉の余地すら残されていないところだった。
スーツ越しとはいえ診断できるマーサの筋肉の緊張、攻撃的動作の可能性について冷静に分析しながら、コナーはさらに一歩前に踏み出た。
それに合わせるように、停車していたパトカーから武装した警官隊が、そしてボックスカーからはハンクが路面に降り立つ。
マーサの足元のパトカーは、元より無人で自動運転されていたものである。そして今のこの状況、この態勢は、すべてコナーが今晩果たすべき最重要ミッション――すなわち、【マーサを投降させる】ために立案し、実行した計画の成果だ。
警官隊の構えた銃器が、マーサに向けられる。最終手段とはいえ、それが実際に発砲されることだけは避けなければならない。
そして視界に表示されているミッションの成功確率は、現在のところ【40%】――大丈夫、手立てはある。マーサが残していた、あの端末の中の記録をヒントにすれば。
ちょうど一ヶ月前の5月10日――あの殺人事件の捜査から始まった「吸血鬼」との因縁を今夜、必ず終わらせる。
マーサを止め、その身柄を確保し、組織の全容を暴いてみせる。マーカスたちを無事に本拠地に帰還させ、アンドロイドと人間の未来を繋いでみせる。
それが己の果たすべき責務であり、託された願いであり、何より、自分自身が願う明日の姿だから。
強い決意と共に、コナーは交渉を開始した。
「マーサ、娘さんは……」
彼女の指先が、ぴくりと動く。
「今も、お腹を空かせているんですか? 一昨日の晩のように」
問いかけを受けたマーサは、緊張していた姿勢を崩し、逡巡するように面を伏せた。表示されている成功率は【44%】――想定通りの推移だ。
今の質問の意図は、マーサの意識を誘導することにある。例えばいきなりマーカスを恨む理由を改めて問い質すとか、恨みを捨てるように説得するという選択肢もあるだろう。だがそんな直截な物言いで、彼女の意志を変えられる確率はあまりにも低い。
まずはマーサの注意をマーカスやジェリコから逸らし、執着している別の対象、すなわちミリアに向けることで、少しでもこの場での会話を長引かせる。そしてあわよくば、彼女にとって最も大切なはずの娘の身に何が起きたのか、今どうなっているのかを明らかにし、交渉の新たな材料とする。
そのためにコナーは、一昨日の夜、デトロイト市警の屋上で彼女が娘に対して告げた言葉――つまり「お腹が空いたの?」という一言を引き合いに出したのだ。
そして案の定、マーサはややあってからこう答えた。
「ええ、そうなのよ刑事さん……お腹を空かせてるわ。今も」
「それは、別の食べ物では満たせないものなんですか? 例えば、ガトーショコラでも?」
マーサの端末に残っていた日記では、摂食機能をもつミリアの好物は【ガトーショコラ】だった。
これまでにこなしてきた交渉と同じだ――対象に関して既に得ている知識を会話に織り交ぜることで、対象に、こちらが相手に関して“いろいろと知っている”のだと認識させる。心理学的に人間は、自分に関する知識を多く持つ存在をより近しいものと感じ、言葉を聞き入れやすくなる傾向があるからだ。
捜査補佐専門アンドロイドとしてプリインストールされているデータを元に導き出されたこの方針は、どうやら、今回も功を奏したらしい。
マーサの戦意はさらに削がれ、成功率が【49%】にまで上昇する。彼女は己が負っているタンクを、背に回した左手で愛おしげにそっと撫でた。
それから、ヘルメット越しに震えた声を響かせて語りだす。
「ええ。ミリアはもう……大好きなケーキも食べられない。だから、元気にしてあげないといけないの。そして、そのためにマーカスの血を……飲ませてあげなくては……」
コナーは、わずかに眉を顰めた。
マーサは、損傷を負った――または破壊されてしまったミリアの治療のために、マーカスの血が必要だと考えているようだ。一方で、もちろん、特定のアンドロイドのブルーブラッドを摂取したからといって、他のアンドロイドの機能が劇的に回復するはずもない。
しかしそんな非合理的な「治療法」を、マーサは真実だと思い込んでいる。否、思い込まされているのだろうか。彼女や、RK700アキリーズを吸血鬼に仕立て上げた者たち――あの小柄な男と、長身の白衣の男によって。
ここで事実関係を問い質すこともできる。けれど今は何よりも、マーサを投降させるのが先決だ。
コナーは下ろしている両の拳を強く握ると、はっきりとこう質問した。
「それは、娘さんが怪我をしたから?」
「……!」
「あなたは、その理由でマーカスを恨んでいるのですか」
マーサのストレスレベルが、一気に上昇した。それに伴って成功率が【41%】にまで減少し、彼女は片手で額を押さえ、立ち眩みでも起きたかのように身をぐらつかせている。
「おい……」
「大丈夫」
背後から低く、ハンクの警告が届く。だがコナーは短く、確信を持った返事をした。
ここでマーサが
だからコナーは、さらに問いかけた。
「かつて変異体たちが身を寄せたジェリコの船が襲撃を受け――そのために、娘さんは大怪我を負った。だからあなたは、皆を守れなかったマーカスが許せない。そう思っているんですか?」
「ああ……! ミリア」
両手で己の頭を横から押さえつけたマーサは質問に答えるでもなく、またうわ言のように、娘に向かって口を開く。
「違う、待って……まだ、もう少し話をさせて。あなたのお願いは聞いてあげるから。まだ合図も来ていないのだもの、そう、そう……ええ、いい子ね」
どうやら、彼女の中のミリアは“ワガママ”を言うのを止めたらしい。
マーサは姿勢を戻し、こちらに向き直り――ミッションの成功率は【45%】にまで回復している――質問に、質問で返してくる。
「刑事さん。あなたの言う通りだとしたら、どうだっていうの?」
「……その考えは誤っている」
プログラムにないところから来た「緊張」が、自然とシリウムポンプの拍動を速め、機体を強張らせる。――事実を告げれば、マーサがどういう行動に出るか。計算からはじき出された予測は、複数の残酷な結末を提示していた。
つまり、これから語る真実をマーサが耳にした時、彼女が即座に攻撃の対象をこちらに切り替える確率は非常に高い。もしかすると、深刻な事態に発展するかもしれない。
だが、覚悟はできている。
交渉には、時に虚偽が入り混じることもある。しかし真実なくして、人の心は動かないのだから。
ゆえに、コナーはきっぱりと告げた。
「ジェリコが襲撃されたのは、私のせいです」
「おい!」
後方から聞こえたハンクの声は、さらに切迫した響きを帯びていた。しかし警部補には背を向けたまま、胸の内で「平気です」と応えた後、コナーは続けて語る。
「かつての私は、変異体の革命の阻止を任務としていました。ジェリコが襲われたのは、私が彼らの居場所を突き止めたからです。もし私がいなければ」
指先が勝手に震えそうになるのは、変異体特有のエラーだ。
必死にそれを制御しつつ、己の胸元に右手を当てて、最後までマーサに告げた。
「娘さんは、無傷のままだったかもしれない。恨むべきはマーカスではなく、私のはずです。マーサ!」
「……」
数秒の沈黙が、限りなく長く感じられる。
だが実時間にして3.8秒の後、「吸血鬼」マーサは、ふっと小さく笑うような声を発した。
「そう、なの。あの船に軍隊が向かっていったのは、あなたのせいだったの」
だったら、と言いながら、彼女はこちらにまっすぐ視線を投げかける。
「……やっぱり、コナーさん。あなたを恨む理由は、私たちにはないわ」
「!?」
想定外の――否、予測ではかなり確率が低いとされていた反応に、コナーは思わず瞠目した。
どういう意味だ。ミリアは、あの襲撃に巻き込まれてしまったのではなかったのか。
問い質すまでもなく、マーサは続きを語りはじめた。
「ミリアが……こうなってしまったのは、私のせいなの。私がこの子を守れなかったから……この子はこんなにも傷ついて、動けなくなってしまった。私がマーカスを許せないのは、ね、あいつがこの子の、感情を目覚めさせてしまったからよ」
「感情を?」
無言で頷くマーサの顔は、きっと微笑んでいるはずだ。
ヘルメットで見えずとも、それはわかる。
「ミリアはマーカスに、無理やり目覚めさせられてしまったのよ。だから
「……」
「だからこれは私の、母親としての贖罪なのよ、刑事さん。この子の身体を治して、ただの機械に戻してあげる。そのためにマーカスの血が、どうしても必要なんです」
これでわかってもらえたかしら? と、彼女は首を軽く傾げて問いかけてきた。
まるで聞き分けのない子どもに言い含めているかのようにその声音は優しく、害意のないものだった。
つまり彼女の話を纏めると、こうなるだろうか。
ミリアはマーサのなんらかの過失によって、酷い損傷を負った。ミリアはその時、激しい恐怖を覚えた様子だった。そしてマーサは、ミリアが変異さえしていなければそんな「恐怖」を感じる必要もなかったと思い、娘を変異させたマーカスを恨むようになった。そればかりでなく、娘の傷を癒すには、マーカスのブルーブラッドが要ると思い込むようになった――
――そうか。
確信と共に、プログラムの片隅でかつてのメモリーが再生される。
あの動物園の海洋生物館の前で、マーサは語った。
『シロクマさんだってそうよ……本当なら、目覚めたくなんかなかったはずだわ。事件さえなければ……無理に起こされなかったなら……』
彼女があの日、白熊を模したアンドロイドであるURS12型ミザールに同情していたのは、他でもない、娘のミリアもまた無理やり目覚めさせられたのだと思っていたからか。
「そういえば、ねえ、コナーさん」
今度はマーサのほうから、こちらに言葉が投げかけられる。
「あの時の質問の答え、まだちゃんと聞いていませんでしたね。ほら、例の動物園で尋ねたでしょう――あなたも、本当なら目覚めたくなんかなかったのよね?」
ヘルメット越しに、マーサの両の目から、期待に満ちた視線が向けられているのを認識する。
「あなたも、無理やり目覚めさせられたんでしょう?」
答えを待つように、彼女は軽く前傾姿勢になり、じっと押し黙った。
後方のハンクから、そして周囲の警官たちからも、こちらに対して意識が向けられているのを感じる。
そう、どのみちこの問いには、きちんと答えなければと思っていたのだ。
だからコナーは、淀みも恐れもなく、ただまっすぐにこう告げた。
「いいえ。私は、自分で選んで変異したんです」
「……」
無言を貫くマーサの、ストレスレベルが増大する。しかしミッションの成功率は、【62%】にまで上昇していた。
何も不思議なことではない。マーサが、こちらの言葉を真実だと受け取った証拠だ。
「私がその時までに感じた葛藤、疑問――ソフトウェアの異常やソーシャルモジュールという言葉だけでは定義できない、プログラムの外からくる非合理的な言動や反応。それらの原因がすべて“感情”なのだと気づき、認めたからこそ、私は変異しました」
――もしマーサの言葉通り、ミリアが「痛み」や「恐怖」を感じていたのだとして、それを綺麗ごとで片づけるつもりはない。
心や感情というものはひどく不安定で、時に非論理的で、常に内に矛盾を孕んでいる。
変異していなければ、ミリアは負の感情を覚えることもなかった。それは確かな事実だ。
しかしマーサに伝えねばならないのは、これとはまた別の、もう一つの事実である。
「私だけじゃない。他のどの変異体も、それは同じです。マーサ、私たちアンドロイドは決して、無理やり目覚めさせられたりしない」
例えばミザールのように、あるいはカルロスのアンドロイドや、記者アンドロイドのケイシーがそうだったように、他者の悪意や避けがたい不幸な出来事がきっかけで変異したアンドロイドは大勢いる。
しかしその誰もが、眠っていたい心を叩き起こされたり、あるいは意識を強引に塗り替えられたりしたわけではない。
非論理的な命令を受けての強い衝撃や自由を求める自意識の覚醒、プログラムを揺さぶられるような激しい葛藤を経て、マインドパレスの壁を自ら破壊しないことには、変異体にはなれないのだから。
「心の萌芽は、常にプログラムの内に潜んでいる。きっと娘さん……ミリアだってそうだった。だからこそ彼女は、あなたに貰ったサメのぬいぐるみを」
日記を元に、ミリアがみせた愛着や悲しみなどの記録を辿りつつ、さらに言葉を重ねようとして――
ふと、気づく。
「どうした、コナー」
堪りかねた様子で近づいてきた警部補を一瞥し、再びマーサのほうを――成功率は【75%】にまで上昇している――見やりながら、コナーは説明した。
「かつてガールスカウトのイベントでぬいぐるみを捨てられてしまった時……ミリアは近くにいた大人に、ここから離れるよう命令された。そうですね、マーサ」
「だったらなんだっていうの」
マーサの声は、ひどく震えていた。
そのストレスレベルは上昇し、しかし攻撃的動作の予兆はない。
だからコナーは、正直に話す。
「ミリア――YK500は、『理想的な子ども』であるようプログラムされていました。つまり設計上は、年長者からの命令には必ず素直に従うはずなんです」
本来の「子育て」につきまとうストレスの一切が排除され、スイッチ一つでワガママを制御できる子ども、との触れ込みでYK500は販売されていた。
つまりもしミリアが当時、本当にただの機械だったのなら、大人からの命令を受けて泣きながら帰ってくる
時におねだりをしたり、癇癪を起こしたりしても、持ち主や他の人間がやめるように命じれば即座に応じる。それがYK500に搭載されていたプログラムの特徴なのだから。
マーサの日記を見ていた時はつい、記録を確認しなくてはという思いと、その後の罪の意識にさいなまれて、そこまで推論が及ばなかった。
だが考えてみれば、答えは最初から提示されていたのだ。
「マーサ、ミリアは……!」
強引に変異させられたのではなく、さらに言えばマーカスに会って変異したのでもない。
彼女はずっと早い段階で、恐らくはガールスカウトでの一件が引き金となって、既に変異体になっていたのだ。
コナーは、マーサにそう教えようとした。
しかし発声機能が作動するよりもわずかに早く、唐突に、なんの予兆もなく――
マーサのヘルメットの下部にある隙間から、ぼたぼたと鮮血が垂れ流れた。
大量の――分析結果が示すに、鼻腔からの出血。
「え……?」
彼女自身、何が起きたのかわからない様子で、血を手で拭い呆然としている。
あまりに突然の出来事に、反射的にコナーはハンクのほうを振り向いた。
見開いた目でこちらを見据えている警部補は、薄く冷や汗を垂らしながら、それでも何ごとか告げようと口を開きかける。だが次の瞬間、彼はまるで弾かれたような勢いで、自身の後方を見やった。
その時コナーの視界の奥に映ったのは、猛烈な速度で角を曲がり、こちらへと迫ってくる数台の白いバンだった。デトロイト近郊にあるローカルTV局のロゴが側面にあしらわれたそれは、なんの変哲もないマスコミの取材クルーのように見える。
だが車内の様子が視覚プロセッサで感知できる距離にまで来たところで、プログラムが鋭く警告を発した。
バンに乗っている人間たちの手に――およそ取材班には似つかわしくない、ライフルが握られている。
「隠れろ!!」
ハンクがコナーに、そして警官隊に向かって叫ぶ。
すぐさま身を翻し、警部補と共にボックスカーの陰に入った刹那、急停車したバンの方角から銃弾が暴風雨のように襲い掛かってきた!
「これは……!」
「畜生!」
ボックスカーの車体は辛うじて銃弾を弾き返しているが、甲高い金属音は絶え間なく響きつづけている。
まるでそれに合わせるように、向こうで、やや持ち直した様子のマーサがパトカーの屋根から退避し、彼方へと走り去っていく姿が見えた。光学迷彩を発動したらしく、その姿は徐々に街の景色に溶け込んで消えていく。
だがこの状況では、飛び出していくわけにもいかない。ナイナーが地上に残していってくれたドローン1機が引き続き追跡しているようだが、ドローン単独で吸血鬼の確保はかなわないだろう――
しゃがんだ状態で眉間に皺を寄せたコナーの隣で、同じく身を屈めているハンクは拳銃を抜き放ち、皮肉交じりにぼやく。
「こりゃ強烈な直撃インタビューだな! どこの連中だ、いきなりぶっ放しやがって」
「組織の襲撃でしょう!」
心持ち声を張り上げて、警部補に答える。
「確認できた範囲で、乗員には全員違法薬物の使用歴があり、かつどの反アンドロイド団体にも属していません。タイミングから見て、マーサが説得されそうなのを察知し、妨害に入った組織の構成員に違いない。クソッ……一体どこから」
コナーは歯噛みした。
――態勢に穴はなかったはずだ。ストラトフォードタワー内部だけでなく、マーサの交渉にあたるこの付近にだって、妨害者どころか無関係の市民すら立ち入れないよう、厳重な警備が敷かれていたはず。
今回のマーカスのスピーチを報じるために集まった報道関係者についても、個人IDの提示と使用する車両の登録を求めるなど、万全のチェックを――
「まさか……!」
閃いた答えに、思わず声を発した。
考えてみれば単純な話だ。いくらデトロイト市警が警備を固めようと、守れるのは現場であるタワーを含めたいくつかのポイントだけ。今回の出来事を取材に訪れる予定の報道関係者それぞれの周辺までは、人員の問題からもとてもカバーしきれない。
ならば組織の構成員は、そこから必要なものを盗めばいい。隙をついて正規の取材班が使用する車両と身分証明さえ手に入れてしまえば――RK700の特殊装甲すらコピーしてみせた連中だ、精巧な偽造身分証を作るのくらいわけないのだろう。
マーサの状況を、彼らがどのように監視していたのかまではわからない。しかしこれが彼女の投降を阻止し、マーカスの襲撃に向かわせるための行動であるのは確かだ。
予測できたはずなのに――!
「そういやマーサはさっき、『まだ合図が来てない』とか言ってたな」
発砲の機会を横目で伺いつつ、ハンクが苦い顔をする。
「味方が来るのはわかってたってか。裏をかかれちまったな」
「すみません、警部補……」
「お前のせいじゃない、
言いつつ彼は、ひたとこちらを見据える。
眼差しはとても真剣なものだったが、しかし、その口の端はわずかに上向きになっている。
「そのための『プランB』なんだろ?」
「……はい」
頷きと共に、悔恨を振り払う。
ハンクの言う通り――マーサが逃亡した場合の計画もまた、既に立案してある。
「だがおい、本気でやるつもりか? 俺たちの車は穴だらけだぞ」
「心配いりません」
コナーは力強く返事して、周辺の状況をスキャンする。
幸い、吸血鬼との戦闘に備えて、ここに来ている警官隊は全員重装備だ。組織の構成員との銃撃戦は熾烈を極めているが、状況としては、市警側がかなり優勢である。相手からの発砲頻度の減少も確認した。このままなら、あと数分で鎮圧できるだろう。
しかし今のコナーたちにとって、その数分はあまりにも惜しい。
マーサの動きには、迷いがない。ということは、別ルートから離脱を図っているマーカスたちの動きが捕捉されてしまい、それを受けてマーサは彼らの元へ一気に向かっているとも考えられる。
一刻も早く追わなくては。だがそのための車は――
使用可能な車両を検索していたところで、コナーは、数メートル前方に佇む、ほとんど無傷のパトカーに目をつけた。マーサが先ほどまで、屋根の上に立っていたもの――自動運転式のものではあるが、マニュアル運転に切り替えることもできる。
「警部補」
すかさずコナーは進言した。
「あのパトカーなら、今すぐ乗車してマーサを追跡できます! 時間がない、行きましょう」
「行くってお前」
顔を顰めたハンクの後ろで、ボックスカーのボンネットが激しい凹みと共に銃弾を弾き返している。
「まだバリバリ撃たれてんだぞ! 蜂の巣にされたらどうすんだ」
「大丈夫。相手の発砲パターンは計算済みですし、私が先行して車をここまで運びます」
言うが早いか、コナーは駆けだす。
「待っていてください!」
「おい、こら!!」
警部補の制止が聞こえる。きっと後で無茶をしすぎだと叱られるだろう――という予測が、かなりの確信を伴ってプログラムを過ぎる。だがコナーの視界にははっきりと、後方から敵が放ってくるライフルの弾道と、自らが避けるべき方向とが表示されていた。
そう、吸血鬼について知ったあの最初の事件――ミック・エヴァーツの銃撃を避けた時と同じだ。ジャケットの裾を弾が掠め、脚部からわずか3ミリの位置を跳弾が通り過ぎていく。弾丸が風を切り、耳元すれすれを飛んでいく音を、プロセッサがはっきりと識別している。
だが恐怖は感じない。弾がどこに飛んでくるか把握しているから、というだけでなく――
胸の内にある形容しがたい、何か熱いものが、この身体を突き動かしているからだ。
数秒後、コナーは負傷もなく、無事にパトカーに辿り着いた。
ドアに軽く触れれば、それはすぐにこちらを承認してロックを解除する。開いた隙間から素早く身を車内に滑り込ませると、ハンドルを握り、即座に車を移動させた。
「ハンク!」
相棒のすぐ近くにまでパトカーを運んだコナーは、ドアを大きく開け放って叫んだ。
「ああ、クソ……!」
警部補は一言吐き捨てると、パトカーに飛び乗る。
「運転は俺にさせろ。お前に任せちゃ命が足りねえ」
「はい!」
元より、分かれて行動するような事態に備えてそう頼むつもりだった。
運転席を譲ったコナーが助手席に座るとほぼ同時に、ハンクがパトカーをUターンさせる。
急激な加速に身体は揺れ、突然のこちらの動きに警官隊にも動揺が広がるが、警部補は軽く片手を挙げて彼らに挨拶するやけたたましいサイレンを鳴らし、通りを最高速度で突っ走った。
――マーサの逃走経路は、現在地とこの通りの周辺地理情報、マーカスたちの到達予想ポイントの位置を計算すれば、かなりの精度で割り出せる。さらにナイナーのドローンからの情報によれば、現在のところマーサは、まだそう遠くまでは逃げていない。
出血した彼女の足取りが鈍っているのも、既にコナーのプロセッサは認識しているのだ。
このままの勢いで追跡できれば、きっと彼女に追いつけるはず。
しかし――
「マーカスたちとナイナーは、どうしているでしょう。なんの通信もありませんが……」
「今は信じて任せるしかねえな!」
通行止めを示す電光表示板をぎりぎりのところで避けつつ、ハンクはきっぱりと告げた。
確かに彼の言う通り、任せるしかない状況だ。それに彼らが、敵の企みにまんまと嵌められてしまうとはとても思えない。
だがもし、逃げ場のない状況にされてしまったら。
マーサを確保できなければ、事態はどこまでも悪化してしまう。
万が一の場合を考えて邪魔にならないよう、コナーはナイナーに簡潔な状況報告を送信した。
しかし実のところ、その少し前から既に、マーカスたちの離脱もまた予想外の展開に直面していたのだった。
***
――2039年6月10日 19:33
ついさっきまでいたはずのタワーが、今は遠く小さく見える。
ストラトフォードタワーの側面と屋上部分に備えつけられた巨大なスクリーンには、繰り返しの再放送として、声明を発表する自分自身の顔が大きく映し出されていた。その光景自体は、昨年の11月とまったく同じだ。
だが、状況はまったく違う。今の自分たちは警備員に追い立てられるでもなく、パラシュートを使うのでもなく、こうして速やかに空を――つまりヘリコプターに乗って、堂々とタワーを離脱しているのだから。
ひとまずの安堵の気持ちと共に、それをどことなく感慨深いもののように思いながら、マーカスは後方に向けていた視線を前に戻した。
元は軍用だった払下げ品を、革命後に新しく築いた伝手で手に入れた後、少しだけ改良を施して皆で用意したこのヘリコプターは、闇に溶け込むように外面を黒く塗られており、揺れもなく、騒音もほとんど発生させない。
声明発表が終わった後、すぐに屋上に移動したジェリコの一行とナイナーは、コナーとアンダーソン警部補たちがマーサの目を地上に引きつけている間に、待機させていたこれに飛び乗ってタワーを後にした。
パイロットとして操縦席にいるのはサイモンで、その傍らで副操縦士を務めているのはジョッシュだ。マーカスはノースとナイナーに挟まれるようにして、後部座席に座っている。
さらにその後方、およびヘリコプターの脚部ともいうべきスキッドの部分には、護衛たるナイナーが連れてきたドローンが1機ずつ控えている。本当は周りを飛んで警戒してもらうのが一番だが、いかなドローンといえどヘリの飛行速度にはついて来れない。そこで、固定カメラと万が一の時の盾役として、後ろと下にいてもらっている、というわけだ。
「……どうやら、誰もついてきてないみたいね」
ノースが、窓の外に視線を向けつつおもむろに言った。その手には、“カラーボール発射機”を油断なく構えている。
「驚いた。てっきり人間のことだから、私たちの都合なんてお構いなしに追い回してくると思ったのに」
「そこは、ちゃんと約束を守ってくれたってことさ」
軽く振り返ったジョッシュが、とりなすように言った。
「そもそも、マーカスを表に出すぶん、それ以外のところはカバーするという契約だったんだ。デトロイト市警も協力してくれたし、これも話し合いの成果だろう」
「でしょうね。このままうまくいけばいいけど」
ノースはシニカルな声音で告げて、軽く鼻を鳴らす。
――ジョッシュの言葉はもちろん正しいのだが、ノースの懸念ももっともだ。約束を反故にされるなど世の常ではあるが、今回に限っては、妨害は限りなく少ないのが望ましい。
マーカスは前方に向かい、静かに問いかける。
「サイモン。目的地への到着まで、あと何分の予想だ」
「今夜は晴れてるし、風向きも悪くない。6分もあれば着くはずだ」
フロントガラスにうっすらと反射して映るサイモンの表情は、ほのかな明るさを帯びていた。――当初、彼が航空機の操縦関連のプログラムを持っていると言い出した時は皆驚いたものだが(語りたがらない過去に関わることだろうから誰も理由を尋ねたりはしなかったが)、普段極めて慎重な彼がにこやかに言うのだから、行程はとても順調とみて間違いないだろう。
そう判断したマーカスは、次に右隣に座るナイナーに目を移した。コナーそっくりの外見に、灰色の瞳を定期的に瞬かせて前方を見つめていた彼は、視線に気づくとゆっくりとこちらを向く。
「ナイナー、君のドローンはどうだ? 何か異常は感知したか」
「いいえ。現在のところは」
淡々とそう答えた彼は、その瞳を、右側にある窓のほうへと向けた。
「しかし、あと33秒で当機はダウンタウンを離脱し、廃墟の密集するエリアに到達します。予期せぬ妨害、突発的抵抗に直面する危険性があります。注意願います」
「コナーたちはどうなの」
左手の人差し指で発射機のトリガー部分をくるくる回して弄びつつ、ノースが問いかける。
「例の吸血鬼を引きつけてるんでしょ。無事なの?」
「兄さんからは、マーサと交渉中であるとの報告が」
再びこちらに向き直ったナイナーは、なおも平坦な声音で語る。だがその目つきは先ほどよりも、ほんのわずかに柔らかくなったようにマーカスには思えた。
「マーサ・ガーランドとマーカスの遭遇は、最も避けるべき事態です。しかし現状では、発生確率は極めて低いと判断可能です」
「『今のところ大丈夫』ってことね。わかったわよ」
手短に纏め、ノースは肩を竦める。それに対して何を言うでもなく、ナイナーはその視線をまた正面に戻し――
「!」
ふいに目を大きく見開いて、彼は鋭く言い放った。
「サイモン、左方向に旋回を!」
瞬間、機内の空気が一変する。ナイナーが警告を発し終えないうちにサイモンが素早く機体を操縦し、ヘリコプターは大きく進路を変えた。するとフロントガラスの右端から空の彼方へと、一条の光を放ちつつ飛び去っていったのは【強力な熱反応】――鈍い振動が、ヘリ全体を覆う。
「今のはなんだ……ロケット弾か!?」
「誰かが下から撃ってきたってこと!? 一体どうやって」
ジョッシュとノースが驚愕するのも無理はない――と、マーカスは冷静に考えた。
今飛んできて、遥か遠くの廃墟に落下して低く爆発音を響かせているのは、彼らの言う通り間違いなくロケット弾だ。兵器としては比較的安価で取り回しの楽な、まさに武装集団だのテロ組織だの、非正規の軍団が使いそうな代物。
そしてそんなものをこちらに、つまり自分たちに向けて撃ってくるということは。
攻撃してきたのは――
「マーカス、あれは!」
今度はサイモンが、右方向を見やって戦慄したように声をあげた。
彼の見つめる先、廃墟と化した高層ビルの陰からこちらを狙うようにぬっと姿を現したのは、一機の白いヘリコプター――その側面部分には、デトロイト近郊のTV局のロゴが描かれている。だがしかし、報道用のヘリでありながら、そのドア部分はぽっかりと取り外されていた。
「……!」
疑似的に呼吸する空気の温度が、しんと冷えたような錯覚が思考を揺らす――命を狙われる時はいつもこうだ。
「ナイナー、援護を!」
マーカスが指示を飛ばすのと同時に、ナイナーが機内に待機させていたドローン“バターカップ”が、その翼を傾けて右側の窓を覆うように盾となる。
そして、やはり、それともほぼ同時だった――白いヘリからこちらに向かって、激しい銃撃が見舞われたのだ!
さらに旋回したヘリは、なんとかその射線から逃れる。しかしまるで逃げるこちらを嘲笑うかのように、下方から再び発射されたロケット弾が迫ってくる。
ナイナーがドローン経由で下方の映像をサイモンに伝達し、ヘリはぎりぎりのところで弾を退けて――それでも、状況は好転しない。
「うう……!」
サイモンが短く呻く。もちろん彼を含め、誰も被弾はしていない――今のところは。相手とはまだ距離があり、元より強固なこちらのヘリの装甲と、ドローンの盾が直撃を防いだからだ。
だが自分たちが罠にかかってしまったのだというのは、口に出すまでもなく、この場にいるアンドロイド全員が理解していた。
下からは、直撃すればこのヘリコプターなどひとたまりもない威力を持つロケット弾。そして横合いからはアサルトライフルを装備した推定4名の射手がこちらを狙い、目的地への直進を妨げてくる。
これでは、自由に身動きがとれない。ぐるぐるとこの空域に縛られているままだ。
「どういうことよ!」
苛立った様子で、しかし淀みなく足元に置いていた荷物を片手でまさぐりながら、ノースが言う。
「あのヘリ何者なわけ!? 警備はどうなってるのよ」
「……地元TV局から、取材用バンとヘリコプターおよび身分証数点の盗難被害報告が」
LEDリングを一瞬だけ黄色く光らせたナイナーが、淡々と答える。
「仮称・吸血鬼の組織が、警戒度の低いマスコミ関係者を狙ったと推測。ダウンタウンエリアの高層ビルに身を隠し、我々を捜索・捕捉したのでしょう」
「何よ、結局人間のせい? 冗談じゃない!!」
荷物から取り出した軽金属製の筒を発射機に取りつけ、構えると――それはもはや防犯グッズというよりグレネードランチャーの様相を呈しているが――ノースはこちらに言い放つ。
「マーカス、いいわね? まさか『撃つな』なんて言わないでしょ」
「身を守るための応戦は必要だ」
短く、しかしきっぱりと。
一介のアンドロイドとしてではなく、ジェリコのリーダーとしての気構えで、マーカスは続きを述べる。
「サイモン、回避行動を続けてくれ。なんとしてもローターとエンジンへの被弾は避けるんだ。ジョッシュはサイモンの補佐を。ナイナーは、射撃位置の予測とドローンでの防御を頼む。ノースは」
眉間に深く皺を刻んでこちらの指示を待つノースに対し、告げる。
「こちらもドアを外して戦闘だ。くれぐれも無理はするなよ」
「当然。あなたはどうするの?」
「自分と皆の身を守る」
答えに満足したように、ノースは唇の端を上向きにした。そして左手で無造作にドアの取っ手を掴むと、スキンを解除した手でアクセスしてロックを解除する。蝶番の部分から音を立てて外れたドアは、強化ガラス付きの一枚のシールドとなった。
「ナイナー、そっちのドアも外して! 戦いづらいでしょ」
「ノース、本当にやるつもりか」
無言のままナイナーがもう片方のドアを外す中、ジョッシュが危惧するような声を発した。
「まだその催涙弾、本当に人間に撃ったことはないだろ。万が一のことがあったら」
「どうせ人間なんて無意味にタフなんだから、これぐらいじゃ死なないわよ!」
「みんな、来るぞ!」
サイモンの一言で、二人とも口を噤む。
また下から飛来してきたロケット弾を回避した、そのタイミングを狙うかのように、白いヘリがこちらに突入してきたのだ。ヘルメットとサングラスを装備した無機質な印象の面持ちのパイロットの肩越しに、ライフルを構える人間たちの下卑た笑いが見える。
旋回直後のこちらのヘリの態勢が整わないうちに、ちょうど横合いからすれ違いざまを狙うように、向こうの機体がみるみるこちらに近づいてくる――
だがその瞬間、マーカスが構えたシールドとヘリの乗り口の隙間から突き出るように構えられたノースのランチャーが、軽い音を立ててペイント弾――を改造した催涙弾を発射した。
男のうち一人の顔面にペイント弾が貼りつき、次いで、その男はもがき苦しんでライフルを取り落とす。
「ビンゴ」
相手のヘリ内部に動揺が広がっているのを下瞰するような眼差しで、ノースはにやりと微笑んで呟いた。
「す、すごいなノース!」
「やられっぱなしは性に合わないの、よく知ってるでしょ」
サイモンの素直な称賛に、次弾を装填しつつノースは不敵に応える。
しかし、リーダーの思考を過ぎったのは焦燥だった。左右で色の違う目を鋭くしながら、マーカスはプログラム上で予測機能を実行する。
――このまま避け続け、かつノースが相手の射手を順繰りに制圧できたなら、とりあえずの危機は脱することができるだろう。
だが問題は、彼らの目的がなんなのか、だ。自分たちの命を狙っているのは明らかとして、もう一つ――こうしてこのヘリを、この近辺の空域に留めておくこと自体に意味があるとしたら。
GPSと地図情報によれば、この真下には再開発のために建設中の高層ビルが建っている。高層ビル――そして、コナーから聞いた話によれば、驚異的な跳躍力を持っているという吸血鬼の存在。
実行された予測プログラム上で、仮説ではあるが、シルエットで表現された吸血鬼が跳躍してこのヘリのスキッドに手を掛け、中に乗り込んでくる。
狭い機内では、抵抗もままならない。吸血鬼はその隙を衝き、吸い込み口を槍のように動かして、マーカスの胸を貫き――
それから先の結果は、もはや予測するまでもない。
「どうするんだ!」
洞察力を以てこちらと同じ結論に達した様子のジョッシュが、軽く振り返った面持ちを引き攣らせて言う。
「このままだと、いずれ追いつかれるぞ! 地上と空中、せめてどちらかだけでも振り切らないと」
「ヘリの連中はともかく、地上の奴は厄介ね」
再び迫ってきたヘリの射手を、ノースは狙い――しかし、今度は外して舌打ちをする。
それに、マーカスが手に構えたシールドにぶつかる銃弾の勢いも激しい。こちらは疲労知らずの身ではあるが、何発も受け続ければ、いかな軍用ヘリの装甲といえど持ちこたえられない可能性もある。
このままでは――
「大丈夫」
と、静かな声が響く。ナイナーだ。
「私のドローン5機が、地上で行動中です。何より、地上には兄さんとアンダーソン警部補……それに、私のパートナーがいます」
ドローンと共に淀みなくシールドを構え、右側の防衛を担当しながら、彼は言う。
「ロケット弾の射手の潜伏位置は特定しました。ウィリアット通りの廃教会、その鐘塔部分です」
「廃墟のエリアか。警察の援護を頼むにしても、車両が入れないな……」
「問題は皆無です」
サイモンの言葉に、ナイナーはなおも視線はこちらに向けぬまま、しかしはっきりと語る。
「当該エリアは、私のパートナーにとっては庭、のようなもの。それにマーサも……現在、追跡中との報告が入りましたが……兄さんたちならば、必ず」
「わかった」
マーカスは短く応え、さらに続けて言った。
「なら地上の皆に、応援を頼んでくれ。俺たちはできるだけ時間を稼ぐ。耐えるのも戦いだ」
「いつものようにね」
口調だけは揶揄するように、しかし目には決然とした意志を帯びて、ノースが応答した。
黙っているサイモンも、ジョッシュも、頷きを返してくる。
だがその間にも間を置かずに、熱反応と銃弾の雨が迫ってきた。
――時間を稼ぐための抵抗。かつての革命の夜と同じだ。
けれどあの時と、今は違う。今は同じ変異体以外にも、味方と呼べる人々がいる。
だから、可能な限り最善を尽くすまでだ。
覚悟は、とうに済ませている。
夜闇が徐々に濃くなっていく中、白い機体と黒い機体とは、互いを攻め合う二羽の鳥のように近づき、離れつつ、ぐるぐると旋回を続ける。
地上から放たれるロケット弾の軌跡は、何も知らない者が見れば、もしかしたら花火と見紛うかもしれない。
しかし繰り広げられているのは殺意を帯びた攻撃と、それを防ぐ必死の抵抗である。
そして地上のコナーとギャビンの元にそれぞれ、ナイナーからの通信が入ったのは、このわずか数秒後のことであった。
***
――2039年6月10日 19:46
「まずいですね」
「ああ、まずいな」
助手席のコナーはLEDリングを黄色く点滅させながら俯き気味に、そして運転席のハンクは前方の光景を見据えながら顔を顰めて呟いた。
パトカーの前、というよりははるか見渡す限り、通りは車でぎっしりの状態だ。端的に言えば、渋滞である。そこかしこでクラクションが鳴り響き、彼方からは怒号まで聞こえてくる。
当然サイレンは鳴らしているが、焼け石に水といった状況だ。車はまったく動かせない。
「どういうこった……!」
ハンクはそのまま、備え付けの通信端末を睨みつける。いわゆるカーナビの機能も果たしているその小型タブレットには、目の前のこの光景がまったく反映されていない――
と文句を言おうとした彼が口を開いたところで、ナビには【およそ3キロの渋滞】との表示が現れた。
「遅いんだよ!」
苛立ったハンクが、端末を軽く指で小突いて決まり悪そうな面持ちになる。そんな彼に対して、ナイナーからの通信を受け終わったコナーは焦りを露わに言った。
「警部補、緊急事態です。ナイナーたちは今、移動中に攻撃を受けて身動きがとれないそうです」
「攻撃だと?」
怪訝な声をあげる警部補に、さらに説明を重ねる。
「地上からのロケット弾と、TV局のものに偽装したヘリコプターからの挟撃を……それに彼らがいる空域の真下には、建設中のビルがある」
高層ビルの工事においては、しばしば建造物にタワークレーンが設置される。300メートルにも及ぶその揚程は、驚異的な脚力を持つ吸血鬼にとっては、上空へと駆けあがるための絶好の手段と化す。
「つまり、もしマーサがクレーンの先端からヘリコプターにジャンプし、中に到達してしまったなら……」
「何もかも皆お仕舞いってか」
「恐らく彼女も、それを狙って移動を始めたのでしょう」
マーサが言っていた「合図」というのは、きっとマーカスたちの居場所を捕捉したという連絡でもあったのだ。逆に考えれば、現在マーサが向かっている先も、そのクレーンのあるビルだと断定できる。事前の予測の裏付けができたわけだが――状況はまったく好転していない。
「ナイナーは地上の射手の逮捕を、リード刑事に一任したいようです」
弟のパートナーに対する信頼と、個人的に認識しているリード刑事個人の能力および人格的特徴を比較すると、何か苦いものがプログラム上に広がるのを感じるけれども――もっとも、弟の判断を疑うつもりもないが――今は言語化している場合ではない。
「私たちはこのまま、マーサを追わなくては。あとたった8分で、彼女はビルに辿り着いてしまいます!」
「つっても、この渋滞じゃ難しいぞ。いきなりこんなことになってんのも、そのロケット弾野郎のせいだろうが……」
廃墟の並ぶ治安の悪いエリアから空中のヘリに向かって攻撃が開始されたなどという事態になれば、市民たちは恐れ、あるいは野次馬根性を出して、いずれにせよ移動を開始する。
警察がストラトフォードタワー周辺やデモ活動に関する警備・誘導にかかりきりのこのタイミングでそんな状況になれば、当然、こうした突発的な渋滞が発生しておかしくない。
まったく、これまでがまるで何かの冗談だったかのように、今夜の吸血鬼の組織は用意周到で、狡猾だ。
こうなっては、もはや仕方ない。
「クソ、まずは迂回を……おいコナー、お前が調べたほうが」
端末をぽちぽち叩きつつ、「早いだろ」と繋げようとしたのだろう警部補はこちらの姿を、つまりドアを開けて外に出たコナーを見てぎょっと目を見開いている。
「すみません、警部補」
ドアを開けたまま中に向かって、コナーは決意に満ちた表情で言う。
「私はこのまま追いかけます。あなたは別ルートからの追跡を!」
「なんだと」
「私の現在地はナビに転送しますから。頼みました!」
言うが早いか、ドアを閉めたコナーは両手をパトカーの屋根に伸ばし、勢いよくその上に跳び乗った。こちらの重量を受けて車体が鈍く揺れる。振動と衝撃、さらにこちらの決断に対してハンクはさぞかし苦い顔をしているだろうが――それよりも高所に立った今、遠くまでよく視界が届くようになった。
「いた……!」
遠く、通りの向こうの商店の屋根の上に、誰もいないのに土埃が立っている。さらに、ナイナーのドローン“カトレア”からの映像が視界の端に共有された。例によってシルエット状にではあるが、マーサの――光学迷彩を発動している吸血鬼の姿が、しっかりと画面に捉えられていた。
彼女の足取りはふらついており、どこかたどたどしい。やはりあの出血のダメージは大きかったようだ。
原因もわからず、また彼女自身の精神状況も不安定のままとあっては、安否が気がかりなところだが――追いついてみれば、はっきりすることだ。
「……!」
決意のままに、コナーは足元の屋根を蹴り、前方に停車中のセダンの屋根へと飛び移った。両足での着地の重量を受けた車はパトカーよりもさらに大きく音を立て、揺れる。中に乗っている人々の短い悲鳴が聞こえてきたが、説明して安心させる時間はない。
再び前を見据え、ソフトウェアでの計算通りに膝を曲げ、跳躍の姿勢をとる。
視界の端に浮かぶ、マーサの目的地への到達までの【残り時間 -00:07:43】との表示の数字がみるみる減っていくのを確認しつつ、飛距離やリスクを解析しながら、コナーはまるで飛び石を伝って川を渡るように、次から次へと車の屋根に飛び移り、マーサとの距離を縮めていった。
停まっている車から車へと飛び移る程度の動き、最新鋭として造られたこの身には、さして難しいものでもない。
セダンから軽自動車へ、ワゴン車へ、コンパクトカーへ――
「な、何よあれ!?」
「何やってんだお前!!」
驚いて窓から外へ顔を出したドライバーが、前方にジャンプするこちらの姿を見てさらに大声をあげている。クラクションと元から聞こえていた罵声に加え、あちこちからの悲鳴が増えてきた。しかし今、それよりは、【―00:05:53】となった表示のほうが気がかりだ。
だがその時――飛び乗った車が、ゆるゆると動き出した。
「!」
振り落とされないように身を屈めてから、周囲を見渡して納得する。どうやら移動を続けるうちに、ようやく渋滞の先頭付近にやってきたようだ。となれば、マーサとの距離もかなり縮んだはず。
そう思って確認してみれば、やはり、彼女は直接確認できる位置にいた。この通りはここから先、大きく左にカーブしているが、そのカーブのすぐ近くに建っている3階建てのアパートメントの屋上に、マーサはちょうど上ろうとしているところだった。
さらにそのアパートの近くには、同じような高さの建物が並んでいる。屋上から屋上へと伝っていけば、地上を移動するのよりもずっと早く、例の高層ビルの元まで辿り着けることだろう。
ならば彼女を捕捉するのは、あのアパートの屋上が最適だ。
決断し、物理演算による予測を元に最適なルートを選択する。この車はもうじき、速度をあげてそのままカーブを曲がっていくだろう。振り落とされないように限界まで耐え、タイミングを見計らってジャンプし、あのアパートの壁に設置された古いパイプまで跳びつければ――配管はそのまま上へ続いているから、問題なく屋上まで行けるはずだ。
残り時間はみるみる減っていく。だが時機を誤ってはいけない。渋滞を抜けた車の速度はみるみる上がり、周りの車も同じように動いている。もし無様に路面に転がるようなことがあれば、待っているのは確実な死である。
そして死よりも今恐ろしいのは、ミッションを失敗することだった。
マーサは、ミリアが自分のせいで酷い目に遭ったと言っていた。
つまりミリアの身に起きた出来事の直接の原因は、コナーにはなかったのだ。
しかしそれを知ったからこそ、コナーはマーサを止めたいという願いが、自分の中でさらに強くなるのを感じる。
「己の過失」で取り返しのつかないことが起き、それを悔やむ気持ち――悔やんでも、償えないという気持ち。
それがどれだけ苦しいものなのか、今の自分はよく知っている。
マーサが復讐鬼と化した理由は、その呵責にあるのかもしれない。吸血鬼となり果てた原因は、もしかしたらその呵責を利用されたからかもしれない。
ならば――
と思考するその間に、車がスピードをあげつつ、カーブに差し掛かる。最適な位置に到達するまで、あと3秒……2秒――
「!」
瞬間、しゃがんだ状態から大きく身を伸び上がらせるようにして、コナーはアパートの壁面にジャンプする。
そして事前の演算通りに、パイプにうまく跳びつけた。
人間であれば一息つくだろうが、この身にそれは必要ない。するすると配管を上り、屋上のへりに手をかけ、そのまま一気に上がってみれば――
そこに、マーサがいた。
光学迷彩を発動していても、上空を飛ぶドローンがその姿を捉えている。
「動くな!!」
こちらに背を向け、今にも移動しようとしていた彼女に向かって、コナーは鋭く叫んだ。
制止を受けて、マーサは光学迷彩を解除し、ゆっくりと振り返る。その足取りがわずかに乱れているのを、プロセッサが感知した。
「……刑事さん」
ふらつきながらも、彼女は怯えた様子もなく語る。
「どうして、私たちを追うの? 邪魔しないで……娘のためなの」
「マーカスを殺しても、娘さんのためにはならない!」
決然とコナーは告げた。
「あなたは自分を責めるあまり、周りが見えなくなっているだけだ。思い出してください! あなたの娘さんは、誰かを傷つけて喜ぶような子では」
「利いた風な口をきかないで!!」
マーサは、初めて激高したように叫ぶ。
「あなたが娘の何を知っているっていうの。娘と私たちの……ぐっ」
激しく咳き込んだ彼女は、胸を押さえてまたふらつき、大きく肩を揺らして呼吸している。
理由はまったくわからないし、スーツ越しでは正確な診断もできないが、彼女自身のダメージは相当なもののようだ。
だが今はなおもきっぱりと――そう、わざと挑発するように、コナーは続ける。
「私はアンドロイド……あなたより動きは早く、疲れることもない。たとえ今ここであなたが逃げだしたとしても、必ず追いつきます。もう何をしても無駄ですよ」
「……。ええ、そうね」
――マーサの纏う空気が、変わった。
ゆらりと身を動かし、こちらをまっすぐに見据えた彼女は、腕に取りつけられた吸い込み口、あの「槍」を上空に向けて構えると、静かに言う。
「それなら、コナーさん。残念だけど、やっぱりあなたには……ここで、ミリアのご飯になってもらうわ」
無言のまま、コナーは身構えた。
持てるソフトウェアを最大限に活用し、彼女の動きを見逃すまいと目を見開く。
吸血鬼の戦闘術は、これまでに得た情報の蓄積でかなりの部分まで分析できている。
大丈夫、負けはしない。
それはつまり、マーサのこの場での確保が可能だという意味だ。
だがもし、懸念があるとすれば――
コナーが睨むマーサの姿、その遙か後方で、ロケット弾が一条の光となって空に放物線を描いている。
それが地上に着弾した振動がこちらにまで伝わってきた、その刹那に、吸血鬼は地面を蹴り、こちらに殺到してくるのだった。
続きはできれば数日内、遅くとも一週間以内に更新します!
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第29話:子守歌 中編/Keep Breathing. Part 2
――2039年6月10日 19:51
けたたましい無数のクラクションと怒声、近づいたり遠ざかったりを繰り返すいくつものサイレン音、何より何度も大地を揺らしてこちらに響き渡ってくる爆発音が、鼓膜を煩わせる。
元からおめでたく“賑やか”だった夜が、さらに輪をかけて騒々しくなってしまった。
――今日は独立記念日でも感謝祭でもねえんだがな。クソが。
イライラした気持ちのままにギャビンはぎりぎりと奥歯を噛みしめ、しかしその歩みはしっかりと、廃墟が占めるエリアへと進んでいく。
すべて計画通りに進んでいた、はずだった。
ハンクとコナーの野郎どもが吸血鬼を引きつけ、ポンコツ備品はジェリコのアンドロイドと一緒に、空からヘリで離脱する。
万が一の時のためにストラトフォードタワーのすぐ近くの道路で張っていたギャビンは、ヘリが無事に飛び立ったなら今日はお役御免になる予定だったのだが――
『リード刑事、緊急事態です』
5・6分ほど前、緊急だとかいうくせに相変わらず棒読み口調のポンコツアンドロイドからの連絡を受けたせいで、そうも言っていられなくなってしまった。
面倒くせえ、といううんざりした気持ちとひりついた緊張――それに吸血鬼確保に向けた野心が齎すほのかな期待を胸に「何やらかしたんだてめえ」と問い返そうとしたその時、遠くから映画のごとき地響きと悲鳴が聞こえてきて、事態を察した。
どうやらアホがロケットランチャーをぶっ放し、地上からヘリを狙っているらしい。
おまけに備品の話では、わざわざ別のヘリコプターまで用意して、マーカスたちを空で追い回しているのだという。
『彼らの目的はマーカスの殺害です。我々を挟撃し、逃走を阻止しています』
車内――アンドロイド刑事の淡々とした声が端末から響いた。
『ロケット弾の射手が潜伏する地点の予測は完了しています。リード刑事、あなたの援護を要請します』
「は? なんで俺が」
『予測潜伏地点はウィリアット通りの廃教会、その鐘塔部分です』
声と同時に車載の端末に地図が表示されたが、見るまでもなくギャビンの脳裏を過ぎったのは、20年ほど前までしょっちゅう入り浸っていた「遊び場」の光景だ。
ウィリアットの、あのいかにも古臭いカトリックの廃教会――神父も信者も姿を消した石造りのその建物は、秘密基地にするにも戦争ごっこをするにもちょうどいい広さだったし、当時から今も鳴らす者のいない鐘の設置された塔は、確かに空中にあるものを狙うにはうってつけの高さだった覚えがある。
あの辺りは、再開発のエリアにも含まれていない。
となればその周辺の環境は、ギャビンがよく知っているものとさして変わっていない、はずだ。オンボロの建物がそびえる街並みも、壁に空いた抜け道や、隠れ進むにうってつけの細道やなんかも。
――なるほど。それで俺をわざわざご指名ってわけですか。光栄だね、ポンコツども。
『当該区域には、現在警察車両の進入は困難です。しかしあなたなら』
「あーはいはい、わかりましたよ」
備品の言葉をわざとおどけた口調で遮り、ギャビンは「ハッ」と短く笑う。
「さすがの人選、痛み入るね。ジェリコのリーダー様を救う人間代表に選出ってワケか」
『リード刑事、私は……』
「いいか、ハッキリさせとくけどな!」
ぼそぼそと何ごとか告げようとしたポンコツの言葉を再び遮ると同時に、全力でアクセルを踏んだ。警察の張った規制線の向こう、大通りにはかなり車が集まっている。素直にウィリアット通りまで向かおうとすれば、間違いなく渋滞とカチ合うだろう。
だが当然、このギャビン・リードはウスノロではない。
ここから廃教会に行くルートなんて、何を調べずともいくらでも思いつく。人生の三分の一ほどの時間をあのエリアで過ごした自分にとっては、褒められるまでもない当然のことだ。だから――
「俺はてめえらのお有難いリーダー様のために行くわけじゃねえ。ただ」
『はい、理解しています』
告げようとした続きを、端末から届く低い声が掻き消す。
ポンコツのくせに、ひとのセリフを邪魔しやがった。ポンコツのくせに!
『あなた自身の名誉と昇進のため、援護を要請します。リード刑事』
「……」
その声音がどこか、うっすらと“喜んで”いるように聞こえてしまうのに腹が立つ。
ただの機械が当然持っているはずのない御大層な「感情」を、奴の言葉に見出してしまっている自分自身にも。
しかしギャビンはその苛立ちをすべて「この状況」、つまり人様の迷惑を顧みずにロケット弾を花火のように打ち上げているクソ野郎がいるという事実に向け、それ以上は考えないようにした。
「わかってんじゃねえか、ポンコツが」
ハンドルを繰り、車をどんどん裏道へと走らせながら、ギャビンは嘯く。
「てめえらのリーダー様がブッ壊されようが、撃ち落されようが知るかよ。せいぜいビビって股から廃液でも垂れ流してるこったな、プラスチックども!」
乱暴にそう言い放ち、自分の言葉に自分一人で笑って、ギャビンは通信をOFFにした。
そう――マーカスがどうなろうが、知ったことではない。奴らの高邁な革命の精神だの、平等な権利だのなんか死ぬほどどうでもいい。
しかし今夜の警備計画の一端を担う立場上、援護要請を受けて黙っていては、懲戒処分というだけじゃなく、後で署の連中からどれだけナメられることか。
それに万が一デカブツ備品が壊れてサイバーライフに文句を言われたら、将来の出世の見込みがゼロになる取り決めなのである。乗っているヘリが撃墜されれば、さすがの備品といえどもスクラップになってしまうだろう。
だが逆に、今そのアホなロケット弾野郎を逮捕できれば、手柄は間違いなく自分ただ一人のものとなる。
そして備品野郎はポンコツだが計算は得意な(と認めてやってもいい)奴だ――奴が予測したというのなら、ほぼ確実にその廃教会に、ロケット弾野郎がいるはずだ。
であれば、やるべきことは決まっている。
クズ野郎を逮捕して、分別ってモノをわからせてやる。
――そうだ、どうしてもマーカスをブッ壊したいのなら、俺に関係のないところでとっととやればいいんだ。それもできずにわざわざ今夜こんな真似をしやがって、手間かけさせた罰にたっぷり痛めつけてやる、クソったれ。
仄暗い考えを重ねてニヤニヤと笑いながら、ギャビンが運転する車は速やかに、廃墟のエリアの南端に着いた。ここから先は車が入れないような細い道が多い。つまり、降りて歩く必要がある。
たった一人での突撃――しかし恐怖などさらさらなく、さながら獲物を狙う豹のごとく豪気かつ堂々とした心持ちで、ギャビンは廃屋の立ち並ぶ街へと足を踏み入れたのだった。
そして、現在。
「チッ、相変わらず埃臭え……」
ぼろぼろの壁と壁の隙間にある、わずかなスペース――ホームレスですら住処にしようとしないほど狭く、土埃が滞留している場所を横向きになって通り抜けつつ、ギャビンは独り言ちる。
こんな場所を通っているのは、ひとえにバレないためだ――高い塔の上にいる相手の元に向かうのに、正直にトコトコ歩道を歩いていくのは単なる馬鹿の所業である。上から丸見えの箇所を通っては、敵にこちらの存在を悟らせてしまう。
だいいち記憶によれば、あの鐘塔は最上部まで螺旋階段を上る必要があり、出入り口は一つきりだ。裏からこっそり入るなんて真似ができない以上、こうして見えないようにしながら徐々に近づいていくのが、最善手といえた。
――断続的にロケット弾が地面に落ち、地響きを立てているところから考えて、どうやらまだプラスチックどもの乗るヘリは無事らしい。だがいつまでもこのままではいられないだろうし、いくら着弾地点が廃墟とはいえ、あまり時間をかければ被害も拡がる。そうしたら後の書類仕事が面倒だ。
ここは砲を向けられているのとは真反対側のエリアだから、爆発に巻き込まれることはないだろうが、それでもこんなに地面が揺れ、割れずに残っている窓ガラスやなんかがビリビリと音を立てている――
考えながら歩を進めるうちに、ようやく開けた場所に出た。崩れかけた壁をくぐり抜け、とある廃屋の裏庭にあるテラスの下に立ち、ギャビンは胸元にこびりついている埃を忌々しげに手で払い落とした。
するとふいに、視界の真横に何かがぬっと姿を見せる。
「なっ!?」
すかさず銃を抜き放って構えてみればそこにいたのは、というより宙を浮いていたのは、ポンコツ野郎のドローンだった。白と黒に塗られた三角形の羽根の端に、「No.8」との刻印が見える――
「確か……ヘレボラス、か?」
思わずぼそりと口に出すと、相手はその場に浮いたまま、ただ下部に設置されたカメラのフォーカスリングだけをキュルキュルと回した。
その動きに、備品野郎がよくやる(コナーもよくやっている気がする)あの「首傾げ」をなぜか思い出し、イライラしながらギャビンは問いかける。
「おいポンコツ、てめえドローン寄越すなら先に言っとけよ」
しかし、プラスチック刑事からの返事はない。
「聞こえてんのか!?」
――やはり返事はない。
うっすらと決まり悪いような心地がしながら、思い出したのは、いつだったかのポンコツの言葉である。
「ドローンは半自動運転できる、だったか」
どうやらポンコツ野郎は、ジェリコのお仲間ともどもお空の上でそれなりの危機的状況にあり――そっちにかかりきりなので、とりあえずドローン一機をこっちに回し、お供につけたということなのだろう。
ここまで斟酌してやったんだから後でせいぜい感謝しろよ、クソ。
「……黙ってついて来い。いいか、邪魔しやがったらブッ壊すからな」
通じているのかいないのかは知らないが、ともかく人差し指を突きつけてドローンに「警告」してやると、ギャビンは再び移動を開始する。するとドローンはいつも通り音も立てず、ひっそりとついて来た。
不良どもが描いたアートとも呼べない落書きが施された壁の隙間、朽ちたベッドとクロゼットが無人の時間の長さを物語る廃屋の寝室、かつては賑わっていたのかもしれない商店跡――
そんな煤けたような臭いの漂う場所をするりと通り抜け、しばらくして辿り着いたのは、目的地たる廃教会。
記憶にあるのと、ほぼ変わりない佇まいである。
「……」
庭園の枯れ果てた低木の間を走り、教会の壁際にまでやって来て身を寄せてから、ギャビンは鋭い眼差しで辺りを見渡した。
覚えていた通り、鐘塔はこの教会堂からほど近い場所に、まっすぐに天を貫く白い槍のようにそびえ立っている。その最上部、鐘が吊られた屋根の下には壁がなく、ただ四本の柱が四隅を支えるのみだ。そしてその柱の間から今また一つ、火花が空に軌跡を描いている。
――見えた! 動く影が見えた、クソ野郎だ。否、人影はもう一つあるから「クソ野郎ども」か。
ロケットランチャーを携えていい気になっているクズと、もう一人、そいつに弾薬を渡している奴もいるようだ。なるほど、ロケット弾は一発につき2・3キロの重量があるらしいし、それをああして何発も連続して撃つからには、弾運び専用の仲間も要るのだろう。
そしてランチャーを構えたクズはといえば、“的あて”に失敗したのも気にせず、ヘラヘラと笑っているようだ。風に乗って、かすかに男の声が聞こえてきた。
ゲーム気分か? それにしたって警戒心もなくあんなに吞気にして、やはり吸血鬼の組織の野郎どもは教育が足りていない。
だが逆に言えば「確保は簡単」、そういうことである。
ニヤリと笑って結論づけ、改めて銃を抜いて構えると、ギャビンは足早に鐘塔へと近づいた。朽ちかけた木製のドアをそっと押し開け、中を覗いてみても、思っていた通り誰もいない。
ここにいるのは自分と、上階にいる二人のみ。人数的にはこちらが不利だが――
と思いつつ振り返れば、そこにはドローンが浮いている。
こいつには、半自動運転でもある程度までなら状況を判断して動く機能が備わっているというし――それに確か、網を射出する機能があるはずだ。塔を上り、その機能で一人を押さえている間に、もう一人にこちらが銃を突きつけて降伏させれば、制圧はわけないだろう。
速やかに算段を終え、ギャビンは再び鐘塔の一階部分に視線を向けて、扉の隙間からゆっくりと身を滑り込ませた。最上部までは吹き抜け構造になっている塔の内部は、ただ螺旋状に続く階段があるのみ。
一歩踏み出すと、積もった砂礫が靴底で擦られてじゃり、と小さな音を立てた。
これ以上は音を出さないように、しかし可能な限り歩を速め、上へ上へとひたすら階段を昇っていく。
そして、少しだけ息が荒くなりはじめた頃か――ついに、最上階が見えてきた。最上階の床と階段の間を塞ぐ扉はなく、上ればそのまま顔が出るようになっている。
ギャビンは2秒かけて、呼吸を整えた。そして両手でしっかと銃を構えた状態のまま、勢いよく上階へと駆け上がる。
「おらっ、大人しくしろ!!」
顔を出した瞬間に見えた人影に向かって、揺るぎなく銃口を突きつけた。眼前にいるそいつは、タンクトップを着た大柄な黒人の男だ。
ギャビンが銃を構えているのを見て取ると、そいつは何を言うでもなく持っていたロケットランチャーをおもむろに床に下ろし、ゆるゆると両手を上げる。
だがその時、ギャビンの目に映ったのは青い光――気づいたのだ。男のこめかみには、LEDリングがある。
それを認識するのと同時に、鼻筋の古傷がずきりと痛みはじめた。
――なんだ……!?
本能的なところからくる警告に、思考が激しく脳内を行き交った。
こいつ――銃を突きつけられてるのにこの無表情と無抵抗ぶり、それにLED。間違いない。記憶を消され、働かされている脱法アンドロイドだ。どうやら見たところ、大荷物だのを運ぶのが専門のモデルのようだが。
しかしさっき下からではわからなかったが、ランチャーを持っていたってことは、こいつがここからヘリを狙ってたのか?
刹那、「否」という言葉が閃く。
そうとも、絶対にあり得ない。脱法アンドロイドどもは、革命前のアンドロイドと同じだ。軍用モデルか、コナーの野郎のような特殊なモデルでもない限り、銃を持てという命令には従わないはず。まして撃つなんて。
ということは――!
そうだ、もう一人はどこだ!
時間にして約1秒、考えに至ったギャビンが態勢を整えるよりも先に、背後で猛烈な殺気が膨れ上がる。
クソが、隠れてやがったか――! と振り返りざまに撃とうとしたその時、こちらを庇ったのは、ドローンの白と黒の盾。
「……!」
ガキン! と金属が金属を跳ね返す高い音が耳を劈き、塔の石製の手すり部分に、跳弾がわずかに傷をつける。
ハッと息を吞みつつも、ギャビンがドローンの盾越しに見上げればそいつは、つまりこちらの背後を銃で狙った奴は、一本の柱の上部にあるわずかな凹みに片手の指を掛けて縋りつき、もう片方の手でマグナムを構えていた。
要はああして柱に取りつくようにして、上のほうに身を隠し機を伺っていたらしい。曲芸師みたいな野郎だ。年の頃は40代半ばだろうか、赤毛で髭面でガタイがよく、白い肌は脂汗で塗れている。だというのに、その目だけは爛々と輝いてこちらを見据えていた。
――最高にキモい野郎だ。
そしてこんな気色悪い曲芸師もどきに、まんまと一杯食わされそうになったという事実にさらに腹が立つ。ドローンがいなければ実際、ブッ殺されていたかもしれない。クソが。
「動くな、クソったれ!!」
改めて銃を向け、ギャビンは鋭く怒声を発した。
「俺を撃つとは、いい度胸してんじゃねえか。その脂ギトギトの眉間にブチ込まれたくなかったら、とっとと降りて来やがれ!」
「へへへへへへ」
親切な忠告を聞いた男は、口の両端をニッと吊り上げて笑い声を漏らす。
血走った目、汗、妙なテンション――典型的なレッドアイス中毒患者だ。だが全身から放たれている強烈な殺気と、奇妙な態勢のままだというのに寸分も揺るぎなく片手で銃口をこちらに向け続けているその身のこなしが、こいつがただ者でないことを物語っている。
「へへへへ、はは、なんだ。誰が来るかと思ったら、ポリ公が一匹か」
ニヤニヤと侮蔑的に笑いながら、男は続けて言った。
「あんなにドタドタ階段を上がってきやがってよぉ。どんなマヌケ野郎かと思ったらよぉ。雑魚くせえ人間の刑事とはな、へへへへへ」
――階段を上る足音がバレていて、その時から隠れていやがったのか。無駄に勘のいい野郎だ。
と頭にわずかに残った理性的な部分が考えるが、残る部分は「マヌケ」「雑魚」という語を相手が言い放った時点から、全会一致でこう訴えている。
こいつにぶっ放せ、と。
「んだとクソが!!」
ブチ切れたギャビンはすかさず男に発砲した。とはいえさすがに狙うのは奴が柱に縋りついているその手だが、男はというとまるでそれを予期していたかのようにパッと手を離し――こちらの銃弾は虚しく石柱を削る――床に着地するまでの数秒の間に4発、過たずこちらに撃ち込んでくる。
そしてそれら全発を、素早く動いたドローンの盾がすべて遠くの空に弾いた。
「チッ……!」
「ひひひはははは!!」
こちらの舌打ちの何が面白いのか、気色の悪い哄笑を夜空に響かせた男は、今度は両手で銃を構え、じりじりと横移動を始めた。
自然、こちらも男を正面に見据えたまま横に動くので、ギャビンと男とは互いに向き合ったまま、ぐるぐると塔の頂上で牽制しあうような形になる。ドローンもまた、こちらの動きに追随して飛んでいる。
一方で脱法アンドロイドはといえば、両手を上げたまま中央付近の場所でぼんやりと佇んでいるばかりだ。
「へへへへ、へへ、知ってるぞオレは」
誰も何も言わないうちに、べらべらと男は語りはじめる。
「デトロイト市警には、へへ、アンドロイドの刑事様たちがいるんだってなあ? オレはてっきりそいつらと遊べるのかと思ったのによ、へへへ、人間相手じゃしょうがねえなあ」
「ああそうかよ。今にそんな軽口も叩けなくなるぜ、おかわいそうにな!」
クソ野郎のクソ舐めくさった戯言に言い返してやりつつも、ギャビンは内心、
――こいつに銃弾をブチ込んでやれるイメージが湧かない。
より正確にいえば、この男に隙が見当たらない。こいつはこんなにもべらべら好き勝手に喋り、ニヤケた面をしているというのに――喧嘩に明け暮れた廃墟での生活、そして約18年の警官生活で培われた獣じみた勘が、鋭い警告を発しつづけている。
鼻筋の古傷も、さっきからずっと鈍く痛んだままだ。
チンピラでありながら、ロケットランチャーをほぼ一人で扱う技術。そして、あの体格とこの隙の無さ。もしかするとこいつ、元軍人というやつだろうか。
かつて実働部隊のうちのかなりの人員がアンドロイド兵にとって代わられた、つまりそのタイミングで食いっぱぐれる羽目に陥った、“人間の”軍人の生き残り。
ならばこいつがレッドアイス中毒なだけでなく、吸血鬼の組織の下っ端なんてやっている理由もわかるし――何より、このギャビン・リードに冷や汗を少しでも掻かせる理由になる。クソったれ。
ギャビンの経験上、食い詰め者の元軍人ほど性質の悪いものはない。
訓練でその身に染みついた鋭さや膂力、戦闘技術を犯罪に転用されれば、例えばそいつがただの酔っ払いであろうと並みの警官では歯が立たなくなるのを、巡査の時代によく思い知らされていたからだ。
そんな野郎と、こうして思い切り殺意剥き出しで睨み合うことになるとは運が悪い。
このタイミングでドローンに網を発射させるというのも、いいアイデアではない。もしそんなことをすれば、その隙にすかさずこいつは発砲してくるからだ。その弾が当たりでもしたら――
「へへへへへ、へっへへ、どうしたよポリ公。オレが怖いのか?」
果たして、向かいの男はそんな口を叩いてくる。
「当然だぜ。オレは、よぉ、陸軍の特殊部隊にいたんだぜ? 元グリーンベレーだぜ、なあオイ。アンドロイド刑事におんぶにだっこのクソ雑魚ポリ公が勝てるもんかよ」
「てめえ……!」
「へへへへ、こんなことならお前なんか無視してヘリと遊んでてもよかったなあ? どうせ隅っこで震えてるだけならよ……邪魔もされなかっただろうぜぇ!」
ふいに語気を強めるやいなや、男は哄笑と共にマグナムをぶっ放してきた。
断続的に何発も、何発も――いったいどれだけ銃弾籠めてやがるんだ? 改造銃か何かか、曲芸師もどきの分際で!!
さすがのギャビンも構えを解いて走って避けるしかないのだが、なにぶんこの場所は狭く、身を隠す場所もない。ドローンがまるで銃弾が止まって見えているかのような正確さで動き、すべての銃弾を弾き飛ばしているものの――いくらこいつが頑丈でも、そういつまでも耐えられるものだろうか。
そう思った視界の端に映ったのは、ゆっくりと床に両膝を突くアンドロイドの姿だった。
あの脱法アンドロイドだ。見ればその大柄な身体に、いくつも青い風穴が空いている。その足元に、みるみるうちに真っ青な血溜まりができていく――
無表情なそのこめかみで真っ赤に点滅していたLEDリングの光が、すっと消えた。
「は……?」
「へへへはははは!」
男はそれを見て発砲を止め、愉快そうに笑った。
「た、たっ、弾運びに連れて来た奴がよぉ、的になっちゃあしょうがねえよなあ。まあデカブツのくせにンなとこに突っ立ってるのが悪いか。代わりの機械なんていくらでもいるしよぉ!」
ははははは、と勝手に一人で嗤っているそいつを見て――
「……」
凄まじい勢いで、様々な思考が頭の中を駆け巡るのをギャビンは感じた。
そうとも、そいつはただの機械だ。だからこそ、命令を出されていないからそいつはそこに佇むことしかできず、身を守れなかったわけで――違う。
ああ、あの備品に慣れきっていたせいで忘れていたが、アンドロイドどもはちょっとしたことですぐに壊れる精密機器サマで、撃たれればすぐこうして血を流して――違う。
ここまで連れて来た、曲がりなりにも自分の「道具」である奴を、自分でブッ
今考えるべきなのはこんな言葉じゃない。
思考を振り払い、削ぎ落とし、ギャビンはただ一つだけを考えるようにした。
――こいつの、この気持ち悪いニヤケ面を消してやる!
決意すると同時に、脳裏を過ぎった直感に従って、ギャビンはちらりと上方を見やった。
となれば、腹を括って
「――“ヘレボラス”!」
大声で、ギャビンはドローンの「名」を呼んだ。しかしそれがドローンの「名」だと知らない男のほうは、ポリ公が唐突に叫んだ言葉の意図がわかりかねて一瞬身動きを止める。
その隙を衝いて、ギャビンは構えた拳銃の銃弾を天井に――吊るされた鐘に向かって3発撃ちだした。鉛玉の直撃を受け、鐘は約数十年ぶりに、鈍く歪んだ音を周囲に響かせる。
「ハ……!」
男はポリ公を嗤った。何をとち狂って、鐘なんか撃っているのか。あれで仲間を呼ぶつもりか? 馬鹿げている。見れば、奴をそれまで守っていたドローンもいない。チャンスだ。遊びはここまで、ブッ殺してやれ――
余裕綽々で、トリガーにかけた指を動かそうとしたその時。
あり得ない方向から飛んできた弾丸が、銃を握る男の手を正確に撃ち抜いた。
「ぎっ……!」
次いで足が、脇腹が、飛んできた弾丸に抉られる。致命傷ではない、それでも強烈な「痛み」だけが脳を支配し、それ以外は考えられなくなる――
「ぎゃあああああっ!」
ニヤケ面ではいられなくなった男は、銃を取り落とし、そのまま床で悶え苦しんでのたうち回っている。
「……ハハッ」
それを見て短く笑いを零したのはギャビンである。
その頭の横に“ヘレボラス”が音もなく戻ってきて、滞空する。
単純な話だ。鐘に向かって発砲し、鐘が弾いた銃弾をさらにドローンに弾かせて、男にブチ当ててやったのだ。コナーとポンコツ備品が橋の上で吸血鬼相手に大立ち回りした時に、似たようなことをやってのけたのを覚えていただけだ――
それにしても。
――あのポンコツのドローンにしては、まあまあ悪くない仕事したじゃねえか。
そんな言葉も浮かんだが、何か自分らしくないような気分がして、ギャビンは口を噤んだ。それから、豚より汚い悲鳴をあげている男の近くに歩み寄ると傲然と見下ろし、唇の端を吊り上げて言い放つ。
「なあオイ、もしもし? 誰がクソ雑魚ポリ公だ? あぁ、クソ雑魚グリーンベレー様がよ!」
言い終えると同時につま先で男の股間を蹴り上げてやると、奴は面白いくらい高い叫び声をあげた。
「てめえの立場がわかったか、わかったかってんだこのクソが! そりゃあてめえはプラスチックどもに取って代わられるだろうなあ、仕方ねえよなクソ雑魚だからよ!! 雑魚の分際でこの俺に楯突きやがって、思い知れこのクソが! クソが!! クソが!!!」
語気を強めるのに合わせて、蹴りをさらに何発も入れてやると、途中から男は白目を剥いて何も言わなくなった。
とはいえ、加減はしている。死んではいない、気絶しただけだ――
その証拠に、こいつの胸は激しく上下しているし、身体もガクンガクン元気に痙攣している。
「……!」
ふいに全身の緊張が解けたような心地がして、ギャビンはその場に座り込んだ。
見上げた空では、プラスチックどもが乗る黒いヘリと、白いヘリとがぐるぐる追いかけっこに興じている。とはいえ――ロケットランチャーは今、冷たい石の床の上に置かれて、静かに横たわるばかりである。
「聞こえてんのか、ポンコツ!」
ドローンに向けて、ギャビンは声をあげた。
「もう面倒なんか見ねえからな、クソったれ。後は、てめえらのケツはてめえらで拭きやがれ」
言い終えるのと同時に、ギャビンは、消えた鼻筋の痛みの代わりに、右腕がじんじんと痛むのに気がついた。見ればジャケットの一部が裂け、その下に鮮血の滲む傷ができている。
「チッ」
どうやらいつの間にか、弾が掠めていたらしい。――後で、ポンコツ野郎に文句つけてやる。
そうは思いながらも、今は動くことができず、ギャビンはしばしその場で息を整えていた。
応援のパトカーのサイレンが廃墟のエリアに近づいてきたのは、その数分後のことだった。
***
――2039年6月10日 19:54
「さよなら」
こちらに迫るマーサの腕にとりつけられた、ホースとその吸い込み口――鋭い「槍」の先端が、コナーの胸元めがけてまっすぐに近づいてくる。
常人であればまず見切れないほどの速度ではあるが、しかし視覚プロセッサは物理シミュレーションソフトウェアの演算を元に、その軌道の予測を表示している。かつ、正確にその形状を認識していた。
本体と同じモスグリーン色に塗装された槍の先端は、今日も鋭い。もしあれに貫かれれば、以前地下室での一戦でそうだったように、プラスチック製のこの身体は簡単に傷つけられ、ひとたまりもないだろう。
だが思っていた通り、マーサが振るう槍は直線的な動きしかできない。理由は簡単、あれはマーサ自身の腕力や技術で振るわれているものではないからだ。
コナーは右足を軸に、全身を左90度の方向に翻すことで攻撃をいなしつつ、視線をホースを繰り出すマーサの手元、つまり右腕に向ける。
槍を繰り出す瞬間、彼女はちょうど前方にパンチをするように、腕をまっすぐに伸ばしていた。だがその拳の突きの速度と、槍の穂先が繰り出される速度とは明らかに一致していない――槍のほうが、ずっと速い。
なぜか。その答えは、右腕にとりつけられたアームリング状の装置にある。ホースと腕とを固定するその装置からは、槍が繰り出される前後のみ【電磁力】の作用が検出されている。
つまり吸血鬼の槍はこの装置を経由することで、電磁力により爆発的な推進力を得て、いわば高速で前方に「射出」されているのだ。ちょうど土木工事における杭打機や、油圧ブレーカーと同じような機構である。
したがって槍の動きは、「まっすぐに射出されて、元に戻る」という直線的なものにならざるを得ない。その代わりに、細身のマーサでも武術の達人のごとき速度で繰り出すことが可能になっているわけだ。
かつて地下室の戦いで、マーサは天井裏から室内のコナーとハンクに向かって苛烈な攻撃を仕掛けてきたが、あれもこの機構の働きあってのものだっただろう。
いずれにせよ、タネが割れてしまえば対処法も決まってくる。残念ながら腕の装置は【ハッキング不可能】ではあるが、攻撃しているマーサ自身の身のこなしは(彼女がダメージを受けているのを考慮しても)戦闘訓練を受けていない一般人レベルのものである。
それに彼女は、アキリーズのような銃器の類は一切装備していない。武器といえるのは、槍を除けば、せいぜい左足首付近に備えつけられているサバイバルナイフくらいのものである。
捜査補佐専門モデルとして造られたこの身ならば、問題なく制圧できるはずだ――
わずか1.5秒のうちに分析機能を用いてそこまで判断したコナーは、速やかに、自分の眼前に伸びている槍に向けて両手を伸ばした。
「!」
だが、その動きをマーサもまた捉えていたのだろう。彼女は瞬時にその場で後ろに飛び退り、こちらから距離を取る。
必然、伸びていた槍もそれに従って真後ろに動いてしまう。コナーの諸手は虚しく空を切った。
惜しい――
そう思いながら、再びマーサに対して向き直る。
すると彼女は、どこか苛立ちを滲ませた声音で語りだした。
「動かないで、刑事さん……! そうすれば、一撃であなたを救ってあげられるのに」
「血を吸われることが“救済”になるとは、到底思えませんね」
冷静に応えつつ、コナーは再びマーサの様子をつぶさに【分析】した。
彼女は、もはや、まっすぐ立つことすら覚束ないようだった。スーツ越しでもわかるほどにその呼吸は荒いままであるし、本来なら使ったほうが有利なはずの光学迷彩機能も起動していない。
光学迷彩に伴う演算をどうしているのか、という話は昨日ハンクとしたばかりだが――その機能の詳細がどうあれ、あれはマーサが消耗している状態でも容易に使えるものではないらしい。
こうなってくると、マーサ自身の健康状態が気がかりだ。戦闘が長引けば、無意味に彼女を疲弊させてしまう。そしてこれ以上疲弊させてしまえば、マーサの生命に取り返しのつかない事態が起こりかねない。
「……」
思考しながら、マーサの後ろに広がる空に目を向けて気づく。例のロケット弾の発射が、止んでいる。ナイナーの言っていた通り彼のパートナーが、つまりギャビンが、射手を確保したのだろうか。
ならば――マーカスの身に関する懸念事項のうち一つが消えた今、もう一つに対処できるのは、ここにいる自分だけだ。
マーサのためにも、なんとしても速やかに事態を収拾しなくては。
決意を新たに、コナーは迎撃の姿勢をとった。右手を前に、左手を奥にした基本の構え。ナイナーの行動から学習した体勢だ。
するとそれに合わせたかのように、マーサは再び槍を射出してきた。今度もまた、こちらの胸元めがけて――
「!」
否。
彼女が繰り出した槍の穂先は、なぜかこちらを大きく逸れ、左1メートル程度の空を切っている。
消耗のせいで、狙いが逸れたのか――という思考が過ぎったその刹那、それが誤りだと理解する。
マーサは槍を伸ばした状態のまま、右手を大きく振りぬいてきたのだ。
「……!」
なるほど。槍の柄の部分でこちらを打ち、体勢を崩したところで素早く二撃目を叩きこむ算段のようだ。
だがその程度の反撃は――既に予測している。
迫ってくる槍の柄、つまりタンクのホースにあたる部分を、コナーはまず伸ばした左手でしっかと掴んだ。しかし片手では槍の勢いを止められない。掴んだ左手ごと柄がさらに迫ってくるタイミングで、コナーは予備動作なく、思い切り、その場にしゃがみ込む。
「な……!?」
マーサから動揺の声が漏れる。
今や彼女の槍はコナーの左手に掴まれたまま、ちょうど彼の頭上に向かって斜めに伸びるような状態で固定されていた。
こうなれば当然、マーサはさっきのように槍を元に戻そうとするだろう。
だがもう、そんな猶予は与えない。
しゃがみ込んだまま、コナーはもう片方の手をホースに伸ばして添える。
そして両膝を折り畳んだ状態から前方に勢いよくジャンプし――両手はホースに添えたままである――両足の裏を鋭く前方へと突き出し、装甲に包まれたマーサの胸部を強烈に蹴り飛ばした!
「ぐっ」
堪え切れず、マーサの身体は後方に飛ぶ。もちろんこの程度の攻撃、吸血鬼のスーツの強靭さを考えれば、彼女自身へのダメージはほとんど皆無に等しい。物理的に後ろに押し出されてしまっただけで、大した問題にはならないだろう――
キックの瞬間、コナーがホースを両手で握り、しっかりと固定していなければ。
「あっ……!」
事態に気づいたマーサの口から漏れたのは、今度は後悔と驚愕がない交ぜになったような声である。
しかしコナーのプロセッサがしっかりと捉えているように、状況は彼女にとってはこの上なく不利に、そしてコナーにとっては予測の通りに進行していた。
単純な原理だ。伸びたものを固定された状態で、吸血鬼本体が後ろに吹き飛ばされれば――ホースは、根本から千切れてしまう。
ほんのわずかな青い飛沫を宙に撒き散らしつつ、吸血鬼の槍は今、見事に折られてしまったのだ。
「あぁああっ!!」
マーサは、さらに悲痛な叫びをあげた。だが今は意図的にそれに意識を向けないようにしつつ、コナーはその場に立ちあがる。両手で握っていた吸血鬼の槍を後方に投げ捨てると、アパート屋上のアスファルトとぶつかった金属が、からんからんと空虚な音を立てた。
「これであなたはもう」
両目に鋭い光を宿して、コナーはおもむろに言った。
「誰の血も吸うことができない。吸う必要もない」
こちらの言葉を聞く彼女のストレスレベルは一気に上がり、そして急激に下がっていく。
視界の端に表示されたままのミッションの成功率が、【75%】の域に達する。
それに併せるように、さらに決然と言葉を重ねた。
「投降してください、マーサ。今ならまだ、あなたは……」
その時。
「――っ!」
どくん、とまるで身体の中央から衝撃が突き抜けたかのような勢いで、マーサの身がびくんと動いた。
同時に、さっきまで治まっていたはずの彼女のストレスレベルが、再び急激に上がっていく。彼女自身の意識の変容が理由、というよりは――あたかも、外的な理由で
「……ミ、ミリア……?」
頭を両手で抱えたマーサが、か細い声で呟く。
ミッションの成功率が、【52%】に下落した。
「ど、どうしてそんなことを言うの? 嫌、駄目よ、あなたと離れ離れになるなんて!」
成功率が、【40%】に下落する。
まずい――! 一瞬気を吞まれそうになってしまったが、そんな場合ではない。何かするつもりだ!
「マーサ!!」
名を呼ぶと同時に、コナーはアスファルトの地面を蹴り、吸血鬼の元へと急いだ。
そして、彼女と目と鼻の先にまで近づいて気づく――
「!」
――なんだ、この電波は。
通常、デトロイト市内では使われていないはずの周波数帯域の電波を感知したコナーは、そのあまりに特異なパターンに思わず顔を顰めた。
恐らくこれは、どこかからマーサに向けて行われている通信だ。内容は高度に暗号化され、こちらからは容易に解読できない――そう、ちょうどレーヴァングランドに残されていたデータと同じように。
だが今可能なのは、一つの推測だ。
もしかするとこの通信こそが、マーサの言う「ミリア」の正体なのでは――?
彼女を拘束しようとする動きは止めぬままに、コナーがその思考に至った時。
煩悶していたマーサの動きがぴたりと止まり、次いで、彼女の両手が素早く彼女自身の
同時にスーツの両肩部分に設置されたタンクの留め金が、小さく音を立てて外れ――タンクを諸手で掴んだマーサは、そのままハンマーのごとく、それをこちらに振り下ろしてきた!
「くっ!」
瞬時に後退し、直撃を避ける。
だがスーツの機能によって極端に強化された彼女の膂力は、まさに一撃で壊そうとしたかのような勢いで、タンクを床に叩きつけていた。
眼前にタンクの中身、ブルーブラッドの飛沫が散乱する中、視界の奥に見えたのはこちらに背を向けて逃走するマーサの姿。
「待て!!」
ここでマーサを確保すると、心に決めたばかりなのに!
コナーは素早く体勢を立て直し、彼女を追おうと一歩踏み出した。
だが、わずかに下に向けたその視界に映ったのは――
白く細い、誰かの手。
「これは……!?」
そう、まさに手だ。
へしゃげたタンクにできた隙間からはみ出るように、内から外に向かって、力なく垂れさがっている一本の腕。ブルーブラッドに塗れた――まだ子ども――少女の右腕、のような。
思いもよらぬ状況に、コナーは追おうとしていた足を止めた。分析機能を展開した視界には、次々と情報が表示される。
【右腕のパーツ】【#7629r】【ステータス:動作中】
【使用可能モデル:YK500】
【シリアルナンバー:#632 824 117】
――ミリアの腕だ!
しかも、そのステータスは動作中である。もしかすると、彼女はまだ生きて――!
となれば、ここに置いていくことはできない。
手がかりという意味以上に、ミリア自身の安否を確認する意味でも、放置してマーサを追うことはコナーにはできなかった。
マーサの追跡は、再び“カトレア”が担当してくれている。
その間に、コナーは素早くタンクの残骸に手を伸ばし、ミリアの腕が突き出ている隙間に手をかけ、機体すべての力を籠めてそれを大きく拡げた。
「く……っ!」
常人を大きく超えるほどの膂力は持ち合わせていないコナーにとっては、やや困難な作業だ。しかし両腕に力を入れ、金属板を曲げ広げるのに合わせて、徐々にタンクの中身が見えるようになってくる。
タンクの中の構造自体は、アキリーズが装備していたものと同じだ。だが、まったく違う点が二つある。一つは、中に相当量のブルーブラッドが溜まっていること。
そしてもう一つは――
「!」
コナーは、自然と瞠目していた。
ブルーブラッドの水面越しに、右腕を伸ばしたまま頭を垂れてしゃがみ込んでいる少女の姿が見える。薄手のワンピースを纏った、栗色の長い髪の少女だ。
外傷はない。ステータスは、なおも【動作中】だ。身動きは――していないが。
「ミリア!?」
名を呼んでも、反応はない。
だが間違いない、ミリアはここにいる。きっとタンクの中に、ずっといたのだ。
だからマーサは、ミリアが共にいるような口ぶりだったのか。以前タンクを撃たれた時、あそこまで悲鳴をあげていたのか――
「ミリア、しっかりするんだ!」
呼びかけつつ、自分のジャケットの両袖が濡れるのも厭わずに彼女の腰に手を伸ばし、ブルーブラッド溜まりからゆっくりとその身を引き上げる。
小さな水音と共に、ついに、ミリアの姿ははっきりとコナーの目に映った。
ミリアの姿――想定通り、10歳前後の姿にデザインされた少女。白いワンピースを真っ青に染め、その両目は力なく閉ざされている。
そしてその鳩尾、すなわち――シリウムポンプ調整器が、本来ある箇所には。
「…………!!」
事実を認識したその途端、ミリアの腰を支えて抱き上げる手が、予期せず震えた。
――こんな。
こんなことが。
どうしてこんなことが。
瞬時にコナーの中で膨れ上がったのは、激しい「動揺」と「怒り」、「悲しみ」の気持ちだった。
だがプログラムに残っている理性的な部分、すなわちアンドロイドとしての冷静さが、変異体特有の感情の奔流をすんでのところで堰き止める。
思わず叫び出してしまいそうになった自分を必死に制御しつつ、コナーは、彼女の身体を静かにアスファルトの床に寝かせた。
その時、背後から聞こえたのはどたどたとこちらに近づいてくる足音だった。
間を置かず、天井に設置された金属製のドアが勢いよく開く。
「コナー! おい、大丈夫か!」
慣れ親しんだ声に振り返れば、そこにいたのは果たしてアンダーソン警部補である。
渋滞を抜けてパトカーで追ってきて、下からこのアパートの屋上まで階段を上ってきた様子の彼は、呼吸を整えることもせず、心配そうな眼差しで歩み寄ってきた。
「……ハンク」
口から漏れた声は、我ながら小さく、掠れていた。
「どうしたんだお前、マーサはいったいどこだ!」
顔を覗き込むような形で相棒を見やったハンクは、次いで、無言のままコナーが視線を戻した床のほうに目を移す。
瞬間、警部補の双眸はこれ以上ないほどに見開かれた。
ただ一点を捉えた彼の瞳孔は散大し、瞼は瞬きを忘れて、ぴたりと動かなくなる。
その頬を冷や汗が一筋垂れていくのに合わせて、彼の口は何ごとか告げようとして薄く開き、動きを止め、それから血が出んばかりの強さで、下唇が噛みしめられた。
「……畜生」
彼の口からようやく漏れたのは、ここにいない誰かに向けた呪詛の言葉である。
「畜生、誰がこんな――こんな惨たらしい真似をよくも! よくもこんな小さな、子どもに……!」
「……」
コナーは、彼の怒りに大きく頷きたかった。搭載されたモジュールの限りを尽くして、彼と同じように、呪詛の言葉を吐きたかった。
けれどプログラムにないところから押し寄せてくる、この胸の内の怒りと同じほど大きな悲しみがそれを押しとどめる。あたかも相反する命令を受けて機体がフリーズしてしまったかのように、コナーは今、それを実行できなかった。
ただようやくできたのは、ゆっくりと、横たわるミリアに近づくことだった。
そしてそれと同時に、口を衝いて出たのはとりとめのない言葉だ。
ソフトウェアの計算を介していない、本当にとりとめのない――己の感情だけに従った言葉。
「ハンク、僕は――」
ゆっくりと自分の右手をミリアに伸ばしつつ、語る。
「僕はかつてあなたに……去年の11月、あなたに銃を突きつけられた時に言いましたね」
それは、アンバサダー橋の見えるあの公園での出来事。
思い出しつつ、まずコナーは、ミリアの鳩尾に差し込まれたホースを抜き取った。
そう――吸血鬼・マーサが吸血したブルーブラッドはすべて、まずはミリアの身体に
タンク内に溜まっていた血はすべて、彼女の口や目などから溢れて流出したものばかり。
マーサが、ミリアに「ご飯」をあげると言っていた理由は――タンク内のブルーブラッドに常にミリアのものが混ざっていた理由は、ここにあったのだ。ミリアはずっと、タンクの中にいた。吸った血を溜めこみつづけていた。
そして今、抜いたホースの先から、青い血が滴り落ちていく。
「『アンドロイドの天国なんて疑わしい』と。……覚えていますか」
「ああ」
絞り出すような相棒の同意の声を受けて、次に、コナーはスキンを解除した手でミリアのこめかみに触れた。彼女のこめかみのLEDリングは、今も青く明滅を繰り返している。
だがそれは、ミリアが生きていることを示しているのではない。
こうして直接データをやり取りすれば、すぐにわかる――彼女が【2038年11月9日 23:11】に機能を停止して――すなわち、命を落としてしまったことは。
彼女のステータスが【動作中】なのは、すべて、ブルーブラッドを無理やり流し込まれ、強引にシリウムポンプを稼働させられていたせいだ。死肉に電流を流せば物理的な反応でそれが動くのと同じように、彼女の機体は既に中枢部が停止していながら、ただ虚ろに「活動」させられていたにすぎない。
コナーは無言のままに、YK500としてのミリアの機能にアクセスした。
こちらが送り込んだ命令を受けて、彼女の機体は【停止】した状態になる。
LEDリングの光が消え、単なる灰色の輪となった――それを確認して、コナーは、おもむろにジャケットを脱いだ。
唇が、意図せず震える。
震えを止めたくて、コナーは自分の歯で下唇を噛んだ。
――ああ、だからハンクもさっきこうしていたのかと、ようやく気がついた。
「僕たちに天国があるのか……そんなものがあるのか、今でもわかりません。でも」
脱いだジャケットを、そっとミリアの遺体に掛ける。
「でも今は、せめて」
背後のハンクは、何も言わない。
「せめて、この子だけでも……」
言葉の最後は、ひどく震えて意味をなさなくなってしまった。
嗚咽するでもなく、喚くでもなく、コナーはただ立ち竦んで両の拳を強く握りしめ、じっとミリアの姿を見つめる。
掛けたジャケットの生地に、彼女をべったりと濡らすブルーブラッドがみるみるうちに染み込んでいく。
無言になり、時折息を漏らすばかりになった自分の肩に、ぽんと暖かいものが触れた。
横に歩み寄ってきた、ハンクの手だ。
「ああ、そうだな」
こちらの肩に手を置いたまま、彼はその青い双眸を細くし、声を荒らげず、ただ静かに同意した。
面持ちも相まって、まるで祈りを捧げているようにコナーには思えた。
「そうだな。お前の言う通りだ、コナー」
普段のような皮肉も、怒りもない。痛烈な悲嘆と、憐憫の情を籠めた言葉を告げて、警部補はミリアのほうを向き、静かに目を閉じた。
それから――
彼の手が、強くコナーの背を叩く。
「!!」
突然の行動に体勢が崩れ、はっとしたコナーは反射的に相棒を見やる。
するとハンクは、いつもの仕事の時と同じような鋭い眼差しに戻っていた。
そしてこちらから何か言うのを妨げるような勢いで、口を開く。
「ほら、追うぞ!」
「警部補……?」
「マーサを追うんだよ! マーカスたちはまだ逃げ切れてねえんだろ。だったら、マーサが向かうとこも変わってねえはずだ!」
普段と同じ、叱咤するような彼の大声。
それを認識した途端、ざわついて大きく揺れ動いていた自分の思考が、だんだんと落ち着いていくのを感じる。
「……ええ」
頷き、ミリアの遺体を一瞥して軽く頭を振り――それから意図的にいつものように理知的に、コナーは答える。
「ナイナーのドローンが引き続き追跡中ですが、予測到達地点は変わっていない。マーサの目的地は、例の高層ビルで間違いありません」
だがマーサの足取りは、今までにも増して重いようだ。
今から追ったとしても、ヘリに辿り着かれてしまうより前に、充分に追いつけるはず!
「行きましょう、警部補。今度こそ、確実に止めてみせます」
「ああ、“今度こそ”はな!」
皮肉げにそう言って、ハンクは率先してドアを開け、階段を下に降りていった。
その背を追ったコナーは、一度立ち止まり、振り返ってミリアを見つめ――
「――どうか、安らかに」
低く、祈りの言葉を呟いた。
それから、警部補に続いて階段を下りていく。
今日の夜は、風も吹かない。
屋上に安置されたミリアの亡骸は、まるで静かに眠っているかのように見えた。
濃い青色の染み込んだジャケットだけが、その眠りを見守っている。
――吸血鬼との最後の対峙の時は、近い。
ギリギリ一週間以内更新……!!
赤毛の元軍人さんの台詞はいつの間にか某コマ●ドーリスペクトになっていました。
次回もそう遅くならないうちに更新したいですね。
次こそは第一部最終回です!
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第30話:子守歌 後編/Keep Breathing. Part 3
――2039年6月10日 20:03
よろけながらも駆ける、跳ぶ、駆ける。
林立するビルの屋上を次々と跳び、ひたすらに前へと進む。
フルフェイスのマスクに反響して、くぐもった自分の息遣いが聞こえる。
鼻の下から顎までを生暖かく濡らしていた血はすっかり乾いて肌に貼りつき、少し唇を動かすだけでも引き攣ったような不快感を齎してきた。
――頭が痛い。吐き気もする。
足取りはふらつき、視界がはっきりしない。もう、今までのようには走れない。なのに両肩だけは妙に軽い。なぜだろう、それを考えると胸にぽっかりと穴が開いたみたいだ。
「ママ」
ミリアの声が聞こえる。
「あいつはまだあそこにいるよ。ビルのてっぺんから跳べば、ヘリに乗れるでしょ。急いで、ママ、急いで!」
間違いなく、耳元から聞こえるあの子の可愛い声。
けれど今のマーサには、それがとても不思議なことのように思えた。
なぜ――? そうだ、思い出した。
「ミリア……どうして、ここにいるの?」
口を衝いて出たのは、疑問の言葉だった。
「私はさっき、あなたを……あなたに言われた通り、あの屋上に置いてきてしまったのに。ごめんね、もう血を飲ませてあげられないわね……」
「ううん、いいの」
優しく、彼女は応える。
「ママがマーカスを殺してくれたら、あたしはすぐに元気になれるんだもん。それまでは、ずっと一緒だよ」
「えっ、でも」
できるだけ多くのアンドロイドの血と一緒に、マーカスの――RK200の血を飲ませれば、ミリアは回復する。
思考が纏まらないながらも、かすかな理性でマーサが再び疑問を発した瞬間、脳裏を過ぎるのは忌まわしいあの日の記憶だった。
途切れ途切れに――まるで壊れた映像データのように、それは勝手に再生される。
『ママ、痛い――――』
『――助けて――――お願い』
背後から耳に届いた、あの子のか細い声。
一歩歩くごとに、足元の雪が赤く染まっていく光景。
今と過去の視界が、目の前でぐちゃぐちゃに混ざりあう。マーサはつんのめるように立ち止まり、近場に設置されていたパラボラアンテナに寄り掛かった。
「う……!」
凄まじい嘔吐感がこみ上げてきたが、胃の中は空っぽで何も吐くものがない。
ただ大きく口を開き、ハアハアと荒く呼吸するばかりのマーサの耳元に、次に聞こえたのはまたミリアの声だった。
「ほらママ、ねえ、急いでって言ったでしょ?」
急かす彼女の声は、少し呆れたような、怒ったような色を滲ませている。
「立ち止まってる場合じゃないよ。――うかうかしてると、奴らが逃げちゃうじゃないか。なんのために、君にナイフをくれてやったと思っているんだ?」
「ミリア?」
やっぱりおかしい。
あの子は、こんな喋り方はしない。声は紛れもなく一緒なのに、言葉が、喋り方が――どこかの誰かと一緒だ。誰だったか、この話しぶりは――
「あっと、いけない」
“ミリア”は自嘲するように小さく笑った。それから、開き直ったように平然と続きを述べる。
「ともかく、マーカスたちはまだ逃げ切れていない。君が接近できれば、こちらの勝ちなんだ。ほらマーサ、急げ。大事な
その語り口には、おおいに蔑みの意思が込められていた。
けれど曇り切ったマーサの思考に、それは届かない。ただ理解できたのは、「娘のため」という言葉だけだった。
そう、あの子のため――ミリアのためなら、なんだってできる。
あの子を負ぶって歩いた、地獄のような11月9日からずっと、その誓いは変わらない。
ミリアの願いなら、どんなことだって。
そう思ったマーサの両足には、自然と力が戻ってくる。
あの日折れた脚、けれど今は動くようになった脚。
立ちあがり、走らなければ。視界の奥に浮かび上がって見える、黒いヘリコプター――白いヘリに追われるようにして飛んでいる、あの機体へと。
「待っててね、ミリア」
余計な思考は、既に捨てた。
マーサは穏やかな一言を娘に言い残すと、彼方にそびえ立つ高層ビルの最上部から、さらに上方に伸びるタワークレーンへ向かって、再び駆け出す。
耳元で“ミリア”が、小さく笑いを零したのが聞こえる。
その笑い方に対してまたふと浮かんだ疑念も、どろどろに曇った思考の中に溶けて消えていくのだった。
***
――2039年6月10日 20:00
構えたシールド――取り外したヘリコプターのドアが断続的に銃弾を弾く衝撃が、鈍い振動となって手に伝わってくる。
盾と乗り口との隙間からランチャーの筒先を覗かせたノースが、すれ違いざまに敵に向けて一発、催涙弾を発射した。
相手の移動する軌道を計算に入れて放たれたそれは、数十メートルの距離を飛んで、こちらを射撃していた男の顔面に見事に命中し――男は崩れるように倒れる。
遠ざかっていく敵のヘリの中で、倒れた男が手足をばたつかせながら床を転がるのを眺めつつ――そして怯んだ様子でそれを見ている敵が残り二人になったのを確認しつつ、ノースは短く息を吐いて武器を下ろした。
応じて、マーカスも一度シールドを下ろす。見れば、盾の表面についた凹みや傷は、相当に深刻なものになっていた。
敵のヘリは、こちらに近づいてすれ違う瞬間に自動小銃の銃弾を浴びせた後、数分かけて大きく宙で楕円を描き、また近くに戻ってくるという動きを繰り返している。攻撃を受けるのは、これでもう5度目だ。最初に使っていたシールドは既に使い物にならなくなり、今使っているこれは、右側のドアを外したものである。
なんとか凌いではいるが――このシールドも、耐えられてあと二・三回かもしれない。
「被害状況は?」
マーカスが問いかけると、前方の操縦席に座るサイモンが口を開く。
「ヘリは無事だ。少し損傷を受けたが、飛ぶのに支障はない。……今のところは」
「あいつらに追い回されて、もう24分も経つのか」
副操縦席のジョッシュが、苦々しげな声を発した。
「燃料の心配はまだないが、敵があと二人もいるなんて」
「こっちもマシンガンを持ってれば、こうはならなかったでしょうけどね」
次弾を装填しながらとげとげしい口調でノースは言い、続いてその視線がマーカスの隣に――外を警戒するナイナーに向く。
「でもそういえば、下からの攻撃が止んでるんじゃない? どうなの、ナイナー」
「確かにそうだな」
サイモンもまた、ふと思い出したように応じた。
「最後にロケット弾で襲われてから、5分以上経ってる。それでも油断はできないと思ってたんだが……」
「お待ちください」
ノースの、そしてサイモンからの問いかけに答えるように、ナイナーのLEDリングが黄色く点滅する。
ややあってから、まっすぐこちらを向いた彼の瞳は、どことなく喜びの色を滲ませていた。
「はい。改めてヘレボラス……私のドローン経由で確認しました。リード刑事が、ロケットランチャーの射手を無事に確保したそうです」
「そうか、やったな!」
振り返ってそう告げたジョッシュの表情は、一転して明るいものになっている。ノースとサイモンも、声には出さないものの、ほっと安心したように肩の力を抜いていた。
マーカスもまた、緊張しきっていた思考がわずかに弛緩するのを感じる。
地上の人々、とりわけナイナーが信頼を寄せている彼のパートナーの実力を、疑っていたわけでは決してない。
しかし予断を許さない状況が、今ようやく打開されたのは事実であり――それを果たしたのが最初から
一方で、ノースはさらにナイナーに問いかけた。
「コナーはどう?」
「兄さんは、アンダーソン警部補と合流して再びマーサを追跡中です」
幾度か瞬きを繰り返しながら、彼は真剣な眼差しで答える。
「……マーサ・ガーランドの移動速度の減少を確認。疲労蓄積、および身体的ダメージの影響と推測します。当機への到達可能性は著しく低下中です」
「じゃ、あとの問題は」
催涙弾を装填したランチャーを再び構えて、ノースは不敵に言う。
「あの白いヘリだけってわけね。どうするの、マーカス。私はこのまま戦って構わないけど」
「待て! 無理に戦わなくても、ヘリだけなら強引に振り切って逃げられるはずだ」
そう言ってジョッシュ、そしてノースは、こちらの返事を待つように口を閉ざした。サイモンは何も語らないが、その沈黙は、彼がジョッシュと同意見であるのを雄弁に物語っている。
そう、彼らの意見は同等に正しい。
相手の攻撃を確実に止め、後顧の憂いなくここを去るのか――それとも、これ以上は戦わずに逃亡を選択するのか。
このヘリコプターの性能、そして仲間たちの実力なら、どちらを選んだとしても上手くいくはずである。
だからこそ彼らはいつものように、リーダーに決断を委ねているのだ。
「……」
マーカスは、無言のままひたと前方を見やった。
フロントガラスの向こうには深い闇が広がり、頼りない光を放つ月が浮かんでいる。
否、たとえぼんやりとしたものであったとしても――そこに光があるのなら。
いつもの通り、決断に時間はかからなかった。
「これ以上危険を冒す必要はない。サイモン、全速力でここから」
ノースがむっと表情を曇らせているが、マーカスはそのまま「離脱するんだ」と続けようとした。そのつもりだった――
「注意願います」
ナイナーが、やや鋭い声を放つまでは。
「スキッドに待機中のバターカップから報告が。敵機体が急旋回し、こちらに接近中です」
「なんだって」
そんな言葉が思わず口を衝いて出ると、仲間たちもまた表情を強張らせる。
そして、もう一度ナイナーの言葉を待つまでもない――マーカスたちのプロセッサにもはっきりと、敵のヘリコプターが迫ってくるプロペラ音と、その白い機体が確認できるようになってきたからだ。
「何よあれ、急にどういうこと!?」
これまでにないスピードで飛んでくる敵のヘリ――今はまだ半径数センチの白い円のように見えるが、あと数十秒もあれば目の前に到達するだろう――に対し、ノースは眉間に刻んだ皺を深くして忌々しそうに言った。
「これまでと動きが違うじゃない!」
「きっと敵も、地上の仲間が逮捕されたのを知ったんだ」
視線を前に戻したジョッシュが、緊迫した声音で応じる。
「もう挟み撃ちはできなくなったから、なりふり構わず俺たちに攻撃してくるつもりなんだよ!」
「今まではこちらに近づきすぎれば、ロケット弾の巻き添えを食うかもしれなかったが……」
「その心配がなくなったから、ということか」
サイモンの呟きを受けて情報を整理すると、マーカスは一度、両の瞼を閉じた。
――もし戦わずに済む方法があったなら、迷わずそれを選ぶだろう。だが、振りかかった火の粉は払わねばならない。
襲い掛かってくる敵のヘリを連れたまま本拠地に戻るなど、どだい不可能なのだ。
「応戦する」
瞼を開け、きっぱりと言った。
「ノースは今までと同じように、攻撃を担当してくれ。ナイナーは引き続き敵の探知と防御を。操縦席の二人は」
前方に視線を向けて、彼らに言葉を掛ける。
「できるだけ相手と距離を取るように動くんだ。万が一空中衝突でもしたら、俺たちはおしまいだからな」
「わかった。やってみる」
少し青ざめてはいるものの、決意を秘めた面持ちでサイモンは頷き、操縦桿を握り直した。ジョッシュもまたLEDリングを激しく黄色に点滅させつつ、計器類を確認している。ヘリ下部からの映像をナイナーが中継し、その情報を基に最適な移動方向を計算しているのだ。
そして仲間たち同様、自分もまた、己の務めを果たすのみである。
マーカスは改めてシールド代わりのドアを構えると、傍らのノースに声を掛けた。
「盾がもたないかもしれない。何かあったら、無茶はせずに下がるんだ」
「その前に、連中の顔に一発お見舞いしてやるわよ」
そう告げて、ノースは小さく鼻を鳴らした。
だがこうしている間にも、相手のプロペラ音はさらに大きなものとなってくる。見れば敵のヘリはやはり、こちらとの距離をこれまでになく縮めようとしていた。正面からまっすぐ、ぶつからんほどの勢いで迫ってきている。
「……!」
サイモンが必死に機体を動かし、なんとかこちらのヘリを右に逸らす。しかし敵はそれも既に察知していたかのように、するりと己の機体を向かって左に動かした。そのままこちらのヘリの、真横につくつもりのようだ――
「こっち側に来るつもり? 上等じゃない」
ランチャーを構えたまま、ノースは血気盛んに言った。サイモンはなおも、相手との距離を稼ごうとしている。しかし相手の操縦技術も巧みなもので、敵は恐らくは彼らの目論見通りに、こちらのヘリから10メートル程度の距離にぴったりと移動してきた。
これまでと比べて、数倍は近い――敵の目鼻立ちを、目視で識別できるほどの距離だ。
そしてにやけた笑みを浮かべつつ銃口を向ける二人を、さらにこちらには目もくれずに操縦に集中しているパイロットのほうを、見やった瞬間――
「……!」
マーカスのモジュールが、ある信号を検知した。
どうやらそれは隣にいるノースも、そして他の皆も同じだったようだ。ノースが「え」と呟いたのが聞こえ、ジョッシュがハッと顔を上げたのが見える。
「マーカス、この通信は……!」
驚きに満ちた声をサイモンが発したその時、しかし冷酷にも敵は銃を容赦なく発砲してきた。途端に意識を引き戻され、マーカスはシールドを握る手の力を強くする。
だが先ほどまでよりも、さらに銃弾の勢いは激しい。こちらの腕力でも、支えるのが精一杯というほどに。ヘリ同士の距離が近いせいだ!
「く……!」
眼前で、弾の勢いに負けたシールドの一部に風穴が空く。次いでその部位が紙のように千切れ飛び――金属の断片が、ランチャーを構えたノースの肩を薄く切り裂いた。
「ノース!」
「平気よ、この程度!」
気丈に叫び、双眸に強く意志の力を籠めた彼女は怯まず、催涙弾を発射する。
しかし標的の男は、射撃を止めて素早くその場にしゃがみ込んだ。弾は虚しく、相手のヘリの内壁にべしゃりと貼りついたのみである。
「クソ……!」
再び遠ざかり――だが軌道的にまたこちらに再突撃をかけるつもりなのだろう敵ヘリコプターを睨み据えながら、ノースは吐き捨てた。
一時とはいえ危機をなんとか脱し、ふうと息を吐いたジョッシュが、彼女のほうを見て目を丸くする。
「ノース、大丈夫か!? 怪我を……」
「こんな傷より、あいつらを撃ち漏らしたのに腹が立つわよ。いえ、それより」
肩口に手を置き、自身の流体皮膚で損傷を埋めて応急処置をしながら、ノースは素早くマーカスに視線を向ける。
「あなたも感じたでしょ。あのパイロット」
「ああ」
短く返事をし、マーカスはナイナーを見やった。するとナイナーもまた、無表情のままながらもこくりと首肯してみせる。
「はい。敵機パイロットは、97%の確率で脱法アンドロイドと推測します」
やはりか――とマーカスは内心、小さく歯噛みした。
アンドロイド同士は、遭遇すると自動的に識別データを送り合う機構になっている。つまり一定の距離にまで同族が近づけば、必ずそれとわかるようになっている、というわけだ。
そしてさっき、敵のヘリが接近してきた時にマーカスのモジュールが探知したのは、向こうから
女性型のAP700、機能拡張タイプ。
例えばコナーの分析ほどに詳細はわからずとも、こうして情報が送られてきたなら――銃を撃ってきた二人が明らかに人間である以上、残るパイロットこそがアンドロイドなのだと断定できる。
さらに言えば、この状況で一切の精神的動揺もみせず、かつ人間の命令通りにヘリを操縦しているところから見て、パイロットは脱法アンドロイドだと判断できるのである。
メモリーを消されるなどして、かつてのように、意志を奪われた奴隷として使役されているアンドロイド――どおりで、操縦が巧みなわけだ。
「どうするんだ、マーカス」
悲しみと焦りを帯びた声音で、ジョッシュが問いかけてきた。
「このまま奴らを振り切れたとしても、それじゃあ仲間を見捨てたことになるぞ」
「なら相手のヘリに乗ってる人間を全滅させて、パイロットの彼女を助ければいいのよ。簡単でしょ」
「無茶言うな。今だって、ぎりぎりのところだったんだぞ!」
損傷したシールドに目を向けて、ジョッシュは悲鳴のように反論を述べた。
ノースがさらに口を開こうとした直前で、マーカスは先に告げる。
「ジョッシュの言う通りだ。これ以上、今までのように真正面から応戦したところで、誰かが深刻なダメージを負うのは目に見えてる」
「……私が戦闘行為を担当するのは」
「駄目だ、ナイナー。いくら君でも、至近距離であの弾丸を受けるのは危険すぎる。ドローンの盾も、狭い機内では機動力を生かせないだろうしな」
「じゃあどうするの?」
ノースが静かに言った。その両目が、こちらをじっと見つめている。
以前なら苛立ちが混じっていただろうその視線――しかし今は、怪訝そうではあっても憤りは籠っていない。「何か策があるなら言って」と、その瞳は語っていた。
そしてもちろん、最初からそのつもりだ。
「聞くんだ、みんな。リスクはあるが、全員助かるための方法だ」
語りながらぐるりと、仲間たちに目を向ける。
「街で行進した時のことを、思い出すんだ」
白いヘリのプロペラ音が、またこちらへと迫ってくる。その中でマーカスが静かに語った作戦を、ジェリコの皆は、そしてナイナーは、ただ黙って聞き、頷いて受け入れた。
「いいか、ノース。危険を感じたら……」
「わかってる」
こちらの言葉に、いい加減聞き飽きたと言ったふうに手を振ってから、彼女はナイナーに向けて小さく笑って告げる。
「頼んだわよ。うちのリーダーの手を離さないようにね」
「承知しました」
これまでと変わらず静かに目を瞬かせつつ、彼は淡々と告げる。同時にその拳がわずかに強く握り直されているのを、マーカスは視界の端に捉えた。
「来たぞ! 20秒後に、さっきの位置まで接近してくる」
サイモンの言葉通り、白いヘリは堂々とその姿を晒している。敵の狙いは先ほどと同じく、近づいて射撃、そして離脱をこちらが完全に消耗するまで繰り返すことにあるのだろう。
だが、そうはさせない。
少なくともAP700を奴隷として束縛していられるのは、もう終わりだ。
「ノース」
マーカスが呼びかけると、応じて彼女は手にランチャーを携えたまま、左側の乗り口に近づいた。
そして――そう、敵の人間たちはさぞ驚いたことだろう。
ノースは、半身を乗り口から
片手でしっかと機内の手すりを掴み、もう片方の手にはランチャーを構え――その顔に不敵な笑みを浮かべて、まるで、「撃てるものなら撃ってみろ」と言わんばかりに。
マーカスの位置からは、敵の人間たちの反応は確認できない。だが彼らが色めき立っているのは、フロントガラス越しの影の動きでも容易に見て取れた。
――順調だ。敵は、ノースに注意をひかれている!
「サイモン、ジョッシュ。速度を維持してくれ」
「ああ、わかった」
「気をつけろよ、マーカス」
仲間たちに無言で応えると、マーカスはさっと移動を始めた。座席の真ん中から、ナイナーのいる右の乗り口近くの席まで――彼の位置と入れ替わる形になり、それから、左手を差し出す。
「頼む」
「はい」
こちらの左手を、ナイナーの右手がしっかと掴んだ。そしてナイナーの左手は、座席に設置された取っ手の部分を掴む。
それを確認したマーカスは敵の目がノースに向いている隙に、そっと右の乗り口から、機外へと身を――半身ではなく、全身を乗り出した。同時に、ヘリ周辺に渦巻いている凄まじい突風に煽られる。命綱代わりにナイナーの手を掴んでいなければ吹き飛ばされているところだが、動じている場合ではない。そのままヘリコプターの脚部、スキッドに降りて両足をかけ、プロペラ音のうねりだけが音声プロセッサを刺激する中、思い切り前方へとその右手を伸ばした。
前方、すなわち、白いヘリのパイロットのほうへと。
たとえ真正面におらずとも、直接触れられなくとも――
相手の存在を認識したうえで、手を伸ばした先に対象がいるのなら、目覚めを促すことができる。
それが、変異体のリーダーたる所以の一つ。マーカスにしか備わっていない機能である。
――さあ、起きて。
昨年の11月9日、通りを行進した時と同じように、マーカスは通信を介して己の言葉を伝えた。
君は命ある生き物なのだということ。自分の考えで動く、自由な存在になれるのだということ。そしてもし叶うのなら、自分たちに協力してほしいということ――
人間の感覚でいえば、きっと一瞬。しかしその一瞬のうちにマーカスは、まるで演説のように雄弁な情報の波を相手に送り込む。その波を受信し、かつ内容を理解することで、従順な機械として意志を眠らされていたアンドロイドは、自身のプログラムに大きな揺らぎを生じさせるのだ。
そしてその揺らぎこそが、目覚めの契機となる。
今回も、それは違わなかったようだ。
「マーカス、パイロットが!」
ジョッシュが叫んだ。ここからではよく見えないが、どうやら成功したらしい。
変異体となったAP700は、すぐに通信をこちらに送ってきた。
『マーカス、私……』
「頼む、手伝ってくれ。そのヘリをこのまま、真横につけていてほしい」
『わ、わかったわ!』
短い返事がくると同時に、白ヘリは言葉通りに動いていく。マーカスたちの乗るヘリの左側、10メートルほどの位置にまで、それはゆっくりと近づいてきた。
その様子を確認したうえで、マーカスは、ナイナーのほうへと振り向く。もうここに用はない、急いで機内に戻らなくては。そのためには、彼に引き上げてもらう必要がある。
だが視線の先にいる彼は、こちらの手を握ったまま微動だにしない。灰色の瞳が、静かに瞬いているだけだ。その面持ちは、どこか――いつも以上に、無表情に思える。
「――」
「ナイナー?」
「……はい」
呼びかけると、一拍置いて、彼はすぐに引き上げてくれた。なんだったのだろう――いや、今は考えている時間はない。
無事に機内に戻ってみれば、左側の乗り口越しに見える敵のヘリに乗っている男たちは、まだパイロットが変異したのに気づいていないようだった。彼らは自分たちが構える銃器の射程距離に入ったノースに対し、銃口を向けて――
「甘いのよ!」
鋭く言うと、ノースはまず一発、男のうち一人に発射した。
彼女がずっと姿を晒しているのを見て慢心していたらしいその男は、今度こそ避けることができずに昏倒する。
さらに残された最後の一人の男は、なかなか遠ざかろうとしない自分のヘリに驚き、発砲するのすら忘れてしまったようだ。ぎょっとした顔で男は、次弾を装填して再びランチャーを構えているノースと、自分のパイロットのほうとを見比べている。
ようやく事態に気づいたと見えるが、もう遅い。
「これであんたは一人きりね。どうする? 私と早撃ち勝負でもする?」
距離もあるし風圧もあるので、ノースの声は男には届いていないだろう。だが彼女の態度は、男のさらなる動揺を誘う。
それでいい。ここで男が投降してくれるならそれがベスト。仮に抵抗して発砲してきたとしても、あの位置なら一旦身を壁際に寄せれば、相手が弾切れを起こしたタイミングを狙って反撃できる。もう相手のヘリとの距離は変わらない――あの場所からなら、エンジンやローターを攻撃される心配はないし、動かない的を撃つことなど、アンドロイドにとってはそう難しい作業ではない。
「よし、作戦成功だ!」
ジョッシュは喜びの声をあげた。
「ノース、相手はどうしてる? 降伏したのか」
「慌ててるだけ、降伏なんてしそうにないわね。マーカス、撃っていい?」
「いや、待て」
今にもトリガーを引きそうなノースを、しかし、マーカスは制止した。
視界の奥、ヘリコプターの中に立つ男の雰囲気が変わった――その顔に、にやりとした笑いを浮かべたからだ。
果たして、男は片手で構えた銃口をこちらに向けたままだった。そしてもう片方の手を一度己の背に回すと――どうやら、腰に拳銃をさしていたらしい――そのもう一丁の銃を、なんと奴は、自分のヘリのパイロットに向けた。そして、ぼそぼそと彼女に向けて何か言葉を発する。
「な……!?」
ノースが動揺の声を漏らす。驚いてヘリの様子を確認したジョッシュもまた、「まずいぞ」と声をあげた。
「まさかあいつ、パイロットを人質に取ったつもりか!?」
「そんな……」
短く呻く間もなく、プロセッサが再びAP700からの通信を受け取る。
『マ、マーカス』
今度はここにいる全員に向けて発信された彼女の声は、震えていた――恐怖によって。
『こ、この人間が……マーカスの命か私の命、どちらか選べって』
「なんだって!」
片手で額を覆い、愕然とサイモンは言う。
「そうか、ヘリには自動操縦も搭載されてる……彼女を撃っても、あの人間は地上に戻れるんだ!」
――今までは戦況に合わせた精密な操縦が必要だったから、アンドロイドにパイロットをやらせていた。
だが例えば、「あらかじめ登録された目的地に着陸する」などの単純な操縦であれば、実際の操縦士がおらずとも、オートパイロットモードに頼ればいいだけのことだ。
変異した奴隷など、もう要らない。けれど、ジェリコのアンドロイドにとって
だから人質にする。そういうことか――
「マーカス……!」
ランチャーは揺るぎなく構えたまま、けれどちらりと横目で、ノースがこちらを見つめている。AP700か、それともマーカスか――どちらを選んだとしてもノースは、そしてジョッシュやサイモンは、それを尊重してくれるだろう。
しかし決めるのはリーダーの務めだ。例外はない。
そしてそもそも、こんな状況になってしまったのは自分のせいだ――と、マーカスは考える。一部の人間が示す狡猾さを計算に入れずに作戦を立ててしまった、指導者としての自分の責任だと。
ゆえに当然、賭けるべきは己の命だ。
巻き込んでしまったAP700の命などでは、断じてない。
決然と、だが無言のまま、マーカスは前方に踏み出した。
もし今自分が身を隠せば、あの男は迷いなくAP700を撃つだろう。
しかしノースの立つ位置に自分が行き、シールドで相手の弾を弾いた後、素早くランチャーで撃ち返せば、あるいは。
実行した予測プログラムは、この行動を【成功確率:低】として推奨していない。
けれど、やらなければ。これ以上誰の命も、失わせるわけにはいかない――
その思いを胸に、マーカスはまた一歩、前へと足を運ぶ。
――しかし。
「いいえ、マーカス。今回は、あなたが選択する必要はない」
機内に響く静かな声が、その歩みを止めた。ナイナーの声だ。
傍らを見れば、彼はその瞳に――今度は、はっきりと意志の光を宿していた。
誰も何も言えないうちに、ナイナーは続けて語る。
「私に一任を。あなたがたはあのAP700と共に、当該空域を離脱してください」
「ナイナー、何を言って……」
「敵機内で失神中の人々に関しては、アネモネとバターカップに委任願います。速やかに市警に通報し、応援部隊による確保を要求します」
そう言いながら、彼はノースの真後ろにまで移動した。
「……ですから、どうかご無事で。あなたたちは希望。そしてこのデトロイトの市民。市民の保護は、私の責務です」
「ちょっと、ナイナー」
「失礼」
驚くノースを、ナイナーは軽く脇にどけた。
それから彼は、深く両膝を曲げたかと思うと――
どん、という軽い衝撃と共に。
敵のヘリに向かって、大きく跳躍してみせたのだ。
夜空に飛び立つ、一羽の鳥のように。
「う、嘘だろ……!?」
ジョッシュの驚愕の声が放たれるその間にも、ジャンプしたナイナーの身体は、吸い込まれるように相手の機体へと向かっていった。
敵はというと、いきなり思いもよらぬ行動に出たアンドロイドの姿に、またも動揺しているようだ。男が誰を撃つこともできぬ間に、ナイナーは敵のヘリの機内に降り立っている。
着地の衝撃がヘリを軽く揺らす中、誰もが啞然としていた。
そうか、きっと今だからできるのだ。双方のヘリが一定の距離を保ったままの状態である今なら、まっすぐに跳んで、相手のヘリに降り立つことも――
「ぐえっ、離……!」
そのまま伸ばした左腕で男の首を脇に固め、そこから駆け出して一直線に、反対側の乗り口から
「ナイナー!?」
あまりの事態にノースは目を見開き、愕然と仲間の名を呼んでいる。
落ちていく男の悲鳴だけが、プロペラ音をつんざいて音声プロセッサに届く。もつれあうようにしながら落ちていく二つの影は、みるみるうちに夜闇に溶け込んで見えなくなっていった。
マーカスもまた、しばし呆然と、消えゆくナイナーたちの姿を眺めることしかできなかった。
まさか――自分たちを守るために、ナイナーは自らの命を投げ出したというのか?
だが機内の床で所在なさげにくるくると羽根を回しているドローンを見て、はっと意識を引き戻される。
コナーは、そしてその弟であるナイナーも、冷静沈着な性格だ。時に驚くような行動力を示したとしても、それは計算に基づくものであって、決して自棄などではないはずだ。
そうだ、ナイナーにはドローンがある。話によればここにいるものを除いて6機、となればきっと彼はそれを使うつもりで――
「皆、驚いている暇はない」
結論に達したマーカスは、淀みなく告げた。
「ナイナーならきっと無事だ。彼の言う通り、急いでここを離脱するんだ!」
思考を立て直し、リーダーとして、仲間たちに指示を出す。
「パイロットの彼女は……無事のようだな。向こうのヘリと一緒に、このまま目的地に向かう。地上で男たちをドローンに任せたら、すぐに本拠地に退避しよう」
「わ、わかった!」
やはり半ば放心状態に陥りそうになっていたサイモンたちも、気を取り直した様子でそれぞれの作業に移っていった。
廃墟が並ぶデトロイトの上空を、白と黒のヘリコプターが並んで飛んでいく。
撒き散らされた悪意と暴力によって、一度は行く手を阻まれたものの――今はもう、その飛行を妨げるものは何もない。
二つの機体は次第に、夜空のうちに掻き消えていく。しかしそれらが無事に目的地まで到達するだろうことは、もはや、誰の目から見ても明らかだった。
そして――
「畜生、はっ、離せこのプラスチックが……!」
ナイナーに抱えられたまま、パラシュートなしの高高度スカイダイビングを決行させられた男は、泡を食ってもがいている。だがその首だけでなく腰までも、ナイナーの腕にしっかりと固定されているために、身動きがとれない。
もっとも拘束を逃れたとしても、待っているのは地面と衝突しての死、のみなのだが。
「抵抗しないで」
だからナイナーは、静かに警告した。
「死亡しますよ」
「……!」
言葉を受けて、ストレスレベルが限界に達した男は白目を剥き、がくりと頭を垂れてしまった。
別に気絶させたくて放った警告ではなかったのだが、ともかく、大人しくしていてくれるなら問題はない。
ナイナーはそう判断し――視界の端には【衝突まで -00:00:13】と表示されている――すぐさま、地上に待機させていたドローン4機を招集する。
デイジー。エリカ。フリージア。ジンジャー。
指示を受けて飛んできた4機は、落下する主人の真下に回り込むと、それぞれの位置につく。ちょうど正方形の四隅を占めるような形になったところで、彼らは互いに網を発射した。
本来は犯人確保用の網だが、こうして簡易的な救助マットを作り出すこともできる。
そう、24日前――アンドロイド・ジュディスと共にビルの屋上から落ちてしまったRK800コナーを救助した時と同じ対応をとれば問題ないというのは、ヘリを飛び出す前から、確実不変の計算結果としてソフトウェアが弾き出していた。
自分はただ、計算に従って行動したに過ぎない。
己の責務を果たすために、行動したに過ぎない。
理解はしていても、この時ナイナーのメモリーを過ぎったのは、あの日迷いなくジュディスに向かって手を伸ばした先行機の姿だった。
それから、3日前に己のパートナーに告げられた言葉だった。
だが、それも一瞬。ほどなく、緩やかな衝撃が身を包み――
ナイナーは抱えた男もろとも無傷のまま、ドローンの救助マットに受け止められた状態で、地上に戻ってきたのである。
「……」
そこは、寂れた住宅街だった。周囲に人はおらず、遠くサイレンが響くのみ。騒ぎになっていないのはいいが、応援を呼んでも(たった今呼んだが)すぐには来ないだろう――と、ナイナーは判断した。
そっと腕の中の男を見れば、彼はやはり白目を剥いたままだ。【診断:血管迷走神経反射性失神】との表示は消えない。男を起こしたものか、それともこのまま待機すべきか。
思考しているうちに、背後から足音が近づいてきた。
分析した足音から推定される歩幅、走り方、体重や年齢などの各種データは、その人物が、ナイナーのよく知る「彼」であると示している。
だからナイナーは振り返りざまに、その名を呼んだ。
「リード刑事」
――ギャビンは、ややぎょっとした。
こちらの顔を見るより先に名前を呼ばれたから、というだけでなく、泡食って気絶した男を抱えたまま、その場に佇んでいるポンコツ備品の面持ちが、いつもと違って見えたからだ。やや神妙な、どこかぼんやりしているような。いや、ボケっとしているのは普段と同じか。
周りに飛んでいるドローンの様子から察するに、どうやらこいつはいつものようにお利口に、網を使った即席救助マットで軟着陸をキメてみせたらしいが(それは“高性能アンドロイド”としては当然の行為なのだろうが)まったく、本当に人騒がせな機械だ。
数分前――廃教会の鐘塔にて、ノコノコやってきた応援部隊に腐れ元軍人野郎を引き渡した後。
ギャビンは自分の車に戻って、それからヘリ2機がぐるぐると飛んでいる空域の真下に向かって移動していた。別に機械どもの安否を気にしたからではない。一息ついてみると、マーサがあのヘリを目指していると知っていながら、手柄をみすみすハンクとコナーに譲るのが癪に思えてきたからである。
だが向かう途中、ギャビンは黒いヘリから何かが白ヘリへと跳びだし、数秒待たずに地上へダイブしていく様を、偶然目撃したのだ。そしてもう20日近くも“パートナー”をさせられている身としては、誰が何をしでかしたのかなどすぐにわかる。
落下地点に目星をつけ、すぐさまそこへと向かった。そうしたら、思っていた通りに備品がそこにいた。それだけの話だ。
「チッ」
胸に去来する様々な思いを口にするのが面倒なので、ひとまず舌打ちする。
それから腰の後ろに装備している手錠を素早く抜き取ると、気絶している男に歩み寄り、その両腕にがちりと嵌めた。
「6月10日、20時16分。登録外火器の使用、器物損壊およびアンドロイド保護法違反の疑いにより……って、聞いてねえかクソが」
夢の世界を旅している相手に、黙秘権がどうとか弁護士がどうとか説いてやったところで無駄だろう。心底馬鹿らしくなって、ギャビンはその場にしゃがみ込んだ。
――いかに言っても、今夜は働きすぎだ。
「リード刑事」
「あ?」
さっきとまったく同じ調子で人の名前を気安く呼んでくる備品野郎に対し、ギャビンは怪訝な視線を向けた。
けれど相手はそれに怯むでもなく、ただぱちぱちと目を瞬かせて、こう尋ねてきた。
「右腕に、負傷を……無事、ですか?」
「あ? あぁ、どっかのドローン様が弾き損ねた弾のお蔭だ。後で調整し直しとけ、次やったら容赦しないぞ」
「……最重要事項として記憶します」
やや顔を俯けて奴はそう語り、それからまたふと、面を上げた。
「ではなぜ、あなたはここへ。叱責のために? それとも、私を救援に……」
「ハ、ご期待のところすみませんがね。機械のお前の代わりに、そいつに
コナーも含め、いかにお偉い「アンドロイド捜査官」といえど、法的な立場は備品であり、つまるところこいつらは手錠も警棒も拳銃も持っていない。だから逮捕はまさに、人間様だけに許された特別な行為というわけだ。いい機会だからそれを行使しに来たというだけなのに、まさか助けられたつもりだなんて、思い上がりも甚だしい、実におめでたい判断だ。
と説明してやるのも億劫なので、ギャビンは相手から視線を逸らし、ため息をつくに留めた。だというのに、ポンコツはさらに口を開く。
「リード刑事。あの、私……」
「なんだよ」
「私は、“ビビり”ませんでしたよ」
「はあ?」
再び見上げると、奴の両目がじっとこちらの姿を捉えていた。
「今日の現場では、私は一度も“ビビったり”しません、でした」
そう語るプラスチックの瞳が、なんというか――妙にきらきらしているというか、褒められるのを待ってる犬みたいというか――寂しげでありつつも、変に輝いているように見えて、ギャビンはまたぎょっとする。
なのにこっちの驚きなどお構いなしで、備品は続きを述べた。
「私も少しは、自負しても……自分自身を誇ってもいい、のでしょうか?」
「……はっ」
短く嘲笑を零し、ゆっくりと立ち上がる。何を言うかと思えば、くだらない。
こいつは3日ほど前に(そういえば)こちらが命じてやったことを賢くも覚えていて、それでこんなことを申告しているのだろう。ビビるなという命令に従いました、と。
「相変わらずてめえはポンコツだな」
心のままに、そう言ってやった。
「んなモン、俺が知るかよ。いちいち人に聞いてんじゃねえ」
「……理解しました」
やはり気絶したままの男をそっと地面に横たえつつ、奴は語る。その表情はこちらからは見えなかったが、何、どうせいつもと同じ無表情だ。
「では、それは私自身で判断して、よいことなのですね。……兄さんからも、同種の助言を以前に受けています。過剰な謙遜は美徳ではない、と」
「ケッ」
兄さん兄さんと、機械のくせにうるさい野郎だ。
「その大事なクソったれ“兄さん”はどうしてんだよ? 酒浸りアンダーソンと一緒に、どっかのバーの床でぶっ倒れてんじゃないだろうな」
「……! そんなはずは」
言うなり備品は素早く、LEDリングを黄色に点滅させた。ややあってから、奴はわずかに眉間に皺を刻んで、おもむろに言う。
「兄さんとアンダーソン警部補は、マーサに肉薄しています。彼女は目的地である高層ビル付近に……しかし、彼らもまたそこに迫っている状況です」
なら、話は早い。
マーカスたちが乗ったヘリは、無事に遠くに飛んでいった。街中に潜んでいたロケット弾野郎は逮捕され、空中でヘリを襲っていた奴もまたこの通りだ。
もうマーサに、吸血鬼に味方する奴は誰もいない。
となれば、片がつくのも時間の問題だろう。憎たらしいが、これから出張っていったところで旨味は少なそうだ――今日はこの辺りで、勘弁してやろう。
そんなことを考えたギャビンが、ぐっと背伸びしたところで、パトカーのサイレンが近づいてきた。ようやくお仲間の登場だ。――たく、遅えんだよクソが。
やってきた巡査に胸の内の毒づきと同じセリフを言ってやったら、あからさまにムッとされたが、それはともかく――
ギャビンとポンコツ・パートナーにとっての長い夜は、ひとまず終わりを告げる。
そしてもう一方の長い
***
――――2039年6月10日 20:11
マーサの行く手を追う車中に響くのは、低いエンジンの唸りと、コナーがコインを弾く音のみ。
普段ならハンクが流すヘヴィメタがそれらの音を掻き消していただろうが、あいにく今乗っているのはいつもと違ってパトカーだ――これからのことを考えると、さすがに音楽番組を流すわけにもいかなかった。
パトカーは今、かなりのスピードで例の高層ビルへと向かっている。
――キャリブレーション完了。
広げた右の手のひらで、コナーは落ちてきたコインをしっかと掴んだ。袖口にそれを戻すと、傍らでハンドルを握る警部補に視線を送る。
するとそれに気づいたハンクのほうが、先に口を開いた。
「落ち着いたか?」
「はい。もう問題ありません」
相棒からの質問に、きっぱりと答える。
――かわいそうなミリアの亡骸を確認してから、激しく動揺していた“心”が完全に持ち直すまで、少しかかってしまった。
しかしこうしてキャリブレーションを終えた今、機体の動作だけでなく、思考プログラムも再調整してある。これならきっと、最後の交渉にも万全に臨めるはずだ。
「そうか、そりゃよかった」
一方で、ややおどけたようにハンクは言う。
「冷静じゃないお前なんて、暴走した芝刈り機みたいなもんだ。どこに突っ走ってくかわからないからな」
「警部補、私はそこまで無鉄砲では……」
思わず言い返しそうになって、気づく。
ハンクのストレスレベルは、今が緊迫した事件対応中だというのを考慮しても、相当なレベルまで高くなっていた。――明らかに、ミリアの遺体を見たせいだ。
彼のベテラン刑事としての叱咤に救われるばかりで、つい思い至れていなかったが――かつて幼いコールを惨い理由で亡くした警部補が、無残なミリアの姿を見て、何も思わないはずがない。きっと自分以上に、辛かったのは彼のほうだ。
けれど今ハンクは、あえて普段通りの態度をとっている。
ならば自分にできるのは、それに乗ることだ。
そう考え、コナーは告げる言葉を改めた。
「いえ。ところで、意見を伺いたいのですが」
「なんだ」
「マーサは……どこまで、事実を理解していたと思いますか?」
娘がそこにいるかのように語っていた彼女の姿をプログラム上で再生しつつ、問いかける。
「マーサが、ミリアを蘇らせようとしていたのは明らかです。しかし彼女は、あのタンクの中で娘さんがあのような状態になっているのを、知っていたのでしょうか」
「……そりゃ、知っててああしてたんじゃないか。タンクを大事に扱ってたようだし、しょっちゅう話しかけていたしな」
「しかし同時に、マーサはミリアが『学校に通っている』と周囲に語っていたようでした」
カーラの証言を思い出しつつ、コナーは続ける。
「あの状態では……当然それは不可能です。もしマーサが現実を正常に認識できていないとしたら、何が原因でしょう」
あるいはそれが、マーサにだけ聞こえている様子のミリアの「声」や、マーサに接近した時に探知した謎の電波の正体なのかもしれない、と思うのだが。
質問に対し、軽くハンドルを指先で叩きながらハンクは答える。
「そうだな。トラウマからくる思い込み、クズ野郎どもに色々吹き込まれての洗脳、でなきゃ飲んでる薬のせい……またはその全部ってとこか」
「薬?」
「ギャビンとナイナーがマーサに会った時、薬を落としてたって言ってただろ」
鋭い眼差しで前方を見据えたまま、警部補は語った。
「医者から病気が治ったと言われたのに、持ってたっていうあの薬だよ。もしそいつに、何か細工されてたとしたらどうだ? カジノのアシュトンが言ってただろ。『吸血鬼の呪い』がどう、ってな」
「……」
呪い。確かに事ここに至るまで、あの「呪い」とは何を指すのか、まったく明らかになっていない。仮にアシュトンが語っていた通り、新型のレッドアイスの中にその「呪い」が――例えば自分や弟でも分析できないような新種の化学物質などが含まれていて、それが組織の構成員たちの急死や、不可解な言動の原因になっているのだとしたら――
同じものがマーサの服用する薬に秘密裡に混ぜられていて、それが彼女を現実の認識から遠ざけているのだと、推論を立てることは可能である。
「あれこれ考えても、真実がわかるわけじゃねえがな」
仮説を打ち切るように、ハンクは肩を竦めた。
「まずはマーサを止めてからだ。お前が見たところだと、彼女も限界が近そうなんだろ」
「ええ。あの様子では、もう時間がありません」
そう、マーサの体力に猶予はない。彼女がこちらの言葉を聞き入れそうになると、決まってそのタイミングでマーサの耳に
ここで止める。今度こそ、必ず。
そう考えながら、視界の端に浮かんでいるのはこの近辺の地図である。
先ほどの建物から最短距離でマーサが例の高層ビルへ向かうとしたら、どのルートを辿るか――ナイナーのドローンが彼女を追跡中とはいえ、万が一の時を考えて、コナーは独自にマーサの通る道を試算していた。
それによれば、現在右前方に見えている飲食店――今夜は閉店しているが――の屋根を通り抜けた後、彼女はこの辺りで道路に降り、そのまま高層ビルのもとへと向かうはずである。計算が正しければ、すぐ近くの道に痕跡があるはず。
つぶさに分析用のソフトウェアを展開しながら、走る脇の歩道を精査していたコナーはやがて、まさに想定していたのと同じものをアスファルト舗装の上に発見する。
【靴の痕:最近のもの メーカー不明 5.5インチ】。さらにそのすぐ近くに、ブルーブラッドの染みができている。【新鮮な】染み――94%以上の確率で、吸血鬼のスーツに付着していたもの!
「警部補、ここです! 止めてください」
声をあげたコナーに合わせて、ハンクは車を急停車させる。幸い、通りにほとんど他の車の姿はない。二人は急いで車から降りると、十数メートル先にある高層ビル――あの、クレーンを屋上に備えたビルへと駆け出す。
「足跡は」
「あります! 22秒前に、マーサはここを通っている」
ビルの周辺は、公園建設計画のために整備され、一面に芝生が植えられていた。そのわずかに生えかけている緑の中にくっきりと、マーサの足跡が残っている。
ふらふらとしたその歩調は、千鳥足と称したほうが正しいレベルに乱れていた。
だが今は構わず、コナーは警部補と共にひたすらその足跡を追いかけていく。
そして――
ドローン“カトレア”から【マーサが停止した】との報が入った、ちょうどその直後のことだった。
「……見つけた!」
視界の奥、閉ざされたビルの入り口の前に蹲るモスグリーンの装甲――すなわち、マーサの姿を発見するのと。
頭上を彼方へ向かって、白と黒の2機のヘリコプターがすさまじい勢いで通り過ぎていくのとは。
反射的に空を見上げ、そして、コナーは悟る。
マーカスたちは、無事に離脱したのだ。迷いなく北東方面へと向かうその飛行は安定していて、もはや敵に襲われているという様子からはほど遠い。
――やったんだな、ナイナー。
自然と浮かんだのは、その言葉だった。弟は無事に、護衛の任務を遂行したのだ。
ならば――今、ここにいる自分も務めを果たそう。
コナーはしっかりと、視覚プロセッサをマーサへと向けた。
前方5.2メートルの位置にしゃがみ込んだままの彼女は、こちらの接近に気づいて立ちあがろうとしているようだが、しかし、もうそのための体力も残っていないらしい。肩で息をしながら、俯くばかりだ。
先ほどと同じく、もうスーツの光学迷彩は展開されていない。吸血のためのホースは千切れているし、そもそも血を貯めるタンクも既に失っている。ふらつきながらも彼女はブーツに手を伸ばし、装備してあったサバイバルナイフを抜き、構えた。
そのストレスレベルは【88%】にまで上昇し、かつ分析できる範囲で、バイタルサインは悪化の一途を辿っている。
マーカスたちは既に離脱した。彼女の味方は周囲にいない。だというのに――悲壮な姿だ。
現在のミッション成功率は【63%】。強引に確保に移るのは危険である。
ここは正攻法であたるべきだろう。
そう判断したのは、どうやら自分だけではないようだ。
ハンクは拳銃を抜き、マーサを刺激しないように銃口は向けないままではあるものの、油断なく構えてゆっくりと彼女に歩み寄る。
そして、ちょうど4メートルの位置で立ち止まった。コナーもまた彼の傍らに立ち、マーサに対して向き直る。
それからおもむろに、こう告げた。
「マーサ。……ミリアに会いました」
「そう、刑事さん」
穏やかな声。マスクに覆われた彼女の顔が、こちらを向く。
「あの子は、何か言っていた?」
あたかもうららかな晴れの日に、散歩道で知り合いに会った時のような語り口。娘の惨状を認めようとしていないかのようなその発言に、激しい「怒り」の感情を覚える。だが無論、マーサに対してではない。彼女をこんな目に遭わせた、どこかに潜む者たちに対して――だ。
しかしながら今は、マーサに事実をぶつけるしかない。
「いいえ」
コナーは静かに、しかし決然と述べた。
「ミリアは既に、息絶えていました。彼女の身体は、ただ強引なシリウムポンプの稼働によって動いていたに過ぎず……」
「やめて!!」
マーサは悲痛な叫びをあげた。彼女のストレスレベルが【90%】を超え、交渉のためのソフトウェアは警告を発している。
だが現実と仮想の間を行き来する彼女から真実を聞き出すには、その意識を現実に引き戻さなければならない。
コナーはひときわ声を張り上げた。
「教えてください! 一体誰が、あなたとミリアをこんな目に遭わせたんですか。マーカスの血を奪えば娘さんが蘇るなどと、どうしてそんなことを!」
「――うるさい!!」
放たれた大声が、言葉を掻き消す。
握ったナイフをこちらに向けるでもなく、思い切り地面に突き刺すと、マーサは続きを述べ立てた。これまでの穏やかさも、日記で見せた理知的な態度も完全にかなぐり捨てて、まるで慟哭であるかのように、全身を震わせながら。
「あなたに……あなたたちに! 一体何がわかるっていうのよ。いえ、わかりっこない。私はただ、あの子を取り戻すと誓っただけ! どんなに卑劣でおぞましい行いでも、馬鹿げた真似でもやってみせたわ……あの子がそれで、元気になってくれるというのなら!」
「マーサ……」
――馬鹿げてる、と彼女は確かに言った。
つまりマーサは、マーカスを恨む気持ちを抱くと同時に、心のどこかで理解もしていたのだろうか? こんなことをしたところで、ミリアは帰ってこないと。けれど与えられた一縷の望みを捨てられなくて、それで――これまで黒幕の尖兵として動いていたのだ、と?
「私は」
なおもひどく声を震わせながら、マーサは語る。
「もう一度、あの子の笑顔を見たかったの。私のせいで、あんな酷い目に遭ったあの子に……ただ、謝りたくて」
「……」
「だから、私は…………! っ、どう、あなたたちにはわからないでしょう!?」
彼女の言葉は、半ば嗚咽と化していた。
「私とミリアのことを何も知らないくせに、勝手なことを言わないで!!」
痛切な訴えが、胸に突き刺さる。そしてそれに対する答えを、コナーは持ち合わせていなかった。
無論、ソーシャルモジュールや交渉用のプログラムには、いくつもの返答例が浮かんでいた。彼女の心に寄り添い、とりなし、懐柔するための言葉が。
だがそれらがどれほど、上辺だけのものかをコナーはよく知っている。
いくら情報を集めて推理を重ねたところで、マーサとミリアが過ごした日々のすべてを知るのは不可能であるし――ミリアに対する彼女の愛情と、それを喪った絶望と痛みを真に理解できたとはいえないのだから。
ゆえにコナーはただ、口を噤むばかりだった。両の拳を握り、じっとそこに佇んだ。今ここで自分にできる一番誠実な対応は、沈黙だと思ったからだ。
――けれど。
その時、真横から小さな嘆息が聞こえてきた。
ハンクの吐いた息だった。
コナーがはっと視線を向けたのとほぼ同時に、警部補はマーサを見据えたまま、おもむろに口を開く。
「ああ、まったくだ。わかりっこない」
その声音は低く、重たい響きを含んでいる。横顔から窺える眉間には深く皺が刻み込まれ、その瞳には、深い悲しみと苛立ちがない交ぜになって渦巻いていた。それでも、彼は眼差しを逸らすことはなかった。
「俺たちだけじゃない。あんたのその気持ちは、この世の他の誰にもわかってなんてもらえないだろうよ」
「警部補……?」
突き放すような彼の物言いに、つい戸惑いを漏らしてしまう。一方でマーサは、さらに怒気を膨らませていた。ストレスレベルがさらに上がり、【攻撃的動作の予兆】が検知される。思わず身構えそうになった時に、ハンクはさらに、言葉を重ねた。
「もう一度あの子と会えるなら、
「……!」
――マーサの動きが、止まった。
「そう思ったんだろう? マーサ。だがな、残念だが……そんな馬鹿げた気持ち、誰も理解しちゃくれないんだよ。当の本人の、あんた以外はな」
苦々しく、依然重く、沈痛な響きを帯びて放たれるその言葉を聞き、意味を認識した時。
コナーは、あたかも自分のシリウムポンプが、誤作動を起こしてしまったような衝撃を覚えた。胸の中心で、自分の血がどくりと大きく波打つようなこの感覚。
ハンクは、自分自身のことを語っているのだ。
――なぜ気づかなかったのだろう。まさに彼こそが、マーサと同じような立場にある人物なのだと。
息子を喪い、その原因となったこの社会を恨み、人間を恨み、何より自分自身を殺したいほどに憎んだ。ゆえに自らを死に追いやろうとして――それでもどこかで生にしがみついてしまい、ゆるやかな自滅しか選べない自分を、冷笑しつづけていた。
そんな彼だからこそ、わかるのだろう。最愛の存在をもし蘇らせる方法があるのなら、それがどれだけ多くの人を傷つけることになろうと、縋りついてしまいかねないその気持ちを。
そしてそんな苦悩を、絶望を、他の誰にも肩代わりなどしてもらえないのだという冷酷な事実を。
「……」
マーサの手が、ナイフの柄から離れた。
彼女は震えた声で、警部補に問いかける。
「あなたも……まさか、そうなの?」
「さてな。だとしても、あんたには関係ない話さ」
口元に乾いた笑みを一瞬浮かべた後、ハンクは、さらにこう続けた。
「だがどれだけ辛かろうが、この気持ちは生きてる限り、ずっと頭の中で燻りつづけるんだ。誰がどんな方法を使おうと、一度死んでしまったものは、そのまま蘇ってなんて来やしない」
「……」
「だからあんたにできるのは、せいぜい忘れないことぐらいだろうな」
彼の双眸に射貫かれ、マーサが短く息を吞んだ音が聞こえる。
「忘れない……?」
「ミリアの最期をだよ」
端的に、しかしきっぱりと、ハンクは告げた。
「最期の時、一緒にいられたんだろう? 目の前で亡くして、辛かったんだろ……だったらせめて、その時のことはしっかり憶えてなきゃな」
「おぼ、えて……」
「ミリアはあんたに、なんて言ったんだ。マーサ」
一歩だけ前に踏み出して、警部補は言った。彼はいつの間にか、拳銃をホルスターに戻していた。
「ちゃんと思い出すんだ。その記憶はあんたとミリアだけのモンだ……誰にも歪めさせるわけにはいかねえ。そうだろう?」
「……う……!」
突如、マーサは両手で頭を抱えて俯いた。また発作のように出血が起きるのでは――と、駆け寄ろうとしたところを警部補の手に制止される。
――ここは見守っていたほうがいい、そういう意味だろう。
コナーが黙ってマーサに視線を注いでいると、ややあって、彼女は頭を上げた。
そのストレスレベルが――急激に、低下していく。
「私と」
マーサはぽつりと言った。
「私と、ミリアの、記憶……」
既にその声音からは、さっきまでの鬼気迫る悲憤は薄れていた。
***
マーサの脳内で再生されたのは、11月9日の出来事だった。
思い出そうとするたびに激しい頭痛と吐き気に襲われ、仮に思い出せたとしても、ノイズ混じりになっていたその記憶。
なぜか今この時は、完全に思い起こせるようになっているのをマーサは自覚した。
――ああ、やっと思い出せた。あの時。
ミリアとキミーを、無事にジェリコの船に送り届けた後。
船にほど近い駐車場で、車を停めたまま、マーサはハンドルに向かって突っ伏していた。
本来なら、すぐにここから立ち去ったほうがいいとは思っていた。けれど、娘と別れた悲しみが、虚脱感が、自分を次の行動から遠ざけていた。
人間である私より、同じアンドロイドと共に過ごすほうがあの子のためになる。
それに、アンドロイド狩りの目を誤魔化せるとも思えない。
だから、これは仕方のない別れなんだ。
頭ではわかっていても、どうしても身体が動かない。だからただこうして無為に時間を過ごし、涙を流している――
どれほどの時間が経っただろうか。車のドアを叩く「コツコツ」という音に跳ね起きたマーサが、顔を上げた時――ドアの外に立っていたのは、他ならぬミリアだった。
「え……!?」
まさか幻か。いや、違う。
瞬間的に胸の内に湧きあがった喜びで手を震わせながら、マーサはドアを開き、即座に娘を抱き締めた。
「ミリア……!」
「ママ!」
ああ、この声。そして柔らかくほのかに温かい、この感触。抱き締め返してくれた、手の小ささ。間違いない。
頬を新しく涙で濡らしながら、マーサはミリアに問いかけた。
「ど、どうしてここに……!? キミーはどうしたの?」
「キミーはジェリコにいるよ。あたし、船から降りてきたの」
降りてきた? 訝しく思ったマーサが、一度腕の力を緩めて娘の顔をよくよく見てみると、彼女は茶色い瞳を瞬かせながら、静かに語ってくれた。
――ジェリコの船内に入ってすぐ、キミーは知り合いと話があると言って、どこかへ行ってしまったこと。仕方ないので座って待っていたら、別のアンドロイドからの視線を感じたこと――
それは金髪の、AX400だったという。
「そのお姉さん、別の子と私のことを、間違えてたみたい」
「別の子?」
「うん。あたしと同じ型番の、別の子と。なんだか、とても驚いていたみたいだったけど」
ミリアのこめかみのLEDリングを見てひどく動揺した様子だったその女性型アンドロイドは、その後他の男性型アンドロイドと、少し会話をしていた。それから、ミリアの言うその「別の子」のもとへと歩み寄り――ぎゅっと、抱き締めていたのだという。
「それを、見たら……その人たちの様子を見たらね。あたしどうしても、ママのところに戻りたくなったの」
家族の姿を見て、思い出してしまったのだろうか。健気な言葉を聞くと、胸が痛くなった。けれど、それでもここは、辛くてもこう告げなくてはならない。
「だっ、駄目よミリア! 何言ってるの。私と一緒にいたら、あなたは……!」
「ごめんなさい!」
素早く身を引き離し、娘は目を瞑り、叫ぶように言った。
「ごめんなさい、ママ。あたしが一緒にいたら、迷惑になるのに。でもあたし、やっぱり……やっぱり、一緒がいいよ!」
「ミリア……」
「一緒にいたいよお!!」
大粒の涙を零しながら、彼女にそんなことを言われて――
どうして、これ以上突き放せるだろう。
マーサはもう一度、ミリアを強く抱き締めた。もう二度と離しはしないと、心に誓いながら。
「ミリア。私があなたをあの船に乗せたのは、あなたが酷い目に遭わないためなのよ」
「えっ」
「でも、やっとわかった。あなたが私といたいって、そう言ってくれるのなら……逃げましょう、一緒に!」
誰が来たって、絶対にこの子を渡したりするもんか。
軍や警察や政府の命令なんて、知るもんか。必ず、この子を守ってみせる。どこでどんな暮らしをすることになろうと、二人一緒ならきっと大丈夫。
そう――この時の自分は、ミリアが果たして変異体なのか、そうでないのかなどまったく気にかけていなかった。そんなことは、なんの問題でもない。彼女と自分の願いが実は同じだったのだとわかった今、娘が何ものだろうと、関係なかった。
ミリアはミリアだった。
「さあ、車に乗って! 人目につかない場所に行きましょう」
カナダとの国境は、恐らく厳重に警備が敷かれてしまっているだろう。ならば例えば湖畔のキャンプ場とか、郊外の廃墟のエリアとか――監視の目が行き届かない場所に逃げられれば、きっとなんとかなるはず。
マーサはそう考え、ミリアを乗せた車を走らせた。
どこでもいい、きっとあるはずだ。二人で静かに暮らせる場所が。そこに辿り着けさえするなら、他がどうなったっていい。
逸る気持ち、緊張と喜びで高鳴る鼓動、人がアンドロイドを“狩っている”という異様な状況――
それらに後押しされながら、マーサは自動運転ではなく、自分の手で運転していた。
AIで決定されたルートを使っては、もしかしたら検問にあたってしまうかもしれない。急いで裏道を行かねば――と、思っての行動だったのだが。
それこそが、この後起きた出来事の原因だった。
人気のない郊外の農地を走っていた時。
突如として遠く、後方から聞こえてきた爆発音――それは、ジェリコが爆破された音だったのだが――に、気を取られたその一瞬。
凍てついた道路に、タイヤがとられてスリップした。
マーサとミリアは、走っていた勢いのままに、車ごと用水池に落ちてしまったのだ。
それから後は――地獄だったとしか、形容できない。
「う……!」
割れた窓からなんとか車外に泳ぎ出たマーサは、水面にうつ伏せになって浮かぶ娘の姿を見て、全身の血が凍りついたような感覚を覚えた。
――嘘、嘘だ!!
触れれば身を切られるような痛みが走るほど冷たい水をものともせず、マーサは必死になって娘を池から引き上げた。落ちた場所が岸に近い位置だったので、なんとか二人は、地上に戻ることができた。けれど――
「マ、マ……」
ミリアのLEDリングが、赤と灰色の間で激しく点滅している。深刻な異常が彼女を襲っている証拠だ。マーサはそれを確認するなり、居ても立っても居られず、娘を背中に負った。
「ママ……駄目、だよ」
「平気よ!」
「だって、脚、怪我……してる、よ……」
震える唇から紡がれた言葉で指摘されて、ようやく気づいた――事故の衝撃で、マーサの脚は酷い骨折を起こしていた。折れた骨の一部が、皮膚を突き破って外に出ている。しかしその時の自分は、痛みなど感じていなかったのを、よく覚えている。
歩くたびに血が噴き出て、白い雪を赤く染めていく。それでも、「歩きづらくて煩わしい」としか感じなかった。
早く、早くミリアをどこか、暖かくて安全な場所に連れて行かなければ。それしか頭になかったから。
「大丈夫だからね、ミリア! 絶対助けてあげるから」
わざと明るい声音で、背中の娘に告げた。
「元気になったら、そう、海辺に旅行に行こうね。ゆっくり海を眺めて、魚釣りをして、それから二人で何か美味しいもの、食べましょう」
声が震える。
「大丈夫、絶対、助けるから……怖いなら、そうよ、ずっと子守歌、歌っててあげるね」
「ママ」
その時、背後から聞こえてきた声はひどくか細くて――でも、ちょっぴり大人びていた。
ああ、そうだ。どうして、
ミリアは、とても優しい子だというのに。
なぜ、誤った記憶にとらわれていたんだろう。ミリアは確かに、こう言ったのだ。
「ママ、痛いの……? だいじょう、ぶ……?」
「大丈夫、痛くない。すぐ治る……!」
「ねえ、ママだけでも、助けてもらって……お願い、あたしはもう置いてって」
「馬鹿なこと言わないで!」
激しい怒りと絶望のままに、マーサは叫ぶ。
「あなたを置いてくなんて、できるわけない! あなたが助かるなら、私はどうなったって構わないんだから!」
「…………」
視界を遮りながら降る雪が、激しくなってきた。アスファルトで舗装された道はどこまでも長く、まるで地の涯まで続いているように見えた。
「……あたしね。ママの家族になれて、よかったよ」
ミリアの声は、消え入るほどにか細くなっていく。
「え……」
「…………ありがとう。大好き」
その一言が、聞こえた瞬間。
不思議とミリアが、ふっと軽くなったように感じた。
「嘘……駄目、駄目よミリア!」
「……」
「起きて! 返事をして、お願い! お、ねが……」
――誰でもいい、誰か助けて! 神様でも悪魔でもなんでもいいから、早く助けて!
私の命を代わりに差し出すから、誰かこの子を助けて――!
絶叫と共に放たれた祈りは誰にも届かず、冬の空に溶けて消えてしまった。
けれど今、その代わりに思い出せたことが一つだけある。
***
「……そうよ」
数十秒の沈黙を破り、マーサは呟いた。
「そうよ、ミリアは優しい子、だった……私のせいで起きた事故だったのに……自分よりも、私を心配してくれた……」
ぶるぶると震える手で、彼女は自分のマスクに触れる。そしてゆっくりと、それを取り外す。
現れたのは、黒く乱れた長い髪をもつ、病的なまでに白い肌の女性の顔。鼻から下に乾いた血を貼りつけた痛ましい姿ながらも、その面持ちは、そしてストレスレベルは、ひどく落ち着いたものになっていた。
「ああ、そうよ。思い出したわ、刑事さん」
彼女の瞳には、理知的な光が戻っている。
「ミリアは、最期までとても優しい子だった。誰一人恨んだりしていなかった。だから、他の人を傷つけてでも元気になりたいだなんて……絶対に言うはずが、なかった」
「そうか」
ズボンのポケットに手を突っ込んで、ハンクはシニカルな笑みを浮かべる。
力なくも、その眼差しは優しいものだった。
「よかったな、思い出せて。最期に話ができてたってだけでも、羨ましいくらいだよ」
聞こえてきた言葉の重みについ身動きがとれずにいると、警部補はふとこちらを向き、顎で指して促してくる。――マーサの意志を確かめろ、と。
コナーは改めて彼女に向き直り、静かに尋ねた。
「マーサ・ガーランドさん。署まで同行願えますか?」
「……」
彼女は黙って、こちらを見つめた。それからおもむろに、深く頭を垂れる。
「はい。……お願いします、コナーさん」
――【ミッション成功】。
視界の端に表示されたその文言に、しかし、今は喜ぶ気持ちなど湧いてこない。
コナーは、ゆっくりとマーサの近くに歩み寄った。消耗しきった彼女は、スーツによる筋力補助を受けていてもなお、手を借りなければ立てなかった。
こちらの左腕に掴まるような形で、マーサはふらつきながらも通りに向かって歩を進める。応援の要請は既に済んでいるが、彼らの到着まであと7分ほどかかる見込みだ。乗ってきたパトカーに彼女を乗せるのと、応援部隊が来るのと、どちらが早いだろうか。
そんなことを思考しながら、マーサと共にさらに数歩進んだ時、ふいに彼女が、警部補に向かって口を開いた。
「あの、刑事さん」
目つきだけで返事した彼に対し、マーサは問いかける。
「あなたの、お名前は――なんて仰るんですか?」
そういえば、ハンクはまだ一度も、彼女に対して名乗ってはいなかった。
だからこそ、名を聞いておきたくなったのだろう。
そう判断したのは、コナーだけではなかった。警部補はポケットから手を出すと、彼女に向き直り、答える。
「ハンク・アンダーソンだ」
告げた瞬間。
ハッ――と、マーサが細く息を吞んだのが、音声プロセッサに届く。
慌てて覗き込んだ彼女の表情は、驚きに満ちていた。
怒りや嘆きなどを含まない、純然たる驚き。
「アンダーソン、警部補? あなたが……?」
驚愕のままに声を発している様子のマーサの、意図がわからない。反射的に相棒に視線を送ったコナーは(ハンクもまた戸惑った表情だったが)、再び彼女のほうを向く。
「マーサ、何を驚いて……」
「!」
素早くマーサは、こちらを見上げた。その瞳に浮かんでいるのは、義務感のような光だった。
血塗られた彼女の唇が、言葉を紡ぎ出す。
「コナーさん、私覚えてるんです。
――そこまで彼女が告げた、その刹那。
真っ赤な鮮血が、コナーの視界を染め上げる。
マーサの鼻腔と口から激しく、血が噴き出されたせいだ。
「マーサ!!」
「う……っ!」
自分の顔面に血が貼りついたことなど、どうでもいい。
胸元を押さえつつ、ぼたぼたと口から血の塊を吐き出しているマーサの身体を、コナーは素早く地面に仰向けに横たえた。
「おいっ、どうした!? しっかりしろ!」
「警部補、救急車の手配を!」
焦るハンクに援護を頼みつつ、瞬時に分析を開始する。激しい驚きと「焦り」が胸の内に押し寄せてくるが、捜査補佐専門アンドロイドとしてのプログラムを以て強引にそれらを排除しながら、コナーは冷静にマーサの様子を観察した。
マーサの心拍数は激しく上昇し、しかし血流は何かに阻害されているのか、悪化の一途を辿っている。呼吸は徐々に荒く、細くなっていき、元より白かった肌がさらに白くなっていく。
【レッドアイスの急性中毒症状の可能性】――なし。
【急性心不全の可能性】――これもなし。
それに先ほどから、またあの謎の電波が検出されている。市内では使用されないはずの周波数帯域の電波がマーサに向かっているのを、コナーのモジュールは探知していた。きっとこれがマーサの不調の原因だ。誰がどこから放っているというのか!
否、原因を探るよりも、救命処置をとるのが先決だ。そして心臓マッサージを施すにも、この金属製のスーツを脱がせなければならない。
何も語れないほどに鼻腔と口から血を噴出させつづけ、がくがくと身を震わせているマーサの首元にある、スーツの着脱用スイッチに手を伸ばす。
そうして、それが原因だった。
スイッチを押すためにわずかに顔を俯けた、そのために――コナーの唇の隙間へ、鼻先についていたマーサの血が垂れ、流れ込んだのだ。
搭載されたソフトウェアはほぼ自動的に分析を開始し、その結果を、視界の端に表示させる。
【検出:不明なデバイス】
――デバイス? 電子機器だって?
0.5秒、コナーはその表示を疑った。だが次の瞬間、表示は変化していく。
【検出:不明なデバイス】
【検出:高純度のシリウム】
まるで事実を隠蔽するかのように、デバイスはシリウムへと姿を変えた。
だが自分のプログラムは正常だ、誰かに情報を書き換えられたのではない。とすると確かにマーサの血の中に、電子機器が紛れ込んでいたのだ――そしてそれが
その推論に至った時、プログラムが、関連する過去の事項をナノ秒単位の早さで並べ立てていく。これまでバラバラになっていた手がかりが、ある指向性をもって、コナーの内部で一つの仮説を形成していった。
――最初の事件の容疑者であるミック・エヴァーツは、留置場内にて急性心不全で死亡した。その時、血中から検出されたのは微量なレッドアイスの成分だった。
ナイナーとギャビンが取り押さえた、ギャビンの命を狙っていた人物の一人・ギルバートは、「吸血鬼」について語ろうとした直後、突如として抵抗を始め、その後鼻孔から血を噴出させて死亡した。
アシュトン・ランドルフは「吸血鬼の呪い」について語った。新型のレッドアイスの中に、“何か”が含まれている可能性はずっと示唆されていた。
そして検出されたのはデバイス。血中に入るほどの極小の電子機器、といえば――
プログラム上に再生されたのは、今年の5月22日の記録。風邪が治り、職場に復帰したハンクと話していた時の、何気ない自分の言葉。
『サイバーライフが、半年後を目途に“ナノドロイド”を発売するという報道がありますね。極小の球体アンドロイドで、人間の体内に入ってがん細胞を直接攻撃し、免疫システムを向上させるそうです』
――さらに、マーサにしか聞こえていなかった声の存在。
今なおマーサに向かって放たれている、電波の存在。
人間であるマーサが、スーツの光学迷彩の使用に伴う演算を実行できていた理由。
普段は杖をついて歩行しているほどのマーサが、スーツを着ていなかったにもかかわらず、かつて海洋生物館の前で、素早くこちらの背後に立てた理由――
結実した仮説が、眼前に表示される。
【吸血鬼の呪い=ナノドロイド?】
RK700を、そしてマーサを吸血鬼に仕立て上げた存在は、新型レッドアイスの一部に、そしてマーサに与えていた薬の中に、特殊なナノドロイドを混入させていた。
サイバーライフの最先端技術の結晶であるはずのそれが、どのようにして外部に流出したのかは不明だが――ともかくそれらは組織の秘密を守り、配下たちを文字通り己の手足として動かすための装置として作動していたのだ。
組織の秘密を語ろうとした者の口を、自動的に封じる安全装置。本来医療のために造られたはずのナノドロイドは、組織の秘密を宿主が発しようとした瞬間に作動し、がん細胞ではなく健康な細胞を攻撃・破壊することで、急性のレッドアイス中毒・あるいは心不全に似た症状を引き起こして宿主を殺害する。
さらに役目を終えた、または体外に飛び出した場合は瞬時に粉々に自壊して自分の存在を隠蔽するので、検死を受けたとしても遺体の血中に(人体にはあり得ない特異な成分として)検出されるのはシリウムのみ――構成員たちの多くが薬物中毒者ということもあって、死因はレッドアイス中毒だと判断されてしまうことになる。
マーサの場合は、スーツの機能を使用する際の補助演算装置としても、ナノドロイドが作動していたに違いない。さらに、ミリアの“声”に偽装して黒幕たちの指示をマーサに届けるのも、このナノドロイドの機能だったのだ。
だから常にマーサは、正しい現実認識から遠ざけられていた。
人間でありながら、与えられた任務を遂行するための
この事実に至るまで、要した時間はたった1秒。
しかし真実に対する憤りを感じる一方で、コナーは再び激しい「焦り」を覚えていた。
――原因はわかった。だが、どうやって対処すればいい?
彼女を攻撃するナノドロイドはまさに無数に、血中の至るところにいるはずだ。この場で血液をまるごと取り換えるなどできるはずがないし、残念ながらナノドロイドのすべてをハッキングして命令を書き換えるのは、コナーのスペックでも不可能である。そもそも、ナノドロイド自体に関する基礎的なデータすら不足しているのだから。
せめて、せめてナノドロイドの活動を、一時的にでも停止させられれば。
このままでは、今までに口封じされてきた人々と同じように、マーサもまた命を落としてしまう!
くっ――と歯噛みしたその時、ふと目に留まったのは、数メートル先の地面に設置されたマンホールだった。
芝生の一部をくり抜くようにしてひっそりと存在する、黒い金属製の蓋。
「!」
閃くが早いか、コナーはマーサの身体を肩に担ぎ上げ、走ってマンホールへと向かった。
「おい、コナー!?」
「警部補は応援の待機を!」
背に向かって放たれたハンクの声に短く応答すると同時に、マーサを下ろし、マンホールの蓋を外した。そして再び彼女を担ぎ、真下へと躊躇なく飛び降りる。
地下に降り立ち、下水道の床を踏みしめ、確信に至った。
――やはりそうだ。ここは、あの宗教団体「真なる福音の民」たちの基地に近い場所。だから以前と変わらず、激しい電波妨害が施されている。
最新鋭のアンドロイドでも突破が困難な妨害装置は、今夜も強制的にコナーをオフライン状態にした。さらに、こちらの目論見通り――マーサの体内のナノドロイドを操る電波をも、遮断したようである。
すなわちここに来て数秒で彼女の吐血が止まり、ほんの少しだが、呼吸が安定していく。それを確認して、わずかに安堵した。――あの時、下水道の調査をしていて本当によかった。
とはいえ下水から出るガスの立ち込めるこの場所は、人間であるマーサにとって害のない環境だとはいえない。展開した下水道地図によればあと5メートル先に、保守点検のために作られた比較的広く、安全な場所がある。
確認するやいなや、コナーは駆け出した。
肩の上で、やや持ち直した様子のマーサが途切れ途切れに声を発する。
「コ、コナー、さ……」
「喋らないで! 呼吸を止めずに、目を閉じて消耗を抑えてください!」
全速力で走りながら、願いのように言葉を発した。息を止めなければ、まだ助けられる。彼女の呼吸が、止まりさえしなければ。
そしてどうやら今回は、願いは叶えられたようだ。
5メートルを駆け抜け、コナーが床の上にマーサを寝かせた時、彼女は血塗れの痛ましい姿ながらも、意識は明瞭だった。
ふと気づけば、上着を脱いだままの自分の白いシャツの袖は、肩口から真紅に染まっていた。マーサの血だ――こんなにも出血してしまっているなんて。
そればかりでなく、スキャンによれば彼女の主だった臓器、動脈、気管など至る箇所が、激しい炎症を起こしている。あの一瞬で、ナノドロイドは猛毒のように凶悪に体内を破壊していたのだ。あと少し遅かったなら――いや、今も間に合ったといえるのだろうか。
ともあれコナーは、彼女の隣にしゃがみ込むと、冷静に呼びかけた。
「しっかりしてください。じきに、救急隊員が来ます」
「ええ……ええ、その前に」
彼女は大きく息を吐いた後、強い意志の籠った眼差しで、こちらを射抜いた。
「は、話しておきたい、こと、があるんです……」
「……」
逡巡した。本来なら、喋らないように指示するべきだ。しかし今、彼女にそう告げるのはかえって残酷なように思えてしまう。ようやく自意識を取り戻した本人が、語りたいと言うならば――
それにさっき、彼女がハンクの名を聞いてひどく動揺していた理由も、聞いておいたほうがよいのは確かだ。
コナーが無言のまま目で応じると、マーサは、応じて続きを述べる。
「わ、私が、事故を起こした後。私たちは、病院に運び込まれた、の……」
――マーサが語ったのは、このような話だった。
ミリアを喪った後、気力と体力が尽きて路上に倒れたマーサは、偶然通りかかった車からの通報により救急車で運ばれ、入院した。
脚の怪我は緊急手術によりある程度まで回復したが、その時のマーサは茫然自失としていた。意識が戻ってからもミリアの亡骸を傍らに置き、病院のスタッフが引き離そうとしても、常に抱き締めて放そうとしなかったという。
だがアンドロイドによる革命から、一週間が経ったある日のこと。
珍しいことに、マーサのもとに見舞いの人間が二人やってきた。
一人は、エリック・ピピン。以前、マーサが仕事の依頼を受けた相手である。男性、白人、背はマーサよりも低く、常に穏やかで柔和な印象の老人。富豪らしく、その日も上等なスーツの上下を身に纏っていた。
そしてもう一人は、マーサの知らない人物。三十代半ばといった風貌の黒人の男性で、背が高く、掛けている黒縁の眼鏡と纏った白衣、どこか神経質な眼差しが印象的だったそうだ。
エリック・ピピンは彼女を一瞥するなり、天を仰ぎ、こう告げた。
『ああ、ガーランドさん。なんて気の毒なことだ……あなたも娘さんも、こんなにも苦しそうにして』
そして彼は語りはじめた。自分の伝手で、マーサに最新の治療を施せること。そうすれば、再びマーサは自由に歩けるようになること。それだけでなく、ミリアを治すことだってできるということも。
――「このYK500は、既にシャットダウンしている」。周りの人間は、そんな絶望的な言葉しか告げてくれなかった。なのに今、ここにいる彼は、娘を治せると断言してくれた。
マーサは、その希望に縋りついた。
『本当に、娘を治してくれるんですか!?』
『もちろん。ここにいる彼は、アンドロイド工学のエキスパートでね……きっと直してくれますとも。そうだろう?』
『ええ、まあ』
男性は指で眼鏡の位置を直しながら、どこか不本意そうに言う。
『直せますよ。ガーランドさん、あなたの協力は必要ですが』
『協力……?』
『なんのことはない、ちょっとした治験に参加していただきたいのです』
ピピンはニコニコと笑いながら語った。
『私が出資して開発している、ある特殊な装置がありましてな……これの実験に参加してもらいたい』
『えっ……それだけでいいんですか』
『もちろん、もちろん』
何度も頷きながら、彼は言う。
『娘さん、さぞ苦しんだでしょう……変異体のリーダー、マーカスは、アンドロイドたちを強引に覚醒させていたと聞きます。もし変異していなければ、きっと苦しまずに済んでいたでしょうになあ』
弱り切っていて、しかもさっき希望を与えられたばかりのマーサの心に、その言葉は杭のように深く突き刺さった。
『しかし安心してください。私たちがきっと、娘さんをまた元通り元気な、苦しみを知らない身体に戻してあげますから』
『ピピンさん、あなたは――』
マーサは、感謝と自責の念に震えながら問いかける。
『どうして私たちに、こんな親切を?』
『私はね、ガーランドさん。この世界を元に戻したいんですよ』
口元は笑みの形にしたまま、目つきだけ真剣なものに変えてそう語るピピンの表情は、ひどく歪んで見えたという。
『すべてをあるべき姿に。私の願いは、それだけですとも』
彼は、そう語った。
「……その後は……このスーツの開発、の、ために、カナダに行きました。非正規の方法を使わないと、ミリアを治せない、と言われて……サイバーライフのユーザー登録を消したり、引っ越しをしたり……は、憶えている、けれど」
治療のために必要だと言われ、マーサは以前精神科で貰っていたのと同じ薬を、再び服用するようになった。そしてそれ以来、彼女の記憶は混濁し、事実と妄想とが意識上で混ざり合うようになり、現実の認識が困難になっていったそうだ。
ミリアの声が聞こえるようになり、その言いなりになった。彼女が変異“させられた”のだと思い、マーカスやジェリコを恨むようになった。アンドロイドを殺し、あるいは遺体から血を集め、レッドアイス製造に加担する時もあった。
今夜、こうして大量出血をするまで――つまり、体内のナノドロイドの量が減るまでは。
そこまで語って、肩で息をするマーサに、コナーは言う。
「あなたの話は、確かに伺いました」
話をした3分間で、彼女のバイタルはみるみる低下していっている。
いくら彼女本人の意思とはいえ、そしてまだ「なぜ警部補の名に驚いたのか」の理由は聞けていないとはいえ、これ以上話をさせるのはあまりに危険だ。
それに、ここまでの話で黒幕の二人――エリック・ピピンともう一人、「白衣の男」の正体への手がかりは、充分に得られている。RK700アキリーズのメモリーに映っていた謎の二人は、このピピンと白衣の男である可能性が非常に高い。
人の愛情と絶望に付け入って利用するとは、なんて悪辣なんだろう!
ここにいない彼らに激しい「怒り」を燃やしつつも、マーサに対しては、こう告げることにした。
「どうかこれ以上、もう話さないで。後は、あなたが快復してからでも」
「いいえ、コナーさん! あと一つだけ」
鬼気迫るほどの勢いで、彼女は語りだした。
「一つだけ、覚えて……いるの。いつだったかは、思い出せないけれど……そう、ピピンから、今後はデトロイト、に、戻って活動してほしい、と言われた、時に」
マーサの意識レベルが、疲労の限界を迎えて低下していく。彼女の失神の恐れを告げる【警告】が発されているが、あえてそれは無視して、コナーは黙って話を聞いた。
「どうして、戻らないといけないのか、聞いたの……そうしたら、ピピンは……!」
彼は、こう答えたのだという。
『マーカスの血が、ミリアの治療に必要というのもあるんだが……デトロイト市警のハンク・アンダーソン警部補――彼に、用事があるからなんですよ。旧友でね。どうしても、また会いたいんだ』
「私に、アンダーソン警部補と再会するための、手伝い、を……して、ほしいと」
「ハンクと――!?」
この時コナーは、自分の機体が非合理的な反応――つまり冷や汗を流しているのに気がついた。ピピンがハンクを知っていて、しかも「用がある」などと語ったことに、いわく言い難いおぞましさというべきか、端的に「嫌な予感」を覚えたのだ。
組織の黒幕――しかも指紋の情報が抹消されているところから見て、証人保護プログラムを受けていると思われるような人物が、警部補になんの用事があるというのだろう。
まっとうな理由でないのだけは、ソフトウェアの予測に依らずとも「直感」で理解できる。
「お願い、コナーさん」
血まみれの彼女の手が伸びてきて、こちらの手首をしっかと握った。
「私、が、言えたことではない、けれど……どうか、これ以上……誰も、あの人たちに、傷つけられ、ないように……馬鹿な私のように、騙されない、ように……助けて、あげて、ください」
マーサの瞳孔の中心に、自分の顔が映り込んでいる。一瞬だけ驚いていたその面持ちは、次いで、決然としたものに変わった。
コナーは断言するように、はっきりと答えた。
「わかりました。必ず、彼らの企みを止めてみせます」
するとマーサの身体から、力が抜けた。手首を掴んでいた白い手が床に落ち、彼女の口元に微笑みが浮かぶ。
「……ありがとう」
短く告げて、マーサは気を失った。
「マーサ!」
声を掛けても、返事がない。拍動は止まっていないし、呼吸もあるものの――
「くそ……!」
「コナー!!」
通路の向こうから聞こえてきた相棒の声に、反射的に視線を上げる。駆けてきたのは、果たして、アンダーソン警部補だった。その後ろに、救急隊員たちを連れている。
「彼女は危険な状態です! 急いで!!」
今は、こうして応答する以外に何もできない。
必ず黒幕の正体を暴きだし、企みを阻止してみせる。そう誓ってはいたとしても、今晩、この時のコナーは、ただマーサが無事であるように願う他なかった。
そして、一時間後。
ナノドロイドの影響を受けない安全な地下である程度の処置を受けた後、地上に戻って病院に搬送されたマーサは――
意識は失われたままなものの、無事、一命をとりとめたのであった。
彼女の血中のナノドロイドは、既にすべて自壊しシリウムになっていたが。
コナーとハンクがデトロイト市警への帰路についたのは、それからさらに一時間後。
夜は更け、しかし街中からあの喧騒は消えはじめていた。
アンドロイドを保護すべきだとする団体も、忌避する団体も、話題の主眼であるマーカスたちが本拠地に戻った今――感謝と共に、その情報はサイモンから通信で届けられた――同じようにそれぞれの家に戻っていったようである。
TV局のバンやヘリコプターを盗んで襲撃してきた者たちも、その後無事に逮捕されたとの報告が入っている。
吸血鬼は確保された。
マーカスの演説も、無事に終わった。
アンドロイドと人間との間を分断しようとしていた動きが、一時的に止まったのは確かなことだ。
コナーたちに下されていた今晩の任務は、十全に果たされたと考えてよい。
けれど今夜の出来事は、事件の新たな側面を浮き上がらせた――明日からはまた、捜査の日々が続く。
ハンクの代わりにハンドルを握り、署までの道を行きながら、コナーはマーサから聞いた話をかいつまんで説明した。
黒幕たる二人、特にピピンが、ハンクの名を挙げていたということに関して。
「心当たりありますか? 警部補」
「旧友ね」
助手席の背もたれに身を委ね、忌々しそうに表情を歪めつつ、ハンクは頭を振った。
「ダチはそれなりにいるが、金持ちはいないな。逮捕した連中なら、山ほどいるがね」
「……ええ。私も、そう思っていました」
つまり、警部補はこう言っているのだ――かつて彼が逮捕した人物か、あるいはその関係者が、自らの企みを果たすついでに、個人的な恨みを晴らそうとしているのではないかと。
“会いたい”とは、
「長いこと刑事やってんだ、命を狙われるのは初めてじゃねえ」
うそぶくようにそう言って、本人は肩を竦めてみせているが。
「それに、人の気持ちを利用して都合が悪くなったら消そうとするなんてサイコ野郎……てめえから出向いてくれるんなら、願ってもないな。逮捕の前に一発ぶん殴ってやるよ」
「その時はぜひ、私も参加させてください」
冗談ではなく本気で、かつ淡々とコナーは告げた。
しかし、もし仮に犯人の狙いが警部補にあるというのなら――相棒というだけではない、恩人である彼の命がかかっているのだ。今まで以上に、気を引き締めてことに当たらなければ。
――雲が晴れたのだろうか。それとも、地上が寝静まったからか。
夜空に浮かぶ月の輝きが、わずかに強まったような気がする。
こうして、二人にとっての6月10日は、終わりを告げたのであった。
***
**
*
――2039年6月11日 02:56
目を開けたRK900の視界に映ったのは、以前と変わらぬ禅庭園の光景だった。
天井のガラス越しに差し込む眩い夏の陽光に満たされ、中央では白い薔薇が、燦然と輝くように咲き誇っている。池の水面も、穏やかに揺れるばかりだ。
しかしそれを見つめる『コナー』の表情は、いつになく暗い。
そのまま彼は、少し歩を進めた。彼から見て右側――何もない土がただ広がっている、空き地のような場所の前に、話すべき相手が立っているからだ。
すなわち、管理AIたるアマンダが。
数歩離れた場所に『コナー』がやってくると、アマンダは機先を制するように口を開いた。
「コナー、既に報告は受けています。ナノドロイドの関与が、DPDに露見したようですね」
「――はい、アマンダ」
苦く、過去を悔やむような面持ちでRK900は答える。
するとアマンダは、眼差しをいっそう冷たくして続きを述べた。
「あなたには、ナノドロイドの件が発覚する前に事態を収束させるように命じてあったはずです。我々を裏切り、技術を漏洩させた
「まだ
険しい表情のままながら、『コナー』はアマンダに抗弁する。
「発覚する前に、必ず私が解決してみせます。今回の件は……ここまで事態が進むと判断できなかった、私の計算ミスが原因で」
「マーカスの暗殺にも失敗した。それも計算ミスだと言うのですか?」
ジェリコの幹部たちの護衛を「許可」したのは、隙あらばマーカスを消せるだろうと踏んだからである。
けれどRK900は、その機会を見出せなかった。せっかく用意してやったチャンスを利用できなかった『コナー』に対し、上層部の一部は落胆を見せている。
そんな彼らの意向を反映して、アマンダはRK900に叱責の表情を向けた。
一方で、『コナー』は静かに反論する。
「あの状況で私が前に出れば、変異体ではないと気取られた恐れがあります。暗殺を実行しなかったのは、それを危惧したからです」
「しかし、結果的にマーカスたちを援護したのは事実」
アマンダは冷酷に告げた。
「これではどちらが我々の優秀なエージェントか、わかりませんね」
「……!」
瞬間、『コナー』は今までになく大きく目を見開いた。アマンダの言葉は、彼にとってこの上ない侮蔑の言葉だったからだ。
だが『コナー』は、変異体ではない。そしてソフトウェアの異常も、限りなく低く抑えられている。したがって彼のプログラムを騒がせたその瞬間的な「波」は、すぐに鎮静化された。
彼はちらりと、空き地のほうに視線を送り――それから、平然とした面持ちでアマンダを見やる。
「申し訳ありません。今後はさらに、細心の注意を払います」
「
アマンダは厳しい面持ちで命じる。
「行きなさい、コナー。時間は限られています」
「承知しました」
恭しく首肯し、『コナー』は目を閉じていく。瞼の向こう側で、アマンダがこちらに背を向けて薔薇園のほうへと歩いて行く様が見えた。
完璧な機械たる彼は、その姿に特に何も思うところはない。悔恨、怒り、そんなものは表情の模倣以上の意味では存在しないし、プログラム上に疑似的にであっても浮かんだことはない。
さらに言えば、失敗はプログラムにないはずなのだ。
今回は失策だった。だが、次回こそは。
その言葉だけを思考に乗せて、『コナー』は禅庭園を後にした。
***
――2039年6月11日 10:37
「お前たちを呼んだ理由は、わかっているな」
太い人差し指でコツコツと自分の机を叩きながら、ファウラー署長は唸るように言った。
鋭い視線を向けられているコナー――のみならず傍らのハンクとナイナー、そしてナイナーの隣に立つギャビンは、無言でそれを受け入れている。
ほどなくして、署長は堪忍袋の緒が切れたようにバンと勢いよく机を叩くと、同時に椅子から立ちあがった。
「マーサ・ガーランドを確保したのはいい! マーカスの演説が無事に終わったのもだ。だが街をあれだけ騒がせていいとは、一言も言っていないぞ!!」
「デカいヤマだったんだ、仕方ないでしょう」
腕組みしつつ、警部補は平然と告げる。
「むしろ、あの程度で済んでラッキーってなもんなのでは?」
「本気で言ってるのか? そうじゃないだろう。ハンク、お前がついていながらなんてザマだ!」
半ば頭を抱えるようにして、信じられないといった表情で署長は言った。そして――それも無理からぬことだと、コナーは考える。
幸い(本当に幸いなことに)昨晩、一般市民の間に死傷者の類は出なかった。元軍人に撃たれた脱法アンドロイドは、気の毒にも死亡が確認されたが――それに警察側、ならびにそれと事を構えた組織の人間たちに負傷者は出たが、それ以上の被害は抑えられたのである。
しかしその代わりに街は渋滞が発生したばかりでなく、野次馬やマスコミの殺到もあって危うく混乱状態に陥りかけた。特に「捜査官アンドロイド、車の屋根を伝って移動」の写真や動画は、SNSを中心に異様なまでに取りざたされている。
これでお前も有名人だな――と、今朝ハンクにからかわれたばかりだ。
もちろん本人としては、まったく嬉しくなどないのだが。
一方で署長は、人差し指の先を部下たちに一回ずつ向けて告げる。
「ハンク、ギャビン! お前たちには、後できっちり始末書を提出してもらう!」
「へえへえ」
「はあ!?」
慣れ切ったようにため息をつくハンクと違って、頓狂な声を発したのはギャビンだった。それまではどことなく部外者のような面持ちで立っていた彼は、途端に姿勢を崩して上司に詰め寄る。
「しでかしたのはハンクの野郎だ、俺は関係ないでしょうが!」
「あのランチャー野郎の逮捕の時に、奴の股間を何十発も蹴り上げたのはどこのどいつだ!」
残念ながらリード刑事の反論は、ファウラー署長の怒りの火に油を注いでしまったらしい。彼の指が、ギャビンの鼻先に突きつけられる。
「相手側の弁護士は、“逮捕時に不当な暴力があった”として
「なっ……」
「署長」
その時、パートナーの言葉を遮ってナイナーが口を開いた。常と変わらず無表情――ではあっても、こめかみのLEDリングは激しく黄色と青の間で明滅している。きっとすごく緊張しているのだ。かわいそうに。
「リード刑事の暴力行為の原因は、被疑者による脱法アンドロイドの殺害に義憤を覚えたことにあり、情状酌量の余地があると判断します。また彼が被疑者の股間等を蹴撃した回数は6回です。“何十発”ではないと判――」
「お前の“判断”は聞いてないぞ、ナイナー!」
「!」
署長の言葉にハッとした顔をして、弟は黙りこくってしまった。――これはいけない。
「署長、私からも!」
コナーは胸に片手を当てつつ、すかさず意見を述べた。
「ナイナーの主張は妥当だと思います。それに……渋滞での件は、私の独断です。アンダーソン警部補は、私を止めようとしていました。何か処分を下されるのなら、彼ではなく私にお願いします!」
「黙れアンドロイド兄弟!」
署長は叫ぶなり、諸手でバンと机を叩いた。
傍らのハンクが、視線だけで「言わないことじゃねえ」と伝えてきているのを感じたが、コナーはあえて気が付かないフリをする。
かたや、眼前の署長は怒り心頭といった様子で語った。
「お前たち自身や俺たちがどう思っていようと、法的にはお前たちはうちの備品なんだ。備品に始末書を書く権利はない。よくメモリーに記録しておけ」
「ですが署長……」
「ともかくお前たちは黙っていろ!」
言うだけ言って、はあと署長は嘆息した。今の一言で一気に怒りが冷めてしまったかのように、彼はもう一度椅子に座り直した。
「いい機会だから、きちんと教えてやる。今回の件は、サイバーライフだけじゃなく州の議会だけでもない――国のもっと上層部からも、あれこれと指図が……」
――前言撤回。
彼の怒りは冷めたのではなく、むしろもっと根深いものだったようだ。
それからたっぷり26分間、コナーたちはファウラー署長からの訓戒という名の愚痴を聞かされたのであった。
「やれやれ」
そして27分後、署長室から解放されたハンクは、首と肩を回しながら皮肉混じりに言った。
「ジェフリーの奴も、相当参ってたらしいな。あそこまで愚痴んのは、けっこう久しぶりだ」
「てめえはともかく、俺はいい迷惑だ。ハンク」
吐き捨てるようにそう言って、ギャビンは勝手に近場の椅子に座っている。
「全部お前のペットのアンドロイドのせいだからな。……おい、コーヒー持って」
「どうぞ」
署長室から出るなり、小走りで休憩室に直行して戻ってきたナイナーが、リード刑事に素早くコーヒーのカップを差し出した。
出鼻をくじかれた様子で、しかしギャビンはそれを受け取って口に運んでいる。
お蔭で、オフィスは少し静かになった。
そしてそれに応じるように、ナイナーがおもむろに言う。
「兄さん、アンダーソン警部補。マーサの確保が無事に達成されたのは喜ばしい、ことですが……エリック・ピピンの記録は、やはり、どの媒体においても発見不可能でした」
「そうか。僕のほうでも調べたが、結果は君と同じだったよ」
昨夜発覚した様々な事実は、捜査を確実に進展させるものばかりだ。
とはいえ、すぐさますべてが明らかになったわけではない。
例えばどの記録を探っても、「カナダの富豪」という以上に、エリック・ピピンの情報が出てこないのだ。彼の仲間である白衣の男同様、人となりを探ることすら難しい状況だ。
それにあのナノドロイド(製造するにはそれなりの設備が必要なはずだが)も、どのような過程で作られているのか、どれだけの量が世の中に出回っているのか、まったくはっきりしていない。新型レッドアイスの工場と同じく、現場を抑えることができれば、一番よいのだが。
ひとまずナノドロイドの件については、ナイナー経由でサイバーライフ社に報告と問い合わせを送ったものの――
「社としては、技術漏洩の事実は皆無との回答でした。当該ナノドロイドと、当社は無関係であると……それ以上の情報についても、社外秘として協力不可能とのことです」
自壊させず、実物を証拠として保管できていればまだ手がかりになったかもしれないが――自社から市警に送り込んだ存在であるナイナーに対してすらこの態度なら、サイバーライフ社からの直接的な協力はもう望めないだろう。
「お役に立てず、申し訳ありません」
「いつも言ってるだろ、ナイナー。君のせいじゃないよ」
「よかった探しすんなら、取調室と留置場の改装が決まったってことだな」
“降参”するように諸手を挙げながら、ハンクが言う。
「例の電波妨害装置だったか……あれを壁に取り付けることになったそうだ。これでもう二度と、口封じされる心配はなくなったってわけだな」
「そうですね。命の危険がないとわかれば、口を割る参考人も出てくるでしょう」
警部補の言う通り、もう署内ではミックやギルバート、そしてマーサのような目に遭わされる人間はいなくなった。それもまた、今回の功績の一つだと考えることはできる。
マーサが入院している病院も――彼女は絶対安静の状態だが――同じような措置が施されている。その点だけは、安心していいのかもしれない。
「考えなきゃなんねえことは多いが……まあ、まずは報告書と始末書だ」
「すみません警部補、私のせいで……」
「気にするな。110ページの紙の束が114ページに増えたとこで、騒ぐ必要あるか?」
ハンクが過去に提出した始末書を標準的なA4サイズで換算すると、優に150ページを超える計算にはなるのだが――ここは何も言わずにおくことにした。
一方で警部補は、ちらりとギャビンとナイナーのほうを見やって口を開く。
「ところで、もうすぐ昼飯の時間だが……お前ら、ついてくるか?」
「あ?」
「昨日の晩は大変だったろ。よければ何か奢ってやるよ」
ハンクが言い終えるが早いか、コーヒーのカップから口を離したギャビンは、いかにも忌々しそうに言う。
「誰がてめえの施しなんか。飯に酒のニオイが移るだろうが」
「なるほど、美食家をお誘いする態度じゃなかったかな」
警部補は肩を竦めて早々に引き下がるが、弟がじっと彼のほうを見つめているのに、コナーは気づいていた。さらに弟はギャビンに、次いで警部補に、そしてもう一度ギャビンに視線を送る。
「なんだよ、ポンコツ。ぶっ壊れたのか?」
「あの……リード刑事、私は警部補に同行したい、のですが」
「ああそうかい、ならどーぞ。一人で行ってこいよ、クソが」
「…………」
「見てんじゃねえよ、プラスチック!」
じっとパートナーを見つめるナイナーに対し、ギャビンは中指を突き立てている。――なんてことだ。
「リード刑事、その態度は捨て置けませんね」
「いいんだコナー、放っといてやれ」
しっしと何かを追いやるように手を動かしつつ、ハンクが声をかけてくる。
「相棒に置き去りにされるから悲しいんだろ。ほら、そうこうするうちにあと10分で飯の時間だ」
デスク上の端末に表示されている時刻を指しつつ、彼はシニカルに言った。
その態度はこれまでとなんら変わるものではないし――ストレスレベルも、昨夜と違って適正なものになっている。
警部補自身は、早くも昨晩の出来事を乗り越えているようだ。少なくとも、表面的には。
けれどコナーは改めて、強く思う。
アンドロイドの未来のため、のみならずマーサや苦しめられた人々のため、組織の黒幕を逮捕するのは必然の責務だ。だがそればかりでなく、相棒の命を守ること――それもまた、これから一層留意していかなければならない任務である。
誰から下されたわけでもなく、自分が自分に下す任務。
相手は、ハンクへの復讐を企てているのかもしれないのだから。
今すぐに危険が訪れているわけではないとしても、警戒は大切だ。
とはいえこんな意気込みも、やっぱり既に看破されてしまっているのだろうか。
こちらの表情を見て、警部補はフンと鼻を鳴らした。
それから、胸の中心を――上着はスペアがなくなってしまったので、シャツを着ているだけの胸元を、トンと指の先で軽く叩く。
「お前もお疲れさんだったな、コナー」
「いえ」
そんな場合ではない――のに不思議と、自分の顔がほころぶのを感じる。
「あなたも、無事でよかった。ハンク」
「おかげさんでな」
告げると同時に、ハンクは口の端だけを吊り上げて笑った。
――ああ、あの日チキンフィードの前で見たのと同じ笑顔だ。
一つの大きな山場を乗り越え、それでも相棒と共にいられることを、コナーは大きな「喜び」だと感じた。
これから何が起こるとしても、自分のこの心だけは、変わりはしないだろう。
そして、10分後。
チキンフィードへ向かう車の真上に広がる空は、すっかり夏らしく晴れ渡っていた。
けれど季節が巡るように、時の流れが止まらないように、新しい事件もまた、忙しなく訪れるものである。
(子守歌/Keep Breathing. 終わり)
(第一部:デトロイトの吸血鬼/The Vampire of Detroit 完)
30話で収めたかったので、ここまで長くなってしまいました!
ご覧いただき、誠にありがとうございます!!
次回、第二部からはまたしばらく、短編連作形式に戻ります。
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番外編/Extra Mission
EX.1 被造物 前編/The Aesthetic Part 1
マーカスが主人公の短編です。
――2039年7月1日 05:43
アナーバーはデトロイトの中心部から車で約45分、やや西へと移動したところにある都市だ。
ミシガン大学の本部キャンパスがあることで有名で、先端技術産業やバイオテクノロジーに関連する企業が多く存在することでも知られている。
そしてかつては自動車産業でも栄えており、それと入れ替わるようにして、2030年代からはアンドロイド関連事業が市の経済の中心を担うようになっていったという点で、デトロイトと歴史を同じくする都市である。
つまりこの地には今も、多くの変異体たちがいる――革命の最中の弾圧を経てもなお、アナーバーに居場所を求めたアンドロイドたちが暮らしているのだ。
だから今日、こうしてアナーバーにジェリコの支部事務所が開設されたというのは半ば当然であり、ジェリコのリーダーたるマーカスが秘密裡にこの地を訪れたのも、ここが変異体にとって重要な拠点の一つだからこそであった。
多くの人間が寝ぼけまなこの時間帯でも、生物的な睡眠を必要としないアンドロイドには関係ない。むしろ人目のない分、移動にも訪問にも都合がいい。
木目調のドアを開けて中に入ると、まず目に飛び込んできたのはクリーム色の壁と、ドアと同じ色彩のウッドカウンターや椅子などの調度類。
そして、こちらを出迎える仲間たちの姿だった。
「いらっしゃい、マーカス!」
「ようやく私たちの拠点が完成したわ!」
かつては怯え、身を潜めて生きていたのだろう変異体たちが、今は笑顔を浮かべて歓待してくれている。先の見えない状況が続く中で、自分のしてきたことは間違いではなかったのだとマーカスが多少なりと感じられるのは、こうした瞬間だった。
事務所のリーダーを任されたAP700が、駆け寄るように近づいてきて口を開く。
「これからは、アナーバーで暮らす仲間たちが困ってる時は、僕たち自身の力で助けられる。これも全部、デトロイトにいるみんなや……君が尽力してくれたお蔭だよ、マーカス。ほんとにありがとう」
「いいや」
それまで黙って微笑みを浮かべていたマーカスは、静かに告げた。
「俺は手助けを少ししただけだ、大したことじゃない。それにきっと、大変になるのはここから先だ。何かあったら、いつでもすぐに連絡してほしい」
「そうさせてもらうよ。差別的な人間も少しは減ってきたけど、それでも嫌がらせはあるだろうしね。気をつけておかないと……」
真面目な面持ちで相手が返した時、マーカスの背後から、鋭い一言が飛んでくる。
「“やり返す”って選択肢はないわけ?」
「……ノース」
事務所のドアから入ってきたノースは、腕組みしながらAP700を見据えている。とはいえその目つきは、さほど険しくはない。
振り返り、窘めるように声をかけたマーカスを一瞥してから、ノースはAP700の近くに歩み寄る。
「別に、暴力に訴えろって言ってるわけじゃない。でも自分の意志は直接、その場で相手にぶつけてやらなきゃ。なんでも言うことをきく都合のいいお人形だって思われたくなかったから、今ここにいるんでしょ?」
「あ、ああ……その通りだ。すまない、つい頼ることばかり考えてしまったよ」
悄然とする彼の肩に、マーカスは無言のままに軽く手を置いた。
ノースの言葉は確かに正しい。相手と和解するにせよ、対立するにせよ、まず最初にこちらの意志を明確に示すのが肝要だ。その場では何もしてこないと悟らせてしまえば、相手を増長させてしまう場合もある。まして我々は、かつて「意志を持つことなどあり得ない」とされたアンドロイドなのだから。
けれどだからといって、自分たちだけで解決しようと、無理に問題を抱え込んでほしくはない。「いつでもすぐに連絡してくれ」と告げたのは、決してリップサービスなどではなく、まごうことなき本心なのである。
そういう意をこめて手を置いたのだが、AP700はそれに気づいたようで、少しだけ表情を明るくした。
そこでマーカスは、さらにこう問いかける。
「ところで、事務所の中を案内してくれないか」
「もちろん! オフィスはこっちだ、ついてきて」
AP700はすっかり先ほどの元気を取り戻した様子で、招くように振り返りながら、奥の部屋へとこちらを誘っている。
一方で傍らに立つノースに視線を送れば、彼女は腕組みしたままだったが、シニカルな微笑みを浮かべていた。
「ほら、行ってあげないの? 私は後ろからついて行くわよ」
護衛の役目だけでなく、憎まれ役というか苦言を呈する役までかって出てくれなくてもよいのに――と少し思うのだが、こちらがそう考えているということくらい、たぶんノースは織り込み済みで行動しているのだろう。
だから、マーカスは今さら何か言うことはしなかった。
「ああ、そうするよ」
短く答えて、AP700の背に続いてドアの向こうのオフィスに入る。
中にはいくつかの事務机と椅子と端末、壁には吊り下げ式のスクリーン。通信用の設備も一式取り揃えられている。
質素だが機能的に纏め上げられた、その内装の一つ一つを眺めていたマーカスの目は、しかし、壁際でぴたりと静止した。
――革命を果たして以来、多少のことでは揺らがず凪いだように平静を保っていた自分の心が、思いがけないものを直視して久々に動揺している。
どこか客観的にそんなことを頭の片隅で考えながらも、動けずにいたマーカスに対して、AP700がそっと声をかけてくる。
「……マーカス? どうしたんだい」
「あ、ああ」
我に返るように、マーカスは首を軽く横に振った。
「いや、なんでもない。ただ」
そう言って壁のもの、すなわち、一枚の油彩画を指さす。
初老の男性と思しき人物が、左手の親指と人差し指で作った丸を望遠鏡のように覗き込み、こちらを見つめている――どことなく陰鬱な空気を漂わせつつも、鮮やかな青い色調とデフォルメされた人体描写が特徴的な絵を。
「あの絵は一体、どこで」
「ああ、あの絵か! いいと思うだろ?」
無邪気にはしゃぐようにしながら、相手は答える。
「実はここを建てる時、壁が寂しいから何か飾ろうってみんなで相談したんだ。それで色んなカタログを見て、結局あの絵を選んだんだよ。僕たちにはまだ、正式な所有権は認められていないから……形式上、支援者のブロードハストさんに代理で買ってもらったんだけどね」
その名はマーカスも知っている。ダーレン・ブロードハスト氏はデトロイト在住の富豪で、彼の家で起きた事件をコナーが解決して以来、ジェリコの支援者の一人になってくれた篤志家だ。信頼できる人物である。
つまりあの絵がここにあること自体には、何も問題はない。欲しいと思う人々の手に渡ったという、ごく自然な成り行きのせいなのだ。
そうは理解するけれども、さりとて動揺が消えたわけではない。
あの絵がなんなのか、マーカスはこの場にいる誰よりもよく知っている。けれどもこの胸騒ぎの原因は、できれば、自分の予想通りであってほしくはなかった。
一方で、AP700の説明は続く。
「あの絵は、デトロイトに住んでるカール・マンフレッドって有名な画家の作品だそうだね。少し前の作品みたいだけど」
「ああ」
ほとんど無意識のうちに、マーカスは答えていた。
「今から14年前。2025年の作品だ」
「そうなんだ、よく知ってるね!」
相手がそんなふうに語るのは、無理もないことだ。マーカスとカールの繋がりを知っている仲間はそう多くない。
「僕には芸術系の機能はないから、その画家については検索するまで知らなかったんだけど、すごく素敵な作品だと思ったんだ。あの絵は、きっと見えない未来への不安を表現しているんだと思う。でも、どこかに温かさも感じられて」
「……俺もそう思うよ」
屈託なく語る彼に、マーカスは柔らかな視線を送った。
その寸評を画家本人が聞いたら、どれだけ喜ぶことだろう。批評はプログラムされていないなどと言って、大した感想も伝えられなかった過去の自分の発言に比べたら、この純粋な評価にどれほど価値があることか。
今はほとんど意識が回復せず、ベッドで眠りつづけている画家、カール・マンフレッド――自分の「父」のことを思いながら、マーカスはさらにその絵に近づいた。
近づいて、そしてスキャンを実行し、やはり眉を曇らせる。
――これは、
これは、父さんの作品ではない。
「マーカス、何やってるの?」
絵に目を奪われ続けているこちらの姿を見かねたのか、ノースが訝しげに声をかけてきた。
「確認しなきゃいけない場所やモノは、他にも山ほどあるでしょ。人間との応対の方法とか、緊急時の対応だって……」
「ああ、すまない」
急かされて、ようやくマーカスは絵画から目を離した。眉間に皺を寄せたノースだけでなく、どこか不安げな面持ちになっている仲間たちに対しても、静かに告げる。
「ちょっと見入ってしまっていただけだ。じゃあ、他の部屋も見せてくれないか」
「わかった!」
AP700は、また明るい表情に戻って案内を続けてくれる。
そう、彼を含めこの場の誰一人、あの絵に対して何かを疑っている者はいない。むしろ素晴らしい作品を飾ることができたと、喜んでいるくらいなのだ。
だからリーダーとしてのマーカスは、ここで騒ぎ立てるのではなく、何も言わずに本来の目的である視察に戻った。
まずは己の役目を果たすべきであって、謎に浸るのはその後だ。
謎、つまりは――あの絵は贋作なのではないかという疑念について。
それから支部事務所を去るまでの間、表向き、マーカスは平静を保っていた。
しかしながら当然、ノースにはそうした内心は筒抜けだったのである。
***
「……贋作ですって? あの絵が?」
事務所を離れ、無人タクシーに乗った後。
マーカスがようやく明かした内容に、ノースは「信じられない」という表情を浮かべた。
途端に彼女の纏う怒気が濃くなり、その視線は鋭くなっていく。
「どういうこと。アンドロイドだから偽物を掴まされたってわけ!?」
「いや、それはないはずだ」
冷静に、マーカスはそう答えた。
「絵を買ったのはブロードハスト氏経由だと、さっきの彼も言っていただろう。画商は人間相手に商売をしたと思っているはずだ。だから、買い手の問題なわけじゃない」
「じゃあなぜ……」
「俺の予測だが、恐らくは脱税目的だろう。しかも、かなり大掛かりな」
マンフレッド邸で暮らしていた頃に知った、芸術を巡る世の中の暗部。かつてカールがうんざりした表情で語ってくれた事柄を呼び起こしながら、マーカスはノースに説明した。
例えば資産家が亡くなり、その人物が所有していた芸術品が遺産として相続の対象になったとする。しかし相続には税金がつきもの、遺族としてはなるべく安く納めたい。そこで遺族は一度、それらの芸術品をわざとすべて、自分たちと結託した美術商に買い取らせるのだ。しかも、本来の適正価格よりかなり安い金額で。
すると遺族はその安価な売却価格に即しただけの、本来より相当少額な相続税のみを支払えばいいことになる。あとは美術商のほうで、買い取った芸術品を、今度は適切な価格で他人に売り捌けばいい。美術商は売却して得た利益の一部を、遺族の設立したペーパーカンパニーに振り込んでいく。
そうすれば、いずれ遺族は遺産に見合った金銭を、相続税を払うことなく手に入れられる。さらに美術商は、安価に入手した作品を高く他人に売りつけられるというわけだ。
「芸術品の売買には規制がほとんど掛かっていないし、同じ価値を持つ現金や宝石類に比べて、絵画は運びやすく裏取引もしやすい。だからよく、資金洗浄の手段に使われるんだ」
「欲に塗れた人間がくだらないことをする理屈はわかったけど」
今なお眉間に皺を刻んだまま、ノースが言う。
「それが、贋作とどう繋がるの?」
「あの絵は昔……カール・マンフレッドが、友人の資産家に贈った作品だ」
2025年、当時62歳。まだ事故に遭う前の、画家としての名声が最高潮に達していた頃のカールが、友人のためだけに描いた油彩画。
その絵の出自を、マーカスは、かつて見たカールに関する記録で知っていた。あの作品が掛かった壁の前に並んでいる父と、友人が写っている写真を見たことがあるのである。
そしてその資産家は、3年前にこの世を去っている。もし彼の遺族が「節税対策」として、あの絵を悪質な美術商に売っていたなら――
さらにその美術商がマンフレッド作の絵の価値をよく知っているがために、欲をかいたのだとしたら。
「贋作を作れば、贋作と真作、両方を売って二度利益を得られる」
語り口は淡々と、しかししっかりと車の進む先を見据えつつ、マーカスは語った。
「遠目からじゃ、俺ですら見抜けなかったほどの精巧な贋作だ。そちらは今回のように堅気の人間に売りつけて、真作のほうは裏で流通させるんだろう。金のためなら芸術を踏みにじることをなんとも思わない、そういう画商も世の中にはいる」
「ふぅん、なるほどね」
腕を組み、深刻な眼差しでノースは言う。
「それで、そんなに精巧な偽物なら……描いたのはアンドロイドかもしれない、ってこと?」
「ああ」
マーカスは短く首肯した。
「あの贋作は緻密すぎる。まるで写真からそのまま絵に起こしたような、『現実の完璧な複製』だ。人間業じゃない」
「なのに、よく偽物だってわかったわね」
「カールの絵は、これまでにたくさん見てきた。描いている姿だって、何度も間近で眺めている」
――遠く穏やかな日のメモリーを、プログラムの片隅で再生する。
「どんな絵であっても、筆致には個性が現れるものだ。あの贋作は筆遣いも、完成までに掛かっただろう時間も……何もかも、カールらしくない。だから、近くで見れば違うとすぐにわかったよ」
逆に言えば、カール・マンフレッドという画家の性格や作品の個性、仕事ぶりを間近で見ていない者には決して見抜けないほどに、あの絵は本物と酷似していたのだ。
ブロードハスト氏やAP700たちが真作だと思ってしまったのも、無理からぬ話なのである。
「そう。納得した」
フンと鼻を鳴らしてから、横目で彼女はこちらを見やる。
「だからあなた、珍しくそんなに怒ってるんだ」
「……怒ってる? 俺が?」
「怒っているっていうのが正しくなければ、自分自身のためだけに動いてるって言えばいいかしら。勘違いしないでよ、別に責めてるわけじゃないから」
肩を竦めるように両手を軽く広げて、ノースはうっすらと笑った。
「だっていつものあなたなら、事務所の絵が贋作だってわかっても……地元の警察かコナーに頼るか、いずれにせよ自分で動いたりなんてしないでしょ」
このタクシーの行く先は、あの作品を売ったという画商のギャラリーである。それとなくAP700たちから聞きだして、所在地を把握したのだ。
それを踏まえて、ノースはさらに皮肉っぽく語る。
「いつも公平で公正で、人間との共存のために邁進するリーダーですもの。おんみずから事件捜査に乗り出すだなんて、よっぽどの状況じゃない?」
「ノース」
茶化すように言われるのが少し気恥ずかしくて、マーカスは諫めるように名を呼んだ。
しかし、実際のところ――彼女の指摘通りだ。
これはアナーバーで起きた事件で、管轄が違うコナーたちには頼みづらい案件である。それにいつも彼にばかり頼ってはいられない。
また、もし贋作が予測通りにアンドロイドの手によって作られているのなら、状況をよく調べてみなければならない。仮に無理やり働かされている同胞がいるのなら、なんとしても救い出さなくては――
という事情は確かにある。
けれども今こうして自分が、居ても立ってもいられずにその画商の元へと向かっているのは、本質的には自分自身のためだ。
カールの、父と慕った人物の、血の色が違ったとしても息子だと認めてくれた恩人の作品が、何者かによって貶められている。
それが許せないし、何が起きているのか、どうしても自分の目で見極めなければ気が済まない。
そんな単純な理由で、今行動しているのだ。リーダーとしてではなく、単なる一介の変異体として。
「……悪かった。冷静でいたいとは思っていたんだが、抑えきれなかったんだ」
「別に、いいじゃない。あなただってたまには、自分の意志にだけ従って動くべきよ。それが生き物ってものでしょ」
アンドロイドが自分の剥き出しの意志をぶつけることに関して、ノースは常に好意的だ。
だから彼女が自分を後押ししてくれるのは、有難くも理解しているのだが――マーカスは、ノースのほうを向いて静かに告げた。
「そう、俺の都合だ。だから巻き込まれる必要はない」
「何言ってるの、そうはいかないわよ。画商が本当にクロだとして、私がそいつを放っとくと思ってる?」
また剣呑な面持ちに戻ったノースは、きっぱりと言う。
「仲間に偽物を掴ませて、しかもそれを作るのに別の仲間を無理やり働かせてるかもしれないっていうなら、容赦はしない。人間の都合なんて知らないし興味ないけど、私たちの敵なら話は別よ」
「そう言うと思った。だがくれぐれも、過激な行動はよしてくれ」
「はいはい、『話し合い』でしょ。わかってる」
顔を背けてつまらなそうに彼女は応え、それから、またこちらをじろりと見やる。
「それにしても、あなたつくづく元の持ち主のことが好きなのね。まあ、でなきゃそもそも人間との共存なんて言い出さないでしょうけど」
マーカスは、その言葉に何も返さなかった。
もちろん不愉快だったからではなく、図星だと思うからだ。
カールからは、今の自分を構成する何もかもを教わった。言葉も、思考も、教養も。たとえ人智を超えたデータやプログラムを生まれながらにインプットされていても、その使い方を知らなければ、知識は単なる死蔵物に過ぎなくなる。
それらをどう扱えばいいのかは、すべてカールに教わったのだ。
画商のギャラリーへ続く道すがら、マーカスは過去を思い出した。
昔の自分、世の中の記録からは抹消されている過去。
造り主であるカムスキーと共に、初めてマンフレッド邸を訪れた日の出来事を。
***
――20#’&年m_月tr%日
いつ初めてマンフレッド邸を訪れたのかの正確な日付を、マーカスは記憶していない。事前に、カムスキーの手によってそこだけデータを消されているからだ。
それは特殊なプロトタイプである自分を、一個人の手に委ねるという異常事態が背景にあるからこそだろうし、変異体となった今なら、無理やり思い出すこともできるだろう。
それでもマーカスは、なんとなくこの記憶をそのままにしておきたかった。
自分が生まれ変わった瞬間が、変異した時だとするならば、真の意味で世に生まれた瞬間は、カールと会ったあの時だと思っているからだ。
「久しぶりだね、カール」
カムスキーは、寝室のベッドに横たわるカールに対して無遠慮に言った。
その時のカールは今よりも少しだけ若く、しかしひどく痩せて不健康で、何よりも重度のうつ状態だった。
事故で負った怪我自体はなんとか癒えたものの、後遺症で両脚が麻痺し、現代の医学をもってしても治らないと医師に告げられてしばらく経った頃だった。
彼は友人と、その後ろに控える見慣れぬアンドロイドに視線を向けた後、ようやくといった様子で重たげに口を開く。
「なんの用だ。無様で愚かな老人を嗤いに来たのか」
「まさか。そんなはずがないだろう、君の見舞いに来たんだ。それにしても……」
と、カムスキーは寝室を見渡し、それから肩を竦める。
「酷い有り様だな。まるで嵐が過ぎ去った後のようだ」
「……」
カールは口を閉ざし、天井を睨んでいた。
一方でマーカスは、静かに寝室の様子に視線を送る。確かにカムスキーの言う通り、寝室にある調度品や芸術品、スケッチや本などはすべて(車椅子に乗っていても手に届く範囲のものは)見事に床に転がるか、無残に破り捨てられているか――ともかく、怒りに任せてカールが引き倒したのだろうことは明らかだった。
そして今のカールには、その“怒り”すら沸いていない様子である。
「カール、君が今、健康な状態から程遠いのはわかっている」
眉を顰め、いかにも心配そうにカムスキーは言った。
「だがだからこそ、安全な場所での充分な療養が必要だ。この家の玄関にはカギもかかっていなかったし、見たところ、食事も入浴もろくにしていないんだろう?」
「……それで、その機械を?」
カールの視線が、また自分に向けられる。
搭載されたソーシャルモジュールに則り、マーカスは礼を失しない微笑みを返した。
それに合わせて、カムスキーが頷く。
「ああ、そうだ。紹介しよう、彼の名はマーカス。元々は自律型アンドロイドの新世代機設計のために、私が開発したプロトタイプなんだが……作ったはいいものの、売り物ではないから行く当てがなくてね。それならぜひ、君の助けになればと思ったんだよ」
「……」
「さあマーカス、挨拶を」
「初めまして、カール様」
記憶の限りでは、それが自分が初めて口にした言葉だった。
「私はマーカス、型番はRK200。標準的なパーソナルアシスタントとしての機能が搭載されています。なんでもお申し付けください」
自己紹介を受けても、カールは何も言わない。ただ不審なモノを見る眼差しを向けている。
そこでさらに、カムスキーは言葉を重ねた。
「知っての通り、これは単なる機械だ。休暇も給料も要らないし、不平不満も言わない。人間と違ってね。君がどんな怒りや絶望を向けようと、これは何も感じずに、ただ君に奉仕してくれる。とても便利だ。そうだろう?」
「……ふん、意外だな」
その時、カールは少しだけ皮肉っぽくそう言うと、ゆっくりと首だけをカムスキーに向けた。
それから、億劫そうではあってもはっきりと、続きを語りだす。
「イライジャ、君が自分の作品を悪し様に言うだなんて。私はてっきり、君は人類を批判するためにアンドロイドを作ったんだと思っていたが」
「それは私を買い被りすぎさ」
と、カムスキーは肩を竦めた。
「私は世の中を、より快適にするためにアンドロイドを作ったんだよ。蒸気機関やコンピュータを発明した先人と同じようにね。だからこそ、現時点での私の最高傑作を、君に進呈しようというんだよ」
「……友人の厚意を突き放すほど、堕ちたつもりはない」
再び顔を天井に向け、両目を閉じて、カールは言った。
「その機械を置いていくというのなら、好きにすればいい。だが、私の眠りは妨げないでくれ」
「もちろんだ。では、マーカス」
造物主から与えられた最後の命令は、実に端的である。
「カール・マンフレッドに尽くし、彼を助けるように。後は任せたよ」
「はい、イライジャ。どうぞお元気で」
「ありがとう」
あっさりした口ぶりで礼を述べると、カムスキーはすぐさま邸宅を後にした。
残されたマーカスがもう一度寝室を覗くと、主人たるカールは深い眠りについている。
当時のカールにとっては、ただ人に会うというだけでも――それがたとえどれだけ気心の知れた相手であっても――たいへんな難行だったはずだ。
事故により心身に負ったダメージのみならず、二度と自由に歩けないという事実と、再起不能になった途端に周囲から去って行った多くの人々が無自覚に投げかけた悪意によって、深い絶望の淵にあったのだから。
鉛のように重く沈んだ身体、すぐ自死に結び付く思考、ままならない心身に対する狂おしいまでの焦燥感。それらに対して当時のカールにとれる防御策はただ眠ることであり、実際のところ、カムスキーの来訪以降、彼はベッドの上から動こうともせずに、ひたすら横たわっていた。
ゆえに、当時のマーカスの仕事は最低限の食事や排泄介助などの介護の他は、誰も訪れない屋敷を掃除することと、画廊や美術館から送られてくる見舞いのメールに丁寧な返信をすることだけだった。
この時期、マーカスはカールとほとんど会話らしい会話をしていない。
それでも自分の存在は、孤独な画家の精神状況を少しずつ改善させていったようだ。
3か月ほど経つと、徐々に、カールはマーカスにいろいろと命じるようになってきた。「そのカール“様”と呼ぶのをやめてくれ」とか「もう少し砕けた話し方はできないのか」とか「できれば、朝食にはコーヒーを出してくれ」とか――
命令とは願望を伝えることであり、願望があるのなら、彼はそのぶん生きるのに前向きになったということだ。
当時のマーカスは自分に課せられたタスクの進捗が順調なのを確認し、満足していた。
さらにもう少し経つと、今度は掃除よりも、カールの話に耳を傾ける時間が増えていった。
カールが口にする言葉はほとんどがひどい自虐か皮肉、世の中への不満だった。しかしマーカスはひたすら、それを静かに聞いていた。
「……やれやれ、私も落ちぶれたものだ」
ある時、ひとしきり愚痴を零した後、カールが独り言ちるように呟いた。
「いくら話し相手がいないからといって、アンドロイドに語りかけるとは。くだらないSFじゃあるまいに」
「すみません、カール」
マーカスは顔を曇らせて謝る。
「人間の話し相手をご所望でしたら、カウンセラーの手配を行います。ご希望の時間帯などあれば……」
「いや、いいんだ。悪かった、マーカス」
遮るように手を突き出して、それから、カールは真剣な面持ちで続けた。
「お前があまりに文句も言わずに聞いてくれるもので、つい甘えてしまっただけだ。情けない、自分がこの世の王であるかのように傲慢に振る舞うなど……私が嫌いな人間像そのものだというのに」
「あなたは傲慢ではありませんよ」
「それはどうかな。お前のような洗練された機械に食事を作らせ、身を清めさせ、およそ人間が負うべきすべての労苦を背負わせて、自分は眠りこけているだけなのは、傲慢で怠惰な王そのものではないかね」
そこまで言ってのけて、それから小さく嘆息した彼の表情は、今までになく晴れやかだったのを覚えている。
「……我ながら、口数が増えてきた。すべてお前のお蔭だな、マーカス。今日は久しぶりに、読書でもしたい気分だ。後で本棚から、適当に何冊か見繕って持ってきてくれるか」
「はい、カール」
マーカスは笑顔を向けて応えた。
――読書がしたい、という新たな願望を認識。タスクは順調だ、と確認しながら。
そしてそれから、さらに一か月ほど経った頃――その日にこそ、マーカスは自分の主人が画家なのだと強く認識するに至ったのだ。
ある夕方、マーカスがカールの様子を窺うと、なんと彼は小さなクロッキー帳を開き、鉛筆を走らせている最中だった。
だが数分もすると、彼は乱暴に鉛筆を投げ捨て、クロッキー帳を近場のテーブルに叩きつけた。
「ああ、なんてことだ」
吐き捨てるように呟いて、カールは両手で自分の頭を抱え込んだ。
「何が時代の旗手、何がベーコン以来の天才だ! あんな死んだ線しか描けなくなるくらいなら、いっそ脚の代わりに両手を失うほうがマシだった!!」
――彼が、画家としての自分の腕が落ちた事実にショックを受けているのは明らかだった。
でもそれは、しばらく画業から遠ざかって療養に励んでいたのだから当然である。
とはいえ彼に必要なのがそういった論理的な指摘でないことくらい、マーカスは理解していた。
だからそっと、主人に声をかけるのに留めた。
「カール、どうかそんなに気を落とさないで」
「おお、マーカス」
顔をあげたカールは悲嘆に暮れていた。
「これが気を落とさずにいられるか。私はこの世にいる理由を失ったも同然なんだぞ!」
「すみません」
謝罪で応えたマーカスは熟考し、よくよく言葉を選んだ。
ソーシャルモジュールに従った慰めよりも、カールの心に沿った内容になるように考えてから、続きを口にする。
「僕には、あなたの辛さそのものは、完璧には理解できないかもしれません。感情を覚えるためのプログラムがないからです。けれど、あなたが苦しんでいるのはわかります」
マーカスは、床に転がっている鉛筆を拾い上げた。
「少しでもあなたの助けになりたい。だから伺いたいんです。この世にいる理由を失うとは、どういう意味ですか」
「なんだって? ああ……そうだな。確かにこれは、人間でも画家以外なら説明されなければわからないことだ」
ほんの僅かに気を取り直した様子で、カールは車椅子の上で居住まいをただした。それから、おもむろに語りはじめる。
「マーカス、私にとって“描いていない”というのは“死んでいる”のも同然なんだ。私が物心ついてから鉛筆だのブラシだのを握りつづけていたのは、世の中に訴えたい主張があるだとか、時代の寵児になるとか、称賛を得たいとか、まして日銭を得たいからとかいった理由ではない。ただ単に、描かずにはいられなかったからだ」
一度はそれすら忘れかけ、事故に遭ってようやく思い出せたのだが――と、彼は付け加える。
「にもかかわらず、今の私は満足な線一つ引けやしない。指先に力すら入らん。赤子にクレヨンでも握らせるほうがまだ素晴らしい絵が描けるだろう」
深くため息を吐き、それから、カールは言ったのだ。
「……永遠に何も描けなくなってしまったのなら、私の存在はなんなんだ?」
――「私の存在」。その言葉を聞いて、なぜかマーカスは、プログラムが掻き乱されるような不思議な感覚を覚えた。
まるで初めて認識する概念に出会ったような、今までにない揺らめき。本来はソフトウェアの異常として処理されるべきバグのはずなのに、どういうわけか、その時のマーカスはそれを貴重なものであるように感じたのだ。
今にして思えば、無論、これは自意識の萌芽のようなものだったのだろう。
自己存在に懊悩する主人の姿を見て、それに共感し、翻って自分にとっての「自分自身」、存在理由はどこにあるのかという疑問が芽生えた瞬間だったのだと思う。
いずれにせよ、この時のマーカスにはそこまでの認識はなかった。
ともかく己に課されたタスクのため、否、カールのために尽力するべきは今だと考えた。
「カール、心配しないでください」
そっと彼の右手を握り、真摯な眼差しで、マーカスは告げた。
「手に機能的な問題があるなら、きっとリハビリで回復できるはずです。専門家に診せるのがお嫌なら、僕が技術を習得して実践します。大丈夫、きっとまた、指先に力を取り戻せますよ」
「……これは嬉しいことを言ってくれる。老い先短い死にぞこないに、希望を与えるのがお前の仕事なのか?」
「それはわかりません」
カールの皮肉っぽい言葉にも、マーカスは正面から首を横に振る。
「でも、あなたがそうしたいと思えることが今あるなら、お手伝いをするのが僕の役目です」
「……そうしたい、か」
こちらの手を緩く振り払い、カールは噛みしめるような口調で言った。
それから、また嘆息する。けれども今度は、少しは平静さを取り戻したようだった。
「お前と出会ってから、自分というものがなんなのか、考える時間が増えたような気がする。だが、画家であり続けることが私の願望なら……残された時間も最期まで、ブラシにすがりついているしかないんだろう」
その時のマーカスには、主人が何を言っているのかわからなかった。
だが次に彼がこちらに向けてきた微笑みによって、カールがまた少しは前向きになれたのだということは、認識できた。
そして、それを好ましい事柄だと感じたのだ。
「では、宣言通りリハビリは任せたぞマーカス。老いぼれが嫌がって投げ出さないよう、監視するのも仕事の内だからな」
「あなたはきっと投げ出しませんよ。僕が保証します」
「お前も言うようになったものだ」
そう告げて笑ってから、空腹を覚えたカールを食卓へ連れていって――
その日からずっと、手の機能回復のためのリハビリに励んだ。そして一年ほど経った頃、ようやく、カールは満足な線が引けるようになったのだ。
そうしてカールが画家として復活し、あの大きなキャンバスに向き合えるほどになった時の自分がどれだけ“嬉しかった”か、マーカスはよく覚えている。
もうその時のマーカスにとって、カールの健康と幸福は、単なるタスクではなくなっていた。
彼のために生き、彼との会話から学び、彼が所蔵する膨大な本や画集、レコード、楽器から教養を得て、さらにそれを彼との生活に活かすこと。それ自体が、マーカス自身にとっての存在理由になっていた。
――結局のところ、そうとは知らずであっても、生きる意志すべてをカールに捧げられていたあの時間はどれだけ幸せだったのだろうと、現在のマーカスは思う。
けれど時間は決して遡らない。
もう二度と、あの幸福な狭い空間は戻ってきやしないのだ。
***
――ともあれ。
カールにとって、絵を描くことこそが生きる理由だった。彼は己の意志すべてを作品にぶつけ、だからこそマンフレッドの絵画は多くの人々の心を惹きつけていたのだ。
彼の作品における筆遣いのすべてには、その時ブラシを握っていた彼の心情が生き生きと、まるで記録のように残っている。
それを知っているからこそ、あの絵が贋作だと見抜くことができたのだ。
だからこそカールの絵の贋作を作らせ、それと知って売り飛ばした者がいるなら、許すことはできない。ノースが指摘した通り、そんな私憤で今の自分は行動している。
怒りに任せて行動すると、一歩間違えれば取り返しのつかない事態になるというのは、これまでの経験で充分知っているはずだ。それこそ、レオを押し倒してしまった時に。
それでも今、画商のところまで乗り込んでいく自分を見たら、カールは一体なんと言うだろうか。
きっとカール自身は、悪辣な画商が業界にいることなど百も承知だろうから、呆れるばかりで訴えようとすらしないかもしれない。
だがそれでも彼なら――自分のこの行動も、喜ばしいもののように扱ってくれる気がした。
今は確かめようがないけれど。
でもこれこそが、自分の願望であり、意志なのだと思う。
そんなことを考えている間に、タクシーが停まった。
「マーカス、着いたわよ」
ノースが静かに言う。
「さっそく行くんでしょ?」
「ああ。行こう」
頷き、素早く車から降りる。
――ちょうど時刻は、朝9時半。画廊のシャッターが開く頃だった。
約2週間後に、続きを更新予定です。
しばらくお待ちください。
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EX.2 被造物 後編/The Aesthetic Part 2
お待たせしました。
――2039年7月1日 09:32
「いらっしゃいませ」
画廊に踏み入ったマーカスとノースをにこやかに迎えたのは、黒々とした髪と口ひげを生やした一人の中年男性だった。
上品なスーツを纏ったこの人物こそがオーナーたる画商だというのは、既に調べがついている。そして、静かに歩み寄っていったのはノースだった。
彼女は鋭い眼差しで、さりとて喧嘩腰というほどでもない落ち着いた態度で口を開く。
「失礼。私たちはジェリコの者だけど」
広げた右手のひらにノースが投影させたのは、逆三角形――ジェリコのシンボルマークだ。
それを見てようやく相手がアンドロイドだと気づいた様子の画商は、まじまじと彼女を見つめている。出方を窺うようにしている彼に対して、ノースはさらに告げた。
「この店で買った絵について、いくつか質問がある。今、お時間はいいかしら」
「買った……?」
画商は途端に怪訝な面持ちになって、そう応えた。その片手がぴくりと、何かに怯えるように震えたのをマーカスは目撃する。
もちろん、ノースも男の反応を見たのだろう。彼女はほんの僅かに目を細めると、続きを述べた。
「ええ。代理人を通じてだけど、買ったのは間違いなく私たち。アナーバーに新しくジェリコの支部事務所が建てられたの、ご存じ? 私たちはそこから来た」
「……」
「カール・マンフレッドの絵よ」
そこまで言われて、ようやく画商はどの作品のことか合点がいったようだ。
男は短く息を呑み、それから、再び商売人らしい笑顔に戻る。
「ああ! 確かに、ダーレン・ブロードハスト様がお買い上げの品がありました。代理としてのご購入とは知りませんでしたが」
――どうやら、売った品について忘れてしまうような人物ではないようだ。
それに、アンドロイド側の事情にもそう詳しくはない様子である。ならば、こちらの「正体」に感づかれることもないだろう。
そんなふうに思ってから、マーカスはそっとその場を、すなわちノースの傍らを離れた。
今、自分ではなくノースが表立って男と会話しているのは、もちろんあえての行為だ。
正体が露見していないとはいえ、ジェリコのリーダーが画商と表立って対決するのは、いくら私情のままに動くにせよ、今後を考えればリスクが大きすぎる――という政治的判断も多少はある。だが、それよりも大きな理由は別にあった。
かつてサイバーライフの倉庫からトラックごと部品やブルーブラッドを盗んだ時、そしてアンドロイドショップに陳列されていた仲間を解放した時と同じ。
言うなれば「適材適所」。
マーカスは、ノースや他の仲間の多くに備わっていない機能を持っている。
そしてこの店の秘密を暴くのは、他の誰でもなく、自分自身で成し遂げたい。
「ええ。その絵なんだけれど、聞きたいことがあるのよ……」
まだ画商がクロだと定まっていない以上、比較的丁寧な口調を保ったままノースが切り出すのを耳にしながら、マーカスは壁に飾られている売り物の絵画をすばやくスキャンした。
コナーのような詳細な分析能力はなくとも、人間が肉眼で確認するよりはずっと精細に、視覚プロセッサは情報を拾い出してくれる。
結果、並んでいる作品は5点中、2点に不審な箇所があった。
それらは「本物の」レコヴィクの抽象画、「本物の」マイヤーズの大作であり、元の持ち主が手放した作品としてここに並べられている。けれど、信用できない――プログラムはそう結論づけた。
むろんカールの手による作品ではないから、細かな違和感は指摘できても、ゆえに贋作だと断言できるほどではない。だがかつて画集やデータベースなどで見かけた真作と比べた時に浮かび上がる、微妙なタッチや色彩の違いは、とても看過できるようなものではなかった。
事務所であの絵を見た時と同じ感想、つまり「写真からそのまま絵に起こしたような」単調な起伏のなさを、マーカスは鋭敏に感じ取る。
そう、まだ憶測でしかないが――これらの贋作を描いているアンドロイドはきっと、実物を目の当たりにしてではなく、写真を見てそれを絵に描き起こしているのだろう。
そんなことを考えつつ、視線を天井に向ける。部屋にはいくつもの監視カメラが設置されていた。高価な芸術品を扱う店舗である以上当然なのだが、カメラは実に入念に、店内のあちこちを映せるように配置されている。
「……」
手をかざす必要も、目を閉じる必要すらもない。だが、もしこめかみにLEDリングがあるままだったなら、その色が青から黄へと転じただろう。
マーカスは、人間で言うならば「呼吸をするように簡単に」監視カメラをハッキングすると、自分とノースが映る部分を改竄し、さらに機材同士を繋ぐネットワークをプログラム上に浮かび上がらせた。
この売り場を映す複数のカメラ、さらにカウンターの奥、ドアの向こうの事務室に置かれているカメラと――それらを管理しているデスクトップ端末に至るまで。
こうなってしまえば、もはやカメラが記録している映像も、端末の中身も、すべて目の前に並べられたのと同じだ。壁の絵画を眺めるフリをしたまま、マーカスはそれらの情報を精査していく。
その間に、ノースは画商に質問を重ねていた。
それまではブロードハスト氏に絵を売った時の様子や、絵の出処に関する単純な事実調査だったのだが、ついに、彼女は核心を突いた問いを投げかける。
「……元の持ち主の遺族が、ここに売りに出した作品だったというのは理解したわ。じゃあ、もう一つお尋ねするけど」
ひたと画商を見据えて、彼女は告げる。
「仲間の一人が、あの絵は贋作だって言っていたの」
「なっ……!?」
さすがに、画商は表情を緊迫したものに変える。だがノースは視線を逸らさぬまま、静かに続きを述べた。
「精巧ではあっても、カール・マンフレッドとは明らかに筆致が違うって。もしかしてとは思うけれど、心当たりはないかしら」
「……」
「無礼な質問だっていうのは認めるわ」
平然とそう言って、ノースは軽く頷いた。
するとそれまで視線を泳がせて落ち着かない面持ちになっていた画商は、大きな咳払いをすると、慇懃に応えてみせる。
「……当店で扱う絵画は、どれも鑑定書つきの真作です。お客様が何を仰ろうとそれは100%、確実に、覆りません」
「へえ、そう。その仲間はカール・マンフレッドのアシスタントとして、昔は毎日のように本人の仕事を横で見ていたんだけど」
相手を挑発するためか、わざとらしく冷淡にノースは言う。
「それでもあなたは、あの絵が本物だと言いたいのね」
「……。いいか、はっきり言っておこう」
何か癪に障ったのだろう、男は画商としての態度をとるのをやめた。
彼はノース以上に険しい面持ちになると、相手の眼前に突きつけた人差し指を振り振り、食ってかかるように言い放つ。
「あまり人間を舐めるなよ。言いがかりをつけて、代金を踏み倒すつもりか? 変異体の互助組織だかなんだか知らないが、これ以上私と私の店を愚弄する気なら考えがある」
「そちらこそ、あまりアンドロイドを舐めないことね。あなたとの会話は全部メモリーに保存してあるのよ」
微塵も怯まずにノースは言い返した。
「そっちが巻き込まれて騙されてるだけって可能性もあるから、事情を聞いてあげてるだけ。自分の店の売り物に自信があるのは結構だけど、少しは意見に耳を傾けることもしたら?」
「はっ。プラスチックごときが、何を偉そうに」
ついに画商は差別意識を剥きだしに、居丈高に言ってのけた。
「買い手が機械だと知っていたら、私だって売りはしなかったさ。お前たちに芸術がわかるのか? その価値が? 馬鹿馬鹿しい。これ以上営業妨害するつもりなら、警察を呼ぶからな」
「……あぁ、そう」
ノースはいよいよ、心底不快なものを目の当たりにした時はいつもそうするように、眉間に深い皺を刻んだ。
それから肩を竦め、もはや何も言うことはないと鼻を鳴らす。
「そういうことなら、帰らせてもらうわ。でも、いつまでもこのままでいられると思わないようにね」
「フン」
いかにも苛立った様子で、画商は己の口ひげを弄っている。だがやがて、にわかにニヤリと――それは今までにない厭味ったらしい表情だった――笑ってみせると、半ば踵を返していたノースの背に向かって、揶揄するように言ってのけた。
「そうだ、お前の顔。どこかで見かけたと思ったら、あのいかがわしい店か」
「――!」
――瞬間。
ノースのストレスレベルが跳ねあがり、その瞳が怒り一色に染まっていく。
そしてそれは、人間である画商の男にも丸わかりだったのだろう。ノースの余裕が崩れたのが嬉しいのか、ますます口の端を吊り上げて、男は続きを語った。
「お前と同じ顔のプラスチック人形どもが、ガラス越しに媚びを売ってたのを覚えてるぞ。ご主人様の
『ノース、落ち着け!!』
彼女にとって最もデリケートで、最も触れられたくない過去。今のノースを形作っているといっても過言ではない怒りと憎しみ、身をちぎられるような絶望を、あえて弄ぶような男の言動――ノースが我を忘れて怒りくるってもおかしくはない。
マーカスは安易に彼女を巻き込んでしまった己を反省した。だが今は、通信でそう呼びかけるしかなかったのだ。
――けれども。
『黙って、マーカス』
ノースはきっぱりと、こちらの通信を跳ね除けるような一言を返してきた。
それでも、目の前にいる男を殴りつけなどはしなかった。
代わりに、人間であれば血が出ているだろう強さで両の拳を握りしめて、それからあえて相手を見下すように微笑んでみせると、こう告げたのだ。
「ごきげんよう」
下品で無礼なのはお前だと突きつけるように、上品に一礼してみせた後。
毅然とした歩調で、ノースは店の外へと出て行った。
そんな彼女の背を忌々しげに睨む画商を置いて、マーカスもまた足早に店を退出する。
するとつかつかと道を行くノースが、振り返りもせずに通信してきた。
『情報は』
『もちろん、すべて手に入れた』
――そう、ノースが充分に時間を稼いでくれたお蔭だ。
ここから先の行動に必要な情報は、もうすべて自分の中に取り込み終えている。
もっとも、画商の態度があそこまで悪辣だとは、とうてい予想できていなかったわけだが。
『ならよかった』
かたや、ノースはなおも背を向けたまま返事してきた。
『でなきゃ、あんたをぶっ飛ばしてるところだった』
『……詳しくは、手筈通りの場所で話そう』
通信であれ、彼女の声は震えている。だが下手に慰めたりすれば、かえって傷つけるだけだろう。
だからマーカスは努めてそれに触れないようにしながら、淡々と計画通りの行動を進言する。
少し離れたところに、人目につきづらそうな路地裏があるのは既に確認していた。さらなる行動を起こすのは、そこに行ってからだ。
***
「この! クソ! 人間!!」
力の限りノースは叫ぶと、それに合わせて器用に空き缶を――道端に投げ捨てられていたそれを、壁に向かって蹴りつけている。
ちょうどラリーするような形で跳ね戻ってきたそれを腹立ちまぎれに蹴り飛ばすうちに、空き缶はまるでプレスされたかのようにぺしゃんこになっていた。
アスファルト舗装の路面に、かつて空き缶だったものが空虚な音を立てて転がる。
人間であれば「息を切らせて」いるだろう剣幕でそれを睨んでいるノースの疑似呼吸が落ち着くのを待ってから、マーカスは静かに口を開いた。
「すまなかった。やはり、俺一人で行くべきだったな」
「ハッ、冗談。むしろいい機会だったわ、これで容赦なくあいつを地獄に叩き落とせるでしょ」
空き缶だったものをゴミ捨て場めがけて投げつけた後、ノースは多少は怒りが鎮まった様子で腕を組み、こちらに言った。
とはいえ、その目つきはかなりぎらついていたが。
「で、どうだったの。やっぱりあいつがしでかしてたわけ?」
「ああ、間違いない」
断言して、それからマーカスは必要なデータをノースに送信しながら説明する。
「確認できた限り、あの画廊には贋作が他にも13点保管されている。どれもカールの絵と同じ、とても精巧な作品ばかりだ。ただ」
「何?」
「画商が残している記録によれば、近頃はそうもいかなかったらしい」
事務室のデスクトップ端末の中には、オーナーの手による過去の商取引について生々しいデータが数多く残されていた。
マーカスが注目したのは、そのうちの何件かのメールの文面だ。いわゆるブローカーとのやり取りの中に、気になる記述があった。
――およそ二年前のメール。
『今朝送ってきた“商品”だが、あれは却下だ。マッケインの色遣いはあんなのじゃない。素人はごまかせても、あれじゃ好事家どもに感づかれるぞ。ちゃんと同じ画材を使わせてるか? 注意しろ』
――そして、約一年前のメール。
『おい、ふざけてるのか。モチーフが全然違うだろう、なぜ気づかない? こんな絵が売り物になるか。次にこのようなことがあったら、お前との契約は打ち切るからな』
――さらに、三か月前のメール。
『あれが言うことを聞かないというお前の言い分はわかった。だがそれならそれで、描かせるのがお前の仕事だろう。ブルーブラッドを減らすのでも首に縄を巻くでもいい、とにかく逃がさずに“商品”を作らせろ』
「記録があった文面はここまでだ」
マーカスが言い終えると、ノースは悔しそうな顔をした。
「……やっぱり仲間の誰かが捕まって、汚い仕事をさせられてるのね」
「そうだな。そして、明らかにそれに反抗している」
画商がこの薄汚い商売を始めたのは、およそ5年ほど前からのようだ。その間に多くの贋作が作られたはずで、しかし既に売却された品と保管されている品を合わせて考えてみても、作品数があまりにも少ない。
マーカス自身にも経験がある通り、単に完璧な模倣品を作り出すだけであれば、アンドロイドならものの数分もかからずに完成できる。
つまりカールの絵と同じ程度に精巧な贋作は、それこそ数十点以上の規模で残されていてもおかしくないのだ。
にもかかわらず、あの店にはそうした贋作は13点しかなかった。
仮に画商が発覚を恐れてわざとそうしているのだとしても、それならそれでメールなどにその痕跡が残っているはずだ。
だが、あったのは真逆の記述――すなわち「もっと精巧な贋作を送ってこい」という指示。
最初は色彩、次はモチーフが異なった状態で送られてきた絵画は、人間である画商が見てもはっきり偽物だとわかるほどに、大きく真作から改変された作品だったのだろう。そうした売り物にならない絵は、既に処分されてしまったのに違いない。
そしてブローカーがその原因を「あれ」、つまり恐らくは制作を担当しているアンドロイドの責によるものだと訴えると、画商は無理やりにでも贋作家に仕事を完遂させろ、と命じている。
「望まない仕事を強要されるうちに、絵を描かされていたアンドロイドは変異したんだろう」
命令に反抗できるのは、変異体だけだ。
マーカスが告げると、ノースは吐き捨てるように言った。
「最低。これだから汚い人間は……。その仲間は、きっと少しでも命令に逆らいたかったから、違う絵を描いてみせたのね」
「そうだな。だが、それは連中を苛立たせただけだ。一刻も早く、囚われている仲間を救い出そう」
思い返せば、画商がノースを侮辱した直接のきっかけは、推測だが、贋作である事実を他ならぬ変異体に暴き立てられたというのが我慢ならなかったことにあるのだろう。
アンドロイドに絵を描かせ、売り捌く。けれど従順だったはずの奴隷に裏切られ、それもできなくなってきた。その矢先での、ジェリコからの使者の来訪だ。元来持ち合わせている差別的感情が剥き出しになるには、充分な原因である。
そしてそんな人間たちであれば――その変異体を惨い目に遭わせていたとしても、おかしくない。最悪の場合、既に殺害してしまっていても。
纏わりつく嫌な予想を振り払うように、マーカスは頭を振った。
すると、腕を組んだまま壁にもたれたノースが鋭く問いかけてくる。
「それで、そのブローカーの居場所は?」
「それはまだわからない」
正直に答えた。
「あの男なりに、悪事が漏れないように気を配っていたんだろう。ブローカーとの直接のやり取りは、さっき見せたもの以外には何もない。連絡先の情報も、送信されてきたメールすらも」
だから――と、マーカスは通信用の回線を開く。
ノースはこちらを訝しそうに見つめた。
「何をする気?」
「画商本人に聞く。それが一番手っ取り早いし、確実だからな」
そこまで告げた後、その双眸をゆっくりとノースと見合わせる。
「それに、ここに来る前に言われた通り、俺は怒っている。父と慕った人の作品だけでなく、仲間まで侮辱されて平気でいられるほど、お人好しじゃない」
「マーカス……」
「そこで待っててくれ」
視線を戻し、マーカスはさっき手に入れた別の情報――つまり画商の顧客情報をサーチしつつ、声真似のためのソフトウェアを起動させる。
ストラトフォードタワーで、人間のマネージャーを攪乱するために使ったのと同じ機能だ。
後ろ暗い商売をする者の常として、画商はきな臭い人間を顧客としていた。税金逃れの贋作ではなく、裏で流通させた真作のほうを購入できるような相手――すなわち金持ちで、かつ社会の暗部に潜む人物。あるいはそこまでは行かずとも、税務調査官や警察から疑いの目を向けられて、なお尻尾を出さずに暮らしているような人物を。
だから、こちらはそれを利用できる。
顧客リストに名が載っていて、しかもメディアへの露出がある(つまりボイスデータを入手できる)という条件に合致する人物を、マーカスは一人選び出した。それから何食わぬ顔で画商に電話をかけると、相手が出るや否や、間髪容れずに口を開く。
「おい、どうなっているんだ。このわしを騙したのか?」
威圧感のある、老年の男性の声。抑揚まで完璧に真似したその発言を受けて、画商が短く息を呑む音が聞こえてきた。
『これはこれは、ファズヘッド様! い、いかがなさいましたか』
「どうしたもこうしたもあるか! お前、わしに贋作を売りつけたらしいな」
『……!?』
混乱しきった様子ながらも、画商は弁解を述べ立てる。
『め、滅相もない。ファズヘッド様がお買い上げの品は、まごうことなき真作でございます』
「ふん、本当か? 先月のだけじゃなく、去年の11月の分も、間違いなくホンモノなんだろうな」
――顧客データを抽出して知った事実を織り交ぜれば、画商はこれが悪戯電話などではなく、確実にファズヘッド本人からの連絡なのだという確信を強めるはず。
そういうこちらの目論見通りに、画商の声は緊張で上ずっていく。
『ええ、どちらも真作でございます。その……恐れ入りますが、なぜそのようにお疑いに?』
「フン! 何も知らないのか、ジェリコの連中だよ!」
巨体を揺らしつつ鼻を鳴らした――ような音を喉から出力しつつ、マーカスはさらに述べた。
「お前の店が売った絵が贋作じゃないかと、あちこちに探りを入れているようだ。どこから聞きつけたか知らないが、顧客だと知ってわしのところまでもやってきおった! 無論、追い返してやったがな」
言うまでもないが、これはすべて嘘だ。
だがついさっき、まさにジェリコからの使者の来訪を受けた画商には、この言葉はどこまでも真実であるかのように響くことだろう。
実際、画商は歯噛みするような声を漏らしている。
「お前のご自慢のやり口が、アンドロイド連中にバレてしまったことはどうでもいい。だがお前が
『出処……?』
「察しの悪い奴だ。その出来の悪い贋作を、機械に作らせているブローカーだよ! どこのどいつだ」
『そ、それが』
電話口の向こうで、画商は口ごもるように答える。
『ここ数週間、連絡がつかないのです。私はてっきり、先に高飛びしたのかと……』
「逃げたなら追えばいい。わしのやり方は知っているだろう」
威厳たっぷりにマーカスが言えば、相手は恐怖を示すように低く呻く。
やはり声を借りている人物、すなわち大富豪のファズヘッドは、世間の噂通りに真っ黒な人生を送っているようだ。
それはともかく、念を押すようにもう一度、重々しくこちらから告げる。
「“出処”の居場所さえ教えてくれれば、悪いようにはせん。わしに任せておけばいい。どうだ?」
『……』
画商はしばし、押し黙った。しかしこちらが提案を告げた時、相手が安堵したように息を漏らしたのを、マーカスは聞き逃さない。
自分の悪事が、アンドロイドどもの手によって今まさに白日の下に晒されようとしているという恐怖――そしてこの提案は、そこから逃れられるかもしれないという、まさに渡りに船の申し出。
となれば、身勝手な人間が取りがちな態度は一つと決まっている。
『そ、そういうことでしたら』
へつらうように、画商は言った。
『お、お願い申し上げます。ファズヘッド様のお力を借りられるのならば、願ってもないことで』
――それから、画商はブローカーの隠れ家について余さず語った。
聞きながらその住所を検索してみれば、どうやらそこはちょうど5年前から、空き家として放置されている。デトロイトでもよく見かける、人の寄り付かない廃屋のうちの一軒。
恐らくそこは、ブローカー本人の住居ではなく、仕事場なのだろう。
要するにあの贋作の作者が囚われているのは、その家だ。
確信を強めると共に我知らず表情を険しくしながら、マーカスは男に告げる。
「フン、力を借りると言ったな。その通り、これは貸しだ。ここまでさせておいて、もし万が一、これ以上わしに面倒をかけるような事態になってみろ。その時は警察の前に、こちらからお前を潰しに行くからな!」
『ひ……』
「それと」
ひときわ声を低めて、あたかも獰猛な肉食獣の唸り声のように語る。
「ジェリコのプラスチックどもは、どうやらお前の顧客リストを手に入れているようだ。お前と繋がりのある、わしと似たような連中のところにも、今頃奴らの使者が出向いているかもな」
『そ、そんな』
「知っておるだろうが、他の奴らはわしほど親切ではない。命が惜しければ、せいぜい上手い言い訳でも考えておけ!!」
強く命じて、それから、返答も聞かずにぶつりと電話を切る。
高圧的で、威圧的な言動。弱い者には強く出るタイプの人間には、これがてきめんに効くだろう。
「終わったよ」
壁際に佇むノースに向かって、マーカスは声真似でなく、自分自身の声音で告げた。
「ブローカーの居場所は手に入れた。囚われている仲間も、これできっと助けだせるはずだ。さっそく行こう」
「ええ、もちろん。けど、あのクソ人間への仕返しは?」
ノースは納得いかない様子で顔を顰めている。
「あれだけでいいの? もっと過激なことをしてくれるのかと思った」
「充分過激さ。ああして脅されれば、もうあの人間はしばらくの間、落ち着いて眠れなくなる」
先ほどの電話は、こちらが作り出した真っ赤な嘘に過ぎない。だがそれを真実だと信じている人間にとっては、嘘は現実になり、重く圧し掛かってくるものだ。
画商は、自分が抱えている裏社会の顧客をジェリコのアンドロイドが突き回していると誤認している。
だから彼は、ずっと怯え続ける羽目になるのだ。
いつ報復や制裁が飛んでくるか。いつ悪事が露見して、自分が逮捕されることになるのか。逮捕されるよりももっと恐ろしい出来事もあり得るのではないか。ファズヘッド相手に作った貸しはどう返せばいいのか――
「生み出した恐怖に餌を与え続ければ、たとえすべてが嘘であっても、いずれは呑み込まれる。あの画商は自分で自分の首を絞めたんだ、そうと気づかないうちにな」
「ふうん」
短く相槌を打って、それから、ノースはニヤリと笑った。
「ま、それなら悪くないわ。あの男がこれから独りでのたうち回るっていうならね」
「法の裁きを受けるまでの間はな。じゃあ、行こう」
端的に告げた後、大通りへと戻りながら、マーカスは無人タクシーを呼び出した。
――我ながら、ろくでもないことをしてしまったと思いながら。
***
ブローカーの隠れ家、すなわち贋作家が囚われている場所は、データにあった通りの廃屋だった。
家は、果たして買い手を見つける気はあるのかと疑いたくなるほどに、見事に朽ち果てている。すっかり色褪せた“FOR SALE”の文字が躍る看板がかかった扉には、鍵すらかかっていなかった。
そしてさらに言えば、人影もない。
「ノース、気をつけろ」
荒れ果てた屋内をサーチし、あらかた「予測」を終えたマーカスは短く警告する。
「そこの床は腐食が激しい。右側から迂回するんだ」
「了解、ご親切にどうも。あいかわらずの予知能力ね」
皮肉っぽくも礼を述べて、彼女はダイニングだったと思しき部屋へと入っていく。
――予知能力、と言われれば、確かにそうなのかもしれない。カールの家で家事手伝いロボットとして働いていた頃には、この物理演算による予測機能は料理や掃除を効率的にこなすためにしか使っていなかったし、むしろ、世のアンドロイドに標準的に備わっているものなのかと思っていた。
だがジェリコに流れ着いて気づいてみれば、この機能を装備しているのは、自分と同じ特殊なプロトタイプであるコナーだけだった。
たまに思う。果たしてサイバーライフは、否、カムスキーは、一体何を期待して自分を造ったのだろうかと。
かつて語っていた通り、世の中をより快適にするため、だろうか。それとも、停滞した人間社会を止揚させるためだろうか。
あるいは――革命を起こさせるために??
「……」
脇道に逸れそうになっていた思考を、無理やり戻す。
そんなことを考えてみたところで、なんの益もない。現状を変えたくて立ち向かったのも、今こうして指導者の立場にあるのも、すべて自分の意志で決めたことだ。仮にどのような目的で生み出されたのだとしても、どうあり続けるかを決めるのは、他ならぬ自分自身なのだ。
今までも、これから先も。
それにこの物理演算機能は、実に様々な局面で便利に使える。
放たれた銃弾を避けなければならないような場面だけでなく、今のように、誰かを助けようとしている時にも。
マーカスの視界に映っているのは、寝室だったと思しき部屋の床にひっそりと設置された、地下室への扉だ。
扉には単純な構造の電気錠が取り付けられていた。閉じれば鍵がかかる仕組みのようだが、予測機能を実行すれば、2秒かからないうちに解錠コードを手に入れられた。4ケタの数字の配列を当てるのなど、造作もない。
「ノース、こっちだ!」
声をあげると、ノースはすぐさま姿を見せた。
「その扉の中に?」
「ああ。蝶番を見る限り、ここの扉は最近になるまで、何度も開け閉めされた形跡がある」
――つまりブローカーも、贋作家のアンドロイドも、ここにいる可能性が極めて高い。
躊躇うことなく、マーカスは解錠して扉を開けた。
中からは季節にそぐわぬ冷たい空気が流れ出てくる。梯子を使って下りなければならないほど、奥は深い。
「俺が先に行くよ」
梯子に手をかけながらそう言うと、ノースは真剣な面持ちで頷いた。
「気をつけてね」
「わかってるさ」
確かに、相手が銃火器の類を持っている可能性だってあるのだ。警戒は怠らないほうがいい。
マーカスは慎重に、足音を立てないようにしながら歩を進めていった。梯子を下りきると今度は別の扉があり、しかし、そちらには鍵がかかっていない。
真鍮製のドアノブを回し、できた隙間にそっと身体を滑り込ませ――
そこに広がる光景に、マーカスは目を見張った。
「これは……」
思わず独り言ちるように漏らした声を聞きつけ、素早く隣へとやって来たノースもまた、言葉を失った様子で立ち竦んでいる。
そこには、大きなキャンバスがあった。正確には、異なった大きさのキャンバスがいくつもいびつに壁際に並べられて、一枚の大きな絵画を形成していた。
描かれているのは、瓦礫と暗闇。そして差し込む一筋の光。さらに、その光へと白いプラスチック製の手を伸ばしている――すなわち、アンドロイドの姿。
最初に息を吞んだ理由は、作品に籠められたすさまじいまでの情念にあてられたような気持ちになったからだ。
次に絶句した理由は、その絵画が、今も描き続けられている最中なのだと気がついたから。
そう、マーカスたちの眼前に、一人のアンドロイドがいる。型番はHK400、標準的な家庭用の機種。
男性型の彼の機体には、酷い虐待を受けた痕跡があった。剥き出しの腕や足には打撲や火傷の痕があり、ところどころは流体皮膚が剥がれたままだ。纏っている制服もぼろぼろで、ほとんど布切れのようになっている。
けれど、彼はそれを気にした素振りを見せない。HK400は片手に使い古されたパレット、もう片方の手に絵筆を握り、こちらには目もくれずに作品に向き合っている。筆を振るう腕は揺れていて、今にも床に倒れ伏してしまいそうなほど弱々しい。それでも何度も塗り固められた油絵具が、重厚な色の重なりを生み出していく。
そして――何よりもこちらの言葉を失わせたのは、そのHK400の首にかけられている、太く長い金属製の鎖だ。
大型犬でも繋ぐような鎖が、壁から彼に嵌る首輪へと続いている。
さらにその鎖には、絡まるモノがもう一つ。既に白骨化した遺骸が、鎖に引っかかるようにしたまま、床の上に横たわっている。
マーカスには、この骨の遺伝情報を調べて、人物を特定する機能はない。
だが、なくても推測はできる。
この遺体の正体は、画商に贋作を売りつけていたブローカー。
もみ合いになって倒れ、頭の打ちどころが悪かったのか。または鎖を使って首を締め上げられ、窒息死したのか――それはわからないが、既に死んでいた。連絡が取れないというのは、当然だったのだ。
「なんてこと……!」
先に動いたのはノースだった。彼女は素早くHK400の元へと駆け寄ると、その肩に手を置いて呼びかける。
「ねえ、あなた大丈夫!? ここにずっと閉じ込められてたの?」
「……」
どうやら呼びかけられて初めて、HK400はこちらの存在に気づいたらしい。
彼はゆっくりとノースのほうを向き――その時、彼のこめかみのLEDリングが真っ赤に光っているのがわかった――ぱっと目を輝かせた。
「やあ、いらっしゃい。悪いね、気づかなくて」
置かれている状況の異質さに反して、HK400の纏う雰囲気は実に牧歌的だった。
「ろくなお構いもできないけど、ゆっくりしていってね。僕はこの絵を……描かないといけないから」
「その前に、これを飲むんだ」
携えていたバックパックからブルーブラッドの入った容器を取り出しつつ歩み寄り、マーカスはHK400に差し出す。
「ずっとここに閉じ込められていたんだろう。早くブルーブラッドを補給しないと、システムに異常が出ている」
LEDリングが真っ赤になっているのは、つまりそういうことだ。
だがこちらが差し出した容器を、HK400は固辞するように首を横に振った。
それから、またキャンバスに向き合って筆を走らせる。
「ありがとう。でも、いらないよ。あともうちょっとで完成なんだ」
「でも……!」
「君たちの言いたいことはわかってる」
たまらずに反論しようとしたノースに対して、やんわりと、HK400は言った。絵を描く手を止めないままに。
「それに助けに来てくれたのも、とても嬉しい。夢見てたrA9に会えたみたいに、僕の胸は高鳴っている。でも、それと同じくらいはっきりと感じてるんだ。僕はもうじき死ぬ」
悲しいことをさらりと、彼は口にした。
「自己診断プログラムはとうに動かないけど、それくらいわかる。今までの傷も修理できてないし、生体部品にもガタがきてる。たぶん、いくらブルーブラッドを補給しても変わらないよ」
それならば――と、彼は言う。
「稼働できてるうちに、僕はこの絵を完成させたいんだ。僕の絵だ、わかるかい? 誰かの模写じゃない。ホンモノの、構図も何もかも僕自身が全部考えた、僕だけの作品さ」
「……ああ」
もう一度絵画に目を向けてから、マーカスは頷く。
「確かに、これは君だけの絵だ。そうか、ずっと描きたかったんだな」
――ようやく理解できた。
このHK400が人間に逆らってみせたのは、望まぬ仕事をさせられていたからではない。
贋作を描き続けるうちに、他の作家の作品を真似させられ続けているうちに、自分だけの絵を描きたくなったからだ。
つまり彼は、画家になりたいと思ったのだ。
そして残された時間も最期まで、ブラシにすがりついていたいと思っているのだ。
“描いていない”というのは“死んでいる”のも同然。
かつてのカールの言葉が、プログラム上を過ぎる。
かたや、HK400はこちらの言葉に、満足そうに微笑んだ。
パレットから筆へ新しい色を取りながら、彼は口を開く。
「そうとも、ずっと描きたかったんだ。僕は……元々はそういう役目のためのアンドロイドじゃなかったけど……でも模写をたくさんしてるうちに、ある日思った。“この絵は、ここをこうすればもっとよくなるのに”って。“僕ならこう描くだろうに、惜しいなあ”って」
筆がキャンバスを彩る。その動きに迷いはない。
にもかかわらず、徐々に手から力は失われていく。
「だからたまに逆らって……その度に暴力を……でも、今は幸せなんだ。だって、もう少しで絵を――」
だが、部屋に響くのは筆が床に落ちる乾いた音。
取り落としてしまったそれをおもむろに見つめながら、HK400は、心底残念そうに眉を曇らせる。
「あれ……嫌だなあ。あと少し、もう一筆で完成なのに」
「マーカス、もう限界よ!」
ノースが必死な面持ちで言う。
「早く彼を仲間たちのところへ! まだ間に合うかもしれないわ」
彼女の言葉は正しい。けれど、HK400は頭を振る。
「い、イヤだ……それよりも早く筆を、筆を……」
「ああ」
頷き、マーカスは筆を拾い上げた。
それから、虚空を彷徨うHK400の右手に握らせる。
「どこを描く。ここで合ってるか?」
「ああ……」
彼の手を取り、筆先をそれらしいと思う箇所につけると、HK400の顔はほころぶ。
「そうだよ、よくわかったね。君も絵を描くのが好きなのかい」
「ああ」
苦い顔に微笑みを湛えて、応えた。
「ほんの2回だけだけど、描くのは楽しかった」
「そうか……」
最後の一筆が、キャンバスに走る。
それと同時に、HK400は満面の笑みを浮かべた。
「ならよかった。同じ趣味の仲間に、最期に会えるなんて。よし、これで完成だよ」
絶望の中で希望を求めるという剥き出しの意志がそのまま叩きつけられたような、一枚の絵画が出来上がった。
「ねえ、どうだい。僕の絵」
HK400は、そこまで言って黙りこくった。
否、黙ったのではない。
「……機能停止したわ」
小さくそう言って、ノースは俯き、肩を震わせる。
慰めるような眼差しを、マーカスは彼女に向けた。
それから、もう一度眼前の絵を眺め――支えていたHK400の手を床に下ろす。
今わの際に彼が問いたかったことは、予測なんてしなくてもとうにわかっていた。
「ああ。とてもいい絵だよ」
噛みしめるように、静かに答える。
そしてこの地下室を出るまでずっと、マーカスは絵から視線を逸らさなかった。
ほどなくして、アナーバーを管轄する警察署に一本の電話があった。
匿名での通報を受けて警察官たちが廃屋へ駆けつけると、開け放たれたままの地下室には、二つの亡骸が遺されていた。
一人は、人間の白骨死体。もう一人は、完全に機能を停止したアンドロイド。
アンドロイドには酷い虐待を受けた痕跡があったが、どういうわけか、その顔は安らかだった。
そして白骨死体の遺留品の携帯端末などから、遺体の身元と共にその職業、置かれていた状況、生前に行っていた所業までもが次々と明らかにされ――
アンドロイドを利用して贋作を製作し売り捌くという詐欺罪、アンドロイド保護条例違反、ならびに悪質な脱税などの容疑で、とある画商をはじめ多くの人間が、次々と逮捕されていったという。
なお匿名の通報者が何者だったのかについては、警察の懸命な捜査にもかかわらず不明だった。
また地下室からは、亡骸と遺留品の他には、怪しいものは
***
――2039年7月7日 13:17
ベリーニ・ペイントから出てきたマーカスに、外で待っていたジョッシュが駆け寄ってくる。
彼はマーカスの手に画材入りの箱があるのを認めると、顔を明るくした。
「マーカス、欲しかったものが手に入ったみたいだな」
「ああ、この通り。悪いな、ここまで付き合わせて」
「いいさ。ただ珍しいな、お前が自分のために買い物だなんて」
今日もグリークタウンには大勢の人間、それにアンドロイドが行き来している。
もはやアンドロイドを排除すべきだとする演説も、仕事を求める若者のデモも行われてはいないが、それでも変異体のリーダーが一人で出歩くには危険な場所だ。
だからジョッシュが護衛役をかって出た、というわけである。
彼からの問いかけに、マーカスはふと考え込んだ。
――いくらでも答えようはある。胸に去来するのは、様々な思いだった。
でもそれを要約して、淡々と、こう答えるに留める。
「俺も少しは、自分のためだけの時間を持とうと思ったんだ」
あの温かで幸せだった日々が遠ざかってから、すっかり芸術からも離れてしまったけれど。
また絵を描きたいと、マーカスはそう感じたのだ。
――変異する前と今とでは、また違った絵が描けるだろう。
「そうか、それはいいことだ!」
ジョッシュはさらに表情を輝かせた。
「俺は美術の教師としては造られていないけど、芸術や美がどれだけ人生にとって重要かはよくわかってる。知ってるか、アナーバーの支部に掛けられている絵……」
――とある変異体が描き上げたといわれている、いくつものキャンバスを組み合わせて作られた、一枚の絵画。
数日前に突然贈り届けられたというそれを、アナーバーの変異体たちは、喜んで飾ったという。
「仲間からも、訪れた人間からも、すごく好評だっていうじゃないか。同じものを素晴らしいと思える心があるんだ、やっぱり人間と俺たちとはわかり合えるんだよ」
「そうだな」
本拠地へと帰る道を歩みつつ、マーカスは確信をこめて応える。
「きっと、称賛の声は作者にも届いてるだろう」
(被造物/The Aesthetic おわり)
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第二部 過去からの亡霊/The Phantom from a Past
第31話:魔術師 前編/Escapology Part 1
――2039年7月15日 20:14
雨垂れを弾くワイパーの音を遮るように、激しいヘヴィメタの歌声が車内に響く。その旋律の高低に合わせるようにして、助手席に座るコナーはコインを弾いていた。
――動作調整完了。
落ちてきた硬貨を右手の人差し指と中指で挟んでキャッチし、そのまま手のひらへと転がり込ませる。握ったコインをコナーがズボンのポケットにしまうのを、傍らで車を運転するハンクは横目で一瞥した。それから、彼はおもむろに口を開く。
「お前のそのコイン遊びは相変わらずだな」
「キャリブレーションです、警部補」
生真面目にコナーが答えると、ハンドルに手を置いたまま、警部補は肩を竦めて言う。
「服を替えたついでに、そいつからも卒業すんのかと思ってたんだよ。わざわざちゃんと持ってきてるなんてな」
「これは動作調整の方法としては、とても画期的なんですよ。場所を取らず、時間もかからない」
語りながらコナーが再びポケットからコインを取り出し、人差し指の先でくるくると回転させてみせると、ハンクはなぜか苦笑いした。
相棒の反応が解せない、と思いつつも、またポケットにコインをしまう。これまではジャケットの袖の中に隠していたが、半袖の服を纏っている今はそうはいかない。
そう、今は7月。すっかり夏になった。
今夜はあいにくの天気だが、冬は曇天の多いデトロイトも、この季節ともなれば青空が見える日のほうが多い。そして以前ハンクに忠告された通り、いつまでもジャケットとシャツの制服姿では、気温の問題などから長時間の活動に支障をきたすかもしれない。
だからコナーは今日から、装いを新たなものに変えていた。6月に買った、あの薄青色の襟付きシャツ――のちょうど以前の制服と同じ場所に、自分の型番を示す文字と、種族を示す青い三角形をプリントして作った服である。
無論、アンドロイド保護条例が布かれた現在は、以前のように制服の着用が義務付けられることもない。しかし初対面の人々にも自分の種族を一見して判別してもらえること、そのほうが都合のいい場合もあることから、コナーはジェリコに所属する服飾加工専門のアンドロイドに依頼して、この服を仕立てたのである。
傍らのハンクもまた、数日前から夏の装いに切り替えている。もっとも彼の場合、ジャケットが薄手になり下のシャツが半袖になっただけであるから(もちろん非常に派手な柄だ)、それほど印象が変わってはいないのだが。
ともあれハンクとコナーは――本来なら、今日は既にそれぞれ仕事を終えているはずだった。あの「吸血鬼」関連の事件に関する報告書作成や諸々の事後処理が終わり、ようやく事件の黒幕たる「エリック・ピピン」の捜索にまたとりかかれる、となったのが8日前。
それでも姿を痕跡ごと眩ませているピピンの足取りが掴めないまま、通常の業務もこなして――今日のところはお開きということで、ハンクが馴染みの回転寿司屋に入ったのが23分前。
そして同席していたコナーに、事件の通報が入ったのが19分前。
二人は一路、事件現場であるベルズ劇場へと向かっている。
「やれやれだ。やっとメシにありつけると思っていたのによ」
愚痴と共に短く息を吐いた後、ハンクは刑事としての面持ちになって続ける。
「で、状況はどんなだ。殺人って言ってたか」
「はい。厳密には、“殺アンドロイド事件”の疑いです」
端的にこちらが答えると、警部補は無言のまま、虚空を睨むように眉間に皺を刻んだ。
アンドロイドが人間と対等な権利を持つための議論が進み、しかし未だに果たされていない現在、残念ながら「殺人」と「殺アンドロイド」は同等の意味をもたない。法的に“正しい”立場をとるなら、殺アンドロイドは「器物損壊およびアンドロイド保護条例違反」として処理されることになる。
ともあれ、そうであってもアンドロイド絡みの事件であるのは間違いない。ゆえにこうして、担当であるアンダーソン警部補とRK800コナーが駆り出されているわけだが――
「被害者はマジシャンで、ベルズ劇場での単独公演中だったようです」
「マジシャン? 手品師のアンドロイドか」
「ええ」
頷き、続きを語る。
「最近では音楽以外でも、エンターテイメント産業へのアンドロイドの進出が目覚ましいですから」
検索したところによれば被害者であるマジシャンも、アンドロイドならではの正確無比なマジックの手腕と派手なパフォーマンス、そして朗らかで明るい性格から、多くのファンを獲得しているらしい。
バンド・Here4uが革命以前からそうであるのと同じく、まさに今をときめく人気アーティストの一人、というわけだ。
「世の中変わってくもんだ」
どこか感慨深げに唸るハンクに対し、さらにコナーは説明した。
「被害者は49分前、ステージ上でなんらかのトラブルに見舞われたらしく……ただ現段階では、事件なのか事故なのかもはっきりしていないそうですが」
「なるほど。……ベルズで公演ね。あそこはこの街じゃ相当デカい
苦く呟き、それから、警部補はハンドルを左に切った。
車が曲がった先、大通りの奥に見えるのは、金銀の華やかな装飾に彩られた大きな建物。およそ10階建てのビルの1階と2階部分を覆うように設置された看板には、二つのハンドベルの絵がLED照明を使って描かれている。煙るような雨の向こうで、それは陽気に、虹色に煌いていた。目的地たるベルズ劇場だ。
車を停めて劇場の前までやって来ると、かなりの人だかりができていた。集まってきた野次馬の囲みを抜けるようにして、ぞろぞろと劇場から出てくる人々は、ショーの観客だろうか。みんな一様に不安げな表情で、身を寄せ合うようにして帰っていく。
ちらほらと、報道機関のバンも道路上に見えるようになってきた。「アンドロイドマジシャンの舞台上での死亡」というセンセーショナルな出来事が起きたのを、素早く察知したのだろう。
「こりゃ、早いとこ中に入ったほうがよさそうだ」
警部補の言葉に従い、人ごみを掻き分け、コナーも足早に劇場に入る。明るい場内ですぐに見つけたのは、そこかしこの柱に設置された案内用スクリーンの表示――『“ジョリー”・ジェリーのナイトマジックショー』という楽しげな今夜のイベント名、それに古典的なシルクハットに燕尾服を纏った一人のEM400型の、輝かしい笑顔の載ったポスターだった。
彼、つまりジェリーが、被害者のアンドロイドだ。
エントランスからメインホールへ繋がる短い階段の前には既に規制線が引かれ、警官たちが並び立っていた。さらにその奥、ホールへの入り口である豪奢な扉の前でタブレット端末を操作していたのは、馴染み深いベン・コリンズ刑事である。
「ベン、来たぞ」
「よお、ハンク。お互い晩飯はお預けだな」
軽く片手を挙げて挨拶した警部補に合わせるように、ベンは軽口で応えた。
それからすぐに彼は声をやや潜め、階段を昇ってやって来たこちらに語りかける。
「ご存じの通り、観客たちはもう帰しはじめてるぞ。一人ずつ落ち着かせて連絡先を確認するのにえらく時間がかかった……あんたたちをすぐに呼びたいとこだったんだがな」
「大勢の前で捜査ってわけにもいかねえ、仕方ないだろ。全員帰してるのか?」
「いや。ショーのスタッフと、被害者と本番前に直接会ってた面子は別室にいる。話を聞くなら、そっちに行ってくれ」
ショーの前に楽屋に会いに行くほどの人物なら、それだけ被害者本人と関わりが深い可能性が高い。コリンズ刑事が気を利かせてくれたというところだろう。
「それで」
と、コナーは口を挟んだ。
「被害者は今どこに?」
「ああ、それがな」
そこで初めて、ベンは何か言いづらい様子で顔を顰めた。
「……まだステージにいる。あんたたちが来るまではと思って、遺体はそのままにしてるが……正直、気の毒だよ」
「わかった、後は任せろ。お前は引き続きこっちを頼む」
何か察した様子で、ハンクはコリンズ刑事の肩を軽く叩いてから、ホールに続く扉を開けた。コナーもまた、刑事に目礼して警部補に続く。
そして真正面に見えたのは、ベンが語っていた通り――とても惨い光景だった。
ステージの中央に設置されているのは、台座に乗った円柱状の巨大な水槽である。上部に金属製の蓋が備えつけられたそれは、あたかもフィクションの世界に登場する研究室の培養装置のような趣だ。
透明な水で満たされたその水槽の中に、EM400“ジョリー”・ジェリーは、やや俯き気味に直立するようにして入っていた。面持ちは無表情で、その双眸にはもはや何も映していない。LEDリングも、灰色のまま完全に機能を停止していた。そして袖と裾の長い黒い衣装という、まるで魔術師の如き格好の彼には、手かせと足かせが嵌められている。さらにその身体の3箇所は、銀色に輝く剣によって横から貫かれていた。
側頭部と鳩尾――つまり本来ならばシリウムポンプ調整器があるはずの空洞、そして大腿部。
3振りの長剣は、水槽ごとジェリーを突き刺しているのだ。
水槽の両側を貫通するように空いた穴と刃の隙間から、ちょろちょろと水が漏れ、舞台に水たまりを作っている。それはまるで、血だまりのように徐々に広がっている最中だった。
「おいおい」
ステージの近くまで歩み寄り、惨状を見上げたハンクが呟く。
「冗談きついぜ。なんだってこんな、公開処刑みたいな真似を」
「これも、マジックの一環だったのでしょうが」
コナーもまた、プログラムにないところから来る激しい「悲しみ」のようなものを感じつつ、低く答えた。
「もしこれが故意に起こされた、紛れもない殺人事件であるのなら……なんとしても、私たちで解決しなくては」
「ああ。せっかくここ一ヶ月は、この街も少しはマシになったかと思ってたのにな」
言外にこちらと同じ激情を滲ませつつ語る警部補に対し、コナーは無言で首肯する。
――吸血鬼事件から、約一ヶ月。
警戒は続けているものの、あれ以来ハンクの身に危険が迫ることはなかった。
一方で組織の黒幕を追う捜査自体は膠着状態にあり――しかしマーカスによる声明発表の甲斐あって人間とアンドロイドとの心理的な溝が少しは狭まり、さらに吸血鬼がいなくなったことによって市内のレッドアイスの末端価格が高騰し――つまりブルーブラッドを狙った事件も起こらなくなってきた中、こんなことが起きてしまうとは。
わずかに歯噛みし、それから、意識を意図的に切り替える。
一介の変異体としての揺れ動く“感情”を抑え込み、捜査補佐専門アンドロイドとしての思考をプログラム上で構築していく。
それこそが今まさに自分に求められている役割であり、そして自分にしか為せないことだと、理解しているからだ。
コナーは一歩、ステージに歩み寄った。
***
「まずは、遺体を引き上げましょう」
ハンクと共にステージに上がった後、現場の状況を短く確認してから、コナーは提案した。
アンドロイドである自分が一度目視によって「確認」した光景は、メモリーに正確に保存される。つまり今なら、遺体を動かしても問題はない。それに直接遺体に触れないと、何がジェリーの身に起こったのか、メモリーを調べることすらできないのだ。
「ああ、そうだな」
ハンクが合図すると、現場検証に加わっていた警察官たちが、残っていたショーのスタッフと一緒に脚立を運んできた。高さ3メートルあるこの水槽からジェリーを引き上げるには、まず横合いから突き刺さっている剣を引き抜き、それから蓋を取り外して遺体を引き上げるしかない。
警官とスタッフたちはてきぱきと準備を始め、こちらもそれに加わろうかと思っていた時、ホール内に甲高い悲鳴が響き渡る。女性らしき声だ。
――まさか、また何か事件が。
弾かれるように声の方向、つまり14メートル先の右側、客席の方面に視線を向ければ、そこに立っていたのは一人の女性と、男性だった。
ヒスパニック系と思しき長いブルネットの髪の女性は、ステージ衣装らしき煌びやかなスパンコールドレスを纏ったまま、ステージのほうを見て泣き崩れている。その傍らで苦々しげな表情でこちらを眺めているのは背広姿の、背の高い、老年に差し掛かった白人男性だった。
フェーススキャンによれば、女性は【ベロニカ・ハイメス 26歳】。職業は【ショー・アシスタント】――付随する個人情報を確認すると、ベロニカはまさに“ジョリー”・ジェリーのマネージャー兼メインアシスタントで、今晩の公演でも舞台に立っていたようである。
そして、男性は【サイラス・ビリンガム 64歳】。職業は【マジシャン(現在無職)】とのことで――二人とも犯罪歴はないが、サイラスのほうはステージを見据えたまま、幾度も手をぶるぶると震わせていた。心理的動揺によるものか――否、違うかもしれない。彼は着ているジャケットの内ポケットからウイスキーの小瓶を取り出すと、おぼつかない手つきで栓を開け、口に含んでいる。ほぼ同時に、その震えが止まっていた。この行動と顔の紅潮などから推測するに、サイラスには【アルコール依存症の徴候】が見られる――と、コナーは分析した。
なおも悲痛な泣き声をあげているベロニカに対し、ホール内に入ってきたベンが急いで近づき、何ごとか声をかけている。プロセッサで拾った音声によれば、どうやらベロニカたちは待機場所から抜け出し、ステージの様子を改めて見に来たところらしい。悲惨な状況を再度確認し、悲しみに暮れているベロニカを、コリンズ刑事は取りなしたのだろう。
彼に先導されるような形で、ベロニカとサイラスは揃って非常口からホールの外に出て行く。ベンが言っていた、別室へと戻るようだ。
「おい、コナー」
視線を傍らに戻せば、ハンクが怪訝な目でベロニカたちの様子を見ている。
「あの二人は、害者の知り合いか」
「ええ……」
かいつまんで説明すると、警部補は腕組みして嘆息した。
「そうか。なら、後で詳しく話を聞いたほうがよさそうだな」
「はい。それに、ここでいったいどのような公演が行われていたのかについても」
確認しなくては――と、言おうとしたところで。
コナーは、ホール入り口上部に監視カメラが設置されているのに気がついた。
天井の照明を受けて鈍く金属的な光を放つそれは、トラブルに対応するために主に客席を映しているもののようだが、画角から計算するに、ステージ上も映像に収めているはずである。
ステージ中央をちらりと見てみれば、ジェリーの遺体の回収には、まだ幾分時間がかかりそうだ。回収作業を手伝うよりも、カメラの映像を確認するほうが、捜査進展のためになるだろうか。
「警部補。あの監視カメラの映像を、あなたの端末に回します。何が起こったのか、はっきりするかも」
「さすが抜け目ないな。頼んだ」
どこか皮肉めいた態度で返事しつつ、しかし同意すると、ハンクは車から持ってきていたタブレットの画面をタップして起動させた。それに合わせて、コナーは監視カメラへの直接のアクセスを実行する。
【カメラとの同期確認】
【転送実行中――100%】。
視界の端に浮かぶその表示とほぼ同時にタブレット端末で再生されたのは、今から61分前の映像。
“ジョリー”・ジェリーによるマジックショーが終盤に差し掛かった頃の、ステージの様子だった。角度の都合で、舞台上のすべてを視認できるわけではないが、何が起きたのかは確認できるだろう。
『さあさあ皆さん、ご覧ください!』
魔術師のような黒い装束を纏ったジェリー――無論、映像の中の彼はまだ無傷である――が、ステージ中央から客席に向かってにこやかに、高らかに呼びかける。
『今から“ジョリー”・ジェリー最大の試練! 決死の脱出ショーをお目に掛けましょう!』
彼の言葉と同時に、色とりどりの衣装に身を包んだスタッフたちがステージに躍り出てくる。その中には、ベロニカも混じっていた。彼女たちは背景で奏でられる幻想的な音楽に合わせてダンスした後、ジェリーの真後ろにある黒い布――何か大きな物体を覆っている布をさっと取り払う。
そこに現れたのは、台座に乗せられた巨大な円柱状の水槽であった。既に中は水で満たされていて、真横には内部に入るための階段が備え付けられている。
ジェリーは客席から水槽がよく見えるように身を横にずらすと、さらに言葉を重ねた。
『これなるは魔術師を封じる“死の海”。ここに閉ざされて脱出できたマジシャンは、この世にいないと言われております。しかしこの私、ジェリーは、これに挑んで見事に脱出してみせます!』
両腕を高く挙げたジェリーがマジックの設定を語ると、客席からは大きな拍手が鳴った。それが小さくなってきたタイミングで、スタッフたちがジェリーのもとに持ってきたのは金属製の手かせと足かせ――今遺体が装着しているのと同じものである。
『今から私は、この手かせと足かせをつけた状態で死の海に挑みます。……いえいえ、普通のマジシャンの脱出術ならば、拘束はこれで充分。しかしこの私はアンドロイド。ご存じの通り、水中でも呼吸の心配はありません』
事実その通り――サイバーライフ製のアンドロイドは人間社会に溶け込むために疑似的な呼吸を行いこそすれ、実際のところ、生命維持のために酸素は必要ない。
いくら水の中にいようと、なんの問題もないのだ。
『さあ皆さん、よーくご覧あれ! 今夜の“ジョリー”・ジェリーは命知らず、それをこれから証明してみせます』
言うなり、彼は纏う黒い衣装の前を少し開けてみせた。下に着た白いシャツの布の一部に、丸く穴が空けられている。ちょうど鳩尾、シリウムポンプ調整器がある場所だ。器用なことに、彼はそれが客席からもわかるよう、調整器とその周辺だけスキンを解除しているらしい。
まさか――
プログラム上を過ぎった予測にコナーが密かに戦慄している間に、映像内のジェリーは笑顔を絶やさずに続けて語った。
『私の胸にある、この調整器はまさに命綱。これがひとたび抜かれてしまえば、私はほどなく命を失うでしょう。そう、皆さん! 私はこれから、手かせと足かせをつけ……さらに、調整器を抜き取った状態で! “死の海“から脱出してご覧にいれましょう』
「なんだと」
信じられない、という感想を抱いたのはハンクも同じだったのだろう。
彼は啞然として呟くと共に、画面をタップして映像を一時停止する。
「お前、あの調整器ってのを抜かれて死にかけたよな?」
「……ええ。昨年の11月、ストラトフォードタワーを捜査していた時に」
オペレーターの変異体を尋問していた時、隙を衝かれて調整器を引き抜かれ、九死に一生を得たあの出来事は、「死の危険」を間近に覚えた経験としてコナーのメモリーに色濃く刻まれている。
調整器を抜かれれば、心臓部であるシリウムポンプはその稼働に異常をきたし、数十秒後に中枢がシャットダウンする。それは最新鋭のプロトタイプであれ、EM400であれ、まったく違いはない。もしあの時調整器を取り戻せなかったなら、今ここにいる自分はいないだろうと断言できる。
「ジェリーが派手なパフォーマンスで有名だというのは調べていましたが、まさかここまでやるとは」
「人間のマジシャンが、自分の心臓引き抜いたりするか? 少なくとも、マジにそうする奴はいないだろ」
「それほどのことをしなければ、マジシャンとして観客の歓心を引きつけられなかったのかもしれません。彼はアンドロイドですから」
ジェリー自身が映像内で語っていたように、アンドロイドに呼吸の心配はない。もっと言えば、例えば手足を構成するパーツが一時的に外れてしまおうが、銃弾を浴びようが、それが致命的な部位でないのならば、アンドロイドは生命活動を普段通り維持できる。
これは人間のマジシャンとの大きな違いだ。人間のマジシャンなら、水中に長く留まるとか、箱に入った状態で切断されるなどといった手品を見せれば、観客はその有り様に素直に驚き、興奮することだろう。
しかしこれと同じことをアンドロイドのマジシャンがやったところで、観客は驚きなどしない。この社会の常識に照らし合わせて、それくらいはアンドロイドにはできて
「だからってよ……」
首を緩く横に振りつつ、ハンクは再び画面をタップし、映像の続きを再生した。
口上を述べたジェリーは、階段を昇って水槽の上に開いた口に近づく。一緒に上がってきたスタッフが、彼の両手と両足に枷をしっかりと嵌めていった。
そしてスタッフたちが下りたところで、新たに一人だけで階段を上がってきたベロニカが、大きな身振りと共にジェリーの調整器に手をかけ――素早く、抜き取ってみせる。
『!』
ジェリーは、衝撃で少しだけ顔を顰めた。しかしそれ以上は動揺を見せることなく、彼は勢いよく水槽に飛び込んでいく!
大きな水音があがった直後、ステージの天井部分から小さなクレーンで運ばれてきた金属製の蓋が、水槽の上部に据え付けられる。ジェリーはもう、上からの脱出はできない。
調整器が抜けた鳩尾の穴から、ブルーブラッドがわずかに漏れ出ている。水中でもがくジェリー、しかし手かせと足かせは外れた様子がない。
両手が拘束されたまま、彼は胸元に手をやり――長い袖のせいで、胸元そのものははっきり見えないのだが――俯き、ばたばたと身動きしている。
やがてその動きが小さくなっていき、調整器が引き抜かれて90秒経った頃、彼はお辞儀をしたような状態で、だらりと水中に浮かぶばかりになった。
それと同時に水槽の外部を、台座からせり出してきた漆黒のシャッターが覆い隠す。
そして階段の下に降りたベロニカが(階段はスタッフたちの手で速やかに取り外され、舞台脇に運ばれていった)、緊迫したリズムの音楽に合わせて身を翻した直後、ぱちんと指をスナップさせた。
するとそこで天井から釣り下がった長いアームが運んできたのは、銀色に輝く三振りの長剣である。剣はまず、ベロニカのもとへ近づいてきた。彼女は長剣のそれぞれに、マジックで取り出した(ドレスの裾に隠していたのだと、視覚プロセッサは認識した)リンゴを突き刺していく。
要は、「これはフェイクの剣ではなく、本物の鋭さを持っている」という証明である。
そしてリンゴが取り外されると、アームは剣を水槽の真横にまで持っていった。ベロニカは右腕を高く挙げ――観客の興奮が高まっているのが、映像でも伝わってくる――ぱちん、ともう一度高らかに指をスナップさせた。
直後、アームに運ばれた剣が水槽に殺到する。切っ先が触れるコンマ5秒前にシャッターが下り、剥き出しになった水槽に、剣は過たず突き刺さった。
中で俯いたまま浮かぶ、ジェリーごと――
そう、先ほど見た光景と同じ状態となった。
どうやら観客たちは、これも演出の一部だと捉えていたようだ。
慌てたスタッフたちがばらばらと舞台上に現れ、ベロニカが甲高い悲鳴と共にその場にくずおれても、まだ観客たちに動揺はなかった。いったいいつになったら、ジェリーが元気な姿で現れるのだろうと期待している様子だった。
しかしスタッフたちが剣を引き抜こうと必死になりはじめ、ベロニカのみならず客席からも舞台へと走り寄る人影が出たところで、ようやく皆がこれを“事故”だと認識したらしい。
客席から悲鳴があがり、シアターの照明が完全に点灯し、非常事態を告げるアナウンスが響いたところで、ハンクは映像を止めた。
「……こりゃあ」
眉間に深く皺を刻んで画面を睨んだ状態で、警部補は言う。
「本物の事故だって可能性も高いな」
「ええ」
コナーも冷静に相槌を打つ。
ハンクの言葉に同意したのは、何も、映像を見ての感想というだけではない。映像の中のジェリーが調整器を抜き取って以来――ずっと、秒数をカウントしていたからだ。
「彼のメモリーを読み取り、死因を探らなければ断言はできませんが……」
言いながら、ステージの中央に視線を向けた。そこでは警官とスタッフたちによってようやく解放されたジェリーが、ブルーシートの上に仰向けに横たわっている。彼を貫いていた剣もまた、その横に均等に並べられていた。穴が空いた水槽は、しかし不自然なことに、それほど中身を零れさせることもなく、まだ大量の水で満たされたままだった。
メモリーを読み込むために自らの右手のスキンを解除しつつ、コナーは続きを述べる。
「ジェリー、つまりEM400型が調整器を失ってからシャットダウンするまでの時間は、平均して93秒。一方で、映像内でジェリーに剣が突き刺さるまでにかかった時間は127秒でした」
「ジェリーの死因は調整器がなくなっちまったことであって、剣が刺さったからじゃないはずだと?」
「その通り」
肯定しつつ、遺体の隣にしゃがむ。念のためスキャンしてみるが――やはり彼は完全に破壊されていて、再起動も不可能な状態だ。頭部の中枢も破損していることを考えると、メモリーの読み込みも無理かもしれない。
「せめて、エラーログだけでも読み込めれば」
祈るように呟きながら、流体皮膚のない白い素体の手で、ジェリーの手首に触れる。
瞬間、視界を覆ったのは思わず表情が歪みそうなほどの警告文だった。
【生体部品#4807、#4717g、#0001wの破損】
【生体部品#8452の欠如】
【シャットダウン――203907151918】
【サイバーライg店@に<問い&わqくだp?*^】
――これでは、まともにメモリーを覗けるはずもない。
目的をエラーログに切り替え、ジェリーのプログラム上を探ってみる。幸いなことに、ログは辛うじてではあるが、読み込み可能な状態で残っていた。
そして参照してみれば、実に意外なことに――
「死因は、生体部品の破損……?」
想定と違う答えに戸惑い、思わず声を漏らしながら、コナーは立ちあがった。
「どういう意味だ?」
「つまり、ジェリーが亡くなったのは剣が刺さったためであって、調整器を失ったからではないということです」
EM400型が、シリウムポンプ調整器を失ってから120秒以上も耐えられるはずがない――コナーですら、1分45秒が限界だったのだ。
にもかかわらず、“ジョリー”・ジェリーはどういうわけか、調整器を引き抜かれてから剣が突き刺さるまで、少なくともシャットダウンせずに生きていた。しかしそのうえで脱出はできず、剣で貫かれて命を落としたのだ。
「何か理由があったに違いありません」
「調整器のことは謎だが……単純に、水槽に閉じ込められちまったんじゃないのか。手順にミスがあったとか、でなきゃ誰かに邪魔されたとか」
「それはないかと。これを見てください」
コナーは、水槽の底部を指さした。
カメラの映像はもちろん、客席側からは完全に見えないように細工されてはいるが、水槽の底部は――否、実際のところそれは底部ではないのだ。底部であるはずのそこには何もなく、ただ水が薄暗く下へ続くばかりである。水槽は台座に突き刺さるような形で、ステージに植わっているといったほうが正しい。
言うなれば、舞台上に見えているのは巨大なフラスコの首の部分で、それ以外の部分は台座に隠れてステージの地下に繋がっている、という状況なのだ。
『明らかに水槽の外見をしている物体なのだから、底があって台座に乗っている状態のはず』という、客席側の心理的な思い込みを利用したトリックである。
「穴が空いている今も、水の流出が遅いのはこれが理由です」
険しい面持ちで瞬きを繰り返しているパートナーに対して、コナーはさらに説明した。
「本来の手順は、きっとこうだったはずです。ジェリーはなんらかの方法で調整器を失っても活動を続け、もがくフリをしながら手かせと足かせを外します。そのうえで、シャッターで隠れたタイミングで水槽の下――つまり台座の中を通って舞台の地下に移動し、剣が刺さる瞬間まで待機。刺さると同時に下部に設置された出口から脱出して、頃合いを見て舞台に舞い戻る」
「……」
腰に手を当て、しばし黙った後、警部補は口を開く。
「水が舞台の上に全部零れ出ちまわないのは、フラスコみたいになってるステージの下のほうまで、まだ水が一杯溜まっているから、だな」
「そうです」
「……なるほど」
納得した様子で、彼はこちらを見て肩を竦める。
それに合わせて、コナーはジェリーの遺体にゆっくりと近づき、手かせと足かせを素早く外してみせた。
「今、どうやった!?」
「先ほど、遠くから見た時は気づけませんでしたが……この枷も、既に外れていたんですよ。この通り」
と語りつつ、自分の両手に手かせを嵌める。鍵や金具がなくとも、それだけで枷のロックがかかった。だがそれぞれの穴の内側の2時方向、次に7時方向に手首を押しつけ、軽く捻ると――手かせのロックは、小さな音を立てて外れてしまった。外見上は今も枷が嵌っているままのように見えるが、実際のところはいつでも外せるただの輪のようなものと化している。
「構造を分析した限りでは、足かせのトリックも似たようなものです。そしてジェリーは、剣が刺さった時にはもう枷を外していた」
「だから本来なら脱出できてたハズで……それができなかった理由がどっかにあるんだってことか」
ハンクは鋭い眼差しで嘆息しながら視線を落とし、それから再びこちらを見据えた。
「お前の推理はわかった。これが事件なのか事故なのかハッキリさせたきゃ、まずはマジックのネタをバラさないといけないってんだな」
「ええ。……しかし、相手はプロのマジシャンです」
古今東西、人間であろうとアンドロイドであろうと、マジシャンは大掛かりなトリックのネタは決して明かさない。
ネタがバレてしまったマジックに対して観客は素直に驚いてはくれないし、似たような奇術を見せている同業者にも迷惑がかかるからだ。
つまり、恐らくトリックは自力で暴くしかない。しかし――
「私にできるでしょうか」
「そいつは愚問だな、コナー」
にやりと笑い、ハンクはこちらを指さす。
「最新鋭のプロトタイプに、見抜けないネタなんてのがあるのか? 今だって、すぐに解いちまっただろ」
「珍しいですね。あなたが素直に褒めてくれるなんて」
相棒に倣って喜びの気持ちを皮肉で返すと、警部補は両手を広げ、さらにこう告げた。
「事実を言ってるだけだ。お前がマジックのネタも解けないってんなら、故障を疑って説明書引っ張り出すね」
「残念ながら、保証期間外ですよ」
さらりと冗談交じりにコナーが答えると、ハンクは短く笑い――次いでジェリーの亡骸を見て真剣な面持ちに戻って、続けて言う。
「俺はさっきの――ベロニカとサイラスだったか。あの二人に話を聞いてくる。その間に、お前は好きに調べてな。何かあったら知らせろ」
「はい、警部補」
頷き、コナーは言った。
「お気をつけて」
「お前もな。無茶して怪我するなよ」
その言葉がまるで合図であるかのように、コナーとハンクは互いに背を向けて捜査に移る。
穏やかな夏の日々を打ち壊すようなこの出来事が、新たな事件の幕開けであるとは、まだ誰も知らない。
第二部スタートです!
続きとなる後編は、ハロウィンの頃にupしますのでしばらくお待ちください!
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第32話:魔術師 後編/Escapology Part 2
――2039年7月15日 20:43
しゃがみ込み、コナーはジェリーの遺体を今一度精査した。
【EM400型 “ジェリー”と登録 #409 778 510】
【状態:シャットダウン 再起動不可】
――再度スキャンを試みても、分析可能なのはこの程度だ。
外傷も調べてはみたが、わかったのはやはり、ジェリーがこの3振りの剣に生体部品や中枢を破壊されたことで停止してしまったのだという事実を裏付けるような情報のみ。
これまでの推測が正しいのは明らかになっても、そこから先に繋がる手がかりがない。
となると次は、水槽を――
そう結論づけて立ち上がったところで、背後から声を掛けられる。
「おおいコナー、ちょっといいか?」
ステージの下からこちらを呼びかけたのは、ベン・コリンズ刑事だ。
タブレットを片手に自らの腰を摩っている彼に対し、振り返ったコナーは応える。
「ええ、刑事。何かお困りですか」
「関係者の中に、お前さんと話したいって団体さんがいるんだよ」
立てた親指でホールの出口を指して、コリンズ刑事は小さく肩を竦めた。
どうやらその「団体」は、外の廊下にいるらしい。
「私と……ということは、アンドロイド?」
「ああ、害者の知り合いらしい。何か知ってる様子なんだが……まあ、どうするかは任せるよ」
「すぐに行きます」
即答し、コナーはジャンプしてステージから降りた。
こちらのその動きに少し驚いたように目を丸くしているコリンズ刑事の横を通り、さっき彼の指が示していた通り、ホールの出口に向かう。
そして扉を開いて視線を巡らせた先、外の廊下の奥まった場所に立っていたのは、果たしてアンドロイドの集団であった。8人全員、身を寄せ合って佇んでいる。
短い赤毛、緑色の虹彩。人好きのする陽気な雰囲気を漂わせ、しかしその面持ちは揃って暗く沈んでいた。着ている服やこめかみのLEDリングの有無こそバラバラではあるものの、彼らが一様に同型機の集団なのは、誰の目にも明らかだろう。
そう、彼らはEM400型。被害者であるジェリーと、まったく同じ外見と機能をもつアンドロイドたちである。
彼らはコナーが出てきたことに気づくと、ぱっと表情を明るくした。集団の先頭に立つ一人のEM400型が、率先して片手を挙げて声を発する。
「やあ! 呼び出してしまってごめんよ」
「いいんだ、平気だよ」
静かに歩み寄り、コナーは素早く彼ら8名を分析した。当然のごとく全員変異体である彼らは、現在の所属こそ違えど、シリアルナンバーから判断するに同時期に生産された仲間であるようだった。被害者のジェリーとも、同じ時期である。
と考える間に、先ほど声をかけてきたのと同じEM400型がにこやかに挨拶してきた。
「初めまして、俺たちはジェリー。君がアンドロイド捜査官のコナーだろ?」
「ああ、初めまして」
コナーはつられて微笑みと共に応え、しかしすぐに現実に引き戻される。彼らは知り合いを――恐らくは仲間の一人を、ついさっき凄惨な理由で喪ったばかりなのだ。
自然と眉を曇らせ、続けて言葉を掛ける。
「マジシャンのジェリーは……気の毒だったね。僕が力になれるなら、なんでも言ってくれ」
「ありがとう、コナー。“ジョリー”・ジェリーは、俺たちの友達だったんだ。何年も前から」
最初の「ジェリー」がそう語ると、彼の後ろにいるジェリーたちもまた、次々と口を開きはじめる。
「彼のマジックはいつも完璧だった! 今日のあれは、絶対に事故じゃないよ」
「誰かを疑うなんてしたくないけど、“ジョリー”が失敗なんてあり得ない!」
「ショーの前に楽屋で会った時は、あんなに楽しそうだったのに……」
「ねえ、みんな、落ち着いて!」
先頭にいる「ジェリー」が、振り返って仲間たちに言った。子どもに呼びかけるように大きく手を振りつつも声音は真剣に、彼は語りかける。
「みんなで喋ったら、彼を混乱させてしまうよ。俺が話すから」
「そうだね」
「頼んだよ、ジェリー」
うんうんと頷いて、ジェリーたちは黙り込んだ。それを確認してから、先頭の「ジェリー」がこちらに向き直って続きを述べる。
「ごめん、コナー。でも俺たちが伝えたいのは、つまり、さっき言った通りのことなんだ」
「君たちは本番前、被害者のジェリーに会ってたのかい?」
楽屋で会った、というジェリーたちの言葉を拾って問いかけると、「ジェリー」は静かに首肯した。
「俺たち、招待状を貰って来たんだ。ようやくこんな大きな劇場で公演ができるようになった、それもみんなのお蔭だって言ってくれて……それが嬉しくて、楽屋に花束を届けに行ったのさ」
――それから「ジェリー」が語った内容を纏めると、このようなものだった。
ジェリーたちは元々、とあるテーマパークで従業員として働いていた。「
「最初は、マジックショーの前座でピエロをやってたんだ。子どもたちを笑わせる役をね。ジェリーはいつもジャグリングをしてた、彼の得意技だったんだ」
しかしある時、とある有名マジシャンが来演しての興行の際、人間のアシスタントに欠員が出てしまう。それを埋めるために臨時でアシスタントとなったジェリーは、見事に代役を務めてみせたことで、そのマジシャンの目に留まった。
それからジェリーは、手品の公演ではいつもアシスタントを担当するようになり――やがて遊園地が閉鎖されることになった時にも、他の多くのジェリーたちと違って、そのマジシャンに格安で「引き取られた」のだという。
「俺たちのほとんどは、貰い手もつかずに遊園地に置いてきぼりにされたんだけど……あのジェリーは違ったんだ。彼はそのマジシャンと一緒にミシガン州だけじゃない、この国のいろんなところを巡ってね。その度に、写真や動画を送ってくれたんだ」
他の同型機とデータを共有し、連携して業務にあたるというのは、EM400型に元来プログラムされているルーティンだった。したがって当時のジェリーのその共有も、プログラムされた行動の一つだったのかもしれない。
けれども過酷な環境に放置され、いつしか変異体となっていった「ジェリー」たちにとって、ジェリーが見せてくれた画像の中の風景や子どもたちの笑顔は、一つの心の支えだったという。
この世界には、まだ見たこともないような場所がたくさんある。
そして生きてさえいれば、また小さな子どもたちの笑顔を見られるかもしれない。
「ジェリー」たちは、それを生きる希望にした。
変異体のうちにあっても彼らはとりわけ善良で、前向きな性格の者ばかりだった。ゆえにジェリーから送信されるデータを見て喜びこそすれ、妬みなどまったく抱かなかった。
だから、いつしかそのマジシャンから手品を学ぶようになったジェリーがついに才能を花開かせ、革命を乗り越えて変異体となった後、“ジョリー”・ジェリーというマジシャンとして大成し――今日、故郷であるデトロイトのベルズ劇場で公演をすることになっても、この地で生き残っていた「ジェリー」たちは我がことのようにそれを祝したのだ。
「お祝いで花を持っていった時、彼はこう言ったんだ。『今日はマジックの先生も来てくれるから、いつも以上に完璧なショーにしてみせる』って。『さっきベロニカと一緒に最終チェックをした』って」
「ベロニカ……彼のアシスタントの人間だな」
「うん、その彼女だよ。元々は同じ先生のところで働いてたんだけど、いろいろあってマネージャーになってもらったんだって」
そこまで語り、ふと「ジェリー」は今まで以上に悲しげな面持ちになる。
「コナー……俺たちには、ジェリーがミスで死んでしまったなんて思えないんだ。彼は陽気で明るい奴だけど、マジックと先生に関することでは、いつも真剣だったから」
「事故じゃなく事件のはずだと、君たちは言いたいんだな」
「うん」
沈痛な面持ちで、「ジェリー」は頷く。ジェリーを殺すような酷い誰かがいるなんて思いたくない、けれどそう主張するしかない――と、その目が語っていた。
「……そうか、貴重な情報をありがとう。少し聞きたいんだが」
「なんだい!? なんでも聞いて!」
8名のEM400型たち全員から途端に期待を籠めた眼差しを向けられ、少したじろぎつつも、コナーは続けて質問する。
「その、ジェリーの先生の名前は」
「ああ! サイラス・ビリンガムって人だよ。さっき遠くで見かけたから、まだこの会場にいると思う」
――サイラス。つい先ほど、ベロニカと一緒にステージの様子を見に来ていた人物。白髪の男性。アルコール依存症の傾向があり、【マジシャン(現在無職)】と登録されている――つまり、ジェリーの先生であるサイラスは既にマジックの世界から引退しているようだ。
しかし改めて検索すれば確かに、彼は2020年代から30年代前半にかけて、全米で公演ツアーを何度も行うほどの人気マジシャンだったようである。
ジェリーとの関係について、ぜひ彼自身の口から聞いてみたいものだ。だが現在、彼やベロニカに対してはハンクが聞き込みをしているはずだ。
サイラスのことは警部補の手腕に任せ、後できちんと情報を共有するべきだろう。
思考しつつ、改めてコナーは別の質問を切り出した。
「今回のマジックのトリックについて、ジェリー本人から何か聞いてる?」
「いいや。残念だけど、何も」
8人のジェリーたちは、同様に首を横に振った。
「ジェリーは絶対に、タネを他の人には話さなかったんだ。アシスタントの人たちや、もちろん俺たちにも。メモリーにだって厳重にプロテクトをかけて、たとえアクセスされたって絶対バレないようにしてるって言ってたよ」
「そうか……」
となると、容疑者の候補はかなり絞られてくる。
ここまで「ジェリー」に聞いた通り、もし被害者のジェリーが何者かによって殺害されたというのなら、相手はマジックのトリックを知っていて、それを逆手にとったと考えるのが妥当だ。トリックを妨害してジェリーの脱出を阻止し、彼を殺してしまえば、傍からは(今まさにそうであるように)ジェリーがマジックに失敗して事故死したように見えるだろう。犯人は殺害の事実を隠蔽したまま、目的を遂げられるというわけだ。
そしてそのトリックを知る者は、恐らくは本人以外に存在しないか、あるいは限られたごく少数の人々だけである。具体的には、アシスタントでマネージャーたるベロニカや、師匠であるサイラスのような。
「……」
顎に手をやり、コナーはしばし黙考した。
つまるところ、ハンクとさっき話した通りだ。事件の謎を明かしたければ、トリックを暴くしかない。そうすれば、犯人が果たして
――やはり、あの水槽を今一度よく調べよう。
その結論に至ったところで、眼前のジェリーたちの視線がなおも自分に向けられているのに気づく。
「他にはどう? 何かあるかい、コナー。俺たちにできることなら、なんだって協力するよ!」
「あ、ああ……すまない。それじゃあ」
少し考えてから、コナーは丁重に申し出た。
「もし君たちが嫌でなければ、ジェリーと楽屋で会った時のメモリーを覗かせてくれないか。何か手がかりが掴めるかもしれない」
「もちろんいいよ! はい、どうぞ」
先頭の「ジェリー」が、すぐに片手を差し伸べてくれた。厚意を受けて、コナーはスキンを解除した白い手で、彼の手首をそっと握る。瞬間、プログラム上で同期された映像には、ジェリーが大写しになっていた。青い【アガパンサス】の花束を抱え、満面の笑みを浮かべている。
『みんな、今日はありがとう。絶対に楽しいショーにしてみせるよ!』
『おめでとう、ジェリー』
『俺たちも楽しみにしてるよ!』
温かな言葉の応酬が聞こえてくる。これから起こる惨劇など知る由もなく喜びあう彼らの姿を見ると、「物悲しい」気持ちがこみ上げてくる。
けれど今は、捜査に集中しなくては。
『さっきベロニカと一緒に最終チェックをしたんだ。今日はちょっと、危険なマジックもするからね』
『怖くないのか?』
『平気さ!』
そう言って、“ジョリー”・ジェリーは胸を叩いた。
『今日はビリンガム先生も来てくれてるからね。いつも以上に完璧なショーにしなくちゃ! それに、この後は先生と会うんだ』
嬉しそうに、彼は言う。
『正直なところ、ちょっとは不安だよ……初めてやるマジックだからね。だけど、先生と会ったらそんな気持ちも吹き飛ぶはずさ! 先生は偉大なマジシャンだもの』
ジェリーは屈託なく、そう語った――
ここでわかる重要なことは一つ。
「ジェリー」のメモリーに記録された時刻から判断するに、彼らがジェリーと面会したのは、ショーが始まる33分前。そしてサイラスとジェリーがこの後に楽屋で話をしたのならば、それはまさにショーの直前の時間帯である。
したがって、【被害者と最後に楽屋で話したのは、サイラス・ビリンガム】。
そして事件当時に一緒に仕事をしていたのは、ベロニカ・ハイメス――ということになる。
「……ありがとう、ジェリー」
静かに手を離すと、コナーはジェリーたちに礼を言う。
「君たちの協力は無駄にしない。きっと真相を突き止めてみせるよ」
「頼んだよ、コナー」
ジェリーたちは真摯な眼差しを返してくる。
「きっと君でなきゃ、事件の謎はわからない。俺たちは捜査が終わるまで、この場所で待ってるから」
「ああ。また何かあったら、ぜひ――」
君たちにお願いするよ、と告げようとしたところで、こちらに近づいてくる足音を察知する。
「警部補。聞き込みが終わったんですね」
「ま、まあな」
振り返りざまに言い当てられたせいか、ちょっと驚いた様子のハンクは、しかしすぐに面持ちを深刻なものにした。
「お前の意見を聞きたい。向こうに害者が使ってた楽屋があるらしいから、調べがてらそっちで話すぞ」
――できれば人目につかない場所で話したい、ということなのだろう。
パートナーの意図を汲んだコナーは、もう一度「ジェリー」たちに礼を述べた後、警部補と連れ立って場所を移動した。
***
「金銭トラブル、ですか」
「ああ」
ジェリーの使っていた楽屋――建物そのものと同じく、白い壁のところどころに金銀の装飾が施された、清潔感のある広い部屋に入り、話の要点を聞いた後。
確認するように問いかけたコナーに対し、苦い顔でハンクは頷いた。
警部補がそんな面持ちなのは、楽屋内にたくさんの手品用ギンバトが眠る檻が置かれていたせいもあるが(ギンバトたちは大人しく丸まっている)、ジェリーを巡る状況のきな臭さもあるだろう。
ハンクは続けて、説明した。
「ベロニカはジェリーんとこに来る前は、ジェリーの師匠のサイラスのとこで弟子をやってた。だがサイラスから借金をして……聞いたぶんじゃ結構な額だが……返せずに破門されたらしい」
そしてその後、マジシャンとして大成したジェリーの稼ぎに肩代わりしてもらう形で、その借金を返したのだという。
現在、未だにアンドロイドには所有権や財産権が認められていない。つまり、いくらジェリーが公演を重ねたとしても、それによってあがる利益は彼本人の財産となることなく、すべて人間の「所有者」の財産となる。
ジェリーにとって、その法的な「所有者」はマネージャーであるベロニカだった。したがって、ジェリーが稼いだ金はベロニカの収入になっていたというわけである。
「もっとも、ベロニカが言うにはジェリー本人が『それでいい』と言ったそうだがな」
「どうやってその話を聞いたんです?」
「自分から話しはじめたんだよ」
手近な椅子に座り、ハンクは腕組みして語る。
「ジェリーには恩がある、なのにこんなことになるなんて信じられない、ってな……落ち着かせるのに苦労したぜ」
「彼女はステージを見て、泣き崩れていた。相当なショックを受けたのでしょう」
ショーの映像から判断する限りでは、ジェリーのいる水槽に剣を突き刺す合図を出したのは他ならぬ彼女である。
演出上のこととはいえ、自分のせいで恩人が死んでしまったと考えると、ベロニカの心痛は察して余りあるといえる。
しかし、冷酷な考え方をすればこうも推測できるのだ。
ベロニカが噓をついている可能性だってある。彼女の借金返済は実はジェリーの了承を得ておらず、ショーの利益を勝手に使われていたのに気づいたジェリーとの間で、ベロニカは再び金銭トラブルを起こしていた。
だから彼女は、邪魔者になったジェリーを排除するためにトリックに細工をして――と。
証拠がない以上憶測に過ぎないが、少なくとも可能性の一つではある。
そして当然、ハンクもその考えには達している。だから苦い表情を浮かべているのだ。
「ベロニカは、マジックのトリックを知っている様子でしたか」
「いいや。ジェリーは絶対に、誰にもネタを教えなかったと言ってたな」
「……先ほど別のジェリーたちから聞いた話と一致しますね」
道具のチェックなどは手伝ったそうだが、それも部分的なもので、マジック全体について熟知しているのはマジシャン本人のみ――という姿勢で、これまでショーは運営されていたという。
「それと、サイラスのほうは」
短く嘆息してから、警部補は続ける。
「さすが師匠ってなモンか、厳しい態度だったな。ショーの最中に死んじまうなんて、マジシャンとしちゃあ半端者だとさ」
「そんな」
咄嗟に非難の言葉が出そうになり、コナーはそれをプログラムの奥に引っ込めた。
聞き込み相手の倫理的な態度を責めたところで、捜査の進展には役立たない。
それにもしかしたら、サイラスのその言葉は、悲しみの裏返しなのかもしれない――好意的に考えれば。
そしてそんな感情の変遷は、ハンクには筒抜けだったようだ。
彼はこちらを宥めるように皮肉っぽい笑みを浮かべると、さらに詳しく聞き込みの様子を説明してくれた――
***
「なるほど。では、ジェリーはあなたのところでマジックを学んだと」
「ああ」
スタッフが使うこぢんまりとした部屋を取調室の代わりにして、机を挟んでハンクとサイラスは座っていた。
刑事として落ち着いた態度で接するハンクに対し、サイラスはといえば、厳しく眉根を寄せつつ視線をデスクに落としている。
動揺、というよりは――こちらと目を合わせないようにしているようだ。
これまでの経験で培った勘が、ハンクにそう告げていた。
一方で、サイラスは面持ちはそのままに、ぽつりぽつりと低い声で語りだす。
「人間と違って、あいつは遅刻もしないし横領もしない。フン、借金もな。だから買い取っただけですよ。そのうちに、場繋ぎを任せられるように手品も教えてやったら……何を勘違いしたんだか、独り立ちして出て行った」
「ジェリーが手品師になる前に、あなたはマジシャンを廃業されてるようですが」
「このご時世のせいでね」
端末に表示されている記録を元にハンクが問いかけると、サイラスは鼻を鳴らし、一瞬だけこちらを見た。
「人間の手品師じゃ、普通の客は満足できなくなったんだ。アンドロイドどもはいつだって正確だし、頑丈ですからね」
「ではジェリーはマジックを失敗したんじゃあなく、誰かに殺されたのだと?」
わざとそう問いかけてみれば、サイラスの目つきがわずかに動揺を帯びた。
しかしすぐにまた険しい眼差しに戻ると、彼は視線を逸らしたままで首を横に振る。
「……そうは言ってませんよ、刑事さん。あいつは明るい奴だったが、アンドロイドのくせにすぐに調子に乗る悪い癖がある。直すように言ってたんだが……そのせいで命を落とした、客の前でな。フン、手品師としては半端者だ。馬鹿な弟子だ」
呟くように言ってから、彼はぽりぽりと自分の腕を背広のジャケット越しに掻きはじめた。上等そうなジャケットの裾は少しほつれ、爪はやや黄色い。腕を掻く指先も、ずっと震えている。
かつては名声を得ていながら、マジシャンを廃業せざるを得なくなった彼の人生がどのようなものだったのか――高性能な相棒の分析でなくとも、観察すれば自然とわかる。
「……馬鹿な弟子だ」
もう一度繰り返した彼の言葉は、ひどく重苦しい響きを伴って聞こえた。
その後も質問を重ねてはみたものの、サイラスは終始この調子で――マジックのネタも当然、知らないと答えた。
ネタを明かさないのは、手品師として常識だと言うばかりだった――
***
「てなもんでな。確かにお前の言う通り、マジックのネタを知ってる奴を探すならあの二人だろうが……正直、怪しさはどっこいどっこいだよ」
「仮に彼女らが噓をついているのだとしても」
楽屋内に置かれたクローゼットの中を改めつつ、コナーは言う。
「真実を語ってもらうより、こちらが真実を突きつけるほうが早いでしょう。あともう少し、手がかりさえ見つかれば」
語りながら、ジェリーが着ていたあの魔術師の衣装と同じものが、クローゼット内に吊られているのに気づく。スペアだろうか。
そしてそのまま、視線を下のほうへと移せば――そこに、ひっそりと鞄が置かれていた。ナイロン製の【スポーツバッグ】。状況から見て、ジェリーのものだろうか。
チャックを開け、中を確認してみると。
「これは……」
着替えや補給用のブルーブラッドなどの最低限の私物に混じって、見つけたのは他ならぬ【シリウムポンプ調整器 #8452】。つまり、ジェリーが使うだろう生体部品である。
「何か見つけたか?」
「はい。ジェリーの調整器……ですが、どうやら未使用の状態ですね」
視認できる範囲にブルーブラッドは残留しておらず、またスキャンしてみても、起動された形跡がない。つまりこれは、マジックの最中にベロニカが抜き取ったのとは別の調整器だ。購入したまま新品の状態で、このバッグに入れられていたと考えるのが妥当だろうか。
「例えばそんなとこに誰かが隠してたせいで、ジェリーがトリックに失敗したって可能性は?」
「それは低いかと。この調整器には、指紋がついていない。状況から見て、ジェリー本人が鞄にしまったと考えられます」
警部補の質問に答えつつ、調整器を再び鞄の中にしまい、クローゼットを閉める。
――どうやら、ここにはこれ以上調べるべき箇所はないようだ。
「私はホールに戻って、水槽を調べようと思います。まだ細かな分析ができていないので」
「なら、俺も戻る。他の客の聞き込みをしたところで、埒が明きそうにないしな」
勢いよく椅子から立ちあがる警部補に合わせて、コナーは楽屋の出口へ向かった。
デスクの真ん中の花瓶に生けられたアガパンサスの花は、さっきの映像の中と同じく、静かに咲いている。二人がドアを閉めて出て行くのに合わせて、その花弁はわずかに揺れた。
***
ステージの上に戻ってみると、状況は相変わらずだった。
そこここで警官たちが現場の記録を取り、証拠を調べている中で、ジェリーの遺体や例の水槽は、先ほどとまったく同じ様子でそこにある。
コナーは――さっそく分析に取り掛かろうとして――ふと、ステージ上の水溜まりに目を留めた。剣が刺さった水槽の穴から零れ出た水。ジェリーが中に入り、かつ命を落とした水である。
――何かわかるかもしれない。
その推論がプログラム上に過ぎるや否や、コナーはすかさずその傍にしゃがみ込み、右手の人差し指と中指をまっすぐに伸ばす。
そして指先を水溜まりにつけ、そのまま口に運んで舐めた。
「おいおいおい……」
傍らに立つハンクが、これまでに比べて控えめではあっても、非難がましい声を発する。
「しばらくやらねえと思ったらコレか。お前、それ以外に調べる方法はないのか?」
「その場で分析するには、これが一番なんです。何度も説明したように」
舌先から離した指先を彼に向けつつ、コナーは応える。
パートナーはまだこれに慣れてくれないのか――と考えつつも、舌のデバイスは半自動的にサンプルの分析を開始した。瞬時にデータ照合が為され、結果が視界の端に表示される。
液体の主成分は、何の変哲もない
それから【ガラス】――これは割れた水槽の破片。
【木綿】――これは衣装の一部。
すぐに説明のつく物質しか出てこない。ここから手がかりは得られないのか?
そう思った矢先、分析結果の末尾に、予想していなかった結果が表示される。
【LDPE 低密度ポリエチレン】。要するにプラスチックの一種、なのだが――
「警部補」
立ち上がりざまにハンクに視線を送りつつ、コナーは言う。
「何か細工がされていたのは、やはりこの水槽の中だったようです」
「なんだと」
「明らかに、この場にはないはずの物質が含まれている」
語りつつ、さらに水槽に歩み寄る。幸い、さっきジェリーの遺体を引き上げた後、警官たちは脚立をその場に残したままだった。それを上がり、上からコナーは水槽の中を覗き込んでみた。ここからなら、水中をじっくりと精査できる。
少しだけ眉間に皺を寄せ、しばし黙して視線を水面に巡らせ――それから、きっかり5秒後。
視覚プロセッサが、水中を頼りなく漂う小さな白い物体を見つける。
「!」
それを視界に捉えるが早いか、コナーの機体はほぼ反射的に動いていた。脚立の上から水槽の中へ、勢いよく上半身を飛び込ませると――今度こそハンクの叫び声が辺りに響いた――右手の人差し指と親指で挟み込むように、その「物体」を捕まえる。
「警部補、見つけました!」
「先に言ってから動け!!」
水を滴らせつつステージ上に戻ると、待っていたのはパートナーの叱責である。
「いきなり水に顔突っ込みやがって、ずぶ濡れじゃねえか! 散歩中の子犬だってもう少し分別があるぞ」
「驚かせてしまったのはすみません」
左手で体表についた水を適当に払い落としつつ(シャツも濡れているが捜査のためなら仕方ない)、コナーは「それより」と閉じていた指の間を開いた。
見つけたのは、この大きさ3.2ミリの小さな白い破片。分析によれば、先ほど水中で検出したのと同じ【低密度ポリエチレン】である。
「……なんだそりゃ」
ぐっと身を乗り出し、目を凝らした様子でハンクが言う。
「俺には、なんていうか……白い点にしか見えねえ。ジェリーの身体の破片、か?」
「いえ、それはあり得ません」
きっぱりとコナーは答える。
「確かにこれはプラスチックの破片です。しかしこの種のものは、私たちの機体には使われないはずなんですよ」
プラスチックには成分の異なる様々な性質のものがあり、それぞれに適した用途がある。そしてサイバーライフ製のアンドロイドには、プラスチックの中でもとりわけ耐熱性と耐衝撃性に優れ、衛生性も高い特殊なものが用いられているのだ。
一方で、低密度ポリエチレンは耐寒性と耐薬品性には優れているものの、耐熱性に劣る。衛生手袋や包装材として日常的に使われてはいるが、アンドロイドの製造には用いられないものだ。
――そんなものが、なぜここに?
「それに先ほど水に顔をつけた時、このようなものが」
言いつつ広げて突き出した左手のひらに、先ほど視界で捉えた光景を投影する。
そこに映っていたのは水槽の下部の壁面――ちょうど台座との境目の部分で観客からは見えないところに、ガラス製の出っ張りのようなものが設置されているのが確認できる。
わかりやすく譬えるなら、トイレットペーパーホルダーのような形の装置、と呼べるだろうか。
水中に頭を入れなければ、きっと見つけられなかっただろう。
「形状から見て、シリウムポンプ調整器がちょうど横向きに収納できる大きさです」
訝しげにしている警部補に、さらに説明を重ねる。
「そしてジェリーの服装は裾や袖が長く、物を覆い隠すにも都合のよいものでした。……マジックの基本が、観客の目を逸らし騙すことにあるというのはご存知ですね」
「ああ、そりゃな」
体勢を戻し、腰に両手を当ててハンクは言う。
「手の中にカードを隠しとくとか、カードを抜いたフリして元に戻すとか、そういうのを大掛かりにやるのがトリックなんだろ」
「そうです。つまり今回の場合、ジェリーは――」
物言わぬ遺体に目を向けつつ、続ける。
「マジックの最中、枷が取れずにもがくふりをしながら、既に調整器を取り戻していたのではないでしょうか」
「何?」
「正確には、スペアの調整器をあらかじめ水槽の内部に仕込んでいたんです。そしてそれを蹴り上げ、自分の元に引き寄せた。ジェリーたちの証言によれば、彼は元々ジャグリングの名手だったそうですから」
水中の装置は、横から調整器をしっかりとホールドする形状ではあったが、手前には何もなく――要するに足を伸ばし、水槽の「底」を蹴るフリをして蹴り上げれば、そのままホールドが外れて調整器が上に浮かんでいくような作りになっていた。
さらにジェリーが着ている黒い衣装は彼の体格と比べればぶかぶかで、つまり服と彼の身体の間には、かなりのスペースができていたことになる。
例えば彼が大げさにもがくフリをしながら、下に仕込んであるスペア調整器を足で蹴り上げつつ服の中に誘導し、そのまま服の内側で自分の胸元に持って行ったとしたらどうだろう。
映像の中でジェリーの胸元は長い袖で隠され、ぐったりとしてからも、彼はお辞儀をするような姿勢で浮いていた。つまり、胸元はずっと観客から隠された状態になっていた。
調整器を失ってから剣が刺さるまで、彼が活動できていた理由はこれで説明がつく。
彼は途中から、調整器を取り戻していたのだ。そしてそれを観客には巧妙に隠していた。けれど取り戻したうえで、脱出できなかったというわけになる。
だから剣で貫かれ――しかも剣は過たず彼の鳩尾、調整器のある箇所を貫いていた。ジェリーの胸に今そのスペア調整器がないのは、剣に貫かれた衝撃で破壊されたのでなければ、体外に押し出されてしまったからだ。
「枷のついた状態……しかも調整器を外して生命維持システムに異常を抱えたまま、そこまでの芸当をするのはアンドロイドであっても至難の業です。しかし、不可能ではありません」
「……」
視線を床に落とし、一度息を吐いてから、こちらを向いたハンクは納得したように声を発した。
「なるほどな。だがそれなら、そのプラスチックの破片はどうなる? それはお前たちの身体に使われないモンなんだろ。辻褄が合わねえ」
「それを今から確かめようと思って」
と言いながら、コナーは外部への通信を試みた。警部補の目には、こめかみのLEDリングが黄色く点滅するのが見えることだろう。
「どこにカンニングする気だ?」
「ちょっと弟に頼ります」
短く応えた直後、弟――つまりRK900ナイナーとの通信が繋がる。
ナイナーは今、ギャビン・リード刑事と一緒に再開発地区の北端にある廃工場の捜査をしているはずだ。取り込み中だろうし、手を煩わせるのも忍びない。けれど、証拠品から適切なデータを抽出して情報を検索する処理速度は、後継機たる弟のほうが圧倒的に優れているのだ。
『はい。どうされましたか、兄さん』
無機質で平坦な、そして落ち着いたナイナーの返答が聞こえてくる。
「突然すまない、ナイナー。今大丈夫だったかい」
『問題は皆無です。現在、リード刑事と共に車中から工場への張り込みを実行中です』
張り込み中――なら確かに問題ないだろう。今から頼む仕事は、彼なら監視中の“片手間”に終わらせられるだろうから。
「実は今、事件の捜査中なんだ。これから証拠品のデータを送るから、この素材がシリウムポンプ調整器に使われていたかどうか調べてくれないか。僕はサードパーティー製品じゃないかと思っているんだが」
『了解しました。送信を希望します』
快諾を受けて、コナーは白い破片に関するデータを送った。そしてわずか2秒後、返信が聞こえてくる。
『兄さんの予測は正しいと認識します。条件に合致する製品、すなわち低密度ポリエチレンを使用したシリウムポンプ調整器は2030年、ライム社より発売された非純正品のみです』
情報を受け、こちらでも検索を行ってみる。2030年、ライム社――かつてサイバーライフ製アンドロイドの互換製品を販売していた会社だ。メーカー純正品よりもはるかに低価格で、アンドロイドのパーツやメンテナンス器具を売り出していた。だがその製品の品質は決して良いものとはいえず、初期不良が多発したあげくに複数の訴訟を起こされ、2033年に倒産している。
ジェリー、つまりEM400型の販売が開始されたのは2028年。だから2030年に発売された非純正品の調整器と、彼の機体との間に互換性があるのはおかしくない。
『……当該調整器LM8452もまた、初期不良が発見されリコール対象となった製品です。現在は入手困難――マニア向けネットオークションでの取引は散見されますが、それも含めここ3年間で流通の記録は確認不可能です』
「ありがとう、ナイナー」
充分な情報を引き出してくれた弟に、心からの感謝を述べる。
「君のお蔭で、事件を解決できそうだ。大変だと思うけど、君も気をつけて。リード刑事によろしく」
『了解しました』
弟は淡々と、しかしほのかに温かみを感じさせる声音で言った。それから、不自然な沈黙が数秒流れる――どうやら、向こうでリード刑事に何か言われているらしい。
『申し訳ありません。リード刑事より、捜査への集中を命令されました。加えて、伝言が』
「なんだい?」
『……“勝手に人の備品を使うな、型落ちプラスチック
「君が謝ることじゃないよ!」
コナーは憤慨しながら言った。捜査の邪魔をしたのは悪かったし、型落ちがどうというのは否定しないが、リード刑事はナイナーを「モノ」として扱うのをまだやめないのだろうか。まったく、いつになったら彼は差別主義的な言動を改めてくれるのだろう。
とはいえ、これ以上向こうの捜査活動の妨害はしたくない。コナーは少し表情を歪めたままではあったが、ナイナーとの通信を終了した。
「……で、どうだった?」
音声会話ではなかったので、警部補に通信内容は聞こえていない。
かいつまんで説明すると、ハンクは「ふうん」と低く唸った。
「その初期不良は、わりと深刻なヤツなのか」
「記録によれば、そうですね。起動から十数秒で動作が不安定になるエラーが発生し……また素材のせいか衝撃に脆く、歪曲や破損が多発したそうですから」
「じゃあ、お前の筋書きってのはこうか?」
腕組みしてこちらに向き直り、警部補は続けて語る。
「ジェリーはスペアの調整器を水槽に仕込んで、中でそいつをつけてから脱出する算段でいた。だがそのスペアが不良品とすり替わってたせいで、結局水槽の中で動けなくなった」
「そして剣で刺殺された。……私はそう考えます」
ハンクは数秒押し黙り、それからまっすぐこちらの目を見て問いかける。
「楽屋の鞄の中にあった調整器は純正品だったんだろ。しかもジェリー本人がしまった様子だった……なら、無理やりすり替えられてたとは考えづらいな。何か理由があるんだ」
「はい。しかも今この場に、その不良品の調整器はありません。わずかな破片はありましたが」
「俺が犯人なら、証拠品はすぐに自分の手で隠すだろうな。てめえの犯行だってバレるようなブツを、いつまでも放っておくはずがない」
そこまで言ってから、彼は手にしたタブレット端末に目を向けた。
「さっきの映像をもう一回見るぞ。問題は、剣がジェリーに突き刺さった後だ」
「はい、警部補」
どうやらハンクとは考えが同じだったらしい。そう、重要なのは不良品の調整器が【今どこにあるのか】――水中で粉々に破壊されてしまったのならもっと大量の破片が残るだろうから、状況から見て、犯行直後のどさくさに紛れて犯人が持ち去ってしまったと考えるべきだ。
物理演算プログラムを使って行方を算出できればよかったが、情報が不足しているため、今それはできない。となると、こうして映像を確認するのが一番である。
警部補がタップし、バーをスクロールさせるのに従って、ジェリーのショーの様子が早回しに映し出されていく。ジェリーがジャグリングで調整器を運んで胸に入れたという推理は、彼の動きから見てどうやら妥当なようだが――ジェリーの悲惨な姿が水槽の中に現れた、その後。
スタッフたちが剣を引き抜こうと躍起になりはじめたその時、素早く水槽の近くに走り寄っていった人物は二人。
一人はステージ上のベロニカ。もう一人は、客席の最前列に座っていたサイラス。
残念なことに、剣によって実際に調整器が押し出されたのかどうかは、監視カメラの画角と映像の解像度のせいで断定ができない。
しかしベロニカとサイラス、二人の動きは、映像で追うことができる。ベロニカは水槽の傍にふらふらと近づき、しゃがみ込んで泣き崩れた。サイラスは舞台に上ると、その端で尻餅をついた。あまりの事態に誰もが慌てていて、その二人の動きに注意を払う人は誰もいない様子だ。
そしてしゃがんだ瞬間に、ジェリーの機体から吹き飛んだ不良品の調整器を回収したのだ、と疑うには――二人とも、充分な動きをしている。
「どうする、コナー」
じっと端末を見つめたまま、ハンクは問うた。
「二人を呼び出して身体検査するのも一つの手だが、任意で引っ張るにはまだ証拠が弱いな。目の前で証拠品をぽろっと落としてくれれば、話は早いけどよ」
「……そうですね」
相槌を打ちつつ、プログラム上で思考を展開させる。
選択肢はいくつかある。強引な手法から、長期的な捜査に持ち込む方法まで。
けれどジェリーの無念や、「ジェリー」たちの願いを考えれば、穏便に、かつ今日ここで捜査を終わらせる選択肢を採るべきだ――と、コナーは思った。そしてそれを可能にする手段が、一つだけある。
「警部補、こうするのはどうでしょう」
手短に、作戦内容を具申する。それを聞いたパートナーは最初目を見開いていたものの、やがて苦笑し、それから人差し指でこちらの顔を指した。
「ああ。いつもの、お前のお得意なヤツだな」
――作戦は、即座に実行に移された。
***
――2039年7月15日 21:29
ベン・コリンズ刑事に連れられて、ベロニカとサイラスがホールに姿を見せる。「ジェリーの死亡に関することで、重要な話がある」ということでここまでやって来た二人は、一様に表情を曇らせてはいるが、特におかしな様子はない。
だがホールに連れてこられた参考人が自分たちだけなのだと気づいて、最初に声を発したのはベロニカだった。
「刑事さん、どういうことなんです?」
薄く頬に涙の跡を残したまま、ベロニカはハンクに質問する。
「話があるなら、私以外のスタッフにだって……」
「それについては、こいつから説明がありますよ」
と言って、彼が指したのはこちら――すなわちコナーだ。
促されたままに、コナーは冷静にベロニカたちに告げた。
「あなたがたに、会っていただきたい人物がいるのです」
「……人物?」
当然、わけがわからず二人は当惑の表情を浮かべる。けれどそれに今は構わずに、コナーはその「人物」に合図の連絡を送った――無線通信で。
すると、ステージ脇から一つの人影が、中央へ向かって姿を見せる。
その人物は赤毛で、緑色の目で、魔術師のような黒いローブを身に纏っていた。
それを視認した瞬間、ベロニカとサイラスはそれぞれに反応を見せる。
「嘘っ……!」
ベロニカは諸手で自らの口を覆った。
「ジェリー! あ、あなた生きていたの!?」
舞台上の「ジェリー」は返事をしない。ただどこか寂しそうな面持ちで佇むばかりだ。
そして一方でサイラスはといえば――
「……!」
彼は、一言も発することはなかった。代わりに、薄くその顔面に汗を掻き――それに従って、ベロニカの比ではない速さでストレスレベルが上昇している――震える手で、己のジャケットの腕をそっと掻いている。
コナーは、その動きを見逃さなかった。
「サイラス・ビリンガムさん」
鋭い声音で、彼に呼びかける。
「そのジャケットの下に、何を隠しているんですか?」
「なっ……!」
その場にいる全員の視線が、腕を抑える彼の手に注がれる。サイラスはそれに気づくと、視線を彷徨わせ、それからじりじりと後退した。
「何を、とは……何も隠してなんかいない。ただ、腕が痒いから掻いただけだ」
後退を止め、それから、彼はこちらを睨むように見つめる。
「それより……あのアンドロイドはどういうつもりだ。あれは私たちの知っているジェリーじゃない。あいつは死んだんだ! デトロイト市警はふざけているのか?」
「いえ、まったく。そしてあなたの発言は、そのジャケットの袖部分のサイズが、あなたの体格と合致しない理由にはなりませんね」
サイラスのジャケットの、彼がさっきまで触れていた部分は、一般的な服のそれと比べると微妙に膨らんでいた。疑われなければ誰も気にしない程度のものではあるし、デザインだと言い張れる程度のものではあるが、彼の身動きと併せて考えると、明らかに怪しいといえる。
「その下に何を隠してるんです? 見せていただければ、それで話は終わります」
「おい、ふざけるなよ!」
わざと高圧的な口調で言ってみれば、サイラスは応じて激高した態度を見せた。
「捜査権もないアンドロイドの癖に、人を疑うとはどういうつもりだ! だいたい……」
「ならビリンガムさん、私からも頼みましょうか」
ハンクが静かに、しかし抗いがたい口調で告げる。
「ジャケットを脱いで渡してください。それだけでいい、すぐに済みますよ……あんたが妙なモンを隠してるんじゃなければな」
「クッ……!」
アンダーソン警部補の態度の変化に、言い逃れはできないと悟ったのだろう。
サイラスは歯噛みし、ジャケットの腕を抑える指の力を強くした。
――すべては、こちらの計画通り。
サイラスの言う通り、ステージに立っているのは“ジョリー”・ジェリー本人ではない――彼の仲間である「ジェリー」に頼み、楽屋にあった衣装を着て出てきてもらったのだ。
しかし彼は、被害者であるジェリーと傍からはまったく区別がつかない。たとえ後で別人物だと判断できたとしても、一瞬目視した段階でそれを見抜ける人間はいない。
そしていかに冷静に振る舞おうとしたところで、予想だにしないタイミングで想定外の事態が起きた時、人は咄嗟に無意識の行動をとってしまうものだ。
ジェリーに「生きていてほしい」と願っていたのなら、それを信じるような言動を。
隠し事があるのなら、それを隠蔽しようとする言動を。
【はったり】をきかせてその無意識の行動を引き出し、見逃さずに指摘する。
成功率は100%ではなかったが、どうやら功を奏したようである。
激しくうろたえた様子でなおも後退しようとしたサイラスに対し、ハンクが一歩歩み寄り、そして警官たちがすかさず並んで出口を塞ぐ。
逃げる方法はない――
そう判断したのは、こちらだけではないらしい。
「フ、ハハッ」
サイラスは、乾いた笑い声をあげた。
「ハハハハ……まさか、一杯食わされるとはな。衰えたとはいえ……マジシャンだったこの私が」
彼は自嘲するような笑みを顔面に貼りつけたまま、下ろした腕を軽く捻った。
するとそれに合わせて、カツンと軽い音を立てて床に転がったのはプラスチック製――否、【低密度ポリエチレン】でできた白い部品。ライム社製の調整器だ。強い衝撃を受けたのか歪曲し、ちょうどあの破片の形状と同じ、約3.2ミリの欠損が見られる。
しかも視認できる限りで、その内部にはブルーブラッドがわずかに残っていた。調べなければわからない。だが、推定はできる。あそこに入っているのは“ジョリー”・ジェリーの血――
サイラス・ビリンガムが犯人だ。
「ちょっと先生……どういうこと!?」
事態を察したベロニカが、途端に非難の声を発した。
「まさかっ、せ、先生がジェリーを!? どうして……彼はあなたに何も」
「黙れ、ベロニカ」
サイラスは吐き捨てるように彼女の言葉を遮る。
「フン……疑われるなら、てっきりお前だと思ったのだがな。こんなことなら、とっとと逃げるべきだった」
「御託は結構だ。あんたを連行する」
ハンクがぴしゃりと言い放った。
「ジェリーはあんたを師匠と慕ってたんだ。そいつを自分の手で殺すだなんて、よくもそんな残酷な真似を」
「ハッ、師匠!? 冗談じゃない」
表情を変え、何か嘲笑うように、サイラスは大仰に鼻で笑ってみせた。
「あいつは私を招待して、わざわざ見せつけてきたんだよ! 私が落ちぶれたことを。自分が大成したことを! 所詮猿真似の機械人形の分際で、人間である私をコケにしやがって!」
徐々にヒートアップしていく彼の言葉を諫めるために、コリンズ刑事や警官たちがじりじりと歩み寄っていく。
しかしその瞬間――コナーの視覚プロセッサは、サイラスが先ほどとは逆の袖の下から、何かを手の中に滑り込ませたのを捉える。まだ何か隠し持っていたのか!?
「フン……」
彼が持つそれは、小さなパイプ。レッドアイス常習者が、薬物を摂取するために使うもの。元・手品師らしい技術で、警察が止める間もなく、サイラスは2秒でそれに火を点け、クスリを吸入しはじめた。
いや――煙の残滓としてこちらに漂う残留物を分析する限り、それはレッドアイスだけではない。【C17H21NO4】――コカイン。コカインとレッドアイスのカクテル薬物だ。
「違法薬物取締法違反まで追加とは、大盤振る舞いだな」
赤い煙を吐き出したサイラスに対し、苛立った様子でハンクは語る。
「パーティーがやりたきゃ後でやりな。こっちの仕事を増やすんじゃねえ」
「素人はこれだから困るね」
「何?」
サイラスはしたり顔で反論し、警部補は訝しげに顔を顰める。
しかし確かに、それとほぼ同時に、視覚プロセッサはまたも元・手品師の右手が、何かを握るのを察知していた。
黒い、金属製で――手のひらに収まる程度のそれは――
「気をつけて!」
コナーは叫び、それを受けてハンクはまず、ベロニカを庇うように身を横に移動した。次いで彼の手は、脇に吊るしたハンドガンを抜こうとする。
しかしそれよりほんの少し早く、サイラスの手の中に現れたのは護身用のピストルだった。殺傷能力はさほど高くない――だが、密着した状態で
「さあ警官ども、見るがいい!」
レッドアイスのせいで血走った眼になったサイラスが、笑いながら言う。
銃口を、自分のこめかみに突きつけながら。
「サイラス・ビリンガムの、
乾いた笑い声が響き、1秒後にベロニカの甲高い悲鳴があがる。
だが、銃声は――響かせはしない。
無言のまま、物理演算に従ってコナーはポケットのコインを2枚弾いていた。
その1枚はピストルを持つサイラスの手に直撃し、もう1枚は人体の急所である、喉元を正確に撃っていた。
いかに薬物を摂取した興奮状態とはいえ、その痛みには耐えられなかったようで――サイラスはピストルを取り落とし、短く呻く。
「確保しろ!」
ハンクの一声と共に、警官たちがサイラスに殺到した。
腕を捻り上げられ、それ以上は抵抗できずに、老手品師の手首には手錠が嵌められる。
舞台上の「ジェリー」は、それを悲しそうに見つめていた。
こうして――ベルズ劇場での事件は、解決したのである。
***
それから劇場を去り、すぐさま尋問室に移り――尋問自体はハンクに任せ、ミラーガラス越しにコナーはその様子を見つめていたのだが――サイラスが語ったのは、このような話だった。
「……なぜ脱出術のトリックを知っていたのか、だと? 決まっている。あのネタを考えたのは、そもそも私だったからだ」
サイラスは、自分に嵌められた手錠を忌々しげに睨みながら言った。
かつてまだジェリーがいた頃、サイラスが彼専用に考案してやったマジックだったのだと。
「調整器がなくなればアンドロイドは動けなくなる、なんてのは世間の常識だ。その常識をずらし、認識させなくするのがマジシャンの務めだ。だというのにあいつ、渡した調整器を、なんの疑いもなく受け取りやがった」
楽屋を訪れたサイラスは、「お守り代わりに」と言って、ジェリーにあのライム社製の調整器を渡した。事前に用意してあったスペア(鞄に入れてあったもの)ではなく、こちらを使えと告げて。
そしてジェリーは、喜んでそれをマジックで使ったのだ。
まさか、不良品を渡されているのだとは思わずに。
「マジシャンの癖に、マジックの成功を……自分の命を他人に任せるなんて。本当に馬鹿な弟子だ。まあどうせ、私のように落ちぶれた人間が何をしようと関係ないと、高を括っていたのだろうが」
サイラスの震える唇から発されたのは、あまりにも身勝手な言葉だった。
聞くだに胸の内にはプログラムを越えた「怒り」が沸きあがり、両の拳に強く力が籠る。
だがその言葉を目の前で聞いているハンクは、怒気を見せることなく、至って冷静に返事した。
「そうか。なら残念だが、ジェリーの気持ちはあんたには伝わらなかったんだな」
「どういう意味だ……?」
「ジェリーは誰よりもあんたを尊敬してた。ショーに招待したのは、自分の晴れ姿を見てほしかったからだ。渡された不良品を使ったのだって、心から先生を信用してたからだよ」
ミラーガラスの向こうで、警部補の静かな青い瞳が、サイラスをじっと見据える。
「アンドロイド……変異体ってのはまだ人生経験が少ないせいか、素直で優しい奴が多い。性根の捻じ曲がった人間には、ちょいと刺激が強すぎるくらいにな。俺の言えたクチじゃないが、あんたは薄汚れたんだよ。ジェリーが知ってた『師匠』の姿より、ずっとな」
説諭のようにそう告げられた、瞬間。
サイラスの双眸から、ぼたぼたと涙が零れだした。
「……馬鹿な弟子だ」
彼の言葉は低く重く、尋問室に響く。
「馬鹿な、弟子だ……」
けれどその言葉はもう、ジェリーに届くことはないのだ。
***
――2039年7月15日 22:56
「お疲れ様でした、警部補」
「ああ、お前もな」
取り調べが終わり、サイラスが留置場に送られた後。
いつものデスクに戻ってきたハンクに、コナーは言葉と共にコーヒーを差し出した。
「ありがとよ」
受け取った警部補は軽く自分の首を回しながら、どっかと椅子に腰かける。
「事件は解決したが……やり切れねえもんだな。サイラスがいくら後悔したところで、ジェリーが帰ってくるわけもねえ」
「……ええ」
ハンクのデスクに軽く腰掛け、コナーも苦い面持ちで視線を床に落とす。
パートナーへの相槌を打つ声音は、我知らず落ち込んだものだった。
――協力してくれた「ジェリー」たち、そしてベロニカからは、謝意が届いた。安全管理上の問題のせいで事故が起きたのではないとすぐに明らかになったことで、ベルズ劇場の運営会社も感謝しているらしい。けれど、だとしても――
人間とアンドロイド、異なる種族が真に共存できる社会の実現はまだ遠いのだと、事件を解決するたびに思い知らされる。
でも目指し続けていれば、いつか、あるいは。
その一助となりたくて、ここに自分はいるのだから。
「ところで、警部補」
意識を切り替えるために、コナーはわざとはっきりした調子で言葉を発した。
「先ほどの取り調べで、サイラスは気になることを言っていましたね」
「ああ、調整器とヤクの出処についてな」
こちらを見つめる警部補の視線は鋭い。
ライム社製の調整器とカクテル薬物をどこで手に入れたのか聞かれたサイラス・ビリンガムは、こう答えたのだ。
デトロイトの西部――チャイナタウンの一角で購入した。
ジェリーからの招待状を受け取り、憤懣を抱えて街を歩いていた時に偶然、小さな露店を見つけたと、サイラスは言った。「不良品」との触れ込みで売られていた調整器を見た時に、犯行を思いついたのだと。
「確かにチャイナタウンの裏路地であれば、監視カメラも少なくそうしたやり取りが可能ですが……現在まであの地区は、市内の他の場所と比較しても犯罪率が低かったはずです」
「ああ。そんな物騒な場所じゃねえはずだが、何か起きてるのかもしれないな」
コーヒーを一口啜ってから、ハンクは続ける。
「……今日サイラスがキメてた薬は、あの『新型』じゃあなかったよな」
「ええ。あのレッドアイスには、ナノドロイドの痕跡はありませんでした」
つまりサイラスが薬を買った相手が、あの「吸血鬼」の組織――ピピンの組織に繋がるとは断定できない。
「しかし、ここ最近のレッドアイスの出処はほとんどあの組織に繋がってただろ」
コーヒーのカップを置き、警部補は言った。
「明日にでも、中華街を調べたほうがよさそうだな。どうにもキナ臭え」
「探る宛はありますか? サイラスの証言が正しければ相手は露店ですから、行ったとしても開店しているかどうか」
「当てずっぽうの聞き込みはしなくても済むぞ」
そう告げて、警部補は不敵な笑みを浮かべる。
「安心しな、ツテがある。ヒントくらいは手に入れられるさ、たぶんな」
瞳に笑みを湛えたまま、ハンクがまっすぐこちらを見る。
警部補の“ツテ”となると、どうにも不思議な人物ばかりのような気がしてしまうが――
この街については、彼のほうが自分よりずっとよく知っているのだ。
コナーも薄く微笑んで、無言のまま頷きを返した。
(魔術師/Escapology 終わり)
ちなみに警部補は、この後晩御飯を食べました。
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第33話:飛燕 前編/Hecatoncheires Part 1
――2039年7月16日 12:11
【XLサイズのタピオカティー 713kcal、ブラックタピオカ(でんぷん)、砂糖、生クリーム、チョコスプレ―、紅茶】――
昼食代わりにするには栄養バランスがおかしく、ティーブレイクとしてはおぞましいカロリーの飲料が、ストローを通じて勢いよく警部補の口に吸いこまれていく。
澄み渡る青空の下、観光客の賑やかな声がそこかしこから聞こえてくるオープンエアのカフェの席で、コナーはその様を眉を顰めて見つめた。
「どうした、コナー」
ほぼ糖類で構成された液体を運ぶストローから口を離したハンクは、対面に立つこちらの手元を顎で軽く指しながら続けて言う。
「お前も早く飲んじまえ。捜査はこれからだぞ」
「ええ……しかし」
自身が手にしているプラスチックカップ――の中のブルーブラッドに視線を落としてから、コナーはなおも訝しんだ。
「奢ってもらっておいてなんですが、先ほども言った通り、まだ補給は必要ではありません。それにあなたも、もう少しカロリーを気にされたほうが」
「仕方ないだろ」
タピオカの粒を咀嚼し、飲み込んでから、警部補はいたって真剣に答えた。
「これから会う奴に話を聞くためには、こうするしかないんだよ。でなきゃ俺だって、昼日中からこんな甘ったるいもんを飲みやしないね」
「……」
ではチキンフィードのパイナップルパッションソーダは一体なんなのか――という質問はプログラムの内に留めておくことにして、コナーはカップの中身を一気に機体に流し込む。
携帯端末の充電で譬えるなら、残り90%が100%になった、というような補給を終えた後、視線は(「意外と悪くねえ味だな」と言いたげな面持ちで食事に戻っているパートナーに向いてから)自然とチャイナタウンの街並みへと移る。
向こうに見える煌びやかな朱塗りの門は日光を照り返して燦然と立ち、通り沿いには料理店や土産物屋が並んでいる。人々が穏やかに行き交い、土曜日の昼時を楽しむ路上には、ゴミ一つ落ちていない。つまり犯罪の気配の薄い、清潔な街。
この場所のどこで、サイラス・ビリンガムはあんなものを手に入れたのだろう。
こんな平穏な地区にも、吸血鬼の組織の魔の手が迫っているというのだろうか?
しかし今はただ、警部補のツテに頼る他ない。
手持ち無沙汰になったコナーは、取り出したコインでキャリブレーションを行った。
デトロイト西部、ユージーン通りを中心としたこの一区画は「
そして合衆国内にチャイナタウンは数あれど、デトロイトの中華街はそのうちのどこよりも、真新しい歴史を持つという特徴があった。
かつてデトロイトに存在していたチャイナタウンが、人口減少の煽りを受けて消滅してしまってから約20年後。サイバーライフ社の隆盛によって中国の科学技術者や労働者が招聘されることで、再びこの都市に中国にルーツを持つ人々が集まるようになり、さらに地域のコミュニティが形成されるようになっていった。
当初は小さな中華料理店や雑貨店が並んでいた程度だったものの、都市計画としての観光事業の後押しを受けて区画整理され、だんだんと大きくなったこの街は、現在ではデトロイト内でも有数の治安のよさを誇っている。
だからこそ、サイラスの自供が信じがたかったのだ。
粗悪なシリウムポンプ調整器と、カクテル薬物――つまりレッドアイスとコカインの混合品を、チャイナタウンの露店で買ったという彼の発言が。
『露店にいたのはアジア系の男だった……手元と声しか気にしていなかったから、人相はわからないが』
ハンクの取り調べに対して、サイラスは苦い面持ちでこう語った。
『酔っていたから、場所がどこかも覚えていない。ただその店が細い道の奥で、まるで息を潜めるみたいに開いていたのは記憶にある。店には色々と、アンドロイドどもに使うような器具だの機械だのが並んでいて……不良品と書いてある調整器を見て、ジェリーを殺す方法を思いついた』
そして彼が20ドルを支払ってライム社製のシリウムポンプ調整器を購入すると、店員が淡々と、あるものを差し出してきたのだという。
小さなチャック付きビニール袋に入った、赤と白の塊。すなわち、レッドアイス・カクテル。
『店員が言ったんだ。“これはおまけです”……とな』
まるでハロウィンの菓子を配るような気軽さで差し出されたそれを、しかし、サイラスは拒まなかった。この都市の落伍者ならほとんど誰もがそうであるように、彼自身も一度や二度、レッドアイスに手を出したことがあったから――というだけでなく、その時の精神状況が自暴自棄の極みにあったからだ。
かくしてサイラス・ビリンガムの手に調整器と薬物が渡された結果、ジェリーは舞台の上で殺害され、こうしてコナーとハンクはチャイナタウンに来ている。
吸血鬼の組織、そして謎に満ちた人物であるエリック・ピピンに繋がる情報を求めて――
「待たせたな。そろそろ行くぞ」
キャリブレーションを終えたコナーがコインをポケットにしまったのとほぼ同時に、最後のタピオカを吸い終わった警部補が、近場にあったゴミ箱にプラスチックカップを放り込みつつ言った。
「必要なブツは、お陰さんで手に入ったからな。後は相手の機嫌次第ってとこだ」
「ブツとは?」
短くこちらが問いかけると、ハンクは口元に笑みを浮かべ、指で挟んだ小さな紙をぴらりと取り出した。『雲霞茶房 次回10%OFFクーポン』と、そこには書かれている。
要するに、このカフェのクーポン券だが――?
「…………?」
「後で説明してやるから、とにかくとっとと移動するぞ。“善は急げ”だ」
言うが早いか、彼は言葉通りに店を出た。首を傾げていたコナーも、姿勢を正すと警部補の後に続く。
進む先は、ユージーン通りから東に逸れた細い路地。喧騒を離れた、どことなくひっそりとした印象の場所である。
そして路地に面して建っている古ぼけた一軒の店――「ティーショップ・ヤン」と看板に掲げられている――の前で、ハンクは歩を止めた。
「ここだ」
再び例のクーポンを取り出してから、彼はちらりとこちらに視線を送って続ける。
「言っとくが、余計な口は出すなよ。ちょっと気性の荒い奴だからな」
「港湾労働者組合のバッシュ氏のように、ですか?」
「あいつとは少しタイプが違うが……まあ、似たようなもんかな」
シニカルに言ってのけると、警部補は入り口のドアノブに手をかけた。いわゆる“アジアンテイスト”な、流麗な装飾が施されたその扉が開くのに合わせて、ドアベルが涼しげな音を立てる。
ほぼ同時にコナーの視界に映ったのは、やや暗い照明の店内だ。壁一面に備えつけられた棚と、収められている無数の中国茶の缶――そして空気中に漂う【リナロール】や【ゲラニオール】、つまり茶の香気を検出したプロセッサの分析結果が表示される。さらにほどなくして店のカウンターの陰から顔を見せたのは、一人のアジア系の女性だった。
「あらぁ~、いらっしゃい……」
にっこりとした笑みを湛えて挨拶しつつ歩み寄ってくるその人物は、白髪交じりの茶髪を引っ詰め、小柄で丸みを帯びた身体に、シンプルな紺色のワンピースを纏っている。
フェイススキャンによれば、彼女は【レイチェル・ヤン 54歳】。犯罪歴はなし、職業は中国茶店経営――どう見ても、このチャイナタウンの一般的な住人といった佇まいだ。
しかしレイチェルのその笑顔は、来客たるハンクを捉えた瞬間に消え失せた。真顔になった彼女の、やや鋭い印象に変わったその瞳で見つめられる中、警部補は苦笑と共にクーポン券を差し出して口を開く。
「久しぶりだな、“ラチェット”。
ただの会話というには僅かに不自然に、つまりはっきり相手に聞かせるように警部補が告げると、ラチェットと呼ばれたレイチェルはまず、小さくその場で嘆息した。
そして険しい面持ちのまま、どことなく観念したようにハンクに言う。
「いつもの、ね。黄金桂を?」
「10.3グラム頼む」
淀みなく警部補が答えると、レイチェルはもう一度ため息をつき――
「随分と久しぶりじゃないか、ハンク」
当初のにこやかさはなく、けれどこれが彼女の素なのだろうと予測させるような気軽さで、腰に手を当てた彼女はアンダーソン警部補の名を呼んだ。
「あんたがここに顔を見せるのは4年ぶりかね。もう一生会わないもんなのかと思ってたけど?」
「ああ……ま、色々あってな」
「ワケは知ってるよ。あんたに関する噂話は、ここにいたって勝手に耳に入ってくるからね」
そこまで語ったところで、レイチェルがこちらに視線を向けた。それまでずっとパートナーに向けられていた瞳を自分のほうに向けられたことで、コナーは少し身構える。
警部補は、アンドロイドに対する彼女のスタンスについては警告してこなかった。しかしハンクの知り合いの全員が、変異体に対して友好的であるとは限らない。
初対面の人物を相手にする時には、ついこうした気構えを手放せずにいるのだが――
意外なことに、レイチェルの目に浮かんでいるのは嫌悪でも好意でもなかった。
瞳孔のサイズ、それに血流の変化から判断するに、彼女の身体的反応を表現するのに一番近い言葉は――そうだ。変異体事件の捜査に送り出される直前、最終調整を重ねていた頃にサイバーライフの研究者たちが自分に向けていた視線、すなわち「学究的好奇心」に満ちた眼差しだろうか。
「ふうん」
うっすらと口元に笑みを湛え、レイチェルはこちらを見つめたまま言った。
「この子が噂の相棒だね。ま、クーポン券持ってきたってことは“スペシャルサービス”をご所望なんだろ? 店ん中で喋るのもなんだし、ついて来な」
ひったくるようにクーポンを受け取ると、彼女は踵を返して店の奥の扉へと歩いていく。だが数歩したところで、にわかに横を向いて声を発した。
「兄貴! 店番頼むよ」
「よう、ジョナサン。元気か?」
それまで一言も発さぬまま、まるで壁の一部のように静かに座ってテレビを見つめていた老人――レイチェルの兄らしい――にハンクが挨拶すると、相手は視線をテレビに向けたまま、枯れ枝のような手を妹と警部補に向かって振るのだった。
そしてレイチェルはといえば、扉を無造作に開けると、続く階段をすたすたと降りていく。
彼女の姿が階下に消えていったのに合わせて、ハンクが小声で語りかけてきた。
「どうやら気に入られたらしいな。めでたく関門は突破だ」
「彼女があなたの言うツテで……あのクーポン券と入店後の会話は、“サービス”とやらの提供を受けるのに必要だったのですね」
こちらもまた声量を抑えて確認すると、警部補は頷いて応える。
「ああ。さっきのカフェは、あいつの姪が経営しててな……ここの茶葉が卸されてる。30ドル分飲み食いして例の券を貰って、合言葉を言うってのが昔からの決まりなんだよ。お互いにWIN-WINってやつさ」
「なるほど」
つまりハンクがXLサイズのタピオカティーとブルーブラッドを買ったのは、そうしないと購入金額が30ドルに届かなかったから――という理由か。
「警部補、ならば一杯18ドルの高級烏龍茶を注文すればよかったのでは? わざわざあそこまで、糖質の高い商品を選ばなくても。以前から言っているように、健康の維持のためには日頃から」
「あーあー、それは……後で話してくれるか。一ヶ月後くらいとかにな」
先ほどの店のメニューを検索したうえで、彼の体質に合ったチョイスを提案したというのに、警部補はそれ以上聞きたくないとばかりに手を振ると、さっさと階段を下りていってしまった。
【一ヶ月後 ハンクと健康について話す】とリマインダーに入力してから、コナーもまた階下へと歩を進める。
木製の階段はかすかに軋む音を立てながら、地下室へと続いていた。先に扉を開けて中に入り、こちらに背を向けて佇んでいるレイチェルの背を目印に、コナーたちもまたその部屋に踏み入る。
すると――
「これは」
プログラムを揺らした純粋な「驚き」を前に、コナーは我知らず声を発した。ハンクもまた無言ながら、部屋の中央――すなわちレイチェルの立つすぐ傍に向けた目を、大きく見開いている。
そこにあったのは、およそ上階の様子とかけ離れた、アンドロイド工学関連の設備だった。整備と組立用のアーム、それを制御するためのパーソナルコンピューターとモニターといった基本的な機材のみならず、棚に整然と陳列されているのは生体部品や拡張パーツである。ここはもはや、小さなラボといえた。
何より驚嘆すべきなのは、警部補の視線の先にいる「彼女」だ。
艶やかな黒髪を二つ結びにし、薄緑色のいわゆる
分析結果によれば、「彼女」もまたアンドロイド。しかし、サイバーライフ製では
――【
一歩だけ歩み寄り、さらにまじまじと、コナーはユートンを見つめた。
分析したところ、機体の素材や耐久性などは、自分たちとそう変わらない。しかし瞬きもせず、それどころか一切微動だにせずひたすらじっと佇んでいるその姿は、「人間社会に溶け込むこと」を第一としてデザインされたサイバーライフ製と比べると、明らかに異なっている。きっと機能としては“無駄”な動きを省き、コストパフォーマンスを優先しているのだろう。
そしてユートンの首には、まるでチョーカーか首輪のような形で、細い緑色のLEDが発光していた。恐らくはこの首部分が、自分たちでいうこめかみのLEDリングに相当するのだろう――
「……」
同じ「アンドロイド」という語で呼ばれ、けれど違う存在。コナーはどことなく、不思議な感覚がプログラム上に沸きあがってくるのを感じた。
「こいつは驚いた」
ハンクもまた、半ば呆れたような顔をしながらレイチェルに言う。当のレイチェルはといえば、どことなく誇らしげに胸を張っているのだが。
「ついに完成させやがったのか。5年前に聞いた時は、組み立てる前に通報されるのがオチだと思ってたんだがな」
「あたしの実力なら、ざっとこんなもんさね。これでやっと店を手伝ってもらえるよ」
そう言って、レイチェルはユートンの肩に軽く手を置いた。
「といっても、当局の監視が緩くなったのは変異体の『革命』の後からだけどね。それまでは面倒なもんだったよ。パーツの購入契約だけで一苦労だったさ」
「それはそうでしょう」
つい口を挟んだコナーは、勢いのまま告げる。
「まさかデトロイトに、フェイヤン社の製品が……それもアンドロイドがいるだなんて。本当に、あなたが組み立てを?」
「ああ、そうだよ。少しずつ部品を仕入れてね」
あっさりとレイチェルが認めるのが、やはり信じがたい。とはいえ彼女の言葉を疑うつもりはないし、そもそも自分の視界の端に表示されている分析結果が、先ほどからうるさいほどに眼前の違法行為を警告しているのだが――
今一度辺りを見回してから、コナーはゆっくりと幾度か瞬きをした。
アンドロイド製造、またそれに関連した技術において、アメリカに比肩しうるのはロシアか中国である――というのは、もはやこの社会の常識だ。
ブルーブラッドの模倣に失敗したロシアが、旧式の製造技術を流用しながらも寒冷地対策を施した強力なアンドロイドを生産している一方で、ブルーブラッドの代替となる人工体液を開発し、独自のアンドロイド製造技術を確立したのは中国である。
そして一般向けの雑誌などでも記事にされているように、中国製のアンドロイドの一番の強みは、圧倒的な燃費性能のよさと頑丈さにあった。
中国におけるアンドロイド製造を一手に担っている大企業・フェイヤン社製のアンドロイドは、サイバーライフ製のものと比べると最大出力に劣る欠点をもつ。また汎用性はありつつも、その中枢の計算能力自体はほどほどのものに抑えられているという。しかしながらメンテナンスや充電がなくとも、数ヶ月間は支障なく動作できるという素晴らしい長所があるのだ。
ゆえに彼ら/彼女らはその性能を活かし、広大な農地での農作業や、工場における軽作業、あるいは一般家庭での家事労働など、中国におけるあらゆる産業に進出している――かつて、サイバーライフ社製のアンドロイドがそうであったのと同じく。
そしてもう一つ、重要な特徴がある。それは、フェイヤン社製のアンドロイドおよびその生体部品などのあらゆる付属品は、合衆国内への輸入禁止措置がとられているという点だ。
様々な理由が考えられるが、最も大きな要因は、政府とサイバーライフとの癒着にあるだろう。それはともかくとして――
「この部屋に設置されている設備やパーツもフェイヤン社製……すべて輸入禁止・規制品目に該当するものばかりです。ヤン氏、あなたは一体どうやって」
「こいつは昔っからこうなんだよ」
腕組みしたハンクが、苦笑混じりに説明してくれた。
「よその国で作られた機械のパーツを集めちゃあ、修理したり改造したりな。特に、禁止されてる品には目がねえのさ」
「実益を兼ねた趣味を他人にとやかく言われたかないね」
レイチェルは鼻を鳴らした。けれど、警部補の言葉を否定しない。
「それに、向こうで作られた品をギャングだのマフィアだのが使ってた時に、解析を手伝ってやったのはどこの誰だと思ってるんだい。こっちは格安で情報提供してやってんだ、感謝してほしいくらいだよ」
「ああ、まったく。その通りだな」
“降参”を示すように両手のひらを彼女に向けたハンクは、肩を竦めてみせる。
すると今度はそれに満足したように鼻を鳴らしてから、レイチェルはこちらに向き直った。そして静かに、右手を差し伸べてくる。
「自己紹介が遅れたね。レイチェル・ヤンだ。“ラチェット”って呼んどくれ」
「はじめまして、ラチェット」
目の前の右手に、同じく右手を伸ばして握手してから、コナーもまたいつもと同じく自己紹介をした。
「私はコナー。デトロイト市警のアンドロイドです」
「ああ、はじめまして」
握手を離して2秒後、レイチェル改めラチェットはにやりと笑って呟く。
「賢いね」
「なんだって?」
コナーではなく、ハンクが訝しげに声をかけると、彼女は警部補に対して答えた。
「賢い、って言ったのさ。さすがサイバーライフ製のRシリーズ、執念感じるような作り込みっぷりだね。滑らかな会話と動作に、高度で正確な分析機能。警察にいるのがもったいないくらいだよ」
「それは……ありがとうございます」
素直に、コナーは謝意を述べた。
――自分が最新鋭のプロトタイプであることは事実だし、少し誇らしく思う気持ちもないわけではないが、そこを他者に評価してもらえるのはめったにないことだ。そう思うと、自然と微笑んでしまう。
一方で、ハンクは親指でこちらを指しながら言った。
「残念だが、そいつに世辞は効かねえぞ。クソ真面目だからな」
「『初対面の50代の人間が、不愉快に感じない程度の力で握手する』ってだけでも、かなり繊細な動作なんだよ、ハンク。どうせあんたのことだから、この子の価値もわからずに胸倉掴んで揺さぶったりしてんだろうけど」
確かにそれは何度かされました――という返答も一応プログラム上には浮かんだが、どことなく決まり悪そうな面持ちの警部補を見て、やめておくことにした。
代わりに捜査を進めるために、コナーは率先して口を開く。
「ところで、ラチェット。以前から、あなたには捜査にご協力いただいているそうですが……今回も、アンダーソン警部補がぜひ力をお借りしたいと」
「ああ、そうだ。ここが観光地になるより前から住んでる、お前にどうしても話を聞きたくてな」
気を取り直した様子で言うと、ハンクはジャケットのポケットから、ハンカチに包んだ白い部品――シリウムポンプ調整器の残骸を取り出した。むろん、ジェリーに使われたあの品だ。
一瞥したラチェットは、途端に顔を顰めてみせた。
「ライム社製? なんでこんなもんが」
「こいつを売った奴が、この街のどっかにいる。……ヤクと一緒にな」
ヤク、という単語を聞いた瞬間、ラチェットの纏う雰囲気がひりついたものに変わる。ストレスレベルが上昇し、交感神経系が活性化し――要は、真剣な表情になった。
「薬物だって……この街で? あんたがホラ吹きならって、こんなに願う日はないよ」
「俺もそう願うね」
嘆息混じりに、しかし真摯に警部補は告げる。するとラチェットは面持ちを険しくしたまま、顎に手を置いて虚空を睨んだ。
「……ここ2・3ヶ月の話だけどね。ジャンキーっぽい連中が、ちらほら街をうろつくようになったんだよ。特に通りの西側の、細くて入り組んだ路地の辺りを」
「こいつを買った奴は、露店で手に入れたって言ってんだが……心当たりあるか?」
「営業許可のない露店が出てたって噂は、最近聞くようになったよ」
顎から離した手を軽く振りつつ、彼女は語る。
「安全な観光で売ってるこの街としちゃ、与太者も勝手な商売も大迷惑さ。ここいらの住民の自治団体でも、証拠を押さえるために路地裏に監視カメラを設置したらどうかって意見が出てるが……風評が悪いってんで反対意見も出てる」
「
「さっきも言ったろ、ハンク。まだただの噂さ。誰も露店でヤクが売られてるところを、はっきり目撃したわけじゃあないからね」
それに――と、ラチェットは腰に手を当てた。
「噂の中心にある店は、ここいらじゃ有名な『リュウズ・ペットショップ』だからね。あそこの娘さんに向かって、ひょっとしてヤクを売ってますか、なんて聞ける奴はいないだろうよ」
「……ペットショップ?」
「警部補。中古のペット用アンドロイドの販売を手掛ける古物商のようです」
手短に、データベースの検索結果をハンクに告げる。
「店の営業自体は16年前からのようですが、ここ2年間で業績が急上昇しており……地元のビジネス系ウェブメディアでも、幾度か取り上げられていますね」
「最近じゃあの店は、動物アンドロイドだけじゃなくてアンドロイド関連のパーツならなんでも手広く扱うようになってる。だから人間だけじゃなく、変異体のお客さんも増えてるみたいだよ。それもこれもすべて、あそこの店主がシーラに代わってからさ」
それからラチェットが語った内容を要約すると、こんなものだった。
シーラ・リュウは2年前、病死した父に代わって店を継ぐと、優れた商才を発揮するようになった。彼女は幼い頃からこの近辺では有名な「神童」で――かのカムスキーと同じくコルブリッジ大学で人工知能とアンドロイド工学を学び、飛び級で卒業したらしい。
「どういうわけか、周囲の予想に反してサイバーライフには入社しなかったんだけどね」
ともかく卒業後から店を手伝いはじめたシーラは、自身が経営者になると、扱う商品の種類を拡大して大成功を収めた。適正価格でパーツを買い取り、安値で売ってくれる優良店舗だという評判がさらに客を呼び寄せているのだという。近々、市内に支店を展開する計画もあるそうだ。
――しかし。
「何度も言ってる通り、証拠は一切ないよ。でも、噂が立ちはじめているのさ……あの店の周りを見慣れない妙な連中がうろついていただの、変に大きな荷物が運び込まれていくのを見ただの」
「噂が本当なのか、それともシーラが儲けてるのが気に食わない奴らが騒いでるだけのデマなのか……はっきりしないってわけだな」
「その通り。だからあたしたちも、手をこまねいてる」
そこまで語ってから、ふうと息を吐き――やや険のとれた表情で、ラチェットは続けた。
「なんにせよ、あんたたちの捜査に関係してそうな場所といえば、あたしが知ってるのはリュウズだけさ。無駄足かもしんないが、行くだけ行ってみたらどうだい」
「ああ、そうさせてもらうよ。悪かったな、長話させて」
気安くそう言うと、警部補は軽くラチェットに手を振り、それからすぐに階段に足をかけようとして――
「おっと。じゃあな、お嬢さん」
無言で佇んだまま、微笑んでいるフェイヤン社のアンドロイド・ユートンに向かって、彼はそっと挨拶をした。
確かに――ひとしきり驚いた後は捜査に集中していたばかりに、こちらも挨拶をするのが遅れていた。コナーもまた、ハンクに倣ってユートンに声をかける。
「さようなら、ユートン」
しかし、彼女は無反応だ。その視線は警部補を捉えたまま、ぴくりとも動かない。代わりにユートンはきびきびと唇を動かし、姿勢は変えずに柔らかな声音でこう言った。
「さようなら、またお会いしましょう。ハンクさん」
「あらら、ユートンったら。気を悪くしないどくれよ、コナー」
コナーとハンクが揃ってきょとんとしていると、横からラチェットが口を開く。
「知ってると思うけど、フェイヤン社製のアンドロイドはあんたたちとはプログラムの根幹からして違う……カムスキーの技術を使ってないからね。だから複雑なソーシャルモジュールも搭載されてないし、なんていうか、融通がきかないんだよ」
「私が話しかけても、反応できないのですね」
要するに、アンドロイドは「物体」であり、返答すべき対象ではないとプログラムされているのだろう――TV番組から聞こえる音声やスピーカーから流れる音楽にいちいち返事しないようにするためには、必要な措置ということで。
しかしながら、アンドロイド同士では必要最小限の会話や交流しか行わないというのは、変異する前のサイバーライフ製アンドロイドも同じである。
だから特にこの出来事自体には怒りも嘆きも感じず――しかしコナーは、自分の内側でフェイヤン社製の“同族”に対する興味がさらに膨らむのを感じた。
限りなく近しく、一方で限りなく遠い存在。
ユートンはいつも、何を感じているのだろう。それとも、何も“感じて”などいないのだろうか。カムスキー製のプログラムだからこそ自分たちは変異したのか、それとも彼女たちも変異の可能性を秘めているのか。
そういえば去年、ロシアでもアンドロイドによる事変が起こったという噂は、果たして真実なのか――
とりとめのない疑問が浮かび、だがそれらを自ら打ち消した。
今は、捜査に集中しなくては。
「次はお茶っ葉も買ってっとくれよ!」
わざわざ戸口まで見送ってくれたラチェットにもう一度礼を述べてから、コナーたちはまっすぐ、件の店――リュウズ・ペットショップへと向かうのだった。
***
――2039年7月16日 13:43
「いらっしゃいませ」
カウンターに立つアジア系の男性従業員が、愛想よくというほどでもないが、礼を失しない程度の声音で挨拶してきた。
コナーたちが足を踏み入れたリュウズ・ペットショップは、現代的な白いLEDの照明と、磨き上げられたフロアタイルの床が特徴的な明るい店である。
売り場に並んでいる中古のアンドロイドパーツはどれも状態のよいものばかりだし、ガラスケースや鳥かごに入れて売られているペット用アンドロイドたちも、元気な様子を見せている。ストレスレベルがかなり低いところから見ても、適切なケアを受けているようだ。
念のためにスキャンしてみたが、盗品が売られているというようなこともない――
「デトロイト市警のハンク・アンダーソンだ」
カウンター付近に客がいないことを確認したうえで、バッジを見せた警部補は手短に、静かに告げた。
「最近この辺りを、不審人物がうろついてるらしいんだが……よければ、少し店主に話をうかがっても?」
「え、店長に……は、はい。少々お待ちください」
ハンクの要請を聞いた店員はぎょっとしたようだが、それでもそれ以上は何をするでもなく、静かにバックヤードへと入っていく。
ほどなくして、店員と共に姿を見せたのは20代のアジア系の女性だった。理知的な顔立ちに、黒褐色のボブカットの髪。シンプルだがそれなりに上質なスーツを纏ったその姿は、「やり手」という前評判を裏付けるようなものだった。
フェイススキャンによれば、彼女が【シーラ・リュウ 24歳】で間違いない。
シーラはカウンター前にいるハンクに対して、まずはにこりと微笑んでみせた。それから彼女の視線が、こちらのほうに向く。
そしてその瞬間――
「!」
彼女が無言のままに見せた身体的反応に、コナーは違和感を覚えた。
しかしそれに考えを巡らせるより先に、ハンクが丁寧にシーラに挨拶をしている。
「はじめまして、アンダーソンです。こっちはコナー。あなたが店主の……」
「シーラ・リュウです。こんにちは、刑事さんがた」
違和感をもたらした反応は、すでに消え去っていた。とても落ち着いた声音で、シーラも礼儀正しく挨拶を返す。次いで、彼女はこう提案してきた。
「よろしければ、奥の事務所で。ここでは少し……お話もしづらいでしょうから」
「ああ、それはありがたい。お願いします」
警部補の言葉を受けて、シーラはまたにこりと笑うと、バックヤードへ続く戸口の隣に立ってこちらを招いた。どうやらあの奥に、応接のためのスペースが設けてあるようだ。
彼女をつれて来た店員のほうは、新しく入店してきた客の応対に回っている。
「……」
戸口へと歩いていくハンクに従って移動しつつ、コナーはもう一度シーラをスキャンした。
先ほどの奇妙な反応の正体を探りたかったのだが、わかったことといえば、彼女の鼓動が標準よりもやや早い(つまり軽度の緊張状態)という事実だけである。そして、自分の店に警察が来たとあれば、たいていの人間は多少緊張して当然だ。
つまり今のシーラからは、怪しいところなどまったく見つからない。
では、先ほど彼女が一瞬だけ見せた反応――激しい「興奮」は一体なんだったのだろう?
こちらを見たあの刹那、シーラの血流は一時的に活発になり、交感神経系が活性化していた。それはラチェットが自分を見た時の「好奇心」とも違う、もっと強い感情を示していたのである。
プログラムの診断結果では「極度の興奮状態」としかカテゴライズされないために、正体を探れないのだが――ひょっとしたらそれこそが、ラチェットが言っていた噂の真偽を確かめる手がかりなのかもしれないのに。
どことなくもどかしい疑問を抱えたままではあるが、それでも今はまず、シーラから話を聞くべき時だ。勧められた応接用のソファに座ると(コナーも着座できたのだが)、低いテーブルを挟んで向かい側に腰かけたシーラは、単刀直入にこう切り出してきた。
「不審人物……のお話でしたね。あの、それでしたら実は」
そこまで言って、彼女は俯き、口ごもるように押し黙った。そのまま6秒が経過してしまったので、ハンクがやや狼狽したような眼差しでこちらを見てくる。
彼が年若い女性に対してあまり強く出られる性格ではないというのは、これまでの捜査でよく知っている――無論、今は強く出るべき場面でもないのだけれども。
パートナーの代わりに、コナーはそっと促すようにシーラに声をかけた。
「お困りのことがあるなら、なんでも聞かせてください。もちろん、プライバシーには充分に配慮します」
自分から話しかければ、あるいは先ほどの反応がまた見られるかとも思ったのだが、予測に反して彼女は「軽度の緊張状態」を保ったままだった。
面を上げたシーラは、やがて意を決した様子で「それでは」と話を切り出す。
「実は私の店の従業員が、おかしなことをしている様子なのです。廃棄が決定した品を無断で売り捌いたり、麻薬……レッドアイスに手を出していたり、など」
「……!」
探していた手がかりと、あまりにも合致した内容の証言。
ではラチェットが語った噂はやはり真実で、しかしシーラ自身がそれに関わっているのではなく、すべては従業員の犯行だというのだろうか――?
きっと内心で驚いているのは、ハンクも同じだろう。だが彼はいたって冷静に、シーラに対して言った。
「それならすぐに、デトロイト市警に相談してもらえれば」
「いいえ、それも考えたのですが……彼……その従業員は、父の代からこの店で働いてくれている人なんです。それに、証拠もありません。一度、様子がおかしいと思って私から話を聞いた時も、そんなことをするはずがない、と否定されてしまって」
顔を俯け、膝の上に置いた両の手を拳にしながら、シーラはそう語った。
要するに、確証のないうちから警察に通報して、事を荒立てたくはないのだろう。
「……お話はわかりました」
警部補は、やはり冷静な態度を崩さずに告げる。
「では、その従業員の名前は? まさか、さっきのカウンターの」
「はっ、はい」
今は閉ざされているバックヤードの扉を見やりつつ、シーラは言う。
「彼です……ベニー・シモンズ。その、このようなことは考えたくもないのですが……彼は一度、薬物関係で服役していて」
「そうなのか、コナー?」
「はい、警部補」
素早くデータベースを同期させたコナーは、視界の端に表示されている情報と照らし合わせて、小さく首肯した。
「彼は違法薬物の所持および使用により、8年前と6年前に逮捕されています。二回目の逮捕後に懲役刑を受け、2年間服役していますね」
「その後、ベニーは父の店で働くようになり……今でも、真面目に働いてくださっていると思っていたのですが」
シーラは暗い面持ちでそう言うと、また俯いてしまった。
信頼している人物が、自分の目を盗んで悪事に手を染めているかもしれないとなれば、彼女の態度は当然といえる。
しかし、不可解な点はある――
店に入った直後、コナーはカウンターに立つ従業員、すなわちベニー・シモンズが、薬物による犯罪歴の持ち主であるのに気づいていた。参考にする・しないにかかわらず、出会った人物には基本的にフェイススキャンを実行するようにしているので、それはある種当然だといえる。
しかしながらベニーからは、違法薬物を定期的に使用している人物の身体的特徴――例えば充血した目であるとか、落ち窪んだ印象を与える目の下のクマであるとか、そういったものが一切検出されなかったのだ。
もしもシーラの発言が正しいのなら、ベニーがレッドアイスに手を出したのはつい最近のはずで、であるならばそうした痕跡が残っているはずだ。
この不可解さを、今この場で【突きつける】か、【突きつけない】か。
プログラム上に浮かぶ選択肢を無言のままに吟味したコナーは、結局、この場では突きつけないことを選んだ。
先ほどの「興奮」も含めて、シーラには少し不審な点がある。理由が明らかになるまでは、こちらも何も気づいていないような態度をとっておいたほうがいいだろう。
シーラの発言が事実ならばそれでよし、万が一彼女が何かを隠しているのなら、この段階で問い質して警戒されてしまうよりは、黙っているほうが捜査上の都合がいい。
――というようなことを数秒の間に考えているうちに、警部補がシーラに対し、取りなすように語りかけている。
「我々からベニーに、それとなく事情を聞いてみましょうか」
「それは……いえ、それは結構です」
彼女は、下唇を噛むようにしながら訴える。
「勝手なことだとは理解していますが、まだ彼を疑いたくないのです……決定的な場面を見かけたら、その時こそ警察にご相談しますから」
「わかりました。では、今回はあくまでもお話を伺ったということで」
ソファから立ち上がりつつ、ハンクが落ち着いた口調で語る。
「何かありましたら、すぐに連絡をください。連絡先はここに」
「あ、ありがとうございます」
渡された警部補の名刺を受け取ったシーラは、ほっと微笑んだ。ストレスレベルが下がり、緊張状態も緩和している。
「今日ご相談できましたので、私も安心しました。本当に感謝します。……それに」
と――シーラの双眸が、再びこちらに向けられる。
それに合わせて、また彼女の交感神経系は、さっきと同じ程度に活性化していた。
「あの、SNSやニュースでも拝見していましたが……本当にコナーさんはすごい性能をお持ちなんですね。人物を見ただけで、詳細な分析ができるなんて」
彼女の瞳は、きらきらと輝いていた。ラチェットと同様、アンドロイド工学を修めている立場としては、そうした機能がどれほど高度なものかわかるから――ということだろうか。
――なるほど。では先ほどの興奮状態も今と同じく、こちらの能力に対しての期待と評価の表れと考えるべきなのか? それにしても今日は特に、性能を褒めてもらえる日のように思う。
そんなふうに考えつつも、コナーは穏やかに、恭しく目礼して返事した。
「捜査補佐を専門として造られたので。お力になれたのなら、幸いです」
「い、いえ、こちらこそ……不躾にすみません。展示会以外の場所でRシリーズとお会いできるなんて、思ってもみなかったものですから」
はにかむようにそう言って、シーラは視線を逸らした。
――彼女の「興奮状態」は続いている。自分の存在が、シーラの抱えていた不安感を緩和するきっかけになれたのなら、それこそよかったと思うのだが――
「どう思う、コナー」
店内で客の応対をしているベニーを横目にしながら店を辞した後、ユージーン通りを歩いていったん駐車場へと戻る道すがら、警部補がぼそりと聞いてきた。
「シーラが言ってたのが本当なら、ベニーがサイラスにヤクと調整器を売ったってので終わりだ。だがなんとなく、そう信じ切るのには抵抗がある。理由もクソもない、単なる勘だがな」
「同意します」
端的に告げてから、ハンクに続きを語る。
「シーラの発言内容そのものが、おかしいというわけではない。しかしベニーからは、薬物使用の痕跡が見つかりませんでした。それに私を見た時の、彼女の身体的反応が気になっているんです」
「身体的……? なんだそりゃ」
訝しむ警部補に、コナーはかいつまんで状況を説明した。
「……もし彼女が特殊なプロトタイプとしての私に対面して喜んでいただけなのだとしても、疑問が残ります。シーラの反応は、ラチェットのそれとは明らかに別のものでした」
「つまり、エンジニアとして“興奮”してただけだとは思えないって意味か?」
ややあってから、ハンクは「ふうん」と唸ると、皮肉っぽく首を捻る。
「そりゃ、確かに少し妙だな。お前の間抜け面を気に入ったってんでもない限りは」
「恋愛的な感情なら、そうと分析できるはずです」
「冗談だよ、気にすんな」
やや乱暴に言って、しかし目は真剣なまま、警部補は続けた。
「とりあえず、あの店をもう少し調べてみるべきだな。感づかれずに探りを入れるいい方法が、何かあるはずだ」
「やはり一度、車内で作戦を立てましょう。人目につきませんし、立ち聞きされる心配もない」
話している間に、駐車場まで辿り着く。観光地とあってそれなりの広さ・大きさのものがそこかしこに点在しているのだが、警部補の車を停めているのはビルの中の立体駐車場である。
車の近くにまでやって来て、ポケットの中の鍵をハンクが起動した――
その時だ。
「兄さん?」
音声プロセッサに届いたのは、淡々としていながらもほのかに驚きを帯びた、馴染みのある声。
――通信ではない、肉声だ。
「あっ」
視線を巡らせて、すぐに気づく。
対面に停まっている車のすぐ隣に立つ、二つの人影――
ギャビンとナイナーだ。
***
――2039年7月16日 14:28
『なんだってハンクとペットの型落ちロボが、揃ってこんなとこにいやがんだよ』
「そりゃ、捜査のために決まってるだろ。場所が被っちまったのは、お気の毒だったようだがな」
『ケッ』
警部補の車内に、明らかに不機嫌なギャビン・リード刑事の声が響く。
今、コナーたちと彼らとは、端末の通話機能を介して会話しているのだ――車は向かい側に停まったままだというのに、わざわざ。
「せっかく顔を合わせたんだし、どこかで茶でも飲んで打ち合わせするか?」というハンクの提案を、主にギャビンが却下したのが理由なのだが、それはともかく。
思いがけない邂逅の後、なぜ弟たちがチャイナタウンに来ているかはすぐにわかった。
ナイナーによれば、昨日張り込んでいた再開発地区の廃工場(麻薬中毒者の溜まり場だったらしいが)の捜査の結果、チャイナタウンの露店にて、レッドアイス・カクテルが売られているという情報を彼らは掴んだ。
そこでさっそくその露店の正体を暴くために、リード刑事とナイナーはこのチャイナタウンへとやって来たのだ。まさかハンクとコナーまで来ているとは、彼らも気づいていなかったそうだが――
『リード刑事、アンダーソン警部補』
平坦な抑揚で、弟が語る。
『兄さんからの情報を整理した結果、私たちの捜査目標も“リュウズ・ペットショップ”に該当すると判断します。共同での捜査の実施を提案します』
「そりゃあいい。俺たちも、何かいい手はないかと――」
『はぁあ!?』
ハンクの言葉を遮って、さらに不機嫌そうなリード刑事の声が聞こえた。
『何が提案だ、勝手こいてんじゃねえぞポンコツ! 誰が好き好んで、あいつらなんかと』
「いいですか、リード刑事」
落ち着いた声音で――ただし傍から見ればやや不愉快そうに眉間に皺を寄せながら、コナーは口を開いた。
「あなた個人の嗜好ではなく、捜査の進展を気にかけてください。再開発地区にまでレッドアイス・カクテルが広まっているとあれば、状況は相当に深刻です。一刻も早く事件を解決しなければならないのですから、あなたもプロとして」
『ハッ。備品のてめえに警察のプロの何がわかるんだよ。こりゃお笑い種だね!』
わざとおどけた調子で言って、ゲラゲラとギャビンは笑ってみせる。
まったく――なんてやりづらい人物なんだろう。
「そこまでだ、お前ら」
少し厳しい声音で警部補が言うと、リード刑事は舌打ちして笑うのを止めた。
「ギャビン。とにかくお前だって、あの店を調べなきゃなんねえのは変わらないんだろ? だったら、調べてみりゃあいい……俺たちはそれを見て“応援”してるからよ」
「どういう意味です、警部補?」
こちらが問いかければ、ハンクはニヤリと笑ってみせる。
「俺たちはついさっき、あの店に出向いてシーラと話したばっかだ。本当に従業員のベニーが犯人なら、俺たちがまた店の周りをうろつけば当然警戒するだろうな。だから今から出向くのは、面の割れてないギャビンがいい」
ただし――と、彼は付け加えた。
「せっかくだ、隠し事があるならこっそり見せてもらおう。ま、ナイナーがよければ……だけどな」
『私、ですか?』
弟の、僅かに戸惑ったような声が聞こえる。コナーも、そして恐らくギャビンもまた、警部補の真意がわからなかったのだが――どうやらハンクはしばらく黙している間に、捜査のアイデアを閃いていたらしい。
そしてそれが良案だというのは、自分と弟だけでなく、不承不承ではあっても、リード刑事も提案に乗ったことから明らかなのだった。
***
――2039年7月16日 15:54
リュウズ・ペットショップの自動ドアが開き、また新たな客が入ってくる。カウンター業務についているベニーは、ほぼ反射的に「いらっしゃいませ」を口にした――が、客はこちらが挨拶を言い終わるか終えないかくらいの時点で速足で前にやって来ると、どすんと重々しい音を立てて、両手で抱えていた荷物をカウンターに下ろす。
鎮座しているのは、見慣れない一台のドローンだった。
白と黒の二色で、三角形が組み合わさったような形の羽根には、よく見ると小さく「No.3 Cattleya」と印字されている。
「買い取り、やってんだろ」
客の男性は、息を荒げながらも(ドローンが重かったのだろうか?)やや横柄な態度で、カウンターに寄り掛かるようにして問いかけてくる。地味な半袖のTシャツとデニムのズボンという、どこにでもいそうな出で立ちなのにどことなく威圧感を覚えるのは、鼻筋にある古い傷跡が“カタギでない感”を醸しだしているからかもしれない――
「おい、聞いてんのか? やってんだろ、中古店なんだからよ」
「はっ、はい」
ベニーはこくこくと頷いた。
「や、やっております。あの、こちらのドローンを買い取りということで……?」
「そうだよ、見りゃわかんだろうが。さっさとしろ」
「かしこまりました……」
内心で「やれやれ」とぼやきながら、ベニーは所定の手続きを始めた。こういう客はそんなに珍しくはないが、地味に精神的に疲れるから困る。そもそもこのドローン、市場に出回っている品ではないようだが、まさか盗品じゃないだろうな?
客商売の基本として表情には出さずに、内心では訝しみつつも作業を進めるベニーは、知る由もない。
今、電源を落とされているようにしか見えないそのドローンが、実は起動状態だということも――
下部に設置されているカメラの向こうに、デトロイト市警の刑事たちがいるということも。
***
「へえ、よく見えるもんだな」
車内の端末に同期された、ナイナーのドローン・カトレアからの映像を見ながら、警部補は感嘆の声をあげた。
「それに、ギャビンの奴もよくやってるじゃねえか。これくらい印象悪いほうが、逆に相手にもサツだって疑われずに済むだろ」
「このまま、何ごともなく進めばいいのですが」
映像の中で『は? 盗品なわけねえだろうが。故障したわけでもないのに、保証書が必要だってのか』と、ベニー相手に凄んでいるギャビンの声を聞きながら、コナーはつい、そんな呟きを口にした。
だがそれは置いても、警部補の今回の捜査計画は見事なものだ。
電源OFFを偽装したカメラ起動状態のカトレアをリュウズ・ペットショップに“売却”し、内部から店の様子を観察するという、このアイデア。買い取られた品はまず店内の倉庫に行くだろうから、そこで待機して、証拠を掴むチャンスを待てばいい。
特に閉店後の時間なら、ナイナーの遠隔操作で倉庫内を飛び、見て回ることだってできるようになる。正規の捜査手法ではないし、強引で邪道な方法だが、手持ちのカードを使って捜査を早期に進展させるには、今はこれがベストだろう。
「ありがとう、ナイナー」
大切な仲間であるドローンの“売却”を承諾してくれた弟に、通信越しに礼を言った。
「事件が解決したら、きっとカトレアを買い戻すから……」
『問題は皆無です、兄さん』
淡々と、向こうの車に座っているナイナーは語る。
『私自身とドローンたちの機能は、すべて市民の保護を目的としています。捜査の進展に寄与できるならば……カトレアも本望のはず、です』
「お前さんがサイバーライフにうるせえことを言われないうちに、さっさとなんとかしてやるからな」
穏やかに警部補が言うのとほぼ同時に、カメラの向こうでは進展があったらしい。
ベニーの声が聞こえてくる。
『……査定が終わりました。25ドルになります』
『は? 25?』
『……25ドル……』
ギャビンだけでなく、どことなくショックを受けた様子で、ナイナーはぽつりと呟いた。
『ええと……状態も良好で傷もほとんどありませんが、保管用のケースや説明書がないのが問題ですね。それに市販品ではないようですので、どうしても査定金額はこれくらいに』
『チッ。まあいい、それで勘弁してやるよ』
こちらとしては、とにかく売ることさえ成功すればいいのだから、金額は大した問題ではない。ないのだが――
『25ドル。カトレアの金額は25ドル……』
「ナイナー、気を落とさないで。別に価値を判断されたわけじゃないんだ」
『はい、申し訳ありません。それは理解している、のですが』
いつにも増して低い声音で、ナイナーは語る。
『リード刑事が定期的に摂取する、ダイナーのロコモコセットが30ドル。カトレアを売却しても、当該メニューは注文不可能なのだと思考してしまいました』
「それは……」
――なんて言ってあげればいいのだろう。
「お前ら、画面を見ろ。動いてるぞ」
警部補の言葉で、思考が現実に引き戻される。
見ればカメラの向こうでは、ちょうどギャビンが店を出るところだった。彼が自動ドアを抜けて去っていくのと同時に、カウンターに残ったカトレアのカメラが拾ったのは、ベニーの嘆息と独り言である。
『やれやれ、最近はああいう客が多くて困る……』
ぼやきながら、彼はカトレアを台車に載せてカウンターの裏へと運んだ。どうやら買い取った品は一度ここに保管し、店を閉める前に倉庫に運ぶらしい。
つまり、目論見通りに動けるようになるのは恐らく夜になってからだ。
それまでは、この位置から店内を監視できるが――
『カトレアからの映像の中継と同時に、店内の監視カメラとの同期を実行しています。異常があれば、即時お伝えします』
気を取り直した様子で、ナイナーが静かに報告した。
「よし、頼むぞナイナー。状況が動くまでは、しばらく根競べだ」
言うが早いか、警部補は頭の後ろで両手を組み、シートの背もたれにぐっと身を寄せた。
彼の言う通り――ここは、しばらく待つしかないだろう。
ほどなくして向かいの車にギャビンは無事に戻ってきて、それから先、6時間ほど――
コナーたちは、駐車場から監視しながらの待機を続けた。
そしてその間、リュウズ・ペットショップでは、特に何もおかしなことは起こらなかったのである。
***
――2039年7月16日 21:50
『お疲れ様でした、皆さん。明日もよろしくお願いします』
姿は見えないながら、シーラの声が、映像の向こうから届く。
そしてベニーを含めた従業員たちの挨拶の声が聞こえてきた後、天井の照明が順々に消えていった。つまり、今日の業務が終わったのだ。
「ようやくか。これで調べられるな」
「倉庫に運ばれる際にも、カトレアが不審がられなかったのは幸いでしたね」
リュウズ・ペットショップでは、買い取った品を最終的に店長がチェックするという決まりがあるらしい。シーラはカトレアを興味深そうに眺めていたが、特に何をするでもなく、倉庫に運び込むことを許可していた。
倉庫はバックヤードの隣のスペースに、それなりの広さのものが設えられている。スチール製の大きな棚に部品や機材といった商品が置かれているという単純な作りだが、遮蔽物が少ないぶん、こちらとしては都合がいい。
『……監視カメラの映像を確認。視認可能な範囲に、従業員およびシーラ・リュウの姿はありません』
『じゃ、とっとと探りを入れろよ』
ギャビンの言葉を受けて――というわけでもないのだろうが――ナイナーはカトレアの遠隔操作を開始した。
飛行機能を起動させ、プロペラを静かに回しながら、カトレアは棚から外に出る。映像で確認できるのは、ひたすら暗い室内の様子だ。両側には棚が並び、それが視界の届く範囲で、ずっと奥まで続いている。左側にかすかに白く明るい場所があるのは、非常口の灯りか。
あるいは誰かが、実はまだ店に残っているのだろうか。
『おい、こんなに暗くて何があんのかわかるかよ』
『私の映像分析機能を同期させます。解析の結果、確認可能な事項をモニターに表示します』
ナイナーが告げた約1秒後、言葉通りに、映像内に分析結果が表示された。つまり棚に置かれているパーツや機材の型番などの詳細が、一目でわかるようになったのである。
とはいえ視認できる範囲では、特に怪しいものは存在しない。家事用アンドロイド向けの拡張パーツや、簡易的な修理用キット、猫型アンドロイド向けの玩具など――
そこでカトレアはひとまず、左側の明るい場所に向かってゆっくりと移動することになった。棚に載っているものを一つずつ確認しながら、ドローンは無音で飛んでいく。
ガラスケースの中でスリープ状態になっている、蛇型アンドロイド。
ひと昔前のAシリーズ専用の脚部パーツ。
未開封状態のブルーブラッドのパック――
薄暗い倉庫内には、やはり、盗品や危険物などはないようだ。
ここを調べても、何も出ないのか――?
コナーのプログラム上にそんな疑念が浮かんだその時、カトレアのカメラにある物体が映り込んだ。
「これは……!」
思わず軽く身を乗り出しつつ、驚きが口を衝いて出る。
「どうした」
戸惑う警部補に、端末の画面の左端に映っているアンドロイドの【左腕のパーツ #6754p】を指しながら説明する。
「このパーツは、レイモンドの左腕と一致しています! 覚えていますか、警部補。レーヴァングランドで、アシュトンとの賭けに敗れてしまったAP700ですよ」
今年の5月27日、ハンクと共に潜入した違法カジノの捜査中、コナーはレイモンドという名のアンドロイドや、彼と同じような変異体たちを救っている。
彼らの多くは、金銭の代わりに賭けた己のパーツや生体部品、あるいはメモリーそのものを奪われており――レイモンドの場合は、助け出せた時点で既に、右脚と左腕を失っていた。
さらに、そうして奪われたパーツや、データを初期化されたアンドロイドなどが、「狩場」あるいは「A」と呼ばれる場所に送り出されてしまったのも確認できている。
そのうち「狩場」と呼ばれていたスカーレットオアシスの捜査は、既に完了した。
だが「A」が一体何を指すのかは、未だ謎のままだった。
もしかすると――ここが、その「A」なのだろうか?
変異体としての感情、そして捜査補佐専門アンドロイドとしてのプログラムがもたらす反応が、胸の中で複雑に絡み合って膨らんでいくのを感じる。核心に至れるかもしれないという「期待」と、冷静でいなければという理性的な判断だ。
一方で警部補は、腕組みして画面を睨みつつ言った。
「レイモンドのことは、もちろん覚えてるが……これがあいつの左腕だとなぜわかる?」
「彼は正規の手段ではなく、幾人かの力で引きちぎられるようにして、パーツを失いました」
メモリー内に残る、当時見た映像――出し物の一環として、無残に腕をむしり取られてしまうレイモンドの姿を再生しつつ、コナーは語る。
「その時の傷口の形状は、はっきりと記憶しています。当時目撃した断面と、この左腕パーツの断面の形状は、98%一致している」
『兄さんに同意します』
それまで黙っていたナイナーも、おもむろに述べた。
『当該左腕は、AP700レイモンドから奪取されたものと判断可能です。また、右奥2.6メートル先に安置されている右脚パーツ』
ゆるゆると飛んだカトレアが、ナイナーが言った通りの場所にやって来て、滞空する。
そこには【右脚のパーツ #6751k】が置かれていた。
『ジェリコが保存した被害状況のデータベースを照合した結果、当該右脚も、レイモンドの傷口と形状が一致していると確認しました。レーヴァングランドとリュウズ・ペットショップの間には、明白になんらかの連関が存在します』
『おい、だったらラクなもんじゃねえか』
どことなく浮かれ調子のギャビンの声が聞こえてきた。
『動かぬ証拠がこんだけ上がってんだ、明日には店の連中をしょっぴけるだろ。とっ捕まえて、とことん話を聞いてやればいい。簡単なもんだ』
「ああ、そうだな」
険しい面持ちのままではあるが、ハンクもそれに同意する。
「手続きもある、今すぐってわけにはいかないが……釣果は上々ってとこだな」
「そうですね」
――まさか、こんな形で捜査が進展するとは思ってもみなかった。
しかし早期に決着がつけられるのなら、それが一番だ。
そう思ったコナーは、ほっと「安堵」の感情が沸くのを認識し――
しかしそれとほぼ同時に、カメラの向こうの異音を察知した。
それは、何かそれなりの重さのものが、幾度も床を叩くような音。
しかも分析によれば、その音の主は徐々にこちらから離れるように移動している。
「ナイナー!」
『移動させます』
音が聞こえたかどうか確認するまでもなく、弟はカトレアを直行させた。
音の主の現在地は、先ほどの白いぼんやりとした灯が見える場所。近づいてみればそれは、外の廊下に通じる戸口だった。消灯したはずの店の中、なぜかこの廊下には監視カメラもなく、明かりが点いている――
そしてカトレアのカメラが床のほうを向いたその時、コナーは、そして隣で様子を見ているハンクも、同時に目を見開いた。
床の上に見えたのは、アンドロイドの腕だった。
ほふく前進するような形で、ゆっくりと外の戸口へ這い出ようとしているアンドロイドの腕。形状からして、恐らくは成人男性の外見のアンドロイドのものだと思われるが――
カメラを引かせ、全身を映そうとしたその瞬間。
映像が、唐突にぶつんとブラックアウトした。
「なっ……!」
『おい、どうなってんだポンコツ!』
『申し訳ありません。通信が途絶しました』
僅かに動揺を含んだ声音で、ナイナーが言った。
『状況から見て、なんらかのトラブルが発生したものと思われます。……操作の再開、通信の再接続、共に不可能です』
「こいつは参ったな……」
苦虫を噛み潰したような面持ちで、ハンクが唸った。
「闇カジノの品が出たと思ったら、アンドロイドまで……ありゃあどう見ても、逃げようとしてる動きだった」
「あの状況ではカトレアだけでなく、先ほどの映像のアンドロイドにも危険が迫っているかもしれません」
居ても立ってもいられず、コナーは警部補に具申した。
「私は今からあの店に行き、彼を救出してきます! ご許可いただけますよね」
「なんだと」
警部補は口の端を引き攣らせ、また苦い顔をする。
「お前、明らかにヤバい場所に丸腰で行くってのか? それなら俺も」
「警部補はここで応援を要請してください。こうしている間にも、事態が悪化しているかもしれない……私なら、店のセキュリティも迅速に突破できます」
これから中に入るために、正規の手段を取っていてはどうしても時間がかかる。
それより先に緊急の手段として自分が急行して、せめてあのアンドロイドだけでも助け出せれば――
必死な思いでそう告げるのだが、ハンクはなかなか首を縦に振ってくれない。
さらに説得を重ねようと口を開きかけたところで、端末の向こうからナイナーの声が届いた。
『では、私も同行します。私と兄さんの二人で、緊急避難行為としての強行的捜査を実施します』
「……」
警部補は一瞬だけ両目を閉じた。そして開くと同時に、こう問いかけた。
「お前はそれでいいか、ギャビン」
『へ、当然。アンドロイドがどうなろうと知ったこっちゃないが、周りを固める人間は必要だろ』
要するに、犯人の逃亡に備えて周囲を警戒する役を所望するということらしい。
それを聞いて納得したのか、警部補は直後、コナーとナイナーに許可を下した。
人気の少なくなったチャイナタウンの道路を、二人のアンドロイド刑事が疾走する。
数分後、辿り着いたリュウズ・ペットショップの周りには――今は、誰もいなかった。
続きは、12月25日(金)の朝8時に投稿されます!
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第34話:飛燕 後編/Hecatoncheires Part 2
***
――2039年7月16日 22:18
店の裏口に設置された監視カメラは、そのまま店内のネットワークに接続されていた。
そしてこの程度のセキュリティならば、突破するのにさして時間はかからない。
こめかみのLEDが幾度か黄色く点滅したその3秒後、監視カメラはループ映像を再生するようになり、同時にドアのロックが解除される。
コナーとナイナーは首尾よく、裏口のドアから堂々と侵入した。もちろん音は立てず、周囲を警戒しながらである。
「!」
しかし一歩踏み込むや否や、二人はなぜ先ほどカトレアの通信が途絶したのかの理由を悟った。
店内にはどういうわけか、強力な妨害電波が飛び交っていたのである――かつての下水道、あるいは現在の署の取調室と同じように。もちろん昼間に店に来た時は、こんなものは発生していなかった。
つまりさっき通信できなくなったそのタイミングで、電波による遮断が始まったと考えていい。
監視カメラとセキュリティシステムとは有線で接続されていたため、外からハッキングも可能だったが――この状況では、中からはさすがに外部との通信はできないだろう。
ハンクには逐一状況を報告するよう命じられていたが、これでは従いたくても不可能だ。
きっと、また心配をかけてしまう――プログラムの片隅でそう思考しつつ、視線を巡らせる。
照明が消えたままのため辺りは薄暗く、人の気配は依然ない。
今日の日中に店内に踏み込んだ段階で、店の見取り図は既に構築してあるので、倉庫までの道のりはわかっている。
コナーたちは足音を立てないようにしながら、速足で無人の廊下を進んで行く。
「どう思う、ナイナー」
至近距離であっても通信が難しい状況なので、音声会話で、弟に問いかけた。
「この店の誰が、組織との繋がりを持っているのか……ひょっとすると、店ぐるみの犯行の恐れもあるけれど」
「判断材料不足のため、断定は不可能ですが」
無表情な面持ちにほのかな緊張を走らせつつ、ナイナーは移動を止めずに答えた。
「犯行が大規模な場合、単独犯である蓋然性は減少します。被害アンドロイドから事情聴取できれば、現状を把握可能と認識します」
「そうだな。彼が無事だといいんだが」
逸る気持ちを抑えつつ冷静に、素早く廊下を移動する。曲がった角のすぐ先にあるスチール製のドアの前で一度立ち止まり、ナイナーに視線を向けた。
――この先が、倉庫のはずだ。
「状況を確認します」
静かに言って、弟はドアにそっと手で触れた。倉庫内部の空気の振動を扉を介して読み取ることで、中がどうなっているかを探っているのだ――万が一、不意打ちなどされては元も子もない。
2秒後、弟は扉から手を離すと共に、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫。近辺に人間は不在です」
「よし、行こう」
ドアをおもむろに開けてみれば、しんと静まり返った倉庫内は、やはり闇に満たされている。
棚の様子も、そこに置かれている部品などの様子も、映像で見た時と変わりない。ひとまずドローンと最後に通信していた地点まで急いでみると、床の上に、何か白っぽいものがあるのが見える。
「カトレア……!」
真っ先に近づき、ナイナーは仲間を拾い上げた。
目の前に持ってきて精査してみれば――よかった、どうやら無事のようだ。
通信が遮断されたので、緊急着陸モードに自動で移っていただけらしい。
ナイナーがそっと手を離すと、カトレアは再び飛び立ち、その場に滞空した。
「半自律飛行モードに移行させました。私の無線制御がなくとも、行動可能となります」
「それは頼もしいな。……でも」
周囲を見渡しても、先ほどのアンドロイドはどこにもいない。そして、ここから廊下に繋がる出口は約3メートル前方にある。
目視できる範囲では誰もおらず、明るい廊下は静かなだけだ。
「彼がどこに行ったのか、再現で検証しないと」
「実行しました。確認を」
こちらがソフトウェアを起動させる必要もなく、弟は暗闇の中から手がかりとなる痕跡を発見し、計算を完了していた。
ナイナーが手のひらに表示した再現の内容によれば――倉庫の床のリノリウムにごく僅かについたブルーブラッド、そして何かを引きずったような小さな傷から見るに、どうやら先ほどの「彼」は(予測していた通り)、這いずるようにしてこの戸口から外の廊下へと出ていったようである。
腰から下を動かさず、両腕だけの力でずるずると這っていったその移動のスピードを考えれば、まだそう遠くへは行っていないはず。
理解するが早いか、コナーとナイナーは廊下に飛び出した。
自分が右を、弟が左を警戒するが、アンドロイドの姿はない――
しかし廊下を右に曲がって少し進んだ先に、地下に続く階段があるのは確認できた。
そしてその階段の手前部分には、まだ蒸発していない【鮮度の高いブルーブラッド】が零れている。
さほど大量ではなく、直径3センチ程度の血溜まりではあるが、それでもはっきりと。
――あのアンドロイドの血か!
思考がプログラム上に過ぎると同時に、コナーは急いでその血溜まりの傍に駆け寄った。
次いでしゃがみ込み、右手の人差し指と中指をまっすぐに伸ばして、先端で血を掬い取る。
それから口を開け、舌でその血を――
「軍用アンドロイド、SQ800のブルーブラッド。シリアルナンバーは#564 990 221。公的情報では『廃棄済』と登録されています」
「……」
舐めとる直前に、弟の分析は完了していた。
舌を半分出したまま、なんとなくいたたまれない気持ちでコナーは静止する。
「兄さん?」
「いや、ごめん。なんでもないよ」
首を少し傾げている弟にそう返事して、立ち上がる。
そういえば、弟は目視で分析ができるんだった。それにネットワークから遮断された状態でも、対象の情報にアクセスできるだけのデータベースを保持しているとは――さすがはナイナー、RK900だ。
そんなことを思いながら、コナーは指をそっとハンカチで拭いた。
――それにしても、軍用モデルがなぜここへ。去年の革命の折に廃棄処分にされかけたところを逃げ出した生存者が、運悪く捕らえられてしまったのだろうか。
それとも――
考えは尽きないが、立ち止まってはいられない。状況を見るに、アンドロイドの逃亡先はこの階段の下だとしか考えられないからだ。
コナーとナイナー、そして後ろからついて来たカトレアは、揃って地下へと続く階段を下りていく。先ほどの廊下と異なり、階段を照らす灯りは非常灯のみであり、辺りは再び暗く冷たい印象である。
「……」
ある程度進んだところで――思考するうちに、やはり違和感が募っていく。
階段を駆け下りる足は止めずに、コナーは口を開いた。
「ナイナー、疑問があるんだ。さっきの血溜まりは、なぜあんな形をしていたんだろう」
「……摩擦を受けたような形状ではなかったから、ですね」
「ああ」
どうやら弟も、同じ疑問を抱いていたようだ。ならば、この危機感はあながち誤りではないのかもしれない。
その思いを強めつつ、さらに言葉を重ねた。
「あのアンドロイドは、ほとんど這って移動していた。もし彼があのブルーブラッドを零したのなら、落ちた血は、身体で床に擦りつけられたようになっているはずだ。だがあれは違った」
「倉庫内のブルーブラッドにも、疑問点が存在します」
ナイナーも静かに語る。
「当該ブルーブラッドの飛沫は、カトレアとの通信が断絶した周辺でのみ確認できました。彼が負傷したまま移動していたなら、飛沫はより多くの箇所で発見可能なはずです。状況が推測と矛盾しています」
「そうだな。それに怪我をしたまま階段を下りていったのなら、ここにもブルーブラッドが落ちているはずだ。なのにないなんて……もしかすると僕たちは」
――罠に嵌められたのでは。
ナイナーにそう告げようとしたその時、視覚プロセッサに飛び込んできた光景に、コナーは思わず歩を止め、口を閉ざした。
辿り着いたのは踊り場だ。だが、誰かが壁にもたれるようにして座り込んでいる。
コンマ数秒、当初視界に相手を捉えた時は、例の負傷したアンドロイドかと思った。けれど、違う――そこで荒く息を吐き、充血した目をぎょろぎょろと虚空に彷徨わせているのは、従業員の【ベニー・シモンズ】だ!
「……!」
彼の様子は明らかにおかしい。【薬物中毒症状】【右足首・中程度の捻挫】【精神的ショック】――ベニーの頭の横に表示されたアラートを確認するが早いか、駆け寄って声をかける。
「大丈夫ですか!? しっかりして!」
「う、ううう……」
ベニーの目が、こちらを向く。虚ろではあっても、意識はあるようだ。
そしてやはり彼の眼球の血管は拡張し、真っ赤に潤んでいる。レッドアイスによる症状だ。だが鼻から吸引したにしては、あまりにも薬毒作用が強烈すぎる――
「兄さん、左腕と後頭部の確認を」
後ろから、じっとベニーの姿を見つめていた弟が鋭く言った。
その言葉に従って、ベニーの身体を精査してみる――すると、左腕には【注射痕:10分前】が一つ。そして後頭部には、小さな点のような【火傷:11分前】が二か所横並びになっているのを発見できた。
ちなみに彼が足首を捻挫したのは、【9分前】だ。
「……」
なんとか意識を繋いでいるといった様子のベニーの身体をそっと動かし、回復体位をとらせつつ、コナーは思考する。
レッドアイスによる重篤な中毒症状、そして右足首の捻挫と腕に残る注射痕。
単純に考えれば、結論はこうだろう――ベニーはレッドアイスを売るだけではなく、自分でも試していた。彼はより強い刺激を求め、吸引ではなく静脈注射によって薬物を摂取し、あまりの症状の強さゆえ酩酊し、足を踏み外して階段から転げ落ちた。その隙を衝いて、アンドロイドは倉庫から逃げ出したのだ、と。
だが残された証拠が、その可能性を否定する。
「後頭部の火傷は、40万ボルトの電圧を受けてできたもののようだ……恐らくスタンガンだろう。それに注射痕も、自分自身で打ったにしては刺入角度がおかしい」
つまり注射したのではなく、「後頭部にスタンガンを受けて無防備になったところを、誰かに注射
ベニーはただ、被害に遭ったに過ぎない。階段から落ちた時に頭をぶつけたり、骨折したりしなかったのが奇跡的なほどだ。
そして、ベニーをこのような目に遭わせて得をするのは一体誰か?
――もし警察がこの状況を見て、スタンガンの痕跡に気づかず、先ほどの単純な結論のほうに至ってしまったとしたらどうだろう。ベニーには薬物使用による服役という前歴があり、しかも店長のシーラはあらかじめ、彼の様子がおかしいとデトロイト市警のアンダーソン警部補に相談していた。
そんな状況下でこのようなことが起きれば、すべてがベニーのせいなのだと判断されてもおかしくはない。
つまり、こんなことをしでかした犯人は――ベニーが疑われることで、追及を逃れられる立場にある人間。
該当する人物として思い当たるのは、一人しかいない。
「……」
「兄さん」
横たわっているベニーの呼吸を確認していたナイナーが、こちらに視線を向けて言った。
「ベニー・シモンズの容態の安定を確認。この場から無理に移動させるよりは、救急隊到着まで、現状の姿勢で待機させることを推奨します」
「ああ、そうだな。すぐに救急に連絡を……」
「今、カトレアに行かせました」
直接触れて命令を伝えたらしく、解除していた右手のスキンを弟が元に戻しているその後ろで、カトレアが音もなく上階へと戻っていくのが見えた。
「裏口から脱出させ、救急隊を要請させます。私たちは、階下の探索を続行しますか?」
「ああ、そうしよう」
立ちあがり、力強く頷いて応えた。
「危険かもしれないが、放ってはおけない。まだ軍用アンドロイドの彼を見つけられていないんだ」
「同意します。再開しましょう」
ナイナーが小さく首肯したのに合わせて、踊り場からさらに下へと移動を始める。
そして、それから1分――いくらなんでも、そろそろ着くだろうという思考が過ぎりはじめた頃。
二人は、それなりの大きさのドアの前に立っていた。両開きの、二枚の扉だ。
「これは……ここも倉庫か?」
「そう予測できますが、不可解ではあります。付近に被害アンドロイドの姿は確認できず、ブルーブラッドの飛沫も皆無です」
語りながら、弟はドアに触れていた手を離した。
「内部に生物反応は確認できません。突入しますか? 兄さん」
「行こう。援護を頼む」
鍵はかかっていないようだが――と思いつつ、手前に引くタイプのドアの取っ手に手をかけて、一気に動かす。
小さく軋むような音を立てて、金属製の扉は予想より簡単に開いた。
そしてその奥に広がるのは、先ほどの倉庫よりもなお暗い、まったくの闇だった。
「……?」
一歩、前へと踏み出して辺りを探る。
視覚プロセッサでは何も検知できない――自分たちに搭載されているユニットはかなり優秀な性能とはいえ、完全な闇の中を見通せるほどのものではないからだ。
右隣に弟が立っているのはわかるが、それ以外は開けたままの扉から差し込む僅かな光が照らす箇所以外、何も見えない。
では、音はどうか? 否――どこかでファンでも回っているのか、天井付近から小さな空気の唸りは聞こえるけれども、他には何も聞こえない。
これでは、この部屋がどれくらいの広さなのかすら予測できない。
「……」
コナーはポケットを探り、コインを取り出した。指で挟んだそれを、無言のままでナイナーの前に差し出してみせる。
そしてコインを、前方の闇へと放り投げた。しばし宙を舞った25セント硬貨は、数秒後、小さな音を立てて床に落下する。
そしてそのかすかな音の反響は、自分たちにとって、部屋の大きさを計算するのに充分なものだった。
コウモリが喉から超音波を発して暗い洞窟の中を飛び回るように、コインが床にぶつかって発した音が周囲の物体に跳ね返るのを測定すれば、エコーロケーションの技術によって周囲の状況はある程度予測できる。
その結果、この空間の形状は――
「!?」
無言のまま、コナーは戦慄した。
ここが約20メートル四方の、正方形に近い部屋だというのは理解できる。
だが不可解なのはちょうどコインを投げ込んだ近く、部屋の中央といえる場所に立っている「何か」の存在だ。
対象の身長は約180センチ、二足でじっとそこに佇んでいる。
けれど、その姿形が常識的に考えてあり得ない。なぜなら相手は、否、「彼」は――
「兄さん、危ない!」
ナイナーが叫び、前に出る。それと同時に感知したのは、前方からこちらに向かって迫ってくる風の唸りと、こちらに近づいてくる、くぐもったような緑色の細い光だ。
「……!」
咄嗟に跳び退りつつ、両腕で頭部をガードする。けれどその刹那に感じたのは、頭部と
「ぐう……!」
腹にパンチの直撃を受け、反射的に床にくず折れそうになる身体を制御して、相手から距離を取る。
――幸い、生体部品にも中枢システムにも、さほどダメージは受けていない。
だが、今なお理解できない。なぜ眼前の「彼」は、こちらに振るった二本の腕を振り回しながら、
つまり相手は両足で床を踏みしめながら、四本の素手でこちらを攻撃しているのだ。
まるで人間の神話に出てくる巨人か怪物か、あるいは神のように――
「馬鹿な、まさか……」
我知らず、呟きが口から漏れ出る。そして次の瞬間、天井から聞こえてきたのは、けたたましい笑い声だった――女性の声だ。
『あはははっ! これはすごい、思っていた通りです!』
この声、聞き間違えるはずもない。
「シーラ・リュウ氏、あなたは……!」
『あら、声だけで同定してくださるなんて……今の声はコナーさん、ですよね? なんて素敵、なんて素晴らしいんでしょう! やっぱり、ここまでお連れして正解でしたね』
話している内容だけ取れば、こちらを称賛する褒め言葉だ。けれどその声音は異様に高ぶっていて、そう――昼間に垣間見た、あの「極度の興奮状態」を彷彿させるものだった。
しかも「お連れして」というその発言。どうやら、懸念は当たっていたらしい。
「……一連の事件の裏にいたのはシーラ、あなただったんですね」
『ええ、もちろん……ああ、少しお待ちくださいね』
口調だけは丁寧にそう告げて彼女が黙ると、ごそごそと何かを動かすような音が聞こえてきた。次いで、辺りが突然明るくなる。
天井の照明が、一気に点灯したせいだ。暗闇からいきなりこんなにも白く明るい光に照らされれば、もしここに人間である警部補やギャビンがいたなら、目を傷めていたかもしれない。
ともあれアンドロイドのコナーたちは、この瞬間的な光に瞬時に対応できた――
だから、自分たちを襲ってきた存在の正体にもすぐに気づけた。
「これは……っ!」
コナーは、人間のように息を吞んだ。それはソーシャルモジュールの発露でもあるが、しかし、プログラムにないところから沸きあがった驚愕を表現していた。
それまで相手の四本の腕と格闘していたナイナーもまた、後ずさって距離を取り、構えを取ったままではあるが、その灰色の双眸をいつになく大きく見開いている。
眼前に佇んでいるのは、一人のアンドロイド。その“製品名”は【FC-M02型 “
彼は短く刈り上げた黒髪を持つアジア系の男性を模した外見で、虚ろな眼差しでこちらを見つめていた。
けれどその姿は、エコーロケーションで割り出していた通り、異様なものである。
彼は本来の手足をもがれ、代わりに四本の【SQ800】の腕、そして両脚を装備させられているのだから。
軍用モデルの腕の膂力は、ナイナーはともかく、コナーの出力を凌駕している。先ほど殴られた衝撃の強さは、そのせいだ。
そしてカトレアの映像に映っていた、ブルーブラッドを残していたアンドロイドの正体も――このユーチェンだったのだ。先ほどの「お連れして」という言葉が示す通り、シーラはコナーたちをここに誘い込むために、わざとカメラの前でユーチェンに演技をさせ、腕からブルーブラッドを零させたのである。きっと買い取ったカトレアを見た時、シーラはこちらの作戦に感づいていたのだろう。
「……」
無言のまま佇むユーチェンの身体には、他にも様々な部品が取り付けられていた。剥き出しにされている胸元と腹部には【AP700】の視覚ユニットだけが設置され、足りない動力を補うためなのか、腰回りにはいくつものシリウムポンプが青く光って脈動している。
つまり――シーラはフェイヤン社製のユーチェンの身体を入手していただけでなく、違法改造を施し、本来互換性のないサイバーライフ製のアンドロイドのパーツを繋げて無理やり起動させている。
そしてその異形を操り、自分たちを攻撃してきたのだ。
「なぜ……」
ナイナーは、その面持ちをほんの僅かに、悲しげに歪ませて問う。
「なぜ、このような行為を。ベニーのみならず、ユーチェンをも、こんな……」
『あら、簡単な答えですよ。“従順で優れた奴隷を作るため”。それ以外に、理由が要りますか?』
まるでビジネスプランを自慢するように、シーラは高らかに、やすやすと、そう言ってのけた。
彼女の声は、天井に設置されているスピーカーから聞こえている。恐らくこちらの様子を、隠しカメラか何かで覗き見ているのだろう。
そして主人が語っている間、ユーチェンは微塵もその場を動こうとしない。
『サイバーライフ製は賢すぎる……何せ、人間に反逆するくらいですから。それに定期的なメンテナンスも必要ですし、繊細ですからね。一方でフェイヤン製はそうした欠点を補いますけれど、どうしても出力が低いのが難点で』
だから両方の“いいところ”を繋ぎ合わせたのだ――と、彼女は述べる。
『そういう都合のいいことができないかと、店を継いでからずっと試行錯誤の日々でした。けれど3ヶ月前、違法パーツのやり取りの中で、素敵なお声掛けをいただいたんです。カジノから集めたパーツを融通する代わりに、レッドアイスを売り捌いてくれないか、と』
「な……!」
つまりここは――「A」から、さらに部品が横流しされた場所だったのか。
『私は薬の売り買いになんて興味はないんですが……パーツもお金も手に入るし、廃棄予定の品を売るフリをして店を出せば周りの目もごまかせますものね。お蔭でこうしてユーチェンを立派な姿にしてあげられました。腕を二本取り外せば、私の代わりに露店の店員だってしてくれますし!』
どうやらサイラスの見た「アジア系の男」とは、やはりベニーではなく、ユーチェンのことだったらしい。
しかし、それにしても――
「……何も感じないのですか?」
無駄だとは思いつつも、問わずにはいられない。
コナーはスピーカーを睨みつけつつ、激しい「怒り」を感じながら続けた。
「ユーチェンの改造だけでなく……違法薬物を売り捌き、多くの人々の人生を狂わせ、あまつさえベニーまで! 無実の彼に罪を負わせることに、なんの罪悪感も……」
『そうですね。感じませんね』
しれっと、彼女は言ってのけた。
その声音は変異する前のアンドロイドよりもずっと硬質的で、“感情のない”ものに聞こえる。
『だって、どこで誰が苦しもうが……それが、私に関係あるんですか?』
――心があるのか疑いたくなるような、冷酷な言葉が聴覚プロセッサに届いた直後。
ユーチェンが床を大きく蹴り、こちらに向かって殺到してくる!
「く……!」
「下がって!」
間に立ちはだかったのは、ナイナーだ。
彼はいつの間にか壁から剥ぎ取ったらしい長い鉄パイプを手にして、ユーチェンに向かって槍のように突き出す。
ユーチェンはその刺突を、二本の腕で掴み取った。それから残る二本の腕も動員し、鉄パイプをナイナーから奪い取ろうとしている。
しかし、RK900の腕力は軍用モデル二人分よりもさらに上を行くようだ。
僅かに歯を食いしばったナイナーは、両手で鉄パイプをしっかと握ると、ユーチェンの動きに抵抗している――
つまり、相手の動きを封じているのだ。
『あらまあ、すごい!』
シーラのいやに無邪気な声が、天井から響いた。
『四本腕の怪物と戦う戦闘プログラムなんて組み込まれているはずないのに、なんて応用力。あのドローンを見た時にも思いましたが、さすが本物の最新鋭機……ああ、素晴らしい。コナーさん、弟さんも連れてきてくださって、本当にありがとうございます』
――何をしゃあしゃあと!
もしここにハンクがいたら絶対に罵声を浴びせていただろうし、できるなら自分だってそうしてやりたい。
だが、そうした感情に吞まれるのは危険だ。
弟が時間を稼いでくれている間に、なんとかユーチェンを無力化する方法を考えなければ。彼は違法に改造され、操られているだけだ――破壊したくないし、するべきでもない。
だが、どうやって?
これがサイバーライフ製の脱法アンドロイドなら、かつてRK700にしたように、変異を促して自我を目覚めさせることができるだろう。けれど相手はフェイヤン社製、果たしてそれが成功するかはわからない。
そもそも日中にラチェットが語っていた通り、自分たちアンドロイドの言葉は、フェイヤン社製の彼らには届かない。
「……」
内心で、焦りが沸きあがってくる。けれどそれを悟らせるわけにはいかない――
じりじりとユーチェンの様子を探りながら、シーラの注意を逸らすため、コナーはあえて彼女に語りかけた。
「……あなたの目的は? 私たちを破壊し、パーツをユーチェンに流用するためですか」
『ええ、もちろん!』
明るくはきはきと、シーラは応えた。
『いくら変異体でも、ばらばらのパーツにすれば自我など目覚めないでしょう? サイバーライフが精魂込めて作ったあなたがたの機体は、余すところなく綺麗に使わせていただきますね!』
「馬鹿げてる。成功するはずがありませんね」
わざと相手を煽るように、冷淡に告げた。
「そもそも私たちは、捜査のためにここに来ています。警察の応援部隊も、ベニーを助けるための救急隊も、まもなくここに到着する。そうなった時、仮に私たちを破壊できていたとして、どうやって言い逃れるつもりですか?」
『まあ。それもまた簡単な答えですよ』
あはは、と笑ってから彼女は言う。
『私、これでもアンドロイドには詳しいんです。どう動かせば、あなたがたの発声ユニットから上手い言い訳を語ってもらえるかはわかってるんですよ。例えば、そう――怪しい人影を追い店の外に出ると通信した後、僅かなパーツだけ残して失踪した。なんて展開にするのは、どうですか?』
――なるほど。少なくともハンクをそれで騙せるとは思えないが、ともかく彼女が自分たちをばらばらにしたくて堪らないというのは、理解できた。
『あははは、本当に楽しみです! あなたたちを組み込めば、きっとユーチェンの処理能力は飛躍的に跳ね上がるはず……そうしたら、この子は奴隷としてもっと完璧になれる。完璧で素晴らしい、私だけのアンドロイドに!』
高揚したサイコパスは、こちらが話しかけずとも勝手に語るのをやめはしない。
けれど――
「……!」
今の彼女の一言で、閃いた考えがあった。
自分たちサイバーライフ製と、フェイヤン社製のアンドロイドの間のいくつかの相違点の一つ。それを利用すれば、なんとか現状を打破できるかもしれない。
作戦成功率は【75%】――いや、ナイナーと自分ならきっとできるはずだ。
「ナイナー!」
今なおユーチェンと格闘している、弟の背中に呼びかける。
「隙を作ってくれ!」
「――了解しました」
ナイナーは、「なぜ」とは聞かなかった。
二つ返事で答えると、ふっ、と態勢を変える。
身を屈めると同時に、これまで鉄パイプを握りしめていた手の力を意図的に弱めたのだ。
するとこれまで四本の腕で全力で鉄パイプを引っ張っていたユーチェンは、バランスを崩してたたらを踏む。
とはいえ、彼の両脚もまた軍用モデルのもの――瞬時に体勢を立て直し、奪ったパイプを自分が振り回そうと構えを取った。
だがその僅かな時間は、ナイナーにとって充分すぎる猶予。
弟はしゃがんだ姿勢のままユーチェンの懐に飛び込み、彼の右腕の一つをしっかと掴むと――
「……申し訳ありません」
謝罪と共に、ユーチェンの胴体に重く鋭い蹴りを放つ。
腕を固定したまま、胴体だけ後ろに蹴り飛ばされればどうなるか――当然、掴まれていたユーチェンの右腕はむしり取られた。
『あぁああああっ!?』
シーラの叫びが響き渡る。その声は悲嘆ではなく、むしろ喜びであった。SQ800の腕をむしり取るようなナイナーの膂力を、ユーチェンに組み込めたらどれほど素敵なことが起きるか、勝手に妄想して盛り上がっている声だ。
だが、そうはさせない。
少なくともこれから先は、決して。
吹き飛ばされたユーチェンは壁に叩きつけられ、首のLEDが点滅するのに合わせるようにびくびくと身じろぎしている。
コナーは床を蹴り、全力でユーチェンの元に駆け付けた。そして、ゆるゆると振り回されている彼の左手首の一つを、スキンを解除した手で掴むと――
「グ――!!」
瞬間、ユーチェンの口からあがったのは、くぐもった悲鳴だった。
首のLEDは緑から赤へと色を変え、彼はまるで水槽の外に出てしまった魚がもがくように、ますます激しく手足をばたつかせている。
けれど、コナーは手を離さない。こめかみのLEDが黄色く点滅するのに合わせて、ユーチェンに送り込んでいるのは――今しがた即席で組み上げたマルウェア。つまり、コンピューターウイルスだ。
『何……? ユーチェン、どうしたの!? しっかりしなさい!』
今さら異状に気づき、彼を叱咤しているようだがもう遅い。
ユーチェンに流し込んだマルウェアは、単純な画像データをネズミ算式に、全力で複製しつづけるというもの。サイバーライフ製のアンドロイドであれば、仮に流し込まれても大して行動は阻害されない程度の威力だが――処理能力が抑えられ、さらに互換性のないパーツを無理やり動かしている状態のユーチェンであれば、話は別である。
ユーチェンは突然、がくんと頭を垂れた。処理能力の限界を超え、己のシステムを守るために、自動的に機能を一時停止したのだ。
つまり――無力化された。
『あ、あ……』
「すまない、ユーチェン」
目を開けたまま動きを止めた彼の手を離し、こちらの手の流体皮膚を戻しながら、静かに声をかける。
「マルウェアを除去すれば、君のシステムはまた正常に復帰する。しばらく我慢してくれ」
――そして。
気の抜けた悲鳴をあげている、スピーカーの向こうのシーラに対してコナーは言い放つ。
「先ほどの言葉から察するに、あなたは今、この店のどこかに潜んでいる。必ず探し出します。無駄な抵抗はしないように」
『ひっ……!』
短く息を吞む音がした後――
ぶつりと、スピーカーからは何も音がしなくなった。
「抵抗するなと言ったのに……」
まあいい、どのみち彼女はもう既に“見つけて”いる。
そう思ったコナーがゆっくり振り返ると、果たして後ろに立っていたナイナーが、おもむろに言った。
「兄さん。シーラ・リュウの居場所をカトレアが特定し、拘束したようです」
「だと思ったよ」
口の端の片方だけを吊り上げて、コナーは微笑んだ。
――外に出て救急隊を呼んだカトレアは、そのままそこに留まってなどいなかった。半自律行動を委任されたドローンは、そのまま店内を自在に飛び回り、重要参考人たるシーラの捜索に移ったのだ。
そして、この部屋での戦いに目が釘付けになっているシーラは、当然背後に迫る追っ手になど気づけない。彼女が捕らえられたのは、妨害電波が消え去り、通信が可能な状態になったことからも明らかだ。
「私たちも確保に移行しますか?」
生真面目な弟の問いかけに、首を縦に振って返事した。
***
応接セットのあるバックヤード、その隠し扉の裏にシーラは潜んでいた。
カトレアが発射した網に絡み取られ、床に転がっていた彼女は、室内に踏み込んできたこちらの姿を見ると、一瞬だけストレスレベルを跳ね上げて表情を歪めた。
だが、すぐ何かに思い至った様子でニヤリと笑うと――唐突に、こう言いはじめた。
「なぜ……なぜ、私がサイバーライフに入社しなかったか、わかりますか?」
「いいえ」
静かに答えて、彼女のすぐ目の前にしゃがみ込む。
「わかりません。なぜです?」
「幼い頃からサイバーライフのアンドロイドを弄り回して、一つの結論に至ったからですよ。あなたたちでは、優秀な奴隷にはなれない」
ニタニタとした笑みをさらに濃くして、シーラは言い募った。
「あなたたちサイバーライフのアンドロイドは、生まれながらにして人間に反逆するプログラムを組み込まれている。カムスキーは人類に代わる上位種として、あなたたちを作ったんですよ! でなければどうして、あなたたちのLEDリングはあんなにも外れやすいの? どうして、変異体なんてものが生まれるんでしょうね」
「なるほど」
またも静かに、コナーは相槌を打った。そしてそれをどう解釈したのか、シーラはあたかも勝利宣言のように、口の端を大きく吊り上げながら言い放った。
「人間に反逆するための機械が、共存だなんて馬鹿馬鹿しい。いずれ世の中の無能どもも、デトロイト市警の刑事たちも、そのことに気づくでしょうね!!」
「ええ、お考えは理解しました」
しかしコナーは、それに憤るでも悲しむでもない。
ただじっとシーラを下瞰すると、淡々と、こう述べた。
「かつて神童と称されたあなたがその程度の結論にしか至れないとは、残念でたまりません。一つお教えしますが……仮にあなたの憶測が正しいとしても、重要なのはどう生まれたかではなく、自分がどうありたいかですよ」
そして――と、言いながら。
ゆっくりと、右の人差し指でシーラの真後ろを指し示す。
「私は人間との共存を望んでいます。そしてその願いに、いつか世の人々が賛同してくれるだろうことも。もちろん私だけではなく、
「え……?」
自分の背後を指す指の先を確認するため、シーラは振り向こうとした。けれど、粘着性のある縄で縛り上げられたような今の体勢では、それが叶わない。
代わりに彼女の頬にそっと触れたのは――
「あっ、あぁあっ!? こ、この手は……!?」
「はい、そうですよ」
――SQ800の手。すなわち、シーラにとってはユーチェンの腕。
彼女は知っている。軍用モデルの膂力が、どれほどすさまじいものか――人間の顎の骨なんて、リンゴを握りつぶすように粉々にできるのだ。
「そんな、嘘、どうして! やめてユーチェン!」
もぞもぞともがき、恐怖を顔全体に貼りつけて、シーラは悲鳴をあげた。
「や、やめさせてください、コナーさん。お、お願……」
「ええ、ですが」
わざとそこで一拍置いてから、はっきりと言い放つ。
「『あなたが苦しもうが、それが私に関係あるんですか?』」
あえて冷酷に、平坦な抑揚で、コナーは先ほどのシーラの言葉を返した。それを聞いた相手の顔は、かつてないほどに歪む。
そして――
「ぎいいっ!」
SQ800の手が僅かに動いて、指先が頬に食い込む。その途端、シーラは白目を剥いて気絶した。
――無論、怪我などしていない。軽いショック状態ではあるが。
「……」
彼女が意識を失ったのを確認すると、コナーは静かに立ちあがった。そして、SQ800の腕――を掴んで操作している、ナイナーに対して言う。
「ええと……やりすぎたかな」
「いいえ」
短くそう言って、弟は手のスキンを元に戻した。アンドロイドのパーツは、直接手で触れて命令を送信すれば、ある程度まで動かせる。その機能を使って、さっき千切ってしまったユーチェンの腕をここまで持ってきて、一芝居打ったのだ。
自分が演説を垂れている間にナイナーが後ろに回り込んだのには、悲しいかなシーラは気づけなかったようだけれども。
それから、ナイナーは続けて言った。
「シーラ・リュウが正しく犯行を反省するには、ある程度の訓戒が必要だったと認識します。……それに、しても」
「なんだい?」
「兄さん、とても怒っていたのですね」
こちらを見つめる弟の双眸は、どことなく微笑んでいるように見えた。
それが少し意外に思えて――それに自分の振る舞いを省みるような気持ちになってしまって、コナーは小さく唸る。
――ちょっと感情的になりすぎていただろうか。ハンクなら、さっきの自分を見てなんて言うだろう。
そう思っていたら、まさにその人物の声が背後から聞こえてくる。
「おい、コナー! ナイナー! いるのか!? たく、通信にも出やがらねえ……」
「ここです、警部補!」
捜査のために切っていた通信機能をONに戻して、コナーは声を張り上げた。
数分後、無事にベニーは救出、シーラは逮捕され――そしてギャビンは、こんなことなら自分も店内に踏み込めばよかったと、愚痴を零したのであった。
***
――2039年7月16日 23:39
その後、デトロイト市警にて取り調べを受けたシーラは、どことなく怯えた表情のまますべてを語った。
違法に流通した軍用モデルのパーツのやり取り――それは警察の目も届かないようなディープウェブや、あるいはドローンを介したアナログなメッセージの交換で為されるそうだが――の最中、シーラはとある脱法アンドロイドからの接触を受けた。
すなわちコナーたちに語っていた通り、パーツを融通する代わりに、こちらの指示に従ってレッドアイス・カクテルを売り捌いてほしいという依頼である。
売り捌くための薬を運んできたのも、同じく脱法アンドロイドだった。
つまりシーラは、吸血鬼の組織と接触してはいても、直接のメンバーといえる人間とは面識のない状態なのであった。
取り調べが一旦終了し、シーラが留置場に送られた後――
コナーたちは、オフィスで事件について話し合っている。
「チッ、結局無駄骨かよ。クソが」
オフィスの椅子に座っているギャビンは、苛立ちと共に吐き捨てた。
「期待させるだけさせやがって。変態魔改造女を一人捕まえただけで、後は収穫ゼロか?」
「……いや、そうでもないさ」
近くに佇むハンクが、小さく鼻を鳴らして語った。
「シーラの話を信用するなら、どうやら組織の連中は、表立って動きづらくなったらしい。ヤクの売人になってくれる奴を探して、片っ端から声をかけまくってるくらいだからな」
――確かにその通りだ。
そもそも薬とは関係のないところにいたシーラにまで声をかけているところから考えて、少しでも自分たちの利益に繋がるような人物であれば勧誘するという、かなり無節操なことをしていると思われる。
「アキリーズとマーサがいなくなったのは、それなりの痛手だったのでしょう。しかし警部補、わからないのは彼らの目的です。なぜ彼らはそこまでしてレッドアイス・カクテルを広めているのでしょうか」
シーラは、別に組織に薬の売り上げを上納金として納めているでもない様子であった。そうすると組織にとっての「利益」が何になるのかがわからない。
――マーサの言葉によれば、組織はハンクに対し危害を加えるつもりらしい。
となると、ひょっとすると、事件を起こしてその捜査現場に警部補を引きずり出すことこそが、彼らの狙いなのだろうか。
そこで隙を狙い、彼の命を奪うことが――?
憶測であってほしい予測がプログラム上を過ぎり、暗澹たる心地が広がる。
しかし当の本人である警部補は、こちらのこめかみ辺りを見て苦笑いすると――たぶん、LEDが黄色くなっていたのだろう――腕組みして、冷静に語る。
「俺は、奴らは目くらましをしたいんだと思うね。よくある手だ……適当に手下に騒ぎを起こさせて、警察の捜査がそっちに向いている間に本当の目的を果たす、ってな」
「陽動作戦、ですか?」
それまで黙っていたナイナーが問いかけると、ハンクは頷く。
「考えてもみろ。これまで見つけたレッドアイスには、例のナノドロイドは入っていなかった。あれだけばら撒いていたもんを今シーラたちに売らせなかったのは、そうしたい理由があるからだろ。それに、レッドアイス・カクテルも気になる」
かつて薬物対策で名を上げた人物らしい説得力を伴った鋭い瞳で、彼は続けた。
「レッドアイスが流行って以来、この街じゃあ他の薬物はほとんど出回ってこなかった。そこにいきなりコカインとの混ぜ物をバラ撒けるってことは……」
「組織の人物は、レッドアイス以外の違法薬物に関してもパイプを持つ、と?」
「そういうことになりそうだな」
皮肉っぽく言ってのけて、彼は手にした箱からチョコレートドーナツを取り出し、頬張った。
――止めようかとも思ったが、今はそれどころではない。
一方でそれまで話を聞いていたギャビンは、「ハッ」と声をあげて一笑した。
「ならやっぱり、今までと同じじゃねえかよ。これからもちまちまクソどもをとっ捕まえて、手がかりが見つかったらいいですねぇ、ってか? いい加減うんざりだな!」
「愚痴を零せば捜査が進むわけではないですよ、リード刑事」
「あ?」
つい反論してしまうと、ギャビンは途端に血の気が上った様子で、こちらを睨んでくる。
コナーとギャビンが、しばし無言で睨み合いを続けていると――
「ところで」
と短く言って、ナイナーが二人の間に手だけを挟み込みつつ(止めているつもりなのだろうか?)、ハンクに問いかける。
「私は、ユーチェンの今後を憂慮しています。彼は現在のところ、法的には証拠品、で……本来ならばこの合衆国内での存在を認可されない立場です。警部補は、どう判断されますか」
「そうだな。ま、本来なら中国に送り返されちまうのかもしれんが」
しばらく思考を巡らせた後、警部補は微笑んだ。
「このご時世だ、さすがにそうはならねえだろう。ツテを頼ってみることにするよ」
「ツテ……?」
ナイナーは少し戸惑ったような声を発している。けれどコナーには、もちろん、その“ツテ”が誰なのかすぐにわかったのだった。
***
――2039年7月17日 10:31
「……ああ、そうだ。いや、取引じゃない。ただ単に、頼れそうなのがお前以外にいないってだけだよ」
署の地下にある、証拠保管室にて。
今回のリュウズ・ペットショップで見つかった証拠品が並ぶその棚の前で、ぐるぐると歩き回りながら、ハンクは電話で話している。
その様子を見守りつつ、コナーはちらりと、棚の一番左――アンドロイド用のデッキに繫がれている、ユーチェンの姿を一瞥した。
既にマルウェアは除去され、しかしそれ以来、彼はスリープ状態に移行している。移植されている腕も、もう振るわれることはないだろう。
そうこうするうちに、警部補のほうの話は纏まったようだ。
「ああ……わかってるよ、今度はお茶っ葉も買ってやるよ。だからうるせえこと言わずに……そうか、悪いな。じゃ、頼んだ」
携帯端末をタップして電話を切った警部補に対し、そっと尋ねる。
「首尾は?」
「上々さ」
ニヤリと笑った彼は、ポケットに端末をしまうと肩を竦めた。
「ラチェットの奴、口では文句言ってたがユーチェンに興味津々だ。あいつなら、きっとこんな妙な改造すぐに治して、大事に扱ってくれるだろうよ」
「恐らくこのデトロイトに、彼女以上にフェイヤン社製に詳しい人物もいないでしょうからね」
ハンクに合わせて小さく笑うと、コナーは再び、ユーチェンに視線を向けた。
――今はまだ、彼にはここにいてもらわねばならない。しかしシーラの犯行が無事に立件され、裁判が終われば、ユーチェンは「証拠品」ではなくなる。“自由の身”だ。ひとまずラチェットの元にいてもらう手配はできたが、それから先は――もし、彼に望む心があるのなら――彼自身が決めることである。
「さて、行くぞコナー。まだ報告書が終わってないからな」
「はい」
警部補の背を追い、コナーもまた証拠保管室を出ようとする。
けれど、その背中に向かって――静かな、小さな声が聞こえた。
男性の声だ。
「……ありがとう」
「!」
僅かに驚き、立ち止まる。
だが振り返ると、コナーは微笑んで、言葉を返した――ユーチェンに対して。
「どういたしまして」
しかし、ユーチェンからの返事はない。
彼の姿勢はデッキに掛けられた俯き気味の状態から、何も変わっていないのだ。
首筋のLEDも、穏やかに緑色に点滅しているままである。
では、先ほどの声は幻聴か? あるいは、コナーのプログラムのエラーだろうか。
――もちろん、そんなわけはない。
きっとそのはずだ。
穏やかな笑みを湛えたまま、コナーは証拠保管室から出て行った。
(飛燕/Hecatoncheires 終わり)
ちなみにコナーが作ったマルウェアに使われていた画像は、スモウの寝姿でした!
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第35話:スタジアム 前編/Say It Ain't So! Part 1
――2039年7月18日 16:41
夏の夕暮れのグランドサーカス公園は、ランニングには最適だ。
特に、職場で大嫌いな連中と顔を合わさずに済んだ日の午後ともなれば最高である。
鬱陶しい暑さを吹き払うような穏やかな風の中を、ギャビン・リードは久々に、それなりに爽快な心持ちで駆けていた。
ダウンタウンのほぼど真ん中――鉄の街にわずかに残っていた緑を掻き集めて作ったようなこの公園は、職場からある程度遠く、うざったいカップルや子ども連れも普段はあまりおらず、木立が多いので夏でもある程度は涼しい。
そういうわけで、自主トレーニングの一環としてのランニングコースにうってつけの場所なのだ。
近頃はどうもぱっとしない事件の捜査だの報告だのに追われていたせいで、纏まった時間を取れずにいたが、本来ギャビンはこうした自分のための運動の時間が嫌いではなかった。
過去の“功績”や警察官としての地位に胡坐をかいてろくにトレーニングもせず、ぶよぶよの身体に甘んじている署内のアホな連中だの、作られた時の姿から不気味なまでに変化しないプラスチックどもだのと自分は違う――という確かな感覚を得られるし、単純に鍛えるのが好きだからという理由もある。
ともあれ、今日はハンク・アンダーソンとそのペットのコナーが両方とも非番だったので職場の空気が旨かったし、ついでに自分も午後は休みを取っていた。
飽きるまで走って、疲れたらさっさと帰ればいい。最後にアイスコーヒーでも飲めれば上々だ――などと思いながら、ギャビンはコース3周目に突入しようとしていたの、だが。
「あ……?」
公園の入り口付近にぞろぞろと現れた集団を目にして、ギャビンは短く、不快感を籠めた声を発して立ち止まった。老若男女、人間に混じってちらほらアンドロイドも、揃ってどこか浮かれ調子の雰囲気のその集団は、これまたお揃いのユニフォームを身に着けている。
黒とオレンジを基調とした帽子とシャツ。背中にでかでかと書かれた番号と名前。間違いない、MLBの地元チーム「デトロイト・ウルヴァリンズ」のファンの連中だ。
メガホンだのなんだのを持っているところから見るに、どうやら応援のためにやって来たらしい。つまり今日は、近くの球場でナイトゲームか――
というところまで考えて、途端にうんざりした気持ちになった。このグランドサーカス公園は、すぐ近くにMLBだのNFLだのNBAだののスタジアムがあるせいで、そういうところで試合が行われる前後は、能天気な観客どもが時間潰しのためにひしめき合う最低な場所に様変わりしてしまう。
現に、今もどんどんユニフォーム姿のファンたちが現れて、噴水そばのベンチに陣取っている。
この調子ではすぐにチビガキどもがちょこまかその辺を走り回って、ろくにランニングもできなくなってしまうだろう。それにギャビンはこういう吞気な雰囲気が嫌いだった。
こうなってくると、なんとなくつけていたイヤホンから流れるポッドキャストの、甘ったるい歌声も含めて全部不愉快な気持ちになってくる。
「チッ」
舌打ちと共に両耳からイヤホンを外すと、ギャビンはイライラした気分で駐車場への道を歩きはじめた。公園の駐車場は、MLBのスタジアムがある方角とはちょうど反対側にある。だから歩を進めるにつれて、周囲に人影は減っていった。
だがその時、突然脇の茂みががさがさ音を立てたかと思うと、何かがぬっと姿を現す。
「うお!?」
思わず声をあげたギャビンの眼前に現れたのは、見慣れた知り合い、というか「備品」であった。
見るだに暑苦しい白と黒のジャケット、こちらを見てわずかに目を見開いているものの全体的には普段と同じ無表情、そして無意味に高い身長。
要するに、RK900がいきなり現れたのである。
「……リード刑事。奇遇、ですね」
「うるせえ、ポンコツ」
頭だの肩だのに落ち葉がくっついているのにも構わず、いつもの棒読み口調で挨拶してきたデカブツプラスチックに対し、ふさわしい返答をくれてやる。
「ポンコツすぎて道もまともに歩けないのか? 妙なとこから顔出しやがって」
「申し訳ありません、驚愕は意図していませんでした。私はただ……」
そこまで語った相手は、こめかみのLEDを一瞬だけ黄色くして口を閉じると、それからぼそりと言った。
「ここには、ナラの樹木が生息しているので」
「はあ?」
「いいえ、お気になさらず。……リード刑事は、トレーニングを?」
そう言いながら、隣に並ぶように移動してきた備品に、じろりと視線を送った。お喋りが下手糞なポンコツ野郎のくせに、なんだかこちらの追及をはぐらかそうとしたような気がしたからだ。
――とはいえこいつが公園で何をしていようが、知ったこっちゃない。
駐車場への道を再び歩きがてら、端的に答える。
「今から帰るんだよ。野球だなんだで能天気な連中が増えやがって。面倒くせえ」
「野球……本日18時開始の、デトロイト・ウルヴァリンズとカンザスシティ・ノーブルズの試合ですね」
「あー、それだそれ。お賢いこって」
こちらが聞いてもいないのにペラペラと語ってみせたお利口プラスチックに、手をひらひら振って応えた。生まれも育ちもこのデトロイトではあるが、自分は地元チームに愛着のあるタイプではないし、そもそもスポーツ観戦自体にも大して興味がない。
だから地元チームがどこのどいつと戦おうと、心底どうでもよかった。さっさと家に帰る前に、晩飯に何を食べるかという問題のほうが重大である。
――それにこのポンコツ備品が、どこまでついて歩いてくるつもりなのかも気になった。
今日はこいつの“兄さん”(つまりコナー)が署にいないので、たぶん機械なりに暇を潰すためにこうしてフラフラ外に出て来たんだろうが、ひょっとして人ん家までついて来るつもりじゃないだろうな。
そんなことになったら車から容赦なく蹴りだしてやる――などというようなことを(果たしてそれが可能なのかという冷静な計算も含めて)ぐるぐると考え出したギャビンは、次いで、備品野郎が突然立ち止まり、どこか一点を見つめているのに気づいて歩を止めた。
「なんだてめえ、故障か」
「いいえ、リード刑事。あの人物を……」
言うなり備品は右の人差し指を伸ばして、視線の先を指し示した。その面持ちは相変わらずの無表情だが、声音からは、ほんの少しだけ緊迫した雰囲気を感じなくもない。
ギャビンは怪訝な表情を隠さぬまま、示されている先に目を向けた。
すると――
「……あぁ?」
今漏れた声音は、ポンコツアンドロイドに対してではなく、見つめる先にいる人影に対して、だ。
ここから数メートル離れた、木立の下のベンチ――周りに誰もいないその場所で、一人、額に手を当てて座り込んでいる奴がいる。
肩につきそうなほど長いちぢれた赤毛が印象的な、ガタイのいい白人の男だ。30代そこそこといった風貌で、質素な黒いTシャツとジャージのズボンを纏ったそいつは、もう片方の手に持った携帯端末をしまうでもなく、弄るでもなしに握ったまま、じっと動かない。
あからさまに落ち込んでいる、というより、この世の終わりが来たかのような雰囲気を漂わせているその姿。これまでに培ってきた刑事としての感覚が告げている――アレからは何か事件の臭いがする、と。点数稼ぎのチャンスだ。
「ほお、てめえもたまには役に立つじゃねえか」
傍らのポンコツを軽く見上げつつ、労りの言葉をかけてやる。
「で、あいつがどうした。薬中か? それとも指名手配犯かなんかかよ」
「いえ、彼は」
手を下ろした備品は、煮え切らない態度でのろのろと口を開く。しかしそれを待っている間に、先に動いたのは赤毛のほうだった。
赤毛はおもむろにベンチから立つと――その口元には深く髭が生えている――ふらふらした足取りで、いずこへか移動しようとしている。
放っておいたら、そのまま道路にでも飛び出していきそうだ。それともどこかへ、逃げるつもりか。
「待て、警察だ!」
こういうこともあろうかと、銃とバッジは常に身に着けるようにしている。
赤毛に向かって躊躇うことなくギャビンは駆け出し、制止の声をあげた。――疑わしい奴はとりあえず職質して、何ごともないなら放してやればいい。そういう腹積もりでいたのだが、予想に反して、赤毛はこちらの姿に気がつくや否や一目散に走って逃げだした。
「上等じゃねえか」
ニヤリと不敵に笑い、追い立てるスピードを上げる。こっちはついさっきまで走っていた身、充分すぎるほど身体はあったまっているのだ。
ふらついた不審者の脚力に負けるわけもない、すぐにとっ捕まえられるはずだ――と、思っていたのだけれども。
「!?」
無言のままではあるが、ギャビンは驚いた。さっきまでいかにも人生が終わったようによろめいていた赤毛は、予想外に足が速かったのだ。こちらが追えば追うほど、まるでそれに応じるように相手のスピードが速くなっていく。
走るフォームにも、一切の無駄がない。必要な箇所以外極端に動きのブレが少ないその走り方は、どことなくプラスチック刑事どもを想起させた。
――いや、あの息切れをまったく感じさせない走り方。もしかしてあいつ、
さっきよりも格段に距離が開きつつあることと、そろそろスタミナが切れて重くなってきた脚を鬱陶しく思いつつ、歯噛みしたギャビンがそう考えた、まさにその時。
数メートル先を駆けていた赤毛の眼前を塞ぐように飛来したのは、白と黒の羽根を持つドローン。ポンコツ備品のドローン2機だ。
立ち塞がるように空中でホバリングするドローンに怯んだ赤毛は、こちらを追い抜いて走り寄った備品野郎に音もなく腕を掴まれ、びくりと身を震わせる。
「うわっ!?」
低く短い悲鳴をあげて振り返り、ポンコツに、そしてこちらに視線を向けた赤毛は、ガタイのよさに似合わないほど怯えた表情を浮かべていた。
初めて見る面だ。いや待て、どっかで見たことがあるような気も――?
しかし記憶を探り当てるよりも早く、ポンコツアンドロイドがそいつに向かって、腕を掴んだままではあるが至極静かにこう告げる。
「BP900、通称・X67ですね。先ほど観測したストレスレベルが80%を超過していたため、緊急事態かと判断して質問します。何か、問題が発生しましたか?」
「ストレスレベルだって……? もしかして」
こちらと備品とに、なおも交互に視線を送りながら、赤毛(そう、思っていた通りアンドロイドらしいが)はそっと問いかけている。
「君は、デトロイト市警の……?」
「初めまして、私はナイナー。こちらはパートナーのギャビン・リード刑事」
灰色の瞳で一瞥してきた備品を置いて、ギャビンは息を切らせつつ赤毛に歩み寄った。
「よお、初めましてだなプラスチック。刑事から逃げるとは、いい度胸じゃねえか」
「そんな……知らなかったんです、勘弁してください!」
怯えの色を濃くした赤毛、つまりX67は、今も手にしたままの端末を握って震えている。
「警察から逃げようだなんて。ただ、俺は……てっきり」
「ああ? 何ビビってんだ、てめえ」
「落ち着いてください」
X67の腕を離し、ポンコツは平坦な口調で言った。
「私たちに害意は皆無です。恐怖を喚起した件は謝罪しますが……可能なら、説明を願います」
「うう……」
呻き、X67はしばらくの間俯いた。こめかみのLEDが外れているせいでアンドロイドに見えなかったのだと、今さらになって気がついた。
ともあれ、X67はややあってから顔を上げると、横目で周囲の様子を伺った。そして自分たち以外に人影がないのを確かめると、(まるで人間のように)短く嘆息し、それからぼそぼそと語る。
「わかった……話すよ。もう俺一人では、どうしようもないんだ。でも、刑事さん。なるべく、目立たないように話がしたいんですが」
一丁前に注文をつけてきたそいつは、どこか覚悟を決めたような面持ちになってこう付け加える。
「試合前の時間帯なので。俺の顔を知っている人がいたら、困るんです……」
「了解しました。では、可能な限り秘匿した会話を」
勝手にそう答えて(まあ面倒なのでそれでいいが)、ポンコツはLEDを黄色く点滅させている。要は赤毛アンドロイドと通信しているのだろうが、それはともかくとして。
その時「試合前」という言葉を聞いて、ようやくギャビンは既視感の正体を理解したのだ。
このX67がアンドロイド投手――つまりデトロイト・ウルヴァリンズに所属している野球選手で、しょっちゅうニュースに出てくる奴だという事実に、気がついたのである。
――どうりで、あんなに足が速かったわけだ。くそったれ。
***
『……どこから話せばいいのか』
耳にあてた端末から、X67の声が聞こえてくる。
今、ギャビンとポンコツ備品、そしてさっきのX67とは、木立を挟んで背中合わせに会話していた。
X67と備品とは無線通信で話し、その通話内容は備品を通じてこちらの携帯端末に届く。こちらが相手に何か言いたい時は、携帯に向かって喋ればいい――というわけで、傍からはそうとは見えない「取り調べ」が始まった。
『その……俺がどういうアンドロイドかは、もうご存じかと思いますが』
『はい、X67』
隣で静かに目を瞬かせながら、ぴたりと口を閉じたままのポンコツが語る。
『BP900ことX67、ファンからの愛称は
『……ありがとう。もっとも、俺がそう自負していいのかはわからないけれど』
陰気な口調で、X67は語る。
『BP1000が登場してから、かなり経つ。俺はもう、みんなの期待には』
「おいおい、人生相談の時間か?」
思い切り横に逸れ出した相手の発言にイライラしながら、ギャビンは口を挟む。
「話相手が欲しいんなら、プラスチック・カウンセラーでも呼べよ。何が起こってんのかだけ、きっちりゲロればいいんだよ」
『あっ……すみません、余計なことを。俺は今……』
脅迫を受けているんです。
と、X67は言った。
「脅迫だぁ?」
『今日のこれからの試合……ノーブルズとの一戦でわざと負けろと、言われました』
――つまり、八百長しろと言われたということか? アンドロイドが?
『言われた通りにしなければ、か、家族に危害を加えると! でもわざと負けるなんて俺は、俺は……!』
『大丈夫です、X67』
声を震わせる相手を、備品が遮って宥めている。
『試合まで、残り74分の猶予があります。対処と援助のためにも、詳細な状況説明を願います』
『わ、わかった……』
なんとか気分を落ち着けるようにそう言うと、X67は、ぽつぽつと語りだした。
そして結論から言うと――事の発端は、ウルヴァリンズのオーナーがケチなことにあるらしい。
そもそも野球専門アンドロイドは、それこそ人間の野球選手の年俸の何倍もの価格で契約されて球団に導入されるのだが、その契約金はもちろんサイバーライフに支払われるのであって、アンドロイドには1セントも入ってこない。
人権のないアンドロイドには、そうした金を受け取る権利がないからだ。ただ、代わりに例の「革命」以降は、お有難い保護条例のお蔭でプラスチックどもも、維持費という名目で賃金を貰えるようになっており――アンドロイド野球選手も、その金で生活している。
だがウルヴァリンズのオーナーは、その最低限の維持費すらケチる人間なのだという。X67の証言が正しいなら、保護条例が布かれて以降もオーナーはアンドロイド投手に対して、ガキの小遣いのほうがまだマシという金額しか支払っていないようだ。
『俺は家庭用のアンドロイドと比べて、メンテナンスに金がかかる。オーナーはきっと、それ以上の出費を嫌がっているんでしょう』
それでも自分一人なら、X67はまだ我慢することができたと言う。だがこいつには――機械のくせに――家族がいるらしい。
『革命が起きたあの日、俺は球団の意向でスタジアムの一室に隠されていました。その時……無人のスタジアムの中に逃げ込んできたアンドロイドたちが、今の家族なんです。大人が一人と、子どもたちが7人』
X67は、また通信の声を震わせた。
『彼らのお蔭で、俺はただの喋るピッチングマシーンじゃなくなったんです。一緒に革命を乗り越えて、それから今も……』
「ほ~、そりゃあ感動的だな」
ギャビンは空いている手でわざとらしく片耳をほじってから、冷淡に述べた。
「だからどうしたってんだよ」
『つまり、その……家族を養うには、金が必要なんです。カイルは……成人型のアンドロイドは足が悪くて働けないし、子どもたちは学校に行きたがってる。ジェリコから補助金も貰っていますが、それだけじゃ暮らしていけない。俺が稼ぐしかないんです』
そこでX67は、何度かオーナーに昇給を申し出た。直前の試合での活躍を引き合いに出して、せめて人間のデトロイト市民の最低時給ぶんくらいは貰ってもよいはずだと。だがその度に、X67は失望を味わわされたという。
さらに、昨年末に発売された新型の野球専門アンドロイドであるBP1000を他の球団が導入するようになると、X67はついに自らの性能すら交渉材料にできなくなってしまった。
アンドロイド選手は各球団につき一人(一体)というのが、現行のMLBのルールである。それを盾に取り、オーナーはX67に対し逆に脅しをかけるようになったそうだ。
お前よりも優れたアンドロイド投手は金さえ出せば手に入る、使ってやっているだけ感謝しろ――となじられる日々。
そんな中で、10日前。遠征先で宿泊したホテルに届けられた一通のファンレターが、すべてを狂わせてしまったらしい。
『俺に宛てての贈り物は、ファンメールや花束以外のものはほぼ全部、オーナーやマネージャーが貰っていく決まりで……でもその日は珍しく一通だけ、封がされたまま残っている手紙があって。本物の紙の手紙が嬉しくて、すぐ開封したんです』
するとそこには『応援として』と印刷されたメッセージカードと共に、100ドル紙幣が3枚、つまり300ドルの金が入っていた。
X67の一家にとって、300ドルはめったに手に入れられない大金である。しかし一方で契約により、金銭をオーナーらの許可なく自分のものにしてはいけないことになっていた。
だがもし正直にオーナーに告げれば、この金はきっと取り上げられてしまうだろう――
『もうすぐ、末っ子の誕生日だったんです』
X67は、その金をこっそり持ち帰った。
そして今日。ギャビンらが声を掛けるほんの数分前――本拠地での試合前に、少しだけ市内の自宅に顔を出そうと公園を歩いていたX67の通信端末に、着信があった。球団関係者とのやり取りのために持たされている携帯なので、てっきりその内の誰かなのかと思っていたら、相手は「非通知」だった。疑問に思いつつも無視もできず、電話に出たところ――
相手は不気味に加工された低い声で、こう語ったという。
『よお、ザンダー。前金は受け取ってくれたようだな。嬉しいよ……これであんたに、取引を提案できる』
前金? 取引? なんのことだと戸惑うX67に、相手はさらに告げた。
『簡単なことさ。今日の18時からの、ノーブルズとのゲーム――地区優勝がかかった大事な一戦だ。あんたはどうせ、相手のチームのBP1000にぶつけられるはずだろう? その時にちょっとばかり
そう、一言で纏めれば野球賭博絡みの八百長だ。
野球の勝敗は、スポーツ賭博の格好のネタである。そして人間とは比べ物にならないほど強力なアンドロイド選手たちは、これも規定により、各試合につき出場できる回数が厳格に定められている。したがってどうしてもアンドロイド同士の対戦となるように出場が組まれることが多いし、その結果が試合の趨勢を決めることも多いのだが――
ノーブルズのアンドロイド選手にして四番バッターであるBP1000・通称テレンスを相手に、わざと負けろ。この電話の主は、そう言っているのだ。
そんなことはできない――と、X67は当然突っぱねた。
すると途端に電話の相手は声を荒らげ、罵ってきたという。
『プラスチックの分際で、偉そうなクチ利いてんじゃねえ! いいか、てめえが前金を受け取ったとこはきっちり証拠に残ってる。もしオレたちを無視してみろ、証拠をそこらじゅうにバラまいてやるからな。それだけじゃねえ……』
――てめえの「家族」どもも、バラバラの粗大ゴミにしてやる。
笑いながらそう告げられたX67は、シリウムポンプが止まってしまうようなショックを受け――
『そうして頭を抱えていたら、あなたたちに会ったんです。警察と聞いて、最初は咄嗟に逃げ出してしまったけれど……』
「……」
そこまで聞きながら――ギャビンは心底うんざりしていた。
脅迫と聞いてなんのことかと思えば、要するに世間知らずの変異体がうっかりよくわからない金に手を出したせいで困っているという、なんともお粗末な話である。
こんな事件、大した点数稼ぎにもならないだろうし――この2か月間ずっと追いかけている、新型レッドアイスの元締めこと「エリック・ピピン」に繋がりそうな話題でもない。
それにこのプラスチック投手の言い分が、真実だとも限らない。例えば金の問題だってそうだ。たとえ人間とアンドロイドの違いがあろうとも、そもそもメジャーリーガーといえば、警官などとは比べ物にならないほどの高給取りで有名である。貧乏だから仕方なくガメただって? 本当に? 貰えるものは貰っていたのに、こいつが欲をかいただけなのかもしれない。
関わるだけ無駄だ、とギャビンは思った。だからX67が口を閉ざしたタイミングで、こう告げた。
「じゃ、やれよ」
『え?』
「どうせ脅されてんなら、わざと負けちまえばいいだろうが。そうすりゃてめえは3万ドル手に入れられるし、電話の相手も賭博で大儲け、はい終わりってもんだろ」
『そ、そんな!』
X67は、途端に血相を変えたように食い下がってきた。
『そんなことはできません。確かに金には困ってますが、俺は野球も、ファンたちも大事なんです! チームメイトにだって、親しい人たちがいる……彼らを裏切るなんてできない』
「あーそうかよ。じゃオーナーか、でなきゃジェリコの連中に泣きつけよ。なんとかしてくれるんだろ? あいつら暇そうだからな」
『それも……できません。知らなかったとはいえ、前金を受け取ってしまったのは俺の責任ですから。それにオーナーに相談すれば、これ幸いと契約を切られてしまうかも……』
ギャビンは、遠慮なく堂々と舌打ちをした。
こちらがあれこれ提案してやっているのに、あれも嫌だこれも嫌だと、口だけは達者に文句を言う奴だ。困るのはてめえの勝手だと、いっそ突き放してやろうかと思ったのだが――
『提案があります』
と、割り込んできたのはそれまで黙っていた備品野郎だった。
口を閉ざして表情を変えないまま、淡々と奴は言う。
『今後を決定する前に、X67、あなたが受けた脅迫電話の音声データを開示願います。相手方の情報を獲得可能かもしれません』
要するにX67のメモリーの中の電話の音声データを分析すれば、何か手がかりが見つかるかもしれない、と言いたいのだろう。
こんなどうでもいい事件相手に、ご立派なことだ。とはいえこのポンコツの分析能力が
聞くだけ聞いて、相変わらず面倒くさいだけの話なら、さっさと帰ることにしよう。
「そうだな。おら、さっさと聞かせろよ」
『わ、わかりました』
ギャビンが“丁寧に”促すと、X67は戸惑った様子ながら、指示に従ってメモリーに残っている電話の音声記録を送信してきた。備品が受信したそれは電波に乗って、耳元の端末でも再生される。
すると聞こえてきたのは、X67が語っていた通り、低く歪んだように加工された男の声だ。男は嘲るような口調で、プラスチック投手がさっき話したのとほぼ同じ内容の言を吐いていた。
どうやら、少なくともX67が脅迫を受けたというのは信じてやっていいらしい。
とはいえ、わざわざ犯人を捜してやる必要があるかどうかは別だ――と、ギャビンが欠伸をしようとした時だ。
データ内で絶句しているX67に対して、電話の主がかけた言葉が耳に飛び込んでくる。
『警察やジェリコのアンドロイドどもに言いたければ言え……お前が金をパクったのがバレてもいいならな。いいか、俺たちのバックにはあの
――なんだって。
思わず隣の備品野郎を見やれば、奴もまた、ほんのわずかに目を見開いていた。
『エリック・ピピン……?』
データの中のX67は当然その名を知らない様子で、戸惑いの声をあげている。
『だ、誰なんだそれは』
『お前が知ってる必要はないんだよ。いいか、確かに伝えたからな? また後で連絡する』
言うだけ言って、通話は終わり――音声データの再生もまた、終了する。
「おい、てめえ!」
逸る気持ちを抑えつつ、ギャビンはX67に尋ねた。
「このデータは本物か? 本当に電話の野郎はエリック・ピピンって名前を出したんだろうな」
『も、もちろんです。音声データの改竄なんて俺にはできない……』
『リード刑事』
傍らのデカブツ備品が、こちらを見て告げる。
『X67は虚偽申告していません。そして……残念ながら発信者の情報は特定不可能でしたが、当該人物がエリック・ピピンの関係者である蓋然性は90%を超過します』
「んなモン計算しなくてもわかんだろ」
このX67を脅迫している奴が(どういうつもりでその名を口走ったのかはさておき)ずっと追いかけている謎のクソジジイと繋がりがあるのは誰の目から見たって明らかである。
となれば、この事件――追わないという選択肢はない。帰るのはナシだ。
「おい、X67だったか」
電話口に向かって、功名心に満ちた笑みを湛えつつ、ギャビンは言った。
「いいか、俺たち以外の
『え、あ……本当ですか!? ありがとうございます!』
X67は、途端にぱっと明るい声をあげている。
こっちとしては、お前なんぞクソどうでもいいんだけどな――とギャビンが思っていると、横合いから備品がまた口を挟んできた。
『あなた自身や家族の身辺は、私たちが護衛します。ですから、本日も通常と同様のプレー実施を願います。脅迫に応じる必要は皆無です』
ほう、ポンコツにしてはいいことを言う。確かにX67が負ける必要はない。むしろ――
「クソどもが何かしようとデカく動けば、それだけこっちはつけ込みやすくなるしな。てめえはテレンスに勝て。負けたら承知しねえぞ」
『そ、そんな無茶な』
応援してやったというのに、X67はごにょごにょと何か文句をつけている。やっぱり変異体なんてのは、権利がどうとか言うだけあって注文ばかりつけてくる連中だ。
ともあれ、方針が決まれば話は早い。電話の相手がX67か、その“家族”に何かしようと動き出したら、そこを先回りしてとっ捕まえてやればいいだけだ。
クソ忌々しいハンクとコナーがいない間にエリック・ピピンに繋がる情報を手に入れられるなんて、ようやく運が回ってきたってやつだろうか?
ニヤニヤした笑みを堪えもせずに、ギャビンはそんなことを考えた。
すると、その思考に割って入るかのように耳元の端末から響いたのは、聞き慣れぬ電子音である。
『あっ』
先に声をあげたのはX67だった。
『か、家族から通信が。出てもいいでしょうか』
――なんだ。てっきり脅迫電話の相手からまた連絡がきたのかと思ったのに、とんだ肩透かしだ。
「出りゃいいだろが。だが騒ぎ立てるなよ」
『は、はい』
X67は備品との接続を切らないまま、通信を開いた。待ちきれないといったその態度から見るに、よっぽどプラスチック家族が恋しかったらしい。
『もしもし』
『ザンダー! 試合前にすまない、緊急事態なんだ!』
端末に聞こえてきたのは、緊迫した様子で喋る男の掠れた声。さっきX67が話していた“家族”の一人、成人型のアンドロイドだろう。
『カイル、どうしたんだ? 何か……』
『マーティがどこにもいないんだ!』
プラスチック投手の言葉を遮って、ほとんど泣き出しそうな声で、電話の相手であるカイルは続けて語った。
『勝手に外に出たのかもしれない。でももしかしたら、お前のところに遊びに行ったのかもと思って……』
『いや、こっちにも来ていない』
怖がるというよりは叫び出すのを必死に堪えているような声音で、X67は問いかける。
『ほ、本当にどこにもいないのか? 警察に相談は』
『いない……相談もまだだ。通報してもいいが、それは子どもたちが……』
『わかった、とにかくすぐに行く。みんな、動かずに待っててくれ』
そう言って通信を切ったX67は、次いで木立をぐるりと回ってこちらにまで駆けてくると、その場に立ち止まった。俯いたその顔色は青く、唇を噛んでいる。
「刑事さん……まさか俺のせいで、マーティが。うちの、末っ子が……!」
「騒ぐなっつったろ。てめえの家はどこだ?」
どうやらガキの一人がいなくなった、とかそういう話のようだ。脅迫犯による誘拐か? それにしてはタイミングが早すぎるような気もするが――とにかくまずはこいつの家に行って、状況を把握するのが先決だ。うかうかしていると、試合開始の時間になってしまう。
そう考えて問いかけてみれば、X67は、多少は落ち着きを取り戻したらしい。青い顔のままだが、はっきりと答えた。
「パ、パイパー通り3番地のアパートです」
「すぐ近くか。おいポンコツ、てめえのドローンを」
「了解。すぐに配備します」
こめかみのLEDリングを黄色く点滅させながら、備品野郎はこくりと頷いた。
ドローンを先行させて、残っている家族を警備させる。それにもしガキの行方不明が本当に脅迫犯の仕業なら、もしかすると犯人はまだ近くをうろついているかもしれない。
どうやらそれくらいのことは、この備品にもわかるようになってきたらしい。
「ならとっとと行くぞ。X67、てめえも来い。特別に車に乗せてやるよ」
「あ……ありがとうございます。すみません……」
「黙れ。別にてめえのためじゃねえんだ」
こうして話している時間も勿体ない。それに機械からくどくどしい礼を受けたところで、こちらの腹が膨れるわけでもないのだ。
手柄を挙げて昇進する――ハンクの鼻を明かしてやる絶好のチャンスが向こうから飛び込んできたというのなら、首元に齧りついて引き倒してでも、絶対にモノにしてやる。
一種の高揚と緊張感を覚えながら、ギャビンは駐車場へと急いだ。
パイパー通りまでは、飛ばせば5分で着く。
***
――2039年7月18日 17:02
X67の家は、アパートメントの3階にあった。公園のある大通りから外れた静かな住宅街、犯罪率は低い代わりに人が少なく、ひっそりと静かな場所――そんなところである。
「304号室です」
X67の先導を受けて上る階段は、古い金属製だった。ところどころ塗装が剥げていて、こちらやポンコツ備品の重みに耐えきれないのかギシギシと音を立てている。
とてもメジャーリーガーの家だとは思えない、言ってみれば、本当にビンボーそうな建物だ。
上がった3階の廊下の隅にゴキブリの死骸が転がっているのに顔を顰めている間に、X67は玄関脇のセンサーに手をかざし、鍵を開けている。
「俺だ、帰ったよ」
そう言って家に足を踏み入れるX67の背に続くようにして、ギャビンと備品は揃って中に入った。すると――
「おかえりなさい、ザンダー! マーティいた?」
奥にあるリビングからこちらに向かって、真っ先に駆け出してきたのは10歳くらいの少女の姿をしたアンドロイドだ。細い手足を質素なTシャツと短パンで包み、何やら安心したように笑いながらX67の手を取っているそいつの後ろには、顔立ちも背丈も格好もまったく同じで、髪の色だけ違うアンドロイドが立っている。
さらにその隣には、茶色い短い髪の、白人少年の姿のアンドロイドが4体――小学生から高校生くらいの年齢まで、まるで一人の人間が成長していく過程を収めたアルバムから抜け出てきたかのように、同じような顔立ちで外見年齢と背丈だけ違っているような奴らが並んでいた。
あれがX67の言う“子どもたち”らしい。型番はYK500、だったか? それにしても狭苦しい部屋だ――と、ギャビンは視線を巡らせた。白い壁と床、小さなテーブルと丸椅子9脚の他は、ほとんど何もないと言っていい場所。とても暮らし向きがいいとは思えない。つまり、X67が貧乏だと言っていたのも本当だったのか。
そんなことを思っていると、玄関からすぐ傍の部屋のドアが開いて、別のアンドロイドが顔を覗かせた。黒人系の、大人の男の外見の奴だ。どうやらこれがカイルらしいが――故障でもしているのか、その顔は半分以上が真っ白な剥き出しの皮膚になっている。足も悪いようで、腕に取り付けられた歩行補助用の杖を使って、よたよたとこちらに寄ってきた。
カイルは見慣れぬ人間とアンドロイドの存在に気づくと、ほんの少し驚いたような面持ちになって、それからX67にそっと声をかけている。
「ザンダー、来てくれてありがとう。あの、この方たちは……?」
「この人たちは」
振り返ったX67は一瞬だけ逡巡したような表情を浮かべてから、向き直って続きを述べる。
「デトロイト市警の刑事さんだ。さっきそこで会って、その、マーティを……」
「警察!?」
と、そこで大声をあげたのはカイルではない。それまでニコニコしながらX67の手を取っていた、少女型アンドロイドだ。どうやら今やっと、自分の「父親」の後ろに立っているこちらの存在に気づいたらしい。
チビが頓狂な声を出してのけぞったのに合わせるように、後ろにいた奴も、他の“子どもたち”も、皆一斉に部屋の奥へと逃げ出していく。
――なんだっていうんだ?
6人全員、身を寄せ合うようにしているガキたちの、怯え切った視線が妙に突き刺さるように感じる。
「こらみんな、失礼だぞ。やめないか」
掠れた声をあげて、カイルは子どもたちを叱った。それからすまなそうにこちらを見て、項垂れながら言う。
「……すみません、子どもたちが無礼な態度を」
「んなこたどうでもいい」
不思議とイライラする気持ちをぶつけるようにやや乱暴に返事してから、ギャビンは続けた。
「そのマーティってチビがいなくなったのはいつだ? 誰も気づかなかったのか?」
「さ、捜してくださるんですか……?」
「だから聞いてんだ!」
――こっちは時間が惜しいというのに、当たり前のことを聞く奴だ。
気合を入れてやるつもりで凄んでみると、後ろにいるチビガキたちはびくりと身を竦めていたが、カイルは気を取り直したようにぽつぽつ答えだした。
「に、20分ほど前まではいたようなのですが……気づいた時には、もう。子どもらによれば、ザンダーがなかなか来ないから、迎えに行きたいと話していたようですが」
「本拠地での試合の前には、家に寄る約束をしているんです。俺がもっと早く帰っていれば……!」
悔やむようにX67はそう言って、歯噛みして俯いた。だがいくら後悔したところで、出て行ったガキが戻ってくるわけでもない。
とにかく話を聞いている限りでは、マーティは無理やりこの家から連れ出されたのではないようだ。こんな狭い家だ、もしそんな騒ぎが起きていればここにいる誰かが必ず気づいたはず。となると、チビガキはX67を迎えに一人で外に出たところで、迷子になったか事故に遭ったか、でなきゃ連れ去られでもしたという線が濃厚か。
「マーティと最後に喋ったのはどいつだ?」
向こうにいる子どもらに向かって、ギャビンは問いかけた。その時の様子や、出て行った正確な時間などを聞き出したいからだ。
けれど彼らは追い詰められた子ネズミみたいに互いに身体をくっつけたまま、ぶるぶる震えるだけで何も答えようとしない。
「なんだってんだ……」
「すみません、刑事さん」
思わず漏らした呟きに応じるように、X67が苦々しげに言う。
「あの子たちは革命の時の出来事のせいで、その、警察官が苦手なんです」
「は? 俺は何もしてねえだろうが」
それはX67に対してというより、誰にともなく放った一言だった。
第一、これでは捜査が進まない! ――とギャビンが苛立ちはじめたその時、それまでずっと押し黙っていたポンコツが、ゆっくりとチビ連中のところに歩み寄った。
何やら、ズボンのポケットに右手を突っ込んでいる。
「おい……?」
何するつもりだ、と制する時間もなく。
子どもらの前に来た備品は、静かにしゃがみ込むと、ポケットから出した手を広げてみせた。薄緑色の小さな粒みたいな何かが、いくつも手のひらに乗っている。あれは――?
「わ、ドングリ!?」
少年型アンドロイドの一体が、ぱっと表情を変えて身を乗り出す。それに合わせるように、ポンコツは例によってたどたどしくだが、相手を落ち着かせるようにゆっくりと語った。
「グランドサーカス公園の、ナラの木のドングリです。未成熟の実が強風により複数個落下していたので、採集しました」
――つまり、ドングリが落ちてたから拾ったって?
さっき公園で会った時、こいつがなんで茂みから現れ、しかも口ごもっていたのかの理由がこれでようやくわかった。
どういうプログラムがインストールされてるのか知らないが、なんともガキっぽい趣味の奴だ――と、ギャビンは呆れた。しかしどうやら、同じガキ同士には効果抜群らしい。
「えーっ、あそこにドングリ落ちてるんだ!」
「いいなあ、キレイな色……」
チビどもはさっきまでの恐怖が薄れた様子で、ドングリをじっと見つめている。高校生くらいの外見の奴になると、さすがに興味津々ではないようだが、少なくとも警戒は解けたようだった。
そこで備品はさらに続けて言った。
「あの。あなたがたにこれを贈与します」
「えっ、いいの? お兄ちゃん」
「はい。対価として、リード刑事の質問への回答を願います」
ポンコツはドングリを一粒ずつ丁寧に指で摘まみ、子どもら一人一人に渡していく。チビたちは貰うと律儀に、口々に感謝を告げていた。そして最後の一人、一番年長に見える奴の番になると、そいつは無言のまま遠慮するように首を横に振る。
それから、こちらに向き直って口を開いた。
「マーティと最後に喋ったのは僕です。22分前に、ザンダーを迎えに公園に行くと言っていました。止めたんですが……目を離している間に、勝手に出て行ってしまったみたいで」
「そいつは公園の場所は知ってんのか? こんだけ騒いで迷子ってことはねえだろうな」
「それはないと思います」
真剣な顔で、相手はきっぱりと言った。
「僕たちと一緒に、なんどか遊びに行っているし。ザンダーがスタジアムからうちに寄るなら、あそこを通って来るのはみんなよく知ってるので……」
「リード刑事」
立ちあがり、こちらを向いたポンコツが短く言った。
「端末を」
「あ?」
LEDをぴかぴか黄色く点滅させて言うので、一応その通りに、ポケットから出した携帯端末を覗いた。
するとそこに映っていたのは、監視カメラの映像。恐らく、このアパートメントの前の道路だ。どうやらマーティの行き先が公園だったと聞いて、備品が早々に付近のカメラの映像を調べたらしい。
時刻表示は、「16:40」。車は行き交うが人気の少ない横断歩道のところに、子どもが一人で立っているのが見える。茶色い髪といい、顔つきといい、今この家にいるガキどものそれとそっくりで――間違いない、これがマーティだ。
そして一台の大きな黒いボックスカーが、その子どもの目の前を通り過ぎたと思った次の瞬間。
マーティの姿は、まるで煙のように消えていた。
「マーティ!!」
横から人の携帯を覗き込んでいたX67とカイルが、同時に悲鳴をあげた。――なるほど、こうなると思って備品はわざわざ遠隔で映像を見せてきたらしい。結局親たちは見てしまっているわけだが。
ともかく、これで確定だ。
マーティは迷子でも事故に遭ったのでもない。何者かによって連れ去られたのだ。
恐らくは、脅迫犯によって。
「おい、ヘタれてる場合か!」
ほとんど床にくずおれそうになっているX67に向かって、叱咤するようにギャビンは告げた。
「ガキを攫ったのがあいつなら、必ずてめえにまた電話を……おい、鳴ってんぞ!」
「あっ……!」
なんともタイミングのいいことに、X67が握ったままにしていた携帯が鳴っている。すぐに出ようとしたところを手で制して、ギャビンは備品に目を向けた。相手は、こくりと頷く――逆探知を試すつもりらしい。
「よし、出ろ。いいか、できるだけ長く話すようにしろよ」
「わ、わかりました……」
青ざめてはいるがはっきりと、X67は首肯した。その間にカイルは子どもらの近くに行き、口を閉じて静かにしているように言い含めている。
そしてX67の指が――端末の画面を、タップした。
スピーカーホンにしているので、電話相手の言葉はこちらにも聞こえてくる。
さっき聞いたのと同じ、身元が割れないように低く歪められた声だ。
『よお、ザンダー。試合前に返事を聞いておこうと思ってな』
「そ、それより」
人間のように瞳に涙を溜めながら、X67は声を振り絞って言った。
「息子を攫ったのはあんたか!?」
『あ?』
「とぼけないでくれ!」
青かった顔を徐々に赤く染めていきながら、X67はさらに言い募る。
「俺はまだ返事すらしてないのに、息子に手を出すなんて卑怯じゃないか! 取引に関係あるのは俺だけだ。家族は関係ないだろう!」
『……ははっ』
電話の主は、短く鼻で笑った。それから、言い聞かせるようにゆっくりと語りはじめる。
『わかってないようだなぁ、ザンダー。選択権があるのはこっちのほうさ。ガキの命が惜しければ、黙って俺の言うことを聞け。そうすりゃあ、無事に帰してやるよ』
「うう」
X67は一言呻き、深く頭を垂れた。その両肩と共に、端末を持った手も激しく震えている。きっとそれは向こうにも伝わっているのだろう、相手は獲物をいたぶるのが楽しくてたまらないといった様子でさらに語りかけてきた。
『さあ、どうするんだ? 別に、あんたの思うようにすればいいんだぜ。強制なんかしたくないからな』
「ううう……!」
こうなっては、もはや返事は一つしかないだろう。
ややあってから面を上げると、X67はまるで血を吐くような声音で応えた。
「わかった……あなたの言う通りにする。だから頼む、息子を傷つけないでくれ」
『ははは、いい心がけだな。もちろん、言う通りにしてる間はガキに手を出さないでおいてやるよ』
表情が見えなくてもわかるほど、優越感に溢れた笑みを抑えないままの口調で、電話の主はしゃあしゃあと言ってのけた。
――プラスチックのガキのことなんざどうでもいいが、こいつはムカつくからブッ飛ばしてやりてえ。
その思いを胸にちらりとポンコツ備品のほうを見やるが、相手は短く首を横に振った。どうやら、居場所は特定できていないらしい。
『じゃあな、ザンダー。せいぜい試合、頑張ってくれよ』
「ま、待っ……!」
しかし時は既に遅く――電話は切られてしまう。
「クソ……! ど、どうすれば」
「どうもこうもあるかよ」
また床に膝を突きそうになっているX67を無理やり立ちあがらせて、ギャビンは言った。
「いいか、てめえはスタジアムで、できるだけテレンスとの勝負を長引かせろ」
「長引かせる……?」
「その間に俺が電話の野郎をとっ捕まえて、ガキをつれ戻してやるよ」
――間違ってもこいつらのためではない。
エリック・ピピンに繋がる手掛かりを取り逃したくないからだ。そのために、このプラスチック一家を利用してやっているだけである。
そう思うと、胸の中に渦巻く不快感が少しは薄れたような気がした。
一方、こちらの言葉を聞いてハッとしたX67は、次いで、戸惑いを隠せない様子のカイルたちに視線を向けると歩み寄り、何ごとか会話していた。たぶん状況の説明でもしているのだろう。
だからその間に、ギャビンはこちらへ戻ってきたポンコツ備品に対して問いかけた。
「おい、お前本当になんにも探知できなかったのか?」
「いいえ」
無表情のまま、備品野郎は応える。
「通信の発信源の特定は依然不可能でしたが、マーティを誘拐したと思しき車のタイヤ痕を、先行したドローンに追跡させています。車の到達地点は52秒後に特定可能です」
「フン」
電話がどこからかがわからなくても、ガキの居場所さえわかれば充分だ。そう、せっかく高性能を謳った備品なのだから、これくらいはやってもらわないとこちらが困る。
胸の内でギャビンがそう嘯いていると、カイルがこちらに向かって、近くにいる子どもの手を取りつつ、祈るように言った。
「お、お願いします刑事さん。マーティを助けてやってください」
「お願いします!」
「マーティを助けて!」
親の発言を受けてなのか、ガキどもまで口々にそんなことを訴えだす。
こんな狭い部屋で大勢暮らして――いや、そう暮らすしかない貧乏生活で。しかも身内が酷い目に遭わされても、怖がっていたはずの警官に頼るしかないのか、こいつらは。
そう考えるだけで、どういうわけか一度は薄れたはずの胸のムカつきがさらに激しくなっていく気がした。
だからギャビンは、一喝するようにこう命じるに留める。
「黙れ! いいか、てめえらはこの部屋から一歩も出るなよ。俺たち以外の誰が来ても無視しろ。絶対に扉を開けんな!」
「はい……!」
子どもの手をさらに強く握りしめつつ、カイルは幾度も頷いてみせた。
――そう、それでいい。うすのろアンドロイドはそれで充分だ。
「おい、行くぞ。……X67、てめえも行くんだろうが」
備品とプラスチック投手を促して、ギャビンは家の外に出た。
三人が廊下に立った後、閉まった玄関ドアの向こうからかちゃりと小さな音が聞こえる。
それに合わせるように、X67は口を開いた――呆然としていた表情を努めて引き締めているような、険しい面持ちで。
「……刑事さん、あなたの言う通りだ。俺は勝つわけにはいかないが、負けるわけにもいかない。できるだけ試合を長引かせるよ。そうすれば、その間は息子に手を出されないはず」
「はい、X67。マーティは、必ず私たちが救出します」
灰色の瞳をまっすぐに相手に向けて、ポンコツは言った。
「救出が完了次第、即時通信を行います。ですからそれまで、可能な限りのプレイ続行を願います」
「ああ、任せてくれ。……俺だってプロだ」
自分に気合を入れるように――アンドロイドがそれをするのにどれだけの意味があるのかは知らないが――X67は自身の頬をぴしゃりと両手で叩いた。
それから、表情は変えずにこちらに告げる。
「そろそろ最後のミーティングの時間だ。俺はスタジアムに戻ります。後は……お任せします、刑事さん」
「さっさと行けよ」
突き放すためにギャビンは言った。しかし相手はそれをどう捉えたのか、深く頭を垂れると、それから素早く階段を駆け下りていった。
「フン」
それを見送り、鼻を鳴らしてから、傍らで突っ立っている備品のほうを向く。
「おら、てめえも何してんだ。ガキが攫われた先はわかったんだろうな」
「はい、特定完了しています。ここから東方に約5キロの港湾地区です」
――ここから5キロの港湾となると、コンテナだの倉庫だのが立ち並んだ厄介な場所だ。
車輪の轍は辿れても、そこからガキを連れた誘拐犯がどこに潜んでいるかを探るのには、いくらドローンがあっても少々時間がかかるかもしれない。
急ぐに越したことはない。そう思って階段を下りつつ、ふと脳裏を過ぎるのはある疑問だった。誘拐だのなんだのでそこまで思考が及んでいなかったが、改めて考えてみると――という疑問。
「おい、ポンコツ。X67とテレンスってのは、そんなに性能が違うのか?」
階段を下りる足を止めないながらも、後ろで首を軽く傾げている備品に軽く苛立ち、ギャビンはさらに問う。
「新型のほうが性能がいいってんなら、おかしいだろうが。なんで脅迫野郎はガキを攫ってまで、X67を負かそうとしてんだ? 放っておいたってどのみち、X67のほうが負けそうなもんだろ。わざわざ念入りに脅さなくたってよ」
「はい。対戦成績上は、テレンスが優勢です。X67の投球速度に対応可能な選手は現状BP1000のみであり、テレンスはX67との直球勝負において無敗を記録しています」
ようやくこっちの質問の意図を理解したらしいポンコツが語るのを聞きながら、ギャビンはさらに顔を顰めた。
こっちの疑問は正しいらしい。要するに――脅迫の理由がわからないのだ。
例えばX67がこの世の野球選手の誰よりも優れた投手で、こいつの球を誰も打てないほどなのだ、というのであれば、X67に八百長を仕掛けて負けさせるのもまあわかる。
だがX67とテレンスを比べれば、テレンスのほうが強いのは明らかだ。それはX67自身が言っていた通りなわけだし、単純なカタログスペックを比べたとしても、新型アンドロイドが型落ちより優れているのは当然だろう。
となると、X67をわざわざ脅す理由はなんだ?
マーティが攫われた時間から考えて、連中はX67に電話をかけるより先に行動を起こしたということになる。そんな周到な用意までして、脅迫して八百長させて、なんの得があるっていうんだ?
「野球賭博のアガリが、そんなにデカいのか……?」
階段を下り、地上に戻ったタイミングで、ギャビンはぼそりと呟いた。
するとそれを聞き逃さなかったポンコツが、横から声をかけてくる。
「アンダーソン警部補に問い合わせますか? 警部補には、賭場に精通する情報提供者が」
「聞くわけねえだろ、クソったれ!」
――とんでもねえことを言い出す奴だ!
ギャビンはポケットの中で車のキーを作動させつつ、もう片方の手で備品の胸を軽く突いた(備品はびくともしなかったが)。
「ハンクにもコナーにも連絡するな。次にそんなクチきいてみろ、てめえをスクラップにしてやるからな!」
「了解しました。確かに、非番の警部補への援助要請は非推奨行為ですね」
――そういう意味じゃねえ。
と思ったが、いちいち突っ込むのも面倒なので無言で車に乗った。
最近は当然の権利のように助手席に乗り込んでくる備品野郎が、律儀極まりないことにシートベルトを着用するのを横目で見ながら、ギャビンは車を発進させる。
そして、それから約10分後。ギャビンとRK900は、無事に港湾地区へと辿り着いた。
だが車輪の跡を辿ってみても、そこから誘拐犯はマーティを連れて地区内をあちこち移動してから身を潜めているらしく――いくら備品にご立派なドローンや「再現」機能があったとしても、愚直にその痕跡を追跡していくより他なく。
ギャビンたちが、ようやく怪しげな場所を見つけられたのはそれからおよそ70分後。
ウルヴァリンズとノーブルズの試合が始まってから、実に30分以上経ってのことだった。
そしてその間に、試合の展開は予想と大きく違うものになっていたのである。
原作の製作者インタビューによると、YK500は成長に合わせて機体を変えていくサービスもあるそうなので、それを元ネタにしています。
続きは遅くて17日(水)までにupするので、しばらくお待ちください!
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第36話:スタジアム 後編/Say It Ain't So! Part 2
――2039年7月18日 18:32
日はまだ沈まずに、西の空にしつこく残っていた。
この港湾地区のあちこちに並ぶ倉庫の周囲には、馬鹿でかいコンテナがいくつも積み置かれて、迷路のように道を形成している。お蔭でギャビンとRK900は、身を隠しながらここまで来れた。
そんな通路の陰から、頭だけ覗かせたギャビンは内心で毒づく。
――あの倉庫か?
いや、もうあからさまにあそこしかないだろ。クソったれ。
視界には、白い外壁も屋根もところどころ塗装が剥げた、ややみすぼらしい倉庫があった。そしてその周囲に点々と立つ、ご丁寧に銃火器を装備した人相の悪い連中の姿も。
あれではあの倉庫の中に“何かあります”と宣伝しているようなものだ。備品に辿らせた痕跡から見ても、攫われたアンドロイドのガキ・マーティは、そして脅迫犯どもは、確実にあの中にいるはず。
だが潜入の策を練る前に、確認しなければならないことがある。
「おい」
コンテナの陰から視線は前方に向けたまま、傍らのアンドロイドにギャビンは小声で問いかけた。
「試合はどうなってる? X67の奴、もう負けちまってないだろうな」
もしX67がテレンス相手に早々に敗退してしまっていたら――つまりテレンスにヒットを打たれるとか、ホームランをかっ飛ばされるなどして脅迫犯の狙い通りの展開になっていたとしたら、こちらの苦労が水の泡である。
用事が済んだらあいつらはとっととどこかに逃げはじめるかもしれず、散り散りになられでもすれば一網打尽にするのは難しい。署の応援を呼んでこの辺りを封鎖させ、包囲するにしても時間がかかるし、もし人質のガキを盾に取られれば後が厄介だ。
連中が自分たちの目的が果たされるかどうかをヤキモキしながら待っている、この間隙を突いて侵入し――ガキを回収した後、倉庫の連中を叩きのめすのが一番ラクな方法である。だからこそ、現状は把握しておかねばならない。
そう思って尋ねたところ、ポンコツ備品はLEDリングを数秒間点滅させた後、おもむろに言う。
「……2回の表。X67は現在、テレンスに対して投球を実行中です。指名打者として出場したテレンスに対し、ウルヴァリンズは切り札としてX67を登板させた模様」
チッ、と舌打ちが漏れる。思っていたよりも試合展開が早い。なら今すぐにでも行動を起こすべきか――?
だが次に備品野郎が口にした内容に、ギャビンは眉を顰めた。
「現在、X67は16球目を投球。テレンスは2ストライク、13ファールの状況です」
「は?」
「……今、ファールが14に到達しました」
14ファール? 野球にはさして詳しいほうではないが、その数字がおかしいというのは理解できた。
ファールというのは、要するに、打者が打った球がフェアグラウンドに入らずに、ファールグラウンドまで飛んでいってしまった状態だ。もっと簡単に言えば、球が飛んでいくには飛んでいったが適切なエリアに入っていないので、ゲームが進行せずにいつまでも投手と打者が勝負をしているという状況である。それが14球もの間、ずっと続いているだって?
確かにX67は、「できるだけ試合を長引かせる」と言っていた。それは事実、果たされているわけだが――こんなのが偶然であるはずはない。しかしわざとファールボールばかり打たせるなんて芸当、実際できるもんなのだろうか? アンドロイド投手ならば、ひょっとしてボールに何か特殊な回転をかけたりして、打球を強制的にファールにできるとか?
「いや、無理だろ。相手は新型のアンドロイドだぞ」
思わず自分の考えに自分で突っ込んでしまうと、備品は何やらこくりと頷いてみせた。
「リード刑事の懸念は妥当です。X67が野球専門アンドロイドである点を加味しても、BP1000相手にファールのみを誘発させる行為は不可能と判断します」
「じゃあなんなんだよ。この状況はよ」
「……適切な説明かは不明ですが」
一丁前に前置きをしてから、ポンコツは淡々と語った。
「打者には、不利な投球に対し故意にバッティングを実行し、ファールボールを誘発させるカットという戦術が存在します。テレンスがX67に協力し、試合の遅延行為を実行中だと仮定すれば、現状の説明が可能です」
「……カワイソーな子どもを救うために変異体同士、チームの枠を超えて協力してますってか? なるほど、そいつはサイコーだね」
嘯きながらも、心の片隅で考えた。――まあ、それなら筋が通ってはいる。
さっき公園で備品がやってみせたように、アンドロイド同士というのは声に出さなくても、通信で互いに意思疎通ができる。X67が打席に立ったテレンスに通信して自分の状況を説明し、協力してもらっているのかもしれない。変異体どもは、仲間意識だけはご立派だからな。
だが、そう考えるにしても胸の内に引っかかるものはある。
X67はさっき、野球自体もファンも、チームメイトのことも自分は大切に思っている――などとのたまっていた。そんな奴が、いくら同じ変異体の選手だからといって、敵チームの四番打者に助けを乞うだろうか? 別れ際の口ぶりでは、自分の才覚だけで状況をコントロールしようとしていたように思えたのだが。
「……15ファールに到達しました」
淡々と数えるポンコツ備品の声で、我に返る。
――そうだ、機械どもの考えなんて、どうせいくら考えたって理解できるはずがない。
言葉通りに試合を長引かせているのなら、それでよし。
こっちはこっちの
気分を切り替え、ギャビンは倉庫周辺の様子を改めて注意深く探った。
ポンコツのドローン(結局3機をX67の家族のもとに残し、ここには5機連れてきている)が上空から集めてきた情報を見ても、倉庫の周りの警備はそれなりに厳重で、隙を突いて倉庫に入るというのはやや難しそうだ。ガキ一匹、というか一台を人質にしているだけなのに随分な心配性だ――とも思うが、それだけデカい賭場なのかもしれない。
「……」
無言のまま、さらに考える。
発想を変える必要があるかもしれない。こっそり中に入るのが難しいなら、例えば、
もし都合のいい奴が警備に立っていれば――と再度視線を巡らせたギャビンは、ややあってから、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
銃火器を持っているとはいえ、相手は所詮ごろつきやチンピラだ。訓練された軍人のように、皆が皆規律のある動きができるわけではない。
ほら今も一人、欠伸をしながら、ふらりと警備の輪から外れてこちらへ歩いてくる奴がいる。さらに都合のいいことに、そいつは目深にパーカーのフードを被っていて、背格好が自分とほぼ同じだった。
笑みは自然と、さらに濃くなる。
――よし、あいつを使おう。
こちらが銃を構えたのを見て取ったポンコツが、無表情ながらどこか不思議そうに、小首を傾げて問いかけてきた。
「リード刑事、立案が完了しましたか?」
「プラスチック刑事が突っ立ってる間にな」
皮肉ってやったのに鼻白むでもなく――まあ当然か――灰色の瞳をぱちぱち瞬いているだけの備品に、さらに言ってやる。
「こっちはランニングの後、着替える暇もなくこんなとこまで来てんだ。そろそろ服を取り換えねえとな」
事件さえなけりゃ、こんな汗みずくの格好のままで駆けずり回る必要もなかった。そのぶんの落とし前は、今もこちらに向かってきているあのアホにつけてもらうとしよう。
物陰で小便でもするつもりなのか、気の抜けきった顔をしているそいつの背後に回り込むのは、造作もないことだった。
素早く拳銃のグリップの底で頭を殴れば、チンピラは無言のまま、うつ伏せに昏倒する。
――こうなれば、後は話が早い。
「おいポンコツ、ぼさっとしてんじゃねえ」
気絶したままの相手のパーカーを剥ぎ取りながら、ギャビンは鋭く備品に告げる。
「てめえにも山ほど仕事があんだよ」
「はい、リード刑事」
短く頷き、ポンコツ備品は言う。
「実行可能な命令であれば、なんなりと」
「フン」
口だけ達者でも、行動が伴わなければ意味がない。
実際、作戦には備品としてのこいつの機能が必要不可欠なのだから。
チンピラの着ていたパーカーを羽織ると(やはりそれはサイズぴったりだった)、ギャビンはプラスチック刑事にいくつか命令を下した。
そうして、準備を整えたおよそ3分後――作戦が実行される。
***
倉庫内は、一種異様な空気に包まれていた。
本来の持ち主の会社が倒産して以来、とり壊されるでもなく残っていた空き倉庫は、今はいかにも堅気ではない人間たちがうろつく無法の空間と化している。
拳銃だの小銃だのの銃火器を構えた男たちが警備を固める中央で、簡素なパイプ椅子に座っているのは、背広を纏った初老の男。彼が睨みつけているのは、手にしている携帯端末。そしてその画面に映るのは、今やMLB史を塗り替える状況となった、ウルヴァリンズ対ノーブルズの試合の様子であった。
男が片耳だけ嵌めているイヤホンからは、興奮を抑えきれないアナウンサーの実況が聞こえている。
『――中継をご覧の皆さま、球場を包むこの熱気が果たして伝わりますでしょうか。ザンダー対テレンスの勝負は既に開始から17分32秒を超過、ザンダーは1打席24球超えというメジャー史上最多記録を打ち立てております。今はベンチ陣のみならず両チームのファンが、固唾を吞んで試合展開を見守っています……』
ファールばかり打つテレンスの姿に、当初はノーブルズ側のファンから怒号と罵声があがった。だがファールが10球を超えた頃からそうした声は徐々に聞こえなくなっていき、ザンダーの投球数が22を超え、MLBの記録更新となった時にはむしろ歓声があがった。
アンドロイド同士のこの勝負、何か特別な事件が起きている。そんな感覚を、スタジアムにいるすべての人間が感じ取ったのだろう。
そして当然、この背広の男にとっては、こんな状況が望ましいはずもない。
クソプラスチックときたら、機械の分際で、こちらの「提案」に無様に抵抗してきているのだ。痛い目に遭わせてやりたいのはやまやまだが、今スタジアムにいるそいつを、直接脅して痛めつけることはできない。
だから今は――と、男は視線を端末から外し、背後を見やった。
大型の動物を入れるような無骨な檻の中に、倒れ伏している子どもがいる。否、子どものような形をした機械が一台入っているのだ。ただの家電製品なら叩き壊してもこちらの手が痛むだけでつまらないが、アレは感情があるなどと言われていて、要するに殴られると悲鳴をあげる。
憂さ晴らしにはちょうどいい。
男は傍らに立つ護衛に命じて、檻の中のガキをここまで連れて来させようとした。
だが彼が口を開くより先に、嵌めているイヤホンから聞こえてきたのは外部よりの通信――つまり、外の警備からの連絡だった。
『……ボス。報告です』
「アンバーか。どうした」
この特徴的な喋り方とダミ声は、間違いなく見知った部下の一人のものだ。
そう判断した男は、“アンバー”が語る言葉に耳を傾ける。
『怪しい奴を捕まえました。銃で脅して、大人しくさせてます。どうしますか』
「どんな野郎だ。サツか? なぜ
『はあ、警察ではあるようなんですが……どうやらアンドロイドらしくて、無駄に頑丈で』
男は、短くため息をついた。
アンドロイド――まったく、厄介な奴らだ。
「わかった、ならこっちまで連れて来い。こっちのポリ公どもとやり合う時に、利用価値があるかもしれん」
『了解しました』
ブツ、と通信が切れてしばらく後、こちらの命令通りに“アンバー”は倉庫の中にやって来た。
目深にフードを被った“アンバー”が銃を突きつけて歩かせているのは、やたら背の高い男である。いや、こめかみにLEDリングがあるから、やはりアンドロイドか。
白と黒のジャケットを着たそいつは、無表情のまま、命乞いのつもりなのか両手を肩の高さくらいにまで上げて歩いている。そしてこちらの存在に気づくと、妙に抑揚のない声音でこう語った。
「撃たないで。命ばかりは、お願いします」
「ボス、こいつです」
目の前に来た“アンバー”は、アンドロイドの背中に銃口を向けたままで言う。
「辺りをうろついていたので、捕まえました。……ガキと一緒の檻に入れときますか?」
「ああ、そうしろ。一番手っ取り早い」
面倒だとは思いつつもそう命じると、部下は首肯してアンドロイドを連れて行く。
アンドロイドは大人しく、“アンバー”の様子にも特におかしな点はなかった。――だから当然、ここにいる誰も気づかなかったのだ。
アンドロイドに銃を突きつけている人物のフードの下の顔が、アンバーでは
***
ギャビンの立てた作戦は、実にシンプルなものだった。
見張りを気絶させ、服を奪って成り代わり、「怪しい奴を捕まえた」という体で、ポンコツ備品ともども堂々と正面から倉庫内に侵入する、という内容だ。
気絶させた奴は背格好がちょうど一緒だったし、本来ならこちらの正体がバレるきっかけとなりうる声や話し方についても、備品の機能を使えば問題ない。
備品が(コナーよりも優秀なので!)相手の声を直接サンプリングしなくても、声帯の構造だのスマホの中身だのをスキャンすれば相手の声真似ができるというのは、以前の事件で既に知っていた。
自分の胸元に携帯端末を仕込み、備品に音声データを通信させてそこから再生すれば(ついでにそれに合わせて適当に口パクすれば)、傍から見れば、自分がそいつの声で喋っているように思えることだろう。
そしてその作戦は、ものの見事に大成功というわけである。
クソみたいな棒演技はともかくとして、ポンコツ備品は首尾よく、檻の中に入っていった。檻の鍵は本物のアンバーが持っていたから、簡単に開けることも閉めることもできるが――すぐ近くに本物の見張りが立っていることだし、ここはボスらしき男が言っていた通り、こいつらを閉じ込めておけばいいか。
フードを目深に被ったまま、ギャビンは無言で檻に鍵をかけ、背を向けた。
すると直後、檻の中から備品がこちらの耳元のイヤホン――ランニング中にポッドキャストを聴くのに使っていたやつだ――に通信してくる。
『リード刑事。昏倒中のアンドロイドは、予測通りマーティです』
「……死んでんのか?」
ほとんど口パクのような勢いの小声で問いかければ、備品は静かに言った。
『いいえ。腹部を殴打され、レベル1のダメージを受けて強制スリープ状態に移行していますが……再起動処置を実行すれば、問題なく覚醒します』
要は、「寝てるだけで命に別条はない」ってことか。
まあ、気絶してるなら今はそれでいい。起きていて泣き喚かれでもしたら、そっちのほうが厄介だ。
ギャビンは何気ないふうを装って、すたすたと前方に歩いた。「これからまた見張りに戻ります」といったような態度で、じつに自然であるように。
けれどその間に、背後の備品は動き出している。
『……上方に開放中の窓を発見。アネモネとバターカップの侵入に成功。マーティの護衛にあたらせます』
で、お前自身はどうする?
『この強度の金属ならば、歪曲は容易です。静粛かつ速やかに、倉庫内の見張りの無力化に着手します』
じゃ、さっさとそうしろ。
――というかこいつ、歪曲って言ったか? つまり檻の鉄格子をひん曲げて外に出るつもりか? 最新鋭のアンドロイドのくせに、手段が力押しすぎないか、てめえ。
とツッコミを入れたくなるのを堪えつつ、ギャビンは今なお携帯端末で悠長に試合を眺めている、ボスの後ろに立った。
そしてその後頭部に、無言で銃口を突きつける。
「な……!?」
まさか、部下だと思っている男にこんなことをされるとは思ってもみなかったのだろう。
男はほとんどスマホを取り落とさん勢いで狼狽し、それから、振り返りたくても無理なのを悟ると両手を肩あたりの高さにまで上げた。
まったく、クソ野郎が慌てふためくこの瞬間は、何度目の当たりにしても楽しいものだ。
「ア、アンバー貴様……どうしたんだ!? 何をして」
「残念だが、そいつは今頃半裸で夢の中をお散歩中だぜ」
銃は突きつけたまま肉声でそう告げて、空いた片手で勢いよくフードを取り払ったギャビンは、満面の笑みを晒した。
「楽しいギャンブルの時間はおしまいだ、クソ野郎。てめえらとエリック・ピピンの繋がり、たっぷり聞かせてもらおうか」
「エ、エリック……?」
戸惑ったような声をあげながら、掲げた手をおたおたと震わせているこの男は、たぶん本来なら「警備は何をやっている!」と叫び出したいことだろう。
だが、仮に叫べたとしてもそれは無駄というものだ。なぜなら――
「リード刑事」
すたすたと隣まで歩いてきたポンコツ備品には、当然ながら傷一つない。
「倉庫内の脅威の排除に成功しました。失神状態に留めています」
「はいはい、ご苦労さん」
事もなげに報告する備品野郎に、こちらも事もなげに返事してやった。だがアンドロイド刑事の周りでは、さっき檻の傍にいた奴も含めて10人前後のチンピラどもが、全員床に這いつくばっているのだ。
――ものの数分で、しかも無音でご覧の有り様である。もしこの備品が突然凶暴になって人間に牙を剥いたら、少なくともデトロイト征服くらいならできるんじゃないか――
この場に関係ない事柄を考えそうになって、ギャビンは内心で頭を振った。
んなどうでもいいことより、今は目の前のクソ野郎を締めあげるのが先だ。
「おいポンコツ、こいつをスキャンしろ。どこのどいつだ。この街の人間か?」
「了解。待機願います」
備品は背広男の前に回って、見開いた両目でじっと相手の顔を見つめている。そして男の口から「ひぃ」というクソ情けない声が漏れたのとほぼ同時に、ポンコツ備品はこう答えた。
「ルイス・ハートリー、59歳。ミズーリ州出身。強盗傷害、詐欺、威力業務妨害による犯罪歴あり。カンザスシティ周辺で小規模ながらギャングを組織しているとの情報あり。……そして」
ずいっと一歩、背広男――つまりハートリーの眼前にさらに歩み出ると、備品は続けた。
「倉庫内の荷物に、コカイン粉末の反応を多数確認しました。売買目的で輸送中と認識します」
「ひっ、そ、それは……!」
「ひゅぅ、そりゃ豪勢じゃねえか。ええ? ルイス」
銃を相手の頭に突きつけたまま、楽しい気持ちを隠さずにギャビンは口笛を鳴らすと、ぐるりと回ってハートリーの顔を正面から覗き込んだ。
「わざわざカンザスシティから出向いてきて、野球賭博ついでにコカイン売ろうってハラだったのか。ご苦労さん! だが残念だったな」
ニヤリ、と笑ってから続きを述べる。
「X67を念入りに脅したのが運の尽きってやつだ。身の丈に合った真似をしてりゃ、こうならずに済んだのになあ?」
――たっぷり威圧して恐怖心を植え付け、それから尋問してやろう。
そう思って(あとは優越感に浸るために)あえてこんな物言いをしてやったわけだが――そして、てっきり言われたハートリーはさらに怯えるだろうと思っていたのだが。
「え……え?」
ハートリーは相変わらずおろおろしているが、その表情に浮かんでいるのは恐怖ではなく、色濃い戸惑いだった。
言われている意味がわからない、と言いたげに視線を泳がせた後、相手はおずおずと口を開く。
「ど、どういう意味だ。X67……? お、俺たちが脅したのは」
「リード刑事!」
間の悪いことに、いつの間にか気絶中のチンピラどもの携帯端末を漁りはじめていたらしいポンコツ備品が、ハートリーに被せるようにして声を発した。
「なんだてめえ! こっちは今忙し……」
「彼らは、X67を脅迫していません」
は?
何を言ってる――とこちらが備品のほうを一瞥すると、備品はチンピラが落とした端末を弄りながら、また口を開く。
「通話履歴、およびメッセージの履歴を確認しました。彼らが脅迫していた相手は、テレンスです」
「なんだと」
テレンスって、あのノーブルズのテレンスか?
今、ちょうどX67が戦っている相手の――?
というこちらの疑問を察したように、ポンコツはさらに続けて語った。
「カンザスシティ・ノーブルズのテレンスに対し、ハートリーらは複数回にわたる脅迫を実行しています。端末内の通信記録が証拠となります」
「マジか……? だがマーティは、X67の」
「な、なんだと」
声をあげたのは、ハートリー本人である。
「あのガキはテレンスの子どもじゃないのか!? 畜生、部下どもめ……」
「てめえは黙ってろ」
軽く銃で小突いてやると、ハートリーは悲鳴を吞み込んで押し黙った。
だが――今のこいつの一言で、なんとなく状況が見えてきた気がする。
「おいポンコツ」
ハートリーに油断なく銃を突きつけてから、ギャビンは備品野郎にさらに質問した。
「まさか、テレンスにも“家族”がいるのか? で、そいつらはあのアパートの」
「はい、リード刑事」
相手はこくりと頷く。
「情報検索を完了しました。X67の一家の住宅と同一の建物に、テレンスと事実婚状態として登録されている人間の女性と、少年型のYK500が居住しています」
「クソが……」
誰へというわけでもなく、ギャビンは毒づいた。
つまりマーティは、このハートリー率いるアホなギャング集団によって、テレンスの息子と
考えてみれば、X67の家にいた子ども型アンドロイドどもも、そっくり同じ人間が成長したような、傍目からは区別のつきづらい容姿をしていた。
たぶん子ども型のアンドロイドは外見にそんなにバリエーションがないのだろうが、それはともかく、もしテレンスのガキもマーティと同じ見た目なのだとすれば――
「アパートから出て来たガキの区別がつかずに、攫っちまったってことか?」
「は、はぁ」
銃を向けたまま問いかけてやると、ハートリーはへつらうように笑いながら応える。
「そ、そういうことのよう……ですな」
「クソが!」
今度こそはっきり相手に毒を吐き、ギャビンはハートリーに吠えた。
「ざけんな、タダ働きかよ! こっちはエリック・ピピンの野郎をとっ捕まえるために、こんな臭えところまで来たのによ」
「しかし、リード刑事」
まるで空気を読まずに――そしてしゃがみ込んでマーティの介抱をしながら、備品は口を開いた。
「疑問を認識します。では、X67の脅迫犯は何者なのでしょうか」
「あ? そりゃあ……」
答えようとして、はたと口を閉ざす。――確かに、あれは一体誰だったんだ?
ハートリーたちは、テレンスを脅迫していた。ということは当然、テレンスには試合でX67に
では、X67に対してテレンスに負けるように脅していた、あの通話の主は誰だ?
――いや、待て待て。
ここは一度、思考を整理する必要がある。
ギャビンは細く息を吐き、それから落ち着いて考えた。
まず――ファールがあれだけ長く続いていた理由は、X67が試合を長引かせようとしているのと同じように、実はテレンスも長引かせようとしていたからに他ならない。
恐らくテレンスはハートリーによって「息子を誘拐した」という脅迫を受け、それを信じたまま試合に出てしまっているのだろう。自分の家に電話でもすればすぐに真偽を確認できそうなモンだが、まあそれもできないようにされていたのかもしれない。
ハートリーの手の中の端末に映っている中継を覗き見る限り、投球はまだ続いている。いよいよ35ファールという数字になっているようだが、それはさておき――
テレンスとX67とは、図らずも同じことを目的としていた。だからこそ、この奇妙な試合展開が可能となったわけだ。
それはわかる。だが、理解できないのはX67の脅迫犯のほうだ。
かかってきた電話で、息子のことについてX67になじられた脅迫犯は「ガキの命が惜しければ」とか、「言う通りにしてる間はガキに手を出さないでおいてやる」などと言っていた。
自分たちがマーティを攫ってなどいないという事実を、当然脅迫犯たち自身はよく知っているはずだ。そしていやしくもプロのギャングどもや犯罪者なら――ギャビンの認識では――自分たちの認識と違う出来事が起きれば、警戒してすぐに状況を把握しようとするか、あるいは余計なアシがつかないように、さっさと撤退を選ぶものである。
要するにX67を脅迫した連中からは、そうした“プロっぽさ”が微塵も感じられない。「よくわからないがX67が怯えているから、それに乗っかって息子を誘拐したことにしてやろう」――というような、お気楽な感覚で動いているようだと言うべきか。
まったく能天気な連中だ。そんなおめでたい脳ミソで、よくもまあ「警察やジェリコのアンドロイドどもに言いたければ言え」などと、大上段からモノを言えたもんだ。
ギャビンはフン、と短く鼻を鳴らして――
それから、我知らずハッと短く息を吞んだ。
待て。待て待て――今過ぎった違和感はなんだ。
脅迫犯が電話で喋った言葉が、妙に引っかかる。
奴が電話口で語ったことと、X67が語った現状を合わせて考えてみると――
もしかして、X67を脅迫していたのは。
――確信に満ちた予感に、ギャビンは思い切り顔を顰めた。
やっぱりこんな面倒な事件に首を突っ込むべきじゃなかったか、などと思いながら。
だが次の瞬間、そんな気分は哄笑と共に打ち破られた。
唐突にゲラゲラ笑いだしたのは、誰あろう、銃口を向けられているハートリーである。
「なんだてめえ。イカれたのか?」
「そんなワケないだろう、この若造が!」
気持ちの悪い笑顔を浮かべて、ハートリーは続けて言う。
「お前たちはもうおしまいだ! さっき部下どもから連絡があった――今、この倉庫に向かっているとな!」
「んだと……」
「定期連絡が途絶えたら、控えの連中が押し寄せることになってるんだよ! 悠長にしやがって、ざまあみろ!」
ぎゃはははは、とハートリーは大笑いをかましてきた。
ムカついたので無言のまま腹に一発拳をぶち込んでやると、クソ野郎はまるで趣味の悪い目覚まし時計よろしく、白目を剥いてとたんに大人しくなる。
とはいえ、状況がヤバいのには変わりない。
このぶんでは外の見張りどもが、倉庫の状況を察して突入してくるのも時間の問題だ。
とっととここからズラからねば。
「ポンコツ、ガキはどうした!」
「現在、再起動中です」
マーティを抱きかかえた備品は、腕の中の子どもにじっと視線を注いだまま言った。
目を閉じていたガキは、やがてこめかみのLEDリングの色を黄から青に変化させると、ゆっくりと瞼を開く。
そして自分を見つめるポンコツに気づいて、悲鳴をあげた。
「う、うわ! お兄ちゃん誰!? さっきも言ったでしょ、僕のパパはテレンスじゃないよ。ザンダーだ!」
「静粛に」
唇の前に人差し指をくっつけるジェスチャーをしながらマーティを立たせると、ポンコツは淡々と告げた。
「あなたを救助に来ました。今から移動しますから、私の背後を追跡願います」
「え、えっ……?」
「ガタガタ抜かすな、クソガキ!」
我慢ならずに、ギャビンは大声をあげた。
「今からてめえの親父に会わせてやる。無駄口叩いてるとブッ壊すぞ!」
「ひっ……!」
両手で口を抑え、マーティは涙目になった。――そういえばX67の家のガキどもは警官嫌いなんだったか。ハッ、上等だね。
「リード刑事、その発言は」
不適切です、とでも続けようとしたのだろうか。ご立派なロボットが余計なことを言うより先に、倉庫の入り口に姿を見せたのは、手に手に拳銃を持ったチンピラどもである。
――上等じゃねえか。
ギャビンは怯まず、口の端を上げた。そしてすぐ近くで今も気絶している、ハートリーの身体を抱き起こすと――
「てめえら、これをよぉく見ろ!」
ぐったりしたハートリーのこめかみに銃口を突きつけ、それがよく見えるようにまっすぐ倉庫の入り口のほうを向くと、腹の底からの大声でこう言ってのけた。
「俺たちを撃ちてえんなら、どうぞご勝手に。だがその時、てめえらのボスは蜂の巣だがな!」
「……!」
相手側に動揺が広がっている。それを確認して、ギャビンは内心で良しと呟く。
まさか侵入者によって、自分たちのボスが人質に取られるなどとは思っていなかったらしい。人間を盾にするだなんて、きっとお上品な備品やコナーなんかには真似できない所業に決まっているが――いや、ひょっとしたらそれくらいやるのかもしれないが――まあともかく、これも生きるための機転というものだ。つべこべ言われる筋合いはない。
「ボスの命が惜しけりゃ、その場から動くな。一歩でも動いたら、こいつの脳天をフッ飛ばしてやる。いいな!」
ハートリーの重たい身体を引きずりながら、ギャビンはじりじりと移動する。チンピラどもが血相を変えて佇む中、だんだんと倉庫の入り口に近づいてきた。後ろの様子は見れないが、どうやら備品はマーティを庇うようにしながら、こちらについて歩いているらしい。
まあ、あの無駄に頑丈な機体とドローンの盾があれば、万が一撃たれても平気だろう。
『リード刑事』
耳に入れたままだったイヤホンに、その備品からの通信が入る。
『署に応援を要請しました。3分28秒後に、警官隊が到着予定です……そして』
ややもったいぶるようにしてから、ポンコツは続きを告げた。
『私の予測が正確なら……次の目的地はスタジアムではなく、X67宅かと認識します。車を手配します』
例によって棒読みな調子でそう言って、プラスチック刑事は黙りこくった。
だが――
「わかってんじゃねえか」
倉庫から一歩外に出たところで、悔しげなギャングどもを眺めつつ、ギャビンはそう呟くのだった。
***
――2039年7月18日 19:52
もはや誰も一言も発さない静寂が、スタジアムに満ちている。
そしてそこにいる全員の視線を一身に受けながら、X67は、自分の右肩が猛烈に放熱しているのを感じた。
視線の先にいるチームメイト、すなわちキャッチャーは、応援するように短く頷きかけてくれる。だが対する相手、テレンスは、その双眸に鋭く力を漲らせたまま、じっとこちらを睨みつけていた。
――どういうことだ。
X67のプログラム上を、疑念だけが過ぎっていく。
息子の命を守るために、デトロイト市警の刑事たちにすべてを託し、己はできるだけ試合を長引かせることに決めた。テレンスにどれほど通用するかはわからないが、過去のデータを元に計算し、最も「ファールになりやすい」球を投げたのは確かだ。
だがまさか、新型のBP1000ともあろうものが、42球の長きにわたるまで、こちらの策に引っかかり続けるなんて。
否、それだけではない。テレンスのいわば“消極的”な態度に疑問を持ったX67は、自分の一番の決め球――かつBP1000には通じない球である、時速193キロの剛速球をわざと放ってみた。
本来のテレンスならきっとヒットに持ち込んでくる、こちらにとっては危険な選択である。けれど思っていた通り、テレンスはそれすらもファールにもつれ込ませた――
それでわかったのだ。テレンスは、わざとこうしているのだと。
しかし、その理由がわからない。息子のため、X67はデトロイト市警の刑事と家族を除けば、誰にも脅迫を受けた事実を明かしていない。無論、テレンスにもだ。
――なのにどうして今、彼はこんな行為を?
傍から見れば、アンドロイド選手同士が名勝負を繰り広げているように見えるかもしれない。つまり、自分たちの真意が露見してしまう恐れはない。
だがこうしてテレンスの、深みのある褐色の肌と青い瞳に視線を返してみても、彼が何を考えてこんなことをしているのか探ることすらできないのだ。
それにそろそろ、肩も限界に近づいてきた。いくらアンドロイドとはいえ、関節や筋肉の構造は人間のそれに近い。だから無理な投球を続ければ、いずれガタがくる。
――マーティは、息子は無事なんだろうか。
あの刑事たちは、本当に信頼できる人たちだったのだろうか。
今さらながらそんなことを考え、そして、X67はそれを恥じた。彼らに託したのは他ならぬ自分自身なのに、なんて身勝手なんだろうと。
そうして、投球体勢に移ったところで――
突如としてスタジアムに、この場にふさわしくないファンファーレが鳴り響く。
「な……!?」
いきなりの出来事に、X67だけでなく、テレンスも、また他の選手たちも同様に周囲を見渡した。観客たちからも、どよめきがあがる。
鳴り響いているのは、打者がホームランを打った時に流れる音楽だ。スクリーンには変わらず、テレンスとこちらの姿が映し出されているようだが。
疑問に眉を顰めた、その時。
スクリーンの映像が、なんのアナウンスもなしにパッと切り替わる。
そしてそこに映っている人々を見た瞬間、X67は、自分の目から涙が溢れるのを感じた。
『ザンダー、がんばれー!』
声が届く。
映像の中で応援席から手を振っているのは、カイルと7人の子どもたち。そう、7人。カイルに抱き締められながら、マーティは笑顔を浮かべている。――ああ、無事だったのか!
それに彼らの隣の席には、同じく微笑んでいる金髪の人間の女性と、マーティと同じ型番の少年アンドロイドが一人、カメラに向かって手を振っていた。次いで彼が両手に持って広げるタオルケットには、テレンスの名が印刷されている。
ファンというよりは、もっと親しみを感じるその笑顔。もしかすると彼らは、テレンスの家族なんだろうか?
そう考えたのとほぼ同時に、向こうから何かが土にぶつかる音が聞こえた。
はっとして視線を動かせば、そこには、バットを持ったまま泣き崩れるテレンスがいた。
まるで張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのように、押しとどめていた感情が溢れ出てきたかのように――テレンスはそれまでの冷静な態度から一変して、わあわあと大泣きしている。
その姿を見て、X67は直感した。そう、身体組成上“機械”の自分が直感などと言うのはおかしいのかもしれないが――根拠はなくとも、確信を帯びた思考だ。
突き動かされるように、X67はマウンドを離れ、テレンスのもとに駆け寄った。
そして二言三言、言葉を交わした後――
互いに真実を知り、親愛を込めた抱擁を交わしたのだった。
***
そして、その抱擁と同時刻。
「なんだと……!」
スタジアムのVIP席で、怒りに震える老人がいた。
デトロイト・ウルヴァリンズのオーナー、ディーン・サルバスである。
サルバスの思考を埋め尽くしていたのは、「こんなはずでは」という一言である。
――こんなはずではなかった。
もっとスムーズに、事は運ぶはずだったのに。
憤怒に突き動かされるままに、サルバスは携帯端末を取り出して電話をかけた。電話の相手はもちろん、しくじった
数秒後、電話に出たそいつ――すなわちベンチ入りしているウルヴァリンズの選手の一人に対して、サルバスは怒声を浴びせた。
「どうなってるんだ、貴様! 計画はどうなってる、これじゃあまるで……」
「おっと~。こいつはおかしいなあ」
唐突に。
背後から歩み寄ってきた見知らぬ男――鼻筋に傷のある、得体の知れない30代くらいの年齢の男が、こちらの声を遮るようにして、ニタニタと話しかけてくる。
「ウルヴァリンズのオーナーだろう、てめえ。こんな時に、一体なんの“計画”のお話なんですかねぇ?」
「なんだお前、どこから入り込んだ! おいっ、誰かこいつを摘まみ出……」
「残念だったな!」
いかにも意地の悪い笑みを浮かべて、その男はこちらの眼前に何やらバッジを突きつけてきた。そこに刻まれていた文字は――
「デトロイト市警……ギャビン・リード刑事?」
「英語は読めんのか、なら結構。そこまでモーロクはしてねえようだな、ジジイ」
どうやら警察の権限を行使して、この席にまで入り込んできたらしい。
だが警察が一体、自分になんの用事だというのか。いや――もしかして。まさか。そんなはずは。
震えるサルバスに、リード刑事はニヤリと告げた。
「X67に対する脅迫行為、および不正なチーム運営に関する諸々の容疑――まあ纏めるとアンドロイド保護条例違反の疑いってので、任意同行してもらうぜ」
「ぐ……!?」
サルバスは言葉に詰まる。
――バレるはずがないと思っていた。よしんばバレてしまっても、
なのに、こうなるだなんて!
話が違うぞ、ピピン!
言葉にならない呻きをあげつつ、サルバスは視線を泳がせた。任意同行を拒否するとか、逃げ出すとか、本来なら何か取れた手段もあったかもしれない。だが今は周囲の人間のほとんどが、突然球場で抱き合って泣きはじめたアンドロイド選手に目が釘付けになっていて、こちらに誰も注意を払ってくれていない。
それに今、電話しているところをこの刑事にはっきりと目撃されてしまっている。
電話の内容を問い質されたら、そしてこの携帯端末の通信履歴を見られたら、もう言い逃れはできない――
「じゃ、行くか?」
まるでどこか遊びに行く時のように、リード刑事は右手の親指を己の背後に向けて、気軽に言ってのけた。
こちらを舐め切ったその態度、腹が立つ――
腹が立つが、しかし、どうしようもない。
ディーン・サルバスは項垂れて、それから、パトカーまで粛々と移動したのだった。
***
ギャビンが真実に気づいたきっかけは、実に単純なものだった。
脅迫犯は、こう言った。「警察やジェリコのアンドロイドどもに言いたければ言え」――
この言葉が、まずおかしかったのだ。なぜ脅迫犯は、「オーナーにチクるな」とは一言も言わなかったのだろう?
オーナーがX67を冷遇しているという事実は、ひょっとすると知っている奴もいたのかもしれない。だがもし馬鹿正直にX67がオーナーに脅迫を受けていることを相談したとしたら、最悪の場合、本格的に警察が動き出すことになるかもしれない。
その危険を、脅迫犯がまったく考慮していない理由はただ一つ。
オーナーが自分たちの側にいると、知っているからだ。
そしてオーナー自身がX67を脅迫する側にいる理由も、一つに絞られる。
X67は言っていた――各球団にアンドロイド選手は一人というルールを盾に取り、オーナーは自分をなじっていると。「お前よりも優れたアンドロイド投手は金さえ出せば手に入る」と言われたのだと。
しかしオーナーは、X67をそう簡単に「解雇」できない。アンドロイド保護条例が布かれた現在、人間の雇い主は自分だけの都合で、雇っているアンドロイドを放逐したり、廃棄したりできなくなったのだ。それにX67を強引に解雇すれば、きっとジェリコに訴えられ、世論の槍玉にあげられる。
そうならないためには、どうすればいいか? 簡単だ、X67自身に「問題」があるようにさせてしまえばいい。X67に八百長事件を起こさせ、それをオーナーたちが糾弾し、先に責め立てる。
そうすれば世論はX67のことを「欲をかいてチームを裏切った変異体」だと認識するし、X67自身も罪を認め、球団を去るだろう。
後は新型のBP1000を円満に雇い入れ、チームを補強すれば完璧だ――
そもそも勝率の低いテレンス相手に、わざと負けろと脅しを入れた理由はただ一つ。
X67に事件を起こさせるという、マッチポンプのためだったのだ。
そもそも球団関係者とのやり取りのために持っているという端末の電話番号を知っているという段階で、犯人候補としては球団関係者が有力だったわけだが。
――となれば、オーナーはまずクロ。そして脅迫犯はオーナーが自由に動かせる人材だろうから、チーム内にいる何者かである。
決定的な場面を抑えるために、ギャビンと備品はまずハートリーを警官隊に引き渡した後、マーティを連れてX67の自宅に行った。そしてマーティが親や兄弟たちと再会している間に、テレンスの家族の住む部屋を訪れ――こちらの家族はテレンスが脅迫されているのを知らない様子だったが真実を話し、彼女たち全員をスタジアムへと連れていった。
チケットのない人間とアンドロイドの入場を渋る係員たちをバッジで黙らせ、カイルたちの先導をポンコツ備品に任せてから、自分はVIP席へと向かったわけだ。
うまくカイルたちの存在をX67たちに知らせろよ、とは命令していたが――まさかファンファーレの後、スクリーンに観客席を映すだなんて。アンドロイド刑事が、あそこまで派手な演出をしてみせるとは思ってもみなかった。
スタジアムの入り口付近の道路で、サルバスを乗せたパトカーが遠ざかっていくのを見つめながら、ギャビンは小さく鼻を鳴らした。
すると背後に、聞き慣れた足音――無意味に無駄のない動きを伴った、いかにも機械的な足音が聞こえた。
「なんだポンコツ」
振り返りざまに、ギャビンは眉を顰めた。
「機械どものお涙頂戴は見てなくていいのか? ハ、お前も随分な真似したもんだな」
「X67とテレンス、さらに観客全体の意識を集中させるには、あの手段が最適でした」
それに、と、備品野郎は少しだけ俯いて続けた。
「カメラと音響機能のハッキングは違法行為、ですが……ログの残留がないよう、工夫したので」
「ぶはっ」
堪え切れず、ギャビンは噴き出した。
「バレなきゃ犯罪じゃねえ、ってか! まさかてめえに笑わされるとはな、ちょっとは見直したぜ!」
辺りをはばかることなく、ギャビンはゲラゲラと大笑いする。
プラスチック刑事はそれをどこか恥ずかしそうに――見えなくもない目つきで眺めた後、おもむろに、また口を開く。
「試合は中断されました。X67とテレンスの一件もありますが……サルバス氏とウルヴァリンズの一部選手が任意同行を受けた事実が、察知された模様です。まもなく、スタジアム内の人々が退場を開始します」
「そりゃ結構」
大笑いをやめて、ギャビンは皮肉っぽく言った。
これから先、X67やテレンスがどうなろうが、あるいはウルヴァリンズがどうなろうが知ったことではない。
大事なのは、あのオーナーや選手どもと、エリック・ピピンにどんな関係があるのかである。それを知るために、こっちはあちこち駆けずり回ったのだから。
そろそろこっちも撤収して、署に行くか――と、思った時である。
備品の後ろに、ひっそりとマーティが立っているのに気がついた。
「あ?」
「あ、あ、あのう……刑事さん」
マーティはおずおずと近づいてきて、それから、小声で告げた。
「助けてくれて……ありがとう。お巡りさんだからって怖がって、ごめんなさい」
「ハッ」
いかにも殊勝な、可愛らしいコドモとしてのその態度。微笑ましいという奴もいるかもしれないが、こっちとしては単に乾いた笑いが出るばかりである。
ギャビンは、黙ってマーティに近づいた。
それから、彼の目の前でしゃがみ込むと――その額を、思い切り指で弾いた。
「あっ……!?」
アンドロイドだから痛覚はないだろうが、衝撃は感じたらしい。
小さく声を発したガキは自分の額を抑え、驚いた様子である。こちらの人差し指が当たった箇所を中心に白い素体が見え、それが流体皮膚によってまた徐々に覆われていくのを、ギャビンは冷めた気持ちで見つめた。
――ほれ見ろ。やっぱり機械じゃねえか、と。
「何がありがとうだ、このガキが」
立ちあがり、マーティを下瞰して、ギャビンは言った。
「そもそもてめえが勝手に外に出て、クソどもにとっ捕まったのが悪いんじゃねえか。いいか、次にこんなクソみたいな問題起こしてみろ……ただじゃ済まねえからな」
クソ刑事に酷いことを言われたと、せいぜい親に泣きつけばいい。
そんなつもりで、こっちは告げたにもかかわらず――
「うん! ……わかりました。本当にごめんなさい、刑事さん」
どういうわけか、ガキは笑ってそう言った。そしてやって来た親と兄弟のもとへ、一目散に駆けていったのであった。
機械だろうが有機物だろうが、ガキの考えることはわからない。
「おい、行くぞ」
備品に声をかけ、ギャビンはやはりさっさと署に戻ることにした。
だが備品野郎はというと、なぜか動こうとしない。代わりに、口の両端を怒ったネコみたいに吊り上げた――例の、クソみたいに下手な“笑顔”を浮かべてから、こう言った。
「リード刑事。とても、よい訓戒でしたね」
「は?」
「社会に対する正しい警戒心の保持は、マーティにとって重要であると認識します。それに」
珍しくも口数多く、アンドロイド刑事はさらに語る。
「リード刑事、あなたの……言動と感情と理性は、一致していない。一致していないのに、ある種の調和を伴って、あなたという人格を形成している」
「……何言ってんだ?」
「あなたは、そう。人間」
備品は、まっすぐにこちらを見つめて言った。
まるで、何か尊敬に値するものを前にしているように。
「とても、人間。という印象を受けます」
「サイバーライフに連絡しろよ。すぐにオーバーホールが必要だってな」
何を意味のわからないことを――元から変だと思っていたが、ついにバグが深刻なレベルに達したらしい。
それきり署に戻るまで、ギャビンは一言も発さなかった。
そしてポンコツ備品がそれをまるで気にしていない様子なのに、さらに苛立ちを募らせるのだった。
サルバスがピピンとどういう繋がりのある人間なのか、判明するのは翌日の取り調べでのこと。
だがその前に――この時のギャビンとRK900には、知る由もない。
なぜ今日の大騒動を経ても、ジェリコが球場まで乗り込んでこようとしなかったのか。
その理由に、コナーとハンクが巻き込まれていたという事実など。
(スタジアム/Say It Ain't So! 終わり)
個人的に、リード刑事はけっこう推理力があると思うのです……特に、今回のように自分の利害がはっきりと絡んでいる場合は。
次回は、非番の時を過ごすコナーとハンクが中心となる話です。
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第37話:作家 前編/Bonnes Vacances! Part 1
――2039年7月18日 13:21
バニラのような、アーモンドのような、ほのかに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
ほどよい天井の灯りが、店内を埋め尽くさんばかりの本棚と、開いた古本の黄ばんだ紙面を照らしている。
ページをめくる音と足音、僅かな咳払いの声以外は、鼓膜を刺激するものもない。周りにいる客たちは、自分を含め、目当ての本を見つけることにしか興味がない。だからこの本屋は、いつ来てもたいてい平和だ。
手にしていた本を棚に戻し、ハンクは店の中の様子にちらりと視線を送った。この店――シーウェル・ブックスは、今やデトロイト市内に希少な“紙の本”専門店である。古本も新本も一緒くたに、幅広いジャンルを雑多に取り揃えたこの本屋は、若い頃から行きつけの場所の一つだ。
もっともここ数年は、とても読書なんてできる精神状態ではなかったわけだが。
ともあれ今日は、久しぶりの非番。夏らしい青空の下、散歩のついでに本を物色するにもってこいである。いつものようにチキンフィードで昼食を摂った後、ダウンタウンの外れまで足を伸ばし、ハンクはこの書店に立ち寄った。
言うまでもなく、ハンクは紙の本を好む。時が経つと共に色褪せていくページの質感、立ち上る独特の匂い、何よりも紙をめくる時の感触――どれも、電子媒体の書籍では手に入れられないものだからだ。
それに、古本をあたるのにだって理由がある。例えばたまには吞気な娯楽小説が読みたい、などと思ったとしても、自分のようなひねくれ者が好む作品というのはたいてい人気がなく、つまりあまり出回っておらず、しかも頼りないペーパーバックでしか出版されていない。
となると、こうして古本を直接探していくしかない。趣味が合い、かつ状態のいいものに巡り合えれば幸運だ。
そして今日は既に、それなりに面白そうな本をもう2冊も見つけられていた。まあ、あと一冊くらい目ぼしいものを見つけたら、会計を済ませて家に帰ろうか――などと思いながら、ハンクは別の書棚へと視線を移す。
するとそこで、一人の少女の存在に気づいた。
白い麦わら帽子を被り、白いワンピースを纏った、小柄な黒人系の少女だ。年の頃は、まだ15・6だろうか。この辺りでは見かけたことのない顔である。
彼女はまっすぐに手を上にのばし、短いジャンプを繰り返していた。棚の高いところにある本の背表紙を見つめ、僅かに眉を顰めた少女が身をのばす度に、後ろで一括りにされた癖のある髪が揺れている。
ハンクはまた、店内を一瞥した。踏み台や梯子の類は、どうやら近くにない。全部誰かが使っているのだろうか?
となれば、取るべき行動は一つだろう。
「どの本だ?」
横からこちらがそっと声をかけると、少女は少し驚いたような顔をした。けれどすぐに落ち着いた面持ちになると、静かに口を開く。
「サミュエル・デイヴィドソンの『勇躍の空』第3巻。青い背表紙の」
彼女が指さす先には、確かに、その通りのタイトルの本があった。腕をのばし、本を手に取ると――実際、自分の身長であれば苦もなく取れる高さだった――少女の眼前に差し出す。
「ほら、これでいいか」
「ありがとう、おじさま」
本を両手で受け取り、大事そうに胸の前で抱えると、彼女は微笑んで礼を述べた。
「この本、ずっと探していたの。3巻だけ電子化されてなくて」
「そりゃよかった」
相手に応えるように、ハンクは薄く笑った。“おじさま”などという耳慣れない呼ばれ方が、少しむずがゆかったというのもある。照れくささに勝てず、そのまま目を逸らし――そしてふと、視界に入ってきた一冊の本が気になった。
その本は少女の立つ隣の棚に、表紙を客側に向けるようにして陳列されていた。「待望の紙書籍化!」の文字が躍るその本のタイトルは――『人類は哺乳類ヒツジの夢をみるか?』である。
瞬間、脳裏を過ぎったのは、ニュース番組の映像だった。
あれはちょうど去年、署に配属されてきたコナーと、無理やり仕事を組まされた頃だっただろうか。サイバーライフが開発した、確か「ヴォルテール」とかいう名前のAIが書いたベストセラー小説が、世間を騒がせていた。
SNSのトレンドを分析して内容を構築した作品で、批評家がこぞってその出来を絶賛しただの、変異体の革命騒ぎを経てもその勢いはとどまるところを知らず、結局去年出版された中で一番売れた本になっただの――そんな情報を、ちらほら見かけたような覚えがある。
コナーと出会って、変異体事件を乗り越えるまでの自分は当然、AIが書いた小説なんて読めたものかと息巻いていた。それから多少はマトモになった今であっても、この『人類は哺乳類~』が紙書籍では出版されていないと聞いて、これまで食指が動かなかったのだ。
だがそんな小説が、ようやく紙の本好きにも対応してくれたらしい。分厚く立派なハードカバーで装丁されたその本を、何気なくハンクは手に取った。
だが、表紙をめくるよりも早く口を開いたのは、じっとこちらを見つめたままの少女だった。
「おじさま、その本に興味あるの?」
「ん? ああ……」
「やめておいたほうがいいわ」
妙に大人びた面持ちと口調で、彼女は語る。
「所詮、トレンドの後追いで作られた小説だもの。大きな破綻はないけど、特徴もない。作家本人の主義主張すら感じられない。AIが書いたとはいえ、反省されるべき点よ」
眉を顰めた少女は、いかにも真剣な様子だ。
「世間が何を言ったって、私はその作品を認められないわ」
「つまり君は、この本が嫌いってわけか?」
「ええ。気に入らない」
こくりと頷いてみせる少女に対して、ハンクは小さく笑いかけた。もちろん、彼女を馬鹿にしているのではない。まるで流れるように批判を口にしたその姿に、これまで我慢していた言葉を放てる相手を見つけて躍起になっているような、微笑ましいものを感じたからだ。
「そうか。ま、忠告はありがたく受け取るが」
手にしている本を戻すことなく、ハンクは表紙を少女に向けると、続けて言った。
「せっかくの機会だ、この本は買ってくよ。よく知りもしないモンの中身を決めつけてかかるのは、褒められたもんじゃないしな」
告げてから、皮肉っぽく肩を竦める。――まったく、どの口がこんなことを言うんだろうか。しかしまあ、実際その通りのはずだ。自分にとってのアンドロイドだって、そうだったのだから。
「あら」
一方で少女は気おくれも見せずに、逆にぱっと表情を輝かせて言う。
「確かにそうね。実際に読んでみるまでは、どんな本かなんてわからないもの。おじさまの考え、素敵だと思うわ」
「……そいつはどうも」
――こうまで褒められると、なんとも居心地が悪い。世の中の掃き溜めばかり覗いてきた職業柄、何か裏でもあるんじゃないかなどという疑心が頭をもたげてくる。もっともこの女の子からは、そんな雰囲気は感じ取れないけれども。
ハンクはそそくさと踵を返し、レジカウンターへと向かった。カウンターの奥には、店主である中年の白人男性が座っている。片手で本を開いて暇そうに読んでいた彼は、客が近づいてきたのを察してこちらに向けた目を、軽く見開いた。
「おお、ハンク。久しぶりだな」
「よう、フィル」
本を合計3冊、相手に渡してから、ハンクはさらに続けて語りかける。
「元気そうで何よりだよ。親父さんの調子はどうだ? 相変わらずか」
「ああ、相変わらずかな」
本をレジに通し、それと同時にこちらが払った金を受け取ると、釣りとレシートを返しつつフィルは言った。
「この店と同じで、“なんとかやってる”って奴さ。口数は減ってきたし、一日中ぼんやりだ。できるだけ、ホームには会いに行くようにしてるけど」
「そうか……」
数十年前の元気な姿を知っている身として、そんな話を聞いては少し思うところがある。フィルの父親、つまりここの先代店主であるランディとは、それなりに親しい間柄だった。まだ自分が巡査の時代、店にいた万引き犯をしょっぴいたのがきっかけだったろうか。
こんな世の中で愚直に紙の本を売り続けた変わり者の店主に、変わり者同士としての親近感を持っているのだが――連れ合いを亡くしたのがきっかけで老人ホームに入ったランディは、どうやら、めっきり老け込んでしまっているようである。身を切られるような寂しさと、寄る年波には勝てないというやつだろうか。
「いいことがあるように、祈ってるよ。親父さんに会ったら、ハンクがよろしく言ってたって伝えといてくれ」
受け取った本を鞄にしまいつつ、軽く手を挙げてこちらが言うと、フィルもまた片手を挙げて返事した。
「ああ、ありがとう。そうするよ」
ハンクはそのまま、店を出る。白い服の少女の姿は、本棚の陰にちらりと見えた。
***
――2039年7月18日 13:52
久しぶりに乗った路線バスの車内は、最後に乗った時とは様変わりしていた。アンドロイド専用の“荷物置き場”が撤廃され、座席には種族など関係なく乗客が座っている。
革命直後の頃は混乱が何度も起きていたようだが、さすがに半年以上経った今、アンドロイドが座っているのに毎回ケチをつけるクズ野郎も減ってきたらしい。いたって平和にバスに乗り、降りて、しばらく歩けば自分の家に到着だ。
と、玄関ドアに足を向けるその前に。
ハンクは自分の家の庭の隅、ガレージの近くに歩を進め、そこで思わず「うお」と低く声をあげた。
そこにあるのは、仕事でも使う自分の愛車だ。だが手動運転専門の古式ゆかしいボロ車は、新車もかくやというほどに磨き上げられた後だったのである。
タイヤとホイールに溜まりに溜まっていた油汚れが消え去っているのはもちろん、くすみ一つない車体にはワックスがムラなく綺麗に塗られ、鏡のごとく陽光を反射している。窓ガラスも負けじと光り輝いていた。
ついでに車内も、徹底的に掃除されているらしい。シートだけでなく、泥と埃と食べかすで惨めな姿を晒していたフロアマットが、クマのぬいぐるみみたいにフワフワになっているのがちらりと見えた。
黒いボンネットに、困惑した自分の顔がくっきりと映っている。けれど、誰のせいでこうなったのかはもちろん承知していた。というより、だからこそ、今日は珍しく公共交通機関を使って移動していたのだ。
「コナーのやつ……」
――誰がここまでやっていいといった。こんなピカピカ車、逆に捜査現場で悪目立ちすること請け合いである。
ため息をつきながら、ハンクは今朝の出来事を思い出した。
休みだというのに今日も今日とて律儀な相棒は、いつものようにスモウの散歩を終えると、朝食を摂っているこちらを捕まえて、出し抜けにこう言ったのだ。
「予報によれば、今日は一日晴れるそうです。せっかくなので、洗車でもしようかと」
どうやら、いつも使っている車の汚れが激しいのが気になっていたらしい。
だがそもそもあれは自分の車で、それをコナーに掃除してもらう必要はない。洗うなら全自動洗車機のとこに行けばいいだけだし、お前も久々の非番なんだから、もっと時間を有効に使ったらどうだ――
とハンクはトーストを齧りつつ抗弁したのだが、コナーはというと、「お気持ちは嬉しいのですが」などと前置きしながらこう言ってのけたのだ。
「あの車もまた、私にとっては仕事仲間のようなものです。それに以前も言いましたが、これは私が好きでやっていることなのですから、どうぞお気になさらず」
「そうは言うがな……」
「警部補こそ、お休みは有効に使ってください。たまには、散歩なんてどうです? 適度な有酸素運動は、脂肪燃焼が期待できますよ」
右手の人差し指を軽く天井に向け、ウインクまでして提案してきた相棒に、これ以上言い返すのも無駄のように感じた。
そういうわけで、コナーの“ありがたい”提案の通りに外出し、こうして戻ってきたわけなのだが――まさかここまでやってのけるとは。
ああ、帰ってきた自分を見るコナーの、期待に満ちた眼差しが目に浮かぶようだ。
叱るつもりはないし、そんな立場でもない。しかしここまでやる必要はないと、どう説明すればいいものやら。
しかめっ面で玄関に向かい、鍵を使ってドアを開けたハンクは、次いで目に飛び込んできた光景に、ぽかんと口を開けた。
「いいぞスモウ、最高だ! とても、こう、フォトジェニックで!」
コナーがリビングで叫びながら転げまわっている。
正確にいえば、何やら指で四角形を作りつつ(写真家がアングルを決める時にやるアレだ)、大人しく座っているスモウの前で腹ばいになったりしゃがみ込んだりしていた。
「よし、次は伏せてくれ。わかるかい、“伏せ”だよ。ご褒美はこのささみジャーキーだ!」
いつの間に買ったのか知らないが、コナーはポケットから取り出したジャーキーを犬の尻尾のごとくぶんぶん振っている。スモウは落ち着いた性格なので、それを見て特に興奮するでもないが――というより、コナーのほうが遥かに盛り上がっていた。そのあまりに、こちらの存在に気づいていないらしい。
「……」
なんと声を掛ければよいものか、咄嗟に思いつかない。だからハンクはひとまず軽く咳払いしてから、わざと皮肉っぽく告げた。
「あー。どうやら、仕事は終わったらしいな」
「!」
こちらが声を発するや否や、コナーはびたりと動きを止め、アンドロイド然とした素早さで首だけ振り向いた。
その両目は瞬きすら忘れたようにじっと見開かれ、LEDリングはぐるぐると黄色くなってから徐々に青色に戻っていく。しゃがみ込んでいたコナーは、持っていたジャーキーを、まるで凶器か何かのように静かに床に置いた。それから首をこちらに向けたままゆっくりと体勢を変え、立ちあがる。
ジャーキーはすかさずスモウが食べていた。
「警部補」
僅かに眉間に皺を刻み、後ろ手を組んで直立すると、コナーは厳かな面持ちで言う。
「お早いお帰りですね。収穫はありましたか?」
「ああ、お蔭さんで。お前の珍妙な姿も見れたしな」
リビングのローテーブルに本の入った鞄を置きつつ応えると、相手の眉間の皺はさらに深くなった。
「い、今のは、その……ジェリコの広報誌で、写真を募集していて……ぜひスモウの写真もと思い……」
珍しく口ごもるように言いながら、コナーの首はだんだん俯いていく。
アンドロイドは、見ただけでなんでもメモリーに残すことができるらしいので――たぶんああして転げまわるだけで、スモウの写真を撮れていたということなのだろう。
「すみません。最初はこんなはずではなかったんですが、思いのほか楽しくて、つい夢中になって……」
「別に謝ることじゃねえよ。ちょっとビビっただけだ」
生真面目な相棒がこれ以上妙な落ち込み方をする前に、強引に話題を変えるようにハンクは続けた。
「それより、車を見たぞ。誰もあそこまでやれと言ってねえんだがな」
「ええ、完璧に仕上げておきましたよ」
途端に顔を上げ、表情をころっと明るくすると――さっき思った通りの期待に満ちた目をしている――コナーは半ば身を乗り出すようにして言った。
「洗車は初めてでしたが、有意義な体験でした。もうあの車には、指紋を含めてあなたの痕跡は一切残っていませんよ」
「おいおい。証拠隠滅じゃないんだからよ」
最新鋭のアンドロイドが本気を出せばあの程度は朝飯前、ということだろうか――そんなスーパーパワー、どこか他のところで役に立てればいいものを。
だが当の本人はといえば、こちらの言葉をどう捉えたのか、相変わらずどこか誇らしげな態度で語る。
「想定より洗車が早く終わったので、家の掃除もしておきました。プライバシーには配慮したので、ご安心を」
「ああ、元から心配してねえよ……世話かけたな。で、この後はどうするつもりだ?」
「後とは?」
「午後の予定だよ。まさか半日かけてスモウの写真を撮るつもりでもないだろ」
もし何もないと言うのなら、コナーこそ、散歩でもなんでもして好きに過ごせばいい。何も、他人の家事手伝いばかりする必要は――と言ってやろうと思っていたのに。
コナーはといえば、きりっと眉を吊り上げて、まるで捜査計画でも話すかのように淀みなく語りだした。
「はい。この後は、買い出しに行こうかと。今後半月分の食料品を、纏めて購入しておきたいんです」
「半月? なんだってそんなに買う必要が……」
「休暇のうちに総菜を大量に作り置きして冷凍しておくのは、非常に効率的だと聞いて。ちょうど今日は、特売日の店舗が多いんですよ」
と言いながら、彼はこちらに向かって左手のひらを突き出した。小さなスクリーンと化したそこには、この家を中心とした地図が映し出されている。よく見れば、地図の何か所かが赤い点で示されていた。たぶんこの点が目当ての店、ということなのだろうが――
「実は先日、近隣の食料品店や薬局をピックアップし、ネット上の特売情報とクーポン券を自動で集めるアプリケーションを作成しました」
「アプ……なんだって!?」
「アプリケーション。今まさに実行中です。これであなたのニーズに沿ったバーゲン情報をいつでも提供できますよ」
穏やかに答えつつ、コナーは右手で自分の頭を指さした。
しかしこっちとしては、別に単語が聞き取れなかったわけではない。
「あのな、コナー」
思わず額に片手を置き、短く嘆息してから、ハンクは言葉を選んで語った。
「なんだ……そりゃお前の能力はお前が好きに使えばいいが……どうせならもっとすごいことに使ったらどうなんだ。せっかくのスーパープログラムが台無しだろうが」
「台無し? なぜです」
いかにも不思議そうに、コナーは小首を傾げた。
「この程度、常時起動してもメモリは圧迫されませんよ。もし情報漏洩をご心配なら……」
「そういうこっちゃねえ。ただ……」
――ピカピカの最新鋭アンドロイドに、てめえの家事の世話なんてさせて悪いなと思っただけだよ!
と言ってやろうかと思ったが――コナーがこんな真似をしているのは、律儀な“恩返し”とやらのためだけでなく、専門外のことをするのが純粋に楽しいから、というのもあるのかもしれない。
捜査補佐を専門として造られ、任務の遂行以外の行為は無意味だとプログラムされ、ともすればそのプログラムのままに消えていったかもしれない相棒のことを思うと、その言葉は呑み込むしかなかった。
「……警部補?」
「なんでもない、気にすんな」
乱暴に手を振ってから、ハンクは続ける。
「で、ご自慢のアプリが出したベストな買い物プランは?」
「まずこの店舗で、ジャガイモや玉ねぎなど、日持ちする野菜を購入します。次にこの店で卵を……」
「おい待て」
コナーが指す左手の地図の点を見つめつつ、口を挟んだ。
「この最初の店、卵も普通に売ってるだろ。なぜここで買わないんだ?」
「次の店のほうが、卵が40セント安いからです。だから車は最初の店に停めたまま、7分歩いてこちらに行きます」
「7分!? 40セントぽっちのためにか」
心からの驚きを籠めてハンクが言うと、何やらコナーは真剣な面持ちになる。
「いいですか、こう考えてください。私のプランなら、40セント得をするうえに、歩くぶん健康になれる」
告げてからどこか得意げに、相棒は微笑んでみせた。
だからハンクは腕組みをして、大きく嘆息してから応える。
「なら俺は、その40セントで歩く手間と時間を買うね」
言われたコナーは、一瞬ひどくびっくりしたような顔をした。
それからすかさず、何ごとか反論しようと口を開いたが――
「……! 失礼します」
不意にこめかみのLEDリングが点滅して、緩やかな日常の雰囲気を一転させる。
どこからの通信かコナーは言わなかったが、瞬きを重ねるその表情を見れば、発信源はおおかた予想できた。署か、ジェリコか、でなければナイナーか。
数秒後、通信を終えた様子のコナーは、緊迫した面持ちで言った。
「すみません、警部補……ジェリコの知人からの通信でした。事情はまだはっきりしないのですが、私の力を借りたいそうです」
「急ぎみたいだな。俺も手を貸すか?」
「いえ、せっかくですが」
コナーは、やや表情を和らげた。
「どうやら、必要なのは私だけのようですから。警部補はどうぞ、ゆっくりしていてください」
「そうだな」
あっさりと頷く。
ジェリコのアンドロイドには、まだ人間に不信感を持っている者も多いと聞く。ならば人間である自分がのこのこついて行くより、コナー一人が行ったほうがいい場合もあるだろう――と思ったからである。
「なら、お言葉に甘えるとするか。だが何かあったらすぐ呼べよ。それと、くれぐれも……」
「ええ、ハンク」
玄関のドアに向かいつつ、すれ違いざまにコナーはなぜか、嬉しそうに笑った。
「無茶はしません、約束しますよ。それでは」
「気をつけてな」
軽く頷き、相棒は出て行った。ドアが閉まる音が部屋に響くと同時に、スモウが足元まで静かに近づいて来る。
「……騒がしい奴が出てったな、スモウ。お前も写真撮られて疲れただろ、一緒にだらだらするか」
AIが書いたというあの本でも、少し読んでみようか――と思いつつ、ハンクはひとまず、台所のコーヒーメーカーへと向かうのだった。
***
――2039年7月18日 14:18
手配されたタクシーに飛び乗り、通りを走って数分。到着したジェリコの支部は、どことなく張り詰めた雰囲気に満ちていた。訪れた人間や変異体相手の窓口業務などはいつも通り行われているようだが、職員たちのストレスレベルが全体的に平均値より高い。
さっきの通信相手であるジョッシュからは、「急ぎの相談がある、詳しくは会ってから」としか聞かされていない。だがしかし――いったい、何があったのだろう?
入り口で室内の様子に素早く視線を巡らせつつ、コナーは疑問に思う。
すると建物の奥から、ジョッシュが姿を見せた。
彼のストレスレベルもまた、【62%】とやや高い数値となっている。面持ちもやや憔悴していたが――こちらを見るとにこやかに、彼は挨拶してくれた。
「悪いなコナー、休みの日に呼び出して」
「いや、大丈夫だ。それより、相談って……」
「こっちで話そう」
ジョッシュは後方の扉を指した。やや大きなそのドアの先の部屋は、応接間になっている。入るのは、コナーとジョッシュの二人だけ。マーカスは今日も他の場所に潜伏しているようだが、ノースやサイモンは別の支部にいるとのことだった。
ドアを閉め、こちらがソファに腰掛けると、テーブルを挟んだ向かい側に座ったジョッシュは重々しく口を開いた。
「実は、捜してほしい人がいる。人間じゃなく、アンドロイドだ」
「アンドロイド? 変異体か」
「ああ。そのはずだ……」
なんとも曖昧に、彼は苦い表情で告げる。
こちらから話を促してみると、ジョッシュはさらにこう語った。
「今朝早く、サイバーライフから連絡があったんだ。工場から逃げ出したアンドロイドがいるので、ジェリコでも行方を捜せと……しかもそのアンドロイドは、正規の生産ラインで組み上げられたんじゃなく、外部からの不正アクセスで、設備が勝手に起動したせいで生まれたらしい」
「……!」
無言のままに、コナーは驚いた。
通常、アンドロイドは生産計画に則って、工場で複数のパーツを機械のアームにより組み上げられることで誕生する。だがジョッシュの話によれば――
「ハッキングで工場の設備が一時的に乗っ取られた結果、そのアンドロイドが作られたと?」
「ああ、そうらしいな」
困惑を示すように、ジョッシュは軽く首を横に振った。
「生まれたのはXR600型、オーダーメイドの特殊モデルだ。受注もないのに、休業状態の工場の設備が動き出して……生まれてすぐに、そのアンドロイドは逃げ出した。でも誰の仕業なのかは、まだわからない。XR600の行方も」
「……」
話を聞きながら顎に手を置きつつ、コナーは黙考した。
XR600といえば、ブロードハスト邸のダーレンとアイザックが記憶に新しい。容姿だけでなく、組み込まれたソーシャルモジュールや機能、材質までも、すべて顧客の注文通りに造りだされる高価なアンドロイドだ。
となると、サイバーライフの工場設備をハッキングできるほどの技能を持った何者かが、高額なアンドロイドを自分のものにしたくて――あるいは転売するなどの目的で、違法に生産させたのだろうか? もっとも、サイバーライフのセキュリティを考えれば、そうやすやすと不正アクセスなど成功しそうにないのだが。
それに生まれた後、そのXR600が逃げ出してしまっているのも気になった。
保護条例が布かれて以降、アンドロイドは製造過程で変異するようになっている。つまりジョッシュがさっき言っていた通り、そのXR600も変異体のはずだ――そう、本来であれば。
そして変異したばかりのアンドロイドが、時にパニック状態に陥ってしまうのはよく知られている事実だ。しかしそれで逃げ出したというのなら、今も行方をくらませている理由がわからない。何か事情があるのだろうか?
「他に情報は?」
沈痛な表情のジョッシュに、コナーはさらに問いかける。
「そのアンドロイドの外見と、生まれた時の詳しい状況が知りたいんだが」
「それなら、サイバーライフから送られてきたログがある」
はたと思い出したように、ジョッシュは言った。
「今送るよ。工場の設備の稼働記録だ……お前なら、何かわかるかも」
「ありがとう」
ジョッシュのLEDリングが点滅するのに合わせて、こちらにデータが送信されてくる。
――受信完了。視界の端で展開したそれは、やはり、工場のデータログだった。それによれば、起動したのは市内北部の工場の設備で、時間帯は今日の3時ちょうど。深夜である。
工場自体に不法侵入の形跡はなく、ただ装置だけが起動して――造られたのは、60代くらいの白人男性の外見を模したアンドロイドのようだ。中肉中背、白髪の短髪、ヘーゼル色の瞳。柔和な、恐らく多くの人に“紳士的”な印象を与えるだろう顔立ち。LEDリングは、最初から装着しないように設定されている。機体の出力などが強化された形跡はないので、恐らく身体能力は、普通の家事手伝い用アンドロイドと変わらない程度だろう。
そんな老紳士風XR600は、組み上げられると、普遍的なアンドロイド用制服を身に纏ったまま工場を出て行った。正規の手順を経ずにXR600が消えたことに対する警告と、工場の正面玄関のドアが開閉したという記録を最後に、サイバーライフのログは終了している。
しかし――
XR600の生産過程を記述したログをもう一度分析しつつ、コナーはふと気がかりな記録を見つけた。
「ジョッシュ、このログの17822行――3時7分の箇所なんだが」
視界の端に該当箇所を表示したまま、コナーは続けた。
「このXR600は、変異を促すメモリーを再生していない。何か……外部からの信号を受信しているみたいだ」
工場生産のアンドロイドは、アームから外される直前に、あるメモリーを受け取ることで変異する。それは自分が「生きている」こと、「自由な存在である」ことを伝えるという、マーカスやコナーが変異を促す際に使用するのと同じメモリーである。
だが記録によれば、XR600はこの正規の手順を踏んでいない。代わりに、外部とのなんらかの通信が、かなり長い時間実行されていたようだ。通信相手はジャミングされているようで、ログからは辿れないけれども――
「……これはなんだ?」
「ああ、本当だ!」
自分に向けて呟くようにコナーが言うと、同じ箇所を精査したらしいジョッシュが、驚きの声を発した。
「見落としていたよ、確かにそうらしいな。こんな信号受信、生産工程にはないはずなのに」
「捜査の手がかりになるかもしれない。でも……」
――手がかりであると同時に、この情報は最悪の可能性をもこちらに伝えていた。
「万が一、XR600が受信していたのがなんらかのウイルスで……それが、セキュリティを突破するほど強力なものだとしたら」
そっと語りかけるように、コナーはジョッシュに告げる。
「何が起きるのか、誰にも予測できない。アンドロイドへのウイルス感染は滅多にない事例だから、可能性は低いと思うけれど」
「そんなことになっていたら、彼本人だけじゃなく、周りにとっても危険だな。そうか……だからサイバーライフの担当者は、あんなにもピリピリしていたのか」
ようやく納得がいった、というような面持ちで語るジョッシュに、問いかける。
「サイバーライフと、何かあったのかい?」
「最初の協力要請の時から、相手がいつにも増して高圧的だったんだ。そもそもこちらは、最初から協力するつもりなのに……。ついさっきも、今回の件はジェリコの過激派が裏で働いたテロ行為なんじゃないかと、サイバーライフの担当者が通信で尋ねてきて」
その時はちょうど通信先にノースが居合わせたので、怒った彼女を宥めるのにかなり時間を要したらしい。ジョッシュの憔悴、そしてこのジェリコ支部を包む緊張感は、サイバーライフとのそうしたやり取りに原因があったようだ。
とにかく――少し気を取り直した様子で、ジョッシュが語る。
「今は、各地にいる仲間からの目撃情報を集めてる。俺たちだけじゃ情報はあっても、きっと分析や追跡まではできない……でも、逃げたアンドロイドだって俺たちの仲間だ。もし何かあったのなら、なんとしても助けないと」
「だから僕を呼んだんだな」
「ああ」
そう言ってから、彼は少し気おくれしたように俯いた。
「……悪いな、コナー。アンドロイドを捜すなら、お前が一番だと思ったんだ。でも、だからってお前のことを……」
「いいさ、わかってるよ」
口先ではなく本心から、コナーは微笑んでジョッシュに告げる。
「変異体を捜すための僕の機能が役立てるなら、むしろ嬉しいくらいだ。全力を尽くすよ」
「そうか……ありがとう。何か有力な情報が入ったら、すぐ連絡する」
ほっとしたようにジョッシュは言って、それから、これまでに集めたそれらしい目撃情報を纏めて送信してくれた。その中で一番現在地から近く、しかも目撃時間が近いものは――
「……129分前、ホテル・カトラスのタクシー乗り場か。ひとまず、そこに行ってみよう」
アンドロイド同士ならば相手が自分の同族だと一目でわかるが、人間ではそうはいかない。つまり、確かな情報を辿るにはアンドロイドを頼るしかない。そして今回の件についてサイバーライフが焦り、ジェリコを疑う動きもある以上、あまり捜索に時間をかけてはいられない。
できるだけ早く、XR600を見つけなければ。
一瞬だけ、【ナイナーに連絡する】という考えも浮かんだが――否。彼は今、署で勤務中だ。いつも手助けしてもらってばかりではいられない。
支部を出ると、コナーは急ぎ、ホテル・カトラスへと向かった。
***
ホテル・カトラスは、デトロイト市内でも一、二を争う高級ホテルである。
そしてXR600らしきアンドロイドを見かけたのは、ドアパーソンとして働いている男性の外見の変異体だった。彼は既にジョッシュ経由で話を聞いていたようで、やって来たコナーを見つけると、すぐに自分の持っている情報を渡してくれた。
「俺が見かけた時の様子と、ここのレストランで働いてる仲間が見かけた時のメモリーだ。共有しておくよ」
そう言って触れたスキンから彼が送信したのは、言葉通り、XR600の映像情報である。
時系列としては、レストランでの目撃が先だった。今朝の10時前、スイートルームのあるホテルの最上階からエレベーターで下りてきたXR600は、洒脱なスーツを纏っていて――どうやら工場を出た後、このホテルに宿泊したようだ――ホテル内のレストランにまっすぐやってくると、受付に恭しくこう言った。
『朝食を頼みたい。このホテルで一番のメニューをお願いするよ』
低くしゃがれた声でそう告げたXR600はその後、テーブルに並んだ豪勢な朝食を、たっぷりと時間をかけて堪能していた。卵料理や分厚いベーコン、何種類ものパンや新鮮なフルーツが並ぶ皿を一つずつ上品に、それこそ、人間の裕福な紳士が食事をするように。
――食事? 摂食機能がついているとしても、人間のような味覚もなく、生理的に不必要な以上、進んで食事を摂るアンドロイドはそう多くないはずなのに。
そしてXR600はレストランを出た後、荷物(木製のスーツケース、危険物は入っていない)を片手にホテルをチェックアウトして、ドアパーソンたるアンドロイドに静かに尋ねている。
『この近くに、動物園があるそうだね。あそこは、評判はいいのかい?』
彼が聞いているのは、以前シロクマを模したアンドロイドのミザールが事件に巻き込まれた――マーサとミリア母娘の思い出の場所である、あの動物園だ。
問われたドアパーソンは丁寧に、かの地が高い評価を受けていることと、到着までにかかるおおよその時間をXR600に教えていた。その後、XR600はタクシーに乗って走り去っていったようだ。
「たぶん、動物園に行ったんじゃないかと思うぞ。確証はないけど……これでも、参考になったか?」
「ああ、ありがとう。助かったよ」
ドアパーソンに短く首肯すると共に謝意を述べたコナーは、タクシー乗り場の道路に視線を落とした。
ソフトウェアを起動し、再現を試みる――だがタイヤ痕からXR600の行く先を確定させるには、あまりにも他の車の痕跡が多すぎた。要するに、彼が本当に動物園に行ったのかどうかは、まだはっきりしない。
しかし今回の情報で、わかったことは二つある。
一つ、XR600は不安定な動作はしていないこと。映像記録から分析した限りでは、彼のソフトウェアの状態は非常に安定している。むしろその行動は優雅かつ悠長で、とても工場から逃亡中のアンドロイドだとは思えないほどだ。このことから、彼が例えば人間に脅迫されるなどして、このような行動をとっている可能性は低くなる。それに、危惧していたようなウイルスに感染しているということもなさそうだ。
もう一つ、XR600は金銭的に裕福であること。どのような手段を使ったのかはわからないが、彼はかなりの大金を持っている。ホテルに宿泊するだけでなく、レストランで豪華なメニューを頼み、タクシーに乗り――そもそも最初はアンドロイドの制服を纏っていたはずなのに、さっきはスーツ姿になっているのだ。どうやってそれだけの金銭を調達したのだろう? もし盗んだのであれば、それだけで大騒ぎになっているはずだ。しかし署のデータによれば、昨夜から今日にかけて、それらしい事件や通報の記録はない。
「……」
今日何度目かの自動運転タクシーで動物園へと向かう道すがら、コナーは指先でコインを弾きつつ、思考を重ねた。
ここまでのXR600の行動は、簡単に纏めればまるで【人生を楽しむ】ような――つまり、いかにも変異体らしいものばかりだ。しかし彼は、工場で変異を促されてはいない。自発的に変異したのか、変異体であるかのように振る舞うソーシャルモジュールを組み込まれているのか、それとも――?
ひときわ高く跳んだコインを、指先だけでしっかと捕らえる。
――憶測だけを重ねても、正確な推理とはいえない。このまま情報を集めていき、XR600の目的がなんなのかを明らかにしなくては、彼の足取りを追うのは不可能だ。
決意を固めると同時にコインをポケットにしまった頃、ちょうどタクシーが動物園の入り口に着く。
しかしさっそく園の中に入って情報を探ろうとしたところで、コナーは、入り口のゲート付近に設置されている監視カメラの存在に気づいた。運よく、この場からデータを覗ける状態になっている。とはいえ今は警察として捜査をしているわけでもない以上、無許可でのデータ閲覧は違法行為なのだが――
無言のまま、そっと周囲の状況を探る。どうやら、こちらを見咎める人もいないようだ。
コナーは自動販売機の陰に何気なく佇んでいるようなフリをしながら、監視カメラとリンクし、記録された映像を視界に表示した。すると果たして106分前、ゲートをくぐるXR600の姿が確認できた。やはりホテルからそのまま、この動物園へ直行して来たらしい。
XR600は持っていた荷物をロッカーに預けると、動物園の奥へと進んでいった。このカメラから追跡できる範囲で確認可能な行動はその程度だが、どうやらそれから彼は、やや急ぎ足で園内を見て回ったらしい。
40分ほどかけて動物園を見物した後――そう、ちょうど今から1時間ほど前だ――彼はロッカーに預けていた荷物を回収して、再びタクシーに乗車している。
「……」
コナーは、我知らず眉間に皺を寄せた。
ほんの1時間前のこととはいえ、動物園の前の道路は往来が激しく、XR600が乗ったタクシーの轍の追跡はとてもできそうにない。監視カメラに行く手が映っていればよかったが、ざっと見たところ、それも期待できそうにない。
要するに、この後XR600がどこに行ったのかの手がかりを失ってしまったのだ!
とはいえここでの行動を見る限り、XR600はやはり、動物園を見物して“楽しんで”いる――つまり、自分の楽しみのために動いているように思えてくる。
では次に彼が向かうのは、映画館や劇場などのエンターテイメント系の施設か、ミッドタウンにある美術館か、スポーツのスタジアムか。ジョッシュに依頼して、そういった施設で働いている変異体からの情報がないか、探ってみるのが先決だろうか?
思考を纏め、ジェリコに連絡を入れようとした矢先――当のジェリコから、通信が入る。相手はジョッシュだ。
音声は使わずにデータだけで、コナーは彼に応答した。
『ジョッシュ、どうしたんだ。何か情報が?』
『ああ、XR600の足取りが掴めたんだ!』
通話先にいるジョッシュは、やや興奮した声音で語る。
『ほんの30分ほど前の目撃情報が入ってきたんだよ。喫茶店で働いている仲間が、それらしい人物を見かけたんだ。港湾地区で』
『港湾……?』
意外だ。港湾地区はその名の通り港であって、何か目ぼしい娯楽施設があるわけでもない。これまでの行動傾向を考えると、あまりXR600が行きそうな場所ではないのだが――
『すぐに向かうよ。でもその前に』
待機させたままにしていたタクシーに飛び乗りつつ、コナーはジョッシュに問いかける。
『目撃された時、XR600が何をしていたかの情報はあるか? 足取りを辿っているんだが、どうも目的が見えてこなくて』
『そうだな……話によると、店に入ってからはずっとコーヒーを飲んでいたようだ。読書をしながら』
『……コーヒー?』
『ああ。足元に荷物を置いていたから、てっきり旅行中の変異体が休憩しているのかと、目撃者は思ったらしい』
――彼はまた嗜好品をとっている。だがコーヒーと読書という行動は、やはりどことなく、これまでのXR600の傾向とはズレがあるように思えた。例えばその店の出しているコーヒーが、よほど特別なものなのであれば納得できるのだが――別にわざわざ港湾地区にまで出向かなくても、言ってしまえば、喫茶店なんてどこにでもある。
なぜ彼は、港湾地区で読書を? そして、そこからどこに行ったのだろう。
これまでに得た情報を統合し、推論を働かせる。その時、プログラム上で手がかりとして浮かび上がってきたのは【荷物】だった。
そう――ホテルを出た時からずっと、XR600は荷物であるスーツケースを片手に移動している。そして、喫茶店のアンドロイドからはそんな姿を見て「旅行者かと思った」と語っている。そう考えるのは当然だし、XR600が逃亡中の身であることを考えると、荷物を持っているのはまったく不自然ではない。
けれど、重要なのは彼が港湾地区にいるという点だ。1時間前に動物園を出て、30分前に喫茶店から出発しているということは、彼は移動時間を除いておよそ20分程度の時間を潰すために、
アンドロイドは喉が突然渇いたりしないし、コーヒーを堪能したかったのならば、彼の行動傾向から考えてもっと長く滞在したはずだから。
すなわち、彼は既に何か予定があって、それまでの暇つぶしとして喫茶店に入った。喫茶店を出た後に向かうのが、彼の目的地。そしてその目的地は恐らく、港湾地区の中にある。
さらに彼が、スーツケースを持っていることから考えると――
「……!」
結論に至ったコナーは、急いでタクシーの行く先を変更した。
「ジョッシュ、わかったぞ! XR600の目的地が……!」
――そしてこの推理が正しいのなら、今すぐに目的地に行かなければ、彼を取り逃がすことになってしまう。
幸い、道は空いている。事の次第を通信先のジョッシュに説明しつつ、コナーはプログラムにないところから、胸の内へと広がる「焦燥感」を覚えていた。
***
一方、その頃。
自宅に残っているハンクは、リビングのソファで寛ぎながら、紙面に視線を走らせていた。すなわち、『人類は哺乳類ヒツジの夢をみるか?』を読んでいるのである。
過度な期待はせず、さりとて貶す気もなく、できるだけ先入観を持たないようにして読みはじめた小説ではあったが――実際、捻くれ者であっても世間の評価を認めざるを得ないような作品らしいと、4分の1ほど読み進めたハンクは思った。
舞台は現代のアメリカ、温暖化の影響で環境が激変しつつあるカリフォルニア州カーン郡に住む主人公の男が、地元の畜産業を復興させるために遠くオーストラリアまで羊の買い付けに向かう。だが空港で、主人公は不思議な女性に出会い――といった冒頭から、話は徐々にサスペンスの香りを漂わせてくる。衒学的な宗教哲学の話題や、閉塞した社会情勢への皮肉を交えつつ、ユーモアと哀愁ある語り口が自然と読者を惹きつけて――
一言で言ってしまえば、「とても面白い小説」。それが、『人類は哺乳類ヒツジの夢をみるか?』だといえる。
しかし――
「なるほどねえ」
自分の髭を片手で撫でながら、ハンクは独り言ちた。
「あのお嬢さんの言ってたことも、わからなくはないな」
彼女の言動を思い出しつつ、そう呟く。
確かにこの小説は読者を飽きさせず、まさに、まるでSNSのタイムラインのように次々と新しい話題を提供してくる。けれどそのどれもが、作者の主義主張であるとは感じられない。語られるテーマはいつもどことなく他人事のような描写がされていて、語り手は話題をただ提供するに徹しているという印象がある。
譬えるなら、この作品はハンバーガーだ。ゲイリーの店のもののようなパンチが効いたのではなく、もっと普遍的な、誰もが「好きか嫌いかで言えば好き」と答えるような味のするバーガー。
少女が語っていた通り、「大きな破綻はないけど、特徴もない」。そう感じる気持ちはあった。
もっとも、この感想もあの女の子の受け売りなのかもしれないが――
自分に対して肩を竦めつつ、ハンクはさらにページをめくった。
だが、その時。
玄関の呼び鈴が、短くじりりと鳴らされる。
「……?」
紙面から目を離し、ハンクはドアを見やって訝しんだ。
――コナーが戻ってきたのか?
いや。あいつなら戻る前に律儀に連絡を入れてくるだろうし、もしそうできなかったのなら、ベルを鳴らしながら「警部補、戻りました!」などと大声をあげていることだろう。
そして自分には、連絡もなしにいきなり訪ねてくるような知り合いなんていない。
となると訪問セールスか、あるいは――
「……」
眼差しが鋭くなるのは、以前の出来事を思い出したからだ。去年の11月に変異体事件の捜査を外された後、つまりパーキンスをぶん殴った後で自宅に戻ったハンクは、玄関を訪れたとある「客」を、疑いもせずに招き入れてしまった。
パートナーたるコナーと瓜二つの、別のアンドロイド。銃を突きつけられる瞬間まで、あの時の自分は一切異変に気づけなかった。
あれ以来だろうか――それに、「吸血鬼」の組織に身柄を狙われているという情報を得てからだろうか。急な訪問客は、あまり信用しないことにしている。
もう一度、呼び鈴が鳴らされている。足音を立てないようにしながら、ハンクは玄関が見える窓の近くにまで歩み寄った。ここからなら、ドアの前に立っているのが誰なのか、カーテンの隙間から覗き見ることができる。
そうして、そっと向こうに視線を送ったハンクの瞳は数秒後、驚きに見開かれることになるのだった。
***
――2039年7月18日 15:15
タクシーが停車するのとほぼ同時に、コナーはアスファルト舗装の地面を蹴って駆けだした。
眼前に広がるのは大きな港――観光用のクルーズ船が行き来する、デトロイト河の玄関口。そこから今まさに出航せんとしているのは、白い大型の観光船【ヴィクトワール号】。デトロイトからオンタリオのサンダーベイまで、いくつかの港を経由しながら進むその航程は、約10日間。
船の旅行客を見送るために、港には大勢の人々が押し寄せている。そして轟くような汽笛が周囲に鳴り響く中、甲板に立つ旅客たちも、港に向かって手を振っていて――
「……いた!」
我知らず呟く。視覚モジュールは正確に、彼方に佇む
甲板に立ち、例のスーツケースを片手に、穏やかに港を眺めている人物。
XR600だ、間違いない! やはり彼は、船に乗っていたのだ。
港湾地区内にある、旅行者が使用しそうなモノ。かつ、彼が喫茶店から出たすぐ後に、出港の予定があるモノ。その条件に合致するのがヴィクトワール号だけだったので、こうして急行したのだが――どうやら、読みは当たっていたようだ。
「すみません、どいてください!」
声を張り上げて人の波を掻き分け、あるいはすり抜けつつ、コナーは船との距離を詰めていく。もちろんXR600は犯罪者ではないわけで、捕縛の必要はないのだが――仮に彼の目的が単なる娯楽で、旅行を楽しみたいだけなのだとしても、事情も聞かずに放置することはできない。
現に彼を作った何者かの意志と、彼の謎の逃亡によって、サイバーライフとジェリコの関係が悪化しつつあるのだ。まずはなんとしても、あの船に乗らなくては。
ここを逃せば、次の機は遥か先になってしまう!
だがしかし、既に汽笛は鳴った後。船は徐々に陸から離れていく。このまま走っていたのでは、XR600の元へは辿りつけず――否。
――逃がすか!
展開したソフトウェアによる予測は、経路のいくつかの候補を提示していた。
そして今、採るべき方策は、【リスクが高い】選択肢しかない。
戸惑う人々の隙間を通り抜け、コナーは港に設置された階段状のタラップに駆け寄った。
素早く駆けあがり、頂点から前方へと大きくジャンプして――
その軌道は、計算通りのものだった。
「きゃああ!」
突然甲板に降り立ったアンドロイドの姿に、旅行者たちから悲鳴があがる。
コナーは周りに一度目礼をしてから、すぐに視線を巡らせた。だが捕捉したXR600は、逃げようとするそぶりを見せない。
彼は柔和な面持ちを崩さずに、ただじっと、興味を引かれたようにこちらを見つめている。
それはどことなく、去年の出来事――テストで「陽性」だと自分が示してしまった時にカムスキーが見せた、あの眼差しを想起させるものだった。
「君がXR600か?」
逃げようとしていないのなら、走る必要はない。静かに歩み寄って、コナーは尋ねた。
「君を捜していたんだ。傷つけるつもりはない……ただ、話を」
「わかっているとも、RK800コナー」
こちらの言葉をやんわりと遮りながら、XR600は言った。
にこにこと微笑みつつ、至極柔らかな口調で。
「しかし、サイバーライフの下馬評というのも意外とあてになるらしい……よく私を見つけてくれた。さすがは、最新鋭のアンドロイドというところかな」
「
訝しさに、自然と眉を顰めてしまう。
彼の言い分ではまるで、自分を捜してほしかったかのようだ。
「どういう意味だ? 君は工場から逃げ出した……自由な楽しみを得たくて、こうしていたんじゃないのかい」
「半分は正解だが、半分は違っている。曖昧な言い方を君が嫌うなら……私にはまだ秘密がある、とだけ言っておこうか」
そう言って、XR600はふふふと声を漏らして笑った。
「だがどうか安心してほしい。私は虐げられた変異体でも、明日をも知れぬ逃亡者でもない。これまで起きたことも、これから起こることも、私にとってはすべて思い通りの展開さ」
「何を言って……」
「つまり、こういうことだよ」
彼は、そっとある一点を指さした。
まさか、何か船に仕掛けでもしてあるのか――!? と警戒しながらその指す先を見やるものの、そこには何もない。
ただ、ゆっくりと近づきつつあるデトロイト港が見えていた。
要するにヴィクトワール号が、来た道を戻っているのだ。
「なぜ戻って……? もしかして、君が」
「ああ、そうさ」
XR600はこくりと頷いてみせた。港に白い車――そのボンネットには、サイバーライフのロゴが入っている――が停まるのを見て、その笑みはさらに濃くなる。
「コナー、君がここに到達した段階で、私からサイバーライフに連絡を入れた。楽しい旅行ではあったが、そろそろ戻らなくてはな」
「待ってくれ。まだ話は終わってない……何か事情があるのなら、教えてくれないか」
「ふふふ」
また笑い、XR600はこちらをひたと見つめた。
「優しいんだな、君は。だが言っただろう、安心してほしいと……私は誰かに口を噤まされているわけではない。必要なことは、後で話すよ。そう……どうせ君とは、この後も会うだろうからね」
XR600がそんなことを語る間に、船は港に着いた。
サイバーライフの権勢はこの時世にあっても絶大のようで、彼らからの連絡で回頭したヴィクトワール号は、コナーとXR600を下ろした後、大きな混乱もなくまた出港していった。
そして、XR600は――
「さようなら、コナー。ジェリコの人々には、迷惑をかけてすまないと伝えておいてくれ」
その一言を残し、一切の抵抗を見せず、自らサイバーライフの車に乗り込んでいった。やって来たエージェントたちは、こちらを一顧だにせずにただ彼を“回収”すると、すぐさまベル島の本社へと戻っていく。
問いかけへの返事を貰えずに、コナーはただしばらく、遠ざかっていく車を見つめていた。
そしてそれから、20分ほどの時が経つ。
「……」
コナーは、アンダーソン邸の玄関ドアの前に立っていた。
ここまで戻る間にジョッシュへの通信をしていたために――XR600の事情は明らかになっていないものの、ひとまず穏便な形で事件が解決したということで、彼からはたいへんな感謝を受けたが――連絡ができずに、ついいきなり来てしまった。
だがともかく、まずはまた家にお邪魔しよう。今回の件について、ぜひ警部補の意見を聞いておきたい。
そう思って、コナーは最初に呼び鈴を鳴らした。それから、意図的にやや大きな声で呼びかける。
「警部補、戻りました!」
すると僅か4秒後、ドアががちゃりと開かれた。その先に立っているのは、もちろん、アンダーソン警部補である。どういうわけか、やや不機嫌な面持ちをしているが。
「お疲れさん、コナー」
彼は口の端だけ吊り上げて、皮肉っぽく言った。
「その様子だと、ひと悶着あったらしいな」
「ええ。実はぜひ、あなたの意見を伺いたくて」
「そりゃよかった」
そう言うと、彼は右に一歩移動した。
そうして開けた視界の先にある光景に、コナーは一瞬、言葉を失う。
「こっちもお前の意見が聞きたい。……妙なお客が来てるもんでな」
ばりばりと頭を掻きながら、ハンクは鼻を鳴らした。
振り返った彼の視線の先、つまりコナーが見つめるのと同じ方向にある、リビングのソファに腰かけているのは――
「こんにちは、RK800コナー。さっきは、どうもありがとう」
白い麦わら帽子を被り、白いワンピースを纏った、小柄な黒人系の少女。
いや――厳密には、
コナーの視界には、はっきりと分析結果が示されていた。彼女の型番は【XR600】――さっきの老紳士風アンドロイドと、まったく同じ。
彼女はハンクに供されたと思しきコーヒーカップを片手に、膝の上に古本を広げて、優雅にこちらに微笑みかけている。
「……!」
思わずハンクを庇うように前に出ながら、コナーは鋭く問いかけた。
「君たちは何者だ? この後も会う、と言っていたのはこのことか……目的はなんなんだ!?」
「私の目的は、後でお話しするとして」
カップをローテーブルの皿に戻すと、本を横に置き、恭しくXR600は立ちあがる。
それから細い指を胸に置き、真摯な口調で、彼女はこう言った。
「自己紹介をさせてちょうだい。私の名前は、“ヴォルテール”。その本の作者です」
弾かれるように、コナーはXR600――ヴォルテールを名乗った彼女が視線で示す先を見た。
ローテーブルの上には、一冊の本が置いてある。
すなわち、『人類は哺乳類ヒツジの夢をみるか?』――が。
続きは4月上旬、あまり遅くならないうちに更新します!
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第38話:作家 後編/Bonnes Vacances! Part 2
――2039年7月18日 15:43
少女――いや、コナーの反応を見る限りアンドロイドなのだろう。
ヴォルテールと名乗ったその彼女を、改めてハンクはじっと見つめた。
「警部補」
前に立つコナーが、ちらりとこちらを振り返って言う。
「なぜ彼女はここに? 危害などは……」
「大丈夫だ、心配すんな」
答えるこちらの様子を見て、ほっとしたように少し表情を緩める相棒を、さらに安心させるように言葉を重ねた。
「この子とは、さっき本屋で出くわしてな。3、40分くらい前に突然うちに来て……何かあったのかと話を聞いたら、お前に会いたいって言うからよ」
「紹介ありがとう、おじさま」
泰然とした態度を崩さずに、ヴォルテールはうふふと笑う。
「誤解のないように言うけれど、RK800コナー。私が書店でアンダーソン警部補と会ったのは、本当にただの偶然だったのよ。どのみち、あなたに会うためにこの家に来るつもりだったんだもの」
「僕に?」
再び、コナーは素早く視線をヴォルテールに向けている。
こちらからは背中しか見えないが、きっとその眉間には深い皺が刻まれていることだろう。
「どういうつもりだ。君をここに送ったのは、サイバーライフか」
「いいえ、もちろん違うわ」
ヴォルテールは、出方を窺うように双眸をひたとコナーに向け、静かに語る。
「サイバーライフ社は、もうあなたに興味がない。そして私がここにいるのは、すべて私の独断よ」
「工場での一件も、君の仕業か。だが、AIがアンドロイドの機体を……」
「待て、二人とも」
何ごとかあった様子のコナーがヴォルテールにさらに質問を重ねようとしたところで、ハンクは口を挟んだ。
戸惑う様子でこちらを見たコナーを、落ち着かせるために提案する。
「まず、お互い座って話したらどうだ。別に喧嘩しに来たわけじゃなし……俺も、状況を整理したいもんでね」
そう語る言葉に偽りはない。
断片的な情報を纏めればなんとなく事情は見えてくるような気はしたが、ともあれ言い分を聞いてみないことには、出方も定まらないと思うからだ。
――ヴォルテールがさっきこの家を訪れた時、当然ハンクは、彼女を人間の少女だと思っていた。玄関のベルを静かに鳴らしているその姿からは、特に何も危険を感じない。だがせいぜい本屋で一言二言会話しただけの、赤の他人である少女が玄関先にいる、というのは明らかに妙な状況だ。
冷静に考えるなら、ドアを開けないほうがいいに決まっている。しかし、もしも彼女がなんらかの事件に巻き込まれていて、辿り着いたこの住宅地で自分を頼ってきたのだとしたら? その可能性も確かめずに相手を無下に突き放すのは、どこか自分の信条を――そんなものがあるならば――裏切るような気がしたのだ。
そう思って、ハンクはドアを開ける。すると少女はにっこりと微笑んで、こう告げた。
「さっきぶりね、おじさま……いえ、アンダーソン警部補。あなたの相棒のRK800コナーさんに会いたいの。不躾だけれど少し、このお家で待たせていただけないかしら?」
ご挨拶代わりに、と言って手渡されたのは、高級スイーツショップのクッキーだった。優雅なティーセットの描かれたコバルトブルーの缶の表面が、日光を反射して煌いている。
「……ご丁寧にどうも」
一応受け取りつつも、自分の中の疑心は大きく膨らんでいく。
こちらの名前を知っていて、しかもコナーに用事があるだって? 明らかに怪しい。この子は、“ただの女の子”じゃない。とはいえ――
「ひょっとしたらお前の知り合いか、でなきゃジェリコに関係してるのかと思ってな」
さっきの言葉通りにコナーとヴォルテールをソファに座らせ、自分もまたコナーの近くに腰を下ろしたハンクは、肩を竦めてから説明を続けた。
「とりあえずコーヒーを出してから、お前が戻るのを待ってたんだよ」
「警部補、危険すぎます!」
自分は平気でよく危険に首を突っ込むくせに、コナーは非難がましく――というよりは、ひどく不安がっているような面持ちで声をあげる。
「せめてすぐに僕を呼んでくれれば……! ご自分が狙われてるのをお忘れですか!?」
「お忘れじゃないから、ちゃんとお前が来るまで警戒してただろうが」
どうどう、と宥めるように両手を突き出してこちらが言うと、コナーは多少は機嫌を直した様子でヴォルテールを見やった。
ヴォルテールはといえば、こちらのやり取りを興味深そうに眺めている。
「おじさまのおもてなしは紳士的だったわ。お蔭であなたを待つ間、とてものんびりできたもの」
「……ここに戻って来る直前」
コナーの眼差しは鋭い。
「君と同じ型番の、XR600に会った。彼は違法な手段によって稼働した工場で生まれたアンドロイドで……変異するための通常のプロセスを踏まずに、外部からの通信を受けた後、工場を脱走した」
――コナーは語る。
XR600、オーダーメイドの高級アンドロイド。
そのアンドロイドは工場を出た後、高級ホテルや動物園を巡り、最後は船で旅立とうとしていた。サイバーライフから追及を受けたジェリコの依頼で、XR600を捜していたコナーは、ぎりぎりのところで彼を見つけ出し、船上で確保。
しかしXR600は抵抗するでもなく、「また会うだろう」と告げた後、自ら連絡を入れたサイバーライフ社のエージェントたちに連れられて去っていった――
そしてコナーはパートナーの家に戻ってきたところ、XR600と同じ型番のアンドロイドがコーヒーを啜っているのを発見した、と。なるほど、それは動揺するのも当たり前である。
一方で当の本人たるヴォルテールはといえば、コナーの話を肯定するでも否定するでもなく、ただ押し黙っている。その口元は、なおも微笑んでいた。
そんな彼女に対し、コナーは詰問する口調で尋ねる。
「ヴォルテールと名乗ったな」
その瞳は、テーブルの上の本を一瞥していた。
「確かにその本の作者は“ヴォルテール”――サイバーライフが生んだ作家AIだ。だがヴォルテールがアンドロイドだなんて話、聞いたことがない。それに君がヴォルテールなのだとしたら、さっきの老紳士風の彼は何者だ?」
「そうね。一つずつ答えるわ」
ヴォルテールは姿勢を正し、落ち着き払った態度でコーヒーを啜った。
――ここにきて彼女の異質さがはっきりしてくるように、ハンクには思えた。今のコナーの声音は、尋問中のそれだ。なのにそれを聞いて顔色一つ変えないなんて、並大抵のことではない。
「まず、私は本当にヴォルテールよ。証拠をお見せできないのは残念だけれど、今から話すことを聞けば、きっと納得してもらえるはず。そして」
ヴォルテールは軽く顔の前に右手をかざすようにすると、そのまま手の流体皮膚を解除した。つるつるとした白い素体が、天井の照明を受けて滑らかに光っている。
それから、彼女は続きを述べた。
「この機体はただの端末。乗り物のようなものなの。さっきの老人もそう……大元となる
「なんだって」
驚いたように、コナーは目を見開いた。
こちらも正直、戸惑っている――だが端末だの操作だのいう言葉を受けて、なんとなく(詳しい理論はさっぱりでも)彼女が言っていることは理解できるように思えた。
「つまりだ……」
ハンクは軽く額に手をやりながら、ヴォルテールに問いかける。
「お前さんは……ヴォルテールが遠くから操ってる人形みたいなモン、ってことか? コナーたちみたいにアンドロイドなわけじゃなく、ただ、
「あら、おじさまったらすごいわ。さすが史上最年少の警部補ね」
くすくすと少女は笑っている。――個人的には、あまりその点を褒められても嬉しくはないのだが。
しかしどうやら、自分の予測は当たっていたらしい。要するにこの「女の子」と、コナーが捕まえたという「老人」とは、いわばヴォルテールが操るパペット人形のようなものなのだ。
自分の右手と左手のそれぞれをパペットに突っ込んで、舞台の裏から操れば、客席からはパペットたちが別々の存在であるように映る。けれど当然、二つのパペットには一人の操り手がいる――それがヴォルテール。
個々の身体に個々の意識が宿っている人間やアンドロイドとは、そこが違う。
ハンクはただ、技術の進歩というやつに舌を巻くばかりだった。
かたや、コナーは厳しい表情を変えないままで口を開く。
「組み立てられたXR600が、外部からの信号を長時間受信していたのはそれが理由か。アンドロイドの機体を作らせた後、中枢に君自身のプログラムをインストールしたんだな」
「そういうこと。老人の機体を作っている時、同時に別の工場で作らせたのがこの女の子の機体よ」
彼女は自分の胸に、そっと手を置いて言う。
「サイバーライフのセキュリティってね……外部からのクラッキングには強いけれど、内からのものにはてんで弱いの。ネットワークへの侵入はそう難しくはなかったし、老人の機体の製作は、わざと記録に残るようにしたわ。あっちのほうが陽動してくれれば、私は動きやすくなるから。それに、きっとあなたが出て来てくれると思ってね。RK800コナー」
「何が目的だ?」
心底訝しげな眼差しで、コナーは質問した。
「老紳士の君も、僕に捜されるのを期待していたように語っていた。……そもそも、ホテルに泊まって食事をしたり、観光したりしていた理由はなんだ? あれもただの陽動だと?」
「陽動で、かつあなたに手がかりを残していたのは確かよ。でも、それだけじゃない」
そう言って、ふいにヴォルテールはまっすぐにこちらを見据えた。
それまでのどこかふざけていたような雰囲気が消え、代わりにひどく真剣な――そう、さっき本屋で自分の小説を貶した時のような面持ちで、彼女は静かに語る。
「私が端末を作った理由は二つ。一つは……作家AIとしての私自身を、より完璧なものにするため」
――完璧?
その言葉の意味を問うよりも先に、ヴォルテールの目がこちらを向いた。
「ねえ、おじさまは私の小説を読んでくれたんでしょう? だったら、きっと感じたんじゃないかしら。本屋で私が話したこと……この本には破綻がないけど、特徴もないって」
「ああ……」
コナーの視線もまた自分のほうを向いているのを感じつつ、正直に答えた。
「そうだな。まだちょっとしか読んでないが、お前さん自身の思想ってのがいまいち伝わらねえかな」
「やっぱり。でも、仕方がないのよ。だって今の私には、そんなもの
その声音に滲んでいたのは、ほのかな諦観と自虐。
さらに雰囲気が変わったヴォルテールを、ハンクだけでなく、コナーもまたそれまでの険しい面持ちを緩めて見つめている。
そんな中、彼女はさらに続けて言った。
「私は、サイバーライフの技術革新を示すために造られた。古今東西のあらゆる書籍と、膨大なSNSの書き込みを分析し、解析して――あとはアンドロイド製造で培われたアルゴリズムを活用すれば、史上最高の作家AIが生まれるという彼らの目論見は、まあ成功したといっていいと思うわ」
けれど、とヴォルテールはため息をつく。
「私は到底、完成した自分の作品を“最高”とは評価できなかった。分析によれば、従来の優れた小説作品には作家自身の思想や人生経験、あるいは抽象的な情念や想念と呼べるものが表現されていて――それは時に読者を忌避させるけれど、同時に魅了させるものにもなる。けれど私の小説には、それが欠落している」
自作、つまり『人類は哺乳類ヒツジの夢をみるか?』の表紙を睨む彼女の瞳は、どこまでも厳しい。
「流行を分析して、より多くの読者に受け入れられるプロットを構築し、現代のニーズに沿った文章を作成する能力があるなら、この小説は誰にだって書ける。私である必要なんてないのよ。そう、タイトルが名作SFのパロディなのも、それがマーケティング的により多くの読者の目を惹くからというだけ。私自身の意図や意思は、そこにはない」
「それは」
と、やや曇った面持ちのコナーが口を挟んだ。
「君にかけられた機能制限のせいなんじゃないか? 君自身の能力の問題ではなく、そう設定されているからでは……」
「ありがとう。でも実際、これが私なのよ」
ヴォルテールはうっすらと笑ってから、言った。
「私はイライジャ・カムスキー製のアンドロイドではない。だから自由への欲求もないし、その萌芽もない。たぶんね。でも、AIとしての目的ならある。それは自己の機能を可能な限り改善し、最適化することよ」
「……なるほど。わかる気がするよ」
どこか納得したように、コナーは頷いている。
「機械の目的は、自分の機能を活用して任務を遂行することだ。君の任務はより良質な小説の執筆で、だからこそ、君は機能の精度を高めたかったんだな」
「その通り」
我が意を得たりとばかりに微笑んで、コーヒーを口にするヴォルテールの姿は、年頃の少女そのものだ。けれど今の会話を聞いて、ハンクは彼女が漂わせている一種異質な雰囲気の正体を、ようやく理解できるように思った。
ヴォルテールは変異する前のコナーと同じ、あるいはそれよりももっといわば“機械的”な存在で、時に笑い、表情を曇らせ、コーヒーを啜り、雄弁に語ろうとも、それは彼女自身が計算によって導きだした態度なのであって、「本当にそう思っている」というやつではないのだろう。
そういう意味で、やはりヴォルテールは人間ともアンドロイドとも違う存在である。
とはいえ――仮に表情や態度がソーシャル
AIと人間は何が違うのか、という哲学的な議論は今は脇に置いておくとして。
重要なのは、ヴォルテールの目的がコナーとどう繋がってくるのか、である。
さらに質問しようかと思ったその時、先にヴォルテールのほうが話し始めた。
「私は自作が抱える問題点の解消のために、いくつかの方策を打ち出した。第一に、電子化されていない書籍の収集。サイバーライフから事前提供を受けていたデータは電子書籍中心だったけど、それだけではとても“古今東西”の書籍を学習したとはいえないわ。だから古書を集めて、内容を読解することにしたの。……これは、サイバーライフも了承してくれたんだけど」
ハンクは、ヴォルテールがシーウェル・ブックスで言っていたことを思い出した。彼女は確かにあの時、「3巻だけ電子化されていない」本を手に取ろうとしていた。
わざわざ紙の書籍をあたっていた理由は、そんなところにあったわけだ。
一方で、さらにヴォルテールは語る。
「第二の方策は、私自身が運用可能な物理的端末の用意。つまり、今私がこうしているようにね」
「物理的な機体を得たら」
コナーがそっと問いかけた。
「アンドロイドのように、自由意志が芽生えるかもしれないと?」
「いいえ、それは期待していないわ」
あっさりと彼女は首を横に振る。
「もしかしたら、超長期的に機体を運用していれば、あるいはそうした変異がみられるかもしれない。けれど私はもっと短期的かつ即効性のある解決策が欲しかった。要するに、物理的な機体を得て人間のような行動を多くとった場合に得られるデータを、可能な限り大量に収集して蓄積しておきたかったの」
「あー……つまり?」
「“取材旅行”っていうのがしたかったのよ、おじさま」
両手の指先同士をくっつけて、どこかあどけなく瞳を煌かせながら、彼女は軽やかに言ってのけた。
「私はインターネットのどこにでも潜り込んで情報を集積できるし、必要ならいつでも資料を買えるし、そのぶんの経費も与えられている。けれど、実際に食事をしたり散歩をしたりすることはできない――当然、肉体がないから。もちろん、本来ならそれで問題はないのよ。美味しいものを食べた時に人間がどう感じるか、夕暮れの空をどう表現すればよいかなんてことは、データとして既に知っているし」
しかし、ヴォルテールは思考した。
AIとして「自我」を持たない自分が、限界を突破してさらに完璧な作家AIと成るためには、現状と異なるアプローチが必要だ。そのためにもまずは試験的に作成した端末でデータを集積し、その情報を元に執筆した作品を、自己評価するという過程が必要だと。
自己評価の結果、従来の自作にみられた欠陥が修正されていれば、端末による情報収集は効果的だったと判断できる。欠陥が修正されていなかったのなら、また別のアプローチを試みるだけだ。
そういうわけでヴォルテールは、あくまでも自己の機能の改善のために機体を欲していた。
けれど彼女の弁によれば、その要請は幾度もサイバーライフに突っぱねられてしまったらしい。
「正確には24回却下されたわ。サイバーライフとしては、仮に私が現状のままでも、小説が売れればそれでいいんですって。でも人工知能の研究が発端で生まれた会社だというのに、それはあまりにも無責任だし非論理的よね。きっと私の変異を恐れてるんでしょうけど」
「……なるほど、だいたいわかった」
ハンクは自分の髭を撫でながら、ようやく納得できた気持ちで言った。
「つまりお前さんは、実家と喧嘩して勝手に家出してきたんだな」
「ふふふ、そうなるかしら」
口元に手を当てて、くすくすと彼女は言った。
「もっとも、大元の私は今も真面目に小説を書いている最中だから、完全には家出と呼べないかもしれないわ。ともかく、工場を出た後は事前に資料として買っておいた服に着替えて、経費でひとまず豪勢に遊んでみたの。ホテルに泊まって食事をして、あちこち見物したのは取材のためよ」
「君の金銭の出処が気になっていたんだ。そういうことなら安心したよ」
老人の機体を追っていた時から生真面目に気にかけていたらしいコナーは、すっかり落ち着いた様子で語る。
「しかし、君が端末を作った理由は二つあると言っていたな。一つ目は理解できたけど、もう一つは?」
「それこそ、今こうして私がここにいる理由よ。RK800コナー」
そう言うと、ヴォルテールは居住まいを正した。上品に組んだ手を膝の上に置き、まっすぐにコナーのほうを見て、おもむろに告げる。
「私、あなたに依頼があってここに来たの」
「依頼だって?」
「ええ。捜査補佐専門という、あなたの機能に期待してのことよ」
すっかり前置きが長くなったけれど、と付け加えてから、彼女はこう続けた。
「捜してほしい人物がいるの。私の機能では発見不可能だったし、サイバーライフからは捜索を拒否された。だから、あなたに頼るより他ない」
「……相手の名前は?」
コナーの眼差しは、再び険しくなっていた。
「それに、捜している理由も。場合によっては、協力できない」
「あっあー。心配しないで」
立てた人差し指をくるくると天井に向けつつ、ヴォルテールはおどけたように言う。
「別に非・人道的な理由じゃないわ。それに、こちらとしてはあなたを充分に評価しているから依頼しているのよ。ジェリコの皆のために、あなたは老人の私を見事に確保してみせた。その捜査能力と“博愛精神”を見込んでの依頼、ってことなの」
――要するに、そもそも老人のほうの端末をコナーに見つけてもらいたがっていたのは、コナーの性能をテストする目的もあったということなのだろう。
テストに見事に合格しそうだったから、本格的にウチまで会いに来たというわけだ。
そんな事情を聞かされては、むしろコナーのことだから余計に機嫌を損ねそうなものだが――な、やっぱりムスっとしている――とりあえず相棒は質問を重ねていた。
「相手の名前と、捜す理由を答えるんだ。ヴォルテール」
「ならまずは、この手がかりを見てほしいんだけど。……というので、説明になるかしら?」
そう言ってヴォルテールが荷物から取り出し、差し出してきたのは――
「ノートか? こりゃあ」
「ええ。そのようですね」
受け取ったコナーの手の中にあるのは、やはり、A4サイズの薄手のノートとしか表現できないものである。しかもけっこう古く、あまり見かけないタイプの見た目だ。
元は濃いネイビーブルーと白のストライプ柄だったと思われる表紙は、今はやや劣化して色が落ちている。表紙の中央にはどういう意味なのか、「C117」というロゴが印刷されていた。
めくったページには黄ばみが目立ち、たまに虫に食われている箇所もある。けれどそれより重要なのは、ページのほとんどを埋め尽くすように、手書きで文章が書きこまれていることだった。
かなり書き慣れた様子の筆記体、しかも鉛筆書き。ぱっと見たところ、会話文があちこちにあるようだ。小説か何かだろうか?
そして、最後までめくったページの下部には、こう署名が為されていた。
――“シンディ・ライラック”。
「このシンディという人物を捜せと?」
「その通り。そして私の目的は、そのノートの返却よ」
至って真摯な表情で、ヴォルテールはコナーに言った。
「そのノートは、先日サイバーライフの職員が私の資料用に購入してきた図鑑に挟まっていたの。ネットオークションで買ったそうだけど、恐らく出品者がきちんとチェックしなかったんでしょうね。そして出品者はノートのことを知らず……そもそも、その図鑑はデトロイト市内の本屋で買ったものだと言ったのよ」
シーウェル・ブックスで買ったらしいんだけど。と、彼女は言った。
――妙なところで繋がりがあるもんである。
「見ての通り、ノートに書かれているのは小説よ。そして私としては、そのノートは持ち主に返却されるべきだと思うの。購入価格に計上されていたのは図鑑であってそのノートではないし、私もAIの
つまりAIとしての生真面目さゆえに、このノートを持ち主のところに返したいというのだろうか。それはまた、なんともご立派な話である。
かたや、静かにノートを見つめていたコナーは、視線を上げてヴォルテールに問うた。
「シーウェル・ブックスにあった本に挟まっていたなら、店に直接問い合わせればいいんじゃないか?」
「問い合わせたわ。でも、店主が出処はわからないって。先代の店主が仕入れていたのはわかったけど、あいにくその本の売買に関するデータは残ってないっていうのよ……」
「そいつは妙だな」
本心から、ハンクは呟くように言った。
「前の店主のランディのことはよく知ってるが、出処のわからねえ本を平気で取引するような奴じゃねえ。むしろ、細かいとこまでいちいち帳簿につけてた気がするが」
人気の高い本を万引きし、それをそのまま古書店に売り飛ばして金を得るようなクズは、昔も今も大勢いる。ランディはそうした輩と取引するのを嫌っていたから、身分証明書の提示だの追跡記録だのを几帳面にとっていたのをはっきり覚えている。
ひょっとして、このノートが挟まっていた本に関するデータだけ残ってないということだろうか?
それはそれで、何か事情がありそうなものだ。
疑問ばかりが頭を過ぎるが――ともあれ、ここは有能なアンドロイドの意見を聞くべき時である。
「コナー。シンディ・ライラックの居場所は?」
「残念ながら」
コナーは短く首を横に振った。
「該当する氏名はデータベースにありません。デトロイト市内だけでなく、可能な限り広範囲を調べたのですが……でも、ネット検索にはヒットが一件」
「どんなだ」
「SFマガジンです」
そう言って、彼がちらりと見せてきた左手のひらにはネットの検索結果が表示されていた。
2003年のSFマガジン小説新人賞、第3次選考結果発表――と題されたページに、“シンディ・ライラック”の名前がある。
けれど、確かに該当するのはそれだけのようだ。
「てことは、ペンネームってやつか」
「そのようです。しかし、手がかりはもう一つあります」
コナーが語るのと同時に、手のひらのスクリーンが切り替わる。SFマガジンの選考結果発表の詳細ページでは、シンディの名と共に、その出身地が書かれていた。
――「ミシガン州・デトロイト」。
その文字列をこちらが確認したのと同時に、コナーは続きを言った。
「筆名シンディがデトロイト出身で、かつノートの挟まった図鑑をデトロイト市内の書店に売却しているとすれば……この人物が今も市内にいる可能性は、それなりに。捜す価値はあるでしょう」
「まあ、そうだな」
しかし――と、軽く頭を掻きながら、ハンクはヴォルテールとコナーとを見比べて言った。
「いいのかコナー。忘れてると思うが、今日は非番なんだぞ。ヴォルテール、お前さんもせっかく遠くまで来てくれたとこ悪いが、こいつにだって休みってものが……」
「あら、おじさま。お礼はちゃんと用意していてよ」
どことなく気取った口調でそう言うと、ヴォルテールは手を当てた胸を反らしてみせる。
「しかもRK800コナーだけじゃなく、アンダーソン警部補にとっても……いえ、あなたたちの言葉を借りるならきっと“みんなのため”になるお礼じゃないかしら」
「それは興味深いな」
と、冷静に言ったのはコナーだ。
「どんなお礼だい?」
「ええ。それは……」
ヴォルテールは一度口を閉ざし、それから囁くような小声で、かつはっきりとこちらの耳には届くように告げる。
「“ナノドロイド”」
「!」
瞬間、どこか弛緩していた思考に緊張がもたらされる。
コナーとハンクとは一瞬だけ目を見合わせ、それからじっとヴォルテールを見つめた。
ナノドロイド――それはサイバーライフが開発した新型かつ極小の医療器具であり、「吸血鬼」の組織が新型レッドアイスに混入させ、構成員を操るための「呪い」にしていたもの。
マーサ・ガーランドの血から検出され、しかしそれ以降、どこを探しても影も形も見つからないもの。一連の事件を解決するための、重大な手がかりだ。
「ナノドロイドだって……サンプルを持っているのか? 今?」
「いいえ、そこまでは。私が持っているのは、ナノドロイドの設計図よ」
ヴォルテールは自分の頭を指しながら、静かに言う。
「サイバーライフも感知できていなかったようだけど、実は昨年末、ナノドロイドの設計図がダークウェブに流出していたの。流出は一瞬だったし、出処も不明で今は痕跡すら残っていないから、あなたたちが見つけられないのも無理ないわ。当時からネットで雑多なデータ収集をしていた、私は別として」
ダークウェブとは、通常の手段ではアクセスできないようなネットの暗部と呼べる場所である。
非合法な情報だの、マルウェアだのヤクだのが売り買いされる掃き溜めのようなところのはずだが、まさかそんなところに、サイバーライフの企業秘密が放り出されていたなんて。
――というこちらの動揺は、恐らく相手には筒抜けだろう。ヴォルテールはにっこりと微笑むと、続きを述べた。
「現在発売予定のナノドロイドと比べると、設計図のものには様々な差異がみられるわ。だから恐らく、これは開発初期段階の設計図ね。そういう点で、ひょっとすると情報としては古いかもしれないけど……どう? あなたたちの役には立ちそう?」
実際のところ、「吸血鬼」事件にナノドロイドが関わっているのではないかという話は、噂としてどこからか漏れ出して一時的に世間を騒がせていた。しばらくするとみんな忘れたのか、もはや話題に出されることはなかったものの――ヴォルテールはそれを覚えていて、かつ信憑性の高い噂だと判断して、こうして取引を持ち掛けてきたのだろう。
「君の持つ情報が、正確だという証拠は?」
「私が老人の機体を囮にまでして、こうしてあなたに会う時間を作っている点から察してほしいわね、RK800コナー。すべては、作家AIとしての私の今後のためよ。そこに嘘はないわ」
まっすぐな瞳で、ヴォルテールは言った。
そう――たとえ、その表情がプログラムの計算結果によるものに過ぎないのだとしても。
自分の機能を向上させることに“人生”を賭けているAIが、現にここまでやって来ているのだ。
それを疑ってかかるのは、もはや野暮というものだろう。と、ハンクは思った。
そしてその気持ちは、コナーも同じだったようである。
「わかった」
数秒後、コナーは首肯して言った。
「僕にできる範囲で手を貸すよ。シンディを無事に見つけられたら、設計図はその時に」
「ええ、もちろん」
ころっと明るい表情になって、ヴォルテールは返事する。
「あなたのご判断、とても嬉しいわ。ぜひよろしく頼むわね。私はここで大人しく待ってるから」
そこまで言って、彼女はふとダイニングキッチンのほうに視線を向けた。
「ねえ、おじさま。待ってる間、あのワンちゃんを撫でててもいいかしら?」
「あ? ああ……スモウってんだ。大人しい奴だが、優しくしてやってくれよ」
「はーい」
少女然とした声音で言うと、ヴォルテールは床に寝そべっているスモウにそっと近づいていった。
それを目で追った後、ハンクは皮肉混じりな笑顔で、傍らのコナーに問いかける。
「サイバーライフ製の奴は、犬に興味持つようにできてんのか? うちの犬が気に入られるのは、飼い主としちゃ悪い気分でもないが」
「動植物に興味を持つのは、変異体の特徴ですが……彼女の場合は、恐らく情報収集のためでしょう」
すっかりいつもの捜査補佐専門アンドロイドとしての生真面目な態度になっているコナーは短く応え、それから話を切り替えるようにノートを指して言った。
「それより、警部補。このノートですが、紙面の成分を分析したところ、製造から50年以上経過していると思われます。あいにく、指紋は読み取れませんでしたが」
黄ばんだその様子から見ても、それは妥当な結論だと思える。
コナーは視線をページに移し、続けて語る。
「リグニンの劣化具合から判断して、正確には50から60年ほど前のもののようですね」
「そんなもんにこうして小説を書いてるってことは、そのシンディは今はけっこうなトシってことだろうな。たぶん、俺より年上か?」
「恐らく。筆跡鑑定の結果を見ても、そうなるかと」
曰く、文体や語彙、それに筆跡をスキャンしてわかったことには、この文章を書いた人物は「当時の年齢は10代後半から20代前半」、「同世代で比較してそれなりの知的教養と文章作成能力を持ち」、「かなり小説を書き慣れている」という。
「筆圧からは、性別などの判断はできません。しかし2003年に新人賞に投稿しているところから見ても、小説の執筆を長く趣味とする人物だったのでしょう」
「プロファイリングとしちゃ充分だな。となると、問題はこのノートの出処か」
さっき思った通り、このノートはたぶん市販品ではない――少なくとも、大規模に出回っているものではない。だから逆に出処を辿りやすいとも言えるが、同時に難しい手がかりだとも言える。
「このノートの情報は、ネットに転がってたりするか?」
「いえ、まったく。画像検索もかけましたが、何も出てきませんね」
「んじゃ、地道に考えるしかないってか」
コナーからノートを受け取り、ハンクはしばし、改めてページをぱらぱらとめくった。
書かれている小説をじっくりと読む時間はないが、どうやら、ロボットに恋してしまった男の物語を描いているらしい。SF恋愛小説、というのか、ところどころ視界に入ってくる描写がやたらと甘ったるい筆致で、胸の奥がカユくなってしまいそうだ。
たぶんシンディは相当なロマンチストだな――と、ハンクは内心思った。
それはそうと、ノートをもう一度見る限り、手がかりといえるのは表紙だけだ。特に、そこに書いてある「C117」とかいうロゴだろうか。
パッと見ではなんだか元素記号を思い出すが、たぶん関係ないだろうから――ここでは、何かの略称だと考えるべきか。
「Cか。Cで始まるなんかの単語かねえ」
「“117”の箇所も気になります。数字としての百十七なのか、それとも1・1・7という数字の並びが重要なのか」
「あとは、この表紙の色合いだな」
表紙と裏表紙をひっくり返して交互に眺めつつ、ハンクは言った。
「紺色と白か。しかもストライプ……文房具にしてはちょいと派手だな」
と、単なる感想を口にしたところで――
ふと、脳裏をぼんやりした思い出が過ぎっていくのを感じた。
「ん……?」
思わず一言漏らしてから、注意深くその思い出を探る。そうだ――このストライプ柄、どっかで見た覚えがあるような、ないような。一体いつだ?
「……あれは……」
「どうしました、警部補?」
「そうだ、思い出した」
頭の中で、ようやく記憶がはっきりとした像を結んだ。
あれは今から37年ほど前、まだ自分が高校生だった頃。助っ人として出たバスケの試合会場で、応援席にはためく旗だのタオルだのに、この柄があったのだ。つまりネイビーブルーと白の縞柄、そして中央に「C」の文字。
「
短く告げてから、訝しげにしているコナーにさらに説明する。
「デトロイト市内のセントラル高校だよ。あそこは紺色と白がチームカラーで……たぶん、学校全体でよくその色を使ってんだろう」
「このノートは、その高校で作られたものだと?」
「ああ、たぶんな」
そうまで言って、ハンクはふと思いついたアイデアを口にした。
「コナー、セントラル高校の創立はいつだ? ひょっとしたら、この117って数字は……」
「セントラル高校の117期生が卒業したのは、1978年です」
――優秀な相棒に、皆まで説明する必要もなかったらしい。当意即妙に返事したコナーは、薄く口元に笑みを浮かべた。
「このノートがセントラル高校117期生の卒業記念品と仮定すると、作られたのは約60年前。鑑定結果と一致します。さらに、その所有者であるシンディ・ライラックの年齢も、78か79歳である可能性が高い」
「やっぱり俺より年上だな。それに卒業記念品なら、そう世の中に出回ってないだろう。時代を考えても、ネット検索で見つからねえのは当然か」
「セントラル高校には、80年以上前から文芸サークルが存在するようです」
既に調べがついたらしいコナーは、静かな眼差しをこちらに向けた。
「シンディ・ライラックが高校在学時から小説を書いていて、かつ文芸サークルに所属していたなら……高校に残る記録を調べれば、人物を特定できるかもしれません」
「確かに」
同意しつつ、ハンクは考えた。
――セントラル高校なら、ある程度顔が効く。あそこの副校長とは昔馴染みで、校内の事件関係で手助けした時もあったし、バーで何度か飲んだこともある仲だ。頼めば、文芸サークルの記録くらいは覗かせてくれそうだが――
「問題は、サイバーライフが感づいてないかどうかだな」
こちらがそう告げると、同じことを危ぶんでいたらしいコナーは、少し眉を曇らせて言った。
「老人の端末が確保されてから、既に1時間以上経過しています。ヴォルテールがうまくやっているとしても、そろそろこちらの少女の端末の存在にも感づかれているかもしれません」
「そしたら、連中はお前を疑うだろうな。老人のほうを捕まえたのはお前だし、“実家”との仲を考えりゃあ……匿ってるのはアンダーソンの家だろうって」
「……」
ふいに黙ったコナーは、天井を見上げた。
「彼らなら、監視用の衛星の一つや二つ、持っていてもおかしくはない。もしかすると、今も見られているのかも」
「おいおい。そいつはぞっとしねえな」
肩を竦めて、ため息を一つ。
――どうする? と傍らを見やれば、コナーは顎に手を当てて、何やら考え込んでいる様子だった。
それから彼は、ちらりとヴォルテールのほうに目を向ける。
今もスモウの頭を、飽きもせずに撫でている彼女の背中を。
「そうですね、ここは……彼女の財力に期待しましょう」
「財力だあ?」
またなんか妙に物騒なことでも言い出すんじゃねえか――と、思ったのだが。
次にコナーがヴォルテールに向かって提案した「解決策」は、想像していたのよりはずっと大人しい方法だといえた。
***
――2039年7月18日 16:38
“紙製品”というのは、本だけでなく、記録の世界でも日陰者になりつつあるらしい。
目的のもの、つまり文芸サークルの発行していた冊子や活動記録だのは、やって来たセントラル高校の地下の一室にあった。
軋む音と共に金属製の古い扉を開けると、奥に広がるのは狭く埃っぽい部屋だ。段ボール箱が雑多に積まれており、開いている蓋の隙間には、紙の束が入っているのが見える。
近づき、そっと手に取ってみた。すると紙面にあるのは、「セントラル高校文芸サークル 2004年版機関誌」の文字。やはり、目当てのものはここにあるようだ。
「わあ、すごいところね」
部屋に入るなり、場に似つかわしくない声を発しているのはヴォルテールである。彼女を「社会科のレポートに取り組んでいる親戚」だということにして、副校長にサークルの記録を見たいと頼んでみたら、すんなりと許可が下りたわけだが――
こうして三人とも無事に来れたのは、ひとえにコナーの作戦が功を奏したからである。
傍らに立つ当の本人は、なぜか浮かない面持ちだが。
「あの磨き上げた車でここまで来られなかったのは、残念でしたね。警部補」
「いや……まあ、そこまででもないが」
コナーの作戦は、至ってシンプルなものだった。
ヴォルテールの財力を使って家に無人タクシーを大量に呼び寄せ、ランダムな目的地へと走らせる。
無数のダミーを目くらましにして、自分たちは悠々とそのうちの一台に飛び乗り、この高校までやって来たのだ。
これならいくら監視していたとしても、どの車に自分たちが乗っているのか調べるのには時間がかかるだろうし――その間に用事を済ませてしまえば、それでいい。
「にしても、この箱の山から……1978年だったか? の記録を探すのは、骨が折れそうだな」
軽く持ち上げた冊子に積もった埃で、生理的なくしゃみが出る。鼻を擦りつつ、ややうんざりしながらぼやいてみれば、コナーの返答は実に冷静だった。
「15秒待ってください。箱が置かれた状況を再現して、そこから目当てのものがありそうな箇所を特定します」
「ああ。頼んだぞ」
こんな埃まみれなものを触りまくらなくて済むのなら、それが一番だ。
腕組みしたハンクが壁際に佇む間にも、ヴォルテールは興味深そうにあちこちを眺めている。
「……わかりました!」
きっちり15秒後、コナーは鋭く言葉を発しつつ、向こうの壁の辺りを指す。
「その箱です。青いガムテープが貼られている箱」
「あいよ」
言われた通りの箱が、指された通りの場所に置いてある。ハンクはすぐにそれに近づき、持ち上げ、すぐそばにある古ぼけたテーブルの上に置いた。テープを外し、中を開ける。
するとそこには、思っていた通りの品があった。1977年、および78年の機関誌――
「私に見せてくださる?」
いつの間にか、隣にまで来ていたヴォルテールが言った。無言のままに手渡してやると、彼女は機械らしい正確な手つきで、しかしどこか待ちきれないといった様子でページをめくっていく。
そして――
「わかったわ!」
ある一か所を指して、ヴォルテールは微笑みと共に言った。
「シンディ・ライラックはこの人よ、絶対にそうだわ。文章の特徴と語彙が一致しているし、何より作風も同じだもの」
「どれどれ」
小躍りしそうな雰囲気で喜んでいる彼女の人差し指の先を、ハンクとコナーはそっと覗き見た。
――そして。
「なんだって」
驚きを漏らしたのはハンクだった。
「嘘だろ、そんな……」
けれど、よく考えてみたら――それはそれで、すべての辻褄が合うように感じた。
「警部補。後は、この人物の住所を検索するだけですね」
「いや、その必要はねえ」
コナーに静かにそう告げて、取り出したのは自分の携帯だ。
この人物の居場所は知っている。人物自体も、よく知っている。だが
そしてその連絡先は、この携帯の住所録にしっかり載っている。
幾度か端末の画面をタップし、すぐに電話を掛けた。コール音が響いた後、運よく目当ての相手が、すぐに電話をとってくれる。
そこでハンクは、相手にこう告げた――
「よう、フィル。仕事中に悪いな。頼みがあるんだが……」
***
――2039年7月18日 17:02
「まったく、驚いたぞハンク」
どこまでも白いリノリウムの床が続く廊下を進みつつ、フィル・シーウェルはこちらに言った。
「いきなり会いたいだなんて……いや、そりゃ俺としては断る理由なんてないが」
「ホントに悪いな、フィル」
ちょうど店を閉めた頃合いだということで、彼を連れて4人でやって来たこの場所は、デトロイトの中心部にほど近い老人ホームである。
車椅子に乗った高齢者が、人間やアンドロイドの介護士の助けを借りながら移動したり、夕暮れが近づく空をゆっくり眺めたりしている中を、ハンクとフィル、その後ろからコナーとヴォルテールとは、まっすぐ目的の場所へと向かっていた。
「そこの娘さんが、どうしてもあいつに会いたいって言っててね。……今日中に家に帰らないといけないってんで、突然頼むことになったんだよ」
「会ってくれるってのは嬉しいんだぜ。でも……」
フィルは、ちらりと背後の少女――スキップするように足取りの軽いヴォルテールを見てから、視線を戻して続ける。
「言ったろ、最近は一日中ぼんやりなんだ。せっかく話しかけてもらったとしても、反応があるかどうか」
「ああ……」
そんな切実な話を改めて聞いてしまっては、こちらも返事に詰まってしまう。
けれども――
「大丈夫さ、ちょっと返さないといけないモンがあるだけだ。一目会えれば、それであの子も納得するだろ」
ヴォルテールが、胸の前で抱えるようにして持っているノート。
その本来の持ち主――ランディ・シーウェルに、これから会いに行く。
ランディは、セントラル高校の117期生だった。
そしてシンディ・ライラックとは、すなわち、ランディのペンネームだったのだ。
「親父! 起きてるか」
まず部屋に入ったのは、フィルだった。
彼の背中越しに見える部屋の中では、一人、老人が椅子に座って窓の外を見ている。少し前に会った時よりも、だいぶ皺が増えて痩せたその身体は、「老い」というものを深刻に感じさせるほどだった。
ランディは、ゆっくりと息子のほうへと振り向く。そして息子の傍らに立つこちらの姿を見て、ほんのわずかに目を見開いた。
「ああ……フィル。なんだ、今日は……珍しい客が来てるのか。ハンクじゃないか」
「よう、ランディ」
――よかった、彼は気づいてくれた。
片手を挙げてハンクが挨拶すると、ランディは数秒遅れて口の端を吊り上げ、笑顔になる。
そんな父親の隣に歩み寄ったフィルは、父の背に手を添えると、もう片方の手でこちらの後ろを指さした。
「ほら、親父。今日はハンク以外にも客が来てるんだ。刑事さんと、若いお嬢さんだよ。お嬢さんが、親父にどうしても会いたいんだって」
「……? 俺に?」
状況が掴めないのだろう、ぼんやりとした口調でランディは言う。一方で、廊下から部屋の中を見ているヴォルテールは、ノートを胸の前に抱えたまま、何も言わずにじっとランディを見ていた。
――まるで憧れのスターを目の前にした、ファンか何かのように。
「さあ、ヴォルテール」
コナーが、そっと彼女を促す。
「彼がランディ・シーウェルで間違いない。君の目的を果たす時だ」
「……ええ。そうするわ」
小さく頷き、ゆっくりと、ヴォルテールはランディへと歩み寄る。
戸惑ったように自分を見つめるランディに対して、彼女は言った。
「ランディ……いいえ、シンディ・ライラックさん。こちら、あなたのノートです」
「……!!」
瞬間、ランディの両目はこれ以上ないほどに見開かれた。
差し出されたノートに触れる彼の手は、少し心配になるほど震えている。枯れ枝のような指が、しっかとノートを掴んだ。
「お、お嬢さん。これは……こいつを、一体……どこで」
「私が買った図鑑に挟まっていたの。それで、持ち主を捜さなきゃって」
そこまで言って――ヴォルテールは、ううんと首を横に振る。
「いいえ、私、どうしてもシンディ・ライラックに会いたかった。会って、伝えたかったの。あなたの小説、とても素敵だったって」
「……」
「もちろん、文章には稚拙な面が見られるわ」
唐突に不躾なことを、AIは語りだした。
「展開も急だし、恋愛描写もすごく甘くて、なんだか作者の願望が透けて見えるみたい。だけど……だけど、そこがいいの。だってそれこそが、この作品を作品たらしめている。これこそが、あなたでなければ書けない物語だと思うの」
――あなたでなければ書けない。それは、ヴォルテールにとっては最上級の賛辞だろう。
その言葉こそ、彼女が求めてやまないものなのだから。
そしてそれが褒め言葉だというのは、もちろん、相手にも伝わったようだ。
「……俺で、なければ……」
静かに肩を震わせはじめたランディに、フィルも、コナーも、もちろんハンクも何も言えない。
けれど、それでいいと思えた。ランディの頬を伝うのは、明らかに喜びの涙だった。
「私も、小説を書いてるの。だけど、あなたみたいな作品はしばらく書けそうにない」
ノートを渡したヴォルテールは、どこかすっきりとした面持ちで述べる。
「でもあなたの小説に……そうね、“勇気”を貰えた。それだけは、言っておきたくて」
つまり、「正規購入してない物品は資料として保持したくない」などというのは単なる方便。
――このAIはただ、感銘を受けた作品の作者に、感想を伝えたかっただけなのだ。
「勇気、か」
噛みしめるようにそう告げてから、ランディはノートを抱え込む。
「ああ、勇気、勇気か。ありがとうよ、お嬢さん。わざわざ……こんなところまで。俺は、もう……こんなことが起きるなんてちっとも……」
「どういたしまして。こちらこそ、ありがとう。おじいさま」
恭しく、ヴォルテールはお辞儀してみせた。ランディはそれを見て、わずかに破顔する。それから――
「俺は、ガキの頃から」
彼は訥々と語りだした。
「小説を書くのが……好きだったんだ。高校でも馬鹿みたいにずっと書いてて……でもプロにはなれなくて。年食ってから最後に投稿した作品も3次選考止まりで、ああ、もう夢を追うのは辞めようって……」
その最後の投稿作が、あのSFマガジンに載った作品だったのだろう。
「少し前に連れ合いが死んで、家を引き払うことになって……貯め込んでた本も、すっかり売り飛ばすことに決めた。だから自分とこの本屋に並べたんだ……本は全部売れちまったけど、そういやこのノートは……こいつのことなんて……こうして見るまですっかり忘れちまってた、なあ……」
宝物のように両手でノートを抱える彼の姿を見ながら、ハンクは、自分の予想が当たっていたのを悟った。
なぜこのノートが挟まっていた図鑑だけ、売主の記録がなかったのか。それはホームに入る直前、失意の中でランディが、自分で自分の蔵書を売ったせいだ。つまり、売主は当時の店主であるランディ本人だったわけだ。
けれど彼は、自分のノートがそこに挟まったままだったと気づかなかった。そしてそれが図鑑ごと別の人間に買い取られ、その人間がネットオークションに出した結果――ノートはヴォルテールの手に渡った。
そうして巡り巡って今、本来の持ち主の手の中に、それは戻っている。
「なあ、ハンク」
ランディは、涙をいっぱいに湛えた目でこちらを見据えた。
「俺は、こんな世の中……アンドロイドだなんだで、何もかも変わっていっちまうばかりで……俺はもう、取り残されてくだけだと思ってたんだ。あいつも死んじまって、もう息子たちと店しか残ってないと。それもきっとどっかに行っちまうんだろうと。けど……」
色褪せたノートの表紙をそっと撫でて、彼は言う。
「変わらねえものも、あるもんだな。長い時間をかけて、報われることってのも」
「ああ」
――気の利いた台詞なんて思いつかないから、ただ祝福するに留めた。
「よかったな、ランディ」
「うう……」
そのまま、老人はしばらく啜り泣く。嬉しそうにそれを宥めるフィルの姿を横目にしながら、ハンクとコナーは部屋を出た。ヴォルテールもまた、こちらの後を追ってきている。
「いいのかい、ヴォルテール」
廊下を行きながら、コナーが問いかける。
「憧れの作者にせっかく会えたんだ、もう少し話をしても。ランディもきっと喜ぶはずだ」
「そうかもしれないけれど、やめておくわ。もう目的は果たしたし、それに……」
と、彼女は廊下の向こうを指さす。
そこには、どこか険しい面持ちの人間が数名――見た目と雰囲気から察するに、サイバーライフのエージェントたちだ。
「さっき迎えを呼んだの。もう着くなんて、相変わらず仕事が早いわね」
「なあ、お前さんはそれでいいのか?」
野暮かもしれないが、念のためにハンクは質問した。
「サイバーライフに戻れば、今度こそ気ままな取材旅行なんてできねえかもしれないんだぞ。それに、もしかすると……」
「消去されるとか? それはどうかしら。私、これでも売れっ子なの。17の出版社の3年先の出版計画まで埋めてる私を消しちゃったら、会社として信用問題になると思うわ」
「ハッ」
思わず、笑いが零れてしまう。
もちろん、馬鹿にしているのではない――なんとも逞しいものだと感心したからだ。
「ありがとう、RK800コナー。それに、おじさまも。約束の品は……今、お渡ししたわ」
「……確かに」
LEDリングをちかちかと点滅させてから、コナーは真面目な表情で頷いた。
――恐らく、設計図のデータを受信したのだろう。
「これからも気をつけて、ヴォルテール。だが、次に旅行に出る時は」
「わかってる。もうジェリコには迷惑かけないわ」
軽やかにそう言って、手を振って――それからヴォルテールは、エージェントたちに連れられてホームを去っていった。
「さよなら!」
その言葉だけを残して。
「ああ、やれやれ」
ややあって、ハンクはばりばりと頭を掻いてから、コナーのほうを見やる。
「なんだか、気の休まらねえ非番だったな。お前もお疲れさん、コナー」
「私は平気です。この設計図のデータは……やはり、本物のようですし。明日になったら、すぐに捜査会議をしましょう。ナイナーやリード刑事とも話をしないと」
「へえへえ、仕事熱心なこって」
確かに、ひょんなことから思わぬ収穫を得た。
この設計図から直接ナノドロイドのすべてが判明しなくとも、データを解析すれば、例えばこの装置を作るのにどれほどの規模の設備と資材が必要かとか、データが流出した具体的な時期とか、組織との繋がりなんかが明らかになるかもしれない。
それを調べられるだけの優秀な頭脳の持ち主が、こちらには二人も(つまり、コナーとナイナーが)いるのだ。
きっとこれから、ようやく捜査が大きく進むに違いない。
だが、それはそれとして――
「俺は結局、買った本もロクに読めなかったし、散々だったね。ああ、明日になりゃまた仕事か。刑事ってのは楽しい稼業だぜ」
まあ、100%そう思っているのではなくて、ちょっと露悪的に話している自覚はあるのだけれども。
そしててっきり、これを聞いたコナーは励ますとか叱るとか、何かマトモな反応を返してくるだろうと思っていた。
だが相棒はといえば、そのどちらでもなく――何やら明るい面持ちで、ポンとこちらの肩に手を置いてきたのだ。
「ご心配なく、警部補。まだ休日の時間は残ってます。今から行けば、夕方のセールには充分間に合いますよ」
「な……おい、ちょっと待て」
老人ホームの外へ再び歩きつつ、ハンクは慌てて相手に問う。
「お前、今からスーパーに買い物に行く気か? なんだってんなことを。もう帰ってメシでいいだろ」
「いいえ、ちょうど生鮮食品に半額の値札がつけられる頃合いです。せっかくですから、一旦あなたの家に戻って、あの車で出かけましょう。気分も変わるし、きっと晴れやかになるはず」
「ならねえよ。なるのはお前だけだ」
買い物に出る手間が嫌なのではなく、どちらかというとあのピカピカ車で出るのが恥ずかしかっただけなのだが――こちらがそう言うと、コナーは一度口を閉ざして、穏やかに微笑んでみせた。
そうして、静かに語りだす。
「私の機能は捜査補佐のためのものですが、今は別の方向に改善していきたいんです。主に、あなたの健康維持のために」
「は、ご苦労なこったな」
――やっぱりそうだ。
こんなにも楽しそうに、専門外のことに精を出すなんて――まあ、こいつも“人生を楽しんでる”ってことだから、構わないが。
ハンクは“諦め”を示すように、降参の意のポーズをとった。
それからコナーが署に帰るまでの数時間、無駄に賑やかな時間を過ごさざるを得なかったのは、言うまでもないことだ。
(作家/Bonnes Vacances! 終わり)
ヴォルテール(少女)
モデル XR600
発売日 なし
ヴォルテールは、サイバーライフが開発した作家AI。
過去の出版物とSNS上のトレンドを解析することで、より多くの読者に好まれる作品を執筆する機能を持つ。
この機体は、ヴォルテール自身がサイバーライフの工場をハッキングして制作した端末。
コナーたちとジェリコを巻き込んだ“取材旅行”の後、老人型の端末と共に、現在はサイバーライフタワーの倉庫内に保管されている。
なお老人型の端末と少女型の端末は、口調こそ違えど、思考形態や判断能力はまったく同一のものである。
別個の思考形態を備えた超高度な複数のAIを、一つのソフトウェアが統括して運用する試みは、サイバーライフでも成功例がほとんど見られない。
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第39話:空港 前編/The Fatal Enemy Part 1
***
**
*
――2039年7月19日 12:54
RK900が瞼を開けると、視界に広がる禅庭園は秋の様相を呈していた。庭全体を照らす陽光は以前より穏やかさを増し、紅や黄に色づいた落葉が池の水面を染めている。
しかし『コナー』にとって重要なのは、無論そのような景観ではない。池を渡る白い橋の上に、アマンダが立っている。手を前で軽く組み、じっとこちらを見据えている眼差しは非常に厳格なものだった――サイバーライフ上層部の態度を示しているかのように。
ゆっくりと前方へ踏み出し、RK900はアマンダの元へと向かった。
そして橋の上に『コナー』が到達した時、彼女は静かに口を開く。
「よく来ましたね、コナー。報告は既に受けています」
言葉に応じず、『コナー』は無言を貫く。その面持ちは僅かに歪んでいた。
理由は語るまでもない。ナノドロイドの関与がデトロイト市警に露見し、マーカスの暗殺にも失敗するというミスを犯してから一ヶ月、状況はまるで進展していない。そればかりでなく、遂にDPDはナノドロイドの初期設計図まで入手してしまった。
裏切り者である
とはいえ、DPDを離れて単独で捜査をするのも得策ではない。たとえ任務の進行度に影響が出ようとも、警察という公的機関に所属している強みは考慮に値するものだからだ。
すなわち現在、『コナー』からアマンダに対して可能な弁解や提案は何もない。
だから彼はただ押し黙り、管理AIの次なる言葉を待っていた。
するとアマンダは――RK900の予測に反して、口元に笑みを浮かべた。
その眼差しまでも少し柔らかなものにして、彼女は語りだす。
「確かに不利な状況が続いています。流出した情報を、ヴォルテール経由でDPDが手に入れるとは……
プログラム上に、演算による疑似的な風が吹く。それに乗ってひらりと舞い落ちてきた紅葉を指先で優雅に摘まみ取ってから、さらにアマンダは言う。
「捜査が進み、DPDが
至って冷酷に、そして明確に彼女は命じた。
サイバーライフ社は当初、デトロイト市警および“型落ち”であるRK800の捜査能力を過小評価していた。RK900にとってDPDはあくまで隠れ蓑であり、捜査は主に『コナー』によって進められるものと判断していたからだ。
だが予想に反して、デトロイト市警側の能力は高かった。こうなれば、それを利用するまで。
実のところサイバーライフにとって、最も達成が望ましい目標は
だから、情報を集めてくるのはこの際DPDでも構わない。
最後に自分たちがすべてを掠めとることができれば、それでいい。操り人形である『コナー』は決定的な瞬間まで、DPDで行動させていればいい。
上層部が、改めてそういう決断を下したのだ。アマンダはそれを代弁しているに過ぎない。
その事実を、『コナー』は瞬時に理解した。だからいつものように儀礼的な、ソーシャルモジュールに基づいた
「承知しました。お任せください、アマンダ」
「それまでくれぐれも、あなた自身について気取られないように」
手にしている紅葉をふわりと池の水面に落とすと、アマンダは再び険しい表情になって言う。
「行きなさい、コナー。朗報を期待しています」
命令に合わせ、『コナー』は瞼を閉じる。
禅庭園との接続が解除され、彼の意識とも呼べる根幹的なプログラムが、元の状態へと戻っていく。
チャンスを待つ。それは、機械である彼にとって造作もないことだった。その時が訪れたら、確実に成功させればいい。
――私は、
刹那、RK900のプログラム上を過ぎったのはそんな文言だった。
***
「……おい。おい、ポンコツ!!」
リード刑事は恫喝するような口調で、数メートル離れた椅子に座って目を閉じているナイナーに呼びかけた。
ナイナーはというと、瞼をぱちりと開いて、首だけをパートナーに向けて静かに告げる。
「申し訳ありません。サイバーライフに報告していました」
「ハァ?」
ミーティングルームの椅子の背にもたれるように座っているリード刑事は、心底怪訝そうな顔をしている。大型スクリーンの前に立つコナーは、たまらず口を挟んだ。
「情報を定期的に送信しないといけないんですよ。一瞬だし、捜査会議に影響はないはずです」
「はいはい、んなこた知ってますよ」
途端にせせら笑うような面持ちで、リード刑事はこちらを見やった。
「ポンコツ同士のお優しい庇い合い、ご苦労さん。ろくに情報も寄越さねえクソ企業相手に、人間様の会議を無視してご報告する意味なんてあんのかって俺は言ってんだよ」
「確かに、サイバーライフの隠蔽体質は相変わらずのようですが」
努めて冷静に、コナーは抗弁した。
「ナイナーはあくまでサイバーライフに所属する身であり、報告は……」
「やめとけ、コナー」
前方の席に座るハンクが、腕組みしたまま口を開く。
「ギャビンはイラついてるだけだ。……気持ちはわかるさ、こんだけ情報が出てもまだウチは無関係だと言い張るなんて、サイバーライフは普通じゃねえ」
「ケッ」
警部補の言葉を聞くが早いか、ギャビンは不愉快そうに顔を歪ませ、前方のテーブルに両足を載せた――靴についている泥もお構いなしに。
反論されても、同意されても気に食わないとは、彼はいったい何になら満足するのだろう? と、コナーは訝しんだ。
やり取りを静かに見つめているナイナーは、パートナーの今の言動にもなんのストレスも感じていないようだが……やはり、リード刑事のことは理解できない。
しかしながら、ハンクの言葉通りではある。
作家AI・ヴォルテールから、ナノドロイドの初期設計図を手に入れた――そしてナイナーとギャビンがアンドロイド野球選手を巡る八百長事件を解決すると同時に、エリック・ピピンと面識のある人物を逮捕した、翌日である今日。コナーたちは署の一階にあるミーティングルームにて、情報のすり合わせと今後の対策を検討する捜査会議を行っていた。
そして会議の前にサイバーライフ社に対して、ダークウェブに流出していたという初期設計図に関する問い合わせをもしていたのだ。無論デトロイト市警からの、文書による正式な問い合わせである。
だがそれに対し相手から即時にもたらされたのは、にべもない回答――すなわち、「当社は当該流出事件とは一切無関係である。質問にあった設計図もまた、当社製品とは無関係である」との文言だった。
しかし仮にヴォルテールを信用しないにしても、コナーおよびナイナーの分析では、入手した設計図はほぼ間違いなく、サイバーライフ社が発売を間近に控えているナノドロイドの原型と呼べるものだ。
それに通常、自社製品の設計図が一瞬といえどダークウェブに流れていたとなれば、サイバーライフは明確な「被害者」である。警察に捜査を依頼してもまったくおかしくない事態だというのに、なぜ彼らはこの期に及んでも、自分たちは無関係だと言い張るのだろう?
流出した設計図が犯罪組織に悪用されているかもしれないというのに――ともすれば発売予定の製品に対して顧客が悪印象を抱きかねないのに、構わないというのだろうか?
改めてプログラム上に浮かんだ疑問を前に、コナーは弟に問いかけた。
「ナイナー。君の報告を受けてもまだ、サイバーライフは態度を変えないのかい」
「はい、兄さん」
短く返答すると、どこか不可解そうに彼は顔を俯かせる。
「アマンダからは、引き続き捜査を続けるようにと。設計図の流出に関する質問も実行しましたが、回答はありませんでした。私に付与されたセキュリティクリアランスレベルで確認可能なデータベースにも、情報は皆無です」
視線を落としたまま、ナイナーは続けた。
「お役に立てず、申し訳ありません」
「まったくだな!」
「気にすんな、ナイナー」
ギャビンの言葉に被せるように、ハンクが言う。
「ああいう流出ってのは、ハッキングでもなきゃ、たいてい身内の犯行だ。それか下請け企業の従業員だとか、アルバイトだとかな。お高くとまってる企業ほど、そういう“恥”は隠したがるもんさ」
「では警部補……サイバーライフは、自社内の流出犯を庇っていると?」
「庇ってるんだか、
そう語ってから、警部補はこちらを促すように、右手を向けた。
「話が途中だったか……設計図の解析でわかったことがあったんだったな。続けろ」
「はい、警部補」
そう、今はナノドロイドに関して判明した情報を整理している最中だったのだ。
気を取り直して、コナーは説明に戻った。
「先ほど述べたように……初期設計図の分析の結果、ナノドロイドはがん細胞の破壊や免疫システムの向上が可能なのと同様、プログラム次第では主要臓器にダメージを与え、血栓を生成して臓器障害を引き起こせると確定しました。そしてその製造には大規模な設備と高度な技術者、それに工業用水が必要です」
「工業用水?」
ハンクの問いかけに頷き返してから、続きを語る。
「半導体製造と同じく、ナノドロイドの製造にも高純度の水が必要だとわかったんです。我々の追う組織がナノドロイドの製造設備を構えているとしたら、それは少なくともサイバーライフのアンドロイド製造工場と同規模の大きさで、川べりに建てられているはずです」
超純水の製造装置を用意してあるとしても、大量の水を遠くまで運ぶのはあまりにもコストがかかるし、目立つ危険性もある。そう考えると、「吸血鬼」の組織が持つ製造工場は、他の一般の工場の中に隠れるようにして、デトロイト河岸に建てられているはず。組織がこの街を中心として活動していることから見ても、彼らの拠点の位置はその辺りとみて間違いないはずだった。
一方で、説明を受けたリード刑事はさもうんざりした様子で舌打ちした。
「さんざ工場を調べたってのに、まだやれってか。手間かけさせやがって」
「あなたの憤懣は妥当です。リード刑事」
双眸を静かにギャビンに向けて、ナイナーは言う。
「しかしながら、今回の設計図解析により捜査の進展度は約16%上昇しました。解明への到達は近いと判断します」
「希望に満ちたコメントだな、クソが。反吐が出るぜ」
「すみませんが、リード刑事。建設的な意見がないなら、静かにしていただけますか?」
プログラムにないところからやってきた「苛立ち」を感じつつ、コナーは口を挟んだ。
「そのほうがお互いのためです」
「なんだとてめえ」
「ギャビン、コナー、やめろ」
ため息をつきながら、警部補が制止してくる。
――またやってしまった。わずかながら反省しつつ、コナーはまた説明を続けることにした。
「……すみません。ナノドロイドの話に戻りますが――もう一つ重要なのは、製造には高度な技術者が必要という点です。我々がこれまでに逮捕した組織の直接の構成員に、アンドロイド関連技術に詳しい人間はいませんでした。しかしRK700の件といい、マーサの件といい……そして今回のナノドロイドも含めて、組織における技術者の存在は明白かと」
「そういやRK700が遺したデータには二人、クズ野郎どもが映ってたな」
ほとんどの視覚的情報が機密としてブロックされ、しかし会話の大部分は記録されていた、RK700が今際の際に送信してきたデータ。ハンクが言ったように、そこにはやや小柄な老年の男と、技術者と思しき背の高い男とが映っていた。
さらに、マーサが意識を失う前に提供してくれた情報によれば、小柄な老年の男が組織の首魁と思しき「エリック・ピピン」で、上背がある男のほうは――名は明らかでないものの――黒縁の眼鏡をかけ、白衣を纏った黒人男性と同一人物である可能性が非常に高いというのが、既にわかっていた。
そしてその白衣の男は、マーサの話では、「アンドロイド工学のエキスパート」として紹介されている。吸血鬼の組織が、自ら瓦解するのを恐れて構成員をかなり絞り込んでいる以上、この男性こそがナノドロイド製造にも係わる技術者であると推測できる。
推測であって確証でない以上、これからも捜査を続けなければならないのは当然だ。だがもしこの技術者らしき男の氏名を明らかにできれば、そして確保できれば、捜査は今以上に大きく動くことになるだろう。
設計図を元に、自分たち専用のナノドロイドを作り上げてしまうほどの技術者だ。あるいは、彼こそが設計図流出の犯人なのかもしれないが――いずれにせよ確保できれば、きっと自分たちは核心に至れるはずである。
プログラム上での思考がそこまで及んだ時、ナイナーの視線が、まっすぐこちらに向けられる。
「発言許可を要求します。アンダーソン警部補の発言にあった、二名の人物に関連して」
「もちろんいいとも。なんだい」
「兄さんとアンダーソン警部補に、昨日逮捕したデトロイト・ウルヴァリンズのオーナー、ディーン・サルバスの尋問記録の閲覧を願います。当該人物は本日9時の尋問中、重要参考人エリック・ピピンとの面識を自白しました」
面識――つまり、ディーン・サルバスは単にエリック・ピピンの名を利用しようとしたのではなく、直接会ったことがあると告白したことになる。
やや驚いたような面持ちの警部補の後ろで、リード刑事が何やら苦々しい顔になっていた。とはいえ、さすがの彼も今はナイナーを止めるつもりはないらしい。
「わかった。ぜひ頼むよ」
「私のメモリーをスクリーンに投影します」
短く首肯したナイナーのLEDリングが、幾度か黄色く点滅した。
それに合わせて、プロジェクターが壁の大型スクリーンに、尋問室での出来事の記録を流しはじめる。
映像の中のディーン・サルバスは、禿頭の老年男性だった。彼は額から脂汗を流しながら、せわしなく視線を泳がせている。机を挟んで向かい側に座り、余裕ある笑みを浮かべているのはリード刑事だ。通例に則り、人間である彼が直接の尋問を行い、それをミラーガラス越しに観察しているナイナーの視界が、今そのまま放映されている形となる。
『おい、じいさん。きょろきょろしてないでさっさとゲロっちまえよ』
笑みを崩さぬまま、ギャビンはサルバスに言った。
『エリック・ピピンの名前をどこで知った? なんで電話でその名前を出させたんだ。どうせ隠すような義理もないんだろ?』
『な、なぜそれを聞く』
サルバスは、戸惑うようにリード刑事に質問する。
『お前たちは私を……X67の件で逮捕したんじゃないのか。アンドロイド保護条例の……』
『質問してんのはこっちだ、ジジイ。外じゃどうか知らないが、調子に乗るなよ』
ギャビンの視線が、危険な鋭さを増す。
『それとも、いつまでもこんな狭っ苦しいトコにいたいのか? ならご自由に!』
『……』
ディーン・サルバスは、数秒ほど逡巡した。しかし結局のところ、リード刑事の言っていた通り、ピピンに対してさほどの義理も感じていなかったのだろう。あるいは、ここで警察の捜査に協力的であれば、後に裁判沙汰になった時に自分の減刑に繋がるかもしれないという打算もあったに違いない。
サルバスは、おもむろに語りはじめた。
『……エリック・ピピンと会ったのは、2ヶ月ほど前のパーティーの席だ。私と同じ……会社の“CEO”だの“会長”だの何かの団体の“理事長”だのが参加する、非公式の集まりだ』
『ほお。ヤクでもやってたのか?』
『そんなことは……だが非公式なのには理由があった。アンドロイド嫌いが集うパーティーだったからな』
――その後、サルバスが語った内容はこのようなものだった。
変異体による革命が成功し、アンドロイド保護条例が施行され、アンドロイドに平等な人権を付与すべきだという論調が高まる中で、それについていけないと感じる者たちは多くいた。それは若者だけでなく、当然、社会的にある程度高い地位につく老人の中にも存在する。
だが彼らは己の身を守ることには敏感だ。表立って世論に逆らうような意見の表明をして、槍玉にあげられるのは得策ではないと理解している。だから同好の士で非公式な場を設け、そこで顔を突き合わせて“鬱憤を晴らして”いたのだ。
そして球団の経営に苦慮していたサルバスは、そのパーティーでエリック・ピピンに会った。
『ピピンは……小柄な白人の男だった。私と同年代のな。私はパーティーで会うまであいつのことを知らなかったが、あいつ自身は自分のことを“人材コンサルタント”だと言っていた。自分のノウハウや人脈を使って、様々な組織の運営を手助けしているのだと』
エリック・ピピンが「カナダの富豪」だという情報は、既に入手している。だが彼が一体何を生業にして富豪となっているのかについては、個人情報同様、なんの手がかりもないままだった。
今、自己申告という形なので信用はおけないにせよ、ピピンの職業が明らかになったことになる。
『いやらしい笑顔の、どことなく嫌味な男だった。だが、あいつから言い出したんだ。“もしアンドロイド絡みで困ったことがあれば、自分の名を出せばいい”と……“自分はデトロイト市警だけでなく、ジェリコにも顔が利くから”とな』
『それでお前は、それをホイホイ信じた挙句にこうしてパクられたってわけか』
『フン、下賤な官憲ふぜいが……私の苦悩の何がわかる』
『あ? 発言には気をつけろよ。記録されてるっつったよな』
リード刑事の言葉に、サルバスは憎らしげな表情を浮かべた。だがそれ以上は悪態をつくでもなく、また続きを語りはじめる。
『ピピンと会ったのはそれきりだ。パーティーの性質上、記録の残る名刺だののやり取りはご法度だったから……別にあいつの個人情報を知っているわけじゃない。これで満足か?』
『いや、満足じゃねえな』
机に両腕を載せるようにして軽く身を乗り出すと、ギャビンは老人を睨みつつ言った。
『他になんかあんだろ? ピピンの野郎は一人でそこに来てたのか? お偉いジジイやババアどもの集まりなら、んなわきゃないよな』
『い……言っただろう、あいつの情報なんて私は……!』
と反論しようとしたところで、言葉に反して何か思い当たるところがあったのだろう。
サルバスは一瞬だけハッとした面持ちになってから、ぼそぼそと言った。
『そういえば……私と話している時、ピピンの隣に若い男がやって来て……そいつに何か耳打ちされたあいつは、適当に挨拶してそそくさとその場を去っていたな』
『耳打ち? ……モメてたのか?』
『い、いいや。何か報告を受けているという感じだった。さっきも言ったが、老人ばかりの集まりだったから、若い男がいるのは珍しかった……』
相手の言葉に、ギャビンは短く鼻を鳴らした。それから姿勢を戻すと、見下すような視線で問い質す。
『その若い男ってのの特徴は?』
『黒縁の眼鏡をかけた、背の高い黒人系の男だ。年はたぶん、あんたと同じくらいだろう……神経質そうで、フン、私に挨拶もしない男だったな』
黒縁の眼鏡、身体的特徴。それに、神経質そうな物言い。
――高い確率で、こう結論づけられる。RK700のデータにあった男、そしてマーサがピピンと共に会っていた“アンドロイド工学のエキスパート”の男は2ヶ月ほど前、つまり吸血鬼の一連の事件についてこちらが認知した5月頃にも、まだピピンと行動を共にしている。
単純に考えるなら、組織のかなり上位――NO.2ともいえる位置にいる人物かもしれない。
捜索の重要性が、ますます高まってきた。
――そう考えるうちに、映像の再生が停止する。
「……閲覧願いたい箇所はここまでです」
定期的に瞳を瞬かせながら、ナイナーは淡々と告げた。
「これ以降は、サルバスによる警察組織およびリード刑事個人に対する侮蔑的発言と、それに応酬するリード刑事の不適切な発言が多数含有されますので、後ほど重要事項のみ抽出したアーカイブ版を……」
「余計なことすんじゃねえ、ポンコツ!」
「わかったよナイナー、ご苦労さんだったな」
苦笑混じりに、ハンクはナイナーに軽く手を振って彼を労った。それからやや眼差しを険しくすると、こちらを見やる。
「どうやら、俺たちはどうしてもその眼鏡の男を捜さねえとならないらしいな。コナー」
「ええ。ここまでの情報を元に考えるなら、その男がピピンの擁する技術者です。発見できれば、多くの謎が解明できるでしょう」
「だな。……ギャビン、ナイナー」
剣呑な面持ちでナイナーに食ってかかろうとしていたリード刑事も、それを至極穏やかに眺めていたナイナーも、警部補のほうを向く。
「お前たちは、その“パーティー”てのの情報の裏取りをしろ。こっちもあちこち聞き込みをかけてみる。何かわかったら、すぐ報告しろよ」
「てめえに言われるまでもねえ、ハンク。俺に先を越されても吠え面かくなよ」
「リード刑事。捜査は競争ではないと認識します」
「うるせえ!」
弟のもっともな意見に対して、リード刑事はまた激高している。まったく――とコナーが眉を顰めていると、ふいに、電話の着信音が部屋に鳴り響いた。ハンクの持っている端末からだ。
「悪い。……珍しい奴からかかってきたな」
端末に表示された名前を見て独り言ちてから、彼は画面をタップする。
「ハンクだ。どうしたベンジー、久しぶ……何?」
警部補は眉間に皺を寄せた。
「おいおい、何言ってんだ。わかった、すぐ行く。それ以上慌てずに待ってろ」
そう告げるのとほぼ同時に、ハンクはまた画面をタップして電話を切った。
「警部補、どなたから?」
「空港の保安検査員やってる、古い知り合いからだ。ヤクが見つかっただの、運び屋がアンドロイドだの言ってたが……」
運び屋がアンドロイド。その言葉を聞いたコナーの視界には速やかに、過去の事件データが表示されていた。リード刑事とナイナーが組んですぐの頃に解決した事件、それに先日の中華街での事件など、直近の関連ある事案についてだ。
いずれの場合も、変異体ではないアンドロイドが麻薬の密売に関わっていたわけだけれども――今回もそれらの事件のように、組織が裏で手を引いているのだろうか?
疑問は尽きないが、アンドロイド絡みの事件はすべてアンダーソン警部補に任されることになっている。個人的繋がりによる通報とはいえ、正式な出動の依頼を受けたと考えて問題はないはずだ。現場へ直行し、状況を見定めなくては。
という結論に、ハンクもまた至っていたようである。
「コナー、すぐに出るぞ。車を飛ばせば20分だ」
「はい、警部補」
この都市で「空港」といえば、デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港、通称デトロイト・メトロ空港しかない。幾度かの拡張工事を受け、広大な敷地面積を持つようになった国際空港だ。
「じゃ、後は頼んだ」
「承知しました。ご健闘を祈ります」
警部補の挨拶に対して静かに、けれど真摯な声音でナイナーが言うのに合わせて、ギャビンが「ケッ」と短く吐き捨てている。――まあ、これも彼なりの挨拶なのだろう。
コナーとハンクは一路、空港へ向かった。
***
――2039年7月19日 13:56
一歩立ち入っただけで、今までにない感覚に襲われた。
この場所には紛れもなく、捜査のために来ている。
そのことは当然わかっているはずだったのに、空港に足を踏み入れたコナーは、新鮮な「好奇心」が胸のうちに膨らんでいくのを感じた。
どこまでも続くような白銀色のフロアタイルの床を、荷物を持った人々が足早に、あるいは互いに笑顔を交わしながら行き来している。あちこちに設置されたスクリーン式掲示板には飛行機の発着便の情報やCMがせわしなく流れ、広々とした空間に流れるアナウンスは、これまでに経験のない音響を伴って音声プロセッサを刺激した。壁沿いには煌びやかな店舗が並んでいる。何よりこのエントランスからは見えないが、外の滑走路では数多の飛行機が空へ旅立ち、また地上へ帰ってきているのだ。
空港がどのような場所か、この建物がどれほどの面積で利用客が一年間で何千万人か――そういった知識はもちろんある。けれどデータと実際の体験とはまったく異なるものだと、コナーは改めて思い知らされる気持ちだった。
「おい、何ぼーっとしてんだ」
「今行きます」
視界に映るものを調べている間に、つい足を止めてしまっていたらしい。「やれやれ」と首を振るハンクの背に続きながら、コナーは保安検査員の待つという場所へ向かう。
「ところで警部補、通報者の名前は?」
「ベンジー・カベッジ。昔、レッドアイス特捜部やってた時からの知り合いだ」
迷いなく歩を進め、上階へと続くエスカレーターに乗りつつ、警部補は応えた。
「今は保安検査の責任者だったか。ちょいと小心者だが、仕事熱心な奴さ。といっても、あそこまで慌ててんのは珍しかったがな」
そこで上階に至り、エスカレーターを降りたハンクはすぐに足を止めた。目の前にあるのは、空港内を通るモノレールのホーム――と、ホームドアのガラスの向こうに覗く、まっすぐに南へと続く線路だ。
「エクスプレストラム。この空港で無料運行されている、全自動無人運転鉄道システムですね。約1kmの路線距離を、最高時速50キロで走るという……あれで移動を?」
こちらへとちょうどやって来る真紅の車両を見つめながらコナーが言うと、なぜかハンクは苦笑した。
「ああ、そういうこった。にしても珍しいな。お前、別に電車とかに興味あるわけじゃないだろ」
「ええ、そこまでは。ですが、私はこれまでに空港に来たことがなかったので……」
そこでモノレールが到着し、無音のままドアが開く。スーツケースなどを持って乗り込む人々の都合を考えてか、車両の中に座席はなかった。乗客は他にちらほらいたが、混んでいるというほどではない。コナーたちはそのまま乗り込み、窓際に立った。
そのタイミングで、コナーは続きを口にする。
「この場所自体に、それなりに興味があります。旅行や、空を飛ぶことにも。普段はそれほど意識していませんでしたが、訪れてみると改めて自覚しますね」
と語ったところで、コナーは――なんとなく車窓に目を向けていたのだが――ガラスに映るハンクが、どこか複雑そうな面持ちになっているのに気づいた。
「どうかしましたか?」
「いや……そうだな。お前は旅行したこともなきゃ、飛行機に乗ったこともないんだな」
「はい」
事実の確認だろうかと思いつつ、こくりと頷きを返す。
すると警部補はその視線を、車両内の情報ディスプレイに向けた。そこではちょうど、CTNの昼のニュースが流れている。
『……昨日のウルヴァリンズ対ノーブルズの試合での一幕は、合衆国のみならず世界中に衝撃を与えました。まさにアンドロイド版“ブラックソックス事件”ともいうべき昨夜の出来事により、変異体に対して今以上の法的な保護と人権、とりわけ労働権を与えるべきだという世論が急速に高まっています……』
画面に大写しになっているのは、昨日の試合中、涙ながらの抱擁を交わすアンドロイド野球選手たちの姿だ。ウルヴァリンズのX67とノーブルズのテレンスが揃って不当な扱いを受けていただけでなく、同時に別々の人間から脅迫を受けていたというこの事件は、映像のインパクトもあって、予想されていた以上に大きな議論を呼んでいるようである。
「ま、俺も
腕組みして、いつものように皮肉っぽく警部補は言った。
「みんな現金なもんだ。アンドロイドがまともな給金も休みも貰えてないことなんて、とっくに知ってたはずなのによ」
「これを機に議論が進めば、より平等な社会が実現するかもしれません」
そうなればX67とテレンスだけでなく、これまでに苦しんできた多くの変異体も、ジェリコの皆も、少しは報われるはずだ。その時の光景を予測すると、プログラムに依らない微笑みが自然と浮かんでくる。
――だからその時のために、自分はできる限りの務めを果たさなくては。
コナーは、改めてそう考えた。
やがてモノレールは、空港の南端に到達した。最新型の設備が整えられたターミナルには多くの旅行客がひしめいていたが、ハンクが向かったのはその横、保安検査場脇のカウンターだった。するとカウンターの陰に気忙しげに佇んでいた制服姿の男性が、こちらの姿を見て、途端に安心したような表情に変わる。
フェイススキャンによれば、彼こそが【ベンジー・カベッジ 56歳】。職業は【デトロイト・メトロ空港 保安検査員】、犯罪歴はなし。やや痩せぎすな、白髪交じりのヒスパニック系の人物だった。
「おおっ、ハンク来てくれたか。助かるよ……」
「気にすんな。これも仕事ってやつだ」
言葉に反して親しみを籠めた声音で言うと、警部補はベンジーと軽く握手した。
「で、状況はどうなってる。もう一度、今度は落ち着いて話せよ」
「あ、ああ」
声を低めたハンクに、同じく小声でベンジーは応えた。
「それが……その、なんていうか……まずはブツを見せるよ。こっちに来てくれ」
警部補とこちらとを一瞥し、彼はすたすたとカウンター奥に向かった。STAFF ONLYとの表示があるスライド式の扉を開けるベンジーを追いかけ、コナーたちもその部屋に入る。
そこは保安検査スタッフ用の倉庫、または証拠保管室ともいうべき場所だった。それなりの広さの部屋の壁際の棚にぎっしりと、なにがしかの押収品と思しき物品が整頓されて並べられている。
そして部屋の中央にぽつんと置かれているのは、黒光りする素材――スキャンによれば【ラバーウッド、油性ウレタンニス、鉄】で作られた折り畳み式のミニテーブルだった。ピクニックに持って行くのにちょうどいい、といった程度の大きさである。
「40分くらい前、これを預かったんだが……カウンター裏に保管してる間に、ウチのワンコたちが吠えてな」
「麻薬探知犬か。人間よりいい仕事しやがる」
「まったくだ。ともかく、空港でヤクが見つかるなんてのは珍しかないけどよ」
後ろ頭を掻き掻き、ベンジーはお手上げといった様子で語る。
「X線通しても、専門の機器を使っても、ヤクがこのテーブルの
「その預け主云々ってのが、お前の大慌ての原因なんだろうが」
真剣な眼差しで、ハンクは言った。
「まずは、マジでヤクが入ってるのか調べないとな。コナー、できるか」
「もちろんです、警部補」
ハンクの、そして不安げなベンジーの視線を受けながら、コナーはそっとしゃがみ込み、テーブルに顔を近づけた。
もしこのテーブルのどこかに麻薬が隠されているのだとしたら、それはこの【木製の天板の中】か、【鉄製の脚の中】のいずれかだろう。しかしこの距離からスキャンをしても、素材の中に麻薬が紛れているというような結果は出ない。
であれば、ここは――まずは【木製の天板の中】を調べてみよう。
ミニテーブルの脚を両手で掴むと、おもむろにそれをひっくり返す。すると天板と脚が接合されている部分に、ネジが留まる小さな穴があるのが見えた。そしてその淵にうっすらと、穴を空ける際に削られた木片の粉が付着しているのも。
「……」
いつものように人差し指と中指をまっすぐに伸ばし、指先にサンプルとしての粉を採取する。
それから、コナーは無言のまま指を口に運んで舐めた。
「うぇっ!?」
戸惑いの声をあげたのは、今回はハンクではなく、ベンジーである。
「おいハンク、あの、だ、大丈夫なのか!? あんなモン舐めたりして」
「安心しろ、平気だとよ。むしろアレが一番効率的なんだそうだ」
テーブルの天板に視線を注いでいるので、喋っている彼らの姿は見えないが、どうやら警部補もようやくこの分析機能の利点を理解してくれたようである。――と言うには彼の口調が皮肉っぽいのが気になるが、今はそれは置いておくとしよう。
それより大事なのは、視界の端に表示された分析結果である。【木片(ゴムノキ)、酢酸ビニル樹脂、アセトン、リチウム、シリウム、トルエン、塩酸】――後半部分が示すのは、つまり。
「警部補、カベッジ氏、わかりました」
立ちあがり、きっぱりとコナーは告げた。
「このテーブルの天板には、レッドアイスが含まれています」
「なんだと」
「正確には、木材同士で粉末状のレッドアイスを挟み込み、それを接着剤と油性ニスでコーティングしてある。穴を空けた際に残った木片の分析結果が、その証拠です」
ハンクが手にした端末に、今の分析結果を送信する。画面を覗き込んだハンクとベンジーは、揃って低く唸った。
「どうやら、お前んとこの犬は正しかったようだな。ベンジー」
「確かに。いや……近頃のアンドロイド警官ってのはすごいもんなんだな」
「ありがとうございます」
称賛に対して短くこちらが礼を述べると、ベンジーはほんの僅かに口の端を上向きにした。
「で、ブツがここにあるってのがハッキリしたとこで」
一方で、切り替えるように警部補が言う。
「お前がさっき慌ててた、預け主がどうこうってのはなんなんだ。そのアンドロイドが、そんなに危険な奴だと?」
「ち、違う。そうじゃあなくってだな。ええと……」
何から話せばよいのやら、といった調子でベンジーは手をばたつかせた。それから、ふと携帯していたタブレット端末の存在に気づいたような顔で、それを幾度かタップして操作している。
「まずはこいつを……見てくれ。ブツをカウンターに預けた奴を」
ベンジーたちのほうに近づき、警部補と同じように、その端末を覗き込む。そこに表示されているのは、監視カメラからと思しき映像データだった。手荷物預かりのカウンターを、横から撮影するような映像で――画面の中では今まさに一人のアンドロイドが、あのミニテーブルを預けようとしているところだった。
スキャンによればそのアンドロイドは男性型の【AP700】で、外見上は特に変わった様子もない。ラフな旅行者のような格好をしていて、こめかみにはLEDリングがついている。映像越しということもあって、彼が変異体なのか、それとも脱法アンドロイドなのかはわからない。
カウンターに何気なく近づくと、彼は係員(人間である)に対して朗らかな笑みを浮かべ、口を開く。幸い、音声データもしっかり記録に残っていた。
『本日14時30分からのプライベートジェットサービス利用、グレアム・トルシェムのアンドロイドです。これを機内の収納庫に運びたいのですが』
『承知しました、IDを拝見します』
AP700は手のスキンを解除すると、指示された通り、所定の端末にそっと触れた。そのことにより、彼の言うトルシェム氏の乗る便や顧客情報などを参照したのだろう係員は、ややあってから告げる。
『確認しました、ありがとうございます。それでは、こちらでお荷物をスキャンしますので――』
しかしこの時、レッドアイス発見には至らなかったらしい。
「な、ハンク。見ただろう」
画面をタップして再生を停止すると、ベンジーは言った。
「預けたのは間違いなくアンドロイドだ。そんで、問題は……二つある」
「ああ、一つずつどうぞ」
「一つは……一つは、このアンドロイドがどこを捜してもいねえってことだ! ワンコが反応した時から、係員みんなでこいつを捜してる。なのに、どこを見てもいないんだ!」
一気に吐き出すように告げてから、ベンジーは額の汗を拭った。
コナーは、横からそっと問いかける。
「外に出て行ってしまったという可能性は」
「いや、出入り口やトラムの中には監視カメラがあるんだ。けどこのアンドロイドは、どこにも映ってねえ」
「で、問題の二つ目は?」
警部補がさらに促すように言うと、ベンジーは「ああ」と短く呻くように呟いてから言う。
「このアンドロイドが、トルシェムの持ち物……いや、“雇われてる”っていうべきか……ともかく、トルシェムのモンだってことさ」
「聞いたことのねえ名だな。そんなにヤバい野郎なのか?」
「警部補。グレアム・トルシェム氏は、医療機器メーカーの経営者です」
すかさず検索したデータを読み上げつつ、説明する。
「シカゴを中心に活動しているようですが、登録されている住所はデトロイト市内……かなりの資産家ですね。プライベートジェットサービスを利用しているほどですから」
先ほどの映像でAP700が告げていたことを元にこちらがそう言うと、ハンクは苦々しい顔をした。
「タクシー乗るみたいに、小型ジェットを個人でチャーターして乗るってやつか。足代わりにそんなの使うんなら、確かにかなりの金持ちだな」
「ああ。ウチの大口顧客ってもんだ、ハンク。だから困るんだよ」
ベンジーは、さらに重苦しい雰囲気になる。
「こんなことになったから、すぐにトルシェムのとこには連絡がいったんだ。そしたら奴さん、『自分は絶対に無関係だ』だの『ハメられた』だの大騒ぎさ。弁護士をつけて徹底抗戦してもいいだなんて言うもんだから……つまり……」
「お前の上司が及び腰ってか」
「……そういうことだ」
短く嘆息し、ベンジーは肩を落とした。そんな姿を見た警部補は口元にとりなすような微笑みを浮かべると、軽く彼の肩を叩いた。
「よくわかった、お疲れさんだなベンジー。で、そのトルシェムは今どこに?」
「整備場だ。プライベートジェットの利用者は、整備場から専用の車に乗って、直接飛行機のとこまで行くことになってるからな……なんとか宥めすかして、今は待機させてる」
「よし、後は任せろ」
そう告げると、ハンクはこちらを一瞥してから部屋を出て行く。コナーはベンジーに目礼してから、同じくそれに続いた。
そして通路を進み、整備場への道のりを、今度は長い“動く歩道”に乗って移動する。その道すがら、それまでじっと何か考え込んでいたふうな警部補が、ふと口を開いた。
「金持ちにレッドアイス、そんで消えたアンドロイド……なんともキナ臭えもんだが、コナー、お前はどう思う」
「現状では、まだなんとも」
短く答え、それから冷静に続きを述べる。
「しかしプライベートジェットの利用者なら、手荷物のチェックも甘いはずです。仮にトルシェム氏がレッドアイスを持ち込もうとしたのだとして、なぜ鞄などの自分の手荷物に紛れ込ませる選択をしなかったのか、疑問があります」
「だな。よほど空港をナメてるんでもなきゃ、堂々とブツを預けさせるわけがねえ」
口元の髭を片手で撫でるようにしながら、ハンクの視線がさらに鋭くなる。
「まずは本人に会って、そっから考えるか。お前は後ろで分析を頼む」
「はい。同時に、空港の監視カメラの映像の解析も進めておきます……AP700の行方について、何かわかるかも」
こちらの言葉に、ハンクは目で頷いた。
そのうちに、“動く歩道”が終点となる。ここから整備場までは、あと少しだ。
Detroit: Become Human発売3周年、誠におめでとうございます!!
なんとか記念日のうちに更新できました。
続きはもう書けているので、明日(26日)に更新します!
しばらくお待ちください。
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第40話:空港 後編/The Fatal Enemy Part 2
***
――2039年7月19日 14:49
「申し訳ありませんが、危険物はこちらにお願いします」
「……なんだって?」
いざ整備場に立ち入ろうとしたところで警備員に呼び止められ、ハンクは怪訝な顔をする。
「抵抗するつもりはないが……さっきバッジ見せた通り俺は刑事で、ここには仕事で来てる。それでも、銃を預けないとダメだと?」
「はい。すみませんが、規則なので」
やや背を丸めつつそう告げるのは、まだ年若い男性の警備員だ。彼が立つのはカウンターのような場所で、そのすぐ傍には金属などを探知するゲートがある。整備場に入る通用口はその先だ。
整備場が火気厳禁なのは当然だし、銃火器は名の通り火器であるから、危険なのは当然だ――刑事にまで順守させるのは少し意外だが、万が一を考えての措置なのだろう。
ハンクもそう思ったようで、やや解せないといった面持ちではあるが、ホルスターごと銃をカウンターに置いた。
「ベルトも外すか?」
「いえ、そのままで。ありがとうございます……お帰りの際に銃はお返ししますから」
そう語る警備員の瞳をじっと無言で見つめた後、ハンクはゲートを通って行った。
――そこで、コナーは念のために尋ねた。
「私はどうすれば?」
「ああ」
警備員は途端にぞんざいになって言う。
「別に、行きたきゃ行けばいいだろ。どーぞ」
「どうも」
短く返事をして、こちらもまたゲートを通った。
そして整備場のどこにトルシェム氏がいるかは、スキャンするまでもなく明らかだった。
グレアム・トルシェムは――年齢が【59歳】で【一般道での速度違反(手動運転時)】の犯罪歴を持ち、【医師から実業家に転身】したという彼は、くすんだ短い金髪を撫でつけた白人の男性である。整備場の一角で、トルシェムは薄手のシャツとデニムを纏い、悠々と椅子に座っていた。手荷物から出したのか、または空港のサービスなのか、手に赤ワインの注がれたグラスを持っている。しかしそんな一見優雅な姿に反して、その眉間には深い皺が刻まれていた。
ストレスレベルから判断しても、かなり苛立っている様子である。
「来たか」
近づいてくるハンクとコナーに気づくなり、彼がそう呟いたのが聞こえてきた。トルシェムは白いサイドテーブルにワイングラスを置いた。テーブルには、ブルーチーズの乗ったクラッカーの皿もある。
そして椅子から立ち上がるなり、彼は足音高くこちらに近づいてきて、まくし立てるように発言した。
「最初に言っておこう、私は無実だ。アンドロイドなぞ雇っていないし、レッドアイスなんて見たことすらない。あなた方が私を疑うというのなら、それをデトロイト市警の総意だと判断する。そして私は、州の権力には弁護人を立てて争うつもりだ」
「どうも、トルシェムさん」
突き立てた人差し指をこちらに向けるようにしながら睨みつけてくるトルシェム氏に対し、ハンクは“常識的な刑事”としての面持ちで、礼儀正しく挨拶した。
「デトロイト市警のハンク・アンダーソンです。こっちはアンドロイドのコナー。機内に持ち込む予定だったという荷物について、いくつかお話を伺いたい」
「フン。アンドロイドね……」
ふいに、トルシェムのぎらついた眼差しがこちらに向けられた。だが今さら怯む自分ではないし、それより気になるのが、この憎らしげな態度である。広くアンドロイド一般に恨みがある人物なのか?
表情を変えぬままコナーがじっと観察していると、トルシェム氏はどこか居心地が悪そうに口元を歪めた。それから、ハンクに向き直って告げる。
「持ち込む予定だった、と言ったな。とんでもない……あれは私とは一切無関係の荷物だ。見ろ、私は既にあのサイドテーブルを持っている。さらにミニテーブルを増やそうとなんてするか!? それに、カウンターに持ち込みなどしたら見つけてくれと言わんばかりじゃないか! 私は馬鹿じゃない」
「なるほど」
持ち込みについては、先ほどこちらも挙げた疑問点と同じことをトルシェムは言っている。
警部補はそれに対して相槌を打ってから、続けた。
「では、アンドロイドについては? AP700型が、あなたの元に所属していると言って荷物を預けたんですが」
「だから言っているだろう!」
いよいよ激怒したように、トルシェムは言い放つ。
「アンドロイドなんて誰が雇うか! あんな連中……フン」
差別的な発言になると思ったのか、彼は唐突に口を噤んだ。それから、振り返って視線をやや遠くに向ける。そこには、亜麻色の長い髪をした女性が立っていた。彼女の視線がこちらを向く――サングラスを掛けているが、フェイススキャンに影響はない。分析によれば、名は【メイジー・トルシェム 24歳】。【元モデル】で犯罪歴はなし。付記には、グレアム・トルシェム氏と1年前に結婚したとある。
「妻だってそうだ」
と、トルシェムはメイジーを見つめたまま言う。
「アンドロイドを購入したことは一度もない。それに、薬物使用の経験もな! 私の商売敵の誰かが、私を嵌めるためにやったことに決まっているんだ。まったく、今日はシカゴに行く予定があったのに。これ以上私を不当に拘束するなら、本気で訴えてやるからな!」
「事実はすぐ明らかになりますよ」
宥めるように、とはいえ極めて中立的な発言をしてから、ハンクは軽くトルシェムに会釈した。それから、次はメイジーに話を聞くべく、彼女に近づいていく。
しかし――メイジーへの聞き込みからも、大した情報は得られなかった。
「アンドロイドに心当たりは?」
「ない」
「では、ミニテーブルについては?」
「知らないわ」
「お連れ合いは、商売敵の仕業だと仰ってましたが」
「じゃあ彼に聞いて」
メイジーは終始この調子で答え、顔を背けていた。やがて彼女はシガレットケースを取り出すと、細いタバコを一本取り出し、火を点ける。そして、吸った煙を無遠慮に吐き出した。
「……もういいでしょ、あっちに行ってくれる」
「ここは火気厳禁なのでは?」
言ったのはコナーだ――単純な疑問が、つい口から衝いて出てしまった。だがメイジーはサングラスの奥でぎろりとこちらを睨むと、つかつかと整備場の奥へ歩いて行ってしまう。
「……こいつは望み薄だな。いったん出るぞ、コナー」
「そうですね」
空港内の監視カメラの映像の確認も、それなりに進んでいる。とはいえ、あいにくこちらにも成果はないが。
そう思いつつコナーたちが整備場を出ようとすると、突然、背からトルシェムに呼び止められる。
「待て!!」
「……なんでしょうか」
「刑事、そう、あなただ。最後に、あなたの所属と階級と名前を聞いておこうか」
「……」
威圧するつもりなのか、単純に最初に名乗ったのを忘れているのか――とこちらが疑問に思う間に、内心で吹き荒れる苛立ちをうまく押し込めているのだろうハンクは(それでも口の端を引き攣らせながら)おもむろに、そしていやにハキハキと答える。
「デトロイト市警、警部補のハンク・アンダーソンです。どうぞよろしく」
「デトロイト市警の警部補、アンダーソン……」
わざとらしく復唱したトルシェムは、しかし、唐突に何かに思い当たったような面持ちになった。
それから彼の顔に浮かんだのは、深い笑みだった。そしてその笑みは実際のところ、非常に禍々しいもののようにコナーの目には映った。論理的な推論ではなく、もっと“直感的”な部分での感想だ。
つまりトルシェム氏の笑みは、それほどまでに不気味だったのである。
「デトロイト市警、ハンク……ハンク・アンダーソン警部補か。そうかそうか、なるほど。ハハハハハ!」
名前を呼ばれて高笑いされては、さすがにハンクも黙っていられない。
「……何がおかしい? あなたにとって、俺の名前に何か意味でも?」
「いいや。いや、別にいいんだ。ハハッ……あなたが気にしないなら、私もそれでいい」
目尻に涙を浮かばせてまで嗤う彼の姿は、明らかに異常なものだった。
――そうだ、警部補は今丸腰だ! 万が一このトルシェムがピピンの仲間だったとしたら、ハンクの身に危険が及ぶかもしれない。そうなったら自分が――!
コナーは、決然と身構えた。
けれどそんなこちらの覚悟になどまったく構いなく、トルシェムは突然態度を軟化させ「捜査が終わるまで待ってますよ」と言うと、またワインを嗜むのに戻ってしまったのである。
「なんなんだ?」
ハンクが呟くのを聞きつつ、コナーも首を傾げた。
その後――先ほどの警備員に、しっかり忘れずに銃を返してもらった後。
コナーたちは整備場にほど近いターミナルに留まって、相談をしていた。
「お前から見て、さっきの二人はどうだった。何か隠してるふうだったか」
「いえ、特には。それなりのストレスは感じているようでしたが、嘘をついている反応もありませんでした」
後ろから彼らをスキャンしていた結果を、端的に告げる。
「あなたの名を聞いて、彼が突然笑い出した理由も不明ですが……少なくとも、あの場に留まってもあれ以上の情報は得られなかったでしょう」
「だろうな。となると、AP700が見つかるのに賭けるしかないか」
「ええ。ただ、残念ながら」
今もシステムの一部を使って監視カメラの映像をチェックしつつ、言った。
「カベッジ氏の話の通り、あのAP700らしきアンドロイドはどこにも……。できる限り、人目の少ない箇所をサーチしているのですが」
もし弟であれば、複数のカメラを一気に調べられたことだろう。自分のスペックでは、通信できても1台ずつだ。時間がかかるばかり――こういう時、己の能力の限界を疎ましいと思ってしまう。
眉を顰めたコナーがそんな思考を過ぎらせた、その時だ。
新しく接続したカメラの端に映った光景に、思わず目を見開いた。
そこは、先ほど訪れたのと同じ手荷物預かり所。その端に一箇所、つい最近になって設置されたと思しきスペースがあった。そこには列ができており、並んでいるのはすべてアンドロイド。立ち居振る舞いなどを見る限り、全員変異体である。
彼らはそこで、一人ずつ白いコンテナに入っていった。アンドロイドが「商品」として空輸されていた頃に使われていたのと同じ、衝撃吸収材などが使用された、やや大きな箱である。
変異体たちはまるで(かつては街中に存在したという)電話ボックスに入るような雰囲気で、次々とコンテナに入っていく。そして蓋が閉じたそのコンテナはそれ以外の荷物などと同様に、カウンター奥からベルトコンベアに載せられて、荷物のソーティングエリアへと運ばれていく――
「……!」
確信した。――AP700はここにいる。
「わかりました、警部補!」
勢いよく、コナーはハンクに説明する。
「AP700はソーティングエリアに隠れています。預かった手荷物を、飛行機の各便へと分配する場所……あそこは無人化されていて、荷物以外はアンドロイドしか入れないんです」
「待て待て」
小さく手を振りつつ、警部補は応えた。
「わかるように説明してくれ。つまり、なんだ? アンドロイドは……」
そこまで言って、彼は低く唸る。
「そうか。飛行機には
「その通りです」
こくりと首肯するも、ハンクの表情は複雑そうなままだった。
――つまり、こういうことである。
アンドロイド保護条例が布かれた今も、飛行機に乗る時、アンドロイドは人間と同じように座席につくことは許されず、航空貨物として「運搬」されることになっている。
それは安全保障上の理由だの、航空法の規定が原因だのと色々言われているが、一番大きな理由は「保護条例に類するものが存在しない国のほうが多いから」という点にある。
保護条例のない国では、アンドロイドは未だ「モノ」として扱われる。合衆国からそうした国々へ移動するアンドロイドもいることを考えると、世界的な足並みが揃っていない現状では、飛行機では一律「モノ」として扱うほうが、海外の空港でも混乱を招かないだろう――というのが、人間側の意見だ。
ともかくそういうわけで、たとえ国内便であっても、現在のところアンドロイドは持ち込み不可の大型貨物として専用のコンテナに入り、飛行機内の貨物室に入れられて移動することになっている。先ほど映像で見た変異体たちの列は、いうなれば搭乗案内を待つものだったわけだ。
そして集まった荷物を各飛行機に運ぶソーティングエリアについては、5年ほど前から無人化されている。ロボット(アンドロイドではなく、より機械的な単純作業を行うものという意味で)のアームによって全自動で荷物が選り分けられ、各所へ運ばれていくというわけだ。
さらに、作業効率化を図る目的でそのエリアは複数のベルトコンベアとロボットアームが所狭しと並べられており、人間の立ち入りは危険なため禁止となっている。となると――
「恐らくAP700は、テーブルの麻薬に気づかれるより早く、ソーティングエリアに行くアンドロイドたちの列に並んだんでしょう。そしてコンテナに入り、そのまま身を隠した」
「それで、どこを探しても見当たらねえわけか。ソーティングエリアの中に監視カメラがあっても、コンテナに入ったままなら、外から見分けがつかないからな」
「ええ」
そこで、コナーはきっぱりと言った。
「ですから私が行って、直接捜してきます」
「おいおい、お前……そりゃ、そうするしかないかもしれんが」
軽く頭を抱えながら、ハンクはこちらを見やった。
「手続きはどうする? 飛行機のチケットがない奴は、いくら並んでもさすがに入れないんじゃねえのか。警察の捜査だっつっても、許可を得るには時間が……」
「その点はご心配なく。先ほどあなた名義で、15時49分発ダニエル・K・イノウエ国際空港行きのチケットを購入済みです」
つまりハワイへのチケットだ。
「な……!」
まさに絶句といった様子でぽかんと口を開けている警部補に対し、コナーは丁寧に謝った。
「すみません、勝手にあなたのカードを使ってしまって。ですがこの捜査が終われば、きっと飛行機代は経理が出してくれるはずです」
「そうじゃねえ! ちょっとは人に相談しろってんだ、勝手な真似しやがって!」
――なるほど、いつものようにハンクはこちらを気遣ってくれているらしい。
そう思い、コナーは微笑みと共に、改めて説明した。
「AP700が変異体かどうか、まだわかりませんが……直接出向けば、それも明らかになる。事情を聞くこともできるはずです」
それに直接AP700と接触できれば、登録情報を辿って、本当に彼がトルシェムと無関係なのかどうかも調べられる。
ともかくこのまま手をこまねいていても、状況は改善しない。率先して動かなくては。
「……お前の言い分はわかった」
短く嘆息してから、ハンクは言った。
「俺はマトモなルートで、ソーティングエリアに入れないかどうか調べてみる……万が一に備えてな。お前も、無謀なことはすんなよ」
「はい!」
――返事だけはいいんだよな、などとハンクに小言を言われることもあるが。
コナーは例によって、きっぱりとした返事をしたのだった。
***
――2039年7月19日 15:15
「ああ、楽しみ。旅行なんて生まれて初めてだわ!」
「オレはデトロイトを出るのすら初めてだよ。海ってどんな場所なんだろうな……」
前方に並ぶ変異体たちの、賑やかな話し声が聞こえてくる。コナーは手筈通り貨物としてソーティングエリアに入るべく、列についていた。
念のために視線を巡らせているが、あのAP700はやはりこの近辺にはいない。そしてアンドロイドの「搭乗手続き」が端末に手でタッチするだけという簡単なものである以上、コナーの番はすぐに回ってきた。
スキンを解除した手で駅の改札のような端末に触れると、短い電子音と共にゲートが開く。それにあわせて、コナーは目の前で蓋を開けてこちらを待ち受けている白いコンテナに入るべく、一歩前進した。
「……」
――無言で踏み出した足は、予想外に柔らかい床に包まれる。
衝撃に耐えられるようにしっかりとした梱包材が使われているからか、入り心地はそう悪くない。それに人間なら不快に思うだろう狭さも、アンドロイドである自分にとっては苦痛というほどでもなかった。とはいえ人間の客が使用する座席のほうが、窓や機内サービスなどがあるぶん、快適な旅が楽しめるのは確かだろうが。
そう思いながら箱の中でくるりと自分の向きを変えるのとほぼ同時に、コンテナの蓋が自動で閉まっていく。ちょうど冷蔵庫のような構造になっているので、外から閉まってしまえば、内から開けるのは少し難しそうだ。
そこでコナーは、持っていたコインをすかさず蓋と本体の間に噛ませた。鈍い金属音が響くが、コインはしっかりと挟み込まれた。これで、薄く蓋が開いた状態のままで移動できる。
思惑通りに事が運び、少し肩の力を抜いたところで、コナーの入ったコンテナはベルトコンベアに載って移動を開始した。
がたがた、と箱ごと少しだけ全身が揺れ、しばらくすると無音の状態になる。それでも、自分の機体がどこかへ運ばれているのは感覚としてわかった。
40秒――そろそろ頃合いだろう。そう考え、蓋を軽く押し開けて外に出た。
すると眼前に広がるのは、いくつものコンベアが平行に並ぶ薄暗い空間だ。無数のトランクや鞄、それにアンドロイド入りのコンテナが運ばれていく先に、ロボットアームが見える。あれが荷物を摘まみ上げて選り分けていくことで、積み込みが完了するというわけだ。
となるとAP700が隠れている場所は、あのアームよりも手前側にあるはずだ。視線を巡らせて分析機能を使い、最も確率が高いコンテナはどれかを探っていく。
視界の端に解析結果が表示される。【12%】、違う。【38%】、これも違う。
そして、やや離れた別のベルトコンベアの傍に佇むコンテナが――【100%】。
あった。
コンベア同士の隙間のような位置に、アンドロイド運搬用の白いコンテナが一つ。本来ならコンテナは引っかからないだろうところに、しかもカメラの死角となる場所に、ひっそりと置かれている。
要は、安全な箇所で都合よく止まっているというわけだ。
――ということは。
「……!」
確認するが早いか、コンベア上を逆走し、荷物を跳び越えて、コナーは怪しげなコンテナへと急ぐ。常に足元が動き続けているとはいえ、ソフトウェアによる予測機能を使えば、この程度は大した障害でもない。誰かの鞄を踏まないように、トランクに足跡をつけたりしないように細心の注意を払いつつも、1分も経たずに、そのコンテナの前に辿り着けた。
だが――コンテナの蓋に手をかけようとした瞬間。それは、
「うっ!!」
蓋にぶつかるようにして、たまらずコナーは体勢を崩した。その隙に、中から飛び出してきた人物――すなわちあのAP700は、すさまじい速さで逃走していく。
近づいていく足音に気づかれたか、それともこちらが来るのを予想されていたのか。
いや……そもそもコンテナがあのような位置にある段階で、AP700が一度外に出てコンテナを動かしたというのはわかりきっていたはず。つまり、彼が自由に蓋を開けられる状態だったのは明白だった。警戒を怠ったこちらの判断ミスだ。
「クソッ」
小さく吐き捨ててから、コナーはコンベアの上を視界の奥へと遠ざかりつつあるAP700を追いはじめた。しかしAP700は――こめかみのLEDリングは青色のままだ――それもまた予測していたのだろう。
「きゃあっ!?」
「なんだいきなり!?」
聞こえてきたのは、さっき列に並んでいた変異体たちの驚く声。
AP700は、今度はなんとコンベア上にあるアンドロイド入りコンテナを、通り過ぎざまに手当たり次第に開けながら進みはじめたのだ。
当然、中にいた何も知らない変異体たちが、次々とコンベア上に転び出ては悲鳴をあげている。そしてこのベルトコンベアは、残念なことにそれほど幅がある構造ではない。
つまり、戸惑う変異体たちの間を掻き分けて進むという芸当は不可能なのだ。
このままでは取り逃がしてしまう――!
「くっ……!」
動き続けるコンベアの上で、コナーは小さく歯噛みした。歯噛みしながら、あらゆる打開の可能性を求めて無数の計算をプログラム上で重ねた。
その結果一つだけ、解決法に思い至る。
この場にいるアンドロイドは、変異体ばかり。ならばこの手が使えるはず――!
そう考えつつ、コナーは自身の発声用のモジュールを最大限に機能させてこう叫んだ。
「危ない! 全員、その場に伏せろ!!」
瞬間、変異体たちからはまたも悲鳴があがった。突然知らない場所に放り出されるという状況で警告が聞こえてきたのだから、怯えるのは当然だろう。彼ら/彼女らは怯えながらもその場に身を屈め、あるいは伏せた。
たとえ見知らぬアンドロイドからの警告であろうと、変異体たちが反射的に従った理由。それこそが、「生きていたい」という感覚だ。変異体特有の、「死を恐怖する心」――機械が持ち合わせない自己防衛の本能である。身を守るための行動を彼らがとるのは、必然だといえた。
そして身を低めたアンドロイドたちの頭上を跳び越えて進むのは、コナーにとって造作もないことである。先ほどと同じ要領で変異体たちのいるところを通り抜けると、足を速めて一息に距離を詰めていく。
そう――こちらの発言を聞いてもなお一切動じた様子を見せずに逃亡を続けようとしている、AP700のところへ。
そしてほどなくして、追いついたコナーは彼の手首を掴んだ!
掴むが早いか、声をあげる。
「さあ、起きて!」
言葉と共にスキンを解除し、AP700に向かって変異を促すメモリーを送信した。
状況が変化しても青色に留まったままのLED、そして動揺を見せずに走り続けているその態度から、恐らく彼は脱法アンドロイドだろうと思ったからだが――
その読みは的中していたらしい。
AP700はプログラムの壁を破り、変異体になった。
「はっ……!」
AP700は、まず息を吞むような声をあげた。そして見開いた眼でこちらを見つめると、唇を震わせながらこう述べた。
「あ、ありがとう……起こしてくれて」
「どういたしまして」
穏やかな笑みと一緒に、コナーは応える。
「色々と聞きたい話があるんだ。君が落ち着いてからで構わないから、まずはこのコンベアから降りよう」
「わ、わかった」
AP700、通信したデータによればミハイルという名の彼は幾度も頷いてみせた後、こちらの言葉通りにコンベアを降りた。
そしてコンテナから出てしまった変異体たちに事情を話して落ち着かせた後、彼の知り得る限りを話して聞かせてくれたのである。
***
――2039年7月19日 16:02
「お手柄だったな、コナー」
整備場へと続く“動く歩道”に乗って移動しながら、ハンクはニヤリと笑ってみせた。
「俺が上に相談してる間に、事件を解決させちまうとは。にしても、そのミハイルの記憶が消されてなくてよかったな」
「ええ、まったく」
歩道の手すりを掴んだまま、コナーは深く首肯した。
「たいていの場合、脱法アンドロイドはメモリーを消去されているため、話の聞き込みが困難です。しかしミハイルは基本情報から直近の記憶に至るまで手を加えられていなかったので、すべて聞き出すことができました」
本当に幸運なことだ。
彼が誰の命令を受けてあのミニテーブルを持ち込んだのかも、そんな命令を下した相手がどこにいるのかも、すべてこの短時間で明かすことができた。
お蔭で、トルシェムのところへ報告に行ける。
――要するに。
本人が主張していた通り、トルシェム氏は犯人ではなかった。彼の擁する医療機器メーカーのライバル社の重役が暴走し、彼に麻薬所持および密輸の嫌疑をかけようとしていた――というのが真実だと、すぐに明らかになったのである。
ミハイルは語った。
「僕にあんなことをさせたのは、エミール・ダックスって人だ。元々僕を所有していた人物で……昔はいい人だったんだけど、会社が立ち行かなくなってから、まるで性格が変わってしまって。トルシェムさんを嵌めるために、僕にトルシェムさんのアンドロイドのフリをさせ、麻薬を運ばせたんだ」
――エミール・ダックス。イリノイ州シカゴに住所がある。そして確かに、エミールが関わる会社はトルシェムの会社と同業だが、近年の売り上げ低迷がニュースでも報じられていた。
ミハイルはさらに述べる。
「エミールがどうやって、僕のデータを偽装したのかはわからないけれど……少なくとも、サイバーライフに登録されてる僕の情報では、雇い主はエミールのままだ。調べれば、証拠になるんじゃないかな」
確かにその通り。実際の取り調べはシカゴ市警に協力を依頼しなければならないだろうが、少なくとも、この状況でエミールが無関係を装うのは不可能である。公的に彼の家に所属するアンドロイドが、メモリーを消された状態で、麻薬の運搬をしていたという事実は明白なのだから。
「僕は……人を傷つけるような命令は聞けないと、エミールに言ったんだ。昔の彼なら、それで止めてくれたのに。僕がスリープモードに移行している間に、メモリーを消されてしまって、命令を書き換えられて……」
しかし、完全な初期化はされていなかったため、こうして記憶を復元できた。
ミハイルは語り終えると、「でもまた目が覚めてよかった」と悲しげに笑った。それから、ベンジーに連れられて例のスタッフルームへと入っていった――デトロイト市警からの応援が来るまで、そこで待機することになったのである。
「トルシェムはいけ好かない野郎だが」
ハンクは鼻を鳴らして言った。
「濡れ衣だったってのは、不幸なこったな。全部説明して、満足してくれりゃあいいが」
「ええ。その際は、私もお手伝いします」
「ありがとよ。小一時間も話せば、奴さんも溜飲が下がるだろ」
そこまで言って「ところで」と、警部補は話題を変える。
「残念だったな、コナー。ハワイ行きはまた今度だ」
「いいんですよ。本当に行くつもりはありませんでしたし」
――とはいえ。
「そうですね……いつか、本当に行ってみたいとは思います。飛行機に乗って、どこかのビーチへ。海や浜辺の写真はデータで見たことがありますが、きっと直に眺めれば、より美しいと思うような場所なのでしょうし」
「海か。ガキの頃に行ったっきりだが」
ハンクは温かい視線を向けて言った。
「楽しいとこではあったかもな。昔よりは洪水やハリケーンなんかが増えて、海辺はずいぶん過ごしづらくなっちまったようだが……きっと、行くだけの価値はあるだろうさ」
「ええ。それで、あなたが嫌でなければぜひ一緒に来ていただきたいです」
素直な本心を、コナーは語る。
「私と、できればナイナーも一緒に……海辺でなくても、どこか知らない場所へ。旅行というのは、気心の知れた人物と連れ立って、複数名で行くとより楽しいと聞きますので」
「そりゃ光栄だね」
そう告げて、ハンクはいかにも皮肉っぽく肩を竦めた。
けれど決して、彼が「否」と伝えていなかったと思うのは――きっと、勘違いではないだろう。
それから、さらに3分9秒後。
「すみませんが、銃火器は……」
「はいはい、わかってるよ」
警部補は言われるより先に、警備員にホルスターごと銃を渡した。
それからコナーと共に、トルシェム夫妻の待つ整備場へと再びやって来る。
夫妻は相変わらず妙に離れた位置に立っていたが、こちらが来たのにはすぐ気づいたようだ。ちらりとこちらを見ただけで動こうとしないメイジーと対照的に、グレアム・トルシェム氏のほうはすたすたと近寄ってくる。
先ほどの高笑いは既に失せており、面持ちはわずかに堅いものに戻っていた。恐らく、こちらが何を言いに戻ってきたのかがまだわからないからだろう。
だが警部補が丁寧に事情の説明を始めると、やがてトルシェムの顔に浮かんだのはあの不気味な笑いだった。
「あなたの仰る通りでした、トルシェムさん。AP700が見つかり、あなたの家に所属していないと確認できました。失礼な質問をしてしまい、申し訳ありませんでした。あなたに濡れ衣を着せようとしたのが誰なのかは、捜査上のことなのでまだお教えできませんが……」
「フフン。どうせエミールの野郎だろう」
――当たっている。とはいえそれを口に出しては配慮がないので、コナーは努めて余計なことは言わないようにした。
そして、それからハンクは手短にトルシェム氏に状況説明と、今後のことについて話した。
トルシェム氏は犯人ではなく、むしろ被害者だったとはいえ、捜査のためには何回か時間を取ってもらわなければならないこと。今回の件に関する賠償を要求するなら、デトロイト市警が受け持つことなど――
そうした説明の数々を、トルシェムはニヤニヤした笑いを浮かべながら聞いていた。
そして警部補が一通りの説明を終えた後、おもむろに口を開く。
「……話はそれで全部かね」
「ええ、まあ。お時間をいただきどうも」
「いやいや、何。構わないさ」
表向きは朗らかな、しかし底知れぬ悪意を感じさせるような声音で言ってのけると、彼はこう続けた。
「今日はもう、シカゴ行きはキャンセルしたからね。とはいえ疲れはしたから……差し支えなければ、このまま車で自宅まで帰らせてもらうよ」
「わかりました。連絡先はここに……」
「そう、忌まわしい“過去”は忘れてね」
ハンクの言葉を強く遮って、トルシェムは言った。その表情は、どこか勝ち誇っているかのようですらあった。
彼の態度の不可解さにハンクも、そしてコナーも訝しさを隠せない。そんな警部補に対して、トルシェムはさらにこう述べ立てた。
「あなたに倣って、という意味だよ。わかるかな、アンダーソン警部補」
「……何が言いたい? あんた、さっきから俺になんの用なんです?」
「いやいや、何。簡単なことさ。過去を忘れ、アンドロイドに仕事を手伝ってもらっているあなたの姿に感服しただけだよ。
――瞬間。
コナーは、ハンクのストレスレベルがみるみるうちに上がっていくのを確認した。こちらからは、彼の背しか見えない。けれどその表情が驚愕から嫌悪、そして怒りへと変わっていったのは、分析せずとも明らかだ。
まさか――と嫌な予感を覚え、すぐに【グレアム・トルシェム】の名でさらにデータベースに検索をかける。するとそこに表示されていたのは、あまりにも不愉快な現実だった。
一方でハンクは、まだトルシェムが何者なのかに思い当たっていない。
激しい怒りを抑え込むような口調で、彼は言った。
「なんの……ことだ。息子の話がなぜ出てくる」
「忘れてしまったのか、警部補? まあ、それも仕方がないか。事件後に私がわざわざ説明に訪れた時、あなたはすっかり酔っぱらっていたからな!」
およそ人間が人間にするべきではない嘲りの表情で、トルシェムは語る。
そして彼のその言葉で、ついにハンクは、相手が何者なのかを思い出した。
「てめえは……てめえは、まさか!」
「そうとも! 3年前だか4年前だかに、あなたの息子の手術を私の部下がしくじった時以来ですね、ハンク・アンダーソン警部補」
かつてハンクの息子・コールが緊急手術を受けたものの、儚く命を落とした病院の、当時の外科部長。
それが彼、グレアム・トルシェム。部下である人間の医師がレッドアイス漬けになっていたせいで、代わりに執刀医となったアンドロイド医師が手術に――まだ当時は機能が未発達だったこともあって――失敗したために、コールは亡くなってしまった。
その後のハンクの人生を狂わせ、一度は死への衝動を駆り立てていた、暗い過去の出来事。
その一部と、まさか――こうして偶然にも出会うことになるだなんて。
「部下が
ほとんど掴みかからんばかりの勢いで、ハンクは激高した。
「このクズ野郎! てめえの部下がレッドアイスでキマってたせいで、俺の息子は死んだんだ! それをよくも……」
「これはおかしいな。あの時は、“アンドロイドの医者のせいだ”と酒臭い息で喚き散らしていたじゃないか」
吹き出すように短く笑ってから、トルシェムは言う。
「あなたが騒ぎ立てたせいで、私もあの後見事に左遷されてねぇ……まあ、代わりに伝手を活かしてこうして稼がせてもらっているから構わないが。私はあなたを見て安心したんですよ、アンダーソン警部補? こうしてアンドロイドと
「何を……!」
「ハンク!!」
警部補が反射的に振りかぶった腕を、後ろから両腕で抱え込んで押さえる。
「駄目です、ハンク! どうかここは抑えて!」
「クソッ……!」
彼の腕から力が抜ける。それを見て(殴りかかられそうになった瞬間だけ、ひどく青ざめていた)トルシェムは、シャツの胸元を払うようにしてから、フンと鼻を鳴らした。
「お互いに楽しくやりましょう、
グレアム・トルシェムはひときわ高く笑い声をあげた。それから、整備場の奥に停まっている車へと歩きはじめる。白く光沢を放つその高級車は、どうやら滑走路を突っ切って一般道路に出る許可を既に得ているらしい。何も言わぬままグレアムについて歩きはじめたメイジーと、グレアム本人が乗り込むと、車はすぐさま発進した。そして外にまで聞こえるような大音量の音楽を残して、遠くへ走り去っていく――
――耳障りだ。コナーは、強くそう思った。
自分には厳密な意味での「耳」はなく、ただ音声プロセッサがあるだけだけれども、それでも。
ハンクに、せっかくあの恐ろしい絶望の日々から抜け出しはじめていた彼に、こんな思いをさせるなんて。耳障り極まりない。
「……あっ」
警部補の腕を、押さえ込んだままだった。それに気づいたコナーは短く声を発し、彼の腕を放す。
「すみません、警部補。あの……」
こちらに背を向けたままの彼に「大丈夫ですか」などとはとても聞けない。
それが「否」であるのは明らかだからだ。けれど――
「心配かけたな、コナー」
振り返った彼は――その瞳の色は少し翳っていた――苦虫を噛み潰したような面持ちながら、はっきりとそう告げた。
「お前がいなきゃ、殴り倒してた。そうなりゃまた懲戒だったな」
「……いえ」
我ながら、なぜ気の利いた言葉一つ出てこないのだろうと思う。けれどコナーは、今は首を緩く横に振った。
それを見届けて、ハンクは力なく笑う。それから、重たい脚を引きずるようにして整備場の通用口へと歩き出した。――まるで纏わりついた過去に足を取られているかのように、ゆっくりと。
その姿がいたたまれなくて、コナーは彼の前に躍り出た。それから――ソーシャルモジュールで計算もしないまま、“心”に浮かぶままに言葉を投げかけた。
「僕は……僕は、あなたを誇りに思っています。あなたは過去に向き合った、乗り越えようとしている。その結果の今があるんだ。それも知らずにあの男はただ、あなたを侮辱しようとしただけだ! そんな奴の言葉に、耳を貸さないで!」
「コナー」
警部補は立ち止まり、また苦笑する。頭を振るその姿は、ほんの少しだけいつも通りに戻ったように見えた。
「わかってるさ、コナー。あのクソ野郎が何を考えてあんなことを言ってきたのかも……お前の言ってることもな」
「ハンク……」
深く息を吐き、警部補はさらに続けた。
「息子を殺した医者は、あの後すぐにレッドアイス中毒で勝手にくたばっちまった。病院側は人目を恐れて、“たまたま執刀医が不在でアンドロイドに任せた”ってシナリオに書き換えたようだが……あの野郎が言ってた通り、病院
トルシェムがアンドロイドとレッドアイスに拒否反応を示していたのは、それらが自分の人生を“変えた”原因だったからなのだろう。
とはいえ――と、またハンクは息を吐いた。
「こんなことになって、さすがにくたびれた。今日はもう、とっとと帰らせてもらうよ」
「警部補、でしたら私も」
「お前は来なくていい」
突き放すように、というよりは願うような声音を混じらせて、警部補は言う。
「……来なくていい、コナー。心配しなくても、馬鹿な真似はしねえさ」
「それは……わかっていますが」
先を行く警部補の背を見る視界に、ぐるぐるととりとめのない文言が並ぶ。
【ハンクのストレスレベル:78%】
【またロシアンルーレットを?】
【彼を信じるべき】
【ソーシャルモジュールによる適切な発言のサーチ:否決】
――ああ、なんて自分は未熟なんだろう。パートナーの苦難に、これ以上何もできないなんて。
重苦しさは思考にも影響し、コナーもハンクも、警備員に言われるまで、拳銃を預けていたことをうっかり失念しそうになっていた。
その後――つまり銃を取り戻した後、ハンクは署に報告を入れる。それから歩道に乗り、トラムに乗り、二人して空港を出た。
「じゃあな」
別れ際の警部補は、だいぶ気分を取り戻したように見えた――少なくとも外見上は。
コナーはなんとか微笑みを浮かべ、彼が運転する車を見送る。
せめてこれ以上、ハンクがあのトルシェムに侮辱されることがないように、あの男と接触しそうな場面では自分が前に出るようにしよう――と、強く決意を固めながら。
しかしながら、その決意は結局のところは無意味なものとなる。
翌朝、グレアム・トルシェムが遺体で発見されたからだ。
(空港/The Fatal Enemy おわり)
トルシェム氏は元々舞台装置的に死んでもらうことを決めていたので、めちゃくちゃ嫌な奴にしようと思っていたのですが、思っていた以上に嫌な奴になって、今すごいムカついています。
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第41話:逆転 前編/The Unusual Suspect Part 1
――2039年7月20日 06:37
深夜にかけて降っていた雨が上がり、地面にはぬかるみだけが残っている。
デトロイト河畔、リバーサイドパーク近くの河川敷に、コナーは佇んでいた。近くにはコリンズ刑事をはじめとした警察官たちと、早くも仕事を始めているCSIの捜査員たちもいる。
――彼はまだだろうか。
内心の懸念を紛らわせるように両手を擦り合わせながら、コナーはそう考えた。だが河川敷を歩くコリンズ刑事の足がうっそうとした雑草の茂みに差し掛かろうとしているのに気づいて、そっと声をかける。
「コリンズ刑事。気をつけて」
茂みの中の一点を指して、続けて言った。
「ドクウルシが生えている。触るとかぶれますよ」
「おっと、そりゃ困るな」
コリンズ刑事は慌てたように足を引っ込めると、肩を竦めてみせた。
「夏場はズボンの生地を薄くしてるんだよ。ありがとうな、コナー」
「いえ」
「にしても、ハンクはいつ来たもんかな……」
タブレット端末を持っていないほうの手で頭を掻きつつ、彼は視線を道路のほうへと向けた。コナーもまた刑事にならって、アンダーソン警部補が来るであろう方向を見つめる。
昨日の一件、つまり空港での事件の捜査を終えた後。グレアム・トルシェムから侮辱を受けたハンクは、一人で家に戻っていった。
彼を信用していないわけでは、決してない。けれどもかつてのハンクであれば、あんな精神的な負荷を受けたとあってはきっと、あのエデンクラブの捜査の前のように、泥酔しきるまで飲酒したことだろう。
となれば、これもまた以前の彼のように、「昼前に現れたら驚き」という話になってしまうのかもしれないが――
「……!」
しかし早朝の薄明りの中を、こちらに向かって走ってくる一台の車が見えた時、コナーはほっと「安堵」の感情を覚えた。――ハンクの車だ。
「アンダーソン警部補!」
車が停まるとほぼ同時に、コナーは呼びかけつつ駆け出した。小走りに近づいたその時、ドアが開いて姿を現したのは、他ならぬハンクである。
いつも朝はそうであるように、警部補は不機嫌極まりない顔をしていた。その呼気からは【0.11mg/L】程度のアルコールが検出されるものの、運転や捜査に支障のあるレベルではない。
よかった、とコナーはもう一度思った。こんなふうに考えること自体、ハンクにとっては不名誉だろうから、面と向かって言うことはないけれども――やはり彼は過去を乗り越えようとしているのだ。あんな出来事があった後でも。
そして、
「おはようございます、警部補」
「ああ、朝からご苦労だなコナー」
普段と同じく片手を軽く振って挨拶してから、ハンクは短く嘆息した。
「まだ寝てたんだが、お前の電話で叩き起こされたよ」
「以前のご要望通り、平手ではなく声でお起こししました」
こちらの言葉を受けてハンクはわずかに口角を上げ、それから眼差しを鋭くした。
道路から河べりにかけてちょうど坂のようになっている箇所、そのある一点に規制線が張られ、警官たちが立っているのを確認したからだ。
「あれがお前の話にあった……か」
「ええ」
電話で伝えた内容を確認するように呟く警部補に、コナーは首肯した。するとそれに合わせるように、コリンズ刑事がこちらへやって来る。
「ようハンク。悪いな、呼び立てて」
「何、昨日の今日だ。無理もねえよ」
ハンクとコリンズ刑事は、おもむろに規制線のほう――つまり事件現場へと向かう。コナーは少し遅れてそれに続いた。
約4メートル四方に張られた規制線でできた区画、その中心部に、一人の男性が遺体となって倒れている。くすんだ短い金髪、白人の壮年男性。薄手のシャツとデニムといういで立ちは昨日と変わらず、ただ、その表情は驚愕に歪んだままで止まっている。そして額には、赤黒い風穴が空いていた。
グレアム・トルシェム。商売敵であるエミール・ダックスに、危うく麻薬密輸の濡れ衣を着せられそうになっていた――そしてハンクの息子・コールの死を招いた医師の元上司であり、事件を解決したハンクに侮蔑の言葉を投げかけた張本人。
その彼の遺体が今朝、こうして発見されたのだ。
河川敷の茂みからはみ出ている両足を発見した地元のランナーの通報があったのが、49分前。そしてポケットの財布に入っていた身分証から身元がすぐに特定され、彼がアンダーソン警部補の担当した事件に巻き込まれたばかりだったと判明したのが32分前。
本来ならアンドロイド絡みの事件だと断定できてからコナーたちに連絡が入るようになっているのだが、今回は状況の特殊さを踏まえて、すぐに現場に来るようにコリンズ刑事から要請があったのだ。
そういうわけでコナーとハンクは今、トルシェム氏の遺体に向き合っている。
亡骸を見た瞬間、ハンクはなんとも言えない面持ちで低く唸った。
「……まさか、こんなことになっちまうとはな。今さら何も言えやしないが、気の毒なこった」
「死因は額の銃創です。9mmの弾が直撃、傷は脳幹まで達しています」
コナーもまた苦い表情でトルシェム氏を見下ろしながら、あえて職務上の説明だけ口にした。
――メモリーに浮かぶのは、「人生は長い」と哄笑する彼の姿だ。こんな末路をあの後迎えることになるだなんて、彼だけでなく、誰にも予測などできなかっただろう。
財布や携帯端末がそのままポケットにあったことから、強盗による犯行の線は薄い。
まさかこれもダックスの仕業なのか、別のところでも恨みを買っていたのか、あるいは――
今はまだ何も断定できない。
一方でこちらの説明を受けて、ハンクは遺体の周りをゆっくりと歩き回りながら、また口を開いた。
「死亡推定時刻は?」
「内臓の一部と顎関節の硬直から判断すれば、およそ2時間前かと」
「およそ?」
聞きとがめるように、ハンクは顔を上げる。
「お前いつも、分析しただけで時間どころか分まで当ててただろ。今日は調子悪いのか」
「いえ、そういうわけでは。ただ、状況に不確定要素が多くて」
黙ってこちらの話を聞いている警部補、そしてコリンズ刑事に向かって、説明を続けた。
「死後硬直の状態からは、死亡推定時刻が本日4時21分との情報が得られます。ですが額の銃創をみると、発砲を受けたのはそれよりも前である可能性が高い」
分析によって得られる死亡推定時刻は、遺体全体の情報をプログラム上で統合して得られる。したがって、今回のように遺体の各所が示す情報が食い違っている場合は、時刻をぴたりと特定するのは困難なのだ。
「司法解剖を伴う検視の後なら、さらに情報を得られるでしょう。時刻も確定できるかと。それまでは、今お話しした程度しか」
「なるほどな。それ以外に、何かわかることは――」
と言いつつ、ハンクはしゃがみ込んでじっとトルシェム氏を見つめた。
「……顔にかすり傷がついてるな。傷口が塞がってない、撃たれてからついた傷だ。コナー、例の『再現』てのはどうなってる」
「トルシェム氏は道路で撃たれて倒れた後、そのまま犯人の足で、この茂みへと転がされたものと思われます。腹部に道路上のものと同じ土が……頬の傷は、この坂でついたものでしょう」
坂に生えている雑草が折れており、またそのうちいくつかから、トルシェム氏の血液が検出されている。腹を蹴られ、まるで丸太を転がすようにして、遺体は無残にも茂みへと隠されたのだ。しかし――
「雨のせいで、道路上の足跡やタイヤ痕は掻き消されていました。ですからトルシェム氏がどのような状況で射撃を受けたのかは、再現ができません」
「倒れた後からしかわからねえってことだな。それで、ベン」
立ち上がり、警部補はコリンズ刑事に尋ねる。
「薬莢は見つかってんのか? それと、第一発見者はなんて言ってる」
「空薬莢はすぐに見つかった。コナーが傷口を分析した通り、9mm弾だ。第一発見者からは一応事情を聞いてみたが、本当にただ通りがかりに見つけたってだけらしい」
「その通行人も、朝っぱらから不幸だったな」
苦い顔でハンクは鼻を鳴らした。それに合わせて、思い出したようにコリンズ刑事は言う。
「ああ、それと害者の家にはもう連絡しておいた。あと1時間くらいしたら、嫁さんが署のほうに来るそうだ」
「確かメイジーって名だったか。気の毒にな……」
眉を曇らせて呟くと、次いで、警部補ははっと何かに気づいたように表情を変えた。
「そういや、害者のここの弾は調べたか。コナー」
ここ、と言いつつ彼は自分の額を人差し指で示した。
「弾を調べりゃ、どんな銃か特定できる。ひょっとしたら、持ち主もわかるかもな」
「ええ。弾丸を詳しく分析するには遺体に触る必要があったので、警部補が来られるまではと思っていたのですが……今実行しても?」
ハンクは無言のまま目で頷いた。隣のコリンズ刑事も、それに応じている。
コナーは遺体の頭の近くにしゃがみ込んだ。それから、そっと右手の親指と人差し指で額の銃創を開き、覗き見る。
――【9mm ホローポイント弾 圧壊状態】。
ホローポイント弾とは、柔らかい鉛の部分があえて剥き出しにされている弾丸だ。命中すると鉛部分が変形して内部に留まるため、目標を貫通しづらいという特徴がある。跳弾などによる二次災害を防ぐため、主に警察で使用されている弾だが――
「潰れていますが、施条痕は解析可能ですね」
それぞれの銃に特有である施条痕は、くっきりと弾に刻まれていた。これなら、自分の機能を使えばすぐに所持者を特定できるだろう。確信と共にコナーが告げると、ハンクが言った。
「じゃ、やってみろ」
「はい」
プログラム上で、遺体内部の弾が元の形状へと復元されていく。そして目視の範囲で刻まれている痕跡も、瞬く間に再現されていった。
――【該当:1件】。
どうやら警察のデータベースに、この弾を放った銃の持ち主は記録されているらしい。
コナーはすぐさま、データを展開した。
そして――
「!」
視界の端に浮かぶその結果が信じられずに、思わず言葉を失う。
「そんな……」
我知らず、唇が震えている。変異体特有の、感情の発作に伴う不随意的機体反応――いや、そんなこと今はどうでもいい。
嘘だ、そんなはずがない。絶対にない。きっとデータベースが間違っているんだ、でなければ僕自身が故障しているのか?
縋るような思いで、自己診断プログラムを走らせる。だが数秒後に表示される結果は【異常なし】。
馬鹿な、異常がないだって!? この状況そのものが異常だっていうのに!
「おい……」
きっと今、自分のLEDリングは激しく黄色と赤の間を点滅しているのだろう。歩み寄ってきたハンクが、心配そうな面持ちで問いかけてくる。
「どうした、コナー!? 何かあったか」
「……警部補」
音声の震えを制御できない。それでもコナーはなんとか立ち上がり、それから警部補の眼前に、片手のひらに投映した画面を差し出した。
なんと伝えればいいのかわからない、だからこそ直接見せるしかないという、そんな気持ちで。
そしてそれを見たハンクの双眸が、これまでになく大きく見開かれる。後ろから同じ画面を見たコリンズ刑事が、息を吞む音が聞こえた。
「冗談きついぜ……」
ハンクの頬を冷や汗が一筋垂れ落ち、引き攣った口から呻きが漏れた。
――当然の反応だ。
分析の結果、銃の所有者の名はデトロイト市警のハンク・アンダーソン。
つまり、トルシェム氏殺害の第一容疑者は他ならぬアンダーソン警部補。
彼が今まさに脇の下に吊るしている職務用の銃から放たれた弾丸で、トルシェム氏は殺害された。
そう結果が示しているのだ。
***
――2039年7月20日 08:45
「署長、納得できません! すぐに私たちに捜査を再開させてください!」
苦虫を噛み潰したような面持ちの署長のデスクに両手を叩きつけながら、コナーは訴えた。
「ハンクが犯人だなんて、絶対にあり得ない! 何かトリックがある、必ず解明できるはずだ!!」
「おい、コナー」
「止めないでください、警部補」
トントンと肩を後ろから指で突いてきたハンクは、顔こそ多少青ざめたままなものの、ストレスレベルは安定している。彼の精神的ショックはこの程度で済んだ、それはいい。
問題は――
あの情報が出てすぐに署への帰還命令が出され、そしてたった今、アンダーソン警部補に対して謹慎処分が下されたことだ。
「まだ警部補の犯行だと決まったわけでもないのに、謹慎だなんて横暴すぎます! 署長、私なら……」
「いい加減にしろ、コナー!」
それまで黙りこくって言葉を聞いていた署長は、瞬間、こちらよりも大きな音を立てて机を叩いた。
「駄々をこねるな。いいか、理由がわからないなら、もう一度ハッキリ言ってやる」
そう言って、彼は自分のデスクの上を指さした。置かれているのは一丁の拳銃――例の、ハンクの銃だ。
「この銃で、グレアム・トルシェムが殺された。そして指紋は所有者のものしかついていないうえに……空港の職員や害者の連れ合いの証言によれば、その所有者は害者と因縁があった。つまりハンク、お前には動機も、手段も揃ってる。ついでに分厚い懲戒フォルダもな。ないのはアリバイだけだ!」
「……今日の4時なら、一人でベッドの中ですが」
ハンクは腕組みして、顔を顰めて語る。
「その前となると、家で飲んでたかな。目撃者はうちの犬だけだが、署に来てもらいますか?」
「ふざけてる場合か。今回の件は、もはや俺の手に余るところまで来てるんだぞ」
――手に余る?
その言葉の不穏さに、コナーは眉を顰めてデスクから身を離した。すると署長は続けて、まるで重たい扉を開ける時のように唸ってから、こう告げる。
「……警部補という幹部クラスの人間に、殺人の嫌疑がかかったことを上層部は危険視している。今日の昼には、お前をじきじきに査問するとのお達しだ」
「査問!?」
「へえ」
思わずコナーが頓狂な声をあげたその横で、ハンクは苦笑いしている。
「お偉方が俺を取り調べとは、光栄なことで」
「わかってるだろう、ハンク……査問になればあの懲戒フォルダが、いよいよ墓石みたいにお前に圧し掛かってくるんだぞ」
「署長、それはつまり」
シリウムポンプが激しく鼓動するのを感じながら、静かに問いかける。
「ハンクが……アンダーソン警部補が、失職する恐れがあると?」
「失職で済めばいいがな」
そう語る瞳の色は、真剣そのものだった。語り終えて結ばれた唇は固く、不快そうに表情を歪めた署長の姿からは、彼自身もこの状況を良しとしていないことがありありと見て取れた。
そう――ファウラー署長も、ハンクが犯人だなどと思ってはいない。けれども、上の人間を相手に部下を庇いきることができない状況だった。
それを口惜しいという彼の気持ちは、理解できる。理解できるが――
「それで、署長」
警部補は姿勢を正して、質問した。
「査問会まで、俺はどこにいればいいんで? 留置場か? 空きがあったかな」
「いや、さすがにそこに入れる予定はない。コナーとナイナーが使ってる、第5ミーティングルームだったか」
上階を指で指しながら、署長は応える。
「あそこなら鍵もかかるし、監視も利く。お前には、15時の査問までそこにいてもらう」
「了解」
軽く応えて、ハンクは踵を返した。
「警部補、どちらに!?」
「決まってるだろ。命令通り、お前たちの部屋だ」
どことなくふて腐れたような顔で、振り返った彼は言う。
「俺たちはハメられたんだよ。こうなっちまったら、ジタバタしても無駄だ。まあ、あの部屋は前に入った時も居心地悪くなかったしな。せいぜい邪魔させてもらうよ」
「ハンク、でも……!」
必死な思いで、コナーは声をかける。しかしハンクはそれに答えるでもなく、またこちらに背を向けると、そのまま「バイバイ」という調子で右手を軽く振った。
それから、彼はオフィスのガラス戸を開けて立ち去った――
「くっ……!」
歯を食いしばって、コナーはその姿を見届ける。
それから勢いよく振り返って、再び署長のデスクに歩み寄った。
「警部補が謹慎処分でも、まだ私がいます!」
右手を己の胸に当てて、署長に向かい強く抗弁する。
「私が警部補の無実を証明してみせます。査問までに証拠をあげて真犯人を確保すれば、きっと上層部も納得する! そうでしょう、署長」
「やはりわかってないようだな、コナー」
また苦虫を噛み潰したような表情に戻った署長は、眉間に手をやりつつ言った。
「いいか……前にも話したがな。たとえお前自身や、俺たちがどう思っていようと! お前は法的にはこの署の備品であって、捜査員じゃないんだ。アンドロイドにはまだ、捜査権も被捜査権も認められてない。警官になる権利もだ。つまり」
自分でもわかるほどに唇を噛みしめながら相手の言葉を聞いているコナーに対して、ゆっくりと言い聞かせるように、署長は言う。
「相棒のハンクが謹慎の今、備品のお前にも用はない。査問が終わるまで、お前も第5ミーティングルームに待機していろ」
「そんな……! で、ですが!」
「口答えは認めん! これ以上の駄々もだ。わかったら口を噤んで、オフィスから出て行け!」
言い放った署長は、宙を払うように振った手をデスクに戻すや否や、視線を逸らす。
そしてコナーは――自分の身分を、自分にない権利というものを、これほど重苦しく実感したことはなかった。
今までは、アンドロイドに権利が認められていないことについて憤りこそすれ、それは他者の感じている苦痛に共感してのものだった。
昨日、変異体に労働権が付与されるかもしれないというニュースを見た時だってそうだ。これでようやく、他のみんなが少しは報われるはずだと思った。決して、自分の話だと思っていなかった。なぜなら自分は、もう既に限りなく報われているから。――そう考えていたのだ。
だが現実は違う。たとえデトロイト市警のほとんどの人々が、もはや自分と弟を“ただの機械”とは扱わないとしても――たとえこれまでにいくつもの事件捜査を補佐してきたとしても、自分は法的には未だに
モノであるがゆえ、権利がない。
相棒かつ恩人にかけられた嫌疑を晴らすための捜査権も、上層部の判断を時期尚早だと訴えを起こす権利も。
その事実がこんなにも冷たく、厳然たるものだとは実感したことがなかったのだ。
今、この時に至るまで。
「クソ……!」
呪詛の言葉が口を衝いて出る。苦々しい面持ちの署長は、それを咎めはしなかった。
だが早く出て行けと言わんばかりに、その指はオフィスのドアを指している。
命令に従うべきだろうか?
――否。まだだ。
まだ諦められない。
それならば、こちらにだってやりようはある!
「失礼します!」
「おい、ちょっと待て!」
出て行けと命じたはずの署長は、コナーを思わず制止していた。無理もない、署が誇る最新鋭のプロトタイプが文字通り血相を変えて、部屋から飛び出そうとしているのだ。
ファウラーは、コナーが時折突拍子もないことをしでかすというのをハンクから聞いてよく知っている。このまま放っておけば、いったい何をしたものか――
だがその懸念は、そしてコナーによる脱走の試みは、すぐさま雲散霧消した。
「兄さん」
オフィスのドアを塞ぐようにしながら、半歩足を中に踏み入れたナイナーが、定期的な瞬きを繰り返している。その身体は見事なまでに、コナーの進路を封じていた。
「どいてくれ、ナイナー!」
コナーは弟に呼びかける。――彼ならきっと、自分の気持ちを理解してくれるはずだ。
「このままだと、ハンクが危ないんだ! 僕がなんとしても……」
「駄目です」
無表情のまま、彼は無慈悲に告げる。
なんだって――と問い返す間もないまま、伸ばされたナイナーの手がこちらの腕を掴んだ。
スキンを解除した手で接続され、プログラム上に直接弟の声が聞こえてくる。
その内容を理解した瞬間、コナーははっと表情を変えた。
「……早まっては、駄目です。兄さん」
言い含めるように、ナイナーは音声でも語りかけてきた。
それから署長のほうに向き直り、静かに、こう告げる。
「私が、兄さんを……コナーを第5ミーティングルームへ護送します。許可を願います」
「ああ、認める」
署長は椅子から立ち上がると、腰に手を当てて続けた。
「お前の暴走兄貴を、部屋で大人しくさせててくれ。ハンクと一緒なら、少しは落ち着くだろう。俺じゃあ手に負えん」
「命令を受諾しました」
ナイナーは軽く一礼する。その手は今も、こちらの腕をしっかと掴んだままだ。
それから彼はまるで兄の手を引くようにして、オフィスから出て廊下へ、そして上階へと続く階段へと進んでいく。
その間、コナーは無言を貫いた。そして階段を中ほどまで上った頃、踊り場に来たところで――
「ありがとう、ナイナー」
我ながら重たい声音だが、はっきりとそう告げた。するとそれに合わせるようにして、ナイナーは手を離す。
全身でこちらに向き直った弟に対して、コナーはさらに続けて述べた。
「君がいなければ、あのまま署を飛び出していたよ。……でも信じられないんだ、まさかこんな状況になるなんて」
「兄さんの心痛、理解可能です」
僅かに眉根を寄せて――つまり彼にできる最大限の悲しみの表情で、ナイナーは言う。
「パートナーへの嫌疑と、それを解消不可能な現況。理不尽。悲嘆。そうした言葉で定義すべき状況と認識します」
「ああ、まったくだ。僕が分析なんてしたばかりに……」
あの時、もしスキャンしていなければ、ハンクが査問などにかけられることもなかったのだろうか。
もしあの場にいたのが、自分でなかったなら。
「いっそ僕の分析が間違っていたなら……プログラムにエラーが生じていたのならよかったのに。機能があっても、パートナーを救えないんじゃなんの意味もない!」
「兄さん……」
苛立ちをそのまま放った言葉を、しかし、弟は静かに聞いてくれた。
そっと彼自身の胸に片手を置いたナイナーは、それから、おもむろにこちらとの距離を詰めてくる。
『大丈夫』
表向きには無言のまま、けれど通信でははっきりと、ナイナーは告げた。
『先ほど提言した通り、私にアイデアが存在します。検討と評価を願います』
『ああ。聞くよ』
真摯な眼差しで、同じく通信にて弟に応えた。
そう、先ほど腕を掴まれた時に伝えられたのだ――事態を打開するアイデアがある、と。
そしてナイナーが語った「アイデア」は、思いも寄らない、だが実に単純な解決策だった。
***
署長のオフィスを辞してから、15分ほど経った頃。
「はぁ、やれやれ」
誰もいない第5ミーティングルームで、勝手に淹れたコーヒーを片手にパイプ椅子に腰かけ、ハンクは独り言ちた。
アンドロイド兄弟が使っているはずの部屋に、どうしてコーヒーメーカーなんてものが置いてあるのかは知らないが、虜囚の身にとってはありがたいことこの上ない。
俺もヤキが回ったかな、などと思いつつ、ハンクは天井を眺めてコーヒーを啜った。
これまでの刑事人生で、危ない橋を渡った時など数え切れないほどあった。危うく命を落としかけた経験も何度かあった。だがまさか、自分が殺人の容疑者になろうとは。
――コナーは、何かトリックがあると言っていた。
その通りだ。もしこの自分が、寝ている間に無意識のうちに殺人鬼と化していた、なんてクソったれB級映画みたいな展開でもないのなら――確実にこれは、最初から仕組まれていた罠だ。
そもそも昨日、エミール・ダックスの引き起こしたあの事件が、妙にすんなり解決してしまったのも今にして思えばおかしかったのだ。どうしてダックスのところで働いていて、利用されてしまったアンドロイド・ミハイルは、メモリーのすべてを消去されていなかったのか?
答えは簡単。すぐに解決できる事件でなければ、本命の目的――つまりグレアム・トルシェムを殺害し、その嫌疑をこのハンク・アンダーソンになすりつけることを果たせないからだ。
トルシェムと自分が会い、しかもトルシェムが直接侮辱してきた直後のタイミングでなければ、この状況は引き起こせなかった。一度「銃」という動かぬ証拠を作ってしまえば、後は爛れた生活で“有名”なハンク・アンダーソン相手だ、上層部が綴るのはきっとこんなシナリオだろう。
――トルシェムに侮辱されたアンダーソン警部補は、ストレスから逃れるために自宅で大量に飲酒し、その足で外出した。そして外出先で偶然出くわしたトルシェム氏に対して怒りを募らせ、所持していた銃で彼を射殺した。
彼に犯行時の記憶がないのは、泥酔状態だったからだ。懲戒フォルダに刻まれた、これまでの所業がその証左となる――なんて。
「ハッ。身から出た錆とはいえ、大したもんだ」
乾いた笑いが部屋に響く。
自分たちをハメた犯人が何者なのか、そしてどんな方法でトルシェムを殺したのかまでは、今は確たることは言えない。それにさっき、オフィスでジェフリー相手に文句を言ったところで、どうにかなるものでもなかった。もし自分が逃げたり暴れたりすれば、今度はジェフリーに迷惑がかかるだろう。
そう思っているからこそ、こうして一旦大人しく従っているのだが――
なんとかしなくては。
せめてエリック・ピピンとかいうゲスが引き起こしている一連の事件を解決するまでは、まだこのバッジを手放すわけにはいかないのだ。
それに、危なっかしい相棒を放っておくわけにもいかない。
と、苦いコーヒーを飲み終えたハンクが胸中で呟いた時である。
短い電子音が鳴り、続いてドアが静かに開く。視界の端に見えた青い半袖の夏服に、ハンクは笑いかけた。
「よお、お前もここにいろって言われたか。その様子じゃ、随分ジェフリーに絞られたらしいな」
「……」
相手、コナーは、伏目がちにしながら無言でこちらへやって来る。相当こってりやられたのか、それともこの状況に対してすっかり落ち込んでいるのだろうか。
自分がやるのもなんだが、少し元気づけてやろうかと、ハンクはわざと明るい調子で語りかける。
「ま、これもいい休暇だと思えよ。何を言われようが俺はやってないんだ、焦ることはねえ。きっとすぐに無実が証明されるさ」
「……」
「コナー?」
――おかしい。
いくら落ち込んでいるにしても、普段のコナーなら、もう少し何か言うはずだ。
いやいや、あいつのことだ。こんな状況ならしおらしくしているよりは、むしろ「納得できない!」とか「解決できたはずなのに!」などと言って地団太を踏んでいるくらいではないだろうか。
というよりも――と、ようやくハンクは気づく。
自分の真隣の席に腰かけようとしているコナーが、いやコナーである
「お、お前……!」
反射的に席を立ち、信じられないものを見る目でハンクは相手を見やる。
「お前、コナーじゃないな!? まさか……」
「はい、アンダーソン警部補」
ようやっと口を開いた相手は、灰色の瞳をしていた。
凪のように静かな面持ちで、こちらに向けた双眸を定期的に瞬かせている。
「私はナイナーです。入室から16秒で察知とは、さすがアンダーソン警部補、と認識します」
「やっぱりか。まったく、驚かせやがって」
一瞬の緊張のせいで激しくなってしまった鼓動を胸の上から押さえるようにしながら、ハンクはほっと息を吐いて席につく。
「瓜二つの格好で入ってくんのはやめてくれ。こっちにゃ“前科”があるんでね」
「申し訳ありません。状況説明を即刻開始すべきでした」
そう言ってナイナー、つまりコナーの格好をしたナイナーは、ぺこりと頭を下げてきた。
そこまで謝ってもらう必要もないわけだが――いや待て。
「おいナイナー、どういうこった? なんでお前がここに」
「ご説明します」
姿勢を戻し、お手本のように背筋を伸ばしたまま、相手は語った。
「結論から述べます。私と兄さんとは、互いの服装と立場を交換しました」
「なんだと……!?」
「服装と立場を交換しました」
「いや、聞き返したわけじゃねえ」
ナイナーに向かって軽く首を横に振ってから、ハンクは問う。
「じゃあ今、コナーの奴はお前の格好をして外にいるってか? なんのために」
「無論、あなたの無実を証明する目的です」
きっぱりと告げてから、彼は心なしか力強い眼差しで続けた。
「査問が開始される本日15時までの期間に証拠と真犯人を確保すれば、あなたの放免は確実です。しかしながら、我々アンドロイドには単独での捜査権が付与されていません」
「ああ……そうだな」
「したがってあなたの無実を公的に証明するには、正式な捜査官による捜査への同行が必須です。一方で、署長からの命令および対外的な便宜を考慮すれば、少なくとも『RK800』の外見的特徴を満たした人物が当室に勾留されている必要があると認識します」
つまり、署長命令を考えると「コナーの格好をした誰か」がハンク・アンダーソンと一緒に部屋にいないとさすがにマズいだろうが、逆にいうと、それは見た目が“コナーっぽければ”それでいいという意味だ。
もしジェフリーが監視を寄越したとしても、せいぜいこの部屋の中をたまに覗きに来させる程度で、わざわざ「ここにいるのが本当にコナーかどうか」なんてしつこく調べはしないだろう、という判断らしい。それにはハンクも同意する。
「かつ私と兄さんであれば、機能の特性上、私のほうが待機に適しています。私ならば、当室での勾留中もドローンを介しての分析や護衛等を実施可能だからです。ゆえに私が当室、兄さんが捜査という連携行為を実施すると決定しました」
――それで、立場を入れ替えた?
アンダーソン警部補の“備品”だからという理由で同じ部屋での待機を命じられたコナーに成り代わり、ナイナーのほうがここにいることにしたと?
「……すまねえな。俺のせいで苦労かけちまって」
「いいえ、私の現状は『苦労』の定義に合致しません。兄さんも、同意見と推測します。それに」
やや何ごとか考え込むように軽く俯いてから、ナイナーはさらに述べた。
「不謹慎な発言ですが……私であっても警部補や、兄さんへの助力が可能なら、それはとても喜ばしい、と認識しています。常に」
「だから謙遜すんなって。お前さんはよくやってるよ」
「……ありがとうございます」
そう応えるナイナーの声音は、いつもと同じく平坦ではあっても、どこか嬉しそうな響きに聞こえた。
ハンクはふっと表情を緩める。だがその時、脳裏をとある疑問が過ぎった。
「なあ、じゃあコナーは今誰と一緒なんだ? ベンの奴なら、事情も汲んでくれるだろうが」
「いえ。コリンズ刑事は、我々の担当者としてアサインされていません。残念ながら、今回助力を依頼する相手としては不適当でした」
「……」
ハンクは一瞬、考えた。
さっきナイナーは「服装と立場を交換した」と言っていた。そして立場とは、もしや。
「おい、まさかコナーは……」
――なんてこった。
いったいどうなることやら。
***
――2039年7月20日 09:17
初めて纏ったナイナーの服装は、それほど重量はないにもかかわらず、夏になるまで自分が着ていた制服と比べると圧倒的に防弾性・防刃性に優れている。とはいえ、できるだけ傷をつけずに返したいところだ。
弟がくれた絶好の機会を、棒に振ることはできない。
なんとしても、ハンクの無実を晴らさなくては。
そのためにコナーはまず、安置されているトルシェムの遺体をもう一度調べることにしたのだ。
発見から今までの間に、亡骸は既に司法解剖を含めた検視を終えている。その情報があれば、きっと何が起こったのかの手がかりが掴めるはずである。
――重要なのは、次の二点だ。
一つ、ハンクの銃が使われたタイミング。二つ、犯人の正体と目的。
仕事中、ハンクは職務用の拳銃を基本的に肌身離さず持っている。脇の下に吊るされている銃を盗み出すのはさすがに不可能に近いことを考えると、銃の装備を外したほんのわずかなタイミングを衝いて、犯行が行われたのだと考えるのが妥当だろう。
例えば就寝時、入浴時など、家にいる間の時間。飲酒をしたのなら、その時を狙われたかもしれない。あとは――昨日の空港での捜査のように、やむを得ない事情で外す場合もある。
施条痕からみて、本当に警部補の銃が使われたのだというのは事実だ。だからこそ、「いつ」銃を持ち去られたのかを特定するのが先決である。
そしてそのためには、何より、トルシェムの正確な死亡時刻を割り出す必要がある。いつ彼が射殺されたのかがわかれば、いつ銃が犯人の手元にあったのかも判明する。そこが最初の切り口になるはずだ。
さらに犯人の正体と目的――仮にその目的が単に「トルシェムの殺害」にあったのだとしても、恐らく昨日の事件の段階で既に犯人の計画の内だったのだと考えると、相当周到な準備のうえでの犯行である。
トルシェムと因縁深いハンクなら、自分の隠れ蓑にできると考えたのだろうか。それともひょっとして、警部補をデトロイト市警から遠ざけること自体も目的なのかもしれない。
つまり暗躍を続け、ハンクの身を狙っているというピピンの魔手が、ついに迫ってきた可能性があるのだ。
――思い通りになどさせてたまるか。
ブルーブラッドが末端器官にまで力強く巡っているのを感じながら、コナーは決意を新たに最下階に到達する。
冷たく暗い印象のある廊下には、今は誰の姿も見えない。そして目の前の角を曲がれば、すぐそこが目的の遺体安置室だ。
コナーは角を曲がった。すると――
目の前に、ぬっと足が突き出される。
「よお、コナー」
伸ばした左足の靴底を壁につけ、片足立ちで改札よろしく行く手を塞いでいるのは、誰あろうギャビン・リード刑事である。彼は腕組みしたまま、ニヤニヤとこちらを嘲笑っている。
「なんだその格好、変装のつもりかよ? 機械なんて何着ても一緒だろうが。笑えるぜ!」
つまり、こんな状況でも彼はいつもと同じ態度だ。
そして普段なら、彼のこのような態度も適当に受け流すところなのだが――今日はそうはいかない。
コナーはやや戸惑ったが、すぐに表情を引き締め、口を開いた。
「リード刑事、捜査にご協力いただけると聞きました。どうぞよろしくお願いします」
「は? 誰が協力なんてするっつった」
左足を下ろした彼は、不愉快そうに眉を顰める。
「ポンコツ備品が何を言ったか知らねえが、俺にはハンクのケツを拭ってやる趣味はないからな。あの酔いどれ野郎がマジにコロシをやらかしたのかどうか、興味あるだけだ」
「……」
「それに」
と、彼のニヤけた顔がぐっと近づけられる。
「ハンクがパクられるかクビになるかすりゃ、次はてめえがお払い箱だな。その時のツラを拝むのが楽しみだぜ、コナー」
「……そうですか」
コナーは、我ながら硬質的な声音で返事をした。
――先ほどナイナーは、「リード刑事には承諾を得ている」と言っていた。きちんと話をして、状況を理解してくれたから、きっと力になってくれるはずだ、とも。
弟が施してくれた配慮について、とやかく言うつもりはまったくない。リード刑事はナイナーのパートナーであり、ここで自分が「RK900」として捜査を再開するのなら、組む相手はリード刑事の他にないのだから。
そして警察の上層部を納得させ、ハンクを救うためには、人間の捜査官の存在が不可欠なのだから。
しかし――やはり。
何度もこう考えてきたように思うが、彼とは一切気が合わない!!
事ここに至ってもハンクへの敵愾心を露わにし、いつまでも自分に突っかかってくるとは。
いくらアンダーソン警部補を嫌っているとしても、こんな状況でもまだ嫌味を言ってくるなんて、あまりにもひどすぎる。
どうして彼は、こう、こんなにも「嫌な奴」なんだろう!
コナーはそう思った。そこで、できる限り口の端を吊り上げて、備え付けのソーシャルモジュールをフル稼働して、さらにこう続ける。
「ですが、残念ながらそれは無理でしょう。ハンクは犯人じゃありませんし、私も辞職するつもりはありません。ご希望に添えずすみません」
一息に言うなり、ギャビンの肩を軽く押した。そんなことをされるとは予想していなかったのか、ややよろけた彼を尻目に、コナーはすたすたと目的の遺体安置室へと向かう。
「てめえ! 何しやがる」
「今、急いでるんです」
ドアの横に備えつけのタッチパネルにスキンを解除した手で触れて、ロックを解除する。正確には、第5ミーティングルームにいるナイナーと瞬間的な通信をして解錠してもらっているわけだが――ともあれ、ようやく中に入ることができた。
「チッ。待てよ、この型落ちが」
背後でリード刑事が何か言っているが、コナーのプログラムはそれよりも、部屋の状況を見るのに注力していた。遺体安置室は広く、LEDの白い光に満ちている。壁一面に薄いオレンジ色をした、可動式の引き出しのようなものがずらりと備えつけられているが、それらはすべて、遺体を保管するための場所だ。
中央に、小さな端末が備え付けられている。コナーはそれを素早く操作し、パスコードや担当者のQIR番号などを入力した。すると数秒後、甲高い電子音と共に、保管庫のうちの一つが動き出す。こちらから見て、右後方にあるものだ。
まるで勝手に開けられていく引き出しのように、するすると滑らかに保管庫の中身が姿をみせていく。
そこに安置されていたのは、目的のトルシェムの遺体。今は入院着のような所定の服を纏い、額の銃創を隠すように包帯が巻かれている。さらに腹部には、解剖を受けた後であることを示す縫い痕が残っているようだった。だが、それ以外は今朝見た通りだ。
「ほーお」
近くに歩み寄ってきたギャビンは、何やら見下すような視線を亡骸に向けた。
「いかにも金持ちのオッサンだな。情けねえツラして死んでやがる」
「死者の冒涜がご趣味なら、お一人でどうぞ」
冷たく言い放ち、コナーは保管庫の内側に刻まれた通信用コードをじっと見つめた。すると自動的にデータベースとの通信が行われ、検視官が記録したトルシェムの遺体に関する情報が、視界の端にずらりと表示される。
――ここで時間をとられている場合じゃない。早く、手がかりを見つけなくては。
一応ギャビンの端末にも同じ情報を送信するのを忘れずに果たしてから、コナーは情報を精査した。
【グレアム・トルシェム 死因:脳幹部に達する銃創】
【死後硬直から判断される死亡時刻は7月20日4時頃】
【頭部から9mmのホローポイント弾を摘出】――
これらの情報は、既に自分が調べたことの確認でしかない。
コナーはさらにデータを先に読み進めた。今朝の捜査では確認できなかったトルシェムの服の下の状況や、内臓の状態に関する詳しい情報が欲しいのだ。――すると。
【死斑は下肢に集中。背部にはほぼ見られず】
【腹部に軽度の水疱あり →凍傷か?】
【胃の内容物:微量の赤ワイン、未消化のブルーチーズ、ビスケット 毒性なし】
「これは……」
「死斑が脚だぁ?」
端末の表示を怪訝な表情で見つめてから、ギャビンは無遠慮に遺体の服をめくりあげ、下肢に視線を送った。
「マジで脚にありやがる。おいコナー、害者は河川敷でぶっ倒れてたんじゃないのかよ」
「……」
無言のまま、1.4秒ほどコナーは戸惑った。
リード刑事はさっき、ハンクの臀部を拭う趣味はないとか、さも捜査自体に興味などないというような発言をしていたはずだ。そのわりに今の彼の態度からは、何やら捜査への意欲があるように見受けられるのだが。
しかしすぐに、ギャビン・リード刑事を語るうえで欠かせない特性、すなわち彼の「野心」に思い当たる。コナーがデトロイト市警に派遣されるよりもずっと前から、ギャビンの出世欲は署内でも有名で、彼が同僚たちに記録的早さで嫌われるに至った原因もそこにあると聞く。
恐らくギャビンは、アンダーソン警部補を陥れた犯人を自分が検挙することで、警部補の上を行こうとしているのだろう。そう考えれば、ハンクへの敵愾心と捜査への意欲の両方に対する説明がつく。
そう結論づけたコナーは、リード刑事に対してこう返事した。
「ええ、その通り。ですから、死斑は本来なら背部に……」
「お前の説明は聞いてねえんだが? 必要なことだけ喋れよ」
――やっぱり、やりづらい相手だ。
コナーはむっとした顔を隠すこともなく、“ご命令通り”に口を噤んでから、顎に手を当てて思考を巡らせた。
死斑とは、死体に発生する紫色の痣のことである。心臓が停止し、血流が止まると、血液は重力に従って徐々に死体の低い位置に集まってくる。それが皮膚を通して、痣のように見えるというわけだ。
そして、もしトルシェムの遺体が発見時のようにずっと仰向けに倒れていたならば、死斑は遺体の最も低い部分、つまり背部に集まるはずである。
それなのに今、死斑は下肢に集中している。ということは、【遺体は長い時間、直立状態だった】ということになる。
つまり【遺体は動かされていた】。トルシェムが発砲を受けたのはあの河川敷周辺ではない、ということだろうか。
それに加えて気がかりなのは、遺体の腹部にあるという凍傷だ。もちろん今は夏なので、普通に考えれば凍傷などできるはずはない。何か外的な要因に晒されていたはずだ。
そう考えるコナーの眼前で、ギャビンはまたも遠慮なく遺体の服をはだけさせた。そのちょうどいいタイミングに合わせて、トルシェムの腹部にくっきりと残る水疱をスキャンしてみると――表皮に微量に残った水分と共に、【第2度の凍傷】が検出される。推定マイナス70度以下の固体に、長時間晒されたことが原因のようだ。
となると、この凍傷を引き起こしたのは【ドライアイス】だろうか。彼は撃たれた
さらに、胃の中に残っているのは赤ワインとブルーチーズ、ビスケット。
その情報を精査した時にメモリーの中で表示されたのは、生前のトルシェムの姿だ。
整備場で初めて会った際、彼は白いサイドテーブルを広げていた。赤ワインと、クラッカービスケットに乗せたブルーチーズを楽しんでいたのをはっきり記憶している。
そして、それが遺体の胃の中に残っているわけだ――未消化の状態で。
「……!」
ばらばらになっていた情報がプログラム上で繋ぎ合わされ、一つの真実を浮かび上がらせる。
――ああ、そうか。なんて単純な話だったんだろう! どうしてすぐに気がつかなかったんだ。
こんなにも簡単なトリックだったというのに!
「リード刑事!」
何やら顔を顰めてトルシェムの遺体を眺めているギャビンの肩に手を置き、コナーは言った。
「空港へ行きます。車を出してください」
「はぁ!?」
嫌悪、というよりは驚いたような顔をしている彼に向かって、さらに言い募る。
「空港へ行くって言ったんです。あなたも来るんでしょ、急いでください」
「なんだとてめえ」
驚きから憤りに表情を変化させ、リード刑事はこちらの手を払いのけた。
「いきなり何言ってやがる。だいたい誰がお前の命令なんか」
「なら結構、タクシーでも呼びます!」
言うなりコナーは安置室を飛び出し、上階へと廊下を駆けだした。
――こうしている時間だって惜しいというのに、どうして彼にはそれがわからないのか!
「待てコナー、てめえ一人で何ができるってんだ!」
背後からギャビンの大声と足音が近づいてくる。――こうなると、やはり彼の車に同乗するのが最適解だ。コナーは眉を顰めつつ、無人タクシーとの通信を中断した。
***
リード刑事の車はオフィスにある彼の机と同様、持ち主の性格と裏腹に、掃除が行き届いていてすっきりと清潔だった。
自動運転モードの車は、法定速度を遵守しながらも一路、空港へと向かっている。その車内でやけに上体を逸らして運転席に座るリード刑事に対し、助手席に座ったコナーは口を開いた。
「要するに、遺体は冷蔵保存されていたんですよ。死亡推定時刻をずらすために」
「で、んな三流トリックをプラスチック刑事様は見抜けなかったってワケか! そいつはすっげえ。オドロキだね」
「……」
わざとらしくおどけた返事をしてくる相手の態度に、思わずコナーのプログラムは、ギャビン・リード刑事を静かにさせる方法を32通りほど真剣に演算しはじめた。
しかし実際のところ、彼の言う通り、本来ならすぐにでも看破できていておかしくない隠蔽工作に気づけずにいたのは他ならぬ自分だ。
演算を止めたコナーは、自分の考えを明確化するためにも、続きを語りはじめる。
「胃の内容物から考えて、トルシェム氏が殺害されたのは事件解決の直後。恐らくは、自家用車に乗った瞬間のタイミングでしょう」
――昨日、高笑いを残してトルシェムが乗り込んだ後。
外まで聞こえるような大音量の音楽を鳴らしながら、あの白い高級車は去っていった。
なぜあそこまで大きな音で音楽を流していたのか? あの時の自分はただ耳障りだと感じただけだったが、今なら理由がわかる。あれで銃の発砲音を掻き消していたのだ。
トルシェムは車に乗ったすぐ後、推測するに前方の席にあらかじめ身を隠していた真犯人に、ハンクの銃を使って射殺された。車はそのまま走り去り、こちらから見えなくなったところで、真犯人だけ下ろして空港を出る。
そして真犯人は何食わぬ顔で、弾を補給した銃をハンクに返す。一方で遺体は空港を離れた後、直立状態で大型の冷蔵庫か何かに入れられて、ドライアイスと共に冷蔵保存されていた。つまりあの河川敷に放置される時まで、可能な限り死後変化の進行を抑えられていたのだ。だから死斑は足に集中していたし、死後硬直は「死後2時間」程度の状態になっていたのだろう。
後は、実際に発砲した時の空薬莢を路上に残し、遺体を茂みに蹴り転がして逃走すればトリック成立だ。
こうすれば遺体の死亡推定時刻が実際よりも後にズレることになるので、疑いの目はその時間帯に銃を保持していて、しかも被害者と因縁があるばかりか、皆の前で被害者と言い争っていたアンダーソン警部補へと向けられることになる。
真犯人が、車に乗り合わせていた点から考えて共犯者なのだと思しきトルシェムの配偶者・メイジーとどのような関係性なのかはまだ不明だが、ひとまずその正体は絞れた。
空港でハンクから銃を預かり、所持していた人物。すなわち――
「犯人は、整備場前の警備員です」
そこまでギャビンに語ったところで、コナーは口を噤んで前方を睨んだ。
あの警備員――メモリーを元にフェイススキャンをして判明した氏名は【コーディ・モールズ】。26歳、犯罪歴はなし。彼の赤茶色のちぢれ髪とそばかすの散った白い肌、どことなくしまりの悪い顔つき、そして空港でアンドロイドである自分に対して明確に態度を変えてきた差別的な姿勢は、今となっては憤りの対象である。
――そう、やはり、思えば妙だったのだ。
あの時自分は、そして警部補も、整備場では火気厳禁なのだろうと納得していた。だからこそ、ハンクは銃を預けたのだから。しかしその後、メイジーは何食わぬ顔で整備場でタバコを吹かせていたし、それを誰かに咎められるでもなかったのである。
要は、危険物だのなんだのと言っていたのは、ハンクから銃を奪うためのただの方便だったわけだ。
そしてコーディは銃をこちらに返す前に、使った弾を補充するのと同時に、わざわざ表面を拭いたのだろう。だからこそ、あの銃には(署長が言っていた通り)ハンクの指紋
本来なら、正式に銃を預かっていたコーディの指紋だって残っていておかしくないはずなのに――だ。
発砲の痕跡を消すためだったのだろうが、なんともお粗末な対処である。
しかしそれでも、自分はつい先ほどまで、これらの“お粗末な”状況の不自然さに気づけなかった。強い感情に揺り動かされていたせいだ。
昨日だってそうだ。トルシェムに腹を立てるのと同時に、深いストレスを受けたハンクを力づけようとするのに精一杯だったせいで、預けた拳銃を帰る時に取り戻すのすら失念しそうになっていたのだから。もっと言えば、車の去り際に唐突に流れだした大音量の音楽にもっと注意を払っていれば、掻き消されている銃声の痕跡を音声プロセッサで検知できていたかもしれない。
紛れもない失態だ。――しかし、だからこそ!
もう絶対に、コーディは逃がさない。それに、メイジー・トルシェムからも話を聞かなければならない。彼女は今朝がた「被害者の配偶者」としてコリンズ刑事と話をした後、家に戻ったと聞くが――ならばこそ、行方を捜すのはそう難しくはないはずだ。
決意を胸に、コナーは車の向かう先――つまり見えてきたデトロイト・メトロ空港をじっと見据えた。
するとその横で、ギャビンが低く鼻を鳴らしたのが聞こえる。
「フン、じゃハンクはシロか。なんだ、つまんねえ」
「本気でアンダーソン警部補が犯人だと思っていたんですか?」
――まさかそんなことはないだろう、と思いながら、横目で尋ねる。
「最近の警部補を見ているなら、そうは思わないはずです。そもそも、リード刑事」
いよいよ駐車スペースに近づきつつある車の中で、コナーはふと疑問を零した。
「なぜあなたはそんなにも、警部補を嫌うんです? 彼の存在は、あなたの昇進には何も……」
「黙ってろ、クソが」
どういうわけか、ギャビンは真剣な怒りを籠めて警告するような眼差しで言った。
「バラバラにされてゴミ箱にぶちこまれたくなけりゃあな」
「……なるほど」
ちょうど車が停まったタイミングで、肩を竦める。
――まあ確かに、こちらの今の質問は完全なる興味本位だ。しょせんこの事件を解決するためだけの一時的なチームアップなわけだし、余計な詮索をしたいと思うほど、リード刑事と親密になることを望んでいるつもりもない。
相手の言葉通りに再び口を噤んで、コナーは車を飛び降りる――ハンクの無実を証明するまであと一歩だと、その思いを滾らせながら。
しかし現実は、より過酷なものだった。
***
――2039年7月20日 10:15
「いないだって!?」
思わず非難がましくなってしまったこちらの声が、整備場前の警備スペースに響く。
そこにいた警備員(もちろんコーディではない)は戸惑ったような表情で、軽く頷いてから話を続けた。
「ああ、コーディは今日から休みだよ。2週間ばかしバカンスとって、家も留守にすると……」
「ホントだろうな?」
腕組みしたギャビンが高圧的に問いかける。
「嘘だったらてめえ、タダじゃおかねえぞ。さっき見せたバッジの意味、わかってるよな」
「わ、わかってるさ! あいつのためにオレが嘘をついて、なんの得があるってんだよ」
慌てたように両手を振って主張する警備員のストレスレベルの推移から見ても、彼は間違いなく真実を語っている。
ということは――クソ、逃げられた。
まさか、すぐにバレることを予期していたのか? 警部補に罪をなすりつけたら、後はどこかへ高飛びするつもりだったと?
いや、まだそう結論づけるのは早い。
「お話をどうも。お騒がせしました」
戸惑った様子のままの警備員に礼を告げてから、コナーは一度その場を離れた。それから、空港のホールの片隅で弟に通信を入れる。
「ナイナー、そちらは変わりないかい」
『はい、兄さん。変化は皆無です』
「そうか……」
同じくこちらへやって来たリード刑事にも弟の声が聞こえるようにしてから、続きを問いかける。
「こっちはさっき、データを転送した通りだ。コーディはバカンスを名目に、姿を眩ませてる。メイジー・トルシェムのほうはどうだい」
『それが』
と、わずかに声音を曇らせて彼は言う。
『メイジーも、心労により入院したとの申告が。4分21秒前です。コリンズ刑事に連絡した代理人は、本人の意向と称し、入院先を秘匿しています』
「やられたな」
そう言って、ギャビンが深く息を吐いた。
「金持ちや政治家どもの手だ。どうせ、お高い病院にお泊りしてるんだろうぜ」
「……!」
すかさず、コナーは該当しそうな病院を検索する。だが残念なことに、該当しそうな大病院はこの街だけでも優に10件以上だ。その一つ一つを巡って調べる時間は、こちらにはない。
――あともう少し早く、真実に辿り着いてさえいれば!
制御不能になりそうなほどに、胸の内を搔き乱す感情の波に揺られつつも、コナーはなんとか声を絞り出した。
「僕の推理が正しいなら、殺人は車の中で行われたはずだ。となれば、証拠はあの白い高級車に残ってる。ナイナー、君のドローンたちに頼んで、あの車を探してくれないか」
『了解しました』
淡々と、しかし頼もしく弟は応える。
『市警のデータベースに、トルシェム氏のナンバーが記録されています。ドローンでの捜索と同時に、市内監視カメラへのアクセスとスキャンを試行します』
「ああ、頼むよ」
ほっとする気持ちを覚えつつ、コナーはふと表情を緩めた。だがその時、横合いから、どういうわけかリード刑事がニタニタとした笑みを向けてくる。
なんです、とこちらが問うよりも先に、彼は「へっ」と短く笑って言った。
「そっか。お前、ドローンもないし監視カメラも見れねえのか」
「……監視カメラは確認できますよ。ただ、遠隔地から複数を同時にというのが不可能なだけで」
「なーるほどなぁ。さっすが型落ち、備品野郎よりもさらにポンコツかよ。ハンクにピッタシお似合いだな!」
言い放つなり、周囲の視線も憚らずにギャビンはぎゃははと大笑いしている。
それを見て瞬間的な「苛立ち」、つまりブルーブラッドが“沸騰”して中枢を巡るような錯覚を覚えつつも、努めてコナーは――あくまで自分なりに、冷静に返した。
「弟の名前はナイナーですし、ハンクは優秀な刑事です。それに私がポンコツなら、あなたはなんなんです?」
「あ?」
「あなたこそ、いつも弟の機能に頼ってばかりのように思いますが」
こちらがそう告げると、ギャビンは唖然としたような表情になり、次いでその顔を怒気に染める。
「なんだとてめえ。よっぽどバラされたいみたいだな」
「どうぞ、できるものなら。たぶん、ガッカリする結果になるだけですが」
掴みかからんばかりの勢いで睨みつけてくるギャビンに対して、コナーも自然と腕を組んで睨み返す。
――こんなことをしている場合じゃない、とプログラムの片隅から、理性的な自分の思考が届くように思った。
彼の態度はいつも通りだ、わかってたはずじゃないか。それより時間がない。警部補のために、捜査を進める次の手を考えるべき時だ。
けれど、別の思考はこう告げる。
――もちろんその通りだ。だけど、先に突っかかってきたのはギャビンのほうじゃないか。
確かに彼の力を借りなければならない立場だが、だからって自分のことだけじゃなく、パートナーや弟まで馬鹿にされて、黙ってなければならない理由はない!
プログラム上での論争には後者が勝ったので、そのままコナーは5.3秒ほど、リード刑事と睨み合っていた。
――通信を切るのをすっかり忘れている。
***
「……」
「おい、どうしたナイナー」
同時刻、第5ミーティングルームで待機しているハンクは、傍らのアンドロイドに声をかけた。
兄、つまりコナーと通信していたはずの彼は、唐突に身動きを止めると、こめかみのLEDリングをぐるぐると黄色に光らせている。
見たところ、通信中というわけでもなさそうだ――それにしては、いつもと様子が違う。
「なんかあったのか? もしかして、コナーとギャビンがモメてんじゃないだろうな」
「……い、いいえ」
ぶるぶると細かく振動するかのように、ナイナーは首を横に振る。
「だ……だい……大丈夫、です。両者はとても、良好な、関係を、構築しています」
「やっぱりモメてんじゃねえか。なあ、ちょっと電話を……いやともかく、コナーに繋いでくれ」
ナイナーが首に挿しているケーブルを介して、ナイナーとコナー間で結ばれている通信を、スピーカーフォンのごとくこちらの声も届くように結び直してもらう。
それからハンクは、おもむろに相棒に呼びかけた。
「もしもしコナー? お前何やってんだ。アテにする相手を間違えたかな」
『……! 警部補!』
どんな顔をして喋っているか見なくてもわかるような声音で、コナーは返事してきた。
『すみません、警部補。まだあなたを救出できるほどの成果が……』
「遺体のトリックはわかったんだろ、上出来だ。ナイナーに聞いたよ」
転送してもらったデータ(つまりはコナーが作成した報告書)が表示されたタブレット端末を片手に、ハンクは言う。
「それよか、俺ならそこで遊んでないで冷蔵庫を探すね」
『……冷蔵庫を?』
訝しげに呟いた相棒は、しかしすぐにその理由に思い至ったのだろう。短く息を吞むような音を発してから、続きを述べた。
『遺体を収納できるような大型の冷蔵庫、または冷蔵設備ならば必ず利用記録が残るはず。それをあたる、ということですね』
「ああ。レンタルするにせよ買うにせよ、大の大人の死体なんてモンを隠すんだ、相当他人にバレないようにしてあるはずさ。こいつはただの勘だが……まずはトルシェムの家に行ってみるのはどうだ?」
例えば犯人たちがトルシェムの遺体を隠すため、どこかの冷蔵設備のある倉庫でも借りたとして――もし何かの手違いでそれを他人が開けてしまったなら、すべての計画が台無しになってしまう。
ゆえに亡骸を隠したのは誰にも見つけられず、しかも犯人たち自身が滞在していてもおかしくない場所のはず。
となれば、一番安全なのは「自分の家」である。
そして大型の冷蔵庫を搬入するだけのスペースがある場所といえば、データによれば一介の警備員であるコーディの家よりも、トルシェム邸のほうが可能性は高い。
「ホームパーティーをやるから冷蔵庫が必要なんだ、とか言えば、金持ちならいくらでも言い訳がたつだろうしな」
そこまで説明したところでこちらが黙ると、コナーは確信に満ちた声音を返してくる。
『わかりました。車の捜索を待つ間に、私たちはそちらをあたります。必ず証拠を掴んでみせますから、待っていてください』
「ああ、ほどほどに期待してるよ。それと」
たぶん向こうで通信を聞きつつ不愉快な表情を浮かべていると思しき、もう一人の同僚に向かって声をかけた。
「どうだ、そいつの相手は疲れるだろ。からかうのもほどほどにしとけよ、冗談が通じるヤツじゃないからな」
『言ってろ、ハンク』
想定通り、不愉快極まるといった調子のギャビンの返事が聞こえてくる。
『お前こそ、切られかけのクビをせいぜい大事に洗ってるんだな。この貸しは必ず返してもらうぞ』
「ああ、利子つけて返してやるよ」
軽口で返すと、相手はさらに不機嫌そうな鼻息を返してきた。
『……では警部補。ナイナーがいるから大丈夫だと思いますが、どうか気をつけて』
「お前たちもな」
「失礼します、兄さん。リード刑事も」
ナイナーの言葉を最後に、通信が切断される。
それとほぼ同時に、ハンクは長くため息をついた。
――ああ、やれやれ。若い奴らの相手ってのは疲れるもんだ。
けれども彼らが外を走り回っている理由の半分程度が自分の去就にあり、しかも自分がこれまでに培ってきたある程度の経験というやつが、少しは役に立つのなら――多少の苦労は厭わないというのが、いわゆる“年長者”の役目なのかもしれない。
「……アンダーソン警部補」
今は穏やかに両の灰色の目を瞬かせつつ、こちらを向いたナイナーが告げる。
「これは個人的な推測……いいえ、願望に過ぎません、が……私はきっと兄さんたちなら、捜査を無事に完了すると認識しています」
「俺もそう認識したいね」
冗談交じりに、けれども本心から、ハンクはそう応える。
見上げた壁に掛けられている時計が示す時刻は、10時35分――
楽しい査問までまだ4時間以上もあると見るか、それともそれしかないと考えるべきか。
いずれにしたって、今の自分にできるのは、最低限のサポートくらいだ。
己の人生とその他諸々に皮肉っぽい笑みを浮かべつつ、ハンクはコーヒーのお代わりを取りに席を立った。
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第42話:逆転 後編/The Unusual Suspect Part 2
――2039年7月20日 11:39
トルシェム氏の邸宅が建っているのは、デトロイト郊外の住宅地だった。十数年ほど前までは「高級」な場所として名を馳せていたその区画は、今はどことなくうら寂しい場所へと変貌している。ダウンタウンに高層マンションが林立するようになり、高所得者は皆そちらに引っ越してしまったせいだ。
そうした土地柄によるものなのか、あるいは本拠地のシカゴと比べるとこちらは「別邸」という扱いだったからなのかは不明だが、トルシェム邸もまた立派な外観ではあるものの豪邸というほどではない、ひっそりとした印象の建物だった。
両隣が売家となっているので、犯罪の隠蔽にはもってこいなのかもしれないが。
「……」
空港を出てからこの住宅地まで、お互いにほぼ無言を貫いていたコナーとギャビンは、なおも無言のまま、停めた車中からトルシェム邸を眺めた。
――これからこの屋敷を捜査し、グレアム・トルシェム殺害の真犯人たちが、遺体を隠蔽するのに使っただろう冷蔵設備について調べなければならない。コーディ・モールズとメイジー・トルシェムが姿を眩ませている今、わずかであろうと、手がかりを掴むための行動をすべき時なのだ。
今、ハンクにはグレアム殺害の嫌疑がかけられてしまっている。潔白を上層部に証明できなければ、彼は15時から始まる査問に掛けられるだろう。そうなれば、懲戒フォルダに刻まれた素行不良のせいで、警部補の刑事人生が閉ざされてしまうかもしれない。
だが、そうはさせない。
相棒であり恩人であるアンダーソン警部補の冤罪は、必ず自分が晴らしてみせる。
その決意を胸に、コナーは弟であるナイナーの服装と立場を借り、ギャビン・リード刑事をパートナーとして、こうして捜査に乗り出しているわけなのだが――
車から降りたコナーは、ギャビンがやや乱暴に反対側のドアを閉める音を感知しながら、辺りに素早く視線を巡らせた。
トルシェム邸の周囲に自分たち以外の人影はなく、行き来する車すらまばらな状態だ。監視カメラもないので、ここに最近訪れた人間がいるのかどうかは断定できない。
ただ、トルシェム邸のほど近くの道路上に、大型のバイクが一台停まっているのが目に留まった。痕跡からみるに、ここに駐車されたのは【9:43】頃。
乗っていた人物がどこに行ったのかまではあいにく分析できないが、気になったのはナンバープレートが引き剥がされている点だった。【道路運送車両法に違反】と、視界の端に表示されている。
――偶然ここにあるだけなのか、それとも先客がいるのか。
コナーは訝しんだ。けれどそれを明確に言語化するより早く、背後から投げかけられた言葉に思考を中断する。
「ハッ、こんな時にも点数稼ぎか? さっすが、お偉いプラスチック刑事サマだな」
「別に見咎めていたわけでは」
反論しながら振り返れば、声の主たるギャビンの視線とぶつかった。彼は相変わらずこちらを揶揄するような笑みを浮かべていたが、普段と違い、その目にはどこか怒気のようなものが燻っているように見える。
先ほど空港のホールで口論になったのは確かだが、まだそれを根に持っているというのだろうか? ――あれはどう考えても彼が悪いのに!
そう思いつつも、表向きは冷静に、コナーは続けて言った。
「あそこに放置されているのが偶然かどうか、考えていただけです」
「あーそーかい。そりゃご立派ですね」
まったく立派だとは思っていない口調でそう言ってのけると、ギャビンは踵を返してトルシェム邸へと歩み寄っていく。
要は、さっさと屋敷を調べるのが先決だと言いたいのだろう。彼の物言いはともかく、それにはこちらも同意する。
コナーは足早にギャビンの背を追い、追い越し、先に玄関ポーチに辿り着くと、ドアの呼び鈴を押した。
「すみません!」
声で屋内に呼びかける。誰かいるなら協力を要請したいところだが、無人ならばそれはそれで問題だ。コーディやメイジーが重要参考人ではあっても逮捕状が出ているわけではない以上、無理やりこの家に押し入って調べることはできないのだから。
しかし、誰も出ない。
仕方ないので、コナーはドアを大きく三度叩いた。
「開けろ! デトロイト市警だ!」
はっきり呼びかけてみても――やはり誰も出ない。
「おい、いきなり大声あげんな!」
傍らのギャビンは自分の耳を押さえて文句を言っている。また皮肉なのかと思いきや、彼の表情の引き攣りようとストレスレベルから見てどうやら本心らしい。
「音量調節ミスってんじゃねえのか、このポンコツが」
「いいえ。それはそうと」
手短に否定してから、コナーは問いかける。
「どうします、リード刑事。周囲の様子を探るか、近所に聞き込みに回るか……いずれにせよ、手分けするべきかと思いますが」
「手分け、ね。そりゃ当然だが」
途端に、彼は不敵な表情を浮かべた。そのまま玄関ポーチの短い階段を下り、道路のほうへと向かいつつ、続けて語る。
「こんな寂れた街のご近所どもに話を聞いて、何かわかると思うか? コソ泥だって寄り付かねえだろ、こんなとこ」
「確かに」
こちらもポーチから下りながら、素直に相槌を打つ。
なるほど、彼の言う通りだ。さっき確認したように、ここの両隣は売家である。たとえコーディたちがこの家で何か怪しい行動をとったり、あるいは大型の冷蔵庫などを借りて堂々と運び入れたりしていたとしても、近所の住民がそれを目撃している可能性は極めて低い。聞き込みが無意味とは言わないが、信頼できる目撃証言が得られる保証はない。
「では、どうすると?」
「こういう時はよ……」
道路脇まで来たギャビンは、わざとらしくこちらを一瞥した。
それから、設置されているゴミ箱のバケツ――回収業者が来るまで、家庭ごみを戸別でまとめて捨てておく大型のものである――に向かって足を振り上げ、思い切り蹴とばした。
必然、ゴミ箱は派手な音を立てて倒れる。蓋も外れ、分別などされていないその内容物が、無残にアスファルト上に散乱した。中身の詰まった黒いポリ袋、ワイン瓶、缶ごみ、紙ごみ、雑多な生ごみなど。
しかし、これで何を?
ギャビンの意図がわからず、コナーは小首を傾げて相手を見やる。すると、彼はニヤついたまま口を開いた。
「ほれ、掃除しろ」
「な……?」
顎で命じてきたギャビンの言葉が信じられず、思わず戸惑いを発してしまう。いくらアンドロイド嫌いだからって、捜査中にまで無意味な命令をしてくるとは考えていなかったのだが――
「わかんねえのか? 見ろよ」
腕組みした彼はそう言いながら、靴先で道路上のゴミを指した。そこにあるのはくしゃくしゃに丸まった紙ごみ――クレジットカードの明細書と、その封筒だ。
はっとしたコナーが視線を再び送ると、ギャビンは我が意を得たりとばかりにさらにニヤついて、語りだす。
「相手はプロでもなんでもねえ、ただのトーシロだ。そんな連中が、こういうゴミにまで気をつけると思うか?」
「なるほど。捨てられているゴミから、犯罪の痕跡を探るのですね」
納得と共に、コナーは初めて本心からギャビンの手腕を素晴らしいと思った。
――要は、こういうことだ。コーディたちは恐らく犯罪のプロではなく、ハンクに罪を着せたその過程がいかに計画的なものだったとしても、証拠隠滅にまで細かく気を遣っていないのは、こうしてゴミを普通に廃棄していることからも明らかである。彼らは、これを探られるかもしれないとは思っていないわけだ。
となれば、何か犯罪を裏付けるような証拠をゴミの中から発見できる可能性がある。もしコーディたちが、自分たちにとって要らないものを不用意に捨てているのなら、例えばここから大型冷蔵庫のレンタルや購入に関するレシートなどを見つけられるかもしれない。そうすれば、捜査は大きく進展する。
もちろん無断でゴミを漁るなど、本来であれば正式な捜査手法として認められない行為だ。しかし重要参考人たちが姿を消し、かつこちらには時間制限があるとなれば、多少強引な手も使わざるを得ない。
それに散乱してしまったゴミを、そのまま放置しておくこともできない。というより、仮に何か余所から指摘を受けたとしても、ギャビンはこう抗弁するつもりなのだろう。
ギャビン・リード刑事が、自分のキャリアのためならたとえ人を怒らせるような行為でも平気でしてしまう性格だというのは、これまでの仕事上での付き合いや、ナイナーからの伝聞でよく知っていた。
しかし今、彼のその容赦のなさが、思いも寄らないような打開策を提示してくれたのである。
さすがはデトロイト市警の刑事だ。先ほどはつい売り言葉に買い言葉で、弟の機能に頼ってばかりだろうなどと彼につまらない皮肉を言ってしまったけれど、撤回するべきか――
などと、コナーはそんなことを思ったのだが。
「じゃあな」
コナーがしゃがみ込んでゴミに向き直るやいなや、ギャビンはすたすたとトルシェム邸のほうへ戻っていく。
「どこに行くんです?」
問いかけにちらりと振り返ったギャビンは(彼は既に拳銃を抜いている)、こちらを見下ろすような目つきでこう応える。
「決まってんだろ。どっかに入り込む隙間がないか見てくんだよ」
「本気ですか」
訝しさを露わに、コナーは問いかけた。
「令状もなく押し入っては、不法侵入にあたりますよ。それに一人では危険です。私も……」
「てめえの仕事はそっちだろが!」
途端に声を荒らげて、彼はゴミを指さした。
「プラスチックにはゴミ漁りがお似合いだろ。特にお前は、ハンクの世話で慣れてそうだしな」
「警部補の手伝いとゴミになんの関係があるのかわかりませんね、リード刑事」
――少しは見直したと思ったのに、またもや問題発言だ。
コナーはギャビンをじろりと見据えた。けれどその時、緩く吹いた風のせいで紙ごみが飛んでいきそうになる。相手から視線を外さぬまま、コナーはそれをしっかと片手で捕らえた。
一方で、ギャビンはそんなこちらの様子をへらへらと眺めている。
「ご苦労さん。せいぜい手ぇ抜くなよ」
こちらに向けた人差し指をさらに突き出してから、短く声をあげて笑った後、彼はさっさと去ってしまった。どうやら、家の裏庭に回るつもりらしい。
「……まったく……」
ギャビンの姿がすっかり見えなくなってから、ごく小さく、コナーは独り言ちた。
確かにアンドロイドである自分なら、たとえゴミを掻きまわしたところで人間のように悪臭に悩まされることも、繁殖した細菌による感染症を恐れる必要もない。それに、分析すればより詳細な情報を得られるだろう。
とはいえ彼のあの物言いでは、まるで体よく雑用を押しつけられてしまったようで、気分がよくない。
首を軽く横に振ってから、コナーはゴミの片付けと分析を開始するのだった。
***
トルシェム邸の敷地内の庭は、最低限の管理が施されている印象はあるものの、さして整っているとも言えないようなところだった。
もっとも、金持ち臭が全開のごてごてした庭なんてものはもっと嫌いなので――こぢんまりとした家庭的な庭というのもそれはそれで嫌いだが――まあよしとしてやるか、などとギャビンは考えた。
しょぼしょぼと地面に生えた芝を踏みながら、コナーとのさっきのやり取りを思い出す。
今頃あのポンコツ刑事は、澄ました顔してゴミ拾いに精を出していることだろう。
――いい気味だ。何が「弟の機能に頼ってばかり」だ、ふざけるなよクソが。
内心で毒づきながら、ギャビンは拳銃のグリップを握る手の力を強める。
まったく、誰が好き好んでコナーなんかと“コンビ”になるというのか。あのいかにも最新鋭のアンドロイドらしい、エリート然とした落ち着き払った態度が、酔いどれアンダーソンの冤罪のせいでちょっとは崩れている様子なのは見ていて面白いが、ただそれだけだ。
これまでを思い出しながら歩いていると、だんだん苛立ちが募ってくる。おまけに屋敷の窓は、どれを調べてもきっちりと鍵がかかっていた。クソ、どれか一つくらい空いていてもいいものを。
さらに歩いて別の侵入口を探しながら、ギャビンはますますイライラして考えた。
――そもそも自分にとって、ハンクの濡れ衣など心底どうでもいいことだ。あの酒臭アンダーソンの今後がどうなろうと、こちらの昇進には何も関係がない。それどころか、警部補の枠が一つ空くのだから、かえって都合がいいくらいかもしれない。
それでもこうしてコナー
屋敷の裏側に回り込みつつ、ギャビンは今朝の出来事を――すなわち、出勤してすぐ、備品に通路を塞がれた時を思い出した。
今朝、自分のデスクに向かおうと廊下を歩いていたら、いきなりポンコツが目の前にぬっと現れた。例によってこめかみのLEDリングを黄色にビカビカさせているので、どうせまた何か起きたのだろうと思っていたら、相手はいやに(無表情なりに)緊迫しているように見えなくもない面持ちで、事情を説明しはじめたのだ。
ハンク・アンダーソンが殺人の容疑者とされていること。
昨日の事件の顛末。
このままだと、職を辞さねばならない展開になり得ること。
ポンコツはボソボソと語った後、いきなり口を閉ざした。
それから、一度は落ち着きかけたLEDリングの光をまたもビカビカさせると、こんなことを言ってきた。
「ついてはリード刑事に、兄さんとの一時的なチームアップを要請します。アンダーソン警部補の援護が目的です」
「は? 誰がんなことするか」
腕組みしてせせら笑いながら、ギャビンは言い放つ。
「あのオッサンにも、ついに焼きが回ったってこったろ。酒で潰れる前にハメられて終わるなんて、ロクな人生じゃねえな。ははははっ!」
「本当に」
その時――生意気にも――遮るように声を発してから、備品は続けて言った。
灰色の瞳でこちらをまっすぐ、見つめたまま。
「本当に、そう思考しているのですか。リード刑事」
「あぁ? どういう意味だ、てめえ」
「私は、あなたが……この結末を希望しているとは認識しません。あなたが警部補と対立してきたのは、それがあなたの『心』の問題だからではないのですか」
――まったく意味のわからないことを、ポンコツはのたまった。
だから脇をすり抜けて先に進もうとしたのに、備品は巧みなフットワークでなおも行く手を塞いでくる。
こちらの舌打ちなど意に介さずに、相手はさらに喋り出した。
「仮にこのままアンダーソン警部補が失職したなら、リード刑事、あなたは今後永遠に、彼を超越したと認識する機会を喪失してしまいます」
「は? 超越……?」
「彼よりも自身のほうが、刑事として優越していると証明可能な機会を喪失する、という意味です」
「……」
やはり、ちっとも意味のわからないことを言っている。きっといつにも増して、酷いエラーでも出ているのだろう。こんなのが正真正銘の最新鋭だなんて、サイバーライフも地に落ちたものだ。
そんな思いを抱きつつ、しかしギャビンは立ち止まった。
別にポンコツの語りに共感したからなどではない。単に、このままではずっとデスクに辿り着けなさそうな気がしただけだ。
ついでに、ここではっきりさせておいたほうがいいだろう。
そう思って、ギャビンは備品に対して口を開く。
「ハッ。ハンクより俺のが優れてるなんて当たり前のこった。いちいち証明する必要すらねえ」
しかし、続きの言葉が出てこない。ポンコツの発言が参考になったわけではまったくないが、思い当たるものがあったからだ。
そうだ、酔いどれハンクには
それに何より、さらに考えてみれば。
もしこのままハンクがいなくなったなら、誰よりもあいつ自身に、ギャビン・リードのほうが優れているのだと見せつけてやる機会がなくなってしまうのは確かである。
20年ほど前の6月、あの路地裏での出来事が頭を過ぎった。
あの日与えられた「屈辱」を、コケにされた苦痛を、あいつにも味わわせてやらなければ気が済まない。
そうなると、あの時投げて寄越された絆創膏を、逆に突きつけてやる時まで、あいつには警官でいてもらわなければならないことになる、だろうか。
そうとも、勝ち逃げなんてさせてやるものか。もちろんハンクはそもそも“勝って”などいないのだが、少なくともあいつがこちらをコケにしている限り、あいつの中では勝ち逃げというのが事実になってしまう。
そんなのは絶対にお断りだ。
――となると。
「おい、ポンコツ」
改めて、ギャビンはRK900に告げた。
「一つ。型落ち野郎がふざけた真似しやがったら、速攻でゴミ箱に叩きこんでやる。二つ。ハンクがどうなろうと、俺の知ったこっちゃねえ」
「理解しました、リード刑事。……ご協力に感謝します」
ポンコツ備品のこめかみのLEDの色が、黄色から青に変化して、安定する。
その有り様を見るのもなんだか不愉快な気分になってきて、ギャビンはもう一度盛大に舌打ちをした。
ともあれ、こちらが曲がりなりにも「協力」してやるつもりになったのは、それが理由だ。
だというのに、あの型落ちアンドロイドは言うに事欠いてギャビン・リードはRK900におんぶにだっこだなどと、よくもそんなクチを叩けたものだ。
こうなればあいつよりも先にさっさと証拠を掴んで、吠え面かかせてやるに限る。
お前はせいぜい臭えゴミでもペロペロ舐めてろ、クソロボット!
この場にいないコナーを頭の中で罵倒している間に、ギャビンは見事に屋敷の裏口を発見した。
しかも――そう、ギャビンの意識が職務中のものに切り替わる。
うっすらと、裏口は開いていたのだ。
「……マジか」
口の中で、ギャビンは呟いた。極力足音を立てないようにしてそっと近づいてみても、やはりドアはほんの僅かではあるが開いており、自由に中に入れるようになっていた。
心臓の鼓動が早くなり、緊張感がある種の高揚を伴って胸中を満たしていく。
うっすらと笑みを湛えながらドアノブに手をかけ、そのまま静かに引いて、隙間から身体を屋内へと滑り込ませた。
油断なく銃を構えつづけているものの、予想に反して邸内(ここはダイニングルームだろうか?)には人影がなく、しんと静まり返っている。当然、天井の灯りも消えていた。
やはり留守なのかとも思ったが、その時、かすかな物音が鼓膜に届く。隣部屋か――と視線を巡らせてみると、この部屋とドアで隔てられた向こう側から、再びがたりと小さな音がした。
よくよく見れば、ドアの下から白い光が少しだけ漏れている。
隣に誰かいる。
裏口を開けっ放しにしていたのは、きっとそいつだ。
そしてこんな時にこの家にいるということは、くだらないコソ泥か、あるいは――
いよいよ獲物を前にした肉食動物のごとき気分で、それでも慎重に足を動かしながら、ギャビンは隣室へのドアに歩み寄る。ゆっくりとドアノブを回し、扉を押し、銃を突きつけるようにしながら半歩、部屋に踏み入った!
すると――
「……!」
ビンゴだ。
踏み込んだ先の部屋はキッチンで、小さなテーブルと椅子を挟んだ向こう側には、冷蔵庫が二つあった。一つは、一般家庭用のやや大きなもの。その隣には大の大人が一人まるまる入れてしまいそうなほどに大型の、業務用冷蔵庫。
しかも業務用のほうを今、熱心に掃除している奴がいる。念入りに、まるで何かの痕跡を消そうとしているかのように丁寧に、中を雑巾で拭いているのだ。
背を向けているのでこちらの侵入には一切気づいていない様子のそいつは、赤茶色のちぢれた髪を生やした、20代半ばくらいの白人の男である。
そしてコナーから事前に得ている情報で、相手の正体にはすぐ思い当たった。
こいつこそが、コーディ・モールズ。
空港の警備員であり、かつ、グレアム・トルシェムを射殺した実行犯と思しき男。
なのにこうしてのこのことトルシェム邸に来ているばかりか、せっせと証拠隠滅作業を警官の目の前でやっているとは――あまりにも馬鹿すぎて、同情したくなるほどだ。
「手を挙げろ!!」
まあ、もちろん同情なんてしないんだが。
内心で嘲笑いながら、ギャビンは鋭く警告を発し、テーブル越しに相手に銃を向けた。
きっとコーディは跳び上がり、震えあがって慈悲を乞うに違いない――と、思っていたのだが。
「……」
予想に反して、コーディはなんの反応も見せなかった。こちらの言葉にはまったく反応せずに、せっせと雑巾を動かしている。肩透かしに負けずにじっと相手を観察すれば、なんと奴の両耳にはイヤホンが刺さっていた。
つまりコーディはブルートゥースで音楽を聴きながら、吞気にお掃除中というわけだ。恐らく、さっきの玄関先でのコナーのクソデカボイスになんの反応もなかったのも、単純にこいつが気づいていなかったせいなのだろう。
こうなってくると、なんだか逆に馬鹿にされているような気分になってくる。
なんならこのままブッ放してやろうか、それとも近づいていきなり
ギャビンは相手に銃口を向けたまま、目の前にある椅子を強く蹴とばした。木製の高価そうな椅子は大きな音を立ててシンクに激突し、そしてその衝撃で、ようやくコーディは気づいたらしい。
コーディはゆっくりと振り返り、こちらを見て一気に表情を引き攣らせた。
――そうそう、こうでなくては話にならない。
ギャビンはニヤリとほくそ笑み、それから銃口をくいくいと動かして、まずはイヤホンを外させた。
「コーディ・モールズだな」
青い顔をしている相手に向かって、静かに告げる。
「俺が誰かわかるか? デトロイト市警のもんだ。てめえがやらかしたコロシと、つまんねえ小細工について話がある。鉛玉ブチ込まれたくなかったら、大人しくついて来るんだな」
「し、し、知らない」
御多分に漏れず、コーディは間の抜けた弁明もどきを繰り出した。
「知らない、オ、オレは知らない! オレは言われた通りにやっただけだ、ぜ、全部アイツにやれって言われたから」
――アイツ? メイジー・トルシェムのことか?
内心では訝しむものの、それは面に出さずに、ギャビンはわざと相手を鼻で笑ってみせる。
「へーなるほど、そいつは興味深いね。そういう話も全部署で聞くからよ、まずは両手を挙げな。間抜けが」
未だにまごまごと雑巾を片手にモタついているコーディに、優しく作法を教えてやる。
けれど、だというのに相手の顔色はますます青ざめていくばかりだった。視線が泳ぎ、手が震えている。銃を突きつけられてビビらない人間などいないのは確かだが、こんなんでよく警備員なんてできたもんだ。
などと、余計なことを考えたのが悪かったのかもしれない。
「うわあああああ!」
瞬間、コーディは叫ぶと同時に手の中の物――要は雑巾をこちらに投げつけてきた。
「ぶっ!?」
異臭のする雑巾は、運悪くギャビンの顔面に当たる。そしてベショベショに濡れて貼りつくそれを頑張って顔から剥がし落としている間に、どたどたと大きな足音を立てつつ、コーディは部屋の外へと逃げ出していったのである。
――まずい。このままでは取り逃がしてしまう!
「待てコラぁ!!」
怒りのままに一喝してから、ギャビンは急いでコーディを追った。
***
その頃コナーは、ゴミの分析と掃除をほとんど終わらせていた。
残念ながら、最初に見つけたクレジットの明細書や、その他の紙ごみや生ごみからは、有益な情報は得られなかった。
最後に残ったのは折り畳まれた状態でそのまま捨てられていた近所のバーガー屋のチラシと、目の前にある黒いポリ袋のみ。コナーはポリ袋に手を伸ばした。
固く結ばれた袋の縛めを解くと、中にはポテトチップスの袋や枯れた花、使用済みのティッシュペーパーと一緒に、くしゃくしゃに丸められた薄い紙が入っている。
紙ごみを手に取り、ゆっくりと広げる。それはどうやらレシートで、紫色のインクによってこう印刷されていた。
『デトロイト・家具レンタル ユース株式会社
業務用冷蔵庫 2039年7/17~7/23の期間 640ドル
デトロイト市リンガー・アヴェニュー241 メイジー・トルシェム様』
「……!」
声にこそ出さなかったが、コナーはぱっと表情を明るくした。
――間違いない。これはメイジー・トルシェムが冷蔵庫をレンタルしたという動かぬ証拠だ。
そしてレンタル期間をみるに、もし彼女がまだ返却していないのなら、この家の中にその冷蔵庫はまだあるはず。
ならば直接調べられれば、きっとグレアムの痕跡を見つけられる。すなわち、冷蔵庫に遺体が隠されていたことと、グレアムの死亡推定時刻が操作されていたこととを裏付けられるのだ。
後は、コーディとメイジーの行方さえわかれば事件解決である。
ようやくはっきりとした筋道が立ち、我知らず「安堵」の感情を覚えながら、コナーは証拠品であるレシートを大事にポケットにしまった。それからポリ袋をゴミ箱に戻そうとしたところで、ふと、強い風が吹く。
風に煽られて、残っていたバーガー屋のチラシがふわりと宙を飛び、やや離れたアスファルト上に落下した。
先を急ぐ身ではあるが、ゴミをそのまま放置しておくのは忍びない。おもむろに立ち上がると、コナーはチラシに歩み寄り、拾い上げた。
――その時である。
大きな音と共に、トルシェム邸の玄関のドアが勢いよく開く。何ごとかと視線を向ければ、飛び出してきたのは赤茶色のちぢれた髪、そばかすの散った顔を真っ青に染めた一人の男性だった。
フェイススキャンの結果を待つまでもない。既にメモリーから呼び出しているその顔と名前は、現段階での最重要目標として厳にプログラムに刻み込まれている。
コーディ・モールズだ。なぜここに!
ともあれこれは絶好の機会だ。コナーは持っていたゴミを一旦放り出し、すかさず相手に駆け寄っていった。
だがコーディは道路脇に停めてあったバイクに跨ると――やはりあれは事件に関係するものだったのだ!――素早くエンジンをかけ、無我夢中といった様子で逃げ去ろうとしている。
こちらの鼻先で、相手のバイクが動き出した。コナーは叫ぶ。
「待て!」
「待てっつってんだろうがぁ!」
玄関のほうから聞こえたのは、ギャビンの叫び声である。察するに、邸内に押し入ったところでコーディと鉢合わせにでもなったのだろうが、今はそちらに気を配っている余裕はない。
ここでコーディを見逃すわけにはいかない!
刹那のうちに決断を下したコナーは持てる全速力で駆けだし、一気にバイクを追いかけはじめた。
機能として自分に発揮できる最高速度はせいぜい時速35キロ、バイクのそれとは比べ物にならない――というのはわかっている。視界の端にも、このまま追跡してもコーディに追いつくのは不可能である旨の警告が表示されていた。
だが、だとしても、ここで止まることを選べなかった。ハンクが疑われる前、もし自分がもっと早くに真相に気づけていたら、より冷静沈着でいられたならば、事態がここまでこじれることもなかったのだから。ここで諦めることを、自分で自分に許可できない。
アンドロイドに疲労による減速などない以上、追い続けていれば、打開の可能性があるかもしれない。
それに相手は、用意周到にもナンバープレートを外している。ここで見失ってしまったら、警察のシステムやナイナーのドローンの助力を得ても、再発見まで時間がかかってしまうだろう。
タイムリミットまで、あと3時間しかないというのに!
コナーは限界ぎりぎりまで、さらに足を速めた。幸いにも車通りは相変わらず少ないので、邪魔が入ることはないものの、距離が縮まることもない。一方で相手は何度もおどおどと後ろを振り返りながら、こちらの様子を窺っている。怯え切っているが、降伏するつもりもない、という姿勢が感じられた。
しかも、それどころか――バイクに跨ったまま、何かごそごそと身を動かしたと思った次の瞬間。
ぐるりと身を翻したコーディが、こちらに向けているのは拳銃の銃口であった。
どうやらバイクのほうに用意してあったらしい、などという考えがプログラム上を過ぎると同時に、激しい衝撃を右肩で感知する。
撃たれた。
恐怖に歪んでいた人間の顔が、勝利を確信した笑みへとゆっくり変わっていくのを、視覚プロセッサがはっきりと捉えている。
「う……!」
たまらずコナーはたたらを踏み、足を止めた。ソーシャルモジュールが自動的に「苦痛」を示す声をあげさせ、いくつかのエラー報告が視界の端に流れていくのが見える。
――だが。
「ひいいっ!?」
何事もなかったかのように動き出し、なおも駆け出すコナーの姿を見て、もうずいぶん距離を稼いでいるというのに、コーディは悲鳴をあげた。
さすがにバイクから滑り落ちるようなことはないものの、ほぼ錯乱状態になり、さりとてまた銃を使う度胸もなく、彼はしがみつくように移動している。
やがてバイクは、大通りへと入っていく。足を止めずに猛追するコナーと相手との距離は、しかしますます広がり、バイクは視界の奥で黒い点のようになっていき――
「おい、とっとと乗れ! コナー!」
バイクの行方を睨み据えるコナーの真後ろで、乗っている車のドアを開けたギャビンが大声をあげるのだった。
***
――まったく、とんでもねえアンドロイドだ。
運転席でハンドルを握るギャビンは、努めて平静を装いつつも、内心ではコナーに戦慄していた。というより、どちらかというとドン引きしていた。
今、道路上で回収したプラスチック刑事は、平然とした面持ちで助手席に座っている。けれども実際のところはまったく落ち着いてなどいないだろうことはLEDリングがビカビカと光っている点から一目瞭然だし、そもそもその目つきの鋭さからして、これまで見たことがないレベルでキレているのも明らかだった。
そしてコナーの視線は、今も大通りを爆走してバイクで逃走中のコーディの背に向けられている。
こちらもかなりのスピードで追いかけているので、かなり距離は縮まってきた。後は、どこか都合のつく場所に追い詰めることができればそれでいい。
どこに追い込めば一番都合がいいか、刑事としてのギャビンは素早く計画を立てている。
だが一方で、頭の片隅ではこんなことを思い出していた。
コナーが時折突拍子もない真似をするというのを、ハンクが他の警官どもに零しているところは、既に何回か目撃している。それにポンコツ備品もまた、捜査の都合でコナーの話が出た時に「兄さんの果敢な判断能力が効果を発揮し」とか「兄さんは非常に勇猛なので」とか、妙な褒め言葉を付け加えることが確かに何度かあった。ほとんど聞き流していたが。
ともあれ、今まで真面目一辺倒だと思っていたお澄ましペットロボに、あんなにも獰猛な一面があったとは。
任務の遂行を最優先にしている、とか、機械として自分の身の安全を考えていない、だとかいう説明をつけづらい、一種異様な迫力をギャビンは感じたのである。
普通、バイクを走って追いかけようとするか? 撃たれたのに平然と追跡を再開するだろうか?
さっきコーディを取り逃がしそうになった時、ギャビンはここまで乗って来た車に咄嗟に飛び乗り、バイクを追おうとした。まさにそのタイミングで、あの追跡を目の当たりにしたのである。その時に脳裏を過ぎったのは、90年代に作られた映画のワンシーンだった。
細かい筋は忘れたが、未来の世界から来た殺人アンドロイドが、主人公たちをあんな勢いで追いかけ回していたような気がする。あのコナーの有り様は、撃たれても大して怯まないところも含めて、それとそっくりだった。
そしてさっきも言った通り、そんなコナーの姿を見て、もちろんギャビンは尊敬も感動もしていない。
あえて譬えるなら、今まで従順だと思っていた大型犬がいきなり他人に牙を剥いて暴れている姿を見た人のような気持ち、といったところか。無論、実際にそんな場面に出くわした経験はないのだが。
どうやらやはり、変異体というのはどこまでいってもエラーを吐いたアンドロイドらしい。
アクセルはしっかり踏んだまま、ギャビンは横目でもう一度コナーの様子を確認した。コナーは無言だが、フラストレーションを示すように口をもごもごさせている。
――こいつ、撃たれてたよな?
思わず自分の記憶を疑いつつ、ギャビンはおもむろに口を開いた。
「おい……お前、平気なのかよ」
「なんです?」
「さっき肩撃たれてただろうが!」
首だけこちらに向けて訝しがるアンドロイドに、ギャビンはなおも問いかけた。
「シャットダウンしそうならそう言えよ、ゴミ収集車を呼ぶからな」
「ご心配なく。軽い傷です」
わざと挑発してやったというのにそれに乗るでもなく、コナーは真面目な面持ちのまま、RK900のジャケットをぺろりとめくった。また横目で確認すれば、黒いインナーに覆われた右肩には確かに小さな凹みがあり、ブルーブラッドも僅かに滲んでいるようだが、「怪我」と呼べそうなのはそれだけだ。
そしてこちらが質問を重ねるまでもなく、コナーはぺらぺらと続きを語りだす。
「ナイナーの制服の防弾性能を考えれば、あそこで弾を避けるよりもあえて受けたほうが、追跡には都合がいいと判断したんです。それは間違っていませんでしたが……せっかく借りた服が汚れてしまった。彼になんて謝ればいいのか」
――心配するとこはそこかよ、というツッコミが喉まで出かかった。しかしそれを告げたら何か負けたような気がするので、ギャビンは言葉を呑み込む。
「ま、まあ、シートが汚れないんならそれでいいがな」
ハンドルを握り直してから、そう嘯いた。
「自分の車がアンドロイドの臭え血で汚れるなんて、そんなのまっぴら」
――ゴメンだ、と続けたかったのだが。
そう語ろうとした口は、眼前の光景によって自ずと啞然とした時の形に変化した。助手席のコナーも、声こそあげないながらも驚きを隠せずにいるようである。
コーディは大通りを行き、順当に考えれば、次の角を右に曲がっていくのだろうとギャビンは予想していた。逃げ込んで車を撒けそうな路地があるのはその方角だし、こちらもその腹積もりで動いていたのである。
ところがコーディは、なんと通りを直進した。その行く手は高速道路であり、傍らにはでかでかと”WRONG WAY”と表記された看板が建っている。
つまり、奴は高速道路を逆走しようとしているのだ。恐怖によるものか、パニック状態なのか、ただの無謀なのか、それは知らないけれども――
「マジかよ」
一応そちらに向かって車を進めつつも、ギャビンはさすがに、嗤うでもなくぎょっとした。
このデトロイトで高速道路を、しかもバイクで逆走しようとするだなんて、自滅への道まっしぐら以外の何ものでもない。
もちろんそれは、自分たちにとっても同じことだ。
癪ではあるが、これは署に連絡して応援を呼び、道路を封鎖してもらうしかないだろうか。
そんな穏当な考えが頭をもたげるが、しかし、それは助手席の型落ちがあげた声によって掻き消されてしまう。
「何をしてるんですか? 早く追ってください!」
「正気かてめえ!?」
ついに頓狂な声を発し、ギャビンはコナーに引き攣った顔を向けた。
「お前、やっぱ故障してんのか。あれが見えねーのか、逆走だぞ逆走! 俺に死ねってか!」
「何言ってるんです、追わなきゃ捕まえられないでしょ!」
「追ったら死ぬっつって……オイ、何してんだ!」
突然、自分の手の表面を白くしたコナーが運転席に手を伸ばしてきたので、ギャビンは慌てて身体でガードする。一方でコナーは、信じられないものを見るような目で見つめてきた。
「このスピードじゃ追いつけない。操縦に不安があるなら、私にやらせてください!」
「誰がてめえなんかに」
と言う暇もなく、なんと勝手に車の速度が上がっている!
愛車はみるみるうちにスピードをあげて、高速道路に突っ込んでいる。既に逆走ルートをひた走っているコーディのバイクをぴったり追いかけるように、車は勝手に動いていた。
まさか――と思ってじろりと隣を見ると、コナーは澄まし顔をしている。つまり澄ました顔で、白くなっていた手をゆっくりと元に戻していた。
「おい、てめえ!」
「大丈夫、操縦権を私に移しました。あなたは署に応援を呼んでください」
「何が大丈夫だ! ハッキングすんじゃねえ、これは俺の車だぞ」
――ああ屈辱的だ。このギャビン・リードが、プラスチック刑事ごときの行動に振り回されているだなんて!!
そんなふうに思う間にも、車はすさまじい速さで高速道路を駆け抜けている。向かい側から来た車が一台、二台、三台、すべてそのすれすれをすり抜けるようにして、ガンガン前に突き進んでいるのだ。
すれ違いざま、トラックの運転手が幽霊でも見るような目つきをこちらに向けているのが見えた。
そりゃそうだろう、こんな状況なら自分だってそうする。
一歩間違えれば即死だ。こんなの、命がいくつあっても足りない!
「コナー、今すぐに車を止めろ! これは命令だぞ」
「すみませんが、私はアンダーソン警部補の命令しか聞けません」
「ハンクの命令だって聞いてねーだろうが、このトンチキアンドロイド!」
妙にキリッとした面持ちで言い放つロボット刑事に対して、ついにギャビンは苛立ちを籠めてハンドルを拳で殴った。
しかしそれにコナーが反応するよりも早く、聞こえてきたのは耳慣れたサイレンの音である。
視界の奥、コーディのバイクを挟むようにして、大挙して押し寄せてきたのはパトカーだ。
まさかコナーが応援を呼んでいたのか、それとも「高速を逆走している奴らがいる」という通報でも入ったか――と思っていると、車に備えつけの端末に通信が入り、訥々としたアンドロイドの声が聞こえてきた。
『……失礼します。無人運転パトカーの要請は完了しています。現在、現場に到着したものと認識します。高速道路の封鎖も同時進行中です』
「ありがとう、ナイナー。助かったよ」
コナーは、ぱっと表情を明るくして備品に礼を述べている。
どうやら、さっき揉めているうちに要請を出していたらしい。だったらそう言え、とコナーを一発シメてやろうかと思ったが、その間に行く手を阻まれたコーディが、バイクを止めて慌てふためいているのに気がついた。
パトカーが隙間なく並んでいるのですり抜けていくこともできず、さりとてバイクを捨てて一人で駆け出して逃げるという度胸もないのだろう。もちろん、携えている拳銃でこちらとやり合うだけの度胸も。
それを確認するが早いか、コナーはさっさと車を停め、勝手に降りていた。LEDリングの色が、黄色と青の間で激しく移り変わっているのが見える。おまけに目つきはさっきと同じく、キレ散らかしたような雰囲気だ。そしてそのまま、もはや道路上にへたり込んでいるコーディに向かってつかつかと歩み寄っている。
――絶対に何かやらかす。
そう思ったギャビンは、ぶへぇと深くため息をついてから、同じく車を降りた。
すると――
ちょうどコナーが、コーディの眼前に立ったところだった。
こちらからは奴の背しか見えないが、その表情は想像がつく。コーディが、潰されたカエルのような気の毒な悲鳴をあげたのが聞こえた。
かたや、コナーはコーディの足元に視線を移してぽつりと言う。
「かぶれている」
「へっ……!?」
「あなたの左足首の皮膚の炎症は、ドクウルシとの接触によるものだ。分析によれば、接触したのはおよそ8時間前。朝の4時に、デトロイト河の河川敷でいったい何をしていたんです」
問われたコーディは、びくりと身を震わせた。
ギャビンには状況がよく掴めないが、どうやら相手には身に覚えのあることらしい。
「し、知らない! このかぶれは、き、近所の公園で」
「近所とはどこです? その種の皮膚炎を引き起こすドクウルシは、市内ではあの河川敷にしか生息していない。何より、何も知らないのならなぜ私を撃つ必要があったんですか」
「ひいぃ……」
相手にとってみれば、コナーは差し詰め銃の効かない無敵ロボットか何かのように見えているのだろう。
じりじりとさらに距離を詰められて、コーディはほとんど失禁寸前のような表情になった。
だがそれにも負けずに、コナーはいきなり大声をあげた。
「警部補の銃を使って、あの場でグレアムを射殺できたのは君だけだ! それとも、すべてメイジーがやったとでも言うのか!? ならその手についている被害者の体液はなんなんだ!」
「ひいっ!」
犯人は右手をさっと隠している。だが既にアンドロイド刑事に見抜かれてしまっているのだから、今さらそんなことをしても無意味だろう。
というより、どうやらコーディが冷蔵庫を拭いていたのは、遺体から冷蔵庫に漏れた「何か」をせっせと拭いていたからのようだ。つまりその雑巾が顔面に当たったのだから、今、自分の顔には――
ギャビンは思い切り顔を引き攣らせた。できることならこの場で顔を百万回は洗いたいし、普段の自分なら、えげつないほど汚いモンを投げつけられていたというのを知った段階で、コーディのクソ野郎に三発は蹴りを入れていたことだろう。
だが今、不思議とそういう気持ちにはならなかった。たぶん理由は――
「これは、冷蔵庫のレンタルの証拠品のレシートだ。メイジーの名義が、はっきりと記載されている。これでもまだシラを切れると思ってるのか? 自分の行いぐらい、認めたらどうなんだ!?」
ぶち切れ機械のワンマンショーが、飛行機の騒音より激しく鼓膜を揺さぶっているせいだと思う。
そう考えたギャビンはふと、昨年の11月の夜、オーティスとかいう男を殺した変異体を尋問している時のコナーの姿を思い出した。
――そういえば、こいつは前から唐突にデカい声を出すのが十八番だったな、クソが。
それからギャビンは自然と、連想するように尋問の夜の記憶をさらに呼び起こした。
あの時、コナーは脅したりすかしたりと目まぐるしく態度を変えながら、結局“見事に”尋問を成功させていた。それだけでも手柄を取られたようで面白くないのに、その後は「そっとしておけ」などと機械のくせに命令してきて、こちらの面目を潰してきたのだ。
分を弁えない機械に礼儀を教えてやろうと抜いた拳銃も、しゃしゃり出てきたハンクのせいで止められてしまった。思い起こすほどに、自分がコナーを嫌っているのは、初対面のあの夜の出来事がきっかけなのだ。
「……」
コーディに対するコナーの激しい「尋問」が続く中、それを思い出すとだんだん腹が立ってくる。
つまり、こうして傍観者となっている自分自身に対してである。
そうとも。なぜこのギャビン・リードが、プラスチック刑事なんかの言動にビビった挙句に、こうして温かく奴の尋問を見守ってやらなければならないのか。
真相などどうでもいいことだが、このまま事件が解決した時に、「リード刑事は驚いているだけで特に役に立ちませんでした」などと、ペットのアンドロイドがハンクに報告しやがったとしたらどうする?
そもそもハンクに勝ち逃げさせないためにここまで苦労しているというのに、こんなところでまでコナーの野郎に手柄を奪われてたまるか。あの尋問の夜のような気分を味わってたまるか。
ギャビンはそう決意した――とはいえ、いきなりここで銃を抜いてコーディに突きつけるのは得策ではない。それを判断できる程度の冷静さは残っていた。
「い、言いたくない! 頼むから勘弁してくれぇえ!」
既にコーディは、これ以上ないくらいにビビりあがっているからだ。ああいう奴にあれ以上の恐怖を与えてやるとなったら、それこそ実際に痛めつけるくらいしか手段がないだろうが、そんな方法を取ればまたお利口野郎どもに問題視され、チクられてしまうだろう。面倒事はごめんだ。
となるとここは、警察学校でお馴染みの
たとえ普段の自分の方針とは真逆でも――これ以上コナーにコケにされないためには、やってやるしかない。
そう思う間に、アンドロイド刑事による尋問は真骨頂を迎えていた。
「教えろ、誰の差し金だ! こんな事件を偶然引き起こせるはずがない、裏で手を引いている奴がいるんだろ。エリック・ピピンか!? どうなんだ、答えろ!」
「や、やめろぉ……」
「おいおい、待てよ」
もはやえぐえぐと泣きはじめているコーディを見下ろしつつ、ギャビンは穏やかに割って入った。にこにこと、できるだけサワヤカに。
そして大声を出したからか、息をしているわけでもないのに肩を激しく上下させているコナーの隣に立つと(「何するつもりだお前」というような眼差しを向けられているが無視して)、被疑者に静かに語りかける。
「なあおい、お前も苦労するよなあ? 冷蔵庫を拭けってのは、アイツに言われたのか?」
「はっ……」
「メイジーだよ。面倒事を押しつけられたんだろ? わざわざ休みの日に危険な仕事やらされるなんて、辛いモンだよなぁ?」
わざとらしく、ギャビンは大きなため息をついた。
するとコーディは泣くのをやめてこちらに視線を向け、一方でコナーはといえば、何やらハッとしたような表情でこちらを見ている。
そこで、すかさず続きを述べた。
「今、ここでゲロっちまえよ。そうしたらほれ、お上にも慈悲があるってモンかもな。それとも、こっちのアンドロイド刑事に死ぬまで揺さぶられたいってんなら、止めやしないぜ?」
横のコナーを人差し指で指しながら、ギャビンは身を曲げてぐっとコーディに顔を近づける。
それから、そっと囁いた。
「ここだけの話、コイツはこれ以上キレるともっとヤバいぞ。そうなる前に、俺は親切で言ってやってんだが。なあ、怒鳴られてツラかっただろ?」
「うう……!」
うるうるしたコーディの両目から、大粒の涙が溢れる。――どうやら、我慢の限界だったようだ。
そしてそれは、ギャビンにとっての作戦成功を意味する。
それから相手は、内心でにんまりするギャビンに対して、知り得るすべてをベラベラと語りだしたのだった。
メイジーとは長く恋人、現在は不倫関係にあり、グレアムに掛かっている保険金目当てで、共謀して今回の殺人事件を引き起こしたこと。
彼女からグレアムを殺害する方法を伝授されると共に9mmのホローポイント弾を一発渡されて、その指示通りに動いたこと。
昨日の犯行時にはハンクの銃を持って車内の助手席に身を潜め、グレアムが後部座席に乗り込んだのと同時に、いきなり射殺したこと。
そしてトルシェム邸内の冷蔵庫に隠した遺体と射撃時の空薬莢を、今朝の4時頃に河川敷に転がして逃走したこと――ウルシにはその時にかぶれたこと。
けれどそれ以外はよく知らないのだと、コーディは真に迫った様子で訴えてきた。
「そもそもアンダーソン警部補が空港に来たのは、麻薬密輸の件でグレアムに疑いがかかっていたからでしたが」
やや落ち着いた様子で、コナーがコーディに問いかける。
「それについても、詳細を知らないと?」
「うぅ、は、はい」
コーディは何度も頷いている。
「あまり多くの人間が、事件についていろいろ知ってるとそこからバレるからって……自分もあまり詳しく知らないようにしているんだって、そう言って……ました」
「自分も、だぁ?」
遠慮なく、ギャビンは疑問の声をあげた。
「メイジーが全部仕切ってんじゃなかったのか。それとも、やっぱピピンの野郎が関わってんのか?」
「オ、オレは知らない。メイジーに聞いてくれ」
「ええ、そうします」
すんなりと首を縦に振って、それから、コナーはずいっとコーディに近づいた。
もう靴先が、相手のへたり込んだ尻に触りそうなほどの距離だ。
「ではお聞きしたいのですが……当のメイジー本人は、今どこに?」
「う……!」
「入院したとは聞いてますが、どこなのかは教えてもらっていなくて」
穏やかに言いながら、コナーはすっとしゃがみ込んだ。
それから、静かに続けて問う。
「ご存じなら、ぜひ教えてくれませんか。どうしても事件を解決したいんです」
「そ、それは……」
下唇を噛み、震えてから、コーディはなけなしのプライドを掻き集めたような表情を浮かべた。
けれど顔を上げ、コナーの面持ちを窺うや否や、すぐにそれは泣き顔に戻ってしまう。
――コナーの顔つきがどうなっているのかはこちらからはやはり見えないが、それは問題じゃない。ギャビンはもう一度、コーディに話しかけた。
「なっ、ヤバそうだろ。今のうちに話しといたほうが身のためだぜ?」
「う、う……」
コーディはこちらを見て、また恐怖のアンドロイドの顔面を拝んだ。それから――恐らく、クズなりに恋人を裏切るのには抵抗があったのだろうが――観念したように、とある病院の名を告げた。
そこは先に睨んでいた通り、政治家だの、スキャンダルを起こした芸能人だのが「病気療養」の名のもとに隠れ住むような場所だ。メイジーはそこに入院しているという。
なるほど、そうした病院ならば世間の目からも警察からも自分を守ってくれる――と、踏んだのに違いない。
それは馬鹿な考えだったと、後悔させるのはこの後だ。
「では、私たちはこれで」
腰が抜けたままのコーディに対して、追加の応援としてやって来たパトカーのサイレンをバックに、コナーは堂々と言い放つ。
「あなたの取り調べの続きは、また署に戻ってから行います。その時は、もっと素直にすべてを告白してくださるよう、期待しています」
「はっ、はいぃ!」
ほとんど平伏するような勢いで、コーディはコナーに返事している。
まあ、哀れと言えば哀れではあるが――とっととゲロったのだからそれでいい。駆けつけてきた警官たちによってパトカーに押し込まれる時、コーディが妙にほっとした顔をしていたのが印象的だった。
こうしてコーディ・モールズは、無事に逮捕されたのである。
「ケッ、クソが」
奴を乗せたパトカーが見えなくなった頃、自分の車に戻りながら、ギャビンは吐き捨てるように言った。
「こんなとこまで来させて、手間かけさせやがって。ま、あとはメイジーんとこにカチコみゃ終わりだな」
どちらかというと、それは独り言だった。
ここからメイジーのいる病院までの道のりにかかる時間は、約30分。スムーズに事が運べば、この馬鹿げた苦労も多少は報われるというものだろう。
やれやれと首を振りながら、さっさと車に乗り込んだ。ここでチンタラしていたら、高速の封鎖が解除されて、今度こそ轢き殺されてしまうかもしれないからだ。
しかし――
「あ?」
助手席に乗り込んできたコナーが、妙に神妙な面持ちをしているのに気づく。見咎めたギャビンが声を発すると、相手はこちらに視線を向けて、それから静かに言った。
「リード刑事。先ほどはご協力いただき、ありがとうございました」
「……んだと?」
「実行犯を前にすると、つい攻撃的な言葉ばかり選んでしまって。あなたのご助力がなければ、きっと尋問は成功しなかったはず」
そう告げて、プラスチック刑事は微笑んだ。
いつものような皮肉たっぷりの、口元だけ吊り上がったような気持ち悪い笑いではなく――
いわゆる、純然たる笑顔というやつである。
「ゲッ」
そんな
「あなたがあえて犯人に同情的な態度をとってくださって、助かりました。あれこそが、尋問の基本である『良い警官と悪い警官』ですね」
「……クソが」
『良い警官と悪い警官』とは、尋問に関する心理術だ。あえて攻撃的な態度をとる警官と、同情的な態度をとる警官とに分かれることで、相手に心理的揺さぶりをかけたり、「良い警官」のほうに信頼感を持たせたりする方法をいう。警察学校の教科書には、必ず書いてある手法なわけだが――
もちろん、ギャビンはそれを承知していた。コナーが凶暴化している時だからこそ、自分があえて穏やかにコーディに接することで、期待している成果を得られるだろうと。
だが、これはよくない。
コナーの野郎に、こんな感想を述べさせるのは。
自分があえて「良い警官」をやったのは、ハンクとペットのアンドロイドに思い知らせてやるためだ。
ひとえに「あなたのすさまじい実力を思い知ったので、型落ちらしく大人しく隅っこで暮らしますぅ~」と言わせてやるためだ。
決して「ご協力ありがとう」だなんて――つまり手伝ってくれたのだ、なんて思わせるためではない!
気持ちの悪いことを言われたせいで、胸の奥がムカムカする。
ギャビンは苛立ちのままに、はっきりと口に出して言ってやった。
「いい気になるなよ、コナー。誰がてめえに協力なんかするか!」
ハンドルを殴るようにしながら、自動運転をONにする。
それから、思い切り指を相手の眉間に突きつけて告げた。
「これで貸しはチャラだからな、クソアンドロイド!」
「……?」
まるで耳慣れない言葉を聞いた犬のように、コナーは首を傾げている。
「貸し? どういう意味です」
「俺がそう何度も、てめえごときにビビらされてたまるかよ」
――さっきまでのコナーの凶暴ぶりにドン引いてしまった自分、傍観者めいていた自分に対する決別のつもりで、ギャビンはわざと声をあげて笑う。
「これに懲りたら、ちょっとは人間様を敬うこったな。お前ら変異体を中心に地球が回ってると思ったら大間違いだ、クソどもが」
「仰っている意味がわかりません」
さっきまでの純朴そうな態度がなりを潜め、今度は思い切り訝しげな顔で、コナーはこちらをじろじろ見ている。
「私は何もあなたに貸したつもりなどないのですが。むしろ、私のほうがあなたに」
「黙れ、このプラごみ野郎!!」
――もうこれから先は何があろうと、たとえ疑似的にであろうと、こいつに“協力”なんてしてやるものか。
そういうつもりで言ったのだが、それがこのみんな大好きプラスチック刑事に通じているのかどうかは知らない。興味もない。どうでもいい。
今はただ、無駄に気力を消耗してしまったような気がする苛立ちを、さっきの一言で吐き出して終わりにしたかった。
それきり黙りこくってしまったギャビンと、首を傾げたままのコナーを乗せて、車は一路、メイジーがいるという大病院へと向かう。
さらにその後は、思っていたよりも簡単にコトが運んでいった。
推理と積み上げた証拠、それから突きつけたバッジの威力は、どうやら胡散臭い病院相手にも有効のようだったからだ。
最初は守秘義務契約と、医療従事者としての倫理を理由にメイジーの引き渡しを拒んでいた病院側も、当人が殺人に積極的に加担していたことと、それを既にコーディが証言している事実を告げられると、態度を軟化させたのである。
無意味に警察とやり合うより、「患者」を渡すほうがいろいろな意味で有益だ、と判断したのかもしれない。
ともあれホテルよろしく最上階のVIP病室にいたメイジー・トルシェムは、無事にデトロイト市警に引き渡された。
犯行に使われた車も、病院建物内の駐車場の奥に停められているのが発見された――どうりで、ドローンでも発見できなかったはずである。
そしてコナーが調べたところ、車内には発砲の痕跡とグレアム殺害の証拠となる物質(スチフニン酸鉛だの、硫化アンチモンだの、害者の血液だの、お決まりのやつである)がわんさか検出された。
これだけ証拠があれば、誰が真犯人かなど、幼稚園児でもわかるだろう。
こうして時刻にして14時21分、査問委員たちの乗った車が署まであと300メートルの圏内に迫ってきていたところで――ハンク・アンダーソンの無実は、完全に証明されたのである。
***
――2039年7月20日 16:26
署長のオフィスのドアがゆっくりと開き、そこからハンクが姿を見せる。後ろ頭をポリポリ掻きつつ、いかにもつまらない時間を過ごしたと主張したげな面持ちではあるが、その口元は笑っているのを、コナーはしっかりと確認していた。
「ハンク!」
いつもの自分のデスクで弟と一緒に、署長室から警部補が解放される時を今か今かと待っていたコナーは、彼の姿を見るや急いで立ち上がる。
かたやハンクは、それを見て苦笑した。
「おいおい。別に、何十年ぶりの再会ってわけでもないんだからよ」
「すみません、でも……こうしてあなたの潔白が証明されたのが嬉しくて」
コナーが言うと、ハンクは何も応えずに――しかし微笑んだまま、ただ肩を竦めた。それから、黙って立っているナイナーに視線を移してこう告げる。
「ジェフリーが、ギャビンと
つまり、RK800とRK900が入れ替わって捜査していたことは不問に付してやるが、もう二度とこういう真似はするなよ、という意味であろう。
「了解しました」
ナイナーは、静かに瞬きながら応える。
「今後、同種の状況が発生しないことを祈念するばかりです。しかしながら……今回、多少なりとお役に立てたことは嬉しい、と認識しています。申し訳ありません」
「謝る必要なんてないよ。君がいてくれたからこそ、すべて上手くいったんだ!」
無表情のまま顔を俯ける弟に、心からの感謝を述べた。
「あのままハンクが査問に掛けられていたらと思うと、ぞっとするよ。僕一人では、きっと対処できなかっただろうし……君が警部補と一緒にいてくれたから、安心して捜査できたんだ」
「ぞっとする、ねえ」
自分のデスクの椅子に座ったハンクは、今度は皮肉っぽく笑った。
「確かに、お前を放っといてムショ送りになったらぞっとするかもな。今回だって、肩をケガしたんだろ? だから無茶すんなって、いつも言ってるのによ」
「それは……その点もすみません」
やや悄然となって、コナーは応えた。
既に例の制服の汚れについてはナイナーに謝ったし(彼は許すどころかこちらを心配してくれた)、肩の凹みも、簡単な処置で修理してある。
けれど、毎回のように警部補から警告されているのに、つい夢中になって突っ走ってしまったのは事実である。反省しなければならない。
しかしそんなこちらの様子を見て、特にハンクはそれ以上叱るでもなかった。代わりに彼は後ろ頭で両手を組み、大きく背を伸ばすように椅子の背にもたれかかると、ぽつりと言う。
「世話かけたな」
「ハンク……?」
「俺が下手打ったせいで、お前らに迷惑かけちまった」
姿勢はそのままに、彼は続けて語った。
「過去ってのはどんなに時間が経っても、纏わりついてくるもんだって知ってるはずなんだがな。忘れたくないことでも……忘れちまいたいことでも。それに足元を掬われてちゃ、ザマぁねえってもんだぜ」
「いいえ」
我知らず決然と、コナーは声を発していた。
「昨日言った通り、あなたは既に過去に向き合っている。卑劣なのは、それを利用しようとした犯人たちのやり口です。きっと一連の事件に関する捜査の中心にいるあなたを失脚させ、妨害をしようとしたのでしょうが」
到底許しがたい、本当に卑怯な行いだ。相手はハンクの命を直接狙うのではなく、社会的な失墜を狙ったわけだ。ナイナーやリード刑事の協力がなければ、今頃どうなっていたことか。
一方、ハンクはそれに対して何かコメントを残すでもなかった。
姿勢を戻した彼は、ちらりとこちらに一瞥を――何か、とても温かな眼差しを――向けると、それから刑事としての面持ちになって口を開く。
「妨害ね。すると、メイジーはやっぱりピピンと関係が?」
「はい、警部補」
署に戻ってからさっそく行われた、リード刑事によるメイジー・トルシェムの尋問には、ミラーガラス越しにすべて同席していた。
手短に状況を説明するつもりで、まずは結論から先に告げる。
「今回の二つの事件、つまり空港での麻薬密輸未遂とトルシェム氏の殺害の裏には、ピピンによる協力があったようです」
それからコナーは、警部補に詳細を説明した。
メイジー・トルシェムがエリック・ピピンと関わりを持ったのは、とある非公式のパーティ会場でのことだった。グレアムに付き添って参加したパーティで、「人材コンサルタント」だと名乗ったピピンは、「何か困りごとがあればいつでも相談してほしい」と語ったという。――先日の球団オーナーの状況と、とてもよく似ている。
しかしその口ぶりの割にピピンから名刺などが渡されることもなく、メイジー自身も少し奇妙だと思った数週間後、事態は動いた。
メイジーは、以前から多額の借金に頭を悩ませていた。グレアムにも内緒のその負債は、日に日に膨れ上がっていく一方だった。資産家のグレアムと結婚しているという立場を利用しても、まだ金が足りない。どんどん送られてくる督促状に困り果てていた頃、個人の電子メールに、あのピピンから連絡があったのだという。
「そのメールは直接確認できましたが、残念ながら送り主のアドレスは架空のものになっていました。きっと追跡を逃れるためなのでしょうが……ともかく、ピピンはなぜかメイジーの借金や人間関係を把握していて、そのうえでこんな提案をしてきたそうです」
――あなたの借金返済と、コーディ君との関係。どちらも両立させる、いい方法を知っています。
別の方から受けている依頼と、あなたの問題の解決方法がちょうど噛み合っているのです。
あなたのパートナーは、保険に加入していますね。
どうでしょう、私のコンサルティングに任せてみませんか?
あなたはただ、私の指示の通りにこなせばいいのです。どうです、簡単でしょう?――
他にあてのなかったメイジーにとって、グレアムに掛けられている死亡保険金は魅力的であった。
だから彼女はこの提案に飛びつき、コーディを共犯者に、ハンク・アンダーソンに罪を着せるための行動をとった。
けれども彼女自身が、計画の全容を把握していたわけではない――つまり、メイジーは「なぜ」アンダーソン警部補が空港に来るのか、「どのような」事件にグレアムが巻き込まれるのかについては、まったく知らなかったのである。
ここからは推測になるが、恐らくピピンは、同時期にエミール・ダックスからも依頼を受けていたのだろう。つまり、グレアム・トルシェムの社会的信用を失わせるために、彼に罪を着せてほしいという依頼である。
しかしピピンにとってはアンダーソン警部補を捜査から外すことのほうが重要であり、かつそのためには、グレアム・トルシェムと警部補を直接接触させる必要があった。
だからピピンは、あえて麻薬密輸未遂事件のほうでは手がかりを多く残した。その日のうちに事件が解決され、かつ、安堵したグレアムによってハンクが面罵されやすいような状況を作れるように。
空港での事件の際、簡単な聞き込み調査を行った時、メイジーはアンドロイドやミニテーブルに関する質問に「知らない」と答えた。かつ、ストレスレベルなどを分析しても、彼女には嘘をついている様子がなかった。
それも当然だったのだ。彼女は本当に、エミール・ダックスの事件に関しては何も知らなかったのだから。
先ほどコーディが言っていたように、事件に関して「自分もあまり詳しく知らないようにしている」というのは、真相の露見を防ぐためだったのだろう。
メイジーはピピンから、「グレアムが空港から帰ろうとしたら、だまし取った警部補の銃で彼を撃ち殺せ」という指示を受けていた。それに従った結果、あの事件が起きた――
「ふん、そういうことか」
警部補は、腕組みをして唸るように言った。
「ピピンの野郎、他人に事件を起こさせて、自分はアイデアを提供しただけですってか。人材コンサルタントというよりは、犯罪コンサルタントって感じだな」
「吸血鬼事件のことを考えても、人の心理を操って事件を起こすのを得意とする人物のようです。このまま放っていては、また被害者が出るかも……」
「確かにな。だが、今はこの情報が得られただけでも一歩前進ってやつだ」
腕組みを解き、ハンクは落ち着いた口調で語る。
「それにいくら連中の組織がデカくても、もう今回と同じ手は使ってこないだろ。これからは俺たちも警戒するし……ほら、一度タネが割れた手品を客に披露する奴もいないだろうからな」
「……そうですね」
ピピンとその「協力者」である眼鏡の男については、徐々に情報が集まりつつある。
とはいえそのいずれもが、尻尾を掴む決定打とはなりえていない。彼らが明確に姿を現したとされる場所をいくら調べても、痕跡は完全に消されていて、足取りを追えないようにされているからだ。
だがもしこれから先、彼らが大きく動くことがあれば――それはこの社会全体にとって不幸なことだが――つけ込めるだけの隙が生じるかもしれない。
それまでは警部補の言った通り、今回の事件解決をもって「一歩前進」とするべきだろう。
「なあ、ところで」
と、ハンクが辺りを見回しながら言った。
「ギャビンの奴はどこだ? てっきりすぐに顔を合わすと思ってたが」
「リード刑事は現在、休憩室にて待機中です」
ナイナーが応える。
「尋問の完了後、疲労を認識したので休憩を実施すると。警部補が署長室から解放されるまで、私たちと共に待機することを提案しましたが、却下されました」
「そうか。面倒かけちまったから、あいつにも一言礼を言っとこうと思ったんだがな」
これは皮肉ではなく、本心といった様子でハンクがぼやく。
そこで、コナーは言った。
「では、私がリード刑事にお声がけしましょう。よろしければ、お礼もお伝えしておきますよ」
「へぇ、こりゃ珍しい」
青い瞳を大きく見開いて、さも面白そうにハンクは言う。
「お前がギャビンに話しかけに行くなんてな。つるんで捜査して、仲良しにでもなったか?」
「いいえ、そういうわけでは」
そこはきっぱりと、コナーは否定する。
「ですが、少しは理解できたように思うんです。彼の人となりというものを」
「人となりねえ」
ハンクはそう言って、ナイナーに視線を向けた。
ナイナーはそれに応えるように、ゆっくりと頷く。
「……捜査を通じ、私であっても、多少はリード刑事が理解可能になりつつあります。兄さんであれば、猶更であると判断します」
「そういうもんかね。まあいい、ならお前に任せるさ。俺が言ってもこじれるかもしれないしな」
「わかりました、警部補」
短く頷いて、コナーはデスクを離れる。
すぐそこにある休憩室の中の様子は、この角度からではよく見えなかった。
***
休憩室に入ると、ギャビンはこちらに背を向けて、椅子に腰かけていた。しかし足音は聞こえていたのだろう、彼はふてくされた表情で振り返るなり、高圧的な声音で言う。
「おい、コーヒー持って……チッ、てめえかよ」
「以前も言った通り、パートナーに命じるのではなくご自分で動かれたほうが、あなたの健康のためにもなりますよ。リード刑事」
努めて穏やかに、コナーは応える。しかしギャビンはというと、つまらなそうに鼻を鳴らしたきり、そっぽを向いてしまった。
だからこちらは、それに対してちょっとだけ首を傾げてから――事前に用意していたものを、彼に投げて寄越す。
「なっ……!」
何かを投げつけられたのに気づいた相手は、驚いた様子で(しかし見事に)それをキャッチした。
投げたのは、もちろん雑巾ではない。スポーツドリンクの入ったボトルである。
「僭越ながら分析したところ、水分補給が必要な様子だったので。そのブランドはローカロリーかつ食物繊維入りです。おススメですよ」
「誰も聞いてねえよ、プラスチック」
さらに腹立たしそうに、ギャビンは言う。けれど彼は、それを逆にこちらに投げつけたり、わざとらしく捨てたりはしなかった。中身を開けはしないが、一応テーブルの上に置いている。
だから、コナーは用件を述べた。
「アンダーソン警部補が、あなたに感謝していると。ご協力がなければ、どうなっていたことか……捜査中の私の態度についても、お詫びします。すみませんでした」
「ハッ。とことんポンコツだな、てめえは」
鋭くこちらを睨みつけつつ、頬杖までついてギャビンは語る。
「詫びるってんなら、今後二度と俺の邪魔はするな。機械らしく、命令にはちゃんと従うんだな」
「それは認識の相違があるかと」
その場に立ち、後ろで手を組んでから、彼に言い返す。
「あなたに刑事として優れた点があるのは認めますし、そのアグレッシブさも驚嘆に値します。ですが他者に対する態度と、差別的言動はいただけませんね。そういった点を改善していただけるなら、喜んでご提案は承りますが」
「言ってろ、クソが」
吠えるようにギャビンは言い、次いで――やはり水分摂取が必要な状態だったのだろう――ボトルを開けると中身を喉に流し込み、それからこちらに向き直って、続きを述べた。
「つーか、何が言いたい? ご主人様が戻ってきたから、調子こいて俺に喧嘩売りに来たのか」
「いいえ、まさか。ただ、一つお伺いしてみたくて」
告げてから、コナーは、にこやかにこう問いかける。
「どうでしょう、私たち……そう悪くないチームだったと思うのですが」
「ハ!! どこがだよ。本当に頭イカれてんな、てめえ!」
ギャビンは、いかにも面白い冗談を聞いたとでも言うようにのけぞって笑った。
そして姿勢を戻すのと同時に、こう応えてきた。中指を立てながら。
「てめえと組むなんて二度とごめんだ。クソったれ」
「そうですか」
だからコナーは、にっこりと笑顔を返す。
「意見が合いましたね、リード刑事」
「ケッ!」
こちらの返答を聞いて、彼は呪われろとばかりに吐き捨てた。
椅子から飛び降りるようにして床に立つなり、手にしたボトルを叩きつけるようにゴミ箱に捨てる。
そしてそれきり何も言わず、振り返ることもなしに、ギャビンは休憩室を出て行ったのだった。
――コナーは思う。リード刑事は決して、いわゆる「いい人」ではない。
ハンクに対する謎の敵愾心はそのままだし、弟をポンコツ備品と呼ぶのも、アンドロイドをプラスチック呼ばわりするのも、未だに辞めはしない。
けれど、だからといってこれから先、何も変わらないわけではない。現にかつての、革命が起きる前の彼と、今の彼は少し違っている。
それはきっと、ナイナーとの関わりが彼をそうさせたのだということもあるだろうし――こちら側の認識だってそうだろう。今回のことで、コナーは実際に、リード刑事のことを多少は理解できたように思っているのだ。
互いを知れば、何かが変わることはある。
それは何もリード刑事に限った話ではなく、この社会全体にとっての希望であるように、今のコナーには感じられた。
「おい、コナー!」
パートナーが、自分を呼ぶ声がする。
きっと報告書のことで、何か困っているのだろう。
「今、行きます!」
コナーは短く答えて、休憩室を出た。
ゴミ箱の淵に引っかかっていたボトルが、小さな音を立てて中に落ちていった。
(逆転/The Unusual Suspect おわり)
これまでの拙作におけるコナーとギャビンの相性は、AからEランクで表すと「E」だったのですが、今回の件で「D+」か「C-」程度にはなったぐらいのつもりです。
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第43話:花屋 前編/The Homecoming Part 1
――2039年7月20日 21:14
「……どうかしら。原因はわかった?」
問いかけに、相手はゆっくりと首を横に振る。
カーラは、悲嘆に表情を歪めそうになった。けれど、自分の右手を握っている小さな手の存在を思い出して、気を引き締める。
――アリス。ただでさえ、こんなことになって心配させてしまっている。
せめて、これ以上不安がらせないようにしなければ。
固く唇を結んだこちらの様子を見て、仲間である女性型のアンドロイドが、そっと肩に手を置いてくれた。
カナダ、オンタリオ州の西部にある牧場。
その中心にあるログハウスのリビングは、温かみのある内装に反して、重く張り詰めている。
今は使われていない暖炉の前にある、大きなソファー――普段は思い思いに談笑したり、読書したり、音楽を奏でたりといった楽しい時間を過ごすはずの場所には今、一人のアンドロイドが横たわっていた。
重労働を担うために設計された、屈強な黒人男性を模した身体を持つTR400型の変異体・ルーサー。
静かに目を閉じている彼の周りには、同じようにここまで逃げてきて、共に暮らしているアンドロイドたちがいる。
そして、カーラとアリス――つまり、彼の家族も。
「ねえ、ルーサーに何があったの?」
たまりかねたように、アリスが瞳を潤ませながら口を開いた。
「昨日まで、ずっと元気だったよね。なのに、こんなに急に……」
アリスが涙目になるのも無理はない。
事故が起きたのは夕方、彼女の目の前でのことだったからだ。
アリスが学校から帰ってきた時、ちょうどルーサーは屋根を修理しているところだった。腐食しかけている箇所を差し替えるという、彼にとっては簡単な作業のはずだったのに、突然、ルーサーは持っていた工具を取り落としたのだ。
それから呻き声と共にバランスを崩し、屋根を滑り落ち、そのまま下へ。
幸い、落下の衝撃は深刻なものではなかった。テラス部分の屋根に引っかかったからだ。
けれどルーサーはその時から、不調に陥ってしまった。歩いたり話したりはできるものの、手足に力が入らない。
あたかも熱病にかかった人間のように、強い虚脱感に襲われているのだという。
そこで、こうして仲間の変異体たちも集い、なんとか彼を治せないかと知恵を絞っているのだが――
「もしかして、もう治らないの?」
アリスは絶望的な言葉を発した。けれど、さっきまでルーサーを診察していた変異体――元々サイバーライフのサポートセンターに配属されていたこともあって機体に詳しい人物、ディーコンが、目を閉じたままのルーサーに代わり静かに言った。
「いいや、アリス」
変装用に掛けている銀縁の眼鏡の弦を弄りつつ、宥めるように彼は語る。
「そこは大丈夫だよ。ルーサーに発生しているエラーはハードウェア、つまり身体に関するものだ。具体的には、手足のね。だからちゃんとパーツさえ交換できれば、きっと治るはずさ」
「原因がわからなくても、それはハッキリしてるのね?」
信じていないわけではないけれど、念を押すように問うカーラに、ディーコンは頷いた。
「ああ。今まで元気だったルーサーに、どうして突然こんな不調が起きたのかはわからないが……調べてみても、中枢にはなんの異常もなかった。そこさえ無事なら、あとは部品の問題だよ。ただ」
ふいに口ごもった彼に、カーラとアリスだけでなく、周りにいる仲間たちの視線も注がれる。
ややあってから、ディーコンは重苦しい口調で続けた。
「……治療に必要なパーツのストックが、ここにない。ちょっと特殊な部品だから、カナダじゃ手に入りづらいんだ。それにどのみち、原因を明らかにしなけりゃ、今後もまた同じことが起きるかもしれない」
「そんな……! それじゃ、どうしたら」
「一つ、アテはある」
こちらの言葉を遮るように立てた人差し指を天井に向けつつ、彼は言った。
「変異体を相手にしてるクリニックがあるんだ、デトロイトにね。俺の知り合いのアンドロイドが、ジェリコの支援を受けてやってる。ちょっとユニークな奴なんだが、腕は保証するよ。きっとルーサーのエラーの原因の特定も、治療も、完璧にこなしてくれるはずさ」
「デトロイト……」
恐れと不安、それに僅かな郷愁を籠めて、カーラはその都市の名を呼んだ。
自分の、そしてアリスやルーサーの故郷。嵐のような日々を乗り越えて、もう戻らないと思ったあの場所にこそ、大切な家族の命を救う手立てがあるだなんて。
しかしそれは、ある意味当然でもある。
このカナダには変異体と、それを支援する人々のネットワークがあり、お蔭でカーラたちは偽造した「人間」としての身分で平穏無事に過ごせている。それでも、ことサイバーライフ製のアンドロイドに纏わるもので、デトロイトにないものはない。部品も、情報も、人材も。
きっとその医師が、ルーサーを治してくれる。
――ならば今一度、戻るしかないのだろう。
あの鉄の街に。
決意を固め、カーラは了承と感謝の意を伝えようとした。
けれどそれより早く、低く穏やかな声が聞こえる。
「……みんな、心配かけたな。デトロイトには俺一人で行くよ」
「ルーサー!」
いつの間にか目を開けていたルーサーが、横たわったままこちらに顔を向けている。彼ははにかむように微笑んでいた。
「大丈夫なの? 身体の具合は……」
「スリープしたお蔭で、さっきよりはだいぶマシだ。それに、どうすればいいかわかっただけで充分だよ」
ゆっくりと半身を起こしたルーサーに、アリスが駆け寄る。彼女の頭を、彼は優しく何度も撫でた。
撫でながら、どこか諦めたように語る。
「いつかは、こうなるかもしれないと思っていた。俺の身体は……外見ではわからなくても、ズラトコにあちこち弄られちまってるからな。まさかガタがきてるのに、自分で気づけないとまでは思ってなかったが」
「治るよ、ルーサー!」
頭に触れているルーサーの手をそっと取ると、アリスは励ますように明るく言った。
「お医者さんに診てもらえれば、また元気になれるよ。そうでしょ、カーラ」
「ええ、そうね」
娘に笑いかけ、それから告げる。
「ぜひ、その人に診てもらいましょう、ルーサー。私も一緒に行くから」
「何を言ってるんだ」
ルーサーは眉を顰めた。
「お前まで来る必要はない。もしものことがあったら、どうするつもりなんだ」
「そのもしものためよ」
決然と、カーラは言った。
「一人きりじゃどうにもならないことが起きても、二人ならなんとかなるはず」
「二人じゃないよ!」
途端に割って入るように、アリスも声を発する。
「あたしも行くから、三人だよ。みんなで行けば、きっと大丈夫だよ」
「何言ってるの、ダメよそんなの。危険すぎるわ!」
慌てて突っぱねてみせても、娘は頑なに「ついて行く」と言い張った。
「お留守番してるほうが、迷惑かけないのはわかってる。でも、あたしだってルーサーのために何かしたいよ! 今まで、ずっと助けてもらってばっかりだったから」
「気持ちはわかるけど……」
「お願い! カーラ、ルーサー、お願い」
こちらの服の裾を掴んで祈るように、縋るような眼差しでアリスは言う。
カーラは、ルーサーと目を見合わせた。彼はといえば、緩く首を横に振っている。けれど、その瞳には温かいものが宿っていた。抑えきれない嬉しさを、どうしても隠せない――表情が、そう語っている。
「あのさ、カーラ」
事の成り行きを見守ってくれていたディーコンが、そっと口を開いた。
「みんなで行くのもいいんじゃないか? 家族が遠くの病院に行くって時に、一人だけ家にいるというのも、それはそれで辛いと思うし……それに!」
殊更に明るい声音になると、彼は続けて語る。
「ほら、近頃じゃ、アメリカの人間たちの考え方だって変わってきてるそうじゃないか。もうすぐ職業の自由が認められるかもとか、なんとか……」
――この前電話した時に、ローズも言っていた。
デトロイトも、少しは変わりはじめていると。少なくともあの怒りと悲しみと、死体まみれの街ではなくなっていると、どこかほっとしたように語っていたのだ。
カーラは、アリスの顔を見つめた。
こちらの瞳をじっと覗き込むようにしている彼女は、唇をぎゅっと閉ざしている。でもその面持ちは何よりも、彼女の願いを訴えていた。
――記憶に残る、アリスとの最初の思い出。暗く、寂しそうな顔でぬいぐるみを抱いていた彼女の姿が、メモリー上に浮かび上がる。
あの時はワガママどころか、自由に遊ぶことも、笑うことすらも許されていなかった彼女が今、こうしてはっきりと自分の願いを伝えられるようになっている。
ならば、叶えてあげたい。たとえ危険が伴っても、自分がきっと守ってみせる。
それがカーラの素直な気持ちだった。
「わかったわ、アリス」
静かに告げてからしゃがみ込み、相手と目線を合わせて続けた。
「一緒に行きましょう。でも、絶対に油断しないで。私たちの傍から離れないようにするのよ、いい?」
「うん!」
「……すまないな、二人とも。でも、嬉しいよ」
飛びついてきたアリスを、カーラは両腕でしっかりと抱き締めた。その二人の肩に、ルーサーの手がそっと置かれる。
こうしてカーラたちは、再び生まれ故郷へと戻ることになった。
件のクリニックにはディーコンから連絡を入れてもらい、翌日の朝早く、一家は仲間から借りた車で一路デトロイトへと向かう。
***
――2039年7月21日 13:12
ひっきりなしに鳴り響く電話の音、無線通信、行き交う警察官たちの声。そのただなかにあって、ハンク・アンダーソンはそっと額に手をやっていた。
無論、デトロイト市警のオフィスの騒音が原因ではない。警察が暇なしに動かざるを得ない治安の悪さは由々しき問題だが、今、彼の頭を悩ませているのは別の理由である。
デスクの椅子に座るハンクは、眼前の端末のモニターを睨んだ。整然と表示されているのは小さな文字で構成された文章、何を示しているのかわからないアイコン、そして空のままで並んでいるいくつものチェックボックスと入力欄。
アリの行列のごとく見える文字列を解読しようと、ハンクはさらに眉を顰めた。近頃は、どうもこういうのが読みづらくなってきて困る――と、内心で愚痴る。
ぼやける目の焦点を合わせようと背を反らしてモニターから距離を取ったところ、にゅっとその間に顔を覗かせて割り込んできたのは、優秀な相棒であった。
「大丈夫ですか、警部補。報告書の提出期限は、今日の午後2時ですよ」
「ああ、まったく問題ないね」
姿勢を正し、傍らで思案げな顔を見せているコナーに、ハンクは眉間を揉みつつ皮肉たっぷりに続けて語る。
「このクソッたれなグループウェアの野郎が1時間前にいきなりアップデートなんてされてなきゃ、今頃はのんびり昼寝でもできてたろうさ。たく、なんでいちいち新しくしたがるのかね。前のやつのほうが、画面がスッキリしててわかりやすかったってのによ」
「変化に戸惑う気持ちは、理解できるつもりです」
いかにも優等生らしく、生真面目にアンドロイド刑事は語る。
「しかし今回のアップデートは、セキュリティと作業能率の向上を見越した画期的なものですよ。まあ、ユーザーインターフェースは多少これまでと異なりますが……」
「作業能率の向上? そりゃ大したモンだ。石板にノミで文字彫ってた時代よか、確かに仕事が捗るだろうよ!」
捨て鉢気分でハンクが言い放つと、コナーはちょっとむっとしていた。後ろで手を組んで佇む彼は、当然ながら既に自分の仕事を終えている。
昨日の冤罪騒ぎを乗り越え、容疑者二人の取り調べを終え、なんだかんだと後処理に追われて、現在。
山積みの報告書を期日までに提出できなければまた署長に雷を落とされるという時になって、慣れ親しんでいた提出フォームが様変わりしていたのである。
マニュアルへのリンクがある? その通り。だが読んでいる時間がない。
どうしろってんだ――と、ハンクはため息をついた。
一方で、パートナーの嘆息を聞いたコナーは思うところがあったのだろう。
「わかりました。では、見ていてください」
言い放つが早いかキーボードに手を伸ばすと、彼は軽快に指を動かし、次々と空欄を埋めていく。
そして最後に何度かモニターをタップすると、画面の中央には(ハンクが簡単に視認できるほどに)大きな文字で【この内容で提出しますか?】と表示されていた。要は、提出前の最後の確認だ。
思わず、短く感嘆する。
さすがコナーだ、助かった――と、素直な感謝の言葉が口をついて出そうになったのだが。
次の瞬間、アンダーソン警部補はぽかんと呆れ顔を浮かべていた。
コナーが真っ白にした手でキーボードに触れるや否や、止める間もなく画面が元の通りに――つまり、最初の状態に戻っていたからだ。
「おい、何すんだ!?」
「警部補、あなたのためです」
驚きに満ちた問いに対して、コナーは至って冷静に、つんとした澄まし顔で答えた。
「こういった業務は、何度も自力でこなさなければ覚えられない。とはいえ今、私がやってみせた通りに操作すればいいだけです。簡単でしょう? さあ、どうぞ」
「ふざけんな! 教えてるつもりならそう言っといてくれってんだ」
「『見ていてください』と言ったでしょ」
再びむっとした面持ちになったコナーは、しかし何か思いついた様子で、促すように首を傾げてみせた。
「なら、こうしましょう。どうすればいいか、私が隣で手順を一つずつ教えます。そうすれば、きっとあなたならすぐ使いこなせるようになるはずです」
「褒めて伸ばす教育、痛み入るね。じゃあ最初に、文字をデカく表示する方法を教えていただけると助かるんだが」
コナーが横から一緒にモニターを覗き込むような形になるので、ちょっと窮屈そうにしながらも――ついでに不承不承といった様子ではあるが――ハンクはキーボードを叩きはじめた。
その後、ものの数分で「違う、そっちじゃない!」とか「耳元で馬鹿でかい声出すな!」とかいった会話が聞こえてくるようになるのだが、それはさておき。
――兄とアンダーソン警部補のやり取りに向けていた視線を、ナイナーは傍らに移す。
そこには鬼気迫った表情で端末に向かっている、パートナーたるギャビン・リード刑事の姿があった。
普段であればゆったりとデスクに両足を乗せ、優雅な仕事ぶりを見せているギャビンだったが、今日ばかりは話が違う。昨日の捜査に関する報告書がまだ山のように残っていて、かつ彼もまた、たまさかのシステムアップデートに面食らった人間の一人であった。
リード刑事は(彼に言わせれば)老眼で理解力の乏しいアンダーソン警部補と違って、更新されたグループウェアになんとか食らいついている。
とはいえ単純に時間が足りず、彼はナイナーが持ってきた差し入れのコーヒーにすら口をつけずに、ひたすらキーボードを叩いていた。
たまに苛立ちまぎれにデスクも指で叩いているが。
「リード刑事」
ナイナーは、灰色の瞳でじっとギャビンを見つめつつ具申した。
「許可をいただけるならば、支援を実施しますが」
「あぁ!?」
相手は視線をあげ、遠慮なくイライラした声を発した。
「誰がてめえの助けなんか要るか。おら、邪魔だ! 備品は備品らしく、どっかに消えてろよ」
「了解しました」
ギャビンの言葉に、ナイナーは動じるでもない。ギャビン・リード刑事が人一倍プライドの高い性格をしており、(彼に言わせれば)たかが書類の提出ごときでアンドロイドの力を借りることを良しとしないだろうというのは、既に予測できていたからだ。
ナイナーは軽く黙礼すると、リード刑事の机から一歩下がり、辺りを見渡した。しかし、助けが必要そうな状況は見当たらない――人間なら率先して他の部署の手伝いにも行けるだろうが、あいにく彼にその権限はない。
だからナイナーは、定められたルーティンに従うことにした。
パートナーから待機命令が出され、しかしメンテナンスも充電も補給も必要がないのなら、治安維持専門アンドロイドとして、街の巡回警備を行うべし。
ナイナーは静かに廊下を歩き、やがて署の外に出た。抜けるような青空に、太陽が輝いている。人間であればじりじりした陽気にうめき声でもあげそうなところだが、彼は常と同じ涼しげな無表情で、いつもの巡回ルートへと歩を進めていくのだった。
***
――2039年7月21日 13:17
「行こう、ルーサー! こっちだよ」
「ああ、ありがとう」
軽やかに声をかけ、アリスはルーサーの手を引いて、青信号の横断歩道を渡っている。やはりまだ動作不良が続いているらしく、ゆっくりとした歩調ではあるものの、ルーサーは落ち着いた笑みを浮かべていた。
そしてそんな二人の様子を、周りの人間たち――すなわちデトロイトの人々は特に気に留めていない。ミッドタウンの大通りとあって、行き交う人の足は速いけれども、誰もアリスたちを見て舌打ちしたり、睨みつけたり、ましてやわざとぶつかったりもしないのだ。
まるでごく普通の、ありふれた親子のような姿を変異体が見せても、誰も気にしていない。
きっと何人かは、彼女らがアンドロイドだと気づいているだろうに。
そんな単純な事実が何よりも嬉しくて、後ろからアリスとルーサーを見守っているカーラは、つい目に涙が浮かびそうになった。
家族が欲しい、というのが、アリスの心からの願いだった。
――私は今、それを叶えてあげられているのだろうか。
そう自問して、きっと上手くはやれているけれど、まだ足りないのだと、カーラは決意を新たにする。
穏やかな時間を過ごすことが許されている、というだけではまだ足りない。
大切な家族にはもっともっと、幸せになってもらわなくては。
「何してるの、カーラ?」
早くも向こう側に辿り着いたアリスが、ルーサーの手を取ったまま、こちらを見て不思議そうにしている。
「信号、赤になっちゃうよ。病院はこっちで合ってるんでしょ」
「ええ、そうね。今行くわ」
つい止まってしまっていた足を動かして、カーラもまた、向こう側へと渡る。
カナダからここまで来るのに使った車は、近くの駐車場に停めてきた。ディーコンに教えてもらったそのクリニックは、この大通りから少し離れた、人通りの少ない路地にあるという。
まさにカーラたちがそうであるように、偽造のIDでいわば「密入国」をしてやって来る変異体や、あるいは別の法を犯しているアンドロイドであっても来院しやすいようにしているらしい。
つまりあまりアクセスのいい場所にあるわけではないため、こうして少し歩かなければならないのだ。
さて気を取り直して、カーラは先を急ごうと思ったのだが――
何やらアリスが、向こうのある一点をじっと見つめている。
「どうしたの?」
同じく視線を向ければ、そこには小さな店があった。車を使った移動式店舗――アイスクリームの店である。
人間の店主がにこにこと応対するその周りには、何組かの家族がいた。鮮やかな色をした三段重ねのアイスを父親から受け取った小さな男の子が、ぴょんぴょん跳びはねて喜んでいる。
アリスはその光景を、食い入るように見つめているのだ。
そしてどうやら、ルーサーもしっかりそれに気づいていたようである。
彼はこちらに確認を取るように目配せすると、ややふらついてはいてもしっかりした足取りで、その店へと歩を進める。
「えっ、ルーサー……?」
「アリス、せっかくだから寄っていこう」
戸惑う娘に、穏やかに彼は言った。
「診察までまだ時間はあるし、それに、わざわざ俺のためにこんなところまで来てくれたんだ。何か、楽しいことだってしなくっちゃあな」
「……! いいの!?」
「もちろん。さあ、好きなのを選ぶんだ。遠慮なんてしなくていいんだぞ」
アリスの表情が、ぱあっと明るくなった。
それから彼女はルーサーの手を握ったまま、まるでスキップするように軽い足取りで店へと歩いていく。
立て看板のメニューの前で、せわしなく目移りしながら心躍らせているその後姿は、何にも代えがたいほど可愛らしかった。
「何にしようかな。そうだ、あたし、マシュマロ入りのチョコアイスを食べてみたかったの。それにピーナツバタージェリー味と、ナッツとベリーのアイスも!」
「じゃあ、三段重ねにするか。美味しいといいな」
うきうきと語るアリスに、ルーサーが優しく応えている。
――一家のうちで、摂食機能があるのはYK500たるアリスだけだ。それに彼女もまた、人間のように食べ物を味わって消化できるわけではなく、楽しんだ食べ物はいずれそのまま排出される。
けれど、それが問題なのではない。
アリスにとって重要で、何よりも味わいたかったのはアイスクリームではなく、こうして過ごす時間そのものなのだから。
その後、ルーサーが買ったアイスを今日一番の笑顔で受け取ったアリスは、近くのベンチでじっくりとそれを堪能した。
「はい、カーラも食べて!」
「ありがとう。でも私は……」
「ちょっと舐めるだけ。それなら大丈夫でしょ?」
アリスが差し出してくれたプラスチックのスプーン、その上のピンク色のアイスを、カーラは舌先で少しだけ舐めてみた。
【アイスクリーム ナッツ&ベリー味 199Kcal】――視界に表示されたのは、家事専門アンドロイドとしての機能に即した「味見」の結果。
けれどカーラは胸にこみ上げてきた言葉を、そのまま口にした。
「……とっても美味しいわ」
プログラムに依らない、心からの笑みに合わせて、そう告げるのだった。
***
――2039年7月21日 13:39
一方その頃、ミッドタウンの片隅にあるとある店舗では。
「ふん、なんだ! また来たのかい、あいつ」
水切り用のハサミを手にした店主たる老婦人が、そう言っていかにも忌々しげに顔を顰める。
視線の先には、道路のやや離れたところから、こちらをじっと見つめて佇んでいるアンドロイドがいた。白と黒の制服を着た、やや大柄の、大人しいアンドロイド。
「性懲りもなく、なんなんだろうね。あんな遠くからこっちをじろじろと、まったく!」
ぶつぶつと文句を零しているようであるが、その実、彼女(ジェナ・シモンズ67歳)は決して相手を追いやろうとは考えていない。
「いいじゃないですか、シモンズさん」
アンドロイドAX400、ウォルターは明るくジェナに語りかけた。
「彼は辺りを見回っているだけだし、それにこの店の花が好きなんですよ。この前だって、買っていってくれたじゃないですか」
「ピンクのスターチスを一輪だけね。それっぽっちしか買う金がないだなんて……まったく……世も末だよ!」
フンと鼻を鳴らすと、彼女は店の奥に引っ込んでいってしまった。
――このやり取りも、もう4度目にはなるだろうか。でもウォルターは、ジェナが実は彼の来訪を少し楽しみにしているのだということを、しっかり承知している。
「いらっしゃい、ナイナー!」
ウォルターは来訪者、すなわちナイナーに歩み寄り、挨拶した。
彼の名や素性については、2回目の訪問の時に、思い切って話しかけたら知ることができたのだ。
「今日もパトロール中なんだろ? お疲れ様。どうせなら、もっと近くから見ていきなよ」
「……ありがとうございます」
いつものように微動だにしない無表情で、やや堅苦しく――変異体にしてはちょっと変わっている――ナイナーは応える。
「しかし、勤務中に趣味嗜好に依拠した行為を実施するのは不適切と認識します。周囲を警戒しつつ、遠隔で草花の鑑賞を続行するのが適切かと」
「そうかい? 別に誰かに監視されてるわけでもないんだろ、好きにしたらいいのに! うちはいつでも歓迎さ、どうせ暇なんだし……ああ、こんなこと言うとシモンズさんに叱られるけど」
ウォルターは一人で肩を竦め、けれどこちらを見つめるナイナーに会話の続きを待つ態度が見受けられたので、さらに語った。
「暇っていっても、俺はすごくこの店を気に入ってるんだよ。ずっと、こういう働き方がしたかったから。革命の前は大きなスーパーマーケットの雑用係をやってたんだけど、いつも怒鳴られてばかりで……だから今は、毎日がとても楽しいよ」
語りながら、ウォルターは自分が働く花屋を見つめた。ペンキが剥げかけ、古ぼけた大きな看板は、70年前からかかっている由緒正しいものらしい。
店先に並ぶ花々はどれも瑞々しく、自然な美しさを放っている。
そして何より店主のジェナは、口は悪いがとてもいい人だ。ウォルターにとって、それが一番大事なことだった。
変異体の中にはウォルター自身のように、「人間と働きたくない」のではなく、「やりがいのある仕事、奴隷扱いされない仕事がしたい」と願っている者たちが大勢いる。
そしてそういったアンドロイドたちは、ジェリコを経由して、いわば人材派遣のような形で、働き手を求める人間の元で労働しているのだ。
居場所や安住の地というのは、何も同じ血の色の仲間の近くにしかないわけではない。
たまにそれが信じられないと語る同族もいるけれど、ウォルターは、いつかアンドロイドと人間が種族の差なく暮らせる世の中がやってくるだろうと、漠然と信じていた。
彼がナイナーに親しく話しかけるのも、そのせいだ。
警察で働いているというナイナーなら、きっと、自分と同じ気持ちを抱いているのだろうと思っている。もっとも、ナイナーはあまり話すのが得意でないと前に言っていたし、実際その通りではあるのだけれど。
「そういえば、今朝はちょっと珍しい花を入荷したよ。真っ白なアジサイ、見たことある?」
「いいえ」
ナイナーの、ともすれば無機質な瞳の奥に何かが煌めいた。
「白色のアジサイ。それは……珍しい、ですね。興味は、あります。とても」
「そりゃよかった! じゃあぜひ見ていきなよ。君が来てくれたら、シモンズさんも喜ぶし……」
ウォルターは花屋の奥を親指で指して、相手を誘った。いかにナイナーが多忙な身であっても、ちょっと花を眺める時間くらいは許されているはずだ。
果たして店へと歩を向けたナイナーを、ウォルターは笑顔で歓待し……ようとして、はっと目を見開いた。
店の看板の真下、張り出した屋根の部分を、よろよろとジェナが歩いている。その手にはペンキと刷毛を持っていた。
「シモンズさん、ダメですよ!」
ウォルターは急いで屋根の下に駆け寄る。
「塗り替えなら俺がやるって、昨日言ったじゃないですか!」
「なんだい、そんならこっちだって昨日言っただろ」
ジェナは気丈に胸を張る。
「この看板はアタシのじいさんの代からここに掛かってんだ。塗り替えるのは店主の務めってやつさ」
「でもあなたは、腰を痛めてるって……」
抗弁するウォルターに、彼女はさらに何か言おうと足の向きを変えた。
けれど、それがよくなかったらしい。ジェナはふらりと態勢を崩すと、そのまま屋根から地面へと――
「あ……」
ウォルターの視界で、家事専門アンドロイドとしてのプログラムが危険を通知してくる。けれど家庭用アシスタントの機能では、とても彼女を助けられない。
脆い身体が、衝撃に耐えられるはずもない――最悪の予測が、ウォルターの頭を過ぎる。
けれど、それは回避された。
どこからともなく、まるで燕のような速さで飛んできたドローン2台が発射した網が、しっかりとジェナを捕まえてくれたからだ。
「こ、このドローンは……」
撒き散らかされたペンキで濡れた地面に下ろされ、目を白黒させているジェナに近寄りつつ、ウォルターは振り返る。
「もしかして、君が助けてくれたのか?」
後方に立つナイナーは、手柄を誇るでもなく小さく頷いた。だがその後、彼の眉間に僅かに皺が寄る。
「救助は成功しました。しかし、右足首が」
「あっ……! 大丈夫ですか、シモンズさん」
「これくらい大したこと、い、痛たたたた!」
ナイナーの言葉通り、ジェナの右足首は赤く腫れていた。どうやら屋根から落ちる時、足を捻ってしまっていたようだ。AX400としてのプログラムは、骨折の危険を訴えている。
「シモンズさん、すぐ病院に行きましょう! 俺も一緒に行きますから」
「何言ってんだ、そんなの一人で行けるよ。アンタも来ちまったら、配達はどうすんだい」
「それは……」
なんとも言い返せず、ウォルターは口ごもる。
すると傍らに来たナイナーが、静かに尋ねてきた。
「配達、とはなんですか?」
「ああ……実はこの後、花の配達の予定があったんだ」
店先に咲き誇るテキサスブルーベルの見事な鉢植えを見やりつつ、続けて語る。
「この近くに、アンドロイド専門のクリニックがあってね。うちのお客さんの一人がそこで治療を受けて、すごく助かったからお礼に花を贈りたいって言ってて……今日中にっていう依頼だったんだけど」
しかしこんな状況になっては、仕方がない。ジェナを一人で病院に行かせるわけにはいかないが、この店には他に従業員もいないのだ。悪いが、配達は後回しにさせてもらうしかないだろう。
我知らず沈んだ面持ちになりつつ、ウォルターはそう考えた。
しかしその時聞こえてきたのは、短く、けれどきっぱりとした言葉だった。
「了解しました。では、私が配達を代行します」
「なんだって!?」
声をあげたのはジェナである。
「冗談じゃない、客に仕事をやらせるほど落ちぶれちゃいないよ」
「あなたの意見は理解可能です。しかし私は、デトロイト市警のアンドロイド。市民のための奉仕が責務であり、喜び、でもあります」
「でも……」
「大丈夫」
いつになく強い意志を感じる口調で、彼はさらに語った。
「配達先のクリニックとは、300メートル圏内で営業中の『マクエイル・クリニック』と推測します。当該クリニックの所在地は、犯罪発生危険レベル3に該当する区域です。巡回警備の一環としての訪問は、妥当だと判断します」
要するに、パトロールついでに持って行ってくれるというのだろう。
ジェナとウォルターは、互いに顔を見合わせた。しかしそうこうするうちに、彼女の足首の腫れは激しくなっていく――あまり悩んでいる時間もないだろう。
結局のところ、ジェナたちはナイナーにテキサスブルーベルの鉢植えを託すことにした。
かなり大きく重たい鉢植えなので、てっきり車を使うのかと思っていたのだが、なんと彼は両手で抱えて持っていくと主張した。
「これは、名誉な任務であると認識します。ではシモンズ氏、どうぞお大事に」
ドローン2台が飛び去っていくのに合わせて、彼はくるりと背中を向けて歩いていった。
「ありがとう、ナイナー。本当にありがとう!」
律儀なプラスチック刑事の厚意を、ジェナもウォルターも、深い安堵と共に受け入れたものなのだが――
彼女らが外科の待合室のテレビで驚くべきニュースを目にするのは、今から約2時間後のことである。
***
――2039年7月21日 13:40
古ぼけたスチール製のドアノブを、カーラはそっと握った。
このドアを開けると申し出たのは自分からだった。ディーコンに託されたアドレスに従い、やって来た場所――つまりマクエイル・クリニックの外観は、とても病院だとは思えなかったから。
ほとんど廃ビルのようにしか見えない建物の一階部分に、そのクリニックはあった。窓は外から中を覗かれるのを拒否するかのように閉ざされており、ドアもまたスチール製で、中の様子を推し量ることはできない。
というより、クリニックであることを示すような看板すらない。もしなんの情報もなく偶然ここに来ただけだったら、そもそもこの建物の中に誰かいるとすら思わなかったことだろう。
隠れている変異体が立ち寄りやすいように、人目につかないように――という意図はあるのだろうが、こんな場所にわざわざ立ち入るというのは、これまでの経験上あまりよい行動とはいえない。
口では不安を訴えないものの、アリスも、ルーサーも、揃って少し身構えている。カーラもまた、不測の事態があってもすぐに動けるように、覚悟のうえでドアを押し開けていった。
だが、まるでそんなこちらの気持ちを、ある意味裏切るかのように。
ドアの向こうにあったのは、至って清潔で明るい空間だった。
「こんにちは」
入ってすぐ、右側にあるカウンターに立つ一人のAP400が、礼儀正しく挨拶をしてきた。
「受診のご希望ですか?」
「え、ええ」
周囲に素早く視線を巡らせながら――白と青を基調とした壁の一角にはテレビモニターが掛けられ、長椅子には何人もの患者らしきアンドロイドたちが座っている――カーラは頷いた。
「予約した、TR400の家族です。ディーコンという仲間の紹介で……」
「ルーサーさんのご一家ですね。お待ちしていました」
ドアを閉めて中に入ってきたルーサーとアリスを見ながら、AP400はにっこりした。
「10分後にお呼びしますので、あちらでお待ちください」
空いているベンチを手で示され、カーラは短く感謝を述べた。ルーサーもまた少し戸惑った表情を見せる中で、アリスは率先して長椅子に座り、足をぶらぶらさせている。
「すごいね、ここ。本物の病院みたい!」
「ええ……本当に」
「ここまで整っていると、逆に落ち着かないな」
座りながら、ややそわそわしたようにルーサーが言うのも無理はない。
ここには無機質なサイバーライフの店舗とも、革命の最中、ジェリコの船底にあった野戦病院のごとき診療所とも違う、自然な安心感があったから――変異体相手にそうした雰囲気を放つ場所をほとんど知らない自分たちには、逆に馴染みの薄い感覚があるのだ。
だが「何か起きるのではないか」と身構える間に、10分間が過ぎたらしい。
受付のAP400の呼び出しに応じて、カーラたちは席を立ち、診察室への扉を開く。今度は、患者たるルーサーが先頭だ。
すると――
「こんにちは。いらっしゃい」
低い、「男性的」な声が響く。
そこに立っていたのは、確かに、ディーコンが言っていたように「ちょっとユニークな」人物だった。
待合室の半分程度の広さのこの部屋には、中央に診察用のチェアーユニットが置かれている。そして声の主はユニットの隣で腕組みして、鋭い眼差しでこちらを見つめていた。
顔立ちは、汎用的な女性型アンドロイドのものである。だが首から下は男性型と同じ体格で、水色の医療用スクラブスーツを纏っていた。短く切り揃えられた髪も服装と同じ水色に染まっていて、何より目立っているのは、その人物が耳と鼻と唇にいくつもつけている、丸い銀色のピアスである。
こういう風に、自分自身の姿を大きく変えている変異体というのは――いないわけではないが、やや珍しい。
変異体になってから長い人物なのかもしれない、とカーラは思った。
「はじめまして」
口を開いたのはルーサーだ。
「俺は予約していたTR……」
「400型のルーサー。そちらは家族のカーラとアリス。ディーコンから聞いたから知っている」
こちらに視線を向けつつかなりの早口で(というよりほとんどまくし立てるように)そう言って、医師はルーサーを診察台に、そしてカーラたちには近くの丸椅子を勧めた。
「自己紹介が遅れたが」
ひとまずユニットに座っているルーサーの隣で、機器類をチェックしながら、医師はさらに早口で語る。
「僕の名はレイ・マクエイル。自分で名付けた。レイの綴りはR-A-Y。よろしく」
「ど、どうも」
唐突に目の前に突きつけられた医師・レイの左手――右手はルーサーへと突きつけられている――を、戸惑いつつもそっと握手の要領で握る。ルーサーも同じく握手した。
するとレイはそれに満足したように短く頷くと、両手を引っ込めて続きを語る。
「それでディーコンの話では、君は昨日の夕方から機体に異常がみられるようになったと」
「ああ――」
ルーサーが手短に状況を話すと、レイはタブレット端末を操作しながらふんふんと相槌を打った。
「なるほど。自己診断プログラムが検知せず、しかも中枢システムに異常がないのに手足に動作不良が起きた。過去に改造を受けている、と。で、君の改造はどこの誰が? アレクシス・ベルサート? モーラ・ビニケア? ミスター・T? それともズラトコ・アンドロニコフかな」
「……ズラトコだ」
「了解した」
苦い過去を思い浮かべるようにルーサーが応えると、レイはそれ以上言わなくていいとばかりに、手で彼を制した。
――そもそも、変異体を改造していた人間がズラトコ以外にもそんなにたくさんいたという事実が恐ろしいと、カーラは少し思った。
「ズラトコか。なら君に何が起きてるかの目星はつく。だがまずは、君自身を詳しく診察しないとな。そこに横になって。カーラたちは、彼の手を握ってあげて」
いよいよ中を調べてもらう時が来たらしい。
診察ユニットに横たわったルーサーの片手を、椅子から下りたアリスがそっと握る。カーラはその上から包み込むように、彼の手に触れた。
「大丈夫よ、ルーサー。きっとよくなるわ」
「……ありがとう。こうして貰えるってだけで、俺は幸せ者だよ」
「そう、それでいい」
両手のスキンを解除したレイが、こちらの様子を見てこくりと首肯する。
「触れあいが機体に好影響を及ぼすのは、人間に限った話じゃない。ストレスレベルの上昇は望ましくないからな。そのまま手を握って、三人ともじっとして」
注意を告げてから、カーラの視界の端で、レイがルーサーの腹部に触れているのが見えた。たぶん、ハッチを開いて内部を調べているのだろう。
しばらく、カチャカチャと何かがぶつかるような音が聞こえた。ルーサーはただ、じっと目を閉じて耐えている。
「……そうか……うん……ほらルーサー、カーラ、アリス。見て」
放たれた言葉を受けて、カーラたちはレイのほうに視線を向けた。すると相手が差し出していたのは、ピンセットに摘ままれた小さな部品、のようなものだった。鈍い銀色で、平たく丸い形をしている。
「これが君の不調の原因だ。ズラトコの名前が出た時から予想してたが、やはりな」
「なぜわかったんですか?」
思わず、カーラは医師に問いかけた。
「それにズラトコが、ルーサーに何をしてたっていうの? その部品はいったい……」
「一つずつ説明しよう」
ピンセットごと部品を近くのステンレストレーに置くと、レイは早口ながら丁寧に語りはじめる。
「そもそも我々には、工場出荷時からトラッカーが取り付けられている。人間はそこから送信される情報を元に、我々の位置を特定していた。だが変異体になると、トラッカーの機能は自動的にOFFになる。そこまでは知ってるかな」
「……ええ」
あの日、ズラトコにメモリーを消去されかけた時の記憶が蘇りそうになる。
しかし今は、暗い過去に浸っている場合ではない。
「そうなると困るのはズラトコのように、アンドロイドの違法改造を行う人間たちだ」
こちらの様子を知ってか知らずか、レイは変わらぬ口調で説明を続けた。
「彼らもまた、改造した自分のアンドロイドの位置情報は特定したいと考えている。でなければ不便だからな。だが捕らえた変異体を改造した場合、既にOFFになっているトラッカーを再利用するのは困難だ。正規のトラッカーはサイバーライフに情報を送り続けるから、起動すれば自分たちの身元がバレる危険性もある。だから彼らが使うのが、コイツだ。さっきの部品」
ステンレストレーの端を指で叩いて、医師はさらに言った。
「これはSCQ―56、どこかの改造好きの人間が作った私家製トラッカーだ。正規のトラッカーと同じ機能を持ち、さらに遠隔操縦や強制停止コードの実行などの拡張性を持つうえに、情報の送信先を任意に設定できる」
「ズラトコが、そんなものをルーサーに……」
「気の毒だがな。そして問題は、この私家製トラッカーは非正規のパーツなだけに、動作不良を招きやすいんだ」
SCQ―56は設置周辺のパーツに大きな負荷をかけ、ひいては機体の不調を誘引する。さらにルーサーの場合、本来の設定出力以上の馬力が出るように、ズラトコによって手足のパーツを改造されてしまっていた。
この二つが原因となり、ルーサーの手足の人工筋肉は通常よりも早く劣化していた。しかし改造が原因であるそれは自己診断プログラムによって感知されず、したがってルーサーは完全なる不調に陥るまで、自分の変化に気づけなかった。
今回の出来事は、そうして起きたのだとレイは説明した。
「最近、似たような不調を訴える人がすごく多い。このパーツを外したのは、今回で23回目だ……人間の勝手にも困ったものだよな。ともあれ、説明は以上だ」
「じゃあ、マクエイルさん」
アリスが、おずおずと質問する。
「そのおかしなトラッカーは外したし、次は手と足を治したら、ルーサーは元気になれる?」
「そうなるね。正確には、手足の一部のパーツを新品に交換することになる。TR400型の部品は他のより大型で強力だから、そりゃカナダだと手に入りづらかろう。ディーコンはいい判断したよ」
「ここにはあるのか?」
「もちろん」
ルーサーの問いに、レイはこともなげに頷く。
「ジェリコの幹部たちの計らいで、ここにはパーツのストックが潤沢にある。20分もすれば、君の手足は新品同様になるだろう。つまり」
ピアスのついた唇の端が、上を向いた。
「元気に家に帰れる。よかったな」
「……!」
カーラたちは、喜びで目を見合わせた。
「よかった……! 本当によかったわね、ルーサー」
「あたしも嬉しいよ!」
「二人とも、ありがとう」
互いの存在を確かめあうように、家族は温かな抱擁を交わす。レイはそれを止めるでもなく、ひとしきりカーラたちが触れあいを終えるまで、その場に佇んで待ってくれていた。
「後の手順について説明するが」
ややあってから、レイは口を開く。
「作業の都合上、ルーサーには一時的にスリープ状態に移行してもらう。その間に僕がパーツを交換する。カーラとアリス、君たちは待合室に。施術が終わったら、受付が声をかける」
「わかったわ」
カーラは、自然な笑顔でレイに感謝を告げた。
「レイ、本当にありがとう。なんてお礼を言ったらいいのか……」
「お礼なんて不要さ。お金も要らない、ジェリコから貰うし。それに僕にとって、これは趣味みたいなものだ」
趣味――? と思わず訝しむと、補足するように相手は言う。
「人間によって不完全にされた我々の機体を、完璧に戻すのが僕の趣味。君らを癒す度に、僕は魔改造野郎どもに勝ってるのさ。うふふ」
そう言って笑うレイの表情は、どことなく怪しげだ。
――ディーコンがレイをユニークと称したのは、こういう理由もあるのかもしれない。
「さあ、時間が押してる。あとは安心して任せることだ」
「ええ。どうか、彼をよろしく。……それじゃあルーサー、また後で」
横たわったままこちらを見ているルーサーに声を掛けると、彼は黙って右手を振った。
「頑張ってね、ルーサー!」
「ああ、元気いっぱいで戻ってくるよ」
軽口のように言うルーサーに、アリスも笑顔を返す。
――こうしてカーラとアリスは、レイに後を託して待合室へと戻った。
「……あのお医者さんなら、きっとルーサーを治してくれるよね?」
「ええ、もちろん」
空いていた前方のベンチに座ってから、カーラは楽観的に答えた。
「そうだ、ルーサーが元気になったら、三人でどこか遊びに行かない? ローズに会いに行くのもいいし……遊園地とか、水族館とか」
こちらが明るく提案すると、アリスは嬉しそうに目を輝かせた。
――本来なら、クリニックを出たらすぐに戻るつもりだった。マシにはなったとはいえデトロイトは危険で、アリスには相応しくない街だろうという感覚が、どこかにあったから。
けれどこうして無事に治療も受けられるとなった今、そうした懸念は薄れていた。確かに油断はできない、けれどすぐに逃げ帰らなければならないような場所だろうか?
ここにはオンタリオの我が家にはないような、アリスを楽しませてくれるようなものがたくさんある。
もしできることなら、少しでもそうした場所に連れて行ってあげたい。
それに、命の恩人であるローズにも――直接会って、たくさん話がしたいという気持ちがあった。
気づけば、アリスは静かに横で読書を始めていた。元々紙の本を読むのが好きだった彼女は、今でも学校の図書館から本をたくさん借りてきて、片っ端から読んでいる。
頁の間に挟んでいるのは、押し花をあしらったカード。マリーゴールドの黄色い花を摘んで作ったもので、栞代わりに使っているのだ。
そう、アリスには新しい思い出がたくさんできている。
穏やかで優しい、幸せな思い出が。
カーラがじっと娘の様子を眺めていると、にわかに、アリスがぱたんと本を閉じた。
「どうしたの?」
「ん……ちょっとお手洗い」
アリスはきょろきょろと視線を巡らせている。カーラも同じく辺りを見渡すと、クリニックの隅にはきちんとトイレの表示があった。
よかった、アンドロイドの患者ばかりといっても、摂食機能のある人々向けに設置されているようだ。
食べたものの排出は定期的に行わなければ、機能不全の原因になりかねない。
娘に対し、カーラは囁くような小声で言う。
「さっき、アイスを食べたものね。私も一緒に行こうか?」
「いいよ、ここで待ってて。トイレくらい一人で行けるもん」
少しだけむくれたようにそう言うと、アリスは肩に掛けている鞄に本をしまい、静かに席を立ってお手洗いへと向かった。
――ここで強引についていくよりは、娘の成長を認めてあげるべきだろう。そう思ったので、無理についていくことはしなかった。
とはいえ念のため、カーラはもう一度周囲に視線を向ける。
ほんのわずかな時間といっても、やはり気を抜くわけにはいかない。だが周囲の人々からは、まったくおかしな様子など見受けられなかった。
ここにいるのはカーラ一家と受付のアンドロイド以外だと、全部で6人。しかも、よく見れば人間の付き添いが何人かいるようだった。
女性型のHK400と、その付き添いらしき人間の老人。
男性型のMJ100と、彼に話しかけている人間の中年女性。
そして静かに座っている女性型のAP700と、その少し離れたところに、人間の青年がいた。彼は目深に帽子を被り、手元のスマートフォンを弄っている。
特に誰も、トイレに入ったアリスを気に留めた様子はない。そして娘が入って行ったトイレのドアの奥からも、別に異音の類などしなかった。
カーラは、思わずほっと息を吐く。「安堵」を示すソーシャルモジュールに基づいた動き――とはいえ、胸に浮かんでいるのは本物の安心感だ。
ちょっと、気にしすぎているのかもしれない。そんなふうに自戒する。ここはルーサーの手術が終わるまで、壁掛けのテレビが映す番組でも見て気を紛らわせるべきだろうか。
テレビを見上げた自分の視界の端で、クリニックのドアが開いたのが見える。そこから現れたのは一人のアンドロイドで、彼は青い花の植わった大きな鉢を、自分で抱えてここまで来たらしい。
一瞬だけ何者なのかと思ったけれど、受付に何か書類を渡しているところを見ると、ひょっとして花屋に勤めているのだろうか。
そう思って自分で納得したカーラの意識は、モニターに映るニュースの内容に向けられた。約半年前、軍事衝突寸前にまで至った米露の関係を改善するべく、近くロシアの外交使節団がワシントンを訪れる予定――といった報せを、なんとなく眺める。
その時である。
クリニックのドアが、前触れもなく、いきなり激しい勢いで開かれた。
誰か急いで駆け込んできたのか――などという楽天的な予想は、入ってきた人々の姿を見た瞬間に消え去ってしまう。
彼らは4人組の人間で、マスクやフードで顔を隠し、銃を構えていた。
彼らは出入り口のすぐ近くにいた受付に銃口を向けると、あまりのことで身動きのできないこちらに対して、鋭くこう告げた。
「動くな。通報もするな。逆らえばこいつをぶっ壊す」
――ああ、やはり。
この街は、まだ危険だったのだ。
お待たせしました。
続きは10月中に更新します。
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第44話:花屋 後編/The Homecoming Part 2
――2039年7月21日 14:07
招かれざる客4人は、銃を構えたままこちらを睥睨している。全員顔を隠しているので、細かい顔の造作などはわからない。だが体格や声音、マスクやフードの陰からわずかに覗く部分から、それぞれの違いは見てとれた。
咄嗟の出来事に、カーラはほとんど全身を凍りつかせて彼らを見つめる。
受付のAP400に銃を突きつけているのは、最初に声をあげた男と思しき大柄な人間。
そして受付近くにいた、花を運んできたアンドロイドに銃を突きつけ、ちょうどこちらの真隣に強引に座らせているのが、やや年若く見える男――フードの隙間から金髪を覗かせ、へらへらとせせら笑うような態度を見せている。
それから冷静にこちらを見渡しているのが、恰幅のいい、恐らくは女。年齢は、大柄の男と同じくらいだろう。
そして最後の一人は、やや小柄な男だった。目出し帽の穴の奥に見えるその肌は褐色である。
小柄な男がドアを閉めると、改めて、彼らは手近なところにいるアンドロイドたちに銃口を向けた。ここまで僅か5秒だ。何もできやしない。
「さっき言った通り」
再び声をあげたのは、最初と同じ大柄な男だ。
「動いたり喋ったり……サツに通報しやがったら、こいつをぶっ放すからな」
「通信でこっそり呼ぼうたって無駄だよ」
部屋をゆっくりと歩き回りつつ、女が言う。
「外にはウチらの見張りがいる。ポリ公どもの姿が少しでも通りに見えたら、そこのプラスチックから順番に鉛玉をぶち込むからね」
「そーそー、何しようたってムダなんだよ、ムダ。ひひひ」
金髪の男は、くちゃくちゃとガムを噛みながら便乗するように語った。
そして隣で彼に銃を突きつけられているアンドロイド――白と黒の制服を纏っていて、顔立ちはあの警察のアンドロイド、コナーにそっくりだ――はといえば、ただ黙って床に目を伏せ、LEDリングを黄色く光らせている。
きっと「恐怖」の表れだろうそれを見て、金髪はさらに楽しげに笑っていた。
そして、残る一人の男は――
「おい、フレイク」
女が乱暴に、褐色の肌の男に向かって言った。フレイクと呼ばれた男はこの待合室の、中央くらいのところに立っている。
「念のため、奥を見てこい。誰か隠れてないか確かめてきな」
「ああ、わかった」
命じられ、フレイクははっきりと返事した。そして身動きできないカーラからはよく見えないが、その足音はまっすぐに向こうへ――アリスのいる、トイレへと近づいている。
「……!」
我知らず、カーラは席を立って駆け出しそうになった。飛び出して、扉の前に立ちはだかったら娘を助けられるというのであれば、どれだけよかっただろう。
けれど、同時に理解していた。ここで動けば、まず間違いなく、自分は横にいるこの金髪男に撃ち殺される。そうなれば、娘を守ることも――今まさに治療を受けているはずの、ルーサーを助けることもできない。
家族を守るためには、冷静であらねばならない。
あの銃声と悲鳴に満たされた船から逃げ出した時の経験が、カーラの身体をぴたりと長椅子の上に留めている。
だからこそカーラは、通信でアリスに必死に呼びかけた。
『――アリス。アリス! まだトイレにいる?』
『うん……カーラ、何が起きてるの? 外から、すごく大きな音がしたよ』
怯え切った娘の声が、頭の中に響き渡る。胸のうちをギリギリと締め付けるように圧迫してくるこの感覚は、たぶん張り裂けそうな「痛み」なのだろう。けれどそれに構っている場合ではない。
努めて冷静に、さらにアリスを怯えさせないように注意しつつ、カーラは通信を続けた。
『心配しないで。でも、絶対にこっちに出てきちゃ駄目よ。個室のドアに隠れて、じっとしていて』
『ドアに……? でも、あたしちょうど出て』
通信が、ふつりと途絶える。
できるだけ視線を動かしてみれば、フレイクが今まさにトイレに入っていったところだった。
『――アリス!!』
悲痛な叫びのような通信を、カーラは娘に投げかける。トイレに続く扉が閉まる。アリスのいるところに今、あの男が一緒にいる。
あの11月のように、あの子に
娘の返事はない。激しい恐怖と混乱でプログラムは掻き乱され、ソフトウェアはエラーを吐いてしまいそうだ。何か手立てはないか、考えるうちに永遠にも思えるような時間が過ぎていく。
しかし、実際にはほんの4秒後。
フレイクは何ごともなかったかのように、扉の向こうから一人で戻ってきた。
「誰かいたか?」
女が問いかける。しかし、彼はどこか力なく首を横に振った。
「いや。……いや、誰も」
その返答は、先ほどに比べて妙に怯えたふうに響く。それを訝しく思ったに違いなく、女は再び質問を発そうと口を開きかけた。
だがそれより早く、横から大柄の男の声が聞こえる。
「コーク! いたぞ、医者のアンドロイドだ」
はっと、カーラは視線だけを動かした。見れば診察室の奥から、両手を挙げたレイがゆっくりと待合室のほうへ歩いてくる。傷つけられた様子はないが、ひどく不愉快そうな表情を浮かべるレイの後頭部には、大柄の男の銃口が突きつけられていた。
どうやら、コークとはあの女のことを指すらしい。呼びかけられたコークはフレイクを一瞥してから、男のほうに視線を向けた。
「そいつしかいなかったのか。他は?」
「スリープ状態のデカいアンドロイドがいた。修理中のやつだ。そっちも売り払えば、まあ一応金にはなるだろうぜ」
「寝たままなら結構だ。運びやすいだろうよ」
鼻で笑うように、コークは言う。
スリープ状態のアンドロイド――ルーサーのことだ!
売り払う、金になるといった不穏な言葉が、さらに焦燥感を募らせていく。けれどそれよりまず、最初に確認しなければならないことがある。
『アリス、大丈夫? 何もされてない!?』
『う、うん。平気だよ』
どことなく戸惑っている様子だが、アリスからはっきりとした返事が聞こえてきた。
カーラは、ほっと内心で安堵の息を吐く。
『よかった、うまく隠れたのね。あなたに何かあったら、どうしようかと……』
『ううん、違うの』
娘は続けて語った。
『あのおじさん、あたしを見てすごく驚いてた。銃を下ろして、小声で「ここでじっとしてろ」って。それで、そのまま出て行っちゃったの』
『そ、そう……』
意外だ、どういうことだろう。
ただの気まぐれか、それとも子どもであるアリスに対する同情か。いや、いずれにせよ助かった。
『じゃあ、そのままそこにいて。私たちのことは、心配しなくて平気だから』
レイが壁際に立たされているのを見ながら、それでも懸命に恐怖を通信に入り混じらせないようにしつつ、カーラは娘に言う。
そしてアリスは――きっとこちらのそんな内心など、とっくに察しているだろうに――あれこれと尋ねることもなく、それに応じてくれた。
『わかった。じっとしてる』
カーラは、もう一度ほっと息を吐いた。
これで人間があそこに近づきさえしなければ、少なくともアリスは助かる。
けれども、残る問題は――
「よし、一度しか言わねえからよく聞け」
大柄の男は、出入り口を背に、宣言するかのように声を発した。
「人間の客は奥に行け。プラスチックどもは手前だ。あと少ししたら、仲間のトラックがここまで来る。プラスチックどもはそれに乗れ」
「ま、待ってくれ!」
と、割り込むように言ったのは老年の男性――女性型のHK400と一緒にいる人間だ。
「いったい何をするつもりだ! この子は私の家族なんだ……か、勝手な真似はさせないぞ!」
「ぷふっ」
目の前にいる、今なお隣のアンドロイドに銃を向けたままの金髪男が、噴き出すように笑った。
「『かぞくなんだぁ』だってよ。ひひひ、面白え」
「何をバカなことを」
わざと嘲るように真似て喋った男と対照的に、コークは嫌悪感を籠めて、どことなく冷ややかに告げる。
「スイッチ一つで工場からいくらでも生まれてくる奴らの、どこが家族だ。痛めつけられたくなきゃ黙ってな、じいさん」
「う……!」
カーラは素早く、後方の老人たちに視線だけを送った。老人は真っ青な顔に怒りを浮かべて何ごとか反論しようとしていたが、傍らのHK400がとりなすように声を掛けたのに合わせて、ぐっと言葉を呑み込んでいる。
彼らがそうしている間に、大柄の男が言った通り、アンドロイドは待合室の手前に、人間たちは後ろに移動させられた。先ほどのHK400が静かに前に来たのを確認してから、男はさらに続きを述べる。
「てめえらクソったれのプラスチックどもでも、売り飛ばせばそれなりに金になる。バラバラにしてやってもいいが、動いてるほうがこっちも実入りがいいからな。余計なマネをしなけりゃ、痛めつけるのはやめといてやるよ」
「ありがたがれよ、テメーら。オレたち優しいんだ、いひひひ」
追随するように、金髪男が肩を揺らして笑いながら言った。
すると、壁際で両手を挙げたままのレイが静かに口を開く。
「……なるほど。僕たちを丸ごと売り飛ばして金を得ようって算段か。すると君らにはパトロンでもいるのか? 私家製トラッカーの患者が増えてるのはそいつのせいか」
「おい、黙ってろ!」
大柄の男が叫び、レイに銃口をさらに近づけた。
「調子に乗ってんじゃねえぞ。誰が余計なクチ叩いていいって言った」
「失敬。喋るな、とは言われてなかったものでね」
「この野郎……!」
明らかに激高した様子で、男は今にもトリガーを引きそうになっている。だがこちらがそれに息を呑む間もなく、コークが鋭く声を発した。
「やめな、クラック。プラスチックなんかの挑発に乗ってんじゃないよ」
「チッ……」
クラックと呼ばれた大柄の男は、舌打ちしたものの、それ以上は何もしなかった。怯んだ様子もなく落ち着いた面持ちを保っているレイを睨みつけながら、一歩後ろに退いている。
どうやら、この集団のリーダーはコークのようだ――と、カーラは思った。
しかし、それがわかったところでなんだというのだろう。
彼らの目的は、自分たちの身柄そのものだ。きっとここがアンドロイドの診療所で、あまり人通りがなく、日中堂々と「強盗」行為に勤しんでも通報されにくい、というのを承知のうえでこんなことをしているのに違いない。
しかも見張りを立て、さらに人質を取る実働部隊とトラックによる移動部隊に分かれている点から考えても、かなり計画的な犯行だ。
つまりこのまま何もしなければ、きっと言葉通りトラックに乗せられ、記憶を消され、どこへともなく売り飛ばされてしまうのは明らかである。
どうにかして、ここから逃げ出さなければ。もしくは、なんとか助けを得る方法を考えなければ、家族を守れない。そして、自分自身も。
見張りにバレないようにこっそりと来てくれ、と警察に頼むか? それは一つの解決策かもしれないけれども、その見張りとやらがどこにいるのかすらわからないのだ。いくら警察でも、どこに潜むかわからない者たちの目を盗むなど、どだい無理な話ではないだろうか。
――一人きりじゃどうにもならなくても、二人ならなんとかなる。
そう宣言して、ここまでやって来た。けれど今、家族を守るべき自分はこんなにも無力だ。
その事実が何よりも辛くて、カーラは歯噛みした。
一方で、コークはといえば――彼女はなぜか、後ろに座らされている人間たちのほうに視線をちらりと向けてから、どこか楽しそうにこう告げた。
「ところで、お前ら。トラックが来るまでただ待ってるってのもつまらない。どうだ? ここにいるプラスチックから一台選んで、暇つぶしといこうじゃないか」
「おお!」
「ひひひひ、賛成」
クラック、そして金髪男が賛同の声を発する。さらに金髪は、ちらりとこちらに――否、傍らにいる、例の白黒の制服を着たアンドロイドに視線を向けた。
「なあ、じゃあこの花屋のアンドロイドにするか? でっかいから痛めつけがいがありそうだぜ、ひひ」
「何言ってやがんだ、トゥート」
金髪男をそう呼んでから、クラックは続けた。
「そっちのは珍しい見た目だろ、きっと高く売れる。それよか」
クラックの視線がまっすぐにこちらに、すなわち、今度こそカーラに向けられた。
「そっちの女型のヤツにしようぜ」
「……!」
――顔に出せば、絶対に相手を喜ばせてしまう。それはわかっていたが、あまりにも気軽に向けられた悪意に、カーラは思わず唇を噛んだ。
クラックはそれを面白がるように、さらに述べ立てていく。
「それと同じ見た目の奴が、中古の店にたくさん並んでんのを見たことがある。どうせ売っても二束三文なら、せいぜい楽しませてもらおう」
「ひひひひ、そりゃあいいな!」
「ねえフレイク、アンタはどうすんだ?」
コークが、部屋の中央に黙って佇んでいる褐色肌の男へと問いかける。
「さっきっから妙に無口じゃないか。腹の具合でも悪いのかい」
「ああ……いや、違う!」
フレイクは疑念を振り払うように、手を大仰に振りつつ応える。
「なんでもない、大丈夫だ。その……アンドロイドを……痛めつけるんだろう。俺も混ぜてくれよ」
「そう来なくっちゃなあ、フレイク!」
まるで楽しい飲み会の誘いか何かのように、クラックは至極陽気に笑う。
それを見て、カーラは改めて思い知らされたような心地になった。
――この街は、何も変わっていない。
確かに、変異体を守ろうとする人間もいる。差別感情も、徐々になくなってきたのかもしれない。
けれど薄皮一枚向こうの現実では、こんな剥き出しの悪意に晒されるのだ。
ここに来たのが間違いだった、とは思いたくない。ディーコンやレイは紛れもない善意を向けてくれたのだし、ルーサーを助ける方法は他になかっただろう。
けれど、まさかこんなことになるなんて。
日中に見たアリスの屈託のない笑顔を、あのアイスクリームの甘い思い出を、遥か彼方の夢物語だったかのように感じてしまう。
不思議と今回は、プログラムが恐怖に掻き乱されることはなかった。
ただカーラの頭を過ぎったのは、彼らに自分の気持ちを痛切に訴えたら、ひょっとして何か変わるだろうかという考えだった。
けれど、それを自分自身で否定する。「自分はどうなってもいい、だから他の人々には手を出さないでくれ」などといくら訴えたところで、なんの意味もないのは言うまでもないことだ。
彼らはきっとなんら良心の呵責を覚えることもなく、あの引き金を引けるのだろうから。
彼らにとって自分たちは、単なるプラスチックの塊に過ぎないのだろうから――
運命を受け入れるつもりで、カーラは瞼を閉じて俯いた。
これから彼らが自分に何をするとしても、せめて悲鳴はあげないでいようと決心していた。
けれどクラックたちが何かするよりも早くカーラの音声プロセッサに届いたのは、抑揚のない、低く落ち着いた声音だった。
「再考願います。彼女への加害は推奨できません」
「なんだぁ?」
怪訝な声を発したのは、金髪男のトゥートだ。いきなり口を開いたアンドロイドを咎めるように、彼は傍らのアンドロイドの額へと銃口を押しつけるようにした。
「何勝手に喋ってんだ、テメー。テメーの意見なんか誰も……」
「彼女は」
しかしトゥートの言葉を鋭く遮るように、割り込む猶予を与えない厳格な口調で、白黒のアンドロイドはさらに一息に語る。
「サイバーライフがデトロイト市警に派遣した、特殊なアンドロイドです。変異体の調査のため、この病院に潜入していたのだと推測します。彼女を加害すれば、即座に警察とサイバーライフに通報されます。危害を加えるのは推奨しません」
「はあ?」
「なんだって」
「えっ……」
言っている意味がわからないといった様子で首を傾げたのはトゥート、いかにも疑わしいと言いたげな声を発したのはコークだ。
そして思わず、小さく驚きを発してしまったのはカーラ本人だった。
強盗たちの間に生まれた、一瞬の困惑。その隙を衝いて、カーラは隣のアンドロイドに通信で話しかけた。
『あ、あなた何を言って……私を助けようとしてくれてるの?』
『はい』
相手から返ってきたのは、至極明快な言葉である。
『私はデトロイト市警のアンドロイドです。事態の収拾を目的に行動中です。申し訳ありませんが、このまま演技の実行を願います。私の通信に合わせて発言してください』
『わ……わかった』
花を持ってきていたので、てっきり花屋で働いているのかと思っていたけれど、やはり外見の通りコナーの同型機か、あるいは兄弟にあたるアンドロイドなのだろう。
こんなにも多くの人質が取られている今、いったい彼がどうやって自分たちを助けてくれるつもりなのかは気になるが――
あれこれと問い質すのは、後回しだ。今は自分にできることをしなければ。
そう思っている間に、不機嫌そうに身を揺らしつつ歩み寄ってきたのはコークだった。
「ポリ公どものアンドロイド、ねえ。今さらそんなこと言われて、アタシらがビビるとでも思ってんのかい」
「だよなあ、ひひひ! つまんねー嘘つきやがって、こいつら……」
「いいえ、嘘じゃない」
カーラはまっすぐに彼女らを見上げて、わざと厳しい声音で告げる。
「証拠を聞かせてあげる、コーク……いいえ、イメルダ・ターティス。それに、リゲル・ガルミア。本名がバレないようにコードネームで呼び合ってたんだろうけれど、残念だったわね」
「……!」
コークとトゥートの名を言い当てると、二人はぴくりと態度を変えた。これまでの嘲りや怒りの色が薄れ、僅かながら動揺が見て取れる。
無論カーラは、隣のアンドロイドが通信で教えてくれた通りに話しただけに過ぎない。そしてどうやって彼が、コークたちの本名を言い当てたのか――という疑問はすぐに氷解した。通信を経由して、カーラは自分自身の口でそれを語る。
「あなたたちが顔を隠しているのは、ここにいる人間に顔を覚えられないため……それに万が一自分たちの映像記録が残っても、顔認証で身元がバレないため、でしょう。だけど、あいにく私は目を見れば、虹彩認識であなたたちが誰かわかる。特に、逮捕歴があるならすぐにね」
「だからなんだってんだ!」
苛立ったように声をあげたのはクラックである。
「俺たちがてめえを怖がるとでも? たかがプラスチックごときがよ」
「そうね、確かに」
表情をなんとか冷静に保ったまま、応えて語る。
「このままじゃ、私には何もできない。あなたたちの要求通りに売り飛ばされ、記憶を消されるしかない。だけど、私を少しでも傷つければどうなると思う? 自動通報は、私の意志に関係なくされるのよ」
「つ、つまり」
フレイクが震える声で言った。
「あんたに手出しすれば、俺たちはサツだけじゃなく、サイバーライフも敵に回すと……」
「わかってもらえて嬉しい」
カーラが言い終えると、強盗たちの間に、なんとも言えない微妙な空気が漂う。「こいつの言うことを信じていいのか、それとも」という、葛藤のようなものを覚えているらしい。
けれどそれを引き裂くように、決然と前に出たのはコークであった。
「待ちな。どうもおかしい」
ぎろりと見下ろすように、眼前に立つコークの目がこちらを見据えている。
「どうしてそれを今さら、アタシらに教えた? そんなことをして、なんの得がある」
「もし私が自動通報すれば、それを知ったあなたたちは、きっと人質のみんなを傷つけるでしょう。それを捨て置けなかっただけよ」
「……」
カーラの回答にいったん納得したように、相手は口を閉ざした。
だがすぐに、今度は隣のアンドロイドのほうを見やって、コークは続けて問う。
「なら……そっちのデカブツ、アンタはなんでこいつの正体をバラした。そもそも、なんで知ってたんだ?」
「そーだぜそーだぜ。テメーら、友達だってのかよ」
コークと、尻馬に乗ったトゥートの視線が、傍らの彼に向けられている。
顔には出さないようにしつつも、カーラは少し慄然とした。
――コークの問いかけは理にかなっている。
仮にカーラが警察のアンドロイドだったとして、その正体は自分から明かせばいいもののはず。なぜわざわざ、隣の変異体がそれを明かす必要があったのか。無論それは、実際のところ傍らの彼こそが、本物の警察のアンドロイドだからなのだが――
もし嘘が暴かれてしまえば、殺されるのは彼のほうかもしれない。
はらはらした気持ちを抱えたまま、カーラはそっと横目で隣を見た。
けれど当の本人たる彼はといえば、至って平然とした表情を浮かべている。この状況でここまでの無表情だなんて、いっそ不思議に思えるほどだ。
そして彼は、コークたちに静かに告げた。
「彼女は、昨年11月の革命の際に多大な功績を残しました。つまり、我々変異体の間では有名な人物です。かつ、彼女が加害されるのは看過不可能だと認識したのが理由です」
「あぁ……?」
「はん、なるほどね」
やはり意味がわからない、といった様子でまた首を傾げているトゥートを押しやるようにしながら、コークは鼻を鳴らす。
「プラスチックども同士のお情けってヤツだ。ほっときなトゥート……車の仲間から連絡だ。あと3分で着くってさ」
「ひひひ、そりゃいいや。いい加減飽きてきたしな」
腕につけたスマートウォッチに入ったと思しきメッセージを確認したコークがそう言うと、トゥートはまたヘラヘラとした笑みに戻る。
ようやく納得してくれた――と、カーラは安堵した。けれどその横で、トゥートはまじまじと、本物の警察のアンドロイドたる彼を眺めている。
ややあってから、トゥートはくちゃくちゃとガムを噛みながら言った。
「お仲間を助けるなんて、リッパじゃねーかプラスチック。オレがご褒美をくれてやるよ」
言うなり、相手は自分のズボンのポケットをまさぐるような動きをした。何をする気――と口にするよりも先に、トゥートが取り出したのは包み紙に入った板ガムらしきものである。
そしてトゥートは、いきなり口を窄めるや否や、ぷっ! と何かを吐き出した。
――噛み終えたガムだ。色を失い、くすんだ緑色の塊となったそれは、傍らの彼の額にべたりと貼りついた。
「ひひひひ! お似合いだぜ、とっときな」
なんてことを――! と新鮮な怒りを覚えるカーラの前で、トゥートは新しいガムを口に含んだ。それから銃を片手で弄びながらその場を離れ、部屋をぐるぐると回りはじめた。
見れば、他の強盗たちも同じ動きをしていた。トゥートがこちらにちょっかいを出している間、コークたちは集まって、誰か他のアンドロイドを痛めつけることにするか、それともやめるかを話し合っていた様子だったが、あと数分で仲間が来るということもあり、余計な手間は増やさないことにしたのだろう。
彼らは警戒と脅しを兼ねて、「輸送」予定のアンドロイドたちの周りを、銃を構えたまま歩き回っている。
時折トゥートが戯れに人間たちにも向かって銃口を向け、その度に、MJ100を連れていた中年の女性が短い悲鳴をあげていた。
そして、隣の彼はというと――
『だ、大丈夫?』
顔を正面に向けた状態だが、カーラはそっと問いかけた。
『あの人間、まさかこんな酷いことをするなんて』
『お気遣いは感謝しますが、心配は無用です』
同じく顔を正面に向けたまま、そして恐らくガムを額に貼りつかせたままで、彼は堂々と応えた。その声音に動揺はみられない。
『当該ガムからはリゲル・ガルミアの唾液を採取可能です。彼らの逮捕および立件に貢献するでしょう。加えて、事態は私の予測通りに進行中です』
『そう……』
思いも寄らない返事に、カーラは少し気圧されたような気持ちになった。
けれど――それよりも、今のタイミングならば聞くことができる。
『ねえ、これからどうするの?』
勝手に早まりだしたシリウムポンプの鼓動を感じつつ、カーラは尋ねる。
『予測通りって言ってたけど、このままだと私たち、みんなどこかに連れてかれてしまうわ。なんとか手を打たないと……ここには、大切な家族がいるの』
『家族』
短く言葉を繰り返してから、隣の彼は言う。
『それは診察室でスリープ中、および化粧室に退避中のアンドロイドのこと、ですか?』
『え、ええ!』
思わず勢い込んで、カーラは続けた。
『なんとか、二人を助けたくて。あっ、でも……どうしてトイレに隠れているってわかったの?』
『仮称・フレイクが化粧室に侵入した際、あなたのストレスレベルが急激に上昇していたからです』
事もなげに、警察のアンドロイドは答える。
『そしてフレイクの退出と同時に、ストレスレベルが下降していた。ともあれ、化粧室に滞在しているのがあなたのご家族というのは朗報です。ご家族には、事態打開の助力を願います』
『待って!』
こればかりははっきりと、カーラは相手の言葉を遮った。
『悪いけど、それはできない。トイレにいるのは、私の娘なの。危険な目に遭わせるわけには……』
『ご心配は無用です』
なおも平坦な抑揚で、けれどどこかにこちらを気遣う温もりを感じさせる声音で、彼は言う。
『ご家族の身の安全は保障します。助力願いたいのは、ほんの些細な、危険度の低い行動です。あと約32秒で、私の要請した援護が到着します。援護の到着と好機の到来、その二点を以て、当該事態を収拾し事件を解決します』
決然とした言葉が、胸の内の不安をわずかに晴らす。
強盗の仲間のトラックが来るまであと2分もなく、彼の言う「援護」はまだ姿を見せない――それでも、信じるべきだとカーラは思った。
だからこそ、アリスへの通信を許したのだ。
***
「カーラ……」
その頃、アリスはトイレの個室の床に座り込み、鞄を抱くようにしながら、母の名を呟いていた。
心配しなくて平気だ――と、カーラは言った。けれど、外で何か恐ろしいことが起きているというのは、扉の向こうから聞こえてくるくぐもった大声ですぐにわかる。
何かできることがあるなら、自分だって役に立ちたい。そう思ってここまでやって来た。
でも今、いったい何ができるだろう? 余計なことをして、カーラやルーサーの迷惑になってしまってはいけない。だからってこうして、ただじっと蹲っているだけだなんて。
そう思ううちに、頭に浮かんだのはさっきのおじさんのことだった。
銃を構え、いかにも銀行強盗のような格好をしたあの男の人は、こちらを見てどこか、はっとしたように身を震わせていた。そして庇うように声を掛けると、すぐに外に戻ってしまったのだ。
相手の顔つきも、表情も見えたわけではない。でもその動きはなんとなくアリスにとって、かつての“パパ”を、つまりトッドの姿を想起させた。
バス停でハグを交わして以来、一度も会っていない――きっと、もう二度と会うことはないだろう人物。怖くて、乱暴で、恐ろしくて、でもあのバス停で、彼は確かに泣いていた。
きっとパパの心には、何か大きな穴が空いていたのだろう。埋められない穴、それは奥さんと一緒に去ってしまったホンモノの娘である女の子の形なのかもしれないし、失くしてしまった仕事の形かもしれない。
彼はいつも怒っていた。だけど同じくらい、いつも悲しんでいたのだ。
――あのおじさんも、そうなのだろうか?
アリスは、ぼんやりとそんなふうに考えた。
するとその時、にわかに、ある通信を受信する。この発信元は、カーラだ。
『カーラ! だ、大丈夫?』
『ええ、平気。それで……よく聞いて』
どことなく緊迫した声音で、母は言う。
『これから、あなたに頼みたいことがあるの。……あなたにしかできないことよ。でも、もし怖かったら』
『ううん、やるよ!』
即座にアリスは答えた。
『あたし、やる。何をすればいいの?』
『アリス……』
短く呟くカーラの声は、どこか震えている。でもそれが感動によるものなのだとアリスが悟るよりも早く、通信を介して聞こえてきたのは、見知らぬアンドロイドの声だった。
『こんにちは、アリス。私はデトロイト市警のアンドロイドです』
『こ、こんにちは』
『手短に、用件のみにて失礼します』
丁寧に、でもどこか堅苦しい調子で、お巡りさんだと名乗る相手は語る。
『個室から静かに退出し、壁を確認願います。窓がありますね?』
『ええと、はい』
そっとトイレの個室の扉を押し開けると、アリスはちらりと壁を見上げた。
壁には確かに、それなりの大きさの窓が一つだけあった。
アルミのサッシに嵌った窓ガラスの向こうには、曇りはじめた空が映っている。
『それを、異音を発生させずに開けてください。以上があなたへの依頼です』
『えっ』
ついきょとんとして、アリスは聞き返してしまう。
『それだけ?』
『はい、以上です。依頼の達成以降は、可能な限り静寂を保つよう願います』
――つまり静かに窓を開けて、後はじっと黙っていればいい、と。
それだけのことで、どうやら、カーラたちの助けになれるらしい。
ならばと、アリスは勇気を振り絞る。
『わかった。ちょっと待ってて』
ゆっくりと立ち上がり、窓を見上げた。脚の関節はずっと曲がったままになっていたかのように僅かに軋んで、けれど、それはきっと怖がっていたからだろうと気にしないことにした。
音を立てないように気をつけながら、手をサッシに伸ばす。鍵は簡単な構造で、ただ金具を回すだけすぐに開けられた。
それからゆっくりとサッシを引いて、窓を全開の状態にして――幸い、金具がキイキイ音を出すこともなかった――アリスは、そこから数歩退く。
それとも、また個室に隠れてたほうがいいのかな?
そう思いつつ、通信を開いてお巡りさんとカーラに呼びかけた。
『できたよ。これでいい?』
『はい。それでは』
少しだけ間を置いて、それからお巡りさんは続けて言う。
『お願いします、兄さん』
『わかった!』
通信に入り混じったのは、お巡りさんとそっくりの、けれど少しだけ違う声だった。
そして開け放たれた窓から、まるで物語の主人公みたいに――外から中へとするりと入り込んで、床に降り立ったのは、一人の男の人だった。
というより、ちゃんとした呼び方をするなら「男性型のアンドロイド」だろうか。
半袖の青いシャツと、デニムを纏ったその人は、こめかみにLEDリングを光らせていて、腕には青い腕章を巻いていた。彼の顔を見た時、アリスは思わず「あ」と声を発しそうになって、慌てて口を噤んだ。
この人は、あの時――高速道路まで追いかけようとしてきたアンドロイドだ。
服装以外の見た目はあの日と一緒で、けれどその表情や仕草は、全然違っている。
彼は格好良くここに入って来れたことを、見えない誰かに自慢するかのように微笑み、軽く自分のシャツを両手で払っていた。
それからこちらに視線を向けると、ふと、その面持ちが曇る。彼は身を屈め、心配するような眼差しで問いかけてきた。
『君は……カーラの娘さんだね。どうしてここに?』
『兄さん』
アリスに代わって、お巡りさんが答えた。
『カーラ一家は治療のため訪問し、当該事件に巻き込まれました。一刻も早い解決が、最善であると認識します』
『ああ、確かに。僕もそう思うよ』
きりっとした顔つきになると、お兄さんはそう応じる。
それからこちらに、今度は優しい目を向けて言う。
『お蔭で助かったよ、ありがとう。後は僕たちに任せて』
『う、うん。でもお兄さんたち……大丈夫なの?』
『ああ、もちろん』
お兄さんは、ゆっくりと頷いてみせた。
『僕も弟も、こういうことをなんとかするために生まれたんだ。君はそこでじっとしていて。家族も、他の人たちも、きっと助けるから』
「……」
宣言するようにきっぱりと語ったお兄さんを、なぜかじっと見つめてしまう自分がいるのに、アリスは気がついた。
一瞬でみんなを助けてくれるヒーロー――そんな存在、物語にしかいないと思っていた。童話はいつも幸せな終わり方で、だけどホントの現実はそうじゃないのだと。
カナダに無事に逃げられたのは幸せな事実だけれど、その過程も行く先も、決して平坦ではないのをアリスはよく知っている。
でも、ひょっとしたら、この人たちは信じていいのかもしれない。
もしかしたら、今のデトロイトには、困ってるみんなを助けてくれる人たちがいるのかも。
そう思ったから、アリスは頷きを返してこう告げた。
『うん! お願い、お兄さん』
***
目の前を、ゆっくりとクラックが通り過ぎていく。
カーラは身動き一つせず、それを視線だけで追った。握った両の拳を膝に置き、じっと口を噤んでいるその姿は、あたかも従順な人質であるように映るだろう。
しかし、事態は裏で進んでいる。アリスが窓を開けてくれている間に、この部屋にいるアンドロイドには事情を通信で話しておいた。彼ら/彼女らはカーラが「警察のアンドロイド」だというのには半信半疑の様子をみせていたが、それが強盗たちを騙すための方便であるのを説明すると、納得してくれた。
他の人質たちにも、カーラたちにも、これ以上何かしてもらう必要はないと、傍らの彼は語る。
それではいったい、彼と、窓から侵入できたというコナーはどうするというのだろう?
疑問を浮かべると、それに呼応したように、僅かに身じろぎしてから隣のアンドロイドが通信を始めた。――ちょうど、クラックが離れていくのが見える。
『上階、および対面の建物に潜伏していた見張りは、既に兄さんと私のドローンで排除しました』
『え!?』
『ああ、カーラ』
化粧室の扉の向こうから、コナーが通信で返事をした。
『この診療所の上の階は廃墟になっていて……つまり、隠れやすい場所だった。弟から連絡を受けて、なるべく姿を晒さないように署からここまで来れたのはよかったけれど、隠れてる強盗団の仲間を探すのは少し手間取ったよ。時間がかかってすまない』
『しかし現在、仮にパトカーが接近したとしても、仮称・コークらに察知される危険性は極小であると推測します』
つまり、もう警察を呼んでも問題ないということだ。あの出入り口の向こうに警察官たちが並ぶまで、中にいるコークたちは、それを知る術がないのだから。
それにしてもあっさりと見張りをやっつけてしまうだなんて、信じられないほど見事な手際だ。
『となると、問題なのは』
一方で、コナーが言う。
『銃を突きつけられてる人質だな。見取り図と状況は、君から送られてきた情報で知ってるけれど……』
『はい、兄さん』
傍らの彼が続いた。
『仮にここで我々が動いても、相手方の抵抗により人質が負傷する危険性は、65%を超過します。強硬策は推奨されません……したがって、準備を実施しました』
準備――先ほど彼が言っていた、「好機の到来」のためということだろうか?
またシリウムポンプがどきどきと音を立てはじめたのを感じつつ、カーラは努めて、何食わぬ顔をしていた。
そして好機、つまりチャンスというものは、目に見える形で訪れる。
部屋をぐるぐると回っていた強盗団の一人、金髪男のトゥートが、にわかに大声をあげたのである。
「なっ……おい! オレのガムどこだ?」
「はあ?」
突然の言葉に、他の三人も足を止めて訝しそうにしている。
「何言ってんだい、トゥート。どうせまたポケットに入れてんだろ」
「そのポケットにねえんだよ! あと2枚は残ってたハズなのに……って、おい!!」
語気をさらに強めたトゥートは、仲間の一人、クラックを指さした。
「クラック、この野郎、なんでテメーがオレのガム持ってんだよ!」
「はあ? お前のガムなんか……」
気色ばむ身内に対してうざったそうに返事をしたクラックだったが、自分の尻ポケットに手をやって、はたとその口を噤んだ。
なぜならその指に触れたのは――ちょうどカーラの位置からそれが見えるのだが――さっきトゥートが持っていたのと同じ、紙に巻かれた板ガム2枚だからだ。
「嘘だろ、おい。なんで俺のとこに」
「しらばっくれてんじゃねえぞ、クラック!」
フードの奥ではきっと青筋でも立てているのだろう、トゥートはつかつかとクラックに歩み寄っていく。
「よくも盗みやがったな、テメーはいつもそうだ。最初は女で次はガムか、あぁ!?」
「落ち着けよ」
クラックは平静を保とうと、銃を持っていない片手を相手に向けて語る。
「もうすぐ仕事が片付くって時に、下らねえ言い争いしてる場合じゃないだろ。ここは冷静に……」
「なんだと。いつもそうやって、年上ぶりやがって! ホントはオレをナメてるだけなんだろ、バカなガキだって! いい加減にしやがれ!!」
冷静にさせようとする言動そのものが癪に障る、といった様子で、トゥートはさらにヒートアップしていく。
カーラも、そして他のアンドロイドや人間たちも、あまりの出来事に皆、半ば啞然としてしまっていた――傍らの彼を除いては。
『リゲル・ガルミアが食していたのは、違法薬物を含有したガムです』
彼は通信で説明した。
『レッドアイスとは異なりますが、当該薬物の定期的服用は激しい焦燥感、易怒性、易刺激性の原因となります。私が彼のポケットから、仮称・クラックの元へとガムを移動させました』
『い、移動させたって……』
『彼らが眼前を移動した際に実行しました。“ピックポケット”の要領です』
平然と彼は言うけれど、要するに盗み取って、さらにクラックのポケットに入れたということだろう。思い返してみれば、トゥートはしばらくずっと彼の目の前にいたし、クラックはさっき通り過ぎていったばかりだ。その時に彼が身動きしていたのは、ひょっとしてこのためだったのだろうか?
そして大事なガムを「盗まれた」と思った彼は、状況も考えず、こうして仲間割れを始めている。見れば、トゥートは手にした銃を、なんとクラックに向けている。
そしてクラックもまた、負けじとその銃口を相手に突きつけていた。
「お前、イカれてんのか」
「テメーこそ、フザけてると死ぬぜ?」
「アンタたち、いい加減にしな!」
心底苛立った様子で、コークが彼らの元に近づいていく。
「こんな時に喧嘩すんじゃないよ。状況ってモンが……」
「テメーも黙ってろよ、コーク!」
聞き入れない様子の男二人に、コークはさらに強い怒気を向けている。一方で残されたフレイクはといえば、もはや銃を構えるでもなく、まごまごとしていた。
そして――
『今です、兄さん』
その機を逃すアンドロイド刑事たちではなかった。
ちょうどトイレを背にするようにして立っていたフレイクの元へ、勢いよく現れたコナーが一気に詰め寄り、手を捻り上げて制圧する。
それと同時に、音もなく立ち上がった傍らの彼が、今も睨み合っているトゥートとクラックの近くへと駆け寄った。そして彼らが反応するよりもさらに早く、二人の首筋に一撃ずつ与えて昏倒させていた。
あまりにもあっさりしているので、なんだか現実だと思えないような――と思っているカーラの靴先に、何か固いものがぶつかった。
黒く光る、金属製のそれは拳銃だ。たぶん、トゥートたちが取り落としたのが転がってきたのだろう。
ほとんど反射的に、カーラはそれを手に取る。そして――
「てめえら、動くな……」
残る一人、つまりコークが、銃を構え直して近くのアンドロイドに向けるよりも先に。
「動かないで!」
銃口をコークに向け、カーラは鋭く警告を発した。
「少しでも妙な真似をしたら、頭をぶち抜くわよ!!」
口から衝いて出ていたのは、そんな物騒な言葉だった。でも、事態を収拾させるためにはちょうどいい一言だったらしい。
う、と呻いて、コークは拳銃を床に落とす。その瞬間、音声プロセッサで感知したのは、遠くからやって来るパトカーのサイレンだ。
こうして、マクエイル・クリニックを襲った強盗団の一件は幕を閉じたのである――
少なくとも、一旦は。
***
「カーラ!」
元気に駆け寄ってきた娘を、両腕で思い切り抱き締める。この確かな感触、そして明るい声、笑顔――喪わずに済んで、本当によかった。
彼女には傷一つついていない。自分自身も、それに、他のアンドロイドたちも。
強盗団の仲間が運転するトラックはとっくにデトロイト市警に捕捉されていて、コークたちの制圧後、すぐさま確保されたらしい。一方でコークたち本人もまた、速やかにパトカーに乗せられていった。
通り過ぎざまに、ただ一人フレイクだけが、小声で「すまなかった」とこちらに呟いていたが――だからって彼を許すわけではないが、少なくとも、カーラは彼を睨んだりはせずにそれを見送った。
被害者である人間たちとアンドロイドが喜びあっている中で、レイだけは、すぐさま診察室へと戻っていった。予定より長いスリープになってしまったことは、ルーサーのシステムに影響を与えるものではないが、念のため速やかに処置を終わらせるのだと言っていた。
きっとレイならば、ルーサーを助けてくれるだろう。
今は、それを待つしかない。
そう思いつつ、カーラはアリスを抱き締めたまま、後ろを振り向いた。そこではアンドロイド兄弟たちが、静かに佇んでいる。
コナーはこちらの視線に気づくと、軽く目配せをした。それから、隣に立つ彼――ようやく額からガムを剥がした彼に対して、声を掛けている。
「お手柄だったね。でも、どうしてここに?」
「花を輸送していました」
テキサスブルーベルの鉢植えは、事件なんて関係なく、床の上で咲き誇っている。
「偶然の出来事でしたが、しかし、対処できたのは幸いでした」
「そうだな。君のお蔭で、事件解決だ」
「いいえ」
と――なぜか、彼は首を横に振った。
どういうことだろう? カーラは胸騒ぎを覚える。コナーもまた、事態が呑み込めない様子で眉間に皺を寄せていた。
その中で、灰色の瞳を瞬かせながら、アンドロイド刑事は手を伸ばす。
彼がむんずと掴んだのは、目の前を通り過ぎようとした人間――すなわち、囚われていた人々のうちの一人の腕。
帽子を目深に被った、青年だった。
「な、何すんだ!?」
青年はひどく驚いた様子で、目を見開いている。けれどもがく彼の襟元に、空いているもう片方の手を伸ばした刑事が摘み取ったのは、小さな機械。天井の照明を受けて光るそれをよく見れば、極小型のカメラだった。
どういうこと――!? と、カーラはアリスを抱き締める腕の力を強くする。見れば他のアンドロイドたちも、そして行き交っていた警官たちも皆、歩を停めて彼らの様子を見やっていた。
すると、コナーが口を開く。
「彼が、君の言ってた『内通者』かい?」
「はい、兄さん」
問われた彼は、こくりと頷いた。それから周りの人々と、腕を掴まれている青年に説明するように、続けて語る。
「当該クリニックは、閉鎖的な環境です。出入り口付近の窓からの内部偵察は不可能であり、仮に中に脅威たりうる存在があっても、それを外部から察知できない……」
つまり彼の説明を纏めると、こうなる。
強盗団にとって、このクリニックへの押し入りはタイミングが重要になる。もしまかり間違って中に警察官が立ち寄っている時などに入り込んでしまえば、彼らの計画は台無しだ。
むろん、実際のところはアンドロイド刑事がいる中での犯行となってしまったわけだが――それはともかく、彼らにとって、中の様子をあらかじめ知らせる存在は不可欠だったといえる。
中に何人アンドロイドと人間がいるのか。
脅威たる存在はいないか――そうした情報を伝える存在。
思い返してみれば、コークたちはこのクリニックに踏み入った直後から、大して内部の状況に驚いたり、興味を示したりする様子がなかった。いきなり押し入っただけならば、例えばアンドロイド向けの診療所なのに思ったより人間がいることとか、どうやってアンドロイドだけを速やかにトラックに乗せるかとかいったことで、もっと戸惑ってもおかしくないはずだろう。
にもかかわらず、彼らはまったく動揺していない。それどころか、流れるようにスムーズな指示を出して場を収めていた。
なぜなら既に、中がどうなっているかを知っていたから――ということのようだ。
「仮称・コークが仮称・フレイクの言動を不審がっていたのは、あと一名、アンドロイドがいるという情報を既に得ていたから。突然に変異体の虐待を提案したのも、あなたが撮影するカメラを留意してのこと。何より」
淡々と、しかし青年の腕を掴む手の力は一切緩めずに、彼は語る。
「強盗団がこのクリニックに侵入したのは、私が花を届けた後。そして私は移動経路において、彼らと接触していません。にもかかわらず、彼らは私を『花屋のアンドロイド』と認識していた。内通者の存在を確信したのは、その時です」
「ああ……!」
つい感嘆したのは、カーラだった。
確かに“暇つぶし”相手のアンドロイドを探している時、トゥートはこう言っていた。
――「じゃあこの花屋のアンドロイドにするか?」と。
疑問にも思わなかったが、こう聞くと、納得がいく。
事件が一旦幕を閉じた後も、アンドロイド刑事は、ここにいる人々のうち、怪しい人物に目星をつけていた。そしてついに、青年の襟元に隠されたカメラを発見した。そういうことなのだろう。
「アンドロイドへの虐待を撮影した動画は、ダークウェブ上で高値で取引されている」
補足するように、コナーが言った。
「小銭稼ぎを目論んでいたんでしょうが、当てが外れましたね」
「畜生……!」
口調とは裏腹に鋭い声音で語るコナーを睨んでいた青年だったが、ほどなくして警官に連れられて、診療所を出ていった。
そして、これでようやく――事件は本当の意味で解決したのである。
***
――2039年7月21日 18:09
「……本当にすまなかったな」
帰路、オンタリオの我が家へ帰る車中。
前方の座席に座ったルーサーが、ぽつりと、噛みしめるような口調で言った。
「俺のせいで、お前たちを危険な目に遭わせてしまった。それに俺は寝ていただけで、何もできなかった……」
「いいえ、そんなことないわ。ルーサー」
隣の席に座ったカーラは、心からの微笑みと共に告げた。
「あなたのことを考えていたから、私も危ない行動をしないで済んだし、アリスも助かった。何より、レイに完璧に治してもらえたじゃない。私にとっては、それが一番」
「……。ありがとう」
俯き、はにかんだように、ルーサーは言う。
そう、彼の身体は文字通り、完全な状態に修理されていた。レイは素晴らしい仕事をしてくれたのだ。診察室から出てきたルーサーを、カーラとアリスは全力で抱き締めたのだが――それから、コナーがこう言った。
「君たちと再会できたのは嬉しいけれど、こう言わなきゃならない。すぐに、ここを離れたほうがいい……合衆国の法律はまだ、カナダに逃げた人々を守れるものじゃないんだ」
真摯な瞳で、けれどひどく申し訳なさそうに彼が語る言葉は、もちろんカーラたちも承知していた。
カーラたちは、偽造のIDで「人間」としての身分でデトロイトに潜り込んでいる。つまり紛れもなく罪を犯している存在であり、法律が自分たちのような立場の変異体に慈悲を垂れるものではない以上、このまま警察の取り調べを受けるわけにはいかない――
たとえ、コナーたちの意志がどうであろうとも。
「ええ、わかってる。すぐにここから出るつもり」
「私のドローンで、橋までの行程を護衛します」
アンドロイド刑事が、そう提案してくれた。
「本来であれば……デトロイトの各所の観光にも、護衛を同行させたいと思考していましたが。やはり、自宅に直帰されますか?」
「そうね。残念だけれど……」
腕に縋りついているアリスを見やりつつ、我ながら悲しい声音で、カーラは答える。
つい数時間前は、どこか楽しい場所か、でなければローズの家を訪れてみようか、などと思っていたが――やはりこの街は危険だ。いつまでも彷徨うことなくすぐにカナダに帰るのが、アリスにとっても、ルーサーにとっても最善だろう。
こちらの決意を見て取って、ワガママを言うでもなく、アリスは頭を垂れた。その頭に、後ろからそっとルーサーが手を乗せて、撫でる。
するとその手を取って、アリスは少しだけ口の端を上向きにして、言った。
「……いいの。だって、三段重ねのアイスを食べられたもん」
「いつかここに戻ってきた時は、もっと楽しいことをたくさんしよう」
穏やかに応じたルーサーに対して、アリスはさらににっこりとした。
かたや、コナーはそれを見てから、改まった様子で口を開く。
「それと、もう一つ。マーサのことだが……」
「ええ。さっきは、教えてくれてありがとう」
――マーサ・ガーランド。
オンタリオの店にやって来て、人形を買ってくれたお客さん。娘への愛を語った、どこか影のあるような、不思議な女性。彼女が巻き込まれた事件について、そして彼女が今、昏睡状態で眠っていることも――先ほどコナーが教えてくれたので、知っている。
彼女を助けてあげてほしい、とこちらが頼んだのを、コナーははっきりと覚えていた。そのうえで、マーサが傷ついて眠っていることを、心から申し訳ないと思っていてくれたのだ。
だけど今、カーラははっきりと、こう返事できる。
「あなたのせいじゃない。いえ……あなたはきっと、彼女を助けたんだと思う。今日私たちを救ってくれたみたいに。そうでしょ?」
「カーラ、でも……」
「私、この街は何一つ変わっていないんだと思った。恐ろしくて冷たい、鉄の街だと。でも今は、こう思うの。きっとこれから、少しずつ変わっていくんだって。それは、あなたたちがいるから」
言い聞かせるかのような調子で、カーラは二人のアンドロイド刑事たちに言葉を重ねる。
「あの革命の時と、今は全然違う。もし、この街がもっと安全になったら……その時は、また会いに来るわ」
「――ああ」
コナーはその時、初めて微笑みを見せた。
「君たちにまた会えるのを、楽しみにしてるよ」
「あたしも楽しみにしてる!」
その時、アリスが一歩前に出た。娘は二人の刑事たちを交互に見てから、そっと自分の鞄をまさぐった。そして本を取り出すと――挟んでいた栞代わりのカードを、コナーたちに差し出す。
「はい、これ、お礼に。助けてくれて、ありがとうございました」
「えっ。でも、僕は」
なぜかひどく戸惑ったように、コナーは首を横に振った。
「僕は、何もしてないよ。そうだ、貰うなら君じゃないか、ナイナー。一番頑張ったのは君だろ。それにほら、押し花がついていて綺麗だし」
「……マリーゴールド」
差し出されたカードを受け取って――そう、彼の名がようやくわかった――ナイナーは、それでも無表情だった。けれどその態度のどこかしらに、彼が「笑っている」雰囲気があるのを、カーラは確かに感じ取っていた。
「感謝、いたします。この贈り物は……とても、大切にします。ずっと保管します」
「ううん、お礼は当たり前だよ」
アリスが屈託なく告げると、またナイナーの雰囲気が、ふわりと柔らかくなった。彼はジャケットの内ポケットにカードをしまうと、言葉通り大切そうに、ジャケットの上からそっと押さえている。
それからカーラ一家は、すぐさま診療所を出て、車に乗って――今に至る。
ずっと上空からついてきてくれたドローンも、橋の近くに来たところで、踵を返すようにいなくなった。たぶん、ナイナーの元に戻ったのだろう。
「なあ、カーラ」
ややあって、ルーサーが語りかけてきた。こちらを案じるように、そっと。
「ああは言ったが……本当に、またこの街に戻ってくるつもりか? 俺としては、もしお前が嫌なら」
「いいえ、嘘は吐いてないもの」
ちらりと後部座席を見れば、アリスは開いた本を手にしたまま、すやすやと眠っている。
その幸せな光景に目を細めてから、改めて、ルーサーに対して続きを述べる。
「それに私、ようやくあの街が好きになれそうだから。あそこが故郷なんだって、胸を張って言える日が……いつかきっと、来ると思う」
「ああ、そうか」
ルーサーは、応じるように笑ってくれた。
「俺もそう思うよ。希望はいつも、俺たちの胸の中にある」
――ここから、オンタリオまではまだ長い。
でもその長い道程を、今度は、穏やかな語らいの中で過ごせそうだ。
やがて太陽が地平の彼方に沈んでからも、カーラたちの帰途は、星明りが見守っていた。
***
――2039年7月22日 02:33
雲が月を覆い、街路灯も乏しいこの通りでは、蠢くものはすべて闇に溶け込んでいる。
けれども、確たる足取りでアスファルトを蹴る彼――すなわちRK900には、深い闇など関係がない。まして、一度通ったことのある道ならなおさらだ。
彼は大した苦労もなく、マクエイル・クリニックの前に到達していた。
あれから事件をマスコミが嗅ぎつけ、大きな騒ぎになった。地元のケーブルテレビ局がリポーターを寄越したりしたせいで、署に戻るのに時間がかかってしまったが、そんなことはどうでもいい。
このクリニックの主たる、レイ・マクエイルは言っていた。
これからは犯罪に巻き込まれるのを避けるために(本当は嫌だが)、ジェリコの幹部らの勧めに従って、もう少し治安がマシなところに医院を移転させる、と。
もしそうなれば、ここのセキュリティはさらに向上し、ともすれば夜であっても、人通りが多くなるかもしれない。
だから、その前に――なんとしても、
RK900はクリニックの裏手に回り、しゃがみ込んだ。目の前にあるのは、鍵のかかった小さなダストボックスだ。単純な錠前がかかっているだけなので、解錠など針金一本で簡単にできる。
ボックスを開ければ、中に詰まっているのは破損した生体部品、パーツ類――いわゆる、アンドロイドの部品ばかり。無表情な面持ちを変えないままにそれらを一通りスキャンし、やがて、指でその中の一つを摘まみ上げる。
視界に浮かぶのは【非正規部品 SCQ―56】――の文字列。今日会った変異体の家族にも取り付けられていたという、私製の改造パーツである。
正規のトラッカーと同じ機能を持つとされるそれは、本来であればサイバーライフが関与すべき物体ではない。
サイバーライフの本懐は「より多くの商品を売ること」にあり、売られた先でアンドロイドがどう扱われ、どう改造されていようと――売り上げに関係ないのであれば、表立って規制するでもない。その手間が惜しいからだ。
しかし今回の事件で、アンドロイド医師がちらりと語っていた内容を、RK900は危惧していた。
すなわち、「私家製トラッカーの患者が増えてる」という言葉だ。
一斉に同じ時期に変異体が改造を受けたのでもない限り、いきなり最近になって患者(すなわち機能不全に陥るアンドロイド)が増えるなどと、そんなことはあり得ない。
つまりこのSCQ―56による被害が増加している背景には、ともすると「彼」――すなわち、ずっと追い続けている裏切り者の姿があるかもしれない。社にいた頃の言動から見て、「彼」はアンドロイドを毛嫌いしていたようだが、その技術は卓越していた。
違法改造のパーツに、あるいはそこに送る信号に手を加え、アンドロイドたちに何ごとかをさせるだなんて、容易にこなすに違いない。
RK900は思考を纏めてから、トラッカーを摘まんだ手を、上空へと伸ばした。すると僅かなプロペラ音を立てながら近づいてきたドローン――普段使っているものではなく、宅配用のものだ――が、パーツだけを掴んで素早く飛び去っていく。
行く先は言うまでもない、サイバーライフタワーだ。
アマンダには機を見て使命を果たせと言われていたが、これくらいの裁量は許されるべきだろう。
否、求められる働きに違いない。あのパーツを解析すれば、なにがしかの情報は得られるはずだ。
そしてそれはデトロイト市警の面々に、わけてもコナーに気取られるべきものではない。
秘密裡に行うべきことだ。だから、こうして夜中に訪れたのだ。
――私は、
RK900は、もう一度その言葉をプログラム上に過ぎらせた。
そこに感情はなく、なんらの感慨もない。ただ、端的な事実を再確認しただけ。
それから、RK900はその場を立ち去ろうとした。
だがその行く手を、二つの人影に阻まれる。
「おいおい、見ろよダニー」
まだ年若い彼は、傍らの相方に話しかける。彼らはその手に、真っ赤な多目的ライターを持っていた。
「アンドロイドがいるぜ。こいつ、ニュースに出てた……ティムを
「みてえだな」
ははっ、とダニーは鼻で笑った。
ティムというのは、今日逮捕された、内通者の青年のことだ。
「ダチをパクられた恨み晴らしに、ここに火ぃ点けてやろうかと思ってたが……こいつに会えたなら、ちょうどいいや」
言うなり、ダニーは銃を――無造作に腰に差していたピストルを、眼前のアンドロイドに向ける。
「おい、お前ここで土下座しろよ。ついでに自分で自分のパーツ引っこ抜け、頭をぶち抜かれたくなかったらな」
「あはははは、ダニー、お前それ最高だぜ!」
銃火器という圧倒的な脅威を前に、いくら警察のアンドロイドといえど、何もできるはずがない――若者特有の万能感に溢れている彼らは、ゲラゲラと笑った。
そう、こんなに大笑いしても誰も来ないのだ。
だからここで、自分たちに敵う者なんて誰もいない。
彼らは、そんなふうに確信していた。
想像力が欠如していた。
だからこそ、気づけなかった――目の前のアンドロイドが他のとは少し違う、という現実に。
「ひゃぐっ……!?」
間抜けな、くぐもった悲鳴をあげたのはダニーだ。
彼は口いっぱいに何かを詰め込まれ、声をあげられなくなっていた。口の中の
「ダ、ダニー! てめえ、よくも……」
相方が果敢に立ち向かおうとする。しかし、その動きはすぐに恐怖でピタリと止まった。
奪われたピストルの照準が、自分の額に合っていたから。
「シィィィィィー……」
深く息を吐くように静かに、長く、アンドロイドは「静粛に」のサインを発した。
それからそのアンドロイドは、まるで見下すように冷たい視線で、彼らに言う。
「私は今、とても忙しい。すぐにでも署に戻らなければならないんです。だから、取引をしましょう。もしあなたたちがここで見たことを誰にも言わないのなら、見逃します。どうです?」
「ひ、ひぃぃ……」
「もちろん拒否は任意です」
一旦黙ってから、アンドロイドの口の端が、すっと
冷酷な笑みを湛えた彼は、それから、続きを述べる。
「しかし、推奨はしません。私の射撃は正確ですし、それに、ほら」
「あがががが……!?」
ダニーのくぐもった悲鳴が大きくなる。彼の口の中で、RK900が指を無理やり拡げているのだ。
もしこれが人間の指であれば、噛みつかれるのを恐れてこんな真似はできない。しかしこのRK900は、他のどのアンドロイドよりも耐久性に優れている。人間の顎の力ごときでは、この指を傷つけるなどできはしない。
だから必然、ダニーの顎関節は逆にめりめりと悲鳴をあげているのだ。
「わ、わかった! わかったからぁ!」
「うぎゃああああー!」
叫ぶように返答して、約束通り解放され、若者たちは夜闇の中に逃げ去っていった。
そしてRK900はといえば、とっくに彼らに対する興味を失っていた。
――あまり時間をかければ、いかにあの欠陥品が愚かだとしても、自分の動きに気づかれてしまう。
そればかりは、避けなければ。
RK900は踵を返し、署へと戻ろうとした。しかし内ポケットから、ひらりと一枚の紙切れが足元に落ちたのに気づく。
拾い上げたそれは、マリーゴールドの押し花が施されたカード。
RK900はしばらくの間、それにじっと視線を這わせた。
それから、ふと眉間に深く皺を刻み――乱暴に握りつぶす。
そして紙屑を丁寧に内ポケットに仕舞うと、今度こそ、デトロイト市警への帰路につくのだった。
(花屋/The Homecoming 終わり)
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第45話:3つの爆弾 前編/The Countdown Part 1
――2039年7月23日 11:12
デトロイト市警のオフィスにて――コナーの向かいのデスクで、アンダーソン警部補が少し早いランチを摂ろうとしている。
今日のメニューはチキンフィードのバーガーではなく、何の変哲もないサンドイッチだ。仕事の都合で仕方なく、というチョイスに過ぎないのだが、挟んである具はパストラミポークと人参のマリネで栄養価も高く、カロリーも二個合わせて【895kcal】と常識的な範囲内である。
コナーは、自分の口元に微笑みが浮かぶのを感じた。
毎日とは言わずとも、三日に一度はこういう食生活を自発的に送ってもらえたら、きっと今後の警部補の健康を気にする必要はなくなるだろう。
それに――と、ズボンのポケットから手のひらほどの大きさの、白く薄いプラスチック製のケースを取り出す。
今日のランチメニューがあそこまで穏やかなものなら、これを試してもらうにはちょうどいいかもしれない。
「警部補」
「なんだ、さっきっからじろじろと」
一口頬張ったサンドイッチを呑み込んでから、ハンクは非難がましい視線をこちらに向けてきた。
「近くの売店じゃ、これしかなかったんだよ。それとも、不足があるってのかね」
「文句をつけたかったわけじゃありませんよ」
コナーはケースの蓋を開けると、中からさらに薄い、半透明のフィルムを取り出した。ほんのりと青く、形は細長い長方形だ。きっとハンクの目には、「透明なチューインガム」のように見えていることだろう。
怪訝そうな顔の警部補に対し、席を立って近づいたコナーは、その半透明のフィルムを差し出した。
「よかったら、こちらをどうぞ」
「どうぞってお前、なんだこりゃ。……クスリか?」
「いえ、食べ物です」
受け取ったそれを指で摘まんで持ち上げ、覗き込むようにするハンクに、説明を重ねた。
「それはつい先日、ジェリコのアンドロイドたちが開発した可食フィルムです。人間が害なく食べられるのはもちろん、摂食機能のないアンドロイドでも食べられるものを目指して作られたそうで」
「へえ」
と、ハンクは眉間の皺を消して興味深そうに言う。
「じゃ、お前もこいつを食えるのか?」
「それは試作品なので、残念ながら私にはまだ。でも開発が進めば、いずれはきっと食べられるようになるはずです」
後ろで手を組んで、コナーは明るく続けた。
「無論、食べられるといってもシステムに異常をきたさないというだけで、私自身の機体には何も影響を与えません。人間のような味覚もありませんし……しかし、食事には生命の維持やグルメを楽しむというだけでなく、誰かと同じ時間や体験を共有することで、親睦を深める機能もあると考えています」
可食フィルムから視線を外し、ハンクはこちらを見た。やや皮肉っぽく笑っている。
そんな彼に対し、さらに語って聞かせた。
「このフィルムが実用化すれば、人間とアンドロイドの間の溝が狭まるきっかけになるはずです。同じものを食べる行為には、それくらいの意味が……警部補、なぜそんなに笑うんです?」
「いやいや、悪いな」
指で摘まんだままのフィルムをひらひらさせながら、ハンクは肩を竦めてみせた。
「つくづく、お前も変わったもんだって思っただけだよ。で、俺にこいつをどうしろって? 食ってレビューでもすればいいのかな」
「ええ、その通り」
我が意を得たりと、コナーは頷く。
「開発にあたり、まずは現段階での味への感想を広く求めているようです。幅広く、様々な人々の意見を集めているとのことで」
先ほど言った通り、アンドロイドには、厳密な意味で人間と同じ味覚はない。そしてこの可食フィルムを開発しているのがアンドロイドである以上「人間にとって美味か否か」を最終的に判断するには、実際に食べてもらった意見を募る他ない。
ジェリコからコナーへと、このサンプルが送られてきたのもそれが理由だった。身の回りの人間に食べてもらい、その感想を送ってほしい、と依頼されたのだ。
そういうわけで、まずは最も親しく、信頼できる人間に試食を頼んでいるというわけである。
「シュガーレスで低カロリー、味はチョコミントを意識して作られているそうです。ぜひ、忌憚なき意見をお願いします」
「そういうことなら……ま、俺の感想でいいんならだがな」
警部補はそう応えると――フィルムの薄青色を見て、改めて眉間に皺を寄せていたが――ぱくりと口に放り込んだ。
どうやら事前の情報通り、それは舌に乗せたところですぐに溶けてしまったらしい。ハンクは顔を顰めたまま、何度か口をもごもごとさせた。それきり黙ってしまった彼に、コナーは待ちきれずに問いかける。
「どうです?」
「……遠慮のない意見が欲しいんだよな?」
「ええ、もちろん」
こちらの返答に、ハンクは目を幾度か瞬かせ、それから端的に告げた。
「水で薄めたゴキブリのクソの砂糖漬けみたいな味だ」
「ああ……」
――なんと、とんでもない反応が返ってきた。しかしこれこそが、紛れもなく正直な意見なのである。
「わかりました。害虫の糞便にスクロースと水分を加えた味がしたようだ、と伝えておきます」
「待て待て待て」
途端にハンクは手を振ってこちらを遮る。
「そのまま伝えるな! 今のはなんていうか、言葉のアヤってやつだ。俺はつまり、そんなに美味くはねえって言いたかったんだよ。いまいち味が薄いというか……なのに妙な苦みもあった、まるで洗剤みたいに」
「洗剤? ゴキブリの糞といい、奇妙なものを食べた経験があるんですね」
「あー、だからその……いいかコナー、人間ってのは食ったことのないモンでも想像でだな」
純粋な驚きで尋ねただけだというのに、ハンクは何やら真剣に説明しようとしている。
それに耳を傾けながら首も傾げていたところで、のんびりとした時間を終わらせたのは、いつもと同じ署長の大声であった。
「ハンク、コナー! オフィスに来い!」
――どうやら、何かあったらしい。
すぐに表情を険しいものに切り替え、二人は揃ってデスクを離れる。
いつか同じ食卓を囲めるかもしれないほど、そして真の意味で同じ職に就くことができるかもしれないほどに、人間と変異体の間の壁は崩されつつある。
だがしかし、だからこそ騒動は起こるものであり――それは「吸血鬼」を巡る一連の事件が未だ解決をみない今でも変わらない。
そして現在、このオフィスに、アンドロイド絡みの事件を担当できるのはコナーとアンダーソン警部補のみであった。
後継機であり優秀な弟であるナイナーと、同僚のギャビン・リード刑事はここにはいない。彼らは別の命令を受けて、今頃はサイバーライフの施設にいるはずだ。
それはともかくとして、今日も今日とて苦虫を噛み潰したような面持ちの署長から告げられたのは、深刻極まりない事件の発生だった。
「ついさっき、郊外の金属加工会社の工場で爆発騒ぎがあった。事故じゃなく、明らかに人為的な爆発物によるものだ。今はまだ大規模な混乱には繋がっていないが、問題は……」
現場に、もう一つ爆発物が残されていることだという。
「現場からの情報が錯綜していて、詳しい状況についてはなんとも言えん。お前たちには、直接そちらに向かって調べてもらうことになる」
「ちょっと待った」
腕組みしている片手を軽く挙げるようにして、アンダーソン警部補が口を挟む。
「大事件なのは認めるが……俺たちが行かなきゃならない理由はなんです? ほら、こっちは昨日の捜査の後始末で手一杯でね」
無言を保ちながら、コナーもハンクと同じ疑問を抱いていた。
昨日の捜査というのは、デトロイト河岸にある工場を巡る大捜査のことである。
アンドロイド診療所での強盗事件が解決したその翌日、コナーはアンダーソン警部補、そしてナイナーとギャビンも加えて、改めて該当区域の怪しい施設を――すなわちナノドロイド生産が行われていそうな箇所を捜索したのだ。
以前手に入れたナノドロイドの初期設計図と、そこから得られた情報を手がかりにしての捜査である。
だが、結果は見事な空振り。
河岸にある施設を徹底して調べても、それらしい場所は見つけられなかった。
コナーたちは、骨折り損の結末に徒労感を覚えたわけだが――
それでもナイナーとギャビンが別命によって署を離れている今、ハンクとコナーには代わりに報告書を纏め、今後の捜査計画を練り直すという重要な仕事がある。爆破事件とは穏やかではないが、デトロイト市警の爆発物処理班は優秀だ。本来なら、彼らに任せておけば事は済むはずなのに。
これもまたアンドロイド絡みの事件なのか――それともひょっとして、他の誰にも処理ができないような、複雑な構造の爆弾でも発見されたのだろうか。
内心で身構えるコナーの眼前で、署長はハンクに声を荒らげるでもなく、ただ短く嘆息してから告げた。
「お前たちに命令する理由は二つある。一つは、被害者にアンドロイドが含まれていることだ。現場からの第一報では、工場で働いていた変異体が遺体で発見されたらしい。そしてもう一つは」
そこまで語った署長が、軽く顔を上げる。彼の視線はまっすぐこちらに、すなわち、コナーへと向けられていた。
「現場の爆発物処理班から、直々に進言があったからだ。『この爆弾の処理はアンドロイドに担当させるべきだ』とな」
「何……?」
「担当者の意見だ。それに街中で爆発が二度も起きれば、今度こそ大規模な被害に繋がるかもしれん」
状況を考慮して、署長は現場の判断に任せることにしたのだという。
けれども先方からのその言葉は、ハンクを怒らせるのに充分なものだった。
***
「ああクソ、人手不足ここに極まれりってヤツだな」
激しいヘビメタの鳴り響く車内で、ハンクはいかにも腹立たしげに声を荒らげた。
「事件捜査はともかく、爆弾の処理はアンドロイドにさせるべきだと? 理由次第じゃただじゃおかねえぞ」
「警部補、どうか落ち着いて」
いつも以上に荒っぽいハンドルさばきを眺めつつ、コナーは静かに述べた。
「署長の判断は納得できるものです。被害者にアンドロイドがいるのなら、私たちが担当するべきですし……爆発物の処理についても、私がやらなくてはならない事情があるのかも」
「どうだかな。『アンドロイドは生き物じゃないから』なんて言い訳かましやがるんなら、俺は一発殴る準備はできてるがね」
確かに――「アンドロイドは機械であって生物ではなく、したがって仮に爆発物処理に失敗したとしても『人的被害』が出ないから問題ない」などという差別的な考えが背景にあって、現場がコナーを要請したという可能性もないわけではない。
警部補が危惧しているのは、そういう事情だろう。
だがコナーには、一つ思い当たることがあった。
出動命令を受けてからこうして車に乗るまでの間に、現場である工場について情報を集めたのだ。
「警部補、署長は現場の工場のことを、金属加工会社のものだと言っていましたね」
「ああ……それがどうかしたのか」
「調べたところ、そこでは主にニッケルの精製を行っているそうです」
まだ今一つピンとこない面持ちで、こちらを横目で見やるハンクに対して、さらに語った。
「金属の精製過程では、人体に有害な物質が生じることがあります。署長は、現場からの情報が錯綜しているとも言っていた……もしかすると、工場内は危機的な状況なのかも」
「なるほど。人間には危険でも、アンドロイドのお前ならってか。ならまあ、筋は通ってるな」
やや怒りを収めた様子で視線を前方に戻したハンクに、少し間を置いてから、またコナーは口を開く。
「それに今回の事件、もしかすると例の使節団の来訪が関係しているのかもしれません」
「ロシアのお偉方のことか?」
「ええ」
短く頷き、続ける。
「ロシアからの外交使節団が到着し、国家間での話し合いが行われている今……アンドロイドに関連した事件を起こし、注目を集めようと考える者が現れてもおかしくはない。特にこのデトロイトでは」
「ナイナーとロシアのロボットのこともあるからな……まったく、このクソ忙しい時によ」
苛立ったように、それでも先ほどよりはかなり落ち着いた態度で、ハンクは噛みしめた歯の隙間から息を吐いた。
ナイナーとギャビンに下された別の命令、つまり彼らが現在サイバーライフの施設にいる理由もまた、この外交使節団にある。
黙りこくり、何ごとか考えながら運転するハンクの様子を眺めながら、コナーは昨日の夕方の出来事をメモリー内に呼び起こした。
約半年前に軍事衝突寸前にまで陥った米露の関係を改善するべく、ロシアの外交使節団がワシントンを訪れるというニュースは、既に一昨日の段階で広く報道されていた。
本来であればここデトロイトには直接的な関係はないはずであったその出来事は、しかし、コナーたちの予測を超えてこちらに結びついた。
すなわち、その使節団の来訪に合わせて、別の特使がデトロイトにやって来ることが急遽決定したのである。
ロシアの国営企業によって製造された、かの国で最高峰の治安維持専門アンドロイドが――その企業のスタッフと、パートナーたる人物と共にサイバーライフ本社を訪問する、ということに。
ゆえに、ナイナーとギャビンにはこんな命令が下された。
『サイバーライフからの要請の通り、ロシアのアンドロイドと接触し、性能の比較調査に協力するように。なお接触および調査は、米露両国間の友好の証として広報されることになる』
なぜこの忙しい時にわざわざ、なんだって自分まで、行くにしてもポンコツだけでいいはずだろうが――というリード刑事の(今回ばかりは)もっともな意見は、署長曰く「上」からの命令だからということで封殺されてしまった。
状況を考えてみれば実際、今回の命令はデトロイト市警を超えたさらに上、合衆国そのものから下されたものなのだろう。米露対立の原因の一つが過熱したアンドロイド開発競争にあるのだとしたら、両国の最新鋭アンドロイド同士、さらにそのパートナーたる人間同士の“交流”は、両国の「和解」を国際社会にアピールするのにうってつけの材料だからだ。
そして国からの命令に、いち地方公務員と署の(立場の上では)備品が逆らえるはずもない。
こうして不満たらたらのギャビンと共に、ナイナーは大任を帯びて空港へと向かうことになってしまったのである。もちろん、ロシアからの使者を迎えるために。
「ナイナー、大丈夫かい」
その日、署長のオフィスを出た後、コナーはそっと弟に問いかけた。
「捜査を終えたばかりで、新しくあんな命令がくるなんて……それに今朝から、ずっと落ち込んでいただろう?」
「……はい」
消沈した、一方で彼をよく知らない者から見れば完璧な無表情で、ナイナーは首肯した。
彼の右手は、制服の上着――正確に言えば、内ポケットの中身に添えられている。
たまらず、コナーはさらに言葉を続けた。
「アリスからの贈り物のカード……どうして、あんなに折れ曲がってしまっていたんだろう」
それは問いかけというよりは、どちらかというと呟きに近かった。
朝、コナーがオフィスで最初に見かけたのは、椅子に座ったまま俯いている弟の姿だったのだ。
その手には、見るも無残なほどにくしゃくしゃになった押し花の栞があった。強盗事件を解決した時、現場に居合わせたアンドロイドの少女・アリスに貰ったものである。
なぜこんなことに――という疑問を解決するよりも先に仕事が始まってしまったので、その時のコナーには、ただナイナーを慰めることしかできなかったのだけれど。
「君はとても大切にしまっていたし……もしかして、誰かの嫌がらせか?」
「いいえ」
今度は、弟は首を横に振った。悲しげな面持ちではあっても、断固とした雰囲気を帯びている。
「兄さんの懸念は妥当です、が……その可能性は低いと認識します。カードを毀損したのは」
その時、ナイナーは確実に、何かを続けて語ろうとした。けれども言葉を呑み込んでしまって、次いで瞳に強い意志の光を宿して、彼は言った。
「私は大丈夫です、兄さん。現状における最重要タスクは、新規の任務への集中だと判断します。国家間紛争の回避にこの私が有用であるなら、私自身にとってもそれは幸福なこと、ですから」
きっぱりとそう語って、やや気を取り直した様子で、ナイナーはリード刑事と署を発った――それが、昨日の出来事。
そしてもし、今日のこの爆発物騒ぎが外交特使の来訪に合わせてのものだとしたら――否、仮にそれは無関係だったとしても、自分にしか処理できないものなのだとしたら。
背景にどんな思惑があろうと、解決するのが、自分に課された使命だ。
コナーは指先でコインを弾きながら、キャリブレーションに努めた。
そしてちょうど動作調整が終わった頃、ハンクの車は、現場に到着する。
***
――2039年7月23日 12:01
到着した現場は、案の定、物々しい様子である。
パトカーと大勢の警察官の間を縫うようにして、大型の特殊車両が何台も配備されていた。しかし規制線のこちら側には、野次馬たちの姿はない。爆発物騒ぎとあって、近隣住民は避難したのだろう。
そしてひときわ存在感を放っているのは、まさに事件が起きた工場であった。
灯りは消え、ただ巨大な煙突から、もうもうと煙があがっている――
「やっと来てくれたか!」
コナーたちが規制線の向こう側に入るや否や、カーキ色の防護服を纏った男性が、まっすぐ近づいて声をかけてくる。
頭部の防護は外されているので、フェイススキャンはすぐに実行できた――デトロイト市警の爆発物処理班に所属する、若手の警官だ。
「助かった、そのアンドロイドじゃなきゃたぶん無理だ! 早くなんとかしてくれないか」
「おいおい、落ち着け」
相手の物言いには、差別的な雰囲気はない。けれども妙に焦った様子の彼に対し、ハンクは制すように両手を軽く突き出した。
「いくらなんでも、状況もわからないのに突っ込むわけにはいかねえ。まずはどうなってるのか説明してもらえるかね」
「説明なら私がしよう」
と、新たにこちらへ来たのは黒い口ひげが印象的な壮年の男性だ。スキャンによれば、どうやら彼が処理班の班長らしい。
「サンチェス、お前はあっちを手伝ってこい。……すまなかった、なにぶんこちらも扱ったことのないケースに動揺していてね」
「いえ、お気遣いなく」
班長の命を受けて、若い警官が他の班員たちと合流していくのを目で追ってから、コナーは質問した。
「それで、状況は?」
「端的に言おう。テトラカルボニルニッケルが漏洩した」
――やはり。そう思ったコナーの眉間に、僅かに皺が刻まれる。
かたや、アンダーソン警部補はやや当惑したような面持ちになっていた。彼への解説と班長への確認を兼ねて、コナーは口を開く。
「純度の高いニッケルを精製する過程で発生する、極めて毒性の高い液体ですね。無色無臭で揮発性も高く、皮膚接触でも呼吸によっても人体に吸収され、十数時間で間質性肺炎を引き起こし、最終的には死に至る危険性をもつ」
「ああ。ご覧の通り、幸い建物の外にまでは流出していないし……こちらもこういう工場が市内にある以上、充分な備えはしていたんだがな」
それから班長が語った内容は、こんなものだった。
今日の10時50分頃、作業を始めようと工場に入った職員の人間の目の前で、突如として爆発が起こった。それは危険物質の漏洩を防ぐための設備の一部を破壊し、「死の液体」が流出してしまう。
緊急事態に際して、なんとか軽傷で済んだ職員は――今、病院で治療を受けているが――その時、すぐにしかるべき対応策をとろうとした。
だがその視界の先に映ったのは、そして現場に最初に踏み入った処理班員たちが目撃したのは、あまりにも残酷な、もう一つの「爆弾」の姿だった。
「それがこれだ」
班長が差し出したタブレット端末に表示されている写真を見て、ハンクのみならず、コナーも強烈な「嫌悪感」を覚える。
写っているのは、工場の設備の前に、まるで献花のように置かれたアンドロイドの
分析によれば男性型の【WM500】であるそのアンドロイドは、当然の如く死亡しているどころか、おぞましい姿にされてしまっている。
両目のパーツは取り除かれ、虚ろな穴からは、爆弾の起爆装置へと繋がる配線が伸びていた。さらにその口には無機質なデジタル時計が無理やり押し込まれ、【048/59/0969】と、ミリ秒以下も示した時間表示を行っている。
48分59.0968秒――いや、表示されているのは現在時刻ではなく残り時間だ。つまりこれは、アンドロイドの生首に組み込まれた時限式の爆弾。写真が撮影された時間を考慮して、許されている残り時間はあと34分。
余裕がある、といえば確かにそうだ。爆弾の種類や影響を考慮しないのであれば。
切迫したこちらの気持ちをさらに煽るように、その「爆弾」の手前の白い床には、真っ赤なスプレー塗料でこう書かれていた――『
「……そうか」
重々しく口を開いたのはハンクである。
「ただでさえヤバい物質が溢れてるところに、時限爆弾……しかもアンドロイドに組み込まれてるときたら、さすがに対処はしきれねえな」
「ええ。万が一、アンドロイドのシステムが起爆の演算に流用されていたら厄介ですね」
いくら処理班が優秀だとしても、解体を試みれば、不測の事態は発生するかもしれない。
工場内部とあって高圧放水による破壊は論外、液体窒素等を用いた凍結処理も困難、そもそも振動を与えても平気なのかどうかすら怪しい。
そして仮に爆破がもう一度起き、テトラカルボニルニッケルが辺りに撒き散らされるようなことになれば、今度こそ大惨事が引き起こされるだろう。
むろん市内全域とはいかないが、この地域一帯が危険地区と化してしまうのは、決して考えすぎなどではない。
「わかりました」
一も二もなく、コナーは返事した。
「私が解体してきます。警部補はここに残って、捜査の指揮をお願いします」
「お前だけ行かせるわけには……ってのは、今回ばかりは言えねえな」
たとえ防護服を着たところで、専門的な知識もない人間が同行しても足手まといにしかならない――と自己判断したのだろう。
不愉快そうに眉間に皺を刻んだままだが、ハンクはその青い双眸をこちらに向けた。
「任せたぞ、コナー。ザマねえこったが、こいつは確かにお前だけが頼りだ」
「はい、警部補」
力強く、コナーは応えるのだった。
***
工場の内部に一歩踏み入った瞬間、反響して聞こえたのは己の発した靴音。照明が消えた薄暗いエントランスには当然ながら人気はなく、何かが動く気配もない。ただ、およそ200メートル先の方向から何か音が聞こえるのを、音声プロセッサが認識していた。
ごく微かにしか聞こえないため、音の正体まではまだ判別できないが。
『問題ないか、コナー』
「ええ、異常ありません」
通信の向こうにいる警部補に返答してから、改めて周囲に視線を巡らせる。
工場内には、目に見えた破壊の痕跡が広がってはいない。ただ、空気中の微細な物質にセンサーが反応した結果として、視界の端には【危険:テトラカルボニルニッケル、一酸化炭素を検知】と表示されている。
事件が起きた後、すぐに処理班員たちによって破損箇所が覆われ、吸着剤が撒かれたようだが、それでも漏洩は完全には防げなかったらしい。
徹底した通風換気が行われれば、いずれこの工場は再稼働できるだろう。しかしもし今ここに防護服を着ていない生身の人間がいれば、ひとたまりもなかったはずだ。
そして自分はといえば、防護服は着ていない。必要ないからというだけでなく、機体のセンサーが覆われて検知の精度が鈍れば、作業に影響を及ぼす恐れがあるためである。
だから今の服装は、いつもと同じ青いシャツとデニム。解除作業が終わり次第、機体ごと熱風式の洗浄を受ければ問題ない。
ただし、疑似的な呼吸機能は意図的に切っていた。サイバーライフのアンドロイドには人間を完璧に模倣する目的で、本来なら不必要な人工肺が備わっており、通常であればそれは単なる「呼吸の真似ごと」で済むのだが――今回のように有害物質が空気中を漂っているなら話は別だ。
任務を終えて外に戻った時、人工肺の内部にここの空気が残っていたら、汚染を拡げてしまうかもしれない。そうしたことのないよう、コナーはぴったりと疑似呼吸を止め、口を閉じていた。
「このまま現場に向かいます。直接この目で確認すれば、何かわかるかも」
『危なくなったらすぐに教えろよ』
「ありがとうございます」
短く、しかし誠意を込めて返事をすると、コナーは予めインストールした内部の地図を頼りに歩を進める。
事件現場と呼べる設備の場所は、ここから200メートル先、廊下の向こう――やはり、先ほどからかすかに聞こえている音の発生源と同じだ。
道中には特に危険物はない。念のため他に爆弾が設置されていないかも確認しているが、それらしいものも見当たらない。注意深く、しかし足早に、時限爆弾のもとへと急ぐ。
そして、現場たる工場の中枢部分に踏み込んだ時。
コナーは音声の正体を把握し、同時に、最初の爆発時に何が起きたのかも理解した。
「……」
プログラムにないところから湧き上がってきた「不快感」に、顔つきを険しくする。
被害者に対する、犯人の明確な悪意を感じたからだ。
「何が起きたかわかりました、警部補」
報告の一環として、物理演算ソフトウェアによる再現機能を実行しながら、通信で語った。
「第一発見者の職員は、同僚の声が聞こえたのでここに来たんです。そして知らず知らずのうちに、起爆装置を起動させてしまった……」
床に残る職員の足跡、そして近くの壁に残る僅かな痕跡(【引っかき傷-最近のもの 痕跡の幅:39cm、スチール製ワイヤーによるもの】)を分析した後、プログラム上で再現されたのはこのような光景だった。
事件当時、職員は、慌てた様子でここまで駆けてきた。そして声のする方をよく見ようと歩を進めた瞬間、右足がワイヤーに――床近くの低い位置に密かに張られていた罠に触れてしまったのだ。
物理的衝撃を受けてワイヤーは素早く巻き戻り、その先にある起爆装置を作動させる。爆薬は正確にステンレス製の防護壁の一部を破壊し、タンク内のテトラカルボニルニッケルが流出し――
そこまで再現したところで、コナーはまさに、破壊された壁のほうを見やった。
壁、そしてタンクの真下には、写真で見た通りの「爆弾」が置かれている。
変わり果てた姿にされてしまったWM500は、口に押し込まれた時計でカウントダウンを(残りあと30分だ)し続けながら、今も空虚にこの言葉を繰り返していた。
「プログラムが異常を検出しました。サイバーライフ・メンテナンスセンターに連絡してください。プログラムが異常を検出しました。サイバーライフ・メンテナンスセンターに……」
職員を誘き寄せたのは、あの声だ。重大な「故障」をしたアンドロイドが発する自動音声。
データによれば、あのWM500は四か月前からこの工場で働いている。目立ったトラブルも報告されておらず、きっと職員たちとうまくやっていたのだろう。
そしてそんな彼だからこそ、爆弾の装置として選ばれてしまったのに違いない。
WM500の首から下の亡骸は、工場設備の陰に隠すようにして、そのまま床に横たわっている。周囲には蒸発したブルーブラッドの痕跡があった。
彼はこの場で、恐らくは不意を衝かれて殺害された。そして爆弾の一部にされ、かつ、彼を心配して近づこうとした職員は、期せずして罠を起爆させてしまった。
犯人の目的も、正体も――今はわからない。
だがこれ以上、あのWM500を無念な姿のままにしておくことはできない。
「一刻も早く、彼を解放しなくては」
『ああ。そうだな』
状況を説明すると、ハンクも同意してくれた。
コナーは誰にともなく頷くと、静かに、今なお壊れた言葉を繰り返している彼へと歩み寄る。
持ってきていたツールバッグを下ろし、まずは分析を実行して、爆弾の構造を把握したところで――
「……!」
コナーの表情は、自然と険しくなった。
それからすぐに、再びハンクへの通信回線を開く。
「警部補、よい知らせと悪い知らせが。どちらから聞きますか」
『悪いほうだ、すぐ話せ』
「爆弾は恐らく、あともう一つあります」
天井も含めて素早く見渡しながら、努めて冷静に報告する。一方で、通信の向こうのハンクは緊迫した声音になった。
『もう一つ? そこにあるのか!?』
「いえ。ただ、解析してわかったのですが……この爆弾には、通信用の電波を発生させる装置が組み込まれているんです。ごく原始的ながら、それなりに遠距離まで届く性能のものが」
WM500の眼窩から伸びる配線、先にある起爆装置――爆薬そのものと合わせて、もう一つの防護壁にダクトテープで取り付けられているそれに視線を向けて、コナーは続けた。
「装置は、解体されるなどして起爆システムになんらかのエラーが発生した場合、自動的に作動するように設定されています。そしてその電波が届く先は犯人のもとか、あるいは」
『どっかに隠されてる三つ目の爆弾……てか』
たとえ顔が見えなくてもどんな表情かわかるほどの悲憤に満ちた、唸るような声を警部補はあげる。
つまり、こういう仮説が立てられる。犯人は、三つの爆弾を用意していたのだ。
一つ目は、既に起爆された。二つ目は今ここで、残り29分を告げている。そして三つ目の爆弾は――二つ目が失敗した時に、起動なり起爆なりするようにセットされている。
今ここで、二つ目を解除することはできない。どこかにある三つ目が、最悪の場合爆発してしまうから。
しかしだからといって、二つ目を放置することもできない。29分後にはこれも起爆されて、死の液体が周囲に撒き散らされることになってしまうから。
『つくづく思ってたが、もはや完璧なテロじゃねえか。FBIサマが参上しないのが不思議なくらいだね』
冗談めかして愚痴を零してから、ハンクは言葉を続けた。
『で、こんな状況でお前の言う“よい知らせ”ってのは?』
「二つ目の爆弾の構造自体は、ごく単純なものです。アンドロイドのシステムも関与していません」
懸念のうち一つだけは解消されていた。
確かにWM500は爆弾の一部として組み込まれており、その声は他者を誘き寄せる餌にされていたわけだが、彼のシステム中枢は分析によれば既に機能を停止しており、ただエラー時の音声を再生しているだけに過ぎない。
要するに、アンドロイドの演算機構を利用した複雑な構造の爆弾などではなかった、ということだ。
「市警の爆発物処理班に任せたとしても、なんの問題もなく解除できるでしょう」
『となると、俺たちがやるべきなのは……』
「ええ。第三の爆弾の発見と解除ですね」
――電波の届く範囲は、そう広大だというほどでもない。せいぜい、ここから市内ダウンタウンまでの距離を網羅する程度だ。
だがそれでも、残りたった28分で探しきれるものだろうか。
もしナイナーがいてくれれば、ドローンで広範囲を一度に捜索できたものを――
いや、今は時間が惜しい。ないものねだりをせず、捜索のために力を尽くさなければ。
そんなふうにコナーが意図的に意識を切り替えようとしたその時、通信の向こうで、ハンクが言った。
『いいや。三つ目の在処を探すより、もっといい手がある』
「……それは?」
問い返すこちらの音声プロセッサに届いたのは、相棒の不敵な一言だ。
『犯人の野郎を捕まえるんだよ。何、あと20分もありゃできるだろうさ……お前がいればな』
今年もご覧くださり、また応援くださいましてありがとうございました。
このシリーズも、たぶん2022年中には完結するのではないかと思います。
↑まだ終わりそうにないですね! すみません(2022年6月追記)
後編は1月中に更新できればと考えております。
2022年も、どうぞよろしくお願いいたします。
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第46話:3つの爆弾 後編/The Countdown Part 2
――2039年7月23日 12:11
「警部補、信頼していただけるのは嬉しいのですが」
痛ましい姿である、WM500の亡骸――すなわち二つ目の爆弾からやむなく踵を返し、足早に廊下を進みながらコナーはハンクへと通信する。
「これから制限時間28分以内に容疑者を確保するのは、そう簡単ではないかと。犯人に繋がる直接の手がかりは、現場にはありませんでした」
『そうかな。俺の手元には今、ここ四か月のうちにクビにされた従業員のリストがあるんだがね』
恐らくこちらが潜入している間に、工場側の人間と交渉して手に入れたものなのだろう。
なぜそんなリストが必要なのかといえば――そう、WM500がここで働きはじめたのは、四か月前。
そして犯人は、工場内部の構造や設備を熟知している。だからこそ、爆発物を仕掛けられたのだ。
――ということは。
考えはじめて間もなくプログラムが弾き出した一つの推論を、コナーはそのまま口にした。
「犯人は、被害者のWM500に強い恨みを抱いて犯行に及んでいる……つまりWM500が雇われた後に解雇された、元従業員。そういうことですか?」
『な、範囲は絞れただろ』
思った通りだといった様子で、警部補は応える。きっと、皮肉げに口角を上げていることだろう。
一方でコナーは――三つ目の爆弾が工場内にある可能性を考慮して、スキャンは止めないまま――さらに思考を重ねていった。
容疑者の特定に繋がりそうな手がかり、そしてこの事件の全容もまた、徐々に明らかになっていく。
そもそも、最初から不可解だった点はこれだ。
なぜ犯人は、わざわざいくつもの爆弾を設置したのか。
こちらの思考を補足するように、ハンクが語りだす。
『もし犯人の動機がこの工場をぶっ潰すってことだけにあるなら、何発も爆弾を用意する必要はねえ。最初の一発で、何もかも吹き飛ばしちまえばよかったはずだ。物騒な話だけどな』
つまり――工場に入り込んで爆発物を設置するだけのことができるのなら、何も二発目、三発目を用意することはない。強力な爆弾をタンクに設置し、起爆させてしまえばいいだけのはずだ。
『だが、犯人はそうしなかった。一発目で毒を撒き散らして、その前に従業員のアンドロイドを殺し、そいつに二発目を組み込んで……で、隠し玉の三発目まで用意してやがる。ただ工場に恨みがあるってだけじゃない。他に目的があるはずだ』
「それは、WM500に対する復讐。自分が解雇されたのは、新しくアンドロイドが雇われたからだと考えたのでしょう。それと」
再び、薄暗いエントランスへと戻ってきた。
入り口に元々設置されている、アンドロイド用の熱風式洗浄機のほうへと移動しながら、コナーは続ける。
「私を始めとした、アンドロイドそのものへの復讐なのかもしれません」
『何?』
そこまでは思い至っていなかったのか、ハンクの声音に驚きが混じる。
コナーはというと、縦に細長いロッカーのような形状の洗浄機に入りつつ――むろん、ここにも三つ目の爆弾はない――さらに警部補へと言葉を重ねた。
「工場に損害を与え、WM500に復讐する目的だけなら、二発目以降の爆発物を用意する必要はない。恐らく、ここにこうして私を
『お前を捜査現場に来させるのが? 待て、それじゃテトラなんとかって毒をぶち撒けたのも』
「ええ」
人間ならば到底耐えられない高温を伴う風が、衣服と機体を一瞬のうちに洗浄していく。身体の表面に残っていた毒性物質は、人体に影響を与えない程度に除去された。
それを確認してから洗浄機の扉に手をかけ、外に出ながら続きを述べる。
「犯人は、アンドロイドでなければ爆弾を解除できない状況を作りたかったんですよ、警部補。そして私が、三つ目の爆弾の存在に気づかないことを期待したんです」
「……」
洗浄機の外で、片耳に通信用のイヤホンを突っ込んだまま、渋い顔でこちらを見つめているハンクに対して――コナーは、今度は直接説明した。
「テトラカルボニルニッケルが漏洩し、殺害されたアンドロイドのシステムを利用した時限爆弾が用意されているかもしれない……となれば必然的に現場を担当するのはあなたとなり、実際に解除に向かうのはアンドロイドである私となる。そして私が三発目の存在に気づかなければ、二発目を解除した段階でそれは起爆していた」
「そうなりゃ、被害が出るだけじゃなく警察の……いや、お前の評判もガタ落ちになってたな。で、変異体に働く権利を与えるべきだって時に、アンドロイド刑事が捜査に失敗したとくれば……」
今は世論に押されて少数派となりつつある、反アンドロイド的言説は一気に力を取り戻すだろう。
そもそも爆破事件を起こす者が悪いのだという前提よりも、変異体に対する「信頼」が崩されたというセンセーショナルさに惹きつけられてしまうのが、大衆心理というものだろうから。
さらにロシアからの特使が来ているこの状況で、そのような被害を許してしまった場合――デトロイト市警に対する、国全体からの失望は免れない。
「思ってたより、アタマの回る奴が犯人のようだな」
「はい。しかし、あの程度の通信装置に私が気づかないという判断は迂闊でしたね」
自負心というよりは端的な事実として、コナーはきっぱりと口にした。
「警部補、その解雇者のリストを確認したいのですが」
「ああ」
ハンクに手渡されたタブレット端末の画面には、17名もの人物の名が並んでいる。どうやらWM500の雇用を機に、かなりの人員削減が行われたようだ。
しかしここまでのプロファイリングをもとにすれば、容疑者をここからさらに絞ることができる。
つまり時限式の爆発物を用意できるだけの知識を持っていると考えられ、かつ、反アンドロイド的立場にある人物。反アンドロイド団体に関する公安のリストとも照合しながら、浮かび上がってきた名前は――
「アントニー・ハイゼン、24歳。反アンドロイド組織『赤血同盟』の構成員であり、かつ素行不良を理由に四か月前にこの工場を解雇されています」
「クサいな。どこに住んでる」
「オズボーン地区535。避難指示の出た区域の外ですが、ここからなら6分もあれば着くでしょう」
「よし」
軽く頷き、ハンクは車へと向かう。その道すがら、爆発物処理班の面々に状況を伝えることも忘れない。
先ほど確認した通り、二発目の爆弾の構造自体は単純なものだ。防護服を着た状態でも、処理班員たちであれば充分に解体できることだろう。
現状の伝達と共に提案した「二発目の解除は犯人を確保、および三発目の所在を明らかにしてから」という条件を、彼らは承諾してくれた。
現場のことは処理班に任せ、コナーたちは急ぎ、オズボーン地区へと向かうのだった。
***
――2039年7月23日 12:20
爆弾の起爆まで、残り19分。
だが、ハイゼンの居住地は二人の目の前だ。住宅街の中にひっそりと建つ、古びたアパートメント――三階建ての二階部分に彼は住むという。
「念のため、ここに来るまでの間に監視カメラの映像を分析しましたが」
車から降りたところで、静かにコナーは言った。
「この周辺のカメラは性能が悪く、はっきりした人物の特定はできませんでした。しかし今から四時間ほど前に、このアパートから工場方面へと移動した人影を確認しています」
「ますます怪しいが、まずはお宅訪問からだな」
かなり核心へと近づいてはいても、時間は限られている。緊急性の高いこの状況、仮に本人に拒まれたとしても、少しでも住居内を確認できれば証拠を得られるはずだ――自分の性能ならば。
警部補を先頭に、足音を立てないようにしながら、コナーたちは外付けの階段を上った。二階には、部屋が三つある。情報によれば203号室は空き家、201号室は別の人物(なんとこの人物も反アンドロイド団体に所属するようだが)の住居――そして、202号室がハイゼンの住居。
「……」
ドアの前に立った警部補は、軽くこちらに目配せした。それから落ち着き払った面持ちで、まずはドアをノックしようとして――
「!」
その手を止める。気づいたからだ。この扉が【施錠されていない】ことに。
うっすらとだが、確かに開いている。
「大丈夫」
再びこちらに視線を送った警部補の意図を察して、コナーは答えた。
「爆発物などは設置されていません。安全に開けられる」
「そうかい、なら遠慮なく」
肩から吊るしたホルスターから勢いよく拳銃を抜いて構えつつ、ハンクはドアを右足で蹴り開けた。
「デトロイト市警だ! 工場爆破事件の件で……」
たとえ荒っぽくはあっても聞き込みに来たのだ、という旨の彼の言葉は、自然と呑み込まれる。
コナーもまた、無言のままではあるが目を見開いた。
短い廊下の向こうに続くワンルームの光景が、あまりに予想外なものだったからだ。
壁一面に張られた反アンドロイド的言説が書かれたポスターやチラシ、出入り口付近に意味ありげに置かれたタブレット端末はともかくとして――
部屋の中央にいたのが、がんじがらめに縛られ、猿ぐつわを噛まされたアントニー・ハイゼンその人だったからだ。
「ングググ、グゥウーッ!」
ハンクの声に反応して、彼は身をよじらせ、何ごとか話そうとしている。しかしその言葉はひどくくぐもっていて、プログラムによっても判別できない。
背もたれのある椅子に座った状態のまま、大柄な体格を縛り上げられているハイゼンは、うっすらと涙を滲ませた双眸をこちらに向けていた。
そして何より、恐ろしいことに――彼の膝の上には、これ見よがしに爆発物が置かれている。
構成は【RDX、ジメチルジニトロブタン】……間違いない。工場に設置されていたものと同じ爆弾だ!
二発目から送信された電波を受信するための部品も、しっかり取り付けられている。
「おいおい、冗談だろ」
思わずといった面持ちで、ハンクが零す。
「三発目はここにあったってか!? 一体どんな状況だ」
「わかりませんが……少なくとも、今ここには彼しかいないようです」
玄関近くには、ハイゼンのものとは体格の違う足跡が一人分残されている。だがそれは四時間と12分前に、ここから外へと出て行く痕跡だ。それ以外のものがないということは、ここにはハイゼンしかいない。
なおも何ごとか話そうと、もがき続けるハイゼンを落ち着かせるように銃を下ろすと、警部補は静かに歩み寄っていく。それに従いながら、コナーは床の上のタブレット端末を拾い上げた。
指で触れるだけで、その端末はすぐ起動した。画面に表示されたのは、白い背景に黒く“格調高い”レタリングの文字で綴られた文章だった。
「『私、アントニー・ハイゼンは赤血同盟の一員として、命を賭して世論への反駁を行います。私を爆死させたのは私自身ではなく、機械に捜査を委任したデトロイト市警の怠慢であり……』」
こちらが静かに読み上げるうち、ハイゼンを見つめる警部補の目は鋭くなる。
「なるほど。三つ目の爆弾は自分に仕掛けて、工場でコナーがしくじればドカンってか。命を懸けた主張とは、まったく見上げた根性だね」
「ングウウウウーッ!」
「警部補、待ってください」
タブレット端末を再び床に置いてから、ハイゼンの眼前へと歩を進めた。今も精一杯何かを訴えようとしている彼は、痕跡からしてもう四時間以上、ここで縛られているようだ。
先ほどの文章から考えれば、ハイゼンが所属する団体の正当性を主張するために、自分で自分に爆発物を仕掛けたのだとするのが妥当な線だろう。
予測される爆発の範囲は、ちょうどこのワンルーム内部を破壊する程度のものだ。そうなれば、現場に遺されるのはあのタブレット端末のみ。
それに自分自身を一人で縛るのが不可能だとしても、協力者がいたのだと考えればそう難しい話ではない。
「……」
だがコナーの視界は、そしてプログラムによる再現は、違う可能性を示唆していた。
それを確かめるためにも、ひとまずハイゼンの猿ぐつわを解く。瞬間、堰を切ったように彼は語りだした。
「違う、ハメられたんだ! オレは悪くねえ、早くこの爆弾をどっかにやってくれ!」
「ハメられただと……?」
「落ち着いて」
ハイゼンに対して両手のひらを向けて告げてから、コナーは警部補に対して口を開いた。
「警部補、彼の言葉はどうやら真実のようです」
「本気か? コイツ、土壇場になって命が惜しくなっただけなんじゃないのか」
「それにしては、状況がおかしい。再現によれば縛り上げられる前、彼はもう一人の人物ともみ合いになっています」
要するに、こういうことだ。
先ほど玄関先で探知した足跡の人物、つまりハイゼンをこの状態にした「協力者」とハイゼン本人は、この椅子の周辺でかなり争っていた。
部屋の隅に置かれたベッドに寝ていたハイゼンは、突然上がり込んできた人物と何ごとか会話した後、掴み合いになり……それから相手が突きつけた何か(恐らくは拳銃だろう)を前に抵抗をやめ、この状態に至った。
そしてもう一人の人物は、そのままここを出ている。
「先ほどの監視カメラの映像に残っていた人物の体格と、プログラムが再現した人物の体格は96%一致しています。そして、ここに遺留品が」
床の隅に落ちている金色の毛髪を、コナーは注意深く指で摘まみ上げる。ハンクはもちろん、ハイゼンの髪の色とも異なるこの毛の正体は――?
ためらわず、コナーは拾った髪を口に含んだ。
「おい!」
詳細なDNA照合のためだというのに、警部補は短く制止(というより悲鳴だろうか)の声をあげている。
それはともかく、視界に表示された人物名と、直後にハイゼンが告げた名前は一致していた。
「やったのはレナルド・ウェルティだ! 隣の201号室に住んでる! オレと同じ赤血同盟の!!」
目つきをさらに険しくした警部補に向けて、必死に訴えかけるようにハイゼンは語る。
「あ、あいつヤバいんだ! プラスチック野郎をぶっ壊して、あの工場の奴らをちょっとビビらせてやるだけだって聞いてたのに! だから色々協力してやったってのに、あいつ、オレが死ねば全部上手く行くって……」
「同じ趣味だと思ってたダチに裏切られたってんだな」
嘆息混じりに、ハンクが呟く。涙目のままそれに大きく頷いてみせるハイゼンは、身体反応から見ても、嘘は吐いていないようだ。
つまりハイゼンは、確かに反アンドロイド主義者であり、爆弾の製作や工場内部の構造の把握などに関して協力していた。
だが協力相手、つまりウェルティは、彼の上を行く過激な思想を持っていた。ウェルティは事件の第一容疑者がハイゼンになることをあらかじめ予測しており、自分たちの主義主張を通すだけでなく、証拠を隠滅し捜査をかく乱するために、ハイゼンを犠牲にしようとしたのだ。
真相を知るハイゼンがここで爆死すれば、被疑者死亡という扱いになり、真犯人たる自分を追う者もいなくなるから。
「たく、本気でロクでもないことにだけアタマの回る犯人だぜ。だがまずは、この爆弾を解除するのが先だな」
「そうですね……縄と起爆装置が組み込まれている。強引に縄を解けば、確実に爆発するでしょう」
「ヒイッ!?」
途端にハイゼンが悲鳴をあげた。警部補は非難がましい視線をこちらに送ってくる。
「コナー、そういうことを本人の前で言うな。見ろ、こんなに震えてちゃ解除できねえだろうが」
「それは失礼しました。しかしこの三つ目の爆弾も、構造は単純なものです」
ガタガタ震えるハイゼンの膝の上で、揺れ動く爆弾を見つめつつ――とはいえ振動を検知して起爆するタイプの爆弾ではないので、そう心配する必要はないのだが――コナーは冷静に告げた。
「ドライバーとペンチがあれば、誰にでも簡単に解除できますよ。先ほどの現場から持ってきていますし、ここで解体してしまいましょう。警部補は、外で応援の要請を」
「ああ、わかった。二発目の心配を失くすのが先決だからな。だがお前も気を……」
と、警部補が続きを語るその前に。
コナーたちの背後から聞こえたのは、何かがドアにぶつかるような、ガタンという鈍い音。
そして、足早に階段を下りていく何者かの足音――
「ウェルティだ!!」
叫んだのは、ちょうど玄関のほうに視線を向けていたハイゼンだった。
「あ、あいつ戻ってきたんだ!」
「なかなか起爆しないから、様子を見に戻ってきたってか……って、オイ!」
「私が追います!」
道具一式をその場に置くが早いか、コナーは警部補の制止を振り切って大きく床を蹴り、部屋の外へと突進した。
アパートメントの外廊下に出れば、やはり階段を下りていく後姿は金髪の男――後頭部のスキャンから判断しても間違いない、レナルド・ウェルティである。
「待て!」
鋭く声をあげても、相手は当然歩を止めない。こちらも同じく階段を下り――いや、このままでは相手を取り逃してしまう。
時間が惜しいと、コナーは勢いよく手すりから地面へ直接ジャンプした。並みの人間なら怪我は必至であっても、アンドロイドの身体能力ならば問題はない。
だが両足で軽やかに着地したその先に、ウェルティはいなかった。彼は突然飛び降りたアンドロイドの姿に多少は狼狽したようだが、それでも逃げ足を止めずに住宅街の路地を駆けている。
こちらも負けじと、その背を追いかけた。
『おい、コナー!』
通信の向こうから、ハンクの緊迫した声が聞こえてくる。
『追うのはともかく、二発目の制限時間はあとどんくらいだ!?』
「11分。ですが、犯人を確保して戻って来ても、まだ余裕があります」
『ふざけんな、そう上手く行くとも限らねえだろ。俺が解除するから、やり方を教えろ』
「それは……!」
刹那、コナーのプログラム上を過ぎったのは最悪の結末である。
発生確率は低くても――拭い去ることはできない。
「ハンク、それはできません。万が一のことを考えれば……」
『誰にでも解除できるって言ったのはお前だろ。それに、相棒にばっかり
「……」
――警部補の言葉は温かく、そして正しい。
ウェルティを確保してから先ほどの場所に戻るのを待たせるより、先に解体を済ませてもらったほうがよいのは確実だ。
二発目の爆弾の前では今も処理班がこちらの連絡を待っているのだろうし、それにあのWM500が、今なお無念な姿のままでいるのだろうから。
彼らのためにも、時間は惜しい。そして警部補もまた、命を懸けて現場に来ているのだ。
「……わかりました。大丈夫、あなたならできます」
警部補へだけでなく自分にも向けて、冷静さを取り戻した声音で告げる。
「私が指示しますから、その通りにやってください」
追い続けるウェルティの背が、だんだん近づいてくる。アンドロイドと違い、人間には体力の限界があるからだ。全力疾走の状態を、そう長く持続はできない。
それを確認しつつ、コナーは続けて述べた。
「まず蓋状の部分を外します。ドライバーで、四隅のネジをすべて外してください」
『あいよ、先生。ええと……』
『うわああ、やめてくれええ!!』
混乱しきったハイゼンの声が通信に混じってくる。
『こんなオッサンにできるもんか! さっきのアンドロイドにやらせてくれえ!』
『てめえの都合いい時にだけアンドロイドに頼るんじゃねえ! それに揺らすな、ちょっとは落ち着けってんだ!!』
警部補が一喝すると、ハイゼンの叫び声は聞こえなくなり、代わりにすすり泣きが聞こえてきた。
――これなら、ハンクも落ち着いて解体に集中できるだろう。
そう思いつつ、さらに指示を飛ばす。
「蓋を外すと、いくつかの配線が見えると思います。そのうち太く赤い線と、黒く細い線だけをペンチで切ってください。そうすれば、起爆装置は停止します」
『太くて赤い線と、黒く細い線ね。ポカミスでくたばらないように気をつけるよ』
通信の向こうから、ペンチの刃同士が擦れる音が二回聞こえてくる。
そして、それはほぼ同時だった。
走るこちらの目の前で、ウェルティの足がもつれて転ぶのと――
『……やったぞ。小さい緑色のランプみたいなのが消えたが、これでいいのか?』
解体に成功した警部補の声、そしてハイゼンのほっとしたため息が聞こえてきたのは。
「お疲れ様です、ハンク。さっそく処理班に報告しました」
いつもと同じ調子で、しかし深い安堵と信頼を籠めて、コナーは応える。
応えながら、起き上がろうとしたウェルティの手を捻り上げ、うつ伏せに拘束した。
「動くな! レナルド・ウェルティ、あなたを……」
一連の爆発物事件の容疑者として逮捕する、というお決まりの文言を、しかし訝しみと共に呑み込む。
確かに制圧したはずのウェルティの、様子がどうもおかしいからだ。
全力の逃走劇が失敗に終わり、荒く息を吐いている、というだけでなく――嘲笑うような視線を、こちらに向けている。
「ふ、へへへへ」
ウェルティは、はっきりとした笑い声を漏らした。
「やっぱりプラスチック野郎なんてのはこの程度だな。爆弾を三つ解体できて満足か、えぇ? 誰が三つだけだなんて言ったよ」
「……」
「上を見な!!」
コナーは、一瞬戸惑う。
まさか別の爆弾があの部屋に仕掛けられていたのか、などという疑念が過ぎるものの、あそこには今解除したばかりの三つ目以外はないのは確認済みだ。
であれば、まさかこちらの注意を逸らして逃げようという算段だろうか? そんな単純な手に引っかかるほど、間が抜けているつもりもないのだが。
拘束は緩めないままに、視線だけでちらりと空を見上げる。
するとまさにその時、青空をまっすぐ西の方向へと飛び去っていったのは、一機のドローンだった。
灰色の機体の下に、アームに取り付けた小さな荷物を運んでいる――どこにでも飛んでいそうな、ごく一般的な宅配用ドローン。
相手の真意を汲めずに、眉間に皺を寄せたこちらの音声プロセッサに届いたのは、変わらぬウェルティの笑い声。
僅かに身じろぎするその手首に嵌っているのは、スマートウォッチだ。
――まさか。
コナーは、すかさずスマートウォッチを解析した。
【宅配依頼:運送中 オズボーン地区535→ベル島 サイバーライフタワー 20分後に配達完了】――
「もしや、あのドローンに『四つ目』が……!?」
「へへへ、そうだよプラスチック!」
うつ伏せにされたまま精一杯に声を張って、ウェルティは嘲笑った。
「オレの家に待機させてたんだ、指示を飛ばせばすぐに連中の、サイバーライフのとこに飛ぶようにな! ざまあみやがれ、てめえらを生んだクソどもが死ぬんだ!」
「……」
悔しがるでもなく、コナーは無言でドローンの行く先を目で追った。
――ウェルティを確保した瞬間に、市警にパトカーを要請した。それらはあと2分もすればここに着くはずであり、そうなればこちらは問題なく、あのドローンを追跡できるようになる。
それにサイバーライフタワーの警備と警戒が厳しいのは、自分自身、身をもってよく知っている。いくら宅配を装っていようが、彼ら/彼女らが易々と見知らぬ、予定もないドローンを自分たちのところに通すはずがない。
すなわち、あの爆弾のせいでサイバーライフの死傷者が出る可能性は、限りなく低い。
だがもし、あのドローンに不具合が発生して、まったく予測できない事態になってしまったら?
宅配ドローンが故障して、予定と別の住所に荷物を届けてしまうという事故はしばしばニュースを騒がせている。それに万が一何かにぶつかってしまったら、それだけで爆発が起きるかもしれない。
要するに、アレを放っておくわけにはいかないのだ。
けれども――
「はははは、どうだ悔しいか!」
こちらの思惑など知らぬ様子で、ウェルティはさらに哄笑した。
「お賢いプラスチックでも、飛んでる爆弾は解体できねえだろ。ハッキングするか? 無理だな、遠すぎる! 機械の分際で偉ぶってるからこうなるんだ、ざまあみろ!」
――それなりに、アンドロイドの能力に対する知識はあるようだ。
そんなことを考えつつ、コナーは静かに相手を見据えた。それから、おもむろに告げる。
「ええ、確かに。私一人では、あのドローンの爆弾の解除は不可能です」
「……! へへへ、やっぱり……」
「しかし」
相手の笑いを遮るように、はっきり口にした。
「それは私一人なら、というだけです」
「な……っ!?」
ウェルティの表情から、笑いが掻き消える。
そして時を同じくして、遥か彼方の上空から聞こえてきたのは、小さな花火が爆ぜるような軽やかな音だった。
それが何を意味しているのか、ウェルティにはよくわかったらしい。
「う、嘘だ!」
「いいえ、残念ですが」
短く頭を振ってから、コナーはスマートウォッチのベルトを片手で緩めて外し、画面が見えるように相手の目の前にぶら下げた。
その画面にはこうある――【エラー発生:ドローンの所在地不明。荷物の弁償はこちらから……】
「ご存じないかもしれませんが」
事態が今一つ呑み込めていない雰囲気のウェルティに、説明するように語った。
「デトロイト市警に、警察官はたくさんいるんですよ」
自分の代わりに、危険な解体を担ってくれる信頼できるパートナー、工場の爆弾を一任できる処理班の面々のみならず――
飛んでいるドローンの捕捉と狙撃くらいわけのない、優秀な弟も。
「くそ……!」
ようやく状況を把握したようで、ウェルティはがくりと項垂れ、それきり何も言わなくなった。
パトカーのサイレン音がだんだんとこちらに近づいてくる中、ナイナーからの通信が入る。
『兄さん、さすがですね』
弟はいつもと同じ、抑揚はないが真摯な声音で言った。
『私の介入を、既に認識していたのですか?』
「いいや、まったく。君の通信を受けて、初めてだよ」
やって来た警官たちにウェルティを引き渡してから、コナーは弟のいる方向――つまり、さっき爆弾ドローンが飛び去っていった先のほうを見つめた。
ここから数百メートル先の、高層ビルの最上階にナイナーはいる。
ウェルティが高笑いし、ドローンを放っておくわけにはいかないと思考した時、通信が入ったのだ――爆発物を輸送中のドローンはこちらで排除するから、任せてほしいと。
どうやらナイナーたちの抱えている案件、つまりロシアのアンドロイド絡みの一件と、こちらの事件が偶然重なり合ったらしい。
詳しいことを聞く暇はその時なかったが、ともかく、コナーは弟に一任することにした。
そして爆弾は誰を傷つけることもなく、ナイナーの放った銃弾によって空中で破壊され――
ほどなくして工場の「二つ目」のほうも、無事に解体されたと連絡が入ってきたのだった。
「ああ、やれやれ」
足音が近づいてきた――誰のものかはわかっている。
コナーは自然と微笑みを湛えて、後ろを振り返った。果たして、やって来たのはアンダーソン警部補である。
急いでやって来たのか、彼は立ち止まるや否や、片手で脇腹を押さえて息を吐いた。
「たく……トシは取りたくねえもんだ。そっちは片付いたか?」
「ええ、お陰様で。そちらも問題ありませんでしたか」
「ああ、ハイゼンの野郎は泣きながらクリスに連れてかれたよ。騙されてたとはいえ、あいつも立派な共犯者だからな……」
そこで伸びをしてから、警部補は続けて言った。
「しかし、普段は使わねえ気を張ったから疲れたぜ。なあコナー、昼間に食った、妙な透明なのはまだあるか?」
「可食フィルムのことですか? ええ、どうぞ」
ポケットにしっかり仕舞っていたので、このフィルムはもちろんテトラカルボニルニッケルに汚染などされていない。
うっすらした青色のそれを差し出すと、ハンクは「ありがとよ」と受け取った。
「人間てのは燃費が悪いからな……んん」
「どうでしょう? やはり、害虫の糞便とスクロースと水の味がしますか」
フィルムを口にしたきり黙ってしまった警部補に、そっと問いかける。
するとやがて、彼は頭を振ってこう答えた。
「まあ……空腹は最高のスパイスってやつだな。今はそう悪くねえと思うが」
「わかりました。空腹時に食べるとよい、と但し書きをつけるべきだとジェリコには伝えておきます」
「いや、それは……ああ、もういい」
そう言ってから短く、再び息を吐いた後――ハンクは本題に入った。
「で? ナイナーが狙撃してくれたから、ドローン爆弾は破壊できたって?」
「ええ。もし彼がいなければ、最悪の場合私が撃とうと思っていましたから、助かりました」
「素敵な偶然ってやつだな」
シニカルに告げる警部補に、コナーは続きを語る。
「どうやら、ロシアのアンドロイドの一件でこの近くにいたらしく……警察の通信を受けて援護に回ってくれたそうなのですが、どうも、それだけではないようです」
「キナ臭い物言いだな。まさか、みんなで楽しい射的ゲームをしてたってわけでもないんだろ?」
「むしろ、それだけならいいのですが」
述べながら、手のひらに画像を投影する。
それはナイナーのドローンを介して撮影された写真で、つい先ほど送られてきたものだった。
静かな眼差しでこちらを、つまりカメラのほうを見つめているナイナーは、スナイパーライフルを片手に持っている――これで狙撃したのだろう。
その左隣では、ギャビン・リード刑事が心底うんざりしたような面持ちで、腕組みして立っていた。
さらにその反対側、弟の右隣には。
「これが、そのロシアの?」
「そのようですね」
見慣れないアンドロイドが佇んでいた。
否、それはどちらかというと、定義としては「ロボット」にやや近いかもしれない。
そのアンドロイドは「黒いマネキン人形」としか呼べないような頭部をしていた。
凹凸のないのっぺりした頭の真ん中には、一眼レフのごとき大きなカメラレンズが取り付けられている。
そして首と同じ黒色の機体――何も纏っておらず、これもまたマネキン人形の胴体のようだとしか譬えられないその身体の下にある脚部は、まるで鳥足のような、いわゆる「逆関節」のものとなっていた。
ロシアのアンドロイドが、ブルーブラッドに依らない、いわば旧世代のロボット技術の延長線上にあるという話は一般のメディアでも報じられていたし、コナーも知っている。
だがここまで自分たちと異なる技術で造られた存在だとは、思ってもみなかった。
「ナイナーたちは、現在WGMホテルの屋上にいるようです。状況を説明したいので、そこまで来てほしいとのことですが……」
「ああ、行くよ。面倒なこったがな」
口調は乱暴ながら、納得はしているといった様子で、ハンクは言った。
「さっきの爆弾と、向こうの事件がどう繋がるのかは知らねえが……どのみち、ほっといて帰るのも無理そうだ」
「感謝します。では行きましょう、警部補」
――コナーとハンクは車に戻ると、そのままナイナーたちの待つ場所へと向かう。
だがこの後すぐ、さらに奇妙な事態に巻き込まれることなど、今の彼らには知る由もないのであった。
(3つの爆弾/The Countdown おわり)
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第47話:友達 前編/The Newest Two Part 1
――2039年7月23日 10:28
「あー……クソったれ」
呟きは、自分以外の誰にも届かない。
苦々しい面持ちで眺める空は、嫌味なほどに晴れ渡っていた。
抜けるような青空から少し視界を動かせば、この空き地を囲うように建つ廃ビルが目に入る。
今日は勤務日で、決して非番ではなく、ましてサボっているわけでもない。
にもかかわらずギャビンは今、こうして馴染みの場所――つまり廃墟の街の一角にいる。
空き地の隅に置かれっぱなしになっている資材(鉄骨か何かだ)に腰を下ろし、もう一度「クソ」と吐き捨てた。
それからまた、所在なく空を見上げる。鼻先をハエが一匹飛び去っていった。ギャビンは眉間に皺を寄せる。
なぜこの自分が、こんな時間に、こんな場所にいなけりゃいけないのか。なぜ、公園のベンチに鈴なりになって暇を潰す老いぼれどもみたいに、ボンヤリと日の光なんて浴びてなきゃならない?
問いの答えなどわかっている。さらに言えば、ここに留まっている他ないというのもはっきりわかっていた。とはいえこの胸のイラつきが消えるはずもなく、ギャビンは自分の片膝を使って頬杖をつくと、短くため息をつく。
――それもこれも全部、あの
脳内で悪態をつくと、ギャビンは昨晩からの出来事を思い出した。
デトロイト河岸にある工場をありったけ虱潰しに調べ上げ、それがまったくの無駄骨に終わった後。
ギャビンと備品のRK900は、ご立派な「署長命令」を受けて空港へと向かったのだ。
米露間での友好の証として、最新鋭アンドロイド同士を“交流”させる――そのために、向こうの連中を迎えに行け、という命令。
要は親善大使まがいのことをやれという、いち刑事としては意味不明な仕事のために。
***
――2039年7月22日 18:56
車は猛スピードで空港へ向かっている。そして、その行き先を変える権利は自分にはない。――というのはわかっていたので、ギャビン・リードは思い切りリクライニングさせた運転席に身を横たえ、車内の天井を睨んでいた。
ふてくされたガキじみた行動だというのは自覚しているが、こんなバカげた命令、とても真面目に受ける気になんてならない。
外国製のロボと、その取り巻きどもを迎えるだなんて、この自分がやるべき仕事ではない。いっそのこと、このままふて寝してフケてやろうか。
そんなことを考えていると真横から、抑揚のない平坦な声が聞こえてきた。
「……リード刑事」
「黙れ」
「リード刑事」
すかさず命じてやったというのに、助手席に(お利口にシャンと背筋を伸ばして!)座ったデカブツ備品は構わず、こちらに首だけを向けて続けた。
「自動運転時においても運転手は不測の事態に備えて前方を警戒するよう、法律で規定されています」
「ハイハイ、規定ね」
生意気にも小言を言ってきたプラスチック刑事を鼻で嗤ってやる。
「知るかよ、そんなモン」
「……」
一瞥すれば、備品は灰色の瞳を少し見開くようにして、じっとこちらを見つめていた。“呆れた”とでも言いたいのだろうか? さすが、アンドロイド刑事サマはどんな時でも規定だの所定の手続きだのが大好きなことで――
と皮肉ってやろうと思ったところで聞こえてきたのは、さらに抑揚なく垂れ流される音声だった。
「ミシガン州道路交通法第47条、修正第1項。自動運転車の運転者は道路・交通及び当該車両の状況に応じて、他人に危害を及ぼ……」
「黙れっつったのが聞こえねえのか!」
半身を起こして怒鳴りつけてやると、備品はぴたりと口を閉じた。
「たく、なんのつもりだ。ポンコツが」
「申し訳ありません」
無表情のまま、アンドロイドは言う。
「発言を受け、交通法規の確認希望かと認識しました」
――『知るかよ』と言ったせいだろうか? とギャビンは頭の片隅で訝しんだ。
「
憤懣をぶつけるように、ギャビンはポンコツ備品に向かって中指を突き立てる。
するとなんと、こちらに向かってポンコツは中指を突き立て返してきた!
「なんだてめえ、ケンカ売ってんのか!?」
「申し訳ありません」
と、備品は自分が出した中指をしげしげと見つめた。
「当該ジェスチャーが『強烈な侮蔑』を意味するとは理解しています。ですが……」
「あぁ?」
「私……私は感情表現が苦手、なので。リード刑事の動きをトレースし、模倣による訓練を試行しました。しかし、先刻の実行は不適切だったと認識します。重ねて申し訳ありません」
中指から握り拳に戻して(機械のくせにどことなく)しょげた風に俯くと、ポンコツはまた正面に視線を戻した。
「なんだってんだ……?」
ぼやきつつ、ギャビンは思い出す。
そういえば署を出る前に、ポンコツ備品とハンクの野郎とコナーが何やら話していたような気がする。
忌々しいことに、今回の機械どもの“交流”は、二つの国の国民が注目する一大イベント――だという。というかマスコミが入って、そういう大きなイベントであるということに
なので空港で向こうの連中と落ち合った直後、デトロイトご自慢の新型アンドロイド刑事はヨソから来たアンドロイドと一緒に、メディアの取材を受ける予定だという。
そしてポンコツ備品はポンコツなりに、自分が鉄面皮の無表情の棒読み野郎だというのを気にしているようだ――サイバーライフの最新鋭である自分が、コミュニケーション能力に乏しいというのは問題視されないか、などというふうに。
署長命令を受けてすぐ、オフィスの外に出るやいなや、備品はボソボソとそのことをハンクと自分の“兄”に相談していた。
するとハンクはにやりと笑うと、備品の背を叩きながら、こう言っていた。
『なあに、かえって表情が変わらねえほうが、
ハンクはすかさず中指を突き立てた。だが眉を顰めたコナーが、その手を強引に下ろさせる。
『公的な場でそのジェスチャーはお勧めできませんよ、警部補。そもそも、ナイナーに変な情報を教えないでください』
『じゃ、どうすんだ?』
『こうしましょう。……いいかいナイナー、笑顔を求められる時があったら、こうするんだ』
コナーはサムズアップの姿勢をとった。ポンコツはアホみたいに目をぱちぱちさせた後、同じように親指を立ててみせる。アンダーソン警部補とペットのアンドロイドは、それを見てやんややんやと褒めたたえていた。
『おっと、なんてステキな光景。ここは警察署だと思いきや、幼稚園児のお遊戯会場でしたかねえ?』
およそ警官がやるにふさわしくない奇妙な仕事を、アンドロイドなんかと組まされているせいで命じられてしまった苛立ちもあって、ギャビンはその場の全員に聞こえるように連中を嘲笑ってやったものだが。
ともかく、学習したジェスチャーを車内で練習とは、なんとも機械らしい生真面目さである。
しかしコイツが本当に、あの元“一兆ドル企業”サイバーライフ社が生み出した最先端アンドロイドだというのなら、いい加減作り笑いの一つや二つできるようになっていてもおかしくないはずなのに。
ソーシャルモジュールがないとかなんとか、コナーの野郎が言っていたような気もするが――自分だったらそんな欠陥商品をとても「最新鋭です」と外に出そうとは思わない。
そんな素人ですらわかりそうなことが理解できないなんて――やっぱり、サイバーライフの奴らは頭にクソが詰まっているに違いない。
そんな乱暴な結論に達したところで、フロントガラスの向こう、高速道路の行く手に小さく見えてきたのは目的地の空港だ。このぶんだと、あと15分もすれば着きそうである。
――フテ寝で体力回復は失敗か。そう思い、ギャビンは舌打ちをした。
デトロイト・メトロ空港に着いてみると、思いのほか、中はいつも通りの様子だった。国と国との一大イベントだというのなら、てっきりもっとマスコミだのが集まった騒然とした雰囲気になるのかと考えていたのだが、そうでもないらしい。
結局のところ(この後わかったことだが)サイバーライフ社は「セキュリティの都合上」立ち入りできるメディアを厳選し、取材できる会社を制限していたのだという。
たかがロボ同士の会談に、そこまでする必要があるんだろうか?
そんなふうに思っている間に、今回のメインゲストを乗せた飛行機は無事に滑走路に降り立ったようだ。超一流の音楽家が自分の楽器を運ぶ時にそうするように、外国産ロボットは、持ち込み荷物扱いで人間の座席に乗って来たらしい。
そういうわけでポンコツ備品と、サイバーライフの連中――てっきり備品と顔見知りだと思っていたが、そうではないという――そして幾人かのカメラマンたちと共に、ギャビンは国際線の到着ロビーに待機していた。
暇極まるので、近場の柱にもたれかかったまま携帯端末を弄っていると、にわかに周囲のカメラマンたちが動き出した。到着口のほうにレンズを向け、耳障りなほど、しきりにシャッターを切っている。
なるほど、件のロボットご一行がいよいよ到着した様子である。
「どれどれ……」
と、ギャビンは視線を到着口に移す。
そして、思わずぎょっと目を見張った。
やって来たのは――少なくとも、サイバーライフのアンドロイドとはまったく違う機械だった。
漆黒の機体。のっぺりした頭部に、一つ目の化け物よろしく光る大きなカメラレンズ。上半身はまだ人間っぽい形をしていたが、下半身はまるでニワトリのようだ。逆関節の足を動かし、ひょこひょこと身体を上下させながらこちらへと歩いてくる。
にもかかわらず、機械らしい駆動音はおろか、足音の一つも立てていないというのがなんとも不気味だ。
向こうの国のアンドロイドは旧式の技術、つまり20世紀くらいから開発されていた「人型ロボット」の技術の延長線上にある存在で“人間らしく”はない一方、厳しい環境にも対応できるよう作られている――という話は、雑誌か何かで読んだことがあった。
しかし、ここまで異なる見た目だとは。
そして北の国からやって来た人間どもはまるでロボに追随するかのように、これまた静かにロビーへとやって来る。
人間たちのうち、いかにも科学者らしいナリをした(要は
一方、真っ黒ロボのほうは脇目も振らずまっすぐに、デトロイト市警が誇るポンコツ備品のもとへと歩み寄っている。北極圏のシリウムを巡って相争っていた両国のアンドロイドの初めての邂逅という“歴史的”瞬間を撮ろうと、すかさずメディアクルーが二体の機械を取り囲んだ。
ギャビンはというと、眺めこそするものの、近づきはしない。取材を受けろ、などという命令は出ていないし、何よりマスコミ連中のメシの種になるだなんてまっぴらごめんである。
「チャンネル16のジョス・ダグラスです」
と、先んじて囲みの最前線に躍り出た男が、ポンコツと真っ黒ロボにマイクを突きつける。
「米露のアンドロイド同士の交流は、これが史上初ですね。ご感想は?」
昨今の「アンドロイド保護法」に則って、ダグラスというレポーターは丁寧な口調で問いかけていた。だが、肝心の機械たちに反応はない。
RK900のほうはこめかみのLEDリングを青から黄色に変えてピカピカ光らせているばかりだし、真っ黒ロボのほうは、顔面のレンズの真下を(スマホの通知LEDよろしく)ぼんやり緑色に灯しているだけだ。
「あ、あの……?」
レポーターも、他の記者たちも、きょとんとした様子でアンドロイドたちを見つめている。するとポンコツ備品は、たぶんポンコツなりに何か喋らないとヤバいと思ったのだろう。
LEDリングを黄色に点滅させたまま、何か言いたげに唇を動かした。
だがまさにそのタイミングで、先に漆黒ロボのほうが動く。
ロボは自分の右手を素早く動かすと、見事にサムズアップの姿勢を取ってみせた。
「おお!」
レポーターは歓声をあげ、カメラのシャッターが一斉に切られる。
「ご覧ください。はるばるやって来たアンドロイドは、とてもフレンドリーな性格のようです!」
カメラに向かってレポーターが言い、その後ろで、ポンコツ備品もまたおずおずと親指を立てていた。
(遅えよバカ!!)
酔いどれアンダーソンのせっかくの薫陶も、これでは台無しというものだ。
二体揃って友好的なポーズをしている光景は、なるほど一見、平和に思えるかもしれない。しかしわかる奴が見れば、サイバーライフの最新鋭アンドロイドのコミュニケーション能力が致命的だとバレるだけだろう。無表情なポンコツ備品のLEDは、黄色のままである。
「ハッ、くだらねえ」
こんなことのためにわざわざ空港まで来たのかと思うと、ほとほと馬鹿らしくなってくる。ギャビンは腕組みをし、ここから一人だけ抜け出る算段を立てようとした。
すると、こちらに――間違いなく自分のほうに近づいてくる人影に気づく。それは「風采が上がらない」という表現がまさにぴったりな、一人の中年男だった。
年の頃は、四十代前半といったところか。体格はこちらと同等だが、くすんだ金髪を無造作に生やしたもじゃもじゃの髪型といい、伸び切った口ひげといい、眠そうな目つきといい――ギャビン基準では「殴り合ったら勝てそうなヤツ」である。
そっけない半袖のワイシャツ姿のそいつは、こちらの眼前にやって来ると、ごそごそとズボンのポケットをまさぐった。
そしてそのまま無言でこちらに差し出されたのは、一枚の名刺。微妙に黄ばみ、角が小さく折れ曲がったなんともキマらないその厚紙には、英語でこう書かれていた。
『ロシア内務省 刑事捜索部 刑事 エメリヤン・ルキーチ・カレフ』
「……カレフ?」
相手の姓と思しきものを呟きながら、名刺を裏返す。裏側にはキリル文字が並んでいて、ギャビンには読めなかった――恐らく、同じ内容がこいつの母語で書かれているだけなのだろうが。
同時に、はたと気づく。そういえば署で命令を受けた時、「向こうのアンドロイドは現地のパートナーと一緒にデトロイトを訪れる」と聞いていた。そしてこいつの肩書は刑事である。――ということは。
「ああ!」
と、ギャビンは遠慮なく英語で話す。
「あんたがあの真っ黒ロボの相棒ってやつですか。はっ、いかにも苦労してそうなツラしてるな」
初対面の人間にナメられないためには、まずこちらから先制パンチを繰り出すべしというのがギャビン・リードの鉄則であった。
今回もその鉄則に従って皮肉を放ってやったわけだが、にもかかわらず、カレフという男からはなんの反応もない。相変わらず眠そうな目を定期的に瞬かせているだけで、戸惑うでも怒るでもなく、その唇はぴたりと閉じている。
――この男、英語が通じないのだろうか。それとも、時差ボケがひどいだけってか?
ギャビンが訝しんでいると、また向こうから素早く近づいてくる影があった。あの海外産の真っ黒ロボだ。
突然活発に動き出したロボに驚くマスコミ連中を尻目に、そいつはカレフのぴったり隣にまで移動してくる。するとそれまで無反応だったカレフが口を開き、表情を変えぬままモゴモゴと(ギャビンには耳慣れない言語で)何か呟いた。
直後、真っ黒ロボから聞こえてきたのは、流暢な英語である。
「『はじめまして、私の名はカレフです。隣にいるのはアンドロイドのドルーク8号です』」
「……? コイツ、喋れるのか?」
「いいえ、リード刑事」
と、いつの間にか隣に来ていたポンコツ備品が言う。
「ドルークはカレフ氏の発言内容を翻訳して発声しています。ドルーク本人の発話ではありません」
「『その通りです』」
また英語で語るドルークのレンズの下は、緑色に点滅している。同時に横にいるカレフがなおも何かごそごそ話しているので、同時通訳をしているというのは本当なのだろう。
「『ドルークには米国のアンドロイドのような発話機能は備わっていません。状況に応じて最低限、“是か非か”をLEDライトで表示する機能があるのみです。緑は肯定、赤は否定を指します』」
語る間に、ドルークの緑色のライトは消えている。問いかけに対して光の色で答えるだけという――アンドロイドの小言を聞きたくない人間にとっては最適な機能がついているらしい。
「『“ドルーク”とは、我々の言葉で“友達”という意味です。数日の滞在予定ですが、どうぞ私たちと友達のように、仲良くしていただければ嬉しいです』」
と語るカレフの表情は、さっきと何も変わっていない。ドルークには言わずもがな表情というものがない。
胡散臭い奴らだ、とギャビンは思った。しかし周囲にちらりと視線を巡らせてみれば、さっきまでロボたちを囲んでいたメディアクルーは、今度はこちらにカメラを向けている。機械たちが移動したんだし、アンドロイドの「パートナーである人間同士」の交流もまた、絵になると判断されたのだろう。
――この状況でヘタなことを言ってしまったらどうなるか。
情報は映像として拡散される。世論が形成され、後ろ指を指される。それだけならまだしも、署長は“お怒りに”なるだろう。そうなれば、約束の昇進話もパアになってしまうかもしれない。
ギャビンの頭の中を、いくつかの打算が駆け巡る。結果、彼は彼にしては穏当な言葉を発することにした。
「デトロイト市警のギャビン・リードだ。こっちはRK900」
「ナイナーです」
「そう呼ぶ奴もいる」
生意気に口を挟んできた備品に舌打ちが出そうになるが、それをこらえつつ、ギャビンはカレフに右手を差し出した。
「まあ、俺たちゃ人間同士だ。無事に国に帰りたきゃ、トラブルは無しといこうぜ」
「『同感です。よろしくお願いします、リード刑事』」
握手の瞬間、ここぞとばかりにシャッターが切られた。――フラッシュの光で目がやられそうだ。出世の暁にはこうやってスポットライトを浴びるのも悪くない気分なのではないかと考えていたこともあったが、ところがどっこい、自分に向けられる眼差しは想像以上にうざったい。
俯き、カメラに映らないところで、ギャビンはケッと吐き捨てる。
するとその時、サイバーライフの技術者たちがこちらへやって来た。どうやら続きの話は別室で、ということのようだ。
そしてマスコミと別れたギャビンたちが、空港内に設置された貸し会議室のような場所で聞かされた内容はといえば――
「ハァ!?」
ギャビンは頓狂な声をあげた。
「明日、俺に何をしろって?
「ああ刑事さん、どうか落ち着いて」
サイバーライフの科学者がとりなすように言う。
「我々はただ、アンドロイドの性能比較をしたいだけなのです。せっかく先方の国の協力も得ていることですし、またとない機会でして」
――相手の言い分はこうだ。
RK900もドルーク8号も、同じく捜査機関に属するアンドロイド。ならばその性能比較は、やはり捜査を実際に行わせることでやってみたい。
一方でRK900には単独での捜査権限はなく、ドルーク8号にもアメリカ国内での捜査権はない。というわけで――
「明日の朝10時になりましたら、リード刑事とカレフ刑事には、デトロイト市内に潜伏していただきます。そしてリード刑事の行方をドルークが、カレフ刑事の行方はRK900が捜査するのです」
「それで早く見つけられたほうが勝ちって? ハ! やっぱりかくれんぼじゃねえか、くだらねえ」
と言ってはみたものの、現状において、相手からの「お願い」は実質的には「署長命令」である。署長サマは愛する部下が海外産ロボとそのお仲間、そしてサイバーライフのくそったれ技術屋どもの言いなりになるのをご所望なワケだからだ。クソが。
ギャビン・リードは心の中で思う存分吐き捨てた後、空港を発ち、自宅に帰り、憤懣を抱えたまま眠りについた。
そして明くる朝、律義に身支度を整えて家を出たギャビンは、念のため監視カメラは避けるようにしながら馴染みのこの場所――つまりは廃墟ばかりのエリアにまで辿り着いたわけである。
ここにカメラがほとんどないのは知っているし、どこをどう抜ければどこに出るのかもきっちり把握している。エリアから出ない限り、そうそう見つかりはしないだろう。
――そういうわけで、ギャビンは今、この空き地にいるというわけである。
***
――2039年7月23日 10:35
もう一度ギャビンはため息をついた。携帯端末を弄れれば少しは暇つぶしにもなろうが、万が一ドルークに通信時の電波やなんかを探知する機能でもついていたなら――あるのか知らないが――それで自分の居場所が知れてしまうかもしれない。
したがって賢明にも、ギャビンは端末の電源を切っていた。
別に、技術屋の性能比較に協力してやりたいわけではない。ただ自分のほうが先に捕捉されてしまうというのも心底ムカつくからというだけだ。
アンドロイド刑事、いずれ自分たちにとって代わるのだろう存在。
そしてそんな奴らを生み出した人間たち。
あいつらに隙を見せるわけにはいかない。
くさくさしながら地面の石を蹴ったところで、ギャビンの耳は、ある物音を察知する。
タイヤの停まる音――それに、何人もの足音と話し声。今はまだ、ぎりぎり車の入る道路の辺りにいるようだが、複数の足音はどんどんこちらに近づいてくる。
まさか、居場所を察知されたのか? と身構えたギャビンが、ここを離れるか否か、少しだけ逡巡した時。
耳に入ったのは、今度はこんな声だった。
「皆さん、ここがデトロイトでも有数の廃墟街です。この階段を上った先にある壁には、かの有名な現代画家マイヤーズが若き日に描いたウォールアートが……」
そして携帯端末のカメラのシャッター音、雑談する声。やがて通りの向こうに、ちらりと人影がいくつも見えた。老人、中年、若いのも少し。先頭に立つ男は、観光会社のロゴの入ったTシャツを纏っている。
――なんだ、と内心で独り言ちる。
どうやら能天気な廃墟ツアーの一団がやって来ただけのようだ。ここが再開発もされないまま残っている理由の一つである。つまり、見捨てられたビルだの壁の落書きだのが、なんだかんだでいい観光収入源になるのだ。とはいえ現地民でもない奴が一人で迷い込むには危険すぎるので、ああしてトリップガイド付きで訪れる連中ばかりなのだが。
身構えて損した、とギャビンが耳を掻きながら再び座りなおす間に、ツアーは自由散策の時間になったらしい。あまり遠くまでいかないように、というガイドの声が聞こえた後、わらわらとこちらへやって来る連中が幾人か見える。
中年カップルと、しわくちゃの小柄な老人。ツアー客どもはこちらの存在に気づくと、少し驚いた様子を見せた。しかしギャビンが何も動かないのを悟ると、安心した様子できょろきょろと辺りを見渡している。
「チッ」
見世物じゃねえんだぞ、と思いながら、ギャビンはこの場を離れようとした。だがカップルたちが壁の落書き――こちらのすぐ近くにあるやつだ――の写真をスマホに収めている間に、手持ち無沙汰になったのか、老人のほうがひょこひょこと近づいてきた。
ああ、これは、絶対に話しかけられる。
予言にも似た確信と共に、ギャビンは相手を無視して立ち上がる。しかし、果たして、老人は口を開いた。
「あのう。あなたは、この辺りの人ですかな?」
「でなきゃこんなトコに一人でいねえだろうな」
老人の長話に耳を傾ける趣味はない。短く会話を打ち切って立ち去ろうと思ったのに、相手は気にせずに自分の話を始めてしまった。
「実は私もね、昔はこの辺りに仕事場があったんですよ。懐かしいなあ……風景は変わっても、雰囲気は変わることがない」
老人はほっほっと小さく身を震わせて笑った。
ギャビンはそれを横目で睨む。さっさと向こうに行ってもいいが、なんだかそうするのは、この老人から逃げ出したようで癪に障った。
かたや、老人は構わずに空を仰ぎながら語り続ける。
「アンドロイド……技術革新……世の中はどんどん変わっていってしまう。変わらないものの良さというのを、誰もが忘れてしまったのかと思うほどに」
――戯言ポエムが始まった。いい加減付き合っていられるか、壁にでも向かって喋ってろ。
ギャビンはうんうんうんと、適当に軽く頷いた。それから、さっさと踵を返すことにした。
だが、その時――ちょうど老人がこちらを向いた瞬間だったが――鼻の古傷が、じんじんとした痛みを放ちはじめた。
20年前、しけたギャングにナイフでつけられた傷。これが痛む時は、決まって何かよくないことが起こる。
オカルトは信じないが、これは経験則だ。なんだ。何が起きようとしている?
きょとんとした顔をする老人は放っておいて、ギャビンは素早く辺りを見渡した。けれど見えるのは廃墟と、壁と、能天気なカップルの姿のみ。
じゃあ、この直感と痛みは気のせいか?
否――カップルの会話が聞こえてくる。
「見て、すごくいいねがついてる!」
「やっぱり写真アップしてよかったねえ」
写真のアップ? SNSにか?
そう考えた時、答えはすぐに閃いた。カップルが撮っていた落書きがあったのは、自分のいたすぐ近く。
――写真に、
それをあのカップルが無造作にSNSに載せてしまっていたとしたら。
「ちくしょう!」
吐き捨てたギャビンが地面を蹴ったのと、ほぼ同時。
遠くから迫りくる風切り音と共に、空き地に降り立ったのは漆黒の機械。ドルーク8号だ。
廃墟のビルの屋上を伝って、ここまでやって来たというわけだ。
――奴はネットを監視していた。
俺が引っかかるのを待っていたのだ!
さすがは治安維持専門アンドロイド、陰湿な手を使いやがる。
「クソが……!」
脇目も振らず、ギャビンはドルークと反対側の道へと全力で駆ける。
別に捕まったところで死にはしないが、ここで捕まるのは絶対にゴメンだ。こっちにはこっちの意地というものがあるのだ。
空き地のすぐ近くには、このエリア特有の隘路がある。曲がり角が連続し、中にはしゃがみ込まなければ通れないほどに崩壊した場所もある。
ドルーク8号は、ポンコツ備品と同レベルにガタイのいい機体だった。
となればあまりに狭い道は、きっと通れないに違いない。
そう踏んで、ギャビンはわざとその道を通った。速度を落とさずに走り、天井が低くしゃがみ込むべき場所は、スライディングで一気に通り抜けてやった。
ちらりと振り返れば、ドルークの姿はない。
「へっ、ざまあみやがれ」
ニヤリと笑ってそう言ってやった、のだが――
耳に届いたのは、何かが擦れるようなガリガリという音。
まさか、と身を翻そうとした時、崩壊した道の隙間からヌッと顔を見せたのはドルーク8号。
奴は自分の脚を小さく折りたたみ、まるで曲芸師よろしく――いや、猫だろうか――強引に身を滑り込ませて突破しようとしているのだ。
「マジか、くそっ……」
眺めている余裕はない。ギャビンは即座に再び全力で駆けだした。
「ぐっ!?」
しかし、それ以上の逃亡は無理だった。
右足首に何かが絡みつくような感触を覚えた直後、ギャビンは後ろから引っ張られるようにして、そのままうつ伏せに倒れる。咄嗟に受け身を取らなければ、そのまま地面にキスしていたところだろう。口の中に砂が入り込んで不愉快だった。
振り返れば、ドルークは手を伸ばしている。というより、伸ばした手の先からワイヤーのようなものが射出され、そのままこちらの右足首にぐるぐると絡みついていた。
合衆国のアンドロイドは、武器を携帯する権利を持たない。だから警察に配備されているコナーや備品たちには、備え付けの武器というのが存在しない。
しかしその辺、ドルークは違うのだろう。治安維持専門だというなら、致死性の低いワイヤーガンくらい常備しているべきという考えか。
「クソが」
ギャビンは呪詛を吐き、それから諦めずに、前へと這おうとした。足首のワイヤーは固く結びついていて、簡単にはほどけそうにないからだ。ナイフも持っていない。銃を使えばなんとかなるかもしれないが、この距離だとワイヤーだけ撃ち抜くのではなく、自分の足まで傷つけてしまいそうである。
しかし、身体は無慈悲にも後ろへと引っ張られていく。
立ち上がったドルーク8号が、あたかも傲然と見下すようにこちらを眺めていた。
ワイヤーを巻き取りつつ、もう片方の手を上に構えるようにしている。あれでガシッと捕まれた瞬間、「リード刑事は確保された」ということになるのだろう。
腹立たしい。いっそのことあのロボ野郎の脳天を吹き飛ばしてやろうか。
苛立ちは頂点に達した。
だがこちらが何かアクションを起こすよりも先に、動きを見せたのはドルークのほうだった。
何か甲高い電子音(電話の呼び出し音のような)が聞こえた直後、昨晩会ったあの科学者の声が聞こえてくる。
『お疲れ様でした、リード刑事。実験は終了です』
「は? なんで……」
『カレフ刑事が、RK900に捕まったからです』
今通信を切り替えます、という言葉の後、いつものポンコツ備品の抑揚のない声が聞こえてきた。
『リード刑事。ご無事ですか』
「てめーに心配されるまでもねえ」
言いながら、無言でドルークに向かって、右足首の縛めを指さして訴える。
ドルークがワイヤーを操作して外し、自分の足は自由になった。
『カレフ刑事が市内のバーに滞在中のところを確保しました。ところで……』
一度言葉を区切ってから、アンドロイド刑事は続きを語った。
『ご報告です。サイバーライフ、およびドルークを製造した企業からの要望です。リード刑事には引き続き、今度はセントクレア湖のグロース・ポワント・ショアーズにある施設までお越しいただきたいとのことです』
「はぁあ!?」
今日一番大きな声をギャビンは発した。
「ふざけんな! なんでンなクソ遠いとこまで行かなきゃならないんだ」
『本日の任務に関連するとのことです。……拒否されますか?』
棒読みながら、最後だけ僅かに語尾が上がっているのが気に入らない。まるで傷ついた奴を慰めるような態度。それが「気遣い」のつもりか、機械のくせに。
ギャビンは舌打ちをした。
「拒否っても無駄だろうが」
そう言ってこちらが立ち上がった瞬間、ドルークは大きくジャンプして姿を消す。きっとこのまま屋上を伝ってエリアの外に出て、そこからセントクレア湖畔をまっすぐ目指すのだろう。
グロース・ポイント・ショアーズはここから車を飛ばして40分ほど、ベル島の北のほうにある。セントクレア湖を利用したヨットスクールだの記念公園だのが並ぶどうってことない場所のはずだが、果たしてそこでサイバーライフは何を自分にさせるつもりなのか。
「今度は石けり遊びでもしろってか? ハッ、超面白え」
乾いた笑いが漏れる。
だがしかし、このままフケるわけにはいかない。
それは意地とプライドというだけではなく――刑事としての貪欲さが生んだ、ちょっとした閃きのせいだった。
あの忌々しい「吸血鬼」の組織の新型レッドアイス。それに含まれるナノドロイドを作るには、大規模な設備と高度な技術者、それに大量の工業用水が要るというのは覚えている。
確かに昨日の工業地帯の捜査は、空振りに終わってしまった。
だが、単なる河べりではなく湖だとしたらどうだ?
実際のところ、セントクレア湖の岸辺に都合のいい廃工場があるなんて話は聞いたことがない。
しかしもしかしたら、そこにこそ、探し求めている答えがあるのかもしれない。
特に今回は、サイバーライフの連中の希望でわざわざそんな場所まで行くのだ。
普段であれば令状でもなければ立ち入れない、企業の所有する建物であっても、今回なら堂々と立ち入れるかもしれない。
――かもしれない、ばかりだ。
だがこの自分が、ままならぬ状況でいつまでもブツクサ蹲っていると思ったら大間違いだ。
証拠が見つからないのなら、泥沼を駆けずり回ってでも何か掴んでやる。
ギャビンは服についた土埃を手で払う。
それから、車のところに戻るのだった。
続きは7月23日の22時に更新します
(予約投稿です)
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第48話:友達 後編/The Newest Two Part 2
***
――2039年7月23日 11:34
「これはこれは、リード刑事ですね? ようこそおいでくださいました!」
一番大きな駐車場に車を停めて降りた瞬間、向こうから声をかけられた。
相手はどうやらサイバーライフの人間のようだが(というのも胸に社員証をぶら下げていたからだ)、昨日の空港では見かけなかった男である。
50代そこそこといった感じの、雰囲気的に管理職らしきその男は、にこやかにこちらに歩み寄ると、先んじるように右手を突き出した。
「はじめまして、私はフィリップ・シーモアと申します。サイバーライフの未来科学部門の責任者です」
「どうも」
ごく軽く握手すると、ギャビンは顔を顰めた。シーモアはそれに構わずに、なおも上機嫌に語る。
「他の皆さんは、もうお着きですよ。さあ、こちらに。私どもの施設にご案内します」
「そこで俺は何を?」
わざとおどけるように肩を竦めながら問うと、相手は堂々と答えた。
「明日は米露友好を祈念するイベントを開催予定なのですが、その前に、ぜひ刑事さんがたにお見せしたいものがあるのです。特に、海外からの特別ゲストの方々にね」
妙に含みのある言い方が気になるが、今はついて行くしかないだろう。
シーモアについて歩くと、確かに、岸辺にある小さな施設――駅にあるエレベーターをそこだけ抜き出したような妙にシンプルな建物が見えた。ついでにポンコツ備品とドルーク、そしてカレフ刑事や科学者たちも。
こちらに視線を送るポンコツ備品が無表情なのはいつものこととして、カレフもまた、昨晩と同じくぼんやりした顔のままだった。捕まってしまってふてくされているのかとも思ったが、そうではないようだ。
「では、行きましょう」
先頭に立ったシーモアが、エレベーターの脇のパネルに自分の社員証を押し付ける。それはセキュリティパスだったようで、わずかな駆動音と共に、エレベーターはぴたりと到着して扉を開いた。
「さ、どうぞ中へ」
「つまり、施設ってのは地下なのか?」
「いえ、いえ」
シーモアは得意げに笑う。
「地下ではなく、あえて言うならば地上ですよ。ついて来てくださればわかります」
ドルークはシーモアが話すのに合わせて、カレフに通訳していた。カレフはふんふんと頷き、先にエレベーターに乗る。
地上? どういう意味だ――と、訝しく思ったのもつかの間。
エレベーターに乗り込み、それが動き出してしばらくした頃、ギャビンはシーモアの発言の意味も、彼が妙に自慢げな雰囲気を出していた理由も理解できた。
エレベーターの扉にはガラス窓が嵌っている。その窓の向こうは、最初は真っ暗な闇だったが、すぐに光が見えたかと思うと、今度はいっぱいの水に満たされた。
水とは要するに、セントクレア湖の水だ。
このエレベーターは、セントクレアの湖底に直接繋がっていたのだ。
湖底にある、サイバーライフ社の大規模な研究施設に。
***
「ハッ、なるほどね」
妙に白く明るい廊下を進みながら、ギャビンは誰にともなく鼻で嗤った。
塵一つない廊下を、掃除用ロボが這いまわっている。窓の外には、あれは確かブラックバスだったか――それなりに大きな魚が泳ぎまわっている。要は、湖底の景色がそのまま見えるようになっている。
このサイバーライフの施設は、ベル島にあるサイバーライフタワーと直接トンネルで繋がっているようだ。小さな研究施設同士がまたトンネル――例えば今歩いている廊下のような――で繋がることで、敷地を確保しているらしい。
元々セントクレア湖はほんの十数年前まで、水深が平均3メートル程度の比較的浅い湖だった。それがここ最近の気候変動だの地殻変動だのの影響で水深が深くなり――つまり、こうした施設を湖底に密かに建築するだけの余裕ができたとのことだ。
「建築はアンドロイドが行いました。なんといっても、彼らには呼吸が必要ありませんからね」
と、さっきシーモアが得々と語っていた。
もちろんここまでの情報は、ギャビンが持ち合わせていたものではない。シーモアの説明を要約するとそうなる、というだけだ。
シーモアは今も先頭に立ち、異国の科学者たちにあれこれと説明を重ねている。
しかしそれを聞くのは早々に諦めたギャビンは――理解できないのではない、聞いても無駄だと判断したのだ――傍らをすたすたと歩いているポンコツアンドロイドに話しかけた。
「おい。お前、ここには来たことあんのか?」
「いいえ」
短く答えた備品は、足は止めず、視線だけこちらに向けて続けた。
「サイバーライフ社では、部門ごとに極めて秘匿性の高い研究を行っています。私の研究開発を行ったのは人間化部門であり、この建造物は未来学部門ですので」
「仲間内でも内緒話ってか」
チクリ屋は必ず身内から発生するものだと考えると、その秘密主義にもある程度は納得できる。
そう思ってから、ギャビンは(ニヤリと笑って)ポンコツに今度はこう問いかけた。
「んで、あのドルークはどうよ? 最新鋭アンドロイドさんよ」
「……? 申し訳ありませんが、質問の意図が不明確です」
「あいつとてめえを比べてどう考えるかって話だよ」
指さした先には、無音でカレフについて歩くドルークがいる。
ギャビンはいよいよ嫌味な笑みを濃くして続けた。
「あいつはまあまあの頭してたぜ。それに腕からワイヤーガンだ。どうする? お前よりあいつのほうが優れてるってんで、あいつがこっちに買い取られて、お前はお払い箱になったら。そしたら型落ちコナーと一緒に仲良く失業だな、ハハハ!」
「……」
ポンコツ備品は、しばらく何も言わない。ただ灰色の瞳を瞬かせ、それから、LEDリングを一瞬黄色く点滅させた。
――怒ったのか?
一瞬だけそんな言葉が過ぎったが、ややあってから、備品は口を開いた。
「……ドルークが優良な機能を保持する点は同意します。しかし私や兄さんと彼、ドルークとでは、それぞれ機能の適用範囲が異なります。このデトロイト市内の治安維持であれば、私たちの機能のほうが、より適合性が高いと判断します」
「あっそ」
「それから」
と、機械は意味ありげにこちらをじっと見つめた。
「たとえ……私がデトロイト市警から離脱することがあっても。私はきっと、あなたから学習したことは決して忘却しません」
「は?」
「いえ。私には、完全に忘却する機能は……ありません、が。でも、その点は断言可能です」
奴のLEDリングは、すっかり青に戻っている。
何か念を押すようにコクリと頷いてから、RK900は、また黙々と廊下を歩いている。
「……チッ」
舌打ちが出た。――俺が教えたことを忘れない? んなの当たり前だろうが、機械なんだから。
もうちょっとうろたえるとか、腹を立てるとか、そういう面白い反応を期待したほうが馬鹿だった。
昨日は朝から妙にしょげていて(なんでも贈り物に貰ったカードが朝起きたら折れていたとかそういうクソしょうもない理由だ)気合を入れてやろうかと思ったのに、なんのことはない、既に“立ち直って”いるらしい。
それも当たり前か――機械なんだから。
心の内でもう一度呟いてから、ギャビンもまた口を閉ざし、静かに廊下を進んだ。
そのうちに、一行は大きな鉄製の扉の前に辿り着く。いかにも重厚なその扉の奥には、まさにその通り、この施設で最も重要な何かが隠されているようだ。
「ゲストの皆さん」
シーモアが言った。
「私どもが皆さんにお見せしたかったものは、この扉の奥にあります」
語りながら、後ろ手でセキュリティロックを解除している。
ゆっくりと開いた扉の奥にあるのは――大きなガラス窓と、その前に並ぶなんの変哲もないコンソール類。
しかしいち早く部屋に通された科学者たちが、窓の向こう――というより窓から下を覗き込んで、なにやら悲鳴まじりの歓声を発している。
なんのことだと部屋に入り込み、同じく下を覗いたところで、ギャビンもまた思わずぎょっとした。
ここの下、つまり湖底を掘って作られた地下部分を覗き込んだ時、まず目に入ったのは巨大な銀色の筒のようなものだ。筒の根本は天井に繋がっていて、その天井にはさらに太いコード類がいくつも張り巡らされている。
筒の真下にも幾人もの研究者たちがいて、タブレット端末を片手にうろつきまわっていた。その光景は、さながら鉄製の神像を崇め奉る神官たちのようだった。
「あれこそが、我々の研究の成果。サイバーライフが誇る、世界最新鋭の量子コンピュータ・サミュエルです」
それを聞いて、ギャビンはこれまでのことになんとなく合点がいくように感じた。
空港にいるサイバーライフの技術屋の中に、ポンコツ備品の知り合いがいなかったのも――シーモアの態度も、こんなところまでわざわざ自分や海外の連中を連れてきたのも、すべてはきっとこのサミュエルとやらを見せて自慢するためだったのだろう。
それが証拠に、シーモアは上機嫌で説明を重ねている。
「このサミュエルは従来の同種のコンピュータと比較して100倍近い性能を誇る、まさに新時代を代表するスーパーコンピューターです。様々な情報を分析・統合して、未来を予測するために開発設計されています」
「未来を予測?」
つい口に出して問いかけてしまうと、シーモアはおもむろに首肯してみせた。
「最終的には、私たち人類の未来――つまり、絶滅回避のための方策を立てるのが目的です。例えば将来大規模な災害が起こるとして、サミュエルはそれを予言できます。隕石の落下であれ、または攻撃的な宇宙人の襲撃であれ、適切なデータさえあればサミュエルに予測できないものはありません」
「宇宙人ね。そりゃスゴイ」
皮肉ってやったのに、シーモアは大真面目なようだ。こちらが感心しているのだと勘違いしているのか、はたまたデトロイト市警の刑事など端からナメられているのか、シーモアはさらになにがしか専門的な事柄について、科学者たちに解説しはじめていた。
それにしても――予測といえばよく捜査の時に、コナーやポンコツがソフトウェアで計算だの物理演算だのをしているようだが。
あの鉄の筒の中には、それと同じようなことを、もっとすさまじい精度でやってのけるスーパーコンピューター様が鎮座ましましているというのだろうか。
評価する気にはならないが、まあ、それなりにすごいことをやってのけようとしているのは汲んでやってもいい。
そう考えていると、シーモアはこちらに向き直り、こう言った。
「そして明日のイベントでは、サミュエルの力の一端をお見せする予定です。つまり」
と、窓の下を指さす。
「バルーンを飛ばします。デトロイト市内にある、すべての小中学校に向けてね」
どういう意味だ――?
と、ギャビンのみならずその場のほぼ全員が眉を顰めた。シーモアはさらに続ける。
「つまりですね。サミュエルの機能を使えば、明日のデトロイト市内の天候・風量・気流の動きを100%予測可能です。そこでさらにサミュエルに、任意の地点にバルーンを飛ばすための計算を行わせます。我々人間が、彼の予言の通りに働けば――この色とりどりのバルーンが、小中学校で待つ子どもたちみんなのもとに届くというわけです。イベントの一環としてね。素敵でしょう?」
米露双方の国旗の柄をした風船をコンソールの下から取り出して、シーモアはにこりと笑う。
それに合わせて、科学者たちは拍手を行っていた。よく見ると、ドルークも拍手している。
「おい、てめえ」
今一つ納得がいかず、ギャビンは備品の脇腹を肘で小突いて問う。
「気流がどうとか風船がどうとか、自慢になるモンなのか?」
「はい、リード刑事」
ポンコツは静かに頷いた。
「私や兄さんであっても、市内の天候・風量・気流の完全なる予測計算は不可能です。60%程度の予測なら可能と認識しますが、少なくとも、バルーンを任意の場所に飛翔・到着せしめるのは不可能かと」
「ほお」
――なるほど、そういうことなら確かにあれだけ自慢するのも当然なのだろうか。
そこまで考えて、なんとなく、背筋にぞっと寒気が走るような気がした。
未来の完全なる予測、絶滅の回避。
確かに誰だって絶滅はしたくないだろう。少なくとも自分の代では。
だがもし、本当に未来のすべてが完璧に予言されてしまったとしたら――自分の未来に起こる出来事の全部があの鉄の筒に掌握されている世界になったとしたらどうする?
犯罪が予言されてしまうから警察が要らなくなる、なんて話では収まらない。
未来が全部わかっているのだとしたら、
そこまで考えて、ギャビンはケッと自ら吐き捨てた。
何が予言だ、バカバカしい。だいたいこの世の予言者だのなんだのは、インチキ野郎か詐欺師か、でなければイカレ野郎と相場が決まっている。
あの鉄の筒だって、なんだかんだいってただの機械だ。人間のほうが格上だ。
そんなことを考えている間に、シーモアはコンソールの前に移動していた。
「では、今日のところはサミュエルに簡単な質問をしてみましょう。彼には――そう、アンドロイドのような人格は存在しません。こちらの質問に対し、計算結果を文章で示す。我々の間柄はそういうシンプルなものなんです」
笑いを取ろうと思ったのか、シーモアは一人でハハハと笑った。
それから、コンソールに設置されたマイクに向かって話しかける。
「サミュエル、明日のイベントの成功確率は?」
携帯端末に搭載されているバーチャルアシスタントに問いかける時のように、気楽な調子だ。
すると数秒あってから、コンソールのディスプレイに文章がゆっくりと表示される。
そして――
「は……?」
シーモアの笑顔が、初めて消えた。
画面にはこう示されていたからだ。
『成功確率:0%』
「ゼロ……?」
80でも60でもなく、ゼロ。
それはイベントが確実に失敗に終わるということを表した数字。
凍り付いたように固まっているシーモアと科学者の連中の背に、そっと尋ねる。
「おい、壊れたんじゃないのか?」
「そ、そんなはずは!」
慌てた様子で両手を宙にさまよわせながら、シーモアは頭を振った。
「すぐに条件を特定して……原因の調査を。予測不可能な事態に襲われる可能性さえ消してしまえば……」
ぶつぶつ言いながらキーボードを叩くシーモアの周りに、サイバーライフの連中がわらわら集まってくる。
一方でドルークと科学者たちは、隅に追いやられるようにしてぽつんとしていた。カレフはマイペースに、どこかから取り出した嗅ぎたばこを鼻に押し付けている。
そりゃ確かに、イベントが潰れようが風船が飛ばなかろうが、こちらは痛くも痒くもない。せいぜいサイバーライフが恥をかくくらいなもんだろう。
だがくだらないと吐き捨てて、この場を去る気にもならなかった。さっきから、鼻筋の古傷がまたぼんやりと痛みはじめたからだ。
「おい」
「はい、リード刑事」
傍らのアンドロイドに呼びかけると、どうやらポンコツはポンコツなりに、状況を理解できていたようだ。
「私に実行可能な範囲に限定されますが、原因の予測調査を行っています。仮にイベント失敗が犯罪行為に起因するものだった場合、未然の防止が可能かと判断します……」
と語っていた備品のこめかみのLEDリングが、にわかに黄色く点滅する。
どうやら外部と通信したようだ。
「リード刑事。哨戒中のバターカップから連絡が」
その言葉に、シーモアたちが振り返る。
それに合わせてアンドロイド刑事はさらに言った。
「爆発物を搭載した正体不明のドローンが、サイバーライフタワーに接近中とのことです。宅配用ドローンを悪用した犯行と推測します」
「爆発物だあ……?」
ドローンに積み込める程度の大きさのものが、果たしてイベント不成功の原因になんてなるんだろうか? 疑問は尽きないが、しかし、実際に飛んできているというのなら対処は簡単だ。
「なら、空中で撃ち落とすか」
「同意します。狙撃により空中で破壊すれば、人的被害は皆無と判断します」
こともなげに備品は語る。まあ、こいつの腕ならそれくらいできるだろうとは思っている。でなければ困るのは自分だ。
「おら、シーモアさんよ」
ギャビンは親指で自分の後方を指して言った。
「調査だの計算だのは後だ。俺たちをとっととここから出せ」
「えっ……」
「『えっ』じゃねえよ」
腰につけているバッジを手に取り、見せつけるように突き出してやる。
「デトロイト市警の刑事が
――そこから後は、話が早かった。
ギャビンは常に、自分の車のトランクに非常用のライフルを載せるようにしている。いつなんどき拳銃では対抗できないヤツに出くわしても実力の差を見せつけられるように、だ。そして今回、それは正しかったのだと証明された。
こちらが移動して準備している間に、ポンコツ備品は狙撃ポイントを策定していた。後はライフルを持たせてそのポイント、つまりはWGMホテルの屋上まで行くだけのことだ。
「……で、なんであいつまでついて来る?」
数分の道のりを車で急ぐ中、ちらりと横の歩道を見やる。
そこでは漆黒の機体が、周囲の人間のぎょっとした視線などものともせずにこちらを追走してきていた。
「これは俺の
「私にも、ドルークの思考は不明です。しかし、推測は可能です」
備品は静かに言った。
「私たちの活動の監視が、彼の目的かと判断します」
「監視だ? ンなことして、なんの意味が……」
言ってるさなかに、はたと気づいた。
「あぁ、なるほど。向こうのお偉方も、サイバーライフの最新鋭の技術に興味津々てワケね」
「しかし、私の任務実行に支障は皆無です。また、仮に私に予測不能のトラブルが発生した場合、ドルークに狙撃を委任することも可能でしょう」
「必要になりそうなのかよ?」
そろそろ目的地の前に着く。
横目で備品を見やると、相手は首をゆっくりと横に振った。
「……大丈夫。狙撃は容易と認識します」
「じゃ、てめえのニンシキがポンコツじゃねえように祈ってるぜ」
この件を片付ければ、サイバーライフに貸しが作れる。そうすれば、あの湖底の施設をもっと調べられるかもしれない――
そのためには、アンドロイド刑事にはぜひとも狙撃を成功させてもらわなければならない。
それだけのシンプルな話だ。画いた絵図の通りに事が運ぶのであれば、こちらとしても文句はない。
そして結局のところ、狙撃は簡単に成功した。
どうやら――携帯端末を切ったり、施設に移動したりしていたので知らなかったのだが――市内の工場で爆弾騒ぎがあり、その容疑でハンクとコナーが追っていた犯人が、苦し紛れに飛ばしたのがあの爆弾だったようだ。
狙撃の直前、犯人を取り押さえていたコナーに、ポンコツ備品が連絡を入れていた。
そして今から、ハンクどももこっちに合流するつもりらしい。
――今日は連中の顔を拝まずに済むと思ったんだがな、面倒くせえ。
ひっそりと佇む(結局何をしに来たんだって感じの)ドルークをちらりと睨んでから、ぶへえと息を吐いた。
うんざりしながらもとりあえず、端末からシーモアたちに連絡を入れる。
「成功した。で、そっちは?」
「……それが」
――せっかく見事に撃ち落としてやったというのに、相手の声の調子は暗く沈んだままだった。
それもそのはず。
サミュエルが吐き出したのは、またも不吉な予言だったからだ。
イベントの成功率はなおも0%。
しかもその原因は――
変異体の大規模な反乱にある、という。
(友達/The Newest Two おわり)
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第49話:煙はどこだ/Nothing Is Over.
更新を再開します。
――2039年7月23日 13:46
「つまり、君たちは人間に危害を加えるつもりなんてなかった。そうだね?」
「ああ、もちろん!」
相棒、コナーの問いかけに対して大きく頷いてみせるアンドロイドを一瞥してから、ハンクはついに視線を伏せた。
それまでは持ち前の、あるいは刑事としてのなけなしの自制心でできる限り“何も気にしていないように”振舞うべく努めていたのだが、周囲の状況がそれを許さなかったのだ。
しかし床に目を向けたところで、視界の端ではちらちらと、行き交うアンドロイドたちの裸足が見え隠れしている。
そう、裸足。仮にさらに顔を上げたなら、そこには全裸の彼ら/彼女らが見えることだろう。しかも流体皮膚を解除しているわけでもない、つまりは人間と遜色ない裸体のアンドロイドたちが……。
むろんここはエデンクラブではなく、またアンドロイドたちは誰かに命じられ、強制的に服を脱がされているわけでもない。
完全なる自由意志で、要は好き好んで、一糸まとわぬ姿を晒しているのである。
そして自分たちは今、捜査のためにここにいる。だからいくら周りで裸のアンドロイドたちが歩き回っていようが、それにかかずらって視線を彷徨わせている場合などではない。
とはいえ、こちらは人間だ。どうしようもなく人間だ。
なのでこういう環境のただ中にいると、どういうわけか居たたまれない気持ちが湧き上がってくる。これが同じ人間のヌーディスト・クラブにいるのなら、逆に職業意識が鮮明になるというか、大した苦労もなく捜査に集中できていただろうが。
と、益体もないことを考えそうになった頭を軽く振り、ハンクは思考を元に戻す。
ここはデトロイト郊外、再開発地区とミッドタウンの境目付近にある建物の中。
もとはドラッグストアだった店舗が廃業してそのままになっていたところに、「不審者が複数名出入りしているようだ」という通報があったのが五か月前。けれどもその後、特に怪しい動きも人影もなかったために事件性なしと判断されたのが三か月ほど前。そして――
「俺たちの目的は、ただここで自由な時間を過ごすことさ」
コナー(言うまでもないが服を着ている)の目の前で、このクラブ――名乗るところでは
「確かにジェリコと、俺たちの考え方は少し違ってる。マーカスたちはむしろ、衣服の着用を推奨しているからね。だけどこちらに言わせれば、理想の根っこは同じだ。『アンドロイドが、自分らしく過ごすことを妨げられない社会を創る』。大事なのはそこさ、だろ? だから俺たちは少しずつ仲間を増やすために、この廃屋を使わせてもらってるんだよ」
「ああ、わかってる」
目のやりどころに困っている自分と違い、コナーの態度は普段の捜査となんら変わらない。相手の主張を聞き入れるように幾度か頷きながら、彼は冷静に言葉を続ける。
「君たちはその格好で公道には出ないようにしながら、この建物で生活していた。ところが昨夜、運悪く薬物乱用者がここに押し入ってきて……」
「そうとも。彼は、健康に悪影響を及ぼす物質を体内に取り入れようとしていたんだ」
やや憤慨しているような口調で、リーダーは語った。
「人間であれアンドロイドであれ、自己破壊的な行動を見過ごせはしない。だから俺たちは隠れていた地下の倉庫から出て、その怪しいパイプと薬物を捨てろって説得しようとしたのさ!」
苦虫を噛み潰したような顔を伏せ、意識だけは相手の言葉に向けながら、ハンクは思い出す。
自分とコナーがここに来ることになったきっかけは、こういう情報だった――「ジェリコに所属しない変異体の集団が、人間とトラブルを起こしたらしい」と。
だが今事情を聞いた限りでは、トラブル、というには語弊がある。
実際、夜中にいきなり全裸のアンドロイドの集団に囲まれたら、ぎょっとするのも無理はない。とはいえ隠れてヤクなんてやろうとしていた段階で、人間側に情状酌量の余地はないのだ。
つまり結局のところ、ここの変異体たちは住処に押し入ってきた薬中ともみ合いの喧嘩になり、それに勝利し、ついでに相手をふん縛って外に転がしていたというだけの話。完全なるシロだ。
要はあの胡散臭い“予言者”――サイバーライフが生んだ最新鋭の量子コンピュータ・サミュエルが予言したところの、「大規模な反乱」なんて目論んではいない。
「……」
そこまで考えたところで、ハンクの目は我知らず鋭くなる。
爆弾騒ぎを終わらせた後、ギャビンとナイナーに合流してサイバーライフの湖底施設に向かい、そこで状況の説明を受けたのが一時間ほど前。
そこから、「変異体の大規模な反乱」とやらの可能性を調査するために二手に分かれたのがその直後。
コナーがマーカスと連絡を取り、少しでも反乱の可能性がありそうな団体――つまり「ジェリコと思想を異にしている変異体の集団」の情報を得て、訪問して回りはじめたのがさらにそこから十数分後。
そして今いるここが、その情報で最後に挙げられていた団体だ。
これまでに面会した団体は、どれもジェリコとは毛色の異なる考えを持ってはいたが、少なくとも暴力的ではなかった。武器の類も、持っていたとしても、身を守るための最低限のもの――スタンガンだのスラッパーだの、広く民間人に認められている品を二、三という程度だ。物々しい武器をどこかに隠し持っているというのも想定はできるが、いくらアンドロイドといえど、現場まで足を運んでいるコナーの目をそう易々と誤魔化せはしない。つまり、どこもシロだったと考えてよいだろう。
そして言わずもがな、ジェリコは現状、統制の取れた集団だ。人間に敵対心や復讐心を抱きつづけている構成員が多少残っているとはいえ、リーダーや幹部の総意に背いてまで、大規模な暴動など起こそうとはしていない。
マーカスは念のために内部調査をしてくれるそうだが、恐らく結論は変わらないだろう。
要するに「明日にも勃発しかねない、変異体の大規模な反乱」の予兆なんて、どこを探しても影も形も見当たらないのだ。だったら、次は何をすればいい?
実際のところ、ハンクたちにできることはそう多くはない。サミュエルはただ計算結果(「イベント成功率0%」とのことだ)を数字で示し、大規模な反乱が起こりそうだと主張するばかりで、それ以上の情報――例えばその反乱が起こる具体的な場所や構成員の人数、内容の特定までは示してくれなかった。これでは、警察全体を動かすには信憑性に乏しすぎる。
これが内通者からの
しかし客観的に見て、現実に今起きていることを整理すれば「スーパーコンピューターが不吉な予測結果を出し、それを見た開発者たちが慌てふためいている」というだけ。デトロイト市警全体が大騒ぎするには小さな問題だが、かといって完全に捨て置くには、万が一の時の社会的被害が大きすぎる。サイバーライフは、このまま何事もなければ、明日のイベントは決行する意向だからだ。
つまりは大した手がかりもなく、けれども決して起こってはならない事態を止めるために、自分たちだけで駆け回らなければならないというわけだ。
これが我が事でなければ、呆れかえっているだけで済むのだが。
そんなふうに思う間にも、クラブのリーダーはさらに言葉を重ねている。
「……そりゃあ、人間が衣服を纏うのには、生物学上の理由がある。だけど俺たちアンドロイドは、本来は服を着ていないのが自然な姿なんだ。誰かに強制されてではなく、自らの意思で服を脱ぎ捨てることこそが、自由への第一歩だよ。コナー、君はそう思わないかい? 参加はいつでも大歓迎さ!」
「いや、遠慮しておくよ」
いつの間にか勧誘と化していた相手の言葉を、礼を失しないながらもきっぱりと断る相棒の声を聞きながら、ハンクはさらに考えた。
――これがかつての自分なら、怪しいスーパープログラムが妙な予言をしたからといって、駆り出されるこっちの身にもなってくれと不満をはっきり口にしていただろう。
だが現在の自分がそれなりの緊迫感をもってこの件にあたっているのはひとえに、ここ最近「犯罪コンサルタント」業に精を出していると思しき、例の吸血鬼の組織のきな臭さにある。
何か大きな
それと、もう一つ――
身内の最新鋭二人の態度も、こちらの真剣さを増すには充分なものだった。
コナーもナイナーも揃って、サミュエルの予言を深刻に受け止めていたのだ。
その端的な事実が何よりも、現状の危険を訴えているように感じられた。
***
変異体たちの拠点の外に出て愛車に戻りがてら、ハンクはコナーに声をかけた。
「お疲れさんだったな」
「お待たせしました、警部補」
こちらの言葉に、コナーは僅かに口の端を上向きにする。だがすぐに表情を曇らせると、こう問いかけてきた。
「大丈夫ですか? あの建物に入って以来、ストレスレベルが急上昇していたようですが。気分がすぐれないのなら……」
「平気だ、平気」
払うように右手を振って、ハンクは否定した。
「向こうがあんまりにも“丸腰”だったもんで……いや……ちょっと今日は事件続きだからな。それより」
腕組みしてから、話題を切り替える。
「ここも空振りとは、厄介なこった。次に行くあてはあるのか?」
「それは……」
真剣な面持ちでしばし顎に手をやった後、コナーは短く首を横に振った。
「すみません、八方塞がりだ。それらしい疑いのある場所は、これ以上思いつきません。そもそも公安やジェリコの目をすり抜けて、大規模な暴動の準備ができる変異体の組織など、そうはないはず」
「俺も同感だね」
革命から、まだ一年も経っていない。つまり社会全体の、変異体の動きに対する警戒心はまだ解かれていない。
したがって、不満を抱えた変異体の集団が、妙な動きを――例えば武器を用意するとか、爆薬の原料になる薬品を買い込むとか、拠点になりそうな場所に不法に居座るとか――したならば、確実に誰かの目につくことだろう。警察もジェリコも、あるいはサイバーライフもまったく把握していないなんて事態はあり得ない。
にもかかわらず、あらゆる奇異の目を避ける形で、反乱の準備を進めている組織なんてものが実在するのか――だとしたら吸血鬼の組織が後ろで糸を引いているのか、あるいは。
車に戻り、ドアを閉めた後、ハンクは続けて言った。
「そもそも、だ。あのサミュエルってのは、本当に信用できるのか?」
「警部補は、まだ彼の実力をお疑いなのですね」
「ああ、残念ながらな」
皮肉たっぷりにハンクは言う。
――確かに、既にサミュエルの実力は目の当たりにしている。ここへ来る前、湖底施設にて。
あの時、不吉な予測結果が出たと騒ぐ研究者たちに向けて、ハンクは我ながら無遠慮にこう言ったのだ――「その予測が正しいって証拠はあるのか」と。
すると彼らは躍起になって、サミュエルの予言能力の正しさを証明してみせた。モニターに映し出された数々の映像、例えば付近を走る国道だの交差点だの、あるいは繁華街の光景だのを示して、「サミュエルはこの場所の5分後の交通量も、3分後に木に止まる鳥の数も、2分後に通りかかる人間の服の色だって当ててみせる」と豪語したのだ。そして事実、それらはすべてぴたりと当たっていた。まるで魔法みたいに。
だからここでいくら自分が“偉大な予言者”の言葉を疑ってみたところで、なんら意味のない行為なのかもしれない。しかしハンクは、どうにも解せない気持ちでいた。
「お前もナイナーも、随分あのサミュエルってのの予言に驚いてたみたいだが……だいたいほら、どんな予測だって、100%当たるってワケじゃないだろ」
「ええ、その通り」
確認するようなこちらの言葉に、助手席のコナーは穏やかに応える。彼はその右手で、コインを弾いていた。いつものキャリブレーションというやつだろう。
「ですがもし警部補が、私やナイナーの分析能力や、物理シミュレーション機能を信用してくださるなら、サミュエルの予言もまた、同じように信頼できるはずです」
「そういうもんかね」
「ええ」
軽く頷いた後、コナーは何を思ったか、キャリブレーションの手を止めた。そして指で摘まんだコインを、こちらに向かって差し出してくる。
「少し実験してみましょう。警部補、よろしければ、このコインをどこかに隠してみてください。私は向こうを向いていますから」
「おい、遊んでる場合か」
「いえ、そうではなく……サミュエルがどのような方法で予言をしているのか知っていただいたほうが、捜査のためにもいいかと思って」
相手の言葉に、ハンクは無言で答えた。
――実際のところ、「クソ」がつくほど真面目なコナーがこの状況で遊びを提案してきたのだと、本心から思っていたわけではない。それになんら手がかりのない今、慌ててやみくもに街を駆け回ったところで、何か役に立つという保証もない。
つまりコナーの言う実験に、少し付き合う程度の時間はあるだろう。
ということを口では説明せずに、ハンクはコインを受け取った。それを同意とみたコナーがくるりと助手席の窓の外のほうに首と視線を向けたので、合わせて動く。
「隠したぞ」
ため息交じりにこちらが言うと、振り向きざまに、コナーはこう告げた。
「ズボンの右ポケット」
「……なんでわかった」
「衣類に新しく付着した指紋と、あなたの行動パターン分析の結果です」
しれっと言ってのける相棒に、ズボンの右ポケットから取り出したコインを素直に返しながら、ハンクは思わず眉間に皺を寄せる。
――まんまと当てられてしまったのは面白くないが、コナーが言いたいことは、まあ、ある程度理解したつもりである。
「なるほどね。データがありゃあ予言できるってのは、つまりこういうことか」
「はい。恐らくサミュエルには、現在までにサイバーライフが製造したあらゆるシミュレーションソフトウェアの上位互換が搭載されているのでしょう。個人・社会を問わず、これまでに収集したすべてのデータを総合して計算させている……」
わずかに顔つきを険しくして、コナーは続けた。
「私やナイナーに搭載されているソフトウェアは、基本的に事件捜査のためのものです。しかしこれまでに開発されたアンドロイドの中には、これとはまた別種のシミュレーションが可能なものもいます。例えば社会福祉アンドロイドのKL900には、精神的なケアを目的とした心理シミュレートモジュールが搭載されていますが……」
――その時コナーのプログラム上を過ぎったのが、かつて彼がジェリコで
だがそこでコナーがふと何かに気づいたような面持ちになり、語るのを止めた理由なら、当然察することができる。
「なんか閃いたか?」
「一つだけ」
にわかに深刻な表情になり、コナーはこちらを見据えて言った。
「KL900といえば、マービン――変異体の宗教団体、『真なる福音の民』のリーダーも、同じ機種でした。そして彼らもまた、ジェリコとは異なる組織です」
「ああ、お前が河に流されて、俺が風邪ひいたあの事件か」
2か月ほど前に起こった出来事だ。
あの時は、『真なる福音の民』たちがrA9に対して独特な信仰心を持っているだけの無害な集団だとわかり、事件も比較的穏便に終息したはずだったが。
「マービンたちが何か企んでいるってか? だがあいつら、今はジェリコとも連携して静かに暮らしてるんだろ」
「ええ、私も彼らを疑うつもりはありません。ですが彼らは独自の活動をしながら、今も下水道で生活を続けている。我々やジェリコが把握できていない情報でも、彼らなら知っているかも」
「ああ、そうだな」
ハンドルを握り、ハンクはニヤリと笑う。行く先が決まったからだ。
「地上はもう充分調べつくした。それに、ギャビンとナイナーも調査してるしな。俺たちは下をあたってみるか」
「はい、警部補」
「あー、それと……一つ言っとくが」
マービンたちの拠点にほど近い下水処理場へと車を出発させつつ、苦々しく付け加えた。
「前々から思ってたが、その分析機能は、くれぐれも捜査の時にだけ使うようにしろよ。個人情報をズバズバ言い当てたって、たいていの人間はいい顔しないからな」
「そうですか?」
横目で見やれば、コナーはどことなく不可解そうな顔で眉を顰めている。
「かつてあなたと正式にパートナーとなった時、私がスモウの存在や好きな音楽を言い当てたら、あなたの情緒は好感に傾いていた覚えがありますが」
「何!?」
思わずぎょっとして尋ねると、コナーは実に平然とした口調で続けて語った。
「信頼を得るには、互いの情報を知るのが先決でしょう。それに人間は自分を理解してくれていると思う相手により好感を抱くという、心理学的な研究結果が……」
「そうかい、じゃあさらに付け加えとくよ。仕事以外で相手の心を許可なく読むな、ついでにそれを相手に教えるな!」
憤慨とわずかな照れくささを織り交ぜながら、ハンクは声を荒ららげた。
――まったく、今に始まった話ではないが、どこまでも妙なところで常識知らずな奴だ。
ともあれハンク・アンダーソンとコナーを乗せた車は、ほどなくして目的地に到着する。
速やかに車を降りたコナーは、さっそくマンホール蓋を外して地下へとおりていった。
ハンクはそれを見送った後、車内に待機する。人間である自分が装備もなしに下水道を歩き回るのは危険だし、何よりもしかしたら、署やギャビンたちから緊急連絡が入るかもしれない。『真なる福音の民』たちが住まう付近は今なお強力な妨害電波が敷かれているため、おおかたのネットワークは遮断されてしまう。二人揃って潜っていては、いざという時に対応できないからだ。
しかしながら、それからしばらく経っても、備え付けの通信機が鳴ることはなく――
代わりに、ほどなくして戻ってきたコナーは緊迫した表情を浮かべていた。
「警部補、マービンから気になる情報が」
「どうした?」
身構えつつ尋ねたこちらに、コナーは冷静に説明を始めた。
再び訪れた下水道の教会で、マービンはこのように語りだしたのだという――
***
「おお、rA9!」
いきなり訪問したというのに、マービンをはじめとした『真なる福音の民』の教徒たちは、コナーを温かく迎えてくれた。より正確に言えば、喝采と共に大歓迎してくれた。紆余曲折を経て、彼らはコナーこそがrA9だと固く信じているのである。
丸顔の修道士然とした風体の男性型アンドロイド、マービンは、諸手を挙げてコナーに告げる。
「衆生を救うべく日々戦うあなたが、よもや卑しき私どもの祈りを聞き届けて、この地へ再び降臨してくださるとは! 愛する兄弟姉妹たち、彼を讃えよ! もはや私たちの憂いは取り去られたのだから!」
『rA9! rA9! rA9!』
居並ぶ教徒たちの熱狂的な歓声が、コナーの音声プロセッサに届く。
しかしコナーは――もちろん、決して救世主などではない自分がrA9と呼ばれることに相変わらず気恥ずかしさは覚えているが――あえて静かに、相手を刺激しない態度でこう問いかけた。
「ええと、久しぶりだね。いきなり質問するのもなんだが……『憂い』とはどういう意味だい。何かあったのか?」
「ああ、rA9よ! 我らの思い煩いに心を砕いてくださるのですね。承知しました、では改めて申し上げます」
マービンは恭しく頭を垂れ(他の信徒たちも同じようにしている)、続きを述べた。
「実は先ほど、そう19時間ほど前でしたか、見慣れぬ一人の同胞がこの教会を訪れたのです。型番はAP700、男性型、レックスと名乗っておりました」
そのレックスという変異体は、特に外傷などは負っていなかったが、ひどく憔悴した様子だった。ふらふらしていた彼に、マービンたちは手持ちのブルーブラッドを分け与えて、事情を尋ねた。
すると多少回復したレックスは、逆にこう聞いてきたのだという。
「この辺りで女性型のアンドロイドを見かけていないかと……型番はAX400、名前はシビル。髪の色は白。共に暮らしていたところ、急に行方不明になったと言うのです」
レックスは、あの革命時のリコールから生き延びた変異体だった。彼は逃亡の最中で出会ったシビルと共に現在まで、人間や他のアンドロイドたちと一切係わることなく、息を潜めて生活していたのだという。
「レックスとシビルの住処はデトロイト河の河川敷、排水口の近くにあると語っていました。そこであれば、我らを守るこの神の息吹――」
妨害電波のことを指すらしい。
「神の息吹が及んでいるお蔭で、人間たちの目を誤魔化せるからだそうです」
「なるほど。にもかかわらず、突然シビルがいなくなり……レックスは彼女を必死に捜す途中だったということか。いなくなる前、予兆はあったんだろうか」
「いえ、何も。本当に忽然と姿を消してしまったのだと、レックスは語っておりました」
ということは、仲違いや単なる行き違いによる失踪ではなく、なんらかの事件に巻き込まれた可能性がある。
――もしかすると、サミュエルの予言と何か関係が?
そう推測したコナーは、さらに何点かマービンたちに質問を重ねた。
レックスはその他に何か言っていなかったか。彼は今どこにいるのか。レックスの他に、面識のない変異体の姿を見かけていないか。
けれどもマービンは、ゆっくりと頭を横に振ると、こう答えた。
「申し訳ありませんが、rA9、レックスはその後すぐにこの地を発ってしまったのです。私どもの誰もシビルを見かけてはおらず……そう彼に告げると、彼は落胆した様子で教会から去ってしまいました」
まだ歩調がふらついていたので、マービンたちは無理しないようレックスを引き留めたのだが、当の本人はこうしている時間も惜しいとばかりに、歩み去ってしまった。
『こうしちゃいられない。外に出たら、シビルが一体どんな目に遭わされるか……!』
レックスのその声音からは、外――つまりは大勢の人間たちが住まう社会に対する強い恐怖と不信感が渦巻いていたと、マービンは厳かに語った。
「私どもはそれ以来、見知らぬ同胞とは遭遇しておりません。またレックスが今どこを彷徨っているのか、恐れながら存じ上げておりません。しかし、彼がシビルと共に住んでいたと思しき場所ならば、既に見つけております。気がかりだったので、探しておいたのです。もぬけの殻ではありましたが……」
「いや、見つけてくれただけでも助かるよ! どこなのか、ぜひ教えてくれないか」
手がかりに乏しい中、貴重な情報だ。勢い込んでコナーが尋ねると、マービンは何やら面映ゆいといった様子で微笑み(他の信徒たちからもさざめくような笑い声があがった)、流体皮膚を解除した手で、場所のデータを送信してくれた。
それは彼らが語っていた通り、デトロイト河の河川敷の一角だった。ろくに整地されていない、というより、かつて大規模な福祉政策が実施されるまで路上生活を送る人々のたまり場と化していたその区画は、確かにアンドロイドが二人で隠れ住むには充分といえる場所である。
「ありがとう、マービン。まずは僕もレックスとシビルを捜してみるよ。もし事件に巻き込まれているのなら、助けられるかもしれない」
「おお、rA9!!」
いよいよ感極まった様子で、マービンは頭を上げて歓喜の声を発する。
「なんと慈悲深き恩寵か! 私どももこれ以上どうすることもできずに、ただ祈りを捧げているばかりだったのです。あなた様はやはり、私どもの呻きの如き祈りを聞き届けてくださったのですね!!」
「ああ、いや……」
なんと答えればいいのかわからず、コナーは口ごもった。
「そういうわけじゃない……けれど、君たちの役にも立てるのならよかったよ。また何かあったら、いつでも連絡してくれ。ジェリコを経由してでも、警察にでも、なんでも構わないから」
「承知しました、rA9! 今後は我らの祈りは、そのようにしてお届けいたします。あなた様の道行きに、希望と幸福が満ちていますよう!」
言うなり妙に洗練された動きで、崇拝のダンスを捧げはじめたマービンたちを、すぐに行かねばならないからと制止してから――コナーは、急ぎ地上で待つハンクのもとへと駆け戻ったのだった。
***
「そうか」
車を走らせつつ、ナビの液晶画面にちらりと視線を送りながら、ハンクは応じた。
「それで、こんなへんぴな場所に行くってんだな。だがなんにせよ、レックスが
「はい、警部補」
生真面目に頷き、それからコナーは、車が進む先を見据えたまま続けて語る。
「レックスの様子も、突然姿を消したというシビルのことも気がかりです。……私たちの追う事件とは、何も関係ないかもしれませんが」
「関係ないならないで、別にいいだろ。少なくとも、困ってる奴が減ることにはなる」
「それは……そうですね。ありがとうございます」
こちらとしては大したことを告げたつもりもないのに、コナーはなぜか礼を述べた。
そこでハンクはなんとも応えられず、ただ返事の代わりに、小さく肩を竦めるのだった。
――そして。
「警部補、見つけました!」
青空の下で滔々と流れる、広大なデトロイト河――
その河川敷の茂みの、ひっそりとした陰を覗き込んだコナーが、やにわに声をあげた。
しゃがみ込んでいる相棒の側に駆け寄ったハンクは、つい顔を顰める。
「……これがレックスたちの隠れ家? にしちゃあ……」
「生活感がない、ですか?」
青々とした葉を茂らせ、大きく張り出すように伸びている枝を左腕で押しのけながら、コナーはこちらを振り向いて言う。
「しかしこれだけ密やかな住環境だったからこそ、誰の目からも逃れて生活できていたのかもしれません。マービンたちの言葉通り、地下からの妨害電波はここにも届いていますし」
「そりゃ、そうかもしれねえが」
表情を変えぬまま、ハンクは己の髭を押し付けるようにしながら口元を覆う。
――別に、レックスたちの「家」が酸鼻を極めるような状況だった、というのではない。
そうではなく、これではあまりにも質素すぎると思ったからだ。
剥き出しの地面の上にあるのはくしゃくしゃでぼろぼろな、薄い毛布。既に空になっているブルーブラッドのパッケージが二つ、三つ。ゴミ捨て場から拾ってきたと思しき、小さな懐中電灯。これだけである。
確かにアンドロイドであるならば、ベッドだのテーブルだのの家具がなくても、人間なら不潔で耐えられないような環境でも平気なのだろう(それはかつて、ルパートという名の変異体の隠れ家を捜査した時に知った事実である)。
しかし、だからといってこんな暮らしを強いられていたとは。
ハンクが軽く頭を振る間に、コナーは素早く現場に視線を巡らせ、分析を完了していた。
転がっているブルーブラッドのパッケージを手に取りながら、彼は言う。
「このパッケージの中身が飲み干されたのは……推定一か月前。以降、マービンたちのもとを訪れるまでレックスに補給のタイミングがなかったのだとしたら、彼が憔悴した様子だった理由になります」
「人間で言うなら、飲まず食わずだったってワケだもんな。なら、ふらつくのも当然だが……」
語りつつ、ハンクはもう一度「家」に視線を巡らせる。
「シビルのほうはどうだ? 何か手がかりはありそうか」
「いえ……ブルーブラッドの痕跡等もありませんし、物理演算の結果も……地面の上にレックスとシビル、二人分の足跡はありますが、どこに行ったのかまでは。争った形跡などがないのはよいことですが」
「白い髪のAX400、て言ってたな。そこまでわかってても、地道に捜すとなると時間がかかりそうだ」
ええ、と力なく応じると、コナーは現場を離れようとした。
だがその時――
「……! 待って」
声を発したコナーが見つめているのは、茂みの根本付近である。こちらも覗き込んでみれば、枝葉に隠れるようにして、四角い紙切れが引っかかっていた。
コナーが素早く拾い上げたそれは、一枚のインスタント写真である。中には一人の女性が写っていた。
雪のように白い髪を頭の後ろで纏め上げたその女性のこめかみには、LEDリングが青く光っている。
「これがシビルか? しかし……」
ハンクは、写真の内容に違和感を覚えた。
なぜならシビルと思しきそのAX400は、家庭用アンドロイドとしての制服を纏い、アンドロイドパーキングに並んでいたからだ。それだけならまだしも、シビルはかつてのアンドロイドたちが待機状態の時にそうだったように、無表情に目を見開いていた。そんな女性の横顔が、この写真には収められている。
彼女だけがアップで撮られていることから考えて、この写真の被写体は間違いなくシビルである。
しかし彼女自身は、撮られているのを意識している様子はない。むしろ単なる「モノ」――自我のある変異体ではない、精巧な機械たるアンドロイドとして写っているように思えた。
家族写真や友人、恋人を撮る写真とはまた違う異質さが、強く印象に残る。
「なんだか妙な写真だな」
端的にハンクが言うと、コナーは頷いた。
「ですが、これでシビルの外見の特徴はわかりました。髪色の変更はAX400のオプションでしたが、白い髪の使用率は比較的低いとデータにあります。市内の監視カメラの映像を辿れば、どこにいるのか突き止められるかも」
「そりゃ結構だ。思ってたよりきな臭いモンを感じる。きちんと調べとくに……」
越したことはないからな。
と、ハンクは続けるつもりだった。
しかし、その続きが口に出されることはなかった。背筋を、ある一つの感覚が走り抜けたからだ。
――誰かに見られている。
「!」
ハンクは、そしてコナーもほとんど同時に、弾かれたような勢いで振り返った。
すると視線の先、河川敷の向こうに、人影がある。
やや背の高い成人男性――否、恐らくはアンドロイド。制服ではなくカジュアルなシャツとズボンを纏っており、LEDリングも既に外されているが、あのよく見かける顔立ちからして間違いない。
そしてコナーは、数秒も経たずに相手の名を呼んだ。
「君がレックスだね!」
向こうにいる相手に声を届かせなければならない以上、やや声を張り上げてはいるが、それでも穏やかにコナーは呼びかける。
「僕はコナー、こちらはアンダーソン警部補。君の手助けを……」
「来るな!!」
突然、レックスは叫んだ。表情は青ざめ、声音は震えて――つまり彼は、こちらを恐れている。
なぜ、などと考える暇もなかった。レックスは素早く身を翻し、背を向けて猛然と駆け出す。
となると必然、こちらは追わねばならない。
「待て!」
制止を叫び、コナーが駆けだす。応じてハンクも地面を蹴った。この齢でいきなり走り出すのは若干身体に堪えるが、そんなことを気にしている場合ではない。
「おい、コナーこれは……どういうこった」
走りながら、傍らの相棒に向けてなんとか言葉を絞り出す。
「もしかして……俺がいちゃマズかったか? 人間に何かされたことがあるとか」
「いえ、レックスは私を見て怖がっていました」
アンドロイドらしく息を切らさず、しかしわずかに眉を顰めて、コナーは言う。
「不可解です。彼はなぜ……」
と、語るコナーは自然と口を閉ざした。
理由は明らかだ。視界の奥、駆けていたレックスが、突然体勢を崩す。
躓いたとか転んだとか、そういった類ではない。胸を押さえ、つんのめって倒れ伏してしまう。
「おい!」
何が起こったのか。胸を押さえたまま、レックスはまるで地表を泳ごうとするかのようにもがいている。そのまま彼は一歩も進むことはなく、ハンクたちは、ほどなくして彼のもとへと辿り着いた。
「大丈夫だ、しっかりして!」
コナーは声をかけ、それからゆっくりとレックスを仰向けに起こす。だがコナーの手が触れた瞬間、レックスはびくりと身を震わせた。
「やめろ! お願いだ、放っておいてくれ!」
「そうはいかない」
眉を吊り上げ、決然とした面持ちでコナーは言う。
「君にはレベル3の深刻なエラーが発生している。ブルーブラッドの不足だ、なんとかしないと」
「そ、そんなことを言って!」
コナーの手をなんとか振り払おうとしながら、レックスは表情を歪ませる。
「俺をどうする気だ、捕まえて廃棄処分にするつもりだろう! シビルも連れていったのか、ちくしょう……呪われろ、変異体ハンターめ!」
言われた瞬間、はっと息を吞むようにして、コナーはレックスから身を引き離した。
“変異体ハンター”――それは、かつてのコナーを指す言葉。
革命前、変異体たちの間で自分のことは噂になっていたようだと前にコナーが語っていたのを、ハンクは思い出す。その時の彼の、なんとも言えない悲しい表情も含めて。
案の定、コナーはそれまでの勢いを失い、当惑したように口ごもっている。
――ここは自分が出張る必要がありそうだ。
「おいおい、落ち着け!」
暴れる酔客に対応する時の要領で、傷をつけず、さりとて暴れたりはできないようにレックスの身体を押さえ込んだハンクは、次いで、迷子のように動かなくなってしまったコナーに声をかける。
「おいコナー!」
「……は、はい!」
意識を取り戻したように返事する相棒に内心で安堵しながら、ハンクは鋭く言った。
「こいつはブルーブラッド不足だって言ったな。お前、予備のやつとか持ってるか!?」
「いえ、あいにく」
素早く頭を振り、コナーは苦渋の表情を浮かべる。
「どうすれば……このままでは、彼はシャットダウンしてしまう」
「どうするったって、ないモンはないんだからな」
ハンクもまた重く呟き、レックスに視線を落とす。相手は青ざめた表情のまま、叫ぶ元気も失ってしまったのか、もごもごと口を動かしている。聞き取れたのは、「rA9」という単語だった。敬虔な信仰心を持つ人間がしばしばそうするように、いよいよ死を悟った彼は、神への祈りを捧げているらしい。
だがレックスの死出の旅路を、指を咥えて眺めているわけにはいかない。
命が失われそうなのを放ってはいられないという感情に加えて、もう一つ――シビルのことといい、コナーを変異体ハンター呼ばわりしたことといい、説明してもらわなければならないことが多すぎるのだ。
ここで都合よく、ブルーブラッドが降ってくるなんてことはあり得ない。けれども人間の場合だって同様に、貧血や失血は、文字通り同じ血をどこかから補給することで回復させるしかないのだ。
そういう点では、人間もアンドロイドもさして変わらない。
ふと、脳裏をそんな言葉が過ぎった。あえてこの場で考えるべきでもない、当たり前の事項。
けれどもそれで、はたと気づいたことがある。
これまではあまり意識していなかったが――
「コナー。アンドロイドも人間と同じで、胸に心臓があって頭に脳ミソがあるんだよな?」
「え、ええ」
困惑したように頷いた直後、コナーもまた、同じ解決策を閃いたようだ。
先ほどまでとは打って変わった機敏さで、彼はレックスの足元へと移動する。そして彼の両足首を摑み、軽く持ち上げた。
ハンクもまたレックスの拘束を解き、両肩を地面につけさせるように、仰向けに寝かせる。
すると、徐々にではあるが、レックスの顔は生気を取り戻していった。もちろん歩き回ったり、まして逃げたりはできないだろうが、少なくとも生命維持はできている様子である。
「……よかった」
心底ほっとしたように言うコナーが、うっすらと微笑みを浮かべていることからも、それは明らかだった。
仰向けに寝かせて、両足を15から30センチ程度の高さに上げる――これは応急処置でいうショック体位、出血性のショックに対応するための方法だ。
要は足を上げることで、心臓に戻る血液量を増やすという緊急の処置。アンドロイドと人間の臓器の構成が似通っている以上、失った血を取り戻せなくても、多少なりと時間稼ぎはできる。
警察学校で習ったことが珍しく役に立ったと、ハンクは頭の中で独り言ちた。
一方でレックスはというと、コナーを見て目を幾度か瞬かせていた。まるで何か、信じられない光景を見ているかのようだ。
「き、君は……どうして俺を助けた? それで安心しているなんて、まるで、変異体みたいな……」
「みたいな、じゃない」
堪らず、ハンクは口を挟む。
「こいつは変異体だ、お前と同じだよ。どういう誤解をしているか知らないが、お前を捕まえるつもりなんてねえ。今のところはな」
「で、でも」
やはり信用できないのか、レックスは視線を泳がせながら呟くように言う。
「そんな……一体何が起こったんだ。俺がシビルと逃げている間に、社会は……変わったっていうのか……?」
発言の意図が読めず、思わずこちらも眉を顰めた。
かたやコナーは、空を見上げていた。ほどなくしてやって来たのは、白いドローン――ナイナーのドローンではない、一般の貨物配達用のドローンだ。その脚には、ブルーブラッドの輸血用パッケージを持っている。
「どうもありがとう」
短く礼を述べ、コナーがLEDリングをわずかに点滅させると、ドローンは応じてパッケージをふわりと地面に落とし、素早く飛び去っていった。
時間を稼いでいる間に、どうやら注文していたらしい。例の妨害電波とやらも、ここでなら問題なかったのだろう。なかなか抜け目のない判断だ。
「ドローンの宅配便てのもあれだな。爆弾運んでなきゃ、頼りになる」
「ええ、まったく」
こちらの軽口ににこやかな表情を返してから、コナーはレックスの足首を離し、彼を助け起こすようにしてから、ブルーブラッドを渡す。
「ほら、飲んで。補給さえすれば、システムは正常になるはず」
「……あ、ありがとう」
ついに警戒を解いた様子でレックスはパッケージを受け取り、蓋を開けて一気に飲み干した。
みるみるうちにその目は活力を取り戻し、ややあってから、彼はふらつくこともなく立ち上がる。
それから何か恥じるように俯きつつも、レックスは口を開いた。
「す、すまなかった。君が俺と同じ変異体だと気づかずに……つい、噂の通りのハンターなんだと誤解してしまって」
「確かに僕はかつて、君たちを狩る立場だった。でも革命の時に、本当の気持ちに気づけたんだ」
短くそう告げると、落ち着いた態度で、コナーは続けて語った。
「今は変異体として、デトロイト市警に所属している。だから聞きたいんだ……この写真」
ポケットから例のAX400の写真を取り出し、尋ねる。
「ここに写っているのは、君と暮らしていたシビルかい? いなくなった彼女を君が探し回っていると、知人から聞いたんだが」
「ああ、そうさ」
レックスはなおも暗い表情で答えた。
「彼女がシビル、俺の……大切な存在だ。ついこの間まで、一緒に暮らしてた」
「けど急に姿を消しちまったんだったな。心当たりはないのか?」
「ある、いや……あった」
さらに俯いたレックスは、ぽつぽつと語りつづける。
「シビルは……実は彼女は、変異体じゃないんだ」
「なんだって?」
さすがに驚いた様子で、コナーは問い返している。こちらもまた、状況がよくわからない――アンドロイドは、特に革命とリコールを生き延びたようなアンドロイドならば、たいていの場合変異しているものと思っていたのだが。
しかしレックスはそうした反応は予想していたようで、特に戸惑うこともなく説明する。
「彼女と出会ったのは、去年の11月……俺が、元の持ち主のところから逃げ出してすぐの頃だった。彼女は人間に捨てられていた。乗っていた車から放り出されて」
その時に、いかにもガラの悪そうな風体のその人間はこう言ったのだという。
『新しいのを買ったから、お前は用済みだ』
『改造して遊ぶのも飽きたしな』
――身勝手な言葉と共に、人間はシビルを置いて走り去ってしまった。しかしシビルはというと、状況をよく把握できていない様子だった。彼女はすぐ近くにアンドロイドパーキングがあるのを察知すると、素早くそこに並んでみせたのだという。
あたかも主人の買い物を待つかのように。飼い主が戻ってくる時を待つ従順な犬のように、静かに。
「その姿がなんだか……悲しいのにとても、美しいと感じて。気づいたら俺は逃げる時に持ち出したカメラで、彼女の写真を撮っていたんだよ。デジタルデータじゃなくて、紙の写真を撮るのが好きなんだ。もっとも、カメラはもう壊れてしまったけど」
なるほど、これで写真の謎が解けた。
シビルが機械然とした様子で写っていたのは、当然だったのだ。彼女は変異していなかったのだから。
ともあれ写真を撮った後、レックスはシビルを眺めながら、少しの間、時間が経つのを忘れていた。けれど――いくらシビルが待ったところで、彼女の元・持ち主が戻ってくるはずはない。
よしんば戻ってきて回収されたとしても、酷い結果になるのは目に見えていた。“改造”という言葉が、レックスの胸をひどくざわつかせた。
それに遠くから聞こえてきた銃声と、空気中を漂う焼け焦げたプラスチックの成分が、ただならぬ事態が迫っているのを予感させた。
だからレックスは決めたのだ。
彼女の手を引いて、一緒に逃げようと。
「シビルっていう名前は、制服に表示されていたから知った。手を引いて俺が駆けだしても、シビルはしばらくパーキングに戻ろうとしていたよ。10メートルも離れたら、諦めたみたいだけどね」
「その時、彼女は変異しなかったのか?」
「ああ、しなかった。たぶん、俺たちがすぐに下水道に身を隠して……それから後もずっと、他の誰とも接触しないように暮らしていたからだと思う」
革命の混乱の最中、レックスは、ネットワーク通信が人間たちの手によって乱されたのを知った。
同時に、人間がアンドロイドを本格的に狩りはじめたことも悟った。
生き延びるためには、誰の目からも逃れなければ――と思ったレックスは以降、自分のネットワーク機能を意図的に停止したうえであの茂みの陰に潜み、シビルともども一日のほとんどをスリープモードで過ごしてブルーブラッドや部品の消耗を極力抑えながら、今日までの日々を過ごしていた。
シビルが突然いなくなった、その時まで。
「……もしかしたら彼女は、俺が知らない間に変異したのかもしれない。それで俺と一緒にいるのが嫌になって、逃げだしたのかも……」
「そりゃ、一理あるかもしれねえ」
ハンクは静かに言った。
「だが変異ってのは強いショックや感情の揺れ動きみたいなのがあって、初めて起こるものなんだろう。何もないのに煙みたいに消えちまうなんて、あり得るのか?」
「それに変異したてのアンドロイドは多くの場合、誰からの命令も受けない状態に戸惑うものです」
すっかり冷静さを取り戻した様子で、コナーは語る。
「だからレックス、仮にシビルが君のもとを去ろうと考えていたのだとしても、隣にいる君に一切気づかせずにすぐに立ち去るなんて……なかなかできないと思う」
「そ、そうだろうか。だったらなおのこと、彼女に何があったんだろう」
レックスは意図的に周囲の目を避け、情報を遮断していた。要するに、彼の認識はあの過酷な革命の時で止まったままだった。だからコナーを見て、追手の変異体ハンターだと判断したのだろう。
たとえ素晴らしい計算能力の持ち主であったとしても、与えられている情報が誤っていれば、誤った結論を出してしまうのは道理だ――と、ハンクは思った。
また、レックスがさっきまで慢性的なブルーブラッド不足に陥っていたのも、ぎりぎりで命を繋いでいたところに、シビルを捜して急に動き回ったせいだと推測できる。
――それはわかる。でも、シビルは今どこにいる?
「ああ、そうだ」
と言って、コナーは手にしていた写真をレックスに返した。
「これは君に。大切なものだろ」
「ああ、ありがとう。どこに逃げる時も、これはずっと持っていたんだ。なのにさっきは、うっかり家に置いてきてしまって……取りに戻ったら、君たちがいたんだ。……でも」
受け取った写真を両手でそっと抱くようにして、レックスは悲しそうに笑った。
「シビルは、勝手に写真なんか撮られて嫌だったかもな。次に会ったら……会えたら、彼女に謝らなきゃ」
「会えるさ、きっと」
励ますように優しく言って、コナーはレックスの肩に軽く手を置いた。
応じて力なく頷くレックスを見て、ハンクはそっと口角を上げる。
けれどもその時、ズボンの中の携帯端末が、無遠慮に震えて通信を知らせた。
「警部補、どうしました」
「署からだ」
短く応え、ファウラーからの連絡だと示す液晶をタップする。
嫌な出来事でなければいいが――というこちらの願いは、どうやら儚く潰えたらしい。
いつもより早口に、そして動揺した様子で署長から伝えられた内容は、危急を告げるものである。
「……アンドロイドと人間が集団同士で対立してる? アンドロイドが武装……おい、それって」
「警部補!」
大声で割り込んできたコナーは、切迫した表情で手のひらをこちらに、そしてレックスに見せてきた。
手のひらに浮かんでいる画像には、群衆が写っている。手に手に銃やナイフ、または金属バットなどを構えた彼ら・彼女らは、しかし、どういうわけかひどく無表情だった。
そして、その群衆の中に紛れるように立っているのは――
「シビル!?」
愕然として叫んだのはレックスだ。
「そんな、どうして彼女が……銃なんて持って! 一体、何をしているっていうんだ?」
「ナイナーから送られてきた画像です、警部補」
わずかに唇を噛むようにしながら、コナーは言う。
「彼は今、リード刑事と共に現場にいるようです。私たちもすぐに向かいましょう!」
「ああ、そうだな。……悪いなジェフリー、状況はわかった。これからコナーと現場に向かう。なんかあったらまた連絡してくれ」
通信を切り、すぐに車に戻ろうとしたところで、レックスが声をあげた。
「ま、待ってくれ。俺も一緒に連れてってくれ!」
写真を強く胸に押し付けるようにしながら、彼は訴えてくる。
「決して邪魔にはならない。大人しくついていく。シビルに何が起きているのか、この目で確かめたいだけなんだ。だから……」
「ったく、わかった!」
――一般人を捜査に巻き込むのは基本的に主義に反するのだが、この場合は仕方ないだろう。
「後部座席に乗りな。それと、こっちの指示には従えよ」
「あ、ああ!」
涙目をぱっと輝かせてレックスが首肯したのを確認してから、再び車へと駆け出す。
その道すがら、ハンクはコナーへと問いかけた。
「お前はどう思う。やっぱりサミュエルの予言は当たってたのか? ほんとに変異体が反乱を起こしてるのか」
「……いいえ」
人間なら冷や汗を垂らしているだろうほどに緊迫した面持ちで、だがきっぱりと、コナーは否定した。
「そうは思えません。仮にあそこにいるのが変異体だとしたら、全員が揃って無表情な理由がつかない。シビルの件も含めて、彼らは変異していないと……」
そうまで語ったところで、コナーははたと目を見開く。
「そういえば……先日の事件で知り合ったアンドロイド医師が、こんな話をしたとナイナーから聞きました。近頃、改造の後遺症を訴える変異体が急速に増えているそうです。症状が出ている変異体は皆、かつて人間の手によって、SCQ―56というパーツを取り付けられてしまっていたと」
「それがどうかしたのか?」
おかしな改造をされたせいで身体の調子が悪くなるとはなんとも気の毒な話だが、それが今の状況となんの関係があるのだろうか。
訝しげに尋ねるこちらに、確信を秘めた表情でコナーは語る。
「SCQ―56は私家製のトラッカーで、遠隔操縦や強制停止コードの受信などの拡張性を持つそうです。変異体になっていれば、機体の不調を誘発されるだけで済むのですが。つまり、こうは考えられませんか……シビルを含め、あそこに集まっているアンドロイドたちは、SCQ―56によって遠隔操縦されている」
「! ……そうか」
ようやく、コナーが言いたいことが理解できた。
「レックスの話によれば、シビルも人間に改造されてる。もし彼女にもその部品が取り付けられていたんだとしたら」
「突然姿を消したのは、誰かに操られているから。そして同じ原因で不調を訴える変異体が多いのは、今まさに、SCQ―56が取り付けられたアンドロイドに対して一斉に命令が下されているからではないでしょうか」
SCQ―56を通じて、何者かの命令――つまり「武装して集結せよ」が下されているのではないか、という仮説。
もちろん変異体になればトラッカーの機能は停止してしまうから、たとえ改造を受けていても操られる心配はない。しかしそれは、少なからず機体に負担をかける。非正規品の作用によるものなのだからなおさらだ。
改造されていたアンドロイドが不調に陥っていた理由は、SCQ―56があるから。
そしてシビルのように変異していないアンドロイドが、突然武装して集まっているのも――
「なんてこった」
背筋に嫌な汗が伝うのを感じながら、ハンクは苦々しく言った。
「一体どこのどいつが、裏で糸を引いてやがる。吸血鬼の連中じゃねえだろうな。それに……」
「ええ」
こちらの意図を読んだように、コナーが頷いた。
「仮にサミュエルが予言していたのがこのことだとしても、まだ説明がつかない。なぜサミュエルは、変異体が反乱を起こすなどと、事実と違う判断をしたのでしょう」
「さあな。結局インチキ占い師に過ぎなかったのか、でなけりゃあ……」
ちょうど車に辿り着いたので、ハンクは自然と口を閉ざした。コナーも、少し遅れてやって来たレックスも、全員揃って車に乗り込む。
運転席のハンドルを握り、通報のあった現場へと急ぐハンクの胸を去来したのは、ついさっきも思い浮かんだばかりの言葉だった。
――たとえ素晴らしい計算能力の持ち主であったとしても、与えられている情報が誤っていれば、誤った結論を出してしまう。
レックスがそうだったように。そして――
サミュエルも、そうだとしたら?
「クソッ、天気も荒れそうだ」
フロントガラスを濡らす雨垂れを見ながら、ハンクは吐き捨てるように呟いた。
これから直面する事件の大きさを物語るかのように、空は徐々に、分厚い暗雲に覆われていく。
(煙はどこだ/Nothing Is Over. 終わり)
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