やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている。 (白大河)
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序章
第1話 始まりの季節に始まるプロローグ


 初めまして、白大河と申します。
 俺ガイル、原作も勿論なんですが。二次創作、特に八色作品が好きすぎて色々読み漁っているうちにとうとう自分で書きたいという衝動にかられ、勢いで書いてしまいました。
 拙い部分も多いと思いますが読んでいただけると幸いです。
 感想、コメント頂けると死ぬほど喜びます。




 4月。総武高校の入学式。

 

 これから始まる新生活に浮かれてしまった俺こと比企谷八幡は一時間も早く家を出た結果、道中で轢かれそうになっている犬を助けようと道路に飛び出し事故にあった。合掌。

 そのまま異世界転生でもすれば話が盛り上がるのかもしれないが、現実は甘くない。気がつけば真っ白い天井、真っ白い壁、開かない大きな窓のある部屋で入院三週間を告げられた。しかも体中を走る激痛のおまけつきだ。

 

 部屋は個室。なんでも相部屋は部屋代が無料だが、ベッドが空いていない場合、有料の個室になるのだそうだ。場合によっては無料になるらしいが、慌てた両親が同意書にサインした時点で有料が確定。一刻も早く退院しろと圧を掛けられている。俺だって早く退院したい。

 一応、部屋が空き次第相部屋に移るということなのだが、両親は見舞いに来るたびに「まだここか……」とこれ見よがしに溜息をついてくる。もういっそ退院するまで空かなければいいのに。

 

 そんなストレスに晒されながらも痛む身体に鞭打って積んでいたラノベを読み、時々「知らない天井だ……」とシ○ジ君ごっこをしながらダラダラと過ごしていた入院生活三日目、味気ない昼飯を食べ終え、一息ついていると、突然扉が開く音がした。

 こんな時間に巡回だろうか?検温は終わっている。今日って何か検査入ってたっけ?小町はまだ学校のはずだし、一体誰だろうと体を起こし、扉の方を見ると。そこにはパジャマ姿でロマンスグレーの髪をした渋い初老のおっさんが点滴スタンド片手に立っていた。

 

「誰だ貴様!!」

 

 ええ……。いきなり怒鳴られたでござる。

 あんたが誰だよ。

 

「ここは儂の部屋だ! 人の部屋に入り込んで何してる! 泥棒か!」

 

 あまりの剣幕に一瞬、俺が悪いのかと部屋を見渡してしまった。

 しかし、そこにあるのは俺の私物、そして小町が持ってきた花が刺さった花瓶とその横には小さなサボテン。小町ちゃん? 入院してる人にサボテンはお兄ちゃんどうかと思うの。

 

「いや、ここ俺の部屋なんで……」

「何を言う! この……ゲホッゲホ!!」

 

 興奮しすぎたのかおっさんが突然咳き込んだ。こういう時は変に話しをするより早々に第三者を呼ぶに限る、鳴り響け! ナースコール!!

 俺はベッドに備え付けられているコードにつながったボタンを押す。

 

「どうしました?」

「あー、なんか、知らない人が来て、すごい咳き込んでるんで急いで来てもらえます?」

「貴様……! 早く出て行け! ゲホッ! ……ゲホ!」

 

 え? 吐血とかしてないよね? 本当に大丈夫? これで何かあったら俺の責任になるの? ベッド譲ったほうがいいのかしら。

 どうにも興奮しているようでこちらの話を聞いてくれる感じではないし、救助は要請した、他にやるべきことはないかと思案しているとバタバタという足音とともにナースがやってくる。この病院のナースは優秀なようだ。

 

「ちょっと! なにやってるんですか!」

 

 咳き込みながら蹲るおっさんに慌てて駆け寄るナースに睨まれた。俺が。

 えぇぇ……俺何もしてませんよ……? 八幡悪くない。

 

「一色さん? 大丈夫ですか? 今車椅子持ってきますからね?」

「うるさい! 儂を病人扱いするなと……ゲホッゲホッ!」

 

 『一色さん』とよばれたおっさんは尚も抵抗する。頑固オヤジさんなんだろうか?

 ぎゃーぎゃーという喚き声が周囲に響き、気がつけば野次馬もできている。ナースに囲まれる一色さんは咳き込みながらも尚「ここは儂の部屋だ」と譲らない。

 少々騒がしいが、まあ後はナースが対処してくれるだろうと俺は我関せずを決め込み、テーブルの上のラノベに手を伸ばした所で、新たな闖入者の影に気がついた。

 

「あなた? 何してるの?」

 

 今度は着物姿の女性が入ってきた、年の頃はおっさんと同じか、それより少し若いぐらいだろうか? 女性はゆっくりと上品な所作で一度俺に目配せをすると軽く頭を下げ、にこりと笑う。思わずどきりとしてしまった。

 いやいや、俺に熟女属性はないはずだ。落ち着け比企谷八幡。深呼吸だ。ヒッヒッフーヒッヒーフー。あ、産まれちゃう。

 

「楓、こいつらをなんとかしてくれ!」

「なんとかするのはあなたですよ。あなたの部屋は一つ上の階です。なかなか帰ってこないと思ったら案の定迷子になって全く……怒鳴り声が上まで聞こえましたよ」

「こ、ここの病院が複雑なのが悪いんだ!」

 

 おっさんに『楓』と呼ばれた着物女性は、はぁと溜息をつきながらおっさんを嗜めている。

 『あなた』という呼称から恐らく二人は夫婦なのだろうと推測はできた。そしてこのおっさんが迷子だという事も。まあ確かにこの病院の入院病棟は階層ごとの構造が似ているというか案内図を見る限りはほぼ同じなので間違えるということもあるだろう。加えるとドラマみたいに部屋の前に名前が書かれてもいないので、部屋番号を忘れるとアウトだ。

ナースに「俺の部屋どこですか?」と聞いてクスクス笑われた日のことはもう思い出したくない。

 

「お騒がせして、すみませんでした」

 

 気がつけば着物姿の女性がまた俺に頭を下げていた。

 

「あ、いえ、べつに」

 

 女性は再びニコリと笑うとおっさんとナースを引き連れ部屋を出ていく。

 真昼の嵐が去った。俺は再びラノベに手を伸ばし黙々とページをめくる。俺の退屈な入院生活が取り戻された。

 

 

 と思ったら、その嵐はまたすぐにやってきた。

 迷い込んできたおっさんとおばさんは翌日、昨日のお詫びだと桃を携え、またやってきたのだ。

 俺が「別に何もしてないから」と遠慮していると。おばさんは笑って桃を剥いてくれた。

 

「どうだ、いい女だろう?」とおっさんが得意気に言ったのをよく覚えている。

 

 おっさんの名前は一色縁継(むねつぐ)

 入院生活を始めたのは俺より一週間ほど前かららしく、早く帰りたいと愚痴を聞かされた。

 おばさんの名前は一色楓。おっさんより若いと思っていたがおっさんとは一つしか違わないらしい。いや、まじで俺のお袋と同じぐらいかと思ったらお孫さんもいるらしく本気で驚いた。

 最初はお詫びに、という事だったが、話し相手がほしかったのか、懐かれてしまったのか、それから二人は毎日のようにやってきた。

 

 時にはおっさんが1人でやってきて、将棋をしたり、昔の話を聞かされたり、おっさんがラノベに興味を示したので、何冊か渡したりもした。異世界転生ものがお好みらしく、凄いスピードで読み漁っている。

 また時にはおばさんが1人で、花や果物や羊羹を手土産に見舞いに来てくれた、最初は「おばさん」と呼んでいたのだが、「楓」と呼んでくれと言われ、「楓さん」と呼ぶことになった。同じく見舞いにきた小町とも意気投合し何やら女子トークに花を咲かせたりもしている。

 

 そして三週間後。

 おっさんより一足先に退院することになった俺はおっさんのところへ挨拶に行った。

 

「今日退院する事になった」

「そうか……」

 

 心なしかおっさんは少し寂しそうだ、友達がいないんだろうか? 俺もいないけど。

 

「退院おめでとう八幡くん、身体に気をつけてね」

「はい、ありがとうございます。楓さんもお元気で」

「おい、俺にはないのかよ」

「いや、入院してる人に『元気で』っておかしいだろ……おっさんはお大事に」

 

 そういえば、おっさんがなんで入院してるのかは聞いてなかったな。しかしおっさんも近々退院するらしいからそこまで悪い病気ではないのだろう。

 まあいいか、と俺はおっさんが気に入っていたラノベの最新刊をベッドテーブルの上に置く。

 

「これ、見舞いの品ってことで」

 

 そう言うとおっさんはニカッと笑う。

 

「一冊じゃすぐ読み終わっちまうよ、退院したら他のおすすめ教えろよな、一気読みしてやるからよ」

「好きそうなの見繕っとくよ」

 

 軽い雑談を済ませ「それじゃあ」と俺はおっさんの病室から出ていく。

 

「おい、決めたぞ」

「そう言うかなって思ってましたよ」

 

 閉じた扉から二人の会話と笑い声が漏れ聞こえた、何の話かはわからないが何やら楽しそうだ。

 俺もいつかあんな風に笑い会える相手と巡り会えるだろうか?

 そんな事を考えながら、病院を後にした。




 お読みいただきありがとうございます。
 入院してる方へのお見舞い品として鉢植え等は敬遠されるようですが。元気サボテンという「両手を上げているようにみえるサボテン」だったら見舞い品としても有りという考えもあるみたいですね、私はつい最近知りました。
 さて、とうとう始まってしまいました私の初八色作品……。まだいろはは出てきていないのですが、今後うまくかけるかな……。
 プロット段階では3年で完結を予定しているのですが……実際どうなるかは正直わかりませんw
 生暖かい目で見守っていただければ幸いです。何卒よろしくお願いいたします。


※2019/03/16 指摘いただいた誤字を修正しました。
※2019/03/25 一部表現の修正


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第2話 青天の霹靂を絵に描いたような一日

 一話の時点でお気に入りがろ……ろくじゅっけん……あわわわ。
 思わずひらがなになってしまいました。まだヒロインも登場してないのに……。 なんだかありがたいやら申し訳ないやら……。
 感想も頂き、天にも登る気持ちです。本当に皆さんありがとうございます。


 無事、退院出来たのは良かったのだが、すでに入学式から三週間という時が流れてしまっている。そのまま学校に行こうにもゴールデンウィークという長期休暇を挟むため。学校とも相談し、通学はゴールデンウィーク明けからにすることにした。

 今すぐ留年などという事にはならないが、ほぼ一ヶ月休学しているというのは大きなハンデを背負う事になる。新生活でのぼっち脱却を夢見た俺はもはや虫の息だ。

 

 ならばせめて休み明けに行われるであろうテストで、上位に入り、存在感をアピールする作戦を決行しようと、このゴールデンウィークはそれなりに勉学に励んでいた。

 病み上がりの俺を残し、揃って連日出かけていく小町にもマケズ両親にもマケズ。ただひたすら引きこもる、そういう八幡に俺はなる! あれ? なんか混ざったな? 少し休憩がてらコンビニでも行くか、ありったけの小銭かき集め探し物を探しに行くのさマッ缶。

 

 そして迎えたゴールデンウィーク最終日、なにかつまめる物でもないかとスマホ片手に一階へ降りた俺は何やらニマニマと気持ち悪い笑みを浮かべる小町に捕まった。てっきり今日も出かけてるのかと思ってたわ。

 

「お兄ちゃん。一色さん退院したんだって、お祝いにこれ持って行ってってお母さんが」

 

 そんな事を言いながら高級そうな紙袋を押し付けてくる。

 

「いや、俺一応病み上がりなんだが……? 小町行ってくれよ……俺勉強もしなきゃだし」

「いやいやいや、お兄ちゃんもう一ヶ月もまともに外でてないでしょ? 体力も落ちてると思うよーリハビリも兼ねてここはお兄ちゃんが行ったほうがいいんじゃないかなぁ? これからお世話になるんだし?」

「これからお世話になる?」

「あーうん、こっちの話こっちの話。ほらほら、行った行った。もし行かなかったらお小遣い減らすってお母さんも行ってたよ!」

「んな横暴な……。ってか退院ってことはもう家なんだろ? 俺住所とか知らな……」

 

 ピコン。

 突然、スマホが鳴った。

 

「はい、住所と地図送っといたから!」

「送ったって……急に行っても迷惑かもわからんだろ?」

「そこらへんは大丈夫、もうお兄ちゃんが行くって連絡済み。「楽しみにしてる」って言ってたよ?」

 

 ぶいサインを決めながら言われても……グーを出せば勝てるだろうか?

 

「ほらほら、もういい加減観念して」

 

 そういいながら小町は俺の部屋着を脱がせ、事前に用意していたのかソファの上に置いてある服をテキパキと、まるで着せ替え人形のように着せる。

 

「ほら、お兄ちゃん下も!時間がっ無いんっだかっらっ!」

 

 流れでパンツまで脱がそうとする小町を慌てて止める。

 

「自分で出来るわ!」

 

 下まで着替えさせられるのは流石に兄としてダメすぎだろうと俺も観念して着替えにとりかかった。

 

 

 

「ん、まぁこんなもんかな」

 

 自分が用意していたコーディネートに満足がいったのか、うんうんと頷き俺の背中を叩く。痛い。

 

「それじゃ、ほ~っら……! 行ってらっしゃ~い♪」

「え? おい、ちょっと? 小町ちゃん?」

 

 着替えが終わると、ため息をつく暇もなく玄関までグイグイと背中を押され、あっという間に外に追い出された。え? マジで? 財布も持ってないんだが?

と思ったら再びドアが開いた。

 

「はいこれ、忘れ物。今度小町にも紹介してね♪ 楓さんによろしく~♪」

 

 ドアの隙間からさっと財布を手渡されるとガチャリと鍵が閉まる音がする。

 

「えぇぇ……?」

 

紹介するって誰をだよ……。

 

 仕方なく俺は、スマホに送られてきていた住所を確認し、トボトボと歩きだした。

 割と遠いじゃん……。とりあえず電車? まずは駅に向かわねば。

 一色のおっさんは嫌いじゃない、面白い人だと思うが、正直に言えばもう二度と会うことはないだろうと思っていた。退院のときのやり取りだって社交辞令みたいなものだし。ラノベは見舞いの品として渡したもの。お互いに何かを貸し借りしているわけじゃない。

 

 小町は楓さんと連絡を取り合っているようだが、俺自身は連絡先の交換なんてしていなかった。だからこのまま思い出の一つになるんだろうな、と感じていたのだが。まさか家にまでいくハメになるとは……。

 俺も何か買っていったほうがいいんだろうか、ラノベとか……?

 本屋の前でふと財布を確認すると中には六百円。

 わぁ、お金持ち。ただし幼稚園児なら。という注釈がつく。いや、今日び幼稚園児でももっと持ってるか。

 これではラノベの一冊も買えない。世知辛い。最近は本一冊買うのも楽じゃないのよ? 不況って怖いね。っていうか往復の電車賃足りるかしら? そんな事を考えながら歩いているとまたしてもスマホが鳴った。

 

【紙袋に入ってるお年玉袋を調べるべし】

 

 小町からのLIKEだ。メッセージアプリ『LIKE』。大好きな友達とつながろう! をキャッチコピーに、スマホに登録してある電話番号だけで友達と繋がれるらしいのだが俺がアプリを入れても家族以外表示されなかった。バグってんじゃねぇの?

 とりあえず小町の指示に従い紙袋を覗いてみると「電車賃」と書かれたポチ袋が入っていた。

 中には千円札が1枚。俺の財布事情もきちんと考慮しての行動だったのか。小町恐るべし。

 

 電車に乗り、揺られることおよそ二十分。俺は千葉郊外の住宅地に降り立った。

 田舎というほどでもないが栄えているという程でもない。ただ一軒一軒の家がべらぼうにデカイ印象を受けるその住宅地は小市民の俺にはちょっと場違いな感じがした。

 送られてきた地図を頼りに、目的の家を捜索する。目印などがあまり無いその地区を歩くこと数分。高い塀と広い敷地。和風の屋根付き門の横にある『一色』の表札をみつけた。

 

 どうやらここで間違いなさそうだが、高級そうな佇まいに少々気圧されてしまい一瞬ひるんでしまう、悔しい。これが小市民としての性というものか。あのおっさん金持ちだったのか、何してる人なんだ?

 しかし、いつまでもここで立ち往生というわけにもいかない。俺は気合いを入れ、一度深呼吸をしてから、表札の下にあるインターフォンを鳴らす。べ、別にびびったわけじゃないんだからね! 勘違いしないでよね!

 

「はーい? どちらさまですか?」

 

 予想に反し、インターフォンから聞こえてきたのは若い女性の声。

 少なくとも楓さんではなさそうだ。俺と同じ、いや、それより若いぐらいだろうか? まさかメイドさんか? 夢があるよねメイドさん。幼さすら感じるその声に若干の期待と警戒をしながら俺は返答する。

 

「ひ、ヒキがヤと申します」

 

 声が裏返った。死にたい。

 違うの、知ってる人がでてくると思ってたから。ちょっと驚いただけなの、お願いもう一回やり直させて!

 

「あ、お爺ちゃんから聞いてます。もうすぐ帰ってくると思うので中に入って待ってて下さい」

「ど、ども」

 

 お爺ちゃん? ということはお孫さんだろうか? メイドじゃなくて残念なんて思ってないよ? 本当だよ?

 しかし、孫がいるって話は聞いてたけどおっさん何歳なの? てっきり孫は小学生とかだと思ってたんだが……っておっさんいないのかよ!

 連絡済みなんじゃないの? こういうのが嫌だから来たくなかったんだよ! うおおお……こんな事ならやはり断ればよかった。後悔の念が俺を襲う。だが今更どうする事も出来ない。

 中に入って待つって、中だよね? 門の……? 家の……? え? これ入っていいの? 一見さんお断りとかじゃない?

 高級な料亭の雰囲気を醸し出すその門に俺はつい躊躇してしまう。

 だがもうインターフォンは鳴らしてしまったのだ、いつまでもこうしているわけにはいかない。俺は悩んだ末に恐る恐る門を開けると、数メートル先の玄関がすでに開いているのが見えた。

 玄関の扉を開けているのは一人の少女、年の頃は小町と同じぐらいだろうか? 春らしい薄いピンクを基調とした装いでこちらを伺っている。

 やはり俺が想像していたより遥かに大きなお孫さんだ。少なくとも小学生ではないだろう。幼さも感じるが、僅かに大人の妖艶さも垣間見える、一言で言うならゆるふわビッチ系美少女がそこにいた。

 彼女は人好きのする愛らしい笑顔でこちらを出迎えてくれている。しかしそんな笑顔につられる八幡ではない。すでに俺の中の何かが警告音を鳴らしていた。

 アイドルでセンターやってます! と言われても信じてしまいそうな顔立ちに亜麻色の髪の美少女の笑顔なのだが……妙にあざとい、きっとこの笑顔は罠だ。うかつに飛び込むと痛い目を見る、そんな予感がする。

 

 いくら笑顔がかわいくても……ってあれ? 笑顔消えてますね? 気がつけば彼女は怪訝そうな顔でこっちを見ていた。

 あの目は知ってる不審者を見る目だ。親の顔より見たことあるわ、うん。やばいやばい通報されてしまう。

 

「あのー? どうかしました? 比企谷さんですよね?」

「あ、はい。です」

 

 しまった。ついDeath(即死魔法)を唱えてしまった。しかしどうやら彼女には効いていないようだ。ボス級かな? レベルが足りないのかもしれない、やはりもっと装備を整えてから来るべきだったな……小町とか。

 そう反省しながら俺は慌てて門をくぐり抜けると、お孫さんの元へと歩み寄った。

 

「えっと、おっさんが退院したって聞いてお見舞いにきたんだけど……」

「どぞどぞ。お爺ちゃんのお友達……なんですよね? 比企谷さん?」

 

 友達? 友達なんだろうか? 友達ではない気がするが

 

「ああ、ちょっとした知り合い……かな?」

 

 そういうとお孫さんは

 

「はぁ……」

 

 とまたしても不審そうな目で俺を一瞥した。

 

 本当は玄関先で退院祝を渡し帰るつもりだったのだが、それを告げる前に「とりあえずあがってください」といわれ、結局家に上がってしまった。お孫さんに案内されるままに和室に通される。

 和室は俺の部屋の三倍はあろうかという広さで、中央に十人ほどで囲めそうな大きなテーブルと、上座には座椅子がおかれていた。おっさんの席だろうか。

 俺は「どうぞ」と用意された座布団に座り。辺りをキョロキョロ見回す。その部屋には何かの賞状や記念写真やらが飾られていた。

 

「お爺ちゃん、すぐ帰ってくると思うので。ちょっとだけ待っててください」

 

 そう言うと氷が入った麦茶を出してくれた。よく出来たお孫さんだ。

 

「あの、おっさ……縁継(むねつぐ)さんは退院したんじゃ?」

「今日退院だったんですけど、なんか手続きに時間がかかっちゃってるみたいで、比企谷さんが来るっていうから私だけ先にこっちに来たんです」

 

 それは暗に「お前のせいで留守番させられている」と責められているのだろうか?

 

「な、なんかすまん」

「いえいえー、それじゃごゆっくり~」

 

 そう言うと彼女は部屋から出ていった。

 

 

 

 俺は一人、知らない家の、知らない部屋に取り残される。仕方ない、飾られてる写真で「おっさんを探せ」でもするか。俺はここぞとばかりに足を崩し、ため息をつく。しかし見た所、それほど古い写真はなさそうだ。赤ん坊の写真は先程のお孫さんだろうか? あんなに大きくなって……。

 そんな事を考えていると部屋の向こうから声が聞こえてきた。

 

「おーい、いろは戻ったぞー!」

「ただいま、いろはちゃん」

 

 きっとおっさんと楓さんだ。

 俺は崩していた足を戻し、背筋を伸ばす。いや、そんなかしこまる必要もないと思うのだが これは場の空気がそうさせたとしかいえない。

 

「遅ーい! お客さんもう来てるよ!」

「お、もう来てたか! 悪い悪い! で、どうだ? いろはから見て」

「え? うーん? なんか……目が死んでるなぁって……?」

「ガハハ、そうかそうか。よく見てるな! よし、一緒にこい! 楓、荷物は任せたぞ」

「はいはい。まったくもう……」

「え、ちょ、ちょっと待ってお爺ちゃん、私今日は退院のお手伝いで来たんだから荷物なら私が!」

「いいからいいから、来い! 大事な話があるんだよ!」

 

 会話が完全に筒抜けなのだがいいのだろうか?

 というか、そうか、初対面でわかるほどに目が死んでたか俺。ハハ……。

 そんな風になんとなく聞き耳を立てていると、ドタドタという足音が猛スピードで近づき、バンッと勢いよく襖が開けられる。そこにはポロシャツ姿のロマンスグレーなおっさんが立っていた。その手には先ほどの美少女のお孫さんを引き連れている。なんかもう完全に犯罪の匂いしかしない絵面なんだが……本当に血縁なんだよね……?

 

「おう! 久しぶりだな八幡!」

「うす、退院おめでとうございます」

 

 一体なんで入院してたんだ? と思うほど元気な姿を見て、一瞬今日の目的を忘れかけていたが、なんとか立ち上がり、必要な言葉を発する事が出来た。これであとは土産を渡して帰れば初めてのおつかい完了! 小遣いは減らされない。ドーレミファソーラシドー♪ いや、別に初めてではないんだけども。

 

「それで、どうだ八幡? いろはは?」

「いろは?」

 

 ミッションコンプリートでホッとしていた俺の脳裏に突然意味のわからない言葉が投げかけられる。

 いろはってなんだろう? いろは歌? おすすめのラノベだろうか?

 

「なんだお前ら自己紹介もしてないのか?」

 

 そう言うと、おっさんは自分の後ろに隠れてしまっているお孫さんに視線を送る。

 いろは。なるほど、彼女の名前か。なかなかに雅な名前だ。

 

「まぁ……。こんな大きいお孫さんがいるとは思ってなかったんで驚いたと言うか……」

 

 俺はちらっとお孫さんを見る。何故かちょっとかしこまった喋り方になってしまうのは件のお孫さんの前だからだろうか。病院では普通に喋れてたのに。なんだか格好悪い。

 

「かー! 仕方ねぇなぁ、最近の若いもんは初めて会ったのにお互い自己紹介もしないのかよ」

 

 あんたと初めて会った時にも自己紹介された覚えがないんだが……。むしろ怒鳴られたんだが……。

 おっさんはテンションが上がりきっているのか俺の視線の意味に気づく様子もなく、お孫さんの背中を押し、一歩前に出させた。

 

「こっちが俺の自慢の孫娘、一色いろはだ」

 

 一色いろはと紹介された少女は「ども」と軽く頭を下げた、俺もつられるように頭を下げる。

 

「そして、いろは」

 

 おっさんは孫娘から手を離し、今度は俺の方に大きく手を広げると胸を張り、次の言葉を発した。

 

 

「こいつの名前は比企谷八幡。いろは、今日からお前の許嫁だ」

 

「は?」

「え?」

「「はぁぁぁ!?」」

 

 思わずハモってしまった。

 俺は今後の人生で今以上の驚きを感じる事があるのだろうか? と思えるほどの特大爆弾発言。

 このおっさんは一体何を言ってるの? 許嫁? 俺が? 今日会ったばかりのこの子と?

 一体何故? どうして? 様々なクエスチョンが脳裏をよぎる俺達を、おっさんは「やってやった」とでも言いたげな満足げな表情で、見下ろしていた。




 というわけで、我らがヒロイン一色いろは嬢初登場回となりました。
 いかがでしたでしょうか、いろはすらしさを出せたかなぁ……? 出せてるといいんですが……。

 ヒッキーのスマホについて少しだけ言及しておくと。原作準拠の携帯&メールのやりとりの方が良いとも思ったんですが、私自身がメールを普段あまり使わないのもあって、書いているうちにボロが出る気がしたので、この部分は変更させていただきました。
 作中の「LIKE」は皆さんお持ちのスマホに入っているであろう緑のアイコンのアプリに似た何かですw
 創作の世界だと『LIME』とか『RINE』とかになってるのはよく見かける気がしたので同じく一文字モジって『LIKE』ということで……。

 感想、評価お待ちしています。通知がくるだけで作者は小躍りして喜びます!


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第3話 続・青天の霹靂を絵に描いたような一日

お気に入りが100件超……だと……?
ありがとうございますありがとうございます!!


「ちょ、ちょっと待ってよお爺ちゃん! 許嫁って何!」

「結婚を許された仲という事だ。わかりやすく婚約者でもいいぞ」

 

 衝撃の許嫁発言で状況を整理しきれていない俺が再起動するより早くお孫さんは笑うおっさんに詰め寄っていた。

 

「無理! 無理無理無理! 無理だから! 私結婚は好きな人とするし、こんな目の腐った人無理だから! むーりー!」

 

 さて問題です。この子は今何回無理っていったでしょうか? 正解はCMの後。

 頭の片隅でそんな事を考えていると邪念を感じ取られてしまったのかお孫さんに睨まれた。

 

「なんですか、一目惚れだとでもいいたいんですか? どうやってお爺ちゃんを丸め込んだのか知りませんけど、勝手に決められた相手との結婚とか考えられないので諦めて下さいごめんなさい」

 

 ものすごい早口でお断りされてしまった。頭を下げた丁寧な言い方なのに妙に上からなのは俺が振られている体だからだろうか?

 

「いや、諦めるも何も俺も初耳なんだが……」

 

 そんな俺の反論を聞いてか聞かずか、お孫さんは素早い動きでおっさんの左腕を掴む。

 

「ねぇ~、お爺ちゃん本当こういう冗談はやめよう? 高校入ったら彼氏作ってちゃんと紹介するから? ね?」

 

 上目遣いでおっさんの腕を左右にぶんぶんと振り、小さい子がおもちゃを強請るような猫なで声で説得を試みている。あざとい。耐性がなければ今すぐにでも屈してしまうだろう。ソースは俺と親父。小町のオネダリ技の一つでもある。

 見える、俺には見えるぞ、鼻を伸ばし、要求を飲んじゃおうかな? と揺れているおっさんの心の天秤が!

 いや、全然飲んでくれて構わないんだけどね。

 

「いろはちゃん、お客様の前ではしたないですよ。あなたも、話なら座ってしたらどう? ごめんなさいね八幡くん」

 

 陥落寸前のおっさんを助けたのは楓さんだった、おっさん達を嗜めお茶菓子を乗せたお盆を持ち部屋に入ると俺に視線を向け柔らかく微笑みかけてきた。俺は慌てて頭を下げ、挨拶をする。相変わらずの着物美人だ。いや、そんなほのぼのした状況でもないのだけど。

 

「楓さん、お久しぶりです」

「一週間ぶりね、あんまり固くならないで、今日はわざわざ来てくれてありがとう」

 

 挨拶を交わす俺たちを見ながら、おっさんは孫に握られていた手を振りほどくと頭をかきながら上座にある座椅子へと腰を落とす。

 それに倣い俺も座布団の位置を正し座り直すと、楓さんはそれぞれの前にお茶とお茶菓子を出し、おっさんの隣へと座り姿勢を正した。

 

「いろはちゃんも、ちゃんと座りなさい」

 

 楓さんに言われ、一人立っていたお孫さんはお茶菓子が置かれた席から少し離れたお誕生日席に陣取る、今は誰の隣にも座るつもりはないという一種の抗議なのだろう。

 

 

 おっさんは一度コホンと咳払いをすると、それまでの好々爺のような表情から一変、真面目な顔になり、俺とお孫さんを交互に見た後、真っ直ぐな瞳で諭すように語り始めた。

 

「いろは、今どき許嫁なんて古臭いと思うかもしれん、だが儂は本気でこれからの人生を二人で歩いていってほしいと思っている」

「冗談、じゃないの……? お爺ちゃんだってこの人と長い付き合いってわけじゃないんでしょ?」

 

 ちょっといろはさん? 人を指さしちゃいけないって教わらなかった? 全く、祖父母の顔が見たいわ。あ、目の前にいるじゃん。

 

「爺ちゃんは冗談でこんな事は言わん。確かに八幡と過ごした時間は爺ちゃんも短いが、お前に必要な男だと判断した」

「必要ってどういう風に……?」

「それは今は言えん」

 

 言えないのかよ! 思わずずっこける所だったぜ。危ない危ない。

 

「儂が口で説明するよりも、自分自身で八幡という男の存在を感じて欲しいんでな」

 

 おっさんはそう言うと再び俺を見た。

 

「まあ、初めて会った男を信用しろというのは難しいかもしれん。だが、儂がお前を幸せにしたいという気持ちで決めた事だ。押し付けがましいかもしれんが、今は少しだけ、爺ちゃんの事を信じて、とりあえず一年でいい、やってみてくれんか?」

「一年……?」

「ああ、一年。一年後、お前がどうしても嫌だというのであれば、爺ちゃんはもう何も言わん。お前たちの意見を完全に無視するつもりもない、どうしても合わないと分かれば儂の方から責任を持って今回の話をなかったことにしてもらう」

「いや、一年も待たんでも分かる……」

「八幡、お前は口を出すな」

 

 えええぇ……これ俺の事でもあるんじゃないの? おっさんは俺を睨みつけると再びお孫さんの方へ向き直る。相変わらず真剣な表情だ。

 お孫さんはおっさんに黙らされた俺を一瞥すると「頼りにならない」と判断したのか、おっさんの言葉を引き継ぐ。

 

「一年間だけ? 本当に……?」

「ああ、爺ちゃんの最後のワガママだ。頼む」

 

 そう言うとおっさんは胡座をかいたままの姿勢で深々と頭を下げた。一体彼の何がそこまでさせるのだろう。

 俺と出会ってまだ一ヶ月も経っていないというのに。俺の何をそこまで買ってくれているのか皆目見当がつかなかった。俺にそこまでの価値はない。というかちょっと引いてる。

 お孫さんの方を見ると、さすがに実の祖父に頭を下げられたままいられるのはバツが悪いのか「うぅぅ……」と小さく唸り声をあげている。長い沈黙が訪れた。

 

 どれだけ時間がたっただろう? 一分か、それとも十分以上経過したのか、長い硬直状態は続き、今なおおっさんは頭を下げ、その様子をお孫さんがいたたまれない表情で見ている。なんだか見ていて可哀想になってきた。

 時計の針の音だけが室内に響き渡る。俺のことでもあるはずなのに俺が口を出す空気じゃない、耐えきれずチラリと楓さんの方を窺うと首を横に振られた。やっぱり口を挟んじゃいけないらしい。不思議。

 そんな無理してまでなるもんじゃないだろ許嫁なんて……。下手に拗れてこの二人の関係が壊れたら、それこそとばっちりを受けかねない、やはりここは俺から一言言って諦めてもらうしかないか。そう決心し、息を吸い込む。

 

「おっさ……」

「……わかっ、たから……頭あげて……」

 

 俺がおっさんに声を掛けようとしたその瞬間、お孫さんは諦めたようにそう漏らした。きっとこういうのを『断腸の思い』と言うのだろう。とても辛そうだ。聞いている俺も辛い。

 いやいや待て待て、普通に断っていいんだよ?

 お孫さんのその言葉を聞くとおっさんは一瞬ニヤリと口角を上げると

「……ありがとう」と小さく答えながら、ゆっくり神妙な面持ちで頭を上げた。え? 待って? ニヤリって何? 角度的に俺にしか見えてなかったみたいだけど今絶対笑ったよねこのおっさん? 何真面目な顔してんの? ねえちょっと?

 

「きっと、後悔はしないと思う。お前が思うよりよっぽどいい男だよ、彼は」

 

 おっさんは何食わぬ顔でそう言うと、今度は俺の方を見ながらニカッと笑った。

 

「というわけだ八幡。一年頼むぞ」

「頼むぞったって……今笑っ……」

「そうかそうか、頼まれてくれるか」

 

 ガハハと笑うおっさんに俺の言葉は遮られた。えええ……。一体何をどう頼まれればいいのかすら分からん。

 

「年は一つ下だからな、ちゃんとリードしてやれよ。まあお前なら心配いらんと思うが……泣かせるなよ?」

 

 なんでこのおっさんは俺に対する評価がこんなに高いんだろう? 俺は今の状況に心配しかない。マジで何か特別な事をした覚えがないんだがなぁ……そんな本日何度めかの思考のループをしているとおっさんは笑うのをやめ、今度は俺をまっすぐに見つめてきた。

 

「頼んだぞ、八幡」

 

 そう告げてくるおっさんの顔は真剣そのもので、どうにも居心地が悪い。まずい、今ここで俺が断るのも変な感じになってしまった。どうしたものかと逡巡していると横から長く大きなため息が聞こえてきた。

 

「一年! 一年だけですからね! 付き合ってるわけじゃないので彼氏面とかしないでくださいよ! あくまでお爺ちゃんが勝手に決めた許嫁っていうだけですから!」

 

 お孫さんが立ち上がり、ビシッと俺を指差しそう言うと、おっさんはその様子を見て「今はそれでいい」と呟いた。

 

「まぁ、今年は受験で私も忙しいんで、お会いすることはないと思いますけど」

 

 フフンと勝ち誇った顔で腰に手を当てながら彼女がそう告げる、端々に現れる妙にあざとく子供っぽい仕草を可愛いと思ったら負けなんだろうな。

 

「積極的に会いに行こうなんて思ってないから安心しろ……」

 

 なんでこの子は俺が『許嫁になってくれ』って頼んだみたいなスタンスで来るの?

 なぜか話が進んでいるけど。そもそもおっさんが勝手に言ってるだけで俺がお願いしたわけじゃないって事まず理解してもらえません?

 

「それはそれでなんかムカつきますね」

「どうしろってんだよ……」

 

 女子というのはかくも理不尽な生き物である。

 

「機会も口実もないんだ、受験勉強の邪魔してまで会おうとは思わん」

 

 そこまで言ってふとある考えが脳裏をよぎった。

 学校という俺にとって数少ない、家族以外の女子との接点の場で出会う可能性がゼロである以上、仮にこのまま許嫁とやらが成立しても、お互いよくわからんまま一年が経過、気がつけばこの関係もおしまいって事になるんじゃないのコレ?

 お孫さんも渋々とはいえ納得してるなら、下手に俺がゴネるより自然消滅を期待した方が労力を使わなくてすむ気がしてきた。

 これならおっさんのワガママとやらも聞いてもらえて、お孫さんは受験に専念、俺は高校生活を満喫できる(満喫できるとはいってない)。Win-Winだ。三人だからWin-Win-Winか。なんか機械音みたいだな。ウィーンウィーンウィーン。

 勝利の方程式が見えた! だが同時に視界の端でおっさんが不敵に笑うのも見えた。え、何怖い。まだなにかあるの?

 

「ああ、それなら心配ない。八幡にはしばらくお前の家庭教師をしてもらう事になってる」

 

「「はぁ!?」」

 

 本当にまだ何かあった。第二の爆弾投下である。何このおっさん爆弾魔なの? 比企谷八幡は静かに暮らしたい。

 これだとWin-Winじゃなくておっさんの一人勝ちだ。許嫁に続く、俺の知らない俺の新情報に思わず目を見開く。これでは俺の計画が水泡に帰してしまう。なんだろうこの全てにおいて先手を打ってくる感じ。用意周到すぎない……? そこまでする必要ある?

 

「お爺ちゃん!? 聞いてないんだけど!?」

 

 お孫さんがまたしても抗議の声を上げた。

 

「そりゃ、今言ったからな。だが家庭教師はちょうどいいだろう? なに、心配いらん、八幡は現役の総武高生だ、しかも妹もいるから教師としては最適だぞ?」

 

 妹がいるから教師に最適というのは一体どこの国の理論なのか是非詳しく教えていただきたい。何? 世の教師って皆お兄ちゃん属性なの? そもそも俺は家庭教師なんてやったことがないから期待されても困る。

 

「え? 総武!? 本当に?」

 

 俺が『お兄ちゃん教師最適説』について考えているとお孫さんが驚愕の表情で俺を見て声を上げた。

 何その「お前総武入れる頭もってんの?」みたいな顔。なんなら今日一で驚いてない? まだ会ってからそんなに時間たってないけどそこまで頭悪そうに見えた? 期待裏切っちゃってごめんね?

 

「とりあえず、週一だな。八幡には来週からいろはの家に行ってもらう、いろはが気に入れば週二でも週三でも、毎日だっていいぞ。ちなみにこっちは許嫁と違ってバイト代も出る双方の両親の許可を得た『契約』だから、文句はいわせんぞ、八幡?」

 

 そう言うとおっさんは俺たちの抗議の声を掻き消すようにガハハと笑いはじめた。楓さんもつられたのか「おめでたい日になったわね」と笑いはじめる。どうやら楓さんもあちら側らしい。

 

 「両親の許可は得た」という所でこれまでの流れに少し合点がいった。おっさんに入れ知恵をした奴がいる。きっと『こ』で始まって『ち』で終わる名前の天使だ。KMT。小町たんマジ天使。いや、この場合は悪魔だな。兄を貶める悪魔妹小町。矢印尻尾に悪魔の羽。チューブトップにミニスカート。あ、ちょっと可愛いかもしれない。いかんいかん惑わされるな比企谷八幡!

 そう言えば小町の奴、俺がここに来る前も何か知ってる風だったな。帰ったらきっちり問いたださねば。

 

 笑い声は未だやまない、もはや許嫁も家庭教師も断れる雰囲気ではないようだ。

 俺は『お孫さん』改め『許嫁』兼『生徒』と肩書きが一気に増えたJCをちらりと見る。

 どうやら向こうも笑い続ける祖父母の前に抗議する気力が失せたらしい。

 俺たちは同時に息を吸い込むと大きな溜息を吐いた。

 恐らくこれが俺と一色いろはの初めての共同作業。もうどうにでもな~れ。

 

 こうして俺と一色いろはの許嫁生活は幕を開けたのだった。




八幡が本気出したらもっと色々難癖つけるんだろうなぁと思う所もあるんですが
あんまり引っ張ってもなぁ……ということでタイミングと縁継さんの強引さを持って無理矢理収めてもらいましたw

というわけで3話にしてやっとタイトルの土台が完成、という感じです。
次回から少しづつ話を動かしていく、いきたい、いけたらいいなぁ……いくつもりですので、更新はちょっと遅れるかもしれませんが読んで頂けると嬉しいです。

感想、評価いつでもどこでもお待ちしてます。お気軽な気持ちでどうかよろしくおねがいします!


※2019/03/17 誤字修正しました。ご報告ありがとうございます.
※2019/03/25 誤字修正しました。ご報告ありがとうございます。


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第4話 長い一日の終わりに

お気に入りが500件……?だと……?
一体何が起こった……?ガクブル

明日死ぬんじゃないか?と思ってしまうほどに
嬉しすぎて吐きそうですw
本当にありがとうございますありがとうございます!


──Hachiman──

 

 それから、俺は契約書にサインをさせられた。

 連帯保証人のサインではないし、奴隷契約とか許嫁契約とかでもない、家庭教師としての契約書だ。

 手書きではなくきちんとした書式の書類が用意されており。おっさんの言った通り、親のサインは記入済み。やはり、かなり綿密に準備された計画だったのだと悟り、背筋に嫌なものが走る。どうにも途中離脱が許されない空気が漂っているんだよな。やっぱ断りたい……。

 しかし、サインというならここは俺の意思に委ねられている。つまり決定権が与えられるということだ。ならばまだまだ交渉の余地は……と思ったのも束の間。楓さんの「ここにサインしてね?」という有無を言わさぬ笑顔の前に俺は為す術なく轟沈したのだった。

 

 個人的な依頼っぽいし、ここまでしなくてもいいのではないか? と、ささやかな抵抗をするも、「バイト代が支払われる以上きちんとしておかないと駄目だ」と怒られちょっとだけ泣きそうになったのはナイショだ。美人に怒られるというのはどうしてこう心に突き刺さるものがあるんだろう? 一部の人にはご褒美らしいが俺にはその素養はなさそうだ。

 あれ? でも待てよ? これ最後に印鑑が必要になってない?

 さすがに今日は印鑑は持ってきていない。うん、これは一度持ち帰るしかないですね。そして帰ってから「あ、ごめーんすっかり忘れてたー」とでも言って回避しよう。なんて考えていたのだが、おっさんに腕を捻られ、力技で拇印を押させられた。

 おっさん今日退院したばっかの病み上がりなんじゃないのかよ、なんだよあの筋肉。ゴリラかよ。

 

「これで晴れて家庭教師ね、おめでとう八幡くん」

 

 俺がおっさんに捻られた腕を擦っていると楓さんにそう頭を撫でられた。これがアメとムチという奴だろうか。あ、ちょっといい匂いがする……。

 正直、おめでとうと言われるほど家庭教師に成ることを熱望していたわけではないのだが、家庭教師についての詳しい説明を聞いているうちに心の中でバイト代が出るなら、とちょっと前向きになる自分がいたのも事実だった。

 高校入ったら多少のバイトはしようと思ってたし、欲しいものも色々あるしな。

 別にむちゃくちゃ稼ぎたいというわけでもなく、適度に欲しいものが買える程度の金が欲しいだけなので、週一で、商品を覚えたりしなくてもよく、上司からのパワハラの心配もないバイトというのは案外悪くないのかもしれない。

 家庭教師なんかやったことないので責任が持てないという主張はしておいたし。おっさんからも「そこまで本腰をいれたものではなく、あくまで分かる範囲で教えてくれれば良い」と言質は取ってある。俺に対する責任はそれほど重くはない。

 「やばそうならちゃんとした家庭教師を雇う」らしいしな。でもそれなら始めからちゃんとした家庭教師雇えばよくない? 俺ちゃんとしてない家庭教師ってことですよ? おっさんの考えてることがわからん……。

 

「いつまで鼻の下伸ばしてるんですか……?」

 

 そんな事を考えながら頭を撫でられ続けていると、JCに睨まれてしまった。自重自重。俺に熟女属性はない。ないはず……ないよね?

 ちなみに家庭教師の契約期間は来年、入試が終わるまでらしい。ただし「許嫁は最低でも来年4月までは続けて貰う」と言われた。まぁ実質入試終了で許嫁とやらの関係も終わるだろう。

 

 家庭教師について一通りの説明が終わった所で、おっさんの提案で不服そうなお孫さん改め許嫁さんと連絡先を交換した。ついでにおっさん達とのLIKEグループも作成。

 別に女子と連絡先交換したかったとかじゃないよ? 本当だよ? 俺からの提案ではないのだから仕方ない。なので俺の過去のトラウマをえぐるような出来事は起こらなかった。見るからに不満そうなのは見ていて辛かったけど。

 おっさん経由での連絡だと二度手間だしな。家に行くのだから連絡先がわからないと困ることもあるだろうとお互いに納得した。多分。

 連絡先交換してる間、ずっと眉間に皺を寄せていたけど、きっとお腹でも痛かったのだろう。胃が弱いのかもしれない。もし授業中にトイレに行きたがったらすぐ行かせてあげよう。

 

 その後は、忘れかけていた小町からの土産を渡し一息ついて、おっさん達と軽く話をしたはずなのだが、それまでの流れが超展開すぎて何を話したか覚えていない。「ああ」とか「わかりました」とか生返事で事務的なやり取りをしたような気もするし、ラノベの話も少ししたような気もする。

 そんな心ここにあらずな状態で、気がついたときには日が沈みかけていたので夕飯の誘いを断りお暇した。

 見慣れない道を戻り、夕日の差し込む電車に揺られながら。今後の身の振り方を考える。

 どっと疲れた。

 

 俺の許嫁さん(期限付)は連絡先を交換した後、早々に部屋を退出していたので、向こうが今どう思っているのかは正直分からない。

 俺が帰る時には一応見送りをしてはくれたが、会話という会話をしてないんだよな。

 そんな許嫁さんの家に、来週から家庭教師として通わなければならないわけだ。

 俺は今日おっさんから聞かされたバイト内容を頭の中で反芻する。

 

 毎週土曜の十七時におっさんの家から電車で数駅離れた一色宅を訪問し、二時間ほど勉強を見る。俺の家から見ればおっさんの家より一色宅の方が近いのは朗報だった。

 バイト代は日給で四千円、時給にすれば二千円と高額。しかも交通費は別で定期を支給された。週一で定期はさすがに勿体なすぎないか? と思ったが。「いつでも会いに行けるように」との事。どうやらこっちは家庭教師としてではなく許嫁としての関係性を重視した結果らしい。どちらにせよ勿体無い。許嫁として会いに行く事なんてないだろうしな。

 加えて「毎回授業が済んだら夕飯も食べていけ」と言われたがそれは流石に遠慮しておいた。

 実績も経験も無い一介の高校生のバイトに対する報酬としては破格と言っていいだろう。一体あのおっさんはどんだけ俺の事を買いかぶっているのか。新手の詐欺なんじゃないかとさえ不安になる。

 いっそ『ドッキリでした』と言われた方が納得してしまいそうだ。もしかして、今モニタリングされてる? 隠しカメラは……眼の前に座ってる女子高生が持ってるスマホですね、あれ? そのカメラマジで俺の方向いてない?「キモイ奴発見www」とか拡散されてたら泣くぞコラ。

 

 とりあえず今のうちに許嫁さん、もとい生徒さんに連絡はしておくか。折角だし。うん、折角だからな。

 俺はスマホを取り出すとLIKEを開き、メッセージを送る。別に女子と連絡先交換したんだからお話してみたい、とか思ってるわけでは決して無く、あくまで仕事上、仕方なくという事を理解してもらいたい。誰に言い訳してんだ俺……。

 しかしこのLIKE、入れておいて正解だったな、なにせ『メーラーダエモンさん』から返ってくる恐れがないのだ。LIKEは良い文明。ただしブロックはされるものとする。されちゃうのかよ。まあそうなったらおっさんに泣きつこう。

 

【改めて……なんだろうな、あまりにも特殊な状況すぎて頭が追いついてないんだが、これからよろしくな。いろは? でいいか?】

 

 まあこの時間なら健康な女子はもう寝てるかもしれないが、と中学の時の女子とのメールのやり取りを思い出しながらメッセージを送信する。

 

【なんですか、許嫁って言われたからってもう彼氏面ですか、男の人に名前呼び捨てにされるのはちょっとキュンとする事もありますけどそういうのはもっと段階踏んでからにしてもらいたいので出直してきて下さいごめんなさい】

 

 予想外に早い返信通知に驚きながらもメッセージを見てみるとそこにあったのはお断りの内容だった。なんかまた振られてない俺?

 

【じゃあなんて呼べば? いろはす?】

 

 そう送ると今度は間髪いれずに、赤い犬が漫画によくある怒りマークをつけ、こちらを睨んでいるスタンプが送られてきた。どうやらお気に召さなかったらしい。どう呼べばいいの? 名字? JC? ゆるふわビッチ?

 

【名字でいいじゃないですか】

 

 本当に名字呼び希望だった。

 

【お前の家、全員一色じゃねぇか】

【でもお爺ちゃんのことは「おっさん」って呼んでましたよね? おばあちゃんは「楓さん」だったし、私が一色でも問題なくないですか?】

 

 おっさんの前で「一色」と呼ぶのは逆にハードル高いとも思うんだが……まぁ本人の希望なら仕方がないか。

 

【まぁ、そっちがそれでいいならいいけど……】

【じゃあそういうことで、あ、許嫁のこと言いふらしたりしないでくださいよ! 秘密厳守でお願いしますね!】

【言わねぇよ、どうせ一年だけだろ】

 

 そもそも言いふらす相手がいない。

 

【そうですね、どうせ一年です……】

【とりあえず家庭教師の方は金貰う以上ちゃんとやるつもりだから、そっちはよろしくな】

【はい、よろしくおねがいしますセンパイ♪】

【先生じゃなくてセンパイなのか】

【えー、センパイって先生って感じあんまりしないじゃないですかー?】

【まあ一つしか違わんしな、先生感出せるように頑張るわ】

【はい、頑張って下さい♡】

 

 っていうかなんで俺が頑張る側なの?受験するのそっちだよね?

 そんな事を考えていると最後に【Fight!】という可愛らしい猫柄のスタンプが送られてきた。あざとい。

 ちょっとドキドキしちゃうだろ。ただでさえ家族以外の女子とのLIKEなんて初めてなのだ。か、勘違いさせないでよね!

 そんなこんなで俺の一色の呼び方が『一色』に決まったのだった。

 

 しかし、先生感を出す……そもそも家庭教師ってなにやるの? 俺やったこともやってもらった事もないんだが……プリントとか用意するもんなのか? え? マジどうしよう? 「気楽にやってくれればいい」とは言われたものの何もしないで金を貰うわけにもいくまい。家庭教師の勉強したほうがいいかしら?

Hey,Si○i! 家庭教師のやり方教えて! あ、俺のスマホiPh○neじゃないじゃん……。

 

 そんな風に家庭教師について考えながら最寄り駅で降り、改札を抜けると見知った顔がそこにあった。

「お兄ちゃ~ん! おかえり~」

 小町だ。妙にニコニコしている。そういえばこいつ全部知ってたっぽいんだよな。トテトテと近寄ってくる小町の頬を軽くつねる。

 

「ひふぁい! ふぁにふんの!」

「お前どこまで知ってたの?」

 

 そう問いかけ、小町の頬から手を離す、小町はつねられた頬を一度なでると、ニヒヒと笑みを浮かべた。

 

「多分、今日お兄ちゃんが聞いたことは全部?」

「いつから?」

「お兄ちゃんが退院してすぐかな、楓さんから連絡が来て。何度かお母さんとお父さんとご挨拶にいったの」

 

 そういえばこのゴールデンウィークはほぼ俺一人で留守番してたな……その時か。

 

「向こうも本人には秘密にするっていうから、家族同士で集まって、当事者はお互い写真だけっていう変なお見合いみたいな感じだったけどね。相手の方には悪いかなぁって思ったんだけど、お兄ちゃんが結婚できるかどうか決まる最後のチャンスだから小町も頑張ったよ! 今の小町的にポイント高い」

 

 妙に上機嫌な小町はその場でくるっと回ってそう俺に告げてきた。ちくしょう、ちょっと可愛い。

 

「いや、最後のチャンスとか言ってる時点でポイント低いから……」

 

 流石に高一で最後のチャンスは悲しい。否定しきれないのが辛いところではあるが……。

 

「えー? 名アシストだと思うんだけど」

 

 小町はブーブーと抗議の声を上げる、いや、抗議したいのむしろこっちなんだが?

 

「それで? 相手の人どんな感じだった? すっごい可愛かったでしょ?」

「ああ、まぁ。そうだな」

 

 言われて一色の顔を思い出す、確かに人類全体からみても上位に入りそうな容姿だ。ただ、本人がそれを自覚している節があるので迂闊に近づくのは危険なタイプでもある。

 

「あー、小町も会ってみたかったなぁ、ね。お兄ちゃん紹介してよ」

「まぁ、そのうち、機会があったらな」

「なーにさ、その適当な返事ー」

「気が向いたら前向きに善処するよ」

「うわぁ、信用できない政治家みたい……もう~捻くれてるなぁお兄ちゃんは」

 

 ぽかぽかと背中を叩きながら抗議をする小町を無視し、俺達は我が家の前へたどり着く。

 

 

 今日はとにかく疲れた。ってか明日から学校じゃん……。もう飯食って風呂入って寝よう……。そう決心しガチャリとドアを開けると玄関には親父とお袋がニヤニヤと気味の悪い笑顔を浮かべ立っていた。

 どうやらまだしばらく休ませてもらえなさそうだ。

 恨むぞおっさん。




今回は説明回ですかね。物語あんまり動きませんでした、すみません。
ちょっと今回いろはすの出番が少なめなので次回は多めになる予定です。

いやーまぁでも今はそんな事はどうでもよくて(ぉぃ
きましたね、俺ガイル3期アニメ公式発表!
皆さんキービジュアルみましたか?
いろはすが!両手で!3を作って!舌をだして!
あざとい!!かわいい!!

今回も感想、コメント、誤字報告なんでもお待ちしています。どうか気軽な気持ちでよろしくお願いします。

※3/22 サブタイトル変更しました。


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第5話 長い一日の終わりに──いろは──

お気に入り800……!?
ありがとうございます!ありがとうございます!

予告どおりニ日連続投稿となります。
楽しんでいただければ幸いです。





──Iroha──

 

 比企谷さんが帰った後、ママが車で迎えにやってきた。

 少しお爺ちゃんに文句を言いたかったけど、それはまた今度かー。もう本当に信じられない。突然許嫁だなんて言われても納得出来ないし、したくない。

 そもそも退院のお手伝いにって言われて病院へ行ったのに、お爺ちゃんは「面白い友人が来る」ってずーっとその人の話ばっかり、「退院手続きが終わらないから先に帰っててくれ」って言われた時もてっきりお爺ちゃんと同年代ぐらいの人が来るのかと思っていたのに、現れたのは私より一つ上の頼りない感じの男の人。しかもその男の人と私が……? 許嫁? なんで? 同じ疑問がずーっと頭の中を行ったり来たり。あー、もう! やっぱりありえない!

 

 っていうかお爺ちゃんはあの人の一体どこを気に入ったんだろう?「これからの人生を二人で歩いていって欲しい」って私まだ十五だよ? いくらなんでも先を考えるの早すぎると思う。

 そんな一生の決断さすがに今すぐはできないし、したくもない。

 だけど、これまで風邪を引いたところすら見たことがないぐらい元気だったお爺ちゃんが突然入院なんて言われて驚いたし、折角退院したのに「最後のワガママだ」なんて言われたら、とりあえず一年という事で譲歩するしかなかった。

 うーん、一年かぁ。長いなぁ。あの人と一年やっていけるだろうか? しかも今年私は受験。普通なら集中して勉強しなさいって、余計な事を考えなくていいように周りが配慮してくれたりするんじゃないの?

 

 私にだって理想の恋愛はある。素敵な人と出会って、素敵な人と恋をする。

 でもきっと現実はそんなに甘くないから、今は誰からだってかわいいと思ってもらえるように。自分磨きだって欠かしてはいない。

 ただ、そのおかげで同性の友達は減る一方なんだよね……。ちょっと良いなぁと思ったらとりあえず手を出してみるってそんなに駄目なのかな……?

 まあ中学の男子はさすがに子供っぽすぎるから付き合うとかは考えた事ないんだけどなぁ。

 とにかく! 突然用意された許嫁なんていうよく分からない人に簡単に靡くような私じゃない。私には私の人生があるんだから。

 

 比企谷さんには、あくまで家庭教師を頑張ってもらって、来年には申し訳ないけどサヨウナラ。うん、これでいい。もうこの件は考えるのやめよう!

 そう決意し私は車の助手席で、鞄からスマホを取り出し未読メッセージをチェックする。

 

「で、どうだった? 相手の子は?」

 

 でもそんな私の決意の壁を壊したのはママだった。ママは何故か妙に楽しそうだ。

 

「どうって……ママも知ってたの許嫁のこと!?」

「もちろん、パパだって賛成したのよ?」

 

 ママもグルだったんだ……、そういえば両親の許可は得てるみたいな事言ってたっけ。すっかり忘れてた。

 っていうかパパも賛成なの……!? 普通こういう時は『娘はやらん!』とか言うものなんじゃないの? その発言にぽかーんとする私をママは横目でチラチラと見てくる。

 

「で、どんな感じ?」

「えー……どんな感じって……なんだか頼りない感じの人? あとちょっと目が腐ってた」

「あー、目が腐ってるっていうのは皆言ってたわね、でもお爺ちゃんは磨けばすぐ光るって言ってたわよ」

 

 光る、光るんだろうか? ふと比企谷さんの顔を思い浮かべる。死んだ魚のような目。引きつったような笑い。上ずっていた声。思い出したらちょっと笑えてしまった。

 

「何? 何か面白い事あったの? ママにも教えてよ~」

「なんでもないですー」

「でも、いろはちゃんがそういう反応をするなら、悪い人じゃなさそうね」

 

 いや、今のはそういう笑いではなかったんだけど……。まあ悪い人ではないのかもしれない。でもいい人かと聞かれると……うーん? まだよくわからない。

 

「っていうか、今どき許嫁とかなくない? 何考えてるんだろお爺ちゃん……」

「あら、あなた知らなかったの?」

「知らなかったって……何を?」

「お爺ちゃんとお婆ちゃんも許嫁同士なのよ?」

「え!? ホントに!?」

 

 それは今日何度目かの驚きだった。

 

「ホントホント。それにママとパパもお爺ちゃんが決めた許嫁同士よ? 」

「えええ!?」

 

 一体今日は何度驚きの声を上げたらいいんだろう? お爺ちゃんとお婆ちゃんはまぁ、時代的にそういう事もあったのかもしれないな。と納得できなくもないけど、ママとパパは全く想像ができなかった。

 

「まぁママも初めてパパを紹介された時はいろはみたいに許嫁なんて嫌だなぁって思ってたんだけどね」

「嘘……」

 

 ママがパパを嫌がっていた時期があったっていうのが信じられない。

 そもそも私はママとパパは初恋同士だって聞いてた、二人が昔話をする時は、いつだって惚気百パーセントって感じで砂糖を吐いちゃいそうなぐらいラブラブだったから、てっきりロマンチックな出会いから始まった結婚だと思ってた。だからこそママとパパみたいな恋愛がしたいって思ってたのに……。ちょっとショック。

 

「それに、お爺ちゃんってそういう相手を見つける目……っていうか直感? みたいなのが優れてるみたいでね。仲人さんっていうの? ほら、親戚のマコトちゃん。一昨年結婚したでしょ? あの相手もお爺ちゃんが見つけてくれたのよ。会って一年で結婚っていうからよっぽど相性が良かったんでしょうね。お爺ちゃんに『誰か紹介して下さい』ってお金包んでくる人だって昔から結構いるのよ?」

 

 またまた驚きの内容だった。お爺ちゃんがそんな事してたなんて。

 「だからこそママ達も賛成してるのよ。お爺ちゃんが選んだ人ならってね」と続けるママの言葉は上手く頭に入ってこなかった。

 ということは、私もあの人とそのまま結婚……なんて事があるのだろうか?

 いや、ないない。だって向こうもこっちの事苦手そうにしてたし、多分お爺ちゃんの間違いだ。どんな凄い人だったとしても百パーセントなんてありえないもん。

 

 そんな事を考えているとスマホが鳴った。噂をすればなんとやらという奴なのだろうか?

 まぶしく光る画面を見るとそこには比企谷さんからのメッセージ通知があった。

 

【改めて……なんだろうな、あまりにも特殊な状況すぎて頭が追いついてないんだが、これからよろしくな。いろは? でいいか?】

 

 減点1。いきなり呼び捨ては無いかなぁ……。仮にも許嫁に名前呼び捨てにされるの、なんだか後々面倒な事になりそうな気もするし。この先変に馴れ馴れしくされても怖いから、相手の人となりも分からない今は、とにかく距離感を取っておきたい。

 

「なになに? もしかして八幡君? ママにも見せてよー」

「駄目! っていうか危ない! ちゃんと前みて運転してよ!」

 

 相手に聞かれる訳でもないのに二人共何故か少し小声だ。私はママに見られないように、ちょっとだけスマホを傾けながらメッセージを打つ。

 

【なんですか、許嫁って言われたからってもう彼氏面ですか、男の人に名前呼び捨てされるのはちょっとキュンとする事もありますけどそういうのはもっと段階踏んでからにしてもらいたいので出直してきて下さいごめんなさい】

【じゃあなんて呼べば? いろはす?】

 

 私は最近お気に入りの赤い犬の怒りスタンプを一つ押した。

 その呼び方は学校の友達もたまに使うけど……と悩み、頭の中で「いろはす」と呼ぶ比企谷さんを想像してみる、ちょっとイメージと違う気がする。一応年上みたいだから『さん』づけもおかしいよね。うーん……とりあえず。

 

【名字でいいじゃないですか】

【お前の家、全員一色じゃねぇか】

 

 思わずふふっと笑ってしまった。特別何かをしたわけではないのだが、まるでこっちの返答を予測してたみたいに早い返信だった。読まれてる? まさかね。

 私が笑ったのに気づいたのか、またママが「見せて見せて」とダダをこねる。

 

【でもお爺ちゃんのことは「おっさん」って呼んでましたよね? おばあちゃんは「楓さん」だったし、私が一色でも問題なくないですか?】

【まぁ、そっちがそれでいいならいいけど……】

【じゃあそういうことで、あ、許嫁のこと言いふらしたりしないでくださいよ! 秘密厳守でお願いしますね!】

【言わねぇよ、どうせ一年だけだろ】

【そうですね、どうせ一年です……】

 

 一年という期限がなんだかちょっとだけ寂しく感じる。あれ? なんか私このやり取り楽しいって思っちゃってる? まだたった数回のラリーなのに?

 

【とりあえず家庭教師の方は金もらう以上ちゃんとやるつもりだから、そっちはよろしくな】

【はい、よろしくおねがいしますセンパイ♪】

【あ、先生じゃないんだ】

【えー、センパイって先生って感じあんまりしないじゃないですかー?】

【まあ一つしか違わんしな、先生感出せるように頑張るわ】

 

 先生感ってなんだろう? ちょっとヒゲをはやして教鞭を持つセンパイを想像し、またしても笑みが溢れる、似合わない。

 

【はい、頑張って下さい♡】

 

 追加でスタンプを送るとそれきり、返信はこなかった。切り上げるのが早い。

 もしかしたら何を打つか悩んでるのかな? と少しだけ画面をつけたまま待っていると、ママに横目で見られているのに気が付き、私は慌ててスマホを仕舞った。

 他の男子とのやり取りはもうちょっと気を使うし、相手の方から話を引き延ばそうとしてくるのに。

 最後にハートマークを入れてしまった私の方が恥ずかしくなってきた。男の人ってこういうのすぐ好意と勘違いするらしいけど、大丈夫かな? 仮にも許嫁という関係を考慮するなら控えるべきだったかも。

 でも、と私は思う。このセンパイとの短いLIKEになんだか物足りなさを感じてしまっていたのだ。

 もしかして、本当に相性がよかったりするのかな……?

 まさかね。

 一瞬だけ浮かんだありえない考えを、頭の中から追い出す。きっと今は周りから色々いわれて意識しちゃってるだけだよね。

 

 気がつくともうマンションの駐車場についていた。

 

「で? 比企谷君なんだって?」

 

 車を止めたママがシートベルトを外し、芸能人の熱愛報道に群がる記者のように詰め寄ってくる。

 

「もうママしつこいー!!」

 

 私は慌ててスマホと鞄を抱きかかえ、助手席から降りると一足先に家の中へと避難する。

 こんな調子で来週、センパイが来た時どうなっちゃうんだろう? そうだ、こんな目に遭うのも全部センパイのせいだ。きちんと責任を取ってもらわなければ。一体どうしてくれよう?

「これから、一年かぁ。まずは来週だよね……。何話せばいいんだろ?」

 

 後ろから追いかけてくるママにうんざりしながらも、結局その後もずっと『次にセンパイと会う時の事』を考えていることに、その時の私は気がついていなかった。 




というわけで、初のいろはす視点に挑戦してみました。
そしてママハス登場です。

今回はお爺ちゃんの秘密をちょろっとだけ公開。
皆さん、この事は平塚先生には秘密ですよ!
絶対!絶対ですからね!(笑)

感想、コメントお待ちしています!!


※前話のサブタイトルを変更しました。
サブタイトル考えるのが死ぬほど苦手です……。


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第一部・第一章 八幡家庭教師編
第6話 一色家にいたる道程


お気に入りが3000超……?
え?一体なにがありましたか……?夢?夢なの?
本気でドッキリを疑うレベルで驚いています
先週800だったのに……え?何かあったんでしょうか……?(汗)w
本当に感謝しかありません。ありがとうございます。


 交通事故から始まった、約一ヶ月に及ぶ長い休暇が終わり、晴れて総武高での登校童貞を脱した俺は、早速クラス中の奇異の目に晒されている。もうやだ、帰りたい。

 折角バレないよう朝一で来て自分の席の確認もしたのに、担任がわざわざ教室に来て俺を紹介なんてするから努力が水の泡だ。

 仕方がない、こういう時は寝たフリをするに限る。誰とも関わらないように、手で顔を覆い、自分からも周りからも世界を遮断する。こうする事で「話しかけた方がいいのかな?」と気を使ってくる人間に対して「その必要はない」と伝えることが出来る上、一瞬でクラスに浮くことなく背景として溶け込める、まさに一石二鳥な八幡奥義の一つである。さぁ、早く始業チャイムよ鳴れ。

 

 しかし、そんな俺の思惑とは裏腹に(恐らく)クラスメイトのチャラチャラした長い金髪をヘアバンドで留めている男が声をかけてきた。

「初日に事故とかついてないわー。えーと……ヒキタニ君?  マジどんまいだわー!」

 俺の奥義を破った……だと……!? なるほど、これが高校、中学までとは違うということか、今までのやり方が通用しないようだ。

 妙に馴れ馴れしい男は、バンバンと俺の肩を叩いてきた。「お、おう」とひっくり返った声で返事をする事しかできなかった俺を笑いたければ笑え。 何なの? 急に馴れ馴れしくしないでくれる? 友達かと思っちゃうだろ。

 

 俺が見上げる形でヘアバンド男と視線を交すと、一瞬だけ教室に静寂が訪れる。どうやら遠巻きに見ていた奴らが俺たちの会話に聞き耳を立てているようだ、しかし、期待に応える事もなく俺もヘアバンド男も無言のまま時は流れる。気まずい……。

 だがヘアバンド男はその沈黙を気にした風でもなく、一度ニカッと笑うとサムズアップを決め、何も言わずに去っていった。

 周囲で様子を伺っていた連中もそれで興味を失ったのか、再びザワザワと会話を始め各々の日常へと戻っていく。え、なんなの今の、どういう合図?

 なんとなく、今クラス内での俺の立ち位置が決まった気がする。高校もぼっち確定だな。可哀想なヒキタニ君。ドンマイ元気出せよ。誰だよヒキタニ君。

 

 ──そんな学校での疲れを癒やす貴重な土曜日。

 朝食をすませ、ベッドでダラダラウトウトしていると勢いよく部屋の扉が開く音がした。

 

「お兄ちゃん! 今日いろはさんの所行くんでしょ!」

 

 今日も朝から小町が元気だ。

 

「わかってるよ……夕方からだろ」

 

 先日は「そんなに報酬が貰えるなら」と少し気持ちが動いてしまった家庭教師のバイトだが、いざ初日となると気が重い。畜生、働きたくないでござる。

 正直「忘れてました」でトボけてしまいたい所だ。しかし契約書にサインをしてしまっている。まあ本来ならそんな契約に屈する俺ではないのだが……。

 あれ病気や家庭の事情以外での休みの場合、ペナルティとして俺の小遣いがなくなる契約なんだぜ、おかしくない?

 つまりバイトをきちんとこなせば月の小遣いプラスバイト代が貰える。

 もしサボろうものなら、ペナルティで小遣いが消え、サボっているので当然バイト代も消え、昼飯すらままならない一文無し八幡が完成するのだ。

 比企谷、一色両家による完璧な連携攻撃、こうかはばつぐんだ!

 

「ほらほら、もう三時すぎてるよ!」

 

 言われて時計を見ると十五時半を回っていた、全然朝じゃないじゃん……。

 遅刻するような時間ではないとはいえ流石に驚く。そんなに眠っていたつもりはないのだが、思っていた以上に疲れがたまっていたようだ、長い入院生活で体力が落ちていたのかもしれない。仕方なく俺はのそりと起き上がり体を伸ばす。

 

「はい、着替え用意しといたから。顔も洗わないと駄目だよ?」

「おう……」

 

 まだ少し鈍っている頭で考える。一色の家はおっさんの家よりは近いはずだから、十六時半に家を出るとして。よし、まだ三十分は寝れる。

 

「おーにーいーちゃーん?」

 

 座ったまま瞼を閉じようとすると小町に頬を抓られた。

 

「いひゃいいひゃい」

「もうー……初日ぐらいシャキっとしてよ……」

 

 そう言いながら小町は大げさなほど大きなため息をつく。

 俺は然程痛みもない頬を摩りながら、ベッドから立ち上がろうとした所でふと視界の端に光るものを見つけた。スマホが何かしらの通知を受け、緑色の光を点滅させているようだ。

 おっさんからのLIKEは基本夜だし、この時間なら振込め詐欺のメールだろう……今日は一体どこの業者さんからだろうと腕を伸ばし、チェックしてみると一色からのLIKEのようだった。

 

【今日ってカテキョの日ですけど、ウチ来ますよね? 電車乗ったら連絡下さい。駅まで迎えに行くので】

 

 正直驚いた、まさか迎えに来て貰えるとは思っていなかったからな。むしろ『え? 本当にきたんですか?』と引かれる所まで想像していた。

 俺は【了解】と簡潔に返事をして着替えを始める。

 

「何々? いろはさん? 何だって?」

 

 小町が興味津々という顔で聞いてきた。こら、人の指で勝手に指紋ロックをはずそうとするんじゃありません! もともとロックなんてかかってないから! 全くこの子はどこでこういう事を覚えてくるのかしら、妹の将来が心配だ。やはりお兄ちゃんとして一生俺が見える範囲においておかねば。

 

「なんか駅まで迎えに来てくれるそうだ」

「じゃあ急がなきゃ駄目じゃん! このバカ兄! ほら急いで急いで」

「いや、電車乗ったら連絡くれればいいっていうんだから、そんな急がなくていいんじゃねーの?」

 

 俺の言葉に小町は無言で目を細めた。完全に汚物を見る目だ。はい……急いで支度します──

 

 

 ──小町の視線に耐えきれず着替えを終え、軽く食事をすませると割と良い時間になっており、俺はまたしても手土産をもたされ家を追い出された。出来た妹だと思ったのだが「べつに小町のお金じゃないから……」と目を伏せ、意味深な台詞を告げられ戦慄する。

 え? 待って、まさかこれ俺の小遣いからでてるの? 今月ピンチなんですけど……? 入院中に頼んだ暇つぶしの本、見舞い品かと思ってたら、ちゃっかり代金請求されたんだよな……。来月の新刊買えるかしら……。

 そんな不安を抱えながら歩き、駅についた所で忘れずに一色にメッセージを送った。

 

【今から電車乗る。十分位でそっちつくと思う】

 

 するとすぐに【了解です!】と赤い犬が敬礼ポーズをしているスタンプが返ってきた。前回のと同じシリーズだろうか。何のキャラクターなのこれ? チー○君っぽいけど微妙に違うんだよなぁ……。

 

 俺は事前に渡されていた定期を使い、改札を抜けると電車に乗り込む。時間ぴったりだ。日本の電車は時間に正確で毎度頭が下がる。もし俺が機関車ハチマンだったら週五で休むね。なんなら週七で休むまである。

 土曜の十六時過ぎという半端な時間もあり、人はまばらで、ゆったりと座れた。

 一色宅の最寄り駅までは我が家の最寄りから電車で一本。おっさんの家より近いので助かった、片道一時間以上とかだったら、どんなペナルティを覚悟してでも別のバイトを選択したかもしれない。

 駅につくのが十六時四十分過ぎとして、そこから一色の家までは徒歩で五分ほどらしいので十七時には充分間に合うな。駅から五分ってすげぇな、コンビニなの? いろはすマートなの?

 なんにせよ、近いのはいい事だ、入試までの間はこの電車に世話になる事だろう。座れるのはありがたい。

 しかし、この十分程の時間をなんとかできないものか、眠ったり本を読むには短すぎる、考えた末、俺はスマホを取り出し小町にLIKEを送ることにした。

 

【で、この土産代って誰がだしてんの?】

 

 ……頼むからお袋からだと言ってくれ──

 

 

 ──目的地に到着しても小町からの返信は来なかった。既読はすぐついたのに……。

 俺は諦めてスマホをしまい、改札を出ると、一通り辺りを見回す 一色の姿は見当たらない。まだ来ていないのだろうか。

 この駅で降りるのは初めてだ。それなりに人の出入りもあり、買い物時なのか道路を挟んだ先に見える某大手のスーパーに人が吸い込まれていくのが見える。

 特にやる事もなかったので人の流れに視線を向けていると、見覚えのある人物がスーパーから出てくるのが見えた。一色だ。

 以前会った時とは違い今日はセーラー服姿で何やら大きな買い物袋と背中にカバンを背負い、ヨタヨタと歩いてくる。

 

「センパーイ!」

 

 むこうもこちらに気がついたようだ。横断歩道を小走りで渡ってくる一色に「おう」と軽く手を上げ返事をする。

 

「ふぅ、お待たせしました」

 

 眼の前までやってきた一色は手に持った買い物袋を両手で重そうに持ちため息をつく。一色の狙いを察し、俺は仕方なく買い物袋を受け取ろうとした……のだが、あと僅かのところで避けられた。

 

「は?」

 

 何そのムカつく顔……。別に取って食ったりしねぇよ……。そこまで悪人面してただろうか?

 

「荷物重いから持ってくれアピールじゃなかったの今の……」

「あ、いえ、今のは素だったんですけど……」

 

 俺がそう言うと、一色はモニョモニョと歯切れの悪い言葉をはく。なんだかばつが悪そうだ。案外気を遣える子なのかもしれない……。

 

「あ! もしかして今のって口説こうとしてましたかごめんなさいちょっと一瞬トキメキかけましたが冷静になるとやっぱり無理です」

 

 ……と思ったらまた振られた。

 

「あっそ……」

 

 きっとこれが彼女のスタンスなのだろう。今度は黙って買い物袋を奪い取ると一色は「ありがとうございます」と小さく呟いた。

 

「別に、仕事の範疇だよ」

 

 実際バイト代も高いしな、これぐらいのサービスはしても充分お釣りがくるというものだ。

 一色はやたら棒読み気味に「ワァ、タヨレルゥ」と言うと、タタッと二歩先を行き、くるりと振り返ると

 

「そういう事ならー、次もお願いしますね♪」

 

 と、流れるような動作でウィンクをした。あざとい。

 

「あざとい」

 

 あ、思わず口に出てしまった。

 

「なんですかそれー! あざとくないですー!」

 

 ぷくっと頬を膨らませ、一色が抗議する、そういう所があざといんだよなー……。だが今度は間違っても口にしない。「へいへい」とやる気なく返事をする俺に「まったく……行きますよ!」と一色はゆっくり歩き出した。

 

「学校でも行ってたのか?」

 

 俺はセーラー服姿の一色に問いかけてみた。さすがに休日も制服行動という優等生タイプには見えない。

 

「はい、部活の用事で。私サッカー部のマネージャーなんです。もう引退ですけど」

 

 なるほど、マネージャーだったか。

 なんとなくだが似合うなぁと思ってしまった。あざとく部員にタオルやらドリンクを渡す一色は想像に難くない。

 というよりそんな環境に置かれていたからこそ、こんなあざとい仕草をするようになったのかもしれない。まぁ、環境より性格が一番でかい気がするが……こいつ自分が可愛いこと自覚してるっぽいしな。

 

「……で、その後輩に引き継ぎを……って聞いてます?」

「ああすまん、聞いてなかった」

「も~! ちゃんと聞いてて下さいよ」

 

 足を止め、くるりと俺に向き直り、上目遣いで睨みつけてくる。しかし一色は瞬時にその表情を崩した。

 

「もしかして、重かったですか? やっぱ私持ちましょうか?」

 

 今度は少し心配そうに俺に手のひらを向ける。それはもちろん『手を繋ぎましょう』ではなく『自分で荷物持ちますよ』というアピールだ。か、勘違いなんてしてないんだからね!

 

「うんにゃ、これぐらいどってことない」

「でも……」

 

 ここで問答をするのも面倒だ、俺は足を止めた一色を追い越すと振り返らず横断歩道を渡る。後方から「センパイ……」と一色の声が聞こえたが、ここは止まらない。ちょっと格好つけすぎだったか? しかしこれは八幡的にポイント高い。

 

「あの……そっちじゃなくて、こっちです」

 

 だが、俺はその言葉で慌てて振り返ると、一色は横断歩道の手前で角を指差し、そう俺に告げていた。

 あ、そこ曲がるのね。ポイントなんてなかった。チクショウ。

 

 

 一色は道を間違えてちょっとだけ気まずかった俺をひとしきり笑うと、ほどなく立ち止まった。

 

「っはー、ここです。ぷふっ」

 

 あ、まだ笑い終わってなかったわ。あーあー、そんだけ笑ってもらえりゃ本望ですよ。

 俺は照れ隠しの意味も込め、一色から視線を逸らし目の前の建物を見上げた。そこにそびえ立つのはオートロック式の新築っぽい綺麗なマンション。おっさんの家とはまたひと味違う風格を漂わせている。

 

「1004号室なので、ここで部屋番入力して下さい」

 

 そういいながら一色は慣れた手付きで扉の前のパネルを操作し、説明してくれた。

 つまり「次は迎えに行かねーからしっかり覚えとけよ」という事だ。まあ忘れても問題ないだろう。入れなかったら帰るだけだ。『開かなかったのだから仕方がない』と堂々と言い訳もできる。それならきっとバイト代も小遣いも減らされないだろう。

 

「ただいま」

「おかえりー! 待ってたわ! 八幡くんもいらっしゃい!」

 

 一色がパネルに喋りかけ、スピーカー越しに女性の声が返ってくると自動ドアが開いた。

 俺はカメラに軽く頭を下げ、何やらため息をついている一色と共にエントランスへ入り、先導されるままエレベーターで上へと上がっていく。押されたのは十階のボタン。高所恐怖症じゃなくてよかった。

 全人類共通の敵、黒光りするGは十階以上の高さだと出ないと聞くが本当なのだろうか。まあうちはカマクラという防犯システムがあるので出てもさほど影響はない。カマクラさん超かっけー。強いて難点をあげるなら戦利品のGを見せびらかしにくる事ぐらいだ。マジやめてほしい。

 

「そういえば、これ何? こんなに沢山」

 

 エレベーターで一息ついた所で、俺は買い物袋を持ち上げ、今更な事を聞いてみた。

 

「主にお夕飯の食材ですね、センパイ嫌いなものとかありますか?」

 

 まあ食材であろうことは予想はしていたのだが……。え? 俺の嫌いなもの?

 

「とりあえずトマトだな、あと煩わしい人間関係とかも嫌いだ」

「あ、そういうのは聞いてないんでいいです」

 

 なんだかちょっと慣れた感じであしらわれた。少し悔しい。

 

「というか、俺夕飯は遠慮するって言ったよね?」

「私もそう聞いてたんですけど、ママが張り切っちゃって。とりあえず今日の所は食べていってくれませんか? 私じゃ食べきれないだろうし……」

「ええ……」

 

 もう食材を買ってあるというなら遠慮する方が失礼にあたる……のか……? 

 

「助けると思って! お願いしますよセンパ~イ」

 

 一色が両手で俺の服を軽く引き、そう懇願してくる。近い近い! やめて! 一色が揺れるたび密室にほんのり甘い良い匂いが漂ってくる!

 

「こ、今回だけな、さすがに毎回だと俺も気を使う。食費の問題もあるだろうしな」

 

 べ、別に屈したわけじゃないんだからね! もう食材買ってあるって言うから本当に仕方なくなんだからね!

 

「は~い。ママにもちゃぁんと言っておきます♪」

 

 一色はそう言うと一歩下がり、舌をぺろりと出して敬礼のポーズを取った。くそ、あざとい。

 後で小町に夕飯いらないって連絡しとかなきゃ……。




八幡、小町、いろはに続き登場した原作キャラはムードメーカーのあの人でした! 名前は出してませんが彼らしさがでてたらいいな……w

執筆裏話は聞きたくないという方もいると思うのでその手の話は今後活動報告で行いたいと思います。

メッセージ、感想、評価、誤字脱字報告いつもありがとうございます。
沢山の方に読んでいただけているようなので一週間に一話は投稿できるようにと考えていますので今後とも応援よろしくお願いいたします。

※八幡の嫌いなもの修正 3/29


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第7話 マッドティーパーティー

3月ももう終わりですね。
本日、我らが一色いろは嬢の「中の人」
佐倉綾音さんが新サクラ大戦のメインヒロインになったという情報を発見してテンションが上がったので一気に仕上げてみました。
今回は分割した分の投稿となります。楽しんで頂けると嬉しいです。



 目的階に到着したエレベーターを降り、二人で廊下を歩く。

 ゴミひとつ落ちていないその綺羅びやかな廊下はマンションというよりはまるで高級ホテルのような作りだった。高級ホテル行ったこと無いけど。

 

「つきました」

 

 『一色』のプレートが飾られた堅牢な扉の前で足を止めた一色は俺の返事を待つことなくドアノブを捻る。ちょっとまって心の準備が……!

 

「ただい……」

「おかえりなさーい!!」

 

 ドアを半分ほど開けると同時に出迎えの言葉が掛けられ、パンっと炸裂音がした。一色の頭に細かい紙切れと紙テープがひらひらと舞い落ち、火薬の匂いが周囲に漂ってくる。どうやらクラッカーが鳴らされたようだ。

 突然のことに驚いたのか一色もその大きく丸い瞳をぱちぱちと瞬かせている。正直俺もびびった。だから心の準備が出来るまで待ってって言ったのに! あ、言ってないわ。

 

 硬直している一色に『大丈夫か?』と声を掛けようとすると、その一色を押しのけ、扉の奥から一人の女性が出て来た。姉……? 母……?

「あなたが八幡くんね、初めまして。一色もみじです♪」

 一色と同じ亜麻色の髪に、ヒラヒラとしたワンピースを纏った女性は土産を持っている俺の左手を両手で握り自己紹介をしてくる。

 

「あ、はい。初めまして、比企谷八幡。です……」

「あら? 駄目よいろはちゃん、お客様に荷物もたせちゃぁ……めっ!」

 

 もみじと名乗った女性は俺の右手から素早く買い物袋を取り上げると一色に荷物を渡し、幼い子供を叱るように人差し指でその額を叩いた。それはあくまで自然に、しかし俺に見られていると言うことを意識した動きだった。なんで分かるかって? だってチラチラと俺の方見てるもん。やはりあざとい。確実に一色の血縁であろう。

 

「ささ、入って入って。色々お話聞かせて頂戴?」

「ちょっママ!? 娘を置いて行かないでよ!」

 

 母だったか、一瞬「お姉さんですか?」と聞いてしまおうかと思ったが口に出さなくて正解だったな。そんなテンプレトラップに引っかかる俺ではない。

 かといって母親だという確証もない状態でむやみに言葉を発するような愚も犯さない。数多のラノベを読み漁った俺を舐めてもらっては困る。『石橋は叩いて、渡らない』が正解だ。叩いて待っていれば不審に思った向こう側から渡ってきてくれる、こちらから渡る必要はない。うむ、完璧な理論だ。

 そうして石橋の前で待っていた俺は一色母に引っ張られ、家の中へと招き入れられた、慌てて靴を脱ぎ、あまりの勢いに転びそうになるのをなんとか堪え、ドタドタと廊下を抜けると、四人掛けテーブルの椅子に座らされる。

 

「アイスティーでいいわよね?」

 

 戸惑う俺に考える暇を与えず、一色母はそう言うとテキパキと茶の準備を始めた、一色はブツブツと文句を言いながら買い物袋の中身を冷蔵庫へと仕分けている。

 俺はそこで小町から渡された(おそらく俺の自腹)の土産を渡す。今度は忘れないと决めていたからな。

 すると「気を使わなくていいのに」と言いながら一色と一色母は「ウソ! これ限定のめっちゃ高いやつ!」と驚愕の声をあげていた。一体中には何が入っていたのだろう? 限定で高いの? ちょっとそこkwsk(くわしく)

 

 少しして俺の前に氷の入ったアイスティーが振る舞われ、皿に盛られたクッキーがテーブル中央に置かれると、一色母は俺の正面の席に座り、両手の指をくみながら笑顔を向けてくる。

 一色は溜息を吐きながら、俺の隣へと座った。

 

「さて、改めまして私は一色もみじ。いろはの母です。これからよろしくね」

「あ、比企谷八幡です。今日から一色……いろはさんの家庭教師やらせてもらいます。よろしくお願いします」

 

 俺の返答にちょっとだけ不服そうな一色が視界に入ったが、まあここで『一色』呼びは流石におかしいだろう……。フルネームぐらい勘弁して欲しい。目の前にいる二人とも一色なわけだし……。と言い訳めいたことを考えていると今度は少し厳しい口調で一色母が次の言葉を投げかけてきた。

 

「『家庭教師』だけじゃないでしょう?」

 

 意地の悪い笑みを浮かべる一色母、そこには逃さないぞ。という確かな意思が感じられる。

 何を言わせたいのかはすぐにわかった、だが……と俺は隣の一色に一度だけ目配せをする。一色もその意図は汲み取ってくれたようで一度「はぁ」と溜息を吐くと諦めたように小さく頷いてくれた。どうやら許可が下りたようだ。許可制なのね、覚えておこう。

 

「えっと……いろはさんの許嫁……ということにもなってます」

「そこ大事よね♪」

 

 一色母はパンと手を叩き、楽しそうに俺と一色を交互に見つめ、うんうんと頷いた。

 いや、別にそんなに大事でもないし、寧ろ今日の訪問で一番いらない部分じゃないですかね? これから家庭教師に来てるのに許嫁感だすとか逆に心配にならないのだろうか? いや、別に心配されるような事をするつもりもないけどね……。

 もし小町がこんな男を連れてきたら俺は断固抗議するし、なんならサスマタ装備で家庭教師中も小町の部屋でずっと監視するまである。は? 小町の許嫁だと……? 許さん!

 

「じゃあ八幡くんは私の義理の息子って事になるのよね、あー、私男の子ほしかったのよね、やっぱり今からでも遅くないかしら? もうひとりふたり子供が欲しかったんだけど、色々タイミングが悪かったのよ。ねぇ、八幡くんは義理の弟と妹どっちがいいと思う?」

 

 俺が脳内『小町の許嫁』と戦っていると。一色母が今度は何やら家族計画めいたことを話し始めた、大丈夫かこの人……? 一体俺は何を試されているのだろうか? ごめんなさい私こんな時どんな顔をしたらいいかわからないの……。笑えばいいの?

 

「ちょっとママ! そんな話やめてよ!」

 

 どうやら笑わなくて正解だったらしい。一色の怒号がリビングに響き渡り、ギロリと睨まれる。一瞬ビクッとしちゃったけど、いや、俺なんもしてねぇだろ。冤罪にもほどがある。

 

「あら、いいじゃない、家族なんだから」

「センパイは家族じゃありません!」

「えー、そんな事いったら可哀想よ。ねぇ八幡くん?」

 

 我関せずを決め込んでいるのだから話を振らないで欲しい。何も言うことがない俺は「ははっ」と情けない愛想笑いを浮かべ、目の前のアイスティーで口をふさいだ。

 

「許嫁は一年で終わりだから! 家族にはならないの!」

「えー、そんなの認められませんー! そうだ! 私の事はお義母さんって呼んでね?」

 

 なんでこの人はこう、次から次へと爆弾をぶっこんでくるの? 何なの? ボンバーマンなの? 確実におっさんの血縁だとわかる。そういえば目元なんか楓さんそっくりだな。

 ということは一色父は婿養子だろうか? もし一色父も同じノリだったらどうしよう……? いや、さすがに父親ともなれば娘の許嫁にいい顔はしないか。しかしそれはそれで面倒くさい、一方からは許嫁を推され、一方からは拒否される。うっ……考えただけで気が重くなる。八幡は現代っ子なんだからもうちょっとデリケートに扱って!

 

 ともかく、ここで『わかりました』と『お義母さん』呼びを鵜呑みにするのは悪手だ、娘にもパパはすにも睨まれそうだしな……。

 

「あー……それは……どうでしょう?」

 

 俺は一色に視線を移し助けを求めた。お願い! いろはす! 僕の平和を守って!

 

「ほら、センパイも困ってるじゃん!」

 

 断固反対! と言わんばかりに一色がテーブルを叩き抗議をする。よし、その調子だ! いけ!

 

「うーん……じゃあもみじって呼んで?」

 

 しかし、それを聞いた一色母はさも名案を思いついたとでも言いたげに目を輝かせ代替案を提示してきた。

 楓さんといい、何故一色一族の女性は呼び方を指定するんだろう? 全国共通の知り合いのお母さんを呼ぶあの呼び方では駄目なんだろうか? そう、声を高らかにあの名で呼ぼう。

 

「おば……」

「もみじって呼んで?」

 

 どうやら駄目らしい、食い気味で訂正されてしまった。そして目が笑っていない。怖い、ママはす怖い。背筋に冷たいものが走る。あれ……? おかしいな、手が震えているぞ? 風邪かな?

 

「モ・ミ・ジ、って。呼んで?」

 

 三回目はやけに低音だった。心なしか周囲の温度が下がった気さえする。恐らくこれが最後通告というやつなのだろう。

 『断ったら何をされるかわからない、死にたくなければ従え』俺の本能がそう告げていた。

 

「もみじさん……」

 

 俺は諦めて悪魔に魂を売った。一色が横で「うわぁ……」と声を上げている。仕方ないだろ……。俺はまだ死にたくない。

 

「はい、よく出来ました♪ いろはも名前で呼んでもらえばいいのに」

「うるさいなー! 私はいいの!」

 

 やいやいと言い合う二人に挟まれながら俺は再びアイスティーを胃に流し込む。女三人寄れば姦しいというが、二人でも十分すぎるな。まあうちも小町とお袋が揃うとうるさくなるし、娘がいる家というのはどこも似たようなものなのだろうか?

 

「ねぇねぇ八幡くん、いろはとはLIKE交換してるんでしょ? 私とも交換しましょ?」

「ママは連絡とる必要ないでしょ!」

「あらーそんな事ないわよ。私だって八幡くんとお話したいわ。許嫁だからって独り占めはよくないわよ?」

「独り占めとかそういうんじゃないから! 恥ずかしいことしないでよー!」

「ええー? 恥ずかしくなんてないわよね? 八幡くん?」

 

 もうどうにでもしてくれ。俺は目の前のクッキーに手を伸ばし、口の中に放り込んだ。美味い。小町にも食べさせてやりたいぐらいだ。

 相変わらず言い合いを続ける二人を横目に、続けて二個、三個と口に放り込む。

 

「あ、そのクッキー気に入った? いろはちゃんの手作りなのよ? どう?」

 

 ここにも地雷があった。くそ、迂闊に手を出すべきではなかったか。

 

「あ、美味い……です」

 

 横に座る一色を見るとフフンと鼻を鳴らし得意気だ。なんかむかつく……!

 

「なんですか? こんな美味いクッキーを食える俺は幸せものだとでも言いたいんですか? 家庭教師の初日にプロポーズとかちょっとそういうの考えられないので無理ですごめんなさい」

「いや、そんな事一言もいってないだろ……」

 

 丁寧に膝に手をついて、きっちりお辞儀姿勢でのごめんなさい。もう今日何度目? なんなのこれデジャヴ?

 

「あら、じゃあ私が八幡くん貰っちゃおうかしら? いろはちゃんにクッキーの作り方教えたの私なのよ? 食べたかったらいつでも作ってあげるから言ってね?」

「ママっ!」

 

 またしても言い合いを始める二人に思わず隠しきれないほどの大きな溜息をついてしまった。

 こんな調子で一年本当にやっていけるだろうか? やっぱ辞めさせてもらおうかな……。

 

 というか今日って家庭教師に来たんだよね俺? いつまでお茶飲んで談笑してんの? この時間って時給発生してるのかしら? 今はただそれだけが気になった。




というわけでやっとママはすの登場となりました。

一応ここで一色家の人々(オリキャラ)のおさらいをしておきたいと思います。

・一色縁継(むねつぐ)
 いろはの祖父

・一色楓(かえで)
 いろはの祖母

・一色もみじ
 いろはの母

いろは→いろはもみじ→もみじ→楓
という連想ゲームですね(汗)

感想、評価、メッセージ、誤字報告いつもありがとうございます。
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第8話 初めての授業とはいえない授業

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告ありがとうございます。
サブタイトルを自動で考えてくれるアプリが欲しい……。




 結局、ママはす……もみじさんとはあれから一時間ほど話し込んでしまった。

 一色はツッコミ疲れたのか途中で「……先に着替えてきますね」と離席。どうやって切り上げたら良いかわからず悩んでいた所。「そろそろカテキョお願いしていいですか?」と私服で戻ってきた一色に袖を引かれ、無事一色の部屋へと逃げ込む事に成功した。ステージクリア。

 一時間待たないとイベントが進まないとか、昔のクソゲーかよ。さすがにイベントスキップ機能ぐらい着けて欲しい。現代っ子はそんなに忍耐強くないのだ。

 

「なんか、すみません。ママちょっとテンション上がっちゃってて……」

「いや、なんていうか、お前の母ちゃんすげぇな……」

 

 とにかく圧がすごい、もし一色が戻ってこなければ今日はニ時間まるまる比企谷八幡質問コーナーで終わっていた可能性すらある。オールナイト一色だ。ゲストは俺。お便りは全部スタッフの仕込み。リスナーはゼロ。わぁなんて無駄な時間。

 

「さて、じゃぁ何しましょう?」

 

 一色が俺の袖から手を離し、そう問いかけてくる。ちょっと残念なんて思ってはいない。いないんだからね!

 

「そうだな、とりあえず。最近のテストか何かあったら見せてもらえるか? 現状が知りたい」

「はい。ちょっと待ってくださいね。あ、そこ座って下さい」

 

 一色は足元のクッションを指差し、そう言うと、ゴソゴソと机の引き出しを漁りはじめる。俺は指示通り部屋の中央に置かれた丸いローテーブル横のクッションへと腰掛けた。

 よく考えたらここ女子の部屋なんだよな……。小町を除けば初めて入る女子の部屋。女子特有の甘い香りに、パステルイエローを基調としたベッドにはもう一つ大きな薄いピンクのクッション。白い机と椅子。小さな木の本棚からは少女コミックがちらりと顔を覗かせていた。

 

「あんまりジロジロ見ないでもらえますか?」

「す、すまん」

 

 怒られてしまった。いかんいかん、家庭教師に来たのだ。邪念よ去れ。

 

「はい、これが中ニの学年末試験の奴ですね、今学期の中間試験はまだなので」

 

 一色は白い椅子に座りながら、ローテーブルの上に数枚のプリントを並べる。全体的に七十点後半。一番高くて八十点前半。なんというか面白みのない点数で、それほど頭が悪いわけではなさそうだった。少なくとも基礎はできているのだろう。そんな印象を受けた。

 

「ちなみに得意な科目は?」

 

 俺はそう問いかけた。

 一色は椅子に座り、俺がクッションに座っているので話をしようとするとどうしても一色を見上げる形になってしまうので、首が痛くなりそうだ。

 

「家庭科は得意ですよ!」

 

 なにやらドヤ顔で答えが返ってきた。

 首だけじゃなくて頭も痛くなりそう。頭悪くないかもというのは見誤ったかもしれない。

 

「入試関係ねぇじゃん……。苦手なのは?」

「えー……暗記とかですかね? 社会とか」

 

 今度は不満げに足をばたつかせながらそう答える。一体なにが不満なのか、俺にはわからないがテーブルに足が当たるとそのまま俺に衝撃がくるのでやめてほしい。

 

「普段の勉強時間は?」

「平日は部活もあるんで家だと寝る前に一時間位ですね。あ、あとコレやってます」

 

 一色はそう言って椅子から立ち上がると、机の上の棚から一冊の本を取り出し俺に渡してきた。定期的にポストにマンガを入れてくれる某有名通信教育講座だった。真剣なやつ。

 

「ああ、これか。うちは取ったこと無いけど。ダイレクトメールで送られてくるマンガ、毎回読んじゃうのはなんでなんだろうな」

「え……?」

 

 何故かすごく怪訝な顔をされた。え? 読まないの? 読むよね?

 

「で、志望校は?」

「は? なんですか? 私の志望校を聞いて同じ高校に入ろうとかそういう魂胆ですか? 努力して好きな人と同じ学校にとか一見ドラマみたいですけど冷静に考えるとストーカーっぽくて無理ですごめんなさい」

「なんで俺が追いかける話になるんだよ、俺はもう受験終わってんの……」

「えー……? っていうかセンパイって本当に総武行ってるんですかぁ?」

 

 そこ疑われてたの? 次から俺も制服着てきた方がいいのかしら?

 

「次来る時は学生証もってくるよ……場所によっちゃ俺の手に余るから真面目に教えてもらいたいんだが……」

「うーん……でもまだ悩んでるんですよね……」

 

 一色はそう前置きをすると、一度息を吸い込み学校名を告げた。

 

「とりあえず今は海浜総合高校を考えてます」

 

 海浜総合か。総武高ともほど近く、こういう言い方をすると嫌味っぽく聞こえるかもしれないが我が総武高校よりは偏差値がやや下がるもののそこそこの進学校だ。とりあえず俺の懸念は一つ払拭された……。まあだからといって余裕をかましていい所でもないな。

 

「……お爺ちゃんがせめて海浜総合ぐらいは行けって……」

 

 またあのおっさん……。何? 一色家はおっさんの言うことには逆らってはいけない法律でもあるの? 独裁国家なの? 学校ぐらい好きに決めさせればよいのではないか。いや、まず結婚相手を好きに決めさせるべきだわ……。

 

「おっさんの事は抜きにして、他にどこか希望あんの?」

「どこっていうわけじゃないんですけど……、あそこあんまり制服可愛くないじゃないですか?」

 

 どうにも歯切れが悪いと思ったら呆れた理由が返ってきた。え? そんな理由?

 

「そんな理由?」

 

 おっと、どうやらまた口に出てしまったようだ。わざとだけど。

 

「えー? 制服、超! 大事じゃないですか! 三年も着るんですよ?」

 

 一色が『超』の部分をやたらと強調して俺に訴えかけてくる。

 

「でもあそこ設備とか凄いらしいぞ、IDカードで出席取るとか聞いたな」

「そうなんですよね、おかげで人気高いみたいで……」

 

 それから一色はツラツラと海浜総合の事を教えてくれた。まあ志望校ならそれぐらいの情報は抑えてあるか……。

 

「んで、そこらへんの事は担任とかには話してあんの?」

「はい、中三になってすぐ意識調査あったんで。『今の成績のまま油断しなければ多分大丈夫だろう』って言われました」

 

 おっさんはともかく、一番成績を理解しているであろう担任がそういうなら俺の活躍する場はそんなになさそうだ。とりあえず一安心。

 

「まあとりあえず志望校と現状は理解した、まだ変更はきくんだし、のんびり考えればいいんじゃないか?」 

「センパイみたいに頭が良ければもうちょっと選択肢もあるのかなー? とは思うんですけどね、総武も制服可愛いですし? でも高望みして落ちたり、授業についていけなくなったりしても格好悪いかなって」

 

 受験まであと半年以上ある、海浜総合に油断しなければ入れる程度の成績があるなら受験までの努力次第では十分総武も狙えるだろうとは思うが。まあ無理に上を目指して、その後が続かなければ一色の言う通りなので一概にどちらがいいとは言えない。ここはあえて言及しないことにした。俺は責任を持ちたくない。

 

「あとほら……女の子は、ちょっと馬鹿っぽいぐらいのほうが可愛くないですか?」

 一色は自身の頬に人差し指をあて、ウィンクをしながらそうアピールをしてくる。あざとい。しかし、それが一体誰に対する言い訳なのか。俺には皆目見当がつかなかった。

 

「まあ俺には関係ないからいいけどね……」

「なんですかそれー!」

 

 ぶーぶーと文句を言う一色を無視し、俺はテーブルの上のプリントを凝視する。問題文からみても、レベルが低いという訳でもなさそうだな。さて、どうしたものか。

 

「とりあえず授業方針を決めたいんだが、最近困ってる事とかある?」

「目が死んでる人と許嫁にされて困ってます」

「それは俺も困ってるよ、勉強で困ってる所はないかって話だ」

「えー! センパイは困ることないじゃないですかー? だってこんな可愛い子と許嫁なんですよ? 嬉しくないんですか?」

 

 自分で「可愛い子」って言っちゃったよこの子……否定できないけども。 

 

「そもそも付き合ってるわけでもないのに一年だけの許嫁って意味なさすぎだろ……結婚しないのに結婚の約束してるんだぞ? メリットが一つもない」

「メリットが私と許嫁になれるっていうんじゃ不満だっていうんですか?」

 

 何この子、もしかして俺の事好きなんじゃないの? おっといかん、こういうのは中学の時に学んだだろう比企谷八幡。期待するな。俺は学習できる男だ「こいつ俺のこと好きなんじゃね?」なんていう勘違いはもう二度としない。八幡に同じ技は二度通用しないのだ。

 

「それに、友達に自慢したり出来るじゃないですかー?」

「『出来るじゃないですかー?』ってこの間『言いふらすな』って言ってたじゃないですかー?」

「それはそれ、これはこれです」

「え? もしかしてお前友達に自慢してたりするの?」

 

 一色からの返事はない、代わりに『何いってんのこいつ?』という顔で見られた。畜生、知ってたよ。

 

「もういい……教科書出してくれ、授業内容確認しときたい」

「はーい」

 

 椅子に座る一色から後ろ手に教科書を渡されると、俺は一教科ずつ、現在の授業内容と次の中間の範囲を確認していく。多少の誤差はあれど基本的には俺の時と変わらなそうだな。まぁ一年しか違わないので当たり前といえば当たり前だが。

 そんな事を考えていると「そういえば……」と一色が言葉を漏らした。

 

「センパイはなんで総武受けたんですか?」

「俺?」

「はい」

 

 一色は何故か目を輝かせていた。

 

「俺はあれだ、知り合いのいない所に行きたかったんだよ」

「はい?」

 

 今度は眉をひそめ首を傾げる。何突然? フクロウのモノマネ? うまいな。

 

「センパイ……もしかしてイジメられてたんですか?」

「ちげーよ。そもそもイジメられるほどの関係を持った事がない」

「うわぁ……」

 

 一色がまるで波のように引いていくのが分かった。しかしそんな事で動じる俺ではない。

 

「センパイ……お友達いないんですか?」

「それはあれだな、友達の定義にもよるな」

「センパイ……」

 

 憐れむような目で見られているが、それが優しさのつもりでも、ただの押しつけでしかない事におそらくこいつは気がついていないのだろう。友達がいることが幸せだなんて幻想だ。

 俺はその場を楽しく過ごすためだけにお互いを利用する、そんな上辺だけの関係が欲しいとは思わない。どうせ今のこの状況だって一年だけの関係だしな……。

 

「あと、自転車で通学できる距離というのも、かなり重要だな。電車に乗って痴漢に間違われる危険も減る」

「はぁ……」

「まあ入れたっていうのを考えるなら単純に俺の学力に見合ってた学校っていう面もある」

「なんですかそれ、自慢ですか? 嫌味ですか? すみません頭良い人は素敵だなぁと思うのでちょっと手を出してみてもいいかなとか考えちゃいましたけどそういうのは私の受験が終わってからにして下さいごめんなさい」

 

 少しだけ冷静になった俺が、呆れ顔の一色を茶化すようにそう言うと、なぜかまた振られた。もういいけどね……。

 

「……今は俺のことよりお前のことだろ、志望校も決まってるし、成績も問題ないんじゃ、俺がやることはそんな多くなさそうだけどな……」

「えー? なんですかその言い方ー? なんか冷たいー!」

「別に冷たくねぇよ、教師経験なんてないんだぞ俺……」

 

 そう、俺には教師としてのノウハウがないのだ。知識として知っている範囲の事ならば教えてやれるが、その教え方が分かりやすいか? と問われれば自信がない。やり方が合う、合わないというのもあるだろう。

 そんな俺が無理にはりきっても空回りするだけなのは目に見えている。加えて本人の学力にさほど問題がないという、ならば余計な手を加える必要もない。俺はあくまで補助的な役割に徹したほうが良い。おっさんも出来る範囲でいいと言っていたしな。

 

「でもお給料は払ってるんだから、その分はしっかり働いてくださいよ?」

「一応、仕事だし。出来ることはやるさ……」

「まぁ頭良いのは本当なんでしょうから、この際しっかり利用さ……勉強させてもらいますのでお願いします」

 

 今この子「利用」って言わなかった? なんかめっちゃ笑顔だけど絶対誤魔化されないからね? 

 

「ちゃぁんと私を合格させてくださいね? センパイ♪」

 

 しかし一色は、そんな俺の考えを知ってか知らずか、笑顔のゴリ押しで表情を崩さずそう続けると、テーブルに投げ出していた俺の右手をそっとその柔らかい両手で包みこんだ。明らかに演技だと分かっているのにドキドキしちゃうだろ! くそぅ、振りほどけない……!

 数年前の俺だったら確実に告白して振られていただろう。だが危機は未だそこにある、俺は理性を総動員して早鐘のように打つ心臓を落ち着かせようと試みた。

 こういう時は素数だ、素数を数えるよう。

『三神、特級、上級、よりつむぎ、熟成麺』

 八幡、それ素数ちゃう、素麺や。いかん、混乱しているな、ここはまず一度深呼吸を……あ……ちょっと甘いいい匂い……ハッ 駄目だ、ここは完全に敵地だ! 衛生兵! 衛生兵! 至急救助求む! 衛生兵ー!

 

「いろはー? 八幡くーん? そろそろご飯できるけど……あら?なんだか楽しそうね?」

 

 そんなダウン寸前の俺を助けたのは思いがけない外からの呼び声だった、勢いよく部屋の扉が開き、もみじさんが入ってくる。俺はトリップしかけていた脳をリセットし、なんとか現実に戻ってくることができた。

 それにしてももみじさん? エプロンはともかくお玉持ってくるのはさすがに狙いすぎでは……? 

 

「ちょっとママ! ノックぐらいしてよ!」

 

 一色は慌てて俺から離れ、扉を閉めようと立ち上がった。反抗期だろうか? こいつ割と母親には当たり強いよな。家に友人が来ている時の小町の俺への対応と似ている。

 

「えー? もしかしてママお邪魔だった?」

 

 慌てる一色に、もみじさんはニヤニヤとした口元を左手で隠しながら、俺と一色を交互に見てきた。いや、やましいことなんて何もないが、そう見つめられるとちょっと居心地が悪い。

 

「お楽しみ中なら後にするけど……お夕飯どうする?」

「す、すぐ行くから。ほら、センパイも行きますよ!」

「お、おう」

 

 俺は一色に手を引かれながら立ち上がり、そのままリビングへと向かった。

 あ、やばい小町に夕飯いらないって連絡するの忘れてるわ。




今回色々悩みました。裏話は例によって活動報告で……。

それとは別に一点。
感想で
「会話と地の文の間を空けて欲しい」という要望がありましたので
試しに空けてみましたがいかがでしたでしょうか?

今回の形でよければ、これ以降もこの形で行きたいと思いますが。
もし「もっとこうした方が良い」というのかありましたら気軽にご意見頂けると嬉しいです。

感想、評価、コメント、誤字報告お待ちしています!


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第9話 家庭教師初日の終わりに

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告ありがとうございます。
評価数が100件を超えたようです! ありがとうございます!

※4/13 23:00 小町とのやりとりを修正・変更しました。


──Iroha──

 

 あれから、皆で夕食を食べ、またしてもママの質問攻めにあったセンパイが帰ったのは九時を回った頃だった。

 

「ふわぁぁぁぁ……」

 

 私はお風呂から上がり、完全に寝る準備を済ませるとベッドに身を投げ出し、大きなアクビをする。今日は疲れた……。朝からお昼にかけては部活の練習試合。夕方からは家庭教師。

 そして夕食。いつの間にか帰ってきていたパパと会った時のセンパイがビクッとしたのは忘れられない。凄い緊張した声で挨拶してたよね。正直ちょっと近づくのを躊躇ってしまいそうな状況を思い出し、クスクスと笑いが溢れる。

 

 そういえばいつもの四人掛けテーブルが埋まるのもなんだかちょっと新鮮な感じだったなぁ。お爺ちゃん達やお客さんが来る時はテレビの前のローテーブルか、和室を使う。四人掛けテーブルを使うのは本当に家族だけなのだ。まるで本当にセンパイが家族になったみたい。彼氏を両親に紹介するのってこんな感じなのかなぁ? まあセンパイは彼氏じゃないから今日のことは予行演習みたいなものだと思うことにしよう。

 

「でもママはやっぱり張り切りすぎだよね」

 

 今日のメニューはハンバーグだった。それも特大の。一個でもお腹いっぱいになりそうなのにそれがセンパイの目の前には三個。パパでも二個だったのに……。

 センパイもちょっと引いてたよね……。でも全部食べてたのはさすがに男の人っていう事なんだろうか。そんなに食べる人だとは思ってなかったからびっくりした。

 

 私は一個で十分食べ過ぎっていう感じ、明日ちょっと運動しなきゃ……あんなの一個でも太っちゃうよ……朝ご飯は軽めにしてもらおう。

 パパも一個だけ食べて後は残してたからやっぱり普通に多すぎたんだと思う。

 

「そう言えばパパも今日はご機嫌だったなぁ」

 

 やっぱりセンパイがいたせいだろうか? いつもはどちらかと言うと聞き手側なのに、ママと一緒になってセンパイにあれこれと話を振っていた。

 

「でも私の昔話とかはやめて欲しかった……」

 

 やれ『幼稚園の時の先生が初恋だった』とか『パパに抱っこしてもらわないと寝られなかった』とか『おむつが取れたのは何歳だった』とか。本当に信じられない!

 あー……思い出してきただけでも顔から火がでそう。

 そんな風に今日の出来事を頭の中で反芻しながら私は目的もなくスマホをいじり、今日のLIKEでのやり取りを見返していた。

 

 まずは部活関係。

 後輩マネージャーの子やキャプテンから色々連絡がきている。

 みんなから頼りにされるのは嬉しいけど、もう私引退なんだよね、来年とか大丈夫かな?

 今日の試合も三年生がほとんど出てなくて惨敗だったし、ちょっと不安。

 

 次はママ。

 

【八幡くん何時ぐらいに来るかわかる? ちゃんとお迎えに行ってね? あ、でもお買い物もあるしママが行こうか? 八幡くん嫌いなものとかあるかしら? 男の子だしお肉でいいわよね?】

【恥ずかしいことしないで! それにセンパイご飯は食べていかないって言ってたよ】

【ええ~? でも授業終わったら七時回っちゃうじゃない? お腹空いてると思うなあ。もうお米研いじゃったのよ? 残ったらいろはちゃん全部食べてくれる? 太るわよ? だから今日は食べていってって言っておいて? それで何時にお迎えにいけばいい?】

【あー、もう! 私が行くからママは家にいて! 】

【そう? それならお買い物もよろしくね♪】

 

 この後はずらりとお買い物リストが並べられている。我ながらよくこんなに沢山の買い物をしたものだ。正直重たすぎて家まで持って帰れるか不安だった。

 まぁセンパイが持ってくれたんだけど……あれには驚いたなぁ、ああいう事を自然にやる人だとは思わなかった。ちょっとだけ今日の評価をプラスしてあげてもいいかもしれない。でも意外と女性慣れしてたりするのかな?

 

 次にお爺ちゃん。

 

【今日八幡くるんだろ? 暇だし儂も行っていいか?】

【来なくていいから!】

【なんだ? もう二人きりにしてほしいのか? 進展早いな】

【早くないから! 第一あれ以来一回も会ってないよ!】

【なんだつまらん】

 

 全くお爺ちゃんは本当に何考えているんだろう? っていうかお爺ちゃんがセンパイの事好きなんじゃないの? 会いたいなら自分の家に呼べばいいのに……。

 そして次のメッセージが送られて来たのは私達が夕食を食べている頃だった。

 

【蛇々庵なう】

 

 蛇々庵は高級焼肉店だ。

 写真も添付されていて、そこにはお爺ちゃんとお婆ちゃんと、あと暗くて顔がよく見えないんだけど女の子……? が写っていた。すごく美味しそうなお肉をお箸で摘んでいる。

 私でも数年に一回連れて行ってもらえるかどうかのお店なのに! なんで孫の私を誘ってくれないの? っていうか誰この子……?

 拡大してみてみるけれど、やっぱりよくわからない。可愛い子、だと思う。多分私と同じくらいの年……? え? まさか援助交際……!?

 お婆ちゃんもいるし変な関係の子ではないよね?

 また許嫁とか言われたらどうしよう……隠し子とか……? 年が離れてるから隠し孫? 何をするか分からないお爺ちゃんの事だから可能性は十分ありえる。

 いや、多分ないとは思うけど……一瞬脳裏に浮かんだその考えが否定しきれず、その子が誰なのか結局聞く事ができなかった。

 今度お婆ちゃんにこっそり聞こう。

 

 最後にセンパイ。

 

【今日ってカテキョの日ですけど、ウチ来ますよね? 電車乗ったら連絡下さい。駅まで迎えに行くので】

【了解】

【今から電車乗る。十分位でそっちつくと思う】

 

 そして私からのスタンプが一つ。今日のやりとりの中では一番短い。

 この人、仮にも私の許嫁っていう自覚あるのかな? もうちょっとコミュニケーション取ろうとか考えないの?

 別に許嫁らしくして欲しいとかじゃないけど適当に相手されてる気がしてちょっとだけモヤモヤする。

 本当だったら【今日はお疲れ様でした】って送ったほうが良いんだろうけど……どうしよう? うーん、私から送ったら変に思われるかな?

 でも今日は割と楽しかったし、大丈夫だよね?

 そう、楽しかったのだ。目的が家庭教師とはいえ男子と自分の部屋で二人きりなんて初めてだし、会話が続かなかったらどうしようとか、実はちょっと、ううん、かなり警戒していたんだけど、駅に迎えに行ってからずっと自然に話題は出てきたし、授業の一時間も本当にあっという間だと思えてしまったのだ。

 多少挙動不審な所はマイナスだけど、全体でみれば割と紳士的で好印象、授業はほとんどしてないけど、教科書を見ている時の説明の仕方なんかは確かに頭も良さそう。それが家庭教師初日のセンパイに対する感想。

 これだったら来週以降もやっていけるかな?

 私はそんな風に今日の事を振り返りながらメッセージを打ち込む。

 

【今日はお疲れ様でした。お腹大丈夫ですか? 来週はちゃんとした授業お願いしますね? 次はお迎えにはいきませんので、よろしくお願いします♪】

 

 なんだか色々伝えようとすると妙に長くなってしまう、でも『お疲れ様でした』だけじゃ、あのセンパイは返信もしてくれなさそうだし、こんなもんかな?

 さて、センパイの返事は……?

 

【お疲れさん、腹は大丈夫だ、夕飯ご馳走様ですって伝えておいてくれ、んじゃまた来週】

 

 妙にぶっきらぼうな文面はセンパイの喋り方そのもので、何もしなくても頭の中で再生される、きっとあのやる気のない顔でこの文面を打ったのだろうというのが容易に想像できて思わず口元が綻んでしまった。

 

 

 

 

 

──Hachiman──

 

「ごみぃちゃん? ちゃんといろはさんにLIKEした?」

「ちょうど今連絡きたから返したよ、……ほれ」

 

 俺がスマホの画面を見せながらそういうと小町はウンウンと頷いた。

 

「って何これ……? これだけ? もっと色々書くことあるでしょうに……」

「今日は帰る時にも挨拶したんだからいいだろ……」

「ダメ! こういうちょっとしたコミュニケーションが大事なんだから! ちょっと貸して!」

 そういうと小町は俺からスマホを奪い、その場でしゃがみ込むと目にも留まらぬスピードでメッセージを入力し始めた。

 何を打っているのかと俺は小町の肩越しにスマホを覗き込む、すると、ふと鼻が嗅ぎ慣れない匂いを感じ取った。

 

「……お前なんか焼き肉臭くね? 今日焼き肉だったん?」

 

 その言葉で小町は一瞬ビクリと肩を震わせる。

 やばい、妹とは言え女の子相手に『焼き肉臭い』はさすがにまずかっただろうか?

 

 俺が一色の家で食事を摂ることになり、小町に【今日の夕飯いらない】とメッセージを送った後、秒で【え? はじめから作ってないよ?】と返ってきていた。一瞬泣きそうになったが。『作ってない』ということは残り物やインスタント食品、それか外食で済ませたという事だろう。もしひもじい思いをさせてしまったなら詫びをせねばならんが、この匂いは紛うことなき焼肉、焼肉弁当か何かだろうか?

 

「ぐふ……ぐふふ」

 

 しかし、小町からの返答はなくその後頭部から聞こえるのは妙な笑い声……笑ってる、でいいんだよなこれ? どうしよう小町が壊れちゃった。

 

「げへへ、実は小町は今日『蛇々庵』の焼き肉を食べてしまったのです」

 

 小町はとても中二の女の子とは思えない下卑た笑い方で振り返ると、器用に両手にスマホを持ちながらダブルピースを決めそう言った。俺のスマホとは色違いで妙にカラフルなカバーに包まれた小町のスマホを俺に見せつけてくる。そこには『蛇々庵』の看板の前で自撮りをする小町の姿が写っていた。

 

「なん……だと……?」

 

 有名芸能人御用達という超高級焼肉店『蛇々庵』……名前は聞いたことはあるが本当に実在するかどうかも定かではないというあの店にこの兄を差し置いて先に行っただと……?

 

「え? なんで? どう言うこと? 今日何かのお祝いなの? 俺全然知らされてないんだけどおかしくない?」

「おかしくないよ、お兄ちゃんはいろはさんの所でご飯食べてきたんでしょ? だから【はじめから作ってないよ】って返したじゃん」

 

 いやいや。俺出かける前までは、普通に帰って飯食う予定だったからね? たまたま一色の家でご馳走になる事になっただけであって、食べずに帰ってきてたら、俺抜きで焼き肉とか確実に泣いてたよ?

 とはいえ、もし焼き肉じゃなく、家に飯を用意されていても食えなかっただろう。なにぶん今日は食いすぎた。『夕飯いらない』と連絡したのが急だったという負い目もある。

 ここは小町に先見の明があったと褒めるべきなのだろうか? だが俺をハブにして焼き肉に行ったというのも事実だしなぁ、普通に文句を言っていい気もする、非常に判断に悩む案件だ。

 

「めっちゃおいしかった! です!」

 

 俺がこの焼肉娘をどうしてやろうかと悩んでいると、小町はウインクをしながら俺のスマホを放り投げた。

 慌ててキャッチする俺に「ナイスキャッチ」とサムズアップをすると、小町は『この話はおしまいだ』と言わんばかりにダダっと風呂へと走り去っていく。

 まあ、一色の家で出たハンバーグも美味かったからいいけどね……。でも後で親父は問い詰める。ギルティ。俺だって焼き肉は食いたい。そんな事を考えていると、廊下から再び小町の声がした。

 

「ねぇお兄ちゃん?」

「ん?」

 

 声がしたので廊下を覗き込むと、小町が上半身をタオルで隠したまま、風呂へと繋がる洗面所から顔をこちらに覗かせていた。その顔は先程までとは違い、その瞳はまっすぐに俺の目を見据えている。

 

「もう小町も子供じゃないんだから、あんまり気使わなくていいんだからね?」

「どういうこと?」

「ご飯、食べたければ外で食べてきていいんだよって事」

「いや、特別外で食べたいわけじゃ……」

「ま、いいや。それだけ」

 

 それだけ言うと小町は再び風呂場へと消えていった。

 一体なんなんだ……?

 俺は頭にクエスチョンマークをつけたまま、まだアプリが開かれたままのスマホを確認した。

 

【お疲れさん、腹は大丈夫だ、夕飯ご馳走様ですって伝えておいてくれ、んじゃまた来週】

【それはママに直接言ってあげてください。多分喜ぶので】

 

 食べたければってこの事か?

 一色からの返信が来ている以外特になにもおかしな点はない。小町は俺のスマホで何をしていたのだろう?

 俺は小町の意味深な言葉に占拠された頭で一色への返信を考え、文字入力画面を呼び出す、しかしそこには更に打ち掛けのメッセージが一つ残されていた。

 

『可愛い許嫁の手料理も食べたいな。ってお兄ちゃんが言ってました。兄の事よろしくお願いします♪』

 

 何打とうとしてるのあの子?

 危うく送信ボタン押す所だったわ。危ない危ない。トラップすぎるだろ。

 俺は誤送信しないよう慎重に一文字ずつメッセージを削除していく。

 しかし、その瞬間、タイミング悪くピコンと通知音がなり、一度スマホが震え、指先がほんの僅かにすべった。

 

【ママ今日はご機嫌だったのでセンパイが言えばまた作ってくれると思いますよ? 何かリクエストとかありますか?】

【可愛い許嫁】

 

 ああああ!?!!

 削除しきれなかったメッセージの一部が送信されてしまっている。夕飯のリクエストが可愛い許嫁とかこれもうセクハラじゃない……?

 こんなの送ったら一色のことだから……。

 

【え? なんですかリクエストが可愛い許嫁とか告白のつもりですか? 私LIKEで告白とかありえない派なのでせめて直接顔見ながら言えるようになってからにして下さい、ごめんなさい】

 

 ほら、フられた。知ってた。まさか家に帰ってまでフられる事になるとは思ってなかったわ。俺今日だけでフられすぎじゃない?

 

【すまん、妹が俺のスマホで遊んでた、今のは気にしないでくれ】

【はぁ? 都合が悪くなったら妹さんのせいにするのちょっとどうかと思いますよ?】

 

 いや、本当に小町のせいなんだけどね? これはもう明日お仕置きをするしかない。

 俺は一色への言い訳を打ちながら、そう決意し、なんだか色んな意味で痛み始めた胃だか腹だかをさする。

 今日は胃薬を飲んでもう寝よう……。




エイプリルフールネタに関しまして、「本編と直接関係ない(パラレル)なら別作品として投稿してほしい」というご意見をいただきましたので。
取り下げ、後日別作品として投稿しようと思います。失礼いたしました。

来週も土日ぐらいに更新できたらいいなと思っているのですが……
古戦場のためちょっと遅れるかもしれません……(同業の皆様頑張りましょう)

今回も読んでいただきありがとうございます。
ちらほらメッセージも頂きまして本当にありがたい限りです。
感想、評価、コメント、誤字報告お待ちしています!


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第10話 広がる"かもしれない"交友関係

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告ありがとうございます。
平成最後の投稿になります!ありがとう平成!

※前話(第九話)の小町の行動について修正が入っております。前話を投稿直後に読まれた方はお手数ですが一度ご確認いただけると幸いです。


 また一週間が過ぎ、総武高での初のテストが終わった。

 さすがに高校、しかも進学校というだけあってレベルが高い。一応全問埋めたが……数学、大丈夫かしら? 元々数学はそれほど得意ではないからなぁ……受験の時は必死こいて勉強したが、もし今もう一度総武を受験しろと言われたら正直受かる自信はない。

 そういう意味では一色の家庭教師にも不安はある。というか不安しかないのだが。まあその時はその時だ、なんとかなるだろう、きっと、多分。

 

 そんな事をぼーっと考えながら再びやってきた土曜日を家のソファでダラダラと過ごしていると、俺の周りをドタドタと忙しなく走り回る人物がいた。小町だ。

 俺のテスト期間が終わると入れ替わるようにテスト期間に入ったらしく、今日は友人と勉強会を開くのだそうだ。

 

 先週、妙なフラグを立てた様に感じた小町だったが。特に何か変わったわけでもなく、会話もいつも通りだった、少なくとも表面上は。

 表面上は、というのは今現在も謎が残されているからだ。

 あの日、小町が風呂に行った後。俺は親父に「俺も焼肉が食いたい」と催促に行ったのだが、親父とお袋はリビングでコンビニ弁当を食べていた……。

 どうやら小町と一緒に焼肉を食いに行っていたわけではなく、帰ってきたのも俺より少しだけ前で、何も食っていないらしい。

 そのうえ俺も小町も外食で夕食の準備をしていなかったので仕方なくコンビニで弁当を買ってきたのだそうだ。

 なんだろう、夜中にリビングで両親がコンビニ弁当を食べている図というのは凄く心に来るものがある、物悲しく、罪悪感に駆られるというか、あれが将来の姿かもしれないと考えるとちょっとだけ目頭が熱くなる。

 今度から少し優しくしてあげようと決意し、その日の俺は自室へと戻っていった。

 

 そう、残された謎とは、小町は一体『誰と焼肉を食べに行ったのか?』という問題だ。さすがに一人ということはないだろう。まさか彼氏……? いや、高級焼肉店ということを考えるならば少なくとも年上だろう。まさかパパ活!? ……いかんいかん、小町に限ってそんな事は……ない、と思いたいが……どうなんだろう? 女の子はわからんって言うしなぁ……。

 直接聞いてしまえば済む話なのだが、あの意味深なセリフを残した小町の事を考えると迂闊に聞いてはいけない気がしてしまい、お互いのテスト期間のすれ違いというのもあり、会話のチャンスを掴めないまま時間だけが過ぎてしまっていた。

 

 もしや、今日勉強会に来るというのがその相手なのだろうか?

 それならどんな手段を使ってでも確認したい……! 今日の家庭教師休みにして貰って勉強会の家庭教師しようかしら? しかし小町にこんな兄がいると悟らせるわけにもいかない。今日は一日ステルスモードでいなければ。

 

 そんな事を考えソファに倒れ込むと、ぬっと大きな影が俺の頭の上に落ちてきた。

 

「お兄ちゃん、これ今日食べていい?」

 

 よく見ると小町が紙袋を俺の頭の上に掲げていた。どうやら影の正体はこの紙袋らしい。

 

「これって……何それ?」

 

 俺は見覚えのない紙袋に頭をぶつけないようにソファから起き上がると、その紙袋を受けとった。なんだこれ? 中には包装された……お菓子の詰め合わせ……?

 

「ワンちゃんの飼い主さんがお礼にって持ってきてくれたお菓子」

「ワンちゃんの飼い主? ってあの事故の時の?」

「そそ」

 

 初耳なんですけど? そういやあのワンコどうなったんだっけか。いや、お礼に来たって事は無事なのか? 無事だよな多分? 無事だといってくれ。

 

「お兄ちゃんが入院してる時に来てくれたんだけど、ほら、縁継お爺ちゃんとの話し合いとか色々バタバタしてたじゃん? すっかり忘れちゃってて、小町ってばうっかりさん♪」

 

 テヘっと舌を出し、コツンと自分の頭を叩く。なんだか一色がやりそうなポーズだな、とか一瞬思ってしまう。女子とはかくもあざといものなのか。

 俺は箱の中身を確認しようと紙袋から箱を取り出し、包装紙を丁寧に開けていく。

 

「ちなみに賞味期限が来週までと書いてあるのであります!」

「そういう事は早く言えよ……」

「切れちゃう前にちゃんとお兄ちゃんに渡さなきゃなって……今の小町的にポイント高い!」

「いや、『渡しに来た』んじゃなくて『食べる許可もらいに』きたんだろ、別に高くないから」

 

 中を確認すると確かにお菓子の詰め合わせだった。クッキーやマドレーヌ、フィナンシェといった焼き菓子が中心のようだ。それぞれがきっちり個別包装され、一人ではとても食べきれない程の量もある。割とお高いものかもしれない。俺はフィナンシェを一つ手に取ると、透明なパッケージの封を切り、そのまま一口かじる。うん、うまい。

 

「ほれ、後は好きにしていいぞ」

「やたー! お兄ちゃんありがとー!」

 

 そう言うと小町は箱を頭の上に掲げ、再びドタドタとキッチンへと戻って行く。まあ賞味期限も近いようだし、客がいるならさっさと消費してもらったほうがいいだろう。俺は嬉しそうにお菓子を皿に盛り付けている小町の背中を見ながら「もう一個ぐらい確保しておけばよかったな」とちょっとだけ後悔し、手に残ったフィナンシェを口に放り込んだ。

 

*

 

 夕方に差し掛かる頃には小町の部屋はずいぶんと賑やかになっていた。

 いやいや、君たち勉強に来たんじゃないの? なんかずっと笑い声聞こえるけどちゃんと勉強してる? お兄ちゃんちょっと見てあげようか? と何度かアタックを仕掛けようかと思ったほどだ。まあ行かなかったけど。

 とりあえず、今日招いた客の中に男はいないようなので一安心。

 これで俺も心置きなくバイトに行けるというものだ。もし家に見知らぬ男と小町が一緒にいると考えたら家庭教師どころではないからな。

 俺は相変わらず笑い声の聞こえる小町の部屋をそっと通り過ぎ、家庭教師へ向かうべく家を出る。今日は土産は無しだ。毎回持っていくようなものでもないだろう。

 

 電車に揺られながら、一色の家へのルートを脳内で確認する、流石に今日は迎えにはこないだろうが、流石に迷うつもりもない。部屋番号だけはちょっと不安だ。一○……何番だっけ?

 まあマンションについたらポスト確認するかLIKEを送ろう。と考えながらスマホをいじっているとスマホがブルブルと震え始めた。

 去年までとは比べると、最近のスマホの稼働率は異常だ。二百パーセント超どころではない。

 毎日のように一色家の誰かから連絡が来るのだ。

 頻度が高いのはおっさんで、次に楓さん、そして先週増えたもみじさん、最後に一色と続く。

 そういえば今朝ももみじさんから【お夕食はなにがいいかしら?】って普通に来てたんだよな。一色からも似たようなメッセージがきたが。今日も夕飯食ってくことになるのしら? 一応【今日は遠慮しておきます】とは返しておいたが……。またもみじさんだろうか?

 

 しかし、予想を裏切って今回のLIKEは一色からだった。

 

【今、駅前のサイゼにいます】

 

 誰かに送るものを間違えたのだろうか? いや、このタイミングにこれが送られてくるということは誰かと一緒にサイゼにいるということだろう。

 授業を遅らせてほしいという事か。どうしよう。

 十分程度の遅れなら一色の家で待っているという選択肢もあるのだが、それより長いなら本屋か何かで時間を潰すか。それともいっそ帰るか。はぁ……面倒くさい。

 

【もう電車乗ってる、今日休みたいなら帰るが?】

【来て下さい】

 

 なんだろう? 単純に「今日は外で勉強したい気分なんですー!」とかならいいんだが、こういうのは嫌な予感がする。というか嫌な予感しかしない。そう考え俺は今自分に出来る最善手を考え、打ち込んだ。

 

【サイゼの前で待ってる】

 

 これなら誰かと一緒なら単純に待っていればいいし、そうでないにしても状況の確認が出来る。

 そして最悪逃げられる、ここ重要。店に入ってしまえば身動きが取れなくなる可能性もあるからな。

 

【なんでもいいから来て下さい】

 

 一体何なの? 理由のわからない呼び出しほど怖いものはない。呼び出しを受けた先で大体待っている事といえば罰ゲームだしなぁ。ソースは俺。用心しなければ。

 

*

 

 駅についたところで、俺はサイゼを探した。前回は目の前のスーパーに気を取られて見てなかったが、そもそもサイゼなんてあるのか? と思ったのだが普通にスーパーの隣がサイゼだったわ。

 とりあえず近くに行ってみるか、恐らく一色は中にいるのだろうから一人なのか、誰かと一緒なのかを把握しておきたい。俺のステルスを活かしたスニーキングミッションの開始だ。

 まずはばれないように人の流れに逆らわず、一度サイゼの前を通り過ぎ、一色の位置を確認する。中の様子を確認し、その後突入のタイミングをはかる。場合によっては即撤退。

 よし、完璧な計画である。

 

 俺は駅とスーパーをつなぐ横断歩道を渡り、サイゼの死角に入ると、一度立ち止まり、息を吐く。次に隣のスーパーから買い物客が出てきたのを確認すると流れに乗り、サイゼへ向かい歩き始めた。

 さて、一色はどこにいるだろうか、割と目立つ奴だから相当奥の席じゃなければすぐに見つかるとは思うのだが……。

 

 いた、一色だ。

 サイゼの入り口を通り過ぎ、半分ほどきたところで、一色を含めた男女三人が窓際のテーブルに座っているのを確認した。そして一色は思いっきり俺の方を見ていた。

 慌てるな、まだ慌てるような時間じゃない、俺のステルスは完璧だ、ここはまず一旦気づかなかったふりをして通り過ぎるのだ。前だけを見つめ慌てず騒がず、自然にサイゼの前を通り過ぎる。大丈夫、俺の計画に失敗などありえない。

 

 計画通り、角を曲がり、一色達が見えなくなった所で俺は一息ついた。

 さて、この後どうすべきか、一色は誰かと一緒だった。少なくとも一人は男。なんだか面倒臭そうだなぁ……。やっぱ先に家行っておくか?

 楽しそうなの邪魔しちゃ悪いし、とりあえず「先に行ってる」と連絡だけはして去ってしまうのがベストな気がする。

 そう思いスマホを取り出すと。ふいに背中を叩かれた。

 

「センパイ何やってるんですか? 不審者ですよ?」

 

 そこにいたのは。当然一色だ。

 

「不審者“みたい”じゃないのかよ」

「いやいや、お店の中ガン見しながら通り過ぎるとか明らかに不審者ですから」

「一色がどこにいるか探したんだが見つからなかったから、先に行ってようかと思ってな」

「さっき私と目、合いましたよね?」

 

 一色はジト目で俺を見てくる。おかしいな、俺のステルス機能は完璧なはずなのだが、こうもあっさり見破られるとは。一色いろは、意外と侮れない奴なのかもしれない。今後は要注意人物として記憶しておこう。

 

「いいから、とにかく来て下さい」

 

 そう言うと俺が何かをいうより先に一色は俺の手を掴み、サイゼへと引っ張り込んでいった、ものすごい吸引力だ。吸引力の変わらないただ一つのいろはす。

 

「ごめんねー、こちら、さっき話してた家庭教師の比企谷先生」

 

 一色に引っ張られ、サイゼの中へと入ると、先程一色が座っていた窓際の席で、立ったまま二人の前で紹介された。なんだろう、何かの宗教勧誘とかかしら? 怖い。俺金もってないよ?

 

「センパイ、こちらサッカー部で私と同じマネージャーの二年、浅田(あさだ)麻子(あさこ)ちゃんと、一年の竹内(たけうち)健史(たけふみ)君です」

 

 俺が固まっていると、今度は席に座る二人を紹介してきた。二年と一年、つまり女子の方は小町と同じ歳か。小町と比べると随分と大人っぽいな、敢えてどこがとは言わないが、すごく……大きいです……。

 んでもうひとりが一年と。やけに童顔だがすでにイケメンに育つんだろうなぁという雰囲気を醸し出している男子。中一ってことはちょっと前まで小学生だったってこと? なんか俺すげぇ老けた気分になるわ……。

 

「どうも」

「よろしくお願いします」

「お、おう、よろしく?」

 

 俺が二人を観察していると二人は軽く頭を下げ、挨拶をしてきた、慌てて疑問形で返してしまったのがちょっと恥ずかしい。

 

「というわけでお迎えも来ちゃったから、私帰らなきゃ」

「ちょ、ちょっと待って下さいよ一色先輩!」

「いや、でもほら先生に迎えに来られちゃったし、これ以上迷惑かけられないっていうか……」

 

 一色がちらりと俺の顔を見てくる、先生という慣れない呼び方にはちょっとだけ背中がむず痒くなる。いや、別に迎えに来たわけじゃないんだが……?

 

「仕方ないよ健史くん、今日の所はお開きにしよ?」

「でも……」

「まだ時間も少しあるんだし、ね?」

「……わかりました」

 

 渋々、という形で健史くんとやらは頷き、それぞれが荷物をまとめ始めた。

 あ、すみません店員さん、俺の分の水は結構です。もうお開きみたいなんで、何も注文せず申し訳ない。

 

「私達も来週テストですしね、またテスト明けにでも」

「うん、私も先生と少し考えてみるから」

「お願いします」

 

 一色のところも来週がテストなのか、この辺りの中学はどこもこの時期なのかもしれないな。となると今日の授業はそこらへんを中心にすればいいか。などとちょっと家庭教師っぽい事を考えていると

 「よろしくお願いします」と頭を下げられた。いやいや、俺は何考えないといけないの? 勝手に話を進めないで欲しい。俺には何が何やらよくわからないのだから、よろしくされても困る。

 しかし、俺を置いてけぼりにしたまま三人は席を立つと、予め決めていたのか割り勘で会計をすませ、手早くサイゼを後にした。

 

 とりあえず俺が金を払うような事態にならなくてよかった。本当によかった。俺の財布には福沢さんも樋口さんも野口さんもいないからな。もしここで軽く、なんて事になったら一色に金借りる所だったわ。危ない危ない。

 

「それじゃ、またね」

「はい、一色先輩、比企谷さん、お時間取らせてすみませんでした」

「テスト終わったらまたお願いします」

 

 一色が手を振ると、二人はそう言いながら頭を下げ、背を向け去っていく。一年男子の方は少し背中が丸まっており落胆しているような印象も受けた。もしかして一色に振られたんだろうか?

 だが、その様子を見てなんとなくだが俺が呼ばれた理由を理解した。

 恐らくだが俺はこの場を切り上げるきっかけ作りのために呼ばれたのだろう。その証拠に一色が横で小さく溜息を吐いていた。

 

「で、結局なんだったの?」

「あー、その……ほら、私サッカー部のマネージャーやってるじゃないですかぁ?」

 

 そうだったっけ? そういえば先週そんな事いってたような気もする。

 あれ? でも引退とか言ってなかったか?

 

「んー……まあ話すと長くなるので、帰ったら話しますね」

 

 いや、帰ったら勉強するんだよ?

 俺がなんのために来てるか覚えてる?

 

「ほら、急がないと時間なくなっちゃいますよセンパイ」

 

 しかし、そんな俺の考えなどお構いなしというように一色は勢いよく振り返ると俺の手を取り点滅を始めた信号に向かって走り始めた。




いろはす誕生日SSから2週間という時間があいてしまいました。すみません。
次話はもうちょっと早く上げられるよう頑張りたいと思います。
言い訳やなんやらは活動報告にて……。

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第11話 初めての相談事

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告ありがとうございます。
大分遅れましたが令和もよろしくお願いいたします!

前話は過去最高といっていいほどの誤字数でした。(汗)
沢山のご指摘ありがとうございました。



「んじゃ授業始めるぞ、教科書開いて」

 

 おお、まさか自分でこのセリフを言う日が来るとは思わなかったわ。まるで先生みたい。

 いや、家庭教師だから一応先生ではあるんだけどね。

 

「何言ってるんですか! さっきまでの流れ考えてくださいよ!」

 

 しかし、当の生徒様の方はご立腹のようである。

 これは早くも学級崩壊の危機かもしれない。困った、親に連絡とか入れたほうがいいのかしら? モンペじゃありませんように。

 

「お前来週テストなんだろ? 早くやらないと勉強時間なくなるし何より俺のバイト代に関わる」

 

 すでに時刻は十七時半を回っていた。俺達は一色の家につくと、もみじさんとの挨拶もそこそこに一色の部屋に連れ込まれた俺は、テスト前だからさぞや勉強がしたかったのだろうと気を利かせ、授業を始めたのだが。なぜか怒られるハメになっている。全くもって理解不能だ。

 ちなみにもみじさんは、『そこそこの挨拶』がお気に召さなかったらしく扉の向こうで「八幡くーん……」と何やら淋しげな声を響かせている。俺が何かしたわけではないのに妙な罪悪感を覚えるので一刻も早くやめて欲しい。

 

「ママうるさい! とにかく、そんな何事もなかったかのように授業なんてやられても頭に入りませんし、ちょっとは空気読んでくださいよぉ」

 

 全く失礼な話だ、俺ほど空気を読める男はそうはいない。もし空気が読めていなければそもそも俺はここに来ていない。きっと今日は小町のお勉強会に参加していただろう。

 なんなら小町の成長ダイアリーの一つとして録画、永久保存版にしてもいいレベルだ。だが俺は空気が読める男八幡。自重自重。

 そんな空気が読める男八幡だからこそ、サイゼで何があったかなど既にお見通しで、正直あまり関わりたく無いからこそスルーしようと思っていたのだが仕方がない、そんなに解決編をご所望ならばさっさと終わらせて授業に戻ろう。

 

「どうせアレだろ? あの二年のマネージャーっていうのと一年が付き合ってて、部内の誰かにちょっかい掛けられてるから何とかして欲しいとかそういうのだろ?」

「全然違います」

 

 あれ? 違ったみたいだ。

 

「じゃああれか、あの一年に一色が告白されてるけど、二年のマネージャーの方が一年の事が好きとかいう三角関係」

「全っ! 然! 違います!」

 

 あれれぇ? おかしぃぞぉ? どうやらこの件は迷宮入りのようだ。あとは眠りの八幡に任せた方がいいのかもしれない。

 

「あ、でも。健史くんが麻子ちゃんの事好きっていうのはあると思います。なんか幼馴染らしいですよ? 最初に相談したのは麻子ちゃんみたいですし、そこから麻子ちゃんが私に相談っていう流れなのでむしろ私がお邪魔虫みたいな感じで失礼しちゃいますよねー」

 

 幼馴染キャラなのかよ。リア充爆ぜろ。

 

「やっぱ恋愛絡みじゃん……そういうのは俺パス」

「違うんですよ、なんていうか、サッカー部のトラブルなんですけど」

 

 一色はそう言いながらガラリと机の引き出しを開けた。

 どうやらもうこの話を聞かないと授業には戻れないらしい。

 はぁ……仕方ない、これも仕事のうちか……。俺は諦めて先週と同じクッションに腰掛けた。

 

「私と同じ三年はちらほら引退してて、そろそろ次期部長を決めないといけないんですよ」

 

 一色は、開いた引き出しから小さなアルバムらしきものを取り出すと、それを俺に渡してくる。

 見ろ、ということなのだろうか。俺がそれを受け取りペラペラと捲ってみると、中には青春真っ盛りという感じのサッカー少年たちが多数写真に収められていた。所々には一色や、先程サイゼで会った女子も写っている。

 しかし、全体的にイケメンが写真の中心にいる比率が多いのは気の所為だろうか。

 

「それで、その次期部長に一年の健史くんが推薦されてまして」

「推薦?」

「はい、二年のメンバーほぼ全員から」

 

 二年全員というのはまた相当な人望の持ち主なのだろう、あの一年がねぇ……。

 

「あいつそんなにサッカー上手いの?」

「あ……うーん……下手ではないと思うんですけど、一番上手とかではないですね、三年のいない今ならスタメンにギリギリ入れるか入れないかぐらいだと思います」

 

 まあ、そういう事もあるか、部長となるとワンマンでやってくわけにもいかないだろうし、作戦を考えたりするのも必要だろう、実力より人望があるならそれでいいのではなかろうか。

 

「まあ。そんなに推薦されるほどの人望があるなら、それでいいんじゃないの?」

「違うんですよー、人望とかそういうのでもないんです」

「どういうこと?」

 

 俺が問いかけると、一色は俺の手元からアルバムを奪い取り、素早い手付きでページを捲っていった。

 

「ここ、ここ見て下さい」

 

 一色が開いて見せたページにあったのはおそらくはサッカー部の集合写真。隅の方には女子二人、一色と先程サイゼで会った女子も写っている。

 

「この真ん中に写っているのが現部長なんですけど、何か気が付きませんか?」

「部長? ったって会ったこと無いし……」

 

 一色が指さした先にあった集合写真の中央には明るい茶髪を後ろで纏めた妙にちゃらそうな男が写っていた。一体何に気がつけばいいんだろうか? と思った所でふと、どこかで見たような、そんな軽い既視感を覚えた。

 

「さっきの一年に似てる?」

 

 その写真に写ったチャラ男は髪の色こそ違うものの先ほどサイゼであった一年生と全体的に顔の作りが似ている、目元の当たりはクローンかと見紛うほどだ。

 

「正解です! 竹内健大(たけひろ)君、さっき紹介した健史くんのお兄さんなんですよ」

 

 サッカー兄弟なのか、兄弟で同じ事やれるのはメンバー集めに苦労しなくてよさそうでちょっとだけ羨ましい。俺なんて基本一人だったからな。まあ今もだけど……。

 

「実は先週、三年生を抜いた二年中心のチームで初めての試合があったんですけど。見事に惨敗しまして……」

 

 三年生がよっぽど強いチームだったんだろうか? まあ試合なんて時の運ともいうから、そういう事もたまにはあるのだろう。

 

「結果を報告して怒られるのを嫌がった二年生が事前に『やっぱり三年生がいないと駄目だ』とか『部長はやっぱりすごい』とか持ち上げ始めてですね」

「部長の弟も凄いに違いないから次期部長にしましょうとか? まあ流石にないか」

「……正解です」

 

 ちょっとボケたつもりだったのだが、ここにきてまさかの正解を引いてしまった。どうやら俺は意図せず正解を導くタイプの探偵らしい。真実はいつも一つ!

 

「馬鹿なの?」

 

 一色は、こめかみを抑え、溜息をつきながら小さく「はい」と答える。

 

「じゃあその兄貴の部長とやらに直接話してやめてもらえば? 兄弟なら話ぐらい家でできるだろ」

「いやーそれがですねー……、もう話したらしいんですけど、どうせ他に候補もいないし二年も頼りにならないから、このまま健史くんが部長でもいいんじゃないかと言われたそうです」

 

 二年生ダメすぎじゃない? 一人も候補いないのかよ。部長に一年を推す件といい、単純にやる気が無いのかもしれない。

 

「それで、一応話し合いの結果引き継ぎをするときに決をとって、反対多数なら別の人選を考えるって言ってるらしいんですけど……」

 

 つまりは信任投票みたいなもんか、それなら首の皮一枚だが、まだ猶予は残されているという事になる。うまくやれば回避はできるかもしれない。

 

「それなら反対票稼ぐしか無いな、他の三年は?」

「部長の案に賛成してるみたいです……」

 

 二年が言い出しっぺで、三年が賛成してるならほぼ詰みじゃねーか。

 首の皮なんてなかった。

 

「まあ、そんな状況なんですけど、健史くんはまだ中学に入ったばかりだし、それこそ部活に入ってからは一ヶ月たってないので、なんとか辞めさせて欲しいって事で相談されてて……どうしたらいいですかね?」

 

 確かにそんな状況で「お前が部長だ」と言われても困るだろうなぁ。俺だったら断固拒否する。っていうか部活やめるまである。あ、やめればいいじゃん。

 

「部活やめちゃえば?」

「健史君、サッカーは続けたいらしいんですよ」

「別に学校のサッカー部じゃなくても適当に続ければいいんじゃないの? リフティングとか一人でも出来るだろ」

 

 俺がそう言うと何故か一色はまるで地球外生命体を見るような目で俺を見てきた。

 何かおかしなことを言っただろうか?

 もう一度自分の言葉を思い返してみてもシンプルかつこれ以上無い模範解答だと思うのだが……。

 

「センパイ……それ本気でいってますか……?」

「な、なんだよ」

 

 俺は野球を一人でやっていた男だぞ。自分で打ち上げたボールを、自分で取る遊びに比べればリフティングというきちんとした種目名があるサッカーなんて恵まれているじゃないか。と抗議しようと思ったが、一色は変わらず「うわぁ」と明らかに引いているようなので、この件をこれ以上追求するのはやめておくことにしよう。ちくしょう。

 

「じゃぁ一回やめて、部長選考が終わったら戻る」

「それはそれで気まずくないですか? これから三年まであるんですよ?」

 

 いちいち注文の多い依頼人である。サッカーがやりたくて部長にはなりたくないというだけなら、そういった答えもありだと思うのだが、どうもここらへんは納得してもらえないらしいな。ふむ、ここは一つ正攻法で考えてみるか。

 

「一色の目から見て他に部長になれそうなのはいないの?」

「少し前なら最悪次の部長はこの人かなぁ? って思ってた人はいるんですけど、正直今こういう状態なんで、なりたがらないと思うんですよねぇ……」

 

 最悪レベルなのか……。まじ何してるんだ二年。逆にそこまでだと、ちょっと見てみたくなってくるな。

 だがまあ、すでに次期部長候補が噂されている状態でも「自分がやります」なんて主張できる奴がいたら、そもそもこんな話にはなってないのだろう。

 

「どうにかなりませんかね?」

「放っておけば?」

「それが出来ないから相談してるんじゃないですかー、私敏腕マネージャーで通ってるから無視もできなくて超困ってるんですよー、なんとかしてほしいですー」

 

 サッカー部の敏腕マネージャーとか一体何してたらなれるんだろうか。

 パーフェクトコミュニケーション取り続けてんの? いっそトップアイドル育成してみないか? 一色P。いや、一色はむしろ育成される側か。

 亜麻色のきれいな髪、長いまつげ、大きな瞳に小さな口。まさにアイドルにはうってつけだろう。歌が上手いかどうかは知らんけど。

 

 そのアイドルレベルの女の子と今部屋に二人きりなんだよな……。

 

 ふいに脳裏をよぎった現状の再確認。なぜこのタイミングで、とは思うが一度認識してしまった事は消えてはくれない。

 俺はなんだか気恥ずかしくなり、思わず一色から目を反らしてしまった。一色はそんな俺の様子を見て、不思議そうに首を傾げている。

 冷静に、冷静になれ八幡。今まで問題なかっただろう?

 

「こ……顧問は何か言ってこないの?」

「先生は『生徒の自主性を尊重』とかっていって基本放置気味なんですよねぇ」

 

 なんだよそれ……仕事しろよ顧問……。バッドコミュニケーション。

 でも部活の顧問って大して給料にならない割に責任は重く、拘束時間が長いとも聞いたな。一概に顧問が悪いとも言えないのかもしれない。結論、社会が悪い。

 そんな風に俺が一色と二人きりという事実から目を逸しつつ、社会の闇について考えていると、コンコンとドアが叩かれる音がした。

 振り返ると、半分開いた扉から、片手でお盆を持ったもみじさんが手を振っている。

 いや、この距離でそんな振らなくても……え? 振り返さなきゃ駄目ですか?

 

「どう二人共? お勉強はかどってる? 麦茶持ってきたわよ」

「いえ、全然勉強してくれなくて困ってます」

「センパイ!!」

 

 抗議の声を上げる一色だったが、俺はウソは言っていない。文句があるならきちんと勉強をしてからにしてほしい。

 

「あらー駄目よ? 先生の言うことはちゃんと聞かなくちゃ」

「ちゃんとやってるから大丈夫だってば、ほらほら、お夕飯の準備があるでしょ」

 

 もみじさんに窘められた一色は、すっと立ち上がり、もみじさんを回れ右させると、その背中を押し、部屋から追い出した。あまりにも自然なその動作に少し感心してしまう。

 

「はいはい、邪魔しないで、出ていって」

「えー……? もうー……。 じゃあまた後でね、八幡くん」

「あ、はい、お茶ごちそうさまです」

 

 入ってきた時同様、閉まる扉から、手を振るもみじさんを送り出し、一色が再び自分の椅子へと腰掛ける。

 

「んじゃ、そろそろ勉強始めるか、マジでテスト近いんだろ?」

「うーん……それはそうなんですけどぉ……。センパイ、来週またサイゼで集まりませんか?」

 

 しかし、一色はまだ次期部長問題から頭が切り替わらないのか、妙な提案をしてきた。

 

「は? なんで?」

「また話し合いするので、今みたいに色々アイディア出してくださいよ」

 

 え? なにそれ、やだ面倒くさい。

 

「やだよ、面倒くさい」

「お願いしますよー。頼られるのは嬉しいんですけど、私だけだとプレッシャーも凄くて……このままじゃ解決するまでつき合わされそうですし、さすがにそれはセンパイにも悪いかなって……」

 

 それは暗に俺もつき合わされるという事なのだろうか?

 なんかおかしくない?

 

「そもそも他校の、しかも中学の部活の問題に俺が参加するのおかしいだろ……」

「ぶー……」

 

 一色は頬を膨らませ、顔全体で不満を表現している。

 しかし、それは全力で頬を膨らませたわけではなく、あくまで控えめに子供っぽくそれでいて可愛く見える自分をよく計算された仕草だった。

 

「あざとい」

「あざとくないですー!」

 

 「すー」の口のまま数秒止まる一色、やはりあざとい。

 一体誰がこんなあざとい子に育てたんだろう。

 ふと、もみじさんが持ってきくれた麦茶に視線を貶すと、中の氷がハート型にかたどられていた。なんというか、細かい所まで余念のない人だ。あぁ、この人に育てられたんだなと色々納得してしまえる。

 

「ほら、そろそろ真面目にやるぞ、もう大分時間無駄にしてる」

「女の子との会話を無駄って……センパイ本気で言ってますか?」

「当たり前だろ、こっちは時給貰ってここ来てるんだぞ」

 

 まだ給料は貰ってないけどね。というか時給はどこからカウントされているんだろう? タイムカードみたいな物はないのだろうか?

 遅刻した分がマイナスされているならその分の補填はどこかでしたい。

 

「まぁ、何か思いついたら言うから、とりあえず今は勉強してくれ。じゃないとおっさんに何言われるかわからん」

 

 実際おっさんはそんな事気にしなそうではあるが、一応雇用主だ、ある程度は家庭教師という形に沿ったほうがいいだろう。

 そんな俺の言葉に一色は納得したのか、はたまた諦めたのか、そのまま「はぁ」とこれみよがしな溜息を吐き、ノロノロと教科書とノートを机の上に出し始めた、ようやくやる気になってくれたようだ、よし。

 あ、でも……何したらいいんだっけ?

 

「あー……で、何しよっか?」

「この状況で先生がソレを聞くんですか……?」

 

 本当にこんなんで金貰えるのかしら、俺。




次回!久しぶりにあの人が登場!
(内容は予告なく変更される可能性がございます(保険))

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第12話 おじいちゃんといっしょ

一ヶ月も投稿が遅れてしまいました。申し訳ありません!

そして私はサブタイを考えるのを諦めた……


「よぉ、八幡、やってるか?」

 

 ようやくテスト勉強モードに切り替わった俺たちの静寂を破ったのは、おっさん事、一色の祖父縁継(むねつぐ)だった。

 

「おっさん?」

「お爺ちゃん!?」

「お、やってるな? 感心感心」

 

 派手なアロハシャツと短パンという夏を先取りした風貌のおっさんは、まるで行きつけの居酒屋にでもやってきたかのようなテンションで片手をあげながら満面の笑みで部屋の中へと入ってくる。

 そのガタイの大きさも相まって正直知り合いじゃなかったらちょっと怖いレベルだ。

 

「ちょっと、ノックぐらいしてよー」

「まぁ、そう硬い事いうな」

 

 おっさんはガハハと豪快に笑うと俺の背中をバンバンと叩く。

 いや、なんで俺? 今の流れだったら叩かれるのはどう考えても一色だろう。理不尽だ。

 痛い痛い、昨今は布団を叩く時もそっとホコリを落とす程度の強さでって言われてるでしょ。そんなにしたら中の八幡が痛んじゃう!

 

「それで、今日はどうしたの?」

 

 一色の問いでようやく、おっさんの八幡叩きが終わる。助かった。

 赤くなってないかしら……?

 

「ああ、知り合いから良い魚を貰ったんでな、持ってきた。授業は終わりにして飯にしよう」

 

 そう言うとおっさんは今度は俺の方をみながらサムズアップを決める。

 いや、そんなドヤ顔されても……。

 そもそも、まだあなたに言われた家庭教師の時間終わってないんですけど? 

 時計の針は十九時十五分前を指している。

 正直俺が来てから一時間も勉強してないのではないだろうか? これでいいの? 雇用主が言ってるからいいのか?

 

「……んじゃ、今日はここまでだな。あとはまた来週ってことで」

 

 俺は手にしていた教科書を一色の机に置くと、そのまま帰り支度をしようと、一色に背を向けた。まぁ支度と言っても荷物はないのだが。

 しかし、その瞬間、大きなおっさんの手が俺の左手首を掴んだ。

 

「おいおい、どこ行こうとしてんだ?」

「え……? だって飯なんだろ? 仕事終わったなら俺は帰る」

 

 至極まっとうな事を言ったつもりだったのだが、何故かものすごい呆れ顔で返された。なんだって言うんだ……。

 

「あのな、聞いてたか? お前のために持ってきたって言ったんだぞ? ちゃんと食ってけ?」

 

 おっさんはまるでワガママを言う幼子を諭すような口調で俺の両肩に手を添えながらそう告げてきた……ん?

 いや、言ってなくない? 言ってないよ? 『俺のため』とか一言も言ってないよ?

 現実にバックログが実装されていたら確実に読み返している所だ。どう考えても言ってない。

 っていうか今どきバックログもないゲームってどうなの? 現実やっぱクソゲーだわ。

 

「センパイ、何か用事でもあるんですか?」

「いや、特にはないが……小町一人にもしておけないんでな」

 

 土曜だし恐らく両親どちらかが帰ってくるとは思うが。先週のように急用で遅くなるという事も少なくない。

 今日は流石に帰らねば、また小町が一人でよからぬ輩と外食という事にも成りかねないしな……。

 

「ああ、小町ちゃんなら今日は友達と外食するらしいぞ?」

 

 しかし、俺の心配事に対する解答を口にしたのはおっさんだった。

 

「は? なんでおっさんが知ってんの?」

「なんでって……連絡もらったからなぁ?」

 

 何故かおっさんが「何いってんだこいつ?」みたいな顔をして。自分のスマホ画面を俺に見せてきた。

 そこには『今日は友達と勉強会を兼ねて外食です』というメッセージとともに数人の友達と一緒にファミレスで楽しげにしている小町の写真が添えられていた。

 嘘……だろ……?

 俺は慌てて自分のスマホを開いてみる、だが新着メッセージは無い。

 小町ちゃん……? 連絡先間違えてない?

 

「あれ? この子もしかして先週の焼肉の子?」

 

 俺が少しだけショックを受けていると、一緒におっさんのスマホを覗いていた一色が、何事かつぶやいた。

 ん? 焼肉の子?

 

「ああ。小町ちゃんだ。八幡の妹だぞ可愛いだろう?」

「ええ!? 焼肉の子がセンパイの妹!? 本当に!?」

 

 なんだか凄い驚愕の目で見られているが、紛うことなき事実だ。血縁関係を疑うのはやめていただきたい。そしてその焼肉の子というのもやめてもらいたい。なんか大食いキャラみたいだろ。

 

「っていうか、 焼肉の子ってなに?」

 

 確かに小町は先週焼肉食ったらしいが、なんでそんな有名になってるの? 俺の知らない間に千葉で有名な焼肉娘にでもなったの?

 売れない地方のアイドルみたいだな。

 いや、確かに小町は我が家のアイドルだけども。

 

「なんだ、聞いてないのか? 先週小町ちゃんが夜一人だって聞いて、焼肉連れてったんだ」

「それで、多分その時の写真が私に送られてきました」

 

 そう言いながら今度は一色がスマホの画面を見せてくる、ちょっと薄暗くて顔が判別しにくいが、俺には分かる、このフォルム確かに小町だ。

 って、あんたが連れてったのかよ……。ガチでパパ活とか想像しちゃったよ。

 なんか、色々考えて損した……、そりゃそうだな、うちとは縁のない高級焼肉店にぽんと連れ出してくれそうな人、この人ぐらいしか思い浮かばないわ。

 

「お前、家庭教師の契約する時『遅くまでかかると妹が一人になるから困る』ってごねてただろ? だから一応こっちでもフォローしようと思ってな、ご両親の了承も取ったぞ?」

 

 そういえばそんな事を言ったような気もする。あの時は契約書から逃れるために色々適当な事もいったからなぁ。

 まさかおっさんがそれを覚えているとは、おっさんの記憶力恐るべし。

 っていうか俺、あの時余計なこと言ってないよね? なんかちょっと怖くなってきたな。割と適当にその場しのぎなことを言った気がするが、なんか不利な事言ってたら最悪「言ってない」でごり押そう。現実にバックログ機能ついてなくてよかったわ、現実マジ神ゲー。

 

「まあ、そういう事で今日はこっちに来たってわけだ。沢山あるからしっかり食ってけよ?」

 

 半ば放心状態の俺は、おっさんに引きずられるように、そのままリビングへと向かう羽目になった。はぁ……。

 

「ちょ、ちょっと待ってよお爺ちゃん! 私の事忘れてない?」

 

 そんな俺達を見て、一色も慌てて机の上を片付け、追いかけてくる。

 こいつ片付けるのは早いな……こんなんで本当にテスト大丈夫なんだろうか? あとで点下がったとか言われても俺責任とれないからね?

 

「連れてきたぞー」

 

 一色よりひと足早く、廊下を抜けると、そこには見知った顔があった。

 

「八幡くん、お久しぶり」

「あ、ども、お久しぶりです」

 

 楓さんだ。まあおっさんがいるのだし、居るのが当然といえば当然か。もみじさんと一緒に忙しそうに料理を運んでいる。

 今日は先週とは違い、テレビの前のローテーブルに大量の料理が並べられていた。

 香ばしい食欲をそそる香りが辺りに充満し、テーブルの上には湯気が漂っている。

 

「あれ? ママ、パパは?」

「急なお仕事だって、今日は泊まるかもっていってたわ」

 

 一色の問いに答えたのはもみじさんだった。

 休日出勤だろうか? どうやら一色父もうちの両親同様それなりにブラックな所にお勤めらしい。相変わらず不景気な日本はブラック企業だらけのようだな、働きたくないでござる。

 

「さ、そんな所に立ってないで、座って?」

 

 俺は促されるままに、席に付いた。

 正面におっさん、左側にもみじさんと一色、右側に楓さん。そして俺が一人という並びだ。定位置が決まっているのだろうか?

 そういえば……ここには楓さん、もみじさん、それに一色と一色家の女性が勢揃いしているんだよな……。

 こうやって見ると似ている、というのももちろんだが。ちょっとした進化の過程のようだ、一色は確かに整った顔立ちをしているが、楓さんやもみじさんと比べるとまだまだ幼さが残り、発展途上という印象を受ける。楓さんももみじさんもそれぞれが上位互換のような存在なので、見ていて面白い。ポ○モンの進化図のようだ。イッシキー! ゲットだぜ!

 

「センパイ? 何か失礼な事考えてませんか?」

「べ、別に何も考えてねーよ」

 

 だめだ!、イッシキーはボールから出てしまった。

 なんだろう、こういう所、妙に鋭いんだよなぁ……。

 別に卑猥な妄想をしていたわけではないが、ちょっとだけ恥ずかしくなり俺は一色から目をそらした。 

 

「ささ、いただきましょ? 八幡くんもいっぱいあるから遠慮なくおかわりしてね?」

 

 先週もそうだったけど、俺、フードファイターか何かと勘違いされてない?

 正直そんな食う方でもないので沢山用意されても困るのだが……。

 今日は無理せず、食事を楽しませてもらおう……。

 

「そんじゃ、食うか、いただきます」

「「「いただきます」」」

 

 おっさんの合図で一斉に皆が手を合わせ、食事を始める。

 俺は一拍遅れて、いただきますと呟いた。

 

「それで、どうなんだ? 家庭教師の方は?」

「うーん、どうなんですか? センパイ?」

「俺の評価を俺に聞くなよ……」

「だって、今日だってほとんど勉強なんてしてないじゃないですかぁ?」

「それはお前が変な話ふってくるからだろ……」

「変な話なんてしてませんよ! ちょっと相談に乗ってもらっただけじゃないですか! お祖父ちゃんこの人家庭教師向いてないから他の人にして!」

 

 やいやいと文句をいう一色を無視して、箸を進めると、おっさんは豪快に笑い、もみじさんが「じゃあ私の家庭教師を頼もうかしら」などとよくわからないアピールをしてくる、楓さんはそんなやりとりを「あらあら、うふふ」と眺めている、なんなの? 十七歳なの? おいおい。

 

「それで、相談ってのはなんなんだ?」

「実はね……」

 

 おっさんがビールを片手にそう問いかけると一色はゆっくりと先ほど俺に話した内容を話し始めた……。

 

*

 

「……うっ」

「センパイ、大丈夫ですか?」

「あー……なんとか……」

 

 結局、今日も必要以上に食べてしまった、ただ先週よりはいくらか楽だ。単純に美味かったというのもあるが、肉と魚の差だろうか?

 俺は残っていたお茶を飲み干し、ふぅと息を吐く。

 

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした、お口にあったかしら?」

「はい、美味かったです……ごちそうさまでした」

 

 俺はもみじさんにそうお礼を言い、食器をキッチンに運び、今度こそ帰り支度を始めると、おっさんが立ち上がった。

 

「んじゃ八幡、行くか?」

 

 え? 何、怖い。

 まだ何かあるの? もう帰りたいんですけど……。

 

「……行くってどこに?」

「帰るんだろ? 駅まで送ってく」

 

 俺が当然の疑問をぶつけると、あっちもまた『当然だろう』という顔で告げてくる。しかも顔が赤い。照れているのではない、酒が入っているのだ。

 

「いや、いいよ。駅近いし」

「まぁ、そう言うな、アイスぐらい奢ってやる」

 

 正直今はもう何も腹に入れたくないし酔っぱらいに送って貰うのも怖いので断ろうとしたのだが、おっさんは慣れた手付きで財布と鍵をポケットにしまうと、さっさと玄関へと向かっていってしまった。

 

「ちょ……!? あ、じゃぁ、お邪魔しました」

 

 俺は慌てて挨拶を済ませ、おっさんの後を追いかける。後ろからはもみじさんと楓さんの「またね」という声が僅かに聞こえた。

 一色は……恐らくもう部屋に戻ったのだろう。少しはテスト勉強していてくれるといいが……。

 

 廊下を抜け、おっさんを追いかけると、おっさんはエレベーターが来るのを待っていた。他には誰もいない。

 俺が横に並び、黙ってエレベーターのランプを見て待っていると、おっさんが背中越しに話しかけて来た。

 

「それで、どうなんだ?」

「どうって?」

「家庭教師とか、いろはの事とか」

「家庭教師は……正直うまくやれてるとはいえない……。というかこの二回分の給料もらうのも悪いぐらいだ」

 

 到着したエレベーターに乗り込みながら、俺は正直にそう告げると、おっさんは大きな声で笑いだした。誰もいないけど防犯カメラついてるからね? あんまり恥ずかしい事しないでくれる?

 

「はっはっは。そうかそうか。それはそれでいいさ。その分いろはとは仲良くできてるみたいだしな」

 

 仲良く、出来ているのだろうか?

 なんだか適当にあしらわれているだけな気もするが。

 

「あいつはな、やたらと人に愛されたがる。まあ、それは儂らのせいかもしれんが……。建前とはいえお前という家庭教師の前で“フリ”でも勉強しないで素の自分を見せているっていう事は心を開いている証拠だろうよ」

 

 なんだそりゃ、っていうかそれだと俺には愛されたくないって事になるんじゃないですかね?

 一階に到着したエレベータを降り、エントランスを抜けると、外は随分暗くなっていた。

 

「しかし、『給料を貰うの悪い』か……お前がそこまで律儀に仕事をこなそうとしてくれていたとはな」

 

 明らかに何かを勘違いしたおっさんが期待した目でニヤニヤと俺を見つめてくる。

 別に律儀ではない、百点満点の仕事をするつもりはないが、金が関わってくる以上、せめて及第点は取っておきたいというだけだ。

 俺がいることで受験生の勉強時間を削っているという事になれば流石に俺も良心が痛むしな。 

 

「そりゃするだろ……金貰うんだし、一応初めてのバイトだし……受験なんて大事な時期じゃ責任も取れない……」

「責任ねぇ……まあ俺としては別の方法で責任を取ってくれりゃいいんだが……」

 

 おっさんがチラリと横目で俺を見てくる。

 別の責任というのは恐らく『教師としての責任』ではなく『許嫁としての責任』という意味なのだろう。だがどちらも御免こうむりたい。

 

「じゃあな、さっきいろはが話してた相談事、アレ解決してみせろ。それで、お前の中の罪悪感はチャラって事で、どうだ?」

 

 相談事。正直俺がその話題には触れる事はもうないと思っていた。

 食卓で同じ相談がおっさん達にされた以上、あとは適当に解決されるだろうからだ。

 もっとも、その食卓では解決案が出ることはなく、一色は不満を漏らしていたが……。

 だが、その状況で俺が恩着せがましく一色を助けようとすれば確実に気持ち悪がられるだろう、ソースは俺。

 一色を助ける理由がない以上、俺が口をだすのは間違っている。

 しかし、その理由が今、目の前に用意されようとしていた。

 

「解決つってもなぁ……俺に何か出来るとも思えないんだが……?」

「でも、ずっと考えているんだろ?」

 

 おっさんが不敵に笑う。図星だった。

 一体このおっさん何が見えているの? ちょっと怖いんだけど。

 そもそも俺は『誰かに相談される』という事自体に慣れていないのだ、解決できるかどうかは別として、相談された時から、助ける理由がなくとも、解決策を考えてしまっている自分は確かに存在していたのだ。これはぼっちの宿命とも言っていいだろう。

 とはいえ、学年、学校が違うからなぁ。手を出しようがないのも事実で、具体的な解決策は思いつかない。俺に出来ることと言ったら……。

 

「……せいぜいアドバイスをするぐらいしか出来ないぞ……?」

「だったら、アドバイスしてやればいいだろう?」

 

 俺の精一杯の抵抗に、おっさんはさも当然という風に答えると、少しだけ歩みを早めた。

 アドバイスでも構わないらしい。では、一体どんなアドバイスをすればいいのか?

 部長にはなりたくないという『竹なんとか弟』は部活をやめるという手段は取りたくないという。

 ならばアプローチすべきはその弟を部長にしたい『竹なんとか兄』と三年連中。こいつらを説得できるような材料が欲しい。

 二年を部長にした方がメリットがある事をうまく提示できればよいのだが、現状ではその二年が癌になっているので、正直詰みではないかと思う。やはり一度部活を辞めて、ほとぼりが冷めた頃に戻ってくるのがベストじゃないだろうか? だがこの案は一色により却下されている。堂々巡りだ。

 何か部長をやれない理由を作るか、部活は続けられるが部長にはなれない理由があれば……

 

「……部長に相応しくないという噂を流して、信用を落とす……?」

「ほう? それで解決するのか?」

「部長候補のやつが実は金遣いが荒くて部費を使い込む可能性があるという噂を流すとか……」

「はっはっは! やっぱ面白いなお前!」

 

 俺の案を聞くなりおっさんは、人目をはばからず手を叩いて笑い始めた。

 完全に酔っぱらいだ。一緒に歩くのが恥ずかしい。

 

「まあ、その方法が成功するかどうかは別として。そもそもお前、その部長候補のなんとかって奴と親しいのか?」

「いや、全然」

 

 今日ちょろっと会っただけだし、なんならもうすでに顔もうろ覚えだ。というか兄と弟の名前がもう区別できる自信がない。『竹なんとか』なのをギリギリ覚えているぐらい。

 

「じゃあ、そいつをどうしても部長職から助けてやりたい?」

「まったく」

 

 ぶっちゃけ、かなり詰められている状況っぽいので、どちらかというと相談された一色が可哀想なんだよな。もし一色が選手であればもう少し方法はあったかもしれないが、顧問が口を出さないという環境で、マネージャーがそれほど強い発言を出来るとも思えない。

 

「だったら、他にもやりようはあるんじゃないか? いろはがやらなければいけない事、お前がやるべき事の優先順位をはっきりさせた上でな」

 

 まるで禅問答のようだ。優先順位? 悩みを解決することが正解ではないのか?

 

「それって……?」

「おっと、忘れる所だったな、約束通り、アイス買ってくか」

 

 俺の疑問をかき消すようにおっさんはそう叫ぶと走り出した。

 気がつけばそこはもう駅前。青信号が灯る横断歩道の先にはスーパーが誘蛾灯のように大きな光を放っている。

 

「いや、俺もう腹いっぱい……」

「若い奴が何遠慮してんだ? ほら、小町ちゃんの分もお土産に買ってけ。あ、でも溶けたらまずいか。なぁ何がいいと思う?」

 

 俺の抗議の声など聞かず、おっさんは勢いよく横断歩道を渡りきると、買い物かごを手に取りスーパーの中へと入っていった。いや、一体どんだけ買うつもりなんだよ……・。

 

「ついでにもう一本ぐらいビール買ってくか。あ、楓には内緒だぞ?」

 

 そう言うと、まるでイタズラを思いついた子供のようにキラキラと顔を輝かせ、おっさんは酒コーナーへと走っていった。

 

「……もう、なんでもいいよ……」

 

 俺は一度ため息をつくと、ソレ以上の会話を諦め、おっさんの後についていく。

 結局、その日はそれ以上「一色の相談事」に関する話をすることもなく俺はマッ缶を奢ってもらうと、小町へのお土産と称した重い買い物袋を持たされ、帰路についたのだった。




と、言うわけで十二話でした。

一ヶ月遅れた言い訳などは活動報告にて……。
次話は解決編となります。
いよいよ二人の関係に進展が……!?

感想、評価、お気に入り、誤字報告いつもありがとうございます!
引き続きいつでもお待ちしています!


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第13話 二度目のサイゼ

先に謝罪しておきます。申し訳ございませんでした!


 この一週間。俺は一色のサッカー部問題の事で頭が一杯になっていた……なんてことは当然ない。

 全く考えていなかったわけではないが、おっさんの助言の意味も踏まえて俺の出した回答が正しいという確証が持てなかったし、そもそもすでに解決済みという可能性もある。

 加えるならそこまで切羽詰まった問題だとも思っていないので、次回以降一色の話を聞きながら適当な事を言って乗り切る案の方が面倒くさくなくて良さそうだとも思っている。

 リアルタイムで情報が降りてこない俺の行動が後手に回るのは仕方のないことで、当事者でもないのだから責められる謂れもない。

 だから、また土曜日がやってきても、その時点では『面倒なバイトの日がやってきた』という認識しかなかった。

 

 そういえば一色は今週がテストなはずだから、早ければ今日にもテスト結果を見せてもらえるかもしれないな。ならば今日の授業内容は決まったも同然だ。色々考えなくて良いので楽ができる。

 そんな事を考えながら冷蔵庫からマッ缶を取り出し、出勤前の一服をしていると、テーブルに置いていたスマホが震えだした。

 こう毎日スマホが鳴ると自分がリア充なのかと勘違いしちゃうから辞めて欲しい。……まあ相手はほぼ一色一族からだけど……。

 

「ん? 一色?」

 

 それは一色一族の中でも珍しく一色いろはからの着信だった。

 こういうめったに掛けてこない奴からの着信って碌でもないお知らせだったりしない? 出るの嫌だなぁ……怖いなぁ怖いなぁ……。

 などと考えていると着信が切れた、諦めたのだろうか? ほっと一安心。

 だが、間髪入れずにピコンとメッセージの通知音が鳴った。

 

『出てください』

 

 そして再びスマホが振動。流れるようなコンボだ。

 着信相手は当然一色。

 えぇ……何なの? 出来れば要件をメッセージで残してほしい……。

 

「お兄ちゃん? スマホ鳴ってるよ?」

 

 俺が鳴り続けるスマホ片手にマッ缶を傾けていると。ひょこっと可愛らしい声の少女が現れた。小町だ。むしろ小町じゃなかったらどうしよう。

 

「なーに画面にみとれちゃって……っていろはさんじゃん! バカ兄! すぐ出て!」

 

 小町は俺の背に回ると肩に顎を乗せ、スマホの画面を確認したと思ったら、すばやく俺からスマホを奪い取り通話ボタンをタッチした。

 

「ちょ、ま!」

「今どき○リのモノマネとか流行らないから! ほら、早く出る!」

 

 それを言うならホ○のモノマネじゃなくてホ○のやってるキ○タクのモノマネだからね?

 だが、俺の抵抗を物ともせず、小町はそのままスマホを俺の耳に押し当ててくる。

 くそぅ……さっさと拒否しておけばよかった。

 

「……しもーし? センパーイ? 聞いてますかー?」

「おう……なんだ」

「あ、よかった。センパイすみませんけど今日もサイゼに迎えに来てもらえませんか?」

 

 電話越しに聞く一色の声というのはどうにもむず痒い。まるですぐ側に一色がいるかのような錯覚に陥り、内容が頭に入ってこない。

 

「お、おう……おう?」

「だーかーら、迎えに来て下さい!」

「何、また捕まってんの?」

「そうなんですよー……ずっと話し合いしてるんですけど、一人だけ帰れる雰囲気じゃなくて……」

 

 時計をみるともうすぐ十六時を回る所だった。行きがけに拾うにしてもまだ少し早いな。

 

「なんか進展あったん?」

「あったと言えばあったんですけど……ちょっと面倒くさい事になってて……」

 

 どうしたもんかと悩み、急ぐ必要があるのか少し情報を引きだしたかったのだが、どうにも歯切れが悪い。

 

「なんかまだしばらく悩まされそうです……」

 

 億劫そうな一色の言葉の後には『ふぅっ』と溜息らしき音が聞こえてくる。

 あの状態から一体何があれば面倒くさいことになるのだろう。すでに面倒くさいのに。

 しかし、毎度この調子では俺も困る。

 毎回迎えにこいといわれても俺にだって予定が……特にないが面倒くさい。

 これは思っているより早く解決しないといけない問題なのかもしれないな……。そう思った瞬間、おっさんの顔が脳裏をよぎった。

 

「……わかった。今から行く」

「へ? 今からですか?」

「なんか問題あんの?」

「いえ、ありがたいですけど、てっきり時間ギリギリまで来てくれないかと」

「それでいいなら、そうするが?」

「あー! 今すぐ! 今すぐ来て欲しいです! お願いします!」

「……んじゃちょっと待ってろ」

「はーい♪」

 

 少しだけ機嫌がよくなった一色との電話を切ると、俺は残ったマッ缶を一気に胃の中に流し込む。

 すぐ横では聞き耳を立てていた小町がニヤニヤと俺の顔を覗き込んでいた。

 

「何その顔?」

「な~んでもな~い。ほら、いろはさんの所行くんでしょ?」

 

 はぁ、と溜息を吐き、重い腰を持ち上げる。

 まだ三十分はのんびりしていられると思ったのに……。何故こんな事になってしまうのか。

 

「お兄ちゃんが自主的に許嫁さんの所に行くなんて……なんだかんだ言って結構仲良くやれてるんだね、小町感激で涙でてきちゃうよ……うう」

 

 小町は事情も知らずそう言うと目元を拭う仕草をした。

 仲良く……? いや、一方的に利用されてるの間違いだろう……少なくともあっちがそのつもりなのは確かだ。

 

「今のお兄ちゃん、ちょっとだけ格好良いよ?」

 

 小町は今度は少しだけ真面目な顔で笑った。

 そうか、格好いいか。

 俺は身支度を整え、財布の中身を確認する。よし。

 

「ところで小町よ、そんな格好いいお兄ちゃんにちょっとお金貸してくんない……?」

 

 ドリンクバーも無理だったわ。

 

「うわぁ……カッコ悪……色々台無しだよ……」

 

*

 

 外に出ると、雨が降っていた。先週の暑さが嘘のように肌寒い。

 結局俺は、小町から三千円ほど借り入れ、サイゼへと向かう事になった。

 サイゼだし千円もあれば十分なのだが、『いろはさんと一緒なんだからこれぐらい持ってきなさい』と三千円を渡された。よくできた妹である。

 中二にとって三千円は大金だろうに、出来るだけ早めに返してあげたい。

 まあ俺にとっても大金だけど。

 

 電車に乗り、十数分かけてサイゼの前に着くと、一色が窓越しにブンブンと手を振っているのが見えた。

 なんだろう、デートの待ち合わせみたいでちょっとだけ顔がにやけてしまう。

 いや、そんな色っぽいもんじゃないのは分かっているのだが。ファミレスで友達と放課後を過ごすってこういう感じなんだろうか。なんか青春っぽい。アオハルかよ。

 

 そんな事を考えながら俺は傘を畳んでサイゼに入り、一色達の元へ近づく。

 一色の他は先週と同じメンツのようだ。竹なんとか君と浅田なんとかさんだっけか。相変わらずでかい。

 

「センパイ、早かったですね。すぐ出るのでちょっとだけ待ってもらえますか?」

 

 一色はあざとい笑顔で俺の袖を引きながらそう言うと、自身の隣の席へと俺を誘導した。

 だが、竹なんとか君と浅田なんとかさんは突然の俺の登場に戸惑っている様子で怪訝そうに俺を見ている。え? 説明してなかったの? 完全にアウェーなんですけど?

 

「先週紹介したよね? 家庭教師の比企谷先生」

 

 一色が戸惑っている二人に俺を改めて紹介する。

 

「あ、覚えてます。竹内です」

「お久しぶりです、浅田です……」

 

 それに習い、二人も自己紹介をしてくれた。なんか先週もみたなこの光景。

 竹内と浅田ね。まあ年下だし呼び捨てで構わんだろ、とりあえず今度は忘れないようにしとこう。

 

「えっと……比企谷さん? はなんでここに……?」

「あー……」

 

 そこからか、まあそれもそうだな。まさか自分たちの部活の問題に関係ない家庭教師が口を突っ込んでくるとは夢にも思わないだろう。

 

「先週と一緒、もう家庭教師の時間だから私帰らないと。それじゃこの話はまた今度ね」

 

 だが一色は俺が口を突っ込む間もなく、飲みかけのミルクティを一気に吸い上げ席を立とうとした。

 あ、まずい。よくよく考えれば当たり前なのだが一色にとって俺はあくまでこの場を去るためのきっかけでしかないのだった。少し話をしようと思ってた俺の完全な勇み足。

 

「さ、行きましょ、センパイ」

「あー……」

「ま、待ってくださいよ一色先輩! デートの件お願いします!」

 

 しかし、俺が言葉を発するより早く一色を止めたのは竹内だった。ところで今聞き慣れない単語が聞こえたんですけどどういう事? デート? え? この子一色の事好きなの?

 

「だから、それは考えさせてって……」

「お願いします!」

 

 椅子から立ち上がり、中腰のままの一色に竹内が頭を下げる。

 状況が読めなさすぎる。

 仕方がない、ちょうどいいしここは俺から話すか……。

 

「あー……とりあえず状況を教えてくれるか? 一色も座れ」

「え? でも……」

「いいから座れ」

 

 その言葉で俺が一緒に出ていかないと悟ったのか、一色は渋々と着席した。そして俺の方をめっちゃ睨んでくる。あれ? 俺の味方いない感じですか? まあぼっちは慣れてるからいいけどね……。

 とりあえず、少し長くなりそうだからドリンクバーを注文しておく。さすがに何も注文せずに長居はできないからな……。

 一色を座らせたまま、今度は俺が席を立ち、ドリンクバーでコーヒーを入れ、再び席に戻った。

 俺のせいだとはいえ沈黙が気まずい……。一色も目を合わせてくれない。なんで俺がこんな事を……ちくしょう。

 仕方がないので俺は竹内と浅田の方を見ながら、話をきりだす事にした。決して一色に睨まれるのが怖いからではない。

 

「あー……っと、お前らのサッカー部の問題について、俺は一色からある程度聞いている。正直俺が口出す問題じゃないのはわかっているんだが、今日は何かアドバイス出来るかもしれないと思ってここにきた」

 

 そう言うと竹内が一瞬チラリと浅田に目配せをした後、俺の方へと視線を向けてくれた。

 一色はグラスに残っている氷をストローでカラカラと回し、『不機嫌です』アピールをしてくる。プレッシャーが凄い。くっ……これがニュータイプか!

 

「えっと、サッカー部の問題っていうのはどこまで知ってるんですか……?」

「お前が部長になりたくないっていう話ぐらいだ、さっきのデート云々については初耳なんで進展があったなら先に説明をしてもらえると助かる」

「センパイ……?」

 

 自分の予想とは違う展開になってしまった事に不安を感じたのか。一色が軽く俺の袖を引く。

 とりあえず不機嫌モードは終わったようだ、良かった。あのままだったらもう帰ろうかと思った。

 

「大丈夫だ、早めに終わらせる。説明を頼む」

「えっと、それじゃぁもう一度おさらいしますね……」

 

 そう言うと一色はゆっくりと説明を始めてくれた。

 

「基本的な事は先週先輩に話した通りです。健史君が部長に推薦されてる状態です。それで先週センパイが帰った後麻子ちゃんから私に連絡がきました」

 

 連絡? 先週の段階で何か動きがあったのか。一色の言葉を引き継ぐように今度は浅田が話し始めた。この子はなんていうか真面目系のトーンだな。どっちかというと文芸部とかの方が似合いそう。

 

「私は私で部長をやってくれそうな人に声をかけてたんです。そこで一人条件付きで部長をやってもいいっていう人を見つけました」

「ああ、そこからはなんとなく予想がつく、つまりその条件が一色とのデートなんだな?」

「はい」

「そうです」

「最悪です」

 

 いろは参上!

 おっと、これは違う作品だったな。

 

「一回デートするぐらい良いじゃないですか! いろは先輩モテるからどうせそういうの慣れてるんでしょうし?」

「別に慣れてるわけじゃないよ……。面倒くさい買い物に付き合ってもらったりは結構あるけど」

 

 買い物に付き合って貰ったことはあるのか。しかも面倒くさいっていう所がいかにも一色らしい。

 ん? でもそれデートとどう違うの? デートってなんだ?

 

「えっと……具体的にはどういう奴なんだ?」

 

 俺は脳のCPU使用率の数パーセントをデートの定義に奪われながら、言い合いをする女子二人を避け、竹内に聞いてみることにした。

 

「葛本和夫先輩。二年のレギュラーなんですけど。ちょっと女の子好きというか……。セクハラっぽいことをしてくるってチアの子達からもクレームが来たりしてて、兄さ……部長にも何度か注意もらってる人です。部のイメージを悪くするからって結構きつく言われてるみたいなんですけど全然堪えてないみたいで……」

「何かって言うと肩に手を回してきたり、しつこく迫ったりしてるんです。自分がモテてるって勘違いしてるんですよね。デートなんてしたら何されるか……」

 

 どうやら絵に描いたようなチャラ男タイプらしい。ホラー映画で真っ先に死にそうだな。

 なんにしても一色がデートをすればそいつが部長になるという選択肢が増えたわけで、竹内にしてみればほぼノーダメージで事が収まる状態か。

 だが、一色が嫌がっている以上、この解決策ではおっさんに出された課題をクリアしたことにはならないだろう。

 ここは一つ、試してみるか……。

 

「一つ確認したい、竹内……でいいか?」

「あ、はい」

 

 俺が話しかけると、飲んでいたメロンソーダらしきコップのストローから口を離し、まっすぐに俺の方を見つめてきた。

 見るからに好青年という印象だ。さすがに同年代とは思わないが、少し前まで小学生だったというのが信じられない程度には大人びて見える、最近の子は発育がいいなぁ……。イエ、浅田サンノ事ジャナイデスヨ?

 きっと将来有望というのはこういう奴の事を言うんだろう。ちくしょう、う、羨ましくなんてないんだからね!

 

「じゃあ、竹内。お前、サッカー好きなんだな?」

「はい」

 

 間髪入れずに答えてきた。よほど好きなのだろう、目がキラキラしていてちょっと俺には眩しい、直視していると目が潰れてしまうかもしれない。

 くそ、これが光属性という奴か。

 

「あー……先の事はどこまで考えている?」

「先?」

「あくまで趣味のレベルで続けていくのか、プロを目指すつもりがあるのかっていう話だ」

「もちろんプロになりたいです。高校は艦橋にいくつもりです!」

 

 艦橋。千葉でも有名なサッカーの強豪校だ。一年のうちからすでに志望校を決めているなら実際入れるかどうかは別として、少なくとも今は本気で考えているのだろう。

 

「じゃあ部活をやめるっていう選択肢はないんだな?」

「はい! 何があっても続けたいです」

「なら、なんで部長にならない?」

 

 その質問をすると、先程までの夢を語る少年は鳴りを潜め、肩を落とし俺から視線を逸した。

 

「フミ君は一年なんですよ? こんなイジメみたいな方法で部長にさせられたって上手くいくわけないじゃないですか!」

 

 だが、意外なことにその問に答えたのは、浅田だった。しかも何故かちょっと怒っている。

 思わず謝ってしまいそうになる剣幕だ。

 ごめんなさい。

 そして、その突然の乱入にショックを受けているのは俺だけじゃないようで、竹内もしょんぼりと肩を落としていた。空になったドリンクの底を悲しそうに眺めている。い、今のは俺のせいじゃないからね?

 でも、なんとなくこいつの性格と力関係が見えてきた。これならいけるかもしれない。

 とりあえずここは浅田は無視して竹内を集中攻撃だな。

 

「お前プロになるんだろ? 実力主義の世界じゃないのか? 俺もそんな詳しいわけじゃないから偉そうな事は言えないが、年下が遠慮してプロになれるような世界ではないと思うぞ」

「……それは……そうですけど……」

「なら……」

「やめてください! 皆そうやってフミ君に押し付けようとするんです! だから私達がこうやって話し合ってるんじゃないですか! いろは先輩からも言って下さいよ」

 

 業を煮やしたとはこういう事をいうのだろうか、浅田は勢いよく立ち上がりテーブルを叩くと、一色に救いを求め始めた。一色も困ったように俺の顔を覗き込んでくる。

 まずい、ここで主導権を奪われる訳にはいかない、俺はまだ半分以上残っているコーヒーを一気に飲み干して立ち上がる。うっ……ちょっと気持ち悪い、来る前もマッ缶飲んできたからなぁ……。

 

「ふぅ……竹内、飲み物取りに行こうぜ」

「ふぇ?」

 

 なんだその声は萌キャラのつもりなら百年早い。一回小町に生まれ変わって出直してこい。

 

「あ、それなら私が行きます!」

 

 場の空気に耐えられなくなったのか、一色が挙手しながら気遣いのできる女の子アピールしてくる。

 だがそれでは意味がないのだ。

 

「私……」

「一色は座ってろ」

 

 浅田もついてこようとしたので少し語気を強めて威嚇しておく。

 ガルルルル。ここは少し俺のほうが立場が上だというのを見せておきたい。

 だが返ってきたのは一色の「は?」という冷たい低音ボイス。

 あれ? 一色さん怒ってらっしゃいますか……?

 

「た、健史、行くぞ」

 

 ここで一色と浅田を同時に敵に回すのはまずい、とにかく一刻も早くここを立ち去らなければと、竹内を名前で呼んで精一杯の不機嫌なお兄ちゃん感を出してみる。

 弟属性なら兄属性の俺が有利なはずだ……。

 少なくとも少し前の小町だったらこれで最後は言うことを聞いてくれた。

 なお今は「はぁ!?」っとキレられるのでもう使えない。

 結局誰にやってもキレられるんじゃねーか。もうこの技は封印だな……。

 

「……はい」

 

 だが今回は成功だったようだ。

 健史はのそりとグラスを持ったまま立ち上がり俺の後をトボトボとついてくる。  

 去り際にチラリとテーブルを見ると浅田にも睨まれているのが見えた。

 ああ、胃が痛い。もうあの席戻りたくないわ。

 まぁとにかく、二人になることには成功した。ここからが勝負だ。

 

「……お前、プロになりたいっていうけど、実力的にはどんなもんなの? まあそんなに部長が嫌だって言うなら少なくとも葛本とか言うのよりは下手なんだろうけど」

「べ、別に葛本先輩に実力で負けてるとは思ってません!」

 

 意外なことに健史は食い下がってみせた。まあ俺にはよくわからんが、やはり多少なりプライドはあるのだろう。

 

「でも、部長になる気はないんだろ?」

「……それはそうですけど……」

「まぁ正直言うと俺はお前が部長になろうとなるまいとどうでもいいんだけどな、どうせ最初にお前を部長に推薦した奴だってお前が本当に部長として相応しいだなんて思ってないだろうし?」

「……」

「そいつら今頃大爆笑だろうな」

「……」

「それで、葛本が部長になって更に爆笑」

「……」

「そういうの……腹立つよな?」

 

 健史は何も言わない。だが伏せていた顔を少しだけ上げた。俺はコーヒーのボタンを押し、カップに黒い液体が溜まっていくのを感じながら、言葉を続ける。

 

「やっぱやられたら、やり返さないとな?」

「……でも、やっぱり僕が部長なんて出来ないです……」

 

 もうひと押しか。

 

「出来る」

「比企谷さんが俺の何を知っているっていうんですか!」

「知らんさ、何もな。だが状況から考えてお前がベストな人選だというのはわかる」

「ベスト?」

「少なくともお前の兄貴はそう判断した。今の二年の奴らよりお前のほうがマシだと推してるんだろ? まあ、お前の兄貴が実はサッカーの素人だというなら話は別だが」

「そんな事は……ないです……兄さんは凄い上手くて僕の憧れで……」

「なら、悩むことないだろ」

 

 カップに溜まったコーヒーを持ち、砂糖とミルクを手に取ると。場所を健史に譲る、だが健史はその場で立ち尽くしていた。

 

「まぁ、確かに色々難しいだろう、だがきっと得るものは大きい、なんだか分かるか?」

「経験とか……内申とかですか?」

「それももちろんだが『大好きなマネージャーと二人きりの時間』だ」

「はひゃ!?」

 

 健史がまたしても変な声を上げた、なんだろうコイツ意外と可愛いやつなのかもしれない。

 

「だ、大好きってなんですか! 別に僕麻ちゃんの事なんてなんとも!」

 

 麻ちゃん……麻ちゃんねぇ……。

 

「まだ浅田の事だなんて一言もいってないんだけどな……一色は眼中に無いってことか」

「あ……だ、騙しましたね!」

「別に騙してはねーよ」

 

 確か先週、一色からそんな話を聞いていた気がしただけだ。まあ半分は賭けみたいなもんだったけどな。でもどうやら大当たりのようですねぇ……。

 

「一色はもう卒業だ、他にマネージャーがいないなら二人きりになるチャンスもあるだろ。なんなら部長としての仕事も手伝ってもらえ」

「……比企谷さんって結構ずる賢いですね……」

「なんで『ずる』なんだよ……」

 

 そこは素直に褒めて欲しい。だがまぁ俺のことはいい。

 今確実に健史の心が揺れ動いているのが分かる。あと少しで落とせる、そんな気がしていた。

 ああ、こうやって打算的に考えているのがいけないのか。だが今更引き返せない。

 

「……僕に出来るでしょうか……?」

「それは知らん、結局はお前次第だ」

 

 健史の指がメロンソーダのボタンの前で止まった。

 どうやら、また同じものを飲むようだ。まあ俺も人のことは言えないけどな。

 ちらりと一色達の席をみると、一色と浅田が睨むようにこちらを見ているのが見えた。

 

「それで、どうする……?」

「……やってみてもいいんでしょうか?」

「推薦する方にだって責任はあるんだ、むしろチャンスだと思って気楽にやってみたらいいんじゃないか? 無理なら無理で大好きな麻ちゃんとやらにでも泣きつけ」

「……なんだか、比企谷さんに乗せられてる感じがしますけど……やってみようと思います」

 

 竹内はそういうと「泣きつくつもりはありませんけど」と軽く笑った。

 どうやら、成功したらしい。

 ふぅ……。

 

「そうか……んじゃそろそろ戻るか、一色が凄い目でこっち睨んでる」

「はい! あ、もしかして、比企谷さんは一色先輩のこと好きなんですか?」

「ちげーよ……これも仕事なんだよ……頼むから受験生をこれ以上引っ張り回さないでやってくれ」

「……すみません……」

 

 そう、これは仕事の一環。

 これで一色の悩みは解消されるだろう。

 俺はおっさんに出された課題をクリアしただけ。

 それ以外の理由を考えてはいけない。一色もこの場を切り抜ける口実に俺を使っただけなのだ、変な勘違いをしたり、家庭教師である事以上の見返りを求めるようなことでもない。

 

「あ、僕が麻ちゃんの事好きだって言わないでくださいよ?」

「……言わねーよ」

 

 飲み物をこぼさないよう、ゆっくりと歩きながら、健史が笑う。

 徐々に近づいてくる一色と浅田は怪訝そうに俺たちを見つめていた。




えー、前回「八幡といろはの関係に進展が!?」なんていう思わせぶりな予告をしましたが、
進展しませんでした、楽しみにしてくれていた方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。

いや、まさかこんなに長くなるとは……。
例によって裏話は活動報告で……。

感想、評価、お気に入り、誤字報告いつもありがとうございます!
一言でもお言葉をいただけると赤子のように喜びますのでお気軽に!


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第14話 雨のち晴れ

ブクマが……6000……?
カウンター壊れたんじゃないかって思うぐらいびっくりしてます。
本当にありがとうございます!!

そして、今回また長くなりました。ごめんなさい。


<iroha>

 

 話は先週まで遡る。

 センパイとの授業、夕食を終えたタイミングで私のスマホに電話がかかってきた。相手は麻子ちゃん。

 正直に言うと今日はもう話をしたくなかったんだけど、一応先輩だし後輩の電話を無視することも出来なかった私は、お爺ちゃん達を残して部屋へ戻った。

 

「もしもし? どうしたの?」

「あ、いろは先輩。見つかりましたよ!」

「見つかったって何が?」

「やだな、部長になってくれる人ですよ」

 

 それはまさに朗報。これで私の肩の荷も降りる。ちょっと電話出るのためらっちゃってごめんね。と心の中でお詫びをしながら私は会話を続けた。

 

「え? 良かったね! もうどうしようかと思ったよ……、優秀なマネージャーもいて来年も安泰だ? 誰になったの?」

「葛本君です!」

「あー……葛本君かぁ」

 

 葛本君は二年の中でも少しだけ問題のある人物、でも調子に乗りやすいタイプだし、確かに頼んだらやってくれそう。ただ素質があるのかといわれるとちょっと疑問だったから私の中では除外している人物だった。

 まあこの際やってくれるなら誰でも良いか、私も引退だしね。

 

「はい、それで。条件が一つあって」

「条件?」

 

 条件? なんだろう条件って? 葛本君が部長になる条件? 三年に逆らう形になっちゃうから何か課題でも出されたかな? 次の試合で勝つこととか? その時の私はそれぐらいの事を思っていた。でも、そんな予想は大きく外れる事になる。

 

「いろは先輩とのデートだそうです。なのでお願いしますね日程はこちらから連絡するって言ってあるので」

「え? ちょ、ちょっと待って!? どういう事!?」

「だから、デートですよ。いろは先輩そういうの得意じゃないですか? 卒業する前に記念に一回ってことで」

「待って待って、全然意味わからないんだけど」

「そうですか?」

 

 慌てる私とは反対に、電話口の向こうからはとぼけた返事しか返ってこない。

 頭が痛くなってきた。

 

「でも、デートしないと部長にはなってくれないっていうから問題解決にならないですよ?」

 

 何故だろう、顔が見えないはずなのに妙にニヤニヤしながら言われているようでちょっとイライラする。

 それから、こちらがどんなに拒否しても、矢継ぎ早に「でも」「だって」とデートを押し付けてくる。 この子、こんな子だったんだ……そんなに仲良くもなかったけど、仕事はしてくれるし良い子だと思ってたんだけどなぁ……。

 流石に疲れたので「……少し、考えさせて」と言ってその日は電話を切った。

 

 誰かに話を聞いてもらいたい、このイライラを誰かにぶつけたい、そう思ってリビングに戻ったが、センパイはもうお爺ちゃんに送られて帰った後だった……。

 

*

 

 結局、翌日以降も心の中にモヤモヤしたものが居座り、勉強に身が入らなかった。

 学校に行けばテスト期間にもかかわらず麻子ちゃんが教室までやってくるし、下校時に葛本君とすれ違えば「ニチャ」っと嫌らしい笑みを浮かべこちらを見てくるので逃げるように家に帰った。

 いっそ部長に連絡してみようかとも思ったけど、それはそれで面倒くさいことになりそうな予感もする、どうしたらいいかわからない。

 なんでこうなるんだろう……? 引退してそれで終わりだと思ったんだけどなぁ……。はぁ……。

 なんだかここ最近溜息ばかり吐いている。

 溜息を吐くと幸せが逃げるなんて言うけれど、本当だったらこの一週間でどれだけの幸せを逃したかわからない。このまま不幸な人生を送る運命なのかな、嫌だなぁ……。

 

 そんな状態で勉強に身が入るわけもなく、結局テスト結果も散々だった。

 五十点台なんて初めてとったよ……。

 はぁ……。

 お爺ちゃんに知られたら怒られそう……。そういえばセンパイにも見せなきゃいけないのかな? はぁ……。

 

*

 

 その週の土曜日はいつもだったらテストが終わった開放感で満たされる祝福すべき週末のはずだった。

 でも今日は違う。

 「テスト期間中だから」と麻子ちゃんを退ける盾が無くなった日。

 集合場所は先週と同じサイゼ。

 最初は十時集合だったけど、長く時間を取られそうだったから十四時にしてもらった。

 これなら最悪でも三時間。十七時には帰れるもんね。

 私は家でお昼ご飯を食べ、気合を入れてサイゼへと向かった。

 外は雨、到着まではたった数分。いつもなら近くて便利という駅前のサイゼが今は恨めしい。

 足取りは重いままサイゼの前に着くと、そこには既に二人の姿があった。

 

「一色先輩、この度はご迷惑かけてすみません! 僕のためにありがとうございます!」

「へ?」

 

 第一声で突然頭を下げてくる健史君に私は思わず変な声を出してしまう。

 

「あ、いや、私まだデートするなんていってないからね?」

「え? でも麻ちゃんが……」

 

 頭を上げながら、麻子ちゃんの方をチラと見る健史くん。どうやら情報が間違って伝わっているようだった。だけど、麻子ちゃんがそれを気に留めている様子はない。

 

「あれ? そうでしたっけ? まあでもいろは先輩なら後輩を見捨てたりしませんよね? とりあえず入りましょ?」

 

 そう言うと、健史君を連れてサイゼの中へと入って行く。

 そんな姿を見て、ここでもまた溜息、だけどこのままじゃ駄目だ。

 私は一度「よし」と気合を入れ直し傘を畳んだ。いざ戦場へ。

 

*

 

 ドリンクバーと軽く摘める物をいくつか頼み。私達は席についた。

 私の前に麻子ちゃん、斜め前に健史くん。なんだか私が面接されてるみたい。

 でも、それはあながち間違いじゃなかった。

 

「じゃあ、日にちイツにしますか?」

「いや、だから私デートとかはちょっと無理っていうか……」

「そんな無理無理いうなら具体的に他の方法を提示したらどうですか? このままじゃフミ君が部長になっちゃいますよ? センパイだってそれは不本意でしょう?」

 

 不本意……不本意なのかな……? 確かにサッカー部に入ったばかりでうちのシステムにも慣れていない状況だし可哀想だとは思う。そもそもやる気が無いのだから、部長になっても部長らしいことは出来ないまま二年生に顎で使われちゃうかもしれない……。

 でも……でもだからって私の『初デート』をこんな形で終わらせたくない!

 

 私はもう一度気合を入れ直して、麻子ちゃんに反論する。

 それからの話は平行線だ、気がつけば三十分経って、一時間が経ち、さらに一時間経とうとしていた。

 正直もうコレ以上の話し合いに意味はない気がする。

 だって麻子ちゃんの中では私は「デートを何度もしているビッチな先輩」なのだ。

 誰々と出掛けているのを見たとか、誰々と歩いているのを見たとか。そんな話を持ち出しては私がいかに「デートに慣れているか」を力説してくる。

 そういうイメージが付いてる私が悪いの?

 でも、本当にデートなんてしたことはない。二人だけで食事に行ったりとかそういう事はしてないのだ。それはお爺ちゃんとの約束でもあるから……。

 

「はぁ……もう今日終わりにしない? 私も別の案含めて考えるから……」

「そんな時間ないですよ。そうだ、なんならもうここに葛本君呼びますか?」

「やめて……」

 

 時計を見ればもうすぐ十六時。まさか本当にこの調子で十七時まで続けなきゃ駄目なの?

 なんとかこの場を切り抜ける方法はないかな?二時間我慢するつもりだったけど、正直このままあと一時間は辛すぎる。私は苦肉の策でほんの小さな嘘をつくことにした。

 

「そろそろカテキョの先生も来ちゃうから、また来週にしよ? ね?」

「カテキョって先週のあの不気味な感じの人ですか? あれ? 十七時からじゃなかったでしたっけ? いろは先輩家も近いしそんなに急がなくても大丈夫じゃないですか?」

 

 不気味な人と言われてちょっとだけムッする。

 あれでも一応私の、いや、これはやっぱ無し。

 

「あー、うん。そうなんだけどね……なんか今日は早く来るって言ってたような……ないような?」

「じゃあ早く決めちゃいましょうよ、それで終わりますよ?」

「だから、私は嫌なの……そろそろ分かってくれないかな?」

 

 正直ここまで面倒くさい子だなんて思わなかった。

 健史君は麻子ちゃんの言いなりだし……私の味方いないの?

 はぁ……。

 

「わかった……じゃあとりあえず電話だけしてくるからちょっと休ませて……」

 

 私はそう言って少しだけ休憩のつもりで席を立った。

 カバンを持とうとした私を逃さないぞと麻子ちゃんが睨みつけてくるので、スマホだけ持って外に出る。

 まだセンパイが来る時間には早いけど、とりあえずセンパイに少し愚痴を聞いてもらいがてら、お迎え要請をしよう。これ以上は身が持たない。

 さすがに迎えが来たら麻子ちゃんもそれ以上食い下がって来ないだろうと望みを託して、私はセンパイにコールした……。

 

*

 

「なんか、機嫌良さそうですね?」

「え……? そう? そんな事ないけど?」

 

 センパイに電話をしたらすぐ迎えに来てくれる事になった。

 正直私が一番びっくりしてる、十七時前に脱出できれば良いと思ってあと一時間の口論を覚悟してたのに、今から来てくれるなら二十分も我慢すれば帰れそうだ。

 センパイには感謝しかない。私は少しだけ持ち直したテンションでセンパイの到着を待ち、窓の外をチラチラと眺めていた。

 それから十五分ほどした頃、窓の外にセンパイの姿が見えた。

 傘をさしているせいで顔が良くみえないけど、あの猫背、間違いないセンパイだ!!

 私は年甲斐もなく窓越しに大きく手を振った。それは子供の頃、幼稚園にママが迎えに来てくれた時みたいに嬉しかった。

 やっと帰れる!

 その時の私はその場で飛び跳ねたいほどの喜びを感じていた。

 でも……。

 

 何故かセンパイは私の隣の席へと陣取った。

 へ? どういう事ですかセンパイ? もういいから帰りましょうよ、センパーイ!

 だけどまさかこの状況で「帰りたい」なんていえない。完全な計算ミスだった。どうしよう……。

 しかもセンパイは状況の説明を求めてきた。

 え……? まさかセンパイもこの話し合いに参加するんですか?

 先週話をした時はすごく興味なさそうだったのに?

 『サッカー部を一度辞めさせて、ほとぼりが冷めたらまた入り直す』なんていう案を平気で出してくる人だ。もし今の状況を伝えたら「デートぐらいしてくればいいじゃないか」なんて言われる可能性もある……。

 そうなったらそれこそ麻子ちゃんの思う壺だ。

 どうしよう……。

 私はなんとかこの話を辞めさせようとセンパイの袖をキュッと握った。

 

「大丈夫だ、早めに終わらせる。説明を頼む」

 

 大丈夫……? 何が大丈夫なんですか?

 全く意味が分からなかった。もう二時間以上、いや、先週から数えればもっと話をしているのにどうにもなっていない問題なのだ。

 大丈夫な要素なんて一つもない、今センパイに出来ることといえば私を連れてこの場から逃げてくれること、それだけだと思っていた……思っていたのにセンパイは私の目を真っ直ぐに見つめて来る。

 それは時間にしてみればほんの一秒にも満たない時間。

 でもその一秒で不思議とセンパイの言う通りにした方が良い気がして、次の瞬間には私は説明を始めていた。

 

 *

 

 説明を終えると、センパイは少しだけ考え込むような仕草をした。

 やっぱり少しだけ不安になった私は、葛本君には悪いけれど、「デートしたら何されるか……」なんて少し大げさな説明も混ぜちゃったけど……いいよね?

 一応年下だし無茶はしてこないとは思うけど、身の危険を感じるのは本当だし、少なくともこれで私が嫌がっているっていう意思は汲んでくれる……はず……。私は祈るような思いでセンパイの横顔を見守る。するとセンパイはそんな私には目もくれず、一拍置いてまっすぐ前を見ながら口を開き始めた。

 

「一つ確認したい、竹内……でいいか?」

「はい」

 

 その時の話はよく覚えていない。不本意だけど、センパイの横顔を見て頼もしいと思ってちょっとだけ見とれてしまっていたみたい。いや、本当にちょっとだけね。

 こんな事お爺ちゃんに知られたら「そうだろうそうだろう」とニヤニヤしながら言われそうだから絶対言わないけどね……。

 私の意識が戻ったのは、バンっという大きな音の後だった。

 

「やめてください! 皆そうやってフミ君に押し付けようとするんです! だから私達がこうやって話し合ってるんじゃないですか! いろは先輩からも言って下さいよ」

 

 突然麻子ちゃんが立ち上がり、そんな事をいいながら私の方を見てきた。

 私は咄嗟に反応できず、目をキョロキョロと多分相当情けない顔をしていたと思う。

 

 チラっとセンパイを見るとセンパイも予想外の出来事に驚いたのかコーヒーを一気飲みして自分を落ち着かせようとしているようだった。

 

「ふぅ……竹内、飲み物取りに行こうぜ」

「ふぇ?」

 

 でもセンパイはそう言って麻子ちゃんを無視して立ち上がる。健史くんはまだ頭が回ってないみたい。

 ならここは私が……! 

 

「あ、それなら私が行きます!」

 

 センパイと二人でドリンクバーに行って作戦会議! これでセンパイの援護射撃も完璧に出来る!

 そう思って提案したのに……。

 

「一色は座ってろ」

 

 センパイはそう言って私を睨みつけてきた。「は?」何ですかそれ、ちょっと酷くないですか? 一瞬でもこの人の事頼れるとか、分かりあえるかもしれないと思った私がバカだったのかもしれない。お爺ちゃんにいいつけてやる。

 だけどセンパイはそんな私を無視して健史君と一緒になってドリンクバーの方へと歩いていった。

 

「なんなんですかあの人! こっちの事情も知らないのに!」

 

 無視されたせいか麻子ちゃんもご立腹みたい。

 

「まぁ、ああいう人なんだよ……」

 

 なんて言いながら、私もよくわかってないけど……。本当、お爺ちゃんはあの人の何が良くて私の許嫁……ううん、家庭教師になんてしたんだろう?

 

「っていうかデートぐらい良いじゃないですか……いろは先輩が他の人とくっついてくれれば……君だって……私に……」

「え? 何?」

 

 麻子ちゃんがブツブツとコップの底に向かって呟くように話しかけてきたが、その言葉は上手く聞き取れなかった。

 そして麻子ちゃんはその事についてはそれ以上語る気もないようだったので、私もそれ以上追求はせず、二人でセンパイ達の背中を視線で追う。

 何か話し込んでいるようだが、遠目には健史君がグラスを置いたまま考え事をしているようにも見えた。

 

「何話してるんですかね?」

 

 麻子ちゃんがストローを咥えたまま、こちらも見ずに話しかけてくる。

 でも会話の内容なんて当然聞こえない。

 正直あの人が何を考えてるかなんてわからないから今すぐにでも近くに行きたいぐらいだ。

 とりあえず、もしセンパイが健史くんを部長に据えるつもりなら、戻ってきた時に援護できるように、もうちょっと説得の材料を用意しておこう、部長になった時のメリットとか……なんて事を考えているうちに話しは終わったみたい。

 二人がそれぞれ飲み物を持ってこちらに向かって歩いて来る。

 私達は慌てて視線を反らし、ちょっとだけ緊張した面持ちで二人を待った。

 

「解決したぞ」

「は?」

「へ?」

 

 センパイが席につくなりそんな事を言ってきたので、私も思わず目をパチパチとしばたかせて、麻子ちゃんと顔を見合わせる。

 

「部長、やるそうだ」

「お騒がせしました、僕、部長やってみようと思います」

「ちょ、ちょっと待ってください!!」

 

 どういう事? たった数分二人で話し合っただけで何か変わるものなの?

 私はまるで映画の大事なシーンを居眠りで見逃してしまったような感覚に陥り、混乱した。

 

「どういうこと? 本当に? それでいいの?」

「はい、一色先輩。色々申し訳ありませんでした!」

「あ、いや私は別に……」

 

 立ったまま丁寧にお辞儀で謝罪され、私はそれ以上追求するタイミングを失してしまう。

 だが麻子ちゃんはそんな事なかったみたいだ。

 

「フミ君?! 一年で部長なんて絶対大変だよ? わかってる?」

 

 バンっと再びテーブルに手を付き、フンっと鼻を鳴らしながら健史君に詰め寄っていく。

 

「うん、色々考えてくれたのにごめんね麻ちゃん、でも僕やっぱりちょっとやってみたい、やってみようと思う!」

 

 だが当の健史君はもう決心してしまっているようでその言葉はあっさりと跳ね返されてしまった。彼の為にと思っていった言葉を彼自身に拒否されたのだ、さぞや居心地が悪いだろう。

 麻子ちゃんは「……そう……」と言って静かに席に座り直し、それ以上何も言うことはなかった。

 

 それから、私達はそれ以上その話題に触れる事なく、テーブルの上に残ったポテトやドリンクを消化していった。

 健史君はセンパイの事が気に入ったのか妙に懐いて色々話しかけている。「LIKEの交換しませんか?」と言われたセンパイは最初は渋っていたけど、何度もお願いされてだんだん面倒になったのか最後には「勝手にしろ」とスマホをテーブルに放った。

 自分のスマホを他人に躊躇なく渡すなんて、私にしてみればありえない光景。いや、別に何か疚しい事があるわけじゃないんだけど。やっぱり人に渡すのは少し怖くない? プライバシーとか。

 麻子ちゃんもその様子を信じられないという表情で無言で見つめていた。

 

*

 

 しばらくして「そろそろ帰ります……」と解散のきっかけを作ったのは居心地が悪そうな麻子ちゃんだった。一人だけ帰す意味もないので「今日はここまでにしよっか」と、私達は席を立ち、会計を済ませ、サイゼを出る。いつの間にか雨は止んでいた。

 

 健史くんと麻子ちゃんに別れを告げると、センパイと私は並んで家へと向かう。

 ほんの少し前まではこの時間も真っ暗だったのに、今はお互いの顔が見える、もう夏も近いんだなぁ。

 ちなみにセンパイの分のお金は私がだした。ドリンクバーだけだったからクーポンもあったし、少しは今日のお礼もしないとね。

 会計中、麻子ちゃんの「出してもらえばいいのに……」という呟きが聞こえたけど無視。これはお礼なのだ。

 でも本当、センパイは何をしたんだろう? 私達が一週間以上悩んでいた事をほんの十数分会話しただけで解決しちゃった。この人何者なの? 実はセンパイ……結構凄い人?

 

「センパイ、健史君に一体何言ったんですか?」

「大したことはいってねぇよ……」

 

 私の問いかけにセンパイはつまらなそうにそう答える。

 何を考えているの本当に読めない。

 先週誘った時、話し合いに参加するの嫌だって言ってたよね?

 社交辞令で私と仲良くするっていう感じでもないし、いつも必要最低限って印象。これはちょっと癇に障るけど、そもそも私に興味がないみたい……?

 そんな頭の中の疑問がぐるぐると回り。沈黙に耐えきれなかったというのもあり、変な形で口から出てしまった。

 

「どうしてあんなに早く来てくれたんですか?」

 

 一体私はどんな答えを期待しているんだろう。

 なんだか勘違いされてしまいそうなその質問に、私は少し焦ってしまった。

 でも吐いた溜息が戻らないように、発した言葉は取り消せない。

 センパイの顔を見ると一瞬「何いってんだコイツ」みたいな顔をしていた。

 私はちょっとだけ失敗したと思い、少しうつむいて自分の足元を見る、でもそれがいけなかったのかもしれない。

 規則正しく視界にはいる私の靴。でも、センパイの靴が視界に入るスピードが少しだけ遅い。

 あれ……? 

 もしかして……私と歩くスピード合わせてくれてる……?

 

「お前が困ってるっていうからだろ……」

 

 トクンと大きく心臓が跳ねた。

 私は思わず足を止め、センパイがそんな私を不思議そうに振り返る。

 まずい。変に思われた? 何か言わなきゃ。

 

「は……は!? 私の為ですかなんですかそれ口説いてるんですか特別扱いって悪い気はしませんし困っているところを助けられるのは嫌いじゃないんですがそれはそれとして色々片付けてからお願いします!」

 

 しっかりと頭を下げ、センパイの顔を視界から消す。

 頭の上から「はいはい……いいから行くぞ」というやる気のない声が聞こえ、センパイの足音が遠ざかっていく。

 

「もうテストそろそろ返ってきてるだろ? 今日は復習するぞ」

 

 げ。やっぱ見せないとダメかぁ……。

 まずいなぁ、正直今回のテストを人に見せるのは少し恥ずかしい。

 そんな事を考えながらゆっくり頭を上げ、自分の胸に手を当てると、いつの間にか心臓は平常運転に戻っていた。

 ……なんだったんだろう今の……?

 

「……一色?」

 その場に立ち尽くす私をセンパイが不思議そうに見つめてくる。

 いけないいけない。

 また変に思われちゃう。そんな事を考えていると天の助けか十七時を告げるチャイムが鳴った。

 

「あ、もう十七時ですよ! センパイ! 急ぎましょう!」

 

 別段急ぐ必要はないんだけど私はそう言って話を逸し、少し先で立ち止まるセンパイをタタッと追い抜いた。

 なんだろう、今この瞬間が不思議と楽しい。

 それが、部活問題が解決したからなのか、それとも他の何かが原因なのか、自分自身でもよくわかっていなかったけど。なぜか頬が緩むのを止められない。

 

「え、ちょ、まてよ」

「今どきホ○のモノマネなんて流行りませんよ? セーンパイ♪」

 

 私はセンパイの静止を振り切り、逃げるようにマンションの中へ入り込む。

 振り返ると、センパイは焦って私を追いかけるでもなく、邪魔そうに傘を持ちながらゆっくりと歩き「お前もか……」と何故か少しうんざりした表情を浮かべていた。




というわけでいろはす視点でした!

感想、ブクマ、評価、誤字報告いつもありがとうございます。
毎回咽び泣いております。本当にありがとうございます!

そして、また古戦場が近づいてきましたね……
六月中に書き貯めできなかったのが痛い……。
ちょっと、がんばります……!


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第15話 連行

──前回までのあらすじ──
 一色いろはの許嫁兼家庭教師となった比企谷八幡はいろはからサッカー部問題についての相談を受け、無理矢理サッカー部の部長にさせられそうになっている一年部員の竹内健史、そして二年でマネージャーの浅田麻子と出会う。
 健史の部長就任を阻止すべく動いていたいろは、健史、麻子ったが。
 八幡はいろはの負担を減らすため、健史を部長にすることで問題の解決を図った。


 六月に入ると、これまで以上に雨の日が多くなった。正直気が滅入る。

 多少晴れ間が見えたと思えば今度はジメジメとした空気が体にまとわり付き、不快感を増大させていく。

 お陰で毎日のように鳴り響くLIKEへの返信をする気分にもなれない。

 え? いつもの事だろって? そんな馬鹿な。

 少なくとももみじさんと楓さんにはきっちり返してるぞ。あと小町。

 最近は健史からのメッセージも多い。大体が部活でこんな事があった、あんな事があったという報告だ。兄貴に『部長を引き継ぐ』と報告してからというもの、色々苦労しているらしい。まぁなんだかんだ俺にも責任がある気がしないでもないので何回かに一回は返すようにはしてる。今回もそろそろ返しておくか……【がんばれ】っと。

 そして、もう一人、ここ最近やけにメッセージのやりとりが増えた相手がいる。一色だ。

 

 先週、中間テストの結果を見せるのを嫌がる一色をなだめながら、なんとか提出させたが。全体的に点数が下がっていた。社会に関しては五十点台という無残な結果で、思わず「テスト中にお腹でも痛くなった?」と気を使ってしまった程だ。体調管理、大事。だが何故か「そういうの、セクハラですよ」と白い目で見られた解せぬ。

 普段なら人様の点数なんて気にしないのだが、これの何が嫌って俺が家庭教師になって最初のテストで一気に下がったっていう所なんだよ。まるで俺の責任みたいじゃん?

 なんなの? 嫌がらせなの? だとしたら大成功だよ。

とはいえ、この結果を見たら流石に放置もできんか。そう思いその日は復習を徹底させた。

 

 以降、本人もテスト結果が悪かった事を内心では気にしていたのか、やたらと細かい部分や授業でのわからない部分をLIKEで聞いてくるようになった。

 はっきり言って面倒臭い。

 放課後に質問される先生ってこんな気分なんだろうか? 頭が下がる。

 出来ればわからない事があっても授業の中で収めて欲しい。今後もし学校の授業でわからない事があっても放課後、職員室に聞きに行くのはやめよう。俺はそっと心に誓った。

 

 ああ、そんな事考えているうちに今日もバイトの時間だ。

 外は今日も雨、鬱だ。先週のバイトは一時間も早く家をでたんだし、今日ぐらい遅刻しても怒られなくない?

 いや、ちょっと待てよ?

 幸いなことに今日はいつも口うるさく言ってくる小町は出掛けている。

 これはもしや、天が与えた休暇のチャンスなのではなかろうか?

 サボったら小遣いが減らされると言われたが、さすがに一発アウトって事はないだろう。

 それに先月末の小遣いはすでに確保済みなので、今はそれほど怖くはない。

 家でゴロゴロして、もし向こうから連絡がきたら「頭が痛くて寝てました」とか言えば何とかなりそうな気もする。うん、我ながらは良い案だ。

 (える)知っているか、頭痛というのは外からでは状況が分かりづらく、原因を突き止めにくいので仮病だとバレにくい。

 

 ここの所俺は少し働きすぎだし、人間には休息が必要だ。

 仮にバレたとしても、あのおっさんの事だ。「しょうがねぇなぁ。ガッハッハ」と許してくれたりするんじゃないだろうか。そんな気がする。よし、今日は休んでしまおう。

 そう決めてしまえば後は楽だった。ベッドに身を投げ、スマホをいじる。よし、今日こそドン勝でも食うか。

 俺は最近入れたゲームアプリを起動し、ゲームが始まるのを待つ。

 だが、その瞬間、インターホンのチャイムが鳴った。

 

 時刻は十六時過ぎ。こんな中途半端な時間に来客とは珍しい。一体誰だろう? 宗教勧誘だったらちょっとおちょくってから追い返すとして、宅配業者? 大手ネットショップのAmazingで何か注文したっけな? いや、俺が買わなくても小町が何か買ったという可能性もあるか。

 そんな事を考えながら、俺は一階に降りインターホンの受話器を上げた。

 

「はい、どちらさん?」

「来ちゃった♪」

 

 は?

 インターホンの液晶画面。そこにはロマンスグレーの長身の男が映されていた。

 何やってんのおっさん……?

 

 

*

 

 

「よぉ八幡。迎えに来たぞ」

 

 玄関を開けると、おっさんはいつものようにニカッと笑う。え? 何? なんでおっさんがいんの? 正直、現状が上手く処理できていなかった、何かのバグだろうか?

 土曜日に自宅でゴロゴロしていると自宅におっさんが出現する不具合発生。即メンテ対応お願いします。詫び石はよ。

 

「ほら、さっさと乗れ」

 

 だがおっさんは処理が追いついていない俺に構わず、グイグイと俺の手を引き外に出そうとする。よく見ると玄関先には見慣れない車があった。おっさんの車だろうか?

 

「ちょ、ちょっと待て、なんで? え?」

「いや、この雨だろ? 迎えに来たほうがいいんじゃないかと思ってな」

 

 おっさんはそう言って「なぁに、これぐらい当然だ」と笑う。あ、これ知ってる。拒否できないやつだ……。居留守使っておくのが正解だったか……。

 直前のセーブデータに戻る。直前のセーブデータに戻る。直前の……やっぱ駄目ですよねー……。

 俺は諦めてため息を尽き「……準備するから待ってくれ」と返し、一度戸を閉める。

 部屋に戻り、財布と鍵を手に取ってから、外に出ると、おっさんは玄関前に止めてあった車の運転席で待機していた。

 黒塗りの高級車に乗せられた八幡の運命や如何に……。いや、黒じゃなくて普通に白のファミリーカーだけど。

 

*

 

「あん? 何してんだお前?」

 

 俺が後部座席の扉を開き乗車しようとすると、運転席から怪訝そうな声が聞こえてきた。

 

「何って……車で行くんじゃないの……?」

 

 もしかしてアレか? 「この車一人乗りで八幡の席ないから!」とかそういう類の奴だろうか? あの国民的アニメに出てくる金持ち坊っちゃんのいじめ方エグいよな……。

 どこからあんな発想でてくるんだろう。

 三人用のボードゲームなら初めから四人呼ばなければいいのに。

 

「こういう時は助手席に乗るもんなんだよ、ほら、こっち乗れ」

 

 そう言っておっさんは、運転席から手を伸ばし、助手席のドアを開けた。

 助手席だとなんか距離が近すぎて嫌なんだが……。

 俺は雨で濡れた靴で車内を汚さないよう気をつけながら、そのキレイに整頓された助手席へ乗り込んだ。中からはほんのりと消臭剤の香りがする。うんちゃらりき~。

 

「よし、行くぞ」

「行くってどこへ……?」

 

 我ながら愚問だと思った、『迎えに来た』というのだから目的地なんて決まっている。

 サボタージュ計画が実行前に頓挫したのだ、これから俺は一色の家に連行され家庭教師の仕事に従事させられるのだろう、

 だが、おっさんは「いい所だ」と歯切れよく言うとニカッと笑い、車を発進させた。

 ドナドナドーナードーナー。

 これ、帰りも送ってくれるのかしら……?

 

*

 

「そういや、『セカセカ』の最新刊読んだか?」

 

 『セカセカ』とは、「世界は異世界人で溢れている」という最近おっさんが嵌っているラノベだ。いわゆる転生もので元々はウェブ小説だったが、今度アニメ化も決定したらしい。

 ただおっさんはアニメは苦手なので興味ないそうだ。『普通に俳優使って映画にすりゃいいのになぁ』とたまに愚痴を言われるが転生アニメが実写化したという例を俺はまだ知らない。

 仮にあったとしてもそれはきっと悲惨な結果に終わるだろう事は想像に難くない。アニメの安易な実写化は断固反対。

 

「いや、まだ買ってないな。あんま金ないし、基本俺ウェブ版派だし」

 

 昨今のウェブ発小説は書籍化が決定した後もウェブ版が残されている事が多く、金のない俺のような金欠学生には非常に助かっている。

 中には書籍化と同時にウェブ版が削除、もしくはダイジェスト化する例もあったりするが。まあそれは仕方ない、どちらにせよ書籍版だけのキャラとか、エピソード変更とかも多いので金さえあれば俺もチェックしたい所だ。

だが実を言うとすでに先月の小遣いの半分以上を、読みたかった文庫本数冊と等価交換をしてしまっている身なのである。これから買う本は慎重に選ばなければならない。

 

 ついでに言っておくと、実は小町から借りた三千円もまだ返していない。

 本来の使用用途であるサイゼでは一色に奢って貰い、一銭も使ってないので、本当なら即座に返すべきなのはわかっている。だが信じて欲しい、決してパクったわけではない。

 特に返却期限は提示されていないので出来れば今月の小遣いまで待って欲しいと思っている。

 

「……ああ、そうだ。忘れないうちにコレ渡しとくぞ」

 

 だが、そんな俺の心境を知ってか知らずか、おっさんは突然そう言ってダッシュボードに置かれていた茶封筒を俺の眼の前にちらつかせた。

 なんだろう? 開けてもいいんだろうか?

 開けたらドカーンなんて事ないよね?

 俺は一瞬躊躇して、よく糊付けされたその封筒を開ける、すると中からは福沢諭吉と野口英世が顔をのぞかせた。

 

「え? これって……?」

「先月分の給料だ、どうだ? 働いて貰う金ってのは重みが違うだろ?」

 

 重み……違うのだろうか?

 俺にはよくわからない。

 だが、一つだけわかる事がある。めちゃくちゃ嬉しい

 やばい、顔がニヤける。

 初めてのバイト代。俺が初めて自分で稼いだ金。ソレが今俺の手元にある。

 俺の普段の小遣いは月五千円。その三倍近い額が俺の手元にあるのだ。これで喜ばないのもどうかしていると思う。

 俺はニヤケ顔をおっさんに見られないように少し顔を背け、もう一度封筒の中を確認する。

 福沢さんが一人、野口さんが一、二、三、……四人?

 あれ……? これ多くね?

 

 契約の時の話ではバイト代は時給で二千円、週一で二時間の授業。これが先週まで通った三回分だとするならば合計一万二千円のはず。

 実際、いつ頃バイト代が入るのかソワソワしながらずっと計算していたので間違いはない。

 べ、別に楽しみにしていたわけじゃないんだからね!

 なので、福沢さんは問題ないとしても俺のシフトで一万四千円はありえないはずなのだ。

 これはどういう事だ? おっさんの入れ間違いか?

 だが、このまま何も言わなければ確実に得をする。俺にとってプラスニ千円はでかい。

 黙っていた方が良いだろうか?

 そう思い、少しだけ罪悪感にかられながら、おっさんの横顔を見た。

 おっさんは前を向き、まっすぐに運転をしている。

 その横顔はどこか嬉しそうにも見え……俺は……。

 

「おっさん……これ多い、間違ってる」

 

 次の瞬間には、その言葉を口にしていた。

 

「あ? なんだ? 多くないだろ」

「いや、バイト週一回二時間で四千円だろ? 一色の家に行ったのは先週までで三回、普通に多い」

 

 意味がわからないとでも言いたげなおっさんに、俺はそう伝え、野口さんニ人を返そうと差し出す。

 運転中のおっさんは不思議そうにちらりと俺を一瞥すると「ふむ」と何かを考え込むような素振りを見せた。

 さらば野口……。

 

「はっはっは。間違ってねーよ、家庭教師代の一万二千、先週は一時間早く出て部活問題解決したんだろ? いろはも相当喜んでたぞ。その分でプラスニ千円だ。なんならもっと入れてやろうと思ってたんだが、楓に怒られてな」

 

 だが、おっさんはまたしても笑いながら、俺の言葉を一蹴する。

 確かに先週は一時間早くでたが……まさか本当に時間外手当が出るとは思わなかった。

 いや、貰えるもんなら貰いたいが……いいのか?

 っていうかこれより多く……? バイト代ってそんなアバウトなの?

 やはり返すべきか? そもそもは俺がちゃんと授業をできていない分の補填で一色の悩みを解決しろといわれたのだ。ならその分は貰うのはおかしいんじゃないか?

 甘い話には罠があるとも言う。これもまたおっさんの策略なのだろうか?

 少しの罪悪感と恐怖を感じながら思案を巡らせていると、おっさんは俺の考えがまとまるのを待たず、いつもの調子で言葉を続けた。

 

「いろはに聞いたぞ。大活躍だったそうじゃないか。先週、電話でずっとお前の話を聞かされたんだぞ? あんなに楽しそうないろはは久しぶりだった」

 

 そう言っておっさんは優しい笑顔を浮かべると、俺の頭にポンと手をおいた。

 頭に手を置かれるなんてイツぶりだろうか。

 だが、相手がおっさんでは正直あまり嬉しくはない。

 

「まさかたった一週間で解決するとは儂も思ってなかったからな、こっちも驚いたぐらいだ」

「いや、おっさんに言われた事をやっただけだし……」

 

 するとおっさんは一瞬、俺を「マジかコイツ」みたいな目で見てきた。

 え? 何?

 

「儂は別に、いろはが悩まなければいいと思ってただけだ、お前みたいに円満解決なんて考えてなかったぞ」

 

 あの方法で円満……だったのだろうか?

 約一名不服そうにしていた奴がいた気もするが。

 まあ、そいつも結局は相談された側の人間だったと考えるなら、一色同様この問題に悩まされなくなったという意味では円満なのかもしれない。

 

「すまんな、まだまだお前を過小評価してたみたいだ。だからそれは儂からの詫びという意味もある。お前はその金額に見合った仕事をしたんだ、胸張って受け取っておけ。あ、でも無駄遣いはするなよ? 大事に使え?」

「いや過小評価も何も……俺授業もちゃんとできてないんだが……?」

「そこらへんは今後に期待だな……。いろはの中間の結果、相当悪かったそうじゃないか」

 

 やはりそっちも聞いていたか。

 そこは今の俺としてはあまり触れてほしくない部分だ、悪い点を取ったテストを隠すなんて事はやった事はないが。こういう心境なんだろうか?

 やっぱさぁ、俺が家庭教師に入った瞬間下がったというのがなぁ……。

 正直俺は悪くないと思っているし、実際悪くないが、まともに授業をやってない以上、俺のせいじゃないと反論する材料もないわけで。

 かといって今後に期待されても、盛り返す自信もなという、ナイナイ尽くしなのだ。

 一体どうしたものか。

 だがおっさんは、そんな俺の考えを遮るように言葉を続けた。

 

「あいつの志望校は聞いているか?」

「……確か、海浜総合? おっさんに言われてるとか聞いたような?」

「ああ、まぁそうなんだがな……」

 

 志望校を聞いたのはつい先月のことだ、間違ってはいないはず。だが、珍しくおっさんの歯切れが悪い。なにかあるのだろうか? そう思っているとおっさんはぽつりぽつりと語り始めた。

 

「いろはの奴、中学に入ってすぐ部活に入ってな。異性にチヤホヤされるのがよっぽど楽しかったんだろう。熱心にサッカーの勉強もしだして段々家に帰ってくる時間も遅くなっていった」

 

 おっさんが呆れたように「ふぅ」と大きく息を吐く、その様子は、まさに「ヤレヤレだぜ」という感じだ。

 

「そのうち『自分磨き』だなんだ、とやたら色気づき始めてな。やれ「ピアスを開けたい」だの、やれ「もっと大人っぽい服が欲しい」だの言っては外見を気にするようになった。そして同時に少しずつ成績も下がっていったんだ」

 

 その様子は容易に想像できた。あの容姿にあのあざとい性格だ、きっと当時は一年のマネージャーというのもあって上級生からもさぞ可愛がられた事だろう。

 まあ同性からは嫌われそうだが……。

 

「もみじ達にとっては大事な一人娘だし、儂らにとっては可愛い初孫だ、それまで甘やかしてきたのもいけなかったんだろう。だが、さすがにそんな状態が続くと心配になってくる。このままじゃ三年になって……つまり今年の受験で後悔するんじゃないかとな。だから、自分磨きをするなら外見だけじゃなく内面もきちんと磨けと注意した。その流れでいくつか約束事をしたんだが。その一つとして、海浜総合に入るぐらいの気持ちで日頃から学力をつけるよう言ったんだ。アソコに入れるレベルなら。いつか行きたい高校を見つけても焦らずに対応できるだろうと思っての事だったんだが……どうも上手く伝わってないみたいでな」

 

 最後の言葉は俺に向けてというよりは独白に近かった。

 おっさんは珍しく苛立たしげに頭を掻き、雨脚の強くなった雨に対抗し、ワイパーのスピードを上げた。

 

 なるほど、そういう理由があったのか。

 てっきり海浜総合がおっさんの母校とかでゴリ押ししたかっただけなのかとか思ってしまっていた。なんなら知り合いが理事長やってるとかいう設定もあるかと邪推してしまったが……さすがにそんなご都合主義ではなかったか。すまんおっさん。

 実際、海浜総合は決してレベルの低い所ではない。

 そこに入れるならおっさんの狙い通り、大抵の高校を目指すことはできるだろう。

 成績が下がった時の一色の学力というのがどの程度かはわからないが、少なくとも現状は部活と学業の両立をして志望校の射程圏内には入っているというのだから、一色は割と凄い奴なのかもしれない。

 

「ま、そんなわけでな、別に海浜総合に絶対入れというわけじゃない、何か目標を持って別の志望校に行きたがるならそこに行けばいいと思ってる、まあ、あんまり適当な理由なら叱るつもりだが、それはいろは自身の問題だ。お前は肩肘はらず今まで通りやってくれ。報酬も払ったんだ、来月もしっかり頼むぞ?」

「……うっす」

 

 「報酬は払った」と言われてしまえば俺の方からは最早何も言えない。

 ずっと手に握りしめていた封筒に改めて視線を落とすと、受け取った直後より少しだけ重たく感じた。これが責任という奴なのだろうか?

 

「ほら、さっさと仕舞え。無くしても補填はせんぞ?」

「……ありがとうございます」

 

 俺は狭い車内で、おっさんに頭をさげ。受け取った金を封筒ごと財布にしまう。

 自信を持ってこの額に見合う働きをしたのか? と聞かれれば確実に「NO」だ。

 だが、だからといって貰わないという選択肢は俺の中には存在しない。

 仕方ない、次からはもうちょっと頑張ろう。

 俺はダイエットを始める気のない女子みたいな事を考えながら、窓の外を見る。

 降りしきる雨の中、目の前に見えるのは高速道路の入り口。

 え? ちょと待って? マジどこ連れて行かれるの?

 小町へ、お兄ちゃんは何時に帰れるかわかりません。心配してください。




長らく更新をお待たせして申し訳ありませんでした。
先月、活動報告で更新が遅れるという報告はしていたのですが。
お気づきにならなかった方もいたかと思います。申し訳ありません。

9月からまた更新を再開していきたいと思いますのでよろしくお願い致します。
取り急ぎ今回の話は前後編なので16話は明日投稿します。

更新停止期間中のあれやこれやはまた活動報告にて!
興味のある方は覗いていただければと思います。

感想、評価、誤字報告いつもありがとうございます。
皆さんの応援が私の原動力です。今後ともよろしくお願い致します。


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第16話 おじいちゃんとドライブ

いつも誤字報告、評価、感想、お気に入りありがとうございます。

二日連続投稿。
こちら後編となります。

まいどまいど誤字が多くて申し訳ありません。
いつも本当に助かってます……。ありがとうございます。


「っていうかこれマジでどこ向かってんの?」

 

 さすがに心配になった俺は再度おっさんにそう問いかけた。

 すでに車が走り出して三十分以上が経っている。

 雨で視界はどんどん悪くなり、一瞬ガタンと大きく車が揺れた。石でも踏んだのだろうか?

 高齢者ドライバーの事故という嫌な言葉が脳裏をよぎり、不安を隠せなくなってきた俺に、おっさんは口角を上げ、口を開く。

 

「どこだと思う?」

 

 うわぁ、また面倒くさい返しを……。疑問文を疑問文で返さないで欲しい。

 QにはAで返すって学校で教わらなかった? 

 

「……ディスティニーランドとか?」

 

 パンダっぽいキャラクターのパンさんが有名な千葉ナンバーワンの遊園地。

 雨だし多分空いているから行こうぜ! みたいなノリだろうか?

 でもおっさんと二人でディスティニーランドとかゾッとしないな。

 なんならちょっと身の危険を感じるまである。

 

「はずれ、まぁ、大分遠回りしてるからな、走ってる方角は関係ないぞ」

 

 おっさんはそう言うと、また少しだけスピードを上げる。いや、横から結構抜かれているからコレでも遅い方なのか?

 ってか方角関係ないのに「どこだと思う?」とかクイズにしても無理ゲーがすぎんだろ。

 いや、マジどこ連れてかれるの?

 冗談じゃなくドナドナな気分になってきた、俺も売られていくのかもしれない。

 せめて今日中に帰れますように……。

 アレ? ガチで泊まり込みとかいう可能性もある?怖っ!

 

「正直言うとな、今日あたり八幡がサボりたがるんじゃないかって心配して来たんだが。今後の事も真面目に考えてくれているようで安心した」

 

 俺が目的地へと不安を募らせている最中、突然おっさんにそんな事を言われ、思わずビクリと体が震える。

 なんなのこのおっさん、やっぱエスパーなの?

 なんだか全てを見透かされていそうでおっさんの顔を見るのが少し怖い。

 だが、おっさんは俺の心境など知らず「まさかな、すまんすまん」と笑ってる。

 しかし、俺が目線を合わせようとしない事で何か察したのか、その笑いはすぐに止んだ。

 

「あ? 何だ? まさか本当にさぼろうとしてたのか?」

 

 ぐ……。カマをかけられただけか。失敗した。

 

「……いや、サボるというか……ちょっと体調が悪い気がしてたというか……」

「はっはっは、そうかそうか、凄いな小町ちゃんは」

 

 え? なんでここで小町? マイリトルシスター小町が近くにいるの?

 俺は思わず後部座席を振り返る、だがそこには当然誰もいない、車の中にいるのは俺とおっさんの二人だけ、どうやらドッキリの線はないようだ。

 知らない間に後部座席に妹が乗ってたら怖い説。立証ならず。

 

「小町ちゃんからな、「そろそろうちの兄が頭痛がするとかいってサボる頃かもしれません」って連絡があってな。儂もまさかと思いながら迎えにきたんだが。いや、流石兄妹だな」

 

 くそぅ、小町め余計な事を……。今日は出かけるといっていたので油断した。

 帰ったらきっちり問い詰めておかねば。

 

「小町ちゃんはいい子だな、ちゃんとお前の事を見てる」

 

 兄のサボタージュをチクる行為のどこに良い子要素があったんだろうか。

 良い子ならば「お兄ちゃん今日は小町と一緒に遊んで! 家庭教師なんてさぼって!」というべきではないのか。まあそれはそれでウザいが……。

 そういや小さい頃は割とそんな感じだったな、いつ頃からあんなに生意気になったんだったっけ。

 

「やっぱり小町ちゃんにもいい相手をみつけてやりたくなってきたな。八幡は心当たりないのか?」

 

 そんな相手がいたら俺がもうとっくに粛清しているだろう。いないよね?

 そういえば俺、小町の交友関係もあんま知らないんだよな。この間家に勉強会に来た友人とやらの顔もろくに見ていない。男はいなかったと思うが……。まさか、俺の知らない彼氏がいたりするのだろうか? いや、いないはず、いない。小町にはさすがにまだ早いだろう。

 

「小町に許嫁だなんだは勘弁してやってくれ、あいつにはまだそういうのは早いし。そういう相手はその……ちゃんと好きな相手のがいいだろ……」

 

 小町の好きな相手……俺は好きになれない自信があるが。

 発した言葉自体は本心でもあった。

 まあ俺自身も許嫁という関係に思う所もあるし、小町が裏で動いていたという面があるにせよ、わざわざ率先して仕返し……とばっちりを食らわす必要もあるまい。

 だが、おっさんは俺の言葉を聞いてなにやらキョトンとした顔でこちらを見てくる。

 

「やっぱり兄妹なんだな……」

 

 おっさんが感心したように呟いた。

 あれ? 知りませんでした? 何? 似てないから実は血が繋がってないとか、そういう想像でもされてたんだろうか? 実は俺は川の下で拾われてきた子供じゃないかとか、そういう妄想は小学校の頃にした事はあるけどトラウマになるのでやめてください。未だに確証は得られていないのだから……。

 

「何をいまさら……義理じゃなくて正真正銘の兄妹だよ」

 

 ……多分。という言葉は心の中にしまって、口に出さないようにする。ほら、言霊ってあるじゃん?

 間違っていても言い続けてたら本当になる事もあるだろう。きっと。多分。恐らく。

 

「そういう事じゃなくてな……。儂がお前を「いろはの許嫁として迎えたい」って頼みに言った時、小町ちゃんも同じこと言って反対してたんだぞ?」

 

 おっさんの口から発せられた衝撃の事実。

 それは本当に衝撃的で、信じられない言葉だった。

 あの小町が? むしろ積極的にくっつけようとしているようにすら思えたんだが?

 反対? 嘘だろ?

 

「一回目の話し合いの時は梨の礫でな、二回目でようやく条件付きで承諾をもらったんだ」

「条件?」

 

 鳩が豆鉄砲をくらったような顔というのはきっと今の俺のような事をいうんだろう。

 なんだ条件って?

 家庭教師をやること? だがこれは許嫁になった上で接点を増やすという意味合いが大きそうなので『許嫁に反対している側』の条件としては成立しないだろう。

 ならば、「一年だけ許嫁になる」という期限の方か? これなら納得はできるが、しかしあれはあの場で一色の反対を退けるための条件のようにも思える。

 何か聞き逃している事があったか? 思い出せ、思い出すのだ八幡。この関係を終わらせるカードを手に入れるチャンスだ。

 

「なんだ、聞いてないのか? ……失敗したな、この話は忘れてくれ」

「いや、そこまで言ったら言ってくれよ、なんだよ条件って、気になるだろ」

 

 おっさんが話を終わらせようとしたので俺は慌てて言葉を繋ぐ。

 だが、このおっさんにしては珍しく「あー」だの「うー」だのと言葉を濁そうとしているようだった。

 チラチラと俺の方を見ては、俺がなにか言葉を発するのを待っている。しかし俺としてもここは譲れない。

 俺はじっとおっさんの横顔を見つめ、おっさんは気まずそうに前を見て運転をする。

 時間にしてみればほんの一分程の沈黙の後、おっさんは観念したように。口を開いた。

 

「はぁ……小町ちゃんの条件は“他に本気で好きな相手ができたら許嫁を解消する事”だ」

 

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。

 本気で好きな相手ができたら?

 つまり俺が今ここで、適当に誰かの事を好きだと言えばそこでこの関係は終了するということか?

  

「あ、当然、そこら辺の適当な相手は認めんぞ? 儂を納得させるぐらいの相手ならという意味だ、もしそういう相手が出来たらちゃんと連れてこいよ?」

 

 珍しくおっさんが焦ったように、早口で捲し立てる。

 それはあれか、俺にはどうせそんな相手用意できっこないだろうプギャーみたいな事だろうか? 大正解だよ、くそっ。

 唯一見えていた出口が塞がれていくのがわかる。

 

「なんでもな『お兄ちゃんにはしっかりした相手じゃないと駄目』なんだと、兄思いのいい妹じゃねぇか」

 

 いい妹……なのだろうか?

 完全に俺の退路を断ってくる辺り、割と楽しんでいるようにも思えるのだが……。

 そもそもしっかりした相手ってなんだろう。俺にはよくわからない。

 俺がそういった相手に求めるのはそんな曖昧な言葉じゃなくて、もっと……こう……。

 

「知ってたか? 小町ちゃんなぁ、お前の話をする時、そりゃもう自慢気に話すんだ。お前の失敗談なんかも含めて、楽しそうにな。前に一緒に焼肉食いに行った時も、ずっとお前の話をしてたんだぞ?」

 

 俺の話? なんだろう、そもそも俺の話をする小町というのが想像できない。というか、それは、共通の話題が俺しかなかったというだけではないのか? 失敗談とかいう時点で碌でもない話な気もする。

 

「まぁ、儂が色々聞いたっていうのもあるんだがな。昔、家出した小町ちゃんを迎えに行ったんだって? 『小さい頃はいつでもお兄ちゃんがいてくれた』って嬉しそうに話してたぞ」

 

 それは俺が高校に入るよりもっと前の話だ。

 両親が共働きで必然的に家には子供だけが残る。中学にもあがれば小学校に通う小町との帰宅時間がずれるのは当たり前になり、小町は一人家で留守番という事も多くなった。

 それに不満を持ったのか、ある日家に帰ると、書き置きが一枚。あの時は慌てて探しに行ったなぁ。まあ割とすぐ見つかったが。

 それからというもの俺もできるだけ早く家に帰るようになった。

 小町が家に帰ってきた時、一人にならないように。

 ……といえば聞こえはいいが、実は単に俺が他に予定がなかったからというのが大きい。

 あの時の俺は小町を口実にしたのだ。誰かと放課後を過ごすでもない俺にとって、家にいれば小町が帰ってくるという環境はとても楽だった。

 

「ただな、同時に申し訳なかったとも言っていた……」

「は? それってどういう……?」

 

 おっさんが何を言っているのか全く分からなかった。

 そう、あの時の家に早く帰ったのは俺のためでもあって、小町のためだけに存在したわけじゃない。小町が申し訳なく思う必要なんてないはずだ。

 ならば一体何を申し訳なく思う必要があるのだろう。それともそれは別の話なのか? 正直見当がつかない。

 

「少し喋りすぎたな、これ以上は儂の口からは言えんが。ただ、下の子には下の子なりの苦労ってのがあるもんだ。小町ちゃん、大事にしてやれ? 時には見守るのも優しさだぞ?」

 

 見守る……。見守れていなかったのだろうか。俺にはよく分からない。

 小町には何か不満があるのか? いや、まぁ俺に対する不満は沢山ありそうだが……。

 小さい頃の記憶をたどり、小町のことを思い浮かべる、泣いている小町、怒っている小町、笑っている小町。

 なんだか無性に小町と話をしたくなった。こういうのをシスコンというのだろうか。

 でも俺がそんな事を言っても、きっと小町は嫌そうな顔をして「熱でもあるの?」とか言うのだろうな。

 

「というわけで、小町ちゃんに合いそうな男、探さないとな」

「いや、それ見守ってねーだろ。さっきまでの話台無しじゃねーか」

 

 「見守ってるさ、儂なりにな」と真面目な空気を吹き飛ばすように、おっさんは大きな口で笑う。

 本当ならもう少し追求すべきなのかもしれないが、これで話は終わりだと空気が語っていたので。

 その雰囲気に俺も乗る事にした。

 助手席の背もたれに思い切り体を預け、ふぅと息を吐く。

 あ、この車ドラレコついてるじゃん。今の会話とかも全部録画されてたりするんだろうか?

 悪用されませんように。

 

「……っていうか、その解消条件なら一色にも当てはまるんじゃねぇの?」

 

 一色に好きな人が出来たら許嫁は終了。

 そう一色に伝えたほうが、今の状況も円滑にすすむのではなかろうか。

 実際今の一色にそういう相手がいるのかどうかは分からないが、俺よりは確率が高そうだ、悲しいことにな。

 なぜなら現状俺のスマホに連絡先が入っている異性というのは一色家を除けば、小町とお袋ぐらいしかいないのである。ちくしょう。

 

「その心配はない」

 

 だがおっさんは自信満々に俺の言葉を否定した。

 

「いろはが男を連れてきても、お前以外だったら儂が認めないからな」

 

 不思議そうな顔をする俺に。おっさんはそう言ってニヤリと笑う。なにその笑顔怖い。

 既に何人か殺った的な笑い方だ。

 いや、マジでこのおっさんの中の俺のイメージどうなってんの? さっき俺のことを過小評価してたとか言われたが、評価が高すぎるにも程がある、持ち上げられすぎて逆に降りるのが怖い高さまでいってない? マジ勘弁してほしい、俺は一介の高校生だ。そこまでして俺を一色とくっつけようとする意味がわからない。

 そのうち逆恨みで一色のファンとかから刺されたりしないかしら?

  

 しかし、同時に思う。

 きっと一色に本当に好きな奴とやらが出来て、その本気がおっさんに伝われば、おっさんは俺に「スマン」と一言頭を下げ、場合によっては土下座をしてでも許嫁の解消を頼みに来るのだろうと。その情景は容易に想像がついた。

 まだそれほど長い付き合いというわけではないが、このおっさんは独裁者のようにみえて、本当に一色のためにならないことはやらない人だ。それだけは確かに確信を持って言えた。

 まあ土下座なんてされなくても、用が済んだら関わらないつもりだが……。

 そういった事を今ここで言っても納得はしてもらえなそうなので、俺は口から出かけたその言葉を黙って飲み込み、別の言葉を吐き出した。

 

「なら、俺も小町に許嫁なんて認めない」

 

 そう言うと、おっさんは一瞬驚いた顔をして、その後今日何度目かの大笑いをした。

 

*

 

 それから、おっさんは昔の一色や、ラノベの話をしながら、車を走らせた。

 途中でガソリンスタンドに寄ったり、こんな立地で本当に客がくるんだろうか? と思う広い駐車場のあるコンビニで飲み物を買ったり、見たこともない海岸沿いも走ったりをしたが、未だに目的地は教えてもらえていない、一体どこに向かっているのだろう?

 そんな疑問を何度か口にしながら車に揺られ、すっかり日も落ちきった頃、車が止まった。

 

「さて、着いたぞ」

 

 そこは駐車場。そして眼の前には地元では決してお目にかかれない看板。

 一瞬、こんだけ走ってファミレスか? と少しだけがっかりしながらその看板を見上げた。

 だがそこには大きな文字で知っている漢字が三文字書かれていた。

 

「蛇々……庵……?」

 

 それは以前、小町がおっさんに連れてきてもらったと言っていた高級焼肉店の名前だった。

 来たことはないのにテレビや雑誌で紹介されるので、名前と外観だけは何故か知っている。幻の蛇々庵。それが今まさに俺の眼の前に……!

 夢……? え? 今日の家庭教師は?

 

「お前の初給料と、そろそろ許嫁一ヶ月記念を祝してな」

 

 一ヶ月記念とか付き合いたての面倒くさい彼女みたいな事を言い出した。なんだろう、このおっさんは意外とそういう所があるんだろうか。

 だが、今はそんな事はどうでも良かった。

 幻の焼肉店が俺の目の前にあるのだ。あ、でも手持ちで足りるかしら?

 俺は手早く財布の中身を確認する。

 一人前いくらぐらいなんだろうか、ワンコインのメニューとかがあればいいが……最悪バイト代が全部吹き飛ぶかも知れない。

 

「何を金の心配してんだ? 心配するな、お前に払って貰おうなんて思ってねーよ。奢りだ」

「ま、まじすか!?」

 

 思わず体育会系みたいな返事をしてしまった。

 だが奢り……いいんだろうか? そういえば先週も一色に奢ってもらったんだよな……後輩に奢って貰うのがどうとか考えるのはこの際無しとして、一色家は人に奢りたがる一族なのかもしれない。

 俺はゆっくりと助手席のドアを開け、車の外へと出る。

 雨はまだ少し降っていたが、この程度なら傘をさす必要もなさそうだ。

 何よりこのまま屋内で焼肉だしな。

 おっと、ヨダレが……。

 

「あー、センパイ! お爺ちゃんも遅いー!」

「一色?」

 

 声のした方を見ると。

 そこには一色ファミリーが全員集合していた。

 いろはす夫妻の後ろには楓さんもいる。前方の一色、後方の一色(おっさん)だ。完全に挟まれている。明らかに俺がここにいる事に場違い感があるな。これがオセロだったら俺も一色になっていたかもしれない。

 

「ま、とりあえず今日は一ヶ月お疲れさんってことでな、パーッと行こう」

 

 おっさんは俺の後ろに立つと、俺の背中を押してくる。

 こうやって並ぶとやっぱおっさんでかいな……。何食ったらこんなにでかく……肉か……。

 

「ほらあなた、やっぱりこんなに遅くなって! だから皆で来たほうが良いって行ったじゃないですか」

「はは、すまんすまん、色々寄り道しててな」

 

 だが、そのおっさんは、到着早々楓さんから怒られていた。

 少しだけ大きく見えたおっさんが今ではとても小さく見える。

 この二人、力関係はやっぱり楓さんが上なんだろうか。

 

「センパイ……? どうかしました? もしかして焼肉苦手です?」

「いや、肉は好きだぞ、肉は」

「健康の為にも野菜をいっぱい食べたほうがいいですよ? お肉は私が処理しますんで」

 

 あざと一色さんが、ウインクを決めながらそんな事を言ってくる。

 「ありがとう! じゃあお言葉に甘えて」と返すとでも思っているのだろうか? 焼肉にそんな優しさはいらない。

 

「ほら、予約の時間があるんだから、早く入りましょう」

 

 もみじさんにそう促され、俺たちはやっと駐車場を後にする。

 小町に自慢話をされてからというもの、夢にまで見た蛇々庵が今俺の目の前に……。

 俺は、柄にもなく心を踊らせ、田舎者のように店内をキョロキョロと見回した。

 一体どんな肉が振る舞われるのだろう。期待に胸が膨らむ。

 

「あ、ちなみにうちのお爺ちゃん焼肉奉行で順番とか焼き方とか色々煩いんで、覚悟してくださいね?」

「えぇ……マジで?」

 

 なんだかすごく気分の下がる事を言われた気がする。

 焼肉奉行ってなんだよ……。やっぱり高級店だからか? お奉行様に頼らないといけないシステムが残ってるの?

 第一焼肉の順番ってなんだよ……。好きに食っていいんじゃないのかよ……。

 そういえば、焼肉のタレを白飯にバウンドさせるのはマナー違反とかいうのも聞いたことあるな。そういう厳しさだろうか?

 高級焼肉。俺、楽しめるのかしら?

 そんな一抹の不安を残しながら、俺は一色と並び店内へと入っていった。




というわけで後編でした。

目的地がどこなのか、前半時点で分かっていた方もいたかと思いますが。
皆さんの予想はいかがだったでしょうか?

ヒロイン成分が大分少ないですがこの作品は八色です……w


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第17話 兄と妹

すみません予約投稿ミスりました!
いつも誤字報告、感想、お気に入り、評価、メッセージありがとうございます。 


 焼肉の匂いを充満させながら帰宅した日の翌朝。

 俺は小町の部屋の前に立っていた。

 別に疚しい事をしているわけではない。

 ただ昨日おっさんから話を聞いて。小町に何かを言わなければいけないのではないか、そんな衝動に駆られついここまで来てしまったのだ。

 だが、ドアをノックする手の形のまま早五分。俺は動けないでいる。

 

 小町が昔の事で俺に対して何かを感じているのか、もしそうだとしたら俺に何かしてやれるのか。あるとすれば一体どう切り出せばいいのだろう。

 俺はそこそこ回転の早い頭をフル稼働させ、何度も何度も脳内でシミュレーションを繰り返した。だが一向に答えは出ないまま時間が過ぎていく……。

 ここは一度戦術的撤退を図るべきか。そう思った瞬間、スマホが鳴った。

 くっ、誰だこんな時に……って一色か。すまんが後にしてくれ……。

 

「お兄ちゃん……? 何してるの?」

 

 ドアノブが回ったのに気がついた時には、もうすでに遅かった。

 しまった、逃げ遅れた。

 スマホの音に気がついたのか、それとも部屋の前にいた俺の不穏な気配を察知したのか、小町が開いたドアから顔だけを覗かせる。

 右手はドアをノックする形で、左手にスマホを持つ姿勢のまま固まる俺はさぞや滑稽であろう。

 でもいきなり自分のスマホで写真を撮ろうとするのはやめて欲しい。

 証拠保全は大事だが。そこまで警戒されるとお兄ちゃんちょっと凹む。

 

「あー……その……なんだ。この間借りた金、返そうと思ってな」

「あ! そうだよ! 小町も金欠だったんだからね! 早く返して!」

 

 とっさに思いついた言い訳だったが、金の話と聞いて、小町は勢いよく部屋から飛び出し、俺に詰め寄ってきた。

 文字通り、現金な奴だ。

 俺はスマホをしまい、尻ポケットから財布を取り出すと、その中から昨日貰ったばかりのキレイな千円札を三枚小町に渡した。

 

「はい、確かに……ってお兄ちゃん凄いお金入ってるじゃん……え? まさかとうとう犯罪を……?」

「ちげーよ、バイト代が入ったんだよ」

 

 めざとく、俺の財布の中を物色する小町に俺がそう言うと小町は「ふーん……」と一瞬興味なさげに答えたと思ったら、にこりと邪悪な笑みを浮かべる。

 そして次の瞬間には俺の腕に巻き付いてきた。

 なんだろう、何かは分からないが、ろくでもない事を思いついたに違いない、だが引き剥がせない。その様子はまるで巨大な蛇に巻き付かれたようだ。絶対に離さないという強固な意思がそこには感じられる。

 「離せよ」というと、小町は肩越しに俺を見上げる、媚びた表情でパチパチと大げさに瞬きをして、こう言った。

 

「お兄ちゃん、小町とデートしよ?」

 

 くそっ。可愛いなコイツ。

 

*

 

「ケーキ買うんじゃなかったの?」

 

 小町曰く「初めてのお給料が入ったらケーキを買って家族サービスをするもの」なのだそうだ。

 まあ初給料で親孝行というか、家族にプレゼントをするという話は聞いたことが無いわけではないし、ケーキならそれほど高額な買い物でもない。ちょうどいいタイミングなので入院した時とか、以前のコンビニ飯の件も込みで、親孝行をするのも良いかと家を出たまではよかったのだが。

 何故か今俺たちは電車に乗り、大手のショッピングモールまできている。

 

「コンビニで良かったんじゃないの……?」

「あのね、お兄ちゃん? コンビニはケーキ屋さんじゃないの、ケーキ屋さんはケーキ屋さんなの」

 

 最近はコンビニのケーキも馬鹿に出来ないと思うんだがなぁ。

 だが、小町はそれでは納得してくれないようだ。人差し指をたて、俺にコンコンとケーキのなんたるかを語ってくる。

 まぁ、ここまで来てしまったのだから仕方がないか、さっさと小町の目当てのケーキ屋とやらに行って帰ろう。そう考えながら小町に続き、俺はモール内を歩いていった。

 休日の午前中だがそこまで人は多くない、エレベーターで四階まであがり、小町に引っ張られるままサマーセールと書かれた店に入る。

 

「はい、とりあえずお兄ちゃんコレとコレ試着してみて」

「いや、ケーキは?」

 

 そこはあまり耳馴染みのない店名のメンズアパレルショップだった。

 入り口にはハットを被った小綺麗なマネキンとストールを巻いたオシャレ上級者なマネキンが左右から俺の侵入を拒んでいる。まるで阿吽像だ。

 なんだ? やんのかコラ。動かない奴相手ならいくらでもやってやんぞ。

 阿吽像を睨みつける俺に後ろに控える店員もタジタジだ。

 

「ケーキなんて先に買ったら駄目になっちゃうでしょ? 折角バイト代入ったんだから、ちょっと服も見ていこうよ。お兄ちゃんの服ヨレヨレだよ?」

「ええ……いいよ別に……」

 

 服を買うにしても、もっと俺に合う店があるだろう、ウニグロとか今村とか……。

 ここはどう考えても俺が普段着るような服が置いてあるタイプの店ではない。

 騒がしく店内に入る俺たちの周囲をオシャレな店員が警戒しながらウロウロと歩き始め『商品を手にとったなら即座に話しかけてやるから覚悟しろよ』というオーラを放ってくる。

 いや、買いませんのでお気遣いなく。 

 

「とりあえず見るだけ、見るだけだから!」

 

 小町はそう言うと俺をどんどん店の奥へと引っ張り込み、楽しそうに俺に服を当て始めた。

 やがて、予想通りに店員が近寄ってきて、あーでもないこーでもないと小町と会話を始める。何この子、コミュ力高……っ! ちょっと前までは俺の陰に隠れていた人見知りする子だったのに……小町ちゃん……大きくなったのね……。

 だが、そんな俺はというと、喋る間も与えられず、黙って小町と店員の波状攻撃を受けている。

 小町とお買い物にきたよ! 今日のジョブはこれ! 「マネキン」!

 とでも呟けば慰みでいいねの一つでも貰えるだろうか、呟くタイプのSNSやってないけど。

 いや、チョット待って? そのジャケットの値札おかしくない? そんな高いの買えるわけ無いでしょ? どこのプレミアグッズだよ。絶対買わないからな?

 はぁ……帰りたい。

 

**

 

「はぁ……小町、一生の不覚だよ……」

 

 あれから、数件の店を連れ回された後、昼時になったので近くのフードコートで食事を取る事にしたのだが。二人分のハンバーガーセットを載せたトレーを運び、席につくなり小町が大きくため息を付いた。

 

「いや、別に今まで問題なかったんだからいいだろ?」

「問題大有りだよ! あー、いろはさんに変な人だって思われてたらどうしよう……」

 

 事の発端は直前に入った店で小町がトートバッグを持ってきた所から始まった。

 「……そういえばお兄ちゃんバイトの時、勉強道具っていつもどうやって持っていってるの?」と言われ「手ぶらだけど?」と答えたのが余程お気に召さなかったらしい。小町は大きく目を見開き、ポカンと口を開けるとその場で固まってしまった。

 一拍置いた後、店内で迷惑なまでにぎゃーぎゃーと喚く小町をなんとか宥め、現在に至る。

 

「だって仮にも家庭教師だよ? 筆記用具とか必要でしょ?」

「まぁ、必要になったら一色に借りればいいし、今の所そんなに必要だと思ってないしなぁ」

「必要だよ! 生徒に筆記具借りながら勉強教える先生なんて聞いたこと無いよ!」

 

 そうだろうか? たまに「ちょっと貸してみろ」とシャーペンを借りる教師は学校にもいたと思うが……よく考えれば、確かに完全に手ぶらな教師というのはいなかった気もする。教科書は当然持っているとして、後は最低でも胸ポケットにボールペンとか入れてるイメージだな。

 じゃあ次回からはボールペンぐらいは持っていこう。うん。

 

「まぁ……今の所は問題ないからいいだろ」

「駄目だよ、いろはさんに悪いし。ご飯終わったらまずカバン見に行くからね」

 

 そう言いながら小町は山盛りポテトをつまんだ。

 その振動でポテトの山が少しだけ崩れる。

 棒崩しだったら俺の勝ちだ。あれ? 棒倒しだったっけ? それは大人数でやる競技だっけか。まあ地域差とかもあるだろうし名前にこだわる必要はないだろう。どっちも勝利条件は同じだ。あれ? それも違うんだったか。

 

「っていうか、『いろはさん、いろはさん』って、なんでそんな一色の事好きなの? 直接会ったことは無いんだよな?」

 

 そう、会ったことは無いはずなのだ。

 とはいえ、もし、こいつが一色と会っていれば、もっと色々酷いことになる気もしている。

 なんといったらいいか……そう、波長のようなものが合うんじゃないかと思っているのだが、それ故に二人が出会ってしまうことを俺は恐れてもいるのだ。

 きっと、家でもバイト先でも俺のあれやこれやが筒抜けになって、何かあれば二人に攻められ、俺の憩いの場がなくなる。そんな予感がする。

 だが、その問が口からでた瞬間、俺は今の今まで忘れかけていた昨日のおっさんとの会話を思い出し、次の言葉を発していた。

 

「小町は俺と一色が許嫁になるの反対だったんだろ?」

「……え?」

 

 小町が一瞬ビクリと体を震わせ、もう一本ポテトを摘もうした手を止める。

 わかりやすく動揺したなコイツ。

 

「え、えー……? そんな事ないよ? お兄ちゃんが一色さんと結婚したら小町のお義姉ちゃんになるってことだし? 仲良くしたいなーとは思ってるけど、反対なんてするわけ……」

「昨日おっさんから聞いたぞ、許嫁の話『好きなやつが出来たら解消』って条件でOKだしたんだって?」

 

 小町の言葉を遮り、俺が昨日聞いたことを喋ると、小町は観念したように溜息を付いた。

 

「……縁継さん、それ話しちゃったんだ……?」

 

 つい数分前までの楽しそうな表情は消え、小町はまるで叱られるのを恐れる子供のように目線を落とし、ゆっくりと口を開く。

 

「うーん……なんていうかな。別にお兄ちゃんに許嫁ができるのが嫌だ! とかお兄ちゃんを奪られるのが嫌だ! とかそういうんじゃないんだよ? ほら……親同士の決めた結婚とか、政略結婚とかってドラマとかでもいいイメージないじゃん? だからなんとなく嫌だなぁって思ったっていうか……」

 

 小町が足をブラブラさせながら、ぽつりぽつりと語り始めるのを見て、俺は買っておいたコーヒーを一口、口に含み喉を潤す。う……やっぱマッカンにしておけば良かった。あんまり美味くない。

 しかしそうか『お兄ちゃんを奪られるのが嫌』とかじゃないのか、ちょっとだけ期待していたのが残念だ。

 まぁ確かに昨今の許嫁という言葉にそれほどいいイメージはないな。ラノベなんかでヒロインに許嫁がいる場合は大抵が主人公の当て馬だ。

 ヒロインが主人公の元を離れて許嫁と結婚してバッドエンド。なんていうのも見かける。

 俺もそのうち誰かと一色を取り合ってバトルを繰り広げるのだろうか。嫌だなぁ、普通に身を引くから変な事に巻き込まないで放っておいて欲しい。

 

「だからさ、縁継さんの話を聞いた時、お兄ちゃんが可哀想じゃないかなぁって、なんとなく反対しちゃったんだよね」

 

 可哀想だと思うなら、ずっと反対していてくれても良かったのに。

 まぁ、とりあえず話はわかった、

 

「なるほど、つまりツンデレか」

「ツンデレじゃなーいー! ほら、お兄ちゃんにとっては彼女ができる千載一遇のチャンスかもしれないわけじゃん? だからそういう貴重なチャンスを小町が潰しちゃうのも良くないと思ったから、どこかで折れるつもりではいたんだよ」

 

 俺の軽口に、んべっ、と舌をだした小町は、早口でそうまくしたてると買ってきたメロンソーダを一口含み、再び真面目な顔に戻った。

 

「お兄ちゃんだって別に彼女が欲しくないわけじゃないでしょ? 中学の時はちょっと痛い人ながらも女の子に興味持ってたし『俺、近いうちに彼女できるかもしれない』とか言って夜中に気持ち悪く笑ってた事もあったじゃん?」

 

 ちょっと小町さん? なんて話をしてるの?

 いや、まぁ確かに「あいつ俺の事好きなのかも」なんて勘違いをして盛大に盛り上がっていた時期もあったからなぁ……。あの頃の俺は若かった。ぜひとも忘れて頂きたい。

 

「で、実際の所どうなの?」

「どうって?」

「いろはさんだよ。仲良くやれてる?」

 

 まるで初めて幼稚園に通う子供を心配するような顔で、小町が俺に問いかけてくる。

 

「別に、普通」

「普通……ね……」

 

 小町は呆れたようにそう言うと、再びメロンソーダのストローを口を含み。今度はブクブクと空気を吹き込んだ。

 こら、お行儀悪いからやめなさい。

 

「あー、小町もいろはさん会ってみたいなー」

「会わなくていい、お前絶対変な影響受けるだろ」

「えー、何それ?」

 

 いや本当、絶対ろくな事にならないと思う……。

 

「小町お姉ちゃん欲しかったんだよね、お兄ちゃんはこんなだし?」

「こんなで悪かったな……」

 

 そもそも姉が欲しいという件は俺に話すより親父とお袋にでも愚痴ってくれ。

 その辺りに俺の裁量権は皆無だ。

 だが、小町は俺の返答に「ふふっ」と笑うと、俺の口に一本、ポテトを放り込んできた。

 

「それでもね、十四年も一緒にいたらこんなお兄ちゃんでも愛着も湧くものですよ。あ、今の小町的にポイント高い」

「ま、十四年一緒にいればな」

 

 そう言いながら、小町がもう一本俺の口の中にポテトを放り込んでくる。 

 

「……小町は心配なんだよ、お兄ちゃんがどんなに捻くれた事を言っても、こういう人だって小町はわかってる。しょうがないなぁって思える。でも、他の人は違うよ? 全然意味分かんないし凄く面倒くさいと思う。もしいろはさんと喧嘩とかしたらすぐ小町に話してよね? ちゃぁんとどうやって謝ればいいかアドバイスしてあげるから」

 

 何故俺が謝る側になる事が確定しているのか。

 喧嘩の仲裁ならばこちらの言い分も聞いて欲しい。

 だが反論ができない。なぜなら小町は俺の口にポテトを入れるのが楽しくなってきたのか、次々と俺の口にポテトを入れてきていて物理的に喋ることが困難になっているのだ。

 や、やめ、やめろー!!

 

「んぐっ……ん……んっ……ま、まぁ……その……色々考えてくれた事に関しては、感謝しとく、ありがとな……」

「別にー、小町が勝手にしたことだし?」

 

 なんとかそれ以上のポテトの侵入を手で防ぎ、コーヒーで流し込みながらそう答えると。

 小町は、俺に聞こえるか聞こえないか、という声量でそう言って、再びポテトをつまみ、今度は自分の口へと運んだ。

 どうやら『お兄ちゃんの口にポテトが何本入るかチャレンジ』は終わったようだ。助かった。

 まぁ少々鬱陶しくはあるが、小町は小町なりに俺の事を考えてくれたという事なのだろう。

 ほんの少し前まで俺の後ろをちょこちょこついて回りっていたこの妹も、いつの間にか成長していたという事だ。

 まあやってる事はまだまだ子供のようだが……。

 あー、死ぬかと思った。

 

「小町も、悩んでる事とか、俺に何か言いたい事があったら遠慮すんなよ? 一応お兄ちゃんだからな人生相談には乗るぞ」

 

 それは昨日から俺の中でつっかえていた言葉。

 過去、小町が一体何を思っていたのかは、わからない。

 今このタイミングで言うことではないのかもしれない。

 おっさんは「年下には年下なりに苦労がある」と言っていた、もしかしたら兄である俺だからこそ言えない事もあるのかもしれない。

 あの日の夜、小町が言っていた言葉の意味も全てわかったとはいい難い。

 だが、例えそれが俺のエゴだったとしても、それだけは伝えておきたい俺の本心だった。

 まああまり面倒くさいのは勘弁してほしいが……。

 多少のワガママを聞く度量はあるつもりだ。今までも、そしてこれからも。

 

「お兄ちゃんが何でも解決してくれるってこと?」

「俺になんとか出来る範囲で、なおかつ時間的余裕がある時ならな」

 

 つい、怖気づいて予防線を張ってしまう、俺の悪い癖だな。

 いや、しかし今の世の中「なんでも」なんて言ったら「今なんでもっていったよね?」と容赦なく攻められる事もある。予防線大事。

 

「何それ……、凄く範囲狭い気がするけど」

 

 小町は俺の言葉を聞いて呆れたように息を吐く。

 

「でも、ありがとね」

 

 だが、次の瞬間には、穏やかな笑顔を浮かべていた。

 どうやら俺の気持ちは伝わったようだ。

 

「小町も、お兄ちゃんみたいに誰かに認めて貰えるようになりたいな」

 

 最後の言葉は、俺に向けて、というよりは。独り言のような言い方だった。

 一体俺がいつ誰に認めてもらったというのか。

 どうせまたおっさんに何か変なことを吹き込まれたんだろう。

 思いっきり突っ込んでやりたいという衝動に駆られたが、小町の志を否定するのも何か違う気がして、俺は喉元まででかかった言葉をコーヒーと一緒に飲み込んだ。

 

「さ、辛気臭いからこの話おしまい! 食べよ食べよ、午後もいっぱい回るんだから覚悟しといてよね、お兄ちゃん」

 

 もう帰りたいという気持ちは大きいが仕方ない。

 俺は覚悟を決め、すぅっと息を吸う。

 

「……まあ久しぶりに遊んでくか。じゃあさっさと食うぞ、今日はお兄様の奢りなんだ、残さず食えよ?」

「うえー、偉そうだなぁこの人。……でも、ありがたく頂きます」

 

 「ははー」とハンバーガーを掲げ、頭を下げる小町に俺は「苦しゅうない」とふんぞり返る。

 次に目があった時、俺達はどちらからともなく笑い始め、すっかり冷めてしまった残りのハンバーガーにかぶりついたのだった。




兄妹シリアス回(多分)
今回の話は本当自分でも色々あった回なのでよかったら活動報告の愚痴も読んでやってください……。

あと、これから数話は繋ぎ回(?)です……。
物語が動くまでもうしばらくお待ち下さい。

あ、古戦場がまたやってきますね……(震え

ところで今更なんですが
タグ表記方法って「八色」じゃなくて「八いろ」なんですかね?

誤字報告、感想、評価、メッセージいつでもお待ちしています。


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第18話 危険な組み合わせ

誤字脱字報告、感想、お気に入り、評価、メッセージ。いつもありがとうございます。

前回予約投稿忘れて慌てていたせいで
大事なことを伝えるのを忘れてました……。

感想数100件超えました!
ありがとうございます!


 小町と食事を済ませた後、俺たちは数件の店を周り、四千円の黒いショルダーバッグを買った。

 そのバッグは黒地に二本の白ラインが入ったシンプルなデザインながら。ラインが右下の方でクロスしており、一見すると時計の針のようにも、十字架のようにも見える、俺の中二心を大いに擽るものだった。

 『これならちょっと欲しいなぁ』と、つい手にとってしまった所で。

 「まぁ、これならお兄ちゃんの服にも合うし、いいんじゃない?」と小町のお墨付きを貰ったのでそのまま購入。

 よし、今日からお前を『クロノクロス』と名付けよう。おっと、こういうのは卒業したんだった、危ない危ない。

 

「まあ、一気に色々買っちゃうとお金なくなっちゃうからね、来月からも少しずつお兄ちゃんに必要なものを買っていこうね……? 次はお財布かなぁ」

「財布? なんで財布?」

 

 別に俺の財布は壊れたりしていないし、中学の頃から使っている物なのだが……。

 あれか、財布はこまめに買い換えないと金が逃げるとかそういうやつか。

 いや、そもそも短期間で財布買い替えてたらソッチのほうが金が逃げてかない?

 

「まぁ、お兄ちゃんにはわからないか……とりあえず見るだけでも見に行こう?」

 

 不服そうな俺の表情を察したのか、小町はちょっと呆れ気味にそういったが、今日の小町はご機嫌だった。胸につかえていた何かが取れた。そんな風にも見える。

 それはただ単に俺にとってそうであって欲しいという願望が込められているだけなのかもしれないが……。まぁ、深く考えるのはやめるとするか。

 とりあえず見るだけならタダだ、今は小町の思うようにさせてやろう。来月になれば忘れているだろうしな。

 

 そんな事を考えながら、下りのエスカレーターを目指し小町の後ろを歩いていると、ふと反対の上りのエスカレーターから上がってくる一人の人物の姿が目に入った。

 徐々にせり上がってくる頭部、顔、肩、全てに覚えがある。

 あれは……一色?

 そう、それは間違いなく一色いろはその人であった。

 こんな偶然もあるものだろうか。

 っていうかアイツこんな所で何してんだ?

 

 しかしまずい。

 このままでは小町と一色が鉢合わせてしまう。

 何度も言うが、この二人は会わせてはいけない、絶対面倒くさいことになる、そんな予感がしているのだ。とにかくこの場はやり過ごさなければ。

 とにかく、一度下の階に向かうのは諦めて、この場を離れよう。

 俺は素早く小町の肩を掴み、無理矢理方向転換させると、エスカレーターから離れるように、だが決して不自然さが出ないように早足で歩く。

 

「ちょ、ちょっと、ドコ行くの?」

 

 小町が抗議の声を上げるが、今はこの場を乗り切るのが先決。

 嫌がる小町を抑え込み、無理矢理肩を抱く。

 なんかこういう言い方だと卑猥に聞こえるが、決してそういった意図はない。ないったらない。

 

「あれー? センパイじゃないですかぁ、こんな所で何やってるんですかぁ?」

 

 だが、そうして小町と共に歩いて数歩の所で、耳元で声がした。一瞬、背筋に冷たいものが走る。

 馬鹿な……この俺が背後を取られるだと……?

 どういうことだ? 俺は一色から離れるように動いた、そのはずだ、だが振り向くと、わずか半歩未満の距離に笑顔の一色が立っていた。何をいってるかわからねぇと思うが俺も 何をされたのか わからなかった。

 早い、いろはす早い、いろはす怖い。

 

「センパーイ♪ どうしたんですぅ? あ! 遊んでるんですかぁ?」

 

 いつも以上に間延びしたあざとい声色で、その大きな瞳をキラキラと輝かせる一色だったが。その笑顔はどこか作り物めいていて思わず一歩たじろいでしまう。

 その言葉の裏には『お前LIKEの返信もしないで、女の子と遊んでるなんていい度胸だな?』みたいな意味を孕んでいそうだ。怖い。

 

「あれ……? そっちの子、どこかで……?」

 

 しかし、一色は俺の陰に隠れる、小町に視線を移すと。その笑顔の仮面を剥ぎ取り、表情を一変させた。

 

「もしかして、いろはさんですか?」

「もしかして、センパイの妹さん?」

 

 お互いの顔を指差し、そう確認しあう。

 それは出会ってはいけない二人が、ついに出会ってしまった瞬間だった……。

 

「あ、私の事も知ってくれてるんだ?」

「ええ、それはもう。あ、初めまして。比企谷小町です。いつも兄がお世話になってます」

「一色いろはです、こちらこそお世話に……なってるんですかね?」

「そこはお世話になっとけよ、一応俺家庭教師だぞ」

 

 俺がそう返すと、一色はクスっと笑い「冗談ですよ」と一言付け加え、小町に向き直った。

 さらば俺の平穏……。

 

*

 

 やはり、というかなんというのか。この二人は波長があうのだろう。

 一色と小町は秒で打ち解け、LIKEの交換を済ませると。

 やいやいと俺を挟んで女子トークを始めた。

 

「あの、良かったらどこかゆっくり座って話しませんか?」

「あ、いいねー」

「いや、お前受験生だろ……帰って勉強しとけよ」

「えー、ちょっとぐらい息抜きしたっていいじゃないですかー? 今日だってマーカー切れちゃったから買いに来ただけなんですよ? ……あと少し夏服も見ておきたいしー……」

 

 こいつの場合息抜きが多いんだよなぁ……。

 マーカー程度なら家の近くのコンビニでも買えるだろ、なんでこんな所まで来てんだよ。……って今夏服って言わなかった?

 俺自身、昨日おっさんとも色々話し、バイト代を貰った直後で家庭教師ももう少し頑張ろうと思っている矢先なのだ。もっと真面目に取り組んで欲しい。

 

「ちょっとだけ、ちょっとだけだから、ね? お願い!」

「お願いしますよセンパイ、帰ったらちゃんとしますから」

 

 二人が俺に両手を合わせ、そう懇願してくる。

 とりあえずセクハラ親父みたいだからその言い方はやめなさい。

 

「三十分だけだぞ……」

 

 なんだか妹と生徒というより、もう一人妹が出来たような気分だ。

 俺の言葉を聞くなり「やったぁ」とハイタッチを決め、並んで歩き出す二人を追い、俺は溜息を吐いた。やっぱこの二人、会わせちゃいけなかった気がする……。

 

*

 

「こことかどうですか? この間出来たばっかりの話題のお店なんですよ」

 

 そう言って小町と一色が入ったのは。女子がわんさかいる妙にトロピカルカラーな看板が目を引くカフェだった。

 え? ここ。男子禁制とかなの?

 敷地内は一見すると某有名コーヒーショップのような、やたら高い椅子とテーブルが並んでいるが、俺以外の男が見当たらない。何の店だココ。怖い。

 レジに並び、メニューを眺めるが黒いブツブツしたものが沢山描かれていて何だかよくわからない。何? 蓮コラ? 集合体恐怖症の人お断りなの?

 

「お兄ちゃんはどれにする?」

「マッカン」

「そういうのは置いてないの、小町こっち飲んでみたいから、お兄ちゃんは無難にこっちね。半分こしよ」

 

 あれ? 俺今何が飲みたいか聞かれたんじゃなかったっけ?

 なのに俺のオーダーが勝手に決められている。

 俺に選択肢があるようで全くなかった。不思議。

 

「じゃあ私はこれにしようかな」

 

 一色がそう言って、財布を取り出すのを見て。

 小町が慌てて一色を制した。

 

「あ、ここは小町が払いますよ」

「いやいや、小町ちゃん私より一個下なんだよね? 初対面で年下の子に奢ってもらうわけにはいかないよ。それなら私が」

「いえいえ、いつも兄がお世話になってますから」

 

「いえいえ」「いやいや」と押し問答をする二人を前に俺は再びため息をつく。

 

「俺が払う、恥ずかしいからレジ前で揉めるな」

 

 俺はそう言うと、有無を言わさず二人の間に割って入り、それ以上の二人の遠慮合戦を封じた。

 その言葉に小町は「は?」と驚き。

 一色は「え?」と目を丸くし、はっと何かに気付いたように、お辞儀をする。

 

「なんですか、もしかして口説いてるんですか? スマートに奢ってもらうのは少し乙女心を擽られますけど、一回奢ってもらったぐらいで靡く安い女だとか思われたくないので無理です、ごめんなさい」

 

 はい、いつもの。

 ほら、他のお客さんの迷惑だからどいてなさい……。小町も固まっちゃってるだろ……。

 

「先週サイゼで奢ってもらった礼だよ……。他意はない」

 

 まあ少しだけ格好つけたかったという気持ちがなかったといえば嘘になるが……。さすがにそれを言う勇気はない。

 

「本当にいいんですか?」

「お兄ちゃん……? 奢ってもらったってどういう事? 小町お金渡したよね?」

 

 きょとんとした表情の一色とは裏腹に、小町の視線が冷たくて怖かったので、目線を合わせないようにしながら、そのまま財布を取り出し、店員に会計を促した。

 

「千六百八十円になります」

 

 高っ!

 嘘!? ドリンク三つで千六百円? あれ一つ五百円以上もすんの?

 マッカン何本買えると思ってるんだろう。

 しかし今更拒否もできない。

 バリバリバリバリ。

 それは張り裂けそうな俺の心中を表現する、財布のマジックテープが剥がれる音。まさに断末魔の叫びと言えよう。

 大きく口を開けた財布から断腸の思いで野口さんと小銭を取り出し、店員に渡す。

 さらば野口。お前のことは忘れない。

 あれ? なんで小町は頭抱えてんの? 体調悪いなら帰る?

 お釣りを受け取り、レシートを備え付けの屑籠に放りながら、小町を心配していると。やがて黒いつぶつぶが沢山入ったちょっとグロそうな飲み物が運ばれてきた。

 

「……何これ……」

「はぁ……。えっと、お兄ちゃんのはシンプルにタピオカミルクティー。小町のはジャスミンミルクティー」

「私のは豆乳です」

 

 何故かため息をつく小町と、楽しそうな一色から説明を受けながら、俺達はテーブルへと向かう。

 これを? 食うの? 飲むの?

 俺がその謎のドリンクの底を覗き込んでいると。二人は既に窓際のテーブルに陣取り。手早く妙に太いストローを突き刺したかと思えば、今度はパシャパシャと写真を取り始めていた。

 

「ほら、お兄ちゃんも早く入って」

「え……あ……ん?」

 

 誘われるまま、よく分からないアングルで写真を撮られたかと思うと、二人はまたキャイキャイと話を始めていた。

 なんだかずっと蚊帳の外だ。まあいいけどね。

 今の写真がネットにアップされたりしませんように……。

 俺はそう祈りながら、目の前の謎の飲み物に口をつけた。

 ズゴゴ……うっ!!!

 喉に思いっきりダイレクトアタックを食らってしまった。効果は抜群だ!

 なんだこれ、飲みにく……。

 これなら普通のミルクティーでも良かったんじゃないの……?

 

***

 

「えー? 本当ですか?」

「そうなの、それでその時なんていったと思う?」

「『焼肉なんて腹に入っちまえば全部一緒だろ』って」

「うわぁ……お兄ちゃん、蛇々庵って高級店なんだよ? 分かってる?」

「わかってるよ……ってかそろそろ出ないか? もう十分話しただろ」

 

 脈絡なく話が飛ぶ女子二人のトークに入るきっかけがやっと訪れたので、なんとかこの場を脱出しようと解散を提案した。

 すでに店に入って一時間は経過している。三十分の約束はどうした。

 

「あー、もうこんな時間だ。いろはさんお時間大丈夫ですか?」

「うーん……そうだね、そろそろお開きにしようか」

 

 渋々、という感じで、小町が椅子からぴょんと飛び降りる。その一瞬、小町がコップを離した隙をつき、一色は空のコップをまとめると、俺の分もまとめて処分しに動いた。こういうのを女子力というのだろうか。

 

「センパイ、ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでしたぁ!」

 

 店を出ると、一色と小町が俺に頭を下げてきた。そうだ、あれ俺が払ったんだった。あまりにも高額すぎる買い物にショックを受けたせいか、すっかり忘れていた。

 

「おう、末代まで感謝しとけよ」

「なんでこの人はそうやって折角上げたポイントを自分で下げちゃうかなぁ……」

 

 呆れたように肩を落とす小町を、一色がクスクスと笑う。

 

「本当に仲が良いんですね」

「そうか? まあ千葉の兄弟なら普通じゃね?」

「千葉の……?」

 

 そこは深く突っ込まないでもらいたい。分からないなら分からないでいいのだ。

 変に理解を示そうとしてくれる方が辛い時だってある。

 

「じゃぁ、私はこれで……。あ、センパイ。さっきのLIKEの返事、今聞いちゃっていいですか?」

 

 LIKE?

 ああ、そういえばそうだった、朝になんか通知が来てたな。すっかり忘れていた。

 

「すまん、まだ見てない」

「お兄ちゃん……?」

 

 小町にジト目で睨まれる。

 どうやらまた小町ポイントを下げてしまったらしい。

 小町が急に出かけようとかいうから見る暇なかったんだが……。

 

「もう、しょうがないセンパイですね……健史君から伝言です」

「伝言?」

 

 健史から? なんだろう?

 

「『再来週、部長として初めての試合があるので良かったら見に来てください』って」

 

 わざわざ伝言なんてしなくても健史が直接LIKEで伝えればよくない?

 間に一色を通す意味がわからない。 

 

「一応私、部活の方は引退なので、行かないつもりだったんですけど。センパイが行くなら私も行ったほうがいいのかなって思ってて……。どうしま」

「行かない」

 

 「どうします?」と言おうとする一色に食い気味で返答する。

 仕事でもないのに、そんな面倒くさい事していられるか。

 そもそもサッカーに然程興味もない。

 

「センパイならそう言うかなって思ってました」

 

 だが一色は俺の返答に渋るでもなく、笑ってそう言うと、一歩跳ねるように距離をとって、振り返る。

 

「それじゃ、センパイ今日はごちそうさまでした。小町ちゃんはまたあとでLIKEするね!」

「はーい、お待ちしてまーす!」

「ちゃんと勉強しとけよ?」

「わかってますよ!」

 

 一色は『ベー』と舌を出し、そのまま走り去っていった。

 なんてはしたない……小町ちゃん、真似しちゃだめよ?

 

「それじゃ、俺らも帰るか……」

 

 一色が見えなくなった所で 俺は小町にそう告げ歩き出す。

 はぁ、今日も疲れた。とりあえず帰ったらシャワーを浴びたい。

 そう思い、歩き出そうとした瞬間俺の腕に妖怪小町がまとわりついてきた。

 これでは歩けない。

 なに? トイレ? 早く行ってらっしゃい?  

 

「もうちょっと遊んで行こうよ、まだ五時前だよ?」

 

 そう言って小町がブンブンと俺の腕を振り回す。

 痛い痛い、そっちには曲がらない! 曲がらないから!

 ギブギブ!!

 

「今日はもういい帰ろうぜ……どうせ来月も来るつもりなんだろ?」

 

 小町曰く色々買わないといけないらしいので、まあどうせ来月は欲しい本もあるしどうせ来るなら小町と一緒でも構わないだろう。

 でも高いもの買わされるのは嫌だなぁ。

 服買うにしても九百八十円のTシャツとかで許して貰えないだろうか?

 

「え? 何? 来月も小町とデートしたいってこと? お兄ちゃんの事は嫌いじゃないけど、さすがに兄妹でそういうのは駄目だと思うの、だからごめんなさい」

 

 だが、小町はさも心外と言わんばかりにそう言葉を並べ、九十度頭を下げた。

 おい、もう悪影響でてるじゃねーか。

 

「何してるの小町ちゃん? 一色のマネはやめなさい?」

「えへへ、似てた?」

 

 似てるか似てないかでいえば似てはいなかったが、小町はそれで満足したのか、ゆっくりと俺の前を歩き出す。

 

「というか、小町よりいろはさんと一緒にお買い物した方がいいじゃない?」

「それはない、ってかあいつ受験生だぞ、そんな暇ないだろ」

 

 ないはずなのだが。

 今日の事を考えると、割と遊び回ったりしてそうで怖いな。

 本当、そろそろ受験生の自覚持って欲しい。

 

「そっか……じゃあしょうがないから、寂しいお兄ちゃんのためにもうしばらくは小町が相手してあげるからね」

 

 小町は手を後ろで組んだポーズのまま、そんな事をいいだす。

 いや、別に、付き合ってくれなくても全然構わないのだが。

 

「あ、今の小町的にポイント高い」

 

 だが小町は、そんな俺の心情を知ってか知らずか。そう言って人差し指を立て、ウインクを決めた。

 その口調はいつもの小町のそれだが、その仕草は妙に一色めいていて、やはりこの二人を会わせたのは失敗だった。そう感じながら、俺達は帰りの電車の待つホームへと向かった。

 

***

 

 帰りの電車に揺られている間、小町はずっとスマホをいじっていた。きっと相手は一色なのだろう。近くの兄より遠くの一色。お兄ちゃんちょっと寂しい。

 

「今日の晩飯なんだろうなぁ」

「オソバって言ってたよ」

 

 それとなく会話を振っても、視線はスマホに落としたまま、そっけない返答が帰ってくるだけ。これが現代っ子の闇……!

 蕎麦かぁ……嫌いではないが、なんだか今日はガッツリ行きたい気分だったのでちょっとだけ残念でもある。

 

「小町、帰る前にコンビニよってなんかデザートでも買ってくか?」

 

 今日は大分散財したと思ったのだが、やはり財布に大金が入って気が大きくなっているのだろうか。俺は思わずそんな事を口走っていた。単にスマホをいじってばかりの小町の気を引きたかったというのもあるのかもしれない。大事に使えとも言われてるし、少し気をつけよう。

 だが、俺の問いかけに対する小町からの反応がない。

 どうしたんだろう、もしかして寝ちゃった?

 完全に無視は流石にお兄ちゃん傷つくんだが……。

 

「小町?」

「お兄ちゃん、大変……」

 

 俺が小町の方を向くと。小町はまるでこの世の終わりのような顔で、呆然と俺の方を見ていた。

 なんだろう、もしかして漏らしちゃったんだろうか?

 さすがに中二にもなって漏らされるのは困る。

 だが、相変わらず小町はじっとこちらを見つめたまま動かない。

 電車の揺れる音だけが俺たちの間に響き渡り、何かとてつもない事をしてしまったのかもしれないと、俺も思わずゴクリと喉を鳴らした。

 

「ケーキ買うの忘れてる」

「あ」

 

 小町の口からでた衝撃の言葉『ケーキ買うの忘れてる』

 そうだ、そもそもそれでココまで来たんじゃん。

 

「戻ろう? すぐ戻ろう!」

「もういいだろ……コンビニのケーキで」

「ええー! 戻るー! 戻ろうよ! ケーキー!」

 

 俺の肩袖を引っ張り、小町が小声で抗議をしてくる。

 ああもう、電車の中で暴れるんじゃありません。

 

「もう今日は無理だ、諦めろ」

 

 「誰かに認められる人になる」という高い志はどこへ行ったのか。

 まあしょせん、目標は目標だよなぁ……。

 俺がため息をつくと、小町はようやく諦めたのか。再びスマホをいじり始める。

 

 だが次の瞬間、ブルブルと俺のスマホが震えた。

 メッセージの相手は小町。

 そこには怒りマークを付けた猫のスタンプと 

 

『毛ーキーー!!!』

 

 という、謎の暗号が残されていた。




というわけで二人の初対面でした。

実は前回で感想100件ともう一つ
総文字数が10万文字超えをしていました
あれぇ……?
その割には進んでませんよね……
やっぱりペースアップしないと……がんばります!

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第19話 小さな変化、もしくは最初の気まぐれ

いつも誤字報告、感想、お気に入り、評価、メッセージありがとうございます!

古戦場!古戦場ですよー!
古戦場始まってますよー!
(2019/09/19~26)

走ってたら投稿忘れてたなんていえない……。


 その日、いつものように一色の家へバイトに行くと、そこにはお喋りモード全開の一色がスタンバっていた。

 「先週はごちそうさまでした」から始まり、例の店で撮った写真をプリントアウトしたものを見せてくる。

 映っているのは楽しそうな女子二人に囲まれる半目の俺とブツブツドリンク。これが“映える”らしい。よくわからん。

 それを見たもみじさんが「私も八幡くんの写真欲しい!」とスマホを取りに戻った所で、俺達は一色の部屋へと避難した。

 ──が、無駄だった。

 

 あの日以来、一色と小町は大分親しくなったらしく、毎日のようにLIKEでメッセージをやり取りしているようだ。

 今では家にいても小町経由で「いろはさんがどうしたこうした」という情報が入ってくる。

 深夜遅くまで小町の部屋から電話の声が漏れ聞こえてきた時には「相手は受験生なんだから、あんまり付き合わせるなよ」と思わず注意をした事もあった。

 やはりこの二人は会わせない方がお互いのためだったのではないだろうか?

 

 しかもほら、今は俺の目の前で一色が「小町ちゃん可愛いですよねー」とか言ってくるんだけど? 釈迦に説法って知ってる?

 小町が可愛い事なんて俺が一番よく分かってますけど?

 受験に「小町」という科目があるのであれば、ここで全力で講義をしてやりたいところだが、残念ながら、高校入試には実装されていないという現実を理解して欲しい。

 俺だって去年、試験にプリキュアの項目がないのはおかしいと思ったさ。

 だが無いものは無い。だから……この話はここでお終いなんだ。

 

「っていうか……そろそろ模試とか考えてんの?」

 

 もみじさんが写真撮影を終え満足気に退出したところで、やっと机に向かわせる事には成功したが、教科書とノートを開いたというのに、相変わらず「小町ちゃん小町ちゃん」とどうにも集中しきれていない雰囲気の一色に、俺は話を切り上げる意味もこめて、ふとした疑問を投げかけてみた。

 親しくなることを否定はしないが、このままでは俺の存在意義が二人を繋ぐパイプでしかなくなってしまう。ここらで家庭教師としての威厳を復活させなければ。

 

 先日の中間の結果を見て、俺自身反省……とまではいかないまでも、それなりに考える事もあったし。バイト代もきちんと出た以上、今はこれが俺の仕事だという自覚も以前よりある。この辺りで打てる手は打っておきたい。

 そう考えての発言だったが、我ながら良い切り口だったようにも思う。

 実際、受験生ならそろそろ考える時期だろうし、なんなら既に受けたという奴がいてもおかしくない頃だ。

 その辺り、実際どう考えてるのだろう?

  

「いえ、全く。行かないと駄目ですか?」

 

 だが、一色からの返事は予想通りというかなんというか、おざなりなものだった。

 ずっと思っていた事なのだが。

 どうにもこいつは受験を舐めている節がある、それなりに地頭がよいのも原因だろう、塾などに行かずとも平均以上の成績をキープしてきたことが自信になっているのか、危機感が足りない。

 『今がダメでも次がある』とでも思っているのだろうか?

 普段の中間や、期末ならそれで問題はないのだろうが、俺が家庭教師である以上、万が一にでも受験に失敗という事になれば、それこそ何を言われるかわかったものではない。大げさではなく高校受験は一生に関わる問題であり、おいそれと責任を取れるものでもないのだ。

 まあ俺が教師としては素人であることは何度も確認済みなので責任を問われても困るのだが……。

 

「行かなきゃ駄目ってことはないが、行っておいたほうがメリットは多いな」

「例えば?」

「まず、合否の可能性が目に見える形で出てくる」

 

 実際一色の実力で、現状どの程度通用するのか知っておきたい。

 一色の学校の担任の言葉を信じたいが、中間の惨敗を見ているので楽観はしたくない。なんなら俺の独自評価ではちょっとマイナスに寄っている。

 ここらで模試の結果を見て、今のまま一色のペースに合わせるか。もう少し厳しく行くか、判断しても良いだろう。

 

「目に見えるって、A判定とか言うやつですか?」

「まあそうだな。Aを取れるかどうかは知らんけど。あとは本番で緊張しないように練習、という意味もある」

 

 これも意外と大事だ。

 中間の件も考えると、意外とメンタル弱い部分もありそうだし、会場で受けて損をするという事はないだろう。

 模試段階なら失敗してもリスクはないのだ。

 

「へー……。そういえば通信のやつにも似たようなのがありましたね……あ! 学校でも模試の申し込み用紙何通か配ってました」

 

 一色は、わかりやすく人差し指を立てて「思い出しました」というジェスチャーをして、ゴソゴソと引出しからクリアファイルを取り出しその中から何枚かの用紙を俺に渡す。

 日程は……七月開催のものはいくつか申込締切が過ぎているな……。お、去年俺が受けた所のがある。ここならまだ受けられそうだ。開催は八月だし、これから後二ヶ月もあると考えれば勉強へのモチベーションにも繋がるだろう。

 

「ここなら俺も受けたし、そこそこ評判良いぞ、とりあえず行ってみたらいいんじゃないか?」

 

 俺はそう言って一色に有名塾の名前が書いてある申込用紙を返した。

 ちなみに回し者ではないので、俺が紹介したところでマージンは入ってこない。

 評判が良かったのは本当だし、問題の質も良かった、ただそれだけだ。

 

「でもお金かかるんですよね?」

「まあタダじゃないわな」

 

 実際この申込用紙にも申込費用が記入されている。

 あれ? でも模試ってこんなにするんだったか……四千円か意外と高いな。

 普段何気なく受けている学校のテストがありがたく感じる値段だ。

 去年は確か数回受けたと思うが、どうやって捻出したんだったか……。

 損する場所あったわ……。

 

「……ママに相談してきます」

「あいよ」

 

 一色は一瞬悩んだあと、そう言って模試の申込用紙を眺めながら、フラフラと部屋を出ていった。

 どうやら親に頼む算段らしい。ほら、ちゃんと前見ないと危ないぞ。

 小町の友人ポジションを身に着けたのもあってか、なんだか妹がもう一人出来たんじゃないかという気分になる事が多くなっているな。距離感を間違えないようにしなければ……。

 

 俺はそんな事を考えながら一人残された部屋を見回す。

 なんだかんだここに来て一ヶ月、この部屋にも随分慣れたものだ。

 最初の頃は女子の部屋というだけで、少し緊張もしたものだが、今となっては勝手知ったるなんとやら。棚の本を手に取る余裕すらある。

 お、これ小町も読みたいって言ってた少女漫画だな。

 ちょっとだけ読んでネタバレしてやろうか……。 

 そう思い本棚を見回していると、ふと机の上の棚にある通信教育講座の教材に目が止まった。俺は手に取っていた少女漫画を棚に戻し、今度はその教材の一冊をペラペラと捲る。

 表紙には七月号と書かれているので、恐らく今月届いたものなのだろう。

 ならば、今後はこれを授業の教材にするのも良いか。

 

 そう思っていたのだが……予想とは裏腹に、その中身のほとんどは既に埋められていた。

 自分で正誤チェックも済んでいるようで、赤ペンやマーカーでぎっちりと書き込みもされている。

 あいつ……、一人の時は割と真面目にやってるのか……?

 

 そうなってくると話が変わってくる。

 そもそも俺ってなんなんだ?

 毎週ココに来て、適当にだべって、少し勉強を見て、金をもらっている事が果たして一色にとってプラスなのか?

 邪魔をしているだけという可能性もあるのではないだろうか?

 ん? ということは成績下がったのやっぱ俺のせいなの……?

 

「センパイ? 何勝手に見てるんですか? 女の子の部屋の物いじるとか普通に引かれますよ?」

 

 自問している所に突然声をかけられ、俺は思わず、教材を床に落としてしまった。

 振り返ると、帰ってきた一色がジト目でこちらを睨んでいる。怖い。

 イヤ、ナニモシテマセンヨ?

 

「お、おう。早かったな。いや、コレどれ位やってるのかと思ってな、スマン……」

「まぁそれぐらいなら別にいいですけどね……とりあえず、模試OKだそうです」

 

 俺が教材を拾い、棚に戻しながらそう答えると、一色はそう言って右手で丸のジェスチャーを作り、俺に見せながら机に戻ってきた。

 どうやら金銭面の問題はクリア出来たようだ。

 

「なら、しばらくはそこを目標にするか」

「はーい」

 

 あざとく片手をあげ『わかりました』アピールをしながら、一色は再び模試の用紙へ目を落とすと。必要事項を記入し始めた。

 いや、それは別に俺が帰ったあとにしてくれても良いんですよ?

 

「これってA判定がでたら百パー合格なんですか?」

「百パーなんてでねーよ……そもそも、そういう確率とはちょっと違うんだが……」

 

 模試で百パーセントなんていう結果を出してしまったら。それ以降勉強しないで慢心するやつも増えそうだし。落ちた時訴訟ものだろう。

 誰だって他人に対して責任なんて負いたくない。

 俺も負いたくない。

 

「模試の種類にもよるんだが、A判定で八十パーセント以上、B判定で六十五パーセント以上、C判定で五十パーセント以上とか言われてるな」

 

 あくまで一例だが。そんな話を去年聞いた気がする。

 

「AとBで大分差がつくんだ……。でもCでも半分以上なら結構安心ですね」

「おいおい、よく考えてみろ。武器強化成功率五十パーセントで挑む奴なんていないだろ? 無謀にも程があるぞ」

 

 素材ロスト系の武器強化施設で、成功率五十パーセントなんて怖くて手がだせない。やるなら成功率アップアイテムが必須だろう。

 これが命中率だったとしても信用してはいけない数字だ。

 味方の攻撃命中率五十パーセントは外れるが、敵の攻撃命中率五十パーセントは当たると見ていたほうが良い。精神コマンドでの底上げ大事。

 ソースは俺。

 

「えっと……何を言ってるかはよくわかりませんけど。じゃぁ……もしC判定以下だったらどうなるんですか……?」

 

 あれ? かなり分かりやすく例えたつもりだったんだけど伝わってない?

 これがジェネレーションギャップという奴だろうか。

 小町には通じるのにおかしいな、地域差かもしれない。

 そうか、千葉県民にしか伝わらないのか……。ってここも千葉じゃねーか。

 

「まぁ……その時は勉強の時間を増やすなり、やり方を変えるなりするとか。最悪志望校のランクを下げる事も考えたほうがいいかもな」

「……結構シビアなんですね」

 

 そもそも受験というシステムがシビアな世界だ。必ずしも行きたい高校に行けるわけではないのだからな。これで一色も現実がクソゲーだと分かってくれただろうか?

 それでも一色と俺の難易度が同じだとは思いたくないが……。

 

 とはいえ少し脅しすぎたかもしれない。

 申込用紙を見つめる一色の表情はいつになく真剣だ。

 気負いすぎて逆に失敗なんて事にならなければいいが……。

 まぁ、模試だし。そういう事も含めての経験か。

 とりあえずこれで二ヶ月モチベーションを稼げれば良いだろう。

 実際どうなるかはわからないが、そこで良い判定が出れば一色の心にも余裕が出来るというものだ。

 良い結果がでたからと、その後慢心されても困るのだが……。

 

「じゃあA判定以外はダメって事ですか?」

「そこまで厳しく言うつもりはないが、出来ればBぐらいだと安心する。具体的に俺が」

 

 まだ本番まで半年ある、これが冬ならともかく、夏の模試ならC判定以上ならギリギリ許容範囲という所だとは思うが。まあ最初から目標を低く持っても意味はないし、俺の心の平穏のためにもBはとってほしい所である。

 

「センパイを安心させる為なんですか……なんかやる気あんま出ないですね」

「基本的には自分のためだよ。忘れてるかもしれないが、俺家庭教師なんてやったことないんだぞ? 場合によっては別の家庭教師雇うなり、塾通うなりってこともあるんだ、やる気出せ」

 

 しかし、俺がそう言うと、一色は「え?」と素っ頓狂な声を上げた。素っ頓狂って今日び聞かねぇな。

 

「結果悪かったらカテキョやめるつもりなんですか?」

「結果次第ではそういう事にもなるだろうな。……っていうかさっきそこの教材見せてもらったけど……もしかして一人の方が捗るタイプだったりする?」

 

 やめてくれるなら喜んで悪い結果を出す。という意味じゃないことを信じたいが、実際一人じゃないと勉強ができないというタイプもいる。

 あの教材がいつ届いたのかは分からないが、すでに終わらせてあるという時点でそれなりの勉強時間を俺の家庭教師の時間とは別に確保しているという事になる。

 家庭教師の時間でだらけて、それ以外の時間に学習をするというのであれば本末転倒も良い所だ。

 今すぐにでもおっさんに相談すべき案件だろう。 

 

「うーん、そんな事ないですけど、そこらへんの教材は大体新しいの届いたらすぐ終わらせちゃうっていうだけなんですよね、どんどん来るから整理もしなきゃいけないですし、なんていうか習慣みたいな?」

 

 だが一色から帰ってきたのは、そんななんとも言えない回答だった。

 まぁ、すぐ終わらせるという事ができるのはある種の才能と言える。夏休みの宿題を七月中に終わらせられる人間が何人いるのか? という話に近い。

 ちなみに俺は夏休みは他にやることもないので、当然夏休み前半に終わらせる派だ。

 今年もそうなる予定。恐らく来年も。

 でもこれだと判断が難しいな。予め課題を与えてしまったほうが燃えるタイプなのか?

 今はとりあえず教科書とノート。過去のテストを使っての復習をメインにやらせているが、別のやり方を考えてみてもいいのかもしれない。

 

「実際、センパイにわからない所教えてもらえるのは助かってますし? この間LIKEで質問した時は返信なかったですけど……」

「悪かったよ……」

 

 一色がジト目で俺を責めてくるので、ここは素直に謝っておく。

 やはりLIKEでの質問対応も業務に含まれているようだ。

 今後はそこらへんのサポートも考えないとダメか……三営業日以内の返信でなんとか許してもらえるだろうか。

 

「まあ、邪魔じゃないならいいんだが、それならもうちょっと真面目に取り組んでくんない?」

「えー? メチャクチャ真面目にやってるじゃないですかぁ?」

「でもー、思いっきり口動いてるじゃないですかぁ?」

 

 細かいことを言えば、この時間でさえももったいない。

 模試に行けと言ったのは俺なのだし、これぐらいは大目に見るべきかもしれないが。

 まさか模試の説明からしないと行けないとまでは思ってなかったからなぁ……。

 

「とりあえず、しばらくは模試対策ってことでいいな?」

「はーい……」

 

 これでもしC判定以下で、おっさんが家庭教師の変更なり辞めるなりを許してもらえなくて、志望校落ちたらどうなるんだろう……? あぁ、責任取りたくないぃ……取りたくないよぅ。

 

「あの、もう一つ聞いてもいいですか?」

「ん?」

 

 俺がそんな先の不安と戦っていると、一色は一瞬何かを考えるように俺に問いかけてきた。

 真っ直ぐに俺の顔を見つめるその顔は、それまでとは違い、何かを迷っているような、少し自信なさげなそんな表情。

 なんだろう、ちょっと怖い。

 

「模試の志望校判定って、一校だけですか?」

 

 だが、一色の口から出てきたのはそんな言葉だった。

 志望校判定?

 もっと凄い事を聞かれるのかと思って一瞬身構えてしまったじゃないか、ふぅ、驚かせやがって。

 

「いや、そんな事はない、何校かは出せる、それで志望校を変える奴もいるからな。実際、俺も最初の模試の時点では四校出した」

 

 総武と滑り止めと、後はまぁ適当な学校の名前を書いただけだったので進学先で悩んだりはしなかったけど。

 俺がそういうと、一色は「ふーん」と、事も無げに再びペンを回しはじめる。

 一体なんだろう?

 

「海浜総合以外に受けたい所あんの?」

「……そういうんじゃないんですけど、なんていうか……どうなのかなー? って思って」

 

 一色は歯切れ悪くそう答えると、申込用紙を裏返し。そのまま隠すように机の引き出しにしまった。

 本当に海浜総合やめたいとかだったらどうしよう……。

 とはいえどこの高校を受けるかという点において俺に裁量権はない、最終的に決めるのは一色と、その家族だ。

 だから、というわけではないが、俺はそれ以上深く突っ込まないように「ふーん」と軽く返事をするだけに留め、一色から目を逸らした。

 だが、椅子に座ったままの一色はじっと俺を見上げている。

 

「何?」

「いえ、なんでもありません」

 

 後頭部に突き刺さる視線に耐えきれず、俺がそう言うと、今度は一色が目をそらし、そのままノートに視線を落とすと、大きくペンを回す。

 

「さ、続きやっちゃいましょ」

「お、おう」

 

 しかし、その言葉とは裏腹に、一色はボーッと何かを考えるように、教科書を見つめたまま、顎をペン先で叩く仕草をした。

 心ここにあらずというのはこういう事をいうのだろうか。

 「何かわからないとこある?」と聞いても「えっと……じゃぁここ?」と教科書を指差し、投げやりな返事をするばかりで原因もはっきりしない。

 だが、俺が説明を始めると、真剣に聞き入り、まるでロボットのようにノートに黙々と要点を書き加えていく。

 それは今までにない変化で、それまでのように楽しげな会話は一切なくなり、ある意味では俺の希望通りの展開ではあるのだが……。

 これ……モチベーションアップ作戦に成功したってことでいいのか?

 よくわからん。

 いっそゲームみたいにパラメータ表示してくれればいいのに……。

 

 だが、俺の希望も虚しく、そんな少しだけ気まずい状態はもみじさんが部屋をノックしにくるまで続き。

 一色のステータス変化はわからないまま。

 俺は毎度のように夕食に誘われ、リビングへと向かうのだった。

 

 俺、なんかやらかした?




古戦(ry

というわけで19話でした!
今回はちょっと短めですが、まぁたまにはこんな回もね……。

相変わらずサブタイトルを考えるセンスが欠片もありません。
誰か助けて……。

では古戦場走ってきます!


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第20話 もう一人の兄

すみません、今日は朝から出かけてて投稿遅れました!
(古戦場は終わりました!)

いつも誤字報告、感想、お気に入り、評価、メッセージありがとうございます!


 その日は朝からスマホが鳴り響いていた。

 どうやらメッセージではなく電話のようだ、止まることなく鳴り響く軽快なメロディがまだ覚醒しきれていない俺の脳を不快に揺さぶる。くそっ、なんだよこんな朝っぱらから……。

 モーニングコールなんてサービス頼んだ覚えはないのだが、一体どこのどいつだ?

 俺はいまだ開こうとしない瞼をそのままに、手探りでスマホを掴み取る。

 薄目を開けて見てみるが、ぼんやりとしていて文字がよく読めない。

 まあいい、色さえ判別できれば問題はない。

 画面下の方に表示されている、緑と赤の表示、ここをスワイプ。

 拒否。これでよし……。

 俺は静かになったスマホを布団の上に放ると、再び眠りについた……。

 二度寝最高。

 

*

 

 再び目が覚めた時、すでに家には誰もいなかった。

 作り置きされていた焼きオニギリを頬張り、テレビをつけ、王様と一緒にブランチと洒落込む。

 できれば今日も一日ダラダラ過ごしていたいが、夕方にはバイトだ。

 バイト代効果が続いているのか、以前のようにサボりたいという気持ちはそれほど湧いてこない、我ながら現金なものだ。

 だが、出勤まではまだ時間がある、それまで何をしよう。やること無いし、一色の模試対策に合わせて俺自身の復習でもしておくか……。

 そう考え、自室に戻り、着替えを終えた所で、ベッド下に投げ出されているスマホに気がついた。

 何故こんな所に? と思ったが、そう言えば今朝誰かから着信が来ていた気がするな。その時にでも落としたのだろう。

 さて、相手は誰だったのか? 最近の流れを考えるに一色か?

 もしそうだったら早めに返事を返さないとまたごちゃごちゃと文句を言われそうだ。

 若干の危機感を覚えつつ、我が家の愛猫カマクラのスリープ画面を抜け、通知画面を確認する。

 だがそこには、一色ではなく健史からのメッセージが数件入っていた。

 

【比企谷さんおはようございます】

【今日うちの学校で試合をやるんですけど見に来ませんか?】

【俺の部長としてのデビュー戦です、一度見に来てくれると嬉しいです】

 

 ああ、この前一色が言ってたやつか。

 行かないと伝えたはずだったんだが、伝わってないのだろうか?

 そもそも俺はサッカーにさして興味ないので、当然のように見に行くという選択肢は俺の中には存在しない。

 とりあえずお断りの連絡だけしておくか……。

 全く……LIKEというのは既読が相手に知られてしまうのが非常に厄介だと思うのだがこの機能改善されないかしら?

 俺が健史へのメッセージを入力しながら、このアプリへの改善要求の報告書を脳内でまとめ始めると 本日二度目の電話がかかってきた。

 相手は健史。

 まるでどこかから見られているのではないかと思うほどの絶妙なタイミング。

 ああ、見られているのか。俺の「既読」に気付いたのかもしれない。え? ずっとチェックしてたってこと? 怖い。やはりこの機能は即座に滅ぼすべきだと思う。

 

「……なに?」

「あ、比企谷さん! 今日何時頃来られますか?」

 

 まぁ、わざわざメッセージを入力するより電話に出た方が早いか……。そう思い今度は緑の通話ボタンをスワイプさせると、いきなりハイテンションな健史の声が周囲に響き渡った。

 おかしい、スピーカーにはしていないはずなのだが……。ボリューム調整できない子なの?

 

「声がでけーよ、あと今日は行かない」

「す、すみません。……ってなんでですか!?」

 

 健史は何故か断られるとは思っていなかったみたいなテンションで聞き返してくる。

 いや、むしろなんで俺が行くと思ってんだよ。

 

「お願いします! 兄さんも会いたいっていってるんですよ」

 

 兄さん? こいつの兄って例の部長だよな?

 一色と同じ中三なはずだから俺よりはひとつ下。

 そんな男が俺に会いたいって? 意味がわからないし、何より必要性を感じない。

 

「俺は会いたくない」

「そんな事言わずに、お願いします!」

「会う理由がないだろ」

「それは……そうかもしれませんけど、会わせろ会わせろってウルサイんですよ……。俺、比企谷さんに言われたから部長引き受けたんですし、助けてほしいです」

 

 うぐっ……。

 そう言われると少し弱い。

 いや、そもそも、その兄貴とやらが原因で部長になってるんじゃないのか?

 そこに責任があるならその割合はフィフティーフィフティ。いや精々二対八といった所だろう。

 当然俺が二だ。なんなら一でもいい。

 

「今日が無理なら明日でもいいんですけど……」

「要件はなんなんだよ……急に会いたいとか言われても怖いんだけど」

「別に変な話とかではないと思います……多分。大丈夫、もし何かあったら俺が比企谷さんを守ります!」

 

 守られないといけないような状況になるなら、そもそも行きたくないんだが……。

 

「それか、もしこっちに来るのが難しければこちらから伺いますけど……」

 

 何それ、怖い。

 なんでそんな積極的なの? コレが陽キャの行動力という奴なのだろうか。だとしたら俺は陰キャでいいや。

 しかし、面倒くさいは面倒くさいのだが、あまりこの話を引き伸ばしたくもない。

 どうせ今日は一色の家に行くのだし、「うちの学校」ってことは一色の家から通える距離なのだろう。少し早めにいって顔だけ出していけば最低限の義理は果たしたことになるか……。

 

「わかった……今日でいい……何時にどこ行けばいいんだ?」

「本当ですか! ありがとうございます! 試合は十三時からなんですけど、十八時位までは合同練習とかミーティングとかやってると思うので、それまでにうちの学校に来てもらえれば……あ、場所わかりますか?」

「わからん」

「迎えに行きたいんですけど、試合中だと出られないんで、地図送っておきますね。サイゼからそんなに離れてないので迷ったりはしないと思います!」

 

 まあ十八時までやってるなら、適当な所で一色の家に向かうのにも丁度いいだろう。

 昼飯食って、少し休んでから行くか。

 具体的に言うと十五時位。

 

「それじゃぁお待ちしてます!」

 

 健史はテンション高くそう言うと通話を終了させた。

 はぁ……。今日も早めの出勤になりそうだ。

 

***

 

 健史から送られてきた地図に従い、見知らぬ中学校の前までやって来たわけだが……。

 これ、そのまま入っていいのだろうか?

 休日ということもあってか校門は三分の二ほど閉められており、どう見てもウェルカムという雰囲気ではない。

 俺、他校ってあんま入ったことないんだよな。

 とりあえず健史に連絡してみるか……。

 

『校門の前に着いた、迎えに来てもらえると助かる』

 

 スーツ姿の教師らしき眼鏡のおっさんが俺の事を不審げに見てくるから……。ハリーアップ。

 いや、怪しいものじゃないんですよ、ホント。

 スマホをいじりながら、校門の前で待ち合わせをしているだけの一般人を装い右往左往する。

 いや、これは逆に怪しいか。

 おっと、目があってしまった。俺は不審者じゃないですよアピールをするため、再びスマホに目を落とす。

 健史に送ったメッセージに既読のチェックがつかない。くそっ。早く読め。あ、こういう時に使うのか、既読チェック機能結構便利だな。

 だがそうこうしている間に、昇降口の方から眼鏡の教師がガタイのいいジャージ男とともにこちらへと近づいて来るのが見える。

 くそっ、逃げた方がいいか?

 

「あの……」

 

 だが、もう間に合わないようだ。

 とうとう声をかけられた、ちゃんと説明して納得してもらえるかしら?

 えっと……俺と健史の関係ってなんだ? 友達じゃないし、直接の後輩でもない……変な誤解されないといいんだけど……。

 そんなシミュレーションをしながらゆっくりと顔を上げる。

 

「いや、違うんです別に怪しいもんじゃ……」

「何言ってるんです? メチャクチャ怪しいですよ?」

 

 そこには眼鏡男Withジャージ男ではなく、仏頂面の浅田麻子がいた。

 

「フミくん今抜けられないんで、代わりにお迎えにあがりました」

「お、おう。サンキュ」

 

 浅田が少し面倒くさそうにそう言うと、視線で俺を誘導し、足早に歩き始める。

 ふと視線を横にずらすと眼鏡男とジャージ男はもうこちらを見ていなかった。どうやら疑いは晴れたらしい。

 俺はホッとしながら、浅田の後を追った。

 

「すまん。他校に入る事ってあんま無くてな……」

「別に関係者なら普通に入ってきていいんじゃないですか? 試合がある日は家族で応援にくる人もいますし」

 

 そういうもんなのか、覚えておこう。いや、次もまた見に来るという意味ではないが。うん。

 

「健史は来られないって、試合中か?」

「ええ、比企谷さんが来るからって、スマホ預かってたんです、道に迷ったりしてたら困るからって」

「でも既読ついてなかったぞ?」

「? 知らないんですか? これ、アプリを直接開かなければ既読つかないんですよ? あと、機内モードにして通信しなければアプリ開いても既読つきません」

 

 まじか、知らなかった……。今度小町にも教えてやろう。

 この機能を使えば色々面倒事も回避できそうだ。

 

「じゃあ、私はまだ仕事があるので、この辺で適当に見てってください」

「ああ、サンキュ。あ、一色は?」

「? 三年生で来てるのはヒロに……健大元部長ぐらいですよ」

 

 そうか、一色は来てないのか、だからどうというわけでもないが、どうやら完全にアウェーへとやってきてしまったらしい。

 やはり長居をするべきではないか気がする。

 

 浅田はそのまま俺をグラウンドの一角へと案内すると、「ここらへんで適当にどうぞ」と言って足早に補欠らしき部員たちがいるベンチへと戻っていった。

 日陰なのはせめてもの優しさだと思いたいが、もうちょっと愛想よく出来ないものだろうか……?

 抗議の意味を込めて浅田の背中を視線で追っていると、ベンチに戻った浅田は、そこに座る部員に対し、何やら声を荒げているのが見えた。何かトラブルか? それともあいつは不機嫌な状態がデフォルトなんだろうか? 健史も苦労しそうだな……まあ、俺が考えることではないか……。

 俺はそれ以上の詮索をやめ。慣れない他校の中学をぐるりと見回す。

 「家族で応援にくる人がいる」という浅田の言葉通り、近くには、レジャーシートを敷いている親子連れや、日傘を差したおばさんが数人試合を観戦していた。

 これ全員関係者なんだろうか? 俺自身が部外者なのであまり偉そうなことは言えないが、セキュリティ甘くない?

 

 そんな事を考えながら今度はグラウンドに目を移す。

 そこには黄色いゼッケンと白いゼッケンに別れた選手たちが声を上げ、右へ左へと走り回っていた。

 今は「1-2」か、どっちが勝ってるのか、よくわからんな。

 とりあえず『タケフミーを探せ』でも楽しむとするか……。

 紅白のボーダーの帽子と服をきた囚人ぽい眼鏡のキャラを探すアレ、割と得意なんだよな。

 あれも違う、これも違う……。もしかしてキーパーか? いや、違うな。

 ああ、いた、アレか。

 思いっきりこっちに手を振っている。

 いや、試合に集中しろよ。

 

 これで最初の任務は完了した。後はどうしたらいいのだろうか、このまま試合を見てるしか無いのか。うわ、退屈すぎる。何か本でも持ってくればよかった。

 そんな事を考え、ふと浅田達がいるベンチに視線を向けると、ベンチに座っている浅田が何やらこちらを指差しているのが見えた。「あの人痴漢です」とかだったらどうしよう。

 ストップ冤罪。

 

 すると、浅田の隣にいた男が一人突然立ち上がり、俺の方へと走り出してくるのが見えた。

 プリン色の頭をした妙にチャラそうなその男は、ものすごいスピードでこちらに近づいて来る。え? 何? 誰?

 

「あの、比企谷さんですか……?」

「……あ、ああ。比企谷だけど……そっちは?」

「あ、すみません、自分竹内健大っていいます。健史の兄です」

 

 少し緊張した面持ちで話しかけてきた男はそう言うと、丁寧に頭を下げた。

 こいつが健史の兄……?

 言われてみれば確かに目元が似ている……気がする。

 さらによく考えると一色の家で一度写真を見せて貰った……気もする。

 そうか、こいつがサッカー部問題の元凶、元部長か。

 

「あー……俺に何か用? 話があるって聞いてきたんだけど」

 

 そう、健史の言によれば、今日はこいつに呼ばれたからここに来る羽目になったのだ。

 つまり、ここで話とやらを聞けばミッションコンプリート。

 あとは帰っても問題ないという事になる。ならば、さっさと用事を済ませてしまうのが吉だろう。

 

「あ、はい。あの、俺の弟……健史が、比企谷さんに部長になるように勧められたって聞いたんで、一言お礼をと思いまして」

「礼?」

 

 お礼参り的な意味だったらどうしよう。

 「よくも、俺の弟を部長にしてくれたなぁ」みたいな? いや、そもそもお前が最初に健史を部長にしようとしたんだろ、逆恨みもいい所なのでやめてほしい。

 

「はい、俺、あいつは絶対部長に向いてると思ってたんです。まあでも一年で部長っていうのは色々問題あるし、ニ年からも身内贔屓だって思われそうだから、来年ぐらいにはって考えてたんですけど、ちょっとうちの部でゴタゴタがあって……」

 

 そのゴタゴタというのが例の二年が調子に乗って健史を推薦したという話なのだろう。

 なるほど、こいつ自身、初めから部長に健史を推すつもりがあったわけか。

 

「でも、アイツ。責任のある仕事に付きたくないって、全然首を縦に振ってくれなくて困ってたんです」

 

 そりゃそうだろう。入ったばかりでそんな大役を押し付けられるなんて、普通はありえない。

 ありえそうなのは入りたかった部活があると思って入った学校で、すでに廃部になっている事に絶望し、立て直そうとしている一年とかだ。この場合大体まず五人の部員を集めるところから始まる。でも学校には何故か訳ありの天才とかがいて、ひと悶着ありながら、夏ぐらいには昨年の優勝校にライバル視されたりしていくのだ。王道スポ根展開万歳。

 まあ何がいいたいかって言うと、俺だって責任なんて取りたくない。

 

「うち、三人兄弟で俺の上にもう一人姉がいるんですけど、結構男勝りっていうか、昔から家に男友達とか呼んで皆でサッカーしてたりしたんです。そういうのもあって、アイツ年上相手でも物怖じしないっていうか、肝が座ってるっていうか、攻める時はガンガン行くんですよ」

 

 思い返してみれば確かに、健史は年上慣れしてるというか、妙に馴れ馴れしい奴だなという印象を持ったのは覚えている。なんならちょっと失礼な奴だとさえ感じた。それも肝が座っていて物怖じしないという言い方なら利点に聞こえるのだから不思議だ。

 

「だからそういう所を上手く出せれば、一年とか二年とか関係なくサッカー部を盛り上げてくれるって思ってたんです」

 

 随分と弟の事を高く買っているようだ。

 だが、それを言う相手を致命的にまちがっている。

 本人に言ってやれ本人に。俺に言うな。

 弟自慢がしたいだけなら、俺も妹自慢で対抗するぞ。

 

「本当は部長は二年から選ばないといけないんですけど。うちの二年ちょっと調子に乗ってるっていうか、不真面目な所があって困ってたから丁度いいや、ってこういうの職権乱用っていうんですかね」

 

 健大はそういうと、頭を掻きながら笑った。

 その笑い方はとても健史に似ていると思う。

 

「だから、アイツが部長やってもいい、やってみたいって言った時、やっと肩の荷が降りたって感じがしました。……そのきっかけを作ってくれた比企谷さんに、一度お礼をいいたかったんです、本当にありがとうございました」

 

 俺はそんな事まで考えて動いたわけじゃない、あくまで一色に降り掛かった火の粉を払ってやっただけだ。

 なのにその事で他の奴から感謝されるとは、なんともむず痒く、そして居心地が悪い。

 

「良かったらこれからもアイツの相談相手になってやってください」

 

 健大はそう言うと丁寧に九十度のお辞儀をした。

 当然俺としては「いやだ、面倒くさい」そう答えようとしたのだが。

 『部長が頭を下げているあいつは何者だ』という周囲の視線に気が付き「あ……」だの「お……ぅ……」だの間抜けな嗚咽を返すことしか出来なかった。

 

「それじゃあ、ありがとうございました! ゆっくり見ていってください! あ、これ良かったら」

 

 健大は手に持っていた、水滴にまみれたスポーツドリンクを俺に渡し、そのままベンチへと戻っていった。

 さて、お分かり頂けただろうか?

 

 あいつ、自分の言いたいことだけ言って行きやがった。

 自分で何か意味のある言葉を発した記憶がない。相槌打ってただけなんだが……え? まさかこのためだけに呼ばれたの?

 これが体育会系のノリという奴なのだろうか。なんという自己満。

 俺は渡されたスポーツドリンクを一度眺め、健大の背中を視線で追う。

 やはりサッカー部なだけあり、脚が速いのか、健大はすでにグラウンド反対側の自陣のベンチへと戻っていた。座る前に俺の方を見ると、再びお辞儀をし、ベンチへと座る。

 それを見た他の部員達が、先程のように「アイツ誰だ」と少しざわついているのが見える。

 なんかメチャクチャ居心地が悪くなったな……。

 帰りたい……。  

 

***

 

 竹内兄との会話を終えた後、俺は仕方なくボーッと試合を眺めていた。

 試合は、どうやら健史達のチームが負けているようだ。

 俺はサッカーには詳しくないが。どうも健史のチームに一人やたら前に出ている奴が居るのはわかった。健史の指示が上手く伝わっていないのか、それともそういう作戦なのかはわからない。

 突出しているそいつは額に細い鉢巻のような物を巻いて、後ろに回した髪を揺らしながら前に出ては敵陣地の中を駆け抜けていく。

 あれがいわゆるエースという奴なんだろうか。その姿はまるでアニメの主人公のようでもあり、やたらと目を引く。

 その男が最後のシュートをして、ゴールを決めた所で。試合が終了した。

 恐らくは、引き分け。

 選手たちは肩で息をしながら天を仰いだり、グラウンドに寝転がったり各々のやり方で疲れを表現している。

 そんな中、一人の選手が颯爽とこちらへと近づいて来るのが分かった。

 

「比企谷さん! 来てくれたんですね! どうでしたか!?」

 

 キラキラと目を輝かせ、やってきたのは汗だくの健史だった。

 なんだかすごく犬っぽい。

 でも男に懐かれても別に嬉しくないんだよなぁ……。

 しかし、「どうでしたか?」と聞かれても返答に困るんだが……アドバイスでもしてくれるとでも思ったのだろうか? 生憎俺にそんなスキルはない。

 

「あー……まぁ、うん、良かったんじゃね?」

 

 適当にそんな言葉でお茶を濁したつもりだったが、何故か健史は嬉しそうに笑った。

 

「ありがとうございます! あ、すみません。まだやることがあるんでまた!」

 

 健史はそう言うと慌ただしくグラウンドへと戻っていく。

 こちらの意見は聞かず自分の言いたいことだけ言って去っていくあたり、やっぱりあの二人は兄弟なのだろう。

 妙な所で血の繋がりを感じさせないで欲しい。

 しかし、「また」と言われてもなぁ……そろそろ時間だし。これ以上面倒事に巻き込まれたくないし、義理は果たしただろ……帰るか。

 俺は飲みかけのスポーツドリンクをひと飲みして、健史とは逆の方向へと歩き出した。

 

「あー、浅田。ちょっといいか?」

「……なんですか? あんまり話しかけないでほしいんですけど」

 

 悲報:帰りの挨拶をしようと声をかけただけで年下の女子に引かれる。

 ちくしょう。

 どうも俺はこの子に嫌われているらしい。

 だがこの場で声をかけられそうなのがコイツぐらいしかいないのだ。ここは我慢してもらおう。

 

「俺この後バイトあるから、帰るわ、竹内兄弟によろしく伝えといて貰えるか?」

「もう帰るんですか? ……いえ、わかりました、お疲れさまです」

 

 浅田はそれほど興味ないと言わんばかりにそう言うと、軽くお辞儀をする。

 まあ、もう一言ぐらいかけていったほうがいいのかもしれないが、疲れているようだし、まだ部内での話もあるだろう。これ以上は待ってもいられない。

 

「あの……」

「ん?」

 

 そのまま横を通り過ぎて帰ろうとした瞬間、浅田に声をかけられた。

 

「いえ……やっぱりなんでもないです。バイトって一色先輩の家庭教師ですか?」

「ああ、そうだけど……。なんか伝言とかある?」

「そういうのじゃないんですけど……そのニオイ、何とかした方がいいですよ」

「え? 俺、クサい?」

「試合に出てたわけでもないのになんで? って感じです」

「そ、そうか。すまん」

「いえ、それでは」

 

 そう言うと浅田は再び、軽く頭を下げ、ベンチへと戻っていった。

 マジか……俺そんなクサい?

 Tシャツの首元を伸ばし、自分でニオイを嗅いで見る。

 確かに汗のニオイはする気がするが……クサいだろうか?

 自分のニオいは分かりづらいという奴なのか、一回着替えに戻ったほうがいいかしら……?

 いや、流石に着替えに戻る時間はない、俺自身が動いてたわけじゃないしなぁ……試合をやってるあいつらよりはマシじゃね?

 こんな暑い中よく外でサッカーなんてやってられるよな……。俺にはとてもマネできない。

 

 そんな事を思い、ちょっとした不安にかられながら、俺は一色家へと向かった。

 信号で立ち止まるたびに、自分の服の匂いを確認しながら……。

 制汗スプレーぐらい買ってったほうがいいか……?




古戦場お疲れさまでした。

前回「古戦場って何?」っていうお問い合わせを頂いたので軽く説明をしておきます。

グランブルーファンタジーというゲーム内で行われる
期間中7時から24時まで敵を倒し続けないといけないイカれたイベント(褒め言葉)です。(大体あってる)
次回の開催は11月らしいので興味を持った方はどうぞ。

さて、本編ですが。
今回は前後編の前編となります!
そして蛇足多めです。
番外編にしようかとも思っていたのですがそのまま落とし込みました……。
まあこの辺りの話は作者都合でしかないので詳しくは活動報告にて。


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第21話 その匂いの先に

いつも誤字報告、感想、お気に入り、評価、メッセージありがとうございます
蛇足回その2となります。

久しぶりの連続投稿!




<Hachiman>

 

「センパイお疲れさまです、暑くなかったですか?」

 

 一色の家につくと、一色が一人で玄関で出迎えてくれた。

 珍しい、いつもなら玄関にはもみじさんが満面の笑みで迎えてくれるのだが、今日はどうしたんだろう?

 いや、別にもみじさんに迎えて欲しいとかそういう意味ではないぞ。決して。

 

「今日は一人?」

「はい、パパは仕事で、ママは友達の所に行くって朝からでかけてます、お夕飯までには帰ってくるそうですよ。あ、変な事しようとしたらお爺ちゃんに言いつけますからね!」

「しねーよ」

 

 そうか、一色一人か……。

 そんな会話をしながら、一色とともに廊下を抜け、リビングへ向かう。いつもは賑やかな一色家が今日は随分とさみしげに思えた。

 

「センパイは今日どこか行ってたんですか?」

「ん? なんで?」

「そういうの持ってるの珍しいなぁって思ったんで」

 

 そう言って一色は俺の手の中にある、空のペットボトルを指差した。

 さっき健大から貰ったやつだ。

 そう言えば、道中で捨てられるところがないか探すつもりですっかり忘れていた。

 

「健史に呼ばれてな、来る前に試合見に行ってた」

「え?」

 

 一色が一瞬目を見開き、その動きを止める。

 

「試合、見に行ったんですか?」

「今朝電話があってな。どうしても来てくれって仕方なく、浅田にも会ったぞ」

「えー? 言ってくれれば私も行ったのに」

「別に大した話もしなかったぞ? そんな暇あったら勉強しとけ」

 

 試合内容は結局よくわからなかったし、健大とやらは自分の言いたいことを言うだけ行って去っていった。今日の収穫といえばLIKEで既読をつけずにメッセージを読む方法ぐらいだ。

 

「どっちが勝ってました?」

「あー、引き分け? 健史のいるチームのなんか一人やたら突出したやつが最後ゴール決めてなんとかって感じだった」

「誰です?」

「名前まではわからん、ちょっと髪が長い茶髪のやつだった」

「あー、多分、赤星くんですね」

 

 赤星。なんだか通常の三倍のスピードで動いたりしそうな名前だ。

 なんなら角も生えてそう。

 

「ほら、私がセンパイにサッカー部の話をした時『最悪部長になるのはこの人かなっていう人はいる』っていったじゃないですか? それが赤星くんです」

「赤星?」

「赤星亜土夢くん、頭にヘアバンドしてませんでした? 細い鉢巻みたいな」

 

 そういえば、そんなのをつけていた気がする。

 つまりあれが指揮官機のアンテナだったのか。

 しかし、アトム。原子とは親も中々洒落た名前をつけるものだ。

 ちなみに某国のスラングだとオナラの意。これ豆な。

 

「やってくれるならアイツが部長でも良かったんじゃないの? 結構上手い感じだったぞ」

 

 まあ健大は始めから二年を部長にするつもりはなかったらしいが……。

 これは黙っておくか……。 

 

「そうですね。でも私も最近知ったんですけど、赤星くん二学期には転校しちゃうらしいんです、なのでどっちにしろ他の誰かって事にはなってたかと。あー、だから麻子ちゃんも焦ってたんですかね?」

 

 一色はまるで他人事のように顎に指を当てながらそう言うと、キッチンへ向かい、アイスコーヒーをリビングのテーブルへと運んできた。

 そうだ、浅田といえばさっき「臭い」と言われたんだった。

 やばい、一色も臭いと思ってるんだろうか。

 別に好かれようとは思っていないが、やはり自分の匂いというのは気になるものだ。

 小町との邂逅を果たした一色に変な印象を持たれれば、俺の家での立場も危うくなる。

 ここは確認をしておいたほうがいいかもしれない……。

 

「あー、悪い俺、臭いか……?」

「へ? なんですか急に?」

「いや、観戦中暑かったんでな……」

 

 俺は立ったまま再び首元をつまみ匂いを嗅いで見る。

 汗でシャツが濡れるほどというわけではないが、確かにこうしてみると汗の匂いはする。

 やはり臭いのだろうか?

 

「うーん……?」

 

 一色は、少し不思議そうな顔をすると、トテトテと俺の近くへ歩み寄り、匂いのチェックに入った。

 なんだろうコレ、めっちゃ恥ずかしい。

 

「……」

 

 一色が俺の周りを一周して、首元に鼻を近づけた所でスッと目を閉じ動きを止める。

 なにこれ……この状況他の人に見られたらやばくない?

 むしろ距離の問題もあって俺がやばい……女子特有の甘い匂いがもろに……。

 

「い、一色さん?」

「……っ! すみません」

 

 俺が声をかけると一色は、閉じていた目を開き、慌てて俺から離れた。

 何? びっくりするからやめてほしい。

 

「え、えっと、まぁ確かに匂いはしますけど、言われなければ分からないというか、そんなに気にするほどじゃないと思います!」

「そ、そうか、なら良かった」

 

 一色が早口でそう捲し立てるので俺も思わず早口で返す。

 まあ一色があれだけ近づかないと気にならない程度なら問題ないだろう。

 

「サッカー部の部活後なんて酷いですよ? もう鼻が曲がるんじゃないかっていうぐらいですし」

 

 確かに運動系の部活は臭いイメージあるよな。

 剣道部とか。まあ、あれは防具が蒸れるからまた少し次元が違うのかもしれんが。

 

「実際それで何度やめようと思ったことか……だから引退して割とホッとしてるんですよねぇ」

 

 一色はそう言って、軽く笑う。

 

「まぁ、運動部マネージャーの私から言わせてもらえば、この程度の匂いなんて可愛いもんですよ」

「いや、お前と同じマネージャーの浅田からめっちゃ臭いって言われたんだがな……」

「うーん、その場所が臭かったんじゃないですか? 試合中だったんですよね? あ、それか、単純にセンパイの事が嫌いで遠ざけたかったとか!」

 

 クスクスと冗談めいて言う一色だが正直笑えない。

 例え冗談だろうと女子に臭いと言われるのは男としてはクルものがあるのだ。

 女子が軽率に使う「キモイ」「臭い」「うざい」は女子が思っている以上に攻撃力が高く男子を傷つけるということを女子の皆さんにはもっと周知して頂きたい。

 周知していただきたい。大事なことなので二回言った。

 

「気になるならシャワーでも浴びていきますか?」

「いや、さすがにそれは……」

 

 こんな所でラッキースケベを起こすつもりはない。

 いや、この場合覗かれるのは俺か。

 他に誰もいないのにシャワーを浴びたなんて事がおっさんにでもバレたら後々面倒なことにもなりそうだし。

 他に証言してくれる人がいない状態だと、マジで推定有罪が成立しかねないからな……。

 っていうかそうだよ、他に誰もいないんじゃん。

 つまり今、俺はこの家で一色と二人きり……やばい。考えたらなんかちょっと意識してしまう。

 

「別に遠慮しなくてもいいですよ? なんならお風呂も入れます?」

「い、いやいい、そもそも着替えも持って来てないだろ……」

 

 俺が慌てて断ると、一色は。その様子を不審に思ったのか、少しだけ首を傾げた。

 

「そうですか? じゃあ、シャツだけでも着替えます? パパの貸してあげますよ」

「いや、ほんと、いい……一色が気にしないなら……」

「あ……あ、そ、そうですか……そうですね、気には……ならないです」

 

 めっちゃ気まずい。

 女子に匂いを気にされるというのがこんなにも恥ずかしいことだなんて知らなかった。

 いや、相手は一色、妹みたいなもんだ、平常心平常心。

 

「と、とにかく、授業始めるか」

「は、はい」

 

 俺たちはなんとなくふわふわした空気を身にまとったまま、一色の部屋へと移動した、

 今年の夏はちゃんと制汗スプレーを買ってニオイ対策しておこう。

 そう心に決めながら。

 

***

 

 

「んじゃ、今日はここまでだな」

「お疲れ様でしたぁぁぁ」

 

 授業終了を告げると、一色は机に突っ伏し、大げさに息を吐く。

 最初の空気を払拭するように、俺達は勉強に没頭した。今日は気持ち厳し目に休憩なしでやったので、普段自分のペースでしかやらない一色には少し堪えたのかも知れない。

 だが俺としても、模試の前であり期末で挽回してほしいという時期だったので、よいタイミングだったとも言えるだろう。

 

「結局、もみじさん帰ってこなかったな」

「うーん、もうすぐ帰ってくると思うんですけどね、お夕飯ちょっと遅くなっても大丈夫ですか?」

「? いや、今日は帰る」

 

 未だ二人きりというのもあり、変な間を作りたくなかったので、俺は一色が机の上を片付けているの傍目にそそくさと帰り支度をする。

 といってもカバンを持つだけだけどな。

 正直、本当に必要なのか疑問だったカバンだが、自分の筆記具というのは持っていれば使うもので。割とこのカバンは買ってよかったと思っている。小町に感謝。

 

「え? 待ってくださいよ、私、ママに引き止めておいてって言われてるんですけど」

「毎回飯食わせてもらうのも悪いだろ、この間も高い店連れてって貰ったわけだしな」

 

 何度も繰り返すが、そもそも家庭教師を引き受けたときからずっと、『夕飯は遠慮する』という話しだったのだ。

 それなのに今までズルズル来てしまっているので、多少の申し訳なさも感じている。

 やはりどこかで線引きはするべきだろう。

 そういった意味で今日は絶好のチャンスだ。

 

「まあ、今後は俺夕食は家で食うからっていっといて。っつーわけで、帰るわ」

「……本当に帰っちゃうんですか?」

 

 なぜか一色が食い下がる。

 やっぱこいつも一色一族だから「客に飯を食わせたい病」にでもかかっているんだろうか。

 出来ればそういう伝統は早めに断ち切って欲しい。

 

「なんか問題ある?」

「あとでママに文句言われそうだなぁと……センパイ、ママのお気に入りみたいなので」

 

 気に入られたからどうという事もあるまい。

 いや、むしろ気に入られたらヤバイまである。

 

「じゃあせめて送っていきますよ」

「いいよ、一人なんだろ? 戸締まりしっかりしとけ」

 

 玄関で、俺の後を追って靴を履こうとする一色を静止する。

 

「あ、はい。ありがとうございます……」

 

 すると、一色は少し驚いたような表情で、俺をマジマジと見つめてきた。

 

「センパイって意外と紳士ですよね」

「こういうのは紳士とは言わん……本当の紳士ってのは良い子の所にしか現れないんだぞ」

「サンタさんじゃないですかそれ……?」

 

*

<iroha>

 

 センパイが帰ると、家の中は一気に寂しくなった。

 自分の足音がパタパタと響き、一人なのだと実感させられる。

 少し気を紛らわせようとテレビを付け、そのままキッチンに向かい冷蔵庫を開けてみる。

 中身から推測するに今日はトンカツ?

 センパイが来てからというもの土曜の夕食のお肉率が天井知らずに上がっている気がする。

 太ったりはしてないつもりだけど、こう毎週だと私も気をつけないと……。

 時計を見上げると十九時十五分。

 ママもそろそろ帰ってくるだろうし……少し準備しておこうかな。

 そう考え、私はキッチンにかけてあるエプロンを付け。夕食の準備を始めた。

 

『……つまりですね、結婚相手を探すときには匂いも重要になってくるんです』

 

 ふとテレビからそんな声が聞こえてきて、料理の手を止める。

 振り返ると、どうやら未婚の芸能人の婚活番組をやっているようだ。

 「必見!運命の相手の見つけ方教えます!」なんていう大仰なタイトルが付けられたその番組では眼鏡をかけた年配の女性が、その未婚の芸能人に向かって話しかけていた。

 

『良い匂い、好きな匂いだと感じる相手というのは遺伝子レベルで相性の良い相手。だから人間は本能的に運命の相手の匂いを嗅ぎ分ける力を持っているという事でもあるんです』

 

 ドキリとした。

 そういえば、今日センパイに「臭いか?」と聞かれ、匂いを嗅いだ時。

 クサイとは思わなかった、それどころか、ほんの一瞬、本当に一瞬だけだけど。汗のニオイの先にあるほんのりと漂ってくる不思議な香りをもう少し嗅いでみたいとさえ思ってしまったのだ……。

 でもきっとそんなのは気の迷いだし、こんな話もきっと迷信。

 

「ありえないよね」

 

 私はそれ以上考えないよう、手に持っていた菜箸を置いて、リモコンを使ってテレビを消す。

 再び静寂が訪れた家の中に今度はパチパチと油の跳ねる音が響き渡る。

 気にしない気にしない。

 センパイが運命の相手とかありえないから。

 でももし……本当だったら……?

 いやいや。

 でも……。

 

「ただいまー! ごめんなさいね遅くなって、すぐご飯作るから!」

 

 そんな思考のループに嵌っていると。

 タイミングよくママが帰ってきた。

 もうこの件について考えるのやめ!

 やっぱり一人って嫌いだ。自分の頭の中を上手くコントロールできなくなる。

 私は少しほっとしながら、ママを出迎えた。

 

「おかえりー。センパイもう帰っちゃったから急がなくてもいいよ?」

 

 それは私なりに疲れているであろうママを労っての言葉だったのだけど、ママは信じられないという顔をして、こっちを見てきた。

 

「えー!? なんで引き止めておいてくれなかったのー」

「ママが遅すぎるんだよ」

「だってー、帰りの電車間違えちゃったんだもん」

 

 「だもん」と子供っぽく言うママだったが、それは娘にやる事じゃないと思う。

 

「あーあ、折角買ってきた杏仁豆腐無駄になっちゃったわ」

 

 そういって、ママが私に小さな箱を渡してきた。

 中には丸くて可愛い容器に入った白いプルプルの杏仁豆腐。

 いや、私が食べるから別に無駄にはならないよ……?

 

**

 

<Hachiman>

 

【八幡くんなんで帰っちゃうのー!】

 

 電車に乗るなり、スマホにそんなメッセージが入った。

 どうやら、もみじさんはほぼ入れ違いで帰ってきたようだ、もしかしたら道中ですれ違っていたのかも知れない。暗い夜道でよかった。危ない危ない。

 

【帰りが遅いみたいだったので悪いかと思って……】

【悪くないわ! 八幡くんの為に色々買ってきたのに!】

【お気持ちだけ頂いておきます】

 

 あんまり気を使わないで欲しい、その分こちらも気を使うのだから。

 そういや、色々食べさせてもらってるけど初日以降、こっちから何か渡した覚えがないな。

 大人としてそういうのも必要なのだろうか。

 

【八幡くんは私の事が嫌いなんだ……? 私がおばさんだから?】

 

 うわぁ、面倒くさい。これどう答えても俺に損しか無いやつだ……。

 

【いえ、好きとか嫌いとかじゃなく、毎回ご馳走になるのも悪いなぁと……】

【もしかして、私の料理美味しくない?】

 

 無難な返事を返したつもりだったが、再び疑問形でメッセージが送られてくる。

 誰か助けて。

 

【いえ、毎回凄く美味しいです】

【本当?】

【本当です】

【じゃあ、来週は食べていってくれる?】

 

 いや、だからそもそも、俺がそっちで夕食を食べるという設定がすでにおかしい事に誰か気付いてくれないのだろうか。

 だが、そんな事を言えばまた同じような質問のループにハマるのだろう。

 ロールプレイングゲームでたまにある。

 「はい」と答えるまで延々ループするあの現象が今まさに俺の目の前で起きている。

 

【……はい】 

 

 俺は唯一のループ回避手段を取り、ため息を吐いた。

 

【来週は今週の分も張り切って作るからね♪ いっぱいお腹空かせてから来てね♪】

 

 最後にはハートマークを付け、LIKEのやりとりが終わる。

 一体何を出されるのだろう。

 すでに毎回腹を減らせた状態でも、胃袋がはちきれんばかりの量を出されている気がするのだが……。

 ん? まだ通知が残ってるな……?

 未読メッセージがあることを知らせるマークが残っている事に気がついた俺は、もう一度LIKEを開く。

 

【比企谷さんなんで帰っちゃうんですかー!?】

 

 それは健史からのメッセージ。

 こちらはこちらで挨拶もせず帰ったのがお気に召さなかったらしい。

 いや、一応浅田に伝言は頼んだんだが……一色といい浅田といい、あの中学に通う女子は伝言ができなくなる呪いでも受けてるんだろうか?

 はぁ……。

 LIKEやめようかな……。

 

***

 

**

 

*

 

 翌週。俺はその時の会話をすっかり忘れたまま一色家へと向かい、少しだけ後悔することになる。

 何故ならそこには何かのパーティーか? と思うほどの豪華な料理が並べられていたのだ。

 

「だから、先週帰らないで下さいって言ったのに……」

「一回遠慮したぐらいで、こんな事になるなんて普通予想できないだろ……」

「ちゃんと責任取って食べてくださいね? センパイ」




※いろはに匂いフェチ属性をつけようとか、特殊性癖をつけようとかそういうつもりは全くありません。(念の為)

長く辛かった繋ぎ回もこれで終了です……。
次回からは本筋に戻ります、そしてあの人が登場!


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第22話 夏休みに向けて

いつも誤字報告、感想、お気に入り、評価、メッセージありがとうございます。

今回から夏(休み)編スタートです!

(あれ? 投稿日が10月……?おかしいな……? 夏とは……?)


 七月、第一週の家庭教師の日、二度目の給料をもみじさんから渡された。

 今回は茶封筒ではなく、水玉模様の可愛らしい細長い封筒。丁寧に封止にはハートが立体的に膨らんだシールが貼られている。

 いやいや、コレ中身現金ですよね? どうみてもラブレターか何かなんですけど……。

 だがもみじさんは、そんな俺の抗議の視線にびくともせず、ニコニコと笑顔を浮かべるだけだ。

 

 「……ありがとうございます」

 

 何を言っても無駄だ、そう悟った俺は礼を述べつつ、失礼かとも思いながら、体を斜めにし、封筒を隠すようにして中身を確認する。

 何故って? 先月の例があるからだよ。

 自分が思っていたより給料が多いというのは嬉しくもある反面、恐ろしくもある。後で何か請求されるのではないか、何か意図があるのではないか。と勘ぐりたくなる。

 厄介事はゴメンだ。

 

 そしてその予感は見事に的中した。

 また多すぎる。

 計算してみると、何故か焼き肉に連れて行かれた日の分まで換算されているようだ。

 なんなの? もしかして俺が実際に来たかどうかじゃなくて、カレンダー見て、土曜日の数で計算してる? 流石に「これは貰えない」と返したのだが。「家族なんだから遠慮しないで」「お年寄りの道楽に付き合って貰ったんだもの、それぐらい受け取って」と言われた。

 それでいいのか? いやいや駄目だろう。

 そもそも家族じゃないんだよなぁ……。

 

 先月ですら貰いすぎているという自覚があったのだ、これ以上甘えるわけにもいかない。

 毎週夕食を食わせて貰っているので食費だって確実にかかっている。

 未来から青い猫型ロボットが突然やってきたお宅だって、学校にも仕事にもいかない癖に何故か食事だけはするアイツのせいでエンゲル係数は上がっているはずなのだ。

 まあアイツ、意外と短期で金増やす道具とかも持ってるから、いざとなったらどうとでもなりそうだけどな……。

 とはいえ、俺にはそんな道具はないし、一色の未来を変えるために遣わされた訳でもない以上、そんな施しを受ける理由がない。

 後々禍根も残しそうだしな……。

 そう思い、今回は強気で拒否の姿勢を示し、何度目かの応酬で、やっともみじさんにバイト代の一部を返却することに成功した。

 のだが……。

 

「わかったわ、じゃあこれはしばらく私が預かっておきます」

 

 と、何やら不穏な事を言われた。

 いや、預かるんじゃなくて、そっくりそのままそちらのお金ですからね? しばらくじゃなくて永久に。

 金を返して不安になるってどういう事だよ……。

 いっそ自分で受け取ってしまった方が精神衛生上良かったのかもしれない……。

 一色一族怖い。

 

 そんな不安にかられながら、残り時間で授業を行う。

 模試もそうだが、今週は期末考査があったということもあって一色は比較的従順に勉強に励んでくれた。

 本人も中間での汚名を返上しようと頑張っているらしい。

 まあ、俺自身の期末もあるので、楽ができるのはありがたい。

 話は逸れるが、当然この時期だと小町も期末期間に入っているので、先月言っていた買い物とやらにも行っていない。

 また変なもの買わされるのも嫌だし、忘れてくれているならそれでいいのだが……。

 

 しかし、一色も小町も大人しいというのは天国だな、もういっそずっと期末期間だったらいいのに。

 でもそうはならないのが現実……きっとこの夏、また碌でもない事が起こったりして俺の日常が脅かされるのだろう。

 なんとなくそんな予感がしていた。 

 

***

 

 そうして期末も終わり、我が総武高は一学期のイベントが終了、あとは終業式を残すのみとなると、学校内はすっかり夏休みムードへと切り替わっていた。

 今もホームルーム中だというのに教室では「夏休みに何をする」「どこへ行く」という会話が至る所で繰り広げられている。

 

 え? 俺の夏休みの予定? もちろん、しっかりと立てている。

 夏は暑いので、冷房の効いた室内で読書をしたり、アニメを見る予定だ。図書館にいくのもいいな、意外と知られていないが、最近の図書館には普通にラノベも置いてあるのだ。学生には非常にありがたい公共サービスといえよう。ビバ夏休み。

 

「比企谷ー! 比企谷八幡はいるかね?」

 

 ホームルームも終わり、さて、帰るか。と鞄を持ち、立ち上がったタイミングで、教室の前の扉の方から俺を呼ぶ声が聞こえた。

 教室にはまだ多くの生徒が残っており、誰に声をかけられたのか、瞬時には判断できない。

 なんとか人の隙間から声のした方角を覗き見ると、そこには一人の女教師の姿があった。

 担任ではないな、なんだっけ、確か現国の……そう、平塚先生だ。

 平塚先生の方はどうやらまだ俺のことを認識できていないらしくキョロキョロと教室を見回し「比企谷ー?」とこちらを探している。

 なんだろう? 俺なんかしたっけ? 課題の提出忘れとか?

 だが、特に思い当たるフシがない。

 まあいいか、と俺は生徒たちの影に隠れるように教室の後ろの扉から退出した。

 今日は金曜。このまま帰ってしまえば月曜には忘れさられているだろう。

 めでたしめでたし。

 

「なんだ、まだいるじゃないか、ちゃんと返事をしたまえ」

 

 だが回り込まれてしまった。

 俺よりすばやさが高い……だと?

 突如現れた腕に肩を捕まれ、俺は思わず冷や汗を垂らす。

 逃げられないのならばもう対峙するしかない、覚悟を決めろ八幡。

 俺は一度目を閉じ、気合を入れ、ゆっくりと首だけで振り返る。そこには笑顔の女教師がいた。

 

「な、なんすか?」 

 

 平塚先生は、俺が入院している時に二度ほど、見舞いに来てくれた事がある。

 それほど怖い先生だとは思っていなかったのだが……え? 何これ? 肩に置かれた手がはずれない……振りほどけない。怖い。

 

「何故逃げるのかね? 君は期末の成績も悪くなかったと思うが……なにか疚しい事でも?」

「いやだなぁ、気づかなかっただけですよ、早く帰りたいなぁと」

 

 「面倒臭そうだったから」とは流石に言えない空気だったので、とりあえずお茶を濁しておく。

 

「……そうか、まあ時間は取らせんよ、今日は少し様子を見に来ただけだ。生活指導の一環でな」

 

 平塚先生は何かを悟ったのか、それ以上その事は追求せず、ゆっくりと手を離すと本題へと入っていった。

 肩に手形とか残ってないといいんだけど……。

 それにしても様子? 生活指導?

 保護観察処分を受けたつもりはないが、俺はちょくちょく様子を見に来られるほど危険人物認定されていたのだろうか?

 指導されなきゃいけないような事はしていないと思うが……。

 

「もう一学期も残り少ないが……学校には慣れたかね?」

「あー……まぁボチボチですかね」

「ボチボチか……」

 

 そう、ボチボチである。可もなく不可もなく。

 学校に過度な期待もしているわけでも、絶望しているわけでもない。入学式初日から入院というトラブルこそあったものの、どっちみち中学の頃とやることは大して変わらない。俺のクラス内カーストは例年通り最下位。だが、学校内に知り合いがいない分、今のほうが楽でもある。

 ボッチにとって周囲の変化など微々たるものだ。

 

 強いて中学と変わった事といえばバイトで家庭教師をしている事ぐらいだが、それは学校とは関係がないし、バイト代にも不満はない。

 まああの一族に対して色々言いたい事はあるが、あくまで仕事先の関係なので深入りさえしなければ許容範囲だ。

 一応、もう一点許嫁という変化もあったが、こっちは最早あってないようなものだろう。

 一色にしたって、来年高校に入れば「外で見かけても話しかけないでくださいよ」と、関係をリセットしに来るのは目に見えている。

 まあそんな感じなので、少なくとも学校には不満はない。

 まさにボチボチofボチボチ。

 そしてボッチofボッチ。ボッチ舐めんな。

 

「怪我の具合は、どうだ? まだ体育は見学していると聞いたが」

「あー……そうですね……」

 

 実の所、俺は事故を理由にして今学期の体育を全て見学していた。

 「ペアが作れないから、少しでもやってみないか?」と誘われたこともあったが、「医者に止められているので」と、完全に断っていたのだ。

 一応言っておくと退院する時に「体育はしばらくは見学すること」と医者からも言われているので、嘘は言っていない。

 期限は設けられていないし。「今日からやっていい」という許可を受けたわけでもないので、俺に罪はない。医者が悪い。

 実際いつまでが「しばらく」なのかは俺にもよくわからない。

 そして、怪我を特に気にしなくなり、医者からも「何もなければもう来なくてもいいよ」と言われた頃。すっかり日差しも強くなり、運動には適さない季節になっていった。

 これはもう、日陰で見学をしていなさいと言う、神の思し召しに違いない。そう考えた俺はそれとなく体育教師の目を避わし、見学を続け。今日に至ったのである。

 

「まだどこか調子が悪いのかね? 骨折をしたりしたわけではないのだろう?」

「あー、まぁ肋骨にヒビが入ったのと打撲ですかね。頭も打ったりしたんで……あとはちょっとした擦り傷程度です」

 

 そう、折れてはいない。だからこそ小さい傷も含め、とにかくひどい怪我だったというアピールだけはしておく。

 逆にいっそ骨折でもしていれば、もう少しわかりやすくサボれたものを……。人生ってままならないものだ。

 まあ痛いのは嫌なので、そこらへんの加減は難しいところでもあるな。

 

「そうか……まあ大変だったのもわかるし、事故の後で多少不安になるのもわかるが、少しでも動いておかないと体力も落ちる一方だぞ? 問題ないなら二学期からは事故による体育の見学は認められんからそのつもりでな」

「まじすか……」

「大マジだ、ドクターストップが掛かっているというなら診断書を持ってこい」

 

 そう言うと平塚先生は俺の頭を小突く。

 そういうの、今の時代コンプライアンス的にどうなんですかね? 暴力反対!

 ……もう見学は無理か。ペアが必要な授業が終わるまで逃げていたかったんだけどな……。

 

「はぁ……しかし、重大な後遺症があるとかではないなら安心したよ。実は少し心配していたんだ」

 

 平塚先生はそう言って、俺を厳しく睨みつけた後、優しい笑みを浮かべ、今度は俺の肩をポンと叩いた。

 

「学校生活で何か困ったことがあったら気楽に相談してくれたまえ、私達教師はそのためにいる」

「はぁ……」

「ほら、いい若者がそんな背中を丸めるもんじゃない、しゃきっとしないか」

 

 俺の丸まった背中をバンとたたき「それじゃあ、気をつけて帰りたまえ」と、タバコの匂いを残して去って行く。

 なんとなくだが、きっといい先生なのだろう。

 だが、できれば俺のことは放っておいて欲しかった……。

 まぁ、どちらにせよ。ずっとサボってるわけにはいかないのだ。見学中のレポートの提出も面倒くさかったし。ここらが潮時と諦めるとするか……。

 

 そうして今度こそ帰ろうと、踵を返した瞬間。背中に何か妙な気配を感じた。

 

「ん?」

 

 だが振り返っても、すでにそこには平塚先生はおらず、廊下で喋っている生徒達も含め、誰も俺の事など見ていない……。

 気の所為……か?

 ボッチの俺が見られてるとか……自意識過剰もいいとこだな、帰るか……。

 

***

 

「えっと……怖い話ですか?」

「ちげーよ……。多分」

 

 七月二週目の授業中、話の流れで、そんな学校での出来事を語ったら。

 一色が目をパチパチと大きく瞬かせてそう聞いてきた。

 実際、あの後しばらく誰かにつけられてるような、そんな気配がしたのだが結局原因は不明なままだ。

 マジでホラーだったらどうしよう?

 違うと思いたいが、お祓いしてもらったほうがいいかしら?

 

「っていうか……センパイって交通事故で入院してたんですか?」

 

 だが一色はそういった話には興味がないのか、それとも怖い話が苦手なのか。

 次の瞬間には、もう次の話題へと意識を移していく。

 

「おっさんから聞いてなかったの?」

「そういった話は全然。入院してたっていうのは聞いてましたけど……まだ痛むんですか?」

「いや、全然?」

 

 そもそも、いまだに痛むような怪我をしていたら最初からここには来ていない。

 じゃあむしろなんで入院してたと思ったんだ。

  

「怪我、治って良かったですね」

 

 しかし、少し呆れた表情の俺とは逆に、一色はこちらを見ずに優しい声色でそう呟いた。

 なんだよ……。ちょっとドキッとするじゃないか。

 こいつは普段はあざとい癖に、急に自然体で優しい言葉をかけるのはやめてほしい。非常に対応に困ってしまう。

 相手が俺だったから良かったようなものの、そういうの、非モテ系男子には勘違いの元だからね? 気をつけようね? 

 

「……ほら、期末返ってきたんだろ? 答案見せろ」

「はーい」

  

 俺は、それ以上その優しさに触れないよう、そう言って、話を逸らす。

 すると、一色は引き出しのクリアファイルから答案用紙を取り出し、机の上に広げた。

 平均七十八点。

 少なくとも中間の時程は悪くない。

 特別悪い教科というのも見当たらなかった。

 恐らくこれが本来の一色の実力なのだろう。

 

「ケアレスミスが多いな」

「……はい、気をつけてはいるつもりなんですけどねー」

「つもりじゃ意味ないんだよ、ほら、とりあえず一個ずつ確認してくぞ」

「はーい……」

 

 一色が不満げにそう答えるのを確認して、俺はプリントへと目を落とす。

 さて、家庭教師のお仕事の始まりだ。

 

*

 

「……センパイは夏、どこか遊びに行くんですか?」

 

 一通りミスした問題のチェックが終わると、一色は「うーん」と伸びをした。

 「センパイはあんまり海って感じしませんよねー」と言いながら、ペンをクルクル回し始める。どうやら集中モードが切れたようだ。

 

「あ、そういえば今年は宿直室も使えないのか」

 

 こちらが口を挟む暇もなく、一色は次々と話題を転換させていく。

 って宿直室? 何やら聞き馴染みのない単語が出てきた。宿直室って生徒が使うものだったか?

 

「あ、うちの学校、旧校舎の方にもう使われてない宿直室があるんですけど」

 

 一色の言葉の意味がわからず首を傾げていると、一色は何やら得意げに語りだした。

 どうやらお勉強モードは本格的に店じまいのようだ。

 

「ほら、夏場サッカーの練習中って暑いじゃないですか? 熱中症対策もしなくちゃだし、部員達のドリンクを冷やすためにも宿直室の冷蔵庫を借りる事にしてるんですよ。だからその宿直室の鍵をマネージャー特権で預かってたんです」

 

 まあ確かに最近は熱中症で倒れる学生とか普通にニュースでやってたりするからな。

 そういう配慮も必要なのだろう。俺にはよくわからんが。

 っていうかマネージャー特権ってなんだ。

 

「それでですね、何気にクーラーも完備してるんで試合に飽きた時とか、ママが煩くて一人になりたい時に使ってたんですけど……今年はもう使えないんですよねぇ」

 

 一色は最後に「ふぅ」と息を吐き「もう麻子ちゃんに鍵渡しちゃいましたから……」と、聞こえるか聞こないかギリギリの声量で呟やいた。

 その物憂げな表情は、たった今サボりを告白した少女のものとは思えないものだったのだが……。

 

「いや、飽きるなよ、応援してやれよ」

 

 サッカー部のマネージャーが試合に飽きて宿直室でだらけてるとか知ったら頑張ってる選手達が報われなすぎるだろ。

 

「そこはまぁほら、可愛いマネージャーがいるっていうだけで頑張れません?」

 

 いや、いないじゃん、宿直室に行ってるんじゃん。

 意外な所で、一色のマネージャー事情を聞いてしまった。

 自称敏腕マネージャーはどこへ行ってしまったんだろうか、聞き間違いかな……?

 

「はぁ……まぁ、そんな事はどうでもいいんだよ……模試までもう時間ないんだぞ、夏休みで部活もないなら夏期講習とかも考えてみたら?」

「あー、模試……そういえばもう来月なんですね……。夏期講習……夏休み中かぁ……」

 

 俺がなんとか、一色の雑談モードを脱しようとそう言うと。

 一色は模試という言葉に一瞬だけ、目の光を取り戻したが。その後はのんびりと、眠たそうな声色でそう答えた。

 やらなきゃいけないという意識はあるが、やる気が出ない。そんな感じだ。

 こいつのやる気スイッチどこにあるんだろう? 常時オンにする方法を教えて欲しい。

 しかし、そんな風に頭を抱えていると、一色は椅子を一度ぐるりと回転させ、俺の目を真っ直ぐ見ながら今度はこう聞いてきた。

 

「そういえば、センパイって夏休みもカテキョ来るんですか?」

 

 それは暗に「来るな」と言っているのだろうか。

 別に来たくて来ているわけではないのだが……。

 俺だって夏休みぐらい休みたい。

 

「よくわからん、おっさんからは何も言われてないし、そうなんじゃないの? なんか予定あるなら来ないけど」

 

 なんなら丸一ヶ月休みをくれてもいいけど……。という言葉はギリギリの所で飲み込む。

 おっさんに知られたらまた面倒くさいことになりそうだからな……。 

 

「実は……八月の第三週の土曜。お休みもらいたいんですけど、駄目ですかね?」

「第三週?」

 

 俺が問いかけると、一色は壁にかけられているカレンダーを指差した。

 

「その日、サッカー部で打ち上げをやろうって話になってて……ほら私、元マネージャーなんで一応顔だけでも出さないとって……」

 

 一色は恐る恐るという様相で、上目遣いに俺にそう訴えかけてくる。

 あざとい。

 この角度が一番男を落としやすいと分かってやっている目だ。

 だが、『どうしても行きたい』という意思は不思議とあまり感じ取れなかった……。

 俺の気のせい……?

 

 打ち上げねぇ……中学の部活にそんなもの必要なんだろうか?

 もし俺なら絶対行かないんだが、一色の場合どう判断したらいいんだろう。

 そもそも俺に「行くな」という権利があるのか?

 第三週なら模試も終わった後だし、少し息抜きも必要……なのだろうか?

 俺は少し考える、模試は確か第二週の平日……八月八日。つまり第二集の土曜にはここにきてどの程度出来たか、自己採点はできる。

 正確な結果が届くのは少し先だろうし、第三週ならそれほどやる事もないか……。

 

「模試の後ならまぁ、いいんじゃないか? ただ俺の雇い主はおっさんなんでな、そっちにも確認とってくれる?」

 

 少なくとも俺が独断で、「行くな」と言っていいレベルの話ではないだろう。

 受験生なのに? と、多少は思わないでもないが、一色の交友関係にまで口を挟むような立場でもないし。

 期末もそれなりの結果はだしているし、あとは本人のやる気の問題で、気晴らしが必要な時がある、というのも理解できないわけじゃないしな。

 

 ただ、このバイト。シフト管理がザルすぎるので、ちゃんと「休み」と申告しておいてもらわないと下手するとその分まで計上されてしまう可能性がある。

 だからこそ、おっさんには最低限の連絡はしてもらいたい。

 

「はい、わかりました。お爺ちゃんに電話しときます」

 

 後からおっさんに文句言われても面倒くさいしな、しばらくおっさんとも会ってないし、俺から連絡を入れるのもいいかもしれない。

 まあ、覚えていたら連絡してみよう。

 

「打ち上げって何やんの?」

「別に特別なことはしないと思いますよ、その日お祭りがあるので少しブラブラしてからカラオケに行くらしいです」

 

 お祭り。そうか、そんな時期なのか。

 去年は完全に受験モードだったから、夏にそんなイベントがある事すら忘れていたな。

 

「八月の第三週だな?」

「はい」

「了解」

 

 俺は再度確認すると、スマホのカレンダーに休みのマークを入れた。

 久しぶりの土曜休みだ。来月のバイト代が少し下がるが、まあ仕方ない。

 どうせ休みは一ヶ月以上あるのだ、どこかで田舎の爺ちゃんの家にでも行って、小遣いをせびれば損失分は取り戻せるだろう。

 

「んじゃ、今日は休みの分までみっちりやっとくか」

 

 残り三十分。

 俺がそう言うと。一色は「うへぇ」と露骨に嫌そうな顔をし、机に突っ伏したのだった。




というわけで平塚先生登場でした!

そして、今話でまた一つ「独自設定」解禁。
(まぁ二次創作なので基本独自設定・独自展開だらけなんですが……)
八幡の足、折れていません。
最初から割と普通に歩いています。
気付いていた方、いらっしゃったでしょうか?
「気付いてたけど二次創作だし……」と思って黙っていてくれた方。ありがとうございます。
実は今話までの間に突っ込まれたらどう答えようかと少しヒヤヒヤしていましたw

細かい言い訳はまた活動報告にて。

誤字報告、感想、お気に入り、評価、メッセージお待ちしてます!


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第23話 いろはの夏休み

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。

「センパイ! やばいですやばいです、ヤバイ台風がきてますよ~」




<Iroha>

 

 夏休みが始まった。

 今年の夏休みは今の所、模試とサッカー部の打ち上げぐらいしか予定がない。

 去年までなら、サッカー部の合宿の準備や、家族旅行の予定も立てている頃なんだけど、今年はそういった話もでていない。

 受験生だし気を使われているのかな?

 勉強に専念しなきゃいけないっていうのは分かるけど、例年に比べると、とても寂しい夏休みだ。花のJCがこんなんでいいの?

 楽しみといえば週末にセンパイが来てくれることぐらい……。

 

 ん? なんでセンパイが来るのを楽しいイベント扱いしてるの私?

 違う違う、勉強するだけで別に楽しくなんて無いから。

 まぁ、でもある意味イベントなのかな……?

 なんだかんだで教え方が上手いというか、記憶に残りやすいエピソードトークなんかも混ぜて教えてくれるのは小町ちゃん風に言うとポイント高い。

 たまに、学校のテストでは全く役には立たない『なんでそんな事知ってるの?』みたいな知識も出してくるけど、そういうのも含めて、やっぱり私より頭が良い人なんだなと実感させられるんだよね。

 お祖父ちゃんはそういうの全部分かってて、センパイを家庭教師にしたのかな?

 

 そうだ、お祖父ちゃんといえば。休みの連絡をしないといけないんだった。

 八月のサッカー部の打ち上げ、センパイの家庭教師の時間と完全に被っちゃってたから、センパイにお休み下さいって言ったんだけど。

 「お祖父ちゃんに言っておけ」って言われたの、すっかり忘れてた。

 まあ確かにセンパイにお給料払ってるのは私じゃないから、それが妥当なのかもしれないけど。

 でも、センパイが行くなって言ってくれたら、別に打ち上げの方キャンセルしても良かったんだけどなぁ……。

 今更言っても仕方ないか。

 とりあえずお祖父ちゃんに電話しとこ。

 

 そうして私は、お風呂上がりにスマホのアプリを立ち上げ。

 お祖父ちゃんに電話をかけた。

 まだ二十一時だから、さすがに起きているだろう。

 ……そう思っていたのだけれど、中々繋がらない。

 あれ? もしかしてもう寝ちゃってる?

 明日かけ直したほうがいいかな?

 耳元から聞こえる呼び出しメロディは軽快にループを繰り返す。

 三回……四回……五回……さすがにこれ以上は迷惑かと、電話を切ろうとした瞬間。メロディが止まった。

 

「あぁ……いろはか、どうした?」

「もしもし? おじいちゃん?」

 

 やっぱりもう寝てた?

 少し眠たそうなお祖父ちゃんの声がスマホから聞こえてくる。

 起こしちゃったなら悪いことをした、お祖父ちゃんもナンダカンダでもう年だから、早寝になってきているのかもしれない。

 でもきっと、コレを言うと怒るから、その言葉はぐっと飲み込んで、次の言葉へと繋げる。

 

「ごめんね、もう寝てた? もしかしてまた具合悪い?」

 

 忘れていたわけではないけれど、センパイ同様、つい数ヶ月前までお祖父ちゃんも入院していたのだ。

 あんまり無理はさせたくない、いつもこれ位の時間なら起きていると思ったけど今度からはもう少し気をつけよう。

 

「ああ、大丈夫。ちょっと寝ぼけてただけだ、どうした? 爺ちゃんが恋しくなったか?」

「ちーがーいーまーすー!」

 

 だけどお祖父ちゃんは、そんな私の心配を一蹴するようにそういって笑う。

 全く、心配して損した。

 お祖父ちゃんの事は大好きだけど、小さい子でもないのだ、お祖父ちゃんの事が恋しくなったなんて思われてるのは困る。ホント、すぐ調子に乗るんだから……。

 「全く……」と私は一度ため息を吐き、話題を切り替える。

 

「夏休みの予定とか考えてたんだけど、お祖父ちゃんの方はどうするのかなー? って思って」

「夏休みの予定? お前受験生だろ、遊んでる暇あんのか?」

「それは……そうなんだけど……」

 

 軽く夏休みの話題から入ろうと思ったのに出鼻を挫かれた。

 お祖父ちゃんの事だから、「一緒に飯でも行こう」とか誘ってくれると思ったのになぁ。

 やっぱり受験生ってそういうものなんだろうか。

 私よりむしろ周りがピリピリしてる感じ。

 心配してくれるのはありがたいけど、ちょっとだけ窮屈にも思う。

 

「……その……夏休みだし、センパイの家庭教師一回お休みしたいんだけど……ダメ?」

「ん? なんだ? 八幡とケンカでもしたのか?」

 

 先程までの眠たそうな声から一転、今度はものすごい食いつきようだった。

 ケンカ……センパイとケンカすることなんてあるんだろうか?

 あんまり想像が出来ない。

 センパイってどんな時に怒るんだろう?

 小町ちゃんとはケンカしたりするのかな?

 まだ二人が並んでいる所を見たのは一回だけだけど、凄い仲良さそうだったし、どうにもケンカをしてるという想像が出来なかった。

 小さい時は「ママー! お兄ちゃんがぶった!」とか言ったりしたんだろうか? 私自身には兄弟がいないから、そういうの実はちょっとだけ憧れたりもするんだよね。

 殴られたいとかっていう意味じゃないけど……。

 でも今はそんな事を考えている時じゃない。

 

「ケンカなんてしないよ。お盆明けの土曜日に、サッカー部の打ち上げが入っちゃって、ちょっと顔出そうかなーって思ってるんだけど……」

「別に打ち上げなら昼間やって、夜は八幡と過ごしてもいいんじゃないか?」

「その日お祭りもあって、集合が夕方からなの」

 

 私がそう説明すると、お祖父ちゃんは電話の向こうで「うーん」と唸り声を上げる。 

 

「うーん? それだと大分帰りが遅くなるんじゃないのか? 八幡とデートっていうんだったら二つ返事でOKだったんだがなぁ……」

 

 お祖父ちゃんは少し悩んだ後、そう言って豪快に笑った。

 いや、笑い事じゃないんだけど……。

 それを私にいうの? お祖父ちゃんが?

 私はついイラっとして、声を荒げてしまった。

 

「中学生のうちに男の子と二人きりでデートしちゃ駄目だっていったのお祖父ちゃんじゃん!」

 

 それは忘れもしない、中学一年生、私がサッカー部に入ってすぐの頃。

 男の子たちに囲まれて、皆が私の事を『可愛い』『美人マネージャー』だと持て囃してくれるので、少しだけ天狗になっていた時の話。

 当時は三年生や二年生が、部活終わりに皆でファミレスに行こうと、声をかける事が多かった。当然私はマネージャーとして参加。男の子たちの間で、誰が私の分を奢るか、なんて言い争いが起きた事もあって。それはもう有頂天だった。まあ奢ってもらう理由もなかったからちゃんと自分で払ってはいたけどね。

 

 そんな風にチヤホヤされるのが嬉しくて。帰りが遅くなる事も多くなったある日、その事を問題視したお祖父ちゃん達に怒られながら、私は反発心もあって学校での事を武勇伝のように語った。

 そうやって、家族に怒られることすら、まるで自分がドラマの主役にでもなったような気分で、呆れた顔のお祖父ちゃん達に自分の行動の正当性を主張しているうちに、調子に乗って「デートのお誘いとか受けたらどうしよう、もうすぐ彼氏が出来るかも」なんて、ふざけて言ったのがきっかけだったように思う。

 お祖父ちゃんは、それまでの表情から一転、一度机をバンっと叩くと、真面目な顔をして「中学生がデートなんて言語道断。今のお前にそんなスキルはない、痛い目を見るだけだから、せめて高校になるまではそういう事は控えろ、そして今のうちに、それ以外の事で、男がどういう生き物か学んでおけ」そう言ったのだ。

 そして、私はデート禁止令を出され、海浜総合への入学を命じられた。

 まぁ、その時は「お祖父ちゃんは頭が固い」なんて思ったりもしたけれど、今考えると特別デートしたい相手がいたわけでもなかったし、冷静になれて良かったようにも思う。

 結局あの時の私は、チヤホヤしてくれさえすれば、誰でも良かったのだ。

 もし、当時のままの私だったら、この間の葛本君とのデートを断る事もできなくなってたかもしれないしね……。

 まあお陰で今は初デートに対する期待値も上がっちゃってるんだけど……。

 

「はっはっは、八幡なら問題ないぞ、じゃんじゃんしろ」

 

 だけどお祖父ちゃんは私の気持ちを知ってか知らずか、今は電話口でそんな事を言いながら豪快に笑い飛ばす。

 はぁ……。もはや溜息しかでてこない。お祖父ちゃんがこうなったら何を言っても無駄だってわかってるからだ。

 それにしても、センパイとデートかぁ……。

 頑張って誘っても「めんどくさい」って断られそうで怖いなぁ。

 でも、最後には「……わかった」って、付き合ってくれる。そんな予感もしていた。

 そしてきっと、楽しいんだろうなぁという事も……でも、その時の私はその理由がよくわからなかった。

  

「んで、なんだったか、……そうか休みだったな」

 

 私がセンパイとのデートの妄想をしていると、お祖父ちゃんが不意に話を戻す。

 その時には不思議と先ほどまで湧いていた小さな怒りは収まっていた。

 危ない危ない、本題を忘れる所だった。

 

「お前、成績の方はどうなんだ? 受験対策出来てるのか?」

「期末はいつも通りって感じかな? 平均七十八点だから、そこまで悪くはないと思う。あとセンパイの勧めで模試も受けることになったよ」

「模試か、それはいいな。模試の結果はどうだった?」

「気が早いよ、八月八日に試験で結果が分かるのは一ヶ月後だって」

 

 正直に言うともっと模試に関しては、もっと早く結果が分かるものだと思っていた。

 具体的に言うと一週間か二週間ぐらい。

 でもセンパイにそれを言ったら「受験と一緒で、全国の中三が受ける試験の結果がそんな早く出るわけないだろ」って呆れられたっけ……。

 

「八月八日? 八幡の誕生日じゃないか」

 

 え? 誕生日? 誰の?

 突然お祖父ちゃんから発せられた、その言葉の意味が私の中に上手く入ってこなかった。

 誕生日……? 誰の? 八幡……? ってセンパイの?

 

「え? そうなの?」

「なんだ、聞いてないのか? お前も許嫁の誕生日ぐらいちゃんと覚えておかないとだめだぞ?」

 

 覚えておくも何も今初めて知った。

っていうか模試の日、センパイ知ってるよね? なんで何も言ってくれないの?

 でもあの人、自分から誕生日を言いふらすタイプにも見えないし、そのままずっと知らせないつもりだったのかもしれない。 

 なんだかちょっと胸の中がモヤモヤする。

 お祖父ちゃんも知ってるならもっと早く教えてくれたらいいのに。

 

「プレゼント、ちゃんと用意しておけよ?」

 

 センパイへのプレゼントか、何がいいかな。

 何を贈ったら喜んでもらえるだろう?

 センパイの好きなもの、嫌いなもの。

 トマト?

 あとは……あれ? 私何も知らない……。

 センパイがどんな音楽を聞くのかも、どんな趣味を持っているのか、将来何になりたいかも……。

 その時私は、初めてセンパイの事を何も知らないという事を知った。 

 

「いろは? どうした?」

「う、ううん、なんでもない」

 

 どうしよう、何か、何かしなくちゃいけない。

 そんな漠然とした焦りが私の中を駆け巡る。

 普段だったらこんなに悩んだりしない。

 実際、サッカー部の部員の誕生日にプレゼントを送ったことはあった。

 それはちょっとした筆記具だったり、タオルだったり。そんな小さな物。

 人数が多いというのもあるし、プレゼントに差を着けたくなかったっていうのもあるから、悩む必要もなかった。

 部活以外だって、変な勘違いをされないよう、無難なプレゼントを選ぶセンスはそれなりに磨いてきたつもり。

 でも、ことセンパイのプレゼントとなると、何をあげたら良いか全く見当がつかなかった。

 というか、何をプレゼントしても「おう、サンキュ」と、どうでも良さそうな表情をされる気がする。それはちょっと嫌だ。

 

「まあ、とりあえずその打ち上げとやらは模試の後なんだな? 部活のメンバー複数人で行くって事でいいのか?」

「う、うん。そう」

 

 もはやお祖父ちゃんの言葉も上手く入ってこない。

 センパイが喜んでくれるという想像ができないのだ。

 

「じゃあ仕方ない、許可する」

「あ、ありがとう」

 

 どうしよう、八月八日ってもうすぐだ。

 最早お祖父ちゃんへの返事も適当になりながら、私は思考を巡らせる。

 いや、別に凄い喜ばせたいとかじゃない、センパイは許嫁っていったって、あくまで一時的なものだし、なんていうか私のプライド、そう、プライドが許さないのだ。私があげるものなんだから喜んで欲しい。だからこそ、ここで適当なものは渡せない。

 ああ、もう! 模試の勉強もしないといけないのに……とにかく一度小町ちゃんに電話して、センパイの好きそうなものを聞いて……。

 プレゼント選び付き合ってもらえるかな?

 

「あ、打ち上げに行くことはもみじ達にもちゃんと話して、門限は守れよ?」

「わかってます!」

 

 お祖父ちゃんのその言葉に『中学三年生で門限十九時ってどうなの?』とちょっとだけ冷静な自分が戻ってきた。まだ時間はあるんだから冷静に、冷静に。

 それにしても、お祖父ちゃんは相変わらず過保護だなぁ。

 塾行ってる子なんて二十二時過ぎる時もあるって聞くのに……まあでも私、塾もいってないんだけどね、今更いっても始まらないか。

 

「そういえば、今年の旅行はどうするの?」

 

 例年だと、家族で旅行に行ったりするんだけど、今年はまだどこに行くという話も聞いていない。今年は暑いしできるなら北海道とかがいいなぁ。

 それか、いっそ海外なんていうのもいいかもしれない。

 環境を変えれば勉強も捗る気がする。

 

「ああ、まだ聞いてないのか」

 

 そんな風に私がまだ見ぬ土地への思いを馳せていると、電話口の向こうでお祖父ちゃんがニヤリと口角をあげた気がした。

 

「今年はお前も受験で忙しいだろうからな、儂らは勝手にやってるから、しっかり勉強に専念しとけ」

 

 お祖父ちゃんはまるでイタズラっ子のようにそう言うと、その後ろから「あら、あなた、起きたなら声ぐらいかけてくださいよ」というお婆ちゃんの声。

 でも……寝る前に言うセリフじゃないよね……? 聞き間違い? 

 

「え? 勝手にって……お祖父ちゃん達だけでどこか行くの?」

「行くというか、もう来てる。テレビ電話に切り替えるぞ」

 

 そう言われて、私はスマホを離すと、切り替わったスマホの画面に大きくお祖父ちゃんの顔がアップで映し出された。

 いつものお祖父ちゃんだけど……なんでテレビ電話?

 

「見ろいろは、これがニューヨークの朝の風景だ」

 

 私が不思議に思っていると、お祖父ちゃんがそう言って、カメラから自分の顔をフェードアウトさせる。

 するとそこには、日本とは真逆に明るい空が一面に広がり、巨大な建物が並び立つ景色が見渡せる、ホテルの一室が映し出されていた。

 

「いろはちゃーん、お土産買って帰るからねー」

 

 ニューヨークってどういうこと!?

 

*

 

 お祖父ちゃんはこの夏は日本に戻ってこないらしい。

 ええ……? 海外旅行なんて聞いてないよ。

 羨ましい、私もあれぐらいの年になったら旦那さんと、色々な所に旅行に行ったりするんだろうか?

 一瞬、想像した私の相手の顔は、何故かセンパイ……。

 違う違う。今は、センパイの誕生日の事考えてたから、たまたま、たまたまだから。

 もう本当最近センパイに私の生活領域を侵食されすぎてて、危ない気がする。

 今度あったら文句をいっておこう。

 

 とりあえず、今考えるべきはセンパイの誕生日。

 カレンダーを見ると、もう一ヶ月を切っている。

 何かプレゼントを考えなければ。

 普段、色々手玉に取られている気がするから、ここで何かとびっきりのプレゼントでセンパイを驚かせてみたい。

 

 その為にもまずは情報収集だ。

 私はお祖父ちゃんとの通話を切ったばかりのスマホをいじり、改めて電話を掛ける。

 相手は小町ちゃん。

 まぁ、情報提供してくれそうな共通の友達って小町ちゃんぐらいしかいないしね……。

 

「もしもし? 小町ちゃん?」

「はい、もしもし。どうしました? もしかしてウチの兄が何かやらかしました?」

 

 お祖父ちゃんとは違い、小町ちゃんは二度目のコールで電話に出ると、イキナリそんな事を言ってきた。

 一体自分のお兄ちゃんのことをなんだと思っているんだろう。

 でもきっとこれも仲が良い証拠なのだろうと思うと、ちょっとだけ羨ましくも思う。

 ここらへん、一人っ子の私にはわからない感覚なんだろうな。

 

「ううん、そうじゃないんだけど……センパイの誕生日って……八月八日なの?」

「お兄ちゃんですか? はい、そうなんですよ。八幡だから八月八日、覚えやすいですよね」

 

 覚えやすいならもっと早く教えてほしかった。

 いや、別に小町ちゃんに非があると思っているわけじゃないんだけどね。

 

「小町ちゃんはプレゼント何買ったの?」

「あー……中々良いのが見つからないんですよねぇ。一応明日買い物に行く予定なのでそこで色々みてこようかと」

「それ私も行く!」

「え? でもいろはさん、模試で忙しいんじゃ? あんまり兄に気を使わなくても大丈夫ですよ?」

 

 私のお願いに、小町ちゃんは「大丈夫なんですか?」と、少し心配げに優しく語りかけてくる。どうやら、こっちでも気を使われているようだ。

 受験生ってやっぱり大変なのかなぁ、まだ全然自覚ないんだけど……。 でも、この状況で『誕生日を知っているのに無視をする』という不義理だけはしたくないんだよね……。

 

「センパイには色々助けてもらってるし、何かお礼しなきゃとは思ってたんだよ、それに息抜きもしたいし、ね?」

「うーん……あ、じゃあ、こういうのどうですか?」

「なになに?」

 

 小町ちゃんは少し考えた後、電話の向こうで急に小声になりながら、ボソボソと語り始める。

 ソレにつられて、私もつい息を潜めてしまう。

 それはいわゆるサプライズ。

 小町ちゃんは自分の計画の全貌を語ると、最後にイタズラを達成した子供のように笑った。

 

「……っていうの、どうですか? もちろんいろはさんが良ければですけど」

「え? でもセンパイってそういうの好きな人? 喜んでくれるかな?」

「大丈夫ですよ、あの人捻デレさんですから、女の子からお祝いされるっていうだけでも絶対喜びます!」

「それはそれで複雑なんだけど……。じゃあこういうのはどう……?」

 

 小町ちゃんの計画は、受験生で模試を控えた私への配慮もきちんと行き届いたもの。

 でも、さすがに小町ちゃんの案をそのまま採用するだけだと、私のやる事が少なすぎるので、私もいくつか案を出す。

 そんな風に、小町ちゃんと私による『センパイの誕生日パーティー計画』の話し合いが始まった。

 さて、お小遣い幾ら残ってたかな?




というわけで台風で外が凄いことになってますね……。
皆様の地域はいかがでしょうか?
どうか大きな被害がでず、無事通り過ぎさってくれますように……。


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第24話 八幡の夏休み

いつも誤字報告、感想、お気に入り、評価、メッセージありがとうございます。

今回は思っていたより筆が進んだので、予定を早めて、二日連続投稿とさせていただきました!楽しんでいただけると嬉しいです。


業務連絡:非ログインユーザーの感想を受け付ける設定に変更しました。もしよければご活用下さい。


 夏休みに入ると、いや、夏休みに入る前から、連日三十五度を超すという猛暑日が続いた。

 もはやエアコンは生命維持装置だ。

 天気予報では、『外で運動をしてはいけません』なんていう注意喚起すらなされている始末。

 もう地球終わるんじゃないの? と若干心配になってしまう。

 もしかしたら、エアコン機能付き防護服を着ないと外に出られないという、小説や漫画でよくある世界がもう近くまで来ているのかもしれない。

 実際そうなったら大変だとは思いながらも、ちょっとだけ興味を唆られてしまうのは、やはり俺が元中二病患者だからだろうか?

 

 まあ、外がどんなに暑かろうと、運動禁止だろうと、俺自身には元々外で運動なんてする予定はないから関係ないんだけどな。

 賢い八幡は『夏休みを家で快適に過ごそう計画』を立て、着実に実行にうつしているのだ。

 

 『夏休みを家で快適に過ごそう計画』

 まず一つ目は『高校の授業で分からない所をすべて抑える問題集』

 学生の本分は勉強だ。

 本年度はいきなり入院生活を強いられたということもあり、一ヶ月分、他の連中と比べると遅れを取っている。

 その遅れを取り戻す為に購入したのがこの問題集。

 一色の家庭教師をやっているというのもあるしな、俺自身の成績が下がるのも頂けない。

 実をいうと、夏期講習を受けに行こうかとも思ったが。受講料が高いので、断念したのは内緒だ。

 

 次にこれ、旬が過ぎて少し安くなったゲームソフト。

 これは昔からある人気シリーズで、高難易度を謳って、何度も死にながら進むことを前提に作られたダークな世界観が売りのソウルなゲーム。

 頼れるのは己の実力のみ、人生ソロプレイな俺にまさにうってつけのゲームだ。

 前々からやってみたかったんだよなコレ。

 なんなら動画にとってアップしてみるのも面白いかもしれない。

 そしてジワジワと世界に謎のボッチ配信者の存在が知れ渡っていく。

 広告収入もバンバン入ってきて、チャンネル登録者数はあっという間に十万人を越し、自社のゲームを宣伝してくれと多数のメーカーが俺の所に殺到するのだ、うん、悪くない。

 さあ、ここからソロプレイヤーHachiman伝説の始まりだ……!

 

 *

 

 *

 

 *

 

 あー、無理無理、何これ。クリアとかできないわ。っていうかクリア出来るようにできてないわ。

 クソゲー。クソゲーだね。

 いやおかしいだろ、行く場所行く場所、初見殺しの罠って。しかも今度はドラゴンでてきたんですけど? 明らかに届かない所から火吐いてくるんですけど? こっちは地べた転がるのにも、スタミナゲージが必要というハンデ背負いながら戦ってるんだから、もうちょっと空気読んで欲しい。

 熱っ! ここにも火届くのかよ! やば、回復間に合わん! あー! また死んだー!

 何? 『上手に焼けましたー』って? メーカーが違うんだよなぁ……。

 もしかして俺が買ったのは、モンスターをハントする国民的協力ゲームだった?

 協力する友達なんていねーから、ソロプレイがメインのこっち買ったんだよ。察しろ。

 もうこのゲーム中古屋に売ってやろうか。

 でも、楽しいからもう一回コンティニューしちゃう……悔しい、ビクンビクン。

 きっとどこかに突破口があるはずなのだ、絶対倒してやるからな……!

 あ、なんだ普通に道あるじゃん、あのドラゴン倒さなくていいのかよ……。

 

「お兄ちゃん、またゲームしてるの……?」

 

 そんな風に、一人でゲームに勤しんでいると、小町が声をかけてきた。

 夏らしく露出の多い洋服に身を包み、キャップを被っている、まるで外に行くみたいな格好だ。

 

「ん? この暑いのにどっか行くの?」

「うん、これからちょっとい──」

 

 ちょっとい?

 何?

 ちょっと一騎当千してくるの?

 小町は無双する系武将だったのか……お兄ちゃんびっくり。

 レベルマックスまで育てなきゃ、使命感。

 

「いー……い、今話題のタピオカガム探しに行ってくるー?」

 

 しかし、そんな一騎当千な小町は、棒立ちの敵キャラ一人倒せるかどうかも怪しいほどに動揺し、狼狽えた様子でそう答えた。

 なんで疑問形なんだよ。

 

「タピオカガム? 何それ?」

 

 タピオカってあれだろ? この間飲まされた黒いつぶつぶ。

 そもそもアレは飲む物なの? 食い物なんじゃないの?

 どう考えてもストローで飲むには適してない形をしていると思うのだが……。

 それをガムにしたの……? どういうこと?

 食感的にグミならまだわからなくもないが、ガムて……。

 そもそもアレそのものに味あったっけ……?

 ほとんどミルクティの味しか覚えてないんだが。

 

「話題のお菓子だよ。どこ行っても売り切れなんだって。ほら、これ」

 

 そう言って小町はスマホの画面を見せてくる。

 ソコには確かに『JKに人気! 売り切れ続出! タピオカガム!』という記事が表示されていた。

 なんというかフェイクニュースっぽい。そんな物が売れているとは正直信じがたいし、マスコミの印象操作の気がしないでもないが。世の中何が流行るかわからんからな……。うん、よくわからん。

 

「美味しくなさそう」

「美味しいって話題なの! JKの間で大流行って書いてあるでしょ!」

 

 どうやらウチの小町はいつの間にやらタピオカ教に洗脳されてしまっているようだ。なんなら手遅れかもしれない。

 そのうち「あなたはタピオカを信じますか?」とか言ってくるのだろうか。せめて他所様に迷惑かけませんように。

 

「別に小町はJKじゃないだろ、そんなつまらん流行に流されて無駄遣いすんのはやめとけ」

「失礼な! 小町だってJKだよ! ジャイアント小町だよ!」

 

 何それ、リングネーム?

 いつから小町ちゃんはプロレスラーに転向したの?

 『小さな体に大きな心、ジャイアントーこまーちー』とかコールされて入場してくるの?

 お兄ちゃん妹が殴られたり、投げられたりする所は見たくないなぁ……。

 あと一応言っておくとジャイアントのスペルは「J」じゃなくて「G」な。

 この子、来年受験なんだけど大丈夫かしら……?

 

「あと、マカロンガムもあるんだって」

 

 マカロンガム……マカロンってなんかやたらカラフルな丸い奴だよな?

 それをガムに……? 元の食感を殺そうっていうコンセプトか?

 どうやら世の中には、俺の想像を遥かに超えたアイディアマンがいるらしい。

 そんな商品を企画した奴とGOサインを出した責任者とは仲良くなれる自信がない。まあ俺、誰かと仲良くなったことなんて無いんだけど。

 

「ってお兄ちゃんに構ってる暇ないんだった、早くでないと! んじゃ小町は出掛けてくるから、お留守番よろしくねー!」

 

 どうやら俺は構ってもらってた立場だったらしい。

 小町はそう言って俺との会話を無理矢理切り上げ、逃げるようにそそくさと玄関へと向かっていった。

 

「暑いから水分補給忘れるなよ」 

「分かってるよ、お兄ちゃんこそ。たまには外でないと、体鈍るよ」

 

 失礼な、俺もちゃんと外にはでているだろう、毎週末には一色の家に行っているんだぞ。

 いつからこんな社畜に成り下がってしまったのかと自問するほどだ。

 そもそも俺は働きたくない。

 出来れば。将来も働くのは誰かに任せて、家の中でゴロゴロしていたい。

 具体的にいうなら専業主夫。

 専業主夫万歳。

 

 そんな風に、夏休みの序盤は毎日凝りもせず眩しい太陽の下へ駆け出す小町を見送り、俺自身はエアコンの効いた家の中でゴロゴロしながら、週末には一色の家に行くという日々を送っていた。

 

***

 

**

 

*

 

 八月に入ると、『夏休みを家で快適に過ごそう計画』の第三弾として

 動画見放題サービスというのに加入した。

 毎月千円未満で、動画・アニメが見放題。

 しかも初月無料。つまり、この夏休みの間は無料で動画、アニメが見放題なのだ。

 これはこの夏休みという時間を有意義に過ごすのにうってつけのサービスだと思い、即加入。

 そして俺は驚愕した。

 

 信じられないかもしれないが、プリキュアシリーズが全話見れるのだ。

 なんだこれは……? 一体どういうことだ?

 毎週毎週、楽しみにしていたあのプリキュアが、連続でディスクの入れ替えも、CMカットの必要もなく全話見れてしまう。

 こんな事があっていいのだろうか。

 俺は生まれて初めて神に感謝した。

 これで、今年はこれまでに無いほど充実した夏休みを送れる。

 そうか、俺がこの夏なにか起こるかもと感じていた予感はこれだったのだ!

 うおお、しかも劇場版まである!

 さすがに劇場まで見に行く勇気がなかったからなぁ。

 小町がもうちょっと小さければ良かったのに……。

 もう現実の小町と言ったら……。

 

「お兄ちゃん、そろそろバイトの時間じゃないの?」

 

 あ、はい。そうですね。

 これが今の……現実の小町だ。キッチンに牛乳を取りに来た小町は、俺にそう言うと、行儀悪くコップも使わず、そのまま牛乳パックを傾け、グビグビと飲み干している。

 現実とは非情なものである。

 とはいえ、そろそろ準備をしたほうが良い時間か、夏休みとはいえバイトには行かないといけない、今日のプリキュアはここまでにしておこう。

 

 今日は八月の初週。おそらくバイト代がもらえる日。

 先月までと違い、今月のバイト代は満額貰っても問題ないだろう。

 期末対策に、模試対策、割としっかりやったからな。

 おっさんの邪魔も入らなかったし……そういえばここの所おっさんと会ってないな?

 最後にあったのは、六月の給料日か?

 いや、別に会いたいとかそういうのではないが、あれだけ騒がしかった人からの連絡がなくなると、なんとなく気になる。

 元気ならそれでいいのだが……そろそろ俺の方からも連絡してみるか。

 

 まあ、向こうは俺と違って大人で、忙しいのかもしれないし、今日一色の家に行ったら意外とひょっこり顔を出すかもしれない、気が向いたらでいいか。

 とりあえず今は、今日のバイトをどうするか考えなくては。

 先週までで期末の復習も終わったし、今日も模試対策でいいか……? そういえばもう週明けに模試か。たしか八月八日だったよな。

 一色と模試の話をしている時、「俺の誕生日だ」と言いそうになったのを堪えたので間違ってはいないはずだ。

 いや、『その日俺の誕生日だ』なんて言ったら何か催促してるみたいに聞こえるのが嫌だったんだよな。言った所で何かかわるわけでもない、誕生日を祝ってもらえるなんて自意識過剰も良い所だ。

 まぁ模試の直前にそんな事言われても困るだろうしな。

 

 俺はただの家庭教師で、優先すべきは一色の模試であり受験。

 俺の誕生日なんて些事でしかない。

 だからこそ、一色の成績を上げるために、家庭教師の時間を有意義に使える何かがあるといいのだが……、どうにも良い案が浮かばない。

 過去問でもあればなぁ……って過去問?

 

 そういえば俺が去年受けた問題がそのまま使えるかもしれない。

 当然そっくりそのまま今年も出題されるなんていう事はないだろうが、テスト形式で試せるというのは大きいのではないだろうか?

 

 俺はそう思い立ち、急いで自室に戻ると、数ヶ月前に仕舞った、中三までに使った勉強道具の詰まった段ボール箱をベッドの下から発掘した。

 エロい本は断じて入っていない。

 よく漫画なんかにある「友達が勝手に置いていったんだ!」なんていう言い訳が通用しないからな……。そのうえ妹という存在が居る環境で一冊でも持っているのがバレると俺の家庭内カーストがやばくなる。まあ今でもそれほど上位というわけではないが、進んで危険を冒すつもりはない。

 じゃあ、そういった物を一つも持っていないのかと聞かれれば……企業秘密だ。

 ただ一つ言えることは、決してパソコン内の隠しフォルダを探してはいけない。仮に見つけたとしてもパスワードを探ろうとしてはいけない。

 家族共用のパソコンでもあるから、履歴を消すのも忘れずに。

 俺が言えるのはこれだけだ。

 

 話が逸れた。とりあずこの段ボールを開けなければ。

 一応伝説の傭兵が入っていないか軽く叩いて確認をしておく。

 よし、誰も入っていないな。

 まぁ人が入れるサイズの段ボールではない上に、仮に入っていても対処しようがないんだけどな。俺はCQCを習ったことがない。

 

 少しホコリの溜まった段ボールを部屋の中央へ移動させ、テープを剥がす。

 中にはほんの半年程前には現役で使われていた、だが確かな懐かしさを感じる中学時代の教科書とノートがギッチリと詰められていた。

 俺、ちゃんと勉強してんなぁ。

 真っ黒になるまで書き込まれたノートをペラペラとめくり、ちょっとだけ自画自賛。

 誰も褒めてくれないんだからこれぐらい許して欲しい。

 

 さて、模試の問題は……。

 あった、多分これだ。

 手にとったのは、紙の束が入ったアニメ柄のクリアファイル。

 確かコンビニでお菓子を買うと貰える奴だった気がする。俺はそのクリアファイルの中から複数のプリントを取り出し、一枚ずつ内容を確認していく。

 これは……中三、最後の期末だな。今の一色には必要ないものだろう。

 これは、夏期講習で貰ったプリントか……。こっちは塾の申込用紙、これは捨てていいな。こっちは……冬の模試か。

 夏の模試は……あった、これだ。

 クリップ止めされたその紙束には解答と、俺自身の志望校判定結果がくっついていた。

 

 『総武高校……B判定』

 

 実際、この時はかなりショックだった、まあBといっても別紙の参加者全体の成績順位を見る限りでは、Bの中でも上位の方なので、厳密に言えば『Bプラス』といった所だろうが。

 この時ほど自分の数学の成績の悪さを呪ったことはなかったな。

 あれから死ぬ気で勉強したんだったか……。

 その頑張りもあってか、冬の模試ではA判定を取れたし、やはり模試を受けたのは正解だったと今更ながらに痛感する。

 とはいえ、数学についてはもう徐々に下がってきてるんだよなぁ……。

 そもそも数学は俺に向いていない学問なのだ。

 今は一色の勉強をみるついでに自分自身の復習が出来ているので、辛うじて赤点は免れているが。高校の数学マジやばい、ちょっと油断するとついていけない。来年あたりは赤点必至な気がする。

 

 まぁ、逆に国語の成績は上がっているから、なんとかなるだろう。こっちはそのうち学年一位とかを狙ってみるのもいいかもしれない。

 国語で学年一位とったら、数学のテスト免除とかにならないだろうか……。ならないか。

 

 とりあえず、今大事なのはこの模試の過去問だ。

 段ボールの中には、他にも受験で使った過去問集なんかもあったが、まあこれは今は必要ないだろう。

 

 俺は取り出した教科書類を再び段ボールに詰め込み、ガムテープで封をして、ベッドの下へと戻す。

 でもこれ、一体いつまで取っておくんだろうか?

 思い出というほどの思い出があるわけでもないし、去年までの過去問を今後もう一度やるというビジョンが見えない。年末の大掃除でゴミとして処分してしまってもいい気がする……。まあそこらへんは帰ってきてから考えよう。

 

「んじゃ行ってくるぞ」

「はーい、いってらっしゃーい」

 

 そんな事を考えながら、俺は家を出て一色の家へと向かう。

 玄関先では小町が元気よく手を振って見送ってくれた。

 どうやら今日の小町は自宅待機モードらしい。

 アイツここの所ずっと出掛けてたからな。どこへ行ってるのかは絶対教えてくれないので、何か変な遊びに嵌ってるんじゃないかと、ちょっと不安だったりするんだが……。

 

 おっと、もう電車が来ている。

 思いの外ゆっくり歩きすぎたようで、駅のホームに向かう途中で電車の発車ベルが鳴り、俺は慌てて駆け込んだ。

 ふぅ、危ない危ない。

 まあ一本位遅らせても文句は言われないだろうが、今日は給料日。

 出来ればケチがつくような事はしたくない。

 

 週明けには俺の誕生日もある。どうせ、家族にも大したお祝いはしてもらえないだろうし、バイト代で自分へのご褒美を買うのもいいだろう。

 自分へのご褒美とか……都会で働き疲れたOLみたいだな俺。今が『大人になった時の予行演習』とかじゃなければいいけど……。

 

 でも、何を買おう?

 なんだかんだ、ここ数ヶ月は金があって欲しい本も片っ端から買ってしまったから、特に欲しい物ってないんだよな……。ゲームもまだクリアしてないし……。

 俺はそんな事を考えながら電車に揺られ、スマホで大手ウェブショップAmazingのトップページを開いた。

 ん? なんだこれ?

 

 『タピオカガム──三~四ヶ月後にお届け』

 入荷に四ヶ月待ち……だと? フェイクニュースじゃなかったのか……。

 恐るべしタピオカガム。




※この作品はフィクションです、実在する人物、団体。食品・ガムとはなんら関係ありません。(多分ないと思うけど)

恐らく一ヶ月ほど遅い情報だと思うのですが
俺ガイル14巻の発売日決まっていたんですね。
情弱なもので先程知りました。

2019年11月19日発売だそうで。
早く読みたいような、最終巻なので読んでしまうのが寂しいような、今はそんな心境です。でも絶対買います!


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第25話 あの俺

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。

Q:今回のサブタイの正式名称はなんでしょうか?
  正解はあとがきで。


「お邪魔しまっす」

「いらっしゃーい、でももうそろそろ『ただいま』でもいいのよ?」

 

 一色の家に上がると、もみじさんにニコニコ顔でそう言われ、困惑する。

 いや、まだ十数回程度しか来たことがない家に『ただいま』なんておかしいだろう。まあ、この人に至ってはコレが通常運転なので何を言っても無駄だと諦めもついているので、俺は『ははっ……』と、苦笑いを返し、廊下を進む。

 というかそうか、もうここにも十回以上きているのか。時が経つのは早いものだ。

 もみじさんも、もはや俺が来るのが当然という体で接してくる。女子の家にこんなに頻繁に来るなんて、少し前までの俺には考えられないことだった。なんだか優越感のようなものさえ感じてしまう。

 

「ちょっとママ! まだ上がらないで貰ってって言ったじゃん!」

「そんな事言ったって、この暑い中外で待っててもらうわけにもいかないでしょ? ちゃんと片付け無いいろはちゃんが悪いのよ」

 

 と思ったら、廊下を抜け、リビングに差しかかった所で一色の部屋の方角からそんな声が聞こえた。

 あれ? やっぱり歓迎されてない? 休みの申請があったのって今日じゃないよな? もしかして時間間違えたか……?

 そんなはずはないのだが……俺はそっと、ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。

 

 ──十六時五十三分。

 十七時開始と考えるなら、若干早いと言えば早いが、いつも通りの時間だ。

 電車のダイヤを考えると、遅刻しないギリギリに俺がココに来るタイミングとしてはベストと言ってもいいと思う。

 でも、これで早いなら、次からは五分ぐらいどっかで時間潰してきた方がいいか?

 

「俺、早すぎました? なんならどっかで時間つぶしてきますけど?」

「いいのよ、八幡くんは気にしないで、ちゃぁんと片付けないいろはちゃんが悪いんだから」

 

 俺がそう聞くと、もみじさんは呆れたようにそう言った。

 片付け? 別に一色の部屋が汚部屋だと思ったことはないが……普段は結構散らかっているのだろうか?

 少しだけ気になり、廊下の先、一色の部屋の方をちらりと覗くと、そこにはドアをほんの僅かに開け、その隙間から顔だけを出した一色がこちらを睨んでいた。

 

「余計なこと言わないでいいから! あ、そうだセンパイ今日お給料日ですよ! よかったですね! ほら、ママ早く渡してあげないと!」

「はいはい、じゃあ八幡くん、ちょっとこっちに座って待っててくれる?」

「あ、はい」

 

 一色は早口で捲し立てるようにそう言うと、その顔を引っ込め、バタンと扉を閉めた。

 一体何をやっているのだろうか?

 天岩戸のように固く閉ざされた扉の先からは何やらドタバタと慌ただしい音がしている。

 まあ、見ていても仕方がないか。

 俺はその扉から視線を外すと、もみじさんに促されるまま、リビングの椅子に腰掛けた。

 

「はい、これ先月分ね。一ヶ月ご苦労さまでした」

  

 もみじさんが、そういって渡してきたのはヒヨコ柄の封筒。

 どうやら今回もラブレター風給料袋のようだ。あ、封止のシールは同じだな。ぷっくりハート。でも、デザインは前回と違って、二つのハートが重なっているものだった。もしかしたらこのシリーズ、もみじさんのお気に入りなのかもしれない。

 だからどうという事もないのだが……。

  

「あ、ども。ありがとうございます」

 

 俺が軽く頭を下げ、両手でその封筒を受け取ると、もみじさんは変わらずニコニコ顔で何かを待つように、じっと顔を見つめてくるので、俺は顔をそらし、封筒の中身を確認させてもらった。

 さて、今回は……、うん、問題ないな。

 そこには授業四回分のバイト代がきっちり収められていた。先月は休みも遅刻も食事会もなかったので、特に返却する理由もない。

 まあ素人の授業に時給二千円も払うのはどうなんだ? という思いは未だ心の中を渦巻いてはいるが、それを言うと先月分まで返さないといけなくなるので、ぐっと飲み込んでおくことにする。

 別に俺が無理矢理交渉したわけじゃなく、おっさんが決めたことだしな……。

 あれ? そういやこの金っておっさん経由なのか? それとももみじさんからでてるのか?

 最近おっさんにも会ってないし。俺の雇用主って今はもみじさんって事になるんだろうか?

 

「……そういえばおっさ……縁継さんって最近どうしてます?」

 

 唐突に浮かんだ疑問を、俺は少し遠回し気味に投げかけてみた。

 気がつけばもう一月近く会っていない。

 

「お爺ちゃん? ああ、聞いてない? 今は旅行に行ってるみたいなのよ」

「旅行ですか」

 

 なるほど、旅行か。

 夏休みだしそういう事もあるのだろう。

 あのおっさんはそういうの好きそうだし。勝手なイメージだが、キャンピングカーとか持ってても不思議には思わない。というか、もし本当に持ってるなら、ちょっと乗せて欲しい。

 ……あれ? でも、あのおっさんに夏休みとかあるのか?

 未だに何やってるのか謎な人なんだよな、なんとなく若く見えているから忘れがちだが、一色の祖父という事を考えると、引退して悠々自適な老後生活を送っているという可能性もあるのか。俺も早い所引退したい。

 

「ええ、ほらお爺ちゃん……」

「お待たせしましたー!」

 

 そんな話をしていると、もみじさんの言葉を遮るように、一色がリビングへと勢いよく飛び出してきた。

 

「ささ、センパイ、行きましょ。ほら、時給払ってるんですから、時間もったいないですよ」

「えー? 八幡くんは今ママとお話し中なんですけどー?」 

「センパイは私の家庭教師の為に来てるんですー! ほら、センパイ、立って立って」

「お、おう」 

 

 何やら、俺を取り合うかのような構図で言い合う二人に圧倒されていると。一色が俺の袖を引き、無理矢理椅子から立たせた。

 そして、抵抗する間もなく、そのまま部屋へと引きずられて行く。

 後方では「いろはちゃんのケチーっ!」と不満の声を漏らし、頬を膨らませるもみじさんが俺をあざとく見つめていた。

 

*

 

「ささ、座って下さい」

「お、おう」

 

 部屋に入ると、一色は元気よくそう言って俺を無理矢理座らせる。

 部屋を見回してみるが、そこはいつもどおりの一色の部屋、特に片付けが必要だとは思えない。一体何をやっていたのだろうか……?

 

「センパイ? 何キョロキョロしてるんですか?」

「あ、ああ。すまん」

 

 一色に注意され、俺はそれ以上の詮索を諦めいつものクッションの横に鞄を置いて、一色へと向き直った。

 

「で、今日は何しましょう?」

 

 妙にキラキラとした眼差しで、問いかけてくる一色に、俺は少しだけドキリとさせられる。

 なんだろう、今日は機嫌が良いのだろうか、さっきまでの態度とは打って変わって馴れ馴れしいというか、距離が近いようにも思える。

 

「……今日は、ちょっといいものを持ってきた」

「いいもの?」

 

 一色がそう言って首を傾げる仕草は、やはりもみじさんに似ている。

 あざとい遺伝子濃すぎだろう。

 

「ほれ、俺が受けた去年の模試の問題」

「え!? 持ってきてくれたんですか? センパイが!?」

 

 何やら含みのある言い方に少しだけ引っかかりを覚えたが、俺は鞄に入れていた模試の問題用紙を取り出し、渡すと。

 一色は「これが去年の模試……」と、真面目な顔で見つめていた。

 おっと、正式にやらせる前に内容を見せるのは少し問題があったか?

 出来れば時間を計ってやってもらいたかったが……まあ、今回は構わないか……。

 

「とりあえず、今日だけで全教科は無理だろうから、まず国語をやってみて。んで残りは明日以降にでもやってみたらいいんじゃないか。一日一教科でも、模試本番までには終わるだろ」

 

 俺の言葉を聞いてるのか聞いていないのか、一色は「そうですねー……」と適当な返事をしながら問題用紙を一枚ずつめくりペラペラと内容を確認していく。

 

「あれ? 解答用紙はないんですか?」

「解答用紙は提出するからな、そのまま回収されて、結果だけ後で別紙で送られてくる。だから模試当日は余裕があったら、問題用紙の方にも自分の解答を書いておくと、自己採点が捗るぞ」

「なるほどー」

 

 一通り内容を確認して気が済んだのか、一色は問題用紙をキレイに並べ直し、俺の言葉にウンウンと軽い返事をした。本当に分かっているのかちょっと心配になる。

 

「まあ、単純に答えを書く時間が二倍になるから、余裕がなかったらやらなくていいからな」

「はーい」

「んじゃ早速……」

 

 そう言って授業に取り掛かろうとした瞬間、ガタッと何かが倒れた音がした。

 同時に一色の肩がビクリと跳ねる。

 音のした方を見ると、なにか大きなパネルのようなものが本棚の後ろから斜めに倒れ、顔をのぞかせていた。

 そのパネルは縁がキラキラとした金のリボンで装飾された派手派手しいもので、下の方がベッドに引っかかっているらしく、それ以上は倒れてはこないので全容は見えないものの『HDAY』という謎の文字が読み取れる。

 HDAY? Hな日? 男の子的にはとても興味を唆られる単語にも見えるが。

 恐らくその前半部分が隠れているので、そういった意味合いではないのだろう。

 となると考えられるのは……Sunday Monday Tuesday……違うな。曜日ではない。

 他にDayがつく単語といえば……海の日はMarine Day。敬老の日はRespect for the Aged Day。違うか。

 

「わーわー! 駄目! 見ないで! 見ちゃ駄目です! あっち! あっち向いてて下さい!」

「ぐぇっ!」

 

 何故か慌てた一色に無理矢理首を曲げられ、俺は思わず変な声を出してしまう。地味に痛い。

 そんな恥ずかしがるようなものなんだろうか?

 もしかしたら、あれか、アイドルの応援用のパネルとか。うちわにつかう材料か。

 俺自身は聞いたことはないが、『HDAY』という名前のアイドルが居ても不思議ではないだろう。

 こいつイケメンとか好きっぽいし、割とアイドルのライブとかで盛り上がるタイプなのかもしれない。

 まあ隠すほどの事かと言われれば少し疑問だが、そういう自分を見られたくないという心理はわからなくもない。

 俺はそう自分を納得させると。一色に無理矢理曲げられた首を動かさずに待機することにした。後方では、一色がドタバタと何やら慌てて作業をしている音が聞こえる。

 

「絶対こっちみないでくださいよ!」

 

 その声を聞き「見ねーよ……」と一言だけ返し、俺は言われるがまま無心で視線の先にある壁にかけられた一色のセーラー服……の横にあるカレンダーを眺めていた。

 あれ? そういえば……天皇誕生日は『Emperor's Birthday』だな。

 『HDAY』に当てはまる。誰かの誕生日か? まさか俺の誕生日ってことはまずないだろうが……いや、まさかな……。

 

「はい、もういいですよ……ってセンパイ……? 私の制服見て何想像してるんです……? 気持ち悪いんでやめてもらっていいですか?」

 

 首無理矢理曲げられた先にあったんだよ、見たくてみてたわけじゃない。

 理不尽すぎません?

 

*

 

「それじゃ、残りの教科は自力で頼むわ」

「はーい、っていうかこんなのがあるなら、もっと早く持ってきてくださいよー」

「悪かったな、思いついたのが今日だったんだよ」

 

 国語と数学の過去問をある程度終わらせた所でその日の授業は終わりを告げ、例によって夕餉に誘われた。

 まあ数学に関しては時間的に少々半端になってしまったが、俺も深く突っ込まれると困る教科でもあるので、あとは自力で頑張ってもらおう。

 ちなみに今日の晩飯のメニューは蕎麦だった。

 しかもタダの蕎麦ではない、でかい海老天やらなんやらが別皿に用意されている天ぷら蕎麦だ。こういう所で我が家との格差を感じる。

 結局その日も、もみじさんに言われるがまま用意された料理を平らげると、膨れた腹をなんとか持ち上げながら俺は玄関へと向かった。

 

「んじゃ、また来週な」

「待って下さいセンパイ。八月八日、模試終わった後。ウチ来てもらう事って出来ますか?」

 

 俺が靴を履き、そう言って帰ろうとすると、慌てた様子の一色にそういって肩を掴まれ、危うく転びそうになる。

 いや、本当危なかった。

 

「模試終わった後?」

「はい。ほら、模試の感想とか色々聞いてもらいたいですし? えーっと、ほら、他にも今後の事とか、学校の話とか色々聞きたいですし、あと、あと……」

 

 何やら要領を得ないことを次から次へと捲し立てているが、どれ一つとして緊急性があるとは思えない。

 

「それなら別に模試の後に急いでやらなくてもいいだろ、どうせ土曜には来るんだし」

 

 最後に「週に二回来るのは色々面倒くさい」と俺が呟くと、一色は「あー……やっぱセンパイならそう言いますよね……」と肩を落とした。

 

「むー……じゃあ……来週でいいので、絶対遅刻しないで下さいね?」

 

 なんでこいつ俺が遅刻常習犯だって知ってるんだろう。俺家庭教師に関しては遅刻したことないと思うんだが。もしかして罰ゲーム? ドッキリ?

 

「あ、でも早く来すぎるのも駄目です。時間厳守でお願いします」

「? よくわからんが今日と同じぐらいにくればいいの?」

「今日……そうですね。とにかく遅刻、お休み厳禁でお願いします」

 

 いつも通りでいいなら特別遅刻に言及する必要もないと思うのだが。あと変に『時間厳守』とか言われるとやっぱり罰ゲームの類じゃないかと勘ぐってしまうので辞めて欲しい。

 

「……分かった、んじゃ模試しっかりやれよ?」

「はい!」

 

 まあ元々遅刻の予定もないしいいか……。

 どうか罰ゲームじゃありませんように……。

 

***

 

**

 

*

 

 そうしてバイトを終え、週が明けた八月八日の朝。

 夏休みシフトで少し遅めに目覚めた俺がリビングへと向かうと、テーブルの上に一枚のメモと小さな封筒が置いてあった。

 

 『誕生日おめでとう。今日は仕事で遅くなるからコレでウマいもんでも食え』

 

 コレ、というのはこの茶封筒のことだろうか?

 中身は……Amazingのギフトカード五千円分か、ありがたい。

 

 ──いやいやいやいや、ちょっと待て。

 Amazingギフトカードって文字通り大手ネットショップのAmazingでしか使えないんですけど?

 うまいもんって言われても、今注文して夕飯までに届くのか?

 そもそも通販で買える食品ってほぼレトルトとかじゃないの?

 まあ、いわゆるお取り寄せ品なら、美味いものもあるかもしれないが、そういった商品は即日では届かないだろう。

 一体うちの両親は何を考えているのか……。

 

 俺がそのギフトカードをマジマジと見つめながら朝食用の食パンを焼き、ベーコンエッグを作っていると、ゆったりとした動作で寝ぼけ眼の小町がリビングへと降りてきた。

 

「おう小町、おはよう」

「……お兄ちゃんおはよう……」

 

 パジャマ姿の小町は眠たそうに瞼をこすりながら対面の椅子へと座り、船を漕ぎ始める。

 よく見ると小町のパジャマのボタンは互い違いになっており、一体どんな寝相をしていたのか右肩も大きく露出している。

 いや、別に妹相手に何か思うなんてことはないのだが、ボケーッと俺を見つめるその姿は、どこに出しても恥ずかしい格好だった。

 

「パン焼く?」

「んー……お願い……」

「コーヒーと牛乳どっちにする?」

「……コーヒー牛乳」

 

 俺は焼き上がった自分のパンを取り出し、まだ熱いトースターに小町の分のパンをセット。

 コーヒーを淹れている間に小町の分のベーコンエッグも焼き上げ、パンと一緒にトレーに乗せてテーブルへと運ぶ。

 なんというハイスペックな兄。まあ全部適当に焼いただけだけど。

 おっと、コーヒー持ってくるの忘れてた。

 

「ほれ」

「うー……ありがと」

 

 小町は未だ満足に開いていない目を擦りながら、器用にそのままモフモフとパンを頬張った。まるでハムスターだな。

 

「なぁ小町、誕プレにAmazingギフトカード貰ったんだが、これで今日の夕飯なんとかなると思うか?」

「……うーん? 今から頼んだとしても、届くのは早くても明日じゃない?」

 

 だよなぁ……。

 仕方ない、今日は自腹切るか。まあバイト代もでてる事だし、今の俺なら一食分ぐらいどうってことはない。

 なんなら小町に奢ってやっても良い。そう考えていたのだが、不思議と会話はそれ以上広がることはなく、俺と小町の間には無言の空気が流れていた。

 あれ……? もうちょい何かリアクションあると思ったんだが……。

 

「えっと……今日がなんの日か知っている?」

「んー? 今日……? ヒゲの日でしょ?」

「違ーよ、いや、違わないけど」

 

 八月八日、その漢字の八の形がヒゲっぽいからと名付けられたヒゲの日。

 一体日本のどれだけの人口がその事を知っているというのか。

 誰だ小町にそんな日の存在を教えたのは。

 あ、俺だわ。

 何年か前の誕生日の時に教えたんだったか。

 いや、でも今それを思い出す必要はないと思うぞ、うん。

 

「八月八日。今日お兄ちゃんの誕生日なんですけど」

「あー、うん、そだねーおめでとー」

 

 そだねーおめでとー?

 それだけ?

 だが、待てど暮らせど小町はそれ以上何も言葉を発さず、寝ぼけ眼のままパンを咀嚼し、再び俺達の間を静寂が支配した。

 

 今年は小町からのプレゼントは無しなのだろうか。

 他に祝ってくれる友人のいない俺にとって、小町からのプレゼントというのはバレンタインに貰う母ちゃんからのチョコ以上に重要なものなのだが。

 反抗期だろうか?

 去年貰った、祭りでゲットしたよくわからんマークが着いたストラップも、一昨年貰った誰のものかわからないライブTシャツも愛用しているというのに。

 

 自分から話を振ったのに思いの外広がらなかったという、どうにも重くるしい空気に耐えきれず、俺は仕方なくスリープ状態のスマホをタップし新着通知がないか確認をしてみた。

 ……一色からのメッセージもなしか……今頃模試の最中だろうか?

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 ん?

 

 ちょっと待て、なんで一色からメッセージが来てると思ったんだ?

 一色は俺の誕生日を知らないだろう。

 何を期待しているんだ比企谷八幡。

 いや、原因は分かっている。あの日見たパネルの四文字のアルファベットのせいだ。たったあれだけの事で『もしかしたら自分の誕生日を祝ってもらえるのではないか』なんていう浅はかな妄想をしてしまったのだ。そもそもあのパネルに書かれていたのが『BIRTH DAY』の『HDAY』だと確証があったわけでもないのに。

 なんて愚かで恥ずかしい奴だろう。穴があったら入りたい。そして埋めてもらいたい。

 

 そもそも、誕生日というものが碌でもない日だと俺は身を持って知っている。

 誕生日会だと期待に心を膨らませ席に着いても、別の誰かの名前が呼ばれるバースデーソング。

 俺の前を通過していく誕生日プレゼント。

 そんなトラウマを乗り越え、今はプレゼントと称し、金券を渡しておけば満足だと思われている俺の誕生日。

 実際俺も現状に不満なんてなかった。

 

 なのに、バイトを始めて、優しい人間に囲まれて、一色と、一色家と関わることで、ほんの少しリア充になったと勘違いでもしていたのだろうか。『もしかしたら』と勝手に期待して、勝手に傷ついている。なんて愚かな男だ。

 いい加減学習しろ比企谷八幡。

 

 やさしい人間は俺にだけ優しい訳じゃない、誰にだって優しいのだ。

 だから勘違いをしてはいけない。

 

 優しさに慣れていない俺は、誘蛾灯に群がる蛾のように、その優しさに吸い寄せられていただけに過ぎず、その光の内側に入ったわけではない。

 自分が彼らにとって特別な何かになれたつもりだったのか? 残念、俺はいつだって外側の人間だ。

 

 他者との関わりで傷つき、傷つけられるなら、誰かに期待も干渉もしないボッチこそが最強。

 それこそが比企谷八幡という生き方だったはずなのに、いつのまに堕落してしまっていたのか。

 

 一色との関係はあくまで仕事上の事で、一年という期限付きのものだと、何度も口にして、理解したつもりになっていながらも、結局の所、心のどこかで俺は期待してしまっていたのだ。

 『許嫁』という言葉に。

 だから、今後これ以上恥を晒す前に、今日その事に気づけて良かった。

 心の底から、そう思えた。

 

*

 

 それからしばらく俺と小町の間に沈黙が続いた。

 周囲に響くのは、食器の音と愛猫カマクラの飯の催促の鳴き声。

 わかってるからズボンをひっかくな。ちょっと待ってろ、今用意してやるから……。

 

「お兄ちゃん」

「……ん?」

 

 俺が食事を終え、カマクラの飯の準備をしようと立ち上がると、小町が口を開いた。

 なんだ? プレゼントならいらないぞ。小町はバイトしてるわけじゃないしな。

 

「週末、いろはさんの所行くんでしょ?」

「ああ、そうだな……」

「ぐふっ、楽しみだね♪」

 

 喉にパンでもつまらせたのか、妙な声をあげ小町はそういって口角を上げる。

 だが仕事はあくまで仕事。楽しみな事なんてない。

 ボッチはいつだってボッチなのだから。




ちょっとシリアス回?

業務連絡:
当作品は具体的に20○○年という表記は避けているため。
細かく『○月○日は何曜日』と断定はしていませんが
八月八日は月曜~金曜の設定となっております(番外編では土曜日の設定)


A:今回のサブタイトルの正式名称は
「あの日見たパネルの意味を俺はまだ知らない」
でしたー!

私にサブタイトルを付けるセンスなんて無い、無いのです……笑えよ……


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第26話 八月八日は過ぎている

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。

現実世界は十月も終わりですが、まだまだ本編中は八月です……。
年内には九月に行けるようがんばります……。


 誕生日という試練を終え、土曜日がやってきた。

 だが、今日はこれまでとは違い、どうにもバイトに行く気になれない。

 別に一色や一色家の人間に何かをされたわけではない。

 原因は明白、自己嫌悪。

 ただただ、自分がしてきた今日までの行いを恥じているのだ。

 

 おっさんやもみじさんに持ち上げられ、大して仕事もしていないのに時給二千円という高額なバイト代を支払われる、そんな状況を三ヶ月。

 その結果として完成したのがリア充になったと勘違いした恥ずかしい俺。

 例えば、先週の授業を思い出してみよう。

 誰かが作った去年の模試を持っていって、それをやらせて一時間二千円?

 随分と悪質なバイトもあったものだ。

 俺じゃなくてもできる。いや、俺なんかよりもそこらのリア充を雇ったほうが数百倍為になる授業が出来る。

 物知り顔で「問題用紙にも解答をかけば自己採点が捗る」なんて、そんなアドバイスよりも自称でも家庭教師ならもっと点数に繋がる事を教えるべきだろう。

 もし今のこの状況を他の誰かに説明されたら、かなり怪しい仕事か宗教の類ではないかと勘ぐりたくもなる。

 そんな環境に甘え、分不相応な期待をしていた。

 

 確かに俺は楽をしたいと思っている。専業主夫になりたい。楽して稼ぎたい。

 だから仕事をして、楽に稼げている今のこの状況はある意味では最高の状態と言ってもいい。

 実際そう思っていた。

 だが違う、こんな状態は俺の望んだ形じゃない。こんなものは本物とは呼ばない。

 

*

 

 そんな憂鬱な気分のまま、ここ数日はゲームや動画を楽しむ気力も失せていた。

 正直に言えば金を使ったことすら後悔している。

 出来ることならあの日に戻って、この契約を破棄してしまいたい。

 だが、現実はあいも変わらずクソゲー。

 リセットをすることは叶わず、こうしている今も時間だけが過ぎ去っていく。

 

 時計を見れば時刻はもうすぐ十六時半、今日はもうバイトを休んでしまいたい。

 しかし、ここで無断欠勤をしても状況は変わらないだろう。

 あのおっさんの事だ、また家に押しかけてくる可能性もある。

 今はあの場所へ向かうしかないのだ。

 

 そういえば、今日は小町が「今日バイトの日だよ」「遅刻しないようにね」とうるさかったが……、今はやけに静かだな? どこかに出掛けたのだろうか?

 「小町ー?」と薄暗い家の中を探し回っても、そこに人の気配はない。

 

 悪いなカマクラ、今日はお前一人で留守番みたいだ。

 早めに帰ってくるから、後は頼んだぞ。

 

*

 

 結局、家を出たのは十七時を回ってからだった。

 完全に遅刻。道中で何度かスマホが鳴ったが、電車の中ということもありスルー。

 夕方とはいえ、うだるような暑さの中なんとか一色の家のマンションの前まで行き、オートロックを解除してもらう。遅刻でなにか言われるかと思ったが無言だった。

 ちょっと肩透かしを喰らいながら、目的階までエレベーターで上がり一色の部屋の前でインターホンを押す。

 この後の展開はわかりきっている。もうすぐもみじさんが「いらっしゃーい」と扉を開け、俺を招き入れるのだ。

 だが、今日こそは失敗をしない。こんなバイト生活とはおさらばし、俺は俺の生活を取り戻す。そう決意し扉が開くのを待った。

 

「お兄ちゃん遅いよ! 早く早く!」

 

 だが勢いよく扉が開かれたと思うと、そこから顔を出したのはもみじさんでも一色でもなく、我が妹小町だった。

 あれ?

 

「小町……? 何してんだ?」

「いいからいいから、ほら、早く来て」

 

 状況をよく理解できないまま、小町に腕を引かれ、室内へと招き入れられる、なんとか靴は脱げたものの、スリッパを履く暇も与えられない。

 俺は転びそうになるのをなんとか耐え、薄暗い廊下を進んでいった。

 薄暗い……? あれ? なんでこんな暗いんだ?

 時間的には夕方だが今は夏、この時間はまだ明るかったはずだが……。

 そんな疑問を浮かべながら、廊下を抜け(恐らく)リビングへ出て……さらにその先? 暗くてよく見えないが、一色の部屋の反対側の襖の部屋って俺入ったことない部屋だと思うんだが……。

 

「ちょ、ちょっと待て小町」

「待たないよ、ほらほら。はーい、お待たせしましたーお兄ちゃん入りまーす!」

 

 俺はなんとか小町を静止して、この状況を説明させようとしたが、小町は強引に襖を開いた。

 

「せーの……!」

 

 何やら部屋の中央でゆらゆらと炎が揺れているのが見えている。

 一体なんだろう? だが俺の思考が纏まるよりも早く、今度はその声を合図に歌が始まった。

 

「ハッピバースデートゥーユー♪ ハッピバースデートゥーユー♪」

 

 それは、毎年、どこかの場所で俺以外の誰かのために歌われる歌。

 ああ、そうか、今日は一色家の誰かの誕生日なのだろう、そう思えば合点が行く。

 ならば俺も歌ったほうがいいのだろうか?

 

「ハッピバースデーディア……」

 

 しかし、相手がわからない『Dearもみじさん』なのか『一色』なのかそれとも……。

 だが、その答えはすぐに分かった。

 

「セーンパーイ♪」

「八幡くーん♪」

「お兄ちゃーん♪」

 

 いや、統一しろよ! そして語呂が悪いわ。あと語呂が悪い。

 って……え? 俺……?

 

「ハッピバースデートゥーユー!」

 

 歌が終わる頃には、そのケーキは俺の目の前まで運ばれていた。

 ろうそくの煙がちょっと目に痛い。 

 

「ほら、センパイ、消して消して」

「え……? あ、お、おう」

 

 俺の誕生日はもう過ぎてるのだが……いいのだろうか?

 暗闇に少し慣れた瞳で周囲を見回すが、皆俺の次の動作を待っているように頷いている。

 俺は言われるがまま、ふぅっと一息でロウソクの火を消すと、同時に部屋の明かりがつき『パン!』と大きな音が鳴った。

 それに続くように、三度の破裂音。

 うるさ……! そして火薬臭い、しかもなんか頭の上に紐みたいなのが一杯飛んできたんだが……何これ? クラッカー?

 

「お誕生日、おめでとうー!」

 

 へ……?

 明かりがついた部屋を見回すと、そこには一色とその両親、俺の横では何故か小町が何度も何度も拍手を繰り返し、俺の反応を待っているようだった。

 俺は訳も分からず、初めて足を踏み入れたその部屋を見回した。そこは和室で、中央に大きなテーブル。しかし、その部屋は手作りの装飾で豪華に彩られ、部屋の壁には大きな文字で書かれた「HAPPY BIRTH DAY HACHIMAN」のパネル。壁には手作りっぽい装飾。四方には様々な形のカラフルな風船が浮いていた。

 

「おめでとうございます、センパイ」 

「お兄ちゃんおめでとうー!」

「おめでとう八幡君」

「おめでとう!」

 

 え? 何これ? エ○ァ最終回?

 っていうかなんで小町いんの……?

 駄目だ、頭がついていかない。 

 

「もうー、センパイ、遅いですよー、今日は遅刻しないで下さいっていったのに!」

「いや……え? 何これ?」

 

 え? 俺が悪いの?、いや、まぁ確かに遅刻はしたが……なんだか俺の想定していた怒られ方とは少し違う、妙に楽しそうな一色の表情に俺はうまく現状を処理しきれないでいた。

 

「お兄ちゃん、驚きすぎだよ、ほらこれぜーんぶお兄ちゃんの為に用意してくれたんだよ」

「え? 俺に? なんで?」

 

 繰り返すが今日は俺の誕生日じゃない。

 俺の誕生日は既に過ぎているのだ。

 俺のために何かしてもらう言われがない。

 あれ? 俺どこかでタイムマシンにのったっけ?。もしかしてラベンダー? 未来ガジェット204号機は完成していた?

 って、そんな筈無いだろう。落ち着け比企谷八幡。

 

「もー、何いってんの、お誕生日様だからでしょ!」

「いや、だから俺の誕生日はもう過ぎて……」

「模試と同じ日だったから気を使ってくれたんですよね? でも、そういうのはちゃんと教えてくれないと駄目ですよ? 危うくスルーしちゃう所でしたよ」

「いや、別に気を使ったとかでは……」

 

 単純に自分の誕生日を言い出す事に抵抗があっただけだ。

 いくら勘違い野郎の比企谷八幡でも、自分の誕生日をそれとなく伝えて、何かをして貰おうという浅はかな発想だけはしてこなかった。

 それでも、どんなに気にしないようにしたって、自分の誕生日を忘れる事なんてできなかったから、だから誰かが祝ってくれるのではないかと期待して自己嫌悪に陥ったのだ。

 この程度で傷つかなくても済むように、もっと自分の心を強く持ちたいと、そう願ったのだ。

 

「ささ、主役がいつまでもそんな所に立ってないで、座りましょう」

 

 どうしたら良いか分からず立ち尽くしている俺の腕をもみじさんが取り、部屋の中央へと引き入れる。俺はただ促されるまま、テーブル中央の座椅子へと座らされた。

 目の前には豪華な料理。

 これまでの一色家の夕食も豪華だったが、今日は更に輪をかけて豪華な内容だった。

 

「これ、小町ちゃんが手伝ってくれたのよ?」

「え?」

 

 小町が……?

 そもそも小町はなんでいんの? 一色の家に来たことがあったのか?

 いや、もみじさんが嘘をついていないのであれば、そうなのだろう。

 しかし、いつから?

 

「ほら、八幡くんの誕生日当日はいろはちゃんの模試があったでしょ? だからいろはちゃんが勉強に集中出来るようにお手伝いしますって、毎日通っていろはちゃんの代わりに買い物も行ってくれたのよ」

「えへへ、まあいろはさんみたいには出来ませんでしたけど」

 

 もみじさんにそう言われ、小町は恥ずかしそうに自分の頭を掻きながらそう言った。

 

「え? でも小町そんな事一言も……」

「そりゃそうだよ、バレないように行動するの苦労したんだからね、それなのにお兄ちゃん当日『今日俺の誕生日なんだけど?』とか言うから小町焦っちゃったじゃん」

 

 いや、そんな事になってたなんて知らないんだから仕方ないだろ……。

 俺がされた事あるサプライズといえば、中学の時、休憩時間のトイレから戻ったら、教室に誰もいなくて、先生もこないから職員室行ったら『この時間は視聴覚室に変更のはずだけど、日直か委員長から聞いてない?』って学年主任に言われた時以来だ。アレは本当にサプライズだったわ。

 

「さ、じゃあパーティ始めましょう!」

「え? 今日の授業は?」

「そんなのお休みに決まってるじゃないですか、私も模試終わりましたし、今日はセンパイもぱーっと騒ぎましょう?」

 

 どうやらいつの間にか休み扱いになってるらしい。

 という事は今月のバイトは二週休みか、いや、まぁ正直やめようと思っていたしそれはそれでいいのだが……。どうも今日はそういう事をいう雰囲気でもなさそうだ……。だからこの話は今日は……やめておくか……。

 それは言い訳で、怠慢だとわかっていながら、俺はあえてその選択肢を選んだ。だって、こんな事されたの初めてなんだから仕方ないだろう……。

 

「はい、じゃあセンパイにはちゃんとプレートも着けてあげますからね」

 

 そう言って一色は、ケーキを切り分け、小皿に乗せると俺の目の前に置く。

 そこには「センパイ」と書かれたチョコプレートが乗っていた。

 だが、テーブルにはケーキより先に処理しなければいけない物が沢山あると思うのだが……。

 

「え? 一色の家ってケーキをおかずに飯食うの?」

「そんな訳ないじゃないですか! 今日は特別ですよ! 本当は食後まで取っておこうと思ったんですけど。センパイ、またママに気を使ってケーキ入らなくなるまで食べそうだったから……」

「ふふ、このケーキはね、いろはちゃんが作ったのよ」

 

 徐々に聞こえなくなる一色のセリフを引き継ぐように、もみじさんがそういった。

 一色の手作りだと……?

 どこにでもありそうな生クリームをベースにしたショートケーキだが。

 パッと見では素人が作ったという感じはしない。

 本当に一人で作ったというならば普通に称賛されるべきレベルのものだ。

 

「八幡くんにちゃんと食べてほしかったのよねー?」

「ママ! 余計な事いわないの! ママがこんなに張り切らなきゃ別に問題なかったんだからね!」

「はいはい、ほら八幡くん、食べてあげて」

 

 言い合いをする一色親子を横目に、促されるまま「いただきます」と言って渡されたフォークでケーキを一口、口に入れた。

 横で一色がめっちゃ見てきて正直食べづらい。

 

「ど、どうですか……?」

「……ちょっとでも変な味がしたらはっきり言うし、甘すぎたりしたら文句の一つも言ってやろうと思ったんだけどな、そう出来なくて残念だ」

「えっと……それってつまり……?」

 

 一色が一瞬考え込むように、俺の言葉を反芻する。

 

「……! 美味しかったなら素直に褒めてくれたらいいじゃないですかぁ!」

「相変わらずお兄ちゃんは捻デレてるなぁ」

 

 おい、変な造語を作るな。

 俺は小町を軽く睨んだが、小町はそんな事おかまいなしという様に、自分もケーキを口に入れた。「うーん、おいしいー!」という小町の言葉に続き、俺も二口、三口と口に入れていく。

 うん……悪くない……。

 気がつけばその場にいるみんながケーキを食べ始め、ホールのケーキはあっという間に小さくなっていった。

 

「お口にあったみたいで良かったです。あ、そうだセンパイ、はいこれ」

「何? この準備にかかった費用の請求書?」

 

 これだけの準備をしたのだそれなりに金もかかったのだろう。

 一体いくら請求されるのか、せめて五千円ぐらいで収めて頂きたい。

 

「違いますよ、プレゼントです。私の事なんだと思ってるんですか。セ・ン・パ・イ・の、お誕生日プレゼントです!」

「えっと……いくら払えばいい?」

「だからお金なんていりませんって! プレゼントですから」

 

 一色は少々呆れ気味にそう言うと、黒色のシックな包装紙にラッピングされた長方形の箱を俺に押し付けてきた。

 それは俺が人生で初めて家族以外の女子から貰ったプレゼント。

 

「あ、でも、私の誕生日は四月十六日なので、忘れないでくださいね」

 

 それならそれで、やはりこれが幾らしたのか確認しておきたいんだが……。

 しかし、なぜだろう。そんな不吉な事を言われながらも、ちょっと期待してしまっている自分がいる。期待してはいけないと反省したばかりだというのに、くそっ、落ち着け。

 

「開けていいの?」

 

 一応聞いては見たが、正直、中身が気になって仕方なかった。もし開けるなと言われても開けていたかもしれない。

 だが、なんとか理性を働かせ、「どうぞどうぞ」という一色の返事を待ってから。包装紙を剥がし、中の箱を開けていく。

 すると中から猫の肉球のイラストが書かれた黒い茶碗とお椀、そして箸が出てきた。

 

「食器?」

「はい、持って帰らないでくださいね?」

 

 持って帰っちゃ駄目なの? くれるのではなく一時的なレンタルという事だろうか?

 斬新だ……。

 

「ほら、センパイってうちに来た時、いつもお客さん用の使ってるじゃないですか? だから今日からはコレ使って下さい」

 

 つまり……俺専用の食器という事だろうか。

 という事は、暗に今後も夕食食ってけよと?

 それはそれでちょっと困る。出来れば持って帰りたいのだが……。

 まあ、送り主にそう言われては仕方がない。

 ないと思いたいが『うちの食器使うんじゃねーよ』という意味かもしれないからな……。

 

「……ありがとな」

「いえ、どういたしまして、ちゃんと使ってくださいね? というか、今これによそってきますからちょっと待ってて下さい」

 

 俺が礼を告げると、一色は少し照れたように、そそくさと立ち上がり、俺の手元から食器類を奪って部屋をでていった。

 ちょっと待て……よそってくる? つまりこの場にある料理が全てではないという事なの?

 明らかに作りすぎじゃない? 確かに日本人として米が欲しい所ではあるのだが、目の前にピザとかもあるんですけど?

 そんな一抹の不安を抱え、一色が出ていった廊下を目で追っていると、今度は小町が隣にやってきた。

 

「はい、次は小町からね。お誕生日おめでとう」

 

 そういって、渡してきたのは黄色のラッピングバッグ。

 俺は「サンキュ」と一言添え、中身を確認すると、こちらの中からは布らしきものが出てきた。

 

「Tシャツか」

「うん、色々悩んだんだけど今年もこれにした」

 

 そう言えば一昨年もTシャツだったな。

 よく見ると、あの時と同じよく分からないキャラクターが描かれている。同じシリーズなのだろうか?

 

「おう、サンキュ……ってこれは何のTシャツ?」

「はぁ!? お兄ちゃんが前好きだって言ってた声優さんの奴じゃん!小町毎年この人のグッズ手に入れるの苦労してるんだからね! 去年だって何回くじ引いたことか……!」

 

 そ、そうだったのか……知らんかった。いらない物をくれたんじゃないかとかちょっとでも思ってごめんな……。

 というか、俺この人の事好きだったのか。

 『CHIBA Perfect ARENA』って書いてあるから、きっとそこそこ有名な人なんだろう。俺ライブとか行ったことないからよくわからんけど。

 まあそういう事なら大事にしよう。

 一体誰なんだ……。

 

「じゃあ最後は私達からと、こっちはお爺ちゃん達からね」

「あ、ありがとうございます。開けても?」

 

 続けてもみじさんから渡された箱を開けてみると。

 中から現れたのは、どこかの鍵が入っていた。それも二本。

 おっさんからの方は黒い皮の長財布。基本は黒一色だが、よく見るとメビウスの輪? 無限? のような刺繍が見てとれる。むちゃくちゃ高そう、なんだこれ。

 

「鍵……と、財布?」

「ええ、これからは私達の帰りが遅くなることもあるし、八幡くんを外で待たせるのも悪いでしょ? だからもういっそ鍵渡しちゃった方が早いかなーって♪」

「いや、さすがにこれは……」

 

 『かなーって♪』とか言われても……いや、流石に鍵を渡されたからと、人様の家にずかずか上がりこんでいくような神経は持ち合わせていない。

 これ、泥棒とか入ったら俺が真っ先に疑われるやつなのでは?

 

「片方はオートロックの鍵だから、次からは気にせず入ってきていいからね? あ、でもなくしちゃ駄目よ?」

 

 重い……なんなら今日貰ったプレゼントの中で一番重い……。

 サイズ的には一番小さいけど……。

 どうしよう……。めっちゃ返したい。

 だが、もみじさんはニコニコモードだ。恐らくこれを返すと言っても聞いてはくれないだろう。なぜならこの人はおっさんの娘だから。

 ママはすはもうダメだ、こうなったらパパはすに……! と視線で助けを求めたのだが。

 

「まぁ、そんなに深く考えないで、僕も仕事で帰りが遅い事が多いからね。『緊急用の鍵を預かった』とでも思ってくれればいいよ」

 

 だが、パパはすにも笑顔でそう告げられ、俺は完全に逃げ場を失った。

 どうやら受け取るしか道はなさそうだ……。

 鍵か……とにかく、無くさないようにだけ気をつけなければ……。

 

「あ……ありがとう……ございます?」

「どういたしまして。あ、お爺ちゃんの方は今度でいいから直接お礼を言ってあげて? 今日参加できなかったこと凄い悔しがってたから」

 

 まあおっさんへの礼ぐらいは普通にいうつもりだけど。

 果たしてこの場合の返事は『ありがとう』であっていたのだろうか?

 緊急時の鍵を預かっただけなら礼をいうのはおかしいだろう。俺が使う事はまずない。

 だが、なんだか釈然としない俺とは裏腹に、もみじさんはウンウンと満足げに頷いていた。

 

「さ、それじゃ一通りプレゼントも渡し終えたことだし、パーティー始めましょう」

「はーい!」

 

 いつの間にか戻ってきた一色が、先程の茶碗によそった赤飯を俺の前に置くと、そう言って席につき、それぞれの席の前のグラスに飲み物を注いで、乾杯をした。

 

「センパイは何から食べますか? オススメはこの唐揚げです、これも私が作ったんですよ」

「……じゃぁ、そっちのピザくれ」

「なんでですかー!」

 

 誕生日会。

 俺にとってそれは、いつも自分のためではない、他の誰かのために用意されたもの。一種のトラウマ製造機。

 子供の頃から羨望の眼差しで見ながらも、自分には無関係なものだと切り捨てた光景。

 それが今、何故か俺の目の前で行われている……。

 顔を上げれば、変わらずそこにある「HAPPY BIRTH DAY HACHIMAN」の文字。

 ワイワイと騒ぐ、一色達の楽しそうな会話はまるでどこか遠くの国の出来事のようだ。

 駄目だ、どうにも背中の辺りがむず痒い。気を抜くと頬が緩む。

 手元には、一色から送られた新品の食器。

 こいつらはこれから、俺専用の食器として一色の家に置かれるのだという。

 これではまるで俺が歓迎されているみたいじゃないか、まるで内側に入り込んだみたいじゃないか……。

 やめろ比企谷八幡、俺は外側の人間だ、勘違いをするな……!

 今まで体験したことのない感情に、今恐怖さえ感じている。

 これは、俺が求めていた物なのだろうか?

 それとも俺が舞い上がっているだけなのだろうか?

 しかし、誰もその答えを教えてはくれない。

 

「センパイ」

「ん?」

「改めて、お誕生日おめでとうございます」

 

 どうしたら良いか分からず、ただ黙っていた俺に一色がそう言って自分のグラスを俺のグラスと重ねた。

 オレンジ色の液体が入ったそのグラスはキンッという高い悲鳴を上げた後、一色の口元へと吸い込まれていく。

 俺は何故か、その瞬間。一色から目が離せなかった。




 先日また大分前の話の誤字報告を頂きました……。本当ありがとうございます……。この作品は皆さんの応援で出来ています。

夏休み編が終わったら少し投稿ペースを落とし、誤字チェックを多めにしてから投稿したいと思っていますので、それまでは誤字多めでもご容赦頂きたく……。※9月編に入ったら誤字が無くなるとは言っていない。


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第27話 そうして八幡の誕生日は過ぎていく

いつも誤字報告、感想、お気に入り、評価、メッセージありがとうございます。本当に毎回感謝しています。

この度、UAが500,000件
お気に入りが7,000件
総合評価が10,000ptを超えました。
これもひとえに皆様の応援のお影です。本当にありがとうございます。
これからも頑張って作品をアップしていきたいと思いますので、引き続き応援の程よろしくお願いいたします。


「あ、ダメですよセンパイ。そんなとこ無理に引っ張っちゃ……!」

「……うるさい、少し黙れ……どうするかは俺が決める」

「あっ……駄目だって言ってるのに! ダメ! あっあっあーーーっ!」

 

 ガラガラと音をたて、高く積み上げられたジェンガが盛大に崩れていく。小さな木のパーツが何個かテーブルから滑り落ち、畳の上へと転がった。

 

「ほらー、だから駄目だっていったじゃないですか!」

「うるさいな、初めてなんだから仕方ないだろ……っていうか、今のは一色が悪い」

 

 転げ落ちたパーツを拾いながら、俺は一色に抗議の意を示す。

 いや、実際あんな野次を入れられたら取れるものも取れなくなるだろ。

 っていうか……そもそも、距離が近いんだよ。

 ジェンガが始まったときは俺の向かい側に座っていたはずなのだが、抜きやすい位置を探り、動いているうちに何故か今俺の隣に来ているんですけど……?

 ジェンガのパーツを抜こうと動くたびに肩が触れ、つい避けてしまうのでどうにも集中できない。

 

「えー? 私のせいですかぁ?」

「全くお兄ちゃんは駄目だなぁ……」

 

 一色と小町がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら俺を煽ってくる。

 くそっ、分かっててやってんなコレ。

 

────

 

 あれから、ひとしきり料理を食べ終え、会話も一段落して一色夫妻が席をたった頃。

 一色が「まだ時間もあるしゲームでもしませんか?」と、どこからかゲームを持ってきた。

 

 それはテレビゲームではなく全てテーブルゲームやボードゲームと言われる類のもの。

 人生ゲーム、トランプ、ウノ、そしてジェンガ。

 ありきたりなゲームばかりだが……一色? 仲間外れが一つだけ混ざっているぞ?

 

「ゲームやるのはいいけど、これは一人用だろ?」

 

 俺がそう指摘しジェンガを指差すと、一瞬場が凍ったのが分かった。

 

「はい?」

「お兄ちゃん……?」

 

 一色が目を丸くし、小町が呆れたように俺を見てくる。

 なんだよ、うちにあるジェンガはいつも俺一人で遊んでるぞ。

 箱から出して、崩して、キレイに積み上げて、また箱にしまうゲームだろ? 

 そう説明しても場はますます凍りつくばかり。

 なぜだ……。

 

「それじゃタダの積み木じゃないですか……じゃあ、今日はセンパイの初ジェンガ大会ってことで」

 

 そんな風に俺の初めてのジェンガ大会が始まったのだ。

 いや、別に大会形式ではなかったけど。

 

──────

 

「すまん、俺ちょっとトイレ……」

 

 俺が崩してしまったジェンガを、一色と小町が積み上げている間に、俺は少し席を立つことにした。尿意が限界だ。実際先程のゲームも、尿意との我慢比べみたいなところがあったので、俺の実力で負けたわけではない、断じて無いので次は俺が勝つ。年長者としての威厳を示してやるからな、首を洗って待ってろよ!

 あ、完全に負けフラグだわこれ。

 

「早く戻ってきてくださいねー」

 

 そうして、少々捨て台詞のようなセリフを脳内で吐きつつ。

 一色の声を背中越しに聞き、俺は和室を後にする。

 

 一色家はマンションであり、おっさんの家ほどの広さはないが、それでも十分過ぎるほどに広い。そしてまだ踏み入ったことのない部屋が複数ある。

 俺が目指すトイレは来た道を戻り、リビングと玄関を繋ぐ廊下の間だ。

 リビングではもみじさんが何やら飲み物を用意していたので一声かけ、俺はトイレへと向かったのだった。

 

 

 しかし、誕生日会か……。まさかこんな形で自分の誕生日にパーティーを開いてもらえるとは思っても見なかったので、危うく泣きそうになった。

 ギリギリ堪えたが……俺、最後に泣いたのなんていつだろうな……?

 とりあえず今回は、醜態を晒さずにすんで本当に良かった。

 

 そんな事を考えながらトイレで用を済ませ、手を洗い、自分の顔を見る。

 何だお前、めっちゃニヤケてるな気持ち悪いぞ?

 このままでは小町に何を言われるか分かったものではない。俺は一度自分の頬を叩き、たるんだ顔をもとに戻す。

 さて、ジェンガのリベンジマッチと行こうじゃないか。

 

「やぁ八幡くん、少し話せないかな?」

 

 しかし、トイレを出た所でそう声をかけられた。

 声のした方角を確認すると、そこは一色家でも俺が足を踏み入れたことのない領域その二。

 トイレの斜め向かいにあり、いつも鍵付きの扉で閉ざされている部屋。

 だがその日は珍しく扉は開け放たれ、中では一人の男性が高そうな椅子に座りギターを持ちながら、こちらを覗いていた。

 

「あ、弘法(ひろのり)さん……大丈夫ですけど、入って良いんですか?」

 

 その声の主は一色弘法(いっしきひろのり)

 一色いろはの父で、もみじさんの夫。つまりパパはすだ。

 すでに何度も顔を合わせているが、こうして二人きりで話すのは初めてな気がする。

 なんだろう、何かお説教だろうか? 『さっき渡した鍵を返してくれ』とかだと助かるんだけど……。

 

「はは、問題ないよ。さ、狭い所だけど入って」

 

 促されるまま、俺は部屋へと足を踏み入れる。そして驚愕した。

 部屋はそれなりに広いと思うのだが、凄く狭く感じる。というか物が多い。

 そこには大量の本と、そして楽器が置かれていたのだ。

 本と言っても、俺が読むタイプの本とは違う、ハードカバーの物や雑誌サイズの本が多く。楽器はキーボードを初め、一体何本あるのかという程のギターやベースが壁に立てかけられ、まるで楽器店にでも入り込んだような錯覚に陥る。楽器店行ったこと無いけど。

 

「凄いですね」

「趣味でね、別に集めるつもりはなかったんだけど、気がついたらこんな数になってたんだ」

 

 コレクター気質というやつだろうか。

 まあ俺も気がついたら沢山揃ってるものとかあるので、気持ちはわからなくもない。

 

「どうかな、最近のいろはの様子は?」

 

 弘法さんは、抱えていたギターを一度ジャランと鳴らし、そう聞いてきたので、俺は少しだけ考えて返答した。

 

「はぁ……どうなんですかね、とりあえず中間で落ちた成績分は取り戻したみたいですけど……今は模試の結果が出ないとなんとも言えないです」

「そうか、まあコレばっかりは本人の力が全てだからね」

「……そう、ですね」

 

 なんだろう? やっぱりお説教だろうか?

 この人はおっさんとは少しタイプが違うので、考えが読めない。

 いや、おっさんの考えを読めたこともないんだけど……。

 

「そんなに固くならないで、もっと楽に話してくれていいんだよ? ああ、そうか。すまない、椅子が無かったね」

「あ、いえ、お構いなく」

 

 そう言うと、弘法さんは立ち上がり、俺の真横に積み上げられていた雑誌を持ち上げ、下から丸いキャスター付きの椅子を発掘し、俺に座るよう促してくる。

 座って……いいんだよな……?

 持ち上げた大量の雑誌の置き場所に困っている弘法さんを横目に、俺はちょっとだけ遠慮しながら、そこに腰掛けた。

 

「改めて誕生日おめでとう、幾つになったのかな?」

「十六ですね」

「十六か、若いなぁ羨ましいよ。ああ、ちょっと年寄り臭い言い方だったかな」

「あ、いえ」

 

 正直にいえば、弘法さんはおっさんに比べると落ち着いた喋り方をする人なので、むしろおっさんより年上なんじゃないかと思ってしまう事もあるのだが、流石にこれを本人に言うのはやめて置いたほうが良いだろう。

 

「……僕は妻や娘のようにお喋りが得意な方ではなくてね、やっぱり退屈かな?」

「いえ、そんな事は」

 

 まあ多少気を使うというのはあるが、別に退屈という事はない。

 おっさん達に比べ、冷静な話が出来るという点でも貴重な人材だと思っている。

 何かあったら盾になってもらわなければ……まぁ今の所、上手く行った試しはないのだが。

 

「そうかい? ありがとう。ああ、そうだ、八幡くんは音楽はやるのかな?」

「全く、出来る楽器といえばリコーダーとカスタネットぐらいですかね」

 

 学校で習ったのはその二つぐらい、ああ、あとタンバリンとトライアングルもいけるか。

 リコーダーは音楽の授業でかなりやったが、今ではエーデルワイスが吹けるかどうかも怪しいレベルだ。ミーソレードーソファー……その後なんだっけ?

 

「ギターには興味はないかい?」

「あー、まぁ格好いいなぁとは思いますけど、触ったこともないのでなんとも……」

 

 まあ興味がない言えば嘘にはなる。

 こう、格好良くギターやピアノを弾くというのは時として憧れを抱くこともあるのだ。

 音楽が出来る奴は決まってモテたりするしな……。

 

「そうか、それなら誕生日プレゼントに一本どうだい?」

 

 すると、弘法さんは俺の心の中を見透かしたかのように、そんな事を言ってきた。

 まるでジュースを一杯奢るようなそのノリに「何か聞き間違えたか?」と思わず耳を疑う。

 だが、弘法さんは返事を待つようにニコニコと笑みを浮かべたまま、こちらの様子を伺っていた。

 いやいや、流石にギターは貰えないだろう。

 確か十万とかするんじゃないのか? 実際楽器屋なんて行ったこと無いから具体的な数字はわからないが、べらぼうに高いイメージはある。

 

「え!? いやいや、今日は色々貰ってますし、そもそも俺弾けないし楽譜もよめないんで」

「私がギターを始めたのは君と同じぐらいの年の頃だよ、そうだな……これなんかどうだい?」

 

 言いながら弘法さんは部屋の隅から、一本のギターを持ちあげた。

 それはボリュームのツマミのようなものが着いている赤茶色のギター。ほぼ左右対称のボディの上部には中央のネック部分に向かう角のような二本の突起、そのシルエットはさながら悪魔……。いや、怒ったカバ○君の額にネック部分を突き刺した感じだな、うん。

 っていうかこれ新品なんじゃないの? ホコリもそれほどついていないし、少なくともそのギターが今も大事に手入れされているのがわかる。目立った傷もないその美麗なフォルムは、ここ一、二年内に買ったと言われても信じてしまいそうな程だ。

 だが弘法さんはそのギターのストラップ部分を俺の首にかけ「さぁ」とギターを預けてきたので、俺は慌ててそれを受け取った。

 

「どうかな? これは私が学生の時に買ったものだから、かなり古いんだけど」

「そんなに昔のなんすか?」

 

 学生の頃というとバイト代とかで買ったのだろうか。

 それなら俺でも買える値段だったりするのだろうか?

 それでも決して安いとは思えないが……。

 しかし、俺はその一瞬、そういった値段に関する思考が一瞬飛んでしまった。

 初めてギターを持っている自分に、柄にもなく少しだけ興奮してしまっていたのだ。

 やばい、今の俺格好いい……気がする。

 

「ちょっと音を出してみてくれないかな」

「いや、だから俺弾いたことない……」

「教えてあげるよ」

 

 そう言うと弘法さんは俺の左手を掴み、ネックの部分を握らせると。

 次に俺の指を取って、一本一本弦を押さえさせた。

 

「ここと、ここ、それとここを押さえて……そう、それで弾いてみて」

「こう、ですか?」

 

 俺は左手をいびつな形で固定したまま。

 右腕で弦を弾く。すると『じゃらららぁん!』となんとも言えない音が部屋に響いた。

 

「うまいうまい、それがCコードだ」

 

 弘法さんは俺が出した音を絶賛し、拍手をしながらニッコリと笑う。

 いや、さすがにこれぐらいは誰でも出来るだろう。

 まるで幼稚園児が描いた絵を褒めているようなその態度に俺は思わず苦笑いを返した。

 

「ただ一個だけ。音を鳴らす時は弦に対して垂直に弾くようにするといい、癖になってからだと直すのも面倒だからね」

 

 俺の音を聞きながら、弘法さんは壁にかけてあったギターをスムーズに取り、同じ様に鳴らす。

 いや、同じ様にじゃないな、全然違った。俺のとは違い、弘法さんは『ジャラン!』っと短く小気味良い音だった。正直カッコいいと思ってしまった。女だったら惚れていたかもしれない。

 女八幡チョロイン説浮上。

 

「楽譜なんて読めなくてもコードを五つ位覚えるとね、簡単な曲が弾けるんだよ。ドレミの数より少ない。どうだい? そう考えると簡単そうだろ?」

 

 確かにそう言われてみると簡単な気がする。

 ……って、いやいや、そんな筈無いだろう。もしかして俺騙されてるんじゃないの?

 甘い話には罠があるというものだ。うかつに手を出してはいけない。

 

「八幡くんは普段どんな音楽を聞くのかな?」

「え……っと、最近だと家口達也(いえぐちたつや)とか……亜倉紗弥音(あくらさやね)とかですかね……」

「うーん、ごめん、僕は知らない人だね。もう僕はオジサンだから、若い子の聞く曲というのはあまり馴染みがないんだ、申し訳ない」

 

 それはそうだろう、二人共メインは声優だ。いわゆる歌手とは少し毛色が違う。

 この二人が特別好きという程でもないのに、とっさに答えてしまったが、むしろ知ってたらどうしようとハラハラしたほどだ。

 どちらかといえば、こちらが謝りたい。

 

「まあでも、そういう自分が好きなアーティストの曲も弾けるようになったら楽しいと思わないかい?」

 

 弾ける……弾けるのだろうか?

 別にコピーバンドをやりたいというわけではないが、確かにそう言われると弾いてみたいという気持ちにはなる。 

 

「でも……ギターって高いですよね? やっぱ貰うわけには……」

「ピンきりだね。まあ高い奴はそれこそ目が飛び出るような値段のものもあるけど、それは少しバイトをすれば買えるレベルだよ。逆にこれなんかは……」

 

 そう言うと弘法さんは、部屋にあるギターを一つ指差し、俺の耳元で値段を教えてくれた。

 ……うわぁ……聞かなきゃよかった……。まじかよ……車とか買えるんじゃないの?

「内緒だよ?」と鼻先に人差し指を近づけ小さく笑いながら、小声で告げる弘法さんは、やはり一色の親なのだなぁと感じさせられた。

 

「正直な所ね、これだけあると妻と娘が『少し整理しろ』と煩いんだ。もし貰ってくれるなら僕も助かるんだよ」

 

 ああ……、女子には理解されない男の趣味というやつか。

 俺も母親や小町には理解してもらえない趣味というのを持っているのでとても良くわかる。

 そういう事なら……貰っても良いのか?

 

「あー、センパイ遅いと思ったらこんな所に! パパも! 何やってるの!」

「え? お兄ちゃんなんでギターなんて持ってるの? 弾けるの?」

 

 そんな風に少し気持ちがゆらぎ始めた頃、部屋に闖入者が現れた。一色と小町……いろこまコンビだ。

 そういや、ジェンガの途中で抜け出してきたんだった、すっかり忘れてたな。

 

「八幡くんにギターをプレゼントしようと思ってね」

「あ! それいいかも! センパイ貰って下さいよ、どんどん増えてくんですよこれ。もうこれ以上増やさないって毎回約束するのに、いつの間にか増えてるんです!」

 

 弘法さんの説明に、一色が勢いよくそう答えると、弘法さんは少し困ったように笑って「ね?」 と俺に目配せをしてきた。

 どうやら弘法さんも家の中では立場が弱いらしい。

 そういえば、婿養子だって聞いたし、おっさんにも色々言われて辛い立場なのかもしれない、ちょっとだけ親近感。

 だが、今日はもう色々と貰いすぎているしなぁ……どうしたもんか。

 

「八幡くん、想像してごらん? 自分の部屋にギターが置いてある風景を」

 

 俺は言われるがまま、想像してみた。

 学校から帰って自室に戻る自分。机の横にギターが立て掛けてある風景を……。

 それは、オタク趣味なアイテムのように誰かに引かれたりしない、部屋に置いてあってもマイナスなイメージにならない最高のオブジェ。

 凄くいい……。

 

「格好良くないかい?」

「カッコいいです!」

 

 即答してしまった。

 だって考えてみろ、ギターだぞ。

 自分の部屋にギターが置いてある風景ってやっぱちょっとカッコいいと思ってしまうだろ。弾ける弾けないは別として。

 

「だろう? 邪魔になったら返してくれても良いし、ちょっと趣味を増やすつもりでやってみないかい?」

 

 返す、つまりレンタルも可ということか……。

 借りるぐらいなら……大丈夫か?

 

「でも、本当にいいんですか?」

「ああもちろん。あ、でももし弾けるようになったら、いつか一緒にセッションしてくれると嬉しいかな」

「約束はできないですけど……わかりました」

 

 俺がそう強く頷くと、弘法さんは俺に握手を求めてきたので、俺も慌ててその手を取る。

 その指はおっさんとは違って細く、そしてとても硬かった。

 

「それじゃ、ギターの他にこれと……あとこれも必要かな、それと……この本なんかが初心者にはわかりやすいから参考にするといい。ああ、分からない事があったらいつでも聞きに来てくれてかまわないからね」

 

 弘法さんはとても楽しそうにそう言って、ギターオプション一式を紙袋に詰めてくれた。

 ギターは真っ黒なギターケース付きだ。

 まじか……これが今日から俺のもの……。

 そうして俺はその日、新たに中古のギターを手に入れたのだった。

 

「……ありがとうございます」

 

 そうか、コレ全部持って帰るのか……ちょっと早まったかもしれない。

 

*

 

「それじゃぁ……今日はありがとうございました」

「ありがとうございましたー!」

 

 あれから、俺は弘法さんにいくつかのコードとチューニングの方法を教えてもらい、もう一度ジェンガ大会に戻ったのだが、気がつけば夜も二十一時近い時間。

 流石に長居しすぎたかと、俺は小町に『そろそろ帰るか』と声をかけ腰を上げた。

 

「いえいえ、とても楽しかったわ、小町ちゃんもまたいつでも遊びに来てね?」

「小町ちゃんまたね! センパイも!」

 

 俺がついでかよ……。まあいいけど……。

 別れを惜しむように、手を握り合う女性陣に少しだけ疎外感を感じながら。増えた荷物を抱え、俺は玄関の扉を開け、最後にもう一度振り返る。

 

「一色」

「はい?」

「今日は……ありがとな」

 

 俺が礼を言うと、一色は少しだけ驚いたように目を丸く見開いた後「どういたしまして」と優しく笑った。

 その笑顔はとても眩しく、元々のアイドルのような美少女顔も相まって俺の精神にダイレクトアタックをしかけてくる。駄目だ顔が火照る。やめろ、そんな風に見られると好きになっちゃうだろ。俺、今顔赤くない……?

 

「……あー……そうだ、来週は休みでいいんだよな?」

 

 なんとなく空いた間に耐えられず、俺は一色から顔をそらし、確認の意味を込めて最後にそう問いかける。

 

「はい、例の打ち上げなんで」

「了解、じゃあまた再来週にな」

「はい、再来週。お待ちしてます」

 

 まあ分かりきってることではあったが。

 このタイミングでの休みは助かった、これで気持ちの整理をつけられるというものだ。

 今日の出来事は、ボッチの俺にはあまりにも刺激が強すぎた。少し冷静になる時間が必要だろうからな……。

 

 そうして、俺と小町は一色一家と別れを告げ、帰路へとついた。

 日も落ち、すっかり暗くなった夜道を二人で歩く。ここに来た時とはまるで正反対に今は心がとても穏やかだった。

 

「お兄ちゃん、なんかカッコいいね、バンドマンって感じ」

 

 背中に背負う黒いギターケースを見ながら、小町が俺の周りを一周する。

 全く、危ないからちゃんと前見て歩きなさい。

 

「そうか? まぁ全然弾けないから見た目だけだけどな」

「そこは練習あるのみじゃない? 誰だって最初は初心者なんだよ。あ、今の小町的にポイント高い」

 

 まあ本当に弾けるようになったら、俺的にもポイント高いけどな……。

 プロになりたいとか、そんな高い志はサラサラないが、一曲ぐらい弾けるように少し頑張ってみるか。

 

*

 

 帰宅後。

 俺はおっさんに電話をかけた、話すことは沢山ある。プレゼントの礼と、次の休みの連絡、それと……。

 

「おう、八幡! 元気でヤッてるか?!」

 

 考えがまとまるより先に、おっさんとの通話が繋がった。

 第一声からテンションが高い、俺は思わず、電話を耳元から少し離す。

 そうだ、おっさんと話す時はこの距離がデフォだったわ、ここんとこ電話してないからすっかり忘れていた。

 

「あー……あの、さ、今日、誕生日プレゼント。財布。受け取りました。ありがとうございます」

 

 どうもおっさんに真面目に礼をいうというのは、気恥ずかしく、日本語がおかしくなってしまう。日本に来たばかりの外国人のようだ。情けない。

 

「おお! やっとか、八月八日に連絡来なかったから何かあったんじゃないかと心配したぞ、誕生日おめでとう。どうだ? 気に入ったか?」

「ああ、うん、すごい、気に入っ……りました」

「ははは、喋り方が変になってるぞ」

 

 くっ、指摘されてしまった。なんとか気付かれないうちに素の喋り方にシフトしたかったのだが。

 突っ込まれると恥ずかしいなこれ。

 

「まぁ、気に入ってくれたなら良かった。小町ちゃんから『何かいい財布を買わせたい』っていう話を聞いてたんでな、丁度いいかと思ってな、知り合いに頼んで作ってもらったんだ」

「あー、うん。めちゃくちゃ格好良かった」

「そうかそうか、お前の名前をイメージして「8」の字をいれてもらったんだ」

 

 え? あれ「メビウスの輪」とか「無限」じゃなくて「8」なの?

 俺は再び財布を眺める、さっきまで格好いいと思っていたんだけど、これが八幡の「8」だと思うとちょっとダサく見えてくる不思議。 

 

「直接渡せなくて悪かったな」

「それは別に……何か用事でもあったんだろ?」

「いや、今ニューヨークに来てるんだ」

「ニューヨーク!? なんでまた?」

「ちょっと色々あってな」

 

 おっさんは少しだけ歯切れ悪くそう言って、言葉を続ける。

 なんだろう、海外まで行かなきゃいけない『色々』というのが想像できない。仕事のトラブルとかだろうか?

 

「まあニューヨークには来たこともなかったんでいい機会だし、夫婦水入らずで旅行って所だ。何か土産買って帰るから、期待しとけよ」

「あ、ども……」

 

 ああ、旅行か。そういえば旅行中だという話は以前聞いたな。てっきり二泊三日とかそこらだろうと思ってたからすっかり失念していた。

 土産というと『ニューヨークに行ってきました!』とか書いてあるクッキーだろうか。

 土産物の定番だよな。

 俺土産もらうような友達いた事ないから、貰ったこと無いけど。

 ならなんで知ってるのかって? 千葉駅に売ってるからだよ。いわせんな恥ずかしい。

 

「すまんな、もっと話したいんだが今日はこれから忙しいんでな。続きはまた今度でもいいか?」

「あ、ああ。じゃあ来週バイト休みらしいんで、そこのバイト代カットだけはよろしく」

 

 本当はもう少し話したかったが、忙しいのなら仕方がないか。

 あ、あと今日の分もカットしてもらうんだった。今日俺何もしてないしな。

 それと……やはり時給も少し見直してもらおう……。

 今は今朝ほど「やめたい」という思いは強くない、しかしそれでも思うところはある。

 まあ、全部含めて次の給料日に話せばいいか。

 

「ん? ああ、なんか部活の打ち上げ? だったか? それは聞いてる、まったくなぁ、お前という許嫁がいながら他の男と遊びに行くとか……」

 

 なんだ、もう一色から休みの話は聞いているのか。

 まあ許嫁云々は正直今回の件とは関係ないのでどうでもいいんだが、今日も結局休みになってしまったし、勉強時間の確保の方が心配だ。来週も含めて二連続で休みなわけだしな。

 とはいえ、あいつ割と自習はしてるみたいだし、それほど心配は無いのかもしれない。

 

「まあ、あいつもなぁ、楓に似て可愛いから、仕方ないとも思うんだが。過保護と言われようと、変なことに巻き込まれないか心配でなぁ」

 

 何? 愚痴に見せかけた惚気なの?

 正直おっさんの惚気話とか病院で聞き飽きたから勘弁して欲しいんだが、もう切っていいかしら?

 

「おっと、これ以上はまた長くなるな、悪いが続きはまた今度な」

「ああ、うん。了解」

 

 おっさんにそう言われ、俺は改めて時計を見る。

 これから用事があるということは、飲み会とかだろうか?

 いや、そうか。向こうはニューヨークだから時差があるのか。何時間ぐらいずれているのだろう?

 

「八幡、儂が日本にいない間、ちゃんといろはのこと守ってやってくれよ?」

 

 そんな事を考えていると、おっさんは突如真面目なトーンでそう語りかけてくる。

 この問は単に知り合いとして頼んでいるのか、家庭教師としてか、それとも……。

 俺は瞬時に答えを見つけることが出来ず、少しの間沈黙が流れた。

 

「……頼んだぞ?」

 

 確認するように、もう一度おっさんにそう告げられ、俺は「お、う……」と微妙な返答をすることしか出来なかった。

 

 どんな意味であれ、俺の助けが必要な状況なんてそうそう来ないだろう……。

 そう思いながら、その日は通話を切った。

 一気に周囲が静かになり、一人になったのだと実感させられる。

 なぜだろう、いつもの事なはずなのに、今日はこの静寂が妙に懐かしく感じる。

 

 俺は今日の出来事を思い浮かべながらギターをケースから取り出し、ベッドの上で教えられたCコードを押さえ、弦を鳴らす……。

 だが、押さえ方を間違えていたのだろうか?

 弘法さんに教わった時とは違い不快な音が室内に響いた。

 

「ひでぇ音」

 

 しかし、俺はきっと今の音を忘れないだろう。

 酷い顔で一色の家に行き、少し遅い誕生日を祝ってもらい、ニヤケ顔で帰ってきた今日の事をきっと俺は忘れない。忘れられない。そう感じていた……。




リア充ルートへの分岐点の一つ……かもしれない誕生日会 後編でした。
いかがでしたでしょうか?

パパはすの名前、ついに解禁です!
色々調べたのですが、『いろは歌』を作ったのがかの『弘法大師』らしく。(諸説あり)
「たいし」だと川崎弟になってしまうので、「弘法」の読み方を変えて「ヒロノリ」ということになりました。

今回の活動報告は色々裏話というか愚痴満載になると思いますので、そういうのに興味があったりお時間があるという方は目を通して頂けると嬉しいです。

感想、コメント、評価、メッセージいつでもお待ちしています!

p.s
来週更新ちょっと遅れるかもしれません(震え声)


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第28話 いろはの夏祭り

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。

もっと投稿遅れるかと思いましたが、ゼノディア槍無事完成しました(私事)

久々のあの人の登場です。


「あ、一色マネ来たみたいですよ」

「いろはす来たー!」

「って、いろはす浴衣じゃん! 超可愛い!」

 

 打ち上げ当日、少しだけ時間に遅れて集合場所に到着すると、あっという間に男子部員に囲まれた。

 いつもの事といえばいつもの事なのだけど、お祭りで上がっているテンションの男子達に気圧され、私は思わず一歩後ずさる。

 

「やほ、皆久しぶりー、ごめんね遅れて。私で最後?」

「多分そう……かな? あとはカラオケに直接来る連中が何人かいるだけ」

 

 先頭にいる健大くんに尋ねると。そう返事が返ってきた。

 遅れるつもりはなかったし、さすがに最後ではないと思っていただけに、ちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。

 でもそうか、カラオケ組が何人かはわからないが、これだけしか来ていないのか。

 この場にいる男子部員は十人、三年生がメインの打ち上げなのにうち三年生は四人だけだ、全体の半分にも満たない。これは少し予想外だった。

 まぁお盆も明けたばかりで、旅行中だからこれない子も多いという話だったし、受験勉強をするから無理と断った子もいるみたいだったからね。

 そう考えると私は大分不真面目な方にカウントされちゃうのかもしれない。

 

「遅いから、いろはす今日来ないのかと思ってビビったわ」

「ばっか、女子は支度に時間かかんだよ」

「あ、あはは、ごめんね」

「いいよいいよ、浴衣マジ似合ってる! そうだ写メ撮ろうぜ写メ!」

 

 思い思いに語りかけてくるメンバーに苦笑いを返しながら、私は持っていた巾着袋を持ち替える。

 そう、実は今日遅れた理由はこの浴衣にある。

 というのも、元々は浴衣なんて着てくる予定じゃなくて、事前に動きやすい洋服を用意してたんだけど、出掛ける直前ママに『浴衣を用意してある』と言われたのだ。

 この浴衣は私が中学に上がった頃に買ってもらったもので、当時は少し大きかった、でも今では逆にほんの少し丈が足りなくなってしまっている。

 なので、『来年また新しいのを買ってあげるから、中学最後の思い出に写真を取るから着ていきなさい』と言われ、慌てて着付けをしてもらった。

 別にセンパイに見せるわけでもないのに、なんでこんな動きにくい格好しなきゃいけないんだろう……あれ? なんで私今センパイの事考えたの? 理由はよくわからないけど何故か今ふと頭にセンパイの顔が浮かんだ。

 

 そういえば、先週は楽しかったなぁ。

 あんなに楽しかったのはイツぶりだろう?

 小町ちゃんと、センパイに隠れてパーティーの準備をして。センパイが来るまで息を潜めて……時間になっても来なかった時は正直どうしようかと思ったけど。センパイの驚いた顔、今思い出しても笑っちゃう。

 センパイって一々反応が新鮮っていうか、面白いんだよね。

 変に捻くれてる所も逆に可愛いっていうか……。

 それでもやっぱり男の人だし、変な勘違いされても困る、ちゃんと気をつけないと……。

 

「あれ? なんか機嫌良さそうじゃん、なんかあったの?」

「え? いや、別に何もないよ?」

 

 機嫌がいい? 誰が?

 今日の私は朝から憂鬱な気分だったはずだ。

 だってこの打ち上げ。今でもやっぱり来ないほうが良かったんじゃないかなぁと思っているんだから。

 

「あ、いろは先輩お久しぶりです、打ち上げに浴衣なんて気合入ってますね、もしかして誰かに告白とか考えてます?」

 

 理由はこの子。

 麻子ちゃん。

 一緒にマネージャーをやってきた仲だったけど、実は先日の新部長の一件が解決して以来、ちゃんと話してないのもあって、なんだかちょっと気まずい。

 

「久しぶりー、まさか、そんな事あるわけないよ」

「そうですよねー、いろは先輩って“無駄に”理想高そうだし」

 

 そしてやはりというかなんというか、今日も言葉の端々に棘を感じる。なんだろう、私そこまで嫌われるようなことしただろうか?

 思い返してみるとマネージャーをやってた時もそれほど深い話をしたことはなかったように思う。事務的な連絡を取り合うだけ。

 一応私の方が一年先輩なんだし、うまく躱せばいいんだろうけど、どうにも向こうがそれを許してくれそうにない。

 というか……私なんかよりよっぽど気合入った格好してない?

 麻子ちゃんは浴衣でこそないものの、やたらと肌を露出した年不相応の服装をしていた。一言で言うなら……そう、ビッチ。

 その羨ましい程大きな胸元を強調させた水着のようなオープンショルダーに、極限まで短くしたミニスカートでその両足を惜しげもなく晒している。それはさながら戦闘服とでも評したくなるような出で立ち。

 ああ、やっぱり来るんじゃなかったかも。

 それもこれも全部センパイが悪いのだ。

 打ち上げに行くという話をした時、センパイが「行くな」と一言言ってくれればこんな思いしなくても済んだのに。

 こうなったら来週は思いっきりストレス解消に付き合ってもらおう。

 

「……もしかして、二人ケンカとかしてる?」

 

 私達が会話をしているところに、恐る恐るそう割って入ってきたのは赤星くんだった。

 二学期から転校すると聞いていたので、正直今日も不参加だと思っていたけど、大丈夫なのかな?

 

「えー? まさか、先輩とケンカなんてしないよー♪ ほら、皆さんお祭り始まってますよ、早く行きましょう!」

 

 だが麻子ちゃんは満面の笑顔でそう答えると、赤星くんを連れ私から離れていった。

 

「んじゃそろそろ移動するぞー、はぐれても探さないからそのつもりでな」

「「「おおー!」」」

 

 健大くんがそう号令をかけると、一団がゆっくりと動き出す。私はその男子たちの中心に守られるように人混みと合流し、お祭りに参加したのだった。

 

*

 

「いろはす! イカ焼き食おうぜイカ焼き!」

「あはは、私はいいや」

「こういうときはクレープですよね!」

「うん、そうだねー」

「いろは先輩、たこ焼き食べません? はいアーン」

「あー、ありがとう……でも今はイラナイかな」

「あ、あの一色先輩! りんご飴二個当たったんで良かったらどうぞ!」

「わー、すごーい!ありがとう」

 

 出店で何かを買う度に、代わる代わる誰かが私の隣へ下心満載でご機嫌取りをしにやってくる。まぁ中には例外もいるみたいだけど……。

 チヤホヤしてもらえるのは嫌いじゃない、こうやって男子たちにあれやこれやとしてもらうのもいつもの事……のはず……。

 でも、今日は慣れない下駄での移動という事もあって、まだ三十分も経っていないのに私は既に疲れ気味だった。

 

「一色マネ、お疲れ様す」

「あ、葛本くん、お疲れー」

 

 気がつくと私の横には葛本君が歩いていた、どうやら次は彼の番らしい。

 そういえば、麻子ちゃんの話だと私のデートの相手は葛本君だったんだっけ、そこらへんどう思っているんだろう?

 諦めてないとかだと面倒くさいなぁ……。

 そんな事を思いながら、ちらりと葛本君の顔を見る。

 だが葛本君は私の顔を見ておらず、足元からじっくりと私を舐め回すように見あげたと思うと私の首元で目線を止め『ぐふっ』と一度息を漏らした。

 

「メチャクチャ可愛いっすね」

「あ、ありがと……」

 

 私は思わず一歩引いて、身を守る様に腕を上げる。

 しかし、葛本君はその姿勢の意味に気づいているのかいないのか、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながら、私のことをじっと見つめていた。

 こういう時センパイだったらこんな思いはしない……そう、センパイは例え二人きりという状況でも男子特有の嫌らしい視線とか、下心とかを感じさせないので、無意識にこちらから距離を詰めてしまう事もあるぐらいなのだ……やっぱり一年だけとはいえ先輩で、大人なんだなぁと感じる。でも、葛本君相手では当然そんな気持ちにはなれない。

 

「よかったらこれから俺と抜け出しません?」

「えー? そんな事したら部長に怒られるよ?」

「大丈夫っすよ、『はぐれても探さない』ってさっき大部長言ってたじゃないっすか」

 

 うわぁ、どうしよう、すごく面倒くさい。

 そもそも私、門限もあるから今日はカラオケのタイミングで抜けるつもりだったし、ここで変な断り方をして着いて来られるのも怖い。

 愛想笑いでごまかしているんだけど、なんとかこれで察してくれないかな……。

 

「葛本先輩何してるんです? 一色先輩困ってますよ」

 

 私が苦笑いをしている所に、そう声をかけてくれたのは健史君だった。

 助かった。

 

「なんだ史部長じゃん、今いいところなんだから邪魔すんなよな」

 

 葛本君と健史君が向かい合うように、視線を交わす。

 葛本君の方は『部長』とつけてはいるが、そこには敬意の欠片も感じられない、高圧的な口調で葛本くんは健史くんに詰め寄った。

 

「いや、邪魔っていうか……今日は三年生に楽しんでもらうのが目的なので……」

「分かってるよ……ったく、お前がいなかったら今頃俺が部長で一色マネとデートの予定だったんだぞ? ちょっとは気使えよ」

 

 あー……それ言っちゃうんだ……。

 やっぱり面倒くさいことになりそう……。

 そう思っていると、二人の背後に何やら大きな人影が集まるのが見えた。

 

「ほう……デートとはどういうことだ?」

「ほら、例の部長引き継ぎの時、俺が部長になったら一色マネとデートできるって話があったんすよ。そうだ! あの時のリベンジってことで今からデート行きません? こんなむさ苦しい男連中とダラダラ祭り回ってもつまんないっしょ。うわ、まじ……名……案……」

 

 葛本君は得意気にそう語りながら背後を振り返ると、その顔をみるみる歪ませ、青筋を立てる。影の正体は、三年生男子。そこには健大くんを筆頭に三年生の部員四人が彼を囲むように立っていたのだ。

 

「ほほーう? それは名案だな?」

「俺達をさしおいて?」

「いろはすとデートして部長になる?」

「いいご身分ですなぁ?」

 

 三年男子が葛本君を囲むように、ゆっくりとその距離を詰めていく。

 徐々に追い詰められ、私と健史くんから離れていく葛本君の体は三年生の中に埋もれ、徐々に見えなくなっていった。

 

「佐倉中学サッカー部! 部訓!」

 

 次の瞬間、大きな声を出す健大君に反応して、お祭りに来ていた人々が何事かと振り返る。

 え? ちょっとまって!? あれをここでやるの?

 恥ずかしいし他の人の迷惑になるからやめて欲しいんだけど……。

 

「ちょ、みんな迷惑だからやめ……」

 

 だが、時すでに遅く、私の言葉を言い終わる前に、健大くんが大きく息を吸い込んだ。

 

「マネージャーはみんなのアイドル! 邪な気持ちで接するべからず!」

「「「抜け駆け しない! させない! ……許さない!」」」

 

 ああああ……。私このグループとは関係ないので……。見ないで下さい。お願いします。

 

「俺らの打ち上げの最中にマネージャー連れて抜け出そうなんていい度胸してるじゃないか、なぁ葛本」

「あ、いや、俺は……」

「問答無用! 連れて行け!」

「「「イエッサー!」」」

「待って! 冗談! 冗談ですから! 健史新部長! 助けて! 助けて下さい!」

 

 そうして、葛本くんは三年生に胴上げのように抱えられると、人混みから離れどこかに連れて行かれてしまった。

 彼がどうなったのか、その時の私には最早知る術はなかった。というか知りたくもなかった。

 だって近づいて行って知り合いだと思われたくないし……。

 はぁ、と溜息をつき、周囲を見回す。

 三年生と葛本君がいなくなって更に減った打ち上げメンバー。この後どうすればいいんだろう?

 あれ……? というか、今の今までいたのに麻子ちゃんの姿がない……? そういえば赤星くんもいない? まさか葛本君の方に行ったってことはないだろうし。はぐれたのか、それとも先にカラオケに向かったのだろうか?

 

「まぁいいか」

 

 三年生が戻ってくるまでは、皆思い思いに楽しめばいい。

 私はそれ以上考えるのを辞めて、かき氷を一つ買う事にした。

 やっぱり夏はかき氷だよね。

 

**

 

「えー! 一色マネもう帰っちゃうのー!? カラオケ行こうぜカラオケ!」

「花火が上がるのだってこれからだぜ? 早すぎね?」

「ごめんね、うち門限厳しいから……」

 

 あの後しばらくして、再び三年生チームと合流し、私達はカラオケ会場へと向かった。葛本君の姿はない。深く考えないようにしよう……。

 私は合流したカラオケ組に少しだけ挨拶をして、帰宅を告げる。

 引き止める声が上がるが、我が家には門限があるのだから仕方がない。

 確かに花火が上がる前に帰るっていうのは私自身どうかとも思うけど、このままここに居ても花火が上がる頃にはカラオケ中だろうから音も聞こえないだろうしね。

 

「なら仕方ないか……んじゃ俺駅まで送ってくから」

「あ、部長ずりぃ! 祭り組はずっとマネージャーと一緒だったんだろ? ここは俺が!」

「いやここは三年に譲れよ!」

「ああうん、いいよ、大丈夫。一人で帰れるし折角なんだから皆で楽しんで?」

 

 今にもケンカを始めそうな男子部員たちを制して、私がそう言うと分かりやすく何人かが肩を落とした。

 

「じゃあ、また新学期にね」

 

 結局、葛本君は帰ってこなかったし、麻子ちゃん達の姿も見えないままだけど……先にカラオケに入ってるのかな?

 まぁこれ以上関わってもろくな事にはならない気がするし良いか。と私はそう結論づけて、皆に手を振る。すると誰かがスゥっと大きく息を吸う音が聞こえた。

 

「全員整列!」

 

 突然の大声に、私は思わずビクリと肩を震わせた。

 その声の主は健大君。元部長のその言葉を合図に、他の部員たちが姿勢を正し、私の前に並び始める。え? 一体何?

 

「一色マネージャー! 三年間サッカー部を支えてくれて……ありがとうございました!」

「「「ありがとうございました!!」」」

 

 十人以上の男子による突然の立礼。

 戸惑う私、そして何事かと集まってくる野次馬。

 それはまるで試合が終わった後の一礼のようだった。

 ああ、そうか。

 ここで私の試合は終わるんだ……。

 そう思うと、次に私が取るべき行動が自然と理解できた。

 

「──こちらこそ、ありがとうございました!」

 

 私は三年間この光景をずっと後ろから見ているだけだった。

 いつもは対戦相手に向けられる、全力で戦った相手に向かう敬意と謝辞が。今私に向けられている。

 ならば私もしっかりと向き合おう。

 こんな私を慕ってくれた皆への敬意を忘れてはいけない。

 そう思って私は深く深く頭を下げた。

 それはほんの数秒、だけどそこには三年分の重みがある。

 

 いつしか、ギャラリーからは拍手が送られる私達は少しの照れくささを残しながら、ゆっくりと頭を上げる、次に視線があったときには皆笑顔だった。

 色々あったけれどサッカー部に入って……マネージャーをやっていてよかった。 

 これからは、もうこのメンバーで何かをすることは無いけれど、私はきっと今日のことを忘れないだろう。

 

「それじゃ私行くね。皆は楽しんでね」

「ばいばーい! 一色マネー! また二学期に会おうー!」

「いろはすー! 好きだー!」

「俺もだー!」

「俺も大好きだー!」

「受験頑張って下さい!」

「いつでもサッカー部に戻ってきてねー!」

 

 止まない声援が、私の背中に何度も何度も投げかけられる。

 恥ずかしいという思いが強かったが、同時に少しだけ泣きそうにもなった。

 こういうのを青春っていうんだろうか?

 私はもうここには戻らないけど、サッカー部に費やした私の三年間は無駄じゃなかった。そう思えた。

 

*

 

 晴れやかな気持ちで歩く帰り道。行きより帰り道の方が気分が良いなんて変な話。

 とはいえ人の流れとは逆方向に進むのは少しだけ骨が折れる。

 前を見ないカップルを避け、正面から走ってくる子供にぶつかられながら、やっぱり駅まで送ってもらえば良かったかも。と、後悔さえ浮かんできていた。

 でも、今更言っても仕方がない、今から皆の所に戻るなんて格好悪すぎるしね。

 

「近道しよ……」 

 

 そう呟いて、見上げたのは少し高台にある小さな公園。

 この公園は立地が特殊で、この祭り会場である出店が立ち並ぶ大通り側から十五段ほどの階段を上った場所にあり、神社と隣接している滑り台とブランコしかない小さな公園を抜けて今度は七段程の階段を下ると、住宅街の小道へと出る。

 少々薄暗い道ではあるが、コンビニが一件あり、そのまま少し歩いていけば駅前に出るのでそれほど危険もない。

 高台にあるという立地から、花火があるお祭りの時には一見すると人気スポットのようにも思えるのだが、周囲を木に囲まれていて、中から花火を見ることが出来ないため利用者は少ない。

 人混みを避けるには最適なルートだった。

 

 私は、上り階段周辺で休憩している人たちを避けながら、なんとか階段を上り、薄暗い公園を見回す。

 利用者が少ない……と思っていたが、辺りには人の気配。

 よく目を凝らして見てみると公園の隅には抱き合っているカップルらしき二人組がいる……。そうか、そういう意味では人気スポットなのか。

 私もいつかこんな風に誰かと人目を忍んで……なんてことがあるのだろうか。

 そんな風にキスをするカップルを眺めていると。女性の方にギロリと睨まれた。

 そりゃそうだ、じっと見てるなんて失礼だよね。私は慌ててそのカップルから視線をはずし、心の中で謝りながら一気にその公園を抜けてしまおうと早足で歩く。だが、下り階段まであと半分という所で、見知った顔がいる事に気がついた。

 麻子ちゃんと赤星くんだ。なんでこんなところに?

 

「なぁ、そろそろ戻ろうぜ? もうカラオケに集まってる時間じゃね?」

「う、うん。でももうちょっとだけ……」

 

 二人は下り階段すぐ側のブランコに座っており、いま出ていくと確実に見つかってしまう。

 何故かその時私は、怪しい雰囲気を醸し出す二人に見つかってはまずいと、思わず公園中央に立つ木の陰に隠れてしまった。

 いや、見つかっても別にそのまま立ち去ればいいんだろうけど、私あの子に嫌われてるっぽいからなぁ……。

 

「あ、あのね……赤星くん」

「うん?」

 

 私がどうやってこの状況を脱しようかと、考えていると。

 麻子ちゃんが意を決したようにブランコから飛び降り、赤星くんの目の前にたった。

 え……? これってもしかして……。

 

「私……貴方のことが……好きです」

 

 それはシンプルな告白。

 テレビドラマでしかみた事がないようなワンシーンに私は立ち会ってしまったのだ。

 隠れていて良かった。こんな所に出ていったらどう考えたって邪魔者だもんね。

 

「ありがとう、でもごめん。前も言ったかもだけど、俺……一色先輩の事好きだから……」

 

 あー……。これは……私聞いちゃ駄目なやつだったんじゃない?

 二人の前に出ていかなかったのは正解だとしても、それ以外は全部不正解。全然知らない人同士の告白シーンだったらまだ良かったのに……。早くここから立ち去らなきゃ……でも今動けば見つかる可能性もある、しばらくはここで隠れているしかなさそうだ。

 

「で、でもあの人。腐った目の変な男の人家に連れ込んでるの見たし! 怪しい関係かも! それに、この間だって葛本とデート!……した、って噂……もあったし? 絶対赤星くんが思ってるような人じゃないと思うよ?」

「うーん、まあそれは確かに少しショックではあるけど。俺もう転校するし? 最初から諦めてるっつーか、どっちにしろ駄目なんだろうなぁって思ってるからなぁ……。遠距離恋愛とか出来る気がしないだろ?」

 

 腐った目の変な男というのはセンパイの事だろうか? そうなんだろうなぁ……。

 しかし連れ込んでるって……家庭教師だって説明したはずなんだけど……? なんだろうこのムカムカする感じ。

 いや、まぁ確かにセンパイの目は腐ってる。それは私もわかってるんだけど……。

 

「わ、私なら頑張れるよ! 毎日電話するし、バイトして毎週でも会いに行くし! それに、赤星くんが望むならなんだって……!」

「……ごめん。それはそれで、なんつーか……重い」

「……っ!!」

 

 それはわかりやすい拒絶。そして、絶望。

 それまで高まっていた麻子ちゃんの気持ちが、まるで空気の抜けた風船のようにしぼんでいくのが遠目でも分かった。

 

「じゃ、じゃあ、私にチャンスとかって……ないのかな?」

「ごめん。ぶっちゃけ、浅田とそういうの想像できないんだわ。っていうか俺さ……今日もなんだけど浅田の顔見ると一色先輩の事探しちゃうんだよな。正直一色先輩に近づくために浅田と話してたみたいな所もあるし……だからやっぱごめん」

「……それじゃぁ……私……なんのために……」

 

 繰り返される「ごめん」に。麻子ちゃんはとうとう言葉をなくしてしまった。

 っていうか赤星君最低だ、断るにしてももっとマシな言い方があるだろう。

 ちょっとお説教をしてあげたい気分になるけど、状況が状況だし、出ていくことは出来ない。

 

「まあ、ほら、俺二学期からいなくなるし? 浅田ならいい男すぐ見つかるよ」

「……」

「そろそろカラオケ行こうぜ? 部長からめちゃくちゃLIKE来てる」

「……ごめん、後から行くから……先、行っててくれないかな……」

「……んじゃ俺先行くけど、絶対来いよ? 俺のせいで浅田が来なかったなんて言われたら何されるかわかんないからな。っていうか例の部訓もあるし、俺殺されるかもな」

 

 赤星君はそう冗談めかしていいながら、振り返りゆっくりと祭りの喧騒の中へと消えていく。

 

「……違う……あの部訓は……いろ……ため……私の……」

 

 残された麻子ちゃんはブツブツと何事か呟き、やがて、自らの頭をガシガシと掻きむしり始めた。

 折角気合を入れていたであろうセットは見るも無残に崩れ、今はまるで寝起き姿のようだ。

 

「なんで……なんでみんなみんな一色一色一色いっしきいっしきいっしき……!!」

 

 呪詛のように紡がれる私の名前。

 怖い……。っていうか、これ私が悪いの? 私が何かしたつもりはないし、どうすることもできなくない?

 もし麻子ちゃんの好きな人が違う人だったり、振られた理由が別の事だったなら、私は迷わず飛び出して、彼女を抱きとめただろう。

 でも、麻子ちゃんだって曲がりなりにも恋敵である私に、自分が振られた所を見られたくなかったはずだ。

 だから例え私が理不尽だと思っていても絶対に今、ここにいる事を気取られてはいけない。

 そう考え、私はその場にしゃがみ込んだ。

 

*

 

 それから数分、私は息を殺し麻子ちゃんが動くのを待った。さっきから蚊が凄い。早くこの場から逃げ出したい。でも出られない。せめて反対側の階段の方まで移動してくれれば……。

 

 そう思いながら、チラチラと麻子ちゃんの方を覗いていると、その願いが通じたのか、次の瞬間麻子ちゃんは突如スッと立ち上がり、フラフラとまるで幽霊のようにゆっくりと歩き始めた。

 助かった、あそこまで行ってくれれば……!

 まるで赤星くんの足跡を辿るように歩く麻子ちゃんを視線で追う。

 ゆっくり一歩一歩進む麻子ちゃんは、とても辛そうだ。その姿はまるで振られたという現実を踏みしめているようにも見える。

 だけど私には何も出来ない、いつまでもこうして彼女を見ているのも辛いし、いい加減この状況から脱したい。

 だから私は気が急いて、麻子ちゃんがお祭り会場側の階段を一段降りたのを確認したところで、当初の目的通り公園を抜けてしまおうと立ち上がり、動き出してしまった。

 だが、それがいけなかった。

 下り階段まであとほんの一歩、というところでパキリと足元で何かが折れる音がした。それが小枝だったのか、はたまた子供が忘れていった玩具だったのかは判断がつかない。

 でもその音がした直後に、背筋に寒いものが走るのを感じて、思わず振り返ったことだけは覚えている。

 そこには無表情で泣きながらこちらを見つめる麻子ちゃんがいた。 

 

「あんたなんて居なければ良かったのに……っ!」

 

 それは決して大きな声ではなく、独り言のような口調。

 この距離では決して届くはずのない声。

 だけど何故かそれはまっすぐに私の耳へと届き。

 思わず気圧された私は、一歩後ずさった。

 後ずさってしまった。

 そこに地面はないのに──。

 

 階段の一段目を思い切り踏み外し、そのままスローモーションのように麻子ちゃんの顔が見えなくなっていくのを感じながら、私は倒れていく。

 

 慌てて出した足は自らの体重を支えきれずにグキリと悲鳴を上げ。

 横から伸ばした手は地面を捉えきれず、体を数度階段に打ち付けながら、私は転がるようにして地面に投げ飛ばされる。

 痛い痛い痛い!!

 

 時間にしてみればほんの一瞬。

 だけどとても長い時間、何度も階段と衝突し、最後にドンっと大きな音を背中で聞いた所で、私の体は止まった。

 どうやらここが地面のようだ。

 でもあまりの痛みに目も開けられない。

 ああ、足が痛い、腕が痛い、背中が痛い。

 誰か……助けて……。

 

 だがそれを言葉にすることが出来ず、ただ痛みに耐えていると、ふと人の気配を感じた。

 その人は慌てた様子で何かを喋りながら私の方へと駆け寄ってくる。

 誰だろう? 誰でもいい、助けて下さい。お願いします。

 

「だい…………ぶ……すか? ……って一色!?」

 

 もしかして頭を打った? それとも幻聴?

 何故かその人からはセンパイの声が聞こえ、私は顔をしかめながらゆっくりと目を開く。

 その瞬間、遠くからドンっという音が聞こえた。

 どうやら花火が始まったみたいだ──。




また長い……。
今回彼女の動機がある程度見えたかもしれませんが、ここからまた本編に関わってきます。
またストレスが貯まる展開が続くかもしれませんが、この山を乗り切れば雰囲気も大分変わってくると思いますので、浅田麻子編完結までもう少しお付き合い頂ければと思います。

p.s
来週、再来週あたりは古戦場なので……更新遅れたら察してください(震え声)


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第29話 八幡の夏祭り

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。皆様からの新着通知が私の原動力です!

俺ガイル三期のPVキター!!
という喜びの一万文字超えです!(白目)
決して切りどころが分からなかったとか、諦めたとかではない……無いんだからね!


 一色家で誕生日を祝って貰ってからというもの、俺は少しだけ浮かれていた。

 どうにも部屋にあるギターを見るだけで口角が上がってしまう。

 いや、格好良すぎじゃね?

 まるで自分の部屋じゃないみたいだ。

 今は貰ったギターケースに入れて壁に寄りかかるようにして無理やり立たせてあるが、こうなってくるとギタースタンドなんかも欲しくなってくるな。

 あれ幾らぐらいするんだ? ちょっと購入を検討してみよう。

 

 もうあれから大分時間もたっているというのに、未だに地に足がついていない感じがするのは流石にやばいとも思いながらも、うまく自分の感情をコントロール出来ないでいる。

 それはまるで新作ゲームの発売日を待つような……いや、違うな。

 なんというか、この感覚は高校に合格した時の感覚に似ている。

 何かが変わるかもしれないと、心のどこかで期待してしまい、事故にあった入学式の朝。

 そう、あの日俺は事故にあったのだ。

 だから、こういう時こそ気をつけなければいけない。

 気を引き締めていこう。

 まぁ何に対してどう気を引き締めればいいのかはわからないけどな……。

 

***

 

 そうして時が経ち部屋にギターがある生活に慣れ始めた頃。

 その日、俺は朝からギターをかき鳴らしていた……ら母ちゃんに怒られた。

 まあ確かにまだ曲も弾けないし、音も安定していないから、不快な音を響かせたことに関しては申し訳ないと思うが、そこまで怒らなくていいんじゃないですかね……?

 いや、昨日残業で遅かったとかはよくわからんけど……あ、はい。やめます。

 朝と深夜はギター禁止、了解しました。だから小遣いは減らさないで下さい。お願いします。

 全く……自分の息子が他所様のご家庭で誕生日を祝ってもらったというのだからもう少し大目に見て欲しいものだ。

 というか……今更ですけど、高一の息子の誕生日に五千円のギフト券ってどうなんでしょう?

 さすがに一万円ぐらい貰ってもいいと思うんですけど……?

 え? 「バイトもしてるし、可愛い許嫁もいるんだからいいだろう」って?

 いや、それ俺が望んだ結果じゃないんだよなぁ……理不尽が過ぎる。

なんつーか、俺に対する扱いが一色家と雲泥の差すぎて逆に安心するまであるわ。

 

 そんな感じで朝からやることを制限された俺は、ベッドに寝転がりながら、ダラダラとスマホを眺めていた。

 今日は一色が打ち上げに行くということで、数カ月ぶりの丸一日休みな土曜日。

 八月ももう半ばを過ぎ暦上は初秋という時期に差し掛かっているというのに、今日も外は暑く、出かける気力は沸かない。

 ならばと取り出したのがこのスマホ。

 当然見るのは今月頭に加入した動画配信サービス。

 そう、八月も半ばを過ぎたという事は、夏休みも残すところ後一週間しかないのだ。つまり初月無料の期間もあと一週間という事になる。

 今のうちに見れるだけ見ておかなければ、なんとなく損した気分になるというものだ。

 そうだ、今日は時間もあるし劇場版を通しで見ることにしよう。

 

 そう思いついた俺は早速プリキュアの項目から劇場版を選択し、小さなスマホの画面で再生を始めたのだった。

 

*

 

 やばい、涙が止まらん。何故こうもプリキュアは俺の琴線に触れてくるのか。

 頑張れープリキュアー! 応援ライトは持っていないが俺が応援しているぞ!

 

「お兄ちゃーん? いる?」

 

 物語もクライマックス、散り散りになっていたプリキュアが集結し始めた頃、突然小町が部屋に入ってきた。

 小町もプリキュアなのかもしれない。

 そう考えるとちょっとテンションが上がる。

 

「あ、いたいた。何してんの?」

「劇場版プリキュア見てる」

「またプリキュア? 好きだねー」

 

 小町はそう言って、俺が仰向けで寝転がりながら持ち上げているスマホを腰を曲げて覗き込むと、そのままベッドにボフンと寝転がり、俺の頭と肩の間にその小さな頭を潜り込ませ、スマホを見上げた。

 なんだ、小町もプリキュアが見たかったのか、言ってくれれば、最初から誘ったのに。

 

「ねぇお兄ちゃん。暇ならお祭り行かない?」

 

 しばらく、二人で漢字の「八」の字のように仰向けでベッドに寝転がりながら、プリキュアを見ていると、小町がそんな事を言い出した。

 あれ? このまま一緒に劇場版二作目、三作目と見ていく流れじゃなかったの?

 

「んー? 今日はこれからプリキュア見なきゃいけないからなぁ」

「これ配信だからイツでも見れるんでしょ! ねぇ行こうよ。二人でお祭りに行けるのなんて今年で最後かもしれないんだよ?」

 

 すると小町は、ガバっと起き上がると、そう言って俺を責めてきた。

 何を言っているんだ?

 別に祭なんていつでも行きたい時に行けばいいだろう。

 え? もしかして地球滅亡でもすんの? 怖い。

 

「祭なんて毎年やってるんだし、気が向いた時に行けばいいだろ」

「……ううん。来年は小町受験でしょ? 再来年はまたお兄ちゃんが受験。その次はお兄ちゃんは浪人中。だから多分小町とお兄ちゃんが二人で行けるのは今年が最後なんだよ」

 

 俺のそんな返答を聞くと、小町はまるで誰かに言われた言葉を反芻するかのように、一言一言指折り確かめながらそんな事を言った。

 いや、待て待て、なんで俺が浪人する事が確定してるの? 現役合格してみせるわ。

 

「考えすぎだろ……」

「考えすぎじゃないよ、仮にそういう未来じゃなかったとしても、小町に彼氏が出来たらもうお兄ちゃんと一緒になんて行かないよ? 絶対お兄ちゃん後悔するよ? 『あー、あの時小町と一緒にお祭り行っておけば良かったー』ってなるよ? それでもいいの!?」

 

 小町に彼氏……出来るんだろうか?

 いや、まぁ確かに小町は可愛い。可愛いが……。なんかまだこいつの隣に男がいる姿っていうのが想像できないんだよなぁ。

 

「それに……お兄ちゃんにはいろはさんっていう人もいるんだし? 小町もお邪魔虫にはなりたくないしね」

 

 こいつは一体何を言っているんだろう。お邪魔虫も何も一色と俺がそういう関係になる事はない。そもそも今年の時点で一色と祭りに行く状況にないのだから、契約が切れる来年以降小町が邪魔者になるなんていう未来がありえない。

 ないのだが……。

 

「まぁ、最後だとは思わんが……じゃあ行くか」

 

 俺が少しだけ思案してそう言うと、小町は「やた!」とベッドから飛び上がる。

 まぁ、プリキュアは今日中に見なきゃいけないものでもないし、もしかしたら……本当に今年が最後なのかもしれない。

 だが、その言葉を口にすると本当になってしまう予感がして、俺は心のなかに留めておくことにした。

 

「じゃあ十五分後に玄関に集合ね、あ、お兄ちゃんはちゃんと着替えて! 小町そんなダルダルのTシャツの人と一緒に歩くの嫌だからね!」

 

 俺は勢いよく部屋を飛び出した小町に「おーう」とやる気のない返事をし、ベッドから起き上がる。まあ、そういう事なら前に買っておいたアレを試してみるか……。

 そんな事を考えながら、スマホを覗き込むと、どうやらプリキュア達は無事敵を倒し、大団円を迎えたらしく、エンディングのダンスムービーが流れていた。

 ああ、一番大事なシーンを見逃した。

 

*

 

「お兄ちゃんお兄ちゃん! かき氷食べよ! この合成着色料たっぷりなやつ!」

「焼きそば! やっぱり屋台といえば焼きそばだよねぇ、このお肉も入ってない大味な焼きそばが屋台って感じがする」

「たこ焼きー、このたこの小ささが堪んないよね! ケチくさい!」

「お兄ちゃーん!」

 

 小町はとても楽しそうに、出店をみては騒ぎ立て、俺に買った食べ物を見せてくる。

 お店の人がすごい目で睨んでくるからやめて欲しい。 

 

「お前、ディスるのか楽しむのかどっちかにしろよ」

「えー? でもこれ昔のお兄ちゃんのマネだよ?」

「俺はそこまで楽しんではいねーよ……」

 

 昔の俺は金も無かったので買うものはしっかり見定めなければと、思っていただけだ。

 実際出店の中には、かなり粗悪な物もあったりするからな。

 あのクジ屋『一等が出たら Thousando(サウザンドー) Button(ボタン)とソフトをセットで!』とか書いてあるけど本当に一等入ってるの? 『千葉県民は嘘つかない』という嘘を爺ちゃんから教え込まれていた頃の幼い八幡君だったら有り金全部つぎ込んでる所だぞ。

 

「ねぇお兄ちゃん、そろそろ花火始まるし、コンビニ寄ってかない?」

「コンビニ? なんで?」

「やっぱ飲み物買うなら出店よりコンビニの方が安いし? あと……トイレにも行っておきたい……」

 

 そう言うと小町はモジモジと身を捩らせた。

 

「トイレなら、会場備え付けのがあるんじゃないの」

「すっごい混んでるんだよ。お兄ちゃんは分からないかもしれないけど、女子トイレは特に」

「そ、そうか、すまん」

 

 なぜだろう、別に疚しい気持ちはないのだが。妹とはいえ女子のトイレ事情を聞くというのはなんとなく恥ずかしくて、つい謝ってしまった。

 

「ちょっと遠いけど反対側の道路にコンビニあるから、そっち行けば多分借りられると思うんだ、だから着いてきて」

「ええ……一人で行ってこいよ……」

「行くまで結構暗いんだよ、ついてきてよ。可愛い妹が心配じゃないの!?」

「しょうがねぇな……」

 

 そうして俺達は人混みを避けるように高台にある公園を抜け、階段を降り。横断歩道を渡った先にあるコンビニを目指した。

 なんか公園内で一瞬、抱き合ってるカップルが視界に入ったような気がするので一言だけ……、リア充爆ぜろ。

 

*

 

「じゃあ小町行ってくるから」

「おう」

 

 小町がコンビニ店員にトイレの使用許可を求めてレジへ向かうのを確認して、俺は店内を物色することにした、お、十番くじやってるな……。

 人気がないのかまだあまり引かれていないらしい。これは数ヶ月後にはワゴン行きだな。

 そんな事を考えながら次にお菓子コーナーを覗き、雑誌コーナーでボロボロの週刊少年シャンプーを手にとった。

 週末のこの時期にまだ残っているのは珍しいな。ああ、合併号か。

 『Panzer(パンツァー)Panzer(パンツァー)』は…………今週も休みだな。目次を確認し、気になっていた作品を幾つか立ち読みして、最後にドリンクコーナーへと移動。

 マックスコーヒーは……ないか。

 そういや、外に自販機もあったな。ここで何か買う前に一回見てくるか。

 俺はそう思いたって、一度改めてコンビニを見回す。

 それなりに時間は経っていると思うが、小町はまだ戻ってきてないようだ。

 というか、よく見たら店内には浴衣姿の女子の姿がチラホラあり、トイレの前に数人並んでいた。もしかしたら小町と同じ考えで、ここにトイレを借りに来ているのかもしれない。

 まあ、深く考えるのはやめよう。下手するとセクハラ認定されかねないからな。

 触らぬ神に祟りなしだ。

 とりあえずLIKEしておくか。

 

【ちょっとマッカン探しに外の自販機見てくる、スグ戻るから外に出ないでコンビニの中で待ってろ】

 

 これでよし、まあそれほど距離も離れてないし大丈夫だろう。

 俺はスマホをポケットにしまい込むと、店員に無言で見つめられながら、コンビニを後にした。

 いや、マッカン無かったらここでちゃんとドリンクも買うんで。

 そうじゃなくても、何かしらは買いますから、本当。

 流石にトイレ借りるだけ借りて何も買わないのは失礼というものだろうからな……。

 

 そうして俺はコンビニを出て、今度は横断歩道を渡らず、数メートル公園側に歩いたところにある自販機へとやってきた。

 マッカンは……ないか。ちょっとショック。

 仕方ない、諦めてコンビニのコーヒーでも買おう。

 そう思い、自販機から視線をそらした瞬間、背後で大きな音が聞こえた。

 花火が始まったのだろうか?

 

 だが、俺が振り返ると、階段の下で浴衣を着た女性らしき人影が倒れ、身を捩らせているのが見えた。

 まさか落ちたのか? この暗闇で足を滑らせたというのは確かに有り得そうだが……。

 周囲に他に人もいないようだし、見捨てるのも忍びないか……。

 俺は左右を見て車が通っていないことを確認すると、そのまま道路を渡り女性の元へと歩み寄っていく。変質者だと思われませんように……。

 

「大丈夫ですか?……って一色?」

 

 苦しげに顔を歪めているその女性の顔は最初はっきりとは見えず、その見覚えのあるシルエットに、つい口をついたが。

 次の瞬間、花火の光で夜空が一瞬照らされ、それが本当に一色だとわかった。

 一色も、痛みに耐えるように閉じていた目をゆっくりと開き、俺を視認したようだ。

 

「セン……パイ……? なん、で?」

「なんではこっちのセリフだ。大丈夫か? ああ、頭打ったなら動かないほうがいいぞ」

 

 しかし、俺の静止を聞かず、身を捩らせながら起き上がろうとする一色に、俺は慌てて腰を落とし、その背中を支える。

 そして俺は改めて一色の体を確認しようとした。だが暗くて細部まではよく見えない。

 

「頭は……多分大丈夫です、そんなにぶつけた感じはないので……。それより……足と背中が……っ痛!」

 

 足と言われて視線を下げると、はだけた浴衣の裾部分は捲られ、一色の白い太ももまでが顕になっているのがわかった、そして一色は両足に何も履いていなかった。落ちた時に脱げたのだろうか?

 なんとなく、じっと見つめてはいけない気がして、目をそらすと近くに何かが転がっているのが見えた。……下駄だ。下駄が片方だけ転がっている。おそらくこれを履いていたのだろう。

 俺は一色の背中を支える手とは反対の手を伸ばし、その下駄を拾い上げる、もう片方は……どこだ?

 

「ってか今日打ち上げなんだろ? こんな所で何してんの? 健史達は一緒じゃないのか?」

「それが、私はもう帰ろうとしてた所で……ちょっと……その……」

 

 何やら一色は言いづらそうにボソボソと口を動かしていたので、俺はそれ以上の追求をやめた。

 まあ無理に聞き出すような事でもないだろう。

 今が帰りで、一色が一人だというならやることもシンプルだ。

 

「……まあいいけど。ほら、下駄片方だけだが落ちてたぞ、これ一色のであってる? 履ける?」

「あ、ありがとうございます。でもちょっとこのまま履くのは無理かもです……血もでちゃってるので」

 

 拾った下駄を渡そうとすると、一色が苦しげにそう言うので、俺はそのまま下駄を預かり、改めて一色の足を見た。

 すると右の足首は赤く腫れており。左足には小石で切ったような細かい傷が数箇所、少しだが血も出ており。膝には大きなアザもできていた。太もものあたりは……それほど目立った傷はないな。どうしたものかと傷を確認していると、突然足を隠された。どうやら一色が裾を戻したようだ。どうしたのかと顔に目を向けると、少しだけ顔を伏せていた。

 ん? よく見れば手からも出血しているか?

 

「他に痛むところは?」

「せ、背中……ですかね」

「指は動くな? 骨が折れたりはしてなさそうだけど……救急車呼ぶか?」

「流石にそこまでは……でも、ママに連絡して迎えに来てもらいたいかもです」

 

 『……ははは』と力なくそう笑う一色。

 いつもの一色からは考えられないほどの弱々しげな態度に俺も気が急いてしまう。

 とりあえず止血だけでもしたいが……。

 

「なあ、なんか血を止められそうな物あるか? バンソーコーとか。ハンカチとか」

「一応この袋の中に両方入ってますけど……バンソーコーじゃなくてバンドエイドですけど」

 

 そういって一色が手に持っていた巾着袋からハンカチとバンソーコーを取り出したので、俺はそれを受け取った。

 しかし、どうでもいい所で地域差がでてしまったな。

 千葉県民で統一されているわけではないのか。俺の学区と一色の学区の間辺りが境目なんだろうか?

 まぁ本当にどうでもいいが、そんな雑談をする程度には余裕が出てきたと、今はプラスに考えておこう。

 

「どっちでもいいよ……とりあえず傷口を洗わないとな」

 

 傷口の周りには細かい砂利が無数に張り付いており、とてもではないがこのままバンソーコーを付けられる状態ではなかった。

 とはいえ、この辺りには水場がない。

 最近は公園の水飲み場も使用不可になってるしなぁ……。仕方ない、ここは誕生日の借りを返すと思って、自腹を切るか。

 

「少し移動しよう、ここじゃ暗いしよく見えない。あそこのコンビニに小町もいるから、そこまで頑張れるか?」

「あ、はい……頑張ります」

「んじゃ、これちょっと預かっとくぞ」

 

 そう言ってバンソーコーとハンカチを尻ポケットに突っ込むと。

 一色の肩を持ち上げ、立たせようとする。

 だが、一色は立ち上がろうと片膝立ち状態になった所で、そのまま力なくへたり込んでしまった。

 

「あはは……ちょっとスグには立てないかもです」

「仕方ないか……ちょっと待ってろ」

 こういうのは俺のキャラじゃないんだがなぁ……。

 俺は一度スマホを取り出し、小町にメッセージを送る。

 

【今からそっち戻る、悪いんだけど水買っといてくれるか?】

 

 すると今度は即座に既読が付き【りょ】というスタンプが返ってきた。

 どうやら今なら小町も手が空いているようだ。

 よし、これで一手間稼げた。

 俺はスマホをポケットにしまうと、今度は一色に背を向けるようにしてしゃがみこむ。

 

「え……? センパイ?」

「ほら、乗れ」

 

 一色が目を丸くして、固まってしまったので、俺は少しだけ語気を強めてそういった。

 

「で、でもほら、それはちょっと流石にあざとすぎじゃないかなー? って……思うんですけど……」

「別にやりたくてやってるわけじゃねーよ、歩けるなら置いてくけど、立てないんじゃないの?」

 

 俺の問いかけに、一色は一瞬「う……」と言葉をを詰まらせ、しばらくウンウンと頭をひねっていた。

 よっぽど恥ずかしいのだろう。

 まあ俺だって出来ることならやりたくはない。

 だが現状では他に良い案が思いつかないのだ。

 

「どうする? オンブが嫌なら抱えるか? それともやっぱ救急車呼ぶ?」

「い、いえ、オンブで! オンブでお願いします。でも……変な所触らないでくださいよ?」

 

 一色は決心したようにそう言うと、おずおずと膝立ちの姿勢になり、遠慮がちに俺の肩に手をかける。

 思っていたより小さいな……。

 

「し、失礼しまーす……」

 

 ゆっくりと一色の体が俺の背中にのしかかり、女子特有の柔らかい感触と匂いが俺の理性を容赦なく攻撃してきた。

 だが、これは救命活動だ。幼い頃に小町をおぶった記憶を思い出せ。比企谷八幡。邪念を捨てろ、お前ならやれる、立ち上がれ、立ち上がるのだ。うおおおおお!

 

「……重」

 

 これは言い訳っぽく聞こえるかもしれないが、一色の事を特別重いと思ったわけではない。

 なんとうか、一色のオブられ方が下手なのだ。

 想像していた幼い頃の小町にしたオンブと今の一色のオンブでは、あまりにもその体重に差がありすぎたというのもある。

 立ち上がった瞬間、俺の口から思わずそんな言葉が漏れてしまったのも不可抗力と言えよう。

 

「あー!! 重いって! 重いって言った! 下ろして! 下ろして下さい!」

「あ、こら暴れんな! しょうがないだろ、変な姿勢なんだから」

「うう……もうお嫁に行けない……」

 

 暴れる一色の恨み節を聞きながら俺はバランスを整える。

 でもな? 一色が悪いんだぞ?

 変な所を触るなと言われたので、太ももの下に手首、手の甲をかませる形で無理やり持ち上げている状態なのに、浴衣だからか恥ずかしがって足もさほどこちらに回してくれず、俺が立ち上がった瞬間胸の部分を反らし、今は俺の腰と一色のお腹の辺りしか接触していないのだ。

 一色の体重のほぼ全てが俺の手首に掛かっている。こんな状態で人間を運ぶという苦労も理解して欲しい。

 これは決してオンブではない、組体操だ。

 しかも今からこの姿勢で横断歩道を渡らなければならないのだという。

 やっぱやめておけばよかった……。

 早くも後悔。

 

「なぁ、もっと体重預けてくんない? 不安定なのは自分でもわかるだろ?」

 

 俺がそういうと一色は渋々という感情を隠そうともせず、少し逡巡した後に俺にゆっくり体重を預けてきた。だが今度はその胸と俺の背中の間に何か硬いものが当たったのが分かる。

 どうやら巾着袋を間に挟んだらしい。

 まあ、それはいいか。とにかくコンビニに向かおう。

 決して『残念だ』なんて思ってはいない。これは人命救助なのだ。いや、本当に。

 

「ん?」

 

 そうして、ようやく一歩歩き出そうとした瞬間、ふと誰かに見られているような気配を感じて、俺は一色が落ちてきた階段の上をチラリと見上げた。

 だが当然のようにそこには暗闇が広がるだけで誰もいない。……気のせいか?

 

「センパイ?」

「いや、なんでもない。んじゃ行くぞ。しっかり掴まってろよ」

「……はーい」

 

 先程までと比べると随分大人しくなった一色がそう言うのを確認すると、俺はゆっくりと足を進めた。

 急に黙られるとそれはそれで対応に困るのだが……何か話したほうがいいのだろうか?

 だが、気の利いた話題も思い浮かばず、静寂の中、ドンドンと花火が打ち上がる音だけが聞こえてきた。

 目的地まではほんの十数メートルという所だが……ああ、信号が赤だ。どうやらタイミングも最悪らしい……。気まずい。

 

「……あれ?」

「ん? どした? なんか忘れ物?」

「あ、いえセンパイ……香水か何かつけてます?」

 

 突然一色にそんな事を言われ、俺の心臓が跳ねるのが分かった。そうか、この距離だと流石にバレるのか。

 

「いや、そんな大層なもんじゃねぇよ……普通の制汗スプレーだ……」

 

 そう、実は俺は今日初めて、制汗スプレーというものを使っていた。小町の見えない所で。

 変に『色気づいてる』とか『格好つけてる』とか思われるのも嫌だったので黙っていたのだが。無香料って書いてあったし小町に何も言われなかったから、気にするほどじゃないと思ったんだがなぁ。

 一体この事に一色はどんな感想をもつのだろう?

 あまり辛辣な言葉ではありませんように……。

 

「……センパイは、そういうの……使わないほうがいいと思いますよ……」

 

 だが、俺が何かキツイことを言われるのだと、少しだけ身構えていると。一色は何か考えるように一拍置き、そう言って、首に回していた手の力を強めた。

 どういう意味だろう? 『お前にはそんなの似合わねーよプギャー』と言うことだろうか?

 まあ、心配しなくても、今後も定期的に買おうとは思ってないがな……。それにもうすぐ夏も終わる。

 

 お、信号が青に変わった。

 あれ? 足元になんか落ちてる……ってもう片方の下駄か……まじか、一回しゃがまなきゃ駄目じゃん……。

 

*

 

「あ、お兄ちゃんどこ行ってたの!……っていろはさん!?」

「あ、あはは。小町ちゃんヤホー」

 

 一色をおぶったままコンビニまで戻ってくると、俺と一色の姿を確認した小町が慌てて駆け寄ってきた。

 中で待ってろって言ったと思うんだが……まあ今はそれどころじゃないか。

 

「そこの階段から落ちたらしい」

「ええー!? 大丈夫なんですか!? ってうわ、本当だ、痛そう……」

「それで、傷口洗いたいんだが水買っておいてくれた?」

 

 俺がそう言うと小町はビクリと背中を震わせた。

 ん? なんか俺変なこと言ったか?

 事前に連絡もしておいたよな?

 

「あ、あはは……買うには買ったんだけど……」

 

 小町がおずおずとコンビニ袋を俺の目の前に広げてくると、一色も俺の頭越しにその中身を覗いていた。

 その中に入っているのは、アイス。メロンソーダ。そしていろ○す……梨味。

 

「なんで梨味とか買っちゃうの? 水って言ったよね?」

「だって……だって小町も飲んでみたかったんだもん! 傷口洗う用だなんて聞いてないし……」

 

 まぁ、確かに用途を言わなかった俺も悪いか。

 しかし、どうしよう、この辺りに水場なんて無いし、もう一本買うしか無いのか……というかそもそも一本で足りるのか?

 

「ちょ、ちょっと待ってて!」

 

 だが、そんな事を考えていると、小町が慌てた様子でコンビニの中へと戻っていった。

 買い直しに行ったのだろうか?

 俺と一色は何事が置きたのかと一瞬視線を交わすと、小町を目で追う。すると小町は自動ドアを抜け、そのままレジへと向かうと店員と二~三言言葉をかわし戻ってきた。

 

「OK、そういう事なら裏にある、水道使っていいって!」

「お、ナイス小町」

「えへへ」

 

 そうして俺達はコンビニの裏手に周り、水道の蛇口を見つけた。

 正面に比べると随分暗いが、まあこの際贅沢は言えないだろう。

 お、台車もあるな。車椅子代わりに少し貸してもらうか。

 

「んじゃ、一回下ろすぞ? 小町、そこの台車持ってきてくれ」

「はーい。ささ、いろはさん、ここ座って下さい」

「あ、小町ちゃんありがとう……痛っ!」

「大丈夫ですか?」

「う、うん。大丈夫大丈夫」

 

 一色は台車の上に座ると、痛みに顔を歪めながらそういった。

 少し元気がでてきたと思ったが、やせ我慢だったか。

 

「痛いですか?」

「う、うん。ちょっと……でもさっきよりは大分楽になってきたから」

「んじゃ、とりあえず傷口洗い流すぞ、砂利落とすから足出せ」

「へ?」

 

 俺が水道の蛇口を捻り水温を確かめながらそう言うと、一色は何を言われたのか分からないという表情で聞き返して来た……面倒くさいな。

 ん? 知らない間に手に何かついている……って一色の血か。よく見るとズボンにも血の跡が点々とついていた。一色をオブッた時についたのだろう、まあ仕方ない。

 

「ほら、いいから足出せ。あー、小町あと消毒液とかあったら買ってきくれるか?」

「ラジャ!……あ、でも小町もうお金ない……」

「……心配しなくても俺が出すよ」

 

 オズオズと足を伸ばしてくる一色を横目に、おっさんから貰ったほぼ新品の財布を小町に渡すと、小町は「うわ、お兄ちゃんが大人みたい……」と驚愕の表情を浮かべ俺を見て来た。

 まあ出費は痛いがこれは先週の……うん、先週の借りみたいなもんだ。

 バンソーコーはさっき一色から預かったのがあるが……これ足りるか?

 よく見ると枚数はそれほど多くない。小さな可愛らしいデザインのものがたった四枚。

 はぁ……。

 

「それと包帯とガーゼなんかもあったら頼む。あ、そうだ小町。これの事なんて言う?」

 

 俺はそのままコンビニへ行こうとしていた小町を呼び止め、そう告げると先程一色から預かったバンソーコーを取り出し、小町に見せた。

 まあ聞くまでもないか、小町は当然「バンソーコー」派だろう。

 この場で地域差が出るのは一色ぐらいなものだ、我ながら大人げない事を聞いてしまった。

 

「へ? サビオ?」

 

 だが、小町は一瞬不思議そうな顔をしてそう言うと、コンビニへと走っていった。

 なんで兄妹間で地域差が生じてんだよ……。もしかしてウチ時空歪んでんの?




また八小って言われそうだけど、ちゃんと八色要素も入ってるから(震え声)
というわけで八幡がいろはと合流するお話でした。

冒頭にも書きましたが、原作の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の三期の情報がついにでてきましたね。
アニメ三期のタイトルは
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 完』
放送開始は2020年春だそうですが。
11月19日には原作最終巻も出るみたいだし色々楽しみです。

あれ? というかあなた様は騎空士様では……? こんな所で何を……?
古戦場始まってますよ……?
(2019/11/14~2019/11/21


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第30話 祭りの後の静けさは

祝!『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』14巻発売&完結
渡航先生、お疲れさまでした!
とても素敵な作品をありがとうございました。

アニメ三期も控えていて、再び盛り上がる俺ガイル界隈。
これからも俺ガイルを応援し、拙作は先生の作品の二次創作としてリスペクトを忘れずに、執筆していければと思っています。

※11/24 もみじさんの登場(到着)シーンを修正しました。


「よし、こんなもんか」

 

 センパイがそう言って私の足から手を離すと、つい数分前まで砂利で汚れ、血が滲んでいた私の足は見違えるほどにキレイになっていた。

 さすがに痛みは完全には消えていないが。血が出ていた部分は白い包帯が巻かれ、捻って赤く腫れている部分には濡れたハンカチで冷やした上で固定されており。先程よりも随分楽になっている。

 

「センパイってこういう事も出来るんですね……結構意外かも」

「俺は基本高スペックなんだよ。ぼっちだから自分で怪我した時でも誰かに頼れないしな」

 

 少しだけ自虐を含めてセンパイがそんな事言うので、私は思わず口をぽかんと開けてしまった。

 気を紛らわせようとしてくれているんだろうか?

 笑っていいのか凄く判断に悩む。

 

「もう、お兄ちゃんは一言多いんだよ……。こんな兄ですけど、昔は小町が怪我したら手当してくれたりもしたんですよ。これ小町的にポイント高いです」

「へぇ、ちょっと羨ましいかも」

 

 私は一人っ子だったから、そういう関係は本当に羨ましいと思う。

 私が治療する相手といえば大体は部活の男子。

 まあ大きな怪我の時は保健の先生とかに任せるけど。たまにちょっとした擦り傷とかを作ってわざと私に治療させに来る子とかもいたから、あんまり治療行為にいい思い出無いんだよね。

 でも、小町ちゃんみたいな妹がいたら、素直に手当してあげたいし、守ってあげたいと思う。

 

「んで、これからどうする? 迎えに来てもらうなら連絡した方がいいんじゃないの?」

「あ、そうですね、ちょっと連絡してみます」

 

 そんな事を考えていると、センパイが徐ろに立ち上がりそう言うので、私は慌てて巾着袋からスマホを取り出した。

 センパイと小町ちゃんが一緒なら、もうちょっとお祭りを回ってみたいという気持ちも湧いていたけれど、今この状況で言われても向こうも迷惑だろうしね。

 

「あ、ママ? あのさ、悪いんだけど今日ちょっとトラブルがあって……車で迎えに来てくれないかな?」

「いろはちゃん? どうしたの? トラブルって何かあった?」

 

 そう聞かれ、私は出来るだけ簡潔に状況を説明した。

 打ち上げは切り上げたこと。近道をしようとして階段から落ちたこと。センパイに助けてもらったこと。

 当然だけど麻子ちゃんがどうこうという話は無し。あの時の麻子ちゃんの顔は今思い出しても背中が震える。ほんの一瞬だったけど本当に殺されるんじゃないかって思った……。

 でも落ちたのは完全に私の不注意。だからセンパイにも何も言ってない。

 しかし、怪我をしたという私の話を聞いたママの声色は、最初こそ心配そうに慌てた様子だったけど、その後は徐々に楽しげな口調に変わっていった。

 

「へぇ~? 八幡くんと? 偶然ねぇ~?」

「何その言い方、もしかして何か疑ってる? 本当に偶然だからね?」

「えぇ、ちゃんと信じてるわよぉ? 偶然、偶然だものねぇ。中学最後の打ち上げを早めに切り上げて八幡くんと偶然にでしょう?」

 

 これは絶対信じてないやつだ。私がセンパイに会うためにわざと打ち上げを切り上げたと思われてるんだろう。

 でもここで私がムキになればママの思うツボなのも分かってるから、我慢我慢。

 

「とにかく! 迎えに来てくれるの? くれないの? 本当に痛くて困ってるんだけど!」

「行く行く! 行きまーす! 準備してすぐ行くから八幡くんに『待ってて』って言っておいてね♪」

 

 何やら楽しそうなママのその言葉を最後に、私は通話を切った。

 スマホをしまいながら、はぁと溜め息をつく。

 ふと横を見ると、小町ちゃんが「あはは……お迎え来てもらえるみたいで良かったですね」と愛想笑いを浮かべていた。センパイも呆れ顔だ。

 どうやら会話全部聞こえていたらしい……。ああ、穴があったら入りたい……。

 

*

 

 それからママの車が到着したのは、小町ちゃんとお祭り談義に花を咲かせた三十分ほど後だった。

 

「お待たせー。いろはちゃん大丈夫?」

 

 コンビニの駐車場に止められたうちの車からママが降りてくる。

 いや、降りなくていいんだけど……。

 

「うん、センパイが手当してくれたから……ってなんでママ浴衣着てるの!?」

「ジャジャーン。どう? 八幡くん、小町ちゃん? 私もまだまだいけるでしょ?」

 

 そう言うと、ママは得意げにその場で一回転した。

 ファッションショー気取りなんだろうか……もうちょっと自分の年を考えて欲しい……。

 

「あ……そっすね……」

「もみじさん可愛いー。小町もこんな浴衣着てみたいです!」

「うふふ、ありがとう♪ よかったら今度うちにある浴衣着てみる?」

 

 ほら、センパイも呆れてるじゃん。小町ちゃんもそんな見え透いたお世辞言わなくていいからね? 調子に乗るだけなんだから……。

 これは一言文句を言ってやらねば、そう思って立ち上がったのだが、忘れていた。今怪我をしているんだった。

 思い切り捻った右足に力を入れてしまい、中腰になったところで、バランスを崩す。

 あ、駄目だ……転ぶっ! そう思い衝撃に備えて目をつむったのだが、衝撃はいつまでたってもやってこない。

 

「大丈夫か?」

「あ……ありがとうございます……」

 

 気がつくと、センパイの右手が私のお腹に回され、私はセンパイに支えられるようにして立っていた。

 またしても助けられてしまったようだ。う……まずい、顔赤くなってないよね?

 

「ほら、歩けないんならちゃんと掴まっとけ」

「は、はい……ありがとうございます」

 

 今度はセンパイの肩を借りて、ゆっくりと車の方へと歩いていく。

 なんだか今日はやけにセンパイが近い。

 

「はい、いろはちゃん。乗って」

 

 車の前まで行くと、ママが車の後部座席のドアを開き、私を誘導した。

 でも、素直に『ありがとう』とはいいたくなかった、だってママはニヤニヤしながら私を見ていたから。

 帰ったら絶対文句言ってやる……!

 キッと一度ママを睨みつけ、私はセンパイに支えられながらゆっくり歩いていく。センパイはどうやらママのそんな様子に気がついてないみたいだ。

 センパイはそのまま私をエスコートして車の後部座席に乗り込ませると、少しだけ居心地悪そうに目を泳がせ、一歩後ずさる。

 私達の間にほんの一瞬だけ沈黙が走った。

 

「あ……ありがとうございます。すみません、何から何まで」

「お、おう。……あー……えと、んじゃ、俺らも帰るか。行くぞ小町」

 

 だが、そう言われた当の小町ちゃんは返答に困ったように「あ、え、あ……うん?」と喘いでいる。

 考えてみれば、私のせいで大分時間を取らせてしまっているんだよね。

 ママが来るまでずっと話してたし。この時間じゃもう花火も終わっちゃってる……小町ちゃんには悪いことしちゃったかも。

 

「えー? やだー、八幡くんも小町ちゃんも乗っていって? ちゃんと送っていくから」

 

 すると間髪入れずにママがそう割って入った。

 送るっていうことはセンパイの家に寄るってこと?

 あれ? ママはセンパイの家知ってるの?

 

「いや、でも……」

「ほら、女二人だけじゃ夜道も心配だし? 男の子がいてくれると助かるのよ」

「いや、車だし問題ないでしょ……」

「ええー? ほら夜道で暗いし、こういう時って不安で事故に遭うと思うの。そんな時相手のドライバーが怖い男の人だったら、やっぱり女二人じゃ太刀打ちできないじゃない?」

「……事故る前提の車に乗りたくないんだよなぁ……」

 

 最後のは聞き取れるか聞き取れないかギリギリの声量だった。

 でも、もっともだと思う。そんな車私だって乗りたくない。

 というか、あんまりセンパイを困らせないで欲しい。本当に恥ずかしいんですけど?

 

「ね? お願い。いろはちゃんの治療のお礼だと思って乗って行って? ちゃんと安全運転で送るから。ね? いろはちゃん?」

 

 やられた。このタイミングで振られたら断りづらい。

 いや、断る理由も特にない。そりゃ今日はセンパイにお世話になったし? 何かお礼はしなきゃとは思ってるけど……。

 

「……迷惑じゃなかったら、一緒に乗って帰りませんか?」

 

 またしてもママがニヤニヤとこちらを見ている。

 これじゃママの思うツボだ。

 でも、今の私にはそう言う以外の選択肢はなかった。

 だって……もうちょっとだけ一緒にいたいと思ってしまっていたから……。

 

「……いいのか?」

「もーうお兄ちゃんは面倒くさいなぁ。ほら、折角いろはさんももみじさんもこう言ってくれてるんだし、お言葉に甘えちゃおうよ」

 

 少しだけ考え込んだ素振りを見せ、センパイの背中を押しながら小町ちゃんがそう言うと、ママが勢いよく助手席の扉を開ける。ん? 助手席?

 

「はーい、決定! 八幡くんは助手席ね。小町ちゃんも早く乗って乗って!」

「あ、はい。お邪魔します!」

 

 そうしてセンパイが助手席、小町ちゃんが後部座席の私の隣へと乗り込んでくる。

 別におかしいことではない。

 この車は五人乗り。前に二人、後ろに二人というのは自然な流れだと思う。

 でも、こういう時はいつも私が助手席に乗る事が多い。

 お爺ちゃんとお婆ちゃんが乗るときでさえ、私が助手席だ。

 例外はパパが乗る時ぐらい。

 まあパパがいる時はパパが運転する事が多いから、助手席はほとんど私専用と言ってもいい。

 だから最初、私が後部座席に乗せられた時は、単に足を伸ばせるようにだと思ってたんだけど……。

 もしかして、最初からセンパイを自分の隣に座らせようとした?

 

「ママ……もしかして最初から狙ってた?」

 

 私の問にセンパイも小町ちゃんも質問の意図が分からないという表情を浮かべている。

 だが、ママは一度ミラー越しに私を見ると。

 

「んー? なんの事かわかりませーん♪」

 

 そう言って楽しげに笑った。はぁ……頭痛い。

 今日もママは絶好調だ。

 

「はーい、それじゃ皆シートベルトちゃんと締めたわね? 出発しまーす♪」

 

 ママの楽しそうな号令を合図に、車はゆっくりと発進する。

 はぁと大きなため息をつくと、小町ちゃんが「なんか、大変そうですね」と小声で労ってくれた。

 

「本当大変だよ……」

 

 せめて今日はママがこれ以上変な事をしませんように……。

 

*

 

 出発してから数分。

 車はほとんど進んでいなかった。振り返れば、まだお祭りの出店の光がわずかに見える。

 というのも元々お祭りで一部の道路が封鎖されている状態だった事に加え、今は花火も終わり、帰宅ラッシュと重なって渋滞が起きていた。

 

 しかし、そんな普段だったら文句の一つもいいたくなるような状況でも、車内は賑やかだった。

 最初に小町ちゃんが今日のお祭りでの出来事を語り、次にママが昔話を交え私の恥ずかしい過去を語る、今は私がそれに抵抗するようにママの恥ずかしいエピソードを話している番だ。

 話題はポンポンと飛び、話が途切れることはない。

 まるでここがお祭り会場なのかと思うほどに、車内は楽しさで満ち溢れている。

 でも、センパイはこういう時は基本聞き専だ。話を振ればきちんと返してくれるけれど率先して話をするという事はあまりない。

 まあ女ばっかりだから少し喋りにくいというのもあるのかもしれない。

 そもそも下手なこと言うとママがスッポンみたいにセンパイに食いついていくから、話しづらいっていうのもあるかも……。今度フォローしておこう……。

 あれ? というかセンパイ、スマホいじってる……もしかして私の話、退屈だった? 

 

「センパイ? 何してるんです?」

「ん? ああ、健史からLIKEが来てた」

 

 私が話を止めてセンパイに声をかけると、センパイはそう言ってスマホの画面を見せてくる。

 健史君から? なんだろう?

 私と小町ちゃんがセンパイのスマホを覗き込むとそこには【カラオケなう。比企谷さんも今度一緒にどうですか?】という文字の後に沢山の写真が送られてきていた。

 

「ぼっちに宛ててリア充アピールとか、最近の嫌がらせは凝ってるよな」

「いや、それ別に嫌がらせじゃないと思うよ……? っていうかソレを嫌がらせだと思うのお兄ちゃんぐらいだからね?」

 

 確かに、健史君だし嫌がらせという事はないだろう。

 恐らく純粋にセンパイと遊びに行きたいと思っているのだ。

 でも、そんな事より私には少しだけ気がかりなことがあった。

 

「センパイ、その写真って麻子ちゃんって写って……いえ、ちょっと見せて下さい!」

「ん? お、おう?」

 

 私はセンパイのスマホを借りると、小町ちゃんと一緒に並んでみながら、そのまま写真を拡大する。

 健大くんもいる、健史くんも、赤星くんは……いる……。でも……。

 麻子ちゃんの姿がどこにも見当たらない。

 

「浅田がどうかしたの?」

「いえ……もしかしたら私と一緒で先に帰ったのかもです。スマホありがとうございました」

 

 私はそういってセンパイにスマホを返すと、センパイは不思議そうな顔をしてスマホを確認していた。

 

「これ、一色の学校の打ち上げだろ? そっちにも送られてるんじゃないの?」

「え?」

 

 言われてみればその通りだ。

 センパイにそう言われて、慌てて自分のスマホを取り出す。

 真っ暗なスリープ画面を解除し、LIKEのアプリを開くと部活のグループチャットにセンパイに送られたものとは比べ物にならない数の写真が貼られていた。

 全然気付かなかった……。

 

 だが、やはり麻子ちゃんの姿は映っていない。

 画面をスクロールしていくと【いろはす帰宅後の地獄の男カラオケ】というメッセージ。そしてそれに対して冗談を言い合う男子達の応酬がある。

 

「やっぱり……」

「何がやっぱりなんですか?」

 

 小町ちゃんが私の呟きを聞いて、心配そうに聞いてくるので、私は慌ててスマホを仕舞う。

 

「あ、うんやっぱり、映ってない子がいるなぁ……と思って」

「え? なんですか? 心霊写真的な事ですか?」

「あはは、違うよ。私みたいにカラオケに行く前に帰った子がいるんだなーと思っただけ」

 

 そういえば葛本君も映ってなかった気がするな。

 三年生にどこかに連れられて、その後三年生は帰ってきたけど、もしかして帰らされたのかな?

 まあいいか。

 

「……ってうわ……あれ、なんですかね?」

 

 そんな事を頭の片隅で考えていると、不意に小町ちゃんが窓の外を指差した。

 

「え? 何? どれ?」

「あれですあれ!」

 

 小町ちゃんが指差したのは、誰も歩いていない反対側の歩道の辺り。

 だが、誰もいないと思ったそこに、何かが動いているのが見えた。

 その何かは手を前に伸ばし、足を引きずるようにして前に歩いている。

 映画によくでてくるゾンビみたいな歩き方だけど。人だ。多分。

 

「もしかして……おばけ!?」

「本当何かしら……? 八幡くん、もみじこわ~い♪」

 

 夢遊病にでも掛かっているかのようにユラユラと動くその人影は一歩一歩前に進み。

 ついに、街灯の下まで進むと、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせる。

 

「ゾンビ……?」

「なんか濡れてません? しかも上は裸? カッパですかね?」

「いや、普通に人だろ……」

 

 そう、その人影は濡れていた。

 街灯の下で照らされた一瞬、思い思いにママと小町ちゃんがアレが何なのか、自分の予想を言い合う。

 だが私にはそれが何か……誰か分かってしまった。

 葛本くんだ……!

 

 そう、葛本君がどういうわけか、びしょ濡れで上半身裸のまま、歩道を歩いているのだ。

 傍から見ると明らかに不審者だけど。心なしか泣いているようにも見える……。

 三年生達に何かされたんだろうか……?

 あれ……ってことは、もしかして私のせい?

 

「変質者じゃないの? 警察よんどく?」

「や、やめておこうよ。ほら、ママ信号青だよ、進んで!」

「え? ええ……?」

 

 彼の身に何があったかは分からないし、可哀想だとは思う。

 でも申し訳ないけど今の私は誰かを助けられる状態じゃない。

 せめて今日のことが彼の一生のトラウマになりませんように。

 それだけを祈って。私は彼を見なかったことにした。

 

*

 

「到着ー」

 

 それから数十分。車はお祭りの渋滞を抜け。

 ようやくセンパイの家についた……らしい。

 らしいというのは、私はセンパイの家を知らないからだ。

 ここが……センパイの家。暗くて細部まではよく見えないけれど。

 車の中から見上げる一軒家はまさに夢のマイホームという感じ。

 お爺ちゃんの家みたいに和風じゃない。

 なんていうか、結婚したらこんな家に住みたいな。そう思える家だった。

 あ、いや、センパイと結婚したいとかじゃないけど。

 って……誰に言い訳してるんだろう私。

 

「それじゃいろはちゃん。ママは八幡くんと小町ちゃんのご両親に挨拶してくるけど。どうする?」

「へ?」

 

 突然ママにそんな事を言われ、私はパニックになる?

 気がつくと、私以外のメンバーは全員すでに車から降りていた。

 挨拶? センパイの? ご両親に?

 え? したほうが……いいんだよね?

 でもなんて言えばいいの?

 いつもお世話になってます? い……許嫁のいろはですって?

 恥ずかしすぎない!?

 生徒です……はおかしいか。家庭教師でお世話になってます。でいいのかな?

 

「あー……お気持ちはありがたいんですけど、どうやらうち両親でかけてるみたいですよ……」

「え? そうなの?」

「ええ、小町とお兄ちゃんが出かけたんで、二人もどっかで夕食食べてるらしくて……あと一、二時間は帰ってこないそうです」

「あらー、残念だったわね、いろはちゃん?」

 

 うん……と答えそうになって慌てて口を噤む。

 いやいやいや、残念ではない。

 むしろちょっとほっとした。ママは一体私に何を言わせようとしてるの?

 

「それじゃ、仕方ないか、ご両親への挨拶はまた今度ってことでよろしく伝えておいて貰える?」

「ええ、うちも今度はちゃんと家にいるように言っておきますので!」

「よろしくね、小町ちゃん。あ、そうだ。小町ちゃん……」

 

 これで解散か、そう思ったのも束の間。

 何やらママと小町ちゃんが玄関の前で立ち話を始めた、また長くなるだろうか?

 もしこの間にご両親が帰ってきたりしたらどうしよう……いや、別にどうしても会いたくないってほどではないけれど、やっぱり色々心の準備ができていないから、できれば今日は早めに退散したい。

 そんな事を考えていると不意に車の窓が叩かれる音がして、私はつい身構えてしまう。

 

「一色」

 

 だが、そこにいたのはセンパイだった。

 センパイが中腰の姿勢で遠慮がちに車の窓をノックしている、私は慌てて窓を開けた。

 

「何か忘れ物ですか?」

「……浅田となんかあった?」

 

 それは突然目の前に突き出された核心。自分の体がビクリと跳ねるのが分かった。

 なんで? もしかしてセンパイあの時、何か見てた?

 それとも私何か変なこと言ったっけ?

 

「え……えぇ? なんでですか?」

 

 少しだけ警戒する。いや、別に見られてたからどうっていう事でもないはずなんだけど。何故だろう。その時の私は私のせいで麻子ちゃんが好きな人にフられたという事実をセンパイに知られたくないと思っていたのだ。 

 

「いや、その……もしかして。階段から落ちたんじゃなくて突き落とされたとか……」

「へ?」

 

 だが、センパイの口からでたのはそんな、予想の遥か斜め上を行った言葉。

 一瞬だけ思考が停止する。

 一体センパイは何を言っているんだろうか?

 突き落とされた? 私が? 麻子ちゃんに? 

 

「──っぷ。あはは! なんですかそれ!」

 

 私は思わず吹き出してしまった。

 

「……っぷ、突き落とされたってそんな、あはは! センパイ昼ドラの見すぎじゃないですか?」

「──っ! なんとなくそう思っただけだよ、違うならいい」

 

 お腹を抱えて笑う私を見て、センパイはバツが悪そうな顔をしながらそっぽを向く。

 センパイの顔色はよく見えないが、きっと赤くなっているのだろう。不思議とその仕草が。とても可愛いと思ってしまった。

 

「ああ、ごめんなさい。心配してくれたんですね。ありがとうございます。でも、さすがにそこまで悪い子じゃないと思いますよ」

 

 私は笑いすぎて涙が出た目元を拭いながら、センパイにお礼を言った。

 そう、きっと心配してくれたのだ。

 だって、どうでも良いと思っていたら今センパイがここで私にそれを言う必要はないんだから。

 

「……だと、いいんだがな」

 

 だけど、センパイは少しだけ真剣な顔をして、そう呟くと再びどこか遠くを見つめるように姿勢を正した。

 その横顔に一瞬、見惚れてしまったのは。きっと暑さと痛みのせいだろう。

 私達の間にまた沈黙が訪れた。

 

*

 

「んじゃな、ちゃんと病院行けよ?」

「あ、はい。その……今日はありがとうございました」

 

 ママと小町ちゃんの話が終わると、私達はセンパイの家を後にした。

 センパイと小町ちゃんがいなくなった車内はやけに静かで。

 私は後部座席から、ぼーっと流れる景色を眺める事しか出来なかった。

 

 さっきからママが度々話しかけてくるけれど、「あー」とか「うーん」とかしか返さない私に呆れたのか今はすっかり静かになっている。

 別にママと喋りたくないとかそういうのではない。

 確かにセンパイの前で恥ずかしいことはしないで欲しいと思ってはいるけど。

 今はそういうんじゃなくて、なんというか、ママの言っている言葉が頭に入ってこないのだ。

 

 気が抜けたせいか、少し疲れたのか。なんだか頭がボーっとしている。

 そういえば今日の後半はずっと心臓がドキドキしていた気もする……。

 あれ? なんで私ドキドキしてるの? いつからだろう?

 いつからだっけ?

 

 センパイに足を手当して貰っている時?

 お爺ちゃんや、お父さんとも違う。男の人の大きな手に沢山触られて、ドキドキした。でも、男の人にあんな風に触られてドキドキするのは女の子なら誰だって同じだと思うし、もっと前からだった気がする。

 

 センパイにオンブされた時?

 すごくいい匂いがした、でも、制汗スプレーを使っているせいで、この間のセンパイの匂いとは少し違って、混ざりものみたいな感じがして少し残念。

 いや、まぁそれはいいんだけど。それよりも問題なのはセンパイに『重い』って言われた事。

 凄く恥ずかしかったし、もういっそ死んじゃいたいと思った。

 明日からダイエットしよ……。

 でもほら、バランスの悪い乗り方してた私も悪いし? 多分、その、うん。言うほど重くはなかったはず……。

 思い切り体をくっつけるのが恥ずかしくて、つい巾着袋を私とセンパイの間に挟んだりもしたんだけど……もしかして私の……その……胸の大きさも分かっちゃったかな?

 そんな事を考えてドキドキしていたと思う。

 でも、やっぱりもっと前からだった気がする。

 

 階段の下でセンパイにあった時?

 センパイに心配されている間。私の浴衣の裾が完全に捲れ上がっていて、足の付根ぐらいまで見えてしまっていた。

 暗かったし、パンツまでは見えてないと思うけど……見えてないよね?

 センパイの事だからもし見えてたらもっとわかりやすいリアクションをしてくれると思う。

 でも、見えてたらどうしよう。

 そう思ってたからきっとドキドキした。うん、これも仕方ない。

 

 階段から落ちる前?

 そうだ、あの時、階段から落ちて死んじゃうかもしれないと思って。

 心臓がバクバクしていた。

 そうか、そのせいだ。

 うん、このドキドキはビックリした時のドキドキ。

 きっとまだ私の中にあの時の驚きが残っているんだ。

 

 これは人間だったら誰でもなる当然の生理現象。

 

 だから、これはセンパイに対してドキドキしたわけじゃない。

 だから、これは恋じゃない。

 

 そう、これは恋じゃない、私があんな人のこと好きになるはずない。

 私の理想は、イケメンで、頭が良くて、背が高くて、スポーツが出来て、そこにいるだけで自然と人が集まってくるような彼氏にしたら羨ましがられるタイプの人で……私のことを愛してくれる人。

 だからこれは恋じゃない……。きっと恋じゃない……。恋じゃない……。

 

 ああ、でも頭の中からさっきのセンパイの顔が、月明かりに照らされたセンパイの横顔が消えてくれない。

 階段から落ちた時に、私の体がどこか壊れちゃったのかも……。

 まだ九時前だけど、今日は家についたら……お風呂に入ってそのまま……寝ちゃおう……。

 だから……もうちょっと……家に……つくまでは……が……まん……。




古戦場お疲れさまでした!
オート放置とかいう神機能のお影で、執筆時間もいくらか取れました。助かった。

今回はギリギリ1万文字は超えませんでしたが
次話は少し短めになると思います(予定は未定)

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。
新着通知が入ると作者が喜びます。一言でも二言でも長文でもお気軽に!


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第31話 悪意の届け物

※注意※
今回の第31話以降またオリキャラ:浅田麻子が登場しますが
「浅田麻子やストレス展開が苦手」というご意見をいただきましたのでそれに伴い。
第31話~第37話まで毎日連続投稿したいと思います(2019/11/30~2019/12/06 毎日18:00予約投稿)

浅田が苦手な方、ストレス展開が苦手だという方は
浅田登場回(第31~36話)をスキップしていただくことで幾らかストレス軽減になるのではないかと思います。
その後、第37話(2019/12/06投稿)の前書きには31話~36話までの簡単なあらすじを載せる予定ですので。浅田麻子の登場が終わった第37話以降のお話をお楽しみ頂く事が可能です。

より詳しいことは活動報告
『ストレス展開が苦手な方へ(31話~37話連続投稿しました)』(2019/11/30投稿)を御覧ください。

浅田が出ても特に問題無いという方は、このまま本編をお楽しみ頂ければと思います。
よろしくお願いいたします。


「ちゃん……? いろはちゃ……起き……ついた……よ……」

 

 なんだか遠くの方からママの声が聞こえる。

 ここはどこだっけ……? もう朝なの? うーん、でももうちょっとだけ寝かせて……。

 

「困ったわ……どうしましょう……あ、パパ! おかえりなさい」

「ただいま……ってこんな所でどうしたんだい?」

「それが……いろはちゃん、お祭りの帰りに階段から落ちて足くじいちゃったらしくて、迎えに行ったんだけど。車の中で寝ちゃって起きないのよ」

「階段から落ちたって……大丈夫なのか?」

「ええ、偶然八幡くんが通りかかってくれたらしくてね? 助けてくれたんだって、運命的よねぇ」

「それは良かった。でもそういう事なら、久しぶりに僕がオブッていこう」

 

 んー……さっきから、ボソボソとパパとママの話し声が煩い。

 あと五分。あと五分だけだから……。

 あー、もうそんなに揺らさないで……。

 

「……よっこいしょ! いろはも重くなったなぁ……」

 

 ああー! まただ! また重いって言った!

 ……センパイ……そういう所本当どうかと思いますよ……?

 もっと女の子に対するデリカシーっていうものをですね……。

 あれ? でもなんでまたセンパイにオンブされてるの?

 ああ、そうか、これは夢だ。さっきセンパイにおぶられていた時の夢を見ているんだ。

 う……でもスッゴイ臭い。

 センパイ、やっぱり変なスプレー使うの辞めたほうがいいですよ。なんだかオジサンみたいな匂いがします。鼻が曲がりそう。

 だけど……不思議となんだか懐かしい感じもする、ゆりかごみたいにユラユラと揺られて気持ちいい。

 

「で、なんでママも浴衣着てるの? 留守番してたんだろ?」

「うふふ、いろはちゃんの着付けしてたら私も着たくなっちゃって。パパへのサプライズ。どう? 久しぶりに袖通してみたんだけど」

「ママはいつだってキレイだよ」

「うふふふ、ありがと」

 

 一瞬チュッという水音のような音が聞こえた気がするが、それがなんなのかは分からない。

 ううー……なんだろう、ツッコまなきゃいけない気がする。

 でも、駄目だ、頭が働かないや。目も開かない……。

 あと十分。十分だけだから……。もう少し寝かせて……。

 

*

 

 そうして次に目が覚めたのは深夜、自分の部屋のベッドの上だった。

 あれ? 私どうやって帰ってきたんだっけ?

 えっと、お祭りに行って、センパイと会って。ママに車で迎えに来てもらって……。

 その後……?

 どうも記憶が曖昧だ。まあいいや、とにかく、汗でベタベタして気持ち悪いからシャワーだけでも浴びてしまおう。

 ああ、浴衣もグチャグチャだ。

 

「痛っ……!!」

 

 ベッドから降りようとしたら足に激痛が走った。

 そうだ、忘れてた、足挫いてたんだった。

 私は右足を庇うように壁沿いに家の中を歩き。

 ちょっとだけ無理をして、シャワーを浴びる。

 センパイが巻いてくれた包帯を取っちゃうのはなんだか少しだけ勿体ない気がしたけど……まぁ、しょうがないよね……。

 臭い女の子だと思われる方がつらい。

 

「いろはちゃん、そんなに歩いて大丈夫なの?」

 

 パジャマを着てお風呂場から出ると、ママが心配そうにそう聞いてきた。ママももう浴衣ではなくパジャマを着ている。

 起こしちゃったかな?

 ふと時計をみれば深夜一時。もうこんな時間なんだ、なんだかちょっとお腹も空いてきた気がするけど……我慢してもう一眠りしよう。

 

「うん、さっきよりは大分マシかな。とにかく今日はもう寝るよ」

「そう? 何かあったら起こしていいからね?」

「うん、ありがとう。おやすみ」

 

 まあしばらく休んでいれば痛みも収まるだろう。

 そう思って私は再びベッドに入る。

 でも、中途半端に寝てしまったせいか、中々寝付けない。

 本当だったら今日は家庭教師をしてもらう日だったし、少し勉強でもしようかな……。

 私はベッドに横になりながら参考書を読むことにした。

 あ、でもやっぱり眠いかも……。

 参考書……重い……。

 

**

 

 朝になると怪我を心配したパパに無理矢理連れられ、病院に行く事になった。日曜でもやってる大きな病院を目指して再び車に乗る。

 日曜だというのに患者さんは多くて、結構待たされた。

 病院なんて大げさだと思ってもいたけれど、実際に先生に見てもらうと「傷跡は残らないだろう」と言われて一安心。

 やっぱり傷は残したくない。

 特に顔には怪我がなくて本当に良かった。もし顔に残るような傷ができたらと思うとゾッとする。本当に良かった……。

 だけど同時に「少なくとも一週間は安静にしてなさい」とも言われて、そこから私の引きこもり生活が始まるのだった。

 

 と言っても元々受験生だし、夏休みも残す所一週間で遊びに行く予定もない。

 宿題は概ね終わっているけど、なんとなく模試が終わってから気が緩んでいたし、とりあえず一週間はしっかり勉強をしよう。

 まだ誰にも言っていないけれど、ちょっと考えている事もあるしね。

 そういえば模試の結果、来週ぐらいには返ってくるのかな?

 九月ぐらいっていってたっけ? まあ届かないものは仕方がない、とにかく今は出来ることをしよう。

 分からない所や、何か気になることがあれば家庭教師であるセンパイにLIKEするとすぐ……とは言わないが教えてくれるし。

 退屈になったら小町ちゃんに連絡すると面白い話が聞ける。

 あれ? これ別に外に出なくても私やっていけるんじゃない?

 

*

 

**

 

***

 

 そんな風に、ある意味では堕落した受験生活を送ること一週間。

 週末の土曜日には、足の痛みもすっかり取れ、私は動きたくて仕方がないという衝動に襲われていた。

 でも、今日はセンパイが家に来る日でもあり、ママは「先週のお礼もしなくちゃね」とまたしても朝から張り切っているので『先週迎えに来てくれたお礼にセンパイが来るまでどこかに行こう』とも言えない。

 結局その日も夕方まで一人寂しく勉強をするしかなく、ただひたすらに英単語を覚えていると。

 不意に部屋の扉がノックされるのが聞こえた。

 

「いろはちゃん。ママちょっとお豆腐買い忘れちゃってたみたいだからスーパー行ってくるわ。お留守番よろしくね」

 

 センパイが来るまで後三十分という所で、ママがそんな事を言いながら部屋に入ってくる。

 お豆腐? という事は今日はカロリー控えめな料理なのだろうか?

 ダイエット中なのでとてもありがたいけど……。

 スーパーって駅前のだよね?

 

「あ! それなら私が行く!」

 

 私は咄嗟に小学生のように手を上げ、立候補をした。 

 スーパーぐらいだったら、リハビリの散歩代わりに行ける距離だし、動きたい衝動を解消する気分転換に良さそうだ。それに……。

 

「でも、八幡くんもうすぐ来るわよ? それに足の事もあるし……」

「駅前のスーパー行くだけでしょ? それぐらいなら大丈夫だって」

 

 急いで買い物を済ませれば、駅前でセンパイと合流できるかもしれない。

 もちろん今日はセンパイが来る日なので既に身支度も出来ている。

 私はママの制止を振り切り、バッグを持ってその中にスマホと財布を入れると、そのまま玄関へと向かった。

 

「いってきまーす」

「気をつけてね、痛んだらすぐ戻ってくるのよ? 連絡くれれば迎えに行くから」

「はーい」

 

 全く、ママは心配性だ。先週は私を出汁にしてでもセンパイと話をしようとしていた癖に今日はやけに絡んでくる。

 あ、もしかしてママもセンパイを迎えに行こうとしてた? ありうる……。

 さっさと家を出て正解だったかも。

 そんな事を考えながら、早足でスーパーを目指す。

 うん、足も痛くないし、もう治ったのかも。センパイの手当が良かったのかな?

 そうだ、何かお礼考えておかないと。あ、今日は私もお夕飯に一品作ってみようかな。

 でも今日の献立が分からないし時間もないか……。

 センパイに少しママの話し相手になってもらって、その間に何か作る?

 そういえば、ママはお豆腐使って何する気だったんだろう?

 夏だしシンプルに冷奴? それともお味噌汁用?

 うーん……。家を出る前に聞いておけばよかった。

 

*

 

 スーパーにつき、店先のカゴを取って店内へと入ると、涼しい……というより寒いぐらいの冷房が効いていて、体がブルリと震える。もう一枚上に羽織ってくればよかった。

 まあ急げば問題ないか。

 とりあえずお豆腐は……っと。そういえば絹ごしか木綿かも聞いてなかった。

 私は一度スマホを取り出し、ママにLIKEでメッセージを送る。

 だが、しばらく待っても返事が来ない。料理中だろうか?

 どうしよう?

 まあいいか、少し店内を見てまわろう。

 

 私はカゴを持ったまま店内を歩き始め、商品を物色し始める。

 何かセンパイへのお礼になりそうな物もあるかもしれないしね。

 お肉──はしばらく控えたい。先週からダイエット中だから。

 というのもセンパイの一言は今もなお私の心に響いているのだ。いつか絶対『軽い』って言わせてみせるんだから……!

 でも今日も多分お肉なんだろうなぁ……。いっそお豆腐を使うならお豆腐のハンバーグとかはどうだろう? センパイには物足りないかな? 男の人って凄い食べるよね……。

 野菜──はやっぱり沢山取りたい。先にサラダを食べると満腹感が得られるからダイエットにも最適だっていうし、食物繊維は取らないと。

 アイス──ダメダメ、暑いけど我慢我慢。あー、でもパ○コならセンパイと半分コできるし、半分ならそんなにカロリーも気にならない……? ……ってダメだってば! 危うく、誘惑に負けちゃいそうになった 気をしっかり持って私!

 牛乳──よりは豆乳かな、胸を大きくするのにもいいって聞くし? あ、生クリーム買っていこうかな。センパイにプリン作ってあげられるかも。あー、でも今からじゃ間に合わないか……。今回は保留で。

 お菓子──はもってのほか。いつもならお菓子コーナーは軽く覗いていくけど、今日は近づきません。見ちゃうと欲しくなっちゃうからね。

 

「あ、ごめんなさい!」

 

 そんな風に考え事をしながら店内を見て回っていると、突然現れた女の子と肩がぶつかってしまった。

 咄嗟に謝ったが、相手の女の子は私には目もくれずそのまま走り去っていく。

 急いでたのかな?

 キャップを深く被っていて顔は見えなかったけど、あの制服はうちの中学……だよね?

 そういえば、今日は野球部の試合をやっているって誰かから聞いた気がする。応援の帰りかな? ……まあいいか。

 周りを見ていなかった私も不注意だったのだ。

 あまり気にせず、今は買い物に集中しよう。

 あ、ママから返事が来たみたい。

 えっと、何々? 【絹ごしでお願いします】と。りょうかい。

 

*

 

 思ったより買い物に時間がかかった。

 結局カゴの中に入っているのはお豆腐が二つだけ。なのに時間がかかったのはお店の中をグルグル見て回っていたから。

 まずいまずい、もうすぐセンパイが来ちゃう。

 レジに並びながら、気持ちばかりが焦る。

 もう駅に着いてるかな? 普段より電車一本遅れてたりしないかな?

 そんな事を考えながら「いらっしゃいあせー」と少し気だるそうな声を出す美人のバイトのお姉さんに買い物カゴを預け、ぱぱっと支払いを済ませる。

 ああ、そういえばママからお金預かってくるの忘れた。後で請求しなきゃ。

 そもそも今金欠なんだよね。お祭りでは節約していたつもりだけど、ああいうお店って普通のより高いし……。あ、センパイに買ってもらった包帯の代金とかも払わないと……。

 うう……。私もバイトしたいなぁ。

 

 「ありがとーございましたー」という、声を聞きながらレジを抜け、買い物かごの中身をビニールに入れて更にそれをバックに入れる。ふと時計を見れば時刻は十六時五十五分。

 まずい。

 私は慌てて、買い物かごを所定の位置へ戻し、早足で買い物中のお婆ちゃんの横をすり抜ける。

 こんな事なら余計な事考えず、お豆腐だけ買って帰るんだった。これじゃ何のために来たのかわからない。

 あ、いや。単にお豆腐を買いに来たんだけど……。

 うん、センパイのお迎えはついで、ついでだから。

 ……ってまた誰に言い訳してるんだろ。なんだか最近こういう事が多い。

 まるで私の生活の中心がセンパイになってしまっているかのような錯覚を覚える。

 でもこれは私が悪いんじゃなくて、主に周りのせい。

 本当、センパイが来てからというもの、一色家の私のヒエラルキーは下がる一方だ。

 先週重いと言ったことも含めて今日は少しセンパイを懲らしめてやろう。

 ふふ、今から楽しみだ。

 

 少しだけ頬が緩むのを感じながら、私はスーパーの出口へと向かう。

 あれ? スーパーの前に立ってるのは……さっきぶつかったあの子……?

 制服とキャップというかなり特徴的なファッションなので間違いはないと思うのだけど……。

 だが人混みと深く被っているキャップのせいで顔がうまく見えない。なんだか知り合いに似ているような……。

 そう思いながら自動ドアを抜けると。ふいに誰かに肩を叩かれた。

 

「ちょっとアナタ、止まりなさい」

「はい?」

 

 振り向くとそこには、スーパーのエプロンをつけた、ふくよかなおばさんがいた。店員さんだろうか?

 おばさんは、目元は優しくたれているが、どうにも妙な雰囲気を漂わせている。

 

「会計、済んでないものあるわよね?」

「へ?」

 

 何を言ってるんだろう?

 会計済んでないもの? お豆腐しか買ってないはずなんだけど。誰かと間違えてる?

 私は慌ててレシートを確認しようと鞄の中に手を入れた。

 だが、おばさんは私のその手を掴むと、声を低くして私の耳元で喋り始める。

 

「証拠を隠そうとしても駄目よ? おばさんちゃぁんと見てたんだからね。さ、お仲間はどこにいるの?」

 

 お仲間? 一体何を言っているんだろう。

 全く話が見えない。私を誰かと勘違いしているのだろうか?

 

「え? いや、あの私なにも……」

「さ、とにかく事務所の方まで来て頂戴」

 

 おばさんに凄い力で手首を握られとても振りほどけそうにない。

 周りのお客さんからは「何事か」と好奇の目に晒されながら、私は「あの、困ります、何かの間違いです」と必死で抵抗する。だが、おばさんは聞く耳を持ってはくれなかった。

 誰か……!

 

 その時、さっきの女の子と視線があった気がした。

 あれ……? あの子やっぱり……。

 だが、その女の子は、驚いたように顔を伏せて走り去っていく。

 それはほんの一瞬の出来事。

 私はおばさんに手を引かれ、無理矢理方向転換させられ、視界から彼女が消える。

 もう一度振り返った時にはその子の姿はなくなっていた。

 

*

 

「さて、じゃあかばん出してもらっていい?」

 

 私はおばさんに引っ張られながら、スーパーのスタッフ用通路を抜けた先、長いテーブルが置いてある部屋のパイプ椅子に座らされると。おばさんが高圧的にそう言ってきた。

 先程からこのおばさんが何を言っているのか全く理解ができない。

 でもきっと何かの勘違いだ。

 ちゃんと説明すれば分かってもらえる。

 その時の私はそう思って、おとなしくおばさんの言うことに従うことにした。

 とにかく今は時間が勿体ない、早く帰らないとセンパイが待っている。

 

 私は言われるままテーブルの上にバッグを置き、買った商品を取り出す。

 お豆腐を二つ。

 お財布、スマホ。ポーチ。

 

「他には?」

「いえ、荷物はこれだけです」

「そう、じゃあ私が鞄の中を見てもいい?」

「どうぞ」

 

 おばさんはまず私のバッグの中身を確認する。

 私はその間に財布からレシートを取り出しておこうと、財布を開けた

 

「ちょっと! 今確認してるんだから勝手に触らないで!」

「す、すみません」

 

 何を注意されたのかも分からず、私はそのままレシートを机の上に放るように手を離し、その手を膝の上においた。

 とりあえずチェックが終わるまでは動かない方が良さそうだ。

 大丈夫、万引なんてしてない。大丈夫。

 すぐに勘違いだと分かる。

 そうしたら、帰ってセンパイにこんな事があって遅れたと笑い話をするのだ。

 大丈夫、大丈夫。

 

「……これはなぁに?」

「え?」

 

 だが、おばさんが私のバッグから取り出したのは見たこともない小さな四角い何か。

 お菓子の類だろうか?

 見たこともないソレを、おばさんは何故か私のバッグから取り出したのだ。

 思わず私の体に緊張が走る、心臓がバクバクと早くなる。

 待って、待って、私なにかした?

 落ち着いて、家から持ってきたものかもしれないし、そう、間違って入ったのかもしれない。落ち着いて。

 

「おばさん、昨日万引Gメンの番組見てたから分かっちゃったのよ。ピーンと来ちゃったの。ピーンとね。片方はお菓子売り場に近寄らないように不必要にウロウロして、もう一人の子はお店に入ってきたと思ったら、やけにキョロキョロして、その後一直線にアナタとぶつかって出ていくんだもの。ああ、この子達万引してるなぁって。しかも買ったのはお豆腐だけ。カモフラージュにしてももう少しうまくやらないとねぇ? 本当、最近の子って何考えてるかわからなくて怖いわぁ。さ、全部バレてるんだからお友達も呼んでちょうだい? ああ、あと親御さんと学校にも連絡するから連絡先もね、それとも先に警察を呼んでほしい?」

 

 混乱する私に、おばさんが早口でそう捲し立てて来た。

 私にぶつかってきた?

 それはつまり、さっきスーパーの前にいたあの子……ってこと?

 その二人は凄い偶然で、もしかしたらたまたま似たファッションの別人なのかもしれない。

 でも、もし同一人物だとしたら……深く帽子を被っていて顔はよく見えなかったけど、あの胸の大きさは間違えようがない。

 犯人は……。

 

「……麻子ちゃん……?」




いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。

えー……後書きを見てくださっているという事は今回のお話を読んでいただいたという事です……よね?
ありがとうございます。

さて、新たな事件が勃発しました。
この展開で解決まで一週間更新だと絶対モヤモヤすると怒られると思ったんですよねぇ……。まあ連投は連投でお叱りをいただくかもしれませんが……。私に出来る精一杯ってことで一つ。

というわけで解決編まで一気に駆け抜けますのでよろしくお願いいたします!
『37話まで連続投稿だと、週イチ投稿でも夏休み編が年内に終わるというのは嘘だったのでは?』
と気付いたそこのアナタ!

君のような勘の良いgうわなにをするやめ


※この物語はフィクションです。万引は絶対にやめましょう。


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第32話 走れ八幡

第31話~第37話まで連日投下中です!(2019/11/30~2019/12/06)
なんのこっちゃわからないという人はお手数ですが第31話の前書きを御覧ください。

本日二日目!


 もみじは激怒した。

 

「全く、あの子どこまで行ったのかしら?」

 

 いや、激怒ってほどではないな。

 プンプンとか、プリプリとかいう擬音が顔の横からでているかのような、可愛らしい怒り方だ。まあそういうポーズと言った方が正しいだろう。

 俺に見せるための。

 いや、見せられても困るんだけども。

 

「ごめんなさいね、八幡くん待たせちゃって」

「あ、いえ。お構いなく」

 

 二週間ぶりに一色の家に来ると、何故か一色は留守だった。

 もみじさんによると、スーパーへ豆腐を買いに行ったらしい。

 それが俺が到着する三十分ほど前の事。

 先週の怪我の事もあるし、少し心配していたのだが、外出しているという事はそれほど大きな怪我ではなかったという事なのだろう。

 

「一色の足の方はもう大丈夫なんですか?」

「ええ、お医者さんには一週間安静にって言われてたんだけど、もうすっかり痛みもひいてるみたいよ。今は動きたくて仕方ないみたい」

 

 良かった、俺の応急処置が悪くて治りが悪くなったとか言われても困るしな。

 とりあえず一安心という奴だ。

 いや、別に心配して早く来たとかではないぞ? 断じて無い。

 時計の針は十七時ジャストを指している。やはりいつも通りの時間だ。

 

「八幡くん。ありがとうね」

 

 突然もみじさんに優しくそう語りかけられ、思わず頬が火照るのが分かる。

 俺はなんとなく二人きりでテーブルに座っているという状況が恥ずかしくなって、視線を逸らすようにして、出されていたアイスコーヒーをぐいっと飲み干した。カランと氷が傾く音が鳴り、一瞬の静寂が俺たちの間を包む。気まずい……一色、早く帰ってこねぇかな……。

 

 だが、次にその空間に訪れたのは。ドアが開く音ではなく。機械音だった。

 これはLIKEではなく、通常の電話のコール音だ、しかし当然俺のスマホではない。

 俺のスマホ、電話かかってきたこと無いからな。

 な、泣いてなんかいないんだからね!

 最近はLIKEの方の通知は多いんだから! ほぼ一色からの質問だけど。

 

「あら私だわ。ちょっとごめんなさいね」

 

 どうやらもみじさんのスマホらしい。

 もみじさんは手帳型のケースを開き、スマホの画面をいじると。髪の毛を払ってから耳元に当てる。何故かその仕草が妙に色っぽく感じてしまったのは内緒だ。

 

「はい、もしもし? ……はい、いろははウチの娘ですけど……はい……えっ!?」

 

 突然もみじさんが大きな声を出したかと思うと、一瞬視線が交差する。

 だが、次の瞬間、もみじさんは立ち上がり、俺に背を向けて、スマホを俺から隠すように小声で話し始めた。

 

「はい、イヤ、でもうちの子はそんな……はい……でも……証拠は……ええ……すぐ行きます」

 

 何かのトラブルだろうか?

 もみじさんは何やら慌てた様子で通話を切ると、今度はバタバタと身支度を整え始めた。

 

「何か、あったんですか?」

「ええ……その……何かの間違いだとは思うんだけど……いろはちゃんが……万引で捕まったって……」

「は?」

 

 一色が万引?

 何故? なんのために?

 それは俺の勝手なイメージでしかなく、意味がないことだと分かりつつも、ありえない、と思ってしまった。

 正直あいつの事をよく知っているわけではない。

 まだたった四ヶ月程度の付き合いだ。

 だから、実はそういう事をする奴だったという可能性は十分にありえる。

 だが、それでも一色がそういう事をしている姿が俺には全く想像出来ないし、このタイミングでそんな事をする意味がわからなかった。

 

「ごめんなさいね、私ちょっと駅前のスーパーまで行ってくるから、少し待っててくれる?」

「え? あ……はい。でも、俺も行きましょうか? それか外で待ってますけど」

 

 流石に他所様の家に一人残されるのは少し気まずいし、もし事件だったとしたらどれぐらい時間がかかるのか分からない。

 少なくとも今、一色が一人で脱出できない状況であることは確かだろう。

 正直に言えばもみじさん一人で行かせる事にも若干の不安はあった。 

 ……さすがに口には出さなかったが。

 

「あ……うーん、どうなのかしら。そうしてくれると私も助かるんだけど。まだ状況も分からないしスグ戻ってこれるかもしれないから、やっぱりお留守番頼めるかしら? いろはちゃんも八幡くんには見られたくないって思ってるかもしれないし……」

 

 だが、もみじさんはそう言って、俺を制し、そそくさと出かける準備を続ける。

 俺に見られたくない……なるほど、その可能性はあるな。

 万引で捕まった状況なんて、俺でなくても見られたくはないだろう……。

 万引じゃないにしろ、悪さをして捕まった姿というのは人に見られたくないものだ。多分。

 母ちゃんに怒られた後とか小町に会うと気まずいもんな。

 あまり出しゃばるのも良くないか……。

 

「……分かりました。じゃあ少し待たせてもらいます」

「ええ、じゃあ申し訳ないけど。後お願いね」

 

 そう言って、もみじさんは慌ただしく玄関へと向かい。俺はその姿を見送った。

 しかし……万引ねぇ……。

 なんだろう、何かすごく変な感じがする。

 何がどう、とは分からないが。

 どうにも一色が万引をする……というより、その状況に違和感を覚える。

 人間誰しも過ちを犯す事だってあるだろう。

 女子の持つ二面性というものもある程度理解はしているつもりだ。

 冷静に考えてみれば、受験のストレスが溜まっていてつい衝動でやってしまったという事はあるのかもしれない。

 だが、一瞬そう思っても、やはり一色が万引をしているという状況に納得出来ない俺がいた。

 

「今はとにかく待つしか無いか……」

 

 情報が少なすぎるな。

 もみじさんが呼ばれたという事は少なくとも万引に近い何かはあったのだろう。

 万引という言葉がでたからには、物証がなければ親を呼び出されるようなことはまずされないはずだ。つまり、恐らく一色は購入していない品物を持っていた。

 ではなぜか?

 本当に盗んだ? それともたまたま荷物に紛れ込んでしまった?

 後者なら防犯カメラでチェック出来るのではないだろうか? 映っていなかったのか?

 ああ、ダメだ、憶測で考えても埒が明かない。

 そもそも一色の身内ではない俺が動くことにメリットがないのだ。

 周りが騒いで、状況が悪化するなんていうのはよく有ること。

 所詮俺は他人。

 これが小町なら話はまた違ったのだろうが……この場では俺はどこまで行っても他人。

 身元引受人としても不適当。

 結局振り出しに戻る、待つしか無い……か。

 

 そうして、ほとんど空になったアイスコーヒーをすすり、意味もなくスマホをいじっていると、突然スマホがブルブルと震え始めた。

 開いていたブラウザアプリは最小化され、LIKEが通話の許可を求めてくる。

 画面に表示されている相手の名前は『健史』

 なんだろう、また試合のお誘いとかだろうか?

 普段ならこの時間は家庭教師の授業中だ。緊急でもない電話に出るという事があってはならないし、こいつの相手をするのは面倒くさい。

 それに、今はそれどころじゃないしなぁ……。

 とりあえず無視しようか……そう思ったのだが。

 

 何故か俺の指は、俺自身の考えに反して通話ボタンをスライドさせていた。

 何故そんな事をしたのか、この時自分でも理解できなかった。

 まあどうせ待つだけの身だ、少し時間つぶしに付き合ってもらおう。そう思っていたのかもしれない。それが正解だったのか、不正解だったのかは繋がってしまった今ではわからない……。

 しかし、そんな余計なことを考える間もなく、通話が繋がるなりスピーカーから大音量の健史の叫び声が聞こえてきた。

 

「比企谷さん! どうしよう! 麻ちゃんがいなくなっちゃった!」

「は?」

 

*

 

 スマホの向こうにいる健史の言葉は何一つ要領を得なかった。

 

「麻ちゃんが」「走って」「逃げた」「どうしよう」「見つからない」

 

 聞き取れたワードはこの五つぐらいだ。

 まあ察するに『浅田とケンカして、走ってどこかへ逃げられた。どうしよう見つからない』

 その辺りなんだろうが……。正直、どうでもいい。

 こっちも今はそれどころじゃないのだ。

 

「あのな、悪いんだけどこっちも今取り込んでるんだ。話は簡潔に、痴話喧嘩なら他所でやってくれ」

「ちが、違いますよ! 痴話喧嘩なんてしてませんし! そもそもケンカをしてません! スーパーで見かけて合流しようと思ったら話す間もなく居なくなっちゃったんです」

 

 面倒くさい。もう切ってしまおう。そう思っていた。

 こいつの話を聞いていても得るものはないだろう。正直そう思った。

 だが「スーパーで見かけた」という言葉がどうにも引っかかり、俺は通話終了しようとしていた指をスマホから離す。

 

「詳しく話せ。要点だけまとめてな」

 

*

 

 健史の説明によるとこうだ。

 今日は浅田と一緒に、二学期に行う他校でのサッカー部の試合の打ち合わせに隣駅まで行っていた。

 あまりにも暑かったので、自分が被っていたキャップを浅田に被せたら可愛かった。いや、そこはどうでもいい。要点だけ言えといっただろう。

 その後、用事を済ませ、駅まで戻って来た所で健史はトイレへ行くため浅田と離れた。

 なんでも、この暑さで冷たい物を飲みすぎ腹を下したらしい。いや、だからそういう情報はいらん。

 そしてなんとかトイレから戻ってくると浅田の姿が見当たらない。

 もしかして浅田もトイレだろうか? と、少し待ったが。ふと視線を向けた横断歩道の反対側、駅前のスーパーの前でキャップを被っている浅田を見つけ、手を振った。

 だが浅田はスーパーの中をじっと覗いており、健史には気が付かない。最初は誰かが中にいて出てくるのを待っているのかと思ったが、次の瞬間には何かに驚いたように突然走り去っていく。もちろん健史も追いかけようとしたが信号は赤。

 数秒して青になった信号を渡り……なんとか声をかける距離までくると「わ、私のせいじゃないから!」と慌てた様子で浅田はその姿を消してしまった。

 

「とりあえず、今、麻ちゃんの家まで来たんですけど、まだ帰ってないらしくて……どうしたらいいですか? 電話もつながらないし、既読もつかない。何かあったのかな? どうしよう? どうしましょう!?」

 

 『そんな事知るか、放っておけ』いつもの俺のように、そう言ってしまえればどんなに楽だろう。

 だが、そんな事があるはずはないとは思いつつも、俺の中で一つの憶測が働いていた。

 『私のせいじゃない』という言葉そして『一色の万引』

 二つに共通するワード『駅前のスーパー』

 その二つは全く関係のない、ただの偶然なのかもしれない。

 馬鹿げた考えだとも思う。

 だが、俺の中に『今動け』という感覚が響いていた。

 

『八幡、儂が日本にいない間、ちゃんといろはのこと守ってやってくれよ?』

 

 その感覚の原因は頭の中に聞こえるおっさんの言葉……。

 ただの勘違いかもしれない。それならそれでいい。

 だがもし、俺の憶測が正しくて、今動けるのが俺しかいないとしたら……?

 

『……頼んだぞ?』

 

 煩いな、分かったよ!

 おっさんの声が再び俺の頭の中に響く。

 どうせここで留守番をしていても、やれることはない。

 ありえないとは思いつつも、健史の話に乗ることで一色の問題が解決する可能性が万に一つでもあるというならなら、身内ではない俺が……。

 おっさんに……一色家に世話になってる俺が動く……動いていい理由ぐらいにはなるだろう。

 

「とりあえず浅田を探すぞ、浅田が行きそうな場所心当たりはあるか?」

「行きそうな、え……えっと。今日の結果を報告しに一度学校に戻ってみて……あ、部室とか!」

 

 しかし、兎にも角にも浅田を見つけなければ話にはならない。

 浅田が行きそうな場所……健史の言っている場所以外にはないのか……と言っても元々浅田と接点の少ない俺には心当たりが……。

 あった。

 そうだ、心当たりなら俺にもあるじゃないか。

 

「じゃあお前んとこの中学……校門の前に集合な」

「は、はい」

「あまり時間がないかもしれん、とにかく急いで浅田を見つけるぞ」

「え? 時間がないって……?」

 

 健史の言葉を最後まで聞くこと無く俺は通話を切ると、鞄を持ち急いで家を出た。

 あ、でも鍵閉めないと……。って俺持ってるわ……。

 まさか初めて一色家の鍵を使うのがこんな形だとは思わなかった。

 俺は鍵穴に新品の鍵を差し込みロックをかけると、エレベーターのボタンを連打する。

 そんな事をしても早く来ることなんて無いと分かりきっているのに……。

 でも知ってるか? 某蛇のゲームだと連打すればエレベーターはほんの少し早く来るんだぜ?

 

*

 

 柄にもなく俺は走って一色の中学へと向かった。

 この暑い中なんでこんな事を……くそっ。

 もう夏も終わるというのに外はまだ僅かに明るく、蒸し暑い空気が俺に容赦なく襲いかかる。

 以前、一度だけ辿った道を思い出しながら走り続け、ようやく中学校が見えてくると、そこにはすでに健史の姿があった。

 ここに来るのも二回目だな。

 

 校門は相変わらず半分開いており、何かの部活の試合が終わったのか。生徒や応援に来ていたらしき保護者達がチラホラと出てくる。

 相変わらずセキュリティがゆるくて助かるな。

 これなら今俺が入っても然程目立たないだろう。

 

「比企谷さん!」

「おう悪い、遅れたか?」

「いえ、僕もいま着いた所です」

 

 デートみたいなセリフは止めて欲しい。

 デートしたことないけど。

 あ、あるわ。小町と何度もしてるわ。俺デート上級者じゃん。

 って、そんな場合じゃなかったな。

 

「で、そっちの心当たりは?」

「えっと……部室か教室。あ! 図書室かも! 麻ちゃんああ見えて結構読書好きなんですよ」

 

 ああ見えてというのは、どう見えてるのかは全くわからないが。

 こいつもしかして浅田の事バカ認定してんの?

 まあ巨乳は頭悪そうというイメージはあるのかもしれないが……。

 だが、部室にしても図書室にしても俺の心当たりとは違う。

 ならば俺はそこを当たってみよう。

 

「……宿直室ってどこにある?」

 

 そう、以前一色が言っていた。

 マネージャー特権で宿直室の鍵を預かっていると。

 一人になりたい時に使っていたと。言っていた。 

 そしてその鍵は今、一色から浅田の手に渡っているるはずなのだ。

 ならば可能性は有るだろう。

 

「え? 宿直室ですか? えっと……校舎一階の東側の端……花壇の奥の大きな木の裏にドアがあるって聞いたことはありますけど……生徒は入れませんよ?」

「マネージャー特権だよ。まあ説明は後だ、とにかく手分けしよう。健史は教室と図書室の方頼む。俺はここの生徒じゃないんでな、あんまり目立っては動けないから校庭側から探す」

「あ、はい分かりました。でも見つけたらすぐ連絡下さいね?」

「ああ、そっちもな」

 

 健史はよく分からないという顔をして、一度首を傾げたが。

 手分けするという単語に反応し、大きく頷いた。

 そうして俺は健史と昇降口で別れ、校庭側、野球部が後片付けをしている方向へと走り、校舎の東側を目指す。

 

「東側の端……」

 

 花壇の奥、大きな木の裏……。あった。恐らくここだ。

 そこは日も当たらない場所、一般の生徒でもそうそう近寄らないであろう影に隠れていた。

 ドアに着いている小さな磨りガラスから中は見えないが、暗く、人がいる気配はない。やはり俺の考えすぎだったのだろうか?

 だが、ドアノブに手をかけると……回った。

 鍵はかかってない。

 俺はゆっくりと、扉を開き、その中を覗く。

 立地の問題か扉を開けても日は入らず薄暗いままの部屋。

 そこは学校としては珍しい畳が敷いてあった。

 僅かだが靴を脱ぐスペースがあり、流し台と冷蔵庫も着いている、なんというか、古いワンルームのアパートのような作りだった。

 段ボールが幾つか置いてあるようにも見えるが……部屋の角にある大きな影が僅かに動いている……。

 

「浅田……?」

 

 俺が一声かけると、その影がビクリと動いた。

  

「……フミく……比企谷さん? な、なんでアナタがここに居るんですか……!?」

 

 俺の声に驚き、立ち上がったその影は確かに浅田麻子だった。

 どうやら、無駄足にならなくてすんだようだ。

 とりあえず、俺が来た意味はあったと思いたい。

 だが、本題はこれからだ……。

 

「健史から連絡もらってな、お前の様子がおかしかったって、今必死で探し回ってるぞ」

 

 しかし、暗いな、明かりはないのか?

 手探りで壁を触ると、それらしきスイッチがあったので押して見る。

 お、電気がついた。どうやら当たりだったようだ。

 

「それでこんな所まで? 暇なんですね?」

 

 電気がついたことで浅田が一瞬ビクリと震えた。

 その様子はまるで見つかりたくない何かから逃げているようにも見える。

 

「暇じゃねぇよ……一応バイト抜け出してきてる……ってことになってるはずだ」

 

 それは俺が動いていいという理由の一つになっている。

 そう、これは仕事の一環。

 誕生日の時の礼という意味もある。

 まあ、さすがにバイト代はもらえないだろうけどな……。

 

「じゃあ、さっさと帰ったらどうですか! フミ君にも『私に構わないで』って言っておいて下さい。無事だったからって……ってなんで上がってくるんですか!」

 

 俺が靴を脱ぎ、部屋に上がろうとすると、浅田が一歩足を引いた。

 よく見れば扉は反対側にも有るようだ、おそらくあちらからは校舎側に出るのだろう。ドアに付けられているガラス部分がほんのりと明るい。

 だが、ここで逃げられては困る。

 まずは話をさせて貰わないとな。

 

「そういうわけにもいかない。ちょっとお前に聞きたい事があるんだ」

「聞きたい……事……?」

 

 そう聞いた瞬間、浅田が身構えるのが分かった。

 正攻法で聞き出せるとも思っていないのだが……。とりあえず様子見で一球投げてみるか……。

 

「お前……一色がスーパーで捕まってる原因知ってる?」

「──っ!!」

 

 ビンゴ。

 明らかに浅田の顔色が変わった。

 少なくともこいつは何かしらの情報を持っている。

 とにかく時間がない。急がなければ。

 

「し、知りません!」

「じゃあ、なんで健史から……スーパーから逃げた? 一色が捕まって焦ったんじゃないのか?」

 

 健史は浅田が「私のせいじゃない」そう言って逃げたと言っていた。聞いてもいないのにそんなセリフを言ったという事はつまり『私のせいである可能性がある』という事だ。こいつは確実に何かを知っている。

 それを話して貰わなければならない。

 俺は改めて半歩浅田に近づくと。

 浅田は俺からさらに距離を取るように後ずさり、とうとう壁際に追い詰められた。

 いや、俺と浅田の距離はまだ一畳半ほどはあるのだが……。

 しかし、この状況って客観的に見ると結構やばいな。

 他校の生徒が女子中学生を追い詰めている。

 こんな場面見つかったら社会的に死ぬだろうな……まぁ俺には大したダメージじゃないか。変質者のような目で見られる事には慣れている。

 

「なんで……なんで私が焦らなきゃいけないんですか!」

「知らねーよ。そうやって必死になってるから聞いてるんだ」

「……っ! 知りません! 私関係ありませんから!」

 

 だがその言葉を最後に浅田は。

 フーフーと猫のように荒い息を吐き、ただただ俺の事を睨みつけてくる。

 駄目だ。

 失敗か?

 いや、そもそも恐らく俺にはこいつを動かせない。

 俺はこいつのことを知らなすぎる。

 運良く話を聞き出せたとしてもそれで終わり。

 なら、俺に出来ることはなんだ? 焦るな、考えろ、考えろ。

 

 浅田の反応からすると、恐らく一色は万引はしていない。

 浅田に嵌められたのだ。

 つまり、すべてを解決する為にはこいつを無理矢理にでもスーパーまで引っ張っていく必要がある。

 だが、ここはこいつの学校で俺は部外者。

 無理に連れて行くのは現実的ではない、そんな事をすればむしろ俺が警察を呼ばれる。

 となると俺に残されている手は……。

 とにかく今は、会話を止めちゃいけない、時間はかけられない。

 開き直られたり、殻に閉じこもられたら厄介だ。その前にもっと喋ってもらう必要がある。こいつを動かせる奴が来るまでに、出来ることをやって置かなければならない……なら……。

 

「まあ……そう邪険にするなよ、俺はお前の気持ち分かってるつもりだぞ?」

「……は? い、一体何が分かるっていうんですか」

 

 俺の言葉に、浅田が動揺しつつも鼻で笑いながら壁の方を向いてそういった。

 話題を変えられて少しだけホッとしているのだろう。

 

「分かるさ、なんなら唯一の理解者と言ってもいい」

 

 その言葉に、浅田は少しだけ興味を惹かれたように俺を見上げる。

 よし、まずは成功。

 

「……理解者?」

「一色の事が嫌いだったんだろ? あいつ同性には嫌われそうだもんな」

 

 それは俺が一色に感じた第一印象でもある。

 男受けする女子というのは往々にして同性からは嫌われるもの。

 だが、今はそんな当たり障りのないことを言って共感を得ようとしているだけ。

 これはインチキ占いでも使われる手法だ。

 まずは相手の事を理解しているかのように話しかける。

 

「それぐらいで理解者顔とかおめでたいですね……」

 

 だが、そんな初歩的な挑発でも、浅田は見事に引っかかってくれた。

 この場合、反応さえ引き出せれば俺の勝ちなのだ。

 なら、もう一歩踏み込んでみよう。

 

「いやいや、よく考えてみろよ。俺ほどお前のことを分かってる人間はいないと思うぞ? その証拠に……誰よりも先にお前を見つけた」

「……な!」

 

 俺の言葉に浅田が言葉をつまらせる。

 そう、浅田は誰にもこの場所……宿直室にいる事を言ってはいない。

 だが、俺は浅田を見つけた。

 健史でさえ見つけられなかったのにだ。

 一色に至っては言わずもがな、連絡が取れる状況じゃない。

 そんな状況で俺が現れた。

 これは誰にも覆せない客観的な事実であり、本人がどんな言葉を用いても否定は出来ない。だからこそ効果がある。

 さて、ここからが本番だ気合いを入れろ、比企谷八幡。

 

「そんなのたまた……!」

「たまたま? いいや、俺は最初からお前がここに居ると思って来たぞ? 後で健史に聞いてみればいい。あいつは今別の場所を探しているからな……お前を見つけるために」

 

 浅田が信じられないという顔をする。

 だが、健史が今別の場所を探しているのも事実だ。

 

「他にも分かるぞ? そうだな……お前、好きなやつが居るだろ? サッカー部の部員だ」

「──っ!」

 

 浅田が今日初めて半歩前に出た。

 だがこれは既に一色から聞いている情報。

 いってしまえばカンニング。

 これまでの情報から、浅田は勝手に俺が「浅田の気持ちを理解している」と勘違いしてくれている。

 当然、時間をかけすぎて、冷静になられたらすぐにバレるブラフ。

 なのに、俺の手札はもう尽きてきている。

 ここから先の言葉はタダの想像。

 そして先週の祭りで妙に浅田を気にしていた一色の行動から考えられる憶測。

 外せば一発アウト……。

 ああ、胃が痛い。

 

「そして、先週の祭りのタイミングで……告白をした……どうだ?」

「そ、そんなの! いろは先輩に聞けば分かることじゃないですか!」

 

 セーフ。

 どうやら最初のステージはクリアできたみたいだが……まだ続けないといけない。

 これが現実のつらいところだよな。

 

「いや、一色は何も言ってない。それどころかお前の事は何も話さなかったぞ。……お前、一色が階段から落ちた時、公園にいただろ?」

「!?」

 

 またもや浅田が驚愕の表情を浮かべる。

 ひとつひとつ、確実にステージをクリア出来ている。だがまだだ、まだ気を緩めるな。

 

「やっぱりか、……というのも俺はあの時お前が一色を突き落としたんじゃないかとさえ思っててな」

「わ、私そんな事!」

「してないのは分かってる。一色も否定してた。笑われたよ、『そこまで悪い子じゃない』ってな。あの日アイツがお前の事で何か喋ったのはソレぐらいだ」

 

 浅田は何かを堪えるようにグッと下唇を噛み締めた。

 今の構図だとまるで俺がいじめているみたいだ。

 正直辛い。

 だが、もうひと押し……。

 

「だけど、お前は。許せなかった……。なぜなら……お前の好きな相手が一色の事を好きだったんだもんな」

 

 とうとう浅田はリアクションをしなくなった。

 ただ、床を見つめ、黙り込んでしまう。

 しかし、それは明らかに何かを考えている仕草だった。

 ならここでの沈黙は成功だ。

 

「だから自分の邪魔をする一色の存在が疎ましくなった」

 

 もし浅田の体力ゲージが見えていたのなら、残り少なくなってきている事だろう。

 だから俺もここで手を緩めるわけには行かない。

 

「もう認めろよ」

 

 ここで畳み掛ける。

 

「俺にはお前の考えが手にとるように分かる、それが分かっただろ?」

 

 無言……だが否定はされない。

 つまり肯定。

 

「憎かったんだろ?」

 

 これも肯定。

 

「消えて欲しいと思ったんだろ?」

 

 肯定。

 

「だから、お前が盗んだ物を一色の鞄にでも入れて万引き犯にしたてあげたんだろ?」

「違う!! 私はいろは先輩が万引したように見せかけただけで!」

 

 ヒット。

 黙り込んでいた浅田がとうとう吠えた。

 正直に言えば、あと二、三回程揺さぶる必要があったかとも思ったが。

 どうやら少し早めに目的の魚は釣れたようだ。

 

「それ……本当なの? 麻ちゃん……?」

 

 同時に健史が宿直室へと入ってくる。

 恐らくこの物語の主人公は健史なのだろう。

 まるでヒーローのようにいいタイミングで現れてくれた。助かった。どうやら俺の出番は終わりのようだな。

 

 さて……これで役者は揃った。

 だが、まだ解決ではない。

 俺の言う「万引き犯にしたてあげた」と、浅田の言う「万引したようにみせかけた」は一体何が「違う」のか。

 それを 浅田本人に語ってもらわなければならない。

 ……頼むからあまり時間をかけさせないでくれよ……。




いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。

相変わらず長いですが。これ以上分けるわけにもいかないので本当すみません。

連日投稿中なので、チェックが甘く誤字がいつもより多いかもしれません。誤字脱字、変な所ありましたらご報告頂けると助かります。よろしくお願いいたします。


※この物語はフィクションです。万引は絶対にやめましょう。


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第33話 浅田麻子

第31話~第37話まで連日投下中です!(2019/11/30~2019/12/06)
なんのこっちゃわからないという人はお手数ですが第31話の前書きを御覧ください。
本日三日目!

今回はあの人視点となります。


<ASAKO>

 

 サッカー部に入ったきっかけは単純、ヒロ兄に誘われたから。

 

「マネージャーが一人しかいなくて大変そうだから、手伝ってくれないか?」

 

 そう言われて、中学に入るなりすぐにサッカー部のマネージャーとして働くことになった。

 別に頼まれたら何でも引き受けるとかじゃなくて、ヒロ兄……というか竹内の家とウチは昔から家族ぐるみの付き合いで、仲も良かったし。

 私もサッカーは嫌いじゃなかったというのが主な理由。

 そういえば昔は拓海姉、ヒロ兄、フミ君の三姉弟に混ざって私もよくサッカーのマネごとをしてたっけ。

 あの頃は楽しかった。

 

 でも、マネージャーになってからはあんまり楽しくなかった。

 別にいじめられてたとかじゃない。

 ヒロ兄も、気を使ってくれたし。いろは先輩も優しかった。

 でも、私はそんなに可愛い方じゃないし、男子達と会話する時の視線は私の顔じゃなくていつも胸元に向いているのが分かって不快だったから。

 私はいろは先輩の引き立て役なんだな。そう感じてあまり楽しめなかったのだ。

 

 それは例えば、皆が練習に疲れてベンチに戻って来る時の事。

 マネージャーである私といろは先輩がスポーツドリンクを配ったり、タオルを配ったりすると、皆我先にといろは先輩の方へと群がっていく。

 そして、必ず誰かがこう叫ぶのだ。

 

「おい、いろはすが大変だろ、お前ら少しは麻マネの方行けよ!」

 

 冗談めかしてそういって笑い合う部員達。

 でも、それは仕方ない。いろは先輩は私の目から見てもキレイで、可愛いと思うから。人気があるのは当然。これは仕方ないこと。

 

 そう考えて私は苦笑いをしながら、最初は頑張っていたんだけど。 

 転んで怪我をしている選手に駆け寄っても「一色マネにやってもらうからいい」なんて拒否されたり。

 一学期が終わる頃ヒロ兄が部長になって、突然「マネージャーに邪な気持ちで接しない事」なんて言ういろは先輩を守る……まるでアイドルのように讃える部訓が作られて、私の心は徐々にささくれだっていったように思う。

 

 一つ一つは本当に小さな……些細な事かもしれない。

 でもそれが少しづつ重なって、だんだん苦しくなっていった。

 

 そんな中、私は一人の部員の事を気にするようになった。

 同じ学年の赤星君だ。

 一年の頃から次期部長候補と噂もされる彼は、いろは先輩に群がる男子とは違い、唯一私の差し出すタオルを取って「ありがとう」と言ってくれた。

 たったそれだけの事がとても嬉しかった。

 そして、私が彼の事を好きだと自覚するのに、そう長い時間は掛からなかった。

 でも、彼の事を見ていれば見ているほど、彼がいろはセンパイに好意を持っていることが分かって辛かった。いろは先輩の所に直接行かないのは彼なりの照れとか、忙しいいろは先輩への気遣いなのだ。

 私の手からタオルをとって、お礼を言ってくれても、チラチラといろは先輩を見ているのが分かる。

 それは彼を見ている私だから分かること。それがとても辛かった。

 

 そして一年が経ち、私達が二年になると、フミ君が入学し、サッカー部に入ってきた。 

 ということはつまり、今年で現部長であるヒロ兄も引退・卒業、そうなったら赤星君が部長になって。マネージャーの私と話をする機会も増える。

 私はそう思って、不謹慎かもだけど三年生の引退を心待ちにしていた。

 あと少しで赤星君との部活生活が始まる。そう思えばこそ、相変わらず無遠慮に向けられる自分の胸元へのいやらしい視線や、失礼な態度にも耐える事ができた。

 でも、そんな時にソレは起こった。

 

 ヒロ兄が、フミ君を部長にすると言い出したのだ。

 別に私はフミ君の事は嫌いじゃない。昔から「麻ちゃん麻ちゃん」と私の後ろを付いてくるフミ君は可愛いと思っていたし、本当の弟のように思っている。

 そうやって知っているからこそ、フミ君にはまだそんな大役は無理だとも分かった。

 実際フミ君も嫌がっていたし、私にとっても弟であるこの子を守れるのは自分しかいないと思ってヒロ兄に抗議もした。

 でも、聞き入れてもらえなかった。

 

「絶対他に向いている人いるでしょ? 赤星君とか!」

「お前、赤星の事好きだから部長に推してるだけだろ? こっちだって色々考えてんだよ」

 

 そう言われ、私は頭に血が上るのが分かった。

 ヒロ兄は私の気持ちに気づいていたのだ。

 でも違う! そうじゃない、確かに赤星君の事は好きだけど、そういう気持ちで言ってるんじゃない! 私以外の人だって、赤星君が部長に相応しいってきっと言うに決まってる!

 そうだ、彼以外に相応しい人なんていない! ヒロ兄と同じ意見のひとは皆目が曇っているのだ!

 だってあんなに優しくて、私のことも見てくれるんだから。

 あんた達みたいに人の胸や、いろは先輩のことばかり見ているケダモノじゃないんだ!

 

***

 

 そうして、私はヒロ兄の説得を諦めて。

 今度はいろは先輩に相談することにした。

 癪だけど、この人が言えばきっと、沢山の選手が賛同してくれる。

 でもまた変な邪推をされたら嫌だから、赤星君の名前は出さないように気をつけよう。大丈夫、どうせ赤星君以外に候補なんていない。そう思っていた。

 

「他に部長に向いてる子いますよね?」

「うーん……どうだろう……?」

 

 一色先輩とサイゼで話し合う。

 でも、一色先輩はわかっているのかわかっていないのか。頼りない返事だ。

 どうして? 誰がどう考えたって赤星君以外いないでしょう?

 もしかしたらはぐらかされている?

 何のために? 私への嫌がらせ? まさかね……。

 そして、私がイライラし始めたころ。その日、一色先輩は、なんだか死んだ魚のような目をしている少し怖い先輩と一緒に帰ってしまった。

 私にいつも汚れ仕事を押し付けて、いい思いをしているのに、こんな時も助けてくれないなんて。正直失望した。

 なんで皆あんな女がいいの?

 顔さえ良ければあとはどうでもいいの?

 私の中にあったいろは先輩に対する黒い感情が形になりだしたのもこの頃だった。

 

***

 

 それから、私は赤星君に電話をした。

 もうこうなったら直接彼に立候補してもらおう。

 でも、断られた。

 部長には逆らわない方がいいよって、きっと何か考えがあるからって……。

 ただ、もしこの時、

 「転校するから」という事情を教えて貰えていたなら。この後の私の行動はきっと変わっていたのだろうと思う……。

 もしかしたらこの時はまだ彼自身も知らされていなかったのかもしれないけれど……。

 

*

 

 赤星君に断られて、次に連絡をしたのは葛本君の所だった。

 葛本くんは少しも遠慮せずに私の胸を見てくるいやらしい男子。

 でも、何故か赤星君は葛本君と仲が良い。

 だから、もしかしたら何か手助けをしてくれるかもしれない、そう思って電話をかけたんだけど。

 

「麻マネってさ……赤星の事好きだよな?」

 

 そう言われて、私はパニックになった。

 あれ? もしかして私の気持ちって皆にバレてたりする?

 凄く恥ずかしい。

 いや、でも今はそんな事を言っている場合じゃない……。

 

「多分赤星はもう部長にはならないだろ……そういうの嫌いそうだし。そうだなぁ、一色先輩とデートさせてくれたら、俺が部長やってもいいぜ。あ、それで俺が赤星を副部長に指名して麻マネと一緒に色々仕事させるとかどう? ウィンウィンじゃね?」

 

 なんてクズな発想……本当男子ってバカだ……。

 

「いや、俺一回デートさせてもらったら絶対落とせる自信あんだよね、ほら俺年上からモテるタイプだし? いつも俺に優しくしてくれるから脈アリだと思うんだよねー」

 

 ありえない、そんな事もわからないのか。

 優しくしてくれるのも全部あの人の計算。

 いろは先輩が葛本君なんかに靡くはずがない……でも……。

 

「それ、乗った」

 

 その提案の発する誘惑には逆らえず、私はいろは先輩を売る事にした。

 

***

 

 それからたった一週間、私の計画は失敗に終わる事になる。

 先週も来たあの男のせいで……。

 なんであんな奴がしゃしゃり出てくるの? 関係ないはずなのに。

 あの人さえいなければ上手くいったのに……!

 

「デートぐらい良いじゃないですか……いろは先輩が他の人とくっついてくれれば……赤星君だって……私に……」

 目を向けてくれる……。

 そう思っていたのに。

 どうせいろは先輩なんて、私と違ってデートなんて何十回、ううん何百回と経験してるのだろう。その一回を私のために使ってくれたっていいじゃない……!

 フミ君もフミ君だ、あんなに『助けて! 部長なんて無理!』って言ってたのに。

 ころっと意見を変えて。これじゃあ私がピエロみたいだ!

 ああ、何もかもがうまく行かない。世界はいろは先輩を中心に動いているとでもいうの?

 絶対……絶対そんな事認めない!

 

***

 

「麻ちゃん、今日比企谷さんが試合見に来てくれるって!」

 

 それからまたしばらくして、部長になったフミ君が初めての試合当日そんな事を言ってきた。

 は? なんで? 比企谷ってあのいろは先輩の家庭教師とかいう人でしょ? なんであの男が来るの?

 

「悪いんだけど、僕のスマホ預かっててくれない? 比企谷さんから連絡きたら案内してあげてね」

「え? ちょっと!」

 

 なんで私がそんな事……!

 ああ本当に最悪、それもこれも全部いろは先輩のせいだ!

 正直フミ君にも幻滅している……。

 でも……、頼まれた以上断るわけにもいかないか……。

 

 それから少しして、フミ君の言う通り、フミ君のスマホに通知が入った。

 学校の前についたらしい。

 たった一度会っただけの知り合いの試合に本気で来るとか怖。社交辞令だって気付かないのかな、ストーカー? キモ。

 でも仕方がない、無視することもできないので私は校門まで彼を迎えに行くことにした。

 

*

 

「じゃあ、私はまだ仕事があるので、この辺で適当に見てってください」

「ああ、サンキュ。あ、一色は?」

「? 三年生で来てるのはヒロに……健大元部長ぐらいですよ」

 

 そうして私は比企谷さんを案内すると、再び皆のところへ戻っていく。

 これ以上あの人と一緒にいたくなかった。

 多分今の私は凄く嫌な顔をしているだろう。でもベンチに戻るとすぐに赤星君が話しかけてきてくれて、私は笑顔に戻れた。

 

「浅田、浅田!」

「ん? なぁに?」

 

 先程の比企谷さんとの対応とは違う、高い声が出ているのが自分でも分かる。

 やっぱり私……彼の事が好きだな……。

 

「あの人、浅田の彼氏?」

 

 一瞬、何を言われてるのか分からなかった。

 一番そう思われたくない相手を、一番勘違いされたくない人に誤解されたのだ。 

 

「違うから! 全然知らない人だから! あの人はフミく……部長の知り合いで! 私は関係ないから!」

「わ、分かったよ。そんなに怒らなくても」

 

 自分が思っている以上の大きな声をだしてしまい、他の部員達の注目が集まる。

 あ、まずい。赤星君が引いてる……。一回落ち着かなきゃ……。

 

「ちょっと待て、今比企谷さんっつったか?」

 

 だけど私が気持ちを落ち着かせようとすると、横から大兄が会話に割って入って来た。

 

「どれ? どの人?」

 

 私はヒロ兄にわかりやすく比企谷さんの居る方角を指差す。そこにはフェンスによりかかり、スマホ片手に暑そうにしている。比企谷さんの姿。

 

「ちょっと、挨拶してくる」

 

 そう言ってヒロ兄は、比企谷さんの方へ走っていく。

 

「んじゃ……俺もそろそろ準備するか……」

「が、頑張ってね!」

「おう、サンキュ」

 

 そういってお気に入りのヘアバンドを付ける赤星君の横顔は、とても格好良かった。頑張れ、赤星君。

 

**

 

 試合が終わるとまたあの人が近づいてきた。

 もう帰るそうだ。助かった。

 この人がいると色々思い通りに事が運ばない。

 でも、その前に一つだけ聞いてみたいことがあった。

 

「あの……」

「ん?」

 

 いろは先輩とどういう関係なんですか?

 そう聞いてみたかった。

 家庭教師とは言っていたけれど、なんというか、あまりにも不自然だ。

 年とか、距離感とか。

 普通、家庭教師って大学生とかじゃない?

 やっぱり彼氏?

 ううん、まさかね。

 彼氏であればそれはそれで安心だけど。

 流石に、そんなわけないか……いくらなんでも趣味が悪すぎる。

 あの人が本気だせば男なんて選り取り見取りだ。

 こんな人を選ぶ理由がない。 

 私は頭を振ってそんな馬鹿な疑問を自分の中から消した。

 

「いえ……やっぱりなんでもないです。バイトって一色先輩の家庭教師ですか?」

「ああ、そうだけど……。なんか伝言とかある?」

「そういうのじゃないんですけど」

 

 ふと、視線を外すと、赤星君がこちらを見ているのが見えた。

 まずい、あんまり話してるとまた誤解される!

 

「……そのニオイ、何とかした方がいいですよ」

「え? 俺、クサい?」

 

 そう言って比企谷さんが一歩私から離れる。

 作戦は成功。

 また彼に勘違いされると嫌だから……。失礼だとは思いつつも、私は鼻を押さえる振りをしながら、比企谷さんから離れていった。

 

***

 

 赤星君が転校するという話を聞いたのは、それから少し後の事だった。

 もうずっと体に力が入らない。

 もはや日付の感覚も失い、まるで魂の抜け殻になってしまった私は、いつの間にか突入していた夏休みをただただ無為に過ごしていた。

 私も二学期になったら部活辞めようかな……。どうせ私はいろは先輩の代わりでしかない。それならいっそ……。

 

「麻ちゃん麻ちゃん! 明日三年生の打ち上げ何時頃行く?」

 

 そんな事を考えぼーっとしていた私の家にやってくるなり、私の部屋に駆け込んできたフミ君がそんな事を聞いてきた。

 

「あー……私はパス」

 

 当然だ。赤星君のいないサッカー部になんて興味はない。

 私がそう告げると、フミ君は分かりやすく落胆する。

 本当、この子もそろそろ姉離れしてくれないかな……。

 どうせこの子にとっても私なんて都合の良い女なのだろう。

 この間の部長騒動でそれがよく分かった。

 もう子守をするのもうんざりだ。

 

「そ……そうなんだ」

「うん、三年生には二学期には会えるし、まあよろしく言っておいて」

「うん……。あ、でも赤星先輩はこの打ち上げが最後みたいだよ」

 

 その名前を聞いて、私は思わずベッドから起き上がる。

 聞き間違いだろうか?

 今、確か赤星先輩って聞こえたような……。

 

「赤星君!? 来るの!?」

「う、うん。最後だから参加するって連絡きてるけど……」

「私も行く! フミ君! 準備するから出ていって!」

「あ、うん……」

 

 そうして私の最後の戦いが始まった。

 

***

 

 お祭り当日。

 いろは先輩は相変わらず皆の中心だった。

 サッカー部というよりはもはや『いろは部』だ。

 彼女のための部活。私はそれを際立たせるための壁の花。

 あざとく浴衣なんて着てきて。『可愛い自分アピール』ご苦労さまって感じ。

 折角私だって恥ずかしいのを我慢してこんな胸元の空いた服を着てきたのに……。

 そう、今日の私は完全装備。

 赤星君に告白するための勝負服。

 でも、その赤星君まで今はいろは先輩の取り巻きになってしまっている……。

 

 ……そうだ、少し男子達を幻滅させてやろう。

 少しの悪戯心が芽生えた私は。急いで出店のたこ焼きを一つ買った。

 

「いろは先輩、たこ焼き食べません? はいアーン」

 

 青のりをたっぷりつけてもらったこのたこ焼きを食べて、前歯に一つでも付けばどんな美人だってお笑い顔になる。

 なんなら写真まで撮るサービス付きだ。

 

「あー、ありがとう……でも今はイラナイかな」

 

 だけど、いろは先輩は、そう言ってスグに別の子からりんご飴を受け取って口元を隠した。

 バレた? まさかね。

 まあいいや、こんなしょぼい事しても私の気は晴れないし……。

 とにかく今は赤星君の事だけ考えよう。

 

「……はい、フミ君これあげる」

「あ、ありがとう麻ちゃん! あの……今日、凄くキレイだね! なんか、年上のお姉さんって感じがする!」

 

 私は自分で食べるわけにもいかず邪魔になったたこ焼きを近くにいたフミ君に投げた。

 たこ焼き一つでそんなに喜んで馬鹿みたい。

 そもそもこの服はフミ君に見せる為に着てきたわけじゃないし?

 そう、赤星君に見せるために着てきたのだ。

 できればどこかのタイミングで二人きりになりたい……なんとか抜け出すタイミングはないかな。

 そう思っていると。葛本君が何やらいろは先輩にちょっかいを出したらしく。三年生と揉め始めた。チャンスだ!

 

「ねぇ、赤星君。ちょっとだけ二人で見て回らない?」

「え? でもこのあとカラオケもあるし、二人っきりはその……色々やばくね? 葛本みたいに……」

「大丈夫だよ、カラオケの場所は分かってるし、人混みでハグれたっていって後で合流すれば、ほら、行こう」

 

 そもそもあれはいろは先輩の為に作られた部訓だ。だから私には関係ないしね。

 

*

 

 それからの私は我ながら大胆だったと思う。赤星君の手を引いて。私達はお祭りの人混みの中を駆け出した。

 今思い出してもこの時は最高に幸せだった。

 人混みに押されて、思わず抱き合うような形になった時もあった。

 赤星君だって満更でもなかったと思う。

 だから……だから告白しても大丈夫だと……恋人になってもらえると期待してしまった。

 

**

 

……。

 振られた。

 完膚なきまでに。

 なんで? なんで皆いろは先輩のことばっかり。

 一色一色一色一色って!

 皆あの人のことばっかり!!

 

 もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 慣れない服もきて、ヒールまで履いてきたのに! 靴ずれして足も痛いのを我慢して歩いてたのに。全部全部全部失敗!

 ……もう何も考えたくない。……カラオケなんてどうでもいい……もう帰ろう。

 そう思って公園を抜けようとした時、ふと背後から音が聞こえ、私は思わず振り向いた。

 するとそこには今一番会いたくない、あの女がいた。

 一色いろはだ。

 なんで? なんでこんな所にいるの?

 もしかして私が赤星君に好きだって伝えた所を見てたの?

 いろは先輩の事が好きだからという理由で振られた私を笑っていたの?

 

 それはそれは面白い見世物だったでしょうね!

 私の姿は、さぞ滑稽に見えたんでしょうね!! 

 

「あんたなんて居なければ良かったのに……っ!」

 

 私は心の底からそう願った。

 死ねばいいと、その時は本気で思っていたと思う。

 だからきっと、強すぎたその願いを、神様が聞いてくれた、叶ってしまった。

 私の視界から、一色いろはがスッと……落ちていった。

 

*

 

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 だけど、私は慌てた。まさか本当に死んだ……?

 だ、大丈夫、反対側の階段はこっち側より段数が少ない。あの位の高さじゃ人間が死んだりはしない。ちょっと怪我をする程度。

 きっと天罰。

 私のせいじゃない。

 神様が私の思いを汲み取ってくれた。

 別に私が手を下したわけじゃない、こうなる運命だった。ざまぁみろ。

 

 でも……でももし本当に死んでたら?

 私は自分の体から血の気が引いていくのが分かった。

 下を見るのが怖い。

 もしかしたら……すぐに救急車を呼ばないといけない状態かもしれない。

 

 私は恐る恐るゆっくりといろは先輩が落ちた階段に近寄り。そっと下を覗き見る。

 怖かった、もしドラマみたいに血みどろで倒れていたらどうしよう、そう思って救急車を呼べるようにスマホも準備していた。

 

 だけど……そこで見たのはいろは先輩が比企谷さんの背におぶさり、幸せそうな顔でその首に手を回すシーンだった。

 仲良くじゃれ合ってる二人……。

 何これ?

 

 あれだけ心配したのに……これすらも……階段から落ちることすらあの女にとっては男と仲良くなるための手段だったってこと?

 こんな事まで……男のためにそこまでする女なんだ。

 あは……あは……あははははは。

 勝てるわけ無いじゃん。

 あざとい女だっていうのは分かってた。でもここまでとは思ってなかった。

 乾いた笑いが私の中を駆け巡り、私はバカバカしくなって今度こそ来た道を戻った。

 

 なんで? なんで私の思いは届かなかったのに、あいつは、あの女は全部ハッピーエンドになるの?

 全部計算なのに?

 そんなのズルすぎる。

 赤星君も、赤星君だ。あんなダサい男にホイホイついていく女のどこがいいの?

 許せない。許したくない。

 あの女のせいで私の楽しいはずの中学生活はめちゃくちゃだ。

 あの女がいなければきっと私の三年間はもっとバラ色だったはずなのだ。

 

*

 

 それから私はなんとか、あの女にギャフンと言わせる方法はないかと考えた。

 一日中赤星君の事を考えていた頃と同じ様に、一日中あの女の事を考えた。それはもう恋といってもいいかもしれない。

 三年は引退したからもう部活には来ない。その分接点も少なくなる。

 こんな事ならもっと早く計画を立てておけばよかった。

 何かいい案はないだろうか?

 

 とはいえ、私だって馬鹿じゃない。

 後で反撃をくらったり、警察に捕まるようなのは当然駄目だ。

 その場で私が犯人だとわかってもどうにも出来ないような……。

 そう、できればずっとアイツの心に残るような方法が良い。

 これからあの女の被害に遭う男の子、そして私のような女の子を減らすんだ。あの女に思い知らせてやるんだ。

 

 上履きを隠す? ダメダメ、しょぼすぎ。

 部費を盗む? こんなのは当然却下。今は私が管理してるから、私の責任問題にもなる。

 援交の噂を流す? 信憑性のある写真を取れればいいけど、難しそう。

 あ、でもあの男と一緒に歩いている所を撮ってばらまくのはいいかもしれない。

 問題はフミ君とヒロ兄だ。

 あの二人はあの男の事を知っているし、学校に来たのを見た人もいるかもしれない。噂の信憑性が薄まってしまうかもしれない。

 やっぱり一発で信用が落ちそうな適当なオジサンがいい……。いっそ合成する?

 

 そうやって、様々な復讐方法を考え一週間。

 少しだけ頭も冷えてきて、具体的な案を練り始めた頃。

 フミ君と他校への挨拶に行った帰り道で、あの女が駅前のスーパーに入るのが見えた。

 幸せそうな笑顔で、カゴを持ち、食材を選んでいる。その姿はまるで新婚ホヤホヤの新妻のようにさえ見える。

 その姿を見て、私のお腹の中でジリジリと黒い炎が燃え上がる。そして同時に『これだ!』そう思った。

 

 万引。

 これならあの女の信用を落とすには十分だろう。

 こっそり、あの女のポケットに何か手頃な商品を入れておく。

 そうして気付かずスーパーから出てきた所を私が指摘して。

 

 「いろは先輩がこんな事するなんて思いませんけど、間違って入ったのかも知れないし。返しに行きましょう」とか言ってやればいい。

 あの女が返しに行けば、謝ってる姿を動画に収めて拡散する。

 もし返しに行かないでしらばっくれた場合は、その様子をそのまま拡散。

 どっちに転んだとしてもあの女の評判はガタ落ちだ。

 未成年だし謝罪すればさすがに捕まることはないだろう。

 私はあくまで、先輩の万引を辞めさせようとした後輩。

 ただ問題が有る……。私だって万引は怖い。

 一歩間違えれば……ううん、作戦が成功した所で私も犯罪者なのは免れない。そう考えるとやっぱり警察沙汰にはしたくない。

 ならどうすればいいか……。

 急がないとあの女が買い物を終え、スーパーから出てきてしまう。

 

 その時、ふと思い出した。

 買い物、そうだ。さっきフミ君と一緒にコンビニで買ったやつ!

 その中に一つ、手のひらサイズで隠せる物がある。

 これならもしバレたとしても、レシートもあるから、私は別のお店で買ったと証明可能。

 実際にスーパーから商品が盗まれるわけじゃないから、お店にも迷惑がかからない。

 だが、そんな事を知るはずがないあの女は当然狼狽えるはず。

 つまり、私が疑われる心配はなく、あの女を追い詰める動画だけを撮れる。

 なんて素晴らしいアイディアだろう!

 今日まであの女を陥れる作戦をいくつも考えていたせいか。これ以上にないといっていい程のアイディアが浮かんできた。

 この時のために私は生まれてきたのかもしれない、そんな考えすらよぎった。

 だって、私がこれからするのは正義の行いだから。

 一体あの女がどんな顔をするのだろう、今から楽しみだ。

 

 そうと決まれば善は急げだ。今というチャンスは逃さない。

 私は、スーパーに素早く入ってあの女の居場所を探し、お菓子コーナーの反対側にあの女がいる事を確認すると、それ以外のことには目もくれず一直線であの女にぶつかり、ばれないように手に握っていたソレを、間抜けにも口を大きく開けたカバンの中に忍ばせてそのままスーパーを出た。

 

 失敗は許されない、正真正銘の一発勝負。

 まるでゲームをやっているようなドキドキ感のなか。

 いとも簡単に作戦は成功。

 あとは店から出てきたところを抑えて。動画を撮りながら、罪を自覚させてやればいい。

 『間違えて持ってきちゃった』なんて言い訳はさせない。

 私の第一声は「いろは先輩、見てましたよ。万引するなんて最低です!」だ。

 間違えて入ってしまったと言われても傍から見れば言い訳にしか聞こえない状況だ。

 ああ、なんて楽しいんだろう。

 

 私はあの女が混乱する姿を想像して心が踊っていた。

 さぁ早くでてこい。

 あの女が会計を済ませ、出口へと向かってくるのが見える。

 あと少し、もうちょっと、あと一歩! 今だ!

 

「いろは先パ……」

「ちょっとアナタ、止まりなさい」

 

 だが、いろは先輩は、スーパーから出たところで店員に肩を掴まれた。

 そしてその店員は私の事もギロリと睨む。

 

「会計、済んでないものあるわよね?」

 

 まずい、まさか本当に私が万引したと思われてる?

 嘘……だってそれはこの店の商品じゃなくて……。

 だが、その店員は確かに私の事を見ている。

 今はいろは先輩を捕まえているから近づいては来ないが。いつでもお前を捕まえる準備は出来ている。そんな顔だった。

 私は怖くなって慌ててその場から逃げ出した。とにかく走って走って走った。

 何故かフミ君が追いかけて来る。

 まさか、フミ君にもバレてる!?

 

「わ、私のせいじゃないから!」

 

 とにかく一度どこかに隠れたい、私はなんとかフミくんを振り切って。気がついたら学校まで走ってきていた。

 でもここからどうしよう?

 部室……は、駄目だ、今日は野球部の試合があるはず……今は夕方だから試合は終わっているだろうけど多分まだ片付けをしているだろうから。誰かに見られる可能性がある。

 そうだ、いろは先輩から貰った宿直室の鍵!

 マネージャー特権で好きに使っていいと言われていたっけ。

 いろは先輩は「周り男子ばっかりで疲れるでしょ? 一人になりたい時とか使うといいよ」と言っていた。

 私は、人の目を避けるように、宿直室へと向かい初めてその鍵を使った。

 暗い……。

 でも、ここなら安心。

 大丈夫、フミ君に借りたキャップも被ってたし顔は見られていない。そう、いろは先輩だって私に気付いていなかった……はず。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 そもそもあれはあの店の商品じゃないから、いろは先輩だって普通に開放される……。

 でも、もし……もし疑いが晴れなかったら?

 

「う……おぇぇぇぇ」

 

 突然湧いてきた罪の意識に耐えきれず、私は嘔吐する。

 気持ち悪い、気持ち悪い。

 なんだこれ。私は天罰を与えただけ……そう、そうだ!

 きっといろは先輩は本当に万引をしてたんだ!

 それに私が巻き込まれた! だから私は悪くない。私は悪くない、私は悪くないはず! でも『そんな事があるわけない』そう私の中の私が囁いていた。

 

 一通り胃の中のものを宿直室の流しにぶちまけると。

 私は口元を拭い、部屋の角で震えながらしゃがみ込んだ。しゃがみ込むことしか出来なかった。

 この部屋には太陽の光も入らず、とても暗い。

 だけど今ここから出ていったら変に思われるかもしれない。

 そういえば……制服を着ていたからもう学校に連絡が来てるかもしれない。警察が……来るかもしれない……。

 悪い考えばかりが頭に浮かぶ。

 まるで世界に私一人ぼっちになったみたいだ……。

 誰か……フミ君……。

 だがフミ君が来ないことは分かっていた。

 だって誰にも見つからないようにこの宿直室に来たのだから……。

 

「大丈夫……私のせいじゃない……大丈夫……私のせいじゃない」

 

 そう何度も呟きながら、心を落ち着け、時が過ぎるのを待つ。

 しかし、突然ガタリと宿直室のドアが開く音がした。

 誰? まさか本当にフミ君!?

 

「浅田……?」

 

 だが、そこに居たのは、いつも私の邪魔をするあの男だった。




と、いうわけで世にも珍しい浅田さん視点。
多分最初で最後です。
真相はこんな感じでした。
皆さんの予想は当たってましたか?

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。
連日投下だと読むのも大変だと思いますが……感想など一言でも頂けるととても喜びます。

※この物語はフィクションです。実際に同じようなこと(万引・虚偽申告)をすると法で罰せられる可能性があります。絶対に真似しないで下さい。


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第34話 大丈夫

第31話~第37話まで連日投下中です!(2019/11/30~2019/12/06)
なんのこっちゃわからないという人はお手数ですが第31話の前書きを御覧ください。
本日四日目! 連日投稿も折返しです!


「それで……一色を嵌めたってことか」

「麻ちゃん……なんで? なんでそんなに悩んでる事話してくれなかったの!?」

 

 健史が登場し、浅田に寄り添うようにしながら「何があったかちゃんと話して?」と優しく語りかけた事で、浅田はぽつりぽつりと自分の気持ちを吐き出していった。

 

 最初はサッカー部の部員の態度や、妙な部訓のせいで疎外感を感じていた事。

 一色を嫌いになっていった事。

 赤星に告白し、振られた事。

 そして、一色を万引き犯に仕立て上げようとした事。 

 

 しばらく黙って聞いていた俺たちだったが。

 浅田はすべてを告白し終えると。まるで壊れたおもちゃのように「私は悪くない」と繰り返し、床を見つめ始めた。

 

「ね? 謝ろう? 僕も一緒に謝るから。大丈夫、お店の物を取ったんじゃないなら一色先輩もお店の人も許してくれるよ! ……そうですよね比企谷さん?」

 

 少なくとも万引の件に関しては理解した。

 というか、こいつは万引をさせたかったんじゃない、一色にデジタルタトゥーを入れようとしたのだ。

 だが店員が勘違いした事で、浅田の計画は失敗に終わった。何がどう転ぶかわからんな。

 まぁ、浅田のこの状況をみるに、もし計画が成功して情報が拡散されていても、こいつは責任を感じていたんじゃないかとも思う。

 それを気軽にやろうとしていたのは、ネット社会の弊害とも言えよう。一度拡散されてしまえば二度と消すことは出来ないというのに。

 

 とにかく、浅田の言葉を信じるなら万引の件は誤解さえ解ければ問題ない。

 しかし……こいつが謝って許してもらえるかどうかは正直なんとも言えない。

 そもそも俺は被害者ではないからな、権限がない。

 それを決めるのは俺じゃない。

 だから、俺は黙って浅田を見つめる。

 ここから先どうするかはコイツ次第で、一色次第だ。

 とはいえ……真相さえ分かればこれ以上俺が浅田に関わる必要性はないのかもしれない……。

 信じてもらえるかは別として、最悪俺一人でも一度スーパーに戻れば事情の説明は出来るだろう。

 というか、もし浅田の言う通りなのだとしたら、もしかしたら俺が行かなくともアチラはアチラで、すでに解決している可能性だってある。

 だが……そんな希望的観測に縋って後悔はしたくない、今俺がやるべきことはなんだ?

 誤解の解き方を考える事?

 店側が勘違いをしているのであれば、ある程度時間がかかっても防犯カメラをチェックしてもらうなり、在庫の確認をしてもらえれば万引なんてしていないと分かってもらえるだろうか? 怖いのは店側が誤解を認めない場合や別件で万引があって数が合わない場合とかか。

 しかしそれを考える前に……。

 

「大丈夫……です、ね? 麻ちゃん?」

「……悪くない……私のせいじゃない……」

「うん、そうだね、麻ちゃんは悪くないね。皆僕たちが悪いんだ」

 

 一向に返事をしない俺に痺れを切らせた健史が、俺から視線を逸らす。

 相変わらず浅田はブツブツと同じことを呟いている。健史によって赤子のようにあやされ、落ち着いているように見えるが。違うな……。

 もはや浅田は考えるのをやめていた。

 ただ健史に……誰かに「悪くない」と言ってもらう事を目的として殻に籠ろうとしている。

 俺にはそれが分かってしまった。

 しかし、真相が分かった今となってはこれ以上こいつに時間をかけたくないという思いもある……いっそもう警察を呼ぶか?

 いや、下手な騒ぎになればそれこそデジタルタトゥーという事にもなりかねない。

 俺個人の問題なら良いが、これは一色の問題だ。

 最低でも、向こうが警察を呼んでいる事を確認すべきだろう。

 つまり最後の手段。

 勝手に動いている俺が判断していい事ではない。

 かといって俺一人向こうに合流して確実に解決できるかと問われればやっぱり微妙。

 となると……仕方ない。やはりもう少し勝率を上げておこう……。

 まあ最後丸く収まるかどうかは賭けだが……。って今日賭けてばっかだな、俺はいつからギャンブラーになったんだ? 安定した専業主夫を希望しているはずなのに。

 はぁ、なんで俺がこんな事を……。

 ざわ……ざわ……。

 

「私は……悪くない……」

「……悪くないわけないだろ」

 

 浅田のつぶやきに合わせ俺は言葉を紡ぐ。

 突然発せられたその一言に、浅田の体がビクリと跳ね、それをみた健史も驚きの表情を俺に向けてきた。

 

「お前の言い分は分かった。だけどな、どんな言葉を尽くしてもお前がやったことは消えないぞ」

 

 その言葉でとうとう浅田の無意味な呟きが止まる。

 とりあえずこちらの言葉はきちんと届いているようだ。

 これならまだ勝算はある。俺はちらりと健史の顔をみた。

 少し怒っているような、困惑しているような顔で俺を見上げている。

 そう睨むな……。こっちも必死なんだ……。

 

「そうやって、健史に慰めてもらえれば満足か? 自分がやったことが消えるのか?」

 

 俺は所詮ぼっちで、このやり方が正しいのかも分からない。

 それでも今の俺にはこれしか出来ないのだ。

 状況を動かすために、俺は今俺にできる最善を尽くす。

 誰にどう思われても構わない。

 認められなくても良い。

 ただ……きっとおっさんは笑ってくれるだろう。

 根拠はないが何故かそう確信し、俺は言葉を続けた。

 

「そうやって私は悪くないって言ってれば、誰かが許してくれると思ってるんだろ? 可哀想な私をこれ以上苦しめないで下さいって? お前が一色になれないのはそういう所なんだよ。多分みんな分かってるぞ? 俺でさえ分かるぐらいだ。八つ当たりで人を貶める。お前はその程度の奴だって、だから……」

「ひ、比企谷さんは少し黙ってて下さい!!」

  

 俺の言葉を遮るように、健史が声を荒げる。

 それまで心配そうに優しく語りかけていた姿からは想像も出来ない形相で立ち上がり、俺を睨みつけてくる。

 そうだよな、どんな事をしてても、お前はそいつの事が好きなんだもんな? お前はここで立ち上がらない男じゃないだろ。

 とはいえまずい……殴られるか……? 

 健史が拳を握り込むのに気付いて、俺は思わず足を一歩引いてしまった。情けない……。そういう所だぞ俺。

 俺は歯を食いしばり、その時を待った。

 ……だが、一向に衝撃は飛んでこない。

 

「どうした? こないのか?」

 

 俺がニヘラと強がって笑ってみせると、健史は俺を一瞥し、ふぅと息を吐いた。

 

「……いえ。僕が……今ちゃんと話さなきゃいけないのは、麻ちゃんですから……」

 

 そう言って、再び浅田に向き直り、もう一度しゃがみこんでその肩を掴む。

 ……どうやら、今度こそ俺の出番は終わりらしい。

 

「麻ちゃんの辛さは……僕には分からないかもしれない。でも麻ちゃん、一個勘違いしてるよ……」

「勘、違い……?」

 

 浅田がゆっくりとその顔を上げた。

 この場で初めて浅田と健史の顔が向かい合う。

 その顔はまるで亡者のように真っ白だった。

 

「あの部訓はね、僕が兄さん……ヒロ兄に頼んで作ってもらったんだ」

「え?」

 

 健史の言葉に、浅田が目を見開く。

 いや、それは俺も驚いた。

 部訓ってさっき言ってたあれだろ?

 「マネージャーに邪な気持ちで接しない事」みたいなやつ。

 健史の案だったのか。

 

「ヒロ兄が部長になった時……『折角だから何か部長らしい事をしたい』って言ってて。よく一色先輩の話も聞いてたから、一色先輩の事をカモフラージュに使わせてもらって。僕が考えたんだ」

 

 健史は照れくさそうにそう言うと、右手で自分の頬を掻いた。

 そう『一色に』と断定しているわけではないのだ。

 対象はあくまで『マネージャー』つまり当然浅田も含まれる。

 浅田自身がそれに気付いていなかった為に、妙に一色に寄り添った形に見えるが。守られていたのは一色と、浅田の二人なはず。

 そこに気付いていればあるいは……。いや、意味のない仮定だな。

 

「本当は麻ちゃんと他の誰かが付き合ったりしないように……僕、麻ちゃんの事好きだから……僕が中学に入るまでに麻ちゃんに彼氏とかが出来たら凄く、嫌だったから……」

 

 ……ん? 今「好き」って言ったか?

 もしかして俺、今人生で初めて他人の告白現場に立ち会ってる?

 あれ? というか、完全にそういう流れだったな?

 ど、どうしよう。外出てたほうがいいかしら?

 いや、それはそれで不自然か。 

 と、とりあえず目を瞑っておけばいいか?

 俺は岩……いや、木だ……小学生の頃の学芸会を思い出せ……。

 

「う……そ……嘘! あれはいろは先輩のための……」

「うん、実際そういう面もあったんだと思う。当時はいろは先輩に近づきたくて部活に来る人達もいたらしいから。だからそういう人達の抑止力になればいいって。ヒロ兄は僕の案を採用してくれたんだ。でも、僕が提案したのはあくまで麻ちゃんの為だよ。麻ちゃんを他の誰にも取られたくなかったんだ。だから、そういう決まりを作ってってお願いしたんだ」

 

 どうやらこいつ本人の知らないうちに外堀から着実に埋めていくタイプのようだ。

 なんか俺こういうタイプを他にも知ってる気がする。誰とは言わないけど。

 おっと、俺は今電信柱だったな。考えるな、感じろ……。

 

「そんな……だって……私……」

「ね? 赤星先輩との事でその……きっと色々考えすぎちゃってたんだよ。麻ちゃんが魅力的な女の子だって、僕はちゃんとわかってる。昔からいつも僕の手を引っ張って、僕を守ってくれてありがとう。……でも今度は僕が守るから、だからちゃんと謝りに行こう? まだ間に合うから。……ですよね? 比企谷さん?」

 

 健史は、そう言って俺に目配せをすると、優しく微笑んだ。

 どうやら、浅田の目にも僅かだが光が戻ってきたようだ。

 これならいけるか?

 なんだ年下だと思っていたが、コイツのほうがよっぽど大人じゃないか。一時はマジで殴られるのも覚悟したが。

 なるほど、健大がこいつを部長にしたのは案外こういう所なのかもしれない。

 少しこいつの評価を見直したほうが良いかもな。

 さて、そろそろ俺も人間にジョブチェンジするとしよう。

 

「……一応もう一度だけ確認するぞ? そのスーパーで万引したものじゃなくて、別の店で買ったものなんだな?」

「……はい」

 

 浅田は一度小さく頷いて。健史に支えられながら、ゆっくりと立ち上がる。

 

「レシートとかはあるか?」

「えっと、ここに……」

 

 浅田が自分の財布からレシートを取り出し、俺に手渡してきた。

 そこには四つの商品が書かれている。ペットボトル飲料も書かれているので、恐らくそれ以外のどれかを一色の鞄に忍ばせたということなのだろう。後は信用してもらえるかどうかだな……。

 正直装備品としては心もとないが、他に武器はないし、あちらの状況もわからないためこれ以上時間は掛けられない……まだしばらく胃痛に悩まされそうだ。

 

「よし、じゃあ行くか」

「はい。麻ちゃんもほら、急ぐよ」

「う、うん」

 

 健史が浅田の手を握るのを確認して、俺は一足先に宿直室を後にする。

 校庭からはすっかり生徒の姿が消えていた。

 

*

 

「比企谷さん、遅いですよ」

「……ハァ……ハァ……」

 

 先陣を切ったのは良いものの、息一つ切らせていない健史に急かされながら、俺は息も絶え絶えにスーパーの中へと入っていく。

 いや、まじ疲れた……こいつ足早すぎんだろ……さすがサッカー部。

 浅田も息があがっているが俺ほどではない、そういや俺入院して以来体育もずっとサボってたしなぁ……。二学期から頑張ろう……。

 なんとか息を整えると、ふと浅田の左手が震えているのが見えた。恐らく疲れや店内の冷房のせいではないだろう。

 だが反対の右手は健史によって強く握られていた。それは逃げ出さないためか、はたまた別の意図からか俺には測りかねた……。

 

「すんません、さっき万引で捕まった奴がいると思うんですけど。まだいます? ちょっと話しさせてもらいたいんですけど」

「あ? 万引? 何あんた達?」

 

 まずは店員のお姉さんに事情を説明して一色と合流させてもらおうと思ったのだが、お姉さんは話しかけた瞬間にメチャクチャ睨んで来た。

 べ、別に怖くなんてないんだからね!

 

*

 

 お姉さんになんとか事情を説明し、俺たちはスーパーの奥の事務所へと案内される。

 そこには、五十代ほどのおっちゃんと。気の強そうなおばちゃん、そしてもみじさんと一色が長椅子を挟んでパイプ椅子に座っていた。

 

「店長、なんかこの人達が万引の件で話があるって」

 

 レジのお姉さんに紹介されたので、俺は一歩前に出て発言した。

 先手必勝だ。

 

「あー、すみません、こいつの関係者なんですけど、ちょっと今回の万引の件でお話しさせてもらっていいですかね?」

「え!? 八幡くん!?」

「……セン……パイ……?」

「ああ、貴方たちが万引グループなのね? ちょうどよかった、今更自首しても遅いわよ? さ、あなた達も連絡先書きなさい?」

 

 俺の姿を見て驚くもみじさんとは反対に一色は俺の姿を見てもあまり驚いていない、万引の件で相当のダメージを受けているのか、大分消沈しているようだ。少しだけ心配になる。

 とりあえず……警察を呼ばれる事態にはなってないみたいだな。

 一先ず間に合ってよかった。

 

「……もう大丈夫だ」

 

 俺は不安そうに見上げてくる一色の頭にポンと軽く手をおいた。

 おっと、こういうのは女子にやると嫌われるんだったか。

 これが許されるのはハーレム系ラノベの主人公だけらしいからな、自重。

 しかし、俺が慌てて手をどけても。一色はゆっくりした動きで自分の頭を擦るだけで他にリアクションがない。そのノロノロとした動作はいつもの一色からはかけ離れたもので、心配の度合いが少しだけ上がる。

 だが、とりあえず一色の事はおいておこう。今は問題の解決が先だ。

 俺は店長と呼ばれたおっちゃんとおばちゃんに向き直ると、事情を説明するべく口を開く。さて、最後の仕事だ。

 

**

 

「勘違いさせるような事してごめんなさい! でも万引したものじゃないんです!」

「……っていわれてもねぇ? 店長」

「うーん……」

 

 事情を説明し、浅田が頭を下げたが。店長とおばちゃんの反応は薄い。

 やはりすぐに信じては貰えないか……。

 そもそもグループでの犯行だと思われているらしいので、逆に俺たちが来たのが失敗だったのかもしれない。

 相変わらず一色が俺の方をじっと見つめている。

 『何しに来たんだ』と責めているのだろうか?

 いや、さすがそこまでは頭が回らなかったんだから仕方ないだろ……。

 

「証拠はある?」

「レシートがあります」

 

 俺は浅田から預かっていたレシートを場に出し。

 店長に見せた。

 すると店長は一瞥した後、フム。と考え込んだが。

 おばちゃんはマジマジとそれを見つめ、手に取ると何やら光に透かしたりしている。

 いや、それで何がわかるんだよ。

 

「うーん、でもこれだけじゃぁねぇ。そのレシートに書かれてるのがこの商品だとは証明できないじゃない? ここに来るまでに用意したものかもしれないわ。ねぇ、店長」

 

 おばちゃんの言葉に店長も困ったように後頭部を掻き始める。

 まあ、アリバイ工作をしてきたと思われても仕方はない時間ではあるので駄目だとは思っていたが、実際そのとおりになると堪えるな……。

 おばちゃんは何故か得意げにフンフンと鼻を鳴らしながら腕を組んでいる。ガン○スター気取りかよ。

 

「防犯カメラとかを見てもらえば……」

 

 次に、浅田が恐る恐るという様相で発言した。

 少なくとも浅田が盗んでいない以上、決定的な場面は撮られていないはずだ。さて、どうくる?

 

「防犯カメラは見てみたわよ、残念ながらお客さんの影に隠れていて盗る瞬間は映ってなかったけど。お菓子コーナーを通った所も、あなたたちが商品を受け渡している瞬間もばっちり映っていたわ」

 

 だが、おばちゃんはそう言って、一色と浅田を交互に指差すと得意げに胸を張った。

 それが相当ショックだったのか、浅田の顔色も一瞬で青ざめる。

 いや、浅田の話を聞いた上でなお、決定的な瞬間がなくてもそこまでマウント取れるとか逆に尊敬するわ。なんなのこのおばちゃん? つよい。

 

「じゃ、じゃあ在庫を確認してみて下さい! 数が合わないはずです!」

 

 続けて、健史がそう提案した。

 健史も浅田の顔色を見て焦っているようだ。

 内心では俺も焦っている。

 やってない事を証明するのがここまで難しいとは。

 まさに悪魔の証明。

 

「それをするなら店が閉まってからだね、じゃないと正確な数がわからないだろう。他のお客さんも居るからね」

 

 店長にそう断られ、健史が落胆した。

 しかし、これに関しては店長もこちらが憎くて言ったわけではないだろう。

 データ上の在庫の有無だけならともかく、今回は正確な数を確認する必要がある。

 客が持ち歩いていたり、どこか別の場所に置かれていたりしたらそれこそ万引の疑いが強まってしまうのだから。むしろフェアな提案とも言える。

 

「だから! もう警察を呼んで、諦めて何か言いたいならあとはそっちで勝手に言い訳しなさいよ! こっちも忙しいのよ!」

 

 俺たちが粘るのがよほど気に入らなかったのか、おばちゃんが突然声を荒げた。

 このおばちゃん、自分の立ち位置分かってんのか?

 一歩間違えれば即崖下に転落だぞ……? 

 仕方ない……もう最後の手段に出るか……。

 俺は一度ふぅとため息を付き、自分を落ち着かせる。

 

「分かりました、警察呼んでもらいましょう」

 

 そう提案する俺に、場にいた全員の視線が集中した。

 

「は、八幡くん? あんまり大事には……」

 

 もみじさんが慌てた様子で立ち上がったので俺は片手でそれを制する。

 

「いえ、これはきっちり調べてもらったほうがいいです」

「でも……」

 

 もみじさんはチラリと一色の方を見た後、不安げに俺を見つめた。 

 分かっている。

 どうにもさっきから一色の様子がおかしい。

 未だにうんともすんとも言わず、じっと俺の方を見つめている。

 それはつい先程までの浅田のようでもあった。

 最早考えるのをやめてしまっている。

 だからこそ、俺も焦っているのだ。

 下手をしたら自棄になって余計なことを言い出しかねない……。

 

「そうよそうよ! そうしましょ!」

 

 どうやらこの場で賛同者はおばちゃんだけみたいだな。

 浅田も警察と聞いて不安げだ。今度こそ捕まると思っているのだろう。健史の手を強く握り、離そうとはしない。

 そして……店長も俺の提案を渋っている。ということは、店長は誤解の可能性があると考えてくれているという事だ。なら……いけるかもしれない。

 

「そうしたら閉店後と言わず、きっちりお店の中も調べて在庫確認してもらって、もし数が合わなかったら今来てる客が持ってないかちゃんとチェックもしてもらう。それと、数が合わない場合は他の万引き犯が映っていないか、防犯カメラも徹底的にな」

「そ、そこまでしなくても……ねぇ?」

 

 おばちゃんが焦ったように店長を見た。

 店長も更に顔をしかめている。

 及び腰になっているようだ。まあ当然だが……。

 

「で、でもそれは閉店後だってさっき店長さんが……」

「閉店後だと店側にマイナスが無くても、無かったことにしてこっちが罪を着せられる可能性もあるだろ? なにしろ冤罪をふっかけてくるような店だからな。警察ならフェアだ」

「そ、そんな事するわけないでしょう!!」

 

 健史と俺の会話に、おばちゃんが奇声をあげて割って入ってきた。

 相変わらず店長は何も言わない。

 だからこの場はおばちゃんは無視。

 

「それと指紋も取ってもらおう。健史、お前はこれを買ったコンビニ行ってくれ。そっちの店員の指紋も必要になるだろ。レシートに担当者の名前書いてあるからその人と連絡とれるようにな」

「わ、わかりました」

 

 健史が、慌ててテーブルの上のレシートを取ろうとするので、俺はそれより先にレシートを拾い上げ、担当者を確認するふりをする。

 一瞬不思議そうな顔をする健史、今にも走り出しそうな勢いだ。

 ちょっと待て。慌てるな。ステイ。

 

「それと……オバサン。あんた犯行現場見たわけじゃないんだよな? これ、無実が証明された後は。完全に女子中学生監禁事件だからな、きっちり責任は取ってもらうぞ? 覚悟しておけよ?」

「そ、そんな監禁だなんて人聞きの悪い……!」

 

 おばちゃんが慌てて反論するが、これは無視。俺の狙いは……。

 

「よく確認もせず証拠もない状況で、無理矢理荷物チェック。後から証拠を作り上げて客を閉じ込めた店となれば警察も問題にすると思いますし、客の評判もだだ下がりだと思うんですけど。どうっすかね? 店長さん?」

 

 ハッタリに次ぐハッタリ。

 ブラフに次ぐブラフ。

 だが、脅しのような俺の言葉に……おばちゃんは相当ビビってくれている。

 正直俺もやばい橋を渡っている。

 警察が来たとしても、すぐに解決はしないだろう。第一、本当にそこまで動いてくれるかは分からないし、指紋にしたってどの程度残っているのかも俺にはわからない。

 だが、これ以上長引かせたくないのは恐らくどちらも一緒。

 ならばあえてここは徹底抗戦の構えを示す。頼む……折れてくれ。

 

 こんな事。俺の柄じゃない事はわかっている……でも、おっさんに頼まれたのだ。

 こいつを……なんとか守ってやりたい。

 それが俺の……。

 俺の……そう、仕事なのだから。

 

*

 

 場に沈黙が流れる……。

 店長も判断に悩んでいるのだろう。

 くそっ、これでもダメか?

 恐らくあと一歩なのだ。

 せめてもう一つ何か押し切る材料があれば……何か、何かないか?

 考えろ、考えろ、考えろ!

 

「あの……ちょっといいすか?」

 

 そうして俺が思考を巡らせていると、突然さっきのお姉さんが俺を押しのけるように、挙手したまま一歩前に出てきた。

 

「万引された商品ってこれ?」

 

 お姉さんは、テーブルの上に置かれている小さなその商品を指で摘むとシゲシゲと眺め始める。

 なんだろう?

 単品で買っていればシールが貼られていると思うんだが……。

 これは他のペットボトルと一緒に買ったものだ。恐らく最初は袋に纏めて入れられていたのだろう。シールは貼られていないはず。

 

「え、ええ。全く困った子達よね……素直に認めてくれればこっちだって大事にするつもりもないのに……ほら、さっさとゴメンナサイしなさい? 許してあげるから」

 

 その様子を見ながら、おばちゃんが再起動した。

 まずい、俺が作った空気が霧散していくのが分かる。

 ここまで来て、なぁなぁで終わるわけにはいかないというのに……!

 

「これ、うちの商品じゃないですよ」

「「「え!?」」」

 

 それはお姉さんを除いた、その場にいる全員の驚きの「え!?」だった。

 なんだ? もしかして他店のシールが貼られていたとかなのか?

 それとも他に何か、ひと目で他の店の物だと分かる証拠があったのか?

 

「え!? ど、どういう事? だってこれ例の……!」

「ええ、例の『タピオカガム』ですよね? 今流行ってるっていう奴。でもウチに一昨日入った奴は、昨日までで全部はけてますよ? まとめ買いしてった客もいて、次に入荷するのは十月以降になりそうだって、担当の松岡さんも言ってましたし……ってああ、そういえば店長は昨日休みでしたっけ? うちに残ってるのは『マカロンガム』とかいうパッケージ似せた類似品の人気ない方です。タピオカの方は在庫ゼロだからウチから万引なんてできないですよ」

 

 慌てるおばちゃんの言葉に、お姉さんは冷静にそう答えると、手に持っていたガムをテーブルの中央へと戻した。

 おばちゃんの顔もみるみる青ざめていく。

 え? これ、小町が探してたっていうあのタピオカガムなの!?

 Amazingで三~四ヶ月待ちとかいう?

 浅田の手に戻されたら後で譲ってもらえないか交渉しよう。

 帰ったら小町に自慢出来る。

 

「ほ、本当かね? おい、ちょっと松岡呼んで来い!」

「は、はいぃぃぃ!」

 

 突然の事態の変化に店長が慌ててそう指示をだし、おばちゃんはドタバタと店の方へと走っていった。

 

「んじゃ、あたしは上がりの時間なんでこれで。……お先失礼しまーす。あ、お嬢ちゃん、あんま兄貴に迷惑かけんなよ?」

 

 そうしている間に右目の下の泣きぼくろ(・・・・・)が印象的なお姉さんは俺たちにそう言い残し、長いポニーテール(・・・・・・)を揺らしながら去って行く。

 カッケー……!

 俺が女だったら危うく惚れてる所だったわ。

 ってかそういう事なら在庫の確認だけで良かったのか。やっぱ俺始めから要らなかったじゃん……。うわ、色々恥ずい。何が警察だよ。何が覚悟しておけだよ……。ああああああ……。

 走って来て損したわ……。

 

「えっと……ということは?」

「どうやら無実が証明されたみたいだな」

「よ……良かったぁ……」

 

 俺の解説に浅田と健史がその場でへたり込む。

 どっと疲れた。

 こういうオチなら俺が一色の家で留守番してても問題はなかったのだろう。

 まあその場合は多少時間が掛かったかもしれないが。

 この店に商品が存在しない以上、一色の無実は揺るがなかったはずだ。遅くとも警察が来ればすぐに判明しただろう。

 

「八幡くん!」

「うぉっ!?」

 

 ふぅと一息つこうとしたところで、突然何かとてつもなく柔らかい衝撃が俺を襲った。もみじさんが抱きついてきたのだ。

 心臓に悪いから辞めて欲しい。

 

「ありがとう、ありがとうね」

「あ、いえ、俺は別に……」

 

 俺はただいつものように空回りしただけだ。

 ほんの少し歯車の先が当たって、物語が進むのを早めた程度の存在でしかない。

 絶対に必要だったか? と言われたら百パーセント『ノー』。

 こんな事で礼を言われても困る。

 

「私一人じゃどうにもならなかったわ……駄目ね、母親なのに。もっとしっかりしないと」

 

 もみじさんは俺の後頭部を撫でながらそういうと、目元を拭いながら

ゆっくり俺から離れていく。もしかして泣いていたのか?

 

「ほら、いろはちゃんもお礼言いなさい?」

 

 そうして、俺の視界からはずれるようにもみじさんが移動して、ポンと一色の肩を叩く。

 一色は相変わらずパイプ椅子に座っているが。なんだかまだ様子がおかしい。妙に頬が赤く、その瞳は潤んでいる。

 ん? 一色も泣いてんの? いや、だからそんな泣くほどの案件じゃなかったっぽいぞ……。

 

「一色……?」

「セン……パイ……」

 

 よほどショックだったのだろうか?

 一色は俺が呼びかけると、フラつきながらパイプ椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。

 マジで大丈夫? 病院呼ぶ?

 

「……無実が証明されたぞ、良かったな」

「無……実……?」

「なに? 嬉しくないの?」

「……私……万引なんて、してない……してないんです」

 

 どうも会話が噛み合っていない。

 もしかして、あまりのストレスで脳がやられたとか?

 まずいな、受験まで半年切ったっていうのに。

 

「ああ、だからそれが証明されたって……うぉっ!」

 

 だが、俺の言葉が言い終わる前に、今度は一色が俺に抱きついてきた。

 な、な、な何事? 

 う……もみじさんとはまた一味違う柔らかさがダイレクトに……!!

 

「セン……パイ! センパイ! センパイセンパイ……!!」

 

 俺がパニクる暇もなく、一色は俺の胸の中でワンワンと泣き始めた。

 ええー……どうしたらいいのこれ……。

 

「……あー、ほら、泣くな……もう大丈夫だから……」

 

 一色は俺の背中に手を回しているが、俺はその背中に手を回すこともできず、両手を所在投げに彷徨わせている。

 今の姿は傍から見れば、さぞ滑稽であろう……おい、健史笑うんじゃない。

 こっちはどうしようもないんだよ。男のお前なら気持ち分かるだろう。

 ってかいつまで浅田と手握ってんの?

 

「私……万引なんて本当に!」

「わかってるよ、だからもう終わっただろ」

「へ……?」

 

 俺がそう言うとようやく一色は顔を上げ、周囲を見回した。

 どうやらやっと状況に気がついたようだ。よほど錯乱していたのだろうか?

 一色はその場にいる一人ひとりの顔を確認するように、全員見回すと、再び俺の顔を覗き見た。近い。

 んじゃ……わかったらいい加減少し離れてくれませんかね?

 

「大丈夫、もう終わった。お前は無実だ」

「うっ……うわぁぁぁぁ!」

 

 だが、なぜか一色は再び俺の胸に顔をうずめ泣き出す。

 ええええ……? なんで?

 どうしたものかと視線を彷徨わせていると、もみじさんが親指を立て小声で何かいっている……なに? GO?

 全くこの人はこんな時に何を……。

 はぁ……。頼むからセクハラで訴えたりしないでくれよ?

 

「よく、頑張ったな」

 

 俺は恐る恐る、一色の背中をポンと叩いた。

 だが、それでも一色の涙を止めることは出来なかった……。

 どうしろっていうんだよ……誰か助けて。




伏線回収していくの楽しい。
さて、皆さんの予想はあたっていましたでしょうか?

色々言いたいことはあるけど長くなりそうなので
連日投稿後の活動報告でまとめて投下予定です。よろしければ覗いてみて下さい。

ひとまずこれで事件は解決となりますが……夏休み編はもうちょっとだけ続きます。

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。
連続投稿もあと半分!よろしければもう少しだけお付き合い下さい。

※この物語はフィクションです。実際に同じようなこと(万引・虚偽申告)をすると法で罰せられる可能性があります。絶対に真似しないで下さい。


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第35話 私達の関係

第31話~第37話まで連日投下中です!(2019/11/30~2019/12/06)
なんのこっちゃわからないという人はお手数ですが第31話の前書きを御覧ください。
本日五日目!いよいよラストスパート!


<Iroha>

 

 何が起こったのか、分からなかった。

 万引き犯に間違えられ、何度も説明したけど結局信じてもらえずママに連絡される事になって。

 最初は、ママが来てくれればスグに開放される、そう思ってもいた。

 でもいざ到着したママはまるで自分が疑われたかのように狼狽えて、なんとか私の無実を証明しようとしてくれたけど、やっぱり信じてもらえなくて。

 「謝れば許すっていってるのに!」と言うおばさんに「もっと詳しく調べて下さい、主人ももう来ると思いますからせめてそれまで」と言って何度も何度もパパに連絡していた。

 そんな応酬が続いて行く中、いよいよオバサンが呆れた顔で「もう警察呼ぶわよ」と脅された所までは覚えている。

 

 ああ、私、捕まっちゃうんだ……。

 そんな絶望感が私の肩にのしかかった。

 なんとなく、犯人は麻子ちゃんだって思っているけれど、

 それを証明する手立てもない。

 防犯カメラも見てみたけれど、私が麻子ちゃんらしき女の子とぶつかっている所がぼんやりと映っているだけで顔までははっきり見えなかった。

 あとは目の前にあるガムが証拠。

 麻子ちゃんに電話をしたら、自首しに来てくれたりするだろうか?

 多分無理だよね、そもそも彼女が犯人だと決まったわけでもない。

 というより勝手に彼女が犯人だと決めつけている。

 もしかしたら私と同じ様に彼女にも罪をなすりつけてしまう可能性だってあるのに……。

 私……こんなに嫌な女だったんだ。

 後輩に濡れ衣を着せた、なんて事になったら二学期から学校での私の居場所はなくなるだろう。

 そう思うと怖くて連絡しようという気にすらならなかった。

 まあ、逮捕されたらどうせ噂は広まるだろうし、どっちにしろ終わりか……。

 もうこれで私の人生は終わりなんだと思った。

 きっと万引き犯なんてどこの高校にも入れてもらえない。

 もしかしたら少年院とかに入れられちゃうのかもしれない。

 そんな風に悪いことばかり考えてしまっていた。

 

 きっともう友達にも……小町ちゃんにも会えない。

 センパイにも会えなくなるんだ。

 万引するような女の子、センパイだって会いたくないもんね……。 

 でも、本当に私万引なんてしてないのに……

 ああ、どうしてこんな事になっちゃったんだろう。私そんなに悪いことしたのかな……。

 

 いつしか私は考えるのを辞めて、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 涙も出ない。

 頭が痛い、目の前が真っ暗だ。

 だんだん周りの声も聞こえなくなってきた……。

 今はただ早く終わって欲しい、いっそオバサンの言う通り認めちゃったほうが楽なのかな? 

 謝って済むなら、それが一番楽な方法なら、それでもいいのかもしれない……。

 そんな事も考え始めた時。私の目の前に突然センパイが現れた。

 あれ? なんでここにいるんですか?

 いつもそうだ……。私が助けて欲しいと思うと、いつもそこにいてくれる。もしかして、幻覚? 夢?

 そうだったらどんなにいいだろう。

 本当の私はまだ布団の中で、目覚めるのを待っている。

 そうだったら、どんなに幸せなことか。

 だけど、そのセンパイは一度ポンと私の頭に手を置いて、店長さん達と話始めた。

 

 なんだろう? センパイに触られた部分がとても温かい。体中フワフワする、さっきまで冷え切っていた心が溶かされていくのが分かる。

 それからはもう私の目にはセンパイの姿しか映らなかった。

 なんだか周りが煩い。センパイの声が聞こえない……集中しなきゃ。

 でもセンパイは何でここにいるんだろう?

 私は、ただただセンパイの言葉“だけ”に耳を傾けた。

 でも、その声は聞こえてはくるけど、何故か頭に入ってこない。

 レシート? 私レシートどうしたっけ? ああ、ここにあった。

 あれ? でもテーブルの上にレシートが二枚? なんで?

 まあいいか、センパイはイツだってこんな感じだ。

 

 私が麻子ちゃんに言われてデートさせられそうになった時だって、センパイが何をしているのか分からなかった。

 お祭りの時だって、柄にもないのに私をおぶって手当してくれた。

 私が考える更にその斜め上の行動を取る、それがセンパイだ。……私のセンパイだ。

 

 それからセンパイは時折考え込んだり、焦ったり、妙に強気な顔をしたと思ったら今度はすごく驚いた顔、コロコロ表情を変える。普段は見たこと無いようなセンパイの百面相。正直レアだ。ふふ、なんだかお芝居を見てるみたい、いつもより格好いい……。

 少し体が火照ってきたみたい。頬が熱くなってきた。

 

 そんな風にぼーっとセンパイを見上げていると。一瞬視界からセンパイが消えた。

 あれ? と思ったらどうやら私の前にママが立っていたらしい。

 もう、邪魔しないでよママ。そう思うとママがすっと横にずれ、再びセンパイと目があった。

 

「一色?」

 

 突然名前を呼ばれ、私は慌てる。

 何か、何か言わなきゃ、センパイが呼んでる。

 

「セン……パイ……」

「おう、無実が証明されたぞ、良かったな」

 

 無実……?

 センパイは、私のこと無実だって信じてくれるんですか?

 そう思っただけで、それまで我慢してきた涙がとめどなく溢れてきた。

 

「なに? 嬉しくないの?」

「……私……万引なんて、してない……してないんです」

 

 本当にしてないんです。

 なんであんなものがカバンの中に入ってるのかも分からなくて……!

 信じて……センパイにまで疑われたらもう私……!

 

「セン……パイ! センパイ! センパイセンパイ……!!」

 

 恥も外聞もなく、私は赤ちゃんみたいにセンパイに縋った。

 助けて下さい……!

 そう願って、私は思い切り抱きついた。

 助けて! 助けて!

 でも、あまりにも色んな感情が自分の中に渦巻いていて言葉にならない。

 今まで押し留めていた涙は、止めようと思っても最早止まってはくれなかった。

 

「……あー、ほら、もう泣くな……もう大丈夫だから……」

「私……万引なんて本当に!」

「わかってるよ、だからもう終わっただろ」

「へ……?」

 

 終わっ……た?

 私は状況が飲み込めず、あたりを見回してみる。するとそこには何故か健史君と麻子ちゃんがいた。あれ? なんで二人がここにいるの?

 ママ……?

 ママの方を見ると、ママは一度だけコクリと頷いた。

 全部……終わった? 本当に?

 私、捕まらなくてすんだの? 逮捕されないの?

 

 そこで、ようやく私はこれまでの事を思い出す。

 ずっと、聞いていたはずなのに、ずっと見ていたはずなのに。

 頭の中に入ってこなかったその光景の意味。

 そうだ、麻子ちゃんが謝って……センパイが……私の無実を証明してくれたのだ。

 ちゃんと見ていたのに、センパイの事しか見えてなかったなんて恥ずかしい。 

 でも、そうだ。確かにセンパイは私の目の前で店長さん達と戦ってくれていた。センパイが、全部、全部解決してくれたんだ。

 私は混乱しすぎて、状況を理解しきれていなかったのだ。

 全てが終わった。その開放感、安心感、喜びが私の中から広がっていく。

 

「大丈夫、もう終わった。お前は無実だ」

 

 それはトドメの一撃だった。

 私の中でピンと張り詰めていた緊張の糸が完全に切れる音がする。 

 

「うっ……うわぁぁぁぁ!」

 

 もう高校にも行けないと思った。

 もう私の人生終わりだと思った。

 本当に、本当に辛かった……怖かったんです!

 だけどその思いはどれも言葉にはならず、ただただセンパイの胸へと吸い込まれていく。

 でも、こんな事をしてもセンパイが困るだけ……いい加減離れなきゃ。

 そう思ったんだけど。

 

「よく、頑張ったな」

 

 センパイが最後にそう言いながら、優しく私の背中を叩いてくれたから、私は涙を止めることができなくなってしまった。

 ああ、やっぱり私センパイの事……。

 

**

 

 それから、しばらくして、その場にパパが現れた。

 そこで私はふと我に返り、センパイからゆっくりと離れる……。

 うわ……私なんてことを……。

 あんなに大声で人前で泣くなんて、一体何年ぶりだろうか。

 私は恥ずかしさのあまり、幼子のようにママの影に隠れた。

 不思議そうな顔をするパパ……そしてセンパイ。

 麻子ちゃんや店長さん、そしておばさんがそんな私に何度も謝ってくるけど……ちょっと空気読んでくれないかな?

 今私ソレどころじゃないんですよ!

 私すごく恥ずかしいところをセンパイに見られてしまった。

 うう、センパイどう思ってるんだろ。ああ、センパイのTシャツの胸元が濡れている。あれ私の涙だよね……。っていうか……それ小町ちゃんがあげてた服じゃない? うわぁぁぁぁぁ……!! くっきり顔の形にシワが残っちゃってる!? 今スグ「洗って返すから脱いで下さい!」って叫びたい。でもそんなの絶対変に思われる……穴があったら入りたい……。

 

 ああもう煩い!

 謝罪とかもう本当どうでもいいんです、とにかく大事にしないでくれればもういいですから。

 折角センパイがいるのにこれじゃ話もできない。

 今はそっとしておいて欲しい。そして一刻も早く解放して欲しい。

 ああもう! パパ、ママあとお願い!

 私はそうして「後の事はパパと話し合って下さい」と言ってその場から離れ、従業員用のトイレへと逃げ込んだ。

 どうやらママは私の意図を汲んでくれたようだ「任せといて、パパときっちりお話つけておくから」と言って私を送り出してくれた。

 センパイは相変わらず不思議そうにこっちを見ていたけれど。パパから事情説明を求められて、私を追いかけたりはしてこない。

 パパGJ。

 もし『心配だ』とか言って付いてこられたらどうしようもなかった。

 

 というのも、今の私はかなりまずい顔をしている。

 涙で濡れ、センパイの胸に顔を擦りつけた事で前髪もボサボサ。

 きっと目も腫れている事だろう。

 こんな顔でセンパイの前に立つのは女子として失格すぎる……。

 ああ、やっぱり目元が真っ赤。何か冷やすもの……とりあえずハンカチを濡らして……。涙の跡も凄いなぁ。

 まさか……センパイの前で鼻水……とか垂らしてないよね私?

 う……死にたい……。

 

 でも、今更そんな事いっても始まらないし……とにかく最低限。最低限の事をやって、急いでセンパイの所に行かなくては。

 ああ、こんなことならメイク道具も持ってくるんだった!

 

**

 

 そうして鏡を見ながら格闘すること約十分。

 私は、ようやくそれなりの顔に戻った。

 ううん、どんなに見積もっても赤点ギリギリって感じ。

 でも……これなら、腫れた目もそんなに目立たない……よね?

 本当はもっとやりたいことはあるけど、これ以上時間をかけてはいられない……。

 私は諦め半分で、パンと一度両手で頬を張り、気合を入れてトイレから出る事にした。

 待っててくださいね、センパイ……!

 だけど、私が勢いよくトイレから出ると、そこには一人佇む麻子ちゃんの姿があった。

 

「あ、あの……いろは先輩……少し……お時間いただけませんか?」

 

 どうやらセンパイと会えるのはもうちょっと先のようだ。 

 

*

 

 麻子ちゃんに『どうしても謝らせて欲しい』そう言われ、少しだけ話をすることになった。

 場所はそのままスーパーの従業員用トイレの前。

 ここなら、そんなに頻繁に人が来ないだろうし、何かあったら声を出せばすぐセンパイにも聞こえる。それに、あまり長くなりそうなら場所を理由に切り上げられると思った。

 謝りたいとは言ってくれてはいるけれど、正直まだ少し怖いのもあったから。いつでも逃げる言い訳が出来る場所にさせてもらったのだ。

 

「……いろは先輩。今日は本当にすみませんでした!」

 

 しかし、そんな私の警戒を知ってか知らずか、麻子ちゃんはその場で九十度頭を下げ、私に謝罪の意を示した。

 突然の大声で、近くにいた店員さん達も思わずこちらを振り向いたのが分かる。

 その後も、経緯を説明しながら何度も何度も頭を下げてくる。

 なんなら土下座でもしそうな勢いだった。

 うん、正真正銘の謝罪だ。

 大まかな事情も聞いた。

 原因は私への嫉妬……みたいなものらしい。

 まあ、麻子ちゃんの気持ちを考えたら、多少申し訳ないという気持ちもあったし、私としてはまぁうん……。嫉妬されているというのはわからなくもない。私にはどうしようも出来ない事なので何をどうすべきだったかとか聞かれても困るのだけど。

 でも、私……どうしたらいい?

 どうしたいと思っているんだろう?

 許す? 許さない?

 

「あー……うん。あのさ、私も、ごめんね。色々タイミングとか悪くて……」

 

 正直に言えば、最初は絶対許せないと思っていた。

 何を言われても、どんな事をされても許さないと、そう思っていた。

 だけど大事な告白シーンを覗いてしまった自分への罪悪感も少しだけ有るし、何より今はそんな『許す許さない』よりもっと大きな感情が私の心の中を支配していて、麻子ちゃんを……誰かを憎むという気分にはなれなかった。こういうの罪を憎んで人を憎まずっていうのかな?

 

「いえ、全部私が悪いんです」

 

 真剣に謝ろうとしてくれている麻子ちゃんには申し訳ないけれど、こんな謝罪よりも、早くセンパイの元に行きたい。一分一秒でもセンパイのそばにいたい。

 今はただ早くこの場を切り上げたいと思っている自分をこれ以上抑えきれそうになかった。

 とはいえ……ここで蔑ろな対応をして後でセンパイの耳に入るのも嫌だ……。うーん、何かいい落とし所は……。

 

「……あー、そうだ、じゃあこうしよう? もし次に好きな人が出来たら、ちゃんと私に報告すること」

「え?」

 

 私の突然の提案に、麻子ちゃんが意味がわからないと首をかしげる。

 

「赤星君の事は……その、残念だったと思うし……吹っ切れるまで時間がかかるかもしれない。でも、いつかまた別の人を好きになる事があるかもしれないでしょ? それに私だって最初から麻子ちゃんが赤星君の事好きだって知ってたら、もっと出来ることもあったかもしれないし? 今度はちゃんと応援するから、ね?」

「……そんな事で……いいんですか?」

 

 早口でまくしたてる私に、麻子ちゃんはちょっと驚いたような顔をしていたけれど。少し考えるような仕草をした後、そう言って小さく笑ってくれた。

 

「分かりました、絶対報告します」

 

 まあ次に、と言ってもすぐに切り替えはできないとは思うけど。

 とりあえず納得はしてくれたみたいだ。よかった。

 うん、我ながら良い落とし所だと思う。

 今の私、ちょっといい女っぽいし、いろは的にポイント高い。

 あ、小町ちゃんの口癖が感染っちゃってる。

 

 でも本当、特別他に何かして欲しいとも思わないんだよね、強いて言うなら今はただ私の邪魔をしないで欲しい。それだけ。

 まるで追い払うみたいで、ちょっとだけ申し訳ないという気持ちもあるけれど、今は自分の感情が制御できないので許して欲しい。

 

 そうして私は「じゃあそういう事で」と、麻子ちゃんを置いて、再びセンパイの元へ行こうと軽やかに足を進めた。

 

「あ、あの! 最後に一つだけ聞いていいですか?」

「うん?」

 

 はぁ……まだ何かあるの?

 もう、本当に最後だからね?

 表面上は笑顔だけど、心の中で溜息を吐きながら、私は再び麻子ちゃんと向き直る。ああ、もう早く、早く!

 

「あの人って、いろは先輩の彼氏なんですか?」

 

 ドキッとした。

 『あの人』というのは当然センパイの事だ。

 比企谷八幡。一つ年上のセンパイ。

 当然彼氏……ではない。

 それは分かりきっていることだ。

 

「今日あの人が突然私の目の前に現れて……その……色々言われて……凄く……怖かったんです……」

 

 怖かった? センパイが?

 あー、まぁ色々誤解されそうなタイプだよね……。

 

「でも……あれ全部、いろは先輩の為。だったんですよね……」

 

 一体センパイはこの子に何をしたんだろう?

 でもそうか、センパイ私のために色々動いてくれたんだ。

 そう言えば、どうやって麻子ちゃんが真犯人だって分かったの?

 今日センパイと会ったのってさっきが初めてだよね?

 もしかして……愛の力? なんてね。

 どうしよう、嬉しすぎる。

 口元がだらしなく緩むのが自分でも分かった。

 

「お祭りの時も、実は私見てたんです……その、二人が一緒にいる所……だからやっぱり付き合ってるのかなって……」

 

 お祭りの時?

 ……どこまで見られてたんだろう?

 まさかオンブされてる所……? ってそれぐらいしかないよね……恥ずかしいなぁ……。

 でも……。

 

「……違うよ」

 

 彼氏じゃない。

 だけど今日分かった事はある。

 私、センパイの事……好き……なんだよね?

 だってさっきから……ううん、もうずっと前から私センパイの事しか考えてない。ずっと胸がドキドキしてる。

 ずっと会いたいって思ってる。

 

「あのね……あの人はね」

 

 麻子ちゃんには前にも説明したと思うけど、あの人は私の家庭教師。

 うん、それも正解。嘘じゃない。

 でも、私達の関係にはそれよりももっとふさわしい名前がある。

 始まりは今年のゴールデンウィーク、お爺ちゃんが結んでくれた私とセンパイだけの特別な関係。

 最初は……考えないようにしてた。

 でもそれは消えたわけじゃない。ずっと私の心の奥にしまってあっただけ。

 その関係の名前は……。

 

「私の『許嫁』なの」

 

 言った、言ってしまった。

 初めて他人に宣言してしまった。

 恥ずかしい、という思いもある。

 でも、認めてしまえばなんて楽なんだろう。

 私はあの人の許嫁、お爺ちゃんが連れてきてくれた私の運命の人。

 顔だって悪くない。ううん、むしろ格好いい。それでいてちょっと捻くれてて、そんな所が可愛くて。誰よりも私のそばにいてくれる人。

 

「他の人には内緒だからね?」

「いいなず……? あ……はい」

 

 少しだけ呆れたように口を半分開きながら立ち尽くす麻子ちゃんを残し、今度こそ私はその場を後にする。

 再び事務所に戻ってくると。そこにはパパとママそして店長さんとオバサンの姿。

 どうやらまだ話し合いは続いているみたい。

 あれ? センパイがいなくなってる? さっきまでここにいたのに……。

 ママに聞くと、どうやら健史君と一緒に先に出ていってしまったらしい。

 ええ!? もしかして私を置いて帰っちゃった?

 

 私は慌ててスーパーを出てセンパイを追いかけた。

 途中店長さんとオバサンが私を引き止めて改めて謝罪させて欲しいと言ってきたけど全部無視。

 もう、分かったので、後はそっちで勝手にやって下さい!

 あんまりしつこいと……今スグ警察呼びますよ?

 そうして後のことをパパとママに任せて、逃げるように私はスーパーを出た。

 

*

 

 スーパーの前は人集りでごった返していた。

 どうやらちょうど電車が来るタイミングと重なったらしい。

 仕事帰りでスーパーに寄ろうとする人々が一気に押し寄せてくる。

 でも私の目はそんな人集りの中でもすぐに目的の人を見つけてくれた。

 ……なぜだろう、今だったらどんな人混みの中でもセンパイを見つけられる気がする。

 まるで私の目にセンパイ専用のレーダーが取り付けられてるみたい。

 その姿を見つけて、私はほっと胸を撫で下ろす。

 相変わらず猫背、それでいてやる気のないつまらなそうな仏頂面で、センパイはガードレールに腰掛け、スマホをいじりながら誰かを待っていた。

 誰かなんて決まっている、私だ。私を待っていてくれているのだ。

 

 ふふふ。

 駄目だ、頬が緩んじゃう。

 ここにいる人全員に「この人は私の許嫁なんです!」って宣言してしまいたい。

 流石に言わないけど。

 ああ、こんな事してる場合じゃなかった、早く行ってあげないと。

 ふふ、そんな仏頂面してると折角のイケメンさんが台無しですよー?

 

「セーンパイ♪」

「ん? おお、終わったか?」

 

 センパイは私に気づくと、軽く手を上げた。

 そんなちょっとした仕草も格好いいと思ってしまう私。

 

「ええ終わりました。今日はありがとうございました。麻ちゃんから聞きましたよ、私のために色々動いてくれたんですよね?」

「動いたっていうか……まぁ……ほぼ無駄足だったけどな」

 

 なんだかセンパイはちょっとだけ不服そうだ。

 なんで? そのあたりの話も詳しく聞きたいけど……。

 無駄足なんかじゃないですよ、ちゃんと私を助けてくれました。

 きっと私は今日のことを一生忘れないと思います。

 

「あれ? 健史君は? 一緒じゃなかったんですか?」

「なんか浅田の母親が来たからって、二人で事務所戻ってったぞ」

 

 よし、邪魔者はいないらしい。

 でもそうか……麻子ちゃんも親呼び出しされたのか……。

 まあ、仕方がないことなのかも知れない。

 

「じゃあ……そろそろ私達は帰りましょう? 私もうお腹ペコペコですよー。後のことはパパとママにまかせてありますし、まだ時間かかりそうなんで、私何か作りますよ? 何か食べたいものあります?」

「いや、もう今日は帰るわ、弘法さんともみじさんによろしく言っといてくれ」

 

 だけど、私の提案にセンパイはそう言って重そうに腰を上げる。

 え? 本当に帰ろうとしてる!?

 なんで!?

 

「ええー! なんでですかー?」

「色々あって疲れたんだよ、どうせ今から一色の家行ったって大して勉強もしないんだからいいだろ……ガムもこれからの話し合いで使うからって譲ってもらえなかったし……」

 

 勉強? ガム?と思い時計をみるともう十八時半を回っていた。

 家を出たのが十七時前だから、一時間半ここに閉じ込められていたことになるのか。

 正直もっと長いかと思っていた。

 という事は、センパイとの貴重な一時間半が奪われたのか……。

 そう考えると新たな怒りも生まれてくる。やっぱりもうちょっと文句言ってくればよかったかも。

 でもそれは今じゃない。今優先すべきは……。

 

「なんですかそれー! 家庭教師の時間はまだ三十分あるんですからね、ちゃんとやってくれないとお爺ちゃんに言いつけますよ!」

「えぇ……」

 

 私は慌てて駅に向かって歩き出そうとするセンパイの腕を掴むと、そのままなんとか引っ張って家の方へと歩きだす。なんだか腕を組んで歩いているみたいで少し恥ずかしいような気もする。

 少し前までは振りでこういう事をしても何とも思わなかったのに……すごく不思議な気分。

 でも、絶対に離さない。

 もう、決めたのだ、私はこの人の彼女になってみせる。

 だって許嫁だもん。彼女なんて通過点みたいなものだ。

 ふふふ。ああ、また顔がにやけてくる。ダメダメちゃんと引き締めないと、センパイに変に思われちゃう。

 

「その後はご飯も食べていって下さい。折角お誕生日に食器もあげたんですし、絶対センパイの分の食材も買ってあるんですから、食べていってくれないと悪くなっちゃいますよ?」

 

 ああ、信じられない私の好きな人が私の許嫁で。

 お爺ちゃんもお婆ちゃんも、パパもママも認めてくれている。こんな最高な状況って他にあるだろうか?

 もうセンパイの事しか考えられない。

 全くこの人は。私が今ドキドキしてるってちゃんと気付いているんですか?

 オンブの時だって、さっき抱きついた時だって、私はこんなにドキドキしてるのに……。

 センパイももっと私にドキドキしてくれてもいいんですよ?

 でもきっとセンパイはそんな事ないんだろうなぁ……。

 むぅっ……そう考えるとちょっと腹も立ってくる。

 私そこまで幼児体型じゃないと思うんだけどなぁ……。

 絶対センパイにもドキドキして貰うんですからね? 覚悟しておいてくださいよ?

 私をこんな風にしたんだからちゃぁんと

  

「セキニン取ってくださいね♪」




というわけでいろはす回でしたー。
やっと、やっとここまで……!

連日投稿はあとニ日、次回一話挟んで。
その後二学期編へと突入しますので引き続きよろしくお願い致します。

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。

※この物語はフィクションです。実際に同じようなこと(万引・虚偽申告)をすると法で罰せられる可能性があります。絶対に真似しないで下さい。


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第36話 マネージャー達のその後

第31話~第37話まで連日投下中です!(2019/11/30~2019/12/06)
なんのこっちゃわからないという人はお手数ですが第31話の前書きを御覧ください。
本日六日目! スキップ回としてはラストです。


 夏休みが終わり、二学期が始まった。

 何も変わらないはずの二学期。

 でも、なんだか今は景色が違って見える。

 世界中がキラキラして見える。

 

 だって、一学期までとはまるで違う。

 私には許嫁がいるのだ。

 いや、正確には一学期からいたんだけど……。まあ細かいことは置いておいて。

 今とにかくセンパイに会いたくて仕方ない。

 でも会えない。

 ううう、会いたいよぉ!

 週末まで待てない!

 先週だって、ご飯食べたらそのまま帰っちゃったし……。

 もっとお喋りしたい。

 なのに、うまく連絡もできない……。

 というのも、今まではずっと質問メールばっかりだったから、なんだか普通のメッセージの送り方がわからなくなってしまったのだ。

 私、今までどうやってセンパイと話してたっけ?

 そんな事を考えてここの所、LIKEを開いてもメッセージを入力しては消し、入力しては消しを繰り返し、送信できないでいる。

 いっそセンパイから連絡こないかなー?

 あーもう早く土曜日にならないの?

 なんだか私はまだ少しだけ暴走気味みたい。

 

 まあ、思わず麻子ちゃんに許嫁宣言してしまったあの日よりはマシにはなってると思うんだけど……。

 ……今考えるとやっぱりあれは凄く恥ずかしい事をしたなぁと思う。

 さすがにあんな事件があった後だし、言いふらされたりはしていないと思うけど……。

 もし広まってたらどうしよう?

 ああ、でも自慢したい、言いふらしたい。そんな感情も芽生えている。

 でも、我慢。痛い女だとは思われたくはない。

 ううー! でも誰かに言いたい!

 とはいえセンパイの妹である小町ちゃんに先に告白するのも怖い。別にセンパイにバラすとかは考えてないんだけど、あの子は意外とイタズラっぽい所もあるからなぁ。

 いっそ、麻子ちゃんに話を聞いて貰いにいく?

 彼女ならもう事情を知ってるし、この間のお詫びだと思って聞いてくれるだろう。センパイに話が伝わる可能性も低い。

 そんな事を考えながら始業式の日。教室に行くと。クラスメイトの数人が一気に私の元へと詰め寄ってきた。

 

「いろは! 後輩にはめられて警察に捕まったんだって!?」

「え……!?」

 

 その勢いに思わず私は一歩足を引いてしまった。

 え? もう噂広まってるの?

 まるで追い詰められた犯人のように、私は狼狽する。

 とりあえず話を聞いてみないと……。

 

「え、えー? 何それ? 何の話?」

「いや、詳しくは分からないけど、なんか後輩と揉めたって聞いたよ」

「なんか、彼氏を寝取られたんでしょ?」

「いやいや、俺は金銭トラブルが原因だって聞いたぞ」

「私は四角関係のもつれって聞いたけど」

 

 なんだか噂に尾ひれが付いているようだけど。

 後輩と揉めた……ってやっぱりあの万引事件の事だよね? 一体どこから流れたのだろう……あー、でも他にも結構店員さんとかも聞いてたもんね。私があのおばさんに連れて行かれるときだって、誰か見ていたのかも知れない……人の口に戸は立てられないっていうし、地元で学校関係者に近い人もいた可能性だってある。ちょうど夏休みの終わりだったからネタとしては新鮮だ。噂が広まってもおかしくはないか。

 まあ幸い、私が被害者という点だけは間違ってないみたいだけど……。

 

「そんな捕まったなんて人聞きの悪い。ちょっと誤解があっただけだよ。警察も来てないし」

「ええー? そうなの?」

「うん、それに──寝取られてないから」

 

 顔は笑顔だったと思うけど、、自分でもびっくりするような低い声が出た。

 

「あ……うん……なんか……ごめん」

 

 私の言葉で一瞬だけ空気が凍ったのが分かる。

 クラスメイトの一人がポカーンとした表情で恐らく自分でもよくわかってない謝罪を口にした。

 いけないいけない。私のイメージが……。

 

「まあ、ただの噂だよ、捕まってたら学校来れないでしょ」

 

 そう言って勝手な憶測を言い合うクラスメイト達に呆れた、というポーズを取りながら、私はそのグループからそっと離れて、自分の机へ向かう。

 全く、付き合う前から寝取られるなんて縁起でもない事言わないで欲しい。もし本当になったらどうしてくれるのだ。

 そうして、自分の席につく私を見た皆は「それもそうか」とつまらなそうに解散していった。

 まあ後輩と色々あったのは本当だけど……。これだけ沢山の尾ひれが付いてるなら、新鮮味がなくなればタダの噂としてそのうち収まるだろう。

 警察も来てないし、実際に誰かが捕まったわけじゃ無いしね。

 あの件に関して私はもうノータッチ。パパはまだ許せないって何か動いているみたいだけど……。まあ放っておこう。

 

 その時の私はそんな風に楽天的に考えていたのだけれど、事態は割と深刻だったみたい。

 それに気付いたのはそれから数日後の事だった。

 

***

 

 始業式から数日。

 その日、私は少しだけサッカー部に顔を出そうと校庭へ足を運んだ。

 麻子ちゃんに話を聞いてもらって、センパイに対する押さえきれない感情を落ち着かせようと思ったためだ。

 実は麻子ちゃんには始業式の日から何度かLIKEで連絡を入れているのだけれど、一向に返事がないし既読もつかない。

 だから、普通に様子が気になっていたというのもある。

 まあ私と話すのが気まずいのかも知れない……。

 でも、もう今さらだしと思って、来てみたんだけど……激しく動き回るサッカー部員達の周囲に麻子ちゃんの姿はなかった。

 もしかして、今日は休みなんだろうか? 

 

「健史君、ちょっといい?」

「あ、一色先輩お疲れさまです……」

 

 私は、練習中の皆に見つかって騒がれるのが嫌だったので、健史くんが部室で一人になっている所をなんとか捕まえて、声をかけた。

 でも健史くんはなんだかちょっとだけ元気がないみたい。どうしたんだろう?

 もしかして、また問題勃発?

 勘弁してよー……。

 

「あのさ、麻子ちゃんって今日休み……?」

「あ……一色先輩はまだ知らなかったんですね……」

 

 知らなかった? という事は有名な話?

 やっぱり何かあったんだろうか?

 何か最近悪い話を聞いたかどうか思い出そうとしたが、心当たりが浮かばない。

 私は一度だけ大きく首を傾げ、健史くんに『何も知らない』という事を伝えた。

 

「実は……麻ちゃん、ここの所学校来てないんですよ」

「え? お休み?」

 

 何かの病気だろうか?

 それなら返信がないのも仕方がない。

 その時の私は、能天気にそんな事を考えていたんだけど……。

 

「いえ、それが……」

 

 そんな私に、健史くんは何やら深刻そうに小声でポツリポツリと麻子ちゃんの現状を話してくれた。

 

*

 

 健史君の話によると、どうやら例の万引事件の噂が広まったことに関係しているらしい。

 噂……というのも語弊があるかもしれない。

 実は割と正確な話が流れていて、『サッカー部が関係しているらしい』という事まで知れ渡っているのだとか。

 私のクラスでは、私自身が即座に噂を否定したことで、ソレ以来噂の事を聞く人が減り、徐々にその矛先が『祭りの夜に謎のゾンビ男出現!?』というなんともオカルトな話にシフトし始めていたので全然気にしてなかった……。

 でも、麻子ちゃんのクラスではそうではない。麻子ちゃんはクラスメイトの視線に晒され、責められ、先生に事情説明もしたそうだ。

 そういえば私も一回先生に呼ばれたっけ……もう終わったことだし、受験の事もあるから大事にしないでください、っていってそのまま退出しちゃったんだけど……。

 麻子ちゃんはそういった状況に耐えられなくなって、今は家に引きこもって学校を休んでいるらしい。

 よく考えれば『後輩にはめられた』という情報がでてた時点で大分正確な情報が広まっている事に気づくべきだった。

 どうしよう、そんな事まで全然考えてなかった。

 そうと知ってれば噂について聞かれた時もう少しフォローしておくんだった……。

 でも、一応とはいえ被害者の私がフォローしたら、麻子ちゃんの立場がますます弱くなっていたかもしれない。そう考えると何が正解なのかわからない。

 もしかしたらセンパイだったらもっと上手くやっていたのかも。

 そう思わずにはいられなかった。

 とにかく分かっているのは、どうやら私はまた後手に回ってしまったらしいという事だけ。

 どうしよう……。

 

「……というか、なんでこんなに噂が広まってるの?」

 

 思わず私はポツリと呟いた。

 そう、噂が広まるにしても、こんな短期間でそこまで正確な情報が広まるのだろうか?

 私が捕まったのを見ていた人がいたとしても、なんでそこまでの事情が知れ渡っているの?

 

「ああ……それは。あのオバサンですよ」

 

 オバサン? って言うとあのスーパーの?

 あの顔を思い出すと今でも少しだけ体が震える。

 あのオバサンまた何かしたの?

 

「あのオバサン……あの件で仕事クビになったみたいなんですけど……。その腹いせでスーパーの近くで顔見知りだった客に言いふらしてるみたいなんです『麻ちゃんに騙されていろはセンパイを捕まえさせられた。自分は被害者なのにクビになった』って」

 

 えええ……。あの人目線だとそうなるの?

 なんでワザワザそんな事……。

 あれ? でもそれがなかったら、私が『万引して捕まった』っていう噂だけが流れる可能性もあった……のかな? 

 私からみると二人とも加害者なんだけど……。あの人がいなかったら麻子ちゃんの企みにそのままハマっていたのも事実なんだよね。なんかややこしい。

  

「あ、でも一色先輩は気にしないで下さい!」

 

 どうしたものかと考えている私に。健史くんは無理矢理に笑顔を作ってそう告げた。

 その顔は明らかに空元気、作り笑いという感じで見ていて少しだけ痛々しい。

 でも、遠慮しているという感じではない。どういう事だろう?

 

「気にしないでって言われたって……気にするに決まってるよね?」

「いえ、それは……そうだと思うんですけど……これは僕と、そして麻ちゃんの問題なんです!」

 

 いや、それを言うなら私の問題でもあるんじゃないだろうか?

 実際私が原因みたいな所もあるし……。

 とはいえ、過去にさかのぼっても私が何をすべきだったかは分からない。もうちょっと麻子ちゃんに気を配って上げられたらよかったとは思うものの。

 究極的に言えば、私がマネージャーになっていなければ良かったという事にもなるので難しい問題だ。

 うーん……。でも今回の件に関してはなんとか出来ないものだろうか……。

 

「麻ちゃんを追い詰めたのは、サッカー部の男子全員です。だから部長として僕が責任をとります。……僕が麻ちゃんを助けたいんです」

 

 だが、私がそう思考を巡らせていると、健史くんは姿勢を正して総宣言した。

 

「絶対僕が麻ちゃんを助けます! だから、一色先輩は気にせず受験に専念してください!」

 

 健史くんは力強くそう言葉を続ける。

 不思議とそこには先程のような空元気とは違う、とても強い意思のような物が感じられた。

 

「それに、また一色先輩に頼ったら、比企谷さんに怒られちゃいますから」

 

 冗談めかして、そういう健史くんの顔は晴れやかでなんだか既視感があった。

 センパイが? 怒る?

 私のために?

 なんだかそれはそれで見てみたい気もする。でもそんな事考えちゃ駄目だよね。

 最早癖になりつつあるニヤケ顔を必死に抑えながら、私は再び健史くんの顔を見る。

 そして気がついた。

 ああ、そうか、この子も恋をしているのだ。麻子ちゃんの事が好きなんだなぁ。

 この子が麻子ちゃんの事を好きだというのは気付いていたはずだったのに、私は結局その「好き」という言葉の意味を理解していなかったのだ。

 彼は、好きな人に振り向いてもらいたいと思っているのだろう。そのために健史くんは、あの時私を助けてくれた『センパイ』になろうとしている。

 

「今度は、僕が比企谷さんみたいになるんです!」

「……うん、分かった。じゃあ、私は何も言わないことにする。任せたからね?」

 

 そうと分かれば、私がここで何かをするというのは余計なお世話という奴だろう。

 人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られてなんとやらって言うしね。

 

「はい!」

「その代わり、無理矢理とか、泣かせたりしたら駄目だよ? ちゃんと彼女の事、考えてあげてね? どうしようも無くなったらちゃんと周りに助けを求めること」

 

 私が心配そうな顔をやめ、いつものテンションで人差し指を立てながらそう言うと。

 健史くんは満足そうに頷いた。

 

「はい、分かりました! 一色先輩も受験頑張って下さい! 麻ちゃんの事が気になって失敗したなんて言われたらまた麻ちゃん悲しむと思いますから!」

 

 全く受験生の前で『失敗』なんて言葉を使っちゃ駄目なんだからね?

 健史くんは少しだけ生意気にそんな事をいうので、私は最後にグッと右手の拳を握るポーズをした。お互い頑張ろうという意思表示だ。

 誓いと言っても良い。

 健史くんは麻子ちゃんとの事を。

 私はセンパイとの事を。それぞれ頑張る。

 もしかしたら健史くんは純粋に受験を応援してくれているのかもしれないけれど、今の私にとって受験とそれはイコールだから……。 

 

「ありがとう、じゃあね! サッカー部の皆にもよろしくね」

「はい、また!」

 

 大丈夫、きっと麻子ちゃんの事は健史君がなんとかしてくれる。

 なにせ彼は一年生で部長になった有望株だ。

 後を任せるのに彼以上の人材はいないだろう。

 本当に……任せたからね!

 

 私も、誰かに話を聞いてもらいたいだなんて、そんな甘いことを考えていないで、受験に専念しよう。

 改めてそう決意を固め、一歩一歩、踏みしめながら帰路についたのだった。

 

 私がサッカー部に顔を出したのは、この日が最後。

 それに気付いたのは、私が卒業してからだった……。 

 

***

 

 週末、金曜日になると、お爺ちゃん達がやってきた。

 

「おう、戻ったぞ!」

「皆ただいまー、お土産買ってきたわよ」

 

 どうやら旅行から帰ってきたようだ。

 妙にアメリカに被れた装いで、サングラスなんて掛けたまま大きな荷物を抱え、うちに入ってくるなり沢山のお土産をテーブルの上に広げた。

 これはどこどこで買ったから始まり、自由の女神はすごかった、スパイダーマンがいた、故人のスーパースターに会っただのと妙な事も言っている。

 時差ボケかな?

 

 そんな風にお爺ちゃんの海外での色々な話を聞きながら、その日は久しぶりに賑やかな家族団欒の夕食時を過ごした。

 どうやら今日はうちに泊まっていくらしい。

 よく考えたら二ヶ月近くアメリカに行っていたんだっけ。

 なんだか、それよりもっと会ってないなかったような、凄く久しぶりな気さえする。

 去年までは夏はいつもお爺ちゃん達と過ごしていたから、そういう意味でも今年の夏は新鮮だったなぁ。

 そうして夕食を終え、お爺ちゃん達の話が一段落した頃。 

 今度は私がこの夏の日本での出来事を語った。

 

 最初は模試を受けに行った事。

 初めての模試。すごく緊張した。

 でも、受けてよかった。

 もしセンパイがいなかったら私は模試を受けず直接本番を迎えていたかもしれない。

 そうしたら緊張で倒れていたかも、だからセンパイが勧めてくれて良かった。

 なんて話をすると。

 お爺ちゃんは「そうだろうそうだろう」と、まるで自分の手柄のように喜んでいた。

 

 小町ちゃんとママと一緒にお買い物に行って誕生日プレゼントを買ったこと。

 小町ちゃんがセンパイにお財布を買ってあげたいって言ってたんだけど。

 ママが「お爺ちゃんがお財布買ってたわよ」って言って凄く驚いてたっけ。

 「いつのまにお財布なんて買ってたの?」と聞くと。どうやら小町ちゃんが以前にも財布の話をしていたらしく。旅行前にお爺ちゃんの知り合いのお店に頼んでいって、ママが受け取りに行ったのだとか。

 ってことはやっぱり大分前からセンパイの誕生日を知ってたっていうことだよね?

 なんで教えてくれなかったんだろう。もっと早く教えてくれればもっと余裕を持って準備できたのに。全く……。

 そうして私は時間がない中、小町ちゃんと一緒に何を買えばいいか悩んで、最終的に私は食器を、小町ちゃんはTシャツを買うことにしたのだ。

 ママが何を上げるかはその時は聞いていなかったんだけど、まさか鍵だとは思わなかった……。なんかずるい。

 

 センパイの誕生日会をしたこと。

 小町ちゃんに手伝って貰って、センパイのサプライズパーティーの準備をした。

 その間私はお勉強。

 小町ちゃんとママの楽しそうな声を聞きながら勉強しなきゃいけない時間は本当に地獄だった。

 小町ちゃんも意外と真面目なんだよね。

 私が「手伝おうか?」っていうと「駄目です! いろはさんは受験生なんですから、ここは小町に任せて下さい!」なんて言ってたっけ。

 でも、当日は楽しかったなぁ。

 センパイ、凄く驚いてた。今思い出してもあの時のセンパイの顔は忘れられない。

 ああ、どうせなら動画にでも残しておくんだった。失敗。

 プレゼントを渡した時も凄い顔してた。

 ジェンガのルールを知らないっていうのにはこっちが驚いたけど……。

 今度はお爺ちゃん達も一緒にやろうね?

 そうそう、パパはギターを上げてたんだった。

 そのうち演奏を聞かせてくれるかもねっていったらお爺ちゃんは「楽しみだな」と笑っていた。

 

 部活の打ち上げでお祭りに行ったこと。

 最初は……乗り気じゃなかった。

 でも、部員の皆にお礼を言われて、すごく誇らしかった。

 あの時の事は多分私は一生忘れないだろう。

 私の部活に費やした三年間が、確かにそこにあった。そんな気がした。

 お婆ちゃんも「いろはちゃんの頑張りをちゃんと皆見ててくれたのね」と褒めてくれた。

 嬉しかった。

 それから……麻子ちゃんの告白シーンは当然カットして。

 階段から落ちたこと。センパイに手当してもらった事を話した。

 するとお爺ちゃんが得意げに「さすが八幡だ!」と豪快に笑った。

 いや、なんでお爺ちゃんが得意げなの?

 すごいのはセンパイだからね?

 勘違いしないで? 

 

 そして……万引事件があったこと。

 お爺ちゃんは、真剣な顔でそれを聞いて不機嫌そうにお酒を煽ったあと「八幡には感謝しないとな」と小さく呟いて。

 お婆ちゃんは「大変だったのね」と私を抱きしめてくれた。「大丈夫。センパイがいてくれたから乗り切れたんだよ」そう言って私も抱きしめ返す。久しぶりのお婆ちゃんとのハグはとても良い匂いがした。

 ああ……本当に夏休みが終わっちゃったんだなぁ……。

 

 お爺ちゃん達と共に我が家に穏やかで騒がしい日々が帰ってきて、私は夏休みが終わったんだと実感し始めたのだった。

 

**

 

「ねぇ、お爺ちゃん」

「んー?」

 

 一通りお互いの夏の話が終わり、大人達の酒宴が終わった頃。

 お婆ちゃんがお風呂に入って。お爺ちゃんが一人でソファーで横になりテレビを付けたタイミングで、私はお爺ちゃんに話しかけた。

 パパは自分の部屋、ママはキッチンにいるから、今はお爺ちゃんと二人きり。

 そして今からするのは大事な話。

 誰よりも先にお爺ちゃんに話さなきゃいけないと思っていた話。

 ちょっと恥ずかしいけど、大丈夫。お爺ちゃんの事だから反対したりする事はない。

 そう思って、私は一度深呼吸をしてから、切り出した。

 うん、お酒も入ってて、お爺ちゃんも機嫌が良さそうだ。

 

「私……志望校変えたいんだけど……ダメかな?」

「……詳しく話してみろ」

 

 私の言葉を聞いて、お爺ちゃんはソファーから起き上がり。テレビを消すと。

 まっすぐ私の方を見てきた。うう……、緊張する。なんだか告白するみたい……。いや、まぁ告白みたいなものなんだけど……。

 

「その……総武高校受けてみたいなぁ……って……」

「総武って八幡と同じ所だな……? 確かあそこは海浜総合高校よりレベル高いんじゃなかったか?」

 

 お爺ちゃんが考え込むような素振りをして、顎に手をやる。

 何を考えているんだろう?

 お爺ちゃんの事だからすぐに「いいぞ頑張れ!」って言ってくれると思ってたんだけど……。想定外だ。

 うう、なんだか空気が重い。緊張する。

 まるで怒られている時みたい……。

 

「お前、模試の結果はどうだったんだ? まだ返ってきてないのか?」

「あ、ううん。返ってきてる。これ」

 

 それは昨日届いたばかりで、予め見せようと用意してあった模試の結果。

 海浜総合高校 合格可能性『B』判定の模試結果。そしてもう一枚……。

 お爺ちゃんは、その結果を見ながら「うーん」と唸る。

 

「それで、総武に行きたい理由は? なんかやりたい事でもあるのか?」

「え? ……ほら、その……やっぱりもうちょっと上を目指せるなら目指してみてもいいかなぁって。将来のこととか考えて? 視野? を広めようっていうか……なんていうか………」

 

 言えなかった。

 センパイが好きだから。一緒の学校に行きたいから。なんて言えない。だって心の中で思ったことはあるけど、まだ一度も口にしたことはないんだもん。センパイにだって言ってない。言えるわけない。

 だからつい、ごまかしてしまった。でもきっとニュアンスで伝わっているとは思う。

 これで分からない方がどうかしてる。

 だから。こう言えば今度こそ「八幡と同じ高校ならいいぞ!」ってOKしてくれるはず。

 ふふ、センパイと同じ高校かぁ。どうしよう、凄く楽しみだ。

 私の家より、センパイの家の方が総武高には近い。だから私が朝センパイの家に迎えに行くなんていうのも良いかもしれない。

 ああ、駄目だ、顔がにやけちゃう。

 でも今はまだ駄目、お爺ちゃんからちゃんと返事を聞かなきゃ。

 そう思って顔を上げる。

 

「……駄目だ」

 

 だけど、次の瞬間、お爺ちゃんは真剣な顔で私にそう言ったのだった。




二学期に足突っ込んでますが
後日譚であるとともに今後のための処置でもある回なので。ここまでをストレス展開多めの浅田麻子編。(スキップ可能範囲)とさせていただきました。

性懲りもなく伏線っぽい事書いてますがスキップしないで読んでくれた方ならこれぐらいなら大丈夫だと信じて……。

これで後日譚含め夏休み編は完全終了。
次話(明日)からが正真正銘『二学期編』となります。

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。
明日で最後です!(連日投稿は)


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第一部・第二章 いろは受験編
第37話 二学期


第31話~第37話まで連日投下中です!(2019/11/30~2019/12/06)
なんのこっちゃわからないという人はお手数ですが第31話の前書きを御覧ください。



第31~36話の簡単なあらすじ
(まだ読んでない方はネタバレになりますので戻る推奨)

────────
スーパーで万引犯と誤解された一色いろはだったが。
八幡の機転と謎のポニーテールのお姉さんの力によって、無事開放される。
部長問題、夏祭りに続き、再び自分を救ってくれた八幡に対し、いろははついに自分の気持ちを自覚、初めて比企谷八幡が自らの許嫁であることを友人に公言したのだった。(八幡にはまだ内緒)
────────


 二学期が始まった。

 九月だというのにまだまだ日差しは強く、蒸し暑い。

 夏休みもうちょっと長くしても良いんじゃないの? と思うのだが、世の中には夏休みを長くするどころか短くする計画というのもあるらしいから恐ろしい。

 早い所、単位さえ取れば年中休みみたいな物だという大学生活を体験してみたい。

 

「あれ? あんた……」

 

 昇降口で靴を履き替え、教室に向かおうとしていると、不意に誰かが呼びかけているのが聞こえた。

 まあ相手は俺ではないだろう。

 なにせ学校での俺はキングオブボッチの名をほしいままにする男。

 声をかけられないことに関しては俺の右に出るものはいない。

 だから、きっとたまたま俺の横を通ったあの女子とか、そっちの男子に声をかけているのだ。うっかり反応して「え? 俺?」みたいな顔をしたら、「いや……あんたじゃないし」と冷たい視線を送られるのは目に見えている。

 まぁ、さっさと教室に向かおう。

 

「ねぇ、無視しないでよ、あんたこないだの万引き娘の兄貴でしょ? うちの学校だったんだ?」

 

 だが、そうして足を一歩踏み出すと、突如肩を掴まれた。

 ちょっと待て、小町は万引なんてしてない……よな? え? 小町万引したの? ちょっと初耳なんですけど?

 って違うな、この間の万引娘という事は小町じゃなくて、一色のことを言っているのだ。

 一体、いつから一色が俺の妹だと錯覚していた?

 いや、一色も万引はしてないんだけどな……。

 

「……ちげーよ、あいつは妹じゃない」

 

 振り向くと、そこにはあの時のスーパーの店員。泣きぼくろポニテ姉ちゃんがいた。

 おっと……姉ちゃんだと思ったら同じ学校の……しかも同じ学年かよ……。大人びてるにも程がある。一瞬ドキッとしちゃっただろ。

 

「ふーん……じゃあ彼女? まあどうでもいいけど」

「それも違う、えっと……なんつーか、家庭教師先の生徒だ」

 

 家庭教師先の生徒という説明が正しいのか少しだけ疑問が残るが、他に言いようがないのだから仕方がない。「い」から始まるあの関係については言いふらすなと厳命されているしな。

 俺はコレ以上の詮索をされないよう、ポニテさんの手を振り払うと、そのまま教室に向けて歩き出した。

 だが何故かポニテさんは俺の後をピッタリと付いてくる。

 何? 怖い。

 

「へぇ、あんた家庭教師やってんだ? あたしもほら、あのスーパーでバイトしてたんだけど、時給低いしなんか最近ヤバイ雰囲気してきたからそろそろ辞めようと思ってるんだよね……ちなみにカテキョって時給どんぐらい?」

 

 ちょっとまってくれ、俺達もう友人関係なの? いや、本当こういうの困る。

 どの立ち位置で話せばいいのかわからない。

 いっそスーパーの姉ちゃんって事で割り切っていいなら、あくまで仕事上の付き合いをされていると思うことで俺の心の平穏は保たれるのだが、なんかそういう感じでもないし……。

 

「……」

「ねぇ、だから無視しないでよ。あ、うちは950円ね」

 

 意外と『構ってちゃん』なんだろうか? 俺が黙っていると、ポニテさんはちょっとだけ寂しそうな声で再び俺の肩を引っ張った。

 面倒くさいな……。

 

「……二千円」

「は!? まじで!? ソレなんかヤバイ系じゃないの?」

 

 うっかり俺がそう言って自分の教室の前で立ち止まると、何故かポニテさんは教室の入り口の前で立ち止まり俺を通せんぼし始める。新手のいじめだろうか?

 そこ通してほしいんですけど?

 

「やばくねーよ……知り合いに頼まれてやってるだけで、かなり特殊な事情があるんだよ……あんま言いふらしたりしないでくれる?」

「別にそんな事はしないけどさ……じゃあアタシにも紹介してくんない?」

「事情が特殊だって言っただろ、紹介できるような事情じゃねーの」

 

 そもそもこの時給に関しては俺自身も高すぎると思っているし、色々思うところもあるのだ。

 よく知らない人間を、おっさんに紹介して『こいつを時給二千円で雇ってくれ』なんていう事はできない。

 というか、うっかりとはいえ時給を教えたのは完全に失敗だったな。

 全く、俺友達いない分、迂闊に話しかけられると弱い所あるんだから、気をつけてよね。

 

「何それ……。ま、よくわかんないけど、じゃあもし何か割のいいバイトあったら紹介してよ。あ、アタシ1-Eの川崎沙希」

 

 だが、ポニテさん改め川崎は。それ以上の追求はしてこなかった。

 良かった、金にがめつい面倒くさい人だったらどうしようかと思った。

 

「……比企谷八幡、1-Fだ」

「隣のクラスか。どうりで見たことないと思った。んじゃまたね」

 

 川崎は、そう言って手を上げると自分の教室へと入っていく。

 いや、見たこと無いのは単に俺が目立たないようにしているからだろう。ボッチだしな……。

 なのに名前まで交換してしまった。俺、どこかで何か変なフラグ立てた?

 まあ、スーパーでは世話になったしそこまで悪い奴ではないだろう。

 ということは……警戒しておかなければならない……。

 うっかり好きになっちゃうかも知れないからな……。

 うっかり八幡に注意。

 

*

 

 そうして始まった二学期も順当に過ぎ去り。

 いつものように土曜日がやってくる。

 よく考えるとここの所全然家庭教師という肩書に相応しい事をしていない。

 今日は恐らく給料日だし、しっかりと勉学に励んでいただきたい所だ。

 そういえば、そろそろ模試の結果も届くのではないだろうか?

 

 って……よく考えたら模試の問題の確認すらしてないな俺?

 模試という教材としてはかなり優秀な物があるのにそれをほぼ一ヶ月丸々使わなかったというのは正直悔やまれる。本人が自主的に利用していてくれてるならいいんだが……。

 まあ、結果が届いていたらそれを見てからどうするか決めるか……。 

 アイツの事だ、流石にD判定やE判定という事はないだろう……。ないよね? ありませんように。

 

 そんな不安を抱えながら、今日もオートロックのドアを抜け、一色家のインターホンを押す。

 

「おう、八幡久し──」

「センパイいらっしゃ──! ちょっとお爺ちゃん! 押さないでよ!」

「いいじゃねぇか! お前は夏休みにいっぱい遊んでもらったんだろ?」

「遊んで貰ってなんかないから! そもそもセンパイは私の家庭教師に来てもらってるんでしょ、お爺ちゃんは邪魔しないで!」

 

 何やら玄関先で一色とおっさんが揉めながら俺を出迎えてくれた。

 出迎えてる……でいいんだよなこれ?

 よくわからんが、ギャーギャーと喚きながら、一色とおっさんは尚も言い合いながら玄関で押し合いを続けている。

 えっと……どうしたら良いんだコレ?

 

「八幡くん、ごめんなさいね驚かせちゃって。ほら、いろはちゃん八幡くんが入れないでしょ」

「だって……」

「アナタも! 大人げないですよ!」

「でもな、楓、いろはが……」

「言い訳なんてみっともない! ほら、八幡くんも困ってるでしょ」

「ちっ……しゃーねぇなぁ……」

 

 楓さんともみじさんのタッグに怒られた二人は渋々と家の中へと入っていき。ようやく玄関先が開放される。

 

「さ、八幡くん上がって上がって」

「ど、ども……おじゃまします」

 

 俺は少しだけ戸惑いながら、一色家の敷居を跨いだ。

 ああ……おっさん、帰ってきたのか。

 

*

 

「じゃあ、私はこれからセンパイに授業してもらうから。ささ、センパイ行きましょ」 

「こら、いろは! ちょっと待て! 今日は給料も渡さなきゃなんねぇんだ。とりあえずこっち座れ」

 

 一色家の中に入っても、一色とおっさんはギャーギャーと言い合いを始めていた。

 右手に一色が巻き付き、左手側からはおっさんが肩を組んでくる。

 痛い痛い痛い!

 もしかして俺このまま左右に引き裂かれたりするんだろうか?

 めっちゃ怖い。

 痛がってる八幡を見て先に手を離したほうが本当の母親です。

 いや、どっちも母親じゃねーよ。

 

「二人共! いい加減にしなさい!」

 

 再び楓さんの怒号が響き、二人が俺から離れていく。

 うおお……怖ぇぇぇ……。

 怒り方が完全に母ちゃんのソレだ。

 いや、俺が怒られたわけじゃないんだけど。つい背筋が伸びてしまった。

 

「さ、八幡くん座って。ほら、二人も!」

「……はーい」

「ったく……なんで俺が怒られなきゃなんねぇんだ……」

 

 文句を言いながらも俺を開放してくれる二人。俺はもみじさんの誘導に従って、ローテーブルの席につく。

 え? これもしかして俺も説教されるの? 怖い。帰りたい。

 だが、背筋を伸ばし、正座の状態で座る俺に、楓さんが「楽にしてくれていいのよ」と麦茶を持ってきてくれた。

 癒やしだ……。

 

「何? おっさんとケンカでもしてんの? 珍しい」

「……全部お爺ちゃんが悪いんですよ……」

 

 俺の横に座った一色に小声で問いかけると、一色は ぷくっと頬を膨らませながら、そう答えた。

 どうやら本当にケンカしているらしい。

 何があったのか、気にならないといえば嘘になるが。まあ触らぬ神に祟りなしだ。

 余計なことに首を突っ込まない、それが世の中を平和に生きるコツ。

 俺は俺のやるべきことだけをやるだけ……。

 そう自分に言い聞かせ、正面に座ったおっさんと対峙した。

 あ、そこもみじさんの席じゃないんだ。

 

「さて、久しぶりだな八幡。元気にしてたか?」

「ああ、そっちも元気そうで。旅行はどうだった?」

「ああ……うん、楽しかったは……楽しかったんだがなぁ……」

 

 返ってきたのはおっさんにしては歯切れの悪い解答だった。

 何かあったのだろうか?

 

「この人ね、ホームシックに掛かっちゃったのよ」

「ホームシック?」

 

 楓さんの思わぬ一言に、俺が思わずおっさんの顔を見ると、おっさんは照れくさそうに頭をかいていた。

 よく見るとおっさんの左右に陣取るもみじさんも楓さんも。俺の横の一色も笑いをこらえている。

 どうやら一色家ではもはや鉄板ネタになっているらしい。

 

「食事がなぁ、なんつーか。大味でなぁ……醤油が欲しくて仕方なかった。儂の血に醤油が流れてるのを実感した……お前も海外行くときは醤油……持っていったほうがいいぞ醤油」

 

 そういうおっさんの顔は言われて見ると確かに少しだけ痩せているようにも見えた。

 よほど食事が合わなかったんだろうか?

 醤油が欲しくて物悲しそうにしているおっさんを想像したら思わず吹き出してしまった。

 

「ぶふ、お、おう……ってかそれなら早く帰ってくればよかったんじゃ……」

「それがね、向こうで何人か知り合いに会う約束もしてて。この人も調子に乗って色々予定立ててたから帰るに帰れなくなっちゃってたのよ。でもこれでも早く帰ってきた方なのよ? 本当なら最後にラスベガスに寄って九月末の飛行機で帰ってくる予定だったんだから……」

 

 なんというか、おっさんらしいといえばおっさんらしい理由だった。

 きっとこの人は俺と違って友人も多く、断るに断れなかったのだろう。

 別に羨ましくはないが、本当に『らしい』とは思う。

 

「そういう訳で私達の初アメリカ旅行は散々でした、はい、これお土産」

「あ、ありがとうございます」

 

 そう言って楓さんが大きな四角い箱を俺に渡してきた。

 いや、本当でかい中身はなんだろう。開けてもいいのだろうか。

 

「箱の方はチョコレートよ、小町ちゃんと一緒に食べてね」

「あとコレもな」

 

 と思ったら、中身を教えてくれた。危ない、もう少しで開けるところだった。

 ってこのサイズでチョコレートなの?

 でかすぎない?

 俺の顔よりでかいんですけど?

 これがアメリカンサイズという奴なのだろうか。アメリカンコーヒーは別にでかくないのに……。いや、それは作り手のさじ加減ひとつか。アメリカ凄いな……。

 そしてもう一つ、おっさんがくれた方は……こっちもデカイ……なんだこのでかいシャツ。

 アメリカ国旗と自由の女神がプリントされてるが……着るの? これを? 俺が?

 ははは、ご冗談を。

 こんなん着れるのスモウレスラーぐらいだろ。

   

「コホン。さて、八幡。俺の土産話は置いておいてだな……」

 

 俺がその土産に驚いていると。

 おっさんが咳払いをしつつ話題を切り替えようとしてきた。よほど自分の話をされたくないと見える。

 本音を言えばもう少しおっさんの話も聞いてみたい気もするが、もはや話を戻せる状況でもないか……。

 

「夏休み中は、色々あったみたいだな」

「……まあ、そうだな。ああ、財布ありがとう気に入ってる」

 

 夏休み中と言われ、俺は誕生日の事を思い出し、土産のシャツとチョコレートを横にずらすと、尻ポケットから自分の財布を取り出しテーブルの上に載せ、おっさんに見せた。

 そこには相変わらず大きな「8」の字の刺繍が見て取れる。

 最初はちょっとダサいなと思っていたが使ってみると愛着も湧くものだ。何より一点物っぽいのも八幡的にポイント高い。

 お土産にもこういうセンスを発揮して欲しかった。

 

「なら良かった。まあその件もだが、いろはを助けてくれたんだろ?」

「ん……? ああ……俺が必要だったかどうかは疑問だけどな」

 

 助けた……というのは夏祭りとかスーパーの事だろうという察しはつく。

 とはいえ、階段落ちの件はともかく、万引の件は俺は何もしてない。

 放っておいても事態は解決しただろう。

 あの時の事を思い出しながら、ふと、横に座る一色の方を見ると、一色は一度にっこりと笑顔を見せた。

 あざとい。

 

「……まあ、お前がどう思ってるのかはともかく、ここにいる皆はお前に感謝してるんだ、やはり俺の目に狂いはなかった。改めて礼を言うぞ。ありがとう八幡」

「ありがとうね、八幡くん」

「ありがとう」

 

 おっさんがそう言うと、楓さんやもみじさんも一緒になって俺に頭を下げてきた。

 やめて欲しい、俺は本当に大したことはしてないのだ。

 少しだけ早く解決したのは事実だろうが、俺が勝手に動いただけ、本当に走ったりする必要はなかったのだ。あの事を恩に着せてどうこうしてもらおうなんて思ってもいない。

 正直今の状況は背中がむず痒くなってくる。早く頭を上げて欲しい。

 どうしたものかと、俺は一色に助けを求めるため、視線を一色の方へと移す。

 

「……ありがとうございました」

 

 しかし、一色もそう言って俺に頭を下げてきた。

 お前もかブルータス……。

 

「ああ……分かった、分かったからそういうのやめてくれ、むず痒い」

 

 こういうのには慣れていないのだ。本当にやめて欲しい。

 八幡はめのまえがまっくらになった。

 こうかはばつぐんだ。

 

「ふはは、まあ、それだけ感謝してるってことだ。お前はそれだけの事をしたんだ、胸張っとけ」

 

 おっさんがそう言うと、皆ようやく頭を上げてくれた。

 そしておっさんは笑い始め、つられて皆も笑い始めた。

 俺以外の一色家の笑い声がリビングに響き渡る。

 

「はぁ……」

 

 やっぱりこういう所は慣れないな……

 

*

 

「ま、そういうわけでな。とりあえず九月にもなったし、忘れないうちに給料を渡しとこう。楓」

「はい」

 

 思い出話も一段落した所で、おっさんはそう言って楓さんに声をかけた。

 来た。

 今日のメインディッシュと言ってもいいだろう。

 今日、俺は言うべきことを言いに来たのだ。この給料について。俺のバイト代について。

 今日こそは流されない、自分の意思をきちんと伝える。

 そう決意し、俺は改めて背筋を伸ばす。

 

「んじゃこれ、先月分な。ご苦労さん。今月も頼むぞ?」

「……ありがとうございます」

 

 俺は一度封筒を受け取り、中身を確認する。

 俺の今の時給は二千円で授業は二時間。八月中で授業をこなしたのは初週のみ。

 二週目は俺の誕生日会が催され、三週目は打ち上げで休み。四週目はいわずもがなでお流れになった。

 一応ラスト三十分というところで一色宅には来たが、勉強はしなかったしな。

 つまり、妥当な金額は四千円……だが違う。

 封筒に入っていたのは。一万二千円。

 おっさんには三週目は打ち上げになっていると連絡したはずなのでその分はカットされている。だが、二週目と四週目に関してはおっさんに話が伝わっていないのかきっちり計上されていた。

 だから俺は……これまで考えていた事を踏まえ……。

 

 全額封筒に入れ直し。そのままテーブルの上に戻した。

 

「ありがとうございます。……でも、これは受け取れない」

 

 だが、そのセリフを聞いてもまるで日本語が通じないとでもいうように、その場にいる全員が目を丸くして俺を見てくる。

 

「ん? どうした? 少なかったか?」

「センパイ?」

 

 おっさんが首をかしげ、一色も俺の顔を覗き込む。

 ふぅ……。

 

「少ないどころか多すぎる。八月は俺は一回しか授業を受け持ってない」

「いや、でもここには来たんだろ? 三週目の分はカットしてあるぞ?」

「それは分かってる。でも二週目も四週目も俺は一色に授業をしてない。誕生日プレゼントまで貰って、給料もらうとかおかしいだろ」

 

 俺がそう言うと、おっさんはギギギっと首から上だけを動かし、楓さんと顔を見合わせた。

 

「センパイ? でも……先週は私のせいで潰れたんですし、貰っておいてもいいと思いますよ……?」

「いや、そもそもな。多すぎるんだ。七月分も、六月分もな」

 

 一色が恐る恐るという様相でそう言ってきたので、俺は改めて説明した。

 そう、やはり多すぎるのだ。

 川なんとかさんもヤバイ仕事かと疑う程に、普通ではありえない時給。

 しかも交通費別。

 それを正す必要がある。俺はこの事を先月からずっと考えていた。

 だから今、それをここで正式に口にする。

 

「だからおっさん、頼みが有る」

「ん?」

 

 そう言うと、おっさんも真面目な顔をして俺の目をまっすぐに見つめてくる。

 目をそらしてはいけない、そらしたら負けだ。ガルルルルル。

 

「バイト代、下げてくれ」

「──っぷ」

 

 だが、次の瞬間。おっさんは目を丸く見開き素っ頓狂な声を上げ。自分の膝に置いていた手からガクッと崩れた。

 

「半分の千円にして欲しい。いや、俺にはそれでも多いのかもしんないけど……」

「……っぷ……ははっ! はははははは!」

 

 それは真剣な頼みのはずだった。

 だが、その空気は一瞬の沈黙の後。おっさんの笑い声によってかき消されていった。

 

「聞いたか楓! 真面目な顔して何の話かと思ったら! 値下げ交渉だと!」

「ええ聞きましたよ。ふふ、さすが八幡くんね」

「ああ……ああ。はっはっはっは! あー、笑いすぎて涙でてきた」

 

 いや、笑い事じゃないんですけど……本当。真面目に聞いてもらえます?

 もうね、時給二千円とか荷が重いにも程があるんですよ?

 知ってる? 千葉の平均時給千円程度らしいぞ? 倍だよ倍。

 ここ数ヶ月の感じからすると一色は元々それなりに勉強が出来るようだし。

 志望校も決まっていて、学力も十分。

 二千円も渡されてもやることが無い上に、俺は素人。

 こんな事を続けていたら胃を痛めてしまう。

 ……あんな誕生日会もしてくれた家だしな……。

 

「いや、俺は真面目に……!」

「分かってる分かってる。値下げな。お前が金のありがたみをちゃんと分かる人間だって分かってホッとしてるのさ」

 

 俺の抗議をおっさんは手で制し、目尻を拭いながらそんな事を言った。

 ありがたみ? そんなものずっと前から分かっている。

 このバイトを始めるまで、小銭だけで数週間過ごすような日だってあった。

 金のありがたさは誰よりも分かっている……多分。

 

「最初はな、学生だし、金をちらつかせておけば家庭教師も真面目にやるだろうと思ってた。小町ちゃんからも餌がないと動かないかもしれないって言われてたからな」

 

 だが、おっさんからは少し予想外な言葉が帰ってきた。

 って、また小町かよ……いや、まぁ確かに最初は時給二千円に釣られたっていう部分もあるけどさ……くそ、本当小町は俺の動かし方を分かってるな……。俺は小町の動かし方がわからないというのに……。

 

「儂自身、もう一人孫が出来て喜んでいた部分もある。小遣いをやる感覚っていうのはお前にはまだわからんかもしれんが。そうやってお前を繋ぎとめようとしていた」

 

 それはなんとなく分かっていた。

 なんていうか、おっさんと会う時はうちの爺ちゃんと会う時の感覚に似ているのだ。

 小さい頃は良かったが、俺も十代に差し掛かってくると爺ちゃんと一緒に遊ぶという事も難しくなってきて、爺ちゃんも気を使ってか「これで好きな物買ってこい」と、いつしか金をくれるようになったんだったか。俺自身も金は欲しいからそれで喜んでいた。

 そんな感覚をおっさんからも感じていたのだ。

 

「とはいえ心配していた部分もあった、あまり楽に金を稼ぐ事を覚えて、後々苦労するんじゃないかとかな……だが、お前は今自力でそこに気付いて……しかも抜け出そうとしてる、だから嬉しいのさ。儂はまだまだお前を過小評価してたみたいだな」

 

 おっさんはシミジミと嬉しそうにそう語った。なんだろう、なんか凄く照れくさい。

 いっそいつものテンションで笑い飛ばしてくれたほうが楽なのだが……。

 

「一応確認するが、家庭教師を辞めたいというわけじゃないんだな?」

「ああ、そこは……続けさせてもらえると助かる。今までもらった分も返すとなると……今後収入ゼロはちょっと……厳しい」

 

 それは本音。

 まあ今までの分は全額使い切ったわけではないので、マイナスとはならないと思うが……。

 正直痛手ではある……。

 

「いや、それは返さなくてもいい……そうだな、じゃあ次からお前に渡す分は半額の時給千円とする。それでいいな?」

「いや……でも……」

 

 俺が渋ると、おっさんは呆れたようにふぅとため息をつく。

 

「あのなぁ、八幡。契約、交渉っていうのは成立して初めて効果が生じるんだ。基本的に過去に遡ったりはしない。そんな事をしたら契約内容がメチャクチャになるからな。だから先月分まではこれまで通りの時給二千円で受け取っておけ。楓、財布」

 

 おっさんがそう言って楓さんに向かって平手を出すと楓さんは「ちょっとまってくださいね」と財布からお金を取り出し、おっさんに渡した。

 

「これ以上は譲歩できん……雇用主としてな。それで先月分は……誕生日の週についてはお前の希望通り抜くとしても、最終週……万引の件についてはこっちの落ち度だ。お前が責任を感じる必要はない」

 

 結局の所。俺もまだまだ子供だったということか。

 雇用主として、と言われてしまえばもう俺に嫌は言えない。

 おっさんも目の前で八千円を封筒に詰め直している。

 これ以上はただのワガママだという事なのだろう……。 

 

「ほら、今度は返金不可だからな?」

「……ありがとうございます」

 

 俺は改めて封筒に入れられた八千円を受け取り、おっさんに頭を下げた。さすがにパーフェクト勝ちという訳には行かなかったが……まぁ良しとしよう。

 

「お前の成長が見れて嬉しいぞ。やっぱり旅行なんて行かなきゃ良かったなぁ、その成長を間近でみていたかった。男子三日会わざればってやつだな! はっはっは!」

 

 このおっさん何言ってんだ? 俺が成長?

 こんな事はずっと前からおかしいと思っていたことだ、別に成長したわけじゃない……。俺はおかしかった事を正しただけ。

 そう、言ってみればこれは現状回復だ。異常だったものを戻した。それがマイナスであれプラスであれ、俺自身が戻ってきた場所はプラマイゼロ。そのはずだ……。

 そんな事を考えながら、ふと視線を横に向けると一色と目があった。

 なにやら一色はぼーっと俺の方を見上げている。

 なんだ? こんな事少し前にもあったな……。デジャヴ?

 

「一色……?」

「良かったないろは、金がほしいからお前に会いに来てたわけじゃなかったみたいだぞ」

 

 おっさんがそういった瞬間、一色は机を叩いて立ち上がリ、手近にあったクッションやら、ぬいぐるみやらをおっさんに投げつけた。

 

「──っ! お爺ちゃん!? 余計な事いわないで! もう!」

 

 うお、危っ。麦茶が溢れるでしょうが……! ってちょっと待て! それは俺の財布だ!

 ったく、何怒ってんの? カルシウム足りてないの? 牛乳飲みなさい?

 

 今日はもう一つ言わなければならないことがあるっていうのに……。

 本当、騒がしい家だ。




連日投稿終わりー!
な、長かった……。
いや、過ぎてみれば一瞬だったかもしれませんね……。

ここまでの話をスキップされた方、お待たせしました。
毎日お付き合いいただいた方、お疲れさまでした。
読んでくださった皆様、ありがとうございました。

おそらくこれが投稿される今日。
活動報告でまとめ裏話をやっていると思いますので、お時間のある方や、興味がある方は覗いてみて頂ければ幸いです。

無事川崎さんも自己紹介して動かせる原作キャラ追加。
そして少しだけ成長した八幡。
自覚したいろは。
ここから二学期編が始まります。

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。
連日投稿はここで終わりますが。
引き続きよろしくお願いいたします。

※平均時給に関しては、2019年現在の金額を更に大雑把に表現しています。


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第38話 この素晴らしい契約の見直しを

いつも誤字報告、感想、評価、お気に入り、メッセージありがとうございます。

ギリギリ土曜日に間に合ったので八日連続投稿ってことで一つ……。



「人の財布投げないでくれる?」

「……す、すみません……」

 

 俺の財布をおっさんに投げつけようとする一色の手を、すんでの所で掴み、なんとか回収すると、一色は何故か頬を赤らめながら謝罪をしてきた。

 上目遣いでもじもじと体を動かしている。

 いや、そこまで本気で怒ったわけじゃないんだが……。

 もしかしてトイレ? 早く行ってきなさい?

 俺にはまだ話さなければならないことがあるのだ、一色が席を外してくれるなら丁度良い。

 

「もみ……」

「じゃ、じゃぁちょうど話も終わったことですし、そろそろ部屋行きましょ? 時間無くなっちゃいますよ?」

 

 だが、俺の言葉を遮り、一色がシナを作りながらそんな事を言って俺の袖を引く。

 あざとい……。

 言葉だけを切り取ったら何か別の妄想をしてしまいそうだ。

 いいからトイレ行ってきなさい?

 

「いや、ちょっと待ってくれ、まだ話があるんだよ……」

「ええー、まだ何かあるんですかー? もういいじゃないですかー?」

 

 体を左右に揺らしながら、ぶーぶーと文句を言う一色の姿は駄々っ子そのものだ。

 なんというか、こういう所もみじさんそっくりだなぁと思う……。

 って、そうだもみじさんにちゃんと言わなければいけない事があるのだった。

 

「もみじさん」

「は、はい!! え? 私?」

 

 俺が改めて声をかけると、麦茶を入れ直そうとしていたもみじさんが驚いたように顔をあげる。

 そう、次に話すべきはもみじさん。

 これまで曖昧になっていた部分をしっかり話しておかなければならない。

 だからそのために……。

 

「これ、受け取って下さい」

「ええ!?」

 

 そう言って渡したのは、たった今おっさんから渡された封筒。

 それを見て、おっさんも驚愕の声を上げる。

 

「おい、返金不可だって言ったろ!?」

 

 いや、わかってるよそんな怒らないでくれる?

 怖いよ、泣いちゃうだろ……。

 

「返金じゃねーよ、これは食費だ」

「食……費……?」

 

 その場にいた俺以外の全員がまたしてもぽかんと口を開ける。

 いや、そんな変なことは言ってないはずなのだが……。

 

「えっと……どういうことですかセンパイ?」

「ほら……俺いつもここで夕食食わせてもらってるだろ? その分だ」

 

 そもそも俺は契約時、家庭教師終了後の夕食については断っているのだ。

 つまりこれまでのは全て契約外での事。

 しかし、それでもほぼ毎回この家で夕食をごちそうになってしまっている。

 こんな事が許されていいはずがない。

 正確に食費がどれだけ掛かったかはわからないが、仮に一食五百円として、月に約四回。それを四カ月。単純計算だと八千円だ。

 もちろん食べていかなかった日や、ここに来なかった日もあるが、もみじさんの料理は美味い上に豪勢なので、一食五百円で済まない可能性も高い。誕生日会も含めるなら八千円というのは正確ではないにしろ大きくは外れていない額ではないかと思う。

 ケーキなんて一カットで四百円位するしな。

 

「いいのよ? そんなの私が勝手にやってることなんだから、お金なんて気にしないで?」

 

 だが、もみじさんはそう言って封筒ごと俺の手を両手で包みこんで来た。

 柔らかく、温かい。

 すごく恥ずかしい、顔が熱くなってくるのが分かる。

 しかし、ここで流されるわけには行かないのだ。

 

「いえ、気にします。これは受け取って下さい……それで……代わりに一つお願いを聞いてもらえないですかね?」

「……お願い?」

 

 俺の言葉にまたしても一色家の面々が首をかしげた。

 全く同じタイミングで同じ動作をする一色家を見て、思わず笑いそうになるのを堪えながら、俺は言葉を続ける。

 

「……その……家庭教師の契約の時、夕食を食べてく事、断りました。でも、結局ずるずると先週もごちそうになっちゃって……本当申し訳ないと思ってるんです」

「ううん、本当に気にしないで? むしろ嬉しいんだから。いろはちゃんなんて最近「ダイエットだー」なんていって折角作ったご飯も残しちゃうのよ? 八幡くんが食べてくれると私もとっても嬉しいの」

「ママ!!」

 

 もみじさんの言葉を聞いて、一色が声を荒げた。

 なんだ、ダイエットしてるのか、さっきから一色がイライラしているのはそれのせいかも知れない。小町もたまに思い出したようにダイエットとか言うからなぁ。でもあれ、家族側は迷惑なんだよ。変にイライラされるし、こっちが普通に食ってるだけで鬼のような目で見てくる。

 別に見た目からして太ってるわけじゃないんだし、ちゃんと食った方がいいと思うぞ?

 まあそれはさておき。

 

「……ええ、だからっていうわけじゃないんですけど……その……、改めて来週からも、仕事の後ここで夕食食べさせてもらうわけにはいきませんかね?」

「え!?」

 

 三度、もみじさんが驚愕の声を上げる。

 一体何を言っているのかわからないという顔だ。

 もしかして、駄目、なんだろうか?

 

「ほら……その……折角食器も用意してもらったんで……」

 

 そう、食器。

 一色に誕生日に買ってもらった食器。

 正直に言おう、俺はあれが欲しい。

 いや、恐らく一色家の認識としても、あれ自体は俺のものなのだが、

 できれば持って帰りたいと思っている。

 なにせ、俺が初めて家族以外の誰かからもらった誕生日プレゼントだ。

 まあその後鍵やらなんやらも貰ったが『一番最初』という意味ではあの食器が正真正銘初めてだろう。

 正確に言えばあれはただの物だ。同じものを買ってくれば事足りるのかもしれない。

 だがやはり……なんというか。そう、コレクター魂とでも言うべきか、折角貰ったものだし、記念に取っておきたいそんな欲が俺の中で渦巻いている。

 その感情の正確な名前は分からない。

 ただ「あれでなければ駄目だ」という。そういう酷くワガママな意思のようなものが確かに俺の中に生まれていた。

 だが、その願いは敵わない。

 なぜなら、持ち帰り不可だと送り主に言われているからな。

 使うのは『この家でだけ』だと。

 ならどうする?

 

 正直、もみじさんの料理は美味い。

 食えるものなら、毎週食いたいとも思っている。

 だが、やはり毎回タダで食わせてもらうなんて図々しすぎるだろう。

 俺だったら確実に図々しい奴だと罵る自信がある。

 なんだったら追い出す。

 

 だからといってその事を口に出さず、今までのようになんとなく夕食の席に呼ばれるのを待つのか?

 本当は食いたいのに、食いたくない振りをして誘ってもらうのを待ち続ける?

 そんな浅ましいマネができるわけないだろう?

 だから……もういっそ、最初からおかしかったこの契約内容を変更してしまおうと思ったのだ。

 

 そう、この曖昧な状況に理由をつけてしまえばいい。

 先程の時給に関する問題と同じ様に、この項目も修正。

 時給二千円という契約に『OK』を出した自分をなかった事にする。

 『夕食は食べていかない』と言った自分をなかった事にする。

 そうすれば、いざという時、一色家としても俺を排除しやすいはずだ。

 優しいこの一家が、いつか俺の事を負担だと思った時に、いつでも『契約を破棄して追い出せる』という手札を残すことができる。

 

「……だから……これからはちゃんと食費を払うので……バイトの後はここで食事をするっていう形で……駄目っすかね?」

 

 これで断られたらどうしたらいいのかわからん。

 折角時給も並になったのだ、どうにかここも押し通しておきたい。

 それか……いっそもう『お前には夕食は作らない』と言い切って欲しい。

 俺の心の安寧のために……。頼む……。

 俺は祈るような思いで、もう一度封筒をもみじさんの方へと押し出した。

 だが、もみじさんは何も言わない。困ったように視線を彷徨わせている。

 僅かな沈黙が俺の体に突き刺さった。

 

「八幡……ちょっとそれ貸せ」

 

 その沈黙を破ったのはおっさんだった。

 おっさんは、俺からもみじさんを引き剥がすと、俺の手から封筒を奪い取る。

 そして一瞬だけ考える素振りを見せると、中から五千円札を抜き取った。

 え?

 

「一ヶ月千円。どれだけ食ってこうが食ってくまいが変動なし。今月分も含めて五ヶ月分だ。これで今月は胸張って飯食ってけ。来月からも同様だ。それでいいんだろ?」

「……それだけ……?」

 

 一月千円はちょっと安すぎるんじゃないだろうか?

 一食辺り二百五十円。コンビニだったらおにぎり二個がギリギリのラインだ。

 

「バーカ、こっちは定食屋じゃねーんだ、きっちり幾らなんて決めてねーんだよ。時給半額にまでした学生が格好つけんな。ここらへんで譲歩しとけ」

 

 しかし、おっさんはそう言ってバンっと俺の胸元に封筒を突きつけてきた。

 俺はどうしたもんかと、一度ちらりと楓さんの顔を見る。

 するとにっこり笑いながら一度頷いてくれた。

 これ以上言うのは野暮ということか……。

 

「……わかった……サンキュ。それで頼……お願いします」

 

 俺がそう言って三千円の入った封筒を受け取り頭を下げると。

 おっさんは満足げに笑った。

 

「え、でもお父さん!」

 

 だがどうやら、もみじさんはまだ少し不満なようだ。

 その五千円を受け取ろうとはせず、おっさんに食って掛かる。

 

「もみじ……八幡の気持ちも汲んでやれ、こいつも男なんだ」

 

 しかし、おっさんはそれを抑え込み、五千円札を無理矢理もみじさんに握らせると、そのまま楓さんにパスする。

 

「はいはい、もみじちゃんは向こう行きましょうね」

「え? えええぇぇ? 八幡くん!? 八幡くーん! じゃ、じゃあ今日も美味しいの作るからね! いっぱい食べてね!? 待っててね!」

 

 俺はその二人を苦笑いで見送りながら、手元に残った封筒をカバンの中にしまったのだった。

 

「本当に、成長したみたいだな……」

 

 女性陣がいなくなった後のテーブルで、おっさんはシミジミとそう呟く。

 いや、だから成長なんてしてないんだよなぁ……。

 あ、でも身長は伸びたのか? そういや最後に身長計ったのいつだっただろう?

 俺まだ成長期だったりするんだろうか?

 

**

 

「さて、久しぶりに授業やるぞ」

「はーい♪」

 

 それから、ようやく俺達は一色の部屋へ行き、授業を行うことになった。

 時刻は十八時、もうあと一時間しか授業時間がないが、まあ仕方ない。

 

 一色の部屋に入るのは実に一ヶ月ぶりだ。

 そういえば前回来たときに見たあのパネルはもう消えているな。

 もう誕生日も過ぎたので、用済みになったのだろう。

 それ以外は特に一色の部屋に変化は見当たらない。

 まあ、部屋なんてそうそう変わるもんじゃないか。

 俺はいつも通りのクッションに座り、一色と二人で丸テーブルを囲んだ。

 ん?

 

「なんで一色もこっち座ってんの? いつもはそっちの机でやってるだろ?」

「えー? いいじゃないですかー、この方が色々教えてもらいやすいですし?」

 

 いや、教科書類がほとんど机の棚にあるんだから。一色がこっち座ったら手間だろ。

 よくわからんな……。

 

「まあいいけど……そういえば模試の結果は? 返ってきた?」

「あ、はい! 見て下さい。ジャジャーン!」

 

 そういって一色が手を伸ばし机の引き出しをあけると三つ折りにされた紙を取り出して見せてくる。

 俺はそれを受け取ろうとして……一瞬一色の手と触れた。

 すると、一色は「あっ……!」と慌てた様子で手を引っ込め、その紙を落とす。

 

「え?」

「ご、ごめんなさい……!」

「い、いや……俺も悪い……」

 

 え? 何? 静電気じゃないよな……?

 触られるのが嫌だったとかなんだろうか。ちょっと凹む。

 そして、心なしか一色との距離が少し遠くなっている。

 もしかして……避けられてる?

 あれ? 俺なんかしたっけ?

 先週とかはむしろ向こうから過剰にスキンシップしてきたイメージなんだが……。やっぱ俺臭いんだろうか?

 ……まあ、深く考えないでおこう……俺が傷つくだけだ……。

 どうせ他人から避けられるのは慣れている。いつもの事だと、割り切って、俺はそれ以上の詮索を辞めて小さなテーブルの下に落ちた紙を拾いあげた。

 

 少しだけ気まずい二人きりの部屋で、俺がその紙を広げると、中には『海浜総合高校 合格可能性 B』と書かれていた。

 どうも俺が受けた時と比べるとデザインが変わっているようだ。

 細かく成績の分析もされており、『この学校に合格するためには!』というアドバイスまで書いてある。

 なんというか至れり尽せりだな。

 

「Bか。まあ評判通りって感じだな」

「……評判ってなんですか? どこかで私の評判聞いたんですか?」

「いや、一色の成績がよくわからなかったからな。前に担任からは志望校海浜総合で「問題ない」って言われてたんだろ? そういう評判だよ」

「あー、なるほどですねぇ」

 

 なんだか一色の敬語が少し怪しい。

 何? ポンメルンなの? ヒゲとか生えちゃうの?

 多分似合わないから辞めておいたほうがいいぞ。

 

「まあ、これなら今まで通りの勉強方法で心配ないだろ。Cとかだったら全体的な見直しも必要かと思ったが、一色の場合、足引っ張る程特別苦手な科目があるわけじゃないし、無理せず底上げを狙っていこう。ここにも書いてある通り、ケアレスミスにも気をつけてな」

 

 俺は紙に書いてあったアドバイスも見ながら、そう言って判定用紙を返す。

 だがふと視線を落とすとその紙のフッター部分に「1/2」と書かれているのが見えた。

 「これは二枚あるうちの一枚目ですよ」ということだ。

 つまり志望校判定の二枚目がある?

 そういえば、模試の申し込みの時「判定できるのは一校だけか?」とか聞いてきてたな……。どこかもう一校試してみたんだろうか?

 ちょっと気になるが……。

 まあ、渡してこなかったということは、見せたくないか、本当にお試しで書いただけなのだろう。

 第一志望さえわかっていればいいか。 

 俺はそう思い、今度は手が触れないよう、端っこを持って一色にその紙を返した。

 だが一色はなんだか少し考えごとをしているような妙な雰囲気でその紙を受取ると、今度はクッションではなく机への椅子へと向かっていった。

 やっぱそっち戻るのかよ……。

 

「……センパイは去年の模試、判定どれぐらいだったんですか?」

「Bプ……Bだな」

 

 Bプラスといいそうになって俺は慌てて口を噤む。

 プラスというのはあくまで俺の負け惜しみの自己評価であって公式の評価ではないからな。

 世間的にはB。ソレ以上でもソレ以下でもない。

 

「夏の模試で……B……」

「ああ、だからそのレベルならそこまで落ち込む事もないと思うぞ?」

 

 あと半年もあるのだ、Bなら十分合格圏内。なんなら少し余裕を持てるレベルだ。

 

「……Cなら見直しが必要……」

「C“なら”な、同じことをずっとやってても駄目な事もあるってことだ。まぁBなんだしソコまで気にしなくていいんじゃないの?」

 

 一色の呟きを聞いて、俺は立ち上がり、その紙を覗き込みながら改めてそう言うと、一色は飛び上がるように耳を押さえて、立ち上がった。

 

「わ! セ、センパイ!? な、な、な、なんですか急に!」

「いや、急にも何も……ずっとここにいただろ……」

 

 何? 話しかけられるのも嫌だったの?

 やっぱ食事の件は早まったかもしれんな……。まさかここまで嫌われてるとは思わなかった。

 俺も慌てて一歩距離を取る。

 

「あ、あはは、そうですね。そうでした」

 

 一色は取り繕うようにそう言うと、不自然に笑った。

 大丈夫かこいつ? なんていうか……情緒不安定にも見える、もしかしてあの万引の件まだ引きずってるとか……?

 一回おっさんに話しといたほうがいいかもな……。

 

*

 

「というわけでな、あのスーパーで会ったレジの姉ちゃんが俺と同じ学校だった」

「……へぇ、世間って狭いですね……」

 

 なんとなく気まずい雰囲気だったので、模試の問題をおさらいしながら、俺は学校であった出来事を話した。

 だが、一色の反応は薄い。

 もしかして、スーパーを思い出させるような事をいったのが失敗だったか? ちょっと反応を見たいというのもあったんだが……。

 問題に取り組むスピードも遅いし、どうにも上の空だが、特別そこに反応したという感じもしない……。

 なら、B判定がそんなに不服だった?

 そういえばAを取るって息巻いてたような気もする……

 でもあくまで模試は模試、そこまで落ち込むような結果じゃないはずなんだよなぁ……。

 

「……センパイって……総武一本だったんですか?」

 

 とうとう一色がペンを完全に止めた。と思ったら、俺にそう問いかけてきた。

 困った、質問の意図が全く読めない。普通に答えて大丈夫かこれ?

 

「ん? まあ……一応滑り止めは考えてたけど、学校見学とかは総武しか行かなかったな」

「学校、見学?」

 

 まるで初めて聞く単語の様に、一色が首をかしげる。

 

「え? 嘘? お前学校見学とかしてないの? 学校説明会とか、文化祭とか」

「あ! 文化祭! い、いつですか!?」

「ん? ウチは確か今月の末じゃなかったか、まだクラスごとの出し物とかはちゃんと決まってないけど、そろそろ文実が動き出してるみたいだし……確か……ああ、月末の土曜だ」

 

 俺がスマホのカレンダーを確認すると、一色が慌てた様子で椅子から立ち上がる。

 まあ土曜と行っても後片付け含めて十七時までには終わるだろう、まあバイトには影響ないはずだ。もしかしたら少し遅れるかもしれないが……。

 

「わ、私行きたい! 総武高の文化祭行ってみたいです!」

「ってウチの? いや、海浜総合の行けよ」

 

 ウチの文化祭なんか行っても学校見学にもなんにもならないだろう。

 多分規模も違う。海浜総合の方が色々派手そうなイメージだ。

 

「どっちでも同じですよ! っていうか海浜総合のは去年行きましたし。なんていうか……そう! ほら! 中学とは違う高校の雰囲気みたいなのを感じてみたいっていうか……」

 

 そんなン感じてる暇あるんだったら勉強しとけよと思うんだが……。

 どうにもそういう空気でもなさそうだ。

 一色は両手を合わせるお祈りのポーズをすると、上目遣いで瞳をうるませながら俺を見てきた。

 

「……駄目……ですか?」

「あざとい」

 

 俺がそう言うと、一色はぷくっと頬を膨らませ、俺を睨んでくる。

 

「むー、あざとくないですよぉー。それに、息抜きも大事だと思うんです!」

「お前しょっちゅう息抜きしてんじゃん……俺、夏休みほぼ家庭教師の仕事してないんだぞ?」

「最後、これで最後ですから……! 文化祭の日以外はちゃんと勉強しますから、ね? お願いしますよ、センパぁイ」

 

 最後ったってなぁ……。判断に困る。

 打ち上げの時はなんとなく、流したが。

 今は俺も収入が減っているので、できるだけ真面目に取り組んで欲しい。

 この時期にこれ以上こいつの勉強時間減らして、後で文句言われるのも避けたい……。

 だが、明らかにさっきまでとは一色の様子が違う。きっとこれはコイツにとっては大事なことなのだろう。

 

「甘ったるい声をだすな……最後ならそれこそ海浜総合行ったほうがいんじゃないの?」

「だーかーらー、それじゃ意味がないんですってば! ほら! 課外授業? みたいな感じで!」

 

 課外授業……。家庭教師って言葉の意味知ってる? 家庭教師の「家庭」って「家」って意味なんだぜ?

 とはいえ、これ以上この話題で時間も割きたくもない……こういう時は……。

 

「……はぁ……一応、後でおっさんに聞いてからな」

「だ、大丈夫ですよ、お爺ちゃんには後で私から話しておきますから! センパイはもっと別のお話をしてあげて下さい、ほら、お爺ちゃんセンパイの事大好きみたいですから。なんでしたっけ? あの『らノべ』? の話とか!」

 

 「らノべ」じゃなくて「ラノベ」な。微妙に発音間違えられると気持ち悪いのは何故だろう。

 というか、別におっさんに好かれても嬉しくないんだよなぁ……。

 でもそういや、おっさん先月の新刊買ったのかな……ちょっと気になる。

 

「あ! そうだ! スーパーで思い出しました。センパイ。コレ」

「ん?」

 

 俺の思考が少しだけずれると、一色が突然パンっと手をたたき、机の上の小さな小物入れっぽい箱から、何かを取り出した。

 なんだか露骨に話をそらされた気もするが……。

 まあおっさんに話が行くならどっちでもいいか……。

 

「はい、これ食べたかったんですよね?」

 

 そうして一色が手の平を見せてくる、するとそこにあったのは例のガム……。

 俺があの日譲ってもらおうとしたタピオカガムが置かれていた。

 ある所には結構あるもんなんだろうか?

 

「うお! タピオカガムじゃん。売ってくれんの? いくら?」

「お金なんていりませんよ、この間のお礼です。っていうかコレ買ったんじゃなくてあの時の奴なんです、センパイ欲しがってたみたいだから譲ってもらいました」

「おお、マジか、サンキュ」

 

 あの時の……ということはやはり、万引事件についてはもう然程尾を引いていないのだろうか? それならそれで問題ないが……。

 まぁとにかくこれで小町に自慢できる。

 きっと泣いて喜ぶだろう。

 ふふふ、久しぶりに兄の威厳の前にひれ伏すが良い。

 

「折角だし、一緒に食べましょうよ、私もこれ気になってたんですよねー」

「あ、いや、その……」

 

 しかし、一色はそんな俺をみて楽しそうに笑いながら、そのまま封を開けようした。

 俺はそれを慌てて止める。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

「えー? なんですか? その反応……もしかして一人で全部食べたかったとか? ふふ、そんなに欲しかったんですかこれ? センパイってそういう所可愛いですよね」

「いや、俺じゃなくて小町がな」

「小町ちゃん?」

 

 少しだけ予想外という顔をした一色に、俺は経緯を説明する。

 小町への土産にしようとしたこと。俺が小町を驚かせようとしていること。そのため出来れば未開封でほしいこと。

 一色なら説明すればきっと納得してくれただろう。俺はそう思い、一色の手の上からそのガムを受け取ろうと手を伸ばした……だがその瞬間、何故かすっと、一色の手が閉じられた。

 

「えーと……一色さん?」

「むー……なんですかそれー! じゃあやっぱりあげません!」

「ええ……」

 

 女心と秋の空とは言うが、九月に入ったからやっぱりそういう傾向が顕著に現れるんだろうか?

 たった今くれると言ったものを今はくれないという。

 本当女子の考えること分からん。

 

「いや、くれよ。今くれるっていったじゃん。なんなら金も払うけど?」

「ダーメーでーすー。センパイ、シスコンも程々にしないと、大事な人が見えなくなっちゃいますよ? だからこんなものはこうしちゃいます!」

 

 そう言って、一色は手早く封を切る。

 

「な!」

 

 なんだよ大事な人って……!

 だが俺が抗議するする間もなく、一色はポンポンとガムの包み紙を開け、三つほど口の中に放り込んだ。

 なんという早業だ。

 

「太るぞ?」

「あ! あー! はん回目! 三かひもいった!!」

 

 口にガムを入れた一色は俺を指指し、反対の手で口元を覆いながら、地団駄を踏んで威嚇してくる。

 え? 何? なんて? 『三回も言った』?

 っていうか、下の階の人に迷惑だからやめなさい?

 全く、ここマンションの上層階なんだぞ。

 

「三回も言ってねーよ……」

「言いましたよ! お祭りの時に一回でしょ……その後……あれ?」

 

 そう言って一色が指折り数えようとするが一本目を倒した所で指が止まる。

 そもそも祭りの時にも『太る』なんて言ってないんだよなぁ……。

 一体何を勘違いしてるんだコイツは……。

 まあこの手の水掛け論では女子に勝てないというのは分かっているので、これ以上の追求はやめておこう。

 こうなると例え、こちらが正しくても何故か俺が悪い事にされるのだ。

 幼い日の苦い思い出が蘇る……。う……頭が……。

 

「と、とにかく! もうセンパイにはあげませんからね! センパイはもっと許嫁に対するデリカシーっていうものをですね」

「分かった分かった……」

 

 口をモゴモゴさせながら、デリカシーとかいわれてもなぁ……。

 こういう所本当小町とそっくりだわ。

 女子って皆こうなんだろうか。

 はぁ……。

 

「もういいから……ほら、とりあえず時間までは模試の見直しするぞ。もうあんま時間ないんだろ」

「むー……」

 

 ってあれ? 今コイツ『許嫁』っつった?

 いや、気のせいか……。きっとガムのモゴモゴで聞き間違えたんだろう。

 俺も疲れてんのかな……

 

「おーい、八幡、いろは! 飯できたってよ」

 

 そんな事を考えていると、おっさんが部屋の扉を開けて入ってきた。

 どうやら今日の夕食はいつもより十五分ほど早いらしい。

 こりゃ来月の給料も少なめだな……。




「あの俺」に続いて
アニメ風サブタイ第二弾!
また適当に思いついたら変えるかも知れません……。

一応言っておくと明日は投稿ないです!
来週は……わかりません。
新しいあやねるヒロインのゲームも出るので
のんびり書いていきたいと思っています(白目


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第39話 これも運命の出会い?

長らくお待たせして申し訳有りません。
沢山の感想、誤字報告、メッセージ、評価ありがとうございます。
投稿再開したいと思います。


──一応前回までのあらすじ──

高校の入学式当日に交通事故にあった比企谷八幡だったが
入院先の病院で一人の老人・一色縁継と出会い、その孫娘・一色いろはと許嫁関係を結ぶこととなる。
最初こそ反発していた一色いろはだったが一学期、夏休みをともに過ごす中で徐々に比企谷八幡に惹かれ、その思いを自覚。
進学先を八幡と同じ総武高校にすることを決意するが……。

─────────────


 あれから、どれ位の時が経ったのだろう?

 まだ少し眠気の残る頭で、目の前に広がる情景に思いを馳せる。

 

 四人がけのテーブルに用意された朝食、目の前をドタバタと慌ただしく動き回る女の子。

 俺は椅子に座りながらその様子を微笑ましく眺め、腕を伸ばして眠っている小さな命を抱き上げた。

 寝ぼけているのか少しだけイヤイヤと抵抗する姿勢を見せたが、俺の顔を一度じっと見ると再び目を閉じ大人しくなる。その身体から伝わる確かな熱は『生きている』という実感を与えてくれるようだった。

 

 両手に収まるソレを抱きかかえながら、椅子の背もたれに身を委ねれば、そのまま目を閉じてしまいたくなる衝動に駆られる。夢の世界は果たしてどちらだろうか……。

 再び女の子が俺の横を通りすぎ、テーブルの上のコーヒーが小さく揺れた。

 

 俺にもこんな時期があったのだろうか?

 ふとそんな事を考える。

 だが、あまりにも昔の事すぎるのか思い出すことができなかった。

 おかしい、記憶力にはそこそこの自信があるつもりで、絶対に思い出したくもない中二病時代の黒歴史は鮮明に覚えているというのに……。

 人生とはままならないものである。

 むしろそっちを思い出せないほうが助かるんだがな……。

 

「はぁ………………って痛っ!!」

「あ、ごめん!」

 

 ため息をついた瞬間。

 後頭部に何かがぶつかった。

 俺は思わず片手で頭を押さえる。

 血は……出てないよな、というかまぁそれほど硬いものでもなかったし、むしろ柔らかく、よく考えたら痛くもなかったのだが。

 それでも何事かと振り返ってみると、そこには先程から慌ただしく走り回っていた女の子……もとい小町が立っていた。

 

「ってお兄ちゃんもいつまでのんびりしてるのさ? 遅刻しちゃうよ!」

 

 膨らんだ体操着入れを何故か片手でブンブンと振り回しながら、小町がそう告げてくる。

 どうやら先程俺の後頭部にクリティカルヒットしたのはあの体操着が入った袋のようだ。

 

「いや、お前が待ってろっつったんだろ……」

 

 そう、その日は珍しく小町が盛大な寝坊をやらかし、やれ寝癖が治らないだ、やれ体操着がないだと騒いでいるので、俺はさっさと家を出ようとしたのだが。

「待って! 置いてかないで!」と縋られたので仕方なく俺は二杯目のコーヒーを飲んでいたわけだ。

 時計を見上げれば小町が起きたあの時間から、すでに十五分が経過している。

 そうか、あれからもう十五分か……。

 小町にしては頑張った方だとは思うが、これはもう遅刻は確定だろう。まぁどうでもいいけど。

 

「遅刻するならせめてお兄ちゃんと一緒がいいなぁって……あ、今の小町的にポイント高い!」

「お兄ちゃん完全にとばっちりだからね? どう考えてもマイナスしかないんだけど?」

 

 小町の声で再び目を覚ましたのか、腕の中の小さな命……愛猫かまくらが離せと暴れ始めるのでそっと床に下ろし、その背を見つめる。

 かまくらは地面を確かめるようにゆっくりと台所へと歩くと、ひょいと身軽な動きで冷蔵庫の上へと飛び上がり、こちらを見て一度「うなぁ」と鳴いた。

 その様子はさながら「か、勘違いしないでよね! 抱っこされたかったわけじゃないんだからね!」とでも告げているようだ。

 まあ、かまくらオスなんだけどな。

 そうこうしている間も小町は「遅刻だ」「急げ」「早く鞄をもて」と何故か俺を急かしてくる。いや、だから寝坊したの俺じゃないんだよなぁ……

 

「……しかし、遅刻一つで朝からよくそんな慌てられるな」

 

 俺は小町に急かされるまま、玄関へ向かいながらそうごちる。

 たかが遅刻ごときでこんなに慌てていた時期が俺にもあったのだろうか?

 やはり思い出せない。

 遅刻したからって死ぬわけでもなし、諦めてしまえばいいのに……。

 だが、小町はそんな俺の言葉を聞き、不思議そうにそのクリクリとした瞳をむけてきた。

 

「へ? だって遅刻なんてしたくないじゃん?」

「そう思うならなんで俺を巻き込んだんだよ……。まぁ俺はもういっそ一限終わってから行く予定だったけどな」

「うわぁ……ダメ人間」

 

 遅刻をして授業を中断させるよりは、という俺なりの最大限の配慮だ。

 むしろ正解まである。

 

「いいか小町、そもそも遅刻が悪だという認識が間違っているんだ、警察は事件が起きてから初めて動くしヒーローは遅れて……」

「はいはい、バカなこと言ってないでほら行くよ!」

「おいこら、話はちゃんと最後まで……!」

 

 小町は俺の講義を遮り、トントンと靴の踵を鳴らすと勢いよく玄関の扉を開ける。

 外にはまだ夏の匂いが残っている。だが、心地よい風が頬を撫で秋の到来を予感させていた。

 

「んじゃ! ひっへひまふ!」

「待て待て待て」

 

 二人で家を出たあと、玄関の鍵をかけ、俺が自転車を取り道路に出ると、間髪いれず小町が何事かを俺に告げて、走り出そうとしたので慌てて止めた。

 え? この子何やってんの?

 

「んふ?」

「何咥えてんの?」

「遅刻の必須アイテム『食パン』一度やってみたかったんだよね」

 

 そう、何故か小町はどこに隠していたのか食パンを丸々一枚咥えていたのだ。

 これはあれだ。『遅刻遅刻~』といいながら学校に向かう主人公、という少女漫画のテンプレ的行動だ。一体どこでこんなアホな事を覚えてくるのか……。

 

「やめなさい、変なフラグ立っちゃったらどうするの」

「えー、だって朝ごはん食べてないし、お腹空いちゃうよ」

 

 二学期が始まり、一週間が過ぎたというこの時期に転校生とぶつかる等というアクシデントが起こるとは思わないが。

 お行儀が良くないし、ご近所さんに変な子がいると噂をたてられるのも困りものだ。

 いや本当誰がこんな子に育てたんでしょうねぇ……。

 

「じゃあもう食ってていいから……ほら、乗れ」

「へ?」

 

 俺は自分の自転車にまたがり、後ろを指差す。

 本当は自転車の二人乗りは道交法違反なんだけどな……。小町は幼児と変わらないので目をつぶって頂くとしよう。

 

「いいの?」

「むしろそのために待ってたんじゃないかと思ってたが?」

 

 今朝小町に「待ってて」と言われた時から、そう予想していたのだが。あれ? もしかして深読みしすぎたか?

 

「でも、お兄ちゃん通学路違うでしょ?」

「小町の中学なら寄り道しても大して距離は変わらん」

 

 実際信号を先に渡るか後に渡るか程度の差でしかない。

 ……普段は黒歴史の思い出の地に近寄りたくないから避けて通ってるっていうのもあるんだけどな。

 

「小町のっていうか、まぁお兄ちゃんの母校でもあるんだけどね」

「お前、俺の妹だって隠してたじゃん」

「あ……あはははは」

 

 こいつ俺が中三の時、廊下ですれ違うだけで「やべっ」って顔して、あからさまに避けてきたからな……。

 俺も小町の兄だとばれないようにするのが大変だった。

 でもお兄ちゃん割とショックだったんだからね……?

 

「まあ、お兄ちゃんがどーしてもっていうなら仕方ない、乗ってあげよう」

「置いていっていいなら、俺は一人でいくぞ?」

「わー! ごめんなさい! 乗る乗る! 乗せて下さい!」

 

 その頃を考えれば、こうやって一緒に通学することが出来るだけで大分成長したということなのだろう。

 自転車に小町一人分の重さが加わる事で。その成長の度合いを感じる。

 そしておっさん曰く俺も気づかないうちに成長しているのだそうだ。

 

「しっかり掴まっておけよ?」

「はーい! 出発進行ー!」

 

 その言葉を合図に、ペダルを踏み込む。

 まあ遅刻は確定だと思うが、出来るだけ急ぐとするか……。

 見せてやるぜ八幡の高回転(ハイケイデンス)!!

 アブ! アブ! アブゥゥ!!

 

「いやー、本当言うとお兄ちゃんに送ってもらおうと思ってたんだけど……やっぱり事故の事考えると言い出しにくかっはんひゃほへ……」

「バーカ、気にしすぎなんだよ! ……舌噛むなよ?」

 

 こうして、俺は食パン咥えた小町を送るため、他愛のない会話をしながら久しぶりに母校の前を通る。

 母校とはいえ特に思い入れもないので当然感慨もわかない。校門の前に懐かしの担任が立っているなんていう事もない。

 ただ、校庭におびただしい数の生徒が整列しており、俺達は多少注目された。どうやら月曜朝の朝礼が行われているようだ。恥ずかしそうに自分のクラスの列に混ざっていく小町を見ながら、俺は再び自転車を漕ぎ出す。

 まぁたまにはこんな日があってもいいだろう。

 たまには……な?

 

*

 

 小町を送った後、特に急ぐでもなく学校へ向かうと、予想通りというかなんというか教室はロングホームルームの真っ最中だった。

 教室の扉の窓から中を覗くと、どうやら文化祭の出し物の話し合いが行われているようで、黒板を見れば『喫茶店』『演劇』『お化け屋敷』といった定番の企画を含めた様々な企画案が羅列されているのが見える。

 

「っていうかやっぱクラスが一つになれる奴がいいよね。ダンスとか!」

「やっぱ高校生になったんだし? いっちょ派手な事しちゃう?」

「それなら映画とかどう? ほら全員出演の! 後で記念にもなるし」

「えー? それなら舞台でもよくない?」

「メイド! メイド喫茶!」

「メイドって女子だけ? 男子なにすんのさ」

 

 同時にクラスの連中が思い思いに案を出しているのが聞こえた。

 よし、この騒ぎの中であれば、俺が教室に入ってもそれほど注目されることはないだろう。

 俺はそう考えて、一度深呼吸をしてから、ゆっくりと扉を開ける。

 だが、俺の思いとは裏腹に、扉はガラガラガラと予想以上に大きな悲鳴を上げ一瞬でクラス中の視線が集まるのが分かった。

 

「比企谷、遅刻だぞ」

「あ……すんません」

 

 担任にそう注意され、俺は腰を低くして自分の席へと向かう。

 なんだか体中に突き刺さる視線が痛い。

 どうぞ俺の事は気にせずそのまま話を続けてください。いや、本当。

 

「……衣装っていえばさー、やっぱクラスTは作りたいよね」

 

 俺の祈りが通じたのか、静寂を打ち破り、誰かがそんな声を上げた。

 声のした方角に視線を向けてみると、そこには我がクラスのカーストトップの女子の姿。

 いわゆるクラスのボスというやつだな、別名お山の大将とも言う。まぁ関わりがないから名前とかは知らんけど。

 

「あー! それいい! ゆっこナイスアイディア!」

「絶対欲しい! 作ろ作ろう」

「めっちゃ記念になるじゃん!」

 

 当然、このクラスでの発言力もトップなので、ゆっこと呼ばれた彼女の意見に皆が次々に賛同していく。心なしかゆっこも得意げだ。

 いや、待て待て。

 今はクラスの出し物決めてるんじゃないのかよ。クラスTとかどうでもいいだろ。

 

「あ、あの……まずは出し物をですね……」

 

 ほらみろ、さっきからずっと黒板の前にいる司会のメガネ君が困っちゃってるじゃないか。彼はああ見えて学級長なんだぞ。長だぞ、長。ちゃんと従ってあげなさい。

 

「デザインはやっぱ凝りたいよね?」

「なんかマークとかいれる? あ、それかスローガンとか!」

「クラス全員の名前入れるとかは?」

 

 だがそんなメガネ君の懇願も虚しく、ゆっこグループ主催のクラスT談義は続き、やがてホームルーム終了のチャイムが校内に鳴り響いた。

 

「あ、じゃあ次までに皆でデザイン考えておくってことで!」

 

 ゆっこの号令を合図に各々が好き勝手なことをいいながら席を立ち上がり、教室を後にしていく。

 どうやら今日の話し合いはこれまでのようだ。 

 ドンマイ、メガネ君。

 

**

 

「さて、行くか……」

 

 ホームルームを含めた午前の授業を終え。昼休み。

 いつもなら始業時間ギリギリまで誰の迷惑にもならないようにラノベを読んで過ごしている所だが、今日の午後の授業は体育のため、少し早めに準備をしなくてはならない。

 

 今学期からの体育は見学が許されないらしいからな。

 夏休み前に平塚教諭からそう直接告げられている。

 はっきり言って億劫だが、卒業まで見学というわけにもいかないのだから仕方がない。

 それが終われば今日は帰れると思えばなんとか頑張れるだろう。

 帰ったら何をしようか。

 久しぶりにゲーム機でも引っ張るか、ラノベの新刊を読み漁るか、それとも……。

 

 帰宅後の自分に思いを馳せながら、教室で着替えを済ませ、校庭へと向かうと強い日差しが俺にダイレクトアタックをしかけてくる。

 真夏だったらきっと地獄だっただろう。

 俺は意味もなく手首をグルグルと回し、少し早めの準備運動をしながら体育教師の下へと歩みよっていった。

 

「全員揃ったな、今日は見学者も無し……と。健康的でよろしい」

 

 体育教師がそう言って一瞬俺の方へと視線を向ける。

 すみませんでしたね、ずっと見学してて……。

 

「さて、今学期の体育からはペアでの競技が多くなる予定だ。そこで、今日はまずペア決めを行なってもらう。二学期になってそれなりにお互いの人となりも知れたことだろう、好きなもの同士で組んでいいぞ、俺は少し準備があるからペアが決まったものは各自体操をしておけ」

 

 続いて体育教師は口早にそう叫ぶとホイッスルを一度短く鳴らし、集団から離れていく。

 

 なん……だと……?

 そうだ、そういえば一学期の間も「ペアが出来ないからやってみないか」と言われていたのを思い出した。

 すっかり忘れていた。

 まずい、ボッチにとって最大の敵とも言える学校行事『ペア決め』。

 それがこのタイミングで来るとは……。

 こんな事なら医者に診断書を頼んででも見学許可を貰うんだった。

 

 今からでも体調不良を訴えるか?

 しかし、さっきあの教師は明らかに俺の方を見てきた。あのタイミングで見学を申し出なかったのでは流石に不自然すぎる……。

 

 何より、こうしている間も周囲の男子学生達は次々にペアを作り、会話に花を咲かせていく。

 こういう時「自分から声をかければいい」みたいな事を簡単にいう輩がいるが、そんな事をするのは素人だ。

 俺のようなボッチ玄人はこの手のペア決めでそんな悪手は打たない。

 なぜって?

 例えばそこの三人組を見てみよう、一見すると一人余るので狙い目に見えなくもないが……ほら、三人組の一人がどこからか一人連れてきてあっという間に四人組が完成した。

 打ち合わせもなく自然とペアができるとかどういう義務教育受けてきたの?

 予備の人員の確保って必修科目なの?

 あんな所に迂闊に声をかけたら、ウッカリ自分が入ることで五人になってしまい。さらにペアを組みにくくなった結果「うわ、こいつ邪魔だな。どうしよう……」という容赦ない視線を浴びせられてしまうじゃないか全く。死にたくなっちゃったらどうするの。

 

 さて、冗談はさておきどうしたもんか……。

 一応初めての体育だし、せめて参加してる感は出しておきたいんだが……。

 

 総武高の体育は男女別、三クラス合同だ。

 だから、というわけではないが見知った顔はほとんどいない。

 いや、そもそも俺自身がクラスメイトの顔を覚えていないんだけども……。

 この中で俺のペアになりそうな奴いるのか? せめて暑苦しくなくて、コミュニケーションが取れるタイプの人間は……。

 

「くく……くはは……よもやこのような場所で相まみえることになるとはな……」

 

 校庭中央に陣取っている陽キャっぽいグループは数が多いが、ペア決めは終わっているんだろうか?

 特に揉めている様子はないが……あそこに混ざるのは正直勘弁して欲しいな……。

 ああいう所は別ペアであってもグループの一つと認識する傾向にあるからな。

 中途半端に関わって内輪ノリに巻き込まれたくはない。

 

「やはり、これも我と貴様の宿命ということか……」

 

 校舎側に点々としている陰キャっぽいグループはほぼペアが決まっているのだろう、既に体操を始めている。

 真面目で大変よろしい。

 ってさっきから煩いな……。

 

「ええい! 無視をするな! 我のことを忘れたとは言わせんぞ! 比企谷ぁ何某ぃ!! さぁ、今再び我と共に覇道を歩もうではないか!」

「えっと……どちらさん……?」

 

 先程から妙にやかましいこの男……あまり関わりたくないと思っていたのだが、どうやら関わらざるを得ない状況らしい、一体なんなんだ……?

 

「どこかで会ったっけ?」

 

 その男は平均よりは少々太り気味の体型にメガネ……だけならまだいいのだが。

 何故か体操着の上にロングコートを羽織り、手には指ぬきグローブという、いつ通報されてもおかしくない風貌をしていた。

 こんな目立つキャラに会ったことがあれば覚えていないはずはないのだが……。

 

「……ふふ、覚えていないのも無理はない、我でさえ己の使命を思い出すのに十年の歳月が必要だったのだ……」

「いや、忘れたとは言わせないんじゃなかったのかよ……」

 

 男がメガネを中指で押し上げるポーズのまま、得意げにそう言い放つので俺は思わず突っ込んでしまった。

 ん? でも結局こいつとはどこかで会ってるのか……?

 十年前?

 

「では、改めて問おう、比企谷何某! 貴様の真名を我に示せ!」

「真名?」

 

 俺はいつから真名持ちになったんだろうか?

 というか、真名? うっ、頭が……!

 

「ええい、名前を教えろと言っているのだ、分からんやつだな」

「いや、比企谷であってるよ、さっきからそっちで呼んでただろ、マジでどこかで会った?」

 

 もし本当にどこかで会っているのに覚えていないだけなら、失礼極まりない言い草なのは百も招致だが。実際に身に覚えがないのだから仕方がない。

 まあ、一応俺は入学式初日に事故ったことで名前が知られている事はあるのかもしれないが……それにしても、こいつの話が全く理解出来ん。

 

「それは名字であろう、下の名だ! 早く! むしろそこが重要なのだ!」

「……ハチマンだけど?」

 

 あまりに話が通じないので、うっかり名前を告げてしまった。

 これが詐欺だったら戦犯もののミス。正直やばいと思ったが、だが俺の名前を聞いた瞬間から男の表情がみるみる変わっていくのが分かった。

 

「うっほぉぉぉぉ!!!! そ、それはあれか? 八幡宮とか八幡大菩薩のあの八幡か? よもや漢数字という訳ではあるまいな?」

「“やわた”の八幡だよ! やめろ、腕を掴むな暑苦しい!」

 

 興奮という言葉では言い表せないほどに、男は声を荒げ、鼻息を鳴らし俺にすり寄ってくる。え? 何これ怖い、誰か! 男の人呼んで!

 

「コホン……失礼、少し取り乱したようだ」

 

 すがってくる男を慌てて引き剥がす。すると男は一歩距離を取り、わざとらしく咳払いをしてそう言うと、最後にすぅっと息を吸った。

 

「これこそが天命! やはり! やはり我の選択に間違いはなかったのだ!」

 

 独り言とは到底思えない声量で相変わらずわけのわからない言葉を発する男。

 だが俺はその瞬間、戸惑いながらも不思議とどこか懐かしさのようなものも感じていた。

 俺はこの行動の意味を知っている。

 俺はこんな言動をする人間を知っている。

 なるほど、だからか。だからコートと指ぬきグローブなのか。

 

「八幡……! 貴様は我のことを覚えていないといったな」

 

 もうやめろ……。

 いちいちセリフにアクションをつけるな。

 

「だが我は覚えている、この心が、魂が……!」

 

 やめてくれ……。

 オーバーに芝居がかった喋り方をするな……!

 

「円環の理を外れ幾度輪廻の輪を巡ろうと……我は何度でも貴様にこの名を告げよう」

 

 大げさに意味深な間を取るな!

 逐一格好良さそうな単語を入れるな!

 

「我が名は剣豪将軍! 材木座っ義輝っ!! 今一度その心に刻むが良い!」

 

 "中二病"を俺に見せつけないでくれ!!

 

 恥と承知で打ち明けるのであれば、俺にもこんな時代はあった。

 いや、この言い方は適切ではないな、年頃の男子なら誰もが経験し、通る道それが中二病である。

 夜な夜な「政府に送る機密報告書」や「絶対に許さない奴リスト」を作ったり、この世界の七人の神……おっと、この話はやめておこう。

 まぁとにかく、そんな男の子の通過儀礼である中二病という麻疹のような病に今尚こいつは冒されているのだ。

 

「……まだ分からぬか……? そうだな『足利義輝』といえば我と貴様の前世からの宿命が理解できるのではないか……?」

 

 足利?

 ああ、なるほど。

 

「清和源氏か……?」

 

 俺の名前から八幡大菩薩をひっぱてるから名前に拘ったと……分かりにくい上に妙に凝ってるな。

 いや、分かりたくもなかったけど。

 

「そ、そうだ! まさか本当に理解者が……いや、思い出したようだな! 幾百の時を越えてなお我と貴様は主従の関係に……!」

 

 思わず声に出してしまったのが悪かったのか、脳内設定を把握した事を知った材木座は、見るからに興奮した様子でそう捲し立てる。

 ああ、やってしまった。目立っている。

 あまりにも不振な動きを繰り返すこいつに周囲の学生の視線が集まっていた。

 ああ、そうさ、お前達もこの道を通ってきたんだろう? 分かる、分かるぞ。

 これが共感性羞恥というやつか。

 死にたい。

 

 だがまぁ、そういう事なら話は簡単だ。

 今ならこいつの言葉の意味を理解できる。

 実際にどこかで会ったことがあるのかどうかは定かではないが、基本的にはこいつの中二設定である可能性が高い。

 そして、妙な格好をしているとはいえコイツも一応体操着を着ている。

 つまりこいつは……。

 

「ペア組みましょう、って事でいいか? えっと……材木座?」

「あ、よろしくお願いします……」

 

 俺がそういうと、材木座は急に腰を低くして、頭を下げてきた。

 そう、この剣豪将軍とやらは俺と同じようにペアの相手を探していただけなのだ。

 なぜあんな回りくどい言い方をしてきたのかと問われれば、それが中二病だからと答える。

 恐らく材木座も、孤立していた俺から何かを感じ取ったのだろう。

 そう考えるのならば、初対面の俺にあのテンションで張り合ってきたコイツの勇気を讃えないわけにもいかない。

 まあ、そもそも他に選択肢もないしな。

 

「んじゃ、行くか……」

「ふははは! 我と貴様が組めば百人力よ!」

 

 百人力で一体何をしようというのかは分からないが。

 少なくとも俺には一人力しかないので、九十九人力分は材木座に補ってもらおう。

 こうして、俺ことボッチ・比企谷八幡と中二病・材木座義輝というペアが誕生したのであった。




というわけで約一年ごしの39話でした。

沢山の方にご心配おかけしてしまい本当に申し訳有りませんでした。
また投稿再開していきたいと思っていますので
手遅れでなければ引き続き応援していただけたら嬉しいです、よろしくお願いいたします。

感想、誤字報告、メッセージ、評価お待ちしています!

p.s
材木座が非常に難しく苦手なので「ここの喋り方おかしいな?」と思った部分があれば教えていただけると嬉しいです。

p.s2
アンケート始めてみました。今後の展開の参考にしたいと思いますので、よろしければ投票お願いいたします。

p.s3
騎空士の皆様、闇古戦場お疲れさまでした。フルオートベリアル強かったですね、ベリアル持ってないけど。


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第40話 真夜中の女子会

一年ぶり投稿第二弾です。
沢山の感想、誤字報告、評価、メッセージ、アンケートへの回答ありがとうございました。

そして、お気に入り9000件越えたみたいです!
ありがとうございます!
今は復帰してよかったと心から思っています。本当にありがとうございます!


「文化祭来週だけど……本当に来んの?」

 

 その日のカテキョの時間、センパイは私の部屋に入るなりそんな事を言ってきた。

 

「行きますよ! なんでちょっと嫌そうなんですか!」

 

 もちろん行くに決まっているし、なんなら着ていく服を買ってもらおうとパパにおねだりまでしたというのに、このセンパイは一体何を言っているのだろう?

 こんな可愛い子と文化祭デートですよ? 嬉しくないんですか?

 まぁ、買いに行く時間がなくて結局おねだりは失敗に終わったし、小町ちゃんも一緒に行く予定だからデートとも呼べないんだけど……。

 

「一応確認しただけだよ、冗談でしたって事もあるだろ」

「冗談なんかじゃないです! 朝一で行きますからちゃぁんと学校案内して下さいよ?」

 

 鞄を下ろし、いつものクッションに座りながらセンパイがそう言うので慌てて否定する。

 もし冗談だと思われて別の予定を組まれてたりしたら困りものだ。

 ここは強く言っておかなければ……!

 

「いや、俺もクラスの仕事あるから朝一なんて来られても対応できん」

「えー!! そんなの誰か友達に代わって貰えばいいじゃないですか!」

「無理、何せ代わってくれるような友達がいない」

「センパイ……」

 

 なんで得意げな顔してるのかはわからないけど、そういえば友達いないって言ってたっけ……。

 私もそんな人の事言えないけど……。

 という事は他に予定を入れられる心配もない……のかな?

 やっぱりセンパイって学校でイジメられたりしてるんだろうか?

 そうだったらやっぱり私が総武に入って何とかしてあげないと……!

 でもセンパイが黙ってイジメられてるっていうのも想像つかないんだよなぁ。ただでやられるタイプとは思えないっていうか……とは言え今ここで深く聞くのもなんか変な感じだし、気まずくなりそう……。

 えーと、話題話題……。

  

「……あ、そうだ、これ良かったら食べて下さい! 今日の朝、頑張って作った私の手作りですよ!」

 

 私は話題を変える意味を込めて、午前中に焼き上げておいたクッキーの乗ったお皿をセンパイに差し出した。

 これはセンパイが初めてうちに来た時「おいしい」と言ってくれたママ直伝の特製手作りクッキーだ。

 しかもこのクッキー、実はママがパパを落とすために開発したという逸話もあったりする。

 ちょっと前までは、ただのノロケ話としか思っていなかったけど、ここは是非ともあやかりたい。 

 

「いや……お前受験生だろ、クッキー作ってる暇あったら英単語の一つでも覚えておけよ……」

「昨日も散々やりましたよー、それに英語ばっかりじゃつまんないじゃないですかー」

「スペルミス多いんだから仕方ないだろ……」

 

 ぐ……それを言われると返す言葉もない。

 でも……同じ事を繰り返すっていうのは、どうにもモチベーションが続かないというのも本音だ。

 何か目新しい目標があればいいんだけど……。

 

「あ、じゃあ次回はセンパイがテスト作ってくるっていうのはどうですか? それで合格点だったらご褒美ってことで! それなら私のモチベも上がるし一石二鳥でお得ですよ」

「何が“じゃあ”なのかわからん。それ作るのも褒美用意すんのも俺なの分かってる? 手間でしかないんだけど? 何がお得なの?」

「このクッキー分がお得ってことで」

 

 私の思いつきの提案を聞いて、全力で嫌そうな顔をするセンパイの手の平にクッキーを一つ落とす。

 本当は「あーん」ってしたかったけど。

 一瞬、センパイの唇に私の指がつくのを想像して、慌てて手渡しにしてしまったのは内緒だ。

 別にそれが嫌だとかじゃなくて、もしそんな事になったら勉強どころじゃなくなっちゃいそうだから……。

 全く、センパイそこらへんちゃんと分かってるんですか?

 

「ん……まぁ……うまいな」

「やった!」

 

 センパイが口にしたその「うまい」に私の頬が緩むのを感じる。

 それだけでも午前中に一人で頑張って作った甲斐があるというもの。たった今感じたセンパイに対する不満もどこかへ吹き飛んでしまった。全く我ながら現金なものだ。

 

「……これ、はちみつ入ってる?」

「あ、よくわかりましたね、それが美味しくなるコツなんです」

「へー」

 

 それは本当に隠し味程度で、パパも言われるまで気付かなかったらしいのに。

 もしかして入れすぎた?

 でも、おいしくないわけじゃないんだよね……なら……。

 

「ちなみに他にも入ってる物があるんですけど、何かわかりますか?」

「バター」

「それクッキー作りの基本じゃないですか、もっと特別なものです。わかりませんか?」

 

 私の言葉を聞いて、センパイがもう一つクッキーをつまむ。

 今度は悩みながら、しっかり味わっているようだ。

 さて、分かりましたかセンパイ?

 

「んー……分からん」

「ふふ,正解は……たっぷりの愛情です♪」

「へー……」

「へぇって……もっと他に言うことないんですか? 愛情ですよ? あ・い・じょ・う」

「あざとい」

「むぅぅぅぅ!!」

 

 どうやら、ママ特製クッキーの効果が出るのはまだまだ先のようだ……。 

 

***

 

 その日の夜は何もやる気が起きなかった。

 

 いつもだったら寝る前に最低でも三十分は机に向かっている所なんだけど……。

 センパイのカテキョという楽しみが終わって、また勉強漬けの一週間が始まろうとしているのだ、気持ちが暗くなるのも仕方ない。こういうのもサ○エさん症候群っていうのかな?

 いや、センパイも私に勉強させに来てるんだけどね……。しかも日曜は明日だし。

 

 でも私にとってみれば一週間に一度しかない好きな人との大切な時間。

 出来れば勉強だけじゃなく、もう少し楽しい時間にしたいと思うのは当然の事だと思う。

 第一、勉強なんて毎日やっているんだし? センパイが来ている時ぐらいサボっても問題ないんじゃないかなぁ。

 

 それに……そもそも今の私には受験勉強を頑張ろうというモチベーションが無くなってきているというのもあると思う。

 原因は分かっている。お爺ちゃんだ。

 総武高に入りたい、そう思っているのに。それを反対されている。

 受験生にとってこれほどモチベーションを下げる行為があるだろうか?

 週に一度しか会えないのに、一緒の高校に行くという目標も取り上げられた状態で、私は一体何を頑張ればいいの?

 あれ? もしかして私って悲劇のヒロイン?

 

 これまでの私は、お爺ちゃんの言われるがまま、海浜総合に入るため勉強をしてきた。

 模試でもAとは行かないまでも、B判定も貰った。合格圏内だ。

 そんな私が、もう少しだけランクの高い学校を受けたいというのに反対する意味がわからない。

 

 ああ、この愚痴を誰かに言いたい。

 センパイに聞いてもらいたい。

 そう思っているのだけど、センパイに相談するためにはまず総武を希望している事を告げなければいけない。

 でも、今の私にはまだそれを言う勇気がなかった。

 だって……そんなの言ったらセンパイを追いかけてるってバレバレだし……。

 だから今週もまた何も言えないまま。いつも通りの時間が過ぎて、センパイは帰っていった。

 

 はぁ……。

 

 ベッドに倒れ込んでスマホの画面を仰ぎ見る。

 そこにはほんの少し前までセンパイと交わしたメッセージの履歴が残されていた。

 

『センパイ暇ですー、何かお話してください』

『暇なら今日の復習でもしとけ』

『えー、もう今日は沢山やったじゃないですかー! 少しは息抜きしたいですー』

『あなた来週も息抜きするんでしょ? そろそろ息溜めなさい?』

『あ、そうだ来週! 来週の文化祭何時に待ち合わせますか?』

『さっきも言ったが午前中は仕事あるから、まあ適当に』

『じゃあお仕事してる所見にいきますね』

『こんでいい』

『えー、何か見られちゃまずい事でもあるんですか?』

『別にないけど』

『じゃあ行きますね♪』

 

 最後に私からのスタンプ。

 そこでメッセージは途切れている。

 うーん……お仕事って何だろう? 行ったら邪魔なのかな?

 そもそもセンパイは当日何をしてるんだろう?

 もう一回ぐらいメッセージ送ってみようか……。

 でも流石にシツコイかなぁ?

 うーん、うーん。と悩んでいるうちにチクタクチクタクと時計の針が進んでいく。

 

 間が空きすぎたかな……これはまた明日リベンジしてみよう……。

 私は「はぁ」と諦めのため息を一つ吐いた。

 

 もう今日は勉強という雰囲気ではなくなってしまったし、さっさとお風呂に入って寝ちゃおうかな。

 そして明日朝一でセンパイにおはようメッセージを送るのだ。

 夜ふかしはお肌にも悪いしね。うん、そうしよう。

 そうと決まれば……。

 

「よっ」

 

 私は勢いよくベッドから起き上がると、パジャマ姿のまま部屋を出る。

 それじゃ歯を磨いて……あ、でもその前に軽く何か飲んでこようかな……。

 確か牛乳がまだ少し残ってたはず……。ホットミルクにでもすれば寝付きも良くなるだろう。

 そう思いつき、私はキッチンへ向かった。

 

「あら、いろはちゃんどうしたの? お腹空いた? お夜食でも作る?」

 

 廊下を抜けキッチンにつくと、そこにはママの姿。

 ママは私に気付くなり、そう言って優しく微笑んだ。

 

「ううん。今日はもう寝ちゃおうかと思って」

 

 私がそう答えると、ママは濡れた手をエプロンで軽く拭き、少し慌てた様子で駆け寄ってくるなり私の額にその手を載せた。

 うわ、ママの手冷たい……!

 

「具合でも悪いの?」

「そういうんじゃないんだけど、色々考えてたら何かやる気起きなくなっちゃって」

 

 これは嘘じゃない。

 実際色々考えてた。受験の事とか、センパイの事とか、お爺ちゃんの事とか。

 とにかく考えなきゃいけないことは山ほどある。

 でもそのほとんどがスグには答えがでない問題なのが悩ましい。 

 

「あらそうなの? そういう事なら……」

 

 すると、ママは何やらキッチンの高い位置にある棚をあさり始める。

 一体何事かとその背中を眺めていると。やがて目当てのものを見つけたのかママは振り返ってこういった。

 

「女子会しない? 戴き物のパウンドケーキがあるのよ」

 

 ママの両手には可愛らしいティーカップが二つと、恐らくはケーキが入っているという細長い箱。

 どうやら、このまま寝るという選択肢は消えたようだ。

 

*

 

「──ね、どうせお爺ちゃんは自分の思い通りにいかないのが気に入らないだけなんだってば」

 

 ママが淹れてくれたカモミールのハーブティーを飲みながら、私は色々な話をした。

 最初は今日のセンパイの授業の事。LIKEでのメッセージの事、総武高の文化祭の事。そうやって話していくうちに……‥総武高に行きたいと思っていることまで話した。

 

 別にこの事はママにまで隠していたわけじゃない。

 あの日、お爺ちゃんに反対されたことを家族みんなが知っている。でも特段誰かに相談しようとは思っていなかった。我が家では基本お爺ちゃんが最終的な決定権を持っているから、相談してもあんまり意味がないと思っていたのかも知れない。

 実際、許嫁が決まった時だって、ママは賛成してたしね。

 

「フフ……」

 

 そんな私の真剣な思いを聞いて、ママは笑みを漏らす。

 全く失礼してしまう。

 子供だと思ってバカにしているのだろうか?

 

「何がおかしいの? こっちは真剣なんだよ!」

 

 私はつい語気を荒げる。

 でも、ママはそんな私に動じる様子もなく、今度は真っ直ぐに私の目を見てこういった。

 

「フフフ、ごめんなさい、だって……あなたの話全部八幡君の事なんだもの」

「へ?」

 

 その言葉に思わず私は硬直する。

 え?

 

「そんな事は……!!」

 

 ない……と思う。

 あれ?

 私今、何の話したんだっけ?

 最初にセンパイの授業の話して……LIKEの……最後に総武……ってああああ!!

 

「八幡くんの事……好きなのね?」

「……」

 

 その問いに、私は答えることができなかった。

 答えていいのかも分からなかったのだ。

 少し前まで、私とセンパイの事は家族全員が応援してくれている関係だと思っていた。

 でも、今は違う。

 少なくともお爺ちゃんは同じ高校に通う事を応援してくれていない。

 ならママは……?

 

 訪れた一瞬の静寂。

 それでも何か、何か言わなきゃ。そう思っているのに頭の中がうまくまとまらない。

 一刻も早くこの気まずい雰囲気を脱しなきゃ、そう思って 頭をフル回転させていたけれど。

 やっぱり言葉は上手くでてこなくて……先にその静寂を破ったのはママの方だった。 

 

「ねぇいろはちゃん、それはね別に恥ずかしいことじゃないのよ。好きな人が出来たら、その人の事ばっかり考えちゃうのは女の子としては当然。例え相手に好きな人がいたって、思う事をやめなくていいのは女の子の特権なんだから」

 

 顔を伏せる私に、ママは諭すように優しい声色でそう言ったのだ。

 そしてその瞬間、なんだか色々考えていた自分がバカみたいな気がしてきた。

 ああ、やっぱりママは私のママだなぁ……。

 そんな風に感じてしまったのだ。

 一瞬でもママに反対されるかも……なんて思った自分が情けない。

 そう、ママが誰かを好きになる事を反対するはずなんてなかったんだ。

 でも……。

 

「それはやだなぁ……」

 

 センパイに好きな人がいる……そんな状況はあまり想像したくなかった。

 少なくとも今、センパイの周りに女性の影はない……と思う。思っている。

 とはいえ、もしかしたら私が知らないだけで、高校には仲の良い人がいるのかもしれない。

 そういえば、例のスーパーで会った人が同じ学校だって言っていたっけ。

 あんまり顔は覚えていないんだけど……。

 まさか、急接近……なんてことはないよね?

 

「フフ、そうね。それは嫌よね。でもボヤボヤしてたら分からないわよ?」

 

 やっぱり、そうなんだろうか……?

 正直、女の子に興味津々っていう感じでもないから、そこまで心配はしてなかったし。むしろもっと私に興味持ってくれればとさえ思っていたんだけど……。

 うーん、考えることが増えてしまった……。

 

「入院中も女の子がお見舞いに来ていたらしいからね」

「え!? なにそれ聞いてない!」

 

 突然の爆弾発言に私は思わず椅子から立ち上がってしまう。

 お見舞い? 女の子?

 小町ちゃんの事……じゃなくて?

 一体誰? センパイとどんな関係?

 

「そんなに怒らないでよ、ママだって詳しく知ってるわけじゃなくて……お爺ちゃんから聞いただけなんだから」 

 

 突然立ち上がった私を見て、ママは両手を上げて降参のポーズをしながらそういった。

 その様子を見て、私はふぅ……と一度呼吸を整え、ゆっくりと椅子に座り直す。

 そして、まだ暖かいハーブティーに口をつけた。

 でも……本当に誰なんだろう?

 入院中なら彼女……とかじゃないよね?

 さすがに彼女持ちの人を許嫁にするほどお爺ちゃんも軽率じゃないだろう。まさか……元カノ……とか?

 ……まぁ、どんな関係の人だっていいか、どうせ私の方に諦めるつもりはサラサラ無いのだ。

 その人が何回お見舞いに行ったのかは知らないけれど、少なくともここ数ヶ月のセンパイの話に出てきたこともない、その程度なら大した問題にもならないだろう。

 もし……万が一何かあったとしても最悪、最後に勝てばいい、うん。

 私はそう決意して、パウンドケーキの残りを一気に口に放り込んだ。

 

「見事な百面相ね……。ねぇ、いろはちゃん。お爺ちゃんにはそういう気持ちちゃんと伝えたの?」

「百面? ……言うわけないじゃん……言ったってどうせ駄目って言われるんだし……」

 

 言えるわけがない。だって、お爺ちゃんには既に反対されているのだ。

 そんな状況で、下手なことも言えない。

 大体、私が「総武に行きたい」って言った時点で「センパイと一緒にいたいのかな?」とか気を使ってくれても良いんじゃないだろうか?

 私とセンパイを許嫁にしたのはお爺ちゃんなのだ、それぐらい気を利かせてくれてもバチは当たらないだろうと思う。

 

「それは違うわ。お爺ちゃんが言ったこと、ちゃんと覚えてる?」

「お爺ちゃんが言ったこと?」

「ほら……あなた自分の事ばっかりでお爺ちゃんの話、ちゃんと聞いてなかったんでしょ?」

 

 そんな事はない……はず。

 あの時はとにかくなにか突破口はないかって色々考えながらだけど、しっかり聞いていたつもりだ。

 何か失言でもしてくれればとも思った。

 だけど結局、何一つお爺ちゃんに言い返すことが出来なかった。

 

「お爺ちゃんの言葉を思い出して、それでいろはちゃんの真っ直ぐな気持ちをちゃんと伝えればお爺ちゃんだって分かってくれるんじゃないかなぁ……」

 

 真っ直ぐな気持ち……?

 あの時は『総武に行きたい』ってストレートに伝えたつもりだったんだけど……。

 

「何かあるならママからお爺ちゃんに言ってよ……」

「それは駄目、これはあなたの将来の事でしょ? 相手が他の人ならともかく、相手はお爺ちゃんなんだからちゃんとあなたが自分で伝えないと、きっとお爺ちゃんだって納得しないわ。私も、多分八幡君もね」

 

 センパイにまで反対されたら再起不能だよ……。

 何か、私に出来ることがまだ残ってるって事なのかな……。うーん……。

 

*

 

 その後、少しだけママの学生の頃のパパとの恋話を聞いて、二つ目のパウンドケーキに手を伸ばしそうになった頃。二人だけの女子会は解散した。

 流石に夜中にこれ以上甘い物を食べるのは怖い……。

 

 でも、なんとなくだけど収穫はあった気がする。

 恐らく今私がやるべき事はお爺ちゃんの言葉を思い出すことだ。

 ママがあれだけ念を推すぐらいだから、きっと私が気が付かなかった突破口があるのだろう。

 あの時、お爺ちゃんなんて言ってたっけ?

 

 私は部屋の電気を消して、ベッドに横になりながらあの日のことを思い出す。

 

 あの日は……確か……。

 

──────

 

────

 

──

 

「……駄目だ」

 

 総武に行きたいと言った私に、お爺ちゃんは確かにそういったのだ。

 

「え……? 今なんて?」

 

 当然、私としてはお爺ちゃんは応援してくれると思っていたから、とにかく狼狽えた。

 一瞬何を言われたのか分からなかったほどだ。

 きっと聞き間違えだろう。

 もしかしたら、私の言ってることが上手く伝わらなかったのかも知れない。

 だから、もう一度ゆっくりちゃんと説明しよう。

 

「駄目だと言ったんだ」

 

 だけど、私が次の言葉を発するより早く、畳み掛けるようにお爺ちゃんはそういった。

 

「な、なんで……だって総武だよ?」

「なんとなくで上を目指すとか、将来の視野だとかよくわからん理由を並べ立てとるからだ。それなら総武じゃなくても選択肢はあるだろう」

 

 再び問いかける私に、お爺ちゃんは一瞬の迷いもなくそう答える。

 まさか反対されるなんて思っていなかったこの時の私は半ばパニック状態だった。

 だって……理由なんて一つしかない。

 私、センパイの許嫁なんでしょ?

 今この状況で、あんな事があった後で、私が総武に行く理由なんて……。

 分かるでしょう?

 でも、完全に真面目モードに入ったお爺ちゃんに、改めてソレを言った所で今更状況が覆るとは思えなかった。

 センパイと一緒に居たいからなんて言ったらそれこそ反対されそうだ……。

 

「そ、そんなの海浜だって変わらないじゃん! お爺ちゃんに言われたからなんとなく受ける事になっただけで、私別に海浜総合でやりたい事なんてないし!」

 

 そうだ、海浜総合は私が希望したわけじゃない。

 私は自分が思うよりも早口でそう反論する。

 だけどお爺ちゃんは、そんな私を見て、大きなため息をついた。

 

「あの時は『やりたい事もないなら海浜総合でも目指したらどうだ』と話したんだろうが。あそこは学力も必要だが、何より他とは違う『単位制』の高校で、その話をした時『単位制は自分に合ってるかも』と言ったのもお前だろう」

 

 う……確かにそんな話はしたかも……。

 戸惑う私にお爺ちゃんが総武と海浜総合の“違い”を私に示し、さらに言葉を続ける。

 

「第一、ちゃんと総武の学校見学とかは行ったのか? 海浜総合に行った時は嬉しそうに設備が凄かったとかはしゃいでただろ」

「……まだ……」

「お前なぁ……」

 

 お爺ちゃんはそこで、呆れたように大きなため息を吐いて肩を落とした。

 

「……別にお前が志望校を変えるのは構わん。海浜総合を勧めたのはお前の学力も下がって、将来の事も心配だったから分かりやすい目標を提示しただけだ。ただ変えるなら志望動機をちゃんと説明しろ。総武じゃなきゃならん理由をな」

「だから……それは……」

 

 志望動機……。総武じゃなければいけない理由……。

 そんなものはどこにもなかった。

 結局、私の中にあるのは『センパイと一緒にいたい』という不純な動機で、極論そこにセンパイがいるのであれば、総武でなくてもいいのだ。

 そこがたまたま総武だっただけで、そこに学力とか将来とか、そういった類のものは一つも含まれていない。

 なんなら海浜よりランクが高かったからお爺ちゃんを説得しやすいとさえ思っていた。

 だけど、これだとお爺ちゃんは……大人は納得してくれないという事なのだろう。

 そういえば昔『制服が可愛いから行ってみたい』って言った時も反対されたっけ「そんな簡単な気持ちで大事な進路を決めるな」って……。

 そしてその経験があったからこそ、私は上辺だけを取り繕った言葉でお爺ちゃんを説得しているんだけど……。

 

「答えられんか……」

 

 どうやら失敗したみたい。

 そのショックで、もうお爺ちゃんの言葉も半分聞いていなかった。

 こんな事ならもっと入念に理由作りをしておくんだった。

 とはいえ、今となっては全ては後の祭り。

 もう何を言っても無駄なのだという無力感と、三年間センパイのいない海浜総合高校で過ごさなくてはいけないという絶望感が私の中に渦巻いていく。

 

「あなた、何もそんな追い詰めなくても……」

 

 そんな私を見かねたのか、いつの間にかお風呂から上がってきたお婆ちゃんがそっと肩を抱いてくれたのが分かった。

 肩越しにお婆ちゃんの温かい熱が伝わってくる。

 

「こんな中途半端な状態で総武に行かせたら八幡にも迷惑をかける、アイツの為にもここははっきりさせとかんと」

 

 その言葉を、私は聞き逃さなかった。

 今、なんて言ったの?

 

「センパイの……ため?」

 

 突然お爺ちゃんの口から発せられたセンパイの名前。

 どうして? なんで今ここでセンパイなの?

 海浜に行くことがセンパイの為になるの?

 私は、センパイと一緒の学校に行っちゃいけないの?

 

「ひいてはお前のためだ……」

 

 お爺ちゃんはお婆ちゃんから視線を外すと、再び私の目を見てそう言った。

 今度は私のため?

 もう何一つ理解できない。

 でも、その時の私は上手くその疑問を口にすることが出来なかった。

 

「お前はまだ、アイツの事を分かっとらん」

 

 私が……センパイを分かってない……?

 

「もう……もうお爺ちゃんより私の方がセンパイとの付き合いは長いんだけど?」

 

 そうだ、確かに出会ったのはお爺ちゃんの方が先だったのかもしれない。

 でもお爺ちゃんがセンパイに会うのは今では月に一度あるかないか。

 そのお爺ちゃんが私よりセンパイの事を分かってる?

 そんな事絶対にありえない!

 

「いろはちゃん、お爺ちゃんはね……?」

「楓は余計な事をいうな」

 

 何か言おうとするお婆ちゃんをお爺ちゃんが強い口調で制する。

 

「一応聞いておくが、進路変更の事は八幡には言ったのか?」

「……言ってない……」

 

 先にお爺ちゃんに言っておくのが筋だと思っていたし、言えるわけもなかった。

 

「言わなくて正解だな……」

 

 それは私に対する言葉というよりは、独り言のように小さな声だった。続けて「もしアイツに知られていたら……」とも言っていたような気がするけれど、聞き間違いかもしれない。そこだけははっきりと聞き取れなかった。

 先にセンパイに言えばなんとかなったのだろうか?

 よくわからない。

 センパイにとってお爺ちゃんは雇用主だ。

 センパイがどちらの味方をしてくれるのかは半ば賭けのような部分もあるし、そもそもセンパイに相談したとしても、理由を話せないままなのは変わらない。

 この場にセンパイがいるというだけで、結局話は堂々巡りな気もする。

 

「話はそれだけか? ならそろそろ寝ろ、そうすりゃ寝言も治るだろ」

 

 もう話は終わりだと言いたげなお爺ちゃんがソファから立ち上がる。

 

「あなた、だからもう少し言い方を……」

「わかったわかった……」

 

 でも、その言葉をお婆ちゃんに窘められると、お爺ちゃんは面倒くさそうに頭をかいた。

 ああ、なんか今の仕草、センパイに似てるかも……。

 こんな状況だというのに、私はふと、そんな事を思ってしまった。

 それはもしかしたら現実逃避だったのかもしれない。

 

「いろは、本気ならせめてもっと焦れ。今のお前の言葉は何一つ響かん」

「焦る?」

 

 もう時間がないのは分かっている。

 焦っているからこそ総武への変更をこのタイミングで伝えているのだ。

 

「私はずっと本気で……!」

 

 私の言葉を、お爺ちゃんは私の肩をぽんと一度叩いて遮ると、スッと横を通り過ぎていく。

 

「お爺ちゃん!!」

 叫んでもお爺ちゃんはもう反応しない。

 焦る? それが、私が総武に行くことと何か関係があるのだろうか?

 だが、私の願いも虚しく、お爺ちゃんは大きな伸びをしながら「おやすみ、お前も早く寝ろ」と背中越しに呟き、和室へと消えていった。

 そのあまりにも適当な態度に、胃の当たりから怒りがムカムカと湧いてくるのが分かる。

 

「お……」

「お?」

「お爺ちゃんのバカーーーー!!」

 

 襖越しにそう叫ぶと、目を丸くするお婆ちゃんを残して、私は自室へと戻った。

 勢いよく閉じた自室の扉の向こうから、豪快に笑うお爺ちゃんの声が聞こえて、私はその笑い声が聞こえないように、その日は枕を被ってふて寝をしたのだった。

 

──

 

────

 

──────

 

 うん、あの日はこんな感じだった……でも……ママの言っていたお爺ちゃんの言葉って?

 『焦れ』ってこと?

 正直これでもかってぐらい焦ってるから、あの時はあんまり考えてなかったけど……。

 もしかして、今からじゃ総武は間に合わないって言いたいって事なのかな?

 それは確かに否定できない。

 繰り返すようだけど、海浜だってあくまでB判定、決して余裕という程じゃない。もっと焦らなくちゃいけない。

 それは分かってる。

 

 でも、だからって総武を諦めるっていうのは違うんじゃないかな……。

 センパイに告白“してもらう”ための努力はするつもりだ。

 お爺ちゃんが許可さえしてくれれば、きっと勉強にだってもっと身が入る。

 いっそ、今年のクリスマスに告白してもらえるよう急いで動いてみるのもいいかな?

 先に私達が付き合っちゃえば、さすがにお爺ちゃんも反対するような事はしないだろうし、センパイも協力してくれるだろう。

 センパイと付き合う……。ふふ……だめだ。顔がにやける。

 あー、だけど、それだと余計に勉強の方が間に合わないか……。

 許可がでても総武に入るための勉強が出来なきゃ意味がない……うーん……。

 

 ……他に何か、他に……考えなきゃいけないことが……。

 焦る……焦って……もっと……。

 しかし、その時の私はすでに眠気が限界に来ており、具体的な対策を思いつくより先に、瞼を開くことができなくなっていた。

 

 ああ、明日は早く起きて……センパイにメッセージ……送らなきゃ……。

 来週は……文化祭……デー……ト……。




というわけで四十話でした。
執筆裏話などは活動報告にしたいと思いますので。
ご興味の在る方はそちらへお願いします。

感想、誤字報告、評価、メッセージいつでもお待ちしています!

p.s
一週間立ったのでアンケート締め切りました。
投票数1504票。
ご協力ありがとうございました。参考にさせていただきます。


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第41話 健康で文化的かつ最低限ブラックな祭

いつも感想、誤字報告、評価、メッセージありがとうございます。

前回慌てていて言うのを失念していたのですが
第39話投稿後。
日間ランキング一位を獲得いたしました!

これも皆様の応援のおかげです本当に有難うございます。


 いよいよ文化祭も間近と迫った総武高ではドタバタと慌ただしい日々が続いていた。

 廊下を歩けば怒号が聞こえ、階段を上れば誰かとぶつかる。

 いや、危ないな。看板持って走るなよ。校舎内は走るなって小学校で習わなかったの? 

 たかだか文化祭でそこまで必死に働かなくてもいいんじゃないかとも思うのだが、かく言う我が1-F内でも怒号は鳴り響いていた。

 

「ちょっと! それそっちじゃなくこっち!」

「ねぇ、誰これ畳んだの! めっちゃ皺になってんだけど!?」

「この机持ってっちゃっていい? もう使わないよね?」

 

 締め切り前の漫画家の現場ってこんな感じなのかしら? 

 いや、流石にプロの仕事場と一緒にするのは失礼だな、夏休み最終日に家族総出で宿題をやるご家庭ぐらいにしておこう。一気にグレードダウン。

 

「……言われたとおり、ゴミ片付けてきたぞ」

「お疲れ、じゃ次これお願い。お客さんに見えるように並べてね」

 

 お使いが終わったと思ったらまた次の仕事か……。

 俺にダンボール箱を押し付けた女子は、有無を言わさずそのまま流れるように別の作業へと移って行く。

 普段なら声をかけられる事すらないというのに、俺のステルス機能どうなってんの? 

 こういう時こそ役に立つべきなんじゃないの? 

 はぁ……。

 

 仕方がないか、まぁコレぐらいなら全部俺一人で……っていやいや、一人とかおかしいでしょ? 他の連中何やってんの? 

 危うく社畜に成りかけたところで、ふと我に返り教室を見回す。

 そこには文化祭当日の予定を話しながら作業するグループと、黙々と机の上で作業をしているグループ、あーでもないこーでもないと教室の飾り付けをするグループに、楽しげに黒板をイラストで埋めるグループ、そして入り口付近で普通に談笑してるだけのグループの姿があった。

 いや、全部グループじゃん。何人かこっち回してくれよ。

 しかも「マジやばいよねー、時間足りなくない? 絶対間に合わないわー」とかゲラゲラ話し合っている談笑グループは一体どの次元の話をしているの? 

 高度すぎて俺にはついていけないが、時間ないなら手伝ってくれてもいいんじゃないですかね? 

 

「……ちょっと! ボーッと見てないでちゃんと手動かしてよ!」

「わ、悪い……」

 

 ええええ……なんで談笑してるだけのやつに怒られてんの?

 いや、おかしいだろ? 世の中俺に厳しすぎません? 

 全くもって理不尽極まりない。

 しかもなんで謝っちゃったの俺? 謝る必要なんてなくない? 卑屈になるなもっと自分を強く持て八幡! 

 

 だが、それでもバツが悪かったのか、女子グループは話を再開こそしたもののそのまま廊下へと消えていく。

 いや、だから手伝えよ……でもここは危機が去ったと思っておくのが吉なのだろうか。

 仕方ない、仕事するか……。

 

 俺は渡されたダンボールの中からTシャツを一枚取り出し、言われた通り客に見えやすいようハンガーに掛け、すでに組み立てられているディスプレイネットに吊るした。

 できるだけ柄が見やすいように配置して……。Tシャツをハンガーにかけて吊るす……ハンガーにかけて吊るす……ハンガーにかけて吊るす……ハンガーにかけて吊るす……センターに入れてスイ……やべ、危うく使徒殲滅しちゃうところだったわ。危ない危ない。

 

 しかし、よくもまぁこんなに沢山Tシャツ作ったなぁ……。

 ふと教室を見渡せば、何処もかしこもTシャツ、Tシャツ,Tシャツ。

 正面の黒板には大きなTシャツのイラストと共に描かれた「1-F OTS」のカラフルな文字。

 さて、1-Fはともかく『OTS』とは一体なんの略だろうか? 

 Over The Sky? 

 そういやそんな歌があったなぁ。

 あ、そうだ今日日課やってないわ……島HARD島HARD。

 いや、違う違う。

 OTSは我がクラスの出し物「オリジナルTシャツSHOP」の略だ。

 そう、喫茶店でもお化け屋敷でもなく「オリジナルTシャツSHOP」

 略して「OTS」いや、略す意味があるのかは知らんけど。

 

 まぁ微妙にダサいのはこの際置いておいて。

 何故うちのクラスの出し物がこんな事になったのかと言うと、話は先週まで遡る。

 

 *

 

 その週の始め、最初のホームルーム。

 本来であればクラスの出し物を決めるはずのその時間が『クラスTを作る』という話題で盛り上がった結果、我がクラスの二度目のホームルームは『クラスTデザイン会議』へと変貌していた。

 そこですんなりとデザインが決まってしまえば、また話は違ったのだろうが、デザイン案会議は混迷に混迷を極めた。

「クラスで一番うまい奴に書いてもらう」「美術部に依頼する」「クラス全員の名前をいれる」「一人一筆ずつ描く」

 様々なアイディアが出るが、常に否定意見があげられ、黒板にはバツ印が増えていくばかり。

 

 その上、言い出しっぺのゆっこグループはと言えば「皆で着るんだから皆で考えようよ!」と早々に指揮棒を放り投げ『責任のない一参加者』へと自らの立ち位置を落としていった。

 

 結果、誰もが最終決定権を持たない中で、時間ばかりが過ぎ去り、クラスの出し物を決めろと担任から急かされている学級長・メガネくんの語気も荒くなる。

 そうして教室の空気は悪くなり、アイディアを上げる声もなくなって、多数決を取る流れになるかと思った頃。

 一人の男が立ち上がった。

 

「もういっそ全員違うデザインのTシャツ作ればよくね?」

 

 静かだった教室が再びざわめき出す。

 そりゃそうだ。

 デザインが同じでなくていいなら、各自適当なTシャツを着てくればいいだけ。

 まあ合理的ではあるかもしれないが、このクラスTを作るという話し合いの時間を全否定しているに等しい。

 そんな案が出たらどんな集団だってザワつくだろう。

 渾身のギャグのつもりだったのだろうか? 

 それなら恐らく大成功だ、この後教室は爆笑の渦に包まれ、あとは卒業まで今日の事をネタとして擦られる。ソースは俺。

 流石に賛同者はでてこないだろう。

 そう思っていたのだが……。

 

「……それいい!」

「全部の案入れられるしマジそれ最強じゃん!」

「なんでそれに気が付かなかったんだー」

「だべ? マジ天才じゃね?」

 

 えええええ!? 

 なんでそんな乗り気なの? 

 いやいや、色々おかしいだろ。

 クラスTってなんだ? 俺が間違ってるのか? 

 

「もう本当何でもいいですから、とりあえず出し物の話を」

「あ、じゃあ。それ売ればいいんじゃね? 自分達で作ったオリT売るの! めっちゃ上がる!」

 

 おいおい、完全に話変わってるんだけど? 

 本末転倒って言葉知ってる? 

 あ、でも元々は出し物を決める会議だったから寧ろいいのか?

 頭の中のクエスチョンマークが消えない俺を置いて、クラスメイト達はオリジナルTシャツ販売について話し合っているが……いや、本当にそれでいいの?

 

「……じゃあ、そういう事でウチのクラスはオリジナルTシャツを販売する。ということでいいですか?」

 

 しかし、俺が脳内ツッコミをしている間に、会議はいつの間にか終盤に差し掛かり、メガネ君の言葉に皆が拍手を送っている。

 どうやら本当に決定らしい、ようやく出し物が決まって、メガネくんの顔もどこか晴れやかだ。

 

「では、全会一致ということで、皆で準備頑張りましょう!」

 

 全会一致……俺別に賛成も拍手もしてないんだけどな……。

 いや、まぁどうでもいいか……。

 うん、本当……どうでも……。

 

 *

 

 そうして半ばなし崩し的に出し物が決まった我が1-Fは。

 百着幾らというタイプの破格無地Tシャツを購入し、各自の材料持ち込みや、家庭科室に余っていたアイロンプリント用紙等で作るオリジナルTシャツ屋という事になった。

 

 というわけで、今俺が並べているのはクラスの連中が作ったオリジナルTシャツだ。

 基本的には胸元にアイロンプリントがされている物ばかりだが。

 一部には刺繍の入ったものや、良くわからない装飾がなされているもの。

 デカデカとマジックで自らのサインを入れて「将来売れる」と豪語しているようなものもある。

 本当かどうかはかなり怪しい所だ。

 

 因みに販売価格は五百円。

 Tシャツとしては一見安く思えるが、元々のTシャツも安い。

 多少絵心のある奴の売れそうなデザインの物も有るには有ったが、全体から見れば極少数。

 完売するかどうかは怪しいものだ。

 だから俺も当初は、参加料ってことで一着だけ作って、小町の土産にでもしようと思っていたのだが……。

 

「一人三着ぐらいなら友達三人に買ってもらえばいいんだから無理なく完売確実じゃん? めっちゃ儲かるんじゃね?」

「うわ、絶対売れるじゃん! その案採用」

「そしたら払った分返ってくんじゃん! 売れ残った奴は責任持って買取にしようぜ!」

 

 という頭の悪い意見があがり、一人当たりの作成ノルマが最低三着になった。

 いやいや、なんで誰しもに友達が三人もいるっていう前提なんですかね? 

 なんなの? ねずみ講なの? シンプルに犯罪なんですけど? 

 マルチ商法、ダメ絶対。

 

 そもそも売れなかったら買取とかブラックすぎんだろ……くそ……。

 それがなければ気持ちよく文化祭に参加できたというのに……。

 当日来るらしい小町と一色は頼めば買ってくれるだろうか?

 でも、仮に買ってくれたとしても一着は自分で買い取らなければならないから三分の二が俺の家に来ることになるんだよなぁ。

 出来れば自然に売れてほしいんだが……誰か買ってくれないだろうか。

 

 お、そんな事言ってる間に俺のTシャツを発見。

 よし、これはできるだけ目立つ所に置かせてもらおう。

 一応それなりに気合も入れて作ったからな。

 

 最初は売るために既存のデザインをパク……使わせて貰おうとも思ったが、似たような事を考えている奴がいたので回避し、改めて売れるデザインを考えた結果、出来るだけ万人受けしそうな動物を胸元にあしらう事にした。

 動物なら多少被っても問題はないからな。

 しかもこの動物は人気があり、強く、群れることもない。

 加えて冬眠まで出来る、正に最強の生物。

 俺も生まれ変わったらこんな動物になりたい。そんな思いも込めている。

 

 え? どこらへんに込めてるのかって? 

 ほら、二着目のこっちは文字だけだが、デカデカと書いてあるだろ? 

 

『熊になりたい』

 

 うむ、プリントミスもない、完璧だ。

 売れますように。

 

 *

 

 そんな風に短いような長かったような準備期間を終え。やってきた文化祭本番当日の朝。

 講堂では開会式が執り行われていた。

 開会式は生徒会長による開会宣言に始まり、文化祭実行委員長からの挨拶、そして最後に校長の挨拶へと続き、吹奏楽部による合奏が始まると同時に自由行動となる。

 なんで合奏の途中? と思われるが、合奏が終わるタイミングで自由行動になると、全員が一斉に移動して出口が混雑するので、怪我防止の意味合いを兼ねているらしい。

 ある程度の人数は演奏を聞いていくという計算がなされているのだろう。

 一応その後ステージイベントもあるみたいだしな。

 なので、俺もソレに習いある程度の混雑が解消されてから、講堂を後にする事にした。

 特別、急ぐ理由も無いしな。

 

 総武高の文化祭は二日に分けて行われる。

 初日である今日は学校関係者のみ参加可能。外部・一般客の参加は二日目の明日からで、小町と一色が来るのも明日だ。

 そのためか、各クラス、出し物の担当……調理、接客等は初日にやりたがる生徒が多いのだそうだ。

 なんでも二日目を丸々フリーにするため、初日はずっと働く生徒もいるらしい。

 

 そんな理由もあって、俺自身は一日目は完全フリー、仕事は二日目の午前中に店番をするのみになっていた。

 やはり二日目に店番をしたい奴が少なかったから、かなり早い段階から無理矢理ねじ込まれてたんだよな……。

 まあ、来客の多い二日目の方が自分のTシャツを売りやすいと思う事にしておこう。

 

 とはいえ、初日の今日は何をするか。

 特に予定もないし、大きなイベントは基本明日に回っているから、見たいものもあんまないんだよな……。

 とりあえず、適当にブラついてみるか……。

 俺はそう考えて、一先ず校庭に出ることにした。

 

 校庭は主に運動部の出店スペースだ。

 さながら縁日のように校舎から校門まで転々と出店が立ち並んでいる。

 フランクフルト、クレープ、射的、かき氷、じゃがバターにバナナチョコなど種類は様々で その外側には、広めのスペースを使った『ストラックなんちゃらウト』なんていうのを始めとした遊戯系のスペースもある。 

 いや、でも流石にかき氷はもう遅すぎないか? 

 もう九月も終わりなんだが? そこそこ冷たい風も吹いてきてるけど……売れるの? 

 寒い冬にコタツでアイスは分かるが、秋空の下でかき氷は意味が分からない。

 まあ、俺の知ったことではないし、とりあえずスルーしておくか。

 

 しかし、見事に食いたいものがないな……。

 まだそんな腹も減ってないからっていうのもあるけど……。

 

 そんな事を考えながらボーッと校庭を眺めていると、ふと見知った顔がこちらに向かって歩いてくる事に気がついた。

 あれは……平塚先生だ。

 何やら大きなカメラを持ちながら歩いている……まだこちらには気づいてないようだ。

 とりあえず、俺も気づかなかった事にしとこ……。

 俺は顔を下に向け、平塚先生に気づかれないよう手近な出店の影に隠れて歩く。

 これならば、店の手伝いをしているようにも見える……はずだったのだが……。

 

「やぁ、比企谷こんな所で何をしているのかね?」

 

 えええ……なんでこの人一直線に俺の方向かってくるの? 

 明らかに変な曲がり方したよね今? 

 なんなの? 俺のこと好きなの? 

 

「あ……いや、別に何も……」

「なんだなんだ? 折角の文化祭だぞ、もっと楽しそうな顔をしたらどうかね」

「はぁ……まぁ……そっすね……」

 

 俺がそう答えると平塚先生は手持ちのカメラを俺に向け、一度シャッターを切った。

 ちょっと! 今絶対半目だったでしょ! 

 やめて! 消して! そういう写真が残ると後々黒歴史になるんだから! 

 

「ちょっ、やめてくださいよ」

「はっはっは、記念だよ記念」

 

 だが、俺の抗議は平塚先生に豪快に笑い飛ばされる。

 一体なんの記念だろうか? 

 駄目ですよ先生、すぐ記念日作る系女子は面倒臭がられて恋人と長続きしないって小町が言ってました。

 

「……何か今、失礼な事を考えなかったか?」

「い、いえ……何も」

 

 あっぶねー、口に出さなくて良かったぁ。

 心の中で思っても駄目とか無○様かよ。

 いつから俺は下○の鬼になったの?

 小町、お前が鬼にされても、兄ちゃんちゃんと担いでやるからな!

 戦わないけど。

 

「まぁいい‥それで、何をしていたのかね?」

 

 おっと、どうやら許されたようだ。

 平塚○惨様には御慈悲があるらしい。

 

「いや、本当に何も、ただブラブラしてただけです」

「そうか……何か予定はないのかね?」

「特にないっすね、仕事もないんで……」

 

 なんなら完全フリーで逆に困るまである。

 いっそ帰りたい。

 というか帰ってもバレないのでは? 

 あ、でもTシャツが売れたかどうかだけは気になる所だな……適当な時間に一回戻ってワンチャンに賭けてみるか。

 

「ふむ……そういう事なら……」

「え? ちょ……なんすか?」

 

 だが、俺がそんな事を考えていると、平塚先生は持っていたカメラのストラップを俺の首にかけてきた。

 

「君に任務を与える、これで文化祭の写真を撮ってきたまえ」

「え?」

「今後学校の資料とかにも使うかもしれんが、基本的には記録用だ。君が見たまま、感じたままの文化祭を撮ってきてくれればいい。どうせ暇なのだろう?」

「いや、まあ暇っちゃ暇ですけど……」

 

 そう、暇なのだ。

 だから、正直に言えばその仕事を引き受ける事にそれほど抵抗はない。

 だが、やらなきゃいけない事が増える。というのは単純に面倒くさい、無償奉仕って柄でもないしなぁ……。

 

「私は他にやる事があるんでな。何もタダとはいわない、仕事が終わったらジュースぐらい奢ってあげようじゃないか」

 

 持たされたカメラを弄りながら、うーん……と答えを渋っていると、平塚先生が餌を撒いてきた。

 

「ジュースよりコーヒー……出来ればマッカンの方が」

「マ……? まぁ、なんでもいいさ」

 

 なんとか千葉の最低賃金のマッカン一本まで引き上げたぞ! いや、ジュースと大して変わらんけど。どちらにせよ日本の不況も来る所まで来たもんだ。マッカン一本で仕事とは……まぁ、マッカン貰えるならいいか。

 

「……でも俺、カメラの才能なんてないですよ?」

「そんなもの私だってないさ、大丈夫。卒業アルバムに使うようなのはちゃんとプロに頼んである。さっきも言ったがこれは記録用、君の見たままを撮ってくれればいいんだ、文化祭を感じられるような写真を、気を張らずにな」

「じゃあまぁ、適当に……」

 

 俺がそう言うと、平塚先生は一度ニッと笑い。「そうか。それじゃ頼んだぞ」とポンと俺の肩を叩いて、校舎の方へと戻っていった。

 

 しかし、カメラか……。久しぶりに触るな。

 一応家で親父が持ってた奴は使ったこと有るが、それも大分昔の話だし、こんな高そうなカメラじゃなかった。

 でも、よく見ると『総武高備品』と雑に書かれているな。これだけで一気に庶民感が出るのは何故だろう。

 えっと……とりあえずシャッターはここで……メニューがこれ……削除は……こうか。よし、とりあえずさっきの俺の写真の削除完了。

 メチャクチャ半目だったわ。あぶねー。

 

 *

 

 祭りは最高にフェスティバっている。

 文化祭らしい写真を撮ろうなんて意識せずとも、レンズを覗けばそこに“文化祭”はあった。

 来場者向けに作られたハリボテの巨大門。校舎の窓ガラス一杯に貼られたポスター。出店に並ぶ生徒。文実の腕章を付けた団体に連行される調子に乗ったバカ。

 うむ、我ながら良い写真が撮れた。

 俺の中に眠っていたカメラマンの才能が開花してしまったのかもしれん。 

 特にこの連行される途中の「くっころ!」みたいな顔は最高だ、明らかにカメラ目線で俺の事を睨んでいるが、俺を睨むのは筋違いだ。

 俺は記録用のカメラマン、こういうシーンこそ残しておかないといけないからな。うん。

 

 いや、実際これ最初は面倒くさいと思ってたけど、やってみると結構楽しいな。

 カメラマンになる奴の心境ってこういうのなのかもしれない。

 どこか、どこかにスクープはないか? ここはやはり大御所芸能人の不倫証拠写真を! 

 ってこれじゃカメラマンって言うより三流ゴシップ誌のライターじゃん……。余計なことに首突っ込んで消されそうまである。

 

 まあ、アホな事考えてないで、そろそろ校舎の中も撮ってみるか。

 そう考えた俺は校庭を後にして、校舎内へと入っていく。

 

「2-Cメイド喫茶やってまーす! 一度遊びにきてくださーい!」

「ミュージカル・RABBITS。三十分後に開演! 可愛いウサギ達を是非見に来て下さい!」

「……」

 

 校舎に入るとそこには、客引きをするメイド、チラシを配るうさ耳男、看板を持ちながら廊下を闊歩する無言のパンダ等がいて、さながら動物園のようだった。

 いや……って言うかなんなのそのパンダ、手作りにしてももうちょっとパンダに寄せようっていう努力しなかったの? パンダの耳は黒だし、体の模様もそんな白黒のウルト○マンみたいにはなってない。せめて資料ぐらい見ながら作ってほしい。

 明日は一般客も来るのだから今のうちに駆除してもらった方が良いんじゃないだろうか。

 子供が見たら泣くぞ。

 ……一応通報用に証拠写真も撮っておくか、パシャリ。

 ふぅ、いい仕事したな俺。

 

 そうして、俺は廊下を抜け道中の教室を一つ一つ眺めながら、時折写真を撮り。校舎内を見て回った。

 コスプレ喫茶、肝試し教室、謎解きルーム、BLStand、カレールーム千葉一番、占い教室、千葉の歴史展、クイズ千葉リーグ、脱出迷路、カラオケ教室、メイドCaffe、演劇・未来版桃太郎エトセトラエトセトラ。

 とにかく多かった、うちの学校ってこんな広かったっけ? と少し疑ってしまったほどだ。

 まあ、三年の教室とか普段いかないっていうのもあるのだろう。

 

 一応、文化祭全体を見て回った感想を述べておくと、カレー臭いという所か。

 いや本当、めっちゃ腹が減って困るんだが……行列凄かったなぁ、やっぱ飲食系は強いのか。まぁうちのクラスでも最初喫茶店案は上がってたし、人気なのは分かるが……コスプレ喫茶とメイドCaffeって何が違うの? メイドはコスプレじゃなくて本職なの?

 あとで寄ってみよう。

 

 そして、本当言うとあんまり触れたくない点として……BLStandって何?

 前の二文字から変な意味を連想してしまい「こわ……近寄らんとこ」と逃げてしまったが。

 オラオラオラ的な事? BLで?

 本当なんなの、怖い。

 いや、でも今思えばベーコンとレタスの店だったのかも知れないな。

 BLTサンドからTを抜きたくなる気持ちは非常によく分かる、あの企画を考えた人間は俺の同志なのだろう。うん、きっとそうだ、そういう事にしておこう。

 一応外観は撮ったし、それほど問題になるとも思えない。

 むしろ中は撮影禁止の可能性まである。俺の判断に間違いはないはずだ。

 まあ、必要なら明日にでもまた誰かが撮るだろう。

 俺は別に全ての出し物をくまなく撮ってこいと言われているわけではないからな。 

 

 とはいえ撮影自体はかなりの数をこなした。

 メモリが満タン……とまではいかないが、記録用としては十分だろう。

 そろそろ切り上げて、カメラを返しに行くのもありかも知れない。

 カレーの匂いのせいで腹も減ったしな……。

 そう考え、一度職員室へ向かおうと方向転換をしたところで、ふと窓から見える反対側の特別棟に目を奪われた。

 

 我が総武高は俺が今いる教室棟から中庭を挟んで特別棟があり、その両端を渡り廊下でつないでいて、上から見ると漢字の「口」のような形をしている。

 だから中庭を覗けば当然、特別棟が見えるのだが。その時は少しだけいつもと違っていた。

 ちょうど俺の真正面、特別棟の教室の窓から、秋風に髪を揺らす一人の少女が顔を出していたのだ。

 

 もし、シャッターチャンスというものがあったとしたら、その一瞬だったのだろう。

 

 少女が秋風に遊ばれる長い黒髪を耳にかける仕草は、さながら映画のワンシーンのようで、俺は思わず「おお……」と声を漏らしカメラを構えた。

 勢いよくカメラのズーム機能を上げると、液晶に美しい少女の姿が映し出される。

 こんな奴がうちの学校にいたのか……。

 俺はさながら野生動物相手の撮影現場のように、液晶画面を覗きながら、息を殺し逃げられないよう、もう一度撮影チャンスがこないかと、ゆっくりと一歩足を踏み出した。

 だが、その瞬間、硬いものが打つかる感触がカメラ越しに伝わってくる。

 って、コッチ側の窓開いていないじゃねーか。やばっ……傷とかついてないよな? 

 俺が慌てて、カメラのレンズ部分を確認し、再び窓の外を見ると。

 その音でこちらに気がついたのか、少女は驚いたようにこちらを見ており、次の瞬間には素早く窓とカーテンを閉められてしまった。

 

「何やってんだ俺……」

 

 これじゃ盗撮だ。

 やっぱカメラなんて持つもんじゃねーな。普段はそんな気もないのに、持っているとつい撮りたくなってしまう。

 まあ変な所見たわけじゃないし、実際に撮影したわけでもないから罪にはならんだろうが……。

 また何か撮りたくなる前にさっさとカメラ返してこよ……。

 

 そう考えた俺は、今度こそと職員室の方角へと足を向ける。

 そうだ、カメラを返し終わったら一度教室に戻ってTシャツが売れたか確認してこよう。

 まあ売れてないだろうが……。

 ん? 前の方から歩いてくるのは……さっきの文実の腕章付けた集団だな。

 さっきの件から察するに、恐らくは何か問題が有った時に動く実働部隊なのだろう。

 また何かあったんだろうか?

 スクープか?!

 ……いや、やめよう、もう俺はカメラは卒業したのだ……。

 そう考え、俺は彼らの邪魔にならないよう、少しだけ廊下の端による。

 だが、その集団は端によった俺をさらに追い詰めるように目の前で広がった。

 え、何?

 

「ねぇ、君」

「はい?」

「あのね、この辺りに盗撮魔が居るって通報があったんだけど……ちょーっとお話聞かせて貰ってもいいかな?」

 

 ええええ……通報されてるじゃないですかヤダー……。 

 いや待って、違うんです。話せばわかる。

 やめて、囲まないで! 人が集まってきちゃうでしょ! ちゃんと説明するからせめて人の居ない所で……、おいやめろ野次馬に来るんじゃない! 俺は何もしてない! これは誤解なんだ!

 弁護士を! 平塚先生を呼んでくれ!

 くっころ!!




というわけで41話でした。
細かい色々は活動報告にて。

感想、評価、メッセージ、誤字報告お待ちしています。
ほんの一言でも、通知が一つ入るだけでその日一日幸せに暮らせますのでお気軽に。


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第42話 シン・文化祭 -序-

いつも感想、誤字報告、評価、メッセージありがとうございます。

ちょっと書き直し作業で一週空きましたがエタってないです!


「いろはさーん! こっちです、こっち!」

「わー、お米ちゃん、ごめーん待った?」

 

 その日、電車を降りた私は、お米ちゃんとの待ち合わせ場所である駅前の広場へと小走りで向かっていた。

 

「大丈夫ですよ、小町が早く来すぎただけなので……ってお米じゃないです! 小町ですってば!」

「まあいいじゃんいいじゃん、可愛いし」

 

 腰に手を当て抗議するお米ちゃんに近づきながら、私はそう嗜める。

 お米ちゃんと知り合って早数ヶ月、最近はお互い遠慮もせず言いたいことも言えるようになってきたと思う。いや、そもそも始めから言いたいことは言えていたのかも知れない。

 センパイの事を抜きにしてもLIKEでは毎日のようにやり取りをしているし、ママと三人で話す事もあるから友達というよりは最早姉妹……訂正、仲の良い従姉妹みたいな距離感だ。うん。

 

 そんな二人がお互いの呼び名を変えようとした事はそれほど不思議ではなかったように思う。

 どういう流れだったかは思い出せないが。最初に彼女が私のことを「お義姉ちゃん」と呼んで、からかって来たのはよく覚えている。

 もちろん将来的に……? そういう可能性がないわけじゃないというか、寧ろ確定というか……そういう一面はあるんだけど……。でも、流石に今からその呼び方をされるのは色々問題があるし、私が言わせてるみたいで、逆にセンパイから敬遠される恐れさえある。

 だからこそ、私はその呼び方を拒否し、お返しのあだ名をプレゼントした。

 それが「お米ちゃん」。

 当然、彼女は難色を示したが、私はその呼び方を強行している。

 嫌われてもいいと思っているわけではないけど、この子、割と調子に乗りやすい所もあるから、今から「お義姉ちゃん」とか呼ばれて下手にいじられると一生頭あがらなくなりそうだしね……。女子的序列決めという意味合いも込めて。

 

「全く……ほら、とにかく行きますよ、急いでくださいお義姉ちゃん♪」

「お義姉ちゃんはやめてってば……!」 

 

 仕返しとばかりにお米ちゃんはそう言うと、ニッと笑って私の手を取り走り出す。

 仕方ない、今ぐらいは許してあげよう。だって今日は、待ちに待った総武高の文化祭。

 そう、私はこれからお米ちゃんと二人で、センパイの学校に乗り込むのだ。

 お爺ちゃんとの問題は何一つ解決していないけれど、今日ぐらいは全部忘れて楽しみたい。

 うー、最近は勉強ばっかで全然遊んでないし、なんかワクワクしてきたー!

 よーし、待っててくださいねセンパイ!

 

 

***

 

「……なんでお米ちゃんこんな足速いの……意味わかんない……」

 

 勢い込んだのも束の間、必死でお米ちゃんに追いつこうと全力疾走した私は総武高の校門が見えてきた時点で、既にバテていた。

 ぜぇぜぇと肩が揺れるのを感じながら、なんとか息を整える。

 うっ……脇腹が痛い……。

 

「いろはさん、運動不足なんじゃないですか? 少し運動したほうがいいですよ?」

「運動って……こちとら受験生だっての……」

 

 なんだか調子に乗っているお米ちゃんをギロリと睨むと、お米ちゃんは「あ、そうでしたね」と可愛く舌をだしておどけてみせる。

 本当にこの子は私に対しての遠慮がなくなってきてるなぁ。やはり早めに一発ガツンとかましておかないと一生いびられるかもしれない……。そんな恐怖が背筋を走る。

 

「あ、なんか入場者向けパンフレット配ってるみたいですよ、小町貰ってくるので、いろはさんは少し休んでてください」

「あー、ありがとー……」

 

 完全に動かない私を心配してか、それとも呆れたのか。お米ちゃんはそう言うと人混みの中へと消えていった。

 子供は元気だなぁ……って言っても一年しか違わないんだけどね。まぁいいや今のうちに少し休憩しとこう。

 あー、こんなに走ったのイツぶりだろう? 確かに運動不足かもなぁ。

 すー……はー……。すー……はー……。

 少し大げさに深呼吸をして、息を整える。……前髪崩れてないかな?

 センパイに会う前にもう一度ちゃんとチェックしておこう。

 

「……大丈夫? 良かったらこれ飲んで?」

 

 そんな事を考えていると、突如目の前に黄色いTシャツを着た女性がそう言って近づいてきた。

 総武生だろうか? 何やら左手に紙コップが二つほど乗った小さなトレーを抱え、右手で紙コップを握り、それを私に向けて差し出している。 

 

「あ……ありがとうございます」

 

 私はその紙コップを受け取り、中を覗いてみた。

 冷たい、どうやら透明な……水? のようだ。

 

「それね、手作りレモネードなの! 結構おいしいって評判なんだよ!」

 

 その女性は、とても人懐っこい笑顔でそういうと、何かを期待するような瞳でこちらを見つめて来た。恐らくは「早く飲んで」という事なのだろう。

 まあ、ちょうど喉も乾いてたし……。レモネードなら飲んでも大丈夫……だよね?

 流石に文化祭の入り口で変な物を渡してきたりはしないはず。

 いつまでもキラキラとした瞳を向けてくるその人の視線に耐えきれず、私は恐る恐るその紙コップに口をつけた。

 

「あ……おいしい」

「でしょー!?」

 

 それは甘みの中に、レモンの酸味があって、疲れていた体に一気に染み渡っていく。私はその予想外のおいしさに、もう一度コップを傾け、一気に飲み干してしまった。

 

「ありがとうございました、すごくおいしかったです。あ! おいくらですか!?」

 

 すべて飲み干したところで、ようやく少し頭が回るようになってきた。

 そう、ここは文化祭でこれは恐らく売り物、先に値段を聞くべきだったのだ。

 さすがに法外な値段を請求されるような事はないだろうけど、お祭り価格の可能性は十分にあり得る。

 

「え? いいよいいよ、なんか辛そうだったし? 試食ってことで!」 

 

 だけど私の考えとは逆に、その人は焦ったように首を何度も横に振った。

 この場合は『試飲』だと思うけど、ツッコミ待ちという感じもしないので余計なことは言わないほうが良さそう。

 でも、ちょっと休んでただけの見ず知らずの私に売り物を提供してくれるなんて、随分とお人好しのようだ、なんとなく幼い感じもするけど一年生かな?

 あ、よく見るとTシャツの中央のイラスト部分に何か大きく文字が、大きく……大きく……大きい……!

 これは……三年生だ……浅子ちゃんより大きい……!

 これが……高校レベル……!

 

「どうしたの? 大丈夫?」

 

 別に私は自分の胸にコンプレックスなんて持っていない。

 いや、そもそも私はまだ中学三年生で、成長期。

 私も高校生になったらきっと……。

 

「由比ヶ浜さーん、それじゃウチ先行ってるよ」

 

 私がその巨大なものに意識を奪われていると、今度は人混みの方からそんな声が聞こえ、巨にゅ……売り子さんが一瞬振り返る。

 

「あ、うん、了解ー! ごめんね、私仕事中だったんだ、そろそろ行かなきゃ。もし具合悪かったら保健室行く?」

「いえ、大丈夫です、こちらこそすみません。本当においしかったです」

「そう? じゃあ私行くね?」

 

 間髪いれず何故か私に謝罪したそのユイガハマさん? は、慌てた様子で踵を返す。

 

「あ! よかったら今度はお店の方にも遊びに来てねー!」

 

 最後にそう言うと一瞬トレーの上の紙コップが倒れそうになり「わわわっ」と声を上げながら、彼女は慌ただしく走り去っていった。

 まるで台風みたい……。

 

「いろはさーん、お待たせしましたー。いやー、結構並んじゃいましたよ」

 

 そうして売り子さんが消えていった人混みの方を見ていると、入れ違いにお米ちゃんが戻って来るのが見えた。

 こちらは手に小冊子のようなものをもっている。どうやら無事パンフレットをゲットしたみたい。

 

「……ってあれ? もう何か買ったんですか?」

 

 お米ちゃんが私にパンフレットを手渡すと当時に、目ざとく紙コップを指摘してくる。

 しまった……。

 お米ちゃんの分として一杯買っておけばお礼にもなったのに……。

 って、そういえばどこのクラスかも教えてもらってなかった!

 

「ううん、試飲で貰っちゃった。レモネードだって。おいしかったよ」

「えー、いいなぁ小町も飲みたいですー」

「あっという間に行っちゃったからね、お礼も言いたいし、お店探して二人で行ってみよ」

「はい!」

 

 この辺りにいたという事は近くに出店があるのだろう。

 その時の私は、そんなふうに気軽に考えていた。

 

 

**

 

「ありませんねー、レモネード屋さん」

「そうだねー」

 

 途中で買ったクレープを啄みながら、私たちは未だに校舎には入らず校庭側の出店を回っていたが、先程のレモネード屋さんは一向に見つからなかった。

 

「うーん、やっぱ校舎の中なんですかね?」

「かもね、うーん、とりあえず別の飲み物買ってく?」

「うー、それはそれで何か悔しいような……」

 

 先程の感じだと校庭で売り歩いているかと思ったのだが、どういう訳か全く見当たらなかった。

 パンフレットも見てみたが、そこにはお店の名前しか載っておらず、そこで何が売っているかまでは書いていないみたい。レモネード専門店とかではないのかな?

 単純に人が多くて売り子さんの姿を見つけられないという可能性もあるとはいえ、それにしても見つからなすぎて不気味なぐらい。

 校門近くにいた事を考えて、すぐに見つかると思っていたからこそ、クレープを買ったという面もあって飲み物がない今の状況には少し不満もある。

 私達は顔を見合わせながら、どうしたものかと苦笑いを浮かべていた。

 

「「「──────!!」」」

 

 そうしてレモネード屋さんを探し歩いていると、突然背後からものすごい歓声があがった。

 咄嗟に振り返るが、声が聞こえた方角には校舎とは違う大きな建物が立っているだけで、今いる位置からでは何が起こったのか分からない。

 あの形状からして恐らくは体育館か……講堂の中?

 

「なんでしょう? 行ってみます?」

「そうだね、行ってみようか」

 

 私たちは好奇心に逆らえず、クレープの残りを口に放って、歓声がした建物へと行ってみる事にした。

 

*

 

 人集りが出来ている入り口をなんとか抜けて、ようやく入れた建物の中は薄暗かったが、スピーカーから聞こえてくる大音量でそれが音楽のライブなのだと分かった。

 

「わー、熱気が凄いですね!!」

「そうだねー!!」

 

 ステージ上では華やかなライトを浴びる四人組のバンドが、最近流行りの歌を演奏している。

 最初は誰かプロを呼んだのかな? なんて思っていたけれど、パンフレットを見ると、有志のバンド演奏らしい。今日は他にもここで演劇だったり、クイズ大会だったりと入れ替わりで公演があり、最後の閉会式もここで行われるようだ。

 

「あのボーカルの人、凄いイケメンさんじゃないですか?」

 

 盛り上がる周りの音にかき消されてしまうので、少しだけ大きい声でお米ちゃんが喋りかけてくる。

 言われてみれば確かに格好いい、爽やかで清潔感がある、清涼飲料水のCMとかやってそうなアイドルっぽい感じ。

 よく見ると最前列は女子で固まっていて、黄色い声援が私達のいる最後列まで聞こえてくる。

 きっと、この学校ではかなり人気の男子なのだろう。

 でも……そんな凄いっていうほどイケメンかなぁ?

 

 ステージに立つその人は短めの金髪に長身のさわやかイケメン。

 確かに格好いい。バンドもやって女子からモテモテ。ちょっと前の私だったら飛びついていきそうな状況なのに。不思議と全く心が動かされなかった。

 いや、理由は分かっている。だって……センパイの方がかっこよくない……?

 そりゃぁ、第一印象勝負とかだったら? 多少分は悪いかもしれないけど?

 でも、センパイだって改善の余地は有るわけだし? そう、そこは伸びしろとも言える。

 そもそも他の誰が知らなくても、センパイが一番格好いいという事を私だけは知っている。

 なんだかその事が妙に誇らしかった。

 

「お米ちゃんはああいうのがタイプなの?」

「え? そうなんですかね? よくわからないです! 普通に格好いいなーって!」

 

 熱心にステージを見るお米ちゃんに、思いつきでそんな事を聞いてみたのだが、返事は随分あっさりとしたものだった。

 どうやら、恋愛感情とかとは無関係らしい。

 そう言えばこの子は将来どういう男の子と付き合うんだろう?

 たまにブラコンっぽい雰囲気醸し出してくるから、結構油断できなかったりするんだよね……。

 センパイはセンパイで重度のシスコンだし、お米ちゃんが早めに誰かとくっついてくれると私としても安心できるんだけど……。

 意外と私の最大のライバルはこの子だったりするのかもしれない。

 私が横目でお米ちゃんの顔を見ていると。くりんとした丸い瞳で「何かついてますか?」みたいな目で可愛らしくこちらを見返してくる。うーん、侮れない……。

 

「あ、終わりましたね、次は……少し休憩挟んで、何か演劇やるみたいですよ、見ていきます?」

「うーん、長くなりそうだしパスかな。そういうのはセンパイと合流した後にしない?」

「そうですね、そろそろ校舎の方も見たいし、一回出ますか」

 

*

 

「コスプレ喫茶だよー、可愛い子沢山いるよー そこのシャチョさん寄ってかなーい?」

「テニス部のミュージカル! 午後の部のチケットまだ残ってます! お早めに!」

「クイズ千葉リーグ遊んでいってくださーい!」

「カラオケ大会参加者募集中ー! 飛び入り大歓迎! お気軽にー!」

 

 一度講堂をでて、校舎に向かうと、そこは校庭側とはまた違った活気で溢れていた。

 教室の前では各種の客引きが行われていたり、何かのアニメのコスプレをした人が廊下を闊歩していたりと賑やかで、その事だけでこの学校がとても楽しい学校なのだと感じられる。

  

「さて、どうしましょうか、喉も乾きましたし、喫茶店でも寄ってみます?」

「うーん……折角だし先にセンパイの教室行かない?」

「え? でもお兄ちゃんとの合流時間までまだありますよ?」

 

 そう、実のところ、今日センパイに校内を案内してもらう予定だったのだが。午前中はクラスの出し物の手伝いをしなくてはならないらしく、暫くは二人で見て回るようにと言われている。

 まあ、なんだかんだ仕事があるという事は付き合いもあるだろうし、それは別に良いんだけど。

 

「まあいいじゃん、働いてる所も見てみたいし」

 

 折角総武まで来たんだし、まずはセンパイの顔を見ておきたいというのもある。

 よく考えたら制服のセンパイに会うのも初めてだし?

 急ぎの用事があるわけでもない今、とりあえずセンパイの所へ行きたいと思うのも当然というものだと思うのだけど……。

 

「へー……ほー……?」

 

 でも、そんな私の意図を理解してかしないでか、お米ちゃんはジト目で何かを訴えかけて来た。

 

「な、なに?」

「脈がないわけじゃないとは思ってたんですけど……これは意外に……?」

 

 うっ……。何か勘付かれたようだ。

 正直に言えば私自身、センパイとの仲を進展させるための協力者はほしいとは思っている。

 まぁママとかはヤリ過ぎるから例外として……。

 外堀から埋めるというのは全然有りだし。

 ソレ抜きにしても、お米ちゃんとはこれからも仲良くしたいとも思う。

 ただ、お米ちゃんはセンパイの“妹”という揺ぎようがないほど強いポジション持ち。

 相談することが裏目にでるという可能性もなくはない。

 だからもう少し……私の準備が整うまで、例え悟られていたとしても、私から協力を求めるわけにはいかないのだ。

 

「怒るよ?」

「あー、嘘です嘘です、ごめんなさいー! 許してお義姉ちゃん」

「お義姉ちゃん言うな!」

 

 キャッキャと笑いながら頭を隠すお米ちゃんを、拳を振り上げて叩くフリをする。

 今の私は友達に男の子との仲を誂われて怒っている女の子。

 お米ちゃんとの今の関係はそれで十分だ。

 

*

 

「もしかして反対なんじゃない?」

 

 お米ちゃんとパンフレットを見ながらセンパイの教室を探し歩くこと数分。

 私たちは職員室を抜け、廊下の端までやってきていた。

 行き止まりではなく、一応扉はあるがその先は外に通じていて、窓から見る限りではここを進むと別の棟に行ってしまいそうだ。

 

「引き返す?」

「うーん、人多いし一回上がっちゃいません? ちょっと前に階段ありましたよね?」

 

 言われてみれば、またこの人混みをかき分けながら反対側まで進むのは億劫だ。

 私はお米ちゃんの提案にうなずくと、二人で来た道を少しだけ戻って、階段を昇る。

 そうして階段を上がった先には2-Aと書かれた教室が目に入った。

 

「あれ? ってことは一年の教室は下?」

「えええ? また降りるんですかぁ?」

 

 どうにも複雑だ。初めて来る学校なんてこんなものだろうか?

 別に私が方向音痴ってことはないと思うんだけど……。

 

「ちょっと聞いてみます?」

「うん、そうだね」

 

 そうして私たちは近くの教室の前で客引きをしていた魔法使いの帽子のようなものを被った女生徒に近づき、話しかけてみることにした。

 

「すみません、ちょっと聞きたい事があるんですけど……」

「はーい! 占い教室へようこそー! どんなお悩みもすぐに解決ですよー! 二名様ご案内ー!」

「占い教室? え、いや、あの。私達そういうんじゃなくて……!」

「大丈夫大丈夫、色々な占いがあるから、なんでも聞いてね。相談料は百円ぽっきり!」

 

 しかし、話しかけた相手が悪かったのか。

 はたまた私達の話しかけ方が悪かったのか、笑顔のお姉さんは私達を完全に客と勘違いしたのか、そのままグイグイと教室の中へと押し込んでいく。

 

「どうします?」

「仕方ない、とりあえず何か頼んでいこうか……」

「そうですね、百円らしいですし……」

 

 まあ百円ぐらいなら許容範囲だろう。

 私たちは諦め半分で、言われるがまま机が四つくっつけられ、隣の席から見えないように左右をダンボールで仕切られたテーブル席へと案内された。

 教室の中は全体的にオレンジ色のライトで照らされており、妙に怪しげな雰囲気を醸し出している。

 本当に安全なお店なのだろうか?

 これが文化祭という状況じゃなかったら確実に逃げ出していただろう。

 いや、本当怪しいお店って感じ。

 

「いらっしゃいませー、お二人ですね? こちらメニューになります」

 

 私達が恐る恐る教室を見渡していると、入り口にいた人とは別の魔女のような格好をしたお姉さんがそう言って私達にメニューを渡してくる。

 

「メニュー?」

 

 私たちが首を傾げながら、それを受け取ると、そこには様々な占いの種類が書かれていた。

 

 星座占い、血液型占い、恋占、タロット、水晶、サイコロ、トランプ、ルーン、手相、四柱推命、弁慶、風水、亀甲、姓名判断……。

 

 世界中の占いを網羅しているのではないかと思うほどに沢山の占いの種類が書かれている。

 一応、その下に「※素人の占いです、当たっても当たらなくても責任はもてません」と注意書きが書いてあるのが、なんとも文化祭らしい演出だ。

 

「それで占いはどうしましょう? 女の子にはやっぱり恋占とかオススメだよ?」

「えっと……どうしよっか?」

 

 あまりにも多すぎる占いの種類に私達はメニューを凝視した。

 さて、どうしたものか。

 そもそも、占いをしてもらうつもりでは無かったので占う事なんて何も考えていない。

 確かに乙女として気になるのは恋占だが、私の現状進路とも直結している用に思える。

 なら進路について占ってもらう?

 いや、でももしそれで私の選択が間違ってる……なんて事を言われたらと思うとちょっと怖い。

 たかが百円の占いに自分の将来を賭けたくないし、適当にお願い出来るほど軽い悩みでもない。

 うーん。気軽に入ったのはいいけど、ちょうど良さそうな悩みがない。

 困った私はチラリとお米ちゃんの方を見る。

 すると何かを察したのか、お米ちゃんが口を開いた。

 

「えっと……じゃあ兄の今後の運勢とか占ってもらえますか?」

「お兄さん?」

「はい、総武の一年なんですけど、色々心配な兄でして……ここにいないと駄目ですか?」

「ううん、駄目じゃないよ。それじゃお名前と生年月日だけ教えてもらえるかな?」

 

 そういって店員さんが紙とペンを机の上に置いた。

 それを拾った小町ちゃんが素早くセンパイの名前と誕生日を記入していく。

 

「比企谷八幡君ね」

「ご存知ですか?」

「ううん、私あんまり一年生の子とは接点ないんだ、ごめんね」

「いえいえ、むしろ誰とも接点のなさそうな兄なので、こちらこそ変な事きいてすみません」

 

 小町ちゃんが小声で「ボッチですからね」と言ったのが聞こえてしまった。

 実際の所、センパイは本当に友達がいないのだろうか?

 そういう所も今日確認できたらなぁと思っているので、出来れば早く合流したい所だ。

 

「それじゃえっと……タロットでいいかな?」

「あ、はい。おまかせします」

 

 占い師さんがタロットを用意してそう言うので、特に反対するでもなく、お米ちゃんが頷く。

 まあ、この場にいない人の手相を見てもらうなんて事もできないし、多分オーソドックスなチョイスという事なんだと思う。

 

 一体どんな結果になるのだろう?

 流れで入ってしまったお店だったけど、私は初めて生で見るタロット占いという物にいつの間にか興味を惹かれていた。

 まあどうせどんな結果がでてもセンパイの事だと思えば、この後の笑い話にもなるだろう。

 そんな事を考えながら、私は一枚一枚カードを並べる占い師さんの手元を見ていた。

 

「絶対浮気ですよ!」

 

 だけど突然隣のダンボール越しにそんな声が聞こえ、私の意識が全て持っていかれてしまった。お米ちゃんも少しびっくりした顔で、こちらを見ている。占い師さんも苦笑いだ。

 「まぁまぁ落ち着いて」という友達だか、担当している占い師さんだかの宥める声と共に、興奮しているのかその荒い息遣いまで聞こえてくるようだった。

 浮気? こっちは恋愛相談かな?

 

「中学の時は凄い優しくて、『別々の高校に行っても好きなのはお前だけだよ』なんて言ってたのに……」

「え、えっと、それじゃ続けるね」

 

 「隣の声は無視しましょう」とでも言いたげに、占い師さんが慌ててタロットを捲り、それぞれのカードの意味を解説しはじめた。

 まあそれ以降は気にしなければ聞こえないような音量だったし、別に聞き耳を立てるつもりもない。人の悩みを盗み聞きするなんて褒められた事じゃない。

 でも、そう頭で理解していても、仕切り越しに聞こえてくるその言葉がどうしても他人事に思えなくて、私は目の前の占い師さんがセンパイの事を占ってくれているにもかかわらず、ほとんど無意識的にその隣の声に集中して聞き入ってしまっていた。

 

「高校入って、最初は毎日電話もしてたのに……夏頃には全然連絡とれなくなって……。今日だって……驚かせようと思って朝一で来たのに知らない子と一緒に……楽しそうに……」

 

 徐々に嗚咽まじりに聞こえてくる声が辛そうで聞いていられない。

 私だったら、なんて考えたくもないなぁ……。

 というかまぁ、私だったらそんなヘマしないし?

 もし万が一にでもそんな事があったら、徹底的に問い詰める所だけど。

 

「へぇ、面白いですね、あとでお兄ちゃんに教えてあげよ。ね、いろはさん……いろはさん?」

「え? あ、う、うん」

 

 そうして隣の会話を盗み聞いていた私の体が突然揺さぶられた。

 どうやら、こちら側の占いも大分進んでいるらしい、気がついたら見たことのないカードが沢山目の前に広げられていて、お米ちゃんがキョトンとした顔で私の顔を覗いている。

 いけないいけない、全然聞いてなかった……。

 

「……それで、これは少し気をつけないといけないカードなんだけど、疑心暗鬼……勘違いとか誤解……すれ違いとかが原因で人間関係に問題が起こりそう。でもこっちに『恋人』のカードも出てるから、その問題さえなんとかなればすぐに彼女さんとか連れて帰ってくるかも……?」

 

 何やら少し不穏なことを言われている気がするけど、でもセンパイって元々素直じゃないっていうか、そういう所あるから割と当たってるかも?

 ジェンガの遊び方とかも変な勘違いしてたもんね。

 という事はすぐに出来る彼女って私……? えへへ……。

 えー、どうしよう。やっぱり結構当たってるんじゃないですか? たかが文化祭の百円占いだと思って正直バカにしてましたごめんなさい。

 

「っていう感じかな。どう?」

「すごい当たってると思います!」

「そう……ですね。お兄ちゃんにも伝えておきます。ありがとうございます」

 

 お米ちゃんがそう言うと、占い師さんは満足気に笑った。

 私も満足だ。

 お金を払おうとした小町ちゃんを制して、自分の財布から百円を支払い席を立つと、占い師さんが私達を出口まで誘導してくれる。

 百円にしてはサービスがしっかりしている、まるでどこぞのアパレルショップだ。

 

「あの、最後に一ついいですか?」

 

 教室の出口まで案内されたところで、小町ちゃんが占い師さんにそう尋ねる。

 まだ何か占いたいことでもあったのかな?

 

「はい、何か?」

「私達1-Fに行きたいんですけど……」

 

 そうだ、そういえばまだセンパイの教室を見つけてなかったのだった。

 うっかりしていた。こういう所、本当にしっかりしてるなぁと思う。

 

「1-F? それなら二個隣の教室だよ? もしかして例のお兄さん?」

「ええ、そうなんです合流予定でして」

「そっか、会えるといいね」

「はい、ありがとうございました」

「こちらこそ、よかったら今度はお兄さんも連れて遊びに来てね」

 

 にこやかに手を振って見送ってくれる占い師さんに手を振り返し、私たちは再び廊下を歩き出す。

 思わぬ所で時間をとられてしまったが、人混みをかき分け、教えられた通りに廊下を進むとようやく目的の1-Fという看板とポスターが見えてきた。

 そういえばセンパイが文化祭で何をやってるかとか具体的な事は何も聞いてなかったんだよね。

 OTS? 一体何のお店だろう?

 そこそこ人も入ってるみたいだけど……センパイは……居た!

 

「あ、あそこ!」

「セン……!」

 

 お米ちゃんより僅かに早くセンパイの姿を見つけた私が、自分の存在に気付いてもらおうと手を大きく伸ばし、声を掛けようとした瞬間。

 

「サンキュ、愛してるぜ川崎」

 

 そんな言葉が私の耳に届いた。

 

 

 

 

 

 

 は?




というわけで42話でした。
例によって裏話的な諸々は活動報告へ

感想、誤字報告、評価、メッセージお待ちしてます!


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第43話 シン・文化祭 -は-

いつも感想、評価、誤字報告、メッセージ、お気に入りありがとうございます。
ここスキも定期的にチェックしております、ありがとうございます(こっちは通知がこないので通知来るようにして欲しい)

2020年最後の投稿(恐らく)楽しんで頂ければ幸いです。


『只今より、総武祭、二日目を、開催します』

 

 校内のスピーカーからそのアナウンスが流れると、学校中から歓声が上がった。

 初日に比べると随分あっさりとしたスタートだが、まあ二日目なんてどこも似たようなものだろう。

 引き続きスピーカーから流れてくる諸注意なんて最早誰も聞いていない。

 教室の窓から校庭を見下ろせば、一般参加者らしき私服の団体が校庭に流れ込んでいくのが見える。あの中に小町と一色もいるのだろうか?

 こういったイベントに知り合いが来るなんて初めてだからどうにも落ち着かない。

 俺も祭りの空気に当てられているのだろうか?

 いかんな、とりあえず落ち着こう。

 合流時間まではまだあるし、まぁまずは目の前の仕事を片付けるとするか。

 

 今日の俺の仕事はTシャツ屋の店番。

 といっても別に俺一人ではない、一応女子も二人ほど待機しているし、当番ではないが自ら客を連れてきたクラスの奴が、そのまま対応をするという場面もあるようなのでそれほど忙しさも感じなかった。

 俺が主にやる事と言えば、客が動かしたTシャツを再び綺麗に並べる事ぐらいだ。

 って、俺の『熊T』皺くちゃなんですけど!?

 全く……、誰がこんな事を、一体どこ高だよ。

 まあいいか、丁度いいから『熊になりたいT』と並べてセット売りにでもするか。

 後ついでに俺が作った三着目のTシャツも……って、あれ? どこだ?

 確か前に並べた時はこの辺りに……。

 

「くまさん!」

「ん?」

 

 そんな事を考えながら仕事をしていると、不意に可愛らしい声が聞こえてきた。

 なんだ?

 

「くまさん! くまさん!」

 

 振り返ってもそこには誰も居ない。しかし声は聞こえる。何? ホラーなの? 怖い。

 ってんな訳在るか。

 セルフツッコミをしながら視線を下げると、そこにはコ○ン君程の身長の幼女が俺を指差しピョコピョコと可愛らしく飛び跳ねていた。

 うっわ、可愛いなオイ。

 小町も昔こんなんだったなぁ……。

 どうやら、俺が手にしている熊Tに反応しているらしい。 

 中々センスのある幼女だ。

 

「どうしたお嬢ちゃん? 迷子か? 父ちゃんか母ちゃんは?」

「くまさん……」

「そうだな、くまさんだな」

 

 俺は出来るだけ視線を合わせようと、その場でしゃがみ込み、幼女に問いかける。

 年は……三歳か四歳ぐらい? 一応喋れるみたいだが、コレぐらいの年って微妙に見分けつかないんだよな……。五歳とかだともう少ししっかりしてるイメージがあるが、四歳とどう違うかと言われても答えられない。

 一人か?

 周囲を見回してみるが、この子の関係者っぽい人物は見当たらない。

 それどころか、周囲の連中は不審者を見る目で俺を見てくる。

 おいおい、俺が何したっていうんだよ……。

 

「くまさん……」

「これか?」

 

 やばい、なんだか声のトーンが低くなってきた。

 こんな所で泣かれたらまた連行されかねん。

 俺は幼女の要望に答えるべく、熊Tをハンガーから外して幼女に渡す。

 すると幼女はパァッとその表情を輝かせ、慌てた様子で自分の服の袖を引っ張り出した。

 どうやら服を脱ごうとしているようだ。

 

「あー、待て待て、脱がんでいい。寧ろ脱ぐな」

 

 こんな所で脱がれたら俺の不審者度が上がってしまう。

 俺は明らかにサイズの合わないTシャツに着替えようとする幼女を制し、服の上からTシャツを被せてやった。

 完全にダボダボだが、ドレス……は言い過ぎにしてもワンピースと言い張れない事もないだろう。幼女にして一つなぎの大秘宝ゲットとか大物の予感すら感じるな。

 腰のあたりを少し縛るか、後ろに引っ張れば多少見栄えも良くなるだろうが、生憎そんな気の利いたものは持っていないので、それは我慢してもらうとして。

 

「これで満足か、海賊王?」

「くまさん!」

 

 どうやら満足らしい。

 幼女は得意げにニヒーと笑いながら胸元の熊を見せてくる……が、さてどうしたものか。

 周りの連中もこの幼女を遠巻きに見ながら、明らかに俺との関係を疑っている、早い所誰かに押し付けたいが……・

 

「けーちゃん!!」

 

 そうして幼女のお守りをしていると、教室の前の扉から慌てた様子で女子が入ってきた。

 それは校内でも俺が名前を知る唯一の女子。川……川……なんだっけ?

 

「焦った……勝手に動いちゃダメでしょ!」

 

 エプロン姿のその女子はトレードマークのポニーテールを大きく揺らし駆け寄ってきたかと思うとそのままの勢いで幼女けーちゃんを抱き上げる。

 どうやら関係者登場みたいだな、助かった。周囲からも保護者の登場に安堵の空気が流れている。

 

「え? あの子川崎さんの子供……!?」

「バーカ、妹とか親戚の子とかそこらだろ」

「え? 通報しなくていい感じ?」

 

 通報しなくていいらしいぞ、だからそのカメラをコッチに向けたスマホをしまえ?

 ってそうか、川崎だったか。暫く見てなかったから、すっかり忘れてた。危うく川越さんとか呼んじゃう所だったわ、シェフかよ。そういやそっちも最近見ないな……元気だといいけど。

 

「ごめん、これウチの妹。たい……弟と遊びに来てたから、ジュース飲ませてたんだけど、いつの間にか居なくなってて……」

「コレぐらいの年だとちょっと目を離した瞬間にどっか行くからな、まあ関係者が見つかったなら良かった」

 

 あと一分でも遅れてたら通報されていたかもしれないからな。

 本当に良かった。

 二日連続で連行は洒落にならん。

 

「えっと、これって……?」

 

 川崎が怪訝そうにけーちゃんの来ているTシャツを指差すとけーちゃんは「くまさん!」と自慢気に応える。

 

「あ、ああ、なんか気に入ったらしくてな、勝手に着せてみた。すまん」

「いや、こっちこそごめん……この間クマのぬいぐるみ貰って気に入っちゃったみたいで……ほら、けーちゃん脱いで? 返さないと」

「ヤー!!」

「こら! 言うこと聞いて!」

 

 唐突に目の前で繰り広げられる姉妹喧嘩。

 しかし、ぬいぐるみのクマと俺が描いたリアル思考の熊じゃ大分テイストが違うと思うんだが良かったんだろうか?

 まあそれでも気に入ってくれたというなら、コチラとしても嬉しくないわけじゃない。

 なら、することは一つだろう。

 

「あー、いいぞ別に持ってっても」

「でもこれ売り物なんじゃないの?」

「まあそうなんだが、それ俺が作ったやつだしな。どうせ売れ残ったら持って帰らなきゃならんし、イラなかったら雑巾にでもしてくれ」

 

 実際の所、裾の部分を引きずっていたので既に汚れているし、それでなくても皺くちゃにされていた奴だ。

 最早売り物には出来ないだろう。

 

「……えっと、じゃあいくら?」

「いや、勝手に着せといて売りつけるなんて真似しねーよ。いいって、気にすんな。ほら、また迷子になるぞ」

 

 けーちゃんを一度床に下ろし、エプロンから財布を取り出そうとする川崎を制して俺は作業へと戻る振りをする。

 流石に幼女をダシにして売りつけるなんて真似は出来ないしな。まぁ材木座相手とかなら普通に売ってたかもしれんが。

 

「でも……あ! じゃ、じゃぁちょっと待ってて! けーちゃん、ほら行くよ」

 

 俺が折れないと悟ったのか、川崎は最後にそう言うとけーちゃんの手を捕み去っていく。けーちゃんは俺に向かって「ばいばーい!」と手を振ってくれた。

 

 「……バ、バイバイ」と、手を振り返した時の俺の顔はさぞ気持ち悪かっただろうが、そういう事を指摘しないから子供っていいよな。

 ほら、さっき俺にスマホのカメラを向けてきた女子なんてあからさまに「うわっキモ」って言ってるし。煩いな、お前に振ってないんだから良いだろ別に。

 

 まあとりあえずこれで一着捌けた、売れたわけではないが自分で持って帰るよりはマシな結果だろう。そう考え、俺は再びレイアウト作業へと戻る。

 あれ……? やっぱ俺の三着目のTシャツが見当たらないな……まさか、売れたか?

 

「お待たせ、はいこれ」

「え?」

 

 俺が三着目の自作Tを探していると、またしても背後から声を掛けられた。

 今日はよく声をかけられる日だ。

 

「え? 何?」

 

 振り返ると、そこには又しても川崎の姿。

 しかも今度は手にコップを持っている。

 

「あれ? けーちゃんは?」

「なんでアンタがけーちゃんって呼ぶのさ……まぁいいけど、あの子は弟に預けてきた。それよりコレ」

 

 そういや弟もいるって言ってたな。大家族なのかしら?

 しかしコレとは?

 川崎は相変わらず俺に向かってコップを押し付けようとしてくるんだが、なんだコレ……シェイクか? 黄色っぽいが妙にドロドロしている。

 

「バナナジュース……っつってもほとんどミックスジュースだけど」

「何? くれんの?」

「さっきのTシャツのお礼、後これも」

 

 俺がそのバナナジュースを受け取ると、川崎はエプロンのポケットから何か小さなカード状の物をとりだし、俺に差し出してくる。

 なんだろう? 名刺? 

 

「うちと提携してるカレー屋の無料券。元々誰かに上げる用の奴だから、昼にでも使って」

「提携?」

「なんかウチのお嬢様が、隣のクラスの奴と相談して決めたらしいよ、よく知らないけど。んでうちはカレーに合わせるドリンク専門店ってわけ」

 

 なるほど、そんな出店スタイルがあるのか。

 そういや昨日もカレー臭凄かったからな、お影で少しカレーの舌になってたし、これはこれで助かる。しかし、カレーとバナナジュースって合うのか……?

 

「まあそういう事だから、んじゃ、ホント助かった」

 

 そうして俺にその券を渡すと、川崎はそそくさと教室の入り口へ下がっていく。

 しかし、一回しか話したこと無いはずなのに妙に距離感が近かったな、これもお祭り効果という奴なのだろうか?

 なら俺も少しこの空気に乗ってみるか……。礼も言わんといかんしな。すぅ……。

 

「サンキュ、愛してるぜ川崎」

 

 俺は貰った券を掲げて、普段だったら絶対言わないようなそんな言葉を、軽く口にしてみる。

 なんだろう、すごく友達っぽい。  

 だが川崎は「あぃ!? ば、バッカじゃないの!」と顔を真赤にして教室から出ていった。  しまった、どうやら間違えたらしい。あれぇ? 俺の知ってる仲良さそうなクラスの男女ってこんな感じだったんだけどな……どうも距離感が分からん。まあ今更どうにもならんか。

 俺は気持ちを切り替えて、貰った券を制服のポケットにしまうと。再び作業に戻ろうと振り返る。だが……そこにそれはいた。

 

 もしそれが殺し屋だったら、俺は確実に殺されていただろう。

 いや、もしかしたら本当に殺し屋だったのかもしれない。

 それか、ホラー映画によく出てくる突然現れる幽霊。

 俺の目の前にはとても冷たい目をした女子……一色が立っていた。

 

「うおっ、なんだよ……来たなら声かけろよ……マジびびった」

 

 思わず体の前に手を出し身構えてしまったじゃないか。

 もし心臓が弱かったら発作起こしてる所だぞ。

 

「トッテモタノシソウデスネ? センパイ」

「お、おう? 仕事してるだけで楽しくはないぞ……?」

「お兄ちゃん……今のは駄目だよー……小町でもフォローできないよー」

 

 笑顔なのにとても低い声で一色がそう言いながら俺に詰め寄ってくる。

 怖い、いろはす怖い。

 って、なんか前にも似たような事があったな……。

 一緒に行動していたらしい小町は、何故か一色から少し距離が離れた場所からそう言うと軽く手を振っている。コッチは言葉の意味とは関係なく楽し気だ。

 すっかり仲良しさんだな……って痛!

 

「それでぇ、今の人誰ですかぁ? お友達? でもぉセンパイ友達いないって言ってたじゃないですかぁ? どういう関係ですか?」

 

 突然耳を引っ張られ、何事かと思ったら、耳元でそんな言葉を囁かれた。

 怖い。どこからそんな声でるの?

 ってか、お前の恩人だろ、覚えてないのかよ。

 

「例の万引の時助けてくれた店員だよ、同じ学校だったって話しただろ。覚えてないの?」

「ああ……あの人が……」

 

 俺の耳を離した一色は、その答えに納得したのかしてないのか、少しだけ思案するような表情を浮かべた。一体なんなの?

 

「まぁ、そのくらいならそんなに問題なさそうですし……いいですけどね」

「意味わからん……ついでだし礼でも言ってきたら?」

「あはは、それはまた機会があったらって事で」

 

 俺がそう言うと、一色は一歩だけ距離を取り、いつものトーンでそう言った。

 

「まったく……このゴミィちゃんはタイミングが悪いというか、察しが悪いというか……

「俺が悪いのか? 俺何もしてないだろ」

 

 いつの間にか、近くまでやってきた小町が呆れたような声でそう告げてくる。

 いや、なんなんだよ、身内ネタは身内にしか通じないんだからね? 誰にでも通じると思って話すのやめなさい? 

 だが、俺の抗議も虚しく何故か一色と小町は二人で顔を見合わせると、やれやれと肩を落とした。

 随分仲良くなったみたいだが、俺だけ除け者みたいでお兄ちゃんちょっと悲しい。

 

「それで? お兄ちゃんは何してるの?」

「自作のTシャツ売ってる。ほら五百円だ」

「いや、買わないよ!? 買うわけ無いじゃん! いろはさんだって要らないですよね?」

「う、うーん……確かにこれは……他にないんですか?」

 

 俺が『熊になりたい』Tシャツを広げ、二人に見せると、辛辣な言葉が返ってきた。

 おかしい、そんなはずはないのだが……。

 

「お兄ちゃん手作りにしてもセンス無さすぎるよ……」

「いや、こう見えても俺のTシャツ結構売れてるんだぞ? 三着作って他二着はもう無いからな? これがラスト一着だ」

「嘘!?」

 

 まあ、一着は行方不明の可能性があって、一着は幼女に押し付けただけなので厳密に売れたと言うと語弊があるのだが。残り一着なのは事実だ。

 

「じゃ、じゃあ私買います!」

「え!? いろはさん正気に戻って下さい! これ着るつもりですか!? 」

「離してお米ちゃん……! 大丈夫、最悪お爺ちゃんのお土産にするから……!」

「おっさんに入るか……?」

 

 コントを繰り広げる二人を横目に、俺はこの服を着ているおっさんを想像する。

 似合うとか似合わない以前に、あのおっさん結構ガタイいいからな……。ここにあるの全部フリーサイズだからちょっとキつそうだ。

 

「いいですから、はい、五百円!」

「はいよ、毎度」

「ちゃんと買ったんですからね、ちゃんと恩に着てくださいよ? 後はセンパイに奢って貰うんですから!」

「えええ……」

 

 それだと結局俺の財布的にはマイナスなのでは……?

 売れ残れば自腹買取、売れたら奢りとか、この文化祭とかいう商売、何やってもプラスになるビジョンが見えないんだけど……? 一体どんなシステム採用してんの? 違法なんじゃないの?

 はぁ……。

 

*

 

「あっれぇ? めっちゃ可愛い子いるじゃん、何々? まさかヒキタニ君の彼女!?」

「戸部、そういう絡み方はやめろって……」

 

 そうして俺のTシャツを買った後、他のTシャツを物色しながら俺をマネキンに見立てて、ああでも無いこうでも無いと言い合う一色と小町を見ていると。今度は少しだけ見知った顔がやってきた。

 俺の交代要員でもある、俺のクラスの金髪チャラ男君だ。

 でももう一人は知らんな。誰だ?

 

「ちーっす、俺ヒキタニ君の友達の戸部っていいまーっす! シクヨロォ!」

「あ……ども」

「ども」 

 

 少しだけ後ずさり、怪訝そうに「え? 本当に?」「友達?」みたいな顔をして俺を見てくる小町と一色に向かって大きく首を振る。

 友達なんて出来た事ないし、そもそも俺はヒキタニ君ではない。きっとコイツは誰かと俺を間違えているのだろう。

 

「……すまない、こういう奴なんだ。気を悪くしないでくれ」

 

 俺達が返答に困り、僅かな沈黙が起こると、もう一人の男が爽やかにそう言って笑う。

 

「いろはさん。この人……!」

「うん、そうだね」

 

 ん? なんだ? 二人はこいつの事を知ってるのか?

 二人が反応したその男は先程のチャラ男とはまた違った系統に明るい金髪の爽やかイケメン。

 チャラ男が長髪なのに対し、イケメンは短髪という所も対照的で一度見たら忘れなそうなコンビなのに。うーん……俺には見覚えがない、同じクラスではないと思うのだが……。

 

 俺がそのイケメンの顔をジロジロと見ていると、イケメンはニコッと笑顔を返してきた。

 え? なんで俺今会釈したの?

 どうやら本能的にコイツのほうが上だと判断してしまったらしい。くそっ。

 

「で? そっちの子達はどういう関係? まさかマジで彼女?」

「戸部、だからそういう言い方は失礼だろ」

「えー、でもやっぱ気になるべ? それにこれもお近づきのチャンスっていうか? っつーわけでヒキタニ君紹介オナシャス!」

 

「オナシャス」と言いながらウインクを俺に向かって投げてくる戸部と、その様子を見て呆れたようにため息をつくイケメン。

 なんなんだこの状況?

 まぁ、全く意味は分からんが。

 ほら、何か頼まれてるぞ、答えてやれよヒキタニ君。

 誰だよヒキタニ君。

 

「すまない、コイツの事は気にしないでくれ。そっちの二人も怖がらせてごめんな」

「あ、いや……俺は別に。それで……交代って事でいいのか?」

 

 交代時間までまだ十分ほどあるが。戸部が来たという事は俺はお役御免という事だろうか?

 小町と一色ももう来てるし、早めに上がれるならそれに越したことはない。

 

「ああ、まあ良いんじゃないかな? 俺は戸部が交代のタイミングだっていうからTシャツを見に来たんだ、こいつが自分が作った奴を買ってくれって煩くてさ」

「いやー、マジ昨日一着も売れないとは思わなかったから凹んだわぁ、隼人君マジ神だわぁ」

 

 まるで海外ドラマの主人公のように大げさに肩をすくめるイケメンの仕草は様になっていたが、戸部の方はあまりにも卑屈で、この二人の力関係が垣間見えた気がした。

 そうか、こいつは一着も売れなかったのか。

 それでこのイケメンに売りつけようとしたと……。

 なんだか教室にいる女子の戸部に対する視線が急に厳しくなった気がするな。心なしか一色も不機嫌なようだ……。

 やはりイケメン大正義という事なのだろうか?

 「こんなに優しいイケメンに売りつけるとは何事か!」という事なのだろう。

 頼めば買ってくれるという人物なら俺も飛びついていたかもしれない、危ない危ない俺のノルマ分が完売しているタイミングで良かった。

 

「まあ、趣味じゃなかったら買わないけどね……」

「じゃあ、比企谷センパイはもうフリーって事ですか?」

 

 少し早くても交代なら助かった、そんな事を考えながら俺が気を抜き、イケメンが冗談めかして笑いかけた瞬間、突然右腕が温かい何かに包まれる。

 その温もりの元を確認しようと視線を動かすと、そこには俺の右腕を両手で包み込む一色の姿があった。

 へ?

 何、これ、ちょっと近い近い。何? 何してんの?!

 

「ねぇほら、比企谷センパイもう行きましょうよぉ、学校案内してくれるってぇ約束じゃないですかー? 比企谷センパーイ!」

「ねぇねぇ、それなら俺が案内しよっか? いい店知ってんだよねー。穴場的な?」

「結構です、ひ・き・が・や・センパイに! 連れて行ってもらうので」

 

 何故か妙に俺の名前を強調する一色、俺も反応に困る。

 あまりの剣幕にイケメン君もドン引きだ。

 どうしたの? 情緒不安定なの?

 だが、そんな様子を見て俺と同じく固まっていたイケメンが一瞬、眉を顰めたのが見えた。

 

「あー……すまない、自己紹介がまだだったな。俺は葉山隼人。今更だけど良かったら、改めて名前を教えてもらってもいいかな?」

「え? 俺?」

 

 戸部と一色が言い争いをしている中で、イケメン……葉山隼人が俺に向かってそんな事をいい出した。

 いや、本当に今更だな。

 

「比企谷……八幡だけど」

「比企谷君か……名前を間違えていたらそりゃ彼女さんも怒るよな、すまない……」

「いや、彼女じゃねーよ」

「そうなのか? 俺はてっきり……」

 

 一色が怒った?

 何を言ってるんだコイツは。

 一色が俺の事で怒るわけがないだろう。

 

「戸部も、クラスメイトの名前くらい覚えておけよ……」

「え!? でもでも、ヒキタニ君入学式に事故って? 途中参加だからって紹介されてたべ?」

「入学式に事故……?」

 

 しかし、葉山は今度は戸部にそう注意すると、戸部の言葉に何やら思う所でもあったのか、何かを考えるような仕草を見せた。

 

「ああ、すまない。それでえっと……君は……外部の一般参加だよね? 中学生?」

「……一色いろは。中三です」

「いろはちゃんね覚えた!」

「戸部……! 本当にすまない。それにしても中学生か、もしかして総武志望?」

「えっと……それは……」

 

 再起動したイケメンの問に、一色の表情が不機嫌顔から困り顔に変化していた。

 何故か俺の方をチラチラ見ているが……。

 ん? なんか変な質問だったか今の?

 

「いや、こいつは海浜総合志望なんだと」

「海浜か、あそこは施設がすごいらしいね、ウチはなんだかんだで色々古いから羨ましいよ、俺も海浜にすれば良かったかなって思ってるぐらいだ」

 

 助け舟を待っていたようなので、俺が代わりに答えると、イケメン葉山はそう言ってニっと笑い、一色はなんとも言えない表情で俺を見て来た。

 なんだよ、言っちゃまずかったの?

 よく分からん。して欲しい事があるならちゃんと口に出して欲しい。

 全く、急に喋りだしたと思ったら急に喋らなくなったり、よく分からん奴だ。

 

「んじゃまぁ、交代でいいなら、そろそろ行くか……?」

 

 だが、なんとなくあまり掘り下げて欲しくなさそうな話題だという事だけは理解したので、俺は少しだけ強引に話題を切り上げた。

 とりあえず交代要員も来たみたいだし、気がつけば交代時間になっている、ここを立ち去るタイミングとしてはベストとも言えるだろう。

 

「はい!」

 

 俺の言葉に、一色が大きく頷き。葉山が「楽しんでね」と見送りの言葉をかける。

 戸部も「いろはすー! またねー」と名残惜しそうにしているが。随分馴れ馴れしいな、おい……。

 これが陽キャという奴なのだろうか? 距離の詰め方が凄い。

 俺、過去にその呼び方拒否られたんだが……。

 なんだろう? なんだかモヤモヤする。

 俺は、意味も分からず胸に感じるそのモヤモヤを振り切るように 「じゃ、後頼んだ」と一言だけ告げて、少しだけ早足で廊下へと向かった。

 

「ああ、比企谷くん。悪いんだけど良かったら今度時間もらえないかな?」

 

 だが、廊下まであと一歩という所で、葉山に声をかけられた。

 

「……時間?」

「ああ、君に会ってもらいたい子がいるんだ」

 

 会ってもらいたい?

 良いイベントなのか悪いイベントなのかもわからないというのが怖いな。というかこういう場合十中八九悪いイベントなんだよなぁ。

 そもそも……。

 

「……誰?」

「それは、会えばわかると思うよ」

 

 そういう返答が一番困るんだが……。どうやらここで種明かしをするつもりはないらしい。

 なんだろう、ちょっと怖いが。まあ会うぐらいならいいか。罰ゲームの類だったとしても今更だ。

 

「んじゃ、また今度な」

「ああ、また今度」

 

 そうして今度こそ俺たちは教室を後にして、廊下へと歩き出す。

 やっぱ昨日と比べると今日は混んでるな……。

 ちょっと歩くだけで人とぶつかりそうだ。

 昼飯食うのにも苦労するかもしれない。並ぶのは面倒くさいなぁ……。

 

「んじゃ、どこ行く? カレーでも食う? 券貰ったからあそこなら奢ってもいいぞ」

「……」

 

 そう提案してみるが、返事がない。

 あれ? ちゃんと付いてきてるか?

 

「一色?」

 

 俺が振り返ると、一色は何かを考えるように俺の足元付近を見ていた。

 なんだ? 俺なんか踏んだ?

 

「……センパイ!」

「お、おう?」

 

 だが、次の瞬間には、一色はまるで何かを決意したかのような顔を向けて来る。

 なんだろう? トイレだろうか? それならここを真っ直ぐ……。

 あ、でも急ぎなら職員用の方が……。

 

「私ちょっと急用を思い出しちゃいました! すみませんけど先に行ってて下さい。あ、終わったら連絡するんで!」

「は? どっか行きたいとこあるなら案内するけど? って……おい!」

 

 だが、俺の予想を裏切り、一色は矢継ぎ早にそう言うと、俺の返事も聞かずに踵を返し、スルスルと人混みをかき分け、来た道を引き返して行く。

 なんだあいつ?

 急用? ここで?

 追いかけたほうがいいんだろうか?

 いや、でも子供じゃなしなぁ……後で連絡するっていってるし、放って置いて大丈夫か?

 

「……訳わからん奴だな。しゃぁない、兄妹仲良く二人で回るか……って小町?」

 

 あれ? そういや小町も居なくない?

 え? いつから居なくなった? 最初居たよな?

 まずい、小町を迷子にしたなんて言ったらまた母ちゃんに叱られる!

 とりあえずスマホで連絡を……ってなんか通知きてるな?

 

【お兄ちゃんへ、小町は急用が出来たので文化祭はいろはさんと二人で回って下さい。終わったら適当に帰るから小町の事は気にしない事!】

 

 えええ……。

 ……どいつもこいつも急用急用って。

 急用ってそんなポンポン出来るもんなの?

 なんでアイツラに急用が出来て俺が暇になるの? おかしくない?

 ここ一応俺の高校だよね? あれ? 俺って外部から来たんだっけ?

 

 あー……一気に暇になってしまった……。

 こんな事なら仕事午後に回して貰えば良かったな……。

 はぁ……。

 もうどうにでもなーれ。

 

 こうして、女子二人と文化祭を回るという俺の人生初イベントは、脆くも崩れ去っていったのだった。

 

 畜生。




というわけで43話でした!

どうせなら年内で文化祭編完結させたかった……
我ながら復帰が遅かったのが悔やまれます。
来年はあまり時間を開けないように再開出来た良いなと思っておりますので引き続き応援していただけると幸いです。

それでは、皆様。良いお年をー!

感想、評価、誤字報告、メッセージは年末年始も受け付けております!
よろしくお願いいたします!


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第44話 シン・文化祭 -急-

あけましておめでとうございます
いつも感想、評価、誤字報告、メッセージ、お気に入りありがとうございます。

本年も「やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている。」をよろしくお願いいたします。


 急に暇になった。

 

 妹と“ほぼ”妹とはいえ、女子二人との文化祭を夢見ていた俺としてはガッカリもガッカリである。

 まあ一色は後で連絡来るらしいし、今日はバイトもあるから帰る前には合流できるだろうが……小町ちゃんは何してるの?

 ちょっと前までは「お兄ちゃんの側を離れないでいい子にしてなさいね?」って言われたらギュッと力強く俺の手を握って離さなかった子なのに。全く……お兄ちゃんのここ、空いてますよ?

 

 これが兄離れという奴なんだろうか? こうやっていつか俺の手を離れて見知らぬ男と……。

 いやいや、駄目だ駄目だ……はっ!? まさか急用って男か!?

 お兄ちゃん絶対許しませんからね!

 

 とはいえ、小町にしても一色にしても行き先の心当たりは全く無い。

 この現状を誰かが聞けば『自分の学校だというのに情けない』と思われるかもしれないが、自分の学校だからこそ、アイツらにどんな用があるのかが分からないのだ。

 まぁ、下手に探し回ってもストーカー呼ばわりされるのが目に見えているし、そもそも面倒くさいから探す気もないけど。

 結論、今日もぼっち行動である。

 

 はぁ……文化祭でドタキャンとか新手の罰ゲームかよ。

 いや、ドタキャンではないのか? 一応一回合流したからなぁ。

 ……どうでもいいか、変に考えるよりさっさと切り替えてしまおう。

 とりあえず、さっき川崎から貰った券でも使って昼飯にするか……。どうせ一人分だ。

 

 そうして俺は、目標をカレー屋に定め歩き始めた。

 道中、昔話に花を咲かせる私服と制服の入り混じった集団や、楽しげに腕を組んで歩くカップルとすれ違い、ここが俺の学校ではないかのような錯覚を覚えながら、廊下の端へ端へと追いやられていく。

 なんと言うか……アミューズメントパークとか、デートスポットに一人できてしまったかのような感覚だな。

 おっと、ぶつかった、すいませ……って……え? なんで俺が睨まれてるの? おかしいだろ。俺めちゃくちゃ避けたじゃん? そっちは二人で横並びのまま歩いてくるから、俺が廊下の壁に体をほぼ水平にくっつけてたんだぞ? これ以上どうしろと?

 全く、ちょっと体がぶつかっただけであんな睨まれるとか世紀末かよ。

 さっさと文化祭、終わればいいのに。

 

*

 

「ここを俺のベストプレイスと認定しよう」

 

 人混みを避け、出店の少ない方角へと歩いていると、思わず声に出してしまうほど素晴らしいロケーションを発見してしまった。

 

 そこは特別棟の一階で保健室横、購買の斜め後ろの屋外にあるデッドスペース。

 校舎と屋外にある段差を埋めるために僅か数段の石段が用意されており、一度座ればそこはさながらオープンテラスのカフェ……いや、流石にそれは言い過ぎか。

 まあとにかく、一人になるにはうってつけの場所だった。

 何故こんな場所がある事に今まで気が付かなかったのか。

 文化祭というこの状況下でも人が居ない正に穴場と言えるこの場所に、俺は感動しながら「来週からは昼飯はここで食うことにしよう」と決意し、石段へと腰掛ける。

 うん、風も心地良いな。

 

 顔を上げれば、テニスコートを一望できるというのも素晴らしい。

 どうやら今、テニスコート上ではウサ耳を付けた女子生徒が男子生徒に囲まれて何やら演劇を行っているようだ。そう言えばテニス部はミュージカルをやってるとか言ってたな。

 さすがにセリフまでは聞きとれないが……。

 女子が一人という事は、女子テニス部と男子テニス部の合同演目なのだろうか?

 それか、女子マネージャーが主役か……まあ、それはどちらでもいいか。

 ミュージカル自体はそれなりに人気らしく、観客席は満席のようだった。

 

 一応言っておくが決してテニスをしている女子を眺めたいとか、そういう下心があってここを選んだわけではないぞ?

 そもそも、ここからではそこまでハッキリと顔が見える訳でもないからな。

 もしかしたら今コートの中央でポーズを決めているあのウサ耳女子も一見女子に見えるが実は男子なのかもしれないし……。

 

 なんてな。

 バカらしい、誰に言い訳してんだ俺……。

 今のポーズでミュージカルも終わりという事なのか。ウサ耳達が礼をして、観客が拍手を送り、帰り支度を始める。当然誰も俺の事など気にも止めていない。

 なんだか、観客席に一人見覚えのあるロングコートの男が混じっている気がするが……。

 うん、やはりそれなりに距離もあるし、今後誰かがあそこで練習していたとしても流石に変な勘ぐりをされる事はないだろう。

 コレ以上の冤罪は御免だ。

 

 俺はテニスコートから視線をはずすと、購入しておいた拳二つ分程の大きさの容器とドリンクを膝の上へと置いた。

 容器はまだ暖かく、カレーの良い匂いが漂ってきている。

 そう、コレが今回の文化祭でそこら中にカレー臭を撒き散らしている原因であり、川崎からもらった券で錬成した千葉一番屋のカレーだ。

 そして、そこと提携しているという隣のクラスのBLstand提供のドリンク。

 

 ドリンクの中身は先程貰ったバナナジュース──ではなく今回はもう一つあったドリンク、レモネードにした。

 まずかった訳ではないが、もう一杯アレを飲む気にはなれなかったからな。

 紙コップの側面には店の名前らしきBLstandの文字と店のマークっぽいイラスト。

 斜めに置かれたバナナの左右に一個づつレモンが描かれている。

 なるほど、つまりBananaとLemonのStand──屋台でBLStand。

 どうやら店名に変な意味はないらしい、完全に俺の誤解のようだ。よかった、怪しい店はなかったんだ。総武高の文化祭は至って健全です。

 

 よし、食うか。

 疑問が解消しスッキリした俺は。そのまま勢いよく使い捨てのスプーンの先をカレーに浸す、だがその瞬間、男の声が足元の方から聞こえた。

 

「八幡? こんな場所で何をしているのだ?」

 

 その男は相変わらずのロングコートと指ぬきグローブを纏った姿で、メガネをキラリと輝かせている。

 見間違えるはずもない、材木座だ。

 やっぱさっき観客席に見えたのお前かよ……。

 

「見て分かるだろ、飯食ってるんだよ」

「ふむ、そういう事なら丁度よい、我も同席させてもらうとしよう」

 

 材木座はそう言うとどこに持っていたのか、フランクフルトを数本取り出し、石階段を上り、俺の許可も求めず真横に腰掛けた。

 さらば、俺のベストプレイス。

 

「……ミュージカルとか見るんだな?」

「意外か? 我は創作には少し煩いほうだぞ、将来は女性声優さんと結婚する大御所ラノベ作家になる身だからな」

「……お、おう、そうか」

 

 ……なんだろう、凄くどうでもいい事を聞いてしまった気がする。聞かなかったことにしておこう。

 

*

 

「ふむ、それは恐らく国際教養科の雪ノ下嬢であろうな」

 

 それから少し話題が変わり、材木座が昨日の冤罪事件について触れてきたので、俺が弁明すると材木座は食べ終わったフランクフルトの串を握った拳の指の間に挟み、爪のように見せかけながらそう言った。

 MA○VEL? それともバル○グのつもりだろうか? お前はバ○ログってキャラじゃないだろう。

 

「雪ノ下? 何? エド○ンド、お前知り合い?」

「エ○モンド……? 知り合いな訳なかろう。我だぞ?」

 

 材木座は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに俺の問を否定する。

 なるほど、分からん。

 なんで知らないのに自慢気なんだよ。

 

「容姿端麗、成績学年トップ、孤高の才女。雪ノ下雪乃といえば総武でも知らぬものはいない有名人だぞ」

「へぇ……」

 

 そういうものなのか。

 あれか、所謂誰もが知る学園のアイドルってやつ? 少なくとも俺は知らなかったが。

 総武にもそういう手合が居るのか。

 まぁ、こいつがただのストーカーという説も否定しきれないが……。

 

「でも、俺が見たのがその女子だって事にはならんだろ」

「いや、特別棟の教室に一人でいる所を見たのだろう? 実は我もよく見かけるのだ、たまに平塚教諭と二人でいる事もあるようなのだが、空き教室で物憂げにこう……なんというか儀式めいた……陰謀のようなものを感じないか? 感じるだろう!?」

「全然」

 

 一体何を感じるというのだろう。

 それが男女ならともかく……女二人だろ? いや、女二人だからこそという事なのだろうか?

 百合的なあれか? でも相手が平塚先生だしなぁ……。

 やはり何も感じようがない。

 「悪しきオーラが」とか「組織の魔の手が」と一人妄想語りを始める材木座を横目に俺は残ったカレーを口に運ぶ。

 

 なんか……こういうのどこかで見たことあるな。

 デジャブというかなんというか……ああ、そうだ恋愛ゲームに出てくる『何故か女子の情報に詳しい主人公の友人』キャラとのワンシーンみたいだ。 

 主人公に攻略途中の女子の好感度を教えてくれる、そんなお助けキャラクター材木座。そんな感じ。

 まあそもそも友人じゃないし俺も主人公って柄じゃないけどな。

 

 どちらかと言えば、さっき会った葉山とかいう奴の方が主人公らしいと言えるだろう。

 もしかしたら来年あたり、こいつと葉山が同じクラスになって意気投合する所から始まる『やはり俺がイケメンと呼ばれるのは間違っている』とかいうイケメンならではの苦悩を描いたハーレム系ラブコメが始まるのかもしれない。

 俺は絶対見ないけど。

 

「……ああ、名前で思い出した。そういえば材木座。お前なんで俺の名前も知ってたの?」

 

 名前、というワードでふと俺はそんな疑問を口にする。

 それは俺の心の中でずっと引っかかっていた事でもあった。

 

 体育で初めて材木座と遭ったあの日。こいつ、俺の名前を既に知っていたっぽかったんだよな。

 いや、漢字までは確証がなかったようだが、少なくともその断片のような情報は掴んでいたように思う。

 単純に交通事故の話題で知っているだけという可能性が高いが、それならそれでここらでハッキリさせておきたい。

 

「そんなもの、貴様の魂を見れば分か……」

「そういうのいいから、何? マジでストーカーなの? 好きな相手になら何してもいいって思っちゃうタイプ? まあ他人に迷惑かけない範囲ならいいと思うが、俺は普通に女子が好きなんでごめんなさい」

「ま、待て! 勘違いをするな。一学期の終わりに平塚教諭と話していただろう? あの時にその……」

 

 ああ、あの時か、そういや廊下中に聞こえるような大声で呼ばれたし、変な視線も感じたな。

 って、あの視線お前かよ!

 なるほど、つまりこいつはあの時、俺の名前からインスピレーションを得て、そこから夏休みに設定を練り上げ、俺と接触するタイミングを図っていたという事か。

 

「よくそれだけで、話しかけようと思えたな。俺が陽キャのパリピだったらとか考えなかったの?」

「ふ……その辺りは抜かり無い、貴様が休み時間に一人でラノベを読む同族である事は確認したからな」

「いや、ラノベかどうかはわからんだろ……俺ブックカバーしてるし」

「笑止! その程度の結界を破れぬ我ではないわぁ! 挿絵の絵柄から絵師、作品まで特定済みよぉ!」

 

 俺がちょうど最後の一口を口に入れた所で、材木座は徐に立ち上がりバサバサとコートを靡かせながら得意げにそう言った。

 やっぱストーカーじゃねぇか。おー怖。 

 

「まあ、そういう事なら話は分かった。ストーカーも程々にしとけよ?」

「分かっとらんではないか!!」

 

 せっかく傷つかないように優しくフォローしてやったというのに、何が不満なのか。

 俺が食い終わった空の容器とコップを捨てるため一番近くのゴミ箱へ歩いていくと、材木座もソレに続き、フランクフルトの串を捨てた。

 あれ? もしかして俺この後こいつと一緒に行動する事になってる?

 いつの間にかフラグが立っていたのだろうか?

 となるとこのまま材木座ルート?

 それだけは勘弁願いたいが……この後はどうすればいいんだ?

 

 十五時からは閉会式が始まり、その後は簡単に教室の片付けをして帰宅。俺が関わっているのはクラスのみだから、バイト──一色の家庭教師の時間には十分間に合うだろうが……。

 一色の用事って結構時間がかかるんだろうか? 一回確認してみてもいいか?

 そんな事を考えながらスマホをイジっていると、タイミング良くLIKEの呼び出し音が鳴り響いた。一色だ。

 

「センパーイ、今どこですか?」

「あー、今は特別棟の方にいるが、そっちは? 用事は済んだの?」

「あ、ソッチは無事終わりましたので大丈夫です。えっとここは……」

 

*

 

「あ、いたいた! センパーイ!」

「……お、おう」

 

 少しだけ戸惑う俺に、一色はまるで今日初めて出会ったかのように大きく手を振りながら駆け寄って来た。

 

「なんですかー、その反応? ようやく合流出来たんだからもっと喜んでくれてもよくないですか? あれ? そういえばお米ちゃんは? 一緒じゃないんですか?」

「お米? 小町ならお前と一緒で急用とやらでどっか行ったけど」

「ははーん、なるほど……」

 

 一瞬答えに迷う俺がそう告げると、一色は何故か納得したようにウンウンと頷いていた。

 どうやらお米というのは小町の事らしいが……。

 その言い方だとまるで小町の行き先に心当たりでもあるみたいだな。

 それだけ仲が良くなったという事なのだろうか?

 生まれてからずっと一緒だった俺でも分からないというのに……。

 とりあえず小町の行き先について詳しく、もし男との約束だったらその男の情報も……。

 

「それで……えっと、こちらは……?」

 

 だが、そんな俺の気など知らず、一色は俺の横へと手のひらを伸ばしそう聞いてくる。

 くっ、小町の事などどうでも良いというのか。 

 第一コチラってなんだ。

 

「我は剣豪将軍、材木座義輝だぁ!」

「将軍……?」

 

 ああ、そうか、材木座か、そういえば俺が「人を待ってる」って言っても何故かずっと俺の後ろで仁王立ちしてたんだよな。

 やっぱり今日の俺は材木座ルートなんだろうか?

 他キャラとのイベントにまで割り込んでくるとか強キャラ過ぎるだろ。

 

「ああ……こいつは気にしなくていい……」

「気にしないでって言われたって気にしますよ! えっと……センパイのお友達……で良いんですか?」

「……友達じゃない、体育でペア組んだだけの中二だ」

「左様、我に友など居らぬ」

「ちゅうに……? ……まぁでもいいや男の人なら、寧ろ好都合かも……」

 

 俺の説明に納得いったのか、言っていないのか一色はそう呟くと、表情を一変させた。

 この顔は知っている。ゆるふわビッチモードだ。

 

「初めましてぇ将軍さん? 私一色いろはっていいます、センパイにはいつもお世話になってます。良かったら今度学校でのセンパイの話とか聞かせて下さいね♪」

「はひゃっ!? わ、我はけん、けん……ざい」

「建材?」

 

 微妙に惜しい、確かに建材には材木も含まれるが、そいつは材木座だ。

 だが、材木座はその間違いを訂正も出来ず、一色に距離を詰められ挙動不審になっている。

 女子が苦手なのか、中二あるあるだな。

 こいつの場合女子とか以前に対人そのものが苦手とも言えるが。

 

「センパーイ? この人全然目合わせてくれないんですけど……?」

「辞めて差し上げなさい、もうちょっと距離保ってあげて」

「はぁ……?」

 

 材木座をどんどん壁際に追い込んでいく一色を窘め、被害者を救出する。

 こんな事してるから材木座ルートに入ってしまうんじゃなかろうか?

 全く、勘弁してもらいたいものだ。

 

「それで、どうするの? まだ時間あるし、どっか行きたい所とかあるなら案内するけど?」

「あ! そうでした」

 

 俺の問に、一色はパンと手を叩き振り返る。どうやらヘイトを取れたようだ。

 視界の端でほっと胸をなでおろす材木座が見える。

 次は助けないからな。

 そんな事を考えながら俺は再び一色と視線を交わす。

 その瞳には何か決意のようなものが込められており、どこか行きたい場所があるのは用意に想像が出来た。

 どうやら、今度こそ俺の文化祭が始まるようだ。

 さらば材木座ルート!

 

「センパイごめんなさい! 私、どうしても外せない用事が出来ちゃったので一緒に回れなくなっちゃいました……」

「へ?」

 

 嘘でした。始まりませんでした。

 あれぇ??

 

「用事終わったんじゃないの? どっか具合悪い?」

「体調は問題ありません。用事……終わったは終わったんですけど、それとはまた別というか、むしろそれが終わったから別の用事が出来たというか……」

 

 意味がわからないよ?

 用事が終わったから用事ができた?

 どういう事?

 

「……私、決めたんです!」

「決めた? って何を?」

「それは……まだ秘密です」

「全く意味わかんないんだけど?」

 

 もう俺の頭の中はずっとクエスチョンマークだらけだ。

 思わず材木座に救援を求め視線を送ってしまう。

 だが、材木座は何故か意味ありげに腕を組んでうんうんと頷いているだけだった。

 え? 何? どういう事?

 

「とにかく私決めたので! 今日はこのまま帰らせて下さい! それと……お願いがあるんですけど」

「いや、帰るのは構わないけど……お願い?」

「今日のカテキョもお休みにして下さい」

「は?」

 

 カテキョも休み?

 まだ閉会式も始まっていないという時間なのに?

 ってことは相当時間が掛かる用事が出来たってことか?

 

「いや、本当に意味わからん」

「分からなくていいんですよ、私の問題なので。とにかく今日はこの後丸々お休みさせて下さい」

「ってもなぁ……それならそれで一回おっさんに連絡いれないと……」

「大丈夫です、お爺ちゃんの家に行くのが私の予定なので、直接伝えます」

 

 なんでこのタイミングでおっさんの家に?

 もしかして……。

 

「おっさんに何かあった? なんなら送ってくか?」

 

 まさかとは思うが、そういう事なら急用というのも納得が出来る。

 それならとりあえずチャリで一色を駅まで送って……いや、寧ろ一緒に行くという選択肢もありそうだ。

 出費は痛いがタクシー呼ぶか? 

 

「その提案はひっじょーに魅力的ですけど、別にお爺ちゃんに何かあったとかじゃないので大丈夫です、さっきも言った通り、私の問題なんです。でも全部解決したらちゃんとお話するので来週はちゃーんと来て下さいね?」

 

 だが、一色は俺のシリアスな空気をあっさりと吹き飛ばし、いつもの調子でそう言ってウインクを投げ、言葉を続ける。

 

「だから、今日はこちらのお友達と一緒に回ってて下さい。あ、変な虫が寄ってくると危ないのでお米ちゃんも呼び戻しましょう」

 

 自分の言いたい事を言うと、この話は終わりだとばかりに一色は手早くスマホを手に取り高速で指を動かし始めた。

 どうやら冗談とかではなく本気で帰るらしい。

 とりあえずおっさんが病気とかではなさそうだが……。

 そうなると余計に今からおっさんの家に行く理由が分からない。

 

 所謂家族の問題という奴だろうか?

 だとすれば俺がこれ以上介入すべきではないのは分かる。

 しかし、その用事がこの文化祭での急用がきっかけで出来たというのはどういう事だ?

 そこがわからない。

 一体、この小一時間ほどで一色の身に何が起きたというのか。

 それを知りたいと思っている自分に少しだけ戸惑いながら、俺は一色の背中を見つめるが、一色は相変わらず高速で指を動かしているだけだった。

 

「正直どれぐらい時間が掛かるか分からないですけど、今日中には絶対終わらせますから。あ、でも、もしセンパイが寂しかったら来週と言わず、カテキョ明日にズラしてくれても良いですよ?」

「嫌だよ……明日は一日寝てる」

 

 その返答には自分でも分かるほどの苛立ちが込められていた。

 だが、それがただの八つ当たりでしかない事も分かっている。

 大人になれ、比企谷八幡。

 一色がおっさんと会う事に何もおかしな事はない。

 二人は祖父と孫、血の繋がった家族だ。

 だから、俺がその間に入れないのは当然の事。

 なのになんで……なんで俺は疎外感を感じているんだ。

 

「はぁ……まぁそう言うんじゃないかと思ってましたけど……じゃあ、私急ぐのでお先に失礼しますね、あ、お友達もセンパイの事よろしくお願いします」

「ああ、気をつけて行けよ。おっさんに宜しくな」

「う、うむ……任された」

 

 なんとも言えないモヤモヤを俺の中に残し、一色は大きく手を振りながら去っていく。

 そんな一色の姿を目で追いながら、俺と材木座も並んで手を挙げた。

 残ったのは男二人、材木座もどうしたら良いか分からないという感じだ。

 ああ、そういや材木座は残るのか。

 え? 材木座ルート続行?

 はぁ……。

 さっさと文化祭、終わればいいのに……。




というわけで44話でした。
その年の最初の投稿には材木座が出るというジンクスにならない事を祈って。
こ、今回はちゃんとヒロインも出てるから……。

では、細かいあれやこれやは活動報告へ!



あれ……?
そこのあなた……もしかして騎空士様ではありませんか?
 古 戦 場 始 ま っ て ま す よ ? <●><●>
(2021/01/15~2021/01/22)


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第45話 シン・文化祭 :||

いつも感想、評価、誤字報告、メッセージ、お気に入りありがとうございます。

タイトルの
:||
の読み方は多分リピートです(多分)(恐らく)(きっと)


「私ちょっと急用を思い出しちゃいました! すみませんけど先に行ってて下さい。あ、終わったら連絡するんで!」

「は? どっか行きたいとこあるなら案内するけど? って……おい!」

 

 ポカンとした表情のセンパイを残し、一人、人混みを掻き分けていく。

 センパイには申し訳ないとは思うけれど、少しだけ兄妹水入らずで過ごして貰おう。 

 正直な所、自分でもなんて勿体ない事をしているんだろうとは思う。

 折角センパイと合流できて、これから一緒に御飯食べて、一緒に遊ぶ楽しい文化祭デートが始まる予定だったのに……。

 今からでも遅くない、やっぱり用事なんてありませんでしたって言って戻る事だって出来る。

 でも、どんなに後ろ髪を引かれても、私の不安を煽る“あの言葉”が耳にこびり付いて離れてはくれなかった。

 

 来た道を戻り、ついさっき出てきたばかりのセンパイの教室でその人を探す。

 居た。 

 お昼時ということも合ってか、教室内にはほとんど人が居らず、その人はすぐに見つかった。

 センパイよりも長身で目立つその人は、お友達と楽しげに話をしながら、Tシャツを物色している。

 

「すみません」

「ん? 何か忘れ物かい?」

「なになに? もしかして何か買ってくれちゃう感じ?」

 

 私が声をかけると、その人は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を向けてくる。

 女子慣れしている感じだなぁ。

 まあ、もう一人の方は、とりあえず営業スマイルで躱しておこう。

 私が用があるのは……この人だけだ。

 

「ええ、ちょっと重要な事を聞き忘れてまして、少しお話させていただけないですか? 葉山さん」

 

 私の言葉に、葉山さんは驚いたような表情でパチパチとまばたきを繰り返すばかり。

 まあ、それもそうか。

 さっきが初対面なのにいきなりこんな事言われても意味がわからないよね。

 でも、アナタが悪いんですよ? あんな事さえ言わなければ今頃はアナタも私も平和にこの文化祭を送れていたんですから。

 むしろ被害者はコッチです。

 こんな所センパイに見られるわけにもいかないんですから。

 だから……。

  

「出来れば二人きりになれるところでお願いします♪」

 

 一瞬教室の空気がざわついたのが分かった。

 戸部さんはどうしたら良いか分からないって感じで私と葉山さんの顔を見比べて、葉山さんも「あー……えっと……」と少し困り気味に首の後ろを掻いている。

 だけど私はそんな空気を無視して、葉山さんの制服を引っ張り、教室を後にした。

 

*

 

「えっと……一色さん? どこまで行くのか聞いてもいいかな?」

「あ、すみません!」

 

 葉山さんにそう言われ、私は慌てて握っていた制服を離す。

 振り返ればすでにセンパイの教室は見えなくなっているし、当然センパイの姿もない。

 はぁ……やっと会えたのになぁ……。

 さっさと聞くことを聞いて、センパイと合流しよう。

 そう思って、葉山さんの顔を見る。

 なるほど、こうして見れば確かにイケメンだ。

 この人を狙う女子はさぞ多い事だろう。

 少し前の私だったらツバつけてたかも……。

 

「ええっと……すみません、どこか人気のない場所とかありませんか?」

「人気のない? ハハハ……なんだか告白でもされるみたいだな」

 

 一瞬ビクリとした。

 これまでの私の経験からすれば今のは告白を期待した『軽口』。

 でも、葉山さんの瞳の奥が笑っていないように見えたのだ。それはほんの一瞬の事。

 次の瞬間には葉山さんは先程までと同じ笑顔を向けていた。

 気のせい?

 ううん、あれは気のせいじゃなかった。 

 もしかして警戒されている? そりゃ初対面でいきなりこんな事されたら誰だって警戒はするだろうけど……。でもこの感じ、警戒というよりは……。

 

 牽制?

 そう、今のは牽制だ。

 『まさか告白じゃないよね?』

 この人は今そう言って私を牽制したのだ。

 

 付き合っている人がいて、その人に今の状況を見られると困るとかそういう事だろうか?

 でも、それならそれで、私に対して脈アリとか変な勘違いはされなそうだから助かるかな。

 

「まさか。……少し聞きたい事があるだけですよ。でもプライベートな事なので、出来れば他の人に聞かれたくないんです」

 

 お互いを値踏みするように、一瞬視線を交わした後、私は笑い飛ばすようにそう告げた。

 

「……わかった。人気のない場所か……そうだな……」

 

 すると 葉山さんは一瞬考えるような仕草をして。

 私の先を歩き出す。

 どうやら、人気のない場所に心当たりがあるらしい。助かった。

 さて、お話聞かせて貰いましょうか。

 

*

 

「ここなら、あまり人は来ないと思うけど」

「ありがとうございます」

 

 連れてこられたのは学校の屋上だった。

 へぇ、総武高って屋上入れるんだ。

 文化祭の時だけ開放とか?

 でも出店とかがあるわけでもないし、やっぱり常時開放?

 風も気持ちいいし、この話が終わったらセンパイとここでお昼を食べるのも悪くないかもしれない。

 

「それで話って?」

 

 葉山さんが屋上のフェンスに背中を預けながら聞いてくる。

 どうやら、この人も早めに切り上げたいと思っているみたい。

 よく考えたら……いや、よく考えなくても他に予定があったかもしれないんだよね。

 それでも愚痴の一つも言わず、私の要望に応えてくれたという事はそれなりにいい人なのだろう。

 なら、せめてその優しさに応えなくちゃいけない。

 私は一度大きく息を吸い込んで、一気に言葉を吐き出した。

 

「……単刀直入に聞きます、さっきセンパイに紹介しようとしてた人って誰ですか?」

 

 小細工も、回りくどい言い回しも一切なし。

 私が一番聞きたかったこと、確認したかったことをストレートに。

 

 そう、この人はさっきセンパイに言ったのだ。

 「君に会ってもらいたい子がいる」と。

 センパイとの面識もそれほどなさそうだったのに、あの瞬間にそう言ったのだ。

 私は刑事や探偵じゃない。

 推理に自信があるなんて一度も思ったことはない……だけど……。

 

「誰って……。友達だよ普通のクラスメイト。比企谷くんに会いたがってるみたいでね」

「女の人、ですよね?」

 

 それが女の人だという確信だけはあった。

 

「まあ、うん、そうだね」

 

 そもそも“子”と表現している時点で大抵は女の子だろう。

 いや、もしかしたら文字通り子供。という意味だったのかもしれないけれど。

 その時の私にはそんな考えは浮かばなかったし、実際今葉山さんも肯定した。

 つまり、私の推理は外れていなかった訳だ。

 となると、気になるのはもう一つ。

 

「どういう人ですか?」

 

 葉山さんがセンパイと会うのはさっきが初めてみたいだった。

 なのに、センパイに会いたいと思っている。という事はセンパイの事を前から知っていて、なんらかの感情を抱いている可能性が高い。

 

「いい子だよ、明るくて、周りに気を使える、そうだな……一言で言うと優しい子かな?」

 

 その答えに、私はなんと返したらいいか分からず、無言でいると、葉山さんは言葉を続けた。 

「……その子がね、彼に会いたがっているのを思い出したんだ」

「会いたがってる?」

「ああ、なんでも彼に助けてもらったことがあるらしくてね」

 

 一体どういう事だろう?

 そういえばあの時、事故の話をしていたっけ……? センパイの事故の相手……とか?

 だからなのか、ほんの少しだけ胸の奥に焦げるような衝動が走るのも分かった。

 

「俺は第三者だから、何があったか詳しくは省かせてもらうけど。ただ『会うタイミングを逃してしまったから“誤解”されてるかも』って不安がっていてね、だから今日折角比企谷君と知り合えたんだし、ちょっとお節介のつもりで二人を引き合わせてみようとしたんだけど……」

 

 そしてその衝動はあっという間に私の中を広がっていく。

 それは、今日の……ついさっき占いをしてもらった時の言葉とも繋がってどんどんと大きくなっていった。

『疑心暗鬼』『誤解』「それが解決すれば恋人が出来る」

 あの占いはあくまでセンパイを主体にしたもので、私の事を占ったわけじゃない。

 つまり……その相手は私じゃなくて……その人?

 いや、違う。あんなのそれっぽい事を並べただけのデタラメ、こんな考えも馬鹿げた妄想だ。

 占いなんて当てにならないものばっかりなんだから。

 何度も頭でそう否定しても、一度生まれた不安はなかなか消えてはくれなかった。

 

「……どうやら、一色さんのお気に召さなかったみたいだね」

 

 そんな私の心情を見抜いてか、葉山さんはそう言って両手を広げたオーバーなアクションで息を吐く。

 お気に召さない……。

 そう、お気に召すわけがないのだ。

 なら、どうする?

 そんなの決まってる。

 

「ええ、そうですね……。葉山さんの事情はわかりました。教えてくれてありがとうございます。でも……」

 

 だから、私は行動を起こす。

 ここまで来たら、もう今更だ、取り繕う必要もない。

 だって、そうならないためにセンパイとの文化祭デートを切り上げてきたのだから。

 

「その人、センパイに紹介しないで下さい」

「一応、理由を聞かせて貰ってもいいかな?」

 

 そんなのは単純だ。「私が嫌だから」葉山さんの言葉を借りるなら「お気に召さないから」

 そう言えばこの人は納得してくれるだろうか?

 いや、多分納得してくれないだろうなぁ……。

 

「フェアじゃ……ないから」

「フェア……? 俺には君の行動の方がアンフェアに見えるけれど……?」

 

 あまりにも幼稚な私の言い分に、葉山さんは容赦なくストレートで返してくる。

 もっともだとは思う。

 これがもし逆の立場だったなら、私は確実に相手を糾弾するだろう。

 先回りして、関係の無い所で相手のチャンスを奪うなんて、嫌な女の最低な手口だ。

 

「ええ、そうですね、でも……でも別にずっと紹介するなっていう訳じゃないんです! せめてあと半年! 私が高校に入学するまで待ってもらえませんか?」

「入学って……君は海浜総合に行くんじゃ?」

「……」

 

 正直、このままだとお爺ちゃんの言う通り別々の高校──海浜総合に行かざるを得ないのかもしれないと思っていた。

 だけど、それじゃぁ駄目だ。

 それが今日、総武に来て分かってしまった。

 絶対に覆らない一年という年の差。

 好きな人と別々の高校に通うという危険性。

 センパイの近くにいる大人びた女の人。

 そして……センパイに近づこうとする女性の影。

 もし、私がここで折れたら、私の付け入る隙のないような関係が生まれてしまうんじゃないだろうか? そんな不安が足元から這い上がってくる。

 そうか……だからか。だからあの時お祖父ちゃんは私に「焦れ」って言ったのか。

 

「違うのかな?」

 

 その問に私は無言のまま一度頷く。

 もう、迷わない。

 私はセンパイが好きだから、センパイの側に居たいから。どうしても、この学校に通う必要があるのだ。高校に行ってやりたい事とか、成績とか、将来とかそんな事はどうでもいい。

 いや、違う……。私のやりたい事は『センパイと同じ学校に通う事』。

 それは、センパイとの未来を繋ぐためにどうしても必要な事なのだ。

 だから、ここに通う。何が何でも。お爺ちゃんだって説得してみせる。

 もうずっと前からそのつもりでいたけれど、今日ようやくその覚悟が形になった気がした。

 

「違います! 私の第一志望は総武です。他は受けません!」

 

 葉山さんの……いや、葉山先輩の目を見て私はそう告げる。

 言った。

 言ってしまった。

 お爺ちゃんでも、センパイでもない。よく知らない人に宣言してしまった。

 でも、だからこそ、もう後に引けない。

 だって、これで落ちたりしたら、いくらなんでも格好悪すぎる。

 そう思った瞬間、同時に別の不安も押し寄せて来た。

 本当に入れるの? お爺ちゃんを説得出来るの?

 今日は何月だっけ? 来週はもう十月?

 焦れ、もっと焦れ、時間がないぞと私の心が叫び始め、文化祭デートなんてしている場合なの? それよりも優先するべき事があるんじゃないの? と私の中の私が責め立て、そうじゃないとセンパイとの未来が消えてしまうぞと、そんな恐怖と焦燥感が私の奥から湧き上がって来ていた。

 

「そうか……君の言い分は分かった、でも僕が手を貸さなくても、その子の方から会いに行く事もあると思うよ? 君は……その、比企谷君と付き合ってるわけじゃないんだろう? 彼女のその思いを止める権利はないと思うんだ。だからどうだろう? いっそ一度みんなで……」

「……権利なら、あります」

「え?」

 

 葉山先輩の言葉を遮って、私はカードを切る。

 それは私の切り札であり、私が持っている唯一のカード。

 焦りばかりが前にでていて、それを出すことが正しい事かもわからなくなっている。

 この人の人となりもよく知らない。

 最悪周りにバラされるかもしれない。

 ましてやここはセンパイの学校。

 だから本当はこのカードをこんな所で使っちゃいけない。

 それは分かっているけれど。

 

「私、センパイの……比企谷八幡の許嫁ですから」

 

 ここでこれを出す以外の方法を、私は知らなかった。

 

「許嫁……?」

 

 私の言葉に、葉山先輩が目を丸くする。

 ああ、そういえば麻子ちゃんもこんな感じだったなぁ……。

 これで二人目。

 私、いつからこんなに口が軽くなったんだろう?

 センパイに口止めをしていたのが、随分昔の事みたいだ。

 

「今時そんな関係ありえないって思いますか?」

「いや、そんな事はないけど……本当に?」

「ええ、今ここで証明……は出来ないですけど私の家族に聞けば分かるはずです。電話でもしましょうか?」

 

 私はそういってスマホを葉山先輩に向かって差し出した。

 お爺ちゃん、お婆ちゃん、パパ、ママにお米ちゃん。センパイ……にお願いするのは流石に迷惑かな……。でも誰でもいい、最悪誰か一人ぐらい捕まえて証言してもらおう。

 

「いや、そこまでは……。でも、それは……君も、彼も納得の上で?」

「はい」

 

 現状『一年間だけ』という条件付きだが。センパイも納得してくれている。

 そこに嘘は無い。だから私は葉山先輩の真っ直ぐな目を逸らさず、見つめ返すことが出来た。

 

「そうか……」

 

 それからほんの数秒、葉山先輩は顎に手をやり、少しだけ考える素振りをみせると、スマホをしまうように促してくる。どうやら、信じてくれたようだ、証明の必要はなくなったらしい。

 ふぅ……。

 

「……一つだけ聞かせてもらってもいいかな?」

「なんですか?」

「誰かに決められた道より、自分で選んだ道を歩く方が意味があるとは思わないか?」

 

 そう聞いてくる葉山先輩の顔は真剣そのもの。

 誰かに決められた道……?

 つまり、許嫁なんて馬鹿げてるという事だろうか?

 そう思う事は別に否定しない。

 私だって最初はそう思っていたし、自分がセンパイの事を好きになるなんて夢にも思っていなかった。

 でも……。

 

「どっちに意味があるかとか難しいことはわかりません。でも……きっかけが何であれ、自分で歩くことに変わりはないんじゃないですか?」

 

 そう、結局お爺ちゃんがくれたのはきっかけに過ぎない。

 そもそも、お爺ちゃんの言う通りにしていたら私は海浜総合行きだし、私がセンパイを好きになった事と、お爺ちゃんは関係ない。

 別の形で出会ったとしても、きっと、ううん、絶対に私はセンパイに惹かれていただろう。

 それだけは確信を持って言える。

 ただ、その場合、あの捻デレで面倒くさい人とどうやって接点を持ったのかと問われれば。私の中に良いシチュエーションが思い浮かばないのも本当の所なんだけど……。

 

「……そうか……うん、わかった、さっきの話は撤回しておくよ」

「いいんですか!?」

「元々俺のお節介だからね。これも君が作った“きっかけ”だ」

 

 その言葉で、私はほっと胸をなでおろす。

 私が今やったことは褒められたものではないし、ただの自己満足でしかない、

 でも、何もせずただ指を咥えて見ている事しか出来なかった、なんて後悔はしたくなかったから。

 今はこれで良しとしよう。 

 

「そもそも、比企谷君が彼女が探しているヒーローかどうかもわからないんだ。もしかしたら別人かもしれないからね」

 

 葉山先輩がその場を和まそうと言ったその言葉が本心でないことはスグに理解できた。

 入学式に事故にあう人間はそう何人もいないだろう。

 でも……ヒーロー?

 

「あの……。その人の探し人がセンパイだった場合……その人に恋愛感情があると思いますか?」

「それは俺にはわからないな。少し話をしたいだけかもしれないし、君が想像している通りなのかもしれない」

 

 前者なら。むしろそうであって欲しいと思うし。後者なら今日の事が無駄ではなかったと思うことが出来る。

 結局、本当の所はわからない。

 

「でも本当にそうだとしたら、俺のお節介なんてなくても遅かれ早かれ比企谷君に接触するんじゃないかな?」

「それは……仕方ないと思います。でも目の前で『女の子を紹介する』なんて言われて……はいそうですか、ってただ見ているなんて私には出来無かったので……」

「少なくとも俺の方から余計な口は出さない。それでいいんだろ?」

「はい、それで十分です。よろしくお願いします」

 

 そう、私がしたのはあくまで最低限の牽制。

 ほんの少しセンパイとその人の接触を遅らせただけ。

 もしこの先、センパイがその人に直接会って……仲良くなって……二人の間に私が入る隙がなくなってしまうのが怖いから……。今の私に出来る精一杯の悪あがきをしたにすぎない。

 ああ、なんだか全部終わったと思ったら、自己嫌悪に陥ってきた。

 それも今更か……。いっそここで落ち込むぐらいなら……。 

 

「あの、最後にもう一つだけいいですか?」

 

 話が終わったと油断している葉山先輩にもう一度だけ問いかけると、葉山先輩は「ん?」と首を傾げる。

 

「その……葉山先輩が紹介しようとした女性の事って聞いてもいいですか? 名前とか……」

「それは辞めておくよ……一方的に知られているっていうのは、それこそフェアじゃないだろう?」

 

 葉山先輩は最後のその問いを笑顔のまま、そう言って受け流した。

 良い人かと思ったけど、意外と食えない人なのかもしれない……。

 

「しかし、こんなに思われてる比企谷君は幸せものだな」

「そう……ですかね?」

 

 センパイは私に想われて幸せですか?

 そうだったらいいなぁ……。

 

「それじゃ、そろそろ戻ろうか。俺もこの後予定があるし、君も比企谷君と文化祭回るんだろう?」

「あ、はい、そうですね」

 

 そうだ、急いでセンパイの所に戻らなければ。

 そして……伝えなきゃ。

 今、この熱が冷めないうちに。伝えなきゃいけない事を伝えなきゃいけない人がいるって。 

 もうコレ以上時間をかけていられない。大丈夫、センパイならきっと分かってくれる。

 なんてったって私の許嫁なのだから。

 

*

 

「センパーイ、今どこですか?」

 

 屋上を出てすぐに、私はセンパイに電話をかけた。

 気が付いたら結構時間が経っているけど。

 センパイ、どこにいるんだろう?

 まさか、もう噂の事故の人と会ったりしてないよね? とりあえず急いで合流しちゃおう。

 

「あー、今は特別棟の方にいるが、そっちは? 用事は済んだの?」

「あ、ソッチは無事終わりましたので大丈夫です。えっとここは……葉山先輩、特別棟ってどこですか?」

「特別棟はここだよ」

 

 スマホのマイク部分を手で隠し、屋上の扉を閉めようとしている葉山先輩に現在地を確認すると、そう教えてくれた。

 なるほど、ここが特別棟。来年から通う学校の事だし、しっかり覚えておこう。

 

「ならすぐ合流できそうですね! センパイ今何階ですか?」

「一階の……保健室の横ってか外だけど……え? 葉山……?」

「えっと保健室の……外?」

「それなら、階段を降りてあっち側だね」

 

 階段を降りながらセンパイと話していると、葉山先輩が行き方を指で示してくれる。

 どうやら割と近くにいるようだ。

 良かった、今度は探し回らなくて済みそう。

 

「あ、じゃあすぐ降りていきますね! 待っててください」

「え? あ、ちょっ」

「それじゃ葉山先輩、色々ありがとうございました、失礼します」

「ああ、気をつけてね。来年君が後輩として入ってくるのを楽しみにしてるよ」

 

 私はセンパイとの通話を切ると、そのまま足を止めず葉山先輩に別れを告げる。

 軽く手を上げ、別れを告げる葉山先輩は最後まで爽やかだった。

 

*

 

 センパイと合流した私は、センパイのお友達と少しだけ挨拶をしてから帰宅を告げる。

 お米ちゃんがいないのは少し予想外だったけど、あの子の事だ、きっと余計な気を回したのだろう。でも本当に余計な事なのでスグに呼び戻そう。

 私がいない間の虫除けになってもらわないといけないからね。

 センパイ一人きりだとまた狙われちゃうかもしれないし。まあもう一人変な……もとい個性的なセンパイのお友達もいるみたいだからきっと大丈夫だとは思うけど念の為。

 よし、お米ちゃんからの返事も来たし、これで準備は万端。

 

 あまりにも衝動的すぎるとは自分でも思う。

 でも、ここでのんびり遊んでから行ったんじゃ、お爺ちゃんは納得してくれない気もするから。

 この焦りが消えないうちに。

 私の本気を伝えるならやっぱり今しかない。

 

 待っててくださいねセンパイ!

 例え何時間掛かっても今日中にお爺ちゃんを説得して、必ず来年総武に……ココに通ってみせますから!




これで文化祭編四部作は終了となりますので
今日の活動報告は文化祭編の総括となります(多分)
興味がある方はご一読頂ければ幸いです。

感想、評価、誤字報告、メッセージ、お気に入り
全てが私の原動力です。
一言でも二言でも長文でもツイッターでもいつでもどこでもお待ちしています。


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第46話 いろはvs縁継

いつも感想、評価、誤字報告、メッセージ、お気に入りありがとうございます。

先日UAが100万を突破しました!
目次だけ見て帰ったという方もカウントされているのかもしれませんが
これだけ沢山の方の目に触れて貰えたいう事が何より嬉しいです、ありがとうございます。


「お爺ちゃん! 話があるんだけど!」

 

 電車を乗り継ぎ、お爺ちゃんの家につくと、私は挨拶もそこそこに家の中へと押し入っていった。

 生まれた時から通い続け、勝手知ったるお爺ちゃんの家だ。今更遠慮という間柄でもない。

 ただ、連絡もせずに来ちゃったから、肝心のお爺ちゃんがいるかどうかだけが心配だ。

 鍵は開いてたから、誰かしらはいると思うんだけど……。

 

「あら、いろはちゃんどうしたの?」

 

 今更な事を考えながら、ドタドタと廊下を抜けた先でひょいと顔をだしたのはお婆ちゃんだった。

 良かった、誰もいなかったらどうしようかと思った。

 

「お婆ちゃん、お爺ちゃんは?」

「今お客様が来てて広間にいるけど、何か急ぎの用事?」

 

 来客中かぁ。それはさすがに邪魔できない……。

 折角気合入れてきたのになぁ。

 限界まで膨らんでいた風船の空気がシュルシュルと抜けていくような感覚。

 まあ、連絡もせずに来た私が悪いんだけど……ここに来る間もずっと考え事をしていたからそこまで頭が回らなかったんだよね……。

 さて、どうしよう?

 とりあえず、待つしかないのかな。

 

 そう思った瞬間、気が抜けたのかクゥとお腹が鳴った。

 訂正、小さく鳴った。

 本当に小さく、ちょっとだけ。 

 

「お昼、まだ食べてないの?」

「……うん」

 

 そういえば、文化祭でクレープを食べて以降何も食べていないんだった。

 センパイと一緒にお昼食べる予定だったのにそのまま出てきちゃったし、うぅ……どうしよう……考えてきたらどんどんお腹減ってきた。

 

「待ってて、すぐ何か用意するから」

「え? あ! 私も手伝う!」

 

 ニコリと一度笑った後、トテトテと歩き出すお婆ちゃんを追いかけて、私達はキッチンへと向かう。

 まあその、腹が減ってはなんとやらとも言うし?

 とりあえずお爺ちゃんとの長期戦に備えてしっかり食べておこう。

 

***

 

「あらあら、それは本格的ね」

「そうなの、でも中には聞いたことない占いもあって……」

 

 それから一時間ほどだろうか?

 私は居間でお婆ちゃんの作ってくれたお昼ごはんを食べて、その後は文化祭であった出来事を話しながらお婆ちゃんとお茶を飲んでいた。もちろん一番重要な部分は省いて。

 でも、本当にこの後どうしよう?

 お客さんっていつ帰るんだろうか? こんな事なら普通にセンパイとギリギリまで遊んでいれば良かった……。

 まさか、泊まりとかじゃないよね?

 

「おーい、もう帰るそうだ!」

 

 そんな事を考えているとタイミング良く広間の方からお爺ちゃんの声が聞こえてきた。

 助かった。どうやら帰ってくれるみたいだ。

 

「あ、はーい! ごめんなさい、いろはちゃん。ちょっと待っててくれる?」

「うん」

 

 その声を合図に、お婆ちゃんが忙しなく立ち上がり広間へと向かう。

 一人で大丈夫だろうか? 手伝ったほうがいいかな? なんて迷っていると。

 やがて「いやいやいや」とか「どーもどーも」という独特で賑やかなやりとりが耳に届き。

 少しの立ち話を経てお客さんが帰っていくのを感じたので、私は二人が戻ってくるのを一人待つことにした。 

 さて、今度こそ本番だ。

 

* 

 

「おう、いろは。なんか待たせたらしいな、すまんすまん。どした? 小遣いでもせびりにきたか?」

 

 戻ってきたお爺ちゃんは、やけにヘラヘラと軽い感じで片手を上げながら私の方へと歩み寄って来る。

 でも、その空気に流されちゃいけない。

 私はピンと背筋を伸ばし、お爺ちゃんの目を真っ直ぐ見つめて、息を吸い込んだ。

 

「お爺ちゃん、話したいことがあるの」

 

 そんな私を見て、お爺ちゃんも何かを感じたのか、すっとその顔から笑みを消し少しだけ気まずそうに自分の顎を掻きながらテーブルの向かい──私の正面へと腰掛ける。

 

「……どうやら、真面目な話らしいな……楓! 悪いがこっちに茶持ってきてくれ!」

「はーい!」

 

 私から目をそらさずにお爺ちゃんがそう叫ぶと。素早い動きでお婆ちゃんが湯気の上る湯呑を持ってきた。

 まるでこうなることが始めから分かってたみたいな動きだ。

 お爺ちゃんも、私から視線をはずさずに、慣れた手付きで湯呑を受け取っている。

 その息のあった二人のやり取りに、思わず感心してしまった。

 

「それで……?」

「あ……えっと……」

 

 だが、そんな所を見ているとは思っていないお爺ちゃんは、正直少し怖いぐらいの形相で、私のことを見ながらそう問いかけてくる。

 その態度に思わず私も一瞬怯んでしまった。

 まずい、完全に頭が真っ白になっちゃった。

 えっと、なんて言うつもりだったんだっけ。どうやったら一番伝わる?

 そんな風に軽くパニックになる私の視界に、ふとあるものが映った。

 

「あー……あのね今日センパイの学校の文化祭にいってきたんだけど……これお土産!」

「文化祭の土産? ってなんだこりゃ……? 『熊になりたい』?」

 

 取り出したのは、ついさっきセンパイから購入した手作りのTシャツ。

 正直な所をいうと、あの時お米ちゃんの前で『お爺ちゃんにあげる』みたいな話をしたけど、実際にあげるつもりはなかった。だって、仮にもセンパイが作ったものだ。

 ちょっと……いや、割と……かなりダサいけど寝間着にでもしてセンパイを感じながら寝るぐらいならいいかななんて考えてたはずなんだけど……。

 

「それ、センパイが作ったんだって。だからお爺ちゃんに似合うかなと思ってお土産に買ってきた……」

 

 気が付いたら、口からはそんな言葉が出てきていて、今更撤回できるような雰囲気でもなくなってしまった。

 でも、お爺ちゃんはその言葉に満更でもない様子で「ほう、八幡が……」と呟くと先程とは違い、少しだけ口元を緩めて自分の体にそれを当てている。

 

「ちょっと小さい気もするが……わざわざ爺ちゃんのためになぁ、そうかそうか。嬉しいよ、ありがとう」

「う、うん……」

 

 その言葉にちょっとだけ心が痛むが。とりあえず機嫌は良くなったみたい。

 これならイケるかも。

 私は心の中でセンパイのTシャツに感謝しながら、今度こそと息を大きく吸い込んだ。

 

「それでね、お爺ちゃん……」

 

 徐に今着ているシャツのボタンを外し始め、そのTシャツを着てみようとするお爺ちゃんの「んー?」という生返事を聞きながら、私は自分の中で次に言う言葉を整理する。

 センパイ、私に勇気を下さい。

 そう願った瞬間、想像の中のセンパイに『やだよ、面倒くさい……』そう言われた気がして、思わず頬が緩む。

 うん、肩に力が入りすぎてたみたい。

 でも、今なら言える。今度こそ言うんだ!

 霧散しかけていた真面目な空気をかき集めるように、私はすぅっと息を吸い込んだ。

 

「私、やっぱり総武高受けたい!」

 

 背筋を伸ばし、まっすぐにお爺ちゃんを見ながら宣言する。

 そんな私の言葉を聞いて、お爺ちゃんはピタリと動きを止めた。

 

「……その話なら前にもしたと思うが……何か、あったんだな?」

 

 その言葉に私が大きく頷くと。コツコツと時計の針の音が響き、私とお爺ちゃんの間に僅かな沈黙が流れる。

 私の視線は真っ直ぐにお爺ちゃんを捉え。お爺ちゃんも逸らさない。

 五秒か、それとも十秒か。

 やがて、お爺ちゃんはふぅっと息を吐き、ボリボリと頭を搔くと。

 

「話してみろ」

 

 そう言って。外れたシャツのボタンもそのままに、Tシャツを横に置いて湯呑を一度だけ傾けた。

 

*

 

**

 

「なるほど……しかし、あんなに許嫁に反対してたお前がなぁ……」

「……」

 

 私が一通り文化祭での出来事を話すとお爺ちゃんは腕を組みながらウンウンと嬉しそうに一人勝手に納得しているようだった。

 うう……。そう、私宣言しちゃったんだった……。

 今考えるととても恥ずかしい事をしたと思う。

 あの人、好き好んで他人の秘密をばらまくタイプには見えなかったけど……大丈夫かな?

 口止めぐらいしておくんだった。

 今更になって自分がいかに軽率な事をしたのかという反省点が見えてくる。

 センパイの耳に入ってないといいんだけど……。

 

「まあお前がその気になってくれたのは素直に嬉しいんだが、思い切った事をしたもんだな」

「だって……お爺ちゃんが焦れっていうから……」

 

 そう、それもこれもお爺ちゃんの責任。

 総武に反対されたことも、焦れと言われたことも、全部全部お爺ちゃんが悪い。

 もし、お爺ちゃんさえ余計なことをしなければ、何事もなく総武に行けていたはずだし、なんなら今日だって文化祭を満喫できていたのに……全く。

 

「……一つだけ、謝っておこう」

「謝る? って何を?」

 

 しかし、意味不明の謝罪表明に私の苛立ちは一瞬で消え、思わず首を傾げてしまった。

 私何かされたっけ?

 いや、色々されてるけど……逆に謝られるような事が多すぎてお爺ちゃんの言葉が上手く入ってこない。

 

「お前が総武に行きたいって初めて言った日だよ。あの日本当はお前に『焦るな』と言わなければならなかったんだ」

「え?」

 

 どういう事?

 『焦れ』じゃなくて『焦るな』?

 それじゃあまるっきり意味が違う。

 焦れって言われたからこそ、あんな事したんだけど!?

 焦らなくていい事なんてあるの?

 

「だ、だって、お爺ちゃんが焦れっていうから……私すごい悩んで……! そうだ! お見舞い! センパイの所に女の子がお見舞いに来たってママが言ってた!」

「見舞い? ああ、あの子の事か。あの子はまぁ……どうだろうなぁ……」

 

 しかし、私の言葉を聞いてもお爺ちゃんは記憶を探るように視線を彷徨わせるばかりで要領を得ない。

 煮え切らないその態度に、私の中に再び苛立ちが湧いてくる。

 

「センパイの事狙ってる人がいるから許嫁として焦れって言ったんじゃないの? 学校とか……そのお見舞いの人とか、だから私てっきり……!」

「見舞いの子はともかく、八幡の学校での事なんて知るわけないだろ。なんだお前、八幡から学校で何があったとか逐一報告受けてるのか? あいつ意外とそういうタイプなのか?」

「……そういうのは……ないけど……えええ……?」

 

 確かに、言われてみればその通りだ、マメに自分の事を連絡をしてくるセンパイというのもあまり想像つかないし、ましてや『もしかしたら自分のことを好きな女子がいるかも』なんて自意識過剰な話をするタイプでもない。

 むしろ連絡するのを面倒臭がるタイプで、だからこそ私も返信がこなくて寂しい思いをすることだってあるのだ。

 でも……ええ……?

 つまり……どういう事?

 

「まあ八幡の学校での事は分からなくても。アイツが面倒くさい奴だって事はよく知ってる。ついでに言うとお前もだぞ? 似た者同士だと思ってるからな」

 

 完全に口を開けたまま固まってしまった私に、お爺ちゃんはツラツラと言葉を続けていく。

 

「それでもここまで早くお前がアイツの事を気に入ると思ってなかったし、そんなお前がアイツの事をちゃんと見ているのか不安でもあった。だからという訳でもないが、あいつが『許嫁』がいる状況で不誠実な事をする奴だとも思えんし本当はあの時『焦るな』と諭すつもりだったんだが……」

 

 お爺ちゃんは手元にあった湯呑を再びグイと傾け、中に残ったお茶をクルクルと回すように揺らしながら、私の目を見る。

 

「お前があの日、八幡と同じ高校に行きたいと言ってくれた事は素直に嬉しくもあったんだ。やはり儂の目に狂いはなかったと思えたからな。それと同時に情けなくもあった、将来のことだとか、ランクがどうだとかそんな適当な事ばかり並べるお前に正直ガッカリした」

 

 そういいながらお爺ちゃんは、湯呑を手放し、大袈裟なほどに分かりやすく肩を落とす。

 

「だから、お前が本当に総武に行きたいのなら、もっと本気の思いを見せてほしかった。それでつい……逆の事を口走ってしまった。すまん」

 

 そうか、じゃああの時お爺ちゃんはもう私の気持ちに気付いていたんだ……。

 

「なにそれ……じゃあ、今日私がしたのは全部早とちりだったってこと……?」

「それは分からんぞ? 儂は八幡の学校での現状を知らなかっただけだからな。お前が焦らなきゃならんと思ったのなら案外それが正しいのかもしれん。というか、そんな面白そうな事になってると知ってたら、儂だって行きたかったぐらいだ。まぁ、儂なら八幡とその子が紹介される現場に同行させてもらうがな」

 

 そんな風に冗談なのか本気なのか分からないことを言って、お爺ちゃんはガハハと笑うが、そこでふと想像してしまった。総武高にお爺ちゃんがいる光景。

 流石にお爺ちゃんが来るのはセンパイも嫌がるんじゃないかなぁ……。

 ましてや、知らない人? と会う現場には連れて行かないんじゃないだろうか。

 というか相手も困るだろう。

 私もお爺ちゃん同伴は流石に少し恥ずかしい。

 

「まあ、なんにせよこうしてお前が行動にでて、本気になってくれたという事は『焦れ』と言った事もそれほど間違いじゃなかったって事なんだろうよ」

 

 お爺ちゃんはそう言うと、再び笑い声を上げる。

 いや、こっちは全然笑い事じゃないんだけど……。はぁ……。

 

「とはいえ、大丈夫なのか?」

「大丈夫って?」

「総武にしろ海浜総合にしろ、この時期に文化祭に遊びに行くほど余裕があるのか? と聞いとるんだ」

 

 う……痛いところを突いてくる。

 

「それは……勿論ペースアップするつもり……。今日だって本当はもっとセンパイと遊んでくる予定だったけど途中で切り上げてきたし……最悪の場合は塾とか……」

「塾ねぇ……まぁ、正直に言えばまだ他にも不安はあるし、儂が思ってた形とは少し違うが……お前が本気だというのは分かった。総武、受けてみるか?」

「え? いいの!?」

 

 その一言で、私は思わず立ち上がり身を乗り出してお爺ちゃんに顔を近づける。

 やった!! これで問題解決!

 

「ただし!」

 

 でもそう思った私の顔の目の前に、お爺ちゃんは大きな手のひらを向けてきた。

 

「条件がある」

「えー……なにそれ……」

「いいから黙って聞け」

 

 ようやく総武行きが決定した。その喜びも束の間。

 お爺ちゃんは何やら良からぬことを考えている目で、私を見ながら顎をクイクイと動かしてくる、「座れ」という事なのだろう。

 どうやら、まだ完全には納得してくれてないみたい……。

 条件ってなんだろう? また変な事言い出さなければいいけど……。

 元の位置にもどり、不安な表情のまま姿勢を正す私を見て、お爺ちゃんはコホンと一度咳払いをしてから、ゆっくりと口を開く。

 

「なぁに、そんなに難しい事じゃない、とりあえず……お前が総武を希望していることを八幡にちゃんと伝えろ」

 

 だが、私の不安とは裏腹に、それは拍子抜けするほど簡単な内容だった。

 

「え……? そんな事でいいの?」

「そんな事とは言うがな、どうせお前の事だ、まだ言ってないんだろう?」

「……う」

「まずはそこをハッキリさせとかないとな」

 

 どうやら全部お見通しらしい。

 でも、今ここでこうしているのは何よりまずお爺ちゃんの説得を先に済ませなければと思っていただけでセンパイに話すのは私の中でも決定事項。

 一番の課題だったお爺ちゃんの説得が終わったのだから、その程度の事もはやハードルにすらならない。

 だけど、お爺ちゃんは次に指を二本立て、私の前に突き出してくる。

 ピース……? そんなわけないよね。

 

「それと二つ目だ。塾に行くぐらいなら、八幡の家庭教師の時間を増やしてもらえ。そうだな、週三……はいきなりは難しいかもしれんが、とりあえず週二ぐらいならなんとかなるだろ。最低週二これが二つ目だ」

 

 私の予感は的中。

 ピースではなく二つ目の条件。でもそれもまたセンパイ絡みだった。

 単純に勉強時間を増やせって事?  週二で来てくれるならそれに越したことはないと思うけど。センパイが受けてくれるだろうか?

 絶対嫌がるだろうなぁ……。というか嫌がられる未来しか見えない。

 そう考えると確かにハードルの高い条件な気もしてきた。

 

「えー!? それはお爺ちゃんが説得してよ! 絶対無理だよ」

「無理だぁ? それぐらいの説得出来なくてどうする。増えた分のバイト代はちゃんと出すんだ。話ぐらいは自分でつけろ。お前の許嫁なんだろう?」

 

 「お前の許嫁」という所でお爺ちゃんが意地の悪い笑みを浮かべたのを私は見逃さなかった。

 これは私が葉山先輩に許嫁宣言したことを面白がっているのだろう。

 

「それとも、八幡じゃ不満か? 塾じゃなきゃ合格する自信はないか?」

「そんな事は……ない……けど」

 

 それは本音の部分でもあった、私としては毎日センパイが来てくれたっていい位だし。

 まあ、その分勉強に身が入らなくなる可能性もあるのだけれど……。

 現状センパイが目の届く所にいてくれた方が余計なことを考えなくて済むというメリットの方が大きい気がしている。

 

「なら頑張るんだな」

 

 そんな私の心境を知ってか知らずか、お爺ちゃんは「ふっ」と息を吐きながらそう告げ、再び自分の右腕の指を三本立てて私に見せつけてきた。

 どうやらまだ条件があるみたい。

 

「それともう一つ。年内にもう一回模試の結果を持ってこい」

「まぁ……模試は私も考えてたし、ソレぐらいなら……でも年内に間に合うかな?」

 

 言われるまでもなく、模試自体は私ももう一度受けるつもりでいた。

 しかし、前回は返信がくるまでに一月近く掛かっている。

 年内に結果を持ってくるとなると十一月ぐらいに受けないといけない事になるのだろうか? となるとそこに向けての勉強時間も短くなるから……色々な意味で間に合うか心配だ。

 

「別に前と同じ所じゃなくても、なんならオンライン? とかいうのでもいい。この時期の模試なんて探せばいくらでもあるだろう。とにかく今年中にお前が本気だという証明──『A判定』をとってこい。それぐらいの努力はできるんだろ?」

「え!? ……Aって……もうちょっとハードル下がらない……?」

「なんだ自信ないのか? 絶対入るって言ったんだろう? Aぐらい取れなくてどうする。それとも取れるか分からないからと諦めるか?」

「むー!」

 

 ここに来て具体的なハードルが用意されてしまった。A判定……かぁ。

 これは明らかに私に対する当てつけだと思う、今の私に取れるはずがないと思っているのだろう……。

 

「爺ちゃんとしては、まだ高校は別のほうがいいと思っとるからな。そのナントカっつー先輩に許嫁宣言した気概があるなら、爺ちゃんにもその本気を見せてみろ」

「あんまりそれ言わないでよ……自分でもやりすぎたとは思ってるんだから……お爺ちゃんの意地悪!」

「なんにせよ、年内にA判定だ。ここは譲らんからな」

「……はーい」

 

 まぁ、まだ模試にしても一ヶ月以上あるわけだし。本気でやればきっとなんとかなるだろう。

 別に私自身頭が悪いってほどでもないはずだし。後は私のやる気次第。

 うん、そう考えると行けそうな気もしてきた。

 今の所、難しそうな条件はセンパイの説得ぐらいだ。

 これならなんとかなりそう。

 希望の光が見えてきた気がする。そんな事を考えていると、お爺ちゃんが今度は四本目の指を立てて来る。

 

「それから……」

「まだあるのぉ?」

「あなた、もう五時回ってるんですよ? そろそろ帰してあげないと」

 

 正直もううんざりしはじめた私に、救いの手を差し伸べてくれたのはお婆ちゃんだった。 

 ふと時計を見上げると確かに十七時を回っている。

 いつもだったらもうセンパイと部屋にいる時間だ。

 

「おお,もうこんな時間か、そういや今日土曜だろ? 八幡来るんじゃないのか?」

「ううん、今日は何時間かかってもお爺ちゃんを説得するつもりできたから、センパイにはお休み貰ってきた。まあお客さんのせいで急いで来たのは無駄になったけど……」

「そうか、んじゃその気概に免じて条件は三つだけにしてやろう」

 

 少しだけ嫌味ったらしく私がそう言うと、お爺ちゃんはそう言って腕を下ろす。

 どうやら四つめの条件が無くなったらしい。

 休みにしてもらって正解だったみたい。

 でも、今日はもうセンパイに会えないのかぁ……。土曜日なのにこの時間にセンパイがいないのって、なんだか少し寂しい。

 

「じゃあ、話もまとまった所で、どうだ? 久しぶりに今日は三人で夕飯でも食いに行くか?」

「そうしたい所だけど、でも今日はもう帰る。ちょっとでも勉強しなきゃだし」

 

 その提案には心惹かれるものがあるが、これ以上変な条件を増やされる前にさっさと退散したほうが良いだろうという思いの方が勝っていた。

 それに、勉強しないといけないと思っているのは本当だったし、模試の条件も付け加えられた今となっては一分一秒が惜しい所でもある。

 

「ああ、そうか……そうだったな。なら、車で送ってやろう」

「いいの!? ありがと!」

 

 「よっ」と重そうに体を持ち上げ、廊下へと歩いていくお爺ちゃんに続き、私も身支度を整え立ち上がる。

 車で送ってもらえる事を期待していなかったというと嘘になるが、最悪喧嘩別れみたいな事も考えていたのでその申し出は素直に嬉しかった。

 そういう意味でも今日来たのは本当に正解だった。今夜は久しぶりにゆっくり寝られそうだ。

 

「お婆ちゃんもありがとう」

「ちゃんと、お勉強頑張るのよ?」

「うん」

 

 お婆ちゃんにお礼を言って、お爺ちゃんの後を追い部屋を出る。

 少し先には鍵を回しながら玄関へと向かうお爺ちゃんの姿があった。

 

「じゃあ楓、儂はいろはを送っていくから……」

「はいはい、お夕飯の支度をしておきますから、安全運転でお願いしますね」

 

 私の前では強気なお爺ちゃんも、お婆ちゃんの前では形無しだ。

 でも、この二人がとても息があった仲良しの夫婦なのだという事を私は知っている。

 いつか私も、センパイとこんな風になれる日がくるのだろうか?

 

「じゃあねお婆ちゃん!」

「ええお勉強頑張ってね」

 

 そうして玄関を出て、お爺ちゃんの車へと乗り込む。

 お爺ちゃんの車に乗るのも随分と久しぶりだ。

 ましてや二人きりなんて何年ぶりだろう?

 何か喋ったほうがいいよね……?

 『ありがとう』? それとも 『頑張る』?

 あ……『ごめんなさい』かも……。

 今日、そしてこの間のお爺ちゃんとのやり取りで、私が今いうべき言葉を必死に考える。

 

「最後に聞いておくが。総武に行くってことはお前……八幡との許嫁は来年も続けるつもりなのか?」

 

 でも、私が口を開くより先にお爺ちゃんがゆっくりとハンドルを切りながら。そんな事を聞いてきた。

 今更一体何を言っているのだろうとは思う。

 初対面の人に許嫁宣言して、センパイを追いかけて同じ高校に行くとまで言っている私にそれを聞く?

 聞くまでもない、こんなの小学生にだって分かる問題だ。

 でもお爺ちゃんはきっと自分の口から言わせたいのだろう。

 まぁどうせお爺ちゃんにはもうバレているのだ今更恥ずかしがる必要もない。

 なら、変に言葉で飾る必要もないか。

 答えはシンプルに。

 

「もちろん!」

 

 その一言で、お爺ちゃんは顔を皺くちゃにして嬉しそうに笑ってくれた。




というわけで46話でした。
いつもの如くあれやこれやは活動報告へー……

としたい所なのですが、活動報告はログインしているユーザー様しか見られないという事に(今更)気づきました。
すみません、見られない人も結構居られたのですね。
どうしようかなぁ。活動報告自体は続けるつもりですが。
後書きの使い方を少し改めようかなぁ、なんて……。

ちょっと悩み中です。暫くお待ち下さい。

※追記
どうやら私の勘違いでログインしてなくても普通に見れるみたいです
お騒がせしました。


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第47話 勘違い、思い違い、すれ違い

いつも感想、評価、誤字報告、お気に入り、メッセージ、ここスキありがとうございます。

とうとうやってきました47話
楽しんでいただければ幸いです。


 その週の土曜日は、久しぶりに朝から雨が降っていた。

 小雨とも霧雨とも言いづらい、なんとも中途半端な弱い雨が夕方には止むだろうという天気予報を大いに外し、パラパラといつまでも屋根を打っている。

 秋の長雨。所謂『秋雨』という奴だろうか。

 秋沙雨ではない。傘を持っていたらやりたい技ベスト10……いや、50に入るか入らないかという某国民的RPGに出てくる刺突技だが、アレは危険な技だ。迂闊に真似をすると痛い目にあう。

 具体的に言うと凄く白い目で見られるし、なんなら職質される。ソースは俺。

 そもそも残像が残るほどの連続突きって現実にできる奴いるの? 本人の脳内イメージじゃないの? 店のガラスに映った自分の姿とか死にたくなるぞ本当。あと普通に危険。良い子は絶対真似してはいけない。

 まぁ、今日の俺は霹靂○閃の気分だから関係ないけどな。

 ああ、眠っている間に嫌なことが全て終わってくれたら良いのに。

 

「あれ? お兄ちゃんもうバイト行くの?」

 

 そんな事を考えながら、一人玄関で傘を探していると、未だにパジャマ姿のだらし無い妹小町──略して『駄もうと小町ちゃん』が現れた。

 コーラとぽてちを抱えて身長を自由自在に変化させそう。

 

「ああ、雨だからな」

「おお……、お兄ちゃんが社畜に進化した」

 

 普段ならこういう日は「暇だ暇だ」と鬱陶しい小町だが、今日は朝から「ダルいダルい」とブーたれながら、ソファでごろ寝をしていた。最初は雨のせいかとも思っていたのだが、少し頬が赤い気がするので風邪でも引いたのかもしれない。

 

「経験上こういう日は早く行ったほうが良いんだよ」

 

 まだ十六時前の時計を見ながら驚く小町に、俺はそう答えた。

 というのも、実際これまでこういう日──雨の日のバイトは何か起こることが多かったのだ。

 ある時は迎えに来いと催促の電話がなったり、またある時は「来ちゃった」と知ってるおっさんにアポ無し家凸をされた事があるからな。

 まあ流石に今日も何かが起こると思っている訳ではないが、もしかしたらという思いは消えず、やる事も無いのでただ時間が来るのを待つぐらいなら、少し早めに出てコンビニでも寄りながらバイトに向かうのも良いだろうと考えた結果の事だった。

 

「んじゃ留守番たのんだぞ」

「はーい……。あ! お土産買ってきてね」

 

 見送りに来てくれたのかと思ったら土産の催促かよ……。

 

「小町ちゃん? お兄ちゃん別に遊びに行くわけじゃないのよ?」

「小町プリンがいいな♪」

 

 玄関のドアノブに手をかけながら、小町を注意するが、当の小町はキラキラとした瞳を俺に向けてくるだけ。

 全くこいつは自分の兄をなんだと思っているんだ。

 これからバイトに行くのだから「頑張ってね」の一言もあってもいいだろうに。

 ここは一つガツンと言ってやらねば。

 

「……コンビニのやつな」

「ワーイ、オニイチャンダイスキー。いってらっしゃーい」

 

 よし、言ってやった。そして『大好き』も頂いた。若干棒読みだった気もするが、きっと喉の調子が悪かったのだろう、うん。

 今日は十月の初週、給料日だし見舞いの品としてプリンぐらいなら可愛いものだ。

 

 そう考え玄関をくぐり、ドアを締めると背後からガチャリと鍵が閉まる音がした。

 せめて見えなくなるぐらいまで見送ってくれてもバチは当たらんと思うが……。

 まあ、体調不良みたいだから玄関まできてくれただけ良しとするか。

「いってきまーす……」

 

 閉められた扉の前で一人そう呟くと傘を開き『やっぱギリギリまで家にいれば良かったかもな……』という後悔と共に歩き出す。

 

 あ、傘開く前に霹○一閃するの忘れた。ちくしょう。

 

***

 

「先週はすみませんでした」

 

 もみじさんから無事給料を貰い、二週間ぶりに一色の部屋へ入ると。何故か一色は頭を下げてきた。

 

「すみませんって、何が?」

「ほら、途中で帰っちゃったじゃないですか」

「ああ、まあ別に急用なら仕方ないだろ」

 

 そう、別に急用が出来た事は良いのだ。仕方がないと思っているのは本当だし、責めるつもりもない。

 何をしにいったのか気になったのは確かだが、おっさんに何かあったわけではないらしいし、こちらから詳しく聞くのは流石に野暮というものだろう。

 

「そう言ってもらえるとありがたいんですけど……あの後何かありました?」

「何かって?」

「ほら……葉山先輩から紹介したい子がいるとか言われてたじゃないですか?」

「ああ……あれか」

 

 その一色の問に、何か違和感のようなものを覚えたのだが。考えようとするとまたモヤモヤとした感情が湧き出てきそうだったので、俺は一度目を閉じて、思考を切り替える。

 思い出すのはあの日一色が帰り、小町を送った後の事。

 

 閉会式が終わり、一般客の姿も見えなくなって、沈む夕日を背景に、生徒連中が打ち上げだなんだと騒ぎ始めた頃。

 当然、打ち上げなんて誘われてないし、誘われたとしても行く気もない俺が、片付けを押し付けられ一人教室で作業をしていると不意に肩を叩かれた。

 また何かの仕事の押し付けだろうと思い、ウンザリしながら振り返るが、そこにあったのは昼間会ったイケメン──葉山の姿。

 一体何の用だろう? カツアゲか? と一瞬警戒こそしたものの、昼間「誰かに会わせたい」とか話していたのを思い出して、とりあえず話を聞いてみることにしたのだが──。

 

「なんかわからんけど『無かったことにしてくれ』って言われたな」

 

 そう、本当によく分からない事に。突然のキャンセルの申し出があったのだ。

 律儀な男だとは思う。 

 そもそも、はっきり約束したわけでもないので態々断りを入れに来る必要もないし、友達でもないので放っておけばお互い自然に忘れていただろう。

 寧ろ逆に期待値を上げさせるために言いに来たのではないかとすら邪推してしまうほどだった。

 

「へぇ、そうなんですか」

「まあ、ああ言って俺がどんな反応するか見る罰ゲームかなんかだったんだろ」

 

 正直、その説が一番濃厚だ。

 あの時、俺を遠巻きに見ている奴が何人か居たのかもしれない。

 最初の声掛けの時点で、それほど面白い反応をしたわけでもないから冷めたという可能性もあるか。

 まあ、変に動画で拡散されたりしてなければ問題はないだろう。 

 しかし、一色の声が少し嬉しそうに聞こえるのは気の所為だろうか?。

 

「そうだったら良かったんですけどねー」

「まあ、どうでもいいだろ。それよりいい加減勉強するぞ。時間も押してる」

 

 一時間も早く家を出たというのに、時刻はすでに十七時三十分を回っている。

 まあ、別に一色家に着いたのが早かったわけではないのだが。

 今日は給料日というのもあって、事前のもみじさんとの会話に時間を取られたからな。

 これ以上遅れるのは流石にまずいだろう。

 だが、俺がそう言っていつものクッションに腰掛けると。

 一色が少しだけ真面目な表情で、俺の事を見下ろしてきた。

 

「……センパイ、その前にお話があります」

「いや、話は飯の時にでも……」

 

 一色の言葉に、俺が時計を見ながらそう返すと、一色は静かに自分の椅子に腰掛け、俺の顔を真っ直ぐに見つめ──

 

「大事な、話なんです」

 

 ──そう続けた。

 どうやら、聞かなければならない話らしい。

 はぁ……。

 

「……で……何?」

 

 もう分かっている。コレまでの経験上こうなると俺の意見は通らない。

 変にごねるより、さっさと話とやらを聞いてしまったほうが早いだろう。

 そう判断し、俺は体を少しだけ一色の方へと向けた。

 まぁどうせ大した話じゃないんだろうからさっさとしてくれ……。

 

「私、志望校変えようと思うんです」

 

 は?

 メチャクチャ大した話だった。

 え? このタイミングで? 何故? Why?

 

「海浜やめるの? なんで? どこ行くつもり?」

 

 少しだけ混乱する頭を必死で立て直し、俺は一色にクエスチョンを投げつける。

 もしかして、夏の模試がB判定だったのが怖くてランク下げるとかだろうか?

 いや、流石にそれは卑屈すぎないか?

 にしても一体どこに……?

 

「えっと……総武に……」

 

 だが、次に一色の口から出てきたのはとても聞き馴染みのある学校の名前だった。

 

「うち?」

 

 え? 総武って、海浜総合より若干だがランク上だよな? え? ……上げるの?

 いや、だって……え? もう十月だぞ? は?

 ウチに来るの?

 

「駄目……ですか?」

「いや、駄目ってことはないが……」

 

 驚きこそしたが、否定をするつもりはない。

 そもそも俺がどうこう言える立場ではないのだ。

 志望校なんて本人が好きに決めればいいと思っている。

 ああ、でもこいつの場合はおっさんに進路決められてたんだったか。

 

「おっさんはなんて言ってんの?」

「お爺ちゃんには先週話して、条件付きで許可してもらいました」

「先週……?」

 

 つまり先週の急用というのは……おっさんとの交渉?

 あのタイミングで総武行きを決めたってことか?

 でもなんで……?

 あの日、何かあったのか?

 

 いや、待て。あった。

 そうだ、一色が一度目の急用でどこかへ行き、合流する時の電話口から聞こえた一色の声。

 

 『葉山先輩、特別棟ってどこですか?』

 

 確かに、そう聞こえた。

 だから、俺はあの時一色と一緒に居たのが葉山だという事には気が付いていた。

 つまり……最初の急用は『葉山と会うこと』で、志望校変更の理由も……葉山?

 

「センパイ? 聞いてます?」

「あ、ああ。条件がなんだって?」

 

 一色にセンパイと呼ばれビクリと体が震える。

 そうか、こいつ、ああいうのがタイプ────いや、俺には関係無いことか……。

 とりあえず今は条件とやらを聞くことに専念しよう。

 

「それが……その……一つ目は今クリアできたんですけど……他の条件が結構やっかいでして」

 

 あのおっさんの事だ、どんな無理難題を押しつけてきても不思議ではない。

 そう考え、身構えていたのに肩透かしを食らう羽目になった。

 一つ目はクリア? え? クリア出来た? ちょっと何を言ってるかわからないが……まあクリアしたというのであれば問題ない……ないのだろうか?

 まあないか、気にしない事にしよう。

 案外、俺が知る必要の無い情報という事なのかもしれない。葉山とか葉山とか葉山とか。

 あれ、なんだかモヤモヤしてきたな……小町の風邪が感染ったのだろうか……?

 

「……それで、二つ目は?」

「えっと……二つ目はセンパ……あ、いやその……模試でA判定を持ってこいって言われました。あ、模試を受ける場所はどこでもいいみたいです。とにかく年内にAを取ってこいって」

 

 どこでも良いというのは、多少甘めの設定をしているところを狙うのもありという事だろうか?

 夏にBが取れたなら冬の模試でAは十分狙える範囲なのだが、一色が夏に受けた模試は総武ではない。

 

「Aって……夏の模試、海浜で受けたんだろ? ほぼ一発勝負になるぞ?」

 

 そう、一色が持ってきたのは海浜総合でのB判定のはずだ。

 まあ総武のほうが多少ランクが高いとはいえ、世間的には本当に僅かな差なので、ワンチャン総武を受けていてもBだったと言い張れない事もないかもしれない……。

 元々一色はある程度出来る奴なのだ。

 ならば案外良心的な条件なようにも思える。

 

「あ、そうそう、それなんですけど。コレ見て下さい」

 

 そんな俺の考えを察してか、一色は何かを思い出したかのように椅子をくるりと回転させ、机の引き出しからクリアファイルを取り出し、俺に渡して来た。

 中を見ろという事だろうか?

 

 もしかしたら試験結果が入っているのかもしれない。

 この時期だと……中間テストか?

 まあ中間で良い結果がでたというならば、ある程度朗報と言えなくもないが……。

 だが、中を開いてみると、そこに入っていたのは以前見せてもらった『海浜総合 B判定』の用紙。

 ん? これが、なんだっていうんだ?

 

「そっちじゃなくて二枚目の方です」

「二枚目?」

 

 俺が怪訝そうにその用紙を見ていると、一色がそう言うので、手に持っていたクリアファイルをもう一度よく見てみる。

 ああ、なるほど、もう一枚入っているのか。

 

 そう、クリアファイルの中にはもう一枚紙が挟まれていた。

 それはあの日見ることができなかった、フッターに「2/2」と書かれた紙。

 存在するのではないかとは思っていたが、まさか本当に目にする日がくるとは。

 つまり、これがあるから、一色も自信を持って総武を目指せたわけか。

 あの時既に総武高でB判定を受けていたというのであれば、一色が強気に出るというのにも納得出来る。

 そう思い、俺はゆっくりと二枚目の用紙に視線を落とした。

 だが、そこには……

 

 『総武高校:C判定』

 

 という少し残念な結果が記されていたのだった。

 

「ってCじゃねぇか」

 

 ワンチャンBって言い張れないじゃん。はっきり結果出ちゃってるじゃん。駄目じゃん、下がってるじゃん。

 いや、今の渡し方ならBだと思うだろ。

 俺の期待を返して欲しい。

 

「ほ、ほら。センパイ言ってたじゃないですか。C判定だったら志望校変える選択肢もあるって……」

 

 少しだけ呆れを混ぜた横目で一色を見ると、一色は慌てて視線を逸し、身振り手振りを交えながらオタオタと説明というか言い訳を始めてくる。

 

「いや、Bを蹴ってCの方にするのはオカシイだろ。どういうリスク管理だよ……」

「お願いしますよセンパーイ、私どうしても総武行きたいんですー!」

 

 俺に言われてもなぁ……。

 いや、待て……夏の模試の時点で総武行きを考えていたという事は葉山とは関係ないのか?

 まさか俺を追いかけて……?

 なんてな。そんな事があるはずがないだろう、自惚れるな比企谷八幡。

 元々一色自身も過去に『制服が可愛いから総武高も考えていた』と言っていた。

 総武を受けようとしていた事自体に不思議はないだろう。

 それに、一色が葉山と出会ったのは先週とは限らな……。

 

 そこで、ふとさっきの違和感の正体に気が付いた。

 こいつ葉山の事『葉山先輩』って呼んでなかったか?

 元々同じ学校に通っていたというならともかく、初対面の、ましてや接点のない人間を先輩と呼ぶのは流石に少し不自然な気がする。

 一色が誰彼構わず年上に対しては先輩呼びをする性格だった? いや、俺普通に初対面の時『比企谷さん』って呼ばれてたよな。

 やはりおかしい。

 ……一色と葉山が会ったのは先週が初めてではなく、元々知り合いだった?

 そうだ、思い返してみれば今日も、文化祭のあの日も。そう呼んでいた。

 そういえば教室で葉山と会ったあの時。小町も一色も葉山の事を知っているような口ぶりだったな。

 つまり、元々葉山狙いで総武行きも考えていたが、文化祭でそれが決定的になった……?

 

 一つ一つ謎が解けていくような、パズルのピースがハマっていくような感覚を感じる。

 だが、何故か一向に『解けた』という爽快感はやってこない。

 それどころか、モヤモヤとした黒いものが胃の奥底に広がっていく感覚が俺を襲う。

 本格的に風邪だろうか……。

 不思議と少し息苦しくなってきた気もする……まずいな、早退も視野にいれるべきか。

 

「それと条件がもう一つありまして……」

「まだあんの?」

 

 だが、一色の話は止まらない。

 三つ目の条件があるという。

 まぁ、今更何が来ても驚くまい。

 あのおっさんの事だ、どうせ碌でもない事なのは分かる。

 一つ目の条件はよく分からんが、二つ目がA判定ってことは。三つ目は……?

 ああ、そうか。そういう事か。

 理解できた。

 志望校のランクを上げ、その学力が足りていない現状。

 

 今、必要なのは学力、そして時間。

 これから導き出される答えは一つ、俺の解雇……つまりク──

 

「センパイ、来週からカテキョの時間増やしてもらえませんか?」

 

 ──ビええ? 

 時間を増やす? おかしくないですか?

 俺素人なんですけど?

 

「は?」

「『センパイに週二以上家庭教師してもらうこと』が条件なんです」

「いやいや、おかしいだろ。そういう時は普通塾とか通うんじゃないの? それかプロ雇うとか。なんで俺? どうせなら葉……」

「は?」

 

 どうせなら葉山にでも頼めよ。

 そう言いかけ、ふと気が付いた。

 なんで俺、こんなに葉山に拘ってるんだ?

 

 そもそも俺は一色とどうこうなりたいなんて考えていたのか?

 元々一年だけの許嫁関係。

 ソレ以上でもソレ以下でもない。

 一年後にはその関係はリセットされる。

 

 万に一つでもそのままゴールインなんて考えていたのか? ありえないだろう。

 そもそも許嫁という言葉が既に胡散臭い。

 以前小町も言っていたはずだ。許嫁という言葉にいいイメージを持っていなかったと。

 俺自身もそれに同意した。

 許嫁なんて所詮主人公に対する当て馬でしかないのだから……。

 

 その瞬間。

 俺の中の最後のピースがハマった気がした。

 

 そうだ、主人公だ。主人公なのかもしれない。

 葉山が主人公であるならば全てに納得がいく。

 つまり全ては『やはり俺がイケメンと呼ばれるのは間違っている』につながる伏線。

 葉山というイケメン爽やか主人公。材木座という何故か女子に詳しい友人キャラ。俺というモブの当て馬。

 そして……ヒロインである一色いろは。

 一色は葉山を追い総武へ行き、立ち塞がるであろうおっさんと対峙、俺を踏み台に葉山と結ばれる。

 分かりやすいシナリオじゃないか。

 アニメ化は微妙なラインだが、展開次第では五巻ぐらいまで続くかもしれない。

 

 そう、忘れてはいけない。そもそも一色いろはが俺の許嫁だという事が間違っているのだ。

 全く、俺は何度同じ過ちを繰り返せば気が済むのか。

 本当に自分が嫌になる。

 どんなに今の環境が心地よく、ぬるま湯のようにいつまでも浸かっていたいと思っていても。

 終わりは必ず来る。ましてや一年という期限は最初から設定されていたのだ。

 

 一色は無理矢理俺という男をあてがわれた被害者で、自由になる権利がある。

 だったら、俺に出来ることはなんだ?

 ここで降りる?

 違うだろう。いくらなんでもココで癇癪を起こして自分勝手に役割を投げ出すほど、俺は子供じゃないはずだ。

 一色には……一色家には本当に良くしてもらった。

 

 まぁ正確に言うなら、俺も一色同様被害者なのだが。俺は既にその対価を貰っている。

 それは誕生日であったり、他人の家での温かい夕食であったり、俺がコレまでの人生で手にすることのなかった形のない何か。

 ここで身を引く事が俺にとっての最善だとしても、事後処理もせず去る事は許されない。

 俺にだって引き受けた責任もアレば、感じる恩義もある。

 

 ならば、ならばせめて。

 こいつの人生のほんの一部に、俺のような許嫁がいたという汚点が残らないように、俺に出来ることをしよう。

 こいつを……一色を総武に入れる手助けをしよう。

 それを望まれて、それが、俺に出来る唯一の一色家への恩返しなのだとすれば。

 この条件を飲むのは俺の義務でさえある。

 

「……分かった」

 

 そう思うと、おっさんの出した理不尽な条件も俺の中にストンと落ちていった。

 もしかしたら、これはおっさんがくれたチャンスでもあるのかもしれない。

 何度も同じ過ちを犯す俺を、ほんの少しだけマシにさせるための、そんなラストチャンス。

 

「そこをなんとか! お願いしま──え?」

「分かったって言ったんだ。週二で来ればいいんだろ?」

「あ、はい……ありがとうございます?」

 

 俺が三つ目の条件とやらを了承すると、何故か一色は目を丸くしながらそう答える。

 なんだ? 受けちゃまずかったのか?

 ああ、もし断られたら葉山に頼むつもりだったのか……。

 少しだけ悪いことをした。

 だが、それがおっさんの出した条件なら、ここは我慢してもらおう。

 

「じゃあとりあず日程決めだな。日曜……はちょっと勘弁してほしいから、水曜か金曜でどうだ?」

 

 決心した今の今で情けない話でもあるのだが、丸一日の休みが無くなるのは流石に避けたい。

 というか、元々俺は働きたくない性分である。

 平日は学校で、土日はバイトなどという遊ぶ時間もない勤労青年に成る気はない。

 まぁ水曜ならば体育もないし比較的体力に余裕がある、金曜は金曜で翌日が休み、金土と二日連続にはなるが日曜に休めるなら許容範囲だろう。

 

「はい、水曜と金曜ですね!」

「いや、水曜“か”金曜だからね? “and”じゃなくて“or”。それだと週三になっちゃうでしょ?」

 

 しれっと日程を増やそうとする一色の言葉を慌てて修正する。

 なんでちょっと不服そうなのこの子は……。

 いくら家庭教師とはいえ、素人の俺の授業量が学力に直結するわけではないということを理解して欲しい。

 

「お爺ちゃんは『週二以上』って言ってましたから別に週三でも問題ないですよ? ちゃんとお給料は出るそうです」

「まあ、よっぽどやばかったらな……そんな急に増やされても何したらいいか分からんし。とりあえずどっちかにしてくれ」

 

 そう、バイト時間が増えても、それに見合う授業を出来るとは限らないのだ。

 これまでの授業だって毎回行き当たりばったり。

 これといった教材もなく、やるのは主に復習。今日ですらノープランなのだ。

 そんな状況でバイト時間だけ増やされても碌な事にはならないだろう。

 

 復習が無駄だと言うわけではないが、次の模試でA判定を取るという目標が定められている状況では、今までと同じことをやっていては間に合わないというのは分かる。

 一応次回以降の授業に関しては何か考えてくるつもりだが、無闇に日程だけ増やしても一色の邪魔になる可能性が高い。

 まずは今後の予定を組まないとな……。

 

「むー……じゃあ水曜で」

「了解、じゃあ来週からは、水土で……時間は同じでいいか?」

「はい。放課後お待ちしてます」

 

 これで来週からのシフトが増えた。

 週二か。まあ先月からバイト代が半分になった事も考えるなら、やはり許容範囲だろう。

 そういえば最初の頃おっさんが『毎日でもいいぞ』とか言ってたが……このままなし崩し的に増えていきませんように……。

 

「ただ、A判定とれるかどうかはお前次第だからな? そこは責任もてん」

「それは……はい。頑張ります!」

 

 まあ、それもこれも、一色の学力次第か。

 とにかく今は、俺に出来る全ての力を持って、こいつを総武に入れる手助けをしよう。

 正直不安も……いや、不安しか無いが。

 総武に入った後、一色がどうするかは知ったことじゃない。

 

 同じ学校なら、もしかしたら廊下ですれ違うくらいの事はあるかもしれない。

 だが、それだけだ。

 もう俺と一色の道が交わる事はない。

 ただ、お互い目も合わさずにすれ違うだけ。

 それが元々の俺の生き方だと、思っていたはずなのに。

 

 なのに……なのになんで、その光景を思い浮かべるだけでこんなにも孤独を感じてしまうのだろう。

 ああ、やはり胃が重い。今日は夕飯は断って、早く帰って寝るとしよう。




予定調和。

この辺りの展開は皆さん予想されていた通りかと思いますが、いかがでしたでしょうか

前回の後書きで書いた「活動報告はログインしてないと読めない」
は私の勘違いだったようなので
今まで通りの形で行こうと思います。
お騒がせいたしました。

というわけで、引き続き細かいあれこれや
どうでもいい作者の独り言に興味のある方は活動報告を御覧下さい。

感想コメント等はツイッターでも受け付けておりますのでよろしくお願い致します。(大したことは呟いてませんが配信日告知とか、一日限定嘘予告とかやってます)


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第48話 募る思い

いつも感想、評価、メッセージ、誤字報告、お気に入り、ココスキありがとうございます。

前回予告したとおりちょっと早めの投稿……ということで
頑張ってみました!
「どうせ次の投稿も遅いだろう」と思って47話をまだ読んでないという方はお気をつけ下さい。


 『好き』という気持ちを口に出すと、その気持はどんどん大きくなっていく。という話を聞いたことがある。

 じゃあ『あの人は私の許嫁です』と口に出す事にはどんな効果があるのだろうか?

 許嫁としての意識が強くなる?

 それとも同じように、好きっていう気持ちが大きくなる?

 ううん、多分……ソレ以上に『その人と一緒にいたい』っていう思いが強くなっていく。

 そんな気がする。

 

*

 

 あっけないほどスムーズにセンパイの説得に成功し、センパイがうちに来る日が週に二日になってはや数週間。

 センパイは思っている以上に私の気持ちに寄り添ってくれていた。

 初日こそ、「お腹の調子が悪い」とか言って、帰ろうとしてたけど。ママが「食欲がないならお粥を作る」「風邪なら車で送っていく」「ツラいなら布団を敷くから暫く休んでいって」と慌てていたら逆に気を使ったのか「トイレ行ったら治ると思います……」と観念したように少しだけトイレに籠もって戻ってきた。

 やっぱり、週二になるの嫌だったのかな? と少し心配にもなったけど、それ以外は文句も言わず、去年自分が使っていたノートを持ってきてくれたり、参考書選びを手伝ってくれたりと一緒に総武高へ行くための道筋を考えてくれているので、多分本当にお腹の調子が悪かったんだと思う事にした。

 

 センパイのノートは正直に言えば決して読みやすいという類のものではなかった。

 汚くて字が読めないという事でもないのだけれど、誰かに見せることを想定していない感じ?

 特に多いのは国語で良くわからない慣用句とかが散りばめられている。

 逆に言うと、誰かに借りる必要性がないほど細かい書き込みが至る所にされており、とにかく自分だけが分かればいい。というまとめ方をされている。

 センパイの脳内と合わさって一冊のノートという感じだ。

 

 でも、不思議とそれを使いにくいとは思わなかった。

 わからない所はセンパイに解説をお願いすれば普通に教えてくれるし。

 センパイの頭の中を知れたような気がしてむしろドンドンと意欲が湧いてくる。

 それに、センパイとお喋りする時間が増えていくのが何より嬉しい誤算だった。

 

 ああ、センパイは去年こういう勉強をしてたんだ。

 センパイはこうやって暗記したんだ。

 そういう風にセンパイと同じ道を辿っているという事実が何より嬉しく感じて、勉強が楽しくなってくる。

 あれ? 私センパイの事好きすぎ?

 

 一応言っておくと、センパイがいないと勉強をしていないということではない。

 勉強時間は以前までと比べると倍以上……というより、食事と睡眠以外の時間は勉強をしていると言っても過言ではない。

 でも、だからこそ、センパイといる時間が唯一の楽しみになっているのだと思う。

 

 ああ、週二なんて言わずもっと来てくれたらいいのに。

 その方が効率も上がるし、変に躓かなくて済む。

 そうだ、センパイに聞かないとって思ってた所があったんだ、お願いしたら明日来てくれたりしないかな?

 

 明日はバイトの入っていない金曜日だけれど、もしかしたらという思いを込めて、その日の夜私はLIKEでメッセージを送ってみることにした。

 

【センパーイ、ここ意味わかんないんですけど】

【ここってどこだよ……せめて写真送ってくれ】

【えー? ここですよ。こーこ! 小さくて読めないんです】

 

 センパイに言われ私は該当箇所をカメラで撮って送信する。

 あ、でもこれビデオ通話にすれば、センパイの顔も見れて一石二鳥だったんじゃ?

 失敗した。

 

【なんだそれ……何のページ?】

【国語の慣用句が書いてある所なんですけど……『天は余裕で二物以上与えるし、場合によっては一物すら与えない』とか『二兎どころか三兎を得る奴も居る』とか。こんな言葉あるんですか?】

 

 私が気になっていた所、それは国語の受験ノートに書かれた、なんだか聞き慣れない少し捻くれた言葉がツラツラと書き込まれている部分だった。

 他の教科だとこういった落書きはあまり見かけなかったので余計気になってしまったというのもある。

 何か意味があるんだろうか?

 

【あー……その辺りは気にしなくていい。ちょっとした落書き……言葉遊びみたいなやつだ】

【えー、じゃあどこまでが落書きかわからないじゃないですか! ちゃんと教えてくれないと困りますよー】

【つってもあんま覚えてないんだよな……現物見れば思い出すかもしれんが】

 

 気にしなくていいってことは本当にタダの落書きなのかな?

 まあ、それならそれで別に良い、私の目的は最初からそこじゃない。

 私は一番重要なメッセージを一文字一文字祈るように打ちながら、送信ボタンを押した。

 

【じゃあ、現物見に来てください。明日とかどうですか?】

【明日? 明日って金曜じゃん、しかも体育祭だし、いつも通り明後日でいいだろ】

 

 うーん、流石に明日は無理かぁ。

 まあ明日が無理なら明後日でもいいんだけど……とにかく、日数を増やして欲しい。

 センパイ自身もそのうち増やすみたいな事言ってくれてたし……ちょっとぐらいワガママ言ってもいいよね?

 センパイと会える日が週二に増えたはずなのに、それだけじゃ満足できなくなってる自分が少し怖い。

 

【お願いしますよセンパーイ、もうあんまり時間ないんですぅ】

【まあ……三時頃には終わるだろうし、丁度渡したいものもあったからいいか、んじゃ明日帰りに寄るわ】

 

 あれ? もしかしてこれ、明日来てくれるってこと?

 まさか本当に来てもらえるなんて思っていなくて、一瞬自分の目を疑ってしまう。

 棚ぼたってこういう事を言うのかも知れない。

 とにかくやった、これで今週は週三だ。

 

*

 

「──もうあんま時間ないから、今日からはこのまとめ問題集を使ってこう」

「問題集?」

 

 そう言って、翌日、約束通り来てくれたセンパイは私に少し使い古した問題集を渡して来た。

 どうやら新たに購入してきた物ではないようだ。

 ページをペラペラと捲ると解説部にはセンパイの物と思わしき文字で様々な書き込みがされている。

 

「あら、この問題集は八幡君が使ってたやつなの?」

「ええ、色々使った中でも結構良かった奴なんですけど、答えを直接書き込んだ訳じゃないので、新しいの買うよりはこっちの方が教えやすいかと思って」

 

 なるほどと思った。

 つまり、これなら私がどこかで詰まっても、センパイが過去に一通りやっているから解説しやすい、という事だろう。

 なんか、いつの間にかセンパイが凄い先生っぽくなってる?

 

「すごーい、八幡くん本物の先生みたい! いいなー、ママも八幡くんの授業受けたいわー」

 

 どうやら、ママも同じ感想を抱いたらしく、パンっと胸の前で両手を合せてセンパイに上目遣いの視線を送っている。

 

「ってなんでママがまだいるの!? 邪魔だから出てって!」

 

 危ないところだった。

 ここ最近はセンパイが来てもあまり長居せず出ていってくれていたから油断してた。

 全く、この人は何を考えているんだろう。

 

「えー! 邪魔しないから、ね?」

「いるだけで邪魔なの!」

「はぁ……まだ反抗期なのかしら……」

 

 反抗期とか関係なく、こんな状況で怒らない子供なんていないと思うんだけど?

 『困ったわ』とでも言いたげな表情で、頬に手を当て溜め息を吐くママを怒鳴りつけそうになるのを我慢しながら私はその背を押し、部屋から追い出す。

 

「いいから出て! 行っ!! て!!!」

「はいはい、邪魔者は退散しますよーだ」

 

 唇を尖らせながら文句を言ってくるママの姿は、母親というよりは厄介な姉妹という感じだ。

 こんな事を言うと余計に調子に乗りそうだから一応言っておくと、別に若いという意味じゃない。いい年なのに子供っぽすぎるという意味だ。うん。

 

「八幡くん、それじゃあ後で差し入れ持ってきてあげるから楽しみにしててね♪」

 

 これみよがしにセンパイに向かってウインクを投げつけるママをなんとか部屋から追い出す事に成功すると、バンっと音を立てながらドアを閉める。

 ふぅっ。コレで一安心。

 

「センパイ……? 何鼻の下伸ばしてるんですか?」

「伸ばしてねーよ……」

 

 全く、本当に困ったものだ。

 ただでさえ目に見えないライバルに怯えているというのに身内にライバルがいるなんて考えたくもない。

 センパイもセンパイですよ? もう少ししっかりして下さい!

 

「あ、あー……それで、結局模試はどこ受けんの?」

 

 私がセンパイの事をジロリと睨むと、センパイは少しだけバツが悪そうに話題をそらす。

 あ、でもそうか、その話をまだしてなかった。

 

「そうそう、それです! 今日はその話しをしようと思ってたんでした」

 

 センパイとすれ違いながら、机に向かった私は、机の上に置いてあった封筒を二通センパイに渡した。

 それらはどちらも先日学校の帰りに貰ってきたものだ。

 

「ここと、ここがいんじゃないかなって」

「こっちは夏受けた所と同じか。試験日が十一月二十四日で結果は……一ヶ月後か。年内ギリギリだな」

 

 そう、そこは夏に受けた模試と同じ場所。

 間に合わないだろうと思っていたけれど、幸い年内にも模試をやっているようだったので一応チャレンジしてみようと思った。

 

「そっちは前にセンパイがオススメしてくれた所ですし。下手に簡単な所選んで難癖付けられても癪なので。やっぱりリベンジしときたいなーって思って。まあ……模試まで時間がないので怖い所でもあるんですけど」

「まあ、いいんじゃないか。それでこっちは……十二月八日試験で結果発表が二週間後か。こっちは早いな」

 

 二通目の封を開き、センパイが概要を確認する。

 何か問題がないかキチンと確認してくれているのか、申込用紙の隅から隅まで視線を走らせている。やっぱり頼りになるなぁ。

 

「はい、そこはオンラインで結果が見れるのと、マークシート形式なので発表が早いんだそうです。だから年内ギリギリに受けられる試験で、条件達成には良いかなって思いまして」

「マークシートねぇ……」

 

 だが、センパイはその要項をみながら、少しだけ怪訝そうな表情を浮かべる。

 やはり、何かまずいだろうか?

 

「駄目……ですか……?」

「いや、本番と違う形式なのはどうなのかと思ってな」

「そこは私も気になっていた所ではあるんですけど……」

 

 確かに、高校入試本番はマークシートではないはずだから、模試と言っていいかも実は微妙なんだけど……。

 でも、お爺ちゃんを納得させるためには手段を選んでいられないんだよね……。

 

「……まあA判定取れそうならいいんじゃない? どこでも」

 

 不安になってセンパイを見つめると、やがてセンパイはそう言って納得したように封筒を返してくれた。

 

「大丈夫です! そもそも、前回の模試は初めてで緊張してたっていうのもありますし、絶対A取ってみせます!」

「自信があるならいいけど、一応最悪の時の事も考えておけよ……」

 

 う……嫌なことを言ってくる。

 そりゃぁ不安が無いと言えば嘘になるけれど。

 でも、何故か今の私はそれほど『A判定を取る』という条件達成が難しいとは思っていなかった。

 原因はやっぱりセンパイが『カテキョのバイトを増やす』という条件を簡単に飲んでくれたからだ。

 一番難関だと思っていた問題が解決したことで少し気が強くなっていたのかも知れない。

 

「センパイ? 受験生に『最悪の時の事』なんて禁句ですよ? まあ本音を言うと、そういう時のためにもう一件ぐらい受けたいんですけど、色々問題もありまして……お金とか……」

 

 そりゃ、出来ることなら目に入った模試を片っ端から受けていきたい。

 例え今すぐにAが取れなくても段階的に上がっていくという事はあるだろう。

 でも、そうなるとその度に模試対策をしなきゃいけないし、申し込むのには当然お金がかかる。

 流石にまだAが取れないと分かっている内に無駄なお金を使うぐらいだったら、数を絞ったほうがいいと思った結果がセンパイに提示した二件だったのだ。しかも内一件はあくまで保険。

 

 不安がないわけじゃないけれど、それでもセンパイがいれば大丈夫だろうという安心感もあって。二件も受ければいいだろうと思っていた。

 私だってこれまでとは違う。

 模試まで毎日本気で頑張れば、Aなんて簡単に取れるはずだ。

 根拠はないけれどそんな自信があった。

 

「……まあ、模試を受ければ学力が上がるってわけでもないからな……。時間もないし。やるだけやるか」

 

 私の言葉を聞いて、センパイがこめかみをポリポリと掻く仕草をすると、そう言って、息を吐く。

 やっぱり、今のセンパイは私に凄く協力的みたいだ。

 あれ? もしかしてこれ、センパイも私と一緒に通いたいって思ってくれてるのかな?

 まだ時間もあるし、これなら絶対合格出来るよね!

 

「はい!」

「んじゃ、折角来たんだし今日も始めるぞ」

 

 私が大きく返事をすると、今度は後頭部を搔きながら、センパイは定位置へと着いた。

 さて、二人三脚でお勉強の時間だ。

 

***

 

「センパーイ、終わりましたー」

 

 センパイに指定された問題集のページに空欄が無いことを確認したあと、ペンを置き、大きく伸びをしながらセンパイを呼ぶ。

 セットしておいたスマホのタイマーは残り3分。

 『これからは問題をやるとき、解く時間も意識しろ』と言われてやってみたけど。

 うん、上出来、これならセンパイも褒めてくれるだろう。

 間違っていなければだけど……。

 さて、どんな風に褒めてくれるかな?

 そんな事を考えていたのだが、待てど暮らせど一向にセンパイからの返事が返ってこない。

 あれ?

 

「センパイ……?」

 

 不審に思った私が、椅子を回転させ振り返ってみると、そこには確かにセンパイの姿がある。

 でも、そのセンパイはいつも通りクッションに腰掛けたまま、クビを後ろのベッドに持たれかけて、寝違えそうな──寝苦しそうな姿勢のままスースーと寝息を立てていた。

 

「そういえば、今日体育祭だっていってたっけ……」

 

 総武の体育祭は、文化祭の後に行われるらしい。

 九月、十月とイベントが盛り沢山で楽しそうだけれど、私が参加できないのでとても寂しいとも思う。

 

 今年のセンパイは一体どんな競技にでたのだろうか?

 リレー? 障害物競走? 棒倒し? 騎馬戦?

 うーん、高校生だし……意外とダンス対決とか?

 

 色々想像してみるけれど、どんな競技だとしても不思議と『汗まみれで頑張っているセンパイ』というのは想像できなかった……。

 でも……。

 

「見たかったなぁ……」

 

 もし私があと一年、いや、一ヶ月早く生まれてさえいれば。

 私はセンパイと同じ学年になって、同じ景色を見れたのに。

 どうしようもない事と分かっていても、つい、その事を考えてしまう。

 ほんの一ヶ月。なんなら半月とちょっとだけでも良かったのだ。

 一体神様は私に何の恨みがあってこんなひどい仕打ちをしたのか。

 ああ、でもこの場合の神様はパパとママかな。

 そんなクレームを入れられても困るだけだろうから、絶対言わないけど。

 はぁ……。

 

「センパイが、もうちょっと遅く生まれてくれても良かったんですよ……?」

 

 椅子に座ったまま、頬杖をつき、少し前かがみ気味にセンパイを覗き込む。

 しかし、相変わらずセンパイは眠ったままだ。

 

「ふふ、かわいい」

 

 二人きりの部屋、眠るセンパイと私。 

 いっそこのまま時が止まってしまえばいいのにとさえ思う。

 

「あ、そうだ」

 

 そこでふと思いつき、私は静かに椅子を回すと、机の上にあったスマホを手に取った。

 あ、危ない、あと十秒でセットしておいたタイマーが鳴る所だった。

 とりあえず解除して、音を立てないように……。

 

 そぉっと立ち上がると、一歩、また一歩と眠るセンパイに近づいていく。

 さっきまで、それほど気を使っていなかった事を考えれば、少し滑稽だとは思うが。

 思いついてしまったのだから仕方がない。今はとにかく一刻一秒を争うのだ。

 とにかく音を立てないように、最大限の注意を払ってスマホのアプリを開き、センパイの顔を覗き込む。

 

 そぉっと……そぉっと……。

 

パシャッ!

 

 よしっ。撮れた。

 スマホを覗けば、そこには眠るセンパイの姿が大きく映し出されている。

 これを壁紙に設定しておこう。

 あ、でもセンパイに見られたら流石に言い訳できそうにないし。

 ロック画面じゃなくてホーム画面にしておこう。

 あー、でもこれはこれでアイコンが邪魔だ。

 ちょっと整理……よく使うの以外はこっちのページに移動して……よしっ。こんな感じかな?

 

 前に撮ったのはお米ちゃんも一緒のやつだから、センパイだけのって無かったんだよね。

 これでいつでもセンパイの顔が見れる。

 それに、寝顔なんて相当レアじゃない?

 あ、やばい。

 顔がにやける。

 だってこんな無防備な顔を見せてくれるようになったのって大分私に気を許してくれてる証拠ですよね?

 

「どうせなら……ツーショットも撮っておこうかな……」

 

 イタズラに成功した子供が、欲を出してハードルを上げるように、私は再び椅子から立ち上がる。

 大丈夫、さっきは上手く行った。

 だからもう一回、もう少しだけ起きないでくださいね……。

 そぉっと、そぉっと。

 スマホのカメラを内側に切り替えて、今度はセンパイの横に座り込んで、センパイの顔と自分の顔を近づける。

 

 近い。

 センパイの匂いがする。

 センパイの寝息が聞こえる。

 センパイの体温を感じる。

 

 もうセンパイの心臓の音さえ聞こえるのではないかと……ううん、私の心臓の音でセンパイが起きてしまうんじゃないかと思うほどに体を密着させている。

 伸ばした手の先には私とセンパイの姿が映るスマホの画面。

 そこには少し不格好な二人が収められている。

 あとはシャッターを押すだけ。

 それでミッションは成功。

 でも……この距離なら……。

 

 この距離でも起きないなら……。

 

 キス……とかしても大丈夫かな?

 

 ソレは悪魔の囁きだった。

 本当はそんな事しちゃいけない。

 するならせめてセンパイが起きている時にする方がいいに決まっている。

 

 でも……。これから数ヶ月は受験で、デートも出来ないだろうし。

 センパイが気軽にキスしてもいいって言ってくれるようになるまで、どれぐらい掛かるかも分からない。

 だからこれは……そう、仕方のないことなのだ。

 これは、これから頑張る私へのご褒美の前借り。

 

 ほっぺなら……いいよね?

 ほんと、軽く……ちょっとだけですから……。

 

 だから、どうか怒らないで下さい。

 どうか目を覚まさないで下さい。

 

 私は心の中で何度も願いながら、その頬を見つめる。

 大丈夫、ほっぺにキスぐらい……今時小学生だってやってる。

 だから

 

「……いいですよね?」

 

 それは私のなけなしの良心。

 もし、その問いかけでセンパイが起きてしまえばそれまで。

 でも、もし起きなければ……。

 

 祈るように、センパイの答えを待つ。

 一……二……三……四……五。

 心のなかでゆっくりと数字を数えるが、一体何秒待てば正解なのかはわからない。

 何度目かの静寂が、私とセンパイの間を流れ、どんどんと自分の心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。

 だけど、そんな私の心臓とは対照的にセンパイの胸は静かに規則的に上下運動を繰り返し。変わらず穏やかな寝息を聞かせてくる。

 起きてない……よね?

 

 じゃぁ……その……失礼します。

 センパイが眠ったままなのを確認すると、私は一度自分の唇を内に仕舞い、そっと舌でなぞった。

 もし、バレたら?

 センパイが途中で目を覚ましたら?

 私の気持ちが伝わっちゃうかな?

 

 でも……ココまで来たらもう、止められない。

 もう、今の私には……センパイの顔しか見えない。

 ほっぺ……いや……いっそ……。

 

 そう考えたら、私の顔は自然とセンパイの顔との距離を縮めていた。

 センパイの規則的な寝息がはっきり聞こえてくる。

 大丈夫、気付かれていない、ううん、気付かれてもいい。でも気付かないでほしい。気づいて欲しい。

 自分でもどうなりたいのか分からないぐらい、相反する感情が私の中を駆け巡る。

 

 あと十センチ。

 

「……ちゃーん……」

 

 あと五センチ。

 

「りょ……てー……」

 

 あと三センチ。

 

「……たわよー……くーん? ……入るわよー?」

 

 セン……パイ……。

 

「お疲れ様ー。紅茶が入りましたよー! ……っていろはちゃん何してるの? ベッドの上でお行儀の悪い」

 

 だが、あとほんの数センチという所で、ドアが開く音がして、私は慌ててベッドに飛び上がった。当然……未遂だ。あっぶなぃ……!

 

「マ、ママ!!? 入るときはノックぐらいしてよ!!」

「何度も声かけたじゃない。『両手塞がってるから開けてー』って言ったのに。全然返事ないんだもの」

 

 全然聞こえなかった。

 いや、聞いてなかったのかな。

 でも本当びっくりした心臓止まるかと思った。

 あー……まだドキドキいってる。

 でも、そのドキドキがセンパイに近づきすぎたせいか、それともママに驚かされたせいか、今となってはもう分からない。

 

「あー……悪い寝てた……ってもみじさん?」

 

 あー、もう。センパイも起きちゃったじゃん……!

 こんな事ならさっさとツーショット写真だけでも撮っておくんだった。

 寝てるセンパイとのツーショットがあれば、センパイに近づいてくる人がいても『センパイなら私の横で寝てますよ?』って言えたのに。残念。

 いや、まぁ、そこまで悪女っぽい事をする気はさすがに無いんだけど。

 

 欲張りすぎた。二兎を追うものは一兎をも得ずって多分この事だ。

 あ、でも一応寝顔写真は撮れてるから一兎は得たのかな。三兎なんて夢のまた夢。

 仕方ない、今日の所はこれで我慢しよう。

 

「あら、八幡くんお疲れなの? ちょうどよかった。この紅茶リラックス効果もあって疲れが取れるわよ。冷めないうちに飲んで?」

「あ、ども、ありがとうございます」

 

 ちゃっかりとセンパイの横に座るママとセンパイを見ながら、私はベッドから降りて自分の勉強机へと向かう。

 はぁ、なんか疲れちゃった。

 

「って一色? なんでそんな疲れた顔してんの? 課題終わった?」

「とっっっくに! 終ーわーりーまーしーた!」

 

 全く、誰のせいだと思っているんですか!

 いつか絶対ぜーーーったい! そっちからキスしたいって思わせてみせるんですからね!




というわけで受験編進んでおります。
次話の早め投稿はちょっとお約束致しかねますので何卒ご了承ください。

お時間がありましたら活動報告とかも覗いていただければ幸いです。
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第49話 受験勉強

いつも感想、評価、メッセージ、誤字報告、お気に入り、ココスキありがとうございます。

ちょっと間が空いた気もしますが
前回謎に平日投稿したのでこれは実質週一ペースなのでは……?


 俺のバイトシフトが増えて早一ヶ月。

 一色は人が変わったかのように机に向かうようになった。

 

 模試まであまり時間がないというのもあるのだろうが、授業中の無駄話もめっきり減り、今となっては、事あるごとに息抜きを要求してきた女子と同一人物だとは思えないほどだ。

 去年俺が使った受験道具が少しずつ一色の家へと運び込まれ、一色の机には見慣れた参考書やノートが積み上げられ、机周りの雰囲気もガラリと変わり、見るからに受験モードというオーラを放っている。

 まあ、それらがどの程度役に立つのかは分からんが、無いよりはマシだろう。

 正直なことを言えば、俺が居なくても一色はそれらの参考書を使ってきちんと勉強をこなしている。

 

 なんなら俺がバイトで一色宅に着いた時には、もう机にしがみついていて「もうちょっとでキリが良い所まで終わるんで、センパイは暫く休んでて下さい」なんて言われた事もあった。 

 それだけで受験に対する本気度が伺える。

 言ってしまえば一色いろは第三形態という所だろうか。

 もしかしたら、もう一段階変身を残しているのかもしれない。

 戦闘力五十三万ぐらいありそう。

 

 だが、俺の方はどうかと言うと、バイト時間が増えた割に仕事量は増えていない。

 一色と同じ部屋にいる時間こそ増えたものの、手持ち無沙汰の時間が増えてしまっている。

 先日なんてついウトウトして居眠りをしてしまったほどだ。

 一色のことだから烈火のごとく責めてくるだろうと覚悟していたのに。特にお咎めもなく拍子抜けしてしまった。

 なんかもみじさんとケンカしてたみたいだが……あれ? もしかして俺いらない子ですか?

 

 いかんな、金をもらっている以上。もっとしっかり家庭教師っぽい事をしなくては。

 俺がいらない子ではないという所を見せつけてやらねばならない。

 一色も頑張っているのだからな。

  

 それでも欲を言わせてもらえるのなら、もう少し早くこの受験モードになってくれていたらと思わないでもないのだが、それを俺が言うのは野暮というもの。

 葉山というブーストアイテムを入手したからこそのやる気だ。

 俺がどうこう言えるものでもない。

 もしあのままの状態だったら、海浜総合すら危なかった可能性もある。

 その場合の俺の胃痛を考えるなら、葉山に感謝こそすれど、恨むなんて筋違いもいい所だろう。

 

 そういえば葉山とはアレ以来話してないな。

 いや、俺からすると二回以上話す奴の方が珍しいんだが。

 これだけ名前を思い浮かべる機会はあるのに、大した接点がないというのもなんだか妙な気分だ。

 そういえばアイツは一体どんな声だったか……。

 ○天衆の闇担当みたいな声だった気もするし違う気もする。

 あれ? それは別の奴だったか?

 

 まあ葉山の事はどうでもいいか、今は一色の事だ。

 とにかく、今やるべきなのは模試でA判定を取ること。

 いや、この場合取らせることか。

 全く、おっさんも面倒な事をしてくれる。

 試験を受けるための条件とか……ハ○ター試験かよ。

 

 今のままだと実力不足というのは分からなくもないが。

 そもそも、その条件のせいで一色はリスクも背負う事にもなっている。

 おっさんが出した条件は『年内に結果を持ってくる事』なので、模試のどちらかでAを取ったとしても恐らく推薦には間に合わない。

 模試の結果発表がどちらも遅いので、他の奴に推薦枠を奪われている可能性が高いからな。

 下手をすると有った筈の海浜総合への推薦枠すら無くなっているかもしれない。

 

 模試でのA判定なんてややこしい事をせずとも、推薦が取れなかったら終了とかにしても良かったのではないかと思う。

 それなら海浜を滑り止めにする事も出来ただろう。

 だが、あえてA判定という条件を持ってきた。

 そこに何か理由でもあるのだろうか?

 あの日、おっさんと一色の間で一体どんなやり取りがされたのだろう?

 

 少しだけ推理してみるか……。

 まず大前提として……一色が葉山というイケメン目当てで総武を志望している。これは確定。

 それをおっさんが知ったらどうなるか。

 「男目当てで高校に行くなぞ許さん!」とかそういう事だろうか?

 

 まあ、もし小町が同じ事をしたら俺も一度冷静になるよう勧めるだろう。

 おっさんの気持ちは理解できる。

 ただ、理解できるからこそ。

 その条件に俺のバイトシフトの増加が含まれているのが、謎なんだよなぁ。

 俺がいれば落ちる可能性が高いと思われているのだろうか?

 

 だとすると俺が一色の手伝いをするのはおっさんにとってはマイナスなのか?

 分からん……。俺の知ってるおっさんならもっとシンプルに動くはずなんだが……。

 読み違えたか?

 

 結局明確な答えはでないまま。

 俺の思考はループの罠に陥り『おっさんから押し付けられた仕事』という言葉を免罪符に、ズルズルと家庭教師の真似事を続けていったのだった。 

 

*

 

 それから更に月日が経ち、一つ目の模試が終わり、二度目の模試が近づいてきた頃、週二の約束だったはずの俺のバイトは、一色の口車により更に追加され今では週四となっていた。

 一度臨時で金曜に出勤してしまったのが悪かったのかも知れない。

 まさか金曜出勤が常態化するなんて思ってなかったし……そこから更に増えるとは思っても居なかった。

 今では毎週火、水、金、土曜日が俺のシフトだ。

 もう立派なバイト戦士といっても良いだろう。

 学校が終わったら一色の家に向かい。土曜日でさえ少し早めに家を出る。

 

 一色の家につけば、変わらずもみじさんが迎えてくれ、一色は机にしがみついている。

 もはやこれがいつもの光景。

 そういえば、最近の授業中は顔を見て話すという機会も減ったように思う。

 いや、別に特別顔を見て話さなきゃいけない事もないんだけども……。

 

 だからその日、俺が部屋に入って、一色がこちらを向かなくてもそれほど大きな違和感は感じていなかった。

 

「少し休んだほうがいいんじゃない? 息抜きに菓子でもつまんだら? ほら、もみじさんが差し入れにってくれたチョコ美味いぞ」

 

 集中を切らしても悪いし、切りが良いところまで進めば気がつくだろうと、少し放っておいたのが悪かったのかも知れないが、その日は中々俺の存在に気付いてくれなかったので、もみじさんからもらったチョコレートを食べ尽くす前に声をかける事にした。

 一応部屋入る前も声かけたんだがな……。

 

「え? あ、センパイ……気付かなくてすみません、でも大丈夫です、もっと……もっと頑張らないと……」

 

 一色の声からは覇気が感じられない。

 覇王色も、武装色も。見聞色もまだ覚醒していないようだ。

 いや、覚醒されても困るけど。

 まぁ、ここまでテンションが低い理由はわかっている、先日の一回目の模試であまり手応えを得られず、自己採点結果も芳しくなかったらしい。

 時間が足りなくて、最後まで解答を埋められなかったそうだ。

 その事がきっかけで、それまで身体中から満ち溢れていた謎の自信とやる気は、みるみる不安に変換されて行き、最近では常に焦りの表情を浮かべている。

 

 あまり自分を追い込みすぎも良くないとは思うが、時間がないという事も分かっているのでなんとも言えないのがモドカシイ。

 カリカリとペンが走る音だけが部屋に響き、俺としてもどうしたら良いか分からなくなってしまう。

 一応俺なりにやれることはやっているつもりだが。結果を出せていないという点では一色と同じなので俺自身にも焦りはある。

 いっそ一色のステータスが数値化して見えるようになれば助言もしやすくなるのだが……そんな事が起こる筈もなく。

 何をどうすれば一色の成績が好転するのか、素人の俺には皆目見当がつかなくなっていた。

 

 ……とりあえず、一色が今何やってるかだけ確認しておくか。

 俺がそう思い、食べかけのチョコレートを口に放り込み、クッションから立ち上がって机を覗き込もうとすると、一色が不意にその手の動きを止めた。

 

「……センパイ……私、間に合いますか? 総武……受かりますか?」

 

 それは 受験生なら誰もが感じる不安。

 繰り返し繰り返し自分がやっている事が本当に正しいのか答えを知りたくなる。

 自分以外の奴はもっと効率的な勉強法を実践しているのではないか? 自分だけが取り残されてるのではないか? と不安になり、意味がない事と分かっていても誰かに『大丈夫だ』と言って欲しくなる。

 

 だから、きっとこういう時は望み通り『大丈夫だ』『お前なら出来る』『自信を持て』そう言ってやるのが正解なのだろう。

 だが、俺にそんな事言えるはずがなかった。

 

 そもそも、そんな言葉に意味はないのだ。

 一人一人が大なり小なりの漠然とした不安を抱えながら戦い続ける。

 それが受験で。努力した時間や熱意では決して判断されない。

 報われるかどうかは結果次第。

 信じられるのは自分だけ。戦うのはいつだって自分一人。

 何ならそれはこの世の真理でさえあり、俺はその事を身を以て知っている。

 だから、何の保証もない言葉をかけることは出来なかった。

 

 それでも……仮にこれが模試ではなく、来年の受験へのプレッシャーから来る言葉であるならば、『まだ時間はあるだろ』ぐらいの事は言えたのかも知れない。

 だが、コイツはまだその段階ですらなく。

 おっさんの思惑はどうあれ、条件が達成できなかった場合でも、受験に対するやる気は維持させないといけない。

 

 そんな事を考えていると、結局俺はなんと答えて良いか分からず、何も言えないまま口ごもってしまった。

 不安げに俺を見上げる一色のその瞳は、俺を責めているのか……あるいは……。

 

 とはいえ、いつまでも無言のままというわけにもいかない。何か、何か言わなければ。

 それが、今の俺の仕事なのだから。

 

「……学力ってな、階段なんだと」

「階段?」

 

 数秒答えに詰まった後、俺がそう口を開くと、一色は意味がわからないという顔で振り向いた。

 今日、初めての対面だ。

 少しだけ呆れ顔で俺を見上げるその顔は「とうとうおかしくなっちゃったんですか?」とでも言いたげに眉間にシワを寄せ口を開いている。

 いっそ口に出してくれたら否定もできるというのに……。

 だが、どうやらその気はないようだ。

 再び俺と一色の間に静寂が走り、少しだけ気まずい空気を感じた俺は、一度コホンと咳払いをして話を続けた。

 

「たまに勉強した時間と学力は比例して伸びると思っている奴いるだろ、だがそうじゃないってことだ」

「え? 普通に勉強していけば成績あがりますよね?」

「あー……比例して伸びるっていう事自体が間違ってるわけでもないんだが……」

 

 どう話したもんか……。

 俺は顎に手をおいて、ほんの数秒頭を整理する。

 その間も、一色は答えを待つように、俺を見上げていた。

 

「これは例えだが……一時間勉強して、学力が1上がるとするだろ? 二時間やったらどうなると思う?」

「2になるんですよね?」

 

 シャーペンを持っていない方の手で「にっ」とピースサインをして、一色が答える。

 まるで1+1を聞かれて答える幼児のようだ、シャッターチャンスかもしれない。

 いや、違うそうじゃない。

 

「違う、1のままなんだ。いや、勉強を始めたばかりの頃はもっと上がるんだが……ある程度やると真っ直ぐ右上に伸びていくんじゃなくて、階段型に伸びていくんだと。俺も聞いた話だがな」

「はぁ……かいだん……」

 

 俺が指で空中に階段を書いていくと、一色は猫のようにその指を目で追ってくる。

 まるで猫だな。

 飛びかかってきませんように。

 

「二時間やって、三時間やって、四時間やっても学力は1のまま。いや……2ぐらいにはなるんだが、徐々に上がりづらくなっていく……でも、そうやって伸び悩む時期を続けていくと、どこかのタイミングでぐっと一気に上がる時がくる。5とか6とかな。そうやって階段を一段ずつ上るイメージなんだと」

「はぁ……」

 

 うん、分かりにくかっただろうか。

 一色は相変わらず「何言ってんだこいつ?」みたいな顔で俺を見上げてくる。

 くそっ。おかしいな、為になるいい話をしているはずなんだが……。

 

「なんていうか、一つ一つ覚えていったものが、まとまった知識として考えられるようになると身につくって話だ。最初は小さな点を沢山覚えて、次はその点を繋げて線にする、そうやって大きな一つの知識になった時に学力ってのは一気に伸びるんだ」

 

 高校入試は言ってみれば中学で勉強したことの総括であり、点の知識を覚えるというステージは過ぎている。

 だが、そういう時期が一番伸びにくい。

 過去に教えられた知識を使う応用問題が多くなってきて。

 忘れていたポイントの覚え直しだったり、勉強のし直しが必要になる事もある。

 しかし、そうなると自分が前進しているのか、後退しているのかすら分からなくなって、結果が見えず不安になる。

 

「とはいえ、焦って最初から大きな知識として覚えろってのも難しい話で、結局一個一個やるしかない。だから伸び悩んでると感じてもあんまり思い詰めるな。全然理解できない、何度やっても頭に入らないと感じたら、頭の中で次の段階に上がるための準備期間に入ったんだと思っとくといいぞ」

 

 俺が話を終えると、一色は納得したのかしてないのか少しだけ考えるような素振りを見せ再び俺を見上げる。

 うまく伝わっただろうか?

 

「……まぁ聞きかじりだけどな」

「センパイも……そうだったんですか?」

 

 俺が話し終わると、一色はようやく俺の方へと椅子を回転させる。

 その顔からは少しだけ不安の色が薄れたようにも見えた。

 

「……多分な」

「多分って……なんですかそれぇ」

 

 俺の答えに不満なのか、再び眉間にシワを寄せ、不服そうに唇を尖らせる。

 だが、先程までの思いつめた表情ではない、あざとい仕草も忘れないいつもの一色らしい表情だった。

 

「俺もよく分かってないんだよ。でも言われてみたら『ああ、そうだったかもなぁ』って言う時期はあった気がする。それこそ、試験前日に一気に伸びる奴もいるらしいぞ」

 

 そう、結局自分でもよく分かっていない。そもそも今した話が一色の問の答えとして正しかったのか、それすらも分からない。

 だが、俺が肩をすくめてそう言った後、一色は少しだけ笑みを浮かべてくれた。

 

「フフ、自分でも分かってないって……フフ」

「何笑ってんだよ……」

「ごめんなさい、でもフフフフ」

 

 笑み、というよりは完全に笑っているな。

 やはり答えとして不適当だっただろうか?

 俺を見ながらクスクスと笑う一色を見てるとどうにも居心地が悪い。

 くそ、変な事言うんじゃなかった。

 

「あー……。なんだか久しぶりに笑った気がします」

 

 涙を拭うように、目尻に手をやると、一色はそう言って再び俺を見つめてくる。

 言われてみるとここ一週間ほどはずっと眉間にシワが寄ってた気がするな。

 

「そりゃ良かった」

「はい、ありがとうございます」

 

 一色はそう言うと、丁寧にペコリと頭を下げてくる。

 いや、別に頭を下げられるほどじゃ……。

 

「今のって私のこと励ましてくれたんですよね?」

 

 だが、俺が何か言う前に一色がそう言って妙に良い笑顔を向けてくるものだから、俺はなんとなくバツが悪くなり、つい顔を背けてしまった。

 少しだけ自分の頬が熱くなっていくのを感じる。

 ああ、今、ここに誰か──小町でもいてくれたらいいのに。

 いや、その場合俺を笑う奴が増えるだけか。

 材木座にしよう。

 ここには材木座がいる材木座がいる。材木座が一匹、材木座が二匹、うっわ暑苦しい。

 

「そういう話を聞いた事があるってだけだ……」

「それでも少し安心しました。今やってることは無駄じゃないって。だから、ありがとうございます」

 

 一色は相変わらずニコリと笑みを浮かべたまま、そう言って俺を見つめてくる。

 まぁ……本人が納得したならそれでいいけど……。

 なら、今度は俺の質問にも答えてもらおうか。

 

「じゃあ、代わりにってわけじゃないが、俺からも一つ聞いていいか?」

「? 何ですか?」

 

 きょとんとした顔で可愛らしく首をかしげる一色。

 俺はその一色の額を指差し、先程、一色がこちらを向いてからずっと気になっていた事を問いかけた。

 いや、本当ずっと聞いていいのか悩んでたんだよな。

 

「その頭どしたの?」

「頭……? あ!?」

 

 俺の言葉に一色は慌てて両手で額を隠す。

 そう、今日の一色は前髪をヘアピンで抑え、珍しくデコを出していた。

 それ自体は特に問題はない。そういう気分の日もあるのだろう。

 しかし、その額には丸い形のバンソーコーの様な物が貼られていたのだ。

 あ、一色的にはバンドエイドたったか。

 あまりにも肌に近い色をしているので、最初は気付かないほどだったのだが、どこかにブツけたのだろうか?

 

「あ、あんまり見ないで下さい……」

 

 だが、一色は何故か顔を真赤にしながら恥ずかしそうにそう言って、ヘアピンを外し、前髪をぱぱっと広げると俺から顔を逸した。

 なんだろう? やっぱり聞いちゃいけない事だったんだろうか?

 でもなぁ……明らかに以前と違う所があるのに、無視するっていうのも違う気がする。

 デコを出してるという時点で、『何かリアクションしてくれ』というアピールだとさえ感じた。

 あれ?……そういやこいつ、こんなに前髪長かったっけか?

 いや、そんな事より今はバンソーコーの事だな。

 

「何? ぶつけたんじゃないの?」

「えっと、そう! ちょ、ちょっとぶつけちゃいまして」

 

 そう言うと一色は再び額を手で隠しながら顔を伏せ机とにらめっこを始めた。

 ぶつけたのか……まあ……そういう事もあるだろうが……。

 何故そんなに恥ずかしそうなのかが全く理解できなかった。

 

 そもそも、丸いバンソーコーというのはあまり見かけないが。

 あのタイプのバンソーコーって怪我っていうより……。

 

「……頭の怪我は気をつけろよマジで」

「は、はい。気をつけます……」

 

 まぁ、何であれ、そこまで大きいわけでもなさそうだし、流石に覚えたことを忘れていくなんてギャグ漫画のような事も無いだろう。

 それでも、頭をぶつけるのが危険というのは本当なので、十分気をつけて欲しい。

 記憶障害なんてこともありえるし。最悪死に至る。

 でも『最悪』ってつけると大体死ぬよな。

 女子に「キモイ」って言われたら最悪死ぬし。

 「ぷークスクス」ってされても最悪死ぬ。 

 いや、本当。言葉は刃物なんだぜ? コ並感。コ○ン君並の感想

 だから軽い気持ちで追い詰めないように。

 

*

 

 それからまた数週間、一色は少しだけ調子を取り戻し、軽口を言う元気も出てきたようでニ回目の模試前日には「仮にA判定取れなくても、B判定二つもってお爺ちゃんを説得してきます!」等と前向きなのか後ろ向きなのか良くわからない宣言をしていた程だ。

 

 俺としても「絶対にA判定を取れる」なんて大きな事は言うつもりはないが、それでも十分狙えるレベルには届いたのではないかと思っている。それほどに一色の最後の追い上げは凄まじかった。

 

 ここまで来たなら、是非ともA判定を取って、おっさんに見せつけてやってほしい。

 というか、本番は来年の入試だからな。

 さっさとおっさんの条件をクリアして、本番に意識を向けた方がいいと思う。

 仮にここでA取っても、気が抜けて本番で落ちたとか意味なさすぎるからな。

 

 そんな心配をしながら、あとは両模試の結果を待つだけとなったある日。

 いつも通り、学校終わりに一色家へ向かうと。

 一色が神妙な面持ちで俺を待っていた。

 

「センパイ……模試の結果今日から見れるそうです」

「お、もうそんな時期か……どっちの?」

「二つ目の方です……オンラインの……」

 

 二つ目、と言うとこの間受けたところか。

 一つ目の模試の結果がまだ届いていないようなので、本命が先に来たという事か。

 まあ、ここでAが出てくれれば良いのだが……。

 

「で、結果は?」

「まだ見てないんですけど……センパイ、一緒に見てくれますか?」

 

 見てないのかよ。

 一緒に見たからって結果が変わるわけじゃないだろうに……。 

 

「それは構わないけど……俺でいいの?」

「センパイがいいんです!」

「お、おう、そうか」

 

 そういうの心臓に悪いから本当にやめて欲しい。

 女子が気軽に使っていいセリフじゃないぞソレ。

 俺がプロボッチじゃなかったら勘違いしているところだ。

 

「はい! じゃ、ちょ、ちょっと待って下さい」

 

 だが、一色はそんな俺の心境など知らず、少し焦り気味に自らのスマホに視線を落とすと、指を高速で動かし始めた。

 恐らく、結果が見れるサイトにアクセスしているのだろう。

 まぁ、よく考えたら現状を理解してるのって俺ぐらいだしな。親よりは気楽ってことかもしれない。

 

「はい!!」

 

 そんな事を考えながら待っていると、一色は俺の顔にスマホを押し付けるように、画面を向けて来た。

 いや、俺に押し当ててきた。

 

「いや、それだとお前見れないじゃん」

 

 俺と一色は向かい合っていて、その間にスマホ。

 もちろん画面は俺の方に向いている。

 明らかに『一緒に見る』という行為には不向きな配置だ。

 

「いいんです! とりあえず、センパイが見て下さい! ささ、どぞ!」

 

 どぞ、と言いながら、グイグイと俺の顔にスマホを押し付ける。

 痛い痛い。顎だから、そこ顎だから。見れないから!

 というか、俺が見るとなるともう趣旨変わっちゃってるんだよなぁ……。

 まあ、俺も気になってるしいいか。

 

「んじゃ……見るぞ?」

 

 俺はそう言って、顔に押し当てられたスマホから離れ少し距離を取った。

 さて……結果は……?

 

 一色のスマホをスライドさせ、ゆっくりと結果が表示される箇所を探していく。

 

 ここでもない。

 

 ここでもない。

 

 まだ先か……。

 

 ってここ大学入試の模試じゃねぇか。

 

 高校入試はこっちだな、タップする場所を間違えていたようだ。

  

 ふぅ……焦らしやがる……そういうの、嫌いじゃないぜ?

 

 よし、今度こそ……。

 

 ……あった!

 

「センパイ……どうでした?」

「待て……今結果を表示中だ……」

 

 そうして俺はようやく

 

 『総武高校 合格可能性 C』と表示されている画面まで辿り着いたのだった。




いよいよ次は50話です。
例によって裏話的なあれやこれやは活動報告で。
ご興味のある方はどうぞ。

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第50話 努力は自分を裏切らないから

いつも感想、評価、誤字報告、お気に入り、メッセージ、ココスキありがとうございます。

なんだか、スパム(出会い系)メッセージが大量に送られているようです。URL等クリックされないようお気をつけ下さい。


 二度目の模試の結果が告げられ。

 後は十一月に受けた一回目模試の結果に望みを託す形となったわけだが。

 

 あれから一色は目に見えて落ち込み、最早俺としても掛ける言葉がなく、ここ数日は気まずい空気の中授業をこなしていた。

 本命だと考えていた二つ目の模試が、夏の模試と同じ結果になるとは夢にも思っていなかったからな。

 本命でC判定がでた、ということはソレより以前に受けた模試でAを取る事はほぼ絶望的だろう。

 まあ、それでも俺としてはまだ僅かに可能性は残っていると思っているのだが……。

 とにかく今は、もう一つの模試の結果を待つしか無い。

 

 予定では、どちらの模試も結果発表が近かったはずなのでそろそろ届くと思うのだが……一色からの連絡は一向に来ない。

 単純に結果が届いていないという可能性もあるので、こちらから連絡をするのも憚られる。

 くそ……。結局待つしか無いのか。

 そんな風に少しだけヤキモキした気持ちで週末を過ごし、迎えた翌火曜日の放課後。

 一色家へ向かうため足早に駅方向へ歩いていくと、ポケットの中でスマホが震えたのが分かった。

 相手は……もみじさんだ。

 

***

 

「風邪?」

『ええ、そうなの……ここの所頑張り過ぎてたから、疲れが出たんだと思うんだけど……しばらくお休みにしてもらいたいって言ってるのよ』

 

 ナルホド、風邪ならば仕方がない。

 もうすっかり季節も変わり冬らしい寒さになってきた。

 確かにここ数ヶ月の一色は張り切りすぎで、こちらが少し休めといっても聞かなかったぐらいだし、模試も終わったこのタイミングなら寧ろ少し休んだほうがいいぐらいだろう。

 だが、俺は「分かりました、今日は休みですね」そう言って電話を切る前に、何よりも気になっていた事を聞かずにはいられなかった。

 

「あの……模試の結果とかってまだ出てませんか?」

 

 そう、何度も言うが模試の結果発表日が近いハズなのだ。

 先週の土曜までにはどちらも届いておらず、一色自身も落ち着かない様子で、俺が家に行く前はポストの前で待ち、帰る時にもポストをチェックして、まるで親の帰りを待つ子供、あるいは死刑執行を待つ罪人のように、ソワソワとその時を待っていたのをよく覚えている。

 俺が一色家に行かなかった、この数日の間に届いていてもおかしくはない。

 

『ええ、実は一昨日届いて、お爺ちゃんと一緒に見てたみたいなんだけど……』

「一昨日? おっさんと? いや、それより結果は!? それだけでも……教えてもらえませんか?」

 

 もみじさんの言葉に、思わず早口でそうまくし立ててしまった。

 いかんな、少し落ち着かねば……。

 だが、一刻も早く結果を知りたい、それ次第で今後の身の振り方も変わるからな。

 A判定なら総武高校を受ける。

 B判定以下なら海浜総合高校を受ける。それがおっさんと一色の約束だ。

 AかB以下か。

 次にスピーカーから聞こえてくるのはどちらの文字か。

 たった一文字の違いで全てが変わる。

 俺は思わず息を呑みながら、その時を待った。

 

『それが……教えてくれないのよ』

 

 だが、次に聞こえてきたのはそのどちらでもない言葉。

 今、なんていった?

 

「教えない?」

『ええ……、具合が悪いってずーっと布団かぶっちゃって……お爺ちゃんも「放っておけ」っていってたからケンカでもしたのかと思ってたんだけど。今朝になって熱も上がってきて。だから悪いんだけど八幡君今日は……』

 

 結果を教えないで布団被ってるって……。そんなの答えを言っているようなものなのだが……。

 いや、決めつけは良くないな。

 もしかしたら逆に……という事もあるのかもしれない。

 安心して倒れたのか、それとも絶望して倒れたのか。

 ソレだけは確認しておく必要がある。

 どちらだとしても、正直時間がない。

 

「すんません、すぐ帰るんで今からちょっとだけ見舞いさせてもらっていいですか?」

 

 俺はもみじさんにそう告げ、再び駅の方角へと足を向ける。

 

『え? でも八幡君に感染っちゃうと困るし、やっぱり……』

「大丈夫です、俺受験ないんで!」

 

 感染ったとしてもこの時期の休みなら寧ろ願ったり叶ったりだ。

 ここの所雨続きで学校行くのも面倒だし、教室も寒い。

 まあ多少授業は遅れるが、どうせあと数日で冬休みだしな。

 二、三日分の授業と引き換えなら安いものだ。

 進学に影響するような事もないだろう。

 だから俺は最後にそう言って強引に電話を切ると、急ぎ発車直前の電車に乗るため、足を早めたのだった。

 

 

***

 

「一色? 入るぞ」

 

 見舞いの品も持たず一色家に到着した俺は、もみじさんと少し話して、一色の部屋の扉をノックした。

 流石のもみじさんも心配なのか、廊下の向こう側で俺を見はっている。

 さすがに病気の女子の部屋に押し入って無理矢理どうこうなんてしないので信用して欲しい……。

 ん? なんか口パクしてるな……「ふぁ」……「い」……「と」……?

 この状況で『ファイト』は良く分からんな、唇を読み間違えたか、まあいいや。とりあえず今は一色の方に専念しよう。

 

「……セン……パイ……?」

 

 ドア越しに聞こえてきたのは弱々しい一色の声。

 これは……いや、寝込んでいると言うのだから弱っているのは当然か。

 

「あれ……? センパイには今日はお休みにしてもらうって……あ、そうだ連絡しなきゃ……」

「落ち着け、とりあえず入るぞ……」

 

 俺は一色を落ち着かせる意味も含めて、一言だけ断りを入れてドアノブを回した。

 どうやら、電気もついていないようだ。部屋の中は暗く、カーテンも締め切られ、廊下の光が部屋の中に入り込み、足元を照らす。

 エアコンが入っているのか、熱気が漏れ出て来た。

 俺はその熱気をかき分けるように一歩ずつ、足元を確認しながら部屋の中へと踏み入っていく。

 目に入るのはいつものクッション、いつもの勉強机、だがそこに一色の姿はない。

 ふと横に視線を落とせば、ベッドが大きく膨らんでおり、枕が置かれている付近からスマホの光が漏れ出している、恐らくこれが一色かもしくは伝説の布団怪獣いろはすだろう。

 

「電気つけるぞ」

 

 すでに何度も通っている身だ、照明のスイッチの場所ぐらいは把握している。

 俺は後ろ手に扉横のスイッチを探しだし、明かりをつけ、布団怪獣いろはすを見下ろす。

 黄色を基調とした布団にくるまれた一色が眠っているのが見えるようになった。

 どうやら、布団怪獣いろはすの正体は一色で間違いないらしい。

 とりあえず、熱が出ているというのは嘘ではないようだな。

 一色の顔はいつもより紅潮し、心無しか呼吸も浅い。本当に具合が悪そうだ。

 

「大丈夫か?」

「あれぇ……? センパイがいる……?」

 

 まだ寝ぼけているのか、それとも熱で頭が回っていないのか。

 目があったはずなのにまるで幽霊を見るかのような反応だ。

 もしかしたら、俺の存在感のなさを揶揄しているのかもしれない。

 

「体調はどうだ? 熱あるんだって?」

「……頭……超重いです……」

「……ちょっと触るぞ?」

 

 俺はそう言って一色の額に触れる。

 そこでふと思い出した。やばい。

 以前小町にコレをやって怒られたのを思い出した。

 あれは小町が中学に上がったぐらいからだろうか? 『熱があるかも』と訴えてくる小町の額に手を当てた際に言われた辛辣な言葉。

 

『お兄ちゃん、看病にかこつけて女の子に触ろうとするのは犯罪なんだよ? 小町は妹だからまだいいけど、こういう時はちゃんと体温計使って。“非接触型”の奴』

 

 非接触型を強調してくる辺りにスゴク悪意を感じたが……。

 アレ以来気をつけようと思っていたはずなのに、つい癖でやってしまった……。

 ましてや一色は兄妹ではなく他人なのに。

 そう思って慌てて額から手を離そうとしたのだが、その瞬間。

 

「センパイの手……冷たくて気持ちいい……」

 

 そんな事を言うので、つい離すのを躊躇ってしまった。

 これはあれだ『手が冷たい人は心が温かい』とかそういう奴ではない、単に外が寒くて冷えただけだ。

 逆に熱があるという一色の額は暖かくて心地良い。

 このまましばらくカイロ代わりにしていたくなるな……。あー……生き返る……。

 おっと、いかんいかん。早く離さなければ。

 いつまでも触っていたらそれこそ変質者扱いされてしまう。

 

「結構熱いな……後でちゃんと測っておけよ? 辛いなら早めに病院行け?」

「……はーい……」

 

 その返事は、なんだか少しだけ名残惜しそうな声に聞こえたが……いや、さすがにそれは俺の願望がすぎるか。

 熱で辛いから弱々しい返事になってしまったのだろう。

 そう結論付け、俺はいつものクッションへと腰掛け、一色と視線を合わせる。

 ちょっと近いかな……少し離れるか……。

 よし、こんなもんだろう。一色の顔も見れる……と思ったのだが、一色はそれがお気に召さないのか、顔の半分ほどまで布団を被ってしまった。

 

「あんまり見ないで下さい……髪とかボサボサなので……」

「あ、ああ。すまん」

 

 病気なんだから仕方ないと思うのだが……。

 あ、でもそういや、寝込んでる女子の見舞いとか看病で喜ばれるのは二次元だけだって小町も言ってたな。

 見舞いも看病もされて嬉しいものなんじゃないのか? 小町以外の女子に看病されたこと無いから分からないけど……。女子本当分からん。

 まあいいか、それならそれでさっさと用事を済ませて帰ろう。

 そう、今日はそのために来たのだ。

 

「それで?」

「……ふぁい……?」

「十一月の模試結果、出たんだろ?」

 

 その言葉に、一色がビクリと震えるのが分かった。

 だが、一向に答えは返ってこない。

 あるいは、その沈黙こそが答えだったのかも知れない。

 分かっている。この状況で結果を察しないほど鈍くもない。

 一色にしてみれば俺が追い打ちをかけに来たように見えたかも知れない。

 でも勘違いしないで欲しい、それはそれでしっかりと確認しておかなければいけない事実だったのだ。

 出てしまった結果は変えられないが、これからの事なら変えられるからな。

 残された時間も少ない、やれる事がまだあるうちは動くべきだろう。

 

「どうだった?」

「机の引き出しに……入ってます……」

「……見て良いんだな?」

 

 俺の問に、一色が一度だけ小さく頷く。

 それを確認すると、俺はゆっくりと立ち上がり、一色の勉強机へと向かった。

 普段だったら絶対に怒られるであろう一番上の引き出しを開ける。

 中に入っていたのは少し厚めのA4のクリアファイル。どうやら、ここにはコレまでにやったプリント類が挟まれているらしい。

 その隙間から見えるのは『C判定』の文字。これはこの間の奴だな。

 一応プリントアウトしておけと言っておいたのだが、今確認すべきなのはこれじゃない。

 

 俺はその用紙を一度机の上に置くと、二枚目に挟まっていた三つ折りにされた紙を手に取る。

 それはプリントアウトした普通紙とは少し違う、上質な紙。

 その紙を広げてみると、上の方に少し握り潰した痕のような皺が残っているのが分かった。

 これだけで一色がどんな気持ちでこの紙を見たのかが目に浮かぶようだ。

 そして同時に、自分の予想が外れていなかったという思いを再確認しながら、俺は紙に視線を落とした。

 ああ、やっぱりか……。まあ……そりゃそうだよな……。

 

「駄目だったか……」

「……駄目でしたね……A取れませんでした」

 

 俺の言葉に、一色がハハッと力なく笑う。

 まぁ、仕方がない。

 俺としても本命より先に受けた模試で『Aを取れました』なんてご都合主義を期待したわけでもない。

 現実なんてそんなもんだ。

 

「ワンチャン……あると思ってたんですけどね……」

「まぁ、お前も駄目だって薄々分かってただろ……。二度目の模試もあれだったし……」

 

 それは一色自身分かってた事だろう。

 このタイミングで逆転サヨナラホームランが出ないことは理解していたはずだ。

 

「まぁ、進学先変更するのも急だったしな……仕方ないんじゃないの?」

 

 そう、あんなタイミングで進学先を変更しなければいけなくなった原因を作ったやつが悪い。

 結論、悪いのは葉山である。

 だから俺も悪くない。

 

「急って……だってしょうがないじゃないですか……」

 

 うん、まぁ一色から見ればしょうがない事だったのだろう。

 例えそれが傍から見たら下らない理由でも、一色にとってはきっと大事なことだったのだ。

 その事をとやかく言うつもりはない。

 だが、俺にはもう一つ確認しておくべきことがあった。 

 

「……おっさんにはもう知られてるんだな?」

 

 もみじさんの話によれば、一色が倒れたのはおっさんが来た後。

 となれば、おっさんもこの結果を知っている可能性が高い。

 だから、その確認はどうしても必要だった。

 もし、まだこの結果を知らないのであれば、取れる対策はある……と思っていたのだが……。

 俺の問に少しだけ戸惑うような表情を浮かべた布団の中の一色は、小さく頷いた。

 

「……そうか……」

 

 どうやら隠蔽や偽装も出来ない状況にあるらしい。

 そんな作戦が通用する相手じゃないことは理解しているが。

 それでも、打つ手が無いという現実を突きつけられているようで少しだけやるせない気持ちにもなるな。

 流石に今からやってる模試を探すのも無理だし……。

 

「んじゃ、次からは海浜総合向けの授業にシフトするか……まあ少し楽になるからいいんじゃないの?」

 

 油断していいというわけでもないが。ランクを下げる事にはなるので、今までのような強行軍をする必要はなくなるだろう。

 なんなら俺のシフトもまた減るかも知れない。

 とにかく、受験に対するモチベーションは保ってもらわなければ。

 そんな思いで、少し軽口を混ぜてみたのだが。

 俺の言葉を聞くなり、一色はガバっと勢いよく布団から起き上がってきた。

 

「は? なんですかそれ!」

 

 ボサボサの頭のまま、俺を真っ直ぐに見つめてくる。

 

「っていうか、まだ終わってませんし、寧ろこれこそお爺ちゃんへの有効な責め方です! タイミングよく熱も出て、こんなの周りだって心配するし、気遣うじゃないですか? それにあとあれです、やっぱ可愛い孫娘の事って気にしますよね? 可哀想だって思うじゃないですか? だから、この敗北は布石です……次を有効に進めるための……だから……その……頑張ら、ない……と……」

 

 早口に、そして最後の方はもはや嗚咽混じりになりながら、一色はそう捲し立てるだけまくし立てると再び布団を被った。

 だが、今度は少しも顔を見せず、完全に布団と一体になっている。

 そうか、こいつはまだ諦めてなかったのか……。

 げに恐ろしきは葉山への執念という事なのだろう。

 少し……羨ましいな……。 

 

「凄いな、お前」

「センパイのせいですからね……こうなったの……」

 

 布団の中でスンスンと鼻をすすりながら、一色がそんな事を言ってくる。

 それはつまり、俺の教え方が悪かったという事なのだろう。

 勿論そこに対する責任は感じている。

 だから、何か出来ることがあるならしてやりたいとは思う。

 

 だが、どうする?

 もう今年は一週間を切っている。

 年内に受けた模試の結果は出ており、新たにA判定を取ることは不可能だ。

 

 一色の言うように、おっさんが折れてくれるのを待つ?

 いや、それは流石に楽観的すぎる気がする。

 俺に出来ることはもうないのか?

 本当に?

 他に何かないか?

 おっさんを納得させられるような何か……。

 どうにかしてあのおっさんを説得する方法……。

 

 あのおっさんはああ見えて、結構単純だ。

 考えろ、考えろ。

 

 総武を受ける条件。A判定。海浜総合。

 家庭教師。俺のシフト。文化祭。葉山。

 そして一色の今日までの努力。

 

 エアコンの稼働音と、時々鼻をすする音が聞こえる部屋で思考を巡らせる。

 少し暑いな……。ブレザー脱ぐか……。

 俺がブレザーを脱ぐため、先程から手に持っていたクリアファイルを一度机に置こうとしたところで、ふと気がついた。

 

 さっきは模試の結果しか見ていなかったが……これを使えば或いは……?

 いや……だが、そんなに簡単に上手くいくか?

 それに、これは俺が勝手に動いて良いものではない。

 まずは、確認が必要だ。

 俺は、脱いだブレザーを一色の椅子の背もたれに掛けると、再び一色の方へと向き直る。

 

「……一色、一つだけ聞いていいか?」

「……なん……ですか?」

「諦めて海浜に行く気はないんだな?」

 

 俺が続けて問いかけると、一色が布団から少しだけ顔を出し、力強く頷くのが見えた。

 その瞳は赤く充血している。

 

「なら……」

 

 本当は、こんな事するべきではないのかもしれない。

 俺の雇い主はおっさんであって、一色ではない。

 おっさんが総武に反対なら、俺も総武行きを反対すべきなのかもしれない。

 本当ならこのまま諦めさせた方が俺にとっても楽なのだとも思う。

 

「受験当日まで、本気で努力する覚悟はあるか? 絶対合格するって約束出来るか?」

 

 だが、聞いてしまった。

 一色がどこの学校に通おうと、俺には関係が無いはずなのに。

 それを聞いたらもう、動かなくてはいけなくなってしまうと分かっていたのに……。

 

「あ、あります! センパイと同じ高校に行くためならなんだってします……! 諦めません……! 絶対合格してみせます!」

 

 一色が再び起き上がり、赤い目とボサボサの頭のまま、俺を見つめて力強くそう答えた。

 それはある意味では予想通りの言葉。

 予想外だったのは『俺と同じ所』という部分だが、まぁ深い意味はないだろう。

 熱も出てるし、こんな状況で葉山の名前を出せないのは分かるからな。

 

「んじゃ……やるだけやってみるか」

「え?」

 

 言質は取った。

 いや、今更責任逃れをするつもりはないが……もしうまく事が運んだ場合でも本人のやる気は必須だからな。 

 あとは、おっさんの許可だけ、となると必要なものは……。

 

「一色悪い、これちょっと借りるぞ」

 

 俺がそう言って持っていたクリアファイルに、先程机の上に広げた模試の結果を仕舞うと、そのまま自分のカバンに入れた。

 突然の事に一色も怪訝な表情を浮かべ、俺を見てくる。

 

「何に使うんですか?」

「ちょっとな……」

 

 そう、ちょっと使うのだ。

 これがあればもしかしたら現状をひっくり返せる……いや、その切っ掛けになるかも知れない。

 だが、とりあえず詳細は伏せておこう。

 変に期待させてぬか喜びという事にもなりかねないからな……。

 そうなったらなったで後が怖い。

 

「んじゃ、帰るわ。とりあえずお前は早く体調整えろ、しっかり寝ないとまたニキビできるぞ」

「!!!?」

 

 俺がそう指摘し、カバンを肩にかけると、一色は声にならない声を上げ、額を押さえる。

 そう、今の一色は額にバンソーコーをつけていないし、俺が額を直接触れたので、当然冷たく熱を吸収するシートもついていない。

 そして、代わりに出来物のような赤い点がいくつか散見していた。

 まごうことなきニキビだ。

 

 勉強しなければという思いで夜ふかしを繰り返していたのだろう。

 バンソーコーと前髪で一時的に隠せても、根本的な解決にはならない。

 まあ、遊びでする夜ふかしとは違うので咎めにくいが、今回のように体調を崩すこともあるのだから、やはり指摘はしておくべきだ。

 そう考えるなら、このタイミングで体調を崩したのは逆に良かったのかも知れない。

 これが本番当日だったら目も当てられないからな。

 

「次来る時までに風邪治しとけよ?」

「え? ちょ、ちょっと! センパイ!? キャッ……! いった!!」

 

 そう言って俺が部屋を後にすると、最後の最後に扉の向こうで、どんっと重たい物が落ちる音と一色の叫び声のような物が聞こえた気がするが……。まぁ恐らく何か落としたのだろう。

 さて、時刻はまだ十七時台。もみじさんから連絡貰ってすぐ来たから大分早いが。

 今からなら間に合うだろうか? まあ明日でもいいんだが、とりあえず断りの連絡は入れておくべきだな。

 

「それじゃ、お邪魔しました!」

「え!? 八幡くん!? 帰っちゃうの!?」

 

 もみじさんに捕まるとメンド……気を使わせてしまいそうだったので、声だけで帰りの挨拶だけを済ませ廊下を駆け抜けた。

 玄関に掛けてあった自分のコートを手早く身に纏うと、足早に一色家を後にする。

 電話しないといけないし、今日は階段で降りていくか……。

 決してもみじさんが追いかけて来るのを警戒したわけではないし、本当は歩きスマホというのは良くないのだが。

 まあ、十階から階段を使う奴はそんなにいないだろうから許して欲しい。

 

「おお、八幡か。なんだお前からかけて来るなんて珍しいな」

 

 もみじさんが追って来ていないことを確認しながら、早足で階段を駆け下り、七階に差し掛かった所でスマホのスピーカーから相手の──おっさんの声が聞こえてきた。

 

「おっさん、突然で悪いんだけどちょっと話があるんだ、時間貰えないか?」

「話?」

「ああ、大事な話なんだ」

 

 俺の言葉に、おっさんが驚いたように『ほぅっ』と小さく息を吐くのを感じる。

 何故だろう、今更なのに少し緊張してきた。

 

「電話ですむ話か?」

「いや、見てもらいたいものがあるから、出来れば会って話したい……」

 

 そう、見てもらいたい。見て貰わなければいけない物がある。

 だから、直接会うというのは最低条件だ。

 ああ、そうか、あの時の一色の急用もこんな感じだったのかもな。

 

「本当に珍しいな。つまり……長い話になりそうなんだな?」

「それは、おっさん次第だな」

 

 俺が足を止め、そう言うとスマホの向こうから「いろはの事か……」という小さな呟きが聞こえた。

 もう既に何かを察したのだろうか、相変わらず怖いおっさんだ。

 でも、恐らく俺に向けた言葉ではないだろう。まだ俺が何を言うつもりなのかまでは分かっていないはず……。はずだよね?

 

「なら、明日家まで来い。場所は覚えてるんだろ?」

「ああ、多分大丈夫だ。んじゃ明日。学校終わったらそっち行かせてもらうからよろしく」

 

 とりあえずアポは取れた。

 これで、少なくとも話は出来る。

 さて、後は話し合いが上手くいくかどうか。

  

 一色は今日まで自分の出来ることを全力でやっていた。

 それは俺が見ていたから分かる。

 きっと、おっさんに総武行きを伝えた時も全力だったのだろう。

 だから、次は俺の番だ。

 

 なに、勝算がないわけじゃない。

 少し前までの俺だったら信じられるものなんて俺自身しかなかったが、あのおっさんの事なら多少は信じられる。あの人はそこまで悪いおっさんじゃない。

 だから、勝算がないわけじゃない。

 

 よし、今日は早い所家に帰って、もう一度模試結果を確認しておこう。

 他にも何か使えるものがあるかも知れないからな……。

 そう思い、ようやく一階に辿り着いた所で、手に持っていたスマホをポケットにしまおうとしたところで、そのスマホが小さく震えた。

 なんだ? おっさんか?

 何か言い忘れた事でもあったのだろうか?

 そう思い、しまおうとしていたスマホを再び開く。

 だが、そこにあったのは一色からの一通のメッセージ。

 

【センパイ! ブレザー忘れてます!】

 

 あ……。 




50話記念と併せて
初投稿が2019年3月15日ということで二周年(一年のブランクがあるので実質一周年)を迎えることが出来ました。ワー!!パチパチパチ!!

これもひとえに皆様の応援のおかげです。
本当にありがとうございます。
引き続き完結に向けて努力していきたいと思っていますのでよろしくお願い致します。

感想、評価、誤字報告、お気に入り、メッセージ、ココスキなど
リアクションをしていただけると、とても喜びますのでよろしくお願いします!


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第51話 八幡vs縁継

『来週(の投稿)は無理かもしれない』と言ったな……あれは嘘だ。

お気に入り10000突破!!
早めに皆様にご報告したかったので頑張りました!
これも今日まで応援してくださった皆様のお影です!
本当に、本当にありがとうございます!

引き続き応援の程よろしくお願い致します!


「よし、ここだな」

 

 おっさんの家に来るのはこれで二度目だが、特に迷うこと無く辿り着いた。

 まあ、初めて来た時のインパクトが強すぎたからな、忘れようにも忘れられない。

 前は確かまだ春だったか。

 今、俺がこうしてコートを着ている事を考えると、随分と長い付き合いになったものだ。

 あの日ココに来た時は、家族でも学校が同じわけでもない年下の女子と、これほど長い付き合いをする事になるなんて想像もしていなかった。

 

「いらっしゃい八幡くん、お久しぶりね。待ってたわよ」

 

 インターホンを鳴らすと、時を待たずして楓さんが門を開けてくれた。

 もしかして文字通り待っていてくれたのだろうか?

 この寒空の下を? なんだ申し訳ない気分になるな……。

 そういえば楓さんとは夏休み明けに一色の家で会って以来だから、約4ヶ月ぶりか。

 

「ども、ご無沙汰してます」

「ささ、寒いから入って入って」

「お邪魔します」

 

 足早に玄関へと案内され、コートを脱がされ家の中へと招かれる。

 今日は忘れないようにしないとな……。思い出すのは昨日ブレザーを忘れ、一色の家に戻って恥ずかしい思いをした記憶。やはり慣れない事はするものではない。本当今日は気をつけよう。

 

 それにしても……相変わらず広い家だ。

 いや、不思議のダンジョンじゃないのだから来る度に大きさが変わってる方が変なんだけどな。

 死ぬか、条件達成しないと出られないという点では強ち間違っていないような気もする。

 普通に入って普通に出てくるというイメージが湧かない。

 まぁ、今日の勝利条件は分かっているつもりだが……。さて、どうなるか。 

 

「おお、八幡、遅かった、な」

「うす……一応これでも学校終わってから急いで来たんだけど……」

 

 廊下を抜け、大きなテレビのある居間にたどり着くと、そこにおっさんは居た。

 あれ? そうか、おっさんとも九月以降会ってないのか。

 なんか随分と印象が違うな。

 というのも、おっさんは相変わらずの長身、ロマンスグレーの髪こそ変わらないものの。

 その手には何やら黒くて丸いドーナツ状の何かを持ち、冬だというのに下はジャージ、上はTシャツ一枚という随分と寒々しいラフな格好でゼェゼェと息を切らしながら立っていた。

 

「……何やってんの?」

「ん? これか? 最近、知り合いに、貰ってな……、最初は、バカバカしいと、思って、いたんだが、結構……はぁっ、良い、運動に、なる、ぞ」

 

 そう言っておっさんは肩で息をしながら、手に持っていた黒い輪っかを俺に見せてくる。完全に変質者だ。

 だが、別に俺はそんな物に興味はなかった。

 いや、ちょっと興味はあったけど……。

 ソレ以上に目を引いたのは、おっさんが身に纏っているTシャツのロゴ。

 そう、何故かおっさんは、もの凄く見覚えのあるTシャツを着ていたのだ。

 

『熊になりたい』

 

 いや、もう熊じゃん。

 何その引き締まった筋肉、どうなってんの?

 明らかにサイズあってないから文字もちょっと横に伸びちゃってるし。

 むしろよく着れたな、逆にどうやって脱ぐの? 破くの?

 

 まさかこんな所であのTシャツと再会するとは思わなかった。

 確かあれは一色が買ってくれたはずだが……。

 そうか、一色の奴、おっさんにプレゼントしたのか。

 そういやそんな事も言ってたな。

 まあ、買ったものをどうするかは買ったやつが勝手にすればいいと思うけど。不思議とちょっとだけ悲しいのは何故だろう。

 

「いや、今はいいや。電話で言った通り今日は話がしたいだけだから……」

「ッハァ……そう焦るな……。とりあえず、着替えて来るから向こうの部屋で待ってろ。思っていたより汗をかいた。楓、八幡を広間の方につれてってやってくれ」

 

 俺がそのTシャツを横目に、渡してこようとする輪っかを拒絶すると、おっさんはそう言ってしんどそうに奥の方へと消えていく。

 

「はいはい。さ、八幡くんどうぞ。こっちよ」

「あ、すみません」

 

 そうして楓さんに促されるまま、廊下を進むと、途中で楓さんが小さく笑い声を漏らすのが聞こえてきた。

 俺、何かおかしかっただろうか?

 

「ふふ。あの人ね、あれで結構落ち込んでるのよ」

「落ち込んでる?」

「ほら、いろはちゃんが熱を出しちゃったでしょう? それで責任感じたんじゃないかしら。突然運動するなんて言ってあんなに汗だくになるまでゲームやってたのよ。まぁ最後の方は普通に楽しくなっちゃってたみたいだけど」

 

 なるほど、一種の自傷行為という事なのだろう。

 一色の言っていた通り、ある程度の同情を引く効果はあったようだな。

 それなら、一色も熱をだした甲斐があるというものだろう。

 というか、落ち込むぐらいなら普通に許可してやればいいのに……。

 まぁ、その辺りは余裕があったら問い詰めよう。

 

 そんな事を考えながら、やがて到着したのは、あの日の事を思い出す広い和室。

 またここか……。

 

「飲み物はお茶とコーヒーどちらがいいかしら? やっぱり若い子はコーラとか?」

「あ、じゃあコーヒーで」

 

 俺が促されるまま座布団に座ると、楓さんはそう言って、一度部屋をでる。

 テーブルの上にはなんだか高そうなお茶菓子も用意されているが……。

 食べていいのだろうか?

 そういやそろそろ腹も減ってきたな……。話の途中で腹が鳴りませんように。

 

*

 

「すまん、待たせたな」

 

 それから十分程だろうか?

 俺が二杯目のコーヒーを飲み終わった所で、着替えを済ませたおっさんが戻ってきた。

 髪が濡れているのでシャワーでも浴びてきたのかも知れない。

 のっそりと俺の横を通り過ぎ、正面の上座へと座ると、用意されていたお茶を一口すすり、大きく息を吐く。

 

「さて、じゃあ話を聞こうか」

 

 あの時と同じシチュエーションだなと思っていたが……違うな。

 あの時はおっさんが話をする側だった。

 だが、今回の話手は俺。

 おっさんを納得させなければいけないのも俺。

 完全に攻守が入れ替わっている。

 やばい、ちょっと緊張してきた。

 コーヒー飲みすぎたかもしれん。

 でも流石にこのタイミングでトイレ貸して下さいとも言えないか……。

 仕方ない、気を引き締めろ比企谷八幡。

 相変わらず仲間はいないが、今回は装備は整っている。

 腹に力を入れ、俺はその言葉を絞り出す。

 力を入れているのは、そうしないと目をそらしてしまいそうだったからだ。

 

「一色の総武行き。認めてやってほしい」

 

 さぁ、一色縁継狩猟戦の始まりだ。

 一狩り行こうぜ。

 

* 

 

 僅かな静寂の後、おっさんが二口目のお茶を啜る。

 嫌な間だ。

 なんだか、母ちゃんに怒られる直前みたいな、そんな心持ち。

 だが、そうやって身構えている俺とは裏腹に、おっさんはゆっくり湯呑をテーブルに置くと、まるで孫と一緒にオセロでもやるかのような調子で顎に手をやり。「ふむ」と一度小さく息を吐く。

 

「その話なら、既にいろはと話したはずなんだがな? ……お前も知っていると思うが。あいつは儂が出した課題をクリア出来なかった。だから……総武には行かせられん」

 

 しかし、飄々とした表情から一変して、おっさんは一度俺を睨みつけるように視線を向け、真面目な顔で俺にそう告げて来た。

 やはり、そう簡単にはいかないか……。

 まぁ、そりゃそうだわな。

 

「条件を出してたのは知ってる。でも、せめてもう一度チャンスをやってほしい。正直そこまで成績が悪いってわけじゃないんだ」

 

 俺はそう言いながら、持ってきたカバンからクリアファイルを取り出し、その中に入っていた紙をテーブルに広げる。

 まずはこれからだ。

 

「これ、見てくれ」

「これ? ああ、これなら見たぞ、模試の結果だろう? Aではなかったはずだが?」

 

 そう、それは俺も確認し、おっさんが一色と確認したという模試の結果だった。

 一枚目はオンラインで受けた『C判定』の、そしてもう一枚は……『B判定』と書かれた十一月に受けた模試の結果。

 

「こっちはCだが……こっちは同じ模試会場で、夏にCだったのがBに上がっている。ちゃんと結果は出てるんだ」

「その結果ならもう知ってる、だが、儂が出した条件はA判定であってBじゃない。そんな事も聞いとらんのか?」

「……それは分かってる。でも、ここの参加者全体の成績順位を見て欲しい」

「あん?」

 

 俺が示したのは模試の端に書かれた、参加者全体からみた成績の順位。

 そこには順位と共に小さなグラフが書かれており、A判定、B判定、C判定のラインが大まかにだが記されていた。

 

「A判定とB判定の境目がこの辺りだ。一色の場合ほとんどAに近い。あとほんの数問正解していれば、Aだった可能性もある。実質Bプラスって所だ。だから合格の可能性は十分あると思う。俺も去年はこれぐらいだった」

 

 俺も実質Bプラス。ほぼAだと思って次の模試狙ったからな。

 但し夏の模試で。という注釈が付くが。

 嘘は言っていない。

 だが、詳しく話す事もしない。

 

「なるほど。言いたいことは分かった。でも、こっちにはC判定が出てるんだろ?」

 

 やはり、そこが気になるか。

 だが、そちらの方も対策済みだ。

 

「それについては……ココを見て欲しい」

「ここ?」

 

 次に俺が指摘したのは、おっさんが指し示したC判定と書かれた用紙。

 その正誤表の英語と書かれた辺りだった。  

 

「ここ、英語の途中から全部バツになってるだろ?」

「ん? ああ、確かに。よっぽど難しかったってことか?」

「まあ難しかったっていうのもあると思うが、一緒にこっちも見て欲しい」

 

 俺は再びクリアファイルを取り出し、そこに入っていた、自己採点がされている問題用紙を取り出す。

 

「こっちだと逆に殆ど正解しているんだ。おかしいだろ? マークシートだぞ? スペルミスなんて事もありえない。いや、マークシートだからと言うべきかもしれないけどな……」

「マークシートだから……なるほど、解答がズレていたわけか」

「ああ、マークシートなんて本番とは違う慣れない形式だったし、本人も気付いて無かったんだと思う。実際、自己採点した解答をズラして採点したら評価と同じ点になった」

 

 そう、それはマークシートだからこそ起こりえるミス。

 だから、もしこれがズレていなかったら。A……は言い過ぎにしても十分Bは狙えたのではないかと思う。一教科まるまる落としてるレベルだからな……。

 全く、慣れない事はするものじゃない。

 俺も今後マークシートをやる事があったら気をつけよう。

 

「ふむ……それで?」

「それでって……」

 

 だが、そこまで話しても、おっさんの顔色には少しも変化が見られなかった。

 それどころか、何を言っているか分からないとでも言いたげに首を傾げてくる。

 

「解答がズレていたからもう一度やらせてくれと、本番でも言うつもりなのか? そんな道理が通るはずがないだろう。もし本気でそんな甘い事を考えているなら尚更諦めろ。現実ってのはお前たちが思っている以上に厳しいもんだ」

「それは……勿論分かってる」

 

 おっさんが言っている事は何も間違ってはいない、ミスなんてしたやつが悪いのだ。

 現実はクソゲーで、それは俺もよく知っている。

 だが、これはあくまで模試。本番ではない。一色が受験するかどうかはおっさんのさじ加減一つで、まだ十分修正が効く範囲の事だろう。

 

「だから……せめてチャンスをやってほしい。というか、受かる可能性が低いと思ってるなら挑戦させてやってもいいんじゃないの? 一色だって頑張ってる。そもそもこんな変な条件が無ければ推薦っていう可能性だってあったわけで、海浜だったら絶対合格するわけでもないだろ?」

 

 仮にA判定だろうと合格できるという確証になるわけではないのだ、とにかくせめてチャンスを与えてやってほしい。

 諦めるにしても、こんな終わり方では一色だって納得していない。

 頼む、首を縦に振ってくれ!

 

「駄目だ。どうせアイツのことだ、ちょっと甘えれば少しぐらい融通してもらえるとか考えていたんだろう。ちょうどいい機会だ、そういう曲がった性根をここらで叩き直してやらんとな」

 

 だが、おっさんは俺の願いも虚しく、横に首を振り、呆れたようにそう言い放つ。

 確かに、それは一色の狙いでもあった。

 つまり、おっさんは一色がそうするであろうという事を予測していたということか。

 なら俺は戦い方を間違っていたのかも知れない。

 

「一応言っておくが、お前の授業内容に問題があったと言っている訳ではないぞ? 試験を受けたのはアイツで、ここまで勉強してきたのも、しなかったのも……解答欄をズラしたのもアイツの責任だ。いい勉強になっただろう」

「……」

 

 おっさんが単純に一色の成績では総武に届かないと思っているなら合格の可能性を見せれば少しは納得してくれるかと思ったのだが、やはりそう甘くはないようだ。

 やはり正攻法じゃこのおっさんは倒せない。となると……最後の手段に出るしか無いのか……。

 

 孫に甘い爺さんだと思っていたのだが、まさかここまで頑固だとは思わなかった。

 なら……仕方ないか。

 

「分かった……でもおっさん、最後に一応一つだけ確認させてくれ。おっさんが出した条件は『年内に模試のA判定を持ってくること』でいいんだよな? マークシートだろうと、オンラインだろうと、模試を受ける場所はどこでもいいし、形式や時期に指定はない」

 

 それは、何よりも確認して置かなければ行けないことだった。

 もし、一色の勘違いだとしたらそもそも俺の作戦も破綻してしまう。

 

「ん? ああ、そうだな。どうした今更? まだ他にも受けてるのか?」

 

 よし、言質は取った。

 一端これで話し合いは続けられる。

 

「ああ……それなら良かった。今までのは全部忘れてくれ。……あいつはもう既にA判定を取ってるからな」

「何?」

 

 眉をひそめるおっさんを横目に、俺は再びクリアファイルから紙を取り出した。

 枚数は五枚、よし。ちゃんとあるな。

 昨日、コレが入っているのを見つけて良かった。

 もしコレがなかったら、俺も流石にココには来れなかっただろう。

 

「コレ見てくれ」

「? なんだこれ? テスト?」

 

 俺は机の上にその五枚のプリントを広げる。

 それはおっさんの言う通り、確かにテスト用紙のようにも見える。

 だがそれは、普通のテスト用紙ではなかった。

 

「それが一色が受けた模試だ」

「これが……? タダのテストじゃないのか? 結果はどこに書かれてる……? どこの模試だ?」

 

 国語、数学、理科、社会、英語。

 きっちり五教科分。

 おっさんがその五枚の用紙を代わる代わる持ち替え、目を細め疑問を投げかける。

 どうやら、本当にまだ分かっていないらしい。

 なら、種明かしと行こう。 

 

「俺のだよ」

 

 俺がそう言うと、おっさんはプリントから目を上げ、俺に向かって一言「は?」と首を傾げた。

 まあ、そういう反応になるよな。俺だって多分そうする。

 でも、別におかしな事はないだろ?

 

「家庭教師、比企谷八幡が実施した模試だ」

 

 そう、それは俺の手作りの模試。

 それまでの問題集や、過去問を見ながら見様見真似で作った、俺のオリジナルの模試だった。

 

「お前が作った……模試?」

 

 おっさんはその俺の言葉を聞くと、目を丸くして改めてプリントに視線を落とす。

 少し混乱しているのか、何度も手に取りその裏まで眺めていた。

 いや、裏は何も書いてないだろ。

 

「模試は模擬試験の略。つまり本番の試験を模したものだろ? だから俺も試験っぽく作ってみたんだ。家庭教師らしくな。どこのどんな模試かの指定がないならこれでも構わないんだろ?」

 

 まあ、本当は一色の『テストを作れ、そして合格点を取ったら褒美をよこせ』と言う無茶振りに応えた結果なんだけどな。

 一色が真面目に勉強しだして、待機している時間が増えて暇だったというのもある。

 なまじ良い点を取られてしまったので、シフトを更に一日増やして週四で通う羽目になっているのだが……まあそれはこの際置いておこう。

 

「試験中は俺が後ろで監視してたから当然カンニングはしてないし、助言もしてない。時間も厳守させた」

 

 但し、それまでに一色が間違えた、もしくは苦手そうな部分をアレンジした問題を多く配置したテストなので。

 『その辺りに注意しろ』と言われていた一色にとっては苦手とは言え、幾らかやりやすい部類だったかもしれないけどな。

 

「平均88点。俺基準だが、間違いなくA判定の模試結果だ」

 

 偏差値も何も考慮してないので、何を持ってA判定と言うのかと問われれば。完全に独断としか言えないのだが。

 それでも、もしこのテストを受けた人間を得点順で並べたとすれば、確実に一色はA判定と言えるだろう。

 ちなみにこの模試をお試しで受けた人間が実はもう一人いるのだが。彼女の名誉のためにも点数を公表する事は控えておこう。彼女はまだ中二で伸びしろがいっぱいなのだ。

 だから、来年はもっと頑張ってねKMTちゃん。

 

「お前、自分が何を言ってるのか分かってるのか?」

「何って?」

「素人のお前が作った模試でA判定? それを本気にして本番で落ちたらどうする?」

 

 俺の模試をバンッとテーブルに叩きつけ、真剣な表情で見つめてくるおっさんに思わず怯んでしまいそうだ。

 だが、なんとかソレに耐えたとしても、結果は変わらない。

 俺とおっさんの間に気まずい沈黙が流れはじめる。

 やはり、こんな子供だましの作戦では駄目という事だろうか?

 俺の負けなのか?

 俺には何も出来ないのか?

 すまん、一色……。

 

「……それだけ言うんだ、その時はお前が責任とってくれるんだよな?」

 

 諦めかけたその時、おっさんがニヤリと意地の悪い笑みを浮かべ、俺を見た。

 

 ああ、助かった。

 その言葉を待っていたのだ。

 

 やはり、おっさんはおっさんだった。

 おっさんなら──一色縁継ならそう言ってくれるんじゃないかって信じてたんだ。

 

「責任? 何いってんだ?」

 

 俺の作った試験なんて所詮、おっさんの条件をクリアするための上辺でしかない。

 こういっておけば、少なくとも体裁は整う。

 後は、おっさんがその言葉を言ってくれるかどうか。

 そこだけが賭けだった。

 

「おっさん、忘れたのか?」

 

 だから、信じるしかなかった。

 俺が俺以外に信じられるものがあるとしたら、それは目の前にいる一色縁継という人間の性格だけ。

 もし、おっさんがそう言ってくれさえすれば。俺はこう切り替えせるのだから。

 

「俺、あいつの許嫁なんだけど?」

「……!?」

 

 そう、俺は一色いろはの許嫁である。

 証明する手立てはない。

 だが、同時に絶対に否定もできない。

 なぜなら半年前、奇しくもこの場所で、俺と一色の関係をそう定義づけたのは他ならぬおっさんなのだから。

 

 そもそも許嫁とはなんだろうか?

 それは親や親族が子供同士の結婚を取り決めている関係の事だ。婚約者の事だ。

 つまり、この関係にある以上、事実はどうであろうと俺と一色は結婚する事になっている。

 

 言い方を変えてしまえば、俺は既に一色に対して責任を取るべき立場にいるのだ。

 家庭教師としてでも、後輩としてでもない。

 許嫁として。

 

 まあ来年には解消されるんだけどな。

 だが、おっさんには。それを言えない。

 

 仮に「来年には無くなる関係だから無効だ」というのであれば。現時点での許嫁も無効という事になる。

 それはつまり俺と一色家の関係のリセットと同義。

 どうせ結婚なんてしないんだからな。

 そしてその無効という主張が通るなら、俺が今日ここに来ることも、家庭教師としてバイトに行く事もなかったはずで。

 一色の悩みに乗る必要も『いろはのことを頼む』と言われた時に俺が動く理由も、義理もなかったことになり。

 あの日のおっさんの土下座でさえ無意味という事にもなる。

 

 まあそれでも『一年以上続ける覚悟があるのか』という突っ込みが来る可能性はあるわけだが。

 そもそも、あの時おっさんは一年で終わりとは一言も言っていない。

 半年前のあの時、おっさんがなんと言ったか。

 あの時、おっさんはこう言ったのだ。

 

 『とりあえず一年』そして『最低でも4月までは続けてもらう』

 

 そう、あくまで『とりあえず』で、五月までかもしれないし、六月かもしれない。明確な終わりは提示されていないのだ。

 ただ一つだけ言えることは、ソレ以降の解除はいつでも可能という事。

 だから、とりあえずこの場さえ乗り切ってしまえば。来年の四月以降はどうとでも言い逃れは出来る。

 大事なのは今、俺が許嫁でいることなのだから。

 

 まあ、それでも、もし一色が総武を落ちた場合。

 一色と葉山のアシストぐらいはするつもりだ。

 実際の所、俺が取れる責任といえばその程度だろう。

 

 だが、それを今ここで言う必要はない。

 条件付きではあるが、俺は今確かにおっさんに言われて「一色いろはの許嫁」という席に座っているのだから。そういう立場にいるのだと、ただその事を思い出してもらえばいい。

 

 勿論、こんなものはその場しのぎでしかない。

 だが、その場しのぎでいいのだ。

 問題の本質を『一色の成績』から『俺の責任』へと移す。

 そうする事で当面の問題は回避できる。

 

 当然、第三者にこんな話をすれば世界中の誰もが笑い飛ばすだろう。

 だが、それでもおっさんは──おっさんだけは俺の言葉から逃げる事が出来ない。出来るはずがない。

 

 だってそうだろう?

 許嫁なんて時代遅れも甚だしい馬鹿げた関係を、それも一年という矛盾を孕んだまま真面目に提案してくるような人だ。

 もし、ここで俺の言葉を否定したり、別方向での責任を強要すれば、おっさん自身が口にした許嫁という言葉は薄っぺらい“偽物”だったって事になる。

 そんな事、絶対にこのおっさんは認めないはずだ。

 

 だから、おっさんには悪いがそこを利用させてもらった。

 後は俺がこの許嫁という椅子に座っていればいい。

 一色が総武を受けるその日まで……。

 

「く……くくく、はーっはっはっはっはっは!」

 

 おっさんから目を逸らさずにいると、突然おっさんが大声で笑い出す。

 

「なるほどな、確かに。……許嫁以上の責任を取ることは出来んわなぁ」

 

 そう、俺に向かって『責任を取れ』という事は。

 本来、どうあがいても責任を取らざるを得ない許嫁たる俺相手に、もう一度『許嫁になれ』と言っているようなものでもある。

 こんな滑稽な事はないだろう。

 

「そうだ、そうだったな。こいつは一本取られた」

 

 「くっくっく」と小さい笑いを噛み締めながら、おっさんは自らの膝を叩き、俺の作った模試を手に取っていく。

 あまりジロジロ見ないで欲しい。

 流石に俺としても自作のテストなんて恥ずかしいのだ。

  

「まさか、お前が自分で“それ”を武器に使ってくる日が来るとはなぁ」

 

 悪かったな……俺だって使いたくなかったよ……。

 まあ武器っていうよりはトラップだけど。

 捕獲トラップ。上手く起動してくれてよかったよ本当。

 あとは、勝利のファンファーレが鳴るのを待つのみなのだが……。

 

「そうか……A判定か」

 

 しみじみという様相で手元の俺作成の模試を一枚一枚集めると、今度は俺に視線を向けてきた。

 

「……許嫁様がそう言うなら、認めるしかないだろうな。……分かった。儂の負けだ。お前達の好きにしろ。ったく……やっぱお前には勝てんなぁ」

 

 よし! 勝った!

 頭の中でクエストクリアの文字が浮かぶと、柄にもなく拳を握ってしまった。

 とりあえず、これで条件クリアだ。

 この後合格するかどうかという問題はあるが、それは一色自身の問題で、俺には関係ない。

 まぁ、ココまでしたんだ、できれば合格して貰いたいとは思っているけどな……。

  

「一つだけ聞いておくが。……八幡、そこまで言うからにはお前、いろはが総武に行くといった理由はちゃんと理解してるんだな?」

「ん? ああ、知ってるよ、葉山だろ」

 

 そうだ、おっさんには一色が直接話をしたらしいんだった。

 条件付きとはいえ許可をだしていたのだから、おっさんも知っていて当然といえば当然か。

 まぁそこらへんが反対の原因でもあったのかもしれないけど……。

 

「は……山?」

 

 だが、何故かおっさんは今日一番の間抜け面で口をぽかんと開きながら、首をかしげる。

 なんだろう、全然似てないはずなのに、ちょっと一色っぽい。これが血の繋がりという奴なのだろうか。

 遺伝ってバカにならないな。

 

「誰だソレ?」

 

 え?

 

*

 

「ハーッハッハッハ!」

「いや、笑いすぎだろ」

「これが笑わずに居られるか、くっくっく。いやぁ面白い事になってんなぁ」

 

 どうやら、状況を理解していなかったらしいおっさんに、俺が文化祭での出来事を“俺の推理混じり”に話すと、おっさんは。先程よりも大きな声でテーブルを叩きながら笑い始めた。

 一体何が面白いのだろうか。

 ああ、そうか。一色が別の男とくっつくのを助けるというのが滑稽に見えるのか。

 まあ、そこらへんは俺にはどうでもいい。……いいはずだ。

 

「分かった、改めていろはの総武の受験を許可しよう。ここまでしたんだ、ちゃんと受かるようにしてやってくれよ? 落ちたりしたら承知せんぞ?」

「? ……ああ、ちゃんと伝えとくよ」

 

 何故ココまで上機嫌になったのかはわからなかったが、もし落ちたら寧ろ俺を巻き込まず、家族で話し合って欲しい。

 これ以上面倒事に巻き込まれるのは御免だ。

 悪いけど、四月になったらマジで逃げるからな。

 

「あ、一応一筆貰っても?」

「ん? 全く、疑り深いやつだな……総武……高の……受験を……認め……る……これでいいか?」

「ああ、サンキュ」

 

 念の為、持ってきたプリントの裏におっさんから一筆もらい、俺はソレを汚さないよう、クリアファイルに挟んでカバンにしまう。

 よし、今度こそミッションコンプリートだ。

 

*

 

「本当に帰るのか? 飯ぐらい食ってけばいいだろ」

「いや、許可がでたって伝えてやりたいんだ。大分落ち込んでたからな」

 

 スマホを見ると、時刻は十七時を回ったばかり。

 普段だったら、バイトが始まる時間だ。

 まだ寝込んでいる可能性は高いが、今から向かえば結果報告ぐらいは出来るだろう。

 

「……そうか」

「残念ねぇ……」

 

 俺が断りを入れると、おっさんと楓さんは揃って肩を落とす。

 いや、そんな捨てられた子犬みたいな顔されても……というか、おっさんのその仕草はさすがに似合わなすぎるから止めて欲しい。

 逆に楓さんの方は本当に悪い事をしている気分になるな。

 

「あなた、送ってあげたら?」

「あ……う……」

 

 楓さんのその言葉に、おっさんが言葉を詰まらせる。

 まあ、今は顔を合わせづらいというのもあるのだろう。

 これ以上ココに居るのも悪いな、さっさと行くか。

 そう考え、俺が軽く頭を下げ「失礼します」と玄関を出て、門へ向かうと、後方から声が上がった。

 

「八幡!」

 

 おっさんの声だ。なんだろう? 何か忘れ物でもしただろうか?

 やっぱり送ってくれるとか?

 

「いろはの事、頼んだぞ!」

 

 また頼まれてしまった。

 でもここまで来たら仕方ない。

 あとたった数ヶ月の付き合いだ。 

 一蓮托生……という訳には行かないが、行けるところまでは行ってみよう。

 

「おぅ」

 

 そうして俺はおっさん宅を後にし、暗くなった住宅街を一人歩く。

 ふと耳をすませば、どこからともなく聞こえてくる耳馴染みのあるメロディ。

 ああ、そういえば今日は──クリスマスか。




改めてお気に入り10000、日頃の感想、誤字報告、評価、メッセージいつもありがとうございます。

引き続きいつでもどこでも受け付けておりますのでよろしくお願い致します。
通知が来ると作者が大変喜びます!

活動報告で裏話なんかもしてますのでよろしければ~。


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第52話 多分、忘れられないクリスマス

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージありがとうございます。
お影様で今回も投稿することができました!

第52話 ・お爺ちゃんの試練編としては最終回です。


 すでに年末ということもあり、辺りはすっかり暗くなっている中、俺は本日二度目の電車に揺られていた。

 

 車内はいつもより人が多く、心無しか男女の二人組が多い気がする。

 気のせいだろうか。うん、気のせいだな。

 例え俺の正面に手を繋いでイチャつく二人組が立っていようと、俺の隣でやたら顔を寄せ合って会話をしている二人組が座っていようと、それらは偶然の産物にすぎず、俺が一人で居ることにはなんら問題はない、ないはずだ、ないはずなのに……。

 なぜこんなにも場違い感が出ているのだろう……?

 

 ああ、なんだか視線が痛い。

 いや、おかしいだろ、クリスマスはキリストの誕生日であって、その他大勢のカップルがはしゃぐ日ではないはずだ。

 なんなの? クリスマスにぼっちが電車に乗っちゃいけないの?

 俺の知らない所でそんなルールが制定されたの?

 ぼっち差別は憲法違反じゃないですかね?

 ええいデモだ、暴動だ! 集えぼっちよ! 共に平和を取り戻そうではないか!

 ん? いや、集わないからこそぼっちなのか……。悲しいね……。

 

 やはり今日はタイミングが悪いのかもしれない。

 このまま帰って、一色への報告は後日に回すのもありだろうか?

 でもなぁ、それまでアイツが昨日のテンションのままで居るのかと思うと、不思議と心が痛む。

 出来るだけ早く伝えてやったほうが良いだろう。

 おっさんにはああ言ったが。実際の所責任なんて取れるはずはないので、早い所風邪を治して勉強をしてもらわなくては困る。

 総武行きの許可が出たと知れば、やる気も戻り、病気を治そうという意欲も湧くだろう。

 うん、やはり早く伝えたほうがいい。

 合理的に考えた上での判断だ、ソレ以外の理由はないし、この判断が間違っているとも思えない。

 

 だが、そんな風に『早く伝えねば』という謎の使命感に駆られながらも、この時の俺は不思議と『LIKEで伝える』という選択肢だけは頭に浮かんでこなかった。

 それが最も効率がよく、合理的な判断なはずなのに……。

 連日のバイトや、おっさんとのやり取りで俺自身も疲れていたのだろうか?

 やはり、働くなんて碌なもんじゃないな。

 

*

 

「はーい……って八幡くん? どうしたの?」

 

 ようやく到着したマンションのエントランスで一色宅の部屋番号を入力すると、驚いたようなもみじさんの声が返って来た。

 ああ、そういえば今日来るとは言っていなかったな。普通にバイトの日だからと失念していたが、昨日の今日なのだから休みだと思われても当然だ、先に連絡を入れておくべきだった。

 

「すみません。一色の様子ってどんな感じですかね?」

「まだ熱が下がって無いのよ……とりあえず入って?」

 

 まあ、昨日の今日ならそんなもんか。

 俺は言われるがまま、開かれた自動ドアを抜け、エレベータで鉢合わせた恐らくはこのマンションの住人であろう女性に「うわ、なんだこいつ……」みたいな視線で見られながら、一緒にエレベーターへと乗り込む。

 

 いや、怪しいものじゃないんです、本当。

 あ、そちらは七階ですか?

 じゃあここでお別れですね。それでは……。

 

 なんて会話を脳内で交わしながら、無言で閉めるボタンを押し、もう誰も乗ってきませんようにと願いながらエレベーターで目的階まで上がると 一色家の部屋の前には既にもみじさんの姿があった。

 

「いらっしゃい、寒かったでしょう? 今日は来ないかと思っていたわ。すぐご飯の準備するわね」

 

 まずい、飯をたかりに来たと思われている?

 それだけは絶対に避けたい誤解だ。

 人を勝手に食いしん坊キャラにしないで頂きたい。

 

「あ、いえ。すみません、今日はスグ帰るんで。ちょっとだけ一色と話させてもらってもいいですか?」

「ええ、それは構わないけど……とにかく上がって? 何か温かい物を入れるわ」

 

 少しだけ戸惑いの表情を浮かべたもみじさんに入室の許可をもらい、足早に玄関を抜ける。  閉じられた手前の部屋のドアの奥からは、ギターの音が漏れ聞こえてきた。

 どうやら今日は弘法さんもいるようだ。微かに鼻歌らしき歌も聞こえてくる。

 この歌は……テレビのコマーシャルでよく流れる一昔前のクリスマスソングだな。

 原曲のタイトルも、誰が歌っているのかも知らないのに、メロディーだけは耳に残っているから不思議なものだ。

 

「いろはちゃーん、八幡くんがお見舞いに来てくれたわよー」

「……」

 

 そんな弘法さんのギターをBGMに、一色の部屋の前へ行くと。昨日と同じようにもみじさんが一色の部屋の扉をノックする。だが返事がない。ただの屍のようだ。

 いや、割と今の状況だと洒落にならんな。自重自重。

 

「寝てるのかしら? 入るわよー?」

 

 そう言うと、もみじさんは躊躇なく、ドアノブに手をかけた。

 どうやら今日は電気がついているようだが、起きているのだろうか?

 

「いろはちゃん、八幡くんが来てくれたわよ」

「セン……パイ?」

 

 もみじさんが声をかけると、ベッドで壁の方を向いて眠っていたらしい一色が、ゴロンと気だるそうに向きを変え、こちらを見上げてきた。

 どうやら普通に寝ていただけのようだ。屍ではなかった。

 

「ああ。具合はどうだ?」

「まだ……ちょっとダルイです……」

「そっか、えっと……メリークリスマス」

「あ、めりーくりすます……です」

 

 俺の言葉を理解しているのかしていないのか、良くわからないテンションで返事をしてくる一色。

 どうやら、ダルイという本人の言葉の通り、まだ本調子ではなさそうだ。

 まあ仕方がないか。

 

「そうよね。今日クリスマスだものね、ちょっと待ってて、ケーキ持ってくるわ」

 

 しかし、その言葉には何故か一色よりももみじさんが強く反応をしめし、俺の「あ、いえ、本当お構いなく」という言葉も聞かず、パタパタとキッチンの方へと戻っていってしまった。

 しまった、余計な事を言うんじゃなかった。

 病気の女子の見舞いにきて、ケーキたかる八幡とかいう奴マジ最低だな。

 明日からハブにしようぜ。

 ……いや、本当そんな意図はなかったんです。本当許して。

 

「……えっと、熱は?」

 

 ほんの一瞬だけ、もみじさんを引き止めに行こうかと思ったが。

 どうせ無駄だろうと悟り、改めて一色に向き直ると、なんとか言葉をかける。

 さっさと用を済ませてしまったほうがタカリ疑惑も晴れるだろう。

  

「昨日よりは……少し下がったと思います……」

 

 だが、返ってきたその言葉とは裏腹に、一色は起きるのもつらそうにフラフラと体を揺らしながら起き上がる。

 汗をかいて着替えたのか、昨日とは違うピンクのパジャマを身にまとっていた。

 

「ああ、いいから寝てろ」

「……すみません、クリスマスプレゼント……何も用意できませんでした……」

 

 お前もかブルータス。

 お前も俺がクリスマスイベントを楽しむために、ここに来たと思っているのか……。

 おかしい、俺の方から何かをねだった覚えはないはずなのだが……。なんなの? 今日までの俺の行いが悪いの? それともクリスマスというこのタイミングが悪いの? マジで身に覚えがないので前者じゃありませんように。

 

「別にそんなつもりできたんじゃねぇよ、俺も特に用意してないしな……」

 

 そう、断じてそんな物をタカリに来たわけじゃないのだ。

 だがそこでふと今日の目的を思い出す。

 いや、決して忘れていたわけではないのだが、一色との会話で今日の目的とクリスマスという単語が俺の中で綺麗に繋がる感覚がした。

 

「あー、でもそうだな。そういう意味じゃプレゼントになるかもな」

「?」

 

 言葉の意味がわからない。とでも言いたげに、ボーッと口を開けたまま俺を見上げる一色の顔は、確かにまだ熱があるようで、頬が赤く瞳も潤んでいるように見える。

 なんだか妙に色っぽ……いやいや、何を考えているんだ比企谷八幡。これじゃ本格的に最低野郎に成り下がってしまう、今はそういう妄想をしていい時間じゃないだろう。

 

 俺は一度一色から視線を逸し、頭を振ると咳払いをしてもう一度一色の顔を見た。

 よし。

 

「総武高。行けるようになったぞ。って言ってもあくまで受験する権利を得ただけだから、入学できるかはお前次第だけどな」

「ふぇ?」

 

 出来るだけ簡潔に分かりやすく伝えたはずなのだが……。

 喜んでくれるだろうと思っていた俺の予想に反して、一色は目をパチパチと瞬かせ、良く分からないという表情で首をかしげている。 

 あれ? 俺なんか間違えたか?

 ああ、もしかして適当な事を言っていると思われているのだろうか?

 先にアレを見せるべきだったか。

 

「だから、総武受けていいって。おっさんが許可出してくれたぞ。これ一応証拠な」

「へ?」

 

 もう一度、今度はおっさんから一筆貰ったプリントをカバンから取り出しながらそう言って。プリントをベッドの上に置いてやると、一色はまるでそのプリントが幻覚ではないかと確かめるように恐る恐るという様相で触れていく。

 

「え……本当に? な、なんで?」

「さっきおっさんと話してきたんだ」

 

 そのプリントが実在すると理解出来たのか、今度は両手でそのプリントを持ち上げ凝視しはじめる。

 もうちょっと素直に喜んでくれるかと思ったんだが……。

 熱のせいか、かなり混乱しているようだな。

 

「うそ……ほ、本当に? 私、総武受けていいんですか?」

 

 俺の顔とプリントを交互に見ながら、一色がそう言って固まる。

 どうやら、ようやく頭が追いついてきたようだ。

 いや、もしかしたら一周してまだ追いついていないのかもしれないが……。

 

「ああ、だからさっさと風邪治して、ちゃんと勉強しとけよ? ここで落ちたら流石にどうしようもないからな」

 

 俺のその言葉を聞いても、一色は「嘘……」と何度も呟くばかりで一向に会話にならない。

 どうしよう、壊れちゃったのかしら?

 受験前のこのタイミングでそれは結構洒落にならないぞ?

 

 実際の所、一色の現在の実力は十一月の時点でB判定という事しか分かってない。

 合格出来るかどうかは五分五分……いや、それよりは高く見積もっていいとは思うが。絶対合格と言えないのは確かで、後は本人の頑張り次第。受験当日までは気が抜けないのだが……もしかして俺、早まったか?

 やっぱり海浜にしておけばよかった、なんて事にならないといいんだが……。

 

「お待たせー、ちょっと小さいけど、評判のケーキ屋さんの奴なのよ。はい、いろはちゃんのも。食欲出てきたなら食べておきなさい?」

「あ、え? ありがとうございます?」

 

 そうして、少し心配気味に、未だ混乱したままプリントを握りしめている一色を見下ろしていると、もみじさんがトレイを持って戻ってきた。

 どうやら本当にケーキを用意してくれたらしい。

 なんか、本当にたかりに来たみたいだな、どうしよう……。

 

「ま、ママ! ママ! 私総武行って良いって! お爺ちゃんが! センパイが! 許可してくれたって!」

 

 だが、一色はそんなトレイなど見えないかのように、勢いよくベッドから立ち上がると、早口でそう捲し立て、まるで自分が描いた絵を見せびらかす幼児のようにプリントを掲げてもみじさんに詰め寄る。

 

「あらあら、そんなはしゃいで大丈夫なの?」

「大丈夫だから! ほらみて! これ! センパイが!」

 

 しかし、当のもみじさんはというと、俺の前のテーブルにケーキと紅茶を並べながら、手慣れた感じで片手間に対応をしていた。

 なんか、幼児退行してないか?

 こんなんで受験大丈夫なんだろうか……?

 本当に心配になってきた……おっさんに偉そうな事言ってしまった手前、ここで落ちたりしたらマジで洒落にならないんだがなぁ……うっ……胃が痛い。

 あ、フォークは手渡しなんですね、そこ置いてくれてよかったんですが、どうも。頂きます。

 

「あらあら本当、あのお爺ちゃんを説得するなんて。凄いわね八幡くん。あの人一度言ったことは曲げない人なのよ?」

「そう、そうなの! 凄いの! センパイ! 凄い!」

「お、おう。そうか、とりあえず落ち着け」

 

 今しがた渡されたフォークを持った方の手を一色に揺さぶられ、一瞬身の危険を感じてしまった。

 目に入ったらどうするの。全く。

 

「センパイ! ありがとうございます! 本当に、本当にありがとうございます! 最高のクリスマスプレゼントです!」

「ああ、分かったから、ちょっと落ち着け。治るものも治らなくなるだろ。まずは体調を治すことに専念しないとな」

 

 正直『喜んでくれれば』とは思っていたが。

 ここまでだと流石にちょっと戸惑ってしまう。

 ちゃんと入試は受けないと駄目だっていう事は忘れてないよね?

 合格したわけじゃないんだぞ?

 とにかく、一度落ち着いて欲しい。

 そして受験モードに戻って欲しい。

 

「あ! でも、どうしよう。私なにもお返し用意してない……」

「いや、別にそういうのを期待してたわけじゃないから。それだって俺からっていうよりおっさんからのクリスマスプレゼントだからな」

 

 そう、あくまで許可をしたのはおっさんだし、その一筆もおっさんの物。

 俺はそれを届けにきただけで、実際にプレゼントをしたのはおっさんと言った方が適当かもしれない。言ってしまえばサンタ代行だな。  

 

「でも……!」

 

 だが、何故か一色は不服そうに俺を見つめてくる。

 いや、そんな目で見られても……俺別に悪くないだろ。

 

「あ、じゃあママからのプレゼントを代わりに……!」

「ママは出ていって!」

「えー? ママも八幡くんとクリスマスしたーい」

「いいから! 早く!」

 

 先程までダルイと言ってた奴はどこにいったのか。

 パジャマ姿のまま、ドタドタと親子漫才をしながら扉の前で押し問答をしはじめる。

 もしかしてもう風邪治ってるんじゃないのコレ?

 

「全く……元気になったみたいですこと」

 

 一色に背中を押されたもみじさんは、俺と同じ感想を持ったらしく、最後にそんな悪態をついて部屋から追い出されていった。

 いや、本当元気になったみたいで何よりだよ。

 この様子なら俺がおっさんの所行かなくても、週末には自力でおっさんの説得に行ってたのかもな。

 

「あんまり母ちゃんに冷たくしてやるなよ……?」

「いいんですよ、あれぐらい。すぐ調子に乗るんですから」

 

 まあ、俺も反抗期が無かったわけじゃないし、親がうざったいと思う気持ちは分かるが。

 他人の家でこういうやり取りを見せられると、なんだか居たたまれなくなる。

 俺や小町の家での対応も、傍からみたらこんな感じなのだろうか。

 

「それで……えっと……どうしましょうか……」

「どうって……元気になったなら勉強しとけよ、マジで。入試はさすがにおっさんでもどうにもならんだろうからな」

 

 そう自分で言いながら、あのおっさんなら入試すらどうにかしてしまうかもしれない、と思えてしまうのが怖い。

 いや、流石に法に反するようなことはしないだろうが……。しないよね?

 

「違いますよ! クリスマスプレゼントの方です……ってあれ……?」

 

 だが、そうして俺の言葉を否定した一色はそう言うと同時にふらりとその身を揺らした。

 

「おい! 立てないなら無理するなよ」

「すみません、ちょっと目眩が……」

 

 慌てて肩を抱き寄せてしまったが……くっ……前も思ったがこいつ本当細いな……それに良い匂いがする……。

 って耐えろ比企谷八幡、これは救難活動だ。妙なことを考えるな! 平常心……平常心。

 うわぁ、肌白……じゃない!

 

「きゅ、急に暴れるからだろ、ほら、ゆっくり寝てろ」

「でもぉ……」

 

 明らかに力の入っていない足を引きずるようにして、なんとかもう一度一色をベッドに寝かせる事には成功したが、一色はそれでもなお不服そうに「むーっ」と唇を突き出していた。

 とりあえず、このケーキだけ頂いてさっさと帰るとするか。

 俺がいると休めないだろうしな。

 そう考え、一色から離れると再びフォークを持ち、一色に背を向けるようにクッションに座って用意されていたケーキに手をつけた。

 うん、うまい。

 

「あ!」

「はん? 今度は何?」

 

 だが、そうして俺がケーキを咀嚼していると。背後から突然そんな声とゴソゴソと布団の中で何やら蠢いている気配がした。

 全く、落ち着かない子だ。

 本当、もう俺これ食ったら帰るから寝てなさい?

 

「あの……センパイ……ちょっと、あっち……向いてもらえませんか?」

「あっち?」

「あの……あそこの、カレンダー。見て欲しいんです」

「カレンダー?」

 

 言われるがまま、一色が指差したそのカレンダーを見る。

 なんだろう? なんか変わったことでもあっただろうか?

 今月は十二月。めくり忘れということもない。

 というか、正直カレンダーよりも、後ろで何やら動いている方が気になる……。何か企んでるのか?

 

「んしょ……っとセンパイ」

「んぁ?」

 

 呼ばれたのでカレンダーから目を逸らし振り返ると、ベッドの上では寝ていたはずの一色が自らの手で上半身を支えるように体を起こしていた。いや、だから寝てろよ……。

 

「ちょっと! こっち見ないで下さいってば! ちゃんとあっち! カレンダー見てて下さい!」

 

 だが、俺が「寝てろ」と注意する前に、何故か俺の方が一色に怒られた。

 理不尽にも程がある。

 なんなのもぅ……。

 今年他に何かイベントあったっけ?

 クリスマスが終わった後にやってくるイベントといえば大掃除?

 後は……忘年会とかだろうか? 俺参加したことないけど。   

 

「セ、センパイ……!」

「んー?」

 

 そんな事を考えながら、もう一度カレンダーを見ていると、再び一色から声がかかる。

 流石に俺にも学習能力はあるので、今度は振り返らない。

 一体なんだっていうんだ……全く……。

 もしかしてカレンダーそのものに、何か書いてあるのか?

 おかしい、俺はそれほど目は悪くないはずなのだが……何度見てもそこにはクリスマスっぽい風景をバックに戯れる犬と猫の写真が印刷してある何の変哲もない十二月のカレンダーがあるだけ。間違い探しか?

 一体何を見ろというのだろうか?

 まあ、いいか。とりあえずもう一口。

 そうして俺がもう一度ケーキにフォークを刺すと、静かな部屋の中で背後の一色がすぅっと大きく息を吸ったのが分かった。

 

「……ありがとうございます」

 

 だが、その言葉が聞こえたと思ったら、次の瞬間には“チュッ”という音と共に俺の左頬に、とてつもなく柔らかく少し湿った何かが当たる感触がした。

 

「へぁ?」

 

 え? 今のって……?

 

「……ク、クリスマス……プレゼント、です……」

 

 俺は慌てて頬を押さえながら振り返ったが、一色はそう言って布団を頭まで被ってしまっていた。布団怪獣いろはすだ。

 クリスマスプレゼント?

 今のが……?

 え……? 今のって……キ……。

 いや、待て、慌てるな。まだそうと決まったわけじゃない。

 何か、そう。何かそれっぽいものを頬に押し付けられただけという可能性もある。

 そう、そういう感じのドッキリという可能性が高い。

 そうだ、ほら、明太子とか?

 たまたまベッド横に置いてあった明太子……いや、不自然だな。

 何か……女子の部屋にありそうな……例えば少し湿らせたマシュマロ的な物なら、振り向く前に口の中に入れてしまえば証拠隠滅を図れる。

  

 と、とにかく絶対に「キ」で始まって「ス」で終わる行為なはずはない。

 想像するな、連想するな比企谷八幡。

 下手に舞い上がれば、バカにされて一生笑われるのは目に見えている。

 きっとどこかにカメラが仕掛けられているのだろう。

 なんならネットで生配信中かもしれない。

 

 今何をされたのか、しっかり確認が取れるまでは憶測でその行為に名前をつけるべきではない。

 そう、シュレディンガーの猫だ。

 確認するまでは何をされたかは分からない。

 だが、どうする?

 もう既にその行為は行われてしまい、確認する手段は存在しない。

 それに、流石にこのまま何も言わない訳にもいかない。

 と、とりあえず礼を言うべきだろうか?

 プレゼントだもんな。そうだ、貰ったなら礼を言わなければならない。

 それが人としての礼儀というものだろう。

 

「お、おお、おう。さんきゅ」

 

 よし、何かは分からないが。くれたというのだから、礼をいうのは当然のことで、言うべきことは言った……。

 もし……もし仮にだが、ドッキリじゃなかったとしても。

 アイツは今、熱があって判断力も鈍くなっているはずだ、何より他に好きなやつがいる。

 自分でも何をしたのか分かっていないのかもしれない。

 つまり、今の行為に決して深い意味はないはずなので、こちらもサラッと流してしまうのがベスト。

 対応としては間違っていないはずだ。

 

 だがそう自分で結論づけても、部屋の中には変わらず気まずい空気が支配している。

 俺の心臓も突然のことに戸惑い、緊急警報のアラートを鳴らし続けたまま。

 ど、どうする……? どうしたらいい? 助けて小町えもーん!

 口に運ぶ途中だったケーキの一部がフォークから落ちても拾う事も出来ず。俺は間抜けな姿勢のまま石像のように固まってしまっていた。

 

「……」

「……」

 

 ……気まずい。

 どうしよう、何か声をかけた方が良いのか?

 それともこのまま立ち去った方がいいのだろうか?

 こんな時の対処方法、義務教育で習ってないんですけど?

 おいどうなってんだ日本の義務教育、ちゃんと仕事しろ。

 

 い、一応、もう一回だけ一色の方を確認しておくか?

 一応、一応な? 実は向こうがドッキリでしたー、というタイミングを見計らっている可能性もある。だろう?

 そう、だから慌てず、自然に……。

 だが、そうして再びベッドの方に視線を向けようとした途中で、ふと部屋の扉が少しだけ開いている事に気がついた。

 

「あ……」

「あ……やだ、見つかっちゃった」

「も、もみじさん……?」

 

 そう、その隙間からあろうことかもみじさんがこちらを覗いていたのだ。

 え? いつからだ?

 もしかして今の……見られてた?

 

「ママ!?」

 

 俺の言葉に反応し、一色もガバっと布団から飛び出してくる。

 その耳が一瞬赤く見えたのは果たして熱のせいか、それとも……。

 

「み……見てたの?」

「えっと……その……見ちゃった♪」

 

 一色の問いに、もみじさんは僅かに躊躇こそしたものの、やがて「テヘッ」と舌をだした。

 その返答を聞いた一色の顔が更に赤くなっていく。

 多分、俺の顔も赤くなっている事だろう。 

 

「一応、クリスマスプレゼント用意しておいたんだけど……私からも“その”クリスマスプレゼントの方がいい……?」

「あ、いや、えっと、その……」

「何言ってんの、ママ!!」

 

 本当に何言ってるの?

 “そのクリスマスプレゼント”って事はその……つまり……そういう事だよな?

 いやいや、おかしいだろう。

 というかそもそもクリスマスプレゼントを貰えるのはサンタという名の親からであって、もみじさんからではないはずだ。俺が貰う道理がない。

 あ、一色からも貰う道理もなかったじゃん。やべ。

 

「えー? だってあれがクリスマスプレゼントなんでしょ? それだったらママが贈るのもアリかなぁ? って思って」

「なしに決まってるでしょ!」

 

 しかし、そんな事もお構い無しで。一色ともみじさんは額を突き合わせそうな勢いで問答を始めている。

 おー怖。

 っていうか一色は熱あるんじゃないの?

 そんな暴れて大丈夫なの? ぶり返さない?

 入試まで時間ないんだぞ。

 

「おい、あんま興奮するとまた倒れるぞ」

「そうよ、また熱が上がるわよ?」

「──ッ! センパイは少し黙ってて下さい! 今日という今日は一言言ってやります!」

 

 静止しようとしたのだが、そういって再び親子喧嘩を始めた二人に、俺は溜め息を吐くことしか出来なくなってしまった。

 なんか、ここまでされると逆にさっきのクリスマスプレゼントの衝撃も和らいで、寧ろ冷静になってきたな。

 とりあえず、このケーキだけ頂いてさっさと退散するか。

 そう考え、俺は二人を横目に残ったケーキに手を付けた。

 

「もう……いろはちゃんはニ回目なんだから、そんなに怒らなくてもいいじゃない」

「に、二回目じゃないから!」

 

 もう二人が何を言っているのかも分からないが、触らぬ神に祟りなしだ。

 うん、美味い。

 そうだ、小町に飯テロならぬケーキテロでもしてやるか。

 あ、すみません一色さん、枕投げないで貰えます? ホコリがたつし、ケーキにぶつかったら台無しなんで。

 痛っ、ちょっと? ぶつかるのも勘弁してもらえません? 写真がブレちゃうでしょうが。

 全く……。

 よし、撮れた。食べかけだがまぁ小町を悔しがらせる効果は十分あるだろう。

 あ、どうせなら手つかずの一色の方のケーキを借りても良かったか。

 まぁいいや、とりあえず残りを美味しく頂くとしよう。

 

*

 

「元気になったのはいいけど……君達、僕が居ることも忘れないでくれるかな……? 八幡くんも困っているだろう……」

「あ……あなた……」

「パパ……」

 

 そうして、その二人の親子喧嘩は。俺がケーキと紅茶を平らげ、やがて弘法さんが止めに来るまで続いたのだった。




というわけでクリスマスが終わり、長かった一年が終わろうとしています……ふぅ

あとは一年生編最終回に向けてラストスパート!
と行きたい所なのですが……

来週4月7日から古戦場が始まりますので
来週か再来週のどちらか(最悪両方)投稿休みになる可能性が高めです
ご理解いただけますようよろしくお願い致します

騎空士の皆さん頑張りましょう
#古戦場から逃げるな

感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージ。ほんの一言でも、二言でも長文でも。いつでもどこでもお待ちしてます!


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第53話 怠惰で勤勉な新年

ごくり……こ、ここが噂の53話か……。

いつも感想、お気に入り、評価、誤字報告、メッセージ、ここすきありがとうございます。
この作品は皆様の応援で出来ています。

そして古戦場はお肉で出来ています。


 クリスマスのキ……キ……キむにゃむにゃ事件から。早一週間。

 年も明け、世間はすっかり正月モードに切り替わっていたのだが……。

 そんな中俺はと言うと、アレ以来一色と会えていなかったりする。

 

 というのも、あの後一色は熱が再び上がり完全にダウン。

 更に続けて、俺も大晦日に熱を出してダウンしちまった。いや本当笑える。

 そりゃ感染ってもいいとは言ったが正直、本当に倒れるとは思っていなかった。

 どうせだったら終業式前とかにしてくれれば学校も休めたというものを……。

 冬休みに入って、大掃除も全て終わったタイミングで熱をだし、大晦日のテレビ特番を見るでもなく、寝ている間に年も越す事になるなんて誰が想像しただろうか。

 社会人になると『会社を休めないから長期休みになった瞬間に熱を出す』という特殊スキルを得る事があるらしいが。まさか俺もソレを取得してしまったというのか?

 なんなの? 本能レベルで社畜になっちゃったって事なの? 人間は社畜になるようにプログラムでもされてるっていうの? 仕事に忖度しすぎだろ。

 絶対そんなスキル破棄してやる……! 

 

「お兄ちゃーん、ご飯持ってきたよー」

「おお、悪いな……」

 

 そんな風に、億劫なベッド生活を過ごしていると、土鍋を乗せたトレイを持って小町が部屋に入ってきた。

 どうやら飯の時間らしい。持つべきものはやはり妹だ。今の俺に許された唯一の楽しみとも言える。

 千葉の兄妹バンザイ。

 

「全く、この時期に熱だすなんて、いろはさんに感染さないように気をつけてよ?」

「先に熱出したのはあっちだけどな……」

 

 体を起こし、トレイを受け取ると、それを膝の上に乗せるようにして土鍋の蓋を取る。

 それと同時に大量の湯気が視界を塞ぎ、中から熱々の玉子粥が顔を出した。

 うん、美味そうだ。まあ母ちゃん作なのは知ってるけど。

 これを持ってきてくれたというだけで多少の嫌味を言われても耐えられるというものだろう。

 いただきます。

 

「えー、わかんないじゃん? 感染するような事したかもしれないし?」

「は!? はぁ!? 変な事ってなんだよ、なななな、何もしてねぇよ」

 

 だが、そうしてレンゲを手にとった瞬間。突然の小町の一言に慌てて、思わず土鍋をひっくり返しそうになってしまった。

 あっぶねぇ。

 全く何言い出すのこの子は……。

 感染するような事なんて……感染……するような事……。

 

「何慌ててんのさ、え? まさか本当にしたの? なんかこう、風邪が感染るような何かを?」

「す、するわけないだろ」

 

 そう言われて思い出すのは、やはりあの日のクリスマスの出来事。

 一色にカレンダーを見ろと言われて……その後……突然……後ろから……。

 なんだかまた顔が赤くなっていくのを感じるが、それは果たして熱のせいか、それとも……。

 いや、考えるな。

 小町は適当な事を言ってるだけで、あの日の事は知らないはずだ。

 全てブラフだ、偶然だ、騙されるな。ここは知らぬ存ぜぬを通すのが最適解。

 反応したら負けだ。

 

「んー? ……まぁお兄ちゃんにそんな甲斐性ないか」

 

 そうそう、俺がそんな事をするはずがないだろう。

 そもそもアレが原因で熱が出たと決まったわけでもない。

 平常心平常心。

 さぁ、今度こそ粥を食おう。ふーふー。熱っ!

 

「あ、そういえば知ってる? さっきテレビで言ってたんだけど。ここ、手首を左右からこうやってギューってして、皮を集めるでしょ? そうするとね」

「ほうふると?」

 

 気を取り直し、レンゲで粥を掬って口に含むと、小町がそう言って左手の手首を右手で握り込むようにしながら、そこに小さな皺を作って見せてきた。

 なんだろう?

 糸でも出るんだろうか?

 もしかして蜘蛛に咬まれて変な能力に目覚めた? 正体バレには気をつけろよ?

 あと怪人が現れたら一人で戦う前にスターク社長に相談しなさい? 本当、心配だから。

 あ、でもスターク社長はもういないのか……悲しいね……。

 

「唇と同じ柔らかさになるんだって、ここにキスするとキスの感触疑似体験が出来るよ」

「ぶっ!!」

「うわっ! きったなぃ! 何してんのさ! もぉー!!」

 

 完全にスパイダー脳になっていた所に不意打ちを食らい、俺は思わず口に入れた粥を吹き出してしまった。

 あああ、勿体無い。

 しかも布団に粥が飛び散ってしまった……最悪だ……。 

 

「お前が変なこと言うからだろ……」

「変なことって……え? もしかしてお兄ちゃん……」

「な、なんだよ……」

 

 俺が小町を責めながらティッシュを手に、後始末をしていると。

 小町がジト目で俺のことを睨んでくる。

 まさか……こいつやっぱり……あの日の事を?

 

「……もう試したことあるとか? うわー、そうなんだ? 自分の手首とキスしちゃったんだぁ?!」

 

 はぁ……。

 やはり知らないか……。そりゃそうだよな……。

 あの場に居たわけでもないのに、あの事を知っているはずがない。

 つまり、今までの話の流れは本当に全部偶然……全く心臓に悪い……。

 

「するわけないだろ……初めて聞いたわそんな話」

「およよよ……可哀想なお兄ちゃん。これから先手首としかキスできない寂しい人生を送るんだって理解してるんだね……。でも大丈夫、もしお兄ちゃんがいろはさんに見捨てられたら、慰めにほっぺにチューぐらいならしてあげるよ、あ、今の小町的にポイント高い」

「全然高くないから……」

 

 プラスどころか、せっかく夕飯持ってきてくれたポイントがチャラになったまである。

 本気で感謝したんだがなぁ……今の俺に“ホッペニチュー”は効きすぎる。

 いや、違う、違うな。認識を改めろ比企谷八幡。あれはホッペニチューなどではない、そう思わせるための何か……だったはずだ。

 ああ、もう……だから思い出させるなよ。

 もうあれから何日経ってると思ってるんだ……。

 

「はぁ……もういいから、そろそろ出てけよ、マジで感染るぞ」

「はーい、そんじゃお大事に。あ、鍋は部屋の前に置いておいてくれたら回収するから!」

「おう」

 

 とにかく今はもう一刻も早く出ていって欲しい。一人になりたい。

 そんな思いを込めて溜め息交じりにそう言うと、小町がとててっと部屋から出ていき、漸く部屋の中に平穏が訪れる。

 ふぅ、これでようやく夕食にありつける。全く、なんなんだアイツは……。

 一色から聞いてたって事はないんだよね? え? ないよね?

 

*

 

 そうして更に時は過ぎ、三が日が終わっても熱が下がらなかったので病院に行くと、俺の熱の原因がインフルエンザだと診断された。

 まさに踏んだり蹴ったりだ。

 一応、弁明しておくと一色はただの風邪で既に快復済み、検査にも引っかかっていなかったらしいので、どうやら一色の風邪が感染(うつ)ったとか、その……一色にされたアレが原因という訳ではない事が証明されたわけだ。

 良かった……。

 

 そもそも、アレはアレだしな。うん。

 海外だとほっぺにキー……ぐらいは普通だっていうし?

 ほら、なんかそういう、アレだったんじゃないの?

 挨拶? 的な?

 アイツあの時熱出てたし?

 総武受けられるようになって、テンションも上がってたから訳分からなくなってやってしまったという可能性が非常に高い。

 第一、アイツが好きなのは葉山な訳だし?

 俺でなくても同じ事をしていたのだろう。

 それに、頬だからな。ほっぺなら色々セーフなんじゃないか?

 ほら、兄妹とかでもイタズラでする事あるだろ? そんな感じのアレ。

 小町もそんなような事言ってたし?

 まぁ俺小町にされた事なんてないけどな。

 うん、こうやって冷静になって考えてみても、やはり変な意味は無さそうだ。

 むしろ葉山に悪い事をしたまであるな。

 

 そう、アイツの総武行きの目的は葉山。そのために受験も頑張っているのだ。

 俺が変な勘違いをする隙もない。

 例え今年一年許嫁という関係を続けた所で、来年には黒歴史にしかならないんだからな。

 

 あと数ヶ月もすれば、お互い会話をする事もなくなり、そのうちあの二人が仲良く歩いているのを見かける事になるのだろう。

 それは学校の廊下かもしれないし、放課後の教室かも知れない。

 タイミングが悪ければ二人の唇が重なるその瞬間なんかも……。

 

 その時、俺はあの唇が俺の頬に当たった時の事を思い出したりするのだろうか?

 うっ……なんだか胸が苦しくなってきた……。

 まだインフルが完治していないようだな。

 既に一般化された病とはいえ、年間の死者数も馬鹿にできない病気だ。熱が下がったとしても菌は体内に残っているわけで、だからこそ出席停止期間なんてものも設けられている。

 せっかく風邪から快復した受験生──一色の家にインフル菌を持っていく訳にもいかない。

 今はとにかくウイルスを根絶させるためにも今日も一日安静にするとしよう。

 

 ちなみに小町には感染ったので、もう手遅れである。

 まあ一色とは違い、こっちは確実に俺から感染したようなものだから申し訳ない気持ちはある。今年受験じゃなくて本当に良かった。

 来年は一緒に予防接種受けようね。

 

 

***

 

 そんなわけでインフルエンザ騒動で冬休みのほとんどを無駄にし、冬休みも残すところあと僅かとなった訳だが、熱が下がった最近は潜伏期間の事も考えてLIKEでのビデオ通話で、一色の様子を見ながらの授業をしていたりする。いわゆるリモート授業という奴だ。

 といっても、俺が授業をするのではなく、どちらかというと一色を監視している感じ。

 まあ正直俺としても、顔を合わせ辛いという思いは多少あったので、このタイミングでのビデオ通話は少し助かったまである。

 

『センパーイ、ココやっぱ意味わかんないですー』

「ん? どれ?」

 

 年が明けても、一色は勉強三昧だ。

 あの日の事などまるで無かったかのように、変わらずに接してくる。

 寧ろ俺のほうが拍子抜けしてしまったほどだ。

 いや、より正確に言うならば、去年ほど切羽詰まった表情はしなくなっているので、多少の変化はあったのかもしれない。

 おっさんの試練が終わり、余裕が出来たというのもあるのだろうが、だからといって受験に対する熱量が減ったわけでも無さそうなので、一応一安心というところか。

 やはり、あの時の事は熱で舞い上がっていただけで、変な意味は無かったという事なのだろう。残念。

 

 ん?

 ……残念?? 何を残念に思う必要があるというんだ? どうやら俺もまだ本調子じゃないみたいだ、しっかりしなければ。

 

 充電器に刺したままのスマホには熱心に机に向かい、殆ど頭しか映っていない一色の姿が映っている。

 正直、この状態だとビデオ通話である意味があるのかは疑問だが、切ろうとすると烈火のごとく怒られるのだから仕方がない。

 一色いわく「出勤と同じ扱いなんだから、ちゃんと繋げておいて下さい」との事なのだが。

 いや、これで金貰うのは流石に違わないか?

 おっさんの許可取ってんの?

 こんなんで金貰えるなら全世界の家庭教師、このシステム導入すればいいのに。

 リモート家庭教師。

 出勤もせず、この環境で金貰えるなら、将来の夢に追加してもいいまである。

 

 実際、今もカメラに映らない角度でラノベを読んでいたりするからな。

 傍から見れば随分不真面目に思われるかもしれないが、一色が集中している間は暇なので仕方がない。

 偶に軽口を挟んでくるぐらいの事はしてくるが、基本的には勉強している一色の姿がスマホの画面に映るのみ。

 普段と違いノートの中身も確認できないので、こちらから声をかけて邪魔をするわけにも行かず、延々その様子を見せられているだけで、BGMはシャーペンの走る音のみ。

 ラノベに手を伸ばしてしまうのも仕方ない事だろう。

 なんだか、特殊なIV(イメージビデオ)でも見ている気分だ。IV見たこと無いけど。その手の作品が大好物な人には怒られそう。

 まあ、それでも何か言われたら返答はするのだし、完全にサボってるわけでもなく仕事なのだから寛大な心で許して欲しい。

 

『ここです、この図形問題。長さ求める奴!』

 

 って、そうそう今はラノベ読んでる場合じゃなかったな。

 こういう時はちゃんと対応しなければ。

 俺は読みかけのラノベとスマホを持ち替え、アップにされた問題集に目を走らせる。

 それは円の中に二つの三角形が描かれ、至る所にアルファベットが置いてある図形のページだった。

 見ているだけで頭がクラクラしてくる。

 正直、数学に関しては他の奴を頼って欲しいんだよなぁ……。

 自慢ではないが、ニ学期末の数学では散々だった身で、もはや順位も平均を大きく下回って来ている。

 一色のバイトに時間を割かれているからというのも多少はあるのだが、ソレを抜きにしても次の数学のテストはワーストから数えた方が早いレベルまで落ちているだろう。

 俺は根っからの文系なのだ。 

 

「あー……数学はあんま俺に頼らないで欲しいんだが……」

『なんでですかー。こういうの解けるようになっておかないと、点数上がらないじゃないですかー』

「んー……っていうか、それ確か正答率ゼロパーセントとかいう奴だろ? やらなくても別に良いよ。むしろもっと他の所で点を取れ」

 

 一色が見せてきたスマホの画面に映したそれは、確か去年俺も挑戦した超難問。

 ネットでも話題になった正答率ゼロパーセントという図形問題だった。

 いやもう解かせる気ないだろ。なんだよゼロパーセントって。

 もう完全に嫌がらせじゃん。

 

『え? だってこういうの解いたほうが点数上がりますよね?』

「そこまで難しい問題になると、どうせ他の奴も間違えるんだから時間取られるだけ無駄だ。寧ろ他の奴が落とさない所を落とさない用にすればいいんだよ」

 

 そう、正答率が低い問題は、他のやつも正解していない可能性が高い。

 つまり自分が間違えても大して問題はないのだ。言ってしまえば誤差。

 寧ろ、試験では取れるべき所できちんと取る事を意識する方が遥かに大事だったりする。

 なまじムキになって解こうとすれば時間も取られてしまうし、早めに見切りをつけるスキルも大事だからな。

 勿論、成績トップとかを狙うなら話は別だし、正解できるに越したことはないのだが……。

 

「今は九十五点を百点にする努力より。確実に八十点を取る努力をしろ」

 

 今の一色に必要なのはケアレスミスをしない事だ。

 例え満点を取れなくても、合格さえできればいい。

 だから、あまり余計な事に時間を使わせたくはない。

 よほど時間が余っている時でもなければ、こんな難問は無視で良いだろう。 

 

『……はーい……』

 

 俺の言葉に納得したのかしていないのか。

 画面の向こうで一色は渋々という感情を隠そうともせず、唇を尖らせていた……。

 唇を……唇……うっ……頭が……。

 

『でも、それだとやっぱり数学やるしかなくないですか?』

「ん? なんで?」

『私、他の教科に比べて、数学だけ点数低いんですよ。全教科確実に八十点取るならやっぱり数学からは逃げられないかなぁって……』

「あー……」

 

 確かに、言われてみれば一色も決して数学が得意という方ではなかった。

 いや、特別悪いという訳でもないのだが、他に比べると幾らか数学だけ悪い。

 だがそれは一色が問題というより……。

 俺に問題があるんじゃないのか?

 ココに来て完全に俺が家庭教師になったという事への弊害が出てしまっていた。

 

『センパイ?』

 

 結局の所、俺は家庭教師としての努力を怠ってきたのだ。

 元々一色の成績はそれほど悪くはなかった。

 初見の問題に弱く、ケアレスミスが多いという弱点こそあったが。

 他の教科の成績は十分に伸びている。

 ならば一色の数学だけ伸びが悪いのは明らかに俺の怠慢。

 俺が得意科目を優先してしまった結果とも言えるだろう。

 少なくとも、今日までその考えに至らなかったという責任はある。

 まぁ、より厳密にいうならおっさんのせいなんだけども……。

 

『せっかくのビデオ通話なんだからちゃんとカメラの方見て下さいよー』

 

 しかし、そうは言っても実際何をどうすればいいのか?

 去年の模試でB判定だったという事を考えても、恐らく現段階での一色の総武合格率は六~七割といった所。いや、もしかしたらもう少し高いかもしれないが、正直もう一割は上げておきたい。

 結局どう足掻いても数学のレベルアップは必須で。

 数学を上げるべきという一色の意見は最もだ。

 

『センパーイ、おーい、聞こえてますかー?』

 

 どうにか数学の点数をもう少し伸ばせないだろうか?

 苦手分野のレベルを上げる。それは受験対策としては間違っていない。

 でも今更数学だけ別の家庭教師を雇うなんておっさんが許可してくれるとも思えないし、塾も同様だ。

 

 となると残された選択肢は……仕方ない……結局、俺がやるしか無いのか……。

 

「よし! しばらく数学メインで行くか」

『わわ! びっくりさせないでくださいよ!』

「? 何してんの?」

 

 俺が改めてそう決意すると、一色が驚いたような声をだし、スマホの画面が大きく揺れる。

 どうやらスマホを落としたらしい、何やってんの? ちゃんとスタンドに立てて置きなさい? うっ……まともに見てると画面酔いしそう。

 

『あ、いえ。えっと、数学……ですよね?』

「ああ、なんか問題ある?」

『いえ、ないです、よろしくお願いします!』

 

 ようやく画面に戻ってきた一色はそういうと勢いよく敬礼のポーズを取り、カメラに視線を向けてきた。

 真面目なのかふざけているのか、判断に悩む所だが……本当、頼むぜ受験生?

 

*

 

 それから一色との数学強化月間が始まり、冬休みも終わって、すっかり体調も快復した最初の日曜。俺は休日を返上して一人、図書館へとやって来ていた。

 

 図書館に来るのは実に一年ぶりだろうか。

 去年は受験勉強で結構世話になったんだけどな、気がつけば随分足が遠のいた。

 地味にラノベも置いてあるから、金欠の時なんかも重宝してたんだが、最近はバイト代があるので態々借りに来ることもなくなったからな。

 都合の良い関係って案外こういう事なのかも知れない。

 図書館を萌え擬人化して「図書館(ワタシ)……いつでも君を待ってるからね……」とか言わせたらワンチャン人気出たりしないだろうか? 

 

「悪いな、もう図書館(おまえ)は用済みなんだ……」

「待って! 図書館(ワタシ)を見捨てないで! あなたの言うことなら(本のリクエスト)聞くから!」※県内の図書館に在庫があれば一週間程度でお取り寄せ可能です。

 

 って感じのポスター刷ればバズって二次創作が出来……ないな。

 アホな事考えてないでさっさと中入ろう、また風邪引いたら何言われるか分かったもんじゃない。インフルの時は随分恨み節を聞かされたからな……。

 俺は小町の怒り顔を頭に浮かべながら、図書館の中へと入っていく。

 ふぇぇ……図書館ちゃんの中温かいよう……暖房効きすぎぃ……。

 やめよ、なんか虚しくなってきた……。

 

 さすがに受験間近ということで、図書館の中は受験生の姿も多く、個人スペースはほぼ満員のようだった。

 まぁそれは仕方ない。俺も去年は席予約とかしてたしな。

 なんだか、懐かしさすら感じるが、今は感傷に浸っている時間も勿体ないか。

 とりあえず使えそうな本をピックアップするとしよう。

 『分かりやすい数学』『数学の教え方~数学教師になるために』『数学の理解力を高めるなら~今っしょ?~』『ダイオウグソクムシでも分かる図形問題 中学編』『本当はエモい数学』

 うん、ちょっと古い本もあるが、まぁこんな所か。

 本だけ積み上げても意味はないし、あんまり本を独占するのも問題だろうからな……。

 

 俺は、ざっと目についた数学関連の書籍を数冊手に、人の居ない角の共用テーブルへと陣取った。

 こちら側は個人スペースとは違い、混んでいるという事もなく、完全独占状態なので集中できそうだ。

 よし。

 

 俺は気合を入れて、一冊目の表紙を捲る。

 う……もう眠くなってきた……。いかんいかん。

 だが暫くは数学をメインでやると決めたからな、しっかりしなければ。

 俺がレベルアップすれば、一色もレベルアップ出来るはず。

 後数ヶ月しかないが、だからこそ少しでも理解しやすい教え方を覚えて帰る。

 例え付け焼き刃であっても、数学教師のノウハウを身につける。

 それが今日の俺のメインミッションだ。

 

 そのために今日は一日空けておいたんだからな。

 どうせまたすぐバイトだし……。

 いや、っていうか実質コレもバイトみたいなもんか。

 なんか、俺の生活がどんどん一色に侵食されていくな、困ったものだ。

 受験が終わったらバイト代とは別枠で何か請求してやろう。

 おっさんじゃなくて一色に。

 まぁ、それも受かったらの話か、逆に落ちたら請求されるまである。

 って……うわ、マジで何か請求されそう。

 怖っ。

 と、とりあえず今はやれることをやるとするか。

 

「あれ? 比企谷?」

 

 しかし、そうして入れた気合に水を指すように、突如背後から声がかけられた。

 誰か来たようだな……なんだ? 宅配か?

 って違う違う、ここ自分の家じゃなくて図書館じゃん……え? 誰?




おっと誰かきたようだ……。

というわけで53話でした。
また少し繋ぎ回が続く感じとなりますが
一年生編ラスト突っ走るぞー!という事で。
今週もなんとか間に合わせました。

ただ、既に古戦場が始まっておりますので
誤字チェックがいつも以上に甘くなっております。
見つけた方はお手数ですが報告いただけると助かります。

感想、評価、誤字報告、お気に入り、メッセージ、古戦場中でもいつでもどこでもお待ちしてます!

※(2021/04/07~2021/04/14)の間にここを見ている騎空士の皆様へ

<●><●> アレ? 本戦ハジマッテマスヨ?


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第54話 Who Are You?

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、ここすきありがとうございます。

水古戦場お疲れさまでした。次は土古戦場頑張りましょう。
今回は図書館回・後編です。



「あれ? 比企谷?」

 

 突然声をかけられ、後ろを振り返る俺。

 だが、不思議なことにそこに見知った顔はなかった。

 え? 何? ホラーなの? 怖い。

 どういう事?

 

 改めてキョロキョロと辺りを見回してみても、やはりそこに知っている顔はない。

 というか、いるはずがないのだ。

 高校受験の時も地元の奴とばったり、なんて事になるのがイヤで、この少し遠くの図書館を利用していたみたいな所があるからな。

 受験が終わり、一年が経ったこのタイミングで誰かと鉢合わせなんて逆におかしいまである。

 

 だが、名前を呼ばれたのは事実だ。

 もしかしたら単なる聞き間違いで実際は「比企谷」じゃなくて「比企谷菌」とか「ヒキガエル」とかだったのかも知れないが……いや、それどっちも俺の小学生の頃のあだ名じゃん。嫌なこと思い出させるなよ……。

 えええ……まじ昔の知り合いだったらどうしよう、他人の空似ってことでやり過ごせないだろうか?

 そんな事を考えながら、一応念の為、俺はもう一度周囲を見回してみる事にした。

 

 まず最初に目に入るのは、少し遠くに見えるカウンターに座る司書のおばちゃん……もしかしたら去年ここに通っていた時にも居て、俺の顔を覚えていたりするのかもしれないが、今呼ばれる覚えもないし、そのおばちゃんは俺の方を見ずに淡々と図書館利用者への対応をしている。この人ではないだろう。

 なら、本棚に寄りかかって歴史小説を読んでいるおっちゃんか? 険しい顔で本に集中しているようだが……やはり俺の知り合いではない。少なくとも名前を呼ばれるような関係ではないだろう。

 俺の後方に立っているロングヘアーのお姉さんは……何故か目があったが、うん、やはり見覚えはないな。

 他にも子供連れの主婦とか、大学生っぽいお姉さんの姿も目に入るが、どちらも平塚先生ではない。あの人に子供はいないし、大学生というほど若くもな……ってうおっ、なんか今一瞬背中に悪寒が……。怖っ……やっぱホラーかもしれない。

 

 ま、まぁとにかく知り合いが一人もいない事は改めて確認できた。

 やはり、空耳だったのだろうか?

 

「何? あんた数学教師でも目指してんの?」

 

 だが、俺が再び本に視線を落とすと、後ろに立っていたお姉さんが俺の横までやってきて、積み上げていた本を一冊手に取りながら妙に馴れ馴れしく声をかけてくる。

 え? 何なの? カツアゲ? それとも新手の美人局か何か?

 悪いが俺はその手の犯罪に対する知識はしっかり蓄えてあるから無駄だぞ? なにせ俺はボッチのプロ。ボッチが掛かりそうな罠は一通り履修済みだ。

 でも……この声どこかで聞き覚えがあるんだよな……? この声を聞くとなんかこう……ヒットポイントがごっそり減っていくような……やっぱどこかで会ったことあるのか?

 

 その声をどこで聞いたのか、俺は記憶を辿りながら、恐る恐るもう一度そのお姉さんの顔を見上げてみる。

 まず目に入るのはストレートのロングヘアー、目の下には泣きぼくろ、細く綺麗に整えられた眉からは少し強気な印象を感じられる。

 うーむ……これにポニーテールという要素を付け加えれば、学校で何度か顔を合せている川何とかさんになるのだが……。

 

「……そんな見ないでよ……」

 

 俺が不審げにお姉さんの顔を見ていると、お姉さんは恥ずかしそうに手に持っていた本で頭を隠す仕草をしてくる。

 頭を……隠す?

 

「どっか跳ねてる……? さっき妹にシュシュ取られちゃってさ……」

 

 そう言われ、照れくさそうに手で何度も自分の後頭部を撫でるお姉さん……。

 後頭部……妹にシュシュを取られた……ああ、なるほど。

 つまり、アイデンティティを奪われてはいるがこいつは……。

 

「川……崎?」

「……なんで疑問形なのさ?」

 

 どうやら、本当に知り合いだったようだ。

 

*

 

「ここ結構来んの?」

 

 何故か自然と俺の隣の席に陣取った川崎は、俺が持ってきた本をペラペラとめくりながら興味なさげにそう聞いて来た。

 友達なんだろうか?

 

「今日は偶々だ……そっちこそ何してんの?」

「私は京──妹の付き添い、今あっちで絵本の読み聞かせ会やってるから、それが終わるまで待ちぼうけってわけ」

 

 そう言うと、川崎は開いていた本をパタンと閉じ、親指で背後の方を指差した。

 その指の先を目で追うと、そこにはガラスで区切られた絵本等が多く置かれているキッズスペースがあり、その中で十数人程の幼児が一人の女性職員の周りに群がっているのが見える。

 

 大人一人に対して、子供が沢山……リンチかな?

 まあ正義のヒーローも悪と戦う時は五人がかりだし有効な戦法だと思う。

 流石にこの距離からだと一人ひとりの顔までは判別できないが、なるほど、あの中に川崎の妹とやらも混ざっているという事なのだろう。

 

「妹って……あの時の?」

「あの時……? ってああ、そうそうあの子」

 

 川崎の妹と言われて、まず思い出すのは文化祭での出来事。

 そうか、あの子も来ているのか、ちょっと会ってみたいとか言ったら引かれるだろうか?

 そもそも向こうが覚えていないという可能性の方が高いが……。

 

「んで、あんたは何でこんなに数学ばっかやってんの? 好きなの?」

「いや、そういうんじゃないんだけどな……むしろ嫌……」

 

 ソレ以上妹の事に触れられたくないのか、話題を戻した川崎の問いに答えようとした所で、ふと頭の中に一つのアイディアが浮かんだ。

 それは、これまでの俺だったら恐らく考えもつかしなかったであろう思いつき。

 

 俺は今、とにかく数学の成績を、理解度を深めなければならない。

 なら、使えるものは使うべきじゃないか?

 いや、使えるかどうかはまだ分からないし、正直断られる可能性の方が高いが……多少の恥は覚悟の上で、とりあえず聞くぐらいなら大丈夫だろう。多分。

 

「なぁ、川崎。お前、数学得意?」

「何急に? ……まぁ別に苦手ってほどじゃないけど、得意でもないかな……普通?」

「なら良かった」

 

 俺の問に答えながら、川崎が怪訝そうな表情を浮かべるのを見て、俺は軽く拳を握った。

 いや、実際の所、普通なら十分なのだ。

 苦手な俺より上でさえあればいい。

 だから、俺は自分で読んでいた本を一度畳み、まっすぐに川崎の方へと向き直る。

 

「川崎、頼みがある」

「な、何さ改まって……」

「俺に数学教えてくれないか?」

「はぁ?」

 

 俺がそう頼むと、川崎がまるでアホの子を見るような目で見ながら、首を傾げてきた。

 まぁ……そういう反応にはなるよなぁ。

 

「いや、だから別に得意じゃないって……」

「俺より出来るならそれでいいんだ、というか他に頼れそうな奴もいなくてな。礼はする。頼む!」

 

 今の俺には沢山の諭吉さんが味方に付いてくれている。

 多少の出費なら痛くはない。

 

「あ、でもそんな高いものとかは……勘弁してもらえると助かる……」

 

 危ない危ない、天井は設定しておかないとな……。何請求されるか分かったもんじゃない。

 最悪土下座で勘弁してもらおう。

 そうして、礼を値切るシミュレーションをしていると。川崎は数度「うーん……」と唸った後

 

「……読み聞かせ会が終わるまで……少し見るぐらいだったら……いいけど」

 

 そう承諾してくれた。

 

「ああ、それでいい。助かる」

 

 俺が川崎に頭を下げると、川崎は視線を外し「仕方ないなぁ」とでも言いたげに顎肘を付く。

 俺に姉が出来たら、こんな感じだろうか?

 妹の事と言い、結構面倒見いいんだろうな、こいつ。

 俺も誰かに面倒見て欲しい。長男だって結構辛いんだからね!

 

「──で、どこ分かんないの?」

 

 川崎が椅子を少し俺の方へと寄せ、そう聞いてくるので、俺は先程から開いていた本のページを川崎の方へと向けた。

 

「この辺りとか、お前だったらどうやって教える?」

「んー? ってこんなの高校入試レベルじゃん。年明けのテスト対策とかじゃないの?」

 

 あ、そういえばそんなのもあったな。

 まぁ、そっちは諦めよう……。

 

 そんな会話をしていると、どこからか「ごほんっんんっ」という咳払いが聞こえてきた。

 図書館全体に聞こえそうなほど、大きな咳だ。

 反射的にその咳のした方角へと視線を移すと、カウンターの席でおばちゃんがこちらを睨んでいるのが見える。

 どうやら、少し声を出しすぎていたようだ。

 おばちゃんに気づいた俺と川崎は揃ってカウンターの方に頭を下げると、お互いの顔を見てどちらともなく一度苦笑いをした。

 

***

 

「あんたさぁ……雰囲気で数学やってない?」

「そ、そんな事ないです……よ?」

 

 それから、三十分ほどだろうか?

 得意ではないと申告してきた川崎だったが、思っていたよりスパルタ式で厳しかった。

 教育ママさんって感じ。

 なにかある度に小声で耳元で囁かれるから何かに目覚めてしまいそうまである。

 

「はぁ……って、そろそろ時間だ。悪いけど」

「あ、ああ」

 

 だが、そうして俺が何かに目覚める前に、川崎はそう言って席を立ってしまった。

 どこに行くのかと目だけでその背中を追いかけると、ガラス張りのキッズコーナーで子供たちがザワザワと動き出しているのが視界に入る。どうやら、タイムオーバーのようだ。

 ……後は一人で頑張るしかないか。

 

 正直、収穫と言えるような収穫はなかったが……礼をする約束はしてしまったんだよな。

 一時間もやってないし、マッカン一本位で勘弁してもらえないだろうか?

 あ、妹もいるなら二本か、マッカン飲めるかしら?

 

「ただいま」

「え? お、おう。おかえり?」

 

 そんな事を考えながら、参考書に視線を落としていると、川崎が戻ってきた。あれ? 帰ったんじゃなかったのか?

 目線を下げると、そこには川崎……ではなく頭に不釣り合いな大きめのシュシュを無理矢理くくりつけた、ちょんまげヘアーの幼女がじっとこちらを見上げている。

 流石にわかる、この子はあれだ、川崎の妹だ。

 ……だよね?

 

「おにいちゃんだぁれ?」

「けーちゃん。覚えてない? 前に熊のお洋服貰ったでしょ?」

「くまさん!」

 

 まあ、覚えてなくても無理はないだろう。

 遊園地で風船を貰った事は覚えていたとしても、風船をくれた人の事までは覚えていないものだ。よほど人気のマスコットなら話は別だが……残念ながら『はちまん』は千葉が誇るご当地キャラではない。

 

「ああ、そういやアレどうした?」

「気に入っちゃって困ってるよ、流石にあれ着せて外に出すわけにもいかないから、ゴム入れてちょっとアレンジしてパジャマって事にしてる」

 

 もう捨てたかと思っていたのだが、まさかの答えに俺も驚きを隠せなかった。

 そこまでして着てもらえているなら、作った甲斐もあるというものだろう。

 しかし、あれをアレンジしたのか。ちょっと見せて貰いたいが、流石にそこまでは要求できないか……。

 

「おなまえは?」

 

 そうして、もうこの目で見ることはないであろう、熊Tに思いをはせていると、ふいに幼女に手を引かれた。

 え? なにこれ可愛い。

 持って帰っていいの? 駄目ですね、はい。

 イエスロリータ、ノータッチ。

 いや、別に俺ロリコンじゃないけど。

 

「比企谷八幡っていうんだ」

「ひ? まん?」

 

 失敬な、俺は別に太ってはいない。

 俺が幼女に名前を告げると、フルネームが少し難しかったのか。

 幼女は可愛らしく首をかしげながら、俺を見上げてくる。

 

「はちまんだ。はーちーまーん」

「はーちゃん!」

「おう、よろしくなけーちゃん」

 

 きちんと伝わったのかは少し疑問が残るが……。

 まあ、いいか。

 

「だから、なんでアンタまでけーちゃんって……」

 

 何故か少しだけ不服そうな川崎がそう呟くと、再びカウンターの方から「コホン」という咳払いが聞こえてきた。

 おっと、また図書館だという事を忘れそうになってしまった。自重自重。

 

「さーちゃん、おなかすいたー」

「じゃあ帰ってオヤツ食べよっか。ごめん比企谷そういう事だから今日は……」

「あ、ああ、なんか悪かったな。礼はいずれ」

「お礼なんて別にいいよ、っていうかコレ」

 

 そう言うと、川崎が一冊の本を俺に渡してくる。

 それは、B5サイズの少し厚めの本。図書館シールが貼られているから私物ではなさそうだ。

 なんだ? 『中学校の数学をやり直したい君へ』?

 

「何これ?」

「私が去年入試の追い込みで使ってたやつ。問題が沢山書いてある……って言うより文章ベースで中学でやった事が分かりやすく書いてあるから、寝る前に読むだけでも公式のおさらいとか出来てオススメ。テスト対策じゃなくて、高校入試レベルの復習がしたいなら結構役に立つ……と思う」

 

 俺がその本をペラペラと捲っていると、俺の耳元で川崎がそう説明してくれた。

 ちょっといい匂いが……じゃない!

 確かに、これは今まで読んでいたどのタイプとも違う。中学の三年間の授業をダイジェスト化したような内容でありながら、忘れていそうなポイント、つまづきやすいポイント等を分かりやすく解説している文字ベースの本だった。一言でいうなら『文系のための数学本』という感じだろうか?

 これなら何かの合間に読むだけでも復習になりそうだ。

 

「マジか、助かる」

「ま、あんたの役に立つかはわかんないけど。使えそうなら借りていけば」

「そうさせてもらうわ。サンキュ」

「ん、それじゃ。私達先帰るから」

 

 川崎に礼を言うと、川崎はけーちゃんの手を取り「行くよ、けーちゃん」と小さく呟いて、背を向け去って行く。

 

「はーちゃんバイバーイ」

「バイバイ」

 

 バイバイと手を振ってくれるけーちゃんを目で追っていると、またカウンターのおばちゃんがこちらを睨んでいるのが見えた……。どうやら俺もそろそろ退散したほうが良さそうだな。とりあえず、この本だけ借りていくとするか……。

 

 

***

 

**

 

*

 

 そうして川崎との特別授業を終えた俺に、再び一色家へ出勤する日々が戻ってきた。

 正直もうずっとリモート授業でも良いんじゃないかと思っていたが、やはり世の中そう甘くはないらしい。残念。

 

「八幡くん、いらっしゃーい! もう、全然会いに来てくれないから寂しかったわ」

「す、すんません」

 

 一色家の玄関が開いたと同時に、もみじさんに物凄い力で右腕を絡め取られ、部屋の中へと引きずり込まれる。

 あまりの勢いに反射的に謝ってしまった程だ。

 というか、俺はもみじさんに会いにきてるのか?

 キャバクラか何かだろうか?

 アレ? 俺来る所間違えた? それともこの年末年始でそういうお店に変わったの?

 大人のこういうお店ってボッタクりのイメージあるんだよなぁ……。

 怖い、毟り取られちゃう。

 

「ちょっとママ! センパイ困ってるでしょ! ささ、センパイ早く私の部屋行きましょ?」

 

 俺が戸惑っていると、今度は左半分を一色に掴まれた。

 え? 何これ?

 大岡裁き? お奉行様! 

 左右から引っ張っても母親という証明にはなりません!

 やめてください! お奉行様!

 

「ええー、いいじゃない。今年初めてなんだから。あ、そうそうお給料も渡さないといけないんだったわ、ちょっと待っててね」

「それはご飯の後でもいいでしょ! もうあんまり時間もないから! ね? センパイ?」

「お、おう。そうだな」

 

 どうやら、大岡裁きは回避されたようだ。

 先に手を離してくれたもみじさんが俺の本当の母親なのかもしれない。

 ごめん、母ちゃん俺アンタの息子じゃなかったみたいだ。

 ってそれだと小町と血がつながってないって事になっちゃうんじゃない?

 それは色々な意味で困る。やっぱり母ちゃんは母ちゃんのままでお願いします。

 

 まあ正直言うとバイト代が気になってはいたので、もみじさん側に行きたい気持ちもあったのだが、これ以上時間を取られるのも面倒くさそうだったので、俺はバイト代は後に回し、一色の言葉に従って一色の部屋へと向かった。

 

「あ、ちょっと! 八幡くーん!」

 

という、もみじさんの叫びを残して。

 

*

 

「えっと……お久しぶりです」

「お、おう」

 

 パタンと部屋の扉を閉じ、一色がスルスルと俺の腕から離れると、途端に部屋の中に妙な空気が漂い始めた。

 いつものクッションに座って良さそうな雰囲気でもなく、ただ呆然と立ち尽くす俺。

 一色も椅子に座らず、部屋の中央に立ち尽くし、俺に背を向けている。

 え? 何これ……?

 さっきまでの歓迎ムードはどこへ言ったのだろうか?

 もしかして……怒って……いらっしゃる?

 でもなんで?

 俺なんかしたっけか?

 

「……体、もう大丈夫なんですか?」

「あ、ああ、少なくともお前に感染(うつ)す心配はない……と思う」

 

 もしかして、俺がインフルエンザに掛かったことを責められているのだろうか?

 いや、まぁ確かにこの大事な時期に一色に感染したら大変だとは思うが、医者のお墨付きも貰ってるしもう大丈夫だと思うんだが……。

 

「別にそんな事は心配してないんですけど……」

 

 一色が俺の懸念を一蹴すると、ゆっくりと動き出し、椅子へと腰掛けた。

 俺も座るならこのタイミングしかないだろう。

 そう思い、カバンを下ろしながら、一歩前へと進み腰を落とす。

 うん、今年も変わらずこのクッションは座り心地がいいな。なんなら愛着も湧いてちょっと欲しくなってきたまである。

 

 しかし、そこから再び訪れる静寂。

 クッションに気を取られたせいで会話のタイミングを完全に逃してしまった。

 気まずい。

 このまま座っていて良いのだろうか?

 それとも何か言った方がいいか?

 だが何を言う?

 困った俺が視線を泳がせ、ふと目に入ったのは壁にかけられたカレンダー。

 それが去年の物と変わっている事に気がついたのだ。

 

 去年は犬や猫が描かれているものだったと思うが。

 今年はどうやらフェレットがモチーフのものらしく、一月と書かれたそのカレンダーの上半分には門松を背景にしたあざとく首をかしげたフェレットが写っていた。

 

「ああ、カレンダー変えたんだな」

「え? ええ、新年ですからね、いつもパパがお土産で貰ってくる奴なんです、可愛くないですか?」

「ああ、そうだな」

 

 確かに可愛い。

 というか動物は良いよな本当。変なシガラミとかないし誰かに飼ってもらえれば黙っていても飯がでてくる。

 なんなら俺も飼って欲しい。

 そんな事を考えながら、数十秒ほどカレンダーを眺めていると、いつの間にか一色が俺の方を見ていることに気がついた。

 ……そういえば、あの時もこうやってカレンダーを見てたんだよな、そうしたら後ろから一色が……駄目だ思い出すな!!

 

「と、とりあえず、授業始めるか!」

「そ、そうですね! あ、そうだ! 実はセンパイに相談したい事があったんですよ!」

「おう。何でも聞いてくれ!」

 

 いかんいかん、あっちにしてみればアレはちょっとした気の迷いだったはずだ。

 変に意識して一人で勝手に気まずくなる必要はない。

 俺はただの家庭教師。

 いつものように授業をこなして金を貰うだけ。

 あと二ヶ月もすれば、こいつとの関係も終わり。

 考えるな、考えるな……。

 仕事に集中しろ。比企谷八幡!

 

「そ、そうだ、数学のレベルアップに良さそうな物借りてきたぞ」

「レベルアップ? なんですか?」

 

 カレンダーから気を逸らすため、俺はカバンから一冊の本を取り出した。

 それは、先週川なんとかさんに教えてもらった、数学の本。

 一応あの後俺自身も一通り読んでみたが、確かにオススメできる内容だと確認もしている。

 なんなら普通に一冊買っても良いと思える内容だった。

 出来る事なら、俺が受験の時に教えてもらいたかったほどだ。

 

「数学の復習に良いらしい。俺もちょっと見てみたが、結構分かりやすくて良かったぞ」

「らしい……?」

 

 だが、俺がそう言って本を渡すと、一色は何故か一度俺をジト目で睨んでから、ペラペラと本を捲っていく。なんだろう、何かおかしな事を言っただろうか?

 

「……確かに、読みやすそうですね……」

「だろ? 量もそんな多くないし、ざっと通しで確認するにはちょうどいいと思ってな」

「これ、貸してくれるんですか?」

「まぁ、又貸しはあんまよくないんだけどな、返却期限の再来週まではここ置いとくから好きに使ってくれ、寝る前とかに軽く読む程度でもいいらしいぞ」

「……らしいらしいって、一体誰に聞いたんです?」

 

 ニッコリという擬音を貼り付けたような笑顔のまま、一色が俺に問いかけてくる。

 いや、怖い。

 何? なんなの?

 

「ほら、文化祭の時も会っただろ……お前を助けてくれたバイトの姉ちゃん。図書館行ったら偶然会ってな」

「へぇー……人が受験で忙しい中、センパイは図書館で女の子と遊んでいたと……」

「いや、遊んでたって訳じゃ……」

 

 とはいえ、家庭教師のレベルアップのために勉強しにいった。なんて恥ずかしくて言えるわけもなく。どう言ったら良いものか……。

 

「問答無用です! 罰としてシフト増やしてもらいます!」

「いや、おかしいだろ、もう俺週四で来てるんだけど?」

「週四なら週五でも大して変わらなくないですか? なんなら週七でもいいんですよ?」

「休みなしとかどんなブラックバイトだよ……」

 

 訴えたら勝てるんじゃないの?

 くそっ、こんな事ならもっと法律の勉強をしておけばよかった。

 高校の選択授業に労働基準法があったら絶対選択しているというのに……。

 むしろ日本にブラック企業が多いのってそういう教育が行われてないからじゃないの?

 もういっそ義務教育化してほしいまである。

 

「それに雇用主の意向とかもあるだろ……」

「お爺ちゃんの事なら心配いりませんよ? 元々毎日来てもらっても良いって言ってましたし。ほら火、水、金、土ってなんか半端じゃないですか? もうこの際木曜もバイトいれちゃいましょうよ! 男の人ってそういうの好きじゃないですか? 『目指せコンプリート!』みたいなの」

「一色さん? バイトってそんなコレクション感覚で増やすものじゃないのよ?」

 

 出勤日数コンプリートとか考えたくもない。

 社畜根性たくましすぎだろ。

 

「えー、でも木曜の放課後とか暇じゃないですかー?」

「いや、知らないけど。暇なら勉強しとけよ……」

「? センパイの事ですよ? センパイ部活とか予定入ってないですよね?」

 

 俺の話かよ……。

 お前が知らないだけで俺にだって予定ぐらい……予定……予定……。

 

「いや、まぁ入ってないけどさ……」

 

 あれ? 俺ってもしかして暇人なの?

 

「それに、年末年始、センパイ結構休んだじゃないですか? やっぱりその分の補填って必要だと思うんですよ」

 

 確かにインフルで大分長いこと休む羽目にはなってしまったので、その件については俺が悪いと思わなくもないんだが……。

 先に倒れたのはアナタなんですよ? 覚えてます?

 

 そもそも最初週一だったじゃん? 半年ぐらいずっと週一で良かったじゃん?

 なんでここ数ヶ月でこんなシフト増えてるの?

 おっさんの条件だっていうから、一日追加は承諾したけど。

 その後増えすぎじゃない?

 最初は体育祭の後に呼び出し食らって、済し崩し的に増えた金曜日でしょ?

 「センパイの作ったテストで良い点取ったんだからお願い一つ聞いて下さい!」って言われて増えた火曜日。

 そして今回の罰で増えた木曜日……。俺は前世でどれほどの罪を犯したというんだろう?

 

「もう……入試までそんなに時間ありませんし……。駄目……ですか?」

 

 そうして、前世の罪を数えていると、先程までの強気から一変、突然しおらしくなった一色が上目遣いで俺を見上げて来た。

 あざとい……。

 これはどうみてもポーズだ。ここで流されてはいけない。

 流されない男、それが八幡である。

 

 だが……俺としても一色の総武高行きの後押しをしてしまったという負い目もあった。

 一色の言う通り部活も入ってないし、それに……もうすぐこのバイト生活ともオサラバだ……。俺としてもやれる事はやっておきたい。

 

 そう思えば、今更バイトのシフトが一日増えた所でそれほど目くじらを立てるような事でもない気がした。こいつが言い出したら聞かない奴だっていうのも分かってきたしな。

 

「分かったよ……但しコレ以上は増やさないからな」

「え!? 本当ですか! やった!」

「まぁ、あと二ヶ月ちょっとだしな……」

 

 何がそんなに嬉しいのか、椅子から立ち上がり、目をキラキラと輝かせて喜ぶ一色を横目に、俺は俺自身の前世の罪について考えていた。

 もしかしたら、本当に俺は前世で大罪を犯しているのかもしれない。

 ああ、そういえば、俺の前世を知っているらしい人間が一人いたな……。

 今度例の中二病患者に会ったらをジックリ問い詰める事にしよう。




先週と今週休むかもって言ったけど
両方間に合わせたから誰か褒めて欲しい。

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第55話 Have a break

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージ、ここすきありがとうございます。


 二月に入り、とうとう入試まで残り一ヶ月を切った。

 

 それは同時にこの家庭教師の終わりが近いという事も意味する。

 思えば遠くへきたものだ。

 最初は無理矢理始めさせられたバイトで、何をしたら良いかも分からず、ただ一色の後ろ姿を眺めているだけだったのに、自分で言うのも何だが今では随分家庭教師らしくなった……ように思う。

 

 週一だったバイトは、最後の追い込みという意味もあり週五まで増えて完全にブラック化。

 二時間の約束だった一日の就業時間もその日の進行度によって延長され、それでも足りないと自主的に家で教え方の予習までしてしまう始末。

 これで家庭教師っぽくないと言われたら、逆に何が家庭教師なのか詳しく教えてもらいたいところである。

 

 まぁ、内心『そこまでする必要なくない?』と思う自分もいるのだが、おっさんに啖呵切った手前『やっぱり総武は無理でした』じゃ格好悪すぎるし。

 もし一色が落ちて、葉山へのアシストをするにしても、アレ以降葉山と会ってないから何したらいいかわかんないし?

 一色が普通に合格するのが一番俺への被害が少ないので、当然のリスク管理とも言えよう。

 

 だから俺が頑張っているのは、元の平穏な日常を取り戻すためで、それ以上でもそれ以下でもない。

 誰の目から見ても、あと一ヶ月で終わりというのは朗報……のはずなのに、時がたつに連れ少しだけ終わってしまうことが惜しいと思ってしまうのは何故だろう?

 

 いや、きっとこの感覚は……バイト代が無くなる事へのものだ。

 ここ数ヶ月で一気に仕事量が増えたので、無駄遣いをしなければ、高校生活を送っているうちは安泰なんじゃないかとさえ思うが……毎月バイト代が入る生活になれてしまったからなぁ。

 やはり収入がゼロになるというのは少し侘しい。

 何か俺が出来そうな……働かないで金稼ぐ方法ないんだろうか?

 今度は適度にサボっても良心の傷まない職場希望。

 

* 

 

 そうして今日も俺は一色の家に通い、もはやどちらが受験生なのかわからないほどに入試対策に励んでいる。

 いや、ごめん、さすがにそれは嘘だわ。

 多分、去年の俺なら今の一色と対抗できるぐらいやっていたと思うが。

 一色が勉強してる間の俺、結構暇だし、今の俺が去年以上に勉強してるかと言われれば絶対にない、一色のほうが遥かに頑張っている。

 

 加えて川崎に教わった総復習本のお陰でここ一ヶ月は一色の数学のレベルも安定して伸びてきた。ついでに俺も。

 今の一色の合格率は恐らく七~八割という所だろう。知らんけど。

 

 まあ、正確な合格率はわからないにしても、実際の所一色は随分と成長したように思う。

 少し前まで躓いていた問題を、すんなり解けるようになっていくのを見るのは育成シミュレーションをやっているのに近い感覚があって、ちょっと楽しいまである。

 URA制覇も夢じゃ無さそうだ。うまぴょい! うまぴょい! おっとイカンイカン。それは別の娘の話だったな。

 まあゲームほど分かりやすくパラメーターが見えないし、上がってもくれない。それどころか、過去に正解していた問題を間違える、なんて事もあるので少々ヤキモキさせられる部分もあったが、去年の春頃と比べれば随分レベルアップしたように思う。

 

「おい、そこスペルミスってるぞ」

 

 そんな事を考えているそばから、スペルミスを発見してしまった。 

 ミシシッピにSは四つ、Iも四つ、Pは二つでMississippiだと、どこかの文豪も言っていただろう。

 まあほぼ確実に入試にはでないだろうけど……。

 

「ひゃんっ!?」

 

 だが、俺が注意すると同時に、何故か一色はその椅子を大きく引き、肩をビクリと震わせ、持っていたシャーペンを後方へと投げ飛ばした。

 え? 何? 何事?

 

「センパイ! 急に驚かせないでくださいって何度言ったら分かるんですか!」

「お、おう。悪い」

 

 何故か怒られたので、謝罪がてらクッションの側まで飛んでいったシャーペンを拾い、一色に手渡す。

 なんだろう? 俺のせいみたいに言うのやめてもらっていいですか? なんかそういうデータでもあるんすか?

 いや、実際声かけたのは俺だから、俺のせいではあるんだろうけどさ。

 そんな驚くような言い方したか?

 この程度のやり取りは、最近では珍しくないと思うんだが……。

 女子本当わからん。

 

 というより、今日はなんかずっと変なんだよな。

 チラチラこっちみて落ち着かないというか、かと思えば何か考え事をしているのかぼーっとしていたりと。とにかく集中力が欠けている感じ。

 また何か心配事でもあるんだろうか?

 

「なんか、今日ソワソワしてない? 具合でも悪い?」

「い、いえ。別になんでもありませんよ?」

 

 俺の問に、一色がそう返してくるものの、その言葉には説得力がなくアチラコチラへと視線を泳がせている。

 腹の調子でも悪いのだろうか?

 それとも、また風邪か?

 

「体調管理はしっかりしとけよ? また熱だして試験当日にダウンとか洒落にならんからな」

「分かってますよ、そんなにプレッシャーかけないで下さい……」

「こっちだって掛けたくて掛けてるんじゃねーよ……」

 

 実際、その辺りは自分で管理してもらうしかないので是非気をつけて頂きたい。

 寝る時まで監視するわけにもいかないからな。

 一応、後でもみじさんにも注意してもらうよう言っておくか……。

 

***

 

「八幡くん、今日は食べていける? それとも持って帰る?」

「あ、今日は頂いていきます」

「良かった。今日はデザートもあるから、一杯食べていってね」

 

 時計の針が十九時を指すと、ノックとともに一色の部屋の扉が開かれる。

 どうやら食事の時間らしい。最早時計をみる必要もないほどに完璧なスケジュール管理。

 バイト生活一年が経ってもここだけは変わらない、完全時間厳守……なのだが実はバイトのシフトが増えた事でこれまでと変わったことがあった。

 一つは、この一色家での食事の事だ。

 

 バイトが週五まで膨れ上がったので、そのまま毎回食べさせてもらう訳にもいかず、食事に関しては申告制に変更された。

 当然、もみじさんに猛反対されたが、あまり一色の家でばかり食事をしていると小町が一人になってしまうからな。

 一応適度に断る事にしている。ここで食べていくのは週にニ、三回程だ。

 まあ、その結果「これ、小町ちゃんと食べて」とおかずを包んでくれたりするので、どっちの方が負担が少なかったのか? と言われると少し疑問は残るのだが、小町に対する罪悪感もあったので甘えさせてもらう事にしている。

 

「それじゃ、いただきます」

「いただきまーす」

「頂きます」

「はい、召し上がれ」

 

 今日はパスタか。

 俺の前には弘法さんと同程度の量のパスタが用意されている。料理名はよくわからんが、美味そうだ。

 これも小さな変化の一つだが、この頃になるともみじさんも俺の食べる量を把握してくれたらしく、昔ほど腹がパンパンになるという事も無くなっていた。

 なんならデザートを食べる余裕すらあるので、正直めちゃくちゃ助かっている。

 もし、バイトに通い始めた頃のまま『お残しはゆるしまへんで』システムだったら、俺はデブの二つ名を掲げることになっていただろう。

 

「どう?」

「あ、美味しいです」

「良かったぁ、おかわりもあるけど……今日はデザートがあるから、少しお腹あけておいてね?」

「? はい。楽しみにしてます」

 

 今日はデザートがあるのか。なんだろう? 

 この間は手作りのシュークリームとか出てきたからな、実の所かなり期待をしてしまう……。

 いや、まあまずは目の前のパスタに集中するとしよう。

 

「八幡君、いろはの勉強の調子はどうだい?」

「どうなんですか? センパイ?」

 

 そうしてパスタを口に含むと、今度は弘法さんと一色が俺にそう問いかけてきた。

 調子と言われてもなぁ……。

 

「さぁ……どうなんでしょうね……?」

「なんですかそれ! ちゃんとやってるじゃないですか」

「いや、まぁそれなりに?」

 

 俺の答えに不満なのか、一色がジト目で俺を睨んで来た。

 やめてもらえません? 怖いし、あと怖い。

 実際、頑張っているとは思うが、合否に関わるようなことを俺の口から言うわけにはいかないのだ、変に期待を持たせるような事もしたくないしな。

 これ以上責任も負いたくないので、基本的には自己責任でお願いしたい。

 

「ははっ、それなりか。もっと頑張らないと駄目だよいろは? あまり八幡君を困らせないようにね。八幡君も、ビシバシやってくれて構わないからね?」

「困らせてなんてないですー! パパは変なこと言わないで! センパイもパパの言うことなんか聞かなくていいですからね?」

 

 いや、まぁ、無闇にシフト増やされて困ったりはしてるんだけどな……。

 でもそれをこの場でいうほど野暮じゃない。

 俺は弘法さんと一瞬だけ視線を交わしすと、弘法さんは何かを察したのか一度だけ穏やかに微笑んでくれた。やだ、イケオジ。なんだかんだでやっぱこの人も一色に似てるんだよなぁ……父親だから当然といえば当然なんだが……鼻とかコピペしたみたいだし。

 そういや女の子は父親に似て、男の子は母親に似るなんて話もあった気がする。

 となると俺は母ちゃん似か? 自分じゃよく分からんな……。

 

「コホン……ところで……その、八幡君。今日は……どうかな?」

 

 そんな事を考えながら、一色と弘法さんを見ていると、唐突に弘法さんが何やら言いづらそうに咳払いをしてから自分の胸の前でフォークを軽く二回ほど上下させた。

 これはあれだ……ギターのお誘いだ。

 

 そう、これもまたバイトが増えたことで起こった変化の一つ。

 俺がバイトのシフトを増やし、残業も増えたことで、これまで帰りが遅くあまり顔を合わせる機会がなかった弘法さんと鉢合わせることも多くなった結果。

 弘法さんが俺にギターを教えてくれるようになっていた。

 まあ細かいことを言えば以前もこういう事はあるにはあったが、ひと月かふた月に一度あるかないかだったのが、今は週に一、ニ度にまで増えている。

 

「パパ? 何度も言ってるけどセンパイは私の家庭教師に来てるのであって、パパと遊びに来てるわけじゃないんだからね?」

「……それはわかっているけれど、八幡君にだって息抜きは必要だろう?」

 

 なんでこう一色家の人間はすぐ『息抜き』をしようとしてくるのか。

 一色の息抜き癖も父親譲りなのかもしれない。

 

「必要ありません! ね? センパイ? ね?」

 

 だが、一色は自分は息抜きをしたがるくせに、弘法さんの息抜きには否定的なようで。

 そう言って俺にウインクを投げてきた。

 実際、家庭教師に来て受験生の横でギターを弾くのはどうなんだとも思うんだが……。

 あれ……ウインク? なんでウインク?

 何かを伝えようとしているのか? 改めて一色の方を見ると、物凄い眼力を感じる。

 ……ははーん、なるほど? 一色の言いたいことは分かった。

 口ではなんだかんだ言っても、パパ大好きな親孝行娘という事なのだろう。

 まあ、俺ももう少し上達したいとは思ってたしな……。

 今日はまだ時間もあるし……。

 

「あー……えと、じゃあ少しお願いしてもいいですか?」

「は? ちょ! センパイ!?」

 

 あれ? 俺なんか間違えた?

 『パパに付き合ってあげてください』

 みたいな合図じゃなかったの?

 何か言いたいことがあるなら口で言いなさい口で。

 ウインクなんてされても、あざと可愛いってことぐらいしか分からないでしょうに。 

 

「ああ、勿論だよ。 じゃあ早く食べて……」

「あなた? デザートがあるって言ったでしょう?」

「あ、ああ。そうだったね」

「八幡君も、ゆっくり食べてね?」

「あ、はい」

 

 もみじさんは笑顔だったが、それが逆に怖かったので、俺は次の一口を飲み込むために三十回噛むことにした。

 ふと視線を上げれば、弘法さんも同じ結論に至ったらしく。ゆっくりと口を動かしている。

 意味があるかどうかは分からないが、きっと胃には優しいことだろう。 

 

「むー……!」

 

 そんな俺と弘法さんを見て、何故か一色は頬を膨らませていたけど……。

 ハムスターかな?

 

*

 

「ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

「はーいそれじゃ今日のデザート……ホットチョコレートよー」

「ホットチョコレート……?」

 

 普段の倍以上咀嚼に時間を掛けながら、漸く夕食を食べ終えると、テーブルに湯気の立つマグカップが運ばれてきた。

 一色、弘法さん、もみじさんそして俺の四人分。

 ホットチョコレートという名前の通り、暖かく中身は茶色いドロドロとした液体で満たされている。マグカップという事は飲み物……なんだろうか?

 

「な! ちょっとママ! なんで私より先に!」

 

 すると突然一色がダンッと立ち上がり、俺の頭越しに言い合いを始め下唇を噛んでいた。

 何? 何事?

 

「え? もしかしてまだ渡してないの? でもそんなのいろはちゃんが悪いんでしょ? ママに八つ当たりしないでくださーい」

「……っ!」

 

 また親子喧嘩なの? 何が原因かよくわからんが、怒りの沸点低すぎない? 反抗期? それとも受験のストレスだろうか?

 あと一ヶ月だからもうちょっとだけ我慢しなさい?

 でも正直な所、最近はこの手の光景にもすっかり慣れた。

 こういう時は我関せずで、怒りが収まるのを待つのが正解だ。

 

 とりあえず、二人の事は放って置いて、目の前のこれをどう処理するのか考えよう……ホットチョコレート……初めて見る形式のチョコレートだが……このまま口を付けていいのだろうか?

 チーズフォンデュ的な奴か? これに何かつけて食べる系?

 今テーブルにあるものと言えば、夕食のおかずの残り、サラダスティックぐらいなんだが……チョコと合うのかしら?

 

「あら、八幡くんは飲むの初めて?」

 

 俺がサラダスティックとカップを交互に見ていると、もみじさんがサラダスティックを片付けながらそう問いかけてきた。

 どうやら間抜けは見つからなかったようだな。

 あっぶね、手伸ばさなくてよかった……。もしサラダスティックをチョコレートに浸していたら一生笑いものにされていたかもしれない。セーフ。

 

「さすがにウチじゃこんな洒落た物は出てこないので……」

 

 小町や母ちゃんがこんな洒落たものを出してくる状況というのが、そもそも想像できない。

 あの二人がすでにこの飲み物を飲んだことがあるとしても、俺の居ない所での話だろう。少なくとも俺は飲んだことがない。

 というか……『飲むの初めて』って事は飲み物であってるんだよね?

 『チョコレートは飲み物』っていうデブ用語じゃないんだよね?

 うん、弘法さんも何事もなくマグカップを傾けている。

 よし、とりあえず一口頂くとしよう……。

 

「うわっ、めっちゃチョコ……」

「え? もしかしてセンパイってチョコレート苦手だったりします?」

 

 俺が思わず率直な感想を呟いてしまうと、ようやく落ち着いた一色がゆっくりと座りながらそんな事を聞いてきた。

 あれ? 俺そんなチョコ苦手なキャラで売ってたっけ?

 

「んにゃ、むしろ好きだぞ、元々甘党だしな」

 

 そういいながら、二口目を啜る。

 予想外のチョコ感に驚いただけで、別に嫌いではない。

 っていうかこれもうホットチョコレートっていうよりチョコじゃん。むしろチョコ。

 

「そうですよね。……良かった」

「ん? 何が良かった?」

「いえ、こっちの話です」

 

 なんだか良く分からないが……もしかして?

 いや、やめよう。変な想像をするのは。

 自分に都合の良い妄想なんてろくな事にはならないからな。

 

 何やら物言いたげな瞳で俺見てくる一色を横目に俺は残りのホットチョコレートを啜った。

 

*

 

 それから、ホットチョコレートを飲み干した俺は弘法さんの部屋にお邪魔して、ギターの手ほどきを受けた。時間にして一時間ほどだろうか?

 その間、恨めしそうにドアの隙間からこちらを見る一色の気配を感じたが、気の所為だと割り切ることにした。

 今日のバイトはきちんとこなしたし、あとは今日の復習をしておくようにと言い聞かせてある。暇なら勉強してるはずだし、俺の出番はもうないはず。

 このまま帰宅しても問題ないだろう。

 

「えっと……すみません、今日はそろそろ帰ります」

 

 だから俺は、ある程度切りが良い所で、一度だけスマホを見る仕草をしてから席を立った。

 時計の確認という意味もあるが、こうしておけば何か言われても「家から呼び出しがあった」と言い訳が出来るからな。

 

「ああ、もうこんな時間か……残念だな、もう少し教えたいことがあったんだけど……」

「すみません、小町も待ってますんで。また今度お願いします」

「ああ、じゃあまた今度」

 

 時刻はまもなく二十一時。

 狙い通り弘法さんの追求を躱し、俺は弘法さんから借りた練習用のギターを元の場所に戻して、そそくさと足元に置いておいた荷物をまとめると、弘法さんが少しだけ悲しそうな顔で片腕を上げた。

 なんか、申し訳なくなるな……友達いないのかしら?

 とりあえず、良心が痛む前にこのまま部屋を出てしまおう。

 

「それじゃ、ありがとうざいました……って一色?」

「あ、センパイ終わりました?」

 

 だが、そうして部屋を出ると、扉の横の壁に背中を預けた一色が待ちぼうけを食っていた。

 何してんのこんな寒い所で?

 

「何してんの? なんかまた分からない所でもあった?」

「いえ、そういうんじゃないんですけど……」

 

 俺が声をかけると、一色はトンッと背中で壁を蹴るように、壁から離れ、何やらモジモジと俺を見上げて来る。

 な、何?

 

「え、えっと……俺そろそろ帰るけど……?」

「あら、八幡君もう帰っちゃうの? 私も渡すものがあるんだったわ、ちょっと待っててね」

「あ、はい」

 

 どうしたらいいか分からず、とりあえず帰宅を告げたのだが、俺のその言葉に反応したのは廊下の先にいたもみじさんだった。

 渡すもの? なんだろう? 何か忘れ物でもしただろうか?

 図書館から借りた本はもうないし、カバンはココにある。

 はて?

 考えても、特に思い当たる節がない。

 仕方がないので、そのままもみじさんが消えたリビングの入り口付近を見て待とうと思っていたのだが。唐突に一色が俺の裾をキュッと摘まんだ。

 

「えっと……センパイ……あの……ちょっと、こっち来てもらっていいですか?」

「ん?」

 

 突然一色に引っ張られ、抵抗虚しく引っ張られる俺。

 いや、別に抵抗はしてないけど……。

 

 そうして引っ張られること数メートル、弘法さんの部屋の前から玄関前まで移動すると、一色がするりと裾から手を離した。

 一体なんなんだろうか?

 何か言いたいことがあるなら早めに言って欲しい。

 しかし、相変わらず一色は黙ったまま顔を伏せている。

 何この時間?

 よくわからないが、玄関に連れてこられたって事はこのまま帰れっていう事なのだろうか?

 いや、帰るけどさ。

 

「えっと……一色さん?」

「すぅー……」

 

 痺れを切らした俺が声をかけると同時に、一色がすぅっと一度大きく息を吸い込む。

 え? このタイミングで破壊光線?

 

「あの……これ!」

 

 俺が思わず防御の姿勢で身構えると一色は俺の目の前に紙袋をぶら下げてきた。

 とりあえず、破壊光線ではなかったようだ。

 危ない危ない。

 

「何? 貰っていいの?」

「……バレンタインのチョコレートです」

「お、おう。おう?」

 

 ばれんたいんのちょこ?

 何だっけそれ? 

 なんて間抜けを演じるつもりはない。

 当然今日がバレンタインという事は知っていたし、なんならさっき「もしかして」と脳裏をよぎったりもした。

 それに何より、今朝、小町と母ちゃんからもチョコ貰ったからな。

 真っ赤なパッケージの板チョコと黒い稲妻。

 因みに、どっちがどっちだったかとかは聞いてはいけない。

 こういった物は値段ではないのだ。

 

 だから、今はとにかく平常心でこんなの何てことないですよ的な感覚で受け取らなければならない。

 これは、あれだ。

 義理チョコというやつだろう。

 変に意識して『こいつ俺の事好きなんじゃね?』等という勘違いをして醜態を晒せば後日学校中に広まる事になる。

 ましてや一色は総武を受けるのだ、来年の俺の人権に関わる重要な局面。

 絶対に顔に出してはいけないバレンタイン24時のはじまりだ。

 平常心、平常心。

 

「ほ、本当はもっとちゃんとしたの用意したかったんですけど、今年は時間無くて、買いに行くのも忘れちゃってて……それで、あの今年はとりあえずっていうか、あ、でも誤解しないでくださいよ? とりあえずだけど、とりあえずでもなくて、仕方がなかったっていうか……」

 

 だが、そうして心を落ち着かせようとする俺とは逆に、一色の方が早口で言い訳めいたことを並べ立ててくる。

 あれ? なんだこれ?

 

「いいから、一旦落ち着け」

「す、すみません……でも、その……本当に誤解しないでくださいね?」

「分かったから落ち着け」

 

 誤解をするな、というのはよく分かった。

 誤解なんてしない、するわけがない。

 なのに何故か一色の方がしどろもどろになっている。

 だから、俺は今度こそ何の気負いもなくその紙袋を受け取れた。

 紙袋の中には小さな四角い箱が一つ。大した重さも無い。

 なるほど、たしかに義理だ。

 

「まあ、あれだ、サンキュ」

「本当はママより先に渡すつもりだったんですけど……」

 

 そう言われて、ああ、あれはもみじさんからのバレンタインチョコだったのかと気がついた。

 

「ああ、そうか、あれもバレンタインだからなのか」

「え? 気づいてなかったんですか?」

「いや、気づいてないというか……あんなの飲むのも見るのも初めてだったからなぁ」

 

 バレンタインという言葉はなんとなく連想していたのだが。

 そうか、あれはもみじさんからのチョコという事だったのか。

 初めて見る得体のしれない飲み物に完全に意識を持っていかれていたせいか、そこまで思考が追いついていなかった。

 デザートとして全員に用意されていたから、個人的に貰ったという印象が薄かったというのもあるかもしれない。

 例えバレンタインの日の給食にチョコレートが出たからって、チョコレート貰ったって燥いだりはしないだろう? そんな感覚。

 今思うとちょっと失礼だったかもしれない。改めて礼をいわないと……こういうのは順番じゃないしな。

 

「じゃあ実質私が一ば……」

「まぁ今日最初にチョコくれた小町なんてもっと分からなかったけどな、普通に菓子くれただけだと思ったし……」

「……あんのお米ぇ……」

 

 何となく思ったことを口にしたら、何故か小町にヘイトが向いてしまった。

 一体何故?

 小町ちゃんは超優良タンクなの? かばう持ちなの?

 あんま危険なジョブにはついてほしくないんだけどなぁ……。

 出来ればヒーラー辺りにジョブチェンしてくれないかしら?

 あ、でもPvPだと真っ先に狙われるじゃん。どうしろってんだ。

 

「じゃあ、そろそろ良いかしら?」

「マ、ママ!? いつからいたの?」

 

 そうして良く分からない会話を繰り広げていると、突然横からもみじさんが割り込んできた。

 いや、本当びびった、思わずビクってしちゃった。

 心臓に悪いから本当やめて欲しい。

 

「さっきから居たわよ? はい八幡くん、コレはお婆ちゃんから。小町ちゃんと一緒に食べてねって」

「あ、ど、ども、ありがとうございます。ホットチョコレートもありがとうございました。おいしかったです」

 

 そう言うと、もみじさんは一色がくれたものよりは一回りほど大きな紙袋を渡してくる。

 楓さんから、ということはこれもチョコレートなんだろうか?

 小町と一緒にということなら、沢山入っているいわゆるお徳用チョコとかかもしれない。

 

「なんでママはいつもそうなの? もっとタイミングとか考えてよ!」

「仕方ないじゃない、あのまま八幡君が帰っちゃってたら渡せないでしょう? それに『バレンタインのチョコレート渡すのなんて簡単だ』って言ってたのいろはちゃんじゃない、てっきりポンって渡すものなのかと……」

「ちょ! ママ!」

 

 俺がその紙袋の中身を覗いていると、目の前でまた親子喧嘩が始まってしまった。

 えっと……これはどうしたらいいんだ……?

 帰って良いのか? まあちょうど玄関先だしな、避難するには帰るのが一番か。

 

「えっと……じゃあありがとうございました、今日はこれで失礼します。……一色また明日な」

「あ、はいまた明日……」

「それじゃあね、八幡君、気をつけて」

 

 軽く頭を下げてから、ぱぱっと靴を履き、さっと玄関を抜け一色家を後にする。

 ふぅ……ミッションコンプリート。さて、帰るか。

 閉じられた玄関の扉の奥から

 

「ママの馬鹿ー!!」

 

 という声が聞こえたが、聞かなかったことにしておこう。

 ご近所迷惑だから、ほどほどにな。

 

*

 

 今年のバレンタインは大収穫だ。

 小町、母ちゃん、もみじさん、一色、楓さん。今年はチョコを五個も貰ってしまった。俺史上最高記録まである。

 帰ったら小町に自慢してやろう。

 紙袋にチョコを入れて帰るなんて、男の子の憧れですらあるからな。

 ま、全部義理だけど……。

 

 俺は帰宅後の小町のリアクションを想像しながら、揺れる電車の中で一人紙袋の中身を物色する。

 渡された紙袋の一つは『小町と一緒に』という事もあってか、少し大きめの箱の形をした何か。そして一色がくれたもう一つは、淡いオレンジ色のハートが配われた包装紙にくるまれた小さな手のひら大の箱が一つ。

 

 一色の方は紙袋に入れる必要も無さそうなほどに小さい。

 一体何が入っているのだろう?

 まあ、一色がくれた方は小町関係ないし開けてみるか。

 実際、何が入っているのかは気になっていたしな。

 あ、でも義理とは言え家族以外の同年代の女子から貰ったのはこれが初めてでは?

 やば、なんか口角が上がってしまう。

 うっかりするとにやけてしまいそうだ。

 

 俺は逸る気持ちを押さえきれずに、紙袋の中で出来るだけ周りに迷惑にならないよう、そのラッピングをゆっくりと剥がしていった。

 音を立てないよう、破かないよう、できるだけ丁寧に。

 

 すると、中から出てきたのは市販のどこにでも売っている、赤いパッケージのチョコレート菓子。

 受験シーズンになると『きっと勝つ』という願掛けも兼ねたパッケージに変更されるアレだ。

 いや、これ送られるのは俺じゃなくて一色の方なんじゃないの?

 まあ好きだからいいけど……。

 

 剥がした包装紙を手早く紙袋にしまうと、俺はその赤い箱を手にとって眺めてみる。

 うん、どこからどう見てもコンビニに売っているアレだ。

 値段的には小町や母ちゃんとも変わらない感じ。

 義理チョコというのは基本的にどれも同じような物なのかも知れないな。もはや勘違いのしようもないほどに義理。まさに義理チョコの中の義理チョコ。

 べ、別にがっかりなんかしてないんだからね!

 そう、がっかりなんてしていない、何度も言うが義理でも、俺にとっては家族以外の女子からもらった初めてのチョコレートだ。ありがたく頂くとしよう。それに、これならホワイトデーも安くて済みそうだしな。

 そうして俺はふと、そのパッケージを裏返す。

 その瞬間、それが目に入った。

 

 他のチョコレートにはあまり見られないのだが、このチョコレートの特徴の一つとしてパッケージの一部に、メッセージを記入できる白いスペースが設けられている。

 受験シーズンという事もあって、家族からの合格祈願だったり。

 友人からの応援メッセージだったりがサンプルで書かれているのを見たことがあったが。

 俺はそれを利用したことなんてないし、利用している奴も見たことがなかったので完全に無駄なスペースだと思っていた。

 だが……今日初めて、そのスペースが有効利用されているパッケージに出会った。

 出会ってしまった。

 

 そこには、一色特有の丸く可愛らしい文字で、空いているスペースにハートをあしらいながら、メッセージが書かれていたのだ。

 

『絶対合格するから、待っててくださいね♪ あなたの“いいなずけ”より』

 

 俺は思わずチョコを持っていない方の手で口元を覆う。手首に掛けていた紙袋が咄嗟に隣の人当たってしまったがそんな事気にもしていられない。

 そうしないと、口元が緩むのを我慢できそうになかったからだ。

 一瞬隣にいるおっちゃんが怪訝そうに俺を見たのが分かったが、大丈夫。

 バレてない……はず。

 でもどうしよう、口元がニヤけるのを止められない。

 くそっ、こんなの社交辞令だと分かっているはずなのに。

 誤解するなと言われていただろう、自重しろ俺!

 

 しかし、いくら頭でそう考えても、表情筋は思うように動いてはくれず、徐々に増える周囲の視線から逃れるために、俺は顔を少しだけ上に向ける。

 にやけるな!にやけるな!

 駄目だ……。これじゃ不審者だ……。ワンチャン通報されるまである。

 一度降りて気持ちを落ち着かせる時間が必要かもしれない。

 全く、あいつはなんて物を渡してくるんだ、こんなの……

 

「あざとすぎんだろ……」

 

 マジどうしよ……、家につくまでに顔戻るかしら……。




というわけでバレンタイン回でしたー。
お約束という事で。

例によってあれやこれやは活動報告に。

感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージ、ここすき。いつでもどこでも、誰からでも何度でも何文字でもお待ちしています!



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第56話 あざとい少女は電気羊の夢を見ない

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここスキありがとうございます。

とうとうやってきました2021GW。
相変わらずの自粛期間ですが、お家時間のお供にでもしてお楽しみいただけたら幸いです。


「本当に、今日でオシマイなんですか?」

「ああ、おっさんとも受験が終わるまでって約束だったしな」

 

 いよいよ入試を明日へと控えた前日の夜。

 事務的にそう言って帰ろうとするセンパイを、家族総出で見送っていた。

 当たり前のように感じていた日常が終わり、明日からセンパイが家に来ることはなくなる。

 『受験が終わるまで』

 確かに、お祖父ちゃんもそんな事を言っていたような気もする。

 でも、それが今日だとは思っていなかった。少なくとも結果がわかるまで、後数度センパイと会う機会はある、そう思っていたのに、唐突に訪れた終わりの時。

 その事が信じられなくて、不安で、まるで幼子のように私はついセンパイのコートの裾を掴んでしまった。縋ってしまったのだ。

 

「お祖父ちゃんの事は気にしなくてもいいのよ? なんなら来年までだって……」

「いえ、ソレだと俺の学力的にも心配ですし。ココでちゃんとしておかないとズルズル行きそうなんで……」

 

 ママもなんとか引き留めようとしているが、センパイには届かない。

 全く、こんな時に限って頼りにならないから困りものである。

 なんとか、なんとかセンパイを引き止めないと!

 

「で、でもほら自己採点とかまだありますし! 受かるかどうかだって……!」

「それこそ俺いらないだろ……“自己”採点なんだから自分でやりなさい? 受からなかった時は……俺に出来ることはもうないだろ……。だからコレ離してくれる?」

 

 だが、センパイはそう言って私の言葉をあっさりと受け流し、掴んでいた裾を指差してくる。

 

「まぁ、結果が分かったら教えてくれ……」

「むぅー……」

 

 私が不満の意をこめながらセンパイの裾から指を離すと、センパイはまるでまだ何かついていないか確認でもするように、同じ部分を摘んだ。

 全く失礼してしまう。

 でも、その仕草で、もう何を言ってもセンパイの意思は覆らないのだという事は分かった。

 センパイってお祖父ちゃんと似て結構面倒くさいからなぁ……。

 もしこれ以上センパイに家庭教師を続けてもらうのであれば、お祖父ちゃんの手助けが必要だろう。はぁ……。

 まぁ……『家庭教師と生徒』じゃなくなったからといって、センパイとの関係が切れるわけじゃないし、ここは諦めるしかないか……。

 私達にはまだ『許嫁』という関係で結ばれているし、来月からは正式に『先輩後輩』の関係になれるはず……頑張らないと……!

 

「まあ、その明日……な。とりあえず明日寝坊しないように。今日はもう勉強しようとか思わなくていいからそのまま寝とけ」

「まだ九時前じゃないですか、流石に眠れませんよ」

 

 何だか含みのあるセンパイの言葉に、少しだけ違和感を覚えながらも『私は今不機嫌です』というアピールをしながら、僅かな抵抗を試みる。

 なるほど今日が最後という割にやけに早く帰ろうとするのはそういう意味もあったのかもしれない。

 でも、それならそれで、せめて眠るまでの相手ぐらいはして貰わないと割りに合わないという物というものですよ?

 よし、今日は寝るまでセンパイとLIKEで……。

 

「羊でも数えていたらいいじゃないか」

 

 だけど、そのセンパイの無駄な気遣いをなんとか次に繋げようとしていたら、思わぬ所から横槍が入った。パパだ。

 全く本当に余計なことを……。

 

「あんなの効果ないよ、数えすぎて眠れなくなるし、ね? センパイ? そんなのより……」

「ん? いや、あれは十匹単位で区切るんだぞ?」

「へ?」

 

 だけど、私が言葉を続けるより早くセンパイが言葉を続ける。

 

「あれはゆっくり十匹まで数えたら、一匹目に戻して何度も繰り返し数えていくんだ、そうするとそのうち脳が思考放棄してどうでも良いこと考え始めて気がついたら寝てる。単純に数を増やしていくと『こんなに数えてるのに眠れない』って余計眠れなくなったりするからな」

「それ……羊である必要なくないですか?」

「まあ、元々日本産の方法ではないからなぁ……」

 

 へぇ……と思わず関心してしまった。でも違う、そうじゃない。

 別に私は羊を数えて眠りたいわけじゃないのだ。

 どうせ眠れないならセンパイと……。

 

「まあ最近は他にもアルファベットを延々考える奴とか、遅めのメトロノームをずっと聞いてるとか色々あるから、眠れなそうなら試してみたらいいんじゃない?」

 

 どうしよう、凄くどうでも良いのにセンパイのウンチクが止まらない。困った、このままじゃ今夜「センパーイ、眠れないからちょっとお話しませんか?」という真夜中のお喋り作戦がおじゃんになってしまう。

 ママもママで「八幡君は何でも知ってるのねぇ」とか言っちゃってるし……。

 早くこの話を切り上げないと!

 

「……何でもは知らないわよ、知ってることだけ」

「え?」

「あ、いえ何でも無いです……」

 

 そんな私の気も知らず、センパイが少しバツが悪そうにコホンと咳払いをして、視線を泳がせると、一瞬だけ会話が途切れた。

 何かのネタだったのかもしれない。センパイが何だかちょっとだけ恥ずかしそうな顔をしている、でもそんなところも好き。

 

「……あ、あー……そうだ、えっと……一色、最後に一個相談があるんだけどいいか……?」

 

 すると、センパイはその沈黙に耐えられなかったのか、話題を変えようと妙なことを言い出した。

 あ、折角のチャンスだったのに、話しそびれちゃった。

 はぁ……まあいいか、最悪後で直接LIKE送れば……。

 センパイからの相談なんて珍しいしね。一体なんだろう?

 

「相談? なんですか?」

 

 私は少しだけ前のめり気味に、センパイの顔を覗き込むようにして、次の言葉を待つ。

 でも、センパイは中々口を開かない。何だろう? 何か恥ずかしい相談事なんだろうか?

 あまりにもセンパイが言いづらそうにしているので、私はもしかして……と少しだけ期待をしてしまった。

 

「……あの食器って、貰って帰ってもいい?」

「食器……?」

 

 でも、センパイの口からでてきたのはそんな言葉。

 食器? 一瞬センパイが何を言っているのか分からず、頭の中に沢山の食器を思い浮かべたが、特に思い当たるものがない。

 一体どの食器のことだろうか?

 

「ほら、去年の夏にくれただろ、俺用の茶碗とか……」

「駄目! ダメダメダメ! ぜーったいダメです!」

「そうよ! 駄目! ママも許しません!」

「ええぇ……」

 

 センパイが全てのセリフを言い終わるより前に、私とママはセンパイのお願いを拒否した。

 危ない危ない。っていうかこの人、もうウチに来ないつもりでいる?

 なんで!?

  

「いや、でもほら置いておいても邪魔じゃないですか? せっかくですし一応俺も初バイトの記念に……」

「それなら大丈夫、大事にしまっておくから。また八幡君が来る時までね。というより、バイトの事なんて抜きにして、いつでも来てくれていいのよ? ね? いろはちゃん」

 

 モゴモゴと言い訳をするセンパイに、ママが畳み掛けるように反論する。

 うん、こう言う時は本当に頼もしいと思う。

 ママ様々だ。

 

「そうですよセンパイ。とりあえずご飯だけ食べに来るっていうのだって有りだと思います! そうじゃなくても私に会いに来てくれても……」

「いや、流石にそれは申し訳ないというか……」

 

 ママに便乗して本音と建前を交えながらそう言うと、センパイが少しだけたじろいだ。

 乗り気では無さそうだけど、ここはもうちょっと押し切ればなんとかなりそう。

 なんとしても、センパイがウチに来る口実は残して貰わないと!

 

「遠慮なんてしないの。ねぇ、あなたもそう思うでしょ?」

「ああ、そうだね。また君のギターも聞きたいし。別にバイトじゃなくても、うちはいつでも大歓迎だよ」

 

 最後にパパがダメ押し。

 その言葉でセンパイは諦めたように、でも少しだけ残念そうに肩を落とした。

 なんだかちょっと可哀想な気もするけど、でも仕方ない。

 これもセンパイの為なんですよ?

 

「……じゃぁ、またそのうち何かあったら……」

「はい、いつでもお待ちしてます!」

 

 よし、勝った。

 良かった、とりあえずこれでセンパイを呼ぶ口実は出来る。

 

「それじゃぁ、今日は帰る……帰ります」

「はい、気をつけてね」

「またね」

 

 そう言って玄関の扉が開くと、冷たい空気が家の中へと流れ込んできた。

 暗い外廊下を一人歩くセンパイの背中を追いかけて、私はスリッパを履いて一歩だけ玄関の外へ出る。

 

「センパイ!」

「ん?」

「今日まで……家庭教師ありがとうございました!」

「……おう」

 

 こちらに顔を向けず、背中を向けたまま、手を挙げるセンパイ。

 なんだか、そっけない。その背中は本当にこのまま二度とウチに来なくなってしまいそうな気さえしてしまう……。

 だから、正直に言えば、このままセンパイの前に回って「駅まで送っていきます」って言って駅まで一緒に他愛もない話をしながら歩きたかった。

 そうして、せめて最後の余韻に浸りたいと思った。

 でも、我慢した。

 だって……それをしたら、本当に今日が最後だって認めるみたいだったから。

 ……明日、合格さえすれば、チャンスはこれからいくらでもやってくるから。

 ここで我慢をするのは、今日で終わりになんかさせないという、私なりの覚悟でもある。

 だから、絶対また来てくださいね! センパイ!

 

*

 

 そうしてセンパイが帰った後、私はお風呂に入ってから少しだけ机に向かった。

 別に、勉強をしようと思っていたわけじゃない。

 今日はセンパイの言いつけ通り、早めに寝る予定だった。

 でも、勉強をするつもりはなくても、なんとなくいつもの習慣で椅子に座ってしまい、気がつけば手持ち無沙汰のまま部屋を見回していた。

 ベッド、クッション、ローテーブル、壁に掛けられたセーラー服にカレンダー。目に入るのはいつも通りの自分の部屋の風景。

 でも、センパイがいないと随分広く感じる。

 

「一年かぁ……あっという間だったなぁ……」

 

 この一年、本当に色々な事があった。

 センパイと出会って、許嫁だと紹介されたのが去年の五月。

 それからすぐに部活の問題が出て、受験に専念しようと思っていたのに出鼻をくじかれて凹んだなぁ。

 成績もガクッと下がったっけ。

 でも、センパイが解決してくれたんだよね。

 今思い出しても、あのサイゼで一体どうやって新部長を説得したのか良く分からない。

 いつかちゃんと教えてくれる日は来るのだろうか?

 

 それから、お米ちゃんと出会って、夏休みに入る頃にはお米ちゃんと一緒に買い物にも行って、センパイの誕生日会の準備をした。

 私が料理の手伝いをしようとしたら「いろはさんはしっかり勉強してて下さい!」ってメチャクチャ怒られたのは今でも忘れない。

 思えばあの頃からもう随分遠慮がなくなってきていたように思う。

 あの子ともこれから長い付き合いになりそうだし、本当舐められないようにしないと……。

 

 でも、そうやってお米ちゃんと色々準備したのに、当日、センパイ遅刻してきたんだよね。

 全く、何やってたんですか?

 正直、来てくれないんじゃないかって思ってヒヤヒヤしてたんですよ?

 だけどその後、うちに来たセンパイの驚いた顔をみてやっぱり企画してよかったなぁって思った。

 プレゼントも喜んでくれた……と思う。

 今日だって持って帰ろうとしてたし?

 捻デレさんだから、絶対素直には認めないんだろうけど、結構気に入ってくれてるんだよね。

 ふふっ、アレにして良かった。

 来月からは週一で家庭教師じゃなくて食事会を開くとかしてもいいかもしれない。

 私の花嫁修業も兼ねて。 

 

 そうそう、夏といえばお祭りにも行ったっけ。

 そういえば、部活の子達とはアレ以来話をしていない。

 学校に行けば当然、サッカー部が校庭で練習しているのを見かけるけど、私自身も全くと言っていいほど意識していなかった。

 受験モードになっていた、っていうのもあるけれど、元々私自身友達が多い方でもなかったし、結局仕事上の付き合いみたいなモノだったのかもしれない。

 あ、センパイも私の事そう思ってたらどうしよう……?

 私の事を忘れて他の女の所になんて行かれたら平静を保てる自信がない。

 とにかくもっとアピールして行かないと……。

 

 アピールといえば、夏祭りで人生初めて他人の告白シーンなんてモノを見ちゃったんだよね。

 私にはまだそんな勇気ないけど……まさかあの後階段から落ちてセンパイと会うなんて思っていなかった。

 でも、あそこに居てくれたのがセンパイで本当に良かったと思う。

 またセンパイにオンブ……して貰いたいなぁ。

 今同じ状況になったらもっと素直に甘えられると思う。

 お願いしたら……してくれないかな?

 

 夏休みの終わりには万引き犯に間違えられて散々な目にもあったけど、それもまたセンパイが助けてくれた。

 まさに白馬の王子様って感じ。

 いや、私もさすがに王子様に夢見るような年じゃないし、センパイがそんな柄じゃないのは分かっているけれど、私にとってセンパイはソレ以上の存在だと自覚したのは確かにあの日だった。

 そういえばあの時初めてセンパイが私の許嫁だってバラしちゃったんだよね。

 今考えても恥ずかしい、アレ以来麻子ちゃんとも会っていないけれど、あの時の事、どう思っているんだろう? このままお互い一生会わずに居られるなら、案外ソレはソレで幸せなことなのかもしれない。

 

 それから、お祖父ちゃんに総武行きを伝えて……反対されて。

 でも、諦めきれなかったから最初は学校見学のつもりで行った文化祭。

 そこでの二度目の許嫁宣言。

 まさか自分でもあんな大胆な行動にでるとは思わなかったけど、でもあれは仕方なかったと思う。

 ああ、でも合格したら一応口止めはしておいてもらわないと……。

 確か名前は葉山……。葉山先輩。

 爽やか系イケメン系の人。

 あ、それと、少し太めの眼鏡の……なんだっけ? なんとか将軍とか言ってた人。

 イモ……ザイ……モザイク先輩……? 

 あっちの方はセンパイのお友達っぽいからちゃんと押さえておきたいんだけど……。

 まずった。名前が思い出せないのは致命的だ。

 入学したらまず、あの人の情報を集めよう……。

 

 えっとその後は……。

 そうそう、帰りにお祖父ちゃんの家に行って総武行きを条件付きで許可して貰ったんだった。

 まあ……その条件は達成できなかったんだけど。

 落ち込んでいたら、クリスマスにセンパイがまたまた全部解決してくれた。

 あの時は本当に、熱のせいで都合の良い夢を見たんじゃないかとさえ思った。

 

 もう、センパイはどれだけ私の心に入り込んでくれば気が済むのだろう?

 全然興味ありません。みたいな顔をしながら『助けてやる』なんて事も一言も言わず。

 私が困っている時に突然現れて、目の前の問題を全部取っ払って、見返りも求めず、また私のことを見ていてくれるのだ。

 こんなの、好きにならない方がおかしい。

 

 だから、私も気持ちを押さえきれなくて、つい……キス……をした。しちゃった。ほっぺだけど……。

 一歩前進は出来たと思う。

 心臓がドキドキしすぎたせいか、また熱が上がっちゃって年末年始にセンパイと会えなくなっちゃったのが凄く寂しかった……。

 きっとセンパイも意識……してくれたよね?

 バレンタインにもチョコレート渡したし?

意識しない方がおかしいと思う。

 

 学校でサッカー部の子達にあげた人気取り用チョコではなく、義理じゃない正真正銘私の人生で初めて贈った本命チョコだ。

 受験の追い込み時期で、気がつくのが遅れて本命にしては安物すぎたという後悔はあるけれど、高ければ良いというものでもない……よね?

 でも一つ心配事はある……。

 

「センパイ……誤解してないといいけど……」

 

 完全に安物のコンビニチョコレートを贈ってしまったのだ。

 だって、仕方がなかった、本当にいつもだったら前もって準備できてたはずなのに。今年は受験勉強で忙しかった、というのと、毎日センパイが来てくれることで舞い上がっていたせいか、その日がバレンタインだって気がついたのがセンパイが来る直前の事だったんだもん……。

 それでも、あのパッケージを見た時は「これだ!」って思ったんだけどなぁ……。

 

 手前の引き出しを開ければ、そこにはこの間買ったチョコレートの残り……というか失敗作が入っている。

 失敗、といってもチョコレートは市販品なので、あくまでメッセージ部分の失敗作。

 本当はもっと伝えたい言葉は一杯あった。

 でも、今の私にはあの一文を書くのが精一杯で。ソレ以外は全部ボツにして、こうやって引き出しに眠らせて、おやつ代わりにしている。

 だからセンパイに渡した一個は、安物ではあるけれど、『絶対センパイと同じ学校に行きます』という意思表明も込めた、私の精一杯の本命チョコレート……だったのに……。

 そうやって私なりに勇気を出したチョコレートは特にセンパイの方からリアクションを引き出せないまま、不発に終わってしまった。 

 

「やっぱり安物すぎたのかなぁ……」

 

 義理だと思われてしまっただろうか?

 あの感じだと、ホワイトデーも期待できないかもしれない。

 一応、誤解しないで下さいとは言ったんだけどなぁ。

 はぁ……でも今更言っても仕方がない、来年は絶対手作りにしよう。

 そう心に誓い、私はそっとチョコレートの入った引き出しを閉じた。

 

「いろはちゃん? まだ起きてるの? 八幡君にも言われたでしょ、今日は早く寝なさい?」

「はーい」

 

 そんな事をしていると、不意に扉が開き、ママがそんな事を言ってきた。

 時計の針は二十二時前を指している。

 いつもよりは早いけど、でも、やっぱり明日は本番だし、もう寝よう。

 

*

 

 そうして私は一度キッチンへ出て、牛乳を一杯飲んでから歯を磨き、今度こそとベッドに横になった。

 でも、自分が思っている以上に緊張しているのか、それとも単に時間が早すぎるのか、中々眠気はやってこない。

 明日は本番だっていうのに……。

 仕方がないので私は気分転換に少しスマホをいじっては、LIKEを開き、センパイとのメッセージ履歴を見返していた。

 このまま、通話ボタン押しちゃおうかな……?

 いや、それは最後の手段にしておこう。今からだと逆に長話しちゃいそうだし……。せめてもう一時間ぐらいしてから……。

 そうだ。とりあえずアラームをセットしておこうかな? 明日は少し早めにセットして……うん、これでよし。

 明日は本番、寝坊するわけにはいかないからね。

 うーん……でも本当に眠れない。どうしよう?

 とりあえず、センパイに言われたとおり少し羊でも数えてみようかな?

 

 羊が一匹……羊が二匹……羊が三匹……。

 

 しかし、何度かセンパイに言われた方法を試してみたけれど、眠気はやってこない。

 

 羊を数える合間に、どうしても『明日は本番』という言葉がちらついてしまうのだ。

 明日は本番、泣いても笑っても一発勝負。

 受かればセンパイと楽しい高校生活。でも、もし落ちたら……?

 そんな不安が数える羊とともに私を襲ってくる。

 

 明日は一体どんな問題が出るのだろう?

 やっぱりもう少し勉強しておこうかな。

 いや、駄目だ、今日はもう寝るって決めたんだ、夜更ししたら明日に響く。 

 

 早く寝なきゃ、早く寝なきゃ。

 でも、考えれば考えるほど眠気はやってこない。

 まずい、このまま眠れなかったらどうしよう?

 徹夜?

 一晩ぐらいなら大丈夫だろうか? 寝ないで試験に行って、そのまま帰ってきてから寝る。

 うん、多分大丈夫。

 徹夜なんてしたことないけど、一晩ぐらいだったらきっとなんとかなる……よね?

 

 でも、試験の途中で眠くなったらどうしよう……?

 白紙のまま提出……なんてことに……。

 

 やっぱり早く寝なきゃ!

 そうだ、何か楽しいことを考えよう。

 明日の入試を終えて、その後の事を考えればいいんだ。

 

 例えば……そう、明日は試験が終わったらセンパイの家にでも行ってみようかな?

 確かセンパイは、自転車通学をしてるって言ってたからそんなに遠くはないはず。

 お米ちゃんに連絡して、迎えに来てもらうのも良いかもしれない。センパイの家……車で一度連れて行ってもらったきりで直接行った事はないんだよね。そろそろちゃんと場所を覚えておかないと。

 その為にも、明日はお米ちゃんに出動願おう。予定があるかどうかは関係ない、一応私の方が一年先輩だし? 少しぐらい受験生で先輩たる私を敬ってくれてもバチは当たらないだろう。

 

 そうしてセンパイの家までの道を覚えたら、来月からセンパイと一緒に学校に通う。

 入学式の日にセンパイの家の前で待っていたら。センパイ驚くかな?

 なんなら、そのまま毎日迎えに行っても良いかもしれない。

 中学では男子に色目使ってるとか言われて、やっかみから散々な目にあってきたけど、特定の相手がいると分かれば、変な目で見られることもないだろうし、同性の友達も出来るかもしれない。

 なんとなくセンパイの周りに女の人の影がちらちらと見え隠れしているのが気になるけど……毎日仲良く通学している所を見せつければ、高校生活で私とセンパイの邪魔をする人もいなくなるだろう。そうすれば絵に描いた様な学園青春ライフの始まりだ。

 どうしよう、高校生活に楽しみしかない。

 

 きっと世界広しと言えども、許嫁持ちの女子高生なんて私ぐらいなものだろう。

 それだけで勝ち組まである。

 

 ただ心配事もある、家庭教師と生徒という関係が終わってしまった今、私達の間にあるのはその許嫁という関係性だけなんだけど……。

 でも、それはあくまで名目上で下手すると来月にはこっちの関係性も終わってしまうかもしれない。

 

 去年お祖父ちゃんが『とりあえず一年』って言ってたから、絶対一年で終わりっていう事じゃないとは思うんだけど……。

 そもそも許嫁なんだから結婚しないと意味がないんだし?

 その辺りちゃんと考えていてくれるのかな?

 

 まぁきちんと彼氏彼女の関係になるのが一番確実なんだろうけど……。

 でもやっぱり告白はするよりされる方がいいなぁ……。

 放課後好きな人に呼び出されて……そういうシチュエーションにはやはり憧れてしまう。

 とはいえ、さすがにこのタイミングでセンパイが私に告白してくれる、なんて楽観視をするほど私も馬鹿じゃない。

 

 お祖父ちゃんだって考えていないだろう。

 だから、お祖父ちゃんがどう出るのか、どうするつもりなのかはとりあえず保留で。

 私達の関係についても追々かなぁ……。

 私が合格さえしちゃえば焦る必要もないもんね。

 

 同じ学校に通えれば私達の関係が進展するには十分な時間も確保できる。

 大丈夫、センパイが彼氏で、私が彼女。

 それはきっとそんなに遠くない未来の話だ。

 私達は許嫁で将来を誓った仲。当然遊びじゃない。本気の関係。

 

 ああ、センパイが彼氏……センパイが彼氏かぁ。しかも同じ総武の先輩。

 明日頑張ればそれが現実になるんだ……。

 駄目だぁ、頬が緩むぅ。

 

 毎日手をつないで登校して、お昼休みに一緒にご飯を食べて……あ、私がお弁当を作るのもいいかもしれない。放課後は制服デート。お休みの日も当然デート。

 でも、最初のデートでデスティニーランドはNG。

 別れるカップルが多いって言うしね。

 

 それから……それから……。

 もうお互い高校生だし……そういう事だって……当然……しちゃうわけで……。

 センパイ……優しくしてくれるかな……?

 って何考えてんの私!

 ああ、駄目だ。顔が熱い。

 

 まずい、変な想像したせいでまた目が冴えてきちゃった。これは……本格的に眠れない奴かもしれない。

 少しでも寝ないと……!

 もう……それもこれも全部センパイのせいですからね……。

 

 スマホを手に取り、ホーム画面に設定しているセンパイの寝顔写真を見ながら、そう文句を言う。

 全く、こっちは眠れなくて困っているっていうのに、気持ちよさそうな顔して寝ちゃって……。可愛いなぁ。

 二十二時にはベッドに入ったはずなのに、もうすぐ日付が変わろうとしている。 

 これではセンパイに、寝る前のお休みトークをお願いする事も出来ない。

 下手したら怒られるまである。

 まあ、センパイにだったら怒られてもいいんだけど……。

 本格的に眠れなくなる可能性もあったので、私は諦めてスマホをスタンドに戻し。また布団を被り直した。

 

 でも、頭の中からセンパイが離れてくれない。

 いや、離れられても困るんだけど……。

 んー……明日は本番なのに……センパイのせいで眠れなくなっちゃったじゃないですかぁ……。

 助けてくださいよー……センパーイ……ッ。

 

*

 

 そうして、何度も何度もセンパイの事を考え、最早思い浮かべたセンパイの姿が妄想なのか、はたまた夢なのか分からなくなった頃、知らず識らず眠りについていた私が次に意識を取り戻したのは、スマホのアラームが何度か鳴ってからの事だった。

 

「……うーん……あと……五分……」




※羊の数え方は諸説あり、効果にも個人差があります。

というわけでいよいよ受験本番となります。

合否が関わるこの辺りの話を受験シーズン真っ只中に投稿する事にならなくて本当に良かったなぁと今はホッとしていたりもします。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここスキ等頂けると
モチベが上がってストックが出来たりします!
このGWは頑張って執筆予定ですので、一言でも二言でも長文でも、お気軽によろしくお願いいたします。


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第57話 頑張れ

いつも感想、評価、誤字報告、メッセージ、お気に入り、ここすきありがとうございます。
GW終わってしまいましたね……。


「んん……っ」

 

 いつまでも鳴り響くスマホに手を伸ばし、呻きながらアラームを止める。

 えっと……昨日は何時に寝たんだっけ?

 なんだか昨晩の記憶が曖昧だ……。

 張り付く瞼を無理矢理開けば、カーテンの隙間から眩しいほどの陽の光が差し込んでくるのが分かった。どうやら天気には恵まれたようだ。

 

 とりあえず……起きよう……。

 ううっ……寒。

 もうすぐ三月だというのに、布団を捲ると冷たい空気が容赦なく体を刺してくる。

 だが、ソレを我慢してベッドから立ち上がりカーテンを捲れば、目の前に広がるのはその寒さとは不釣り合いなほどに青い空。まさに快晴だ、

 良かった。

 受験当日、大雪が降って受験生の足を止める、なんてよく聞く話。

 晴れている、と言うのはソレだけで受験生にとっては追い風になる。

 

 ふと耳を傾ければ部屋の外からは既に誰かが起きている生活音と、鼻孔をくすぐるトーストの良い香りがした。よしっ。

 ……寒いしさっさと着替えて、飯食うか。

 

 そう考え、俺が着替えを済ませて一階のリビングへと向かうと、ソコには一人でテレビを見ながらトーストを齧る小町の姿があった。

 どうやら親父と母ちゃんはもう家を出たようだな、全く我が両親ながら今日も社畜根性逞しくて嫌になる、遺伝しちゃったらどうするの?

 子は親を見て育つとは言うが、俺は絶対社畜にはならんからな。ガルルッ。

 

「おはよーさん」

「おはよー……ってあれ? お兄ちゃん今日お休みなんじゃないの?」

 

 そう、今日は総武の入試なので、在校生は休み。

 しかも一色の家庭教師も終わった今となっては、完全に一日フリーの休みなので、寝ようと思えばいくらでも寝ていられたし、起きていたからと言って何か出来るわけでもないので、寝ているほうがむしろ有益まであるのだが……なんとなく、今日は起きていないといけない気になっていた。

 

「まぁ、休みなんだけどな……」

 

 とはいえ、ソレを言語化するのは寝起きの頭ではどうにも難しく、俺は小町への回答を尻すぼみにしたまま、目を逸らし、突っ込まれると面倒くさいなぁという思いを込めて、一度頭を掻いた。

 

「ふーん……変なの」

 

 だが、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、小町は俺が起きている事にさして興味も無さそうに、再び視線をテレビに戻すと、残りのトーストを頬張り、牛乳を一気に飲み干していく。

 今日の朝食は……パンとハムエッグとサラダか……。

 

「あれ? 俺の分は?」

「知らないよ、小町は普通に学校なんだから、お休みなら自分で用意して下さーい」

「へぃへぃ」

 

 まあ、言われてみれば確かにその通りなのだが……。少しだけ雑に扱われて凹みながらも、俺は言われるがまま、キッチンに入りコーヒーの準備をして、パンをトースターに放り込んだ。

 あとはどうするか……卵焼くのも面倒だな……最悪ハムだけでも良いか……。とりあえず皿出してから考えよう……。

 

 そうして、食器棚に向かった所で、ふと思う

 そういえば……結局アノ食器は回収できなかったな……。

 初めて、家族以外の女子から貰った誕生日プレゼント。

 今後アイツとの関わりがなくなる前に回収しておきたかったのだが……。

 まさかあんなにゴネられるとは思わなかった。

 また食事会をする、なんて言っていたが。そんな機会が来るとも思えないんだよなぁ。

 あんなの卒業式に女子が泣きながら言う「ズッ友」と変わらんレベルの社交辞令だろう。

 最後だからと、何となく気分が盛り上がった言葉で、ソコにあるのは約束も何も無い一方的な宣言のみ。

 どうせそのうち、あの食器類にホコリがたまって、ある日「そういえば、家庭教師用の食器なんてあったな」と捨てられるのだろう。

 だからこそ、先に回収しておきたかったのだが……。

 はぁ……。まぁ仕方ないか……。

 

 合否の結果だけは知らせてもらう約束だが。

 来月には俺たちの間にある許嫁とかいう訳の分からない関係も終了するのだ。

 食器の事もさっさと忘れてしまおう……。

 

 そんな事を考えながら食器を取り出し、冷蔵庫を物色しているとリビングから小町の声が聞こえてきた。

 

「……お兄ちゃーん? なんかスマホ鳴ってない?」

 

 スマホ?

 言われて耳をすませてみると、確かに二階の方から微かにスマホの鳴る音が聞こえてくる気がする。

 

「んー? お前のじゃないの?」

「小町のはここにあるよ、ほら!」

 

 そう言って、小町が自分のスマホをまるで警察手帳かのように見せつけてくるので、俺は少しだけ首を傾げながら冷蔵庫を閉め、ニ階へと向かった。

 おかしい、スマホのアラームは確かに切ったはずだ。

 スヌーズ機能が作動したのだろうか?

 あれ、二度寝した時には助かるんだけど、普通に起きた時に解除忘れると面倒くさいんだよな……。

 

 だが、そう思って自室への階段を上っていくと、それがアラーム音ではないことに気がついた。

 これは……LIKEの通話呼び出し音だ。

 こんな朝っぱらから?

 俺に連絡を入れてくるような人間は家族以外には一つしか心上がりがない、一色家の誰かだろう。まさか、何かあったのか?

 それに気付いた瞬間、俺は無意識にスピードを上げ、一気に自室へと駆け抜ける。

 間に合え……!

 

 自室のドアを勢いよく開くと、暗い部屋の中、ベッドの上に放り出されていたスマホが音を鳴らしながら画面を光らせていた。相手は……もみじさんだ。

 

「はい、もしもし?」

「あ、良かった繋がった。ごめんなさいね八幡君、こんな朝から」

「いえ、それはいいんですけど……何かありました?」

 

 慌てて通話ボタンをフリックすると、スピーカーの向こうから聞き慣れたもみじさんの声が返ってくる。

 まさか、また一色の身に何かあったのだろうか?

 病気か? それとも事故か?

 俺は、最悪の事態を頭の中に描きながら、次の言葉を待った。

 

「実は今日いろはちゃん、ちょっと寝坊しちゃって……一応、今急いで出たから次の電車に乗れれば間に合うとは思うんだけど……」

「は? ……マジすか?」

 

 だが、次に聞こえてきたのは呆れたような口調で語る、そんな言葉だった。

 ……寝坊? あんの馬鹿! だからあれだけ早く寝ろって言ったのに。何やってんだ!

 

「えっと、家は出たんですね?」

「ええ、本当に今さっきね? だから多分大丈夫だとは思うんだけど……八幡君、駅まで迎えに行ってあげてくれないかしら? 心配しすぎだとは思うんだけど途中で道に迷ったりしたら大変だし……」

「分かりました、すぐ行きます!」

「あ? え? 八幡く……!?」

 

 もみじさんの言葉を途中で切り、スマホをポケットにしまうと、昨日、一色家から帰ってきてから放り出していたままになっていたカバンとコートを拾って、部屋を出た。

 一気に階段を駆け下り、そのまま玄関へと向かう。

 玄関には、今まさに靴を履いて家を出ようとしている小町の姿があった。

 

「悪い小町! ちょっと出かけてくる!」

「え? 小町ももう出るけど? どうせ出かけるなら小町を送って……ってお兄ちゃん!?」

「戸締まり頼む!」

 

 あ、そういえば一色の家の鍵も返すの忘れてたな。

 泥棒とか入ったら真っ先に疑われるやつだからこれも返さないと……。

 そんな事を考えながら、俺は自転車に乗り、全速力で駅を目指した。

 

*

 

「なんとか間に合った……よな?」

 

 次の電車が着くまであと数分。

 そんなタイミングで俺は目的の駅についた。

 もし一色が一本前の電車に乗っていたのなら余裕で間に合っているだろうし。

 ソレ以降であれば、ここで待っていれば合流出来るだろう。

 まぁ、更に一本後の電車だと確実にアウトだろうけどな……。

 

 ったく……なんで寝坊なんて……。

 というか、あいつ、ちゃんと朝飯食ったのか?

 試験前に朝食を抜くのはかなり危険だ。

 それこそ頭が回らなくなる可能性もある。 

 

「今のうちに何か買っといてやるか……」

 

 そう思いたち、俺は急いで駅前のコンビニへと入って商品を物色した。

 手早く食べられて、腹持ちしそうなもの……。

 そうだな……これでいいか。

 これなら、一石二鳥だ。

 一応、飲み物も買っておくか……。

 

 俺は棚から商品を取り、急いで会計を済ませる。

 あ、そうかレジ袋有料なんだっけ? これなら手渡しでもいいか?

 いや……自転車だしな……仕方ない……。

 すみません、レジ袋下さい。あ、プラス三円ですね、はい……。くそっ、なんか負けた気分になるのは何故だろう。

 

 そうして俺は再び自転車へと戻り、購入したビニール袋をハンドルに引っ掛けてカバンを開けた。

 なんとなく癖で持ってきてしまったが、カバンを持ってきておいて良かったな……。

 財布も入ってるし鍵も入っている。それに……コレも入っている。さすが俺の相棒“クロノクロス”だ。

 アノ日、小町に言われて購入して良かった。

 

「とりあえず、これをこうして……」

 

 一色が来ないか駅の方を意識しながら、カバンに入っている物を使って残った作業に取り掛かる。

 するとほんの数十秒もしないうちに視界の端に電車が来るのが見えた。

 恐らく、これに一色が乗っているはず……頼む、乗っててくれよ?

 乗れてなかったら、完全アウトだぞ?

 

 俺は祈るようにぞろぞろと駅から出てくる客の群れを探した。

 だが、もう時間がギリギリという事もあってか、学生の姿はあまり見当たらない。

 降りてくるのはスーツ姿のサラリーマン、サラリーマンサラリーマン。

 どこだ? まさか本当に乗り遅れて……? いや、いた!

 

「一色! こっちだ!」

「え? センパイ!?」

 

 慌てた様子で改札を通り抜けようとするセーラー服姿の一色を見つけ、俺が声を上げると、一色は驚いたような表情を浮かべ、俺の所へと駆け寄って来た。

 

「なんでここに居るんですか? あ、でもごめんなさい! 私急がないと!」

「分かってる、とりあえず乗れ」

「へ?」

 

 自転車の向きを変え、片方のペダルに足をかけたまま、俺がそういうと、今度は意味がわからないという顔で再び俺を見てくる。

 全く、察しの悪い子だ……。

 

「良いから、乗れ! 遅刻したくないんだろ? 話は後だ」

「は、はい!」

 

 俺が少しだけ強めの口調でそう言うと、今度はオズオズと荷台に乗り、俺の腰にその細い腕を回してきた。

 小町以外との二人乗りは初めてだが……女の子ってこんなに違うものなんだな……重さがどうこうよりも、そもそも座り方が違う、小町は思いっきり荷台に跨ってくるが、一色は横座りでなんだか……って今はそんな事はどうでもいい! 時間無いんだった!

 

「んじゃ行くぞ? シッカリ掴まってろよ?」

「お、お願いします!」

 

 俺の言葉を聞いて、一色が腰に回した手にギュッと力を入れたのがコート越しに伝わる。

 だが、決してそれが不快とかではない。むしろ、なんていうか、か細くてか弱くて……守ってやりたくなるような、そんな弱々しい力だった。

 

「あ、あの。なんでセンパイがここにいるんですか?」

「もみじさんから連絡もらったんだよ、お前が寝坊したってな。だから昨日は早く寝ろっていっただろ?」

「だ、誰のせいで眠れなかったと思ってるんですか!」

「? 誰のせいなの?」

「そ……それは……私のせいですけど……センパイのせいでもあるっていうか……」

 

 ちょっと何を言っているのか分からない。

 なんで俺のせいなんだよ。

 そもそも俺、早く寝ろって言ったしなぁ……。

 もしかして小町が夜更しに付き合わせたとかそういう事なんだろうか?

 それなら、兄として謝罪しよう。本当に申し訳ない。

 きっちり後でお説教をしておかなくては。

 

「んで、飯は食ったの?」

「あ、はい。ママが小さいオニギリを何個か持たせてくれたので。電車の中で少し食べました」

「あ、そう。ならこれ要らなかったな」

 

 どうやら、心配は杞憂に終わったようだ。

 だが、折角買ってしまったのだし、一石二鳥とはならなくても一鳥にはなるからいいか。

 俺は少しだけスピードを緩め、片手でハンドルにぶら下げていたコンビニのビニール袋を一色に手渡した。 

 

「なんですかこれ?」

「もし飯食ってなかったらと思って買っといた。まあ今要らなきゃ昼飯の時にでも食ってくれ」

「あ、ありがとうございます……?」

 

 一色がソレを受け取るのを確認すると、再び両手でハンドルを握り、スピードを上げる。

 時計を見れないのが少し怖いが……このペースなら十分間に合うだろう。

 

「野菜ジュースと……チョコレート?」

「まぁ、ちょっと早いホワイトデーって事でな」

「ええぇ……これがですかぁ?」

 

 だが、そんな俺の心境とは裏腹に、背後で一色がこれでもかという程に不満げな声を上げた。

 おかしいな? そんなに悪いものではないと思ったんだが……。

 

「文字通り三倍返しってことでな」

 

 そう、俺が渡したのは一色がくれたチョコレート菓子と全く同じものを三箱。

 きっちり三倍返しにさせてもらった。

 

「……あーりーがーとーうーごーざーいーまーすー!」

 

 しかし、一色は不満げだ。

 えええ……なんで?

 だってあれ、受験生が貰うやつだろ?

 俺が貰うより、一色が貰った方が絶対ご利益があるはずだ。

 『きっと勝つ』ってな。まあ、人によっては『CUT』で『足切り」って意味になるらしいが……。

 先に送ってきたのは一色の方だし、気にしてないなら大丈夫だろうと思ったんだが……。え? まさか気にしてる?

 

「むー……」

「……チョ、チョコはすぐエネルギーになるし、腹持ちもいいんだよ。今日で最後なんだから、悔いのないように腹減りそうならちょっと摘んどけ」

「……はーい……」

「……」

 

 俺の説明に納得していないのか、一色は尚も不満げな声を上げ、ほんの一瞬沈黙が流れる。

 なんだよ……普通に美味いから良いだろ……。

 元々そっちがくれた奴だし。

 何が不満だっていうんだ……。

 

「……まぁその……なんだ……絶対間に合わせるから……合格……出来ると良いな」

「……」

「……」

 

 なんとなく失敗した感があって気まずかったので、激励の言葉をかけると、一色が俺の腰に回した手に再び力を入れ、少ししなだれかかってきたのが分かった。

  

「……あの……センパイ。ずっと気になる事があったんですけど聞いてもいいですか?」

 

 そして不機嫌モードだった一色が遠慮がちに口を開いてくる。

 なんだろう? 何だか空気が重くなった気がする、心無しかペダルを漕ぐ足にも力が入り、不思議と心臓も早くなる。だが……こんだけ全力でペダルを漕いでいれば心拍数も上がるってものだろう。まさに心臓破りの坂。いや、別にここ坂じゃないけど。

 

「気になる事?」

「その……なんていうか、ずっと違和感みたいなのがあって……」

「何?」

 

 違和感? もしかして、俺何か間違えて教えていた事とかあったのだろうか?

 このタイミングで小難しい事を言われても困るのだが……。

 まあ、試験の最中にモヤモヤされるよりはずっといいか。

 後で何言われるか分かったもんじゃないしな。

 そう思って、俺は一色の『気になる事』とやらを待った。

 さて、一体何を気にしているのだろう?

 

「センパイって私に『頑張れ』って言わないですよね? これまでも、昨日も言ってくれませんでしたし」

 

 だが、一色が口にしたのは、試験とは直接関わりの無いそんな言葉だった。

 え? そんな事?

 俺はそれが何かの冗談じゃないかと、次の角を曲がるタイミングで、チラリと一瞬だけ一色の方を見たのだが、一色は真剣な表情で俺を見上げている。

 どうやら……本当にそれが気になっていることのようだ……俺は完全に肩透かしを食らい、少しだけ脱力した。

 

「あー……」

「……何か、理由があるんですか? 本当は私に頑張ってほしくない……総武に来てほしくない……とか?」

 

 なんだか寂しそうに一色がそう呟き、コツンと俺の背中に頭をぶつけてくる。

 ……まさか、そんな事を気にしているとは思わなかった。

 いや、別に頑張ってほしくないとかそんなつもりはなかったのだが……そうか、言わないと言わないでそういう事も起こるのか……。

 少しだけ反省しつつ、俺は一色にどう答えたものかと一瞬思案する。

 

「いや、そう言うつもりはなかったんだけどな……」

「けど?」

「……なんつーか……頑張ってるやつに、頑張れって言い続けるのは酷だろ。傍から見てても、お前は十分頑張ってたしな」

 

 受験というのは、一年もしくはソレ以上の長い期間続き、これだけやっていれば大丈夫という保証のない孤独な戦いだ。

 だから、というわけではないが受験生というのはそれだけで、よく知らない周りの人間からも『頑張って』と声をかけられたりする。一年間ずっと。

 近所のおばちゃんとか、よく知らない親戚のおっちゃんとかな。

 もちろんソレは受験生に対する応援という意味で、悪気があるわけではない。

 それは分かっている。

 だが……。

 

「適当に頑張れって何度も言われると、なんかムカツクだろ?」

 

 その言葉は確実に受験生を蝕んでいくのだ。

 受験生なんだからもっと頑張らなくてはいけない、まだまだお前の頑張りは足りないぞとプレッシャーを与えられている気分になる。

 たった一日、ほんの数分息抜きをしているだけなのに。その言葉を聞かされた瞬間。お前は受験生なんだぞ、忘れるなよと釘を刺されているようなそんな気さえしてくる。

 

「ちょっとした応援じゃないですか……そりゃまぁ、言われすぎるとウンザリはしますけど……だからって一回も言わないのは流石に捻くれすぎてません?」

「お前じゃなかったら俺だって普通に言ってたよ」

「私じゃなかったら……? 私以外には言うんですか!? 私にも言ってくださいよ!」

 

 家庭教師とかいう役職がついてなければ、俺だって気軽に言ってたと思う。それこそ来年、小町にはむちゃくちゃ言うかもしれない。

 だが、仮にも俺の生徒という立ち位置にある一色に『頑張れ』とは言えなかった。

 それは今日までの過程も結果もすべて一色に委ね、俺が家庭教師という仕事から逃げたみたいだったから……。

 どうしても言うことが出来なかったのだ。

 でも、一色がその言葉を望んでいるという事なら……ちょうど良かったのかもしれない。

 

「……まぁ、代わりってわけじゃないが、さっき渡したチョコの裏側見てみろ。ま、一個しか書いてる暇なかったけどな……」

「え?」

 

 そう言ったタイミングでちょうど目の前の信号が赤に変わった。

 俺がキッとブレーキを鳴らし自転車を止めると、後方で一色が慌てたようにがガサガサとビニール袋を漁る音が聞こてくる。

 なんか……自分が送ったプレゼントの採点をされるようで少しだけ緊張するな。

 

「……『A判定。慌てず落ち着いていけ。お前の家庭教師より』……っ!」

 

 どうやら、見つけたようだ。

 そう、それは俺があのチョコレート菓子のメッセージ欄に書いた応援メッセージ。

 どうせホワイトデーのお返しにするなら、同じ事をしてやろうと思ったのだ。

 まぁ、流石に俺が『許嫁』だなんて書いたら『調子乗るな』と言われ。『来年は後輩だ』なんて書いたらこれまた『調子のるな』と言われるだろうからな、無難に一言。

 本当、カバン持ってきておいて良かった。

 ずっと一色の家庭教師用に使ってたから『筆記具』も入っていたんだよな。

 だから、思いつきでソレを書くことができた。

 

「ま、あれだ。今日までの成績表っていうか通知表っていうかな……。そんな感じだから……まぁその……“頑張ってこい”」

「センパイ……これは……さすがにあざとすぎませんか?」

 

 そう口にされると、俺もちょっと恥ずかしい。やはり、狙いすぎだっただろうか。

 まあでも一色が後ろに座っていてくれてよかった。

 この位置関係なら多少顔が赤くなってもバレないだろう。

 

「でも……ありがとうございます。センパイがA判定だって言ってくれるなら私もう怖くありません! 絶対、絶対合格してきます!」

 

 スンッと一度鼻を鳴らしそう言った一色の声を背中越しに聞き、信号が青に変わる気配を感じ取りペダルに足を掛けると、一色は再びコツンと俺の背中に頭を乗せてくる。

 やはり、小町を乗せている時とは少し違うな……なんだか、胸がドキドキする。

 全力疾走したせいで不整脈がでたのかもしれない。

 でも、総武はもう目の前だ。

 もう一踏ん張り……!

 

「んじゃ、最後飛ばすぞ?」

「前の二人乗りー! 止まりなさーい!」

 

 だが、信号が青に変わり、俺がペダルに体重をかけた瞬間、反対側から来た白と黒のツートンカラーの車に突如そう注意された。

げぇっ国家権力ぅ!?

 まずい。今ここで捕まって時間を取られるわけにはいかないというのに……。

 

「セ、センパイ! パトカーですよ、私、ここからは走って……」

「……いや、掴まってろ」

「え?」

 

 そう、ここで捕まるわけにはいかないのだ。

 俺は一色が離そうとした手を左手でギュッと握り。片手ハンドルのまま加速する。

 

「こら! そこの自転車止まりなさい! 聞こえないのか! 前の二人乗りの自転車! 君達だよ!」

「センパイ、やっぱり私……!」

「すんません! こいつ受験生なんで! 送り届けたら説教でも罰でもなんでも受けるんで! 見逃してくれろさい!」

「受験生?」

 

 とうとう、俺を追いかけてきたパトカーに向かって俺はそう叫ぶと、脇道へと入り込んだ。

 ここなら細いから車は入ってこれないはずだ。

 とりあえず、このまま一気に正門へ!

 

「しっかり掴まってろよ!」

「は、はい」

 

 全力全開!!

 ゼンッカイッジャー!!!!

 

*

 

「も……無理……限界……」

「だ、大丈夫ですか……?」

 

 朝から二人乗りの全力疾走は心臓に来る……しかもよく考えたら俺自身が朝食抜きじゃん……俺、もうここで死ぬかもしれん。

 長い間、八幡ペダルをご愛読頂きありがとうございました。

 比企谷八幡選手の来世にご期待下さい。

 

「オェッ……い、いいから……お前は早く行け、せっかく間に合ったんだから……」

「でも……」

 

 心配そうに俺の背中を擦る一色にそう言いながら、俺はその場でヘタリ込む。

 校門も開いていて、チャイムも鳴っていない。

 間に合った……はずだ。

 

「何をしてるんだね君達? ……って比企谷?」

 

 そうして、俺が心配そうな一色を追い払おうとしていると校舎の方から一人の教師がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 その人は白衣を着ていて、黒くて長い髪をゆらゆらと揺らしながらこちらへと近づいてくる。

 助かった。平塚先生だ。

 

「あ、平塚先生……こいつ、受験生なんで、後頼みます」

「受験生? ってもうすぐチャイムがなるぞ!! ほら、急ぎなさい!」

「は、はい!」

 

 平塚先生に急かされ、一色が慌てて校舎の方へと走り出す。

 これで、もう大丈夫だろう。

 完全に俺の仕事は終わり。

 ミッションコンプリートだ。ォェッ……。

 

「センパイ!」

 

 だが、そう思った瞬間。

 昇降口まで走っていった一色がこちらを振り向いた。

 

「私! 絶対! 絶対合格しますから!」

 

 おう……頑張ってこい。

 声にならないその言葉は、なんとか右手を上げることで伝えられたと思う……。

  

 一色は、俺の振り上げた拳をみて満足げに笑うと、平塚先生を追って校舎へと消えていった。

 

*

 

「あー……まじ足パンパンだ……」

 

 試験開始らしきチャイムが聞こえたのを確認すると、ようやく帰る気力も戻ってきたのでゆっくりと立ち上がる。

 ああ、腹が減った。

 さっさと帰って飯くおう……。

 それから寝よう……。もう小町が帰ってくるまで寝てやる。

 

「……全力疾走なんて久しぶりにしたわ……もう二度とやらん……」

 

 そう決心して独り言を言いながら、自転車の向きを変えると、背後から声をかけられた。

 

「そうだね、全力疾走は危ないし、二人乗りもやらない方がいいね」

「え?」

 

 え……嘘……だろ?

 恐る恐る顔を上げると、ソコには先程のパトカーらしき車と、警察官が二人校門の前に立っていた。

 マジカ……流石にしつこすぎませんか?

 これが……国家権力……。

 

「あ……あの……本当、さっきは急いでてですね、悪気があったわけではなく……その……」

「うん、大体事情は察したよ、遅刻しそうだった受験生を送り届ける、それは凄く立派な事だと思うんだよ? でもね? 二人乗りは禁止されているんだ。だから、注意したらちゃんと聞いてほしかったかな?」

 

 冷や汗を垂らしながら恐縮する俺を見下ろし、目の前の警察官は一度ニコリと笑う。

 それはとても人の良い、優しそうな微笑みだった。

 どうやら、事情は理解してくれているらしい。

 これなら軽い注意で済むか。

 

「確か、送り届けた後だったらお説教でも罰でも受けるんだよね?」

「あ、いや、あれは言葉の綾で……」

 

 だが、その警察官はそう言うと妙に馴れ馴れしく俺の肩に手を回してくる。

 え? 何怖い。お巡りさん! この人です!

 ってこの人がお巡りさんじゃん!?

 

「はい、じゃあ少し車でお話しようか? 今日も寒いしね」

「く、車で!? せ、せめて学校からは離れてもらえますか? 知ってる先生が凄い目でこっち睨んでるんで……」

 

 ふと校舎に視線を向けると、先程一色を送っていった平塚先生がこちらに戻ってくるのが見えた。

 まずい。これはあれだ、ガチで怒られるやつだ。

 おかしい、今日の俺は割と頑張ったはずなのに。

 神は善い行いをした人間を見捨てないんじゃないの?!

 こんなの詐欺だ!

 

「そうか、先生がいるなら丁度いい、一緒にお話させてもらおうかな」

「うぇっ……まじすか……」

「まじっす」

 

 自転車の二人乗りは原則違法とされています。

 思わぬ事故や、教師を交えた公開説教にあう可能性もあり、大変危険です。

 絶対にやめましょう。

 

 くそっ……。




お約束END。

今回はGW期間ということもあって比較的早めに完成しました。
細かいあれこれは活動報告にて。

感想、評価、誤字報告、メッセージ、お気に入り、ここすきいつでもどこでも何度でもお待ちしています!


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第58話 二度目の場所、初めての空間

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここすきありがとうございます。


 『平塚先生』とセンパイに呼ばれた白衣の女教師に案内され、早足で教室に着くと、間もなくチャイムが鳴り、試験の説明が始まった。

 どうやら、間に合ったようだ。

 私は慌てて指示に従い、受験票と筆記具以外をカバンにしまうと、続いて、配られたシールに名前を書いていく。

 これはスマホ回収用だ。

 シールに名前を書いたらスマホの背面にそのシールを貼り、電源を切った後回収カゴが回ってくるのを待つ。

 

 でも、私は電源を切る前に、一度だけホーム画面を呼び出した。

 もう時間が無いのは分かっている、でもそれは私にとっては必要な儀式。

 そこに映るのは私の大好きな人の寝顔。

 センパイ、お陰でちゃんと間に合いましたよ。

 心の中でそう報告して、そっと目を閉じる。

 

 去年センパイもここで同じ様に試験を受けたのだろう。

 同じ席ではないかもしれない、同じ教室ですらないかもしれない。

 でも、センパイと同じ道を歩いているという事実が私の気分を高揚させていく。

 センパイと同じ学校に通うという第一目標がもう目の前に迫ってきているのが分かる。

 大丈夫、センパイも応援してくれた、落ち着いていけば大丈夫。

 

 そんな風に心を落ち着けながらスマホの電源を切って、回ってきたカゴにスマホを入れた。

 ふと視線を動かせば、教室内では見慣れない制服に身を包んだ見知らぬ男女が緊張した面持ちで試験の開始を待っているのが見える。

 恐らく、ここにいる何人かとは同級生になるのだろう。

 同時に、何人かとはもう二度と会うこともないのだと思う。

 こういうのを一期一会っていうのだろうか?

 ま、どうでもいいや。大事なのは私が受かること。

 ココにいるのは友達じゃなくてライバル。

 他の人のことなんて今は気にしていられない。

 

 ふぅ……。一度大きく息を吐いて視線を前に戻すと、タイミングよくプリントが回されてきた、

 これが、一科目目の試験。

 早く問題を見たい、名前だけでも書いてしまいたいという思いを抑え、自分の分を手に取り、裏に伏せたまま更にまた後ろへと回していく。

 一通りプリントが行き渡ると、試験官は自らの腕時計を確認し始めた。

 

 いよいよ始まるのだ。

 私は最後にシャーペンも、消しゴムも、その予備も忘れていない事を確認して、手を膝に置く。

 

 すぅ……はぁ……。

 

 静かに深呼吸をして、開始の合図を待つ。

 大丈夫、思ったよりは緊張していない。

 朝寝坊した時はどうしようかと思っていたけれど、最後の最後にセンパイに迷惑かけちゃったけど、センパイに会えたからこそ逆に凄くリラックスできたみたいだ。

 まぁ、ホワイトデーに同じもの三つと聞いた時はテンションだだ下がりだったけど……。

 

 いや、もう本当にあの時は凹んだ、凹みまくった。

 全く、いくらホワイトデーには三倍返しという風習があるとは言え、同じものを返すなんてどういう神経をしているのだろう?

 いくらなんでも適当すぎない? さすがにありえない。

 あまりにも適当なその内容に思わず泣きたくもなった。

 でも……元々私があげたのもアレだったんだよね……やっぱり義理だと思われてたのかなぁ?

 

 もし、あのまま本当にチョコ三箱だけだったら、ここまで落ち着いてはいなかったかもしれない。それどころか、もう入試なんてどうでも良くなっていた可能性もある。

 

 だけど、センパイはとんでもない爆弾を仕掛けてきた。

 私が贈ったメッセージまで三倍にして返してきたのだ。

 『今日までの成績表だ』なんて気軽にセンパイは言っていたけれど。

 本当あざとすぎますよ……。

 だってそれは、私が結局今日まで一度も取ることが出来なかった『A判定』という喉から手が出るほど欲しかった評価。

 ずっと心残りで不安の種でもあったソレを、一番好きな人が、一番欲しいタイミングでくれたのだ。

 それがあったからこそ、今私は自信を持ってここに座っていられる。

 

 人のことあざといあざといって言う癖に、一番あざといのはセンパイじゃないですか……。

 こんなの……ますます好きになっちゃいますよ……。

 

 そのままの勢いでセンパイに抱きついて、好きだと伝えてしまいたかった程だ。

 でも、今はまだ我慢。

 今はとにかく試験を突破しなきゃいけない。ココまでされて結果を出さなきゃ女が廃るってものだ。

 ちゃんとセンパイの思いに答えるためにも絶対合格するんだ!

 って……さっきから私センパイの事ばっかりだ……。

 いけないいけない、もう試験本番なんだから、ちゃんと集中しなきゃ。

 気合を入れろ! 一色いろは!

 

「始め!!」 

 

 そうして試験官の試験開始の合図とともにプリントが捲られる音が教室中……いや、学校中に響き渡り、試験が始まった。

 

*

 

*

 

*

 

*

 

*

 

 試験は五科目、各五十分。午前と午後に行われた。

 午前に三科目、お昼休憩を挟んでから、午後に二科目。

 

 お昼はママが持たせてくれたお弁当と、センパイがくれたチョコレートを一箱。

 もちろん、何も書いていない方の奴を開けて午後に備えた。

 結局開始前には食べられなかったしね……。

 

 でも、そのお陰もあってか、かなり手応えはあった……と思う。

 それほど時間に余裕はなかったから、見直しをする時間は少ししかなかったけど、空白は全て埋めたし、去年のマークシートの時のようなミスは起こるはずもない。もちろん名前は忘れずに書いた。

 大丈夫。きっと大丈夫。

 

 私はそう自分に言い聞かせながら、帰り支度を済ませ、ザワつく教室内を見渡した。

 既に試験は終わり、半分以上の生徒は帰路についている。

 残っているのは恐らくは同じ中学に通っている友人同士であろう数グループが「数学の五問目できた?」「あー、まじか!やばい俺落ちたかも」等と反省会を繰り広げていた。

 

 私も自己採点はしなきゃだけど……。

 さてと……これからどうしよう?

 このまま帰って自己採点でもする?

 それとも、どこかに寄っていく?

 

 これまでだったら学校が終わったら真っ先に家に帰って、センパイが来るのを待っていた。

 でも、センパイが家庭教師として来ることはもうない。

 そう考えるとどうにもやる気が出ない。

 そもそも、このタイミングで自己採点をする必要があるのかも分からない。

 どの程度の正解で合格できるのかも分からないのだから、結局不安が消えるわけじゃないし、待っていればどうせ結果はでるのだから、いっそ、結果が出るまでは試験の事を忘れてしまうというのもありなんじゃないだろうか?

 もし落ちてたら……それはその時考えよう。どうせセンパイがいないならどこの高校に行っても同じだ。

 

 そうと決まれば、久しぶりにどこかに遊びに行こうか?

 でもどこへ?

 一人で行ける場所なんてたかが知れているし、今からじゃそれほど遠出も出来ない。

 逆に、さっさと家に帰って寝ちゃう?

 昨晩はあまり眠れなかったし、それはそれで有りかもしれない。

 今までの私ってこういう時何してたっけ?

 なんだか全てが遠い昔のことのようで思い出せない。

 何か……何かやる事……。

 

 あ、そうだ。

 

 そこでふと閃いた。

 それは昨日の晩の思いつき。

 絶対に楽しい事になるのは保証されたようなアイディア。

 センパイのお宅訪問。

 

 今朝の事、ちゃんとセンパイにお礼も言いたいし。

 割と良い案なんじゃないかと思う。

 でも、さすがにまたセンパイに迎えに来て貰うわけにも行かないので、当初の予定通り、お米ちゃんに連絡して迎えに来てもらおう。

 私はそう思いたち、名前シールが貼ったままのスマホの電源を入れ、センパイの顔を一撫でしてから、LIKEを起動した。

 

【今日暇?】

 

 さて、返事は……と。

 

 しかし、五分待てども十分待てども返事は来ない。それどころか既読すら付かない始末だ。

 全く使えない。

 となると、センパイの家もお預けかぁ……。

 まあ、今から行ってもあんまり時間ないし、後日改めてかなぁ。どうせ時間はたっぷりあるしね。

 

 少しだけ肩を落としながらカバンを持って一人教室を出る。

 もう少ししたら通う事になるかもしれない校舎を眺めながら、ゆっくり長い廊下を抜け、昇降口で靴を履き替える。

 そういえば、総武にくるのもコレで二度目だっけ。

 文化祭の時と比べると人が少ないのもあって随分印象が違う。

 そういえば、校門に立ってた大きな『総武祭』の門も無くなってるんだ。当たり前か。

 そんな事を考えながら、ふと校門に視線を向けると、そこに人影が立っているのが見えた。

 当然、人は沢山いる。

 私と同じように試験を受けた生徒だ。

 それぞれ、不安げな表情でぞろぞろと校門を抜けていっている。

 でも、その人が受験生ではないことはひと目で分かった。

 

「センパイ?」

 

 そう、そこに居たのは朝の格好のまま自転車を傍らに立たせ、校門で佇むセンパイの姿。

 私は慌ててセンパイの元へと駆け寄った。

 どうして? なんでセンパイがまだここに?

 え? あれから大分時間経ってるよね?

 

「おう、どうだった?」

 

 なんだか疲れた声で、センパイが私にそう聞いてくる。

 朝よりもやつれている様に見えるのは気のせいだろうか?

 もしかして……私の事待っていてくれた……?

 嬉しい誤算だ、もうこのまま帰ろうと思ったけど、これでこの後はセンパイと……!

 

「ちゃんと全部埋められましたし、結構自信ありです! 多分大丈夫だと思います!」

「そっか、んじゃ帰るわ」

 

 だけど、私の喜びとは裏腹に、センパイはそう言ってそのまま踵を返し私に背を向けようとした。

 

「ま、待ってくださいよ! っていうか、なんでセンパイがここに? まさかずっとここで待って……?」

「ずっとって……んな訳ないだろ、どんだけ経ってると思ってるんだ。こっちはこっちで色々あったんだよ……まぁ、丁度いい時間だったし? 一応どんな感じだったか聞いておこうと思って少し待ってたんだけど……迷惑だった?」

 

 私の疑問にセンパイはため息を吐きながら、うんざりという様子でそう答える。

 色々って半日近くも一体何をしていたんだろう?

 でもそっか……少しは待ってくれたんだ。

 現金なもので、たったそれだけの言葉でまた私の口元が緩んでいく。

 

「いえ、全然! むしろ嬉しいぐらいです!」

「? よく分からんが、なら良かった。んじゃ、帰るわ」

「だーかーら! 待って下さいってば!」

 

 そんな私の気持ちも知らず、再び帰ろうとするセンパイの自転車の荷台をつかみ、なんとかセンパイの動きを静止する。

 全く、なんでここまで来てこのまま帰ろうとするのこの人……!

 

「何? 帰らないの?」

「いえ、その……なんていうか……このまま帰っちゃうんですか?」

「疲れたから帰るけど? お前も一日試験で疲れただろ?」

「いや、そりゃまぁ少しは疲れましたけど、ここで帰るなんて選択肢は私にはないです」

 

 私の言葉を聞き、センパイが不思議そうに首を傾げてくる。

 これは、チャンスだ。

 神様が作ってくれたチャンス、これを見逃す手はない。

 私はそう思って、言葉を続けた。

 

「あの……出来たらセンパイの家に行ってみたいなー……なんて思ってるんですけど……」

「うち?」 

「はい、駄目……ですか?」 

 

 少しシナを作り、上目遣いでアピール。必殺のおねだりポーズだ。

 まぁ……どうせセンパイの事だから「あざとい」って思うんだろうけど……。

 そう思いながらもセンパイの顔を見ると、センパイは顔を赤くしながら、目を逸らした。

 よしっ、効いてる。

 センパイは口ではあざといあざといと言いながら、案外ちょろいのだ。ちょっと心配まである。

 私以外の女に引っかからないで下さいよ?

 

「べ、別に駄目じゃないけど……ウチ来てもなんもないぞ? 小町も帰ってるか分からんし……」

「そっちはむしろ帰ってこなくてもいいんですけど……。ただ一回行ってみたいなぁって」

 

 そう、あくまで今日は下調べ。

 とりあえず一回行って場所を把握しておけば、今後色々作戦も立てやすいしね。

 

「……まぁ、別にいいけど。結構歩くぞ?」

 

 やた!

 でも……歩くってことは……。

 

「今度は乗せてくれないんですか?」

「さっきなんで俺がここに居たのか聞いたな? 今朝の二人乗りの事でめちゃくちゃ怒られてボランティアさせられてたんだよ、今日はもう勘弁してくれ」

「す、すみません」

 

 まさかそんな事になってるなんて思わなかった……。

 うー……これが原因で二度と乗せてくれなくなったらどうしよう……。

 

*

 

「ここ」

「……夏祭り以来ですね」

 

 駅とは逆方向に歩き、ようやくたどり着いた住宅街にある一軒家の前でセンパイが立ち止まった。

 確かに、見覚えのある外観だ。

 あの日は夜だったからあんまりはっきりは見えていなかったけど。

 こうやって見ると凄く立派なお家。

 そっか……ここが、センパイのお家なんだ。

 ここで毎日センパイは生活してるんだ……。

 

「ああ、そういやそんな事もあったな」

「忘れちゃったんですか?」

 

 だが、センパイはまるで覚えていなかったとでも言うように、そう言ってガサゴソと玄関の扉を開ける。

 あの日の事、忘れちゃったんだろうか?

 私はずっと、いや一生忘れないと思う。

 

「あ、そうだ。これ忘れないうちに渡しておくわ」

「へ? セ、センパイこれって!」

 

 そうしてあの日のことを思い出しながら、センパイの家を眺めていると、不意にセンパイがガチャガチャとキーホルダーから何かをはずし私に渡してきた。

 それは小さな、どこにでもあるタイプの家の鍵。

 うちと同じメーカーなのだろうか? 取っ手部分のデザインも同じで妙に手に馴染む

 こ、これってもしかしなくても……合鍵!?

 え? ど、どうしよう。貰っていいの? いいのかな?

 これをくれるって事は……次からはコレを使えって事?

 流石に早すぎないかな? も、もしご両親とバッタリなんて事になったらどうしよう……?

 

「まあ、流石にもう俺が持ってるわけにもいかないだろうからな。もみじさんにもよろしく伝えておいてくれ」

「え? ママに……? なんでよろしく?」

 

 だけど、渡された鍵をしげしげと見つめていると、センパイがそんな事を言ってくる。

 なんでここでママが……?

 

「何故って……それ一応もみじさんから貰ったって事になってるからなぁ……郵送しようかとも思ったんだが丁度いいからお前から渡しといてくれ」

「はぁ?」

 

 通りで見覚えがあるはずだ。これ、本当に私の家の鍵なんじゃん。

 はぁ……私の喜びを返して欲しい。

 

「こんなの受け取れませんよ!」

「は? いや、受け取れないも何も、元々お前の家のだろ。もうお前の家行く機会もないだろうし、何かあった時困るだろ、俺が犯罪者に間違えられて逮捕されるし」

「なんでセンパイが捕まる事前提なんですか……泥棒が入ったらちゃんと調べてもらいますよ」

「いや……でも……」

 

 なんだか頭痛くなってきた。

 何でこの人はこうもネガティブなんだろう。

 かといって、言葉で説明しても分かってくれないだろうなぁ。

 

「とーにーかーく! これは返品不可です、失くさないようにちゃんと持っていて下さい! わかりましたか?」

「は、はい……」

 

 勢いに任せて、鍵をセンパイに返しその手に握らせる。

 こんなの持って帰ったら私がママに怒られちゃいますよ……全く。

 

「えっと……じゃぁ、まぁ……とりあえず上がってけよ」

 

 腰に手を当てて、私は怒っていますというポーズをしながらセンパイを睨んでいると。

 やがてセンパイがその空気に耐えられなくなったのかようやく玄関を開けてくれた。

 

「……お、お邪魔しまーす」

 

 スタスタと家の中へと入っていくセンパイに続いて、私も玄関を通り、コートを脱ぎながらセンパイの家へと入っていく。

 マンションである自分の家とも、和風な作りのお祖父ちゃんの家とも違う。

 二階建ての一軒家、夢のマイホームってこういう家の事を言うのかもしれない。

 

「ここが、センパイのお家なんですねぇ」

「俺のってか親父のだけどな、しかもローン残ってるから厳密に親父のとも言い難い」

 

 なんだか知りたくもない情報まで知ってしまった。

 でも、やっぱり家を買うって大変なんだな。

 いつか私もセンパイと……。

 そんな事を考えながら、玄関を入ってすぐのリビングらしき部屋へと通された。

 

「お米ちゃんは?」

 

 中学生女子が読みそうな雑誌がちらほらと見受けられたのでついそんな事を聞いてしまったがソレ以外は本当アットホームなどこにでもあるリビングという感じ。

 カウンターキッチンに、四人がけのテーブル、ソファと大きなテレビ。

 どこにでもありそうなごく平凡な組み合わせだけど、そこにセンパイがいるというだけでどうしてこう特別に見えるのか。

 

「あー……まだ帰ってきてないみたいだな……」

「へー」

 

 その答えに思わず緊張が走る。

 ということは、今この家に私達二人きり……ってことだよね?

 これはチャンスだ。

 今のうちに……。

 

「とりあえず……茶でも淹れるか、そこらへん適当に座って……」

「あ、あの……! 出来たらセンパイのお部屋見てみたいんですけど」

 

 そう、これはチャンス。

 だから、私は邪魔者が入る前に自分の願望をぶつけてみた。

 まぁ細かい事を言うとここでお喋りをしている時にセンパイのお父さんやお母さんが帰ってきたらどうしようという思いもあったりする。

 実際、どうやって挨拶したらいいか、まだ考えてないんだよね……。

 

「俺の部屋?」

「駄目……ですか?」

 

 センパイの左腕をつかみ、ブンブンと揺らしながらお願いしてみる。

 本日二度目のオネダリだ。

 さすがに効かないかな?

 

「いや、別に駄目じゃないけど……面白いもんは何もないぞ?」

「別に面白い物なんて期待してませんよ、センパイのお部屋を見てみたいだけです」

「……い、一応、片付けてくるからチョット待っててくれる? あと袖離して? のびちゃうから」

「はーい♪」

 

 でも、センパイは観念したように一度小さくため息をついた後そう言って承諾してくれた。

 やっぱりちょろい。来年度からはちゃんとガード固めておこう。うん。

 私はそんな決心を固めながら、タンタンとリズムよく二階に上がっていくセンパイの背中を見送った後、もう一度リビングを見回した。誰かの視線を感じたのだ。

 あれ? センパイの兄弟ってお米ちゃんだけだよね?

 他にはいないと思うんだけど……。誰も……いないよね?

 あ、猫!

 センパイ猫飼ってたんだ?

 君のお名前はなんていうのかな? にゃーにゃー。

 

「お待たせ、んじゃ行くか」

「あ、はい」

 

 センパイを待っている間、警戒しながら私の回りをグルグル回る猫ちゃんと遊んでいたのだが、センパイが声をかけてきたタイミングで猫ちゃんは私の足元からサッと移動し、冷蔵庫の上へと上っていった。

 あそこが定位置なのかな?

 ばいばい、またね。

 

「ま、なんもないけど……」

「わぁ……ここが……センパイの部屋」

 

 二階に上がり、通された部屋を見て私は少しだけ感動した。

 だって、とうとうセンパイの部屋に来てしまったのだ。

 いつもは私の部屋で二人きり。

 でも、今日はセンパイの部屋で二人きり。

 あくまで下調べのつもりだったけど、何かが起こりそうな、そんな予感さえして自然と鼓動が早くなる。

 

「あれ? ギタースタンド買ったんですか?」

「まあ、一応な」

 

 なんとか平静を装い、そう問いかけた先にあったのは、専用のスタンドに立てかけられたギター。

 このギターは去年の夏パパがセンパイにプレゼントしたものだ。

 スタンドを買ったという事は結構大事にしてくれているということだろう。

 昔家に有ったものが、センパイの部屋にあるのってなんだか不思議な気分。

 センパイがウチで弾いてる時はパパのコレクションのどれかを使ってるみたいだけどセンパイがこれを弾いてるところってあの日以来みてないんだよね。

 今、お願いしたら聞かせてくれるかな?

 

「あー……えっと、とりあえず、適当に座っててくれ、なんか取ってくるわコーヒーでいいか?」

「あ、はい。お構いなく」

 

 でも、私がそれを言い出すより早く、センパイが改めてそういって部屋を出ていってしまったので、また一人取り残されてしまった。

 仕方ない、お部屋の物色でもさせてもらうか。

 といっても当然、引き出しを漁ったりはしない。

 変な事していきなり出禁にでもなったら困るしね。

 とりあえず、今日のところはセンパイの部屋に入れたという事実だけで満足なのだ。

 

「あれがセンパイの机」

 

 最初に目に入ったのはやはりセンパイの机。

 どこにでもあるような、何の変哲もない勉強机だけれど、私のものと違って「男の人が使っている」という感じがするのは何故だろう。

 単に私がセンパイをイメージしすぎているからだろうか?

 

「こっちはセンパイの本棚」

 

 私の部屋にある本の倍以上の本が収納できる大きな本棚は、見たこともないようなタイトルの本で一杯だった。

 あ、でもこれはお祖父ちゃんの家で見たことあるかも。

 センパイが好きなら私もこういうの読まなきゃ駄目かな?

 何かオススメの本がないかあとで聞いてみよう。

 

「それで……ここが、センパイがいつも寝てるベッド」

 

 その場でぐるりと一回転して部屋を見回し、足元に荷物を下ろすと、適当に座れと言われていたことを思い出した私は遠慮なくセンパイのベッドに腰掛け、ぽんぽんと布団を叩きながらそう呟く。

 このベッドで毎日センパイが寝て、今朝もきっとここで目覚めたのだろう。

 センパイの寝起きってどんな感じなのかな?

 あんまり寝起きに強いっていうイメージもないし、やっぱり二度寝とかしちゃうんだろうか?

 

「ふぁー……」

 

 いけない、センパイが寝ているところを想像したら私も眠たくなってきちゃった……アクビが……。

 きっとここで眠ったら気持ちいいんだろうな……。

 いやいや、何考えてるの私!

 流石に初めて来たセンパイの部屋でそのまま寝るなんてあり得ない。

 もうすぐセンパイも戻ってくるだろうし、ちゃんと待ってないと!

 でも……。

 

「……ちょっとだけなら……いいよね?」

 

 私は、その悪魔の誘惑に抗いきれず、ぽふんっとベッドに寝転び、センパイが毎日頭を乗せているであろう枕に顔を埋めていった。

 そして、その事を後悔することになる。

 

「センパイの……匂いがするぅ……」

 

 ああ……これは駄目だ……。

 まるで……センパイに抱かれてるみたいに、そこら中からセンパイの匂いがする……。

 早く起きないと、センパイが……戻って……きちゃう……。

 

 だが、そう思えば思うほどに、体はベッドの中へと沈んでいく。

 もうちょっと……もうちょっとだけ……。

 そういえば、昨晩は全然眠れていなかったんだった……。

 でも……ここで眠るわけにはいかない。

 そうだ、いっそこのまま寝たフリをして、センパイが戻ってきたときに驚かせるのもいいんじゃない? だから……ギリギリまでこの体勢で……。

 

「悪い待たせた……って一色……?」

 

 センパイの声が聞こえ、一歩一歩、センパイが私のところへと近づいてくる気配を感じる。

 ふふ、驚いてる驚いてる。

 もうちょっと……もうちょっと近づいてきたら……ガバーって起き上がって……。さぷらーいず……。

 

「寝てんの?」

 

 寝てませんよー……ちょっと横になってるだけですー……。

 ああ、でも駄目だ、やっぱり瞼が重い……。

 起きなきゃ……起きてセンパイを……びっくり……。

 

「……セーラー服の美少女が俺のベッドで寝てるとか……どんなシチュだよ……」

 

 ……早く……起き……ないと。起き……て……。

 

「ま、お疲れ……」

 

 センパイは今どんな顔をしているんだろう?

 初めて部屋に上がり、そのまま眠ってしまった私に呆れているのだろうか? 

 それとも、優しく私を見下ろしているのだろうか?

 だが、結局私にソレを確認する事は出来ず、ぽんぽんっと優しく私の頭を叩くセンパイの手の平の感触を最後に、私は完全に意識を手放してしまった……。




ゴールデンウィークとはなんだったのか……
ガンガン話進めてストック作ろうと思ったのに、試験当日の話が長すぎて分割する羽目になりました……
というわけで、もう少しだけ試験日が続きます(試験自体は早々に終わってるけど)

白大河さんは文字数が読めない。

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第59話 あさきゆめみし

いつも感想、評価、メッセージ、お気に入り、誤字報告、ここ好きありがとうございます!


 気がつくと、私は見慣れた中学の教室にいた。

 いつもの学校、いつもの教室。いつも通りの風景。

 昼食を食べた満腹感と、暖かい陽気についウトウトとしてしまいたくなるような、そんな午後の授業中。

 

 ふと視線を窓の方へ向けると、窓際の一番うしろの席に座っているセンパイが気持ちよさそうに船を漕いでいるのが見えた。

 その緩みきった顔を見て、思わず自分の口元も緩むのが分かる。

 同時にパシャリというシャッター音がどこかから聞こえた、きっと誰かがふざけてセンパイの寝顔を撮ったのだろう。

 その気持はとても良くわかる、私もセンパイの隣の席だったら絶対撮っていた。

 でもそんなに堂々と寝てたら……。

 

「こら! 比企谷! 起きなさい!」

「……あ……すみませ……」

 

 ほら、怒られた。

 ドッと笑い声が響く教室の中で、私とセンパイの目が合うと、センパイは気恥ずかしそうに窓の外を見る。ああ、顔が見えなくなっちゃった。残念。

 でも、本当に気持ちの良い陽気だ、私も思わず居眠りをしたくなってしまう。

 

「もう、しっかりしてくださいよセンパイ、恥ずかしいじゃないですか」

 

 私はそのまま席を立ち、センパイの元へと歩み寄った。不思議なことに授業中だった気がした教室からは他の人の気配は完全に消え、残っているのは私とセンパイの二人だけ。もう放課後だろうか?

 だが、特に疑問に思うこともなく、センパイは頬杖を突きながら一言。

 

「別に、お前が恥ずかしがる事ないだろ……」

 

 そんな言葉を投げかけてくる。

 全く、本当に分かってないなぁ、この人は。

 あれ? でも、なんで私とセンパイが同じ教室にいるんだっけ?

 センパイは“先輩”のはずなのに……?

 しかし、ほんの一瞬浮かんだ疑問はぽんっと泡のように消えてしまう。

 まぁいっか……。

 

「とにかくセンパイ、帰りましょ」

「ああ」

 

 そう言うと、次の瞬間にはパッと場面が切り替わり、私はセンパイの自転車の後ろに乗っていた。

 センパイの腰に手を回し、その背中に寄りかかる。

 これもまた、いつもの光景。

 

「しっかり掴まってろよ」

「はーい」

 

 心地よい揺れを感じながら、目を閉じて、センパイの存在を身体中で堪能する。

 私はこの時間が一番好きだ。

 センパイの大きな背中から感じる体温と、Yシャツを洗った洗剤と少しの汗が混じった匂い、そして何より心臓の鼓動を感じられる。

 私の特等席。

 例えどんなにお金を積まれても、ここの権利だけは絶対に誰にも譲るつもりはない。

 

「で、今日はどこか寄ってくの?」

「センパイと一緒ならどこへでも♪」

 

 センパイの問いに、私がそう答えると目の前の背中が一瞬大きく膨らみ、しぼんでいく。

 どうやらまた大きな溜息を吐いたようだ。

 

「……んじゃ、適当にその辺ぶらつくか」

「やった!」

 

 こうして、私達は二人で学校を出て放課後デートへと洒落込む、これもまた、いつもの光景。

 正直場所なんてどこでもいい。いや、より正確に言うならば、一日中こうやってセンパイと二人乗りをするデートだっていいと思う。

 でも、センパイの負担にもなるので、そういう訳にも行かないのが辛いところだ。

 ずっと乗ってて「重い」なんて言われても困るしね……。

 いつか大人になって、センパイが車の免許とか取ったらそういう事も気にせずどこまでも行けるようになるのかな?

 あ、でもそうすると、もうこの二人乗りの感触は味わえなくなっちゃうんだろうか?

 それは困る。

 出来たらセンパイにはバイクに乗ってもらいたい。

 そうすれば、センパイへの負担も減るし一石二鳥なのでは?

 もしそういう時期が来たら、ちゃんとおねだりするのを忘れないようにしておこう。

 

 そんな事を考えながら、私はセンパイの自転車に揺られ様々な風景を眺めていく。

 

 子どもの声がする賑やかな公園、人の居ない海岸沿い、線路へと続くゆるやかな坂道、夜景の見える丘、

 場面はどんどんと切り替わり、太陽も昇ったり沈んだりと目まぐるしく動いていく。

 もはや時間の感覚もメチャクチャだ。だけどそれが不思議な事だとは思わなかった。

 だってとても幸せだったから、永遠にこの時が続けばいいと本気で思っていた。

 

 でも、終わりの時は突然やって来た。

 

「前の自転車止まりなさーい」

 

 突如、背後からそんな声がかけられたのだ。

 その言葉を聞いて、センパイがキッとブレーキ音を響かせ自転車を止める。

 慌てて私が振り返ると、パトカーから一人の女性が降りて来るのが見えた。

 でも、何故か降りてきたのはお巡りさん──ではなく総武の制服を来た女性、顔は……よく見えない。

 その女性は長く綺麗な黒髪を揺らしながら、コツコツと靴を鳴らし、私達の方へと近づいてくる。

 

 やがて女性はその歩みを止め、私達の十メートル程前に立ち止まると、今度はセンパイが自転車を降り、その女性の方へと歩み寄っていく。

 

「わわっ! ってセンパイ?」

 

 センパイが降りた事で、自転車はバランスを崩しその場で倒れ込む。

 慌てて自転車から飛び降りた私が声をかけても、センパイは何も言わず、フラフラとその女性に近づいていき、やがて女性の前で立ち止まると、あろうことかその女性の方がセンパイに抱きついたのが見えた。

 その顔をセンパイの胸元に埋め、自分の匂いをつけようとしているようにスリスリと鼻をこすりつけていく。同時に先程まで私が感じていたセンパイの匂いがどんどんと消えて、周囲に妙な匂いが充満していった。

 私はその光景に焦り、声をあげようとするが、何故か声が出ない。

 

「……あなたが好きよ、比企谷くん」

 

 そんな私をあざ笑うかのように、その女の人は突然そんな事を言って、センパイを連れ去ろうとするので、私は慌てて二人の間に割って入った。

 

「ちょっと! あなた何なんですか!」

 

 ようやく絞り出したその言葉とともに、女の人の肩を思い切り掴んで、センパイから引き剥がす。

 だが、女の人は顔を伏せたまま、私の胸ぐらを掴み力強く押してきた。

 決して強い力ではない。

 でも、私は胸の圧迫感で動けなくなってしまった。

 何? この人……怖い……! 一体どこの誰……!?

 私が動けないまま固まっていると、やがてその女がゆっくりと顔を上げてくる。

 その黒くて長い髪に隠れていた女の顔は……

 

「ンナー!」

 

 真っ白い猫の顔をしていた。

 

***

 

 

「ンナー!」

 

 目を開けると、物凄い至近距離で猫が私の事を見下ろしていた。

 「生きてるか?」と問いかけるように、ぽふぽふと私の鼻にその前足の柔らかい肉球を押しあててくる。

 さっきから感じるこの変な匂いは君の肉球の匂いか……。

 う……重い………。ちょっとどいてくれるかな?

 

「いろはさーん? そろそろ起きてくださーい? ご飯の時間ですよー! いーろーはーさーん?」

「ぅん……。お米……?」

 

 猫が私の胸の上に完全に乗っているせいで、下手に体を動かせなかったので、なんとか首だけを曲げたのだが。お米ちゃんの存在に気付いた猫はピョイっと私の体から飛び降り、お米ちゃんの足元へと行くと、その足に自らの体をこすりつけにいった。

 ……私の気遣いを返して欲しい。

 

「お米じゃないです、小町です」

「もーいいじゃんそれは……ってうぇっ、なんか……口の中に毛が……」

 

 ようやく身軽になった体を起こして、何やら口の中に張り付く小さな毛を取り出しながら、なんとか状況を整理する。

 ああ、そうか。私、センパイの家に来て……そのまま寝ちゃったんだ。

 なんて失態。

 

「あー、カー君の毛ですかね、でもばっちくないですよ? カー君きれい好きなので」

「かーくん?」

「ボク、カマクラ! よろしくにゃ!」

「あ……そう………」

 

 そういえば、センパイの家には猫が居たんだっけ。

 名前は聞いてなかったけど、カマクラっていうのか。

 そんなふうに未だボーッとする頭で考えていると、真っ白な猫がお米ちゃんに持ち上げられ、うにょーんとお餅のようにその胴体を伸ばしていた。

 あ、オスだ。

 

「って? あれ? お米? なんでいるの?」

「なんでって……お忘れかもしれないですけど、小町はお兄ちゃんの妹なので、ここは小町の家でもあるんですよ?」

「あ、いや、そりゃそうなんだけど」

 

 さっき、私が来た時にはお米ちゃんは帰ってきていなかったはずだ……。

 ってことは、結構時間経ってる?

 やばい、どれぐらい寝てたんだろう?

 

「小町としてはなんでいろはさんがお兄ちゃんの部屋で寝てるのかのほうが疑問なんですが……?」

「あ、あははは……そ、そんな事より今何時?」

 

 「ンナー」と嫌そうな声をあげるカマクラくん? ちゃん? を床に降ろしてお米ちゃんがジト目で私を睨んで来るので、慌てて話題を逸らす。

 別にやましいことはしていないんだけどね……。

 とはいえ、アレから三十分ぐらいは寝てしまったのだろうか?

 慌てて立ち上がろうとしたのだが、そこでふとお腹から足元の辺りが温かくなっていることに気がついた。

 改めて視線を落とせば、私の体に毛布がかけられているのが見える。

 あれ? 毛布なんて私使ってたっけ……?

 センパイの枕の誘惑に負けたとはいえ、さすがに布団に潜り込むようなマネはしていないはずなんだけど……。 

 センパイがかけてくれたのだろうか?

 

「もう七時過ぎですよ」

「七時!?」

 

 しかし、毛布の謎を解明するよりも先に衝撃的な事を言われ、私の意識は一瞬でそちらに持っていかれてしまった。

 確か、総武を出たのが四時前だったから……センパイの家に来てすぐ寝ちゃったとして……三時間も寝てたってこと!? 失態もいいところだ。

 なんて勿体無い事を……ああ最悪だ。

 

「とりあえず、おはようございます、ご気分はいかがですか? 何やら楽しそうな夢でも見ていたみたいですけど」

「楽しそう? うーん……全然覚えてないや……。でも最初の方は楽しかった気がする……」

 

 言われて思い出そうとするが、どうにも思い出せない。

 確かに幸せな夢だった気がするんだけど……。

 なんだか怖い夢でもあったような気もする。まぁ……思い出せないなら大した夢でもなかったのだろう。

 

「最初の方は……ねぇ……制服大分よれてますよ?」

「な、なにかした?」

 

 慌てて自分の服を確認すると、セーラー服のネクタイはよれて、胸元が少し開いていた。

 お腹から下は……毛布がかかっているから見えないけど……、きっと皺くちゃになっていることだろう。下なんてスカートだったから下手したら捲れて……。

 

「それを小町に聞きますか? ここ兄の部屋ですよ? 疑うならまず兄じゃないかと」

「う……」

 

 言われて、反省する。

 確かにあまりにも無防備すぎた。

 センパイ……私に何かしただろうか?

 

「小町、一応未成年なんで、あんまり家の中で過激な事されると困ってしまうのですよ」

「私だって未成年だっつーの」

「その割には大分無防備でしたけどね……駄目ですよ? お兄ちゃんとはいえ男子の部屋で寝るなんて危険が危ないです」

 

 危険が危ない?

 むしろセンパイ相手だからこそ安心しすぎたと言うのもあるんだけど……まぁでも一女子としてはちょっと無防備すぎた。そこは反省。

 とはいえ、本当に何もされていなかったらと思うとそれはそれで、なんだか複雑な気持ちだ。

 むしろ、『私何かされました』アピールをしてみるのも手か……?

 

「兄に何かされないよう、ちゃんと小町が見張っておきましたから。あ、今の小町的にポイント高い」

 

 ちっ、余計なことを。

 プラスどころかマイナスまである。

 

「とはいえ、兄にそんな甲斐性ないのも小町がいっちばんよく分かってるんですけどね。いろはさんを起こしに行けって言ったのだって兄ですし」

 

 まぁ、それはそうだろう。

 私としても起きているときの方が嬉しいしね。

 それに何より、センパイがそんな事するとは思えない。

 お見舞いに来てくれたときだって、それ以外だってずっと部屋で二人きりでも変なことしてこなかったもんね。

 そういうところは紳士なんだよなぁ。

 

「……とりあえずご飯なんで、下まで来てもらえますか?」

 

 そんな事を思い出しながら、ぼーっとお米ちゃんの話を聞いていると、突然お米ちゃんがそんな事を言ってきたので、一瞬頭の中をクエスチョンマークが支配した。

 

「あ、え? ご飯って……?」

「食べていきますよね?」

 

 食べていきますよね……という事は……食べていくかどうか、という事だろうか?

 うん?

 どうやらまだ寝ぼけているみたいだ、頭が上手く働かない。

 

「えっと……ご両親は帰ってきて……ますか?」

「いえ、うちの両親は基本帰り遅いんで、平日は大体小町とお兄ちゃんの二人だけですから、気使わなくて大丈夫ですよ。というわけで一名様ごあんなーい」

「わわ、ちょっと!」

 

 突然私の手を引いて、ベッドから無理矢理立たせてくるので、私はよろけそうになるのに耐えながら勢いよく立ち上がる。

 ああ、やっぱりスカート皺になっちゃってる。

 

「あー制服、大分皺になっちゃってますね? アイロンかけてきます? なんなら小町の服貸しましょうか?」

「いや流石にそこまでは甘えられないかな」

 

 どうやらお米ちゃんも気付いたようだが、私は軽く断りを入れ、手でパンパンと整える。

 あ、でも髪は大丈夫だろうか? 寝癖ついてたらどうしよう?

 でも、そんな事を考え始めると「そうですか」とお米ちゃんが割とどうでも良さそうな表情で足早に階段へと向かったので、私は慌てて手櫛で髪を撫でながら後に続いて部屋を出た。

 

「おう、一色起きたか」

 

 リビングへと降りていくと、そこにはキッチンに立つセンパイの姿があった。

 腰に手を当て、少し怠そうに菜箸を持つ手が妙に様になってる……カメラに収めておきたい。

 でも、流石にそんな事をお願いするタイミングではないことは自分でも理解していたので自重自重。

 

「センパイ、ごめんなさい。私いつの間にか寝ちゃってたみたいで」

「まぁ、疲れてたんだろ。時間も時間だし、とりあえず夕飯食ってけ」

「いいんですか?」

「いつもは食わしてもらってるしな、腹減ってないなら無理に食わなくてもいいけど」

「結構……すいてます」

 

 正直言うと、もう今にもお腹が悲鳴を上げそうなほどに空腹だった。

 なんだかさっきから良い匂いもしているし……。

 何より、センパイの手料理というものに興味もあって、その魅惑的なお誘いから逃れることが出来そうにない。

 

「それじゃ……あの……お言葉に甘えていただいていきます」

「んじゃ適当に座って待ってろ。もうすぐ出来る。小町ーもういいか?」

「はいはーい」

 

 そう言って私の隣りにいたお米ちゃんが、いそいそとエプロンを付けてキッチンへと入っていく。どうやら共同作業らしい。

 私も手伝おうかな? と少し思ったけど

 流石に慣れないキッチンで三人だと邪魔になりそうだったのでお言葉に甘えて先に座らせてもらうことにした。

 

「じゃじゃーん、今日は小町特製オムライスでーす!」

 

 それから待つこと数分、テーブルの上には三つのオムライスが用意された。

 これが……センパイの……? ん?

 小町特製? 

 

「え……? センパイのじゃないの? だってさっき……」

「お兄ちゃんは小町がいろはさんを起こしに行ってる間、火の番をしてもらっていただけです」

「なーんだ……」

 

 ちょっとガッカリ。初めてのセンパイの手料理だと思ったのに。

 

「今、なんか言いました?」

「何も言ってないよー? ワー、スゴーイ、オイシソーウ。イタダキマース!」

 

 そうして私はジト目で睨んでくるお米を無視して、初めてセンパイのお家で夕食をご馳走になったのだった。

 

*

 

「帰り、駅まで送ってく」

「え?」

 

 夕食を食べ終え、私とお米ちゃんが並んで後片付けをしていると、突然センパイがそんな事をいい出した。

 

「あや、お兄ちゃんが自分から言い出すなんて珍しい」

「いいんですか?」

「まぁ、こんな時間だし、流石に放っておくわけにもいかんだろ、もみじさんも心配してるだろうしな」

「いえ、センパイの家にいるっていってるから、むしろ羨ましがってるかと」

 

 実際さっきから、ママからの通知が凄い事になっている。

 とりあえず「夕食をごちそうになる」とだけ伝えた以降のは全部無視してるけど……。

 

「羨ましがる……? まあ、とにかく送ってくから準備しろ」

「あ、はい! お米ちゃんごめん、あとよろしく!」

 

 そうしてスタスタと一人でリビングを出ようとするセンパイを追いかけるため、私はお米ちゃんに一言告げ、慌ててキッチンを後にすると、コートとカバンを手にして玄関へと向かった。

 

「んじゃちょっと行ってくるから。小町は留守番頼むな」

「はーい、気をつけてね! いろはさんまたです!」

「うん、またね」

 

 お米ちゃんとは声だけで別れを済ませ、そのままセンパイのあとに続き、センパイの家を出る。

 うう……寒い。それに暗い。

 センパイの家の近くではあるけれど、慣れてない道なので少し怖さも感じる。

 だが、センパイはそんな私の心境など知るはずもなく、自転車を押しながらスタスタと前を歩き始めた。どうやら今回も乗せてくれる気はないようだ、残念。

 

「あ、あの」

「ん?」

「さっきは本当すみませんでした」

「さっき?」

 

 私が慌ててセンパイの隣へと並び、そう謝罪すると、センパイは眉間に皺を寄せ「何が?」と軽く首を捻る。

 どうやら、全部はっきり言わないと伝わらないらしい、うう、改めてとなると恥ずかしいなぁ……。

 

「ほら、センパイのベッドで……」

 

 私は察しの悪いセンパイの為に、仕方なく再度自分の醜態を口にする。

 センパイの部屋を見たいと言いながら。即寝落ちしてしまうなんて、本当ありえない事をしてしまった。我ながら大失態だ。

 穴があったら入りたい。というか、時間を戻して欲しい。

 あー……本当だったらもっと二人きりで色々お話出来たのに……。

 今考えるだけでも悔やまれる。

 でも……本当に気持ちよかった。

 あんなに綺麗に落ちたのなんて何年ぶりだろうと思うぐらい、ストンと落ちた気がする。

 出来ることならまた……って駄目駄目! 何考えてるの!

 

「ああ、別に気にすんな、まぁ疲れてたんだろ、帰ったらちゃんと休んどけよ。どうせもう結果出るまでやることもないだろうしな」

「まぁ、今日はもう寝られる気がしないですけど……はい」

 

 さして気にしていないという風にそう言ってまたスタスタとあるき出すセンパイを横目に、そんな事を考える。

 いや、冗談抜きで寝すぎてしまったから今夜ちゃんと眠れるかは少し不安なところだ。

 またニキビとか出来ても嫌だし、ちゃんと生活習慣直さないとね。

 

「それで……あの、今日って何してたんですか?」

 

 そんな事を頭の片隅で考えながら、私は未だセンパイに聞けていなかったことを質問してみることにした。

 

「今日って?」

「ほら、センパイ私が試験終わるの待っててくれたじゃないですか? 色々あったとか言ってましたけど」

 

 そう、それは今朝センパイが迎えに来てくれた後のこと。

 校門の前で一日中待ってたわけじゃないと言っていたけれど、結局何をしていたのか気になったままだったのだ。

 別に嘘でも「待ってた」って言ってくれば良かったと思うんですけどね?

 

「ああ……あれか……タダの雑用」

 

 だが、センパイの心底嫌そうな顔から出てきたのはそんな言葉だった。

 

「雑用?」

「そ、お前を試験に送り届けた後、例のお巡りさんに怒られてな。そんでその後『入試当日に学校の前で警察に叱られるとは何事だ!』って事で更に怒られて雑用やらされたんだよ」

 

 まさか、あの後そんな事になっていたなんて……。

 っていうか、お巡りさんに怒られたって事はそれも全部私のせいだよね?

 

「す、すみません、私のせいで」

「まぁ、朝飯食ってなかったんで一回帰って午後からにして貰ったから、そのままサボっても良かったんだけどな。……お前の事もあったし一応……」

「私の……?」

 

 突然センパイがチラリと私に視線を送ってくるが、一体ソレがどういう意味か分からず、思わず自分で自分を指差してしまう。

 

「いや、その……ちゃんと試験受けられたのかちょっと気になってたから、一応様子見も兼ねて……って……いや、すまん改めて言うとキモイな……忘れてくれ」

 

 そう言うと、センパイは今度は視線を逸らし、スタスタと歩く速度を上げていく。

 へ? つまりそれって……待ってないとかいいながら結局……私のため?

 

「ちょっ、ちょっと待って下さいよ! センパイ!」

 

 逃げるようにして前を歩くセンパイを追いかけようと、私も速度を上げるがようやく横に並べたと思った瞬間センパイは更に速度を上げた。

 照れ隠しのつもりなんだろうけど、これでは駅まで追いかけっこになってしまう。

 ああ、もう面倒くさい……!

 

「そういう事する人には……こうです!」

 

 私は今度こそと駆け足でセンパイに並ぶと、その左腕に思いっきり抱きついた。

 巻き付いた、と言ってもいい。

 お互いコート越しだが、接触している部分からセンパイの温もりが伝わってくる。

 

「ちょ、危ないだろ! こっちは自転車あるんだぞ!」

「知りませーん、これはセンパイへの罰です」

 

 突然のことに驚いたセンパイが押していた自転車を大きく揺らし、なんとか転ばないように踏ん張って、そんな文句を言って来る。

 だけど、これは罰なのでそんな言葉では私は離れない。

 ふふーんと、軽く鼻を鳴らしセンパイを見上げると、センパイは少しだけ頬を赤らめて、私から顔をそらした。

 

「罰って……なんの罰にもなってないんだよなぁ……むしろちょっと気持ち良……いや、なんでもない」

「まぁ、いいじゃないですか何でも、罰じゃなかったら今朝のお礼ってことで」

「罰でも礼でも、女の子が気軽にこういう事するんじゃありません……勘違いしちゃったらどうすんの……」

 

 最後の方は聞こえるか聞こえないかという声でそう悪態をつくセンパイに、私も小声で小さく「……勘違いじゃないんだけどなぁ」と呟き、その二の腕に自らの頬を寄せる。

 はぁ……温かい……。

 

「なにか言った?」

「別にー、何も言ってませーん」

「……あっそ……」

 

 やがて諦めたように、センパイが私の歩幅に合せてゆっくりと歩き始めたので、私もそれに合わせ足を動かす。

 人通りの少ない道を二人で歩いていく。もう二人の間に会話はない。

 でも、不思議とそこに気まずさはなかった。

 

*

 

 それから、私達はしばらく無言で駅までの暗い夜道を歩いた。

 暦上は春だが、まだまだ寒い二月の夜。

 道中で、寒そうに自動販売機で買った温かい缶コーヒーで暖を取りながら早足で帰路につくサラリーマンとすれ違ったが、センパイとくっついて歩いているせいか、私はそれほど寒さを感じなかった。

 

 しかし、そんな幸せな時間も終りを迎えようとしている。

 目の前に、駅の大きな明かりが見えてきたのだ。

 ああ、もうこの時間が終わってしまう。そう思うと途端に胸の中に寂しさが込み上げてきた。

 

「ついたぞ……」

 

 朝、センパイと合流した時と同じ場所で、センパイがその歩みを止める。どうやら、ココまでのようだ。

 

「そうですねー、ついちゃいましたね……」

「……んじゃ、離れてくれる?」

 

 って、なんでそんな嫌そうな言い方なんですか……。

 そんなに嫌なら本当に罰ってことにして延長してやろうかと思ったけど、でもこの寒空の下でセンパイに風邪引かせるわけにもいかないし。はぁ……仕方がない。

 私は観念してセンパイから離れることにした。

 絡めていた腕が離れると、途端に私達の間に冷たい空気が流れ、寒さが体を襲ってくる。

 

「えっと……それじゃ、気をつけて帰れよ」

「はい、今日はありがとうございました」

「まぁ、あれだ、前も言ったけど合否だけ分かったら連絡くれ、一応気になるんでな」

「もちろんです、必ず合格報告します!」

 

 淡々と別れを済ませようとするセンパイに、私はむんっと握りこぶしを作ってアピールする。

 ああ、なんだか今更になってまた不安になってきた。

 合格……出来るだろうか?

 してますように。

 

「んじゃ」

 

 そんな私の不安など気付かず、センパイは最後にそう言うと、一瞬の迷いもなく自転車の向きを変え、背中を私に向けた。

 そのまま出発こそしなかったものの、センパイは一度私を振り返りシュタッと手を上げてくる。

 全く、もう少し別れを惜しんでくれても良いじゃないですかぁ……。

 だが、それを口に出す事は出来ず、私も仕方なく右手を小さく振った。

 

「それじゃ、センパイ。また、です」

 

 私はその背中に最後にポツリと声をかけ、ゆっくりとホームへと歩くと、出発を待つ電車に乗り込み、家に帰る。

 家に着いた私は、テンションの上がったママの質問攻めを受け流しながらお風呂に入ると、やがて眠気が襲ってきたので、そのままベッドに入った。

 今日はもう眠れないかと思っていたけれど、案外ぐっすり眠れそうだ。

 ドタバタの朝寝坊から始まった長かった試験当日がようやく終りを迎えた。




というわけで試験当日いろは視点後編でした。

ここまでの話が前話で終わる予定だったのでまた一話伸びました。これでもちょっとカット気味。くっ……。

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第60話 二人でおでかけ

いつも感想、評価、メッセージ、お気に入り、誤字報告、ここすきありがとうございます。(←ここに誤字があるという報告をうけ修正しました 5/29 18:31)

いよいよ60話です!

※お知らせ
前回の活動報告にも書きましたが色々考えた結果
感想欄のGOOD/BAD欄を廃止することにしました
よろしくお願い致します


「よし! 今度こそ!」

 

 一色の入試が終わってから数日が経ち、やってきた土曜日の昼。

 俺は一人、スマホ片手にベッドの上で気合を入れていた。

 

「……っはぁ!」

 

 スマホを持った左手を天井に伸ばし、右腕で中央のボタンをタップする。という動作を何度も何度も頭に浮かべつつ、腕を伸ばす……が結局今回もまた押せなかった。

 伸ばしていた両手を降ろし、大の字に寝転びながら、天井を眺める。

 ココ最近の俺はずっとこんな感じだ。

 

 原因は俺の左手に握られたスマホに表示されている画面にある。

 現在そこには『このデータを削除する』というファイル削除確認画面が表示されている。

 このまま実行すれば、文字通りスマホ内のとあるファイルは削除されデータはメモリの彼方へと消えていくだろう。だが、キャンセルを押すと……。

 

「これ完全に盗撮だもんなぁ……」

 

 そこには、俺のベッドで眠る『SSR セーラー服一色いろは』が画面一杯に表示されていた。

 そう、あの日一色が俺の部屋を見たいと言って、何故か俺のベッドで居眠りをかました時の写真だ。別にいやらしい写真とかではない、どちらかといえば微笑ましい写真であることは付け加えておこう。

 

 とりあえず信じてほしいのは、この写真を撮ったのは本当疚しい気持ちからではなくて、魔が差したとしか言いようがなかったという事だ。

 あの日、眠る一色の隣でボーッとしているわけにもいかなかった俺が退出しようとしたところで、なんとなく一枚撮ってしまった。

 まあ強いて疚しい気持ちになった部分があるとしたら、その時のシャッター音に反応した一色が一瞬身動ぎし、寝返りを打ったことか。

 というのも、その寝返りで一色のスカートが際どい所まで捲れ上がってしまったのだ。

 いや、神に誓って言っておこう。決して見てはいない、見てはいないが……不可抗力とは言え、確実に社会的に抹殺されそうだったので、後で怒られることを承知で小町の部屋の毛布を拝借し、一色にかけることでその日は事なきを得た。

 

 これが、この写真を手に入れた時の経緯だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 だから、さっさとこの写真も削除してしまえば全てなかったことに出来る……なので本当に許してほしい。

 俺は無実である。

 

 ってアホくさ、一体俺は誰に言い訳してるんだろうな。

 とりあえず一旦落ち着こう。

 大丈夫、今の所俺以外にこの写真の存在を知っている人間はいないはずだ、

 

 何度も言うが、別に変なポーズを撮っているとか、いやらしい写真という訳ではない。単に俺のベッドで一色が寝ている、ただそれだけの写真。

 とはいえ、無断で撮影したという点での後ろめたさは残っている。だからこそ早く消さなければ、という思いがあるのだが……ほんの少しの勿体無い精神が俺の中にでてきてしまい、どうにも削除に踏み切れずにいた。

 

 いや、分かっている。こんな写真がスマホに入っている事が一色は勿論のこと、小町にでも知られたら何を言われるか分かったものじゃない。やはりさっさと消してしまうのが一番安全だ。それは分かってはいるのだが……と、再び思考のループへと囚われていく。

 

 正直な事を言うと、あの日一色を駅まで送ったのだって、俺の中にある罪悪感と“バレる前に早く帰ってもらいたい ”という思いがあったからだったりもする。

 

 まあ、俺のスマホ内の写真データなんて態々見るヤツはいないだろうとも思うのだが、小町が俺のスマホで遊ぶ、なんて事もよくある。

 そもそも、これまでの俺はスマホを他人に貸すことに躊躇が無かった。

 だからロックすらかけていないので見ようと思えば簡単に見れてしまうわけだ……自分のセキュリティの甘さに少しだけゾッとする。

 これはとうとう俺もスマホロックデビューだろうか?

 とはいえ、ロックをかけた、という事実がすでに疚しい事をしていると捉えられかねない。

 これまではカマクラを始めとした動物系の写真しか入ってなかった俺のデータの中に突然爆弾が放り込まれた気分だ。入れたの俺だけど。

 

 いっそ、パソコンの俺秘蔵フォルダ(パスワード付き)に移してしまうか?

 いや、それだと余計に俺が疚しい目的でこの写真を撮ったみたいじゃない?

 安全度は増すと思うが、威力は格段に上がってしまう気がする。まさにハイリスクハイリターン。

 

「もう、俺の家に来ることもないだろうしなぁ……」

「お兄ちゃん? 誰と喋ってるの?」

 

 そうして、俺が写真の隠し場所について考えていると、不意にガチャリと部屋の扉が開く音がした。小町だ。

 俺は慌ててスマホを後ろ手に隠し、ベッドから起き上がる。

 

「ばばばば馬鹿小町! 入る時はノックぐらいしなさい!」

「は? 何急に? あ、もしかしてヤラシーサイトでも見てた?」

「み、見てねーよ」

 

 ジト目で俺を睨んでくる小町から視線を逸し、俺はスマホを尻ポケットへとしまう。

 全く、だからヤラシイ写真じゃないって言っているだろう。タダの寝顔だ、寝顔。そこにエロさは微塵もない……はずである。

 

「ま、なんでもいいけど、お兄ちゃんにお客さんだよ。急いで仕度して」

「客?」

 

 チャイムの音には気が付かなかったが、誰かが来ているらしい。

 一体誰だろう……と思いつつも、最近の俺には割と心当たりがあったりする。

 一色いろはだ。

 これまでは俺を訪ねてくるヤツなんて一人もいなかったのにな、これもある意味成長というやつなのだろうか?

 

「ほら、早く、待たせちゃ悪いでしょ」

「ちょ、分かったから待てって……!」

 

 しかし、この間の今日でまた何の用だろう?

 試験は終わったし特に用事もないと思うのだが……。やはり、あの日一色を家に招いたのは失敗だったかもしれない、色々な意味で。

 どうか写真のことがバレませんように……。

 とりあえず、今日のところは一色の前でスマホは出さない方が良さそうだ。そんな事を考えながら、尻ポケットにしまったスマホをそっと手で押さえ、俺は小町に急かされるまま階下へと向かった。

 

「よぅ、八幡起きてたか」

「おっさん?」

 

 しかし、階段を降り、徐々に玄関に立っている人の顔が見え始めると、そこにいるのが一色ではなく、おっさんであることに気がついた。

 あれ? まさかのおっさんの方だったか。

 まあ、どちらにしても一色一族なので、概ね俺の予想は外れてはいなかった。

 だが、一色ではなくおっさんだとするなら、一体今日はどんな用事で来たのだろう? と、俺の中に少しだけ緊張が走る。

 

「いえいえ、お待たせしてすみません。ご注文の兄をお持ちしました」

「悪いね小町ちゃん、お礼にこれ、楓から頼まれてたもんだ」

「わぁ、ありがとうございます! 楓さんにもよくお礼を言っておいて下さい」

 

 だが、俺の緊張とは裏腹に、妙に軽い口調で小町とおっさんが取引を始めた。

 なんだろう? 人身売買だろうか? え? お兄ちゃん売られちゃうの? クラブビームはご勘弁願いたいのだが……。 

 

「んじゃ行くか、八幡。それじゃ小町ちゃん、ちょっと借りてくな」

「はいはーい、あ、これ兄の荷物です。延滞料金は取ってないのでごゆっくりー! お気をつけて!」

「え? ちょ……?!」

 

 しかし、そんな俺の警戒など知る由もなく、いつの間に持ってきていたのか小町はおっさんに俺のカバンを渡し、それを受け取ったおっさんは反対の手で俺の手を掴むとそのまま俺を外へと連れ出した、待って! まだ靴履けてない! 履けてないから! 靴! 靴!!

 

「何してんだ八幡、置いてくぞ……?」

 

 慌てて靴を履く俺を見ながら、呆れた口調でおっさんが俺にそう呟く。

 いや、全然置いていってくれて構わないんですけども……?

 そもそもなんで俺おっさんと出かけることになってるの?

 とはいえ、既に家の玄関の扉は閉められている。どうやら部屋に戻るという選択肢はないようだ。

 はぁ……またこのパターンか……。

 俺はすべてを悟り、諦めの表情のまま久しぶりにおっさんの車の助手席へと乗り込んだ。

 

*

 

「最近の若いやつらはこういう所で遊ぶんだろう?」

「……いや、知らんけど」

 

 やがて連れてこられたのは千葉駅付近にあるアミューズメントスポット。

 近くの駐車場で車を止め、店内へと入っていくと賑やかな音楽がそこかしこで鳴り響き、うぇーい系の若者がボーリングだビリヤードだとそこら中で奇声をあげている。

 ここで俺は一体何をさせられるのだろう?

 

「お、なんだこれ? おい! 八幡!」

 

 そんな事を考えていると、おっさんが入り口付近にある所謂クレーンゲームに食いついた。

 中には有名な異世界転生もの男主人公のフィギュアが置かれている。

 確か、四月からアニメやるんだっけか。

 

「フィギュアだな……ってなんで普通にやってるの? そんな簡単に取れる物じゃないぞ?」

「ん? これをこれで持ち上げるんだろう? 簡単じゃないか」

 

 おっさんは俺の忠告など聞かずに、さっさと百円玉を入れるとクレーンを動かし始めた。だが、フィギュアの箱はほんの一センチほど持ち上がったただけに留まり、さして場所を移動することもなく、クレーンだけが初期位置へと戻っていく。

 

「なんだこれ持ち上がらんぞ?」

「こういうのは持ち上げるんじゃなくてちょっとずつズラしていくんだよ」

 

 いわゆる橋渡し設定というやつだ。

 二本のバーの上にある四角いフィギュアの箱を少しずつ動かして落下させるタイプ。

 持ち上げることを前提に考えている初心者には難しい。ソースは俺。

 だが、おっさんに諦める気はないようだ、俺は仕方なくおっさんにこのクレーンゲームのセオリーを説明することにした。

 

「……だから、あの角の辺りにアームの左側を当ててちょっとずつズラして……」

「なんだそれ、まどろっこしいなぁ……持ち上げちまえばいいだろ」

「そういうのが今の主流なんだよ……あー! だから違うそっちじゃない! こっちからこう!」

「何度も言わんでもわかっとる! 任せとけ!」

 

 全く任せておける状態ではないのだが、おっさんは俺の忠告を無視し、どんどんとクレーンゲームに小銭を投入していく。

 なんとなく、詐欺被害に遭っているご老人を間近で見ている気分でいたたまれない。

 もはやムキになって俺の静止を聞かなくなったおっさんやがて千円を崩し、二千円を崩し……とうとう五千円に差し掛かった所で見かねた店員さんがアシストをしてくれ。ようやくおっさんはお目当てのフィギュアをゲットすることができた。ありがとう店員さん。マジ感謝。

 

「どうだ……! 見てみろ! まだまだ若いものには負けんぞ!」

「あー、そうね、凄いね……」

 

 そもそも、そのフィギュアは恐らく五千円もかけて取るものじゃない。

 そのアニメはヒロインの人気が強いので、男主人公のフィギュア相場はせいぜい千円前後という所だろう。

 だが、それをここでそれを口にするのは流石に野暮というものか。

 まるでプレゼントを買ってもらった子供のようにホクホク顔でそのフィギュアを眺めるおっさんの前で俺は苦笑いを返すことしかできなかったが、本人が満足しているならそれで良いのだ……。

 

「お、こっちに卓球があるぞ、久しぶりにやってみるか」

 

 一通りフィギュアを眺めることに満足したのか、そう言っておっさんが卓球という看板のあるコーナーへとスタスタ歩いていく。

 どうやら、次のターゲットが決まったようだ。

 

「卓球って……おっさん出来んの?」

「こう見えても若い時は卓球のツグツグと呼ばれた男だぞ」

 

 何それ、弱そう。

 

*

 

「ほらほらどうした! 若い者がだらし無いぞ」

「いや、曲がり方おかしいだろ、どうなってんだよ!」

 

 おっさんは言葉通り確かに卓球が上手かった。どうやら『卓球のツグツグ』という二つ名は伊達ではなかったらしい、もっと他に格好良い二つ名付けてやれよと思ってしまうほどだ。

 いや、本当に。

 おっさんの打つ玉に太刀打ち出来ず、即落ち二コマみたいになってしまった俺は、あっちへこっちへと振り回され、もうすでに汗だくである。

 卓球のツグツグ強い。

 

「ふふん、だから言っただろう? 儂は強いと」

 

 そう言って得意げに玉を空中に投げ、ニヤニヤと笑いながらサーブを決めてくるおっさんはスポ根漫画に出てくる天才ライバルキャラ現る、といった感じだ。

 いや、いっそ主人公なのかもしれない。来週には公式大会編に突入して来月辺りには打ち切られることだろう。卓球漫画はあまり伸びないのだ……。悲しいね。

 

「どうだ? どうせなら男同士きちんと勝負せんか? もしお前が勝ったらこの後好きなものをご馳走してやろう」

「言ったな……」

 

 言われて、俺はラケットを握り直す。おっさんは確かに強い、だが、全く手が出ないというわけじゃない。だんだん目も慣れてきたし、年齢的な事を考えても俺のほうが体力はあるはずだ、既にこれだけ動いておっさんも疲れているはず……。まあ、俺が負けたら俺が奢るとは言ってないし、なんとかなるだろう。

 

 そんな打算を含め、俺はおっさんとの勝負を快諾した。

 

 おっさんがポイントを取って、またポイントを取って、俺がなんとか返して。

 そんな割とガチ目な応戦を繰り返し現在ポイントは19-11。ここまで負けている状態でもはや逆転の目もないのだがおっさんが止まる様子がない。というか、普通に10ポイント先取かと思ったのに、まだ続いてるんだけどいつまで続くのコレ?。

 もしかして、おっさんが満足するまで続くの? もう俺の負けでいいから終わりにしてほしい。

 

「つぁ!!」

 

 カコーンという小気味良い音とともに俺の右側を卓球の玉がすり抜けていく。

 あんなの取れるわけないんだよなぁ……。

 これで20-11だ。

 俺の惨敗。どうやら、おっさんも満足したようでラケットを置くと近くのパイプ椅子に腰掛けた。

 ようやく終わったようだ……。

 

「はぁ……はぁ……。さて、これでお前がいち、にぃ、さん、しぃ……11ポイントで? 儂が?」

 

 肩で息をしながら「いちにぃ」と再び指折り数えていくおっさんを見ながら、俺も息を整えていく。

 全く、体育でもないのに、なんでこんな体力使わなきゃならんのだ……。

 もう二度とおっさんとは卓球なんてしないんだからね。

 

「じゅうろく、じゅうしち……そういや、八幡、お前の誕生日って八月何日だった?」

「何急に……? 八日だけど、八幡だから八月八日、忘れるほうが難しいだろ……」

「おお、そうかそうだったな。それで、儂が8、9、10ポイントか。ああ、儂の負けか。残念」

 

 え? 何その逆時そば。そんな事ある? 大胆にも程があるし、騙す気があるのかすら疑わしい。

 だが、おっさんは俺が何か言うより早く、汗だくの顔でニッと笑うと「んじゃ、何か食いに行くか、儂の負けなら仕方ない」と言ってスタスタと卓球台を後にしていく。

 ただ単に奢りたいだけなのだろうか? なんのための勝負だったんだろう? 俺の体力を返して欲しい。

 

*

 

「ふぅ……流石に少し疲れたな。あ、儂はコーヒーと……あとなんか軽くつまめる物……」

「俺はなんか腹に溜まるものが欲しい……」

 

 あれから俺たちはアミューズメント施設を出て、喫茶店に来ていた。

 席につくなり二人でメニューを見ながら注文を決めていく。

 

「ははっ若いな、なんでも頼め。おかわりもいいぞ」

 

 なんだか不穏なセリフを聞いた気がするが……。俺、今日生きて帰れるのかしら?

 そんな俺とおっさんのやり取りを見る店員さんは、仲の良い祖父と孫みたいに思っているのか、妙に生暖かい視線を送ってきて妙な気恥ずかしさも覚えてしまう。実際は親戚ですらない赤の他人なんだけどな。

 

「お前、運動出来ないわけじゃないんだな」

「……別に運動音痴キャラじゃないしな」

 

 おっさんがそんな事を言いながらカラカラと笑い、やがてやってきたコーヒーを啜ったので、俺もそれに倣い、コーヒーカップを傾ける。

 

「さて、まぁ今日は色々遊んだわけだが……そろそろしっかり話をしておかんとな」

「……話?」

「ああ、とりあえずコレを……」

 

 そういって、おっさんが懐から一枚の封筒を取り出して、俺に見せてくる。

 これは……あれだ。給料袋だ。

 そういえば、二月分はまだ貰ってなかったな。

 まあ一色家に行くことが無くなった以上何かしらの方法で受け渡しの機会が来るとは考えていたが、なんとなくもう少し先の話だと思っていた。

 

「あ、ありがとうございま……」

「まぁ待て待て、そう慌てるな」

 

 だが、俺が礼を言ってその封筒に手を伸ばし受け取ろうとすると、おっさんはそのまま封筒を少し高く上げ、俺の手を避けた。あれ?

 

「え? バイト代じゃないの?」

「それはそうなんだがな、これはまだお前には渡せん」

「へ? なんで?」

 

 俺が手を伸ばしたまま首を傾げると、おっさんはまるで犬に躾をしているかのように封筒を持っていない方の手の平をこちらに向け『待て』のポーズで俺を静止してくる。

 

「まぁそう慌てるな、一つずつ話をしよう」

 

 戸惑う俺に、おっさんは茶封筒をテーブルの自分の近い位置に置き、すぅっと息を吸い込んだ。どうやら、真面目な話らしい。嫌だなぁ……。

 

「いろはの入試も終わり、あとは合格発表を待つだけになった。お前の家庭教師は終わりだ。だから、これがお前に渡す最後の給料になるわけだが……合否が分かる前にお前にしっかり話しておかないといけないと思ってな」

「話しておかないといけないこと?」

「お前といろはの関係のことだよ」

 

 そう言われて、思わずドキリとする。

 それは俺自身も考えていたこと、家庭教師という関係が終わった今、もう一つの関係についても四月までということだったのでそろそろ終りが来るだろうという予想はしていた、なんなら実質もう終わっているとさえ思っていたが、それがここで確定するらしい。まぁ、その事については覚悟もしていたし問題はないが……だが、次におっさんの口から出てきたのは少しだけ予想外な言葉だった。

 

「なぁ、八幡。お前、去年のクリスマス言っただろ? 自分はあいつの許嫁なんだって。その言葉に偽りはないな?」

「いや、偽りっていうか……」

「言ったよな?」

 

 そうおっさんに詰め寄られて、思わず俺も息を呑む。 

 出来れば「そんな事言っていない」としらばっくれてしまいたいが、おっさんはおっさんで「言ってないとは言わせないぞ」という目でギロリと睨んでいる。まぁ……ここは仕方ないか。

 

「……まぁ確かに言ったけど……」

「それは、例えいろはが合格しても落ちても変わらないか?」

 

 確かに言ったことは言った。俺は覚悟を決め、そう答えたが、次におっさんから出てきた言葉も俺の予想していないものだった。合格しても落ちても? このおっさんは一体何を考えてるんだろう?

 一体俺は何をさせられようとしている?

 やはりおっさんとして気になるのは葉山の存在なのだろうか?

 うぇ……何を言っても面倒くさい事になりそう。

 俺としては一色が落ちていたら、葉山にアプローチするために多少のアシストはするつもりではいるのだが……。逆にアシストの確約が欲しいならはっきり明言したほうがむしろ楽だったりするか?

 どうせ俺に出来るアシストなんてたかがしてれるしな……。

 

「まぁ……多少の責任は感じるからなんとかするつもりではある……」

「それじゃぁ、四月以降も許嫁を続ける、ということでいいんだな?」

「いや、それとこれとは話が違うというか……」

 

 そう、それは全く話が違う。

 俺がおっさんに「許嫁だ」と宣言したのはあくまで葉山という存在を知っていて、一色の頑張りを無駄にしてやりたくない、という思いからであって。許嫁を続けるなんていう意思はさらさらない。なんなら、ここで俺との許嫁関係が続く事になって一色からの余計な恨みを買いたくないまである。

 

「なにがどう違うんだ?」

「だから言っただろ? あいつは葉山を追いかけて総武受けたんだ、俺の入る隙なんてもうないだろ」

 

 俺がそう言うと、おっさんは「ふむ」と一息漏らし、コーヒーを啜り顎を撫でる。

 

「だが、儂はそんなどこの馬の骨ともわからん男に大事な孫娘をくれてやるつもりはない」

「は? いや……もうあいつの好きにさせてやれよ……」

 

 その返答には少し驚いた。

 何故なら一色の総武行きを許可した時点でおっさんは一色の意思を汲んだと思っていたのだ。だけど……違ったのか?

 早速面倒くさくなってきた、やはり俺は早々に退場したほうが良いのかもしれない。

 

「一つだけ、お前に言っておこう」

「何?」

 

 一言だけおっさんにそう答えてから俺はまたどうせろくでもない事なのだろうなと思いながら

 コーヒーカップを傾けた。うーん……全体的に甘さが足りないな、やはりマッカン最強。 

 

「いろはは、お前との許嫁を続けるつもりだと言っていたぞ」

「ぶっ……はぁ?! なんで!?」

 

 思わずコーヒーを少し吹き出してしまった俺は、慌てて備え付けのナプキンで口元を吹きながらその言葉の意味を考える。

 一色が許嫁を続ける? なんのために?

 当て馬として利用したいとか、そういう事だろうか?

 なら、俺が間を取り持つという意味では許嫁という状態のほうが都合が良いのか?

 でもそれだとアシストをするにしても予想以上に面倒くさい事になりそうだ。

 俺としては短期決戦のほうが望ましいのだが……。

 

「なぁ、八幡。また色々考えてるみたいだが、そのお前の考えの中にあいつの──いろはの気持ちはちゃんと入っているのか?」

「一色の気持ち?」

 

 言われて考えてみる。

 一体どういうことだ?

 一色の気持ち?

 俺はこれまでだって出来るだけアイツには配慮してきたつもりだ。

 だからこそ総武行きだって後押しした。

 ……何か考え忘れている要素でもあっただろうか? 

 

「その葉山とかいうヤツの事も、お前の勘違いかもしれんだろう」

 

 何を忘れているのだろうと、考えていると、おっさんがそんな事を言ってきた。

 葉山の事が勘違い……?

 いや、流石にこの期に及んで勘違いなんてことはないだろう、俺にだってそれぐらい察する能力はあるつもりだ。

 そもそもあのタイミングで葉山というファクターを除いたら一色が総武を目指す理由がなくなってしまう。むしろ勘違いしているのはおっさんの方なんじゃないのか……?

 

「そもそも、お前はどうしたいんだ?」

「どゆこと?」

「いろはの気持ちは置いておいて、お前はどうしたいんだ? と聞いとるんだ」

 

 一つの結論に辿り着こうとした瞬間、突然、そんな事を言われ、俺は一瞬、固まってしまう。

 一体、このおっさんは何を言っているんだろう?

 一色の気持ちが動かない以上、俺がどうしたいかなんてなんの判断材料にもならないだろうに。やはり、勘違いしているのはおっさんかもしれない。

 

「この一年、許嫁という関係を続けて、どうだった? 鬱陶しかったのか? うざったい枷でしかなかったのか?」

「いや……それは……」

 

 だが、そう言われて、俺は答えに戸惑ってしまった。

 確かに、鬱陶しいと思っていた時期はあったかもしれない、うざったいと思った事もあっただろう。でも、終わってみればそれほど悪くなかったような気もしている。出来るなら俺ももう少し……。ん? 俺は今何を考えようとした? 危ない危ない、落ち着け比企谷八幡、おっさんの話術に騙されるな。

 

「なぁ、八幡。お前。将来専業主夫になりたいと言っていたな?」

「……まぁ」

 

 そういえば、入院中におっさんとそんな話をした気がするな。

 懐かしい、あれももう一年前になるのか。

 

「専業主夫という事は、誰かと結婚をするという未来を思い描いているということだろ? その相手がいろはだという想像をしたことはあるのか? それともいろはでは不服か?」

 

 言われて想像してみる、アイツが稼いで、俺が専業主夫……どうにもイメージが湧かない。

 どちらかというとアイツも専業主婦という感じがする。

 なのでそういう意味では不服ではあるのかもしれないが……。

 ほんの……ほんの一瞬、玄関から仕事へ向かう俺を見送る一色の姿が脳裏をよぎった。だがそのイメージはおっさんが口を開くと同時に霧散して行く。

 

「お前に、どうしても許嫁を辞めたいという意思がないのなら、とりあえず続けてみるという選択肢はないか? なんなら、お前がその葉山という男を見極める期間でもいい」

「見極める?」

「ああ、儂はその男を知らんからな、お前がその男にならいろはを託せる、そう思った時、改めて許嫁を解消する。どうだ?」

「いや、そんなのおっさんがやれよ……」

 

 なぜ俺がそんな面倒臭いことをしなければならないのか。

 というか、それはそれで責任が伴いそうで怖い。

 もし俺の見極めとやらが足りなかったらどうなってしまうのか、なんというか連帯保証人の判を押すのを強要されている感覚だ。やだ、そう考えるとめっちゃ怖い。あと怖い。

 

「おいおい、儂みたいな老い先短い爺にどれだけ負担をさせるつもりなんだ……いつお迎えがくるのかとヒヤヒヤしているんだぞ、ああ、その時いろはがどうなってるか心配だ、来年まで生きていられるだろうか……誰か信頼出来るヤツに孫娘を託せたらよかったのだが……ゲホゲホ。ゲホゲホ」

 

 そういうと、おっさんは態とらしく咳払いをして、俺をチラチラと見て来た。

 いや、同情誘うとか無理だから、本当。

 冗談抜きにこのおっさんは二百超えても生きてそうだから困る。

 そういうのはもっとヨボヨボの爺さんが言うもんであって、卓球のツグツグが言っていいセリフじゃないんだよなぁ。

 

「悪いが、その手には乗らないからな」

「……まあ、少し考えてみろ。お前の事だから、結果が出てからだと余計な事を考えそうだったからな、このタイミングにさせてもらったが……」

 

 病弱アピールが効かなかったのが恥ずかしかったのか。おっさんは一度襟元を正しそう言うと、少し考えるように顎に手をやったあと、右手の指を三本たてて俺を見た。

 

「そうだな……三月中。春休みまでに結論を出して儂のところに来い。その時、この最後の給料も渡す」

 

 そういうとおっさんはテーブルに置いてあった茶封筒を持ち上げ、改めて俺に見せてくる。

 三月中で春休みというと、三月末まではお預けってことか。許嫁問題も含めて……。

 

「いや、そんな待たなくても結論はもう出て……」

「春休みだ、いいな? ……なんか、話してたら腹減ってきたな、追加で何か頼むか?」

 

 有無を言わさず、というのはこういう事を言うのだろう。

 尚も抵抗しようとする俺をキッと一度真剣な瞳で睨みつけると、おっさんはそこで話は終わりだと言わんばかりにテーブルサイドにあったメニュー表を広げ始めた。

 

「お、昔ながらのナポリタンだってよ、どうだ? お前も食うか?」

「……奢り?」

「ははっ、心配するな、ちゃんと奢ってやる。金もあるしな」

 

 俺の言葉におっさんは笑顔でそう答えると、懐にしまおうとしていた茶封筒をチラリと見せてニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。

 いや、それ俺の給料じゃないのかよ。

 もしかして三月末まで預けてたらどんどん天引きされるんじゃないの?

 やっぱり今日まとめて全部終わらせてしまうのが正解なんじゃないだろうか。はぁ……面倒くさ。




沢山の方に読んで頂いているお陰で無事今月も毎週投稿を終えることができました。来月もこのペース……かは分かりませんが出来るだけ頑張りたいと思いますので
次話もまたお楽しみにして頂ければ幸いです。

感想、評価、メッセージ、お気に入り、誤字報告、ここすき。皆様からの通知が私の生きがいです。人助けだと思ってよろしくお願い致します。


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第61話 合格発表

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージ、ここすき、ツイッターでの読了報告ありがとうございます。

いよいよ合格発表です!


 あの日以来、俺はおっさんに言われたことをずっと考え続けていた。

 一色が俺との許嫁関係を続けたいというのは一体どういった考えからなのだろう?

 もし百歩、いや一万歩譲ってその言葉を額面通りに受け取るとすれば、それは一色が俺と結婚したがっているのと同義になってしまう。

 だが、そんな事はありえない。

 何故って? 一色の本命は葉山だからだ。

 たった一度、ウチの文化祭で出会って、たった数分話をしただけで進路先を決めるほどにアイツは葉山に惚れている。

 そんなヤツが俺との結婚を望むわけがない、そこには必ず何か裏があるはずなのだ。

 だから俺はその一色の真意を見極めなければいけない。

 一体何故、一色はそんな血迷った事をおっさんに言ったのか。

 もしくは言わざるを得なかったのか。

 

 やはり一度一色本人に確認するべきだろうか?

 いや待て、そんな事が出来ないのは分かりきっている事だろう。

 だってよく考えてみて欲しい。

 一色に真意を尋ねる為には俺が「お前俺と許嫁続けたいの?」等というトチ狂った質問をしなければならなくなってしまう。

 とんだ自信過剰の勘違い野郎だ。

 既に小町と接点がある一色にそんな問を投げかければ、俺は今後一生『自意識過剰男』として過ごすはめになる。

 それだけはなんとしても避けたい。

 だから一色に直接問うのではなく、自分の力で答えを導き出さなければならない。

 教師質問不可。参考書無し。過去問無し。なんて面倒くさい課題だ。

 

 ただ、それでもある程度の目星は立っている。

 いくら一色がたった一度の出会いで一目惚れに近い感情を葉山に抱いたとしても、葉山側も同じように一色のことを好いているとは考えにくい。

 もしあの段階で相思相愛の関係になっていたのであれば、こんな回りくどい事はしないだろうからな。

 つまり、一色が俺との許嫁を続けたい理由は恐らく、俺を葉山に対する当て馬として使う予定なのだろう。

 『人のものであり、手に入らない』というのはある種のステータスだ。

 隣の芝生は青い、隣の花は赤い。という言葉が指す通り、古来より、人間には他人の物ほど良く見えるという心理が働く。

 まぁ元々の価値がゼロなら誰が持っていてもその価値はゼロなんだが……。

 その作戦が上手くいくかどうかは別として、それが一色の思惑であるならば、俺としても態々邪魔をするつもりもない。

 なんなら多少のアシストはするつもりだ。

 だが、それでも一つ分からない事がある。

 

 俺を当て馬にするにしても、許嫁を続けるという事にはならないのだ。

 そもそも許嫁という関係は目に見えるようなものではない、当て馬にするにしてもそこに本当に許嫁という関係がある必要性がない。極論嘘でも良いわけで、リアリティを求める意味もない。

 というか、実態はどうあれ、この一年は家庭教師兼許嫁という関係でいた事は事実なので、言い方次第では嘘にもならない。

 適当に話を合わせつつ、一色の目的を達成することは十分可能なはずだ。

 むしろ、そうしておかないと、いざ一色が葉山と付き合う段になった時に、またおっさんに妙な課題を出されるというデメリットが起こる可能性も考えられる。

 スムーズに事を運ぶためにはやはりこのタイミングでの解消が一番良いのではないだろうか?

 

 そう考えるとやはり「一色が許嫁を続けたがっている」という前提は崩壊してしまう。

 だからどうにも答えに自信が持てない。

 ただ単純に一色がそこまで考えていないだけなのか、それともその上で何かメリットを見出しているのだろうか?

 あと考えられる可能性があるとすれば……その前提が……間違っている?

 

 一応考えてみよう。

 例えば、その言葉が間違っているのではなく、おっさんが間違えているという可能性だ。

 曲解している、と言ってもいい。

 一色の言葉をおっさんが都合よく解釈しているという説。

 これはこれで十分ありえそう。

 おっさん自身はこの関係を続けさせたがっているように見えるからな。

 何故? という疑問は残るがおっさんに関しては去年の時点から強引な所があったので

 「推しカプをくっつけることに命を賭けているオタク」みたいなものだと思うしか無い。考えるだけ無駄だろう。

 

 このパターンの場合は、一色と共同戦線を張れるはずなので、そこに乗っかれば解消は出来るんじゃないだろうか。

 まぁ、去年みたいな事にならなければ……だけど。

 

 後考えられるのは……そうだな、可能性としては低いと思うが。

 おっさんが俺に「一色が許嫁を続けたがっている」というデマを流すことで、俺の期待値を上げた、というのはないだろうか?

 こうすることで俺自身が「もしかして一色って俺の事好きなんじゃね?」という壮大な勘違いをする。なんのためにって? まぁこの場合は……ドッキリだろうな。

 後日調子に乗って「やっぱ許嫁続けるわ」と言う俺に「え? お前本気で許嫁続けるつもりだったの?」と言って、プークスクスするという胸糞なドッキリ。

 とはいえ、流石におっさん側のメリットが少なすぎるのでやはり可能性としては低いと思う、思いたい、が……会場が学校だったら普通にありえそうなのが怖いな。

 もしそうだったら、最悪弁護士雇おう。

 まぁ、これに関してはそもそも俺が勘違いしなければ成立もしないから心配の必要もないか……。

 

 うん、やはり俺が一色との許嫁を続ける理由は見当たらないな。

 改めてそう考えながら、俺は何気なく持っていたスマホをいじり、例の写真を呼び出す。

 それは先日撮ったままの、まだ消せていない一色の寝姿を映した写真だ。

 あれから、何度も消そうとしたが、これから先、このあざとくて小賢しい後輩とはこんな風に接することもなくなるのだと思うとほんの少しの寂しさのようなものが胸の中を流れ、結局消せずにいた。

 

 しかし、それがいけなかったのかもしれない。

 俺がもう一度その写真を見た瞬間、ふと俺の頭の中に一つの考えが浮かんでしまったのだ。

 それはまるで窓の外から新種の蝶が迷い込んできたような、それこそ文字通り魔が差したとしか言えないようなありえない可能性。

 

 もし……もし一色が本当に俺との許嫁を望んでいるとしたら……?

 

 ありえないと分かっていても、一瞬浮かんでしまった思いは簡単には消えてくれない。

 やめろ! 考えるな!

 勘違いはしないと誓ったばかりだろう。

 

 この一年、一色とは色々な事があった。

 確かにこれまで感じたことがないような充実感のようなものが、確かにそこにはあった。

 誰かと一緒に何かをする、という事が新鮮で、楽しいと思ってしまったこともあった。

 だが、それは俺がそういった経験をしたことがなく、慣れていなかったというだけの話で、特別なことではないはずなのだ。

 だから、勘違いをするな比企谷八幡。

 そんな考えは間違っている。

 落ち着け、アイツが好きなのは葉山であってお前じゃない。

 変な期待をするな。

 俺がアイツとの関係を続ける理由なんて一つもないだろう。

 そう何度も頭を振って、慌ててスマホをスリープモードに移行させていく。

 真っ暗になったスマホには、今度は少し疲れた俺の顔が映し出されていった。

 それは現実を突きつける鏡のように俺の心を落ち着かせていく。

 

「……いっそ、去年みたいにおっさんが無理矢理決めてくれれば楽なんだけどな……」

 

 続けるにしても、終わるにしても、おっさんが決めてくれれば何も考えなくてすむのにな。

 そんな思いとともに、俺はスマホをベッドの端へと放り投げた。

 ああ、もう全てが億劫だ。

 もう何も見たくない。何も考えたくない。

 

「まぁ……まだ時間はあるか」

 

 おっさん曰く、三月末までは猶予があるらしい。

 どうせ今すぐ話を持っていった所で『期限一杯まで考えろ』と拒否されるのは目に見えている。

 俺には許嫁がいる。

 そんな状況がこれから先の人生であるとも思えない。

 だから……もう少しだけ……。

 

*

 

 そんな風に無駄なことだと分かりつつ、結論を先延ばしにしていたある日の授業の休み時間。

 ふと、ポケットに入れていたスマホが震えた気がした。

 

 ここ数日は一色からのメッセージ量が増えているので、妙に震えに敏感になってしまっている。

 最近は本当によく一色からメッセージがくる。他愛もないものが大半だが、その度にスマホが震えるので、何もないときでもスマホが震えているような錯覚……ファントムバイブレーションシンドロームを感じるようになってしまったほどだ。

 日本語にすると幻想振動症候群。不思議と格好良いと思ってしまうのは、俺が元中二病患者だからだろうか?

 

 そんな事を考えながら、ポケットからスマホを取り出すと、新着の通知が一件届いていた。

 どうやら、今回は錯覚ではなかったらしい。

 相手は……予想通り一色だ。

 

【センパイ、合格発表一緒に見てくれませんか? 今校門の所にいます】

 

 何気ない一文だったが、不思議とそこには不安が滲み出ている気がした。

 合格発表……。そうか、今日はやけに下が騒がしいと思っていたが、受験生が集まっているのか。

 そう思うのと同時に、俺は返信を打つより早く、席を立ち廊下へと走り出していた。

 

【今から行く、ちょっと待ってろ】

 

 手早くそうメッセージを打って、廊下を走る。

 今日、全てが決まるのだ。

 一色の努力は報われるのだろうか?

 俺のしたことは無駄になるのだろうか? 

 逸る気持ちを抑えながら、俺は昇降口でもたつきながら靴を履き替え、急ぎ校門へと向かった。

 

 道中にはすでに合格を確認した受験生の雄叫びや、おそらくは望んだ結果にならなかったであろう受験生が泣きながら地面を叩いているのが見える。

 そんな彼らを横目で見ながら、校門に一人佇む一色の姿を見つけると、俺の中にも緊張が走り始めた。果たして一色はどちらになるのだろうか?

 喜び天を仰ぐのか……それとも……。

 

「センパイ……! お久しぶりです!」

「おう、待たせたな」

 

 ようやく校門付近まで行くと、俺の姿を確認した一色が満面の笑みでタタッと近づいてきた。

 その様子はまるで飼い主を見つけた子犬のようでさえある。

 つい『可愛いな』と思ってしまったのは不可抗力というものだろう。

 

「あー……元気だった?」

「えっと、お陰さまで」

 

 ニコニコと後ろ手に俺を見上げてくる一色からつい目を逸らしてしまった。

 あれ? 俺一色と今までどうやって話してたっけ?

 そういえばもう一週間以上顔を合わせていなかったのか。

 ちょっと前まではそれが普通だったのに、今はなんだか上手く言葉が出てこない。

 写真は毎日のように見ていたはずなのに、写真からは感じ取れなかった一色の息遣いや熱を感じ、俺の胸の鼓動が早くなるのを感じる。

 これは……一色の結果次第で俺の身の振り方も変わるという緊張からだよな……?

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、一色は「緊張してきました」と軽く深呼吸をして、苦笑いを浮かべた。

 大丈夫、いつもどおりだ、平常心……平常心。落ち着け比企谷八幡。

 

「んじゃ……行くか」 

「はい!」

 

 よしっ、と気合を入れた一色とともに、俺達は合格発表会場へと歩き始めた。

 と言っても、合格者の番号が張り出されている掲示板はもう既に視界に入っている。

 あの中に一色の番号があれば、合格。なければ不合格……。

 さて……一色の番号が……ってあれ?

 

「あ、先に受験番号教えてもらっていい?」

 

 そういえば一色の受験番号聞いてなかった事を思い出し、俺は慌てて後ろを振り返り、そう問いかけた。

 これでは合格発表を見ても、合格しているのかどうかが分からない。間抜けにもほどがある。

 

「え? 教えてませんでしたっけ? えっと……129です」

「129ね、了解」

 

 「番号知らないで、何を見るつもりだったんですか?」という一色のクスクス笑いを背中で聞きながら、俺は改めて掲示板へと歩いていく。どうやら一色は俺より前を歩く気はないようで常に半歩後ろを歩いていた。

 

 一歩、また一歩と掲示板へと近づき、もうすでにいくつかの番号が目に入ってきている。

 だが、一色の番号は確認できない。

 周囲には受験生達が真剣な眼差しで自分の番号を探している。去年の俺も、こんな感じだったな。

 そんな事を考えながら、ふと掲示板の前で立ち止まり、一色を振り返ると、一色は俺の制服の裾を震える手で握りながら、掲示板ではなく地面を見ていた。

 

「ほら、ついたぞ」

「セ、センパイが先に見て下さい」

「別にいいけど、何? 俺が結果言っちゃっていいの?」

「い、言わないで下さい!」

 

 いや、じゃあどうしろっていうんだよ。

 見つけても、リアクションするなってことだろうか?

 正直自信がない……。「あ」と呟くだけでも何かを伝えてしまいそうだ。

 

「んじゃ自分でしっかり見ろ」

「きゃっ」

 

 色々考えた結果、俺は後々文句を言われるのも嫌だったので、俺の裾を掴んでいる一色の手を掴み。無理矢理一色を俺の横へと並ばせた。

 「センパイ、受験生にはもっと優しく……!」という一色の批難の声を無視しながら、改めて掲示板を見上げる。

 さて……一色の番号は129だったな。

 割と若い番号なので、早めに見つかるかもしれない。

 そう思って、一番左の列、下半分ほどから確認していくことにした。

 

089

092

093

095

099

 

 おっと、ここから百番台か。

 割と良い所を見てしまったようだ。

 少し視線を動かしただけで、視界の端で合否が分かってしまいそうな位置を見てしまったので。俺は腹に力を込め、視線を一点に集中し、そこからゆっくりと視線を下げていくことにした。

 

101

105

106

107

109

 

 こうやってみると、結構落ちているヤツもいるんだよな……。

 思わず背中に嫌な汗が走る。

 もし番号があれば「受かってたぞ」と言えるが。

 逆に落ちていたら俺は一体なんと声をかければいいのだろうか?

 一色の数字が飛ばされていないことを願いながら、俺は更に視線を下げる。

 

120

 

 嘘だろ!?

 百十番代全滅かよ。もしかして今年結構厳しかったのか?

 ゆっくり見ていくつもりだったが、一気に進んでしまった。

 一色の番号までもうあまり余裕がない、下手したら次あたりで結果が分かってしまいそうだ。

 俺は出来るだけ意識して一つ一つの数字を確認していく。

 

121

 

 まだだ。

 

125

 

 まだだ……。

 

126

 

 ま、だ……。

 だが……ここまでくると、どんなに意識していても、視界の端で次の数字を捉えてしまっていた。

 

129

 

「……あった」

「あった! ありました! センパイ! あった私の番号ありました!!」

 

 俺がそう呟くのと、一色が叫ぶのは同時だった。

 俺のシャツの襟元を掴みながらぴょんぴょんと飛び跳ね、身体中で喜びを表現する一色の姿に思わず俺の頬も緩んでいく。

 

「おめでとう、良かったな」

「はい! ありがとうございます! 良かった! 本当に! 本当に良かった!」

 

 いや、本当に良かった。

 おっさんには色々言ったが、もしここで落ちていたら葉山の事を抜きにしても一生恨まれるという可能性だってあったのだ。

 本当に良かった、肩の荷が下りるというのはこの事だろう。

 一気に俺の中の緊張もほぐれ、思わずその場でへたり込みたくなる衝動に駆られるが、一色が相変わらず俺を掴んでいるのにそれが出来ず、安堵の溜息だけが地面へと落ちていく。

 

「全部! 全部センパイのお陰です! ありがとうございます!」

「別に、俺は大したことはしてない、全部お前の実力だ」

 

 早口で礼を言う一色に俺がそう言ってポンと頭を叩くと、やがて一色はその目元にじんわりと涙を浮かべ、俺の胸に顔を埋めていく。

 なんか、前にもこんな事あったな……。

 こいつは案外泣き虫なのかもしれない……。

 そう考え、俺は思わずあの日のように背中を叩いてやろうと軽く腕を上げた……

 

「良かった……本当に良かった、これで来年は“センパイ”と一緒に……」

 

 だが、その手を一色の小さな背中に乗せようとした瞬間そんな言葉が俺の耳に届き我に返った。

 

 一色の言うセンパイは“先輩”であって。俺ではない。

 

 総武に通う理由を作った原因たる“先輩”の事だろう。

 なら、俺がここにいるのは間違っているんじゃないか?

 それをするのに相応しい奴は別に存在するのだ。

 その現実を突きつけるように、その男は一色の背後から爽やかな笑みを浮かべやって来る。

 

「やぁ、その様子だとどうやら無事合格出来たみたいだね」

「葉山……!」

  

 顔を上げれば、そこに葉山がいた。

 一色も葉山の存在に気付き、慌てた様子で俺から離れ、目元を拭う。

 まぁ……意中の相手に別の男と抱き合ってる姿なんて見せられないわな……。

 そう理解しつつも、一色が俺の手を離れていくと同時に俺の中にあった何かが消え、代わりに腹の中に黒いモヤモヤした何かが生まれていく気がした。

 

「葉山先輩! はい、なんとか合格できました!」

「おめでとう、本当にウチを受けたんだね」

「え? 疑ってたんですか?」

「いや、疑ってたわけじゃない、ただ少し驚いたんだ」

 

 目尻を拭いながら、合格の報告をする一色に、葉山が笑顔を向ける。

 なんだろう、俺の場違い感が凄い。

 このままフェードアウトしたほうがいいのかしら?

 いいよね?

 

「葉山先輩……その、約束……守ってくれましたよね?」

「ああ、俺の方からは何も言ってない。ちゃんと守れたと思うよ」

 

 だが、そう思った俺がゆっくりと一歩足を引いた所で、一色と葉山がそんな会話を始め、下がろうとしていた俺の足が動きを止めた。

 約束……?

 そういえば、文化祭のあの日、俺は「一色は海浜総合を受ける」と言ったはずだ……。なのに今の葉山は一色が総武を受ける事を知っていたみたいな口ぶりだった。

 ということはつまり……総武を受けることを葉山は既に知っていた?

 いつだ? 俺が一色の総武行きを知ったのは文化祭の後。

 いや、でも夏には総武の模試受けていたんだよな?

 点と点がうまく線にならない、考えれば考えるだけ頭がこんがらがっていく。

 

 一色と葉山は一体あの日どんな話をして、どんな約束をしたのだろう?

 そんな疑問が俺の中を支配していく。

 しかし、俺はすぐにその疑問を思考の彼方へと追いやった。

 気にしても仕方がないし、俺が聞いていい話ではないだろう。

 だから、気にしたら負けだ……。

 

「それを聞いて安心しました。四月から、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく」

 

 何やら通じあったように握手をする二人を目の当たりにして、俺はやはり自分の考えが間違っていなかったという確信を得る。

 そして同時にほんの僅かな痛みが胸に走るのを感じた。 

 

「センパイ、センパイ? どうしたんですか? 大丈夫ですか?」

「ん? あ、ああ」

 

 そんな俺を一色が覗き込むようにして心配げに見上げてくる。

 先程まで喜びに満ち溢れていた表情から一変し、俺をまっすぐに見つめる一色を見ていると不思議と胸の痛みはすぅっと消えていく気がした。

 今のは……なんだったのだろう? 何かやばい病気かもしれない。一度病院で見てもらうべきだろうか?

 もし事故の後遺症とかだったらどうしよう。

 とはいえ、今ココで無駄に心配を煽る必要もないか……一色も合格で喜んでいる所だしな。

 

「何でも無い、あー……とりあえず入学申請書貰ってくれば? あと学校と家にも連絡しとけよ?」

「あ、そうですよね! なくならないうちに貰ってこないと! それじゃすみませんけど葉山先輩、失礼します」

 

 俺が体の不調を隠し、気持ちを切り替えてそう言うと、一色が慌てて窓口へと走っていった。

 いや、別に無くなりはしないと思うが……。そんな一色を見送り、後には俺と葉山だけが取り残された。なんだろう、凄く気まずい。

 一刻も早くここから立ち去りたい、そんな衝動に駆られる。

 まぁ、合格も確認できたし、戻るには良い頃合いか。

 一色も後は書類貰って帰るだけだしな。

 そう思って、俺が無言で校舎へと足を進めようとすると、まるで俺を引き止めるかのように葉山が口を開いた。

 

「凄いな彼女」

「あ?」

「いや、疑ってたわけじゃないんだけど。本当に、総武受けたんだな、少し君が羨ましいよ」

 

 本当にこいつは何を言っているのだろう?

 俺が羨ましい?

 俺の何を見ていっているというのか。

 あいつはお前の為にここまで頑張ってきたんだぞ?

 おっさんと戦って、毎日毎日勉強して努力をしてきたんだ。

 むしろ俺はお前の方が……。

 お前のほうが……? 何だろう? 今俺は何を考えた?

 俺は、一瞬頭に浮かんだその言葉を振り払うように、首を振る。

 

 すると葉山はそんな俺の様子を不思議に思ったのか、一度小さく首を傾げて困り笑いをすると、ひどく懐かしいものを見るような目で合格に浮かれる学生達へと視線を移した。

 

「……俺たちももう二年か、四月からは賑やかになりそうだな」

「そうだな……まぁ……可愛がってやってくれ」

 

 あいつはお前と同じ高校に通いたくて、頑張ってきたんだからな。という言葉をなんとか飲み込み、俺は葉山から目を逸らす。

 だが、その言葉はまるで毒のように、飲み込んだ瞬間から俺の胸をジリジリと焦がしていった。

 まただ……なんだこれ……。ものすごく気分が悪い。

 ああ、早くここから立ち去りたい。

 

「え……? 俺が?」

 

 そんな俺の心情など知るよしもなく、葉山が不思議そうに目を丸くして首を傾げる。

 ああ、イライラする。

 一刻も早くここから立ち去りたい、こいつの居ない所へ行きたい。

 

「お前以外に誰がいるんだよ」

「いや、まぁ、そうだな。うん。せっかくの後輩だし、仲良くできたらなとは思っているよ」

 

 しかし葉山は吐き捨てるように言った俺の言葉に動じることもなく、そう言って再び笑うと、少しだけ真面目な顔をして、俺を見据えた。

 

「でも、俺は君とも仲良くしたいと思っているんだ。来年は同じクラスになれるといいな」

 

 その言葉を聞いて、俺は反射的に拒否感を示した。

 だってそうだろう?

 もしこいつと同じクラスになんかなったら、こいつに会いに来る一色の姿をずっと見ていなければならないのだ。

 そんな状況で一年を過ごすのは御免こうむる。

 しかし、何故自分がこんなにも苛ついているのかが分からず、俺はその言葉を口にすることが出来なかった。

 

「それじゃ、俺はそろそろ行くよ、一色さんによろしく」

「……」

 

 俺が何も言えず黙ったままな事に何かを察したのか、葉山は最後にそう言うと、一人その場を去っていく。

 だが、元凶だと思っていた葉山がいなくなっても俺の気分は最悪なままだった。

 いっそこのまま授業をサボってしまおうか。

 そんな考えが頭をよぎり、俺は葉山とは逆方向へと足を進めた。

 

「どうした八幡、……何やら、転生して能力吸収というチート能力を得たのにその力が暴走し魔王の力すら取り込んでしまい真なる魔王(カオスサタン)として追われる身となってしまったが、命からがら故郷に辿りつくも幼馴染であり義妹でもあるツンデレでオッドアイな前世が魔王の勇者ヒロインの幸せそうな家族団欒の風景を目の当たりにし、やはりここに戻ってくるべきじゃなかったと後悔したところで衛兵に見つかり村を逃げ出す主人公のような顔をしているではないか」

「どんな顔だよ……ってか設定盛りすぎだろ」

 

 しかし、そうして歩き始めると、入れ替わりのように小太りの眼鏡の男に声をかけられた。

 今日はよく人に声をかけられる日だ。厄日かもしれない。

 

「……なんか用?」

「何、八幡の姿が見えたのでな、このような所で何をしているのかと思っただけだ」

 

 ふんふんと鼻を鳴らしながら俺に近づいてきた材木座はそういって俺の横へと陣取ると腕を組んで仁王立ちをしたまま、周囲を見渡す。

 辺りには未だ合格の喜びを噛み締めている学生が大勢集まっていた。

 

「ふむ、この空気覚えがあるな……一体この中の何人が裏試験を乗り越えられるのだろうな」

「裏試験なんてねぇよ……」

 

 どこのハンター試験だ。

 ため息交じりに突っ込みながら、そう言うと材木座は「ふふ……貴様はまだ知らぬのか、総武裏試験の存在を……」と語り始めたので、俺はそれを無視して足を進めることにした。

 だがその瞬間、何者かが俺の背中をたたき、軽い痛みが走る。

 痛いな……誰だよ……。

 

「センパーイ、貰ってきましたー! あ! ……剣……もざ先輩!」

 

 ん? なんて?

 振り向くと、そこには一色が総武高校入学申請書類一式と書かれた大きな封筒を手に満面の笑みを浮かべていた。

 どうやら、無事書類を貰ってきたようだな。

 だが、俺がそう思った次の瞬間には一色は俺ではなく材木座の方へと詰め寄っていく。

 あれ……?

 

「あの……センパイのお友達なんですよね? 私、来月からこの学校に通う事になりました」

「いや、別にそいつ俺の友達ってわけじゃ……」

 

 一色の言葉を訂正しようとするが、一色はキラキラと目を輝かせたまま材木座ににじり寄り、逆に材木座は脂汗をダラダラと流しながら、俺に救いを求めて来た。

 なんだこの構図?

 まるで獲物を目の前にした蛇を描いた写真のようだ……。

 まぁ、面白いからこのままでもいいか……。

 

「あれ? もしかして私の事忘れちゃいました? ほら、文化祭で会ったじゃないですかぁ?」

「モモモモモチロン! オオオオオオオボエテルトモ?」

「良かったぁ、じゃあ来月からよろしくお願いしますね? 私がいない時のセンパイの事……色々教えて下さいね?」

 

 あれ? もしかして、こいつの目的って葉山じゃなくて材木座か……?

 いや、文化祭の日、一色と材木座が話してたのは三分にも満たない時間だったはずだ。

 それはありえないだろう。……ありえないよね?

 

「んで、家には連絡したの?」

 

 そんな様子の材木座があまりにも不憫だったので、俺がそう言って一色の気をそらすと、一色は「あ、そうでした」とパンと手をたたき、俺の方へと向き直った。

 ようやく解放された材木座もふぅっと額の汗を拭い安堵の表情を浮かべている。

 

「あ、はい。お爺ちゃんも呼んで今日はお祝いだって言ってました、良かったらセンパイも……」

 

 だが、一色が次にそう言いかけた瞬間、周囲に始業のベルが鳴り響いた。

 ああ、そういえば今は休み時間だったな。

 次の授業の準備すっかり忘れてたわ。

 

「あっそ。んじゃ、俺そろそろ授業戻るわ……」

  

 特別この場で語らなければならないことはもう無いだろう。

 家族での祝の席に俺が出向くのもおかしな話だ。

 俺がそう思って一色の言葉を遮り軽く手を上げると、一色もペコリと一礼し笑みを浮かべた。

 

「そういえば今日平日でしたよね、お忙しいところ、付き合ってもらっちゃってすみません。本当にありがとうございました」

 

 俺に礼を述べつつも、きちんと材木座にも目配せをして、笑いかけるのを忘れていないところは流石というところだろうか。

 

「それじゃ、また学校終わった頃に連絡しますね」

「……おう」

 

 一色が最後にそう言って小さく手を振るのを確認してから、俺は授業へ向かうため校舎へと踵を返す。

 だが、材木座はその場から動かない。

 ん?

 「材木座?」と軽く声をかけるが、材木座は何故か石像と化していたので、その襟元を掴み一校舎へと引っ張って行く事にした。

 別に置いていってもいいんだが……一色が困るだろうしな……。

 そう思いながら、チラリと振り返れば、そこには変わらぬ笑顔で手をふる一色の姿。

 いつまでも手を振ってくれている一色に、何だか少しだけ気分が良くなり、先程まで感じていたイライラもすぅっと消えていく。

 

「なぁ八幡……」

 

 しかし、そうしてスッキリした俺の耳に、いつの間にか再起動したらしい材木座の声が届いた。

 起動したなら自分で歩いてほしいが……。なんだ? 妙に真面目なトーンだが……。

 また下らないネタでも思いついたのだろうか? 面倒くさいなぁ……。

 

「何? どした?」

「我……モテキが来たのかもしれん……ぐふっ」

 

 本当に凄く下らない話だった。

 どうやら、一色の迂闊な言動によって自分がモテていると勘違いしてしまったらしい。

 もー……だから男子はすぐに勘違いしちゃうんだから気をつけてっていってるでしょう?

 四月からはボディタッチはしない、休み時間や放課後男子の席に座らない、忘れ物は男子から借りない、徹底してくださいね。

 まぁぶっちゃけ、俺も中学までだったら同じように思っていたかもしれないので、あまり強くは言えないんだけどな……。とはいえ、無駄に被害者を死地に送り込む必要もないか……。

 

「……あいつ、葉山狙いだぞ? 葉山のために総武受けたぐらいだ」

「なん……だと……?」

 

 俺が人助けのつもりで優しく真実を伝えてやると、目をキラキラ輝かせていた材木座はその眼鏡の奥の瞳を大きく開き、その表情を喜びから驚愕、絶望へと変貌させていく。

 どうやら、相当ショックだったらしい。南無。

 

「は、葉山というのはアレか? 我が学年が誇るイケメン葉山隼人の事か!? 何故だ! おい! 八幡待て! ちょっと詳しく! 八幡? はちまーん!?」

 

 詳しく知りたいのはこっちの方だ。

 これ以上話をややこしくしないで欲しい。

 だが、そんな俺の心情など知るはずもない材木座が「まさか……! さっきのアレが営業スマイルだとでもいうのか」と一人抗議の声を上げている。

 いっそ「そもそもお前名前覚えられてないっぽいぞ」と付け加えてやりたかったが、俺はそれ以上材木座と話す方が面倒だと悟り、その襟から手を離し材木座を放置して一人で校舎へ戻る事にした。

 

「よくも騙したアアアアア!! 騙してくれたなァァァァァ!!」

 

 背中で材木座の慟哭を聞きながら、俺は昇降口を抜け教室へと向かっていく。

 もう授業開始のチャイムが鳴り、もはや遅刻は確定だが。まぁ仕方ない。

 色々考えないといけないこともまだあるが、とりあえず今日のところは一色が合格できたという事で良しとするか。あとで連絡も来るらしいしな。

 おっさんを交えて祝うらしいから、例の許嫁の話も何か進展があるかもしれない。

 

 そう思って、俺は残りの授業をこなし、時折スマホを確認しながら一色からの連絡を待っていた。

 

 だが……俺のスマホが震えたと感じ、一色からの連絡かとスマホを手にとってもそれは全て幻想の振動にすぎず、その日、新たな通知が入ることは無かった……。




というわけで無事合格しましたー!

おめでとういろはすー!

でも問題はまだ残っていて。
いよいよ一年生編ラストパートへ!
来週しんどいなぁ……なにげに今週も結構悩んだので
もし投稿できてなかったら察して下さい……

感想、評価、お気に入り、誤字報告、ここすき、メッセージ、ツイッターでの読了報告等、何かしらリアクションいただけますとモチベーションアップに繋がりますので何卒よろしくお願い致します。


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第62話 未来と過去と八幡と

いつも感想、評価、メッセージ、お気に入り、ここ好き、誤字報告ありがとうございます。

今回かなり短めです。


 校舎へと戻っていくセンパイ(達)を見送ると、私は一人総武高を後にする。

 来るときは「落ちていたらどうしよう」という思いで重かった足取りも、今はとても軽やかだ。

 私、本当に合格したんだよね……?

 夢では無いことを確認するように、何度も何度も胸に抱いた「総武高校入学申請書類一式」と書かれたファイルを確認し、大丈夫、夢じゃない。と反芻しながら、電車へと乗り込む。

 本当に受かったんだ。

 これで、四月からは念願だった総武高校に通うことが出来る。

 これから入学の準備をして、センパイと同じ校舎に通うようになるのだ。

 緩む頬を抑えきれない。

 きっと今の私はニヤニヤとさぞ気持ちの悪い顔をしていることだろう。

 そんな私のことを、電車で乗り合わせた人たちが、まるで幼子をみるような顔で見ていたことに気づきもせず、私は早足で中学校に戻り先生に合格報告をすませると。一度も座ることなく、そのまま走って帰宅した。

 

「ただいまー!! ママ! 受かったよ!」

「おかえりなさいいろはちゃん! 合格おめでとう!」

「ありがとう! ほら! コレ見て!」

 

 玄関を開けるなり、両手を広げて待っていてくれたママに、さっと持っていたファイルを手渡す。

 既に合格の知らせはしてあったのもあってか、ママも私もニコニコだ。

 

「あらあら、また色々準備しなくちゃね。とりあえず週末にパパにお買い物に連れて行ってもらいましょうか?」

「うん!」

 

 早速ファイルから取り出した入学に必要な物リストのチェックをするママが「アレと、コレと……」と、指折り数えていく姿を見ながら、私も色々準備しなければと思いを巡らせていく。

 そうだ、制服も買わなくちゃだよね、センパイにはイツ見せよう? やっぱり入学式? でもそれより前にお披露目してもいいかなー?

 そんな事を考えながら二人で廊下を抜け、リビングの扉を開くと、突然私の体がふわっと浮き上がる感覚がした。

 へ?

 

「いろは! 合格おめでとうー!」

「ちょ!? おじいちゃん!?」

 

 お祖父ちゃんが私の脇に手をはさみ、そのまま思い切り持ち上げるとその場でグルグルと回り始めたのだ。

 天井にぶつかるという程ではないが、正直、壁や棚に手や足がぶつかりそうで怖い。

 

「ちょ、怖い! やだ! 降ろして!」

 

 まるで幼児のように私を振り回すお祖父ちゃんにそう抗議するが、お祖父ちゃんは興奮して聞こえていないのか「よくやった! 流石儂の孫だ!」と言って大笑いをしながら。まるでヘリコプターのように私を回し続ける。あああ、目が回る!

 

「ほら、あなた。あなたももう年なんだから、そのへんにしておきなさい」

「お、おお。そうだな……うぐっ……!」

 

 お祖母ちゃんのその言葉で、ようやく我に返ったお祖父ちゃんがそっと私を下ろすと、少しだけ地面が揺れた……うう……気持ち悪い。

 子供の頃はよくこうやって遊んでもらった気がするけど、さすがにこの年になってやられるとは思ってなかった……。

 昔の私、よくこんなので楽しんでたな……。

 

「痛たた……腰が……いやぁ、いろはも重たくなったな……」

「は、はぁ!? 重くなってないし! 成長しただけだから! イツの頃と比べてるのさ」

「はっはっは! お前の成長も含めて今日はめでたい日だ」

 

 まだ少し三半規管がおかしくなっている頭で、助けてくれたお祖母ちゃんにより掛かるように近寄ると、お祖母ちゃんは優しく私の肩を叩いてくれた。

 

「全く……デリカシーのないお祖父ちゃんでごめんなさいね、いろはちゃん」

「……もう、慣れたよ……」

「ふふふ、合格おめでとういろはちゃん。本当に頑張ったのね」

「ありがとう、お祖母ちゃん」

 

 ママともお祖父ちゃんとも違って、お祖母ちゃんのお祝いは静かでとても暖かいものだった。

 二人ほどテンションは高くないが、その温かい手の平から伝わる温もりで、お祖母ちゃんが十分に喜んでくれていることが分かる。本当に合格してよかったと改めて思えた。

 

「それで、いろは。今日は何が食いたい? 何でも馳走してやろう」 

「ほんと!? あー、うーん、えーと……お寿司! あ、でもセンパイも呼ぶからやっぱりお肉かな? センパイ呼んでもいいでしょ?」

 

 でも、我ながら現金なもので、何でもご馳走してくれる、というお祖父ちゃんの言葉にものすごいスピードで反応して振り返ってしまった。お祖母ちゃんも「あらあら」と呆れ気味に笑っている。恥ずかしい。今、ここにセンパイが居なくてよかった。

 

 でも、この後のお祝いにはセンパイがいないと困る。

 だって、私が合格したのはセンパイのお陰だもんね。

 まぁ、お祖父ちゃんの事だし、センパイが来ると聞けば喜んでどこにでも連れて行ってくれるだろう。

 でも、どうしよう。

 折角の合格祝いだし、普段連れて行って貰えないような所のほうがいいだろうか?

 先にセンパイに何が食べたいか聞いてみようかな? 

 だが、そんな事を考えながらお祖父ちゃんの顔を見ると、お祖父ちゃんは少しだけ渋い顔をして、私を見つめていた。

 

「あー……、八幡か……そうか、そうだな……」

 

 私はお祖父ちゃんのその反応の意味が分からず、思わず首を傾げた。

 

「あー、そのー、なんだ、お前が合格した事について八幡は何か言ってなかったか?」

「え? 何かって?」

 

 お祖父ちゃんが何を言っているのか分からなくて、私は益々首をかしげる。

 何か……?

 何か言われたっけ?

 そう考えてふと今日のセンパイの行動を思い出す。

 だが、特別何か変な事を言われたという記憶はない。

 

「おめでとうとは言ってもらったけど……?」

「あー……うん。それだけならいいんだが……」

 

 どうにも歯切れが悪い。

 質問の意図が汲み取れず、私が首を傾げたまま、お祖父ちゃんを覗いていると。

 お祖父ちゃんはコホンと一度咳払いをして、姿勢を正し口を開く。

 

「……いろは、一応確認しておくが、四月から総武に通うのは確定ってことでいいんだな? もう後戻りは出来ないぞ?」

 

 本当に何を言っているのだろう?

 

「そのつもりで受験頑張ったんだけど……?」

「ああ、まぁそうだな。お前の気持ちは分かってるつもりだったんだがな、んー……まず何から話すべきか……」

 

 本当にお祖父ちゃんにしては珍しく何やら奥歯に物が挟まったような言い方で、少しだけ不安がよぎる。

 なんだろう、何か凄く嫌な感じがする。

 もしかして、また何か変な条件とかが出されるのだろうか?

 

「一応……これはまだ確定ではないんだがな。その、なんと言ったらいいか……」

「何? もったいぶらないで早く言ってよ」

 

 だが、もう合格はしているのだ、今更お祖父ちゃんがどうこうしたところで、この結果は揺らがない。

 そう結論づけ、強気になった私が、少しだけ語気を強めると、お祖父ちゃんはようやく観念したようにゆっくりとその重たい口を開いた。

 

「八幡はお前との許嫁は四月で終わると考えている……いや、儂等との関係を四月でリセットするものだと考えているらしい」

「は!? リセット? 何それ!?」

 

 しかし、お祖父ちゃんの口からでてきたのは新たな条件ではなく、そんな衝撃的な言葉だった。

 いや、四月で終わる。というのは分からなくもない。

 元々お祖父ちゃんとの最初の話し合いでは私とセンパイの許嫁は一年という期限付きで始まったものだ。

 だから、それ自体は理解できる。 

 でもリセットって? どういうこと?

  

「どうもな、アイツのこれまでの交友関係があまりよくなかったらしくてな……あいつ自身、こういう時はリセットするのが当然、と思ってるようなんだ」

 

 お祖父ちゃんの言葉を聞いても、何一つピンと来ない。リセットという言葉の意味もわからない。

 だが、少なくとも私と許嫁でいたいと思ってくれては居ないということだけは分かった。

 

「ちょ、ちょっと私センパイの所行ってくる!」

「まぁ待て、落ち着け」

 

 こんなの落ち着いていられるわけがない。リセット? 四月で終わり?

 何それ? それじゃ私が何のために頑張ってきたかわからないじゃない!

 

「直接あいつとやりあっても、口の立つアイツの事だ、最悪そのままなんてことにもなりかねん、とりあえず落ち着け」

 

 震える手をギュッと握り込み、お祖父ちゃんの強い瞳を睨み返すと、お祖父ちゃんは「大丈夫だ」と小さく、でも力強く頷いてくれた。

 どうやら、今回はお祖父ちゃんは私の味方ってことらしい。

 私がなんとか焦る気持ちを抑え込み、小さく深呼吸をすると、お祖父ちゃんは私の手を掴みゆっくりとソファへと座らせた。

 

「……落ち着いたか?」

「うん……まだちょっと、理解はできてないけど……」

 

 理解できない。

 最初の頃はともかく、最近はセンパイとの関係だってそれなりに良好だと思ってた。

 センパイだってこの関係をまんざらじゃないと思ってくれていると信じていた。

 なのに、リセット?

 

「……っていうか、リセットって何、どういうこと?」

 

 言葉の意味自体は理解できる。

 だが、それが現状とどう関わってくるのかが分からなかった。

 リセットってあれだよね? ゲームとかで何度もインストールしてガチャをやり直すみたいなやつ。

 結果をなかったコトにして、何度もやり直すみたいな。

 つまり、私達の関係を無くすってこと? 許嫁じゃなくなるだけじゃなく、そんな事を思われるほど、センパイに嫌われるような事をしてしまったのだろうか?

 

「まぁ……そこは儂もよく分かってないんだがな」

 

 本当に理解ができない。

 何がイケなかったんだろう? もしかしてワガママを言ってセンパイのバイトの日を増やしてもらったのがいけなかったのだろうか?

 それか、入試に遅刻しそうになったことで、愛想をつかされてしまったのだろうか? 

 そういえば、お巡りさんにも怒られたって言ってたし……そりゃ怒るよね。

 今考えれば、そのまま家に行ったのも悪かったのかもしれない。

 

 でも、と思う。

 もし、センパイがその「リセット」という判断をしたとして、私はどうなってしまうのだろう?

 当然ながら、私とセンパイはゲームのキャラクターではない。

 「リセットする」と言われて「はいそうですか」と納得できるわけでもないし、実際にされるわけでもない。

 だから、センパイがリセットをした四月以降の事が私には想像出来なかった。

 

「そこでな、お前にもう一度確認しておかなければならない事がある」

「確認しておくこと?」

「ああ、仮に……仮に八幡との許嫁を解消する事になったとして、お前はそれでも総武に行く気はあるか?」

 

 それは、先程と同じ質問だったが、さっきとは少しだけ意味の異なる質問だった。

 私は一瞬だけ言葉に詰まり、思わず助けを求めて周囲を見回してしまったが、リビングからはもうすでにママとお祖母ちゃんの姿は消えていた。

 キッチンの方から音がするから恐らくそちらへ行ったのだろう。

 つまり、ここは私が自分で答えなくてはいけない。

 まぁ、答えなんて最初から一つしかないのだけれど。

 

「……行く。私、センパイのこと諦める気ないから」

 

 当然だ、ココまで来てセンパイを諦めるなんていう選択肢は私の中にはない。

 今更別の高校なんて考えられない。

 というか、私とセンパイは許嫁同士とはいえ、まだ付き合っているというわけでもないので、最初からこれからの関係は一緒の高校に通いながら築いていけばいいと思っていた。

 だから結局のところ、高校に入ってから私がやる事は然程変わらない……と思う。

 

「それを聞いて安心した」

 

 お祖父ちゃんはそんな私の言葉を聞くと、それで問題が解決したわけでもないのに、何故か得意げに笑い、腕組みをしながらウンウンと唸っていた。

 

「一応、八幡には春休み中にどうするのか、きちんと考えて返事をするように話はしてある。許嫁の件を持ち出すのはその時まで少し待ってやれ」

「……春休みのいつ?」

「それは、八幡次第だな」

 

 って言うことは……最悪入学式までこんなモヤモヤしたままなの?

 落ち着かないよ……。

 

「センパイ……私と許嫁なの嫌だったのかな……?」

「どうだろうな……でも元々嫌がっていたのはお前だろ?」

「そ! ……れは、そう……だけど……」

 

 そこを突かれると私も弱い。

 いや、でもあんな状況だったら誰だって反対するでしょ?

 そもそもお祖父ちゃんはいつだって急なのだ。

 こちらの都合も考えず、周りを振り回して、自分勝手に場をかき乱していく。

 最初からセンパイがこういう人だって知ってたらきっと私だってあそこまで反対はしなかっただろう。

 そう、だから全部お祖父ちゃんが悪い。

 

「アイツもお前みたいに変わってくれりゃ話が早いんだがなぁ……正直今のアイツが続けると言ってくれるかどうかは五分五分ってところだろう、アイツもアイツで結構頑固だからな」

 

 お祖父ちゃんは最後に「まあ、最悪なんとかしようとは思っているが……」と小さく呟くと、また何かを考えるように黙り込んでしまった。

 どうやら、お祖父ちゃんとしても私とセンパイが許嫁の解消をすることは不本意らしい。

 これなら、そこまで心配しなくてもいいかな?

 

 しかし、五分五分、五分五分かぁ……。

 なんとなく、もう少し高いものだと考えてしまっていた。

 だって、なんだかんだいってセンパイも楽しんでくれていると思ったから。

 やはり私が甘いのだろうか?

 私とセンパイの一年が五分五分でリセットされるようなものだと考えるとやはり悲しくなる。

 センパイ……センパイと過ごすのが楽しいと思っていたのは私だけだったんですか?

 頭の中のセンパイにそう問いかけても、答えを返してくれる人は居ない。

 ちょっと泣きそうだ。

 

「まぁそれでもな、儂は勝ち目がないとは思っていないんだ、物証もあるらしいしな」

 

 お祖父ちゃんが肩を落とす私の頭にポンと手を置き、慰めるようにそういった。

 勝ち目がある? あるんだろうか?

 でもそれより何より……。

 

「物証……?」

 

 私が顔を上げてそう聞くと、お祖父ちゃんはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「実はな、とある筋からあいつが“あるもの”を隠し持っているという情報を得ている」

「あるもの? 何?」

 

 物証とか、とある筋とか、妙に持って回った言い方をするお祖父ちゃんに、私は少しだけイライラしながら、次の言葉を待った。

 

「それを儂の口から言うのは、アイツの精神衛生上もよくないだろうからな、本人の口から聞く……のは難しいかもしれんが、そのうちお前が自分で見つけろ。……多分その方が良いだろう」

 

 もー! なんなの! すっごい気になる……!

 なんだろう? センパイが隠し持ってる……物?

 本人の口からは聞くのが難しいってことは、言うのが恥ずかしいようなものだろうか?

 まさか何か盗まれた? いやいや、センパイにそんな度胸があるとも思えないし、センパイがそんな事をするはずがない。今日まで下着の数が足りないなんていう事もなかったはずだ。

 じゃあ一体なんだろう?

 私がセンパイにあげたもの……? でもプレゼントしたものを隠し持ってるとは言わないよね?

 あー! 気になる!!

 

「……何ニヤニヤしてるのさ」

「いや、やっぱお前たちは見てるだけでも面白いなぁと思ってな」

 

 考えても何も思い浮かばず、頭を振る私のことを、お祖父ちゃんはニヤニヤと楽しげに見下ろしている。

 完全におもちゃ扱いだ。

 全く、このお祖父ちゃんは……。

 

「‥っていうか、お祖父ちゃんってなんでそんなにセンパイの事色々分かってる風なの? センパイが頑固だの、勝ち目がどうだのって言うけど。お祖父ちゃんもセンパイと会ったのって去年の病院が最初なんだよね?」

「ん? ああ、そうだな」

 

 それは以前から感じていた事だった。

 この一年にしたって、私のほうがセンパイと過ごした時間は長いはずなのに、お祖父ちゃんの方がセンパイの事を理解しているような感じがする。

 

「なんだか妙に仲が良い感じだし、入院中に何かあったの?」

 

 お祖父ちゃんが去年入院したのは三月末、そこからセンパイと出会って、退院して私に紹介したのがその年のゴールデンウィーク。

 この間約一ヶ月しかない筈なのに、今の二人を見ていると、まるで本当の祖父と孫……いや、それ以上に分かりあっているように見えるし、なんなら私より仲が良いまである。

 一体、この二人の間に何があったのだろう?

 

「そういえば、その辺りの話は去年もしてなかったな。よし、いい機会だ。今日は少し昔話をしてやろう。といっても一年前か……」

 

 そう言うと、お祖父ちゃんは、どっかりとソファのわたしの隣に腰掛けると、少しだけ懐かしそうに目を細めながら、センパイと出会ったときの話をしてくれた……。

 

「何故、儂が八幡をお前の許嫁にしようかと思ったかというとだな……そうだな、どこから話そうか……」




回想まで一気に終わらせようかと思って頑張って書いていたのですが終わらず
思ったより長くなってしまったので、どこかで分割しようと考えたら
ここしか分割ポイントがなく、今週は大分短くなりました、お許しください

というわけで次回、回想編となります
急遽分割したのでまた一話伸びてしまった……。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、ここ好き、誤字報告。
何がしかのリアクションを頂けますと作者がとても喜びますので、お気軽によろしくお願い致します。


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第63話 エピソードゼロというほどでもない話

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここ好き。ツイッターでの読了報告等ありがとうございます。

前回短かったのもあり今回長めとなります。許して。



「それで? 儂はいつごろ退院できるんだ?」

 

 入院生活にも大分慣れ、春の暖かさも感じられるようになってきた四月のその日。

 儂はいつものように回診に来ていた中老の医者に向かって苛立ちをぶつけていた。

 

「はっきりとお約束は出来かねるのですが……予定通りなら恐らく五月中頃……遅くとも六月には退院という運びになるのではないかと……」

「六月か長いな……」

 

 文句を言っても仕方がないこととはいえ、まだふた月近くもこのベッドに縛り付けられているのかと思うとさすがに嫌気もさす。

 全く、最近の医学の進歩は目覚ましいものがあると聞いていたが、期待ハズレも良いところだと、ほとんど八つ当たりに近い感情を抱きながらも、それを口にすることのはあまりにも大人げないとぐっと堪え、儂は点滴が刺さったままの腕をげんなりと見つめていた。

 

「これまでもお忙しい日々を過ごしていた一色先生です、退屈でしょうが今は体を休める良い機会だと思ってご自愛いただければ……」

 

 困ったように笑う医師に、儂は「ふん」とこれみよがしに鼻を鳴らす。

 

「忙しいのは、お前の方だろう? 院長というのも大変そうだな。親父さんの苦労が少しは身に沁みたか?」

 

 そう、この医師はこう見えてこの病院の院長なのだ。

 今は別に儂の直接の担当医ということでもないはずなのだが、顔なじみという事もあってこうして毎日顔を出してくる。全く律儀なものだ。

 

「ええ、本音を言うなら今すぐにでも戻ってきて欲しいぐらいですよ」

「そういえば、親父さんは今は?」

 

 確かこいつの親父さんも去年倒れたと聞いたな。

 こいつの親父は元々儂の親父の知り合いで、儂よりは一回り年上だったはずなのでいくらか心配ではあるが、記憶を辿っても葬式をやった記憶はないので、存命ではあるのだろう。

 

「ピンピンしてますよ。倒れる前より元気で毎日うるさいぐらいです」

「そうか、また近い内にお会いしたいと伝えておいてくれ」

 

 院長が「はい、必ず」と言って再び頭を下げると、一瞬妙な間が出来た。

 これで回診も終わりだろう。

 さて、今日はこの後どうやって過ごそう? そんな風に思考を巡らせていると、未だ帰る気配を見せない院長が何やら言いづらそうにコホンと軽く咳払いをした。

 

「えっと……それで……ですね……一色先生。折り入ってご相談がありまして」

「相談?」

 

 儂が改めて院長の方へと向き直ると、院長はキョロキョロと目を泳がせてから、引き連れていた取り巻きに何やら指示をだすと一人だけを残し、部屋から追い出しはじめる。

 一体何事か、もしや儂の体に関する重大な事だろうか? と僅かに緊張が走った。

 

「息子の朔次(さくじ)です。ほら、挨拶しなさい」

 

 医師──院長がそう言うと、院長の後ろに残された一人の男がずいっと前に出てくる。

 その男の様相を一言で表すならば、なんというか……もっさりだ。

 真っ黒な四角い縁のメガネをかけているが、その眼鏡にはチリチリとした髪の毛が廃墟に絡みつく蔦のように覆いかぶさっていて、きちんと前が見えているのか心配になるほどだった。

 

「……藤崎朔次です」

「息子? ああ、あのアメリカで医者をしていると言っていた息子か、帰ってきたのか」

 

 儂の記憶が確かならば、何年か前にそんな手紙を貰った記憶がある。

 だが……こんな雰囲気の暗い青年だっただろうか?

 儂の言葉に、朔次が隠そうともせず「チッ」と舌打ちをしたのが聞こえた。

 

「そっちは長男で、こちらは次男です」

「次男? ああ、あの後ろをちょこまか歩いてた子か」

 

 言われてようやく思い出した。

 きっと今の儂の頭の上には豆電球が光っていることだろう。

 分かりやすくポンっと手を打って、もう一度息子に視線を向ける。

 

「大きくなったな以前会った時はこんなじゃなかったか?」

「ええ、一色先生がウチに寄ってくださった時なので、確か小学校に上がる前だったと思います」

 

 儂がベッドの高さぐらい、というジェスチャーで右手を腰の辺りで振ると。院長も「ようやく伝わった」とでも言いたげに満面の笑みを浮かべてくる。

 だが、決して儂が悪いわけではないぞ?

 この院長とは随分長い付き合いだが、それ以来次男とは会っていないのだ。

 長男が優秀すぎたというのもあるのだろうが、会った時には必ずといっていいほど長男が出てきて、次男の話題自体それほど聞かされていなかった気がする。

 だが、兄弟揃って医者になったということは、やはり血は争えないということか。

 

「兄弟揃って父親の後を継いで医者になるなんて、優秀な息子達だな」

 

 儂がそう褒めると「三浪の末ですが」と頭を掻く院長を息子が睨みつけていた。

 どうやら、親子関係もあまり上手くいっていないようだ。

 

「それに問題もありまして……」

「問題?」

 

 儂が首を傾げて、息子に視線を送ると、朔次はさっと儂の目から逃げるように顔を背ける。

 院長の言う問題というものが何かは分からないが、どうにも、こいつには社会人としての常識のようなものが足りていない気がした。

 

「ええ、今はうちで働かせていて……身内の恥を晒すようで恥ずかしい話なのですが、見ての通り愛想も悪く、院内での評判も良くないという状況でして……」

「……べ、別に仕事はちゃんとしてるんだからいいだろ……」

「……とまぁ、こんな感じでして。どこで育て方を間違えたのか……長男に比べると甘やかしてしまったという自覚はあるのですが、三十も過ぎていつまでも女の影の一つもないというのは親としても心配ですし、身でも固めてくれれば少しはマシになるのではと思っている次第でして……」

 

 溜息を吐きながらそういう院長に、儂は少しだけ同情の目を向ける。

 確かに、こんな様子では患者だって体を預けたいとは思えないだろう。

 

「ふむ、なかなか個性的な成長をしたようだな」

「恐縮です。そこで、相談なのですが、良かったら一色先生のお力でうちの息子に良い人を見繕ってやってくれませんか?」

 

 儂が出来るだけオブラートに包んだ評価を口にすると、院長はぐっと一度口を結び、その後そう言って、儂の手を握ってきた。

 正直、一つ前の話の流れから恐らくそういうことなのだろうという予測はしていた。

 というか、この手の依頼が多すぎて困っているぐらいだ。

 察するなという方が難しいだろう。

 儂は別に結婚相談所を開いたつもりはないんだが……一体いつからこんな事になってしまったのか。

 

「は? や、やめろよ」

「ええい、少し黙っておけ。どうでしょう? 一色先生のお力でなんとか良い相手を探してはもらえないでしょうか?」

 

 慌てた様子で、院長に抗議をする朔次だったが、院長は相変わらず儂の手を握ったままだ。

 さて……どうしたものか。

 

「どうかよろしくお願い致します」

 

 とはいえ、断る。という選択肢は儂の中にはない。

 結婚相談所を開いた覚えはないが、合いそうな子らが居たらつい口を出したくなるというのが儂の性分でもある。

 例えそれがお節介だと言われても、この年までやめられなかったのだから今更仕方がない。

 まぁ、あくまで「良さそうな相手がいたら」というだけなので明確な答えは避けているが、今回もその一環だと思うことにしよう。

 

「まぁ……一応頭には入れておこう」

「ありがとうございます」

 

 あくまで頭に入れておくだけ、確約はしていない。

 適当な相手を紹介するつもりもないので、いなかったらそれまでだ。

 

「お、俺には心に決めた人が……!」

「どうせ一方的に思ってるだけなんだろう?」

「ち、違う! 三沢さんは……!」

「三沢?」

「……っ! いいから! 余計な事すんなよ!」

 

 まずい事を言ったと思ったのか。朔次は最後に儂の方を睨みつけてから部屋をでていってしまった。

 その様子を見て、ふと儂の中の記憶が蘇る。

 

「……お前そっくりだな」

「わ、私はあそこまで酷くはありませんでしたよ!」

「そうだったか?」

「……あまりいじめないで下さい」

 

 三十年ほど前、こいつの親父さんに頼まれて院長に嫁さんを紹介したのは儂だった。

 その時はこいつが「俺には心に決めた人が!」と散々文句を言っていたのを今でも覚えている。

 その言い方があまりにも朔次の行動とかぶっていたので、儂は思わず吹き出してしまった。

 

「コホン……それで……あの、先程の件、よろしくお願い致します。私に似ているのでなまじプライドが高く、変な相手にひっかかりそうで色々心配でして……」

「まぁ、考えておく」

 

 あくまで確約はしない。

 儂がそういって手をふると、院長は最後に頭を深く下げ「それではまた」と、部屋を後にした。

 その日の朝の回診はそんな感じで終わった。

 

 ふむ、しかしまた相手探しか。

 儂としては今は他の連中より、孫娘の相手を探してやりたいと思っているんだがな……。

 今のいろはは外面ばかり気にして男というものを根本的に勘違いしている……変な男に引っかからないか心配だ。

 

 恐らくいろはには年上の相手の方が合うのだろうという予感はある。だが、具体的にどこの誰という所まではいっていない。

 まあ最近の若者は軟弱な奴が多いのでそこまで高望みはしないにしろ、出来ればそれなりに責任感をもって、いろはを守ってくれる。そんな相手がいればよいのだが……。

 

 とはいえ、いろはの相手にしろ、朔次にしろ。まずは人となりを知らないことにはどうしようもない。

 流石に見た目だけで、相性が良いかどうかなんて分からんからな。

 

 まあその辺りは焦っても仕方がない。

 こういうのはめぐり合わせというものがあるのだ。

 儂は頭を切り替え、暇つぶしがてら先日会った身近な学生──八幡の病室へと遊びに行くことにした。

 

*

 

「ん?」

 

 点滴スタンドを片手に八幡の部屋の前までやってくると、八幡の部屋の前で扉を少しだけ開けて、中を覗いている不審な人物が居ること気がついた。

 女の子だ。年の頃はいろはと同じかそれより上という所だろうか?

 ココに居るということは八幡の知り合いだと思うのだが、だとしたら何故部屋に入らないのかが分からず、儂はその背中に向かって声をかける。

 

「お嬢ちゃん、八幡の見舞いならそんな所で覗いてないで入ったらどうだ?」

「は!? へ!? あ、その違くて! あ、違くないんだけどその! えっと……あの……!」

 

 だが、儂が声をかけると、その少女は慌てた様子で持っていた花束を振り回し、早口で意味のわからない言葉を並べ立てるばかり。

 このままでは埒が明かないと思い、儂は「少し落ち着きなさい」と一言いって、一歩前へと足を進めたのだが。

 その瞬間、その少女は

 

「こ、これどうぞ! お大事に!!」

 

 と言って、何故か儂に花束を渡し、病院の廊下をまるで百メートル走のトラックと勘違いしているのではないかと思うスピードであっという間に駆け抜けて行ってしまった。

 

「なんだありゃぁ?」

 

 あとに残されたのは、儂と花束のみ。いや、点滴スタンドもあるか。

 儂と花束と点滴スタンド。なんだかお涙頂戴ものの小説の題名のようだ。全く縁起でもない。

 しかし、これ儂が貰っていいものだったのだろうか?

 どう考えても儂の知り合いではないのだが……孫娘のいろはと似たような背格好だったのは確かだ、やはり八幡の友達と考えるのが妥当だろう。

 

「よぅ、八幡。お、小町ちゃんも来てるのか」

 

 そう結論付け、儂が八幡の部屋へと入っていくと、そこには相変わらず退屈そうな八幡と、見舞いに来ていたらしい妹の小町ちゃんの姿があった。

 

「おっさん、本当暇だな……」

「あ、縁継さんこんにちはー」

 

 挨拶をするなり小町ちゃんはすっと立ち上がり、病室に備え付けられている新たなパイプ椅子を用意し、儂に座るよう促してくれた。

 兄の見舞いに足繁く通うことといい、この子は本当によく出来た子だと思う。

 もし儂があと五十年若かったら……そして楓がいなかったら放っておかなかっただろう。

 

「ああ、ありがとう。八幡ほれお前のだ」

 

 「いえいえ」という小町ちゃんに目配せをしながら、どっこいしょと椅子に腰掛け、儂は持っていた花束を八幡へと渡した。

 

「え? 何これ?」

 

 不思議そうにその花束を見ながら、何度もまばたきをする八幡を見ていると、その間に小町ちゃんが儂の前にお茶を用意してくれる。

 本当に八幡の妹にしておくのは勿体ないな。

 

「今ドアの前に女の子がいてな、お前の知り合いだと思うんだが、花だけ渡して消えちまった」

「何それ怖い」

「女の子? お部屋を間違えたとかですかね?」

 

 儂が椅子に座り、ふぅと一息つくと、八幡と小町ちゃんが同じタイミングで首を傾げて花束を見る。

 

「いやぁ? 間違えてたら花は持ってくだろ? 普通にお前宛じゃないのか? よく思い出せ、多分お前と同じぐらいの年の、なんかこう……こんな、こんな感じの女の子だ。」

 

 身振り手振りでなんとかその子の特徴を伝えようと、胸元やらひらひらしたスカートやらを表現していくが、八幡は首を傾げ、小町ちゃんはそんな儂の様子を見ながら笑うばかりだ。

 

「縁継さんの顔のまま、スカート履いてるのを想像しちゃいました……ぷぷ」

「……というか女子だろ? 俺高校の入学式すらでてないんだぞ? そもそも俺に見舞いに来てくれるような知り合いがいない」

 

 なんだか哀しい事をさも当然という口調で得意げに言う八幡に呆れながらも、儂は続けて口を開いた。

 

「中学の時の友達とかかもしれんだろう? お前が事故にあったと聞いて見舞いに来てくれたのかもしれんぞ? ほら、思い出してみろ」

「それこそないな、もうリセット済だし」

「リセット……?」

 

 瞬時には言葉の意味がわからなかったが、少し考えてその意味を推測し、次にゲーム脳という言葉が脳裏をよぎった。

 そういえば、最近はそういうのが問題になっていると聞いたことがあるが、こいつもその口だろうか?

 やはり最近の若者というのはどうにも理解し難い部分がある。と少しだけ日本の将来が不安になっていく。

 

「……じゃあ、誰だったんだろうな」

「だから部屋間違えたんじゃないの? 知らんけど」

 

 そんな会話をしながら、ふと儂は八幡のベッドに掛けられている一枚のファイルに視線を向けた。

 それは看護師や医師が患者を取り違えたりしないために、部屋番号や担当医の名前等が書かれている確認用のファイルで、八幡の名前の代わりにバーコードと八幡の担当医の名前や、今後の治療予定が書かれている。ちなみに取り違え防止という意味で入院患者には全員名前付きのバーコードが手首に巻かれていたりもするのだが、これはこれで意外と邪魔なんだよな……。

 

「なぁ八幡、お前朔次──藤崎先生に診てもらってるのか?」

「何急に? まあ、そうだけど。何? 知り合い?」

 

 こんな偶然もあるものか、世間は狭い──というか同じ病院なのだしそういう事も当然あるのだろう。だが、これはチャンスだと思い儂は言葉を続けていく。

 

「知り合いってほどでもないんだがな、なぁお前から見て、藤崎先生はどんな先生だ?」

「どんな感じって言われてもなぁ……」

 

 儂がそう問いかけると、八幡は小町ちゃんと一度顔を見合わせてから不思議そうに口を開いた。

 

「普通の先生なんじゃないの……?」

「でも、あんまり優しい感じの先生じゃないよね、愛想が悪いっていうか?」

「そうか? 医者なんてあんなもんなんじゃないの?」

「違うよ、小町が熱出した時とかに見てくれる先生はお爺ちゃんだけどすっごい優しく話しかけてくれるもん」

 

 どうやら、八幡としては普通、小町ちゃん的にはあまり良い先生ではないという印象らしい。ふむ……。さすがにこれだけじゃ判断できんな。なら……。

 

「なぁ八幡、少し仕事をしてみんか?」

「どういう話の展開だよ。入院患者を働かせるとかブラックすぎるだろ、やだ俺は生涯働きたくない」

 

 軽い気持ちで仕事の依頼をだしたのだったが、思っていた以上の拒否反応が飛んできて思わず儂は目を丸くする。

 全くこいつは……。世間を舐めているのだろうか?

 

「そんな事いっても、いつかは働かなきゃならんだろう? そんなにきつい仕事にはならんさ、多分いいリハビリにもなるぞ?」

「断固断る」

「お兄ちゃん最近全然動いてないんだし、少しはリハビリしたほうがいいんじゃないの? ずっとベッドの上でスマホいじるか本読んでるだけなんでしょ?」

 

 小町ちゃんが援護射撃をしてくれるが、八幡の心は揺らぐ様子はない。

 やはりバイトというからにはアレがないと駄目か。

 

「バイト代はだすぞ?」

 

 一度首を振った後、視線を逸らす八幡に向けて、儂がそういって餌をぶら下げると。

 今度は分かりやすく反応を示してくる。

 

「……バイト代って? どれぐらい?」

「そうだな……簡単な仕事だしとりあえず“特装版”とかでどうだ? 引き受けてみんか?」

 

 最後に儂がそう言うと、八幡の眉がピクリと動いた。

 先日、八幡が購入したラノベ。どうやら通常版と特装版というのがあったらしく。

 八幡は特装版が欲しかったが、金がなくて通常版しか買えなかったと言っていたのを思い出したのだ。

 かなり悔しがっていたので、交渉材料に使えるだろうと思っていたのだが、思ったより効果はあったらしい、八幡は少しだけ何かを考えたあと、一度小さくため息を吐いて

 

「……何すりゃいいの?」

 

 と呟くと、続けて小町ちゃんも

 

「小町も! 小町も手伝いますよ!」

 

 と、言ってくれた。八幡に仕事を依頼したのはこれが初めてのことだった。

 

***

 

**

 

*

 

「これ、バイトの結果」

 

 それからまた数日後、検査やらなんやらで忙しい日々が続いた儂が、久しぶりに八幡の部屋に入るなり、八幡は手に持っていた小さなメモ帳を儂の方へと放り投げて来た。

 八幡に頼んだのは大したことではない。八幡の担当医にあの朔次という男の事を世間話がてら探って欲しいというものだった。

 だが、正直それほどの期待はしておらず、口頭で印象などを説明されるだけだと思っていたのだが、八幡がきちんとメモ帳を用意していた事に儂は少しだけ驚愕した。

 

「嫌がってた割にしっかり仕事してるじゃねぇか」

「今回だけだからな……」

 

 儂がそのメモ帳をペラペラとめくってみると、そこには朔次に関する様々な話が雑多に書き連ねられているのが分かる。

 量はそれほど多くはないが、少なくとも儂の知らない情報だらけなので問題はない。

 それに何より、そこにはあの時聞いた「三沢」という名前についての情報も書かれていた。

 どうやら、八幡を担当している看護師の一人でもあるらしい。

 本当に思っていた以上に優秀だ。

 

「お前、意外と探偵とか向いてるんじゃないか?」

「いやそっちの看護師関係はほとんど小町だから、俺は大したことはしてない。そもそも俺、専業主夫志望だし」

「……そうか」

 

 専業主夫志望という言葉に色々言いたいこともあったが、なんとか飲み込み、儂は再びメモ帳へと視線を落とす。

 実際、こいつが将来どんな職に就くのか少しだけ気になるところだ。

 専業主夫ということは、もうすでに決まった相手がいるのだろうか?

 だが、高校には友達がおらず、それまでの関係もリセットしたと言い張っていたはずだ、一体どこまでが本気なのか判断が難しいな。 

 

「ぶっちゃけあの先生と話してるだけじゃ碌な情報手に入らなかったからな、小町が看護師に色々聞いてたから実質小町の仕事だ」

「なら今度小町ちゃんにもちゃんとお礼しとかんとな。儂が色々動いてると思われたく無かったんで正直助かった。ありがとう」

「……まぁ、俺もこのまま報酬だけ貰うのもなんだし、もう少し調べてみる……」

 

 儂が礼を言うと、八幡が少しだけ照れたようにそう口にしたので、儂は驚きを隠せなかった、仕事なんてしたくない。働きたくないと言っていたから、責任を感じるような事はないと思っていたからだ。

 報酬も儂からすれば安価なものだったので、本当に軽く話を聞いてくる程度で終わると思ったのだが。

 責任感もいっちょ前に持っていたらしい。

 もっと適当な奴かと思ったが、こいつは案外……。

 

*

 

 そうして八幡からメモを受け取った儂は、八幡の病室を後にしてナースステーションへと立ち寄った。

 ココまで来たら目的は一つだ。

 

「三沢さんはいるかい? ちょっと話をさせてもらいたいんだが……?」

「はい? 三沢は私ですけど……なんでしょう?」

 

 ナースステーションーのカウンターで声をかけると、目の前の若い女性の看護師がそう答える。

 どうやら、いきなり当たりを引いたようだ。

 

「藤崎──朔次先生のこと、といえば分かるか? 何、悪いようにはしない、本当にちょっと話を聞きたいだけだ。儂は院長とは古い仲でね」

「……もうすぐ交代なので、その後で……その、少しだけなら」

 

 警戒しているのだろう「少しだけ」という言葉を強調しながら、こちらを探るように渋々という体で承諾してくれた。

 

「ああ、それじゃ談話室で待ってる。この時間なら人も居ないだろう」

「はい……」

 

 談話室は入院患者が見舞客と話すためのスペースだ。

 テーブルごとに仕切りもあるし、夕食前のこの時間ならほとんど人が居ない、声が漏れることもないだろう。

 そう考え、儂は一足先に談話室へと足を進めていった。

 

*

 

「さて……まずは自己紹介だな。儂は一色縁継、見ての通り入院中の身だ」

「お名前は存じております、三沢美津葉(みつは)です」

 

 やがて私服姿で現れた三沢嬢に、儂が自己紹介をすると、三沢嬢も深々と頭を下げて名乗ってくれた。突然の呼び出しにも関わらず礼儀もしっかりしている出来たお嬢さんだ。

 儂は予め購入しておいた、コーヒーとお茶のペットボトルを三沢嬢の前に出し、好きな方を選ばせてから、ふぅっと、一度息を吐いて本題に入った。

 

「いきなり呼び出されてアンタも不安だと思うので、単刀直入に言おう。ちょっとした縁でここの院長から、息子──朔次の嫁探しを頼まれた。だが、息子の方には想い人がいると聞いている、もしその相手がアンタで、二人が好き合っているというなら、儂の方から特に何かしようとは考えておらんから正直に教えてほしい。おまえさん達は……好き合ってるのか?」

 

 あまり長引かせても悪いと思い、儂が一気にそう言うと、三沢嬢は「ああ、その話か」とでも言いたげにげんなりとした表情で一度首を振る。

 

「いいえ……、藤崎……朔次先生とは、タダの同僚。同じ病院で働く先生と看護師というだけです。ソレ以上でもソレ以下でもありません」

「ふむ、だが。どうにも病院内での噂を聞いた限り、それだけではないように思えるんだが?」

 

 儂は八幡の仕入れた情報を元に、三沢嬢と会話を続けた。

 八幡から聞いた話では、どうにもこの二人が付き合ってる、それどころか朔次が次期院長候補であり、三沢嬢はその夫人であるという噂が流れているらしいのだ。

 

 では何故そんな噂が立っているか? というと。

 朔次が何かに付けて院内で三沢嬢を贔屓しているというのが多くの看護師の見解らしい。

 具体的な内容としては三沢嬢の夜勤シフトを減らし、無理矢理他の看護師に回すという露骨なものから。

 他の看護師がミスをした時には鬼のように叱責したのに、三沢嬢が同じようなミスをした時は何もしないというもの。

 自分の回診の時には必ず三沢嬢が付いてくるように指示していたりもするものなど、とにかく多岐にわたる。

 当然、反感を持つものも少なくないが院長の息子であり、次期院長候補からの指示なので誰も文句は言えない。

 だが、視点を変えるとまた別の物も見えてくる。

 

「その……これはあまり他言しないで頂きたいのですが……」

 

 三沢嬢によると、そういう事はやめてくれと何度も言っているそうなのだ。

 実際既に仕事に支障が出ている。

 一部の看護師からは陰口を叩かれ、仕事もしにくくなっているらしい。

 まあ、それはそうだろう。

 よほどの神経の持ち主でなければそこまで露骨な扱いを受けて喜ぶ者は居ない。

 ましてや好き合っているわけでもないなら尚更だ。

 

 朔次本人が元々コミュニケーション能力に難がある奴だという話でもあるので、少し行き過ぎた愛情表現をしているという部分が強いのだとは思うが。

 好意自体には三沢嬢も気が付いてはいるので、遠回しに断っても通じないので困っているらしく、気難しい人物ゆえ下手に刺激するのも怖いのだという。

 

「それは中々大変そうだな……」

「……正直どうしたらいいか分からなくて……」

 

 頭を抑えながらそういう三沢嬢に、儂は少しだけ同情した。

 全く、院長もとんでもない依頼をしてきたものだ。

 そもそも人間として未成熟ではないか、これではまともな相手を見つけるのも一苦労だ。

 

「一応……これは確認なんだが、あんたが朔次を選ぶっていう選択肢はないんだな?」

「はい……その……実は私、来年には実家に帰ろうと思ってるんです」

「ほう、それは朔次が嫌で?」

「いえ、元々決めてたんです、お爺ちゃんが青森で小さな町医者をやってまして、そこの手伝いをするのが小さい頃からの夢だったんです」

 

 そういう三沢嬢の目には先程までの弱々しさは消えて、強い力が宿っていた。

 よほど強い思いがあるのだろう。

 会ったこともない祖父に思わず嫉妬心を抱くほどだった。

 いろはがこんな事を言ってくれる日は来るのだろうか?

 

「祖父が一度は大きな病院で働いてみるのも良い経験になるからって背中を押してくれて、五年間こっちで働いたらその経験を生かして、祖父の病院に戻ろうと思ってたんですけど……」

 

 それがこんな事になるとは思っていなかった。という言葉の代わりに溜息を吐くと。

 力なく微笑んで、先程渡したペットボトルの蓋を開けた。

 

「なるほど、孝行な娘さんを持って、お祖父様もさぞ幸せだろうな」

「そうでしょうか? そうだといいんですけど……」

 

 相変わらず力なく笑う、三沢嬢。

 その姿をみて、儂もつい応援したくなってしまう。

 

「だから、藤崎──朔次先生とはそういう事は考えられないんです。ご本人もこの病院を継ぐ気のようですし」

「まあ、そうだろうな」

 

 既にこの病院の院長は二代続いて藤崎家が担っている。

 今後三代目として長男の方に継がせる可能性もあるが。その長男が日本を離れている今、朔次が自分が次期院長だと考えるのはありえない話ではない。

 三沢嬢に対する態度も調子に乗った結果とも言えるのかもしれない。

 

「ですから、朔次先生には私以外のかたと幸せになって欲しいと思っています……」

「ふむ……これはあくまで儂の直感だがな、アンタと今のアイツが合うとは思えん。仮に今のままなにかの間違いで二人が結婚までいっても同居生活に嫌気が差して離婚となるのがオチだろうよ。まあ心配すんな、無理矢理どうこうさせようとは思ってないし、儂がさせない。安心してほしい」

 

 儂がそう言うと、三沢嬢は少しだけ安堵の表情を浮かべ、頭を下げた。

 

「というか、いっそきっぱり振っちまえばいいんじゃねぇのか?」

「告白もされてないのにですか? それこそ何を言われるか……」

 

 プライドを傷つけられた、と思って逆に嫌がらせをされる可能性もあって怖いのだという。

 

「ふむ……なら儂の方から叱っておこうか?」

 

 むしろ親の方も一度呼び出して叱りつけたい気分だったので、儂が軽くそう提案したのだが……

 

「や、辞めて下さい! そんな事してそれこそ逆恨みでもされたら……」

 

 三沢嬢は慌てて両手を自分の前で振り儂の提案を拒否した。

 

「だが、そうしないといつまで経っても解決しないだろう?」

「何とかしていただけるなら助かりますけど……その……あまり私の事とかは抜きで……相手を怒らせない方法にしていただけると……」

 

 そう言われて儂は口ごもってしまう。

 今回の件で三沢嬢の事を話さずに三沢嬢を諦めさせるというのは非常に難しい。

 

「分かった。何か……考えてみる」

 

 最悪贔屓をやめろ、程度の事は言えるかもしれないが、それでは根本的な解決にはならない。恋は盲目とも言うからな。

 叱る以外に何か良い方法があるのだろうか?

 一度ガツンと言ってやったほうが良いのではないかと思うのだが……。

 

「ありがとうございます。まぁ……どうにもならなかったとしても、あと一年の辛抱ですから……」

 

 そう言うと、三沢は少し困ったように、そして泣きそうな顔でくしゃっと笑った。

 

 

 

*

 

「と、言うわけで、概ねお前の調べた通りだったんだが……お前ならこの後どうする?」

「いや、どうするって、何その話? 俺が聞いてもいい奴?」

「まあ、お前が外に漏らさなきゃ問題ないだろ。これも仕事の一貫だ」

 

 翌日、儂は病院の屋上で八幡に事情を説明していた。

 実の所三沢嬢と話した後、儂はとりあえず一度朔次と話をしようと朔次に会いに行った後だったりもする。まぁ「忙しい」「あなたと話すことはない」と聞く耳をもたず一方的に追い出されてしまい、何の成果も得られなかったのだが。さて、どうしたものか……。

 

「……つか、おっさんが乗り込んだのはかなりの悪手だと思うぞ……? そもそもおっさんは何がしたかったの?」

 

 八幡にそう問われ、儂は少しだけ頭を捻った。

 ……儂は一体何がしたかったのだろうか?

 繰り返すようだが儂は結婚相談所をやっているわけでも、恋愛相談を受け付けているわけでもない。

 今こうしているのも暇つぶしという意味合いの方が大きかったりもする。

 とはいえ、昔からの友人でもある院長の頼みだ、手っ取り早く朔次に合いそうな奴がいれば紹介してやりたいという程度の人情もないわけではない。だが、頭の中にアイツに紹介できそうな奴も思い浮かばないので、どうしようもない。それに何より、すでにアイツの心に三沢嬢がいるのであれば、どちらにしろ一度諦めさせないといけない。

 そして、三沢嬢自身もそれを望んでいる。

 だから変な嫌がらせだけでも辞めるよう一度お灸を据えてやろうと思っていたのだが……。

 ……出来るだけ波風の立たない方法を取ってほしいとも言われているのだ。

 儂は一体何をしに行ったのだろうか?

 

「……八幡から見て今の状況を打開する手段はあると思うか? 儂としてはやはり直接言ってやった方が早いと思うんだがな」

 

 叱るというのも一種の愛情だ。

 儂のやり方が間違っているとも思えない。

 少なくとも儂はこの年までそうやって生きてきた。

 

「正直、おっさん──というか第三者にそれをされたあとの逆恨みが怖いってのは少し分かる。あの先生結構プライド高そうだからな、ああいうタイプは切れたら何するかわからないし。もう手を引けば?」

 

 だが、八幡は真正面から儂の生き方を否定し、その上で最後に「ま、俺には関係ないけど」と無責任に呟き空を仰ぐ。

 放っておきたいのは山々だが、儂としてはもう三沢嬢の心の内を聞かされてしまっている。

 あんなに祖父思いの子が苦しんでいるというのは見るに堪えないのだ。

 

 そもそも好いた女に気持ちが届かなければ後は努力するなり、諦めるなりするものじゃないのか?

 独りよがりの方法で『私はアナタの事を思っています』とアピールされてもそれが相手にとって迷惑なのであれば意味がないではないか。

 やはり儂としては朔次にガツンと一言言ってやりたくなる……なんなら拳骨を食らわしてやりたい気分だ。

 だが、そうして拳を握り込む儂を見て、何かを察したのか八幡が小さく首を振る。

 どうやら、やめろ。という事らしい。結局堂々巡りだ。

 

 そんな事を考えながらベンチの背もたれに体を預けると、ふいに誰かが屋上に出てくる気配を感じた。

 

「おい! 八幡! 隠れろ!」

「へ?」

 

 見えた人影は二つ。

 一人は朔次、そしてもう一人は、昨日とは随分雰囲気が違うが看護師姿の三沢嬢だ。

 儂は慌てて、八幡の頭を下げさせると、ベンチの影へと隠れる。

 

「ごめんね、三沢さん、急にこんな所まで付いてきてもらって」

「……いえ、あの……なんですか? 私すぐに戻らないといけないんですけど……」

「ああ、大丈夫。君の仕事はちゃんと他の人に代わって貰うよう言っておいたから」

「あの、こういうの本当に困るんですけど……」

「ふ、ふふ、気にしなくていいよ。朝から急患で疲れただろう? 僕と一緒なら怒られないさ」

 

 お互い日本語を使っているはずなのに、まるで会話になっていないような会話を繰り広げ、徐々にこちらに近づいてくると、二人は丁度屋上への入り口と儂らの間にあるベンチの辺りで立ち止まると、先にベンチの座った朔次が、鼻の下を伸ばし、三沢嬢に自らの隣に座るよう何度も指示を出していた。見るからにエロオヤジという雰囲気だ。

 当然三沢嬢もソレには従わず「ここで大丈夫です」と何度も断りながら距離を取ろうとしているが、「いいからいいから、ほらほら」と何度もベンチを叩いている。

 

「駄目だな、やっぱりここは儂がガツンと……!」

「待てって……」

「離せ八幡!」

 

 もう我慢出来なかった。

 儂は八幡の頭を押さえつけていた手を握り込み、そのまま二人のところへ行こうと力を込める。

 

「はぁ……仕方ない……これも仕事か……」

 

 だが、八幡は溜息を吐きながらそう言うと、立ち上がろうとした儂と入れ変わるように、スッと立ち上がり、スタスタと二人の元へと向かって行ってしまった。

 儂は一瞬何が起きたのか分からず、思わずあっけに取られぽかんと口を開ける。

 アイツは一体何をするつもりなのだろう?

 儂も行ったほうがいいのだろうか?

 だが、アイツの考えが分からず、儂は結局年甲斐もなく一人そのままぽつんと八幡の背中を眺めることしかできなかった。

 一歩一歩確かめるように二人の元へと近づく八幡に、やがて三沢も朔次も気がついたようで、二人の視線が八幡へと集まっているのが分かる。

 

「あれ、君は……」

「比企谷くん?」

 

 二人が八幡の姿を捉えても、八幡は止まらない。

 ズンズンと進みながら、朔次の前を通り過ぎ、やがて三沢の前で止まる。

 

「ずっと前から好きでした! 俺と付き合って下さい!」

「!?」

「!!」

「?!」

 

 三者三様の驚きが屋上を支配した。

 しかし、次の瞬間三沢が儂の存在に気付き、目があう。

 だから、儂は無言で一度頷いた。

 それで何かを察したのか、三沢は驚きの表情を隠し、真面目な表情へと切り替えていく。

 

「……ごめんね比企谷くん。私、今は誰とも付き合う気はないの。誰に告白されても付き合う気はないの。今は仕事に集中したくて。私ね、来年から青森にある実家の病院の手伝いをするつもりなの。それが小さい頃からの夢だった。だから今は恋愛とかに時間を割いてる余裕がなくて、今この瞬間もすぐに仕事に戻って看護師としてレベルアップしたいと思っているの。だから、ごめんなさい」

「……そうですか。なら、仕方ないですね」

 

 驚いた。

 本当に驚いたとも。

 

 ガツンとやられた。

 頭を殴られるような衝撃、なんてもんじゃない。

 自分が年老いたという現実をまざまざと見せつけられた気分だった。

 

 やがて、三沢嬢がペコリと一度頭を下げ屋上を後にすると朔次が「比企谷くん……君は……」と「いや、なんでもない……」と言って屋上を出ていった。

 あとに残されたのは儂と八幡だけだ。

 

 こんな奴が……こんな馬鹿がまだいたのか。

 最近の若者は軟弱者が多いと思っていた、いろはの前でもつい「儂の若かった頃は」と昔の自分がいかに凄かったか語った事もあった。

 だが、儂にあんな事ができるか?

 いや、出来ないだろう。

 儂にはあんな若さはもうない。

 

 ふと握りしめていた手の平を開けば、そこには皺くちゃの爺の手があるだけ。

 だから、ただただ嫉妬した。その無鉄砲さに。その実直さに。その若さに。

 儂はこんなにも年老いてしまったのかと、落ち込んだほどだ。

 ただの思い上がった若造の拗らせ恋愛の一つや二つ、儂が適当に叱りつけて、それでオシマイだと思っていた。

 だが、アイツは儂の思いつかない方法で、自分の身一つでこの場を乗り切ったのだ。

 これで朔次も三沢嬢の思いに気付いただろう。気付かない方がどうかしている。

 その上でまだ仕事に支障をきたすやり方を取るならソレこそ上の奴が叱ればいい。

 あいつは三沢嬢の気持ちをもう知ってしまった、その上で仕事の邪魔をするのであればそれは愛情表現ではなくただの嫌がらせでしかない。

 

 八幡のやり方は決してスマートなやり方とは言えないし、今後もこの方法が取れるか? と聞かれれば当然否だ。決して褒められたやり方でもない。

 だが、今この場においてあいつのやり方がベストであったことは誰にも否定できないだろう。

 

 しかし、それでも一つだけ分からない事があった。

 

 儂は、屋上から三沢嬢と朔次が完全にいなくなったのを確認してから、八幡の元へと歩み寄り、それを確認しにいった。

 

「お前、なんであんな事を?」

 

 八幡は、つい今さっきも「俺には関係ない」といい、この状況には微塵も興味を持っていない様子だった。

 八幡にはあんな事をする理由が一つもないはずなのだ。

 

「……さっき自分でこれも仕事の一貫だって言ってただろ? だから仕事だよ……特装版忘れてないからな?」

 

 だが、八幡はこともなげにそう言って、少しだけ恥ずかしそうに儂の目を見る。

 その姿に、儂は一瞬あっけに取られてしまった。

 そして同時に笑いがこみ上げてくる。

 どうやら、こいつは思っている以上に捻くれているらしい。

 

「は……はは、はははは! はははははは!! お前、最高だな!!」

「まぁ……楓さんからも頼まれてたしな……って、痛い、痛いって! そこヒビ入ってるから! 折れる折れる! マジ辞めて下さいおねがいしまずぁ痛ぇぇぇぇ!!?」

 

 バンバンと八幡の肩を叩きながら、儂は大いに笑う。

 一瞬楓の名前が出た気がしたが、そんな事は気にもならなかった。

 比企谷八幡という男の本質が少し見えてきた気がしたからだ。

 目が腐っていると思っていたが、どうやら性根は腐っていないらしい。

 こいつは、思っていた以上の逸材かもしれない。

 綺麗事を並べ立て、いざという時に動けないという人間を儂はこれまで嫌というほど見てきた。だが、こいつは口ではなんだかんだ言いながら、動くべき時に動ける。

 それは一つの才能だ。

 思い返してみればこいつが入院する原因もそうだった。儂がこいつに惹かれたのはそういった部分もあったのかもしれない。

 

 朔次のように、他者の気持ちへの配慮が出来ず、自分のことしか考えられない若者がいる昨今、こんな男に出会えたことは幸運といえるだろう。

 まだたった数週間の付き合いだが、こいつなら……。こんな男になら儂の大事な孫娘を任せられるのではないだろうか?

 もちろん、全く不安がないわけではないが、こいつはまだ高校生。未来に投資するだけの価値はある。

 手をこまねいていれば、こいつの魅力に気付く奴もゴロゴロ出てくるだろう。

 だから早めに手を打っておきたい。

 

 勿論、突然そんな事を言っても、こいつもいろはも承諾しないだろうなぁという予感はある。

 お互いまだ若い。納得させるのは随分と骨が折れそうだ。

 

 そう考え、儂は青空の下で何年ぶりかの大笑いをしたまま。その空に二人の許嫁計画を描き始めていた。




というわけで世にも珍しい縁継さん視点でした。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、ここすき。誤字報告。
読んだよー、ここおかしいよー等お気軽にお知らせいただけますと作者がとても喜びますので何卒よろしくお願い致します。


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第64話 欠乏症

いつも感想・評価・お気に入り・メッセージ・誤字報告・ここ好き・ツイッターでの読了報告ありがとうございます。

なんだかんだで6月も毎週投稿になってしまいました
来月こそ……来月こそ休むぞ……!


「という感じでな、それから八幡をお前の許嫁にするべく動いたってわけだ。まあ、だからそろそろアイツには自分の意思でお前との許嫁を続けてほしいとも思っているんだが……」

 

 ソファにドカッと座ったお祖父ちゃんが一通り入院中の出来事を話し終えるとニカッと口角をあげる。

 その様子はまるで百点のテストを自慢気に見せて褒めてもらうのを待つ小学生のようだ。

 

「どうだ? 惚れ直したか?」

 

 しかし、望み通りの反応が得られなくてじれったくなったのか。

 お祖父ちゃんはもう一度ダメ押しのように体を乗り出して来る。

 きっとお祖父ちゃんとしては「凄い」とか「惚れ直した」とか言ってほしいのだろう。

 でも……私はどうにもそんな気分にはなれなかった、それどころかモヤモヤとした黒い感情が私の中を渦巻いていく。

 

「本当に……センパイがそんな事したの?」

「ん? なんだ? 疑うのか? なら丁度良い今晩は祝の席だしな八幡と一緒に入院中の話をもっと聞かせて……」

「そんなの聞きたくない!!」

 

 楽しげなお祖父ちゃんの声を遮るように私がそう叫ぶと、お祖父ちゃんがギョッと目を見開き、キッチンに行っていたママとお婆ちゃんも何事が起きたのかとこちらを覗き込んで来たのが視界の端に見えた。

 

「いろは?」

「いろはちゃん?」

 

 私はそんな三人の視線から逃げるようにソファから立ち上がると、早足で自室へと向かい、バタンと扉を締める。

 扉の向こうで「あなた、何を言ったんですか!」「い、いや。儂は別に何も……」というお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの会話が聞こえた。

 別にお祖父ちゃんに何かされたわけじゃない。

 いや、厳密に言うとお祖父ちゃんのせいではあるのだけれど。多分、お祖父ちゃんには私の気持ちはわからないだろう。 

 だって、お祖父ちゃんの言う通り、センパイは凄いことをしたのだ。

 誰も傷つかない方法でお祖父ちゃんと、その三沢さんという看護師さんを助けた。

 それはよく分かる、センパイなりの方法で、お祖父ちゃんをあっと言わせた。

 さすがセンパイだ。私のセンパイだ。

 でも……。

 

「いろはちゃん? どうしたの? 具合悪い?」

「……大丈夫、少し放っておいて」

 

 どんなにセンパイが凄いことをしたんだと思おうとしても、心が付いてきてはくれなかった。

 私は、自室の扉を背にして、天井を見つめる。

 少し、泣きそうだ。

 

「……じゃあ、お夕飯どうする? 八幡君呼ぶんでしょう? お寿司にする? 焼き肉? いろはちゃんのお祝いだから好きな方でいいのよ?」

 

 扉越しに、ママが優しく声をかけてくる。

 ああ……そうだ、そういえばさっきそんな事言ったっけ。

 でも、今日はもうセンパイと会う気分にはなれなかった。

 

「……今日は、センパイは呼ばない……お寿司も、焼き肉もいらない……」

 

 だって、今センパイに会ったら、きっと色々問い詰めてしまいそうだったから。

 「なんでそんな事したんですか?」と「なんでそんなやり方しか思いつかなかったんですか!」と泣いて縋ってしまうかもしれない。

 でも、あれは過去の事で、私のは単なる八つ当たりだ。

 そんな事を言われてもセンパイが困るだけだろう。

 だから、私は飲み込むしかなかった。

 

 別に、センパイのことを嫌いになったとかじゃない。

 センパイがそんな行動をとったことで救われた人がいるというのもわかる。

 ただ……それでも悲しかったのだ。

 だから、少しだけ気持ちを落ち着ける時間が欲しかった。

 

「そう……それじゃぁ、今日はお婆ちゃんとご馳走作るわ。お赤飯炊いて、いろはちゃんの好物もいっぱい作るから。それまでゆっくり休んでお腹空かせておいてね。ママ達キッチンにいるから、何かあったら言いなさい?」

「……うん、ありがとうママ」

 

 そんな私の声からママは何かを察したのか、最後にそう言うと、扉の前から気配を消し、私を一人にしてくれた。

 

*

 

 それからの事は、あまり覚えていない。

 なんだかボーッとしているうちに時間が経っていったように思え、気がついた時にはもう数日センパイと連絡を取らない日々が続いていた。

 

 別に、喧嘩をしたとかじゃないし、連絡を取りたくなかったわけじゃない。

 例の偽装告白事件に関しても、一日時間が経ってみれば、私の中に湧いていたモヤモヤした感情も大分落ち着いてきた。

 なんと言っても私がセンパイと出会う前のことだ。仕方のない部分もあるし、私が今更どうこう言うのも間違っているだろう。

 むしろ変にセンパイを責めるような事をすればそれこそ「リセット」なんていう事にもなりかねない。

 結局私には選択肢はないのだ。

 これも惚れた弱みというやつなのかもしれない。

 だから、いつも通りに……。と思っていたのだけれど。ことはそんなに簡単でもなかった。

 

 あの日「後で連絡する」と言ってしまったのに連絡をせず、約束を破ってしまっているのだ。

 それももう数日。

 もちろん謝ろうとは思った。

 センパイの事だから、そもそも気にも留めていないかもしれない。

 でも……万が一「何かあったのか?」と聞かれてしまったら、私はなんと答えれば良いのだろう。だって、もしそう聞かれてしまったら嫌でもあの日のことを思い出してしまう。

 そう思うと、平静を装っていられるという自信が持てず、何度も何度もメッセージを書いては消しを繰り返していた。

 結局の所、センパイの行動を頭では理解できていても、心が納得していないのだと思う。

 

 いっそセンパイの方から何か他愛のない連絡の一つも入れてくれればと思って一日LIKEの画面を眺めていたこともある。

 でも、これまでがそうだったように、センパイからそんな気の利いたメッセージが入る事はなく、ついでに言うと、こういう時に限ってお米も連絡をよこさない。

 どうしたら良いか分からず、私は今日もベッドでセンパイの寝顔写真を見ながらセンパイと会いたいという欲求をごまかし、悶々とした時間を過ごしていた。

 

「あー……、もうこんなの全然私らしくない……」

 

 これではまるでアイドルの姿を遠くから眺めているだけの少女のようだ。

 私は一体いつからこんなに臆病になってしまったのだろう?

 一応とはいえ、まだセンパイとは許嫁同士であるはずなのに……家庭教師、そして受験という口実が無くなっただけで随分と距離が離れてしまったように思う。

 お祖父ちゃんの言う「リセット」という言葉の意味はまだ私にはよく分かっていないけれど。

 センパイ……私のこと忘れたりしてないよね?

 もし……もしも次にセンパイにあった時、センパイが他人を見るような目で私を見てきたらと思うとゾッとする。だから今はこんな風に手をこまねいている時間はなくて、一刻も早く手を打たなければいけないのに……。

 

 ピンポーン。

 

 そんな事を考えていた週末の休日、ふいに来客を伝えるインターホンの音がした。

 「ハーイ」とママがインターホンに答える声が微かに聞こえ、私は「宅急便か何かかな?」と少し頭を傾げながら部屋を出ると、ママが一人パタパタとスリッパを鳴らして玄関へと向かっていくのが見えた。

 あの様子なら少なくともセンパイではなさそうだ。

 センパイだったらママがあんなに大人しいわけがない。

 私はそう結論づけ、少しだけ喉が乾いていたことを思い出し、部屋を出たついでに何か飲み物を飲もうとママとは入れ違いにキッチンへと向かった。

 

 戸棚からコップを一つ取り出し、冷蔵庫を開けると、そこには封の開いていない牛乳が入っている。

 そういえば、昨日ママが新しい牛乳を買ってきたって言ってたっけ?

 なら丁度良いや。

 そう思い、私はその牛乳の口を開きコップに注いでいく。

 

「ええー!? はちまん……!」

 

 そうして口をつけようとした瞬間、玄関の方からママのそんな声が聞こえ、私は半分ほどまで牛乳を注いだコップと、牛乳瓶を持ったまま玄関へと走っていく。

 センパイ!?

 センパイが来てるの? なんで?

 でも、理由はなんだっていい。久しぶりにセンパイに会える!

 そんな喜びで、私はコップの中の牛乳がゆらゆらと揺れ零れそうになるのも気にせず玄関へと走っていった。

 

「センパイ!!」

「いろはちゃんどうしたの? 牛乳なんか持って……?」

「あら、いろはちゃんこんにちは。元気そうね」

 

 だけど、私が玄関につくと、そこにいたのはママと、お隣に住んでる顔なじみのお喋りなオバさんが一人いるだけ。センパイの姿は……見当たらない。

 あれ……?

 

「こ、こんにちは……。ママ、今センパイの話してなかった?」

 

 私がそう問いかけると、ママは「八幡君……?」と呟きながら首を傾げる。

 何を言っているかわからないという顔だ。

 だが、やがて何かに気がついたのか、「あっ」と口を大きく開けて笑い始めた。

 

「やだ、八幡君じゃなくて八万円よ、八万円」

「はちまん……えん?」

 

 今度は私が首を傾げる。

 

「ほら、いろはちゃんももうすぐ制服買うでしょう? その話をしてたら、お隣の息子さんの時は制服だけで八万円もしたんですって」

「ええ、そうなの。冬服だけで八万円って……びっくりしちゃった。他にも色々買わないといけないのに、ねぇ?」

 

 そういってお互い顔を見合わせるので、私は「あ……そう……」と踵を返す。

 背後からはまた楽しげな笑い声が聞こえ始めていた。

 全く……紛らわしい事をしないで欲しい。まぁ……勝手に勘違いした私が悪いんだけど。

 そうだよね、何の用事もないのにあのセンパイがウチに来るはずなんてないのだ。

 ああ、手に跳ねた牛乳が気持ち悪い。

 一刻も早く洗ってしまおう。

 だが、そう思って廊下を抜けようとすると、閉じた扉──パパの部屋から何やら話し声が聞こえてきた。

 

「じゃあ明日、……ィガヤ……」

「センパイ!?」

 

 私は、バンと扉を開けパパの部屋へと押し入っていく。

 どうやらパパは電話中らしく、ギターを膝の上に載せた姿勢のまま、椅子に座り右手に持ったスマートホンに向かって話しかけていた。

 

「か、代わって!!」」

「え? いろは? こら! 返しなさい! いろは!」

 

 私は持っていた牛乳が跳ねるのも気にせず、バンっと机に思い切り叩きつけると、そのままパパのスマートホンを奪い取るようにして、握る。

 

「もしもし! センパイ!? なんでパパに……」

「……はい?」

 

 だが、スマートホンから聞こえてきたのは耳馴染みのない低い男の人の声だった。

 

「えっと……どちらさまですか?」

 

 一瞬パニックになってしまった私が間抜けにもそんな言葉を発すると。

 パパが慌てた様子でスマートホンを奪い取る。

 

「返しなさい! すみません、娘がイタズラを……はい、ええ申し訳ありません。ええ明日獅子ヶ谷(ししがや)の……はい……十四時ですね……はい、了解しました必ず伺います、はい、申し訳ありませんでした。それでは」

 

 慌てた様子でスマートホンに向かって話しかけるパパの姿を見て、私は自分が何をしたのかようやく理解した。

 

「……ヒキガヤじゃなくて……シシガヤ……」

 

 どうやら私はパパの仕事先の人との電話を奪ってしまったらしい。

 これは非常にまずい。

 通話を切ったパパが、ゆっくりと私の方へと振り返る。

 

「それで……なんでこんな事をしたのか、きちんと説明してもらおうかな?」

「あ、あはは……ごめんなさーい! あ、これどうぞ!」

 

 イタズラのつもりはなかったのだけど……。

 私は少しでもパパの怒りを収めるべく牛乳をそのままパパの部屋に収めて、脱兎のごとく逃げ出した。

 パパのあんな怒った顔を見るのは何年ぶりだろうか?

 

 しかし困った。

 どうやら、私はセンパイの名前を聞いたりするだけで暴走するセンパイ欠乏症に陥ってしまったようだ……。

 

「センパーイ……会いたいですぅ……」

 

***

 

 そうしてセンパイ欠乏症を自覚した私だったが、それからまた数日経ってもセンパイとは会えずにいた。

 これまでの期間と合せてもう十日以上センパイに会えていない。ハッキリ言おう。新記録だ。

 考えてみればセンパイと顔を合わせないのは年末に風邪を引いた時以来だけれど、LIKEで連絡すらしていないというのはもう一年近く振りになる。それだけこの一年でセンパイと私の距離が近くなっていたのだと感じると、より一層会いたいという思いも強くなっていく。

 

 しかし、タイミング悪く私が卒業生代表に選ばれてしまい、そのための準備や『卒業記念にクラス全員でディスティニーランドに行こう』という迷惑な計画に巻き込まれたりと、忙しい日々を過ごしセンパイと連絡を取ることが出来なかったのだ。

 やはり、合格発表の日に連絡を入れなかったことが悔やまれる。

 それもこれも全部お祖父ちゃんが悪い。

 もしこのままリセット……なんてことになったら、絶対許さないんだから。

 

 そんな事を考えながらようやく迎えた卒業式当日。

 私は卒業証書片手に、校庭でそれほど仲が良いと思っていなかった子達と「ずっと友達だよ」と抱き合い、「私のこと忘れないでね」と言ってくるクラスメイトに「もちろん」と言い写真を取り、「この後少し時間貰えないかな……」とどこかへ連れ出そうとする男子を尽くあしらったりしていた。

 全く、今日までほとんど話したこともないのに卒業式に告白すれば成功するとでも思っているのだろうか? 図々しいにもほどがある。頭の中がお花畑なのだろうか?

 でも、その図々しさがほんの少しセンパイにもあったならと思わないでもないので、その花を少しだけセンパイに分けてほしいと思ってしまう。

 春休みに入ったら……センパイと会えるチャンスはあるだろうか?

 はぁ……。

 

「一色先輩。卒業おめでとうございます」

 

 そうして溜息を吐いていると、また誰かが声をかけてきたことに気が付き、慌てて笑顔を作って振り返る。そこには花束を持った健史くんを筆頭に、懐かしいサッカー部の面々がいた。

 

「これ、サッカー部の皆からです」

 

 そう言って、健史くんが代表として花束を渡してくる、かなり大きく重たい花束だ。

 相当奮発したみたい。

 正直、嵩張るなぁ……と思う自分もいたけれどその言葉をなんとか飲み込んで、私は笑みを浮かべた。

 

「皆、ありがとう」

「卒業しても、俺らのこと忘れないでくださいね?」

「一色先輩、あれから全然顔だしてくれないから寂しかったんですよ?」

 

 思い思いに声をかけてくれるサッカー部員達一人ひとりに返答していくのは骨が折れる、でもこの空気感も随分懐かしいと思った、そうか、そう言えばアレから全然顔だしてなかったっけ。卒業する前に一回ぐらい挨拶に行ってもよかったな。と思う反面。

 でも別に行ってもやる事ないしな? という自分もいたので、その考えはそのまま霧散していった。

 

「一色マネ! 春休み俺とデートしませんか!」

 

 だが、そんなことを考えていると、一人の坊主頭の男の子が私に向かってそう声をかけてきた。えっと……この子誰だっけ?

 

「バカッパ、お前去年のこと忘れたのか?」

「わ、忘れてねぇよこれぐらいいつもの冗談だろ……」

「冗談って、カッパ先輩はもう少し反省したほうが良いと思いますよ?」

「あの時のことは反省してるよ……あとカッパ言うな……」

 

 カッパ先輩と呼ばれた少年はそう言うと、部員たちにパシパシと坊主頭を叩かれはじめた。

 どうやら、これが今の部内でのノリらしい。

 ちょっとついていけないな、と思いながらもその少年が誰だったのか思い出そうとする。

 

「カッパ……?」

 

 そんなあだ名の子居たっけ? と視線を斜め上に動かし、なんとか記憶を探ろうとする。

 

「あれ? もしかして俺のこと分かりませんか? 俺、葛本ですけど……」

 

 それでもなお私が首を傾げていると、坊主頭の少年は苦笑いを浮かべたまま後頭部を掻き、そう告げて来た。

 

「え!? 葛本君!? ず、随分……雰囲気変わったね……?」

 

 葛本と言われ、ようやく私の中の線が繋がる。

 そうか、葛本くんか。昔はチャラチャラしていたイメージだったから全然分からなかった。

 完全な偏見だけど、こうなってくるともうサッカー部というよりは野球部──高校球児っていう感じ。

 坊主頭になっただけでこれだけ硬派な印象を与えてくるのだから、見た目の印象というのはやはり馬鹿にならないなぁと思う。

 

「やっぱり分かってなかった……。まぁ、俺もあれから大分イメチェンしたから仕方ないっちゃ仕方ないっすけど凹むわー……」

「あ、そっか一色先輩あの日も途中で帰ったから知らないのか」

「こいつ、夏休みにカッパ伝説作ったんですよ」

「ば! お前言うなよ!」

「今更隠すこともないだろ、もう学校の皆が知ってるんだし」

 

 別にカッパというあだ名の由来を知りたいと思ったわけではないんだけど……。

 でも、カッパ伝説? そういえばなんかそんな話をどこかで聞いたような……。

 そうして記憶をたぐろうとしていると、それより早く、サッカー部の面々がワイワイとあの日何が起きたのか教えてくれた。

 

 その話によると、去年の夏祭り。例の『マネージャーにちょっかいを出さない』という部訓に反した葛本君が三年生に連れられた後、罰としてダッシュ五十本を言い渡されたのだが、それから逃げようとして川に入水。

 浅いし、水面から顔を出している岩を伝いながら行けば渡りきれるだろうと思っていたのだが。

 しかし、既に日が落ちていて暗くなっていたのもあり足を滑らせ頭からダイブ。

 川に流れていたゴミを頭につけたままずぶ濡れで上がってきた所「カッパが居る」と噂になり、地元の子供達に追いかけ回され散々な目にあったそうだ。

 

「んでその時髪に絡まったゴミが取れなくて、結局坊主になったんだよな」

「でも、あれから結構経ちますよね? そろそろ伸ばさないんですか?」

「坊主が意外と楽だってことに気付いたんだよ……」

 

 最早私のこと等そっちのけで、話しこむサッカー部員たちを横目に、私はあの日の事を思い出す。

 そうか、あの日車の中で見たずぶ濡れの葛本君は見間違いではなかったのか。

 なんだか胸のつかえが一つ取れた気分だ。いや別にそれ程つかえていたわけでもないんだけど。

 

「おい、お前ら何集会してんだ、邪魔だ、散れ散れ!」

 

 そんな事を考えていると、背後からまた別の男の子の声が聞こえた。

 サッカー部の元部長で、私と同じ卒業生。そして健史君の兄でもある健大君だ。

 

「あ、大部長!」

「大部長! 卒業おめでとうございます!」

「みんな大部長を胴上げだ!」

「いくぞー!」

 

 健大君の姿を見るなり、私を避けるようにして現サッカー部員達が健大君を囲む。

 

「お、おいやめろ! こら! お前達! おい! 健史! こいつら止めろ!」 

「せーの!」

「わっしょい! わっしょい!」

「わっしょい! わっしょい!」

「おろせ、コラ! やめ、ハハ、やめろって! ハハハハ!」

 

 何度も何度も空に放り投げられる健大くんはやがて楽しそうな笑い声を上げ始める。

 男の子っていいなぁ、と少しだけ羨ましくなってしまう光景だ。

 別に胴上げされたいっていう意味ではないんだけど。

 

「あの……一色先輩。少しだけお時間貰えませんか?」

 

 そんな胴上げ風景を眺めていると、胴上げに参加していなかったらしい健史君が私の横で遠慮がちにそう言った。

 

「……告白とかじゃないよね? 何?」

 

 健史くんの本命は別にいるので、絶対に違う、とは思いつつ私が少しだけ身構えてそう答えると、健史くんは「違います」と少しだけ困ったように笑って、一歩前へと出る。

 

「来てもらえれば分かります」

 

 どうやら、ソレ以上は答える気は無いらしい。

 健史君は今度は十メートルほど先を歩き、一度私の方を振り向いた。

 人のいない方向……中庭を抜け、校舎裏の方角へと歩いていく。

 一体どこまで行くのだろう?

 とはいえ、ここで付いていかないわけにもいかないか……。

 私は仕方なく、花束を持ったまま、無言の健史君に従い、その後を追う。

 そしてたどり着いたのは校庭の卒業生たちが騒ぐ声も僅かに聞こえるか聞こえないかという距離にある裏門。

 そこに一人の女の子が立っていた。

 

「いろは先輩……卒業、おめでとうございます」

「麻子……ちゃん?」

 

 疑問形になってしまったのは、そこにいたのが本当に私の一つ下の後輩の浅田麻子かどうか確信が持てなかったからだ。

 というのも、麻子ちゃんは半年前に比べて随分その……太……いや、ふくよか……いや、ぽっちゃりとした体型になっていたのだ。

 私に向けていた挑戦的な瞳も今ではすっかりその鳴りを潜め、自信がなさそうに伏せられている。 

 スラっとした体に不釣り合いなほどに大きかった特徴的な胸も、今ではその体にフィットして埋もれてしまっていた。

 

「……太ったなって思ってますよね?」

「そ……んなことないよ?」

 

 一瞬心を読まれたのかと心臓が跳ねたが「そうだね」という言葉をなんとか飲み込み。私はそう答えた。

 私にしてはかなり良い判断だったように思う。

 

「いいんです。あれから、私も色々あって……こんなになっちゃいました。多分天罰なんでしょうね」

 

 だけど、そんな私の答えに納得してないのか、麻子ちゃんは自虐気味にそう言って笑った。

 そんな麻子ちゃんに今度はなんと答えるのが正解なのか分からず、私は口ごもり、私達の間に少しだけ沈黙が流れる。

 

「……麻ちゃん、あれからずっと学校休んでるんです。でも、今日は一色先輩の卒業式だし、どうしても言いたいことがあるからって、頑張って出てきたんですよ」

 

 その沈黙を破ったのは健史くんだった。

 あれから。ということはあの日から、と言うことなのだろう。

 私は思考をフル回転させる。

 つまり、これは……。お礼参り。とかそういう奴なのだろうか?

 思わずそんな考えが脳裏をよぎり、花束を持っていた手に少しだけ力がこもった。

 逃げたほうが良いだろうか……?

 

「本当は……今日も来るのは辞めたほうがいいんじゃないかと思ってたんです。でも、フミ君が最後だからちゃんと挨拶したほうが良いって……」

「麻ちゃんだって最後にもう一度ぐらい会いたいって言ってたじゃないか」

 

 でも、そんな私の考えを笑い飛ばすように、二人の間に妙にほんわかとした空気が漂い始める。

 なんだろう、私が邪魔者みたいだ。

 私、呼び出されたんだよね?

 なんだか少しだけバカバカしくなってきた。

 そう思い、肩の力を抜いた瞬間、麻子ちゃんが真っ直ぐに私を見つめてきたのがわかった。

 

「えっと……改めて、卒業おめでとうございます」

 

 そう言って麻子ちゃんが頭を下げると、健史くんも「おめでとうございます」と言って頭を下げる。

 私は一瞬どうしたらよいか分からず固まってしまったが、なんとか「ありがとう」という言葉を絞り出し、二人に顔を上げさせた。

 

「私のことよりその……麻子ちゃんは大丈夫なの……その、学校来てないって聞いたけど……」

「一応……三年になったら保健室登校から始めてみないかって言われているので頑張るつもりです。……受験もありますし」

「そっか、うん、そうだよね」

 

 どうやら、先の事もちゃんと考えているらしい、とりあえず一安心だ。

 だって、私との事が原因で中学に行けなくなりました、高校受験も失敗しましたじゃ流石に私だって寝覚めが悪すぎるもんね。

 

「それで……ですね。実は……いろは先輩にちゃんと言わなきゃって思ってることがあって……」

 

 私がホッと胸をなでおろしていると、麻子ちゃんが緊張した面持ちで息を吸い込んだ。

 あれ? 「どうしても言いたいこと」って卒業のお祝いじゃなかったの? やっぱりお礼参りだろうか? と再び私の体が強張る。

 だが、次の瞬間、麻子ちゃんと健史君は一瞬視線を交わして距離を近づけるとゆっくりとお互いの手を繋いでみせた。

 

「私達……付き合うことになりました」

「へ?」

 

 今、私は相当間抜けな顔をしていることだろう。

 照れくさそうに笑う二人は、握った手を見せつけるように立ってじっと私を見つめている。

 何か……何か言わなきゃ。

 

「……えっと……おめでとう……?」

「ありがとうございます。アレだけのことをして……赤星君から乗り換えてって……軽蔑しますか?」

「そんなことはないけど……」

 

 でも、本当に驚いた。

 健史くんが麻子ちゃんのことを思っているのは知っていたけれど。

 あれから半年で二人がそんな関係になっているとは。

 もしかして、学校を休んでるといいながら、ずっとデートとかしてたのだろうか? なんて邪推もしそうになったが、流石に考えすぎだと頭を振って、その考えを振り払った。

 

「あれから、本当に色々あったんです。でもフミくんがずっと私の事支えてくれて、僕がずっとそばにいるよ、大丈夫だよって言ってくれて……。だから……その……いろは先輩との約束、ちゃんと果たそうと思って。今日ちゃんと報告しようって……」

「約束……?」

 

 麻子ちゃんの言葉に私はまたしても首を傾げる。

 私、何か約束してたっけ?

 

「好きな人が出来たら報告するって言ったじゃないですか」

 

 ああ、そういえば。そんな事を言った気もする。

 あの時はセンパイに会いたくてなんか思いつきで言っただけだから、まさかこんなに律儀に守ってくれるとは思ってもいなかった。

 ちょっと悪いことをしたと反省したいぐらいだ。

 

「それで、いろは先輩はその後……その……あの人とは?」

 

 ちらりと健史君に視線を向けてから、麻子ちゃんがそう尋ねて来た。

 本当は「まだ許嫁なんですか?」と聞きたかったけれど、健史くんの手前言葉にするのを避けてくれたのだろうとは思う。

 その心遣いに感謝しつつ、今度は私が麻子ちゃんの目を真っ直ぐに見て答える。

 

「うん、今でも変わらないよ」

 

 少なくとも、今日この時点ではまだ続いているはずだ。

 だけど……センパイは「リセット」というのを考えているらしい。

 とは流石に言えない。

 

「そうですよね、だって──ですもんね。普通の恋人みたいにくっついたり別れたりしないですよね」

 

 すると、麻子ちゃんが今度は健史くんにわからないように『許嫁』という部分だけ無音で唇を動かしてそう言った。

 そこで私はハッとする。

 そうだ……私は何を怯えていたのだろう?

 私達の一年がリセットなんてできるはずがない。

 私達の関係はそんなに軽いものじゃない、簡単にリセットなんて出来ないはずだ。

 

 そもそも先輩の考えるリセットがなんなのか、いくら考えても分からない。

 ゲームじゃないのだから、ボタン一つで人間関係をリセットなんて出来ないのだし、私は来月から総武に通う。

 つまりセンパイと会えなくなるわけでもない。

 仮にセンパイが許嫁を解消したいと思っていたとしても、もとより私が諦めるつもりがないのだし。承諾するつもりもない。

 時間はたっぷりあるのだから、じっくり攻めていけば良いのではないだろうか?

 実際、センパイ結構ちょろい所あるし……。まぁそこが心配なところでもあるんだけど……。なら尚更もっと攻めていかないと!

 

 あれ? じゃあなんで私こんなに悩んでたの?

 なんだか、そう考えると、変に悩んでいた自分がバカバカしく思えてきた。

 そうだ、リセットなんて出来るはずがない。

 あの日、お爺ちゃんにも「諦めない」と誓ったはずなのに……、なんでこんな簡単な事を忘れていたのだろう?

 どうやらしばらくセンパイに会えなかったことと、センパイが私以外の人に“嘘の”告白をしたという事実のせいで、随分ネガティブになってしまっていたみたいだ。

 これもセンパイ欠乏症の弊害だろうか?

 

「先輩?」

 

 突然固まってしまった私に、今度は麻子ちゃんと健史くんが首を傾げてくる。

 その角度が全く同じだったので、思わず吹き出しそうになった。

 でも、それが二人の仲の良さの表れのようで、少しだけ羨ましくもある。

 私も、センパイとあんな風になれるだろうか?

 

 いや、なれるかどうかじゃない。

 なるんだ。

 私はそう決意し、心配げに私の顔を覗き込む二人の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

 

「……あ、ごめん。……えっと、それじゃそろそろ良いかな? 私行かなきゃいけないところがあるんだよね」

「あ、そうですよね。先輩もお忙しいのにこんな所まで来てもらってすみません」

 

 突然私が話を切り上げようとした事で、不興を買ったとでも思ったのか、シュンと肩を落とし深々と頭を下げる二人に、私は慌てて頭を上げさせた。

 いけないいけない、これじゃぁドラマなんかに出てくる嫌な先輩みたいだ。

 切り上げるにしてもちゃんとしないと……。

 

「ううん、こっちこそゴメンね。色々ありがとう、会えて良かった二人ともお幸せにね」

「はい、一色先輩も」

 

 よし、これで大丈夫かな……?

 私はできるだけ笑顔を消さないように努力して、二人に軽く手を振ると、改めて校舎の方へと戻っていく。

 まるであの日みたいだな、と私は心の中で思いながら。センパイを思う。

 でも、今のセンパイは私のことを待っていてはくれない。だから、ちゃんと捕まえないと……!

 

「いろは先輩!」

 

 しかし、そうして裏門から十メートル程校内に戻ったところで、再び背後から声をかけられた。

 何事かと振り向くと、そこにはまるで全て分かっているとでも言いたげに、麻子ちゃんが大きく手を振っているのが見える。

 

「お互い頑張りましょうね!」

 

 それは一体何に対してだろうか?

 これからの学校生活?

 それともセンパイとのこと?

 いや、未だに健史くんと手を繋いでいるところをみると、おそらくは後者なのだろう。 

 ちょっとだけ生意気──と思ったけど。

 でも、こればかりは仕方ないのかもしれない、なにせ恋愛に関してはもう麻子ちゃんは私の先を行ってしまったのだ。

 

「負けてられないなぁ……」

 

 私はそう小さく呟くと、改めて二人に背を向け、来た道を戻っていく。

 しかし、今度は校庭で止まらない。

 卒業生達に声をかけられても、愛想笑いで切り抜け、在校生や先生たちにも見向きもせず、校庭をつっきって一人正門へと歩いていく。

 麻子ちゃんも頑張ると言った今、もうこの中学校に心残りはない。

 私はセンパイと同じ高校に行くのだ。そして……その先も。

 そんな決意を胸に、私は三年間通い続けた中学校と別れを告げた。




今回で長かったいろはサイドの話が一段落となります
これで合格発表から卒業式までの流れが終わり
次回からはまた我らがヒロイン八幡ちゃんの活躍が見れる……はず?

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皆様からのリアクションを頂けますと執筆にも力が入りますので
何卒よろしくお願い致します


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第65話 二人でおでかけ リベンジ

いつも感想・評価・お気に入り・メッセージ・誤字報告・ここすきありがとうございます。

とうとう7月に入りましたね。
梅雨もまだまだ明けず、大雨警報が出ている地域もあるみたいですが、皆様十分にお気をつけください。


 卒業式も終わり、三学期も残す所終業式のみとなった俺は、その日いつものように午後の授業を終え帰宅しようと自転車を転がしながら校庭へと歩いていた。

 

 最近はめっきり通常運転だ。

 こんなに穏やかな日々はイツぶりだろう?

 一色からの連絡もなくなり、おっさんからの呼び出しもない。

 やはり、一色が俺との許嫁関係を続けたいというのは何かの間違いだったのだろう。

 ようやく踏ん切りもついた。なんだか随分と長い夢を見ていた気分だ。

 一応、まだ契約解除という課題は残されているが、この状況を見ればもはやおっさんも文句を言うまい。

 春休み中に適当におっさんに契約解除を申し入れ、ソレで終わりになるはずだ。

 なんなら最近話題の退職代行サービスみたいなのを利用してもいいかもしれない。

 いや、まぁバイトも終わって収入も無くなったので、流石に本気でそんな業者に頼む気はないが……。

 

 そんな事を考えながら、俺は自転車置き場から校門へと向かい歩いていく。

 この時期は三年生がまるまるいない時期でもあるので、校庭を歩く生徒の数が目に見えて少ない。肩をぶつけられる心配もないので一安心だ。

 いや、まぁ今んとこぶつけられたことないけど。

 だが、あと一ヶ月もすれば今度は新入生が入ってきて以前と同じ見慣れた光景が広がるのだろう。そしてその中には一色が混じっているのだ。

 

「見かけても、他人のふり出来るようになっとかんとな……」

 

 思わずぽつりと呟いてしまった。

 こうやって考えている事自体が、意識している証拠ではないか。

 全く嘆かわしい、しっかりしろ比企谷八幡。

 

 そう、例えこうして校門の所に一色が立っていたとしても、「センパーイ」と手を振っていたとしても、強い心を持って視線をあわせず他人のふりをするのだ。

 今後アイツが先輩と呼ぶ人間は増えるだろうからな。

 勘違いはしない、平常心平常心……ん?

 

 だが、そうして校門を通り抜けようとしていると、突然持っていた自転車にものすごい負荷がかかった。

 まるで誰かに自転車を押さえつけられてるような……?

 

「な・ん・で・無視するんですかぁ!」

 

 ふと振り返ると、一色が俺の自転車の荷台の部分を両手で掴みグイグイと引っ張っていた。あれ? なんでここに一色が? Youは何しに総武へ? まだ新学期始まってないよ?

 もしかして校門をくぐった瞬間に時間軸を超えてしまったのだろうか? 今はもう四月なのか?

 とうとう俺の中に眠っていた力が目覚めて……っていかんな、これじゃぁ材木座と同レベルだ。

 俺は頭を振ってもう一度一色の方へと視線を向ける。

 ワンチャン他人の空似のそっくりさんが俺と誰かを間違えて引き止めたという可能性も考えられたが、うん、やはり一色いろはだ。間違いない。

 俺が改めて一色の顔を確認すると、寒さのせいか少しだけ涙目の一色は小声で小さく「本当にリセットされちゃったかと思いました……」と言いながら荷台から手を離した。

 ふむ、こいつもこの時期には関係をリセットする派か。

 一色レベルでもリセットを考えているのだから、やはり一般的な感覚なのだろう。

 

「いや、なんでお前がここにいんだよ。入学式にはまだ早いだろ」

「入学式っていうか……うちの中学今日が卒業式だったんですよ、だから来ちゃいました」

 

 まったくもって意味がわからない、なぜ一色の中学が卒業式だと総武にくることになるのだろうか? ああ、もしかして入学の手続きとかそっち系か?

 

「なるほど……んじゃまぁ俺は帰るからガンバ……」

「待って下さいよ! なーんーで! 帰ろうとするんですか!」

 

 再び歩みを進めようとすると、一色が再び荷台を引く。

 なんだこれ。

 すれ違っていく総武生達が「なんだあれ」と好奇の視線を投げていくのが妙に気恥ずかしい。

 

「なんなんだよ……学校に用があるから来たんじゃないの?」

「総武っていうか、センパイに会いたかったから来たんです!」

 

 頬を膨らませながら語気を荒げる一色に、俺は思わず首を傾げた。

 俺……?

 

「俺?」

「はい」

 

 なんだろう、何か企んでいるのだろうか? 正直嫌な予感しかしない。

 またおっさんからの指令か?

 やだな~怖いな~怖いな~。

 

「センパイ、デートしましょ♪」

 

 だが、少しだけ身構えた俺に、一色が告げてきたのは、そんな意味のわからない言葉だった。

 

「は?」

 

 でーと???

 なにそれおいしいの?

 

*

 

 校門前では人の目があるので、俺達は並んで通学路を歩き始めた。

 さすがに今度は荷台を押さえつけるようなマネはしてこない。

 このまま家に帰ってしまえばこちらのものだろう。

 

「っていうか、今日卒業式だったなら午前中で終わりなはずだろ? まさかずっと待ってたの?」

 

 そう言って、俺は一色を見る。

 一色は春先っぽい薄手のコートこそ着ているが、どう見ても制服だ。

 現在の時刻は十四時を過ぎた所。

 仮に卒業式が十二時に終わったとしても二時間は待っていたことになる。

 

「いえ、流石に一度帰りましたよ? 荷物もありましたし。でもほら、男の人って制服とか好きじゃないですか? センパイも私の現役最後のセーラー服姿見ておきたいかなぁ? って思って」

「現役って……」

 

 その言い方だとまるで現役以外の利用法を考えているみたいな印象をもってしまうのだが……さすがに俺の考えすぎだろうか?

 何か変なバイトとか始めませんように。

 そして小町に悪影響を与えませんように。

 

「……で、なんでデート? またおっさんに何か言われたの?」

 

 なんだかソレ以上質問をするのは少し怖い気がしたので、追求をやめ本題へと入った。

 まあ、そっちも別に聞きたい話でもなかったんだけどな。

 

「えー、だって今日とか暇じゃないですかぁ?」

 

 だが、俺の質問に一色はとぼけた口調でそう答えた。

 

「いや、知らんけど……」

 

 卒業式の後何をしてたか? と問われても俺自身何したか覚えていないので、暇なのは理解できなくもない……が、だからといって俺を巻き込まないで欲しい。

 そう思って俺は一色を振り返ったのだが、一色はキョトンとした顔で俺を見つめてくる。

 

「センパイのことですよ?」

 

 なぜ俺が暇だと思われているのだろうか。

 俺にだって予定の一つや二つや三つや四つ絞り出せばあるというのに。

 えっと……今日は……えっと……。絞り出せ、絞り出せ……。

 

「……俺は今日は……帰ったら千葉テレビでプリキュアの再放送見なきゃいけないんだよ」

「つまり、暇ってことですよね?」

 

 あれ? おかしいな? 今予定があるって言ったよね? なんとか絞り出したのだからきっちりカウントして欲しい。

 なんで『アニメを見る』という趣味の時間を用事としてカウントしてくれないの? ホワイジャパニーズ ピーポー? コンナノゼッタイオカシイヨ!

 

「プリキュア見るって言ってるだろ、今日は……大事な回なんだよ」

 

 多分。

 

「でもセンパイ、動画見放題入ってるからいつでも見れるんですよね?」

「う……なぜソレを……」

 

 突然の一色の言葉に、俺は思わず歩みを止める。

 すると一色は少しだけ得意げに笑って人差し指を立ててこういった。

 

「お米ちゃんに聞きました」

 

 やはり、こいつと小町を出会わせたのは失敗だったかもしれない。

 プライバシーもなにもあったものではないではないか。

 そう、夏に一ヶ月無料の動画見放題サービスに入って以来ハマってしまい。その後サービスの利用を継続しているのだ。

 まあぶっちゃけアカウント一つで家族も楽しめるのと、小町や親父も見せろ見せろと煩いので、交渉して料金は折半という形に収まっているので俺の出費はそこまでではない。

 

「というわけで、デートしましょ♪」

 

 どうやら、これ以上問答をしても無駄なようだ。

 仮にこのままゴネても、こいつはこのまま家まで付いてくる算段なのだろう。

 まあ、恐らくは葉山とのデートの予行演習という名目も兼ねているのだろうが……。

 小町やおっさんに報告でもされたらそれこそ面倒くさい事になりかねない。

 ならば、ここらで折れたほうが最終的には体力の節約に繋がるか。

 

「はぁ……で、どこ行くの?」

 

*

 

 その後、自転車をUターンさせ、一度駅まで戻ると。俺は電車に押し込まれ気がつけば東京BAYららぽーとに連れてこられていた。

 映画館も入っている、千葉の高校生御用達のデートスポットである。

 

「えっと……それで、ここからどうしましょう?」

「何? ここに用があったんじゃないの?」

「いえ、特には。センパイとデート出来たら良いなぁって勢いで出てきちゃっただけなので」

「なにそれ……」

 

 この子、思ったより頭が可哀想な子なのだろうか?

 総武受かったんだし、それなりに出来る子だと思ってたんだが……。

 いきあたりばったりにも程がある。

 予行演習ならせめて予定ぐらい立てて置いて欲しい。

 はぁ……。

 

「むー、センパイもちょっとは考えて下さいよ、私の初デートなんですよ?」

「いや、俺も……」

 

 「デートなんてしたこと無い」そう言いかけて思わず口をつぐむ。

 いや、俺小町とめっちゃデートしてるな?

 ということは俺はデート上級者だったのか?

 なるほど、指導官としてはコレ以上無い相手だったのかもしれない。

 

「そっか……センパイも初めてなんだ……えへへ♪」

 

 だが、そんな事を考えていると、一色が何やらブツブツと呟きながらにやけだした。

 なんだか不気味だ。

 きっとまた碌でもない事を考えているのだろうか何をさせられるのか、ちょっと怖い。

 

「んで、結局どこ行くの?」

「センパイが行きたい所ならどこでも♪」

「んじゃ帰る……」

「わー! 待って下さいよ! あ、じゃあこれ! 映画! 映画見ましょうよ! ほら、センパイこういうの好きじゃないですか」

 

 俺が踵を返すと、一色が慌てた様子で俺の腕を掴み、目の前にあった映画のポスターを指差す。

 そして俺はその指の先にあるポスターを見て驚愕した。

 これは……なにかの間違いだろうか?

 俺は夢を見ているのか?

 本当に……?

 本当に一色はこのポスターを指差しているのか?

 

「え……マジで? これ見るの?」

「センパイ、好きなんですよね?」

「まぁ……その……好きだけど……」

 

 俺がそう言うと、一色は我が意を得たりという顔でニヤリと笑った。

 そう、卒業シーズン、春に見るべき映画といえばこれしかないだろう。

 プリキュア春の劇場版だ。

 

 大体二月の末頃に始まる新プリキュアがオールスター等と銘打って、旧作──先輩プリキュア達と邂逅する春の劇場版。

 新旧揃い踏みの豪華な演出にファンは歓喜の涙を流し、思わず「がんばえーぷいきゅあー」と幼児退行してしまう。

 俺も、出来ることなら毎年見に行きたいと思っているぐらいだ。

 

 だが、一つだけ問題があった。

 プリキュアは世間的には女児向けアニメとして評価されている。

 男の大きなお友達が一人で見に行くには非常にハードルが高いのだ。

 まぁプリキュアは基本的には中学生なので、中学生ぐらいまでなら問題ないと思っているし、 実際二年前までなら問題はなかった、俺が中学生、小町はギリギリ小学生だったので小町を連れて見に来ることが出来たからだ。

 だが、今の俺は高校生。

 去年は事故で見に行けなかったし、今年は既に声をかけたが断られている。

 流石に劇場に見に行くのは諦めて配信か円盤を待つべきかと思っていたのだが……。

 

 一色は今日が卒業式とはいえギリギリ中学生。実質プリキュアだ。

 そんなプリキュアが俺に一緒に映画を見ようと誘っている。

 これはなにかの罠だろうか?

 

「……いいの?」

「はい♪」

 

 俺が恐る恐るそう聞くと、一色は一言そう言って頷くと、俺の腕に巻き付いてくる。

 どうやら、冗談ではないらしい。

 

「あ……、でももう始まってるみたいですね……次の上映時間まで待ちます?」

 

 一応子供向けアニメというのもありプリキュアの映画はそれほど長くない。

 次の回を見ても、夕飯には十分間に合うだろう。

 

「まぁ……じゃぁそうするか」

「じゃ、しばらく時間潰すってことで」

 

 そうして俺達はららぽ内へと入っていった。

 

*

 

「センパイセンパイ、これとこれだったらどっちが可愛いと思います?」

「んー……? 違いがわからん」

「ちゃんと見て下さいよ、全然違うじゃないですか! ほら、やっぱこっちの方がよくないですか?」

 

 俺達は時間を潰すために適当にららぽ内を散策することにした。

 今は服売場で一色が総武の制服に合わせられるコーデとやらを試している最中だったりする。

 デートの定番、女子の買い物に付き合わされる系男子。

 まぁ、本人セーラー服なんだけどな。

 時間潰しが目的だというのに、何故か一色のテンションは高く、ご機嫌だ。

 

「……なぁ、さすがにそろそろ行かない?」

「えー? まだ上映時間まで三十分はあるじゃないですか、もうちょっと見て行きましょうよ」

「でも、買わないんだろ?」

 

 次の上映回を見るとは言え、すでに一時間近くここでこうしている。

 しかも一色はさっきから商品をとっかえひっかえして悩んでいるが、終始「見るだけ」と自分に言い聞かせているのだ。

 完全に冷やかしである。

 

「……はい。今月は他にも入用なので……」

 

 入学の準備で色々と入用であまり金は使えないらしい。

 それなのに、この後映画なんて見ていて大丈夫なのかとも思うのだが、それぐらいの余裕はあるようだ。

 ただ個人的には先にパンフを買いたいのでそろそろ向かいたい……上映後だと本来の対象年齢のお子様達がグッズ購入に並び始めるから肩身が狭くなるのだ……。

 

「はぁ……しょうがないですね……それじゃ、そろそろ行きましょうか」

「おう」

 

 そんな俺の願いが通じたのか、ようやく一色がそう言うと、持っていた商品を棚に返し渋々という顔で店を出る。

 そうして、ようやく俺たちはエスカレーターに乗って映画館へと向かうことにした……のだが。

 

「センパイセンパイ! 見て下さいよ、あの子可愛くないですか?」

 

 次のエスカレーターに乗り換えようとしたところで、またしても一色に腕を引かれた。

 今日何度目だろう? 俺、いつかこの子に腕引っこ抜かれるんじゃないかしら?

 そんな事を考えながら、一色の指差した視線の先を見ると。そこにはゲームコーナーがあるのが見えた。

 どうやら一色はそのゲームコーナーに置いてあるクレーンゲームに興味を示しているようだ。

 クレーンゲームの中には人気のソシャゲのキャラのぬいぐるみにまぎれて、一匹だけぽつんとデフォルメされた目付きの悪い狐のぬいぐるみが陳列されているのが見える。

 いや、まぁ狐はデフォルメされたら大体目つき悪いか……。

 

「金無いんじゃなかったの……?」

「一回! 一回だけですから」

「はぁ……一回だけだぞ?」

 

 まぁ、ポップコーンを買うのに並んだりしなければ問題ないか……と。俺は諦めてそう一色に告げる。

 見た所、明らかに一匹だけ毛色が違うので、売れ残りが混じったのか、ディスプレイ用のものが倒れてきたのだろうか? クレーンの可動域ギリギリのラインにあるので、正直取るのは難しそうだ。

 そう考え、俺は首だけを動かして周囲のクレーンゲームを確認する。

 もし同じぬいぐるみが他の台に入っているならそちらの方が狙いやすいだろうと判断したためだ。

 だが、いくら見回してもその狐が入っているのはそのクレーン一台だけ。

 ふむ、なら売れ残りの線が濃厚か。店員に頼めば良い位置に移動してもらえるかもしれない。

 丁度店員が一人こちらに近づいてきているのが見えるし、どうせ強請られるなら先に手を打って……。

 

「ちょっと待ってろ……」

「え?」

 

 しかし、そうして俺が店員の元へと一歩踏み出すと同時に、一色は百円玉を入れ、クレーンを動かし始めていた。

 

「だ、駄目でしたか?」

「いや、駄目じゃないけど……」

 

 てっきり強請られるものだと思っていたから、拍子抜けしてしまった。

 一色はそのまま無言でクレーンを動かし、狐を狙っていく。

 だが……片方のアームが狐の鼻を擦るだけ。クレーンは何事もなかったかのように定位置へと戻っていった。

 

「あー! もう一回!」

 

 なんだろう……この光景、つい最近どこかで見たような……。

 ああ、そうか。おっさんか。

 おっさんがクレーンゲームをやっていた時の雰囲気に似ているのだ。

 これが一色家の血筋というやつなのかもしれない。

 俺は悔しがりながらも二度三度と金をつぎ込む一色に思わず笑みを零す。 

 だが、それがお気に召さなかったのか、一色は頬を膨らませながら、俺をにらみつける。

 

「もう! 笑ってないでセンパイも手伝って下さいよ! う……百円玉がない。この五百円玉で……」

 

 どうやらおっさんほどの財力はないらしい。

 当たり前といえば当たり前だが、俺はその様子に少しだけホッとして、改めて店員を探した。

 おっさんみたいに千円札をどんどん崩していったら流石に心配になる所だからな。

 お、いたいた。

 

「だから、ちょっと待ってろ」

「へ?」

 

 俺は一言だけ一色にそう告げ、今度こそ近くの店員に景品の移動を依頼すると、やはり処分品だったのか取りやすい位置に動かしてくれたので、俺がそのままその狐をゲットし、一色に押し付けるように手渡した。

 ……本音を言うと店員に直接やってもらいたかったのだが、店員は何を勘違いしたのかぬいぐるみを取りやすい位置に動かすと、俺にサムズアップとウインクを投げてきたので仕方なく自分でやるはめになったのだ。まぁ結果オーライなので良しとしよう。

 

「へ?」

「何? 要らなかった?」

 

 不思議そうな顔で俺を見つめる一色に、俺は戸惑う。

 あれ? これほしかったんじゃないの? もしかして「お前が取ったやつなんていらねーよ」とかそういうアレですか?

 

「いえ……いります……。まさか、取ってくれるとは思ってなかったので……」

「まぁ、その……あれだ、合格祝いみたいな感じで……」

 

 だが、一色はなんだか妙にしおらしくその狐を受け取ってくれたので、俺が思わずそう告げると、一色は小さく「……合格祝い……」と呟き、狐の顔を覗き込む。

 

「……ありがとうございます。大事にしますね」

 

 そして次にギュッと狐を抱くと、一色はそう言って「えへへ」と笑った。

 どうやら無事受け取ってもらえたようだ。

 正直俺はその狐をそこまで可愛いとは思ってなかったし、持って帰っても置き場所に困ったからマジ助かった。

 一体一色はあの狐の何が気にいったのだろう。

 女子分からん。 

 

「んじゃ今度こそ……」

「あ、センパイ。まだちょっと時間ありますし、どうせならプリも取りませんか?」

「プリ?」

 

 プリというのはあれだ、所謂プリクラ。

 その場でシールやら証明写真やらにしてくれるという陽キャ御用達の外で写真を取る機械だ。

 ただ、この手の機械は女子の利用が多く、盗撮防止などの意味もこめて男子だけでの利用が禁止されている店が多い。

 つまり女子が一緒にいないと出来ないので、当然俺には馴染みがない。

 現にそのプリコーナーもカウンターで仕切られ「女性・カップル専用」と書かれたパネルがあちらこちらに貼られている。  

 

「ほらほら、早くしないと映画始まっちゃいますよ」

「ちょっ、引っ張るなよ」

 

 だが、一色はそんな俺に構うことなく、俺の腕を引きプリコーナーへと入っていくと、慣れた手付きで一台のプリ機に先程崩そうとしていた五百円玉を入れていった。

 そんな俺達の様子を見てさっきの店員が「ごゆっくりー」と笑顔でこちらを見送ってくる。 

 あれ? おかしいな。俺はこちら側ではないはずなのだが……。

 

「まずは背景ですねー、それから……これと……これ」

 

 戸惑いながらプリ機のカーテンの中へと入っていくと。一色が慣れた手付きで機械を操作していく。

 俺はその様子をただ眺めていることしか出来なかった。

 

「はい、これでOKです。センパイもっとくっついて! カメラ見て!」

「お、おう」

 

 あまりのスピード感に頭が付いてこない。

 俺は一色に言われるがまま、ピースサインをする一色の横に並び。頭がぶつかるのではないかという程の距離でオドオドとカメラに視線を向ける。

 やがて、プリ機から「3,2,1」というカウントダウンが流れ、物凄い光と共にシャッター音が聞こえてきた。

 目が、目がぁー!!

 

「はい、次は盛っていきますよー」

 

 俺がバ○スの光にやられていると、一色は何事もなかったかのように次の作業へと移っていく。

 う……未だに視界の端がチカチカしている気がする。この後映画鑑賞が控えているのに支障がでたらどうしよう。

 

「目はもうちょっと大きくしたほうがいいですかね?」

 

 ようやく正常に戻ってきた目で、独り言のように呟く一色の横から画面を覗き込むと、そこには目が二倍ほどの大きさになっている一色の姿があった。

 正直少し気持ち悪い。

 女子の可愛いと男の可愛いの感覚は違うと聞いた事があるが、一色もこれを可愛いと思っているのだろうか?

 っていうかよく見ると俺の目もデカくなってるな……。

 

「いや……そこまででかくする必要ないだろ、そのままのが可愛い」

 

 うーんうーんと、唸る一色に俺がそういうと、一色は何故か戸惑ったように俺を見てくる。

 あれ? 俺何かやっちゃいました?

 別に俺はチート能力も何も持っていないはずなんだがなぁ。

 

「……そ、そうですか? じゃ、じゃあこのままで……あとは……落書きですね。センパイも何か書きますか?」

 

 慌てた様子でペンを動かす一色がそういうので、俺は「いや、俺はいいや」と首を振り、一色を見守ることにした。

 正直、この狭い空間で一色と二人きりというのは落ち着かなかったが、外に出ればそこは「女性・カップル専用」のプリクラコーナーである。一色の加護がない状態でその場に出ていく勇気もなかった。

 仕方なく俺は一色の作業が終わるのを待ち、やがて出てきたシールを一色が切り分けていくのをただ黙って見ていた。

 

「はい、これはセンパイの分」

 

 殴られる時のセリフみたいだな。

 なんて事を思いながら、二等分にされたシールを見ると、そこには『初デート!!』と落書きがされているのが見えた。そしてご丁寧にハートも飛んでいる。

 更に言うと、多少設定を絞ったとはいえ、相変わらず目も大きいし、妙に俺たちの肌が白くキラキラしてる、あと俺の腕が妙に細い……あと何故かぬいぐるみの狐の目もデカイ……あと、ええい、ツッコミが追いつかん! 情報量が多い!

 

「スマホにでも貼りますか?」

「やめてくれ」

 

 こんな物を貼っていたら後で小町に何を言われるか分かったものじゃない。

 いや、この加工具合ならワンチャン俺ではないと言い張れ……流石に無理か。

 

「もういいだろ、そろそろ行こうぜ」

 

 俺は諦めたように、一度スマホを見た。既に上映時間の五分前だ。

 やはり、早めに店を出て正解だったというものだろう。

 一色がこれ以上寄り道しませんように。

 

「そうですね。そろそろ行きましょうか」

 

 ようやく納得してくれた様子の一色がそう言って、持っていたシールを丁寧にカバンに仕舞う。

 よし、とうとうプリキュアの最新映画だ……!

 

「あ、そうだ」

 

 そうしてプリコーナーを出ようとした所で、一色が突然声を上げた。

 

「何? まだ何か……」

 

 何事かと一色を振り返り「まだ何かあるの?」と問いかける。

 だが、俺がその言葉を言い切るより、一色は持っていた狐のぬいぐるみを反対の手に持ち替え、空いた右手で俺の左手を握ってきた。

 一色は元々スキンシップの多い方だとは思うし、腕を組んで歩くことも多かったが、こうして直に肌を触れる機会というのは実はそれほど多くはない。

 柔らかく、そして小さい一色の手から体温が直に伝わってくる。

 突然のことに俺の心臓がドキリと跳ねたのが分かった。

 やばい、手汗とか大丈夫だろうか? 出るな、出るな、引っ込め! いや、その前に離した方がよくないか?

 だが、俺が手を引くと、当然その手を握る一色も一緒に俺の方へ近づいてくる。

 一色との距離が近い。駄目だ意識すると余計に手汗がでそうな気がする……!

 静まれ、俺の汗腺! 

 

「な、何?」

「……今日は手を繋ぎたい気分だったんです。その……見せつけられちゃったので」

 

 上ずった声で俺が尋ねると、一色はそういって握る手に力を込めてくる。

 見せつけられたって一体誰にだろう?

 すれ違っていくカップルにか?

 だが、周りを見てもソレらしきカップルは見当たらない。

 どういうことだってばよ!

 

「へへへ」

 

 一色はそんな俺の疑問など知る由もなく、妙に締まりのない顔でニヘラとだらしのない笑みを浮かべていた。

 本当女子分からん。

 

 しかし、何をどうしたらいいのかは分からんが、これ以上問答をしている時間はない、急がないとプリキュア始まっちゃう。

 

「──っ、と、とにかく急ぐぞ!」

「はい!」

 

 そうして俺は一色の手を引き、今度こそ映画館へと向かったのだった。

 

***

 

**

 

*

 

「結構面白かったですね」

「だろ?」

 

 結局、映画を見ている間も一色はずっと俺の手を離さなかった。

 おかげで映画の前半は映画に集中できなかったし、ポップコーンは食べづらかった。

 だがそれでも、後半はさすがプリキュアという熱い展開で気がついた頃には手を繋いでいたことも忘れていた。内容には大満足だ。

 ただ一つ心残りがあるとすれば……。

 

「やっぱ応援ライトは貰えなかったな……」

「小学生以下って言ってたじゃないですか。私、来月高校生ですよ? センパイも私も制服ですし」

 

 そう、チケットを渡して入場する際、入場特典の応援ライトを貰えなかったのだ。

 一色は実質プリキュアなんだから貰えるかもしれないと期待していたのだが……くそぅ、やはり一色はプリキュアじゃなかったのか、騙された……。

 

「まぁ、来年があったらまた見にくればいいじゃないですか」

「バッカお前、プリキュアの次の映画は来年じゃなくて秋なんだよ」

 

 素人丸出しの提案に、俺は思わず強い口調で抗議する。

 プリキュアの映画は年に二回ある。

 春と秋。

 先にも言った通り、春は主に新プリキュアが先輩プリキュアと出会い、協力していくストーリー。

 だが、秋は新プリキュアの単独映画だ。つまりそれまで今年の新プリキュアを追いかけなければいけない。今年もしっかり応援せねば。

 

「へぇ、じゃこれから年に二回はセンパイと映画見に行けますね」

「へ……?」

 

 意気込む俺に、一色はさらりとそんな事を告げる。

 年に二回……? センパイと……。つまり俺が一色と……?

 一体それはどういう意味なのだろう?

 

「それで、センパイは何頼みます?」

 

 そうして、一色が手を上げて店員を呼ぶ素振りを見せた。

 今、俺たちは喫茶店に来ている。

 映画が終わった後の感想と、帰る前に少し休憩をしようという話になったからだ。

 春先になり、多少日が伸びたとは言え、日はすっかり落ちきっている。

 一色の門限が何時かはよく知らないので、もう帰ったほうが良いのではと思ったが、一色がこれで最後だからとせがんだ結果でもあった。 

 

「……タピオカ」

「タピオカ? ……センパイ、タピオカは流石にちょっと古いですよ」

 

 え? まじか俺結構好きなんだけどな……。

 まぁ割と高いからそんな頻繁には飲めないが、たまにふと飲みたくなる。

 ココ数ヶ月は収入も多かったからな。

 ただ本格的な店のは女子と一緒じゃないと買いづらいのでそういう時は小町に頼んだりしていた。

 あれ? 世の中女子が居ないと出来ない事多すぎない?

 しかもその女子の力でブームになったタピオカがもう衰退とか……ちょっとショックまである。

 

「まぁ、センパイが飲みたいならいいですけど……」

 

 一色はそう言うと「じゃあ私も」とメニューのドリンクの欄を見直し始めた。

 別に好きな物飲めば良いと思うが……。

 

「ミルクティーでいいんですか?」

「あ、うん」

「すみませーん!」

 

 あまりにもサラリと言うので、俺は思わず素で答えてしまった。

 そうして慣れた感じで一色が店員に二人分の注文を伝え、それほど時を待たずして、それぞれのドリンクが運ばれてくる。

 いつ見てもストローがでかい……。今日は喉にダイレクトアタックされませんように……。

 

「それじゃ、いただきまーす! ……んー! 懐かしい味」

「懐かしいって……そこまで古いもんでもないだろ」

「いいんですよ、こういうのは気分なんですから……」

「さいですか」

 

 ズズッともうひと口タピオカを吸い込み、口の中で潰していく。

 

「んで、今日はこんなんで良かったの?」

 

 デートの感想を聞くなんて男としては情けないことだと聞いたことはあるが、今日のこれは予行演習だ。

 多少の感想を聞いてもバチは当たらないだろう。

 何しろ俺はデート上級者だからな。

 

「へ?」

 

 だが、そう思っていた俺とは逆に、一色は「一体なんのことですか?」とでも言いたげに首を傾げてくる。

 

「だから……その……デート……」

 

 予行演習なんだろ。参考になったか? という言葉を出しかけ、それはあまりにも大人げないのではないかとなんとか押し止め、俺は問いかけた。

 すると、今度は「ああ」と大きく頷きぽんと手を打って視線を斜め上へと動かす。

 恐らく今日の出来事を振り返っているのだろう。

 さて、判定やいかに。

 驚きの鑑定結果はCMのあと!

 

「んー、そうですねぇ。まず女の子に誘われてほいほい付いてきちゃうのは減点ですよね」

「どうしろってんだよ……」

 

 どうやら最初の段階から駄目だったらしい。

 つまりあそこで断って帰った方が点数があがったってこと? でもそれだとデートにならなくない?

 いや、マジどうしろというのだ、流石に理不尽すぎません?

 

「それに、買い物してる時もずっと上の空でした。これも減点です。あ、そういえば総武で会った時無視しましたよね? あれは大問題です」

 

 どうやら減点方式らしい、二本目の指を折り、三本目の指を折り、一体どこまで点数が下がっていくのかと逆に楽しみになってきた。

 しかし、そうしてボーッと一色を眺めていると、一色はやがて「でも……」と指折り数えていた手を開き、カバンから例の狐のぬいぐるみを取りだして胸元に小さく抱きしめながら言葉を続ける。

 

「さらっとこの子を取ってくれたのは格好良かったですし、プリでも可愛いって言ってくれたし、映画もなんだかんだ結構楽しめました」

 

 噛みしめるようにそういう一色に、俺は思わず息を呑んでしまった。

 あ、そうか……俺あの時「可愛い」と口に出してしまっていたのか……。

 やばい、メチャクチャ恥ずかしい……。

 俺は少しだけ気まずくなってそっと一色から目を逸し、ズズっとタピオカをすすった。

 うっ……ダイレクトアタック……。

 

「それに……」

 

 だが、そんな俺にお構いなしという様子で、一色は言葉を続ける。

 まだ何かあるのだろうか?

 

「それに、相手がセンパイだったので。最初から百点満点です♪」

「お、おう……そうか」

 

 思いの外高評価だったらしい。

 おかしい、これではまるで一色が葉山ではなく俺のことを好きみたいではないか……。

 落ち着け、落ち着け俺。

 これは単に俺がデート上級者だという事実が証明されただけだ。

 勘違いするな、顔を赤くしている場合じゃないぞ。

 

「それで……ですね?」

「ん、うん?」

 

 少しでも顔から熱を放出するため、熱いなぁなどと言いながら冷たいタピオカの入ったコップを手で包み。冷えた手で頬杖を突く。どうか、バレませんように。

 そう祈る俺を一色は真剣な眼差しで見ながらチラチラと見てくる。

 

「だからって訳じゃないんですけど……」

「なんだよ……」

 

 言いづらそうにしている一色に少しだけドキドキしながら、俺は次の言葉を待った。

 

「……センパイ。もう少しだけ許嫁続けてみませんか?」




というわけで65話でした。

八色のイチャラブまだー?と仰っていた方々へ
こんなんで大丈夫だったでしょうか?!

例によって細かいアレやこれやは活動報告で。

感想・評価・メッセージ・お気に入り・誤字報告・ここすき。
何でも良いのでリアクション頂けますと本当に助かります。


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第66話 だから俺と一色いろはは……

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここ好きありがとうございます。


 一色からの衝撃の申し出──もといデートの日からまた数日がたった。

 結局、あの日一色から「続けませんか?」と問われた俺は、その場で結論を出すことができず『少し考えさせてくれ』というなんとも情けない返答をして、気まずい空気のまま帰路に着いた。

 

 だが、それでも一色は何も言わなかった。

 ただ『お返事待ってます』と不安そうに笑いながら、別れただけ。

 一方俺はというと……その日からは眠れぬ夜を過ごすことになった。

 当然だ、おっさん、そして一色に課された問題はそれは本当に難問で、持ち帰ったから結論が出るというものでもないからだ。

 終わると思っていた関係なのに、ココに来ておっさんと一色両方から継続の意思を問われてしまった。

 こんな判断、俺に付くはずがない。

 いっそ強制してくれれば『仕方ない』と折れることもできたのかもしれないとさえ思う。

 

 しかし、そんな俺の願いも虚しく、その日以降おっさんも一色も何も言ってはこなかった。

 まぁ、一色は許嫁問題には一切触れてきてはいないにしろLIKEで毎日のようにメッセージを送ってきていたけれどな……。むしろ、あまりにもその話題に触れてこないので、あれはすべて夢だったんじゃないかとさえ思うほどだった。

 

 そしてやがて終業式が終わり、春休みに入り。

 三月も終わろうとしている今日、俺はおっさんの家の前で一人立ち尽くしていた。 

 

 ここに来たのはもう三度目だ。

 二度あることは三度あるというが、それより先はどうなるのだろうか?

 三度、四度と続いていくのだろうか? 無限ループって怖くね?

 二度と抜け出せ無かったらどうしよう……。

 

 とはいえ、今日は期限の日でもある。例の許嫁問題にケリを付けなければならない。

 俺が一色との許嫁を続けるのか、続けないのか……。

 それをはっきりさせるのだ。

 

 ふぅと一度大きく息を吐き、俺は少しだけ腹に力を入れておっさんの家のインターホンを鳴らす。

 相変わらずでかい家だ。

 でも、正直内装はそこまで詳しくないんだよな。

 俺がよく知ってるのはいつも通される大広間ぐらいだ、他にどんな部屋があるのか詳しくは知らない。

 いや、まあ詳しくなる必要もないんだけど。

 

「はーい! どうぞ!」

 

 そんな事を考えていると、間もなくインターホンから声が帰ってきたので俺は「おお」と言って門を開ける。するとそこには、ハァハァと軽く息を切らせた一色が、玄関のドアを開けて待っていた。

 

「いらっしゃいセンパイ。その……お待ちしてました」

 

 その光景はまるで一年前に戻ったようで、妙な懐かしさを覚えた。

 そういえば……去年、ここで初めて一色と会ったんだったな……。

 だが、お互いあのデート以来顔を合わせていないというのも会って妙に気まずい。

 

「あー……おっさんは?」

「中で待ってます」

 

 どうやら、今日はちゃんと家にいるらしい。

 まあ、このタイミングで「まだ病院です」なんて言われても困るんだけどな。

 そんな俺の考えを察したのか、一色も少しだけ苦笑いを浮かべて俺を家の中へと通してくれた。

 

 向かう先は……やはり、というかいつもの大広間。

 一色が「お祖父ちゃん、センパイ来たよ」と不機嫌そうに言って襖を開ける。

 なんだろう、ここに来るまでに何か不機嫌になる要素があっただろうか? と少しだけ首を傾げるが、どうにも答えは出ず、俺は大広間の中へと視線を向ける。

 そこには大きなテーブルのある大広間の上座の座椅子にドカリと座るおっさんと、その隣でお茶を入れている楓さんが座っていた。

 

「八幡君、いらっしゃい。毎度毎度ごめんなさいね?」

「ああ、いえ。こちらこそ……」

 

 何がこちらこそなのかは分からないが、楓さんに謝られてしまい、俺もつられて頭を下げる。

 そのまま頭を上げる流れでおっさんを見ると、おっさんは少しだけ厳しい表情で腕を組んだまま俺を見つめていた。

 

「よう八幡。どうだ? 結論はでたか?」

「……ん。出た……と思う」

 

 そう問われ、俺は少しだけ戸惑いながらそう答える。

 俺の持ってきた答えが正しいのかどうかはわからないからだ。

 

 今日まで、本当に悩んだ。

 どうするのがベストなのか。

 だが、その答えは出ない。

 それでも俺は何度も同じ過ちを繰り返すような男ではない……と思う。

 少なくとも一色から「許嫁続けませんか?」と言われたときも「お前、俺のこと好きなの?」なんて聞かなかった。

 そんな事をしてしまえば、中学時代の壮絶なトラウマを再現する事になってしまうからだ。

 大丈夫、俺は学習できる男、比企谷八幡。

 一色が俺の事を好きだなんて勘違いはしない。

 俺は心のなかで改めてそう決意し、おっさんの目を見据える。

 

「そうか……なら座れ。いろはもだ」

 

 すると、おっさんがそう言ってクビだけで自分の前の席を指した。

 これもまた、あの時と同じ構図だ。

 いや、違うな。一つだけあの時とは明確に違うところがあった、それは一色が俺ともおっさんとも離れた席ではなく、俺の隣に陣取っていることだ。

 正面におっさんと楓さん。テーブルを挟んでこちら側に俺と一色。なんだか対立構造みたいだな。

 心無しか一色もおっさんの顔を見ないようにしているように見える、さっきの不機嫌そうな態度といい喧嘩でもしているのだろうか?

 まぁこれも、一年分の変化という奴なのかもしれない……。

 理由はよく分からんけど……。

 

*

 

「はいどうぞ、冷たいのが良かったら遠慮なく言ってね?」

「あ、ども」

 

 俺と一色が席につくと、楓さんがそれぞれの前に暖かい日本茶とお茶菓子を出してくれた。

 欲を言えばコーヒーの方がよかったが、もうすぐ春とはいえ、まだまだ肌寒い日が続くので、暖かい飲み物ならそれだけで十分ありがたい。

 全員分のお茶が行き渡ると、俺とおっさんがほぼ同時にお茶を啜り、一色がお菓子を一つ軽くつまむ。

 なんだか空気が重い。これは……俺から切り出したほうがいいんだろうか?

 やば、なんか緊張してきた。

 ふぅ……。よし……! 言うぞ!

 だが、そうして俺が気合を入れるとその気合を霧散させるように、おっさんがコホンと咳払いをして、胸元から何かを取り出した。

 

「……さて、とりあえずお前にはこれを渡しておこう」

 

 俺が少しだけ肩透かしをくらい、ポケッとしていると、おっさんがそう言って一枚の封筒をテーブルの真ん中に置く。

 これは……あれだ、俺がここ数ヶ月毎月一枚貰っていた凄い見覚えのある封筒。

 そして、前回おっさんにお預けを食っていた……。

 

「最後の給料だ」

 

 ああ、そういえばまだ貰ってなかったんだったなと、ぼんやりと考え俺はその封筒を自分の元へと引き寄せる。

 正直完全に頭から抜けていた。

 危うく大事な収入を無くすところだった。危ない危ない。

 

「ありがとうございます」

 

 俺は一言そう言って頭を下げてから、ちらりと中身を確認する。

 気のせいか過去一で多いような……?

 いや、まぁ受験前のラストスパートは毎日のように通ってたし残業も多かったからな……それ全部カウントされてたらこんなもんなのかもしれない。

 正直、もう自分がどれぐらい働いたとか考えたくなかったので計算するのも忘れていたのだが……。

 やはり一度ちゃんと確認しておくか……。

 

「今回は成功報酬も兼ねている。やはり、お前に頼んで正解だったな」

 

 だが、そうして頭の中でおおよその金額を計算していると、おっさんが聞き慣れない言葉を使ったので、俺は「成功報酬?」と首を傾げた。

 そんな話は契約時にはあったっけ、一体何に対する成功報酬なのだろう?

 

「無事いろはが総武に合格しただろう? その分の報酬ってことだ」

 

 そんなシステムがあったのか。

 でもそれ、失敗していたらどうなっていたの?

 今更だが、無責任に一色を総武に行かせたことに恐怖を覚える。

 一色マジGJ。合格してくれて本当良かった……。

 いや、本当責任とか取れんからなぁ……。

 

「今回のことでお前自身得たものもあったと思うが、どうだ?」

 

 そう言われ、俺は頭を捻る。

 得たもの……?

 

「金?」

「違う、そういうことじゃない。もっと大事な物があるだろう」

 

 大事なものと言われても、金以外に大事なものなんてあまり思いつかない。

 大事な小町は最初から俺の妹だし……。はて……?

 なんだろう、こういう時この手の質問の返しと喜ばれそうな答えなら多少思いつくのだが……。

 

「経験……とか? あと金?」

 

 得難い経験とか、忘れられない思い出とか、いかにもおっさんが好きそうな答えだと思い。そう答えたのだが、おっさんは首を振って言葉を続けた。

 

「まあ経験も金も大事だ、お前がそれを得たというのは間違いないだろうが……。今回はちょっと違うもっと分かりやすいものだ。実績だよ」

「実績?」

 

 その言葉に俺は思わず頭を捻り、隣りに座っていた一色と目を合わせる。

 だが、一色も「よく分かりません」という表情で首を軽く振っただけ。どうやら、この場でおっさんの言葉を理解しているのは楓さんぐらいなもののようだ。

 しかし、なおも分かりませんという表情の俺と一色に、おっさんは「はぁ」と大きな溜息を吐く。

 

 実績というとあれか、ゲームなんかで特定の条件を満たすとピロンって出てくる奴。

 称号とか、トロフィーとか色々呼び方はあるが、たくさん集めるとゲーム廃人として認められる一種のステータスだ。

 どうやら現実にもそのシステムが導入されているらしい。

 獲得音がなった記憶はないんだけどな……。

 

「ああ、総武高生を排出した現役家庭教師だからな、今後家庭教師をやるときにも箔がつくってもんだろう」

 

 だが、相変わらず首をかしげる俺に、おっさんはそう言って、少し口角を上げる。

 

「いや、別に続けるつもりないし……。そもそも合格したのは一色の実力だから、俺の手柄みたいにいうのは違うだろ」

 

 そう、勉強をしたのも、受験をしたのも全部一色の努力あってのことだ。

 それを俺の実績というのは少し違うのではないだろうか?

 しかし、俺がそう言って首を振ると、おっさんが即座に否定する。

 

「何をいう、そこらへんにある塾やら家庭教師の斡旋所やらを見て来い。この時期“現役合格率何パーセント”ってデカデカと宣伝してるだろ。あれと同じだ。お前の手柄でいいんだよ」

「そ、そうですよ、私センパイのお陰で合格できたんですから」

 

 すると今度は一色も援護射撃をしはじめた。

 そして考える。言われてみれば確かに塾や家庭教師の信用度というのは生徒が出した結果で測られている気はする。

 となると、やはり俺の実績なのか?

 実感は沸かないが、そういうものなのだろうか?

 

「まぁ、今後この実績を活かせるかはお前次第だがな……それでもお前が持っているという事には変わりない、頭の片隅にでも入れておけ。それはお前の自信にも繋がる。その証拠に……お前の目、少し光が見えてきてるぞ。去年は死んだ魚の目みたいだったのにな」

 

 続けておっさんがそう言うと一色が「え?」と俺の目を覗いて来た。

 いや、近い近い。

 やめて、ドキドキしちゃうから離れて。顔赤くなっちゃうでしょうが!

 

「本当だ……なんか……前と違う……」

「お前の方が会う頻度が多かったから小さな変化に気付かけなかったんだろうな。まぁまだまだ小さな光だが、それが成長ってやつだ」

 

 そう言って、一色とおっさんが分かりあったように頷くのを見ながら、俺は二人から逃げるように楓さんに視線を移すと「ええ、格好良くなったわね」と小さく笑うのが見えた。

 どうやら、この場にいる全員、俺の目の中に光が見えるらしい。

 今まで『死んだ魚みたいな目』とか『濁った目』とか。『腐った目』とか。色々言われて来たが、光が見えるなんて初めて言われた……。

 漫画なんかでは良く聞く表現だが、そんな事が本当にあり得るのだろうか?

 帰ったら鏡見よう……。異常があったら眼科行かなきゃ。

 だが、その場では結局自分自身ではよくわからないまま。

 

 俺がどうしたものかと、考えていると一色と楓さんが「センパイは前から格好良かったよ」「あらあらそうだったわね」と良く分からない会話を繰り広げている。

 なんだろう、なんだか、背中のあたりがむず痒い。

 俺はその場の空気に耐えきれず思わず視線を下げ、目の前のお茶をぐいっと傾けおっさんを見た。

 

 実際、俺の目に光が見えているとか、そういう事はどうでもいい。

 恐らくは光の反射とかそういうレベルのものだろう。なんなら部屋の照明が反射しているだけの可能性が高い。

 仮に……万が一そんな症状が現れていたとしたら病気に決まっている。今すぐに眼科にいかなくては。近くに良い眼科があるといいんだけど……。

 小町にググっといてもらお。

 

 それに正直その実績とやらにしても家庭教師に関しては今後は一色も同じ高校の一年。正直続けられるとも思えないのでその実績とやらは実績のまま終わる事も確定している。

 きっと一色一族の今日だけの話で終わるだろう。

 

 あれだ、校長先生の話みたいなもんだ、お年寄りは若者に無駄に良い話っぽい話をしたがるもんだからな。

 真に受ける方が間抜けというやつだろう。

 そう考えたら気が楽になってきた、うん。やはり俺はこの給料だけを得たということにしておこう。

 でも一応眼科は行こ……。

 

「さて、それじゃそろそろ本題に入るとしよう」

 

 そうして俺が思考を放棄し、再び湯呑を傾けていると、今度は少し声のトーンを落としたおっさんが俺を見てきた。

 どうやら、ここからが本番のようだ。

 

「いろはとの許嫁の件。どうするか結論はでたんだな」

 

 そう、今日はその話をしにきたのだ。

 給料を貰いに来るだけだったら、どんなに気が楽だっただろう。

 しかし、もうココまできたら引き返すことは出来ない。

 よし、気合を入れろ比企谷八幡。

 

「ああ……俺は……」

 

 もうすでに答えは決まっている。

 言うぞ……!

 

「いや。やはり儂から少し言わせてもらおう」

 

 だが、そうして俺が口を開こうとすると、おっさんは手の平をこちらに向けて、再び俺の言葉を遮り、コホンと一度咳払いをした。

 あれ……?

 

「一応な……そのー……儂としては……やはりお前にはいろはの許嫁を続けてほしいと思っている」

 

 うん、知ってる。聞いた。

 

「セ、センパイ! その……! 私も! 出来ればもう少しだけでも続けたいって思ってるんです!」

 

 うん、ソレも聞いた。

 それを聞いた上で、俺は今日結論を持ってきたのだが……。

 あれ? なんだろうこれ再放送だろうか?

 折角意気込んできたのに話の腰を折られ俺はどうしたら良いか分からず楓さんに助けを求める。

 だが、楓さんは困ったように笑うだけで何も答えてはくれなかった。

 

「正直……そうだな、いろはにはまだまだ未熟な所は多い、見ての通り、へそを曲げると面倒くさい部分もある。もしかしたら、今のお前には我慢のできない事もあるかもしれない」

「ちょっとお祖父ちゃん! 面倒くさいってどういうこと!」

 

 やがて再放送だと思っていた目の前の光景は、新展開を迎えおっさんと一色の口喧嘩へと発展していく。

 いやいやいや、ちょっとお二人さん? これ以上ややこしくしないでもらえます?

 

「いや……あの……二人ともちょっと落ち着いて」

「儂は落ち着いてるぞ? いろはが勝手に騒いでるだけだ」

「勝手にって! お祖父ちゃんが変な事いうからでしょ!」

 

 バンっとテーブルが叩かれ、俺の目の前のお茶がユラユラと揺れる。

 おーこわ。近寄らんとこ。

 俺がそう思い、ほんの僅かに座っていた座布団を一色から離すと、おっさんが呆れたように溜息を吐いたあと、俺を真っ直ぐに見た。

 

「……まあ、それでもな儂からみれば可愛い孫娘だ。変な男に引っかかるよりお前みたいな男にしっかり捕まえておいて貰いたいと思っている。お前達はまだまだ若い。お互いぶつかる事もあるだろう。だが、そうやって二人で苦労して乗り越えた先に本物の関係というのが待っていたりするもんだ。だから、もう少し長い目で見てもらえんか?」

「苦労したから本物とは限らんだろ……」

 

 いや、そう考えるならそもそもが簡単すぎたのか?

 一色との許嫁というのは、俺が何か苦労して手に入れた関係ではない。

 簡単に紡がれた関係だから逆に怖いというのもあるのかもしれない。

 苦労したから本物なのか、簡単に手に入ったから偽物なのか。一体何が正解なのだろう。

 

 ……まあいい、何度も言うが俺の心はもう決まっているのだ。

 その事だけはまずおっさんに伝えよう。

 

 そう思い、俺は未だ興奮冷めやらぬという一色に視線を送る。

 すると一色は不思議そうに、そして不安そうに俺の目を見た。

 

 よし、少し落ち着いた。

 言うぞ。

 俺はもう一度心の中でそう決心し、昨日の夜の事を思い出しながら、おっさんの目を見据えた。

 

──────

 

────

 

──

 

 昨晩、俺は一人、暗い階段を降り、キッチンへと向かっていた。

 その日の昼間、おっさんから連絡があり『明日許嫁の件の答えを聞かせてもらいたい』と呼び出しを受け、どうしたものかと眠れぬ夜を過ごし、どうにも小腹がすいて仕方がなかったので、気分転換に冷蔵庫を物色しようと思い立ったのだ。

 

 時刻はすでに深夜アニメが数本終わっている時間帯。

 だが、未だに答えは出ない。

 廊下の明かりは消えている。小町ももう寝たのだろうか?

 俺は明かりの漏れていない小町の部屋の前をできるだけ音を立てないように通り過ぎ、階段を降りると、そのままキッチンにある冷蔵庫へと向かう。

 暗いキッチンに冷蔵庫の明かりが漏れる姿は、まるで黄金の宝物殿のようだ。

 

 しかし、残念なことにその宝物殿の中には、コレと言って食欲を唆るようなものは入っていなかった。

 困った。

 いっそコンビニにでも行くか? どうせ春休みだしな……。

 

「お兄ちゃん? 何やってんの?」

 

 そう考え冷蔵庫を閉めようとすると、ふと視界の端に人影が映るのが見えた。

 一瞬見てはいけないものが映ったのかとビクリと肩が震えるが、閉めかけていた冷蔵庫を再び開くと、その明かりでそれが小町なのだと分かる。

 ふぅ……危うくチビる所だった。大丈夫、セーフ。

 

「……ん、ああ。悪い起こしたか?」

「ううん、寝付けなくてちょっと喉乾いたなぁって思っただけだから」

 

 俺が声をかけると、小町はそう言って戸棚からコップを取り出す。

 その様子を見て俺が冷蔵庫を閉め、キッチンの電気をつけると、小町は眩しそうに目を細めた。

 

「なら、コーヒーでも飲むか?」

「こんな時間に? 眠れなくなるよ?」

 

 俺の提案を一蹴すると、小町は俺の横をすり抜け再び冷蔵庫を開けると、俺と同じように内容にがっかりしたのか「ふぅ」と肩を落とす。

 

「まあ、色々考えたいこともあってな」

「……いろはさんの事?」

 

 コップに水道水を注ぐ小町に、突然核心を突かれ思わず心臓が跳ねた。

 なぜ分かった?

 俺はそんなに分かりやすいのだろうか?

 それとも、一色から何か言われたのか……?

 

「いろはさん心配してたよ? 『センパイの様子はどうですか?』って。どういう意味か全然わからなかったから『いつも通り元気でやってます』って返しといたけど。どったん? いろはさんとなんかあった?」

 

 どうやら後者だったようだ。

 さて、どうしよう……。

 俺は小町の問いに答えるべきか少しだけ躊躇する。

 一色から小町に連絡が来ているということは、逆もまた然りだと思ったからだ。

 ここで迂闊に小町に話を振っても良いもんだろうか?

 

「いや、まぁあったといえばあったけど……」

「仕方ないなぁ、ほら、小町ちゃんが相談に乗ったげるから、ひとつひとつ話してみそ」

 

 だが、俺が答えに躊躇していると、小町は楽しげにそう言って、今度はリビングの電気をつけ、ソファに座ると、ポンポンと自分の隣に座るよう促して来た。

 はぁ……まぁいいか。どうせ行き詰まっていたのだ。

 眠れぬ夜に人生相談というのも実に千葉の兄妹らしい。

 

「ちょっと……長くなるぞ……」

 

 ワクワク顔の小町とは裏腹に、俺はどこから話して良いものか考えながら、コーヒーの準備をはじめた。

 

*

 

*

 

*

 

 

「そんなのもう答えでてるじゃん。あーやだやだ、どんな悩みかと思ったらただのノロケ話じゃん。聞いて損したー」

「今の話のどこがノロケなんだよ……」

 

 俺が先日おっさんと出かけた時に話したこと、そして今回一色とデ……出かけた時に言われたことを小町にざっくりと説明すると、小町はミルク多めのコーヒーを両手で持ちながらウンザリという顔で口を開いた。

 

「全部だよ、最初から最後までぜーんぶ! はぁ……でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだからなぁ……面倒くさいなぁ。いろはさんもこんなののどこが良いんだか……」

 小町が独り言のようにごちる。

 こいつ……なんか勘違いしてないか……?

 「はぁ」と肩を落としながら、全て分かってますみたいな顔で俺を見てくる……、やはり相談する相手を間違えたかもしれない。

 でも俺相談出来る相手なんて他にいないしなぁ……。

 ぼっちに選択肢などないのだ、悲しいね。

 

「仕方ない、折角現れたお義姉ちゃん候補のためにも、小町がしっかりアドバイスしてあげよう」

 

 ズズッとミルク多めのコーヒーを啜った小町が、コトリと音を立て、マグカップをテーブルに置くと、体ごと俺の方へと向き直り、指をピンと一本立てた。 

 

「そもそもさ、お兄ちゃんはいろはさんのことどう思ってるの?」

「どうって……別にどうも……」

 

 思っていないのだろうか?

 正直、俺の中の一色の立ち位置が定まらない。

 今までは家庭教師としての「教え子」というのが一番しっくり来ていたが、今ではその関係が崩れ許嫁という良く分からない状況だけが残っている。

 加えて、あと一週間ちょいもすれば正式に後輩だ。

 一体、俺はアイツの事をどう思っているのだろう?

 ただの知り合い……? それとも……。

 

「ダウト。小町知ってるんだよ? お兄ちゃんが大事に大事に隠してるもの」

 

 だが、そんな俺の迷いを察してか、小町がビシッと俺の鼻に指をおく。

 同時にドキリと心臓が跳ねた。

 ──俺が大事に隠しているもの?

 そんなものに心当たりは………………メチャクチャある。

 俺は無意識にそっとポケットに入れてあったスマホを撫でた。

 え? 待て、まさか小町は“アレ”を見たのか?

 いや、だが“アレ”はそう簡単に見つかるようなモノじゃないはずだ。

 

「か、隠してるって何をだよ……」

 

 そう、きっと何かのブラフだ。

 ここしばらく小町にスマホを貸したりもしていない。

 このスマホの中に入っている『眠る一色いろは -セーラー服のすがた-』を見られたということは無いはず。

 変に動揺するべきじゃない、仮に“アレ”に気づかれていたとしても、何か……何か言い訳を……。いや、いっそ今この場で消すべきか……?

 アプリを起動して、小町に証拠として突きつけられる前に削除。

 よし、完璧なプランだ。

 

「お兄ちゃん……いろはさんから貰ったバレンタインのチョコの空き箱、大事にしまってあるでしょ? 机の一番上の引出しの中」

 

 だが、俺がそうしてスマホを持ち上げようとした瞬間、小町が自信満々にそんな事を言ってきた。

 そっちか!

 いや、まぁそっちも隠してはいたが……。普通のチョコの空き箱だから一色から貰ったものだとはバレないと思っていたのに……。

 一体いつの間に。

 

「あーんな、どこにでも売ってるチョコの空き箱、後生大事にしてる時点でお察しだよ」

「いや、あれは……!」

 

 『メッセージが書いてあるので捨てるに捨てられなかった』というだけなのだが……。

 だってほら、手紙とかって捨てにくいだろ?

 それと同じ感覚でなんとなく捨てられなくて、机の引き出しに入れてしまったというだけなのだが……。

 下手なことを言うと墓穴を掘りそうなので俺は思わず口を噤んだ。

 実際の所、今はあの空き箱の中に先日一色と撮ったプリをしまっていたりもするので、もし見せろと言われたらそれはそれでアウトなのだ。

 

「お兄ちゃん、もう正直になりなよ……いろはさんのこと、好きなんでしょ?」

「……いや、別に好きってわけじゃ」

 

 そう、別に好きというほどではない……はずだ。

 一年という時間をかけて少し情が移ったというのは認めるが。

 前提として『許嫁』なんていう得体のしれない関係を用意されて戸惑っているだけで、今俺が一色に感じているこの感情も、一色と距離を取っていれば自然と消えていくものだと思っている。

 下手に勘違いしないよう十分に気をつけてきたしな。

 

「でも、少なくとも続けても良いとは思ってる。ちょっと前までのお兄ちゃんだったらこんなに悩んでないでしょ?」

「……」

 

 それは正直否定できなかった。

 確かに、ほんの少し前の俺なら断固として断っていただろう。

 こうやって悩んでいること自体がすでにおかしい。

 

「なら、続ければいいじゃん、縁継さんもいろはさんも続けてみればいいって言ってくれてるんでしょ?」

「いや、そういうわけにもいかんだろ……」

 

 もしこれが許嫁以外の関係であるならば、そういう関係でも良いのかもしれない。

 だが、何度も言うが許嫁というのは婚約関係のことである。

 「続ければいいじゃん」で続けて良いものでもないのだ。

 

「じゃあお兄ちゃんはいいの? よく知らない人にいろはさん取られちゃっても?」

「それは……」

 

 別に構わない──そう言おうとしたのだが、何故かそれは言葉としては出てきてはくれなかった。

 まるで張り付いたように喉元で留まり、思わずコーヒーを飲むと、その言葉は体の奥底へと沈められていく。

 あれ?

 

「ほら、やっぱり、嫌なんじゃん。お兄ちゃんにもさ、もう少し考える時間が必要なんだと思うよ?」

 

 だが、だからといって、この関係を続けて良いということにもならない。

 俺はなんとか小町にその事を説明しようとしたが、俺の思考を吹き飛ばすように、小町がいちど溜息を吐いた。

 

「お兄ちゃんはさ、怖いんだよ」

「怖い?」

 

 一体俺が何を怖がっているというのか。

 

「あのね、誰かを大切に思うってことは、その人を傷つける覚悟をするっていうことなんだって。だからお兄ちゃんはその覚悟がないままいろはさんの傍に居続けるのが怖いんでしょ。本当に何も感じないなら去年みたいに縁継さんに言われるまま流されてれば良いんだもん」

 

 言われて、俺は黙ってしまった。

 もしかしたら、そうなのかもしれないと思ってしまったからだ。

 俺は……覚悟が出来ていないのだろうか?

 俺は……一色を大切に思っているのだろうか……?

 

「……これはあんまり言いたくないけど小町だってお兄ちゃんがこのまま、いろはさんとばっかり仲良くなって小町に構ってくれなくなるのは少し寂しいって思うんだよ?」

「え?」

 

 小町が……寂しい?

 困った、小町を寂しがらせるわけにはいかない。

 やはりここは一色との許嫁を解除してこれからは小町優先で行動しなければ。

 

「まぁ、そこまで仲良くなる前にいろはさんに愛想つかされるかもしれないけど……。むしろ一年もったのが奇跡だよね」

 

 だが、小町はそういって笑うと、ぽふんと俺の肩に頭を乗せてきた。

 なんだか妙な雰囲気だ。

 先程までの呆れた様子も、怒った様子もなく、まるで母親が子供に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を吐き出す。

 

「でもさ、なんだかんだで一年は過ぎたんだし、これからまた一年。ううん、それよりもっと長い時間が経つことだってあるんだよ」

 

 そう、そうなんだろうか?

 そんな事があるのだろうか?

 俺と……一色がこれから先の長い時間を……?

 だが、俺の疑問が解消されるより早く小町の言葉が紡がれる。

 

「お兄ちゃんだけじゃなく、小町にも先があるよ」

 

 再び、俺の頭にクエスチョンマークが浮かんだ。

 小町の先。というのはどういう意味だろう?

 

「小町、いろはさんも縁継さんも好きだな。楓さんももみじさんも、あの家の人は皆好き」

 

 言われて、俺も思い出していた。

 あの家で過ごした日々のこと。

 まるで本当の孫のように俺と接してくるおっさん。

 いつも暖かく俺の事を見守ってくれていた楓さん。

 一色と張り合うように俺に話しかけてくるもみじさん。

 穏やかな兄のように接してくれた弘法さん。

 そして……。

 

「お兄ちゃん。お兄ちゃんがいろはさんの許嫁じゃなくなると小町も困るの」

「……は?」

 

 俺の肩に預けていた頭を起こし、真剣な眼差しで俺を見てくる小町に、俺は思わず目を丸くする。

 こいつは一体何をいっているのだろう?

 

「お兄ちゃんといろはさんが許嫁じゃなくなったら、もういろはさんとも遊びづらいし、縁継さんとも連絡取りづらくなっちゃうでしょ?」

 

 確かに、元許嫁の妹と一緒に遊ぶというのは色々気を使うだろう。

 俺だったら二度と連絡しない。

 

「だからさ、小町のために小町の友達のためになんとかなんないかな?」

 

 これは、小町がくれた一つの答えだ。

 俺が一色の許嫁を続けて良い理由。

 小町の言う通り、俺は一色の事が好きなのかもしれない。

 だが、こんなものは周囲の状況が作り出した勘違いに他ならない。刷り込みと言い換えても良い。

 たまたま、年の近い女子と一年比較的近い位置で接する事になってしまった。恐らく相手が一色じゃなくても多少の情は移っただろう。

 なんとなく拾った子犬を捨てるに捨てられなくなってしまった。そんな状況。

 モテナイ男の悲しい性とも言える。

 だから、こんな思いのまま一色の傍に居ることは間違っていると思っていた。

 

 それでも、一色とおっさんが俺を必要としてくれているのなら、そして……俺自身の心が決まらない事を知って尚小町が後押ししてくれるなら……もう少しだけ付き合ってみるぐらい良いんじゃないか?

 俺も散々振り回されてきたんだ……そんな悪魔の囁きにも聞こえる考えが、俺の中を支配する。

 そして、その考えがベストとは言わないがベターなのではないかと思えた。

 

「……妹のためじゃ、しょうがねーな」

「うん、小町のためだもんねー、小町ワガママダカラナー、シカタナイナー」

「ほんとだよ……」

「えへへ」

 

 一生に関わるかもしれない許嫁という問題を妹のために続けるなんていうバカが一体どこにいるというのか。

 だが、実際俺はシスコンなので仕方がない。

 

「ありがとな」

「どういたしまして」

 

 根本的な問題は何も解決していない。

 だが、時間的猶予ができたと考えれば、小町の提案はさほど悪く無い気がした。

 少なくとも、あちら側が俺を必要としている間ぐらいはこの関係を続けてもいいのかもしれないとは思える。

 何しろ可愛い妹、小町のためなのだ。

 お兄ちゃんとしては頑張らなくてはならない。

 そうして俺は小町という免罪符を手に、許嫁の続行を決意したのだった。

 

 

──

 

────

 

──────

 

 

「おっさん……聞いてくれ」

 

 そうして昨晩、小町と相談して出した結論を告げようと、俺が、改めて二人に視線を向けると、おっさんは真面目な表情で、一色はまるで縋るように俺を見てくる。

 大丈夫、大丈夫だ……言え。比企谷八幡!

 

「その……正直許嫁……結婚とかは分からん。でも、おっさんが言ってた通り。その……この一年は悪くなかった……と思う。だからその……おっさんが言ってた見極めるっていう意味でも……もう少し続けさせてもらえたら……助かる」

 

 絞り出すような声で、俺がそう言い切ると。一色がきょとんとした顔で、俺を見つめてくるのが分かった。

 

「えっと……それってつまり……?」

 

 ああ、そうか。

 これはおっさんに言うんじゃなくて一色に言わなきゃいけないんだな。

 俺はそう思いたち、ポカーンとした顔のおっさんから視線をずらし、今度は一色の方へと体を向ける。

 

「一色」

「は、はい」

 

 俺が声をかけると、一色は姿勢を正し同じように俺の方を向いてくれた。

 ふぅ……なんか……告白するみたいだな……。

 全く、祖父母の前で告白とかどんな罰ゲームだよ……。

 

「俺と、もう少し……許嫁でいてくれるか? まぁ……その、まだ続けたいと思っていてくれたら……だけど」

 

 続けたいとはさっきも言われたが、どうにも自信が持てず、俺は改めてそう告げる。

 すると、部屋の中には僅かな沈黙が流れた。

 

 ……あれ? やっぱ冗談でしたー。とかだったんだろうか?

 まずい、俺やらかしたかもしれん。いっそ「なーんちゃって」で誤魔化すか……?

 新たなトラウマ誕生か?!

 俺はそんな恐怖心から視線をキョロキョロと彷徨わせ、次に恐る恐る一色の顔を見ると、一色はパクパクとまるで鯉のように空気を吐いているのが見えた。

 これは……どっちだ?

 

「……い、いいんですか?」

「あ、ああ……一色と……おっさんが良ければ……な」

 

 信じられない。という感情をここまで顔にだす人間を俺は初めて見たかもしれない。

 瞳をうるませ、口元を両手で覆う一色は今にも泣いてしまいそうだ。

 なんだか想定外すぎるリアクション……。

 もっとこう、軽い感じで「やった、じゃ来年もよろしくお願いします」ぐらいのノリだと思ったんだが……。

 もしかしてこいつ本当に俺のこと……。いやいや、調子に乗るな比企谷八幡。お前の悪い癖だ。

 

「いろはとの許嫁を続ける。ということでいいんだな?」

「……だから、そう言ってるだろ……」

 

 そうして、俺が自分を律していると、今度はおっさんが口を開いた。

 改めて何度も言われると流石に恥ずかしいが……まぁそういう事だ。

 態々強調しないで欲しい。

 

「は……はは……ははは!! そうか! 続けるか!」

 

 しかし、おっさんはそんな俺を見て大声で笑い始めた。

 その顔にはもはやさっきのような焦燥の表情はない。

 今にも顎が外れるのではないかと思うほどに楽しげに大きな口をあけている。

 

「お祖母ちゃん聞いた!? 聞いたよね??」

「ええ、ちゃんと聞いてましたよ。おめでとうね、いろはちゃん」

「うん! ありがとう!」

 

 一色は一色で楓さんの所までいって、「せっせっせーのよいよいよい」とでも始めそうなほどにお互いの手を握って上下に振っている。

 そして、次の瞬間にはその姿勢のまま、俺の方へと振り向いた。

 

「センパイ! 今日からは私センパイの許嫁ですからね!? もう取り消せませんからね!?」

「いや、落ち着け……別に今までと変わらんだろ……」

 

 その言い方だとまるで今日から許嫁になりましたみたいだろ。

 別に何一つ変わっていないのだ。気負う必要はない。

 そう、これまでだって俺と一色は名ばかりの許嫁だったのだから……。

 

「あ……すみません……。ちょっと興奮しちゃって……。えへへ」

「まぁ……そのなんだ……。何が出来るかはわからんけどな……要らなくなったら捨ててくれその時はこっちで勝手にやる」

「捨てたりなんかしません! するわけないじゃないですか!」

 

 一色はそう言うと、今度は慌ただしく俺の目の前までやってきた。

 本当に忙しい奴だ。

 楓さんも困り顔である。正直早まったかもしれないなぁという後悔が早くも襲ってきた。

 

「えっと……それじゃ……」

 

 だが、一色はそんな俺の考えなどお構いなしに、今度は俺の目の前で正座をした。

 背筋をぴんと伸ばし、俺の目を真っ直ぐに見てくる。

 俺も思わずつられて、同じ姿勢を取ってしまうが……一体何が始まるのだろう? そう思った瞬間。

 一色がゆっくりと頭を下げた。

 一言でいうなら土下座の姿勢とも言えるが、その指はキレイに真っ直ぐに伸ばされ、とても礼儀正しい所作なのだと分かる。

 

「不束者ですが、末永くよろしくお願いします」

「お、おう……こちらこそ……?」

 

 突然の事に戸惑い、俺はどう言葉を返したら良いものか分からず、俺はおっさんと楓さんの方へと視線を泳がせてしまった。

 だが、二人共微笑ましそうに俺たちを見つめるばかりで、何も言っては来ない。

 まずい……どうしよう、少し早まったかもしれない。

 これではまるで本当に……。

 

「……そうだ、いろは。お前の合格祝いも結局やれてなかったな、肉か寿司でも食いに行くか。ああ、どうせなら小町ちゃんも拾ってくか」

「あ! そうだよ! あの日結局私何も食べてないんだからね! 今日は高いお店連れってってもらうんだから!」

 

 やがて、困惑している俺を助けるように、おっさんがそう言うと、一色がパッと頭をあげた。

 いや、本当助かった……。あのまま結婚させられるのかと思った……。

 

「センパイはお肉とお寿司どっちの方が良いですか?」

「一色の好きな方でいいんじゃないの? お前の合格祝いなんだろ?」

「センパイの食べたいモノが食べたいんですよ!」

 

 なんだかさっきまでの一色とはまるで別人みたいにはしゃぐ一色だったが、その耳は少し赤みを帯びている。

 いや、もしかしたら俺も赤くなっているのかもしれない。

 だが、それを確認する術はなく、俺は一色に手を引かれ気がついたときには廊下へと連れ出されていた。

 

 こうなった一色一族は逆らっても無駄なんだよなぁ……。

 これまでの経験から、最早俺がこのまま家に帰る道は残されていないと悟り、俺は少しだけ後悔する。やっぱ……早まったかもしんない。

 

「ほらほらお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも急いで!」

「待て待て、今小町ちゃんに連絡をだな……」

「それじゃ、お婆ちゃんもすぐ支度してきますからね」

 

 テンションの高い一色にずっと手を握られながら、俺はボーッとこれからの事を考える。

 しかし、何度考えても。楽しそうに、そして嬉しそうに俺の隣で笑う一色を見るだけで、なんだかどうでもよく思えてしまい、思考が纏まらない。

 結局俺は「ま……なんとかなるか……」と未来の自分に全てを投げ出したのだった。




本当は二話に分けるつもりだった話なんですが、途中で切ると先の展開がミエミエになりそうだったので、色々調整して一話にまとめて終わらせました。

というわけで許嫁続行決定ー!
わー、パチパチー。

そしてそして……小町ちゃんが知っていた物証は皆さんの予想通り
「キット○ット」の空き箱でしたー!
イヤー ミナサンニハ カンソウ デ スグ バレチャッテ アセッタナー

やっぱり八幡はバレンタイン慣れしてない男の子ですし、貰ったチョコの空き箱を軽々しく捨てないかなーと思い保管させておきました。
皆さんの予想は当たったかな?

あ、やめて、石を! 石をなげないで! ごめんなさい! もうしません! 多分!

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第67話 そして俺は進級し、一色いろはは……

いつも感想・評価・お気に入り・誤字報告・メッセージ・ここ好き・Twitterでの読了報告ありがとうございます。


 四月、新学期、始業式を迎え、俺はとうとう二年へと進級した。

 昇降口前に張り出された掲示板から自分の名前の書いたクラスを見つけると、ワイワイと楽しげに話す生徒たちを横目に、一人教室へ向かう。 

 ああ、そうか進級し教室も変わるということは、今年からは毎朝登る階段も一つ増えるのか。億劫だ、これで遅刻の頻度も増えることだろう。

 しかも三年になるとまた一つ増えるというのだから、嫌になる。

 もしかしたらこれが大人の階段というやつなのかもしれない、俺はまだシンデレラさ。

 

 そうして、いつもよりも少し長い距離を歩き教室へと向かうと、そこは既に軽いパーティー会場と化していた。

 グループ分けも済んでいるのか、ほとんどの生徒が3~6人ほどのグループに分かれワイワイと楽しげな声を響かせている。

 おかしい、今日がクラス替え初日な筈なのに、もう俺の居場所がない。

 もしかして春休み中にグループ分けイベントでもあった?

 もー……そういうのあるなら俺も誘ってよ、行かないけど。

 

 しかし、こんな状況にも慣れたものだ。

 俺は一度チラリと黒板を見て「出席番号順に座ること」と書かれたプリントを確認し、席へと向かうと、そのままA.Tフィールドを展開した。

 Absolute Terror Field。通称心の壁。

 早い話が読書である。

 こうして、一人黙々と本を読んでいれば、安易に話しかけてくる人間はいなくなるし、俺が声をかけて欲しそうにしているわけでもないと分かるだろう。

 昨今は電子書籍が主流でもあるのもあってか、こうやって紙の本を読んでいるとそれだけで頭の良さそうな印象を植え付けられるという点でも優れたアイテムである。

 去年は机で寝た振りをしていたら戸部に突破されたが、流石に今年は乗り切れるだろう。

 ちなみに本の中身は例によってラノベだが、書店のカバーをしたままなので、外から何を読んでいるかも分からないはずだ。材木座でもなければ……だけどな。

 

 そういえば、材木座は同じクラスではないのだろうか?

 別に同じクラスになりたいとかそういうわけでは全然、全く、これっぽちもないのだが。

 場合によっては今年からは体育のペアを新たに考えなければいけない。その事だけが気がかりではあった。

 今年の体育でペアの授業がなければよいのだが……もしもの保険という意味でも最低でも隣のクラスあたりに居てくれれば助かるなぁ……と、柄にもなくそんな事を願いながら、ページを捲る。

 その瞬間、ふと後頭部の辺りに視線を感じた気がした。

 ん?

 

 噂をすれば……というやつだろうか?

 もしかして本当に材木座と同じクラスになってしまったか……?

 

 だが、読んでいたページに指を挟み、何気なく視線がした方角を振り返る、そこに材木座の姿はない。

 むしろそこには材木座の天敵ともいえる四人の陽キャっぽい男女の姿があった。

 椅子に座り、ネイルをチェックしながら退屈そうに話しているリーダー格っぽい長い金髪の縦ロール、その取り巻きらしいメガネで黒髪の地味系女子、完全に後ろ姿だがピンクがかった茶髪のお団子頭女子。そして……葉山隼人だ。

 

 マジか……葉山も同じクラスなのか……。

 いや、待て、まだそうと決まった訳じゃない、隣のクラスだが偶然知り合いを見つけたのでこっちのクラスに遊びに来ているという可能性だってある。

 勝手に結論付けて決めつけるのはよくないからな、うん。

 もし葉山と同じクラスだとしたら一色との兼ね合いもあるので色々面倒くさいことになりそうだ、どうか遊びに来てるだけでありますように。

 

 だが、そんな事を考えながら葉山達のグループを見ていると、やがて葉山と目があってしまった。

 やばい、気付かれた。

 葉山は女子グループとの会話を一度中断させ、俺の方へと歩み寄ってくる。

 俺は慌てて、前に向き直り本を開いた。

 

「やぁ、比企谷。今年は同じクラスだな、よろしく」

 

 だが、時既に遅し。

 葉山は俺の机の前まで来ると、ラノベの上にその長身からくる大きな影を落とした。

 くそっ……やっぱ同じクラスなのかよ……。

 よりにも寄って葉山と同じクラスとは、もはや呪われているとしか思えない。

 心のなかに「これからこいつと一年顔を合わせなきゃいけないのか」という絶望が生まれてくる。

 もし、神がいるのだとしたら、きっと相当意地の悪い顔をしているのだろう。

 きっとニヤニヤとした笑みで人に近づき、気がつくと懐に入り込んで悪さをするロマンスグレーの映えるムキムキマッチョマンに違いない。……ってあれ? これおっさんじゃね? おっさんは神だった?

 

「……あんまり、歓迎って感じじゃなさそうだな」

 

 俺が返事をせず脳内のおっさん神に詰め寄られていると、やがて葉山が少しだけ困ったように笑い、肩をすくめた。

 そして同時に、周囲から「えー、誰あれ?」「何? 葉山くんの知り合い?」という奇異の目が向けられているのが分かる。

 まずいな……。

 葉山というのは校内でも有名な超絶イケメンである。そんな男が俺のような陰キャに話しかけているのだ、当然注目を集めるというもの。

 早々に切り上げてもらわなければ……。

 

「あ、イや……別にソういうんじゃないンだけどな……まぁ、なんだ、よろしク」

 

 俺は今の状況のまずさに気が付き、慌てて持っていた本を仕舞うふりをしながら、ところどころイントネーションを狂わせ、モゴモゴと言い訳がましく頭を下げた。くそっ。

 これではまるで映画にでてくる三下小物だ。いや、まぁ小物ではあるんだけどさ……。

 

「ああ、よろしく。そういえば戸部も同じクラスらしい。まだ来てないみたいだけど……比企谷とはニ年連続だな。ソレに……」

 

 しかし、そんな卑屈な俺の自己嫌悪など知らぬ葉山はそういって言葉を続けていく。

 マジか……戸部も同じクラスなのか。でもまぁ……そっちはどうでもいいや。

 それより……。

 

「ソレに?」

 

 葉山がそこで言葉を止めた事に疑問を覚え、葉山を見上げると。

 葉山は俺の後方へと視線を向けているのが分かった。

 後ろに誰か居るのかと、改めて俺もその視線の先を追うが、そこにいたのは先程の三人組の女子の姿。

 金髪縦ロール、お団子茶髪、黒髪メガネ。

 先程も四人で話していたようなので、恐らく葉山の友人なのだろう。

 

「……いや、なんでもない。そういえば、明日入学式だろ? ……一色さんは元気?」

 

 だが、葉山はソレ以上言葉を続けず、一度だけ小さく笑うと、露骨に話題を逸した。

 一体なんだったのだろう?

 葉山にとっては、あの三人と同じクラスになれたということに何か意味があるのだろうか?

 葉山ハーレムとか?

 誰が第一夫人……いや、第一夫人はきっと金髪縦ロールだな。第二夫人はどちらだろう。

 まあ……どうでもいいけど。

 それで、なんだっけ? そうそう一色だ一色。一色かぁ……元気なんだろうか……うーん……?

 

「あー……多分?」

「多分?」

 

 実のところ、あのおっさんとの話し合いの日以降あまり会えていないのだ。少し前までと違って、連絡こそちゃんと来るものの。一昨日などは小町と出かけた帰りに家の前まで来ていたらしいのだが、俺と顔を合わせる前に『会いたいのは山々だけど……今はまだ無理』と言って帰ってしまったらしい。まぁ恐らくまた良からぬ事を企んでいるのだろうとは思うが……。はぁ……面倒事じゃありませんように……。

 

「まあ、うん元気なんじゃねーの……?」

「隼人ー、まだー?」

 

 しかし、そうして俺が適当な返事をすると、横から見知らぬ女子の声が割り込んできた。

 視線を動かせば、そこには先程の金髪縦ロールが葉山の横に立ち、不機嫌そうに髪をくるくると弄びながら、品定めをするように俺を見おろしてくる。

 え? 何? 怖い。

 きっと野生の虎に睨まれたらこんな感じなんだろうな、と思うほどにその時の俺は恐怖を感じてしまっていた。

 

「ああ、悪い優美子。そうだな……それじゃそろそろ行くよ。比企谷また後で」

「あ、ああ。また……」

 

 そんな彼女を見て、葉山は一度困ったように笑うとやがて、大きく一度頷くと、そう言って俺に手を振ると、優美子と呼ばれた金髪縦ロールを引き連れ、元いたグループの元へと戻っていった。

 何が「また」なのかはよく分からなかったが。

 とりあえず命の危険は去ったようだ。ほっ……。

 なんなのこのクラス、野生の虎がいるとか聞いてないんですけど?

 誰かSNSで「虎逃げてますよ」とか呟いてないのだろうか。やはり俺も危険回避のためにSNSやったほうがいいかもな。

 そんな事を考えながら、意味もなく去っていく葉山の背中をボーッと見つめていると、葉山ハーレムはそのまま教室を出て廊下へと出ていこうとしているのが見えた。

 何か用事があったのだろうか?

 そういえばそろそろ行く……とか行っていたな。まあ……俺には関係ないか。

 しかし、そうして俺が視線を前に戻そうとした時、ふと葉山ハーレムの一人、ピンクがかった茶髪のお団子頭の女子と目があってしまった。

 その女子は俺と目があった事に気がつくと、驚いたように目を大きく見開き、ワタワタと分かりやすく動揺して俺から視線をそらして、葉山達の後を追う。

 なんだ……? 俺、何か驚かせるようなことをしただろうか?

 だが、本当に一瞬のことだったので、俺はさほど気にすることもなく、まあいいか。と再び本を開こうと正面へと向き直る。

 すると、俺の机の前にまた別の人影が立っているのが見えた。 

 はぁ……今日は客の多い日だ……。

 

「おはよ」

「お、おう」

 

 新たな客の正体は川崎だった。

 川崎……でいいんだよね? あれ? 川神だっけか?

 ちょっと怖いから名前を呼ぶのは辞めておこう。

 もしかして……彼女も同じクラスなのだろうか?

 ちょっと今年のメンバー濃すぎません?

 この学校で俺が名前を知ってる数少ない連中勢揃いじゃん。

 葉山、川崎、戸部。

 マジで材木座も同じクラスとかありそうで怖いんですけど……?

 

 だが、そんな事を考えているウチに川崎はすぅっと小さく息を吸って、俺の肩を掴んだ。

 突然の事に驚き、俺は思わず先程のお団子頭のように、目を丸くする、

 へ?

 

「あのさ……ちょっと……話あるんだけどいいかな?」

「え? 何……?」

 

 カツアゲかしら? 怖い。

 俺あんまお金持ってな……あ、まずいな、今日割と持ってるわ。

 おっさんから最後の給料貰って財布に突っ込んでそのまんまなんだった。

 ちょっと今日取られるのは洒落にならないかもしれん。俺の一ヶ月分の労働がパァになる。

 どうしよう、財布持ってきてないって言ったら信じてくれるかしら?

 いやよく考えろ、ここは人目もある。誰かが証人になってくれれば返してもらうことは容易……あれ? 俺の証人になってくれる人……いるのか?

 まさかこいつ……そこまで考えて……?!

 

 そんな風に、なんとかカツアゲを回避出来ないかと思考を巡らせていると。

 教室の扉から、平塚先生が入ってくるのが見えた。助かった。

 

「悪い、やっぱ後で……」

 

 どうやら川崎もそれに気がついたようで、そう言って俺の肩から手を離すと、スタスタと俺の元を去っていった。

 ふぅ……どうやら危機は脱したらしい。

 でも、また「後で」か。葉山といい川崎といい問題が解決したわけではなさそうだ。

 新学期始まって早々に不穏な空気を漂わせるの辞めて欲しい。

 全く……。今年はそうでなくても一色の事で頭を悩ませる事になりそうだというのに……。

 どうか、ややこしい事になりませんように。

 

 そうして、俺は柄にもなくそんな願いを抱きながら「ほらー、そろそろ始業式始まるぞー、並べー」という平塚先生の声に従い、始業式へと向かったのだった。

 

*

 

**

 

***

 

 始業式の翌日の朝。

 俺は学校に行くべきかどうか悩んでいた。

 

 今日は入学式だ。

 一応在校生も全員出席という事にはなっているが、基本座っているだけの賑やかし要員である。状況に応じて立って、座って、拍手をして、また立って、あくびして、歌って、座って。拍手して、あくびして。の繰り返しである。正直行く意義を見出せない。

 

「お兄ちゃんまだ出ないの? そろそろ時間だよ?」

「あー……んー……」

 

 なんとなく制服には着替えてしまったが、やはり面倒くさい。

 そろそろ家をでないといけない時間なのだが、このままサボってしまいたいという衝動に抗えず、俺はソファーにぐでっと体を預けていた。

 

「ほーらー、今日からいろはさんも来るんでしょ? シャキっとしないと!」

 

 そう、入学式ということは当然新入生が入ってくる。

 つまり、一色も今日から登校という事になるのだ。

 保護者同伴の可能性が高いので、もみじさんや弘法さんもくるのだろう。

 もしかするとおっさんも来るかもしれない。

 そう考えると……行くべきなのか非常に悩むところだ……。

 やはりサボるのが正解ではないだろうか?

 掴まったら面倒くさいことになるのは目に見えてるしなぁ……。

 

「ほらほら。小町も出るからどうせなら一緒に行こうよ。ほら……立って……!」

「あー……」

 

 小町が俺の体を起こそうと、両手を引張ってくる。

 だが、その非力な力では当然俺は持ち上がらない。

 それでもカブは抜けません状態で「んんんー!」と顔を真赤にする小町が少々可愛くもあり、そのまま見ていたかったが。

 諦める様子を見せなかったので、俺は仕方なく「はぁ」とため息を一つ吐いてから立ち上がった。

 

「わわ! 急に立たないでよ!」

「お前が立てっていったんだろ……」

 

 俺が立ち上がると、勢いで小町が後ろに倒れそうになったので俺はソレを支えるように腕に力を込める。

 しかし、小町はそれがお気に召さなかったらしく、不機嫌モードに以降してプリプリと頬を膨らませている、可愛い。

 

「もう! とにかく、ほら! 行くよ! お兄ちゃんのせいで五分も遅れたんだから! 今日はお兄ちゃんの自転車で送ってもらうからね!」

「へいへい……」

 

 俺のせいというか、始めからその予定だったのではないかと思うが。まあいいか。

 どうせ今日は入学式だけで終わりなのだ出席日数だけ稼ぎに行くとしよう……。

 そうして、俺と小町は共に玄関で靴を履き、誰も残っていない家に向かって「いってきまーす」とひと声かけて玄関のノブを捻る。

 

 すると、そこには入学式に相応しい気持ちの良い春の青空が広がっていた。

 

「センパイ、おはようございます♪」

 

 そして、何故か一色が居た。

 

 え? なんで? ここにいんの?

 今日入学式だろ?

 一色の家から総武に行くのに、ウチを経由するとか明らかに遠回りなんだが……?

 だが、そんな疑問を持ちながらポカン顔で見つめる俺と小町を見て。一色はイタズラが成功した子供のような笑みを浮かべていた。 

 

「えへへっびっくりしました? サプライズ大成功です♪」

「え、いや、サプライズって……なんでお前ここにいんの? 今日入学式だろ?」

 

 得意げに語る一色に、俺がなんとか疑問を口にすると、小町も無言でコクコクと首を縦に振っていた。

 どうやら小町もこちら側らしい、良かった。

 また小町に仕組まれてたのかと思ったわ。お兄ちゃん危うく妹疑っちゃう所だったよ。ごめんね。お詫びに今度ふれあい動物園連れて行ってあげるからね。二人で行こうね。

 

「そんなの、センパイに一番に見て貰いたかったからに決まってるじゃないですか」

 

 心の中で一色は連れて行かないぞ。という思いを込めていたのだが。

 なんだかイジらしい事を言われて、俺は思わず何も言うことが出来なくなってしまった。

 くそっ……。なんだこれ。ちょっと可愛いと思ってしまったじゃないか。

 

 だが、そんな俺の心境など知る由もなく、一色は今度は「ほら、どうですか?」とその場でスカートの裾を軽くつまみながらクルリと回転する。

 そう、よく見れば……いや、よく見なくとも一色は総武の制服に身を包んでいるのだ。

 新品の制服に身を包み、白いブラウスからは僅かに光を反射させている。当然鞄も新品だし、もしかしたらローファーや靴下までも下ろし立てなのかもしれない。ピカピカの一年生というのは恐らくこういう事をいうのだろう。

 しかし、一色の変化はそれだけではなかった、ここ数ヶ月の一色は長い前髪をピンで押さえて、半分ほど額を見せる髪型をしていたが、今は目にかからない程度に流され、肩甲骨まであった後ろ髪も、肩の辺りで切りそろえられていた。

 

「どうですか? 受験中は切りに行くタイミングなかったから、思い切って高校生っぽくしようと頑張ってみたんですけど……似合いますか?」

 

 突然のファッションショーに、俺と小町があっけに取られていると。今度はくるくると髪を弄りながら伏し目がちに俺を見上げてくる。なんか、こういうの久しぶりだな。

 うん、あざとい。

 

「あざとい」

「お兄ちゃん!」

 

 俺がそう言うと、小町ドスッと俺の脇腹にエルボーをかましてくるので、僅かに腰をかがめてしまう。恐るべしジャイアント小町……。

 

「凄い似合ってますよ、いろはさん! ね? お兄ちゃん?」

「あ……ああ……いいんじゃないの……?」

 

 俺はなんとか自転車を倒さないように支えにしながら、そう絞り出すと、一色は「えへへ、良かった」とモジモジと身を捩らせる。

 その姿には先程までのあざとさはない。本当に喜んでいるだけに見えて、思わず俺も目を奪われる。

 やばい……本気でちょっと可愛いと思ってしまった……。中学までの俺だったらウッカリ告白して振られていたところだろう。ふぅ高二で良かったぜ。

 

 だが、そうして俺が一色を見つめ、一色が照れたように身を捩らせていると、やがて小町が呆れたように口を開いた。

 

「あのー……いろはさん? 小町の事見えてます……よね?」

「み、見えてるよ、ほらお米にはコレ。進級祝ってことで」

 

 突然小町がそう言って一色に詰め寄ると、一色は慌てて持っていたカバンをゴソゴソといじり始め、やがて手の平ほど小さな紙袋を取り出し、小町に渡した。

 

「わぁ、ありがとうございます! 開けていいですか?」

 

 小町はそう言うと、一色の「どうぞ」という返事も待たず紙袋を開け始める。

 ちょっと小町ちゃん? お行儀が悪いわよ?

 すみませんね、うちの子が……。

 そんな事を思いながら、ようやく俺が立ち上がると、小町がその紙袋の中から更に小さな袋に入ったものを取り出し「わぁ」っと声を上げた。

 

「付けてあげる、ちょっとこっち来て」

 

 何を貰ったのだろう? と俺が小町の手の中を覗くより早く、一色がそう言って小町と俺の間に割って入り、何やら小町の顔のあたりを弄り始めた。

 何か取り付けるタイプのものらしい。一体なんだろう?

 小町の換装用パーツだろうか?

 近接ボクサー型小町から、遠距離ガンナー型小町に変わるのかもしれない。

 やはりガンナータイプの方が色々使い勝手がいいよな。

 等と考えながら、俺は二人の作業を待つ。

 なんか……顔の辺りをいじっているせいか、イチャついてるようにしか見えないな……。

 これが百合という奴なのかもしれない、いろこまてぇてぇ。てぇてぇ代スパチャしなくちゃ(使命感)

「はい、出来た」

「わぁ、ありがとうございます。どうどう? お兄ちゃん、似合う?」

「お? おう?」

 

 やがて、取り付け作業が終わったのか、小町がそう言って。俺に顔を近づけてくる。

 先程のやり取りからすると、小町の顔に何かが付いている……はずなのだが……。

 あれ? なんか変わってるか?

 

「どう?」

「あ……あー……うーん……い、いいんじゃない?」

「……お兄ちゃん? もしかして分かってない?」

「え? センパイ分からないんですか!?」

 

 まずい、ここで分からないといったら明らかに顰蹙を買う流れだ。

 落ち着け比企谷八幡、小町の顔なら毎日見ている、何か変化があればスグに気付けるだろう。

 焦るな、大丈夫、お前なら分かるはずだ!

 俺はそう言い聞かせ、今度はじっくりと小町の顔をチェックした。

 

「……お兄ちゃん……?」

「わ、分かった! うん!? あれだろ? ほら……つけま……? が盛れてる……?」

「つけまって……もう! 全然分かってないじゃん!」

 

 どうやら大外れらしい。

 小町は「もう!」と可愛らしく怒りながら、自分の顔の左こめかみのあたりを指差して来る。

 そして、納得した。

 

「そんなんじゃなくてコレ! ヘアピン! 付けて貰ったの!!」

 

 そう言われてよく見てみると、これまでX型にヘアピンを交差させて付けていたのが、今はさらに一本付け足され、XI型になっていた。

 しかも、よく見たら三本とも小さな桜の花びらがついたヘアピンに変わっているのが分かる。

 どうやら小町10から小町11へバージョンアップしたらしい。

 サイゼの間違い探しかよ……。

 

 っていうかヘアピンってそんな何個も付ける意味あんの? 付けたことないからよく分からん……。

 

「はぁ……もうお兄ちゃん。本当そういう所だよ? すみません、こんな兄で」

「はは、でもその方がセンパイらしいかも。あんまり女の子慣れされても困るしね」

 

 いや、正直その間違い探し分かるやつ女子でも多くないんじゃないか? と思ったのだが。

 口にしたら二人から総攻撃を食らいそうだったので、俺はその言葉を飲み込み、甘んじて受け止める事にした。

 

「でも、本当にありがとうございます。小町の方は何も用意してなくてすみません……折角の入学式なのに。今度改めてお礼しますね!」

「いいよいいよ、私のはついでみたいなものだし……、それにお礼なら……」

 

 「ついで?」と思わず首を傾げると、一瞬一色が楽しげに笑うのが見えた。

 なんだろう、ちょっと怖い。

 

「あっれー? お米ちゃん、もうコンナ時間だよ? 急がないと遅刻しちゃうんじゃなーい?」

 

 だが、俺がそう思った次の瞬間、一色は口元に手を当てて大げさにそう言うと、スマホの時計を見せてきた。急げ、という事なのだろう。

 おかしいな、まだそんな危ない時間ではないと思うのだが……。

 

「え? いえ、小町は中学なので近いから全然余裕なんですよ。むしろお兄ちゃんの方が……」

「うんうん、大丈夫、センパイは私がちゃーんと学校まで送っておくから。気にしないで? ほらほら、いってらっしゃーい、気をつけてねー」

「え? いや小町も途中まで一緒に……」

「気をつけてねー」

 

 しかし、一色は小町の言葉を聞いているのか聞いていないのか……いや、聞こえない振りをする事に決めているらしく。

 表情を崩さず、機械のように手を振っている。

 なんだかちょっと怖い。

 

「……」

「気をつけてねー」

 

 声のトーンも、笑顔も変わっては居ないが、その振り幅は少しづつ大きくなっていく。

 どうやら、さっさと行け。という事らしい。

 一瞬小町と視線を交わすが、俺もどうしたら良いか分からずに小町を見つめ返すと。

 小町はやがて意を決したように、口を開いた。

 

「い……」

「い?」

「いろはさんの色ボケビッチー!」

「誰が色ボケビッチだ!」

 

 捨て台詞のようにそう言い放った小町が「うわーん」と泣き真似をしながら走り去って行き。その場には俺と一色が取り残される。

 全く……。

 ついさっきまでの百合百合しぃ流れはなんだったのか……。いろこまてぇてぇなんてなかったんや……。

 

「……あんまりうちの妹イジメないでくれる?」

「あはは、すみません、今日からセンパイと同じ学校だと思うとちょっとテンションあがっちゃってて、後でちゃんと謝っておきます」

 

 てへっと舌を出してそう言う一色の顔には反省の色は全く見えない。

 全くこいつは何がしたいんだか……。

 まぁ……俺も去年は入学式にテンション上がって一時間も早く学校に向かった身だからな……気持ちは分からなくもない……。

 

「それじゃセンパイ、行きましょ」

 

 仕方がないか、と小さく息を吐く俺に、一色は相変わらずのテンションのままそう言うと、さも当然のように俺の自転車の荷台に座り、サドルをポンポンと叩きはじめた。

 

「え? 乗るの? また怒られない?」

 

 正直一色との二人乗りもう完全にトラウマなのが……。

 しかも今日は入学式だろ? 去年みたいな事になりそうで怖い。

 

「途中までですよ途中まで。怒られそうだったらちゃんと降りますから。ほらほら、本当に遅刻しちゃいます。入学式から遅刻とか洒落にならないんですよー。ママ達も待ってるはずなんで急いで下さい」

 

 だが、一色はそんな事はお構いなしという風にそう言ってまたあざとく両手を前に出し、手首をくっつけるような、オネダリポーズをしてくる。

 だったら態々ウチに来ないでまっすぐ学校に向かったら良かったんじゃないの? と思うのは俺だけだろうか?

 例年入学式では新入生は在校生より遅れて登校するはずだから、ウチに来なければ十分余裕はあるはずだ……。

 だが……今ここでソレを言っても意味がないか……。

 むしろ本当に一色を遅刻させてしまうほうが問題な気がする。

 俺は再び「仕方ない」と心を決め、そのまま自転車に跨ると、一色が俺の腰に手を回してくる。

 アノ時に比べれば時間的余裕があるせいか、一色の腕の細さや、体温が背中に感じられ、自然と心臓の動きも速くなる。

 落ち着け、比企谷八幡。こうして一色と二人乗りをするのも二度目だ……慣れろ……慣れろ……。

 そしてこいつとの二人乗りは、これが最後でありますように。

 そんな事を願いながら、俺はゆっくりとペダルを漕ぎ始める。

 

「ところでセンパイ? 私達四月からも許嫁なんですよね?」

 

 だが、一色はそんな俺の願いを阻止するように背中越しにそんな言葉をかけてきた。

 思わず一瞬ハンドルが揺れるが、なんとか立て直し、俺は少しだけスピードを上げる。

 

「あー……まぁ……そうなんじゃねーの?」

 

 イツまでなのかは分からないが、少なくとも、こいつがその立ち位置の俺を必要だと言ってい

るうちはその役目はまっとうするつもりだ。

 お誂え向きに、葉山と同じクラスになったしな……。

 

「なら、未だに一色呼びっておかしくないですか?」

「……おかしくないだろ、そもそもお前が言い出した事だし……」

 

 あの日、一族全員「一色」なのに、「一色」呼びを希望したのは他でもない一色本人だ。

 正直に言えば、最初の頃は他の一色姓の前で「一色」と呼ぶのにも抵抗もあった。

 それでも、一年も続けていれば嫌でも慣れるというもの。

 むしろ今更変える方が難しいまである。

 

「いや、ほらだってあの時はあの時で……今とは違うわけですし……」

 

 だが、そんな俺の言葉を遮るように、一色が俺の腰に回した手に力をこめてきた。

 その体温と息遣いを感じ、思わず一瞬心臓が跳ねる。

 

「名前で……呼んで欲しいなーって……」

 

 コツンと背中に額が当たる感触。

 一体、今一色はどんな表情をしているのだろう?

 イタズラっぽくニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているのだろうか?

 特に何も考えていないのだろうか?

 それとも……。

 

「駄目……ですか?」

「駄目っていうか……」

 

 しかし、いくら考えても答えは出ない。

 俺の背中に目はないのだ。

 一色の言葉の真意も分からない。

 ただ分かることは……。今、俺の心臓がどんどんと速くなっているという事実だけ。

 

「センパイ……」

「……」

 

 甘えたようにそう呟く一色の声が聞こえ、一瞬俺の体が震える。

 まずい……。駄目だ、流されるな。比企谷八幡!

 

「い……」

「い?」

 

 駄目だ! 戻れ! 引き返せなくなるぞ!

 考え直せ!

 

「いいから急ぐぞ! しっかり掴まってろよ!」

「わわ、ちょっ、センパイ!?」

 

 すんでの所で、思いとどまり、ドキドキと早鐘のように打つ心臓の鼓動がバレないように、俺はスピードを上げた。

 もう警察に見つかるとか、そんな事は頭になかった。

 サドルから僅かに腰を上げ、一色に裾を引っ張られながら立ち漕ぎでペダルを回す。

 うぉぉぉぉ! とにかく今はこの場をごまかさなければ。

 もっと速く、速くペダルを回して、心臓がどんなに速く動いていても不自然じゃないほどに!

 

「もー……センパイの意地悪ぅ……」

 

 やがて俺の息がハァハァと切れ始めると、背中からそんな一色の声が聞こえてくる。

 まだ諦めてはいないようだが……少なくとも催促はなくなったらしい。助かった。

 これで誤摩化せただろう。

 危なかった、危うく引き返せなくなるところだった。

 

「でも、そんなところも──です」

「あ!? ハァ……何!? ハァ……何か言った!?」

 

 俺が少しだけ大きな声でそう聞くと一色は「なんでもありませーん!!」と俺の背中越しに声を張り上げる。

 

 全く、初日からこれでは体が持たない。

 やはり、許嫁の継続なんてするべきじゃなかったと、早くも後悔の念が俺を襲い始める。

 一刻も早く葉山に引き渡すべきかもしれない。

 

「今日からまたよろしくお願いしますねー! セーンパイ♪」

 

 しかし、そんな俺の心境などお構いなしに、一色はひと目も気にせず、大きな声を上げた。

 同時に、周囲を歩いていたスーツ姿の男女やら、子連れの主婦やらが俺達の方へと視線を向ける。

 一気に注目を集めてしまったようだが……ふと、脳裏に疑問が浮かんだ。

 一体周囲の人間には、俺と一色がどういう関係のように見えているのだろう?

 単なる知人? 兄妹? 先輩後輩? 友人? それとも……恋人?

 そのどれもが違うと説明したところで、この中の何人が理解してくれるのだろう?

 そもそも、今どきこんな関係性が存在すると想像することすら難しいかもしれない。

 だが、どういうわけか事実なのだ。

 一年前の今日、入学式に向かっていた俺が、今日の俺達を見たら一体どう思うのだろうな?

  

 ああ、……やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている。




これにて【第二章 いろは受験編】を含めた【やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている 第一部】の終了となります
読者の皆様長い間お付き合い頂きありがとうございました
途中で投げ出しそうになりましたがなんとかココまでこれました
コレも一重に皆様の応援のお陰です
本当にありがとうございました

多分今日の活動報告は色々募る思いを書きあげていると思うので
お時間がある方は覗いて頂けると幸いです

それと、第二部に関しては少し時間をおいてから投稿予定なので
少なくとも今月中の投稿は無いものと思って下さい
こちらの詳しい事も今日の活動報告にて

それでは、また第二部でお会いしましょうー!

感想・評価・お気に入り・メッセージ・ここ好き・誤字報告・Twitterでの読了報告等なんでも構いませんリアクション頂けますと大変喜びます。
よろしくお願いいたします。


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閑話
閑話 いろはにほへとばぁすでぃ


いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、ここすき、メッセージ。ありがとうございます。

こちらでは約一ヶ月半ぶりでしょうか?
お久しぶりです白大河です。

今回は予告通り閑話となります。
予定では5000文字程度だったんですけど何故か1万文字超えました
おかしくね?


 昼休み、今日も俺はいつも通り人気のないベストプレイスへと向かう。

 学生の昼休みといえば授業という拘束から解放され、ほんの僅かな休息を得る最高の時間で、これから向かう場所も誰にも邪魔されず飯を食える最高の穴場スポット。

 当然足取りも軽くなりそうなものなのだが……、不思議と俺の足は重い。

 

「センパイ遅ーい! もう私お腹ペコペコですよー!」

 

 なぜなら、その日もベストプレイスには予想に違わず一色いろはが居たからだ。

 実のところ最近はもうずっとこんな感じなのである。

 俺の安息の日々はどこへ言ってしまったのか……はぁ……。

 

「……別に腹減ったなら、先に食ってりゃいいだろ……」

 

 どういうわけか、この子最近昼休みになるとずっとここに居るのよね。

 ここは俺が見つけた校内随一のベストスポットで、食べログにも載せていないはずなんだけどなぁ……。

 もしかして、どこかで晒されちゃった?

 それまで誰も見向きもしなかった自分だけの穴場店をテレビで紹介された気分。

 いや、まぁ行列が出来る程じゃないけどさ……。

 それにしたって、俺以外にここを利用する人間がいるとは思わなかった。

 この子友達いないの?

 

 流石に多少は付き合いも長くなってきたその、なんというか──い、許嫁が入学早々こんな感じだと少し心配になってしまう。一度保護者に報告した方がいいかしら?

 もしこれが一色ではなく小町だったらと思うとお兄ちゃんちょっと泣いてしまいそうだ。

 小町ちゃんは大丈夫なの? 家では明るく振る舞ってるけど学校では毎日便所飯とかだったらどうしよう?

 今晩辺り久しぶりに人生相談の場でも設けるべきかもしれない。 

 

「何言ってるんですか、ほらほらとにかく早く座ってくださいよ」

 

 そんなことを考えていると一色がそう言って自分の隣のコンクリート階段をパンパンと叩き『ここに来い』と誘導してくる。

 はぁ……。

 

 今年は俺が葉山と同じクラスになったので、ソレを利用して葉山に近づくのだろうと思っていたのだがなぁ。

 どういうわけか一色にソレを伝えても「へぇ、そうなんですか」と心底興味なさそうに返事をしたきり、何もアクションを起こそうとしない。それどころか、俺のクラスに近寄るのを避けているような素振りさえ見せ、こうやって毎日俺を待ち伏せている。

 一体コイツは何考えてるのだろう? 

 女子本当にわからん。

 

「えへへ」

 

 仕方なく、俺が一色の隣に座り買ってきた昼飯を袋から取り出すと、一色が嬉しそうに微笑みを浮かべ、俺との距離を詰めてくる。

 まずいな、許嫁という関係を続行することにしてしまった手前、油断してると本気で勘違いしてしまいそうだ……。

 意思を強く持て比企谷八幡、俺は名前だけの許嫁。葉山を見極め、将来的には引き渡す立場なのだ。

 深みにハマってはいけない。

 くそっ、許嫁続行したの早まったかもしれん、クーリングオフってまだ適用されるかしら?

 

「な、何? そんなくっつかないでくれる?  食べづらいでしょうが」

「まぁまぁ、良いじゃないですか。ってセンパイ今日もパンですか? 栄養偏っちゃいますよ? やっぱり私がお弁当作ってきましょうか?」

「いいよ別に、弁当食いたかったら小町に頼む」

「むー……」

 

 そうして、俺たちは昼食の準備をしつつ、最近ではお決まりの会話を繰り広げる。

 まぁ、小町が作ってくれるかどうかは正直微妙な所だが、弁当が食いたかったら自分で用意するとか、買ってくるとか色々選択肢はあるだろう。今の俺は結構懐に余裕もあるので、あえて一色に頼む必要もない。

 というか、一色に頼んだりしたら後が怖いまである。後から何か請求されそうだしな。

 それに何より、一色に弁当作らせてるなんて話がもみじさん辺りの耳に入りでもしたら面倒な事にもなりそうだ……。

 

「ところでセンパイ……」

「んー?」

 

 そんな事を考え俺が買ってきた焼きそばパンを一口頬張ると、一色が今度は少しだけしおらしく声をかけて来た。

 まるで小町が親父に何かをねだる時のような、そんな猫撫声だ。

 まあ……なんとなく予想はしているが……。

 

「……今日、何の日か知ってますか?」

「お前の誕生日だろ?」

 

 今日は四月十六日。

 一色本人からこう問いただしてくるという事も考えれば間違いなく一色の誕生日当日。

 一応喜劇王チャップリンの誕生日として有名な日でもあるが、一色がチャップリンの熱狂的大ファンという話はこの一年聞いたことがないので、一色本人の誕生日についての話題と考えるのが妥当というものだろう。

 

「!? お、覚えててくれたんですか?」

 

 しかし、その問いかけに即答した俺を一色は信じられないという顔で見てくる。

 なんだろう?

 「お前記憶力とかあったの?」と遠回しにディスられているのだろうか?

 別に記憶力に自信が無いなんて話をした覚えはないのだが……。

 こいつの中の俺の評価についてはイツかじっくり話をさせてもらいたいモノだ。

 

「お前が忘れるなって言ったんだろ……?」

「それは……まぁ、そうですけど。まさか本当に覚えてくれてるとは思ってませんでした」

 

 あれは去年の俺の誕生日での事だ。まあ、当日ではなかったとはいえ、アノ日の出来事は俺の人生の中でもトップクラスに印象的なモノだったので。忘れるはずがない。

 だが、それは逆に大きな借りとも言える出来事だ。

 なので、俺もキチンとその義理を果たすべきだとずっと思っていた。

 そのチャンスがようやく巡ってきたのだ、忘れるはずがない。

 

「とりあえずコレ、ほい。誕生日おめでとう」

 

 だから俺は買ってきた昼飯の袋の中から予め買っておいた一本のペットボトルを取り出し、一色に渡した。

 

「へ? あ……りがとうございます? え?」

 

 ポンと突然目の前にペットボトルを渡され、一色が困惑したようにポカンと口を開き、俺とそのペットボトルを交互に見つめる。

 そんな一色を横目に、俺は俺で自分用に買ってきたマックスコーヒーの缶を取り出しプルタブを開け、一口啜った。

 だが、一色は相変わらずポカンと口を開けたまま、俺の方を見てくる。

 もしかして、一色もこっちの方が良かっただろうか?

 もー、先に言ってよね……。まだ一口しか飲んでないからいけるか? 

 いや、ダメだな『センパイの飲みかけとかキモ』とか言われそう。

 

「え? ……センパイ。まさかこれが……プレゼント、ですか?」

 

 俺が既に口を付けてしまったマッ缶を一色に渡すべきか悩んでいた僅かな沈黙の後、ようやく口を開いた一色がそんな事を口にしたので、俺は「一応な」と一言沿えて、再びマッ缶に口をつける。

 どうやら、マッ缶が欲しかったわけではなさそうだ、良かった良かった。だが、何故だろう?

 なんだか一色の額に漫画的表現の『ビキビキ』という怒りマークが見えるような気がする。

 

「一応ってこれ……! ただの水じゃないですか!」

「ただの水じゃないだろ、いろはすだぞいろはす」

 

 そう、俺が渡したのは一滴一滴森が育んだ天然水『い・ろ・は・す』だ。

 我ながら、洒落が効いていて中々良いプレゼントだと思う。

 一色いろはの誕生日にいろはす。

 しかも昨今流行りのラベルレスタイプ。

 捨てるときにラベルを剥がす手間もいらないというエコの最先端を行くラベルレス。

 なにげに今日初めて見つけてちょっと興奮してしまったまである。

 なんなら自分用に欲しかったまである。

 だが、どうにも一色のお気には召さなかったようだ。

 

 「むー……」と唸りながら俺の肩をバシバシと叩いてくる。痛い痛い。

 いや、そこまで痛くもないんだけど……。

 おかしいな。ラベルレスタイプだぞ? バーコードがついてないから所謂普通のコンビニとかでは売られていないんだぞ?

 購買で売ってたのも恐らくおもしろ商品が好きな仕入れ担当が試しに仕入れてみた程度のコトなのだと思う。明日以降も売ってるかは不明。

 そんなレア商品なのだが……やっぱり一色的には桃味とかの方がよかったのだろうか?

 いや、一色はどちらかというとみかんとかそっち系かもしれないな。コイツのイメージカラー的に。うん、来年は気をつけよう。

 

「納得できません」

「ん?」

「折角の誕生日プレゼントがこれだなんて納得いきませんー!」

 

 しかし、そうして俺が次のプレゼント候補『いろはす』に思いを馳せていると、一色がそう言って不服そうにいろはすを俺の頬にグリグリと突きつけそう叫んだ。

 まだほんのりと冷たい『いろはす』が俺の頬から体温を奪っていく。

 

「そもそもですね? センパイは私にこれを渡して『洒落が効いてるプレゼントだ!』とか思ってるかもしれませんけど。こんなの私小学校の頃から百万回やられてますからね!?」

「あ、そうなの……?」

「そうですよ! みんな私に『いろはす渡しておけば面白いだろう』みたいに安易に考えすぎなんです、毎年誕生日に水渡されるこっちの身にもなってください!」

 

 どうやら、天然水『いろはす』のプレゼントは本人に結構なストレスを与えているらしい。

 まあ……百万回言われてたらそうなるか、そうだよな。案外そういうもんだ。

 ちょっと面白いと思ってすみませんでした。

 でもそれは、その商品が発売されている現代に、その名前で生まれてしまった事を恨んでもらうしかない気もするが……。

 

「す、すまん」

「いーえ、許しません、センパイには罰として放課後私とデートしてもらいます!」

 

 とりあえず謝ってみたものの、一色の怒りは収まらない。

 くそっ、出来心で洒落を利かせたのが裏目に出るとは……ここは何も渡さないが正解だったか。

 代わりにデートとか……本当女子わからないわ……。

 ん? ちょっと待て?

 コイツ今なんて言った? デート?

 え? おかしくない? プレゼントの代わりにデート?

 

「は? お前今なんて……」

「授業終わったら校門の前で待ってますから、寄り道せずちゃぁんと来てくださいね♪」

 

 どうにもプレゼントとデートという言葉が結び付かずポカンとしてしまう俺に、一色は質問や苦情は受け付けませんと言わんばかりの態度で最後にウインクを一つ俺に投げると、そう言って「いっただきまーす」と弁当に向き直りいろはすのキャップを開けたのだった。

 ──結局飲むのかよ。

 

 まぁ、放課後出かけるならちょうど良いか……“アイツ”にも連絡しておこう。

 

*

 

「で、……なんで“コイツ”がいるの?」

「知りませんよ! なんかずっと絡まれてるんです、助けて下さい!」

「ぬははは、ここで会ったが百年目! ようやく見つけたぞ! 我が心を乱せし悪魔め!」

 

 放課後、約束通り俺が校門へと向かうと、そこには一色とともに何故か材木座の姿があった。

 しかもコレまでとは違い、二人の間には少しだけ妙な空気が漂っている。

 材木座は中二モード全開といった感じで、対する一色の方はめちゃくちゃ不機嫌モードという感じ。一体どういう構図だ?

 

「さっきからずっとこの調子で離れてくれないんです……センパイ、なんとかしてくださいよぉ……」

「なんとかっていわれてもなぁ……」

 

 これまでの材木座は一色の前だと比較的おとなしかったが、元々材木座はこういう奴である。

 流石に何度も顔を会わせたことで慣れてきたのだろう。

 そして一色に絡む──我が心を乱した──理由も大方予測はつく。

 恐らくあの合格発表の日『一色が自分に惚れてる』なんて勘違いをしていた事に対して一言言いたいというところ。

 だが、それが一色にはなんら関係の無いことだというのも分かる。

 つまり今目の前で行われているのは材木座のタダの八つ当たりだ。

 さて、どうしたものか……。

 

「とりあえず拾った所に戻してくれば?」

「我を犬猫扱いするな!」

 

 そんな俺の提案に答えたのは一色ではなく材木座だった。

 最悪このまま無視してしまっても良かったのだが、どうにもこの感じだと徹底的に絡んでくるつもりらしい。

 うーん、面倒くさい。

 

「はぁ……仕方ないですね。えっと、なんでしたっけ……? ザ・将軍先輩? 今日は私忙し──」

「ちっがーう! 我の名は剣豪将軍 材木座義輝だ!」

 

 だが、そうして俺が頭を悩ませていると、一色が材木座と向き合うコトを決意した様子で、一度ため息を吐いた後、ビシッと材木座を正面から睨みつける。すると材木座は即座にその視線を逸し、何故か俺に自己紹介をかまして来た。

 おい。

 名乗るべきなのは俺じゃないだろう、そこの後輩女子だ。間違えるな。

 自分から絡んだんなら自分でちゃんと処理しなさい。

 慣れたのかと思ったのに今までのは虚勢かよ。

 

「……はぁ……、あー……前半無視するにしてもちょっと長いんですよねぇ」

 

 しかし、そんな材木座に一色はハァと再びため息を吐きトントンと頭を叩きながら「ザ・イ・モ・ク・ザ……うーん……」とブツブツとつぶやき始める。

 一体何が始まったのかと、俺と材木座は思わず視線を交わしてしまった。

 

「じゃあモザイク先輩!」

 

 やがて一色はさも妙案が思いついたと言わんばかりにポンっと手を打ってそう言うと自信満々に材木座を指差した。

 どうやら材木座のあだ名を考えていたらしい。

 まあ、コイツから考えれば確かに『材木座先輩』という呼び方は長ったらしいのだろう。

 あれ? となると俺も呼び方変更ありえるのだろうか?

 

「そ、それだと我の存在そのものが卑猥みたいではないか……?」

 

 だがそのあだ名を聞いた材木座は、俺にチラチラと視線を向けながら否定の意思を示してくる。

 いや、だから俺のほうじゃなくて、一色の方見て言えよ。俺は助けないぞ。

 

「うーん、じゃあ材木先輩」

「あと一文字ぐらい入れられんのか……?」

「長くなるじゃないですか……じゃあメガネ先輩」

「それだとメガネが本体みたいではないか?」

「新八先輩」

「我の要素なくなったんだが!? しかも一つ前と意味ほぼ同じだろうそれ!」

 

 そうして一色は次々に材木座のあだ名を口にする。

 しかし、そのどれもが材木座のお気には召さないようだ。

 まあ、俺でもちょっと否定したくなるようなのばっかりだけどな……。

 

「なら、イモ先輩?」

「で、出来ればもう少しクールなあだ名の方が助かるのだが……」

  

 そのあだ名は俺としても辞めておいた方が良い気がする。

 一色が材木座をそう呼ぶと、なぜかストーカー被害に巻き込まれそうだし、不思議と腹が痛む気がする。超重量貫通撃(グランドペネトレイター)……うっ頭が……。

 

「えー、もう面倒くさいなぁ。じゃあ中二さんで!」

「先輩ですらなくなったが!?」

「あーもう! なら中二先輩! これなら満足ですか? はい決定! もうコレ以上はクレーム受け付けません! 今日は私の誕生日なんですからこれ以上時間取らせないで下さい!」

 

 やがて、一色はこれ以上あだ名を考えるのを放棄します、とお手上げポーズでそう言うと、流れるような動作で俺の手に絡みつき材木座にあっかんべと、舌を見せた。

 どうやら、材木座に付き合うのはここまでらしい。

 材木座から逃げるように、俺を引張り校門──総武高から離れていく。

 コマンド『逃げる』だ。

 

「む、誕生日かそれはめでたいな……ふむ。良かろう! そういう事ならばこの我も寿いでやろうではないか」

 

 しかし、いっしきはまわりこまれてまった。

 俺たちの進行を遮るように材木座が立ち塞がり、そんな材木座を一色が信じられない程低い声で威圧する。

 

「あ”?」

 

 あれ? おかしいな。

 一色の材木座に対する評価はもう少し高かった気がするのだが。

 好感度ダウンしてない?

 そのあまりの低音に思わず俺の背筋も震えるほどだ、いや、本当ちびるかと思ったわ。

 見れば材木座も冷や汗をダラダラと垂らしながら、徐々に壁際へと追い詰められていく。

 まあ……ほら一色さんもご立腹みたいですし、材木座にはここらで退場してもらうのがベストじゃないかな……なんか、ちょっと見てて可哀想になってきたし……。もうやめときなさい?

 

「お兄ちゃーん! いろはさーん! お待たせしましたー」

 

 そんな風に一色に睨まれる材木座を哀れんでいると、その空気を緩和するようにマイスイート妹小町がやってきた。

 まるでタイミングを見計らっていたかのような登場だ。

 いや、実際見計らっていたのかもしれない。

 ヒーローは遅れてやってくると常々教えてきたからな。素晴らしい兄の教育の賜物ともいえよう。

 

「え? なんでお米がここに……?」

 

 一瞬、一色の意識が材木座から逸れて、材木座が俺の背後へと避難する。

 いや、避難されても困るのだが。

 まあいい、とりあえず今は小町のことだ。

 

「俺が呼んだ」

 

 一色の問に俺がそう答えると、一色は信じられないという顔で俺を見たままパチパチと瞬きを繰り返す。

 どうやら、サプライズ成功のようだ。

 いえーい。

 

*

 

 それから俺、一色、小町、そして材木座の四人は小町の提案で駅前のカラオケボックスへとやってきていた。

 俺は「誕生日会ならサイゼでいいんじゃないか」と言ったのだが、「パーティーなんだからもっと騒げるところのほうが良い」という小町の提案だ。

 材木座はそんな小町に促されるまま、俺達の後を付いてきている。

 

「折角のデートだったのに……なんでコンナ事に……」

「まぁまぁいいじゃないですか、中二さんはお兄ちゃんの貴重なお友達みたいですし、ね?」

「う、うむ。我と八幡は前世からの盟友だからな!」

 

 未だ納得の行かなそうな一色だが、さすがの俺もココまでくれば材木座にだけ「帰れ」とは言い難い。

 そんな空気を察したのか、はたまた小町の言葉で諦めが付いたのかやがて一色は「仕方ないですね……」とため息を吐いて、案内された個室へと入っていく。

 

 用意された部屋は比較的広い『コの字』形に設置されたソファーとテーブルがあるパーティー用の個室だった。

 ムダに広い。部屋代が余計に取られたりしそうなんだが、間違ってない……よな? もしかしてこの後誰か合流する予定とかあるんだろうか?

 それとも単にここしか空いていなかった?

 余計な金は払うつもりはないからな? という強い意志を込めて案内してくれた店員を見つめると、店員はにっこりと笑顔を浮かべ「何かございましたらフロントにご連絡下さい」と一礼して退出していった。

 しかし……流石にここまで広いとどうやって座ったものか悩むな。

 とりあえず一色はお誕生日席……?

 

 そんな風に俺が余りにも広すぎる部屋での席順を考えていると、何者かに俺の右腕を取られた、一色だ。

 一色は材木座と自分で俺を挟むと、そのままソファーに平行に進み、俺を使って材木座を奥の席へと追いやっていく。

 結果、材木座がお誕生日席に座ることになった。

 そして小町は特に気にした様子もなく、俺の正面へと座る。

 材木座の右前が俺、一色。左前が小町という構図だ。

 だが、やはり部屋は広く、それぞれのソファーにはかなりのスペースが空いている。

 なのに俺の右手側にはほぼ隙間なく一色が張りついていて少しだけ窮屈なのは何故だろう?

 

「あ、お兄ちゃんコレ」

「おう……」

 

 仕方なく俺が自分の左手側に鞄置くと小町がテーブル越しに自分の荷物を俺の方へと預けて来た。

 いや、小町ちゃんのソファー、一人しか座ってないんだから自分のところに置いておいても良いんじゃないかな?

 まあいいけど……。

 きっと、貴重品を兄に預けておきたいという妹心なのだろう。

 まったく、世話のかかる妹だ。

 

「お兄ちゃん、何ニヤけてるの? 気持ち悪いよ?」

 

 そんな事を考えていたら、久しぶりにゴミを見る目で見られてしまった。ちょっとショック。

 

「えっと……それで……中二さん? 改めまして、比企谷八幡の妹の小町です」

「うむ、我は剣豪将軍材木座義て──!」

 

 そうして俺が軽くショックを受けている間に、空気の読める妹小町が材木座に自己紹介を始めたので、俺は即座にそれを遮った。

 

「あんまでかい声だすなよ、ご近所迷惑でしょうが」

「う、うむ、すまん……ってここカラオケでは……?」

 

 こんな所で変なフラグ建てられても困るからな。

 昨今のフラグはどこで立つのか予測ができない場合も多いのだ。本当気を付けなきゃ……。

 

「お兄ちゃん、ちゃんと高校にお友達いたんだね、小町もう心配で心配で……」

「いや、材木座は別に友達ってわけじゃ……やめろ! 涙ぐむな!」

「こんな兄ですが、これからも仲良くしてあげてくださいね?」 

 

 しかし、俺のツッコミなど無視したまま、小町は「うっうっ」と芝居がかった仕草で目元にハンカチを当ててくる。

 完全に友達のいない子の親モードだ。

 やはり会わせるべきじゃなかったな……。いや、会わせようと思っていたわけじゃないんだけど。

 

「あ、う、うむ。良きにはからえ」

「何キャラだよ、ずいぶん偉そうだな」

「ふふ、そう固いことを言うな兄者」

「おい、兄者って呼ぶな」

「……そうか……お米に相手させるのは有りか……」

 

 仕方なく、俺が材木座とコント紛いの会話を繰り広げていると、突然横から不吉な言葉が聞こえてきた。

 一色だ。やけに静かだからメニュー表でも見ているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。

 まるでイタズラを思いついた子供のような意地の悪い笑みを浮かべ、小町の方を見ている。

 

「一色……?」

「なんですか? センパイ♪」

 

 俺が問いかけると、一色はキュルン♪ と擬音が聞こえそうな程分かりやすく表情を変え笑顔を向けて来た。

 ……なんだろう、すごく胡散臭い。

 警戒だけはしておこう……。小町は俺が守る!

 

「あ、そうだ! センパイ何飲みますか? それとも何か食べます?」

 

 だが、そんな俺の心境を知ってか知らずか、一色はまるで何事もなかったかのようにそう言って俺にメニュー表を見せて来た。

 俺の……勘違いだろうか?

 俺は若干の警戒を残したまま、メニュー表に視線を落とし、ドリンクバーのラインナップを覗き込む。

 

「え? えっと……んじゃコーラで」

「じゃあ、私烏龍茶でお米ちゃんよろしく♪」

「へ?」

 

 俺が飲み物を決めると、一色は流れるように言葉を続けて小町にパシリを命じた。

 なんだ。さっきの「お米に任せる」っていうのはドリンクバーのパシリのコトだったのか?

 警戒するほどでもなかったようだ……まぁコイツの誕生日だし、それぐらいなら俺が行っても良いが。

 

「ほら、ここドリンクバーはセルフサービスだし、皆でぞろぞろ行ってもあれでしょ? だからお米ちゃんにお願いできないかなー? って」

「まあ……それはそうですけど……」

「いや、それぐらいなら俺が……」

 

 小町の代わりに俺が……と立ち上がろうとした瞬間俺の手を、何者かがぐいっと引っ張った。一瞬腕の筋に痛みが走る。

 

「いいから、センパイは座ってて下さい!」

 

 痛!?

 え? 何今の握力? ゴリラ? 今一瞬ここにゴリラいなかった?

 信じられないぐらい強い力で引っ張られ、自分の右手がもぎ取られたのじゃないかと恐怖したほどだ。

 しかし、横を見てもソコにはゴリラなどおらず、相変わらず一色がニコニコと俺を見つめている。

 ふと気がつけば不思議と腕の痛みも消えていた。き……気の所為か?

 

「ほら、私今日お誕生日様だし? お願いお米ちゃん♪」

「はぁ……仕方ないなぁ……行ってきます……」

 

 一色にそう言われ、やがて小町は諦めたようにそう言って席を立つと、一瞬だけジロリと俺を睨んだ。

 いや、俺だって出来ることなら自分で行きたかったよ? でもほら、なんか立とうとするとゴリラのスタンドが出てきて動けないんだよね。本当に何をいってるか分からねぇと思うが、何もできないお兄ちゃんを許して欲しい。

 

 とはいえ、こうなってくると困るのは材木座だ。

 注文をし損ねた材木座が初対面である小町に注文スべきなのか、それとも自分も付いていくのがよいのか判断しかねた様子で「あ、わ、我は……?」と口をパクパクとさせている。

 多分、俺も同じ立場だったらそうするだろう。

 最悪自分だけ飲み物なしを覚悟するかもしれない。

 

「ほら、中二先輩? まさか女の子一人に行かせる気ですか?」

「む、むぅ、仕方あるまい我が護衛についてこよう」

 

 だが、一色はそれも計算済みだったらしく材木座にそう助け舟を出すと、材木座が小町の後に続き部屋を出ていった。

 いや、助け舟じゃないな。ここまでがきっと一色の狙いだったのだろう。

 その証拠になぜかニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている、その狙いの意図するところはよくわからんけど……。

 

「ごゆっくり~♪」

 

 ギッと重いドアが閉まり、二人が部屋から居なくなると、広い部屋に俺と一色の二人が取り残される形になってしまった。

 なんだろう……なんだかとても気まずい。やはり俺が行ったほうが良かったんじゃなかろうか。

 

「やっと、二人っきりですね」

「そ、そうだな」

 

 しかし、一色は特に気にした様子もなく俺を見上げて来る。

 近い。無駄に広い部屋が二人きりというシチュエーションもあいまってさらに広く感じる。

 

 だから俺は少し座る位置をずらし一色から離れようとした……だが、ソコには先程置いた自分の鞄と小町の荷物がソレ以上の進行を防いでいる。

 まさか……小町の奴ここまで計算して!?

 こいつらグルか!?

 

「センパイ? 今日私の誕生日って言いましたよね? 中二先輩はともかく、なんでお米ちゃんまで呼んだんですか?」

「い、いや、誕生日だから呼んだんだが……」

 

 荷物でそれ以上逃げられない俺を追い詰めるようにずいっと顔を近づける一色に、俺はなんとかそう答える。

 もはや吐息が感じられそうな距離だが意識したら負けだ。

 負け……負け……。あ、なんかフローラルな女の子の匂い……。

 

「全く、折角の誕生日なんですよ? もっとこう……あるじゃないですか……」

「……?」

 

 しかし、一色はそんな俺の気など知らず、頬を小さくぷくっと膨らませると、そう言ってモジモジと身を捩り始めた。

 まあ、そりゃぁ、去年の俺の誕生日に比べれば用意できたものは少ない──だからこそ小町も呼んだのだが、誕生日といえば他になにかあるのだろうか?

 どうにも一色が何を求めているのかが分からない。

 誕生日に? もっとある……? 定番のもの? ああ、そうかプレゼントか。

 

「そういうことか。小町にはコレを持ってきて貰わなきゃいけなかったんでな」

 

 ようやくその事に思い至り、俺は先程小町から預かった荷物を漁り、後ろ手にその中から目当ての物を探した。

 コレは……俺の鞄だな。違う。

 コッチのコレ……は固い。違う。

 コレか? この大きさ、この柔らかさ、それとこのヒラヒラ……よし、コレだな。

 そうして、俺はようやく見つけたそれを自分の前に持ってきて、一色に手渡す。

 うん、間違っていない。やはりこれだ。

 

「ほれ」

「? これって……?」

 

 突然目の前に白い紙袋を出され、一色が一瞬キョトンと首をかしげる。

 だから、俺はその紙袋からさらに中に入っているものを取り出した。

 次にでてきたのはリボン付きの薄いオレンジのラッピングバッグ。

 紛うこと無きプレゼントだ。

 

「ほれ。その……お目当てのプレゼント? まあ、気に入ってもらえるかは……分からんけど」

「……用意しててくれたんですか!?」

 

 少し泣きそうな表情を浮かべる一色に、俺は思わず鼻を掻いた。

 当然プレゼントは用意はしていた。

 『いろはす』はもし学校で一色に何か言われた時、何も用意してないと思われたら面倒くさいと思ったので保険で用意しておいたモノ。まぁラベルレス見つけて少しテンションが上がったというのもあるが……。

 こっちのプレゼントは少し嵩張るので学校で渡すのもどうかと思い、イツ渡したら良いか前日から小町に相談していたのだ。

 当然だ、去年の俺の誕生日にも小町はいたからな。

 やはり一色の誕生日を祝うなら兄妹一緒に、と考えていた。

 そして、昼休みに突然放課後の予定が決まったので、小町に連絡を取り、持ってきてもらった。というのが真相である。 

 

「あ、開けてみてもいいですか?」

「まあ、お前にやったもんだからな、好きにすれば」

 

 俺の言葉を聞くと、一色は一拍置いてからまるで壊れ物を扱うかのようにゆっくりとそのリボンをほどき始めた。

 中から出てきたのは……。ピンク色のニット。いわゆるスクールカーディガンという奴だ。

 ブレザーとブラウスの間に着るオシャレ防寒着。

 まあ……もう春だしちょうど使わなくなる時期なんだけど……。

 

「これ……」

「この前お前が買おうか悩んでた奴……、まあいらないっていうなら小町にでも──」

 

 そう、それは先月のデー──映画鑑賞の時に一色がずっと店で悩んでいたものでもあった。

 確かあの時はこのピンクと薄いオレンジの二択で悩んでいたと思うのだが、どちらにしたら良いか分からず、先日小町についてきてもらい最悪一色が要らなかったら小町が受け取るというのも了承してもらっている。

 

「いります! 絶対いりますから!」

 

 だが、一色は俺の言葉を言い終わるより早く、両手でそのニットを握りしめ再びグッと俺に顔を近付けてそういった。

 

「お、おう。そうか、良かった」

「ちゃんと、見ててくれたんだ……」

 

 どうやら、お気に召してもらたようだ。一色が今度は抱きしめるようにそのニットを胸元に寄せる。

 

「ありがとうございます、絶対大切にしますね」

「まあ、これから暑くなるからそんな使わないとは思うけどな」

「そんな事ないです! ちゃんと使います!」

 

 そう言われても、もうこれからは暖かくなっていくのでそれほど出番はないだろう。それでも結構値は張ったから使ってくれるのはありがたいが……。本当バイト代入った後で良かった……。

 

「……そりゃ一年中は無理かもですけど……。でもセンパイ? これ、意味分かってます?」

「意味?」

 

 そんな事を考えながら、一色の手元のニットを見ていると一色がふわりとそのニットを広げ、自らの体に当てながら、そんな事を言ってきた。

 まあサイズは大丈夫そうだ。多分。

 しかし、意味? 意味とは?

 誕生日プレゼント以外に意味なんてないが……?

 買う時なんか言われたっけ?

 

「はい。私に服を贈る意味ちゃんと分かってますか? って聞いてるんです」

「……いや、だから誕生日プレゼントだろ?」

 

 それ以外に何か意味があるのだろうか?

 一色に服を贈る意味?

 これが合格前とかだったら「絶対合格しろよ」とかそういう圧にはなりそうだが……他に?

 

「違いますよ、男の人が女の人に服をプレゼントするのはですね──」

 

 全く検討が付かず、俺が首を傾げていると、一色はそう言って人差し指を一本立て、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。

 なんだか、嫌な予感がする。

 

「『その服を着たお前を脱がせたい』っていう意味なんですよ」

「は? ……はぁ!?」

 

 は?

 いや、本当に「は?」としか言えなかった。

 え? 何それ? どこの国の風習?

 いや、待て確かになんかそんな話を映画か何かで聞いたことがある気がする──!

 まずい、俺やらかした?

 もしかしてセクハラ案件ですか?

 

「いや、別に俺はそんな──!」

 

 そんな意図は決して無い。

 無いのだが、どうしたら信じてもらえるだろうか?

 そうだ、いっそこれは小町からのプレゼントってことにすれば……!

 

「ふふ、心の準備ちゃんとしておきますね♪」

「あー、ほら、それは実は俺からじゃなくて小町からってことで……」

「駄目でーす。もう変更ききませーん♪」

「ちょ、とりあえず一回貸せ、な?」

「きゃー♪」

 

 俺がそう言って手をのばすと、一色がソファーにゴロンとその身を横たえる。

 その顔はとても楽しそうだ。

 くそっ、完全に俺をからかってやがる。

 こうなったら……!

 

「ただいまー……何やってんの二人共? もしかして……お楽しみ中?」

 

 だが、タイミング悪く俺が一色の胸元のニットに手を伸ばしたところで、小町と材木座が戻ってきた。

 どうやら、ドリンクバーでのお使いが終わったらしく、それぞれの手にはカラフルな液体が注がれたコップが握られている。

 

「ち、ちが!」

「あーあ、もう時間切れみたいですね。残念」

 

 慌てて一色から離れる俺とは真逆に、落ち着いた様子でゆっくりと服を正す一色。

 そんな一色をジト目で見ながら小町が席へとつき、材木座も「そ、そういう関係だったのか?」と俺の方を見ながら驚きの表情を浮かべている。

 断じて違う! 違うからな?

 

「はぁ……一応言っておくけど、この部屋防犯カメラ付いてるからね? 出禁食らうよ? はい、いろはさんの烏龍茶。お兄ちゃんには小町特製ミックスジュース♪」

 

 ようやく息が整ってきた俺に、小町はそう言って。俺の前におどろおどろしい色の液体が入ったコップを置いた。

 これはあれだ、ドリンクバーでついやりたくなってしまう、色々なジュースを混ぜてミックスジュースを作る奴だ。

 一応自分でやる時はそれなりに量少なめで、いけそうな組み合わせを選ぶのだが、小町特製ミックスジュースはコップ一杯分しっかりと入っている。

 

「いや、俺そんなの頼んだ覚えないんだけど……? お兄ちゃんいつも『食べ物で遊んじゃいけません』っていってるでしょ?」

 

 しかし、小町は俺の注意など『聞こえません』とでも言いたげに、テヘッと舌を出すと、ちょこんと席についた。

 くそぅ、可愛いなぁ。やはり小町に頼んだのは失敗だったか。

 ええ……なにこれ……何入ってるの?

 この色、どう見ても毒じゃないの?

 

「せめて口直し用も用意しといてくれよ……」

 

 まあ、死にはしないだろうが……。食べ物を粗末には出来ないので、飲むしか無いのだろう。

 『この後スタッフが美味しく頂きました』は嘘であってはいけないのだ。

 仕方ない、覚悟を決めるか。

 そう思い、すぅっと息を吸う。

 だがその瞬間、トンっと隣に透明な液体が入ったコップが置かれた。

 材木座だ。

 

「そう言うと思って、一応水も持ってきてやったぞ? どうだ我は気が利くだろう? 兄上様」

「材木座さんきゅ。でも兄上様も駄目だ!」

 

 例え気が利く男アピールをされうようと、お前に小町はやらん。

 そう言いながら材木座を一度睨むと、視界の端で小町が一色の方を見て「ええー!?」と叫んでいるのが見えた。今度は一体何だ?

 

「食べ物まだ頼んでないんですか!? 待ってる間二人で何やってたんですか!」

「あー、それは……その……ま、まぁいいだろ」

 

 ジト目で睨んでくる小町に俺は思わずたじろぐ。

 俺と一緒にいたはずの一色は何故か「何してたんでしょうねぇー?」と楽しげに俺を追い詰める側に回っているし……くそっ。味方ゼロかよ。

 別に俺は悪いことはしてないはずなのだが……小町の非難がましい目に耐えきれず、思わず小町特製ドリンクを持ち上げ、一口口に含んだ。

 あれ、意外と美味いなコレ……後でレシピ教えてもらおう。

 

「ちょっとお兄ちゃん! 乾杯する前に飲まないでよ!!」

 

 だが、それは小町をより怒らせる結果となってしまったようだ。

 そうだった、今日は誕生日会なのだった。

 これは完全に俺の失態。

 

「あー、悪かったよ。とにかく何頼む? ポテト? ポテトでいいな?」

「あ、私ハニトーお願いします!」

「小町パフェ食べたい! 今日ってお兄ちゃんのおごりだよね?」

「ピザとかも良いのではないか?」

 

 仕方なく俺が注文を取ろうと、部屋に備え付けの電話に手を伸ばすと皆がメニュー表に群がり、好き勝手に叫び始める。

 全く、俺は聖徳太子じゃないっつーの……。

 はぁ……今日は疲れる誕生日会になりそうだ。




というわけで第二部へと続く日常
アニメでいろはが着てるアレ、八幡からのプレゼントってことにしちゃおうぜ回でしたーでしたーでしたー(エコー)

そして今回、材木座の名前の件で他作品に(分かりづらく)言及するメタネタのような部分がありますが
そちらに関しましては「そうして、一色いろはは本物を知る」の作者である達吉先生に許可を頂いて書かせていただくコトができました!
達吉先生本当にありがとうございます。
より詳しいことは活動報告にて書かせていただければと思いますので
興味のある方は是非そちらもご一読下さい。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、ここすき、誤字報告。
何でも良いのでリアクション頂けますととても嬉しいです。
何卒よろしくお願いいたします。

それでは次回第二部でお会いしましょう~


※騎空士の皆様へ
初日エラーでインターバル無くなりましたが
本戦頑張りましょう!(フルオートしながら)


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第二部・第一章 いろは奉仕部編
第68話 強制入部


いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、ここすき、誤字報告ありがとうございます。
お待たせしました第二部始まります。
心臓バクバクなのでお手柔らかにお願い致します。


 青春とは、恋であり、愛である。

 春思う時。

 人生で最も多感である時期と大人たちが名付けた。この思春期に恋をしたくない人がいるだろうか? いや、いない。

 誰もが恋に焦がれ、時には学校の先輩、時には毎週やってくる家庭教師、時には友達のお兄さんとの恋を妄想するのも当然のことで、それを批難されるのはおかしな事でさえある。

 昨今、大人たちは恋をしなくなった。

 それは日本の晩婚・未婚化。少子化という実情を見れば明らかである。

 では、何故大人たちは恋をしないのか?

 当然、様々な理由があるだろう、時間がない。相手がいない。余裕がない。

 しかし、こういった現象は、思春期に恋愛をしてこなかった結果でもあるのではないだろうか?

 青春時代に恋をしようとすれば、学生の本分は勉強だと叱られ、不純異性交遊だと咎められる。

 そうして、恋愛がどういったものか分からないまま大人になり、なんとなく結婚願望だけが残った人々が結婚相談所や出会い系サイトを利用するようになってしまう。

 だが、もしこの青春時代を恋愛に捧げるコトが出来れば、少なくとも出会いのためにお金を掛ける必要はなくなるのだ。  

 不特定多数の人間と出会える時期でもある今だからこそ、このチャンスを大いに活かすべきなのだ。

 とはいえ、出会いで止まってしまう人が多いのも事実。それは何故か? 残念なことに恋愛にはマニュアルが存在しないからだ、何も進展しないまま大人になってしまえばソレはソレで後悔する。

 だから、いっそのこと恋愛を授業に取り入れてしまうというのはどうだろう?

 一時間目『好きな人とデート』。

 そんな授業があれば恋愛に二の足を踏む若者もいなくなり、未婚、晩婚化も防げるだろう。

 なんならいっそ学生時代に結婚、子供を産んでしまうというのも良いかもしれない。 

 大人になると無くなるという『時間』が学生には有り、親もまだ若く体力がある、孫の世話にも協力してくれるだろうし。時には学校で子育ての授業も出来る。

 そうして皆で協力しながら子育てをして学ぶことが出来れば、大学を出た頃には子供もそれなりに手がかからなくなり就職も出来るという寸法だ。

 これなら、女性の社会進出と少子高齢化対策にもなり一石何鳥か分からないぐらいにお得な案だと思う。

 先人も言った、命短し恋せよ乙女と。 

 やはり私達は今恋をすべきなのだ。

 結論

 愛は地球を救う!!

 

***

 

「……一体これは何かね?」

「何って、先週の私の宿題ですね。『高校に入ってやりたいこと』がテーマの。それが何か?」

 

 その日、私こと一色いろはは何故かあまり話したことがない二年の教師──平塚先生に呼び出され職員室へとやってきていた。

 高校に入って初めての職員室呼び出しだ。

 いや、別に中学の頃から頻繁に呼び出されてたわけじゃないけれど。

 職員室に呼び出されると特に何もしていなくても、なんとなく悪いことをした気分になるのは何故だろう?

  

「『何か?』じゃない。なんでそのテーマでこんな内容の作文が出来るんだと聞いているんだが?」

「なんでって……何か問題でもありました?」

 

 しかし、断固として私は悪いことはしていない。

 その作文は私がセンパイに“高校生らしい作文”の書き方を教えて貰って書いた傑作である。

 小中学生の頃のような「ですます思いました」という単調な文章にしないためにソレはもう色々なアドバイスを貰った結果完成したものだ。

 だって、センパイ家庭教師辞めてから全然会いに来てくれないんですもん……。

 こっちとしては口実探すのも一苦労なんですよ?

 まあ、内容は完全に私のオリジナルなわけだけれども……。

 というわけで、私としてはセンパイとの共同作業とも言えるこの作文に難癖が付いたことには少々不服でもあったりする。

 

「問題大ありだ……」

「っていうか、そもそもなんでそれを平塚先生が持ってるんですか? 平塚先生って二年の担当ですよね? うちの担任は?」

 

 私が当然の疑問を口にして、キョロキョロと職員室内を見回すと、そこに四十代の男性教師の姿が視界に入った。私の担任だ、だが担任は私と目が合うなり一瞬気持ち悪い苦笑いを浮かべただけでさっと視線を逸らしていく。

 まるで私と関わることを避けている、そんな感じだ。失礼してしまう。

 嫌味の一つでも言ってやろうかとさえ思ったが。

 そんな私を見た平塚先生が右手で頭を抱えたまま、ギロリと睨んできたので辞めた。怖い。

 

「私は元々生徒指導も担当しているんだよ。君の作文があまりにも常軌を逸しているから、『若くて年が近い同性の先生から話を聞いてくれないか』と頼まれたんだ。ほら私、若いから、若くて年が近いから」

 

 “若い”という単語をやけに強調してくる平塚先生に、私は「はぁ……」と生返事をしながら、なんとか状況を理解する。

 平塚先生って幾つなんだろう?

 三十は超えてる? でも聞いたら怒られるんだろうな。流石に私でもそれぐらいは分かる。

 まぁ、つまる所ウチの担任は私への指導を投げたという事らしい。

 それはそれで失礼してしまう。そもそも常軌を逸したとはどういうことか。

 詳しく問い詰めたい所だ。

 だが、正直なことを言うと、そんな時間もない。

 すでに時刻は放課後、早い所切り上げなければセンパイが帰宅してしまう恐れがある。

 去年、病院で偶然私のお爺ちゃんと出会ったセンパイはお爺ちゃんに気に入られ、私の許嫁になった。

 当然、私としても見ず知らずの男の人と突然許嫁などと言われても困惑するしか無い。

 しかし、一年という時を経てお爺ちゃんがセンパイを私の許嫁にした理由が分かり、私自身もセンパイに惹かれていった。

 なんならこの総武高に入ったのだって、センパイと一緒の高校に通いたかったからだったりする。

 勿論県内随一の進学校である総武に入るのは決して楽ではなかった。

 でも、私とセンパイは協力してなんとかその困難を乗り越えたのだ。

 だから、こんな所でお説教を食らっている暇があったら、センパイと放課後デートと洒落込みたい。変なことに突っ込まず、ただ「はいはい」と反省した振りをして聞き流すのが吉だろう。

 とにかく、今は我慢だ。

 

「それで、君には彼氏がいるのかね?」

 

 センパイの事を考えている時に突然『彼氏』と言われて一瞬だけボーッとしていた頭が反応する。ここで「はい」と答えられたらどんなに素敵なことだろう。

 とはいえ嘘はつけないし、つく気もない。

 

「いえ、残念ながらまだ……」

 

 そう、非常に残念なことに私とセンパイは所謂彼氏彼女の関係ではないのだ。

 もしこの状況を知っている人が居たとしたら訳がわからないだろうと思う、私自身訳がわからない。

 正直、私はそう呼んでも良いんじゃないかな? と思うのだが、どうにもセンパイに一線引かれている気がするので、恐らく向こうもそういう認識ではないのだろう。

 センパイと私は許嫁同士で、色々問題もあったものの『許嫁を続けたい』という言葉はセンパイ自身の口から聞かせてもらった。

 少なくとも脈がないわけじゃないと思うんだけど……。

 どうにも一歩踏み出せないでいる、言葉にするとしたら……『許嫁以上恋人未満』とでもいうのだろうか? そんな訳の分からない関係になっているのだ。

 

「そうか……比企谷とそういう関係なのかと思ったがそうではないのか」

 

 突然小声で平塚先生がセンパイの名前を出したので思わずビクリと体が震えてしまった。

 あれ? なんで私の好きな人がセンパイだって知ってるんだろう?

 もしかして……バレてる?

 あ、いや、そういえば、平塚先生には受験の時センパイと自転車の二人乗りをしてる所見られちゃってるんだった。

 あの時は遅刻するんじゃないかって本気で焦ってたけど……あの時のセンパイ、格好良かったなぁ……。

 

「なら、すぐにどうこうという心配はないんだな……」

 

 しかし、そんな私の心中など知らず、平塚先生はそう言うと『心の底から安堵した』とでも言いたげに「はぁっ」と大きく息を吐いた。

 この様子だとどうやら、私とセンパイの関係性までは知られてないみたい、良かった。

 でも、何故私に彼氏がいないと心配がなくなるのだろう?

 

「心配って、別に心配されるような事は何もしてませんけど?」

 

 ちょっと失礼じゃありませんか?

 そりゃ、平塚先生にとっては自分より年下の学生に彼氏がいたら焦る気持ちもあるんでしょうけど?

 

「在学中の妊娠を仄めかす女子生徒の心配をしない教師がいるわけないだろう……」

 

 そう言われて私もハッとする。

 確かにそんな内容の事を書いた。

 だけど、あれはなんとなく流れで書いてしまっただけで、実際に行動に起こそうなんて思ってはいない。

 数年前に流行した、逃げたり恥だったり役に立ったりするテレビドラマでそんな事を言っていたなぁ、というのが頭にあって、ついそのままレポート用紙に書き連ねてしまったのだ。

 当然、実践しようなんて一ミリも考えていなかったし、言われるまで完全に他人事だと思っていた。

 作文が苦手な多くの学生なら分かるだろうが。書いている時は余白をどう埋めるか、ということのほうが問題だったのだ。 

 もちろん、将来的にはそういう事もあるんだろうという予感はしているし、ソレに関しては私も吝かではないけれど、センパイとのデートですら片手で数えるほどしかしていない現状ではまだまだセンパイと二人の時間を大事にしたいとも思う。

 何よりまず、お互いを彼氏彼女と呼べる関係にならないとだしね。

 

「いや、そこは筆が乗ったというか、盛り上がって書いちゃっただけなので……」

「そうやって盛り上がってしまうから心配なんだ……」

 

 だが、平塚先生は私の返答を聞いても納得はしてくれないようで、再び右手で頭を抱え、額を擦る。

 うーん、本当にそんなつもりないのになぁ……。

 平塚先生が結婚していたら、こういう乙女心理解してくれると思うんだけど……先生独身だしなぁ。仕方ないか。

 

「それに……これは別件だが、君はクラスでも孤立しているそうじゃないか。まさか、いじめにでも遭っているのかね?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」

 

 そんな事を考えていると、平塚先生が話題を逸すように私を見つめそう言った。

 ソレは私自身にとっても少しだけ頭が痛い問題なので、今度は私が目を逸らしてしまう。

 正直いじめ、という程大げさなモノではないのだが、入学早々に少々やらかしたという自覚はある。

 まあ“アレ”は私の責任ではないので、どうしようもなかったといえばどうしようもなかったのだが……。現状クラスの居心地が悪いのは事実だ。

 でも、まさかそんなコトまで知られていたとは思わなかった。

 もしかしたらセンパイにも知られているのだろうか?

 流石にこういうマジっぽい悩みは心配かけてしまうから知られたくないんだけど……。

 

「いや、でもほら、平塚先生だって独り身っていうか、独身じゃないですか? 特に問題だとは思いませんけど」

「ほぉ、言ってくれるじゃないか小娘……」

 

 ああ、まずい。

 こんな喧嘩を売るような言い方をするつもりはなかったのに、さっきまで考えてた「平塚先生は独身」というワードが、うっかり口をついて出てしまった。

 一人なのは別に問題じゃない。って言いたかっただけなのに。

 しかし、そう思った時には既に遅く、平塚先生は作り笑顔のまま、こめかみをピクピクと引きつらせていた。

 どうやら地雷を踏んだようだ。

 なんなら作文の内容自体が地雷だったのかもしれない。今更だけど。

 

「……君は、部活とかはやっているのかね?」

「部活? いえ、入ってませんけど」

 

 突然話の流れとは関係のない単語が発せられ、私は一瞬困惑する。

 部活なんて入るわけがない。

 何故なら、そんな事をしていたらそれこそセンパイが家に帰ってしまうからだ。

 元々私達は二年と一年で同じ学校とはいえ、同じ時間を過ごせる時間は少ない。

 なので当然、私としても入学してから今日まで部活に入るという選択肢は頭になかった。

 まぁセンパイが何かの部活に入っているというなら話は別なのだけど。

 少なくとも今日までそんな話は聞いたことがないし、こうしている間にも恐らくセンパイは家路を急いでいるのだろうという予測はついている。

 だからこそ一刻も早く開放してほしいのだけど……。

 

「なら丁度良い、ついてきたまえ」

 

 しかし、そんな私の願いも虚しく平塚先生はそう言うと席を立ち、スタスタと歩き始めた。

 どうやら、このまま帰してくれる気はないらしい。

 時計の針はこうしている間にもドンドンと進んでいく。

 今日は……諦めないと駄目かなぁ……。

 

「つ・い・て・き・た・ま・え」

「はーい……」

 

 仕方なく、私は職員室の扉の前でコチラを睨む平塚先生を追って、そのまま職員室を後にした。

 はぁ……センパイ……待っててくれたりしないかなぁ。

 

*

 

「どこまで行くんですかー?」

「もうすぐだ」

 

 言われるがまま、平塚先生に連れてこられたのは総武高の特別棟だった。

 去年文化祭で葉山先輩とも来たあの特別棟だ。

 もう放課後ということもあり、人通りは少なく、吹奏楽部の音楽や「ファイ、オー! ファイ、オー」という、運動部の声が聞こえてくる長い廊下を二人で歩いていく。

 窓から見える中庭には、楽しげに笑う男女の姿。カップルだろうか?

 羨ましい、本当だったら私も今頃センパイと……。

 

「ここだ」

 

 そんな事を考えながらボーッと平塚先生の後をついていくと、やがて平塚先生はそう言って一つの教室の前で止まり、その扉を開いた。

 普通の教室……?

 そう思ったのは最初だけで、中を覗いて見るとそこに広がっていたのは不思議な空間だった。

 教室の後ろ半分ほどに机と椅子が積み上げられたそこは、一言で言ってしまうと空き教室。

 私が“不思議な空間”と思ったのはそんな無機質な空き教室の中心に黒髪の少女が一人ぽつんと座りながら、本を読んでいたからだ。

同性の私でもつい見惚れてしまうほどの美貌と、一体毎晩どんな手入れをしているのだろう? と思うほどに艷やかな黒髪。

 そんな美少女が何故こんなところで? という疑問が湧くと同時にその少女はスッとコチラに視線を流し、口を開いた。

 

「平塚先生、入る時はノックをしてくださいと何度も……」

 

 私のことなどそっちのけで、二人が何やら軽い言い合いをしはじめたので、私はどうしたものかと所在なく部屋を見渡していた。

 やはり、変な場所だ。

 中央に置かれた椅子は一つ、たった今目の前に居る黒髪の少女──おそらくは先輩──のものだけ。つまりソレは他の利用者はいないというコトを指している。

 単純に休憩をしていただけ、とかならまだ良いのだが、私がここに連れてこられたということは何か意味がある部屋なのだろう。

 でも一体何の部屋? まさか……反省室とか?

 

「それで、そちらは?」

「この子は入部希望者だ」

「あ、初めまして……って入部ってなんですか!?」

 

 そうして部屋を眺めていると、突然会話を振られ、耳慣れない言葉が飛び込んできた。

 入部!?

 私聞いてないんですけど!?

 っていうか、そもそもここって部室だったんですか?

 まずい、ちょっとしたお説教なら最悪今日だけで済むと思っていたけれど、部活となると話は別だ。なんとしても回避しなければ。

 

「いやですよ! 部活なんてしてたらデートの時間なくなっちゃうじゃないですか!」

「別に、彼氏がいるわけではないのだからデートの時間なんて必要ないだろう?」

「それは……!! そう、ですけど……でも別に彼氏じゃなくてもデートぐらい……」 

「とにかく、君にはペナルティとして今日からここでの部活動を命じる、異論反論抗議口答えは一切認めないからそのつもりで」

 

 最早聞く耳持たない、という態度の平塚先生に、なんと言い返したら分からなくなってしまう。

 いっそここで「でも許嫁はいます」とでも言えば状況は変わるだろうか?

 だが、私とセンパイの関係を知っているひとは限られているし、もうすでに私の独断で二人にカミングアウトしてしまっている。私のクラスでの現状を考えても、これ以上その事を知る人物を増やすべきではないだろう。

 変な噂が立ってセンパイに迷惑がかかるのだけは避けなければならない。

 だから、私はソレ以上何も言うことが出来ず、口を噤んでしまった。

 

「とまぁ、こんな感じで少々頭の中がお花畑気味でな。人との付き合い方を学ばせてやれば少しはマシになるだろうということで、彼女の更生が私の依頼だ」

 

 そんな私を見て、平塚先生は再び黒髪の先輩の方へと向き直ると、黒髪の先輩はふむ、とまるで何かを考えるように顎に手をおいて一度息を吐く。

 部活で依頼……? 

 しかも先生が生徒に? どういうコトなのだろう?

 

「つまり、恋愛脳の後輩を矯正しろということですね。依頼ということであるなら、承りました」

 

 しかし、そんな疑問に答えるでもなく、黒髪の先輩は背筋をピンと伸ばした姿勢のまま、コツコツと床を鳴らし私の目の前にやってくると、私の目を真っ直ぐに見据え、手を伸ばし薄っすらと笑みを浮かべた。

 

「二年の雪ノ下雪乃よ、よろしく」

「一年の一色いろはです……って、私本当に入部しなきゃ駄目ですか?」

「日本語が伝わらないのかしら? 必要であれば教室まで迎えに行くけれど? そこまでお世話をしてあげないと駄目なのかしら?」

「や、やめてください!」

 

 流石に教室まで来られるのは迷惑だ、それこそ変な噂が立ってしまう。

 となると……どうやら、本気で逃げられないらしい。

 でも待てよ……?

 

「なら、キチンと部員として活動しなさい。私も依頼を受けた以上は責任を果たすつもりだから」

 

 ここがどんな部活だとしても、やはり部員はこの雪ノ下先輩だけの可能性が高い。

 一人で成立する部活があるのか? と問われると少しだけ疑問ではあるが、先程まで雪ノ下先輩が本を読んでいたことを考えてもそれほど忙しい部でもないのだろう。

 ならセンパイも入部させてしまえば一石二鳥なのでは?

 ここが何部だとしても、少なくとも放課後センパイと二人きり(プラス一人)の時間を確保することは出来る。

 うん、我ながら良いアイディアだ。

 部活なら合宿やら、文化祭の出し物やらでセンパイと一緒の時間も自然と増えるというもの。

 嫌なことばかりだと思っていたけど、逆に棚ぼた的なイベントだったのかもしれない。

 もしかして、平塚先生は恋のキューピッドだった!?

 

「ちょっとあなた、聞いているの?」

「あ、はい! 大丈夫です! 聞いてます!」

「それでは、あとのことは頼むぞ」

 

 そう言うと、少し呆れたような顔をする雪ノ下先輩を残して、平塚先生は教室、もとい部室から出ていってしまった。

 雪ノ下先輩もその背中を見送ると、やがて私への興味すら失ったかのように先程自分が座っていた椅子へと戻り、再び読書を始める。

 あれ……? 私はどうしたら……?

 

「そんな所に立っていないで、座ったら?」

「はぁ……」

 

 そんな私の心中を察してくれたのか、雪ノ下先輩はポツリとそう言って、再び読書へと勤しむ。

 仕方なく、私は近くに積み上げられていた椅子を一つ拝借し、雪ノ下先輩から少し距離をおいた所に座る。しかし、それだけだ。

 それだけで、何も起こらない。

 えっと……私入部した……んだよね?

 何をすればいいんだろう?

 そう思い、ちらりと視線を動かすと、雪ノ下先輩は相変わらず本を読んでいる……。

 となると、ここは読書部? それか文芸部あたりだろうか?

 

「あのー……」

 

 恐る恐る、私が声をかける。

 すると、雪ノ下先輩は軽く髪を掻き上げた。

 それは、話をちゃんと聞いているという合図なのだろうか?

 それにしても、こうして改めて見るととてもキレイな人だ。ただ本を読んでいる、それだけなのにまるで映画のワンシーンみたいだ。

 多分センパイの好みのタイプ……。

 この人がセンパイと一緒に並んで歩いたらきっと……ん? あれ? なんでそう思ったんだろう?

 センパイの女性のタイプなんて具体的に聞いたこと無いはずなのに……、何故かそんな気がしてしまった自分を慌てて否定する。

 大丈夫、センパイはこういうタイプの人には自分から近づいたりはしないはず。

 まあ、あの人どんなタイプでも自分から近づいたりはしないんですけどね……。

 

「何かしら?」

 

 そんな事を考えていると雪ノ下先輩が本をパタンと閉じてコチラに向き直った。

 どうやら、話を聞いてくれる気はあるみたいだ。

 

「あ、えっと……ここって何部なんですか?」

 

 とりあえず無視されているわけではないと知り、少しだけホッとした私は今日ここに入ってからずっと考えていた疑問をぶつける。

 入部するにしても、ここが何部なのか分からないというのは非常に困る。

 まあ、可能性は低いとは思うけど、部の内容によっては初期費用が必要なものとか、大会練習が必要なものもあるしね。

 さて、私の読書部・文芸部という予想は当たっているのだろうか? それとももっと他の何か?

 手芸部にしては道具がなさすぎるし、料理研……っていうわけでもなさそう。

 ちょっと奇をてらって古典部とか? 

 

「奉仕部よ」

「ほうし部……?」

 

 しかし、雪ノ下先輩の口から出てきたのは私が予想していたどれとも違う、それどころか聞いたこともない部活名だった。

 法師、胞子、奉仕……奉仕部……? 

 一体どんな部活だろうと想像して、私の頭にまず浮かんだのは『お兄ちゃんにご奉仕するにゃん♪』と言って、猫のような仕草をする猫耳メイド服を着た『お米』ことセンパイの妹、比企谷小町の姿だった。

 もしそんな事が現実になったら、困ったことにセンパイは簡単に靡いてしまうのだろう。

 実のところ、センパイは結構シスコンなのだ。

 というか、お米はお米でちょっとブラコン気味なんだよね……現状私の一番のライバルはお米だったりする。

 勿論、センパイの為なら私だってという思いはあるから、お米がやるなら私もやるけど……。

 だが、それが部活動であるというならば、奉仕の相手がセンパイとは限らないかもしれないというのが困りものだ。

 やはり、入部の判断は早まったかもしれない。

 

「あ、あの私、心に決めた人がいるのでそういう卑猥なのはちょっと……」

「なるほど、平塚先生の言う通りお花畑のようね。何を想像したのか知らないけれど、ここは健全な部活動の場よ。“奉仕部”という言葉を聞いて卑猥だと思うのだとしたら、あなた自身の頭が卑猥なのだと自覚なさい?」

 

 そう言われ、私は少しだけ恥ずかしくなる。

 なんとなく給仕みたいなイメージがあったけれど、違うのだろううか?

 いや、でも奉仕部なんて聞いたこと無いし、一体何を“奉仕”するのだろう?

 そこがどうにも分からない。

 

「持つものが持たざるものに慈悲を持ってコレを与える。人はそれをボランティアと呼ぶの。被災地には支援を、モテナイ男子には女子との会話を、頭がお花畑になってしまった女子生徒には学生の本分を、困っている人に救いの手を差し伸べる、ソレがこの部の活動よ」

 

 私は別に困ってないんだけど……まぁ、ボランティア部だというなら多少分かりやすくなった。

 モテナイ男子──という部分は少々引っかかるが、少なくともエッチな部活ではなさそうだ。

 高校で一人でボランティア部、というのは聞いたことがないし多少変な人だとは思うけれど、少なくともセンパイを勧誘することに問題はないだろう。

 ボランティアなら尚更、男手があるに越したことはないはずだしね。

 

「ようこそ奉仕部へ。歓迎するわ」

 

 なんだか歓迎されてしまったけれど……これは思いの外良い部活に巡り会えたかもしれない。

 二人で帰宅部、というのも悪くは無いけれど、やはり二人で一つのことを成し遂げるというのはとても良い。

 具体的に何をやるのかは正直わからないけれど、きっと青春時代の良い思い出になるだろう。

 早い所センパイを捕まえてこなきゃ。あ、でも流石に今日はもう帰っちゃってるよね……明日改めて誘うしかないか……。

 でも、今日は何時までここに居なきゃいけないんだろ……。

 はぁ……早くも後悔してきた。

 センパーイ、迎えに来てくださーい!




というわけで、いろ惚けビッチいろはさんの強制入部で始まりました第二部。
いかがでしたでしょうか?
展開が変わる部分でもるので、かなり緊張しています……。
活動報告も多分荒ぶってるとと思いますのでご興味ある方はそちらもどうぞ。

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何でも良いのでリアクション頂けますととても嬉しいです。
一言でも二言でも長文でもお待ちしていますので、お手すきでしたらよろしくお願いいたします。


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第69話 バタフライエフェクト

いつも感想、お気に入り、評価、誤字報告、メッセージ、ツイッターでの読了報告。DM。ありがとうございます。

第二部が始まったこのタイミングで
星10評価が100件。
感想が1000件を超えました。
これも皆様の応援のおかげです、本当にありがとうございます。



「平塚先生、これ」

 

 朝のSHRが終わり、ワイワイと騒がしくなった朝の教室で、俺は教卓の前にいる平塚先生に提出予定だった一枚の紙を手渡した。

 少々端が縒れているが、まあ読めなくなったわけでもないので問題はないだろう。

 

「ん? 比企谷か? ああ、ちゃんと持ってきたんだな」

 

 平塚先生はそう言ってその紙を受け取ると、ザッと目を通した後「よし、問題ないな。偉いぞ」とまるで小さな子供をあやすような態度で俺を褒め、持っていたバインダーに紙を挟む。

 とりあえず受理はされたらしい。

 これで後日のお説教や、補習などと言った罰を食らうことはないだろう。

 ミッションコンプリートだ。

 用事を終えた俺はほっと肩をなでおろし「そんじゃ」と踵を返す。

 一限まであと数分しかないが、ヘイロープロぐらいなら回れるだろう。

 そう思っていたのだが、その瞬間、ガシッと何者かに肩を掴まれた。

 この握力……クマかな?

 

「まあ待ちたまえ比企谷、ちょうど君に聞きたいことがあったんだ」

「な、なんですか……?」

 

 そのクマ、もとい平塚先生の予想外の問いかけに俺は恐る恐る背後を振り返る。

 聞きたいこと? 俺、何かしたっけ?

 提出物はもう残ってないし、先週の掃除当番もサボらずにやったはずだが……。

 正直細かいことを上げると心当たりがありすぎる。

 一体何を聞かれるのだろう?

 

「そう警戒するな、今年入学した一年の一色いろはは知っているな?」

 

 そんな事を考え身構えていた所に、突然一色の名前を出され、俺の頭の上にクエスチョンマークが浮かんだ。

 何故このタイミングで一色? というかなんで一色のことを俺に聞くのだろう?

 受験日の二人乗りの件か? それとも入学式?

 いや、入学式での二人乗りは学校が見えてきた段階で降ろさせた、平塚先生にはバレていないはずだ。多分。

 となると……一色のやつ、何かやらかしたか?

 まあ普通に考えれば、今の状況で一色が何かやらかしたとしても俺に何かを聞かれる、というのはおかしいコトのはずなのだが。

 その時の俺は、何故かそれをごく当たり前のことのように捉えてしまっていた。

 

「まあ……知ってますけど……」

「どういう関係なんだね?」

「どう……とは?」

 

 一色との関係を問われ俺は一瞬だけ言葉に詰まる。

 流石に『許嫁ですけど何か?』とは言えないし、言うつもりもないからだ。

 独身街道まっしぐらで、事あるごとに「結婚したい……」と呟いている姿を目撃されているこの教師の前でそんな事をすれば、たとえソレが仮初の関係だとしても、一体どんな理不尽な目に合わされるか分かったものではない。

 本当、もう誰か貰ってやれよ……。

 とはいえ『許嫁』という言葉を使わずに俺と一色の関係を説明するのも難しい。

 知人、友人、顔見知り、知己、そのどれもが適当とは思えず、脳をフル回転させる。

 

「いや何、てっきり君たちは従兄妹──親戚か何かなのかと思ってな。先日少し話をしたんだが、なんとなく、以前の君に似た雰囲気を感じたんだ」

「俺が一色と? 勘弁してくださいよ」

 

 そんな俺の様子を察してか、平塚先生は改めてそう言葉を続けた。

 だが正直理解に苦しむ発言だ。

 俺と一色が似ている??

 俺は一色のようにあざとくもなければ、ゆるふわビッチでもない。

 そもそも性別からして違うというのに、この人は一体何を言っているんだろう?

 百歩譲って小町と似ているというなら分からなくもないのだが……。というか、マジでアイツ何かやったのか?

 これは……変に濁さず、きちんと説明したほうが良いか……。

 

「去年俺が入院してた時に一色──っていうかアイツの爺さんと知り合ったんです。そこでちょっと色々あって、まあ今は家族ぐるみの付き合いみたいな感じすかね。血縁関係はないです」

「なるほど、そういう縁か」

 

 「色々あって」の部分はほぼ端折ったが、嘘はついていない。

 俺の説明に、平塚先生は納得したのかしていないのか顎に手をおいて、一度ふむと頷くと、今度は少しだけ晴れやかな顔をこちらに向けてきた。

 

「事故の件はともかく、君はこの一年良い経験をしたようだな。そういう縁は大事にしたほうが良い。この間の作文もよく書けていたぞ」

「はぁ、どうも」

 

 どうやら危機は去ったようだ、とりあえず許嫁のことを言及したいわけではないらしい。

 ということは、バレてないってことか。

 まあ、一色の方から俺たちの関係を言いふらすメリットなんてないし。流石に俺の考えすぎだったのだろう。

 去年、アイツからも直接言いふらすなって言われてるしな……。

 

「こういうのを忘れるトコロはまだまだだがな」

 

 そうして、ほっと胸をなでおろす俺に、平塚先生はそう言ってバインダーを掲げる。

 忘れる、というのは先程提出した用紙の事を言っているのだろう。

 

「はぁ、すみません」

「おっと、授業が始まるな、しっかり準備しておけよ? 学生の本分は勉強だからな、君たちがどんな関係でも良いが、決して行き過ぎた不純異性交遊などに走らないように」

「う、うす」

 

 不純異性交遊って……え? やっぱり何かバレてる……?

 いや、まさかそんな……。いやいやいや。

 教室を出ていく平塚先生の背中に、俺は何となく嫌な予感を覚えながら一限の予鈴を聞いていたのだった。

 

*

 

**

 

***

 

「と、いうわけでセンパイ! 一緒に奉仕部入りましょう!」

「……やだよ、面倒くさい」

 

 隣に一色がいるのも最早お決まりになりつつベストプレイスでの昼休み。

 一色が弁当を開くなりそんな事を言い始めた。

 よく分からんが、コイツは高校からは奉仕部という部活に入ることにしたらしい。

 それも平塚先生絡みで。なるほど、今朝の平塚先生の話の原因はコレか。

 一色のことだからてっきりまたサッカー部のマネージャーでもやるのかと思っていたので、ほんの少しだけ驚きもしたが、まあ去年のことで懲りたのかもしれないと思えば、割と納得のできる判断な気もする。知らんけど。

 

「第一なんなのその奉仕部って? 何する部活? メイド喫茶でもやるの?」

 

 とりあえず許嫁のコトがバレたわけではなかったようなので俺は一先ず『奉仕部』という聞き慣れない単語について考える。

 勇者部、隣人部、GJ部、ごらく部、愉悦部、そしてSOS団。世界にありとあらゆる部活がある事は知っているが、奉仕部というのはそのどれにも当てはまらないし、何をする部活なのかも想像が付かない。だからこそ、少々胡散臭くもある。

 あれか、メイド服着た一色が「ご奉仕の時間ですよぉ~」とか言ってパンケーキでも持ってきてくれるんだろうか?

 この学校にそんな部があったの? 後々教育委員会で問題にされたりしない?

 

「センパイ? 奉仕って聞いてそういうコト考えちゃうのはセンパイの頭が卑猥だからなんですよ?」

 

 そんな風に思考を巡らせていると、なにやら一色が得意げにそんなコトを言ってくるので、俺は買ってきたメロンパンを一口齧りながら一色を一瞥する。

 

「いや、別に卑猥ではないだろ。お前が勝手にメイド喫茶に卑猥なイメージ持ってるだけなんじゃないの? メイド喫茶は全年齢対象だ」

 

 すると、一色は「むぐぐ……」と悔しそうな顔で俺を睨みつけてきた。

 ふぅ……あっぶねぇ……、一色のメイド服姿想像してるのバレたのかと思ったわ。セーフ。

 いや、でも別にエロい事は考えてないからね?

 俺メイド属性とか無いし。でもメイドさんって色々妄想したくなるからね、卑猥な事を考えちゃっても仕方ないね。

 

「とーにーかーく! どうせ帰宅部なんですから、一緒に入りましょうよ。今なら可愛い許嫁付きですよ?」

 

 別にそんな部活入らなくても、もうずっと付いて来てるじゃん……。

 信じられないだろ? ここ、一ヶ月前までは俺だけのベストプレイスだったんだぜ?

 正直、二年になってから一人で昼飯食った記憶がない。

 まあ……割と楽しいと思ってる俺もいるから、それは別に良いんだけど。

 だが、それはそれ、これはこれだ。

 これ以上訳の分からんコトで時間を取られたくはないし、何より俺には部活に入れない理由もある。

 俺は部活に入ったら死ぬ病なのだ。嘘だけど。

 

「無理、そもそも俺バイトあるし」

「へ? バイト? センパイバイト始めたんですか?」

 

 俺がそう言うと、一色はその丸い目を大きく見開き、僅かに首を傾げながら、キョトンとした顔で俺を見上げてくる。

 その瞳から「センパイ。バイトなんて出来るんですか?」みたいな空気を感じるのはきっと気の所為だろう。

 気の所為……だよね?

 

「始めたっていうか、続行だな」

「続行?」

「カテキョ、続けることにしたんだよ」

 

 そう、一色が色々あって部活を始めたように、俺も俺で色々あって家庭教師を続けることになったのだ。

 当然だが、俺の方から願い出たわけではない。

 おっさんこと一色いろはの祖父、一色縁継絡みである。

 どうやら、今年も俺はあのおっさんからは逃げられないらしい、はぁ……。

 もしかして俺、もう引き返せないトコロまできているんだろうか?

 この先進学先や就職先まで口出しされたらどうしよう。まあ、多分大丈夫だとは思うが……。

 

「え!? 私聞いてないですよ! でもなんだ、そういうコトなら早く言ってくださいよ。次は何曜日にします? 流石にカテキョの日は部活も休めると思うので私は別に何曜日でもいいですよ。むしろまた毎日でも!」

 

 しかし、そんな俺の心境など知る由もなく、一色は何やら良く分からない事を口にした後、楽しげにスマホを開き始めた。

 「えっと今月はー」と口にしているところを見ると、どうやらスケジュールを確認しているらしい、これは……あれだな、何か勘違いしているな?

 

「……何してんの?」

「何って……カテキョ続けてくれるんですよね? 予定入れなきゃと思って」

 

 そう言うと、今度は「何を当たり前のことを聞いてるんですか?」みたいな顔で俺を見上げてくる。

 そんな曇りのない目で真っ直ぐに見つめられると、俺の方が間違っているみたいに思えてしまうからやめて欲しい。

 だが、間違っているのは俺ではなく一色なのだ。ここは早めに訂正しておかなければ。

 俺はアンなんちゃらのような、分かりきったすれ違いコントをやるつもりはない。

 そういや最近あんま見ないよな……アンガールズ……。じゃんがじゃんがじゃんがじゃんが。

 

「カテキョだけど、別に一色の家に行くなんて一言も言ってないんだよなぁ……」

「え?」

 

 俺の言葉に一色が再び目を丸くする。

 そもそもなんでこの話の流れで一色の家庭教師を続けると思ったんだよ。

 高二が高一のカテキョとかおかしいだろ。

 いや、まぁソレを言ったら去年の時点でおかしかったんだけどさ……。

 

「お前の受験はもう終わってるだろ?」

「受験……? ってまさか、お米の家庭教師とかいうオチですか? もー、部活入るのが嫌だからってあんまり適当なコト言わないで下さいよー」

 

 しかし俺の言葉で何故か今度は小町の家庭教師をするのだと思われたらしく、一色がアッハッハと笑いながらバンバン俺の背中を叩いて来る。

 痛い痛い、やめて。そこさっきクマに掴まれた所だから。多分赤くなってるから!

 そもそも、なんで俺が行けそうなのは一色の家か自宅かの二択しかないと思われてるんですかね?

 確かに小町も受験生だし、実際おっさんの力がなければ俺が行ける『家庭』ってそれぐらいしかいないけどさ……。

 あれ……? おかしいな? 目から汗が……。

 

「ちげーよ。おっさんの……っていうか楓さんの知り合いの家でな。折角一年間家庭教師やって実績付けたんだからもうちょっと続けたほうが良いって言われて紹介されたんだ」

 

 だが、これはおっさん案件であり、当然訪問先もおっさんの(今回は楓さんの)管轄になる。

 つまり、俺が家庭教師先を探す必要もなく、俺の知り合いの数も訪問先に影響しないのだ。

 やったね、タ○ちゃん! 生徒が増えるよ!

 まあ、増やしたかったわけでもないんだけど……。

 

「えー! なんですかそれ! 私聞いてないんですけど!」

「まあ、言ってなかったしな」

 

 実際今回のバイトのことは小町にもまだ話していない。

 というか、俺だってまさか今年も家庭教師をやると思っていなかったのだ。

 まあ、うっかり宿題の作文で去年家庭教師のバイトをしたことを書いてしまい「バイトをする時はちゃんと学校側に許可を取るように」と平塚先生から怒られた結果、今朝平塚先生にバイト許可申請書も渡したので平塚先生には知られているが、それもイレギュラー。

 だから、一色にもまだ言う必要もないかなと思っていたのだ。

 必要であればおっさんから話が行くだろうしな。

 

 だが、一色はそんな俺の判断が納得いかないらしく、ぷくっと頬を膨らませ、怒っていますというアピールをしている。

 まぁ、最早ポーズだと理解しているので怖くもなんともないので、俺はそのまま一色を放置して、再びメロンパンにかじりついた。

 いつも思うんだが、メロンパンってどこにメロン要素あるんだろうな、上のクッキー生地がメインならクッキーパンでもいいんじゃないの?

 丸くて網目があったら全部メロンなの? ちょっと雑すぎません?

 そんなコトを考えながら、黙々とメロンパンを咀嚼していく俺を見て、一色はこれ以上このポーズをしていても無駄だと悟ったのか「はぁ」と小さく溜息を吐く。

 

「……それで? 今度はどんな子なんですか?」

「どんなって……何が?」

「言わなかったってコトは女の子……ですよね?」

「……」

 

 ギロリと一色に睨まれ、俺は思わず目を逸した。

 何故バレたのだろう?

 いや、別に女子だから隠していたというわけじゃなく、ただ単に説明するのが面倒臭かっただけで、今だって生徒の事なんて一言も話していないはずなんだけどなぁ……。

 いや、本当なんでバレたの?

 いっそこのまま黙ってた方が良いだろうか?

 

「あー! やっぱり! やっぱり女の子なんだ! 可愛い女の子だから引き受けたんだ! センパイが私以外の家庭教師引き受けるなんておかしいと思ったんですよ! センパイの浮気者!」

 

 しかし、俺が何かいうより早く、一色は俺のリアクションから全てを察したのか、箸を持ったまま勢いよく立ち上がると、俺を見下ろしてギャーギャーと喚き散らして来た。

 ウルサイ……。

 全く……一体何が気に入らないというのか。

 なんなの? また俺に許嫁が出来るとでも思われてるの?

 家庭教師っていつから許嫁製造機になったの?

 なら平塚先生に早いトコロ転職を勧めないと。

 

「いや、浮気って……女子だけど、今度は小学生だからな? お前が期待するようなコトにはならん」

「へ? 小学生?」

 

 しかし、実際は家庭教師と許嫁という言葉にはなんの関連性もないし、今回紹介されたのは楓さんの知り合いの娘さん。

 今日まで許嫁の「い」の字も出てこなかったし、何より年も離れた小学生だ。

 女子、というよりは女児。生徒ではなく児童と言い換えても良い。

 もちろん、俺としても『男の家庭教師で大丈夫なのか?』と確認して、あちらの親御さんが『楓さんの紹介なら』と快諾してくれた結果でもある。

 まあ、別に良からぬことをしようとか思っているわけじゃないが、楓さんの信頼に足る働きが出来るか? と問われるとプレッシャーでしかない案件だ。

 正直、今からでも断れるものなら断りたい。

 

「センパイ……ロリコンだったんですか?」

「ちげーよ!! 楓さんの紹介だって言っただろ? 俺に選択権なんてなかったの」

 

 だから、安易にそういう言葉を使わないで欲しい。

 まかり間違ってそんな風評が広まってしまえば、楓さんの顔に泥を塗ることになってしまう。俺としてはそれだけは避けなければならないと思っているのだ。

 なんなら一色の時よりも真面目にやらなきゃいけない感、あると思います。

 

「とにかく、そういうコトだから部活には入らない、っていうか入ってる余裕がない」

 

 小学校の勉強とか知識として身についている事はあっても、どうやって教わったのか覚えてないことも多いからな……。

 それに、最近の小学生は範囲がどんどん広くなっている。

 その場で考えられる問題ならともかく、暗記物とかは特に再勉強が必要だ。舐められるわけにもいかない……。

 そんな事を考えていると、一色は俺の決意を組んでくれたのか、不服そうな顔をしながらもようやく腰を降ろし、俺と目線を合せてくれた。

 

「えー。じゃあ、私一人で行かなきゃいけないんですかー? 奉仕部ならセンパイ好みの可愛い部長もいますよ?」

「なんだよ俺好みって……」

「髪の長い美人さんです、二年の雪ノ下先輩って知りませんか?」

 

 どこかで聞いたような名前に、思わず記憶を辿る。

 この学校で雪ノ下と言えばただ一人。

 雪ノ下雪乃……。

 国際教養科の有名人のことだろう。

 定期テストや実力テストでも常に学年一位の成績優秀者。

 雪ノ下なら確かに一色が美人と呼ぶのも納得だ。

 逆に雪ノ下を美人と呼ばないのであれば何を美人と呼ぶのだという話でもある。 

 

「ああ、アイツか……」

「あれ? やっぱり知ってるんですか?」

「ああ、きょ……」

 

 去年文化祭で写真を撮りそこねた。

 そう言おうとして思わず口をつぐむ。

 そんな事をいえば完全に変質者だ、実際通報もされたしな……。

 まあ通報したのが雪ノ下かどうかは分からないが、もし向こうがコチラの事を覚えていたときのことを考えるなら下手に会わないほうが無難だろう。

 

「まあ名前ぐらいはな……でも、その誘いに乗ったら、どうせまた文句言うんだろ?」

「当たり前じゃないですか、そんな不純な動機での入部認めません。あ、でも私と一緒の部活に入りたいっていうなら全然OKですよ?」

 

 完全に罠じゃねーか。

 いや、まあどっちにしても入らないんですけどね。

 

「まあ、ちょうど良いんじゃないの? おっさんからもお前が『高校に入って浮かれてるからあんまり甘やかさず、厳しくしてやってくれ』って言われてるし」

「へ? お爺ちゃんが?」

 

 それはおっさんからの依頼でもあった。

 イマイチ要領を得ないのだが、おっさん曰く「心配していた通りになった」とか「周りが見えていない」とかとにかく、今の一色の状況におっさんは不満があるらしい。

 成績が落ちたとか、授業態度に問題があるとかなら分かるのだが、定期テストはこれからだし、通知表がでるのもこれからだ。

 まだ一ヶ月も経っていない現状で、一色の何を心配しているのかは分からないが、とにかく甘やかすなと言われれば俺としては「分かった」としか言いようがない。

 

「大分呆れてたけど、お前何かしたの?」

「何って別に……何も……」

 

 合格して浮かれているというだけなら、そろそろ落ち着くと思うのだが、おっさんの様子からするに、早いトコロ手を打って起きたいということなのだろう。

 とはいえ、俺に何か出来るコトがあるわけでもなく、正直困っていたトコロでもあったので、これはこれで良い機会なのかもしれない。

 同じ部活になんて入ったら、それこそ変な噂を立ててしまうかもしれないしな。

 要は中三の時の俺と小町のようなものだ。

 俺がこいつの許嫁、もとい関係者だと思われないよう、ひっそり立ち回れば良いのだ。

 そうすればそのうちコイツも新しい高校生活に慣れて、落ち着くだろう。

 なんだ、思ってたより簡単なコトじゃないか。

 

「まあ、そういうわけで、俺は部活には入らない。バイトもあるし、帰りも待ってなくていいぞ」

 

 なんならこうして毎日ベストプレイスに来なくたって良いのだ。

 まあ、こいつあんま友達多いタイプじゃないから、クラスの居心地が悪いのかもしれないが……。部活で話せる女子が出来るならそれはそれで良いことなのではないだろうか。

 

「ええー……」

 

 だが、俺がそう告げると、一色はまるで捨てられた子犬のように箸の先を咥え目尻を下げ見えない尻尾をくるんと丸め込んでいた。

 なんだか俺が悪いことをしている気分である……。

 

「じゃあ……バイトがなかったら待っててもいいですか……?」

 

 瞳を僅かに潤ませ、上目遣いで俺を見てくる一色に、俺は思わず「うっ」と喉をつまらせる。

 駄目だ、比企谷八幡! これはポーズだ! 一色いろはがあざとい女だということは理解しているはずだろう!

 おっさんからも甘やかすなと言われているはずだ!

 踏みとどまれ!

 

「……バイトが休みの日だったらな」

 

 しかし、必死の抵抗も虚しく、気がついた時には俺はそんな言葉を発していた。

 はぁ……、いつから俺はこんなに意志が弱くなってしまったんだろうな……。

 自己嫌悪。

 悪いなおっさん、約束……守れなかったよ。

 

「やった!」

 

 そんな俺を横目に、一色は小さくガッツポーズをしながら、ニコニコと笑みを浮かべている。

 そこには先程までのあざとさや、計算高さは感じられない。

 全く……何がそんなに嬉しいんだか……。

 こんな事を繰り返されればいくら俺だって、勘違いしてしまいそうになるじゃないか。

 そう、一色が葉山ではなく俺を……なんて……。

 そんなあるはずもない勘違いを……。

 

「でも、そっちはそっちで部活あるんだろ?」

「大丈夫です! そんなに忙しくなさそうな部なので。あ、それか部室に遊びに来てくれても良いですよ?」

「行かない」

 

 いや、そんな事があるはずがない。

 だから俺はソレ以上その事を考えないように話題をそらした。

 一色と距離を置くのは一色だけじゃなく、俺にとっても良い機会なのかもしれない。

 

「もっと興味持ってくださいよー! もしかしたらセンパイも入る事になるかもしれないんですから!」

「だから入らんって……」

 

 それにしても、奉仕部か……。

 聞いた感じだと雪ノ下と一色、女子二人だけの部活らしいが……。

 マジでなにする部活なんだろうな?

 一応、今度おっさんに報告しとくか……。




今回は久しぶりに説明回?
少しづつ変化している八幡の環境
新たなバイト先それらは一体今後どんな変化を呼び起こすのか……!

ということで
次話以降も引き続きよろしくお願いいたします。

感想、お気に入り、評価、メッセージ、誤字報告、ツイッターでの読了報告、DM。
何でも良いのでリアクション頂けますと嬉しいです。
よろしくお願い致します。

あと、第二部は毎週更新ではないです、あしからず……。


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第70話 初めての依頼

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、ここすき、DM、ツイッターでの読了報告ありがとうございます。
拙作の半分は皆様の応援で出来ています。


「あら? ちゃんと来たのね。てっきり逃げ出したかと思ったわ」

 

 先日と変わらず机や椅子が無機質に積み上げられているだけの殺風景な部室に入ると、雪ノ下先輩が本を開きながらいきなり嫌味を投げてきた。

 私はそんな雪ノ下先輩を一睨みしてから、ドスドスと部室に入り、自分の椅子を用意する。

 別に、私だって来たくてきたわけじゃない、この部活に来るのは一応平塚先生からの言いつけであり、まだそれほどよく知らないとはいえ雪ノ下先輩という“先輩”の指示でもあったからだ。

 それに何より……。

 

「暇になっちゃったんですよ……」

 

 そう、センパイが新たにバイトを始めたことで、私自身暇になってしまった。

 それが一番の理由。

 はぁ、なんでセンパイバイトなんて始めたんだろ。

 いくらお爺ちゃんの言いつけだからって、嫌なら断れば良いのに……。

 っていうか、私のお願いごとはしょっちゅう断るくせに、こういうときばっかり引き受けるんだもんなぁ。

 お爺ちゃんもお爺ちゃんだ、センパイはあくまでも“私の”センパイであって、お爺ちゃんが好き勝手にアレコレして良い相手じゃないはずだ。

 仮にどうしても高校生にバイトを頼まなきゃいけない事情があったとしても、孫の私にまず声をかけるべきじゃないの?

 全く……これは、一度ちゃんと言っておかないとダメかもしれないなぁ……。

 センパイが『おっさんに仕事押し付けられるの嫌だから、許嫁辞めたい』とか言いはじめたら困るもんね。うん。

 って、うわ本当に言われたらどうしよう。やっぱキツく言っとこ。

 

「そう……でもあなた、特別交際している相手がいるわけでもないのでしょう? 元々部活をやる時間ぐらいはあったんじゃないの?」

「全く、雪ノ下先輩は分かっていませんね。お喋りとか、一緒にお出かけとか色々あるじゃないですか……私はそのためにこの学校に来たんですから」

 

 心底不思議そうに首をかしげる雪ノ下先輩に、私は最早「不機嫌です」という気持ちを隠すこともせず返答した。

 実際、私がこの総武を志望したのは県内随一の進学校だからという理由でもなければ、校風が自分に合ってるとか、家が近いからとか、制服が可愛いからとか、そんなありきたりな理由でもない。

 いや、まあ、制服が可愛いというのは少しプラスポイントではあるけれど……。それ以外の部分は『センパイがこの学校に通っていたから』に他ならないのだ。

 仮にもしセンパイが別の学校。──例えば海浜総合に通っていたなら、恐らく私はこんなに苦労してまで総武に入ることはなかっただろう。

 何ならソッチのほうが助かったまである。

 とはいえ、センパイはあくまで“先輩”だ。一緒の学校に通うコトはできても、一緒の授業を受けることが出来るわけではない。

 だからこそ貴重な放課後なので、逆に言えばセンパイのいない放課後には何の価値も見出すことは出来なかった。

 

「知っている? 高校時代に付き合った男女が結婚まで行く確率は10パーセント未満だそうよ? それが初めての交際なら尚更成就する確率は低いと言われているわ」

 

 そんなことを考えていると、雪ノ下先輩が再び私に毒を投げつけて来た。

 もし、センパイとのコトがなければ「流石にマダそこまで考えてるわけじゃないですよ」とでも軽く受け流せただろう。

 だが、私とセンパイの関係性を考えるなら、そこは目指すべきゴールでもあり、意識しないわけにはいかない。

 だからその時の私は私とセンパイの許嫁という関係そのものを否定されたようで、一瞬頭に血が上るのを感じ、思わず雪ノ下先輩を睨みつけてしまった。

 ってダメダメ……。仮にも雪ノ下先輩は先輩だ。落ち着かないといけない。この人は私とセンパイの関係を知らないから、深い意味があるわけじゃない。単なる嫌味だ、受け流せ。

 この人は恋愛の素晴らしさを知らない可哀相な人なのだ……。

 

「……知りませんよ。私には関係のない話です」

「……そう」

 

 湧き出る怒りをグッと堪え、冷静にそう返す私に雪ノ下先輩も一瞬何かを察したのか。

 ソレ以上口を開こうとしなかった。

 少しだけ気まずい空気が私と雪ノ下先輩の間を流れる。

 さて、どうしよう?

 そもそもこの部って何をする部なのかイマイチ分かってないんだよね……結局前回も時間までこの部室で雪ノ下先輩と喋ってただけだし……。今日もずっとこのままなかな?

 あー……帰りたい……。

 

『コンコン』

 

 すでに私への興味を失ったように読書に勤しむ雪ノ下先輩を見ながら、さてどうしたものかと部室を見回した瞬間、突如部室の前の扉を叩く音が響いた。

 来客? 平塚先生だろうか?

 何か言ったほうが良いんだろうか? そう思い、私は再び雪ノ下先輩の方へと視線を動かすと雪ノ下先輩も私の方をちらりと見たあと、涼し気な声で「どうぞ」と扉に向かって一言声をかけた。

 

「失礼しまーす……」

 

 雪ノ下先輩の言葉を合図に、恐る恐る開いた扉から入ってきたのは妙に腰を低くした少女。

 肩まであるピンクがかかった茶髪に、短めのスカート、そして何よりも目を引くのは大きくボタンを開けたその胸元。

 もしセンパイがここにいたならビッチとでも表現するだろうその少女は、部室に居るのが私と雪ノ下先輩だけだと確認すると、どこかホッとしたような表情のままいそいそと部室の中程まで入ってきた。

 一体誰なのだろう? もしかしてもう一人の部員とか?

 あれ? でもこの人確か以前どこかで会ったことが……?

 あ!

 

「えっと……」

「レモネードの人!」

 

 その少女が何事か口を開くのと同時に私の記憶の扉が開き、思わず叫んでしまった。

 そんな私を二人が「レモネード?」と訝しげに見つめてくる。

 うん、そりゃわからないよね……。

 でもそうだ、間違いない。この人、あの時のレモネードの人だ。

 去年、私が総武の文化祭に遊びに来た時、全力ダッシュでお米に置いていかれた後、息も絶え絶えになっていた私にレモネードをくれたお姉さん。

 うん、あの時と変わらず羨ましいほどに胸が大きいし、人違いということはないだろう。

 そっか、当たり前だけど、この学校に通ってるんだよね。

 すっかり忘れてた。

 

「もしかして、去年ウチのクラスでレモネード買ってくれた?」

「あ、いえ。買ったわけじゃないんですけど、校門の所で疲れて休んでたら声をかけてもらって一杯頂いたんです……覚えてませんか? あの時は私まだ中学生だったんですけど」

 

 私がそういって立ち上がると、お姉さんはまるでその胸囲をアピールするかのごとく胸を持ち上げるように腕を組み、う~んと首を捻って「校門……?」と呟きながら天井を睨みはじめる。

 あー、忘れられちゃってるかな。

 仕方ないか、文化祭にくるお客さんなんて沢山いるもんね……。

 だが、そう思って「あ、覚えてないなら別に……」とフォローを入れようとした瞬間。

 お姉さんはパンっと口の前で分かりやすく手を叩き、キラキラと目を輝かせた。どうやら思い出してくれたようだ。

 

「あ! あの時の具合悪そうにしてた子だ?」

「はい! あの時はありがとうございました」

「いえいえこちらこそ。あの後大丈夫だった? っていうかウチ入ったんだ?」

「ええ、お陰さまで」

 

 何故かお互いの手を繋ぎながら、キャイキャイと感動の再会を果たす私達。

 まあ、別に具合が悪かったわけではないのだけれど、そういう認識をされているのは仕方がないのでこの際その辺りはスルー。

 元々この学校にはセンパイ以外に知り合いのいない状況だったからなんだか凄く嬉しい再会だ。

 でもなんで奉仕部に来たんだろう? もしかしたらこの人も平塚先生に言われて無理矢理入部?

 でもそうだったらちょっと嬉しいかも。

 あの時のお礼もちゃんと言えてなかったしね。

 

「……一体何の話をしているのかしら……?」

 

 だが、そうして二人で燥いでいると、横槍を入れてくる人物が居た。

 当然、雪ノ下先輩だ。

 雪ノ下先輩はコメカミに指を当て、呆れたような表情でコチラを見つめながら態とらしく大きなため息を吐く。

 

「一応、今は部活動中だから、思い出話なら後にしてくれる?」

「いいじゃないですか少しぐらい、どうせやることなかったんですし」

 

 当然、私としてはそれぐらいの事で怒られるのは納得がいかない。

 そもそも部活動中と言われても今までだって何もしてこなかったではないか。

 

「思い出話をするにしても彼女が奉仕部に来た理由を聞いた後でも良いでしょう、と言っているのよ。そんな事もわからないの?」

「う……」

 

 そう言われて、私は思わず言葉をつまらせた。

 何故このお姉さんがここに来たのか? 実際、それは私も考えていたことだ。

 部員なのかな? とも思ったが、今の雪の下先輩の反応を見るにそういった感じでもない、そういえば平塚先生も付いてきていない。

 向こうからこちらにやってきたのだから、何かしら用事があって来たと考えるのが自然だ。

 ならまずアチラの話を聞くのが筋だろう。

 そもそも、お姉さんが何かしら言い掛けていたのを遮ったのは私。

 つまり、悪いのは私。

 

「すみませんでした……」

「ま、まぁまぁ……私も悪かったし、本当に久しぶりだったから」

「あまりこの子を甘やかさないでくれるかしら……」

 

 庇ってくれるレモネードさんに対し、まるで保護者のような言い方の雪ノ下先輩だったが、今回は私が悪いので仕方ない。

 私はとりあえず名誉挽回の意味も込めて、積みあげられていた椅子を一つ持ち上げてレモネードさんの横へと置くと、レモネードさんは「あ、ありがとう」と一言添えてから、その椅子に腰掛ける。

 私はそんなレモネードさんの様子を確認してから、少し離れた自分の席へと座り直した。

 

「……もしかして二人って姉妹?」

「違うわ……」

「違います!」

 

 そうして、レモネードさんを頂点として二等辺三角形のような形に座った瞬間、問いかけてきたレモネードさんの言葉を否定するのはほぼ同時だった。

 いやもう本当、雪ノ下先輩がお姉ちゃんとか嫌すぎる。

 絶対家でもネチネチ言ってくるタイプだし、心の休まる暇がなくなりそう……。

 

「私の妹がこんなに出来が悪いわけがないわ……」

「ソレどういう意味ですか!? こっちだってこんなお姉ちゃん嫌ですよ!」

 

 しかし、そう考えているのは私だけじゃなかったらしく、雪ノ下先輩がとても失礼な事を言ってヤレヤレと首を振る。

 雪ノ下先輩が私のお姉ちゃんだなんて、こちらこそ願い下げだ。

 だが、そんな私と雪ノ下先輩を見て、一人クスクスと笑う人物がいた。

 

「なんか、楽しそうな部活だね」

「楽しそうに見えますか?」

「うん、何ていうの? 女三人集まれば楽しい! みたいな?」

「『三人寄れば姦しい』と言いたいのかしら……?」

 

 女三人集まれば楽しい……?

 一体何を言っているのだろうと首を捻っていると、間髪入れずに雪ノ下先輩がツッコミを入れる。

 姦しいって、そんな楽しいとかポジティブな意味じゃなかった気がするけど……。

 

「そうそれ! かしこまり! みたいな!」

 

 どうやら合っていたらしい。何かかしこまられてしまった。らぁらちゃんなのかもしれない。

 センパイ好きだよねプリキュア……あれ? あれはプリパラだったっけ。

 だが、雪ノ下先輩はもうコレ以上は突っ込まない事にしたのか、完全にスルーを決め込んだようで、相変わらず頭の痛そうな顔をしたまま次の話題へと移ろうとしていた。

 

「それで、あなたは二年の由比ヶ浜結衣さんよね?」

「あ、あたしのこと知ってるんだ?」

 

 由比ヶ浜先輩か。

 二年ということはセンパイや雪ノ下先輩と同じ学年だ。ここで一年なのは私だけ。

 なんだか凄い場違い感が出てきたなぁと思っていると、由比ヶ浜先輩が一瞬私の方をチラリとみてきたので、お互い自己紹介を済ませる。

 でも、今のやり取りを見ている限り雪ノ下先輩と由比ヶ浜先輩は元々友達っていうわけでもなさそうなのに、名前を知っているのはなんで?

 もしかして、雪ノ下先輩、全校生徒の名前を覚えていたりするのだろうか?

 案外ありそう……。

 一瞬、私の中で好奇心が目を覚ましそうになる。

 だけど、また話の腰を折ると怒られそうだから、とりあえずここは黙っておこう。

 

「今日はどういった要件で?」

「あ、えっと、平塚先生に聞いたんだけど、ここって生徒のお願いを叶えてくれるんだよね?」

 

 そうして、ようやく雪ノ下先輩が訪問目的を訪ねると、由比ヶ浜先輩がおずおずとそんなことを聞いてきた。

 お願いを叶える?

 そんなランプの魔人みたいな部だったっけ?

 確か昨日聞いた時は……。

 

「少し違うわね、あくまで奉仕部は手助けをするだけ。飢えた人に魚を与えるのではなく、魚の取り方を教えて自立を促すの。願いが叶うかどうかはあなたの努力次第よ」

 

 そう、何かお手伝いをする部みたいな感じだった。

 もし『お願いを叶えてくれる部』なのであれば、私のほうが依頼したいぐらいだ。

 でも、もしかしたら思っていた部と違うと分かったら帰っちゃうかな?

 そう思ったのだが、由比ヶ浜先輩は雪ノ下先輩の言葉に納得したのかしていないのか、一瞬ポカンとした顔をのぞかせた後、やがて覚悟を決めたように一度口を結ぶと「あ、あのね! 私……!」と声を荒げた。

 

「クッキーをね……あげたい人がいるの」

 

 絞り出すような声で徐々に小さくなる声色でようやくそう呟く由比ヶ浜先輩と、さきほどのお願いという言葉が上手くつながらず、私と雪ノ下先輩は思わず「クッキー?」と首をかしげる。

 

「えっと……その、絶対内緒にして欲しいんだけど……」

 

 そんな私達を、由比ヶ浜先輩は不安げにチラチラと交互に見てくる。

 どうやらあまり大っぴらにはしたくない話のようだ。

 そして同時に、私はこの奉仕部の活動が徐々にだけど分かってきた気がした。

 恐らくこの部は生徒のお悩み相談という側面を持っているのだろう。

 だから奉仕部。

 

「大丈夫、守秘義務は守るわ」

「わ、私も守ります!」

 

 そんな相談される側の口が軽くては、もう一度相談しようとは思えない。

 だから、秘密は絶対だ。

 私は咄嗟にそう判断し、雪ノ下先輩に続き約束する。 すると由比ヶ浜先輩は私達の言葉を信じて良いのか少しだけ迷った後。「あのね……実は……」とポツポツと事情を説明してくれた。

 

「去年ね……その……うちのサブレ──あ、サブレは家で飼ってるミニチュアダックスなんだけど。その子の命の恩人っていうか、凄くお世話になった人がいて……でも、色々タイミング悪くてちゃんとお礼を言えてないんだ。あ、でも、別に一年何もしなかったわけじゃないんだよ? 本当タイミング悪くて、それで、なんかちょっと気まずくて、喋りづらくてどうしようかと思ってたんだけど……今年、その人と同じクラスになって……」

 

 『お世話になった人』『お礼を言いたい』『一年』

 なんだかその言葉に若干の引っかかりを覚えつつも。

 自分が何に引っかかっているのか分からず、私はただ由比ヶ浜先輩の言葉を聞いていく。

 

「……それでね、まあこの際だし。出来たらやっぱりちゃんとお礼したいなぁって思ってて……」

「それで、クッキーを?」

 

 やがて、由比ヶ浜先輩の終わったのか終わっていないのか良く分からない、しどろもどろな説明を遮り、雪ノ下先輩がそう言うと、由比ヶ浜先輩はコクコクと素早く首を縦に振った。

 

「うん、えっと……出来たら手作りのクッキーとかどうかなって思ったんだけど、私作り方とか知らないし、あ、でもやっぱいきなり手作りとか重い……かな?」

「そんなコトありません! 絶対贈るべきです! 雪ノ下先輩! 手伝ってあげましょうよ! それが奉仕部の仕事なんですよね?」

 

 未だに、自分の中で何が引っかかっているのか分からず、少しだけモヤモヤした感情があったのだが、『犬』や『命の恩人』、『同じクラス』という、私とは関わりのなさそうな単語も多かったので、きっと何かの気の所為だろうと思ったし、何より由比ヶ浜先輩の不安そうな声を聞いて私は思わず立ち上がり叫んでしまった。

 だって、私にはこれが何の相談なのか分かってしまったから。

 『贈るのはやめましょう』なんてとてもじゃないが言えなかったし、言いたくなかったのだ。

 

「まあ、そうなるわね」

「手作りのクッキー、凄く素敵だと思います!」

 

 クッキー作りなら私の得意分野。

 思わず自分の口角が上がるのが分かる。

 なんだ、これが奉仕部の仕事ならむしろ私向きかもしれない、というか雪ノ下先輩よりよっぽど適任な気がする。

 それに、もしかしたらこの依頼を成功させれば、雪ノ下先輩や平塚先輩に私のほうが正しかったと証明出来るかもしれない。

 そう思って、私の鼻息はどんどんと荒くなっていった。

 

「でも、先に確認しておきたいんですけど、その相手って男子ですよね? つまり由比ヶ浜先輩の好きな人ってことでいいですか?」

「ち! ちが! 別にまだそこまで考えてるわけじゃないっていうか……その……まずはお友達からっていうか……」

 

 私の問に、由比ヶ浜先輩は慌てて両手を前に出してブンブンと交差させる。

 そう、結局のところこれは『恋のお悩み相談』なのだ。

 それが分かったからこそ、私は由比ヶ浜先輩を助けてあげたいとも思ってしまった。

 あの日のレモネードのお返しも出来てなかったしね。

 

「へぇ。『まだ』で『まず』なんですね」

「あれ!? もしかして今の引っ掛け問題!?」

「ソレを言うなら誘導尋問でしょう……誘導尋問にすらなっていなかったけれど……」

 

 驚く由比ヶ浜先輩を見て笑う私。

 そんな私達を見ながら雪ノ下先輩が今日何度目かのため息を吐きながら、呆れたようにそう呟く。

 でも、最初の時のように重苦しい空気はここにはない。

 

「……はぁ……まあ良いわ、一色さんも乗り気のようだし、そういうコトならとりあえず家庭科室に行きましょうか」

「はーい!」

「よ、よろしくお願いします!」

 

 すっと立ち上がる雪ノ下先輩に続き、私達は揃って部室を出る。

 どうやら、今日の部活は楽しくなりそうだ。

 

*

 

「それじゃあ、始めましょうか」

 

 家庭科室に着くと、皆でエプロンを付けクッキー作りの準備が始まった。

 正直なことを言うと、プレゼント用のクッキーぐらいなら今どきネットを見れば簡単なレシピも幾らでも出てくるし、動画でも見れるので何を教わる必要があるのだろうとも思わなくもなかったのだが、

 慣れた手付きで準備をしている私達に対し、由比ヶ浜先輩はエプロンをつけることすら慣れていない様子で、後ろの紐すら結べずだらし無く首から引っ掛けていたので、なんとなく今日は大変なことになるかもしれないなという予感がしていた。

 結構気合をいれて教えてあげないと駄目かも。

 でも、逆に考えるとここは力の振るいどころだ。

 由比ヶ浜先輩には文化祭の時の恩返しにもなるし、雪ノ下先輩には私の実力を見せつけるチャンスでもある。

 そして上手く行けばこの部活から開放されるかも。

 

「それで? 由比ヶ浜さんはクッキーを作った経験はあるのかしら?」

「……全く、ないです」

「雪ノ下先輩! 私、私クッキー得意です! 作れます! 任せて下さい!」

「あなたが得意でも意味がないのよ。今回は由比ヶ浜さんのクッキー作りが主目的だから、一色さんはとりあえず見ていてくれる?」

 

 しかし、雪ノ下先輩はそんな私のやる気を容赦なく削ぎ落として来た。

 「えー……」と不満を見せつけても全く取り合ってくれる気配がない。

 恐らくだけど、雪ノ下先輩は何をするにしてもまだ私のことを信用していないのだろう。

 クッキー作りは本当に自信あるんだけどなぁ……。

 

「さっきも言ったでしょう? 私達がするのはあくまで手助け、あなたが作ってしまっては何の意味もないのよ。とりあえず一度ゆっくり説明しながら作るから見ていてくれる?」

「わかりました……」

 

 確かに、今回はあくまでクッキーの作り方を教えて欲しいという依頼だ。

 私がクッキーを作って「はいどうぞ」という訳にはいかない。

 そう思い直し、私は渋々引き下がった。

 まあ、センパイが食べてくれるわけじゃないし……別にいいですけど。

 私の出番もちゃんと残しといてくださいよ?

 

「それでは、始めるわね」

 

 そうして、雪ノ下先輩指導のもとクッキー教室が開催される。

 私が見る限り、雪ノ下先輩が作るのは本当に基本的なクッキー作りだ。

 丁寧に作り方を説明する雪ノ下先輩を由比ヶ浜先輩がふんふんと鼻息を鳴らしながら聞きいっている。

 時折、私の方をチラチラ見てくるのは、恐らく気を使ってしまう性分なのだろう。

 私のことはいいから、ちゃんと雪ノ下先輩の手元を見て欲しい。

 

「そういえば一色さんは……」

 

 しかし、どうにも気が散るのか、由比ヶ浜先輩は合間合間で私に声をかけてくる。

 仕方がないので私も雪ノ下先輩の方をちらりと一度確認してから、気を使わなくて良いですよ。という意味合いも込めてその軽口に応じた。

 

「『一色さん』なんて、かしこまらなくていいですよ? 私後輩ですし」

「じゃあ……一色ちゃん?」

 

 鼻に小麦粉を付け、両手をテーブルに付きながら由比ヶ浜先輩がそう聞いてくるので、私は少しだけ考えるふりをしてから答える。

 

「いろはでいいですよ。結衣先輩」

「そっか、じゃあいろはちゃん!」

「なんですか? 結衣先輩?」

「いろはちゃん♪」

「結衣先輩♪」

「ほら、バカなことやってないで、次はこれを掻き混ぜて」

 

 そんな特に意味のないやり取りをしながら、二人で笑い合っていると雪ノ下先輩に怒られてしまった。

 当然だ、結衣先輩に頼まれてクッキー作りを教えている最中なのにその当人が遊んでいれば怒りたくもなるだろう。

 まあ、私もちょっと楽しくなっちゃってたんだけど……。こういうのは雪ノ下先輩相手だと出来ないしね。

 

「一色さんはオーブンを温めておいてくれる?」

「はーい」

 

 そうして、手持ち無沙汰になっている私を見かねたのか、雪ノ下先輩がようやく仕事を振ってくれたので、私は軽く返事をして準備へと向かう。

 もっと色々出来るんだけどなぁ……近くにいると邪魔をすると思われたのだろうか?

 なんだか授業中に燥いで怒られた友人同士みたいだ。

 

「っていうか、『雪ノ下先輩』っていうのもちょっと長いですよね? 雪乃先輩って呼んでもいいですか?」

 

 そうしてオーブンの準備をしながら、私はもののついでにと雪ノ下先輩にそう提案してみた。

 実際『雪ノ下先輩』というのは少し長く呼びづらかったし、かといって二人きりの時にそんな話をする空気にもならなかったので、本当にこれはもののついでだ。

 断られても仕方ないし、正直それほど重要なことでもない。

 

「……好きにしなさい」

 

 しかし、また怒られるかな? とも思った私の予想とは裏腹に、雪ノ下先輩は心底どうでも良いとでも言いたげにそう言うと、コチラを一瞥もせず、慣れた手付きで次の工程へと移っていく。結衣先輩の指導をしながらとは思えないスピードだ。

 クッキー作りなら私の独壇場だと思ってたんだけど、雪ノ下先輩もお菓子作りが趣味だったりするのかな?

 完成したら聞いてみよう。

 

「やった、あ、雪乃先輩も私のこと“いろは”って呼んでくれていいですよ?」

「考えておくわ“一色さん”」

「む……」

 

 強情だ、こういうトコロはセンパイに似ているかもしれない。

 だからだろうか? なんだか妙にこの空間の居心地が良いと思ってしまった。

 おかしい、ちょっと前まで部活を辞める方法を考えていたのに……。

 さっきの結衣先輩の言葉じゃないけれど、案外私にお姉ちゃんとかがいたらこんな感じなのかもしれない。

 そういえば、私家族以外の人とこうやって皆でお菓子作りをするのとか初めてかも。

 なんだかんだ、私友達少ないしなぁ……。

 そんな事を考えながら、私は雪乃先輩と結衣先輩がクッキーを作るのを眺めていた。

 

 

 

 このクッキー作りに関わったことを、後で後悔することになるとも知らずに……。




予定調和回なので一話完結にしたかったのですが
前後編に分かれてしまいました。
原作をなぞる形の前後編でスローペース……、でもここを超えたら色々変化が出てくるはずなのでもう少々お待ちいただければ幸いです……。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、DM、ここすき、ツイッターでの読了報告、誤字報告頂けますとモチベがぐぐんと上がったりしますので、一言でも二言でも長文でも人助けだと思って、何卒よろしくお願いいたします。


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第71話 ガンダムファイト

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、DM、ここ好きありがとうございます。

この度「やはり一色いろはが俺の許嫁なのはまちがっている」の総合評価が2万を突破しました。
これも一重に皆様の応援のお陰です本当にありがとうございます。


「どう教えれば上手く伝わるのかしら?」

 

 雪乃先輩によるクッキー教室が開催されてから既に一時間以上の時が過ぎ、通常であれば焼き上がったクッキーを食べ、それぞれの近況などを話し合うお茶会が催されていてもよさそうな時間だったが、家庭科室はお茶会どころか絶望と失望が混じり合う一種の戦場と化していた。

 

「なんでうまくいかないのかなぁ? 言われたとおりにやってるのに……」

 

 なぜそんな状況になってしまったのか?

 理由は簡単、結衣先輩がクッキーを作ろうとすると尽く失敗してしまうからだ。

 何度作っても、どれだけ丁寧に教えても、オリジナリティを出そうとする結衣先輩に雪乃先輩が翻弄され、料理番組ではなくコント番組なのではないかと思うほどに失敗を繰り返し、出来上がったのはホームセンターで売っている炭のような味のするクッキーの山。

 とてもではないがお茶会をしようなどという空気にはなれず、それどころか結衣先輩が「才能が無い」とか言い出して、雪乃先輩がそれに反論したことで一瞬険悪な空気が漂ったりもした。

 まあ、その件は最終的に結衣先輩が雪乃先輩を尊敬するという流れになって、もう一度クッキーを作ってみようと奮起するきっかけにもなったのだが、再び出来上がったクッキーはやはり、というか何というか相変わらず炭の味。

 

 これは思っていたより大変な仕事になりそうだ。

 当然、時間をかけて何度も練習すれば多少なり成長はするだろうが、少なくとも一朝一夕とはいかないだろう。

 いっそクッキーを渡すのは半年ぐらい特訓してから改めてというのが現実的な案な気もする。

 とはいえ、結衣先輩の話では相手の男性に出会ったのはかなり前。

 結衣先輩、あまり積極的なタイプじゃないみたいだし、ここで『クッキーを渡すのは上手になるまで延期しましょう』と提案すれば、次に行動を起こすのが何時になるかは分からない。

 ならばこそ同じ恋する乙女としてここは一つ力になってあげたい所だ。

 でもどうやって?

 これが私だったら……いや……こういう時、センパイだったらどうする……?

 もしセンパイがここにいたらきっと何か凄いアイディアを出してくれるんじゃないだろうか?

 

 そう思った瞬間、頭の中にセンパイの「なんでお前ら美味いクッキー作ろうとしてんの?」という声が聞こえた気がした。

 そうだ、センパイならきっと……いや“きっと”じゃない“絶対”言う。あのセンパイと一年付き合ってきた私が言うのだ間違いない。センパイはこういう時そういう事をする人だ。脳内再生も余裕でした。

 

 ……『一年付き合ってきた』だって、えへへ。

  

「……仕方ないわね、もう一度……」

「ちょっと待ってください雪乃先輩」

「一色さん?」

 

 手に白い粉を付けたまま重い腰を上げ、少し投げやり気味に改めて一からクッキーを作ろうとした雪乃先輩を静止すると、雪乃先輩は少しだけ驚いたような顔をして私を見る。

 雪乃先輩、少し疲れてるみたい。お菓子作りって肉体労働だもんね。

 でも、だからこそ私は強い意思をもってその瞳を見つめ返した。

 ここからは私の番だ。

 

「その前に私に一度やらせてもらえませんか? 私クッキー作るの結構得意なんですよ」

「まあ……それは構わないけれど……」

 

 私がそう言うと、雪乃先輩はその瞳に少しだけ心配の色を滲ませながら、チラリと結衣先輩の方を見る。

 どうやら、私のクッキー作りの腕を疑っているわけではなく、初心者という言葉では言い表せないほど壊滅的な結衣先輩を、私に任せて良いものか少し不安があるらしい。

 まあ、一応雪乃先輩の邪魔をしないように手伝いもしていたので、ある程度の経験者だということは理解してくれたのだろう。

 なら、その最低限の期待には応えなければ。

 

「結衣先輩」

「は、はい!」

 

 焼き上がったクッキーを繁々と見つめる結衣先輩に向き直ると、結衣先輩がピンと背筋を伸ばし、少し驚いたように返事をした。

 なんだか、どっちが後輩なのか分からない光景だ。

 

「改めて聞きますけど、これは結衣先輩が好きな人にあげるためのクッキー作りってことでいいんですよね?」

「え!? えっと、だからまだそう言うつもりじゃないんだけど……まぁ……うん……そんな感じ……かな?」

 

 私の問いかけに、結衣先輩はモゴモゴと歯切れ悪く、指を遊ばせ「あはは」と愛想笑いを浮かべる。

 うん、やっぱり私の考えは間違っていないはずだ。

 そういう事なら、きっと雪乃先輩より私のほうが“上手く教えられる”

 

「それではお二方、三十分後またここに来て下さい。私が本物の『手作りクッキー』というものを見せてあげますよ」

 

 ここからは私のターンだ!

 

***

 

「そろそろいいかしら?」

「わぁ、なんか凄い良い匂いがする……!」

「お待ちしてました、どうぞどうぞこちらへ」

 

 家庭科室を出ていった二人は、約束通り、三十分きっちりで戻ってきた。

 正直なことを言うと、もう少し余裕を持ってきてくれても良かったのだけど……。

 三十分と言ったのは自分だし、まあ間に合わなかったものは仕方がない。

 どうせ“アレ”を出すのは最後だ。

 そんな事を考えながら、私は用意しておいたクッキーの乗ったトレーを二人の前に置いた。

 気分は開店したばかりのお菓子屋さんだ。

 

「じゃじゃーん! これが一色いろは特製手作りクッキーです!」

「わー! っていろはちゃん指傷だらけじゃん!?」

「あなた、クッキー作りは得意なんじゃなかったの?」

 

 私がトレーをテーブルに置いてソレを見せつけるように『じゃじゃーん』と手を広げると、結衣先輩と雪乃先輩が目ざとく私の指に巻かれたバンドエイドを指摘してくるので、私はさっと両手を背中に回して指を隠す。

 そう、今の私の指には先程まではなかったバンドエイドが巻かれていたのだ。

 右手に三枚、左手に二枚。

 半分の指を怪我しているのだから、気が付かないほうがどうかしているとも言える。

 

「あはは。まあ、それはちょっと色々ありまして……とにかく見てくださいよ。結構自信作なんですよ?」

 

 だが、私はそう言って二人の意識を自分の指から遠ざけると、トレーに乗った“クッキーの袋”を掴んで、それぞれの掌の上に乗せた。

 それは透明なラップフィルムで五枚ほどのクッキーを一つに包み、その頂点をリボンで結んだちょっとした巾着袋のようにラッピングされたモノ。バザーなんかで売ってそうな手作り感溢れる形に仕上げた袋だ。

 まあ本音を言えばもっと可愛くしたかったのだが、家庭科室にあった材料だけを使った即興品としては割と上出来な部類だろう。

 

「うわー、可愛い、お店で売ってる奴みたい、開けるのがもったいないかも」

「そうね、たしかに見た目は可愛らしいわね」

 

 目をキラキラと輝かせ手放しで褒めてくれる結衣先輩に対し、雪乃先輩の反応は冷静そのものだ。でもとりあえず可愛いという評価をもらえたのでここはよしとしよう。

 

「でしょう? ささ、味も確かめて見て下さいよ」

 

 そのタイミングですかさず、私は二人にそう言って味見を勧める。

 すると二人は一瞬視線を交わした後、丁寧にシュルシュルとリボンを解き、中のクッキーを一つ摘んだ。

 

「いただきまーす」

「いただきます」

 

 ゆっくりとクッキーが二人の口に入っていくのを眺めながら、私はニコニコとその時を待つ。何か言われた後では駄目なのだ。ここはタイミングが肝心……。

 結衣先輩の唇にクッキーが触れ……、雪乃先輩の口の中半分ほどまでクッキーが入り。

 二人が歯を鳴らしたその瞬間……!

 

「うっ……」

「……どう、ですかぁ? 頑張って作ったんですけどぉ。もしかしてぇ……おいしくなかったですかぁ?」

 

 二人が眉を顰め、何か言葉を発するより前に、私はそう言って少し上目遣いに二人を見上げる。

 『不安です』という表情を崩さず、あくまで後輩らしく『頑張って作りました』というアピール。

 ここが勝負どころだ。

 

「そ、そんなことないよ? すっごくおいしい! わぁ、すごいなぁ! 私なんかより全然上手だよ!」

 

 結衣先輩が早口でお世辞を並べ立て、二つ目のクッキーを摘んで見せたところで、私はそれまでの不安気な表情を崩しニヤリと口角を上げた。勝った。

 そう、その言葉が欲しかったのだ。

 

「まぁ、それ結衣先輩が作った奴なんですけどね」

「はい?!」

「……どういうこと?」

 

 私の言葉に驚愕の表情を浮かべる結衣先輩と、怪訝そうな雪乃先輩を見て、私はニヤニヤとイタズラが成功した子供のように笑う。

 いや、実際にイタズラが成功したのだ。

 もしかしたら雪乃先輩にはバレるかもってハラハラしてたけど、こんなにキレイに嵌ってくれるとは思わなかった。

 

「どうもこうも、さっき結衣先輩が作った炭をそのまま包んだだけですよ、ソレ?」

「炭って言った!? 今さり気なく炭っていったよね!?」

 

 もうウルサイなぁ。

 今は私のターンなんですから少し黙っててくださいよ。

 ああ、種明かしって面白い。

 

「いいですか? これは別にお店に出して不特定多数の人に食べてもらうクッキーを作ってるわけじゃなくて、好きな人にあげるためのモノなんです。だから、自分が如何に頑張って作ったか。そこをアピールするのが何より重要なんですよ。自分のために指に怪我をしてまで慣れないクッキーを作ってくれた健気な後輩。グッと来ませんか? 来ましたよね? おいしくなくても思わず『おいしい』って言いたくなりましたよね?」

 

 ビシッとバンドエイドを巻いた人差し指を結衣先輩に突きつけながら、間髪入れずにそう論破すると、結衣先輩は「え? え?」と、どうしたらよいか分からないという様子で私と雪乃先輩を交互に見る。

 視線を向けられた方の雪乃先輩は顎に手を当てたまま何か考えているようだったけど、とりあえず横槍を入れてくるつもりはないみたいだ。

 だから、私はとりあえずそのまま説明を続けることにした。

 

「なので、結衣先輩がやることはまず第一にバンドエイドを巻くことです」

「あ、第一がそこなんだ?」

 

 私が両手をバッと開き、二人の目の前に見せると、結衣先輩が少しだけ困ったように笑い、雪乃先輩が「本気で言ってるの?」とでも言いたげに目を細める。

 だが、甘く見てもらっては困る、これは重要なことなのだ。

 

「はい、右手の人差し指と中指の先のバンドエイドはマストです。あと、左手は中指の第二関節辺りに巻いておくと割と自然に見えるのでオススメですね。料理初心者なら(こな)れてない感が出てポイント高いです」

「なんで第二関節?」

「猫の手にしたとき一番包丁に当たる部分じゃないですか。あ、左利きなら逆でも良いですよ?」

「……アレ? 今日って包丁使ったっけ?」

 

 結衣先輩が今日イチ鋭いことを聞いてくるが……そこはスルーで。

 

「あなた、そのために怪我もしてないのに絆創膏を無駄にしたの……? 呆れた」

 

 今度は雪乃先輩だ。しかし、なんとでも言うが良い、恋は戦争。

 ちょっとでも可愛いと思って貰えるならどんな手段だって使う。

 遠慮なんかしていたら、他の子に目移りされてしまうかもしれない。そうなってからでは遅いのだ。

 まあ、センパイ相手だとこの手の小細工は全部『あざとい』って言われちゃうんだけど……。

 

「ならいっそ全部巻いちゃったほうがよくない?」

「全部の指を怪我するなんてよっぽど狙わないと無理ですよ。逆に不自然すぎて怪しまれます。渡された方も不安になりますから多くても五枚を目処にアクセントにする程度が無難です」

 

 少なくとも私なら警戒する。

 何事もやりすぎは厳禁、ちょっと怪我をしちゃうぐらいが可愛いのだ。

 慣れてない感じが出ていれば、多少味に自信がなくても次に繋げられるし、口実にもなる。

 実際私が小学生の頃は練習で焼きすぎたお菓子を男子に配ったら勝手に盛り上がってくれた。

 結衣先輩の意中の相手も“一般的な男子”なら問題はないだろう。男子って意外とちょろいのだ。

 

「そういうものなんだ……」

 

 はへー。と、感心したように私を見る結衣先輩。

 しかし、そんな結衣先輩とは逆に雪乃先輩はまたしても頭を抱えている。

 

「あなた、いつもこんな事をやっているの?」

「いつもじゃないですよ? まあ必要に応じてというかなんというか……」

「……あなたのその異性に媚びた部分、嫌いだわ」

 

 呆れた口調の雪乃先輩にそう言われて、私は少しだけムッとする。

 だが、実際手作りクッキーはおいしい必要はないのだ。手作りというのが大事なのであって、おいしいクッキーが食べたければお店で買えば良いのだから。

 私の脳内のセンパイも同じような事をしただろう。

 だけど、雪乃先輩の言う通り、私はクッキー作りは得意なほうなのだ、だから私はここで終わらない。

 だから私はチラリと足元のオーブンに視線を向ける。

 まだだろうか? 多分もう少しだと思うんだけど……。

 

「っていうか、そもそも私クッキーには自信あるっていいましたよね?」

 

 何か汚いものでも見るかのような目で私を睨む雪乃先輩に、私がそう返すと同時に足元のオーブンが焼き上がりを知らせるチンという音を響かせた。

 グッドタイミング。

 私はすぐさま雪乃先輩から視線を逸らし、用意してあったミトンを手につけて、机の下のオーブンから焼きたてのクッキーを取り出していく。

 うん、いい感じに湯気も立っているし、匂いも悪くない。

 完璧だ。

 

「こっちは正真正銘私が作ったクッキーです」

 

 そう、もうちょっとだけ時間が欲しかったのは、このクッキーが焼き上がるのを待ってほしかったから。

 でも、結果的にはこのタイミングで正解だったかも。

 私は、熱々のクッキーをカラカラという音と供にお皿へと移していく。

 小麦色のクッキーが並べられていく様子に、結衣先輩が思わずツバを飲んだのが聞こえた。

 

「……!」

「良い匂いの正体これだったんだ!?」

 

 驚愕の表情を浮かべる雪乃先輩と結衣先輩。

 二回目のイタズラ成功。

 

「ささ、折角ですし焼き立てを召し上がれ」

 

 そう言うと、二人は一度顔を見合わせた後、恐る恐るという風に手を伸ばし口元でフーフーと風を送ってから焼きたてのクッキーを一つ口に入れ、その瞳を大きく見開いた。

 

「おいしい!! おいしいよこれ!」

「ふふーん、どうですか? 雪乃先輩?」

「……おいしいわ」

 

 ふふーん、そうでしょうそうでしょう?

 雪乃先輩が少しだけ悔しそうにそう呟くのを聞いて、私は小さくガッツポーズを取った。

 こういってはなんだが、雪乃先輩が作ったものより美味しくできた自信もあったのだ。

 

「渡す時に頑張って作りましたアピールをすれば特別美味しくなくてもいいんです。でも、どうせならやっぱり『おいしい』って言ってもらいたいですよね?」

 

 私が結衣先輩にそう聞くと、結衣先輩はコクコクと高速で何度も首を縦に振った。

 当然だ、マズイと分かっているクッキーを渡すぐらいなら、それこそ市販品のほうがマシである。

 でも、それでも手作りに拘りたい。それが乙女心というものなのだ。

 味の好みはあれど最低限食べられるものにはしたい。

 マズイのは分かっているけど一生懸命作りました。なんて本当に最後の最後の手段。

 世の中にはメシマズが原因で別れるカップルというのも存在するのである。

 意中の人の胃袋を掴むのは恋愛に置いても重要な要素、結衣先輩が最初の一歩を踏み出す前から妥協して良い訳がない。

 

「というわけで結衣先輩! アレンジしたいなら私が色々教えてあげます。だからもうちょっとだけ頑張りましょう!」

「う、うん! 頑張る!」

 

 明確な目標を定めたことで、結衣先輩のやる気は先程までよりグンと上がったと思う。

 最初からアレンジ法を提示することで雪乃先輩が悩まされていた、初心者特有の「これを入れればもっと美味しくなるんじゃないか」という足し算式の創作アイディアも少しは抑えられるだろう。

 そう確信を持った私は、雪乃先輩に一度目配せをする。

 すると雪乃先輩もどうやら私の意図をくんでくれたようで、少しだけ目を閉じた後ゆっくりと一度頷いてくれた。

 さて、クッキー教室の再開だ。

 

***

 

「こらー。いつまでやっとるんだね、そろそろ帰りなさい」

「あ、平塚先生もうそんな時間ですか?」

 

 そうして改めてクッキー教室を再開し、何度目かのクッキーの焼き上がりを待っていた頃、平塚先生が現れた。

 どうやらかなり時間が経ってしまっているようだ。

 窓の外を見れば既に日は落ちかけ、生徒の姿もほとんど見当たらない。

 ただ、それだけの時間をクッキー作りに費やしただけあって、結衣先輩のクッキーの腕も多少は向上したと思う。……多分。

 

「仕方ないわね、今日はこの辺りでお開きにしましょう」

 

 雪乃先輩のその言葉に、私も結衣先輩も一度頷き、同意の意を示す。

 気がつけば皆体の至る所に白い粉が付いてしまっている。エプロンをつけていなかったらそれこそ制服も真っ白だったかもしれない。

 それに、何より用意されていた材料も底をつきかけていた。

 辞め時といえば辞め時だ。

 例え時間が有ったとしてもコレ以上ここでクッキーを作ることはもはや不可能だっただろう。

 

「そうだね……あー……自分がこんなに出来ないなんて思ってなかった結構ショックかも……」

「お菓子作りで大事なのは分量を間違えないことです、とにかく慌てず冷静に行きましょう」

「無駄口はいいから、早い所片付けたまえ」

「はーい」

 

 平塚先生に言われるがまま、私達はテキパキとボウルやら、ヘラやらを洗い。片付けていく。

 流石に三人もいるので、スピードは早い。

 だが、例え三人いてもどうしてもスムーズに片付けられないものもあった。

 

「問題は……これね」

「そうですねー……」

 

 雪乃先輩が最後にそう言って示したのは大量のクッキーの山。

 そう、私達は繰り返しクッキー作りをしていたのだから、当然クッキーが出来上がる。

 だが、その全てを食べきることは出来ていなかったのだ。

 一応、私や雪乃先輩が作ったクッキーは既に三人で食べてしまっていたものの、一見すると美味しそうなチョコレート色をしたクッキーの山は今も雄大に聳え立っていた。

 当然、全て結衣先輩が作ったものだ。

 念の為断っておくと、今日のクッキー作りにはチョコレートなんて一ミリも使ってはいない……。黒く見えるのは全て焦げている部分である。

 

「平塚先生も食べて下さいよ、このままじゃみんな太っちゃいます」

「まあ、少しなら構わないが、さすがにこの量は食べ切れないぞ? ……うっ」

 

 私は少しでも自分への被害を減らそうと、平塚先生にそう勧めると、平塚先生は何も気にした様子も無くパクリとクッキーを口に放り込んだ。

 

「……これは……クッキーなのか?」

「はい、結衣先輩が意中の人を落とすためのクッキーです。これでも大分マシになったんですよ?」

「意中の相手に……これを食べさせるのか?」

「ほ、本番はもうちょっと上手くいく……予定?」

 

 眉を顰める平塚先生に、結衣先輩が慌てた様子でそう弁明する。

 繰り返すが、あれから結衣先輩の腕は上達したのだ、多少。本当に多少。

 少なくとも自分の判断でアレンジを加えるということはなくなった。

 だが、どれだけ丁寧に作っても何故か最後の最後、焼き上がりの段階で焦げてしまうのだ。

 一応考えうる限りの対策も講じてみたのだが、オーブン自体が壊れてしまったという可能性も捨てきれず結局改善には至らなかったりする。

 

「ふむ、さしもの雪ノ下でも今回の依頼は難しかったか」

「もう少し時間をいただければ、必ず及第点までは持っていきます」

「それでも及第点なんだ!?」

 

 雪乃先輩の辛口評価に平塚先生も思わず頬を緩ませ、結衣先輩が不服そうにそう叫び一瞬家庭科室に笑い声が広がる。

 だが。それも一瞬のこと。

 

「とにかく、今日のところはもう帰りなさい。残ったのはそれぞれ持ち帰れば良いだろう」

「「はーい」」

 

 そう言うと、平塚先生はそっとクッキーの山から離れ真剣な表情でそう言うと、クッキーをラップに包み、それぞれ持ち帰るようにと指示をだす。

 どうやら、もう処分を手伝ってくれる気はないらしい……はぁ……。

 持ち帰りかぁ……どうせなら自分で作ったやつをセンパイに持って帰りたかったんだけど……仕方ないか。

 

*

 

 「鞄を取りに戻る」と言って自分の教室へと走っていった結衣先輩を見送り、私と雪乃先輩、そして平塚先生の三人は家庭科室を後にして昇降口へと向かっていた。

 まだ真っ暗という程ではないとはいえ、ひと気のない校内をこの三人で歩くというのはなんだか妙な気分だ。

 特に会話も思いつかないし、なんだか気まずい……。何か話したほうがいいだろうか?

 

「一色さん」

「はい?」

 

 そうして気まずい空気を感じながら無言で薄暗い廊下を歩いていると、突然雪乃先輩の方から声がかかった。

 なんだろう? もしかして今日のお礼とかだろうか?

 自分で言うのもなんだけれど、今日の私は良い仕事をした気がする。

 クッキー作りの指導という点では成功とは言い難い状況ではあるけれど、結衣先輩へのレモネードの分のお礼以上の働きは出来たという自負もある。

 もしかしたら見直されたのかもしれない。

 

「あなた、いつもあんな事をしているの?」

 

 そんな事を考えながら、雪乃先輩の方を見ると、今度は問いを投げられた。

 私はその質問にどう答えたら良いものか悩み、顎に指を当て少しの間考える。

 どう答えたものか……雪乃先輩の意図が読めない。

 一瞬助けを求めようかと、チラリと後方を歩く平塚先生に視線を送ったのだが平塚先生は我関せずとでも言いたげに窓の外を見ていた。

 どうやら、自分の言葉で答えないといけないらしい……ふむ……。

 

「いつもっていうか……まあ、そうですね。好きな人のためなら割と色々やりますよ?」

 

 まあ、センパイ相手にあんな事をやってもあざといと一蹴されるだろうけど。という言葉は飲み込み、私がそう答えると、雪乃先輩は「そう」と小さく呟き、少しだけ歩みを早めた。

 何か怒らせてしまったのだろうか?

 やはり意図が読めない。

 しかし、無言のままというのも妙に気まずかったので、今度は私の方から質問をしてみることにした。

 

「っていうか、雪乃先輩もお菓子作り得意っぽいですよね? 好きな人とかいないんですか? 絶対モテますよね?」

「……そうね、確かに私って昔から可愛いかったから、近づいてくる男子は大抵私に好意を寄せてきたわ」

 

 多少嫌味っぽくなってしまった私の言葉に、雪乃先輩は特に気にした様子もなくそう答えてくれた。

 こういう時、謙遜して「モテない」と否定する方が男子受けはするのだろうが、私としてはこういうタイプの方が好感が持てたりもする。

 だって、雪乃先輩がモテなかったら世の女子のほとんどはモテナイことになってしまうではないか。

 だから、正直に答えてくれたことで、ほんの少し私の中で雪乃先輩の評価があがったりもした。

 もしかしたら、さっきの結衣先輩もこんな感じだったのかもしれない。

 

「でも……私の方から特定の相手に好意を持ったことはなかったわね」

 

 しかし、そんな私の内心など知る由もなく、雪乃先輩はそう言葉を続ける。

 それは所謂『見栄』というものでもなく、その事で本当に困っているとでも言いたげな表情だ。

 

「男子に好意を持たれることも良いことばかりじゃなかったから」

 

 次いで雪乃先輩はそう言うと、くるりと私の方へと向き直り、歩みを止めた。

 その目線はどこまでも真っ直ぐで「アナタならわかるでしょう?」とでも言いたげに私を見つめる。

 一瞬飲み込まれてしまうんじゃないかと思うほどに澄んだその瞳に、私は思わず目をそらし、再び平塚先生の方へと視線を送った。

 だがその瞬間、雪乃先輩は再び足を進め、ゆっくりと過去に同性から嫌がらせを受けていたことを話してくれた。

 それは六十回上履きを隠されるという、言葉にすると途方も無いが、その実どこにでもありそうな女同士によくある陰険な嫌がらせの類。

 当然、私の身にも覚えのあること。

 だから、私は思わず声を上げる。 

 

「わ、分かります、私も結構隠されましたから」

「不思議ね、何故同じような経験をしながら、私とあなたでこうも恋愛に関する価値観が違うのかしら」

 

 少しの同情と今日までそんな戦いを勝ち抜いてきた一人の女傑に敬意を評してそう告げると、雪乃先輩はキョトンとした顔で頬に手を当て、心底信じられないとでも言いたげに首を傾げた。

 その仕草が妙に可愛くて、大人びて見えていた雪乃先輩が初めて年相応に見えたのは内緒だ。

 でも確かにそういう扱いをずっと受けてきたのなら、積極的に誰かとコミュニケーションを取ろうとする気が起きなくても当然なのかもしれない。

 私だってもし去年の夏、センパイが助けてくれなかったら……。

 そう考えただけで背筋に冷たいものが走る。

 

「まあ雪乃先輩の事情は分かりました、でもそれなら尚更もっと柔軟に行かないと。結衣先輩の次は雪乃先輩の恋の相談でも乗りましょうか?」

「結構よ。時間は有限なの、そんな事よりもっと他にやるべきことがあるでしょう? あなた次のテストは問題ないの? 将来やりたい事だってあるでしょう?」

「そりゃまぁ……でもでも、貴重な高校時代ですよ? 今を逃して平塚先生みたいに嫁き遅れなんて……」

「ほぉ? 誰が嫁き遅れだって?」

 

 私が冗談交じりにそう返すと同時に、ガッと凄い力で肩を掴まれた。

 やば、そういえば平塚先生居たんだった……!

 

「ひ、平塚先生、いえ、今のはそういう意味じゃなくてですね……」

 

 いいい痛い痛いギブギブ!!

 食い込んでる食い込んでるから!!

 そんな所センパイにもまだ触られてないのに!

 助けてセンパイィィ!!

 

「そういう意味じゃないならどういう意味なのか、詳しく聞きたいところだが……雪ノ下、どうも一色の更生は上手くいっていないようだな?」

「本人が問題点を理解していないせいです」

 

 ようやく開放された私は平塚先生から距離を取ると、平塚先生はそう言って、私の方をジロリと睨んだ。

 どうやら、さっきの発言を許してくれる気はないらしい。

 結婚できない理由、そういうトコロなんじゃないですかね……?

 シツコイ女は嫌われますよ?

 

「ふむ……つまり一色、君はこの学生時代における恋愛が何より大事と考え、雪ノ下はソレ以外の将来のことを考えるべきだと思っているわけだな。間違っていないか?」

 

 平塚先生の発言に、私と雪ノ下先輩は一瞬視線を交わし、その後二人揃って「まあ概ね間違っていない」と頷いた。

 すると、それを確認した平塚先生は少しだけ楽しそうに腕を組みながら私達を見下ろしてくる。

 なんだろう、この先生また何か良からぬことでも企んでいるんじゃなかろうか?

 もしかしてまた罰ですか?

 これ以上時間拘束されるのは困るんだけどなぁ……。

 毎日こんなに遅いんじゃセンパイと会う時間も減ってしまうではないか。

 

「私に言わせればどちらも極端なんだがな……では勝負をしよう。恋愛の素晴らしさを雪ノ下に教えられれば一色の勝ち、高校で恋愛以外にも学ぶべきものがあると教える事が出来れば雪ノ下の勝ちという勝負だ」

 

 だが、次に平塚先生が告げたのはそんな良く分からない提案だった。

 勝負? 私と雪乃先輩が? なんで??

 

「当然、何かメリットがあった方がやる気がでるだろう。そうだな……勝ったほうが負けたほうになんでも命令できる。というのはどうだ?」

 

 私の頭が平塚先生の言葉を理解しようとフル回転している間に次々と新しい情報が入ってくる。

 一体この先生は何を言っているんだろう?

 そんな勝負やる必要がない、雪乃先輩だって乗らないだろう。

 しかし、そう思って雪乃先輩の方へと視線を向けると、雪乃先輩は顎に手をおいて一拍何か考えるような素振りを見せたあと、口元を歪めた。

 

「なるほど、それは面白そうですね」

 

 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべたまま平塚先生の提案に賛成する雪乃先輩。 

 ええ?! 雪乃先輩もそっち側なんですか!?

 なんで!?

 

「一色はどうする? まあ、自信がないなら無理にとは言わないが……」

「そうですね、勝ち目のない戦いから逃げるのは決して恥ではないわ」

 

 混乱する私に、二人がにじり寄りながらわかりやすい挑発の言葉を投げてくる。

 でも私だってその程度の挑発に乗る程子供じゃない。

 私はあくまで雪乃先輩のために言っただけだ。

 別に雪乃先輩や平塚先生が嫁き遅れようと知ったことじゃ……

 

「まあその場合、一色の恋愛もその程度という事なのだろうな、どうせ恋人ができてもすぐ別れて、嫁き遅れコースまっしぐらだ」

「……分かりました、その挑発乗ってあげます!」

 

 知ったことじゃない……と思ったのだが。

 私は平塚先生のその挑発に乗ってしまった。

 ……だって、ここで逃げれば女が廃るというもの。

 センパイのためにも、私が正しいのだと証明する必要があった。

 だから、そこまで言うなら徹底的にやってやろうと思ったのだ。

 

「雪乃先輩! 私、勝っても遠慮しませんからね! 覚悟しておいて下さい」

「弱い犬ほどよく吠えるとはまさにこの事ね」

 

 なぁに、よくよく考えてみればそう難しいことでもない、私とセンパイがイチャイチャしてるのを見せつけてしまえば雪乃先輩だって多少は羨ましいと感じるだろうし。

 結衣先輩のクッキー作りが成功し、なんならそのまま告白が上手くいけば部活としても恋愛から目を背けることはできなくなる。

 なんなら私とセンパイ、結衣先輩とそのお相手でダブルデートと洒落込んでも良い。

 そうして幸せな私達を見て、雪乃先輩自身も恋人が欲しいと思えば私の勝ちだ。

 あれ? この勝負、思っていた以上に楽勝なんじゃ?

 

「よろしい、では今後、奉仕部に由比ヶ浜のような悩める子羊を送るのでそれぞれ自分の信じるやり方で彼らを救い、お互いの正しさを証明したまえ。勝負の裁定は私が下す、基準は勿論私の独断と偏見だ。分かったな? それでは行くぞ? ガンダムファイト、レディーゴー!」

 

 平塚先生がルール説明の最後に良く分からない宣言をしたので、私は一瞬眉を顰めたのだが、雪乃先輩は特に気にした風でもなく、そんな私を見て余裕の表情を浮かべている。

 ちょっと悔しい。でも、そうやって余裕を見せていられるのも今のうちですよ雪乃先輩?

 この勝負、どうあがいたって私の勝ちは見えてるんですからね。

 絶対素直に『私も恋がしたい』って言わせてみせます!

 恋に興味のない女の子なんているはずがないんですから!

 

 そうして私が闘志を燃やしていると、廊下の先から「二人共おそーい」と手を振る結衣先輩が走ってくる姿が見えたのだった。




というわけでようやくクッキー作り編終了です。
原作を踏襲しつつ、いろはっぽく進めたつもりですが如何でしたでしょうか?
第二部開始ということもあってここ数話は少々原作をなぞりすぎた感もあったのですが、次回からは原作とは違った展開を見せられるのではないかと思っておりますので、楽しみにしていただければ……。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、DM、ここすき等何でも良いのでリアクション頂けますと幸いです。
次話以降も頑張っていきますので引き続き応援の程よろしくお願いいたします。


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第72話 クッキー

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、ここすき、誤字報告、ありがとうございます

今回少し時間が空いてしまいましたが
先週は番外編も上げたので実質いつも通りということで……。


 その週の月曜はとても春らしい晴れの日で、特にコレと言った変哲もない、いつも通りの朝から始まった。

 いつも通りベッドから起き上がり、いつも通りの朝食を食べ、いつも通り家を出る。

 恐らくこの先一週間も、特に変化の無いいつも通りの日常が繰り返されるのだろうという予感さえ感じさせるような。そんなまさに普通オブ普通の朝の通学路で、俺は一人自転車を走らせる。

 

 そういえば、あの日もこんな天気の良い日だったな。

 春らしい暖かな風を感じながら、周囲を見回すと、そこは奇しくも俺が、事故にあったあの場所だった。

 別に誰か死んだわけでもないので、花が添えられているなんていうコトもないし、言われなければ事故があったなんて事すら分からない何の変哲もない道路。

 こうしている今も交通量こそ多くはないが、何台かの車が特に変わった様子もなく通り過ぎていく。

 だがあの日、この反対側の歩道から小型犬が飛び出してきたのだ。

 そして俺はその犬を助けるために道路に飛び出した……。

 思い出すだけでも肝が冷える光景だ。

 そういえば、あの犬は無事だったんだっけか?

 確か小町が『飼い主が礼に来た』とか言ってたのは覚えているんだが、直接は会ってないんだよな……。

 まあ無事ならそれでいいんだけど。

 もう一年も経つのだし今後は飛び出したりしないようにちゃんと躾けをしておいてくれればと思う。

 流石にもう一度同じことをやれと言われても出来る気がしないからな……。

 

 しかし、俺の日常が崩れたのもコレが原因なので恨み言の一つぐらいは言わせてもらいたいという思いはあった。

 あの事故がなければ俺はおっさんと出会うことも一色と出会うこともなかったのだからな。

 あれからもう一年、いや、まだ一年か。

 どうにもあの一家は距離感がおかしいので、なんだかもう随分昔からの付き合いのような錯覚を起こしてしまう。

 

 これからあと何年俺はあの一家と関わりを持ち続けていくのだろうか?

 一年か、二年か、それとももっと短いのか?

 だが、ココ数日はなんとなく、もうすぐこの関係にもようやく変化が訪れるのではないか? という予感がしていた。

 というのも、先週珍しく……というか、一色が高校に入って初めて『今日は用事があるので先に帰っていて下さい』という連絡が来たのだ。

 

 こうやって言葉にすると頭の悪い勘違い野郎みたいですごく嫌なのだが……。

 

 現状、俺のバイトは平日のみの週三日。うち一日は事情があってバイト代が発生しないレクリエーションのようなものなのだが……まぁ、それは今は置いておこう。

 先週、一色が部活を始めたといった日の昼休み、一色から『バイトが無い日は一緒に帰りましょう』という申し出を受けたと思ったのだが。早々にその約束が反故にされたのだ。

 いや、別にその事自体に思うところはない、ないったらない。

 そういう日もあるだろう。

 しかし、よくよく話を聞いてみると『部活で忙しくなったので、しばらく一緒には帰れない』と言われた。

 

 どうやらアイツにも友達ができたらしい。

 まあ、うん……良いことなんじゃないの? 知らんけど。

 俺、もう一年以上この学校に通ってるけど友達できたことないからさ。

 一色さんは総武通って一ヶ月ぐらいでしたっけ?

 あれ? おかしいな? 目から汗が。

 そっかぁ……いつかこういう時が来るとは思っていたけど、意外と早かったなぁ。

 

 総武高に近づくに連れ「おはよう」「おはよー」と声を掛け合いながら合流していく女子生徒の姿が今日はやけに眩しく見える。

 べ、別に寂しくなんてないんだからね!

 

 あいつに友達ができたからって俺に何かあるわけじゃないし……。

 

 そう思いながら、俺は駐輪場に自転車を止め、鞄を肩に引っ掛け校舎へと入っていく。

 そう、一色に友達が出来たからってなんだというのだ。

 

 そうして俺は駐輪場のいつものスペースに自分の自転車を止め、カゴから鞄を肩に引っ掛け校舎へと向かった。

 結局のところ、これもいつもの光景だ。

 もともと俺はずっとボッチだった、一年前……いや、それよりも前からずっと。

 だから、特別なことなんてない。

 俺はいつも通り下駄箱の蓋を開け、上靴を取り出そうと手をのばす。

 だが、その瞬間いつもと違うコトが起こった。

 普段なら絶対に感じることのない上靴とは違う“何か”が俺の指先に触れたのだ。

 

「なんだ?」

 

 思わず口に出してしまったものの、なんとなく予想はついていた。

 何者かの手によるイタズラ。

 実際、下駄箱にイタズラをされるというのは過去何度か経験している。

 上靴を隠されたり、画鋲を入れられたり、最悪なパターンでは墨汁まみれにされたりもしたもんだ。

 だから今回もきっとその手のイタズラだろう。

 

 問題は誰が何のためにこんな事を? ということだろうか。

 正直こういう事をしそうな奴に心当たりがない。

 というか、まさか高校生にもなってこんなイタズラをするやつが要るとは驚きだ。

 俺に恨みを持っていそうな奴っているんだろうか……?

 まぁ、兎に角一度中をしっかり確認しなければ。

 どういったタイプのイタズラかで、犯人像も絞り込めるかもしれないしな……。

 そんな事を考えながら、俺は恐る恐る下駄箱の中を覗き見る。

 

 しかし、そこにはイタズラの形跡のようなものは一切なかった。画鋲も、墨汁の影もなし。上靴が隠されているわけでもない。

 あったのは上靴の踵部分に貼られた一枚の折り紙で折ったかのような小さく白い封筒。

 どうやら指先に触れたのは、この封筒だったらしい。

 俺はその封筒を開き、中を見てみる。

 一瞬カミソリでも入っているのでは? とも警戒していたのだが。

 なんてことはない、中には小さな紙が入っているだけ。

 そしてその紙には少し頭の悪そうな丸っこい文字で一言。

 

『放課後、特別棟の屋上で待ってます』

 

 そう書かれていたのだった。

 ふむ……なるほど、こういうタイプのイタズラか。

 

 考え方に寄っては画鋲なんかよりよっぽどタチが悪いモノだ。

 というのも、これはつまりあれだ。

 『モテナイ系男子にラブレター紛いの呼び出しをして、意気揚々と現場に向かった男子を笑い者にするというタイプのドッキリ』。

 去年までの俺なら『もしかしたらワンチャン』と期待に胸を膨らませていたかもしれない。

 そしてカラスが鳴く頃まで一人呆然と待ちぼうけを食らわされ、その様子を撮った動画をアップされてしまうのだろう。

 ヒェッ。なんて恐ろしいドッキリだ。人権も何もあったものではない。

 

 まぁ、行くわけないんだけどな……。

 恐らくは愉快犯の仕業なのだろうが、ドッキリにしても流石に舐めすぎではないだろうか?

 そもそもこの学校の屋上は立入禁止なのだ。

 というか、昨今の大抵の学校の屋上は立入禁止である。

 事故や、それこそ飛び降りなんてことがあったら学校側の責任にもなるからな。

 

 そんな立入禁止のはずの屋上に来いとはまた頭の悪い首謀者がいたものだ。

 いや、だからこそ、何も考えずのこのこと屋上に行こうとした非モテ男子を影であざ笑うにはうってつけという事なのかもしれない。

 だが、お生憎様、比企谷八幡はこんな幼稚なイタズラに引っかかるほど愚かではないのである。

  

 俺はその封筒をグシャリと握りつぶしポケットにしまうと、上靴に履き替えそのまま教室へと向かったのだった。

 

***

 

 その日の昼食は久しぶりにベストプレイスで一人で食べることになった。

 というのもつい先程一色から。

 

【すみません、センパイ。今日のお昼は奉仕部の作戦会議があるのでご一緒できそうにありません。代わりに私の写真送っておきますね】

 

 というメッセージが入ったからだ。

 友達が出来たので俺のことはもう用済みということなのだろう。

 現在、スマホの画面にはそのメッセージと供に送られてきた口元に指を置き、ウィンクをする斜め上からのアングルの一色いろは自撮り写真が映し出されている。

 これはこれでSRぐらいの価値はあるだろうが、一体これが何の代わりになるというのだろう?

 まあ、とりあえず保存保存……。

 

 そうして一色とのLIKEを数ラリーこなしながら俺は一人、メロンパンを齧っていく。

 だが、実質一色と会話をしていると言っても差し支えない状況なのに、なんだか妙に物足りなく感じるのは何故だろう?

 この胸に広がる寂寥感は一体なんだ?

 まるで何か大事な何かがなくなってしまったかの……まるであるべきものが無くなってしまったかのようなこの感じ。

 ああ、そうか……分かった。

 この寂寥感はきっと……

 

 メロンパンの上のクッキー部分が失くなってしまっているせいだ。

 いや、だって袋が異様に固くて、力任せに引っ張ったら勢い余ってそのまま床にべチャリと落ちてしまったんだもの。

 洗うわけにもいかないし、捨てるのももったいない。

 仕方がないので地面に接地してしまった部分を削ぎ落として食べているのだが……。

 残ったのは上半分のクッキー生地を失ったメロンパンの下半分のみ。

 一体これのどこにメロン要素があるというのだろう? これではタダのパンだ。

 ああ、何か塗るものが欲しい、ジャム……いや、ピーナッツバターが欲しい。やっぱ千葉っていったら落花生だよね。

 

【そういえば、センパイって屋上行ったことありますか?】

 

 そんな事を考えながらもっさりとしたメロンパンもどきを食べていると。

 再び一色からメッセージが入った。

 屋上?

 なんだ? もしかしてコイツ朝の封筒のコト何か知ってるのか?

 そう思い、俺はポケットからグシャグシャになった封筒を取り出す。

 朝、上靴に張り付いていたあの封筒だ。

 さっさと捨ててしまっても良かったのだが、なんとなくタイミングを逃し、ずっとポケットに入ったままになっていたその封筒を、片手で軽く広げ、中の紙を取り出す。

 そこには変わらない『放課後、特別棟の屋上で待ってます』という文字。

 

 しかし、それが一色の字ではないのは一目瞭然だった。

 というのも、俺は一応一色の家庭教師やってたからな、一色の文字だったらそれなりに判別はつくのである。

 

【屋上は立入禁止だ】

 

 だから、このタイミングで一色が屋上の話題を出すのもきっと何かの偶然だろう。

 そう思い、俺は冷静にメッセージを返していく。

 

【それが、中央階段からの屋上の鍵壊れてて入れるんですよ! 明日のお昼にでもどうですか?】

 

 なん……だと……?

 それは俺の知らない衝撃情報だ。

 ということは、やはりこの封筒の差出人は一色か?

 いや、それなら『明日の昼にでも』というのは不自然だ。

 

 というより何故俺が知らない総武高のヒミツを一色が知っているのだろう?

 あの子本当に一年生なの?

 俺より先に友達が出来たことといい、屋上のコトと言い、もしかして俺よりこの学校通ってたりしない?

 まあとりあえず返信はしておこう。

 先手を打たれると厄介だからな。

 

【面倒くさい】

 

 一度ぐらい行ってみるのは有りかなとは思うが、昼休みにわざわざ屋上まで登るのは面倒だ。

 購買を経由するとなると一階から上り直さないといけない。

 貴重な昼休みに無駄な体力を使う意味もないだろう。

 それより問題なのは、この封筒だ。

 もういっそ一色に直接聞いてみるか?

 それはそれでなんだか少し面倒な事になりそうな予感もするが……。

 

【えー! たまには屋上で食べるお昼ご飯っていうのもいいものですよ?】

【まぁ……考えとく】

【あ、センパイって今日バイトですよね?】

 

 だがタイミング悪く、そこで屋上の話題は途切れてしまった。

 残念ながらフリック入力の速度は一色のほうが数倍上なのである。

 俺は仕方なく入力途中だったメッセージを消し、簡潔に一色の質問に答える。 

 

【ああ、だから今日は先帰るぞ】

【り】

 

 り? ってなんだ……。

 ああ、了解か。

 打つのが面倒になったんだな。

 まあ俺も一々文字打って封筒のこと説明するのも面倒だし、明日話せばいいか……。

 

 でもそうか……屋上……行けるのか……。

 

***

 

**

 

*

 

 そんな風に一人ぼっちの昼休みを終え、さらに午後の授業を終えた放課後、俺は少しだけソワソワとしながら、そそくさと教室を出て人目につかないよう早足で目的地──特別棟の屋上へと向かっていた。

 

 いや、イタズラだとは思うよ? 思うけどほら……一応ね?

 折角一色から屋上に行けるって教えてもらったわけだし?

 もともと今日はバイトがあるので、そんなに時間も掛けていられない、本当にちらっと確認に行くだけだから。

 ほんのちょっと、ちょっとだけだからと、一体誰に言い訳をしているのかすら分からず、俺はすれ違う生徒たちから隠れるように目的地を目指した。

 

「中央階段の屋上の入り口……ここか」

 

 教えられたとおり、中央階段からの屋上への扉の前に来ると、そこには分かりやすく『立入禁止』の張り紙が貼られていた。

 やはり一色の話しはガセネタだったのだろうか?

 だが……。

 俺はすぅっと一度深呼吸をしてから、そのドアノブに触れてみる。

 回った……本当に開いている……。

 どうやら、一色の話はガセネタではなかったらしい。

 

 周囲に人影もない、リザードもリザードンもいない。

 イタズラではないのか?

 いや、まだそうと決めるのは早いか。

 

 俺は少しだけ緊張しながらキィッと音のなる少し重い扉を押し開き、初めて屋上へと足を踏み入れた。

 思っていたよりも広い。

 これが屋上から見える景色というやつか。

 なるほど、コレはなかなか壮観だ。

 思わず『人がゴミのようだ』と笑いたくなる。

 

「ヒ、ヒッキー!」

 

 だがそうしてム○カごっこをしようと思った瞬間、突然意味のわからない声が聞こえ、俺は思わずその声がした方へと振り返った。

 逆光でよく見えないがシルエットからするに女生徒のようだ。

 っていうか、ヒッキーってなんだ?

 

「あの……急に、呼び出しちゃってゴメンね」

 

 徐々に目が慣れ、少女の顔がはっきりと見えて来ると、その少女に少しだけ見覚えがあることに気がついた。

 派手なピンクがかった茶髪とお団子頭、間違いない。葉山の取り巻き連中のうちの一人だ。

 名前は……あれ? 俺こいつの名前知らないな。

 金髪縦ロールの腰巾着みたいなモブっぽい子だ。

 名前は知らない、多分エンディングでも『女生徒C』とかで表記されて売れてない新人声優さんが声当ててそうな感じの子。

 まぁ、俺の場合クラスで名前知ってる奴の方が少ないんだけどな。

 葉山と……葉山と……葉山? ああ、あと川なんとかさんぐらいだ。

 しかし、こいつが俺を呼び出した犯人か?

 ということは……葉山も近くにいる?

 

「私の事……多分覚えてないよね? あの時私まだ髪染めてなかったし……ってヒッキー? どしたの?」

 

 俺がキョロキョロと首を動かし誰か隠れていないか確認していると、その女生徒Cが不思議そうに首を傾げてくる。

 だが周囲を警戒されても女生徒Cの方には特に焦った様子は見られない。

 誰かが隠れて様子を見ているとか、録画しているとかいうタイプのドッキリではないのか?

 改めて女生徒Cの方を見ても、特に疚しい事を考えているという様子もなかった。

 俺の思い過ごしか……?

 

「あ、いや、他に誰かいないかなと思ってな……」

「え? 多分居ないと思うけど……? もしかしてヒッキー他にも誰かと約束してた?」

「いや、そういうんじゃないんだけどな……」

 

 その言葉と、先程の「呼び出しちゃってゴメン」という言葉から考えるにコイツの単独犯なのだろう。

 少なくとも録画役の人員が潜んでいるという事はなさそうだ。

 では、一体何故呼び出されたのだろう?

 俺、コイツに何かしただろうか?

 全く心当たりがない。

 まさか……告白……?

 いや、それこそ無いだろう。

 落ち着け、比企谷八幡。ろくに話したことのない女子がポンポン告白してくる程現実は甘くないのだ。

 中学の頃と同じ轍を踏むんじゃない。

 

 となると……もしかして教室で葉山と何回か話したから何か勘違いされたとかだろうか?

 葉山と仲良さそうに見えたから、もしそうなら間を取り持ってくれとかそういうタイプの頼み事。

 だとしたら心底面倒くさい。全力でお断りしなければ。

 

「……ッキー? ねぇヒッキーってば!!」

「お、おう?」

 

 どうやら少し考えすぎていたようで、ふと顔を上げると、女生徒Cは一歩二歩と距離を縮め俺の顔を覗き込んでいた。

 どうやら先程から出てくる謎の単語『ヒッキー』というのは俺のことらしい。

 比企谷、だからヒッキーなんだろうが……。

 なんつーか安直でありつつも小馬鹿にされているようにも聞こえる絶妙なラインだ。

 『ヒキコモリ』的なニュアンスも含まれてそうでちょっと抵抗感が有る。

 

 そんな俺の抗議の視線などにも気付く様子もなく、女生徒Cは次に何かを決心したかのように深呼吸を始めると、ペコっと頭を下げ、後ろ手に持っていた何かを俺の方へと差し出してきた。

 

「入学式の日、うちのサブレを助けてくれてありがとう! 今更だけどこれ感謝の印というか、お礼参りというか……その……受け取って下さい!」

 

 そう言う少女の手には顔の大きさほどの少し大きなラッピングバッグ。

 入学式の日……? サブレ? 感謝の印?

 その言葉のどれもが自分の中で上手く繋がらない。

 受け取った方がいいんだろうか?

 でも本当に受け取って大丈夫? 殴られない?

 

「えっと……」

 

 どうしたものか分からず、俺がその謎のラッピングバッグを見つめていると、女生徒Cがこちらをジッと不安げな瞳で見つめてくる。 

 いや、本当にどうしたものか……。

 俺にはコレを受け取る理由がない。

 知らない人から物を貰っちゃいけませんって母ちゃんにも言われてるしなぁ……。

 

「が、頑張って作ったんだよ!」

 

 いつまで経っても受け取ろうとしない俺と受け取らせたい女生徒Cの攻防は続く。

 よくよく見てみれば彼女の指には無数の絆創膏も貼られていた一、二、三……って全部の指についてるじゃないか。

 一体何を作ったというのだ。

 ん? そういえばさっきサブレがどうとか言ってたな……。

 

「サブレって……クッキーみたいなやつ?」

「あ、うん。そう、あ、ううん。そうじゃないんだけどコレはクッキー。最初はね、その、すごく失敗しちゃったんだけど、友達にいっぱい教えてもらって、頑張って作ったからちゃんと食べられる……と思う!」

「なんで最後ちょっと自信なくしちゃってるんだよ……」

 

 なんだか少しだけ話が噛み合っていない気がしたが、女生徒Cはココに来て初めて笑顔を覗かせた。

 ふむ……つまり中身は手作りクッキーか。

 クッキーで全指を損傷したのか。

 逆に凄いな。

 

「い、いいから! ほら!」

 

 いつまで経っても受け取らない俺にとうとう痺れを切らしたのか、女生徒Cは俺にラッピングバッグを押し付けるようにして渡すと、そのまま距離をとった。

 どうやら、返品不可というコトらしい。

 

「まぁ、くれるって言うなら……サンキュ」

 

 これが何のお礼なのかは結局分からず終いだが、ここまで言われては受け取らざるを得まい。

 きっと俺は何処かでお礼参りをされるようなことをしたのだろう。

 『へへへ……よくも俺をコケにしてくれたな、これはアノ時のお礼だぜ』みたいな意味じゃないといいんだけど。

 

「……」

「……」

 

 しかし、そこで俺達の会話は途切れてしまった。

 正直気まずい。

 もう帰っていいのだろうか?

 だが、どうにも「もう用事終わったから帰っていいですよ」という感じではないし、チラチラとこちらを見ながら、何かを待っているようにも見える。

 何か言いたいことがあるならハッキリして欲しい。

 いや、それを言うなら俺もか……。

 このままこうしていても埒が明かない。

 そう思った俺は意を決して口を開く事にした。

 

「あー……えっと、すまん。誰かと勘違いしてたりしないか?」

「勘違い?」

「いや、ほら俺に似てる誰かと間違えているとか……」

 

 俺に似ている人間というのが、この学校にどれほど要るのか皆目検討がつかないが……。

 正直それが一番可能性としては高いと思ったのは事実だ。

 そもそも俺がこの女生徒Cを見かけたのは二年になってからだし。

 それ以前に接点があったとも思えない、少なくともこんな派手な髪色をした奴と話したコトがあれば忘れないだろう。

 あれ? でもさっき染めたとか何とか言ってたような……?

 

「間違ってないよ、サブレを助けてくれたヒッキーでしょ? 去年お家にも行ったし」

 

 家にも来た?

 え? やだ何この子、ストーカーなの? 怖い!

 っていやいや、待て待て、そうじゃないだろう。

 よく考えろ『サブレを助けた』ってどういうコトだ?

 サブレと言えば鳩サブレ。千葉のお菓子千葉サブレは落花生入り。だが俺はそんなモノを助けた覚えはない。

 『私、先日助けていただいたサブレです』とかどんな恩返しだよ。

 何なの? 人の姿に化けたサブレが身を削ってタルト生地でも作ってくれるの? 怖いし食べにくいわ。

 俺が助けたといえば……ああ、なるほど。

 

「つまりなんだ? そのサブレっていうのがアノ時の犬の名前とか?」

「うん! ってそれも分かってなかったんだ!?」

「いや、今までの説明で全部理解しろっていうほうがおかしいだろ。俺、お前の名前も知らないんだぞ」

「は……はぁ!?」

 

 寧ろこれだけの情報で全てを理解した俺を褒めてほしいぐらいなのだが、女生徒Cはこれまでに無いほどの驚きと怒りの表情を浮かべ、信じられないとでも言いたげに俺に詰め寄ってきた。

 

「私ヒッキーと同じクラスだよ!? クラスメイトの名前も覚えてないの!? しんっじらんない!」

「い、いや、まぁクラスメイトって言われても、俺ほぼ接点ないし……話したこともないだろ」

「……そっか、言われてみればヒッキーって教室でいつも一人だもんね」

 

 俺がそう言うと、女生徒Cは顎に指を当てて、そういえばと納得の表情を浮かべ、哀れみの目で俺を見て来る。

 どうやら俺は、傍から見てもボッチだったようだ。

 失敬な。

 クラスでもたまに話してるだろ、平塚先生とかエアー友達のトモちゃんとか……。

 

「そ、それじゃあ……丁度いい機会だし、その……改めまして」

 

 そんな事を考えていると、女生徒Cはコホンと軽く咳払いをし、神妙な面持ちで俺に向き直り

 

「由比ヶ浜結衣です」

 

 そう自己紹介をして、軽く笑った。

 少しだけビッチっぽいなとも思ったのは内緒だ。

 しかし、相手が名乗った以上、こちらも名乗らなければ失礼というもの。

 俺は由比ヶ浜と名乗る少女に合わせ、少しだけ姿勢を正して自己紹介をする。

 

「ひ、比企谷八幡です」

「それは知ってる……」

 

 あ、そうですか。

 まあ、家にまで来たんだもんな……。

 ココまで来て名前も知らないという方が不自然か。

 しかし、一方的に知られているというのはなんとなく居心地が悪い。

 やはりストーカーの線は残しておいたほう良いだろうか……。

 

「そ、それでねヒッキー、お互い自己紹介もしたしいい機会だから……よかったら……私と……」

 

 そんな事を考えていると由比ヶ浜がモジモジとバンソーコーだらけの指を弄びながら、チラチラとこちらを見て来ていることに気がついた。

 なんだ? 本当にまだ何かあるのか?

 

「私と……つ……と、友達になってくれないかな!!」

「……友達?」

「そ、そう、うん、まずは! まずは友達ってことで!」

 

 友達……?

 英語で言うところのフレンド。

 スペイン語で言うところのアミーゴ。

 ロシア語で言うところのドルークに?

 俺とこの由比ヶ浜がなる? ということか?

 つまりあれか?

 ……とうとう俺に友達が出来る……のか?

 俺、友達なんて出来たことないから今まで知らなかったが……。

 そうか、友達ってこうやって作るのか。そうだよな、やはり関係性の提示というのは大事だよな。

 

「……駄目?」

 

 俺が返事をしないままでいると、由比ヶ浜が不安げにこちらを見てくる。

 だが、俺はこの問にどう答えていいものか悩んでいた。

 というのも、正直なことを言うと、俺はこの申し出は断るべきだと思っているからだ。

 俺は別にコイツに特別恩を着せようと思って助けたわけじゃないし。

 仮にそうだとしても、その見返りが『友達』というのは少々代償としてはでかすぎるんじゃないかと思ている。

 

 そもそも既に礼は貰っているのだ。去年と今日の二回も。

 だから、このままだとなんというか……そう、バランスが悪い。

 どう考えても等価交換の法則に反しているし、施しを受けるのは俺の主義にも反する。

 やはり、断るべきだろう……。

 

「……」

 

 だが、その思いは上手く言葉になってくれなかった。

 断るのは簡単なはずだ。

 今更友達が欲しいなんて思ってもいない。

 これまでだってずっとそうだった……そう思っていた。

 

 でも……こんな風に面と向かって「友達になってほしい」なんて言われたのは初めてじゃないのか?

 俺にもそろそろ、そんな相手が居てもいいんじゃないだろうか? そんな考えが一瞬頭をよぎってしまったのだ。

 それは、その時の俺にとっては抗いがたい誘惑でもあった。

 

 タイミングが良いことに、あの一色にも友達が出来たらしい。

 これから先、今日のように俺より友達を優先する日も増えるのだろう。

 なら、アイツと対等になるためにも……。

 

「……ヒッキー?」

「……いや、まあ……別にそれは……構わないけど……」

 

 俺は……次の瞬間にはその誘惑に屈してしまっていた。

 な、なに、友達なんてそんな大層なもんじゃないさ。

 少なくとも、突然“許嫁”が出来ることに比べればよく有る一般的な事なのだろう。

 だから、何も問題はない。

 そう自分を納得させながら、緊張していることがバレないよう平静を装い、改めて由比ヶ浜と対峙する。

 

「本当!? やった」

「お、おう」

 

 そんな俺とは裏腹に、由比ヶ浜は嬉しそうにその場で軽く跳ね。満面の笑みを浮かべていた。

 とりあえず、これで俺と由比ヶ浜の友達契約は成立したらしい。

 これで、俺と由比ヶ浜は友達……なのか?

 なんだろう、もっとこう友達になると特別な何かが起こるのかと思ったが……意外とあっさりしてるものだな……。

 

「じゃあ、じゃあ今度一緒に遊ぼうね」

 

 俺たちがしたのはただの口約束で、何かが変わったわけでもない。

 それでも、由比ヶ浜は尚も興奮気味に俺に詰め寄ってくる。

 一体何に興奮しているのか? 初めての友達として、これから俺はコイツとどう接して何をしたらいいのか? 正直何一つ分からない……あれ? もしかして俺早まった?

 

「あ、あぁ、バイトない日だったらな……」

「あ、ヒッキーバイトしてるんだ?」

「ああ……ってやばい、もう行かないと」

 

 しかし、そんな誘いの言葉を軽く受け流しながら、時計を確認するとかなり良い時間になっていることに気がついた。

 チラッと屋上の様子を確認するだけだったのに、思った以上に時間を取られてしまったようだ。

 さすがにそろそろ出ないとヤバイ。

 

「ご、ごめんね! ヒッキーの予定も確認せずに来てもらっちゃって」

「ああいや……まあ、俺が勝手に来ただけだから。んじゃ悪い俺行くわ」

 

 まさか、この場で『あの封筒はイタズラだと思っていた』なんて言えるはずもなく、俺は逃げるように屋上の扉を開き、校舎へと戻ろうとする。

 その様子を見て、由比ヶ浜はまるで自分のことのように焦り、俺の背中を押してくれた。

 

「うん、じゃあ、バイト頑張って! その……明日からよろしくね、友達として」

「おう、友達として……な」

 

 拝啓小町ちゃんへ。

 今日、お兄ちゃんに人生初の友達ができました。

 ……え? マジで?

 

 

 

*

 

 

 

 それから、俺はバイトへ向かうため屋上を後にする。

 どうせだし由比ヶ浜も昇降口まで一緒に来るかと思ったが、由比ヶ浜は由比ヶ浜でこの後寄る場所があるらしく、屋上で別れた。

 

 何か部活でもやっているのだろうか?

 まあ、それは良いか。俺には関係のない話だ。

 しかし、まさかアノ時の飼い主が同じ学校の、しかも同じクラスの奴だとは思わなかった。

 しかも今はそいつと友達……。

 事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。

 

 そんな事を考えながら、俺は渡されたラッピングバッグを改めて見る。

 正直嵩張るので鞄にしまうのが一番ベストな気がするのだが。

 中身がクッキーということなので割れてしまう可能性が高い。

 少し行儀は悪いが、小腹も空いているしバイト行く前に食べてみるか。

 

 そう考え、俺は歩きながらそのラッピングを解いていく。

 中から出てきたのは顔よりは少し小さいぐらいのサイズの歪な形のクッキー。

 一体コレは何の形を現しているのか。

 ハートに見えないこともないが、真ん中に盛大にヒビが入っているので違うと思いたいところだ。

 

 匂いは……問題ないな。

 クッキーにしては少し茶色い気もするが、チョコレートクッキーという可能性もまだ残されている。

 でもなぁ……あのバンソーコーの数から考えるにそこまでクッキー作りが得意だとは思えなかったんだよなぁ……。

 とはいえ、折角の手作り、その気持を無下にするわけにもいかない。

 ええい、ままよ!

 

「は……?」

 

 そうして口に入れたクッキーは多少の焦げ臭さこそあったが、見た目ほどインパクトのある味はしなかった。

 砂糖と塩を間違えている、なんていうベタな間違いも起こしていないし、卵の殻が入っているとか、隠し味という名の異物が入っている訳でもない。

 それは確かに手作りクッキーそのもの。

 だが、俺が思わず声を出してしまうほど驚いたのは……そのクッキーが一色の家で食べた、あの蜂蜜入りのクッキーと同じ味がしたからだった。




やっとここ書けたー!
正直これがやりたかったから一年生編で八幡にクッキー食わせました。
クッキー繋がりで展開予測されるかなぁとハラハラしてたのは内緒。

さて、ようやくガハマさんが八幡と接触し、三人がここからどうなるのかという所ですが。
来週は古戦場が控えているので更新はどう考えても無理です。申し訳ありません。
とりあえず騎空士の皆様はまた一週間古戦場頑張りましょう。

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一言でも二言でもなんでもリアクションいただけますと作者がとても喜びますので
お手すきの際はよろしくお願いいたします。


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第73話 作戦会議と結果報告

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、DM、誤字報告、ここすきetcありがとうございます。

長らくお待たせいたしました
73話です。


 その日の昼休み、私はセンパイのいるベストプレイスではなく奉仕部の部室に来ていた。

 雪乃先輩と二人きり。

 正直気まずい。

 今すぐにでもセンパイの所へ走って逃げたい。

 別に雪乃先輩のこと嫌いっていう訳じゃないけど、もしこうして二人でお昼を食べようとお誘いを受けたとしても、申し訳ないけれどセンパイとの約束を優先したいと思う。

 だが、今日だけはそういう訳にはいかなかった。

 

 ここ数日──というか昨日、私達は雪乃先輩の家で改めてクッキー教室を開いたトコロ『月曜日に渡す』ととうとう結衣先輩が意中の人にクッキーを渡す決心をした結果。その『作戦会議』をするという名目で今日の昼休み、三人で昼食を摂ることになったのだ。

 こんな面白そう──もとい大事な日を見逃す手立てはない。

 雪乃先輩との勝負のコトもあるし、ここは短期決戦の意味も込めて結衣先輩との時間を優先したほうが良いだろうという私の判断でもあった。

 

「遅いわね、由比ヶ浜さん」

「そうですねー、購買でも行ってるんですかね?」

 

 しかし、その問題の結衣先輩が未だに部室に現れない。

 一体どうしたのだろう?

 すでに昼休みは五分以上が過ぎ十分が過ぎようとしている。

 人によってはたかが五分十分、と思うかもしれないが、学生の昼休みの五分というのは非常に大きい。

 授業が長引いているのか、はたまた購買にでも寄っているのか。

 交換したばかりのLIKEにも連絡がないので少々ヤキモキしてしまう。

 

「もしかしたら、あのクッキーをお相手に渡している最中なのかしら?」

 

 そうして、お弁当箱を広げたままボーッとしていると、雪乃先輩がポツリとそう呟いた。

 ふむ、確かに結衣先輩の事情を知っていればそう考えるのは当然だろう。

 だが、私はソレだけはないと確信を持って言えた。

 

「ソレはないかと、放課後に屋上に呼び出すっていう話になってますから」

 

 実のところ、ここ数日私は雪乃先輩には内緒で色々と結衣センパイの相談に乗っていたのだ。

 相手の呼び出し方や、呼び出し場所。そして告白の仕方まで、まさに手取り足取り全力サポートをしていたりする。

 だって、結衣先輩が本当にクッキーを渡すつもりがあるのかと疑うぐらい弱気なんだもん。

 いい加減見ている方もイライラしてきたので、発破を掛ける意味で我が家に伝わる秘伝のクッキーのレシピまで教えてしまったのは内緒である。

 その一環として、放課後屋上に呼び出すというアイディアも渡してある、だから恐らく本番は今日の放課後。

 昼休みに突発的に渡すなんてことはありえないだろう。

 

「屋上? 屋上は立入禁止のはずだけれど」

 

 しかし、そんな私の言葉に雪乃先輩はそう言うと首を傾げ眉を潜めた。

 あれ? 立入禁止?

 

「そうなんですか? でも私去年の文化祭の時入りましたよ、屋上。 結衣先輩も『屋上の鍵が壊れてるのは女子の間じゃ有名』って言ってましたけど……」

「呆れた……。鍵が壊れているから、入っていいというコトにはならないのだけれど……?」

 

 ふむ、この感じだとどうやら雪乃先輩が知らなかっただけっぽい。

 立入禁止なのを知らなかったのは私が悪いんだけど……でもなんで結衣先輩は知ってるのに雪乃先輩は知らないんだろう?

 あ、そうか、雪乃先輩友達いないからきっと誰からも教えてもらえなかったんだ。

 可哀想……。

 

「何かしらその目? なんだかとても不快なのだけれど?」

「なんでもありませーん。まぁ、うちの学校他に二人きりになれそうな場所とかも思いつかないですし。今回は大目に見てあげてくださいよ」

 

 正直、ココで雪乃先輩の機嫌を損ねて結衣先輩のプランを壊すわけにもいかなかったので私は慌ててその話題を切り上げようと試みる。

 すると、雪乃先輩はそんな私を見て一瞬だけ不機嫌そうに顔をしかめると、やがてハァと諦めたように小さくため息を吐いた。

 どうやら、今回はお目溢しを貰えるみたい。

 ふぅ、危なかった。良かったですね、結衣先輩!

 

「……少し由比ヶ浜さんの様子を見てくるわ。一色さんはどうする? 先に食べていても構わないけれど」

「そうですねー……入れ違いになっても困りますし、待っててもいいですか?」

「そうね、それが良いわ。それじゃ」

 

 雪乃先輩は短くそう言うと、ガラガラと扉を鳴らし奉仕部を出て行ってしまった。

 残されたのは私一人。さて、どうしよう。

 先に食べていても良いとは言われていたけれど、流石に一番の後輩である私がここで先に食べるのは少々ハードルが高い。

 はぁ、こんなコトならやっぱりセンパイと一緒にご飯食べるんだったかも。

 

 しかし、そうか屋上って立入禁止だったのか。

 もしかして──センパイも知らないのかな?

 もし知らなかったら今度案内してあげよう、うん、たまには屋上でセンパイとご飯も良いかもしれない。

 そんな事を考えながら、私はスマホを取り出し恐らく一人でベストプレイスにいるであろうセンパイにLIKEを送った。

 

 あ、寂しがってるといけないから自撮り送ってあげよ♪

 

***

 

「やっはろー。いろはちゃん待たせてごめんね!」

「やっは……戻ったわ……」

 

 そうして何度かセンパイとLIKEのラリーをしていると、再び扉が開き先輩二人が帰ってきた。どうやら、無事合流できたみたいだ。

 入れ違いにならなくて良かったとホッと胸を撫で下ろす。

 

「おかえりなさーい。遅かったですね、何かあったんですか?」

 

 私がそう問いかけると、雪乃先輩は少しだけ不機嫌そうに席に戻りながら

 

「由比ヶ浜さんが類人猿に絡まれて威嚇されていたのよ」

 

 と呟いた。

 「類人猿?」と今度は結衣先輩の方を見ると、結衣先輩は「ア、アハハ」となんともいえない笑い声を上げながら私の横の席へと陣取る。

 どう見ても問題ないという感じではないが、遅れた理由はそれなりにあったっぽい。

 

「まぁ気にしない気にしない。さ、食べよ! 休み時間なくなっちゃう」

 

 苦笑いを浮かべる結衣先輩が空気を変えるようにパンと手を叩き、そう言ってお弁当箱を広げ始める。

 どうやら、ソレ以上話すつもりはないみたい。

 ふむ……少し気になるけど……まあ、いいか。

 それよりも今日はもっと話さなきゃいけないことがあるのだ。

 

「えっと……結衣先輩、お相手の呼び出しはちゃんと出来たんですか?」

「あ、うん、そっちはバッチリ! 下駄箱に手紙入れてきた。めちゃくちゃ緊張したよー!」

 

 話題が変わって助かったとでも言いたげに、結衣先輩は大げさなほどに手を広げながらそう説明してくれる。

 とりあえず心配ごとの一つは解消だ。

 

「でも来てくれるかな……? 言われた通り名前書かなかったんだけど……」

「大丈夫ですよ、もし来てくれなかったらちゃんと慰めてあげますから!」

 

 それは私のアイディアだった。

 今時呼び出しに手紙なんて流行らないし、最悪公開処刑にされる可能性もあるのでリスクも大きいのだけれど、結衣先輩の話を聞くに、お相手の人はそれなりに誠実そうな人っぽかったので、なんとなく大丈夫だろうと判断したし、名前を書かないほうが送り主がどんな人か期待してくれるんじゃないかとも思ったのだ。男子って単純だしね。

 当然、もし本当に何かあった時のための保険という意味合いもある。

 最悪名前を書いて無ければなんとでも逃げられるだろう。

 

「そっちの意味で大丈夫なんだ……」

 

 だが、結衣先輩は私のフォローが不服らしく口を尖らせて抗議してくる。

 でも実際来てくれるかどうかまでは保証できないので、それは諦めて欲しい。

 キチンと相手を教えてくれれば、ソレこそ首に縄をつけて引っ張ってくることも出来たのだけれど。

 

「仕方ないじゃないですか、だって結衣先輩お相手のコト全然教えてくれないんですもん」

「それは……だってなんかドンドンハードル上がってる感じするんだもん……」

 

 ハードルかぁ。

 まあ確かにここまで引っ張られると相当なイケメンとか逆に凄く太っていたりする人なんじゃないかとは思い始めている。

 だって、なんでお礼を言うだけの人の事を隠すのか分からないんだもの。

 何か特殊な事情があるとしか思えない。 

 だからこそ、今日は凄く楽しみでもあるのだ。

 

「まあ、それも今日解決するからいいんですけどね」

「へ?」

 

 だが、私の言葉を聞いて、結衣先輩が目を見開き口元まで運んでいたご飯をぽろりと落とした。

 ん? 私今そんなに驚くようなコト言ったかな?

 

「え? チョット待って! もしかして渡す所見にくるの?」

「当然ですよ、ね? 雪乃先輩?」

「……私は何も聞いていないけれど」

 

 あれ? そうだったっけ?

 あ、でもそういえば直接は言ってなかったかも?

 てっきり雪乃先輩も分かってるものだと思ってた。

 

「で、出来たら恥ずかしいから辞めて欲しいなー……なんて……見られてると思うと緊張しちゃうし……」

「えー? でも結衣先輩のお相手見たいじゃないですか。今日までずーっとはぐらかされてますし、ね? 雪乃先輩も気になりますよね?」

「興味ないわ、何より本人が嫌がっているのだからアナタも辞めておきなさい」

 

 まさか雪乃先輩にまで裏切られるとは思わず、私はガタッと音を立て椅子から立ち上がる。

 いや、まぁ。賛成してくれるとも思ってなかったけど……。なんとなく付いてきてくれると思ってんたんだけどなぁ。

 だって、今日までこんなに結衣先輩のサポートをしてきたのに、このいちばん大事な場面を見れないなんて誰も思わないじゃない?

 え? 私がオカシイの?

 

「ええー!?」

「ほ、ほらゆきのんもこう言ってるし、やっぱり辞めよ? ね?」

 

 結衣先輩が懇願の瞳で私を見上げてくる。

 いや、なんで本当にそんなに嫌がるんだろう……?

 もしかして訳あり?

 え? ひょっとして……相手は教師とか……じゃないよね?

 不倫……とか?

 人気のある先生って誰がいたっけ? 

 

「今回の依頼はあくまでクッキーの作り方を教えるだけ、由比ヶ浜さんが告白の手伝いをしてくれというのならともかく、それ以上の干渉はすべきではないわ」

「ぶー……」

 

 続けて、雪乃先輩にそう言われた私は頭の中で該当しそうな教師を思い浮かべながら、渋々と椅子に座り直す。

 うわー……俄然気になってきたぁ……。

 どうしよう、最悪一人でも覗きに行ったほうがいいだろうか?

 知らないほうが良いっていうこともあるのかもしれないし。

 

「分かりました、けど……。もしかして……言えないようなお相手とか?」

「そ、そういうんじゃないけど……多分いろはちゃんの思ってるようなタイプじゃないというかなんというか……」

 

 少しだけカマをかけてみたけど、これはどっちか分からないなぁ……。

 ううう……気になる。

 私のタイプじゃないっていうコトはセンパイ以外の全男子って言うことだから全然絞れないし……。

 

「う、上手くいったらちゃんと紹介するから!」

 

 はぁ、仕方ないこれ以上の追求はやめておきますか。

 別に結衣先輩をイジメたいわけじゃないしね。

 

「……分かりました。それで告白の言葉はちゃんと考えたんですか?」

「やっぱり告白することになってる!? しない! しないからね!?」

 

 告白、という言葉に結衣先輩がオーバーに反応すると、そのバンドエイドだらけの指をブンブンと左右にブンブンと振った。

 あれ? バンドエイドだらけ?

 おかしい、私は巻くなら五枚までって言ったはずなのに、よく見ると結衣センパイの指全てにバンドエイドが巻かれている。

 

「あ、あくまでお礼だから! それ以上の事は考えてないから! そ、そもそももう付き合ってる人とかいるかも知れないし……お見──女の子──たし……」

 

 ……ゴニョゴニョと最後の方はよく聞き取れなかったが、どうにも結衣先輩のお相手には女の子の影があるらしいというのは分かった。

 となると最悪既婚者? それか彼女持ち?

やはりかなりのイケメンの可能性があるのだろうか?

 なるほど、結衣先輩が尻込みする気持ちが少しだけ分かった気がする。

 なら、私としてはもう少し背中を押してあげても良いのかもしれない。

 

「それなら尚更早めに手を打たなきゃじゃないですか!」

「で、でも迷惑、じゃないかな……?」

「女の子に思われて迷惑な男子なんていませんよ。ね? 雪乃先輩」

「私に振らないでくれるかしら……」

 

 私の言葉に結衣先輩は「そうかなぁ……?」と雪乃先輩の方へとチラリと視線を動かす。

 しかし、雪乃先輩は我関せずとでも言いたげに優雅にお弁当を食べていた。

 なんか、雪乃先輩って本当何してても絵になるよね……羨ましい。

 でも、この場では頼りにならないというだけだ。ここは私が頑張らなきゃ。

 

「例え付き合ってる人が居たっていいじゃないですか──諦めなくて良いのは女の子の特権なんですよ?」

 

 その言葉は以前私がママから貰ったアドバイスでもあった。

 そう、もしセンパイにそんな相手が居たとしても、どんな既成事実を作ってでも奪い取ってやればいい。諦める必要なんてないのだ。

 だって他の誰でもない『私が』好きなのだから。そんな簡単に『はい、そうですか』なんて諦められない。

 だから、同じ恋する乙女として、結衣先輩にも諦めてほしくなかった。

 

「そ、そう? そうかな……?」

「そうですよ、別に結婚して子供がいるわけでもないなら、隙を見てガンガン攻めないと!」

「高二で子供は流石に居ないと思うけど……。うー……ゆきのーん! 何とか言ってよぉ」

「だから、私に振らないで貰える……?」

 

 あ、良かった、教師では無さそうだ。そういえば同じクラスになったのが今回のお礼のきっかけなんだっけ。すっかり忘れていた。

 でも、それなら尚更雪乃先輩も頼りにならなそうだし、ここは私が頑張って結衣先輩を応援してあげないと!

 

「でも明日から彼氏持ちだと思ったらちょっとやる気でません?」

「私が……彼氏持ち……」

「あ、少しその気になりましたね?」

 

 私がそう言うと、少しだけ結衣先輩の顔が赤くなる。

 どうやら狙い通りやる気は上がったらしい。

 

「な、なってない! 告白なんてしないから! 今日はあくまでお礼だけ!」

「今日“は”ね」

「今日“は”ですね」

「あぁ! また引っ掛け問題だぁ!」

 

 そういって頭を抱える結衣先輩を見て、私と雪乃先輩は視線を交わし、少しだけ笑った。

 

***

 

**

 

*

 

「結衣先輩、今頃屋上ですかね?」

「そうね。お相手が来てくれれば、だけれど」

 

 そうして昼休みを終え、各々の教室に戻り午後の授業を終えた私達は、放課後再び奉仕部の部室へとやってきていた。

 元々の予定だと、雪乃先輩と一緒に屋上で結衣先輩の様子を見るつもりだったのだが、結衣先輩自身に止められてしまったので完全に暇になってしまったのである。

 

「雪乃せんぱーい、今日は何時まで部活やるんですか?」

「いつも通りよ、依頼者がイツ来るかわからないもの」

「えー……でも、それだと一人も来ないかもしれないじゃないですかぁ……」

 

 実際この部は基本的にはやるコトがなかったりする。

 ココ数日は結衣先輩の依頼があったからこそ色々と動いていたが、ひっきりなしに相談者がやってくる人気占い店という訳でもないので、ソレ以外の時間は暇なのだ。

 

「何か予定でもあるのだったら早退も考慮するけれど?」

「……特に……ありませんけど……」

 

 今日はセンパイがバイトの日でもあるので、早退したトコロで合流するコトも出来なければ、デートも出来ない。

 家に帰っても特に予定はないので、ココに要るのと対して変わらないだろう。

 結局のトコロ、私には選べる選択肢すらなかった。 

 

「なら、待つのも部活動の一環よ。諦めなさい」

「むー……」

 

 そう言うと、雪乃先輩は私との会話も切り上げ、読書へと戻ってしまう。

 ああ……私も何か本でも持ってこようかなぁ……。そういえばセンパイとお爺ちゃんって同じ本読んでるんだよね。

 何冊か貸して貰おうか。

 でもどっちにしても今日は暇なままだ。何かやることやること……。

 お米にでもLIKEする?

 あ、そういえば今日課題出てたんだ、先そっち済ませちゃおう。

 

 色々考えた結果私は読書をする雪乃先輩の横で一人英語の課題に取り組むことにした。

 ああ、少し前まではこうやって勉強している横に居たのは雪乃先輩じゃなくて家庭教師のセンパイだったのになぁ……。

 はぁ……。やる気が出ない……。

 

*

 

「やっはろー!! 二人共おまたせー!」

 

 そうして、英語の課題をこなし半分ほどが終わったところで、突然ガラガラと扉が開き、結衣先輩が現れた。

 あれ? もしかしてクッキー……渡せなかった……?

 

「由比ヶ浜さん?」

「結衣先輩?」

 

 突然の来訪者に私も雪乃先輩も思わず顔を見合わせてしまう。

 それはそうだ、放課後にクッキーを渡すと言っていたので上手くいったならその後はそのまま二人でどこかへ行くなり、話をするなりをすると思っていたのだから。

 だが、放課後という時間帯に入ってまだ三十分も経っていない。

 もしかしたら、相手が現れなかったとかだろうか?

 そう考えると、なんと声を掛けるのが正解なのか分からず私は「あ」とか「う」とか良く分からない音を発し、結衣先輩の次の言葉を待つことしか出来なかった。

 

「無事渡せましたー!」

 

 しかし、私達の心配を他所に、結衣先輩は両手を上げてそう言うと嬉しそうに笑っていた。

 良かった。本当に良かった。

 満面の笑みの結衣先輩を見て、心の底から応援して良かったと思える。

 

「そう、それは良かったわね」

「おめでとうございます! 結衣先輩!」

「もう、いろはちゃんがずっと『告白』『告白』って言うから危うく『付き合って下さい』って言っちゃうところだったよー。でも普通に友達になれた!」

 

 友達かぁ。

 まあ、結衣先輩にとっては大きな一歩というところだろう。

 思わず口をついて出てしまったというのはきっと心の底でそういう思いもあったということなのだと思う。

 少なくともそれなりに好意を持っていることには代わりは無いだろう。

 だって、そうじゃなければここまで喜ばないはずだ。

 

「じゃあ、今度こそ紹介してもらえますね」

「うん、今度紹介するね。今日はバイトがあるからって帰っちゃったんだけど」

「へー、バイトしてるんですね」

 

 ん? バイト?

 センパイも今日バイトなはずだけど……。そういえば結衣先輩のお相手は結衣先輩と同い年なんだよね……。

 まぁ、バイトしてる人なんて幾らでもいるか。

 お金があるのは良いことだ。これでダブルデートのプランも組みやすくなった。

 ふふっ、楽しみがドンドン増えていく。

 

「それで……はいコレ! ゆきのんにも」

「私も?」

「なんですか? コレ?」

 

 そうして今後のプランを色々と考えていると、今度は結衣先輩が鞄から小さなラッピングバッグを二つ取り出し、私と雪乃先輩に渡してきた。

 これは何だろう?

 

「色々手伝ってくれたお礼。実は昨日二人に色々教わった後、家帰ってから作ったんだ。流石に二人ほど美味くは作れなかったし思いっきり失敗しちゃって、指火傷しちゃったんだけど……一番焦げてない奴にしたから良かったら食べて?」

 

 結衣先輩の言葉を聞きながら中身を覗いてみると、そこには顔ほどの大きさの巨大なクッキーが入っていた。

 ココ数日、ずっとクッキー教室を開いていたから正直クッキーは食べ飽きているのだけれど……。

 どうやら雪乃先輩も同じことを考えたらしく、私と目が合うと、苦笑いを浮かべていた。

 まぁ、折角の気持ちだし無碍には出来ないか。

 

「ありがたく頂くわ」

「ありがとうございます。火傷って……だからバンドエイド巻いてたんですね」

 

 なるほど、私のアイディアを使ったわけではなく、巻かざるを得ない状況になってしまったのか。

 でも、本当に全指損傷する人がいるとは思わなかった……。

 これが天然という奴なのかもしれない。

 

「うん、バンドエイドっていうかカットバンだけどねコレ」

「あなた……どこの出身なの?」

「へ? なんで?」

「いえ、なんでもないわ……」

「そ、そう?」

 

 そんな雪乃先輩と結衣先輩の会話を横目に、私は貰った巨大クッキーを少しだけ割って口に含んで見る。

 うん……まぁ、及第点かな?

 少なくとも最初の頃に比べれば雲泥の差だ。

 大成功。かどうかはわからないけれど、成功なのは間違いない。

 平塚先生だってこの結果に文句は言わないだろう。

 もしかしたらこのまま雪乃先輩との勝負も勝てるかもしれない。

 

 その時の私はそんな妙な達成感と高揚感に駆られ、なんだかとても気分が良かった。

 

 だから気が付かなかったのだ、結衣先輩が出していた沢山のヒントがタダ一人の人を指しているという事を……。

 私がそれに気がつくのは、まだ少し先のお話……。




少々蛇足気味ですが73話。これにて由比ヶ浜結衣の依頼は終了となります。

間隔が開いてしまい申し訳ありません
74話はホボ出来ていますので
次は遅れないと思います

今回の活動報告は色々言い訳祭りの予感。
そういうの読みたくない方は注意ということで。

感想、お気に入り、評価、ココスキ、誤字報告、メッセージ等お手すきでしたらよろしくお願いいたします。


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第74話 繋がりそうで繋がらない少し繋がる点と点

メリークリスマース!!
いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、ここすき、メッセージetcありがとうございます。

恐らくこれが年内最後の更新となります。
皆様良いお年を!!


「あ、ヒッキー! やっはろー!」

 

 教室に入るなり、そんなドコの国の挨拶かすら分からない妙な声を掛けられ、クラス中の視線が俺に集まった。

 ヒッキーって誰だ?

 ドコかで聞いたような気はするのだが……。

 そう思い声のした方角を見ると、朝だと言うのに妙にテンションの高い女子が一人こちらに向けて大きく手を振っているのが見えた。

 

「お、おう……おは、よ……」

 

 その女子は言わずもがな、昨日俺の初の友達となった由比ヶ浜結衣その人である。

 俺は何とか抑え平静を装い、片手を上げるだけの簡単な返事を返し、自分の席へと向かう。恐らく今の俺の顔はさぞ引きつっていることだろう。

 そうか、ヒッキーって俺のことか。

 俺が返事を返すと俺に集まっていたクラス中の視線がさざ波のように引いていくのを感じた。

 とりあえず、突発イベントはクリア出来たらしい。

 そうか、友達とは朝こうやって挨拶をするものなのか。

 

 そんな初めての気付きを得ながら、俺が自分の席へと向かうとに、由比ヶ浜が「ちょっとごめんね」と元いたグループの連中にひと声かけテテテっと俺の方へと駆け寄ってくるのが見えた。

 どうやら、友達との朝イベントはまだ終わっていないらしい。

 何ぶん初めてのことなのでこのイベントがどうすれば終わるのか分からないが……まぁ、もう少し頑張るとしよう。

 

「昨日バイトどうだった? 遅れちゃった?」

 

 俺が自分の机に鞄を置くのとほぼ同時に、由比ヶ浜が俺の目の前にやってくると、由比ヶ浜は机に手を付きながらそんな事を聞いてくる。

 え? なんでこの子俺がバイトしてるコト知ってるの?

 ってああ……そう言えば昨日はバイトがあるといって切り上げたんだったか。 

 

「いや、ギリギリ間に合った」

「良かったー、私のせいで怒られちゃったらどうしようって思ってたんだ」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜が安堵の表情を浮かべ、ホッと胸をなでおろす、一瞬その胸元に視線が行ってしまったのは不可抗力というものだろう。

 卑猥な意味ではないし、すぐに逸したので許して欲しい。

 とはいえ、俺のバイトの遅刻状況を心配してくれているとは思わなかった。

 昨日の手紙での一方的な呼び出しから考えて、人の予定なんて気にしない奴なのかと思っていたのだが……割と良い奴なのかもしれないな。少し考えを改めよう

 

「そういえばヒッキーって何のバイ……」

「どうやら結衣も無事比企谷と仲良くなれたみたいだね」

 

 そうして何気ない会話から由比ヶ浜の人となりを確認していると、俺と由比ヶ浜の間に割って入るように一つの影が現れた。

 俺たちの前に現れたのはクラス──いや、この総武でも指折りのイケメン葉山隼人だ。

 葉山はいつも通り胡散臭い笑顔で俺の席の横にピットインすると、何やら訳知り顔で俺と由比ヶ浜を見つめてくる。

 ん? 『無事』ってどういうコトだ?

 こいつ昨日のコト何か知っているのか? まさか見てたとか……?

 

「あ、隼人君。うん! そうなんだ友達になったの。ね? ヒッキー?」

 

 しかし、由比ヶ浜は突然の葉山の登場にさして驚いた様子もなくそういって俺に同意を求めてくる。

 同意……でいいんだよな?

 

「あ、ああ……そうだな。と、友達……だな」

 

 言葉にするとなんとも気恥ずかしいが、間違ったことは言っていないはずだ。

 そう、俺は由比ヶ浜と友達。

 恥ずかしがる必要はない、双方合意の上での友達なのだ。

 少なくとも言質は取っている。

 葉山に恥じるようなことは何もない。

 

「そうか、やっぱり俺がお節介をやく必要はなかったみたいだな」

「なになに? 何の話?」

「これは……もしやフラグ回収!? ハヤハチきたぁ!! ぐふふふふ……」

「海老名、ちゃんと擬態しな」

 

 お節介?

 先程から葉山の言葉に引っかかりを覚えてばかりだが、次に俺が何か言おうとするより早く、その様子を見ていた葉山グループが続々と集まり始めた。

 戸部、金髪縦ロール、黒髪おかっぱ眼鏡さん。そして由比ヶ浜と葉山に囲まれ、俺はもはや自分の席を立つことすらままならない状況。

 まずい、これは罠だ。一刻も早く脱出しなければ。

 

「え? ヒキタニ君バイトしてるってマ?」

「てか、あーし今日メッチャ歌いたい気分なんだけど」

「いいね。でも今日は俺も戸部も部活あるんだよな」

「あー、ごめん実は私も……」

「は? 結衣部活入ったん?」

「うん、実は楽しそうな部活見つけたんだ」

 

 もはや俺がココにいる意味があるのか疑問なほどに、頭上ではワイワイと楽しげな会話が繰り広げられている。

 しかも一瞬で俺への話題ぶった切られたが……ナンナノコレ? 新手のイジメ?

 友達が出来たやつは皆こんな洗礼を受けてるの?

 その会話ここでやる意味あります?

 俺関係ない話ならどこか別の場所でやって貰えませんかね?

 

「……っていう部なんだけど」

「ふーん……」

 

 そんな事を考えながら、何とか自分を保っていると、何故か俺の頭上の空気がピリ付きはじめた。

 あれ? さっきまでの楽しそうな雰囲気は一体どこに……?

 しかも見た感じ俺の友達たる由比ヶ浜さんがピンチじゃないか。

 一体あの一瞬で何が……?

 ここは俺が何とかせねば、友達として。

 うん、友達として。

 えっと……何の話してたんだっけコイツら……金髪縦ロールさんがカラオケに行きたいって言ってて……。

 

「あー……。そ、それなら……次の休みとかでも……」

「ぁん?」

 

 ひぇっ。

 めっちゃ睨まれたんですけど……?

 

「いいんじゃないかなー……なんて思っちゃたりしたりなんかして……」

 

 まずい、泣きそうだ。

 俺が。

 

「比企谷の言う通りだな、丁度ゴールデンウィークだし予定も立てやすいんじゃないか?」

「俺も丁度ソレ言おうと思ってたんだわぁ、さっすがハヤト君分かってるぅ!」

 

 だが、そんな俺に助け舟を出したのは他でもない葉山と戸部だった。

 本当に助かった、もし後数秒遅かったら俺は完全に泣いていただろう。

 ナイス戸部。戸部ナイス。

 

「どうかな? 優美子」

「まぁ……ハヤトがそう言うなら……」

 

 葉山にニコリと微笑まれた優美子と呼ばれた金髪縦ロールは、その縦ロールをいじりながら少しだけバツが悪そうにそう言うと、ようやく場の空気が和み始める。

 はぁ……とりあえずコレで一難去ったか。

 これで解散してくれれば……

 

「オッケー、じゃ決まりだな。日程は……。比企谷LIKE交換してもらってもいいかな?」

 

 ってなんでだよ!

 今の流れでなんで俺がお前とLIKEの交換をしなきゃいけないんですかね?

 

「わ、私も!」

 

 だが、俺が葉山の申し出を断ろうとした瞬間、由比ヶ浜が勢いよく右手を上げ立候補をしてきた。

 いや、だからなんでこの流れで……?

 

「……別に……いいけど……」

 

 何かがオカシイとは思いながらも、よくよく考えれば断る理由もないかと考え直し、俺はその申し出を受け入れることにした。

 まぁ……葉山の連絡先を知っておけば、後で一色の助けになることもあるかもしれないしな。

 俺はニコやかに微笑む葉山、そして力強くスマホを握りしめこちらを見つめる由比ヶ浜を交互に見つめた後、スマホを机の上に投げ出……そうとして思いとどまる。

 正直、操作めんどいからスマホ渡してやってもらおうと思ったのだが……。

 流石に一色家とのやり取りを見られたりしたらマズイか、一色の助けになるどころか逆効果にすらなりかねない。俺はフラグ管理の出来る男だ。

 ここは慎重に……。えっと確か連絡先交換する時は……。

 

「ヒッキー?」

「あ、いや、チョット待ってくれ……えっと」

 

 そうして少し戸惑いながら、何とか由比ヶ浜と葉山との連絡先を交換し、俺のLIKEの『ともだちリスト』に二人の名前が追加される事になった。

 なんか、一色家──おっさんに会ってからどんどん増えてるな……。

 まあこっちから連絡するのなんて小町ぐらいなんだけど。

 やっぱ妹最強なんだよなぁ……。

 

「そういえば比企谷ってクラスのグループにも入ってないよな?」

「まぁ……誘われてもないしな」

 

 そもそもそんなモノがある事すら知らなかった。

 というか、本当に存在するの? 都市伝説みたいなものなんじゃないの?

 よくあるイジメの温床になってる~とかいうやつ。

 まさかこんな身近に実在するとは思わなかったが、積極的に入りたいかと言われれば……。

 

「誘おうか?」

「いや、別に。入ってなくても困ってないし……」

 

 それは負け惜しみではなく、心の底から出た本音だった。

 少なくとも今日まで“クラスのグループに入っていなくて困った”という事態には陥っていない。もしかしたら今後そう言った事態が起こりうるのかもしれないが、その時はその時だろう。

 

「なら、とりあえずウチのグループに招待しておくよ」

「は?」

 

 だが、次に俺が何か言おうとした瞬間、俺は葉山グループに追加されていた。

 アレ? これが巷で噂の友達の輪っていうやつですか?

 いや、友達は由比ヶ浜だけなんだけど……。

 

「改めて、よろしくな」

「よろしくねヒッキー!」

 

 しかし、当の由比ヶ浜はそんな俺の状況を特に気に留める様子もなく、寧ろ受け入れているようですらあった。

 友達ってなんなんだろう。良く分からない。

 やはり、俺にはまだ少し早すぎる文化のようだ。

 

「ほら、ホームルーム始めるぞ。席につけー!」

 

 そうして、連絡先の増えたスマホを眺めていると平塚先生が登場し、俺の席に集まっていた葉山グループが蜘蛛の子を散らす用に各々の席へと戻っていく。

 なんだ、夢か。

 そうだよな、俺が葉山グループに入るなんてそんなコトあるはずがないのだ。

 あそこは陽キャのスクツでフインキが俺と合わない。

 

【ヒッキー、改めてよろしくね!】

 

 そんな通知を眺めながら、俺はボーッと平塚先生が出席を取るのを聞いていた。

 

***

 

**

 

*

 

 午前中、少しだけリア充の空気を感じた俺だったが、昼休みになるといつも通りのベストプレイスで 工場で大量生産されたおにぎりを片手にぼっちを堪能していた。

 ほんの数十秒だけ……。

 

「セーンパイ♪」

 

 俺がベストプレイスに座った数十秒後には満面の笑みの一色いろはが立ったまま体をくの字に曲げ俺の顔を覗き込んできたのだ。

 昨日の感じだと今日も昼は部の方で済ませるのかと思っていたが、どうやらそういう訳でもないらしい。

 もしかしたら俺に気を使っているのだろうか?

 まあ、俺には友達が出来て、こうして一人で要るように見えても実質ボッチではないから、気を使われる筋合いもないのだけどな。

 

「おう……」

「なんですか、その顔? 三日ぶりのいろはちゃんですよ? ほら、可愛い許嫁に会えて嬉しいでしょう?」

 

 何故かご機嫌な一色は、そう言うと慣れた様子で俺の隣に陣取っていく。

 手には小さな弁当箱が入った巾着袋。

 毎度思うのだが、あんなに小さな弁当箱で足りるのだろうか?

 もう少し食べたほうが良いんじゃないの?

 授業中にお腹鳴ったりしない?

 あれメチャクチャ恥ずいんだよな。

 

「今日のおかずは何かな~♪」

「……今日は作戦会議とやらはいいの?」

 

 フンフンと鼻歌を歌いながら弁当箱を広げていく一色に放ったその言葉は、自分でも驚くほどに冷たく攻撃的だったように思う。

 マズイ、と口元を抑えたところで吐いた言葉が戻るはずもなく。

 俺は恐る恐る一色の横顔を覗き見た。

 

「それは昨日終わりました、もしかして昨日一緒に御飯食べれなかったから拗ねてます?」

 

 だが、一色はそんな俺の言葉に一瞬だけキョトンとした顔を浮かべると、何故か少しだけ嬉しそうにそう言って、ソレこそまるで俺の心の内を見透かしたようにニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ俺に詰め寄ってくる。

 

「いや、別に……」

「ふふ。やっぱり昨日寂しかったんですね? 仕方ないですねぇ。それじゃぁ、よいしょ」

 

 そして持っていたお弁当箱を一度横にずらすと、一色がジリジリと俺に近寄ったかと思うと次に一色の左手が俺の脇の下を通り、そのままするりと俺の右手を絡め取られる。

 俺と一色の密着度が十上がった。

  

「……そ、そんなにくっついたら食べにくいんじゃないですかね……?」

「いいじゃないですか三日ぶりなんですし、私も充電しないと♪」

 

 少しだけ戸惑う俺に、続けて一色はそう言うと、準備完了と言わんばかりに横に避けていた弁当箱を膝の上に乗せ「いただきまーす」と手を合わせる。

 正直食べづらい、というか一色も食べづらそうだ。

 ソレもそうだろう、だってお互いの肘が自分の胸元に来ているのだ。

 だが、一色はそんな様子を物ともせず、俺の右手と絡んだままの左手で弁当箱を押さえると、反対の手で箸を持ち普通に食事を始めていく。

 

「食べないんですか?」

「いや、食べづらい……」

 

 一色は右手が完全にフリーな状態だからまだ良いだろうが、俺の方はといえば完全にホールドされてしまっているので食事どころではない。

 この状況だと右手に持ったオニギリを口に入れれるタメには、顔を直接近づけるしかないので凄く窮屈だ。

 そう思い、なんとかこの体勢を辞めてもらおうと抗議の意を示したのだが、一色は一瞬だけ考えるような素振りをした後、再びニヤリと笑い俺の方に箸を差し出してきた。

 

「しょうがないですねぇ、はい、じゃあ、あーん♪」

 

 箸の先には半分に切られたウインナーが一つ。

 どうやら、一色はこの体勢を辞めるつもりはないらしい。

 ……結局俺は一色の箸から口を逸し、右手で持っていたオニギリを左手に持ち替えることでなんとかその場を回避する事に成功した。

 いや、厳密には何一つ回避出来ていないのだけれど……。

 

「残念♪」

 

 そんな俺を見て一色は楽しそうにそう言うと、俺の方に向けていたウインナーをパクリと頬張り、再び食事へと戻っていく。

 はぁ……うかつに右手を動かすと俺の肘が一色のその……胸に当たりそうだし……ああ、もう味とか分かんねぇなコレ。

 

「あー……そういや一色」

「はい?」

 

 しかし、そのまま無言というのも流石に気まずかったので、この姿勢のことは諦めて、気を紛らわすためにも、今のコレとは別に、気になっていたことを一色に問いかける。

 それは昨日のことであり、由比ヶ浜のことで。

 当然、クッキーのことだ。

 

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

「なんでしょう?」 

 

 だが、俺の言葉にまるで小動物のように無邪気な顔で小首を傾げる一色を見て、一瞬言葉に詰まる。

 というのも、俺の中に『本当に、直接聞いても良いコトなのだろうか?』という疑問が湧いたからだ。

 昨日由比ヶ浜から貰ったクッキーは確かに一色の家で食べたクッキーに似ていた。

 でも、それがタダの偶然だったとしたら?

 一色の家のクッキーと似たような味をしただけの、全く関係のないクッキーだったら?

 

『一色の作ったクッキーと似たクッキーを貰ったんだが、お前何か知ってる?』

 

 文章にしてみればなんともオカシナ質問だ。

 もし違った場合、由比ヶ浜にも一色にもどちらにも失礼ではないだろうか?

 それに、やぶ蛇……の可能性もある。

 なんというか、浮気の告白をしているような……そんな感覚。

 いや、別に俺が一色と付き合ってるわけではないのだから浮気にもならないし、そもそも由比ヶ浜とは友達になっただけなんだけども……。

 ああ、でも一色とは許嫁ではあるのか、ややこしい。

 

 ただの友達相手に考えすぎだとは思うものの、そもそもまともな人付き合いというのをしたことがないから、こういう時どうしたらいいのか全くわからない。

 どうすれば他意なく現状を一色に確認できるのだろう?

 それでもきっと、葉山ならこういう時上手く立ち回れるのだろうと思うと、何だか無性に悔しくもあった。

 

「センパイ?」

「あー……えっと……さ、最近忙しかったみたいだけど、何してたの?」

 

 悩みに悩んだ末、ようやく絞り出したのそんな間の抜けた質問。

 我ながら情けない、まるで子供との会話が上手く出来なくて悩む父親のようですらある。

 だが、俺のそんな問いかけに、一色は少しだけ笑みを浮かべると、目をキラキラと輝かせグッと俺の方へ体重を掛けてきた。

 あ、なんか今肘に柔らかい感触が……なんだろう? マシュマロかな?

 

「やっぱり気になります? 気になりますよね? あ、でも大丈夫ですよ? 浮気なんてしてませんから」

 

 続けて出てきた『浮気』という単語に思わず胸が跳ねる。

 こいつ……ニュータイプか!?

 いや、待て待て。だから俺は別に浮気なんてしてないし、コイツがしてたとしても別に俺にはなんのダメージもない。落ち着け、比企谷八幡。

 

「別にそんな事はきいてない……」

「そうですか? 実はですね……って、詳しい内容はヒミツだったんだ。……えっと、大まかに話すとですねクッキーを作ってたんです」

「クッキー?」

「はい、クッキーです」

 

 続く一色の言葉に、俺の中で『やはり』という思いが浮かび上がる。

 どうやら、俺の質問は間違っていなかったらしい。

 そうだ、自分から話しにくいのなら相手に話してもらえばよいのだ。

 あれ? でも待てよ……? 

 寧ろ、俺がここで一色に由比ヶ浜の事を話すか話さないかという、ある種の試金石にされている可能性も出てきたか?

 

「クッキーの作り方を教えて欲しいっていう人が居て、昨日も雪乃先輩の家でクッキー教室を開いてたんですよ」

 

 更に由比ヶ浜の可能性上がった。

 というより、このタイミングでクッキーの作り方を教えて欲しいというならほぼ確定だろう。

 何故一色が? とか。もしかしたら昨日のアレも見てたのか? とか色々疑問もでてくるが。とにかく今言えることは、やはり一色と由比ヶ浜は繋がっていたのだろう。

 ここは変に隠さず素直に話すのが正解かもしれない。

 つまり、次に俺が言うべきは『ああ、だからか』とか『それでか』とか何となく知ってましたよ感のある返答。

 こうしておけば、一色が俺にドッキリのようなものを仕掛けようとしていた場合、少なくとも『俺は気付いていましたよ』というアピールにもなる。

 よし、コレで行こう。

 

「もうちょっと話しちゃうとですね……恋のお悩み相談を受けてたんです」

「ああ、だか……恋のお悩み?」

「はい、その人がお相手に告白する時渡すクッキー作りのお手伝いです」

 

 ほな由比ヶ浜ちゃうやないか。

 手のひら返しも良いところだ。

 恋の相談? 告白のお手伝い?

 ならどう転んでも相手は由比ヶ浜ではない、なぜなら由比ヶ浜は俺と『友達』になったのだ。

 そこに恋愛的な意味合いは含まない。

 由比ヶ浜のアレを告白だと認識するのは無理があるし、曲解もいいところだろう。

 そんな奴が居たとしたらそれはとんでもない自意識過剰野郎だ。

 

 しかし、そうなってくるとまた話が変わってくる……。

 つまり……一色に相談した人物と由比ヶ浜は関係なくて、偶然同じタイミングでクッキーを作ろうと考えた人間がこの学校に二人居た……のか?

 

「告白する時に渡す……?」

「はい、そっち方面に関してなら私も一日の長があるので、色々アドバイスもしてあげたんですよ」

 

 その言葉が事実なら、やはり一色と由比ヶ浜は無関係ということになる。

 本当にそんな事がありえるのだろうか?

 いや、実際そうなのだからありえるのか……。

 

「まぁ、私もほとんどママからの受け売りなんですけどね……ってセンパイ? どうかしました?」

「ん? あ、ああいや、別に」

 

 頭が混乱してきた。

 なら何故あの由比ヶ浜のクッキーは一色の作ったものと同じ味がしたのだろう?

 本当に偶然だったのか?

 

「あ、そうだセンパイ。コレどうぞ」

 

 そうして答えの出ないクッキーの謎について考えていると。一色が突然そう言って組んだ腕を解き、鞄の中から何かを取り出すと、その何かを俺の手に乗せてきた。

 それは薄ピンク色のなんとも可愛らしい小さな袋。

 中には何かが入っているらしく、少々厚みはあるがそれほど重さは感じられない。

 これは一体……?

 

「なにコレ?」

「クッキーです。センパイも久しぶりに食べたいんじゃないかなーと思って作ってきました」

 

 そう言われ、俺がその袋を開いてみると中から出てきたのは、ケーキ屋に並んでいるものなんじゃないかと思う程キレイなハート型をしたクッキーだった。

 見た感じは昨日由比ヶ浜がくれた物とは別物で、少なくとも『一緒に作った』というコトはなさそう。

 コレを食べれば……俺の疑問は解けるのか?

 

「……もうこれ売れるんじゃないの?」

「センパイ専属の職人だったらなってあげてもいいですよ?」

 

 そういって笑う一色を横目に、俺はそのクッキーを一つ口に放り込む。

 サクッと小気味良い音と供に口の中に含めば、その瞬間から蜂蜜の香りが広がり、以前一色の家で食べたものと同じだと確信が持てた。

 こうして食べてみると、やはり由比ヶ浜から貰ったクッキーと似ている。

 似ている……が、向こうは少し焦げていたので違うと言われれば違うのかもしれない。

 正直、もう何が何だか分からない。

 やはり、俺の勘違い。偶然なのだろうか?

 

「……うん、うまい、な」

「愛情たっぷり詰めときました♪」

「お、おう……サンキュ」

「えへへ♪」

 

 冗談だと分かっていても一色レベルの女子から「愛情」とか言われるのは流石に照れる。

 少なくともその言葉で、クッキーの味が少し増した気がした。

 全く男というのは単純に出来ているのだから、もう少し言葉のチョイスには気をつけて頂きたい。 

 一歩間違えたら危うく告白してるトコロだぞ……。

 まあ……クッキーのことはもういいか。どうでも……。

 

 よくよく考えれば、別々の人間が作ったものを比べる事自体が野暮というものである。

 蜂蜜が入ったクッキーなんて珍しくもないアレンジの一つだろうし、俺の人生初の許嫁から貰ったクッキーと、人生初の友達から貰ったクッキー。そこに優劣をつける必要はないだろう。

 それこそ、グルメ漫画ではないのだから。

 

「そういえばセンパイって今日バイト休みですよね?」

 

 そうして、改めて由比ヶ浜の件を俺の頭の中で解決させ、デザート代わりにもう一つクッキーをツマもうとすると一色がそんな事を聞いて来た。

 

「……一応、今日は休みだけど?」

「じゃあ私も今日は部活お休みにしてきます!  帰りにセンパイのお家寄ってもいいですか?」

 

 恐らく一色は以前言っていた、『俺がバイト休みの日は一緒に帰る』という約束を気にしているのだろう。

 だが、部活があるなら優先すべきような約束でもない。

 そう思い、俺は持っていたクッキーを口に含み、軽く手をふりながら一色に応える。

 

「別に態々休んでまで来なくて良いだろ……」

「いいじゃないですか、ちょうど依頼も一段落したところですし。ゴールデンウィークの予定とかも決めちゃいましょ♪」

 

 うーん? まぁ、一段落したなら良いのか……?

 ってあれ? ちょっと待て。ゴールデンウィークの予定?

 今年のゴールデンウィークは家でダラダラするという重大な予定で埋まってるはずなんだが……。

 何を決めるつもりなの?

 

*

 

 満面の笑みで「それじゃぁまた放課後に!」と手をふる一色と別れ、午後の授業をこなした俺は、駐輪場から自分の自転車を持ち出し、校門で一色の到着を待っていた。

 我ながら律儀だと思う。

 だが、ここで何も言わずに先に帰ればきっと家で小町にどやされるだろうし、あの様子だと一色は俺の家まで押しかけてくるだろう。

 どちらにしても結果が同じなら、俺は怒られない方を選びたい。

 

 しかし、待てども待てども一色は現れなかった。

 徐々に校門を通る生徒の数も少なくなり、そこら中から部活に勤しむ若人の声が響き渡る。

 うーん……アイツ何してんだ?

 もしかして居残りでもさせられてるんだろうか?

 

 そう思い、俺が思わずスマホに手をのばすと、タイミングよく俺のスマホがピコンと通知音を鳴らした。

 

【センパイ! なんかウチの部に中二先輩が来てて帰れないんですけど!】

 

 そこに書かれていたのはまったくもって意味のわからないメッセージ。

 中二先輩……材木座だよな?

 そうして首を傾げていると、更に続けてメッセージが入る。

 

【さっきから私、中二先輩の通訳みたいに使われてるんですけど! センパイのお友達なんですから助けてくださいよー】

【知らん、そもそも友達じゃない】

 

 勘違いしてほしくないのだが、俺の友達は今のところ由比ヶ浜一人で、材木座は単に体育でペアを組んだ関係というだけに過ぎない。

 なので俺に材木座の事を相談されても困るのだ。

 そもそも、なんで材木座が一色のところに……? しかも一色が通訳に使われてる?

 一色の話だと、奉仕部はお悩み相談みたいなことをやってるらしいが……アイツ悩みとかあるのか……。

 女性声優さんと結婚したいとかそんな悩みじゃないだろうな。

 まぁ、アイツの悩みとか興味ないけど……。

 とりあえず、一色が部活で忙しいのは分かった、俺に出来ることといえば……。

 

【んじゃ、俺先帰るわ。頑張れ】

 

 一色にそうメッセージを送ることぐらいか。

 本当なら連絡が遅くなったことに文句の一つも言いたいところだったが、全く我ながら気が利く先輩だ。

 俺は最後にそう自分を褒めると、颯爽と自転車に跨り総武高を後にする。

 決してこれ以上ココに要ると厄介事に巻き込まれそうだったからとかではない。

 無いったら無い。

 

 なんだかさっきからスマホがメチャクチャ鳴っている気もするが、運転中は見れないからね仕方ないね。

 スマホ運転、駄目絶対。

 

 さぁて、帰ってゴロゴロするかぁ。




というわけで少々季節感がオカシイですがようやく作中での四月が終わり
そして、年内の更新はこれで最後となります

次回、来年からゴールデンウィークへと突入予定です。(日本語が迷子)
お楽しみに。

少々早い挨拶となりますが、今年一年大変お世話になりました。
皆様良いお年を!
来年もよろしくお願いいたします。

年末年始も感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここすきetc
お待ちしております!


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第75話 黄金週間

少し遅れましたがあけましておめでとうございます。
そして、いつも感想、評価、お気に入り、ココスキ、DM等ありがとうございます。
本年も変わらずどうぞよろしくお願いいたします。


それでは2022年一発目どうぞー。



 今日から世間はゴールデンウィーク。

 テレビやニュースでは有給休暇を使うことで休みを増やし『最大○連休になる』とはしゃがれるこの黄金週間だが、学生である私達は当然カレンダー通りのスケジュール進行。

 とはいえ夏休み前の連休としては最長のこのチャンスを無駄にはしたくない。

 

 ここしばらくは部活が忙しかったこともあって以前よりセンパイとの時間が減ってるんだよね、なんなら総武に入る前よりスキンシップの時間が減ってしまっている。

 これは由々しき問題だ。

 出来ることならばこの機会に不足分を埋め、センパイとの距離も一足飛びに進めてしまいたい、なんなら大人の階段を登ったりしちゃったり……。えへ。

 

 でも、ゴールデンウィークに何をするかとか全然決まってないんだよね。

 そもそもセンパイとの約束を取り付けられていなかったりする。

 コレに関しては私の完全な誤算。

 というのも、約束を取り付けようと思っていたセンパイのバイトが休みの日の放課後を、中二先輩によって潰されてしまったのだ。

 しかも、一応その後LIKEでやりとりはしたんだけど……センパイってば「ゴールデンウィークは取り溜めしたアニメを見る」とか「五月病対策にしっかり寝ておかないといけない」とか適当なことばっかり言ってちっとも真面目に話聞いてくれないんだもん。

 やはり強引にでも捕まえて無理矢理予定を組んでおくんだった……。はぁ……。

 

 このままでは学校が始まるまでセンパイと一度も会えないなんて事にもなりかねない……それだけは絶対に避けなくては……。

 でもなぁ、予定を考えてる時に気がついたんだけど、センパイはともかく、私はアルバイトをしているわけじゃないからドコかに出かけるにしてもお金がないんだよね。

 センパイと旅行なんて出来るはずもなければ、そもそもの遠出も難しい。

 ……何かセンパイを誘う良い口実はないものか……。

 

 そんな風に頭を悩ませながら私は朝から取り掛かっている宿題に視線を落とす。

 実のトコロこれもまた一つの悩みの種だったりする。

 この宿題はそれほど頭を使わない割に妙に時間がかかる、真面目に取りかかればそれこそ丸一日潰れてしまいそうなのだ。

 出来ることならサボってしまいたいが……そういうわけにもいかないんだよね……。

 何か良いアイディアが……そうだ!

 

 宿題を手伝ってもらうっていう名目でセンパイの家に乗り込むのはどうだろうか?

 困っている後輩が上級生で、しかも元家庭教師を頼るというのはそれほど不自然じゃないし、センパイのあの感じだと少なくとも家にはいるのだろう。

 なら、そこをご一緒する、いわゆるお家デートだ。

 うん、これならお金も掛からないし宿題も片付けられる、そして何よりセンパイとずっと一緒にいられる。最高のアイディアだと思う。

 

 そうと決まれば善は急げだ。

 私はお米ちゃんに連絡を取ると、持っていた宿題を無造作にカバンに入れ、そのまま出かける支度を始めたのだった。

 

*

 

 それから約一時間後、私はセンパイの家の前にやってきていた。

 最早ここまでの道のりも慣れたものだ。

 だけど、まだセンパイには連絡を入れていなかったりする。

 一応事前にお米ちゃんが今家にいる事と、センパイのゴールデンウィーク中のバイトは休みになっているらしいという情報だけは掴んでいるので、前情報と組み合わせると恐らく今日のセンパイはウチのパパ同様、家でゴロゴロ暇を持て余しているコトだろう。

 そんな退屈しているセンパイの所へ許嫁が訪ねてくるという、ちょっとしたサプライズのプレゼント。ふふ、センパイどんな顔するかなぁ?

 

「はーい」

 

 センパイの驚いた顔を想像しながらインターホンを鳴らすと、そこからは若い女性の声がした。おそらくはお米ちゃん。

 でも万が一ということもあるので、私はよそ行きの声で「一色です」と小さく返答する。

 というのも、実はまだセンパイ達のご両親にキチンと挨拶できてないんだよね……。

 こうやって家まで来るようになってるから、そう遠くないウチに会うことにはなるんだろうけど、失敗しないように気をつけないと……。

 

「はへ? いろはさん? ちょっと待ってて下さい」

 

 そんな私の心配をよそにインターホンから聞こえてきたのは表情が想像できそうなほどのバカっぽい……もとい素っ頓狂な声。

 どうやら声の主はお米ちゃんで合っていたらしい。

 私は「はいはーい」と返事をして、前髪を直しながら玄関が開くのを待つ。

 すると程なくして、目の前に春先とはいえ少しラフすぎる格好をしたお米ちゃんが現れた。

 

「いろはさんこんにちは。どうしました?」

「やほっ、暇だから来ちゃった。あ、これお土産ね。陣中見舞いってことで」

 

 私と入れ替わるようにお米ちゃんは今年受験だ。

 まだどこを受験するかとかは聞いていないけれど、一応これからも長い付き合いになりそうだし、この程度の応援はしてもバチは当たらないだろう。

 

「それは……わざわざどうも……?」

「えっと、センパイいる?」

 

 そうして、お土産の入った紙袋を渡しながら、私が玄関から家の中を少し覗くようにしてそう尋ねると、お米ちゃんは小さく首を軽く捻る。

 

「……お兄ちゃんなら出かけてますけど……?」

「は!?」

 

 今度は私が間抜けな声を上げてしまった。

 いやいや、でもそりゃそうだ、センパイだって出かける事ぐらい有るだろう。

 サプライズが裏目に出てしまった。これは確認をしなかった私が悪い。

 

「ど、どこにいったの?」

 

 でも、センパイが一人で休日に遠出をしているという状況も考えにくかった。

 もしかしたらちょっとコンビニに行ってるだけかもしれない。

 それなら少し待たせてもらえばいいだろう。

 そんな希望を籠めて、私はそう聞いたのだが、次にお米ちゃんの口から出てきたのはさらなる驚愕の事実だった。

 

「さぁ? 『友達と遊びに行ってくる』って朝からイソイソ出かけていったので小町はてっきりいろはさんとどこかに行ったのだとばかり……」

「友達!?」

 

 というと中二先輩だろうか?

 というか、センパイの友達と言えそうな人を私は中二先輩以外に知らない。

 ああ……私思っている以上にセンパイのコト知らないのかも……。

 

「あー……とりあえず上がります?」

「あ、うーん……どうしようかな……」

 

 そうして玄関先で項垂れていると、お米ちゃんが気を使ったのかそんな事を行ってきた。

 元々センパイの家にお邪魔するつもりだったのだけれど、センパイがいないならお米ちゃんの勉強の邪魔するだけになってしまう。

 ここは一度出直したほうが良いだろう。

 

「あら小町、お友達?」

「あ、うん。いろはさん」

 

 だが、そうして一歩後ずさろうとした瞬間、廊下の先からそんな見知らぬ女性の声が響いた。そして同時に私の体に緊張が走る。

 いや、こういう事もあるだろうとは思っていた。

 実際今日がその日になるかもという覚悟も決めていたはずだ。

 だけど、頭の処理が追いつかない。

 

「え? いろはさんって……あの!? ちょっと! そんな所にいないで上がって貰いなさい! すぐお茶用意するから!」

「だ、そうです。ささ、どうぞ♪」

 

 フリーズした私の腕をお米ちゃんが引っ張り、玄関の中へと引きずり込んでいく。蟻地獄にハマった蟻ってこんな気分なんだろうか?

 

「ね、ねぇ……今の声って……?」

 

 だから私は 無駄だとは知りつつも、お米にそう尋ねた。

 いや、分かっている、恐らく十中八九。想像通りの人物だろう。

 でも、もしかしたらワンチャンお米の年の離れたお友達とか、私の空耳っていう可能性だってあるかもしれない。

 しかし、そんな私の願いも虚しくお米はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「母です。“小町とお兄ちゃん”の」

 

 ああああ……まさかのセンパイ不在での初対面。

 しかもちょっとご挨拶、という雰囲気ではない。ガッツリお喋りパターンだ。

 一応いつ遭遇しても良いように色々シミュレーションはしてたつもりだったけどこれは完全に想定外……!

 ちょ、ちょっと待ってお米! 一回、一回離して! まずは心の準備! 心の準備大事だから! は、離せぇっ!

 あーん、センパイドコ行っちゃったんですかー?!

 

***

**

*

 

 はい、こちら現場の比企谷八幡です。

 今日からゴールデンウィークということで、現在私がいるココ某大手アミューズメントスポット、なんちゃらワンも大賑わいとなっています。

 あちらこちらからカップルや学生の声が聞こえ、設置してあるクレーンゲームの補充対応に追われるスタッフも嬉しい悲鳴といった所でしょうか?

 設定激甘とのことなので私も後ほどチャレンジしてみたいと思っていますが……おや、何やらあちらの方に頭の悪そうな……もとい楽しそうな高校生グループがいますね。

 少しお話を窺ってみましょう。

 

「……で、どういう状況?」

「あ、ヒッキー。こっちで勝手にペア決めちゃったけど良いよね?」

「お、おう。いいんじゃないの?」

 

 受付カウンターから動き出した頭の悪そうなグループのウチの一人、由比ヶ浜に声をかけるとそんな意味のわからない言葉が返ってきた。

 というか、俺がココにいるコト自体意味わからないんだけどな……。

 

 事の発端は単純だ。学校で由比ヶ浜達とLIKEのIDを交換したことから始まっている。

 その日の放課後から、俺のスマホのLIKEの通知が鳴り止まなくなった。

 いや、本当グループチャットってこんなにウルサイもんなんだな。

 ピコンピコンピコンピコンピコンピコン……引っ切り無しに誰かがメッセージを送ってくるので一瞬壊れたかと思ったほどだ。

 

 一色家のグループとはあまりにも頻度が違いすぎて、少し驚いた。これが陽キャの普通なのだろうか?

 まあ、常に見ていなければいけないワケでもないので、とりあえずLIKEの通知をオフにして、後はまるで他人のグループのチャットを覗き見しているかのような罪悪感を覚えながら話の流れを追っていくコトに楽しみを見出していたのだが、気がつくといつの間にか俺を含めた葉山グループでゴールデンウィークの初日からカラオケに行くことが決まっていた。

 な? 何を言っているか分からないだろう? 俺も分からない。

 そもそも本来ならこの程度の勧誘で動かされる俺でもないのだ。

 実際今日はギリギリまで家で録り溜めしてある深夜アニメを消化する予定だった。

 じゃあ、何故ノコノコこんな所に来てしまったのか? というと

 

【ヒッキー、遅刻現金だからね!】

 

 という最後の脅しのような由比ヶ浜のメッセージが少し怖かったからだったりする。

 遅刻現金って何? 遅刻したら現金要求されんの?

 どういう課金システム?

 友達なんて初めて出来たからシステムがいまいち理解できていないんだよなぁ。

 初心者をあまり惑わせないで欲しい。

 仕方がないので、一応現場付近までは行って、顔だけ出して帰れば良いかと思ったのだが、どうもそういう訳にもいかないらしく、そのまま捕まり、今は俺、由比ヶ浜、葉山、三浦、海老名、戸部の六人でこのアミューズメントスポット内のカラオケをメインに遊ぼうという話になっている。

 

 ……はずだったのだが、ペアってなんだ?

 カラオケのペア? デュエットでもすんの? 俺そんな歌い分けとか高等テクニック持ってないんだが?

 この間一色達とカラオケ行ったトキも何だかんだでほぼ材木座のワンマンライブ状態だったしな……。

 ああ、いや。でもペア決めで俺に何も聞いてこなかったということは、俺はボッチということだろうか?

 まあ、それ自体は別にいつものことだから問題はないし、むしろデュエットなんて振られても困るから助かるまであるのだが……。

 

 そんな事を考えながら葉山グループの一番後ろを、まるで金魚のフンの如く追いかけていると、辿り着いたのはボウリングエリアの一角だった。

 ふとスクリーンを眺めると。ユミコ/ハヤト、ヒナ/カケル、ユイ/ヒッキーの文字。

 ああ、なるほど。

 ペアってボウリングのペアか。

 

「なんでボウリング? カラオケじゃなかったの?」

「もうー! ヒッキー全然話聞いてない! 今カラオケ満室で一時間待ちなんだって、だから『ボウリングやって待ってよう』ってさっきペア決めしたじゃん!」

「お、おう。すまん」

 

 『したじゃん』とか言われても、俺全く話振られた記憶が無いのだが……。

 っていうか、それならそれでなんで俺だけ『ヒッキー』なんですかね?

 他の連中は名前で登録してるのに俺だけヒキコモリっぽくない?

 なんか、陽キャグループに人数合わせで入れられた陰キャ感でてるけど大丈夫?

 気使わなくても俺一人で帰れるよ?

 

 しかし、そんな俺の抗議の目も気にせず由比ヶ浜は俺の隣で「ヒッキーって何キロのボール使うの?」とボールを選び始めた。

 ふと視線を動かせば他の連中も各々のボールを選び始めている。

 仕方ない、俺もちゃっちゃと選ぶか、久しぶりだしあんま疲れない重くない奴で……。

 あと、ボウリングのボールの単位はキロじゃなくてポンドな。

 

*

 

「あ、その前に私ちょっと……」

「あ、あーしも行く」

「なら私も」

「じゃあ女子チームで行こうか。男子は先遊んでていいからね」

 

 そうして各々のボール選びが終わり、自分達のレーンへと集合すると今度は女子連中がそんな事を言い始めた。いわゆるお花摘みというやつだろう。

 正直に言えば俺も少しトイレに用事があったのだが、流石にこのタイミングで「俺も」と一人女子についていくのは何か勘違いされそうだったので自重、ただゾロゾロと群れをなして席を離れていくのをボーッと眺めていると、残された俺たちの間にほんの一瞬だけ沈黙が流れた。

 実際、このメンツだと共通の話題も思いつかないしな。

 

「……それじゃ、お言葉に甘えて始めておこうか?」

 

 そんな重い空気を察したのか、葉山がそう言って一度爽やかに笑うと、磨いていたボールを手にレーンの前に立ち、そのまま流れるようなフォームでボールを放った。

 イケメン葉山が投げたボールはまっすぐにピンへと伸びていき、まるでそうなることが予め決まっていたかのように十本のピンが倒れ、スクリーンにストライクの文字が映し出される。

 

「うおー、ハヤトくんいきなりストライクとか、マジぱないわぁ。んじゃ俺も続いて……!」

 

 そんな葉山を見て、イケメンってボウリングをやるだけでも絵になるんだなと、俺が一人妙な関心をしていると「偶々だよ」と笑う葉山とやる気満々の戸部がハイタッチをしながら場所を入れ替わり、葉山がそのまま俺の隣の椅子へと腰を下ろしてきた。それもすぐ隣の席へ。

 くそ、荷物置いておくんだった。

 いや、パーソナルスペースって知ってる? できれば席一つ分は離れてほしいんですけど……。

 

「君が一人で来るとは、少し意外だったよ」

 

 しかし、そんな俺の心を知ってか知らずか、葉山はグイグイと俺のパーソナルスペースへと踏み込み、ポツリと俺にだけ聞こえるようなトーンでそんな事を言ってきた。

 

「何? 来ないほうが良かったの? 言ってくれればスグ帰るけど」

「ああ、いや。そういう意味じゃないんだ。勘違いさせたならスマナイ」

 

 俺の返答が意外だったのか、葉山は少しだけ驚いた顔をしたあと一度困ってように笑い謝罪の意を示してくる。

 だが、やはりその真意が掴めない。

 そういう意味じゃなきゃどういう意味だというのか。

 俺が来ないほうが良かったって意味じゃないの?

 

「君を誘ったら一色さんも一緒に来るかと思ってね」

 

 なんだそのシステム。

 俺は一色のバーター? それともグ○コのおまけなの?

 いや、アレはおまけの方が本体だから俺がキャラメルか。

 

「いや、流石にそんな事は……」

 

 だが「ないだろ」と続けようとした言葉は喉元でとどまり、音にはなってくれなかった。

 なぜなら無茶苦茶ありそうだと思ってしまったからだ。むしろある。

 もし今日のことを一色が知っていたら実際着いてきたんじゃなかろうか?

 だとしたら、葉山は始めからそれを期待していた?

 何故そんな回りくどいことを?

 誘いたいなら普通に誘えば……ああ、連絡先を知らないのか。

 

「まあ俺の考えすぎならそれでいいんだ。また彼女に怒られたくはないからな」 

 

 しかし、次に葉山の口から出た言葉は、またしても俺の予想とは違うモノで一瞬俺の思考が停止する。

 “また怒られる”というのは一体どういうコトだろうか。

 一色が葉山を怒った?

 どういう状況だ?

 ああ、いや待て。

 そういえば、文化祭の時、葉山が俺の名前を間違えたとかで一色が怒ったとか勘違いしてたな……。でもそのことと今の状況が上手く繋がらない。

 なんだか、何かが根本的に間違っているような……。

 

「あー、くそ!!」

 

 そんな俺の思考を止めたのは戸部の悔しげな叫び声だった。

 どうやらスペア狙いに失敗したらしくスコアに9という数字が刻まれた戸部が不服そうに席へと戻ってくる。

 

「次、比企谷だぞ」

「お、おう」

 

 そんな戸部と入れ替わるように葉山に促され、俺は慌てて席を立つと、自分のボールを持ち上げレーンの前で構えた。

 背中に葉山の視線を感じて少々落ち着かないが、ちょうどいい、このイライラを思い切りピンにぶつけてしまおう。

 ん……?

 イライラ……?

 

 そこで俺は何故か自分が今、無性に苛立っているコトに気がついた。

 おかしい、苛立つようなことなど何もなかったはずだ。

 今日ここに来たのは半ば無理矢理のような呼び出しではあったが、よくよく考えれば俺にとって初めての友達とのイベントでもあり、そこまで怒りを覚えるようなものではない。

 葉山が一色が来ることを期待していたことも、一色からすれば朗報だろう。

 なんならこの後俺がやるべきことは、一色の連絡先を葉山に渡すことかもしれない。

 だが……何故だろう。そう考えれば考えるほどに俺の中の苛立ちは増していく。俺は冷静に葉山を見極めなければならないのに……。

 

「ヒキタニくん? 投げねーの?」

「比企谷?」

 

 とはいえ、このまま力任せに投げてガーターなんていう間抜けな姿を葉山に見せたくもない。何となくだが、コイツには負けたくないのだ。

 なら、真面目にやるしか無いが……さて、どうしたものか。

 そもそもボウリング自体そんなにやったこと無いからなぁ……。

 確かこう……親指を抜いて投げるとスピンがかかりやすいんだったか……。

 せいっ!

 

 そうして俺は、親指を抜いたままのボールを力いっぱい放り投げる。

 するとそのボールは狙い通りレーンの少し右側に落ち、弧を描きながら中央のピンへと向かっていった。

 

「お待たせー! ってヒッキーストライクじゃん!」

 

 ヨシっと小さくガッツポーズを取り振り返るといつの間にか女子チームが戻ってきたようだ。

 三浦が先程俺が座っていた席へと座り、通路を挟んだ反対の席に海老名さんが腰掛けそれぞれの席が決まっていく中。由比ヶ浜だけが両手を上げたままトテテっと俺の元へとやってくるので、俺はそれに応えるように両手を上げる。

 

「イエーイ!」

「い、いえーい」

 

 いわゆるハイタッチだ。

 おお、なんか友達っぽい。

 ちょっと感動。

 心なしか先程まで感じていた苛立ちも収まっていた。

 

「ってかストライクだしてないの戸部っちだけじゃん」

「いやー、俺やっぱサッカー部だから足使わないと無理だわー、足使えたらストライク余裕っしょ」

「いや、それもう別の競技だから」

「それよりボウリングの球なんて蹴れないだろ、足痛めるぞ」

「いやいや、ウチの部長ならワンチャン? みたいな?」

 

 女子チームが戻ってくると周囲の空気が一気に変わり、そんな会話をBGMに入れ代わり立ち代わりで2フレーム目が進んでいく。

 

「部長って言えば隼人くん今度部長になるんだって?」

「まぁ……まだ分からないけどな。試験明けの試合の結果も絡んでくると思うし。俺よりふさわしい奴なんて沢山いるよ」

 

 こうなると俺は完全に蚊帳の外だ。まあ、別に良いんだけどね。

 おっと次は由比ヶ浜か。

 というか、由比ヶ浜の今日の服装、普通にミニスカートなんだが……。

 あのまま投げて大丈夫なの? 色々見えちゃわない?

 

「あちゃー、ごめんヒッキー……」

「お、おう」

 

 そんな事を心配しながら、由比ヶ浜の背中を見ていると一投目を投げ終えた由比ヶ浜が申し訳無さそうにそう言って俺の隣へと座り込んだ。 

 一応言っておくが何も見えては居なかったし、何も見えなかった。嘘じゃない。

 むしろなんで見えないの? 履いてないの?

 安心していいの?

 っていうか……なんで座ってるの?

 

「え?」

「え?」

「な、投げないの?」

  

 現在は2フレーム目の一投目でスコアは8。

 つまりもう一投、スペアのチャンスがあるのだが何故か由比ヶ浜は一仕事終えた感を出しているのだ、俺が思わずそんな間抜けな問いをしてしまうのも仕方のないことだろう。

 

「? 次ヒッキーの番だよ?」

「え?」

「え?」

 

 どうやら間抜けなのは俺だったらしい。

 てっきり1フレーム交代かと思っていたのだが。一投交代なのか。

 ってことはこの流れだと由比ヶ浜がストライク取るまで俺ずっと由比ヶ浜の尻拭いさせられるんですかね?

 しかもよく見ると今回残っているのは一番左の七番ピンと一番右の十番ピン。

 いわゆる“スネークアイ”や“セブンテン”と呼ばれる、スペアの取りにくい難しいスプリットだった。

 プロでも成功する確率が低いとされるこの状況で俺に渡すとはまた無茶を言ってくれる。

 

 だが、俺はこのスプリットの攻略法を知っていた。

 そして一投目を投げて分かった、今日の俺は非常に調子が良い。

 イマジナリーフレンドではなく、現実の友達が出来た今の俺ならこれぐらいの奇跡は起こせるような気がしている。

 これが……リア充パワー!!

 よし……!

 

 俺は先程と同じように親指を抜いたスタイルでボールを構えると、狙いを定めそのまま腕を振り子のように揺らし、ぽんっと軽くボールを落とした。

 

 見えた!

 

 そのボールは狙い通りレーンの右端へと落ちた。そしてそのままガタッと音を立てさらに右側にある溝へと落ち、まっすぐに闇へと飲まれていった。

 当然、ピンは一本も倒れてはいない。ガーターである。

 

「ど、どんまい!」

 

 うん、このビジョンが確かに見えていた。

 嘘じゃない。

 最初に言っただろ? これはプロでも取るのが難しいのだ。

 別に取れなくたって恥ずかしくもない。

 奇跡は滅多に起こらないから奇跡というのだ。

 リア充パワーなんて初めから無かった。

 ……ああ、口に出さなくてよかった、本当。

 

**

 

 そんな風に俺達はそれなりにボウリングを楽しみ、気がつけば最終フレームへと差し掛かっていた。

 ちなみにもうすでに勝敗は決まっている。

 葉山・三浦ペアの圧勝だ。どう転んでも逆転は不可能。

 え? 葉山に負けたくないって言ったのはどうしたのかって?

 いやいや、そもそも俺そんなボウリング得意でも無いし?

 由比ヶ浜だってそこまで得意って感じじゃない。

 それに、三浦は三浦で途中で疲れたとかいって途中で休み初めたから葉山ペアは葉山一人になった。

 ぼっち葉山の爆誕の瞬間である。だが、ぼっちの葉山は強かった。

 そう、ぼっちは強いのだ。かつての俺がそうであったように。

 ソレを証明するかのように、葉山は一人で奮闘し今は独走状態。

 残った俺と由比ヶ浜ペア、戸部と海老名さんのペアが接戦での三位争いをしているというのが現状だ。

 

「なあ比企谷、戸部。これで最後だし、最終フレームだけで改めて勝負しないか?」

 

 だが、そんな消化試合のような最終フレームの第一投を投げようとしている葉山がふいにそんな提案をしてきた。

 ここで勝負?

 一体何を言っているんだ?

 

「うおー、最後に勝負とか流石隼人君わかってるぅ。そんなんやるっきゃないっしょ!」

「勝負って何か賭けるの? 金?」

 

 クイズ番組でもないのだし、別に俺たちに逆転のチャンスを作る必要なんて無いはずなのだが、こいつは一体何を考えているのだろうか?

 皆でお手々繋いで仲良くゴール。なんて事を考えているわけでは無さそうだが……。

 

「いや、そうだな……勝った方は負けた方に何でも一つ言うことを聞いてもらえるなんてどうかな? もちろん常識的な範囲で」

「何それ、面白そう! でも隼人がそういうコト言うの珍しくない?」

「まあ、たまにはね」

 

 しかし、俺の予想を裏切り葉山の口から出てきたのはそんな提案だった。

 つまり、葉山は俺たちに何かさせたいことがあるのだろうか?

 それも強制力がなければ実行しなそうな範囲で……。

 

「嫌だよ。別に俺お前にして欲しいこととかないし」

「そうか、それは残念」

 

 当然却下だ。当たり前だろう。

 この場合葉山が俺に何をさせたいのか分からず、かといって俺は葉山にさせたいことなんて特に思いつかない。つまりメリットよりデメリットの方が大きいのだ。

 こんな勝負受けるほうがどうかしている。

 

「はー? ヒキオちょっとノリ悪くない? 隼人がこういうコト言うの珍しいんだかんね!」

「そうそう、やっぱこういうのはノリっしょ!」

 

 だが、葉山の周囲の連中はそんな俺を異端とみなしたようだった。

 ブーブーとブーイングの声が上がり、一瞬で俺が敵として認定される。

 さて、どうやってこの場を切り抜けるか……。

 

「あー……で、でもほら、私もちょっと怖いかもー? なんて? ほ、ほらもし戸部っちが勝ったら何命令されるかわからないし……」

「いやいや、俺そんな風に見られてんの? ないわー、まじないわー」

 

 幸いなことに由比ヶ浜も反対派だったようだ。

 さすが俺の友達。

 ちょっと三浦の視線が怖いが、ここはこの由比ヶ浜シールドで凌ぎきってみせよう。

 

「へぇ……結衣は隼人達じゃなくてそっちの味方なんだ?」

「あ、いや。だってほら、今私ヒッキーとペア組んでるし……」

 

 え? なんか由比ヶ浜シールドにイキナリひび入った音したんですけど……?

 まさか、まだ壊れないよね?

 頑張れ! 由比ヶ浜シールド! 負けるな由比ヶ浜シールド!

 三浦になんか負けるな!

 お願いします! 負けないで下さい!

 

「なら、男子だけでやればいいんじゃない? 私も結構疲れてきたし。……ああ! 男子三人が負けたら“何でも”! これは新しい扉が開けそうな予感!!」

「あ、それ面白そう! それなら私も応援する! ヒッキー頑張れ!」

 

 しかし、そんな俺の願いも虚しく今度は海老名さんからそんな援護射撃が入り、由比ヶ浜自身が勝負に参加しなくなる事で由比ヶ浜シールドは消滅してしまった。

 男女の友情は成立しないって聞くけど、本当だったんだな……。

 さようなら、俺の初めての友達……。

 ありがとう由比ヶ浜シールド……。

 

 というか、それが通るなら俺も不参加にしてほしいんですけど?

 なんで男子だけでやる方向で話進んでるんですかね?

 乗り気なの葉山と戸部だけなら俺も抜けて良くない?

 男女差別はんたーい!

 

「っていうことなんだけど、比企谷。改めてどうかな? そんなに深刻に考えず遊びの延長ってことで」

 

 どうやら、もう反対を貫いていいという雰囲気でも無さそうだ。

 気がつけば男子三人での勝負という流れが出来てしまい、葉山が改めて俺にそう問いかけてくる。

 周りの連中も後は俺が頷くのを待っているという感じ。

 これが、世にいう同調圧力という奴なのだろう。

 これがいわゆるゾーン。

 イケメンだけが使えるという、その場を支配する力か……はぁ……。

 

「……あくまで……常識的な範囲なんだな?」

「ああ、どうしても無理ならその時断ってくれても良い。俺自身そこまで無理なことを頼もうとも思ってないからな」

 

 まぁ、そこの言質だけ取っておけばなんとでもなるか……。

 そもそも負けなければいい話でもあるしな。

 

「分かった……やる」

 

 俺が観念してそう呟くと、葉山は少しだけ嬉しそうに笑い、三浦と由比ヶ浜がパンっとお互いの手を合わせ、戸部が「よっしゃー」と気合を入れ、海老名さんが「ハヤハチ……ッ!」と言いながらその場で倒れこんだ。

 大丈夫なんだろうか?

 あ、復活した。うん、大丈夫そうだ。良かった良かった

 

 しかし、罰ゲームありの勝負か……。

 なんだか今日はリア充みたいなイベント連発で少し困惑してしまうな。

 まるでココにいるのが俺じゃないみたいだ。

 もしこれがゲームとかなら、ここでの勝敗が大きな分岐になったりするんだろうか?

 まあ、現実的に考えるなら、普通にパシリとかさせられるんだろうけど……。

 

 とはいえ、まだ負けが決まっている訳ではないし、俺自身負けようと思っているわけでもない。

 元々葉山に負けたくないという思いはあったしな……。

 最終フレームだけなら体力勝負というわけでもないので俺にも十分勝機はあるだろう。

 

 よし……少し面倒だが気合入れてやるか……!

 見ていろ葉山……俺たちの戦いはこれからだ!




長い間ご愛読頂きありがとうございました。
白大河先生の次回作にご期待下さい。(続きます)

ラウンドなんちゃらと俺ガイルが(二年前に)コラボしてたの実は最近知りました。

というわけで、新年入って即ではありますが今日から古戦場ですね。
(2022/01/15 19:00~2022/01/22)
騎空士の皆様今年も張り切って頑張りましょう。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、ココスキ、DM、何でも良いのでリアクション頂けますと今年も変わらず作者がとても喜びます。
お手すきの際に一言でも二言でも気軽な気持ちでよろしくお願いいたします。


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第76話 カラオケと代償

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージ、DM、ここすき。読了報告etcありがとうございます。

騎空士の皆様、古戦場お疲れさまでした!
なんとか今月二話目間に合いました!



 葉山提案の男三人によるボウリング最終フレーム勝負が終わると、俺達はようやく本日の目的でもあるカラオケルームへと案内された。

 

「とりあえずドリンク頼んじゃおうよ、皆何にする?」

「俺コーラ! あとポテトとナゲットと……あ、たこ焼きとか良くね?」

「俺はとりあえず烏龍茶かな。たこ焼きは、まあ頼んでもいいんじゃないか?」

「じゃあ私もウーロン、あとなんかアイスと……海老名は?」

「えっと私はねぇ……」

 

 扉正面に大きなモニター、左右にロングソファーのあるその部屋に入るなり、葉山達は慣れた様子で注文を口にしながら、予め席順を決めていたのか? と思うほどに自然に自らの席を確保していく。

 右側のソファ奥から海老名さん、三浦、葉山。左側のソファ奥から荷物、戸部、由比ヶ浜という順番だ。

 当然、俺はどこに座ればよいのか分からず少し戸惑った後、最終的にテーブル側面に置いてあった一人がけ用のスツールに腰掛ける事にした。

 いや、その荷物どかしてくれれば俺も由比ヶ浜の隣に座れるんですけどね? うん。

 まあ、それを言うと俺が由比ヶ浜の隣に座りたくて必死な奴みたいなので黙っておくとしよう。

 ここなら外に出るのも楽だし、かえって安心するというものだ。

 

「ヒッキーは?」

 

しかし、そうして安住の地を見つけホッとしたのも束の間、由比ヶ浜から突然声をかけられ俺は思わず肩を震わせる。

 よく見れば先程ここまで案内してくれた店員が『早く決めろよリア充どもが』とでも言いたげな鋭い目つきをコチラに向けて扉の所で待機しているではないか。

 どうやらここはカラオケを開始する前に注文をしないと店員が帰ってくれないシステムらしい。いわゆるワンドリンク制というやつだな。

 これは早く注文しなければ俺までリア充認定されてしまう……早く決めなければ。

 だが、あいにくメニュー表はテーブルの向こうだ。

 しかも戸部や三浦達が未だにメニューとにらめっこをしている。

 さてどうしたものか……。

 

「あー、えっと……じゃぁ……俺も烏龍茶で」

「了解、じゃあウーロン三つと、あとピングレとオレジューと……」

 

 少し考えた後、結局俺は葉山達と同じ烏龍茶を頼むことにした。

 どんなメニューがあるか分からなくとも、すでに注文されているモノならメニューにあるのは確定しているからな。

 まぁ定番のアイスコーヒーとかならあるだろうとも思ったが、ボウリングで少し疲れも出ていたので少しさっぱりしたモノが欲しかったので、これはこれでヨシとしよう。

 物足りなければ二杯目で何か頼めばいいし、それになんとなく今一番飲みたいと思ってしまっている小町特製ミックスジュースはないだろうしな……。

 いや本当、アレ何が入ってたんだろう? 結局教えてくれなかったんだけど、妙に癖になる味だったんだよなぁ……なんか法に触れるもの入ってなきゃいいんだけど。

 

「んじゃ、トップバッター俺いっきまーす!!」

 

 そんなことを考えながら、今度こそ安心してボーッとしていると、いつの間にか店員も出ていったらしく、戸部がそんな言葉を叫びながらマイク片手に立ち上がった。

 

 すると他のメンツも「イエーイ」と盛り上がり。ルーム内に独特のテンションを形成していく。

 これがリア充特有の空気というやつなのか。もうすでについていけない。

 本当に俺はなぜコンナ所にいるのだろう? 帰りたい。

 

「あーしも入れよ」

「優美子ずっと歌いたがってたもんね」

「ねー?」

 

 だが、そんな俺の心境など知る由もなく、女子三人は戸部が入れた流行の歌のイントロが流れ出すとキャイキャイと盛り上がりながら物凄いスピードでリモコンを操作していく。

 そんなに歌いたい歌があるなら風呂ででも歌えばいいのに。そしてそれを家族に聞かれて恥ずかしい思いをすればいいのに。俺みたいに。

 

「ホントマジ満室とか勘弁してほしいって感じ」

「まあ、ゴールデンウィークだしな。仕方ないさ」

 

 とはいえ、本当に俺はこれからどうしたらいいのだろう?

 なんとなくこの集まりに呼ばれ、ボウリングこそ参加したものの、別に俺には歌いたい歌なんてない。

 残り時間、葉山たちの歌をひたすら聞かされるという退屈な時間を過ごすしか無いのだろうか? しかも有料で。

 いやいや、何が悲しくて金を払ってまで人様の歌を聞かなきゃいけないの? ライブなの?

 前回の一色とのカラオケの時は誕生日を祝う部屋を確保するという名目もあったし、バイトのお影で多少懐にも余裕はあるが、こんな素人の歌を聞くために稼いでるわけではないんだけどなぁ……。

 もしかしてコレが所謂お友達料金という奴なのだろうか?

 やっぱ友達関係……早まったかしら……。

 そんなモヤモヤを抱えながら、俺はちらりと由比ヶ浜の方を見てみる。

 すると当の由比ヶ浜は、リモコンを三浦に独占され手持ち無沙汰になってしまったのか、何やら指先のバンソウコウのようなものをペリペリと剥がしている真っ最中だった。

 そういえばコイツ屋上で会ったときも指にバンソウコウ巻いてたっけ。バンソウコウキャラなんだろうか?

 あれ? でも今ツケてるの右手の中指と薬指と……親指……だけ? しかも見た感じ汚れている感じもしない。なんで今剥がすんだ? ゴミが出るだけだろうに……。

 だが、そうして疑問に思いながらふと視線を動かせば、視界の端で海老名さんも同じ行動をしているのが見えた。

 三浦は……相変わらずリモコンをイジっているが……。

 もしかして女子だけに伝わるカラオケ前の儀式か何かなんだろうか?

 

「……二人して何やってんの?」

「ん? ああ、これ? 違うよこれはネイルバン。ボウリングするとき爪守ってくれるやつ、店員さんに言うと貰えるんだ」

 

 何となく俺が由比ヶ浜にそう尋ねると、由比ヶ浜は残りの指からそのネイルバンとやらを剥がしながらそう教えてくれた。

 へぇ……ただのバンソウコウかと思ったが、違うのか。

 いや、何が違うのかはよく分からんけど。

 

「男子はそういうの使わないから知らないんでしょ」

「そっか……。私いつも使ってたからコレが普通だと思ってた。私達が使ってたボールなんかもネイルが割れないように指入れるとこが柔らかくなってたりするんだよ」

 

 どうやら俺の知らない内に世の中は爪に優しくなっていたらしい。

 俺にはちっとも優しくないのに……。

 もしかして俺、爪以下ですか? そうですか。

 

「そういえば優美子は爪、大丈夫だったのか?」

 

 そうして俺が未知の爪業界へ思いを馳せていると、葉山が思い出したかのように隣の三浦にそう声をかけた。

 三浦の爪……?

 

「あ、うん……ちょっと痛かったけど割れたりはして無かった。……心配してくれてありがと」

 

 そこで俺は思い出した、三浦がボウリングのペア戦を早々にリタイヤしていたことを。

 なるほど、アレは爪に異常を感じたからだったからか。

 恐らく三浦はネイルバンを使わなかった、もしくは使ったが思っていたほどの効果は得られなかったのだろう。

 結果続投が困難になりリタイヤを選んだ。葉山はそれに気づいていたから文句も言わずに一人で黙々と投げていたと……。

 この辺りは流石イケメン葉山という所かもしれない。

 

「へぇ……結構大変なんだな」

「今日は急だったからどうしてもね、ヒッキーはそういうの気にしない人? ……って、ヒッキーめっちゃ深爪じゃん!」

 

 そうして俺が感心していると、由比ヶ浜が突然、俺の手を掴み叫びだした。

 なんで女子の手ってこう小さいんだろうな……由比ヶ浜の手は一色とも違って……ってイカンイカン。

 全く……安易なボディタッチはいけませんって何度言えば……!

 

「うへぇ、痛そう……」

「へぇ、意外。ヒキオってそういうとこ結構ちゃんとしてるんだ」

「深爪……隼人君にちゃんと配慮してるんだね……ハヤハチ捗る。ハァハァ……」

 

 なんとか平静を保とうとする俺、というか俺の爪を見ながら、女子三人が三者三様の感想を述べていく。

 男の深爪がそんなに珍しいのだろうか?

 葉山だって大して変わらないだろう。

 だが、海老名さんの様子を見るに、凄く嫌な想像をされているようなのでここはキチンと弁解しておいたほうが良さそうだ。

 

「俺の場合はギターやってるから……一応な」

「え!? ヒッキーギター弾けるの!?」

 

 そう、別に俺は元々深爪派だったわけではない。

 それこそほんの一年前までは特に何も考えず、ごく普通に『伸びたと感じたら切る』その程度の認識しかしていなかった。

 だが去年の誕生日、パパハスこと弘法さんからギターを貰った事で少しずつ爪に対する意識も変わっていったのだ。

 そりゃ、最初からそこまでやる気があったわけではない。深爪なんて痛いし怖いし出来るならやりたくはない。

 だが、一色が総武を目指すと決めた辺りからだろうか? 一色家へ赴く頻度が上がり、同時に弘法さんと会う機会も増えた事で、弘法さんからのアドバイスやレッスンを受ける機会も増え、爪に対する意識も少しずつ変わり、俺の爪は深爪が普通になっていったのである。

 弦を押さえる指先も大分固くなってきているので『ギターをやっている』と言っても見栄や嘘ということにはならないだろう。

 

「へぇ、意外だな。比企谷にそんな特技があるとは」

「特技ってほどでもないけどな……」

 

 とはいえ、実際俺が弾ける曲はそれほど多くはない。

 俺の腕前はあくまで嗜む程度。初心者の壁と言われるFコードこそ乗り越えたものの。弾ける曲は弘法さんが練習用にと勧めてくれた一昔前のポップスを数曲となんとなく雰囲気だけ練習したアニソンが数曲程度だ。

 流行の最新曲なんて当然弾けないし、人様にお披露目できるようなものでもない。

 もし『何か弾いてくれ』という定番のリクエストを受けたところで、白けた空気が流れることは分かりきっていた。だからこの話はもうさっさと終わって欲しいのだが……。

 

「ヒキタニくんギター弾けるってマ? なんなら俺らとバンド組んじゃう?」

 

 そんな俺の心境など知る由もなく。

 タイミング良く一曲目を歌い終わった戸部が会話に割って入ってきた。

 

「バンド?」

「ああ、実は俺もギター、戸部はドラムを始めてね。まぁ、まだ人前で弾けるような状態じゃないんだけどそういうのもいいなって話をしてたんだ、良かったら今度一緒に……」

「断る」

 

 戸部の言葉を引き継いだ葉山の補足が言い終わる前に俺はその申し出を断ると、葉山は「そ、そうか。残念だな」とさして残念でも無さそうに苦笑いを浮かべた。

 全く、何を言っているんだコイツは。

 俺はこれ以上面倒な事に巻き込まれたくはない。

 バンドなんて始めたらどうせ部とか立ち上げたり、ライブやりたくなって路上で歌ったり、打ち上げで変なやつに絡まれたり、パリに卒業旅行に行かなきゃいけなくなったりするのだろう? そんなのはゴメンなのである。

 俺のギターはあくまで個人的な趣味。人様と──それこそ葉山と一緒にやるようなのではないのだ。

 セッションなんて、何ヶ月かに一度弘法さん指導のもとにやるぐらいで十分である。

 

「えー、でも私もヒッキーのギター聞いてみたい!」

 

 だが、それでもなお食い下がってくるのは由比ヶ浜だった。

 一体俺のギターに何を期待しているというのか……。

 やはりこんな所でギターの話なんてするべきではなかったのかもしれない。

 

「……まぁ、機会があったらな」

 

 仕方なく、俺は社交辞令を口にする。

 これ以上問答をするのも面倒だし……まあ、大人の対応という奴だ。

 ああいや、そもそも由比ヶ浜の言葉自体が社交辞令という可能性もあるか。

 どちらにせよ、俺自身がギターを持ち出すつもりもないので、こんな話はそのうち忘れられるだろう。

 

「うん、約束ね!」

「ドリンクお持ちしました」

「あ、はーい」

 

 由比ヶ浜が嬉しそうにそう言うと。タイミング良く部屋の扉が開きトレイに大量の飲み物やら食べ物を載せた店員が入ってきた。

 店員はそのまま俺のスグ横で跪くとテキパキとトレイの上のものをテーブルの上に移動させていく。

 だが、どうにも雑だ。

 新人なのか、それともゴールデンウィークの忙しさのせいなのかは分からないが、ガチャガチャと皿同士をぶつけながら、テーブルの片隅に大量の飲み物やら食い物やらを所狭しと並べていく。

 

「ごゅっくりどぞー」

 

 そうしてやる事はやったと言わんばかりに適当な挨拶をして店員が出ていくのを確認すると、俺と由比ヶ浜は席が近かったというのもあり、店員が無理やりテーブルに置いたメニューを改めて並べ直していく。

 とりあえず……大皿は中央でいいよな。

 ……たこ焼きと……ポテトと……。

 ってああ、テーブルの下にポテト落ちちゃってるじゃん勿体ない……。

 誰か踏む前に拾っとくか。

 

「えっと、コーラが戸部っちでしょ? ウーロンはヒッキーと優美子と……」

「あ、あーしもう隼人から貰った」

「え? じゃあこっちが隼人君か、はい隼人くわっ!?」

「冷っ!?」

 

 俺がスツールに座ったままテーブルの下に落ちたポテトを回収し、頭を上げた瞬間、何かが俺の後頭部にぶつかった。

 直後、冷たい液体が俺の首元から背中へと広がり、中身をぶちまけたプラ製のコップがコンッと床を叩く。

 

「ヒッキーごめーん!! 大丈夫!?」

「あ、ああ……俺こそ悪い……」

 

 一体何が起こったのかと状況を確認すると、どうやら俺の目の前でドリンクの受け渡しをしようとした由比ヶ浜の腕と俺の後頭部が接触してしまったらしい。

 結果、由比ヶ浜が持っていた烏龍茶が俺の背中にぶちまけられたと……。

 完全に俺の不注意……とはいい難いが。まあフィフティーフィフティーという所だろうか。

 全くツイテイナイ……。

 

「ヒキオ、とりあえずコレ使いな」

「お、おお。サンキュ」

 

 ポタポタと背中から滴る烏龍茶に成すすべなくただ呆然としていると、三浦がそういってギャルにはあまり似つかわしくない可愛らしい花柄の刺繍がが施された小さなハンドタオルを投げてくれた。

 一瞬使って良いものか悩んだが、どう見ても備え付けの紙ナプキンで拭き取れるような量ではないので、俺は一瞬だけ迷った後遠慮なく首元を拭わせてもらう。

 後で高額なクリーニング代請求されませんように……。

 

「私もタオル……あー、今日ハンカチしか持ってきてないや、しかもさっき使っちゃったからちょっと湿ってるし……」

「なんなら一回脱いだほうが良くないか?」

 

 葉山にそう言われ一瞬悩むが、確かにこの被害量だと一度脱いでしまったほうが良さそうだ。

 とはいえ、ここで脱ぐのはちょっと抵抗があるな、なら……。

 

「ああ、まぁ……そうだな……ちょっとトイレで絞ってくる」

 

 俺がそう言って立ち上がると、背中に留まっていた小さな氷が床に落ち、腰のあたりで止まっていた水が一気に下半身へと侵食していくのが分かった。

 まずいな……これじゃ漏らしたみたいだ……。とにかくこれ以上被害が広がる前になんとかしなくては。

 

「悪いけど、後任せていいか?」

「う、うん大丈夫! こっちは任せて。本当にごめんね」

「ああ、気にするな」

「がんばれよー!」

 

 俺はびしょ濡れのスツールや床を由比ヶ浜に任せ、一人部屋を後にする。

 全く、歌いたくもないカラオケに来て、ボウリング勝負までさせられて……今日は厄日だろうか?

 ああ、やはり家でのんびりしていればよかった。

 

 そんな後悔をしながら、俺はトイレへと飛び込んでいく。幸い、俺以外に利用者はいなかったので、俺はそのままトイレの個室へと入り上着を脱いだ。

 しかし、トイレで半裸とか本当俺なにやってんだろうな。

 こんな所誰かに見られたら完全に変質者扱いだ。

 バレる前にさっさと抜け出さなくては。

 俺は便器の上でシャツを絞り、脱いだシャツで髪と背中を拭う。

 若干パンツも冷たくなっているが……その辺りはトイペで対処。

 とりあえず、これ以上の侵食は防げた……と思う。

 でも、結局これをもう一度着なきゃいけないことには代わりないんだよなぁ……。

 さて、どうしよう。

 トイレに備え付けられているハンドドライヤーでも使ってみるか?

 だが、ハンドドライヤーがあるのは個室の外。

 その間に他の利用客が来たらアウトだ。せめて見張り役がいてくれれば……。

 

「比企谷、大丈夫か?」

 

 そんな事を考えていると、扉の向こうから声が聞こえた。

 突然のことで思わず身構えてしまうが。この声は葉山だろう。

 助かったという思いと、戸部なら良かったのに。という複雑な思いが俺の中を駆けめぐる。

 

「葉山か? 何? 笑いに来たの?」

「はは、そんなことしないさ。何か手伝えることないかと思ってね。良かったら服買ってこようか? Tシャツなら売ってるみたいだけど……」

「……」

 

 それは非常に魅力的な提案だった。

 新品のTシャツを着れるならそれに越したことはないだろう。

 だが、問題は値段である。

 多少金に余裕はあるとはいえ、元々俺は衣服に金をかけるタイプではない。

 こんな所でデザインも良く分からない服を買うという状況に二の足を踏んでしまう。

 しかも葉山をパシらせる形で。

 これは非常に難問だ。

 もしこれが小町や一色、材木座あたりだったら頼んでしまっていたかもしれない。

 だが、俺はこれ以上(・・・・)葉山に借りを作りたくもなかった。

 

「……いや、まぁ、真冬ってわけじゃないし放っておけば乾くだろ」

 

 だから俺はできるだけ平静を装って葉山の提案を拒み、まだ濡れているシャツを広げ、バサバサと大きく振る。

 こうなったらもはやハンドドライヤー作戦も諦めるしかないか。

 

「そうか、他に何かできそうなことがあったら言ってくれ」

「ああ……」

 

 しかし、葉山はそんな俺の見栄から出た言葉を見透かしたかのように受け流し、それ以上何も言わず、トイレの中に沈黙が流れる。

 個室の扉は閉まっているのでお互い顔は見えないが、葉山が部屋に戻った気配はない。

 恐らく俺が出てくるのを待っているのだろう。

 全く……俺のことなど気にせずさっさと戻ってくれれば俺も気が楽なんだけどな……。

 だが、きっと“イケメン葉山”としては。ここでびしょ濡れの知人を放っておくという選択肢を取ることができないのだろう。

 葉山隼人というのはそういう男なのだ。

 

「……その……悪かったな……」

「ん?」

 

 そんな状況になんとなく耐えられず、先に口を開いたのは俺の方だった。

 葉山を連れたコンナ状況で一人トイレの個室でシャツを乾かしているのが情けなくなったというのもあり、ついそんな言葉を漏らしてしまった。

 

「お前のだったんだろ? 烏龍茶。代わりに俺の飲んでてくれていいぞ、手ツケてない」

「何かと思ったらそんなことか」

 

 何が面白かったのか、俺の言葉に葉山は笑いながら「気にするなよ」と返すとククッと笑う。

 まあ、葉山ならそう言うだろうとは思っていたので想定内ではあるのだが……。

 しかし、俺にはソレ以上に謝らなければいけないことがあった。

 飲み物なら弁償すればいい、だが弁償できないものもあるのだ。

 

「それに……」

「それに?」

「……それに、場、シラけさせちゃっただろ……」

 

 それは空気。

 別に俺はいちいち葉山達の空気に合わせようとかそういうつもりはないが、文字通り俺の行為が葉山達の楽しみに水を指したのは間違いない。

 恐らく、俺はもう二度とこの集まりには呼ばれないだろう。

 別に呼ばれたいと思っている訳でもないが。

 俺を呼んだことで由比ヶ浜に気まずい思いをさせたくもなかった。だからココで俺はコイツに謝っておく必要があったのだ。

 

「そんなコト気にする連中じゃないさ。まだまだ時間はあるし早く戻って皆で楽しもう」

 

 だが、葉山は事も無げに二度目の謝罪も受け流す。

 本当にどうでも良いとでも言いたげなその口調が妙に腹立たしく、シャツを振る俺の腕に少しだけ力が入ってしまう。

 俺たちの間に再び沈黙が流れ、パンパンという少し強めのシャツをはたく音だけがトイレに響くと、やがて、トイレに葉山ではない他の客が入ってくる気配を感じた。

 

 はぁ……さすがにいつまでも個室を占領しているわけにはいかないか……。

 そもそも五分やそこらで乾く量でもないし……仕方ない。

 俺はTシャツ購入の提案を断ったことを少しだけ後悔しながら、まだ濡れているクシャクシャのシャツを身に纏い、扉に手をかける。

 ああ、背中が気持ち悪い。

 まるで、これからあの場所に戻らなければならないという俺の心境を表しているかのようだ。

 

「……待たせたな」

「いや。……大丈夫か?」

 

 全くもって大丈夫ではないが、俺はコクリと一度頷き、葉山と供に由比ヶ浜達のいる部屋へと戻っていく。

 そういえばさっき慌てて飛び出たので部屋番号を覚えていなかったりするんだが……、まあ葉山がいれば大丈夫だろう。

 コレばかりは葉山に感謝だな……。

 ああ、それにしても背中が冷たい。早く乾きますように。

 

「あ、ヒッキー、おかえり。隼人君も。……大丈夫だった?」

「ああ、まあ……悪かったな後始末任せちゃって」

「ううん、こっちこそ本当にごめんね……ちゃんと弁償するから!」

「いや、そこまでしなくてもいい、本当。ちょっと濡れただけだ。洗えば問題ない」

 

 勢いよく立ち上がる由比ヶ浜を静止し、俺は少しだけ気まずい空気を肌で感じながら元のスツールへと腰掛ける。

 その周囲は店員によって掃除がなされたのか、はたまた由比ヶ浜達の手腕によるものかは分からなかったが、もはやチリ一つ残っていないんじゃないかと思うほどキレイになっていた。

 というか、逆に俺のシャツの方を任せてキレイにして貰えばよかったまである。

 

「それじゃ、戸部頼む」

「OK! んじゃ隼人君とヒキタニ君も戻ってきたことだし、気を取り直して盛り上がっていきまっしょうー!!」

 

 やがてそんな俺と由比ヶ浜の暗い雰囲気を吹き飛ばすように戸部が立ち上がりそう叫び始めた。

 こういう時こういう奴がいるのは助かるな。

 その瞬間俺の中で初めて戸部の株が上がったと言っても過言ではない。

 延々謝られるより、いっそ放っておいてくれたほうが助かるのだ。

 後は俺は壁の花になっていればいい……。

 

「ヒ、ヒッキーも何か歌う?」

 

 だが、そんな俺に変わらず話しかけてくる人物がいる、由比ヶ浜だ。

 

「え……いや、俺は別に……」

「……そ、そっか」

 

 当然、俺は断るのだが、今度は由比ヶ浜が萎縮し、分かりやすく落ち込んでしまう。

 困った。

 ここは詫びの意味も込めて俺が何か歌った方が良いんだろうか?

 でもなぁ……。

 俺の歌なんて誰も聞かないだろうし、逆に白けさせてしまう可能性のほうが高い。

 ここは大人しく壁の花を演じている方が良いと思うんだが……由比ヶ浜はそれでは納得してくれなさそうだ。

 

「そうだ比企谷、さっきの勝負覚えてるよな?」

 

 どうしたものかと、俺が頭をひねっていると突然横から葉山が声をかけてきた。

 『さっきの勝負』つまり先程行ったボウリング最終フレーム勝負の事を言っているのだろう。

 それを今ここで持ち出すとは……なんだか嫌な予感がする。

 

「……覚えてるけど。何? 俺に何させるつもり?」

 

 その勝負の条件は勝ったほうが負けたほうに何でも命令できるという単純明快なもの。

 そして、誠に遺憾だが、俺はその勝負に敗北したのだった。

 つまり、今の俺は葉山の命令を一つだけ聞かなければいけない立場にあった。

 そう、それこそが俺が葉山に対して「これ以上借りを作りたくない」と思っていた原因でもあった。

 ボウリングが終わった後、そのまま慌ただしくカラオケに移動してきたので、後日何か無理難題を課されるのだと思っていたが……まさかこのタイミングで持ち出してくるとは思わなかった。

 

 くそ、やはりどんな手段を使ってでも勝ちに行くべきだったか。

 いや、だが敗北といっても勝負自体は非常に僅差ではあったんだよなぁ。本当あと二本。あそこでスペアさえ取れればなぁ……。

 やはりあんな勝負受けるんじゃなかった……。

 ちなみに一応言っておくとあと一本倒せていれば戸部ともタイだったことを付け加えておこう……。

 ああ、そうだよ、ビリだったんだよ畜生。

 

「それじゃ、ここは空気を変えるためにも一曲、比企谷の歌を聞かせてもらおうか」

「えーいいじゃん! ヒキオ歌いなよ」

「比企谷くん頑張れー!」

「ヒキタニ君ワンマンライブとかマジ上がるわー」

「は? いや、でもそれは……」

 

 何故か俺の意見ガン無視で盛り上がり始めている葉山一同。

 いや、だから俺このメンツで歌える歌とかないぞ?

 前回の一色のバースデーカラオケだって俺自身はほとんど歌っていないのだ。

 アイツらが入れた曲を一緒に歌えと言われてマイクを渡されたぐらい。

 それなのに、完全にアウェーなこの状況で一人で歌えと?

 

「別に無理難題ってほどじゃないだろ? カラオケで歌うだけなんだし、かなり常識的なお願いのつもりだけどな」

「そりゃ、まぁ……そうかもしれんが……」

 

 確かに、カラオケで歌うだけと言われれば非常に常識的な範囲かもしれない。

 だが、よく考えて欲しい。

 陽キャのノリに混じって陰キャが一人歌うとか拷問以外の何者でもないだろう。

 なんならその様子を撮影されて、在学中ずっと笑いものされるまである。

 

「それとも、今度改めてギターの演奏会をして貰うほうがいいかな? まあ俺としてはどっちでもいいけど」

 

 く……葉山め。

 とうとう本性を出してきやがったか。なんて汚いやつなんだ。

 鬼! 悪魔! 葉山!

 

「は、隼人くん、皆も! そういう無理強いは……!」 

「はー? カラオケ来て一曲も歌わないとかありえないっしょ? こんなん隼人の命令とか関係なくない?」

 

 そんな状況でも俺を庇おうとしてくれるのは当然由比ヶ浜なのだが、これはこれでまずい。

 このままでは矛先が由比ヶ浜に移ってしまう。それだけは避けなければ。

 由比ヶ浜は俺の唯一の友達なのだ。

 俺が原因で由比ヶ浜の立場が危うくなる自体だけは避けなければ。

 

 そう考えた俺は仕方なく、由比ヶ浜が見せてくるリモコンの画面に視線を移す。

 幸いなことにそこには人気の曲ランキングというのが表示されていた。

 『うるさいなぁ』とか『ぼっちは嫌われている』とか『melon』とかネットでも有名になったサビや一番だけなら俺でも聞いたことがあるような有名な曲ばかりだ。

 この辺りなら問題ないか……?

 

「あー……コレなら歌える……かも?」

「え? どれどれ?」

 

 口に出したつもりはなかったが、どうやら声に出ていたらしい俺に、由比ヶ浜が慌ててリモコンの画面を見せてくる。

 一つのリモコンの画面を二人で見る状況になるので当然、距離が近く、お互いの肩が触れ合ってしまっているが、今はそんなコトを考えている暇ではない。

 どうやら、もう俺が歌うことからは逃げられそうにない覚悟を決めるか……。

 そう考え俺は観念して由比ヶ浜が持つリモコンの画面に表示されている一曲を指差した。

 

「えっと……こ、これ?」

「コレね! じゃあコレ一緒に歌お!」

 

 え? 一緒に歌うんですか?

 俺パート分けとか分からないんだけど?

 っていうかこれデュエット曲だったっけ?

 まぁ……いいか。

 

***

 

**

 

*

 

 ──ああ、喉が痛い。

 気がつけばすっかり日も暮れて、十八歳未満は入場お断りの時間になり現地解散となった俺は一人帰路へついていた。

 

 まぁでもなんだ、その……思っていたより楽しめたな。

 俺の歌なんて誰も聞かないし、俺が好きな曲なんて誰も知らないだろうと思っていたのだが、結局あの後俺が歌ったコトで場が盛り上がり、その後も何曲か歌わされてしまった。

 カラオケって思っていたより難しくないのかもしれない。

 今度また一色と小町誘って行ってみるのもいいかもな……その時は由比ヶ浜にも声かけてみるか。今日の詫びもこめて。

 

 しかし何にしても今日は疲れた。

 慣れないことをしたせいか頭も重く、なんだか背中もまだ冷たい気がするし、さっさと風呂に入ってベッドに倒れ込んでしまいたい気分だ。

 

「あ、センパイおかえりなさーい! 遅いですよー!」

 

 そうして重い体を引きずり、なんとか我が家の玄関の扉を明けると、そこには何故か一色が居た。

 あれ? 俺家間違えた?

 一色の家に通っていたから無意識に一色の家に来てしまったのだろうか?

 いやいや、そんなわけないだろう。

 オートロックなかったし。エレベータに乗った記憶もないんだが?

 

「ちょっと八幡、こんな可愛い子放ってドコ行ってたの!」

「え? 母ちゃん……」

 

 混乱した俺が声のした方角に視線を動かせばキッチンの奥から母ちゃんが顔を覗かせて来る。

 母ちゃんがいるということはやはりココは俺の家か。

 という事は……えっと……どういうことだ?

 駄目だ、疲れてるせいか頭が働かん……。

 

「あー……なんで一色がウチにいんの?」

「ゴールデンウィークだからって遊びに来てくれたんだよ、お兄ちゃん何度LIKEしても全然返事しないんだもん」

 

 今度は小町にそう説明され、俺はポケットからスマホを取り出してみる。

 するとそこには二桁に及ぶ一色、小町、そして母ちゃんからの通知が入っていた。ちょっと怖い。

 ん? でも今日スマホ全然鳴らなかったよな?

 ああ、いや、そういや昨晩LIKEの通知を切ったんだった。

 そうか、通知を切ると一色や小町からの通知も来なくなるのか……そりゃそうだわな。後で直しとこう。

 まあ何はともあれ今は風呂だ……。

 

「とにかく、もうご飯だからあんたも早く来なさい。今日のご飯いろはちゃんが手伝ってくれたのよ? やっぱり女の子っていいわぁ」

「お母さん? 小町も女の子なんですけど……?」

「えへへ、今日のは結構自信作なんですよ──ってセンパイドコ行くんですか? ご飯できてますよ?」

「風呂……今日は疲れたからとにかく風呂入りたいんだよ……なんか寒いし服も汚れてるし」

 

 右手に絡みつく一色を振りほどこうとすると、今度は左側に小町が絡みついてくる。

 仕事から戻って、子供に纏わりつかれる親ってこんな感じなんだろうか?

 本当お疲れさまです。 

 

「汚れてるって、センパイどこ行ってきたんですか? ん? っていうかセンパイなんか顔赤くないです? はっ! もしかしてセンパイご飯にする? お風呂にする? それとも……っていうのを期待して? そりゃ私だってそういう妄想したことぐらいはありますけど流石にお米の前でとか無理なのでごめんなさ──ってセンパイ聞いてます? おーい、センパーイ?」

 

 ああ……頭がガンガンする……。なんでこう女子っていうのはウルサイんだろう。

 俺はただ風呂に入って布団で寝たいだけなのに……。

 

「うわ! 熱っ! センパイ熱あるじゃないですか! もう! 本当にどこ行ってたんですか──ってえ!? なんで脱いで!?」

「ちょ! お兄ちゃんここで脱がないでよ! ちょっとお母さーん!! お兄ちゃんが壊れたー! お母さーん!!」

「おば様大変です! おば様ー!」

 

 おば様って誰だよ、うちの母ちゃんはおば様なんて柄じゃないぞ。

 

 おば様っていうのはどっちかって言うともみじさん。いや、楓さんだな。

 うむ。楓さんにこそふさわしい称号だと思う。

 上品で優しく優雅、まさしく様を付けるにふさわしい女性だ。

 それに比べたらうちの母ちゃんなんてオバハンだぞ、オバハン。

 比べることすら烏滸がましい。

 小町も一色ももっと楓さんを見習って──。

 

 そんなコトを考えながら俺はガンガンと響く頭を押さえ、小町と一色の声をステレオ音声で聞きながら最後の力を振り絞りズルズルと風呂を目指したのだった。




読んで頂きありがとうございます。
※この作品はフィクションですネイルバンが現在も貰えるかどうかはわかりません

前後編となった葉山グループとのグループデート(?)回いかがでしたでしょうか?
八幡的には踏んだり蹴ったりな今回でしたが、それなりに良い思い出にはなったのではないかなぁとか思っているのですが……さてさてどうなることやら。

ということで次話もよろしくお願いいたします。

感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージ、ココスキ、読了報告など何かしらリアクション頂けますとモチベーションも上がりますのでお手すきの際には何卒よろしくお願いいたします。


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第77話 ご注文はお見舞いイベントですか?

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告etcありがとうございます。

前回更新後久しぶりに日間ランキング一桁台に乗ったようです。
これもひとえに皆様の応援の賜物です
心より御礼申し上げます
ありがとうございます

それでは77話をお楽しみ下さい




 その日の朝は今年一番と言っていいほど最悪な目覚めの朝だった。

 

 張り付く瞼に飛び込んでくるのはカーテンの隙間から差し込む陽光。

 恐らくはもう朝なのだろう。

 しかし、寝起きの爽快感などは欠片もなく、感じるのはまるでサウナにでも入っているのかと思うほどの熱っぽさと全身の怠さ、喉に何かが張り付くような異物感。そして鼻詰まり。

 これは……やはりというかなんというか……完全に風邪だな。

 ある程度覚悟はしていたが、ここまで酷い状態になるとは……。

 

 原因は分かっている、昨日半日近く濡れたシャツを着ていたのが原因だろう。

 少し暖かくなってきたからと油断しすぎた。

 こんなことなら恥を忍んででも葉山にTシャツを買ってきてもらえば……いや、よそう。そんな事を考えても全ては後の祭りというもの。今はとりあえず体を休めるしか無いか。 

 

 幸いなことに今はゴールデンウィーク。

 今日以降特に予定が入っている訳でもないし、一日中ベッドで過ごしてもなんら問題はない。

 まあ、流石に昼過ぎても起きてこなければ小町や母ちゃんが部屋に突撃してくるだろうが、風邪だといえば、文句を垂れながらもそれなりに看病してくれるだろう。

 なら、とりあえずもう一眠り……。

 

 そう考え、俺は再び布団を被って眠る姿勢に入る。所謂二度寝だ。

 だがその瞬間、コンコンと部屋の扉を叩く音がした。

 小町だろうか? それともお袋か、思っていたより早いな。まぁとりあえず風邪だという事実だけ伝えて退室願うとするか……。

 

「センパーイ……? 気分はどうですかぁ?」

「あうぇ? 一色?」

 

 しかし、そんな俺の予想を裏切り、扉から現れたのは私服姿の一色いろはだった。

 あれ? なんで一色が?

 昨晩一色が家に来ていたのは覚えているが、まさかそれほど時間が経っていないのか?

 そう考えた俺が慌ててスマホを確認する。

 時刻は九時を回ったトコロ、当然PMではなくAMだ。

 どうやら朝なのは間違いじゃないらしい、いや、そりゃそうださっきからずっと窓の外が明るいじゃないか。

 だとしたらなぜ一色が?

 もしかして泊まっていったのか?

 

「え? ……なんでいんの? 泊まったの?」

 

 肘で体を支えながら、半分だけ体を起こした姿勢で咳混じりに俺がそう問いかけると、一色は「あ、無理しないで寝ててください」と言いながら特に遠慮するでもなく部屋の中へと入ってくる。

 いやいや、寝てられる状況じゃないだろう。

 というか、俺を寝かせたいなら入ってこないでほしいんですけど?

 

「泊まっても良かったんですけどね。準備もしてなかったので残念ながら昨日は一度帰って、さっき改めて来た所です」

 

 なにが残念なのかは分からないが、一色はそういうとベッドの横にちょこんと座り、心配そうに俺の顔を見つめてきた。

 とりあえず一度帰宅はしたらしい。

 にしてもゴールデンウィークのこんな朝早くから来るとは、もしかしてこいつ……よっぽど暇なのだろうか?

 本当に友達いないんじゃないかと少し心配になる。

 状況が状況なら人生相談を仕掛けるところだぞ全く。まあ、今はそんな余裕ないんだけど。

 

「具合、どうですか?」

「……正直……あんま良くはないな」

「ならちゃんと寝ててくださいよ!」

 

 一色の問いに答えると、一色はそう言って俺を押し倒し、首元までしっかりと布団を被せてきた。まったくもって理不尽だ。

 そもそも一色がこなければ、俺は何事もなく今も眠っていた筈なのだ。

 むしろ今は一色のせいで寝られないまである。

 だが、そんな事を口に出せば余計面倒なことになるのは目に見えているので、あえて口には出さない。

 俺は大人だからな……。

 とりあえず、これ以上面倒な事にならない内に要件を済ませてさっさと帰ってもらおう。

 

「……で、朝から何の用? 悪いけど今こういう状態だからお前の相手はしてられそうにないんだけど……」

 

 そう思い、俺が一色に視線と共に抗議の意を示すと、一色は一瞬だけ驚いたように目を丸く見開き、小首を傾げた。

 こいつ何いってんだ? みたいな顔だ。ちょっとむかつく。

 

「あれ? 聞いてないですか? オバ様が今日からお友達と旅行に行くそうなので代わりに私がセンパイの看病することになってるんですけど」

「……全く、聞いてませんね……」

 

 ええー……母ちゃん何してんの?

 あ、でも待てよ? そういや、今年のゴールデンウィークは泊まりで大学時代の友達と旅行に行くとか言ってたな。

 一昔前のゴールデンウィークといえばそれこそ家族で旅行なんかにも行ったもんだが、いつの間にかそんな行事も無くなり、今は皆結構好き勝手してるんだよな。

 去年は言わずもがな俺の事故のコトもあったし、今年は今年で小町が受験だし……。

 あれ? そういえば小町は?

 看病なら小町にしてもらえれば俺も気を使わないし楽なんじゃない?

 態々一色に頼む必要がない筈なのだが……。

 マイスイートリトルナース小町はいずこへ?

 

「え? 小町は……?」

「お米ちゃんはお勉強するそうなので、図書館に行ってもらいました」

「そか、まあアイツも受験生だしな……ん? 今『行ってもらった』って言った?」

 

 なんだか不穏な言葉を聞いた気がするが、一色は俺の問には答えず、俺の額にその小さな手のひらを重ねて来る。どうやら深く聞いてはいけないことだったらしい。

 まあ……勉強しなきゃいけないのは本当だろうし、図書館なら問題ないか……。迷子になったりはしないだろう。多分。恐らく、きっと。

 態々俺の看病のために戻ってきて貰うのもなんだしな……。仕方ないか……あれ?

 という事はもしかして、もしかしなくても今この家、俺と一色さんの二人きりですか?

 

「うーん、結構熱あるみたいですね……体温計ってどこにあるか分かりますか?」

「……リビングの……テレビの横の棚に入ってると思う……多分」

 

 家に二人きりという状況を意識した瞬間、突然額に一色の手のひらの柔らかさを感じ、思わず俺の心臓が跳ねる。

 どうやら、俺の熱を計っているようだ。

 しかし、そうと分かっていても、その小さな手のひらは、まるで俺の熱を吸収しているのではないかと思うほど、ほんのりと冷たくいつまでもそうして貰いたいと思う反面、女子に触られているという事実と寝起きで汗ばんでいたというじぶんの状況に思い至り、徐々に恥ずかしさが勝っていく。

 まずいまずいまずい。

 

「了解ですじゃあちょっと探してきますね。あと、お粥作ったんですけど食べられそうですか?」

「……貰う」

「ならすぐ持ってきます」

 

 ソレ以上その姿勢でいることに耐えられなくなった俺は食欲が無いことも忘れ、そう言って一色の手を払うと一色はそんな俺を見透かしたように小さく笑いながら立ち上がり部屋を出ていった。

 トントンという小気味良い足音を鳴らし、階下へと降りていく一色の気配を感じながら、俺はこれからどうしたものかと少しだけ思案を巡らせ、ゴホゴホと我慢していた咳を放った。

 

*

 

「はい、熱いから気をつけて下さいね? ふーふー……あーん」

 

 一色が戻ってくると、その手には小さな盆と土鍋が用意されていた。

 中身は参鶏湯(サムゲタン)──ではなく梅干しの乗ったシンプルなお粥だ。

 世の中には看病食に参鶏湯が出ると炎上するという都市伝説があるらしいのでそれを避けた結果なのかもしれない。

 まあコイツがそれを知っているかどうかはさておき、一色は慣れた手付きでその土鍋に入ったお粥を一部茶碗に移すと、その茶碗とレンゲを持ち、そうする事がさも当然とでも言わんばかりにベッドの横で膝立ちになったままレンゲを俺の口元へ運んでくる。

 

「いや、自分で食えるっつーの」

「病人なんですから、ワガママ言わないで下さいよ。ほらあーん!」

「どっちがワガマむぁ」

 

 そんな俺の抗議の言葉は粥と一緒に口に押し込まれる。

 熱……くはないな。

 一色が冷ましてくれたお陰か、程よい温度で粥の味がしっかりと感じられる。

 それは少し我が家で作るものとは違う味付けで、何が違うのかと問われれば上手く言葉にはできないのだが、一色の吐息で冷まされた粥だと思うと味わう余裕はなかった。

 

「どうですか?」

「ん……うまい、かな」

「やった!」

 

 加えて鼻が詰まってるのもあって粥の美味い不味いなんてよく分からなかったのだが、なんとなく口をついて出た俺の感想に満足したのか一色は「えへへ」と頬を綻ばせ、再び粥をレンゲで掬いフーフーと冷ましていく。

 どうやら意地でもそのレンゲを俺に渡さないつもりらしい。

 まあ、小町もいないなら良いか。……良いのか? 俺一応病人だしな……?

 駄目だ、熱のせいか何が正しいのかよく分からなくなっている気がする。

 なんか妙に一色が可愛く見えるし……もしかして俺結構やばいか……?

 

「オバ様は『適当にパンでも買って渡しておけば良いから』って言ってたから、てっきりパンの方が好きなのかと思ったんですけど、やっぱり病気の時はお粥ですよね」

「いや、それはまぁ温かい粥のが有り難いけど……っていうか、そのオバ様ってなんなの?」

 

 そうしてボーッとした頭のまま、粥を咀嚼しながら、俺は疑問を投げかける。

 それは昨晩から感じていた疑問でもあった。

 そもそも一色はうちの母ちゃんとの接点はなかったはずなのだ。

 それが、オバ様って……。

 いや、あの人ただのおばちゃんだからね? 様とか付けなくていいから。

 一色の母親──もみじさんほど若々しくも無ければ、可愛げもないし、本当ただのオバハンでしかない人に様とか付けられるとなんだか妙にむず痒いので正直辞めてほしい。

 

「オバ様はオバ様ですよ。センパイのお母様です。昨日センパイがいなかったから色々お話させて頂いたんですけど、楽しい人ですね。気難しい人だったらどうしようかと思ってましたけど、私これなら今後もやっていけそうです」

 

 そんな俺の心情など知る由もなく、一色は力強くそう言ってレンゲを持った拳を握りしめた。

 一体あの母ちゃんと何をやるつもりなのだろう。モン○ン?

 最近は誰かと一緒じゃないとプレイできないゲームも増えてきたしなぁ。

 世界中で大人気のスリーマンセル形式のFPSとか、インポスター見つけるやつとか。

 興味がないわけではないがプレイするハードルが高いので、そういう件なら母ちゃんじゃなくて俺を誘って欲しいものである。

 

「そうそう、センパイのアルバムも見せてもらったんですよ。小さい時のセンパイ可愛かったですね」

「今スグ記憶を消してくれ」

 

 そんな事を考えていると、一色がまた新たな爆弾を放ってきた。

 いや、本当母ちゃん何やってるの?

 昔のアルバムとか本当に辞めてほしい。

 一色に昔の写真をネタに強請られたらどうするというのだ。

 あー、畜生。一体どれを見せたんだ? アレか? それともアレか?

 割と見られるとバカにされる類の写真に心当たりが多くて反応に困る。

 

「ほら、コレも」

 

 しかし、一色が見せてきたスマホの画面には、入学式という大きなパネルの前で写真を取っているランドセルを背負った俺と母ちゃんの写真があった。

 みたまんま、小学校の入学式の時の写真だろう。

 これは……なんだ、アルバムの写真をそのままスマホで撮ったのか?

 なんて無駄なことを……。

 

「センパイメチャクチャ笑顔ですね、こんなに笑ってるの初めてみたかも」

 

 そう言って、一色は楽しそうにスマホの中の俺を見た。

 いや、そりゃ、俺だって生まれた時からこんな性格だったわけじゃない。

 この頃はまだ学校に対する憧れや期待というものがあったのだ。

 まあ、すぐそんなものは無くなったけどな……。

 

「……今スグ消してくれ」

「駄目でーす。はい、あーん」

「ふぉご……」

 

 抗議をしようとした俺の口に再びレンゲが突っ込まれ、文字通り俺は言葉を飲み込んだ。

 くそぅ……。

 とりあえず一色の武器(レンゲ)を取り上げなければ。

 

「んぐ……ふぉれひつふふへふほ?」

「何言ってるか分かりませーん」

 

 くそう、分かっててやってるな……。

 ニヤニヤと笑みを浮かべる一色を軽くにらみながら、俺は改めて口を開く。

 

「……これイツまで続けるの……? 見えてないのかもしれないけど、俺普通に両手空いてるんだけど」

「センパイが食べ終わるまでですけど?」

「……勘弁してくれ、ほら」

 

 そう言って俺が両手を伸ばし、レンゲと茶碗を受け取ろうとすると、一色はさっと避け立ち上がる。

 

「駄目でーす、病人なんだからちゃんと看病されて下さーい」

 

 そして茶碗とレンゲを持ったまま立ち上がり、今度は俺のベッドの脇へと腰を落とした。

 二人分の体重がかかったシングルベッドがギシッと小さく悲鳴を上げ、ほんの僅か右側に傾き。一色との距離がより一層近くなる。

 

「あーん♪」

 

 いやもう本当近い、なんなの? 俺のこと好きなの?

 勘違いしたらどうすんの? 責任とってくれんの?

 俺一応お前の許嫁なんだけど?

 こいつだけは本当……一回痛い目みせてやったほうがいいんじゃないだろうか。

 

 先程より近い距離であーんとレンゲを差し出され、心臓が早鐘のように鳴り響く。

 これはもう、風邪のせいだけじゃないよな……。

 

「全く、俺じゃなかったら大変なことになってたぞ……」

「……?」

 

 俺の言葉によく分からないとでもいいたげに首を傾げる一色。

 きっと今の俺はこの粥の上に乗っている梅干しのように赤くなっていることだろう……。

 ああ、熱があってよかった。

 心の底からそう思い、俺はもう一度あーんと口を開け、その行為を受け入れたのだった。

 

*

 

*

 

*

 

 そうして親鳥と雛鳥の如く、ただ口を空けて飯が運ばれるのを待つ苦行──もとい朝食が終わると、どっと疲れが押し寄せて来た。

 正直もう心の余裕がないので俺としてはもう帰って欲しいのだが……。

 

「はい、じゃあお熱測りまーす♪」

「一人でできる……というより、もう帰っていいぞ? 母ちゃんに何言われたかしらんけど別に動けないほどでもないし、看病なんていらないから……」

「いいえ、今日はとことん看病させてもらいます。弱ってるセンパイも堪能したいですし」

 

 いや、それはそれでなんか目的が変わってませんかね?

 本末転倒というかなんというか、もう本当帰ってくれないかしら?

 

「それに今日はオバ様からお夕食代まで預かってますので!」

 

 そう言うと一色は続けてポケットから茶色い封筒とその中に入った五千円札を見せてきた。

 うちの母ちゃん何してんの……?

 俺が一日一人で留守番するっていう時ですら五千円も貰ったコトなんかないんですけど?

 むしろそれ貰ったら治るまである。

 

「ということで、朝食は有り物で作らせて貰いましたからコレだけですけど、お昼には卵も買ってプリンも作る予定ですから。楽しみにしててくださいね」

「……なんでプリン?」

 

 なぜコイツは人様の家で突然プリンを作ろうとしているのだろう?

 それは俺には極普通の疑問のハズだったのだが。

 一色には想定外の返しだったらしく、不思議そうに小首を傾げられてしまった。

 

「え? 風邪の時はプリンじゃないんですか? 食べやすいですし栄養もありますし?」

 

 どうやらココでもローカルルールが発動したらしい。

 一色の家では風邪を引くとプリンが出るのか。

 まあ、見舞い品にプリンとかゼリーとか口当たりの良いものというのは聞いたことがないわけじゃないが……。

 俺はそんな気の利いた見舞い貰ったことないからよく分からん。

 

「ウチはどっちかっていうと風邪の時はオ○ナミンCだな」

 

 実際、俺は見舞いにくるような友達もいなかったので、それが普通だと思っていた。

 母ちゃんも風邪ひいたら普通にオロ○ミンC買ってくるし。

 それ飲んでれば治るというか、普段は別にそんな飲まないけど、体調悪い時に飲みたくなる栄養ドリンク感ある。

 

「ええ!? 風邪の時にですか?」

 

 だが、俺の家のルールに今度は一色が驚愕の表情を浮かべる。

 風邪の時に飲んじゃ駄目なの?

 普通に美味いだろ、オロナ○ンC。 

 

「炭酸で喉がさっぱりするしビタミン摂ると体の抵抗力上がる感あるだろ」

「そういうもんですか?」

「そういうもんだ」

 

 少なくとも我が家ではずっとそうだ。

 小町が風引いた時は俺が買ってきたりもする

 でもこれがローカルルールだというのは、今日一色が話題に出さなければ一生気付かなかったかもしれないな。

 

「むぅ、じゃあ後で買ってきますね。一本でいいんですか?」

「いや、別に態々買ってこなくてもいいんだけど」

 

 なんだか催促したみたいになってしまった。

 これでは後輩をパシらせているみたいだし、なんだか俺がワガママを言ったみたいな感じになって少し恥ずかしい。

 実際のところ家にあるなら飲むが、ないならないで別にどうでも良いのだ。

 

「いえ、お夕食の買い出しにも行かなきゃですし」

「あ、そ……」

 

 しかし、そんな心配を他所に、一色は妙にやる気を出していた。

 まあ、母ちゃんから金貰ってるならオロナミ○Cの一本ぐらい良いか……良いのか? 良いよな。

 

「それに一応宿題も持ってきてるので、今日はやることいっぱいなんですよ?」

「宿題?」

「はい、これです」

 

 そう言うと、一色は今度はカバンから分厚い原稿用紙の束を取り出した。

 本当に分厚い、一体何枚あるんだ? というか何キロあるんだ? というレベルの重そうなそれを一色は「よいしょ」と床の上に広げる。

 

「何これ? 作文?」

「いえ、部活の宿題で中二先輩からの依頼です。自分が書いた小説の感想を聞きたいらしくてGW中にこれ全部読まないといけないんですよ」

 

 ああ、そういやゴールデンウィークに入る前になんか材木座が来てるからどうにかしろみたいな事言ってたな。

 それがこれか。

 

「あいつ小説なんて書くの?」

「センパイも知らなかったんですか?」

 

 少なくとも聞いたことはない……が、不思議とあまり驚きはなかった。

 ペラペラと捲ってみるが、どうやら学園異能力バトルものらしい。

 ドコかで見たような設定や、ドコかで見たような中二的必殺技が沢山羅列されている。

 『幻紅刃閃』? ルビが小さくて読めなかったが、きっとブラッドとかブラッディーとかそんな読み方をするのだろう。

 なんだか見ているだけで頭が痛くなってくる。

 

「昨日センパイと一緒に読もうと思って持ってきたのに、センパイいないんですもん……」

「いや、なんで俺が読まなきゃいけないんだよ……。あと昨日に関してはそもそも事前に連絡いれないお前が悪い」

「それは……そうかもしれませんけど……。でもでも! 事後でもずっと返事くれなかったじゃないですか!」

 

 女の子が事後とか言うんじゃありません。なんか変な誤解されたらどうするの。

 ああ、でもそうだった。通知入れ直さないとと思ってすっかり忘れてた。

 とはいえ、今入れ直すとまた葉山グループの通知が煩そうだし、いっそゴールデンウィーク終わってからでもいいか……。

 この通知、一括じゃなく個別にオフとか出来たら楽なんだけどな……出来ないんだろうか?

 後で小町に聞いてみよ。 

 

「まあ、その色々あったんだよ……。だから宿題とやらは自分でやってくれ」

「むー……。あ、それじゃぁ寝るまで読み聞かせてあげましょうか?」

「やめてくれ、悪夢をみふぉうふぁ」

 

 見そうだ、と言いかけると同時にふわっとあくびが出てしまい、慌てて手で抑える。まずいな眠気が限界だ。

 

「あ、もう寝ますか? 体温計鳴りましたよね? 忘れずに出してくださいね」

 

 一色に言われ、脇の下から体温計を取り出しチラリと確認してから、一色の方へと差し出す。

 ウチにあるの、俺が生まれる前からある奴だから、数値が出るまで時間掛かるんだよな、昨今は額に当てるだけで体温が分かる体温計があるらしいので、早い所アップグレードしてもらいたいものである。

 

「もう! 三十八度もあるじゃないですか! やっぱり今日は一日しっかり看病させて貰います!」

「むしろそれが心配なんだけどな……」

 

 正直に言わせてもらうと、家に一色だけがいるという状況は気が休まらない。

 せめて小町がいてくれればまだ気が楽なのだが……何か見られてマズイものとか……ないよな?

 流石に勝手にPCのフォルダを漁るような奴ではないとは思っているが、アレとかアレとか見られたら割と俺の高校生活一発アウトなものもあるので気が気じゃなかったりもする。

 

「とりあえずお昼は食べやすくて栄養のあるものを考えるとして……そういえばお夕飯、オジ……センパイのお父様の分ってどうしたらいいですかね? 何時頃帰ってくるとか分かります?」

「ああ、そっちは心配ない。出張でゴールデンウィーク終わるまで帰ってこれないらしいからな」

 

 母ちゃんは休みが取れたみたいだが、父ちゃんの方は相変わらずブラックらしく今年はゴールデンウィークも取れなかったようなのだ。

 実のところ俺自身ももう一週間ほど顔を見てなかったりする。

 男子三日会わざれば刮目してみよとも言うし、次に会う時はきっと刮目しないと見えないぐらい生気が薄くなっていることだろう。

 ほどほどに頑張ってもらいたいものである。

 

「じゃあお米ちゃんの分と合わせて三人分ですね」

「お前も食ってくの?」

「なんですか、作るだけ作って帰れっていうんですか、都合の良い女ですか。そりゃ好きな人の前ではそういうポーズをするのも戦略としては有りだとは思いますけど、私はやっぱりちゃんとした奥さんポジ希望なのでごめんなさい」

「いや、別にそんなつもりはないけどさ……帰り遅くなるだろ」

「大丈夫ですよ、ママからもしっかり看病して今のうちにしっかり胃袋掴んできなさいって言われてるので!」

「そか……」

 

 なんだかそら恐ろしいコトを言われた気がしなくもないが、きっと風邪のせいで聞き間違えたのだろう。

 

「んじゃ、俺は少し寝させてもらうわ……」

「はーい、おやすみなさい」

 

 俺はそう言って布団をかぶる。

 自分が思っていた以上に眠気が限界だったようで、目を瞑った瞬間、俺は意識を手放していた。

 

 

──

 

────

 

──────

 

 

 夜中だろうか?

 真っ暗な明かり一つ無い道を、俺はランドセルを背負いながら一人歩いていた。

 ん? ランドセル?

 なんでランドセル背負ってるんだっけ?

 よくわからんが、まあいいか、きっと学校帰りなんだな、とりあえず家に帰ろう。

 

 そう考えた瞬間、場面は暗転し周囲は夕暮れ時の通学路へと変わった。

 見慣れた町並み、見慣れた交差点、なんだか妙に懐かしさも感じる通学路。

 俺はそんな通学路の道中にある白線だけを踏みながら帰路へとつく。

 白線の外側はマグマ、落ちたら死亡。

 もちろん本当に死ぬわけではない、そういう一人遊びだ。

 

 平均台の上を歩くように白線を渡り、時には白線へとジャンプしたり、時にはマンホールは安全地帯という新ルールを追加したり、時には前から歩いてくる通行人(お邪魔キャラ)を避けながら、なんとかそれらの危機を乗り越え、着実にゴールへと近づいていく。順調だ。

 あとはあそこの角を曲がれば家までは一本道。

 クリアを確信した俺の足取りが自然と軽くなる。

 

 今日このステージをクリアしたら、明日はこのルールに石けりを追加しよう。

 そんな無謀なコトまで考えながら、俺は最後の角を曲がる。

 

 だが、そうしてゴール直前だと意気込んで角を曲がった瞬間、突然反対側から走ってきた何かにぶつかり俺は白線からはみ出し、尻もちをついてしまった。

 白線の外側はマグマ、つまりコレでゲームオーバーだ。

 悔しい、あとほんの少しだったのに!

 一体誰だ、俺のゲームクリアを邪魔した奴は! ここまで来るのにどれだけ苦労したと思っているんだ!

 俺は思わずそのぶつかってきた何かを睨みつけるように顔を上げる。

 すると、そこにいたのはドコか見覚えのある、小学生男子の三人組だった。

 

「ごめ……ってうわっ、ひきがや菌じゃん! 最悪!!」

「うっわ、お前ひきがや菌触ってやんのー!」

「こっち来んなよ! 伝染るだろ!」

 

 三人組はぶつかったのが俺だと分かるやいなやそう言ってヤイヤイと騒ぎ始める。

 そっちからぶつかってきたのにひどい言い草である。

 ああ、でもなんか昔こんなコトがあったな。

 誰だっけコイツら……?

 そんな事を考えながら、俺が何も言わずただポカンとその三人組を見つめていると、その三人組はやがて俺の周りをぐるぐると周り始めた。

 

「バーリア!!」

「残念でしたー! ひきがや菌にバリヤは効きませーん、はい貫通ー!」

「おい、ふざけんなよ!! ちょ、マジ最悪なんだけどー!」

 

 ゲラゲラと笑いながら三人組は鬼ごっこを始め、まるで俺の存在なんて最初からなかったかのように、やがて俺の元から去って行く。

 まるで天災だ。

 いや、まぁ文字通り人災なんだけど……。

 

 そうして、三人組の背中が見えなくなると、ようやく俺は我に返りポンポンと尻にツイた砂利を落としながら立ち上がる。

 もう、白線の外を歩いても問題はないので、今度は灰色の道路をトボトボと一人歩き始める。

 

 思えば、あの頃はこんなコトが日常茶飯事だった。

 一体何故俺がこんな扱いを受けなければならないのだろう?

 一体俺が何をしたというのか。

 何かの罰なのか?

 何故テレビやアニメ、道徳の授業で皆が当然のように口にする「みんなで仲良く」という言葉を俺に向けてくれないのか。

 誰も答えてくれる人はおらず。純粋だった頃の俺は少しずつ曲がっていたように思う。

 

 そう、俺だって何も生まれた時から現実がクソゲーだと思っていたわけではない。

 俺だって昔は色々期待したものだ、百人の友達。バラ色の人生。

 もしこんな状況がひっくり返る改善策があるのなら、スグにでも実行していただろう。

 

 ヒキガエル、ひきがや菌。そういった名前のいじりを受けるたび自分の名字を変えれば状況は変わるんじゃないかと名前の変え方を調べたこともあった。

 もし俺が比企谷ではなく高坂だったら、もし和泉だったら、もし羽瀬川だったら、俺には友達が出来たのだろうか?

 あ、羽瀬川だとぼっちはぼっちなのか。意味ないじゃん。

 まあ、それでももし俺の名字がほんの少しでも違えばアニメの主人公のような生活を送れたのかもしれないと夢想したこともあったのだ。

 

 とはいえ所詮現実は現実。

 子供が一人で勝手に名前を変えることなんて出来ないし、出来たとしてもそれで友達が出来るわけではない。

 結局俺はぼっちのまま生きていくしかなかった。

 それでも、自分以外の誰かへの思いというのは消えてはくれない。

 思春期になれば当然異性への興味が湧いたし、いっそ早く結婚して専業主夫になってくだらない社会から離れて暮らしたいと思い始めた。

 

 しかし、本当にそんな日は来るのだろうか?

 いつかこの希望も打ち砕かれる日がくるのではないか?

 もしかしたら俺は本当に一生ぼっちなのでは?

 何もないまるでトンネルのような暗い道を手探りで前に進み続ける感覚。

 この道はどこまで続くのだろう?

 もうずっとここから抜けられないのではないだろうか?

 そんな不安が大きな怪物のように熱を持って伸し掛かってくる。

 なんだか泣きそうだ。

 誰か! 誰かいないのか! 誰か……!

 

 そう思った瞬間、パシッと俺の右手が何かを掴んだ。

 いや、掴まれたのかもしれない。

 一瞬だけ驚きを感じるが、しかし不思議と恐怖心はなかった。

 それは俺の手よりも一回りほど小さく柔らかい、誰かの手。

 

「──センパイ」

 

 俺はその手の温もりに引き上げられるように浮上していった。

 

 

──────

 

────

 

──

 

 目が覚めると、相変わらず俺はベッドの上にいた。

 窓の外に視線を向ければ、薄っすらと赤い夕日が差し込んでいるのが見える。

 もう夕方だろうか? どうやらかなり眠ってしまったらしい。

 とにかく一度起きよう。

 変な夢をみたせいか寝間着も汗まみれで気持ちが悪いし、トイレにも行きたい、喉もカラカラだ。

 

 そう思い体を動かそうとした瞬間、右手が何かにホールドされているコトに気がついた。

 いや、右手だけではない、右足をスライドさせベッドから下ろそうとするが、何かが引っかかって布団がめくれない。引っかかっているというより……何かが乗ってる?

 まさか、コレが噂に聞く金縛りというやつだろうか?

 いや、そんなモノはありえない。

 一体俺が何年この家で暮らしていると思うのだ、引っ越して間もなくとかならともかく、高二になってこんなワケの分からないタイミングで金縛りに合う理由もないだろう。

 だが、ありえないと思いつつも、俺は恐る恐る首だけを動かして、右手がある付近を覗き見る。

 

 そこにあったのは床に座ったまま、俺の手を握りしめ、ベッドに頭を乗せてスヤスヤと寝息を立てる一色の姿だった。

 何故か付近には例の材木座の原稿用紙も散らばっているが、あの亜麻色の髪は間違いなく一色だ、うん。

 ですよねー。知ってた。

 

 というか、今日の状況でこんなコトしそうな奴一色ぐらいしか思いつかない。

 はぁ……全く……本当にこの子、思春期の男子舐め過ぎじゃない?

 それか、俺のことを男として見てなさすぎだ。

 もしこれが小町だったらちょっとお説教コースだぞ。

 男の部屋に入ってこんな──こんな無防備に……本当、何してるの?

 一回親御さん交えて話し合った方がいいんじゃない?

 

 こんな状況、小学生の時の俺が見たら一体どんな反応をするのだろうか?

 風邪を引いたら看病をしてくれて、寝てる時に手を握ってくれる許嫁が出来ました、なんて言ったらどんな顔をするんだろうな?

 

 でも、勘違いしてはいけない。

 俺は葉山を見極めるための、いわば保護者ポジション。

 これまで同様繰り返し、何度も確認するように自分に言い聞かせる。

 いつかはこの手を離さなくてはいけない、だから、絶対に勘違いなんてしない。

 してはいけない……のに……ああ、でもこんな……こんなコトされたらさぁ……

 

 離したくなくなっちゃうでしょうが……!!

 

 結局、俺はそのままその手を振りほどくことも、一色を起こすコトも出来ず、一色が起きるまでの数分間、理性を総動員して身じろぎ一つせず寝た振りをする羽目になるのだった。




言い訳になりますが今月またオリジナルに手を出し始めまして
日付の感覚が狂って投稿が一週遅れました、申し訳ありません。
次回は気をつけます。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告etc
何でも良いのでリアクション頂けますと作者がとても喜びますのでお手すきの折にでもよろしくお願いいたします。


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第78話 お米の研ぎ汁はお肌に良いらしい

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告ありがとうございます。
また間が空いてしまい申し訳ありません。



「……ん……」

 

 モゾモゾと何かが動く気配を感じて、私は目を覚ました。

 右手には原稿用紙、左手にはセンパイの手……そうか、どうやら私は中二先輩の小説を読んでいる間に眠ってしまったらしい。

 まあそれは仕方がないコトだと思う、だってこの小説びっくりするぐらいツマラナイんだもん……。

 正直読んでいるのが苦痛ですらあった。

 せめてセンパイと私を連想させるような、甘い恋愛小説だったら良かったのに……なんてね。

 あの中二先輩がそんな話書くわけ無いか。

 そんな事を考えながら、ふと窓の外を見ると既に日は落ちかけ、真っ赤な夕日が部屋の中を照らしていた。

 あれからセンパイはまだ目を覚ましていない。

 お昼に起きてこなかった時は、まあ仕方ないかとも思ったのだけれど。

 流石に寝すぎではないだろうか?

 ただの風邪だと思っていたけれど、もしかしたら何か他の病気の可能性もあるのだろうか?

 起こしたほうが良いかな?

 まさか死んじゃったり……しないよね?

 そんな不安が湧き上がり、私は思わずセンパイの顔を覗き込む。

 だが、そうして私が動き出すと同時にセンパイの体もモゾモゾと動き出し、ゆっくり瞼が開かれた。

 

「ん……おはよーさん……」

「ふぇ!? ……お、おはようございます」

 

 寝起きのせいか、なんだか棒読みなセンパイの声を聞き、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

 今のって……私が起こしちゃった……ってコトだよね? って……まずい!

 センパイと目があった瞬間、その距離の近さに気付き、私は慌ててベッドから離れる。

 すると、センパイはそんな私に引っ張られるようにゆっくりと上半身を起こし「うーん」と伸びをした。

 

 とりあえず、目を覚ましてくれて良かった、症状が悪化しているのかとも思ったけれど、こうして見るとそれほど体調が悪いという感じでもなさそう。

 あれ? でも心なしか朝見た時より顔が赤いような……?

 やっぱり熱が上がっているのかもしれない。後でまた体温を測り直してもらおう。

 あんまり悪いようならやっぱり病院で見てもらったほうが良いしね。

 

「よく眠れたみたいだな。口元ヨダレ垂れてるぞ」

「へ!?」

 

 しかし、そんな私の心配をよそに、センパイが笑いながらそう指摘するので、私は慌てて口元を拭い、センパイから顔を逸らす。

 なんて失態……!

 好きな人の前でヨダレ垂らして寝こけているなんてオトメとしてあるまじき行為だ。

 センパイ……幻滅しただろうか?

 そう思い口元を隠しながら恐る恐るセンパイの方へと振り返る。

 だけど、そんな私の心境を知ってか知らずか、センパイはまるで日向ぼっこをしている猫のように穏やかにこちらを眺めるだけだった。

 なんだか妙に機嫌が良さそう。

 

「わ、私の事よりセンパイはどうなんですか? お昼も起きてこないから心配したんですよ?」

 

 でも、そんな機嫌の良さそうなセンパイというのもなんだか“らしく”なくて、やはり熱が上がったのではないか? という不安が広がっていく。

 

「ああ、お陰様で大分楽になった……かな」

 

 私の問にセンパイは肩を少し回すストレッチをしながら答える。

 その様子は少なくとも嘘や強がりを言っているという風でもなさそうで、熱が上がったという私の予想はハズレたのだと悟った。でも……それならなんでこんなに機嫌が良さそうなんだろう?

 うーん……やっぱり良い夢でも見てたのかな? まあいいか。

 とりあえず今はセンパイの快方を喜ぼう。

 そう考えた私は頭を切り替え、センパイに一歩近づいた。

 

「本当ですか? じゃあ何か食べます? ずっと寝てたからお腹空いたんじゃないですか? 一応お昼はおウドンの予定だったんですけど……」

「そうだな……流石に腹減ったし、貰っていいか?」

「はい! ちょっと待っててくださいね!」

 

 私はセンパイの返事を聞くのと同時に、周囲に散らばっていた原稿用紙をパパッとベッドの脇に纏めてキッチンへと降りて行く。

 どこまで読んだか分からなくなっちゃったけど、まあ良いよね。

 確か主人公とライバルっぽい人が戦ってたから、きっと最後は主人公が勝ってハッピーエンド。そういうことにしておこう。

 今はセンパイのご飯の方が先決。

 私はそうして中二先輩の小説のことを頭から放り出して、キッチンで昼食(予定だったモノ)の準備を始めた。

 

*

 

「お待たせしましたー!」

 

 部屋に戻ると、センパイはトイレにでも行っていたのか扉を空けた部屋の真ん中で腰を捻るストレッチをしている所だった。

 ずっと寝ていたから少し体を動かしたくなったのだろう。

 やっぱり朝より大分楽になってるみたいだ、その事が嬉しくて私もついついテンションが上がってしまう。

 

「ん、いい匂いだな」

「でしょー? ささ、座って下さい」

 

 私はセンパイの背中を押しベッドに座らせると、自分はベッド横にある椅子に座って、机にトレイを置いた。

 そして「ジャジャーン」という掛け声と共に土鍋の蓋を開ける。

 その瞬間、私とセンパイの間に真っ白い湯気が立ち上った。

 今回のメニューは鍋焼きうどんだ。

 大きなエビの天ぷらに卵とにんじんとほうれん草、ネギもたっぷり入っているので見た目も豪華、栄養満点。

 我ながら中々の出来栄えだと自画自賛していると、センパイも「おお」っと声を上げゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた。どうやらお気に召してもらえたみたいだ。

 だから私は、最早我慢できないという表情のセンパイの目の前で鍋焼きウドンをお椀に装い、朝と同じ様にフーフーと息をかけてから先輩の口元へと寄せていった。

 

「はい、あーん」

「……一人で食えるから」

 

 しかし、今朝と違い今度はバッとお箸とお椀を奪われてしまった。

 ちぃっ、元気になるとこんなデメリットがあるのか……。

 もうちょっと弱っているセンパイを堪能したかった。そう思ってしまうのは流石に私のワガママだろうか。

 

「むー、さっきは素直に甘えてくれたのに……」

「け、今朝は熱でどうかしてたんだよ……」

「じゃあずっとどうかしてて下さいよ」

「何言ってるのこの子は……」

 

 そう言うと、センパイは恥ずかしそうに顔を背けて小さく「いただきます」と呟いた後、ズルズルとうどんを啜っていく、どうやらこの話はもうお終いということらしい。

 残念。もうちょっと食い下がればよかった。

 仕方ないので私はもう一つの空のお椀にうどんを少しだけ装った。

 当然、これは私の分だ。

 

「いただきます」

「あれ? 飯食ってなかったの?」

「センパイと一緒に食べようと思って待ってたんですよ。全然起きてこないから本当に心配したんですからね!」

「そっか……悪いことしたな」

「いいんですよ、私がそうしたかっただけですから」

 

 私がそう言うと、センパイはどうしたら良いかわからないと少し目を泳がせていたので、私はそんなセンパイを見ながらフフッと小さく笑った。

 そんな私を見て、センパイもフッと口角を上げたので、二人で笑いながらウドンを啜った。

 

「……うん、美味い」

 

 センパイが誰に言うでもなくポツリと呟いたその一言が嬉しくて。

 この状況、なんだか夫婦みたいだな。なんて思ってしまったのだけど。それは私だけの秘密だ。

 

*

 

「ふぅ……」

 

 そうして少し遅めの昼食を食べ終えると、センパイが息を吐く。

 ちょっと物足りなそうだが、時間も時間なのでおかわりは我慢してもらった。

 

「デザートにプリンもありますけど、そっちは後でお出ししますね。お夕飯もありますから」

「ああ、サンキュ」

 

 正直に言ってしまえば、スグに食べてもらいたいという欲求もあったが、この後おコメが帰ってきて、一緒に夕飯を摂る事も考えると、今は少なめの方が良いだろう。

 幾ら男の人が沢山食べると言っても。センパイは病み上がりな訳だし……。

 そう考えながら、私は食べ終わったお椀をトレイに重ねていく。

 すると、センパイのコメカミの辺りから大粒の汗が垂れていくのが見えた。

 

「大分汗掻いたみたいですね、着替えますか?」

 

 元々熱があって寝汗を掻いていたであろうトコロに熱々の鍋焼きうどんだったので、体温が上がったのだろう。

 きっと服も濡れていて気持ち悪いに違いない。

 だからこその提案だったのだが……。

  

「そう……だな。んじゃちょっと着替えるから悪いけど部屋出てもらえる?」

 

 そう言ってセンパイが私を部屋から追い出そうとしたところで、私の中にちょっとした下心、もといイタズラ心が芽生えてしまった。

 

「えー、駄目ですよ、熱があるのに一人で着替えなんて! フラフラして怪我したらどうするんですか」

「いや、そこまで酷くないし……」

「あ、そうだ。どうせなら体拭きましょうか、私一回やってみたかったんですよね、アレ」

 

 そう、介護の定番といえばやはりタオルでの体拭きだろう。

 今、この家に居るのは私とセンパイだけ。

 つまり私がセンパイの体を拭くのは必然であり当然だ。

 誰だってそうする、私だってそうする。

 

「いや、それなら普通にシャワー浴び……」

「それじゃ、準備してくるんでちょっと待っててくださいね!」

「人の話は最後まで……!」

 

 私はセンパイの言葉を背中で聞きながら食べ終わった食器を流しに置いて、そのままお風呂場に向かうと、そこから桶とタオルを拝借し、お湯を張った。

 移動中に冷めてしまうと困るので、少し熱め。

 早く、早くしないとセンパイが着替えちゃうから!

 

「センパーイ! すぐ持って行きますから待っててくださいねー!!」

 

 階下からそう声をかけるが、センパイからの返答はない。もしかしたら既に着替えてしまっているのだろうか?

 急げ! 急げ!

 そんな事をしてもお湯が貯まるスピードが上がるわけではないと分かっていつつも、私はその場で足踏みをしながら、その様子を眺めていた。

 

 そうして待つこと数分。

 私が桶にイッパイのお湯を零さないように階段を上がっていくと、センパイが呆れたような顔でコチラを見てくる。

 

「はい、それじゃ脱いで下さい」

「……本当にやるの?」

「もちろんですよ、ほら、早く! 折角のお湯が冷めちゃいますから!」

 

 なんだかんだ、今まで待っていてくれたコトを考えるともう諦めはツイていたのだろう。

 私がベッドの上にあがり、センパイの隣へと陣取ると、センパイは観念したようにため息を吐いて少しだけ恨みがましい目で私を見た後、自らのシャツに手をかける。

 

「背中だけだよ? 背中だけだからね?」

「分かりましたよ、ほらほら早く脱いで下さい」

 

 そうして徐々にセンパイの上半身が顕になっていく。

 センパイは少し恥ずかしそうに前かがみになると、背中をコチラへと向けた。

 

「わぁ……」

「な、何」

「い、いえ。センパイの背中大きいなぁと思って」

 

 初めて見るセンパイの背中は少しゴツゴツしていて、筋肉質──というのとも違うのだけれど、別にガリガリと言うほど細いわけでもなく、とても力強くすごくドキドキした。

 やっぱり、男の人なんだなぁと当たり前ながらも感心してしまう。

 

「……早くしてくれる? 寒いんだけど……」

「す、すみません!」

 

 そう言われ私は慌ててタオルをお湯に浸した。

 うん、温度は丁度よさそう。

 

「それじゃ、お背中お流ししまーす!」

「それ、なんか違うだろ」

 

 布団に水滴が垂れないよう、ぎゅっとタオルを絞ると、左手でセンパイの背骨の辺りを抑え右半身から拭いていく。

 出来るだけ冷静を保っているつもりだが、内心はドキドキだ。

 うわー、うわー、触っちゃった。触っちゃった!

 初めて触る家族以外の男の人の生の体。

 そりゃぁ、元サッカー部のマネージャーですし?

 男子の上半身裸ぐらい見慣れているけれど、部屋に……いや、家に好きな人と二人きりというシチュエーションがなんだか妙に私を興奮させる。

 

「いつも苦労かけてすまないねぇ」

「それは言わない約束だよ……ってソレ言うの俺のほうじゃないの?」

 

 だから、というわけじゃないけれど。そんな冗談でも言っていないと心臓が持ちそうになかった。

 センパイのツッコミに私は「えへへ、そうですね」と乾いた笑いを浮かべながら、思わず抱きつきたくなる衝動を抑え、これはあくまで看病の一環と自分に言い聞かせ腕を動かした。

 できるだけ丁寧に、拭き残しがない、よう、に……! 

 

「へっくしっ!」

「大丈夫ですか?」

 

 しかし、そうしてゆっくり丁寧にタオルで背中を拭っているとセンパイの大きなクシャミと共にその背中が大きく揺れた。

 いけない、時間をかけすぎたみたいだ。

 私は慌てて「ごめんなさい」と冷えたタオルをお湯につけ、再びタオルの温度を上げる。

 ほんのりと湯気が立ち上るタオルを背中に押し当てると、センパイが「あー」と少しオジサン臭い声を上げた。

 

「しっかし、風邪なんて久しぶりに引いたわ……」

「全く、私に内緒で遊びに行くからですよ? 昨日は一体どこ行ってたんですか?」

 

 そこで、私は出来るだけタオルを動かすスピードを上げつつ、ずっと気になっていたことを聞くことにした。

 そう、センパイが昨日ドコに行っていたのか、結局今の今まで聞けていなかったのだ。

 まあ、あんまり詮索するのも良くないとは思うのだけれど、ドコかに出かけようと提案してもいつも面倒くさそうにするセンパイである。

 風邪を引くほど遊んでいるという状況が想像できず、気になってしまうのも当然というものだろう。

 

「別に内緒にしたわけじゃない……。と、友達とカラオケ行ってたんだよ」

「友達って……中二先輩ですか? それなら私も誘ってくれたら良かったじゃないですか」

 

 私にあんな宿題を押し付けておいて自分はセンパイと遊びにいくなんて……許すまじ中二。

 一応あの小説だって頑張って書いたんだろうし、センパイの友達ということで多少配慮した感想をと思っていたけれど、こうなったら全力辛口批評にしてやる。

 

「いや、違う。っていうかあいつは友達じゃない。ゆ……葉山達とちょっとな」

 

 だが、センパイから出てきた名前は思いも寄らない人物だった。

 

「葉山先輩?」

 

 あれ? センパイって葉山先輩と仲良いんだっけ?

 まあ、私よりはセンパイの方が接点が多いのは当然なんだろうけど……。

 正直自分的にもあまり得意な相手ではない名前が出てきて、思わずタオルの手が止まる。

 

「ああ、葉山と……あとその取り巻き。お前の知らない奴が大半だな……」

「へぇ……? じゃあ女の子も居たんですか」

「ま、まぁ……居たというか……なんというか……」

 

 少しだけ気まずそうにセンパイがゴニョゴニョと言葉を濁した。

 しかし、そのセンパイの反応で自分の中の何かが繋った気がして、持っていたタオルを一度桶に浸し、もう一枚予備にと持ってきたあるモノを取り出した。

 

「じゃぁ……コレもしかしてその中の誰かのだったりして?」

「な、なんでお前がソレを持って……?」

「あ、動揺してます? 動揺してますね? やっぱり何か疚しいことがあるんですか?」

 

 それは洗濯物を取り込んだ時に見つけた小さなタオルだった。

 実は、センパイが起きる少し前。センパイの昼食の下ごしらえとプリン作りを終わらせた私は例の宿題の前にと、比企谷家の掃除をし、ついでに洗濯物を取り込んで居たのだが、干してあったセンパイのシャツのポケットからコレが出てきたのだ。

 それは明らかに男物ではない。花柄の刺繍が施された持ち運びやすいサイズのミニタオル。

 最初はおコメかオバ様の私物を間違って持っていったのかなぁ? とも思ったのだが、どうにもその二人の趣味とは違う気がして不思議に思っていた。

 いや、まぁ、私だって別にそこまでおコメやオバ様の趣味に詳しいわけじゃないし。貰い物の可能性だってある。むしろその可能性の方が高いだろう。

 だが、何故かそのタオルが気になってしまい、こうして持ってきてしまったのだ。

 言ってしまえば女の勘である。

 

「どこで見つけたんだよ」

「センパイのシャツを畳んでたらポケットから出てきたんですよ。駄目ですよ? こういうのはちゃんと出してから洗濯機に入れないと」

 

 これは嘘ではない、コレがもしタオルではなくティッシュだったとしたら大惨事になっていたトコロだろう。

 私も小さい頃にやらかしてママに怒られたコトがある。

 アレの後始末はそれなりに面倒なのだ……。

 だから、そのコトについても一応注意しておこうとは思っていた。

 でも、本当に聞きたかったのは別のこと。

 

「それで? これはドコのどなたのですか?」

 

 そう言って、持っているタオルに力を込めると。

 センパイがチラリと肩越しにコチラを見る。

 

「一応言っておくがお前が思ってるようなコトは何も無いからな?」

「私が思ってるコトってなんですか?」

「いや……だから……あー、最初から説明する……すればいいんだろ……」

 

 そう言うと、センパイは面倒くさそうに昨日何があったか語ってくれた。

 

*

 

「もー! 何やってるんですかセンパイ。濡れたまま一日カラオケなんてしてたら風邪引くに決まってるじゃないですか!」

「俺だって馬鹿なコトしたとは思ってるよ……それでこのタオルはその時、三浦が貸してくれたの。後で返さなきゃいけないんだから、キレイに使ってくれる? っていうか使わないでくれる?」

 

 センパイの話を聞いて、風邪を引いた原因がセンパイらしくもあり、少し間抜けすぎやしないかと頭を抱えると同時に。私の勘は間違っていなかったのだと確信した。

 

「三浦さんですか。ゴールデンウィーク空けたらちゃんとご挨拶させていただかないとですね」

 

 とりあえず、その人がセンパイに好意を持ってしてくれたという感じではなさそうだが、今後センパイとの関わりが深くなりそうなら、一度会っておいて損はないだろう。

 こういっては何だけど、センパイは一目惚れとかをされるタイプというよりは深く知れば知るほどその魅力を発揮するタイプなので近づいてくる相手は警戒するにこしたことはない。

 

「なんでだよ……。あー、まぁ、あいつ葉山狙いみたいだから、お前は会っておいてもいいかもな……」

「へ? 葉山先輩狙いの方なんですか?」

「十中八九、なんなら既に付き合ってる可能性もある、知らんけど」

 

 ふむ、葉山先輩狙いならそこまで警戒しなくてもいいかな?

 まあその辺りは追々でいいか。

 正直、あの葉山先輩と付き合う人はかなり苦労することになるだろうと思っている。

 あの人、見た目の割にというかあの見た目だからというか、どこか歪んでいる感じがするんだよね。そういう意味じゃ少しセンパイに似ているのかもしれない……。

 

「でも、ちょっと意外でした」

「意外?」

「はい、センパイって友達と……というか葉山先輩とカラオケとか行くんだーって」

 

 それは私なりに「私とのデートには乗り気じゃないのに」という嫌味も含めた言葉でもあったのだが、センパイはその言葉の意味を察したのか少しだけ罰が悪そうに顔を背ける。

 

「その……なんだ、この間……葉山のグループの一人と友達になったんだよ……」

「友達……?」

「ああ、本当つい最近だけど……初めての、な……」

 

 その言い方に私は驚き、同時に少しだけ違和感を覚えた。

 私にとってセンパイの友達といえば中二先輩だったからだ。

 しかし、センパイは「初めて」と言った。

 中二先輩が友達ではないというのは、照れ隠しとかではなかったのだろうか?

 確かに先輩はずっと「友達じゃない」とは言っていた、でもそれにしては仲が良さそうだし、単なる言葉遊びみたいなものだと勝手に思っていたのだけれど……センパイには友達とそうじゃない人に対する何か線引みたいなものがあるのだろうか?

 そういうことなら中二先輩に遠慮する必要なんてなかったのかな?

 

「まあ、なんだ……そういうのに慣れてなかったからな、ちょっと浮かれて付いていった結果がこのザマだ……次はもう行かない」

 

 続いて出てきた言葉に、今度は動揺する。

 私の言い方が悪くて友達と遊びに行くことに萎縮してしまったのだろうか? と思ったからだ。

 そりゃ、確かに? 私を置いて遊びに行かれちゃったのは面白くない部分はあったけれど。

 今後一切遊びに行くな、何て言うつもりはないし、そこまで心の狭い女になりたいわけでもない。

 

 何より、私は昨日見てしまったのだセンパイのアルバムを。それはセンパイの過去。

 そこにセンパイが誰かと写っている写真はほとんどなかった。

 家族(主におコメ)との写真や学校行事の集合写真、それじゃなきゃ誰かの後ろにこっそり写ってるとか、そんなのばっかり。

 そんなセンパイに友達が出来るというのは喜ばしいコトで、センパイにとっても良い変化なはずだ。

 だから、このままセンパイの言葉を肯定しては駄目だと思った。

 

「そんなコト言わないで、また行けばいいじゃないですか」

「いや、別に行きたいわけじゃないし……」

「でも、楽しかったんでしょう?」

 

 私がそう言うと、センパイは少しだけ逡巡したあと「……まぁ機会があったらな……」と少し不服そうに、けれどどこか照れくさそうに顔を伏せた。

 今のセンパイはなんだか小さな子供みたいだ。

 でも、もしセンパイが本当に嫌ならシャツが濡れた時点で帰ってきたって良かったはず。

 そうしないで遅くまで遊んでいたということはきっと楽しかったということなのだろう。

 こんなコトで私に「行きたくない」なんて嘘を付く必要はないんですよ。

 そんな思いを込めて、私も止まっていた腕を動かし、小さく笑う。

 

「じゃあ、その時は私も誘ってくださいね?」

「……いやだよ」

「えー、なんでですか?」

「いや、だってお前こそ友達じゃないじゃん」

「はぁ!?」

 

 流石にその言い方にはカチンと来てしまう。

 中二先輩を友達じゃないっていうのは、まあいいとしても私まで友達じゃないというのは流石に許しがたい暴言だ。

 センパイにとって私は中二先輩と同じか、ソレ以下の存在だとでも言うのだろうか?

 私は思わずその背中を叩いてやりたくなり持っていたタオルごと右手を大きく振りかぶる。

 次の瞬間には「バシン」という小気味良い音と共に立派な紅葉がセンパイの背中に浮き上がることだろう。

 だが、そうはならなかった。

 なぜなら私がその手を振り下ろそうとした瞬間。

 センパイがポツリと恥ずかしそうに呟いた言葉に、私が固まってしまったからだ。

 

「お前は友達じゃなくて……俺の……許嫁だろ……」

「──っ!!!」

 

 完全な不意打ち。

 勘違いをした自分が恥ずかしくなり、同時にセンパイがそういうことを自覚していてくれているのだと知り顔が火照っていくのが分かる。

 

「そ、そうですね……そうでした……」

「だ、だろ?」

 

 振り上げた手のひらの下ろし場所さえ見失い、部屋にカチコチという時計の針の音だけが数回響く。

 ああ駄目だ、顔がニヤけちゃう……!

 

「……そういうコト急に言うの……ずるいと思います……」

「そ、そか……悪い……」

 

 どうしよう、センパイの風邪が私にも感染ってしまったかもしれない。

 顔が熱い。

 きっと今の私の顔はさっきのセンパイと比じゃないぐらいに赤くなっていることだろう。

 

「……一色?」

 

 私はコツンとセンパイの背中に額を当て。その顔を見られないように顔を伏せた。

 

「い、一色さん……?」

「今は……ちょっとこっち見ないで下さい」

「お、おう……」

 

 固まるセンパイに甘えるように、グリグリと額を押し当てる。

 するとセンパイは少しだけモゾモゾと腰を動かした後、ピンと背筋を張りそのまましばらく動かず私の心が落ち着くのを待ってくれた。

 少しだけ顔の位置を動かすとセンパイの背中から物凄い速さの心臓の鼓動が伝わってくる。

 センパイ……意識してくれてるんだ……。

 センパイが私の事を女の子として、許嫁として見ていてくれている。

 その事が嬉しくて、いつまでもこうしていたいという衝動に駆られてしまう。

 でも、今のセンパイは病人で、いつまでもこんな格好をさせておくわけには行かないんだよね……。

 

「センパ……」

「たっだいまー! お兄ちゃん体調、ど……う……?」

 

 そうして、私がなんとか意を決してセンパイから離れようとした瞬間、部屋の扉が開かれ、そこからおコメが顔を出した。

 どうやら、いつの間にか帰ってきていたらしい。それもそうだ、もう日も落ちているしここはおコメの家でもある。帰ってくるのが当たり前で当然。気付かない私が悪い。

 でも、正直タイミングとしては最悪としか言いようがなかった。

 今、私はセンパイの背中に顔をうずめている。しかもセンパイは上半身裸。

 一体どんなプレイだと思われているコトだろう。

 なんとか弁解しなくては……!

  

 だが、私達が何か弁解するより早くおコメは「……お邪魔しましたー」と扉を締め静かに退出して行く。

 この間僅か一秒足らず。こういった対応の速さは流石おコメと言わざるを得ないが。

 私はその様子をしっかりと確認すると、ゆっくりとセンパイから離れタオルと桶を片付け始めた。

 

「……えっと、それじゃそろそろお夕飯の準備もしなきゃなので下行きますね。何かあったら呼んでください」

「お、おう。悪いな」

「いえいえ、お気になさらず。それじゃあちょっと“お米”研いできますねー。あ、デザートのプリンもお楽しみに♪」

 

 私は出来るだけ平静を保ちながら、ニコニコと笑顔を貼り付けてセンパイの部屋を後にした。

 さぁて……おコメはどこかなぁ?




「小町悪くないもん!」
ということで今回のお話いかがでしたでしょうか?
なんかちょっといろはが変態っぽくなってしまった……ような気がしますが……ま、まぁ今回は状況も状況だったのでちょっと暴走してしまったということで……。

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第79話 君の名は……?

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、ここすきetcありがとうございます

またまた時間が空き申し訳ございません。



 結論から言うと、俺のゴールデンウィークは完全に潰れてしまった。

 まあ、一言で言えば熱がぶり返したのだ。

 葉山達とのカラオケで思った以上にダメージを受けていたのか、それとも熱が下がったと油断して上半身裸で居たのが悪かったのか、はたまた色々考えすぎて知恵熱でもでてしまったか……。

 とにかく原因は不明、今分かっているコトといえばゴールデンウィークが終わってしまったといという哀しい事実だけだった。

 

 日本人の多くが理解しているように、ここから先は一ヶ月以上祝日なし、学校によっては夏休みまでぶっ通しというコトもありえるだろう。まさに絶望。五月病という病の存在も納得出来るというものである。

 というか、そもそも熱が出たのが五月病なのかもしれない。

 日本はもっと休みを増やすべきだと思う、なんならゴールデンウィークなんてケチくさいこといわないでゴールデンマンスってことで五月まるまる休みとかでもいいんじゃないの?

 

 でも、哀しいけどこれって現実なのよね。

 俺が如何に冷静かつ論理的にゴールデンマンスの有用性を解いても状況が改善されることはなく、今日からまた学校に行かなければならないという事実は覆せない。

 それはつまり、また一色と顔を合わせる日々が戻ってくるという事を意味していた。

 

「うおおおおおお! 学校行きたくないよおぉぉぉぉぉ! 死にたいいいいいいい! バッカじゃねぇのバッカじゃねぇの!? バーカ! バーカ!」

 

 俺はその絶望から、ついにソファの上で雄叫びを上げる。

 だってそうだろう? 俺はあの日、思い出すだけでもおぞましいような痛い発言をしてしまったのだ。

 ああ、何故俺はあんな事を言ってしまったのだろう?

 何が「お前は俺の許嫁だろ?(キリッ)」だよ。頭おかしいんじゃないの? おかしいんじゃないの?

 もうドン引きもドン引きである。

 今すぐ過去の自分をぶん殴りに行きたい気分だ。

 

 いや、本当あの日はどうかしてた。そうとしか思えない。

 多分熱のせいもあったのだと思う、まるで俺が一色に好かれているかのような、そんな錯覚さえ起こしていた。

 そんなコトがあるはずないのに……。

 

 あの日、小町が帰ってこなかったら一体どんな大惨事が待っていたことだろう? そう考えるだけでゾッとする。 

 今日学校に行ったら中学時代の再現──黒板に俺の似顔絵と共に俺の発言が描かれていたりしないだろうか? 

 もしくは俺を貶める内容の怪文書が教室に出回ったりしているのではなかろうか?

 そんな恐怖と後悔が今俺の全身を襲っていた。

 

 ああ、胃が痛い。

 どうにか一色と顔を合わせずに過ごす方法はないだろうか?

 実際、昨日もおっさんから食事会の呼び出しがあったのだが、体調不良を理由に辞退している。

 もちろんソレで簡単に引き下がるようなおっさんではなく、当然のように「それならいろはを見舞いに行かせようか?」という提案もあったのだが、小町を生贄にすることでその場を凌ぎ、その後もなんとか理由をつけて一色との直接戦闘を回避していたりする。

 できれば今日も何事もなく過ごしたいのだが……。

 学校行ったら多分昼にはまた顔合わせるよなぁ……どうやって逃げよう……。

 

「お兄ちゃん? 何してるの?」

 

 そうして、俺が悩みながらクッションに顔をうずめソファの上を転がっていると既に登校支度を済ませた小町が俺を見下ろしてきた。

 俺はそんな小町を見上げようとバランスを崩し、ソファから転げ落ちる。

 ゴンッというその音に驚いたカマクラが「ニャッ!」と悲鳴を上げ物凄いスピードで冷蔵庫の上に避難し俺を睨んだ。ゴメンて。

 

「放っておいてくれる? お兄ちゃん今ちょっとアイデンティティがクライシスだから。今日学校休むから」

「はぁ? ……もう熱下がったんでしょ?」

 

 小町はそう言うと呆れたように大きなため息を吐き「お兄ちゃんのマネだ」と変な口調でよくわからないことを言いながら俺の方へと近づいてくる。

 そして、そのまま俺の手を引き、立たせようとして来た。

 だが、その程度の力で立ち上がる俺ではない。俺は逆に小町の手を引き抵抗する。

 

「あー、もう! ほら! いつまでも甘えてないで、いろはさんも心配するよ」

 

 「いろは」という名前に思わず体がピクリと反応してしまった。

 しまった、これでは俺がまるで一色を意識しているみたいではないか。

 だが、そう思った時にはすでに遅く、小町が何かを察したようにニヤァと口元を歪める。

 我が妹ながら、悪魔のような顔だ。

 

「何々? いろはさんと喧嘩でもしたの? あんなイチャイチャしてたのに?」

「べ、別にイチャイチャなんてしてないだろ……」

 

 小町は先程までとは打って変わって、何やら楽しげに俺にそう問いかけてくる。

 イチャイチャというのは……その、アレだ。あの日のアレのことを言っているのだろうが、実際疚しいことは何一つしていない。

 小町は何か勘違いしているようだが、あれは医療行為の一環であって、俺が希望したわけでもなければ、R指定が掛かるようなものでもない、一色提案による介護の一環なのだ。ちなみに俺は断った。裁判でも勝てる。多分。

 

「してたよ、あれをイチャイチャと言わず何をイチャイチャと言うのさ」

「それは……ほら……イチャイチャってのはもっと……こう……」

 

 そう思い、俺は体を起こしながらイチャイチャについて考える、例えばそうだな……やっぱこう……手繋いでデートしたり……抱きしめたり? キス、とか? してたり……? あれ? なんか俺全部一色とやってるな?

 いや、でもアレはやっぱりイチャイチャではないよな……。

 

「はいはい、ご馳走様。とにかく、もう遅刻しちゃうから早く行くよ!」

「ちょ、ちょっと待て、まだ心の準備が……!」

 

 そう言って頭を捻る俺に小町はとうとうしびれを切らしたのか、俺の手を強引に引き、無理矢理立たせるとそのまま玄関へと向かっていく。

 どうやら、もはや休むことは許されないらしい。

 はぁ……どうか、無事今日一日を乗り切れますように。

 

***

 

「やっはろー! ヒッキー久しぶりー!」

「……おう」

 

 教室に入るやいなや、由比ヶ浜が俺の方へと大きく手を振りながら近づいてきた。

 そういや、こいつと会うのも久しぶりだな、そんな事を考えながら俺は、少しだけキョロキョロと周囲を警戒しながら黒板を確認する。

 良かった。

 とりあえず黒板晒しの刑は回避されたようだ。まあ、クラスも学年も違うのだから当然といえば当然なのだが。俺は自分の目でそれを確認したことで安心し、改めて由比ヶ浜に向き直ることが出来た。

 

「なんか元気ないね?  LIKEにも全然顔出さなかったしあれから何してたの? もしかしてお休み中旅行とか行ってた?」

「いや、ずっと熱で寝込んでた」

「熱!? ってもしかして……私のせい?」

 

 言ってから「しまった」と思ったが、一度口からでてしまった言葉は戻ってこない。

 俺は出来るだけ「なんでもない」という事を態度示しながら自分のカバンを机に置き由比ヶ浜へと語りかける。

 

「いや、まぁ……ただの風邪だ」

「でもそのタイミングって……やっぱり、私のせいだよね?」

 

 ああ……やはり責任を感じさせてしまったか……。

 まあ実際、あの烏龍茶が原因ではあるのだろうが、その後我慢してあの場に留まっていたのは俺自身の判断だ、由比ヶ浜が一人に責任をなすりつけるのは違うだろう。

 だからこそ、俺は出来るだけ何でも無いという風を装い椅子へと座る。

 今更文句を言ってどうにかなるモンでも無いしな。

 

「なんとも言えん……まあ、気にするな、どうせやることもなかったし」

「本当にごめんね? でも、言ってくれたらお見舞いぐらい行ったのに」

「別に良いよ来なくて」

 

 突然発せられた“見舞い”という言葉に俺は慌ててそう返す。

 もし、あの場にこいつが来ていたらどうなっていたのだろう?

 考えるだけでも恐ろしい、ソレこそ面倒なことになりそうな予感しかしない。

 通知切っておいて正解だったな……。

 

「お見舞いって? 誰か病気でもしたのか?」

 

 そうして由比ヶ浜と話をしていると、葉山が会話に割り込んで来た。

 本当にこいつはよく割り込んでくるヤツだ。

 もしかして由比ヶ浜狙いなのだろうか? だとしたら更にややこしくなるな……。ここらへんは少し気をつけて見ていたほうが良いかもしれない。

 これから先、一色がどう動くか分からないからな。

 

「うん、ヒッキー風邪引いて寝込んでたんだって、だから連絡つかなかったみたい」

「それは……大変だったな、もう大丈夫なのか?」

「ああ、もう治った」

 

 俺がそう言って手を振ると葉山は「なら良かった」と葉山スマイル浮かべる。

 そういうのは女子にやれ女子に。三浦とか多分喜ぶぞ。

 あ、そうだ三浦!

 

「でも風邪って、もしかしてカラオケのアレで……?」

 

 俺は何かを察した葉山に「多分な……」と軽く返答しながらカバンを開き、視線で三浦を探す。

 そう、今日は三浦に用があったのだった。

 例のタオルを早く返してしまわなければ、えっと……あった。

 

「三う……!」

「ホームルーム始めるぞー、席につけー!」

 

 だが、そうして俺がカバンから目的の物を見つけ背後を振り返った瞬間、タイミング悪く平塚先生が教室に入って来た。

 途端に好き勝手していた生徒たちが各々自分の席へと戻っていく。

 当然、葉山と由比ヶ浜も例に漏れず「それじゃまた後で」と小さく声をかけ俺の元を去っていった。

 本当にタイミングが悪い。仕方ない、返すのは次の休み時間にするか……。

 俺は手に持ったソレを一度机にしまい、出席を取る平塚先生の声をBGMに窓の外へと視線を移したのだった。

 

***

 

 やがて午前の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。

 今日は朝から体育やら移動教室と慌ただしい一日だったな。

 お陰で三浦ともすれ違ってばかりで、タオルを返せないままこんな時間になってしまった。

 もういっそコレは返さないで良いっていう神からの啓示なんじゃなかろうか? とさえ思ったほどだ。

 よくよく考えてみれば「ヒキオが使ったヤツとかもう要らない」とか言われる可能性もあるんだよな、返しても無駄に俺が傷つくだけなんじゃないの?

 でもなぁ……借りパクされたとか、女子のタオルを盗んだとか変な噂を流されるのはそれはそれで面倒なのだ。

 やはり後々の事を考えれば返すというポーズだけでも取っておいた方が無難だろう……。

 そんな事を考えながら俺はチラリと三浦たちが居る後方の席へと視線を向け、そこに目的の人物がいることを確認する。

 そこには相も変わらず三浦をトップとした封建社会が形成されていた。

 

「えー? 何それマジウケるんだけど」

「だべ? 俺もチョービビったわー、やっぱ隼人君ぱないわー」

「まぁ、戸部はまだこれからだろ」

「つまりソレは戸部っちが受けたってこと? そうなの!? そうなんだよね!?」

 

 さながら戸部は女王様のご機嫌取りをする下男という所だろうか?

 孔雀の羽みたいなワケの分からん大きさのウチワを扇がされてそう。

 まだそんなに暑くないけど……。

 

「……何?」

 

 そうして三浦達を眺めていると、俺の視線に気づいた三浦が突然俺のことを睨んできた。

 マズイ。女王様の機嫌を損ねてしまったようだ。

 このままでは良くて火炙り、最悪ギロチンだ、それだけは避けなければ。

 三浦女王陛下バンザイ!

 

「どうした? 優美子?」

「いや、なんかヒキオがずっとこっち見てるから」

「比企谷?」

 

 三浦がそう言うと今度は葉山グループ全員の視線が俺の方へと向けられる。

 よく見たら教室に残っている他の連中も何事かとコチラを注視しはじめていた。

 まずいな……これ以上変に目立つ前にさっさと終わらせるか。

 

「あー……」

 

 だから俺は机から例のタオルが入った紙袋を取り出すと。意を決して三浦達の元へと近づいていき、三浦の前にそれを差し出した。

 

「コレ返す。助かった。一応、洗っといたけど……」

「何これ? あー、あん時の? 別に良かったのに」

 

 俺が視線を合わせないように三浦にそう言うと、三浦はガサガサと中身を確認し、さして興味もなさそうに机の上に広げた。

 一応コチラとしてはキレイに洗ったつもりなので、確認する前に汚すのは辞めてほしいのだが……。

 

「や、やっぱ弁償とかしたほうが良かった?」

「弁償? 別にどっか破いたとかじゃないんでしょ? 別に良いって」

 

 どうやら、女王様からの罰は逃れたようだ。意外と慈悲深いのかもしれない。

 とりあえずミッション完了。

 俺はほっと胸をなでおろし「そ、そか……」と少しだけ情けない声を出してから三浦達の元を離れようと踵を返す。

 

「あー、でも弁償とかいいから暇ならジュース買ってきてくんない? あーしもうお腹ペコペコでさぁ」

 

 だが、そうしてその場をさろうとした瞬間、三浦がそんな事を言ってきた。

 弁償の代わり、ということなので当然これは俺に向けて言っているのだろう。

 正直面倒くさいし、パシリというのは気が進まないが……。

 

「へ? あ、まぁ……それぐらいなら……」

「んじゃよろしくー」

 

 礼代わりにジュースの一本ぐらいなら安いものだろう。

 元々昼飯を買いに購買には行く予定だったし、後々今回の事を恩に着せられても困るしな。

 そう考えた、俺は三浦の依頼を受け購買へ向かうため教室を後にする。

 途中で葉山の「結構律儀なんだな」という茶化すような言葉が聞こえた気がしたがコチラは無視。さっさと用事を済ませてしまおう。

 それで、この件は終わりだ。 

 

「わ、私も行く!」

「ん? いや、いいよ一人でいける」

 

 しかし、そうして俺が購買へと向かっていると何故か由比ヶ浜が追いかけてきた。

 え? もしかして俺購買の場所も分からないと思われている? そんなに信用ないの? ソレは流石に心外なのだが……。

 

「私も購買に用があるの! だから一緒に行こ?」

「お、おう。それならいいけど」

 

 由比ヶ浜は少しだけ怒気を含めた声でそう言うと、俺と並んで歩き始める。

 パシリの付添の何がそんなに楽しいのか分からないが、妙に楽しげだ。

 購買に何か新作のパンでも入ったのだろうか?

 だとしたら開幕ダッシュ組に買い占められてそうなもんだが……。

 

「……そういやジュースって何ジュース買えばいいんだろうな」

「うーん? 優美子がよく飲んでるのって……リンゴかグレフル? 購買だからそんなに種類も無いと思うけど」

「どっち?」

 

 言ってから気がついたが、コレは完全に俺の失態だ。

 買った後で「コレじゃない、別なのを買ってこい」と言われるのは物凄く面倒くさいので、できれば確定して欲しい所ではある。

 一度戻るか? いや、LIKEで一度確認するか? 

 

「ちょっとまってね。……あ、グレフルだって」

 

 俺が歩みを止め悩んでいると、由比ヶ浜は素早くLIKEで連絡を取ってくれた。

 なんという早業、俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。

 でもグレフルって何だ? グレー……グレイ……グレイトフル・デッドはプロシュートの兄貴だし、ペッシはマンモーニだし……パイナップル……フルーツ……あ、グレープフルーツか。

 女子ってああいうの好きだよな。

 とりあえず目的のものが確定出来て良かった、危うくはじめてのおつかい失敗するところだったわ。

 

「そういえばグレープフルーツってブドウじゃないのに何で“グレープ”って付いてるんだろうね? ブドウの仲間なのかな?」

 

 そうして改めて購買へと足を進めていると、突然由比ヶ浜がそんな事を話し始めた。

 いや、まぁ確かにグレープフルーツにはグレープと付いているが……。

 

「アレは実がなる時、一個一個がブドウみたいにくっついててブドウみたいだからそう呼ばれてるんだよ」

「え!? そうなの!? ヒッキー、グレープフルーツの木見たことあるんだ?」

「いや、流石に現物は。 ……ネットの画像でな」

 

 生のグレープフルーツがなってるところなんて見たことはないが、この程度はもはや雑学のうちにも入らない有名な話だ。得意気に語る方が恥ずかしい……。

 だが、その事を初めて知ったらしい由比ヶ浜はやや興奮気味に「ヒッキーって色々知ってるんだね」と俺に尊敬の眼差しを向けてくる。

 その視線が妙に照れくさかったので、俺は少しだけ歩みを早め購買へと向かったのだった。

 

*

 

「じゃあ、私はコレと……あ、ヒッキー待って!」

 

 昼休みもある程度過ぎた時間というのもあり、購買はそれほど混雑はしていなかったので、俺がさっと残り物のパンと飲み物を掴み会計へと向かおうとすると由比ヶ浜が引き止めてきた。 

 貴重な休み時間をこれ以上無駄に消費したくないのだが……今度は一体なんだというのか。

 

「何?」

「えっと……ヒッキーは何買うの?」

「俺? 俺は……」

 

 そう問いかけられ、俺は仕方なく、手に取っていたパンと飲み物を見せる。

 それはよく有る惣菜パンを二個と、三浦に買っていくグレープフルーツジュース。そして、俺自身が飲む予定のコーヒー牛乳だ。

 しかし、由比ヶ浜は俺の手元を見ながら、ほうほうとなにやら計算を始めた。

 

「何? 悪い?」

「別に悪くないけど……じゃあ、ちょっと待っててね」

 

 そう言うと、由比ヶ浜は突然俺の手からグレープフルーツジュースを除くパンとコーヒー牛乳を奪い取っていった。

 単に自分が食いたかったのか、それとも新手の嫌がらせだろうか?

 ……まぁ別にもう一回取ってくればいいだけの話しなんだけどさ……。

 

「欲しけりゃ自分で取ってこいよ……」

 

 俺はそう愚痴りながら改めてパンを取りに行こうと回れ右をしてパンが置いてあるコーナーへと一歩踏み出す。だが、そんな俺を再び由比ヶ浜が引き止めた。

 

「ち、違くて! ヒッキーの分は私が奢るって言ってるの!」

 

 一言も言ってませんが?

 初耳も初耳である。もしかしてこの子、日本語が不自由なのだろうか?

 それとも自分は相手の心に直接語りかけられるタイプの能力者だと信じ込んでいるのだろうか?

 そうだとしたら今後はもう少し優しく接してあげた方が良いのかもしれない……。

 場合によっては病院も紹介してあげよう。

 

「別に自分で買えるからいいよ……」

「それはそうだろうけど……ヒッキーが風邪引いたの私のせいなんでしょ? こんなんじゃお詫びにならないかもだけど……ヒッキーが優美子にお礼するなら、私もヒッキーにお詫びしたいなって思って……駄目、かな?」

 

 由比ヶ浜はそう言うと、少しだけ困ったように、そして縋るように俺を見上げてきた。

 まぁ、俺はタダで貰えるものなら貰う主義だが……施しをウケるつもりはないんだよなぁ……。ソレは俺の美学にも反する。

 だが、今回のコトで由比ヶ浜にいつまでも気に病まれるのが面倒なのも事実だった。

 こいつ結構気にするタイプっぽいし、事故の件での負い目もあるのあろう。

 信賞必罰……と言うほど大げさではないが、ある程度自分で償ったという意識があったほうが気持ち的に楽という事もあるかもしれない。

 

「まぁ……そういうことなら……お言葉に甘えないこともない……が」

 

 だから俺は少しだけ考えた後、そう言って由比ヶ浜の手元にコーヒー牛乳だけを残し、残りのパンを回収した。

 その意味が分からず、最初は「あ、あ」とおもちゃを取り上げられた子供のように悲しそう顔で俺とパンを交互に見上げる由比ヶ浜だったが、俺が「それだけ頼む」と言うと、数秒フリーズしたあと、ゆっくりと再起動した。

 

「これだけでいいの?」

「詫びならソレだけで、十分だ」

「でも……」

「俺は施しは受けない主義なんだよ」

 

 まだ不服そうな由比ヶ浜に、俺は再度そう言い聞かせる。

 

「……わかった。じゃあちょっと待ってて! すぐ買ってくるから!」

 

 すると由比ヶ浜は少しだけ不服そうにしながらも、何故か少し力強く頷いてからそう言ってレジへと向かって行く。とりあえず納得はしてくれたようだ。

 俺はそんな由比ヶ浜が会計をしているのを眺めながら後ろに並び、順番を待つ。

 そして自分自身も会計を済ませ、廊下へと向かうと、そこには既に会計を終えた由比ヶ浜がコーヒー牛乳片手に俺を待っていた。

 

「それじゃ、はいコレ」

 

 由比ヶ浜はそう言って両手で大事そうに持ったコーヒー牛乳を丁寧に俺の方へと差し出してくる。

 なんだかメイドでも雇っている気分だな。いや、メイド雇うような奴は購買まで来ないか。知らんけど。

 俺はそんな事を考えながら出来るだけ由比ヶ浜の手に触れないようにコーヒー牛乳の上の方を摘み、それを受け取った。

 

「おう……サンキュ」

「どういたしまして、ふふ……」

「今度は何?」

「ううん、ヒッキーって優しいんだなって」

「……」

 

 突然そんな事を言われたので、俺は何も答えず廊下を歩き始めた。由比ヶ浜も置いていかれまいと、「ちょっと待ってよ!」と俺の横へと並ぶ。

 目的は勿論三浦たちのいる教室だ。

 ミッションもコンプリートしたし、さっさと渡すものを渡して飯を食おう。

 決して照れくさいとかそういうのでは無い。

 ああ、腹減った。

 

「っていうかさ、こうやって二人で購買に来るのも変な感じだね、ちょっと前だったら想像できなかったかも」

「まぁ……そうだな」

 

 言われてみれば確かにと思う。

 俺から見ればコイツは事故の原因でもあるあの犬の飼い主。

 その飼主とまさか一年越しに友達になるなんて夢にも思っていなかった。

 本当、人生何が起こるか分からんな。

 

「こんな事ならもっと早く会いに行くんだったなぁ……」

 

 そんな事を考えていると、不意に由比ヶ浜が顔を少し反らしたまま突然そんな言葉を漏らした。

 それが一体どんな意図を持っていたのかは分からない。

 だが、それは俺に向けた言葉というよりは独り言に近く、何か返答したほうが良いのかすら分からず、俺たちの間に一瞬の静寂が走る。

 だが、どうやら、返答はしないで正解だったらしい。

 俺が何も言えずにいると、やがて由比ヶ浜はニコッと笑みを浮かべ、俺へと向き直った。

 

「ねぇ、ヒッキー」

「ん? な、何?」

「また一緒に遊びに行こうね……今度は……で……」

 

 最後の方は良く聞き取れなかったが。

 恐らく『今度はカラオケじゃなく、どこか別の場所で』とかそんな感じだろう。

 正直……こいつと遊ぶということは葉山達と遊ぶという事でもあるので、頻繁にというのは遠慮したいのだが……。

 卒業まではまだあるのだし、あと一回ぐらいそういう機会があってもいいかと、軽い気持ちで俺は返答した。

  

「まあ、そのうちな」

「約束だからね、忘れないでよ!」

「お、おう」

 

 俺がそう言うと由比ヶ浜はなにやらスキップでもしそうな勢いで一歩前へと踏み出し、その場でくるりと一回転を始める。

 すると、制服のスカートがふわりと少しだけ持ち上がり、その太ももが顕になった。

 スカートというのはかくも危うい衣服なのか……。

 勿論太ももより上は見えないし、何も見ていないが……帰ったら小町に注意しとこ。

 

「そういえばヒッキーっていつもお昼ドコで食べてるの? いつも教室にはいないよね?」

「あ? あ、ああ。まぁ、その色々な」

 

 そうして、どうやってセクハラにならないよう小町に指導するか頭を悩ませていると、突然由比ヶ浜にそう問いかけられ、俺は一瞬肩を震わせる。

 そう、俺がいつも昼飯を食べているベストプレイスは購買の裏にあるのだ。

 しかも、今歩いているここは一年のテリトリー。

 つまり……この近くに一色が居る可能性は極めて高い……。

 

 正直半分忘れていたのだが、俺としてはまだ一色と顔を合わせる心境ではないし、なんなら今日はこのまま顔を合わせないまま済ませたいとすら思っている。

 それになんとなくだが、由比ヶ浜と一緒に居るこの状況を見られたら、なんだか厄介なことになりそうな気がしていた。

 

「色々って決まってないってこと?」

「決まってないわけじゃないが……」

 

 俺はそう答えながら、周囲に気を配り少しだけ早足で廊下を進む。

 そんな俺を、由比ヶ浜は不思議そうに追いかけてきた。

 

「穴場だからあんま知られたくないんだよ」

「穴場?」

 

 「ああ」と小さく返事をしながら、俺はベストプレイスのある方角へチラリと視線を向ける。

 当然、こんな場所から見えるような場所ではないので、そこに一色がいるのか、いないのかも分からない。

 だから俺は少しだけスピードを上げ、逃げるように教室へと急いだのだった。

 

*

 

「ただいまー!」

「ほい、これでチャラな」

「ああ、はいはい。あんがと」

「おう、ドウイタシマシテ」

 

 そうして、俺達は無事教室に戻り、三浦にグレープフルーツジュースを渡すと、三浦達は楽しげに会話を再開させ、昼食を摂り始めた。いや、厳密に言うと既に摂っていた。

 まあ、もう昼休みになって十分以上が経過してるから当然といえば当然か。

 流石に俺も腹が減ってきたので、そろそろどこで食うか決めなければ。

 そう考え、一度自分の席へと戻ろうとすると、そんな俺に気がついたのか葉山が突然声をかけて来る。

 

「どうせなら比企谷も一緒に食べないか?」

 

 その声に、俺は振り返らず逡巡する。

 普段なら即答で断る所だが、今日に限って言えばそれは魅力的な提案でもあったからだ。

 そもそも毎日一色と一緒に昼飯を食べなければいけないわけではない。

 俺が二年になってからは比較的天気に恵まれていたが、元々ベストプレイスが使えない冬や雨の日なんかは教室で普通に食べる事もあったのだし、仮に一色に何か言われても、葉山に誘われたと言えばソレ以上の追求はしてこないだろう。

 いつまでも一色から逃げ続けることは出来ないとは分かっているが、もう少しだけ時間を置きたい。

 だが、このメンツで食べるコト自体に抵抗があるのも確かだった。

 どちらにしてもデメリットはある。

 さて……どうしたものか。

 

「俺は……」

 

 そうして悩んだ末、俺が口を開こうとするのとほぼ同時に、背後──教室の前の扉から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「すみませーん。センパイいますかー?」




というわけで79話いかがでしたでしょうか?
そろそろ山場ということもあり、書き忘れに注意しないとな。
とか思っていたら思いっきり書き忘れてる事があって慌てて追記してたらまた長くなり切りどころが分からなくなった結果ぶつ切りになってしまいましたが

結果的に次話への引きとしては合格点なんじゃないかなぁとか。

よろしければ感想など頂けますと作者が狂喜乱舞しますので、よろしくお願いいたします。


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第80話 浮かび上がる三角形

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、DM、読了報告、誤字脱字報告etcありがとうございます。

いよいよ80話台に突入!
目指せ100話完結!(無理)




「すみませーん。センパーイいますかー?」

 

 それは少し甘えたような、それでいてネカマには絶対出せないであろうハイトーンボイス。たった一声ではあったが、それだけで声の主が女子であると言うことはクラスに居る誰もが理解しただろう。

 だが、その呼びかけ先が誰なのかまでは分からなかった。

 それも当然だ、普通に考えればこの学校に通う二学年以上の生徒は全員が『先輩』と呼ばれてもおかしくない存在なのだからな。

 二年の教室で『先輩』と呼びかければクラスの誰もが振り返る。ソレは自明の理。

 だから、俺はあえて振り返らなかった。

 なんだか聞き覚えのある声だった気もするが、なんとなく嫌な予感がしたからだ。

 俺には教室にまで押しかけてくるような後輩に心当たりはない。ないったらない。断じて無い。あってたまるか。

 

「あれ? 教室まで来るなんて珍しいね、何かあった?」

 

 そんな俺の判断は間違っていなかったようで、その声に誰より早く反応したのは由比ヶ浜だった。

 由比ヶ浜はさも当然という風に俺の横をスルリと通り抜けると、親しげに声の主の方へと駆けていく。

 その様子から察するに恐らくそれなりに親しい間柄なのだろう、そのコトに俺はほっと胸を撫で下ろした。

 そう、由比ヶ浜の知り合いなら何も問題はない、聞き覚えがあると思ったのはやはり俺の勘違いだったのだろう。

 

「あ、結衣先輩もココのクラスだったんですね。でもすみません、えっと……結衣先輩じゃなくて……」

「私じゃなくて?」

 

 背中越しにそんな会話を聞きながら、俺は購買で買ったパンの袋を片手に考える。今、俺が居るのは教室後ろ三浦たちの席の近く、廊下まではたった数歩の距離。

 もっと具体的に言えばあと二歩も足を進めれば角度の問題で教室の前の扉から俺の存在は視認できなくなるだろう。

 つまり、このまま声の主と入れ違いで廊下に出ることも可能。なら、善は急げというやつである。

 一応弁明しておくと、俺自身声の主に何か思うところがあるわけではない。由比ヶ浜が応対した以上俺とは関わりのない人物だとは思う。だが、先程からどうにも嫌な予感がして仕方がない。

 それはなんだかとても面倒くさいコトになりそうな……そんな予感。

 この予感を消すには、とにかくこの場を離れるしかない、そう考えた俺は出来るだけ自分の気配を消しながら、ゆっくりと床を擦るように足を進めていく。  

 

「比企谷? ドコ行くんだ?」

 

 だがそうして一歩足を進めた所で今度は別の人物から声をかけられた。

 俺はそのコトに思わず動揺し体を震わせ、間抜けにも持っていたパンの袋を落としてしまう。

 今度の声の主は振り返らなくても分かる、葉山隼人だ。まるで嫌がらせのようなタイミングだな……。いや、実際嫌がらせだったのかもしれない。

 俺は葉山に抗議の意を込めてジロリと睨みを利かせる、しかし当の葉山はきょとんと不思議そうに首を傾げるばかり。

 ダメだコイツ、早く何とかしないと。

 しかし、今はこの場を離れるのが先決。俺は葉山への追求を早々に諦め床に落ちた袋を拾おうと体を屈める。

 

「あ、いたいた! センパーイ!」

 

 すると例の後輩がそんな声を上げながら教室の中へと入ってくる気配を感じた。

 俺は袋を拾う姿勢のまま固まり、どうか自分ではありませんようにと只管に祈る。

 大丈夫、この角度なら俺からアイツの事は見えない。

 きっと別人だ。

 だが、机の隙間から見えるソイツの足が俺の方へと一直線に向かってくるのはどういうことだ? 怖い。

 いやいや、待て。まだそうと決まったわけじゃない。

 だって、おかしいだろう? アイツがココに来るはずがないのだ。

 少なくともアイツが総武に入学してから今日まで教室に来たことは一度も無かった。

 言ってみればこの教室は俺とアイツを隔てる結界の一つ。

 俺だってもし仮に「三年の教室に行ってこい」と誰かに言われたら少し躊躇して、それから逃げるだろう。

 それぐらい、上級生の教室というのは行きづらい場所なのだ。

 アイツがこの領域に入ることは出来ない。

 そう思っていたのに……。

 

「もうー! センパイってば、返事してくださいよ!」

 

 ポンと背中を叩かれてしまった。他の誰でもない俺の背中をだ。

 もう誰かと勘違いをしているという可能性は残されていないのだろうか?

 俺は恐る恐る、その人物を確認するため落ちたパンを拾いながらゆっくりと顔を上げる……どうか、なにかの勘違いでありますように。

 だが、そんな俺の願いも虚しく、俺の目の前には満面の笑みを浮かべた一色いろはが立っていた。

 

 ええええ……?

 何で? どうして?

 まさか本気で一昨日のコト言いふらしに来たの?

 この場には葉山もいるし、俺を『勘違いの許嫁野郎』として晒すならこのタイミングがベストだという事なのか?

 最早軽いパニック状態に陥って顔を引攣らせることしか出来ない俺に、一色はなおも笑いかけてくる。

 ふと視線をずらせば、由比ヶ浜も驚いたような顔をして俺たちを見ていた。

 いや、由比ヶ浜だけじゃない、葉山も三浦も、今教室にいる全員が俺たちを注視している。

 まずい、何か言わなければ、何か……何か!

 

「遅いから心配で迎えに来ちゃいました♪」

 

 だが、上手く考えがまとまらず「あ、お……」と情けなく口をモゴモゴさせていると、先に一色が口を開く。

 いや、遅いも何も約束した覚えがないんだけどな……。

 とはいえ、今それを言ってもどうにもならないだろう、とにかくこうなってしまった以上コイツを連れてこの場を離れなければ……!

 

「あ、アあ……そウ……じゃあ、えっと……メシ、クイニいクカ?」

 

 そうしてようやく絞り出したのはそんな間の抜けた言葉。

 場所が場所だったら完全に不審者として通報されていただろう。

 言われた一色も「センパイ……もしかしてまだ体調が?」とか心配そうに俺を見上げてくる。完全に失敗だ。

 ふと周囲を見渡せば、葉山も苦笑いを浮かべながらコチラへと近づいてきていた。

 

「なあ、昼飯ならココで一緒に食べていけばいいんじゃないか?」

 

 突然背後に影を落とされた一色は驚いたように振り返り「あ、葉山先輩」と軽く会釈をする。

 まるで今まで葉山が居ることなんて気がついていなかったかのような態度だったが、俺には分かる、確実に演技だろう。今この状況でこいつの目的が葉山以外にあるはずがないからな。

 俺はそのコトに少しだけ苛だちを覚えながら、葉山を睨みつけた。

 

「皆で食べたほうが楽しいだろ?」

「何? 隼人の知り合いなん?」

「あー……もしかして文化祭で会った子じゃね?」

「文化祭?」

 

 しかし、葉山はそんな俺のコトなど気にした様子もなく、葉山フィールドを発生させ、ワイワイと一気に一色の歓迎ムードを形成していく。

 とても俺にはできない芸当だ。

 それをきっかけに、それまでこちらを見ていたクラスの連中も「ああ、葉山関係か」と興味を失い各々の昼食風景へと戻っていき、一色への好奇の視線も薄れていった。

 

「それじゃ、皆賛成ってことで結衣もいいかな?」

「え? あ。う、うん。勿論!」

 

 最後に由比ヶ浜の賛成を聞くと、葉山は一度ニコッと俺に微笑みかけ背を向けると先程まで自分たちが使っていた机に近くの机を加え、並べ直していく。

 最早『皆で飯を食う』というのは決定事項らしい。

 いや、皆って誰だよ。母ちゃんにスマホ買ってもらう時に言う皆かよ。

 俺は賛成した覚えはないんだが? っていうかそもそもその皆に俺は含まれてるの? 俺はどうしたらいいの?

 よく見れば、当の一色もガタガタと机を動かす葉山達と俺を交互に見ながらオロオロと所在無げに佇んでいる。

 本当、どうしたらいいんだろうな。

 

「ほらほら、座っちゃって」

「あ、すみません。えっと、じゃあ、お邪魔しまーす……」

 

 やがて、そんな俺達の戸惑いを察してか、戸部がそういって自分が座っていた椅子に一色を座らせた。

 

「ヒッキーも座りなよ」

「……え、あ。おう」

 

 その声に続くように、由比ヶ浜が俺を自分の隣の椅子へと座らせる。

 しかも何故か三浦の正面の席、圧がすごい。

 どうやら完全に班が形成されてしまったようだ。

 席順は三浦から時計回りに葉山、誕生日席に戸部、一色、俺、由比ヶ浜、由比ヶ浜の正面に海老名さんという順番。

 こんな風に班になって昼飯を食うなんて、何年ぶりだろうか?

 なんだか給食を思い出すな……班を作る時「机をくっつけないで!」と俺の机だけ三センチ程引き離したあいつらは今頃ドコで何をやっているのだろうな。

 天罰が落ちていたらいいのに。

 

「それで? アンタ名前は? 一年でしょ?」

「あ、はい、一年の一色いろはです」

「あそ、あーしは三浦、こっちは海老名んで、こっちが……」

「葉山先輩ですよね。あと……」

 

 そんな風に俺が過去のトラウマに思いを馳せているといつの間にかそれぞれの自己紹介と一色への質疑応答が始まっていた。

 そしてその質問に一色は特に臆することもなくポンポンと答えていく。俺なんかよりよっぽど場に馴染んでいるな……。まあ、あからさまに営業スマイルだけど。

 そんな一色を見て、俺はほんの少しの居心地の悪さを感じながら一人パンを齧った。

 

「隼人もなんか知ってる風だったけど……二人はどういう関係なん?」

「どういうって言われましても……」

 

 だが、続いて三浦にそう問いかけられ、一色がどう答えたものかと少しだけ困ったように俺を見上げて来る。

 正直俺を見られても困るのだが……。

 

「去年の文化祭で偶然会ったんだよ。な、戸部?」

「そうそう、あん時のあの子だべ? 確かヒキタニ君の妹ちゃん!」

「いや、妹なのはもう一人の方でコイツは……」

「比企谷の昔なじみらしい」

 

 そうして俺が一色から目を逸していると、救いの手を伸ばしたのは葉山だった。

 一応俺としては昔なじみではないと否定したかったが、それを否定したらもっと面倒くさい説明をしないといけないことに気が付き。俺はそのまま押し黙りパンを齧り続ける。

 三浦はその返答に納得したのかしなかったのか「へぇ……」と少しだけ不満げに俺と一色を交互に見た後、グレープフルーツジュースをズズっと吸い込んだ。

 

*

 

「ね、ねぇヒッキー……」

 

 それから俺は一色が葉山達に絡まれている様子を眺めがら、その日の昼食を終えこの後どうしたもんかとボーッとしていたのだが、左肩をツンツンと突かれる感触に襲われた。

 突然のコトに一体何事かと振り返ってみると、そこには由比ヶ浜の姿。

 由比ヶ浜は何故か少し体を屈め、まるで何かから隠れるかのように小声で話しかけてくる。

 

「ん? 何?」

「あのさ、ヒッキーってその……いろはちゃんのコト知ってたの?」

「ん、ああ。まあちょっとな……」

「へ、へぇ……」

 

 俺の答えが意外だったのか、それとも納得出来なかったのか、由比ヶ浜は歯切れ悪そうに、そして少しだけ戸惑ったようにそんな声を上げる。

 俺としては由比ヶ浜が一色と知り合いだったことのほうが驚きではあるのだが……。

 そういえば、一体この二人はどこで出会ったのだろう? それを聞いても良いのだろうか?

 そんな事を考えていると、やがて由比ヶ浜は意を決したように次の質問を投げかけてきた。

 

「つ、付き合ってる……とか?」

 

 直球すぎるその質問に俺は一瞬答えに戸惑い、思わず吹き出しそうになってしまう。

 当然、付き合っているわけではない。

 それは百パーセント否定できる……だが……。

 

「ち、違! そういうんじゃない……なんつーか……その……まあ……バイト関係でな」

 

 咄嗟に出た言葉は、少なくとも嘘は言っていないという程度のものでしかなかった。

 毎度のコトながら、俺と一色の関係性を他人に説明するための適当な言葉が思い浮かばないのだ。

 いや、まあ真実を語るのであれば漢字二文字のあの言葉しかないのだろうが……。

 流石にソレをこの場で言う訳にもいかないだろうし、一色もそんな事は望んでいないだろう……。

 

「そ、そうなんだ。そういえばヒッキーバイトしてるって言ってたもんね」

「あ、ああ」

 

 だから俺は由比ヶ浜がその言葉で納得してくれたコトにホッと胸を撫で下ろした。

 いや、もしかしたら納得はしておらず、それは由比ヶ浜の優しさだったのかもしれないが、その時の俺には何も答えることが出来ず、どうかこれ以上追求されませんようにという願いを込めて乾いた笑いを返すコトしかできなかった。

 

「あ、あはは」

「はは、ははは……」

「何二人でコソコソ話してるんですか?」

 

 そうして由比ヶ浜と笑い合っていると、今度は一色が会話に割って入ってきた。

 どうやら、三浦達との会話がちょうど途切れたタイミングだったらしい。

 それがグッドタイミングなのか、バッドタイミングなのかは分からないが、一色は俺と由比ヶ浜を交互に見ると少しだけ嬉しそうに口を開く。 

 

「っていうか結衣先輩ってセンパイと同じクラスだったんですね。センパイもそれならそうと早く教えてくれたら良かったのに」

 

 そのセリフは俺が言いたかった。

 そう、俺はそもそも一色と由比ヶ浜が知り合いだというコトすら知らなかったのだ。

 そして、そのコトがこの後あんな展開を生むなんて……一体誰が予想出来ただろう?

 もし俺がそのコトをもう少し早く知っていれば、あるいは気がついていればこの後の展開は変わっていたのかもしれない。

 いや、そもそもを言えば、やはりさっきのあのタイミングで教室を出るべきだったのだ、最初のやり取りの時点で、二人が一度や二度会っただけの仲ではないことは理解出来たし、嫌な予感はずっとしていたのだから……。

 だが、その後悔に気づいたのは次に由比ヶ浜が爆弾を落とした後のコトだった……。

 

「う、うん。同じクラスもそうだけど……その……」

「その?」

「例のアレ……あげたの……ヒッキー、なんだけど……」

 

 由比ヶ浜の言葉に、一瞬俺たちの間に静寂が走る。

 例のアレってなんだ?

 俺なんか貰ったっけ?

 今日はこのコーヒー牛乳奢ってもらったけど……それをさっき教室にやってきた一色が知っているはずがない。

 他に由比ヶ浜に貰ったものと言えば……クッ……キー……?

 

「は?」

 

 そうして俺が脳をフル回転させていると、先程までの営業スマイルはどこへやら一色は目を丸々と見開き口をポカーンと開けたまま固まってしまった。

 Wi-Fiが切れてしまったのかもしれない。

 顔の真ん中あたりにグルグルという読み込み中の表示が出ている気がするぐらい分かりやすく止まっている。

 珍しい光景だ。動画取っておけばよかった。

 

「え? え?」

 

 それから数秒、ようやく読み込みが終わったのか、一色は今度は壊れたおもちゃのように俺と由比ヶ浜を交互に確認するように、激しく首を振り始めた。

 一色がそんな状況に陥ってしまったので、俺と由比ヶ浜もどうしたら良いか分からず動けずに居る。

 この時の俺達を傍から見ていた連中にはさぞ滑稽に見えたコトだろう。

 出来ることなら俺も傍観者で居たかった。

 

「ええええ!?!?」

 

 しかし、どうやらそういう訳にも行かないようだ。

 やがて一色は溜まりに溜まったエネルギーを絶叫に代え、再び教室中の視線を集めると椅子から立ち上がり、グイグイと俺の方へと詰め寄って来た。

 その声量たるや、あの三浦が思わずビクリと体を震わせるほどだ。

 

「な、なんで! え!? どうして!?」

「ちょ、ちょっと落ち着け! 何? どした?」

 

 俺の言葉を聞いているのか聞いていないのか、一色は俺の肩を掴むとガクガクと前後に揺らし、俺の三半規管に的確なダメージを与えて。うっ……目が回りそう。ウップ……。

 

「一色ちゃん、なんかあったん?」

「なんなん? ヒキオなんかしたん?」

「もしかして……知らなかったのか?」

「何々? 修羅場? 修羅場なの?」

 

 突然の一色のご乱心にとうとう葉山達も騒ぎ始めた。

 だが、特に俺を助けようとはしてこない。まぁそれはそうだろう、先程までは従順だった一年生が二年の教室で突然暴れ始めたのだ俺だってそっちの立場だったら怖くて近づけない。

 ただ、この時葉山だけが何かを察しているように見えたのは俺の気の所為だろうか?

 

「センパイは知ってたんですか!?」

「な、何をだよ……」

「だから、結衣先輩のコトですよ!」

「そりゃ同じクラスだし……って、あーもう……とりあえずコッチ来い」

 

 一色は何故突然ビーストモードになってしまったのか? 何に怒っているのか、いや、そもそも怒っているのかどうかも分からないが、何にしてもこのままでは俺も一色も完全に見世物になってしまう、明日からの学校での立場が危うい。

 いや、もう十分危うい気はするが……とにかく一色をなんとかしなければ。

 そう考えた俺はギャーギャーと喚く一色の手を掴み、そのまま逃げるように廊下へと向かった。後ろから由比ヶ浜が付いて来る気配があったが、まあ一人ぐらいなら問題はないだろう。

 俺は他についてくる奴が居ないことを確認しながら、教室の扉からコチラを覗いてくるクラスメイト達を振り切り、そのまま階段の踊り場まで走ると、その角を曲がり一色を隠すように向かい合う。

 ちょっと壁ドンっぽくなってしまったが、決して壁ドンではない。うん。

 

「センパイ! 逃げないでちゃんと説明して下さいよ!」

「逃げてないだろ……とりあえず落ち着け」

「そ、そうだよいろはちゃん一回落ちつこ? ね?」

 

 とりあえずここなら問題はないだろう。だが一色は相変わらず興奮状態のままだ、とにかく冷静に……でも、一体何を話せばいいんだ?

 まず一色が何を知りたがっているのかが分からない。説明と言われても俺が何を説明すればいいのかがわからない。

 そんな状況だからこそ次に自分が発するべき言葉が分からず、俺と由比ヶ浜はどうしたものかと視線を交わしていた。

 

「おや、珍しい組み合わせだな。……いや、珍しくはないのか? まあ丁度よい、比企谷悪いがコレ次の授業始まる前にクラスの皆に渡しておいてくれるか」

 

 そんな不毛な空気を打開したのは、タイミングよく階段を昇ってきた平塚先生だった。

 平塚先生はこの場の空気など完全に無視をした動きで、俺にプリントの束を押し付けるながらそう言うと、まるで何十キロもある荷物を運んだ後のように疲労感を漂わせ肩を回し始める。

 いや、この量のプリントじゃそこまで重くないでしょうに……。

 だが、今はそんな事を考えている場合ではない、そう思い俺は平塚先生にプリントを返そうとしたのだが、平塚先生は腕を組み受け取りませんというポーズのまま壁にもたれ掛かった。

 

「い、いや今ちょっと立て込んでまして……誰か別の人に……」

「立て込んでる? 何かトラブルかね?」

 

 平塚先生は一瞬ポケットから何かを取り出すような仕草をすると、ハッと我に返った後少し気だるげに口を開く。

 どうやら完全に俺に押し付けるつもりのようだ……。くそぅ……。

 

「まあ……ちょっと色々ありまして」

「ふむ……まさか君がそっち側だとは思わなかったな」

 

 仕方なく俺がそのプリントの束を抱え、一色と由比ヶ浜に視線を送ると、平塚先生は何かを察したのか被せ気味にそう言い放った。

 どうやら何か勘違いをしているらしい。

 しかも何が気に入らないのか顔こそ笑っているものの、その背後には黒いオーラを漂わせている。下手なことを言ったら殴られるかもしれない。

 理不尽である……これ以上事態をややこしくしないで欲しい……。

 

「平塚先生! 聞いてくださいよ!」

「一色、君は一年だろう? こんなトコロで何をしとるんだね。そろそろ昼休みも終わるぞ自分の教室に戻りなさい」

 

 そうして俺が押し黙っていると、今度は一色が平塚先生に詰め寄っていった。

 だが、平塚先生は多少私怨の籠もった声で、不機嫌そうにそう言い放つ。

 それでも怯まなかった一色を称賛したくなったのは当然というものだろう。一色強い。

 

「結衣先輩ってば私達を騙してたんですよ! 酷くないですか!?」

「べ、別に私騙してなんか……!」

「騙してたようなもんじゃないですか! 相手がセンパイだって知ってたら私あんなに……!」

「だ、だっていろはちゃんがヒッキーと知り合いだったなんて私知らなかったし……」

 

 しかし、そこでまた一色の怒りに火が付いたのか今度は平塚先生を挟んで二人が口論を始めてしまった。

 一応、俺もどうにか二人を引き離そうとは考えたが、俺には二人の会話の意味がまだ完全に理解しきれていない。

 この状況で下手に口をだせばヤブ蛇になる可能性もあるだろう。

 そう考えると結局、俺は女子二人のキャットファイトを見ていることしか出来ず、情けなくもオロオロと状況を静観することしか出来なかった。

 

「ストップストップ! ふむ……察するに比企谷が原因のトラブル……というコトで間違いないかね?」

 

 やがて見かねた平塚先生がそう言うと、先程まで言い合いをしていた二人が同時に俺を見た後、平塚先生に向かってコクコクと高速で頷いた。

 いや、俺何もしてなくない?

 おかしい、ついさっきまで由比ヶ浜はコッチ側だと思っていたのに……。気がついたら完全に孤立している。

 どういうことだってばよ。

 

「いや、別に俺が原因というわけでは……」

「うるさい、リア充爆ぜろ」

 

 えええええ……。

 もの凄い冷たい口調でそう言い放たれ、俺は思わず息を呑む。

 怖。今の完全に人を殺せる声だったぞ。

 よく聞く他愛のないネットスラングなはずのに『私が結婚できないのになんでお前は』みたいな意味合いが籠もってそう。絶対色恋沙汰とかと勘違いしてるだろこの人……怖い。あと怖い。

 

「とにかく、そういう相談ならうってつけの場所があるだろう? こういう時は私ではなく、そちらを頼りなさい」

「うってつけの場所?」

「……君達が所属している部活はなんだね?」

 

 その言葉に、一色と由比ヶ浜がお互いの顔を見ると。何かを察したかのように大きく頷いた。

 そこで俺もようやく足りないピースの欠片を手に入れる。

 少なくともコレで由比ヶ浜と一色の線が見えた。

 一色の入ってる部活の名前は確か……。

 

「というわけで比企谷。放課後奉仕部まで来るように」

 

 そう、奉仕部だ。一色が所属しているという部活。

 何度か話にも聞いていた。

 これまでの流れから察するに由比ヶ浜も同じ部員なのは確定なのだろう。

 しかし、それならそれで何故俺が? という疑問もある。

 部活的な問題なら部員同士で解決してもらう訳にはいかないのだろうか? 

 というか、なんかもう怖いし、出来ることなら行きたくない。

 

「へ? いや、俺は……」

「当事者の君が来なければ話にならんだろう?」

 

 そんな俺の迷いを察したのか、平塚先生はそう言って俺に念を押して来る。

 

「いや、でも……」

「来るように」

「……はい」

 

 最後は有無を言わさずという鋭い眼光と重い一言で、俺は結局頷くコトしか出来なかった。畜生。

 その俺の返答に満足したのか、平塚先生は最後に「それじゃ、プリント頼んだぞー」と言うと、手をヒラヒラさせながら来たときとは逆に階段を下っていく。

 残されたのは俺と由比ヶ浜、そしてフーフーと息を荒げている一色だ。

 二人はいや、一色は相変わらず由比ヶ浜を威嚇している。

 どうやら平塚先生に従って、放課後奉仕部とやらで問題を解決しないとこのビーストモードは解除されないらしい。

 なら、行くしか無いのか……?

 はぁ……。

 

 でも俺そもそも部員じゃないし、部室がどこにあるかも知らないんだよなぁ……。

 教えて! 偉い人!




というわけで、とうとう真実に気づいてしまったいろはすなのでした。
次回!解決編に乞うご期待!

感想、評価、お気に入り、誤字報告などお気軽にリアクション頂けますと
古戦場中のモチベも上がりますのでお手隙の折は何卒よろしくお願いいたします。

ん? 古戦場……?
うっ、頭が……!!


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第81話 いざ奉仕部へ

いつも感想・評価・お気に入り・DM・ここすきetc。ありがとうございます。

長らくおまたせいたしました。
解決編お楽しみいただければ幸いです。

──↓間が空いたので前回のあらすじ↓──

いろはすにガハマさんとの関係がバレた!


 放課後、俺は半ば連行される形で女子二人に挟まれながら、特別棟の廊下を歩かされていた。

 事前に得られた知識から察するに恐らくはココに“奉仕部”とやらの部室があるのだろう。

 だが、実のところ何故ソコに向かっているのかという肝心な部分はイマイチ理解できていなかった。なんなら逃げ出したいまである。

 だってそうだろう? 今俺がこうして大人しく二人についていっているのは『平塚先生に言われたから』というだけの話でしかなく、その先で何をされるのか分かっていないのだ。

 そもそも今回の件で一色が何に怒っているのかも分からない。

 分かっているコトといえば一色と由比ヶ浜が奉仕部の関係者なのだろうということ。

 そして──これは確定ではないが──恐らくは由比ヶ浜から貰ったクッキーが関係しているのだろうということだ。

 俺が由比ヶ浜から貰ったモノといえば屋上で貰ったクッキー、それか体で受け止めたウーロン茶ぐらいしかないからな。

 実際、一色から「部活でクッキーの作り方を教えた」という話は聞いていたし、俺自身由比ヶ浜のクッキーを食べた時に一色のクッキーを連想している。だからこの憶測は大きくは外れていないだろう。

 まあ、それはそれでまた一つ考えなければならないコトが生じるのだが──。

 

「ついたよ」

 

 そんな事を考えていると、由比ヶ浜が歩みを止め、クルリとこちらを振り返った。

 どうやら目的地に到着したらしい。

 ふと見ればそこは何の変哲もなさそうな──少なくとも俺がこの学校に通ってから一度も訪れたことのない教室の前だった。

 一体何に使われていた部屋なのだろうと、教室前に掲げられているプレートを見上るが、そこにはカラフルでポップなシールが数枚貼られているだけ。恐らくは完全な空き教室なのだろう。

 しかし、そうだとすると少しだけ予想が外れた。

 というのも“奉仕部”なんてあまり耳馴染みのない部の部室なら、それほど大きくはないだろうと思っていたからだ。

 一色の話から考えるに部員は少なくとも三人。部としても成立するギリギリのラインの人数しかいないのではないか? と予想していたのだが、教室一つ丸々占有しているということは俺が思っている以上に大きな部活なのかもしれない。

 なんだかんだと言っても、結局のところ一色と由比ヶ浜の問題っぽいし、そこまで酷いことにはならないだろうと甘く見積もっていたが、最悪魔女裁判からの吊し上げもありえるなこりゃ……。

 うっ、まずい。持病の教室に入ってはいけない病が……。

 

 押し寄せてきた不安とともにチラリと背後を振り返れば、相変わらず不機嫌そうな一色が由比ヶ浜を睨んでいる。

 今にもガルルルという威嚇音が聞こえてきそうだ。

 一方、ターゲットにされている由比ヶ浜はというと、そんな一色から逃げるように俺の影に隠れながら困ったように笑うと俺を見て「と、とりあえず中入ろっか?」と投げかけたその問いの返事も待たずに、ガラガラと教室の扉を開け始めた。

 

 「やっはろー」と勢いよく教室に飛び込む由比ヶ浜に続き、俺も続いて恐る恐る教室の中を覗き込む。

 すると、そこに広がっていたのは予想通りのよくある空き教室の一室。

 教室の半分ほどを未使用の机と椅子で埋め尽くされ思っている以上に使えるスペースの少ない物置のような場所だった。

 だが、そんな殺風景な教室の中に異質な物が一つ。

 それは部屋の中央に置かれた椅子に座る黒髪の少女の姿があった。

 その少女、いや美少女は俺たちの存在に気付くと読んでいた本から視線を上げ、髪をかきあげながらコチラへと視線を移してくる。

 その仕草は何故だか以前どこかで見たことがあるような、そんな妙な既視感さえ覚え、俺はその一瞬フリーズしてしまっていた。

 

「……センパイ? 早く入ってくださいよ」

「お、おお、すまん」

 

 そんな俺を不審に思った一色が、後方からジト目で俺を睨んで来たので、俺は慌てて教室の中へと足を踏み入れていく。

 危ない危ない、また変な言いがかりをつけられるところだった。こいつの沸点がどこにあるのかイマイチ分からんからな、気をつけなければ。

 そう肝に銘じ改めて俺が教室の中へと足を踏み入れていくと、黒髪の少女は少しだけ眉根を潜めたまま、まるで俺の方を睨むように見つめて来た。

 まあ、それはそうだろう、突然見知らぬ男子が自分のテリトリーに入ってきたのだ、警戒をして当然というもの。

 誰だってそうする、俺だってそうする。

 だが、俺はその瞬間。あることを思い出していた。

 

 そう、話には聞いていたではないか奉仕部のもう一人の部員。それは雪ノ下雪乃なのだ。

 まずい、すっかり忘れていたが俺は雪ノ下に誤解をされている可能性があるのだった。

 というのも、盗撮犯だと思われている節があるのだ。

 これまではどうせ今後顔を合わせることもないだろうと思っていたのだが。

 今日、このタイミングで雪ノ下と顔を合わせるのは悪手ではないだろうか?

 それこそ魔女裁判まっしぐらかもしれない。

 

 ただ一応言わせてもらうと盗撮に関しては完全に冤罪なのである。

 あれは去年の文化祭。俺が平塚先生に頼まれてカメラで記録用風景を撮っていると、あろうコトかそんな俺を盗撮犯だと通報した輩がいるのだ。

 まあ、その通報者が雪ノ下かどうかは分からないが、実際雪ノ下にレンズを向けたコトもあったりはする。でも断じてシャッターは切っていないし、疚しい写真は撮っていないのだ。

 その事は当時文実に捕まった段階ですべて説明してあるし、俺は完全な無実である。

 だが、もし雪ノ下の中で俺が盗撮犯という認識のままならば、今この場でその事を追求されるかもしれない。

 

「……一体何事かしら?」

 

 そうして、俺が内心動揺しながら冷や汗を垂らしていると、やがて雪ノ下がそう口を開いた。

 どう見ても歓迎ムードという感じではなさそうだ。

 俺は思わずゴクリと喉を鳴らす。

 

「えっと、話すと長くなるんだけど……。あ、まず紹介するね、コチラ同じクラスの……」

「比企谷……八幡君ね」

 

 雪ノ下の問いに由比ヶ浜が答えようとすると、突然雪ノ下が俺の名を口にした。

 その瞬間俺の心臓がビクリと跳ねる。

 まずい、俺のことを知っているということは……やはりバレているのだろうか?

 いや、だが断じて俺はやっていないのだ。

 繰り返すがあの一件は完全な誤解で冤罪で無実である。

 下手な事を言われる前にそれを証明しておきたい。

 しかし、今この場でそれを主張して納得してもらえるのだろうか?

 どう考えても一色は冷静な状態じゃなさそうだし、下手をすると由比ヶ浜まで敵に回る恐れがある。どうにか雪ノ下にだけ事情を伝える方法は……。

 

「……雪乃先輩もセンパイのコト知ってたんですか?」

 

 そんな事を考えていると、突然一色が俺と雪ノ下の間に割り込むように前に出た。

 フーフーと息を荒げ、まるで何かから俺を守るかのように右手を広げている。

 また何かおかしな勘違いをしていそうなので、落ち着かせたいところではあるが……俺が盗撮犯の濡れ衣を着せられているなんて言えるわけもなく、俺はただその場を傍観することしか出来ない。

 

「ゆ、ゆきのんのコトだし、全校生徒の名前とか覚えてるんじゃない? 私の事も知ってたし!」

 

 だが、次に口を開いたのは由比ヶ浜だった。

 実際そうだったらどんなに良いだろう?

 いや、秀才と噂の雪ノ下のことだ、ソレはソレでありえない話でもない。

 どうか、これ以上余計なことは言わないで欲しいと俺は天に祈る気持ちで雪ノ下へと視線を向ける。

 

「そんなワケないでしょう? ……彼のコトなんて知らなかったもの」

 

 俺の願いが通じたのか雪ノ下はそう言うとふと窓際へ視線を移した。

 そう、窓際だ。俺たち三人ではなく、窓際。

 一体何を見ているのだろう? と俺たちもそちらへと視線を送る。

 するとそこには不自然に盛り上がったカーテンとそのカーテンに映し出された大きな丸いシルエット。

 そのシルエットは俺たちの視線が集まるのを待っていたかのように突如ふわりと広がると、「とうっ!」という奇声と共に中から何かが飛び出してきた。

 出てきたのはロングコートを迷惑な程にはためかせ、メガネを光らせた小太りな男。

 材木座だ。

 

「中二先輩……?」

「……なんでお前がここにいんの?」

「ふははははっ! 異なことを、我がココにいるのは必然というものよ」

 

 俺がそう問いかけると、材木座は特に悪びれた様子もなくそう言って高らかに笑った。

 ココに居るのが必然、ということは……え? コイツも奉仕部なの?

 見た感じ他には女子しかいないんだけど? ハーレムじゃん。俺も入ろうかな。幽霊部員だけど。

 

「今日は彼の依頼を解決する日だというのは共有してあったはずなのだけれど?」

 

 しかし、そんな材木座の言葉を否定するように雪ノ下はそう言って、その名前の通り冷たい視線を由比ヶ浜へと向けていた。怖い。

 蛇に睨まれたカエル。いや、ライオンに睨まれたポメラニアンだろうか?

 

「ベ、別に忘れてたわけじゃないよ? でもちょっとトラブルがあったというか……平塚先生にもコッチで解決しなさいって言われちゃったし……」

「平塚先生に……? どういう事かしら?」

 

 由比ヶ浜の言葉を聞いて、雪ノ下は今度は一色へと視線を向けていく。

 すると、驚いたことに一色は一歩も怯むこと無く、それどころかズイっと前に出て一言。

 

「結衣先輩が私達のコト騙してたんです!」

 

 そう宣言したのだった。

 

「騙した?」

「だ、だから別に騙してたわけじゃないって!!」

 

 そこからはまた昼休みと同じ一色と由比ヶ浜の問答の繰り返しだった。

 騙した、騙してないの応酬に俺も思わずため息を吐く。

 とりあえず雪ノ下が俺のことを知っている理由に言及されずに済みそうだが……。

 ふと視線を移せば、雪ノ下も雪ノ下で偏頭痛でもあるのか、頭を押さえるポーズをしたまま床を見つめ俺と同じようにため息を吐き、一瞬だけ俺と視線を交わす。

 

「……出来れば材木座君の依頼を先に片付けたかったのだけれど……どうやら二人共それどころじゃなさそうね……。材木座君、申し訳ないのだけれどアナタの依頼は後回しというコトでも良いかしら?」

「ふむ、我が朋友のためとあれば致し方あるまい。我のことは気にせず──いや、なんなら我も八幡の依頼とやらを聞いてやろうではないか。一色嬢とも知らぬ仲ではないしな」

 

 やがて雪ノ下は材木座にそう問いかけると、材木座は腕を組んだ姿勢のまま何やら満足気にふんっと大きく笑って頷いたのだった。

 

*

 

 それから、一色を宥め由比ヶ浜から引き離すと、全員に椅子が用意された。

 現在の並びは教室中央に雪ノ下、その隣には由比ヶ浜。

 その二人に対峙するように材木座、俺、一色が座っているという状態だ。

 

「それで……? 騙していたというのはどういう事なのかしら?」

 

 全員が席につくと雪ノ下がそう言って話し合いは開始された。

 実際、俺もその辺りがよく分かっていないので詳しく教えていただきたい。

 そう思い、俺は一色の方へと視線を向ける。

 

「結衣先輩ってばあのクッキーをセンパイにあげてたんです!」

 

 すると、一色は由比ヶ浜を指さしながら自信満々にそう宣言した。

 その堂々たる仕草はまるで某裁判ゲームで証拠を突きつけた弁護士のようでも有り、なんならコレで「有罪確定ですよね」とでも言わんばかりの勢いだ。

 

「?」

「?」

「何を……言っているのかしら?」

 

 だが、当然それで有罪判決なんて事にはならないし、なんなら全員の頭にクエスチョンマークが浮かぶだけで、何一つとして場は動かなかった。

 いや、もしかしたらそう思っているのは俺だけで、実は俺の知らない情報がすでに出回っていて、今のが決定打になったという可能性もあるのか? とも思ったが教室を見回しても雪ノ下も材木座もクビを捻って、まるで宇宙人と話しているかのような顔をしていたので、恐らく皆同じ感想を抱いているのだと思う。

 

「だから! 結衣先輩に教えたクッキー! よりによってセンパイにあげてたんです!」

「えっと……アナタの言う“センパイ”というのは比企谷君のことで良いのかしら?」

 

 まるで理解できない俺たちが悪いとでもいいたげに更に声を荒らげる一色だったが雪ノ下の言葉を聞きコクコクと高速で何度も頷く。

 やっと分かってくれたか! と思っていそうだが。残念、コチラは何も分かってはいなかった。

 この場にいる一年は一色だけで、こいつが頑なに俺の名前を呼ばない事でややこしさを増していたのは確かだが、問題の本質はそこではないのだ。

 

「つまり、由比ヶ浜さんの依頼で教えたクッキーの送り先が比企谷君だったと……?」

「そうです」

「由比ヶ浜さんは“比企谷君にはあげない”と約束をしていたのかしら?」

「し、してないしてない! だって……その……ヒ、ヒッキーにしかあげる予定なかったし……」

「そうなると、何が問題なのか分からないのだけれど……」

 

 そんな中少しでも状況を理解しようと、雪ノ下が一本一本絡まった糸を解いていくように質問を重ねていく。

 その様子はまるで幼稚園児をなだめる保母さんのようで、正直このまま放っておけば一色の癇癪も沈めてくれるだろうという妙な安心感さえあった。

 だが、そう思ったのも束の間。突然雪ノ下が顎に手をやり考えるような仕草をしたかと思えば突然俺の方へと視線を向けてくる。

 

「つまり……彼が女の子に気を持たせて食い物にする最低男だから成敗してほしい、という依頼なのかしら?」

「何!? まさか八幡、貴様そうだったのか!? ナイスボートなのか!?」

「違う! なんでそうなる!!」

 

 突然矛先を向けられ焦った俺は思わず椅子から立ち上がり、そう反論した。

 誰が伊○誠だ!

 バッドエンドは御免被る。

 

「あら、違うの……? ごめんなさいね、私こういったことにはあまり明るくなくて……えっと、比企谷八股君だったかしら……?」

「八幡だ八幡。今フルネームにする意味なかっただろ……」

「……失礼、比企谷君が一色さんと由比ヶ浜さんと同時にお付き合い……二股をかけていた、という話なのかと思ったものだから」

「「違う!」」

 

 雪ノ下の言葉に今度は由比ヶ浜も一緒に声を上げ否定する。

 とんでもない勘違いだ。

 ほらぁ、そんな事言うから隣の一色さんとかもう今にも人を殺しそうな目で俺を見てくるじゃないですか、勘弁してくださいよ本当……。

 

「わ、私は別にヒッキーとはそういう仲じゃなくって……」

「お、俺だってそもそも女子と付き合ったことなんて無いっていうか……」

 

 由比ヶ浜とはあくまで友達だし、一色とだって付き合っている訳では無い。

 そんな噂が立ってしまえばコイツの今後の高校生活にも影響が出てしまうだろう。

 おっさんとの約束のためにも、一色が許嫁を解消したいと言い出した時のためにも。ソレだけは回避しなくてはならない。

 もし変な噂のせいでコイツの立場が悪くなったらソレこそ何を言われるかわかったもんじゃないからな……。

 

「……ならやはり何も問題がないように聞こえるのだけれど……? 何故由比ヶ浜さんが騙したことになるのかしら?」

「だから騙してなんかないんだってば!」

「だって! よりによってセンパイにアげてたんですよ!? 私てっきり別の人にアげるものだと思ってたから教えたのに!」

「それはアナタの勝手な思い込みでしょう? 由比ヶ浜さんがあなたに『比企谷君には渡さない』と言っていない以上。誰に渡すのか確認しなかったあなたの落ち度でしかないわ」

「そ、れは……そうかもしれませんけど……」

 

 しかし、そんな心配も束の間、どうやら俺の言い分は聞き入れてもらえたらしく、気がつけば雪ノ下はどんどんと一色を追い詰めていた。

 徐々にだが一色自身も自分がおかしな事を言っていると気がついてきたのだろう「あ、うぅ……」と言葉に詰まり、俺に縋るような視線を向けてくる。

 いや、まあ、俺に助けを求められても困るのだが……。

 えっと……つまりなんだ?

 一色がクッキーのレシピを由比ヶ浜に教えて、由比ヶ浜がそのレシピで作ったクッキーを俺に渡したから怒ってるってこと?

 なるほど、分からん。

 一子相伝の秘伝のレシピか何かだったのだろうか?

 それとも俺に食べさせてはいけないようなレシピだったのか?

 ああ、でもそう言えば確か少し焦げていたような気がしなくもないが……?

 え、何? 何かヤバいクッキーだったの? 全部食っちゃったけど!?

 

「一応確認しておきたいのだけれど……先程の言葉を信じるなら比企谷君は一色さんとだけお付き合いをしている、という訳でもないのかしら?」

「ああ、まあ……付き合ってるわけじゃない」

「そ、れは──っ! そう……ですけど……!」

 

 そうして俺が記憶をたどり、あの日食べたクッキーの味を反芻していると、突然雪ノ下にそんなことを聞かれ、とっさに反論する。

 といっても別に嘘をついたわけではない。それは一色も分かっていることだろう。

 だが、何故か一色は不服そうに唇を噛み締め再び俺を睨んできた。いや本当、なんなのもう……?

 

「では、アナタにとって由比ヶ浜さんと一色さんはどういった関係なのかしら?」

「どういうって……」

 

 続けてそう問いかけられ、俺は由比ヶ浜の方をチラリと見た。

 すると由比ヶ浜はその佇まいを直し、まっすぐに俺の事を見つめ返して来る。

 

「由比ヶ浜は……友達……だな」

 

 改めて口に出すのは少しだけ照れくさかったが、俺がそう言うと由比ヶ浜は少しだけ安堵したような、それでいて少しだけがっかりしたような、そんなどちらとも付かない笑顔を向けてきた。

 何かマズかったのだろうか?

 だが、俺にとって唯一の友人。それが由比ヶ浜。それは嘘偽りのない俺の本心だった。

 

「う、うん。そう、友達」

 

 そんな俺の意図を汲み取ってくれたのか、由比ヶ浜はそう言って首肯する。

 一瞬否定されるのかと思ったので、良かった。

 ここで「は? 友達じゃないんですけど?」とか言われたら流石に立ち直れなかっただろう。本当に良かった。

 だが、雪ノ下の質問は終わらない、問題は──。

 

「なら、一色さんは?」

 

 そう問われ、今度は一色を見ると、不意に一色の肩が俺の肩とぶつかった。

 対面に座る由比ヶ浜と違い、隣に座っている一色との距離はこれほどまでに近い。

 まるでそれが俺と由比ヶ浜、一色とのそれぞれの関係の差だとでも言うように、一色の体温がほんのりと俺に伝わってくる。 

 

「一色は……その……なんつーか、一言では言いにくいんだが……」

 

 またこのパターンだ、いい加減慣れろと思うところだが、その関係をここで口にする訳にはいかなかった。

 俺達の関係のコトを他者に話さない。それは一色の望みでもあるし、俺自身も自ら言いふらすようなことではないと思っている。

 だから一瞬言葉に詰まってしまった。それはほんの一瞬のこと。

 とりあえずココはいつも通り「家族ぐるみの仲だ」とでも言うしか無いか、そう思っていた。しかしその一瞬がまずかったらしい。

 そのほんの一瞬を待てなかった一色が何を思ったのか突然立ち上がったのだ。

 

「センパイは私のいいばぼぼっ!」

「ちょっ! おまっ何言うつもりだ!!」

「んっむー! むんももむむむんむんむー!!」

 

 一色が何を言おうとしたのかを悟った俺は慌てて立ち上がり左手で一色の肩を掴むと、右手で一色の口を覆ってその言葉を封じた。

 我ながらよく間に合ったと思う。

 自分の反射神経を褒めてやりたいぐらいだ。

 一色は恨みがましい目で俺を見てくるが、だがココだけは守らなくてはいけない。

 一色のため、そして俺自身のためにも。

 

 さて、ここで少し話は逸れるがドラマや映画、アニメなんかで出てくる“喋っている人間の口を塞ぐ”という行為について、俺個人としては常々思っている事があった。

 それは、発言を塞ぐために口を押さえると、当然手のひらに相手の唇が当たるんじゃないだろうか? と言うことだ。

 だってそうだろう? 口と手の間に空間があれば当然言葉は発せられてしまう。唇に触れずに発声を防ぐことはほぼ不可能だ。

 となると、当然手のひらには唾液なり唇の跡、場合によっては口紅がつきそうなものだが大抵の作品では口を押さえた後、何かで拭き取ったり、洗ったりする描写は無く、それどころか気にする素振りさえ見せないまま何事もなく進行したりする。

 では、今の俺の状態を改めて確認してみよう。

 

 いや、めっちゃ当たる、めっちゃ唇当たってる!

 柔らかいし、少し湿っている唇と息の感触がダイレクトに手のひらに伝わってくる!

 ちょっと擽ったいし、生暖かいし、もうなんというか……とにかく得も言われぬ感覚だ。

 っていうかコレ女子相手にやるのはかなりのセクハラ案件なのでは?

 訴えられたら確実に負けるまである。まずい、どうしよう。

 

 由比ヶ浜も雪ノ下も突然の事に言葉にならないという表情で俺たちを見つめている。

 唯一材木座だけは「ふむ……」と何か考えるように腕を組んでいたが、まあ、また何か中二ネタを考えているのだろう。

 しかし……どうしたものか。

 そんな事を考えていると、「むっむっ!!」と叫ぶ一色にバンバンと腕を叩かれた。プロレスでいうギブアップの合図だ。

 それに気が付き、ふと視線を下ろせば一色の顔がまるでトマトのように赤くなっていた、まずい。

 

「っぷは! し、死ぬかと思いました……!」

「す、すまん。とにかくその……そう! 俺はコイツの爺さんとも知り合いで家族ぐるみっていうか、一言でどういう関係って表現できる間柄じゃないんだが、ただ付き合ってるとかそういうのでは断じてない!」

 

 俺が慌てて一色から離れそう続けると、それまでフリーズしていた由比ヶ浜、材木座、雪ノ下がそれぞれ視線を交わし、代表としてなのか雪ノ下がコホンと咳払いをしてから口を開いた。

 

「──まあ、お互いそういう関係なら由比ヶ浜さんだけが一方的に責められる言われもないんじゃないかしら? クッキー作りに関してもアナタが主導で行っていたと思うのだけれど?」

「え? あ、それとこれとは……」

 

 酸素不足なのか、軽くパニックになっている一色に、雪ノ下が畳み掛けるように言葉を重ねていく。

 チラリと一色の方を見ると、一色は少しだけ赤い顔のまま何やら恨みがましい顔で俺を睨んでいた。

 いや、今のはお前が悪い。俺は悪くない。

 

「そもそも由比ヶ浜さんは比企谷くんのことを……」

「ゆ、ゆきのん!!」

 

 続けて雪ノ下が何事かを言おうとすると、今度は由比ヶ浜がその言葉を遮るように大声を上げた。

 突然のことにその場に居る全員の視線が由比ヶ浜の方へと集まっていく。

 どうやら、今度は由比ヶ浜にとって都合の悪いことがあったらしい。

 それが何かは分からないが、由比ヶ浜は一瞬しまったという顔をしたあと、雪ノ下にだけ聞こえるよう耳打ちをしていた。 

 

「……はぁ……比企谷君」

 

 やがてその耳打ちが終わると雪ノ下は、数秒目を閉じた後これ見よがしな大きなため息を吐き、どうしようもなく右手をワキワキとさせている俺に視線を向ける。

 

「ん?」

「申し訳ないのだけれど、少しだけ外に出ていてくれないかしら? そうね、十分……いえ、十五分ほどしてから戻ってきてくれればいいわ。勿論材木座君も一緒に」

「我も?」

 

*

 

 雪ノ下に言われるがまま、俺と材木座は廊下へと追い出された。

 まずい、もし中で先ほどと同じやりとりが行われていたら、俺のファインプレーが完全に水の泡だ。一色のやつ余計なことを言っていなければいいんだが……。

 というか、結局一色は何に怒っているんだ?

 今の話し合いで分かったことと言えば、俺の予想通り由比ヶ浜にクッキーの作り方を教えたのが一色だったというコトと、一色の唇の柔らかさぐらいなものだが……。

 

「しかし、まさか八幡と一色嬢が許嫁同士だったとはな。まさに事実は小説より奇なりと言ったところか。先に言ってくれれば良いものを」

「ああ……って何でソレを!?」

 

 そんなこと考えていると材木座が突然そんな言葉を投げかけてきた。

 あまりにも脈絡なく発せられた「許嫁」という言葉に思わず俺の心臓が跳ねる。

 おかしい、何故材木座がそのことを知っているんだ? 一色の口は文字通り封じたはず。

 少なくとも由比ヶ浜や雪ノ下が気付いた様子はなかった──と思う。

 もしくはそう思っているのは俺だけでやはり今、教室の中ではそのことの確認作業がされているのだろうか?

 

「先程一色嬢が言っておったではないか『いいばぼぼ』と」

「いや、それ何言ってるかわからないだろ……? 異母兄弟とかだったかもしれないし……」

「そうなのか……?」

「……」

 

 くそっ、勘の良いガキは嫌いだよ……。

 

「第一、異母兄弟で一色嬢の祖父君とも知り合いな家族ぐるみの仲なら、敢えて隠す必要もあるまい? コレだけの条件が揃っていて秘密にしておきたい『い』から始まる関係性なぞ『許嫁』しか考えられん」

 

 どうやら、これ以上誤魔化す事はできなそうだ。

 仮に俺が材木座の立場でも、この程度の推察はできただろう。

 少なくとも候補の一つには挙がったはずだ。

 まあ、それでも俺だったら『許嫁なんて流石に今時ありえないだろう』と選択肢から外すか、それ以上関わらないようにするかしてしまうかもしれないが。

 それを臆面もなく指摘してしまえるのが材木座という男なのかもしれない。

 

「……中にいる連中にもバレてると思うか?」

「ふむ、あの様子なら恐らく我以外に気づいた者はいないだろうな。元々変な関係性だと疑っていたのもあるが、日々ラノベで培われている我の洞察力と考察力の為せる技とでも言うべきか」

「だったら良いんだけどな……出来れば他の奴らには黙っておいてくんない?」

「もちろんだとも、我と貴様の仲ではないか。ハハハハハ」

 

 「一体どんな仲だよ」と突っ込みたかったし。

 もっと厳重に口止めをしたほうが良いとも思ったのだが。

 それ以上何か言う気力が起きなかった。

 材木座なら、最悪山奥に埋めれば秘密がばれることはないと俺の中のサイコパスな部分が判断したのかもしれない。

 

「しかし……まさかお前にバレるとはな……」

「この程度の伏線を読めぬようではラノベ作家にはなれんからな」

 

 これで俺と一色の関係を知るのは、お互いの親族を除いて二人目(・・・)か。

 あまり広まってほしくなかったんだけどな……。

 とにかくコレ以上広まって変な噂が立たないよう気をつけるしかないか……。

 はぁ……考えることが山積みだ。

 

「……ラノベ作家。そういや、悪かったな。今日のお前の依頼って小説の感想を聞くコトだったんだろ?」

「なぜそれを?」

「……俺も考察力には少し自信があるんだ」

「ふむ……流石我が盟友と言ったところか」

 

 意趣返しのつもりで俺がそう言うと、材木座は自慢のメガネを光らせ不敵に笑った。




というわけで第81話いかがでしたでしょうか?
か、解決編が一話で収まるとは一言も言ってないし(震え声

一ヶ月以上も時間が開いてしまい申し訳ありません
5月はリアルイベントが立て続けに起きまして
もういっそひと月投稿休んじゃうかと開き直っておりました

久しぶりの更新なので色々お叱りのお言葉もあるんじゃないかと不安ではありますが
感想・評価・お気に入り・DM・ここすきetc
リアクション頂けますと今後のモチベに繋がりますのでお手隙の折はよろしくお願いいたします。


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第82話 上手に焼けました

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字脱字報告他沢山のリアクションありがとうございます。

えー……っと、ちょっとトラブルが置きましたが今週も無事土曜日に投稿できました(錯乱)
土曜日、うん。土曜日です。


「それではここからの話はオフレコということでいいかしら?」

 

 センパイ達が部室から出て行き、扉が閉まった事を確認すると、雪乃先輩は一呼吸置いてからそう切り出した。

 元々三人だけしか居なかった時も持て余していた部室だが、隣りにいたセンパイがいなくなっただけでやけに広く感じ、急に心細くなる。

 でも、ここで逃げる訳にはいかない、私は改めて自分に気合を入れ雪乃先輩と結衣先輩に対峙した。

 

「オフレコ?」

「……ここで聞いた話は口外しないように、という意味よ」

「い、意味ぐらい知ってるよ! なんでヒッキー達がいなくなってからなんだろうって思っただけ!」

「彼ら……いえ、彼がいると話が進まなそうだったから」

 

 結衣先輩とのやり取りを終えた雪乃先輩がちらりと私の方へ視線を向けてくる。

 恐らく、先程センパイに文字通り“口止め”された一件の事を言っているのだろう。

 正直に言うと、さっきのセンパイの行動には私も少し怒っていた。

 私としては、まさかこんなに身近にライバルがいると思ってもいなかったので、もはや周知してもらった方が有り難いまである。

 それなのにセンパイときたら、あんないきなり襲いかかってくるような真似して……。

 こういう時ぐらい、融通を利かせてくれてもいいのに。

 まぁ、それはそれとしてセンパイに肩を抱かれた瞬間、ドキっとしてしまったのは内緒だ。本当に心臓に悪いからああいうのは二人きりのときにして欲しい。

 センパイ、結構力強いんだなぁ……。

 

「さて、それでは一色さん」

「は、はい!」

 

 そうして話題とは関係ない方向に飛んでしまった私の思考を引き戻すように、雪乃先輩がコホンと咳払いをしてから私の名を呼んだ。

 おっと、いけないいけない。しっかりしなきゃ。

 勝負はここからだしね。

 とはいえ、雪乃先輩の言いたいコトは分かっている。

 センパイを追い出したこのタイミングなら、先程私が言えなかった言葉の確認をするつもりなのだろう。

 まあ、センパイには悪いけれど、私にとって“許嫁”を公言することは最早それほどハードルの高いことではなくなっている。

 もしかしたら後で怒られてしまうかもしれないけれど、それはそれ。

 もう一度関係性を聞かれたら私としては正直に答えるまでだ。

 その方が牽制にもなる……。

 

「これは答えたくなければ答えなくても良いのだけれど、一色さんは彼──比企谷君に好意を寄せているという認識で間違いないのかしら?」

 

 しかし、そうして答えの準備をしていた私の予想を裏切り、雪乃先輩の口から出てきたのはそんな言葉だった。

 もしかして、私のコトをからかっているのだろうか? とも思ったのだが、どうにもそういう雰囲気ではなさそうだ。というか、雪乃先輩がそういう風に誰かを茶化すとも思えなかった。

 雪乃先輩の真意はわからないけれど、真面目に聞いているということは間違いないらしい。

 だから私は姿勢を正し、その瞳をまっすぐに見つめ返して素直にこう答える。

 

「はい、そうです。私はセンパイのことが好きです。何かいけませんか?」

「わわっ……普通に言っちゃうんだ……!」

 

 その答えに反応したのは雪乃先輩ではなく結衣先輩だった。結衣先輩は何故か赤くなった自分の両頬を押さえ恥ずかしそうに座ったままキャーキャーと高い悲鳴を上げると、興奮したようにその身を震わせていた。まさか、素直に答えるとは思っていなかったのだろうか?

 しかし、質問をした当の雪乃先輩は「そう」と、事務的に答えるだけで特に気にした様子もなく私を見てくる。

 

「何もいけなくはないわ、あくまで確認よ。では、それを踏まえた上で聞かせて欲しいのだけれど。アナタはここから一体どうしたいのかしら?」

「どうしたい……?」

 

 そう言われた瞬間、私は思わずキョトンとクビを傾げた。

 質問の意図が分からなかったからだ、一体雪乃先輩は私に何を聞いているのだろう?

 そりゃ……センパイの事が好きなんだから、その後どうしたいかと言われたら正式にちゃんとお付き合いをして、デートして……それからそれから……。 

 

「ええ、要するに今回の件はアナタの醜い嫉妬が原因なのでしょう? 正直馬鹿らしくてこれ以上関わりたくもないのだけれど……。一応私一度受けた依頼は投げ出さないことにしているのよ。そのためにも、アナタが今どうしたら納得するのか。そこを明確にさせてほしいの」

 

 そうして妄想を膨らませていると、そんな私の頭の中を見透かしたかのようにため息を吐きながら雪乃先輩がそう続けた。

 ご丁寧にいつもの頭が痛いですというポーズも忘れていない。

 危ない危ない、余計なこと言うところだった……。

 “醜い嫉妬”とはまた酷い言い草だが、もし見当違いな回答をしていたらそれこそ馬鹿にされていただろう。

 だから私はそんな内心を悟られないように、雪乃先輩に言われた言葉の意味を考え始めた。さて、私は一体どうしたいのだろう?

 

「形だけでも由比ヶ浜さんが謝罪すればそれで満足するのかしら?」

「別に……今更謝って貰ったって……」

 

 うん、幼稚園児じゃあるまいし、謝ったからハイ終わり。という訳にはいかないだろう。多分、それじゃ私の気持ちが収まらない。

 私自身それは分かっている。

 

「なら、由比ヶ浜さんに比企谷くんへの接近禁止でも求めるつもり?」

「それは、まぁ……でも、そこまでは……」

 

 接近禁止については考えていなかったと嘘になる。

 「センパイにもう近づかないで下さい!」と言えたらどんなに楽だろう?

 でも多分それは現実的ではない、そもそも今日までセンパイと結衣先輩の関係を知らなかった上に、私と違って二人は同じ学年の同じクラス。

 影でコソコソされるのはソレこそ危険な気がするし、センパイの心象もよくなさそうだ。

 重い女だなんて思われたら嫌われて本末転倒、ということにもなりかねない……。

 

「では、どうして欲しいの? これだけ騒いで、一通り由比ヶ浜さんに不満をぶつけたからもう満足? 彼に出ていって貰ったのは貴女の名誉を守るためという意味もあるのよ、その辺りをハッキリさせて貰えないかしら?」

「私……私は……」

「状況的に考えれば貴方の一方的な勘違いというコトは明白……それでも由比ヶ浜さんを責めるのであれば当然それなりの言い分があるのでしょう?」

 

 そう言われ、私は今度こそ真剣に自分がどうしたいのか考え始めた。

 正直に言えば、結衣先輩が悪くないというのは、もう自分でも分かっている。

 元々、クッキーの作り方を教えるにしたって、完全にやりすぎだったのだ。

 別にママから教わった特製レシピまで教える必要はなかったし、なんならあの日以降も雪乃先輩の家まで押しかけて特訓する必要すらなかった。

 一般的なクッキーの作り方を教えて、必要ならメモでも渡して。後は自分で頑張って貰えばそれで終わった話。

 仮にもしそうなっていたら、贈り先がセンパイだったとしても『へぇ、そんな偶然もあるんですね』程度で済んだかもしれない。

 でも、あの頃の私はセンパイ以外に頼れる人の居ないこの総武での初めての部活動というのもあって、誰かに頼られるのが嬉しくてつい勝手に盛り上がって必要以上に応援をしてしまった……。

 その過去は今更変えられないし、こうして騒ぎになってしまったという事実は無くならない。

 

 結衣先輩から見れば、先日まで背中を押してくれていた後輩が、突然背中から切りかかってきたような心境で、さぞ困惑もしていることだろう。

 そう、結局コレは私の完全な八つ当たり。

 センパイも、結衣先輩も悪くなくて。悪いのは私だけ。

 雪乃先輩の言うように、こんな醜態が私のしたい“恋愛”なのかと、言われれば顔を伏せるしかない状況だ。

 とはいえ、それを頭では理解していても私の気持ちが収まらないのも事実。

 なら、私の落とし所は……?

 そう考えた時、私は一番大事な事をまだ聞けていない事に気がついた。

 

「……結衣先輩の気持ちが知りたいです」

 

 そう、結衣先輩の気持ちをまだちゃんと聞いていない。

 そんなのはあまりにも不公平だしズルいじゃないか。

 私の気持ちはもう既に雪乃先輩も結衣先輩も知っている。なら、結衣先輩は?

 まずはソコのところをハッキリさせて貰おう。

 もしそれで結衣先輩がセンパイのコト何とも思って無くて、完全に私の空回りだというのなら、もう土下座でもなんでもしてやろうじゃないか。

 でも、私にはどうしても結衣先輩にその気がないとは思えなかった。

 

「へぁ!? わ、私!?」

 

 覚悟の決まった私が結衣先輩を睨みつけると、結衣先輩は突然の要求に混乱したのか、その視線を私と雪乃先輩の間で何度も往復させる。

 だが、私はそんな結衣先輩から目を逸らさずそのまま言葉を続けた。

 

「はい、結衣先輩はセンパイの事どう思ってるんですか?」

「……えええ……ゆ、ゆきのーん!」

「一色さんが比企谷君に好意を寄せている事は知ってしまったわけだし……それがフェアなのかもしれないわね……」

 

 慌てた結衣先輩が雪乃先輩に助けを求めるが、雪乃先輩はそんな結衣先輩を軽く受け流した。

 どうやら、雪乃先輩も今回ばかりは私の味方をしてくれるようだ──。

 

「……もし彼に対する余計な感情がないのであればハッキリ言ってあげなさい? 貴女だっていつまでもこんな面倒事に巻き込まれたくはないでしょう?」

 

 ──前言撤回、やっぱり雪乃先輩は味方じゃないかも……。

 私はほんの一瞬だけジトリと雪乃先輩の方へと睨みをきかせる。

 だが、雪乃先輩はそんな私の視線など気にした様子もなく、私を一瞥すると、結衣先輩の答えにも然程興味がなさそうにゆっくりと目を閉じるだけでソレ以上の反応をを示さなくなってしまった。

 まさか眠ったわけではないだろうが恐らく、もうコレ以上自分から何か言うつもりはないという意思表示なのだろう。

 その様子を見た結衣先輩は暫く「あー」とか「うー」とか言いながら数秒百面相をしたあと、ようやく決心がついたのか一呼吸置いてからゆっくりと口を開いた。

 

「……ヒ、ヒッキーのことは……その……ほら、前にも言ったけど私にとってはサブレを助けてくれた恩人だし、折角同じクラスになれたんだから仲良くなれたらなぁ……みたいな?」

 

 それは、いつか聞いたのと変わらない内容。

 でも、私にはそれがどうしても信じられなかった。

 そもそも、事故があったのは去年なのに、なんで一年経ってから今更お礼なんてしたの?

 

 結衣先輩が一年前のコトだから事故の事を忘れていた、という薄情な人間なのであれば、ワザワザ手作りには拘らないだろう。

 本当にお礼がしたいなら一年前に済ませておけば良いはずだ。

 仮に同じクラスになった事がきっかけだったとしても、仲良くなるだけなら入学式に話しかけるほうが余程スマートだろう。

 なのにセンパイ相手にはソレをしなかった。いや、出来なかった上で一年越しにその願いを叶えたということは、この人はきっと一年間センパイの事を考え、目で追っていたのだと思う。

 

 今日は一目その姿を見れるだろうか? 今日は目が合うだろうか? 今日は話しかけるタイミングがあるだろうか? いっそ向こうから気づいてくれないだろうか?

 それはまるでベタな少女漫画のヒロインのように、毎日センパイの事を考えてはヤキモキしていたのかもしれない。

 その気持ちを自覚しているにしろ、していないにしろ溜まりに溜まった想いは、やがて作り慣れない手作りクッキーという形に昇華することになる。

 そこには決してどうでもいい人間に対するお礼だけでは済まない何かがあるはずだ。

 では、その気持ちの正体は?

 それを確認したくて、私は結衣先輩に問いかける。

 

「本当にそれだけですか?」

「それだけ……かは良く分からないけど……ほら、私こう見えて空気読める方だし? もし二人が付き合ってるなら『いろはちゃんから奪ってやろう』とか。そういう事は考えてないっていうか……そもそもあの時は、まさかいろはちゃんがヒッキーの事知ってるとは思ってもいなかったっていうか……知ってたらむしろ応援してたのにー! ……みたいな……?」

「なら、今からでも応援してくれるんですか?」

 

 その答えで満足しておけば良いものを、私はさらに踏み込んだ。

 鬼が出るか蛇が出るか?

 どちらにしても自分にとって良い結果になるわけじゃないと知りながらも、私は自分の口から出てくる言葉を抑えることが出来ず、どんどんと結衣先輩を追い詰めていく。

 

「……そ、れは……」

 

 そして、ついに結衣先輩が言葉をつまらせた。

 それは女子の間では割りとありがちな『私と○○君のコト応援してくれるよね?』という牽制の一言。

 思い返せば私も昔よくやられたっけ。あの頃は『いちいちうざいなぁ……』とか思っていたけれど、まさか自分でやることになるとは思っていなかった。

 

「恋愛感情はないんですよね? お礼を言いたかっただけなんですよね?」

 

 今ならあの時のあの子の気持ちがよく分かる。こういう根回しは役に立つ立たないじゃない、自分の心の安寧の為につい口をついて出て来てしまうものなのだ。

 だから、結衣先輩がこのまま「応援するよ」と言ってくれるならそれはそれで有り難いのだけれど……。

 

「……正直……自分でもまだよく分からない……。けど、多分……もう、応援は出来ないと思う」

 

 結衣先輩の口から出てきたのはそんな曖昧な答えだった。

 煮え切らない態度に私は苛立ち、思わず立ち上がってしまう。

 雪乃先輩は相変わらず何も言ってこない。

 だから、私を止める人はいなくて、一歩前へと踏み出した。

 

「なんでですか!?」

「……だって……」

 

 結衣先輩のもとへと一歩、また一歩と近づいていく。

 別に殴ってやろうとか思っているわけじゃないし、近づいた後どうしようとかも何も考えてはいなかった。

 自分が割りと最低な事をしているという自覚もあった。

 でも、今更自分の行動を止めることも出来ず、気分は最早鼠を追い詰める猫のソレに近い状態。

 だけど、それがイケなかったのかもしれない。

 

「だって、いろはちゃん言ったよね……?」

 

 私が結衣先輩の眼の前までたどり着くと、結衣先輩はそう言った後スゥっと大きく息を吸いこんだ。

 それはまるで何かを覚悟したような息遣いで、一瞬で結衣先輩のまとっている空気が変わっていく。

 そして次の瞬間。

 

「諦めなくていいのは、女の子の特権だって」

 

 結衣先輩は私の目をまっすぐに見つめ、そう言い放った。

 その目には先程までとは違い、とても強い意志のようなモノが籠められている。

 それは私も思わず一歩引いてしまいそうになるほどだった。

 でも引くわけにはいかなかった。引いてたまるかと思った。だから引かなかった。

 だけど、次に言うべき言葉が見つからない。

 私は結衣先輩の目を見つめたまま、なんとか頭を回転させる。

 なんとか、なんとか反論しなければ。

 でも出来なかった、出来るわけがなかった。

 だって、それは私自身の言葉だったから。

 いつか自分がそうなるかもしれないというほんの少しの怯えを孕んだ、私自身の思いだったから。

 だから私は、どうしようもなくなって、つい結衣先輩から目を逸らしてしまった。

 

「……あなたの負けね」

 

 すると、まるでそのタイミングを見計らっていたかのように雪乃先輩がその瞳を開け、少し遠くを見るような表情でそんな言葉を呟いた。

 そこで私もようやく言葉を発する。

 

「べ、別に負けて……!」

「私ね、これでも貴女の事を少し買っていたのよ。初めての依頼で由比ヶ浜さんを応援していた時の貴女はとても生き生きとしていた。それは私には理解が出来ない部分でもあったけれど、真剣に他人の事を考えられる貴女が少し羨ましいとさえ思ったわ」

 

 「一体何の話をしているんですか!」と抵抗しようとするが、雪乃先輩は、そんな私の言葉を遮るようにポツリポツリと言葉を続けていく。

 

「でも、あの時の言葉は全部嘘だったのかしら? こんな風に駄々をこねるコトが貴女にとって何より大事な“恋愛”の作法なの? そうだとしたら私“例の勝負”でも貴女に負ける気がしないのだけれど……」

 

 その言葉を最後に、雪乃先輩がほぅっと息を吐いた瞬間。

 私の中の何かに火が着いた。

 そうだ、私は一体何に怯えていたのだろう。

 そもそも私は知っていたのだ、この学校でセンパイに会いたがっている人がいる事を。

 その事を葉山先輩に教えられ、最悪の事態を阻止するためにこの学校に来たのだということを。

 例えセンパイが他の人を好きでも諦めない。この思いだけは他の誰にも負けないとそう思っていたはずだったのに。

 一体イツから私はこんなに臆病になってしまっただろう?

 

 大丈夫、センパイは結衣先輩のことを友達だと言っていた。

 なら、この程度のコトで動揺なんてする必要はない。

 結衣先輩が今更何をしたところで、私とセンパイの間にはもう一年にもなる絆があるのだ。

 一年も足踏みをしていた人に私の想いが負けるはずがない!

 

 そう思えた瞬間、私の中の苛立ちがすっと消え、代わりにセンパイへの思いが湧き上がってきた。

 確かに、結衣先輩はセンパイに取って友達は友達でも『初めての友達』という警戒すべき相手かもしれない。

 でも私にもあの日ハッキリ言ってくれたではないか

 『お前は友達じゃなくて……俺の……許嫁だろ……』って。

 

 なら、私はその言葉をただ信じればいいんだ。

 そう思った私は自分の制服の胸の部分をギュッと握りしめると、先程の結衣先輩と同じように大きく深呼吸をしてから結衣先輩を睨み返した。

 

「分かりました結衣先輩。それはつまり……宣戦布告ってことですね?」

「そ、そこまで大袈裟なものじゃないけど……」

 

 その言葉で私がもう引かないと分かったのか、結衣先輩の纏っていた空気は一瞬で霧散し、再び逃げるように視線を逸らした。

 そこには先程私を威圧した結衣先輩はもういない。

 頼りなく笑う、争いが苦手ないつもの結衣先輩がいるだけだった。

 そんな結衣先輩を見て、私の顔に少しだけ笑みが戻る。

 嘲笑ではない、安堵の笑みだ。

 

「……一応確認しておきますけど、私に隠れて告白したりしたわけじゃないんですよね?」

「し、してない! してないよ!? するわけないじゃん!」

 

 ふむ、そういうことなら条件は一緒かな。

 いや、むしろ許嫁である私のほうが圧倒的優位。

 冷静に考えればなんで私はあんなに取り乱したんだろう? と思うぐらいの差はあるはずだ。

 私はこの人に負けたりしない。負けられない、負けるはずがないんだ。

 改めてそう気合を入れ、結衣先輩へと笑いかける。

 

「そう言うことなら、この勝負受けて立ちます」

 

 そう言う私の突然の変化に戸惑ったのか、結衣先輩は少し首を傾げながら「お、お手柔らかにお願いします?」と私に頭を下げてくる。

 その仕草が妙に面白くて──少なくとも先輩が後輩にするような態度ではなくて思わず吹き出してしまった。

 

「なんですかソレ」

 

 そんな私を見て、結衣先輩も漸く「えへへ」と笑みを零す。

 あーあ……これで結衣先輩の中にセンパイへの思いがあるのは間違いないことが確定してしちゃったかぁ……。

 いや、むしろ自分で焚き付けたまである。

 でも……中途半端に怯えるぐらいだったら逆にその方が有り難いというものだ。

 ずっとモヤモヤしたまま将来裏切られるより、最初から敵だって分かっていたほうがやりやすいもんね。

 

 それに……モテすぎるのはそれはそれで問題だけれど、自分の好きな人の魅力を他の人も分かってくれているというのは嬉しいという思いも実は少しだけあった。

 自分だけがその人の魅力に気づいていれば良いと思いながらも、センパイの良さを分かって欲しいとも思ってしまう。この辺りは本当に複雑な乙女心なのだ。

 

「それじゃぁ、お互い歩み寄れたようだし、そろそろ彼を入れてあげましょうか。きっと待ちくたびれているわ」

「あ、うん。じゃあ私呼んでくるね!」

 

 いつの間にか私達の側までやってきていた雪乃先輩がそう言うと、結衣先輩が我先にと廊下へと向かう。 

 こうして、私と結衣先輩は先輩後輩、部活仲間を経て、恋敵へと変わっていったのだった。

 

***

 

「で、どうなったの?」

「争いがなくなったわけではないけれど、一先ずお互い納得の行く形には落ち着いた……と言う所かしら?」

「それは……良かった……のか?」

 

 結衣先輩に呼ばれ、センパイは腰を低くして元いた席へと戻ってくると、そう言って不思議そうに私達を見つめて来た。

 まあ、センパイとしては何がなんだか分からない状況だろうが、とりあえず一段落は着いたと言っていいだろう。

 安心して下さい、許嫁の事は言ってませんよ。

 まあ、私の気持ちは知られてしまったので似たようなものではあるけれど……だからこそ、さっきの話はセンパイには聞かせられないし……さて、どう説明したものだろう?

 そう考え、縋るように雪乃先輩の方へと視線を移すと、雪乃先輩はそんな私の意図を組んでくれたのか、一度だけコクリと頷いてセンパイの方へと向き直る。 

 ふと視線を動かせば、センパイは何故かその右の手のひらを不自然に開いた状態で上を向けたまま座っていた。待っている間に怪我でもしたのだろうか? 後で聞いてみよう。

 

「説明ぐらいはしてもらえるの?」

「どうかしら? 私としては彼女たちのプライベートに関わる問題だから貴方に伝えるべきではないと考えているのだけれど……」

「プライベート……?」

「ええ、そもそも今回の話し合いに比企谷君は必要なかったのよ。全く無関係とは言えないのだけれど、問題の本質が一色さんにあったというのは貴方も理解しているでしょう?」

 

 雪乃先輩にそう言われ、センパイはちらりと私と視線を交わす。

 でも、当然私の方からは何も言えないので、私は黙ってその視線を受け止めるしか無い。

 とはいえ、変なことを言われたり、勘ぐられたりしないかと内心はバクバクだ。

 今更とは思うけれど、こんな形でお互いの気持ちの確認なんてしたくないからね。シチュエーションは大事。

 

「……まぁ、時期が来れば貴方も知ることにはなるでしょう、少なくとも今私の口からソレを言うべきではないと思っているわ。だから、貴方はあまり詮索しないでくれると嬉しいのだけれど」

「はぁ……まぁ、聞くなって言うなら別に無理に知ろうとは思わんが……」

 

 その言葉で納得したのか、センパイは私から視線を外すと、こめかみをポリポリと掻きながら視線を彷徨わせる。

 良かった、どうやら詮索はされなくて済みそうだ。

 こういうところは流石雪乃先輩である。

 

「えっと……とりあえず二人は仲直りした……っていう解釈でいいの?」

「そう理解しておいて問題ないと思うわ」

「んじゃその……俺と二人の関係も今まで通り……?」

「はい、それは勿論です!」

「う、うん。勿論! 何も変わらないよ」

 

 「俺との関係」と言う言葉に思わず私が答え、結衣先輩もそれに続くと、今度はセンパイの方が安堵の表情を浮かべた。

 あれ? もしかしてセンパイ、私との関係が解消されないか心配してたってこと? そんなわけないじゃないですかー。

 そう思って、思わず笑みがこぼれたのだが、その瞬間センパイがちらりと結衣先輩へと視線を送っているのに気づいてしまった。

 ──違う、恐らくセンパイは結衣先輩との友達関係が解消されたんじゃないかと心配したのだ。

 

 むー……やはり、センパイに取って“初めて”の友達というのは特別なのだろうか……?

 私だってセンパイにとっては初めての許嫁なはずなんだけどなぁ……。

 許嫁より友達のほうが大事なんですか?

 しかし、それをここで問い詰めることは出来ず、私の中に沈めたはずの嫉妬の感情がまたフツフツと浮かび上がり、結衣先輩への悪戯心が芽生えていく。

 

「まあ、これからの部活の事もありますし。何より結衣先輩は先輩ですからねー……後輩の私からどうこうして下さいなんてとても言えないんです……」

「そ、その言い方だとまるで私が何か言ったみたいじゃない!?」

「あれー? そうですかー? そんなつもりは全然なかったんですけどー?」

 

 私がニヤニヤと笑みを浮かべながら結衣先輩を煽ると、結衣先輩は慌てて「違うからね! 私何も言ってないから」と弁明を始めた。

 なんだろう、先輩だと分かってはいるのに妙に虐めたくなってしまうのは相手がライバルだからか、それとも単に結衣先輩の持っている性質なのか……。

 

「ところでセンパイ。センパイは結衣先輩のクッキー食べたんですよね?」

「ん……あ、ああ。まあ食った……かな」

「どうでした? 私のとどっちが美味しかったですか?」

「い、いろはちゃん!? そ、そういうのはちょっと……」

 

 だからというわけではないけれど、私は続けてそんな事を聞いてみた。

 とはいえ、これは悪戯心ではなく、一応結衣先輩にクッキー作りを教えた先生として、結果が気になっていたというのが正直なところ。

 実際、それぐらい聞く権利はあると思っている。

 

「いいじゃないですか、もう今さら隠す必要もないですし。ねぇセンパイ、結衣先輩のクッキーどうでした? あれ、私が作り方教えてあげたんですよ?」

「どうって言われてもな……」

 

 そう言うと、センパイは顎に手をおいて何かを考えるように視線を動かした。

 恐らくクッキーの味を思い出してるんだろう。

 その様子を結衣先輩も固唾を呑んで見守っている。

 するとセンパイは小さく「ああ、そういうことか」と呟いてから私の方を見た。

 

「まあ、その……美味かったんじゃない? ちょっと焦げてたけど」

「……そ、そっか。美味しかったんだ、良かった……へへ」

 

 その答えに、結衣先輩は何故か満足そうに頬を緩ませる。 

 だが、私にはそのセンパイの感想がどうしても納得できなかった。

 だから、再び立ち上がり、結衣先輩の方へと詰め寄っていく。

 

「焦げ……? 結衣先輩! あんなに『毎回焦がすんだから焼き加減には十分気をつけて、オーブンから離れないでください』って何度も言いましたよね!」

 

 そう、結衣先輩は何故かクッキー作りを教える段階から毎回焦がしていたのだ。それは完全な炭と言っても差し支えないほどの真っ黒さ。

 しかし、勘違いしないで欲しいのはそもそもクッキーは作るのがそれほど難しくない部類のお菓子だということだ。

 少なくとも材料の配分さえ間違えなければ大きな失敗はしない。

 焼き加減だって、最悪オーブンの前で見ていればどうとでもなるのだ。

 なのに、結衣先輩は軽量もアバウトなら焼き時間に関してもアバウト。

 私や雪乃先輩がいる時はコチラで調整すれば問題なかったが。

 本番、家で作るときにも最悪火事にもなりかねないので 私はそこだけは口を酸っぱく言って、三人で作った最後のクッキーはそれなりのものが出来ていたはずだった。

 なのに焦がした!?

 全く本当にこの人は……。

 

「だ、だってー、家のオーブン、ゆきのんの家のと違って分かりにくかったんだもん……」

「普通、他人の家のオーブンの方が慣れて無くて使いにくいと思うのだけれど……」

「ち、ちがくて、ほら、うちの古い奴だったから……焦げ防止みたいなの着いてなかったし」

 

 ギャーギャーと言い訳をする結衣先輩と、ソレに呆れる雪乃先輩。

 でも、その様子はなんだか、少しいつもの部室の雰囲気が戻ってきたみたいで少しだけ安心もしていた。

 実のところ、センパイとココへ来た時はもうこの部には居られないだろうなと思ったからだ。

 自分が原因とは言え、今はコレを壊さなくて良かったと内心ホッとした。

 

「つか、やっぱあれ一色のクッキーだったんだな」

 

 そうして、静かに二人の成り行きを見守っていると、突然センパイが何食わぬ顔でそんな事を言ってきた。

 え? やっぱり? 

 

「『やっぱり』って、気づいてたんですか?」

「確証はなかったんだけどな、なんか食った瞬間はちみつの風味がしたし、なんとなく食べてる時に一色の顔が思い浮かんだって言うか……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、この部屋にいる全員に聞こえてしまったんじゃないだろうか? と思うほどに私の心臓が大きくトクンと高鳴った。

 そっか……センパイ、ちゃんと分かってくれてたんだ……。

 もしそれが本当なら、結衣先輩にあのレシピを教えた甲斐はあったのだろう。

 むしろ、結衣先輩には申し訳なかったというべきなのかもしれない。

 

「お前の作るクッキー……結構気に入ってたっていうか……その、好きだったからな、印象に残ってた、のかも?」

「っ!! もう……センパイっ……!」

 

 ああ、もうズルい……。この人は本当にズルいなぁ……。

 そんな事を言われてしまったらもう、私には何も言えないじゃないか。

 女の子の手作りのクッキーを他の女の子のこと考えながら食べるなんて、本当はすごく失礼なコトなんですからね?

 

「な、なんだよ……」

「ふふ、なんでもありませーん」

 

 それを最初から知っていれば、私が今日こんなに怒ることもなかったのに!

 我ながら単純過ぎるとは思うけれど、その時にはもう私の中には嫉妬という感情どころか、結衣先輩に対する対抗心さえ一ミリも残っては居なかった。

 やっぱり今日のことは全部私の空回りでしかなかったということなのかもしれない。

 あー、結衣先輩に悪いことしちゃったなー。土下座したほうがいいですか?

 でも、それはそれでなんだかマウント取ってるっぽいよね。

 

「……ゆきのーん、私もう勝ち目無い気がするんだけど……」

「知らないわよ……私に振らないでくれる?」

 

 やがて、そんな私達の会話に気が付いた結衣先輩と雪乃先輩が茶化すようにそう言った。

 だが、私にしてみれば最早微塵も気にもならない。

 だって……センパイ、ちゃんとアレが私のクッキーだって分かってくれてたんだって。

 私のクッキーが好きなんだって。

 ああ、駄目だ口元が緩むのを止められない。

 えへ、えへへ。

 そっかー、センパイ私のクッキー好きなんだぁ。

 今日帰ったらまた作って持っていってあげようかなー。

 

「あー……っと……解決したなら俺もう帰っていいか? 今日ちょっと寄りたい所あるんだ」

 

 そんな私を見てセンパイも呆れたのか、そう言って席を立った。

 気がつけばもう、日もだいぶ傾いている。

 問題も解決したし、今日の部活はこの辺りで解散だろう。そう思い、私も慌てて先輩の後を追う。 

 

「あ、待ってくださいセンパイそれなら私も行きまーす!」

「待ちなさい。比企谷君はともかく。一色さん、あなた何か忘れていない?」

「へ?」

 

 ……ん……? 私何か忘れてる……?

 雪乃先輩にそう呼び止められ、私はぐるりと視線を巡らせる。

 そこにいるのは今にも部室を出ていこうとしているセンパイ、そしてそんなセンパイを見送ろうと立ち上がる結衣先輩。椅子に座っている雪乃先輩と……。

 

「ふむ、それではいよいよ今日のメインディッシュ。吾輩の超大作への感想会に移らせてもらおうか」

 

 あ……。

 そういえば中二先輩、まだ居たんだった。

 

 

 

 

 

 ……完全に忘れてた。




というわけで解決編後編いかがだったでしょうか?

土曜日投稿予定だったのですが
直前にとんでもミスをやらかしてる事に気付きまして、ちょっとだけ遅刻した結果急遽土曜日投稿になりました。
申し訳ありません。
次回からはまた土曜日投稿に戻る予定ですので何卒よろしくお願いいたします。
(ここに誤字はありません)

感想、評価、お気に入り、誤字脱字報告、メッセージ、何でも良いのでお手隙の折にリアクション頂けますと幸いです。
よろしくお願いいたします。


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第83話 賑わうベストプレイス

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告etcありがとうございます。

またまたまたまた遅れてしまい申し訳ありません。
それでは83話どうぞ!


 一色暴走事件から数日が経ち、週明けの月曜日。

 俺はその時「適当にペアを作れ」という体育教師の指示に頭を悩ませていた。

 今日の体育の種目はテニスかサッカー。

 当然、団体種目の苦手な俺はテニスを選択したわけだが、いつもだったらこういう時ペアを組んでくれる材木座の姿が見当たらない。どうやら、テニスが定員オーバーでサッカーの方に回されたようだ。

 全く、タイミングの悪い……。

 

 情けない話だがこうなってしまうと俺にはもうペアを見つける術がない、材木座以外に俺とペアを組む相手がいるとも思えないし、敢えて声をかけるつもりもないからな。

 学校側はいい加減「○人組を作れ」というシステムを廃止すべきだと思う。本当。

 ここは千葉なんだし誕生日順にペアを組めとか、やりようはいくらでもあるだろうに……。まあそれはそれで気まずくなるんだけど。

 とは言え、いつまでもここで脳内抗議をしている訳にもいかない。

 サボり認定されれば成績に響くし、見学扱いで後からレポートを提出しろと言われるのも面倒だ。

 

 なら取れる手は一つ……。

 体育教師に「調子が悪い」と申告した上でソロ活動に励むのだ。この場合は壁打ちがベスト。

 そうする事に寄って、ペア相手に迷惑をかけたくないという建前と同時に体調不良の中頑張る比企谷君という教師からの評価も得られる、正に一石二鳥の策である。

 我ながらこんな策を思いつく頭脳が恐ろしい。

 俺は内心ほくそ笑みながらその案を実行に移すべく、体育教師の元へと足を運ぼうと一歩足を踏み出す。

 だがその瞬間、突然肩に手を置かれ、俺の大いなる一歩はそこで止められてしまった。

 

「なぁ比企谷、良かったら俺と組まないか?」

 

 またお前か……。

 振り向くと、そこには我らがイケメン葉山隼人がいつもの爽やかスマイルで俺を見下ろしていた。

 

*

 

「なんで俺? お前の相手なら戸部とか他にも色々いるだろ……」

 突然エンカウントしてきた葉山に、俺は当然の疑問を投げかける。

 コイツ、今度は何を企んでいるんだ?

 俺と違って友達の多い葉山様がワザワザ俺を指名する理由が思い当たらないし、可哀想な奴に哀れみをかけて率先して駆け寄って行くようなタイプにも思えない。

 少なくともココで俺と組むメリットは何も無いはずだ。

 だから、もしこれが何かの罰ゲームだったり、冗談の類ならさっさと解放してほしい、そんな願いを込めながら俺は葉山を見据える。

 

「はは、戸部なら友達も多いから大丈夫さ」

 

 しかし、葉山から返ってきたのはそんな嫌味ったらしい返答だった。

 ソレは『お前には他にペア組んでくれるヤツなんて居ないだろう?』と同義なのだが。コイツはそれを理解しているのだろうか?

 まあ、その通りだけども……。

 俺は「ちっ」と軽く舌打ちをしながらラケットを数度振り回し周囲を見回した。

 葉山の言う通り、戸部は別の誰かとペアを組んだようで、なにやら二人で談笑している、他の連中も既にペアを組み終えて各々ラリーを始めたり、球を取りに行ったりしているようだった。

 この場に留まっているのは俺と葉山だけ……どうやら、俺が葉山とペアを組むのは確定事項のようだ。

 くそっ……。 

 俺は観念し、お互いにラリーができそうな距離まで離れながら葉山を睨みつけた。

 

「友達がいなくてすみませんでしたね……」

「ああ、いや。そういうつもりじゃなかったんだ、気を悪くしたんなら謝る」

 

 だが、当の葉山はさして悪びれた様子もなく、そう言って困ったように笑うと、既にポケットに忍ばせていたらしいボールをポンポンと地面に叩きつけてから、そのボールを宙に放つ。ラリーの開始だ。

 

「この間の事もあるし、ちょっと比企谷と話したくて、さ」

「この間?」

 

 パコンという小気味良い音と共に、葉山が打った球が俺の横を通り過ぎようとしたので、俺はその球を打ち返す。

 決して本気ではない、まるで小さな子供と遊んでいるかのような球速だ。

 まぁ、授業で本気のテニスなんてやるつもりもないので、それ自体は全然構わないのだが……どうにも和やかに葉山と打ち合っているという状況への違和感は拭えず。

 力に任せたパワーショットを打ってしまいそうになる自分を必死で抑え込んでいた。

 

「先週の昼休み、一色さんの事だよ」

「一色の?」

「まさか、顔合わせが済んでないとは思っていなくてね、あんな騒ぎになるとは思っていなかったんだ。すまない」

 

 パコン、パコンという音に合わせ、葉山が謝罪の弁を述べてくる。

 どうやら、先日の一色暴走事件のことを謝っているつもりらしい。

 まあ、確かに俺自身『あの時葉山が余計なことを言わなければ……』という思いがなかったといえば嘘になる。

 ……とはいえ、ここで俺が葉山を責めるのは八つ当たりでしかないだろう。

 あの件に関して葉山は全く関係ないわけだし、俺が謝られる筋合いもない。

 あの日、一色が俺たちの教室まで来たのは俺がベストプレイスに行くのが遅くなったせいであり、既に一色と由比ヶ浜が出会っていた以上、遅かれ早かれどこかのタイミングでぶつかってはいたはずだからな。

 

「別に、お前に謝られるようなことじゃない」

 

 だから俺は別に葉山を庇うとか、葉山の気持ちを考慮してとか、そういう意図は全く無く、ただありのままにそう返答した。

 少々冷たい言い方だったかもしれないと思わなくもないが、それが事実だし。俺には気の利いた言い回しも思いつかなかった。

 

「そうか、そう言ってもらえると有り難いよ」

 

 だが、葉山はそんな俺の言葉で満足したのか少しだけ安堵の表情を浮かべると、そう言って小さく笑みを浮かべる。

  

「その様子だと、一色さんとの仲直りは出来たのかな?」

「仲直りも何も、そもそもケンカもしてない。いつも通りだ。……由比ヶ浜もな」

「そうか、ソレを聞いて安心したよ。……意外と凄いヤツなのかもしれないな君は」

「は?」

 

 実際、ケンカというレベルには達していなかった……と思う。

 一方的に一色が暴れただけで、それも俺が席を外している間に静まっていた。

 もし葉山の言う凄いヤツというのが居るとしたら、あの場を収めた雪ノ下だろう。

 というのも、あの時の会話の流れからなんとなくの原因は理解したつもりだが、どうやって一色を納得させたのかはイマイチ分かっていないのだ。

 それに何より、俺はまだ一色が何か爆弾を抱えているのではないか? と内心ヒヤヒヤしていたりもする。

 それこそ、昨日一昨日の土日で何かあるんじゃないかと警戒していたのだが、何もなさすぎて逆に拍子抜けをしてしまったぐらいだ。

 まあ、それが逆に怖いという考え方もあるのだが……。

 

「……」

「……」

 

 そうして頭の片隅で一色の事を考えていると葉山もそんな俺の状態を察したのか暫く無言のラリーが続いた。

 特に思考の必要のないラリーは正直助かる。

 このまま葉山と話し続けるのも面倒だし、残りの時間はこうやって過ごせれば……。

 

「なぁ、最後ぐらい少し本気でやらないか?」

 

 しかし、そんな俺の思惑とは裏腹に葉山はやがてそんな事を言いながらラケットを大きく引いた。

 

「本気?」

 

 俺がそう答えるのと葉山が引いたラケットを思い切り前に振るのはほぼ同時。

 その球は俺の目の前でワンバウンドすると、球威を落とさず俺の横を通り過ぎようとする。

 俺は慌てて食らいつこうと、手と足を思い切り伸ばし、その球を跳ね返す。

 だが、そうして打ち返された球は大きく山なりに弧を描き、葉山のいる場所までは到底届かずポンポンコロコロと音を立てながら地面を転がっていった。

 にゃろう……。

 

「コレぐらいだったら、受けられるだろ?」

 

 葉山はそう言いながら、ゆっくりボールを拾い上げると俺に葉山スマイルを投げつけて来た。

 完全な挑発だ。

 こんな誘い、乗るべきではない、というか乗る意味がないし。今はまだ午前中だ疲れるようなこともしたくない──したくないのだが……。

 その時の俺は自分の中にある、葉山に負けたくないという思いに抗えず、考えるより先に口が動いてしまっていた。

 

「ああ、余裕だよ」

 

 俺がそう言って腰を落とすと、ソコからは先程ののんびりとしたものではなく、まるで試合のような勢いのあるラリーが続いていく。

 試合のようにと言っても、そもそもネットがないので。お遊びの範疇なのは変わらない。

 恐らくネットがあればもう何度もお互いのボールは引っかかっていただろう。

 だが、それが無いからこそラリーは続いていた。

 柄にもなく俺の額に汗が浮かび上がり、息も上がっていく。

 

 気がつくと、周りの連中も俺たちのラリーに注目しているようだった。

 「葉山くん頑張れー!」とか「さすが葉山だ」とかそんな声が聞こえてくる。

 当然その中に俺個人への応援の言葉は含まれていない。

 一体俺は何のためにこんな事を続けているのだろう?

 別に勝ったって何かあるわけじゃない、いや、むしろこの状況で俺が勝ったらガッカリされるまである。

 コイツラが見たいのは葉山の勝利だ。

 誰も俺の勝利なんて望んでいない。

 そもそもこれはラリーであって勝利なんてないというのに……。

 まあでも、もういい加減疲れてきたし、さっさと終わらせてやるか……。

 そう思い、持っているラケットから力を抜こうとした瞬間。

 ものすごく遠くの方で聞き覚えのある声が聞こえた気がした。

 

「センパイ頑張れー!」

 

 それは恐らく空耳や幻聴の類。

 炎天下の中で慣れない運動をしたせいでとうとう耳がイカレテしまったのだろう。

 だが、その声を聞いた瞬間、自然とラケットを持つ手に力が戻った気がした。

 俺は向かってくるボール目掛け、最後の力を振り絞り渾身のパワーショットを決めようと大きく振りかぶる。

 

 ココだ!!

 

 そう思いラケットを振り抜いた。

 手応えは──ない。

 葉山が打ったボールが俺の目の間でスライスし、俺のラケットを避けるように角度を変えたのだ。

 つまり完全な空振り。 

 ボールはポンポンと俺の後方へと音を立てて転がり、歓声が湧き上がる。

 

「葉山君すげー!」

「最後なんか曲がってなかった? 魔球じゃね?」

 

 俺は耳に入る全ての音に苛立ちながら、その場にへたり込んだ。

 くそっ、やっぱ初めから一人で壁打ちしときゃよかった……。

 そんな今さらな後悔をしながら、息を整えていると、俺の目の前に二本の足が写り込んでくる。葉山だ。

 

「比企谷、あっちあっち」

「あ?」

 

 葉山の言っている意味が分からず、俺は顔を上げる。

 すると葉山はちょいちょいとは何故か虚空を指差し苦笑いを浮かべていた。

 一体何だ?

 俺は葉山の指の先を辿るように顔を動かしていく、そこに見えるのは我らが総武高校の校舎。

 そして、その一角の教室の窓に大量の女子生徒が群がっているのが見えた。

 あの辺りは一年の教室だろうか?

 自習なのかそれとも学級崩壊か、複数の女子が歓声を上げながらコチラを見ている。

 恐らくは葉山のファンなのだろう。

 その証拠に葉山が軽く手を上げると、女子達は学校中に聞こえるほどの黄色い悲鳴を上げ始める。まるで猿山だ。

 

「手、振らないのか?」

「いや、どう見てもあれお前のファンだろ……」

「一色さんのことだよ」

「一色?」

 

 そう言われ、俺は改めて校舎の方へと視線を、送る。

 すると他の女子とは少し離れた一番端の窓際にやけに大きく手を振る女生徒──一色の姿に気がついてしまった。 

 

「……」

「愛されてるな」

「そういうんじゃねぇよ……」

 

 今の醜態を一色に見られていた。

 あの時聞こえた声は、幻聴ではなく本当に一色のものだったのだろうか?

 なら……葉山ではなく、俺を応援してくれていた……?

 いや、まさかな……。

 うん、まさかだ。

 ああ、なんだか顔が熱い。

 汗も凄いし、やっぱ体育なんて真面目にやるもんじゃないな……。

 

 俺はそんな事を考えながら、逃げるようにクラスメイトの群れに紛れ、残りの体育の時間を適当にやり過ごしたのだった。

 

***

 

「センパーイ! はいこれ!」

 

 昼休み。

 柄にもなく体育で疲労した俺が、ベストプレイスで昼食を摂ろうとすると、一色がそう言って顔の大きさほどの割りと大きめな箱を手渡してきた。

 正直、この時点で嫌な予感しかしない。

 

「何コレ?」

「いいから、開けてみてくださいよ」

「後から代金請求されたりしない?」

「しませんよ! 私のこと何だと思ってるんですか!」

 

 これが小町だったら『何か欲しい物がある』とか『行きたい場所がある』とか、その後の展開も読みやすいのだが。最近の一色の行動原理が謎すぎて少し怖い。

 まぁ、このタイミングでこのサイズなら弁当とかなのだろうが。

 一応今日はもうすでにウインナーロールとナポリタンロール、それにツナサンドを購入してあるのでこれ以上デブ活をするつもりはないんだけどなぁ……。

 

「じゃじゃーん!」

 

 しかし、そんな俺の予想の斜め上をいく一色いろはが、掛け声とともに箱の蓋を開けるとソコから飛び出してきたのは──。

 

「いろはちゃん特製クッキー詰め合わせでーす!」

 

 そう、そこには丸やら四角やらハート型やら大小様々大きさのクッキーが大量に敷き詰められていたのだった。

 

「センパイ、私のクッキー好きなんですよね? 遠慮せずいっぱい食べてくださいね」

 

 一色はニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながらそう言って箱の中身を俺に見せ付けてくる。

 所々にジャムっぽい赤や、チョコっぽい黒やら白やらもあって、カラフルといえばカラフルな色合いなので、俺の手元のパン類よりはよほど食欲をそそられるようにも思えるのだが……。

 いや、どう考えても昼に二人で食う量じゃないだろコレ……え? この子──馬鹿なの?

 

「本当は週末に先輩のお家に直接持って行こうと思ってたんですけど、一昨日はママと新しいクッキー作りに挑戦してたら失敗しちゃうし、昨日は良い入れ物が無くてパパに車出してもらったりしてて……結局渡すの今日になっちゃいました……。あ、でもコレは今朝早起きして作ったやつなので出来立てほやほや──とはいえませんけど……食べてくれます……よね?」

 

 一色はそんな俺の呆れ顔を理解してかそうじゃないのか、矢継ぎ早にそう捲し立てると、ウルウルと瞳を潤ませ、不安げに俺を見上げて来る。

 こいつ……絶対分かっててやってるだろ……。

 

「……いや、昼飯にこの量のクッキーは流石に……」

「まぁまぁ、偶にはいいじゃないですか、ほらあーん♪」

 

 しかし、一色はそんな俺の返答など無視して、先程までの態度とは一変、楽しそうに箱の中のクッキーを一つ摘むと、ポイッと俺の口に放り込んで来た。

 ツナサンドとはとても合わなそうな、紅茶のような香りと爽やかな甘みが口の中に広がっていく。

 くそ……せめて食後のデザートにして欲しかった……。 

 このパンどうしよ……。

 

「貴女たち……いつもこんなコトをしているの……?」

 

 そうして、俺が少し泣きそうになりながらクッキーを咀嚼していると。

 突然背後からそんな声が聞こえ、俺は思わず肩を震わせる。

 まずい、こんなトコロを見られたら……今後の俺の高校生活に支障が!

 そう思い、慌てて振り返る。

 

「雪ノ下?」

「雪乃先輩? なんでこんな所に?」

 

 すると何故か、そこには雪ノ下雪乃の姿があった。

 雪ノ下は呆れたように腕を組みながら仁王立ちで俺たちを見下ろして来ると、つかつかと俺達の方へと近づいてくる。

 その手には自販機で買ったであろう紙パックのジュースが二本。華奢な体型とは裏腹に意外と食いしん坊キャラなんだろうか……? いや、それとも昼は飲み物だけで済ませる派か? 

 

「……ちょっと、罰ゲームを……ね」

「罰ゲーム?」

 

 雪ノ下が言いにくそうにそう言うのと、雪ノ下の背後からパッタパッタという少し頭の悪そうな足音が聞こえて来るのはほぼ同時だった。

 

「あ、ゆきのんいたいた!」

 

 俺たちが「罰ゲーム」という言葉に首を傾げていると、今度は由比ヶ浜が雪ノ下に抱きつくようにして現れる。

 妙に二人の距離感が近く感じるのは、女子同士だからだろうか?

 それとも単に由比ヶ浜のパーソナルスペースが狭いせいなのだろうか?

 なんにしても、今の合流シーンが漫画のひとコマだったら、雪ノ下の二の腕辺りに「ぽよん」という擬音が描かれていたことだろう。

 全く、目の毒である。けしからん。非常にけしからん。

 

「結衣先輩?」

 

 しかし、そんな感想を持ってしまった俺とは対象的に、一色は由比ヶ浜の登場に少しだけ体を強張らせていた。

 一応この間の件は片付いたはずだが、やはり、コイツの中でまだ整理しきれていない部分があるのだろう。

 また暴走しないように注意しておかなければ。

 

「あれ? いろはちゃんだ、やっはろー♪ ってヒッキーもいる!?」

 

 って、俺に気づいてなかったのかよ……。

 まあ、いいけど……。

 

「何? 俺が居ちゃ悪いの……?」

「べ、別にそういう意味じゃないけど……」

「暖かくなったし、色々出てくる季節だものね……本当に嫌になるわ……」

「おい。人を害虫みたいに言うんじゃない」

「あら、そんな事一言も言った覚えがないのだけれど? ヒキガエル君」

「言ってるから、カエルって思いっきり言ってるから……」

 

 なんで俺の小学校の時のあだ名知ってるんだよコイツ。

 おかしい、元々ここは俺だけのベストプレイスだったはずなんだが……何故か俺のほうが異物扱いされているみたいだ。

 過去のトラウマが蘇る前に早いところお帰り願わなければ……!

 

「……んで、罰ゲームってなんなの?」

「ああ、それはね。私とゆきのんでじゃんけんで負けたほうがジュース買ってくるっていう罰ゲーム付きのじゃんけんしてたんだ」

「……それで、雪ノ下が負けたわけか」

「大変遺憾なのだけれど……そういうことよ」

 

 そうして俺が話を本題に戻すと、雪ノ下は心底悔しそうにギリッと下唇を噛み締め、地面を睨みつけた。

 いや、そこまで悔しがらんでもいいだろ……。

 どうやら、雪ノ下は相当な負けず嫌いのようだ。

 しかし、それならそれで別の疑問が浮かぶ。

 

「まあ、雪ノ下の事情は理解したが……、なんで勝った由比ヶ浜もココにいるの?」

 

 そう、雪ノ下がここに来た理由が罰ゲームなのであれば、由比ヶ浜がここにいる意味が分からないのだ。

 誰か他のメンツを含めた三人以上でやってたのか?

 エア友達のともちゃんでも居るのだろうか?

 幻の三人目とか超怖い。

 

「だって、一人で待っててもつまらないじゃん」

 

 しかし、そんな俺の問いに、由比ヶ浜はさも当然という顔をしてそう答える。

 ……罰ゲームって何だろう?

 

「だからって……貴女が付いてきたら罰ゲームの意味がないでしょう? ……貴女とはもう二度とやらないわ」

 

 全くもって雪ノ下の言う通りだ。

 どうも俺の友達はお人好しというか、色々足りていないような気がして心配になる、なんなら罰ゲームを押し付けられたりしそうまである。

 俺がしっかり指導しなくては……友達として!

 

「なんだか賑やかだね」

 

 そうして「ええー! ゆきのんゴメンってばー!」と雪ノ下に張り付く由比ヶ浜を見ながら、俺が友人・由比ヶ浜のセキュリティについて考えていると、今度は別方向から聞き慣れない声と共に新たな闖入者がやってきた。

 また女子だ。

 

「あ、さいちゃん。やっはろー!」

「さいちゃん?」

 

 由比ヶ浜に“さいちゃん”と呼ばれたその少女は、昼休みだというのに何故かジャージ姿でテニスのラケットを抱えながら俺にニコリと微笑みかけてくる。

 天使だろうか? 可愛い。そして、額から僅かに光る汗が妙に色っぽい。

 一色、雪ノ下、由比ヶ浜その全てとまた違うタイプの守ってあげたくなる系の美少女の登場に、思わず俺の心がときめいてしまう。

 トゥンク。これが……不整脈?

 

「うん、同じクラスのさいちゃん」

「そっちは一色さんと雪ノ下さん……だよね? 戸塚彩加です。よろしくね」

「は、初めまして」

「……よろしく」

 

 少女は由比ヶ浜とは知り合いのようで、俺の背後にいる女子二人にそう挨拶をすると、再び俺へと視線を合わせた。

 無視をされているというわけではなさそうなのだが……その挨拶に俺の名前は含まれていなかった、ココは俺も自己紹介をしたほうが良いのだろうか?

 

「えっと、結衣先輩と同じクラスって事はセンパイとも同じクラスってことですよね?」

「うん、比企谷君とは一年の時からずっと同じクラスなんだ」

 

 しかし、俺が何かアクションを起こす前に、一色にそう言われ俺は一瞬固まってしまう。へ? 同じクラス? 一年から?

 いや、でも確かに由比ヶ浜と同じクラスなら俺とも同じクラスなはずだな……。

 え? そうなの?

 俺が慌てて戸塚の顔を覗き込むと、戸塚は少しだけ恥ずかしそうにハニカんだ。

 どうやら、嘘を付いているとか、俺を揶揄っているという感じでもなさそうだが……。

 哀しいことに俺の脳内には戸塚彩加という少女についてのデータが全く保存されておらず、俺はただただ困惑することしか出来なかった。

 

「え? あれ? そ、そう……だっけ?」

 

 俺のその言葉に、戸塚の顔が一瞬で凍りつく。

 というか、戸塚だけじゃなくて俺以外の全員凍りついていた。

 もしかして俺、何かやっちゃいましたか?

 

「センパイ……さすがにソレは……」

「貴方……クラスメイトのコトも覚えていないの……?」

「そういえばヒッキー私のことも覚えてなかったよね、最低……」

 

 三者三様に俺に冷たい視線投げつけてくる。今にも凍傷ダメージを負ってしまいそうだ。

 しかし、そんな三人の視線より何より応えたのは当の戸塚が、まるで叱られた子犬のようにシュンと肩を落としたまま俺を見てくることだった。

 

「あはは……僕、影薄いから……仕方ないよ」

 

 うっ……流石に心が痛い。

 悲しそうに笑う戸塚に、俺は思わず「す、すまん……」と謝罪の弁を述べてしまう。

 でも仕方がないじゃないか、去年はクラスの連中との関わりなんてほとんどなかったのだ。

 むしろ女子に囲まれている今のこの状況のほうが異常である。

 いや、本当ここの女子密度高すぎじゃない? どういうことなの?

 いつからここは女子専用スペースになったの? やっぱり俺が異物なの?

 もう明日から別の場所で飯食おうかな……。

 

「ま、まあヒッキーのことは置いといて! それよりさいちゃんは昼練?」

 

 そんな少し淀んだ空気を敏感に感じ取ったのか、由比ヶ浜が分かりやすく話題を逸らしてくれた。

 さすが俺の友達だ。

 まあ、それで俺の居心地の悪さが解消されるわけではないのだが……。

 

「うん、ずっとお願いしてたんだけど、ようやくコート使わせてもらえるようになったんだ」

「さいちゃんテニス部だもんね、頑張ってるんだ」

「うちの部弱いから……もっと頑張らないと。そういえば比企谷君もテニス上手だよね、もしかして経験者?」

「へ? ヒッキーそうなの?」

 

 正直もう放っておいて欲しかったので無視しようかと思ったのだが、間抜けな顔を向けてくる由比ヶ浜とは対象的に、戸塚の表情には何故か少しだけ期待と羨望のようなモノが含まれていて、俺は思わずグッと息を呑み戸塚と視線を交わしてしまう。

 

「……いや、別にふつ──」

「そうなんですよ! センパイ、テニスメチャクチャ上手なんです!」

 

 しかし、何故かその問いに答えたのは一色だった。

 一色は興奮気味に鼻息荒くそう主張すると「ね?」と俺の顔を覗き込んで来る。

 いや、なんでちょっと嬉しそうなんだよ……。

 葉山相手に思いっきり空振ってたトコロお前も見てただろ……。

 

「へぇ、意外ね。貴方にそんな特技があったなんて」

「いや、別に……特技ってほどでもない、普通だ普通。経験者ってわけでもない」

 

 当然、これは嘘ではない。

 別に中学の頃テニス部だったこともなければ、実はアメリカ出身でジュニア大会に四連続優勝したとかいう経歴もなければ、ミュージカルに出演したコトもなかった。

 経験があるとすればマ○オテニスぐらいだ。

 ……ん? ミュージカル?

 

「でも、葉山先輩との試合、結構いい線言ってたじゃないですか?」

「試合じゃない、あんなん遊びだ遊び……っていうか授業中はよそ見しないでちゃんと先生の話聞いて勉強しなさい?」

 

 何かが頭の中で浮かびそうになった瞬間、一色にそう言われ、浮かびかけていたイメージはハジケ飛んでしまったので、そのまま一色の間違った見解に反論する。

 そもそも一色含む一年女子が窓際に集まっていたあの時間、俺たちは体育の授業中だった。

 それはつまり一色達のクラスも授業中だったという事を意味する。

 なのにそのタイミングであれだけの人数がコチラを見ていたのは一体どういうことなのか? 担任は何をやっているのだ。ちゃんと叱ってもらわなければ。

 

「自習で暇だったんですよ……」

 

 ……なるほど、自習だったのか。

 でもな、一色。

 

「……自習の意味知ってる?」

 

 自習は決して遊んで良い時間という意味ではない。

 少なくとも他の教師の目に止まるような事をするのはNGだ、出席が取り消されるなんてことにもなりかねないからな。

 その辺、コイツは危機管理が甘い。

 だからこそ俺はそう言って一色を注意したのだが、一色は何も答えず、ただニコリと笑みを返して来ただけだった。

 ソレを見た俺がハァとため息を吐くと、そんな俺達のやりとりを見ていた戸塚が少し嬉しそうに声を弾ませながら話し始める。

 

「でも本当比企谷君はテニス部に欲しいぐらいだよ、フォームがね、すごくキレイなんだ」

「へー……」

 

 あれ? なんで戸塚は女子なのに俺のフォームなんて知っていんだ?

 俺と同学年なら男子と女子は体育別なはずなのだが……。

 戸塚も一色みたいに自習か何かであのラリーを見ている時間があったのだろうか?

 そんな事を考え、顔をあげると戸塚は「ね?」と可愛らしく首を傾げていた。

 その顔にはお世辞とか社交辞令とか言った意図が含まれているとは思えず、俺も思わず顔を赤らめてしまう。

 

「そうだ! 比企谷君、よかったらテニス部入らない? 一緒にやろうよ!」

「い、いや、俺放課後はバイトあるから……」

「そっか……残念。でももし気が向いたらいつでも遊びに来てね?」

 

 何故かジト目で俺を睨んでくる一色を無視しながら、なんとか理性で戸塚の誘いを断ると、戸塚は最後に「あ、じゃあ、僕そろそろ行くね。邪魔しちゃってごめんね」とテニスコートの方へと戻っていった。

 ソレを機に、由比ヶ浜と雪ノ下も「それじゃそろそろ私達も」と校舎へと消えていく。

 残されたのは一色と俺の二人だけ。

 まあ、ここからテニスコートは丸見えなので、戸塚の姿は目で追えるんだけども……。

 

「センパイ?」

 

 そうして小さくなった戸塚の背中を見つめていると、一色が不機嫌そうな声を上げ俺を睨みつけてきた。

 

「な、なんだよ……」

「むー……なんでもないです! ほら! 早く食べちゃって下さい! お昼休み終わっちゃいますよ!」

「むがっ!」

 

 そう言うと、一色はまるで自販機にコインを入れるように次々と俺の口へクッキーを放り込んで来た。

 うう……塩気が欲しい。

 どうせならアイツラにも手伝って貰えば良かったな……。

 

 俺はその事を心底後悔しつつ、渡されたクッキーの山を処理していったのだった。




というわけで戸塚登場回でした!
正直なトコロ、83話は今戸塚の依頼編まで一気に終わらせるつもりだったのですが半分しか進みませんでした
相変わらず文字数が読めなくてすみません。

感想、評価、お気に入り、誤字報告等皆様からのリアクション随時お待ちしております。
お手すきの際によろしくお願いいたします。


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第84話 比企谷八幡はクールに去る

いつも感想・評価・お気に入り・誤字報告・メッセージ etcありがとうございます。大変励みになっております。

そんな皆様の応援のお陰で完成した84話。
楽しんで頂ければ幸いです。


 一色に大量のクッキーを食わされた日の放課後。

 その日は午前中から体育で無駄に疲労していたというのに加え、放課後はバイトもあったのでさっさと帰ろう……と思っていたのだが何故か俺は職員室へ呼び出しを受けていた。

 

「あの……俺今日バイトなんで早く帰りたいんですけど……」

「なぁに、そう時間は取らせんさ。とりあえず座りたまえ」

 

 そう言いながらも、平塚先生は俺の目の前で来賓用の長椅子に腰掛け優雅に足を組んでいる。

 恐らくこのまま座ってしまえば軽く三十分は拘束されてしまうだろう。

 そう感じた俺は、せめてもの抵抗として平塚先生の横に立ったまま──周囲からは怒られているようにしか見えない並びで、話を続けた。

 

「いえ、結構です。で、なんすか……?」

「──まぁいい……。この間の件、どうなったのかと思ってね」

 

 しかし、そんな俺の態度が気に入らなかったのか、平塚先生は頬杖を付き、今にもタバコでも取り出しそうな雰囲気でそう言って俺を睨んでくる。

 この間の件とはどの件だろうか。

 最近は自分でも信じられないぐらい色々なコトが起こりすぎていて困ってるぐらいだからな……。

 はて……?

 

「……あれですかね、プリキュアの新メンバー追加の話とか……?」

「違う。なぜ私がわざわざ君と放課後キュアフィ○ーレの話をしなければならないのかね」

 

 どうやら違ったようだ。

 最近のニュースと言えばソレぐらいなものだと思ったが……。

 っていうか平塚先生ニチアサ見てるのか。ちょっと意外。

 

「一色と由比ヶ浜の件だ、忘れたとは言わせないぞ」

「ああ……忘れてました」

「そうか、なら今すぐ思い出させてやろう」

 

 だが、そうやってぼーっと話を聞いていると平塚先生は徐ろにソファから立ち上がり、左手で右手の肩を抑えながら、右腕をグルングルンと回し始めた。いわゆる廻天──リッパーサイクロトロンである。

 おかしい、今の御時世体罰は即炎上案件で教師陣も敏感になっているはずなのに……! 暴力反対!

 

「お、思い出しました! 思い出しました!」

「そうか、ソレは良かった」

 

 これ以上パワーを貯められる前にと、俺が慌てて降伏の意を示すと平塚先生はニッコリと笑顔でその拳を下ろし、再びソファに腰掛けた。ふぅ、本当怖い。あと怖い。それから怖い。

 

「で、でもほら、何ていうかこういうのって守秘義務とかあるんじゃないですか? 迂闊に人に話せないというか……」

「私は奉仕部の顧問で彼女たちは部員だ。事の顛末を知る権利ぐらいはあるさ」

「すげぇ屁理屈に聞こえますけど……」

「まあ、そのコトを抜きにしても、総合的に考えて今回の件は比企谷と話しておくべきだと思ったのでね。それとも……私と話すのがそんなに嫌かね?」

 

 歯切れ悪く発言する俺に、平塚先生は諭すようそう言うと。平塚先生は真面目な話だ。とでも言わんばかりに、俺の目をまっすぐ見つめてきた。

 基本的に、この人は悪い先生ではないのだ。

 その事は俺自身十分分かっている。

  

「はぁ……わかりましたよ……」

 

 だから、多少話しをしたところでそう悪いことにはならないだろう。

 そう思い、俺は遅刻を覚悟し目の前のソファに座り、平塚先生と対峙する。

 だが、その瞬間平塚先生は先程までの真面目な雰囲気を一変、その瞳をランランと輝かせ、テンション高くまるで恋バナをする女子高生のように前のめりで俺に問いかけて来た。あれ? 俺もしかして騙されてる?

 

「それで、結局あの騒ぎはなんだったんだ? きちんと解決はしたんだろう?」

「まあ……したんじゃないですかね?」

 

 なんだか罠にでもかかった気分だが……はぁ……。

 そうして俺は、あの日起こったことを平塚先生に話し始めた。

 

***

 

 

「──んでまぁ、良く分からんうちに一色の機嫌が治ってました」

「良く分からんうちに……と言い切ってしまうのが、君の良いところでもあり悪いところでもあるんだろうな。まぁ、大体の話は分かった。君自身は今回の件どう考えているのかね?」

 

 部室であったことを一通り話すと、平塚先生は何か考えるような素振りをしてから俺にそう問いかけて来た。

 どう考えているというのはどういうことだろうか?

 その質問の意図がわからず、俺は思わず首を傾げる。

 

「どうっていうと?」

「つまり、今回の騒動の原因は何だと考えているのかね?」

 

 そう言われ、俺はああそういうことか。と、もう一度あの時のことを思い出した。

 正味な話、俺もそこは気にはなっていたのだ、だからこそそれなりに考察もしてみた。

 そして、今回の騒動の輪郭もある程度理解していた。

 というか、答えはもう出ていたのだ。

 元々俺は一色からある程度の話は聞いていたわけだからな。

 

「……基本的には勘違いってことだとは思うんですけど」

 

 この件で大事なのは一色が由比ヶ浜にレシピを教えたコト。

 そして、由比ヶ浜が渡す相手が俺だった──ということを一色が知らなかった。ということだ。

 この二つが重なった結果、一色は由比ヶ浜に怒リの感情をブツケることになった。

 一色は由比ヶ浜の目的を理解していたはずなのに、結果がずれてしまっている。

 ソレはなぜか?

 つまり、由比ヶ浜と一色の間に何か情報の齟齬があったと考えるのが自然だろう。

 ここから導き出される答えは唯一つ──!

 

「由比ヶ浜がクッキーを渡そうと思っていた相手が、俺以外にもう一人いたんでしょうね」

「ほぅ……?」

 

 俺が指を一本、二本と立て、ピースサインのようにして平塚先生に見せると、平塚先生は両手を大きく広げ、ソファの背もたれに寄りかかった。

 これで毛皮のコートでも着てたらまるでマフィアのドンのみたいだなとか思いながら、俺は会話を続ける。

 

「一色は由比ヶ浜を応援するためにクッキー作りを教えてたらしいんです。でも蓋を開けてみたら、由比ヶ浜が日和ってそのクッキーを俺に流した。それで一色が由比ヶ浜に怒ったってところかと」

 

 そう、元々一色は言っていた『恋のお悩み相談を受けた』というコトを。

 そのために『クッキーづくり』を教えたということを。

 思い込んだら即行動、暴走体質のある一色のことだ、我が身のことのように相談に乗ったのに、当の本人が日和ったと聞けば。親身になりつつも、ああやって声を荒げてしまうというのも納得がいく。

 

「……君は、そう考えてるのかね?」

「以前、由比ヶ浜に好きなやつがいるっていう話を一色がしてたんで、まあ、当たらずとも遠からずってところじゃないすか」

 

 流石にその相手が俺だと考えるのは論理が飛躍しすぎているだろう。

 そもそも俺と由比ヶ浜の接点は俺が由比ヶ浜の犬を助けたというだけで、そこから一年は同じクラスですら無かったわけだしな。

 

「……なるほど。さすがは比企谷探偵だ。これは……こっちにも問題がありそうだな……。麻酔銃があったら眠らせてやりたいが、それだと結局本人は覚えていないままだったか、厄介だな……」

 

 そうして、俺が一通りの推理を述べると、平塚先生は顎に手を置き、ブツブツと訳のわからないことを呟いてから、やがて何かを思い出したように俺の方へ視線を向けてきた。

 

「君は、一色が総武に入るまえからの付き合いだったな」

「はぁ……そうですけど」

 

 そういえば、平塚先生にはその話はしてあるんだった。

 変に勘違いされていないのであればよいが、

 

「これ以上私の口から言うのは野暮というものだろうが……君はもう少し、彼女たちのことを見てあげたほうが良い」

「は?」

 

 この人は何を言っているのだろう。

 俺が再び首を傾げると、平塚先生は続けて口を開く。

 

「頼むから、あまり事を荒立てないでくれよ? 校内で刃傷沙汰はゴメンだからな。ナイスボートなのはテレビの中だけにしておきなさい。ああ、それからいざという時は『避妊』をしっかりするように」

「……ちょっと何言ってるかわからないですけど……そういうの、今は男相手でもセクハラ案件なんでやめたほうがいいですよ?」

 

 俺がそう言うと、平塚先生は『セクハラで済むならそれでいいさ』と小さく呟き、ため息を吐いた。

 本当に、一体この教師は何を言っているのだろう?

 婚期逃しすぎていよいよ頭のネジが外れてしまったのかもしれない。

 本当、いい加減誰か貰ってやれよ。

 

***

 

 

 そうして平塚先生から解放された俺は、気が付けばバイトまであと三十分を切る時間だったことに気が付き、慌てて昇降口へと向かっていた。

 ここからバイト先までは自転車で思い切り飛ばせば十五分程の距離。

 充分間に合う時間だが、できれば無駄な体力は使いたくないのでのんびり行きたいトコロである。

 なんなら道中コンビニでポテトの一つでも買い食いしたい気分でもあったので、俺は気持ち早めに靴を履き替え自転車置き場へと向かい自分の自転車に鍵をさした。

 それはいつも通りの帰宅風景。

 特別なことなんて無い、何も変わらない日常。

 このまま自転車に跨がり、軽くペダルを漕げばそのまま楽に校舎を出ることが出来る。

 だが、その日の俺は、何故か少しだけ立ち止まってしまった。

 視界の端、テニスコートがある方角に見知った人物がいた気がしたのだ。

 

 こんなこと以前までの俺だったらありえなかった。

 だってそもそも“見知った人物”なんていうのが居なかったからな。

 視界に入るのは殆どがNPCで、周りで起こっているのは俺には関わりのないイベントばかり。

 だから、余程のことでもない限りこんな風に立ち止まるコトは無かったはず……なのに、その日に限って立ち止まってしまった。

 

 立ち止まらず、そのまま校外へと出ていれば余計なことに巻き込まれずに済んだのにと後悔したのは、視線を向けたテニスコートの方から一人の少女──一色いろはがこちらに向かって走って来る事に気がついてからだった。

 

「センパーイ! 助けてくださいー! やばいですやばいです! やばいんですよぉ!」

 

 猫撫声で走ってくる一色に気がついた瞬間、俺は急いで自転車の向きを校門に向ける。

 このまま気づかなかったことにしてバイトに行こう。

 そう考え、勢いよくサドルに跨ってグッとペダルを踏み込んだ。

 しかし、何故かそのペダルが重い……。

 まるで後輪に何か重たいものが乗っかっているかのようだ。

 それこそ、小町ぐらいの重さの何か……。

 俺はその事に気づいた瞬間、恐る恐る背後を振り返る。するとそこには──自転車の荷台を力いっぱい握っている一色の姿があった。

 どうやら、間に合わなかったようだ。……無念。

 

「な・ん・で! 逃げるんですか!」

「だって……絶対面倒なことに巻き込まれる奴じゃん……俺今日バイトなんだよ……」

「知ってますけどぉ……でも、今日は本当にやばいんですよぉ、助けてください」

 

 そう言ってまるで猫のようにまとわりついてくる一色は、何故かいつもの制服姿ではなかった。

 真っ白いテニスウェアに身を包み、そのミニスカートから白い太ももをコレでもかと惜しみなく露出し見せつけている。

 奉仕部からテニス部へ転部したんだろうか?

 

「……なんでそんな格好してんの?」

「あ、気づいちゃいました? どうです? 可愛いでしょう?」

 

 俺の言葉はちゃんと届いたはずなのに、一色は何故かその問いには答えず、目の前でクルリと一回転。

 ミニスカートがフワリと持ち上がり、見えてはいけないものが見えそうになったので、俺は思わず目を逸らしてしまう。

 くそぅ……。

 

「……ちょ、ちょっと丈が短すぎるんじゃないですかね……?」

「大丈夫ですよ、ちゃんとアンスコ履いてますから」

「そういう問題じゃないんだよなぁ……」

「?」

 

 得意げに語っているところ申し訳ないが、いい加減女子は『見せてもよいものを履いている』という概念は基本的には男には通用しない、というを理解してもらいたい。

 大勢の男子はスカートが捲れ、中が見えてしまうという行為そのものに背徳感を覚えるのであって、その中身がアンスコだろうが、見せパンだろうが、ブルマだろうが見えた瞬間「オオ!」っとなってしまうコトには変わりないのだ。

 もし一言言えるコトがあるとすれば。

 冬場、女子がスカートの下にジャージを履くのは悪だと言う事のみ。

 ねぇ、あのスカートなんか意味あるの? 見た目的にすごくガッカリするし、もういっそジャージだけで良くない? あれが最先端のお洒落なの? 本当誰か説明してほしい……。 

 おっと、思考が逸れてしまった。いかんいかん。

 

「で、なんでテニスウェア?」

「ちょっとテニス関係の依頼がありまして、別にジャージでもよかったんですけど、折角ならってことで借りちゃいました。どうですか? 似合います?」

「まあ、似合ってるんじゃないの……?」

「えへへ。えへ」

 

 俺がそう言うと、一色は照れくさそうに笑って、俺の肩をバシバシ叩いてくる。痛い。

 何で俺今殴られてるの?

 さっきの平塚先生といい、一色といい、なんだか今日はスムーズな会話が出来ていない気がする。もう少し会話のキャッチボールを大事にしてほしいものだ。

 

「あ! それより今大変なコトになってるんでした! ちょっと来て下さい」

 

 そんな事を考え、俺が叩かれるままになっていると、突然一色が何かを思い出したかのように俺の腕を引いてきた。

 だが、自転車に乗っているというのもあり、俺は簡単には動かない。

 その事が不満だったのか、一色は今度は「うー!」と力いっぱい俺を引っ張ろうとしてくる。それでもカブは抜けません状態だ。

 

 さて、俺としてはこのまま一色を振り切って帰るということもできるわけだが……。 

 このまま大人しく帰してくれるようなヤツでもないのは分かりきっている。

 ここで下手にごねて、明日また文句を言われるのも面倒だ。

 そう考えた俺は、ため息とともに自転車を降りた。

 

「……わかったから。話聞くから……とりあえず何があったの?」

 

 俺がそう呟いた瞬間、一色の顔がぱぁっと輝いた。

 バイト遅刻まで残り二十五分。

 

*

 

 一色の話によると事の経緯はこうだ。

 一色達奉仕部の面々がいつも通り部室で駄弁っていると、今日の昼休みに出会った戸塚が部室にやってきた。

 依頼内容は、テニスの練習に付き合って欲しいとのこと。

 戸塚はテニス部でもかなり熱心にテニスに取り組んでいるらしく、今日のように昼休みもワザワザ許可を貰って一人自主練に励むようなタイプだった。

 だが、GW明けたばかりの今日なんかは試験期間ではないものの、GW開けテストは恒例化しているということもあって、いくつかの部活は自主的に休みになっているらしい。あと二週間もすれば本格的な試験も始まるし、一応総武は進学校だからな。

 とはいえ現段階では学校側から直々に休部の命令があったわけではないので、許可さえ取れればコートの使用には問題ないとのコトで、二つ返事で戸塚の依頼を引き受けた奉仕部はメンバー総出で戸塚の相手をすることになった。

 そこまでは良いのだが──。

 

「──それで戸塚先輩と練習してたら突然葉山先輩達がやってきて、『自分たちにもテニスさせろ』って言ってきたんですよ! 酷くないですか?」

 

 という事らしい。

 俺が自転車を押したまま、テニスコート付近までやってくると、そこにはテニスコートを囲うネットの内側に由比ヶ浜と戸塚、ネットの外側に葉山、三浦、戸部という分かりやすい対立構造が出来上がっていた。

 

「比企谷も来たみたいだし、やっぱり皆でワイワイ楽しくやるっていうのが一番だと思うんだけど、どうかな?」

「そうそう、隼人くんの言う通り、皆でやったほうが楽しいじゃん?」

「ヒッキー……」

「比企谷君……」

 

 そうして俺がテニスコートまでやってくると、葉山が俺を出汁にコートの使用を求め、由比ヶ浜と戸塚が不安げに俺を見つめてきた。

 その瞳は、俺が『どちら側なのか』見定めている風でもあり、少しだけ居心地の悪さを感じる。

 

「勝手に俺を頭数に入れるな、俺はこれからバイト行かなきゃならないんだよ」

「そ、そうか。すまない……」

 

 とりあえず、俺が葉山側ではないとアピールをすると、葉山が軽く謝罪の弁を述べて来た。

 だが、本当にそこに謝意が含まれているのかは微妙だ。

 少なくとも、それで自分の意見を取り下げる気はないみたいだしな。

 さて……どうしたもんか……。

 

「ヒキオ。関係ないならどっか行ってくんない? 今こっち取り込んでんだけど?」  

 

 ヒエッ、ごめんなさい。

 そうして頭を悩ませている所を三浦に怒鳴られ、危うく謝ってしまうトコロだった。

 ……って、あんたも関係者じゃないだろ。

 とはいえ、当然そんなコトが直接言えるわけもなく、俺は三浦の視線から逃げるように、周囲を見回した。

 由比ヶ浜、戸塚、一色。葉山、戸部、三浦……。

 うん、何度見てもこういう時一番頼りになりそうなやつの姿が見当たらない……。休みなのだろうか?

 

「雪ノ下は?」

「ゆきのんは部室、あんまり体力ないから後で来るって」

「まあ、見たまんまって感じだな……」

 

 すぐ隣にいる一色に聞いたつもりだったが、答えてくれたのは由比ヶ浜だった。

 一応、納得の理由ではある。

 あの細っこい見た目で運動大好きの体力自慢だと言われる方が驚愕というものだろう。

 いや、待てよ……? 運動をして脂肪を燃焼させると胸も小さくなるという話を聞いたことが……いや、やめておこう。これ以上考えると碌なことにならない気がする……。

 

「ねー、隼人ー。あーし早くテニスしたいんだけど」

「だからー! 今は私達が使ってるって言ってるじゃないですか! そもそも許可も取ってないですよね?」

「はぁ? 何アンタさっきから。一年のくせに生意気じゃない?」

 

 しかし、そうなると直接的な抗議の声を挙げられるのが一色しかいないらしく、当然先輩としてのメンツもあるであろう三浦も引き下がらない。

 二人の間に火花が散り、その構図はまさにヘビとマングース。

 でも、あれって基本的にマングースが勝つんだっけ?

 確か沖縄じゃマングース増えすぎて、役所に持ってくとお小遣い貰えるんだよな。

 千葉にも有名なネズミがいるんだから、ネズミを見つけたらお小遣い貰える制度取り入れたらいいのに。

 

「まぁまぁ二人共」

 

 そうして言い合う二人を、由比ヶ浜が宥めるように声をかける。

 だが、由比ヶ浜も元々三浦たちのグループに属しているということで、どちら側ともいえない曖昧なポジションになってしまっているらしい。

 残る戸塚だが……。

 可哀想に……どうしたら良いか分からず、オロオロと不安げにラケットを抱えているじゃないか。

 いや、本当誰だよこんな可愛い子を困らせてる奴。全くけしからん。

 

 まぁ、個人的な意見として言わせてもらえるのであれば、戸塚の依頼がテニスの練習なら別に葉山達に相手をしてもらえば良いのでは? とも思ってしまうのが正直なところだ。

 全員の実力を把握しているわけではないが、イケメン葉山様のことだ、きっとここの女子全員とやってもそうそう引けは取らないのだろう。

 

 許可の件に関してもこの中の誰か……まぁ、言い出しっぺの葉山か戸部あたりが職員室まで走れば問題ないはずだ。

 俺ならともかく、葉山にだけ許可が降りないなんてことはないだろうしな。

 しかし、戸塚は見たところ一色や雪ノ下とも違う“か弱い系少女”のようだし男子とやりたくないという事情もあるのかもしれない。

 三浦と相手をするのも相性が悪いように思える……。

 

 さて……なら、この場を納めるために俺は何をするべきか……。

 考えられる手はいくつかあるが……。

 

 一、葉山の提案を受け入れる。

 

「比企谷君……」

 

 当然却下だ。俺はこんな捨てられた子犬のような目をする戸塚を見捨てられるほど非情にはなれない。

 

 二、雪ノ下に泣きついてなんとかしてもらう。

 

「ヒ、ヒッキー……」

 

 恐らく問題はないだろうが、より面倒な事になりそうな気もする。

 これ以上時間を取られたくないので、これも却下。

 

 三、葉山に土下座して謝って許してもらう。

 

「センパイ……」

 

 まぁ……、ソレが一番手っ取り早くもあるが……。

 最近葉山にはやられっぱなしなのも考えれば、ここらで少し意趣返しをしたいという思いもなくはない。というわけで。残る選択肢は──

 

 四、俺のやり方でなんとかする。

 

 上手くいくかは分からんが……ちょっと、やってみるか……。

 そう考えた俺は持っていた自転車のベルをいじりながら隣りにいる一色に声をかけた。

 

「なぁ一色、来月頭……いや、今月末とか暇か?」

「へ?」

 

 突然の俺のテニスとなんら関係のない提案に戸惑ったのか、一色も周囲の連中も目を大きくして俺を見つめてくる。

 『一体こいつは何を言ってるんだろう? 馬鹿なの?』

 そんな感じの目だ。

 さっきまで対立していたはずなのに、こういう時だけ団結するの本当にやめて欲しい。

 泣くぞ。

 

「……ひ、暇! 暇です! 今週でも来週でも! ずっと暇です!」

 

 だが、やがて言葉の意味を理解したのか一色が右手を元気よく上げて「ハイ! ハイ!」と大きく返事をしながらぴょんぴょん飛び跳ねそう宣言した。

 

「お、おう、そうか……じゃあ、サッカーやらん?」

「サッカー? センパイサッカーとか興味あったんですか? まあセンパイと一緒ならなんでもいいですけど……」

 

 とりあえず、これで一人確保。

 

「由比ヶ浜と戸塚もどうだ?」

 

 続けて、俺は由比ヶ浜と戸塚にも声をかけていく。

 しかし、相変わらず他のメンツは怪訝そうな顔で首を傾げるばかり。

 まぁまて、まだ慌てるような時間じゃない。

 種明かしはこれからだ。

 

「へ? 私?」

「ぼ、僕も?」

「ああ、実は近々サッカーの試合があるんだよ。皆で参加してもいいかなと思ってな?」

 

 そうして、俺は満を持して葉山の方へと視線を向けた。

 すると、最初は何のことか分からなそうにしていた葉山だったが、やがて俺が何をしようとしているのか理解したようでその瞳を大きく見開き俺を睨みつけてくる。

 

「比企谷……まさか……!」

「なぁ、葉山? 皆でやると楽しいんだろう?」

 

 そう、それは以前葉山達とカラオケに言ったときの話。

 葉山は試験明けに試合があると言っていた。

 そしてその結果次第で自分が部長になるかどうかが決まると。

 ソコに俺は目をつけたのだ。

 少なくとも、今葉山がやっていることはテニス部である戸塚の活動の邪魔でしかなく、それを肯定している以上、葉山に俺の提案を断る権利はない。

 ましてや、その行動原理は『皆で楽しく』だ。

 どこに、何人いるかも分からない『皆』を引き合いにだしてきたから、俺はその『楽しさ』に具体性を持たせただけ。

 もちろん、こんなのは屁理屈でしかないし、意地の悪いことをしているという自覚はある。

 試合当日に俺たちが乗り込んだところで、大したことは出来ず、せいぜい教師やら警備員やらに止められるだけだろう。

 しかし、葉山の性格上自分の発言のせいで『皆』に迷惑をかけるという事態になることは許せないと考えるはずだ。

 そこに気づいた葉山は、やがてハァと大きなため息を付いて両手を上げた。

 全面降伏のポーズである。

 

「分かった、悪かった。俺たちの負けだ。あまり虐めないでくれ……」

「いや、虐めてきたのはソッチだろ。俺はただ『皆でやれば楽しい』なんていう幻想が本当なのか確認しただけだ」

 

 実際、俺の周りには『皆』なんていうのは居なかった。

 俺はイツでもぼっちで、母ちゃんにスマホ強請る時ですら、引き合いに出す相手がいなくて苦労したぐらいだしな。

 だから本当にそんなものがあるのか、少し確認したくもなったのだ。

 まあ、少々DQN返し臭くなってしまったが。

 最近俺の周りにはどうにも人が多すぎるから、少しあてられたのかもしれない……。

 とはいえ、とりあえず問題は解決ということでいいだろう。

 そう考えた俺は自転車に跨がり、その向きを百八十度変えた。

 未だ納得のいかなそうな三浦が俺を睨んできてるからな……。オー、怖……。

 

「は? アンタ何言って……」

「優美子。辞めてくれ俺が悪かったんだ。埋め合わせに今日は何か奢るよ……」

「隼人!? ちょっとアンタ! マジで何したのさ!!」

「いいんだ優美子! 戸塚、結衣、一色さん、皆ごめんな」

 

 だが、やがてそんな三浦達も葉山に無理矢理引きずられるようにしてテニスコートを後にしていく。

 そのあまりの剣幕に、今からでも謝りにいこうかな……とかちょっと思ってしまったのは内緒だ。明日殺されませんように……。

 そんな事を考えながら、先を行く葉山達の背中を見送っていると、一色が再び俺の眼の前に現れた。

 

「セ、センパイ? え? 今何したんですか?」

「何も……とりあえず、問題解決したんなら俺はもう行くぞ、いい加減遅刻しそうだ」

 

 しかし、最早一色に全てを説明する時間はない。

 一色を無視して時計を確認すれば、バイトの時間まではちょうどあと十五分。全力疾走コース確定だ。

 とりあえず、さっさとココを離脱しよう。

 

「それはまた今度な。とりあえず俺行くわ、後頑張れよ」

「あ、はい! センパイもバイト頑張ってください! あ、あと月末楽しみにしてますね!」

 

 そうして、俺が右足のペダルに力を込めると、一色が突然そんな事を言ってきたので、俺は慌てて「あ」と振り返る。

 その話まだ生きてることになってるのか……、それは面倒だな。

 そもそも俺はサッカーなんてやりたくないのだ。

 

「ああ、ソレ無しになったから」

「へ? え? ちょ、センパイ!?」

 

 だから俺はそう言って、後方で何か叫ぶ一色を残し自転車を走らせた。

 よし、とりあえずダッシュでコンビニポテトを買いに行こう……もう多少の遅刻は仕方がない、今は何よりしょっぱいものが食べたい……。

 

*

 

*

 

*

 

「もー……センパイったら……」

 

 自転車で颯爽と校門を出ていくセンパイを見送ると。私は再び結衣先輩達のいるテニスコートへと戻っていった。

 正直、センパイに助けて貰いたいと思って頼ったものの、こんな展開になるとは思っていなくて、私自身困惑している。

 っていうか、センパイは葉山先輩に何したんだろうか?

 サッカーが関係してるんだよね……?

 葉山先輩が謝るようなイベントあったっけ? うーん???

 

「ね、ねぇ、ヒッキー何したの?」

「うん、僕も凄い気になる。あれ、どういうコトだったのかな?」

「私もよくわからないんですよね……」

 

 その疑問を持ったのは私だけではなかったようで、コートに入るなり私達は三人で頭を突き合わせ、考え始めた。

 でも、一向に答えが思い浮かばない。

 うーん、モヤモヤする。

 あんなに簡単に追い返せるなら逆にセンパイに頼ったのは失敗だったかもしれない……。

 センパイに面倒くさい女だとか思われてないといいんだけど……。

 

「優美子めちゃくちゃ怒ってたけど……明日大丈夫かな……」

「まあ、大丈夫じゃないですか、葉山先輩も悪かったって言ってましたし」

「そう……だよね……」

 

 考えても考えても答えは浮かばず、私は最終的に「まあ明日聞けばいいや」と思考を放棄することにして、再びラケットを拾い上げた。

 今日の依頼はあくまで、戸塚先輩の練習相手でセンパイがコートを確保してくれたのだから時間は有意義に使わなきゃね。

 

「でもヒッキー凄いね、あんな簡単に隼人君を追い返しちゃうなんて」

「ふふん、そうなんです、センパイってば凄いんですよ!」

 

 そう思ったのだが、同じくラケットを振り回しながら、結衣先輩がそんな事をいうので、私は思わず、興奮して声を荒らげてしまった。

 センパイが褒められるのは私としても凄く嬉しい。

 なんなら全校生徒に見せびらかしたいまである。

 まあ、でも現状それを理解してくれる相手が、ライバルでもある結衣先輩だけというのは正直複雑なところもあるのだけれど……。

 

「うん、比企谷君って本当、格好良いよね……」

 

 戸塚先輩にもそう言われ、私達は結局その後ずっとセンパイの事を話をしながら女子会のようにラケットを振っていたのだった。

 

 あれ? でも戸塚先輩って確か男の人……なんだよね?




というわけで戸塚依頼編終了ー。
今回の解決方法……いかがでしたでしょうか?
原作と比べるとかなりのスピード展開なので多少無茶な設定なところもあったのですが、どこか矛盾点とかあったらお知らせいただけると幸いです。
とりあえこれで原作一巻が終わり。
まだ一巻かぁ、長いなぁ。

でも二巻からも頑張るぞぃ!

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第85話 またしても何も知らない比企谷八幡さん(16)

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここすき、etc ありがとうございます。

三週間空いたけど、八幡誕生日に短編も投稿したので実質今月三回目の更新です(言い訳)


「プリントは全員回ったな? 希望を書いて忘れずに期限までに提出するように」

 

 その日、朝のホームルームが終わると、平塚先生は気怠げにそう言いながら教室を出ていった。

 配られたプリントには“職場見学希望調査票”の文字。

 GW明けの小テストも終わり、しばらくは穏やかな日常が送れると思っていたのに今度は職場見学か。学校というのは意外とイベントが多いものである。

 しかもこの職場見学、ご丁寧に“三人組を作れ”という制約付き。

 二人組ですら作るのが難しい俺に、三人組とは本当に恐れ入る。 

 俺に恨みでもあるのではないかと疑ってしまうほどだ。

 いや本当、俺にどうしろっていうんだ、畜生。

 

「比企谷君はどこ希望するの?」

 

 そうして渡されたプリント用紙を眺めていると、戸塚が俺の席までやってきてニコリと微笑みそう問いかけてきた。

 これは最近の変化の一つなのだが、どうもあのテニスの一件以来懐かれてしまったのか、ちょくちょくこうして俺のところへと足を運んでくるようになっていた。

 別にソレが嫌だという訳では無い。

 同じ話しかけてくるのでも葉山に比べれば全然マシだし、何より可愛い。

 そもそもの出会いがおかしかった一色を例外と考えるなら、由比ヶ浜に続いて二人目。いや、その由比ヶ浜も事故というイレギュラーが発生した結果なので、実質この学校で仲良くなった初めての女子と言っても過言ではないかもしれない。

 もし二人がいなかったら俺の心は確実に戸塚に奪われていたことだろう。

 戸塚、恐ろしい子。

 

「比企谷君? どうかしたの?」

「あ、ああ、いや、なんでもない」

 

 そんな事を考えながら戸塚に見惚れる俺を不審に思ったのか、戸塚はもう一度俺に声をかけ、不思議そうに首を傾げた。

 まずい、このままでは会話も出来ないコミュ障だと思われてしまうえっと……質問はなんだったか? 職場見学でどこを希望するか? だったか。

 俺は慌ててもう一度プリントに視線を落とす、そこに書かれているのは「希望する職業」「希望する職場」「その理由」という三つのアンケート。

 どうやら学校側の都合で見学場所が予め決まっている選択式ではなく、生徒の希望を聞いた上で相手側に確認を取って候補を上げてくれる方式らしい。こういったところはさすが進学校といったところだろうか?

 でもなぁ……俺の希望する職業って言うと専業主夫なわけで、特別見学したい職場というのは思い浮かばない。強いて言うなら自宅だろうか?

 とはいえ、もしそれをココに書けば平塚先生からまた呼び出しを食らってしまうのだろうという一抹の不安、もとい面倒臭さが頭をよぎる。

 

「まだ……考え中かな……」

「そっか。将来の職業とか考えるのって難しいよね」

 

 だから俺はそういって少しだけ言葉を濁したのだが、戸塚はそんな俺を“将来に悩んでいる若者”と認識したのか、フフッと笑い『僕と一緒だ』と小さく呟くのだった。

 え? 何この可愛い生き物。ボクっ娘っていうのも八幡的にポイント高い。

 戸塚マジ天使。

 

「……」

「……」

 

 しかし、そこでまた俺が戸塚に見とれてしまったのがイケなかったのか。会話が途切れてしまった。

 まずい、相槌の一つも打っておくんだった。これでは本当に俺が会話の出来ないコミュ障みたいだ。何か、何か話さなければ。

 焦り始めた俺だったが、そんな少し気まずい空気を察したのか戸塚が先に口を開く。

 

「……あ、あのさ……それじゃ誰と組むかとかはもう決まってる?」

 

 一瞬、質問の意図が分からずマヌケな顔を晒してしまう俺だったが、すぐに三人組の件を思い出した。

 この流れは……もしや?

 

「へ? い、いや、特に決まってないけど……」

「そ、そっか、それならさ……えっと、比企谷君と一緒に職場見学出来たら楽しそうだなって思ったんだけど……その……僕じゃ……ダメ、かな?」

 

 そんな風に縋るように俺を見つめる戸塚にダメなんて言える奴が居るだろうか? いやいない。

 俺は「ダメじゃないです!」と叫びそうになる自分を抑えながら、ありったけの理性を総動員して、冷静を装い高速で何度も首肯した。

 

「お、おお? 別に、いいけど?」

「本当? やった!」

 

 俺の返答の何がそんなに嬉しかったのかは分からないが、戸塚はそう言って満面の笑みを浮かべる。守りたい、この笑顔。

 その嬉しそうな顔に、俺も釣られて気持ち悪い笑みを溢してしまう程だ。

 あれ? もしかしてこれフラグ立ってる?

 このまま戸塚ルートに直行してしまうのだろうか?

 そういえば……なんだか最近女子と話す機会も増えてきている気がするし、これはもしかして伝説の“モテ期”とかいうやつなのでは……?

 一色や由比ヶ浜もワンチャンここから修羅場展開とかあり得るのか……? なーんてな。あいつらに限ってそんなはず無いか……。

 

「え? 比企谷、戸塚と組むのか?」

 

 そうして俺が中学以来の壮大な勘違いをしそうになった瞬間、“ありえないだろ”と冷水を浴びせるように葉山が俺たちの間に割って入ってきた。

 危ない危ない、危うくまたアチラ側に行ってしまうところだった。

 俺はもう二度と中学の頃のような過ちは繰り返さないと決めたのだ。

 

「何? ダメなの?」

 

 ギリギリで踏みとどまれた事に若干の感謝をしながら葉山にそう言うと、葉山はそれを理解してかしないでか、いつもの葉山スマイルを俺に投げかけて来る。

 

「いや、てっきり比企谷は俺たちと組むものだと思ってたからさ」

 

 なんで俺がお前と組まなきゃならないんだよ……。

 全くもって意味が分からないんだが?

 どういう思考したらそういうことになるの?

 もしかしてヤバイ奴なの?

 

「え……もしかして先約があったの? 僕別の人と組んだ方がいいかな……?」

「いや、別にそんな約束した覚えないから! 戸塚はそのままで!」

 

 不安げに、そして少し悲しそうに目を伏せた戸塚に俺は必死で弁解する。

 実際、葉山とそんな約束をした覚えどころか、そもそも職場見学に関する会話をした覚えもないのだから他に言いようがない。それこそ葉山の勘違いだろう。

 なんなら俺と戸塚の仲を引き裂こうという葉山の策略なのかもしれないとさえ思ってしまう。

 

「おい、お前もなんとか言えよ」

「ああ、うん。いや俺が勝手にそう思ってただけなんだ。比企谷が他に誰か組みそうな奴も思い浮かばなかったし。悪い、勘違いさせちゃったみたいだな」

「そっか、そういえば比企谷君と葉山君ってよく一緒にいるし、仲良しさんだもんね?」

 

 おい、他に思い浮かばなかったとはどういう意味だ。……まあ、その通りだけども。

 葉山を怒鳴りつけ、なんとか戸塚とのペア解散の危機は回避出来たようだが、まだ何か誤解をしてそうな戸塚の言い分に、俺は若干の不安を覚える。

 あれ? もしかして俺って傍から見ると葉山と仲良しな奴に見えてるのか?

 いや、まぁ確かに最近葉山と絡むことは多かったし、由比ヶ浜と話そうとすると大体傍に葉山達が居ることは多いが……。

 

「仲良しっていうと比企谷は嫌がりそうだけど、たまに一緒に遊びに行くぐらいだよ、な?」

「ま、まぁ……一度だけだけどな……」

 

 続く葉山の言葉にも俺が否定出来る要素が見当たらず、俺は思わず頷いてしまう。

 まずい、何か、何か否定しなければ! 視界の端で海老名さんがコチラを見て「はやはち!?」とか言って立ち上がっている。

 なんとか、なんとかしなくては薄い本にされてしまう!

 だが、そんな俺の願いも虚しく、次の瞬間何の悪気もなさそうな顔で戸塚がさも名案が浮かんだとばかりに口を開いた。

 

「えっと……じゃあ、葉山君も一緒に組まない? ちょうど三人だし」

 

 あろうことか、戸塚は職場見学の残りのメンバーに葉山を指名したのだ。

 確かに職場見学は三人で組を作るのは決まっているので、クラスの人数的に考えてもあと一人は必ず入れないといけない。

 つまりエア友達のともちゃんを頭数に入れることは不可能なのだが…… だからといって、その相手に葉山を選ぶのは如何なものだろう?

 

 何しろクラスの人気者葉山隼人君だ。

 自らのグループに引き入れて、友好関係を確立、クラス内ヒエラルキーの向上をと考えている輩もいることだろう。 

 実際、葉山に比較的近い位置にいる戸部、ヤマなんとか、大なんとか辺りはこうしている今も葉山の返答に聞き耳を立てているのが丸わかりである。

 葉山自身もまさか自分が気軽に誘われる側になるとは思っていなかったようで珍しく目を丸くして「俺が?」と驚愕の表情を浮かべていた。

 仕方ない……ここは俺が助けてやるか……。戸塚との一時を邪魔されるのも癪だしな……。

 

「いや、葉山なら他に……」

「そうだな、たまにはこういうメンバーも楽しいかもな」

 

 そう思い助け船を出してやろうとした瞬間、何故か葉山は楽しそうに笑うと戸塚の提案を受け入れたのだった。

 は? え? マジで?

 ふと周囲を見渡せば、クラスには俺と同じように驚きの表情を向けている男子が数人。

 どうやら思っている以上に葉山の倍率は高かったようだ。

 そんな葉山をまるで『帰りにコンビニ寄ってく?』みたいなノリで射止めた戸塚。マジパない。

 

「でも、本当に俺でいいのか?」

「うん。比企谷君が良ければ僕は大丈夫だよ」

 

 しかも戸塚はここにきて俺に決定権を投げて来た。

 正直何かの嫌がらせかとも思ってしまったが、そこに悪意や悪気といった感情は見受けられない。

 純粋無垢な戸塚スマイルを向けられ、俺の中の悪魔が浄化されていく。

 ここで断ったら完全に俺が悪者になるのだろう。

 はぁ……。

 

「……好きにすれば」

 

 仕方なく、俺はそう一言言って机に突っ伏した。

 俺と戸塚と葉山とか、一体どんなカオスパーティーだよ……。

 当日が不安でしか無い。

 

「じゃあ改めてよろしくな二人共」

「うん、よろしくね」

 

 頭の上で二人が握手を交わしているのを感じながら、俺はアンケート用紙になんと書けば専業主夫の職業見学として自宅での課外授業が認められるようになるか理由を考え始めていたのだった。

 

 あ、でもそれだと葉山も家にくる事になるのか……それは嫌だな……。

 

***

 

「セーンパイ♪ お昼一緒に食べましょ?」

 

 昼休みになると、廊下からそんな一色の声が聞こえて来た。

 これもまた最近になって起こった変化の一つだ。

 これまではベストプレイスに現地集合だったのだが、いつの間にか一色が俺のクラスに迎えに来るようになってしまった。理由は……良く分からん。

 雨の日ならともかく一色がニ年の教室に来てからまた別の場所──ベストプレイスに移動するのは遠回りでしかないのだが、なんとなく別の目的があるのだろうなという気はしているので、最近は俺も一色の迎えが来るのを待つようになってしまっていた。

 慣れというのは恐ろしいものである。

 

「やあ一色さん、今日も元気だね」

「あ、葉山先輩。お疲れ様でーす」

 

 一色は慣れた様子で葉山に軽く挨拶を交わすと俺に手を振ってくる。

 

「センパイ、今日はどこで食べます?」

「あー……今日は天気もいいし、購買行ってからいつもの所かな……」

「はーい♪ じゃ、行きましょ」

 

 だから今日もいつものように一色に返事をしながら財布を持って席を立ち、一色の元へと歩いていった。

 クラスの連中も「またあの一年か」という程度のリアクションで最早誰もこの状況を気にも止めていない。

 それは言ってしまえば日常の一つで、きっとこの後も代わり映えのないいつも通りの昼食風景が繰り広げられるのだろう。そう思いながら廊下へと向かったのだが、その日は少しだけいつもと違う事が起こった。

 

「あんたさ、一応ここ上級生の教室なんだからあんま気軽に来るの辞めときな?」

 

 三浦が自分の席で片手に鏡を持ち、眉毛を弄りながら、そんな注意の言葉を投げかけてきたのだ。

 突然のことに、騒がしかった教室がシンと静まり返る。

 勿論、言われた当の本人であろう一色の歩みも止まり、俺の背中にも冷たいものが走った。

 どうやら、一色が教室に来ることを女王様はお気に召していなかった模様。

 もしかしたら、先日のテニスの件で目をつけられていたのかもしれない。

 そういえば、アレから三浦とは禄に会話してなかったんだよな。

 いや、元々率先して会話するような仲でもないのだが……。

 なんにしても面倒なことになりそうだ……。

 だってほら、一色さんが笑顔のままクルッて振り返って思いっきり臨戦態勢になってますしおすし。

 

「別にぃ、三浦先輩には関係なくないですかぁ? 私、センパイに用があるだけなので」

「はぁ? あーしらの教室なんだから関係あるに決まってんじゃん。ちょっとは先輩に対する敬意とか遠慮とか無いわけ?」

「なんですか? この間テニス混ぜて貰えなかったからって嫌がらせですか?」

「その事は今関係ないし!」

 

 こうして一色いろはvs三浦優美子vsダークライの開幕のゴングが鳴らされた。

 いや、鳴らされても困るんだけどなぁ……。

 ギャーギャーと喚き散らす一色と三浦に周囲もドン引きだ。俺もドン引きだ。

 さて、どうしよう。

 もしこれが俺への報復で、俺個人への攻撃であるなら「さーせん……」と言って泣きながら逃げてもいいのだが、今やり玉に挙げられているのは一色なので、ここで俺だけ逃げるわけにもいかない。

 となると……俺が間に入るしかないのか……。はぁ……。

 

「おい、そのへんで……」

「ぁ?」

 

 意を決して二人の間に割って入るために一歩踏み出した瞬間、三浦に物凄い形相で睨まれ俺は踏み出した足をそのまま元の場所へと戻していく。

 情けないと笑わば笑え、だってめっちゃ怖いんだもん。仕方ないじゃない。

 だが、三浦はそんな俺を許してはくれなかった。

 

「あんさぁ、元はと言えばアンタがしっかりしないから悪いんでしょ? 後輩の教育ぐらいちゃんとしな!」

「センパイは関係ないじゃないですか!」

 

 ヘイトが俺に向いたことで、今度は一色が俺を守るように口論を始めてしまう。情けない構図だというのは分かるが、こうなってしまうともう俺の入る余地がない、本当誰か助けて欲しかった。

 もういっそ俺の土下座でなんとかしてもらう訳には行きませんかね?

 

「ま、まぁまぁ優美子。いろはちゃんも落ち着いて、ね?」

 

 そんな泣きそうな俺を察したのか、それとも情けなくて見ていられなかったのか由比ヶ浜が仲裁に入ってくれた。さすがは俺の友達である。

 由比ヶ浜が間に入ったことで三浦も「ったく……」と渋々といった様子を隠そうともせず矛を収めてくれた。

 良かった、もう少しで泣くところだった。

 おっと、目から汗が……。

 

「センパイ行きましょ!!」

「お、おう……」

 

 そうして、俺は一色に手を引かれ、少しだけ足元をもつれさせながら教室を後にした。

 

*

 

「あーもう本当最悪です! なんなんですかあの人!」

 

 購買でパンを買い、ベストプレイスに移動してからも怒りは治まらないらしく、一色はぷりぷりと頬を膨らませながら愚痴を零していた。怖い。

 

「いや……まあ、でも三浦の言ってることも一理あるだろ……」

 

 三浦が言っていたのは、上級生の教室に下級生がみだりに来るなという注意なので、割りと真っ当な意見のようにも思える。

 少なくとも俺は他学年や他クラスに顔を出さなければならないという状況に陥った経験がない。

 忘れ物をして小町が持ってきてくれた時でさえ、俺が兄だとバレないように闇取引のような方法を取っていたしな。

 一色が顔をだすようになって、まだひと月も経っていないとはいえ、ほぼ毎日顔を出してくるという状況は異常といえば異常なのかもしれない。

 どれほどの生徒が把握しているかは分からないが、校則に『他クラスへの入室禁止』が書かれている学校もあるしな。

 俺自身一色があまりにも自然に入ってくるから麻痺していた部分もあったのだろう。

 

「なんですか、センパイも三浦先輩の味方なんですか!?」

「いや、そういうわけじゃないんだが……」

 

 その一方で、そんなに目くじらを立てる問題でもないのではないか? と思う自分も居る。

 仮に今回出入りしていたのが一色以外の人物だったら? と考えると俺としてはどうでも良いとしか思えないからだ。

 そもそも誰が教室に入ってきてるかとか一々見てないからな……。クラスメイトの顔だってまだ半分以上うろ覚えなので極論制服さえ着ていれば外部の人間が入ってきたとしても気が付かないまである。

 

 だから、というわけではないが今回の三浦の行動には少しだけ違和感を覚えた。

 こう言っては何だがテニスの一件から考えても、三浦が校則をきっちり守るタイプだとは思えないからだ。

 なんなら三浦本人も他クラスにガンガン入っていきそうなイメージがある。そんな三浦がこのタイミングで一色を注意したのにはどんな意図があったのだろうか?

 今回たまたま三浦に目をつけられてしまっただけという可能性もあるが……今後三浦のことは警戒しておいた方が良いのかもしれない。

 

「大体、迎えに行かないと結衣先輩とか戸塚先輩とかに誘われてどっか行っちゃうセンパイがいけないんじゃないですか!」

「それは……別にいいだろ……」

「よくないです!」

 

 そうして俺が三浦への対策を練っていると、何故かヘイトがこちらに飛んできていた。

 え? なんで? ついさっきまで三浦を責めていたはずでは?

 しかし、そんな疑問に答えてくれるはずもなく一色はフーフーと鼻息荒く、俺を睨みながらガチャガチャと乱暴に弁当箱を開けている。

 もしかしたらもう自分が何に怒っているのかさえ分からなくなっているのかもしれない……。

 

「最近戸塚先輩と仲良すぎなんですよ! 私最近センパイとマトモにおしゃべりできるのお昼休みぐらいしかないんですよ?」

「そ、そうか……? そんなコトないだろ? むしろ、お前の方が戸塚の練習に付き合ってたりするじゃん」

 

 俺は出来るだけ一色を刺激しないようにそう言うと数メートル先にあるテニスコートへと視線を移した、そこでは今日も戸塚が一人で昼練を行っている。

 今日はまだ誰も合流していないようだが、先日の一件以来、奉仕部のメンバーの誰かしらが時間があう日は練習に付き合っているようで、何人かで練習している光景をここからよく見かけるようになったのだ。

 だから、仲が良くなったというなら、俺よりも一色達の方がよほど仲が良いように思えるのだが……。

 

「ホラ、またそうやって見惚れちゃって! いやらしい!」

「いやらしいってお前な……」

 

 そうして戸塚の方を見ていたのが気に入らなかったのか、一色はまたしても俺に怒号を投げかけてくる。

 いや、もう本当に意味がわからない。

 情緒どうなってるのこの子? もしかして今日って女の子特有のイライラする日だったりするのかしら……?

 なんなら一色だけじゃなく三浦も含め、今日は女子が全体的に機嫌が悪くなる日なのかもしれない。

 とはいえ、そんな事を本人達に直接聞けるわけもないので、俺は一色への対応を半ば諦めながら買ってきたパンを頬張っていく。

 

「あのですねセンパイ? 一応言っておきますけど戸塚先輩は男の人ですからね? 変な気を起こさないでくださいよ?」

「は……? 何言ってるのお前?」

 

 だが、そこで一色はとんでもない爆弾を俺に放り投げ突きつけてきた。

 一体こいつは何を言っているのだろう?

 え? 何? 戸塚が男?

 どういうタイプの冗談?

 いや、冗談にしても質が悪い冗談だ。

 現実にあんな可愛い男の娘がいるわけないだろう。

 少なくとも俺はラノベやアニメの中でしか出会ったことがない。言ってしまえば都市伝説だ。

 もしかして、材木座辺りに何か変な入れ知恵をされたのだろうか?

 後でクレームを入れておかねば。

 

「はぁ……やっぱり勘違いしてる……。いいですか? 戸塚先輩は男の人です。お・と・こ・の・こ」

 

 しかし、一色はもう一度念を押すように俺にそう言ってきた。

 当然、そんな言葉を鵜呑みにするほど俺も馬鹿ではない。

 戸塚と仲良くなったことで俺にドッキリでも仕掛けようと思っているのかもしれないが、限度というものはあるだろう。

 その辺りちゃんと分からせておかなければ。

 

「……あのな? いくらお前でも言って良い冗談と悪い冗談があるんだぞ……一体なんの恨みがあって戸塚が男だなんて……」

「冗談なんかじゃありませんよ、なんなら本人にちゃんと確認して下さい!」

 

 だから俺は小さい頃小町にしたように、出来るだけ優しい口調で諭すように一色に注意をしようとしたのだが、それが返って一色の神経を逆撫でしてしまったのか、一色はフンガーと再び息を荒くして俺に怒声を浴びせてくる。

 もう嫌だこの子……。

 

「確認って……いや、言えるわけ無いだろ……」

 

 聞けって……『貴方は男ですか?』とでも聞けというのだろうか?

 確かに戸塚は中性的とも言える顔立ちをしているが、そんな分の悪い賭けをする気は俺には毛頭ない。

 だって考えてみて欲しい。

 もし俺が戸塚にそんな事を聞いて、目に涙を溜めながら『はは……やっぱり僕って男の子にみえるのかな……?』なんて言われたら俺はどうしたらいいの? 切腹?

  

「あのな、一色。確かに戸塚は可愛い。だけどな……」

 

 そこまでして俺を騙す意図が分からなかったが、それでもここは年上として引いてはいけないと思ったので、出来るだけ丁寧に俺の正直な気持ちを一色に説明し、その行動を反省させようと口を開いた。

 だが、それがイケなかったらしい。

 

「カワイイ……?」

 

 突然一色が俺の言葉を繰り返したかと思うと、身体中からコレまでにないほどの怒りを顕にし始め、俺も思わずたじろいでしまった。

 なんだか今にも一色いろは第二形態とかに進化しそうだ

 

「か、可愛いだろ……? あんな可愛い娘が男の娘なわけがない」

 

 咄嗟にラノベタイトルみたいな言い回しをしてしまった俺だったが、その言葉に嘘偽りはなかった。

 いや、可愛いってレベルじゃないよな、うん。TMT。戸塚たんマヂ天使。

 それは一色にも伝わると思ったのだが……。

 

「セーンーパーイの──」

 

 一色はそんな俺の思いとは裏腹にスクッと立ち上がりスゥーっと大きく息を吸い込んだかと思うと次の瞬間。

 

「バカーーーーーー!!!!」

 

 と、練習中の戸塚が振り向くほどの大声で叫び、食いかけの弁当箱を持ったまま何処かへと走り去っていってしまったのだった。

 え……? 何? 俺が悪いの?

 

「なんだアイツ……?」

 

 あーもう……本当、女子分からん。

 

*

 

 その後、ベストプレイスに一人残された俺はそのまま一人寂しく飯を食い終わり、教室へと戻って行った。

 本当にさっきのアレは一体なんだったんだろう?

 三浦の件があったとは言え、その怒りが戸塚にまで飛び火するとは思わなかった、情緒不安定にもほどがあるだろ。

 本当意味分からん。

 はぁ……。なんだかどっと疲れてしまった、もう今日はこのまま帰ってしまいたい気分だ……。

 

「あ、やっと来た。ヒキオ、ちょっと」

 

 そんな事を考えながら、ようやく教室の前まで辿り着くと、廊下で由比ヶ浜たちと話している三浦が、そう言って腕を組んだまま俺を睨みつけてきた。

 一応言っておくと俺の名前は比企谷八幡であって、ヒキオではない。

 つまり目が合ったとはいえ、呼ばれたのは俺ではないという可能性が微粒子レベルで存在するのだが……。その横を通り過ぎ、教室に入ろうとした瞬間、三浦に肩を掴まれてしまった。

 ──ですよねー……。

 

「な、なんすか……?」

 

 恐る恐る振り返りながら俺がそう問いかけると、三浦は「ん」と顎で廊下の先を指し示すだけでソレ以上何も言っては来ない。

 どうやら、付いてこいと言うことらしい。

 どうしよう。さっきの件まだ根に持ってるのだろうか?

 ……もしかして今日は厄日だったりする?

 

「ヒッキー、行こ」

 

 しかし、そうして俺が戸惑っていると、由比ヶ浜が少し低い声でそう言いながら俺の背中を押してきた。

 どうやら、今度の由比ヶ浜は三浦側らしい。

 その後ろには、葉山と海老名さんの姿も控えている。どうやら逃げることは許されなさそうだ。

 俺は全員の顔を一通り見た後、はぁとため息を吐き、仕方なく三浦達の後を付いていくことにした。

 

 誰一人言葉を発しないまま、三浦の後ろを歩くコト数分、連れてこられたのは特別棟の屋上。

 そこには俺たち以外に人の気配はなく、強い海風が皆の髪をバサバサと暴れさせていく。

 

「んで、何?」

 

 一色の件もあり、俺自身若干虫の居所が悪かったのでぶっきらぼうにそう言うと、三浦達は一度目配せをした後、三浦が「これ」と言ってスマホの画面を見せて来た。

 と言っても、光に反射されて俺のいる角度からはその内容は殆ど見えない。

 辛うじてヘッダー部分の『2-F』という文字とLIKEっぽい配色が見えたので、恐らくはクラスのグループLIKEの画面なのだろう。

 

 一体どういうコトなのかと由比ヶ浜に助けを求めるべく視線を送るが、由比ヶ浜はコクリと一度頷くだけで何も言おうとはしてこない。

 仕方がないので俺は少しだけ腰をかがめ三浦の手元のスマホの画面が見やすいように位置を調整して、その画面のメッセージを読むことにした。

 俺が入っていないグループの会話を見ても良いものなのか? とも思うのだが、見ろといわれたのでは仕方がない。

 んー? なになに?

 

【一年の一色いろはは淫売ビッチ。休み時間になると男を漁り、金さえ払えば誰とでも寝る売女】

 

 ……は?




というわけで原作二巻編スタート!

今回が何のエピソードなのか原作ファンの方には既にお分かり頂けているではないかなと思っていますが、如何でしょうか?
ぶつ切りのため、若干この後の展開も読めてしまうのではないかとも思いますが、まあその辺りはご愛嬌ということで一つw

あー、ここからちゃんと書けるのか心配だぁ……
でも、ガンバルぞい!

感想・お気に入り・評価・誤字報告・メッセージ・ここすきetc
何かしらリアクション頂けますと作者が小躍りしながら喜びます。よろしくお願いいたします。


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第86話 とても信じがたい衝撃の事実

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここすき、etc ありがとうございます。

色々あって変なタイミングでの更新となりましたが
今回ちょっと短めです
代わりに次話ちょっと長くなるかも? いや、次々話かな……?


【一年の一色いろはは淫売ビッチ。休み時間になると男を漁り、金さえ払えば誰とでも寝る売女】

 

 最初そこに表示されている言葉の意味が分からなかった。

 いや、意味はわかるのだが、脳に上手く入ってこなかったというほうが状況としてはしっくりくるかもしれない。

 まるで自分が文字を習い始めたばかりの幼児にでもなったかのような、あるいは年を取り何も分からなくなってしまった爺さんにでもなったかのような感覚。

 正味、一分ぐらいは首を傾げていたのではないかと思う。

 少なくとも、なにかの暗号だろうか? と考える程度には俺の頭はバグっていた。

 だってそうだろう? 俺の──便宜上こう呼ぶが──許嫁たる一色いろはは“ゆるふわ”ビッチ系ではあるが断じて“淫乱”ビッチ系ではない。

 むしろ世間的な常識に照らし合わせるのであればピンク髪で男受けしそうな由比ヶ浜の方がその称号には相応しいはずだ。たわわ的な意味でも。

 だが、何度目を凝らしてもそこに書かれているのは一色いろはという見知った五文字。

 ここから導きだされる答えはひとつ、どうやらこの学校にはもう一人一色いろはが存在するらしい……。

 って、そんなわけあるか、一体どんな確率だ。

 そもそも、もし本当にそんな奴がいたとして三浦達がこうして雁首揃えてワザワザ俺に知らせるメリットがないだろう。

 つまり、この文中の一色いろはが指しているのは俺のよく知っている一色いろはであっているということ。

 そのことをようやく理解すると、俺の中にフツフツとまるでマグマのような何かが胃のソコから湧き上がってくるのが分かった。

 

「お前がコレを?」

 

 俺が低い声でそう発した瞬間、視界の端で由比ヶ浜の体がビクリと震える。

 こんな感情になったのは一体イツぶりだろうか?

 自分のコトではないはずなのに酷くイライラする。普段の俺ならこんなイタズラ、気にも止めないはずなのに何故こんなにも苛立っているのだろう?

 その理由もわからないまま、俺は目の前で相変わらずスマホを突きつけてくる三浦の顔を睨みつけた。  

 

「あ? 何その目?」

 

 三浦はそんな俺渾身の睨みなど意にも介さないという態度で冷たい視線を俺に突きつけてくる。俺たちの間にバチバチと大きな火花が散った。

 大丈夫、真の男女平等主義者とは女の顔もグーで殴れる男だとクズ○さんも言っていただろう。負けるな八幡、ここで引くわけにはいかないのだ。

 いや、まぁ流石に殴ろうとまで思っているわけではないが……。

 

「ち、違うよヒッキー! 優美子はそのメッセージ送った子にちゃんと注意してくれたの。そういう根も葉もない噂を流すのは良くないって、ほら!」

 

 一触即発な雰囲気の俺たちの間に入ったのは由比ヶ浜だ。

 由比ヶ浜は慌てた様子で俺に自分のスマホを見せながら、画面をスクロールしていく。そこには、そのメッセージが書き込まれた前後のやり取りが残されていた。

 

 ふむ……なるほど。

 全ては『最近教室に来る一年は何者か?』という素朴な疑問から始まったらしい。

 その後、陽キャ特有の外見弄りがあり、問題の発言へと繋がっていき、三浦がその発言を注意したという流れのようだな。確かに三浦が噂を先導したというわけではないようだ。

 完全に俺の早とちり。

 というか、そもそもLIKE上では自分の発言は右側に表示されるので、三浦のスマホを見た段階で三浦が発言者ではないことは一目瞭然だったな。危ない危ない。変なこと言わなくてよかった……。

 まあでもお陰で少し頭が冷えた。

 

「そっか、悪い……アイツのために損な役回りさせたみたいだな……」

「……別に。あーしがそういう噂とか嫌いなだけだし」

 

 俺が謝罪の意を述べると、三浦はツンデレみたいなセリフを吐いて俺に背を向ける。

 そうか、もしかしたら、いや恐らくさっきの一色vs三浦vsダークライも、一色がこれ以上噂の信憑性を上げるような行動を取らないように、という三浦なりの気遣いだったのだろう。三浦に対する認識を少し改めたほうが良いのかもしれない。

 一色にも後でちゃんと謝らせたほうがいいかもな。

 

「その様子じゃ、やっぱり知らなかったみたいだな」

 

 その葉山の発言に俺を責める意図はなかったのだろうが、俺には自分が責められているようにしか聞こえず、先程湧き出てきたマグマのような感情の代わりに今度は何も知らなかったという重し飲まされた気分になった。

 すみませんでしたね。何も知らなくて……。

 

「まあ、私たちも知ったのつい昨日だけどね」

「昨日ってことは、その話題に出た時が初めてってことか?」

「うん。少なくとも私たちが知ったのはそこが初めて」

 

 葉山や由比ヶ浜といったクラス内ヒエラルキーのトップの連中でさえ知ったばかりの情報ということは、その妙な噂が流されてからまだそう日が経っていないということなのだろう。考えようによってはそれはまだ救いではあるのかもしれない。

 しかし、何故このタイミングで、しかもターゲットが一色なのだろうか? ソコがわからなかった。

 

「とりあえず、その噂の発言者が誰か教えてもらえる?」

「あ、うん。えっとね──」

「ちょっと待った」

 

 だから、俺はとりあえずその噂をグループLIKEに流した人物を調べようと由比ヶ浜に問いかけたのだが、それを制した奴が居た。

 葉山だ。

 

「何?」

「いや、その……比企谷、もしかして犯人探しをしようとか考えてないか?」

「そりゃ、一応な?」

 

 LIKEなので当然発言者は特定出来るはず。

 仮に噂の出処がそいつでなくとも、そこから芋づる式に追う方法は取れるだろう。

 何故一色がターゲットにされたのか、何か恨みでも有るのか。もし悪意があるとしたら、どこまでやるタイプの人間なのか。ソレを調べることは今後何か対策を取るにしても無駄にはならないはずだ……が。どうやら、葉山は俺とは違う考えらしい。 

 

「そういうの、やめないか?」

 

 葉山は真剣な表情で、それでいて少しだけ困ったように笑いながら、そう言うとソレ以上俺にスマホの中身を確認させないためか、由比ヶ浜の前に立ちふさがった。

 その葉山の行動の意図が分からず、俺は再び苛立ちながら葉山を睨みつける。

 

「……このまま放っておけっての?」

「いや、そうは言ってない。ただ……グループLIKEに書き込んだ子は軽率だったって反省してるし、その話自体も一年生が話しているのを聞いただけらしいんだ。だからこれ以上責めないでやってほしい」

 

 こいつは何を言っているのだろう? 

 それでは噂については野放ししろというのか?

 これから先も一色がこんなデタラメな噂を流されながらこの学校で生活していくのを許容しろというのだろうか?

 そんな事、当然許容できない。出来るわけがない。

 だから俺は衝動的に葉山の胸ぐらをツカんでやろうと腕を上げる。

 

「穏便にさ、上手く噂だけなくす方法ってないかな?」

 

 だが、葉山が続けてあまりにも都合のよい提案をしてきたので、俺は間抜けなポーズのまま固まり、言葉を失ってしまった。

 ふと視線を動かせば、由比ヶ浜もどうしたら良いかわからないと言いたげに苦笑いを浮かべ。三浦は相変わらずフェンスの向こう側を見ている。

 二人が葉山の案に賛成なのか、反対なのかはわからない。

 

 正直言うと、俺も少しだけ迷ってしまった。

 というのも、これが俺達のクラス内の問題というのであれば犯人探しは有効だと思っていたのだが。

 葉山の言い分を聞く──信じるのであれば恐らく、既にグループLIKEの発言者に対してはある程度の事情聴取を行った後ということなのだろう。

 ここにきて、噂の出処が一年だという新情報がでてきてしまった。

 つまり、この噂が一色の耳に届いているのか、まだ届いていないのか? という疑問が生じてしまったのだ。

 

 俺たちが下手に犯人に手を出して一色の立場を更に悪くするという可能性も考えられる。

 それなら、葉山のいう用に噂だけを打ち消すという手段は決して悪い案ではない。 

 

「噂だけなくすったってな……」

 

 とはいえ、そんな魔法のような方法があるのだろうか?

 【休み時間になると男を漁る】という部分については恐らく一色がうちのクラスに顔を出しはじめた事と関係しているのだろうから、教室に来るのを辞めさせれば或いはある程度収まるかもしれない。

 でも、正直噂を流した奴の目的がわからないんだよな。

 単純に一色個人に対する嫌がらせなのか。それとも何か別の目的があるのか……。

 

「まあまあ、犯人探しをするかどうかは一旦置いておいてさ。そもそも一色さんは噂について何か言ってなかったの?」

 

 そうして俺が頭を悩ませていると、それまで黙っていた海老名が俺と同じ疑問にたどり着いたのか、そう問いかけてきた。

 

「何かって? 例えば?」

「そういう噂が流されて落ち込んでるとか、最近困ってることがあるとか相談されなかったのかなって思って」

「特に相談は受けてないな……」

 

 当然そんな相談など受けては居ない。

 いや、まぁ一色にとって俺は相談に値する人間ではないという可能性は大いにあるので何とも言えないが……。

 

「それならいつもと様子が変だったとかはなかった? 比企谷君みたいに噂自体に気付いていないっていうなら、それが一番だと思うけど」

「様子……」

 

 少しだけ落ち込みつつも、俺は改めてここしばらくの一色の様子を思い出す。

 夜、寝る前に声が聞きたいと電話をかけて来る一色『……センパイ』

 朝、登校してきた俺を見つけてかけよってくる一色『センパイ!』

 昼、ベストプレイスで俺を待つ一色『センパーイ』

 放課後、一緒に帰ろうと俺を追いかけてくる一色『セーンパイ♪』

 

 ふむ……やはり特に変わった所は無かったように思う。

 少なくとも、去年の──受験で追い詰められた時のような状態ではないはずだ。

 やはり一色が噂に気がついていない可能性もあるんじゃないだろうか?

 あいつ友達いなさそうだしな……。

 ……いや、待てよ……?

 

「……いや、変だったと言われればちょっと変だったな」

 

 そこで俺は一つだけ、今日の一色の行動で妙な所がある事に気がついた。

 いや、でもアレは噂を流されていることと関係あるのか?

 関係がないようにも思うが……普段とは違うちょっとした変化がSOSのサインだったりしないだろうか……?

 事件解決に繋がるのはいつだって『あれれーおかしいぞぉ?』という小学生の閃きだ。

 もしかしたら……?

 

「変ってどういうふうに?」

「いろはちゃん、何か言ってたの?」

 

 そうして俺が考えていると、海老名と由比ヶ浜が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる、よく見ると三浦もフェンスに背を預けながらコチラの様子を伺っている。

 俺が思っている以上に一色の身を案じてくれているのかもしれない。

 やはり、認識を改める必要がありそうだ。

 

「いや、なんかな……」

 

 眼の前の二人がゴクリと息を呑むのを感じながら、俺はその場にいる全員に一色について気が付いた今日の変化を話す。

 何か、俺では気が付かないようなヒントに気がついてくれる事を祈って。

 

「なんか、やたら戸塚に突っかかってくるんだよ。今日なんかも『戸塚先輩は男だ』とかなんとか言い始めて、飯食い終わる前に飛び出して行ったんだ」

 

 まさか戸塚と今回の噂が関係してるのか?

 噂を流した犯人が戸塚で、その報復にそんな嘘を?

 いや、さすがに……そんな訳ないよなぁ。

 そもそも戸塚は一年じゃないし、天使だし……。

 

 そうして俺は、由比ヶ浜たちが女子ならではの視点で、俺では気付けなかった何かに気づいたかもしれないという希望を込めて由比ヶ浜たちへと視線を向ける。

 だが、目の前にいた由比ヶ浜は、いや、その場にいる俺以外の全員はこれでもかと言うほどに大きなため息を吐いて、やれやれと言わんばかりに大きく首を振るだけだった。

 え?

 

「変だったって……それ?」

「お、おう……おかしいだろ? なんかこう、上手くいえないんだが変に焦ってる感じもしたし……」

 

 上手く情報が伝えきれなかっただろうかと、身振り手振りで一色の変な行動を説明するが、由比ヶ浜達は『この馬鹿どうする?』とでも言いたげに視線を交わし、呆れたようにため息を吐くばかり。

 え? 何? 俺、なんか変なこといった?

 いや、実際変だったし、他に説明のしようがないんだがな……。

 少なくとも一色と戸塚の仲が悪いと思ったことなんてなかったし、例えば戸塚と喧嘩したとか、そんな何かのSOSという可能性は充分考えられるんだが……。

 

「ヒッキー……さいちゃん男の子だよ?」

「戸塚は男だぞ?」

 

 そんな事を考えていると、由比ヶ浜と葉山が同時にそんな言葉を発する。

 俺はまたしてもその言葉の意味を理解することができなかった。

 

「へ?」

 

 本日二度目のフリーズ。

 さっきまでの話も全部嘘で、俺はもしかしたら今日、こいつらに誂われるために呼び出されたのではないかとさえ感じたほどだ。

 だが、俺がぽかんと口を開けていると、苦笑いを浮かべていた葉山が真剣な表情で俺を見つめて、追い打ちをかけてくる。

 

「まさか、比企谷……戸塚が女だと思っていたのか?」

 

 その余りにも真剣で冗談とは思えないトーンに、俺も思わず取り乱す。

 脳裏に今日までの戸塚の姿がフラッシュバックした気がした。

 

「え? 嘘だろ、だって……え? 戸塚が男?」

「男の子だよ! 体育で一緒だったでしょ?」

「ああ、この間のテニスも比企谷のすぐ横で見てたぞ? それに職場見学の班だって男女別で三人のグループを組めって言われて組んだんだろ? 俺と比企谷と戸塚。三人」

 

 なん……だと……。まじ……かよ……。うそ……だろ……?

 戸塚が男だという衝撃の事実に俺の頭がパニックを引き起こす。

 え? 本当に……? 戸塚が男?

 

「マジ?」

 

 俺がしつこくそう問いかけると、俺以外のメンバー全員がコクリと首を縦に振った。

 どうやら本当に本当らしいです。

 ええ、本当に。

 

***

 

 戸塚が男だったという衝撃の事実はとりあえず置いておくとして。

 噂については今すぐ出来る対策も思いつかなかったので、その場は一旦お開きとなり午後の授業が始まった。

 

 とはいえ、内容はあまり頭に入ってこない。

 こうして板書を写している最中でも一色の噂のことで頭は一杯だ。

 恐らく、噂のきっかけは一色がウチのクラスに顔を出すようになったこと。これは間違いないだろう、タイミング的にもドンピシャだ。

 もしかしたら他のクラスにも顔を出しているのか? とも一瞬思ったのだが、よく考えたらアイツ、入学式から今日までほぼ昼休みは俺のトコロ来てるんだよな……本当、友達いないのかしら……。

 

 とはいえ、そうなるとやはり原因がわからない。

 一色がウチのクラスで何か問題を起こしたというのなら何か分かりそうなものだが一色は特に何か問題を起こしたわけでも──いや、起こしてるか……? アイツ割りと目立つし、初めて教室来た時も、今日もそれなりに騒ぎを起こしてたな。

 つまり、目立った事で犯人に目をつけられた?

 二年の教室で騒ぎを起こした一年がいるというところから派生した噂なのだろうか?

 かなり理不尽ではあるが、世の中とは得てして理不尽なものだ。

 考えられない話ではない。 

 そうなると、三浦の言っていた通りあまりウチのクラスに顔を出さないというのが一番手っ取り早くはあるのかもしれない。

 そう考えた俺は授業が終わったのと同時に、スマホを取り出し一色へメッセージを送る。

 

【しばらくウチの教室には来るな】

 

 送った瞬間既読が付いた。

 返事はこないが……まあとりあえずこれで『他クラスで男漁り』なんていう不名誉な噂の信憑性は下げられるだろう。

 その間に何か対策を取るなり、犯人を突き止めれば良い。

 とはいえ、何をすればいいんだろうな……。

 

「比企谷君、お疲れ様」

「お、おお、戸塚かお疲れ」

 

 そうしてスマホをポケットにしまい、噂の対処法について考えているとテニスラケットを抱えた戸塚にポンと肩を叩かれた。

 戸塚は相変わらずのジャージ姿で一目では性別が判別しにくい。

 本当に男……なのだろうか?

 

「ひ、比企谷君? どうかした? 僕の顔、何かついてる?」

 

 思わず至近距離でその顔をマジマジと覗き込んでしまう俺。

 って、いかんいかん。これじゃあまるっきり変質者だ。

 

「い、いや、なんでもない」

 

 俺は慌てて戸塚から距離を取って謝罪する。

 まずい、引かれたか?

 中学の頃だったら確実に明日の朝良くない噂を流されているところだ。

 だが、そんな俺の心配をよそに戸塚は「変な比企谷君」と小さく笑うばかり。そこに嫌悪や忌避の感情は見受けられない。

 やはり、戸塚は天使なのかもしれない。守りたい、この笑顔。

 

「あ、そろそろ部活行かなきゃ。それじゃまた明日ね」

「お、おう、また明日、な」

 

 やがて、戸塚はそういうとハニカミながら胸の前にテニスラケットを抱え小さく手を振った後タタっと廊下へと消えていった。

 俺は軽く手を上げることでその背を見送っていく。

 えええ……何今の動き、かわいすぎない?

 もし俺じゃなかったら確実に勘違いしてるところだぞ。

 あれで男とか……いや、もう、むしろ男でもいいんじゃない?

 って、何考えてるんだ俺……。自重しろ。

 

 とはいえ……一色が言っていた事──戸塚が男だということが正しかったとすると、一色の行動にはなんらおかしなトコロは無かったということにもなる。

 となると……一体誰から恨み買ったんだアイツは……。

 

 思い当たる節もないまま俺も戸塚に続き、教室を出ようと廊下へと向かう。

 すると廊下の遥か向こう側からドドドドドっとまるで猪が突撃してくるような音が聞こえてきた。

 物凄く嫌な予感がする。

 

「はぁはぁ……どういう……ことですか?」

 

 嫌な予感は的中。

 猪の正体は一色だった。

 授業が終わってすぐに走ってきたのか、はぁはぁと息を切らせながら俺を睨みつけてくる。

 

「ど、どういうって?」

 

 俺の問いに、一色は答えずただ無言でスマホを突きつけて来た。

 今日はよくスマホを突きつけられる日だ。

 印籠か何かなのだろうか?

 

「コレです! センパイまた三浦先輩に何か言われたんですか!」

「何って……」

 

 一色が見せてきたスマホの画面に映っているのは俺と一色のLIKEのメッセージ履歴。

 そこにはつい今しがた俺が送ったメッセージが表示されていた。

 だが、俺がその一色の問いに答えるより早く、後方から怒声が響く。

 

「は? なんであーしのせいにされてるわけ?」

 

 タイミング悪く、ちょうど三浦も教室を出るトコロだったようで鉢合わせてしまったようだ。

 一色の言葉の意味を理解した三浦は即座に臨戦態勢に入り、一色との距離を一気に詰めていく。一色いろはvs三浦優美子vsダークライの再演である。

 

「こんな口出しするの、三浦先輩ぐらいしかいないじゃないですか!」

「はぁ? こっちはアンタの為にいってやってんでしょ!?」

 

 まずいな、さすがにこれだけ騒ぐと注目を集めてしまう。 

 これ以上騒ぎを起こすと例の噂が更に広まってしまう可能性さえありそうだ。

 それだけは避けなければ。

 

「ま、まぁまぁ。二人共落ち着いて」

 

 そうして俺がなんとか二人を止めようと考えていると、由比ヶ浜が二人の間に割って入った。助かった。

 正直二人の間に割って入る勇気はなかった。

 由比ヶ浜結衣は勇者である。

 今この瞬間、新たなゆゆゆが開幕したのかもしれない。

 

「いろはちゃん? とりあえずここじゃなんだし、部室行かない? ね? ヒッキーも」

「あ、ああ。そうだな、ほら行こうぜ」

 

 由比ヶ浜もこの状況をまずいと感じていたのか、早口でそう捲し立ててきたので、俺もその提案に一も二もなく賛同した。

 部室といえば恐らく奉仕部の部室のコトだろう。

 確かにあそこなら人目にはつかなそうだ。

 そう考え、俺は一色の手を掴む。

 瞬間、一色が驚いたようにハッと目を見開き俺の顔を見た。

 まずい、つい勢いで掴んでしまったがこんな公衆の面前で手を繋ぐなど、完全にセクハラ案件だ。

 その事に気がついた俺は僅か数秒で一色の柔らかく小さな手を離し「ほら、行くぞ」と一歩足を踏み出す。

 そんな俺を見て一色は「あ……」と名残惜しそうな声を上げると。

 

「ちょ、ちょっと! センパイ待ってくださいよ!」

 

 と、俺の後を付いてきた。どうやら、これ以上騒ぎを起こすのは阻止できたらしい。

 とはいえ、これで問題が解決したわけではない。

 むしろ、事情を説明しなければならなくなったのでより面倒になったとも言える。

 例の噂に関しては一色の耳に入る前に対処したいと思っていたんだが……。

 さてどうしたもんかな……。




というわけで、ほぼ説明会ですかね。
本当はCパートがあってもうちょっと長くなる予定だったのですが、切りどころが分からなくなったので全カットとなりました、次話に回したいと思います。

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第87話 いつだって一色いろはは目立っている

いつも感想、評価、お気に入り、ここすき、誤字脱字報告、メッセージ、DMエトセトラありがとうございます。

土曜日には間に合いませんでしたが、今回は気持ち早めの投稿です。
(あくまで気持ち)


 由比ヶ浜の提案に従い、人目を避けて数日ぶりに奉仕部の部室までやって来ると、そこには一人読書に勤しむ雪ノ下雪乃の姿があった。

 これで二度目の訪問、まさかこの短期間にまたココに来ることになるとは思っても居なかったな……。

 

「やっはろー、ゆきのん! 依頼人連れてきたよ」

「こんにちは由比ヶ浜さん。依頼人……今日はまた随分と大所帯ね」

 

 少し呆れたような表情で顔を上げる雪ノ下の言葉を聞き、俺も改めて奉仕部に入ってくるメンバーを確認する。

 由比ヶ浜を筆頭に、一色、俺。続いて三浦、海老名。そして最後に葉山の六人だ。

 確かに大所帯である。

 なんだかこうやってみると俺がまるで葉山グループの一員のようですらあるな。まあ、違うんだけど。

 

「っていうか、なんでお前まで付いてきてるの?」

 

 だから、というわけでもないのだが、俺は最後に入ってきた葉山に軽く疑問を投げつけてみた。実際、先程の廊下でのやり取りには葉山は出てきていなかったはずだ。

 海老名が三浦に着いてきたというのはなんとなく理解が出来るものの、葉山までついてくる必要があったのか? と言われれば少し微妙ではある。少なくとも俺が同じ立場だったら帰っていただろう。

 

「成り行き……かな? 一色さんのことも心配だったしね。お邪魔なら帰るけど?」

「いや、別に俺が決めることじゃないし、いいんじゃないの……」

 

 その葉山の返答に、俺は物好きな奴もいるもんだと少し感心しながら視線をそらす。

 ただの野次馬根性……という感じではなさそうだが……絶対に参加しなければならない理由があるわけでもなさそう。あの場にいて、それなりに事情も理解しているから最悪三浦を止める役になれるとでも判断したのだろうか? ご苦労なことだ。

 

「つかなんなのここ?」

「あ、ここはね奉仕部っていって、皆のお悩み相談とかしてるんだ。私も部員で結構評判良いんだよ」

「へぇ……奉仕部ねぇ……」

「最近結衣が忙しそうにしてるのってコレだったんだ?」

「えへへ」

 

 葉山との会話が終わると、俺はそんな楽しげな雰囲気の三浦達を横目に一色の様子を伺う。

 どうやら、こちらはまだ怒りが収まっていないらしく、わざとらしくガタガタと音を鳴らしながら椅子を運び、雪ノ下の隣に陣取るとドカッと椅子に座り不機嫌そうに三浦たちを睨みつけていた。どうやら今日はアチラ側らしい。

 

「それで? 今日は一体どういった用件なのかしら?」

 

 そんな一色の様子から何かを察したのか、雪ノ下はチラリと一色へと視線を向けた後、由比ヶ浜にそう問いかけた。

 

「ああ、えっとその……」

 

 その問いに由比ヶ浜は困ったようにそう言うと、俺の方に視線を向けて来る。

 いや、ここに来ようと行ったのは由比ヶ浜なので俺を見られても困るのだが……。

 そもそも何でココに来たんだったか?

 そうそう、人目を避けるためだ。

 とはいえ、既に一色と三浦の距離は離れており、ここで『ラウンドスリー、ファイト!』と言っても、一時停止しておいた映画がそのまま始まるわけもない。

 むしろ改めて雪ノ下に状況の説明をしなければならない事を考えると、移動は失敗だったのかもしれない。

 

 だってそうだろう?

 例の噂がまだ一色の耳に入っていないのであればここで迂闊な事を言うわけにもいかないし、かと言って、何も話さないまま今の一色を納得させようとした結果が今のこの現状なのである。

 ここで俺が何を言ったところで泥沼は必須。

 さて、どうしたものか……。

 

「その子が最近ウチの──上級生の教室に顔だしすぎてるから注意したら暴れたの」 

 

 そうして俺が頭を悩ませていると、横からズイッと三浦が一歩前に出てそう言って一色を見下ろした。

 

「暴れた……?」

「別に暴れてないです! 正当な抗議をしただけじゃないですか!」

 

 その三浦の言葉に一色はガタッと椅子を鳴らして勢いよく立ち上がり反論する。

 一方、隣りに座っていた雪ノ下はというと怪訝そうに眉をひそめ、一度一色に視線を送ると、続けて俺に視線を向け、顎に手を置きやがて全てを理解したとでも言いたげに「なるほど」と小さく呟き頷いた。

 え? 今ので全部分かったの? 雪ノ下ぱねぇ。

 

「……確かに校則にも『みだりに関係のない教室へ入室しないこと』という文言は入っているから三浦さんの意見はもっともね」

「でしょ? 一年があんま目立つことすんなっつってんの」

 

 雪ノ下が全てを理解した、とでも言いたげにそう言うと、三浦もチャンスとばかりに雪ノ下に同調していく。

 それに焦ったのは一色だ。

 恐らく唯一の味方、少なくともこのメンバーなら中立で居てくれるだろうと踏んでいた雪ノ下に背中から刺され、焦ったように弁明していく。 

 

「そ、そんなコト言ったって用事があるんだから仕方ないじゃないですか! 私がマネージャーやってた頃なんて毎日連絡事項の確認とかで他の教室回ってましたよ。そういうのはどうするんですか?」

「それは私用ではなく、公的な用事があったということなのでしょう? 今の一色さんにそれがあるとは思えないのだけれど?」

「そ、れは……そうかもですけど……」

 

 そんな一色にさらに追い打ちをかけていく雪ノ下。

 一年というのもあって流石にこの状況は少し可哀想になってくるな……。

 由比ヶ浜も先程から心配そうにオロオロと落ち着かない様子で俺と一色を見ている。

 いや、俺だってなんとか出来るモノならしてやりたいんだが……。

 

「でも……センパイだってお昼休みまでは『来るな』なんて言わなかったじゃないですか……」

「あ、いやそれは……」

 

 そんな事を考えていると、一色の矛先が突然こちらへと向いた。

 同時にその場にいた全員の視線が一気に俺の方へと集まり、思わず一歩後ずさってしまう。

 それを言われると辛い所でもあるんだよなぁ……。

 実際、例の噂を知る前はそこまで問題になっているなんて思っていなかったし、それこそ単に三浦が一色のことを気に入らないというだけなら、俺が泥を被ったってよかった。ただ、今は状況が違う。

 既に俺があの噂の存在を知ってしまった以上、心を鬼にしてでも一色が教室に来るのを阻止しなければいけないターンだ。

 さもなければまた要らぬ噂を広め、その信憑性を高めてしまう……。 

 

「そうですよ……なんでお昼休みまで何も言わなかったのに、今になって急にあんなメッセージ送ってきたんですか? 私が行くと迷惑なんですか?」

「いや、そういうわけじゃないんだが……」

 

 だから、なんとかして一色を説得したいのだが、この場をどう乗り切ればよいのかが分からない。

 いっそ噂の事を話してしまうか? そんな考えが頭をよぎり俺はチラリと三浦の方へと視線を送る。

 それがまずかったらしい。

 一色はそんな俺の一瞬の視線の動きを目敏く察知すると、ギロリと鋭い眼光で三浦を睨みつけ、口を開いた。

 

「……センパイ? もしかして、三浦先輩から何か言われました?」

 その鋭い質問に、俺は情けなくもダラダラと冷や汗を垂らしながら目を逸らしてしまう。視界の端で由比ヶ浜も焦ったようにワタワタと動き「あ、えと、それはね……?」とフォローしようとしてくれているようだが、どうにも助け舟にはなりそうにない。 

 

「な、何かって……? 何を……?」

 

 苦し紛れに、目を泳がせながらそういうのが精一杯の俺。

 だが、そんな俺に一色は衝撃の言葉を放った。

 

「私が……その……学校内で変なことをしてるっていう噂、とか……」

 

 声のトーンこそ小さく、モゴモゴと言いにくそうな一色の言葉に、その場に居た雪ノ下以外のメンバーが思わず目を見開く。

 は? 噂?

 もしかしてこいつ知ってる……いや、知っていたのか?

 

「え!? いろはちゃん知ってたの?」

 

 その疑問を誰より早く口にしたのは由比ヶ浜だった。

 俺もとっさのことに思わず葉山と視線を交わしてしまう始末。

 

「はぁ……なるほど、そういうことですか……。あー、良かった……。センパイに──たかと思った……」

 

 混乱する俺たちを見て、一色は聞き取れるか聞き取れないか微妙なほどの小さな声で何事かを呟くと、ぽてんと椅子にその身を投げ出した。

 その表情からは安堵のような感情が見られる。

 ん? 安堵? なんで安堵?

 噂のことを知られて恥ずかしいとか、困ったとかでもなくて?

 一体どういうことだってばよ……?

 

「噂というのは、どういうことなのかしら?」

 

 一色の不可思議な行動に俺達が頭を悩ませていると、部室内で唯一事情を知らず蚊帳の外にいた雪ノ下は一人首を傾げていた。

 

「あー……それは……」

 

***

 

 一色が噂のことを既に知っていたという事実が判明したので、俺たちは雪ノ下に事情を説明するという意味も含め、改めて情報を共有することにした。

 

「はぁ……、正直、二年生の所まで広まってるとは思ってませんでした……」

「広まっているっていうか、一回話に上がったってだけだけどね。優美子が注意してくれたからうちのクラスではもう、話してる人はいないと思う」

 

 やはり噂の発生源が一年というのは間違っていないらしく、二年にまで噂が波及していることに少しだけ肩を落とす一色だったが、由比ヶ浜の言葉を聞いて、少しだけホッと胸をなでおろし、三浦の方へと視線を向ける。

 

「そう、だったんですか……すみません三浦先輩、生意気なこと言って……ありがとうございました」

「別に、あーしそういう陰湿なの嫌いだから……」

 

 礼を言われた三浦が明らかに照れたような表情で、そっぽを向くと傍に居た海老名が「照れてるだけだから気にしないで」と小さく笑い、ソレを見た葉山と由比ヶ浜の顔にも笑みが浮かぶ。

 その事が気に食わなかったのか、三浦は不意に俺の方へと鋭い視線を送るとターゲットをすり替えようととんでもない事を言い出した。

 

「っていうかさ、礼ならヒキオに言ったら? 相当怒ってるみたいだったじゃん、あのまま放って置いたらあーし、何されたか分からなかったんだけど?」

「センパイが……怒る……?」

 

 突然話を振られ慌てる俺に、今度は意地の悪い笑みを浮かべた葉山達の視線と、キョトンと不思議そうな顔をする一色の視線が突き刺さる。

 

「い、いや、俺は別に……怒ったわけじゃ……」

「あー、うん、ヒッキーめっちゃ怒ってた。めちゃくちゃ怖かったもんね」

「ねー? 優美子が殴られるんじゃないかと思って私もヒヤヒヤしたよ」

「え!? 殴る? センパイが??」

 

 いや、待て。

 確かにあの時頭の中に真の男女平等主義者・ク○マさんの顔が浮かんだのは事実だが、本気で殴ろうと思ったわけではない。

 少なくとも拳を振り上げたり、距離を詰めたりはしていなかったはずだ。

 完全に冤罪である。

 

「本当なんですか? センパイ」

「あ、いや、三浦が噂を流したんだと勘違いして、その、な……」

 

 何故か期待するような瞳で俺に問いかけてくる一色に、俺はしどろもどろになりながらそう答える。

 いや、だって仕方ないじゃないか。俺は一応一色に対しては責任ある立場であり、オッサンにも色々頼まれてるわけだし……その……あの……。

 

「そっか……センパイ、怒ってくれたんだ……」

 

 そうして慌てる俺を見て、一色は何が楽しいのか、ふふっと今日一番の笑みを浮かべた。

 その一色の笑顔があまりにも可愛かったので、俺も思わず顔を赤らめ、一瞬だけ。ほんの一瞬だけだが、見とれてしまったのは内緒だ。

 

「……つまり、今回の依頼はその犯人を特定して吊るし上げて欲しい、ということでいいのかしら?」

 

 そんな俺を現実に引き戻したのは雪ノ下のコホンという咳払いと、その確認の言葉だった。

 緩んでいた空気が一気に引き締まり、視線が雪ノ下の方へと集まっていくのが分かる。

 そうだ、別に一色が噂のことを知っていたからといって、それで全てが解決したわけではない。その事を思い出し、俺は慌てて意識を引き締めていく。

 葉山には悪いが、俺としてもやはり犯人を突き止めるというのが一番てっとり早い方法だと思っているので、雪ノ下の意見に異論はない。

 

「……いや、でも吊るし上げるっていうのもどうなのかな? 犯人探しなんてしないでもっと穏便に済ませたほうが良いと思うんだけど……」

 

 ないのだが……。やはり葉山のスタンスは変わらないらしかった。

 少し控えめな口調で挙手をしながらそう言うと、雪ノ下がそんな葉山に冷たい視線を送る。

 

「犯人探しをされて何かまずいコトでもあるのかしら? あなたがこの噂を流した犯人、という可能性もゼロではないのだけれど?」

「え? いや、それは違うよ、俺じゃない。そういう事を言いたいんじゃないんだ、ただ……」

「は? あんた隼人疑ってんの?」

 

 その雪ノ下の言い様に誰よりも怒りを表したのは三浦だった、三浦は鬼のような形相で雪ノ下に詰め寄ると、雪ノ下を睨みつける。

 

「この学校内での噂である以上、少なくとも確実に白とは言い切れないわ。勿論、私も含めてね。だからこそ自分の潔白を証明するためにも、犯人探しは必要なんじゃないかしら?」

 

 そう言って一度葉山を見ると、そのまま三浦を睨み返した。

 当然、三浦も怯まない。

 何故、最近俺の周囲に現れる女はこうも好戦的なのだろうか?

 覇気だけでこっちが気絶してしまいそうだ。  

 

「いえ、その必要はありません。大体の目星は付いてるので」

 

 そんな二人を止めたのは、噂のターゲットで一番の被害者たる一色だった。

 その言葉の意味が一瞬理解できず、俺も思わず「へ?」とマヌケな声を上げ、由比ヶ浜達も不思議そうに首を傾げる。

 

「……はぁ……一応こういうコトにならないように先月は教室まで行くのは止めてたんですけどね……最近私もちょっと余裕なくなって来てたから完全に油断してたなぁ……」

 

 独り言のようにブツブツと呟く一色に、俺達はどう反応したら良いのか分からずただ困惑の表情を浮かべていく。

 

「わかりました。そういうことなら暫く教室にお邪魔するのは止めておきます! お騒がせしてすみませんでした」

 

 そうして、キョトンと一色を見つめる俺達を置いてけぼりにしたまま、一色はやがて全て納得した。とでも言いたげにそう結論づけると、椅子から立ち上がりペコリと頭を下げる。

 

「というわけで、センパイ。明日からはお昼休みいつものところで待ち合わせでいいですか? あ、でも雨の日はどうしようかな……」

「お、おお……別に良いけど」

 

 俺自身、どういう対応をするのが正解なのか分からず、ただただ一色のペースに飲み込まれるようにそう返事をしてしまった。

 いやいや、良くないだろ。何普通に飯の心配とかしてんの?

 

「一色さん? 目星がついているってどういうことなのかしら? その辺りのことを説明してほしいのだけれど?」

 

 そんな俺達の心の声を代弁してくれたのは一番最初に再起動を果たした雪ノ下だった。 当然、他の連中も雪ノ下に賛同し、コクコクと無言で首を動かしている。

 

「あー……そっちの話ですか……それは……」

 

 そんな俺達を見て、一色は一瞬口ごもると、そう言って一人ひとりの顔を見回し、大きなため息を吐き出す。

 

「……本当は、センパイには知られたくなかったんですけど……流石にもう駄目っぽいですかね……」

 

 最後に俺の前で視線を止めると、諦めたように口を開き始めた。

 

***

 

**

 

*

 

 ことの発端は入学式の翌日まで遡る。

 つまり先月。今から約一ヶ月前の出来事だ。

 

「一色いろはです。よろしくお願いします」

 

 クラス内での自己紹介も終わり、元々中学からの知り合いがいないというのもあって、その時の私は、きっとこれから新しい友達も出来て、楽しい三年間になるんだろうなという期待に胸を躍らせながら、隣の席の子とお喋りをしたり、流れに任せてクラスの子とLIKEの交換をしていた。

 

「い、一色さん。先輩が呼んでるよ! 早く!」

 

 そんな少しフワフワした教室での休み時間、不意に後ろからクラスメイトにそんな声を掛けられ“センパイ”が来てくれたのだと勘違いした私は勢いよく振り向いて、廊下を確認する。

 でも、そこにいたのは私の期待していた人物ではなかった。

 

 視線の先、廊下に立っていたのは葉山隼人先輩。

 葉山先輩は扉の横に立ち、私の姿を確認すると、小さく手を振り微笑んでいた。

 思わず「なんだ……葉山先輩ですか……」という心の声が口をついて出てしまった私だったが、そんな私の反応とは裏腹に、クラスの女子達はまるでテレビの中のアイドルが登場したとでも言わんばかりに、キャーキャーと騒いでいたのを今でも覚えている。

 どうやら葉山先輩は私が思っている以上に有名人らしい。

 

 そのことに、私は少しだけ嫌な予感を覚えつつも、仲介してくれた子にお礼を述べて、葉山先輩の元へと向かっていった。

 でも、なんで葉山先輩が私を? 

 一応、面識が無いわけではないけれど、そこまで仲が良いという印象でもないので正直呼ばれる理由が分からず、少しだけ警戒しながら葉山先輩の元へと駆け寄っていく。。

 

「なんか、がっかりさせちゃったかな……?」

「えー? そんなことないですよぉ。何の用ですかぁ?」

 

 開口一番、申し訳無さそうにそう言う葉山先輩に私は慌てて笑顔を作ってそう答えた。

 どうやら、思っていた以上に顔に出ていたみたいだ。

 まあ、よく考えたらセンパイが来る理由ないもんね……。

 

「ああ、うん。とりあえず挨拶でもと思ってね。改めて入学おめでとう」

 

 営業スマイルで応対する私に、葉山先輩は一瞬だけ苦笑いを浮かべたあと、そう言って私を祝福してくれた。でも、いまいちその真意は読めない。

 

「ありがとうございます。……えっと、それだけですか?」

 

 そのお祝いの一言を言うためだけにワザワザ一年の教室まできたのだろうか?

 もしそうだとするなら相当律儀な人だ。別の見方をするならちょっと危ない人にも思える……。何か下心がありそうな予感。

 

「いや、実はちょっと頼み事があってね……」

 

 そんな私の予感は的中してしまい、続けて葉山先輩は少しだけ言いづらそうに声のトーンを落とす。

 すると、教室の方からゴクリと息を呑む音が聞こえた。

 どうやら、思っている以上に私たちは──いや、葉山先輩は目立っているらしい。

 無遠慮に葉山先輩に視線を向けるもの、視線こそ向けていないが友達と話をする振りをしながら耳をそばだてているもの。わざと何度も私たちの近くを通り過ぎるもの。様々な野次馬が私たちの方に意識を向けている。 

 

「えっと、場所移そうか?」

 

 そのことに気がついた葉山先輩が少しだけ躊躇したように口元を隠してそう言うと、一瞬教室がざわめいた。

 傍から見たら密談をしているようにしか見えないのだろう。

 まずいなぁ……。絶対変な勘違いされてる……。

 自分で言うのもなんだが、私たちの年頃は色恋に興味津々。

 もし野次馬をしている子達が私と葉山先輩を何か特別な関係だと勘違いして変な噂を流してきたら最悪だ。

 

「聞かれちゃ拙い話ですか?」

「そういう訳でもないんだけど……」

「なら、別にこのままでいいですよ」

 

 だから、私はあえて移動はせず、話を続けてもらうことにした。

 後から考えれば、ココでの判断はもしかしたら間違いだったのかもしれない。

 でも、今更場所を変えたところでその後の結果は同じだったような気がする。

 結局のところ、この時点で私が何をしてもしなくても、もう詰んでいたのだ。

 

「そうか、じゃあえっと……一色さんが中学の頃サッカー部のマネージャーやってたって聞いたんだけど……間違ってないかな?」

「ええ、去年までやってました」

 

 場所を移動しないと決めた私は葉山先輩の問いに正直に答えていく。

 そのこと自体は別段隠すようなことでもなかったですし、答えても問題はないと思っていた。

 

「実は俺サッカー部でさ、今の部に一色さんの事を知っている奴が何人かいたんだよ。それで俺が文化祭で会ったっていう話をしたら、何人かから『一色さんを誘ってこい』って言われちゃってさ……。その……ウチでマネージャーやってくれたりしないかな?」

 

 私が中学の一年のときからマネージャーをやっていたのは事実だ。

 少なくともそこには三年間という実績があるので、中学の卒業生とか、過去の対戦校とかで総武に入学した人がいれば私を知っている人がいるのも不思議ではない。嘘をついたところで遅かれ早かれバレることだろう。

 だから、葉山先輩がそうやって誘ってくる事自体は問題はなかった。

 それこそ、もし何かが一つでも違っていれば、今年もやろうと思っていた可能性だってある。

 でも……。

 

「すみません、私高校では部活やらないつもりなので」

 

 今年はマネージャーをやるつもりはなかった。

 というより、そもそも部活に入るつもりがなかった。

 だって、どうしてもやりたいことがあったから。

 部活に割いている時間が惜しかったのだ。

 

「そっか、それは残念」

 

 そんな私の気持ちを察してくれたのか。

 葉山先輩は、ソレ以上食い下がることもせず、少しだけ肩をすくめると、始めから答えはわかってたけど。とでも言いたげに小さく笑った。

 あくまで、お友達に対する義理を果たしたかっただけだったのかもしれない。

 

「話って、それだけですか?」

「ん、ああ。そうだな。後はまぁこれから同じ学校に通うんだし、仲良くしてくれたら嬉しいかな」

「そうですね、センパイとのこともありますし、コチラこそこれからよろしくお願いします」

 

 やがて、葉山先輩は肩の荷が下りたようにホッとした表情でそう言いながら、手を伸ばしてくる。

 握手なんて、一体どこの国の王子様だろうとは思ったけれど。

 流石にここで先輩に恥をかかせるのも悪いかなと思い、少し躊躇しながら私は葉山先輩の伸ばした手を小さく握った。

 すると、葉山先輩は満足そうにニコリと笑い、そのまま元来た道を戻っていく。

 そして、葉山先輩が去ると同時に私のところにドドドドッと津波が押し寄せてきた。

 

「い、一色さん葉山先輩と知り合いなの!?」

「もしかして仲いいの?」

「なんでマネージャー断ったの!? 葉山先輩に誘われたんだよ??」

 

 クラスの──葉山先輩狙いなのであろう女子達がものすごい形相で私のところに詰め寄ってきたのだ。

 

「う、うん、まぁ……知り合いというかなんというか……。今年は私部活やる気もないし……」

「「「じゃ、じゃあ紹介して!!!」」」

 

 そのあまりの圧に、思わず転びそうになりながら、私はアハハと作り笑いを浮かべ返答する。

 

「あー、うんごめん、そういうの無理なんだよね……」

 

 別に、紹介するのが嫌だとかではない。

 一応断っておくと、葉山先輩を独占しようとかそういうつもりは微塵もないし、紹介しても問題はなかったのかもしれないとは思っている。

 それでも、なんとなくだけど、あの人はそういうのを嫌うタイプなんじゃないかと思ったし。

 もし私が言われるがままに何人か紹介した後、葉山先輩が私のことを『迷惑な女だ』ってセンパイに話すかもしれないと思うと、紹介する気になんてなれなかった。

 

 それに──これは私の勘違いかもしれないけれど、今回葉山先輩が自分でスカウトに来たのは、以降他のサッカー部員が私のところにこないように、という配慮があったんじゃないだろうか? とも思った。

 なんでそう思ったのは自分自身よくわからないけれど、一度そう思うと、不義理なことは出来そうになかった。

 

 何より、こういうお願いは一度引き受けると際限が無くなるしね。「あの子は紹介したのに、私は駄目なのか!」とか、本当によくある話なのだ。

 だから、私は彼女たちの申し出を丁重にお断りし、隙間を縫って、自分の席へと戻っていって、その日は事なきを得たんだけど──。

 

 その日から、私はクラスで浮いた存在になっていた。

 

 ──でも正直それはそれで大した問題ではなかった。

 そりゃ、思っていたような高校生活からは少し遠のいてしまったけれど。

 元々私は友達が多いほうじゃなかったし、私の学校生活の中心はセンパイだったのもあって特に不自由だと思うようなことにはならなかった。

 まあ、そのせいで調子に乗った何人かが、ありもしない噂話をしはじめていたけど、クラス内で話してる分には特に気にもならなかった。

 

 あ、それでも一応私がセンパイの教室にまで行くのを控えていたというのは理解してもらいたいとも思う。

 運が悪いことに、センパイと葉山先輩は同じクラスっていうのもあったので私がそこに顔を出したら、もっと酷い噂が流されると思って顔をだせなかったのだ。

 

 それでも今日まで無事過ごせたのは、ありがたいことにセンパイがいつもお昼を食べているのが特別棟の裏にある二人だけの秘密のスペースだったからだろう。

 センパイがベストプレイスと呼ぶその場所はさながら私とセンパイのために用意されたような二人だけの特別な場所だったので、私はソコがとても好きだった。

 

 でも、センパイがバイトを始めたと聞いて、私も奉仕部に入ることになって、少しずつセンパイと合う時間が減っていって。

 ゴールデンウィーク明けのあの日、とうとうセンパイがそこに現れない日がやってきた。

 それで……つい教室まで先輩を迎えに行ってしまったんだけど──そこからはまぁ、知ってのとおりだ。

 

 多分、その辺りのコトがきっかけで、噂が広まってしまったのだろう。

 でも、まさかこんなに早く二年生の教室まで広まるとは本当に思っても居なかった。

 完全に油断してたなぁ……。

 

 そういえばこの間も、自習時間なのに女子が皆外を見て何をやっているのかと思っていたら、窓からセンパイ達の体育──センパイと葉山先輩のテニスを見てたんだよね。

 私も思わず応援に力が入って叫んじゃったけど。あの後も「またアイツ調子に乗って」とかブツブツ言われてたっけ……。

 もしかしてアレも葉山先輩の応援してると思われたのだろうか?

 あー、面倒くさいなぁもう。 

 

***

 

**

 

*

 

「──という具合なので、私のクラスの誰かでしょうね」

 

 一通り、入学式翌日に起こったという一色が噂のターゲットになった原因らしき事件の概要を聞いた俺達はその一色の言葉を聞き「ふぅ」と息を吐いた。

 なるほど、つまり全ては……

 

「葉山のせいじゃねーか」

「葉山君のせいね」

「隼人くん……」

「お、俺のせい……なのか?」

「はぁ? 別に隼人は悪く無いっしょ、そいつらの根性が曲がってたってだけじゃん」

 

 まあ、加害者という意味ではそうなのだろうが。

 基本的に良い話であれ悪い話であれ、大勢の前で一人を晒し上げるような行動を取るのというのは悪手でしかない。

 

「まあ誰が悪いとかは置いておいて、個人的には葉山先輩の意見には賛成なんですよね。これ以上面倒なコトにもしたくないので、出来たらこの件に関しては聞かなかったことにして貰えませんか?」

 

 それを理解しているからか、一色は少しだけ申し訳無さそうに肩をすくめると、そう言って俺たちに懇願するような視線を送ってきた。

 

「いや、放っておくってお前……そういうわけにもいかんだろ……」

「そりゃ、多少面倒くさいなぁとは思いますよ? 思いますけど。無視してればそのうち収まると思いますし。私こういうの結構慣れてるので」

 

 一色の気持ちが全くわからないわけではない。

 もし、立場が逆だったら俺も同じことを言っていただろう。

 くだらない噂なんて無視しているのが一番だ、中途半端に取り合うとそれこそ首謀者の思うツボである。

 

 だが……。

 本当にそれしか方法はないのだろうか?

 少し悲しそうに笑う一色の顔を見ているのが、俺に出来る唯一のことなのか?

 

 なんでコイツがこんな顔をしなくちゃいけないんだ?

 いつも馬鹿みたいに笑ってるコイツが、なんでくだらない噂なんかに振り回されて行動を制限されなくちゃいけないんだ。

 その事が、俺には許せなかった。

 

 何か、俺に出来ることはないのだろうか?

 全てを丸く納める方法……。

 一色や、葉山が言うように犯人を突き止めずに噂を鎮めるやり方。

 本当に、放っておくのがベストなのか……?

 

 状況を整理しよう。

 ようは、ただの嫉妬だ。

 そいつらは、一色が葉山に近い存在であり、自分たちがそうじゃないということに対してクダラナイ八つ当たりを仕掛けてきた。

 恐らくだが、一色が昼休みになると消えるというのがその噂に拍車をかけ、うちのクラスでの目撃証言がでたことで、より拡散したのだろう。

 

 なら──。

 

「なあ、一つ解決策を思いついたんだが……」

「解決策……?」

 

 俺がそう言うと、部室にいる全員の視線が俺の方へと集まる。

 

「あの、センパイ。本当大丈夫ですよ。放っておけばそのうち収まると思いますし、下手なことするとセンパイにまで迷惑かけちゃいそうで……」

 

 その俺の提案が不安だったのか、一色が少しだけ困ったように、それでいて悲しそうに笑いながら俺を見て来た。

 何故、この期に及んで俺の迷惑なんて考えてるんだコイツは。

 今は自分のことだけを考える時間だろうに……。

 そのことに若干の苛立ちを感じながら、俺は一瞬だけ一色から目をそらし、言葉を続ける。

 

「俺のことは気にするな。……というよりな、正直言うとあんまり自信はないんだ、むしろやらない方がいいのかもしれない。その辺りの判断はお前に任せるから、とりあえず話だけでも聞いてくれないか?」

「まあ……話だけなら……?」

 

 俺の言葉に少しだけ不安そうな表情を浮かべる一色。

 他の女子達も頭の上にクエスチョンマークを乗せている。

 唯一三浦だけは完全に我関せず、どうでも良いって感じだ……。まあ、三浦は作戦に関係ないからいいけど。

 だが葉山、テメーは駄目だ。

 

「一応言っておくが葉山、お前には手伝ってもらうぞ? お前にも責任があるんだからな」

 

 そう言って葉山に視線を送ると。葉山は「俺?」と首を傾げる。

 さて、それじゃあ実行に足るかどうか、作戦の評価を聞かせてもらうとしようか。




というわけで、次回は解決編です。
今回は解決方法そんなに捻ってないので結構予想されている方は当たりそう……
一応さらにその先の展開に繋がる部分でもありますので
あまり期待しないで楽しみにしていただければと思いますw

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第88話 伝えたいこと

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告etcありがとうございます。

久しぶりの土曜18時の投稿。
前々話の予告通り少しだけ長くなりました。


「反対反対反対! そんなの絶対駄目に決まってるじゃん!!」

 

 俺の案を聞いて、一番最初にそう叫んだのは由比ヶ浜だった。

 フーフーと鼻息荒く立ち上がり、何度も右手を上げ、その額に「断固反対」というハチマキの幻影が見えるほどに抗議の声を上げている。

 なんならそのままプラカードでも掲げて校内一周してきそうな勢いだ。

 元々、諸手を挙げて賛成されるような案ではないと思ってはいたので反対されること自体は不思議でもなんでもないが、そこまで否定されるとちょっとだけ悲しくもある。しょぼん。

 

「あーしも反対、隼人がそこまでする必要なくない?」

 

 続けて反対票を投じたのは三浦だった。

 まあ、コチラに関しては三浦の立ち位置を考えるなら妥当な反応だろう、特に思うところはない。むしろ葉山擁護で由比ヶ浜みたいにヒステリックに叫ばれるかもとすら思ったので拍子抜けしたぐらいだ。

 ……いや、ヒステリックな由比ヶ浜を見て、逆に冷静になったという可能性もあるか? そういう意味では由比ヶ浜の行動にも意味があったとも言えるな。

 

「そう? 私は面白いと思うけどな」

 

 だが、二人に続くと思っていた海老名が賛成してくれたのは完全に予想外だった。

 こう言っては何だがこれまでも殆ど空気のような存在だったし、なんとなく三浦の腰巾着というイメージが強かったので、てっきり三浦に同調するものだとばかり思っていたからだ。

 これで、反対二、賛成一。

 

「俺は一色さんの意見に従うよ、俺のせいでもあるみたいだし、それで一色さんの助けになるなら、やらせてもらう」

 

 一方、三浦に庇われた葉山は少しだけ肩を竦めると、諦めにも似たような表情でそういって微笑むだけに留まった。

 本心ではやりたくは無いのだろうが、状況的に見過ごすことも出来ず、一色に委任といったところだろうか。

 そのことに、三浦は若干の不満の色を滲ませたが、一応人助けでもあるということは理解しているようで、ソレ以上は何も言って来なかった。

 まあ、葉山には責任を取らせると言ったが、反対なら反対でも良かったんだけどな、ここまでしおらしくされると逆に少しやり辛いまである。

 

「ねぇ、ほらゆきのんからも何か言ってよ!!」

 

 そうこうしている内に、何も言わない雪ノ下が自分の味方になってくれていないことに痺れを切らせたのか由比ヶ浜が「ねぇゆきのん!」と雪ノ下の肩を揺さぶりはじめた。

 ぐわんぐわんと肩を揺さぶられ、玩具のように髪を振り乱す雪ノ下。

 雪ノ下はそんな由比ヶ浜を制すると、顔に罹った前髪を鬱陶しそうに直しながら何事もなかったかのように口を開いていく。

 

「……そうね。正直、もしこれが私への提案だったなら反対させてもらうところなのだけれど……」

「だ、だよね! だよね!」

「でも……決めるのは一色さんでしょう? ……私達がとやかく言うことではないわ」

「そんな……!」

  

 内心では反対しながらも、一色の意見を尊重すると言う事なら葉山同様委任──いやそもそも口出しすべきでないという意見ならば棄権の方が近いだろうか。

 これによって反対二、賛成一、委任一、棄権一。

 俺は除外するとして、残すは当事者たる一色の意見のみ。

 元々投票制でもなかったはずなので、葉山や雪ノ下の言う通り一色がどうしたいかが一番重要なのだが、奇しくも一色の持つ一票で結果が決まるという局面となったわけだ。少なくとも数の暴力で意見を曲げる必要はない。

 

「それで、一色はどうする?」

 

 俺がそう問いかけると、一色の肩が一瞬ビクリと震えると同時にその場にいた全員の視線が一色に集まるのが分かった。

 一色は俺が作戦案の概要を話している途中から、口元に右手を置いたままうつむいているので、その表情は伺い知れない。

 

「センパイ……そんなの……」

 

 それでも一色が俺の馬鹿みたいな作戦に乗るとも思えなかったので、次にどんな罵声を浴びせられるのだろうとゴクリと喉を鳴らし、脳裏の端に用意しておいた別案のおさらいをしていく。 

 

「やるに決まってるじゃないですか!」

 

 しかし、そんな俺の覚悟とは裏腹に、一色は笑いを堪えきれないとでも言う表情で顔を上げると、足を一度大きく振って、ブランコの要領で跳ね上がるように椅子からぴょんと立ち上がった。

 そして、腰に手を回したまま、ウンウンと一人頷き、まるで演説でもしているかのようなポーズで部室内の俺たちの中心の空きスペースをグルグルと大股で歩き始める。

 

「そうですよね、うん。ソレしか無いと思います! さすがセンパイです!」

 

 あれ? おかしいな。俺の予想だと賛成するにしても嫌々というか、渋々「はぁ……それしかなさそうですね……」とか言われると思っていたのだが……? これはどういうことなのだろう? 少なくとも、俺が提案した作戦はこんなに喜ばれるようなモノではないはずだ。思てたんと違う……。

 まあ……でも賛成なら別にいいか。

 

「いろはちゃんっ!」

 

 そうして、俺が無理矢理自分を納得させていると、今度は由比ヶ浜が上機嫌になった一色を諫めるように、その肩を掴んだ。

 部室の中央で一色と由比ヶ浜が睨み合い、一瞬ピリ付いた空気が部室内に流れる。

 

「なんですかぁ結衣先輩? 他に何か案でもあるんですかぁ? 私ぃこういう噂とか流されて超ぉ辛かったんですよぉ。でもぉセンパイの案だったらぁすぐ解決してくれそぉじゃないですかぁ?」

「うー……そ、それならやっぱり犯人捕まえようよ! 私協力するから!!」

「犯人見つけたって、一瞬反省した振りして終わりじゃないですか? どうせ時間がたったらまた同じこと始めますよ、センパ~イ私超怖いですぅ♪」

 

 だが、当の一色はそんな由比ヶ浜の突然の行動に動じるでもなく、むしろ煽るようにそう言うと、俺の背後へと回り俺を盾にするようにして、由比ヶ浜に対峙した。

 そこには先程「私こういうの結構慣れてるので」と言って悲しそうにしていた一色の姿はない。完全にいつもの一色だ。いや、いつも以上だろうか?

 

「う~……でも! でもぉ!」

 

 そんな一色の言い分に、由比ヶ浜は納得言っていないようだが、雪ノ下はこうなることが分かっていたとでも言いたげに頭を抱え、海老名は三浦に「楽しくなってきたね」と語りかけ、言われた三浦は小さくため息を吐いている。

 一色が賛成したことでとりあえず、作戦決行の流れにはなったみたいだ。(由比ヶ浜は除く)

 仮にコレが投票制だったとしても一色と一色に委任した葉山の票が入り、賛成に三票が投じられた形なので、俺の案は可決されたことになる。

 

「まあ、一色もこう言ってることだし。決行ってことでいいか?」

 

 だから俺は少々ずるいと思いながらも、最後の確認の意味も込めて今回の作戦の要でもある葉山にそう問いかける。

 すると葉山が肘を曲げたまま両手を空に向けるポーズを取り、アメリカのコメディドラマのように苦笑いを浮かべながら数度頷いたのだった。

 

 

***

 

 

「ヒッキー……やっぱり考え直さない?」

「今更やめるわけにもいかないだろ……」

 

 翌日の昼休み、俺と由比ヶ浜は階段の踊り場でそんな会話をしながら、一色のいる教室を覗き見ていた。

 当然そこにいるのは俺たちだけではない。

 

「ねぇ隼人本当にやるの?」

「ああ大丈夫、上手くやるよ」

「隼人くんファイト!」

 

 俺たちの後ろには葉山、三浦、海老名の姿もある。

 今回の作戦に必要なのは葉山だけなのだが……まぁ邪魔をしてやろうとか、そういう訳ではなさそうなので野次馬は放っておくとしよう。

 邪魔さえしないでいてくれるのであれば、目撃者は多いほうが良いからな。

 実際、昼休みの一年の廊下ということでそれなりに人もいる。

 作戦の決行には申し分ないシチュエーションだ。

 あとはタイミング……。別名心の準備さえ整えばいつでも行ける。

 すぅ……はぁ……。

 さて、あと三分、いや、五分もしたら作戦開始と行くか……。

 そうして俺が決行のタイミングを見計っていると。不意にトントンと肩を叩かれた。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

「お、おう、頼んだ」

 

 肩を叩いてきたのは葉山だ。

 どうやら、心の準備はとうに済んでいるらしく、ちょっとコンビニにでも行ってくるとでも言うような気軽さでそう言うと、踊り場の角を曲がり、廊下へ出て一人スタスタと一色の教室の方へと歩いて行ってしまった。

 俺は少し慌てて由比ヶ浜へと視線を向けるが、由比ヶ浜も「ウン」と一度頷き返すだけで、今更葉山を止めるような事はしない。

 仕方ない、作戦開始だ。

 

「二年の葉山だけど。一色さん、いるかな?」

 

 葉山が一色の教室の前で止まり、手近な一年にそう声をかけると、声をかけられた一年が「は、はひっ!」と奇声を上げ、教室の中へと飛び込んで行った。

 ここからでは中の様子までは確認出来ないが、恐らく今一色を呼びに行ってくれてるのだろう。

 俺の予想通り、間もなく教室から一色が出てくると、葉山と二人で会話を始める。

 

「やあ、一色さん。久しぶり」

「お久しぶりです、今日はどうされたんですか?」

 

 それと同時に教室の前の扉、廊下などから二人を興味深げに見つめる女生徒達の姿がチラホラと見え始めた。

 どうやらいい具合に餌に食いついてくれているようだ。作戦の第一段階は概ね成功と言っていいだろう。

 さて、次は第二段階──そう思った瞬間、一色がチラリと俺達がいる方へと視線を向けてきたのが分かり、俺は慌てて体を半回転させると壁にドンっと勢いよく手を突いて、由比ヶ浜と話している風を装いその場をやり過ごす。

 ふぅ……危ない危ない、全くバレたらどうするつもりなんだ。

 

「あいつら、もっと自然にやれよ、演技だってバレたら元も子もないだろうが……」

「し、仕方ないよ、殆どぶっつけ本番なんだし」

 

 道行く一年に不審な目で見られながら、俺は壁を背にする由比ヶ浜にそう愚痴る。

 一応、話の流れ自体はお互い理解しているはずだが、もっと指導しておくべきだったと反省しながら俺たちは二人のやりとりの続きを確認するため、再び壁からそっと顔を出し教室の方を覗きこんだ。

 

「何の話ですか? マネージャーの件ならお断りしたはずですけど」

「ああ、今日はそのこととは関係……なくもないのかな。ちょっと頼みがあってね」

「頼み?」

「実は……もう知っているかもしれないけれど、テスト明けにウチの部で試合があるんだ。それで、その……良かったら応援に来てくれないかな? 何人か友達を誘って」

「友達……ですか?」

 

 どうやら打ち合わせどおりに話は進んでいるようだ。

 『友達を誘って』という言葉に一瞬一色の教室の周囲がザワツイたのが感じられる。第二段階も成功。

 そろそろ次の段階へ進んでも良い頃合いか……?

 

「結衣、あんたもうちょっとずれてよ見えないじゃん」

「そんな事言われても……ヒッキー、もうちょっと屈んで」

「屈んでったってお前……ぅお……!?」

 

 そう考えながら俺がタイミングを見計らっていると、状況を確認しようとする三浦が由比ヶ浜を押し、その由比ヶ浜が俺を押して来た。

 瞬間、背中に物凄く柔らかく、それでいて弾力のある何かが伸し掛かってくる。

 それは去年の夏、一色をおぶった時には感じられなかった圧倒的なまでの存在感。

 そのあまりの衝撃に、俺の脳は一瞬でピンク色に染まっていった。

 メロン……そうメロンだ。

 まだ旬ではないはずなのにありえないほどにデカいメロンが俺の背中に乗っている……それも二つも……。

 

「ああ、実は試合のあと中間テストの打ち上げも兼ねてみんなで集まろうっていう話になってるんだ、女子の応援が合ったほうがアイツラもやる気になるだろうし。一色さんが友達を誘って来てくれると嬉しいんだけど……」

 

 そうこうしている間にも、葉山は会話を続け、周囲の女生徒にも分かりやすいように丁寧な説明を始めていた。

 まずい、ちゃんと話を聞いていないといけないのに、全然集中できない。

 ああ、少しでも動くとメロンが落ちてしまいそうだ。落とさないようにバランスを取らなければ……って違う! とにかくパージ、パージしなければ!

 爆ぜろリアル! 弾けろメロン! バニッシュメント・ディス・ワールド!

 

「わわっ!?」

 

 なんとか気合で邪念を振り払い、俺がグッと勢いよく体を持ち上げると、由比ヶ浜が俺の背中から離れ、その反動で三浦も体制を崩され不機嫌そうに「ちょっと!」と小声で俺を睨んでくる。

 いや、文句言いたいのはこっちの方なんだが……?

 うっかりメロンに心をかき乱されてしまっていたが、状況的には女子二人分の体重を一人で支えていたのだ。なんなら少し褒めてほしいまである。

 ちなみに、海老名に関しては既に状況に飽きてきたのか一人階段の手すりに背中を預け、スマホをいじっていたので、ノーカンだ。

 

「そ、それじゃあそろそろ行ってくる……」

 

 とはいえ、今は二人に文句を言っている場合ではない。

 こうしている間にも作戦は進行し、次の段階へと移行しなければならない時が来てる。

 だから、俺はそう言って一度襟元を正し踵を返す。

 するとその時、不意にシャツの裾が何かに引っ張られた。

 

「……ねぇヒッキー……本当にやるの?」

 

 何事かと振り向くと、由比ヶ浜が俺のシャツの裾を掴み、伏し目がちにそんなことを聞いて来る。

 何を今さら、とは思うが、由比ヶ浜はもとからこの作戦には反対だった。きっと、今も思うところはあるのだろう。

 しかし、なぜソコまで強硬に反対なのかは分からない。

 仮にこの作戦が失敗したとしても由比ヶ浜に迷惑がかかるようなことはないはずだ。

 もしかしたら、俺が見落としている何か重大な欠陥でもあるのだろうか?

 もしそうだとしたら、もう一度作戦を練り直す必要が出てくるかもしれないのだが……とはいえ、既に葉山は動き出している。

 今更後には引けないというのも事実だった。

 

「流石にここでやめるわけにはいかないだろ……」

「……うん、そうだよね……」

 

 俺がそう答えると、由比ヶ浜は少しだけ悲しそうに笑いながら、裾から手を離す。

 だがまだ何か言いたいことがあるようで、その場から動こうとはしない。

 

「……ヒッキーってさ、いろはちゃんには甘いよね?」

 

 由比ヶ浜が次に口にしたのはそんな言葉だった、少し拗ねているような、怒っているようなその口調に俺は一瞬だけ戸惑いながらも「うーん」と少しだけ首を傾げる。

 甘い……甘いのだろうか?

 自分では良く分からない……。

 

「そうか? 別に普通だろ」

 

 だから、俺はそう答えることしか出来なかったのだが……由比ヶ浜はそんな俺の返答が気に入らなかったのか少しの間無言で俺を見上げて来る。

 

「……」

「……」

 

 なんだろう、少し気まずい。思わず三浦に助けを求めようと視線を送るが三浦は既に海老名の近くへ移動し、我関せずとでも言いたげに俺たちから背を向けていた。

 背後からは一色と葉山からの『早くしろ』という催促の念も感じられる。

 畜生……どうしろってんだ。

 

「……あの、さ」

「お、おう?」

 

 そうして、俺が金縛りのような状態になっているとやがて由比ヶ浜が意を決したように口を開いた。

 今回の作戦は人に褒められるようなことではない。

 だから反対派の一人として文句のひとつもつけてやろうとでも思っているのだろうと俺は少し覚悟を決め由比ヶ浜の次の言葉を待つ。

 

「……ヒッキーってさ、やっぱりいろはちゃんのこと……」

「一色のこと……?」

「……ううん、なんでもない……ほら、早く行ってあげて」

「? お、おう。じゃあ、行ってくる……」

 

 だが由比ヶ浜は歯切れ悪くそう云うだけで、最後にもう一度悲しげに微笑むと俺の背中をグイグイと押し始めた。

 何を言いたかったのかはよくわからず、俺としてもものすごくモヤモヤする終わり方だったので問い詰めたいところではあるが……タイムオーバー。

 これ以上一色達を待たせるわけにもいかなかったので、俺は由比ヶ浜に背中を押されるままに廊下へと出て二人の元へと歩いて行く。

 まあ、由比ヶ浜には由比ヶ浜の言い分があるのだろう、文句なら後でいくらでも聞くので、とにかく今は勘弁して欲しい。

 ああ、そんな事を考えていたら、心の準備をする暇がなくなってしまった……。もう今更引き返すこともできない。

 既に視界の先で一色と葉山が俺の到着を待っている。

 だから、俺は歩みを止めること無く、二人の元へと近寄り少し大げさな程に右手を上げて、声をかけた。

 

「よ、よぉ、い、いろハ。遅イジャァナァイカァ?」

 

 いかん、思いっきり声が裏返って下手くそなル○ンのモノマネみたいになってしまった。

 俺は慌ててゴホンゴホンと一度咳払いをしてから、もう一度仕切り直そうと更に一歩歩みを進める。

 

「あ、センパイ♪」

「やあ、比企谷奇遇だな」

 

 そうして俺が仕切り直そうとするより早く、一色が俺の左手を絡め取り距離を詰めてくると、葉山もそんな一色をカバーするように、俺の方へと向き直った。

 イカンイカン、もっと自然に動かなければ。

 

「な、ナんで葉山がココにいンの?」

「ああ、実は一色さんに今度の試合の応援を頼んでたんだ」

 

 なんとか俺が自然に会話を繋げていく。

 そう、ここは重要な局面だ。

 作戦の第三段階にして、今回の肝ともなる部分。

 俺は出来るだけ周囲の一年女子が俺達の方に視線を向けているのを確認すると、一度大きく息を吸ってから、今日一番の爆弾の準備へと取り掛かる。さて、上手いこと爆発してくれよ……?

 

「オイオイ、人のカ、カ……カノ、彼女に声を掛ケルなら先に俺に話を通してくれよー」

 

 俺はそう言って一色の腰へと手を回し、自分の方へと引き寄せると、一瞬一色の教室がザワついたのが分かった。

 どうやらちゃんと聞いていてくれたらしい。

 良かった、こんな恥ずかしいセリフもう一回言えって言われたらどうしようかと思った。

 

 そう、俺の考えた作戦とは──

 

 

──────

 

 

──────

 

 

──────

 

 

「──偽装彼氏?」

「ああ、当面の一色の目当てが葉山ではないということを周知させる」

 

 俺の発言に、一瞬奉仕部の部室がざわついた。

 女子の方が圧倒的に多いというのもあって完全にアウェーの空気だ。

 とはいえ、今更取り消すこともできないので、俺は言葉を続けていく。

 

「特定の相手と一緒だったと証明出来れば噂の否定にもなるからな……それでも、後から『別れた』って噂も流しやすいように葉山より見劣りして、出来るだけクズだって印象付けられるといい、傍から見て『なんであんな奴と付き合ってるんだ』って思わず一色に同情したくなるような相手だとベストだ」

 

 そうすることで一色が葉山狙いどころか、良く分からない男に騙されているのではないか、という同情心を芽生えさせようという寸法だ。

 もちろん中にはその事で逆にマウントを取ってくる奴も出てくるだろうが──

 

「そんな事で噂が消えるの……? むしろもっと酷いことにならないかしら?」

「当然、それだけじゃ噂を打ち消すのには弱い。これはあくまで一色が昼休みに消える理由が葉山目当てではないという証明のため。だからそれとは別で葉山にはもう一度一色に頼み事をしてもらう」

 

 そう、ここでイケメン葉山様の登場である。

 

「頼み事?」

「ああ、一色には利用価値があり、葉山にお近づきになれるチャンスがあると思いこませる」

「例えば? 分かりやすく言ってくんない?」

 

 三浦のつっけんどんな質問に、一瞬だけ気後れしつつも俺は指をくるくると回しながら考える。

 具体的な案は後で詰めれば良いと思っていたので、この時はまだ口実を考えていなかったのだ。 

 

「あー、そうだな……例えば、葉山が一色に『女子を紹介してくれ』って頼むとか……?」

「はぁ? そんな事したら隼人に近づく一年が増えるだけじゃん」

「いや、そうとも限らないだろ。最初の数人を一度不特定のグループで相手すればソコからは増えないはずだ。そいつらだって葉山への印象を悪くしたくはないだろうからな」

 

 実際、一色も葉山に『誰も紹介しないでくれ』と頼まれた訳では無い。

 さっさと紹介していれば今回のような騒動にもならなかった可能性すらある。

 では、なぜそうしないのか? と言われれば、そうすることで相手に悪印象を持たせる可能性が高いと思ったからだろう。

 ならば、ワザワザ葉山に近づけたというアドバンテージを得た女子がその優位性を気軽に手放すようなことをするとも思えない。

 

「そもそも、自分からアピールできるような人間なら誰かに紹介してもらうなんてまどろっこしい手は使わないだろうしな、一度葉山と話す機会を作ったとしてもその後も葉山からの連絡待ちで自分から近づいて行く確率は低い。最悪LIKEのIDを渡さなければ面倒くさいことにはならんだろ」

 

 俺がそう言うと、何人かそういう人間に心当たりでもあるのか、三浦達も言いたいことは分かるという雰囲気を漂わせてくる。

 これは想像でしかないが、恐らく葉山自身これまでの人生で同じような手法で自衛はしてきたのではないだろうか?

 相手にある程度の満足感を与え、フェードアウトする。

 そうでなければ、葉山の周囲はもっと凄いことになってるはずだし、毎日LIKEの返信で寝る間もなくなっているだろうからな……。

 つまり、俺の提案は葉山にとっては日常の一部。

 

「まあ、一度でいいなら」

「隼人……!」

 

 それが俺の予想通りだったのかは分からないが、やがて葉山は渋々という風で了承の意を見せてきた。

 葉山自身、そうすることで一色の非日常を打開できるのであれば、という打算もあったのだと思う。

 まあ、そのことを俺が指摘するのは少々狡いやり方だったとも思うが、責任の一端が葉山にある以上、このぐらいの協力はしてもらいたい。

 要は自分のケツは自分で拭けということだ。

 

「なるほど、確かにそれほど悪い手ではなさそうね。それで、その一色さんの相手役は誰がやるのかしら? この場に葉山君以外の男性は一人しかいないのだけれど……?」

 

 そうして葉山からの同意が得られると、次に雪ノ下がそんな疑問を投げかけてくる。

 同時に部室の全ての視線が俺に集まってきた。

 この言い方だと、まるで俺がそのポジションを狙っていたみたいで嫌なのだが……今から誰かに頼むってのもなぁ……。

 情報が漏れては元も子もないし、実際一色が昼休みの多くを俺と過ごしていた事実だ。

 それに、一色の本心(・・)を考えるなら後腐れがなく、いざという時に口裏も合わせやすい奴なんて……材……いや、一人も思いつかないしな。

 こういう時ボッチはボッチを痛感して悲しくなるのだ……。

 

「……外部に依頼するっていう手もないわけじゃないが……ここは俺がやるしかないだろ……まあ、色々不服なのもわかるし、正直……リスクがないわけじゃない。やるかどうかはそっちで決めてくれ」

 

 勘違いされても面倒くさそうなので、俺がそのポジションを狙っているわけではないという事をアピールしつつ、決定権をその場に放り投げる。

 一色は先程から顔を伏せているので、その表情は伺い知れない。

 噂のことを知られたのが、余程ショックだったのだろうか?

 それとも、こんな案しか思いつかない俺に失望しているのだろうか? そんな事を考えながら審判の時を待っていると、やがて部室に大きな声が響き渡った。

 

「反対反対反対! そんなの絶対駄目に決まってるじゃん!!」

 

 

──────

 

 

──────

 

 

──────

 

 とまぁ、ここまでが俺の作戦だ。

 俺が一色の教室の前で『彼氏』宣言したことで、今俺の背中には夥しい数の視線が突き刺さっている。

 一目見てやろうという野次馬根性がほとんどだろうが、とりあえず一色の目当てが葉山ではないと周知させることには成功したのではないだろうか?

 そう、もう一度言うが一色は今──一時的に──俺の彼女なのだ。

 

「分かってるさ、悪い。一年で頼れそうなのが一色さんぐらいしか思いつかなかったんだ。比企谷にも頼もうと思ったんだけど見当たらなかったからさ」

「次からはちゃんと……か、か、彼氏の俺に話を通してくれよ。ほら、い、い、いろは行くぞ。遅れた罰として飯奢れよ」

 

 だから、ここからは作戦の最終段階、作戦が失敗した時の保険ともなる、俺がクズであると認識させるターンだ。

 ある程度独占欲を見せておけば、今後一色が『葉山を紹介してくれ』と頼まれたとき『彼氏が嫉妬深く男の連絡先を消された』とでも言って断ることも出来るしな。

 それに加え後輩の、それも彼女に理不尽な理由で飯を奢らせるという最低ムーブ。

 一般的な感性を持っていればコレで多少の同情はしてくれるだろうし、失敗したときもコレまでの一色の行動は全部俺のせいだったと責任をなすりつけられる。

 上手くいったらいったで、一色のタイミングでいつでも切れるように『別れて当然』だったという空気も作れるしな。

 我ながら完璧な作戦だ──

 

「は~い♪ 大丈夫ですちゃんとお弁当用意しておきましたから♪」

「へ?」

 

 完璧な作戦──だったはずなのだが……おかしい。

 なぜ俺の目の前に弁当箱大の巾着袋がぶら下がっているのだろう? しかもニ個も。

 あれ? 一色さん?

 作戦概要伝えましたよね? なんかメチャクチャいい笑顔してるけど……完全にムーブ間違えてますよ?

 これだと俺が単に一色の弁当を待ちきれずに来てしまった食いしん坊キャラになってしまうのでは……? 

 

「お、おう、そうか。それじゃ、早く食おうぜ」

 

 とはいえ、ここでソレを口にするわけにもいかず。

 俺はなんとかアドリブ対応でその場を乗り切ると、そのまま一色の手首を握りこの場から立ち去ろうとする。

 しかし、何故かその手を離されてしまった。

 またしても想定外の展開、思わず「へ?」と戸惑う俺だったが、一色は次にするりとその掌を俺の手と重ねると、俺の指の間に自らの指を一本一本スルリスルリと滑り込ませるようにして握り込んでくる。

 

「はい、それじゃ葉山先輩失礼します。あ、応援の件は一応何人か声掛けておきますけど、あまり期待しないでくださいね? 私友達少ないので」

「ああ、頼むよ。比企谷、あまり可愛い彼女のことイジメるなよ?」

「お、おう……」

「行きましょセンパイ♪」

「お、おう?」

 

 何故一色がそんなことをしたのかは分からなかったが、ここで不自然な動きをするわけにもいかず俺達はそのまま教室を後にして廊下を歩き始める。

 取り残された葉山は俺達とは反対の──由比ヶ浜達がいる方向へと戻っていった。

 これで任務完了である。作戦成功だ……成功なのか?

 まあ、あとは一年女子がどう動くかというトコロなので、結果を待つしか無いか……。

 

「センパイ……、もうちょっと自然にやってくださいよ……バレるかと思ってヒヤヒヤしました」

「うるさいな、ちょっと緊張したんだよ、わざとだよ」

 

 本当にコレで良かったのだろうかと、首を傾げる俺だったが、一色はそんな俺を見ながら、ダメ出しをして来た。

 いや、俺としても少し緊張しすぎていたという自覚はあったが、そんなにやばかっただろうか?

 

「コホン……まぁ……とりあえず、これで何人か声かけて葉山の応援に行けば、噂も収まるだろ」

「でも、いいんですかね? 葉山先輩に迷惑かけちゃいそうですけど……」

 

 とはいえ、これ以上この話題を続けても、俺に勝ち目はなさそうだったので、話題を逸らしそう言うと、一色は少しだけ申し訳無さそうに廊下を振り返った。

 

「いいんだよ、本人も納得済みなんだしな」

 

 葉山としても、一色に悪いことをしたという意識もあったのだろう。

 もちろん、アイツが理不尽だと思う部分がないわけじゃないだろうがそこは有名税みたいなものだ。この場合イケメン税だろうか。

 しかし、いくら俺がそう言っても、一色はあまり納得していない様子だったので、俺はもう一度話を逸らすことにした。

 

「……というよりな、なんで今回の事隠してたんだ? 普段面倒事押し付けてくるくせに。いつもだったら相談してくるような内容だろ」

「……だってそれは……」

 

 それは噂のことを知ってからずっと俺の中に燻っていた疑問だった。

 というのも、最近の一色は何かというと俺を頼ってくる。

 先日のテニス部の件だってそうだ、結果俺がなんとか出来たから良かったようなものの、部活での騒動ならばわざわざ俺を頼るより雪ノ下やテニス部の顧問にでも相談したほうがてっとり早かった可能性だってある。

 ワザワザ無関係な俺に相談する意味がない。

 

 なのに、今回は噂のことすら話にも出なかった。

 それも一ヶ月以上もだ。

 そこに何か含みでもあるのではないかと勘ぐってしまうのも仕方がないというものだろう。

 

「……だって……」

 

 だから、俺としては気軽に口にした問いかけのつもりだったのだが。

 これもまた、俺の話題の選択ミスだったらしい。

 一色はするりと握っていた手を離すとその場に立ち止まり、顔を伏せて、俺と一歩だけ距離を取る。

 

「だって、こんなガチのやっかいごとセンパイに知られたら引かれちゃうかもって……普通に重いって思われたらどうしようって思ったら……相談なんて出来るわけないじゃないですか……」

 

 そして、少し困ったように、それでいて少し泣きそうな顔のまま笑ってそう言った。

 その瞬間、俺の心臓がドクンと跳ねる。

 不整脈だ。

 

「……ばーか、考えすぎなんだよ……」

 

 今更何を。とか。

 いじらしい奴だな。とか。

 後輩らしい可愛いとこあるじゃないか。とか。

 ……守ってやりたい……とか。柄にも無いことも含めて色々な考えが頭に浮かぶが、上手く言葉にならなかったので、俺はそう言ってコツンと手の甲で一色の前髪越しに額を軽く小突くと、再び一色の手首を取って、引っ張っていく。

 

「……今度からはちゃんと相談しろよ?」

「えへへっ、はいっ!」

 

 すると一色は何が嬉しいのかニコニコと笑い、叩かれた額を嬉しそうに擦りながら、そのまま俺の後を着いて来た。

 ああ、なんだか妙に体が熱い。

 腹が減っているせいだろうか? 気がつけば昼休みももう半分を過ぎている。

 由比ヶ浜たちも今頃教室で飯を済ませている頃合いだろうか?

 終わったら合流という話だったが──まあいいか、一色に伝えなければならないこともあるし今日はこのままベストプレイスに向かうとしよう。

 

 

*

 

*

 

*

 

 

 それから、俺たちはいつものようにベストプレイスで昼食を摂った。

 意図せず今日は一色の手作り弁当である。

 

「どうですか? センパイ? おいしいですか?」

「ああ、まぁ美味い、な……」

「えへへ、良かった。明日も作ってきますね♪」

「いや、それは……」

 

 例の噂がなくなったかどうかはマダ分からないというのに、今日はやけに上機嫌な一色。

 以前もこんな会話をした気はするが、こいつに昼食与奪の権利を奪われるのは色々な意味で今後に不安が残るのでなんとかして断りたいところだ……。

 

「あー、そういえばな」

「はい?」

 

 このまま普通に断っても一色が納得しないのは最早分かりきっていることだったので俺は一色の問いへの明確な回答を避け、今日何度目かの話題逸らしをすることにした。

 どうしても伝えておかなければならないことがあったのだ。

 

「戸塚、男だったわ……」

 

 俺の衝撃の告白に一色は呆れたようにぽかんと口を開けると、一色は一瞬だけ真顔になると、俺に向き直る。

 

「……ようやく理解してくれたんですか?」

 

 少しだけ怒ったようなその口調にビビリ、俺は思わず「……はい」と小さく返事をする。

 そんな俺に一色はハァと小さくため息を吐くと「それで、私に言う事ないんですか?」と圧を掛けてきた。

 まあ、この件に関しては俺が全面的に悪いので仕方がない。

 

「ごめんなさい……」

 

 だから、俺はそういって素直に頭を下げる。

 すると、一色は「しょうがないですねぇ」と大げさなほどに大きく頷いてから、俺の後頭部にポンと手を置いた。

 

「センパイだから、特別に許してあげます♪」

「そりゃどうも……」

 

 俺が頭を上げると、一色はそう言って最後にウインクを投げつけてくる。

 少しだけ調子に乗っている一色に、正直『こいつ……相変わらずあざといな』という思いがあったが、その時の俺にはその笑顔があまりにもその……可愛く思えてしまったので……それ以上何も言うことが出来ず、そのまま弁当箱に顔を突っ込み、白米をかき込んでいったのだった。




というわけで解決編。いかがでしたでしょうか?
今回は割りとよくある展開というか、皆様の予想の範疇だったのではないかと思いますが……期待外れになっていないかと少々ドキドキもしております

一応コレでチェーンメール(メールとは言っていない)編は終了
次回はいよいよあの人が登場……したら良いですね!(願望)

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第89話 積極性バツ

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここすき、etc ありがとうございます。

ちょっと(?)遅刻しました。



 どたばたと慌ただしい日々が続き、気がつけば中間テストまで後一週間。

 多くの部活は活動を休止し、職員室への生徒の出入りも禁止される期間へと突入していた。

 

 教室内にはテスト前独特のピリピリとした空気が漂い始め、あちらこちらで「ノート貸して?」「範囲どこまでだっけ?」なんていう会話が繰り広げられている。

 当然、そういった発言をしているのは成績に自信のない、比較的余裕のない生徒たちだ。

 私含め──。

 

「結衣ー、今日皆で勉強会するけどアンタどうする?」

 

 そんな私に、ある意味では救いの手とも言えるような声がかけられた。

 声の主は私の所属するグループのリーダー的存在、三浦優美子。彼女の後ろには既に帰り支度を済ませている姫菜や隼人くん、戸部っちの姿もある。

 彼女の言う『皆』というのは『いつものメンバーで』という意味なのだろう。

 当然、そのメンバーの一員である私も、いつもだったら一も二もなくその誘いに飛びついていたところだ。

 でも、その日は非常に、そのなんというか……タイミングが悪かった。

 

「あー、ごめん。今日はゆきのんに勉強教えてもらうって約束しちゃったんだよね……」

 

 こういう断り方をするのは今年に入って二度目。

 前にもゆきのんとお昼を食べるからって、優美子の誘いを断ったことがあったんだよね。

 その時の優美子はあまりいい顔はしてくれなくて……私を迎えに来てくれたゆきのんと喧嘩みたいになっちゃったのを今でもよく覚えている。

 まあ、最終的には優美子も私の言い分を理解してくれて、事なきを得たのだけれど、二度目の今回もそうだとは限らない。

 だから、また前回みたいに責められるんじゃないかって少し不安になっていた……。

 

「あっそ」

 

 だけど、優美子はそっけなくそう言うだけで、特に気にする風でもなく私から視線を逸し鞄を持ち上げるだけだった。

 そのあまりにもそっけない態度に、もしかしたら愛想をつかされてしまったのかと不安にもなりながら、責められなかったという安堵感とほんの少しの寂しさもあって、私は思わずポカンとその場に立ち尽くしてしまう。

 

「どしたの? 約束あるんじゃないの?」

「あ、う、うん。本当にごめんね。また誘って」

 

 そんな私を不審に思ったのか、姫菜が怪訝そうに首を傾げ私を見てくる。

 いけないいけない。寂しがってる場合じゃなかった。

 今は急いでゆきのんのところへ行かなければならないのだ。

 ゆきのんは割りと時間にウルサイところがあるから、こちらもこちらで遅れたら何を言われるか分かったものではない。

 私は別れの挨拶もそこそこに「ごめんね」と鞄を持って教室を出ようと駆け足で教室の扉へと向かう。

 

「ヒキオはどうする?」

「へ? 俺?」

 

 その瞬間、優美子が別の人物へと声をかけた。

 それは意外な人物。

 思わず私も「え!? ヒッキーも行くの!?」と足を止め、振り返ってしまう。

 

「いや、俺今日バイトだから……」

「あんたテスト期間ぐらいバイト入れるのやめたら?」

「そういう訳にもいかないんだよ……」

 

 でも、ヒッキーは何故自分が誘われたのかわからないとでも言いたげ表情で面倒くさそうにそう断ると、鞄を肩に引っ掛けるようにして私の方──正確には教室の出口──へと歩いて来た。

 

「ヒ、ヒッキー!」

「ん?」

 

 突然のヒッキーの接近に、私は思わず声をかけてしまう。

 でも、自分がなんでヒッキーを呼び止めたのかは分からなかった。

 いっそこのままゆきのんとの勉強会に誘ってみるか?

 あれ? でもヒッキー、バイトだって言ってたよね?

 えっとえっと……何か言わなきゃ……! 私は「あ、えっと、その……」と頭をフル回転させ、次の言葉を考える。

 

「バ、バイト! 頑張ってね!」

「おう、サンキュ」

 

 そうして、ようやく捻り出した言葉を聞くと、ヒッキーは鞄を持った方の手を軽く上げ去っていった。

 なんで、ヒッキーに声をかけるだけでこんなに心臓がドキドキするんだろう?

 ほんの少し前までは、もう少し普通に話せてたはずなのにな……。

 そんな事を考えながら、私はそのまま小さくなっていく彼の背中を眺め、高鳴る心臓を抑えながら、ゆきのんとの待ち合わせ場所へと向かったのだった。

 

***

 

「それで、一色さん? その後クラスの様子はどうなのかしら?」

「クラスの様子って?」

「例の噂のことよ」

 

 私が待ち合わせ場所──部室に辿り着くとこっちはこっちでいつものメンバーが揃っていた。

 ゆきのんといろはちゃん。

 去年まで話したことのない二人と今、同じ部に所属し毎日のように顔を合わせているというのは改めて考えてみると少し不思議な感じもする。

 あ、でもいろはちゃんとは文化祭のとき少し話したんだっけ。

 あの時の子が、まさか後輩になって、しかもその……ライバルになるなんて人生って本当何が起こるかわからないものだ。

 

「やっはろー! ゆきのん、いろはちゃん。何の話してるの?」

「あ、結衣先輩どうも」

「こんにちは由比ヶ浜さん。一色さんの噂がその後どうなったのか、比企谷くんの案で問題がなかったのか確認していたのよ」

 

 未だコチラに気づいていなさそうな二人に向かって、私が声をかけると二人がこちらに振り向き、そう説明してくれた。

 つまり、先日のいろはちゃんへの悪い噂はどうなったのか? ということだろう。

 それは、私もとても気になっていたことだったので「あ、それ私も気になる!」といろはちゃんの横に並ぶ。

 

「だから、何も問題なんてありませんってば。最近は変な目で見られることも減ってきてますし。寧ろセンパイの事聞いてくる人で煩いぐらいですよ」

 

 そういういろはちゃんの顔はやけに得意げで、そして楽しそうだ。

 少なくとも無理をしている、とかそういう感じではない。

 恐らく、ヒッキーが考えた偽彼氏作戦はそれなりに効果を発揮したということなのだろう。

 その事に私もほっと胸をなでおろす。

 同じ女の子としても、先輩としても、いろはちゃんのあの噂は許せるものじゃなかったからね。

 

「やっぱりセンパイって凄いですよね。あ、ちなみに知ってます? そのセンパイって今私の彼氏なんですよ? か・れ・し」

「フリだけどね! フ・リ!」

 

 とはいえ、「ふふーん」と自慢気に胸を張るいろはちゃんを見ているのはほんの少し、本当に少しだけだけどイライラしてしまう。

 全くヒッキーってばアレ以外に何か、噂を消す方法を思いつかなかったのだろうか?

 まあ、私も何も思いつかないから人のことはいえないんだけど……。  

「なんですか? 結衣先輩羨ましいんですか? そりゃセンパイは格好良いし、頼りになるしで彼氏にしたくなる気持ちはわからなくもないですけど、誰かに譲ってあげるほどお人好しじゃないのでごめんなさい」

「べ、別に! 羨ましくなんかないし!」

 

 正直に言えば少し羨ましい。

 多分私はヒッキーのことが好き……なのだと思う。

 多分、というのは自分自身よく分かっていないから。

 だって、人を好きになるのなんて生まれて初めての経験なのだ。

 サブレを助けてくれたから、なんて理由で人を好きになるほど私も単純じゃない……はずだし。

 実際、一年の頃はなんだか目が腐ってて、怖い感じの人だなって思ってたぐらいだしね。

 

 クッキーを渡したあの日だって別に告白なんてするつもりはなかった。

 言いたかったのはあくまでお礼の言葉。それと『同じクラスになったからこれからよろしくね』っていう挨拶と、お礼が遅れたことへのお詫び。

 いろはちゃんに色々言われすぎて、緊張とパニックで思わず変なことを口走りそうになっちゃったのは確かだけど、本当にそんなつもりはなかった。

 

 でも……。

 でも、改めて考えてみると。

 去年一年、話すきっかけがないかなって、ヒッキーのコトを探していたのは事実で、気がつけば自然と目で追っていて……。

 いろはちゃんの好きな人がヒッキーだって知ったときに気づいたのは、チクリという小さな胸の痛みと焦っている自分。

 

 多分、自分でも気づかないうちに少しずつ、ヒッキーの存在は私の中で大きくなっていったんだと思う。

 それが、決定的になったのは多分あの日……。

 私たちが彩ちゃんから依頼を受けて、優美子や隼人くん達にテニスコートを使わせて欲しいと詰め寄られた時のこと。

 あの日のヒッキー……凄かったなぁ。

 いろはちゃんに頼られてるヒッキーはなんだか妙に頼もしくて。

 ぱぱっと問題を解決して去っていくヒッキーは本当に格好良くて……。

 

 やっぱり好き──なのかもしれないって思ってしまった。

 

 もし、クッキーを渡したあの日、私がいろはちゃんの言葉に流されて、口を滑らせてしまっていたらヒッキーはなんて答えていたのだろうか?

 もし、もう少し早くヒッキーに会いに行っていたら、いろはちゃんより一歩リード出来てたりしたのだろうか?

 なんて……。

 

「とりあえず出ましょうか。あまり残っていると怒られてしまうわ」

「う、うん、そだね」

「はーい」

 

 そんなどうしようもないことをグルグルと考えていると、ゆきのんの言葉で現実に引き戻される。

 いけないいけない、とにかく今日はテスト勉強をするんだ。

 私はモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、ゆきのん達に続いて部室を出ると、三人で昇降口へと向かって行ったのだった。

 

*

 

「それで? どこでやるつもりなの?」

 

 校門を出たところで、そう問いかけてきたのはゆきのんだった。

 よくよく考えてみると勉強をするにしても場所を決めていなかったのだ。

 ふと思い浮かぶのはファミレスか図書館、それか私の家……?

 うーん、悩みどころだ。

 

「私は別にどこでもいいよ?」

「ファミレスとかでいいんじゃないですか?」

 

 どうやらいろはちゃんも同じ考えみたいだったので、私は「そうだね」といろはちゃんに同意し、頭の中で近くのファミレスを検索する。

 駅前のファミレスが一番近いが、もしかしたら優美子達と合流してしまうかもしれないので、出来たら少し離れたところの方がいいかな……。

 

「え、駅前だと混んでるかもしれないから、あっちのファミレスにしない?」

「あっちのって裏のですか? 結構距離ありますけど、どうします? 雪乃先輩」

「別に場所はどこでも構わないわ……というより、一色さん? そもそも今日は由比ヶ浜さんに勉強を教えるという約束で、あなたを呼んだ覚えがないのだけれど?」

 

 私の案に少しだけ難色をしめすいろはちゃんに、ゆきのんがそう問いかける。

 実を言うと、ゆきのんの言う通りで、私もなんでいろはちゃんが居るのかよく分かっていなかった。てっきりゆきのんが呼んだのかと思っていたのだけれど……この様子だとどうやら違うらしい。

 

「いいじゃないですか、私にも教えて下さいよ」

「あなたと私たちでは学年が違うでしょう?」

「だって……センパイが今日もバイトだなんて思ってなかったんですもん。それなら雪乃先輩に教わるのも有りかなって」

 

 てへっと舌をだして可愛らしく笑ういろはちゃん。

 私に妹がいたらこんな感じだろうか?

 ヒッキーが甘やかしたくなる気持ちも少し分かるような気がする。

 

「有りかなって……前々から思っていたのだけれど、一色さん? あなたもう少し年上に対する敬意というものを持ったほうがいいんじゃないかしら?」

 

 でも、ゆきのんはそうじゃなかったみたいで、続けて厳しい意見をいろはちゃんに投げつけていく。

 それでも負けないのがいろはちゃんの凄いところだ。

 「むー……」と眉を潜めながらも、一歩も引かないという姿勢でゆきのんと対峙している。

 

「でも……雪乃先輩って“雪”って入るぐらいだから冬生まれですよね? 誕生日って何月ですか?」

「……一月だけれど?」

「ほらやっぱり、私四月生まれなんですけど、たった三ヶ月違うだけで先輩後輩って結構不公平じゃないですか? 私だって、あと一ヶ月早く生まれてればセンパイと同じ学年になれたのに……」

 

 ココで言う『センパイ』というのは私たちではなくヒッキーのことを指しているのだろう。

 こういうとき、いろはちゃんは本当にヒッキーの事が好きなんだなぁと感じる。

 なんていうか、私たちの事を呼ぶときの『先輩』とはニュアンスが違うのだ。

 いろはちゃんが『センパイ』と呟くときは本当に可愛くて、まさに恋する女の子って感じで、多分その呼び方にこだわり、というか特別な思い入れが有るのだと思う。

 私もこれぐらい真っ直ぐに気持ちを表現できたら、状況が変わっていたのだろうか。そう思うと少しだけ羨ましいとも思ってしまう。

 

「それでも、私たちが年上なことに代わりはないでしょう。あなたが言っているのは単なる屁理屈よ」

「それは……そうかもですけどぉ……」

 

 それでも一歩も引かないゆきのんにそう言われ、いろはちゃんはまるで怒られたときのサブレのようにしょんぼりと肩を落とした。

 一瞬だけ場に沈黙が流れる。

 少し気まずい。

 まさか、本当にいろはちゃんを追い返すつもりはないと思うんだけど、どうにも雲行きが怪しくなってきた。

 ゆきのんはあんまり気にしてないみたいだけど、私はこういう空気がとても苦手だ。

 

「へ、へぇ、ゆきのんって一月生まれなんだ? ちなみに私は六月なんだ!」

 

 だからというわけでもないのだけれど、私はその場を少しでも和ませようと、そう言ってつい話題を繋げてしまった。

 でも、それがまずかった。

 

「六月? って、もうすぐじゃないですか、何日ですか?」

「じゅ、十八日、だけど……」

「じゃあお祝いしないとですね、ね? 雪乃先輩!」

「え……ええ、そうね……」

「じゃあ、今日の勉強会終わったらお誕生日会の日付も決めちゃいましょ! ほら、早く!」

「え、ええー!? 別にいいよそんな……!」

 

 私の言葉の意図を理解したのか、いろはちゃんもこのタイミングを逃すまいと一気にそうまくし立て、私たちの後ろに周り、背中をグイグイと押して来た。

 ゆきのんも「わかったから、そんなに押さないでちょうだい」とため息を吐きながらも、諦めたように歩き始める。

 どうやら、空気を変えることには成功したらしい。

 でも、これではまるで自分の誕生祝いを催促したみたいになってしまった。うう……私のバカ……。

 あまりにも考えなしに発言してしまった自分を責めながら、私はどうしたものかと言い訳を考えながら、二人と一緒に足を進める。

 

「──あ、あのね。だからそういう意味で言ったわけじゃなくて……!」

「分かってますよ……ってあれ? お米?」

 

 そうしてワイワイ騒がしく三人で歩き、信号で立ち止まると、突然いろはちゃんが道路の向こう側へと視線を向けそう声を上げた。

 「お米?」と、私とゆきのんもその視線の先を追うと、そこにはセーラー服を着た──恐らくは年下の──カップルらしき女の子と男の子がコンビニの看板の影に隠れるように腰をかがめ何やらコソコソと話し込んでいるのが見える。

 いろはちゃんの知り合いだろうか?

 

「げ!? いろはさん」

「げ、とか酷くない? って……え? 何々? デート? もしかして邪魔しちゃった?」

「違いますよ、塾の友達です……そちらこそ、お友達と一緒なんて珍しいですね」

 

 私たちが青になった横断歩道を渡り、その二人に近づいていくと女の子もいろはちゃんに気づき、「うぇぇ」とその可愛らしい顔を歪ませていく。

 私たち──いろはちゃん──に見つかったのが相当まずかったのだろうか?

 一方のいろはちゃんはというと、口元に手を置き、まるでお気に入りのおもちゃを見つけた子供のようにニヤニヤと笑みを浮かべている。

 こんないろはちゃんを見るのは初めてだ。仲が良さそうだけど……一体どういう関係なのだろう?

 ……友達? いやでも見た感じセーラー服で中学生っぽいし、もしかしたら妹とかだろうか? でもこの子……どこかで……?

 

「友達っていうか、部活の先輩」

「部活? ああ、色々な相談に乗ってるっていう、あのボランティア部の?」

「ボランティア部じゃなくて奉仕部ね。こっちが前に話してた部長の──」

 

 そうして、解決されない疑問を抱えながら二人のやり取りを聞いていると、奉仕部の話題が出てきた。

 どうやら女の子の方は奉仕部の存在を既に知っているようだ。

 やはり相当仲が良いのだろう。

 一体どんな話をされているのか、少し気になるところでもある。

 

「どんな話を聞いているのか、少し気になるけれど……部長の雪ノ下雪乃よ」

 

 ゆきのんも同じ感想を持ったらしく、ため息混じりにそう名乗ると、女の子の方は「わわっ」と少し慌てたように姿勢をただし「こ、これはご丁寧に」と頭を下げた。

 なんだか面白い子だ。

 

「それからこっちは……」

 

 続いて、いろはちゃんが私の方へと視線を向けてきたので、私も自己紹介をしなければと口を開く。

 でも私が何かを言うより早く、女の子が私の前で視線を止めて、少しだけ首を傾げていた。

 

「あれ? お菓子の人……?」

「お菓子の人?」

 

 そう言われた瞬間、私はようやく全てを思い出した。

 ああ、なんで忘れてたんだろう? 私のバカ!

 そうだ、この子は……!

 

「結衣先輩? お米のこと知ってるんですか?」

「おこめ?」

「おこめじゃないです! 小町です!」

 

 おこめちゃん改め小町ちゃんは不服そうにそう叫ぶと、ゆっくりと私の方へと視線を向けて来た。

 その瞳は少し不安気で、ともすれば忘れていた私を責めているように見えるのは、私が彼女のことを忘れていたという罪悪感のせいだろうか?

 

「……えっと、確か去年兄のお見舞いに来てくれた方ですよね?」

「う、うん。由比ヶ浜結衣です。あの時はどうも……」

「いえいえこちらこそ。髪の色が違うので勘違いだったらどうしようかと思いました」

 

 そう言われ、私はハッとした。

 そうか、人違いかもしれないと思われていたのか。去年のあの時はまだ髪を染めていなかったので、分からなくても不思議ではない。

 むしろ一度会っただなのに、よく私だと分かったものだと関心してしまう。

 さすがヒッキーの妹といったところだろうか。

 

「へぇ……お見舞い……」

「お、お見舞いぐらい行くでしょ?」

「そうですね、でも一年ぐらいお礼に行かなかった人を知っているので私からはなんとも……」

「うぐ……」

 

 改めてそう言われると辛い。

 私だって別に、行きたくなかったわけじゃないのだ、実際あの事故の後病院にも行ったし、家にも行った。でもそのどちらもタイミングが悪かったから、その後どうやって顔を合わせたら良いか分からなくなってしまったのだ……。

 

「えっと……ということはつまり、あなたは……」

「あ、申し遅れました小町は比企谷小町と申します」

 

 ゆきのんに促されるようにして小町ちゃんが自己紹介をすると、ゆきのんは『これで全て納得がいった』とでも言わんばかりに大きく頷いた。

 そう、彼女はヒッキーの妹さんだった。

 何故いろはちゃんがヒッキーの妹である小町ちゃんと仲が良いのかと言われれば……まぁ……多分……そういうことなのだろう。

 思わぬところでいろはちゃんとの差を見せつけられてしまい、気分ががくんと落ち込んでいく。

 

「なるほど……つまり、比企谷くんの妹さんなのね」

「あ、雪乃さんも兄のことご存じなんですね」

「良くも悪くも……ね……」

 

 ゆきのんの言葉に小町ちゃんは「あはは……」と力なく笑い、ため息を吐いてポリポリとこめかみを掻いた。

 もしかしたら自分のお兄ちゃんの話をされるのは少し恥ずかしいのかもしれない。私は兄弟がいないので、そういう感覚はよくわからないのだけれど。

 

「……んで、結局お米はこんなところで何してたの? デート?」

 

 そうして、一通り女の子の自己紹介が終わると、再びいろはちゃんがそう言って小町ちゃんの後ろの男の子へと視線を向けた。

 

「だからデートじゃありませんって……こちらはさっき偶然会った塾が一緒なだけの川崎大志君です」

 

 小町ちゃんの紹介に少しだけ悲しそうな顔をされた男の子の名前は川崎大志というらしい。

 当然、比企谷に続いて川崎と聞けば、私の中にもしかして? という考えが浮かんでくる。

 

「ども、川崎大志っす」

「川崎ってもしかして……サキサキの?」

 

 私のクラスで川崎といえばサキサキしかいない。

 川崎沙希。

 少し近寄りがたい空気を出しているけれど、長いポニーテールが特徴的なクールでとてもスタイルが良い、クラスでもかなり目立つ女の子だ。

 

「あ、姉をご存知なんですか? そうです川崎沙希は俺の姉です」

「へぇ、サキサキって弟さんいたんだ。私、今年から同じクラスだよ」

 

 どうやら私の予想は当たっていたらしく、大志くんはサキサキの弟さんだった。

 言われてみると、確かに目元が似ている気がする。

 世の中って案外狭い。

 

「それで。その川崎さんの弟さんと比企谷くんの妹さんがこんなところで何をしていたのかしら?」

「あー……えっと……言わなきゃだめですか?」

 

 ゆきのんにそう詰め寄られると、小町ちゃんは罰が悪そうに視線を彷徨わせた。

 そういえば、さっきから誰かに見つからないように隠れてる感じだし、何か人に知られてはマズイことでもしているのだろうか?

 

「何? 何か知られちゃまずいことでもしてんの?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」

 

 よほど言いたくない事らしいが、そう言われると知りたくなってしまうのが人情というものなのだろうか?

 いろはちゃんはそれでも納得いかないらしく「じゃあ教えなさいよぉ」とジリジリと小町ちゃんを壁際へとおいやっていく。

 

「……実は、さっき俺の姉をみかけたんです」

「お姉さんを?」

「何々? どういうこと?」

 

 そんな小町ちゃんの様子を見かねて、助け舟を出したのは大志くんだった。

 確かに大志くんのお姉ちゃん──サキサキ──が関係していることなら小町ちゃんの口からべらべらと喋るわけにはいかなかったのかもしれない。

 でも、その大志くんの行動に小町ちゃんは「助かった」という表情を浮かべている様子ではなく、更に顔色を悪くしているように見えるのは何故だろう?

 

「実は最近、姉の様子がおかしくて……」

「様子がおかしいって、具体的には?」

「いやぁ、こういう個人的な事をお話するのは色々問題があるんじゃないかと……」

「心配しないで、守秘義務は守るわ」

「うん、奉仕部は色々なお悩み相談も受け付けてるんだよ。気軽に話してみて?」

「そうそう、もう観念してお姉ちゃんに話してみ?」

「いや、寧ろお義姉さん候補だから話せないというか……話さないほうが良いというか……」

 

 『おねえさん』の言い方が少しだけ引っかかるけど何やら歯切れの悪い小町ちゃんの物言いに、私もつい好奇心が勝ってしまい、大志君に視線を向け話の続きを促していく。

 

「えっと……具体的って言われると難しいんですけど、なんていうか毎日楽しそうで、夜遅くまで誰かとスマホで連絡してるみたいなんです……」

「それは、いつ頃からなのかしら?」

「今年の四月ぐらいからですね」

「つまり、由比ヶ浜さんと同じクラスになってからということね」

「私のせいなの!?」

 

 思わず大きな声を上げてしまう私に、ゆきのんは小さく「冗談よ」と呟いた。ゆきのんは意外とお茶目さんだ。

 

「っていうか、楽しそうなら別におかしいことなくない? 私も結構夜遅くまでスマホいじっちゃうし」

「ですね、彼氏が出来た可能性とかもありそうです」

「はい、俺ももしかしたらそうなのかなって思ったんですけど『んなわけないじゃん』って怒られて……」

 

 実際、大志くんの話におかしなところは何一つないように思えた。

 強いて言うなら、クールなサキサキが楽しそうにスマホをいじったり、男の人と会話をしている様子があまり想像できないというぐらいだろうか?

 一体何が問題なのかが分からない。

 

「あー……その……やっぱり、この話やめません? 大志くんもやっぱりこういうのは止めたほうが……」

「それで、そのお姉さんの話と今ここであなた達がこうしている事がどう関係しているの?」

 

 もはや小町ちゃんのことは完全にスルーしながら、ゆきのんがそう問いかける。

 

「はい、それでさっき偶然姉を見かけまして後を追っていたら、あの店に男の人と一緒に入っていったのが見えたんです」

 

 すると、大志君がそう言って路地の先──住宅街の方角にある一件のお店らしき建物を指差した。

 こんなところにこんなお店なんてあったんだ? 知らなかった。

 

「つまり……今あのお店で二人がデート中ということなのかしら?」

「そうなんです、だから相手がどんな人なのかだけでも確認しようと思ってたんですけど……小町ちゃんが……」

「いや、ほらこういうのはやっぱりプライバシーとかの問題もありますし、本人が話してくれるまでは放っておく方が良いんじゃないかなー? なんて……」

 

 なるほど、状況は大体理解した。

 確かに小町ちゃんの言い分も理解できないでもない。

 でも……正直好奇心の方が勝っている自分がいる。今すぐに見に行きたい!

 

「確かに、姉弟とはいえ、プライバシーは尊重されるべきだわ。本人が隠しているなら、無理に暴こうとしないほうがいいんじゃないかしら?」

「ですよね! ですよね!」

 

 しかし、ゆきのんは私とは違う感想を持ったらしい。

 ようやく賛同者を得られた小町ちゃんも嬉しそうにゆきのんの手を握り、ブンブンと振っている。

 こういう時、空気を読んでしまう私はつい「そ、そうだよね、良くないよね」と言いたくなってしまうのだけれど……。

 

「じゃあ代わりに私たちが見てきてあげようか?」

「え? いいんですか?」

 

 そんな空気も読まず、いろはちゃんがそう言って大きく名乗りを上げる。

 そして、私の心を見透かしたかのように、私の手を取って来た。

 

「結衣先輩も行きましょうよ! もしやばい人とかだったら心配じゃないですか?」

「あ、あー! そうだクレープ! クレープ食べにいきませんか!? 小町美味しいクレープのお店教えて貰ったんですよ!」

 

 当然、それに焦ったのは小町ちゃんだ。

 小町ちゃんはよほどいろはちゃんをあのお店に近づけたくないらしい。

 一体何が有るんだろう?

 

「何言ってるの、こんな面白そうな状況見逃すわけないじゃん。ほら、雪乃先輩! 結衣先輩も!」

 

 しかし、今更小町ちゃんが何を言ったところで諦めるはずもなく、いろはちゃんはゆきのんの手を取ってずんずんとお店の方へと歩き始めていく。

 こうなったいろはちゃんはもう誰にも止められない。

 それが分かっているからか、ゆきのんも諦めたように大きく一度ため息を吐くだけで、ソレ以上何も言わず、いろはちゃんに引きずられていった。

 

「ま、待ってよ二人とも!」

 

 ずんずんと先に進んでいく二人に置いていかれまいと、私も慌てて二人の後を追う。

 振り返れば、小町ちゃんと大志君が不安気に私たちを見つめていた。

 

「ごめんね、お兄ちゃん……小町はあまりにも無力だったよ……!」

 

*

 

 そうして、二人に見送られながら進むこと数十メートル。

 私たちは一件の喫茶店の前までやってきた。

 そこはチェーン店ではない個人経営のお店のようで、あまり大きくはないものの、南の島を彷彿とさせるデザインの外観に、カラフルな装飾のされた比較的私たちでも入りやすい装い。

 店の前に出されている手書きの看板にはチョークで『本日のおすすめ 手作り特製パンケーキ』と描かれている素敵なお店だった。

 なんなら今日はここで勉強会をするのも有りかもしれない。

 

「ここね」

「う、うん」

 

 そんな事を考えながら、私たちは恐る恐る窓から店内を覗き込む。

 あまりお客さんは多くないようだが、たしかに営業中のようで、カウンター内ではマスターらしき男の人がコーヒーを淹れている。

 カウンター席には年配のオジサンが一人。窓際の席にサラリーマン風の男の人が一人。学生が二人。

 そして、窓からギリギリ見えるラインの奥の席に見覚えのある顔が座っているのが見えた。

 勿論、サキサキがいるという話を聞いていたので見覚えのある人が居るのは当然なのだけれど……。

 

「ねぇ、アソコにいるのってもしかして……」

「そうね……」

 

 私の言葉に、小さく頷くゆきのん。

 やはり、私の見間違いではないようだ。

 そこには確かに私のよく知る人物。ヒッキーの姿があった。

 ヒッキーは対面の二人がけのテーブル席の片側に座り、もう片方に座っている誰かと話をしている。

 

「ねぇ、いろはちゃん、あれって」

 

 その事に気が付いた私は、思わず隣りにいるはずのいろはちゃんに声をかけた。

 けれども、いろはちゃんからの返事はない。

 というか、いろはちゃんがいなくなっていた。

 慌てて周囲を見回すが、背後には心配そうにこちらを見つめる小町ちゃんと大志くんの姿だけが小さく見えている。

 一体どこに行ってしまったのだろう?

 

「あれ? いろはちゃんは?」

「あそこよ」

 

 私がそう問いかけると、ゆきのんがそう言って店内を指差すので私は「え?」と、改めて店内へ視線を向ける。

 

 そこにはすでに店内に入りヒッキーの隣に立ついろはちゃんの姿があった。




というわけでガハマさん視点でした!

そして、今回は前回の予告通り皆様お待ちかねのあの人も登場!
拙作初登場“川崎大志くん”です!

イヤー、原作デモ屈指ノ人気ヲ誇ルキャラデスカラネ
「早く出せ出せ」という声が非常に多かった(幻想)キャラなのでようやく出せて一安心です
これで皆さんのヤキモキも少し解消デキタンジャナイカナ(棒)

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第90話 川崎沙希は友達が少ない

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字脱字報告他沢山のリアクションありがとうございます。

ポケモン楽しい!!



 その日の俺は、少しだけ機嫌が良かった。

 『めちゃくちゃ』とか『ものすごく』ではない。本当に『少し』爪の先ほどだ。

 理由については、まぁ……自分でも恥ずかしいのだが、放課後三浦に誘われた時の言葉が耳に残っているせいだろう。

 

『ヒキオはどうする?』

 

 それは常に俺の外側の世界にあった言葉。

 あんな言葉が自分に向けられる日が来るなんて思ってもいなかった。

 これまでも葉山グループから誘われることは何度かあったが、なんというかとても自然な誘い方で俺も一瞬答えに躊躇ってしまったほどだ。

 もしかしたら俺はもう既に葉山グループとして認識されていたりするのだろうか?

 もし、あそこで俺が「行く」と答えていたら、一体今頃どうなっていたのだろう?

 というか、そもそも……友達……なのか?

 

「……だったら今からでも行ってくれば?」

 

 そんな話を雑談がてら四人用テーブル席の向かいに座る川崎に語ると、川崎は呆れたように、それでいてどうでもよさそうにジトリと俺に睨みをきかせながらそうゴチる。

 その声色が少しだけ拗ねているようにも聞こえたのは、流石に俺の気の所為だろうか。

 いかんな、流石に少し浮つきすぎか。

 しっかりせねば。

 

「いや、今更合流ってのもおかしいだろ……こうして予定もあるわけだし……」

「……」

 

 ……おかしい。川崎との予定を優先させたという至極まっとうな解答をしたつもりなのに、俺が怒られてるみたいな感じになっているのは何故なのか。

 確かに、人生で初めての『勉強会に誘われる』というイベントに少しだけらしくない態度をとったことは認めるが、それはあくまで初めての経験に対する戸惑いのようなもの。

 そこまで目くじらを立てられる謂れはないと思うのだが……。

 何故か漂う気まずい空気に耐えきれず、俺は注文してあったコーヒーへと手を伸ばし、一口だけ口に含む。

 うむ、この店のコーヒーはマスターの拘りの豆を使ったかなり特別なコーヒーらしいが……やっぱマッカンの方が美味い。

 マスターには悪いが、やはりコーヒーはマッカンに限るな。

 

「ま、別にいいけど。とりあえず、これ今週分ね」

 

 そんな事を考えながら俺がチラリと川崎の方へと視線を向けると、川崎はそう言ってA4サイズのクリアファイルをテーブルを滑らせるように投げてきた。

 俺はそのクリアファイルが落ちないよう、左手で押さえつけるように止めクリアファイルの端を捲るようにしてその中身を確認する。

 あれ? 何か今の格好いいな。

 もしここがカウンター席だったら「あちらのお客様からです」とでも言っていたところだ。もう一回やりたい。

 

 そんなアホな事を考えていたせいだろうか?

 俺はその時、背後に忍び寄る“ヤツ”の気配に気がつくことができなかった……。

 

「セーンパイ♪」

 

 突然耳元で囁かれたその声に、俺は思わず肩を揺らす。

 あと数秒早かったら、口からコーヒーを吹き出していたところだろう。

 そんな事になれば今以上に川崎から白い目を向けられることは避けられない。

 俺はそうならなくて良かったと心底ホッとしながらも、恐る恐るそこに居るはずのない人物の声がした方角へと首を動かした。

 

 そう、居るはずがないのだ。

 先日“ヤツ”が教室に現れた時とは違い、今日はバイトだと言ってあるし、この店の事は一切話していない。だから、絶対に居るはずはないのだが……。

 何故かそこには“一色いろは”が佇んでおり、まるで仮面のような笑顔を貼り付けたまま俺を見下ろしていた。

 

「な、なんでお前がここに……?」

「わぁ、センパイがいるなんてびっくりぃ! 超偶然ですねぇ、折角だしぃ私もご一緒していいですかぁ?」

 

 一色は俺の問いかけには答えず、まるでお前に拒否権はないぞというようにパンと手を叩くと、そのままズリズリと俺を押しのけるように隣の席へと腰掛けて来る。

 その顔はまるで雑誌の表紙でも飾るのかと言うほど清々しい笑顔だが、どう見ても目が笑っていない。シンプルに怖い。というか怖い。あれ? なんか汗止まらないんだけど……? 風邪ひいたかな……?

 

「それでぇ、こちらはぁ、どちら様ですかぁ?」

 

 気がつけば二人掛けソファの壁際へと追いやられる俺。

 おかしい、余裕で二人座れるはずなのに三人位座っているのではないかと思うほど俺のスペースが狭い。

 しかし、一色はそんな俺のことなどお構いなしにそんな問いを投げつけて来る。

 あれ? なんでコイツ川崎の事知らないんだ? 

 確か文化祭で顔合わせていたようないなかったような……?

 

「どちら様って……覚えてないのかよ」

「へ? 覚えてない?」

 

 左半身に一色の体温を感じながら俺がそういうと、一色はそれまでの仮面のような笑顔から一転キョトンと可愛らしく首を傾げる。

 どうやら本当に覚えていないらしい。

 ああ、そういえば文化祭ではほぼ入れ違いになっていたんだったか。

 

「ほら去年の夏、スーパーで例のガムが盗品じゃないって証明してくれた店員がいただろ? あれが川崎だ」

「……え、あ!? 思い出しました! 文化祭でセンパイに“愛してる”って言われてた人!!」 

 

 俺の言葉に一色は分かりやすくポンと手をうつと、そんなどうでもいい情報を思い出し、プンスコと頬を膨らませた。

 寧ろなんでそんな余計な事を覚えているのか、本人も忘れていた黒歴史を掘り返すんじゃありません。

 まあ、とりあえず川崎のことも覚えていたようで良かった。

 一応は恩人だからな、もし本気で忘れられてたら場の修復不可能だったぞマジで。

 

「そのことは忘れていいから……ほら、ちゃんとお礼言いなさい?」

「……まぁ、そうですね。えっと。その節は助けて頂いてありがとうございました」

 

 まるで妹の世話をする兄のように俺がそう促すと、一色は背筋を但しペコリと頭を下げ礼を述べる。

 約一年越しの礼だ。

 もしかしたら千葉には助けてもらったら一年経たないとお礼を言えない呪いとかかかってるのかもしれない。いや、まぁ別に俺の方はいいんだけどさ……。

 川崎が変に突っかかったりしないといいけど。

 

「別にアンタの為にやったわけじゃないし、ってか本当にあの時の子? なんか随分キャラ変わってない?」

「へ? そうですか? 特に変わったつもりはないんですけど……」

 

 そんな俺の心配をよそに、川崎は分かりやすいツンデレのような返しをしながら一色の顔を覗き込んだ。

 川崎からするとあの時の凹んでいる一色の姿しか印象に残っていなかったのだろう。

 あまり気にしていなかったが、言われてみると確かに去年に比べると可愛げが出てきたというか、少しバカっぽくなっているようにも思う。

 こういうのも一種の高校デビューというのだろうか?

 

「ちょ、ちょっとなんですか二人して……! そんなに見ないでくださいよ……」

 

 そう思い、俺も川崎に倣って一色の顔を凝視していると、タイミングよくカランカランと店の扉が開く音が聞こえ、川崎と俺の視線が不意に入り口の方へと向く。

 すると、そこにはまた見知った女子二人が立っていた。

 

「や、やっはろー」

「どうも」

 

 由比ヶ浜と雪ノ下である。

 一色が呼んだのか? いや、それにしては早すぎるか。

 恐らく元々三人でどこかへ向かおうとしていた途中で俺を見かけて入ってきたといったところだろうか? と当たりをつけ、俺は頭を抱える。

 俺の新たなベストプレイスが台無しになる予感がしたのだ。

 

「いらっしゃい」

 

 そんな俺の心の内など知る由もなく、嬉しそうに由比ヶ浜達に対応したのは、この店のマスターだった。

 身長は百八十を軽く超える長身で顎に蓄えられた髭と、長い髪を後ろで纏めたポニーテールがトレードマークのナイスガイである。

 

「沙希ちゃん達のお友達かな?」

 

 そのマスターが、そう言ってチラリと川崎の方へと視線を送ると、川崎が「いえ、こっちの」と俺の方へと視線を向け立ち上がると、自分の席に置いてあったエプロンを拾い上げ、その場で着用しはじめた。

 どうやら、本来の仕事へと戻るらしい。

 まあ、どのみち今日はこれ以上の打ち合わせは無理か……。

 

「そっか、じゃあ相席の方が良いかな?」

 

 そんな事を考えていると自分の席を空けた川崎の意図を組んでか、マスターが由比ヶ浜達にそう問いかけた。

 勿論相席である必要性など全くもって皆無なのだが、既に一色が好き勝手に動いているという手前、由比ヶ浜と雪ノ下はどうしたらよいのかと俺の方へと視線を向けて来る……いや、俺に助けを求められても困るんだけどな……。

 

「こちらへどうぞ」

 

 そんな二人の迷いを察したのか、マスターはやがてニコリと笑うとそのまま由比ヶ浜たちを俺のいる席の方へと案内してきた。

 もともと、俺と川崎が座っていたのは四人がけ用のテーブルだ。

 向かいに座っていた川崎が居なくなったことで、丁度四人が座れるスペースが確保されている。

 

「んじゃ、あたしは仕事戻るから。後はごゆっくり」

「え? あ、ああ」

 

 いつの間にかエプロンを着用し終えた川崎は最後にそういうとマスターとすれ違わないよう遠回りでカウンターへと戻っていく。

 この店のウェイトレスであるはずの川崎はどうやら、自分で由比ヶ浜達の接客をする気はないらしい。

 まあ、マスターもマスターでなんだか上機嫌だし、自分で対応したがっているようにも見えるのでその行動はある意味では正しいのだろう。

 そうこうしているうちに、由比ヶ浜達が俺の前へとやってきて、そのままマスターに促されるまま俺の前の席──先程川崎が座っていた席──へと腰掛けていく。

 俺の隣に一色、正面に由比ヶ浜、その隣が雪ノ下だ。

 俺の反対の隣はパーテーションの壁なのでもはや俺がこの場から逃げることはかなわない。

 くそ、広いテーブルを使いたいからと四人席を利用させてもらっていたのが仇になったか……!

 

「こちらメニューになります」

 

 マスターはそんな俺の後悔を知ってか知らずかニヤニヤと楽しそうに俺にだけ見えるようにサムズアップを決めたかと思うと、そのままテーブルにメニューを広げ始めた。

 何かナイスなアシストでも決めているつもりなのかもしれないが、何一つ俺のためになっていない現状に早く気がついて欲しい。

 

「えっと、じゃあ私はコーヒーを……」

「私パンケーキ! 看板に書いてあったヤツ。あと……」

 

 そんなマスターの狙い通りなのかなんなのか、女性陣はやがてメニューに群がり好き勝手に注文をし始めた。

 流石にここまで来て何も注文しないのは失礼だと考えたのだろう。

 一色も慌ててメニュー表を凝視し、時折『今日、お財布にいくら入ってたっけ?』と考えるかのように視線を天に向ける。

 一応言っておくが、奢らないからな? ちゃんと自分で払えよ?

 

「何かオススメとかってありますか?」

 

 そう問いかけたのは由比ヶ浜だ。

 メニュー表をペラペラと捲りながら、マスターにそう尋ねると、一色も雪ノ下も同時にメニューから顔を上げマスターの顔を見上げる。

 すると、マスターは何が嬉しいのか待ってましたと言わんばかりにニヤリと口角を上げた。

 そして少しだけ腰をかがめると、メニュー表へと視線を落とし、メニューの下の方へと手を添え、自信有りげに一つのメニューを勧めていく。

 

「うちのオススメは特製パンケーキと……キューピッドだね」

「キューピッド?」

 

 その聞き慣れない──少なくとも喫茶店のメニューとしては聞き馴染みのない──名前に女性陣の好機の視線がマスターに集まっていくと、マスターは満足そうに一度コクリと頷いてから説明を続けた。 

 

「そう、恋に悩む若者がコレを飲むとあら不思議。忽ち恋のキューピッドがやってきて、その恋を成就させてくれる。そんな素敵なドリンクなんだよ」

 

 嘘である。

 キューピッドというのは分かりやすく言うとカルピスのコーラ割りだ。一応店に出すものなので、実際は他にも何か入れてはいるらしいが、この店の完全オリジナルというわけではなく。

 マスター曰く昔は関西方面の喫茶店にはよく置かれていたドリンクらしいのだが、時代とともに徐々に取り扱う店も減り、完全に無くなってしまうのは哀しいので自分で店を持った暁にはと若い子に勧めているという話を、ココに来た初日に聞かされた。

 つまり、恋愛成就の効能なんてものはないし。完全にマスターの趣味である。 

 

「私、それで!」

「わ、私も!」

 

 だが、マスターの狙い通り“恋愛成就”という言葉に踊らされる女子が目の前に二人いた。由比ヶ浜と一色だ。

 二人が勢いよく手を上げてキューピッドを注文したのを見るとマスターは「はい、キューピッドをお二つですね」とニコニコ顔で手元の紙に注文を書き入れていく。

 完全に鴨認定されているな。まあ、俺が飲むんじゃないからいいけど……。

 

「何?」

「いや、どんな反応するのかと思ってな……」

 

 そんな俺の様子を訝しんできたのは雪ノ下だ。

 まあ、雪ノ下はそういうの興味なさそうだもんなと思いつつも、俺も初めてここに来た時飲まされたなんて言えるわけもなく、俺は冷め始めたコーヒーを一口啜ることで、その場を濁した。

 

 キューピッドはなぁ……正直マズイとはいわないまでも美味いともいえない非常に反応に困る味わいだったことを覚えている。

 まあ、好みが分かれる味というのだろうか。少なくとも俺は二度目以降頼んでないし、川崎が飲んでいるところも見たことがない。

 だからこそ注文が入ったのが余程嬉しいのだろう、マスターはスキップ気味でカウンターへと戻っていき、その場に俺たち四人が取り残された。

 当たり前といえば当たり前の話なのだが……。

 改めて、この四人で集められているという状況に一瞬俺の頭が軽くパニックを引き起こした。

 えっと、なにこれ?

 俺どうしたらいいの?

 

「それで? その川なんとかさんと何してたんですか? 私今日はバイトだって聞いてたんですけど?」

 

 まるで裁判にでもかけられている心境で、俺が視線を彷徨わせていると、やがて一色がそう口火を切った。

 同時に、他の二人もウンウンと頷き、由比ヶ浜は俺を詰問するように身を乗り出してくる。

 何故そんなことが気になるのか疑問でしかないのだが……、まあ別に隠すようなことでもないしいいか。

 

「バイトだよ……一応な……」

「バイト? 川崎さんはともかく、あなたにバイト代が入りそうにはとても見えないのだけれど?」

「だよね、サキサキはちゃんとバイトしてるみたいだし……?」

 

 そう言いながら、雪ノ下達はタイミングよく注文されたコーヒーとキューピッドを運んで来る川崎へと視線を移し俺を責め立てる。

 一方、川崎は完全に仕事モードのようで丁寧にそれぞれの前にドリンクを並べていくと「ごゆっくり」と一言言うだけで去ってしまった。

 どうやら、俺を助けようという気はないらしい。

 この薄情者め。

 

「あ! もしかして、新商品の味見役とか?」

「そういうんじゃねぇよ、まあ、確かにバイト代は入らないんだが……」

「バイト代が入らない?」

 

 雪ノ下が首を傾げるのを横目に、一色と由比ヶ浜はそう言いながら運ばれてきたキューピッドにストローを差し込みその中身を吸い上げていく。

 

「わぁっ、ナニコレ美味しい!」

「うぇぇ……」

 

 次の瞬間、両極端な感想が両サイドから聞こえてきた。

 どうやら、由比ヶ浜の口にはあったらしいが、一色の口には合わなかったようだ。

 口元を手で押さえ、嫌そうにキューピッドを見つめている。

 由比ヶ浜はそんな一色を不思議そうに見た後「ゆきのんも一口飲んで見る? 美味しいよ?」と雪ノ下にキューピッドを勧めるが、雪ノ下は目の前の一色の様子をちらりと確認したあと「私はいいわ……」と由比ヶ浜の申し出を拒絶し、絶対に飲まないという意思表示なのかコーヒーカップを傾け、その口元を隠した。

 

「じゃあ……やっぱりバイトじゃないんじゃないですか」

「だから……その……バイトの一貫ではあるんだよ……」

 

 一色の顔が不服そうなのは果たして俺の解答が気に食わなかったからか、それともキューピッドが口に合わなかったからなのか。

 ぶすっとした表情で俺を見つめてくる一色に、俺がそう返すと突然、俺の目の前にあったコーヒーがスススっと動き始めた。

 何事かとテーブルへ視線を落とすと、俺のコーヒーが徐々に一色の方へと移動している。

 

「どういうこと?」

 

 バレないとでも思っているのか、雪ノ下の質問中もゆっくりと俺から遠ざかっていく俺のコーヒー。

 しかし、何がしたいのかイマイチよくわからなかった俺は一色の事は放っておいて雪ノ下の質問に答えようと、視線を上げる。

 

「まあ、話すと長くなるんだけどな……」

 

 そして、無意識に目の前のコーヒーに手を伸ばそうとすると、そこには熱いコーヒーカップではなく冷たいグラスの感触があった。

 どうやら、一色のやつキューピッドが口に合わなかったからと、俺のコーヒーと自分のキューピッドを入れ替えていたらしい。 

 アハ体験だ。

 ふと視線を横に向ければ一色が俺のコーヒーに砂糖とミルクを追加し、まるで自分が注文したコーヒーであるかのように飲んでいる。つまり、自分はコーヒーを飲むから、俺にはこっちを飲めということか……。

 今からでも回収は可能だが……はぁ……どうせコイツのことだ、何言ったって聞かないのだろう……。

 まあ、別に飲めないわけじゃないしな……。家でも作れそうだしワザワザ注文しようとまでは思わないだけで……。

 そう考えた俺は諦めて目の前に有るキューピッドへと手を伸ばし、再び考える。

 さてバイトのこと……どこからどう説明したものか……。

 

 そこで、俺は気がついた。

 ストローの先が僅かに濡れているのだ。

 あれ? これってもしかして間接キ──。

 

***

 

**

 

*

 

「あのさ……ちょっと……話あるんだけどいいかな?」

 

 始業式のあの日、川崎にそう言われた俺は完全にカツアゲを覚悟していた。

 川崎がそれを知っていたかどうかは分からないが、給料がでたばかりと言うのもあり、俺の財布はパンパンだ。狙うには十分の価値があっただろう。

 とはいえ、俺としても大人しく渡してやるような義理はない。

 

 平塚先生の助け舟もあり、その場は始業式が始まるということで川崎から逃げ、式が終わった後は一目散に帰路につこうと、イツでもダッシュが出来る状態で帰りのホームルームを迎えていたのだが……。

 

「比企谷、ちょっと」

 

 ホームルームの終わりと同時に、平塚先生からそんな声をかけられてしまった。 

 

「な、なんすか? 俺今日急いでるんですけど……」

 

 こちらはこちらで逃げ出したかったが、流石に目の前で呼び止められてしまっては逃げようがない。

 一体、今度は何用かと俺はビクビクしながら鞄を肩に担ぎ教卓で待つ平塚先生の方へと近づいていく。

 

「まあ、そう邪険にするな。君とはなんだかんだ長い付き合いになりそうだと思ってな」

 

 平塚先生はそういうと、それまでの楽しそうな表情から一変、真剣な眼差しで俺の目を見てきた。

 今更では有るが、平塚先生は性格はアレだが世間的には美人と言われる類の人間だ。

 こうして至近距離で真っ直ぐに見つめられると流石に少し照れてしまうな……。

 かといって、目をそらしたら負けな気もするので逸らすつもりはない。

 

「去年、君が事故にあったと聞いた時は最悪のことだって考えてたんだぞ? 見舞いに行ったときもまるで死んだ魚のような目をしてたからな。君が入学式に出られなかった事でどれほど落胆していたのか私は知っているつもりだ」

 

 そうして、俺が平塚先生の視線に耐えていると、やがて平塚先生はそんな訳のわからないことを言い始めた。

 確かに俺自身まさか初日に事故って学校に行けなくなるとは思ってなかったので多少落ち込んだのは事実だが、目が死んでるのは元々で別に事故のせいではない。

 

「そんな君が無事こうして進級できたことが私は嬉しいのだよ。その目も幾らかマシになっているようだしな」

 

 とはいえ、そんな事を知る由もない平塚先生はそう言うとまるで慈母のように微笑みながら、俺の頭にぽんと手をおいた。

 まるで小さな子供を褒めるみたいなその態度に若干戸惑いながらも、そういえば、ちょっと前におっさんにも似たような事を言われたな……と思考を飛ばす。俺の目、そんなに変わったんだろうか?

 鏡は毎日見ているつもりだが、自分では全くその違いがわからないんだが……。 

 

「確かにスタートは少し遅れたかもしれないが高校生活はまだ長い。何か困ったことがあったらイツでも言いなさい」

 

 それでも、平塚先生は言うべきことは全て言ったと言わんばかりに、いつもの表情へと戻ると、ふっと笑いながらその手を下ろし、最後に「おっと、時間を取らせたな。それじゃ、寄り道せずまっすぐ帰れよ?」と言って、スタスタと先に教室を出ていってしまった。

 結局何だったのかはよくわからないが、まあ、うん。悪い先生ではないんだろう……。

 今年はなんとなく、これまでと違う一年が始まる気がする。

 そんな予感とともに、俺も平塚先生の後を追うように教室を出た。

 

「終わった?」

 

 すると、教室を出てすぐのところで、壁に背中を預けた姿勢のまま川崎にそんな声を掛けられる。

 そうだ、俺はコイツから逃げるために急いでいたんだった。

 その事を思い出し、俺は仕方なく川崎の方へと近づいていく。

 

「な、なんかようでしょうか?」

「なんかって……話があるっていったじゃん」

「あ、ああ……そうだったな……」

「とりあえず外出ようか」

 

 俺の問いかけに、川崎はそう言うとスタスタと先を歩き始めた。

 徐々にその背中が小さくなっていくので、このまま付いていかなければ俺のことなど忘れてくれるのではないか? という一縷の望みを込め、少しだけその場にとどまっていると、やがて川崎は「何してんの?」と俺の方へと振り返り足を止める。

 やはり、もう俺に拒否権はないらしい。

 俺は仕方なく川崎の従順な奴隷のようにその背中を追い無言で歩き始めた。

 

 無言で廊下を抜け、階段を降り、昇降口までやってくると川崎が一度ちらりと俺の顔を見た。

 一体、どこまで行くつもりなのだろうか?

 やはりカツアゲの定番といえば体育館裏か?

 それとも、川原にでも連れて行かれるのだろうか?

 いざという時のためにスマホのGPS機能とかオンにしたほうが良いかしら? 

 

「あの、さ……」

 

 そんな事を考えながら靴を履き替えていると、川崎がとうとう口を開いた。

 

「バイト……紹介してくんない?」

「は?」

 

 その言葉に、俺は思わず首を傾げる。

 だって、そうだろう?

 何故俺がこいつにバイトを紹介しないといけないのか、というより、そもそも俺は誰かにバイトを紹介したことなんて一度もない。

 何故俺に頼るのか?

 もし本気でバイトを探しているのであれば、完全に頼る人間を間違えている。

 いや、もしかしてバイトというのはカツアゲの隠語なのだろうか?

 

「あんた、結構時給良いとこで働いてるんでしょ? カテキョだっけ?」

 

 しかし、そうして疑問符を浮かべる俺に川崎は遠慮がちに近づいてくると、続けて俺の耳元でそんな言葉を囁いた。

 川崎の──女子の吐息が耳にかかり、一瞬俺の背中がゾクリと震える。

 一体どこでそんな話を聞いたんだ?

 あ、そういえば俺が自分で口を滑らせたんだったか……。

 そう、確か例の万引事件の後、学校で川崎と話したときにそんな話をした記憶がある。

 

「いや、まぁ、時給が良いというか良かったというか……」

 

 時給が高かったのは夏休みが終わるまでの話だ。

 あの後すぐに時給は下がったし、そもそも俺はそのバイトを辞めているので川崎の期待に添うことはできない。

 いや、まぁ続けていたとしても普通のバイトではないので期待には添えないのだが……。

 

「つかスーパーで働いてたんじゃないのかよ、何? 辞めたの?」

「辞めたっていうか、潰れたよアソコ。秋ぐらいには新しいスーパーが入るって」

 

 それは初耳だった。

 駅の正面という最高の立地なので売上は良さそうだが……何か問題でも起こしたんだろうか。いや、確かに問題と言えば問題がありそうな従業員はいたが……。とにかく、今はスーパーのことより川崎のことだ。

 

「別に、俺に頼まなくてもバイトなら他にも色々あるだろ、金に困ってそうには見えないけど……なんか急いで金が必要な理由でもあんの?」

「……まぁ、そうだね」

 

 俺がそう聞くと、川崎は少しだけ深刻そうに顔を伏せたが、それでもはっきりとそう答え、同時に俺はしまったと後悔する。

 

「アンタだから話すけど……うちさ、下に弟と妹いるんだよね」

 

 突然始まる身の上話。

 それはある意味予想通りの展開でもあり、正直聞きたくないと思っていた類の話だ。

 だって、聞いたら引き返せなくなりそうだったし……中途半端に関わってしまうと俺の経験上ろくなことにはならない。

 

「妹はまだ小さいし、弟は今年受験で……その、お金のこととかさ……親は心配するなっていうけど、正直これ以上迷惑掛けたくないんだよ……」

 

 尚も動き続ける川崎の口を止める事はできず、俺はただその話を聞くことしか出来ない。

 というか、弟のことはどうでもいいとはいえ、妹の話と聞けば同じ妹好きーとして聞き逃す事はできなかった。

 

「でも、アタシやりたいことあってさ……大学も諦めたくないんだ……」

  

 川崎の言い分も全く理解できないわけではない、むしろものすごく共感してしまう。

 というのも、うちの親父は、俺より小町に金をかけると断言しており、俺自身進学のためにスカラシップを狙っている身なので、そろそろ勉学に力を入れなければとも思っているからだ。

 

「だからさ、もし割の良いバイト知ってたら紹介してもらえない?」

 

 真っ直ぐ俺を見つめる川崎のその申し出を断るのは簡単だった。

 繰り返すようだが、そもそも俺はもうすでにバイトを辞めているし、それは俺がクビになったとか、自主的に辞めたとかではなく、その必要がなくなったからに過ぎない。

 俺の後釜として川崎を紹介するなんていうことは不可能なのだ。

 だから断るしかないし、断るのが正解ではあるのだが──。

 

「どうしても無理っていうなら諦めるけど……」

 

 あまりにも真剣な川崎の瞳を見て、俺は少しだけ考える。

 これは偏見かもしれないが、女が金を手に入れる手段というのは男に比べると多いように思えたからだ。川崎は見た目も決して悪くないし、それこそ世の中には俺の知らないやばいバイトだってあるのだろう。

 そういったバイトに川崎が手を出すのではないか?

 間違った方向に走ってしまうのではないか? という思いが俺の中によぎる。

 別に川崎がどんなバイトをしようと、それがコイツの意思なのであれば俺がどうこういう権利はないし、止めようとも思わない。

 

 ただ、一応こいつは一色の恩人でもあるのだ。

 あの場にコイツがいなければ、一色は冤罪を掛けられたままだったかもしれないし、俺自身川崎に助けられた部分もある。

 それに何よりコイツの事情も知ってしまった。

 このまま知りません、分かりません、無理ですと断るのは簡単だが、どうにも後味が悪い。

 何よりけーちゃんが悲しむかもしれないしな……。

 だから俺は柄にもなく、つい安請け合いをしてしまった。

 

「……一応、聞くだけ聞いてみるけど……断られても文句言うなよ?」

「ああ、うん。それでいいよ、助かる」

 

 まだ何かが決まったわけでもないのに、川崎はそんな俺の言葉で肩の荷が降りたとでもいうようにホッとした表情を浮かべる。

 やはり、何か良からぬ手段を考えていたのかもしれない。

 それと同時に、俺の肩に重いプレッシャーのようなものが伸し掛かった。

 もしこれで駄目だったら、川崎は一体どんな手段を取るつもりなのだろうか?

 

 そう考えた俺は、川崎の眼の前でスマホを取り出し、とある人物へのコール音を鳴らした。

 とある人物なんて言っているが、勿体ぶるつもりはない。

 俺がこういう時頼れる人物なんて一人しかいないのだ。

 

「……おっさん? 今良いか?」

「おう、八幡か。構わんが、そっちから掛けてくるなんて珍しいな? どうした?」

「あー、その……実はちょっとおっさんに相談に乗ってもらいたいことがあって……」

「ほぅ……?」

 

 電話の向こうで、おっさんが低い声でそういったのを確認すると、俺は目の前の川崎に視線を送り、無言で頷いた。




というわけでいよいよ90話台突入!
あと10話で100話な今回は
川崎さんとの馴れ初め(?)回でした。

次回は久しぶりにあの人登場!?(またこのパターンか)

感想、お気に入り、評価、ココスキ、誤字報告、メッセージ等お手すきでしたらよろしくお願いいたします。


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第91話 招かれざる客?

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告etcありがとうございます。

現実世界ではとうとう十二月に入りましたが
作中時間は四月に戻りました
現実も戻れたら良いのにね……


 電話でおっさんに「会って貰いたいヤツがいる」と伝えるとタイミングが良かったのか「今すぐ連れてこい」と言われたので、まだ昼前だったというのもあり、俺たちはそのまま電車に揺られおっさんの家へと向かった。

 

「ねぇ、本当にアタシも付いていって良いの?」

「向こうが来いって言ってるんだから大丈夫だろ」

 

 根は真面目らしい川崎は、突然の展開に少しだけ戸惑い、警戒心を顕にしながらも俺の後をついてくる。

 完全に先ほどとは立場が逆転して会話も無く少しだけ気まずいが、なんだか人の家の猫を世話している気分だ。

 『ほ、本当ならアンタなんか頼りたくないんだけど、他に手段がないから仕方なく付いていってあげるんだからね!』とかそんな感じだろうか。

 まあ、別に俺が困るわけじゃないので嫌ならついてこなくてもいいんだけど。 

 

「ついたぞ」

「……でか……」

 

 そんな事を考えながら電車に揺られること数分、歩くこと数分で漸くおっさんの家の前に辿り着くと川崎が“思わず”という表情でそんな言葉を漏らし、門を見上げていた。

 気持ちはわかる。俺も初めてここに来た時は驚いたものだ。

 とはいえ、川崎にとっては驚きの豪邸でも、今の俺にとっては勝手知ったるなんとやら、女子の前で格好つけたかったという思いもあり、少しだけ優越感に浸りながら緊張した面持ちの川崎を横目に軽くチャイムを鳴らす。

 

「いらっしゃい」

 

 ピンポンという音が響くと、それほど時を置かずして女性の声と共に門の扉が開いた。

 声の主は楓さんだ、ニコニコと笑顔を浮かべたまま、おっとりとした所作でペコリと頭を下げ俺たちを迎えてくれている。

 だが……何故だろう? なんだかその笑顔がいつも通りというにはあまりにも作り物のようで……少しだけ違和感を覚えた。

 もしかして……突然来たから怒っていらっしゃる?

 

「ど、ども。あの急にすみません、おっさんと約束してるんですけど──」

「ええ、話は聞いているわ。こんな所ではなんですからとりあえず上がってくださる?」

 

 なんとなく、下手に出ておいたほうが良いと本能で感じ取った俺はとりあえず今日の目的を説明をしようと口を開いたのだが、楓さんは笑顔を崩さずそう言った後、川崎をチラリと一瞥してから踵を返し玄関へと足を向けた。

 

 付いてこいという意味なのだろう、俺たちはその後に続き恐る恐る門をくぐると敷地内へと足を踏み入れていく。

 もしかして、おっさんと喧嘩でもしたのだろうか?

 それとも、急に来たことを怒っているのだろうか?

 余りにもいつもと違う楓さんの態度に少し戸惑いを覚え、何か声をかけたほうが良いのかと悩みながら重い足取りで玄関へと向かう俺。

 しかし、そうやって考え事をするにはその道程は余りにも短く、気がつけば楓さんはニコリと一度微笑んでから玄関の扉を開けて俺たちを待っていた。

 

「さ、どうぞ」 

「お、お邪魔します」

「お邪魔します……」

 

 促されるまま、玄関の敷居を跨ぐと同時に俺の背中に冷気のようなものが走る。

 なんだこれ? 寒い? もう四月だというのに、なんでこんなに寒いんだ?

 恐る恐る後ろを振り返ると、そこには無表情で俺を見つめる楓さんの姿。その顔はまるで能面のようだった。

 

「か、楓さん……?」

「どうしたの? さぁ遠慮せず上がって?」

 

 俺の視線に気がつくと楓さんは再び笑顔を取り戻し、何事もなかったかのようにそう言い放つ。

 もしかして、俺が何かしたのだろうか?

 特にこれといった心当たりはない──はずなのだが……。

 なんだろう、まるで昔絵本で読んだ山姥の家にでも迷い込んでしまったような、そんな錯覚すら覚えてしまう。コレは夢か? 今日は帰ったほうがいいのだろうか?

 だが、今更引き返そうにも玄関前には笑顔のままの楓さんと、不安げに俺を見る川崎が居て、俺の退路を絶っている。

 どうやら逃げることは許されない強制イベントが発生しているらしい。くそっ、直前でセーブしておくんだった……。

 

 仕方なく、俺は出来るだけ楓さんを刺激しないよう、丁寧に知りうる限りのマナーを駆使して靴を脱ぎおっさんの家へと足を踏み入れていった。

 

「ちょっと……大丈夫なの? なんか、歓迎されてなさそうだけど……」

 

 キシリキシリと床を鳴らし、緊張しながら冷気が漂う薄暗い廊下を三人で歩いていくと、やがて川崎もその異様な雰囲気に我慢ができなくなったのかヒソヒソと俺の耳元でそう囁いて来る。

 

「分からん。俺もこんなの初めてだ、もしかしておっさんと喧嘩でも……」

「あら? 二人共随分仲が良いのね? 妬けちゃうわぁ」

 

 それは本当に小さな声で、距離的にも楓さんには聞こえていないものと思っていたのだが、そんな俺達の会話に楓さんは『全部聞こえてますよ?』という表情で、半分だけ顔を振り返りながら割りこんできた。

 その事に、俺たちは思わずビクリと体を震わせ、数歩後ずさる。

 あのクールな川崎が俺のブレザーの肩の部分を引っ張り、今にも泣きそうな顔で俺を盾にして隠れているほどだといえば、この恐怖が少しは伝わるだろうか?

 っていうか引っ張りすぎだろ、脱げる脱げる。

 

「は……はは……ご冗談を……」

 

 ありったけの平常心をかき集め、半分ずり落ちたブレザーを引き上げながら、そう言うと楓さんが再び廊下を進み始める。

 一体、どこまで行くのか?

 いや、この道はいつもの広間へと続く道だとは思うのだが……。

 俺、今日無事に帰れるのかしら?

 

「さ、入って。うちの人もお待ちかねよ」

「ど、どうも」

 

 そうして、永遠とも思えるような長く薄暗く冷たい廊下を抜けると予想通りいつもの客間の前へと辿り着く。

 そう、いつもの客間──いつも俺とおっさんが話をするあの部屋の前、のはずなのだが……その襖は固く閉じられておりまるで大魔王の部屋の扉のような雰囲気を醸し出していた。

 さながら最終決戦直前という緊張感の中、俺と川崎がゴクリと喉を鳴らすとそれが合図だったかのように楓さんがガラリと襖を開く。

 すると、そこにはいつものように長いテーブルが置かれ、その上座に腕を組んだまま目を瞑り、何か考え事をしているように座るおっさんの姿があった。

 

「来たか……。入りなさい」

「……うす」

「お、お邪魔します」

 

 やはり、というかなんというか。楓さん同様おっさんからも妙に重苦しい空気が漂っている。

 もう今すぐにでも帰りたい気分だが、流石にここで逃げるわけにもいかず、俺と川崎はお互いに視線を交わし恐る恐る用意されている下座の座布団へと腰を落とした。

 

 俺の左隣に川崎、目の前にはおっさん。そして襖の近くでお茶の準備をしている楓さん。

 おおよその座り位置はいつもどおりだが……。

 まるでおっさん達の中身だけが宇宙人と入れ替わっているのではないか? と思うほどのいつもとは違う重苦しい空気感に、俺は困惑しながらチラチラとおっさん達に視線を向ける。

 それは『コレは一体どういうことだ?』というアイコンタクトのつもりでもあったのだが、おっさんはムスッと口を一文字に結んだまま、不機嫌そうに目を閉じ、俺達を見るだけだった。

 いや、目を瞑っているのに俺たちを見ているというのもおかしな話なのだが……なんとなく、見られている、睨みつけられているという感覚なのだ。

 

 最早何をしたら良いかわからない状況の中、俺がモゾモゾと尻を動かしていると、再び川崎が俺に耳打ちをしてくる。

 

「ちょっと……本当に大丈夫なの?」

「大丈夫……なはずなんだけど……」

 

 あまりにも予想と違う展開に、答える俺の声のトーンも自然と下がってしまう。

 ただちょっと川崎のバイトの相談に乗って欲しかっただけなのに、何故こんな事になってしまったのか。

 もしおっさんの機嫌が悪いとかなら、最悪川崎を生贄にして脱出しよう。

 まあ、本当に俺が何かヤラかしたという可能性もまだ捨てきれないわけだが──。

 

「さて……八幡……」

 

 そうして今後の対策を練りながら無言の時を過ごし、カチコチという時計の音を聞くこと十数秒。

 おっさんが一度ゴホンと大きく咳払いをしてから、重い口を開いた。

 そのあまりにも低い声に、俺も思わず「はひ……」と声にならない返事を漏らしてしまう。

 一体何を言われるのだろう?

 最悪土下座で許してもらえるだろうか?

 

「どうやら、儂はお前を見誤っていたようだな。正直ガッカリだ……」

「え……? あ、はぁ……」

 

 しかし、土下座の準備に入った俺の耳に入ってきたのはそんな意味の分からない言葉だった。

 

 やはり、俺が何かおっさんの意にそぐわない事をしたという予想は当たっているらしい。

 とはいえ、その原因が分からない。

 先月おっさんと話したときはいつも通りだったし、なんなら四月に入ってから連絡したのはさっきの電話が初めてだ。

 一体俺の何を見誤ったというのだろう?

 もしかして川崎を連れてきたのがまずかったのだろうか?

 

 そこで、俺はふと一つの可能性に辿り着く。

 やはり俺が家庭教師の話を他人にすること事態が間違っていたのではないだろうか?

 おっさんにとって俺に家庭教師をさせたのはあくまで“許嫁”を認めさせるための口実でしかない。

 それなのに、おっさんに改めてバイトを斡旋してくれと頼めばタカられていると感じたとしても不思議ではないのではないだろうか?

 

 川崎を助けてやりたいと、つい動いてしまったが、よくよく考えれば俺個人の力で何とか出来ない以上、おっさんに頼るべきではなかったのだ。

 というより、俺はイツから誰かを頼るような男になった?

 これまでだって何事も一人でやってきただろう。

 助け合い、なんて幻想で。

 自分一人でどうしようもないことは諦めるしか無い。それが現実だ。

 いつから誰かを頼るなんて軟弱な男に成り下がった、比企谷八幡。

 女子に頼まれたからって調子にでも乗ったか?

 そう考えると、どんどん自分が恥ずかしい男のように思えてきた。

 いつの間にか、俺は自分が嫌いだった人種になり下がっていたのだ。

 

 その事に気が付いた俺は、やはりココに来たのは間違いだったと反省し川崎にも詫びるつもりで一瞬だけ視線を送る。

 恐らく、今日川崎の望みは叶わないだろう。

 だが乗りかかった船だ、中途半端に期待させてしまったという引け目も有る、なんとか川崎の悩みを解決する別の方法を──。 

 

「確かに、儂はお前の気持ちを優先するともいった。その時は儂がいろはを説得するとも言った。だがな……だが、あれからどれだけの時が経った? 関係を続けると言ってまだひと月も経っておらんだろう……!」

 

 そうして反省し、別案を練り始めた俺の耳に再びおっさんのそんな意味の分からない言葉が届いた。

 

「……へ?」

 

 俺はその言葉を反芻しながら思わずぽかんと口を開け、マヌケな顔を晒す。

 ふと楓さんの方をみると「そうだそうだ」と言いたげにぶすっと頬を膨らませながら俺の方を見ていた。あれ? それって楓さんもやるんですか? もしかしてその怒り方って遺伝なのか……?

 いやいや、そんな事はどうでもいい、今は楓さんよりおっさんの対処が先だ。

  

「お前がそんな薄情なやつだとは思わなかったぞ!」

「えっと……何を言っているのか全く分からないんだけど……?」

 

 そもそも、このおっさんは何の話をしているのだろう?

 関係を続けるとか、あれからひと月とかって──つまり、そういうことだよな?

 “続ける”といえば例の“許嫁を続ける”云々っていう話し。

 時期的にも正直それぐらいしか思い浮かばないし、さすがにコレが誤解ということは無い気がする。

 だが、何故今ここでその話を?

 その理由がわからず、ますます俺の頭の中のクエスチョンマークが増えていく。

  

「しらばっくれるな!! 今日はいろはとの関係を解消しにきたのだろう? まさかお前がこんなに移り気なヤツだったとは……くぅっ……情けない……!」

 

 そう言われた瞬間、俺はおっさんの勘違いに気づいた。そしてこれ以上余計なことを話される前に慌てて立ち上がった。

 このおっさん、今日の目的を何一つ理解していない。

 それどころか、俺が一色との許嫁を解消しにきたと思っているのだ。

 その事に気が付いた俺は、とにかく誤解を解こうと立ち上がり、声を荒げる。

 

「ちょ、ちょっとまってくれよ! 何でそんな話になるんだよ!?」

「お前から『会ってもらいたいヤツがいる』と電話が来て女を連れて来た、これ以上何の説明もいらんだろう!」

 

 あー……、そういえば、以前そんな話をしたような気がするな。

 確か、好きなやつが出来たら許嫁を解消するから、おっさんに紹介しろとかそんな話。あれは確かちょうど一年前ぐらいだったか?

 しかし、俺自身考えても居なかったことをこのタイミングで言われ俺も軽くパニック状態だ。ここで妙な事を口走れば川崎にまで誤解が発生しかねない。

 

「確かに……確かに『そういう相手が出来たら連れてこい』とは言った、だがお前が先日儂の前で言った言葉がその程度のものだったのかと思うと……儂はもう情けなくて情けなくて……!」

「だからちょっと待ってくれって俺は別に……!」

 

 なんとかおっさんの勘違いを正そうと俺も必死で頭の中を整理する。

 一体何をどこから説明すればこのおっさんに納得してもらえるのか……。

 いや、先に落ち着かせるのが先か?

 とにかく、こんなことで一色との関係を終わらせるなんて“絶対”に──。

 

「あのー……何か勘違いされてるみたいなんで、一言だけいいですか? 私と比企谷は別にそういう関係じゃないんですけど……」

 

 俺の脳裏にある言葉が浮かんだ瞬間、横から川崎がそう言って挙手をしながら声を上げた。

 どこまで俺たちの話を理解したかは不明だが、少なくとも話の流れから自分の立ち位置ぐらいは把握したのだろう。

 川崎は俺の方へと目配せをすると、コクリと無言で頷き「お嬢ちゃんはちょっと黙っていてくれないかね」とでも言いたげなおっさんの視線を物ともせず一歩前に出た。   

 

「とりあえず挨拶をさせてください、アタシは川崎沙希。総武高のニ年で比企谷とは──」

 

***

 

***

 

***

 

「なぁんだ、そういうことなら早く言えよ。電話で“会ってもらいたいヤツがいる”なんて言うから儂はてっきりそういう相手なのかと思っちまったじゃねぇか」

 

 川崎が自己紹介をし、今日ココへ来た目的、そして俺たちが恋愛関係にはないということを説明すると、おっさんは先程までの表情から一変「がっはっは」と高らかに笑っていた。

 

「あら? 私は八幡くんがそんな子じゃないって信じてましたし、あなたから話を聞いた時からおかしいなぁと思ってましたよ? 全く、人騒がせなんだから」

 

 ふと横をみれば楓さんも先程までの雪女のような雰囲気を消し、部屋の隅っこでそう言いながら口元に手をあてて「おほほほ」と笑っている。

 いやいやいや、絶対楓さんも勘違いしてましたよね?

 なんなら今日一番怖かったのは楓さんまであるんですが?

 少なくとも、今後楓さんを怒らせるようなことはすまいと心に誓ったのはこの瞬間だ。

 

「ふむ、しかし家に迷惑をかけたくないから働きたいか……今どき珍しい良い子じゃないか。しかもいろはの恩人だったか……ぁい分かった! そういう事なら儂が良い男を紹介してやろう!」

 

 ジト目で睨みつける俺を無視し、おっさんは先程までの態度はなんだったのか、川崎をいたく気に入った様子で膝を叩いてそう言うと二カッと口角を上げる。

 いや、あの。その前に俺に何か言う事あるんじゃないですかね?

 謝罪とか謝罪とか謝罪とか……って、ちょっと待てよ? 男を紹介?

 

「待て待て違う、そうじゃない! バイト! バイトを紹介してくれって話なんだよ!」

 

 危ない危ない、そうだった、このおっさんはスキあらば人に許嫁を紹介するタイプのおっさんだった。

 これ以上話をややこしくしないで欲しい。収集がつかなくなるぞ。

 

「ああ、そうかバイトか……」

 

 俺の言葉に、おっさんは漸く少し落ち着いたのか右手で顎を擦りながら真剣な顔で俺を見据えてくる。真剣といっても先程までの重苦しい空気はなく、少しだけ計算が狂ったとでも言いたげな、いたずらに失敗した子供のような表情だ。

 これはこれで嫌な予感がする……。

 

「正直言うとな、丁度お前に家庭教師を頼もうとは思っていたんだ」

「は? 俺?」

「ああ、実は楓がな……」

 

 俺の予感は当たったようで、おっさんがそう言って俺を見た後、チラリと楓さんの方を見たので、俺たちもそれに倣って楓さんの方へと視線を向ける。

 すると楓さんはお茶菓子を乗せたお盆を持ち上げ、俺たちの前にソレを並べながら少し困ったように、ゆっくりと口を開いた。

 

「私のお友達のお孫さんがね、小学校六年生らしいんだけど最近遊んでばかりで成績が芳しく無いらしいのよ」

 

 まあ、そういう事もあるのだろうなぁと俺は思わず「はぁ……」と気の抜けた相槌を打ち、目の前に置かれた高級そうな最中の紙包みを開き、少しだけ足を崩した。

 この後の展開を予測しつつも、話の続きを待つ。

 

「それで、ちょうどその時いろはちゃんに家庭教師をつけて高校も無事受かったっていう話をしてたから『良い人がいたら紹介してくれないか?』って聞かれちゃってね……」

「そこで、お前のことを紹介しといたんだ」

 

 少しだけ申し訳無さそうに話す楓さんとは裏腹におっさんは『名案だろう?』とでも言わんばかりに自信満々に俺を見て来るので、俺はこれみよがしにため息を吐いて見せた

 本当に危ないところだった。

 もし、今日ここに川崎を連れてこなければ、その役は俺に押し付けられていたということなのだろう。

 そういう事なら今日川崎をココに連れてきたのはタイミング的にも正解だったのかもしれない。

 

「いや、それなら丁度良いし川崎にやらせてやってくれよ俺は別に……」

 

 そう言って俺がボロボロと崩れる最中を口に含むと、おっさんはふぅっと肩を落とし『これだから何もわかってない素人は』とでも言いたげに首を振ってきた。

 その反応とおっさんの先程までの態度も相まって、俺は少しだけ苛立ちを覚える。

 俺、何かおかしなことを言っただろうか?

 至極真っ当な、それでいて全員が幸せになれる案だと思うのだが……?

 

「そういうわけにはいかん、去年までと違い今回は他人様の子供を預かるんだ、監督もなしでな。コチラとしても紹介するならある程度の信頼がないと、相手にも申し訳が立たん」

 

 そう言い終わるとおっさんは川崎の方へと視線を移し、少し厳しい視線を向けた。

 その視線に川崎も一瞬だけ怯んだように肩を揺らす。

 

「いろはを助けてくれた事は感謝しているが、お嬢ちゃんのことを儂等はまだ何も知らず。八幡と違って実績もない状況では、もし八幡がこの仕事を断ったとしても今すぐお嬢ちゃんに任せるようなことはできん」

「実績……?」

 

 その意味不明な単語に首を傾げると『おいおい、忘れたのか?』とでも言いたげにおっさんが俺を見て来た。そういや、前に似たようなコトを言っていた気もするが……?

 なんだったっけ?

 

「前にも言っただろう? 八幡、お前にはもうすでに家庭教師として一年働き、現役総武高生を生んだという実績があるんだよ。例え今後お前が何をしたとしてもその実績は消せないし、あって損をするもんでもない。ちゃんと覚えておけ」

 

 うん、やはり前にも似たような事を言われたがピンとこない。そんなに重要なことだろうか?

 そもそも一色の家庭教師に関してだって特別なことをしたつもりはないしなぁ。

 川崎にも手伝って貰った部分もあるし……。

 

「へぇ……あんた結構すごいんだ」

 

 感嘆の声を漏らす川崎に、俺は『大袈裟すぎだろう』と否定の言葉を口にしようとしたのだが、口の中に含んだ最中に水分を持っていかれ上手く言葉を発することが出来なかった。

 その一瞬の隙をついて、おっさんが更に言葉を続ける。

  

「そこでだ。時給はそれほど高くないだろうが丁度人手を必要としてる人間に心当たりがある。お嬢ちゃんにはそっちをあたってみようと思うんだがどうかね?」

「人手?」

「ああ、まだ若いんだが喫茶店を経営してるヤツでな。つい先日嫁さんが妊娠したという報告を受けたのと一緒に、人を雇おうか悩んでいるという相談を受けたところだ、余程のことがなければ受け入れてくれるだろう」

 

 そうして、俺がお茶で最中を流し込んでいると、おっさんが今日初めて席を立ち、部屋の隅にある棚を開けて何かを探し始めた。

 馴れた手付きで引き出しの中をあさり、やがて一枚の紙を持ち自分の席へと戻ってくると「良かったら、そこで働いてみんかね?」とその紙を俺達の前に置いた。

 

 その紙は喫茶店がオープンするという宣伝のチラシ。

 日付が二年前になっているのに状態がキレイな事を見ると、オープン記念で大事に保管されていたものなのだろう。

 チラシの隅に載っている住所を確認すると、おっさんの家よりも総武高の近くにあるようで。こんな所に喫茶店があるのかと少し驚いたほどだ。

 こんな所で人が来るのだろうか?

 いや、隠れ家的な喫茶店で実は人気という可能性もあるのか。

 少なくとも、おっさんが紹介する店ならそれほど悪い店、悪い人ではないのだろう。

 

 だが……と思う。

 きっとそれは川崎の望む仕事ではないだろう。

 実際、川崎の方へと視線を向けると、川崎は少しだけ不満げに、そして不安げに口を開いた。

 

「でも、ここって時給とか……」

 

 そう、普通のバイトを選ぶなら川崎だってワザワザ俺に頼んだりしない。

 川崎が俺を頼って、俺がおっさんを頼ったのはあくまで“高時給”なバイトを求めた結果なのだ。

 その条件をクリアしていないのであれば、ワザワザおっさんの紹介するバイトを受ける理由がない。

 家庭教師ならまだ交渉の余地はありそうだが、人を雇うか悩んでいるというレベルの店にそれほど多くは望めないだろう。

 なんならそこらのコンビニの方が時給が高いまである……。

 

 そんな俺達の不満を感じ取ったのか、おっさんはピッと指を一本立てて口を開いた。

 

「まあ待ちなさい……これは話を聞いた時から思っていたんだが……まずお嬢ちゃん、奨学金を利用することは考えているのかな?」

「奨学金?」

 

 奨学金とは、つまり俺が狙っているスカラシップのことだ。

 その事については、俺の方からも後で川崎には確認しようと思っていたが、まさかおっさんに先を越されるとは思わなかった。

 いや、寧ろおっさんだからという見方も出来るか……。

 

「名前ぐらいは聞いたこと有るだろ? それとも、最近の学校はそんな事も教えないのか? 嬢ちゃんのように、金がないが学びたいという学生を支援してくれる制度は意外と多い、勿論多少悪どい事をしているところもあるようだが……本気で学びたいというのならそういう選択肢を選ぶ事もできるということを覚えておきなさい」

 

 続けておっさんが教師のようにそう説明をすると川崎は少しだけ考えるように顔を伏せる。その表情は真剣そのもので、今後の計画を考え直しているのだろうということは傍目からも理解できた。

 

「……でも、奨学金ってアタシでも貰えるの?」

「勿論、奨学金を受けるにはそれなりの学力は必要になるだろうが……八幡と同じ総武に通える実力があるなら、無理ってことはないだろう。まぁ、大学に行きたいと言っても、適当な大学に入って四年間遊んで暮らしたいとかなら話は別だがな」

 

 挑発的なおっさんの言葉に川崎は「は……?」と一瞬だけおっさんを睨んだが、はっと我に返りそのまま黙り込んでしまった。

 そんな川崎に、おっさんはふっと小さく笑うと、テーブルの上のチラシをトントンと叩き、今度は優しい口調で語りかけていく。

 

「……ここの店主はな、儂もよく知っている男で、学生を夜遅くまで働かせるようなことはせんし、教員免許も持っている、事情を話せば空き時間に勉強を見てくれるぐらいの度量はあるはずだ。まぁ確かに時給はそれほど高くはないかもしれんが勉強しながら働くというのであればそれほど悪い物件ではないだろう……」

 

 おっさんの言葉に、川崎は思わずチラシを手に取りその内容を読み込んでいく。

 といっても、そこにバイト募集や時給の項目はない。

 出来ることと言えば精々、書いてあるメニューや写真から店の雰囲気を読み取ることぐらいだ。

 だからだろうか、イマイチ決め手に欠ける部分もあり川崎は頭を悩ませているようだった。

 

「その上で、だ」

 

 しかし、そんな川崎の反応を見越してかおっさんは再びイタズラっ子のような表情を浮かべると、そう言って川崎の手からチラシを奪い取り、俺の方へと一瞬視線を向けた。

 

「八幡のサポートもしてみないか?」

「俺の?」

「サポート?」

 

 おっさんの言葉に、川崎と俺の声が思わず重なる。

 あれ? もしかして俺、今重要なコト聞き逃したか?

 おっさんの話に俺の事なんて出てきたっけ?

 俺のサポートってなんだ? 別にサポートなんてしてもらう必要はないはずなんだが……。

 

「そう、八幡には実績があるとはいえ次の仕事先は小学六年生の家庭教師、しかも女の子だ。授業内容も決めていないだろう?」

「いや、そもそも俺そのバイト受けるなんて一言も──」

 

 おっさんの言葉を慌てて否定する俺。

 何シレっと俺がその小学生の家庭教師を請け負うことにしてるの?

 おかしいよね? おかしいでしょ?

 引き受けてないのに授業内容も糞もないだろうに。

 それでもやはりというかなんというか、例の如くおっさんは俺の言葉を遮って川崎の目だけを見ながら話を続けていく。

 

「そうだな……八幡が週に一回その子の学習内容を伝えて、共同で学習計画を建てるというのはどうだ? プリントやテストなんかを作ってくれれば尚良いな」

 

 川崎もおっさんの言葉の意図か理解できず、俺の方を一度チラリと見ながらも何を言うでもなくおっさんの言葉に耳を傾けていた。

 

「もしその成果が出て成績が上がったなら儂の方からお嬢ちゃんにバイト代を出してやろう。孫を助けてもらった礼もあるし、多少色を付けてやっても良いぞ? どうだ?」

 

 なるほど。今度は副職の提案ということか。

 つまり、川崎には喫茶店のバイトをした上で、それとは別に学校や家で出来る副職を勧めているのだ。

 これなら確かに普通のバイト一本よりは稼げるかもしれない。

 俺が心配していたような非合法なバイトをするよりは遥かにリスクも少ないだろう。

 

「学校に通い、バイトをしながら勉強をし、暇な時間に小学生向けの問題を作ればボーナスが手に入る。そう悪い話じゃあるまい?」

 

 バイトにかまけて勉強が疎かに馴ればスカラシップ──奨学金を狙えなくなってしまうし、自分のペースで稼ぎながら勉強ができる環境というのはある意味理想的ですらある。

 しかも、川崎の方はサポートだから最悪やらなくても怒られないわけだ。

 いや、それなら俺がサポートに回りたいんだが……。

 これじゃぁ俺が川崎の上司みたいじゃん……。

 

「まあ、そうなると給料も八幡経由で渡すことになるだろうから……八幡が直属の上司になるな。一応言っておくと八幡がクビになったら自動的にお嬢ちゃんの仕事もなくなるからそのつもりでな」

「はぁ!?」

 

 そんな事を考えていると、まるで俺の考えを見透かしたかのようにおっさんがそう言ってカッカッカと甲高い笑い声を上げる。

 戸惑う俺に、川崎は「本当にアンタで大丈夫なの?」とでも言わんばかりの目で不安げに俺を見てくるだけだ。

 

「なんだ? この期に及んでお前が断るのか?」

「……いや、断るっていうか……」

 

 その川崎の表情を見て、漸くおっさんが俺の反応を確認する。

 いや、本当今更過ぎるだろ、一番最初に確認すべきポイントだと思うが……。

 

「まぁ、八幡が家庭教師を断るなら当然お嬢ちゃんのボーナスの話もなしになるわけだが……」

 

 チラチラと俺を見ながら、態とらしく悲しげな声をあげてくるおっさんには可愛げも何もないが。

 期待の目を向けてくる川崎の視線は少しだけクるものがあった。

 

「──っ! わかったよ、やる! やればいいんだろ!」

 

 結局、俺はその川崎の視線に負け、そう叫び残ったお茶を胃に流し込む。

 そんな俺を見て、おっさんは笑い、楓さんは「それじゃあお願いね」とお茶のおかわりを淹れてくれた。

 あー、もう、小学生の女子とか絶対面倒くさいことになる気しかしないんですけど?

 

「素直にそういや良いんだ。さて、後はお嬢ちゃんだが……どうする?」

 

 俺の答えに満足するとおっさんは次にそう言って川崎の目を見る。

 

 といっても、俺と違って川崎の返事はもう既に決まっていたらしく、真剣な眼差しで少し前のめりにおっさんを見ながら「やります、やらせてください!」と力強く頭を下げていた。

 

「よし、そういうことなら丁度いい時間だし、昼飯がてら“アイツ”の喫茶店まで案内しよう。楓、車の鍵を!」

 

 川崎の答えに満足したのか、おっさんはウンウンと力強く頷くと勢いよく立ち上がり、楓さんに向かってそう叫ぶ。

 するといつの間に広間から出ていた楓さんはおっさんの行動を既に読んでいたらしく、その両手に車の鍵を持ち戻ってきた。

 なぜ、そこまでおっさんの行動を読める人が、あんな勘違いをしていたのかと不思議で仕方がないのだが……。

 

 何はともあれ、こうして俺の次の職場が決定してしまったわけだ。

 はぁ……なんでこんなことに。

 横を見れば、川崎はバイトが決まったという安心感からか、安堵の表情を浮かべ少し冷めたお茶に口をつけていた。




拙作きっての人気キャラで、再登場の声が最も多かったと言っても過言ではないおっさんの久しぶりの登場いかがでしたでしょうか?

正直、当初の予定以上に好き勝手に動いてくれたので
今回また少し長くなってしまい前後編に分ける羽目になってしまいました
ぐぬぬ……相変わらず文字数が読めない
次回でなんとかこのあたりの話は終わらせたいと思っておりますので
もう少しお付き合い頂けると幸いです

感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージ等の皆様からのリアクション随時お待ちしております。


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第92話 蛇足な勉強会

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージ、DMありがとうございます。

久しぶりの一週間投稿。



「それからはトントン拍子で話が進んでな。気がついたら毎週ココに通うハメになったんだよ」

 

 そうして、全ての説明を終えた俺は軽く伸びをして椅子の背もたれに体を預けた。

 実際、川崎が俺の家庭教師のサポート役と言っても、毎週お互いの家に通うなんて発想はなかったし、学校では人の目もあったので、学校からほど近く川崎のバイト先でもあり事情も理解してくれていたこの店以外に選択肢はなかった。

 だから、一色達が思うような甘酸っぱい関係や状況ではないという事は強く主張しておきたい。

 まぁ、最近周囲が騒がしくなりつつある俺にとっては新メニューの試作品と称したサービス品が貰えたりもするこの店での一時が週に一度のちょっとした憩いの場になっていたという部分があったことは否定しないけどな……。

 試作品の当たり外れはデカかったけど……。

 

「“ハメになった”だなんて酷いなぁ、八幡くんもウチに来るの楽しみにしてくれていたと思ったのに」

 

 しかし、そんな俺のちょっとした見栄というか、誇張した言い方に反応した人物が居た。

 ちょうど俺の後ろの席に座っている客にクリームソーダとコーラを持ってきたマスターだ。

 マスターは「ごゆっくり」と後ろの客に笑顔で応対してから、俺達のいる席の横へとピットインし、話に混ざり込んで来る。

 

「あ、いやまぁ、それはなんていうか……ほら、言葉の綾というか……」

「まあ、そういう事にしておいてあげよう。でもそうか、あれからまだひと月半位しかたってないのか。なんだかもう一年ぐらい通ってくれてる常連さんな気でいたよ」

 

 そう言うと、マスターは楽しそうに笑いながら一色と雪ノ下のコーヒーカップに視線を落としてから一度カウンターへと戻っていった。

 あの雰囲気からすると恐らくコーヒーのお代わりを持ってくるつもりなのだろう。

 意外と出来るマスターなのである。

 

「その間、センパイと川なんとか先輩はここでその家庭教師の話し合いみたいなことをしてたんですか?」

「川崎な。まあ……そうだな。丁度お前らが来る前に来週分の課題を受け取ったところだ」

 

 一色の質問に、俺がそう返しながら先程川崎から受け取ったクリアファイルを見せると、一色と由比ヶ浜は「へぇ」とか「ふーん」とか興味があるのかないのか良く分からないリアクションをしながら、そのクリアファイルの中身を確認しはじめた。

 中身といってもただの小テスト、それも小学生向けのモノなので見て楽しいものでもないと思うのだが、何故か二人共興味深げに指でなぞりながらその問題を解こうとしている。

 

「来週使うんだから汚すなよ」

「はーい。……とりあえず、仕事をしてたっていうのは……本当みたいですね」

 

 俺がそう注意して、プリントを返すよう促すと一色は、どうでも良さそうにそのプリントを俺に返してきた。

 だが、一方の由比ヶ浜は何故か目を細めながら「ぐぬぬ……」と険しい表情でプリントに目を通したまま返そうとはしてこない。え? 嘘だろ? 解けないわけじゃないよな? それ小学生用の問題だぞ?

 そんな事を考えながら、俺が由比ヶ浜の方に手を伸ばしたままでいると、予想通りコーヒーポットを抱えたマスターが再びピットインしてきた。

 笑顔で「おかわりはいかが?」と問いかけるマスターに、一色と雪ノ下は一瞬だけ視線を交わしてからカップをマスターの方へと向けていく。

 

「頂きます」

「あ、私も。……あの……それと……店長さんから見た二人がどんな感じだったかとかって聞いてもいいですか?」

「二人の様子? そうだねぇ……」

 

 いや、忘れてるみたいだけど、そのコーヒー元々俺のだからね?

 君が注文したキューピッドまだココにあるんだけど、何しれっとお代わりとかしちゃってるの?

 喉かわいてるならこっち先に飲みなさい?

 そんな風に俺が心のなかでツッコみを入れていると、マスターは二人にお代わりのコーヒーを淹れながら「うーん」と数秒視線を泳がせ、口を開いた。

 

「一言でいうなら、長年連れ添ったパートナーみたいな感じかなぁ。時々意見を交換しながらまるで子供の教育方針について話す夫婦みたいに仲良くやっていたよ」

 

 しかし、それはなんというか……余計な言葉のオンパレードだった。

 他の席で接客をしている川崎が思わず「はぁっ!?」と動揺を見せ、俺を睨んでくるほどだ。

 この後の展開は知っている。何故か俺が怒られて女性陣から非難されるのだ。本当に勘弁して欲しい。

 

「へぇ……ヒッキーとサキサキってそんなに仲良かったんだ……」

 

 そんな俺の予想通り、由比ヶ浜が俺に非難の目を向けると同時に、俺の左側から冷気が漂って来た。

 ……ん? 冷気? なんだ? 冷房をつけるには些か早すぎる気がするが……誤作動か?

 だが、当然そんな訳はない。

 恐る恐る俺がその冷気の漂ってきた方向へと視線を送ると、そこにはニコニコとまるで仮面のような笑顔を俺に向ける一色の姿があった。

 うん、こうやって見るとやはり一色には楓さんの血が流れているんだな。今更だけど。

 

「……センパイ? その川なんとか先輩とは本当にお仕事上の関係っていうだけなんですよね?」

「……そ、そうに決まってるだろ……」

 

 そもそもおっさんの差し金でこんな事になっているのだから、文句ならそっちに言って欲しい。どこに俺が悪い要素があるというのだ。

 それでも、俺の言葉を疑っているのか、或いは他に納得がいかないことがあるのか一色は俺の目をじっと見つめてくる。

 一、二。三、四、五。

 たっぷり五秒はあっただろうか。

 まるで嘘発見器にでも掛けられているかのようなプレッシャーの中、俺が冷や汗を垂らしながらじっとその目を逸らさず見つめていると、漸く納得したのか、一色は『ふーん……』と息を吐き、コーヒーカップを傾ける。

 

「ははは、もしかして余計なこといっちゃったかな? コレは沙希ちゃんもウカウカしてられないねぇ」

「店長!! アタシと比企谷はそういうんじゃないって何度も言ってますよね……!」

 

 そんな俺達の会話から何かを感じ取ったのか、雪ノ下の分のコーヒーを淹れた後そう言って茶化しながらカウンターへと戻るマスターだったが、その言葉に反応したのは他の席で接客中だった川崎だった。

 

「はいはい、ごめんごめん。他のお客様にご迷惑だからもう少し静かにね」

 

 対して悪びれた風でもなく、そういうマスターにこれ以上何を言っても無駄だと思ったのか、川崎が再び俺を睨んでくる。

 いや、だから俺を睨まれても困るんだがなぁ……。

 ほら、他のお客さんも困惑してるぞ。

 スマイルスマイル。

 

 そう、忘れがちだが、ここは店の中なのである。

 決して多くはないが、客は俺たち以外にもいるし、店内でウェイトレスとマスターが叫ぶように会話をしていれば、当然客の視線も自然と集まってくる。

 しかも、そのウェイトレスが俺を睨んでくるのだから、その視線は俺の方にもくるわけで……。針のむしろ状態で堂々としていられるほど図太くもない俺は、思わず目の前のキューピッドに口をつけ、その場を濁すことにした。

 

 もう間接キスだなんだと気にしている場合ではない、そもそも一色が気にせず俺のコーヒーを飲んでいるのだから、気にしている俺のほうがどうかしているまである。

 だが、そうして目の前のストローに口をつけると、由比ヶ浜が一瞬「あ」と声をあげた。

 もしかして飲みたかったのだろうか?

 そんなに気に入ったのか?

 でも、由比ヶ浜の前のグラスはまだ半分以上残ってるしな……。

  

 そんな事を考えながらしばし由比ヶ浜と視線を交わしていると、やがて店内の空気も元に戻り、静かだった店内にザワザワ──という程多くはないものの客同士の喧騒が再開されていく。

 

「なるほど……これはあながち小町の読みが外れたというわけでもなさそうだね……」

 

 俺の背後からその声が聞こえてきたのは、丁度そんなタイミングだった。

 聞き慣れた単語とその声色に思わず背後を振り返る。

 俺の背後、つまり先程マスターがクリームソーダを運んでいた席だ。

 客がいるのは知っていたが、席の高さ的にどんな人物が座っているのかは分からなかった。

 ただ分かることといえば、背もたれの上の方にぴょこぴょこと揺れ動く“何か”が見えているということ。

 その“何か”は、一言で言ってしまうなら髪の毛──アホ毛だ。

 どこかで見たことがあるそのアホ毛は、楽しそうにゆらゆらと左右に揺れたかと思うと、突然ピタリと動きを止め、やがてにょきにょきと上へと伸びて行く。

 アホ毛が伸びていくとはどういうことか? とも思うが、他に表現のしようがないのだから仕方がない。

 

 一体何事かと、そのままアホ毛を気にしていると。やがて一色達もその異常に気がついたのか同じようにアホ毛を注視していく。

 そして次の瞬間、そのアホ毛の根っこの部分から大きな丸い頭と奇抜な七色の星型のメガネが生えてきた。

 まるでおもちゃのようなその星型眼鏡のレンズ部分は酷く薄っぺらく、その下に隠された二つのクリクリとした愛らしい瞳と一瞬だけ目が合ってしまう。

 だから、俺はそれが女子だということにすぐ気が付いた。うん、紛うことなき女子だった。女子と言うか……。

 

「小町?」

  

 俺がそう呟くと、星型眼鏡は「ヤバ」と再び背もたれの裏へと消えてしまった。

 しかし、人間が実際に消えるわけがない。

 だから俺は、椅子から立ち上がり背もたれの反対側を覗き込んだ。

 

 すると、そこには案の定というかなんというか……椅子の背もたれに顔を押し付け丸まっているマイリトルシスター小町の姿があった。

 その余りにも滑稽な体勢に、俺はなんと声をかけたらいいのか分からず思わず視線を泳がせてしまったのだが、その時初めて小町が一人ではないことに気がついた。

 小町と向い合せの奥の席に目深に帽子をかぶった妙な男が座っていたのだ。

 そう、小町と向かい合わせた前の席に──。

 

「オマエダレダ」

「あ、えと……」

 

 思わず声が低くなってしまうのを感じながらも、俺は背もたれ越しに男を睨みつける。

 だが、男は一瞬ビクリとその身を震わせるものの、顔を伏せたまま何も答えようとはしなかった。おいおいなんだその反応?

 まさか『お付き合いさせてもらってます』とか言うんじゃないだろうな? お兄ちゃん許しませんからね?

 

「あ、あれぇ? お兄ちゃん? 偶然だね! こんなところで会うなんて、これもやっぱり小町とお兄ちゃんの絆の為せる技なのかな? あ、今の小町的にポイント高い!」

「……何が『偶然だね』だ。明らかに覗き見してただろ」

 

 危うく闇落ちしそうな俺を制したのは、他でもない小町だった。

 小町はわざとらしくワァっと手を大きく広げ『びっくりしたぁ』とでも言いたげに俺とその男の間を遮るように顔を上げると、今度は冷や汗を垂らしながらこの場をどう言い繕おうか考えるように視線を彷徨わせながら「アハハぁ……」とサングラスを外し、男の方へと視線を向ける。アイコンタクトというヤツだ。

 

 って、おいおい、何今の目と目で通じちゃう感じ。

 まさか、その男本当に小町のか、か、か……かれかれかれかかかかか……とかじゃないだろうな!?

 思わず再び闇落ちしかける俺だったが、こちらの異常事態に気付いたらしい川崎が慌てたように近づいて来るのが見えた。

 

「大志!? アンタなんでここにいんの!」

「よ、よぉ,姉ちゃん……」

 

 川崎の言葉で、今度は男の方が観念したように顔を上げ軽く手を挙げると、チラリと小町と視線を交わし「もうダメだ」と観念したように項垂れる。 

 

「何? 川崎の……弟?」

「うん、弟の大志。そっちは?」

「ああ、妹」

 

 その様子から、なんとなくお互いの関係性を理解した俺たちは確認の意味をこめて簡単にそれぞれの弟妹を紹介した。

 ふむ、川崎の弟か……、言われてみれば確かに目元が似ているような気がしなくもない。

 しかし、なぜその弟が小町と?

 同じ川崎家の人間ならけーちゃんとかと一緒に来てくれれば良いのに何故男なんかと……。

 そして、いつの間に? そもそもなんでここに?

 

「で、なんでお前らが一緒にいんの? ま、まさか付き合って……?」

「まさか。大志くんとは塾が一緒なだけだよ」

「そ、そうか……」

 

 バッサリとそう言い切ってケラケラと笑う小町を見て肩を落とす大志に、少しだけ同情してしまったのは内緒だ。何故女子というのはこうも容赦がないのだろうか。

 いや、兄としてはその方が安心なんだけどな……。

 

「いつの間に入って来たの? 全然気づかなかった……」

「ああ、その二人なら何か訳ありっぽかったから、僕が案内したんだよ」

 

 俺が小町を問い詰めるのと同様に、川崎も大志を問い詰めていたが、その疑問に答えてくれたのはマスターだった。

 思わず川崎が「は?」と首を傾げながらカウンターに立つマスターに視線を送ると、マスターは 何故か得意げにサムズアップを決めている。

 まあ、気づかなかった俺達も鈍感だったというかなんというか……。

 

「それで? 何しにきたの? まさか普通に茶飲みに来たわけじゃないんだろ?」

 

 とはいえ、来てしまったものは仕方がない、俺と川崎は見下ろすようにしながら二人を睨みつけ、その理由を問いただす。

 だが、小町も大志もアワアワと視線を泳がせるだけで、何も答えようとはしてこない。

 そんな二人の態度に、俺と川崎は一度視線を交わすと、コクリと一度頷きあった。

 どうやら川崎もこういう時の妹──弟の態度には心当たりがあるらしい。

 そう、これは……あれだ。ロクでもないイタズラをして怒られるのを避けている時の反応だ……。

 

「小町……?」

「い、いやぁ、修羅場の匂いがしたもので……」

 

 仕方なく、俺が最後通告の意味をこめて低い声でそう呟くと、小町はやがて観念したように「あはは……」と頭を掻きながらそう答えた。

 修羅場?

 何を言ってるんだこいつは?

 

「あ、あのね。二人はサキサキがこのお店にいるのをたまたま見かけただけみたいで。ここに来ようって言い出したのはいろはちゃんなんだよ」

 

 その俺の疑問に答えてくれたのは由比ヶ浜だった。

 由比ヶ浜の言葉で、漸く俺はこの状況を理解する。

 つまり、こいつらが俺と川崎がここにいることを一色たちにチクったということか。

 まあ、うちの学校からそれほど離れてないからいつか誰かに見つかるだろうとは思っていたが、まさかこんな一気に来られるとはな……。

 全く、余計なことを……。

 

「そういえば、お米さぁ……センパイが居るの知ってたんだよね? なんか、私たちをココに来させないようにしてなかった?」

「イ、イヤダナァいろはさん、小町ガソンナコトスルワケナイジャナイデスカァ」

 

 そんな事を考えていると、突然一色がそう言って立ち上がり、小町の隣へと席を移ってその肩に手を回しながら、まるで輩のように絡み始めた。

 一色にペチペチと頬を叩かれる小町は、焦ったように言い訳を述べ「お、お兄ちゃぁん……」と俺に懇願の目を向けてくる……。

 正直状況が全くつかめないのだが……。まぁ、自業自得というやつだろうから放っておくことにしよう。

 

「こら! 大人しく吐きなさい!」

「うぇぇ、お兄ちゃん助けてぇ!」

 

 小町のそんな叫びが店内に響くと、再び周囲の客の目が俺たちの方へと集まってくる。

 これ以上はまた店の迷惑になるな……。

 そう考えた俺は、その叫びを無視してぽすんと席に付き「アハハ……」と疲れたように笑う由比ヶ浜と、最早興味もないという風に単語帳を捲り始めた雪ノ下を見ながら、ハァとため息を吐いたのだった。

 

*

 

「で、結局お米はなんで私がココに来るの止めようとしてたの? いい加減吐きなさい」

 

 それから、俺は小町のことは一色に任せることにして、眼の前でバツが悪そうに笑う由比ヶ浜と視線を交わしながら、背もたれ越しに二人の会話に聞き耳を立てていた。

 相変わらず何の話かは分からないが、とりあえず矛先が俺に向いてこないのであれば何も問題はない。

 あわよくば大志とどれぐらい会っているのか? とか、連絡先を交換しているのか? とかそういう情報を聞き出してくれれば万々歳だ。

 

「それはですね……まあ、なんといいますか……小町としては一応何かあったときの保険は必要かなぁと考えていたというか、お姉ちゃん候補は多いほうが良いというか……」

「ほぅ……?」

「ぼ、暴力反対!」

 

 突然ドンっと席が揺れたので、何事かとチラリと上から一色たちの様子を伺うと、一色は小町の頭に手を回し、その頭を自分の胸に押し付けるようにグイグイと引き寄せていた。

 ヘッドロックのようにも見えるが……ははは、まさかな。ちょっとじゃれ合っているだけだろう。

 うんうん、仲が良いのは良いことだ。

 いろこまは今日も通常運転である。

 

「お前らぁ、あんま店に迷惑かけんなよ」

「はーい……ほら、アンタのせいで怒られちゃったじゃん」

 

 そんな声を背後に聞きながら、俺は眼の前のキューピッドに口をつけていく。

 一度口をつけてしまったのだから、最早二度目も三度目も対して変わらない。残すぐらいならと俺は一気に残りを吸い上げていく。

 そうしてズズッと、土色のソレを飲み干していくと何故か由比ヶ浜が俺を見ていることに気がついた。

 見る、というか凝視する、というイメージだ。

 何か気になることでもあるのだろうか?

 そう思い、俺はそのストローから口を離し由比ヶ浜に問いかける。

 

「ん? どした?」

「う、ううん。えっと……その……良かったら私のも飲む?」

 

 どうやら俺が一気に飲んだのを見て、よほど喉が渇いていると思われたらしく、由比ヶ浜はそう言うと自分の飲みかけのキューピッドをズイと俺の方へ押し出してきた。

 それはきっと優しさからくる提案だったのだとは思うが……当然俺の答えは「ノー」だ。

 そこまで喉が渇いているわけではないし、そんなに沢山飲むようなものでもないからな……。仮にもしまだ飲み足りなかったとしても、別の何かを頼みたい。

 

「いや、いらん。気遣わないで自分で飲めよ」

 

 だから、俺はそう言って由比ヶ浜の申し出を断ったのだが……由比ヶ浜は何故か少し残念そうに「……そっかぁ……」と呟くとイジケたようにストローを回し始めた。

 あれ? 俺何か間違ったこと言ったか?

 もしかしたら、由比ヶ浜の口に合わなくて飲んで欲しかったとか……? いや、でもさっき『美味しい』って言ってたよな……?

 

「あれ? もしかして結衣さんも……?」

 

 その由比ヶ浜の行動に、俺が首を捻っていると、再び小町が頭上から現れそんなよくわからないことをブツブツと呟き始めた。

 ん? “も”ってことは、小町もキューピッド派か?

 あれ? でもさっき運ばれてきたのってクリームソーダとコーラだよな……?

 キューピッドなんて何時飲んだんだ?

 あんな特殊なカルピスを家で作った記憶はないのだが……。

 

「でもセンパイ、そういうことなら今日はもうお仕事終わりってことでいいんですよね?」

 

 そんな事を考えていると、いつの間にか俺の隣の席へと戻ってきた一色がそう言ってニコニコとした笑顔を向けて来た。

 なんだか今日は怒ったり笑ったり忙しいやつだな……と思いながらも、こいつがこういう顔をする時は大体ろくなことがないんだよなぁ……。と少し警戒しながら一色の質問に答えていく。

 

「まあ、そうだな……。今日はもう仕事にならなそうだしさっさと帰……」

「じゃあ、折角ですしこのまま少し私の試験勉強見てくださいよ」

「は?」

 

 そんな俺の言葉を遮るように一色がパンと手を叩くと、一色は突然自分の鞄を漁り「そもそも今日はその予定だったんですよねー」とテーブルの上に筆記用具を広げ始めた。

 え? 何? 試験勉強? 何の話?

 

「ね? いいじゃないですか、家庭教師の延長ってことで」

「わ、私もヒッキーに教えてほしいなぁ……なんて……」

 

 その突然の展開に俺が困惑の表情を浮かべていると、眼の前の由比ヶ浜もいつの間にかノートを広げ、上目遣いでチラチラと何かを訴えるように俺を見てくるが……。

 

「結衣先輩は雪乃先輩に教えてもらえば良いんじゃないですか? ほら、丁度ペアになってますし、いいですよね? 雪乃先輩?」

「……元々、今日は由比ヶ浜さんに勉強を教える約束をしていたわけだから、私は構わないけれど……私じゃご不満かしら?」

「う、ううん。不満なんてないです、はい……」

 

 ああ、そういえば今日学校出る時そんな話もしていたな。

 まあ、雪ノ下は学年トップだし。教わるならコレ以上の適任者はいないだろう。

 というか、俺なんて必要ないまである。

 

「いや……全部雪ノ下に教わればいいじゃん、俺もう帰りたいんだけど……。ほら、店にも迷惑だろうし、小町も送ってかなきゃいけないし」

「ああ、店の事は気にしなくていいよ、ゆっくりしていって。どうせ満席になることなんてないしね」

「小町の事もお構いなくぅ、どうせ帰っても一人だし」

 

 だが、そんな俺の言葉に、マスターと小町が揃って自虐的にそう答えると「お兄ちゃんが女の子に囲まれて勉強会……今晩はお赤飯炊かなきゃ……!」などとブツブツ言いながらスマホをいじりはじめた。

 どうやら、この場に俺の味方は一人もいないらしい。

 

「決まりですね♪ 店員さんすみません! そういうわけで何かつまめる物追加してもらっていいですか? あと、来週からは私もご一緒させてもらうのでよろしくお願いしますね♪」

 

 一色が川崎にそう言うと、川崎は今日一番の驚愕の表情で「はぁ!?」と俺を睨んできた。

 いや、おかしいだろ。なんで俺を睨む。

 今までの流れで察してくれ、俺に発言権などないのだ。八幡悪くない。

 

「大丈夫ですよ、お仕事の邪魔はしませんから。ねー? センパイ♪」

 

 何が大丈夫なのかは分からないし、何が「ねー?」なのか分からないが、俺が何を言ってもコイツの言葉は覆らないだろう。

 ソレを察したのか、やがて川崎も諦めたようにため息を吐くと、軽く頭を振って伝票に何かを書き込んでいく。

 

「はぁ……つまめるのってポテトとかでいいの? あと大志、あんた今日ちゃんと金持ってきてるんでしょうね? 姉ちゃん奢らないからね」

「ええ……今月ピンチなのに……」

 

 そうして川崎がカウンターへと戻ると、川崎弟は財布の中身を確認し始めた。

 おいおい、姉貴に集る気満々だったのかよ。

 おっと、そういえば俺もきちんと釘を差して置かなければ、最悪全部俺持ちなんてことにされかねないからな……。

 

「うーん……やっぱり本命はいろはさんかなぁ……一点買いで大儲け? でもやっぱりリスク管理は大事だよね……」

「何ブツブツ言ってんの? お前も自分で払えよ?」

「えー!? お兄ちゃんのケチぃ!」

 

 やはりこちらも俺に集る気でいたらしい、危なかった。

 言質取るって大事だよな。うん。

 

「ところでセンパイ? 他に隠し事とかはないですか?」

「隠し事?」

「川なんとか先輩のコトみたいに、私に内緒でやってることはないですよね? ってことです」

「川崎な。特にない……と思うけど。というか別に今回のことだって隠してたわけじゃないだろ」

 

 不服そうな一色に、俺は改めてそう説明するが、一色は何故かジト目のまま俺を責めてくる。

 俺からすれば詳しいことはおっさんから伝わっているものだと思っていたし、必要な情報は言ったつもりなのでそんな目で見られても困るんだがなぁ……。

 というより、一色相手となるとどう考えても言う必要のなさそうなことですら、隠し事認定されてしまうことがあるのは困りものだ。

 少なくともおっさん関係で言っていないことはもうない……はずだ。

 そう思ったのだが、その時一つだけ一色に伝えておかなければならないコトがあるのを思い出した。

 

「あー、そうだ。一個忘れてた」

「はい? なんでしょう」

「今度お前んち行くことになってるんだけど、そっちは聞いてる?」

「へ?」

 

 それは今伝えるには少し早いかもしれない、来月以降の予定だったのだが。

 今日の流れから察するに早めに言っておかないとまた難癖を付けられそうだったので今のうちに言っておくことにした。

 

「き、聞いてないです! いつですか!? なんなら今日でもいいですけど!」

「いや、ソレは流石に……そうだな、多分テスト明けぐらいだな……」

 

 案の定、話を聞いていなかったらしい一色が驚きの声を上げ、スケジュールを確認しはじめた。

 やはり、聞いていなかったか。

 もしかしたら“もみじさん”が敢えて教えていなかった可能性もあるが……言っておいてよかったなと俺はほっと胸をなでおろし、スケジュールを確認しようとスマホへと視線を落とす。

 すると、丁度川崎がポテトが運んできたので、ふと顔をあげると、何故かそこには驚いたような表情のまま俺を見て固まっている由比ヶ浜の姿があった。




ラストのガハマさんの心中はお察しください……。

前回の続き……というより前回のCパートに入る予定だった部分でもあるので大分蛇足的な内容となりましたが、まあ、こういう回もあるよねということで……。

次回からまた少しお話が動きます。

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第93話 それもまた青春の1ページ

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここすき、etc ありがとうございます。

今年最後の投稿になります。


 イレギュラーな事件が幾つか重なり一時はどうなることかと思ったが、時間というものは平等に、そして無慈悲に流れていくものだ。

 気がつけば無事中間テスト期間も終わり、暦は六月へと突入。

 もう今年も半分が経とうとしているのかとほんの少しだけ驚きながらも、テストが終わったことでようやく一息つけた今日は日曜日。

 俺はいつもより少しだけ遅く起き、プリキュアを見ながら朝食を取ったのち一週間の疲れを癒やすべくベッドの上でゴロゴロするという予定の基、幸せな眠りの中に居たのだが──。

 

 その朝、俺はガチャリという扉が開くような不穏な音で目を覚ました。

 薄っすらとまだぼやける視界で時計を見ると時刻は朝八時前。

 プリキュアが始まるのが八時半なので、目覚めるのに程よい時間といえばその通りだが、俺の脳はまだ眠りを欲し、起き上がることを拒んでいる。

 というより、後五分、いや後三十分は余裕で寝ていられるのだから無理に起きる必要もない。

 ならばやることは一つ、二度寝だ。

 どうせ先程の音も小町あたりが起きてきた音だろう。

 そう考えた俺は、もう一度夢の世界への切符を手に意識を手放そうと再び枕に顔を埋めていく。

 

「センパーイ……起きて下さーい……」

 

 瞬間、どこからかそんなか細い声が聞こえて来た。

 その声に俺は思わず、瞳を閉じたまま眉を顰める。

 なんだ今の声は?

 小町が起こしに来たにしては妙に遠慮がちで不審だし、そもそも声質が違い、何より呼び方が違う。寝ぼけて聞き間違えたのだろうか?

 それとも、ここはもう既に夢の中なのか?

 こんな時間からアイツが俺の部屋にいるわけないもんな……。

「寝てます……よね……? 起きてないですよね? センパーイ……?」

 

 しかし、俺の予想に反しその声はまたしても聞こえてきた。

 しかも心なしかさっきより距離が近い。

 空気が僅かに揺れ、吐息が俺の頬に当たっているのが分かる。

 これはもう……誰が居るとかそういう問題じゃなく、明らかなトラップだ。

 目を開けた瞬間、なにかされるに決まっている。

 さては小町だな?

 さっきの声も録音か、通話を繋げてのことだろう。

 そうと分かっていてワザワザ引っかかってやる俺ではない。

 俺はそのままじっと動かず狸寝入りを決め込み、小町のトラップを無視することにした。

 まだワンチャン夢だという可能性も残ってるしな……。

 

「ふふ……お寝坊さんですねー……早く起きないとイタズラしちゃいますよー……」

「あのー、いろはさん? ……一応小町も母もいるので、朝からそういうのはちょっと困るというかなんというか……」

「ちょっ!? ばっかお米! しーしー! センパイ起きちゃうじゃん!」

「いろはさんは兄を起こしに来たはずでは……?」

 

 だが、そうして目を瞑っていると部屋の中の気配が二人に増えた。

 いつものいろこま漫才が始まったのである。

 んん?? ということはやはり夢ではないのか?

 つまり、本当に一色が来ている? 何のために? 何か今日って予定いれてたっけ?

 少なくとも俺の方に覚えがないので、小町が呼んだという可能性の方が高いのだが……。

 でも、なんでこんなに朝っぱらから? しかも俺の部屋に?

 マジで迷惑なんですけど?

 

「そ、それはそうなんだけど、ほら……あまりにも気持ちよさそうに寝てるし……可哀想じゃない?」

「お気遣い無用です。兄は休みの日は放っておくといつまでも寝てますから……ほら! お兄ちゃん起きて!! いろはさん来てるよ!」

 

 そんな疑問を抱えながら二人の会話に耳を傾けていると突然、小町に布団を剥ぎ取られた。

 もう大分暖かくなっているのでそれほど寒くはないが、一夜を共にした相棒と離れるのは寂しいものである。何より、無理矢理というのは気分がよろしくない。

 やるなら合意の上。面倒くさくても昨今はそういう細かい気遣いが大事なのだ。

 

「……なんなんだよ……朝っぱらから……」

「センパイおはようございます♪ よく眠れましたか?」

「全然……」

 

 俺はいまだ張り付く瞼を擦り、朝から起こされて不機嫌ですというアピールの意味を込めてその場に居る人物に睨みをきかせていく。

 そこに居たのは予想通りというかなんというかやはり一色いろはだった。

 うん、どうやら夢ではなかったらしい。

 一色が確かに俺の部屋にいる。

 しかも今日は日曜なので私服だ。

 一体なぜ? ……ってなんか最近こういう事多いな……。

 なんというかこう……少しずつだが、確実に俺のテリトリーが侵略されていっている気がする。

 俺の神聖なるぼっちライフは一体何処へ行ってしまったのだろうか?

 もしかしてサービス終了したの?

 それとも契約内容変更でもあった?

 お知らせメールとか貰ってないんだけど?

 仕様変更するなら少なくとも一週間、いや一ヶ月前には連絡して貰えませんかね?

 まあ、そんなクレームを入れたところで言っても無駄なんだろうけど……。

 

「ふぁぁ……で、なんで一色がいるの?」

「あ、あの、それはですね……あの……その……」

 

 まだ脳がキチンと働いていないというのもあり、俺は余計な質問を端折って今日の目的を探ろうと欠伸混じりにそう問いかけながら立ち上がる。

 すると、一色は何故か俺から勢いよく目を逸らし一歩だけ後ずさった。

 ん? 何だ?

 その一色らしからぬ態度に、俺は少しだけ首を傾げ更に一歩足を進めるが、一色もまた一歩足を引く。

 更に一歩進めば、更に一歩後退り、とうとう一色の背中が壁に激突してしまった。

 

「どした?」

「な、なんですか……朝から……そんな……。わ、私としてはもちろん将来的にはそういうことも当然有りだとは思ってますし? 早めにそういう経験はしておきたいとも思いますけど……流石にこんな状況は想定していなかったといいますか……心の準備ができていないといいますか、えっと……だから、その……ご、ごめんなさーい!!」

 

 俺の問いに、一色は早口でそう捲し立てると恥ずかしそうにドタドタと慌てた様子で階下へと降りていってしまった。一体何なんだアイツは……?

 自分から部屋に押しかけておいて失礼なやつだな。

 そう思い、俺が頭をガシガシと掻きながら首を捻っていると、不意にちょんちょんと肩をつつかれた。 

 振り向くとそこには一色においていかれた小町が嫌そうに、俺の一部を指差しため息を吐いている。

 

「お兄ちゃん……最低……」

 

 こらこら小町ちゃん? お兄ちゃんに向かってそんな簡単に最低とか言っちゃいけません。

 うっかり飛び降りちゃうところだったでしょ。

 いつもならそんな軽口を吐くところだが、小町が指さした先──自分の下半身へと視線を落とし、俺は驚愕の声を上げた。

 

「へ?!? うお!!?」

 

 そこにはまるで何かを主張するかのようなテントが張られていたのだ。

 まあ、なんというか……寝起きの生理現象というやつである。

 その事に気づいた俺は慌てて小町に剥ぎ取られた布団を奪い取り、自らの下半身を覆い隠して考える。

 も、もしかして今のを一色に見られた……?

 っていうか俺もしかして臨戦態勢のまま一色に詰め寄ってた??

 

「ち、違うんだこれは男の生理現象であってだな……! ちょ、ちょっとまて小町! 一色にも説明を……!」

 

 そのことに気がついた俺は慌てて弁明するが、そんな言い訳など聞く耳も持たないとでも言いたげに、小町はヤレヤレとため息を吐いて部屋を出ていってしまった。

 くそぅ。なんだこのラブコメのお約束展開。どうせお約束をするならラッキースケベとかにしてくれよ。

 恨むぞラブコメの神様。

 

 

***

 

 

「いっけー! 隼人ー!!」

「戸部っちも頑張れー!」

「負けるなー!」

 

 そうして寝起きに若干やらかした俺は今、なぜか総武高の校庭でフェンスに寄り掛かりながら、さして興味もない。いや、全く興味のないサッカーの試合を観戦させられていた。

 これはあれだ、以前から葉山がちょこちょこ言っていた葉山が部長になるかどうかが決まるという大事かもしれない練習試合。

 その試合の観戦に、何故か俺が駆り出されている。

 当然だが、プリキュアは見れていない。

 

「──で、なんで俺が連れてこられたの?」

「え、えっと、だって昨日も連絡しましたよね? 今日試合ですよって」

「いや、確かに来たけどさ……」

 

 まだ少しだけ朝の事を引きずっているのか、チラチラと俺を伺うように見てくる一色を横目に、俺はスマホを確認する。

 そこには確かに昨晩、寝る前にした一色との簡単なLIKEのやりとりが残されていた。

 

『そういえば明日は例の練習試合の日ですけど。ちゃんと覚えてます?』

『ああ、そういやそんなのあったな。忘れてた』

『忘れないでくださいよ! 明日寝坊とかしないでくださいね?』

 

 まあ、なんとなく話の流れから俺が試合を見に行くと勘違いしているのは理解したが、別に集合時間も開始時間も聞いていないし、特に行かなきゃいけない理由も思い当たらなかったので放っておいたのだ。

 でも、まさか朝から家に迎えに来られるとは思わなかった。

 知っていれば俺だってもう少し対策ぐらいしたのだ。

 鍵をかけるとか、チェーンをかけておくとか。板材を打ち付けておくとか。

 

「だって、あの作戦立てたのセンパイじゃないですか、一緒に来てくれないと困りますよ」

 

 続けて、一色は少しだけ周囲に気を配りながら俺の耳に手を当て、小声でそう訴えてくる。

 ここでいう“あの作戦”というのは一色の偽装彼氏作戦のことだ。

 改めて周囲を見回してみると、この場にいるのは先程から大きな声で応援をしている三浦、海老名、由比ヶ浜に加え、一色、俺、そして少し離れた所に見慣れぬ一年の女子のグループがあった。

 恐らくあれが俺の策にハマった──もとい、一色と同じクラスの……まあ、一色のエセ友人グループということなのだろう。

 あいつらはあの日葉山が言った『友達を連れて応援に来て欲しい』という言葉に騙され、一色に近づいてきたのだ。

 まあ、それ自体は作戦通りで、一色に嫌がらせをするより、気に入られたほうが得だと思わせ例の噂を止める一助となったのであればそれで良いのだが……。

 

 何故か先程からその一年グループが俺の方へとチラチラ視線を向けてきていた。

 なんだか少し怖い。

 まさか、またテント張ってたりしないよな?

 ──うん、問題ない、大丈夫だ。俺は年がら年中発情しているような変態ではない。

 しかし、だとすると余計に視線の意味がわからない。

 俺は少しだけ一色の影に隠れるように動き、今度は俺が一色に耳打ちをするように小声で話しかけていく。

 

「なんか、さっきから見られてない?」

「皆、私とセンパイの事気にしてるんですよ。私だってあのあと色々聞かれて大変だったんですからね?」

「大変って?」

「それは……その……」

 

 珍しく歯切れの悪い一色に、俺は少し思考を巡らせる。

 何が大変だったのだろうか?

 まさか、またあらぬ噂でも立てられているのだろうか?

 一色の噂を打ち消すためとはいえ、俺のような男と付き合っているなんていう話になれば別の悪評を立てられる可能性は十分にありえる話だ。

 もしそうであればまた何か別の方法を取らなければ……。

 そう考え、俺は一年グループの方にチラリと視線を向けた後、一色の方へと向き直り真相を突き止めようと真っ直ぐに一色をみる。

 しかし、そんな俺の視線から避けるように、一色は再び恥ずかしそうに目を逸した。

 まだ朝のことを引きずっているのだろうか?

 頼むからいい加減忘れてほしいのだが……そんな事を考えていると視界の端で一年グループの一人が他の連中に背中を押されるようにして俺たちの方へと近寄って来るのが見えた。

 

「あ、あの!」

「お、おう?」

 

 その一年は俺の前に立つと、モジモジと胸の前で手を合わせながら俺に話しかけてくる。

 なんだ? もしかして告白か……?

 

「えっと、比企谷先輩って一色さんと付き合ってるんですよね?」

 

 だが、当然告白などではなく。

 その一年は真剣な顔でそう俺に問いかけて来るので、俺は一色の方へと視線を向けながら「ま、まぁ……な……」と答えることしか出来なかった。

 勿論現状はそういうことになっているはずなので、一色も否定はしない。

 「えへ、えへへ」と何故かだらしない顔をしている。

 恋人っぽい演技……なんだよな? でもどういう感情だこれ?

 どうせならもうちょっとそれっぽい演技をしてくれないと、疑われてしまうだろうに。

 そう思ったのもつかの間、俺の予感が当たったのか、それとも単純に俺の受け答えが悪かったのか、一年女子が「えー、やっぱり本当なんですね!」とわざとらしい黄色い悲鳴をあげると、そのタイミングでこちらを注視していた残りの一年がワラワラと俺達を取り囲むように集まり、次々に質問を投げつけて来る。

 

「比企谷先輩って一色さんのどこに惚れたんですか?」

「付き合ってどれぐらい経つんですか?」

「どっちから告白したの?」

「ふ、二人の関係ってどこまでいってんですか?」

 

 そのあまりの勢いに俺は思わず一歩二歩と後ずさるが、一年女子の追求は止まらない。

 そして同時にマズイと思った。

 そういった細かい打ち合わせはしていないので、下手なことを言うとボロが出る可能性が高かったからだ。

 案の定、一色も「えっと、えっと」と困ったように俺に視線を向けてくるが、俺も、何と答えたら良いものかわからない。

 どうにかこの場を切り抜けなければと、なんとか脳をフル回転させていると、突然俺たちの間に割って入る影があった。 

 

「はいはい、ヒッキー困ってるでしょ。お開きお開き」

「「「「えー!!」」」」

 

 影の正体は由比ヶ浜だ。

 由比ヶ浜は無理矢理俺たちと一年を引き剥がすと、仁王立ちのポーズで俺たちを庇うように立ちふさがる。

 そんな由比ヶ浜に一年女子陣はブーブーとブーイングの声をあげるが、由比ヶ浜の後ろから三浦が睨みを利かせたことで、一年女子は渋々という雰囲気を隠そうともせず定位置へと戻っていった。

 ふぅ、助かった。

 全くもって由比ヶ浜様々だ。ついでに三浦も。

 

「悪いな由比ヶ浜。助かった」

「もう、だからあんな作戦止めたほうがいいって言ったのに!」

「仕方ないだろ……あの時はいい案だと思ったんだよ。実際一色の問題も解決したんだろ?」

 

 少なくとも一色の噂は消え、クラス内での立場もある程度向上しているようではある。

 勿論その関係は葉山という餌をぶら下げた上に成り立っている“偽物”でしか無いが、今は一色に危害が加えられていない事実が一番重要なので、そこには目を瞑ろう。

 ──変な男が寄ってくる心配もなさそうだしな……。

 

「それは……そうかもだけど……だけど……!」

「だけど?」

「もう! 知らない!」

 

 だが、そんな俺の考えとは違い、由比ヶ浜はいまだ納得がいっていないらしくプイと不機嫌そうにそっぽを向き、一色を睨んでいた。

 俺、何かマズイことでも言っただろうか?

 

「結衣先輩? 嫉妬は見苦しいですよ」

「し、嫉妬とかじゃないし!」

 

 友人である由比ヶ浜には理解してもらいたいと思っていたのだが、俺のワガママだったのだろうか? 友達って難しい。

 なんだか由比ヶ浜の機嫌も悪いし、一年からの視線も痛い。

 これ以上ここにいるのは俺の精神衛生上よろしくないかもしれない。

 さっさと帰ってしまいたいが……多分許してくれないよな……。ならとりあえず緊急避難だ。

 

「俺、ちょっとトイレ行ってくる……」

「え? あ、いってらっしゃい」

 

 考えた結果、俺は逃げるように一人校舎のトイレへと向かうことにした。

 いや、逃げるようにではなく実際に逃げたのか、戦術的撤退というやつである。繰り返しになるが試合とか興味ないし、何より女子に囲まれているという状況がよろしくない。

 試合が終わるまで帰れないというなら、せめて時間を潰してしまいたい。

 

 だから、俺はできるだけゆっくり校舎へと向かい。

 普段はあまり利用しない職員室前のトイレで用を足し。少しだけ物思いに耽っていた。

 ふぅ……今日は何時に帰れるのだろう?

 プリキュアは小町に録画を頼んだが、ちゃんとやっておいてくれてるだろうか?

 もし失敗していたら今夜は久しぶりに兄妹喧嘩が勃発してしまうかもしれないな。

 

 そんな事を考えながら手を洗い、ハンカチで水滴を拭いながら時計に目を移すと、まだあれから十分も経っていないことに絶望した。

 このまま一色たちのところへ戻っても、状況は変わらないし、試合はまだ後半が残っている。このまま戻ってもまたさっきの繰り返しになりそうだし、もう少し時間を潰していこうと、俺は人気のない校内を散策することにした。

 

 よくよく考えてみたら休日の学校を歩くというのは初めてのことかもしれない。

 一階、職員室付近こそ人の気配を感じたものの、二階、三階と階を進めるごとにひと気が亡くなっていくという状況はなんだか不気味ですらあった。

 外からはワーワーと騒がしい声が聞こえるので尚更だろうか?

 まるでこの校舎だけが世界から切り離されているかのような、もしくは時間がずれているような、そんな不思議な感覚に陥っていく。

 

 そうして校舎の中を歩くこと数分。

 最初こそどこに向かうでもなくブラブラと中庭を見下ろしながら歩いていたつもりだったのだが、気がつけばいつのまにか自分の教室へと足が向いていた。

 これが馴れというやつなのだろうか? 別に教室になど行きたくはないのに、習慣というのは恐ろしいものである。

 だが、そうして教室へと向かっていると、徐々に人の声が聞こえてくることに気が付いた。

 二人、いや、三人だろうか?

 2-Fの自分の教室から、少人数ながら確かに人の声が聞こえてきたのだ。

 幽霊、なわけはないだろうし。補習でもさせられているのだろうか?

 日曜日に?

 まさか泥棒なんてこともないだろうな……。

 そう考えた俺は、バレないようそっと教室の中を覗くことにした。

 

「あれ? 比企谷?」

 

 だが、一瞬でバレた。

 しかも相手は俺のことを知っているようだった。

 そのことに焦り、俺は改めて中にいるソイツ等の顔を確認していく。

 予想通り、中に居たのは三人でいずれも女子だった。

 一人は見覚えがあるような気がするが、残り二人については全く知らない顔のJK三人組。

 その三人組は窓際で校庭を見下ろすように座り、机の上にお菓子を広げている。

 どうやら補習とかではなさそうだ。

 

「ど、ども」

「どもだって、超ウケル」

「誰?」

「ウチのクラスの比企谷」

「あー、私去年同じクラスだったかも」

 

 そう言ったのは唯一俺が見覚えのあるJK。

 去年、確かに同じクラスだった──なんだっけあの……クッパじゃなくてユッケじゃなくて……。

 

「なになに? ゆっこの元彼?」

「んなわけないじゃん」

 

 そう、ゆっこだ。

 直接話したことはないが、結構目立つ奴だったので記憶に残っていた。文化祭で余計なことをしてくれたしな。

 だが、ゆっこの側にいるショートボブのJKとセミショートのJKには全く覚えがない。

 なんというかこう……三浦達に比べると華がなく非常にモブっぽい三人組だった。人のことは言えないけど。

 そんな三人のJKは何が面白いのか、手を叩きながら俺をバカにしたように笑っている。

 もうすでに帰りたい。関わりたくない。

 だが、当然そのままスルーして帰れるわけもなく、代表としてなのかゆっこが口を開いた。

 

「何しに来たの? なんか忘れ物?」

「いや、サッカーの応援に……」

 

 その問いに、素直にそう答えるとJK三人組は一度キョトンと顔を見合わせた後、ガタリと立ち上がり、俺を取り囲むように近づいてきた。

 どうやら選択肢をミスったらしい。

 

「へぇ比企谷って応援とかすんだ? もしかして関係者?」

「そういや最近葉山くん達と良く一緒にいるよね?」

「え? まさか、葉山くんと仲良いの? マジ?」

「いや、仲がいいっていうか……」

 

 三人はまるで獲物を見つけた肉食獣のような目で俺を取り囲むと、そうして次々に質問を投げつけてくる。だから俺は聖徳太子じゃないっというに。

 しかしまずいな……。これは良くないパターンだ。

 

「ねぇねぇ、じゃあ今度葉山くん達と遊びに行くときウチらも呼んでよ」

「あー、ウンそれ良いじゃん!」

「葉山くんとあと一人誰か誘って三:三とか面白くない?」

「それいいかも!」

 

 そう思った時にはすでに遅く、三人組は勝手にドンドンと話を進めていく。

 これはあれだ、一色と同じ状況。

 つまり、コイツラは俺を餌にして葉山を釣ろうという作戦なのだろう。

 こうやって改めて自分がその立場に立ってみると非常に面倒くさいという事がよく分かる。

 イケメンと友達になるというのは意外と大変なのかもしれない。

 いや、俺は別に葉山の友達じゃないけど。

 

「いや、そういうのはどうだろうな……そもそも俺が今後葉山たちと遊びに行くこととかないだろうし……」

 

 だから、俺はそう言ってできるだけ相手を刺激しないように、一歩身を引いていく。

 一度カラオケに行ったことはあるが、今後どこかへ行く予定なんて無いし、あっても断るだろうから嘘ではないだろう。

 別に葉山に義理立てをしようとかそういう気持ちは一切ないし。単純に面倒くさかったのもある。

 

「は? なにそれ」

「つまんね」

「まあ、でもそうだよね、葉山くんが比企谷と遊んでるところとか想像できないし」

 

 実際、俺のその言葉には効果があったようで、三人は露骨に肩を落とすと同時に俺への興味も失ったとでも言いたげに元の場所へと戻っていった。

 そのあまりにもあからさまな態度に、少しだけイラっともしたが、まあ諦めてくれたならそれで良しとしよう。

 関わってもろくなことにならなそうだしな。助かった。

 

「あ、そうだ、一個聞きたかったんだけどさ」

 

 しかし、そうして回れ右をしようとした瞬間、ショートボブのJKが振り返りながら改めて俺にそんな言葉を投げて来た。

 

「最近良く教室に来る一年って比企谷の彼女なの?」

「え? 何? 比企谷って彼女いんの?」

「い、いや、別に彼女ってわけじゃ……」

 

 またしても面白そうなネタを見つけたとでも言いたげな三人に、俺は思わず本当のことを話してしまった。

 偽装彼氏作戦を完遂させるのであれば、ここでも嘘を突き通したほうが良かったのかもしれないが、こんな知らないヤツラとの問題に一色を巻き込みたくなかったという思いが勝ったのかもしれない。

 それにしても、なぜこいつは一色のことを知っているのだろうか?

 どっかで会ったことあったか? 

 

「だよねー、あんな可愛い子が比企谷な彼女なわけ無いか」

 

 そんな俺の疑問に答えてくれるわけでもなく、ショートボブJKはケラケラと笑いながらそう言って手を払うように振って今度こそ俺への興味を失ったとでも言いたげに元の位置へと戻っていく。

 まあ、コイツの言うことはその通りでしかないので俺としては返す言葉もない。

 そう、そのとおりだ。

 俺自身分かっている……。一色が俺と釣り合うはずがないなんていうことは、俺自身が誰よりも分かっていたはずだ。なのに……、なぜこんなにもショックを受けているのだろう?

 

「あ、えと……んじゃ、俺そろそろ行くから……」

「あー、うん。またガッコでね」

「ばいばーい」

「もしいけそうだったら葉山くんの件よろしくー」

 

 もはやコチラを見ようともせず、そんな適当な言葉を投げかける三人を背に、俺はふつふつという八つ当たりのような怒りを心の底に抱えながら、逃げるように教室を後にした。

 結局残り二人の名前も分からなかったが、まあそんな事は些細なことだ……。

 今はとにかく一人になりたい、ああ、いっそこのまま帰ってしまおうか……。

 

*

 

「あ、センパイやっと帰ってきた! 遅いですよ何してたんですか!」

「……ん、ああ、ちょっと散歩にな」

 

 そうして、俺が重い足取りで校庭へと戻ると、一色がテテテっと俺の側までやってきて頬を膨らませていた。

 このまま黙って帰ってしまいたかったが、どうもそういうわけにはいかなそうだ……。

 その背後には先程の一年グループもおり、何故かニヤニヤとなんだか気味の悪い視線を送っている。

 

「全く……! 今度からは遅くなる時はちゃんと連絡してくださいよ」

「……わかったよ……」

 

 そんな一色の言葉に、一年の一人が「何アレ新婚みたい」という黄色い悲鳴を上げた。

 それは恐らくなんの悪気のない冗談のつもりなのだろうが、今はそれが妙に腹立たしい。

 俺みたいな奴が一色と結婚できるわけがないだろうに……。

 ああ、しかしそんな状況を作ってしまったのは俺なのか。

 早いところこの誤解を解く策も考えないとな……。

 

「……それでセンパイ。今日この後皆で打ち上げ行こうっていう話になってるんですけど、センパイも行きますよね?」

「パス」

「ええー!? なんでですかー!」

 

 さも当然というように俺の腕に絡まる一色の体温を感じながら、俺はボーッと偽装彼氏をやめるための策を練り始める。

 とはいえ、今すぐ辞めるのも不自然か……時期を考えなければ……一番ベストなのは……。

 そうして俺が思考を巡らせていると、突然校庭中から歓声が湧き上がった。

 どうやら葉山がゴールを決めたようだ。

 1-1だったらしいスコアが2-1に変更され、葉山の元へ多くの仲間が駆け寄っていくのが見える。まさに青春の1ページって感じだ。

 まるで俺とアイツが根本的に違う人種なのだと見せつけられているようですらある。

 ま、どうでもいいけど……。

 

 ああ、どうせならこんな試合より今日のプリキュアの展開の方が知りたい。

 一刻も早く帰って確認しなきゃ……。




いよいよ2022年も終わりですね。
今年もいろいろなことがありましたが、皆様にとってはどんな一年でしたでしょうか?
楽しかった人、少しガッカリだった人、様々かと思いますが
来年がまた皆様にとって良い一年になりますように、そして八幡といろはにとって良い年になりますように。
それでは皆様、良いお年を~!

感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告、ここすき、etc年末年始も休まずお待ちしてますのでよろしくお願いいたします!!


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第94話 魔王襲来

新年あけましておめでとうございます
昨年中は沢山の感想、評価、お気に入り、誤字報告、メッセージ他を賜りまして誠にありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

1月1日にお正月短編SSも上げたので
もしお時間がある方はそちらも併せて楽しんで頂けると幸いです。


 無事、葉山先輩の練習試合が終わると、私の周囲の状況はそれまでとは大きくと変わっていた。

 これまで私を遠巻きにしていた子達も何事もなかったかのように私に話しかけてくるし、センパイの事を聞いたり、放課後一緒に遊びに行こうと誘ってくれることも多い。

 例の噂に関しても、最近はめっきり鳴りを潜め、未だにその噂の話題を出す人には私が何か言う前に否定してくれる人まで現れるようになった。

 あまりにも見事な手のひら返しに思わず苦笑いも浮かんでしまうが、センパイの作戦が見事にハマった形となったわけだ。

 本当にセンパイには頭が上がらない。

 というか、あの人はどれだけ私の心を深く引っ掛ければ気が済むのだろう?

 ココまで来るともうセンパイの側を離れられなくなってしまいそうで怖いまである。まあ、もともと離れる気もないんだけど。

 

「行ってきまーす」

 

 そうして、その日も私はセンパイの事を考えながら家を出ると、ママの返事も聞かずに駅へと向かった。

 あれからまた一週間が経ち、今日は日曜日。

 待ちに待った久しぶりのセンパイとのデートの日である。

 そう、今日はセンパイが久しぶりにウチに来る日なのだ。

 しかも私が誘ったわけではなく、センパイからの希望。

 これはもう絶対私達の関係が進展するのだと考えたら、あまりにも楽しみすぎて試験勉強にも全然身が入らなかった。結果は惨憺たるものである。

 まあでも高校最初の試験だし? いくらでも挽回のチャンスはあるだろうから特に気にはしていない。

 それもこれも、試験直前にあんな特大の餌をぶら下げるセンパイが悪いのだ。

 お陰でママまで大はしゃぎである。

 今日に至るまでも毎日レシピ本とにらめっこをしながら、ああでもないこうでもないと頭を悩ませ試作品を食べさせられていた。

 全く太ってしまったらどうするというのだ。

 

 だから、というわけでもないけれど、私は駅までの道のりを小走りで向かい、乗り込んだ電車の中でも軽く足踏みをして到着の時を待った。そんな事をしても早く着くわけではないし、待ち合わせまでまだ時間があると分かっていても気持ちを抑えられなかったのだ。

 

 ガタガタと電車に揺られている間も反射する扉のガラス越しに前髪と今日の服装をチェック。うん、可愛い──と思う。

 でもちょっと幼すぎ?

 やっぱりカバンは色の濃い方にしてきたほうが良かったかな?

 よくよく考えてみればセンパイの好みのタイプってあんまり知らないんだよね。

 プリキュア大好きみたいだし、やっぱりフリフリした女の子の方が好きなのかなぁ?

 今度お米に探り入れとこ──。

 

 そんな事をぐるぐる考えていると定刻通りに電車が目的の駅へと到着し扉が開いた。

 日本の鉄道は本当に優秀である。

 私はぴょんと飛び降りるように電車から降りると、待ち合わせ場所へと足を運ぶ。

 駅前にある大型ショッピングモールの入り口、そこが今日の待ち合わせ場所だ。

 時刻は十時ジャスト、日曜とはいえ開店時間前というのもあり人もまばら、それほど迷わずに見つけられるだろう──と思ったら居た。

 

「せんぱーい!」

 

 私は目的の人物を見つけると、大きく手を降って“彼女”の元へと駆け出していく。

 すると、向こうもコチラに気付いたのか、軽く手を挙げる素振りを見せ、そしてその手を引っ込めた。恥ずかしかったのだろうか?

 なんだかその動作がやけに“雪乃先輩”らしくもあり、少しだけ微笑ましく、そして可愛かった。

 

「雪乃先輩お待たせしました」

「いえ、待っては居ないわ、時間ぴったりよ」

 

 というのも、今日は日曜なので当然雪乃先輩も私服だった。

 白いワンピースに薄手の青いブラウスを羽織り、長い髪を両サイドで結んでいる。所謂ツインテール姿の雪乃先輩はいつもより少しだけ幼く見えてとても可愛らしい。

 いつも通りの腕時計に視線を落とすその姿すら、大人っぽく見せたくて少し背伸びをしている女の子のように見えた。ギャップ萌えというやつだろうか。

 

「ごめんなさいね、こんな事をお願いしてしまって」

「いえいえ、雪乃先輩が誘ってくれなかったら私から誘うつもりでしたから全然!」

「そう? そう言ってもらえると嬉しいのだけれど……プレゼントを買うにしては少し気合が入り過ぎではないかしら?」

 

 申し訳無さそうに頭をさげる雪乃先輩だったが、そう言って今度は私の服装を確認してきた。勿論私の方はセンパイとのデートを意識した服装なので気合が入っていて当然である。

 こういってはなんだけど、雪乃先輩とのお買い物は私にとってはあくまでついで。

 もう少し詳しく言うと今日は午前中雪乃先輩との買い物、その後、午後からセンパイと合流予定という二段構えなのである。

 そう、雪乃先輩とは結衣先輩の誕生日プレゼントを買いに来たのだ。

 

 結衣先輩に誕生日を教えてもらったあの日以来、雪乃先輩も何か用意しなくてはと思っていたらしく、私に声をかけてくれたのが先週のこと。

 誕生日がもう来週に控えていることを考えていると、このタイミングしかなかったというのが本音のところでもある。

 最も、私のライバルでもある結衣先輩がセンパイからプレゼントを貰えないというのは少しだけ可哀想という思いもあるので、三人でプレゼント選びをするという案も一瞬頭をよぎったが、そうすると私がセンパイにつきっきりになってしまい、その気がなくても雪乃先輩に疎外感を与えてしまうのではないかと思って敢えて分けることにしたのだ。

 でも、こうして今考えるとそれはそれで正解だったのかもしれない、今日の雪乃先輩を見たらセンパイだって絶対可愛いって思っちゃうもんね……。

 

「そうですか? 私から見たら雪乃先輩も結構気合入ってるみたいに見えますよ?」

 

 そう思った私は瞬時に棘のある言葉を吐いてしまっていた。

 それは本当に小さな棘。

 もしかしたら──ううん、恐らくきっと雪乃先輩はそんな棘には気付かないだろう小さな小さな嫉妬の棘。

 でも、私はその事をすぐに後悔する。

 

「へ、変だったかしら? あまりその……と、友達と出かけたことがないから……どういう格好が良いのか分からなくて……」

 

 私の言葉をきいた雪乃先輩は少しだけ照れたようにそう言って申し訳無さそうに顔を伏せたのだ。いつもは自信たっぷりな雪乃先輩のその姿に私は思わず「あ……」と小さく声を漏らす。

 やってしまった。今の私……凄く嫌な女の子だ。

 勝手に嫉妬して、勝手に攻撃して。……勝手に、後悔してる……。

 そして同時に感じた。

 雪乃先輩は少しセンパイに似ているのかもしれないと。

 

 きっと雪乃先輩もセンパイと同じで友達がいなかったのだろう。

 こんな風に友達と二人で出かけるという経験をしたことがないのだ。

 だから本当にわからない。もし私が意地の悪い人間だったらソレすらもポーズだと決めつけて攻撃を続けるかもしれない。でも、そうじゃない。

 これは雪乃先輩なりに最善を取った結果で、それが傍からは多少歪んで見えても意図してやっているわけではないのだ。

 そういった部分で、二人はとても似ている。

 そう考えたら、私の中にあった嫉妬はすぅっと消えていった。

 だって、私が好きなのはセンパイなのだ。

 友達がいなくて、少し捻くれてて、どこか歪んでる。そんなセンパイが好きな私が、センパイに似ているこの人を好きになれないはずがない。

 

「……ほら! そろそろ行きましょ、折角朝一で来たのに時間なくなっちゃいますよ!」

「え? あ、ちょっと! 一色さん!?」

 

 私は雪乃先輩との約束を『ついで』だという考えを捨て、雪乃先輩が今日『私を誘ってよかった』と思ってくれるように、全力で私がエスコートしようと一度気合を入れ直す。

 

「ほらほら、早く!」

 

 そうして私は雪乃先輩の手を取り、開店したばかりのショッピングモールへと向かったのだった。

 

***

 

「どういうものがいいのかしら……」

 

 今日何度目かになるその独り言とも質問とも取れる呟きを聞きながら、私たちは小さな雑貨屋でプレゼントになりそうな商品を物色していた。

 実際、プレゼント選びというのは結構頭を使う。

 お互いバイトをしているわけでもないので、お小遣いの範囲内で買えるものというのは限られてくるし、サプライズで喜んでもらおうとなるとハードルは更に爆上がりだ。

 結衣先輩の事だから、雪乃先輩がくれるものなら何でも喜んでくれるとは思うが、それはそれ、こちらだってどうせ贈るなら喜んでほしい。

 

「結衣先輩だし、ちょっとファンシー系の小物とかでいいじゃないですか?」

「ファンシー系……これとか……?」

「それは、ファンシーというよりキュートですね」

「じゃあ、これ?」

「それはポップって感じです」

「ごめんなさい、全然わからないわ……」

 

 頭が痛そうにこめかみを押さえながら困惑する雪乃先輩を見て、本当にこういうのは苦手なのだろうなと思いながら私も店の棚を物色していく。

 実のところ待ち合わせから既に一時間が経過しているが、未だプレゼントの方向性すら定まっていない状況だ、さすがに私も少し焦ってきた。

 今日は雪乃先輩に本気で付き合うと決めたのはいいが。センパイとの待ち合わせがなくなったわけではない。センパイとの待ち合わせは十三時でタイムリミットまではあと二時間。

 二時間あれば余裕という考え方もできるが。時間的にセンパイはお昼を済ませちゃってるだろうし、こちらとしてもそれまでにできれば軽く何かお腹に入れておきたいという思いもあるので結構ギリギリだ。

 寧ろセンパイと一緒にお昼ご飯を食べる前提でスケジュールを組んでいなかった私を褒めてあげたいまである。まぁ、もしそうなってたらママが黙っていなかったと思うけど……。

 

「とりあえず、自分が贈られて嬉しいものを考えてみたらどうですか? その中で家に一個あってもいいけど自分で買うのはちょっとなぁとか。欲しいけどこの値段だとなぁみたいな微妙なラインだと意外と喜ばれるかもです」

 

 私がそう言うと、雪乃先輩は理解したのかしていないのかわからない表情で「なるほど」と真剣に頷き、再び棚に手を伸ばす。

 そこにあったのは、某有名テーマパークのマスコットのパンくんのぬいぐるみだった。

 雪乃先輩は愛おしげにその頭を撫で、大事そうにそのぬいぐるみを抱き上げていく。

 その手はコレまでに見ていたどんな品物を扱うより丁寧でそのぬいぐるみに思い入れがあることがひと目で理解できた。

 

「もしかして……好き、なんですか?」

「え? べ、別にそういうわけではないのだけれど……」

 

 指摘されたのが恥ずかしかったのか、分かりやすいぐらいに動揺する雪乃先輩。

 棚に戻す時の手付きも恐ろしく丁寧だ。

 意外。こういうのが好きなんだ。

 ちゃんと覚えておこう。

 

「いいんじゃないですか? 雪乃先輩からなら多分喜んでくれると思いますよ?」

「い、いいえ。由比ヶ浜さんが好きかどうか分からないもの、他のものにするわ。そういう一色さんは決まったの?」

「そうですねぇ……」

 

 振られて、私も慌てて考える。

 実際、私自身そんなにプレゼント選びが得意というわけではない。元々私も友達が多い方ではないし、今回は相手があの結衣先輩だ。

 可愛いけど幼すぎず、大人すぎない微妙なラインを選ばなくてはいけない。

 ライバルとしてセンスを疑われたくもないしね。

 まぁ、結衣先輩の性格上よっぽどじゃない限り何でも喜んでくれるとは思うけれど……。

 私だってどうせなら喜んでほしいという思いもある。

 

 なんだかんだ結衣先輩とは二ヶ月ちょっとの付き合いである程度の趣味嗜好も分かっているつもり……なんだけど……。

 そういえば、こういうときセンパイはどういうのを選ぶのかな?

 センパイが結衣先輩の誕生日を知っているわけもないし、一応今日このあと教えてあげるつもりだけど……私の誕生日の時みたいな、あまり結衣先輩が喜びすぎるような物はあげないで欲しいところだ。やっぱりそっちも私がちゃんとチェックしないとかな……。

 

「確か反対側にも小物屋さんありましたよね、あっちも見てみませんか?」

「そうね……そうしましょうか」

 

 そうして、悩んだ末に私たちは雑貨屋を出て再び店を移動することにした。

 モール内は広く移動だけでも結構なタイムロスだが、沢山のお店が入っているというのが魅力である。その利点を生かさない手はない。

 でも……お昼前ということもあって人の数も多くなってきている。できることならそろそろ決めてしまいたいところでもあった。

 何か良いものが置いてるといいんだけど……。

 

「あれ? 雪乃ちゃん? やっぱり雪乃ちゃんだ!」

 

 そんなことを考えながら私たちが並んで歩いていると、突然目の前に現れた女性に声をかけられ雪乃先輩が驚いたような表情のまま固まってしまった。

 女性は私たちより少し年上のお姉さんで、私たちの存在に気がつくとニコニコと笑顔を浮かべたまま雪乃先輩のもとへゆっくりと近づいてくる。

 だが、名前を呼ばれた雪乃先輩は、そんなお姉さんとは対照的に少しだけ不愉快そうに眉を顰め、半歩下がった。

 

「姉さん……?」

 

 『姉さん』というのは、つまりその、文字通りそういうことなのだろうか?

 雪乃先輩のお姉さん?

 言われてみれば確かに顔は似ているような気がするけれど、二人が同じタイプには見えなかった。

 まず、声のトーンが違う。

 仮に雪乃先輩を真面目系優等生タイプとするならば、お姉さんの方はお調子者のムードメーカータイプとでも言うのだろうか? 同じクラスにいたら絶対に混じり合わなそうな、陰と陽のような、そんな印象を強く受ける。少なくとも対人スキルは高そうだ。

 

「珍しいね、雪乃ちゃんがお友達と一緒なんて」

 

 お姉さんは雪乃先輩に顔を近づけると「んん?」とまるで挑発するように、それでいて楽しそうにチラリと私に視線を送ってきた。

 その二人の距離感だけをみるなら仲の良い姉妹のように見えなくもないが、雪乃先輩の方はそんなお姉さんを少し苦手にでも思っているのか、バツが悪そうに目を逸らすと面倒くさそうに口を動かしていく。

 

「……部活の後輩よ……」

「へぇ、部活の……」

 

 雪乃先輩の言葉を聞いたお姉さんは今度は楽しそうに私の顔を覗き込んで来た。

 もし、これが男の人だったら完全に変質者で通報されるような距離感だ。

 いともたやすく私のパーソナルスペースを犯してくるその振る舞いに、私は思わず一歩身を引いて、顔をひきつらせてしまう。近い近い。

 初対面でなんだけど……結構苦手なタイプかもしれない……。

 

「こんにちは、私は雪乃ちゃんのお姉ちゃんで雪ノ下陽乃です」

「ど、どうも一年の一色いろはです……雪乃先輩には部活でお世話になってます」

 

 流石に無視をするのは失礼に当たるだろうと、お姉さん改め陽乃さんが差し出してきた手を握り、私も軽く一礼してから自己紹介を済ませる。 

 その堂に入った手付きはまるで政治家や社長を思わせ、バリバリと仕事をこなす姿が用意に想像出来た。 

 少なくとも私の周りにはあまり居なかったタイプの登場に少し戸惑いつつも、雪乃先輩の手前もあり、できるだけ刺激しないよう笑顔で答えたつもりだったが、私が名乗った瞬間陽乃さんが「いっしき……?」と呟き、そのキレイな顔を強張らせたのがわかった。

 あれ? もしかして私変なこと言っちゃった……?

 

「は、はい。一色ですけど……」

 

 しかし、そんな私の不安な顔に気付いたのか陽乃さんの顔は一瞬で笑顔に戻り、私の勘違いだったのかな? と首を傾げる。

 そんな私に陽乃さんは続けてこういった。

 

「ねぇねぇ、勘違いだったらごめんだけど、もしかして親戚に縁継さんっていうお爺ちゃんいない?」

 

 その言葉に、私は思わず目を見開く。

 だって、こんな所でお爺ちゃんの名前を聞くなんて夢にも思っていなかった。

 お爺ちゃんの交友関係が広いのは知っていたが、まさかこんな女子大生──それも、雪乃先輩のお姉さんと知り合いだなんて誰が思うだろう?

 っていうか一体どんな関係? 

 まさか愛人……? いやいやまさかね。

 あまりにもありえない考えに、私は思わず被りをふり、隠すのもおかしいかと質問自体には正直に答えることにする。

 

「縁継なら、私の祖父ですけど……」

 

 私の答えに陽乃さんは「へぇ……」と少し感心したような、驚いたような顔をして目を細めた……ように見えた。

 でも、何故だろう? その瞳があまり笑っていないというか、少しだけ冷たく見える。

 正直に答えないほうが良かったのだろうか? それとも……?

 

「世間は狭いって言うけど、こんなこともあるんだ。へぇ……あのお爺ちゃんのお孫さんが雪乃ちゃんの後輩ねぇ……」

 

 正解が分からず戸惑う私に、陽乃さんはまた明るい余所行きのような笑顔を向けると、漸く手を離してくれた。

 そして、陽乃さんはそのまま私の回りをぐるりと回り「本当に奇遇だねぇ」と舐め回すように私を見てくる。

 一体何事かと、恐怖を感じた私は思わず雪乃先輩に助けを求めようと視線を送った、だがそれは一瞬遅く、私の背後に立った陽乃さんが私の肩にポンと手を置き、耳元で囁くようにこう呟く。

 

「ねぇ、やっぱり貴女にも婚約者とかいるの?」

 

 今度こそ私は「え!?」と驚きの声をあげた。

 そして、肩に置かれた手を振り払うように一歩前へ出る。

 なんでその事を?

 本当にこの人、お爺ちゃんとどういう関係なのだろう?

 

「婚約者……?」

 

 陽乃さんの呟きは少し離れていた雪乃先輩にも聞こえていたらしく、誰よりも早く反応し、私の方へと視線を送ってくる。

 さて、どうしたものか……。

 この際、なんでこの人がお爺ちゃんの事を知っているのかというのはどうでもいい。

 今考えるべきなのは雪乃先輩にバレたかもしれないということだろう。

 正直に言うと、私としては許嫁という関係を特段隠すつもりはなかった。

 なんだったら結衣先輩に手っ取り早く諦めてもらうためにも宣言してしまいたいと思っているぐらいだ。──だけど、どう答えたものだろう?

 ここで正直に答えたところで雪乃先輩が他の人に言いふらすという心配はなさそうだけど──問題はこの陽乃さんだ……。

 真実を告げるにしてもこの人がどういう立ち位置の人なのか見極めておきたい……。敵なのか味方なのか……それとも……?

 雪乃先輩のお姉さんならそこまで悪い人だとは思いたくないけれど……。

 この人、全然キャラが掴めないんだよね。

 大人特有の仮面とでも言うのだろうか? その心の内を全く見せてこない感じが少し怖い。

 下手に話してセンパイに怒られたるのも嫌だし……。本当に、どうしたらいいんだろう……。

 

「姉さん? あまり私の後輩をイジメないでくれるかしら」

 

 そんな私の気持ちを察したのか、雪乃先輩が私を庇うように間に入ってくれた。

 だが、当の陽乃さんはそんな雪乃先輩を見ても楽しそうにケラケラと笑うだけ。

 それはまるで新しいおもちゃを見つけた子供のようで、先程までの大人な女性という印象を撤回してしまいたくなるような無邪気な笑顔だった。

 

「ええー? 別にイジメてるつもりなんてないんだけどなぁ。ちょっとした好奇心?」

 

 「ねぇー?」と私の方を見てくる陽乃さんだったが私は「あ、あはは……」と乾いた笑いを返すのが精一杯。

 なんだろう……この人ちょっと怖い。

 私は思わず一歩体をずらし、そのまま雪乃先輩の背後に隠れるようにその身を潜めていく。

 どうしよう。

 なんて言えばいいの?

 なんて言えばこの場を乗り切れる?

 そもそも本当にこの人はお爺ちゃんの知り合い? 今となってはそれすらも怪しい気がしてきた。

 

「あれー? 嫌われちゃったかなぁ? お姉ちゃん怖くないよー?」

 

 陽乃さんはそう言って両手をひらひらと手を振りながら、無害アピールをするが、完全に手遅れだった、私の中で既にこの人は不審人物としてリスト入りしてしまっている。

 なんなら今すぐにでもこの場から逃げ出したいぐらいだ。

 助けて……センパイ……。

 

「姉さん、だからあまり遊ばないでと……!」

「酷いなぁ、お友達になりたいなって思っただけなのに」

 

 私の前に仁王立ちで立ちはだかる雪乃先輩を見て、少し困ったように首を傾げる陽乃さんだったが、やがて人差し指を顎にあて、考えるような素振りをすると、諦めたのかそれとも興味を失ったのか。「まあいいや」と小さく笑う。

 

「デートの邪魔しちゃ悪いし、お姉ちゃんそろそろ行くね? 雪乃ちゃんもあんまり帰り遅くならないように気をつけるんだよ?」

 

 そうして、陽乃さんはまるで絵に書いたようなお姉ちゃんっぽく雪乃先輩の頭をぽんと叩くと「いろはちゃんも。今度はちゃんとお話聞かせてね」と、大きく手を振りながら人混みの中へと消えていった。

 どうやら、助かったみたいだ。

 よくよく考えると、大分失礼な事をしてしまった気もするけれど……はぁ、どっと疲れた。

 本当に、怖かったのだ。

 人当たりがよくて、ずっとニコニコしてて、優しく話しかけてくれる。雪乃先輩とは違うタイプの優しいお姉さんだなと思ったけれど、その奥に冷たい雰囲気を漂わせている。そういうところは雪乃先輩のお姉さんに相応しい人物だとも思えた。雪乃先輩も今でこそ少し打ち解けてくれたけれど、基本は氷の女王だからね。

 

「うちの姉がごめんなさいね」 

「い、いえ……私もなんだか失礼な態度取っちゃって……」

 

 でも、今日の雪乃先輩は氷の女王様なんかじゃなかった。

 私のことを心配そうに、そして申し訳無さそうに謝罪の言葉を述べ、頭を下げてくれる。

 別に、雪乃先輩は何も悪くないのに……。

 

 きっと、雪乃先輩も私に聞きたいことがあるだろう。

 私も色々聞きたい。

 一体あの人はどういう人なのか、何故お爺ちゃんの事を知っているのか。

 なんで私とセンパイの事を知っているのか。

 気になることが多すぎる。

 だけどそうしなかったのは、私自身今の出来事をどう処理していいか分からなかったからだ。

 だから、私は結局肝心なことは聞けず数秒の無言のあと「そ、それじゃぁ、プレゼント選びに戻りましょうか」と無理矢理笑みを作ることしかできなかった。 

 

「……そうね」

 

 そんな私の気遣いを察してか、雪乃先輩も笑顔を浮かべ二人で何も言わずに当初の目的だった店へと足を動かしていく。

 本当に、私はどうしたら良かったのだろう?

 やはり、雪乃先輩だけにでも本当の事を話すべきだろうか?

 でも、そうなるとやっぱりセンパイには言っておいたほうが良いよね?

 なら、やっぱりこの後センパイと合流する時に雪乃先輩にも付いてきてもらう? 

 だけど、今日は……。

 

 でもでもだってと頭の中でグルグル考えていると、不意に雪乃先輩が店頭サンプル用のエプロンを引きちぎろうとしているのが見えた。

 

「あの、雪乃先輩? 結衣先輩は別にエプロンに防御力とか求めてないと思いますよ……?」

「そう? デザインの好みがわからないから、どうせなら長く使えるものをと思ったのだけれど……」

 

 それは私の気を紛らわせようと態とやっているのか、はたまた天然なのか判断しづらかったけれど、私はそんな雪乃先輩を見て思わず笑ってしまう。

 ああ、やはりこの人はどこかセンパイに似ているのかもしれない。

 そう思ったら、なんだか無性にセンパイに会いたくなってしまった。

 センパイとの待ち合わせまであと一時間半。

 ああ、センパイ……早く来てくれないかな。




というわけで第94話、お読み頂きありがとうございます。
新年一発目に相応しくあの人も登場と相成りましたがいかがでしたでしょうか?
今年は彼女が色々かき回してくれるかも?
ということで
改めて今年もよろしくお願いいたします。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告etc今年もお待ちしております!


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第95話 ぼっちのグルメ

いつも感想・評価・お気に入り・誤字報告・メッセージ etcありがとうございます。
この作品は皆様の応援の力で出来ています。




「お兄ちゃん? いろはさんの家行くなら何かお土産ぐらい買っていったら? あ、小町今日はドーナツとか食べたい気分だなぁ♪」

 

 そう言われて、家を追い出されたのが十二時を回る少し前のことだった。

 今日の一色との待ち合わせが十三時なのでそれまでに外で昼飯を済ませ、土産でも買って行けということなのだろう。

 まあ、家にいても特にやることもないし、多少懐に余裕もあるのでもみじさん達に手土産ぐらい買って行くのは良いかと俺は文句も言わず、とりあえず腹ごしらえをしようと一人ラーメン屋の暖簾を潜った。

 

 気がつけば季節は梅雨。

 今日は雨こそ降っていないが、それでもジメジメとした体に纏わりつくような暑さがあり、店の壁に貼られている『冷やし中華始めました』というチラシが夏の到来を予感させていく。

 そんな季節にラーメンなんて食うのか? と一部からは非難の声も上がりそうだが、今日はなんとなくラーメンな気分だったのだから仕方ない。暑い時に熱いラーメンを食べるというのもまた乙なものなのである。

 

 俺は入り口で食券を購入し、カウンターで店員にソレを差し出して特殊召喚呪文を詠唱する。実のところ俺はこの瞬間が結構好きだ。

 素人には理解できないであろうこの数秒のやり取りが闇取引を想起させ男心をくすぐってくる。恐らくこの感覚は多くの中二病患者になら共感してもらえることだろう。……え? 俺だけ? あ……そうですか……。コホン……。

 まあ、何はともあれそうしてオーダーを通すとそれほど時をおかずして俺の目の前に俺専用のラーメンが運ばれて来るのだが、これがまた素晴らしい。

 家で気軽に再現することの出来ない背脂たっぷりな熱々の黄金スープは幾重にも光を反射させ。そのスープに絡まる琥珀色の麺はまるでどれだけ食べても永遠に消えることのないメビウスの輪のように己の限界を超えろと俺のチャレンジ精神を刺激してくる。そして何より目を引く満月のような巨大なチャーシューと野菜の数々。 

 うん、こういうのでいいんだよこういうので。実にうまそうだ。

 俺は辛抱たまらず、軽く水で喉を潤すと、割り箸を割り、音を立てながら勢いよくラーメンを啜った。

 ズバッズッズズズッズゾゾゾ!!! ……ふぅ……。

 うん、うまい。うますぎる。風が語りかけてくるようだ──ってコレは埼玉の銘菓だったか……。危ない危ない危うく他県の権利を侵害するところだった……。

 

 しかし、どうせラーメン食うなら小町も連れてきてやればよかったな。

 小町もちょっと前だったら外食をするといえば、ひょいひょい付いてきたものだが……。

 なんだかんだ、アイツなりに受験生という自覚が出てきたのだろうか?

 最近は勉強も頑張っているみたいだし……まあ……土産の一つ二つ買ってやってもいいのかもしれない。

 不思議なもので腹がふくれると人間、心も寛容になってくるらしく、俺はぼーっと家を出る前の小町の言葉を思い出していた。

 

 確か小町はドーナツをご所望だったか?

 まあ、ドーナツならそのまま一色家への手土産にしてもそれほど顰蹙は買わないだろう。

 百円ちょっとのドーナツを俺と小町の分含め五人分ならこのラーメンより安く、リーズナブルな価格に抑えられる。

 今は多少余裕があるとはいえ、無駄に消費したいわけでもないからな。

 

 とはいえ、今日の帰りが何時頃になるのか読めていないのもあり、今から小町の分を買って一日中持ち歩くというのは正直面倒だとも思えた。

 小町の分は帰りにコンビニで確保するという手もあるか。

 コンビニなら個包装されてるし、なんならヤングなドーナツが売っているかもしれない。

 あれなら一つ四十円でオトクな四個入りだ。小町も満足してくれることだろう。

 そう考えた俺はズズズっと最後のスープを飲み、コップの水を飲み干すと、ラーメン屋を後にした。

 うん、やはり千葉のラーメンは最高だ。

 

***

 

 腹ごしらえを終えた俺は待ち合わせの場所である駅を目指し、同時にミスターな雰囲気のドーナツかクリスピーな感じのドーナツ屋を脳内地図で検索しながら一人歩き始めた。

 今日は休日ということもあり駅に近づくに連れ家族連れやカップルが増え、一人でいる俺が少しだけ浮いて見えてくる。

 なんだか、こういう感覚は随分と久しぶりだ。

 いつもの俺がこういう時どうやって歩いていたのか、思い出せない。

 というか、もう夏だというのに心なしか左手の辺りが寒い気がする。何かが物足りないというか……まるで何かを忘れているような……そんな少し寂しい感覚。

 

 この感覚はなんだ?

 ラーメン屋のクーラーで冷えすぎたか?

 もしかして俺が座った席、エアコンの真下だったのだろうか?

 そんな感じはしなかったが……。

 まあ、少し動かしてればそのうち戻るだろう。

 

 そんな事を考えながら、俺が右手で少し左手を摩り人混みを避けるように歩いていると、突然どこからか「ひゃんひゃん!」というとても人語とは思えない何かが聞こえてきた。

 

 それは犬の鳴き声。

 声のした方角へ視線を向ければ、そこにはこんがりボディのワンコが一匹。リードも着けずに一目散に俺のところへと走って来るのが見えた。

 放し飼いかよ……全く最近の飼い主はマナーがなっていないな……。

 っていうかなんで俺のとこ来るの? 俺の胃袋のチャーシューの匂いでも嗅ぎつけてきたのだろうか?

 

「何だお前? どっから来た?」

「くぅーんくぅーん」

 

 俺の疑問に答えるでもなく、そのワンコは俺の足元までやってくると勢いよくグルンと裏返り、腹を丸出しにしながら甘えるような声を出して尻尾をブンブンと振リ回し始めた。

 動物が腹を見せるのは服従とか相手を信頼している証だとか色々聞くが……流石に初対面の相手にするポーズではないだろうことは分かる。

 もしかしたら、飼い主と俺を勘違いしているのだろうか?

 それとも本当にラーメン臭いのか俺?

 よく分からんが、さすがに動物好きの俺としてもこのまま放置、無視していくのは気がとがめる。

 俺はワンコと視線を合わせるようにしゃがみ込み、その腹を軽く撫でながら考える。

 なぜこの犬は俺に懐いているのだろう?

 いや、本当懐きすぎじゃね?

 もしかしてどこかで会ったか?

 動物は嫌いじゃないが、ウチで買ってるのは猫だし……。犬の知り合いってあんま思いつかないんだよな……。

 近所の家で飼ってるドーベルマンのグスタフ君は俺が家の前を通る度に唸ってくるし、親戚の家で飼ってたポメラニアンのカールは俺と会う度に「初メテ会ウニンゲンダ!」と警戒心を顕にしてくる。

 昔、小町と一緒に行った譲渡会で出会った犬だろうか?

 こんな感じの犬が居た気がしないでもないが……あの時はカマクラを引き取っただけだしな……。

 

「飼い主どした?」

 

 考えても考えても答えは出ないまま、俺は結局そのワンコを抱き上げ、無駄と分かりつつもそう問いかけてしまった。このまま腹を出してると背中が汚れそうだったのもある。

 だが、当然ワンコは何も答えない。

 それどころか、抱き上げてもらえたコトが嬉しかったらしく「ハッハッハ」と興奮気味に舌を出し俺の顔を舐めようと必死に顔を近づけて来た。

 こいつには危機感というものないのだろうか?

 このまま俺がコイツを連れてこの場を離れてしまえば、二度と飼い主と会えなくなる可能性だってあるんだぞ? そこらへんちゃんと考えてる?

 まったく、飼い主どこだよ本当。

 

「ごめんなさーい! うちのサブレがご迷惑を──って、あれ? ヒッキー?」

「由比ヶ浜?」

 

 そうして少し呆れながら周囲を見回していると、人混みの中から見知った顔がリードを持って現れた。

 我が友、由比ヶ浜だ。

 へ? 由比ヶ浜?

 

「何してんだこんなところで」

「え、あ、うん。お散歩してたんだけど急に首輪壊れちゃって……無事で良かったぁ」

 

 俺の問いに、由比ヶ浜が「ねー?」とワンコの頭を撫でると、ワンコが嬉しそうに「ワン!」と答え、再び尻尾をブンブン振り始める。

 うむ、きちんと反応しているし、確かにリードの先には壊れた首輪がついている。

 由比ヶ浜の犬ということには間違いなさそうだ。

 

「次からは気をつけろよ──」

 

 だから俺はそう言って抱いているワンコを由比ヶ浜に返そうとしたのだが。

 その瞬間、俺の中に何か引っかかるものがあった。デジャヴとでも言うのだろうか? 

 『手を離す飼い主』『走り出す犬』『抱きしめる俺』

 そんなキーワードと共に、記憶の中の光景が呼び起こされる。

 なんだか前にも似たようなことがあったような──?

 

「あー……由比ヶ浜が飼い主ってことは……もしかして、あの時の犬か」

「あ、うん、そう。サブレ。そっか、だからこの子ヒッキーの所に来たんだ?」

 

 そう言われてみれば、あの時抱き上げた犬もこんな感じの色をしていた気がする。

 そうか、あの時の犬か……。

 あの時、ギリギリで犬を抱き上げた記憶はあるんだが、その後の記憶があんまりないんだよな。

 無事だったのかお前……。

 いや、本当無事じゃなかったら何のために入院までしたんだか分からんからな。

 

「お礼言ってるのかも」

「そうか、元気そうで何よりだ」

 

 俺がサブレに語りかけると、サブレはペロペロと俺の鼻を舐め始める。

 コイツなりに命の恩人だと理解してくれているのだろうか?

 以前、由比ヶ浜からも礼を言われたが、こうして改めて好意を示してくれると助けた甲斐もあったというものだろう。

 俺はいつまでも俺の鼻を舐めるサブレを「わかったわかった」と宥めるが、その行為はどんどんエスカレートしていったので、たまらず俺はサブレを由比ヶ浜に返すことにした。悪い気はしないが、もう顔がびちゃびちゃだ。 

 

「ほれ」

「え、あ、うん、ありがとう」

 

 由比ヶ浜が大事そうにサブレを受け取ると、サブレは「くぅーん」と悲しげな声を上げ俺を見上げてくる。いや、飼い主そっちだから。もうお礼は良いから。

 あーあ、これ、今日帰ったらカマクラさんに怒られるやつだ。どうしよう。

 猫というのは普段はそっけない態度を取るくせに、他の動物の匂いを持って帰るとヤンデレ彼女のように怒る生き物なのである。

 一色の家でシャワー……は大袈裟にしても、洗面所ぐらい貸してもらえるかしら?

 

「あ、ご、ごめんね。ちょっと待って!」

 

 そんな事を考えていると由比ヶ浜が慌てて自分のカバンからハンカチを取り出し、それを押し当てて来た。時にポンポンと、そして時にゴシゴシと俺の鼻を擦っていく。

 痛い痛い、もういい、もう拭けたから。

 

「お、おう。サンキュ、もう大丈夫だ」

「うー……本当ごめんね。もうサブレったら……!」

 

 俺はなんとか由比ヶ浜を引き剥がすと、由比ヶ浜が再び申し訳無さそうに謝罪し、サブレを睨みつけた。

 しかし、当のサブレは「わふ?」と首を傾げるばかりでまるで反省の色がないようだ。

 まあ、犬にとって顔を舐めるというのは親愛の証らしいからな、悪いことをしたという感覚はないのだろう。

 このまま俺がここにいると由比ヶ浜も動きにくそうだ。そろそろ離れるか……。

 

「んじゃ、邪魔して悪かったな」

「え? ちょ、ちょっとまってよ! あ、あのさ、ヒッキーは何してたの? もしこのあと暇……」

「ん? ああ、ちょっと今日はこれから待ち合わせでな」

 

 散歩の邪魔をしては悪いかと俺がそう言って踵を返すと、由比ヶ浜がモジモジとそんな事を聞いてきたので、俺は素直にそう答える。最後の方はなんだかゴニョゴニョ言ってて上手く聞き取れなかったが……。まあ、質問には正直に答えたので問題ないだろう。

 

 だが、そんな俺の回答が意外だったのか由比ヶ浜は「へ、へぇ……」と少しだけ怪訝そうに、それでいてガッカリしたように肩を落としているようだった。

 一体どういう反応なのだろう?

 俺がイメージ通り一人でいなかったことがお気に召さなかったのだろうか。もしそうならごめんね。

 

「あ、あのさ。待ち合わせってもしかして……いろはちゃん?」

 

 しかし、由比ヶ浜が続けてそんな事を聞いてくるので、思わず俺はぎくりと体を震わせる。

 なぜバレたのだろう?

 俺、なんか変なこと言ったっけ?

 妙な誤解をされるのも困るのだが……。

 ここは誤魔化したほうがいいのか?

 

「……ああ、まぁ、そうだけど」

「あ、やっぱりそうなんだ……」

 

 とはいえ、友達に嘘をつくのもどうかと思い、俺が正直にそう答えると、由比ヶ浜と俺の間に気まずい空気が流れ始めた。

 ついさっきまで和やかな雰囲気だったはずなのに、今はまるで選択肢を一つでも間違えたらバッドエンド直行の鬼畜ゲーをやらされている気分だ。

 心なしか、サブレも不安そうに俺たちを見上げている。

 

「デ、デート……とか?」

「いや、そういうんじゃないんだけどな……ちょっとアイツんちに用事があって……」

「え? あ、それって前に言ってた?」

 

 前に言ってた。と言われ、俺は思い出す。

 そういえば、一色にその話をした時コイツラもいたんだったか……。

 

 この時俺は初めて自分がマズイことをしていたと言う事実に気がついた。

 だってそうだろう?

 俺のような陰キャの先輩が一色の家に入り浸っているなんていう噂が流れたら、今度こそ一色の回りに変な噂が流れてしまう。

 それでは以前の二の舞だ。

 別に由比ヶ浜がそういう噂を流すと決めつけているわけではないが。

 噂というのは尾ひれが付くものだからな。

 不安の芽は摘めるうちに摘んでおかなければならない……。

 

「ああ、弘法──あいつの親父さんが俺の“コレ”の師匠でな。久しぶりにちょっと教えてもらいに行くんだよ」

 

 そんな思いから、俺は弁明するように早口でそう捲し立て、肩に背負っている“ギターケース”を由比ヶ浜に見せた。

 少なくとも、これで俺が一色個人をどうこうしようとしているわけではないと理解してもらえたらという苦肉の策である。

 いや、まあ実際今日は弘法さんに会うのが主目的なので策という程でもないか……。

 

「え? あ、そ、そうなんだ。音楽教室とかそういう……?」

「……まあ、そんな感じだ」

 

 そこまでしっかりしたものではないが、やってることはそう変わらないだろう。

 一色の家にバイトに行き、帰るまでの一時間ほどレッスンを受ける。

 少なくとも去年まではそうだった。

 当たらずとも遠からず、嘘は言っていない。

 

「へぇ、そういえばヒッキーがギター持ってるの初めてみたかも」

「殆ど持ち出したこと無いからな」

 

 実際、こうやって“コイツ”が外に出るのは一色家から貰ってきたあの日以来だ。

 この十ヶ月程はほぼ俺の部屋から出ていない生粋の引きこもりギターである。

 バンドやってるわけでもなければ軽音部に入ってるわけでもないし、ワザワザ学校にギターを持って行って話題のきっかけ作りに利用したりもしていないので、バンドの臨時メンバーにと声をかけられてダンボールを被って演奏したこともない。

 コレ以上ないくらいに、ぼっち・ざ・ぼっちだった。

 

「かっこいいね」

「そ、そうか?」

 

 どうやら危機は去ったらしい。

 いつのまにか先程までの緊迫した空気は消え、由比ヶ浜も機嫌が良さそうに笑いかけてくれた。「ふふ」と笑う由比ヶ浜に思わず俺も照れてしまう。

 なるほど、これがギターの力か。

 持っているだけでもこの好印象。陰キャの俺が泥沼にハマっていたであろうこの状況をいとも簡単に覆す。そこにしびれる憧れるぅ!

 今度から何かあったら全部ギターのせいにしよ。

 

「ねぇ、なんか弾いてよ」

「は? ここで?」

 

 そうして油断したのもつかの間、次の由比ヶ浜の爆弾投下で再び俺の脳はフリーズした。

 多少弾けるようにはなったと自負はしているが、さすがにこんな見知らぬ人々の前で弾く勇気は俺にはない。

 そもそも、俺は趣味レベルで弾いてるだけであって誰かに聞かせるという想定をしていないのだ。

 ましてやいきなり路上ライブとか……動画にでも撮られてネットで晒されたら明日生きてる自信ないぞ? 本当あいつら容赦ないからな……。

 

「そ、そうじゃなくて、今度! 今度でいいから」

「今度ったってどこで?」

 

 どうやら路上ライブコースは免れたようだが、先程も言ったように、俺は基本ギターをどこかに持っていくということはしない。

 加えてバンドもやっていなければライブの予定もないのだから。聞かせてくれと言われても困る、もしどうしてもと言うのであれば家に来てもらうぐらいしか思いつかないのだが……。

 

「わ、私の家とか……?」

 

 何故か由比ヶ浜は自分の家をリクエストしてきた。

 当然、俺は由比ヶ浜の家を知らないので「いや、どこにあるか知らないし」と即座にNOを突き返す。

 まあ、このあたりが散歩コースということは総武からもさほど遠くはないのだろうと予測はつくが、わざわざ家にまで行って自分のギターを披露するほど俺も自惚れては居ない。

 それこそ変な噂が立つ可能性だってあるしな。

 

「そもそも、人の家にまでいって弾くほど上手くないし、ま、そのうち機会があったらな」

「えー!」

 

 だから俺は必殺『機会があったら』を発動させ、お茶を濁すことにした。

 本当、日本語って便利だよな。

 ちなみに他に『行けたら行く』『善処する』などがある。

 

「むー……絶対だからね! 忘れないでよ!」

 

 絶対と言われても機会がなければどうしようもないのだが……。

 この話をこのまま引っ張られるのも面倒だ、ここは一つ話題を変えるとするか。

 

「あー、そうだ由比ヶ浜」

 

 そうして、俺は半ば強引にだが頭の中にあったものすごくどうでも良い二択を由比ヶ浜に迫ってみた。

 

「ミスターとクリスピーどっちが好き?」

「へ?」

 

***

 

 由比ヶ浜にドーナツ与奪の権利を握らせた俺は、結局ミスターな方のドーナツで手を打つことにしドーナツを購入後一色との待ち合わせ場所へと向かった──のだが。

 

「センパーイ!!」

「おぅ……うごっ!?」

 

 待ち合わせ場所に付くなり、一色が俺の胸にダイブを決め、そのまま俺を絞め落とすかのような勢いで腰元へと手を回して来た。

 その突然の行動に俺はたまらず背中を反らせ、なんとか一色を引き剥がそうとその身を攀じる。まずい、この体勢は色々まずい。柔らかいのとか柔らかいのとか色々当たってる、当たっちゃう……あと、ついでにさっき食ったラーメンが出ちゃう……。ギブギブ!

 

「な、なんなんだよいきなり?」

「聞いて下さい! ちょーーーーお! 怖かったんですよ! ……ってあれ? ドーナツ?」

 

 そんな俺の祈りが通じたのか、はたまた単に自分が満足したのか最後にすぅーっと大きく息を吸ったかと思うと、一色は呑気な表情のまま俺から離れ、目ざとく俺が持っているドーナツ屋の箱に視線を落とす。

 コロコロとよく表情の変わる奴だ。

 こういう所本当に最近小町に似てきたなぁと思う。

 怖い話とやらはもういいのだろうか?

 まあ、どうせろくでもないことだろうけど……。

 

「ああ、小町が土産に何か買ってけって言うもんでな……こんなんでよかったか?」

「わぁ、そんな気を使わなくて良かったのに。ありがとうございます。私ドーナツ大好きです!」

 

 俺がドーナツの箱を一色に見せると、一色は満面の笑みを浮かべまるで宝物のようにそのドーナツの箱を下から持ち上げていく。

 これだけ喜んでもらえれば野口さんを犠牲にした甲斐もあるというものだろう。

 

「そりゃ良かった、クリスピーな方と悩んだんだが。由比ヶ浜に聞いたらこっちでいいんじゃないかって話になってな」

「結衣先輩?」

 

 キョトンと首を傾げる一色に俺は先程の出来事を掻い摘まんで話して聞かせた。

 具体的に言うとサブレが可愛かったという話だ。

 うん、あれは可愛かった。なんなら一日二日預かっても良いと思えるほどだ。

 でもカマクラさんがなぁ……やっぱ嫌がるだろうか。喧嘩しないでくれるとありがたいのだが……。

 

「……ふーん、良かったですね」

 

 しかし、そんな俺の説明に一色は何故か少しだけ不服そうに頬を膨らませていた。

 なにか今一色を怒らせる要素あっただろうか?

 もしかして犬嫌いだったのか?

 そんな話は聞いたことがなかったが、もしそうならこれからは気をつけよう。

 

「あ、でもそういうことならセンパイ、結衣先輩の誕生日って知ってますか?」

「由比ヶ浜の誕生日?」

 

 本当に話がコロコロと変わるやつだ。

 案外、今日は機嫌が良いのかもしれないな。もしかしてドーナツパワーか? と思いながら俺は視線を斜め上へと向けて考える。

 由比ヶ浜の誕生日。当然、知るわけがない──が、なんとなく春っぽいイメージがしているのは俺だけだろうか? 具体的に言うと四月か五月あたり? 

 なんかこう春の陽気でポワポワしてそうな感じというか……あ、でも一色も四月なんだよな。誕生日と人格に関連性はなさそうだ。……いや、むしろあるのか……?

 

「今何か、失礼なこと考えませんか?」

 

 そんな俺の思考を読むように、一色がジトリと俺を睨みつけてくる。

 おかしい、口には出していなかったはずなのに、なぜバレたのだろう。

 

「……で、その由比ヶ浜の誕生日がどうしたって?」

「実は、来週なんですよ。六月十八日。それでさっきまで雪乃先輩と二人でプレゼント買ってたんです」

 

 なるほど六月か、当たらずとも遠からずというところだろうか?

 しかし、それならそれで最初から俺も誘ってくれよと思わなくもないが……まぁ、ハブにされるのは今に始まったことではないので、なんとか俺はその言葉を飲み込んでいく。べ、別に寂しくなんてないんだからね!!

 

 とはいえ、そうか……来週由比ヶ浜の誕生日か。

 そういうことなら祝わない手はないだろう。なにせ俺の友人第一号の誕生日だ。

 タイミング良く、必要そうなものにも心当たりもある。いや、でも流石にアレはもう買い直しているか? まあ、複数あって困るものでもないか。消耗品っぽいしな。

 

「なら、俺もなんか買っとくか……」

 

 俺の言葉に一色は「ええ、きっと喜ぶと思いますよ」と優しく微笑んだ。その反応に俺はほんの少しだけ驚いたのは当然といえば当然だろう。

 

「意外だな。お前由比ヶ浜と仲悪いのかと思ってた」

「別に、仲悪いわけじゃないですよ……普通に先輩としては良い人ですし……でも……」

「でも?」

「いえ、なんでもありません。ほら行きましょ」

「あ、おい、ちょっと引っ張るなって……!」

 

 一色は一度だけチラリと上目遣いで俺を見るとソレ以上は何も言わず、俺の腕を引っ張り駅とは反対方向へと歩き始めた。

 

「ほらほら、早く! 時間なくなっちゃいますよ!」

 

 その楽しげな表情に、思わず俺の口元も緩んでしまう。

 本当に今日は機嫌が良さそうだ。別に一色の機嫌を取ろうと思っていたわけではないが、ドーナツを買ってきておいて良かった。

 少なくとも機嫌が悪いよりは全然良いからな。

 これが袖の下の力というやつなのだろうか? 今度から一色が不機嫌になったらドーナツを買っていこう。そんな事を考えながら俺はそのまま一色の後を追うように足を動かしていく。

 気がつけば先程まで左手の辺りに感じていた謎の寂寥感はいつの間にやらどこかへと消えていた。

 

 ああ、日差しが強い。どうやら今年も暑くなりそうだ……。




直近で某声優さんの話題が流れてきたので思わず浮かんだ「ドーナツ与奪の権利」が個人的に今回の一番のお気に入りポイントです。語呂が良い……良くないですか?

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いつでもどこでも何度でも!お待ちしています!


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第96話 ドーナツは円満の証

いつも感想・評価・お気に入り・誤字報告etcを頂きありがとうございます。

早いものでもう今年も一ヶ月が終わり
毎日寒い日が続いていますが、皆様風邪など引かれていないでしょうか?
なんとか今週も間に合いました。おこたの中でヌクヌク楽しんでいただければ幸いです。



「──センパイってプレゼントのセンス有るのか無いのか良く分からないですよね」

 

 無事、由比ヶ浜へのプレゼントを購入し一色のマンションの前へとやってくると、一色が納得がいかないような、それでいて複雑そうなそんな微妙な表情を俺に向けてきた。

 その言葉の意図が理解できず、俺は僅かに首を傾げる。

 意外と、ということは馬鹿にされているのだろうか?

 でも、今回購入したプレゼントは一応一色にも確認を取ったので、今更何か文句を言われる筋合いもないはずなのだが……。

 

「どういうコト? 俺褒められてるの? 貶されてるの?」

「一応、褒めてますよ? 私の誕生日もちゃんと忘れないでいてくれましたし? ホワイトデーも最初は『最低だこの人』って思いましたけど、あの時私が一番欲しかったものをくれましたし……」

 

 ホワイトデーに関しては貰ったものをテンプレ通り倍返しにしただけだし。

 誕生日に関しては半端なものを送っても文句を言われるだけなのは目に見えていたところに、タイミングよく一色が欲しそうにしていたものがセール品になっていたのを見つけただけ。褒められてもあまり嬉しくはない。

 まあ、喜んでくれてはいるようなので、それはそれでいいけど……。でも、なんだろうこの会話? 何かの催促とかだろうか?

 一色へのプレゼントイベントは一通り終わった気がするので何か買ってやる義理はないんだけどな……。

 

「何が言いたいのか良く分からん、何? キットカット食いたくなったの? 買ってく?」

「そんなこと言ってませんよ! むしろなんでそうなるんですか! なんていうか……結衣先輩も気に入るんだろうなぁと思うと……なんかモヤモヤするというか……。あー! もういいです! ママ開けて!」

 

 俺の言葉に、一色はなぜか苛立たしげにそう言うと俺の手を引っ張り自室の番号を入力してマンションのオートロックを解除した。

 こういう時、気軽に『買ってく?』と言えるようになったことは純粋に俺の成長した部分のように思える。

 なんだかんだ、バイトを始めてから金に困ることがなくなったし、今日の急なプレゼント購入にも対応できたしな。中学時代の俺だったら考えられなかったことだ。

 勿論好きなものを好きなだけなんていう生活からは程遠いが、いざという時に金があるというのは心の余裕にも繋がっている気がする、おっさんの言う通りバイトは続けておいて良かったのかもしれない。

 

「もういいなら離してくれない? 歩きにくいんだけど……」

 

 そんな事を考えながら、俺は不自然な体勢のまま一色の横でオートロックが解除されるのを待つ。

 一色が力を入れる度にふにふにという柔らかい感触が二の腕に当たり色々と毒だ。

 夏も近づいてきて、いつもより服が薄手なのもあって、より一層一色の体温が伝わってくる。正直、こうしている今も精神を集中していなければ結構やばい。

 

「だめでーす♪」

 

 だが、俺の願いは聞き入れてもらえないらしく一色は自動ドアが開くのを確認すると、イタズラっぽく笑いその腕に力を込めると、より密着度を上げながらマンションの中へと俺を引きずり込んでいった。

 くそぅ、こいつ俺をおちょくっているな?

 どうも最近の俺はこいつになめられている気がする。一度どこかで男の柔らかい怖さというものを柔らかく教えてやらねば……。ああもう柔らかいなぁもう……。

 まあ、あとはエレベーターに乗るだけだし、家についたら流石に一色も離さざるを得ないだろう。

 

「じゃあママはこっちー♪」

 

 そう思ったのも束の間、俺達がエレベータに乗り込もうとした瞬間、突然エレベーター横の観葉植物の影から何かが飛び出し、空いていた俺の右半身に柔らかいものが当たってきた。

 

「も、もみじさ……!?」

「ママ!!」

 

 “何か”の正体はもみじさんだ。

 もみじさんが俺の不屈の覚悟を嘲笑うかのように、俺の右腕を絡め取り一色よりも大きく、そして柔らかいそれを押し付けて来たのである。

 どうやら俺たちが来るまでずっと隠れていたらしい。よくバレなかったなとも思うが……いや、本当何やってるのこの人……?

 

「ちょっと! なんでママがここにいるの?」

「待ちきれなくて迎えに来ちゃった♪」

 

 そんな俺の気持ちを代弁するように詰め寄る一色だったがもみじさんはテヘッと舌を出し、特に悪びれた様子もなく俺に微笑みかけて来ると、目的階のボタンを押しエレベータの扉を閉めていく。

 完全にトラップだ。

 だが、流石に人様の、それも一色の母親に正面きってツッコミをいれるわけにもいかないので俺はなんとか平常心を保ったまま、もみじさんの方に向き直り挨拶をする。

 そう、平常心、平常心だ。

 

「ど、ども。お久しぶりです」

「本当よ! 八幡君あれっきり全然来てくれないんだもの、寂しくて死んじゃうかと思ったわ」

 

 一応言っておくと、兎が寂しさで死ぬというのは迷信である。

 当然、もみじさんが死ぬこともない。

 だが、もみじさんはさも俺に責任があるとでも言うようにぷりぷりと頬を膨らませながら、ギュッと俺に密着してくるので、俺はハハハと乾いた笑いを返すことしか出来なかった。

 もしこの状況でもみじさんの機嫌を損ね、痴漢容疑でも掛けられた日には弁明の余地もなく確実に死んでしまうからな……。俺が。社会的に。

 これが噂の“八幡を社会的に抹殺する五つの方法”の一つか……! 恐ろしすぎる……。

 

「ちょっとママ! 恥ずかしいから離れてよ!」

「ええーいいじゃない。久しぶりなんだから、ねー?」

 

 男の気持ちなど理解せず女子(?)二人は徐々にヒートアップし、俺の体を揺さぶってくる。

 そうすることで俺が左右のマシュマロをより深く感じてしまうなんてきっと分かってないんだろうなぁ……。

 もはや、俺に出来ることといえばエレベーターのパネルを見ながら、一刻も早く扉が開くのを祈ることだけだ。

 っていうか、もしここで他の住人が乗ってきたらどうするつもりなの……?

 管理人さんとか、防犯カメラでこの状況見てるんじゃないの?

 世間体とか大丈夫?

 

「マァーマァー?」

「キャー、こわーい♪ 八幡君助けてー♪」

 

 そうして二人のやりとりをゼロ距離で聞きながら密室の箱に揺られること数十秒。

 ようやくエレベーターの扉が開いたのを確認すると、俺は二人を引っ張るようにエレベーターを降り、早足で一色家の前へと移動した。

 少なくとも、ここまでくればどちらかが扉を開けるために俺から離れてくれるだろう。

 とにかく今は早くこの状況から開放して欲しい。

 そう思っての早足だったのだが、一色家の扉は既に開かれていた。

 

「やあ、よく来たね八幡くん」

 

 弘法さんが扉の前で待機していたのだ。

 だから俺は不本意にももみじさんと一色に左右を囲まれるという、まるで捉えられた宇宙人状態のままの姿勢で「弘法さんお久しぶりです」と情けない挨拶を交わす。

 っていうか、イツまでやってるの本当?

 俺はぼっちではあるけど一応健康な男子なので本当いい加減離してくれませんかね?

 ああ、甘い香りがする……。

 

「うん、久しぶり。ちょっと見ない間にまた背が伸びたんじゃないかい? ……って、ほらほら二人共、いい加減離して上げなさい、そのままじゃお互い困るだろう?」

「「はーい……」」

 

 俺の状況を察してか、弘法さんが困ったように笑いながらそう言うと、漸く二人が離れてくれた。ふぅ、助かった。

 どうやら社会的死は免れたようだ。こうなってくると弘法さんが神に見えてくるな。ありがたやありがたや。

 

「あ、これお土産です」

 

 とはいえ、今日の本題はここからだ。

 俺は、先に家の中へと入り、渋々という表情を隠そうともしないもみじさんにそう言ってまずドーナツの箱を手渡していく。

 

「あらあら、気を使わなくても良いのに。ご丁寧にどうも……でもどうしましょう?」

 

 すると、もみじさんは少しだけ複雑な表情を嬉しそうにそのドーナツの箱を受け取りそしてまた顔色を曇らせた。

 アレ?

 ドーナツは嫌いだったのだろうか? もしかしてアレルギーとか?

 でも一色は何も言ってなかったしな……。

 そんな事を考えていると、やがてもみじさんがズイっと俺との距離を縮め、上目遣いで俺を見てくる。

 

「八幡くんが来たら焼きたてを食べてもらおうと思ってマフィンを用意してたんだけど……両方食べられる?」

「八幡くんなら大丈夫だろう? なんなら好きな方を選んでもらえばいいじゃないか」

「そうね、じゃあすぐ焼き始めちゃうからちょっと待っててくれる?」

 

 俺が何か言う前に、弘法さんの言葉を聞いてもみじさんはパタパタと台所へ走っていってしまった。

 相変わらず、俺に拒否権は無いらしい、が……まあ、なんだかんだで小腹は空いているのでドーナツやマフィンの一つや二つぐらいなら問題ないだろう。

 ココ数年の俺は本当、どっかバグってんじゃないのかってぐらい燃費悪いからなぁ……。これが世にいう“食べ盛り”というやつなのだろうか。

 食っても食っても腹が減る、太ってきてるわけでもないから仕様なのだと信じてはいるが……。

 

「それじゃ、マフィンが焼き上がるまで僕の部屋に行こうか」

「あ、はい」

 

 続く弘法さんの言葉に俺が頷くと、弘法さんはガシッと俺の肩に手を回してきた。

 視線の先にあるのは弘法さんの部屋の扉。

 普段の俺だったら、その肩組みから何か別の意図を汲み取り振り払うところだが、今日は予め今日の訪問予定を告げているので、ウホっな展開は無いだろう。──無いよね? 無いはずだ。そう信じている。 

 

「えー? まずは私の部屋行きましょうよ」

「はっはっは。ダメダメ、今日はパパが先約だからね」

  

 だから俺は特に抵抗するでもなく、そんな一色の言葉を無視し、弘法さんに連れられ無防備に弘法さんの部屋へと向かったのだった。

 

*

 

「うん、かなり上達したね」

「ありがとうございます、でもここが上手くいかなくて……」

「ああ、そういう時は──」

 

 それから俺は、以前から弘法さんに練習曲として提示されていた曲を数曲弾いてみせ、時折アドバイスを受けながらレッスンを受け、セッションを奏でた。

 自室で弾いている時は『俺、結構できてるんじゃね?』と自信を持っていた箇所も弘法さんの前では霞んでしまうのが少し恥ずかしいが、まあ、一年やそこらで追いつけるほど自分に才能があるなと自惚れてもいないし、多少弾けるようになった今だからこそ弘法さんの凄さが分かるという部分もあり、それはそれで俺なりの発見として楽しめたような気がする。

 

「無理せずもうちょっとフレット側を抑えても大丈夫だよ」

「もっと小指を意識すると良いかもね」

「誰かと弾く時はもう少し音を聞いたほうが良いね、一人で走るんじゃなくて合わせることも覚えないと」

 

 様々な弘法さんのアドバイスを聞きながら、俺は自分の改善点を洗い出していると、男二人でギターを弾いている様子を、一色が体育座りをしながら微笑ましげに見ていることに気がついた。

 てっきり馬鹿にされるかと思ったのだがそんな感じでもない、退屈じゃないのだろうか?

 

「暇ならママの手伝いでもしてきたら?」

「いいの、センパイ見てる方が楽しいから」

 

 弘法さんも同じように思ったらしく。そんな提案をするが、一色はその提案には乗らず少しお尻の位置を直しながら、俺に笑顔を向けてくる。

 なんだろうこの感覚。なんともむず痒い。

 まるでこの部屋の中だけ時間がゆっくりになってしまったかのような、その穏やかな雰囲気に思わず俺も飲まれてしまいそうだ。

 こんな時間が──こんな日々がいつまでも続けば良い。思わずそんな事を考えてしまいそうになるほど、俺の心は満たされていく。

 

 しかし、いつまでもこのままという訳にはいかなかった。

 今日の目的はもう一つあるのだ。

 この空気に飲まれてしまえば俺は大事なことを言えなくなってしまうだろう。

 だから、俺はスゥと息を吸い込み、今日の本来の目的を果たすため背筋を正した。

 

「弘法さん」

「ん?」

 

 突然真面目な表情になった俺を、弘法さんが微笑みながら見てくる。

 一色も次はどんな曲を弾くのだろう、とワクワク顔だ。

 だが、俺はそんな二人の気持ちを裏切るように、首からギターストラップを外していった。

 

「ギター、お返しします」

「え?」

「センパイ!?」

 

 俺の突然のその行動に、弘法さんは目を見開き、一色は立ち上がって俺のもとへと駆け寄り、ゆさゆさと俺を揺さぶって来る。

 

「そ、そんな話私聞いてませんけど?」

 

 当然だ、言ってないからな。

 言ったら言ったでまた変に騒ぎそうだったし……。

 大事にはしたくもなかった。

 

「もう飽きてしまったかな? それとも何か気に入らなかったかい?」

「いえ、そういうんじゃなくて、むしろ逆……ですかね」

「「逆?」」

「実はその、家のギターを使わせてもらえるようになったので……」

 

 そう、実のところウチには過去親父がモテようとして始めたがFコードで挫折したギターがホコリを被ったまま眠っていた。

 だから去年俺がギターを貰って帰ったあの日、母ちゃんから『そんな高価なものをポンポン貰ってくるな、親父のギターを使えばいいだろう』とこっぴどく叱られたのだ。

 しかし、親父は親父でそんな俺が面白くなかったらしく『お前が俺よりモテるのは許さん、リア充爆ぜろ』とギターの引き渡しを拒否。ここから第X次比企谷家戦争が勃発した。

 そこからはもう、不毛な……本当に思い出すのも嫌になるほどどうでもいい戦いが続いたのだが、その戦争が先日「お父さん、いい加減もう諦めなよ。かっこ悪いよ?」という小町の一言で終息。

 親父のギターが無事俺の物となり。俺の部屋にギターが二本飾られることになった。

 

「それで、しばらく家に置いてわかったんですけど。うち、猫飼ってるのもあって結構気を使うんですよ。親父のならともかく弘法さんのギターに傷とか付けたら申し訳ないかなぁと……」

「ふむ……そんなに気にすることないんだよ? それはもう君のなんだし傷は歴史にもなる、なんならご両親には僕の方から話をさせてもらっても……」

 

 そうして俺の説明を聞いても、やはりというかなんというか、弘法さんは納得してくれないらしく、寧ろ何が問題なのだろう? という顔で俺を見てくる。

 それ自体は想定の範囲内でもあるのだが……さて、どうしたものだろう?

 俺の話は嘘ではない、少なくとも先月、一色に『弘法さんに会いたい』と願いでた時点ではこれが俺のギター返却の理由の全てだった。

 だが、ギターを返す理由は実はもう一つだけあった。

 やはり、それも言わなければ駄目なのだろうか?

 そう思いながら、俺は無意識にチラリと一色の顔を盗み見る。

 

「いろは、少し部屋を出ていてくれるかな?」

「え? なんで?」

「いいから」

 

 俺の一瞬のその視線から何かを察したのか、弘法さんは真剣な表情でそう言うと、一色は少しだけ面白くなさそうな顔をして渋々と部屋をでていった。

 

「……これは僕の勘違いかもしれないんだけどね、もしかしたら君がギターを返したいと思ったことといろはのことは何か関係してるんじゃないかな?」

 

 その余りにも早い判断に俺は少し躊躇した。

 確かに、一色の前では言い辛いことではあったが、だからといって弘法さんの前なら言えるという類の話でもない。むしろ話して良いのだろうか?

 そう悩みながらも、俺はソレ以上嘘を重ねることも出来ず、本当の事を話すことにした。

 

*

 

 最近の一色は距離感がおかしい。

 それこそ、まるで本当に俺と付き合っているのではないかと思うようなほどに過度に俺に関わろうとしてくる。

 しかし、それはまやかしだ。

 

 その事を、先週俺は改めて思い知った。

 そう、俺と一色は現実には付き合っていない。

 アレは一色の現状をなんとかするための策でしかなく、俺はそのための踏み台に過ぎない。

 それ自体は俺自身問題ないと思っているし、その上で一色を助けてやりたいという思いもある。

 あるのだが──。 

 

「いつか、一色が俺たちの関係をやめたいと言った時に、弘法さんのギターを持っているのは俺じゃないほうがいいんじゃないかと……」

 

 葉山もギターが弾けるという事を考えていなかった俺は、このギターが後で枷になる可能性というのを考えていなかったのだ。

 もしかしたら、このギターを持つのに相応しい人間が、こうして弘法さんとセッションをするのに相応しい人間が他に居るのではないかと、そう思ってしまった。

 

「なるほど──そういうことか」

 

 俺の言葉に弘法さんは少しだけ考える素振りをするとギシッと椅子の背もたれを鳴らす。

 

「……あまりプレッシャーに感じてもらっても困るんだけど……僕たちはね、本当に君といろはが一緒になってくれればと思っている。むしろ君以外の人は考えられないぐらいにね。でも人生何が起こるか分からない。君の心配も最もだ」

 

 続いて、そう言うと弘法さんは人差し指をピンと立て、背もたれから体を離すその反動で俺の方へと顔を近づけて来た。

 小声で話す弘法さんの言葉を聞き逃さぬよう、俺も思わず前のめりになり顔を近づけていく。

 

「そこで、一つ聞きたいんだけど。八幡くんはギターが嫌いではないんだよね? もしかして、今までのは社交辞令で本当はそんなに面白くなかったかい?」

「……いえ、最近は普通に楽しいと思ってます」

「なら、お父さんのギターの方が使いやすい? ギターが二本あることに不都合がある?」

「まぁ……正直いうと弘法さんから貰ったコレをずっと使ってたので、こっちのほうが手に馴染む感じはありますね……慣れなんでしょうけど」

 

 畳み掛けるようなその問いに、俺は正直に答えていった。

 実際、俺の趣味といえばゲーム、アニメ、読書だったものにギターを加えても良いと思える程度にはギターを触っている時間は長くなっていたし、多分これからも続けるだろうという確信もある。

 そんな俺の答えから、弘法さんは何かを感じ取ったのか。ニカっと笑うと「なら」と言葉を続けた。

 

「そのギター、買い取ってくれないかな?」

「へ?」

「君が君自身のお金でこのギターを買うんだよ。それなら何も問題ないだろう? 何かあったとしても僕に気兼ねをする必要ない、売ったって壊したって申し訳ないと思う必要もないんだ」

 

 実を言うとそれは俺自身頭の片隅で考えていたことでもあった。

 基本的には親父のギターを使うつもりだったが、実のところ親父のギターというのはアコギ──アコースティックギターなのだ。だから、もしそれが叶わなければ中古で安いギターでも買ってこようとも思っていた。少なくともこのときの俺はその程度にはギターにハマっていたのである。

 だが問題も残っていた。

 

「……でも俺そんな高いのは買えないですよ」

 

 ギターというのは決して安いものではないのだ。

 いや、安いのが無いわけではないが、本当にピンキリで安いのは安すぎて不安になる値段なのだ。

 ソレ本当にギターなの? おもちゃじゃなくて?

 一体どこらへんが適正価格なの?

 

「そんなに高くはしないさ、そうだな。前にも言ったかもしれないけれど、これは僕が学生の頃買ったものでね、多分今これを中古屋に持っていってもよくて一万か二万程度というところだと思う。もちろん店に並べるときはもう少し高くなるだろうけどね」

 

 そんな俺の不安を感じ取ったのか、弘法さんは少し笑いながら、まるで小さな子供に言い聞かせるように話しかけてくる。

 

「だから、一万でどうかな?」

「一万……」

「本当はもっと安くてもいいんだけどね、あんまり安いと君は気を使いそうだから」 

 

 学生の俺からすれば十分大金の部類だ。

 だが、今手にしているこのギターとしては破格も破格の値段だということは理解できる。

 元々、俺はこのギターの元の値段も聞いているしな。

 

「ほら、前にも言ったかもしれないけど、うちはほら、ギターも他の楽器も沢山あるからさ。少しは処分しろってウルサイんだよ……」

 

 最後の追い打ちのような弘法さんの言葉は恐らく俺の後ろめたさをなくすための方便なのだろうというのは理解できた。

 いや、もしかしたら方便ではないのかもしれないが──。ここまで言われてこの提案を受け入れないのは逆に失礼に当たるのではないだろうか。

 そう自分に言い聞かせながら、ポケットに入っている財布を開き、その中身を確認する。

 よし……!

 

「ぶ、分割でいいですか……?」

 

 少々情けないとは思うが、今日は金を使いすぎていた。

 くそぅ。

 タイミングが悪いことに、ちょうどさっき由比ヶ浜のプレゼントで最後の諭吉さんを崩してしまっていたのだ。仕方ないだろう。

 

「ああ、構わないとも。君がそれだけギターを好きになってくれて嬉しいよ」

 

 そうして少し恥ずかしそうにしている俺に、弘法さんは優しく語りかけると、そっと俺の指を握るように撫でた。

 その行動の意味が分からず俺は思わず身構えてしまう。

 どうしよう、弘法さんまでもみじさんみたいになってしまったのだろうか?

 え? ここからR-18展開?

 円盤になったら光は取れますか?

 いや、取れても困るんだけど。

 

「随分、練習したんだね。ギタリストらしい指になってきている」

 

 だが、そんな俺の失礼な勘違いを吹き飛ばすように弘法さんは染み染みと俺の指の腹を撫でた。

 そういう弘法さんの指は俺とは対照的に石のように硬い。

 その瞬間、なんだか自分の努力が認められたようで思わずこみ上げてくるものがあった。

 俺だって、ずっと真面目にやってきたわけじゃない。

 本当に暇なときに触る程度だったし、弘法さんという師がいなければ、このギターも持て余して親父同様Fコードで挫折し倉庫の肥やしにしていただろう。

 だが、今その努力が認められた。

 そのことが嬉しくて、俺は思わず鼻をすする。

 

「センパーイ……? マフィン焼けたってママが……」

 

 その瞬間、タイミング悪く一色がそろりと部屋の扉を開け入ってきた。

 泣き顔を見られまいと、俺は慌てて顔を伏せていく。

 

「え? センパイ泣いてます? ちょっとパパセンパイに何したの!?」

「いやいや!! 僕は何もしてないよ?」

「ば、馬鹿! 泣いてねぇよ!」

 

 一色が俺を庇うように弘法さんに詰め寄っていくので、俺は慌ててソレを止める。

 危ない危ない、第一次一色家戦争が勃発してしまうところだった、流石に俺が原因で人様の家が戦争になるのは洒落にならんからな。

 

「みんなー? マフィン焼けたわよ、そろそろおやつにしましょ」

 

 そうして言い合いをしていると、いつまでも現れない俺たちに業を煮やしたのかもみじさんもやってきた。

 開いた扉の向こうからは焼き立てのマフィンの甘い香りが漂い、俺の腹を刺激していく。

 それは、弘法さんも同様だったらしく、一色から逃げるようにガタリ勢いよく立ち上がると、俺に視線を向けてくる。

 

「それじゃ、行こうか八幡くん」

「うす」

「え? ちょ、ちょっとセンパイ!? 待ってくださいよ!」

 

 そんな弘法さんの誘いに、俺は体育会系のような返事をしながら後に続きリビングへと向かったのだった。

 

*

 

「さ、食べて食べて? あ、マフィンはよかったら小町ちゃんのお土産にも持って帰ってね?」

「ドーナツは誰がどれとか決まっているのかな?」

「あ、私ポン・○・リング!」

「えー? ママもポン・○・リングが良かった」

「そう言うことが起きそうだったから、最初は全部オール○ファッションにしようと思ってたんだけどな」

「……やっぱり、センパイのセンスが良く分からないです」

 

 リビングでいきなりドーナツ争奪戦が始まったので、俺がそう言うと何故か女性陣からジト目で睨まれた。

 さっきドーナツ買おうとした時、由比ヶ浜にも同じ顔されたんだよなぁ……。結果由比ヶ浜チョイスのドーナツ五個になったのだが……結局こうして争いが起こっているのに、争いが起こらない──起こりにくい合理的な方法のほうが異質に思われるというのは謎だ……。本当に女子というのは不合理な生き物である。

 

「あー、そういえばさっきなんか言おうとしてなかったか?」

「さっき?」

 

 とはいえ、ここでいくら俺が自分の正しさを説いたところで恐らく同意は得られないのだろう。

 そう判断した俺は話題を逸らすべく、今日一色と合流したときから気になっていたその事を訪ねてみることにした。

 あの後は結局由比ヶ浜の誕生日プレゼントの話題になってしまったので、詳細を聞けてなかったんだよな……。

 

「待ち合わせ場所来た時、なんか怖い話があるとか言ってただろ?」

「あ、そうだった! 聞いてくださいよセンパイ! さっき雪乃先輩のお姉さんに会ったんです」

「え、何? 怖い話じゃないの?」

 

 少なくとも今出ている情報からは全く怖い要素が見当たらない。

 もしかして雪ノ下の姉が既に死んでいたとかそういう話なのだろうか?

 それともイマジナリー姉の話か?

 もしそうだとしたら確かに恐ろしいが……。

 

「いいから聞いてください、めっちゃ怖かったんです!」

 

 そんな俺の考えを否定するように、一色はふんふんと鼻息荒くその時の事を語り始めた。

 

 話の内容としてはこうだ。

 雪ノ下と買い物をしていたらその姉と遭遇。

 それ自体は大した問題ではないのだが、何故かその姉が俺と一色の関係を知っており、おっさんとも知り合いらしいということだった。

 

 ふむ……。

 雪ノ下に姉が居たというのは初耳だが、そういうことなら雪ノ下に許嫁のことがバレるのは時間の問題だろう。

 理由は簡単、小町が同じ立場だったら俺に話すだろうからな。

 兄妹の間に隠し事はない……はず、話してくれるよね? 信じてるよ小町ちゃん?

 

「お二人は雪ノ下姉について何かご存知ないんですか?」

「雪ノ下さん……? っていろはちゃんの入ってる部活の先輩でしょう?」

「少なくとも僕は聞いたこと無いなぁ……」

 

 一先ず俺はあらゆる可能性を考慮し、まず一色両親にそう問いかけたが当然のように否定されてしまった。

 ふむ、一色一族全員が把握しているわけではなさそうだ。

 なら親戚づきあいがあるとかそういう感じでもないのだろうか?

 なのに許嫁の事を知っているというのは確かに謎である。

 

「まあ、放っておけばいいんじゃないの?」

 

 とはいえ、おっさんに知り合いが多いと言う事自体は別に驚くようなことでもない気もする。加えると学外の人間に俺達の関係がバレたところで何か問題が起こるとは考えにくかった。

 唯一心配なのは雪ノ下だが、あいつも友達いなさそうだしワザワザ言いふらすようなキャラにも思えない。

 結論、何も問題はない。……と思う。多分。

 

 タイミング良くか悪くか、俺と一色が付き合っているという情報は出回っているしな。

 許嫁のことがバレたとしても尾ひれ程度にしか思われないはずだ。

 ただ、その情報を打ち消そうと思っていた時期に関しては、少し様子を見ても良いのかもしれない……。

 何か仕掛けてくる可能性もあるからな……。

 とりあえずあと一ヶ月、いや夏休み明けぐらいまでは一色に我慢してもらうことになりそうだ。

 

「とりあえず、心配ならおっさんに連絡してみれば?」

「え? あ、そうですね、後でお爺ちゃんに聞いてみます……」

 

 おっさん関係ならそれこそ俺たちが下手に動かないほうが良いということもあるだろう。

 むしろ迂闊に関わると妙なことに巻き込まれるまである。

 やはりこちらからは何もしないというのが最善策な気がした。

 

「それじゃ八幡くん、続きやろうか」

「あ、はい」

 

 そうして、ティータイムを終えると、弘法さんがそう言って俺の背後に回り肩を叩いた。

 

「えー! ママももっと八幡くんとお話したいー!」

「そうだよ、パパばっかりずるい!」

 

 だが、弘法さんに続いて立ち上がる俺に抗議の声が上げられる。

 いや、もう大分話したし俺の方にはもう話のネタがないんだが……。

 

「でも、八幡くんは今日はパパに会いに来てくれたんだろう? 弾いてみたい曲もあるっていってたし」

「あ、あはは……」

 

 ぶすっと頬をふくらませる女性陣を横目に俺と弘法さんは再び部屋へと篭りギター音をかき鳴らしていく。

 どうやら弘法さんの部屋はしっかり防音対策がなされているらしい。

 

「センパイのバカー!!」

 

 という声が響いた気がしたが、俺はその声をギターの音で相殺したのだった。




というわけで、96話でした。

こういう盛り上がりのあまりないパートは本当書いていて不安になるのですが、次の山場へと繋げるための谷間部分でもありますので、どんどん進めていかないとですね……。

ドンドン進めるため、モチベアップのため
皆様の感想・評価、お気に入り、誤字報告、その他リアクション遠慮なくお気軽に一言でも二言でも長文でもお待ちしております!(チラッチラ


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第97話 ≒MDF

いつも感想・評価・お気に入り・誤字報告・メッセージ・読了報告etcありがとうございます

早いもので、もう2月ですね
2月は何回更新できるかな?
さぁ皆ではったはった!


 その日は朝から雨が降っていたということもあり、俺はいつもよりほんの少しだけ早く家を出て学校へと向かっていた。

 当然、徒歩。いつもより登校に時間がかかるので、出来ることなら今日はもうサボって一日家でゴロゴロとしていたいという思いもある。

 それでも俺が今こうして歩いているのは、今日はどうしても学校に向かわなければならない理由があったからだった。

 そう、今日六月十八日。

 由比ヶ浜の誕生日なのだ。

 

 先週そのことを一色に教えてもらった俺は、ともにプレゼントを購入し忘れないようカレンダーにもチェックを入れ、昨晩の内からプレゼントを鞄に忍ばせ、今日という日を迎えていた。

 楽しみにしている、というわけではないが。

 初めての友達の誕生日だ。祝わない手はないだろう。

 ただ、一つだけ問題があった。

 いつ、どこで渡すのか? という問題だ。

 

 俺と由比ヶ浜が友達だというのは、最早周知の事実だとしても。

 接点を持てるのは主に教室内だけ。

 下手にどこかに呼び出したりして噂をたてられたら迷惑だろうし、かと言って教室の──大勢の前で渡すのも問題がありそうだ。

 一色同様、俺が奉仕部員であったならそこまで悩む必要も無かったのかもしれないが……。そんなに都合良く世の中は出来ておらず。

 更に付け加えると俺が由比ヶ浜の誕生日を知っているということすら割りと気持ちが悪いことなのではないか? という懸念もある。

 

 そんな思いから俺は気持ち早めに家を出て、教室に人が少ないうちにソレを渡してしまおうと気を逸らせていたのだ。

 だが、そこにはもう一つ大きな落とし穴があった。

 

 無事、俺が教室へ到着すると、教室内は予想通りガラガラだったものの。

 肝心の由比ヶ浜も到着していなかったのである。

 

 まあ、よくよく考えてみればそれも当たり前のことだ。

 元々由比ヶ浜だって遅刻はしないにせよ、優等生タイプというわけではない。

 約束もしていないのに、わざわざ早めに学校に来る理由もないだろう。

 なんなら遅刻ギリギリに来るまである。

 完全に俺の勇み足だ。

 

 となると……どうする? いっそ机の中にでも入れておくか?

 いや、それはそれで意味深すぎる気もするな……特に深い意味のない友達からの誕生日プレゼントだし、変に意識せずポンと渡してしまった方がまだダメージは少ないかもしれない。あるいは……。

 そんな風に脳内シミュレーションをしながら自分の席へと鞄を置き、未だ現れない由比ヶ浜の机の方を眺めながら来る時を待ってると、緑色のジャージを着た天使が「比企谷くーん」と手を振りながら俺のもとへと舞い降りてきた。

 

「おはよう。今日は早いね」

「お、おう。おはよう。そっちも早いな」

「うん実はいつもの癖で朝練の時間にきちゃったんだけど……。この雨だからね、中止になっちゃったんだ」

 

 天使の正体は戸塚だ。 

 戸塚は「ドジだよね」と恥ずかしそうに笑うと、コツンとラケットの角で優しく自分の頭を叩き、窓の外を眺めていく。

 確かにこの大雨では外でテニスは難しいだろう。

 まあ素振りぐらいはできそうだが、それなら別に学校に来なくても出来そうだしな……。

 だから、俺はそんな戸塚を労うように「そりゃ災難だったな」と軽く言葉をかけたのだが──。

 

「うん、でも、比企谷くんに会えたからかえってラッキーだったかも」

 

 戸塚はそう言ってエンジェルスマイルを俺に投げかけてきたのだった。

 あれ? なんだろうこの胸のときめき……。

 もしかしてイベントはじまってる?

 俺、直前でセーブしたっけ?

 ちょっとまってくれ心の準備が……。

 

「比企谷君の方は今日は何か用事でもあったの?」

「あ、ああ。いや、そういうわけじゃないんだが……まぁ、雨だったからな」

「そっか。梅雨だしね。あ、そうだ折角だし職場見学のレポートの続きやっちゃわない?」

 

 胸をときめかせている俺に、戸塚は続けてそういうとトテトテと自分の席へと戻り筆記用具を取り出してきた。

 そういえば、先日の職場見学のレポートの提出日もそろそろだったか。すっかり忘れていた。

 職場見学。戸塚と一緒というのはありがたかったが、葉山が一緒だったというのもあり、他のグループが同じ職場をこぞって希望してきて結局大所帯での見学になったんだよな……。

 お陰で戸塚と同じグループ、というよりほぼクラス見学のような形になり。戸塚と一緒に回っている感じがしなかったのだが──。結果としてこうして戸塚と一緒にレポート作りが出来るのだから、あれも悪くなかったのかもしれない。

 プラマイゼロむしろプラ。

 

* 

 

 そうして、俺と戸塚が一つの机で一緒にレポートを作成していると、少しずつ教室も騒がしくなり三浦、葉山、海老名、戸部と徐々にいつものメンバーが揃い始め、最後に由比ヶ浜が登校してきたのが見えた。

 

 「やっはろー」と元気よく教室に入ってくる由比ヶ浜の姿に、俺も思わず顔を上げる。

 その事に由比ヶ浜も気付き、軽く手を振ってくれるが、由比ヶ浜はそのまま俺ではなく三浦達の方へと歩いて行ってしまった。

 

「おはー」

「おはよう、結衣」

「優美子も隼人くんもおはよー。いやー、すごい雨だねー」

 

 由比ヶ浜の席が三浦たちの席に近いのでそれも当然といえば当然なのだが。 

 俺としてはそのまま由比ヶ浜の動きを目で追うことしか出来ず、どうしたものかと頭を悩ませる結果になてしまった。

 さて、このままプレゼントを渡しに行くべきだろうか? それとも少し様子を見るべきか……。

 

 そんな俺の不自然な反応にいち早く気付いたのは戸塚だ。

 戸塚はレポートの手が止まった俺の顔を不思議そうに覗き込むと、その視線の先を確認し再び俺の顔を覗き込んでくる。

 

「由比ヶ浜さん今日も元気だね。何か用事でもあったの?」

「あ、いや……」

 

 どうやら、今の俺の反応だけで何かを察してしまったらしい。

 勘の良い戸塚だ。嫌いにはなれない。

 とはいえ、その質問にどう答えたらいいものかと俺は少しだけ頭を悩ませる。

 まぁ、戸塚なら正直に答えても良かったのだが──。

 

「は、葉山がな……」

「葉山君がどうかしたの……?」

「……コミュ力高いよなぁと思ってさ」

 

 その時の俺は、何故か由比ヶ浜と楽しそうに話す葉山が少しだけ羨ましくもあり、少し、本当に少しの嫉妬心からそんな事を口走ってしまった。

 葉山ならきっと、こういう時こんなに迷わないのだろう。

 爽やかにプレゼントを渡し、そして何事もなかったかのように去る事ができるのだろう。

 きっとその事を馬鹿にされたりもしないのだ。

 

「こみゅりょく?」

「なんていうか、ほら、アイツ誰とでもすぐ仲良くなるだろ? 結構気軽に人のことも下の名前で呼ぶし、誰にでも話しかけてくるっていうか……」

 

 意味が分からないと言いたげに首を傾げる戸塚に、俺は少しだけ早口でそうまくし立てていく。そうか、どちらかというと戸塚もアチラ側の人間だったか。

 その事に気づいた俺はなんとかして、戸塚に理解を求めようと頭を回転させていくが、何を勘違いしたのか戸塚は何故か目を輝かせ俺の顔を覗き込み、とんでもない提案をしてきたのだった。

 

「じゃあさ、僕たちも下の名前で呼んでみない?」

「え?」

 

 一瞬、戸塚が何を言っているのか分からず。俺の脳が完全にフリーズする。

 え? どういうこと?

 俺と戸塚が? 下の名前で?

 今の話でなんでそういうことになるの?

 

「ほらほら、彩加って呼んでみて?」

 

 目を白黒させ戸惑う俺だったが、戸塚はそんな俺のことなどお構いなしに「早く早く」と楽しげに催促をしてくるばかり。

 これは……やらないとだめなやつか?

 いや、でも……なんかそれって……特別な関係っぽくないですか?

 え? いいの? 

 

「ほら早く」

 

 本人が希望してるしな……。

 良い……んだよな?

  

「えっと……さ、彩加……?」

「なぁに八幡?」

 

 八幡。

 そう呼ばれた瞬間、まるで心臓を撃ち抜かれたような衝撃が走った。

 え? 何この感覚。

 これが……恋?

 

「ねぇ、もう一回呼んで?」

「さ……彩加?」

「もう一回」

「彩加」

「もう一回」

 

 お互いの名前を何度も何度も繰り返す。

 一応言っておくが、ココは教室だ。

 なのに、なんだ? まるで世界に二人だけしかいなくなったような錯覚にすら陥ってしまう。

 俺もしかして戸塚と付き合ってる?

 イベントどころか知らない間にフラグ回収してた?

 『雨の日に早めに学校に来る』がルート分岐条件だったの?

 もう、そういうことなら早く言ってよ。

 ここのイベントスチルが埋まらなくてずっと困ってたんだ──って違う違う、何を考えているんだ俺は。戸塚は男、戸塚は男だ。騙されるな。

  

「……も、もういいだろ……“戸塚”」

「ふふ、なんだか改まって呼ばれると照れちゃうよね」

 

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、戸塚はそう言うと口元に手をあてて可愛らしく笑みを浮かべてくる。その仕草はどこからどう見ても女子のそれだ。

 いや、むしろなんで男なの? 致命的な表記バグなのでは? 修正パッチはまだですか?

 やはり戸塚彩加が男なのはまちがっている。

 

「おはよう二人共何してるんだ……ってそれレポートか? 気付かなくてゴメン、俺もやるよ」

 

 そうして、俺が戸塚の性別について本気で悩んでいると。

 まるでそれを邪魔するかのように、爽やかイケメンが割って入ってきた。

 くそぅ、せっかくの二人きりの時間が台無しだ。

 違うな、むしろ助かったのかもしれない。

 このまま戸塚と二人でいたらそれこそ戻ってこれなくなりそうだ。

 

「なんだか楽しそうだけど、何の話してたんだ?」

「ふふ、内緒。ねー八幡?」

「お、おう……?」

 

 葉山の質問に戸塚はそう答えると首を横に倒し同意を求めてくるので、俺も同意の意を示す。

 意味はわからんがトニカクカワイイ。本当にあのままだったら色々すっ飛ばして結婚してしまっていたかもしれない。

 きっとそこから戸塚の隠されたエピソードが解放されるのだろう。うん。危なかった。

 

「仲間はずれとは酷いなぁ」

 

 そんな俺達を見ながら、葉山はさして酷いと思っていなそうな顔でそう言うと、隣の席の椅子を借りて自分の席を確保する。

 

「とりあえず、レポート進めちゃおうよ」

「あ、うんそうだな」

 

 そして、俺たちは三人で頭を突き合わせるような姿勢でレポートを進めていった。

 由比ヶ浜は相変わらず三浦たちと楽しそうにお喋りをしている。

 どうやら今日俺が早く来た意味はなかったようだ。

 

 俺たちのレポートづくりはやがて平塚先生がやってきて朝のホームルームが始まるまで続いたのだった。

 

***

 

 結局その後も、俺は由比ヶ浜にプレゼントを渡すことができないでいた。

 こうして改めて由比ヶ浜のことを見ていると分かるのだが、由比ヶ浜はコミュ強で基本一人になるということがないのだ。

 だからこそ、変に目立つようなことをして由比ヶ浜の株を下げるわけにもいかないというのもあり、俺はどんどん追い詰められていく。

 

 そう、追い詰められている。もう時間がない。

 気がつけば今日の授業は全て終わり、後は帰りのホームルームを残すのみとなっている、これが終われば由比ヶ浜は部活に行ってしまうだろう。

 わざわざ部室まで押しかけてプレゼントを渡すというのもなんだかストーカーみたいだし、俺は俺で今日は川崎と打ち合わせの日だ。

 できれば教室内で済ませてしまいたい。

 

 そうこうしているうちに、ホームルームも終わり平塚先生が「今日は雨も強いから早めに帰れよー」と声をかけ、川崎が「先に行ってるから」という視線を俺に向け教室を出ていく。

 もはや猶予はない、今渡さなければ二度と渡すことできなくなってしまうだろう。

 いや、いっそ明日にしてしまうか?

 そう思った瞬間、チャンスが訪れた。

 

「結衣ー、あんた今日誕生日でしょ?」

 

 どうしたものかとソワソワと鞄に手を突っ込んでいると、俺より先に三浦がそう言って由比ヶ浜を呼び止めたのだ。

 俺はその会話に聞き耳を立てながら、プレゼントの袋を握りしめタイミングを待つ。

 

「え? あ、うん。覚えててくれたんだ!?」

 

 三浦に誕生日の話題を出されたことが嬉しかったのか、由比ヶ浜が子犬のように満面の笑顔を浮かべ三浦の元へと近づいていった。

 もしかしたら本人も今日その話題が出なかったことにヤキモキしていたのかもしれない。

 いっそ自分から話題を振ろうとしていた可能性すらある。

 

「とりあえずおめでと。はいこれプレゼント」

「うわー。ありがとう!」

 

 三浦がポンとプレゼントらしき袋を由比ヶ浜に手渡すと、由比ヶ浜のそんな嬉しそうな声が教室中に響き渡った。

 さすがクラスカースト上位の人間はやることが違う、こんな目立つ場所で直接渡すなんて、俺にはできそうもない。

 実際「えー、由比ヶ浜さん今日誕生日なんだー?」なんていう声がチラホラと聞こえてくる。その声は由比ヶ浜にも届いており由比ヶ浜は恥ずかしそうに会釈を返していた。

 

「本当はファミレスとかで渡そうと思ったけど、あんたどうせ今日も部活でしょ?」

「あ、あはは。うん……ごめん。今日は絶対部活出るようにっていろはちゃんからも言われてるんだ……」

「別に謝らなくてもいいっつーの。あんたが部活頑張ってるのはもう知ってるし……好きにすれば」

「うん、ごめんね……ありがとう」

 

 三浦の言葉に由比ヶ浜は申し訳無さそうに、でも嬉しそうにそう返すと、大切そうにプレゼントの包みを抱いていた。

 さすがの三浦もそこまで喜ばれると思っていなかったのか、照れくさそうに頬を赤らめている。アオハルかもしれない。

 

「えっと、これは私から。どのカップリングが良かったか教えてね! 私としてはやっぱり王道の儀炭なんだけど!!」

「あ、あはは。ありがとう……」

 

 そんな三浦の気持ちを察してか、間を埋めるように今度は海老名が由比ヶ浜にプレゼントを渡した、カップリングということは何かの本だろうか? やばい本じゃないだろうな……?

 平塚先生に没収されないように気をつけろよ、バレたら高校生活が終わる可能性だってあるんだぞ。由比ヶ浜の。

 

「俺からはこれ」

「わぁ、ありがとう隼人くん!」

 

 続けて、葉山が流れるような動作でプレゼントを手渡した。さすがイケメンである。

 皆の前で何食わぬ顔で渡すことで、特別な感情はないと自然にアピールすることも忘れては居ない。こういうところはやはり見習いたいとも思う。

 どうも俺は中学時代のトラウマもあり、力んでしまうからな……。

 

「なになに? がはまちゃん今日誕生日なん? 言ってくれればよかったのに。ちょっとまって俺ひとっぱしり購買でなんか買ってくるわ!」

「ええ!? とべっち気にしないでいいよ! 気持ちだけ貰っておくから……ってああ……」

 

 どうやら葉山グループの中でも戸部だけは何も用意してなかったらしく、そういうとダッシュで教室をでていった。購買で一体何を買ってくるつもりなのだろうか。

 売ってるのなんて精々菓子パンか文房具ぐらいだろうに。しかもほぼ無地だ。由比ヶ浜が喜ぶとも思えない。

 だが、そうして戸部が教室から出ていくと、不思議なことに由比ヶ浜がチラチラと俺の方へと視線を送ってくるのが解った。

 最初は戸部を追って教室の扉を見ているだけだと思ったのだが……いや、やっぱコレ俺の方見てるよな?

 

「あー、比企谷にも結衣の誕生日のこと教えておけばよかったな。悪い。俺のミスだ」

「う、ううん。気にしないで」

 

 そんな由比ヶ浜と俺の反応に気がついたのか、葉山が俺をフォローするようにそう言うと、由比ヶ浜がシュンと肩を落としていく。

 プレゼント貰えなくて落ち込むとか子供かよ……。

 でも、これは千載一遇のチャンスだ。

 葉山のありがたいフォローなど俺には必要ないのだから。

 

「いや、そのな……一応用意はしてあるんだが……」

「え!?」

「一色から誕生日の話は聞いてたんでな……」

 

 驚く由比ヶ浜達を横目に、俺は鞄の中へと手をツッコむと目的のものを掴み取りそのまま由比ヶ浜達の方に移動した。

 その距離はほんの数メートルにもみたないが、道中のすべてを悟ったような葉山の視線や、これから何が起きるのだろうと言うクラスの連中の好機の視線、そして由比ヶ浜の期待に満ちたキラキラとした視線が俺を襲い、その足取りを重くしていく。

 いや、実際そんな期待されても困るんだけどな……。

 

「まあ、大したもんじゃないけど……」

「あ、ありがとう! 開けて良い?」

 

 そうして、ようやく由比ヶ浜の前へとたどり着くと俺が少しどもりながら言うと、由比ヶ浜は大事そうに、そして嬉しそうにその袋を開け始めた。

 まあ、一色からのお墨付きもあるので、嫌がられるようなものではないだろう。

 少なくともこの場で顰蹙を買うようなものではないはずだ。

 そう考えていた俺は少し照れくさかったというのもあり、由比ヶ浜から視線を逸らすと先程からニヤニヤと俺に視線を向ける葉山を睨み返していく。

 だから、俺は一瞬反応が遅れ、気付くことが出来なかったのだ。

 

「わぁ……!」

 

 由比ヶ浜が、俺のプレゼントした“犬の首輪”を自らの首にはめ嬉しそうに微笑んでいることに──。

 

「え、いや。それ……」

 

 慌てて、俺はそれを外させようと手を伸ばす。

 

「へぇ、ヒキオにしては良い趣味してるじゃん」

 

 しかし、俺が真実を告げるより早く三浦がそう言って俺のプレゼントを称賛したのだった。

 それどころか、俺の手を遮るように立ち上がり、その犬の首輪を着けた由比ヶ浜に鏡を見せていく。

 

「うん、とても似合っているよ」

「え、えへへ。そうかな」

 

 続けて葉山も余計な言葉を重ねて始めた。

 え? いやちょっと待ってくれよ、お前ら本当何言ってるの?

 それ犬の首輪だぞ? もしかして分かってて言ってる?

 

「首輪……お前は俺のものだぞってそういうコト? でもそれなら隼人くんにも送ってあげなきゃ! むしろ隼人くんから送ってもらわなきゃ! 主従カプモエェ!!」

 

 海老名に関しては鼻血を拭きながらそんなことを叫んでくる。

 本当に意味がわからない。

 分かりたくもない。

 

「おっまたせー! って、なになに? 今度は何してんの?」

 

 そうこうしているうちに、購買に行っていた戸部が帰ってきた。

 手に持っているのは……いちご牛乳? まあ、今日は雨でコンビニ行かなかった奴らも多かっただろうから、購買で由比ヶ浜が喜びそうなものっていったらそれぐらいしかないかもな……。

 とはいえ、こうなってくると戸部だけが救いだ……。頼む、真実を告げてくれ……!

 

「えーなになに、ガハマちゃんそれ超イケてんじゃんー!」

 

 そんな俺の願いも虚しく。気がつけば戸部までもが由比ヶ浜の犬の首輪を褒め始めてしまった。

 まずい、クラス内カースト上位がこぞって勘違いをしているという状況に、俺は思わず固まってしまう。

 今、ここで俺が事実を告げたらどうなってしまうのだろう?

 葉山が恥をかくのは別にどうでもいいが、

 三浦や由比ヶ浜に恥をかかせたなんて知れれば、俺殺されるんじゃなかろうか?

 

「ヒッキーは……ど、どうかな……?」

 

 そうこうしているうちに、一通り褒めてもらった由比ヶ浜が最後の確認と言わんばかりに自らの首に着けた犬用の首輪を見せながら、俺ににじり寄ってくる。

 こうなってくると最早究極の選択だ。

 ここで、真実を綴るのは簡単だが……。

 あーもう! どうにでもなあれ!!

 

「い、いいんじゃない……?」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜は嬉しそうに頬を染め、笑った。

 俺は悪魔に魂を売ったのだ。

 

 あー……どうしよう。

 バレたらバレタで怖そうだ……。うーむ……。

 あ、そうだ、この後由比ヶ浜が部活にいくというのなら、後のことは一色に任せたらいいんじゃないの?

 うんそうだ、そうしよう。

 

 そうして後のことを一色に投げた俺は、そそくさと教室を後にし川崎の後を追ったのだった。

 

*

 

 

**

 

 

***

 

『すまん、弁明しといてくれ』

 

 センパイから来たメッセージの意味が分からず、私はスマホを見て思わず首を傾げた。

 

 今日は結衣先輩の誕生日。

 お祝いをしようと部室内にはすでに軽いお茶菓子を用意し、気持ち程度の飾り付けも完了している。

 できればセンパイ達も呼びたかったけれど。バイトだといわれたら仕方がない。

 タイミング良く(悪く?)今日は雨というのもあるし、センパイ達には後日改めて集まってもらえばいいだろうと、私は先に付いていた雪乃先輩と一緒に部室で結衣先輩の到着を待っていた。

 

「やっはろー!」

 

 それからしばらくして、いつもより少し遅い到着ながら、結衣先輩が上機嫌で部室の扉を開けてきた。

 やはり誕生日だからだろうか? やけに機嫌が良さそうだ。

 もしかしたら何かすごいプレゼントでも貰ったのかもしれない、そう思ったのと結衣先輩の首元に普段見慣れないチョーカーのようなアクセサリーがついていることに気が付いたのはほぼ同時だった。

 

「アレ? 結衣先輩それって……」

「えへへ、いいでしょ? ヒッキーに誕プレ貰っちゃった♪」

 

 なるほど、そういうことかとその時私は先程センパイから貰ったメッセージの意味を理解した。

 はぁ……全く……面倒なことを……。

 まあ、そのまま付けてて貰うのも面白そうだけど……。

 さすがに先輩だし、可哀想だよね。

 さて、どう真実を切り出したものか……。

 

「それ、サイズはあっているのかしら? なんだか少しキツいようにも見えるのだけれど……?」

「全然大丈夫! ヒッキーがせっかく選んでくれたんだし、私がちょっと太っちゃっただけだから。ダイエットするし! うん!」

 

 そんな事を考えていると雪乃先輩が鋭くそう指摘してきた。

 鋭い、さすがは雪乃先輩だ。サイズが合っているはずがないのである。

 そう、私は結衣先輩が貰ったそのプレゼントの正体を知っていた。

 というか、いくつかあるデザインの中から、最終選考までそのデザインを残したのは私の功績でもあるのだから。

 一応、センパイが選んだほうが喜ぶと思ったから最後の選択には口出しをしていないけどね……。

 それでも、そのデザインに見覚えはあるし、それが何なのかはよく理解している。

 恐らくこのままそれを着用していれば、そのうち結衣先輩は恥をかくことになるだろう。

 だから、私はスゥと一度息を吸ってから親切心で真実を教えてあげることにした。

 

「いや、ダイエットとかの問題じゃないですよ、それワンちゃん用の首輪ですよ?」

「へ?」

 

 私の言葉に、機嫌よくその場でくるくる回っていた結衣先輩がピタリと止まり、目を大きく見開いていく。

 それはもうギャグ漫画みたいな間抜けな表情だ。

 ちょっと面白い。どうせならカメラアプリ起動しておくんだった。

 

「う、嘘だよ! ヒッキーそんなこと一言も……」

「そうやって嬉しそうにしてるから言い出せなかったんじゃないですか? 私、先週一緒に買いに行ったから間違いないですもん、確かその時結衣先輩もセンパイと会ったんですよね? それでワンちゃんの首輪壊しちゃったって聞いてますけど?」

「え、あ、それは……」

「それの代わりになればってセンパイ言ってましたよ? 出来るだけ壊れにくい奴探したので、伸縮性がある分多少引っ張っても大丈夫になってるんだと思うんですけど……」

 

 私の言葉に心当たりがあったのか、結衣先輩は「え? え?」と困惑の表情を浮かべ取り乱したようにその首輪を確認しようと首輪を引っ張っていく。

 でも、当然自分の首に巻き付けてある首輪を自分で見ることなんて出来ないので、私は仕方なくスマホのインカメラで結衣先輩の首輪が見えるように肩を並べ自撮りをするようなポーズで状況を確認させてあげた。

 

「ほらここ、小さくてよくわからないかもしれないですけど、小さくMDFって書いてあるの分かりますか? 結衣先輩が飼ってるワンちゃんってミニチュアダックスフントなんですよね? (ミニチュア)(ダックス)(フント)

「っ……!?」

 

 首輪をひっくり返してその裏に書かれている小さな文字を見ると、結衣先輩の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

 やがて、結衣先輩はブチッと引きちぎるような勢いでそれを外すと、スゥゥっと大きく息を吸い込み、思い切り叫んだ。 

 

「ヒ、ヒッキーの……バカァァァ!!!」

 

 その叫びがセンパイのところまで届いたかどうか定かではないが、結衣先輩はぜぇはぁと肩を怒らせながら私の方へと振り返る。

 いや、私悪くないですよ?

 

「わ、私のせいじゃないですよ?」

「まぁ……ちゃんと伝えなかった比企谷くんも悪いわね……」

 

 全く、センパイ何してるんだか……。

 というか、よく入りましたね?

 多少調整出来るとはいえ、犬用の、それも小型犬用の首輪を違和感なく着けられる結衣先輩……恐るべし。

 私……入るかな……入るよね?

 ふと心配になった私は、自分の首にそっと手を当て、その日雪乃先輩が持ってきてくれたケーキを半分以上残し持って帰ることにしたのだった。

 

***

 

 

「へっくしっ!」

 

 川崎と打ち合わせの最中、俺は突然鼻のむず痒さに襲われ、飲んでいたコーヒーを吹き出すようなくしゃみをしてしまった。

 一応直撃は免れたものの、正面に座っていた川崎が不快そうな顔で俺を睨みつけてくる。

 こいつに睨まれると悪いことして無くても謝らなければいけない気持ちになってしまうのは何故だろう。いや、まあ今回は悪いと思ってるけどさ……。

 

「ちょっと、汚いじゃん」

「わ、悪い」

 

 俺は慌てて吹き出したコーヒーを備え付きの紙ナプキンで拭き、考える。

 別に風邪を引いたわけでもないと思うのだが……誰か噂でもしてるんだろうか? 

 小町かな?




※いろはすは余裕で入ります。ゆきのんも入る。静ちゃんは多分ギリ入らないです(多分)

とりあえず今回でまた一区切り付いたので
次回からまた別パートが始まる予定です、ここまで長かった……。
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第98話 そんな餌で俺が釣られるはずがない

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告その他ありがとうございます!

早いものでもう夏ですね(窓の外の雪を見ながら)


 時が過ぎるのは早いもので、国民の祝日が一日もない地獄の六月も終わり梅雨も明けると日差しの強い七月がやってきた。

 何もせずとも外に出ただけでじんわりと額に汗が滲み、汗でシャツが張り付いていくそんな季節の到来だ。

 

 当然、そんな日は出来るだけ外にいたくはない。

 だからその日は、マスターのいる喫茶店でいつもより遅い時間まで川崎と向かい合わせになりながら、打ち合わせをしていた。

 今日の議題は夏休みの行動方針についてだ。

 流石に夏休みともなれば、いつもと同じように放課後集まってという訳にはいかないからな。

 

「んじゃ、夏期講習の後に復習も兼ねて少し話すか」

「そうだね、それだとあたしも助かる」

 

 俺と川崎は同じ塾での夏期講習を申し込み済み。

 お互い受験向けコースを申し込んだというのもあり、時間もほぼ一緒、後日改めて集まるのも面倒くさいとなれば、当然の結論といえる。

 強いて俺と川崎の違いを上げるなら川崎はこの夏休みはバイトを増やす予定でいるらしいことぐらいか。本当にご苦労なことである。

 俺にはとても真似が出来そうにない、川崎は本当に凄いなぁと思った。(小学生並の感想)

 

「そういえば、今日は“あの子”来てないみたいだけど、いいの?」

 

 そんな事を考えていると不意に川崎が俺の横へと視線を向けてきた。

 いつもの四人がけテーブルに座るのは俺と川崎だけ。

 言葉通りそこに『あの子』は居ない。

 別にソレはホラー的な意味ではない。

 

「ああ、なんか奉仕部でまた依頼があったんだと」

「ふーん」

 

 川崎の言う“あの子”とはつまり一色のことだ。

 俺と川崎がここでミーティングしていると知った日以降、一色は有言実行と言わんばかりに俺と川崎のミーティングに同席するようになったのだが、今日はまた材木座からの依頼が入ったとかで抜けられなかったらしい。

 「いいですか! 二人きりだからって変な気起こさないでくださいよ!」と何やら鼻息荒く注意されたが、元々このミーティングは俺と川崎二人で行われていたものだ。

 一色が居ないからと言って何かが変わるということもなかった。

 まあ居ても何も変わらないんだけどな。

 

「何? なんかアイツに用事でもあった?」

「別に」

 

 俺の問に川崎はそう答えると、さっと視線を逸らす。

 その表情は不機嫌そう、というよりはむしろ少し機嫌が良さそうにも見えたが、その真意は不明だ。単純にいつもいるはずの奴が居なかったから気になったということなのだろうか?

 まあ、うるさいヤツがいなくて楽だ。ぐらいの感覚なのかもしれない。

 いや、単純に夏休みが近いから機嫌が良いという可能性もあるか。

 夏休みが嫌いな学生はいない。

 俺だって今でこそ冷静だが、いざ終業式が終わる段になれば連休が始まるという悦びからカマクラを抱っこしてダンスするぐらいのことはするだろう。そしてそれを小町に見られて軽蔑されるのだ。悲しいね。 

 

「あ、そうだ川崎。もう一つ伝えとかなきゃいけないことがあるんだが──」

「何?」

 

 連休の件で川崎に伝え忘れていることを思い出した俺は、慌ててスマホを取り出しアプリのボタンをタップする。

 起動するのはカレンダーアプリ。

 昨今の技術進化により起動時間はほんの数秒のはずなのだが、目の前の川崎に見せなければという思いのせいか、妙に長く感じてしまうのは何故だろう。

 ああ、こういう時に限って広告が……。

 

「あー、ちょっとまってくれ、えっとな……夏休みはあっちも色々予定があるらしくて、このあたりとこの辺りは休みにして欲しいらしい」

 

 ようやく起動したカレンダーのスケジュール画面を川崎に見せながらそう言うと、川崎もソレを確認していく。

 そこには七月の終わりの一回分と。八月、丸々二週間分の休みの予定が入力されていた。それは俺でも川崎ではなく“向こう”の都合による休みの日程である。

 まあ、問題を作る川崎にとってはあまり関係のない話なので直前でも良いかと思っていたのだが、早くて悪いこともないだろう。

 

「なんか、今度林間学校に行くんだと。そんで八月は家族で旅行らしい。親父さんの休みがどうなるか分からないから二週間休みでいいってさ」

「へぇ、林間学校……。じゃあ、その間はプリント用意しなくていいってこと?」

 

 昔のことを思い出しているのか、少し懐かしそうにそう呟きながら俺を見る川崎に、俺はふと考える。

 もちろん、その間の授業がないのだから、プリントの必要はない。

 だが、その間何もしなくても良いのだろうか……?

 

「ああいや、そうだな……宿題用のプリントとかって作れるか? そんな量は多くなくていいんだけど、一、二枚……いや、一枚でいい」

「宿題?」

 

 夏休みなら恐らく学校側からの宿題も大量に出ているだろうし、自分の身を振り返ると宿題なんて出さないほうが良いのは理解しているが、立場上そういうわけにもいかない気がした俺は思わずそんな提案を口にしていた。

 別にやらなかったらやらなかったで休み明けに俺が利用して教えればいいしな。

 

「ああ、流石に盆休み二週間あるなら一枚ぐらいプリント追加してもバチは当たらんだろ」

 

 それはほんの思いつきではあったが、我ながら悪くない考えのように思え、俺は続けて川崎にそう進言する。

 だが、それが良い考えだと思ったのは俺だけだったようで、すでに休みだと思っていたのもあってか、川崎は少しだけ渋い顔をして俺を睨んできた。

 

「それぐらい自分で作れば?」

 

 予定外の仕事を振られたせいか、川崎が少し不機嫌そうにそう呟く。

 川崎は元々目つきが鋭いというのもあって、睨まれると結構怖い。

 もしかしたら休み中何をするか既に考え始めていたのかもしれないな……それか、けーちゃんとの予定があったとか……そう考えると少し申し訳ないとも思うが──。

 

「いや、まぁ、それならそれでいいけど、お前の給料歩合制だろ? 俺がやっていいの?」

 

 川崎のバイト──プリント作り──に関しては俺と違い完全に歩合制だ。

 詳しく幾ら貰っているのかは知らされていないが、川崎が作ったプリントを写真に取っておっさんに知らせるとその分が川崎に支払われるという仕組みになっている。

 言ってしまえば俺が川崎の監査役なのである。

 逆に言うと、時間がなくて作れなくても、その分の給料が発生しないだけなので怒られることはないし、休みたいときはいつでも休めるともいえる。

 なので、普段のプリントとは違う夏休み用の宿題ぐらいなら俺が作っても構わないのだが、そうすることで川崎が貰える給料が減るのだ。

 

「……あたしがやる」

「悪いな、頼む」

 

 俺の言葉でその事を思い出したのか、川崎は少し悔しそうに、そっぽを向いてそう言うと了承の意を伝えてきた。

 なんだかんだ、優秀なツンデレ相棒なのである。

 

「了解……内容はどんな感じにするの? 教科は?」

「そうだなぁ……」

 

 川崎が愛用の小さな手帳を取り出し、そう俺に問いかけてくるので俺は斜め上を見ながら思考を巡らせる。

 これまで川崎が作るプリントはミニテスト形式のものが多かった。

 多少難しくても解かせる時は大体俺が横にいるし、その場で分からなくても特に問題にはならない。

 しかし、宿題となると話は別だ。下手に難しくするとそもそもやる気にならないかもしれないし、やらなかったからと罰則を設けらるわけにもいかない。

 ならば、知識の中だけで解ける復習的な内容のほうが良いだろう。

 

「おっと」

 

 そう考えながら、俺はアイスコーヒー片手にテーブルの端に避けておいた今日預かったの分のプリントへと目を移し、そのプリントへと手を伸ばした。

 だが、片手だったせいか、はたまた距離感を見誤ったのか、そのプリントは俺の指先に弾かれ、するするとテーブルの上を滑るようにしてヒラヒラと落ちていった。

 その一部始終を見ていた川崎が「何やってんのさ」と冷たい視線を投げてくるので、俺は慌ててそのプリントを拾い上げようと、素早くテーブルの下へと頭を潜り込ませていく。

 

 さて、ここで問題です。

 俺が座っていたのは喫茶店内にある四人がけテーブルの席で、向かい側には川崎が座っています。

 川崎はこの店のウェイトレスの制服に着替えているものの、エプロンはまだ着けていません。制服はよくある牛乳のような白いシャツにコーヒー豆のような茶色いスカートというシンプルな組み合わせですが、彼女は少しでもオシャレに見えるよう規定よりスカートの裾を上げ普段からその膝と太ももを惜しげもなく披露しています。

 以上のことを踏まえ、今、俺の目の前に何が見えているか答えなさい。

 正解は──

 

「黒のレース……」

「バカじゃないの……?」

 

 その言葉に川崎は素早く反応すると、膝を持ち上げコツリと俺の肩を蹴飛ばして来たのだった。 

 

 

***

 

***

 

***

 

 そんな事があった翌週の我らが総武高の放課後は、期末考査も終わったということもあり、いよいよ始まる夏休みの話題で持ちきりだった。

 

「じゃあさ、プールはいついく?」

「あー、その日は家族でお婆ちゃんの所行かないといけないんだよね……だるぅ」

「やっぱ海じゃね? 今年こそ俺は彼女を作る!!」

「キャンプなら任せてよ、うちの親父がキャンプ道具いっぱい持ってるから!」

 

 右を向いても左を向いても楽しげな会話が繰り広げられ、聞いても居ない他人の夏休み事情が俺の耳へと飛び込んでくる。 

 当然、そんなものに興味がない俺はそいつらの声を無視するように、ガタリと音を立てながら立ち上がった。

 今日はバイトはないし、特に予定もないので急いで帰る必要はないのだが、とにかく暑い。

 一応教室内に冷房が効いているといっても節電だなんだと温度設定は中途半端。

 ギリギリ熱中症にならないラインというこんな場所にいるよりは自室でガンガンに効いたクーラーの下でダラダラとアイスを貪りたい。

 だから俺は教室の扉を開けた瞬間のむわっとした熱気に耐えながら、昇降口へと向かうべく足早に廊下を歩きはじめたのだ。

 早く一刻も早く冷房の効いた部屋に入らなければ、溶けてしまう──俺が。

 

「ねぇねぇ、ヒッキーは夏休み何か予定あるの?」

「あん?」

 

 だが、そうして早足で廊下を歩いていると、突然背後から声をかけられた。

 俺のことをヒッキーなどという特殊な呼び方をするやつはこの学校に一人しか居ない。

 由比ヶ浜である。

 念のため言っておくと現在由比ヶ浜の首に首輪は付けられていない。

 どうやらあの後一色が上手くやってくれたらしい……本当に良かった。あれが由比ヶ浜のデフォ装備になったらどうしようかと思った。

 まあ、あの翌日二人から別々に怒られたのは未だに納得してないけどな……解せぬ。

 

「今年の夏休みの予定は──夏期講習だな、受験のこともあるし」

 

 俺は暑さで回らない頭をなんとか動かしながら、由比ヶ浜の白い首に注目しつつその質問に答えていく。

 すると、何故か由比ヶ浜は驚愕に目を見開き、俺をまじまじと見つめてきた。

 既に川崎と夏期講習の話をしていたというのもあり、それ自体は恐らく珍しくもないだろうと思っていたんだが……そんな驚くようなことか?

 

「え? 夏期講習って夏休み中ずっとじゃないよね? っていうか受験って早くない? まだ二年だよ?」

「いや、まあずっとじゃないが……早くはないだろ。口に出してないだけで、ちらほら動き始めてるんじゃないの? 知らんけど」

 

 総武は一応県内でも随一の進学校である、二年の夏ともなれば進路の事を考え始めてもおかしくない時期だ。なんなら早いやつはもっと早くから動いているだろう。

 最もそんな由比ヶ浜の発言自体も『えー、勉強なんて全然してないよ』というテスト前にありがちなブラフなのかもしれないが……。

  

「ふ、ふーん……そうなんだ……?」

 

 この反応からみるに、その可能性は低そうだ。

 俺の言葉がそんなに衝撃だったのか、由比ヶ浜は少しだけ困ったような、焦ったようなそれ以上この話題に触れてほしくないとでも言いたげな表情で明後日の方向をみつめ始めた。

 ……人様の受験への考え方に口出しをするつもりはないが、少しだけ心配になるのは俺が家庭教師を続けていることの影響だろうか?

 思わず『少しずつでもいいから考えておけよ』等と余計なお節介を焼きたくなってしまうな……まあ、それでも俺なんかに言われてもウザいだけか。

 そう考えた俺は喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込みながら、由比ヶ浜の次の言葉を待っていると、そんな俺の判断は正しかったようで、由比ヶ浜はまた楽しそうに問いかけて来た。

 

「じゃ、じゃあさ、それ以外は? 旅行とか行かないの?」

 

 勿論、俺にそんな予定はない。

 あー、いや、例年通りなら小町と一緒に爺ちゃんの家に行く位のことはするかもしれないが、今年は小町も受験だしな。なんとなく今年は自宅待機になりそうな予感はしている。

 となると、やはり基本的にはギター弾いて、ゲームして、夏期講習行って、バイトして、飯食って寝てそんな感じだろうか?

 うん、まあ、そこまで悪くはないのでは?

 充実しているとは言えないかもしれないが、やることがないわけでもない。

 毎朝起きて学校に来なくていいというだけで、夏休みは十分天国なのである。

 

「今のところ特にそういう予定はないな、まあ、家でゴロゴロしてると思う」

「へぇ……予定ないんだ……?」

 

 そんな俺の悦びが態度に出てしまったのか、心なしか由比ヶ浜も嬉しそうにチラチラと何か言いたげにコチラへ視線を送って来る。

 だが、その態度に俺は若干嫌な予感がしていた。

 

「そ、それじゃぁさ……今度……ふた」

「そしたらヒキタニくんも一緒に遊びいかね?」

「ヒキオは海と山だとどっちが好きなん?」

 

 予感は的中、由比ヶ浜の後ろから現れた戸部と三浦が由比ヶ浜を挟むように現れ、副音声のようにそんな言葉を重ねてくる。

 その背後には葉山、海老名といういつもの面々も揃っていた。

 つまり、そういうことである。

 

「ふぇ!? み、みんないつの間に!?」

 

 一応、俺の方からは由比ヶ浜の背後から近づいてくる葉山達が見えていたのだが、どうやら由比ヶ浜はその存在に全く気づいていなかったらしく驚愕に目を見開いているのが少し面白い。

 意図せず俺が仕掛け人のようになってしまったが、偶然の出来事だったことだけはココに記しておこう。

 

「? いつの間にって、『夏休み皆で何処行こうか』って話してたら結衣が急にでていったから付いてきたんじゃん」

「てっきり、比企谷を呼びにいったんだと思ったんだけど……違ったのか?」

 

 なるほど、先程の由比ヶ浜の回りくどい質問はその誘いだったのか。

 まあ、正直気乗りはしないが、実際、夏休みは長い。

 どうせ来年は受験本番なのだし、遊ぶなら今年のうちだろう。

 その相手が葉山達とというのはまだ引っかかる部分はあるが、由比ヶ浜がいるというのであれば、場所によっては一回ぐらい付き合うのは吝かではなかった。

 

「え、あ? ううん、違くない! そう、皆で、皆でね! あは、あははは……」

「? 変な結衣」

 

 しかし、そうして三浦たちの提案に考えを巡らせる俺より、何故か由比ヶ浜が慌てているのが気になる。

 もしかして、俺を誘いに来たわけじゃないのか?

 

「あー……由比ヶ浜が嫌なら別に無理についていったりしないから、安心しろよ」

「な、なんでそういうコトになるのさ! そんなコト一言もいってないじゃん! 一緒に行こうよ! 皆で一緒、きっと楽しいよ! ね? ね?」

 

 そう言って俺の肩にバンバンと手を置いてくるが、その由比ヶ浜の顔は明らかに先程までとは違いひきつっている。

 それが俺の勘違いではない証拠に俺より長い付き合いであるはずの三浦達ですら不思議そうに首を傾げながら由比ヶ浜へと視線を送っていた。

 

「結衣どった? なんかあった? 顔真っ赤だけど」

「もしかして、熱中症とかじゃね? っべーわ今年の暑さマジっべーわ」

「あ、あー! そ、そうかも! 私ちょっと用事思い出したからゆきのんの所行って休んでくる!! 後でまたLIKEするね!!」

 

 そんな視線に耐えられなくなったのか、それとも本当に熱中症の症状がでていたのか。やがて由比ヶ浜は早口でそう捲し立てるとすごい勢いで廊下の向こう側まで走っていってしまった。廊下は走っちゃいけません。

 っていうか、本当に大丈夫なのか?

 

「ちょっと、心配だな。あれ、大丈夫なのか?」

「いや、俺に聞かれても……」

 

 葉山と俺の心の声がシンクロしてしまい、俺は少しげんなりしながらそう答えるが、まぁ……あれだけ走る元気があるなら大丈夫だろう。多分。

 

「それでどうかな? 比企谷は海とか山とか行きたいところあるか? もちろん皆の予定が合う日も決めないとだけど」

 

 やがて、葉山達も同じように判断したのか続けて俺にそう問いかけてくるので、俺はどう答えたものかと顎に手をおいた。

 強いて言うならどちらも嫌いだ。

 昔、それこそ俺が小学生の頃、家族旅行でどちらも行ったことがあるが、海は人が多く、小町を変質者から守らなければいけないので気が抜けないし。

 山は虫が多く、小町を変質者から守らなければいけないので気が抜けず、あまり楽しめた記憶がない。

 さて、どう答えたものか……。

 

「どっちかっつったら、川?」

 

 近さで言うなら海も近いが。

 夏場は人が多そうだし、このメンツだと絶対埋められる予感しかしない。

 山は山でこき使われるだろうし、絶対疲れるだろう。サッカー部の葉山と体力を比べられるのもゴメンだ。

 それならいっそ近くの川という案もあるのではないかと、そう答えたのだが……。

 

「ほぅ……川に行きたいのかね? それはちょうどよかった」

 

 突然背後からポンと肩を叩かれ、俺はヒュっと喉を鳴らす。

 それは恐ろしい、本当に恐ろしい地の底から響くような声だった。

 この世に幽霊というものがいるとしたらきっとこんな感じなのだろう。

 振り向いたら駄目だ、逃げろと本能が警鐘を鳴らしている。

 だが、俺の肩がガッシリと掴まれているので逃げることが出来ない。

 痛い痛い、何この握力本当に幽霊なの? ゴリラじゃなくて?

 

「平塚先生、ちょうどよかったって?」

 

 そうして俺がなんとか肩を振りほどこうとしていると、目の前にいた葉山がきょとんとした顔で俺の背後にそう問いかけていく。

 そう、俺の背後にいたのは平塚先生なのだ。知ってたけど。

 

「とりあえずこれで一人……いや、五人確保か」

「え、えっと、何の話でしょう?」

 

 平塚先生は葉山の問いかけには答えず、続けて何やら嫌な予感のする言葉を口にしたので、俺は慌ててその手を振りほどき、葉山達の方へと移動する。

 こういう時、頭数に入れられるのは大抵碌なことではないと相場は決まっているのだ。

 だから、いっそこのまま逃げてしまいたかったが俺がそうするより早く、平塚先生は 「ふむ……」と白衣のポケットに手を突っ込み真面目な顔で語り始めた。

 

「実は、奉仕部で合宿を行おうと思っていてね。それで、良かったら君たちもそれに参加しないかね? というお誘いなんだが……どうかね?」

「いや、あーしら別に奉仕部じゃないんすけど……」

 

 平塚先生の言葉に、三浦が素早くそう切り返す。それは当然の反応だ。

 奉仕部の合宿なら奉仕部だけで行けば良く。わざわざ俺たちを呼ぶ理由がない。

 つまり、俺たちを呼ばなければならない理由がそこにあるはずなのだ。

 それを見極めるまでは「はいそうですか」と参加することは出来ない。

 

「そんな事は分かっているとも。実は近隣の小学校が千葉で林間学校を行うのに毎年サポートスタッフを募集しているのだよ。そこで部活動の一貫として奉仕部を参加させようと思っていたのだが、知っての通り奉仕部は女所帯だ、少し男手が欲しいと思ってな」

 

 だが、平塚先生はそう反応するのが分かっていたとでも言うように、悪びれもなくスラスラと説明を続けてきた。

 ふむ……つまりは体の良い労働力の確保ということか。

 そんなボランティア精神に溢れた奴なんて今の世の中そうそう──。

 

「そういうことなら皆で参加してみないか? いい思い出づくりになりそうだし」

 

 居た。

 我らがイケメン葉山くんである。

 葉山は使命感にでも駆られたのか、誰よりも早く平塚先生に背を向けると、まるで俺たちを説得するかのように話しかけてくる。

 元々一対五だった構図が。二対四になった形だ。

 そんな葉山を見て、平塚先生がニヤリと口角を上げる。しまった、平塚先生め、始めからコレを狙っていたのか……!

 最初にこのグループのリーダーたる葉山を仲間に引き込むとは汚い、流石教師、汚い。

 その計略がハマった証拠に、視界の端で「隼人が言うなら……」と三浦の心が揺れているのが分かる。

 まずいな、このままでは平塚先生の思うツボだ。

 なんとか反対票を投じなければ……林間学校の手伝いなんて何させられるか分かったもんじゃないぞ……ってあれ? 林間学校? 林間学校って最近どこかで聞いたような……?

 

「手伝いと言っても、基本的にはキャンプ。半分以上は自由時間だし水着を持ってくればご要望の川で泳ぐこともできるぞ。もちろん、臨時の課外学習扱いなので交通費、宿泊費は学校持ちだ。それと……内申点もプラスしてやろう」

「それってタダってこと!?」

「マジ!? 内申点!! 平塚先生神じゃん!」

「泊まりってことは、濃厚なハヤハチとトベハチ摂取のチャンスですか!?」

 

 まずい、俺の思考が飛び、一瞬反応が遅れた隙に平塚先生が追い打ちをかけて来ている。完全に出遅れた。

 それは既に心が揺れている三浦、そして戸部と海老名を釣るには十分過ぎる餌だったようで、気が付いた頃には既に俺以外の連中は平塚先生を囲むようにはしゃいでいた。

 

「じゃあ全員参加ってことで良いかな? 比企谷?」

「いや、俺は……」

「はい、俺たち五人でお願いします。奉仕部ってことは結衣はもう頭数に入ってるんですよね?」

 

 おいちょっと待て。俺はまだ参加するなんて一言も言ってないぞ。

 しかし、そう言おうにも既に空気は固まってしまい、俺の意見が反映されるような状況ではない。くそぅ……。

 

「ああ、奉仕部の三人、君たち五人で八人だな。……車二台なら運転手を加えてもあと一人か二人余裕があるな……奉仕部に関わりのある人間……戸塚か材も……」

「戸塚で、戸塚でお願いします!」

 

 最後の方は完全に独り言のようだったが、その人物の名を聞き逃すような俺ではない。

 ということはあれか? 泊まりってことは戸塚と一夜を共にするということだよな?

 え? なにそれフラグの予感しかしない。行かなきゃ、絶対。

 

「そうか、なら戸塚は君の方で誘っておいてくれたまえ」

「了解しました!」

 

 よし、そうと決まれば早いところ戸塚のスケジュールを押さえにいかなければ。

 って俺戸塚の連絡先とか知らないんだった……どうしよう……。

 あー、でもいきなり泊まりで出かけるとか言ったら引かれるか?

 どうにか自然に誘う方法は──。

 

 そこで俺は、ふと大事なことを聞いていなかったことに気がついた。

 そもそも、なんで車なんだ? 千葉だろ? 現地集合でもよくない?

 

「そういえば結局場所はどこなんです? 千葉なら別に車使わなくても……」

「ぶっぶー、残念でしたー、千葉は千葉でも千葉村でしたー!」

 

 群馬じゃねーか。

 今からでもパスポート間に合うかしら?




にわかには信じ難いかもしれませんが、群馬への入国の際はパスポートは必要ありません!
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第99話 兄妹揃って

いつも感想・評価・お気に入り・メッセージ・誤字報告・ここすき・etcありがとうございます。

祝! 原作:やはり俺の青春ラブコメは間違っている 結2発売!

それはそれとして
いよいよ次で100話の大台です!!
100話は少しインパクトのある話に……なるといいなぁ


「うーん……これも中々……でもやっぱりこっち……」

 

 一学期の終業式を無事に終え、これからおおよそ一月半の長期休暇が始まるという夏休みの初日。

 私は明日から行われる奉仕部の合宿に向けた買い出しのため、外の暑さを忘れてしまうほど冷房が効きすぎている千葉大手ショッピングモールへとやってきていた。

 これから夏本番ということもあり、モールのいたるところにサマーセールと印字された旗がそこかしこに掲げられ、布面積の少ない際どい水着を身に纏った真っ白なマネキンやサングラスにアロハシャツ姿のマネキン、麦わら帽子に浮き輪装備のマネキンなどが展示されていて非常に賑やかだ。

   

「おこめー、これとかどう?」

 

 そんな中、私はおこめと二人モール内の一角にある店舗でとある商品を物色していた。

 私の問いかけに、隣のレーンで腰を低くしていたおこめがまるでモグラのようにひょっこりと顔を出し、トテトテと近づいて来る。

 

「どれですか? ──って、さすがに攻めすぎじゃないですか? ここ穴空いてますよ?」

 

 そう言うとおこめは私が自分の体に当てていたソレ越しに、私の胸の谷間に近い方をツンツンと指で突いて来た。

 そこにはおこめの言う通りカップの内側に一辺四~五センチほどの三角形の穴が蝶々のように空けられている。

 もしコレを肌の上から直接着れば、自分の胸の谷間に近い部分が露出するだろうことは容易に想像ができるデザインだ。

 でも……私としてはコレぐらいなら許容範囲だと思ったんだけどなぁ……。

 

「そうかなぁ? コレぐらいしないとセンパイには伝わらなそうじゃない?」

「いやいや、流石にこれは引くでしょう……。お兄ちゃんあんまり露出多いのとか好きじゃないですよ? 以前、小町のを選ぶ時なんか全然肌を見せない囚人服みたいなのとか、ウェットスーツみたいなの着せようとしてきましたし」

「それはただ単にセンパイがシスコンってだけだから……」

 

 得意気にそう話すおこめを見て、私は『はぁ』とため息を吐く。聞いて損した。

 まあ、今更隠す必要もないのでもったいぶらずに言ってしまうが、私達が今選んでいるのは水着だ。

 平塚先生の話によると今回の合宿先、水着を持って行けば川で泳げるらしいので新調にきたというわけである。

 もちろん、私としてはその程度なら水着の新調なんかしないし、持っていこうとさえ思わなかっただろう。

 なんなら合宿の話を聞いた時点でサボッてしまおうとすら思っていたので平塚先生に「私不参加でお願いします」と告げた。

 

 だが、そんな私に平塚先生は意地の悪い笑みを浮かべこういったのだ「ほう……? そうか、“比企谷”は来ると言っていたが、君は不参加か残念だ」と。

 最初、その言葉の意味が分からず思考が停止し体が固まってしまったことを今でもよく覚えている。

 

 というのも、その時点ではそんなのは私を釣るためのブラフだろうとしか思えなかったのだ。

 平塚先生の言葉は私を連れ出すため嘘で、センパイが合宿になんて参加するはずがないとそう考えたのだ。

 

 だって、そもそも部員ですらないセンパイが部活の、それも夏の合宿に参加するなんて夢にも思えなかった。

 こういってはなんだけどセンパイは誰かの誘いに乗ってホイホイ付いていくようなフッ軽人間ではないし、あの人をどこかに連れ出すということが如何に難易度が高いことかということを私自身が一番よく知っている。

 毎週デートしましょうと誘っても、乗ってきてくれないし、ちょっと買い物に付き合ってほしいと言ってもじゃあ自分は別の店に行くからというのがセンパイだ。

 一緒にいるためには明確な──先日センパイがうちに来たときのような──目的がないと駄目なのである。正直この上なく面倒くさい。

 それでも私としては? それで諦めるわけじゃないし、センパイと一緒にいられるならと苦肉の策で、おこめをダシにしてセンパイのお家に遊びに行ったりしているのである。

 

 なのに……なのに、そんなセンパイを? 泊りがけの合宿に呼び出すことに成功した?

 本当に平塚先生は一体どんな手段を用いたのか、ぜひともご教授頂きたいところだった。

 まあ、結局最後までその方法は教えてもらえなかったけれど──。

 

 それでも、私にとって大事なのはその方法より、センパイが来るという事実だったので 私はクルクルとドリルのように手の平を返し合宿への参加を表明、今こうして全力で水着選びをする運びとなったのである。

 当然だ、奉仕部の合宿ということは当然残りの部員も来るということで──ライバルである結衣先輩が参加するのに、私だけ手をこまねいて見ているなんてことが出来るはずもない。

 それに、これは自分にとってもチャンスだと思った。

 

 思い返してみればこの一学期の間私とセンパイの間には進展と呼べるほどの進展がほとんど無かった。

 辛うじて、クラス内でセンパイが私の彼氏だという情報が出回ってはいるけれど、私のライバルである結衣先輩はそれが噂を打ち消すための方便だと知っているので牽制にもならないし。

 そのことで私とセンパイの関係に特別変化があったということもない。

 

 この間だってママに「まだ名前で呼んでもらってないの!?」って呆れらちゃったほどだ。

 私だって出来ることならいい加減『一色』なんて他人行儀な呼び方じゃなく『いろは』って名前で呼んで貰いたい、それこそセンパイが私の彼氏の振りをした時、そのままの流れで移行してくれるんじゃないかとさえ期待してたんだけど……センパイもセンパイで頑固というかなんというか……。はぁ……。

 

 最早自分でも何をどうしたら良いのか分からなくなりつつある中で、降って湧いたような今回の合宿話。

 これはもう大いに利用するしか無い。なにせ夏、それも泊まりの合宿である。

 若い男女が大きな一歩を踏み出すには最高のシチュエーションだ。

 だからこそ、今年はいつもより大胆に、一発でセンパイを振り向かせられるぐらいのちょっと派手な水着でセンパイを堕としてみせる!!

 ……とはいうものの、うーん……やっぱもうチョット控えめの方がいいかなぁ……男子はセンパイだけじゃないっぽいし……でもなぁ……?

  

「っていうか、本当に小町も行って良いんですか? 完全に部外者なんですけど」

 

 私が別の水着に手を伸ばしながら頭を悩ませているとおこめが少し困ったように首を傾げてそんな事を聞いてきた。

 それはある意味では当然の疑問ではあるのだろうけれど、私としてはもう決まったことなのでいい加減割り切って欲しいとも思っている何度目かの質問。

 だから私は視線を水着に送ったまま、少し適当な口調で何度聞かれても変わらない答えを口にしていく。

 

「大丈夫大丈夫、平塚センセ……うちの顧問もあと一人呼んで良いって言ってたし。雪乃先輩も『小町さんが来てくれるなら私の負担も軽くなりそうだし、むしろ助かるわ』って言ってたから」

「それはそれでなんだか不安なんですけど……」

 

 まあ高校生の中に一人中学生が交じるということに多少不安はあるのだろうが。

 既に雪乃先輩とも結衣先輩とも面識はあるわけだし、なんだかんだおこめは社交性もある方だから問題はないと思っている。

 でも、雪乃先輩の負担が軽くなるっていうのはどういう意味なんだろう?

 私も結衣先輩もいるんだし、雪乃先輩のお手伝いなら私でも出来るはずなんだけどな?

 単に人手が足りないってこと? もしかして結構過酷な合宿になるんだろうか?

 なんかちょっと怖くなってきた……けど、今はとにかく水着選びに集中しよう。

 

「ほらほらそれより、今度はコレとかどう? コッチとコッチだったらどっちのほうがセンパイ好みだと思う?」

「えー? もう小町そんなのわかんないですよぉ。心配ならお兄ちゃんに写メしてちょくせ……ってあれ? 結衣さん?」

 

 そうして私が両手に持った水着を二つ並べて見せていると、突然おこめが私の背後に視線を送り、ここにいないはずの人物の名前を口にした。

 そのあまりにもよく知る名前に私も思わず背後を振り返る。

 すると、そこにはおこめの言葉の通り、結衣先輩と、加えて雪乃先輩の姿があった。

 

「小町ちゃんだ、いろはちゃんも! やっはろー! もしかして二人も買い物?」

「ええ、そちらも水着買いに来られたんですか?」

「うん。ほらゆきのんも」

「私は別に必要ないと言ったのだけれど──」

 

 どうやら二人も買い物に来たらしい。

 まあ、目的地も一緒なのだから、考えることは皆一緒か。

 折角の夏休みだしね。

 

「お久しぶりです、結衣さん、雪乃さん」

「こんにちは小町さん。そういえば小町さんも今回の合宿参加するんだったわね、よろしくね」

「あ、はい。というか、部外者の小町がご一緒していいものか悩んでいるんですけど……。その、本当にいいんでしょうか?」

「勿論だよ! ね? ゆきのん?」

「ええ、構わないわ、むしろ私としては貴女が居てくれないと困るもの」

「へ?」

 

 その言葉の真意がいまいち汲み取れないおこめは一瞬私の方へと助けを求めるような視線を向けてくるが、当然私にも理解できない。

 しかし、雪乃先輩はソレ以上言うことはないとばかりに「ふふっ」と意味深な笑みを浮かべ、私達を見つめてくる。

 

「それってどういう……?」

 

 その視線の意味がわからず私が改めて雪乃先輩の方へとそう問いかけるが、雪乃先輩はそれ以上は何も答えようとはせず、ただニッコリと笑顔を返してくるばかりだった。

 その表情は一見するとなんだか楽しそうにも見え、少し不気味だ。だから私は思わずもう一度雪乃先輩に問いかけようとおこめの隣を離れ一歩踏み出した。

 

「雪乃先ぱ……」 

「……ね、ねぇ小町ちゃん」

「あ、はい? なんでしょう?」

 

 だけどそれがいけなかった。私がおこめのそばを離れた瞬間、結衣先輩がクイクイとおこめの袖を引っ張りコソコソと動き始めたのが見えたのだ。

 うん、視界の端で見えていた。

 本人はこっそりやっているつもりなのかもしれないけれど、どう考えてもこの状況でこっそりというのは無理があるだろう。

 それでも、結衣先輩はまだ気が付かれていないと思っているのかそのまま私の方を警戒しつつおこめの耳元へと顔を近づけていく。

 まぁ、私としては? そんなおままごとのようなやり取り、見ないふりをしてあげても良かったのだけれど──。

 

「あ、あのさ……ヒッキーってどんな柄が好きとかあるかな? 色とか……」

「えっと……それってつまり水着のってことですよね?」

「ふ、深い意味はないんだよ!? 深い意味は! ただちょっと参考にって思っただけで……!」

 

 そんな会話が聞こえてきてしまったのだから当然無視をすることが出来なくなってしまった。

 っていうか結衣先輩声大きすぎ。ヒソヒソ話下手すぎじゃないですか? 普通に聞こえてましたよ?

 

「結衣先輩? おこめはわ・た・しと買い物中なので遠慮してもらえます?」

 

 私は折角のアドバンテージを手放さないよう、結衣先輩にそう告げてぐっとおこめの右手を掴み、結衣先輩から引き剥がすように私の方へと引き寄せていく。

 瞬間「わわっ」とおこめが転びそうな声を上げ、私の胸にぽふんとその小さな頭をぶつけて来た。

 

「い、いいじゃん。少しぐらい! ね? 小町ちゃん? ちょっと二人で見て回ろ? そうだ、あとでジュース奢ってあげようか?」

 

 すると、今度は結衣先輩がまるで小さな子供を誘拐するようなセリフとともにおこめの左手を引っ張り、またしてもおこめが「わわっ」と声を上げ、ぽよよんと結衣先輩の胸に顔を埋ずめていく。

 うわ凄、大きい大きいとは思ってたけど……本当何食べたらあんなに大きくなるんだろう? でも、私だってまだまだ発展途上なんですから、大船に乗ったつもりで期待しててくださいねセンパイ!

 って違う違う。今はそんなコト考えてる場合じゃなかった。

 

「ちょっと危ないじゃないですか!」

「そ、そっちが引っ張るからじゃん!」

「お、お二方とも落ち着いて下さい! 小町としては皆で仲良くというのが良いのではないかと愚考するのですが……あわわわわ」

 

 ぽふんぽふふんとおこめの頭が私の胸と結衣先輩の胸の上でラリーを繰り返していく。

 最早疑いの余地はない、結衣先輩もセンパイ好みの水着を選ぼうとしているのだろう。

 しかも、結衣先輩のあの体で? センパイ好みの水着?

 そんなのちょっと卑怯過ぎません? 絶対おこめを渡す訳にはいかないんだから……!

 

「た、助けて雪乃さん!!」

「小町さんがいてくれると助かるわ、私は少し向こうの方を見てくるから、あまりお店に迷惑をかけないようにね?」

「ちょ、ちょっと雪乃さん!?」

 

 まるで悪の組織に捕まったかのような事件性のある悲鳴を上げるおこめだったが。

 雪乃先輩はそんな私たちを見て『関わりたくもない』とでも言いたげに良い笑顔のまま私達の輪から外れ別のレーンにある水着を見に行ってしまった。

 それでも、おこめは雪乃先輩を追うように手を伸ばそうとするが、それぞれの腕を私と結衣先輩が抑えているのでまるでひっくり返ったセミのようにジタバタと動くことしか出来ずにいる。

 少々可哀想な気がしなくもないけれど、今はこの手を離したほうが負けなのだ。おこめには諦めてもらおう。

 

「結衣先輩? 私、負けませんからね……?」

「わ、私だって負けないから!」

 

 雪乃先輩が別のレーンへ行ったが私たちの戦いは終わっては居ない。

 いや、むしろ雪乃先輩というストッパーがいなくなったことで私たちはおこめの頭越しにバチリと火花を散らせた。

 そう、ココは既に恋する乙女の戦場となったのだ。

 どこからともなく法螺貝の音が聴こえてくるような気さえする。

 絶対に負けられない戦いがここにはある!

 

「おこめ! ほら行くよ!」

「ふぇ!?」

「行こ! 小町ちゃん!」

「ふぇぇ!?」

 

 そうして、私達はおこめを引きずるようにして豪快に水着を数着取るとそのまま試着室の方へと向かっていった。

 選ぶべきはよりセンパイ好みの水着。

 私のほうがセンパイとの付き合いが長いっていうところを結衣先輩に見せつけてやるんだから!

 

「ちょ、雪乃さん! 助けてくださいよ! 雪乃さーん!?」

「やはり小町さんがいてくれて正解だったわね……」

 

***

 

 そんなこんながあって漸く迎えた合宿当日はカーテンを開けた瞬間から心地よい朝日と雲ひとつ無い青空が私を出迎えてくれる、まるでドラマのワンシーンのような朝から始まった。

 うん、体調もバッチリ。これなら何事もなく楽しい合宿を迎えられそうだ。

 

 私は気分良く朝食を取り、着替えを済ませると、支度を済ませ、先日から準備してあったキャリーケースを転がして一人待ち合わせ場所である駅前へと向かって行く。

 まだ待ち合わせには大分余裕があるが、こういうときはどうしても昔マネージャーをやっていた時の癖もあって少し早く家を出てしまうのだ。

 まあ一応部内では一番の後輩だし? 早く着く分には何も問題ないだろう。

 その分センパイと会える時間も長くなるしね。

 

「あら一色さん、早いのね」

「雪乃先輩! おはようございます!」

「おはよう。私達が一番みたいね」

「そうですね、ワクワクして早く来ちゃいました」

 

 だが、そうして少し早めに待ち合わせ場所に着くとソコには既に雪乃先輩の姿があった。雪乃先輩は文庫本を片手に一人その場で佇んでいる。

 時計を見ると待ち合わせ時間にはまだ十分ほど早い。さすが部長だ。

 でも、ちょっと早すぎない? いつもは五分前行動なのに……まさかとは思うけど……雪乃先輩も?

 

「もしかして、雪乃先輩も結構楽しみだったりします?」

 

 そう思った私がそんなことがあるわけ無いと思いながらもつい冗談交じりでそんな言葉を口にすると、雪乃先輩は途端に頬を染め、明後日の方向へと顔を背けていく。

 

「そんなわけないでしょう? ……その……合宿なんて初めてだったから念のため早く出ただけよ」

 

 どうやら本当に楽しみにしていたらしい、雪乃先輩って意外と可愛い所あるんだよなぁ。

 とはいえ「そういうのを楽しみにしてるっていうんじゃ……?」と指摘するのも意地悪かなと言葉を飲み込んで、私はただニコニコと雪乃先輩の顔を眺めることにした。

 

「……何か言いたそうね?」

「いえいえ、楽しい合宿にしましょうね!」

 

 少し恥ずかしそうな雪乃先輩と二人で「次は誰が来ますかね?」とか「天気が良くて良かったですね」とか「今日って車なんですよね?」などそんな他愛のない話しをしながら私たちは皆の到着を待っていた。

 その間もソワソワとどこか落ち着かない態度の雪乃先輩が楽しげに見えたのは私だけの秘密だ。

 

「二人共おはよう」

 

 そうして待つこと数分。

 次にやってきたのは戸塚先輩だった。

 相変わらず女の子にしか見えない可愛らしい笑顔と格好で、コチラに向かって手を振ってくるので、私達もそれに答え挨拶を交わす。

 

「あれ? は……比企谷くんは?」

「まだ……みたいですね」

「そっか、今日はよろしくね」

 

 戸塚先輩は奉仕部ではない、でもセンパイが合宿に参加することになって戸塚先輩を誘ったらしい。

 まあ、それ自体には驚きはないのだけれど……でも……なんだか引っかかるものはある。

 センパイ……戸塚先輩が男だっていうのはちゃんと理解したはずなんだけど、妙に戸塚先輩と仲いいんだよね……。

 そのせいかセンパイが戸塚先輩を直接誘ったというのがなんというか、とてもモヤモヤするのだ。

 そもそもセンパイが誰かを誘うという行為自体が珍しいというのもあり、男の人だとわかっていてもなお私の中の何かが『油断するな』と警告を発している。

 考え過ぎならいいんだけど……合宿中って男子は同室って話なんだよね……本当に……大丈夫ですよね? 信じてますよ? センパイ?

 

「そ、そういえば、テニス部の方はどうですか?」

 

 とはいえ、そんな不安を戸塚先輩にぶつけることも出来ず。

 私はなんとか平常心を保ち、世間話がてら戸塚先輩にそんな質問を投げかけた。

 

「うん、実は三年生が引退して今度僕部長になったんだ」

「ええ? 凄いじゃないですか」

「えへへ、だからもっと頑張らないとね。良かったらまた練習付き合ってくれる?」

「はい、私達でよければ、ね? 雪乃先輩?」

「そうね……それが依頼なのであれば引き受けましょう」

 

 思わぬところで奉仕部の依頼を引き受けてしまった。

 一応奉仕部の活動としてはその方が有り難いのかもしれないけど……雪乃先輩体力ないからなぁ……。

 多分、そのときはまた私が一肌脱ぐことになるのだろう。

 まあ、仕方ないか。ダイエットだと思って頑張ろう。

 

「やっはろー、おまたせー!」

「やっはろーです皆さん」

 

 そんな事を考えていると、今度は結衣先輩と何故かおこめが一緒にやってきた。

 ん? なんで一緒に?

 二人が一緒にいるという理由がわからず、私が一瞬首を傾げると何かを察したのか、それとも何か疚しい気持ちがあったのか結衣先輩が早口に言い訳がましく理由を説明してくる。

 

「偶然! そこで偶然、会ったんだ! ね? ね?」

「え? ええ、そうですね。家を出たら急に結衣先輩が居てびっくりしました」

「へぇ……偶然」

 

 偶然なのに家の前。つまり結衣先輩はセンパイの家に行ったということなのだろう。

 どう考えても不自然である。

 明らかに抜け駆けの予感。

 くそ……やられた。

 

 でも、その時の私は、結衣先輩が抜け駆けをしたという事実よりも何より気になることがあってそれを追求しようという気になれなかった。

 というのも、眼の前にいるのは結衣先輩とおこめの二人“だけ”だったのだ。

 そう、そこに肝心のセンパイの姿がない。

 え? 一体どういうコト? まさか来れなくなった……とかじゃないよね?

 病気とか?

 いやいや、きっと近くのコンビニとかトイレに寄ってるだけだろう。

 そんなに心配するようなことじゃないはずだ。

 

「っていうかおこめ、センパイは?」

「あ、やっぱりいろはさんも聞いてなかったんですね? 結衣先輩にも言ったんですけど……お兄ちゃん、大分前に出ましたよ?」

「へ?」

 

 しかし、私の予想に反して返ってきたのはそんな意味の分からない言葉だった。

 大分前に出た……?

 おこめの言葉を反芻しながら、私は慌てて周囲を見回す。

 そこにいるのは雪乃先輩、戸塚先輩、結衣先輩、おこめ。そして私を含めた五人。

 やはり、そこにセンパイの姿はない。

 大分前に出たとはどういうことだろう?

 少し前とかでもなく、大分前?

 その言葉が本当ならもうとっくに着いていないとおかしいんじゃないだろうか?

 もしかして迷ってる? いや、センパイに限ってそんなはず……まさか、事故──!?

 

「やぁ全員揃っているな」

 

 嫌な考えが頭をよぎり、一瞬パニックになりかけていると、少し大きめの赤い車が私達の近くに止まり、運転席からそんな声が聞こえてきた。

 声の主はサングラスをかけた平塚先生だ。

 でも、今は平塚先生のことよりセンパイの居所が気になっていた私は、その車にセンパイが乗っているのかと慌てて車内を覗き込む。だが乗っているのは平塚先生一人だけ。

 

 そんな私を怪訝そうに睨みながらも、平塚先生はゆっくりと車から降りると、私達を一人ひとり数えるように視線を送り「ふむ」とタバコに火をつけていく。

 そして、やけにゆっくりとした動作でその大きな胸を更に大きく膨らませると私達の中の一人に視線を定め「ふぅ」と白い煙を吐き出しながらゆっくりと口を動かした。

 

「私が今回の責任者である顧問の平塚だ。君が比企谷の妹さんかね」

「あ、はい比企谷小町です、今日はご招待頂きありがとうございます。えっと……本当に小町が参加してよかったんでしょうか?」

「ああ、構わないとも。人数が多い分にはこちらも助かる。しかし、比企谷の妹にするにはもったいないな……私の妹──いや、娘にしてしまおうか」

 

 まずい、結婚を諦め始めているせいか、いよいよもって妙なことを口走ってきた。

 うっかりセンパイがターゲットになる前に早く誰かに貰ってもらわないと……! って今は平塚先生のことよりセンパイのことだ。

 今、この場にいるメンバーを見て『全員揃っている』という平塚先生の言葉に納得がいかない。

 

「平塚先生! センパイが来てないです!」

 

 だから、私は「ハイハイっ」と大きく手を上げて平塚先生の視線を遮るようにそう宣言したのだが、平塚先生はそんな私をうんざりしたような顔で見ながら再びふぅっとタバコを吸い込んだ。

 

「ああ、比企谷なら心配いらん別便で既に出荷済みだ」

「は!? そんなの聞いてないですけど?!」

 

 なにそれ!

 出荷済み? 別便?

 センパイだけ先に向かってるってこと?!

 ソレを知ってたら私だってセンパイと先に行く選択肢だってあったはずだ。

 なんで早くそれを言わないのかと私は平塚先生を睨みつける。

 

「いやぁ、私が運転している間後ろでイチャつかれたら堪らんからな、だから言わなかった。残念だったな! ははは! まさに外道!!」

「はぁぁぁぁ!?」

 

 そう言うと平塚先生は悪びれる様子もなく、何かのマネでもするかのようにキメ顔を見せて来た。意味はわからないけれど正直凄くイライラする。

 この人が先生でさえなければ殴っていたかもしれない。っていうか殴りたかった。

 しかし、平塚先生はそんな私をあしらうように、パンパンと手を鳴らす慣れた手付きで車の後部座席の扉を開けていく。

 

「それじゃ出発するぞ! 全員速やかに乗り給え!」

「「「はーい」」」

「ちょ、ちょっと平塚先生!?」

 

 続けて平塚先生は私のことなんて無視しながら車のトランクを開けるとおこめの荷物を受け取りトランクへと荷物を積んでいった。

 

「ざ、残念だったね。でも向こうに行けば合流できるみたいだし、ね?」

 

 そんな慰めにもならない結衣先輩の言葉を聞きながら、私ははぁとため息を吐く。

 結衣先輩はこの事を知っていたのだろうか?

 いや、この様子だと結衣先輩も知らなかったのかもしれない。

 でも、センパイもセンパイだ。

 先に行くなら連絡の一つぐらいしてくれてもいいのに……!

 センパイの馬鹿っ!

 

「ほらほらいろはさん。兄のことなんて放って置いて、ココは女の子だけのドライブ楽しみましょ!」

 

 とはいえ、合宿にセンパイが参加するという事実が変わらない以上、私がここで降りることはできない。

 言いたいことは沢山有るが……今更どうしようもないことも頭では分かっているので不承不承ながら私はおこめに背を押され車の中へと乗り込んでいく。

 すると、おこめの言葉が聞こえたのか後部座席に乗っていた戸塚先輩が申し訳無さそうにおこめに声をかけて来た。

 

「あの……僕、男の子、です……」

「ふぇ?」

 

 そんなおこめの間抜けな声を合図に私達を乗せた車は勢いよく発進したのだった。




というわけで、99話でした。
100話から丁度千葉村編と考えれば切りが良い……? かもしれない?
(閑話を含むと今回が100話だという事実に触れてはいけない)

なお、今回いろはさんが選んだ水着は「一色いろは 水着B 続ver」でググると出てくる公式のものをイメージさせて頂きました
公式グッズが豊富だとこういう時助かりますね
さて、結局彼女たちはどんな水着を買ったのか?
その辺りは次話以降を乞うご期待ということで

感想・評価・お気に入り、誤字報告・ここすき・DM・etcリアクションよろしくお願いいたします


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第100話 ようこそ恋愛至上主義の千葉村へ

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、DM、読了報告、ありがとうございます。

祝!正真正銘の100話突入です!
ここまでこれたのも皆さんの応援のおかげです!
本当にありがとうございます!!
……とはいえ、この物語は一体イツ終わるのでしょうね……(同時に襲いかかる不安)


 体は鉄で出来ている。

 血潮は油で、心はエンジン。

 幾たびの走行を経て腐敗(予定)。

 ただの一度の事故もなく、ただの一度も渋滞はない。

 

 そんな比較的快適で安全運転な車に揺られながら俺は今、一路日本に残された最後の秘境群馬を目指していた。

 強い日差しに目を細めながら窓の外を眺めれば現在地は埼玉、既に出発してから一時間ほどが経過しているが、これでようやく全行程の半分ほどだというのだから、車内に少しだらけた空気が漂っているのも致し方ないことだろう。

 

 今の俺に出来ることと言えば、せいぜいカーステレオから流れる一昔前の音楽に耳を傾けながら、一人『一色は寝坊してないだろうな?』とか『小町の奴車酔いしてないだろうな?』とか『そういや一色は乗り物酔いとかしないんだろうか?』とか『戸塚は今日も可愛いんだろうな』とか、そんな意味のない思考を繰り返し。流れる景色を眺めることぐらい。まあ、一言で言ってしまえば暇なのである。

 

 勿論、車内に人が居ないわけではない。

 助手席には葉山。二列目俺の隣には戸部。三列目左から三浦、海老名と、まるで俺を囲むように葉山グループが配置されている。だが、それが問題でもあった。

 せめて隣に戸塚か小町でも居てくれれば俺もこの車内で楽しく会話をしようという気にもなるが、前を見ても右を見ても後ろを見ても、そんな相手がいないのだから仕方がない。スマホで読書というのも微妙に酔いそうだし、通知が煩かったのでスマホ自体の電源を落とした俺がこうして一人の世界に浸るのも自明の理というものだ。 

 

 そもそも何故俺がこんな中途半端な位置に座ることになったのか?

 これまでであれば俺が最後列に座り、前の席でワイワイと楽しむ葉山たちを眺めるというのが定石だったように思う。

 なのに、今回はそうはならず結果車内は比較的静かだ。何故か?

 その原因は運転手だ。

 

 今、この車を運転しているのは葉山父なのである。

 

 元々、今回の遠征は課外学習の一環だったということもあり、平塚先生は体育教師の厚木に運転を頼むつもりだったらしいのだが、厚木も別の部の顧問として動かなければならなくなったらしく、急遽運転手を探す羽目になったところで葉山が「親に掛け合ってみる」と話をつけてきた。

 

 まあ、その時の俺としては「もうどうにでもしてくれ」という心境だったので、運転手が誰になろうがどうでもよかったし、それがコイツらのいつものスタイルならそれで問題ないだろうと思っていたのだが、殊の外問題があった。

 葉山父が運転手になったことで、三浦がよそ行きモードになってしまったのだ。

 まさに借りてきた猫状態で、乗り込むときも「ヒキオ、あんた前座んな」と俺を先行させ、自らは三列目のシートに海老名と並んで座り、大人しく口を閉ざしてしまったのである。

 

 結果、グループの中心である葉山と三浦が離れたことで会話がスムーズに回らなくなり、今もこうして気まずい空気が流れているのだ。

 

「あ、っべ。トランプ持ってくるの忘れたかも」

 

 唯一の救いは、そんな中でもめげずに場を盛り上げようと定期的に会話を振る戸部の存在だろうか?

 いや本当、こういう時こいつのありがたみを感じるな。

 

「それなら俺が持ってきてるよ、小さいやつだけど」

「マジ? さすが隼人くん。マジ助かるわぁ!」

 

 一体トランプで何が助かるのかは分からないが、そう言って戸部はおどけながら車内を見回し、最後に俺に向かって困ったように笑顔を向けて来る。

 とはいえ、残念ながら俺では戸部の力にはなれなかった。

 いや、なんとかしてやりたいという思いはあるのだが、そもそもどう答えるのが正解なのかわからなかったのだ。

 

「いやー、まじ隼人くんのお父さんいて助かったわぁ、マジ神っつーの? うちの親父とかマジ使えねぇから本当。マジありがたいわぁ」

 

 それでも戸部は勇敢にも会話を続けていた。

 しかも今度は運転手である葉山父に声をかけたのである。

 葉山父もまさか自分に話を振られるとは思っていなかったのか、驚いたようにミラー越しに戸部を見つめ、一瞬、気まずい沈黙が車内を支配した。

 

 ──葉山父に対する俺の第一印象は、あまり葉山に似てないな。というものだった。

 眼鏡と口ひげの似合う厳格そうな親父ではあるものの。葉山ほどの派手さはない、そんな印象。しかも職業が弁護士らしいという情報がさらに葉山父のイメージを厳格で話しかけづらいものとして、より印象付けていたように思う。

 

 だから、戸部の軽口で機嫌を損ねるのではないか? と俺も僅かに体を強張らせていたのだが──。

 

「ははは、構わないさ。ちょうど近くまで行く予定もあったし、隼人がこういうワガママを言うのも久しぶりだったからね」

 

 葉山父の口から出てきた言葉は思いの外柔和で葉山の血筋を感じさせるものだった。

 いや、まあ葉山の親父なんだから当たり前といえば当たり前なのか。

 案外、葉山の内面は父親似なのかもしれない。

 

「余計なことは言わないでくれよ父さん」

 

 葉山も葉山でそんな父親との会話が恥ずかしく感じたのか、年相応な反応を示している。なんだか珍しいものを見た気分だ。

 

 こういうやりとりを目の前にすると、今回の運転手に俺の親父が候補に上がらなくて良かったと心から思えた。

 あの親父だったら余計なことしかいわないだろうしな……まあ、候補に上がったところであの親父が俺のために車出してくれるとも思えないけど……。

 

 そんな事を考えていると「お父さんを前にしてる隼人、ちょっと可愛い……」等と後方で呟いている三浦の声が聞こえた。

 これはチャンスだ。

 ここで三浦を前に出せば、この車内の空気を少しは元に戻せるかもしれない。

 そう考えた俺はこのチャンスを逃すまいと軽く背後を振り返り、三浦に声をかけていく。

 

「なぁ、やっぱ次のサービスエリアで席変わるか?」

「は? なんで?」

「いや、葉山と近い方がいいだろ?」

「……っ! あんたは余計なこと考えなくていいの!」

 

 俺の言葉に、驚愕の表情を浮かべた三浦はそのままパシッと俺の頭を叩いて来る。

 大して痛くはないがなんだか理不尽だ。

 それでも俺は三浦への追求をやめるつもりはなかった。

 このポジションにあと一時間近く座っているのは疲れるし、最後列の方が気兼ねなく眠れそうだったしな。

 帰りのことも考えると、今のうちに快適なポジションを確保しておきたい……。

 

「いや、でも……」

「あーしのことより、あんたの方はどうなのさ」

 

 だが、そんな俺の次の言葉は三浦の問いかけに寄ってかき消されてしまった。

 俺自身、三浦が何を言っているのか分からず、思わず言葉を飲み込んでしまったのだ。

 質問の意図がわからない、俺がどうとは? 一体どういうことだ?

 

「俺?」

「ほら、なんか付き合ってるってことにしたあの一年、結局どうするつもりなの?」

 

 俺が首を傾げていると、三浦が真面目な顔で言葉を続けてくる。

 『付き合ってることにした一年』と言われて思い浮かぶ女子といえば、一色いろはただ一人だけだ。

 そんなにあっちこっちで付き合っていることにされても困るし、間違いはないだろう。

 

「一色のこと?」

「そうそう。わざわざ付き合ってるアピールするってことはその気あるんじゃないの? あんま訳わかんないことしてると拗れるよ?」

「いや、別に……そういうんじゃないんだけどな……」

 

 そういやその件もまだ解決してないんだったか。

 気が付けばもうあれから二ヶ月。

 なんとなく、何も言われないので忘れていたが、例の噂がどうなっているのか一度確認して見ても良い頃合いだろう。問題がなければ予定通り夏休み明けぐらいで解消という話になるだろうが──。

 

「へ? 何々? ヒキタニ君彼女いんの!?」

 

 そんな事を考えていると、今度は戸部が俺たちの会話に割りこんできた。

 ……そういえばあの時戸部は居なかったんだったか。

 さて、どう説明したものか……。

 確かに車内の空気をなんとかしてほしいとは思ったが、俺の話題で盛り上がって欲しいわけではない。

 

「まあそのうちなんとかするさ……」

 

 だから俺は本来の目的も忘れ、顔を前に戻すとドスっと深く座り直して無理矢理会話を終わらせる──終わらせた、つもりだったのだが……。

 

「でもさでもさ! 彼女はいないけど、彼氏はいるんだよね?」

「いるわけねーだろ!」

 

 突然斜め後ろからヒョッコリと海老名が鼻息荒く飛び出してきて、思わずツッコんでしまい、車内にドッと笑いが巻き起こる。

 奇しくもそのことがきっかけで車内の空気が和み、俺たちは残りの時間、車内でトランプをしながら千葉村へと向かったのだった。

 

 

***

 

***

 

***

 

 そうして車に揺られること更に一時間強、長い長い旅の果てにたどり着いたのは群馬県内に何故かある我が千葉県の領土──高原千葉村だ。

 どうやってこの秘境で千葉が自国の領土を奪い取ったのかは不明。

 チーバくんがぐんまちゃんと争い、勝ち取ったという説が俺の中で濃厚だが真相は闇の中である。きっとその裏には壮絶な戦いがあったのだろう、千葉県内にも東京の領土があったりするしな。

 チーバくんは今日も他県に睨みをきかせながら俺たち千葉県民を守ってくれているのだ。ありがとうチーバくん。

 ああ、もしかしたら葉山父はグンマーまでチーバくんの弁護に来たのかもしれない。ここも近々閉園するみたいな噂も聞いたし、未だに事務所にファックスが置かれているという原始時代っぷりだし、案外劣勢だったりするんだろうか? 頑張れ葉山父。

 

「センパー……!」

「おにいちゃーん!」

「はちまーん!」

 

 そんな風にチーバくんと葉山父への感謝を胸に荷物を下ろし終え、散策がてら散歩をしていると見知った面々が乗った車が敷地内へと入って来た。

 どうやら奉仕部組も到着したらしい。

 

 中でも戸塚はいち早く車から降りて来ると右手を大きく振りながら俺の方へと走り寄ってくる。

 その様子はまるで恋人同士が感動の再会を果たす、ドラマのワンシーンのようであり、背後に花が飛んで、スローモーションで近づいてきているような錯覚に陥ってしまったほどだ。

 その笑顔があまりにも眩しく、油断すると浄化されてしまいそうだ、恐るべし戸塚。

 

「八幡は葉山君達と一緒の班だったんだね。待ち合わせ場所にいなかったからてっきり来ないのかなって心配しちゃったよ」

「あ、ああ、悪かったな……さ、彩加」

 

 なんとなく、小町達に見られているというのもあり、見栄を張ってもう一度名前呼びにチャレンジしてしまったが……やっぱ名前呼びは慣れないな、戸塚は戸塚でいいや。

 今日泊まりだし、このまま名前呼びを続けているとどこかで戻れなくなりそうで怖い。

 

「ううん、でもそれならそれで一言欲しかったかな」

「俺も昨日の夜知らされたんだよ、人数的にこっちにしろってな……」

 

 本来なら戸塚に声をかけたのは俺なので、一緒に行動すべきだろうとも思うのだが、こればっかりは仕方がなかった。

 奉仕部組は一色・由比ヶ浜・戸塚・雪ノ下・小町。そして運転手の平塚先生の六人。

 対する俺たちは葉山・三浦・戸部・海老名。運転手である葉山父・そして俺の六人である。

 女子は荷物が多いと言うし、二台車があるのなら均等に分かれるのがベストだろう。

 奉仕部員ではない俺が奉仕部組に無理矢理混ざる理由もないしな。

 かといって、俺と戸塚を交代させるなんて真似も出来ない。そんなのはライオンの檻にウサギを投げ込むようなものだ。守りたい、この笑顔。

 戸塚男だけど……。

 

 最も、葉山と一色を一緒にという案もないわけではなかったし、小町を生贄にすることもできないわけではなかったが、前者は奉仕部の合宿という前提から考えれば他の部員二人と引き離すべきではないし、後者は戸部や三浦から悪影響を受けたら困るという保護者視点から却下するしかなかった。

 結局のところこの組み合わせがベストだったのだろう。

 まあその分俺のストレスがマッハなわけだが……。こうして戸塚に駆け寄ってもらえたというだけで十分苦労も報われるというものだ。

 

「お兄ちゃんあっちで迷惑かけなかった? ちゃんといい子にしてた?」

「俺のセリフだそれは……迷惑かけてないだろうな?」

「大丈夫迷惑なんてかけられてないよ、凄く楽しかった。ね、小町ちゃん?」

 

 戸塚の次に俺の側に駆け寄ってきたのは小町だ。

 小町は戸塚の言葉に「はい!」と力強くそして楽しそうに返事をすると、ニコニコと俺に笑顔を向けてくる。

 

「ならいいけど……あんまはしゃぎすぎて熱だしたりするなよ?」

「ちっちゃい子じゃないんだから大丈夫だよ。お兄ちゃんこそ女の子に囲まれてるからってあんまり張り切りすぎないでよ? 小町修羅場はゴメンだよ……」

 

 今更だが、今回の合宿何故か俺だけ兄妹参加なんだよなぁ。

 一色が誘ったという話自体は聞いていたのだが、まさか平塚先生が許可を出すとまでは思っていなかった。

 いや、これって部活の一貫じゃなかったっけ? なんかちょっと恥ずかしいんですけど?

 とはいえ、来てしまったものは仕方ない。ここは腹を括り余計なことをしないよう、俺が兄としてしっかり管理せねば。

 でも今お兄ちゃん戸塚と話してるからちょっと向こういっててくれる? 今後の俺の人生に関わる問題だからね?

 

「お前が既に暑さでやられてるというのはよくわかった……とりあえずほら、あっちに自販機あるから熱でやられる前になんか買ってこい」

「飲み物ならまだ残ってるよ……」

「あ、そういえば僕何か買おうと思ってたんだ、ちょっと買ってくるね」

 

 小町を引き剥がそうとしたのに、戸塚の方が反応して自販機の方へ行ってしまった。くそぅ。

 作戦の失敗を悟った俺は少しだけ非難の目で小町を見下ろしていく。 

 しかし、小町はそんな俺の視線など無視して、真面目な表情になるとこっそりと耳打ちをしてきた。

 

「ねぇ、お兄ちゃん……戸塚さんって男の人らしいんだけど、本当なの?」

 

 どうやら向こうの車内で真実を知ってしまったらしい。

 ただ、真実と言っても俺自身が確認したわけではないので可能性は残されていると思うんだよな……。

 そう考えると一体どう答えたら良いものか……。

 うーんやはり俺としてはまだワンチャンあると思っているんだがなぁ……。

 

「ああ……多分」

「多分ってどっちなのさ! あああ、ますます混乱するぅ」

 

 だから俺は曖昧にそう答えたのだが、その答えが気に入らなかったのか小町は頭を抱えて天を仰いでしまった。どうやら暑さで大分脳がやられているようだ。

 早めに日陰に連れて行ったほうが良いかもしれない。

 心配になった俺は小町の背中を押してとり急ぎ近くにあった東屋へと連れて行く。

 そこは八角形の屋根からなる、ちょっとした休憩スペースだ。

 そしてそこには既に日陰で涼を取る葉山たちの姿があった。

  

「比企谷、と……あぁ、比企谷の妹さんだね。久しぶり、俺のこと覚えてるかな?」

「え? あ、はい! 勿論覚えておりますとも、その節はお世話になりました」

「え、いや、特にお世話はしてないと思うんだけど……」

 

 葉山の言葉に小町は一瞬戸惑い、俺の方へきょとんとした顔を向けたが、次の瞬間には営業スマイルを浮かべていた。

 恐らく葉山のことなど覚えていなかったのだろうが、瞬時に『覚えていない』と言ってはイケないキャラだと判断したのだろう。

 

「あれぇ? 君どっかで会ったような……」

「何なに? ヒキオの妹さん? 超可愛いじゃん何年生?」

「ど、どうもはじめまして兄がいつもお世話になっております。兄の妹の小町と申します中三です。今回はよろしくお願いします」

「ねぇねぇ、コスプレとか興味ある? 今度お姉ちゃんとお着替えしようか?」

 

 小町が葉山のことを覚えていない証拠に戸部に関しては完全に初対面モードだった。

 まあ、確かあの時小町は自己紹介はしてなかったはずだし、三浦達とは本当に初対面なのでそれほど不自然さはなかったものの、我が妹ながら恐ろしい処世術である。

 気が付けば小町は葉山グループの中心で三浦や海老名に頭を撫でられながら、まるで昔からの後輩であるかのように可愛がられていた。

 ちょっとジェラシー。

 

 おいおいおい小町は俺の妹なんですけど?

 何その“みんなの妹”みたいな扱い。

 くそぅ……葉山め……! 俺から兄の座まで奪おうというのか……許すまじ!

 それだけは……それだけはやっちゃぁいけないだろうが……!!

 

 そうして俺が殺意の波動に目覚め、親指の爪を噛み血涙を流しながら葉山を睨んでいると、不意に背後から同じような殺意の波動を感じた。思わず背筋に寒気が走る。確実に俺より強いやつだ。

 そのただならぬ気配に慌てて俺が振り返ると、そこには人を殺しそうな勢いで俺を睨んでいる物凄いオーラを纏った一色が立っていた。

 

「……」

「い、一色……? どした? もしかして車で酔ったか?」

 

 その余りにも強烈なプレッシャーに気圧されそうになりながらも、俺はなんとか一色の下へと近づいていくが、その反応は鈍い。体調が悪いのだろうか? 車酔いならまだいいが、今度こそ熱中症かもしれない。

 だから俺は小町をそのまま葉山達に預けて、一色の下へと駆け寄ると一色の小さな額に自らの手を押し当てた。別に変な意味じゃない、熱を測ろうとしたのだ。

 

「ひゃっ!? な、なんですか急に!」

「熱は……あるのか無いのかよく分からんな。とりあえず冷やしておけよ」

 

 外が暑すぎるせいでよくわからなかったが、平熱よりは高い気がしたので俺は取り急ぎ、飲みかけのペットボトルを軽く振って一色の首元に当てていく。

 ずっと手にしていたのでそれほど冷たくはないかもしれないが、多少の涼は取れるだろう。

 

「むー……! こ、子供扱いしないでくださいよ!」

 

 俺の行動に悪態をつく一色だったが、特に抵抗することなく、そのままペットボトルに頬を当てるように首を傾け、少し気持ちよさそうに目を細めていく。

 その様子から熱中症ではなさそうだと判断したが、やはりまだ機嫌は悪いらしく、ちらりと俺を見上げる瞳には「まだまだ不満です」という強い抗議の意志が込められていた。

 困った、俺、なんかしたっけ? 

 

「何イライラしてんの? 車でなんかあった?」

「べっつにー! なんでもないです! 良かったですね戸塚先輩とイチャイチャできて!  いつのまに名前で呼び合う仲になったんですか? あーやだやだ、これだからシスコンは!」

「いや、名前で呼んだのはその……そういう話があったからで俺としては出来れば戸塚は戸塚のままで居てほしいというか……そもそも戸塚はシスターではないというか……」

 

 何故戸塚を名前呼びしたことを怒られているのかは分からなかったが、そのあまりの剣幕に気が付けば俺はモゴモゴと陰キャっぽさが滲み出てしまう気持ち悪い口調で言い訳を並べていた。

 名前呼びなんて割りと普通のコトなのかと思っていた矢先のことでもあったので、俺自身戸惑ってしまう。やっぱこういうのは葉山のようなイケメンだから許される特別な行為なのだろうか?

 

「……私だってセンパイ……名前……まだなのに…………」

 

 だが続く一色の呟きに俺は考えを改める。

 小さな声だったので一部は聞き取れなかったが、つまり俺がどうこうではなくこいつ自身が名前呼びをしたいということなのだろう。

 まあ、こいつ四月生まれであんま後輩って感じもしないし、俺を敬う気持ちもなさそうなので、いっそ名前で呼んでしまいたいという思いもあるのかもしれない。

 

「ん……? 名前で呼びたいなら、一色も好きに呼べばいいだろ、今更お前に呼び捨てにされるぐらい構わんが」

「そ、そういうコトを言ってるんじゃないです! 私にとってセンパイはセンパイだからいいんです!」

 

 だから俺はこれ以上この話を長引かせないためにも、分かりやすい解決策を提示したのだが──最早何を言っているのかわからない支離滅裂な回答が返ってきた。

 熱中症やべぇな。最早ヒステリーの領域だ。 

 これはもう医療班を呼んだほうが良いのかもしれん。

 

「あーもういいです!! もう帰りは私と車交代しましょうね! センパイはその方が楽しそうですもんね!!」

 

 続く言葉で、ようやく俺は自分の間違いを認識した。

 一色の機嫌が悪い理由、それは葉山と同じ車に乗れなかったことへの不満の現れなのだろう。成る程、それで機嫌が悪いわけかと漸く合点がいく。

そういうことならば話は簡単だ。

 一色の言う通り、帰りは俺と交代すればいい。

 

 交代すればいい──のだが、そうすることが正しいことだと理解しつつも俺はその一色の提案を飲み込むことが出来なかった。

 何故か?

 もし、俺がそれを許したら、向こうについたときには俺達の関係が取り返しがつかないほどに変わってしまいそうな、そんな気がしたからだ……。

 

「……そういうわけにもいかないだろ。これは奉仕部の合宿なんだ、奉仕部が分かれてたら意味がない、だろ……?」

 

 だから俺はそれが詭弁だと分かりつつも一色の案を否定していく。

 ああ、なんだか無性に胸のあたりがモヤモヤする、もしかしたら俺も熱中症なのかもしれない。あるいは車酔いか……。

 

「そ、れは……そうかもしれませんけど……それなら他の人と……!」

「とにかく後は俺がやるから疲れたなら水分補給して休んどけ。ほら、荷物よこせ」

 

 それでも尚言葉を続けようとする一色の言葉を遮り、俺は一色の荷物を奪い取り、代わりに飲みかけのペットボトルをそのまま握らせる

 これ以上ここで話を続けていると余計なことを口走ってしまいそうだ。

 人の目もある、とにかくこの場から移動しよう。

 

「え? あ、ありがとうございます?」

 

 しかし、突然荷物を奪われた一色は俺の行動の意図が読めなかったのか、先程までの怒りはどこへやら戸惑いの声を上げ、きょとんと俺を見上げてきた。

 どうやら頭が回っていないらしい。

 ああ、もう面倒くさいなぁ。

 

「君たち、荷物を置いたらさっそく仕事だぞ。キビキビ動くように」

「ほら、平塚先生もああ言ってるし行くぞ」

「え?! あ、は、はい……」

 

 俺は平塚先生のその言葉を合図に、いつも一色がそうするように荷物を持っていない方の手で一色の手を握るとそのまま強引に足を進めていった。

 ここは暑すぎるのだ。

 周囲を見回せば、既に由比ヶ浜も雪ノ下も、そして戸塚も荷物の搬入を終えている。

 東屋にいる小町達を除けばこの場に残っているのは俺たちだけ。

 その事に気がついた一色は、突然の俺の行動に戸惑いの声を上げつつも、その手を離そうとはせず、ただ無言で俺の後をついてくる。

 手のひらから伝わってくるのは俺より少し低い一色の体温。

 そういや、俺手汗大丈夫だろうか……? なんだか心なしか顔も熱くなってきた。

 これが熱中症というやつなのかもしれない。

 ああ、今日はまだまだ暑くなりそうだ……。

 

***

 

**

 

*

 

「では最後に、皆さんのお手伝いをしてくれる、お兄さんお姉さんに挨拶しましょう」

 

 それから俺たちは照りつける日差しの中、休む間もなく平塚女王の下で働く働き蜂として活動させられていた。小学校の教師らしい大柄な男がマイク越しに小学生達に挨拶を述べると、背後に並んでいる俺たちの中から代表して葉山が一歩前へと踏み出し、挨拶の言葉を述べていく。

 いつの間にか打ち合わせでもしていたのだろうか?

 なんだか並び方が妙だとは思ったんだよな、葉山だけやけに中央に近い方に立ってたし。

 ちなみに、俺は小学生達から見て左の端で一色は平塚先生に寄って右の端へと連れて行かれたのでこの並びには他にも意味があるのかもしれない。

 千葉特有の誕生日順? いや、違うな……。「一色」が最初ってことはシンプルに五十音順か? でも隣「雪ノ下」だしな……うーん……やはり並び方に意味は無いのか?

 

「それではオリエンテーリングスタート!」

 

 そんな事を考えていると、いつの間にか葉山の挨拶も終わり、オリエンテーリングが開始されていた。

 つまり、俺たちの最初の仕事がやってきたのである。

 このオリエンテーリングで俺たちは、班ごとにチェックポイントを通過しゴールを目指す小学生たちをサポートすることになっているのだ。

 もう少し具体的にいうならルートから外れて迷子になったり、怪我をしたりするのを防ぐためのスタッフといったところか。

 自分が小学生の頃はあまり考えていなかったが、こうやってみると確かにこれは教師陣だけでは手に余りそうだ。ボランティアスタッフが必要というのも納得。

 こんだけの数の小学生とか何しでかすか分かったもんじゃないしな……。

 

「んで? 俺らはどうすんの?」

「基本的には私達も子供たちと同じよ。チェックポイントを回って道中でトラブルがないか確認。最後尾からついていけば、遅れてる組への対処もしやすいでしょうしね」

「了解」

 

 雪ノ下の言葉に従い、俺たちは小学生が順番に出発していくのを待つことにした。

 先頭には教師陣もついて行っているようだし、雪ノ下の判断ならそれほど間違いはないだろう。そもそも俺はあくまで手伝いなので、指示に従う以上のこともしたくはない。

 

「ヒッキー、大丈夫? 暑くない?」

「ああ、これぐらいなら問題ない。そういや悪かったな朝小町連れてってもらって」

「ううん、全然。小町ちゃん可愛いし、一緒で楽しかったよ!」

「そか、なら良かった」

 

 そうして一組、また一組と進んでいく小学生たちを眺めていると由比ヶ浜が俺の隣へとやってきた。そういえば由比ヶ浜は朝出る前に会ったけど、コッチ来てからはまだ話していなかったということに思い至る。

 

「センパイ? そういえばなんでおこめのこと結衣先輩に頼んだんですか?」

「いや、あえて頼んだわけじゃないんだが、家出る時偶然あったんでな」

「へぇ……偶然……」

 

 そう、今朝一人で家を出ようとすると、何故かそこに準備万端といった装いの由比ヶ浜が立っていたのだ。

 まあ、由比ヶ浜も奉仕部員なので目的地は同じだし、俺の通学路と由比ヶ浜の犬──サブレの散歩コースが被っているというコトも踏まえると、それ自体は偶然と言って差し支えはないだろう。

 

「んで、折角だから小町のことを頼むことにしたんだ」

 

 加えて、由比ヶ浜は俺が葉山組に参加するとは知らなかったようだったので、小町が合宿に参加することに一抹の不安を覚えていた俺は由比ヶ浜に小町のことを任せ先に葉山たちと合流したのである。

 一応小町に関しては一色がいれば問題がないとは思っていたが、待ち合わせ場所の道のりに由比ヶ浜が居てくれればそれはそれで安心だしな。

 

「ああ、それで結衣さん待っててくださったんですね」

「う、うん。実はそうなんだ……!」

「おこめ? 今度から知らない人について行っちゃ駄目だからね?」

「あれ? 私誘拐犯扱いされてる!?」

「いや、結衣さん知ってる人ですし、小町、いろはさんと一つしか違わないですからね?」

 

 まあ少々過保護だったかと思わなくはないが、こうやって小町が奉仕部の輪に入れてもらえているのを見れば結果オーライといったところだろう。

 小町が楽しそうにしているなら、俺が多少嫌味を言われるぐらいは何の問題にもならない。小町の笑顔はプライスレスなのだ。

 

「それで、ヒッキーは、あっちの車で楽しかった?」

「別に、普通だよ……」

 

 そんな会話を繰り広げているとやがて、小学生の最後の一組が出発しようと動き始めたのが見えた。いや、目についた。といったほうが正しいかもしれない。

 勿論単純に最後の一組だから目についた、というのもあったのだが、その女子だけで構成される五人のグループは少しだけ他のグループとは違う、妙な違和感のようなものを放っていたのだ。

 その違和感の正体は、その五人組が立ち上がり、順路に沿って歩き始めた時点で直ぐに分かった。

 五人組は、五人組ではなく、四人組と一人。だったのだ。

 一人だけ、明らかにその輪から外れるように一歩いや、三歩ほど引いて後をついて行っているのである。

 

「……!?」

 

 もしこういう時にハグレる奴がいるとしたらああいう奴だろう、少し注意して見ておいた方が良いかもしれない。そう考えながら俺も後を追うため先んじて一歩踏み出すと、向こうもコチラに気づいたのか振り返り足を止めた。

 まずいな、変質者だと思われたのかもしれない。

 いやいや、さっきお手伝いをしてくれるお兄さんお姉さんがいるって説明あったよね? 怪しくないよ? ほら、葉山なんとか言ってやれ。

 俺は、慌てて敵意がないことを示そうと笑顔を作る。

 だがその瞬間五人組のうちの一人が大きく目を見開き、俺を見つめてきたのが分かった。

 

「センパイ……?」

「ヒッキー?」

 

 その視線の先に俺がいることに目ざとく気が付いた一色と由比ヶ浜が心配そうに俺を見つめてくるが、俺もなんと答えたら良いか分からず思わず足を止め、目を逸らす。

 すると、視界の端でトテテッと俺のもとへ走り寄ってくる少女の姿が見えた。

 

 思えば、随分前からフラグは立っていたような気もする。

 キーワードは『林間学校』。

 そう、“アイツ”はこの夏休み『林間学校に行く』と言っていたし、平塚先生も今回の合宿を『林間学校の手伝い』だと言っていた。

 同じ千葉県内で、学区も近いということを考えるならこうなる事は十分予測できたはずだ。

 しかし、俺はその事を考えていなかった。

 だからきっとこれはそのフラグに気がついていなかった俺への罰なのだろう。

 

「ちょ、ちょっと! なんで八幡がここにいるの!?」

 

 そこには俺がこの春から家庭教師として働いている家の生徒──楓さんの友達の孫娘──"由香"の姿があった。




ということで第100話いかがだったでしょうか?
記念の100話なのでちょっとでもインパクトのあるお話をと思ったら少しだけ長くなってしまいました、お許し頂けますと幸いです。

まだまだ物語は続いていく予定で
正直何話で完結が見えていないのですが
頑張って書いていこうと思っていますので引き続き応援の程よろしくお願いいたします

※ちなみに『高原千葉村』は本当に閉園して、現在は『ちばむらオートキャンパーズリゾート』になっているらしいですが、そのことと葉山父は無関係です。この物語はフィクションです何卒ご了承下さい。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、読了報告、誤字報告etc、100話超えてもリアクション一つで赤子のように喜びますので、お気軽によろしくお願いいたします。


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第101話 キャンプのカレーは美味いっていう話

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告,etcありがとうございます

今回は結構ギリギリでしたが間に合いました。
一〇〇話超えたからって気を抜かないよう頑張ります!


「へぇ、これが由香のカテキョ……」

「いいなーカテキョ、私もママに頼んでみようかなぁ」

「でもなーんか冴えない感じ、どうせなら私はこっちのお兄さんに見てもらいたいかも」

 

 一体これはどういう状況なのだろうか?

 次に気が付いたときには俺は『こっちのお兄さん』こと葉山と二人、小学生たちに絡まれながら、オリエンテーリング会場である林──というより森──の中へと足を踏み入れていた。

 俺たちの周りを囲んでいるのは三人の女子小学生。 

 名前は確か仁美、森ちゃん、ヨッコとか呼ばれていただろうか?

 誰が誰だかイマイチ判別がついていないが、どうせこの場限りの付き合いだろうしワザワザ覚えようとも思わない。

 それでもそんな女子小学生達に囲まれるというのはなんというか……親戚の子供たちにお年玉をせがまれているような感覚で落ち着かなかった。

 明らかに何かを期待している感がというか、ビジネス接待というか……キャバクラとかクラブとかで客引きにあっているような、そんな気分なのだ。

 お年玉あげたこともないし、キャバクラもクラブも行ったことないけど。

 

「それで、なんでそのカテキョのお兄さんがこんな所まで付いてきてるんですか?」

「そういえばそうだよね、え? もしかして由香のストーカー……?」

「えー! 年上とか由香結構やるじゃん!」

 

 もはや言語が通じなさそうなコイツラに、俺は乾いた笑みを返すことしか出来ずにいた。彼女たちに取って今の俺は『新しい玩具』でしかないのだろう。

 そしてその玩具がどれほどの機能を有しているのか下調べをしている。そんな感じ。

 一方、そんな俺の教え子たる由香は何をしているのかというと。

 

「由香ちゃんっていうんだ? 私一色いろはっていうの、よろしくね」

「私は由比ヶ浜結衣。ねぇねぇヒッキーが先生ってどんな感じ?」

「えー……なんていうかこう……キモい?」

 

 向こうは向こうで俺たちから数歩離れた所で一色と由比ヶ浜に盛大に絡まれていた。

 生意気にも茶髪に染めたロングの髪を揺らし、鬱陶しそうにしながらも流石に年上相手ということもあってか律儀に質問に答えている。

 止めたほうが良いのか、或いは放っておいたほうが良いのか非常に判断に困るところだ。……っていうかキモイってなんだ、キモいって。泣くぞコラ。

 

 それでも一応、余計なことを言うなよ? という意味をこめ意識だけは由香の方へと向けながら歩いていると。向こうもそんな俺の態度に気がついたのか、続く会話で由香が俺の方へと厭味ったらしい笑みを投げかけて来るのが見えた。

 

「っていうか何? さっきから。もしかしてお姉さん達のどっちかって八幡の彼女とかなの?」

「え!? ち、違うよ!? 彼女とかそういうんじゃなくて!!」

「えへへ、やっぱり分かっちゃ……」

「だよねー、八幡に彼女とか想像しただけで笑えるし」

 

 十中八九『お前に彼女なんているわけないもんな』という挑発の笑みである。

 それと同時に二人のJKの顔がビキっと固まったようにも見えた、恐らく虫にでも遭遇したのだろう。虫多すぎだしな。いや本当にここ日本なの? アフリカ南部とかじゃなくて? なんか見たことないレベルででかい蜘蛛とかいるんですけど?

 

 そんな事を考えながら、由香達の方を注視していると、不意に一色がもの凄い良い笑顔で俺の方に向かって口をパクパクさせている事に気が付いた。

 なんだろう? 俺に何かを伝えようとしている?

 ヘラクレスオオカブトでも捕まえたのだろうか?

 えっと何々……?

 

『センパイ、この子殴ってもいいですか?』

 

 やめろやめろ!

 いやいや、本当何言ってるの? 駄目に決まってるでしょ?

 この数秒のやり取りの何が気に食わなかったのかは知らないが、今はコンプライアンスとか色々ウルサイのだ。体罰はご法度。そんな事したら即炎上案件だ。

 由香が小生意気でムカつく小娘であることは俺も理解しているが、それでも殴っていいなどと許可を出す訳にはいかないので、俺はブンブンと首を横に振り一色を宥めていく。

 やるならせめて俺の知らない何処かでやってほしい。

 そうすれば俺の責任問題にはならないからな。多分。

 ならないよね……?

 

「ふふ、八幡モテモテだね」

「そういうんじゃねーだろコレは……」

「いやー、マジヒキタニ君パないわぁ、やっぱ時代はカテキョでしょお」

 

 そんな俺の様子を見て楽しそうに笑うのは戸塚だ。

 ふざけているのか、本音なのか良く分からない笑い方で俺を茶化してくると、ニコニコと楽しそうに後をついてくる。非常に可愛い。満点である。

 ちょっと油断すれば『はぐれないように手を繋いでおこう』などとトチ狂った提案をしてしまいそうだ。本当、攫われたりしたら大変だからな。

 ちなみに戸部はどうでもいい。むしろ逸れてしまえ。

 

 しかし、忘れてはいけない。

 今日の俺はあくまでこの林間学校──オリエンテーリングのサポートスタッフ。

 目を配るべきは戸塚ではなく小学生達なのである。

 

 今この場にいるのはJS三人と葉山。そして後ろに戸塚と戸部。

 少し離れた所に由香、一色、由比ヶ浜。

 三浦と海老名は虫が嫌だと、最後尾を歩き。

 その少し前を小町と雪ノ下が歩いているという状況だが……。

 小学生が一人足りない。 

 

 オリエンテーリングが始まる時から気になっていた、このグループの五人目のメンバーで名前もまだ知らない──というか声すら聞いていない──黒髪ロングの女子の姿が見えず、俺は思わず首を振り、少女の姿を探していく。

 

 居た。

 

 少女は俺たちから少し離れた場所、三浦達に近い、ギリギリ視認出来る距離で少し寂しそうに一人地図を見ながら次のチェックポイントを探していた。

 

 無論、この状況で彼女の立ち位置がわからないほど俺も馬鹿ではない。

 彼女はこのグループがらハブられていた。それもわかり易く。

 恐らく、ここにいる全てのメンバーがそれを悟っているだろう。

 だから、下手に声をかけることはしなかった。

 いや、三浦や雪ノ下が「あまり離れすぎないように」と多少の声掛けはしていたが、無理に由香たちと合流させようとはしていなかった。というのが正しいだろうか?

 

「そんなに離れてないで、君もコッチにおいでよ」

 

 しかし、そんな俺の視線を察してか、良い人葉山が其の場に居る誰にも聞こえる声で黒髪の少女へと呼びかける。顔には必殺の王子様スマイル、恐らくこの葉山の必殺技を前にして落ちなかった女は居ないのだろう。

 だが、この場でそれは悪手でしか無かった。

 葉山の言葉で、一瞬周囲に居た少女たちの会話がピタリと止まり、同時に何か言いたげな複数の視線が黒髪の少女の方へと注がれていく。

 その悪意に満ちた視線を受けた黒髪の少女は「あ」と哀しそうに顔を伏せると、一歩足を引き、隠れるように横道へ入ってしまった。

 

「何アレ感じ悪ぅい」

「あんなヤツ放って置いて先行きましょお兄さん」

「え? でもほら、迷子になっちゃうといけないからさ」

「うわー、お兄さんヤサシイー」

「鶴見なら大丈夫ですよ、地図も持ってるし」

 

 そういうと少女たちは、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ「行こ」っと俺たちの手を引いていく。

 もし、この世に無邪気な悪魔というものが居たとしたら、きっとこいつらのような顔をしているのだろう。

 とはいえまずいな、まだ近くにはいるはずだが、このまま本当に迷子になられたら厄介だ。かといって俺も葉山もターゲットにされているので動けない。

 となると、誰かに頼むしかないわけだが……さて、誰に頼むのがベストだろうか?

 シンキングタイムスタート。

 

 一・一色、由比ヶ浜組に頼む

 二・戸塚、戸部組に頼む

 三・小町、雪ノ下組に頼む

 四・三浦、海老名組に頼む

 五・放っておく

 

 とりあえず五はバッドエンドフラグビンビンなので外すとして。

 ここで俺が選ぶべきなのは──。

 

「小町!」

「ふぇ?!」

 

 どこで拾ったのか丁度よい長さの棒を振り回し、カンカンと木を叩きながら歩いている小町に声をかけると、小町は間の抜けた声を上げながらビクッと身体を震わせた後テテテっと俺の下へと駆け寄って来た。

 こういうところはコイツも結構可愛げがあるんだけどな……。

 

「何? お兄ちゃん」

「ちょっと耳貸せ」

 

 少しだけ不思議そうに俺たちを見上げる小学生の前で、俺は小町に耳打ちをする。

 

「え? ひゃぅ!? うひゃひゃ……くすぐったいよお兄ちゃん」

「お、おい。変な声出すな」

「センパイ……?」

「八幡……やっぱキモ……」

 

 小町が変な声を上げるので、途端に一色と由香が冷たい視線を向けて来たが、今は無視だ。そんな事を気にしている場合ではないのである。

 

「……っつーことで、任せた」

「りょ! それでは小町はこの辺りでドロンさせていただくで御座る! シュタタタタ……!」

 

 俺の耳打ちが終わると、小町が何故か忍者の真似事をしながら来た道を戻っていった。

 何故忍者なのかは分からないが、恐らくこれで最悪の自体は免れるだろう……が、人選ミスったかもしれんな。

 まあ、雪ノ下にも伝えるように言ってあるから多分大丈夫か。

 

「どうしたんですか?」

「ちょっと忘れ物をな……ってかこの辺チェックポイントとかあんじゃないの? 俺たちに構ってないで探してこいよ」

 

 そうして、俺は鶴見のことを小町達に任せ、他の小学生たちにも目を配るべく其の場を離れようとする。

 繰り返すが、俺の今日の目的は林間学校のサポートスタッフであって、こいつらの専属スタッフではないのだ。

 だがその瞬間、横に居たおかっぱの少女・仁美(多分)に手を掴まれた。

 

「えー、よくわかんなーい。お兄さん達手伝ってくださいよぉ」

 

 続けて、仁美(恐らく)はそう言って上目遣いのまま甘えるような仕草で俺を見上げてくる。

 おいおい小学生でこんな技覚えてるとか、今どきの小学生どうなってるの?

 もしかして千葉の小学校って授業で『あざとい仕草』とかやってる?

 一色で耐性が付いてなかったら、危うくコロッと騙されるところなんだが?

 

 全く……仕方ない、ここだけだぞ……?

  

***

 

 そのままでは完全に利用されそうだったので、半分ほどチェックポイントを回った所でなんとか由香達と別行動を取りオリエンテーリングを終えると、今度は夕食作りが始まった。

 まだ日は高いが、小学生大人数での飯盒炊爨だ、時間がかかることを考慮してのこのスケジュールなのだろう。

 実際、割と長距離を歩かされたのもあっていい感じに腹も減ってきているし、場所が場所なだけに日が完全に落ちてしまえば明かりがなくなり何も見えなくなってしまうのは明白だ。

 早めに動いて悪いことはないだろう。

 ちなみに今夜のメニューはキャンプ界の王道メニューカレーである。カレー最高。

 

「男子は火起こし、女子は食材を取りにいきたまえ。それと比企谷、君はコッチだ」

 

 だから、俺としても早いところ調理を終わらせて、腹ごしらえと行きたかったのだが、何故か平塚先生の小学生たちへの指示に混じって、俺個人を名指しした指示が飛んできた。

 突然のことに俺は「はい?」と生返事のまま首を傾げるが、横で見ていた一色は「センパイ……また何かしたんですか?」と何故か抗議顔を向けてくる。

 いや、またとはなんだまたとは、俺そんな問題起こしたことないだろ……。

 

 とはいえ、呼ばれてしまったものは仕方がない。

 俺は調理担当の一色達を後に残し、調理場からゆっくりと離れていく平塚先生を追いかけていく。

 

「雪ノ下と小町くんは医務室だ、君もきなさい」

「医務室? あいつら怪我でもしたんですか?」

 

 平塚先生の言葉で、そういえば調理場で二人の姿を見かけなかったなと、ぼんやりと記憶をたどる。オリエンテーリングでは最終的に数組に分かれて行動してたから全く気が付かなかった。

 基本的に俺は大人数での行動に慣れていないので、仕方ないと言えば仕方ないとも思うのだが。妹の存在にすら気付いていなかったというのは大失態である。

 兄として反省しなければ。

 

「君の指示だと聞いたが、連絡はきていないのかね?」

 

 そこで俺はようやく思い出した。

 小町に例の鶴見という少女が逸れないよう、目を光らせておいてくれと頼んでいたことを。

 俺は慌てて連絡が来ていなかったのか確認するため、ポケットからスマホを取り出していく。

 

「あ、やべ、電源切ったままだった」

「この場の最終的な責任者は私だが、小町くんに関しては君も立派な保護者だからな、しっかりしてくれよ?」

 

 そういえば朝から一色からの通知が鳴りっぱなしで煩かったからバッテリー節約のために電源切ってたんだった。

 バッテリーの心配をするぐらい通知を気にするって俺も大分スマホに対する認識が変わったよな……と意味のない思考を挟みつつ、スマホの電源を入れ、LIKEを立ち上げていく。

 すると、そこには一通のメッセージが送られてきていた。

 

『お兄ちゃん! 助けてー!』

 

 そのメッセージを読んだ瞬間、俺の心がザワツイたのが分かった。

 ああ、俺はなんというコトをしてしまったのだろう。

 なんだかんだ、小町はまだ中学生だ。少し身体が大きくなってきたからと言って、こんな慣れない森の中であんな事を頼むんじゃなかった。

 もし小町に何かあったら、俺はもう生きていけないかもしれない。

 

「平塚先生!」

「ああ、医務室はその小屋の奥だ」

 

 そう言って指をさす平塚先生の背中を追い抜いて、俺は一人全速力で指定された小屋へと駆け込んでいく。頼む、小町無事で居てくれ──。

 

「小町!!」

「あ、お兄ちゃん。遅いよ! なんで連絡くれないのさ!」

 

 しかし、そうして医務室まで走ると、そこでは退屈そうに足をぶらぶらと揺らしながら呑気に両手でペットボトルを揺らす小町の姿があった。

 その姿を見て、俺は全身から力が抜けるのを感じ、魂を吐き出すようなため息を吐いていく。はぁ……良かった……。どうやら大したことはなさそうだ……。

 

「……悪い、電源切ってたんだよ……」

「全く、肝心な時に頼りにならないお兄ちゃんなんだから!」

「すまん……それで? 何があった? 怪我は?」

 

 俺は改めて小町の身体を確認していく。

 顔は無傷、腕と膝に絆創膏が貼られているが、ソレ以外は大した怪我もなさそうだ。

 怪我をした場所から察するに転んだとか、その程度のことだったのだろう。本当に良かった。怪我の場所によっては、親父に殺されるところだったぞ……。

 

「ああ、うん小町は全然大丈夫なんだけど。雪乃さんが……」

 

 そう言われて俺は初めてその部屋に小町以外の人間が居たことに気が付いた。

 部屋の中央ベッドに腰掛けている雪ノ下と、その隣にもう一人、鶴見と呼ばれていた黒髪の少女だ。 

 

「私も問題ないわ、木の枝で少し引っ掻いただけだから」

「少しじゃないですよ、血がドバドバ出て大変だったんですから!」

「ごめんなさい……私のせいで……」

 

 鶴見に関しては無傷のようだが、雪ノ下の左の掌には包帯が巻かれており、少なくとも絆創膏では間に合わない程の怪我をしたのだろうという事は予測できた。

 

「えっと、こちら鶴見留美ちゃん」

「小町さんは彼女が転びそうになったところを助けてくれたのよ」

 

 なるほど、それで転んだわけか。

 昔は自分が助けられる側だった小町がねぇ……なんだか嬉しいような、誇らしいような……。

 俺が小町の頭を「よくやった」という意味をこめて撫でると、小町は「ちょ、やだ止めてよお兄ちゃん」と嫌そうにしながらも、笑みを浮かべる。

 とはいえ、それならそれで何故雪ノ下が怪我をしているのかが疑問だった。

 見た感じ、雪ノ下の方が怪我の度合いとしては大きそうだが……。

 

「それで、なんで雪ノ下は怪我してんの?」

「私はその……」

「留美ちゃんを受け止めようとして、手を伸ばしたら木に引っかけちゃったんですよね?」

「小町さん? そのことはオフレコだと話したはずだけれど?」

 

 ものすごくしょうもない理由だった。

 雪ノ下も意外とドジなところあるんだな。

 隠すほどではないとは思うが、それでも雪ノ下としては触れられたくない部分だったらしく、小町を睨みつけている。

 まあ、そこには雪ノ下なりの羞恥心があるのだろうから、コレ以上の追求はやめておくか。

 

「あ、あー……えっと、そ、それで、このサビオをね、留美ちゃんが貼ってくれたんだー! ありがとねルミちゃん!」

 

 それでもなお雪ノ下に睨まれ続けていた小町は、話を逸らすべくあたふたと腕に貼られている妙に可愛らしいデザインの絆創膏を俺に見せつけてきた。

 ふむ、留美ちゃん……鶴見留美……ルミルミだな。

 

「そっか、ありがとな。妹の手当してくれて」

「……別に……私のせいだし……」

 

 最初に転びそうになったということで責任を感じているせいか。

 先程からルミルミの態度は暗い。

 会話も広がらず、ほんの一瞬だけ其の場に沈黙が流れる。

 ここはさすがに年上の俺が気を使うターンなんだろうな……。

 

「あ、そういや自己紹介がまだだったな、えっと俺の名前は……」

「八幡でしょ、小町から聞いた」

「そ、そか……」

 

 気を使った俺の渾身の自己紹介をスルーされ。再び流れる沈黙。

 どうしたものかと、小町も「あははっ」と乾いた笑みを浮かべている。

 すると、いつからそこに居たのか、開いていた医務室の扉からコンコンとノックの音がした。

 

「話しはすんだかね? もうすぐ夕食だ。怪我も大したことがなく治療も終わっているなら全員そろそろ戻りたまえ」

 

 平塚先生がそういうと、ルミルミは心底嫌そうな、それでいて諦めたような顔をしながらも、ピョンとベッドから飛び降りトボトボと一人医務室を出ていく。

 そんな寂しげなルミルミの後ろ姿を眺め、俺たち三人は一度だけ視線を交わし、皆の元へと戻っていった。

 

***

 

 そうして俺たちが戻る頃には、カレーはすでに出来上がっていた。

 いつもより幾分早い夕食ながら、カレーのスパイスの香りが鼻孔をくすぐり、今にも俺の腹が叫び出しそうだ。ぐぅ。 

 

「あ、来た来た。センパイ達! もう、何してたんですか? もうカレーできちゃいましたよ!」

「ほらほら、早く座って! 急がないと暗くなっちゃう!」

 

 一色と由比ヶ浜に見つかった俺達は二人に背中を押されながら、既にカレーが並べられ、皆が席についている備え付けのログテーブルへと案内された。

 小学生グループがすでに食べ始めているのを見るに、どうやら俺たちの事を待っていてくれたらしい。

 その事実が何故か少しだけ俺の胸の辺りを暖かくしていくのを感じるが、この気持ちは一体なんだろう? これがキャンプならではの感覚というやつなのだろうか?

 ゆるキャンハピキャン。

 

「おかわりもありますから、いっぱい食べてくださいね」

「私も手伝ったんだよ!」

「いや、結衣先輩ほとんど見てるだけだったじゃないですか」

「ちゃ、ちゃんと火の番とかしてたもん!」

「それを見てるだけというのでは……?」

「そういう話は後で良いから、早くしてくんない? もうあーしお腹ぺこぺこなんだけど」

「そうだね、それじゃとりあえず」

「「「「「いただきまーす!!」」」」」

 

 その言葉を合図にカレーをかきこむ俺たち。

 材料は普段作るカレーとそれほど変わらない市販のもののはずだが、不思議といつもとは違う味がする。強いて大きな違いを上げるとすれば具が極大ということか。

 だがそれでも、不思議と俺のスプーンの速度は上がっていく。

 店のカレーとも、家のカレーとも違う妙な旨みが確かにそこにあったのだ。

 ンまぁああ~い!!

 あれ? なんだか肩の辺りが痒くなってきたような……。

 

「どう? ゆきのん?」

「ええ、美味しいわ」

 

 そういえば、雪ノ下も医務室に居たので、料理には参加してなかったんだよな。

 それでも雪ノ下が柔らかく笑みを浮かべ、そのカレーを口にしているところを見ると、十分合格点ということなのだろう。

 もしかしたら雪ノ下もゆるキャンマジックにやられているのかもしれない。

 それか、この中にカレーの達人が混ざっているのか……。

 頼んだらまた作ってくれないだろうか……。

 

「ん? センパイどうかしましたか?」

「いや、なんでも」

 

 何の気もなく髪にカレーがつかないよう耳に引っ掛けながら、スプーンを運ぶ一色を見ていたら、視線があってしまった。

 何故一色を見ていたのかは自分でもわからないが、なんとなく気恥ずかしくて俺は慌てて目を逸らす。

 

 すると、視線を逸した先で、カレーを食べ終えた小学生が一人席を立ち、洗い物を始めたのが見えた。

 ルミルミだ。

 既に日が落ちかけているのもあって、ルミルミの表情は暗く、今にも消えてしまいそうなほどに儚げ。

 その姿はまるで暗がりでコンビニ飯を食らう実の両親を連想させるほど悲痛なものだった。

 

「あの子、なんだかずっと孤立しているみたいだな……なんとかしてあげたらいいんだけど」

 

 どうやら、自分が思っていた以上にルミルミの事を見つめていたらしい。

 葉山が俺の視線の先にいるルミルミに気づくとそう言って少し悲しげに目尻を下げた。

 同時にその言葉に気付いた三浦達も彼女の方へと振り返り「ああ、あの子か」と場に少しだけ重い空気が漂っていく。

 

 そこからは、完全にお葬式のような空気になってしまった。

 皆何を喋ったら良いのか分からなくなってしまったのだろう。

 一人、また一人とカレーを空にして立ち上がり「これどこ捨てるの?」「あ、私がやりますよ」「水いる人ー?」なんていう会話がチラホラと聞こえ始めた。

 

 この後は、小学生たちが俺たちとは別の宿舎に移動するので、俺たちの本日の業務も終了となる。

 明日になればまた由香たちと顔を合わせることはあるのかもしれないが、基本的には仕事の範疇を超えず、少しずつフェードアウトして鶴見留美のこともいつしか忘れられていくのだろう。

 

「あ、あの皆さんちょっといいですか?」

 

 だが、そんな予想に反して、そう言って声を上げたのは。

 我が妹、比企谷小町だった。

 

*

 

*

 

*

 

「──それで、留美ちゃん学校でもずっと一人なんだそうです。ルミちゃん自身も中学に入ったら新しい人と友達になるからいいって諦めちゃってるみたいで……」

 

 小町の口から語られた鶴見留美の物語はどこにでもあるような話だった。

 何がきっかけだったかは分からないが、元々は誰か別のヤツを無視するというゲームが始まり。

 最初はルミルミもそれを楽しんでいたが、次々に標的が変更、気が付けば自分が無視されるようになってしまったのだそうだ。

 それだけなら『俺たちにはどうすることも出来ないな』で終わる話。

 だが、忘れてはいけない、これは奉仕部の合宿。

 

 どこからか話を聞いていた平塚先生により、小町の話した鶴見留美の一件は“依頼”へとランクアップし俺たちはその解決策を考えることになってしまう。

 俺、奉仕部員じゃないんだけどな……。やっぱこの合宿参加したの失敗だったかもしれない。

 

「つーかさ、あの子結構可愛いし、他の可愛い子とつるめば良くない? 試しに話しかけて見るじゃん? 仲良くなるじゃん? 余裕じゃん」

 

 最初にそう提案したのは三浦だった。もちろんそれはあながち間違いではない。

 それが出来る人間にとっては最善手なのだろう。──三浦のような。 

 

「それは優美子だから出来るんだよ」

 

 但し、そうでないものにとっては非常にハードルの高い案だった。

 由比ヶ浜もそのことは理解しているのか、苦笑いを浮かべながら三浦の案を否定する。

 

「一人ずつ話をしてみたらどうかな? 一人ひとりは悪い子達じゃないと思うんだ……」

「同じだよ、その場ではいい顔しても裏でまた始まる。女の子って隼人君が思ってるよりずっと怖いよ」

 

 続く葉山の言葉を否定したのは海老名だ。

 この辺りは流石女子といったところだろうか。その本質をよく理解している。

 同時に現状を打開する策がないことも理解しているのか、海老名は半ば諦めたように笑い、哀しそうに目を伏せた後「趣味に生きればいいんだよ!」と叫び始めた。多分何かの病気なのだろう。可哀想に。ご愁傷さまである。

 

「っていうかさ、由香ちゃんってヒッキーの教え子なんでしょ? 普通に注意してもらうとかは駄目なのかな?」

 

 三つ目の案を挙げたのは由比ヶ浜だ。

 やはりその件に触れられてしまうか、でもなそれは無理な話だった……。

 

「無理だな、残念だが俺はアイツに完全に舐められている、基本的に俺の言う事を聞くようなやつじゃない」

 

 俺がもう少し尊敬される教師であれば、あるいはアイツがもう少し従順な生徒であったなら別の道もあったのかもしれない。

 というより、もう少しアイツが優しい少女であったなら、そもそもルミルミを無視するようなこともなかったのだろう。

 

「センパイ……」

「お兄ちゃん……」

「ヒッキー……」

 

 決め顔の俺の顔に女性陣の哀れみの視線が突き刺さっていく。

 いや、なんだよ、本当のことなんだから仕方ないだろう。

 俺に何が出来るというのだ。

 所詮俺は雇われ教師、コンプライアンスに縛られた労働者なのだ。そこに大した権限もなく、変に頼られても困る。

 

「自信満々に言うセリフじゃないわね……」

「そもそも、由香にだけ話をつけても意味はないだろ」

 

 むしろ注意するぐらいで辞める程度なら、担任にでも相談したほうがマシまである。

 少なくとも合宿中だけじゃなく、毎日目を光らせることが出来るんだからな。

 まあ、その教師の目が曇ってたらなんにもならないんだろうが……。 

 

「じゃあセンパイ……何か良い案ないんですか?」

「俺に聞くなよ、というか、こういう状況は俺よりお前のほうが詳しいんじゃないの?」

「へ? 私?」

 

 それでも尚俺に頼ろうとする一色にそう返すと、一色は一瞬悩んだような仕草をした後、やがて合点がいったかのように顎に手を置いて「なるほど……」と呟いた。

 

 ここにはルミルミのように、孤立した──孤立させられた経験を持つものが複数いる。

 俺、一色。そして恐らく雪ノ下。

 

 今更だが、一色は同性に嫌われるタイプなのだ。

 それは先日の妙な噂を流された件でも証明されている。

 恐らく小学校、中学校でも似たような経験をしていたのだろう。

 それでも、一色は孤立はしていない。何故か?

 

 一色は自分の可愛さを理解し、自覚していたのだ。

 だから同性に嫌われるならいっそのことと、あざとく男子に媚びていくようになった。

 もちろんそれは、同性との関係を更に悪化させる諸刃の剣という側面も持ち合わせていたが、一色はそのスタンスを貫き通すことでカーストの高い男子と仲良くなり、女子連中も表立って攻撃しにくくなるという一つの正解例へと辿り着いたのである。

 

「つまり、あの子に一色さんのマネごとをさせろと?」

 

 雪ノ下もその考えに行き着いたのかそう言って俺に確認を取ってくる。

 しかし、雪ノ下も一色も大事なことを忘れている。

 その案はこの話し合いの中で既に否定されているのだ。

 一色のマネをし『男子(可愛い子)に話しかける』というのは結局のところ三浦の案を取るという結論に他ならない。

 つまりその案に対する答えは──由比ヶ浜の言葉を借りるなら──「それは一色だからできるんだよ」となる。

 

「いや、それは無理だ」

「え?」

 

 だから俺はその雪ノ下の言葉を否定した。

 一応言っておくが別に、ルミルミが可愛くないと言っているわけではない。

 もしルミルミ自身がそれを望むならそういう選択肢も有りだろう。

 だが、一色の方法ではルミルミの望みは叶えられないのだ。

 

 小町は言った。

 ルミルミが『中学に入ったら新しい人と友達になる』と現状を諦めているようだったと。

 しかし、その留美の言葉が現実になることはないだろう。

 現状が続けばルミルミと同じ中学に進学した奴らが、よそからきた連中とつるんで留美を無視するはずだ。

 その事にルミルミは気付いていない。

 

 それでも、そう願ってしまうのは。

 彼女がまだ友達を求めているから。

 或いは彼女が関係の再構築を願っているからに他ならない。

 

 そんなことが出来るわけがないと、きっとどこかで理解しつつも、それを期待している。

 だから、俺のように孤立を受け入れるふりをしつつも、一色のように異性或いは他の誰かに寄り添うことも出来ず、未来に希望を託している。

 

 それは彼女に“友達”が居た経験があるからこその願いなのだろう。

 仲が良かった友達が突然眼の前から消えた。

 それは俺とルミルミの決定的な違いでもある。

 “持たざるモノ”と“持つモノ”。

 いや、“失ったモノ”の違いとでも言うべきか。

 

 彼女は一度味わってしまった果実の味を忘れることが出来ず、もう一度それを手にしたくて諦めきれないでいるのだ。

 だから、彼女は無視をされてもなお友達を求める。

 中学で新しく友達を作ればいい等という幻想を抱く。

 もう一度あの楽しかった日々を取り戻せると信じてしまっているのだ。

 

 或いは、それはもしかしたら未来の俺自身の姿でもあるのかもしれない……。

 

「じゃあどうすればいいんですかー……」

「さあな、俺に聞かれても困る」

「えー、なんですかそれー!」

 

 ふと一色を見ながら浮かんできた妙な考えを振り払い、俺は一人立ち上がると水を飲もうと備え付けの水場の蛇口を捻った。

 背後では小町が「やっぱりごみぃチャンだなぁ……」とかなんとか言っているが、元々俺は奉仕部員ではない。

 そもそも、人づてに聞いただけの俺たちに出来ることなんてたかが知れているのだ。

 もし俺たちに出来ることがあるとすれば……。

 

「あいつらの関係をぶち壊す……」

「へ? センパイ何かいいました……?」

「いや、なんでもない」

 

 俺はそこで考えることをやめ、ああでもないこうでもないという会議を背に、濡れた口元を袖で拭ったのだった。




というわけで思いの外シリアスになった101話いかがでしたでしょうか?

今回の選択肢によるルート分岐結果は以下の通りです

 一・一色・由比ヶ浜組に頼む → ルミルミと共に迷子になり川へ出る
 二・戸塚・戸部組に頼む → ルミルミが人間不信になる
 三・小町・雪ノ下組に頼む → 本編
 四・三浦・海老名組に頼む → ルミルミが変な趣味に目覚める
 五・放っておく → BAD END

今後の展開については皆様に納得していただけるか、まだちょっと不安が残っている部分もあるのですが
物語的にはココはまだまだ通過点なので、あまり過度な期待をせずお待ち頂ければ幸いです

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第102話 ラブコメの神様通過中

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、DM、ここすき、誤字報告ありがとうございます

先週は間に合わず申し訳ありません
その分……というわけではないですが今回ちょっと長くなっておりますので
2週間分ということでひとつ……


 結局、ルミルミの抱える問題に対する結論はでないまま。その場はお開きになり俺たちは今夜の寝床へとやってきた。

 といっても、テントとかではない。

 自前でそんなものを用意しなくとも千葉村には五十棟にも及ぶログハウスが建てられているのだ。

 見渡す限りのログハウスという、まるでログハウス畑のような光景はまさに圧巻の一言。出来ることなら一つお持ち帰りしたいぐらいだ。置く場所ないけど。

 

 ちなみに、当然ながら夜は男女別。

 一緒じゃなくて残念だとかそんなことは一ミリも思っていないし、むしろなんで戸塚が同室なのか理解できないまである。

 いや、本当なんでこんな男だらけのログハウスに戸塚まで一緒に放り込まれてるの?

 色々間違いが起きちゃう可能性とか考えないんですか平塚先生?

 責任問題になりかねませんよ? 大丈夫なんですか? ねぇ、平塚先生?

 

「んじゃ風呂行くべー」

 

 そんな俺の不安を知ってか知らずか、勢いよくそう宣言したのは戸部だった。

 この千葉村は一応温泉でも有名な施設だったりするので、その提案自体はそれほど不思議ではないのだが……改めて考えて欲しい、ここに今いるのは俺、戸部、葉山,、そして戸塚だ。

 え? 本当に?

 本当にこのメンバーでいくの? 風呂に?

 ……いや、でもそうだよな……戸塚は男──なんだもんな?

 考え方によっては、これは俺が戸塚ルートを回避するためのチャンス。

 戸塚が男だという確証が持てれば、最早俺に怖いものなどない。

 もしかしたらという淡い期待を持たなくて済むのだ。

 いや、でも本当にもしかしたらどうしよう……? いやいや……でも……。

 ええい、迷っていても仕方がない、行くぞ……!

 

「そ、そうだな……じゃあ戸塚、行くか?」

「あ、ううん、ゴメン。僕お風呂入る前に日課のトレーニングでちょっと走っておきたいから、八幡達は先に行ってて?」

「お、おう……そうか……」

 

 だが、そんな俺の決死の誘いも虚しく。

 戸塚はそう言うと一人ログハウスの外へと走りに行ってしまった。

 日課……そうか日課か。日課なら仕方ない。

 トレーニングなら汗もかくだろうし、風呂の前に行うのは当然のことだろう。

 そこに嘘はないはずだ。

 決して、『断るのに手慣れているな』とか『一緒に入れない理由があるんじゃないか?』とか考えてはいけない。そう、いけないのだ。

 

「それじゃ、三人で行こうか」

 

 仕方なく、俺は葉山のその言葉に従い、二人の後を追うようにして大浴場へと向かったのだった。

 うん……まぁ……。

 疑惑は深まった。

 

*

 

 そうしていつもより広い風呂を満喫し、戸塚とも合流を果たした後は戸塚とLIKEの交換をしたり、葉山たちとトランプやらウノやらをしてから少しだけ早めの就寝時間を迎えることとなった。

 

 

「それじゃ、電気消すよ」

 

 葉山がそう言って電気を消すと、俺達は布団に入り天井を眺める。

 時刻は二十一時を回ったところ。

 こんな時間に寝るなんて小学生かよとも思うが、やはりというかなんというか一番最初に寝息を立てたのは戸塚だった。

 無防備にも俺の目の前でスゥスゥと寝息を立て、暑さのせいか時折「んぅ……はちまん……」等と妙に色っぽい声を上げながら、首筋から流れる一筋の汗を愛らしいパジャマの胸元へと潜り込ませていくその様子は、まさに小悪魔……いや、淫魔と言ってもいいだろう。

 何これ? もしかして誘ってる? 俺誘われてるの?

正直、全く眠れる気がしないんですけど?

 

 それこそ風呂場で戸塚の疑惑を晴らすことができていれば、もう少し冷静さを取り戻せたのかもしれないが、今となっては全てが後の祭りだ。

 目を閉じ『もう眠ってしまおう』と思えば思うほどに、暗闇の中戸塚の髪から漂ってくるシャンプーの甘い香りが俺の脳を刺激し、疑惑を深めていくのだった。

 

 もう先程から何度生唾を飲み込んだかも分からない。

 このままでは頭がどうにかしてしまいそうだ……。

 戸塚は女みたいにみえるが男、戸塚は女みたいな男、女じゃなくて男、男、男、男、男じゃなくて……あれ?

 

 そのうち俺はどうしようもなくなって、一度眠るのを諦め起き上がることにした。

 少し散歩でもすれば頭も冷え、眠気もやってくるだろうと思ったのだ。

 月明かりを頼りに、戸塚達を起こさぬようゆっくりと起き上がり、戸部と葉山の足を跨いで一人ログハウスの外に出る。

 そこから見えるのは数時間前までは賑やかだったはずの真っ暗なログハウス畑。

 あれだけ騒がしかった小学生たちも今は夢の中なのだろう。

 一部明かりがついているログハウスも数件あるようだが、それは恐らく教師陣かな。

 平塚先生とか飲みすぎたりしてなきゃ良いけど……。

 

 とはいえ、いつまでもここに居て見回りの先生とかにバレたらそれはそれで面倒くさそうなので、俺は逃げるように暗い林の中を一人月明かりに照らされながら歩いて行った。

 都会とは違い、人工の明かりが少ないせいか、星がよく見える。

 千葉にもまだこんな場所が残されてたんだな……ここ群馬だけど。

 

 そんなことを考えながら、どこに向かうでもなく月を眺め歩くこと数分。

 少し開けた場所にやってくると、そこに人の気配を感じ、俺は思わず木の陰へと身を潜めた。

 見回りの教師だろうか? それとも抜けだした小学生?

 前者ならば即座に逃げ出すところだが、後者ならば最悪迷子の可能性もある。一応様子を見ておいたほうがいいだろうと俺は木陰からゆっくりとその人影を盗み見る。

 最初は暗くてよくわからなかったが、どうやら俺よりは少し小柄なようだ。

 少なくとも教師ではないだろう、かといって、小学生ほど小さくもない。

 一体誰だ?

 そう思い、俺はもう一歩だけ足を踏み出し、その人影へと近づいていく。

 その瞬間、俺の足元で『ぱきっ』と小枝が折れる音がし、それを合図にするかのように月明かりに照らされ、今にも消えてしまいそうな神秘的な雰囲気を纏った一人の少女の姿が現れた。

 

「一色……?」

 

 声をかけるつもりはなかったのだが、その少女が一色だと気がついた瞬間、思わず声が出てしまい、しまったと口を塞ぐ。

 

「セン、パイ?」

 

 だが、時すでに遅し。

 俺に気が付いた一色は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたものの、すぐに嬉しそうな笑顔に代わり、まるでブンブンと振る尻尾が見えるのではないかと思うほどに素早く俺の元へと駆け寄って来る。

 そこには先程までの神秘的な少女の面影なんていうものは一切なく、いつもの一色がいるだけだ。

 折角の雰囲気が台無しである。

 まあ、その方が一色らしいといえば一色らしいが。

 

「どしたこんな時間に一人で?」

「雪乃先輩と三浦先輩がケンカ始めちゃったので避難してきました」

 

 俺の問いかけに一色は「えへへ」と悪びれる様子もなく楽しそうにそう答えると、両手の人差し指でばってんを作り、数度交差させる。恐らく『ケンカ』という意味のジェスチャーだろう。雪ノ下と三浦がケンカねぇ……?

 全くアイツラは何してるんだ……。そういうのはせめて旅行の最終日とかにしてくれないと明日から気まずくなるだろうに……。

 

「いや、止めろよ」

「無理ですよ、私後輩ですし? 変に絡まれたくないですもん」

 

 とは言うものの、実際雪ノ下と三浦のケンカなら俺も逃げ出す自信はあるので、この事に関してはこれ以上突っ込まないほうが良いだろう。

 やぶ蛇ということにもなりかねんしな……。

 

「センパイこそこんな時間にどうしたんですか?」

「ちょっと眠れなくて散歩をな」

「じゃあ、今から一緒に夜のお散歩デートですね♪」

 

 そんな俺の考えを察したのか、一色は素早く話題を変え、何が嬉しいのかそう言っていつものように俺の腕に絡みつきその身を寄せてきた。

 いつもと違うのはその髪から漂ってくるシャンプーの香りが強く、風呂上がりを意識させてくるということ。心なしか髪もいつもよりしっとりとして見える。

 それが妙に大人っぽく、色っぽく感じてしまうのは、先程まで戸塚の吐息を間近で感じていたせいだろう。

 

「……あ、あんまひっつくなよ」

「だめでーす♪ もう逃しませーん♪」

「いや、別に逃げないけど……」

「ふふ、夜のお散歩デートですね♪」

 

 俺の言葉など聞く耳を持たず、一色はそう言うとより一層その腕に力を込めてくる。

 まずいな、頭を冷やしに来たはずなのに、心臓の鼓動も早くなって脳が熱を持ち始めたようだ。俺の中に邪念が渦巻き始めている。 

 こんなことなら無理してでも戸塚の横で寝ていたほうがマシだったかもしれない……。

 ああ、布団が恋しい。戸塚が恋しい……。

 

「静かですね……」

「……夜だしなぁ」

「なんだか、私達以外誰もいない世界に来ちゃったみたいですね……」

「……虫はめちゃくちゃいるけどなぁ」

 

 とはいえ、こんな夜中に一人でいる一色を見かけてしまった以上、放って置くなんてことが出来るはずもなく。俺はそのまま一色に引っ張られるままに暗い林道を歩いていった。

 多少の整備こそされているものの、真っ暗な林道、一歩奥へと入ってしまえば迷子は確定だし、野生動物やUMAがでてくる可能性もあるしな。

 まぁ、それは流石にそこまでは考えすぎにしても、虫に刺されたり、転んで怪我をした結果俺がおっさんに怒られるという可能性は高い。

 結局ここでの選択肢は一色に従うしかないのである。デートや散歩というよりは護衛だな。

 どうせ、眠くなるまでは起きてるつもりだったのだし、ここは姫の気が済むまで従者役に徹するとしよう。

 

「もぅ! 折角二人きりなんだからもっと楽しそうにしてくださいよ! ムードも台無しじゃないですか!」

「いや、楽しそうったってなぁ……」

 

 しかし、そうして周囲を警戒しながら歩く俺に、何故か姫はご立腹の様子でブーブーとクレームをつけてきた。

 全くもって意味がわからず理不尽である。 

  

「何だよムードって? 怖い話でもすればいいの? 肝試しみたいな?」

 

 正直、こんな状況で盛り上がりそうな話といえば怖い話ぐらいしか思いつかない。

 そういえば明日は小学生たちの肝試しの手伝いもあるんだったな、この千葉村にそれっぽい逸話でもあれば披露してやれるんだが……残念ながらそういった話はとんと聞かない。

 仕方ない、俺の稲川○二レパートリーの中からとびきりのやつを話してやるとするか……。

 

「そうだな、じゃあここでとっておきのを一つ、あれは……」

「誰もそんな事言ってないじゃないですか……! 肝試しなら明日やるんだし、そういうんじゃなくて今はもっとこう──」

 

 だが、俺がとびきりのエピソードを語ろうとすると、一色が再び文句を言いその後突然ハッと何かを思いついたように言葉を飲み込んだ。

 

「そういえばセンパイ! 知ってました? 明日フォークダンスあるらしいですよ?」

 

 そして興奮気味にぴょんっと俺の前へと回ると、両手を広げながらその場でくるりと半回転して俺の顔を見上げてきた。

 フォークダンスというのは、明日の夜の小学生たちのキャンプファイヤーでのイベントの一つだ。

 どうやら、怖い話の流れは完全になくなってしまったらしい。

 でも、それがなんだというのか。

 フォークダンスはあくまで小学生たちの行事であって、俺達がやるものではない、まあキャンプファイヤーの設営は任されてるけど……、はぁ面倒くさい。

 

「知ってるよ。俺明日の設営班だし」

「懐かしいですよね」

「設営が?」

「フォークダンスが! です!」

「フォークダンスねぇ……」

 

 懐かしいという一色がどんなエピソードを思い出しているのかは分からなかったが、俺がフォークダンスと言われて思い出すのは、小学生の頃同じように林間学校でやってきたときの出来事。

 その時は俺も若く『女子と手を繋いで踊れる』と気持ちを逸らせていたが、いざ本番になってみれば待っていたのは俺だけ拳一つ分ほど女子と距離を取ったエアフォークダンスという哀しい現実だけだったのをよく覚えている。

 でもきっと、一色はそんな俺とは違い、引く手数多だったのだろう。

 多くの男子がこぞって一色の順番を待ち、得意げに手を差し出してくる。

 それがきっと嬉しかったのだと思う。

 フォークダンスと聞いてこんなにはしゃいでいるのがその証拠だ。

 

「──そんな感じだったから、俺は特に懐かしいとも思わん」

 

 だから俺はつい、俺のフォークダンスでのトラウマエピソードを一色に話してしまった。

 別に話す必要なんてなかったはずなのに……。

 一体、俺の話を聞いて一色はどんな顔をするのだろう?

 「うわぁ……」と少し引いて、慰めの言葉を掛けてくるだろうか?

 それとも聞かなかったことにして話を逸らすだろうか?

 

「私としては、そんな見る目のない人にセンパイの手を握られなくて良かったって思いますけどね」

 

 しかし、一色はそんな俺の予想を裏切り、何故か少し嬉しそうに微笑みながらそういって俺の両手を握ってきた。

 ギュッギュと何度も何度も確かめるように俺の手を握ってくる。

 一体何がしたいのだろう?

 そう俺が戸惑っていると、一色はそのまま俺の両の掌を自分の方へと向けると、今度はその指の間にスルスルと自分の指を絡めていく。

 所謂恋人繋ぎというやつだ。

 一本、また一本と一色が指を折り、密着度が増すたびにその手の感覚や温度がダイレクトに俺の元へと伝わってくる。

 

「……ちょっと、何言ってるかわからないですね……」

 

 一色の行動の意味がわからず、俺は思わず目を逸らしながら、そういうと一色は「えへへ」と照れくさそうに一度笑い、フッと片手を離し俺に背を向けた。

 それでももう片方の手は決して離そうとはしてこない。

 

 そうか……そういえば……俺、もう女子の手を握ったんだな……。

 あの日、フォークダンスが始まる前からドギマギして、手汗で引かれないよう何度も何度も短パンの裾で拭いてなお届かなかったその感覚が、今こうしてここにあるのだ。

 ああ、なんだか顔が熱い。それこそ手汗がヤバそうだ。引かれるまでに離さなければ。

 

「わ……わぁ! センパイほら見てくださいよ、星がすごい綺麗」

「あ、ああ、そうだな」

 

 しかし、そうして手を離そうとする俺に、一色は再びギュッと力を込め握り返すとまるで話を逸らすように空を見上げ、指を指した。

 つられて空を見上げる俺の目に写ったのは見事な満月。

 月ってこんなにでかかったっけか? と思わず目を疑いたくなるほど巨大な月がそこには浮かんでいた。

 確か、目に入る光が少ないほど星はよく見えるとかなんとか聞いたことがあるが、ここまできれいな月を見たのは初めてかもしれない。

 いや、でも月ならさっきから見ていたはずなんだけどな……。なんだか妙にキラキラして見えるのはやはりこの環境のせいなのだろうか……?

 

「センパイ、ほらあの月を見て何か言う事あるんじゃないですか?」

「言う事?」

 

 そうして、二人で月を眺めていると、突然一色がニヤニヤと何かを企むような表情で俺にそう問いかけて来た。

 月をみて、何か言う事?

 なんだろう? 弾けて混ざれは見てから言うセリフじゃないしなぁ……。

 

「……名月や?」

「そういうんじゃなくて! 月といえばお決まりのセリフがあるじゃないですか」

「この一歩は人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩である?」

「いつからここが月だと勘違いしてるんですか……! そうじゃなくて! ほら! もっと有名な奴!」

 

 割りと有名なセリフをチョイスしたつもりだが……他に有名なヤツ何かあったかな?

 『月はでているか?』とか『月光蝶である!』とか?

 でも今のトレンドはやはり月より水星な気がする。

 フレッシュトマト味おいしい。

 

「むぅ……絶対分かってますよね?」

 

 何も答えない俺に、とうとう痺れを切らしたのか、一色がジト目で俺を睨んでくる。

 まあ、正直俺だってそうそう鈍感ではない。

 一色が何を言わせたいのかは理解できていた。

 夏目漱石の『月がキレイですね』という有名なアレだ。

 きっとその言葉を言わせて俺を馬鹿にする気でいるのだろう。

 

 でもあれって実は出典不明の都市伝説なんだよな。

 つまり、公式には言ったかどうか分からない情報なのである。

 まぁ「シャミ子が悪いんだよ」みたいなものだな。実は原作では一度も言ってないみたいな。……ちょっと違うか。

 しかし、その事を今ここで説明しても一色はおそらく納得はしてくれないのだろうなぁ。

 さて、どうしたものか……。

 一回言ってコイツが満足するならそれでもいいが……。

 

「つ……」

「……そこに誰かいるの?」

 

 そうして諦め半分で俺が口を開きかけた瞬間、突然背後からそんな声が掛けられ、俺は思わずビクリと体を震わせた。

 恥ずかしい、恐らく今ビクついたのは一色には完全にバレただろう。

 それでも、俺はできるだけ平静を装いゆっくりと振り向いていく。するとそこにはまさに月の化身とも言うべき、かぐや姫を連想させるような真っ黒な髪を揺らした一人の少女。雪ノ下雪乃が立っていた。

 

「雪ノ下?」

「雪乃先輩?」

「一色さん……と、比企谷くん……?」

 

 雪ノ下は驚いたような、そして少し罰が悪そうな顔をして俺たちを見るが、ソレ以上近づいてこようとはせず、それどころか。「ごめんなさい……」と一歩足を引こうとしたので、俺は慌てて声をかける。

 いや、別に慌てる必要なんてなかったのだが。

 夜中に林の中一色と二人で居た。なんて噂を広められたら一色の今後に関わるからな……。

 

「どうした? こんなところで」

 

 俺はできるだけ冷静に、さも何もしてませんでしたよ感を出しながら笑顔を作り、雪ノ下の答えを待つ。

 そんな俺を見た雪ノ下は、一瞬答えに躊躇するものの、少し考えるような仕草をしてからこちらに体を向け、ゆっくりと口を開いた。

 

「……三浦さんと少し口論になって、その……泣かせてしまって……」

 

 その言葉を聞いて、俺は一色と顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。

 なるほど、これは一色が逃げてきたのは正解だったのかもしれない。

 あの三浦が泣いているという様子はあまり想像できないが、当事者の雪ノ下が逃げるぐらいだ、あちらは相当気まずいことになっていることだろう。俺ならそんな現場に残るのはゴメンだ。

 せめてもう少し時間を置いてから戻るのが賢明というものだろう。

 でもそういうことなら……。

 

「そか、ちょうどよかった。んじゃ俺そろそろ戻るから、一色のこと頼むわ」

「え?! ちょ、センパイ!?」

 

 俺はそう言って、スルリと一色の手から自分の手を離すと、雪ノ下と場所を変わるように移動する。そんな俺を一色が慌てて追いかけ手を伸ばしてくるが、俺はその手を雪ノ下の手に握らせそのまま雪ノ下が来た道へと入っていく。

 すると、そこはログハウス畑の見える最初に一色と出会った場所にほど近い場所だった。

 どうやら俺達はログハウス畑の周りをぐるりと一周してきていたらしい。

 これなら、二人が迷子になる可能性も低いだろう。

 

「こんな暗いところにどっちか一人残すわけにもいかないからな、あとは二人で適当に時間つぶしてから戻れ。あ、なんかあったら大声出せよ?」

 

 雪ノ下としても俺より一色のほうが話しやすいだろうし、一色がいれば戻るときも多少気が楽なはずだ。

 それに正味な話、女子二人に挟まれている状況を他の誰かに見られたら洒落にならない予感がしていた。

 だから、俺はそのまま二人の答えを聞かず自分のログハウスの方へと戻っていく。

 

「それじゃ、おやすみ」

「ええ、おやすみなさい比企谷君、ありがとう」

「うー……おやすみなさい」

 

 ふぅ、いい感じに身体も疲れてきた。

 今なら布団に入ればぐっすりと眠れそうだ。

 あまり夜更かしして明日に響いても困るしな。

 ふわぁぁ……。

 

「……ごめんなさい、邪魔をしてしまったわね……」

「本当ですよもう……」

 

 俺は欠伸を噛み殺し、そんな会話を背中で聞きながら戸塚の眠るログハウスへと戻ると今度こそ眠りについたのだった。

 

*

 

**

 

***

 

 二日目の朝はキャンプファイヤーの準備を整え次第自由行動ということで、俺達は早めに仕事をこなし当初の予定通り千葉村から少し離れた川辺へやってきていた。 

 午前中とはいっても、既に気温は30度近くまで上がっており、絶好の川遊び日和といっても過言ではないだろう。

 いや、本当に暑い。これでまだ七月だというのだから恐ろしいところだ、十二月とかどうなっちゃうんだろう。地球温暖化マジやばい。

 

「それじゃ、私達着替えてきますけど……センパイ覗いちゃ駄目ですよ?」

「覗かねえよ……」

 

 一色が人差し指を口元に当てながらそう言って楽しそうに去っていくのを見ながら俺も着替えようと場所を探す。

 この川は千葉村の敷地外にある普通の川なので、脱衣所なんてものが設置されていないのだ。その為、俺達は総出で簡易の脱衣所を作り、そこを女子チームに利用してもらうことにした。ちなみに男子は木陰での着替えとなる。理不尽だ。

 

「ヒ、ヒッキーは覗きなんてしないもんね?」

「まあ、お兄ちゃんにそんな度胸ないよねぇ」

「信用しすぎるのもどうかとは思うのだけれど……」

「っていうか海老名それ学校指定のやつじゃないの?」

「うん、水着なんてそうそう使うものでもないし、新しいの買うのも勿体ないかなって」

「ふふん、君たちに大人の魅力というやつを見せてやろう」

 

 一色に続き女子チームがぞろぞろと並び立って脱衣所へと向かっていくのを横目に、俺は自分の着替えスペースを確保しようと視線を巡らせる。

 

「ヒキオー、コレお願い」

「は? ちょ、うぉ!?」

 

 だが、そんな俺を暇だと思ったのか、三浦が突然何かを思い出したかのように手荷物の中から何かを投げてきた。

 それが何なのか一瞬分からず、慌てて前のめりになりながら受け取ると、そこには膨らんでいない、三日月型に潰されぴっちりと張り付いたビーチボールがあった。

 どうやらコレを膨らませろというお達しらしい。

 

「なんで俺が……空気入れ使……えよ?」

 

 そう文句を言おうとしたのだが、時すでに遅しで三浦達は俺に背を向け楽しげに林の中へと入っていく。

 はぁ……まあ、ボートとか浮き輪じゃないだけマシといえばマシだが。

 これ疲れるんだよなぁ……。

 誰か空気入れ持ってきてないんだろうか?

 

*

 

*

 

*

 

 仕方なく、俺は自身の着替えを手早く済ませ、酸欠になりかけながらビーチボールを膨らませていた。

 ちなみに葉山と戸部ももう既に着替え終え『川上を見てくる』と脱衣所の反対の方へと歩き、戸塚は木陰でブルーシートを敷き、昼食も取れる休憩スペースを作りながら時折俺の方に笑顔を向けてきてくれている。

 戸塚マジ天使。

 ダボダボのトランクスタイプの水着も、その上に羽織っているパーカーもすごく似合っている。川遊びだというのに性別不詳の完全防御態勢だ。 疑惑は深(以下略──

 

 それにしても、ビーチボールを膨らませるのなんて何年ぶりだろうな、いや、よくよく考えれば口で膨らませるのなんて初めてかもしれない。

 今どき空気入れなんてどこでも手に入るもんな。

 なのに今は俺の息で膨らませてる。しかもこれ俺のじゃないんだぜ?

 そもそもこんなところでビーチボールとか何するの?

 ビーチバレーでもするの? ビーチないのに?

 戸塚とだったらビーチバレーも楽しいかもなぁ、ああ、また戸塚が手を振ってくれている、俺も手を振り返さなきゃ……でも酸素が足りない。頭痛くなってきた気がする。あれ? 戸塚はどっちにいるんだっけ……? っていうか俺今何してるんだ? 頭が回らん。

 

「セーンパイ♪」

「ぁ?」

 

 そんな風に酸素の足りない脳みそを働かせながら無理矢理肺から空気を送っていると。

 不意に背後からそんな声をかけられたので、俺は口にビーチボールを咥えたまま背後を振り返った。

 

「じゃーん」

 

 そこにいるのが一色だろうということは「センパイ」という彼女独特の呼び方で理解していたつもりだったが。

 しかし、一色の次の行動に思わず俺は一瞬固まり、口に加えていたビーチボールを落としてしまった。

 

 それもそうだろう。水色のビキニを身に纏った一色が、腰に巻いた少し大きめの青とオレンジのグラデーションが見事なパレオを両手で開いて、その全身を俺に見せつけて来ていたのだ。

 本来パレオによって隠されていたはずの鼠径部が顕になり、俺も思わず目を白黒とさせ、数瞬固まった後慌てて目を逸していく。

 もし、これが漫画なら確実に鼻血を吹き出していた場面だろう。

 

「どうですか?」

「……」

「センパイ?」

「お、おう……」

「なんですか、その反応。ほら、ちゃんと見てくださいよ、ほらほら。お気に召しませんでした? 似合ってないですか?」

 

 慌てて顔を背ける俺だったが、当の一色はまるで恥じらう様子もなく、再び俺の目の前へと移動してくるとパレオを広げユラユラと揺らしてくる。

 しかもそのたびに一色の胸元はふるふると揺れ、見せつけるような太ももにも光と陰が交互に差し込んできて、正直目の毒だ。

 一体どこに視線を向ければいいのか……。

 とにかく一色にその行為をやめさせなければ……このままではただの痴女である。

 

「……いや、似合ってる……」

「ふふ♪ ありがとうございます♪」

 

 だから俺は、一色の望んでいる答えをそのまま口にすることにした。

 いや、似合ってると思ったのは本当だ。

 事実、俺はその姿に一瞬見とれてしまっていた。

 普段制服で隠されている凹凸が顕になり、改めて一色が年頃の娘なのだと認識させられてしまい、俺の中の一色像が僅かに変わっていくのを感じたのだ。

 やっぱり一色って……女の子……なんだよな……。

 いや、当たり前なんだけどさ……。

 本当……キレイだ……。

 俺は嬉しそうに微笑む一色を見ながら足元に落ち、転がっていったビーチボールを追いかけていく。

 

 だが、それがいけなかった。

 一色から目を逸らせないまま、ビーチボールを拾おうとした瞬間。

 ドンッと柔らかい何かが俺にぶつかってきたのだ。

 いや、俺がぶつかったのか。

 

「きゃっ、ヒ、ヒッキーごめんね!? 大丈夫?」

 

 ぶつかったその何かを見た最初の印象は白。

 とにかく真っ白な何かが太陽の光を反射し、俺の目の中へと飛び込んで来る。

 

「い、いやこっちこそ悪い……」

 

 その白い何かの正体は真っ白いビキニを身に着けた白ヶ浜さんだった、というか由比ヶ浜だった。

 白い、本当に白一色で、唯一その腰元に結ばれているピンクのリボンだけがワンポイントとして主張するシンプルなデザインながらその凹凸はものすごくわかりやすく。どういうわけか俺の視線を一点に釘付けにしていく。いや、それ本当にサイズあってるの? 色々零れ落ちそうだけど。本当に大丈夫?

 規約に引っかかったり、BANされたりしない?

 

「セーンーパーイー……?」

「あ、あんまり見られると恥ずかしい……かも」

「す、すまん!!」

 

 流石に視線が露骨すぎたのか、一色に睨まれ俺は理性を総動員し、なんとか視線を逸していく。本当に危ない、もし運転中とかだったら確実に事故ってたぞ全く……。免許持ってないけど。

 

「ど、どうかな……?」

「お、おう……似合ってるんじゃないの?」

「そ、そっか……良かった」

 

 似合っている……似合っているとは思うが、本当にサイズがあっているのか疑問だ。

 店員に騙されたんじゃないだろうか? だってほら、明らかに布の三角形が……。

 とはいえ、改めてそんなことを男の俺が指摘できるはずもなく、今の俺に出来ることと言えばビーチボールを拾うことぐらい……。

 

「貴女達、そのぐらいにしておきなさい、はしたないわよ」

 

 そうして、今度こそ無事ビーチボールを回収すると、次にやってきたのは雪ノ下だった。

 勿論俺は何度も同じ過ちを犯すような男ではない。

 雪ノ下を見るときは、必ず顔を見るように心がけ、ゆっくりと視線の位置に気をつけながら顔を上げていく。これ以上やらかして、セクハラで訴えられたら困るからな……。

 

 しかし、そんな俺の予想に反し雪ノ下は未だその掌に包帯を巻いているのもあってか水着には着替えているらしいものの、下半身をハイビスカス柄の黒いパレオで覆いながらも、その上には一枚のTシャツを着ているというなんとも色気のない姿だった。

 だが、それでも俺は雪ノ下から視線を外すことが出来ず、思わず凝視してしまう。

 というのも、俺はそのTシャツにとても見覚えがあったのだ。

 

「あれ? 雪ノ下? そのTシャツ」

「ああ、これ? 去年の文化祭で安かったから購入したのだけれど……着る機会が無いままタンスの肥やしになってたから持ってきたのよ……これなら汚しても問題はないし、中々良いデザインでしょう?」

 

 そういって自慢気に胸を張って見せてきたのは。去年俺が文化祭のTシャツとして出品した。我が家の“かまくら”を描いたTシャツだった。

 去年の文化祭、確か三枚描かなきゃいけなくて、一枚目をカマクラ、二枚目をクマ、そして三枚目は面倒くさくて文字のTシャツにしたんだったか……。他に題材もなかったしな。

 そしてクマの二枚は俺の眼の前で売れたものの、最後の一枚はいつの間にか行方知れずとなっていて、誰が買ったか分かってなかったのだが……。

 まさか雪ノ下に買われていたとは思っても見なかった。

 なんとなく、俺のセンスが認められたっぽくてちょっと嬉しい。

 

「えー? 雪乃先輩折角一緒に可愛い水着買ったんだから隠しちゃ勿体ないですよ!」

「そ、そうかしら……? 改めて考えると少し派手すぎるかと思って……」

「わかる。いざ見せると思うと恥ずかしいよね……」

「私は別に見せるために着ているつもりはないのだけれど……」

「え!? あ、私も別に誰かに見せようと思って買ったわけじゃないよ!? ほら、なんていうか……そのえっと……あ! ゆきのんって猫好きなんだ?」

「まあ……そうね、犬よりは猫のほうが好みかしら……」

「あー、なんかわかります。雪乃先輩って猫っぽいですもんね」

「それは……喜んで良いのかしら?」

 

 ワイワイと水着談義やら猫談義をする女性陣を横目に、俺は考える。

 ここで俺が『その猫を描いたのは俺だ』と言ったらどうなるのだろうか?

 別に貶されているわけではないので、問題がない気もするが。

 ワザワザ言うのも違う気がする。

 でも、ちょっと言いたい……どうしよう……。

 そんな事を考えていると、フリフリのついた黄色の水着に着替えた小町が俺の脇からひょこっと顔をだした。

 

「あれ? 雪乃さんそれ……お兄ちゃんが描いたやつじゃないですか?」

「え?」

「うん、うちのカー君ですよこれ、ね、お兄ちゃん?」

 

 小町はそう言うと、俺の顔を覗き込み。ドヤ顔をしてくる。

 くそ、余計なことを……。

 

「比企谷君が……描いた……?」

「へ? カマくんなのコレ? でも言われてみれば似てるような……」

「え? これヒッキーが描いたの?」

 

 小町の衝撃発言に、女性陣が「え? え?」とTシャツと俺を交互に見つめてくる。

 なんだか、人知れずドッキリを仕掛けたみたいになってしまったな。

 まあ、引かれているわけではないみたいだし……今更言い逃れするのも違うか……。

 

「ああ、まぁ去年俺が作ったやつだな……その……なんつーか……お買い上げありがとうございます?」

「あ、い、いえ……そう、これ比企谷くんの作品だったのね……その……意外な才能があるのね」

 

 なんだか気まずい空気が流れてしまった。

 なんだこれ、ネットで好きな漫画の話してたら、フォロワーさんが作者だったみたいな。好きな漫画の話をしていたら御本人が降臨したみたいな。いや、そんな大層なものでもないけれど、妙な空気だ。

 雪ノ下も一度褒めてしまった手前、どうしたら良いか分からないといった様子でもじもじとTシャツの裾を伸ばしたり縮めたりしている。

 なんだか少しだけその姿が小動物みたいで可愛いなと思ってしまったのは内緒だ。

 

「は、はいはい! センパイ! 私! 私も去年センパイのTシャツ買いました!」

 

 そうして何故か二人でもじもじとしていると、突然一色が俺達の間に割って入って来る。

 何が気に入らないのか、不機嫌顔だ。 

 

「……知ってるよ、でもお前自分で着ないでおっさんに投げただろ」

「むぅぅ……!」

 

 だが、一色が買ったあのTシャツがおっさんに厄介払いされているのを知っている以上、俺の方から一色に言う言葉はない。

 雪ノ下は気に入って買ったと言い、自ら着用しているわけだからな。

 その二つは比べるべくもない。

 いや、本当、なんだか自分が認められたみたいな気がしてちょっと嬉しい。

 俺の中の雪ノ下株が急上昇だ。

 

 そうか、雪ノ下は猫が好きなのか、あの時カマクラを描いて良かった。

 そういやコレ描いてる時のカマクラ、ちょっと不機嫌そうな顔してるんだよなぁ、もうちょっといい顔で描いてやればよかった──。

 そんな風に久しぶりに再会したカマクラのイラストに自然と視線が吸い込まれていると、やがて雪ノ下が恥ずかしそうに顔を赤らめたのが分かった。

 それもそのはずだ、Tシャツのイラストに視線が行くということは、当然その着用者の胸元に視線が行くということでもあるのだ。

 

「あ、あまり見られると恥ずかしいのだけれど……」

「わ、悪い!」

 

 雪ノ下の言葉で、俺は慌てて一歩足を引き、雪ノ下の胸から視線を逸した。

 いや、胸を見ていたという認識はない。あくまでTシャツのカマクラを見ていたのだが……。

 そんな言い訳が通じるはずもなく、再び、俺と雪ノ下の間に気まずい空気が流れ、一色と由比ヶ浜が俺に向けて冷たい視線を投げつけてくる。

 

「いや、待て誤解だ。信じてもらえないかもしれないが本当にそんなつもりは全くもってなかった。そもそもそんなに起伏もないし、ハンガーとか壁に掛けられていたのかと思ったぐらいで──」

「気のせいかしら? 今ものすごく失礼な事を言われた気がするのだけれど?」

「い、いや、誰も雪ノ下の胸が壁みたいとかそういう事を言ってるわけじゃなくてだな?」

 

 まずい、言い訳を述べれば述べるほど、雪ノ下の体から発せられる怒りのオーラが増えていくのが分かる、何故だ!?

 

「センパイ?」

「ヒッキー?」

「お兄ちゃん……」

 

 なんとか助けを求めようと一色たちを見るが、いつの間にか三人は俺の体を囲うように回り込み、一色が俺の左手。由比ヶ浜が俺の右手を掴むと、小町が俺の背中にピッタリと両手を当ててくる。

 いつもより服の面積が小さい分、肌の感触がダイレクトに伝わってくるが、今はそんな事を考えている場合ではない、これはまずい。

 そう思った瞬間、三人が一斉に走り出した。

 

「「最低!」だよ」です!」

「うわぁ!!」

 

 俺は三人に引っ張られるままに川の中へと連れ込まれ、なんとか転ばないように足を踏ん張っていくが、川の中の石のヌルヌル感とその冷たさから思わず情けない声を上げてしまう。

 

「うひぃ!?」

「あはは、ヒッキー変な声だしてる!」

「センパイ、ほらほら! コッチも行きますよ!」

「ちょ、やめ、冷た!!」

 

 そんな俺を見た三人は川の水を両手で掬いバシャバシャと水をかけ始めた。

 ただ手で掛けているだけとはいえ、三対一なので水の量も馬鹿には出来ない。

 まるでシャワーのように冷たい水が俺の肌に直接あたり、準備運動もしていない体が悲鳴を上げる。

 

「ほらほら、雪乃さんも!」

「え? ええ! そうね」

「ちょ、待て、思ってたより水が冷たい……! タイム、ちょっとタイム! ああああ!?」

 

 俺の願いが聞き入れてもらえるわけもなく、やがて雪ノ下までもがTシャツを脱いで参戦してきた。

 雪ノ下は片手なので多少ハンデがあるとはいえ、これで四対一。

 もうここまでくると水しぶきで視界もままならなくなってくる。くそ、こうなったらもうヤケだ。

 

「おーまーえーらー!」

「「「「きゃー!!」」」」

 

 俺が両手を上げ四人に襲いかかるようにバッシャバッシャと川を進みながらビーチボールを投げると、四人がまるで小さな子供のように楽しそうな声を上げながら逃げ回り、俺に水をかけてくる。

 大分水温にも慣れてきたのか、冷たく底まで見えるほど透明な水が肌に気持ち良い。

 気が付けば俺達はこのゲームのルールも、終わり方も、そもそも何が楽しいのかも分からないまま全員が笑顔でお互い水を掛け、ボールをぶつけ合ったのだった。

 

「ヒキオー、そのボールあーしのなんだけど?」

 

 あ、すんません。お返しします。




というわけで、青春回でした。
今回の水着は
・一色いろは 水着A 続ver.
・由比ヶ浜結衣 水着A 続ver.
・雪ノ下雪乃 水着A 続ver.
でググると出てくるものをイメージしております(その他キャラクターはアニメ準拠)

文字数の割に全くストーリー進まなくて草
ルミルミなんていなかったんや……はい、すみません。
次話こそストーリー進めます。

感想、評価、お気に入り、メッセージ、DM、ここすき、誤字報告etc
なんでもいいのでリアクション頂きますと
モチベも上がりますのでお手すきの時は一言でも二言でも長文でもよろしくお願いいたします。


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第103話 コスプレ会議

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、DM、ここすき、誤字報告etcありがとうございます

前回長かったのも有り、今回ちょっと短めです。


「小町くん。すまないが少しいいかな?」

 

 三浦にボールを返したことで、少しだけダレてしまった俺が一度川辺へと上がろうとずぶ濡れの体を引きずっていると、不意に平塚先生がそう言って小町を呼びつける声が聞こえてきた。

 突然自分の担任でもない教師に呼ばれた小町は「ほへ?」と間抜け顔で一度首を傾げた後、その場に居る全員と視線を交わしてから一人バッシャバッシャと水を掻き分け、川から上がっていくので、俺達も何事が起きたのかと疑問に思い、誰かが何を言うでもなく後を追いかけていく。一応、この場では俺が小町の保護者だからな。

 アイツが何かしでかしたのだとしたら、俺にも知る権利ぐらいはあるだろう。

 頼むから何か面倒事じゃありませんように。

 

 そう願いながら川辺へとたどり着くと、そこにいたのはいつもの白衣ではなく、アラサーと言っても通用しそうな見事なプロポーションで大胆な水着を晒す平塚先生の姿。

 もしここが千葉の海岸であったなら、ワンチャン狙いのチャラ男が列を連ねて声をかけてきたことだろう。実際平塚先生の水着姿にはソレぐらいの破壊力はあった。

 いや、本当に驚いた。何故この人に彼氏がいないのか不思議で仕方がないほどだ。早く誰か貰ってあげればいいのに。

 とはいえ、今は呑気に水着の感想を述べている場面ではない、俺は平塚先生の前に立った小町の背後にスタンドのように立ちながら、後方保護者ヅラで小町の両肩に手を置きその時を待つ。

 

「えっと、何か御用でしょうか? 小町何かやっちゃいましたか?」

 

 すると小町は虫を払うかのように俺の手を振りほどき、まるでなろう系主人公のようなセリフを吐いた。

 その言葉がツボに入ったのか平塚先生は一瞬だけクスリと笑うと「違う違う」と顔の前で手を振って、自らの背後に視線を向けながらゆっくりと自分の立ち位置をずらすように移動していく。

 そこから現れたのは、俺達とは幾分年の離れた少女だった。

  

「あれ? ルミちゃん?」

「ルミルミ?」

 

 少女の正体は鶴見留美。

 目下俺達の悩みのタネとなっている例の少女だ。

 一体何故彼女がここに? 小町もそう思ったのか、兄妹揃って思わず同じ方向に首を傾げていく。

 

「どうして彼女がここに?」

 

 そんな中、一番最初にその疑問を口にしたのは雪ノ下だった。

 気が付けば一色も由比ヶ浜もルミルミを囲むように視線を向けている。

 

「どうやら、我々の──小町くんの後をつけてきていたらしい」

「付いてきたって……こんなところ一人で来て迷子にでもなったら……」

「子ども扱いしないで……ちゃんと地図も持ってるし迷子になんてならないから……」

 

 平塚先生の説明に、俺達がギョッと目を見開くと、怒られるとでも思ったのかルミルミが平塚先生の陰に隠れるように半歩だけ体を横にずらし俺を睨んで来た。

 いや、別に怒るつもりはなかったのだが……事実としてここは子供が一人で来ていいような場所ではないのだ。そもそもここは千葉村の敷地外だからな。

 他の教員とかだってまさかこんなところまで来るとは思っていないだろう。

 っていうか、向こうは大丈夫なのか? 今頃捜索隊とか組まれていない?

 

「君達の心配も分かる。自由行動時間中とはいえ流石に少し距離があるからな……。一応担任には連絡して、昼には私が連れて帰ることになっているので、しばらくの間面倒を見るように」

「さいですか……」

「それじゃ、後よろしく」

「え、ちょっと!?」

 

 そんな俺の心配を察知したのか、平塚先生はそう言ってルミルミの事を俺達に丸投げすると、戸塚の作った休憩スペースへと移動し、まるで海外のリゾート地にでも来ているかのようにくつろぎ始めた。

 残されたのは無言で立ち尽くすルミルミとそれを囲む俺達。

 

「じゃあ折角来たんだし、ルミちゃんも一緒に遊ぼうか?」

 

 そのある意味地獄のような状況で、最初にルミルミに声をかけたのは由比ヶ浜だった。

 腰を落とし、視線の高さを合わせながら優しくそう語りかける姿はまるで保母さんのようですらある。流石俺の友達だ。

 しかし、そんな由比ヶ浜の人懐っこい笑顔を持ってしても、ルミルミは心を開こうとはしなかった。

 フルフルと首を振り、由比ヶ浜から逃げるように小町の後ろへと隠れてしまう。

 小町の後を追ってここまできたという点から考えても、どうやら小町は昨日の一件でかなり懐かれているようだ。

 或いは、昨日会ったばかりのよく知らない中学生、高校生に頼らなければならないほど追い詰められているか……。

 後者の可能性が捨てきれないのがなんともいえないところだな。まるで縋るような瞳で小町を見上げている。

 一方で、小町もそのことを理解しているからか、純粋に懐かれたと喜ぶことが出来ず複雑顔だ。

 

 とはいえ、一緒に遊ぶという誘いにも乗らず、小町の方に近づいていったということは……ここは小町に任せるのが得策か……。

 何か新しい情報が手に入るかもしれない。

 そう考えた俺はとりあえずその場を小町に任せようと、頭をポンと叩く。

 

「なあ小町、少し相手してやったらどうだ」

「え? あ、うん、それはいいんだけど……」

「ルミルミも何か言いたいことがあるんだろ?」

「へ? 言いたいこと?」

「……!?」

 

 俺がそう言うと、ルミルミが驚いたように俺を見上げてくる。

 

「何か、お話したいことあるの?」

 

 その反応を見た由比ヶ浜が続けてそう言うと、ルミルミは少しだけ戸惑ったような表情を浮かべた後、小さくコクリう頷いた。

 どうやら、俺の読み通りだったらしい。

 なんとなくルミルミの態度が昔の、それこそ小町が小学生ぐらいの頃、俺に何かしてほしいことがあるのを我慢している時に似ていた気がしたんだよな。

 まぁ、今じゃ遠慮なくズケズケ言うようになっちゃったけど……あの頃の小町は可愛かったなぁ……。

 

「……あ、あのね小町」

 

 だからあの頃の小町とルミルミを重ねるように、俺達はじっとルミルミの言葉を待った。

 その間10秒か、20秒ぐらいだろうか?

 やがてルミルミは絞り出すように言葉を紡ぎ始める。

 

「うん?」

「小町は、さ……今中学生なんでしょ? 小学校の頃からの友達っている? 中学ってどんな感じ?」

 

 ソレは恐らく、この中で唯一中学生である小町にしか聞けないことだったのだろう。

 やはり彼女なりにこのままの生活が続くかどうかというのが気がかりになっているのだと思う。

 ただ、それを聞く相手として小町を選んだのは唯一の不正解だったかもしれない。

 

「そうだなぁ……うーん、居る……かな。なんだかんだ中学の半分は同じ小学校の子達だし……」

 

 俺が言うのもなんだが、小町は割と要領が良いタイプだ。

 由比ヶ浜のように全方向に気を使うというタイプでもないが、それなりにそつなくこなしているため、ルミルミが求めているような回答は返ってこなかった。

 

「そっか……やっぱりそうなんだ……」

「あ、でもね。高校に入ったら分からないよ? 多分結構バラけるんじゃないかな、お兄ちゃんなんて同じ中学の人がいない高校狙ってたぐらいだし、ね? お兄ちゃん?」

「まぁ、そうだな……小学校からの知り合いなんて一人もいないぞ。大体そんなもんだろ」

「ふーん……」

 

 慌ててフォローをいれる小町だったが、既に手遅れとしか言いようがない。

 ルミルミは落胆の表情を浮かべ、誰が見ても分かるほどに肩を落としていく。

 

「高校か……長いなぁ……飛び級とかできたらいいのに……」

 

 実際、俺は自分を知ってる人間が誰もいない高校として総武を選んだという過去があるが、それは小学生のルミルミにしてみれば気休めにもならない言葉だったのだろう。

 言ってしまえば“あと三年は同じ状況が続くぞ”という死刑宣告にも近く、その事実を知ったルミルミの顔は晴れるどころかますます絶望の色を深めていくばかりだった。

 

「……なんとかしてあげられないんですか?」

 

 そんなルミルミを見て哀れに思ったのか、こっそりと背伸びをし俺に耳打ちをしてきたのは一色だ。

 水に濡れ、冷たい肌をピトリと俺の二の腕に当て、「センパイ……」と耳元に息を吹きかけて来る。

 しかも、今はいつもとは違いお互い水着姿。

 ほとんど裸といってもよい状態でのこの距離感……本当に、コイツは俺のことを男だと思っていないんじゃないだろうか? 少々俺のことを舐めすぎなのでは?

 ここにいるのが俺じゃなかったら勘違いじゃ済まないし、襲われたって文句言えないぞ……。

 

「ねぇ、センパイってば!」

 

 俺の反応の鈍さから、自分の声が聞こえていないと判断したのか、一色が再度声を大きくして耳元で叫んでくるので、俺は出来るだけ視線を動かさず、半歩横にずれてから一色の問いに答えていく。

 

「聞こえてるよ……。なんとかって言われてもなぁ……自分の経験談とか心構えとか話してやればいいんじゃないの?」

「でも、私のやり方じゃ駄目なんですよね?」

「駄目ってことはないが……。ただ、ルミルミにお前のやり方があうかどうかは別問題ってだけだ。最初からソレが出来る性格ならこんな状況にはなってないだろうしな」

 

 本人のやる気の問題もそうだが、誰かに言われたやり方で一時しのぎをしたところで、その後その方法を続けていくことが出来るのかという問題もある。

 だからこそ、この問題は非常に難しいのだ。

 その事を理解したのか。一色は『なるほど』と漸く合点が言ったとでも言いたげにアゴに手を置いたあと、考えるのを放棄したのかトテテっとルミルミの方へと駆け寄っていた。

 

「っていうか雪ノ下は? ……何か良い案ないの?」

「私?」

 

 そうして一色を交えた小町、由比ヶ浜がなんとかルミルミを楽しませようとする一方、さっきから黙って俺達のか会話を聴いていた雪ノ下に俺はそう尋ねる。

 なんとなく、俺ばかり頼られるのはフェアじゃない気がしたのだ。

 そもそも俺、奉仕部じゃないしな。依頼とか言われてもよく分からんし。

 

「奉仕部の部長なんだろ?」

「……正直、難しいわね。相手を黙らせるだけならともかく、そうではないなら──私自身上手く解決できた試しがないから」

「……そっか」

 

 しかし、雪ノ下から返ってきたのはそんな、どこか諦めたような答え。

 ただ、勘違いしてほしくないのだが、俺はそのことで雪ノ下を責めるつもりはなかった。

 実際、いじめ──あえてそう表現するが──に対する絶対的な解決方法というのはこの世に存在しないのだ。

 そんな物があればこの世からぼっちは一人もいなくなっているだろうし。誰も悩んだりはしないだろう。

 ましてや、昨日今日事情を知らされただけの、一介の学生に過ぎない俺達が解決策を提示できると考えるほうがどうかしているのだ。

 結論、平塚先生が悪い。

 だから、雪ノ下がギブアップ宣言をしたところで、まあそうだよな──程度の感想しか浮かばなかったのだが──。 

 

「例えばなのだけれど、共通の敵を作るというのはどうかしら?」

 

 驚いたことに、そんなアイディアを俺に提示してきたのだった。

 雪ノ下はどうやら諦めたわけではなかったらしい、そのことに俺は思わず「ほぅ」と息を漏らす。

 

「共通の敵?」

「ええ、彼女たちが自然と共闘してしまうような共通の敵を設定することが出来れば、鶴見さん一人を無視している場合じゃ無くなるのではないかしら?」

 

 なるほど、それは正直手としては悪くない。

 共通の敵の登場で、ライバル同士が手を取り合うというのは王道の展開の一つでもある。むしろ俺好みのシチュエーションだ。 

 ただ、一つ問題があるとすれば……。

 

「具体的には?」

 

 そう、問題があるとすればその具体性と実現性。

 現在は林間学校の二日目、午前中。

 明日になれば林間学校も終わり、俺達も千葉へ帰ることになっているということを踏まえると、残り時間はおよそ二十四時間。もし動くとすれば今日しかないという状況だ。

 これだけの縛りプレイの中でどれほどの敵を作り出し、どう協力させるのかという問題だ。

 加えて現在のルミルミの状況は五人グループ中の四対一。

 四人では対抗できず、ルミルミ一人が協力することで対抗可能という状況を作るのは非常に難しいと言わざるをえないだろう。

 

「それは……例えば……比企谷くんが彼女たちを襲う、振りをする──というのは?」

 

 実際雪ノ下もその作戦の危うさには気づいているらしく、続く言葉はそれまでより一段トーンが下がっていた。

 少し申し訳無さそうに俺を見るその視線もどこか自信なさげだ。

 

「却下だ却下。俺が社会的に死ぬじゃねぇか」

 

 当然、俺としてもそんな危ない橋は渡るつもりはないのでその案を却下すると、雪ノ下は「そうよね……流石にこんなことは頼めないわよね」と肩を落とし、あきらめムードを漂わせていく。

 

 だが、そのアイディアを聞けたことは俺にとっては非常に大きかった。

 少しだけ俺の中で雪ノ下という少女が理解できたような気がしたのだ。

 というのも、雪ノ下のアイディアが俺が考えた案に非常に近いものだった。

 俺が当初考えていたのは、彼女たちの関係性の破壊。

 あいつらの関係に外部からストレスを与えることで、その関係性を壊してしまおうというものだったのだが。

 雪ノ下が考えたのは同じ手法を持ってしても、その真逆の結果を生み出すもの。

 性善説と性悪説──と言うと少し大げさだが。

 そこには大きな隔たりがあり、俺と雪ノ下の違いが明確にでていた。

 

 つまり、雪ノ下は彼女たちが団結し、脅威に立ち向かうことを前提とし、俺は誰も協力せず彼女たちの関係が壊れることを前提に考えたことの違いである。

 まあ、どちらに転んでも損はないという意味ではやってみる価値はあるのかもしれないが、結果によって俺のその後が決まるというのは非常に問題だ。

 だってよく考えてみて欲しい。

 もし俺の案──関係性を破壊する事ができた場合、それぞれが孤立するのでわざわざそのことを親や教師に告げようとは思わないだろうが。

 雪ノ下の案の場合、全員が協力した結果、脅威から開放されたアイツラが教師や然るべき機関に俺を通報する可能性が非常に高いのだ。

 そんなリスクは犯せないし、犯したくはない。

 

「頼むから、俺に風評被害が起こらない方法で頼む」

「あら、もともと女たらしな貴方なら、それほど風評被害にはならないと思ったのだけれど?」

「なにそれ? 女たらしとか……人生で初めて言われたんですけど?」

「自覚がないっていうのが一番厄介なのよね……」

 

 一体コイツの中の俺のイメージはどうなっているのだろう?

 もしかしたら一色が何か余計なことを吹き込んでいるのかもしれないが……まぁそれはそれとして……そういうやり方が有りなのであれば、もう少し違うアプローチもできるのではないだろうか?

 

「まぁ、貴方が嫌だというなら無理にとは言わないわ……別の方法を考えましょう……」

「いや、待て。そういうのも有りならちょっと良い案を思いついたかもしれない」

「良い案?」

 

 首を傾げる雪ノ下の前で、俺は考え込む。

 もし、雪ノ下のように考えるのも有りなら、もう少しだけ確率を上げ作戦が立てられるかもしれない。

 それにさっきのルミルミの言葉──ふむ……ここは一つ試してみるか?

 

「ちょっと、比企谷君?」

「なぁルミルミ、いくつか質問があるんだが……よかったら答えてくれないか?」

「……?」

 

 そう考えた俺は、自分を呼び止める雪ノ下を無視して、小町達に囲まれているルミルミの方へと近づくと、腰を落としそう尋ねた。

 

***

 

***

 

***

 

「悪い、遅れた」

「遅いですよセンパイ! どこ行ってたんですか?」

「ああ、ちょっとな。ってなんだその格好」

「へへ、どうです? 似合いますか?」

 

 それから、俺達は千葉村に戻り昼食を済ませた後、肝試しの準備のためコスプレ衣装やら小道具がしまわれている倉庫へと集まっていた。

 諸事情があり、俺は少し遅れての合流となったのだが、いざ到着してみればそこは既にお化け屋敷──いや、パーティー会場。

 雪ノ下は白い浴衣を着た雪女に、由比ヶ浜は角の生えた良く分からんやたら胸元を強調したデザインのレースクイーンのような衣装に、小町はもこもこの茶色い衣装をみにまとい狼男──ならぬ狼女、戸塚は三角帽を被った魔法使い、海老名は魔法少女っぽい巫女に身を包み、それぞれ楽しそうにワイワイと騒いでいた。

 因みに戸部、葉山、三浦はまだ着替えていないのか、それとも役割が違うのか私服のママである。

 そして最後に残された一色はといえば──チャイナ?

 

「センパイってこういうの好きかなー? って思ったんですけどどうですか?」

「いや……好きも何も……っていうかなんでチャイナ?」

「何でって……そこにあったから?」

 

 一色は何故か胸元が大きく開いている、ミニスカチャイナ姿で俺の前に飛び出してきていた。

 いや、本当誰だよこんな衣装持ち込んだの、絶対おっさんだろ。

 最早肝試しというより完全にハロウィンだ。

 ああ、でも別にこの部屋の衣装は始めから肝試し用として集められてるわけじゃないのか……?

 それこそ本当にハロウィンで何かイベントをやった残りなのかもしれない。

 でもそれにしたって、今は肝試しなんだから着るにしてももっと他にあるだろ……ジャックオーランタンとかさ……。

 

「ほらほら、センパイどうですか? 可愛いですか?」

 

 俺が呆れていると一色は前かがみになりながら俺にその衣装を見せつけてくる。

 なんとなく既視感。

 今日午前中にも同じようなことを聞かれたはずなんだがな、まさか同じ日に二度同じ事を聞かれるとは思わなかった。

 今回はさっきより露出度は格段に低いはずなのに、大きく開いた胸元が俺の視線を釘付けにしていく。

 視線を下げないようにするだけで一苦労だ。くそぅ、本能が憎い。

 

「ま、まぁ似合ってるんじゃないの?」

「可愛いなら可愛いって言ってくださいよー」

「あー、カワイイカワイイ」

 

 実際可愛いから困る。

 でもそのスカートどう考えてもおかしいだろ、ミニってレベルじゃないし。今朝の水着といい、なんなの? 誘ってるの? だとしたら大成功だよ。ぶっちゃけ目が離せないわ。

 旅行に来て開放的な気分にでもなっているのかなんなのか知らんが、色々心配になるし、心臓に悪いから本当にやめて欲しい。お前に何かあったら後で怒られるの俺なんだからな……。

 

「あれ? センパイもしかして照れてます?」

「は、はぁ!? 照れてないが!? はぁ!? ただ、その、なんだ……肝試しでチャイナとか意味不明すぎると思っただけですけど!?」

「そうですか? こういう妖怪っていませんでしたっけ?」

 

 俺が慌ててそう言うと一色はピョンっとその場で謎のジャンプをした。

 恐らくキョンシー的なことを言いたかったのだろうが、俺の記憶ではそんな派手なチャイナ服を着たキョンシーはいない。いや、まぁキョンシー自体見たことはないんだが……ああ、ほら、そんな跳ねたらミニスカートがヒラヒラして目の毒だから、飛ぶのやめなさい!

 最早キョンシーっていうか小悪魔だな。

 男の視線を釘付けにするサキュバスだ。

 おい何鼻の下伸ばしてるんだ戸部! こっち見てニヤニヤするな!

 全く……油断も隙もあったものじゃない。

 

「……とりあえず、お前はその格好で外出るの禁止な……」

「ええー!? なんでですか!?」

 

 なんか色々見えてやばそうだからだよ……。

 とはいえ、本人に直接そんな事を言えるはずもなく、それ以上この話を広げたくなかった俺は最後にそう言って、文句を言う一色を無視し部屋の奥へと足を踏み入れていった。

 逃げたわけではない、今は一色と漫才をしている場合ではないのだ。

 断じて逃げたわけじゃないんだからね!

 

「ほらほらお兄ちゃん見て、がおー!」

「じゃじゃーん! ヒッキー似合ってる?」

「あー、ニアッテルニアッテル」

 

 そうして俺は、俺の前に現れた小町と由比ヶ浜を適当にあしらい、ズンズンと部屋の奥へと入っていく。

 いや、よくよく考えれば別に奥に行く必要は全くもってなかったのだが、目的の人物がそこにいたのだから仕方がないのだ。

 

「えー、なにそれ! いろはちゃんのときとずいぶん対応違くない?」

「そーだそーだー! 贔屓反対!!」

 

 ええいウルサイ、俺は早いところ例の作戦概要についての話し合いを始めなければいけないのだから、邪魔をするな。

 贔屓とかそういうのでは断じてない。

 俺はブーブーと文句を言う二人の横を抜けると、部屋の奥で一人窓の外を見ていた雪ノ下の下へと駆け寄っていく。

 

「……必要なものは揃ったのかしら?」

「ああ、とりあえずな」

 

 既に作戦の概要を伝えてある雪ノ下は俺の言葉を聞くと「……そうね」と一言だけ言うと、スゥっと息を吸い、パンパンと手を叩いた。

 それは好き勝手に会話を続けている全員の注目を集めさせるための合図。

 その雪ノ下の目的は達成され、皆が何事かとこちらに一斉に視線を向けて来る。

 なんだか、発表会のようで少しだけ緊張するな……。ふぅ……。

 

「少しいいかしら? 例の鶴見さんの件について話しておきたいことがあるのだけれど……」

「何? 何か進展あったん?」

「進展ってほどじゃないんだけどな、アイツの現状を打開するために一つ試してみたいと思っていることがある」

「試したいこと?」

「センパイ、やっぱり何か思いついたんですか?」

 

 俺の発言に目をキラキラと輝かせてくる一色を横目に、俺は言葉を続けていく。

 

「ああ、ただ俺一人じゃどうにもならないんでな、一応皆の意見も聞かせてもらいたい」

「元々協力はするつもりだけれど……具体的に何をするつもりなんだ?」

 

 まあ、当然そこが気になるところだろう。

 葉山の言葉を聞いた皆が一斉に俺の方へと視線を向けるので、俺は一度隣りにいる雪ノ下の方へと目配せをし、コクリと頷いたのを確認してから口を開いたのだった。




今回のいろはさんの衣装は
「一色いろは チャイナ」で検索すると出てくる
公式発のものをモデルとしています。
全くけしからん。

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なんでもお待ちしております!


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第104話 家庭教師とその生徒

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告ありがとうございます。

今日はエイプリルフールということでここで嘘を一つ……。

「今月は古戦場さぼってでも毎週ちゃんと更新します」



「──だから、そのためにあのグループをひとまず二つに分けて欲しい」

 

 俺が作戦概要を説明すると、葉山達が「ふむ」と自らのアゴに手をおいて考え込むような仕草をし、一瞬だけ部屋の中に静寂が生まれた。

 あくまで俺主体の作戦というのもあり、リスクは最小限のつもりだが、かといって俺一人で実行できるわけでもないので反対意見があがればこの話はここで終わりだ。

 

 ただ、それでも反対されることはないだろうという確信のようなものはあった。

 というのも、今回事前に話を通しておいた雪ノ下が何か補足をするわけでもなく、黙ってその状況を見守っていたからだ。

 奉仕部の部長たるコイツは、いわばこの場の最高責任者。

 その雪ノ下が反対していないのだから、代替案もなく作戦を中止にするとは思えなかった。

 だから、俺も大船に乗ったつもりで黙って皆の反応を待つ。

 

「でも、グループを二つに分けるって……どうすればいいんだ?」

 

 そんな中、最初に口を開いたのは葉山だった。

 まあ、正直そこが最初で最大の関門なのは俺自身理解しているので、当然の疑問だろう。

 

「そこは……そうだな、肝試しのチェックポイントが分かれているとでも言ってごまかそうと思ってる。葉山に付いていくグループと、俺に付いてくるグループとかで分ければなんとかなるだろ」

 

 その分け方であれば、大半は葉山の方に付いていくはずだ。

 予想ではルミルミ以外のメンバーは全員葉山の方へと流れていくだろう。

 まあ、それはそれで問題なんだけど……。

 

「意外とアバウトだな」

「多少アバウトなのは認めるが……俺と葉山じゃどうやったって葉山の方に流れるのは目に見えてるだろ。最後の詰めは……まぁ、俺が何とかするさ」

 

 俺がそういうと、葉山は「そうとは限らないと思うけど……」とチラリと一色の方へと視線を向け、一色が不思議そうに首を傾げる。

 まあ、こういった状況で俺に任せることに不安が残るというのは理解できなくもないが、ここは信じてもらうしかない。

 実際、この役は俺にしかできないわけだからな……。

 

「……まあ、その辺りは臨機応変にお願いするわ。ここで幾ら話し合ったところで彼女たちがこちらの予定通りに動いてくれるとは限らないのだから、鶴見さん、いえ──比企谷君の方に二人が来るよう努力してちょうだい」

「了解。まあ俺の方からはまともなアイディアは出せそうにないし、やるだけやってみよう」

 

 まだ何か言いたそうな葉山だったが、雪ノ下の言葉で納得したのか一瞬だけ考えるように目を閉じた後、パンッと両膝を叩くようにして勢いよくパイプ椅子から立ち上がった。

 

「じゃあ他に反対意見がないなら、このまま決行……ということでいいのかしら? 」

「そうだな、あんまり時間もなさそうだし、準備に取り掛かろうか。ルートの確保もしておかないといけなさそうだしな」

「うし、じゃイッチョやりますかぁ!」

「「「おおー!」」」

 

 そうして、最後に戸部が音頭を取ると、全員が一斉に声を上げ動き出す。

 まあ、実際動くのは俺と葉山ぐらいなんだけどな。

 ワラワラと出口へと群がり、夕日の差し込むその部屋を空にしていく。

 そんな中、唯一一色だけが最後まで部屋に残り、少し不安そうに俺の方へと近寄って来た。

 一体何事かと俺が首を傾げると、一色は不安げに俺の耳元に囁きかけてくる。

 

「センパイ……あの、さっきの作戦って本当に大丈夫なんですか?」

「さぁな。まあ、でもどう転んでもそこまで酷いことにはならんだろ……多分」

 

 しらんけど。

 

*

 

*

 

*

 

「よーし……じゃぁ、次に出発するのは~……この班だぁ!!!」

 

 準備と夕食を済ませ、すっかり日が落ちた頃になると漸く本日のメインイベント肝試しが始まった。

 肝試しといってもルールは簡単。

 暗い、支給された懐中電灯がなければ一歩先も見えないような林の中を進み、チェックポイントにある御札を拾ってゴールまで歩いていく、ただそれだけ。

 まぁ、一言で言ってしまえば、昨日のオリエンテーリングの夜版である。

 一応学校主催のイベントなので、事前に驚かし役にも『あまり怖がらせすぎないで下さい』と注意があったほどの安全設計でコンプライアンスも完璧だ。

 

 怖がらせてはいけないなら、もういっそ肝試しなんてやめてしまえばいいのに……。

 とはいえ、大真面目にイベントを企画してる教師陣にそれを伝えるなんてことができるはずもなく、今俺達はこうして入り口で小学生たちを誘導する小町の声を聞きながら、茂みの中で作戦決行の時を待っているのだった。

 

 そうこうしている間にも一組、また一組と小学生のグループが俺達の前を通過し、何事もなく肝試しを終えていく。

 

「うう……また笑われた……」

 

 そんな中、肩を落としながら俺達の所に戻ってきたのは由比ヶ浜だ。

 由比ヶ浜はレースクイーンよろしくやたら胸元を強調した衣装に申し訳程度の悪魔っぽい角をつけ、茂みから「ワータベチャウゾー!」と出てくる役なので、先程からずっと小学生たちに笑われ続けているのである。

 一応それが俺達なりの『怖がらせすぎない』ための配慮であるので、仕方ないといえば仕方ないのだが。

 流石にそろそろ心が折れたのだろう。

 その顔は今にも泣きそうなほどに落ち込んでしまっている。

 

「おつかれさん」

「もーやだー! 次ヒッキー変わってよ……」

「駄目よ、今比企谷くんにここを離れてもらっては困るもの」

「それはそうかもだけどー……うー……じゃあいろはちゃん変わって!」

「嫌ですよ、最初の脅かし役は結衣先輩って、じゃんけんで決めたじゃないですか」

 

 一色の言う通り、それぞれの担当は事前に決めてあった。

 俺はいつターゲットが来ても良いように、ここ──中央付近の茂み──で待機として。

 雪ノ下は俺の近くの茂みで立ち尽くす驚かし役。

 一色は雪ノ下を見て驚いた生徒たちが道に迷って逃げ出さないよう誘導する看板持ち係だ。

 

「うぅ……なんで私ばっかり……」

「しっ! 静かに……! 来たみたいよ」

 

 雪ノ下がそう言った瞬間、辺りに緊張が走る。

 小町から『ターゲットがスタートした』という合図が来たのだ。

 その場に居る全員がコクリと頷いたのを確認すると、俺は茂みからゆっくりと立ち上がった。ここからはスピードも重要だ、あまり時間を掛けすぎて教師陣に捜索依頼を出される前にことを終わらせなければいけない。

 

「センパイ! 頑張ってくださいね!」

「ああ、んじゃ行ってくる」

 

 一色の激励を受けた俺は、最後に一色の頭に軽くポンと手を置いてから少し開けた場所へと走りだした。

 なお、一色は俺の言いつけどおり、今はチャイナ服ではなくナース服に着替えていた。

 何故肝試しにナースなんだとは思ったが……もはやツッコむ気力も失せたので割愛することにしよう。アレよりはマシだった。理由はただそれだけで特に俺の趣味とかではない。

 

*

 

「やぁ、比企谷」

「悪いな、待たせたか?」

「いや、今来たところだよ」

 

 まるでデートのような会話をしてしまったことに、少しだけ嫌悪感を感じながら、俺が葉山の待つ肝試しのスタート地点からほど近い少し開けた場所へやってくると、時をおかずして、林の向こう側から懐中電灯の光が見えた。

 

「あれ? 昨日のお兄さんたちだ」

「超普通の格好してるー」

「ださー、特に八幡!」

「ってかこの肝試し全然怖くないし」

 

 同時にルミルミ達──といってもルミルミ以外の四人だが──は俺達の顔を見るなりうざったいほど上機嫌に罵倒の言葉を並べてくる。

 恐らく、茂みの向こうではまた由比ヶ浜が肩を落としていることだろう。

 その事に少しだけ苛立ちを覚えるが、ここはひとまず大人の対応を──。

 

「ぁぁん!?」

「はは、手厳しいな。でもここからは少し趣向が変わるから楽しんでもらえると思うよ?」

「えー? 本当にー?」

 

 おっと危ない危ない、大人の対応大人の対応。

 危うくケンカを売りそうになる俺を葉山が静止し、当初の予定通り作戦を切り出した。

 ここに葉山を呼んだのはやはり正解だったかもしれない、我ながらナイスな采配だ。

  

「ああ、ここからは君たちには二手に分かれてもらうことになっているんだ、片方のチームは俺と一緒に、もう片方のチームは比企谷と一緒に課題をクリアしてもらう」

「えー? なにそれ面倒くさーい」

 

 葉山の説明を聞いてもなお、由香達は調子にのった言葉を吐いてきた。

 そう、まず第一の問題はこいつらは徒党を組むと強気になり調子に乗るということだ。

 そのアドバンテージを奪うためにも、まずはコイツラの数を減らさないといけない。

 だからこここそが今回の作戦の一番の肝となる部分でもあるのだが──。

 さて、どういう組分けになるのか……。

 

「鶴見あんた残りなよ」

 

 当然、このメンバーで分けるなら最初に外されるのはルミルミだろう。

 由香の言葉にルミルミは一瞬だけ目を見開くが、ソレ以上抵抗の素振りを見せずグループから外れていく。

 よし、ここまでは計算通り……。

 

「それじゃ、もう一人選んでくれるかな?」 

「えー? 一人じゃ駄目なんですか?」

「ここからは半々に分かれるっていうルールだからね。どうしてもっていうならこちらから選ばせてもらうことになるけど……もしかして……怖いのかな?」

 

 葉山が優しく諭すように、それでいて少し鋭い目つきでそう言うと、残った四人はお互いに目配せをして、牽制をしはじめた。

 

「別に怖くないけど……ねぇ?」

「それならヨッコが残る?」

「や、やだよ、森ちゃん残りなよ……」

 

 だが、そこからも俺の予想通りの展開が続いていく。

 全員が葉山と共に行く道を希望しているのだろう。あるいはルミルミと残る事に不安を感じているのかもしれないが、なんにせよ四人が揉め始めたのだ。

 やいやいと、冗談っぽく、でも絶対に残りたくはないという意思を見せつけながらお互いにその役目を押し付けていく。

 とはいえ、このままコイツらに任せていたら埒が明かないし、俺の望む展開にならない可能性もある。

 だから俺はそのタイミングで口を挟むことにした。

 

「……はぁ、面倒だな、由香もうお前残れ」

「はぁ!? なんでアタシが!」

 

 俺の言葉に、由香はまるで毛虫でも見るかのような目で俺を睨みつけてくる。

 

「こんなところで時間かけてられないからだよ、なんだ? 友達が戻ってくるまでの間待つこともできないのか? やっぱ怖いの?」

「別に怖くないし! ただ八幡と一緒っていうのが嫌なの!」

 

 そこまで直接言われると流石の俺も少し傷つくんだよなぁ……。

 語気を荒らげる由香に俺も思わずたじろぎそうになる。

 しかし、ここで引く訳にもいかないので、俺は再度由香に歩み寄った。

 

「そう言わず頼むよ……このメンツで俺の言う事聞いてくれそうなのお前しかいないだろ? この際俺の顔を立てると思って……」

「ほ、ほら、お兄さんもこう言ってるし、由香ってそのお兄さんと知り合いなんでしょ? じゃあ由香が残るのがいいんじゃない?」

「うん、そうだよ、由香残りなよ!」

 

 やったか?

 俺の言葉に他の連中が同調し始め「え、いや……でも……」と戸惑う由香をグループから外そうという流れが出来た。

 少し可哀想な気もするが、これで当初の目的『“由香”とルミルミを残す』が達成できそうだ。

 これはもう、この流れに乗ってなし崩し的に由香をこちらのグループに引きこんでしまうのが得策だろう。

 

「よし、決定だ──」

「……私、残ろうかな……」

「え!? いいの!」

 

 だが、そうして勝利を確信し、最後の勝どきをあげようとした瞬間、予想外の事が起きた。

 由香のグループの一人、仁美が自ら残留を志願し始めたのだ。

 その突然の申し出に、由香が喜色を浮かべ、葉山が動揺の色を浮かべたのが暗闇の中でさえ伝わってくる。かくいう俺も思わず表情を固めてしまった。

 一体何故……このタイミングでこいつが?

 

「うん、っていうか、私は別にどっちでも良いと思ってたんだよね……。残ってればそっちのお兄さん……八幡さん? と二人きりってことでしょ?」

 

 どういう意図があるのかは分からないが、仁美はそう言うとチラチラと俺の方へと視線を向けて来る。

 そもそもルミルミがいるので仁美の言う“二人きり”にはなりえないのだが……なんだこれ? どういうことだってばよ。こいつ俺に何かしようとしているのか? 怖い。助けて葉やマン!

 俺は思わず葉山と視線を交わすが、葉山は「だから言っただろう?」とでも言いたげに苦笑いを浮かべ俺をみてくるばかり。

 くそ、どこで計算をミスった? 葉山はこうなることを予期していたのか?

 まずい、本当にまずい。ここから挽回する手段が思いつかない。このままでは俺の作戦が実行できない。

 考えろ、考えるんだ、比企谷八幡。なんとか由香をこの場に残す方法を──。

 

 混乱する俺の前で、誰よりも早く動いたのは葉山だった。

 

「え……残念だな……仁美ちゃんは俺と来てくれると思ってたんだけどな……」

 

 葉山は俺と仁美の間に割って入るように立ちふさがると、視線の高さを仁美と合わせるように腰を曲げ、至近距離でそう優しく語りかけていったのだ。

 一瞬、その意図が分からず俺は思わずポカンと口を開けてしまう。

 

「え?! そ、それってどういう意味ですか?」

 

 それが仁美を俺から遠ざける策なのだと気がついたときには、もうすでに仁美は葉山の術中に陥っていた。しかも効果は絶大だ。

 仁美はまるで漫画のように「ボッ」という音が聞こえてきそうなほどに耳まで顔を赤くさせ、まるでお祈りをするようなポーズで胸の前で手を合わせ始めたのだ。

 その情景は突如舞い降りたアイドルに跪く熱狂的なファン。いや、憧れの王子様を目の前にしたプリンセスといったところだろうか?

 俺では逆立ちしても真似できないような策を、葉山はやってのけたのである。

 さすが葉山、そこにシビれる! あこがれるゥ!

 

「そのままの意味だよ。俺、この肝試し仁美ちゃんと一緒に行けるのを楽しみにしてたんだ……」

「えー、なにそれ仁美! モテモテじゃん!」

「え、えー……なにそれ、どうしよっかなぁ……」

 

 至近距離で繰り出される葉山スマイルに、女子たちはテンションを上げ、ルミルミでさえ一体この後どうなるのかとその様子を固唾を呑んで見守っている中、ただ一人置いてけぼりの由香だけがあんぐりと口を開きその様子を眺めている。

 

「ま、まぁ? お兄さんが『どうしても』っていうなら? 一緒に行ってあげなくもないけど?」

 

 やがて、仁美は気分を良くしたのか、そう言って恥ずかしそうに葉山から視線を逸す。

 だが、当然そこで最後の詰めを誤るような葉山ではない。

 葉山は「どうしてもっ」と両手を前で合わせ、拝み倒すようにウィンクをし、仁美の最後の理性を奪っていく。

 全く以て恐ろしいイケメンである。

 

「し、仕方ないなぁ。ごめんね、由香。そういうことだから、やっぱりここは由香が残るってことでよろしく! そっちも頑張ってね~」

「え!? あ、ちょっと仁美!? 森ちゃん!? ヨッコ!? 待ってよ! ねぇってば! ちょ、八幡離しなさいよ……!」

 

 そうして、葉山が三人を連れて暗闇の中へと歩いていくと、俺はその後を追いかけようとする由香の手首を掴み、少々強引にだが当初の目的を果たしたのだった。

 ふと振り返れば、葉山も同様に俺の方へと振り返り『貸しだからな』とでも言わんばかりに微笑みかけてきている。

 全く気障なやつだ。

 

 とはいえ、実際葉山がいなかったら作戦がぱぁになっていたところなのでこれは完全に借りということになるのだろう。

 仁美が何故あんなことを言い出したのかは分からないが、子供の気まぐれというのは恐ろしいものである。

 

 何にしてもこれでようやく第一段階が完了。

 アイツはアイツの仕事をした、なら俺は俺の仕事をしよう。

 

「行っちまったな。まあ、何も取って食おうってんじゃない。チェックポイントを通過するまでの辛抱だ。こっちはこっちで頑張ろうな」

 

 俺は気を取り直すようにそう言って置いていかれた二人に語りかける。

 そこにいるのは当初の目的通り、由香とルミルミの二人。

 二人はお互い微妙な距離感で佇みながら、片方は困ったように右手で左の肘を押さえ、もう片方はチッと舌打ちをし、俺を睨みつけてきていた。

 どっちがどっちかはあえて言わないことにしよう……。

 

「ああもう……分かったわよ……分かったからさっさと終わらせてよこんな肝試し……! 本当、最悪……」

「まあ、そう言うな。もしかしたら向こうよりコッチに残ってよかったと思うかもしれないぞ?」

「はぁ? それってどういうこと?」

 

 俺はブツブツと文句を言う由香を宥めながら、二人に「ついてこい」と合図を出し、ゆっくりと林の中へと入っていく。それは本来の肝試しの順路からは外れたルート。

 もし、この現場を他の教師にでも見られたらかなりやばい状況だ。

 だからこそ急がなければならない。

 

 俺達は無言のまま、ざっざっと足音を鳴らしながら林の奥へと入っていく。

 そして、ほどなくしてチェックポイントへとやってきた。

 そこは木々の間に二つの小さな机とライトが置かれている。ちょっとした休憩スペースのような場所。

 夜なのでライトに物凄い量の虫が群がっており、由香達が「ひっ」と小さく悲鳴を上げたのが聞こえたが、俺にはどうすることもできないのでここは一つ我慢してもらうとしよう。

 

「コッチのチェックポイントは……これだ」

「何コレ? 机? 何するの?」

 

 林の中にぽつんと置かれる机という妙な状況に、由香はもとよりルミルミも不安げに首を傾げ俺を見上げてくる。

 

「さて、それじゃお前たちにはこで簡単なテストを受けてもらう」

「は? テスト? 聞いてないんですけど?」

「今初めて説明してるところなんだから当たり前だろ……いいからちゃんと聞け」

 

 そういいながら、俺は二人をそれぞれの机の前に立たせ、用意しておいた紙を机の上に裏返して置いていった。

 

「まあ、簡単なテストだ、向こうの組がチェックポイントを通過して戻ってくるまでの間の時間つぶしだと思って気軽に解いてくれ」

「はぁ……? なんでこんなところでテストなんて……」

「そういうチェックポイントなんだよ、良いから黙ってやれ。ほらほら早くしないと皆戻ってくるぞ。よーいスタート!」

 

 俺が急かしてそういうと、二人が今回初めて視線を交わし、釈然としない顔をしながらも机の上に用意された鉛筆を手に取り、ほぼ同時に紙を裏返していく。

 そして、その内容を見た由香が俺を睨みつけて来た。

 

「ちょっとなによこれ……!!」

「何って、見ての通り日本地図だが?」

 

 それは俺が午前中、頼れる相棒川崎に、ファックスで送ってもらった由香の苦手分野でもあり、盆休みの宿題にしようかと思っていた地図の穴埋め問題だった。 

 

 そう、こいつ実はめちゃくちゃ地理に弱いのである。

 というのも、どうやら由香の学校──あるいは由香のクラスだけなのかも知れないが──日本地図、都道府県の暗記を必須としていないらしいのだ。

 俺とか小町は小学校の頃九九と一緒にがっつり覚えさせられた覚えがあるんだけどな、これも時代の流れというのだろうか?

 日本に住んでいながら都道府県を理解していない人間というのは大人になっても多いという話も聞くので、地域によって教育方針が違うのかもしれないが……。

 とはいえこれは一般常識の範囲内だ。覚えておいて損ということはないだろうと、何度か覚えるように仕向けたのだが……一向にやる気にならないので、これを今度の宿題にしようと川崎と話し合っていたものを急ぎ簡略化して送ってもらったのである。

 流石に四十七都道府県全部だと時間がかかるので、全十問。

 他の三十七都府県に関しては既に名前が記入済みだ。

 

「あれ? そういや、お前まだ日本地図覚えてないんだっけ?」

「こんなの全然肝試しと関係ないじゃん! もしかして……わざと?」

「わざとってなんのことだ?」

 

 ニヤニヤと笑う俺を由香が睨みつけてくるが、俺としては何度「覚えろ」と言っても覚えようとしない由香に嫌気がさしていたところでもある。

 この機会にたっぷり勉強してこなかったことを後悔してもらおう。

 

「ほらほら、時間ないぞ。制限時間は五分だからな、さっさと解けよ」

「ちょ、ちょっと待って!」

「待たない。ほら、残り四分三十秒だぞ」

 

 そう言って俺は無慈悲にスマホのタイマーを二人に見せつけたのだった。

 

*

 

*

 

*

 

「──おし、タイムオーバー。そこまで回収するぞ」

「あ、待って……!」

 

 ピッピッピとスマホがタイムオーバーを知らせる音を鳴らすのと同時に、俺は由香の答案用紙を取り上げた。

 ふむふむ……大分悩んだ後が見て取れるな。

 まあ、流石に全問不正解なんていうことにはなっていなくて俺としても一安心だ。

 

「おお、なんだ一応埋められてるな……それで……ルミルミの方はっと……」

「……はい」

 

 続いて、ルミルミの用紙を取ろうとすると、ルミルミは由香と違い自分からその用紙を提出してきた。自信もあるのか、由香同様空欄は全て埋められている。

 ……うん、やはりな。これなら心配なさそうだ。

 

「……よし。それじゃお互い交換して答え合わせしてくれ」

 

 俺は回収したルミルミの答案を一通り確認した後、そう言って由香の答案をルミルミの机に、ルミルミの答案を由香の机にと置いていく。

 

「こ、交換?」

「ああ、自己採点だと不正のおそれがあるからな……」

「そ、それなら八幡が採点すればいいじゃん!」

「めんどい。ほら答え言うぞ。そこに赤ペンもあるからちゃんと丸つけろよ。一問目の答えは──そうだね、北海道だね」

 

 俺がそう言うと、二人は慌てて鉛筆の横にあった赤ペンを手に取り丸を付けていく。

 流石に一問目は二人共間違えてはいなかった。『シャシャ』っと丸を書く音が周囲に響き渡った。

 正直ここ間違っていたらどうしようかと思ったけどな、まぁこの辺りは序の口だろう。

 

「んじゃ二問目──我らが故郷千葉」

 

 同様に丸を書く音が響く。ここも二人共正解。

 流石に自分が住んでる県ぐらいは理解できていて当然だよな。

 もし理解していなかったらチーバくんに土下座してもらうところだ。

 だが、問題はここから──。

 

「ドンドン行くぞー、三問目は愛知だ」

「……っ!」

 

 ここで初めて音が割れた。

 由香が悔しそうな顔をしながら、丸を書き。

 ルミルミが少し戸惑った表情で俺を見上げてくる。

 どれどれ?

 

「由香……名古屋なんて県はない。名古屋は愛知の県庁所在地だ」

「う、うるさい! なんとなく聞き覚えがあった気がしたのよ!」

 

 まあ、名古屋県ってのは割りとあるあるな解答だけどな。

 むしろその方が分かりやすいまであるが……。

 自分の教え子がこんな王道のボケをかますのを見ているのは少し情けなくもある。

 

「はぁ……とにかく次、四問目──」

 

*

 

*

 

*

 

 ──そうして、全ての問題の答えを口頭で伝え、お互いの採点をした答案用紙を回収していく。

 結果はルミルミが十問中の八問正解。由香が二問正解だ。

 ルミルミがある程度できるだろうという予測はしていたが、島根と鳥取の左右を間違えただけなのはカナリ優秀と言って良いだろう。とはいえ由香の方は──。

 

「予想以上に酷いな。特に四問目なんてかなりのサービス問題のつもりだったんだぞ? もしかしてお前……自分が今どこにいるのかもわかってないのか? 千葉村は千葉じゃないんだぞ? 知ってるか? っていうか俺夏休み前にここ覚えておけっていったはずなんだが?」

「う、ウルサい! 群馬なんて普通覚えてるわけないでしょ! こんなド田舎!」

 

 おいおい、お前今何言ったか分かってる? お前は今この地に住む全グンマーを敵に回したんだぞ? 原住民に襲われて明日帰れなくなっても知らないからな……? 今夜大量のだるまに押しつぶされる悪夢とか見ても泣くなよ?

 あ、俺はちゃんと群馬のコトわかっているので、コイツとは全く関係ないので見逃して下さい。よろしくお願いします。上毛かるた最高!

 

「どうしたルミルミ?」

「べ、べつに……」

 

 そんな風に俺が由香の間違いを指摘していると、隣にいるルミルミが下を向きながら肩をプルプルと震えているのが見えた。

 まあ、気持ちはわからなくもない。俺も家庭教師という立場じゃなかったら同じように感じていたことだろう。

 

「お、そろそろ向こうも戻ってきたみたいだな」

 

 そうこうしているうちに、俺達が来たのとは逆の方向から懐中電灯を持った一団が近づいてくるのが見えた。葉山たちだ。

 時間ぴったりだな。さすがイケメン葉山様だ。

 

「よお、丁度コッチも終わったところだ。そっちはどうだった?」

 

 俺が片手を上げそう問いかけると、先頭を歩いていた仁美がいち早く俺のもとへと走り近づいてくる。

 

「全然面白くなかった、やっぱり葉山くんより、お兄さんの方に残ってたほうが良かったかも。葉山くんの話も別に面白くなかったし」

「はは、それは残念」

 

 先程まで『お兄さん』呼びだったのが、いつのまにか『葉山くん』呼びに変わっている。

 向こうも向こうで何かあったのだろう。

 少しだけ距離が縮まったようにも見えるが、当の葉山は全く動じていなさそうだが……。

 俺としては今もどこかで見ているであろう三浦の反応が気になるところだったりする。頼むから今ココで出てこないでくれよ? 作戦が台無しだからな……。

 

「そっちは何かあったの……? なんか由香の顔真っ赤だけど?」

「う、ううん、なんでもない……!」

 

 森ちゃんにそう指摘された由香が慌ててルミルミから自分の解答用紙を取り上げると、そう言って何もなかったかのように振る舞っていた。

 まあ、それもそうだろ、あんなとんでも珍回答をしていたと知られたらコイツの立場がないからなぁ。

 だが、そうは問屋がおろさない。

 

「とうろう県……」

「ぶふっ……」

 

 俺がこの世に存在しない県をこっそりと呟くと、とたんにルミルミが吹き出した。

 それは先程由香がとある県の名前として記入していた珍回答の一つだ。

 なんでも最近由香の親父さんが口にしていたのを思い出し、慌てて書いてしまったのだそうだ。

 ちなみに螳螂拳とはカマキリの動きからヒントを得て考えられた中国拳法の名前である。断じて日本の都道府県名ではない。

 

「なに? とーろー……?」

「ちょっと、八幡! 鶴見!」

「ご、ごめん、だって……」

 

 ルミルミは申し訳程度の謝罪を述べるが、相変わらずその肩は震えている。

 そう、先程からルミルミが震えているのはずっと笑いをこらえているせいだったのだ。

 だが、今さっき合流したばかりの仁美達は何故ついさっきまで暗い顔をしていたルミルミが笑っているのか、何故由香が顔を赤くして怒っているのかが分からず首をかしげるばかり。

 

「お前がちゃんと勉強しないのがいけないんだろ? これに懲りたら、帰ったら俺が教えた所もう一度復習しておけよ?」

「じ、時間がなかったんだからしょうがないでしょ! こんなテストがあるって分かってたらちゃんとやってるもん!」

 

 普段の由香らしからぬその反応に、仁美も森ちゃんもヨッコもポカン顔だ。

 恐らく、由香は学校ではそういった自分の苦手分野についての話をしたことがないのだろう。

 

「くふ……ふふふ……!」

「ちょ、鶴見いつまで笑ってるのよ!」

「だって……ふふ……!」

 

 一方、ルミルミが地図をそれなりに把握しているのは川で遊んでいるときに確認済みだ。

 川へ来るときに『地図を見れば分かる』と言っていたし、ぼっちは必然的に空き時間に勉強ぐらいしかやることがなかったりするからな。もしかしたら……と二、三簡単なクイズをしたら、普通に答えてくれた。

 とはいえ、テスト内容自体は小六なら解けて当然な問題なんだけどな……。

 由香が俺の言いつけを守らないのもいい加減なんとかしたかったし『知らなくてもいいと思っていたこと』が『知らないと恥ずかしいこと』に変われば、これからの勉強にも身が入るというものだろうという打算もあった。

 まあ、実際は『知らなくてもそれほど困らないコト』ではあったりするのだが……その辺りは自分で成長したときに気づいてくれると信じよう。

 

「それじゃ、あとは全員でこっちのルートに進めば肝試しは終わりだから、足元気をつけてね」

「「「はーい」」」

 

 そうして葉山が最後に由香たちを正規ルートへと送りだそうとするので、俺はすかさずもう一度先程の由香の珍解答を口にする

 

「佐川県」

「ぶ……」

 

 まるで配達専門業者のような県の名前を聞いた瞬間、ルミルミが再び吹き出し、由香がキッとルミルミを睨みつけた。

 

「ちょっ! 鶴見! 待ちなさい!!」

「え!? ちょ、ちょっと、私達懐中電灯持ってないんだけど!?」

「由香!! “留美”!! 置いてかないでよ!」

「えーん、皆待ってよー!」

 

 グループで唯一懐中電灯を持った由香がルミルミを追いかけると、残った三人がその二人を追いかけるようにして元のルートへと戻っていく。

 うん、これでミッションコンプリートだ。

 

「上手く……いったんですかね?」

 

 彼女たちを見送っていると、恐らく近くの茂みからずっと様子を見ていたであろう一色達がガサガサと暗がりから顔を出して来た。

 ナースに雪女に、小悪魔。そして私服の三浦だ。改めて見ても良く分からないラインナップだが、こうして改めてみるとある意味怖いといえば怖い組み合わせなのかもしれない。

 特に三浦さんの目が怖い。いや、俺何もしてないんで……本当……すみません……。

 

「作戦は成功……という認識でいいのかしら? 最後きちんと鶴見さんの名前も呼んでいたみたいだし……」

 

 そう言って総括をしたのは雪ノ下だ。俺はその意見に軽く頷き、同意の意を示す。あの様子ならそれほど大事にはならないだろう。

 少なくとも、今回初めてルミルミの笑顔が見れたというだけでも作戦は成功といっても良いのではないかと思う。

 

「でも結局、センパイは何をしたんですか?」

「なんていうかな……一言でいうと、あいつらの関係性をバグらせたんだ」

「バグ……?」

 

 雪ノ下と視線を交わしていると、今度は一色がちょんちょんと俺の肩を(つつ)いてくるので、俺は改めて自分がしたことを言語化してみることにした。

 

 今回の件含め、無視をする側というのは、自分より下だと認識した人間をターゲットにする事が多い。

 実際先程の班分けでもルミルミは反対意見の一つも言わずただ皆に言われるがままグループから外れていった。

 

 そこで、今回俺はルミルミに由香のウィークポイントを見せることにしたのだ。

 まあ、ウィークポイントと言っても、由比ヶ浜でもやらかしそうな笑い話にしかならないようなネタなのだが。それが小学生の由香にとっては死活問題なのだろう。

 それもルミルミを無視をしなければならない立場の由香にしてみれば非常に厄介な問題になったはずだ。

 もし下手にルミルミを責めれば逆襲される恐れがあり、他の三人に自分の珍回答を知られれば更に馬鹿にされるかもしれないのだからな。

 つまり、これまで四人でルミルミを無視してきたが、由香としてはルミルミに強くでられない。そういうバグを発生させたのである。

 

「ルミルミも言ってただろ、最初はそういうゲームだったって。今回のはただのきっかけづくりにすぎないんだよ」

 

 加えて、今回は元々これがゲームだったという点を踏まえてきっかけ作りをしてみた。

 そう、ルミルミは言っていた『最初はゲームのつもりで別の誰かを無視をしていた』と。

 そして、気がついたときには無視をする側だったはずのルミルミがターゲットにされてしまった、と。

 つまりあいつらは元々友達同士で、ターゲットなんて最初から誰でも良く、きっかけさえあれば簡単に変更させることが可能なのだ。

 今回はそのきっかけを作る手伝いをしたのである。

 少なくとも最後に由香がルミルミを無視せず追いかけたことで、残りの三人にとっては『ルミルミを無視をしている場合ではない』『無視をするより面白いことが起こっている』と思ったきっかけになったはずだ。

 そうならなかったら、もう少し由香を追い詰めなければいけないところだったからな……正直助かった。

 

「きっかけ……ということは……。下手したら今度は由香ちゃんが無視されちゃいません?」

「まあ、その心配があったんだけどな……多分、大丈夫だろ、ルミルミも言ってたし……」

「留美ちゃんが言ってた?」

「ああ……今朝、川でな」

 

 とはいえ、単にターゲットを移しただけでは意味がない。

 だから俺は今朝、川辺でルミルミに質問をしたのだ。

 『もし、無視のターゲットを誰かに移せるとしたら、このゲームを続けるのか?』と。

 その結果次第で俺は作戦を決めようと思っていた。

 そしてルミルミはその問いにこう答えた。

 『もうしない、つまんないもん』と。

 恐らく、自分がターゲットになって初めてそのゲームの愚かしさを理解したのだろう。

 それを聞いたからこそ、俺は雪ノ下に習い、その後の展開をルミルミの良心に委ねる、この作戦を決行することにしたのだ。

 

「ターゲットとかゲームとか……そんなことのために留美ちゃんが無視されてたのかと思うと、やるせないね……」

「そうね……」

 

 俺と一色の会話を聞きながら、由比ヶ浜と雪ノ下が哀しそうに天を仰ぐ。

 やられた方とは違い、やる方はいつだって遊び半分。

 それがわかっているからこそ、今回ルミルミに武器を持たせた。

 その武器を使って、今までのことを『なぁなぁ』で済ませながら偽物の関係を続けていくのか。それともターゲットを由香に変えてまたゲームを続けるのか。はたまた今までの立場を甘んじて受け入れ続けるのか、あるいは俺達の想像もつかないような選択をするのか……それはルミルミ次第。

 俺達にはこれ以上あいつらと関わる術がないので、どんな結果になるにせよ、あとは本人に頑張ってもらうしかない。

 まぁ、一応次のバイトで由香のアフターケアぐらいはしてやろうとは思ってるけど……。

 

「……とりあえず、バレる前に片付けようか」

「そうね。他はともかく、ココのものは早く片付けてしまいましょう」

 

 そうして俺達が林の中に設置しておいた机やらライトやらを片付け始めると、やがて遥か遠くから小学生たちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

 本当に楽しそうだ、あの声の中にルミルミの声は含まれているのだろうか?

 それを知る術を俺達は持ち合わせてはいないはずだったが──。

 

「留美ちゃん達、楽しそうですね」

 

 一色がそう言って笑うので、俺達も思わず釣られ、作戦の成功を確信し口元を綻ばせたのだった。




というわけで解決編いかがだったでしょうか?
今回のいろはすは「いろは ナースメイド」で(以下略

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ドシドシお待ちしております


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第105話 着火 

いつも感想・評価・お気に入り・メッセージ・誤字報告・ここすきetcありがとうございます。

今回で長かった千葉村編も漸く終わりです
はぁ……長かったぁ……。


 肝試しが終わると、林間学校最後にして最大のイベント、キャンプファイヤーが始まった。

 昼間自分が必死こいて積み上げた土台がボウボウと炎の柱を立て、小学生たちが歓声を上げていく。ちょっと優越感。

 きっとこの後、この炎の周りで小学生たちがフォークダンスを踊り、俺と同じようなトラウマを抱えるものが生まれるのだろう。

 どうか、強く生きて欲しい。

 

「お疲れ様」

 

 そんな事を考えながら小学生たちを眺めていると、ふいに背後から声を駆けられた。

 声の主は雪ノ下雪乃。

 コスプレ組は全員倉庫に着替えに戻ったはずなのだが…………戻ってきたのは雪ノ下だけなのだろうか? 雪ノ下の背後には誰も着いてきている様子がない。

 

「おう、お疲れさん。一色達は?」

「もう少ししたら戻ってくるんじゃないかしら? 『他にも気になる衣装がある』とかで海老名さん達と盛り上がっていたみたいだけれど……」

 

 俺の問いに雪ノ下はそっけなくそう答えると、許可を求めるでもなく俺の隣に立ち、長い髪を掻き上げていく。

 月光に照らされるその美しい横顔は、まるで日本人形のようで、俺は思わず息を呑んでしまった。

 

「まさか、ここまで上手くいくとは思わなかったわ」

 

 俺がボーッとその横顔を眺めていると、急にそんな事を言い出したので、俺は一瞬何のことかと首を傾げる。

 しかし、その疑問は雪ノ下の視線の先を追うことで解決した。

 そこには巨大な炎をバックにカメラを構え由香達と集合写真を撮っている笑顔のルミルミの姿が見えたのだ。どうやら、最後の思い出作りには成功したらしい。

 その姿を見て、雪ノ下も僅かに頬を緩ませている。

 つまり、先程の作戦の成功を噛み締めているのだろう。

 若干由香だけが不服そうな顔をし、俺の方を睨んでいるような気もするが、きっと気の所為だ。うん、気の所為である。

 

「正直言えば俺もだな、お前の案を聞いて思いついたが、ここまでキレイにハマるとは思ってなかった」

「私の……?」

 

 俺の言葉に、雪ノ下は怪訝そうに目を細めた。

 その瞳の端には真っ赤な炎が反射しユラユラと揺らめいている。

 あれ? もしかして気がついてなかったのか? ある程度理解してくれてると思ったんだけどな……?

 

「言ってただろ? 共通の敵を作るってヤツ。アレを俺なりにな……」

「それが今回のアイディアに繋がったと……? 全く原型を留めていない気がするのだけれど……?」

「俺の中では留めてるんだよ」

 

 どうやら本当に分かっていなかったらしく、雪ノ下は更に眉をひそめた。

 ふむ……どう説明したものかな……。

 実際、雪ノ下のアイディアがなければ、あの作戦は考えつかなかったし、少なくとも、雪ノ下の言葉を聞くまでは、こんな案はいじめの片棒担ぎにしかならないと思っていた。

 その時点では『ルミルミが由香をスケープゴートにする』という結果しか俺には考えつかなかったからな。

 同じ過程をもって、真逆の結果を導き出すという雪ノ下の考えがあったからこそ、俺も覚悟を決め、ルミルミに結果を委ねることができたのである。

 

「──だからこの作戦は俺とお前の合作みたいなもんだ」

「そう……貴方のこと、少し誤解していたのかもしれないわね」

 

 その事を説明すると、雪ノ下は優しく微笑みそう呟いた。

 一体、俺は何をどう誤解されていたのだろう?

 ただ単に由香を見殺しにした最低男とでも思っていたのだろうか?

 一応言っておくが『ルミルミが由香をスケープゴートにする』という最悪のパターンでも多少の保険は利かせられる作戦だったんだからな?

 俺がアフターケアできる状況じゃなければこんな作戦実行しようとは思わなかった。あくまで今回は由香が相手だからこそ出来た作戦で──。

 

「比企谷君……もし、貴方が私と同じ小学校だったら、どうなっていたのかしらね……」

 

 俺が頭の中で必死に言い訳を並べていると、今度はそんな意味の分からない質問を投げつけてきた。

 いや、或いはその言葉は俺にあてたものではなく独り言だったのかもしれない。

 その証拠に、雪ノ下の瞳はただ一点燃え上がる炎の先を見つめ、どこか悲しげで、まるで天涯孤独の身寄りのない少女のように佇んでいる。

 だから、俺はその問いにどう答えたら良いのかが分からず、ただただその横顔を見つめることしか出来なかった。

 

「……いえ、なんでもないわ。ごめんなさい、つまらないことを聞いたわね忘れて頂戴」

「お、おう。いや、別に……」

 

 やがて、俺が何も答えないことに呆れたのか、或いは何も言わないことこそが答えだったのか。

 雪ノ下は最後にそう言うとまるで逃げるように俺から顔を逸し、俺の側を離れていく。一体、今のはどういう意味だったのだろう?

 追いかけて、問い詰めた方が良いのだろうか? それとも雪ノ下の言葉の通り忘れたほうがいいのか──。

 

「なかなか、面白い手を使ったようだな比企谷」

 

 どうしたら良いか分からないまま、俺が雪ノ下の背中を眺めていると、今度は左隣から平塚先生がやってきた。

 平塚先生は深緑色の、まるでレンジャーのような格好をしているので、どこから近づいてきたのかが分からず本当に心臓に悪い。

 迷彩柄って都会だと割りと主張強いけど、こういう場所だと本当にステルス性能高いよな……。

 

「平塚先生……もしかして、見てました?」

「ああ、勿論……全部見ていたとも」

 

 平塚先生は俺の問いにそう答えると、ニヤリといやらしい笑みを浮かべ、腕を組んだまま俺を見下ろして来る。

 まずい、全部というのはどこまでのことだろうか?

 肝試しでの作戦は一応教師陣にはバレないように動いていたつもりだが……。

 もしやお説教コースだろうか?

 

「それで……由香……とかいったか? あの子は君とどういう関係だったのかね?」

 

 続けて、平塚先生はそう言うとまるで夫を問い詰める妻のように恐ろしい笑顔を向けてくる。

 きっとこういうところが結婚できない理由なんだろうな……。

 とはいえ、そんな事を口にしたら余計に怒らせるだけだろうし、ここは正直に答えたほうが身のためか……。

 

「俺が家庭教師やってる家の子なんですよ……一応、アイツの苦手教科とかは理解してたので、それで……」

「……なるほど。それで君が知っている彼女の情報を使って今回の件を解決に導いたと……? 君にしては機転が利いたやり方じゃないか」

「まぁ、たまたまですけどね」

 

 俺がそう言うと、平塚先生は続いて「ふっ」と一瞬だけ笑みを浮かべ先ほどとは違い、優しい口調で語りかけてくる。

 どうやらお説教コースではないらしい。いや、お説教か?

 

「たまたまでいいのだよ。確かにここで君たちが出会ったのは偶然だったのかもしれないが、誰とどこでどう出会うかなんて誰にも分かりはしない。だがな比企谷、人とどう関わっていくかは自分で選べるんだ。今回の円満解決は過去の君がサボらず、あの子と関わってきたことの証明でもあるんだよ。君はソレを適切に使った。今、あの子達が笑っているのは紛れもなく君の力、胸を張りたまえ」

「はぁ……そういうものですかね……」

「そういうものさ。ああいう方法は私達教師には出来ない、今の君だから出来たのだからな」

 

 そう褒められる事自体に悪い気はしないが、俺の中では『そんなに大げさなものか?』という気持ちが強い。

 実際、次回の由香の家庭教師のことを考えると胃がキリキリだ。

 ちゃんと俺の言う事聞いてくれるかしら……? 最悪クビもありえるな……そうなったら自動的に川崎の仕事もなくなるわけだが……どうしよう、許してくれるかしら……。

 

「そういう繋がりを人は時に人脈だったり、コネクションだったり、縁と呼んだりするのだよ」

 

 縁ねぇ……そんな大層なもんじゃないと思うが……。

 そういえば前にも同じようなことを言われた気がするな……。

 ただ『縁』と言われると俺の中ではどうしてもあのおっさんの顔がチラつくのであまり考えたいと思えなかったりする。

 

「正直言うとな、今回の合宿で君を呼んで良いものか多少不安もあったが……誘って正解だった。雪ノ下も君のやり方を見て感じるものがあったようだしな」

「雪ノ下が?」

 

 おっさんの顔を思い浮かべている最中に突然雪ノ下の名前を出されたので頭の中のおっさんが霧散した。

 そして、自然と先程雪ノ下が行った方へと視線が移っていく。

 その視線の先では雪ノ下が三浦と何かを話している最中だった。

 あの二人のツーショットというのは少し珍しいな。

 まあ三浦の後ろには葉山もいるので厳密にはツーショットとはいえないかもしれないが……。何話してるんだろう?

 

「彼女はなんでも一人で解決しようとする部分があってな、私としても心配していたのだよ。勿論それが悪いということではないのだが、彼女のやり方ではいつか行き詰まるときが来るだろう。そのとき君のような男が近くに居てくれたらとも思うのだが……どうだね? この機会に君も奉仕部に入らないかね?」

「いや、俺バイトあるんで……」

 

 雪ノ下たちが何を話しているのかはこの距離からでは全く聞き取れないが、なんとなく雪ノ下が頭を下げているようにも見えた。

 そういや、昨日雪ノ下が三浦を泣かせたとか何とか言っていたが、仲直りでもしたのだろうか?

 俺の中で三浦の泣き顔というのが想像できないので、よっぽどのことがあったのだろう。知りたいような知りたくないような……。

 

「そうか。いや、そうだったな。それは残念だ」

 

 そうして平塚先生の誘いを断ると、平塚先生はさして残念でもなさそうに一人ふふっと笑みを浮かべ始めた。

 どうしよう、断られるのに慣れすぎてとうとう壊れてしまったのかもしれない。

 早く誰か貰ってあげたらいいのに。

 

「まあ、明日でこの合宿も終わりだ。残り時間をゆっくり楽しみたまえ」

 

 平塚先生が引き続き笑いながらそう言うものの、もう既に夕飯時は過ぎ、日も完全に落ちている、後やれることといえば精々小学生たちを眺めることぐらいだ。

 最早やることがなさすぎて、いっそログハウスに戻って寝てしまいたいまである。

 

「楽しめったって何を……」

 

 だから俺はため息交じりにそう言って平塚先生に愚痴ろうとしたのだが、その瞬間平塚先生が俺の方に小さな何かを投げてきた。

 暗い夜闇に放り投げられたソレを俺は慌てて前のめり気味にキャッチする。

 

「車のトランクに花火が入っている、今回の報酬だ。ただし、開けるのは小学生が部屋に戻ってからだ。後片付けをしっかりするように」

 

 平塚先生が投げたのは車の鍵だった。

 つまり、キャンプファイヤーが終わった後、俺達だけでコッソリ楽しめということなのだろう。

 確かに一色や由比ヶ浜達は喜びそうだな。後で渡しておくか。

 

「それじゃ、私は明日の運転のために先に戻るが、君たちもあまり騒ぎすぎるなよ?」

 

 俺がその鍵を受け取ったのを確認すると、平塚先生は右手をポケットに入れ、背中越しに左手を振りながらログハウスの方へと戻っていった。

 

*

 

「あれ? センパイそれなんですか?」

 

 平塚先生の姿が見えなくなると、次にやってきたのは一色だった。

 どうやら今度こそ着替えが終わったらしくその背後には小町や戸塚達の姿もある。

 なんというか、次から次へと千客万来だな。

 これも縁というやつの力なのだろうか? 

 確かに中学の頃の俺からは考えられない光景だ。

 

「平塚先生の車の鍵、トランクに花火が入ってるから。皆で遊べとさ」

「やった! 平塚先生意外と太っ腹なんですね」

「待て待て、キャンプファイヤーが終わってからにしろ」

 

 俺は自分の手から鍵をひったくって駐車場へと走ろうとする一色の腕を掴み、慌てて引き止める。

 今始めたらキャンプファイヤーの邪魔にもなるし、先程の平塚先生の言葉から考えるに恐らく小学生全員が楽しめるほどの数はないのだろう。

 今こんな状況で花火なんて見せたら蟻みたいに群がられるぞ。

 

「なるほど……じゃあ、キャンプファイヤーが終わるまでの辛抱ですね」

 

 俺の言葉に、一色はアゴに指を置いたまま少し考えるようにそう言うと、ポスンと俺の横に腰掛けてくる。

 その距離ほぼゼロ。

 俺の左手に一色の冷たい肌がピタリと触れ、一瞬どきりと俺の心臓が跳ねる。

 

「留美ちゃん達、楽しそうですね」

「そ、そうだな……」

 

 だが、一色はそんな事を気にする様子もなく雪ノ下同様、ルミルミ達の姿を見つけ、ほっと胸を撫で下ろすようにそう言うと、チラリと俺のほうへと視線を向けてきた。

 

「そういえばセンパイ、留美ちゃんの件、最初乗り気じゃなさそうだったのになんで急にやる気になったんですか?」

「いや、別にやる気になったわけじゃないんだがな……」

 

 その言葉で俺は思い出す。確かに、今回は俺があまり口を出すべきではないのではないかと考えていたはずなのに、なぜ自分の案を強行してしまったのか。

 雪ノ下の言葉で良いアイディアが浮かんでいたのは確かだが、ワザワザ皆の協力を仰いでまで動く必要はないといえばなかったはずだ。

 なのに、ずっと何か考えなくてはと思っていたような気がする……それはなぜだったか?

 

「じゃあ、なんで助けてくれたんですか? はっ!? まさか留美ちゃんが可愛かったからとか!?」

「ちげーよ……」

 

 ある種同族のようなルミルミを見て哀れに思わなかったのかと言われれば嘘になるが、断じて俺はロリコンではない。

 いや、ルミルミが可愛くないとかそういうコトではなく、きっと成長すれば一色や雪ノ下にも匹敵する美少女になるような予感はしているが……違う違う、そういうことじゃなくて。

 平塚先生から出された課題だったから?

 いや、あれはあくまで奉仕部への依頼であり、俺には関係のない話。

 もっと言えば、俺に直接関係がないのであれば一色達のやり方を傍観し、失敗したとしても何も問題はなかったはず。

 

 なのに、何故俺は一色の案を否定し。

 自分の案を押し通したのか?

 俺は昨日からの自分の行動を振り返り、考える。

 

 そして、ふと一つの答えが浮かんできた。

 それは単純にして明快。分かりやすいぐらいにシンプルな答えだった。

 

「お前が『なんとかならないんですか』って何度も言うからだろ……」

「私の……ため?」

「まあ、ちょうどよくなんとかできそうなアイディアも浮かんだしな……」

 

 そう、ずっと一色が急かしてきたから、ついなんとかしなければと思ってしまったのだ。

 多分もう呪いみたいなもんだな。

 こいつが困ってると、つい助けなければと思ってしまう。そんな呪い。

 無意識におっさんの顔が浮かんだのかもしれない。

 俺はおっさんにコイツの事を頼まれている。だからつい手を出したくなってしまったのだろう。

 そう考えると、自分の行動に納得がいくものがあった。

 

「ふふっ」

「なんだよ……」

 

 だが、そうして俺が自分に納得していると、一色が突然笑い始めた。

 何かおかしなことを言っただろうか?

 

「そうでしたね。うん、あの時もセンパイはそういって……だから私は……」

「あの時……?」

 

 一色がそういった瞬間、キャンプファイヤーの方から聞き馴染みのあるメロディーが流れてくるのが聞こえた。

 それはフォークダンスの代名詞とも言えるような有名な曲。

 オクラホマミキサー。

 ふと顔を上げれば小学生たちがキャンプファイヤーを囲うようにキレイに輪になり、その曲に合わせて踊っているのが見える。

 

「センパイ、行きましょ!」

「ん?」

 

 その曲が聞こえた瞬間、一色がピョンと跳ねるように俺の目の前に立つと、満面の笑みを浮かべたまま手を伸ばしてきた。

 その意図が分からず、俺は首を傾げる。

 夏の暑さでとうとう頭がやられてしまったのだろうか?

 

「ほらほら、立って下さいよ」

「何だよ……」

「い・い・か・ら! ほら!」

 

 しかし、一色はそんな俺の手を無理矢理引いて立たせると、半歩足を引いて一礼。

 そして俺の右腕を自らの背中に回すと、もう片方の手を俺の左手に添えてゆっくりとステップを踏み始めた。

 このステップには覚えがある、今、目の前で小学生たちが踊っているものと同じフォークダンスを踊り始めたのだ。

 

「えへへ。女の子とのフォークダンス、初めてなんですよね?」

 

 一色はそういうと、俺の身体を引っ張りリードするように無理矢理動かしていく。右、右、左、左。

 ギクシャクと間の抜けたポーズのまま一色に操られる人形のように踊りながら、俺は少しずつステップを思い出していた。

 えっと、ここで回って、次のやつと交代だったか?

 とはいえ、ここで踊っているのは恥ずかしいことに俺と一色だけなので、交代する相手はおらず再び一色と同じステップを繰り返していく。

 いや、めちゃくちゃ恥ずかしい。小学生たちにも見られてるしもう離して欲しい。

 

「あ、いろはちゃんずるい! ゆきのん! 私達も踊ろ!」

 

 だが、俺が一色から離れようと手を引くと、不意に背後から由比ヶ浜のそんな叫び声が聞こえてきた。

 

「え? いえ私は別に……ちょ、ちょっと由比ヶ浜さん!?」

「いいからいいから、ほら!」

 

 思わず「え?」と声を上げる俺だったが、そこからの由比ヶ浜の動きは早い。

 由比ヶ浜は雪ノ下の手を取るとタタっと俺達の隣へと陣取り、一礼をしてから同じように雪ノ下とオクラホマミキサーのステップを踏みはじめる。

 

「戸塚さん小町たちも行きましょう!」

「ふふ、僕で良ければ」

 

 そんな由比ヶ浜達を見て、何を思ったのか今度は小町と戸塚までもが俺の隣へと走ってきた。

 

「何やってんのアイツら、恥ず」

「いいじゃないかこんなときぐらい、なんなら俺達も踊ろうか?」

「え!? は、隼人が言うなら別にいいけど……い、いいの?」

「ああ、俺で良ければ」

「いい! 隼人がいい!」

 

 更にまさかの三浦と葉山も参戦。

 

「これはもう乗るしかないね、このビッグウェーブに! ほらほら、戸部っち行くよ!」

「え!? あ、よっしゃぁ! やってやんべ!」

 

 最後に海老名と戸部がその輪に加わり、気が付けば、合宿メンバー全員がフォークダンスを始めていた。

 小学生たちの大きな円の隣に高校生の小さな輪が出来上がり。たった五組による小さなフォークダンスの輪はキャンプファイヤーのおこぼれを貰いながら、その影を伸ばしていく。

 それはいつか夢に見た光景。

 最早こうなってしまえば俺も一人だけ踊るのを辞めるとは言い出せず、引き続き一色とステップを踏んでいく。

 

「ふふ、そうそう上手い上手い! なんだ、ちゃんと踊れるじゃないですか」

「一応言っておくけど、俺別に踊れないとは言ってないからね……?」

 

 楽しそうに笑う一色に俺はため息交じりにそう返す。

 そう、別に俺は踊れないわけではないのだ、エアフォークダンスをやったというだけで、別に運動音痴というわけでもない。

 

 突然横からヤジが飛んできた。

 

「ちょっといろはちゃん、早く交代してよ」

「えー? もうしょうがないですね……、まぁ、センパイの初めてのフォークダンスですし、ここは大きな心で譲ってあげますか……。それじゃセンパイ、また後で♪」

 

 一色はそう言って俺にウインクを投げると、俺の手から離れ、次に俺のもとへは由比ヶ浜がやってきた。ペアが変わったのだ。

 そうして気が付けば由比ヶ浜が三浦に代わり、海老名、小町そしてまた一色へと戻って来る。どうやら雪ノ下は完全に男役になってしまったらしい。

 そのことを雪ノ下自身がどう思っているのかは分からなかったが、ただ一つ言えることは、俺はこの日人生で初めて女子とのフォークダンスを楽しんだのだった。

 

*

 

**

 

***

 

 フォークダンスと花火を一通り楽しんだ俺達は心地よい疲労感に見舞われ泥のように眠り、気が付いた時には朝になっていた。

 昨晩、少しはしゃぎすぎたせいか、朝食時になっても皆まだ眠そうに目をこすっている。

 まあ、幸い今日は特にやることもなく、後は車に乗って千葉に帰るだけなので車の中で眠るのも有りかと思ったのだが……流石に葉山父の運転する車で熟睡ってわけにもいかんよなぁ……。

 そんな事を考えながら車の前で大きな欠伸をしていると、突然何かがツンツンと俺の袖を引いてきた。

 

「ねぇ八幡。帰りの車さ、交換しない?」

「へ?」

 

 その何かの正体は戸塚だ。今日も可愛い。

 ちなみに戸塚とは昨晩連絡先を交換した仲だったりする。

 恐らく昨日のフォークダンスが開放条件だったのだろう。これでいつでも戸塚と連絡できるんだぜ? 信じられないだろ?

 だが……そうして仲が深まったからこそ戸塚の提案の意図が分からず、俺は首を捻ってしまった。

 

「ほら、八幡と小町ちゃんは家が一緒でしょ? 帰りは同じ車のほうが荷物とか楽だと思うんだよ。たまには僕も葉山君達とゆっくり話してみたいと思ってたし」

 

「いや、それなら、小町がこっちにくればいいっていうか。なんなら俺が戸塚と一緒に……」

「わぁ! ソレ良いですね! ほら、センパイ乗って下さい!」

 

 俺としてはむしろ戸塚と一緒に乗りたいまであるのだが、その戸塚の提案に乗った一色はグイグイと俺の手を引いてきた。

 まずいこのままではいつものパターンだ。ここはしっかりと意思表示をせねば……。

 俺だっていつまでも流されているだけの男ではない……!

 

「ちょ、ちょっとまて! 俺は戸塚と……!」

「待ちたまえ」

 

 なんとか一色の手を振りほどこうと固い意志を持って声をあげると、突然平塚先生がそう言って俺の方に手をおいた。

 思わぬ方向からの援護射撃に俺もびっくりだ。

 まあ、行きの車も葉山の方に乗れって言ったの平塚先生だしな。

 やはり女子の車に男が混ざるというのは教師としても問題があるのだろう、ココは一つガツンと言ってもらうとしよう……。

 

「なんですか平塚先生?」

「そういうことなら比企谷は助手席だ」

 

 あ、違ったわ。援護射撃じゃなかった。

 普通にフレンドリーファイヤーだったわ。

 いやいやおかしいだろ、それなら戸塚と一緒に乗りたいんですけど? 行きも帰りも戸塚と離れ離れとかどんないじめだよ。

 何なの? ロミジュリなの?

 

「えー!! なんですかそれー! そんなの横暴です!」

「うるさい、ほら、さっさと乗れ比企谷」

「え、いや俺は……」

 

 だが、そんな一色の抵抗も虚しく平塚先生はガチャリと助手席の扉を開けるとグイグイと俺を押し込んでいく。

 ちょ、まっ、その体制じゃ乗れない、乗れないから、肩、肩が引っかかって、あぁぁああ!?

 

「ふぅ、比企谷に後ろでイチャつかれたらうっかり事故ってしまう可能性があるからな」

「私……帰りは葉山くんの方に乗せてもらおうかしら」

「こ、小町も……」

 

 そうして、俺は雪ノ下達のそんな声を聞きながら無理矢理助手席に詰め込まれ、一路千葉を目指したのだった。

 っていうか小町ちゃん? 君が向こうに乗ったら戸塚の提案の意味がなくなるからね?

 

*

 

「はいセンパイ♪ あーん♪」

「自分で食えるっつーに……」

「ヒ、ヒッキーこれも美味しいよ!! ほら!」

 

 車が発進すると、俺の後ろに座った一色と由比ヶ浜が交互に俺の口へ菓子を放り込んできた。

 よほど暇なのだろう。

 こんなことならやはり無理を言ってでも戸塚と一緒の車に乗るんだった。

 そもそもこの車七人乗りなんだから戸塚が移動する必要なんてないんだよな……。

 その事にもっと早く気がつくべきだった……。

 

「結衣先輩? センパイのお世話は私がしますから、結衣先輩は寝ててもいいんですよ? 昨日あんまり寝られなかったって言ってましたよね?」

「べ、別に眠くないし! 子ども扱いしないでよ。それにヒッキーには話したいこともあったし……!」

「話したいこと?」

 

 何やら揉め始めたのが聞こえたので、俺が後方を振り返ると由比ヶ浜が少し困ったような視線を向けてくるのが見えた。

 なんか、この二人って仲が良いのか悪いのか良く分からんよな……。

 しかし、由比ヶ浜の話とはなんだろう?

 そういえば合宿中は由比ヶ浜と話す機会あんまなかったし、もしかして、俺何かやらかしただろうか?

 

「うん、そうヒッキーと小町ちゃん。二人にお願いがあるんだけどさ」

「はい、小町もですか?」

「うん、あのね。今度うち家族で旅行するんだけど、その時さサブレをペットホテルに預けても大丈夫かなって悩んでて、それでね……もし良かったらヒッキーの家で一日だけサブレ預かってくれないかな?」

 

 だが、少し身構えながら話を聞いていると、それは合宿とは全く関係のない話だった。

 

「えー? なんでセンパイに頼むんですか? 結衣先輩なら他にも頼めそうな人いますよね?」

「だ、だっていろはちゃんの家マンションでしょ? ゆきのんもだし、ヒッキーのとこなら一軒家だし、サブレも懐いてるし……もしかしたらと思って……」

「ぅ……」

 

 ぐうの音も出ないような正論に、流石の一色も黙り込んでしまう。

 『ウチで預かりますよ』が言えないなら口を挟むべきではないし、この場では俺に頼むのが一番可能性が高いだろう。

 ふむ……どうしたものか。

 サブレというと、由比ヶ浜が飼ってる犬だよな。

 正直な事をいうのであれば、うちは猫──カマクラを飼っているので他所様の犬を一晩というのは少しリスクがあるのだが……。

 とはいえ腐っても一軒家の二階建てなので、一日ぐらいならなんとかなるか……?

 大事な友人からの頼みだしなぁ……うーん……最悪俺の部屋から出さないようにするのも有りか。

 

「小町はかまいませんけど……お兄ちゃんは?」

「……まあ、一日ぐらいならいいんじゃないの? どうせ母ちゃん達も仕事だろうし、俺らが面倒見る分には反対はしないだろ」

「やったー! 実は結衣さんのワンちゃん一度会ってみたかったんですよね!」

 

 そういってはしゃぐ小町をバックミラー越しに見ながら、息を吐いていると雪ノ下がこちらを見ていることに気が付いた。

 その表情はどこか優しげで、少し羨ましそうに見えたのは、俺の気の所為だろうか?

 

「比企谷くんって結構しっかりお兄ちゃんしてるのね……」

「俺はイツだってお兄ちゃんだよ」

 

 雪ノ下の言葉にそう返すと再び一色が「はいセンパイあーん♪」と棒状のお菓子を口に放り込んでくるので、俺は何度目かになるそれを咀嚼していく。

 道中暇なのだろうし、やりたいようにさせておいたほうが静かだしな……。

 そう思い、まるで動物に餌付けをする子供のような一色を放っておくと突然横からボソッと平塚先生の呟きが聞こえてきた。

 

「あー、このままアクセル踏み抜いて壁に突っ込んだら気持ち良いんだろうな……」

「「「絶対やめて下さい!!!」」」

 

*

 

**

 

***

 

 そんな風にワイワイと騒ぎ、平塚先生の精神を宥め落ち着かせながら車を走らせること数時間。

 漸く俺達は我らが故郷・千葉へと戻ってきた。

 

「ふっぅー……!」

 

 俺は車の扉を開けた瞬間から襲いかかってくる肌にまとわりつくようなジメジメした熱気を吹き飛ばすように思い切り空に手を伸ばし、ぐぅっと伸びをして、固まった身体を解していく。

 大分サービスエリアで寄り道をしてしまったが、戸塚達はもう家についているのだろうか? 折角連絡先を交換したのだし、早速連絡してみようか。

 

「お兄ちゃん手伝ってよ!」

「おぅ、今行く」

 

 俺がスマホを取り出そうとすると小町がそう言って俺を呼ぶので、俺は取り出しかけたスマホをそのままポケットに仕舞い、トランクの荷物を下ろそうと車の後ろへと回りこんだ。

 まあ、この場の男手は俺だけだしな、平塚先生には長時間の運転をしてもらったことだし荷下ろしぐらい手伝っても罰は当たらないだろう。

 そう考え、俺はトランクに載っているバッグを一つずつ下ろし、小町に受け渡すという作業をしていると、ふいに駐車場の入り口に見覚えのある車が止まったのが見えた。

 

 それは見るからに高そうな黒塗りの高級車。

 その車を見た瞬間、一瞬俺の背中にピシッという痛みが走った。

 古傷が痛むというのはこういうことを言うのだろう。

 間違いない──あの時の車だ。そのコトにはすぐに気がついた。

 

 だが、今ここには一色や小町達がいる。

 下手に騒ぎ立てる必要もないだろう、そう思い俺はなんとかその車の事を頭から追い出しながら、トランクの荷下ろしを続けていく。

 

「雪乃ちゃーん」

 

 すると、その高級車の中から一人の美女が現れた。

 美女、そう表現するのは間違っていないだろう。

 整った顔立ち、真っ白いワンピースから見えるスラッとしたモデルのような体型。

 文字通り『良いところのお嬢様』という出で立ちのその大学生ぐらいの女性はまるで映画のワンシーンのように大げさに手を振りながら雪ノ下の方へと近づいていく。

 

「姉さん……! なんでここに?」

「なんでって、雪乃ちゃんを迎えにきたんじゃない」

 

 その美女の顔立ちと、雪ノ下の「姉さん」という言葉を考えるに、きっと二人は姉妹なのだろう。

 そう考えると確かに二人はよく似ている。

 ただ、その雪ノ下と違い、ニコニコと笑顔を振りまくその様子から、その性格はあまり似ているようには思えなかった。

 雪ノ下を“静”とするなら、雪ノ下姉は“動”とでもいうのか。まるで真反対の性質を持った二人、そんな印象を覚えたのだ。

 

「迎えって……子供じゃないんだから……」

 

 雪ノ下自身もそのことを理解しているのか、少し苦手そうに顔を逸らしている。

 姉妹仲はあまり良くないのだろうか……? でも小町も小町の友達の前で俺と会うと他人のフリするしなぁ……。

 

「センパイ、隠して隠して……!!」

「へ?」

「しー!」

 

 そんな事を考えながら、車の陰から二人の動向を見守っていると、突然一色がそう言ってトランクの影に隠れるように俺のもとへとやってきた。

 そこでようやく思い出す。

 そうか、あれが雪ノ下姉ということはつまり──。

 

「あれぇ? いろはちゃんだぁ!」

 

 だが、俺がすべてを思い出すより早く、雪ノ下姉は身体を九十度傾け、車の陰を覗き込むように一色を捕捉してきた。

 いや、恐らく最初から捕捉されていたのだろう。

 その顔はどこまでも楽しげだ。

 

「久しぶり♪」

「お、お久しぶりです……」

「アレ? 男の子もいるんだ? 合宿って言うからてっきりお姉ちゃん女の子だけの合宿かと思ってたよ」

 

 トランクの後ろにいた一色が見つかったので、当然先程まで車の影に隠れていた俺も見つかったのだが、雪ノ下姉は俺を見るとキョトンとその瞳を丸くさせ、俺を値踏みするように見てくる。

 

「へぇ……ふぅん……君、名前は?」

「……比企谷ですけど……」

「比企谷君ね。私は雪ノ下陽乃。雪乃ちゃんのお姉ちゃんだよ、よろしくね」

「はぁ……ども」

 

 妙な緊張感が俺の中を走る中、俺はなんとかそう答えるのが精一杯だった。

 だってそうだろう?

 一色の話が本当なのであれば、この人はアノ事を知っているのだ……。

 言ってしまえば、今俺達の前にいるのはいつ爆発してもおかしくない巨大な爆弾。

 マイクラで言うところの匠である。

 

「あ、あんまりセンパイに近づかないで下さい……!」

 

 しかし、そんな俺の警戒心とは裏腹に、一色は何故か俺の腕を絡め取り雪ノ下姉から俺を引き剥がすように俺の体を引っ張った。

 あ、バカ! 今そんな事したら……!

 

「へぇ、センパイ……センパイねぇ……」

 

 そう思った時にはすでに遅かった。

 一色の言葉で何かを察したのか、雪ノ下姉は新たな玩具を発見した子供のように笑うと、躊躇うコト無くその爆弾に火を付けたのだ。

 

「じゃあ、君が例の婚約者──いや、“許婚君”かな?」




というわけで105話でした。

前回足りなかった分のインパクトをここで多少は補填できたんじゃないかなぁとか個人的には思っているのですが如何でしょう?

皆様のご感想どしどしお待ちしております!


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第106話 とある夏休みの一日

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告etcありがとうございます。



 たっぷり遊んだ後はしっかり勉強、ということで。

 合宿も終わり、夏休みもまだまだ続いていくという八月初旬のその日、俺は前々から申し込んでいた夏期講習へとやってきていた。

 今年は小町が受験だが、あと半年もすれば俺もまた受験だ。

 現状、はっきりと進学先を決めているわけではないが、少なくとも働く気はないので選択肢を広げるという意味でも早めに動くことは損にはならないだろう。

 俺は専業主夫志望だが、ダラダラしていて良いと思っている訳ではない。

 近い未来、俺を養ってくれる運命の相手に出会うその日まで、俺は俺自身を高めていく必要があるのである!

 って、こういう言い方するとなんだかいつまでも白馬に乗った王子様を待つ痛い女みたいだな……。

 まあ、とにかく今は勉強だ。

 『なんでこんな天気の良い日に刑務所みたいな場所で黙々と勉強してるんだろう?』とか考えたら負けなのである──。

 

 ──そうして、クーラーの効いた部屋で少し喋り方の癖の強い講師の話を聞き、ノートを開くこと数時間。講義が終わったのは太陽が丁度真上に上がる頃だった。

 予備校を一歩外に出た瞬間から、ジメッとした暑い空気が俺を包み、クーラーで冷えきった身体を容赦なく攻撃してくる。

 これは……今日も熱中症日和だな、早くどこかに避難しなければ折角仕入れた知識が全て溶けて漏れ出してしまいそうだ。

 いい感じに昼飯時だし、どこかの店に入ってしまおう。

 

「痛っ!?」

 

 そう考えた瞬間、バシッと背中になにかが当たる感触がした。

 立ち止まっていたつもりはないのだが、今俺が居た場所が予備校の入り口ということもあって、邪魔だったかと慌てて横へズれながら、俺にぶつかってきたそいつが一体どんな顔をしているのだろうと振り返っていく。

 

「……なんだ川崎か」

「何? アタシじゃ悪かったの?」

「いや、そういうわけじゃ……」

 

 すると、そこにはトレードマークのポニーテールを靡かせ俺を睨み付けてくる頼れる相棒川崎の姿があった。

 暑さのせいだろうか? なんだか凄く不機嫌そうだ。

 怖っ、あんま近寄らんとこ……。

 

「この間のアレ、どういうことなの?」

 

 だが、俺が川崎から一歩離れるように足を引くと、川崎はブスッとした表情のままそう言って苛立たしげにズンっと顔を近づけてくる。最早完全にカツアゲスタイルだ。

 同じ講義を受けていたであろう生徒達が「うわぁ、アイツ何やったんだろう」みたいな目で見ながら俺達から逃げるように去っていく。

 

「アレって……?」

「宿題をファックスで送れとかいうやつ……。ファックスなんてウチ持ってないしマジ大変だったんですけど?」

「あ、ああ、そのことか……」

 

 続く川崎の言葉で俺は漸く思い出した。

 そういえば、合宿の件の礼を言うのをすっかり忘れていたのだ。

 確かに、よくよく考えてみれば我が家にもファックスなんてものはない。

 千葉村と違って、千葉なら然程苦労はないと思って頼んだが……川崎も川崎で苦労してくれたのか、なんだか申し訳ないことをした。

 今どき何か送るならデータが基本だもんなぁ……。

 そもそも俺自身ファックスを使ったのはアレが初めてだった。

 これまでは送る相手も、送ってくる相手もいなかったからな。

 ただ理解してもらいたいのは、あの時──千葉村には気軽に使えるパソコンやプリンターなんてものはなかったし、改めて自分で作る時間も、データだけ送ってもらってもどうしようもなかった。川崎にファックスで送ってもらう以外の方法がなかったのである。

 

「あの時はアレ以外方法が思いつかなくてな……詳しく話すと長くなるんだが──」

 

 俺がそこまで言うと、川崎は話が長くなると踏んだのか、少し鬱陶しそうに「ハァ」と一度息を吐きクイッと顎を横に突き出した。

 しゃくれた訳では無い、移動するぞ。という合図だ。

 

「なら、アタシ今日このあとバイトだからそこで話さない? どうせお昼もこれからでしょ?」

 

 バイトということは。川崎はこれからマスターの店に行くつもりらしい。

 今日は小町から「早めに帰るように」とは言われているのだが……まあ『昼飯を食べてくるな』とは言われていないので問題はないだろう。

 それに何より俺自身、暑さでどうにかなってしまいそうだったので、ソレ以上特に考えることもなく「ああ……そうだな」と頷き、川崎の後に続いて歩いて行くことにした。

 

*

 

 川崎と並んで暑さによる持続ダメージを受けながら歩くことしばらく。

 俺と川崎はマスターの居るいつもの店へとたどり着いた。

 いい感じに腹も減ってきたのもあり、さて今日は何を食おうか? と考えを巡らせていく。

 この店、たまに出てくるマスターの『試作品』と言う名の創作料理は当たり外れがでかいが、今どき珍しい個人経営の店だけあって基本メニューはちゃんと美味いのだ。

 潰れないよう、多少は貢献していかねば。

 

「おはようございます」

「いらっしゃーい、おはよう二人共」

「ども」

 

 川崎に続き、カランカランというベルを鳴らしながら店内に入ると冷たい空気が火照った俺の身体を急速に冷やしていく。

 店内は昼時というのもあってそれなりに客が入っていた。

 といっても満席というほどではないが、それでも一人で回すには忙しそうだ。

 

「ごめん、沙希ちゃん。来て早々悪いんだけどこれ三番に持ってってくれないかな?」

「はい、分かりました」

 

 その状況を瞬時に察した川崎は店員モードへと切り替わり、手早くカウンターに入ってエプロンだけ身にまとうと、そのままマスターがカウンターに並べたナポリタンやらサンドイッチやらをテキパキとトレイに乗せ三番のテーブルへと運んでいってしまった。

 残された俺が一人ぽつんと空いているカウンター席へと腰を下ろす。

 

「ごめんね、これ終わったら注文聞くからちょっと待っててくれる?」

「あ、おかまいなく。なんなら俺も手伝いましょうか?」

「いや、大丈夫、さすがに八幡君に料理をしてもらうわけにはいかないからね」

  

 フライパンを握りながら額に汗を滲ませるマスターが笑いながらそう言うので、俺は「了解」と小さく口にして、自分で水を用意し待つことにした。

 まぁ給仕ぐらいならとは思ったが、そこは川崎一人でも回ってるようだし、そんなに広い店でもない、レジを打てるわけでもない俺が手伝っても邪魔にしかならないだろう……。

 

*

 

「ふぅ、少し落ち着いてきたからもう後は大丈夫だよ沙希ちゃん。来て早々働いてもらって悪かったね。お昼まだでしょ? 一旦休んで」

 

 そうして待つこと十分弱。

 ようやく少し落ち着きを取り戻した店内でマスターがそう言うと、まだ店の制服にも着替えていなかった川崎が「一応先に着替えて来ます」と言ってカウンターの奥へと引っ込んでいく。

 

「八幡君も待たせて悪かったね、これはその分のサービスということで」

 

 続けて、マスターはそう言うと俺の前にアイスコーヒーをコンと出してくれたので俺は素直にソレを受け取ることにする。

 

「先週顔出さなかったから、心配してたんだよ?」

「ああ、すみません、先週はちょっと合宿に行ってたんで……」

「合宿? いいねぇ、青春だねぇ」

 

 そういえば、合宿の話はマスターには話していなかったんだったか。

 まぁ、話す必要がない相手といえばその通りなのだが。

 合宿と聞いたマスターは何故か目を細め何かを思い出すように天井を見つめていた。

 きっとここで『マスターも合宿とか行ったんですか?』とか聞いたら昔話が始まるのだろう。

 だが、申し訳ないが今はソレより優先してほしいことがある。

 いい加減俺の腹が限界なのだ。ちょっとでも気を緩めたら腹の音が鳴ってしまいそうなのである。

 ぐぅ。

 ほら、鳴った。

 

「ああ、ごめんごめん。そういえば注文まだだったね? 何にする?」

 

 俺の腹の音を聞いたマスターは正気に戻ったようにバタバタと慌てて俺にメニューを見せてくるが、俺は既に今日何を食べるか決めていたのでメニューを横に避けてそのままマスターに伝えていく。

 

「オムライス、大盛りで一つ」

「了解、沙希ちゃんは?」

「それならアタシも同じので……っていうかアタシが作ります」

「そう? じゃあお願いしようかな」 

 

 俺がそういうのと、川崎が着替えを終え、後ろ手にエプロンの紐を結びながら戻ってきたのはほぼ同時だった。

 俺達の会話を聞いていたらしい川崎はそのままフライパンを握り、店の冷蔵庫から卵を取り出すと慣れた手付きでオムライスを作リ始める。

 

「それで、合宿ってどこ行ったの?」

「千葉村です。その件で今日は川崎に連行されたので」

「連行された?」

「ちょっと、人聞きの悪いコト言わないでよ……!」

「いや、本当のことだろ……」

 

 すると、暇になったマスターが合宿の話を続けてきたので、俺はそう言いながら尻ポケットにしまっていた財布を取り出しその中身を確認して、テーブルの上へと置いた。

 足りないと思っていたわけではないが、カウンター席だと尻ポケットに財布を入れておくのがなんとなく不安だったのだ。

 あと一応念のため……。

 

「はい、オムライスお待たせ」

「お、サンキュ」

 

 そうして店長と合宿の話をし、川崎に例のファックスの件の真相を話しながら待っていると、ドンッと目の前に大きなオムライスが現れた。

 ふわとろオムライスとか、ドレスドオムライスとかではない。

 家で作るような薄焼き卵で巻かれているただただ真っ黄色のオムライスだ。

 当然、ケチャップでハートも書かれていない。

 

「ケチャップでおいしくなる魔法とかはかけてくれないの?」

「……は? なんかいった?」

 

 さすがに味気なさすぎたので、冗談交じりに俺がそう言うと川崎は汚物を見る目で俺を見ながらそのオムライスの上にぶちゅっとケチャップ容器を絞って来た。オムライスの上に血痕のように飛び散った“赤色”が事件性を帯びていて少し怖い。

 思わず「いえ、すみません。なんでもないです」と謝ってしまいそうだ。謝ったけど。

 

「君たちは本当に仲がいいねぇ」

 

 そんな俺達を見てマスターがそう言ってクックッと笑うと、川崎は顔を背けたまま俺の隣の席へと移動し「いただきます」と小さく呟いた。

 そのまま俺のより一回り小さなオムライスにスプーンを入れたので、俺もそれに習いオムライスにスプーンを差し込んでいく。

 うん、美味い。

 空腹というのもあるが、さすがマスターの店のオムライスだ。

 一口食べると止まらなくなり、俺はそのままガツガツと大盛りのオムライスを平らげていく。 

 

「それにしても八幡君は結構いい財布使ってるんだね、ちょっと見せてもらってもいいかな?」

 

 突然、マスターがそう言って俺の財布に興味を示してきたのは俺がオムライスを三分の二ほどを食べ終え、川崎のオムライスが先になくなった頃だっただろうか?

 その財布は去年俺がおっさんからもらった「8」の字の刺繍がされている長財布。

 まあ、流石にこんな学生から金を盗んだりはしないだろうし、見せるぐらいなら問題ないだろうと、口にオムライスをパンパンに詰め込んでいた俺は首を縦に振ることで了承の意を示した。

 

「凄いね、こう言っちゃなんだけど僕の使ってるのより全然高そう。どこかのブランド物?」

「ひへ……ん……丁度去年の誕生日におっさんに貰ったものでオーダーメイドみたいです」

 

 しげしげと俺の財布を回し眺めるマスターにそう言った瞬間俺は“しまった”と思った。

 俺の言葉に、マスターが「……丁度?」とピクリと眉を上げたのだ。

 まさか、気づかれただろうか? 

 

「あ、えっと……」

「今日は八月八日……八幡……丁度……誕生日」

 

 だが、俺の願いは虚しくマスターはチラリと店内に飾られているカレンダーに目を移し、ブツブツと何事かを呟きながら、着実に正解への道を辿っていく。

 

「もしかして、八幡くん今日誕生日?」

「え……? あんた今日誕生日なの?」

「ま、まぁ、そう言われれば……そう、かな?」

 

 そう、今日は八月八日。俺の誕生日だ。

 ああ、やってしまった。

 コレでは誕生日に気付いて欲しくてわざとヒントをだす奴みたいじゃないか。

 ものすごくダサい。

 ただ信じてほしいのは、神に誓ってそんな気持ちはなかったということだ。

 むしろ、スルーして欲しいと思っていたぐらいで……ああ、自分が嫌になる……。

 どうにか時間を戻したい。

 

「早く言ってよ……もぅ……! ちょっと待ってて」

 

 しかし、そんな俺の願いも虚しく。

 川崎は少し苛立たしげにそう言うと、カウンター内の棚やら冷蔵庫やらを開け少し考えるような仕草をした後、ちらりと俺の方を見た。

 一体何をするつもりなのだろう?

 

「……マスター、あとでお金払うんでちょっと材料借ります」

「うん、好きに使ってくれて構わないよ」

 

 続く川崎の言葉に、マスターはしょうがないなぁとでも言いたげに微笑むと、川崎はそのままものすごいスピードで再び卵を割り、混ぜ、何かを作り始めた。

 

「青春だねぇ~」

 

 そう言ってマスターがカウンターに頬杖を付きながら、俺達をニヤニヤと眺め始める。

 一体どこらへんが青春なのだろう? 俺にはさっぱり理解できないが、やがてマスターは「お会計お願いします」という他の客の声によってその場を離れ、レジへと向かっていった。

 

*

 

 それから数分。俺がオムライスの最後の一口を口に運ぶ頃には、店内に甘い匂いが漂っていた。

 一体何を作っているのかと、揺れる川崎の背中を追いかけていると、川崎が「はい……」と少し照れくさそうに俺の前に皿を置いてくる。

 

 その皿の上に乗っているのは丸いパンケーキだった。

 しかもメニューに有るのとは違い生クリームやらイチゴやらがふんだんに使われている。妙に豪華なものだ。

 

「えっ? いや、頼んでないけど……」

「アタシからのプレゼントってことで……こんなものぐらいしか作れなかったけど……」

 

 俺の言葉に川崎はそう言ってプイッと顔を背け、カウンターの中の食器やらなんやらを片付けに行ってしまったので、俺も慌ててその背中に礼を投げつける。

 

「お、おう。そうか、サンキュ……」

 

 オムライスを大盛りで頼んでしまった手前、こんなに食えるかな? という不安はあったが、折角作ってもらった食べ物をムダにするほど俺も落ちぶれては居ない。

 俺はゴクリとアイスコーヒーで喉を潤してからそのパンケーキを切り分けていった。

 焼き立てということもあって生クリームはどんどんと溶け、切り分けたところからじわぁっとゆっくりと沈んでいく。

 とりあえず一切れ……うん、美味い。

 少々甘すぎる気もするが、夏期講習で疲労した脳に糖が染み渡っていくようだ。

 

「どう……? 店のレシピじゃなくて家でけーちゃんとかに作ってる奴だからちょっと甘すぎるかもだけど……」

「いや、普通に美味いな」

「そか……良かった。その……改めて誕生日、おめでと……」

 

 素直な感想を言っただけなのに、照れたように頬を赤らめながらそう言われるので、思わずこちらも照れてしまう。

 

「あ、ありがとう……」

 

 俺がそう言うと、突然背後から「おおー」とか「あらあら」とかそんな声が響き始めた。

 何事かと振り返るとマスターが常連客らしき人達の席で何かを話しながらニヤニヤと笑っているのが見えた。その視線の先は明らかに俺。

 くそぅ、何だこの状況、ものすごく恥ずかしい。

 もうこの店来るのやめようかな……。

 

***

 

**

 

*

 

「ふぅ、ちょっと食いすぎたな……」

 

 結局あの後「良いものを見せてもらったぞ」とか「若い頃を思い出したわ」などと店の常連客達から謎の礼を言われた俺は、逃げるように店から飛び出し、暑い夏の日差しに耐えながら一人家路を辿っていた。

 因みに“逃げるように”といっても食い逃げをしたわけではなく、オムライスはマスターからの、パンケーキは川崎からのプレゼントということで本日の支払いはゼロなのである。

 ちょっと得した気分だ。

 まあ辱めを受けた気がするので気分的には若干マイナスだけどな。

 

 なんにせよ、今日はもう予定もないしさっさと家に帰ろう、外にいるだけで体力を消耗してしまいそうだ。小町も待っているみたいだしな。

 そう思い駅前にあるゲームセンターの前を通り過ぎようとしたのだが、ふとそのゲームセンターの入り口に置いてあるクレーンゲームに目を奪われてしまった。

 そこに、以前おっさんが必死こいて取っていたフィギュアのライバルキャラのフィギュアが鎮座していたのだ。

 ふむ……そういや最近おっさんのとこ顔だしてないし、ちょっと連絡してみるか?

 いや、このタイミングだと川崎の二の舞になる可能性もあるか……。

 なら後日の土産として確保しておく? でもこの位置だと取れるか微妙だな……。うーむ……。

 どうしたものかと思考を巡らせ、最終的に俺は『少し中も見てみるか』と迂闊にもゲームセンターの店内へと足を踏み入れていく。

 

 だがその瞬間、店内に季節外れのロングコートを来た男の姿が俺の視界に入った。

 十中八九、材木座だ。

 こんな真夏にあんな格好をしている男を、俺は他に知らない。というか他にもいたら困る。

 本当……夏だというのに暑くないのだろうか?

 その心意気だけは尊敬に値するが、現状知り合いだとも思われたくないので店内に入ったことを後悔し、そのまま回れ右をして閉じたばかりの自動ドアを再び開いた。

 

「おお、八幡ではないか!」

 

 しかし、その不自然な動きを訝しんだのか、材木座がこちらを振り返る。

 そして次の瞬間爆音の響く店内で大きな声で俺の名を呼びながら手を振ってきた。

 完全に失敗だ……。はぁ……仕方ないか……。

 

「こんなところで会うとは奇遇だな、八幡も大会に出るのか?」

「いや、大会があることすら知らなかったよ、夏期講習の帰りだ」

 

 材木座の言う大会の意味が分からなかったが、材木座の後ろに視線を向けると、そこにはストリートファイリングⅥ。通称ストⅥの大会と書かれた垂れ幕が掛かっているのが見えた。なるほど、店内がやけに騒がしいのはそのためか。

 材木座が大会に出るほどの格ゲー好きだというのは初耳だが……まあ、夏休みだしそういうこともあるのだろう。

 

「夏期……講習……う、頭が……!」

「いや、別に頭が痛くなるような単語じゃないだろ……」

 

 お前は夏休みの宿題に追われる小学生か。

 何故か精神攻撃を受けている材木座にそうツッコミを入れながら、俺は妙な違和感に襲われふと顔をあげる。

 材木座のすぐ横で俺達を見ながら、どうしたものかと少し戸惑ったような表情の二人のメガネの男が立っていることに気がついたのだ。

 その距離感からみて、たまたま立っていたという雰囲気ではなく、材木座と一緒に居たと考えるのが妥当だろう。

 俺が視線を向けるとメガネ君二人は揃って「あ、ども」と軽く頭を下げてくる。

 誰だ……? 

 

「……ども」

 

 なんとなくモブっぽい顔の二人だったので、背景の可能性も考えたが。

 会釈をされてしまった手前、無視をすることも出来ず、俺も思わず会釈を返してしまった。

 すると眼の前で項垂れていた材木座が、突然「ワァーッハッハ」と大きく笑いブワァっとそのロングコートを翻した。

 知り合いだと思われたら恥ずかしいから辞めて欲しい。

 

「ふふ、紹介しよう。こちら一年の秦野氏と相模氏だ!」

「ども、秦野です」

「相模です」

「二人合わせて?」

「いや、俺たち別に漫才コンビとかではないので……」

「二人合わせたコンビ名とかは特に……」

 

 秦野と相模の自己紹介に思わず合いの手を入れると、二人は淡々とツッコミを入れてきた。

 どうやら材木座と同種ではないようだ。

 なんだ、何か面白いものが見れるのかとちょっと期待したのに。

 とはいえ、相手が名乗ったのであればこちらも名乗らないわけには行かなくなってしまった。一年ということは、普通に俺の後輩でもあるってこと……でいいんだよな?

 

「あー、俺は……」

「比企谷先輩ですよね」

「知ってます、有名人ですから」

「有名人?」

 

 だが、俺が名乗ろうとすると二人はそう言って訳知り顔で頷いてきた。

 は? 俺が有名人? 他の誰かと勘違いしてるんじゃないか?

 

「……有名ってどういうこと?」

「一色──さんの彼氏なんですよね?」

「前教室で騒いでる時にちらっと拝見しました」

 

 言われて思い出す。ああ、あの偽彼氏作戦を見られていたのか。

 確かにあの作戦自体は周知させる事が目的だったので、この二人が一年ならば知っていたとしても不思議ではない。

 でも、こうして改めてあの現場を見ていたと言われると少し恥ずかしいな……。

 

「そか……じゃあ自己紹介はいらないな……んで、その一年がなんで材木座と一緒にいるの? こういう人と付き合っちゃ駄目だよってお父さんお母さんに言われなかったの?」

「ふふ……よくぞ聞いてくれた八幡よ。実は話せば長くなるのだが、先日我はこの二人の所属する部と少々揉めてな──」

「所属する部?」

「遊戯部です」

 

 オーバーリアクションで説明する材木座とは出来るだけ目を合わさないようにしながら相模だか秦野だかのどちらかに目配せをすると、二人は眼鏡をクイクイと上げながらそう教えてくれた。

 遊戯部ねぇ……聞いたことがない部だ。

 名前からして遊び・ゲーム関係の部なのだろうが……うちの学校意外と変な部多いよな。奉仕部といい遊戯部といい。まるでラノベの世界だ。

 まあ、揉めたといっても、材木座相手なら解釈違いとか。そういうくだらない理由なんだろうが──。

 

「うむ。見ての通り遊戯部は二人、対するのが我一人では少々心許ないと考えたので奉仕部に助っ人を頼んだのだ」

 

 最早、話半分に材木座の話を聞きながらも、そのあまりの情けない導入に俺は思わず頭を抱える。

 そういや夏休み前に、一色が材木座からの依頼があるとか言ってた日があったな……。

 俺だったら絶対投げ出したくなるような案件だが、それこそまさに奉仕の精神という奴なのだろうか? 少しだけアイツらの事を尊敬してしまう。

 

「だが、此奴らは卑劣なことに自分の得意なフィールドでの勝負を挑み、我らに脱衣ポーカーを仕掛けてきたのだ」

「だつい……?」

 

 しかし、次に出てきたその日常では普段使われなさそうなその単語に、俺は思わず眉をひそめた。

 一応言っておくが、エロそうな展開だから耳を傾けたとかでは断じてない。

 むしろ胃の辺りがムカムカして、俺の中の暴力衝動がかきたてられていく。

 なんだろうこの感情? とにかく苛立たしい。

 物凄いスピードで湧き上がってくるその感情を抑えることができない。

 

「無論、最初からずっとあちらのペース。それでも我は戦った……誇りをかけ、どのような辱めにも屈すること無く立ち向かいどうにか勝利を得ようと──」

「おいちょっと待て……脱衣って言ったか今? 奉仕部と? ってことは一色と? おい、その話詳しく聞かせろ」

「え? いや、だから今話して、ちょ、落ち着け八幡……!」

 

 次の瞬間には俺は脳内でこいつらに脱がされていく奉仕部の──一色の姿を想像し材木座に掴みかかる勢いでそう問い詰めていた。

 正直、今すぐにでもこいつを──こいつらを殴り飛ばしたい気分だ。

 こんな暴力衝動が自分の中にあったコトに自分自身驚いている。

 でも、殴っていいだろ? それぐらい許されるんじゃないのか?

 正当防衛の要件ってどんなのだっけ? 私刑はどのレベルまでなら許される?

 ああ、クソ。こんなことなら法律の勉強をしておくんだった。

 

「ち、違うのだ八幡!! いいから落ち着け! 一色嬢は脱いではおらん! というか脱いだのは我だけだ! あ、いや雪ノ下嬢は二人の挑発に乗って脱ごうとした一幕もあったがそれも一色嬢と由比ヶ浜嬢によって止められた!! 本当だ! な? 落ち着くのだ!」

「と、言ってるが?」

 

 俺が材木座の服を掴みにかかると、材木座は両手を上げホールドアップの姿勢で冷や汗をダラダラ垂らしながら早口にそう捲し立てるので、俺はそれが本当なのかと横にいる相模と秦野に問いかけていく。

 すると相模と秦野の二人はお互い抱き合うように肩をガタガタと震わせ、コクコクと高速で頷き、材木座に同意の意を示していた。

 いや、なんで抱き合ってるの? もしかしてそういう仲なのだろうか? まあ、愛の形は人それぞれだからな……。

 今は多様性の時代だ、俺に偏見はないぞ? うん。でも公衆の面前では止めておいたほうが良いんじゃないか? しらんけど。

 ふむ……でも、そうか……そういうことなら……問題はない……のか?

 とりあえず話の続きを聞いてみよう。

 俺は少しだけ冷静さを取り戻しゆっくりと材木座の服から手を離すと、その話の続きを促していく。

 

「──それで……その後は?」

「う、うむ。それで我に圧勝したことで少々調子に乗った二人が雪ノ下嬢を挑発してな、そこで一色嬢がキレたのだ……そこからはゲーム無視の女性陣との口論が始まった……いや、あれは口論とも呼べぬな……一方的な蹂躙、最早口にだすのも悍ましい罵詈雑言の限りを浴びせられる二人の姿は敵ながら同情を禁じ得なかった……」

「お、おう、そうか……」

 

 一体どんな言葉を投げつけられたのかは分からないが、その様子を思い出しているらしい二人の顔面が蒼白になっているところから考えるに、トラウマレベルのことを言われたのだろう。

 なんか……ごめんな?

 大丈夫か? でもお前らも悪いんだぞ? そういう遊びをするなら相手を選ぶべきだろと思う。例えばそう、材木座とか……あ、ってことは選んだ結果なのか……。結論、材木座が悪い。

 まぁとりあえず、アイツが──いや、アイツらが知らないうちに酷い目にあってたとかそういう展開じゃなかったことに俺はほっと胸をなでおろしていく。

 

「さすがに哀れに思った我がなんとか一色嬢を宥め、その場を丸く収めたのだが、そのことにいたく感激した二人は我の軍門に降る事となった、というわけだ」

「……いや、別に剣豪さんの軍門に降った覚えはないですけどね」

「……今日も剣豪さんだけ初戦敗退じゃないっすか」

「ええい、黙れ黙れ! そもそも我は貴様らが面白いものが見れるというからついてきただけでストⅥはそれほど詳しくないのだ! 貴公らはさっさと次の試合に行ってしまえ!」

 

 俺が少し落ち着きを取り戻すと、二人は材木座の言葉で自分の番を思い出したのか、シンメトリーな動きで大げさに肩をすくめたあと「それでは」と言って、人混みの方へと消えていった。

 

「ふぅ……まあ、そういった経緯でな。今はこうして彼奴らの付き添いをしているのだ」

「なるほど……」

 

 なんだか格好良さげにいう材木座だったが、今の話から察するに材木座は既に負けており、二人はこれから試合を控えているので待ちぼうけをしているというのが正解なのだろう。

 本当にどうでもいい話に付きあわされてしまったな……。やっぱりこの店入ったのは失敗だったのかもしれない。

 いい加減俺も家に帰るか……。

 

「んじゃ……俺はこのへん──」

「しかし……八幡は本当に一色嬢のこととなると見境がないな……」

「──でって……は? いや、別に……普通だろ?」

 

 だが、そうして俺が材木座を置いてゲームセンターを後にしようとするタイミングで、今度は材木座がそんな訳の分からない事を言い始めた。

 いや、そりゃぁ先程の俺の態度は少々大人げなかった気もするが……。

 でも、そんなおかしかったか? 仮にコレが小町であっても俺はきっと同じ態度を取ったという自信はあるし、特段おかしなことをしたとは思わない。うん。

 

「無自覚なのが恐ろしいな。いい加減素直になったらどうなのだ? 許嫁なのだろう?」

「バカ! こんなとこで何言ってんだ! そのことは秘密だって言っただろ……!」

 

 それでも材木座は尚もその話を続け、とんでもない事を口にするので、俺はつい声を荒げ、周囲を伺った。

 誰か知り合いに聞かれていないかと不安だったのだ。

 先日の雪ノ下姉の件もあるしな……これ以上被害を広めたくはない。

 

「なに、この喧騒では誰も聞いてなどおらんさ」

「そんなの……わからないだろ……」

 

 俺達の関係を、いつどこで誰が知るかなんてわからない。

 それこそ、思わぬ人物がそれを知り、口にすれば面倒くさいことになるのは目に見えている。

 そのことをつい最近思い知った身としては多少過敏に反応するぐらいでちょうどいいぐらいだ。

 

「第一、アイツには他に好きな奴がいるんだよ……」

「それは今は関係ない」

「関係ないことないだろ……」

 

 俺はまた少しだけイライラし、材木座は試合中の相模だか秦野だかの背中を見ながら、お互い視線をかわさず会話を続けていく。 

 

「ならそこに関してはひとまず保留としておこう。我の見ている世界と貴様の見ている世界が違いすぎるのでな」

「……どういうこと?」

 

 続く材木座の言葉は特有の中二表現なのか、全くもって意味がわからないものだった。

 何かの作品のネタだろうか?

 最近はアニメ多すぎ問題で追いかけるのも一苦労だからなぁ……。

 そういや合宿中も何も見れてないんだった帰ったら少し見逃し配信漁っていこう。

 

「なあ八幡よ。ツンデレもツンが過ぎればアンチが増えるというものだ、ここらで一度デレてみれば案外違う世界が見えてくるかもしれんぞ?」

「さっきからお前が何を言いたいのかさっぱりわからん……」

 

 俺がそう言うと材木座は不敵にフッと笑い、同時に『K.O.』という機械音が周囲に響き渡ったのだった。




ちょっと八沙希っぽいですがこの作品は紛れもなく八色です。あしからず。


そして来週の更新は少し微妙です。
劇場版コナンも始まり、古戦場も控えているので投稿がなかった場合はお察し頂けますよう。何卒よろしくお願いいたします。


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第107話 八月八日は過ぎていない

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、ここすき、誤字報告ありがとうございます

先週はコナンの映画を見に行ったり古戦場に行ったりして
更新ができませんでした
申し訳ありません


「ただいま」

「おかえりなさいセンパイ!」

「お兄ちゃん遅いよ!」

 

 材木座と別れ家に帰宅すると、そこには予想通りというかなんというか小町と一色の姿があった。

 さも当然のように玄関先で出迎える一色達の姿に、最早ツッコむ気力もわかず俺は「はぁっ」と息を吐きながら乱暴に靴を脱いでいく。

 あれ? なんか玄関に知らない靴が沢山あるな……客でも来てるのか?

 小町の友達? にしては男物もあるような……。

 その瞬間、俺の中にキュピピーンというフレクサトーンのような嫌な予感がよぎった。

 

「お兄ちゃん? 小町今日は『早く帰ってきて』ってお願いしたよね?」

「そうですよ、今何時だと思ってるんですか?」

「いや、そこまで遅れてないだろ。昼飯食った後はまっすぐ帰ってきたつもりだ……」

 

 動揺のあまり材木座の存在を記憶から消してしまったが……まさか……これはアレか?

 去年同様サプライズ……?

 いや、でもそれは流石に考えすぎか……。

 祝ってもらう前提で動くっていうのもなんだかおかしな話だよな……。

 でも誰かが家に来ているのは確かなはずだ……とはいえ一体誰が……?

 まさか、小町の……彼氏……?!

 お兄ちゃん絶対許しませんからね!! ……いや、本当。許しませんよ?

 俺は左手を小町に、右手を一色に抑えられながら、そんな恐怖心を抱えチラリとリビングを覗き込む。

 だが、ソコに人の気配はなく、ただ甘い匂いが漂ってくるだけ。

 ん? 甘い匂い?

 さっきもこんな感じの匂いを嗅いだような気が……。

 

「あ、やっぱり食べてきたんですね」

「ん? なんか問題あった?」

「いえ、なんとなくそんな予感はしていたので大丈夫です。こっちも準備に時間かかりそうだったので……。でもまだ食べれますよね?」

 

 無邪気にそう問いかけてくる一色に、俺は「物による」と小さく返した。

 つまり、これから何か食べ物が出てくるイベントが発生するというフラグなのだろう。

 もしかしたらオムライスを大盛りにしたのは失敗だったのかもしれない。

 一色家の女性陣は“男は無限に食えると思ってる説”あるからな……。

 去年、家庭教師初日にもみじさんに出された超巨大ハンバーグは今でも少しトラウマ物だったりする、まあ、美味かったけど……。

 

「ほらほらセンパイ、早くカバン置いてきてください」

「え? あ、おう?」

 

 一色にポンと背中を押され、俺が半ば無理やり二階への階段の一段目へと足を踏み出すと、二人は俺から一歩引いて、退路を塞ぐように階下でニコニコと意味深な笑顔を向けて来た。

 どうやらココから先は一人で行け。ということらしい。怪しい……。明らかに何かを企んでいる顔だ。

 リビングに他の客の影が見えなかったことから察するに、俺から小町を奪おうとする不埒な輩は二階に居るということなのか?

 よろしい、ならば戦争だ。

 

 俺は意を決して二階への階段を一段一段踏みしめるように登っていくと、小町と一色は後をついてくるでもなく、相変わらず階段下で笑顔を振りまいてきている。不気味だ……。

 この先一体何が待ち受けているのだろう?

 そう警戒しながら、足音を消すように慎重に階段を登りきり、自分の部屋の扉を視界に入れた瞬間、予想通りというかなんというか、俺の部屋から人の気配がする事に気が付いた。

 しかも一人や二人ではなさそうだ……。

 

「はぁ……はぁ……ここ、ここも良い! 最高だよ!」

「ああ、すげぇ……マジ手触りも良い……この重さもガツンと来る……!」

「おいおい二人共、あまり弄りすぎるなよ?」

 

 中から聞こえてくる怪しい声に、俺は思わず息を潜め、自宅であるにも関わらずまるで泥棒のようにそうっと摺り足で廊下を進んでいく。

 その道中で聞こえてくる声には覚えがあった。

 何故“アイツラ”が俺の部屋に居るんだ?

 そして、何をしている?

 俺は半ばパニック状態になりながら、ようやく辿り着いた扉の前でドアノブへと伸ばした。

 だが、そこが限界だった。

 伸ばした後、どうしたら良いか分からなくなってしまったのだ。

 もし、中にいるのが俺の予想通りの奴らだったとして、一体俺はどんな顔で、なんと声をかければ良いんだ?

 『おまたせ』とか?

 いや、そもそも待たせたつもりもないし、約束してたわけじゃないし、むしろ不法侵入だよな? 警察でも呼ぶか? ……さすがに警察沙汰はまずいか……。まずいな、本当にどうしたら良いのかわからない。

 いっそ、全てが悪い夢であってほしいまである。

 夏期講習に言ったところまでが現実で、そこから後のことは全て熱中症でヤラれた脳が見せる夢だったならどんなに良かっただろう?

 

「っつーかヒキオのやつ遅くない? いつまで待たせるの?」

「そうだな、俺ちょっと下の様子見てくるよ、何か手伝うことがあるかもしれないし」

 

 そんな事を考えながら、扉の前で立ち尽くしていると、不意に中から扉が開かれた。

 

「あ」

「あ」

 

 扉が開かれ、お互いの目があった瞬間、思わず俺達の声が重なっていく。

 そこに居たのは予想通りというかなんというか、葉山隼人とその一味の姿だった。 

 

「やぁ比企谷。帰ってたんだな、お邪魔してるよ」

「お、おう」

 

 葉山が特に悪びれる様子もなくそう言っていつもの葉山スマイルで俺を室内へと招き入れたので、俺もついそれに釣られ軽く頭を下げながら遠慮がちに室内へと足を踏みれ入れてしまう。自分の部屋なはずなのに、なんだろうこの敗北感。

 しかし、そこはいつもの自分の部屋とは明らかに様相が違っていた、いつも俺一人で使ってかなり余裕があると思っていた部屋の中が、今は狭いと感じられるほどに葉山一派で埋め尽くされていたのだ。

 

「ヒキタニ君ギター二本も持ってるとかマジやばくね? しかもこっちのSGスタンダードとか結構年季入ってるっぽいし。いやー、マジ羨ましいわぁ。この光沢といいフォルムといい、やっぱ俺もバイトすっかなぁ」

 

 部屋の中央で俺が弘法さんから貰ったギターを持ち上げ、大げさなほどに腕を回しながらジャワーンとパフォーマンスする戸部。 

 

「ヒキオー、この漫画の四巻見当たらないんだけどー?」

 

 俺の勉強机の椅子に座りながら本棚を物色し、そう文句を言ってくる三浦。

 

「ここで……ここで“はやはち”が抱き合って熱いベーゼを……! いや、それならこっちからの角度も……? ああ、やっぱりここからの角度もいい! ちょっと戸部っちどいて!!」

 

 何故か部屋のあちこちをスマホ越しに眺め、興奮気味に不穏な言葉を並べながらシャッター音を響かせていく海老名。

 

 なんだこれ?

 どういう状況?

 もしかして本当の本当にこれは全て夢で本物の俺は病院のベッドで眠っているじゃなかろうか?

 今日は本当に暑かったからなぁ。帽子も被ってなかったし?

 やっぱ熱中症って怖いよな。

 うん、きっとそうだ。いや、むしろそうであってくれ。

 

「この間の合宿で、今日が比企谷の誕生日だって小町ちゃんから聞いてね」

 

 そうして最早現実逃避をするしかないような状況で、俺がどうしたものかとぽかーんと口を開けていると、やがて隣に立っていた葉山がゆっくり説明を始めた。

 

「本当は、どこかの店を予約しようと思ったんだけど。『お兄ちゃんを外に連れ出すのは大変ですよ』って、小町ちゃんがいうから直接お邪魔させて貰うことにしたんだ」

 

 なるほど……つまり、いつもの小町の暴走ということか……全く小町の奴め余計なことを……。

 これじゃぁまるで俺が葉山達と友達みたいじゃないか……ってあれ?

 友……達……?

 

 そこで、俺はもう一度室内をゆっくりと見回していく。

 左から時計回りに葉山、戸部、三浦、海老名……。うん、間違いなく四人。

 いつもならいるはずの“由比ヶ浜”の姿がどこにも見当たらなかったのだ。

 こういう集まりには率先して参加してくるイメージがあるのだが……。

 

「あれ? 由比ヶ浜は?」

 

 だから、俺は思わず葉山にそう尋ねてしまった。

 玄関とリビングにはいなかったよな? トイレにでも行っているのだろうか?

 それとも遅れてるのか?

 だが、そんな俺の問に葉山は少しだけ困ったように笑うと、申し訳無さそうに口を開いていく。

 

「ああ、結衣は用事があって今日は来れないらしい、でも『誕生日おめでとう』って伝えてくれってさ」

 

 その言葉に、俺は葉山の目から見ても分かりやすいほどにガッカリと肩を落としてしまったのだろう。

 葉山は少し申し訳無さそうに「なんか、タイミング悪かったかな?」と眉をハの字に曲げる葉山に、俺は慌てて「ああ、いや、なんでもない……」と切り返す。

 いや、うん。そういう日もあるだろう。

 夏休みだからといってイツでも暇なわけじゃないし、俺のように夏期講習やバイトをしている可能性だってある。由比ヶ浜には由比ヶ浜のスケジュールがあるのだ……。うん、仕方がない。

 しかし、いくらそう自分を納得させようとしても心の奥底に何か引っかかるようなものがあるのは事実だった。

 

 というのも、合宿が終わったあの日以降、実は由比ヶ浜とは禄に会話が出来ていないのだ。

 なんなら葉山達を含んだグループLIKEですら由比ヶ浜の反応が薄く、避けられているような気さえする……。

 その事にきっと葉山も気付いているのだろう。

 だからこそ、葉山は俺の反応になんとも言えない表情を浮かべつつ、一度周囲の様子を伺ったあとそっと耳打ちをするように小声で囁いてきた。

 

「……結衣と何かあったのか?」

「……いや……何も……」

 

 突然の問いに俺の肩が一瞬ビクリと震えたが、俺は出来るだけ平常心でそう答えていく。別に嘘は言ってはいない。

 実際に何もない。何もないはずだ。

 少なくともあの時点(・・・・)では何もなかった。

 

 俺の言葉に、葉山は「……そうか、ならいいんだ」と再びニコリと微笑むとソレ以上問い詰めるようなことはせず「きっと外せない用事だったんだよ」とフォローを入れながら俺の肩をぽんと叩く。

 

「はーい、皆さん! 準備できましたよー、そろそろ下に降りてきてくださーい!」

 

 するとまるで一部始終を見ていたかのような絶好のタイミングで階下からそんな小町の声が聞こえてきた。

 声に気付いた葉山達は一瞬俺と目を合わせた後「じゃあ、そろそろ行こうか」と言う葉山の号令の下、ぞろぞろと部屋を後にしていく。

 

 当然、俺もその流れに乗るように夏期講習の荷物だけを部屋に残し再び階段を降りて行った。

 五人で向かう先はリビング。

 だが、そこもいつもの俺の知るリビングとは少し様子が違っていた。

 真っ昼間だというのにカーテンが締め切られ暗く、普段キッチンカウンターにくっつけるようにして置かれている四人がけのテーブルは部屋の中央へと移動させられている。

 そして、そのテーブルの上には火の付いたロウソクが刺さったケーキがドンッと置かれていた。

 

「ほらほら、センパイはこっちですよ!」

 

 一色に手を引かれるままに俺がそのテーブルの正面へと陣取ると、小町がカマクラを抱き上げ、葉山達が俺を取り囲むようにテーブルの周りに広がっていく。

 

「せーの」

「「「「「お誕生日おめでとうー!!」」」」」

 

 そして、盛大にクラッカーが鳴らされたのと同時に我が家のリビングにキラキラとしたゴミが散乱し、火薬の匂いが周囲に立ち込めた。

 恐らく、誕生日というと俺のことなのだとは思うが、このメンバーに自分が祝われるという実感がわかず、その時の俺の頭の中にあったのは『この後の掃除は誰がするんだろう……』とかそんなコト……。

 

「さぁさぁセンパイ、消しちゃってください」

「お、おう」

 

 それでも、一色がそういってケーキを指差すので、俺は言われるがままに巨大なケーキに息を吹きかけ、ろうそくの炎を消した。

 十七本のロウソクは流石に一度では消しきることが出来ず、三度息を吹くことで漸く全て消えると細い煙が天井へと伸び、その煙がちょうど天井に差し掛かるころ室内に盛大な拍手が響き渡る。

 

「じゃあ、切ってきますので皆さんは好きなの摘んでてくださいねー」

 

 やがて、その拍手がパラパラとまばらになり、シャッと部屋のカーテンが開かれ一気に部屋が明るくなると、一色がそう言ってケーキを持ってキッチンへと入っていった。

 最早小町すら付き従わせず、一人でキッチンへ向かうその様子はまさに勝手知ったる何とやら。

 その動作があまりにも自然すぎて『何故一色が?』とツッコむものは一人もおらず、皆思い思いにテーブルの上に広げられているピザやポテト、チョコレート菓子やらペットボトルの山へと手を伸ばしていく。

 いやおかしいだろ……。なんで一色が全部仕切ってるみたいになってるの?

 ここ俺の家なんだけど? 小町は何してんだ……? ってああ、カマクラを宥めてるのか。そりゃぁ、家にこんなに人が集まるのも初めてだしなぁ……。多少興奮もするか……。

 

 はぁ……仕方ない。俺が手伝うとするか……。

 流石に客に全部やらせる訳にもいかないし、腹もそこまで空いてないしな。

 状況を把握し思考を巡らせた末、俺はキッチンへ向かおうと足を踏み出す。

 だがその瞬間、不意に誰かに肩を叩かれた。

 「ん?」と振り向けばそこにはいつもの葉山スマイル。

 

「誕生日おめでとう。これ、俺からのプレゼント」

「へ?」

 

 戸惑う俺に、葉山はそう言って四角い少し洒落た袋に入った小さな何かを手渡して来る。

 後から考えるなら、俺が葉山からプレゼントを貰う理由なんてないので拒否するべきだったとは思うのだが……この時は場の勢いと有無を言わさぬ雰囲気の葉山スマイルに気圧され俺は情けなくも「お、おう。サンキュ」とソレを受け取ってしまった。

 

「最近ハマってるバンドのアルバムなんだ、よかったら聞いてくれ」

 

 どうやら中身はCDらしい。

 え? でも待って? CDって聞くものなの? 特典についてくるおまけじゃないの?

 今どき音楽なんてデジタルの時代だし、そもそも俺の部屋にCDを聞く媒体もないのだが……。

 案外葉山はアナログな男なのかもしれない。

 

「隼人本当そのバンド好きだよね、カラオケでも絶対歌ってるし」

そう言って割り込んでくる三浦に、葉山が少し照れたように笑うのを眺めながら俺は改めてその袋の中を覗いてみると、ソコには確かに名前も聞いたことのないバンドの、妙に洒落たデザインのCDが入っていた。

 とりあえずアイドル系ではなさそうだが……本人も言っていた通り布教目的も兼ねてのプレゼントなのだろう。

 まあ、裏にそういう意図が込められているのであればコチラとしても受け取る事にそこまで拒否感もないか……。今回はありがたく受け取っておくとしよう。

 最悪パソコンで聞けるしな。

 

「んじゃ、後でゆっくり聞かせてもらうわ」

「うん、よかったら感想も頼むよ」

 

 感想ねぇ……音楽の良し悪しなんて俺には正直よくわからんが……それで葉山の気が済むというのなら構わないか。変に効果なものを要求されるよりはマシだからな。

 

「これは私からね。あんた元はそんな悪くないんだから、手入れぐらいしなよ? 今どき男でもそれぐらい常識なんだから」

「お、おう悪いな……」

 

 そうして、葉山から貰ったCDを繁々と眺めていると、今度は三浦から少し大きめの袋を渡された。といっても葉山のプレゼントよりは若干大きいという程度で両手に収まる程度のサイズだ。

 中身は見たことないブランドの化粧水やら、謎のジェルやらがおしゃれな透明な袋に包まれ申し訳程度のリボンでラッピングされているメンズコスメセット。

 一応化粧水ぐらいなら小町のを拝借して使ってはいるんだけどな……。

 その度に怒られるけど……。

 

「次は俺から、開けてみ? ちょ、マジ開けてみ?」

 

 次にそう言って四角くラッピングされた箱を渡してきたのは戸部だ。

 既に葉山、三浦からプレゼントを受け取ってしまった手前断ることも出来ず、俺は三度それを受け取っていく。

 葉山のCDより少し横に長く厚みがあるソレは、正直袋の上からではなんなのか全く想像がつかない。

 しかし、戸部はそのプレゼントに相当の自信があるのか、興奮気味に「早く開けろ」と詰め寄ってくるので、俺は仕方なくそれを開けていく。

 すると、中から出てきたのは店で売ってるのは見たことあるが、絶対自分では買わないだろう類のアナログなカードゲームだった。

 正直プレイするのは少し躊躇われるタイプの難易度が高そうなカードゲーム。

 所謂人狼ゲームとかの勝敗にプレイヤーのコミュニケーション能力が関わるやつといえば少しは分かってもらえるだろうか?

 

「こないだの千葉村でやったトランプ思いの外盛り上がったべ? だからこういうの家に一個あったら盛り上がるんじゃね? ヒキタニ君こういうの得意そうだし……ってか今から皆でやるべ?」

 

 まあ……うん。

 言いたいことは分かる。

 確かにたまにやるシンプルなカードゲームは思いの外楽しかったりする。それは俺も理解できる。

 だが、こういった少し捻ったゲームはルール把握までが長く、よほど気が合う相手ではないとプレイは難しいのではないだろうか……。少なくともこのメンバーで楽しめるとは思えない……。

 

 正直言うと俺自身興味はあったが、プレイするためのハードルが高いのだ。

 現に葉山は「へぇ、良かったな比企谷」と他人事のように笑い、三浦も既に戸部のプレゼントから興味をなくし、チョコを摘みに行っている。

 その二人の態度からも今日ここでやる機会があるかどうかすら微妙だろう。

 

 とはいえ、自信たっぷりという様子の戸部の前でソレを正直に伝える勇気もなく、俺は苦笑いを浮かべながら「お、おう、そうだな……ありがとう」とそのプレゼントを受け取ることしかできなかった。

 

「腐腐腐っ……私からはコレだよ……」

「ど、ども……」

 

 その微妙な空気を断ち切るように、続いて俺にプレゼントを渡してきたのは海老名だった。

 海老名は自慢のメガネをキランと光らせながら、俺に四角いラッピングをされた箱状の何かを渡してくる。重い……大きさも重さもコレまでの中で一番だ。

 戸部の時同様、期待の目で俺の反応を待つ海老名の視線を受けながら、俺は一体何が入っているのだろうと、恐る恐るそのラッピングを剥がし中を覗いていく。

 

 すると、そこには見たこともない漫画が三冊ほど入っており、その表紙には学生服を着た美形の男とちょっとダウナー系の男が半裸で絡み合っていた。あー……はい。

 

「大丈夫! 凄くテンポが良くて読みやすいから! ちょっと、ちょっとだけ! 先っちょだけでいいから読んでみて! 絶対ハマると思うの! そして感想を聞かせて! こっちとか多分凄く共感出来ると思うの! なんてったって……!」

 

 いわゆるBL漫画というやつなのだろう。

 早口でそう捲し立て、はぁはぁと鼻息荒く漫画の内容を説明する海老名の説明を聞きながら、俺は一歩二歩と後ずさりながら、ソレ以上海老名を刺激しないように努めた

 流石に十八禁のマークとかは付いていないので、一応合法ではあるのだろうが……。

 でもなぁ、この表紙のダウナー系の男が若干俺に似ているように見えるのは気のせいだろうか?

 よくよく見ればイケメンの方は葉山にも似ているような……。

 本当に読んで良いのか……?

 

「大丈夫、痛くないから、苦しいのは最初だけだから! 目覚めたらむしろ気持ちいいから!!」

「あー……あーしそういうの良く分かんないからさ、漫画とか読むなら試しに読んでやってよ」

「お、おう……まあ、読むぐらいなら……」

 

 三浦からの援護射撃と、海老名のそのあまりの剣幕に、俺も思わず気圧されそう頷いてしまったが、正直早まったかもしれない。

 海老名は俺の返事に「むふーん」とコレまで見たことのないような笑顔を見せ「言質取ったからね! 絶対だよ!」と俺に人差し指を向けている。本当早まったかもしれない。

 とりあえずおすすめの漫画、ということでいいんだよな?

 まあ、読むぐらいなら……大丈夫……だよな? 読んでいいんだよね?

 取り返しのつかないことになりませんように……。

 

「はーい、ケーキ切りましたよー!」

 

 そうして、俺が大量のプレゼントに埋もれ、海老名に追い詰められているとタイミングよくケーキを切り終えた一色が戻ってきた。

 四人がけテーブルに六人は座りきれないので、一色は俺から順にそれぞれの手元にケーキの乗った小皿を配り歩いて行く。

 ちょっとした立食パーティースタイルだ。

 

「うん、美味しいよ」

「へぇ……意外とやるじゃんアンタ……今度作り方教えてよ……」

「うお、うめー、これ一色ちゃんが作ったとかマ? マジプロじゃね?」

「ありがとうございます♪」

 

 配り終えるのと同時にあちらこちらから賛美の声が上がり、一色が「えへへ」と照れたように笑顔を振りまいていく。

 その光景を見て少し誇らしく思ってしまうのは何故だろう?

 ふと視線を落とせば俺のケーキにだけ乗っている『HAPPY BIRTHDAY センパイ♡』と書かれたチョコレートプレート。

 そうか、これ一色が作ったのか……。

 なんだか……食べるのもったいないな……。

 

「センパイ、はいこれ私からのプレゼントです♪」

「お、おう! 悪いな!」

 

 そんな事を考えていると、今度は一色がそう言って俺に少し大きめの箱を渡してきた。

 突然のことに、俺は思わずワタワタとなりながら、ケーキの皿を落とさないよう、これまで受け取ったプレゼントをソファーの上に置き、出来るだけ丁寧にそれを受け取っていく。

 しかし、当然受け取るだけで一色が納得するはずもなく、ニコニコと笑顔を崩さず俺の側を離れようとはしなかった。

 つまり「早く開けろ」ということなのだろう。

 その無言の圧に耐えきれず、俺はケーキを一口口に含んでから、一旦テーブルへ置き、受け取った箱を開けていく。

 

 出来るだけゆっくりと丁寧に可愛らしい黄色い包装紙を剥がし、中から出てきた白い箱のを開けると、そこにはそれぞれハートが描かれた色違いの二つのマグカップが入っていた。

 ん? 二つ? なんで二個? マグカップなんてそんな沢山いらんだろう……。予備ということか? 

 

「ペアのマグカップです。ほら、最近私こっちいること多いじゃないですか? これからおこめちゃんの家庭教師もする予定なので、お揃いとかあるといいんじゃないかなって思って♪」

 

 不思議そうに俺がそのマグカップを眺めていると、一色が自信たっぷりにそう告げてくる。

 でも……その言葉がうまく頭に入ってこない。

 なんでコイツ、うちに自分用のマグカップ置いてく気満々なんだろうか?

 そもそもプレゼントに自分用を混ぜるなよ……。

 

「いや、自分用なら持って帰れよ……」

「えー! なんでですか? うちにもセンパイの食器あるんだから一個ぐらい置いててもいいじゃないですか!」

 

 そう言われると少し困る。

 実際一色の家には俺用の食器が今もあるはずだ、少なくとも前回顔を出したときにはまだ残っていた。

 だから、こっちにも置けと言われたら断りにくいというのはある……。

 とはいえ、今考えるのはそこじゃないことは分かっていた。

 先程の一色のセリフの中にどうしても理解できない言葉があったのだ。

 

「っていうか家庭教師ってどういうこと?」

「そのままの意味ですよ、ほら、おこめちゃん今年受験じゃないですか? 夏休みの間は私が勉強見てあげることにしたんです。あ、勿論無料ですから安心してください♪」

「……小町は別に頼んでないんだけどね……」

 

 一色の言葉に、小町は諦めたように「ははっ……」と哀しい笑みを浮かべ、カマクラを吸った。

 その表情から察するに恐らく半ば強引に押し切られたのだろう。

 なんだかんだ、一色はあのおっさんの孫だからなぁ……。

 強引なところは祖父譲りなのだ。

 

「いや、小町の勉強ぐらい俺が見るが……?」

「だめです! 今日だってセンパイ夏期講習行ってたじゃないですか。だから今後は私がちゃぁんとおこめの勉強見てあげますから、センパイは安心して自分の勉強に専念してください。そしてソレ以外の空き時間は私に構ってください♪」

 

 なんだか最後の方で不穏な事を言われた気がするが……。

 つまり……えっと……どういうことだってばよ……?

 

「そうそう、食器といえばママたちもセンパイが来るの楽しみにしてたんですよ? なんなら今日だって私に付いてきそうな勢いだったんですから。まぁ流石に葉山先輩達も居る手前止めておきましたけど……」

 

 混乱する俺に一色は続けてそう告げてくるので、俺は慌てて脳を再起動する。

 は? もみじさんがココに来るかも知れなかった?

 何その地獄。

 いや、別にもみじさんの事が嫌いとか会いたくないとかそういうつもりはないのだが……ここに来られるのはちょっと困るというかなんというか……とりあえず一色の判断は非常に評価できる。

 正直グッジョブとしか言いようがない。

 思わず「よくやった」と一色の肩を叩いてしまうほどだ。

 なんなら両手でワシャワシャとカマクラを撫でるようにしてやりたいまである。

 まあ、さすがに女子にソレをやったら殺されるのは分かっているのでやらないけど……。

 

「えへへ。だから今度センパイから会いにいってあげてくださいね?」

「まあ、時間があったらな……」

 

 放って置いて暴走されるぐらいならこっちから顔を出したほうがマシ。ということなのだろう。

 でも流石に『誕生日祝って貰いに来ました』なんて言うわけにもいかんしなぁ……さて、どうしたものか。

 まあ、夏休み中にどっかでちらっと顔だすか……。

 

「……そういや、最近おっさんはどうしてるの?」

 

 そこまで考えた所で、俺はふとしばらく会っていないもう一人の暴走列車のことを思い出した。

 よくよく考えてみれば俺が高二になっておっさんと会ったのは、川崎の件が最後。

 最近は何をしているのだろう?

 

「あー、なんか今年もどっか行ってるみたいですよ?」

 

 だが、その問いの答えは非常にシンプルなものだった。

 そうか、旅行か。

 そういえば去年もこの時期海外に行ってたんだったか。

 もしかしたら今年もどこか俺の知らない土地に足を運んでいるのかもしれない。

 アグレッシブおっさんである。

 

「あ、でもそういえば私夏休み前に良いもの買ってもらったんですよ! 今度センパイにだけ特別に見せてあげますから、期待しててくださいね♪」

 

 最後にそう言うと一色は人差し指を口の前に持ってきてウインクを一つ投げ、楽しそうに笑ってみせた。

 俺に見せたいもの……一体なんだろうか?

 ただ、一色がこういうコト言うときってあまり良い予感はしないんだよなぁ……。

 

*

 

*

 

*

 

 そうして、我が家での突発誕生日会は日が落ちるまで続けられ。

 全員が帰宅した後は、少し寂しさの残るリビングを俺と小町の二人で片付けていた。

 珍しく──いや、初めての大人数の来客にカマクラもまだ興奮しているのか客が帰ったあともどこか落ち着かない様子で先程から何度もリビングと二階を行ったり来たりしている。

 

 実際、俺もまだ少しフワフワしているというか、地に足がついていないような妙な感覚に襲われている。

 というのも、アイツラが帰った後の自分の家というのは、何故かいつもより空虚に感じるのだ。

 俺と小町、家にいる人数的としてはいつもと変わらないはずなのに、なんだかやけに音が響く気もするんだよな。

 これは俺がこういう経験が初めてだからこそ感じる感覚なのか、それとも誰もが感じるものなのかそれが俺には理解できない……。

 

「はい、お兄ちゃん、これ小町から」

「ん? おお、サンキュ」

 

 そんな事を考えながらふとリビングを見回していると小町がそう言って俺にビニール袋を渡してきたので今日何度目かになるソレを受け取った。

 本当に今日は貰ってばかりだ。

 誕生日ってこんなに良い日だったか?

 なんだか数年前と違いすぎて少し怖いまである。

 そのうちお返しとかしたほうがいいんだよな?

 となると、人数分? うげ……金足りるかしら……?

 バイト増やすか……?

 って、なんか……今の俺、友達が多いやつみたいな悩み方してるな……。

 

「あと、こっちはお父さん達からね」

「おお、サンキュ」

 

 金の事を考えていたのを見抜かれていたのだろうか? 

 小町が続けて渡してきたのは、裸のままの一万円札だった。

 

「感謝してよね、今年もギフト券になりそうだったから、普通に『お金のほうが喜ぶと思うよ』って交渉してあげたんだから」

「ありがとうございます……!」

 

 その件に関しては正直、本当にありがたいと言わざるをえないだろう。

 今年もまたギフト券だろうと覚悟してたし、単純に値が上がっているというのも嬉しい。小町様々だ。

 

「ふふん存分に崇めるがよい」

「ははー!」

 

 両手を腰に当てふんぞり返る小町に、平伏し頭を下げる俺。

 完全な茶番だが、これで機嫌が良くなるなら安いものだ。

 やっぱ持つべきものは妹なんだよなぁ。

 

「ふふ。……あ、そうだあと忘れないうちに言っておくけど。サブレちゃん明後日から預かる事になってるから、ちゃんと予定空けといてよね」

「サブレちゃん?」

 

 突然話題を変えられた俺は思わず平伏姿勢のまま、首を傾げてしまった。

 なんだっけサブレちゃんって。どっかで聞いた覚えがあるような……。

 

「もう、何とぼけてるのさ。結衣さんの家のワンちゃん預かるって話してたでしょ!」

「ああ、あの犬の話か……マジで預かることになってるの?」

「うん、昨日電話で確認したから間違いないと思うけど……冗談だと思ってたの?」

「そういうわけじゃないんだけどな……」

 

 冗談だと思っていたわけではないのだが……。

 今、俺は由比ヶ浜と少し気まずい感じがしたので、その話も流れたのかと思っていたのだが……どうやら杞憂だったらしい。

 そうか、小町とは昨日も普通に連絡を取り合っているのか……。

 ということは、もしかしたら由比ヶ浜に避けられていると感じているのは俺だけなのだろうか?

 

 そう考えた俺は、少しだけ心が軽くなったのを感じ。

 二日後由比ヶ浜とサブレの到着を待つことにした──のだが──。

 

 

***

 

***

 

***

 

 あれから二日。

 由比ヶ浜がサブレを預けに来るという約束のその日、待ちわびていた玄関のチャイムが鳴り響いたかと思うと同時に、玄関から小町の大きな声が聞こえてきた。

 

「お兄ちゃーん、サブレちゃん連れてきたよー! 開けてー!」

「は?」

 

 どうやら小町はどこかで由比ヶ浜と待ち合わせをし、サブレを直接引き取ってきたらしい。

 インターホンのカメラに映るのは、小町に抱かれしっぽをブンブンと振り、今にもその手元から飛び立とうとするサブレの姿。そこに由比ヶ浜の姿はない……。

 くそっ、完全にしてやられた……。

 ラフな格好のまま「ちょっと出かけてくる」と言って出かけたから、てっきり近くのコンビニにでも行ったのかと思ってたのに……。

 はぁ……迎えに行くなら一言言ってくれよ……。

 

 やはり俺、避けられているのだろうか?

 こうなったら、サブレを引き取りに来た時に捕まえるしかないか……。




というわけで107話でした。
これで二年目の誕生日も終わりですね
どんどんリア充化していく八幡いかがでしたでしょうか?

なんだかんだもう世間はGW
リアルの夏も近づいてきていますが
夏が終わる前に文化祭編にいけるよう頑張りますので
引き続き応援の程よろしくお願いいたします


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第108話 犬は鎹

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、DM、メッセージ他リアクションありがとうございます。

そして、ゼルダティアキン発売おめでとうございます!



 と、言うわけで現在我が家にはサブレという由比ヶ浜の家のミニチュアダックスフンドが泊まりに来ていた。

 一応、我が家には既にカマクラという猫がおり、猫一匹、犬一匹で喧嘩をしないか? というのが若干不安ではあったが、そこは流石カマクラ先生。

 最初こそ人懐っこく纏わりついてくるサブレに戸惑っている様子だったが、サブレが高いところに登ってこられないということを知ると、冷蔵庫の上や棚の上、キャットタワーの上に登り一切地面に降りてこず、高みの見物を決め込むことでサブレとの交流を完全にシャットアウトしていた。見事なぼっち術だ。流石比企谷家の猫である。俺も見習わなければ。

 

「ほーら、サブちゃーん。おやつだよー!」

「わぅ! わぅ!!」」

 

 そんな中、我が家のリビングにはサブレと仲良くなろうとする一人の女子高生の姿があった。一色いろはである。

 一色はサブレと視線の高さを合わせるように地面に這いつくばりながらミニスカートに覆われた丸いお尻を俺の方に突き出し、猫撫で声を上げておやつをチラつかせることで必死にサブレに媚を売っている。

 全く持って目の毒なので一刻も早く止めていただきたい。

 

「センパーイ、なんかこの子めっちゃ吠えてくるんですけどー? 躾がなってなくないですかぁ?」

 

 だが、悲しいかなサブレはそんなおやつ攻撃にも屈せず「ヴゥゥ~……!」と歯茎をむき出しにしながら唸っていた。

 由比ヶ浜から託された“サブレお泊りセット”に入っている犬語翻訳機を使うまでもない、明らかに怒っているのだ。いや、敵視されていると言ったほうがいいだろうか?

 おかしいな、結構人懐っこい犬だと思っていたのだが……。

 

「……お前がイジメるからじゃないの?」

「えー? イジメてなんてないですよ! ね~? サブちゃん?」

「わぅ! わぅわぅ!!」

 

 そう言って一色はほんの僅か躙り寄るがサブレはそんな一色に対しタンッ! と前足で床を叩きながら険しい顔で吠え続けていく。その様子からはとても友好的な感情は見受けられない。

 うーん……? 一色から何か苦手な匂いでも出ているのだろうか? 香水を使っている──のかどうかはしらんが、ソレが悪いとか?

 俺からすると一色はいつも吸い寄せられそうな甘い良い香りがして困るぐらいなのだがな……。犬って匂いに敏感だというし、俺達には分からない何かを感じ取っているのかもしれない。

 

 とはいえ、原因は分からないまでも預かっているワンコにこれ以上ストレスを与え続けるのも良くないだろう。

 そう考えた俺は一度落ち着けようと、後ろからそっとサブレを抱き上げ一色の脅威から遠ざけることにした。

 すると、サブレはまるで人が──いや、犬が変わったかのように一度小さく「ひゃん!」と鳴いて千切れんばかりに尻尾をブンブンと振り始める。

 ふむ、どうやら機嫌が悪いとかではなさそうだな……やはり原因は一色か……。

 

「あー! センパイばっかりずるいです! ほぉらサブちゃんこっちおいで♪」

 

 そんなサブレと俺を見た一色は、サブレを横取りされたのがよっぽど悔しいのか頬を膨らませながら立ち上がり、再びサブレに手を伸ばしてきた。

 しかし、その瞬間再びサブレが愛らしい顔を歪ませ「ヴ~……!」と唸り始める。

 相当相性が悪いらしい……。本当、何がいけないんだ……?

 

「その“サブちゃん”とかいう日曜夕方の魚介類アニメにたまに出てくる脇キャラみたいな呼び方が気に食わないんじゃないの?」

 

 サブレだとそのまま洋風な焼き菓子が脳裏に浮かぶが、サブちゃんだと途端に醤油感でるもんな。案外音の響きが気に食わないという可能性はあるのかもしれない。

 

「えー? 犬にそんなの分かるわけないじゃないですか……」

 

 そういって笑う一色の横で『こういうちょっと小馬鹿にしたところを見透かされているのだろうなぁ』という言葉をなんとか飲み込み、俺がサブレを落ち着けようと背中を撫でるとサブレは再び尻尾を振り、俺の顔を舐め始めた。

 はっはっは、可愛い奴め。

 

「むー……かわいくなーい……もういいです!」

 

 俺と一色に対するサブレの態度が露骨なまでに違うということに気づいた一色はやがて不機嫌そうにそう言うと、今度は冷蔵庫の上に避難しているカマクラの方へと近寄り、両手を広げ「おいでー♪」と声をかけた。

 すると、カマクラはその意図を理解したのか面倒くさそうにしながらもスッと立ち上がり一色の胸元へヒョイッと飛び降りてその腕の中にすっぽりと収まっていく。

 

「うーん♪ カマ君は素直で良い子だねぇ、よーしよしよし♪」

「んなぁ~……」

 

 サブレとは反対に、大人しく腕の中へと飛び込んできたカマクラに、一色はモフモフとしたその背中に頬ずりをしカマクラを愛でていく。

 ああ、この時期にそんな事したら服が毛だらけになるぞ……。

 夏場は特に毛が抜けやすいのだ。

 

「くぅーんくぅーん……!」

 

 そうして俺が一色に抱っこされるカマクラを眺めていると、サブレが俺の腕の中で必死に猫撫で声を上げ何かを訴えてきた。

 カマクラに対抗心でも燃やしているのだろうか?

 犬なのに猫撫で声ってどうなんだろうな。もしかしてこいつは猫なのかもしれない。

 

「どした?」

 

 俺がそのままサブレの背中を擦るように撫で、カマクラとサブレの視線が重なるように一色と並ぶと、今度はサブレとカマクラがお互いの鼻を擦り合わせ始めた。

 なんだかんだ、こっちの相性はそこまで悪くないんだよなぁ……。

 

「ふふ、こうしてると赤ちゃんを抱っこしてるみたいですね」

「まあ、重さもそれぐらいだろうしなぁ」

 

 サブレもカマクラも五キロ前後なので、人間の赤ん坊の平均を体重三千グラム前後と考えるなら、生後半年未満といったところだろうか?

 流石にここまでモフモフはしていないだろうが……。

 そうか……これが赤ん坊の重さなのか……。

 いつか俺もこんな風に嫁さんと自分の子供を抱く日がくるのか?

 その時の俺は一体何をしているのだろう?

 そして、その相手は──。  

 

 そんな事を考えていると不意に“ピンポーン”とインターホンが鳴り、バタバタと廊下を走る騒がしい音が聞こえてきた。

 勿論一色は今も俺の横でカマクラを抱いているので、その足音の正体は小町だ。

 

「はーい、少々お待ちくださーい。お兄ちゃーん、結衣さん来たよー!」

 

 やがて、小町がインターホン越しの会話を終えると、そう言ってひょっこりとリビングに入って来る。どうやら来客の正体は由比ヶ浜らしい。

 つまり、サブレとのお別れの時間がやってきたのだ。

 

「良かったねぇサブレ。お迎えがきたよ」

 

 小町がそう言って俺の下へと近づいてくると、俺の腕の中にいるサブレの頭を撫でた。

 一色の時とは違い、サブレは全く抵抗する素振りをみせず「ヒャン!」と嬉しそうに一度だけ吠える。

 

「んじゃ小町、そっちのサブレ関係の荷物まとめて持ってきてくれるか?」

「はーい」

 

 俺の言葉に従い、小町がサブレ用のおやつやらなんやらを由比ヶ浜が持ってきたサブレお泊りセットに詰め直しているのを確認すると、俺はサブレを床に下ろしリードを付けて一足先に玄関へと向かっていく。

 あまり客人を玄関先で待たすわけにもいかないしな。

 

「……!? や、やっはろー! ヒッキー、サブレ預かってくれてありがとね」

 

 そうして玄関へと向かい少し重い扉を開けるとそこには由比ヶ浜の姿があり、サブレが喜びの声を上げ駆け寄っていった。

 

「ただいまサブレー! いい子にしてた?」

「ああ、夜泣きもせずいい子だったぞ。な、サブレ?」

「ヒャン!」

 

 俺への挨拶もそこそこにして、其の場にしゃがみ込んでサブレの頭をモフる由比ヶ浜にサブレは嬉しそうにお腹を見せていく。

 玄関先なので背中が汚れる気がするが、まあこの程度はご愛嬌というものだろう。

 

「良かったぁ、色々心配だったんだ。あ、これお土産ね」

「こりゃどうも」

「大したものじゃないけどね」

「お兄ちゃんこれで全部?」

 

 由比ヶ浜から土産を受け取っていると、漸くサブレの荷物を纏めた小町が玄関へとやってきた。

 同時にまるでそこにいるのが当然とでも言うように、一色もカマクラを抱きながらやってくる。

 

「あ、小町ちゃんもありがとね……って……いろはちゃん……も来てたんだ?」

「はい♪ 結衣先輩、どもです」

 

 その事に由比ヶ浜は一瞬驚きの表情を浮かべた後、少しだけ戸惑いながら乾いた笑いを浮かべていたので、俺は慌てて弁明する。

 最近本当に毎日のように来てるから感覚が麻痺しているが、そういえば一色が家に来てるのってなんか意味深だよな……。もうすでに俺たちの関係はバれているわけだし……。

 

「あー、なんかコイツ今年の夏休みは小町の家庭教師するって毎日入り浸っててな」

「……小町は別に頼んでないんですけどね……」

「はぁ? この間『いろはさんが居て助かります』って言ってたじゃん!」

「いや、それは家庭教師関係ないというか、今日だってお兄ちゃんと遊んでばっかりっていうか……って痛い痛いぃ! 結衣さん助けてぇ!」

 

 俺が言い訳がましくそう言うと、途端に漫才が始まってしまった。

 小町達は俺の周りをバタバタと一周してから二階へ駆け上がっていく。

 全くコイツラは仲が良いんだか悪いんだか……。

 

「……とまあ、最近は毎日ずっとこんな感じでな……」

「は、はは……そうだったんだ……なんか、賑やかで楽しそうだね」

 

 いろこまコンビが居なくなり、由比ヶ浜が呆れたように笑うと、て突然二人きりになった俺たちの間に妙な沈黙が流れた。

 それは俺にしてみればようやく訪れたチャンスの時間でもある。

 だから、俺はそのチャンスを逃すまいと拳を握り込んでゆっくりと口を開いた。

 

「あの、さ……」

「ご、ごめんね! お邪魔だったよね、サブレのこと本当ありがとう! それじゃ私行くから……!」

 

 だがその瞬間、沈黙に耐えられなくなったのか、そう言って由比ヶ浜は逃げるようにサブレを抱き上げ玄関から飛び出していってしまった。

 

「え!? あ、おいちょっと……!」

 

 突然の事に俺も思わず靴も履かずに玄関の扉を開け外へと飛び出していく。

 左右を確認し、なんとかその背中を見つけるも、既にその背は小さくなり次の瞬間には角を曲がって見えなくなってしまった。

 あいつ、案外足速いんだな……! っていやいや、関心してる場合じゃないだろう比企谷八幡……。

 

「ちょ、ちょっと出かけてくる!!」

「え!? センパイどこ行くんですか!? センパイ!?」

「いいからお前らは勉強しとけ!」

 

 俺は一度家の中へと戻り、急ぎ玄関先に出ていたサンダルを履いてそう叫ぶと、二階から身体を乗り出すようにこちらに顔を出す一色を制し、由比ヶ浜を追って走り出したのだった。

 

***

 

 それから走ることおよそトラック半周ほど。

 開けた交差点の赤信号で立ち止まっている由比ヶ浜を見つけた俺は周囲の目も憚らず思わず由比ヶ浜の名を叫んだ。

 

「由比ヶ浜っ……!」

 

 その叫び声に由比ヶ浜がビクリと肩を震わせ振り返ってくれたことに若干の安堵感を覚え、俺は少し速度を緩めていく。少なくとも聞こえてはいるようだ。

 

 だが、それがいけなかったらしい。

 俺に気付いて振り返った由比ヶ浜は一瞬ギョッと驚いたような表情を浮かべた後、信号が青に変わったタイミングで再び俺から逃げるように走り出したのだ。

 

「え!? 由比ヶ浜!? ちょっと待……!」 

「な、なんで追いかけてくるのさ!?」

「そっちが……逃げるから、だろ……!!」

 

 慌てて再び速度を上げる俺と由比ヶ浜は道行く人々に奇異の目で見られながらチェイスを続けていく。

 はぁ……はぁ……真夏の全力疾走とかしんどすぎるだろ……暑い……死ぬ……給水ポイントはまだか……。

 くそ、こんなことならちゃんとした靴履いてくるんだった……。

 とはいえ、少しずつではあるが距離は縮まっている、あと数メートルで由比ヶ浜の肩に手をかけられそうだ。

 そう確信した俺はこれで最後だと自分に言い聞かせ、重い体を押し、一気にスピードを上げていく。

 

「きゃっ!?」

「え!?」

 

 そうしてようやく由比ヶ浜の肩に手が触れた瞬間、それは起こった。

 突然由比ヶ浜の腕に抱かれていたサブレが空を飛んだのだ。

 いや、厳密に言うと由比ヶ浜の肩を蹴り、俺の方へと飛び込んできた。

 その突然の行動に、俺は思わずその足を止め慌ててサブレが地面に叩きつけられないよう両手をばたつかせながら空中でキャッチする。

 

「うおっ、危ねぇな!」

「ご、ごめんねヒッキー! 大丈夫!?」

「ああ、ちゃんと受け止めたから怪我とかはないと思う……ったく、気をつけろよ……」

「ひゃん!」

 

 俺達の心配などどこ吹く風で嬉しそうに尻尾を振り回すサブレに、俺と由比ヶ浜は思わず顔を見合わせ僅かに笑みを零した。

 まあ、とりあえず由比ヶ浜も止まってくれたし、結果オーライというところだろうか?

 

「……で、なんで逃げたの……?」

「べ、別に逃げたわけじゃ……ヒッキーが追いかけてくるからじゃん……」

 

 なんにせよ、本題はここからだ。

 サブレを由比ヶ浜に返しながら、俺が出来るだけ平静を保ちそう問いかけていくと、由比ヶ浜は罰が悪そうに視線を彷徨わせ俺を非難して来た。

 こういう時、女子ってずるいよな。

 例え事実がどうであれ“自分は被害者だ”と主張すれば必然的に男の俺の方が立場が弱くなってしまうのだから。本当に理不尽である。

 冤罪、駄目絶対。

 

「いや、それはおかしい。順番が逆だろ……」

「お、おかしくないし。追いかけて来たのは本当じゃん……」

 

 なんだか卵が先か鶏が先かみたいな話になってきているが、この問答を続けても何にもならないし、ここで引き下がればきっと由比ヶ浜は今後も俺から逃げ続けるのだろう。

 だから俺は一度「ハァ」と大きく息を吐いてから由比ヶ浜を宥めるように本題を切り出していく。

 

「話があったんだよ……」

「はな、し……?」

「ああ……なんつーか、その……最近ずっとこんな感じだろ? 俺のこと避けてるっていうか……LIKEでも他所他所しいっていうか……なんか様子が変だったから……」

 

 それは、これまでの俺だったら絶対にしなかったであろう話題。

 少なくとも目の前にいるのが由比ヶ浜でさえなければ俺はきっとこうやって追いかけてきたりしなかっただろう。

 でも、今の俺はどうしてもそれを聞かずにはいられなかった。

 

「あ、あはは……私そんなに変だった……? 普通にしてたつもりだったんだけどな……」

「……」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜は目を泳がせ、下手な作り笑顔でそう答えていく。

 ただ俺にとって何より辛かったのはその取り繕ったような態度よりも、そこに否定の言葉が含まれていないことだった。

 それはつまり、これまでの由比ヶ浜の行動が俺の勘違いではなく、本当に俺を避けていたという事実に他ならなかったからだ。

 こうなってくると最早話を切り上げることもできず、俺は少しだけ目を伏せながらも続けて口を開いていく。

 

「その……よかったら少し話さないか……?」

「……あんまり話したくない……かも、今更話したところでどうしようもないっていうか……手も足もでないっていうか……」

 

 それでも由比ヶ浜の態度は変わらない。

 それどころか、まるで俺を責めるように、そして悲しそうに笑いながら小さな声で呟いた。

 

「……だって、ヒッキーといろはちゃんって……許嫁……なんでしょ?」

 

 その絞り出すような言葉に、俺はゴクリと生唾を飲み込む。

 やはりターニングポイントはそこか……。

 由比ヶ浜の態度がおかしくなったのがあの時からだということはなんとなく理解していた、ただなぜそれで由比ヶ浜の態度が変わったのか、その理由が分からなかったのだ。

 あの日、俺は俺自身が気づかないところで何かやらかしていたのだろうか?

 そう考えた俺は脳をフル回転させもう一度あの日の──合宿最終日の記憶を呼び起こしていくのだった。

 

***

 

**

 

*

 

 

「じゃあ、君が例の婚約者──いや、“許婚君”かな?」

 

 合宿が終わり、千葉へと戻ってきた俺たちの前に突如現れた雪ノ下陽乃と名乗る女性の不意打ちに、俺は思わず目を丸くする。

 完全に油断していた。

 恐らく俺は、一色から雪ノ下姉の存在を聞いた時点でもっと警戒しておくべきだったのだろう。

 この人が俺達のことを──おっさんのことを知っているという事実を軽視すべきではなかったのだ。

 いかんな、このままでは一色の高校生活に支障が出てしまうかもしれない。

 ココは俺がなんとかしなければ……。

 幸い、俺と雪ノ下姉が出会うのは今日が初めて、まだ取り繕う事は可能なはずだ!

 

「ナ、ナニ言ってんスか……? 俺と一色ハ別ニ……」

「あれぇ? 違った? お姉ちゃんこういう勘は外さない方なんだけどなぁ……」

 

 だが、いくら頭でそう考えていても。

 その時の俺は、雪ノ下姉の『逃さないぞ』と言わんばかりの視線に気圧され、まともな受け答えができなくなってしまっていた。

 一言で言えばテンパってしまっていたのである。

 蜘蛛の巣にかかった獲物というのはきっとこんな気分なのだろう。

 抗えば抗うほどにその糸が絡みついてくると分かっていても、ソレ以外にどうすればよいか分からず「あ……えと……」と視線を彷徨わせていく。

 視界に入るのは不安そうに俺を見上げる一色の姿。

 くそっ……なんとか……なんとかこの場を乗り切らねば。

 どうする? どうすれば話題を逸らせる?

 ええい、タンク役は何をしている! ヘイト管理ぐらいちゃんとしてくれよ……! いや、この場合一色のタンクが俺なのか? だとしたらアタッカーは誰だ?

 そんな事を考えていると、救いの手は思わぬところからやってきた。

 

「あ、あの……ヒッキー困ってますから……!」

 

 由比ヶ浜がまるで突き飛ばすかのように雪ノ下姉の肩を押し、俺から引き剥がしてくれたのだ。

 その由比ヶ浜らしからぬ態度に俺は勿論、雪ノ下姉も一瞬目を丸くし、自然と由比ヶ浜に視線が集まっていく。

 

「へぇ、比企谷君って結構モテるんだ? こーんな可愛い子いっぱい侍らしちゃって。憎いねぇコノコノォ♪」

「は、はべ!?」

「ち、違います! ヒッキーはそういうのじゃなくて!」

「そういうのじゃないならどういうのなの? お姉さんに詳しく教えて?」

「だ、だからその……えっと……」

 

 俺がモテる? 一体この人は何を言っているんだ?

 どこをどう見たらそんな風に見えるというのか──ってそうか……今この場にいる男は俺だけなのか……。

 となると……ここで俺が下手に口をだすのは逆効果だな……。

 この手の勘違いをしたがる人種は何を言ったところで聞く耳を持たないのだ。仮に何か言ったところで今の由比ヶ浜のように誂われ、遊ばれるのが落ちだろう。

 最早この場は完全に雪ノ下姉にペースを握られてしまっているのだ。

 ただ、ソレは同時に現状の打開策がないという絶望の証明でもあった。

 今は俺が何を言ってもやぶ蛇になりそうだ……。まずいな……。

 

「陽乃! その辺にしておけ……」

「やっほー、静ちゃん♪」

 

 そうして俺が雪ノ下姉対策で知恵熱を出していると、今度は思わぬ方向から二度目の援護射撃がやってきた。平塚先生だ。

 やけに砕けた調子で話す雪ノ下姉の態度から察するにそれなりに親しい間柄らしい。

 一体どういう関係だ? まさか婚活仲間……?

 

「平塚先生、お知り合いなんですか?」

「昔の教え子だ……」

 

 俺がそう問いかけると、平塚先生は少しだけ面倒くさそうにそう答えてくれた。

 なるほど……。ということは、雪ノ下姉は俺の先輩──OGに当たる人物なのか?

 まあ、だからといって特別敬う気持ちが湧いてくるとかでもないのだが……。

 

「姉さん、あまり私の友人に迷惑をかけないで頂戴。今は私を迎えに来ただけなのでしょう?」

「え? あ、そうだった。お母さんが待ってるんだった」

 

 続く雪ノ下の言葉にも雪ノ下姉はあっけらかんとそう答えるが、その興味の対象は依然として俺へと向けられているらしく、ニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべたまま俺を見ていた。

 その視線はなんというか“面白そうなおもちゃを見つけた”とでもいいたげで、正直向けられていて気持ちの良い類のものではない。

 

「な、なんすか……?」

「あ、あの……」

「へぇ……いろはちゃんの『センパイ』で、雪乃ちゃんの『友人』ねぇ……ふーん……」

 

 その言葉に俺は『いえ、雪ノ下が友人といったのは一色の方であって俺の方ではないですよ』と、否定しようかと思ったが、ソレより早く雪ノ下が叫び声をあげた。

 

「姉さん!」

「はいはい分かりましたよー。それじゃ、いろはちゃん、比企谷君。今度はゆっくりお話聞かせてね♪」

 

 やがて、雪ノ下姉は自らを急かす雪ノ下に引っ張られ、最後にそう言ってルンルンとスキップ混じりに先程乗ってきた黒塗りの高級車へと乗り込んでいく。

 当然、雪ノ下も乗り込んでいくのかと思ったが、雪ノ下は車に乗り込む前に一瞬だけ立ち止まり、こちらへと振り返った。

 

「……ごめんなさい」

 

 その謝罪が一体誰への、何のためのものなのか理解できなかったが、雪ノ下がそのまま俺たちの返答をまたず車に乗ると、車はゆっくりと走り出していってしまった。

 

「なんだったんだろうな……」

 

 嵐が去った。

 というのはきっとこういう状況のコトを言うのだろう。

 いや、あるいはそれ自体はまだ嵐の予兆だったのかもしれない。

 今更、雪ノ下姉が放った言葉をなかったことにはできないのだから──。

 

 気がつけば先程までのワイワイという楽しげな雰囲気はすっかり消え去り一色と由比ヶ浜がそれぞれ何か言いたげな視線を俺に向けてきている。

 恐らく、もうこれ以上俺と一色の関係を隠し通すことは不可能だろう。

 

 唯一の救いはここにいるのが合宿参加メンバー。それもその半分の人数だということ。

 より正確にいうならバレたのは雪ノ下姉妹、由比ヶ浜、そして平塚先生の四人だ。

 少なくとも由比ヶ浜に関しては俺と一色が名ばかりの“許嫁同士”で、あまり大っぴらにしたくないことを説明すれば『へー、そういうことだったんだ、早く教えてくれれば私も協力したのに』とか今後も相談に乗ってくれる可能性は高いだろう。

 となると問題なのはやはり平塚先生──。 

 

「さて……私もそろそろ車を返しに行かないとな……」

 

 しかし、そんな俺の予想とは裏腹に平塚先生はタバコを口に咥えたままそう言うと、まるで何事もなかったかのように運転席へと戻り車のエンジンを駆け始めた。

 

「それじゃ、私は行くが君たちは寄り道などせず帰るようにな、それと夏休み中問題を起こさないように」

「え、あ、はい……分かり、ました……」

 

 ぽかーんとマヌケな顔を晒す俺にちらりと目配せをすると平塚先生はそのまま車を走らせ、あっという間にその場を去ってしまう。

 残されたのは俺、一色、由比ヶ浜、小町の四人。

 その空気は最悪だ。

 

「そ、それじゃ私もそろそろ行くね。いろはちゃん、小町ちゃん。それに……ヒッキー……その、またね」

「お、おう……またな」

「結衣さんまたでーす……」

「またです……」

 

 やがてその空気に耐えられなくなったのか由比ヶ浜がそう言って走り出すと、俺はホッと胸をなでおろし「じゃあ……俺らも帰るか……」と小町と一色を連れ無言のまま帰路へと付いたのだった。

 

*

 

**

 

***

 

 それが、あの日起こったことの全てだ。

 あの時点では由比ヶ浜は俺を助けてくれたし、俺たちの関係には何の支障もないと思っていた。

 だが、どうやらそれは俺の希望的観測に過ぎなかったらしい。

 由比ヶ浜が「許嫁……なんでしょ?」と問い詰めるその顔は至って真剣そのもので、俺は一瞬どう答えたら良いか分からず思わず、グッと息を呑み込んでいく。

 

 この場合、俺はなんと答えるのが正解なのだろうか?

 しらばっくれたほうがいいのか、あるいは正直に話したほうがいいのか。

 そもそも何故由比ヶ浜は怒っているんだ?

 いや、というより由比ヶ浜は怒っているのか?

 この時の俺はそれすらも理解していなかった。

 

「否定……しないんだね……」

「あ……」

 

 返事が出来ないままの俺に、由比ヶ浜が追い打ちをかけるように、冷たく言い放つ。

 それは、これまでの由比ヶ浜からは想像もつかないような本当に悲しそうな声だった。

 最早、隠すことは出来ないだろう。

 ならばやはり由比ヶ浜との会話は必要不可欠。

 そこで俺はようやく腹を決めることにした。

 

「ああ……俺と一色は許嫁ってことになってる……一応な……」

「一応……? それって……?」

「ちゃんと話すから……逃げないで聞いてくれるか? 由比ヶ浜には全部聞いて欲しいと思ってる……」

 

 俺がそう言うと、由比ヶ浜は少しだけ考えた素振りをし、腕の中のサブレと視線を交わした後、数秒してから小さくコクリと頷いた──。




今回ちょっと難産だったのでぶつ切りになってしまいましたが
解決編の次回はちょっと短め予定です
本当は一話に纏めたかったんですけどねぇ……

ということで次回解決編もお楽しみに!
次話以降もよろしくお願いいたします!


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第109話 ひぐらしの鳴く頃に

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、ここすき、DM、誤字報告etcありがとうございます

先週はちょっと体調崩しておりました。
変な天気が続きますが
皆様も体調には十分お気をつけください……。


 あれから俺達は場所を移し、近くの小さな公園へとやってきていた。

 既に日は落ちかけ、ヒグラシが鳴き始める中、俺は両手に飲み物を携え、先にベンチへと座らせていた由比ヶ浜の下へと駆け寄っていく。

 

「ほい……紅茶で良かったか?」

「あ、うん。ありがとう。幾ら?」

 

 暑さのピークは過ぎたとは言えまだまだ夏、暑さに耐えかねた俺が自販機で買ってきたペットボトルのうち一本を渡すと、由比ヶ浜はそう言って鞄を漁り始めた。

 当然、中から出てくるのは財布だ。由比ヶ浜らしい少し小さく、それでいて派手な財布。

 

「いや、これぐらい気にしなくても……」

「駄目だよ、ちゃんと払う! 自販機なら百四十円だよね……」

 

 由比ヶ浜がそう言って小銭を渡してこようとするので、俺は『ここで揉めるのも面倒くさいか……』とそのまま百四十円をポケットに仕舞い、実は百六十円だったという真実も心の奥へとそっと仕舞ってから、隣へと腰掛けた。

 ちなみに隣といっても、俺と由比ヶ浜の間にはサブレも座っているので、密着しているとかではない。

 うんうんサブレ、悪いんだけどちょっと大人しくしててくれな?

 

「それで……?」

「ん?」

「私に聞いて欲しいんでしょ?」

「あ、ああ。そうだったな……えっと……どこから話したもんかな──」

 

 一瞬だけ今回の目的を忘れていた俺は、カシュっという音とともにペットボトルの蓋を開けて軽く喉を潤してから、ふぅっと息を吐き。

 俺と一色の物語を話し始めた。

 それは長いようで短い、それでいて突拍子もなく、ともすればフィクションとも思えるような話。

 入学式にサブレを助け病院に運ばれた後、一色の祖父であるおっさんに会ったこと。

 退院して、初めて一色と出会ったこと。

 そこで一色を許嫁として紹介され、家庭教師をやる羽目になったこと。

 一年間毎週一色の家に通ったこと、一色が去年の文化祭で志望校を総武に変えたこと。

 そして、合格までのことと合格してから今日までのこと。

 

 かなり端折ったとは言え、この一年の間に起こった出来事を話すのにはそれなりに時間がかかった。

 折角の公園に来ているのにベンチの上で長時間動かない飼い主達に愛想を尽かしたのか、サブレはいつの間にやら由比ヶ浜の膝の上でスヤスヤと寝息を立てている。

 正直少し羨ましい、いや、別に由比ヶ浜の膝枕がってことじゃないぞ?

 この状況で悩みもなさそうな顔で寝ていられることが羨ましいのだ。

 俺も出来ることなら全てを放り出して眠ってしまいたい。

 一色のことも、おっさんのことも、それこそこれから訪れる受験のことや将来のことも何も考えず眠っていられたら一体どんなに素晴らしいことだろう?

 だが、そういうわけにもいかないのが人間の辛いところなのである。

 

「──で、今に至るって感じだな……」

「そっか……去年ヒッキーにそんなことがあったんだ……」

 

 ようやく俺と一色の物語が現代へと追いつき、俺が『ふぅっ』と息を吐くと、由比ヶ浜がポツリとそう呟いた。

 その顔は泣いているような、笑っているような、物凄く複雑そうな表情で、感情を読み取れない。

 ともすればその呟きからは僅かに“後悔の念”のようなものが感じ取れた気がしたが、由比ヶ浜が後悔する理由がないので流石にそれは俺の気のせいだろう……。

 

「黙っていたのは……悪かったと思ってる」

「なんで謝るの? 別に……ヒッキーは何も悪く無いじゃん……」

「いや……まぁそう言われるとそうなんだが……」

 

 居た堪れない雰囲気につい謝ってしまったが、実際俺自身何が悪くて、何に対し謝っているのか? と問われればよく分かってはいなかった。

 俺と一色のことに由比ヶ浜は全くといっていいほど関係してないのは事実だし、もっと言えばこうして打ち明ける必要すらなかった話だ。

 まあ強いて関係している部分をあげるなら事故の原因がサブレだったというところぐらいか。映画のスタッフロールだったら『サブレ(友情出演)』とか表記されそうな端役も端役だけど……。

 

「……このコト知らなかったのって……もしかして私だけだったりする……?」

 

 それでも、こうして話しておかなければならないと思ったのは、由比ヶ浜の態度が変わったのが雪ノ下姉とのやり取りの──許嫁だと暴露された──後ということから、やはり原因は俺にあるのだろうと思ったからに他ならない。

 だから俺は由比ヶ浜の質問にはできるだけ誠実に答えようと、少しだけ背筋を正した。

 

「いや、基本ウチと一色の家族だけだな。当然雪ノ下に言った覚えもないし、雪ノ下姉がなんで知ってるのかは一色も分からんらしい……」

「ふーん……他には?」

 

 俺の答えに一瞬だけ由比ヶ浜が不快そうに眉を潜める。

 恐らくここで嘘をつくのは悪手だろう。その必要性もない。

 つまり、偶然にしても知っている人物が他にいるなら正直に話したほうが良い場面である。そう考えた俺は改めて他に俺たちのことを知る人物がいないか思考を巡らせた。

 

「他……ああ、材木座が知ってるか……」

「中二が……?」

「そっちは別件で色々あってな……」

 

 他には誰か……戸塚には当然言ってないし……川崎は……どうだっただろうか?

 確か話してないはずだよな? おっさんを紹介した日のやり取りで、何かを感じ取っているかもしれないが、少なくともここまでの話はしていないし、はっきりと問い詰められたこともないから問題はないはず……。

 とはいえ……もし、このことを川崎に説明したら川崎も由比ヶ浜と同じように怒るのだろうか? だとしたら……。

 そこまで考えたところで、俺は一つの可能性に辿り着いた。

 いや、あるいは確信したと言ってもいいかもしれない。

 ……ああ、そうか。そういうことか。

 だから由比ヶ浜は怒っていたのだ。

 

「悪い……」

「なんで謝るの?」

 

 改めて頭を下げる俺に、由比ヶ浜が苛立たしげに、そして少しだけ戸惑いの色をにじませながらそう呟いた。

 実際、俺自身こんなことをするのは“らしくない”とは思っている。

 こんなことをされても由比ヶ浜は困るだけだろう。

 別に由比ヶ浜が俺に愛想を尽かし、もう話したくないと言うのであれば、ここで俺達の関係を終わりにしても良かった。

 というか、むしろそうするのがベストだろう。

 二学期からは由比ヶ浜と出会う前の俺に戻り、お互いまた別々の道を歩いた方が由比ヶ浜のためでもある。

 それこそが比企谷八幡であり、俺らしい選択であるとも言えるはずだ……だが、いくら俺の中の冷静な部分がそう理解しても、俺は自分の感情を抑えることが出来ずに居た。

 

「由比ヶ浜に避けられるのは……正直、少し辛かったから……かな……」

「へ? それってどういう……?」

 

 俺が頭を上げ、そう言うと由比ヶ浜が不思議そうな顔を向けて来る。

 本当はこんなことも言うべきではないのかもしれない。

 こんな恥ずかしいやり方よりもっとスマートな方法があるのかもしれない。

 それでも、この時の俺はこの場を納めるために──由比ヶ浜との関係を維持するために──今溜めこんでいる感情を吐き出すことしか出来なかったのだ。

 

「……俺にとって由比ヶ浜は……その……初めて出来た“友達”だから……」

 

 それは俺の人生の汚点とも言えるような恥ずかしいカミングアウト。

 言われた由比ヶ浜はポカンとまるで何を言われたか分からない、そんな間抜けな顔で俺を見つめてくる。

 ああ、顔が熱い……。

 折角落ちた太陽がまた上ってきたような感覚だ。これが熱中症というやつだろうか?

 

「友、達……? 初めての?」

「ああ……恥ずかしい話だけどな……俺は生まれてこの方その……友達なんて出来たことがないんだよ……お前が……由比ヶ浜が俺の人生で初めての友達だ。だから……その……なんだ? このまま避けられて、関係を終わらせたくない……っていうのが正直なところなんだが……」

 

 恐らく由比ヶ浜が怒っていた理由は俺が“友人として話すべきことを話していなかった”ということに対する不満だったのだと思う。

 よくドラマとかでもあるだろ?

『何で言ってくれなかったんだ! 俺達友達だろ!』とかいうベタなアレである。

 まあ、俺自身友達なんて初めてでその辺りの作法は分からないし、友達だから何でもかんでも話せというのも違うとは思うが。

 少なくとも、今回の件に関してはこんなバレ方をするぐらいなら先に説明しておくべきだったのだろう。

 今だって『材木座より後に知った』という事実に怒ってる節があったしな。

 なのに、俺は『いつか話そう』とかすら考えていなかった。

 そこに由比ヶ浜の怒りの本質があるのではないだろうか?

 

 ならば、これ以上の被害拡大を防ぐためにも──一色に良からぬ噂が立つ前に──ここで由比ヶ浜には許しを請わなければならない。

 ここで由比ヶ浜に見限られるのはリスクが高すぎるのだ。

 どうにか納得してもらいたいところである……。

 

 勿論俺自身が由比ヶ浜との関係をここで終わらせたくないというのも嘘ではない。

 結局、どんな理屈を付けたところで俺にできるのは頭を下げることぐらいだった。

 

「それって……その……ヒッキーにとって私は……特別な存在……ってこと?」

「ん? まあ……そうだな。特別というか特殊というか……英語で言うとSpecialだ。なんか格好いいだろ?」

 

 流石に恥ずかしすぎたので最後は少し茶化してしまったが、由比ヶ浜はそんな俺の態度に思わずといった調子で「ふふっ」と吹き出した。

 まあ、友達が多い由比ヶ浜にしてみれば、笑い話に聞こえるのだろう。

 高二にもなる男が一体何を言っているのか。本当に恥ずかしい話である。

 

「ふふ、ごめん。笑うつもりじゃなかったんだけど……ぷっ」

「……思いっきり笑ってるじゃねぇか」

 

 そう言いながらも、由比ヶ浜は顔を背け必死で震える肩を抑えていた。

 くそっ、やっぱ言うんじゃなかった……。

 そんな耳まで真っ赤にして笑わなくたっていいだろうに……。

 もう二度と言わん。

 やっぱ由比ヶ浜との関係もここで終わらせた方が後々の為にもなるのかもしれない。

 

「くふっ、ごめん。でも……そっか……私って、ヒッキーにとって初めての友達だったんだね……」

 

 後悔と羞恥で顔が赤くなる俺に、由比ヶ浜は一頻り笑ってそう言うと、いつの間にか起きていたサブレをゆっくりと地面へと下ろしていく。

 するとサブレはその十数分ぶりの開放感からか一度ブルブルと身体を震わせ、由比ヶ浜の足元を「きゃんきゃん♪」と楽しげに回りはじめた。

 その様子がまるで俺の恥ずかしい発言を言いふらしている様に見えるのは流石に俺の被害妄想だろうか?

 こいつが人語を理解していなくて良かった……。

 いや、本当に良かった……。

 

「ずるいなぁ……。そんなコト言われたら、なんか全部どうでも良くなっちゃった」

 

 サブレを撫でながらそういう由比ヶ浜は先程までとは違い、まるで憑き物でも落ちたようにすっきりとした顔をしている。

 どうやら、俺への怒りはひとまず収まったようだ。

 ふぅ…… とりあえず当面の問題はクリア……か?

 

「……ねぇヒッキー、一応一つだけ聞かせて?」

 

 しかし、そう安心したのも束の間、由比ヶ浜はうーんと伸びをして立ち上がると、俺の方へと振り返る。

 その表情は逆光になっていたためよく見えなかったが、声のトーンはコレまでのものより少し低く真剣そのものだった。

 どうやらまだゲームクリアとはいかないらしい。

 女の子って本当よく分からん……。

 

「……何?」

「ヒッキーといろはちゃんが許嫁ってことはさ、結局二人は付き合ってる“フリ”じゃなくて、本当に付き合ってるっていうことなの?」

 

 その問いは恐らく一学期に起こった一色への誹謗中傷事件の事を言っているのだろう。

 なるほど……俺と一色が許嫁だという事がバレると今度はそういう勘違いが発生するわけか……。

 だが、当然ソレは大きな間違いだ。

 しっかりと否定しておかなければ。

 

「いや……あれは本当にフリだけだ、別に付き合ってるわけじゃない」

「でも、許嫁ってことは将来的にはその……結婚……するわけでしょ? 今日だってヒッキーの家に居るみたいだし……」

 

 トーンを落としていく由比ヶ浜に俺はふと首を傾げ考える。

 そういえば、俺は一番大事なことを伝え忘れていたのかも知れない。

 

「いや、あいつ他に好きなやついるんだよ。許嫁っていうのも“お互い別に好きな相手が出来たら解消”って話だからな」

「他に……好きな人? いろはちゃんが? ヒッキー以外に……?」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜の眉がピクリと上がったように見えたが、俺はそのまま説明を続けていく。

 

「ああ、だからなんつーかな、許嫁って言っても名ばかりっていうか……まあ、俺にとっては一色はもう一人の妹みたいなもんっていうか──」

「それ、いろはちゃんが言ったの?」

 

 そこまで言ったところで、由比ヶ浜が再びドンっと勢いよくベンチに腰掛け、俺を睨んできた。

 突然のことに俺は思わずビクリと肩を震わせ、一瞬喉をつまらせる。

 

「それって……?」

「他に好きな人が居るって! いろはちゃんが言ったの?」

 

 俺の問いに、由比ヶ浜は声を荒らげ俺に詰め寄ってきた。そこには誰の目にも明らかなほどに苛立ちの色が感じられる。 

 俺、また何か余計なことを言っただろうか?

 何も……おかしなことは言ってないよな……?

 とりあえず質問には答えなければ……誠実に……誠実に……。

 

「い、いや、言わなくても分かるだろ……」

「──っ!! そんな訳ないじゃん!!」

 

 だが、俺がそう答えた瞬間。今日一番の怒声が響いた。

 突然のことに足元で遊んでいたサブレも何事かと「ワン!」と一度大きく吠え、俺と由比ヶ浜の間で視線を行ったり来たりさせている。

 

「ゆ、由比ヶ浜……?」

「もっと、ちゃんといろはちゃんのコト見てあげてよ……! なんで、そうなるのさ! そんなの……そんなのいろはちゃんが可哀想だよ……!」

「……」

 

 由比ヶ浜の叫びはこの場にいない一色のためとは思えないほどに悲痛なもので、その瞳には今にも零れ落ちそうなほどに涙を溜めていた。

 一体、何が由比ヶ浜をそこまで感情的にさせたのか?

 正直、このときの俺には全く持って理解ができず、ただ目を白黒とさせることしか出来なかった。

 

 俺が? 一色のことを見ていない?

 その言葉の意味が分からない俺には、由比ヶ浜の叫びになんと返したら良いのか分からず、そこから数十秒ほどの無言の時間が流れた。

 本当に短い時間だが俺にとってみれば拷問のような気まずい時間だ。

 それがたった数十秒で済んだのは、サブレが居たからだろう。

 サブレは喉が渇いたのか、ベンチに飛び乗ろうとぴょんぴょんと跳ね、由比ヶ浜のペットボトルについた水滴をペロペロと舐め始めたのだ。

 

「……ねぇヒッキー。これは友達としてのアドバイスだから……ちゃんと聞いて?」

 

 その必死な様子が愛らしく、そして少し間抜けな姿に思わず「プッ」と笑みを零してしまった由比ヶ浜はお泊りセットの中から犬用の水筒を取り出しながら背中越しに俺にそう語りかけてくる。 

 

「あのね……妹扱いされて喜ぶ女の子なんていないんだよ?」

 

 そして、その場にしゃがみ込み、サブレに水を飲ませながら由比ヶ浜はほんの僅かに首をこちらに回し俺に流し目を向けてそう言ったのだった。

 

「それってどういう……?」

 

 だが、情けないことに俺にはその言葉の意味が分からない。

 当然だ、情けない話ではあるのだが俺には何故由比ヶ浜が怒鳴ったのかも分かっていないのだ。

 そしてそのアドバイスが由比ヶ浜の怒りとどう繋がったのかもわからない。

 そもそも、別に本当に一色のことを妹だと思っているわけではないしなぁ……。

 

「えっと……由比ヶ浜……さん?」

 

 思わず由比ヶ浜の横顔を覗き込みそう問いかける俺に、由比ヶ浜はやがて「はぁ」と分かりやすいほど大きなため息を吐くと、次にパンパンっという乾いた音を周囲に響かせた。

 由比ヶ浜がその両頬を自らの手のひらで叩いたのだ。

 

「よぉし!! 二人の関係も分かったし、ヒッキーの気持ちもわかった。それに……なら……まだ私にも……」

 

 由比ヶ浜はそういうと気合を入れるように勢いよく立ち上がった。

 最後の方はよく聞き取れなかったが『チャンスがある』とかなんとか言っていたように聞こえたか?

 いや、でも、何がチャンスなのかが全く分からないので、俺の聞き間違いだろうか……? チャンス……タンス……ピンズ……サンズ……?

 駄目だ、この状況に相応しい言葉が思い浮かばない……。

 

 なんにせよ、突然立ち上がったの由比ヶ浜は、くるっと俺の方へと振り返るとニコッといういつもの笑顔を向けて来る。

 その両頬には季節外れの見事な紅葉。

 先程のセルフビンタは何かの儀式だったのだろうか……?

 もしかして最近の流行りなのか? 女の子良く分からん。

 

「ヒッキー!」

「は、はい!!」

「……多分ね。私まだ少し混乱してるんだと思う」

 

 戸惑う俺に、由比ヶ浜は何かが吹っ切れたようなスッキリとした、それでいて真面目な顔で先程取り出した水筒を鞄の中に仕舞いながら言葉を続けていく。

 

「だから、少しだけ時間を頂戴?」

「時間?」

「うん、頭の中を整理する時間。そうしたら、またヒッキーの“友達”の由比ヶ浜結衣に戻るから……それまで少しだけ待ってて?」

 

 そこまで言うと由比ヶ浜は俺の返事も待たず、再び気合を入れるように「よしっ」と鞄を肩に引っ掛けサブレのリードを引いた。

 すると、ようやく飼い主が動き出したと察したサブレが勢いよくリードを引っ張って走り出していく。

 

「ほらほら、そうと決まったら今日は解散! ヒッキーも早く帰ってあげて、いろはちゃん待ってんでしょ?」

「お、おう……?」

 

 気がつけば、数メートル先へと歩きだしている由比ヶ浜を追うように俺も慌てて立ち上がった。

 一体、由比ヶ浜の中で何があったのだろう?

 とりあえず、今日の話し合いは成功ということでいいのだろうか……?

 俺と由比ヶ浜はまだ友達のまま……ってことでいいんだよな?

 だが、それならそれでもう一つ言って置かなければいけないことが……。

 

「あ、あのな由比ヶ浜……悪いんだが許嫁のことは他の奴らには……!」

「分かってる、言いふらしたりしないよ」

 

 どうやら、全て承知の上らしい。

 流石我が友由比ヶ浜である。

 

「それじゃヒッキー、またね! ちょ、ちょっと待ってよサブレ!」

「わん! わん!」

 

 最後に由比ヶ浜はそう言うと、サブレに引っ張られ足をもつれさせながら公園を出ていってしまった。

 一人取り残された俺の頭上で街頭の一つが光を灯す。

 気がつけば、すっかり日が落ち、周囲は暗くなっていた。

 とりあえず、一件落着……でいいんだよな?

 由比ヶ浜に言うべきことは言ったし、あと他にあの場に居たのは雪ノ下と平塚先生だが……あの二人なら夏休み中に噂が広まるということはないだろう……多分。

 むしろ心配なのは材木座だからな。

 

 まあ、とにかく……今日は久しぶりに枕を高くして眠れそうだ──。

 

*

 

*

 

*

 

「ただいま」

「おかえりー」

「おかえりなさーい。遅かったですね、何処まで行ってたんですか?」

 

 由比ヶ浜との話し合いが終わり家に帰ると、一色と小町の二人がキッチンで何かをしているのが見えた。

 まあ、何かと言ってもキッチンでやることなんて料理ぐらいしかないとは思うのだが……でも、おかしいな?

 

「おお、ちょっとな……ってなんでまだ居るの……?」

 

 最早一色が家に居ること自体に疑問はないが、この時間、少なくとも日が落ちてからもウチにいるというのは実は割りと珍しかったりするのだ。

 いくら小町が居るとはいえ年頃のJKが男の家に夜中まで居座っているなんて知り合いにバレたら許嫁のコトを別にしても悪い噂が立つのは明白だし、単純に暗くなれば帰りが心配になるからな。

 

「今日おばさまの帰りが遅くなるらしいのでお夕飯頼まれたんですよ」

 

 またかよ……。うちの母ちゃん一色がうちに来るようになってからというもの定期的にこういうことするから本当に困る。

 わざわざ一色に頼まなくても普段俺と小町で普通に飯作ってるだろう。

 あまり恥ずかしいことをしないで欲しい。

 

「いや、別に飯ぐらい俺と小町で作れるから帰りなさい? ほら、送ってくから支度しろ」

「大丈夫ですってば ほらほらもうちょっとで出来ますから座って待っててください♪」

 

 しかし、俺がそう言って一色を連れ出そうとキッチンへ足を踏み入れると、そのまま一色に追い出され無理矢理椅子に座らされてしまった。

 こうなったらもうてこでも動かないか……仕方ない、とりあえずもみじさんに連絡だけいれて、一色は後で家まで送ってくとするか。

 どうせ、今送ってくのも後で送ってくのも俺の手間は変わらないしな。

 

「おこめー、お玉とって」

「はいはーい」

「ふふふふふんふ♪ ふんふんふーん♪」

 

 楽しそうな女子二人の会話と鼻歌を聞きながら、俺はスマホを弄りもみじさんに一色の帰りが遅くなることを伝え、自分の母の無茶振りを謝罪していく。

 全く……一色に頼むぐらいなら俺に一言言ってくれればいいのに……はぁ、なんだか今日は謝ってばっかだな……。

 とりあえず由比ヶ浜の方は問題なく事が進んだが……。

 でも、やはり由比ヶ浜の言葉は引っかかるな……。

 妹扱いされて喜ぶ女の子がいないとかどうとか……?

 もしかしたら、こうやって夜道を心配して、送っていくという行為も一色にしてみれば妹扱いとして嫌な気分になるものだったりするのだろうか?

 

「一色」

「はい? なんですか?」

 

 『お前って妹みたいに思われるの嫌なの?』そう問いかけようとして、俺は口を噤む。

 なんて頭の悪い質問なのだろうと思ったからだ。 

 一体ソレを聞いて俺はどうするつもりだったのか。

 

「……いや、なんでもない」

「? ご飯ならもうすぐ出来ますからねー」

「……ああ、早めに頼む」

 

 結局俺はそのまま、スマホに視線を戻しもみじさんへのメッセージを打っていく。

 あれ? 既読が一瞬で着いたし、返信が3秒で来たぞ? 怖い。

  

「あ、そうだセンパイ、明日って何か予定ありますか?」

 

 俺がもみじさんからの返信に既読を付けないよう、スマホをソファへと投げると。今度はキッチンからそんな声が飛んできた。

 

「明日? 明日は一日家でゴロゴロしてるかな明日も暑そうだし──」

 

 反射的に答えてしまったが、言ってからしまったと思った。

 なんとなく、嫌な予感がしたのだ。

 予定があると言っておかないと面倒くさいことになりそうな、そんな予感。

 だがそう感じた時には既に遅く、ふと振り向けば一色がコチラに向かってニコニコと笑顔を向けていた。

 

「じゃあ、明日は一緒にお祭りに行きましょうね♪」

 

 あ、嫌です。




ということでガハマさんとの蟠りを“とりあえず”解消しました。
夏休み編からなかなか抜け出せないですが
多分あと1話か2話で終わる……はず……。

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第110話 デートっぽい何か

いつも感想、評価、お気に入り、誤字報告、ここすきetcありがとうございます。
また分割となり、一話伸びましたことを先にお詫びしておきます。


 その日の夕刻、俺は一人駅前で流れる人混みを眺めていた。

 夏休みも終盤に近づいているとは言えまだまだ八月。

 人が目の前を通る度にムワッとした熱気が流れ、俺の中の不快指数を上げていく。

 正直、早いところどこかの店にでも入って涼みたい気分だ。なんなら家に帰りたいまである。

 だが、そうも言っていられない事情が俺にはあった。

 

 今日俺がココに立って居るのは昨日一色に『お祭りに行きましょう』と誘われ、小町に『お土産よろしく♪』と家を追い出された結果なのだ。

 今から家に帰れば当然小町のお叱りを受けるし、なんなら母ちゃんにまで話が伝わり面倒なことになる可能性が高い。

 それに何より先程からチャラい男どもが暇そうな女子に声をかけている姿がチラホラと見えている。

 こんなところに一色を一人置いていって何か厄介事にでも巻き込まれたら、それこそ何を言われるかわからないからな。

 遠くない未来、一色が俺の手を離れるその日まで責任をもってあいつを守らなければ──そういう意味では今日、ここで待ち合わせにしたのは正解だったのかも知れない。

 まあ、一緒に家を出ればもっと楽だったとは思うんだけどな……。

 というのも、一色はつい数時間前までいつものように俺の家に来ていたのだ。なのに、何故か一度家に帰宅すると言って、ここを待ち合わせ場所に指定してきたのである。

 曰く『その方がデートっぽいから』だそうだ。

 確かに、今日のこれは男女が二人で出かけるという意味で一色の言葉通り“デートっぽい何か”ではあるのだろう。

 だが、デートそのものではない。

 そこは決して勘違いしてはいけないのである。

 そんなことを考え、俺がちらりとスマホに視線を落としていると、視界の端に「えっほえっほ」と態とらしく“一生懸命走ってます”アピールをしながらこちらへ近づいてくる浴衣女子の姿が目に入った。

 

「センパーイ♪」

「お、おう」

 

 浴衣女子の正体は言うまでもなく、今日俺がココに来る原因を作った少女、一色いろはだ。

 一色は浴衣・下駄・巾着という夏らしい完全お祭りコーデに身を包んだまま俺の下へとやってくると「へへッ」と嬉しそうに俺を見上げてくる。

 

「すみません、またせちゃいましたか?」

「いや……別に……」

 

 その眩しすぎるほどの笑顔に思わず自分の顔が赤くなるのを感じた俺は不意に視線を逸らし、できるだけ平静を装いながら会話を続けた。

 危ない危ない、危うく『こいつ、俺のこと好きなんじゃね?』なんていうくだらない勘違いをしてしまうところだった。成長しないな俺も。

 思春期の男子というのは本当にスグ勘違いをする生き物だからな……気をつけなければ。一色はあくまで庇護対象。妹みたいなもんだ。

 ってそういえば……由比ヶ浜に『妹扱いされて喜ぶ女の子なんていないんだ』って言われたんだっけか……。ならどうしろってんだよ……。

 許嫁として見ろってことか? そんなコト出来るわけ無いだろうに……。

 しかし、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、一色は嬉しそうな笑みを浮かべたまま俺の前に立つと、まるで子供のように両手を広げその場でくるりと一回転し全身をアピールして来る。

 

「えへへ、センパイセンパイ、ほらほら見てくださいコレどうですか?」

 

 一色の言葉に俺は一度目を閉じ、深呼吸をしてからその全身へと視線を落とした。

 その瞬間俺の心臓がドクンと跳ねる。

 そこには去年とは違い、深い青地に白い花が描かれた浴衣と黄色い帯、足元は白い下駄という普段のイメージからは少し離れた、大人びていて落ち着いた印象の一色の姿があったのだ。

 

「これ、お婆ちゃんが入学祝いにって買ってくれたんです。どうですか?」

「あ、ああ……似合ってる……」

 

 可愛いとか綺麗とか多分もっというべき言葉はあったのだろうが、俺の口から言えるのはそれが精一杯だった。

 というのも、先日の水着の時も思ったが、一色いろはという少女は傍目から見てもやはりとびきりに可愛い女の子なのである。

 何を着ても似合うというのはまさにこういうことを言うのだろう。

 こうして目の前に立たれると『一体前世でどれだけの徳を積んできたの?』と問いかけたくなる気分だ。

 

「ふふ、ありがとうございます」

 

 そんな俺の心境など知らず一色は再び嬉しそうに「えへ、えへへ」と口角を上げ、喜びを隠しきれないというように早口でそう捲し立てて来る。

 そういえば、以前一色が俺に何か『見せたいものがある』みたいな話をしていたな。それがこの浴衣か。

 この様子から察するに恐らくずっと誰かに自慢したくて仕方がなかったのだろう。

 まるで小学生のような無邪気さで「フフーン♪」と鼻を鳴らす上機嫌っぷりに、俺も柄にもなく釣られ笑いを浮かべてしまう。クソ、やっぱ可愛いなこいつ。

 というか、今から俺はこいつと二人で夏祭りにいくの? 本当に? 二人っきりで?

 なんか……平常心のままでいられるかちょっと不安になってきたんだけど……? あー、緊張してきた。もうすでに心臓がやばいぐらい早くなっている。なんだこれ……?

 いやいや、落ち着け比企谷八幡。

 別に一色と二人で出かけるなんて今日が初めてのことでもないだろう。こんなのはデートでも何でもない。俺は一色の虫よけ、つまりはボディーガード。それ以上でもそれ以下でもない。

 いつも通り、いつも通りに行こう。

 

「そりゃ、良かったな」

「あ、そうだ。センパイ知ってますか?」

「ん? 何が?」

 

 だが、そうして心を落ち着けながら歩く俺に、一色は両手を後ろに回し少し腰を曲げたポーズで、俺の顔を見上げるようにそう問いかけて来た。

 

「女の子の浴衣ってこの脇の下のところに穴が開いてるんですよ。これ何に使う穴か分かります?」

「は?」

 

 女の子が穴とか連呼するんじゃありません!

 とはいえ、ふむ……女子の浴衣にだけついている穴……?

 聞いたことがないな、あいにく俺は浴衣には造詣が深くない。 

 そもそもどれぐらいのサイズなんだ? 流石に中が見えるようなサイズではないとは思うが……。

 

「ほら、ココですよ。身八つ口って言うらしいんですけど」

 

 少し考え込んだ俺に、一色がそう言って左手を少しだけ浮かせて脇にあるその小さな穴を指さしてきた。

 そこにあったのは穴、というよりスリットのような妙な切れ込み。浴衣の色も暗く、ほとんどが影に覆われているのでその奥がどうなっているのかまでは確認出来ない。

 なので今度は俺がその部分を凝視するために少し腰をかがめその部分へと近づこうとしたのだが、そうすると一色は少し恥ずかしそうに身を捩り、身八つ口を隠すように腕を下ろしてしまった。

 

「センパイのえっち……」

「ち、ちが! ……すまん」

 

 その言葉の意味を理解した俺は、慌てて両手を前で振り、一色から距離を取って謝罪の弁を述べる

 元々そういう意図はなかったとか、そもそも自分から見せてきたんだろうとか言いたいことはあったが、ここは公共の場だ。

 下手なことを言って社会的な死を迎えたくはない。

 まったくもって理不尽ではあるがここは謝るしかなかったのだ。

 本当に理不尽だがな……。

 

「ふふ、冗談ですよ。でももしかして何か見えちゃいました?」

「み、見てない! 何も見えなかった! 本当だ」

「なら良かったです。それで、しっかり凝視して答えは分かりましたか?」

 

 そんな俺の不満を知ってか知らずか、一色はそう言って「ふふっ」と笑うとそのままクイズを続けて来た。

 とりあえず俺は罪には問われなかったらしい。セーフ。

 

 とはいえ……先程見た感じだと身八つ口とやらに特別帯を通しているとか、何か入っているとかは確認出来なかったな……。本当に何の変哲もない穴……。

 つまり、浴衣を着る上で必須な何か……というわけではなさそうだ。

 それに、男の浴衣にはないということも含めると、なくても問題はないが、あると便利程度の仕様なのだろう。

 身八つ口……身が八つ……八つの口。うーむ、何だ?

 女子の浴衣だけに付いている……となると……その部位つまり胸元に関係していることなのか?

 そういえば胸が大きい女性は浴衣──和服だと着崩れやすいという話は聞いたことがあるな、そういった不具合を直すためとか?

 あるいは──それを出す機会がある、つまり赤ん坊に授乳させるため?

 なんとなく、当たらずとも遠からずといった気がしないでもないが……。

 問題はそれが正解ではない場合、セクハラ認定されないか? ということだった。

 

 先程の一色の反応を見るに、半端な事を言うと軽蔑されてしまう可能性がある。なら、ここで俺が言うべき言葉は……。

 

「……分からん、降参だ」

 

 テストでもないのだし、外れたところで痛くも痒くもないだろう。

 そう考えた俺は、その場で両手を上げ降参のポーズを取った。

 一色としても知識をひけらかしたいだけなのだろうから、ここは俺が大人になって負けを認めるというのも一つの手だろう。

 実際、その読みは当たったようで俺が降参すると言った瞬間一色の口角はニィっと得意げに上がり「仕方ないですねぇ」とでも言いたげに大きく一歩踏み出してくる。

 

「ふふーん♪ じゃあ正解教えてあげますね」

 

 続けて一色は嬉しそうにそう言うと、一瞬だけ周囲に目配せをしてからちょいちょいっと右手をこまねいてきた。

 『顔を近づけろ』というジェスチャーだ。

 いや、普通に教えてくれよ。とは思ったが。

 今の一色は完全にそういうテンションになってしまっているのだろう。クイズ番組の司会者気取りというかなんというか──。

 俺は少々面倒くさいなぁと思いつつも仕方なくそのジェスチャーに従い、一色の口元に耳を近づけていく。

 すると、一色は右手で口元を隠すようにして俺の耳に顔を近づけ小声で正解を教えてくれた。

 

「──男の人がいつでも手を入れられるように、らしいですよ」

「ば!! は!?」

 

 だが、その内容は俺が想像していたものよりも数段ヒドイものだった。

 こいつは一体何を言っているのだろうか?

 脇の下の穴から手を入れるってことはつまり……その……。

 馬鹿なの?

 

「……もしかして、想像しちゃいました……?」

 

 目を白黒とさせる俺に、一色は続けてそう言っていたずらっぽく笑う。

 くそっ……完全にからかってやがるなこいつ……!

 それでも意図せず視線が下がってしまうのは男の性というものだろうか? 我ながら情けなくて仕方がない。

 

「っ! 馬鹿言ってないで行くぞ!」

 

 俺はせめてもの抵抗としてソレ以上茶番に付き合わないという意思表示をこめ一色を置いてツカツカとホームへ向けて歩き始めた。

 

「え!? ちょ、ちょっと待ってくださいよセンパーイ!」

 

 ハッと我に返った一色が慌ててカランカランと下駄を鳴らし俺の後を追って来るが最早知ったことか。

 っていうかソレ本当のことなの? 後で調べとこ……。

 

*

 

*

 

*

 

「わぁ、凄い人ですね!」

 

 それから電車に揺られること十数分、平常心を取り戻した俺と一色は祭り会場へとやって来ていた。

 祭り会場──というより、花火会場と言った方が正しいのだろうか?

 後一時間もすれば、夏の風物詩とも言える巨大な花火が夜空に打ち上がるので、周囲の人混みからは『どこどこが一番見えやすい』だとか、『どこどこが穴場だ』とか、そんな話声がチラホラと耳に入ってくる。

 

「はぐれるなよ?」

「はぁい、あ、センパイりんご飴ありますよりんご飴!」

「だからはぐれるなって……」

 

 とにかく人が多いので、ココで逸れたら合流するのはそれなりに手間がかかるだろう。そういう意味では現地集合にしなかったのは確かに正解だったのかも知れない。

 俺はできるだけ一色から目を離さないよう注意しつつ、チラリとスマホに視線を落として、これからのスケジュールを考えることにした。

 歩きスマホをしたいわけではない。小町から渡された「買ってきてほしいものリスト」を確認したのだ。

 内容は焼きそば、わたあめ、ラムネ、たこやき。というまさにお祭りの定番とも言える商品の数々。

 まあ、要はこれらを買ってこいという“お願い”という名の催促である。

 正直「自分で行けよ」とは思ったが「小町今年受験生だから……」としおらしく言われてはソレ以上強く言うことも出来ず、結局ここまで来てしまったので、これが今日の主目的と言ってもいい。

 でも、最後に書いてある「いろはさんとの花火の思い出──プライスレス」っていうのはなぁ……恥ずかしいから見なかったことにしよう。

 

「何見てるんですか?」

「小町の土産リストをちょっとな、とりあえず常温保存できるものから──」

「えー、そんなの帰りでいいじゃないですか! まずは楽しみましょ♪」

 

 そう言うと、一色は出店の方へと歩く俺の手を取り駆け出していった。

 と言っても反対にも出店はそこら中にあるんだけどな。

 まぁ、今スグに買わなければ売り切れるというものでもないし、土産は後でもいいか……。今どきはそこらのコンビニでも買えるだろうしな……。

 

「あれ? 比企谷じゃん」

 

 しかし、そうして一色に手を引かれるままに『アレもいいですね、コレもいいですね』と楽しそうに目移りする一色の背中を追いかけていると。

 不意にどこかから名前を呼ばれた気がした。

 自分で言うのもなんだが俺は友達を含め、知り合いが少ない。

 いや、最近はなんとなく増えている気がしないでもないが、それでも外で声をかけられるというのは非常にレアケースだ。

 そうでなくても比企谷というのは比較的珍しい名字だしな。

 もし仮に呼ばれたのが俺でなかったとしても俺以外に比企谷という名字の人間がいるなら顔だけでも見ておきたいというのもあり、俺はキョロキョロと周囲を伺った。

 だが、そこにいたのは──。

 

「……誰?」

 

 こちらに手を振る全く見覚えのないショートカットの少女に俺は思わず首を傾げた。一体誰だろう?

 やはり、呼ばれたのは俺じゃなくて、同姓の他人なのだろうか?

 いや待てよ……よく見ると確かにどこかで会ったことある顔だな……? あれはイツどこでのことだったか──?

 

「え、アレ? もしかしてデート? ごめんねぇ気付かなくってぇ」

 

 俺が暗がりに目を細めながら記憶を辿りショートカット娘の顔を注視していると、ショートカット娘はさして申し訳なくもなさそうに、ニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべ近づいて来た。

 少し怖い。本当に誰だろう?

 もしかして俺の後ろに何か見えてはいけないものでも見えてるのか?

 

「センパァイ、お知り合いですかぁ?」

 

 だが次の瞬間、どういうわけか一色がグッと俺の左腕を完全ホールドする形で体を密着させてきたのだった。

 少しひんやりとした一色の体温とサラサラとした肌触りの良い浴衣の生地が俺の手に触れ、心臓がドキリと跳ねる。

 しかも、視線をずらせば、そこにはショートカット娘の方をまっすぐ見つめ、ニコニコと営業スマイルを向ける一色の頭頂部が文字通り目と鼻の先にあり、ふんわりとしたシャンプーの香りによる鼻孔から脳へのダイレクトアタックが繰り出されていく。

 その不意打ちに俺の頭は軽くパニックを引き起こし、脳内データベースの検索作業は完全にストップ、気がついたときには「え、あ?」と間の抜けた声を上げていた。

 

「い、いや……知らんな……」

「は? 一応同じクラスなんですけど?」

 

 一色の行動に驚いたのはショートカット娘も同様だったようで、ショートカット娘は少し困惑気味に俺を責め立てる。

 って……同じクラス? ってことは学校関連か?

 ん? よくみればショートカット娘の後ろにいるのはユッコか?

 ああ、そうか。ユッコの取り巻きの一人か。

 そう言えば以前、校内で偶然出会ったコイツらに色々言われたことがあったな……。

 名前は確か……あれ? なんだっけ?

 いや、そもそも名前聞いてなくないか?

 

「……」

「……」

 

 名前が出てこない俺とショートカット娘の間に気まずい沈黙が流れていく。

 これは……俺が悪いのか?

 

「……すみません、センパイはそういう人なんです……」

 

 お互い何も言わないことに何かを察したのか、しばらくすると一色が「はぁ……」とため息を吐いてから俺たちの間を取り持つようにそう言って申し訳無さそうに頭を下げた。

 失礼な、そういう人とはどういうことか。

 まるで俺が社会不適合者みたいな言い方をするのは止めていただきたい。 

 

「えっと、多分“先輩”……ですよね? 私一年の一色って言います。お名前伺っても……?」

「え、えー。なんだぁ、一年だったんだぁ? 知らなかったなぁ~。あ、私はニ年の相模南。よろしくねぇ」

 

 突然よそ行きモードに変身した一色に戸惑ったのか、ショートカット娘改め相模は少し居心地悪そうにそう言うと、お互い笑顔のまま「うふふ」「あはは」と牽制するような意味のない会話を繰り広げ始めた。

 最早俺の存在は完全な空気だ、いっそこの場から離れたいまである。

 でも向こうとしては俺に声をかけてきたんだから、俺が離れるのは違うよなぁ……?

 何だこの状況……?

 どうすればいいの?

 なんというか、子供の頃母親の買い物に付いていったら知り合いと立ち話を始めた時みたいな感覚である……。居心地が悪く、早く帰りたい。

 

「ソチラはお友達と来てるんですか? 楽しそうでいいですねぇ♪」

「いやぁでもさっきからナンパがしつこくってさぁ、嫌になっちゃうよねぇ」

「へぇ、相模センパイってモテるんですねぇ♪」

「──そ、そうかなぁ……そんなことないけど──あ、邪魔してごめんねぇ、ウチらそろそろ行かなきゃ」

「いえいえ、こちらこそお会いできて楽しかったです、またお話聞かせて下さい♪」

 

 そんな俺の空気を察したのか、或いはもとからお互い切り上げ時を探していたのか、やがて二人はそう言って、去り際に何か言いたそうな瞳を俺に向けてきた。

 何だったんだ一体……。

 

「もう! なんなんですかアレ!!」

「さぁ、俺に聞かれてもなぁ……」

 

 どうやら一色も同じ感想をもったようで、先程までの営業スマイルはどこへやら、フンガーと怒りながら俺を責めてくる。

 いや、俺を責められても困るんだがな……。

 まあ恐らく陰キャな俺を見かけ少し誂おうとしたが、隣りにいたのが一色だったので驚いたとかその辺りなのだろう……。

 

「本当に知らなかったんですか? 同じクラスって言ってましたよ?」

「多分一回話したことあるぐらいだな、少なくとも名前は知らなかった」

 

 ずいっと顔を近づけて、まるで尋問官のような瞳を向けてくる一色に、俺は両手を胸の前でクロスさせるバリアを作りながらそう説明する。

 少なくとも俺の記憶にあるのは一回だけだし、嘘は言っていないはずだ。

 それでも、一色は何かを疑っているのか俺から目を逸らすコト無く責めるような視線を向けてくる。

 

「な、なんだよ……」

 

 それから数秒、俺の方が視線を逸らすと一色は「はぁ……」とホッとしたような、それでいて呆れたようなため息を吐いて俺に背を向けた。

 ちなみに、視線を逸らしたのは疚しいことがあったからじゃないぞ? その……一色の顔があまりにも近くてだな……その……。

 

「……名乗られて無くても普通はクラスメイトの名前ぐらいはある程度把握してるものなんですよ……」

 

 そういうとようやく一色が腕に込めていた力を緩めてくれたので、俺もホッと胸をなでおろし、一色と距離を取った。

 しかし……そうか、クラスメイトというのはそういうものなのか。初めて知った。

 今後は気をつけよう。

 そういや戸塚と初めて会った時も女性陣から非難がましい目を向けられた記憶があるが。あれはそういう意味だったのか……。

 

「まぁ、その方がセンパイらしいですけど」

「なにそれ、バカにしてる?」

「ふふ、さて、どうでしょう♪」

「おいこら、待て!」

 

 そんな会話を繰り広げていると、突然空からパンッ! という音が響き、一瞬だけ周囲が明るく照らされた。

 花火が上がったのだ。どうやら、すでに花火開始の時間になっていたらしい。

 

「あ、センパイ花火始まっちゃいましたよ! 早く行きましょ!」

「え? お、おい!」

 

 その事に気が付いた一色は俺の手を取り、人混みを掻き分けるように出店ゾーンを抜けて、広場へと向かっていく。

 しかし、そこは既に人でごった返していて思ったようには進めない。

 空を見て立ち止まる人も多く、少し油断すれば肩がぶつかってしまうような状況だ。

 それでも、こんなところに立ち止まってもいられないので、俺は少しでも一色が他のやつと接触しないよう注意しながら歩みを進めていく。

 ああ、こんなことならブルーシートの一つでも持って、先に場所の確保をしておくんだった。これはもう一旦諦めてこの場を離れたほうがいいか?

 そんなことを考え始め、一色を庇うように人が少ない方少ない方へと進んでいくと、気がつけばそこはロープで区画が仕切られている有料エリア。

 すでに金を払ってそのスペースを購入しているファミリー層や俺達より年が上のカップルたちが人混みを気にすること無く肩を寄せ合い優雅に花火鑑賞を行っていた。

 

「こっちは有料エリアかどうするかな──」

「あれぇ? いろはちゃんだ、それに比企谷くんも」

 

 前は有料エリア、後ろは人混みという状況でどうしたものかと軽く頭を掻いていると、またしても誰かに声をかけられた。

 本日二度目。

 本当、最近外で声をかけられるうことが多くなったよな……。これもある種の変化なのだろうか?

 でも、先程とは違い今度の声の主は一発で分かった。

 それは一色も同じだったようで、一瞬ビクリと肩を震わせたかと思うと少し戸惑ったように俺に視線を向け、ゆっくりと背後を振り返っていく。

 

「雪ノ下の──お姉さん?」

「え……なんでここに?」

 

 するとそこには、一色と同じく浴衣に団扇という完全夏モードな雪ノ下姉の姿があった。

 正直、あまり会いたくはない人である。

 しかも前回と違い、何故か今は怒り顔だ……。俺、何かしただろうか?

 

「なんでここにはこっちのセリフだよ、ここ貴賓席だよ? 君たちちゃんと許可とってるの?」

「え?」

 

 雪ノ下姉がプンプンという擬音を頭の上に載せ、両手を腰に当てたポーズでそう言うので、俺はふと周囲を見回していく。

 どうやら俺達が立っている辺りは同じ有料エリアでも一般人立ち入り禁止のVIPゾーンだったらしい。

 まずいな、罰金とかとられたらどうしよう。

 

「すみません、スグ移動します。行くぞ一色」

「は、はい」

「ってちょっと! うそうそ、冗談だってば! もう真面目なんだから……。ほらこっちおいで、花火見に来たんでしょ?」

 

 慌ててそのエリアを立ち去ろうとする俺達だったが、その瞬間雪ノ下姉は先程の怒り顔から一変イタズラが成功した子供のように笑うと、手招きをして俺達を有料エリア改めVIPエリアへと招き入れようとしてきた。

 その突然の変わりように、俺はどうしたものかと一色と顔を見合わせて考える。

 勿論、一色は俺の服の裾をつかみ、フルフルと小刻みに首を横に振ってきた。

 雪ノ下姉に苦手意識を持っているっぽい一色としてはスグにでもこの場を離れたいのだろう。その気持は当然理解できる、俺としてもこんな美人局のような状況で安易に「そうですね」と言うような男ではないからな。

 

 だが──俺はふと考えた。

 これはチャンスなのではないか? と。

 雪ノ下姉は神出鬼没だ。同じ高校に通っているわけでも、バイト仲間でもない以上、次にイツドコで会えるかも分からない。

 その癖、どの程度情報を持っているのかもわからないという危険人物である。

 前回はその存在こそ知りつつも対策を怠り、結果俺と一色の関係を暴露されてしまった。

 まぁ、同じようなことが二度三度とあるとは考えたくもないが……。

 今後のためにも一度ここらで少し腹を割って話しておくのも手なのではないだろうか?

 一色に余計な心配をさせないためにも、その方が良い気がする。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「え? ちょ、センパイ!?」

 

 そう考えた俺は驚愕の表情を浮かべる一色の手をギュッと握り、仕切りのロープをくぐると。そのままニコニコと俺を見下ろす雪ノ下姉の下へと歩みを進めていったのだった。




※身八つ口は子供用の浴衣にもあり。帯が男性のものより太いため、腕を動きやすくするために開いているそうです(詳しくは自分で調べてね)

というわけで110話でした。
多分次回で夏休み編終わりです。
長かったぁ……。

感想。評価、お気に入り、メッセージ、ここすき、誤字報告etc。
いつでもどこでもお待ちしております。


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第111話 心の距離、体の距離

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、ここすき、誤字報告ありがとうございます。

大変長らくお待たせいたしました
約一ヶ月ぶり?の投稿です。


 雪ノ下姉の好意に甘え、貴賓席と呼ばれる丘の上にある花火会場で最も標高の高い場所へと上がっていくと、そこには四角い和風の──和菓子屋の縁側にでも置かれていそうな──長椅子が等間隔で置かれていた。

 周囲を見渡せば恰幅の良い、浴衣女性を侍らせたいかにも金を持ってそうな中年男性を中心としたグループや、品の良さそうな老夫婦。家族連れなどがその椅子に座りながら花火を楽しんでいる。

 

「ささ、座って座って」

 

 その椅子の前で雪ノ下姉がそう言って俺達に座るよう促してきたので、俺達は少し戸惑い気味に視線を交わした。

 正直言うと既に若干の後悔をしているのだ。

 本当に座っていいんだろうか? 後から料金を請求されたりしないのだろうか?

 とはいえ、ここまで来て逃げ出すのもあまりにも情けないというもの……なぁに逃げれば一つ、進めば二つだ。

 俺は不安そうな一色の前で一度小さくコクリと頷いてから「よしっ」と気合を入れその椅子へと腰掛けていった。

 

 するとその瞬間、パンっと目の前で一際大きな花火が打ち上がり、真隣から「わぁっ」という感嘆の声が上がる。

 ふと視線を横に向ければ、そこには口を半開きにしながら無邪気な笑顔を浮かべ花火を見上げる一色の横顔。その瞳には赤や黄色や緑の花火が映り込みキラキラと輝いていた。

 なるほど……花火なんてどこから見ても同じだろうと思っていたが……視界に他人の頭も入ってこず、少し首を傾けるだけでこれだけの景色を一望できるのであれば確かに金を払う価値があるのかもしれない。まさに絶景のスポットだ。

 来年、受験が終わった小町を連れて来るのもいいかもな……実際幾らかかるのか知らんけど──一人五百円ぐらいでなんとかなるかしら?

 

「ふふ、お気に召してもらえたかな? 普通の人は入れないんだよココ」

 

 どうやら五百円では無理そうな雰囲気を携えながら雪ノ下姉は得意げにそう言うと、団扇を手にしたまま上品な所作で俺の横へと腰掛けてきた。

 もちろん、ここは元々雪ノ下姉の席なので、それ自体に文句を言うつもりはない。

 だが、浴衣美女に挟まれているという状況に多少バツの悪さを感じてしまうのは男としての性というやつだろう。

 百合に挟まる男絶対許さないマンがいたら確実に処されているところだ。

 まあ、雪ノ下姉☓一色というカップリングが成立するかどうかは怪しいところだけどな。

 

「はい、とっても!」

 

 そんなオセロだったらひっくり返ってしまいそうな状況で縮こまる俺とは対象的に、一色はご機嫌そうにそう答えると「ほらほらセンパイ! 次のが上がりますよ!」と俺の肩をバンバン叩いてきた。

 痛い痛い、ちゃんと見えてる、見えてるから! というかこの位置だと見ようとしなくても視界に入ってくるから……!

 全く……先程雪ノ下姉と出会ったときにはバツが悪そうな──会いたくない人に会ったみたいな顔をしていたはずなのに、現金なものだ。

 まるで小さな子供のようにはしゃぐ一色を見て、雪ノ下姉も手にしていた団扇で口元を隠しながらクスクスと笑っている。少し恥ずかしい。

 だが、考え方によってはコレはチャンスだ、一色が花火に夢中になっている間にこちらはこちらで大人の話を進めさせてもらおう。

 そう思い、俺は小さく『コホン』と咳払いをしてから、少しだけ雪ノ下姉の方へと体を傾けた。

 

「あー、えっと……雪ノ下さんは──」

「ン? 私のことは陽乃でいいよ? それかお姉さんでも可♪」

 

 しかし、出来るだけ真面目な口調で話しかけたつもりの俺に、雪ノ下姉は茶化すようにそう笑いかけてくる。

 つまり出鼻をくじかれてしまったのだ──。

 いかんいかん、相手のペースに惑わされるな、もう一度だ比企谷八幡。

 雪ノ下姉が俺より年上といってもたかが数年の差。おっさんと比べればどうということはない。

 

「──雪ノ下さんは、今日はどうしてここに?」

 

 俺は改めてそう問いかけ周囲を確認する。

 先程、雪ノ下姉に話しかけられた時から感じていたのだが、こういった場所で彼女が──女性が一人だというのはあまりにも不自然だと感じたからだ。

 雪ノ下姉が俺と同じ──あるいは雪ノ下雪乃と同じ──ぼっち属性という可能性もなくはないが、これまで話した感じではとてもそういうタイプには見えない。おそらく大学生の友人か、家族が近くにいるのだろう。あるいは──。

 

「……うん、父親の代理でね。ご挨拶ばっかりで退屈してたんだぁ、二人が来てくれて良かったよ──」

 

 と思ったのだが。

 どうやらそれらの予想は全て外れていたらしい。 

 雪ノ下姉はそこまで言うと、続けて少しだけ今日の訪問目的と自分の家庭の事情を話してくれた。

 父親がこういったイベント事に強い人物だということ。

 母親との関係が多少複雑だということ。

 そして、こういうときは決まって雪ノ下──妹──は家で留守番をしているということ。

 俺達が聞いてどうなるというものでもないが、恐らく愚痴の一環なのだろう。

 よほど鬱憤でも溜まっていたのか、特にこちらから情報を引き出そうとする必要もないほどにペラペラと所謂お嬢様にありがちなお家事情を話してくれた。

 

 ふむ、どうやら雪ノ下も雪ノ下でそれなりに苦労をしているらしい。

 あいつ、家だと大人しい系のキャラなのか……それはそれで見てみたい気もするけどな。

 だが、そういった外面を気にするタイプの家庭だというのであれば、雪ノ下姉がおっさんのことを知っていても不思議ではないのかもしれないという思いもあった。

 つまり──。

 

「今は、いいんですか? ……その、お相手とか?」

「お相手?」

「ええ、そういう場なら雪ノ下さんの──婚約者さんとかも一緒なんじゃ?」

 

 雪ノ下姉にはこういう場に出てくる時、横に並び立つべき相手がいるのではないか? と考えたのだ。 

 それこそ俺と一色のように、おっさんから婚約者──許嫁──を紹介されたのではないだろうか?

 もしそうだとしたら、雪ノ下姉が一色と俺の関係を知っていたことにも納得がいくというものだ。

 一色もその可能性に気が付いたのか「え? そうなんですか!?」と花火から目を逸らし、俺の背中にのしかかるように、身を乗り出してくる。

 

「婚約者? 私に? ないないそんなの居ないよ。君たちじゃあるまいし」

 

 だが、雪ノ下姉はそんな俺達を見て驚いたように一瞬だけ目を丸くしたあと、プッと吹き出し、そしてそこはかとなく俺達をバカにしたようにケラケラと笑い始めたのだった。

 その笑い方はとても演技には思えず、なんなら今年一番面白い冗談を聞いたとでも言いたげに足をバタバタと振り乱している。

 え……? 違う……のか……?

 ぶっちゃけその可能性が一番濃厚だと思っていたのだが……。

 

「ぷぷ……! 私に許嫁って……はー、お腹痛い」

 

 持っていた団扇で顔を覆い隠しながらも、体を前かがみにしながらぷるぷると小刻みに背中を震わせる雪ノ下姉の反応に、俺の顔がみるみる赤くなっていく。

 完全正解じゃないにしろ。婚約者候補を紹介されたことがあるとか、その辺りだと踏んでいたのだが……まさか完全にボール球だとは思っていなかった。

 

「……違うんですか?」

「全然違うよぉ、そんな相手紹介されても困るし……、むしろどうしてそう思ったのさ?」

 

 目尻に浮かぶ涙を人差し指で軽く拭う雪ノ下姉の前で罰が悪くなり、俺は視線を空へ向けてからコメカミをポリポリと人差し指で掻きながらその問いに答えていく。

 

「いや、おっさ──縁継さんの知り合いで俺達の関係も知ってるならその可能性が一番高いのかなと……」

 

 少なくとも『一色縁継』という人物と『許嫁(婚約者)』というワードが繋がっている時点で雪ノ下姉も俺達側の人間だと思っていたのだが……。

 本当に単なる知り合い程度の関係なのだろうか?

 最悪パパ活相手とか? とはいえその可能性を一色の眼の前で追求するには少々リスクが高すぎる気もする……。証拠があるわけでもないしな……。

 やはり俺には探偵の才能はないのかもしれない。

 

「残念だけど、私は縁継さんの知り合いっていうわけじゃないんだ。会ったことはあるんだけどね。多分向こうは私のコトなんて覚えてないんじゃないかなぁ」

 

 そうして、俺が自身の推理力のなさを嘆いていると、雪ノ下姉はポロリと正解を口にした。いや、正解といってもいいのだろうか?

 ヒント……といったほうが良いのかも知れない。

 

「覚えてない?」

 

 俺が雪ノ下姉の言葉を繰り返すと、雪ノ下姉は「うん、多分ね」と小さく頷き少し面倒くさそうに頬杖をついて空を見上げた。。

 その顔は、ちょっとだけ残念そうな、あるいは少しだけ苛立たしげな、そんな感情の読めない微妙な表情。

 困った、こうなると尚更よく分からない。

 そもそも、あのおっさんが他人の名前を忘れているという状況があまりイメージできないのだ。

 勿論おっさんだって“ギリギリ”人間である。高齢ということも考えれば。物忘れの一つや二つあってもおかしくはないだろう。

 だが、それでもあのおっさんが──雪ノ下姉のような強烈なキャラクターを持った人物のことを忘れているとはどうしても考えられず、俺はそのまま雪ノ下姉の言葉を待つことにした。

 

「うん、あれは私がまだ総武に通ってた頃──二年前の夏……後輩と一緒に遊んでる時にたまたま知り合った男の人がいてね。その人に縁継さんが女の人を紹介するシーンに遭遇したんだ。……懐かしいなぁ」

 

 するとその口から出てきたのはそんなシンプルな解答だった。

 思っていたより複雑な事情ということでもなさそうだが……いや、複雑なのか?

 

「それはつまり……元彼を取られた……とかそういう話ですか?」

「元彼って。違う違う、その人は私より全然年離れてたし、そういうんじゃないよ」

 

 あっけらかんと話すその様子からは雪ノ下姉が強がっているとか、未だに後悔しているとかそういった様子は微塵も感じ取れない。恐らく本当に恋人とか、片思いの相手とかではなかったのだろう。

 要はおっさんが婚約者を紹介している場に居合わせた。本当にただそれだけだったのだろうか……それにしてはどうも私情が挟まっているような……。

 

「ただ、その時の私はそれが気に入らなかったんだぁ……」

 

 そう考えた俺の横で雪ノ下姉は最後にそういうと、それ以上その話を続ける気はないとでも言いたげにタイミングよく打ち上がった巨大な花火を見て「おおーっ」と団扇を叩きながら拍手をしてみせた。

 恐らく、その現場で何かがあったのは確かなのだろう。

 しかし、俺としてはその辺りの詳しい話については然程興味はない。

 だから、俺は少しだけ話題を逸らし、もう一つの疑問をぶつけていく。

 

「えっと……じゃあ、なんで一色と俺のことを……?」

「うん? そっちに関しては完全に勘かな、あのお爺ちゃんの孫だっていうなら当然そういう相手がいるのかなって思ったし。あの場に男の子は比企谷くんだけだったでしょ? だから、もしかしたらって思っただけだよ」

 

 すると雪ノ下姉は視線を空に向けたままそう言って最後に小さな声で「まぁ──本音を言うと許嫁(そう)じゃなかったら面白いのにとは思ったんだけどね──」と呟いた。

 その言葉の意味は理解できなかったが……恐らくこちらもこれ以上深く話すつもりはないのだろう。

 だから俺は雪ノ下姉の思惑に従い、聞こえなかった振りをしたまま、言葉を続けていく。

 

「つまり、カマをかけられたと?」

「そういう言い方をされちゃうと元も子もないけどね」

 

 なるほど、結局のところ雪ノ下姉にとっては最初に一色に会ったのも、その後合宿の最終日に俺に会ったのも偶然で、ちょっとした玩具を見つけた程度のコトだったということなのだろう。

 逆を言えばあの日、あの時、俺が冷静に対処していれば由比ヶ浜達にバレることもなく、ロックオンされることもなかったのかもしれない。

 やはり俺の失態だ。

 それでも、雪ノ下姉の目的があくまで確認だけだというのなら今後はもう関わらないでいてくれると嬉しいのだが……。

 

「だから、私としては君たちが今日までどういう風に過ごしてきたのかとかが非常に気になるところなんだけどなぁ? そもそもどうやって許嫁になったの? お互いの第一印象は? もしかして卒業と同時に結婚とか考えてる?」

 

 俺の思惑とは裏腹に雪ノ下姉は興味津々という様子を隠そうともせず、俺と一色を交互に見つめ矢継ぎ早にそう問いかけてきた。

 さて……どうしたものか……。

 

「そ、それより雪ノ下さんと縁継さんの出会いの話の続きが気になるんですけど……」

「えー? そっちは別に大して面白い話でもないよ? 微妙に長くなるし……まぁどうしてもっていうなら“めぐり”にでも聞いたら?」

「めぐり?」

 

 何か、雪ノ下姉に対抗出来る術がないかと苦し紛れにそう訪ねたのだが、突然新たな登場人物が出てきて、俺の脳が一瞬バグる。

 めぐり? 誰だ? 今までの話で出てきたっけか……?

 

「うん、城廻めぐり。私の後輩であの時一緒にいたから事情は全部知ってるし、今は元気に三年生やってるはずだよ」

「センパイセンパイ、生徒会長ですよ」

「ああ……生徒会長」

 

 一色が耳打ちでフォローしてくれたので、ぼんやりとその人物の輪郭が浮かび上がってくる。

 そうか、生徒会長か。そういえばそんな名前だったような気もする。

 しかし、対して面識もないのにワザワザ話を聞きに行くのもなぁ……それならいっそおっさんに聞いたほうが──あ、おっさんは雪ノ下姉のことを認識してない可能性があるのか……ふむ、どうしたものか……。

 

「さて、それじゃ花火も終わったし帰ろうか」

 

 なんだか全てが面倒くさくなりながら、ぼーっとその後のことを考えていると、不意に雪ノ下姉がそう言ってスックと立ち上がり伸びをした。

 空を見上げれば既にそこには暗い夜空だけが広がり、周囲からは花火大会終了のアナウンスが流れ始めている。

 どうやら話をしているうちに花火が終わってしまったらしい。

 

 その事に一瞬どうしたものかと悩んだ俺だったが、貴賓席という超VIP席に残っているのも少し怖かったので、雪ノ下姉の言葉に従い、特に目的地を定めるでもなく一色とともにその場を後にしたのだった。

 

***

 

 それから雪ノ下姉とともに歩くこと数分。

 花火会場を離れ大通りへと出ると、まるでタイミングを計っていたかのように一台の車が俺達の前に止まった。

 当然、タクシーではない。

 それは黒塗りの、合宿最終日に雪ノ下姉と雪ノ下が乗って帰ったあの車。

 つまり、雪ノ下家の車だ。

 

「なんなら送ってくけどどうする?」

 

 雪ノ下姉は眼の前に止まったその車の後部座席の扉に手をかけると、親切心からかそういって俺達に微笑みかけてきた。

 普通に考えればそれは有り難い申し出だ。

 片道とはいえ電車賃が多少浮くのだからな。

 とはいえ、相手はあの雪ノ下姉である。

 問われた一色は一瞬だけ困ったように俺の方へと視線を向けてくるが、視線を向けられた当の俺はというと、その車のフロント部分を凝視し、まるで話を聞いていなかった。

 

 それもそのはず、その車はあの日俺を轢いた車にあまりにも酷似していたのだ。

 正直に言えば、合宿最終日のあの日からそうではないかと予想していた。

 いや、もしかしたら同じ車種の別の車に乗り換えているという可能性も無くはなかったが、俺には不思議とそれがあの時の車だという確信があったのだ。 

 

「そんなに睨んでも、見えるところに傷なんて残ってないよ?」

 

 俺の判断が正しかったという証拠に雪ノ下姉はそんな自白にも近い言葉を俺に投げかけてくる。

 これで決まりだ。つまり、あの日俺を轢いたのは──。

 

「傷……?」

 

 しかし、そんな雪ノ下姉の言葉に先に反応したのは一色だった。

 

「センパイ。傷って……どういうことですか?」

 

 まずいな、一色に詳しくこの話をしていいものか少し判断に迷うところだ。

 一体なんと答えたらいいものか。

 そう悩む俺に、雪ノ下姉が少しだけ申し訳無さそうに言葉を紡いでいく。

 

「あれ? もしかしていろはちゃんは知らなかった? まずいこと言っちゃったかな……」

 

 雪ノ下姉との付き合いはまだ短いが、本当にまずいことを言ったと思ったのだろう。

 珍しくバツの悪そうな顔で俺に助け舟を求めるような視線を向けてきた。

 だが、一体何を言えばいいのか。

 そう悩んでいる間に一色の中のパズルのピースはパチパチとハマっていったのか、一つの答えを導き出してしまったようだ。 

 

「じゃあ……センパイを轢いたのって……雪乃先輩?」

「あー……勘違いしないでね? 雪乃ちゃんが悪いわけじゃないんだから、あの子はただ乗っていただけだし、何一つ悪いことはしていない、それでいいよね? 比企谷くん?」

 

 その小さな拳に力を込め、ワナワナと震える一色の手を視界の端に収めながら、俺はなんとか雪ノ下姉と会話を合わせようと思考を巡らせた。

 

「まあ……そっすね、直接事故を起こしたのはあいつじゃないし……なら無関係でしょう……」

 

 実際、それはその通りなのだ。

 雪ノ下が免許を持っているわけではない以上、あの日俺を轢いたのは雪ノ下ではないのは明白。

 だから、今日までアイツが何も言ってこなかったとしてもそこに他意はないのだろう。

 俺と雪ノ下は友達でもなんでもないのだから……。

 

 だが、一色にとってはそうではなかったらしい。

 一色は少しだけ泣きそうな表情で俺の方を見ると、今日一真剣な顔でキっと一度だけその車を睨みつけた。

 どうやら、送ってもらうという選択肢は完全に消えてなくなったようだ。

 

「あー……えっと、すみません。そういうことなんで……」

「そっか、それじゃ私はここで、またね二人共」

 

 俺がそう言うと、雪ノ下姉はこれまでのようにあっけらかんと笑うと、そのまま車に乗り込み「ばいばーい」と手を振りその場を去っていった。

 残されたのは俺と一色の二人だけ。

 しかも一色は不機嫌そうに言葉を発さない。 

 

「とりあえず……帰るか……」

 

 仕方なく、俺はそう言って歩きだすと、一色は俺の裾を遠慮がちに掴み、俺に引っ張られるようにして駅へと向かったのだった。

 

***

 

 行きとは違い、帰りの電車内は静かなものだった。

 まさに感情のジェットコースター。

 上機嫌と不機嫌の波を乗り越え、今一色は一体どんな感情で俺の横に立っているのだろう?

 勿論、一色が不機嫌な理由はわかっている。

 雪ノ下が俺を轢いた──事故の相手だということを黙っていたことに腹を立てているのだろう。

 いや、黙っていたというのは正確ではないな……俺自身も確信をもったのはつい先程の事なのだから……。

 

 だから、俺としてはいつまでもヘソを曲げられていても困るのだが、ガタンゴトンと揺れる電車の中で一色は相変わらず俺の裾を掴み、話そうとはしてこない。

 

 そうして、お互い無言のままやがて、一色の家の最寄り駅へと電車が止まった。

 一色に手を引かれながら、当然のように俺も一緒に電車からホームへと降りていく。

 まあ、一色の家は駅からはそれほど遠くはないし子供ではないので送っていく必要なんてないとは思うのだが……、なんだかんだ夜も遅いし何かあったら俺の責任にされそうだしな……。

 

 そう考えていた俺は予め決めていた通りに、特に文句を言うでもなく無言のままホームを出て一色の手を引くように改札へと向かっていく。

 

 流石に改札も一緒に抜けるというわけにはいかないので、少し名残惜しそうな一色の手を振り払い、俺が先に改札を通るとそこには懐かしのスーパーが見えた。

 いや、懐かしくはないな……よくみると店の名前が変わり、看板が大手のチェーン店のものへと変わっている。あの店……潰れたのか。

 そういや川崎がそんな風な話もしてたっけ。

 ほんの少しだけ一年という歳月の長さを感じるな。

 あ、でも隣のサイゼは生き残っているようだ、流石サイゼ。

 

 そんな風に一色家の家の駅周辺を懐かしんでいると、改札を抜けた一色が俺の真後ろに佇んでいる事に気がついた。

 浴衣姿というのも相まって一瞬霊的何かかと勘違いして心臓止まるかと思ったわ……

わ……。

 本当に止めて欲しい。

 

「ど、どした? 帰るぞ」

「……事故の相手が雪乃先輩だって……センパイは知ってたんですか?」

 だが、一色はそんな俺の動揺など気にする風もなく、そんな質問を投げかけてきた。

 恐らく先程からずっとそのことを考えていたのだろう、一色の顔は真剣そのものだ。

 何なら、少し怖いまである。

 だから俺はその問いには真面目に答えることにした。

 

「知ってたわけじゃない、もしかしたらって思った程度だ……」

「じゃあ、雪乃先輩の方は知ってたんですよね?」

「さあな、それは俺には分からん……本人に直接聞いてくれ」

 

 実際雪ノ下が俺のことを知っていたのかは微妙なところだ。

 先程の雪ノ下姉の言葉からして乗っていたのは事実なのだろうが、とすれば恐らくは後部座席。

 俺の姿が見えなかったといわれればソレまでだし。そうでなくても例えば、人を轢いたというショックで車の外には出ず、俺の姿は確認していないという可能性だってある。

 事後処理は運転手に全部任せていた、とかな。

 あるいは、車の外には出たが、俺の顔が血まみれで判別不可だったとか……。

 まあとにかく、雪ノ下が事故の相手が“比企谷八幡”だと認識していないという可能性は否定しきれないわけだ。

 だが──。

 

「でも、結衣先輩の話とか、これまでの話とか聞いて……! それで……そしたら事故の相手が先輩だって分かってたはずですよね!」

 

 そう、俺たちの間にはもうひとり由比ヶ浜結衣という当事者がいて、すでにそのことを雪ノ下は理解しているはずなのだ。

 校内でもトップクラスの成績を誇り、聡明な雪ノ下がその事に気が付かなかったとはとても考えにくいのである。 

 例え最初は本当に知らなかったとしても、与えられた条件からこの結論を導くことは可能だっただろう。

 今更知らなかったです、と言われても正直信用は出来ない。

 

 それでもまだ彼女を庇う余地があるとすれば。

 轢いた相手が“俺だった”というところだろうか。

 というのも、雪ノ下にしてみれば俺の存在はあくまで一色のおまけ。

 これまで話すタイミングがなかったというのであれば、こちらとしても深く追求することはできないし、そりゃそうだと納得するしかない。

 自分で言うのもなんだが、この一年俺の横には大体一色がいたしな……。

 

「──だとしてもお前が怒るコトじゃないだろ、さっきも話したけど俺としては正直もうどうでもいいコトだし……」

 

 だから、今俺に言えるのはそれが精一杯だった。

 俺は超能力者ではないのだ、雪ノ下の思考なんてさっぱり分からない。

 そもそも何故一色がここまでムキになっているのかすら分からないし、雪ノ下をかばう義理もなければ、特別恨んでる訳でもないしな。

 雪ノ下姉の言った通り、雪ノ下は後部座席に乗っていただけ。

 今更由比ヶ浜のように呼び出され『あの時車に乗っていました、ごめんなさい』と言われたところで『はぁ、そうですか』としか言いようがないのだ。

 

 最も、もし仮に俺と一色の立場が逆で──何かしらの手違いで俺が奉仕部に入っていたとかであればまた違った感情を抱いていたのかもしれないが──そんな存在しない世界線のことを考えても仕方がないことで。

 そういった平行世界に関する妄想は材木座にでも任せるのが吉というものだろう……。

 

「む~……!!」

「ほら、いいからもう帰るぞ……」

 

 だから俺はいい加減この話題を打ち切らせ、そのまま駅を出ようと試みる。

 既に時刻は二十一時を少し回ったところ。

 一色の家の門限が何時かは分からないが、もしこれが小町だったら警察に捜索願を出している時間だ。

 早いところ家に帰さなくては。

 

 そう思っているのだが、一色はまだ帰りたくないのか、あるいは未だに振り上げた拳の行き場に困っているのか、そうして腕を引く俺に抵抗するように今度はその場にしゃがみ込んでしまった。

 その突然の行動に、俺も、そしてソレを見ていた駅員たちも何事かと視線を向けてくる。

 正直恥ずかしい。

 

「何してんだよ……」

「もう……歩けません……」

「は?」

「もう歩けないんです! 疲れました!」

 

 その場にしゃがみこみ、叫ぶように訴えかける一色を見下ろしながら、俺は「はぁ」とため息を一つ零した。

 そういえば、昔小町にもこんな時期があったなぁ……。

 しかし、今ここにいるのは小町ではない、たった一つ年下の──誕生月だけを考えるなら年下とも思えないような少女だ。

 全く、こいつは一体何を考えているんだろう……。

 

「疲れたってお前……お前んちもうすぐそこだろ……もうちょい頑張れよ……」

 

 休むなら家に帰ってから休めばいい、どうせ明日も夏休みだ。

 なんなら昼まで寝ていたって構わないだろう、疲れているなら尚の事こんなところで駄々をこねている方が非効率的というものである。

 

「ん!」

 

 だが、呆れながらそう考える俺に向かって、一色は両手を伸ばしてきた。

 一瞬その意味が分からず、俺も「ん?」と首を傾げてしまう。

 

「……オンブして下さい」

「オンブって……お前……」

「去年はしてくれたじゃないですか」

 

 そういえば……そんなことがあったなぁとふと俺は一年前の事を思い出した。

 去年、一色が階段から落ちたところにたまたま居合わせた俺はそのまま一色をおぶって近くのコンビニまで運んだのだ。

 あの時の一色……めっちゃ重かったんだよなぁ……我ながら途中で落とさなかったことを褒めてやりたい気分だ。

 

「去年はお前が怪我してたからだろ……」

「怪我しました! 靴ずれしました! 骨が折れました!」

 

 だから個人的にはもう一度アレをやりたくないという思いもあり、ささやかな抵抗を試みたのだが、一色は再びそう言って俺にオンブをせがんでくる。

 こうなってくると最早一色を納得させることは不可能だろう。

 完全に人の目を気にしない我儘モードである。

 続々と改札を抜けてくるサラリーマンや、ニヤニヤと俺たちを盗み見てくるチャラチャラしたカップルどもの視線が痛いほどに突き刺さる。

 はぁ……仕方ないか……。

 

「あー、もうわかったわかった……ほら……」

「えへへ♪」

 

 俺が一色に背中を向けながらその場にしゃがみ込むと、一色は嬉しそうに笑うとそのまま「えいっ」と俺の背中に覆いかぶさってきた。

 足が痛いんじゃなかったのかよ……。

 

「しっかり掴まってろよ」

「はーい」

 

 既に日は落ちているとは言えまだまだ夏。

 一色の両手が俺の首へと周り熱が籠もっていくのを感じながら、俺は気合を入れ一度大きく息を吸い込んだ。

 ここから一色の家までは、去年のあの階段からコンビニまでの距離よりは少し長い。

 なんとか無事送り届けられればいいが……。

 そう不安に思いながらぐっと太ももに力を入れ、腰を持ち上げた瞬間、予想した以上の一色の重みに俺は思わず「おわっ」と声を上げよろけそうになってしまった。

 その重さに驚いたのではない。想像以上の軽さに驚いたのだ。

 

 少なくとも去年より体感で五キロ……いや、十キロは軽く感じる。

 ダイエットでもしたのだろうか?

 だが、この一年で一色の体型が劇的に変わったという印象はない。

 成長期というのを加味するなら寧ろ増えていても不思議ではないはずだ。

 なのに、これほど軽く感じるのは何故か?

 その理由はスグに理解できた。

 俺の背中と一色の体の密着度が去年より圧倒的に高いのだ。

 

 去年は遠慮がちに俺の背中に乗っていたため、重心のほとんどが腰の辺りにあった。

 だが今はどうだ。

 その手は完全に俺の首に巻き付き、柔らかい胸は肩甲骨にピッタリと伸し掛かり。その太ももに回っている俺の手への文句も一つも出てこない。

 つまり、今の一色は完全に俺に体を預けているのだ。

 

「センパイ? どうしました? もしかして……お、重い……ですか?」

「ん? いや、そうじゃなくてな……」

「そうじゃなくて……?」

 

 この小さな変化に、一色自身が気がついているのかどうかは定かではなかったが、俺にとってはあまりにも大きすぎる変化に俺は戸惑いを隠せなかった。

 本当にこのままの姿勢で進んでも良いのか?

 俺の手は本当にココを掴んだままでいいのか?

 

「ほらほら、センパイ早く進んでくださいよ。恥ずかしいじゃないですか……」

「あ、ああ……」

 

 今更何を言っているんだと言い返したくなったが、一応恥ずかしいという感覚はあるらしい。

 仕方なく、俺は一色に言われるままにそこから一歩、また一歩と一色の体温を感じながら、確実に目的地へと歩みを進めていく。

 一色の心音と俺の心音が重なり、気がついたときには最早一色の重みなど微塵も感じてはいなかったが、それでも、俺の体は徐々に熱を帯びていった。

 

「センパイ? なんか顔赤くなってますけど……大丈夫ですか? お、重かったら言ってくださいね……?」

 

 無言のまま進む俺に一色は不安になったのか、自信なさげにそう問いかけてくるので俺は出来るだけ平常心で「別に、軽いぐらいだ」と答えると、一色はそれ以上何か聞いてくることはなく、ギュッと俺の首に回した手に力を込め、俺の右耳の辺りに一色の柔らかい頬を重ねてきた。

 

「ふふ♪」

「な、なんだよ、もう元気になったなら下ろすぞ」

「だめでーす! ほらほらしっかり進んで下さい! あ、でも出来るだけゆっくりお願いしますね? なんなら少し遠回りしてくれるとポイント高いです♪」

「ばーか」

 

 どうやら、軽口を叩けるぐらいには機嫌が治ったらしい。

 そういう意味ではおぶった甲斐はあったのだろうか。

 でも、こんな状況で遠回りなんかしてたまるか、ただでさえ俺の心臓が持ちそうにないというに……全く。来年は絶対自力で歩かせるからな……。

 

 結局、俺はその後寄り道をすることこそ無いものの、一色の家のマンションの前まで一色をおぶっていったのだが。

 そこでもみじさんに捕まり、そこから更にニ時間程拘束される羽目になったのだが……。

 疲れすぎたせいか、その後どうやって家に帰ったのかよく思い出せなかった。

 

 ああ、夏ももう終わりだな……気がつけば二学期もすぐそこまで迫ってきていた──。




とりあえずこれで
二年生編、第一部が完結となり
次回から第二部が始まる予定です
長くなって本当に申し訳有りませんが
何卒応援の程よろしくお願いいたします


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第二部・第二章 八幡◯◯編
第112話 二回目の二学期


いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告ありがとうございます。

そして古戦場お疲れ様でした。
次は九月ですか……はぁ……しんど……。


 これまでの人生で最も慌ただしく、最も忙しかったといっても過言ではない高校二年の夏休みが終わった。終わってしまった。

 なぜ時は無慈悲に進んでしまうのだろう。

 思い返してみれば、夏合宿に始まり、夏期講習にバイト、普段だったら家族以外には触れられもしない誕生日。それまでなんとか隠してきた許嫁問題の暴露。

 由比ヶ浜には一応事情を話したつもりだが、なんか納得しきれていない様子だったが……学校でどんな顔をして会えばいいのだろう?

 それに、花火大会では相模とかいうよく分からんやつに絡まれて、雪ノ下姉とも話したのでもしかしたら雪ノ下妹の方からも何か言われるかもしれない……。

 なんとも億劫な休み明けである。

 まあ、最悪俺と一色の関係がこれ以上周知されていなければ、とりあえず良しとしておきたいところだが──。

 他には何かあったかな……ああ、そうそう盆明けに久々にバイトにいったら由香に色々責められたり。買い物帰りに戸塚に会ったりもしたんだったか……。

 本当にこの夏休みはドコかに行けば誰かしらとエンカウントする日々だった。

 これまでの人生では考えられなかったことだ。

 この夏休みに会ってないやつと言えば材木座ぐらいか……? いや、あいつもどっかで会ったっけ? まあアイツのことだ、会おうが会うまいがいつも通りに中二病をやっていることだろう。

 

 そうして過ぎ去った夏に思いを馳せながら、まだまだ暑さの残る九月の通学路を自転車でのんびりと進んでいく。

 今日は始業式だ。

 基本的には校長の長くてよく分からない話と、教頭の長くてよく分からない話。

 場合によってはコレに生徒会長のよく分からない話を挟んだあと、担任である平塚先生によるホームルームで終わりとなるだろう。

 つまり、授業はなし。午前中だけで帰宅ができる、まあ、いわゆる登校日みたいなものだな。

 夏休みからの最後の贈り物とでもいうべき、サービスデーである。

 とはいえ、どうせそんなに短くていいならいっそもう一日休みを長くしてくれたらいいのにと思ってしまうのは、さすがに我儘というものだろうか?

 

「おはよう、八幡」

「おう、おはようさん」

 

 そうしてぼーっとペダルを漕ぎながら校内の自転車置き場に自転車を置き、筆記具しか入っていないカバンを担ぎながら教室までやってくると、幸運なことに戸塚と目があった。

 戸塚は太陽のように笑い、その運動着のシャツの隙間からチラリチラリと脇を覗かせようとでもするように大きく手を振り上げたまま、俺の方へと近づいてくる。

 全く困った子だ。俺じゃなかったら確実に抱きしめているところだぞ。

 

「久しぶり、元気だった?」

「お、おお……そっちは……少し焼けたか?」

 

 トテテっとまるで子犬のように近づいてくる戸塚にできるだけ触れないように平常心でそう答えながら自らの机の上にカバンを置いて俺達は会話を続けていく。

 

「あ……うん。日焼け止めは塗ってたんだけど……今年の夏はテニスの練習ばっかりだったからどうしてもね……変……かな?」

 

 そう言ってシャツの首元の部分を少しだけ捲って見せてくる戸塚の肌は。白い肌とほんのりと黒く焼けた肌とのコントラストが出来ていた。

 ほぼ引きこもりだった俺とは正反対に健康的で大変結構。

 しかし、男子としては比較的珍しい焼け方だろう。正直ものすごく目のやり場に困る、もう少し上から見たら見てはいけないものが見えてしまいそうだ……。もうちょっと……もうちょっと……。

 そんな俺の邪な念が戸塚に通じてしまったのか戸塚は突然バッとシャツの胸元を押さえ、何かを言いたそうに俺の顔を見上げてきた。

 

「八幡? ドコ見てるの?」

「い、いや、別にどこも見てないぞ? 日焼け後な、うん、夏らしくて凄く良いと思う、うん!」

「本当? 良かったぁ」

 

 慌てて取り繕う俺に、戸塚は少し恥ずかしそうにそう言ってお互い笑い合う。

 危ない危ない、このまま勢いで戸塚ルートに入ってしまうところだった。 

 

「やぁ、比企谷。久しぶり」

「あ、ああ久しぶり」

 

 そうして少し気まずそうに笑う俺と楽しそうに笑う戸塚の間に、今度は葉山がやってきた。

 正直、今回はとても助かった。二人だと間が持たなそうだったからな。

 しかし、葉山は葉山で相変わらずだな。夏だと言うのに汗一つ見せずに、戸塚とはまた別方向で爽やかに笑い涼しげに俺たちに語りかけてくる。

 戸塚はスポーツタオルと冷えたスポーツドリンクで首元を冷やしているので汗だらけなのは俺だけ。

 もしかしてコイツの体って温度を感じない特殊体質とかなんじゃないの? もしそうなら早めの受診をオススメしたいところだ。

 

「合宿、楽しかったな」

「うん、また皆で泊まりでドコか行きたいね」

「いや、二学期は修学旅行があるだろ……」

「何々? 何の話してんの?」

 

 俺が余計な方向へ思考を遊ばせていると、話は修学旅行の話へと移りお約束のように三浦、海老名、戸部が参加してきた。

 いわゆるいつものメンバーだ。

 もうこのメンツも見慣れたもんだな……いや、いつものメンバーにしては一人足りないか?

 

 そう、由比ヶ浜の姿が見えないのである。

 葉山達の会話をなんとなくで聞きながらも、俺は思わず周囲を見回す。

 もしかしたら休みなのだろうか? 夏風邪でもひいたか?

 

「ヒキオ? どしたん?」

「ああ、いや……」

 

 俺の不審な行動に疑問を持った三浦がそう言うと、タイミングよく教室に入ってくるピンク色の髪の毛が見えた。由比ヶ浜だ。

 由比ヶ浜は一瞬だけ俺たちの方を見てビクリと体を震わせると、ソソクサとバツの悪そうな表情を向けてから、まるで俺たちの存在に気がついていないとでも言いたげに早足で自分の席へ向かって勢いよく鞄を漁っていった。

 おかしい。いつもの由比ヶ浜なら我先にとこちらへとやってくるはずだ。

 なのに、何度も何度も鞄の中のものを出しては仕舞い、時折スマホを弄りながら『今忙しいです』アピールをしている。

 由比ヶ浜らしくない。

 一体何をしているのだろうと俺が首をひねっていると、やがて由比ヶ浜と俺の視線が交差した。

 その瞬間、由比ヶ浜の体がビクリとまるで殺人鬼にでも見つかったかのように体を震わせた。

 由比ヶ浜は諦めたように口を開いていく。

 

「や、やっはろ……ヒッキー……げ、元気だった?」

「あ、ああ……そっちは?」

「わ、私も元気……かな……あはは……」

 

 どうやら、元気がない原因は俺だったらしい。

 あの日以来、一切話もしていなかったしな、やはり由比ヶ浜の中でまだ気持ちの折り合いがついていないのかもしれない。

 まいった。元々俺と一色の問題だし、そこまで由比ヶ浜が引きずるような問題だとは思っていなかったのだが……。

 そういうことなら、寧ろここから離れるべきは俺なのかもしれない。

 

「結衣遅い! 何してんのさ早くこっちきな!」

 

 しかし、俺が行動するより早く三浦が由比ヶ浜の二の腕をがっと掴み、そのまま由比ヶ浜を無理矢理俺たちの輪の中へと入れてきた。

 由比ヶ浜は少しだけ戸惑ったようにオズオズと全員の顔を見比べ、出来るだけ俺と顔を合わさないように、いつも通りに「や、やっはろー」と誰もが空元気だと分かるトーンで会話を続けていく。

 

「何か、あったのか?」

 

 無論、そんな由比ヶ浜の様子に気が付かない葉山ではない。

 由比ヶ浜の様子を見て不審に思ったのか、葉山がそういって“俺に”耳打ちをしてきた。

 真っ先に俺に原因があると思われるとか、葉山の中の俺のイメージってどうなってんの? まあ俺のせいなんだけど……。

 とはいえ、幸い他の連中には聞こえていないらしいが、こんな場所でじっくり話すことでもないし、そもそも葉山に話せる内容でもない。

 だから俺は「ちょっとな……」と同じく軽く耳打ちをして視線を逸し、自分自身も空気になることに徹していった。

 

「ほらほら、始業式が始まるぞ、廊下に並べ!」

 

 すると、日頃の行いが良いおかげか。神の助けのごとく平塚先生がタイミングよくパンパンと手を叩きながらそう言って俺たちを廊下へと誘導していく。

 助かった。どうやらタイムリミットのようだ。

 俺は言われるがまま廊下へと向かい、一瞬だけ由比ヶ浜と視線を交わすと、由比ヶ浜が少しだけ申し訳無さそうに顔を伏せたのを見てから、列に並んだ。

 一体由比ヶ浜は今俺に何を思っているのであろう。

 それがわからないまま俺達は、始業式へと向かったのだった。

 

***

 

**

 

*

 

 本日の犠牲者は二人だった。

 無論、死者の数ではない。

 始業式中。貧血で倒れた女子の数である。

 本当、なんで校長というのは貧血患者が出るほど長い話をしたがるんだろうな?

 一回教育委員会とかで話し合った方がいいんじゃなかろうか?

 

 実際、俺も倒れていいなら倒れたいぐらい、だるかった。

 だってよく考えてくれテストに出るような必要な知識でもなければ、生活に役立つ知恵でもなく、ドカンと受けるような落ちがあるわけでもない。

 精々が先の展開が予想出来るなんとなくふわっとした道徳っぽい話。あとやたらと「あー」とか「えー」が多い。

 最早後何分で終わるか分かるyoutubeの広告を見ている方がまだマシまである。

 最悪飛ばせるしな。

 

 しかし、そんな負傷者を出した長い苦行が終われば、後はホームルームを残すばかりである。

 ここから、帰宅までどれだけの時間がかかるかは各担任の裁量次第だが。

 うちのクラスに限っていえば平塚先生がそれほど長い話をするとも思えないので、最早ほぼ今日の予定は終わったと言っても過言ではないだろう。

 少なくとも十五分もかからないはずだ。

 まぁ、明日からはまた平常授業なんだけど……。

 それでも今日が(本当は昨日がだが)最後の夏休み。しっかりゴロゴロさせてもらうとしよう。

 

「──というわけで二学期は文化祭に修学旅行など行事も多いが、来年は君たちも受験生だ。いつまでも夏休み気分でいないでしっかり計画を経てて行動するように。それでは今日は解散!」

 

 そうして、既に帰り支度を始めながら話を聞いていると平塚先生が最後にパンっと手を叩き解散を宣言した。

 やはり予想通り十分もかからなかったな。

 時刻はまだ十一時にもなっていない。

 昼飯にはまだ早いし、午前中なのでまだ多少涼しいので、どこかに寄って少し早めの昼飯を済ませるというのもありだ。

 いっそ由比ヶ浜を誘ってみるか?

 いや、しかし由比ヶ浜に関してはまだ少し時間が必要なきもするので、俺の方から迂闊にアクションを起こすのも悪手に思える。

 さて、どうしたものか……。

 まあ、別に急ぐこともないか……今日も暑いし道中でアイスの一本でも買い食いしながらのんびり考えるとしよう。

 

「あー、比企谷。君はこの後生徒指導室にくるように」

「は?」

 

 そんな風に放課後の過ごし方を考えながら俺が席から立ち上がると、突然平塚先生に名前を呼ばれた。

 突然のことに俺は首だけをそちらの方向へ向け、思わず間抜けな声を上げてしまう。そこにいるのはとても良い笑顔をした平塚先生の姿。

 一体、何故俺が呼び出しを受けなければならないのだ?

 

「ヒキタニ君、何かやらかしたんじゃないのー?」

「いや、正直心当たりがない……」

「ヒキオ……あんたまさか夏休み中なんかやらかしたんじゃないでしょうね……?」

「してない……と思う。多分」

 

 心配そうに戸部や三浦が問いかけてくるが、実際問題合宿が終わって以降、平塚先生とは会っていないし、名指しで学校に報告が行くような問題行動は起こしていない……はずだ……。当然警察のお世話にもなってないしな。

 一体何の話だろうか?

 進路相談にしても俺だけ、それも始業式にというのは明らかにオカシイし……。

 正直、こういう何の話なのかわからない呼び出しが一番怖い。

 

「な、なんすか?」

「話は生徒指導室でする、いいから付いてきなさい」

 

 俺の問いに、平塚先生は有無を言わさずそう言うと、平塚先生は生徒たちの視線を一身に浴びながらカツカツと靴音を鳴らし廊下へと出て行ってしまった。

 

「あ、あのさヒッキー……。遅くなりそうならいろはちゃんに言っておこうか?」

 

 一体何事かと皆が俺に視線を向け。

 先程まで俺と距離を取っていた由比ヶ浜でさえ、心配そうにそんな提案をしてくれる。

 とはいえ、あいつに話したところで余計に厄介事にしかならない気がしたのでその提案は丁重にお断りすることにした。

 

「あー……いや、寧ろ言わないでくれ、余計ややこしくなりそうだ……」

「う、うん。わかった……」

 

 俺は由比ヶ浜に苦笑いを浮かべながらそう頼むと「まあ、とりあえず行ってくる」と一言残し、教室を出て平塚先生の後を追った。

 すると平塚先生は俺が出てくるのを待っていたのか、廊下の壁に背を預け、腕を組みながら俺を待っていた。

 そして俺が教室からでてくるのを確認すると「ん」と首だけで先を示し、生徒指導室の方へと歩いて行く。

 少し前を歩く平塚先生の背中が少しだけ怖い。

 本当、一体何の件だろうか? 夏休み中、信号を渡れず困っていた風呂敷を持った婆さんを助けた時。お礼を言おうとしたが名前を名乗らなかったので制服をヒントに直接学校に連絡が来た。とかだったらニュースにでもなりそうなちょっと良い話だが。

 当然、そんなエピソードはないし。

 じゃあ、他に何かしたかと言われれば、今年の夏は例年と違うことばかりしていた気もするので何かがアウトだった可能性も否定しきれなかった。

 今思えば……雪ノ下姉に言われて花火観覧の有料席に勝手に入ったことだってヤバかったことのような気がする。

 もしかして、勝手に入ったから料金を請求されるとかだろうか?

 

 そんな風に嫌な妄想ばかりを膨らませながら歩くこと数分、平塚先生が生徒指導室の前で足を止めた。

 今日が始業式ということもあって、周囲には他の生徒の姿も見当たらず、なんなら学校全体からほとんどの生徒の気配が消えかけている。

 それもそのはずだ、とにかく暑い。

 教室の中はまだ多少クーラーが効いていたからいいようなものの、窓から見える校庭には陽炎すら見える有様だ。

 地球温暖化マジヤバイ。

 せめて生徒指導室はクーラーが効いていますように。

 そんな些細な願いを込めながら、平塚先生が生徒指導室の扉を開けていく。

 

 瞬間、籠もりに籠もった熱気がムワッと外に押し出されてくる。

 まさにサウナだ。

 どうやら俺のささやかな願いは届かなかったらしい。

 今からここに入るのかと思うと、それだけで汗が吹きでてくる気分だ。

 

 しかし、平塚先生はそんなことは気にしないと言わんばかりに勇敢に中へと入り生徒指導室の窓を大きく開けた。

 

「どうした? 入りたまえ」

「あ、あの、せめてもうちょっと涼しくなってから……とか……」

「い・い・か・ら、入りたまえ」

 

 どうやら、今から部屋の変更や、別日への変更は利かないらしい。

 俺は一度ゴクリと唾を飲んでから平塚先生にいわれるがまま、グッと一歩歩を進めていく。

 当然、窓を開けたぐらいで中の温度が一気に下がるわけではない。

 とにかく暑い。

 設置してあるパイプ椅子ですら拷問器具に見えるほどだ。

 唯一の救いは天井近くに設置してある何世代か前の扇風機。

 ブンブンと動き、熱気を外に出そうと必死に首を振っているが、正直涼しいのは直接俺に風が当たっている瞬間だけ。

 

「ク、クーラーとかないんすか?」

「ないわけではないのだが、ここのは壊れていてね。場所を移そうにも他の誰かに聞かれるわけにもいかない話だから、少し我慢してくれたまえ。そもそも私が高校に通っていたときなんてクーラーなんてなかったんだぞ?」

 

 なぜ平塚先生の時代にクーラーがなかったからといって俺たちが使ってはいけないのだろう? どういう因果なのか説明して欲しい。

 

 だが、今の会話で一つだけ朗報があった。

 『それほど長い話にはならない』というのであれば、下手に口答えをするよりはちゃっちゃと本題に入った方が楽だろう。

 一体何の話かは分からないが「YES」or「NO」で答えられる質問ならすぐに答えて切り上げよう。そう覚悟を決め、俺は熱気を持ったパイプ椅子に無理矢理座り、気持ち悪さに顔を歪めながら平塚先生と向かい合って座る。

 

「せ、せめて何か飲み物でも買ってきません……?」

 

 一瞬で俺の覚悟が折れた。

 なにこの椅子。もう溶けてるんじゃないの?

 とにかくソレぐらい暑い。なんなら空気椅子、いや、地べたに座ったほうがまだマシだと思えるほどだ。

 

「ほれ、君はこれでいいんだろう?」

 

 そういうと、平塚先生は俺の言葉を予想していたかのように一本の冷えた缶ジュースを俺の方へと投げてきた。

 キンキンに冷えてやがる。

 その缶の正体は俺の愛してやまない千葉が誇るMAXコーヒー。通称マッカンだった。

 

「今日は奢りだ、正直に言うと……どこまで踏み入っていいのか少し判断に困る話なのでな」

 

 平塚先生は神妙そうにそう言うと、暑そうに胸元をバタバタと開き、その巨大な谷間に風を送り込んでいく。

 暑く、狭い、ほとんどの生徒が下校した人気のない校舎で年上の──それも無防備に胸元をはだけさせ少し汗ばんだ女教師と二人きり……そんな状況で一体何が起こってしまうというのか?

 一応年頃の男である俺も思わずゴクリと喉が鳴る。

 

 しかし、大人である平塚先生はそんな状況には慣れているのか全く動じず自分用の缶コーヒーを持ったまま前かがみに座り込むと真っ直ぐに俺の目を見てこういった。

 

「あー……君と一色が許嫁というのは本当のことなのかね?」

 

 ──俺への詰問が始まったのだ。

 

***

 

**

 

*

 

 結果から言うと、俺は暑さで頭がだらけきっていたというのもあり嘘をつくこともできず、そのまま事の経緯を平塚先生に説明する羽目になった。

 もしこの部屋に連れてきたコト自体が平塚先生の作戦だというなら相当な策士だろう。

 

 しかし、そうか完全に忘れていたがあの時平塚先生もいたんだったか。

 何も言わずに帰ってくれたので、そのまま聞かなかったことにしてくれるのかと思っていたのだが、どうやらそういうわけでもなく、とにかく詳しい話を聞きたくて仕方がなかったらしい。

 

 まあ、あえてこんな部屋を選んだことと先の言葉を併せると、平塚先生が他の生徒や教師に言いふらすとも思えないので話しても問題はないとは思うが……。大丈夫だよね……? 本当に大丈夫だよね?

 

「というか、なんで一色じゃなくて俺に聞くんですか」

「あっちに直接聞いて変に開き直られても困るだろう……だからだよ……」

 

 そう言われてしまうとぐうの音も出ない。

 あいつの考えてることはいまいちよくわからないからな……。

 まあそのあたりは平塚先生なりに悩んだ結果なのだろう。

 

 それにしてもあの一件以来、俺達のことを知る人間が増えたものだ。

 それは決して喜ばしいことではないだろう、寧ろ警戒しなければならない。

 今はまだ良い。由比ヶ浜にしても平塚先生にしてもある程度口が硬いとは思っている。だが、人の口に戸は立てられないものだ。

 なにかの拍子で情報が漏れてしまうことはあるだろう──それこそ、今この話を廊下で誰かが聞いていないとも言い切れない。壁に耳あり障子にメアリーというやつだ。

 その辺り、一色に迷惑が掛かる前になんとかしなくては──やはり、二学期にもなったことだしそろそろ俺も本格的に動くとするか──。

 

「それで……その……なんだ……一色のお爺さんというのはその……どんな相手でも見つけてくれるのかね?」

「は?」

 

 そうして今後の展望について考えていると、平塚先生がぐいっと身を乗り出して、言いづらそうに、そして期待を込めた瞳で俺にそう問いかけてきた。

 それは先程までとは明らかに違う問いかけ。

 えっと……つまり、俺におっさんを紹介しろということか?

 でもそれは流石になぁ……。

 

「いやぁ、それはどうでしょう……? そういう仕事をしているわけではないみたいですし」

 

 実際のところ俺はおっさんの職業を知らない。だが少なくとも結婚相談所員でないことは確かだ。

 平塚先生のことはいい加減誰かに貰ってあげてほしいところだが、俺がおっさんに『この人の婚約者見つけてあげてください』というのも変な話だろう。

 いじわるではなく、おっさんの迷惑になるという可能性のほうが高い。

 だから、俺はそっち方向に話が進まないよう、わざと冗談めかしてこういった。

 

「まさか先生……生徒の親戚に結婚相談頼もうとしてます? そこまで焦ってないですよね?」

「ま、まさかそんな訳無いだろう! はは、はははは!!」

 

 少しだけ可哀想な言い方だったかとは思ったが、俺の予想通り平塚先生は俺の言葉にのっかるようにグイッと缶コーヒーを煽った。

 いや、本当予めあれがコーヒーだと分かっていなければ酒なのかと思うほどの煽りっぷりだ。

 

 だが、申し訳ないがやはり平塚先生におっさんを紹介するのは少し抵抗がある。

 頼む相手が俺ではなく一色だというのならまだ分かるが、基本的には他人である俺がどうこういうのはやはり違うだろう。

 一度それを引き受けてしまうと以後もおっさんに迷惑をかけそうな気がするしな。

 川崎の件で既に頼ってしまった事を考えれば、今更何を言っているんだということにもなってしまうが、こと婚約だ許嫁だという件に関してはあまり広めていい問題ではないと感じている。

 川崎のときのように切羽詰まっているわけでもないしな……。

 勿論、おっさんのことだから二つ返事で了承するという可能性はあるが……。

 だからといってなんでもかんでも頼んでいいというものでもないだろう。

 少なくとも俺の方から返せるものがない。

 

 だから、申し訳ないがこの件に関しては俺から平塚先生にしてあげられることは何一つなかった。それぐらいの義理がおっさんにはあるのだ。

 もし仮にうっかり平塚先生の縁談がうまくいって『一色さんのお爺さんのお影で結婚できた』なんて噂が広まったらそれこそ影響が出そうだしな……。

 

 まあ平塚先生に関しては頑張って早く誰かに貰って欲しいところである。

 俺に出来るのは祈ることぐらいだ……。

 

「と、とにかく、たとえ親公認だろうと世間的に認められる年になるまでは節度ある付き合いをするように……。は!? ま、まさか夏休み中にもう!?」

「何もしてないですよ……まぁ……その辺りは俺も心得てるつもりなんで下衆な勘ぐりはやめてください……」

「本当だな!? たとえ許嫁だろうとなんだろうと在学中妊娠だとか……私より先に結っこ……!!」

「分かった、分かりましたから。その辺りはしっかり考えてますから安心してください」

 

 紹介してもらえないという腹いせか『妊娠』という具体的な言葉を使いながら声を荒げる平塚先生に俺も思わず顔を赤くしながら抵抗し、席を立つ。

 なんにしても言うべきことは言ったし、これ以上ここにいるのは色々とやばそうだ。

 この場はさっさとずらかろう。

 

「とりあえず、話がそれだけなら俺はもう行きますよ。本当平塚先生が考えているようなことは何もないんで……」

「そ、そうか……まぁ比企谷がそういうなら今は信じよう。でもその……お爺さんの件……」

「そっちは俺にはどうしようもないんで諦めてください」

 

 俺の言葉に最後にシュンと肩を落とし、まるで捨てられた仔犬のようになる平塚先生を見ながら多少の罪悪感を覚えながらも、俺は鞄を抱えて「それじゃ」と生徒指導室を後にした。

 既に日は先程より高くなっており、生徒指導室の中と外でそれほど暑さは変わらない。

 つい先程貰ったマッカンももう中身は空だ。

 多少喉は潤ったが、まだまだ汗は止まらない。

 早いところ当初の予定どおりアイスでも買って帰ろう。

 

 そうして、俺は未だ生徒指導室に残ってやさぐれている平塚先生を置いて、階段を下り昇降口へと向かった。

 さすがにもうほとんどの生徒は帰路についているのか、他の生徒とはすれ違わない──。

 

「おお、八幡ではないか、ちょうどよいところ」

 

 ──はずだったのだが、なぜかそこで未だ校舎内に残っている妖怪とエンカウントしてしまった。

 学校の怪談の一つ。妖怪『夏でもロングコート』こと、材木座義輝である。

 本当、暑くないのお前? 一歩歩く毎にダメージ食らってない?

 なんならもう倒れそうじゃない? 救急車呼ばれる前にしっかり水分補給しとけよ?

 

「……材木座もまだ帰ってなかったのか」

「ふむ、遊戯部の部室に少し用事があってな」

 

 材木座はその額から汗を滴らせながらそう言って、バババっとちょっと格好良さげなポーズを三つほど俺に披露した。

 当然それで俺が状態異常にかかるとかそういったことはない。

 

「遊戯部?」

「以前紹介しただろう、まあよい、暇なら八幡も来るがよい」

「いや、暇なわけじゃないんだが……って引っ張るなよ暑苦しい……」

 

 さして興味もなかったのだが、あまり聞き慣れない名前に思わず首を傾げると。

 材木座はそのまま俺の手首を掴みズンズンとまるで「八幡を仲間にした♪ てれれててってててー♪」というテロップでも出しそうな勢いで小気味良く笑いながらズンズンと廊下を進んでいく。

 さすがに鬱陶しかったので握られた手首は即座に引き剥がしたが……。なんだか逃げても追いかけてきそうな勢いだったので、仕方なく俺はその後を付いていった。

 

 そうして材木座のどうでもいい小話を聞きながら廊下を進むこと数分。

 少し手狭な──少なくとも奉仕部の半分以下のスペースの小さな部室があった。

 どうやらここが遊戯部らしい。

 遊戯部と聞いて最初に思いつくのは所謂『遊び』ということでテレビゲームやPCゲームが主体なのかと思いきや、扉を開けるとアナログゲームが主体らしく、山のようなおもちゃ──おそらくはボードゲームの類──が所狭しと置かれていて、思わず目を奪われてしまった。

 あー、これ昔うちにあったわ、懐かしい。

 コレ売れば結構な値段になるんじゃないの?

 

「あ、どもお久しぶりです」

「どうも、比企谷さん」

 

 一財産築けそうなその部室に思わず見惚れる俺に、部室内に居た二人の男子が話しかけてくる。

 あれ? こいつらなんで俺の名前知ってるんだ?

 ああ、いやそういや夏休み中に会ったな……名前は確か佐川とかヤマトとかそんな感じの配達系の名前だった気が……。

 

「相模と秦野だ」

「ああ、そうそう相模と秦野な」

 

 俺が何か言う前に材木座がアシストしてくれた。

 微妙にニアミスしてたが。秦野に関してはカスってもいなかったな。危ない危ない。

 ん? 相模?

 なんかそれはそれでどっかで聞いたことがあるような……。

 まあいいか……。

 

「んで、材木座はここで何してるの? 迷惑? ちょっかい?」

「人を邪魔者扱いするな、彼らが今年の文化祭で何かをやりたいというので少し遊びがてら相談に乗っていたのだ」

 

 一応遊んではいたんだな……。

 とはいえ、折角先輩らしいこともしているというなら、変に突っ込むのも野暮というものか。

 実際のところうちの文化祭は開催まで割りと時間がないからなぁ。

 多分うちのクラスなんかも明日からは色々決め事が増えていくのだろう。

 どうか面倒くさい役職に当たりませんように。 

 

「うちみたいな弱小が本気でやってもとは思うんですが、新しい部員も欲しいですしね」

「何かこう目玉になりそうなのが欲しいんですよ」

 

 思いの外深刻そうにそう呟く相模と秦野の話を聞きながら考える。

 これだけボードゲームがあるなら適当に何個か見繕って客寄せすればいいんじゃないのだろうか?

 ああ、でも素人──それもうちの文化祭の二日目は外部の人間もくるのであまり触れられたくないものもあるのか……。

 今は売ってなさそうなゲームも多いしな、あまり触られたくないのかもしれない。

 

「なら、名前だけでも有名な最新のものを並べてお試しプレイみたいなのとかしてみたらどうだ? なんなら俺も最近一つ手に入れたから、提供するぞ」

 

 まぁ、戸部から貰ったやつだが……。

 まあ、終わったら返してもらえば問題はないだろう。

 一度も遊ばれずにしまわれるゲームほど悲しいものはないからな……。

 

「名前だけ有名なゲーム……ですか……」

「そうそう、そんであんまり馴染みがないヤツ」

「でも、それだけで人来ますかね? 自分でいうのもなんですがこういうのって最初のハードルが高いですし」

「そこはやり方次第だろうな……」

 

 今更UNOやトランプを文化祭で遊ぼうとするヤツなんてほぼ居ないだろう。

 だからこそ、少し目新しいものを用意する。

 しかも出来るだけワンプレイが短いもの。

 遊戯部としての強みを見せるならそのあたりだろう。

 後出来そうなことといえば……。

 

「それともう一つこれはうまくいくかはわからないが──」

 

 もったいぶって俺がそう言うと、相模と秦野がゴクリと喉を鳴らした。

 材木座もメガネを熱気で曇らせながら真剣に俺の次の言葉を待った。

 

「──俺の頼みを一つ聞いてくれるならもう一つ、集客を見込める方法を伝授してあげよう」

 

 瞬間、三人がまるでコントのようにガクリと崩れ落ちた。

 いや、よく考えてみてくれ。

 そもそも俺は遊戯部ではない、そこまで色々考える義理もないのだ。

 なによりもう暑くて帰りたい。

 

「頼みって……なんですか?」

 

 だから、その提案に相模が乗ってくれた時は思わず口角を上げたものだ。

 まあ、実際うまくいくかは分からないがな……。

 とりあえず口に出すだけならタダだ。

 そう考えた俺は、机の中央によってコソコソと四人で内緒話をするように俺の相談事を打ち明けた。

 

 流石にこのタイミングでこいつらに頼むのは、あまりにも計画性がなさすぎるかとも思ったが、

 この判断が吉と出るか凶と出るか。

 暑さでボケてしまった結果となるかは……今後のお楽しみだな……。




というわけで二年生編第二部開始です。

色々な人が絡んでくる予定なので
うまく書けるか不安なのですが頑張って行きたいと思いますので
引き続き応援の程よろしくお願いいたします


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第113話 亀裂、思わぬ反撃

いつも感想、評価、お気に入り、メッセージ、誤字報告etc、ありがとうございます。

気がつけば現実世界でも夏が終わりそうですね。




 同日。

 始業式が終わり、教室へと戻っていく道中。

 私は友人と他愛もない会話をしながらボーッと廊下を歩いていた。

 ふと周囲に視線を向ければ、一学期までは黒髪だった子が数人ほど夏休みデビューとでもいうのか垢抜けた金髪やら茶髪やらになっていて少しだけ驚く。

 あの子達はこの夏休みで何か心境の変化でもあったのだろうか?

 例えば“ひと夏の経験”とか──。

 そう考えると“先を越された”という焦りすら感じてしまうところだが、なんだかんだこの夏休みはそれなりに充実していたし、センパイとの距離も縮まった──ように思う。

 だからそんなに焦らず自分のペースで行けばいいのだ。と心を落ち着けながら蒸し暑い廊下を歩きどうでもいい話を聞きながら一年の教室を目指し歩いていく。

 

 すると偶然、廊下の先で見知った先輩が階段を登り、踊り場へ向かっていくのを見かけた。見かけてしまった。

 別に探していたつもりはない、でもやっぱり心の何処かでは探していたのかもしれない。

 その証拠に、ほんの一瞬、本当に一瞬だけ見えたその先輩の長く美しい黒髪を見かけた瞬間、私は視界からその先輩が消えないよう、思わず近くの友人達に「ちょっとごめん」と断りを入れ駆け出していた。

 でも、どうして走り出したのかは分からない。

 確かに言いたいことはあったが、殊更急ぎの用事はなかったはずだ。

 それでも、私は始業式後ということもあって生徒でいっぱいの廊下を、スルスルと生徒達を避けながらなんとか先輩が登った階段の下へとやってきた。

 

 短距離とは言え、この暑さもあってか僅かに息が乱れる。

 それと同時に、私はなんで追いかけてきてしまったのだろうという後悔もしていた。

 いっそ見なかったことにすれば良かったのかもしれない。

 或いはもっと落ち着いてから放課後にでも話をするのでも良かったはずだ。

 それでもなお、私はどうしても『一言言いたい』『どうしても聞いておきたい』という衝動が抑えきれなかった。

 

 夏祭りのあの日、全てを知ってしまった以上、今更なかったことには出来なかったから……。

 だから、学校が始まったら一度しっかり話をしなければと思っていて、思わず巡ってきたチャンスについ飛びついてしまったのだ。

 でも、ここまで来てなお自分が単に事実確認をしたいだけなのか、あるいは彼女を責めたいのか、よくは分かっていない。

 そんな風に自分の中のモヤモヤに従って答えの出ない衝動のままカラカラと乾く喉から声を絞り出していく。

 ああ、何か冷たいものが飲みたい、今ならセンパイの好きなマッカンでも一気に飲み干せてしまいそうだ、そんな余計な事を考えながら──。

 

「雪乃先輩!」

 

 私が叫ぶと、既に雪乃先輩は二階と三階の間の踊り場へと辿り着いていた。

 窓から反射する太陽で逆行になりながらも、こちらへと振り返り、私の姿を確認するといつもの口調で口を開く。

 

「あら、一色さん。お久しぶり」

 

 それは久しぶりにあった後輩に対する挨拶としてはごくごく普通のものだった。

 合宿の最終日、あんな変な別れ方をしたというのに、それすらもなかったことにするようなごくごく普通の挨拶。

 そこに夏休みの思い出を語り合おうとか、久しぶりにあった後輩への配慮とかは一切なくただ淡々と事務的に挨拶を終え、私をじっと見下ろしてくる。

 別にソレが雪乃先輩の通常運転と言われればそれまでだが、その額には汗一つかいておらず。まるで一枚の絵画に話しかけているような錯覚にあい、私は一瞬喉をつまらせた。

 

 ああ、本当に喉が渇いた。

 冷たいものが飲みたい……。

 雪乃先輩とは対象的に私のこめかみから流れる一筋の大きな汗は暑さのせいか、それとも緊張のせいか?

 

 やがて、数秒固まっている私を見て不思議に思ったのか雪乃先輩は、私を見下ろしたまま不思議そうに僅かに首を傾げた。

 それもそうだ、ワザワザ声をかけられたのに何も言わずただじっと見られていれば不思議にも思うだろう。

 

 だから、改めて私は戸惑ってしまった。

 問いかけるのが少し怖い。

 周囲には沢山の生徒達がいて、私と雪乃先輩の間をスルスルと抜けていく。

 やはりこんなところで声をかけたのは失敗だったのかもしれない。

 今は挨拶だけで済ませてしまおうか。

 センパイだったらこんな時どうするかな……。

 

 しかし、そこで一瞬センパイの事を考えたのが良かったのか或いは悪かったのか、自分の中の気持ちがザワリと揺さぶられ、気がついた時には私は拳を小さく握り、キッと階段の上の雪乃先輩を睨み、最早勢いだけで前後の脈絡もなくただ一言こう問いかけていた。

 

「雪乃先輩は全部知っていたんですよね? ……センパイのこと」

 

 私の声はそれほど大きくはなかったので、周囲にいる生徒達の雑踏に紛れて聞こえなかったかもしれないし、仮に聞こえてもなんの話をしているのかは理解できなかったかもしれない。

 それでも目的の人物にはきちんと私の言葉は届いたようだ。

 質問の意図も理解したようで、僅かにピクリと眉を動かしたまま私を見下ろしてくる。

 少なくとも『何のことだかわからない』としらばっくれるつもりではなさそう。

 いや、いっそしらばっくれてくれたほうが私の気持ち的には楽だったのかもしれない。

 でも、私の予想通り、雪乃先輩は少し残念そうにそして無表情にこう返してきた。

 

「知っていたら……なんだっていうのかしら?」

「な……!?」

 

 若干目線を逸しながらも、雪ノ下先輩はむしろ今さら何を言っているのか? とでも言わんばかりにそういって自らの長い髪をかき上げる。

 

 それは私にしてみれば酷く挑発的で傲慢な態度。

 でも、雪乃先輩らしいと言えばらしいその態度に私は何も言えなくなってしまった。

 怒りも湧いてこないというのはこういうことをいうのだろう。

 いや、私が怒っても仕方ないというのは分かっている。

 実際センパイも、陽乃さんもあの時言っていたじゃないか。

 雪乃先輩は悪くないのだと……。

 雪乃先輩はただ車に乗っていただけ、決して運転をしていたわけではない。

 なら、雪乃先輩には責任はないのだろうと。

 

 実際のところその通りなのだろう。

 被害者本人であるセンパイがそう言っているのだ、今更私がどうこう言える立場ではない。

 

 でも──それでも私の中にはモヤモヤとしたものが残ってしまった。

 センパイの事故のことを全て知りながら──当事者の一人でありながら──今日まで何食わぬ顔で同じ空間で過ごしていたということに対する不信感が生まれてしまったのだ。

 

 だってそうじゃない?

 例え私が事故に関して部外者だったとしてもセンパイを連れてきたときにでも一言言ってくれてもいいじゃないか。

 最悪、私にではなくセンパイには何か一言いうべき台詞があったはずだ。

 でも、夏祭りのときのセンパイの様子だとそれすらなかったのは明らか。

 そのことが何より苛立たしい。

 

「それだけなら、私はもう行くけれど──続きがしたいならまた放課後にでも部室で話しましょう」

 

 しかし、そんな言葉にならない苛立ちは胸の中でモヤモヤと渦巻くだけ。

 雪乃先輩は何も言わない私を残し、最後にそういうと私の存在など気にもとめず最初からいなかったかのように上階へと消えていく。

 それがせめて逃げるような早足であったなら、まだ私は救われたのかもしれない。

 でも、階段の上から聞こえてくるのはいつもと変わりないゆっくりとした雪乃先輩独特の足音で、私はソレ以上雪乃先輩を追いかけ追求する勇気が持てなかった──。

 

 

***

 

**

 

*

 

 通常、始業式の放課後と言えば多少なりテンションが上がるものだ。

 久しぶりのクラスメイトとの再会に加え、つい数分前に終わったホームルームではまもなくやって来る文化祭の説明もあり、これから始まる楽しい二学期を予見させてテンションをより高めていく。

 

 去年はお客さん側だった私が、今回は自分たちで文化祭を作っていくのだ。

 つまり、二日間のフル参加。

 これが楽しみじゃないはずがない。本来ならセンパイとの文化祭デートの計画や、自分達のクラスを思いっきり盛り上げなきゃとザワメク教室の雰囲気に飲まれながら、私自身もテンション高く二学期の開始を喜んだことだろう。

 

 それこそほんの少し前までは、奉仕部での文化祭は何をやるのだろうか? とかも考えていたのだけれど。今の私の胸中は複雑だ。

 

 それは当然、先程の雪乃先輩との件。

 正直、今は雪乃先輩と文化祭について楽しく話をしたいという気が全くしない。

 というより、話せる気がしない。

 先程雪乃先輩には「放課後に」と言われてしまったけれど、この重い気持ちのまま部活に行くのは億劫だ、センパイと一緒に放課後デートへとリスケしたいまである。

 とはいえ、先程あれだけ喧嘩腰で行った手前、行かないという選択肢も取れない。

 いや、用事が出来たとでも連絡をいれれば、雪乃先輩なら受け入れてはくれるかもしれないが……それはそれで後で何を言われるか分かったものではない。

 

 仕方ない、ここは一度センパイに慰めてもらって。

 一度気合を入れ直してから、部室に行くとするか……。

 最悪、センパイにも一緒に付いてきてもらえたら尚良い。まあ、本人は絶対嫌がりそうだけど……。

 正直、雪乃先輩と真っ当に言い合いをして勝てる気もしないしね……。

 そう考えた私は、ホームルームの解散の合図とともにセンパイのいる二年生の教室へと向かうことにした。

 

 廊下に出ると、既にいくつかのクラスはもうホームルームも終わっており、完全に帰宅ムード。

 まずいなぁ、センパイのクラスがウチのクラスより早く終わっていたらもう帰っちゃってるかもしれない。そう考えた私は、出来るだけ早足でセンパイのクラスへと向かい、その開いている扉からセンパイの姿を探した。

 予想通り、もうホームルームは終わっているようで、既にクラスには半分も生徒が残っていない。 

 それでも、結衣先輩がまだ居る事に気がついた私は手を振って結衣先輩に声をかけた。

 

「あ、結衣先輩!」

 

 三浦先輩達と何やら話している結衣先輩は、私の存在に気づくと、三浦先輩に一言断ってから私の方へと駆け寄ってくる。

 

「ヤッハローいろはちゃん……えっと……どしたの?」

「やっはろーです。あのセンパイってもう帰っちゃいました?」

 

 正直なことを言うと、肉眼で見つからなかった時点でセンパイが残っているとは思えなかったので八割方諦めの気持ちでそう結衣先輩に問いかけた。

 それでも、ワンチャン結衣先輩の回答が『今出ていったところ』とかだったら追いつけるかなぁという希望的観測もあったのだけれど……。

 私の予想とは裏腹に、結衣先輩は少し困ったように笑いながら、こういったのだった。

 

「ヒッキー? あ、う、うん……なんか先生に呼び出されたみたい……」

 

 そのなんとも言えない表情に、私は思わず首を傾げる。

 ん? 帰ったじゃなくて先生に呼ばれた? センパイが? 

 センパイ、始業式早々何かやらかしたのだろうか?

 まあ、多少失礼ながらセンパイならやりかねないなぁとは感じつつも、呼び出された理由が全く思いつかず、私は色々と思考を巡らせる。

 少なくとも怒られているとかならこちらから迎えに行くというのは少し難しいかもしれない。

 

 なら、どうしたものか?

 よくよく考えればまだお昼にも少し早いし、こちらから連絡をするのもいいけど……でもセンパイがお説教の最中ということは、私も用事を済ませてから連絡すれば午後から合流できるかもしれないかな?

 そんな事を考えながら、今後の予定を立てていると今度は結衣先輩から私の方へと質問が飛んで来た。

 

「い、いろはちゃんはさ、あの……この後部室行く?」

「え?」

 

 その問いに私は一瞬だけ肩をピクリと震わせる。

 もしかして、もうすでに雪乃先輩から話を聞いているのだろうか?

 あるいは、結衣先輩は事故の事実を既に知っていたのだろうか?

 その場合、結衣先輩はどういう立場なのだろう?

 悩む私に、結衣先輩は不思議そうに首を傾げ、ちょっと戸惑いながらも「ど、どうする?」と再び問いかけてる。

 

 その様子は、いつもの結衣先輩らしさを感じず、私も思わず首を傾げてしまう。

 もしかしたら、雪乃先輩のコトとは別に、何か……特別な話でもあるのだろうか?

 どうにも単純に今日の部活に参加するかどうかを問いかけている、というわけではなさそうだ。何か言いたいことがある、そんな雰囲気……。

 それは今日の部活に『私が居ないほうがいい』という意味なのかもしれないし、『居てくれないと困る』ということなのかもしれない。でも、現状それすらも判断ができない。

 だから、私は一瞬だけ悩んだ。

 

 ここは完全に賭けだ。

 選択肢は二つ。

 結衣先輩と一緒に行くか。それとも行かないか。

 

 最悪、私の話は後日でも構わない。

 というか、現状行きたくないとさえ思っている。

 なら結衣先輩に私が行けなくなったと伝言を頼むコトは可能だろう。

 でも、さすがにその選択肢は取れなかった。

 

「そうですね、ちょっと顔だしてみましょうか」

 

 正直、結衣先輩が必ずしも私の味方をしてくれるという保証はない。

 でも、もし結衣先輩もあの事を知らなかったのであれば、知る権利はあるだろう。

 被害者か加害者かは別として一応結衣先輩も当事者だ。

 なら、やはり一緒に行くべ気だと思う。

 そう考えた私は無理矢理笑顔を作り直し、結衣先輩にそう答えたのだった。

 

「そ、そっか……!」

 

 でも、不思議なことに結衣先輩は私のその答えに対して、何かを覚悟したような顔をした後、グッと一度その拳に力を入れてから「じゃあ鞄とってくるからちょっと待ってて」と教室の中に戻って行った。

 

 私は選択を間違えたのだろうか? それとも正しかったのだろうか?

 それがわからないまま、私と結衣先輩は並んで特別棟へと向かっていく。

 

 ここから特別棟の部室までは割りと遠い。

 ましてやこの暑さだ、正直片道だけでも疲労度が上がっていく。

 それでも、不思議と道中での会話はない。

 いつもだったら何もしなくても結衣先輩の方から話題を振ってくれるのだけど……どうも今日はそういう雰囲気ではないらしい。

 多少気まずいので私の方から「今日も暑いですねー」なんて会話のきっかけを掴もうとしたが「そ、そうだね……」と小さく返ってくる程度。

 

 一瞬『体調でも悪いのだろうか?』と心配になったが、そういう様子でもなさそうだ。

 結局私達は多少暑さに息を切らせながらも無言のまま二人でえっちらおっちらと階段を上り、奉仕部の前へとやってくる。

 なんだか空気が重い……。

 もしかしたら、結衣先輩も私と同じ話をしにきたのだろうか?

 

 そう考えながら、切れる息を整えながら、奉仕部の前へとやって来るとそこには既に人の気配があった。

 エアコンは効いていないのか、扉と窓が全開に開かれており、バサバサと揺れるカーテンの先に一人の少女の影が佇んでいる。

 

 その影の正体は尋ねるまでもない、雪乃先輩だ。

 もしかしたら、私との約束を果たすためにホームルームが終わった後すぐに部室に向かってきてくれたのかもしれない。

 そう考えると、一瞬でも行くのをやめようと考えていたことに申し訳なくなるが、まぁ、なんだかんだちゃんと来たのでそこは勘弁してほしいが、それでもこの胃の下辺りにズンと来る重たいストレスが無くなるわけではなかった。

 そういう意味では、結衣先輩と一緒に来たことはいくらか正解だったかなとチラリと結衣先輩を見る。

 しかし、結衣先輩は私のそんな視線の意図が分からなかったのか、不思議そうな苦笑いで返すと、そのまま既に解放されている扉の横を軽くノックしながら部室内へと入っていく。

 

「やっはろー、ゆきのん」

「こ、こんにちは」

 

 そうして私達が部室の中へと入っていくと、雪乃先輩は読んでいた本を閉じて顔を上げて真っ直ぐにこちらを見た。

 

「こんにちは、一色さん。それと……由比ヶ浜さんも来たのね」

「え? あれ? 私来ちゃだめだった?」

 

 その問いに少しバツが悪そうな顔を浮かべ、私の顔を見る結衣先輩。

 

「いえ、てっきり一色さんが一人でくるものと思っていたから……そうね、由比ヶ浜さんも関係者ですものね……」

 

 独り言のように雪乃先輩はそう言うと、覚悟を決めたように一度フゥと息を吐いた。

 その行動の意味が分からず「え? え?」と私と雪乃先輩の顔を交互に見る結衣先輩。

 まだ状況がよく把握出来ていないようだ。

 やっぱり、結衣先輩も知らなかった、ということなのだろう。

 あの事故の相手が雪乃先輩の車だったということを……。

 

「とりあえず、座ったら?」

 

 雪乃先輩の言葉に従い、私達はいつもの席につく。

 と言っても、流石に今回は三人横並びだと話しにくいので、今日はそれぞれが向き合うように対峙し、それぞれの顔を確認したああと、私は一度大きく息を吸ってから会話を始めた。

 

「一応確認しておきたいんですけど、結衣先輩も知らなかったってことでいいんですよね?」

 

 私の問に、結衣先輩がビクリと背筋を震わせる。

 どうやら一番に話をふられるとは思っていなかったようだ。

 

「え? あ、うん……そう、だね。知らなかった。もっと早く言ってくれたらとはちょっと思ってるかな……」

 

 それでも、結衣先輩は少しだけ悲しそうにそう言うと一瞬だけ目を伏せて私の方を見てくる。

 その答えは私の期待したものと同じだったが、何故雪乃先輩ではなく私の方を見てくるのか理解できず。私は少しだけ首を傾げる。

 そもそも、結衣先輩はどのタイミングで気がついたのだろう?

 結衣先輩も雪乃先輩のお姉さん──陽乃さんと出会う機会があったのだろうか?

 

「えっと……結衣先輩はいつ頃から気づいてたんですか?」

「気づいてたっていうか……知ったのは合宿最後の日? 詳しいことはヒッキーに教えてもらった……」

「そうですか……センパイが……」

 

 言われてみれば、あの黒い車を初めてみたのは合宿最終日だ。

 センパイから説明を受けたというのは初耳だが、あの事故を眼の前で目撃していた結衣先輩だからこそ、気になるところがあったのかもしれない……。

 そう考えると説明を受けたという言葉に違和感はない。

 

「じゃあ、最後に確認しちゃいますけど……雪乃先輩がセンパイを轢いた犯人ってことでいいんですよね?」

「まぁ、犯人という言い方は少し心外だけれど……あの車に乗っていたことは確かよ……」

「え!?」

 

 だから、私はその場の共通認識を得るために、改めてそう確認しようとしたのだが 雪乃先輩の告白に、何故か結衣先輩は驚きの表情を浮かべた。

 あれ?

 センパイから説明を受けていたんじゃないのだろうか?

 それとも……改めて本人の口から聞かされて驚いただけ?

 でも、折角雪乃先輩が認めてくれたのだ、ここで話を止めることもできない。

 

「どうして黙っていたんですか? まさかセンパイのことだと気付かなかったなんて言いませんよね?」

「……」

 

 私の問いに、雪乃先輩は一瞬だけ口ごもりつつも、ゆっくりと口を開く。

 

「別に、言う必要がなかっただけよ。少なくとも一色さんには関係のないことでしょう……?」

 

 そう言われてしまうと、確かに私はこの中で唯一の部外者だ

 教えてもらえなかったとしてもおかしくはない……。

 だから先程までの勢いとは裏腹に思わず口をつぐんでしまう。

 

「じゃ、じゃあ結衣先輩には言ったんですか?」

 

 それでも、私が無理矢理そう言って責めると、雪乃先輩は今度こそ少しだけバツが悪そうな顔をして結衣先輩の方をチラリと見つめた。

 そこには確かに罪悪感の欠片のようなものが存在しているのが見える。

 やはり、ずっと知っていたのだ。

 そのことが確認できただけでまず一歩。

 だから私はさらに一歩踏み出して雪乃先輩に問いかけようとした──。 

 

「ちょ、ちょっと待って! 何の話?」

 

 でもその瞬間、結衣先輩がパニックを起こしたように立ち上がり、私と雪乃先輩の顔を交互に見始める。

 やはり、私達と結衣先輩の間に何か誤解のようなものがあるようだ。

 それはさっきの結衣先輩の驚いた声でなんとなく理解できていたけれど、一体何と勘違いしているのかが分からず、私は首を傾げる。

 

「何って……去年センパイを轢いたのが雪乃先輩だっていう話ですよ。センパイから聞いたんですよね?」

「そんな話全然聞いてないよ、っていうかナニソレ!? ……本当なの……? ゆき、のん?」

 

 結衣先輩は恐らく心のなかで間違いがないということは理解しているものの、本人の口から聞くまでは信じたくないとでも言うような、でも違うと言って欲しいような。そんな願いを込めるようなか細い声で雪乃先輩の顔を覗き込む。

 

「本当よ……、あの日入学式に向かっていた私の車が比企谷くんと衝突したのは事実よ……」

 

 しかし、雪乃先輩は決して否定しなかった。

 “犬が飛び出してきた”とか“センパイがぶつかってきた”とは言わず、あくまで“衝突した”と表現したのは恐らく雪乃先輩なりの優しさなのだろう。

 

「で、でも別にゆきのんが運転してたわけじゃないんでしょ? そもそもうちのサブレが飛び出したのが悪いんだし……!!」

 

 そんな雪乃先輩の優しさに気付いてか、気付かずか、慌てて雪乃先輩のフォローに回る結衣先輩。

 どうやら、この場では結衣先輩は雪乃先輩の味方側に回るらしい。

 その事に私は少し苛立ちを覚える。

 結衣先輩にそちらに回られてしまうと、それこそ部外者の私には此処から先の話の進め方が不利になるからだ。

 だから、私は雪乃先輩がまだ罰の悪そうな顔をしている間に、畳み掛けるように雪乃先輩に話しかける。

 

「それでも……黙っていたことには変わりないですよね? いつから気付いてたんですか? 結衣先輩が初めて依頼をした時? センパイが初めてここに来た時? それとももっと前からですか?」

「最初からよ……一年前のあの事故の時から彼のことは知っていたわ」

「なら……!!」

 

 もっと前の段階で言うべきことがあったのではないか?

 私達に教えてくれても良かったのではないか。

 そんな雪乃先輩を責める言葉が口の中から次々と飛び出しそうになるのを抑え、私が冷静に言葉を選んでいると。

 それより早く、結衣先輩が口を開いた。

 

「きっと……言いづらかったんだよね?」

 

 怒りに囚われそうになっている私とは正反対に雪乃先輩に寄り添うように優しく、でも少しだけ困ったように、雪乃先輩の肩に手を置き、そう言ったのだ。

 

「私も……言いづらかったもん……」

 

 それはまるで自分に言い聞かせるような、独白の言葉。

 そこで私は思い出す。奉仕部最初の依頼。

 結衣先輩もセンパイにお礼を言うまで一年かかってるんだっけ……。

 そういう意味では確かに結衣先輩は雪乃先輩寄りなのかもしれない。

 でも、その言葉をセンパイの前で言えるのだろうか?

 そう考えると、私は安易に『そうですよね』と言うわけにはいかなかった。

 言えなかった。

 しかし、そんな私の言葉を結衣先輩は更に奪っていく。

 

「……それに私達に言ってないことなら、いろはちゃんにだってあるでしょ?」

「私に……?」

 

 一瞬、なんのことか分からず目を大きく開き首を傾げる私。

 私から二人に何か言うべきこと……?

 私……何か二人に隠し事をしていただろうか?

 正直全く身に覚えが──。

 そこまで考えた時私の脳裏にある言葉が浮かび、ソレと同時に結衣先輩が口を開く。

 

「ヒッキーといろはちゃん。許嫁同士なんでしょ?」

「あ」

 

 結衣先輩の言葉と同時に、私は思わず間の抜けた声を出してしまった。

 そうだ、完全に忘れていた。

 あの日の会話を二人も聞いているのだ。

 それこそ雪乃先輩は、合宿なんかよりもっと前に──。

 正直、隠しているという自覚がなさすぎてすっかり忘れていた。

 

「そ、それは……別に……隠してたわけじゃ……」

「でも、言ってくれてないよね? 言うタイミングあったよね?」

 

 確かに、タイミングはあった。

 というより、センパイが初めてこの部室に来た日、私はその場でカミングアウトしようとしてセンパイに止められたんだった。

 つまり、結果的には言えていないまま、今日まで過ごしてきたということになる。

 

 正直に言うと、二人には言っていいかなとは思っていた。

 少なくとも二人共言いふらすようなタイプではないだろう。

 でも、いくら内心でどう思っていたとしても今日まで黙っていたことは事実なので、結衣先輩の真っ直ぐな瞳を見ることが出来ない……。

 こんな形でバレるとは思ってもいなかったし、私が結衣先輩の気持ちを知っている以上隠していたと言われても仕方がないからだ……。

 

「一応、いろはちゃんの口からハッキリ聞きたいんだけど、本当なんだよね?」

「……はい……本当です」

 

 まるで尋問のように問い詰める結衣先輩の言葉に私はとうとう顔を伏せながら、そう答える。

 おかしい、先程まで問い詰められていたのは雪乃先輩だったはずなのに、いつのまにか形勢が一変してしまっている。

 何か……何か言わなくちゃ。

 

「ねぇ、いろはちゃん。いろはちゃんはさ。私の気持ち知ってたんだよね?」

「……」

 

 その言葉に私は何も言い返すことが出来ない。

 

「私の気持ちを知って、それでも自分のほうが優位だって私のこと笑ってたの?」

「別に、そういうわけじゃ……!!」

 

 確かに自分のほうが優位だと思っていたことは事実だが、それで笑っていたわけじゃない。

 むしろ、センパイの気持ちが結衣先輩の方へ向かないように必死だった……。

 

「その……許嫁っていってもセンパイはあんまり乗り気じゃないみたいだし……」

「ウン、知ってる。なんで二人が許嫁になったのかとか、そういう話も全部ヒッキーから聞いた」

 

 そう聞いた瞬間、私の中に何か嫌なものが走る。

 今、結衣先輩はセンパイから『全部聞いた』と言った。

 全部とは一体どこからどこまでだ?

 何か余計なことは含まれていないか?

 何も問題はない、そう心のなかでは思っているはずなのに、私の頭の中の警報が鳴り響いていくのが分かる。

 

「許嫁って、ヒッキーに彼女が出来たら解消なんだってね?」

「そ、れは……」

 

 確かに、お爺ちゃんからそんな条件は出されている。

 でも、そんなコトありえないと思っていた。

 少なくとも、私の中では──。

 でも、結衣先輩は今度こそきっぱりと、私の目を見て宣戦布告をしてきたのだ。

 それは力強く、そしてはっきりした口調で。

 

「つまり、私。……ヒッキーのこと諦めなくていいんだよね?」

「……」

 

 結衣先輩のその言葉に私は何も言い返す事ができなかった──。




というわけで今回はちょっと重たい話となりました
まあ原作でもここから数話はちょっとギスギスしだすところなので仕方ないとは思うのですが。
それでも負けじと立ち上がるガハマさんをどうか応援してあげてください(ヒント:タグ)

さて、次回どうなってしまうのか
引き続き応援の程よろしくお願いいたします。


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第114話 俺と一色と由比ヶ浜と変な空気と

いつも感想、評価、メッセージ、お気に入り、ここすき、誤字報告ありがとうございます。

またまたまた一ヶ月ぶりとなってしまいました。申し訳有りません……。
コレも全部夏のせい……。


 始業式が終わり数日も経つと、校内はスッカリ通常モード──というより、文化祭モードへと移行していた。

 右を見ても左を見ても、男も女も口にするのは文化祭に関する話題ばかり。

 授業も身に入らないといった様子で皆どこか浮足立っていて、フワフワとした空気が校内を支配している。

 

 そのせいなのかどうかは分からないのだが、ココ最近少々おかしな行動を取る人物が俺の周りで増えていた。

 一人目は言うまでもない、一色いろはである。

 というのも、一色は始業式の日以降、何故か朝から俺の家の前で待ち伏せをし一緒に登校──まぁそれ自体は以前からもあったのだが──まるで何かから俺を守るように、辺りをキョロキョロと警戒し、時折不安気に俺を見上げてくるのだ。

 ハッキリ言って不審者のソレである。

 俺としてはどう対応していいか分からなく、かつ恥ずかしいので辞めて頂きたいのだが……。

 俺が「何がしたいの?」と問いかけても「……センパイは気にしないで下さい」と取り付く島もないので、どうすることもできなかった。

 

 九月とはいえ、今年もまだまだ残暑が厳しいからなぁ……もしかしたら本格的に脳がやられてしまったのかもしれない。

 熱中症というのは脳がゆで卵になった状態だという話しもあるぐらいだしな。

 そして一度茹で上がってしまった卵は二度と生卵には戻らない──というちょっと怖い話だ。早めに病院で見てもらっても良いのかもしれない。

 

 しかし、そんな俺の心配を余所に、一色は変わらずSPのように周囲を警戒し、学校が近づくにつれ俺の手を握る力も強くなっていく。

 本当に何がしたいのか? 疑問が深まるばかりではあるが、まぁそのうち飽きるだろうと俺はその行為を諫めることを諦め一色の好きなようにやらせることにした。

 俺に出来るのは精々学校につくまで、大人しく引っ張られながら、一色が時折ポツリともらす「……今すぐセンパイと同じクラスになる方法ってないんですかね……?」とかいう、冗談なのか真面目なのか分からない突拍子もない質問を聞くことぐらいだ。

 

 その質問もまた意味不明な──どういう思考回路でそういった考えが浮かんで来たのかは分からないようなものなのだが──。

 ……飛び級ねぇ……。

 まぁ世の中には“ギフト”と呼ばれる特別な才能を持った子供が百人に一人はいるみたいな話も聞くが、日本ではあまり馴染みがないからなぁ……。

 

 少なくとも総武高で飛び級が認められた生徒の話なんて聞いたことがないし、よしんば飛び級システムがあったとして、一色がその枠に当てはまるとも思えないというのが正直なところだろう。

 残念なことに一色の学力については元家庭教師の俺が一番良く分かっているからな。本当に残念なことだけど……。

 

 だから俺は一色が何を血迷ってそんなことを言っているのか分からないままに、その質問をばっさりと切り捨てていく。

 時には現実を見せるのも優しさというものなのだ。

 

「無理に決まってるだろ……そもそもなんでこんなタイミングで二年になりたいんだよ? 何の得もないだろ」

「だって……今二年生になれば文化祭だけじゃなくて修学旅行も一緒できるじゃないですか……」

 

 だが、一色はそんな俺に対し心底真面目な口調で残念そうに肩を落として、そう答えてきた。

 どうやら冗談ではなかった、ということらしい……。

 そのあまりにも残念そうな表情に、俺も思わず口を噤んでしまった程だ。

 一体何故一色は突然こんなコトを言い出すようになったのだろう?

 少なくとも夏休み中にはこんなこと一言も言ってこなかったはずなんだがなぁ……この数日の間に一色の中で一体どんな心境の変化があったのだろうか?

 文化祭はともかくとして修学旅行?

 確か総武(ウチ)の修学旅行先って毎年京都って決まってたよな……?

 ああ、なるほど。つまり……『一緒に』というのはそういうことか……。

 

「……何? 京都行きたいの?」

「そりゃぁ行きたいですよ!」

 

 葉山隼人の顔を思い浮かべながら俺がそう問いかけると、一色が『決まっているだろう』とでも言いたげに鼻を膨らませ、声を荒げてくる。

 ふむ……なるほど。

 つまり、そういうことか……。

 そこまで考えた瞬間、俺の足取りがグンと重くなり、胸の中にモヤモヤとした感情が浮き上がってくる。

 ああ、暑い。なんで今日もこんなに暑いんだ。

 きっとこんな気持になるのもこのジメジメした暑さが原因なのだろう。

 ああ、イライラする。 

 

「まぁ……土産ぐらいなら買ってきてやるから我慢しとけ」

「もう! そういうことじゃないんですよ!!」

 

 俺が一色の手を離して自らの下駄箱から上靴を取り出すと 一色は不機嫌そうにそう言って「むー」と少し怒ったように頬を膨らませ俺を睨んでくる。

 しかし、ソレ以上は何も言わずタタタッと自らの上靴が有る一年の下駄箱の方へと消えていってしまった。

 全く人の気も知らないで困ったお姫様だ……。

 ……ん?

 人の気ってなんだ?

 俺が苛ついているのは暑さのせいだよな?

 うん、きっとこの暑さが全て悪いのだ。

 もしこれが冬場だったなら例え一色にひっつかれても、文字通り涼しい顔がすることができたはずだ。地球温暖化は全てにおいて悪なのである。

 

「やっはろーヒッキー!」

 

 そんなことを考えながら自分の中のモヤモヤを落ち着かせるように「ふぅぅ」と大きく息を吐きながら上靴へと履き替えていると、背後からそんな元気な声が聞こえてきた。

 振り返るまでもない、こんな珍妙な挨拶をしてくる奴を俺は一人しか知らない。

 由比ヶ浜だ。

 

「おぅ、おはようさん……」

「どしたの? 元気ない?」

 

 振り返り、由比ヶ浜の姿を確認すると、由比ヶ浜がきょとんとした表情で俺にそう問いかけてくるので、俺は「別に」と答えながら教室へ向かうべく体の向きを変える。

 すると由比ヶ浜は「ちょ、ちょっと待ってよ! 一緒に行こうよ」と俺の肩を掴んだ。

 そしてそれと同じタイミングで、一年の下駄箱から上靴に履き替えてきた一色が再び俺の前へと姿を表す。

 

「センパーイお待た、せ……結衣先輩……?」

「あ、いろはちゃん。やっはろー!」

 

 瞬間、二人の間にバチリと火花が散った。

 いや、実際にはそんなことありえないはずなので、そんなエフェクトが見えたような気がしたというだけなのだが──。

 そう、何を隠そう、この由比ヶ浜こそ最近妙な行動を取り始めた二人目の人物なのだ。

 

「ふふ、今日も二人で登校なんて仲が良いね。でもいろはちゃんも毎日じゃ大変じゃない? いろはちゃんの家からヒッキーの家って学校から逆方向なんでしょ? ね、ヒッキー?」

「お、おう……そうだな」

「いえいえ、好きでやってることですからお気遣いなくぅ。そういう結衣先輩こそぉなんだか最近やけに遭遇率高くないですかぁ? もしかして待ち伏せとかしてたりしてぇ?」

「そ、そんなことないよ? そもそも私達同じクラスなんだし、そんなことするわけ無いじゃん! ね、ヒッキー?」

「お、おう……そうだな」

 

 始業式時点ではまだ例の件を引きずってか、妙に余所余所しかったはずなの由比ヶ浜なのだが最近の由比ヶ浜は俺に以前のような笑顔を返してくれるようになったものの、こんな風に妙な絡み方をしてくるようになったのだ。

 いや、妙なというのはあくまで俺の主観的な感想でしかなく、由比ヶ浜自身の行動に以前と違うところはないはずなのだが……。

 言われてみると確かに最近やけに学校前や、昇降口辺りで会う率が高い気もするし。

 それになんというかこう……少し言葉に棘があるというかなんというか……俺を見る目に時折妙な色気を感じるというか……前より距離感が近いというか……。

 とにかく、妙なのである。

 

 最初は一色と喧嘩でもしたのかと思ったが詳しく聞いてもそういう訳でもないらしいので、まぁ俺の勘違いという可能性もあるし。

 許嫁の件がバレて少しギクシャクしてしまった俺たちの関係を由比ヶ浜なりにもとに戻そうとして無理をしているという可能性もあるのだが……。

 

「むー……あ、待ってくださいよセンパイ! 今日ってバイトない日ですよね? 授業終わったら校門で待ってていいですか?」

 

 そんなことを考えながら、とりあえず教室へと向かおうとすると一色が慌ててもう一度ギュッと力強く俺の左手を握りそんなことを聞いて来た。

 同時に、俺を挟み込むように由比ヶ浜が俺の右側へとピットインしてくる。 

 ……暑い。

 なんていうかこう……すごい肉感的に暑い。そして圧い。

 なんで女子ってこう気安く男子に寄ってくるんだろうな。

 そういう無邪気な行動がですね……多くの男子を勘違いさせ、結果死地へと送り込む事になるんですよ? 気をつけてくださいね?

 

「あー……バイトはないけど、今日はちょっと別件が入ってるから、帰りは遅くなるな」

「別件って?」

 

 俺の返答に、今度は由比ヶ浜が小首を傾げながら、そう聞いてくるので俺はふと考えた。

 実際今日はバイトがない日なので別件について話すのは何も問題は無い。

 だが待てよ……? これは意外と使えるかもしれない!

 

「ああ、ちょっとした野暮用でな。っていうかそっちは部活ないの?」

 

 思いつきながらも比較的良さそうなアイディアを閃いたところで俺が逆に二人に問いかけると、一色が少しだけ不満そうに由比ヶ浜の顔を見上げていく。

 アレ? もしかしたら休みだったか?

 

「もちろん、今日もあるよ。ね、いろはちゃん?」

「……そうですね……」

 

 だが、そんな俺の心配を余所に由比ヶ浜がそう答え、同時に一色が忌々しそうに舌打ちをした。ちょっと怖い。

 やっぱり喧嘩でもしているのだろうか?

 でも由比ヶ浜はそんな感じじゃないしなぁ……。

 一学期──少なくとも夏休みの合宿では割りと楽しそうにやっていた記憶があるのだが……俺の気の所為だったのか?

 とはいえ、なんだかんだ一色が居たほうが俺としてはやりやすいので俺は由比ヶ浜の言葉に一つ頷いてから、再び由比ヶ浜の方へと視線を向ける。

 

「そうか、じゃあもしかしたら後で奉仕部に顔出すかもしれないけど、いいか?」

 

 そんな俺の言葉に一色と由比ヶ浜がまるで双子のように「へ?」と妙な声を上げた。

 いや、この場合シンクロしたと言ったほうが正しいだろうか? ハモった?

 二人はまるで鏡合わせのように同じ表情で俺を見上げ、その言葉が信じられないとでも言いたげな表情を浮かべて来ている。

 俺、そんなに変なこといっただろうか……?

 

「えっと……もしかして先約とかある? 別に今日が駄目なら明日でも──」

「ううん! ない! ないよ! いつでも大歓迎だよ!」

「そうですよ! なんなら毎日だって来てください! 入部も可です!」

「いや、別にそこまででは……」

 

 一瞬、歓迎されていないのか? と疑ってしまったが、間髪入れず二人にグイッと距離を詰められ、俺は思わず「お、おお……そうか……」と両手を小さく顔の前まで上げた。

 いわゆる『痴漢してませんよ』のポーズだ。俺はどこも触っていない。

 だからソレ以上近づかないで欲しい。

 そう、決して自分から触っているわけでは居ないのだ、だから由比ヶ浜標準装備の大きなソレが俺の腕に当たっているのは不可抗力であり冤罪である。どうか許して欲しい。

 

奉仕部(ウチ)に来るってことは……もしかして何か依頼事?」

「あ、ああ、まあ……似たようなものかな」

 

 由比ヶ浜の問いに一歩後ずさりながら俺がそう返すと、一色が逃すまいと挟み込むように更に一歩詰めて来る。

 

「センパイが依頼!? 何ですか? 水臭いじゃないですか、部活じゃなくて直接私に言ってくれてもいいんですよ?」

 

 その瞳はまるでおもちゃ屋の前で『何か一つだけ買ってあげる』と言われた子供のようにキラキラと輝いていて、とても今ここで「やっぱりやめる」と言えるような雰囲気ではなさそうだ。

 まあ、折角の歓迎ムードを壊す意味もないのだが……。

 そう考えた俺はキラキラしたまま見つめてくる一色の瞳から目をそらしながらその問いに答えていく。

 

「あー……まぁ、うん、その辺りは放課後部室で改めてな……あ、でも、もしかしたら遅くなるかもしれないから、もし先約とかがあるようだったら──」

「分かりました、放課後ですね! じゃあ私準備しておきますから!」

「え? あ、おい!」

 

 すると、一色はそんな俺の言葉を最後まで聞くでもなくドドドっと廊下を走り、自分の教室へと向かっていったのだった。

 ソレはまさに嵐のようで、さすがの由比ヶ浜も呆れ顔を浮かべている。

 全く……なんなんだアイツは……。

 

「準備って……何の準備だよ……」

「あ、あはは、いろはちゃん。行っちゃったね」

 

 由比ヶ浜は同情するようにそう言うと、少しだけ俺から離れ、再び2-Fへと向かい足を動かし始めた。

 

「そういえば、ヒッキーは文化祭何かやらないの?」

「何かって?」

 

 そして恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる俺に気を使ってか、話題を変えてそんなことを聞いてきた。

 しかし俺は、その言葉の意味するところが理解できず一瞬フリーズしてしまう。

 というのも、クラスでの出し物決めはまだ終わっていないはずなのだ。

 

 まぁぼっち歴の長い俺としては知らない間に既に出し物が決まっていたというパターンも想定はしているのだが……。

 はて『何かやらないの?』とはどういう意味なのだろうか?

 俺としては何もしなくていいならそれが一番なのだが……。

 

「あのね、隼人君たち文化祭でバンドライブやるんだって。だからヒッキーもそういうのやらないのかなって思って」

「ああ、そういうことか」

 

 何も言わない俺に、由比ヶ浜が続けてそう言ったところで、ようやく俺は合点が言った。

 由比ヶ浜の言う『何かやる』というのはクラス単位や部活単位ではなく、有志での参加という意味らしい。

 そういや、去年も閉会式前とかに舞台上でよく知らないバンドが何か弾いてたっけ。

 あの時は軽音部か何かだろうと思っていたが、軽音部にしては数が多かったし。

 そうか、有志参加というパターンもあるのか……。

 

「ヒッキーもギター弾けるんだよね?」

「まぁ、弾けるけど……」

 

 由比ヶ浜がキラキラと何か期待を込めた瞳で俺を見つめてくる、もしアニメだったら星のエフェクトが飛んできそうな勢いだ。

 とはいえ、こんなところで妙な期待をされても困る。

 

「俺はそういうのはパス」

 

 だから俺はハッキリとそう答えた。

 別に俺のギターはバンドマンになりたいとか、有名になりたいとかそういった他人に聴かせたいという欲求からくるものではなく。

 弾けたらなんとなく格好いいなという、ものすごくありきたりで不純な動機から始まったものだ。

 それは百パーセント自己満足であり。当然、人前で披露するつもりはないのである。

 

「えー、聴いてみたいなぁ。ねぇ、ね?」

「……やらんと言ったらやらん」

「えー……ヒッキーのケチ!」

 

 そんな俺の答えに、何故か不満げな由比ヶ浜はそう言ってガラガラ教室の扉を開けた。

 教室の中にはすでに半数以上の生徒が揃っており、いつものように後ろの方でタムロしていた三浦達が由比ヶ浜の姿に気づき手を挙げる。

 だが、由比ヶ浜はそれでも俺の傍から離れていくでもなく、軽く手を上げると。

 そのまま嬉しそうに俺の手を引き「行こ」と俺を三浦達の環の中へと誘い込んだ。

 ついさっき俺をケチ呼ばわりしたことは、どうやらもう完全に忘れているようである。

 全く女子ってのは本当によくわからない生き物だなぁ……。

 俺は改めて思いながら小さくため息を吐いたのだった。

 

***

 

***

 

***

 

 その後も休み時間の度にやってくる一色と由比ヶ浜に対応しながら、気がつけばその日も授業が終わり、約束の放課後を迎えた俺はそれ以上由比ヶ浜達に絡まれないよう急いで鞄を肩にかけるとそのまま早足で教室の扉を開けた。

 

「あれ、ヒッキーどこ行くの? 奉仕部行くなら一緒に行こうよ」

「野暮用があるって言っただろ? そっち先に済ましてくる。もしかしたら遅くなるかもしれないから、そのときは気にせず先に帰ってくれ」

「あ、うん。分かった」

 

 慌てて追いかけてくる由比ヶ浜にそう説明すると、由比ヶ浜は扉の前で止まりコチラに向かって「待ってるからねー!」と大きく手を振って来たので、俺はソレに軽く手を上げることで答えながら、廊下を走っていく。

 別に特段急がなければいけない理由なんてなかったのだが、 モタモタしてると一色も来てしまうかもしれないからな……。

 だから俺は出来るだけ一年の教室の近くを通らないよう、少し遠回りをしながら目的地へと向かって行く。

 

「ちょっと早くしないと委員会はじまっちゃうよ!」

「まだ大丈夫だよー」

「こっちは色々準備が有るの!」

 

 そうして、普段通らない道を通っているとすれ違う生徒達のにぎやかな声が聞こえた。

 委員会……というと文化祭実行委員。通称文実だろうか?

 昨日、我がクラスでも代表として男女二名が選ばれたわけだが、アイツらも今頃会議室へと向かっているのかもしれない。

 まあ、俺にはあまり関係のないことか……。

 そんなことを考えながら、俺は目的地である総武校でも一際日の当たらない場所にある遊戯部へと足を運んだのだった。

 

「うっす」

「あ、比企谷先輩! どうもです」

「……です」

「ふはは、遅いぞ八幡!!」

 

 遊戯部の扉を開け中へと入ると、そこには遊戯部の相模、秦野。

 そして何故か材木座の姿があった。一応言っておくと、コイツは遊戯部の部員ではないはずで、当然俺が呼んだ訳ではないし、材木座に呼び出された覚えもない。

 ないのだが……元々こいつには色々手伝って貰う予定だったので、これはこれで好都合というものだろう。

 

「とりあえずコレ」

「あ、ありがとうございます」

 

 とりあえず俺は材木座を無視しながら、先日遊戯部の二人と約束したブツ──先月の誕生日に戸部からもらったゲームの箱──を机の上に置き、鞄を下ろす。

 すると相模は特に遠慮する風でもなくそのゲームの箱を開封しルールブックを読み、カードをペラペラと捲り始めた。

 

「へぇ……意外としっかり作られてるんだな」

「だね、もうちょっとしょぼいかと思ってた」

「持ってなかったの?」

「ええ、興味がなかったわけじゃないんですけど、こういうゲームはやっぱり人数がいた方が盛り上がるので、どうしても購入優先度は低くなってしまうんです……」

「なるほどな」

 

 確かに、ネットの動画とかでも見るのは大抵が大人数でプレイしているものだ。

 二人やそこらでやってできないことはないが、面白さという点では多少開きがでるだろう。

 かといって、プレイしたがる人数を用意するのも面倒だ。

 実際あの日もやりたがっていたのは戸部だけで、封を開けたきりプレイはしなかったしな。

 

「それで、文化祭の件はどうなってるの?」

「そうですね、基本的には比企谷先輩のアイディアを元にするのがいいかなと話し合ってました」

「やっぱり遊戯部としてできるのはゲームの提供ぐらいなものですから」

 

 遊戯部の二人がメガネをクイックイッと上げ、時折キランとそのレンズの端を光らせながら現状を説明してくる遊戯部員二人。

 だが、そこまで言ったところで二人のの眼鏡がわずかに曇った。

 

「ただ……」

「ただ?」

「比企谷さんに言われた、例の“取引”の方は正直まだ全然進んでなくて……すみません」

 

 どうやら、俺が遊戯部に協力する代わりにと言って出した交換条件の方が上手く言っていないらしい。

 割と思い詰めている感じに見える辺り、この二人は存外真面目気質なのかもしれない。

 そんな落ち込むようなことでもないと思うんだがな……。

 

「あぁ……まぁ、そっちは気長にやってくれ、最悪失敗しても構わないし、保険みたいなもんだからな」

 

 実際俺としては今回の俺が出した課題は上手くいってもいかなくも良いとは思っていたりする。

 こういうのは運も絡んでくるからな。

 それでも、俺が個人的に動くよりは確率が高いと思ったから条件にしたというだけであって、相模と秦野が動いてくれるというだけでも俺としては万々歳なのだ。

 

「まぁ、俺の方は多少時間かかっても問題ないからな、とりあえず今は文化祭の方を詰めていこう」

 

 俺がそう言って二人の肩を叩くと、二人が嬉しそうにホッとしたように顔を上げる。

 その光景に、何故か背後で腕を組んでいる材木座も満足げだ。

 

「ふむ。ならば、まずは遊戯部の文化祭について話し合おうではないか!!」

 

 しかも何故かリーダーっぽく場をまとめようとしている、ちょっとムカついてきたな。

 やっぱりコイツ追い出してやろうか……。

 

「そ、その前にせっかく四人いるんですし、これ一回やってみません? テストプレイってことで」

 

 だが、そうして話し合いを始めようとした瞬間。

 秦野がすっと挙手をして、そんな提案をしてくる。

 どうやら俺が持ってきたゲームに興味があるらしく、相模も「そうだそうだ」と言わんばかりに頷いている。

 その表情はまるで『おもちゃを買ってもらったばっかりの子供』のようで──ってあれ? なんか今朝も似たようなことを言ったような気がするな……。まぁいいか。

 俺は一度材木座と視線を交わし、仕方ないと肩をすくめあって、一度だけゲームに付き合うことにした。

 

 ──しかし、初戦で俺がボコボコにされたので、その後泣きの一回を繰り返し、数戦してしまったのはここだけの秘密である。

 

**

 

 気がついた頃には、すっかり夕方になっていた。

 九月に入ったとはいえ、まだ割りと明るいのでどうにも時間の感覚が分からなくなってしまうのは仕方のないことだろう。

 

 とはいえ、時計の針はもう既に十七時を回っている、さすがに一色達は帰ってしまっただろうか?

 ふとスマホを確認するが、誰からも連絡が来た様子はない。

 

「ちょっと遊びすぎたな、とりあえず行こう」

「行くってどこへ?」

「奉仕部だよ」

 

 そう言って立ち上がる俺に疑問符を浮かべる三人。

 そういえばその辺りの説明もしてなかったなと思い出しながらも『道中で話せばいいか』と考え直し。

 俺はまるでレトロゲームのRPGのように三人を連れだって四階の奉仕部室を目指したのだった──。

 

「なるほど……」

「まぁ……そういうことなら……」

 

 そうして、三人に軽く状況の説明をしながら階段を登り、一色にLIKEで『今から行くけど大丈夫か?』とメッセージを送る。

 返信も既読もつかないが……まぁ、予め行くことは伝えてあるし、もし俺たちのことを待っていてくれた場合のことを考えるなら、既に帰っていたとしても顔をだしておくのは悪いことではないだろう。

 

 そうして、俺達が奉仕部の扉まであと数メートルというところまでやってくると、突然ガラリと奉仕部の扉が開くのが見えた。

 出てきたのは女子が三人。

 もしかしたらちょうど帰るところなのだろうか? そう思いその顔へと視線を向けると。

 だが、そこから出てきたのは奉仕部のメンバーではなく、最近よく見かける女子とその取り巻き連中の姿だった。

 

「それじゃ、よろしくね♪」

 

 そう言って、奉仕部の扉を締めたのは相模南というやけに俺に絡んでくる同じクラスの女子。

 相模達はなにやら楽しそうにキャイキャイと騒ぎ俺たちの方へと走りながら、俺たちになど目もくれず下の階へと消えていく。

 

 奉仕部への依頼者だろうか?

 先を越されたか?

 もしそうなら少し面倒なことになるな……。別の案を考えなければ……。

 そんなことを考えながらも、先程の相模の口ぶりから奉仕部にまだ人が残っていることを確信し、俺達は再び足を進めようとする。

 しかし、その時不意に遊戯部の方の相模が何故か俺達の背中に顔を隠すようにしているのが見えた。

 

「? 何してんの?」

「あ、いえ……ちょっと顔を合わせたくない相手だったので……」

 

 そこでふと考える。

 遊戯部の相模。

 俺と同じクラスの相模。

 無意識に使い分けていたがもしかしたら──。

 

「ああ……もしかして……姉弟か?」

「……血縁上は……。学校ではあんまり顔合わせしたくないですけど」

 

 まあ、同じ学校で同じ苗字ならそういうパターンもあるのだろう。

 むしろ何故もっと早くに気が付かなかったのだろうか? と思うほどだ。

 とはいえ、今の反応で姉弟仲はそれほど良くはないということは理解できたので、この件をこれ以上掘り返すのは辞めておこう。

 小町も中学校の時は俺との関わりを隠してたしな。

 そういう事もある。うん……。べ、別に泣いてなんか無いんだからね!

 

「八幡どうした? 泣いているのか……?」

「な、泣いてねぇし!」

 

 そうして俺は少しだけ思い出し泣きをしそうになりながら、再び三人を引き連れてズンズンと奉仕部の前までやって来た。

 くそっ、こうなったらもうとっとと話をつけて家に帰るぞ。

 今の小町と俺は周りが羨むほど仲が良いのだからな!

 今日だって俺が帰ったら小町は「おかえりお兄ちゃん♪」と笑顔を振りまいてくれることだろうしな!

 そんな妄想をしながらノックをしようと手を肩の辺りまで上げる──その瞬間、部室の中から声が聞こえてきた。

 

「どういうことですか? 奉仕部はしばらく休止なんですよね?」

「ええ、彼女の依頼は私個人で受けるから、心配しないで」

 

 何やら不穏な空気が漂う中、俺は覚悟を決め、今度こそ奉仕部の扉をノックしたのだった。




というわけで、114話でした。

古戦場中のためチェック甘めです、すみません。

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