鬼になった社畜【完結】 (Una)
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第1話 ある日森の中

 気づけば森で寝ていた。

 

 普通に会社行って、終電乗ってアパートに帰ってそのまま万年床の布団に倒れこんで、気づいたら大正時代にタイムスリップしてた。

 この時点でだいぶ意味がわからない。わからなさすぎて、どうやって会社に行こうかと小一時間悩んじゃった。混乱しすぎだ。タイムスリップして最初に考えることが課長に怒られる、だからね。社畜根性身につきすぎでしょ。

 いや、スリップ直後はそんな、時代を遡っちゃったなんてわかってなかった。朝起きたら森の中で、夏のはずなのにクソ寒くて、息まで白くて、ちらちら雪が降ってきた。

 まじか、てなった。電車止まって会社行けねーじゃんって。

 

 でだ。

 

 よれよれの夏用スーツと革靴で、なぜか真冬感丸出しの山道を歩き回った。この時点でだいぶ辛い。まじか、てレベルで辛い。革靴とか開発したやつ死んで欲しい。

 しばらく歩き回って、第一村人発見、てなノリで畑耕してる人に出くわした。しかも五人もいる。ここはどこ、駅はどっち、タクシー呼んでください、なんて聞いて回った。そしたら全員から不審者扱い。辛くて心折れる。しかし詐欺紛いの商品を売りお宅訪問営業歴7年の俺に死角はなかった。邪険に扱われるのなんて慣れきっているどころか、不審者扱いされなければ落ち着かないまである。その警戒心を解きほぐすのが一流営業マンの腕の見せ所である。

 さあさあ、もっと俺を怖がれ。申し訳ありませんがタクシー呼んでくれませんか? 私の携帯が圏外なのです。誠にお手数おかけしますがタクシーか、それか最寄りの駅までの道などをお教えいただけたら。

 

 官憲のお世話になった。

 

 後ろ手に縄をかけられて、駐在所に連行されちゃった。

 つうか縄。手錠じゃねーの。すげえぶっとい荒縄ですよ。それにまたロープ掛けて引っ張られるもんだから手首擦れて真っ赤。

 そして官憲さん。警官とは違うの。黒い服に黒い帽子。なんか戦争映画とかで見たことあるような感じの古めかしいデザイン。最初見た時、え、コスプレですかそれとも撮影ですかカメラどこですか、なんて聞いちゃってね。不審者扱いどころか、イカレか、とため息つかれた。確かに俺の服装はこの時代にはない感じだからね。スーツとかね。そう、服がね。

 で、事情聴取をされる段階となって、やっと自分の今の境遇に理解が及んで、その上で自分の言動を省みるとね。おかしな服着ておかしな言動を繰り返しててね。どう見ても頭おかしい人です本当に(ry

 

 で、まあね。超常的な何かで時間移動してしまったことにとりあえずの納得をして。環境が変われば言動も変わる。郷に入っては郷に従え、我らエアリーディング民族日本人。営業時代に培ったコミュ力も駆使して、官憲のおっさんとお友達になるべくお話を開始する。唸れ我が営業トーク。

 オーケー、アイキャントスピークイングリッシュ。ワタシ、テクビ、イタイ。ユー、ナワホドク。ディスイズベリーノー。

 

 3日ほど牢屋に泊まることになった。

 まあほら。今俺って一文無しだし。知り合いも一人もいないし。そんな状態で解放されたらこの寒さだと間違いなく凍死するし。ナイスファインプレー。

 

 で、夜。やることないからすぐ寝て、夜に目を覚ましたらおっさん死んでた。

 

 見れば官憲のおっさん、全身血まみれ。どころか体がちょっと爆発してる。その肉片を包んでる黒い服のおかげであれがおっさんのものだってわかるレベル。

 まじか、てなった。

 戸惑いながらも牢屋の中で少しでも元おっさんのそばに寄ろうとしたらね、こけた。慌てすぎて自分の足に躓いて、その勢いで牢屋の扉に突っ込んだ。そしたら鍵が開いた。開いたというか弾け飛んだ。老朽化とかそんなチャチなもんじゃ断じてねー。衝撃が大きすぎて耐えきれなかったよパパ、みたいな断末魔的な音をたてて吹っ飛んだ。

 まじか、てなった。

 ともかくおっさんのところに近づいて、腕っぽいところに指当てて脈をとってみたけど反応なし、つうか冷たい。

 うわーやっぱ死んでんなーと思ってると、なんとなく腹が減った。無性に肉が食いたくなる。自分にまじか、てなった。尋問とはいえ結構な時間会話した人の遺体を前にして思うことが腹減ったとかまじか。俺ってそんなサイコだっけ。

 そんなことをぼんやりと考えてると、なんか人が来た。

 黒い制服を着てるのは官憲さんと一緒なんだけど、今度の人は腰に刀持ってた。あれ、確か江戸の終わりに廃刀令だかなんだかあったんでしょ? 高校で日本史とってなかったからもう覚えてないけど、剣心がそれで捕まりそうになってたのは覚えてる。

 つまりこいつは犯罪者。顔に傷があるあたり間違いなくその筋の人である。黒い制服を着ているあたり、さては官憲に紛れるスパイ的ななにかに違いない。そんなやつを目撃してしまった。目撃された銃刀法違反の危険人物が次になにをしだすか、それは想像に容易い。

 ほら刀抜きましたよ。

 で、こっちに斬りかかってきた。口封じですねわかります。

 いきなり人に斬りつけてはいけない。

 俺は即座に踵を返し、窓ガラスにダイブして外に逃げた。

 そしたらスパイの人、窓から追ってきた。すげえ形相。顔とか古傷だらけで、それだけでも怖いのに血走った目をギンギンに釣り上げて、待てやおらあと叫びながら追ってくる。超怖い。誰が待つかおらあと叫びかえしながら全力で逃げる。

 

 鬼ごっこは夜が明けるまで続いた。

 

 あれだ、人間命がかかればなんでもできる。いくら俺がエリート営業マンで毎日歩きっぱなしだったとはいえ、こんな整備されてない山道を一晩中全力疾走し続けられるなんて普通はありえない。たぶんアドレナリンすごい出てる。そのくらい命がやばい。

 元の山まで戻って、道無き道をジグザグに走り回って、途中で見つけた小さな洞窟に滑り込んでね。ここなら見つからねーだろと安心して、それでも一応息を殺してたらね、見つかった。鬼ごっこは俺の負けで勝負がついたのだ。穴から引きずり出されて、さっきの傷だらけの危険人物に首根っこ掴まれて、てめえ気配の消し方も知らねーのかと馬鹿にされた。

 気配ってなんだよ、そんな漫画みたいな特殊能力あるわけねーだろ。そう言い返したらね、傷の人におもくそぶん殴られて意識を失った。

 

 

 

 

 

 で、目覚めたら別の山にいた。

 なんで意識を失うと勝手に移動してるのか。そういうの俺良くないと思う。

 今回はあの傷男が犯人に違いない。あの傷男絶対許さん。あの憎いあんちくしょうを探しだして訴えて官憲に捕まえてもらおう。留置所で臭い飯食ってるところを思い切り笑ってやる。そう決意して下山しようとしたら、できなかった。

 いや道はわかる。頂上あたりの木に登って目を凝らせば、あーあそこをこういってこういってこうね。みたいな。でも無理。麓あたりがすげえ臭いの。もう体が拒絶するレベル。多分近づくだけで昏倒する。こんな臭いものがこの世に存在したのかって感じ。あまりの臭さにまじか、てなる。そんくらい臭い。やばい。

 なんか有毒ガスが出てるに違いない。

 どこかガスの出てない道はないものかと歩き回っていると、なんかキモいのがいた。

 うろこだきーうろこだきーと鳴き声をあげながら蠢いている。でかい。俺の身長の倍はある。あと手がいっぱいある。そんでキモい。

 まじか、てなった。

 あんなもんが存在するのか。もしかしてなんか新種の生き物だろうか。

 あれを捕まえたらどっかの研究者から金もらえたりしないかな。俺今一文無しだし。

 よし。

 

 

 

 

 

 

 

 無理。

 

 なにあれ、めっちゃ硬いんですけど。

 つうか俺はあんなのをどうやって捕まえるつもりだったのか。無駄に飛びかかってぶっ飛ばされただけじゃねーか。もう少し道具を揃えるなりしないとどうにもならん。

 つうか腹減ったな。

 

 

 

 

 

 この山やばい。

 あのデカキモいやつ以外にもなんかいっぱいいる。

 基本は人型なんだけど、まず頭にとんがってる角みたいなのが生えてる。目が赤くて縦割れしてるのと、牙がごっつり伸びてるの。あと爪長い。

 猫かな。

 たぶんあれだ、猫から進化した新種がこの山で繁殖してるんだろう。よくわからんけど。角みたいなやつもきっと猫耳に違いない。つうかどいつもこいつも殺意高杉内。新種猫どうしで殺し合ったり、死んだ新種猫を別の新種猫が喰ってたり。けっこうグロテスクにくちゃくちゃ食ってる。共食いである。まじか、てなった。猫って共食いすんのか。俺結構猫好きだったのに見る目が変わりそうだ。

 バイオのウィルスに感染した猫ゾンビの可能性……?

 この山がアンブレラ社の実験施設である可能性が微レ存?

 

 

 

 

 

 

 肉食新種猫から逃げ回り、時に殴り倒しているうちに、なんか超能力に目覚めた。

 正確には、能力に目覚めていることに気づいたって感じ。

 新種猫から逃げ損ねて、腕の血管を噛みちぎられたときのことだ。まじか、てなって、このまま血が噴出し続けたらおいおいおい死ぬわ俺、みたいな。

 こらあかんと。止まれー血よ止まれー、と念じてると、なんと本当に血が止まったのだ。

 しかも噴き出た血までしゅいーんと戻って、傷口にカサブタを作ってくれた。まじか、てなった。

 つうかこれ、まじか。まじで超能力なのか。動脈破けるくらい深い傷が3日で元に戻ったし、もしかして俺の体は時間移動した時に次元を越えた影響で超パワーを身につけてしまったのか。通りで山の中を走り回っても疲れないはずだわ。

 やべえ、来たんじゃね俺の時代。三十路間近にしてようやく来たんじゃね。ちょっと遅きに失した感が拭えないけどまあいいよ。とくに許す。

 なろう系が流行るわけだわ。こんなのテンションアガるに決まってんじゃん。まず能力の名前を決めて、あとはあのデカキモい新種生物を捕まえて売れれば完璧だわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の、血液を操る能力。その名を『紅蓮の王(クリムゾン・ロード)』と名付けよう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 血を動かすこれについて調べてみた。

 これ、微妙に使いづらい。

 どっかの格ゲーキャラみたいに血の刃を作って切ったりとか、ブーメランにして飛ばしたりとか、そういうことができない。つうか固まらない。じゃあウォーターカッターみたいに水圧を上げられるのかといったらそれも無理。どうも血が噴き出る水圧は心臓の拍出量に依存してるみたい。そんなんじゃあカッターにはできんわ。

 この能力でできることといったら、なんか細い触手を出すくらい。

 試しにこれを使ってデカキモさんを捕獲しようと試みた。が、無理。普通に千切られた。つうかこれ脆い。触手を叩きつければそれだけでパアンて崩れる。もっと慎重に扱わなければならない。いやどうしろと……?

 何がくりむぞんろぉどだよ。

 

 

 

 

 

 どんだけ練習しても、血の触手が頑丈にならない。

 テンションだだ下がりである。

 くりむぞんろぉど(笑)

 

 

 

 

 

 

 なんかこれ、無理。

 無理というか、そもそもこれそういう能力じゃないっぽい。

 ほら、人が腕をパタパタさせても空飛べないでしょ。そういうんじゃないからそれ、みたいな。

 いや、でももうちょい頑張りたい。

 血で剣を作るとかかっこいいじゃん。ロマンというか。できないとわかっていても壁や机で二重の極みを練習しちゃうような、あんな感じ。二重の極みの何が良いって、いつでもどこでもこっそり練習できるとこだよな。あんな感じで、普段から血を固める練習を続けていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 血を動かすようになってから、鼻がすごくきくようになってることに気づいた。といってもそれは「血」の匂い限定っぽい。血に対して神経が過敏になっているのかもしれない。嗅覚というか、第六感的な。それが嗅覚と共感覚的に作用しあってるみたいな。おかげで共食い現場や殺し合ってるところを匂いをかいでから回避余裕。今の俺ならウメハラにも勝てる。

 で、毎日毎日注意深く血の匂いを嗅いでいたらあることに気づいた。

 血には種類がある。ABO型とかRhとか、まあ色々分類があるわけだけど、全ての新種猫の血に共通している匂いが混じっていることに気づいたのだ。

 しかもそれがすごい良い匂いなのだ。

 山の麓から流れてくる有毒ガスの匂いやら、もう何日経過したかもわからんサバイバルな環境やらで気が滅入っていた俺を超癒してくれる。

 もっと、もっとこの匂いを嗅ぎたい。どこだ、次はどこで殺し合いをしている。

 

 血の匂いが癒しとか俺ヤバくね、と気づいた。まじか俺。

 

 



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第2話 少女に出会った

 俺の超能力は普段、というかこの殺伐とした山の中では全くと言っていいほど役に立たない。触手が伸びるだけだし。脆いし。

 しかしその利用法を一つ思いついた。

 血の選別である。

 新種猫どもの血の中には良い匂いがする血が混ざっている。

 あれ、猫の血全てが芳しいというわけではないっぽい。

 この間、襲いかかってきた猫を一匹ボコボコにしてやったわけだが、そいつの血をぎゅっと搾り取っていろいろ調べてみたのだ。

 やつらの血は、実は基本的には臭い。ガソリンのような、腐った油の匂いがする。しかしその中にごく僅かに混ざっているのだ、芳醇な香りが。恐ろしく淡い香り、俺でなきゃ見逃しちゃうね。見逃すというか、嗅ぎ逃す?

 ただやっぱり、その香りを嗅ごうとしてもその周りの腐った血が邪魔をする。気分良く香りを吸い込めないのがすごいいらいらする。おえってなる。もちろん飲もうものならガソリンの風味が舌を支配してひどいことになる。よくあの新種猫どもはこんなくっさい血を奪いあえるものだ。

 というわけで、それをどうにか分離してやろうと考えた。

 良い香りの強い部分を俺の血の触手でより分けるのだ。

 おれの触手は力こそ弱いし脆いしで、サバイバルではまったく役に立たないが、こういった精密さを求められる作業では結構使えるようだ。破壊力E、スピードE、精密動作性A、みたいな。ピストルズみたい。ただし射程距離はCくらい。

 

 

 

 

 

 しばらくの試行錯誤の末、血液中だけでなく、新種猫の体細胞中に含まれる良い匂い成分まで抽出することに成功した。

 やり方は結構簡単だった。

 まず俺の血の触手を相手の体の中に伸ばす。相手が急に動くとそれだけで触手はちぎれちゃうので、予めガチガチに固定しておくか、切り落とした四肢なんかを使うといい。

 体内に入った触手から細かい枝をたくさん生やす。その枝に使うのは相手の血だ。俺の血は、他者の血と混ざることでその支配圏を広げることができるっぽい。これは、実験のかなり後期になって気づいたことだ。

 で、その支配圏が血液のみならず、細胞内液やらリンパ液やら、あらゆる体液に及んだところで選別を行う。いい匂い成分は伸ばされた俺の血の枝の内側を通って俺の下まで運ばれる。

 で、集めたいい匂い成分を竹で作ったコップに注いで、ワインを嗜むようにして香りを嗅いだり飲んだりする。

 一匹の新種猫を固定してからいい匂い成分を抽出し終えるまで大体1時間と言ったところか。しかも取り出せるのは一匹につきせいぜい数滴といったところ。練習すればもうちょい短い時間で効率よく回収できそうだけど、どうかな。まあ練習台はいっぱいいるしね。

 というか、いい匂い成分を搾り取ると猫の体がボロボロと崩れて死ぬんだけど、これなんぞ?

 

 

 

 

 

 

 

 一匹ボコボコにしては隠れ家にしている洞窟に連れ込み、いい匂い成分を抽出する血抜き作業に精を出す。そんなことを繰り返していたある日、外が随分騒がしいことに気づいた。

 せっかくいい匂い成分の抽出に集中していたのに、なんだってんだ。

 木に登ってあたりを見渡すと、なんか知らない子供が大量に山に入ってきた。

 この山の麓には有毒ガスが充満しているのに、平気なのだろうか。みんなすげえ元気に駆け回ってる。

 でもそんな派手な音立ててると、あー食われた。

 この山は新種の肉食猫が大量繁殖しているのだ。俺がどれだけ実験に利用してもまるで減る気配がない。多分どっか人目のつかないところで盛ってるんだろう。

 こいつら、一回の出産で何匹くらい産むんだろうか。

 結構なペースで俺も消費しているのだが。

 まあいいや。足りないわけでもないし。

 

 で、だ。

 山に入ってきた子供の群れである。

 難民かなんかか? この時代にそんなもんがあるのか、とは思うけど。

 つうかこいつら刀で武装してやがる。まじか。どこの武装集団だ。ヤクザの討ち入りかなんかか。ヤクザが拾ったり拉致ったりした子供を武装させて鉄砲玉にしてんのか。

 確かに子供相手だと兵士は殺すことに躊躇を覚える、とかなんかの本で読んだことある、が、そんな人間の理屈は新種猫どもには通じない。どころか喜び勇んで子供を食らっている。

 まじか。人間とか何がうまいのか。

 少なくとも俺は、お前らがこっそり持ってるいい匂い成分の入った血の方が美味しく感じる。俺はグルメなんだ。

 

 そんな、自称グルメで毎日のように一番搾りの血をワインがわりに嗜む俺の鼻に、超いい匂いが漂ってきた。

 いつも味わってるいい匂い成分とは似ているようでまた違う香り。

 すげえ興奮するな。

 ちょっと行ってみるか。

 

 

 

 木から跳ぶ。木から木へと飛び移りながら宙を一気に駆ける。

 いい匂い成分を飲むようになってから、俺の身体能力はどんどん上がっていった。血の触手の精密動作性も上がって、新種猫の血中からいい匂い成分を選り分ける効率もガンガン上がっていった。いずれは日が沈むまでに一万の新種猫から血抜きできるようになるかもしれない。1日一万回、感謝の血抜きである。いずれは音を置き去りに……。

 

 

 

 件の匂いの下までたどり着くと、そこには一人の少女がいた。小学校の高学年くらいか? 痩せてて小さいからもしかしたらもっと年上かもしれない。

 半泣きで刀を振り回している。黒髪に和装であることはこの山に来た他の少年少女と変わりないが、動くたびにその濃厚かつ芳醇な香りが撒き散らされている点が他とは大きく違う。

 まじか。少女まじか。

 やべえな。ティーンエイジャー相手に興奮してきた。

 で、その少女が刀を向けているのは、まあもちろん新種猫である。しかも複数。こいつらもなんか、いつになく興奮している。まれちーまれちーとみんなおかしな鳴き声をあげている。それともあの少女の名前がまれちーというのか。愛称かなんかだろうか。しげちー、みたいな。大人気だな少女。

 とにかく、すげえうまそうな血の匂いがする少女を雑に食い散らかされるのは我慢ならん。俺はグルメなんだ。美味しいものはちゃんと美味しくいただかなければ食材に失礼である。

 というわけで、少女に集ろうとする新種猫どもを後ろから血抜きしてやった。

 こいつら新種猫は、体の中にあるいい匂い成分を全て抜かれると体がカサカサのボロボロになって消滅するのだ。バイオハザードのゾンビも気づいたら死体が消えてるしな。

 颯爽と駆けつけ、自分を付け狙う猫どもを片付けた俺に少女の目は釘付けである。やだ気持ちいい。そうそう、もっと感謝して崇め奉って。俺ってば褒められると伸びるタイプだから。会社にいた頃無能扱いされてたのはあれだ、周りが悪い。怒鳴るだけで教育になると勘違いしてる自己満足野郎ばっかだったから。

 

「あ、あなたは……?」

 

 おっと、申し遅れてしまった。促されるまで名乗らないとは営業マンとして情けなし。私こういう者です、と名刺を渡す。もうどのくらい前かも覚えていないけれど、一度染み付いた動作はなかなか忘れないものだ。

 

「何、これ。読めません」

 

 何って、名刺だよ。知らない? 知らないか。そっか。まじか。

 ああ、そういえば俺ってタイムスリップしてたんだった。文明と離れて暮らしてたから忘れてたわ。

 とりあえずかがんで視線を合わせ、名前を名乗った。オレ、オマエ、キズツケナイ。久しぶりの営業トークでがっつり少女の信頼を得た。さすが俺である。

 どした? なんでそんな青い顔してんの。食ったりしねーて。ちょっと血をもらうだけだからね。先っちょだけ。先っちょだけだから。

 

 

 

 泣かれてしまった。

 解せぬ。

 

 

 

 なんとか落ち着かせて事情を聞いてみると、この山に入ってきた子供達は皆『鬼殺隊』なる武装組織に入るための選別試験を受けるんだと。

 勝手に山に入って来てサバイバル試験とかやめてほしいんですけど。

 超近所迷惑。

 あんまり子供とか好きじゃないんだよなあ。うるさいし。今も山のいたるところからでやーだのぎゃーだのチョトツモーシンだの、親御さんは何をしてるんだか。躾がなってないよね。新種猫も激おこである。そら喰われるわ。

 そもそも、その、鬼殺隊? なんだってそんな危ない組織に入りたいの。まだ十五かそこらの子供に刀持たせてこんなところに放り込んで、どう考えても普通じゃないでしょ。山には50人くらい入って来たけど、もう半分くらい死んでるよ? それを1週間? 全滅するに決まってんじゃん。

 ただの口減らしの姥捨山疑惑が浮上したんですが。

 つうかご両親は? と聞くと、なんでも鬼とやらに喰われてしまったのだと。

 だからその復讐のために鬼殺隊に入りたい、と。

 へー。

 つまり君は孤児なわけか。

 孤児が、育手というおじいさんに? 鬼殺隊に入るための修行をつけてもらって。で、ある程度育ったらみんなこうしてサバイバル試験を受けさせられて、七日間生き残ったら鬼殺隊に入って鬼と殺しあう任務に就く、と。

 まじか。大正時代まじか。

 さすが、まだ人権だのがとりざたされていない時代だ、命の価値が軽い軽い。孤児とかまじで一山いくらの世界だ。

 この時代に来て一番カルチャーショック感じてるわ。

 まあ、いいんだけどね。郷に入っては郷に従え。我らエアリーディング民族日本人。ここがそういう時代だっていうならまあ、それに阿るだけですわ。

 

 しっかし、どうすっかな。

 最初はさっさと血を少しいただいてさよならしようかと思っていたけど、ここでさよならしたらこの子死んじゃう。絶対死ぬ。

 つうか今も周りから視線感じる。新種猫どもがこの子の匂いに惹かれてギラギラした目で見つめてる。それに気づいたんだろう、少女も顔を真っ青にしてキョロキョロしてる。うん、ちょっと気づくの遅いかな。

 

「あ、あの、鬼に囲まれてます!」

 

 鬼? それってこの猫どものこと?

 

「猫!? いやこんな猫いるわけないでしょ! 鬼ですよ鬼! なんで鬼殺隊の選別で猫と戦うんですか!」

 

 あー、言われてみれば角生えてるし、牙も、まあ……そっか。猫じゃないんだ。そっかぁ……。俺が猫耳だと思ってたあれ、角なんだぁ。

 あれ、なんかショックだ。この山の生活も、猫に囲まれてると思ってたから耐えてこれたけど、え、これ猫じゃないの? じゃあ俺の今までの猫と触れ合っていた時間て全部、嘘?

 まじかぁ。

 腹が立ったので、足元にこっそり這わせたクリムゾンロードで、近くにいた新種猫改め鬼どもをまとめて血抜きしてやったわ。1日一万回(誇張表現)感謝の血抜きを続けた俺の血抜き速度はすでに音を置き去りにするから。日が沈むどころか余裕で南中だから。

 はーあ。

 騙しやがって、くそう。

 

 

 

 

 

 

 良いこと思いついた。

 最近、どうにも新種猫改め鬼どもを探す手間がタルいな、と思っていたんだよ。

 

「あの、なんで木に縛り付けるんですか。というかこの赤い縄なんですか」

 

 クリムゾンロードだよ言わせんな恥ずかしい。

 

 縛った少女から距離を置いてこっそり観察すると、まず一匹の鬼がやってきた。ぎゃーぎゃー騒ぐ良い匂いのする少女に惹かれてうへへへと気持ち悪い笑みを浮かべながらだ。

 

「なんだってこんなところに稀血がいるんだぁ?」

 

 まじか。

 鬼って喋れたのか。

 俺が相手してたのって獣みたいに暴れるかうろこだきーとかまれちーとか、そんな鳴き声あげる奴しか知らんぞ。

 んー、まあいいや。

 まれちーちゃん曰く、この山にいるのはみんな人食い鬼らしいし。殺しとけば世のため人のためじゃん。

 まれちーちゃんに集中してる鬼の背後に近づき、いけ、クリムゾンロード!

 

 

 

 

 助けてあげたのにめっちゃ怒られた。

 ガチ泣きで刀をぶんぶん振り回してきた。泣いてる顔も可愛いけど、ちょ、待てお前、刃物はやばいって、やば、

 

 ア”ーーーーーーッ!!

 

 

「な、なんですか今の汚い高音」

 

 これ、俺の声じゃないから。

 

「それはわかりますけど。右の方からですよね」

 

 そうね。行ってみる? どっからこんな声を出せるのか興味あるわ。

 

「おじさんって意外と鬼畜ですよね」

 

 はー? 鬼畜じゃないし社畜だし。そもそもおじさんじゃないしギリ二十代だし。

 

 

 

 

 

 

 二人で行ってみると、すげえパンクな髪した少年がこっちに走ってきた。

 

「来ないでぇ! 死ぬ死ぬ絶対死ぬイヤーーーーーーーッ!!」

 

 ひでえ声だ。なんでこんな汚い声で高音が出せるのだろう。

 つうかすげえ髪だ。黄色だよ黄色。なのに顔は日本人だから違和感すげえ。髪染めるにしてもなんだって黄色を選んだんだ。

 パンク君はこちらに気づいたものの足をまったく止めずに、

 

「お前ら逃げ、逃げろぉ! デカいの来るから! すげえデカいの来るから!」

 

 デカいのってなんだよ。

 

「うろこだきぃぃぃぃいいいい!」

 

 少年の背後から本当にでかいのが来た。

 聞いたことある鳴き声だ。

 でっか。

 腕とかたくさんあるくせに伸びるし。しかも硬いんだよな、こいつ。俺のクリムゾンロードだと刺さんない可能性が高い。

 めんどくさいなあ。まれちーどうする? 戦う? 無理? いやそんな必死に首振らんでも。よし、逃げるか。

 

 

 

 

 

 

 まれちーと、あとなんとなくパンク君と一緒に駆けた。あのデカいのはどうやら足はそれほど速くない。しかもこの山の中、木がわんさかと生えている。まともに移動もできまい。狭い道を選んでしばらく走って、無事に撒くことができた。

 で、パンク君であるが。

 

「ああああああ死ぬかと思ったつかもう死ぬ俺死ぬ絶対死ぬこんなの無理だって助けてじーちゃんああだめだじーちゃんにここに放り込まれたんだった俺嫌われてんのかなうあああ」

 

 独り言うるせえ。

 さっきからぶつぶつずっと弱音吐いてる。

 相手にするのもなんだか億劫なので、再びまれちーを木に縛りつけようとするも、俺の気配を察したのか警戒心むき出しで刀に手をかけた。

 オレ、シバル。オマエ、ネル。オニ、アツマル。オレツヨクナル。

 営業スキルを駆使した説得を試みるも無駄に終わった。

 解せぬ。

 

 

 まれちーが腹減ったとのたまうので、まれちーの後ろから近づいてきた鬼から搾りたての血を分けてやった。おれの一番好きな部分だ。

 なのにまれちーの野郎、断りやがった。

 すげえ首を横に振るのな。頭千切れてもしらんぞ。

 なんでそんな嫌がるのよ。血のなかでも特にいい匂いのする部分だぞ? 力も湧くし。

 

「いや、それ絶対鬼舞辻の……」

 

 きぶ、なんて?

 

「ま、待って! 言ったらダメ! えっと、血よりも肉! お肉が食べたい、です」

 

 肉がほしい? うさぎとか?

 あー、確かにその辺にいるな。鬼って飯食う必要ないみたいだから、実はこの辺てうさぎとか猪とか食用の動物の宝庫だったりする。人間に対して全く警戒心がない。

 飯食わないと言えば、前に鬼を縛ったまま一ヶ月くらい忘れて放置していたんだけど、余裕で生きてたし。鬼ってすげえよな、最期まで元気たっぷりだもの。

 ともあれ、確かに初心者に血はきついか。

 というわけで狩ってきました、イノシシ。これをクリムゾンロードで完璧に血抜きして、まれちーが持ってた日本刀でいい感じに肉を切る。7割ほどは干し肉にして、残りはまれちーが持ってきていた火打ち石で火を起こしてバーベキューである。

 もちろん野菜なんて軟弱な輩は存在しない、肉オンリーだ。

 毛皮はどうすっかな。いる? いるんだ。毛布がわり? へー、そういや俺も時空を越えて数日してから寒さとか感じなくなってたな。……あの顔面傷男、今どこにいるんだろ。いつか官憲のもとにしょっぴいてやるぜ。

 というかもしかして、あいつもまれちーの言う鬼なのかもしれない。顔怖かったし、髪もツンツンしてたから、あの中に角を隠してたのかもしれない。

 だとすれば官憲に渡すわけにはいかんな、おれを可哀想な人扱いしたおっさんみたいに殺されるかもしれない。

 よし、見つけたら血抜きしよ。

 

 

 つうか別にまれちーを縛らなくても、ただそこにいるだけでまれちーは鬼を引き寄せることに気づいた。

 だからこれからはそのままの君でいてくれ、必ず俺が守るから。

 イケメンフェイスで言ってみたら、まれちーてば顔を真っ赤にして切りかかってきた。

 ははは、おいおいそんなに照れるなよ。暴力系ヒロインは今時流行らんぞ? あ、でも今大正か。てことはかなり時代を先取りしてんな。すげぇ、最先端じゃん。

 

「縛る必要無かったじゃないですか! もう、もう、もう!」

 

 それな。

 

「なあ、ちょっといいか?」

 

 誰? と思ったらパンクヘアーの少年だった。汚い高音かこもった独り言しか聞いてなかったから普通の声が逆に違和感あるわ。なに?

 

「えっと、鬼殺隊の選別で鬼と一緒にいるのってどういうことなんだ?」

 

 鬼? 誰が?

 聞けば、二人して俺を指差してきた。

 

 

 

 

 

 え、俺?



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第3話 血の花が咲く森

 パンク君に言われて知ったけど、俺鬼なんだってさ。

 まじか。

 時空を越えたおかげでスーパーパワーに覚醒したわけではないらしい。

 俺が鬼だっつーなら証拠出せよ証拠! 確たる証拠もなく人を鬼扱いとか人としてどうかと思う。と言ってみたら、水たまりを覗き込めと言われた。目とか、鬼どもと同じ感じに赤くて縦に裂けてるんだって。

 まじだった。我が人生最大のまじか、だ。鏡ないから気づかんかったわ。

 

「というか今まで食事もせず生きてこれた時点でなぜ気づかないんですか」

「しっ、言ってやるなよ。バカだって自覚しちゃうだろ」

 

 え、いつの間に人間辞めてたの? というか、鬼って人間からなるものなの? なのにあいつら共食いとか子供食ったりとかしてんの? まじか〜。ヒくわ〜。

 

「あなただって血を飲んでるじゃないですか」

 

 それな。

 

 あと、なんか鬼と人間だといろんな違いがでてくるんだって。

 具体的には、

 

 ・太陽に当たると死ぬ

 ・基本不死身

 ・人間の血肉を食う

 ・血鬼術という異能を持つ者がいる。俺のクリムゾンロードもこれ

 

 ……まじか。吸血鬼みたい。

 

 

 

 

 俺が鬼だとわかったところでやることは変わらない。世知辛い。

 まれちーちゃんが鬼に好かれる特異体質であることは変わらず、彼女単独ではすーぐ鬼に囲まれて生きたまま八つ裂きにされて均等に配られた後にいただかれることは必定。

 

「ええええええ、なにその体質!? この子は誘蛾灯かなんかなの!?」

「あ?」

 

 まあそんな感じ。

 

「は?」

「どうしよう俺どうしようなにそれせっかく仲間ができて死なないで済む可能性出てきたのにそれってひどくない!? おれも八つ裂き? 生きたまま蟹みたいに手足もがれて食べられちゃうの!? あんまりだろそれ!!」

 

 パンク君ががくがく震えだした。風の音にすら反応してキョロキョロと視線を右へ左へと巡らせている。どんだけビビってんだよ。さっきも逃げ回ってたし。それを見てまれちーが舌打ちした。けっこう柄悪いなこの子。

 話をまとめると、まれちーちゃんがこの選別を生き残るためには、どうしたって他人の力を借りなければならないのだ。

 で、だれの力を借りるかという話。

 

「おおおおおお、俺が!」

 

 おう、どうした少年。いきなり大声出して。うんこか?

 

「おおお、俺がこの子をまま、守る。鬼が何匹ここ、来ようと、俺はたたた戦ってやるぜ」

 

 おー、すげえな男の子。さっきまですげえ元気に弱音吐いてたのに。かみかみだけど。

 よし、じゃあ俺も力を貸そうか。

 

「え、いいんですか」

「でででもあんた、鬼じゃんか」

 

 鬼じゃんかと言われてもね。それ知ったのついさっきだし。それまで俺自分のこと人間だと思ってたし。山にいる他の鬼どもと違って人を食ったことも殺したこともないし。

 だからあまり鬼だ鬼だと言われてもね。まだ心は人間のままだと思うし、鬼になったんだから鬼らしくしろと言われても正直あれだ、困る。人の心なんていきなり変えたりできないんだよ。

 人の心を変えるには環境を変えないと。

 毎日怒鳴り散らされて、人格否定されて、自己否定を羅列するだけの反省文を書かされて。週休半日かつ1日の睡眠時間は終電に1時間乗って家に着いてから始発が出るまでの四時間。寝不足とストレスで脳は萎縮し、思考能力を極限まで削られ今の状況がおかしいと気づく能力も奪われ。そんな生活を三ヶ月も送ればそりゃ心なんて変わるだろうけどさ。

 

「それって洗脳……」

 

 今思い返せば、いつも俺を怒鳴りつけてた課長。あいつの言うことっておかしかったよな。ああ言えばこう言うというか、それ俺がどう答えようと怒鳴るのは変わらねーというか、ただの難癖だったよな。それがわかる程度には、この山で生活したおかげで精神が回復した。

 

「じゃあ俺死なない? 守ってくれる? ねえ俺を守ってくれる?」

 

 はいはい守る守る。いや、自信をもって守れると言えるほど戦い慣れてるわけじゃないけど。

 でもまあ、対価があればすげえやる気でるよ。

 

 

 

 

 

 まれちーを助ける対価として、ちょっとだけ彼女から血抜きさせてもらった。

 クリムゾンロードの触手をほっそくした奴を手首の血管にちょこっと突き刺して、その先端からいい匂い成分だけを濾し取る。多分痛みは感じなかったはずだ。太さなんて注射針の百分の一くらいだもの。

 うん、やっぱりまれちーちゃんの匂いの原因は鬼の中にあるいい匂い成分とほとんど変わらないみたい。その量というか、濃度は鬼とは比べものにならないけど。

 というより、まれちーちゃんの血中のいい匂い成分はどうやら細胞には入っていかないらしい。ずっと血中にあるし、ちょっと調べてみたけど尿中にも排出されない。普通に臭い。だから血中に濃縮されるんだな。

 なんだよ。尿の臭いを嗅いだくらいで変な顔すんなよ。いいか、大なり小なり、人体から排泄されたものでその人の健康状態を測ることが……ちがう、大なりって別に俺はうんこもいけるんだぜという話じゃない。ちょっと、おい。おいって。

 

 

 

 人としての何かを失いながら、3日が過ぎた。

 あれ以来微妙に二人との間に距離がある。

 まあ、いくら人を食べたことがないとはいえ鬼だものね! 鬼殺隊を目指す二人とは相容れない関係だよね! しゃーないしゃーない!

 くそが。

 

「……あ」

 

 背後にまれちーちゃんがいた。

 つうか今の独り言聞かれてた。違うんだ、今のくそが、は別にうんこがという意味ではないから。

 

「はい、わかってます。大丈夫です、わかってますから。おじさんがどんな人でも、偏見の目で見たりしませんから」

 

 じゃあなんでジリジリと後退してんのさ。

 あとパンクもブルブル震えながらまれちーの前に出てくるなよ。まるで俺からまれちーを庇ってるように見えるだろ。傷つくからやめろよぉ……。

 

 いや、二人の仲が良くなれば、とは思ってたよ? 年も近いし、明日も知れない戦いに身を投じることになるんだから。でもね、俺を相手に結束されるとね、会社にいた頃思い出しちゃうからね? 痴漢冤罪で捕まって、それ自体は相手の女が痴漢捏造の常習犯だったから俺は無罪放免だったんだけどね? でも会社の女どもはみんな俺をゴミを見る目で見てきてね。冤罪だっつってんのにそんなの関係ねーと。セクハラで有名な常務もここぞとばかりに俺を叩いて女の味方面しやがってね。この世全てのセクハラはみんな俺が原因だと言わんばかりで、俺が消えれば世界からセクハラは無くなり平和が訪れるのだ、みたいな。魔王か俺は。

 

 

 

 

 

 それにしても、今までにない大漁だった。

 まれちーを吊るすだけで鬼どもが勝手にやってくるのだ。入れ食いである。今まであくせく森の中を探し回っていたのがバカみたいだ。

 鬼が現れなくなったら移動して、まれちー吊るして、やってきた鬼を血抜きして、移動して。そんなサイクルを繰り返した結果、まあこの山の鬼は一掃できたんじゃないかな。

 

「吊るす必要無かったですよね!? そうですよね!?」

「絶対あれ、おっさんの趣味だよな。いろいろこじらせすぎだろ」

 

 おっさんじゃねえ、お兄さんと呼びなさい。まれちーはお兄ちゃんでもいいぞ。

 吊るす必要はあったよ。俺のクリムゾンロードの耐久向上のためというか。気づいてた? 始めのころと比べて触手の太さ十分の一になってたの。

 

「くっそどうでもいいです!」

「ちょっと、クソとか言ってやるなよおっさん傷ついちゃうだろ」

 

 パンクてめえ。

 あ、ちなみにまれちーもパンクも頑張って鬼を殺してた。吊るしっぱなしというわけじゃなかったし、これは選別の試験なんだから、ずっと他人に助けてもらうわけにはいかないとまれちーちゃんが言ったのだ。それに流されるようにパンクも「おおお俺もやる」と噛みながら言った。

 二人とも真面目すぎぃ。

 いいか、真面目なのは美徳だけどそれも過ぎるとダメになるのも早いからな。上司の言うことは話半分のさらに半分くらいに聞いとけ。あいつら結局難癖付けたいだけだから。上下関係を明確にするためにとりあえず罵倒して指示に従わせたいだけだから。そのためにわざと曖昧な指示を出してな。曖昧な指示を完璧に実行なんてできるはずないじゃん、絶対難癖つけられる。でも真面目な人はそれを真剣に受け止めちゃうからね。真剣に、最善の方法は何か、を考えているうちはまだ良いのよ。これが、叱られないようにするにはどうするか、と考えるようになっちゃうとね、もうね、精神崩壊の第一歩だから。何をどうしたって罵倒されて人格否定されるまでがワンセットなんだから。考えるだけ無駄無駄。

 

 という話をすると、パンクがなるほどそうだったのか、みたいな顔をした。

 パンクはあれだな。見た目パンクだしすぐ悲鳴あげるしびびって戦いたがらないけど、根は真面目なんだな。

 そうだぞ、死なない程度にやってればお給料もらえるんだから。仕事をするために生きてるんじゃない、生きるために仕事をするのでもない。余暇を充実させる金銭を手に入れるために仕事があるんだ。仕事のため、なんて論外だけど、生きるために仕事をする人間も結局仕事以外の人生がなくなるからね。生活と仕事の二つしかない人生とか、お前何がしたいのって感じでしょ。選択肢増やしていかんと。

 

「……むぅ」

 

 不満そうだねまれちー。

 

「だって、鬼殺隊は千年鬼と戦い続けてきた組織です。先人たちの血と汗と、多くの犠牲があって今の鬼殺隊があるんです。それを軽んじるような考え方はどうかと思います」

 

 まあいいんじゃね、そういう考え方も。ただ、入る前からその会社なり組織なりに理想を持っていると、だいたい現実とのギャップで苦しむよ。きっとどこかで折り合いというか、妥協しなきゃいけない部分がある。できなかったら心を病む。命かけるような仕事ならなおさら、いずれなんでこんなことに命賭けてんだろって思うようになる。その、鬼殺隊? 千年続いたってのはすごいけど、絶対どっか腐敗してるから。組織の一番上が二回変われば必ず腐り始めるから。これどんな組織でも一緒。



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第4話 道(ロード)

 ともあれ選別である。

 まれちーの、あの最初に会った時の、俺がいなかったら間違いなく死んでたレベルの醜態は、いきなり大量の鬼に追い回されてテンパってたかららしい。良い匂いだからね、仕方ないね。

 さすがに最初から複数の鬼を相手にするのは無理があるので、最初は俺がとっ捕まえた鬼の弱そうなやつ、つまりいい匂い成分が少ないやつね、そういうのから順に面と向かって戦わせてみたら、けっこういいとこまで戦えてた。なんかめっちゃ脚速かったし。速いというより早い? 流水みたいに滑らかに走って、構えたと思ったら風が逆巻くような音がして、一瞬ですぱーんだった。イ・ア・イ・ギ・リ、みたいな。

 

「水の呼吸 一の型 水面斬り」

 

 静かに技名を呟いて、鬼の首を一刀両断。

 やだかっこいい。侍ポニテをなびかせて戦う感じが超イカす。今度やり方教えて。

 つうかまれちー強いじゃん。

 パンク君も何気に頑張った。こっちの方はまれちーちゃんより斬撃の速度というか、キレが悪かったけど。速いは速いんだけどなんだろう、緊張しすぎて動きがめっちゃ硬い。ガチガチ。

 俺が会社にいたころの、朝礼で五分スピーチを抜き打ちでやらされた時を思い出す。社長とか専務とか、俺が噛んだり話を考えようと言葉が詰まるたびに舌打ちしたりため息ついたり。そういうプレッシャーがさらに焦りと硬さを生むという悪循環。今になって考えると、徹底的に自己批判させて自信を喪失させ、考える能力を剥ぎ取ることが目的だったんだろうな。自分はなにやってもダメだ、何やってもうまくいかない、という意識を擦り込んでおけば、自分で考えて行動することがトラウマになるからね。自分のダメなところ、悪いところを繰り返し繰り返し、口頭だったり反省文だったりでいろんな言葉で説明させてたからね。そのくせじゃあどうすればいいのってところはノータッチだからね。思考力奪っといてそりゃねーだろ。

 パンク君はそんな経験があるのだろうか。この年ですでに社畜根性が染み付いているとか、ちょっと親近感湧いちゃうよお兄さん。

 

 それにしても、二人ともあまりにも一太刀で鬼を殺していくから聞いてみた。

 なしてあんな簡単に鬼を殺せるの? て。あいつら再生力ハンパないでしょ、ただ殴るだけだと全然死なないよ、俺は詳しいんだ。だからこそ色々実験が捗ったけど。

 

「日輪刀のおかげです。あの、実験て?」

「おい聞くなよ、明らかに不穏な空気だろ。聞いたら絶対後悔するって。なんであんたちょくちょくそうやって自分から藪を突くの?」

 

 まれちー達選別受験者が持ってる刀は特殊で、これで首を切れば不死身に近い鬼も殺せるんだって。まじか。

 せっかくだから俺も五本くらい拾っていくことにした。刀だし、売ればそこそこの金にはなるでしょ。一本は自分で使う。この短いやつなんて俺でも使いやすそう。

 二人にすごい微妙な顔をされた。

 なんだよ、持ち主は食われちゃってるし、持ち主不在の刀を再利用するだけだよ。

 この選別って何年かに一度やってるんでしょ? そのたびに何十本も刀がこうして捨てられるんでしょ? じゃあむしろ拾わないと。山にゴミを捨ててはいけない。いいね?

 

「……」

「……」

 

 なんか言えよ。

 

 

 そんなこんなであっという間に最後の夜となった。

 ぼちぼち下山である。

 まれちーとパンクはこの後、鬼殺隊として働くことになる。

 パンクもだいぶ緊張しなくなったけど、やっぱり不安だなあ。

 いいか、契約書にはちゃんと目を通せよ。人事課の言うことなんか当てにするなよ。残業がありませんって、それ残業としてカウントしてないってことだからな、残業代ゼロってことだから。夜に会社まで行ってみろ、説明会で人当たりの良いこと言ってる会社ほど深夜まで煌煌と灯りがついてっから。休みの日は清掃ボランティアで地域に貢献とか、それ奴隷扱いされてるだけだからな。

 

 ぽかんとされた。

 

 不安すぎる。絶対この子たち将来騙されるよ。

 え、パンクはもう騙されまくった後? なにそれ。いやいや君まだ十五、六でしょ。騙されたつってもせいぜい肥溜めに落とされたとかそんなんでしょ。

 

「あのね。好きになった女にね、こう、振り向いて欲しくて貢いでたらね。一緒に逃げようって約束までしてたから借金とかもしてたのね、どうせ踏み倒すし。そしたらその女、その金で別の男と高飛びしちゃってね。俺の部屋の家財とか全部売られちゃってたし、箪笥の奥に隠してた財布とか貯金壺も一緒に持ち出されててさ」

 

 うわきっつ。

 

「そんなんされたら俺、一文無しで借金しか残らないじゃない。飯だって食えないし、逃げる当てもないからすぐ借金取りに捕まったしね。どころか、その女個人の借金まで俺が返す感じになっててさ。まあその女にね、証文を借金取りに売られてたわけだけど。あとは人買いに売られて、鉱山か漁船に売られて死ぬまで奴隷……てところで拾ってくれたじいちゃんが育手でね、死んだ方がマシってくらいの修行が始まったんだけどその時俺十歳」

 

 まれちーもドン引きしてるんですが。

 それ、鉱山の方がよかったんじゃないの? だってこのままだと君ほぼ間違いなく死ぬじゃん、二十歳なる前に生きたまま食われて死ぬじゃん。

 

「なんでそういうこと言うの!? 俺だってわかってんだよこれ無理だって! だって俺才能無いもん正直この最終選別で死ぬつもりだったよ! もしなんかの間違いで、偶然! たまたま! これを生き延びたとしてもね!? どうせすぐ死ぬじゃないどうしようもないじゃないこんなのおお!」

 

 ブリッジしながら元気いっぱいに弱音を叫んで、ぴたり、一瞬の間が空いた。逆さまに俺を見て、あ、と何かに気づいたらしい。カサカサと裏返しの蜘蛛みたいに迫ってきた。

 

「お願いします助けてください! 助けて! 頼むよ助けてくれよおじさん! いやああああ! 死ぬの、いやあああああ!」

 

 ちょ、すがりつくなよ涙と鼻水と涎と手垢が繁殖して服が黄色くなるだろ。

 

「言い方ぁ!」

 

 いや、でも俺はまれちーについていくつもりだし。

 

「え、そうなんですか?」

 

 君の血って美味しいしね。正直逃すつもりはあまりないかな。

 それにウィンウィン、お互い得する関係じゃない? まれちーの鬼狩りを手伝いながら、俺はその鬼の血と、まれちーの血を少し分けてもらう。

 何よりもね、これが一番の理由だけど、君らが悪い大人に騙されないようにね。

 

「え、でも」

 

 いいのいいの、気にしないで。やっぱり子供が犠牲になるのって気分悪いしね。

 

「……いや、え?」

 

 まれちーの視線が俺の腰にある五本の刀に向けられている。

 会話する時は相手の目を見ようね。

 

「あ、はい」

 

 か、勘違いしないでよね。君が心配だから付いて行くだけで、君の血が目当てなわけじゃないんだからね!

 

「俺は!? ねえ俺は!? 」

 

 君の血はいらないです。

 

「血の話じゃねーよ! お前俺をここで見捨てたらこれ子供を見殺しにするのと変わらないぞ! 人を食ったことないって、見殺しにしてたら結局一緒だからな! 二人とももれなく人殺しだぞわかってんの、ねえわかってんの!?」

「あ、あの、おじさん」

 

 何さまれちー。あー、同情しちゃった?

 

「えっと、はい。騙された話もそうですけど、ここまでくると哀れ過ぎて」

 

 まれちーも将来男に騙されそうだよね。母性本能くすぐるダメ男を養って「この人には私がいないとダメなんだ」とかって満足感に浸ってそう。でもそれ、男からは十中八九都合のいい飯女としか思われてないからね。

 

「なんでしょう、飯女という単語の意味はわからないけどものすごく心に効く……!」

 

 まれちーは結構情の深い女だしね。パンク君を今ここで振り払ったところで別のダメ男を養う羽目になるでしょ。

 

「じゃあ俺で良くない!? 養って、ねえ養って!! お願い結婚して!」

「け、結婚って……!?」

 

 なんで赤面してんの? 多分日本有史以来最低の求婚だと思うけど。どんだけチョロいのまれちー。史上最チョロ。

 つうかパンク、お前こないだ「おおおおお俺がまま守るんだな、おにぎりがすすす好きなんだな」って言ってたじゃんか。あの気概はどこ行ったん。え、言ってない? なに、あれは嘘だった? おにぎりは知らない? もう言ってる意味わかんね。

 でも、まあ。どうせダメ男を養うことが避けられないなら、まだパンク君で妥協しとくのが良いと思うよ。

 

「はあ。と、ところで、ついていくと言いましても、おじさんはどうやって外に出るんですか? 藤の花が咲いているんですよ?」

 

 藤? あ、この匂いってあのずっと咲いてる藤が原因なんだ? 臭いよね。臭くない? 人にはなんともないの? あ、そっか……。

 なんか予想外のタイミングでダメージきた。

 うん、そうだね。この臭いの元には近づけないわ。でも山道を降りてく必要はないでしょ。

 

「と言いますと?」

 

 掘る。

 

「え?」

 

 山の外まで地面を掘ってく。地下に道を作るの。クリムゾンロードを突き刺して地中で枝を八方に分岐させれば土も脆くなるし。このくっさい臭いも地面の下ならいけるでしょ。

 

「……まあ、そうでしょうけど。あれ、これやばいんじゃ」

「やばいけど、俺らじゃ止められねえよこれ」

 

 というわけでレッツゴー。あ、まれちーは適当に行っていいよ。滝野山だっけ、修行場所。後で追いつくから。

 

 

 

 あ、掘りながら思い出した。

 まれちーたちと頑張って山の鬼は大分片付けたつもりだったけど。

 あの手がいっぱい付いてたデカい鬼、結局捕まえられなかったな。

 つうかパンクと会った時以来見なかったんだけど、誰かに殺されたんだろうか。



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第5話 少年に出会った

 しばしのお別れである。

 ようやく俺の体がすっぽり埋まる程度の穴が掘れた頃、まれちーとパンクが戻ってきた。生存者は彼ら合わせて六人、うち一人はもう下山してしまってその場には五人しかいなかった、とのことだった。穴の中から見上げる俺をしゃがみこんで見ながら二人が教えてくれた。

 

「早くね!? 出来るだけ早く迎えに来てね!? でないと俺ひとりで任務果たさなくちゃいけなくなるんだからね! そしたら死ぬじゃん、遺書にお前らの名前書いといたからね! 公開されたくなかったらちゃんと迎えに来てね!! 絶対だからね!?」

「それ脅迫じゃないですか……」

 

 なんでこんなに力強く弱音を吐けるんだ。

 早くね!? と言われても、俺これからまだまだ穴掘らなきゃならないんだよ? 正直どのくらいかかるか見当もつかん。間に合わなかったら、ごめんな。

 

「はああーーーー!? ごめんで済むかよお! どのくらいかかるかわからないってあんまりだろ! 全力! 全力を尽せよ俺を守るためにさあ! お願いします! ほんとお願いします!」

 

 言うてもお前、俺が合流するのはまれちーが先だからね?

 

「わかってるよそんなこと! あー死んだ! もう十中八九死んだ! 誰にも守られず頼られず一人寂しく鬼に食われて死ぬんだぃやあああ!」

 

 大丈夫だって。この山にいる間鬼を殺す練習いっぱいしたじゃん。七日間で百は斬ったでしょ。君の居合斬りってほとんど目で追えないからね。気絶してばっかだったのが、今じゃしっかり正面からぶった斬るようになったじゃない。大丈夫大丈夫いけるいけるがんばれがんばれ元気があればなんでもできるどうしてそこで諦めるんだよダメダメダメダメ諦めたら。男の子だろ? いいか、『男』という字は田んぼの田に力と書く。これは田畑で力仕事をするのは男の役割だからこういう形になったわけで、つまり俺は何が言いたいんだろうね。

 

「知らねえよおおおお!」

「ほら、もう行きますよ善逸。大丈夫ですよ、あなたは私がずっと守ってあげますから」

「え?」

 

 ん? ずっとって、まれちーからパンクのところに合流するってこと? 結構すぐ任務になるんでしょ? そんなことできるの?

 

「いえ、このまま彼の育手の下までご一緒して、その流れでご挨拶させていただこうかと」

 

 挨拶とな。でもまれちーもとりあえず滝野山まで行かないといけないんじゃないの? 育手の人がいるんでしょ?

 

「いませんよ? ただその山で修行しながら生活していたというだけで。一人暮らしでした」

「ええ? じゃあ水の呼吸とかどうやって覚えたんだ?」

「見よう見まねで。私を助けてくれた剣士様に三年ほどつきまとっていたことがありまして。彼が使っていた剣技や呼吸の仕方をその時に『見て』覚えました」

 

 それは、目がいい、ということでいいの?

 つか、つきまとい? 三年も?

 

「少しでも彼の姿を記憶に留めようと必死でしたから」

 

 まあ、とまれちーはちらりと地べたに座り込んでいたパンクを『見』た。

 あの、目が血走っていた銃刀法違反の男とは違う、穏やかな目だ。それなのに俺は必死こいて逃げたあの時よりも大きい、というより深い恐怖を感じた。

 全てを見透かすような目だ。もしかしたらパンクの裸体、どころか骨や内臓まで透視しているかもしれない。

 多分、俺とパンクはこの時同じ感情を抱いたと思う。

 パンクがこっちを見てきた。

 知らん。そんなすがるような目で見られたって、俺今穴掘るのに忙しいから。すげえ忙しいから。会話する暇すらないから、ごめんな。

 

「あ、おっさん首引っ込めんなよ! 話に加われって!」

「その方は大変無口な方で、教わるどころか直接口を利いたことすら数えるほどしかありません。鬼についてと鬼殺隊の存在、あとは全て拒絶の言葉でした。自分には教える資格はない、というのが最後の言葉でした。だから自分についてきても無駄だと。この山で選別を行っているというのは彼と別れてから、たまたま出会った別の鬼殺隊の方に教わったんです。この刀もその方が貸してくれたんですよ。憧れの方がいるから鬼殺隊に入りたいと『説得』したら快く」

 

 説得(物理)ですねわかります。

 

「恐怖が、恐怖が足に来た。ここんとこなかった感じが久々に来た」

「さ、まずはあなたの育手にご挨拶して、刀と隊服が届くまでに結納まで済ませてしまいましょう」

「待って、ほんと待って。この感じあれだ、修行から逃げた時に感じた死の気配だ」

「あ、私の貞操を気にされていますか。大丈夫です、私がお世話になった水の剣士様とは先も言った通り会話すらまともにありませんでしたから。確かに一時彼の方に執着していましたが、結局それはあなたと巡り合い求婚されるための導きだったのです。鬼殺隊になってあの剣士様に再会できたらお礼を言いましょう」

 

 ああああああ、と悲鳴をあげながらまれちーに後ろ襟掴まれてドナドナされるパンク君。

 遠ざかる黄色い頭とポニテを穴から顔だけ出して見送りながら小さく手を振る。

 俺はわかってるよ。パンクの本音。本当は可愛い女の子に引きずり回されて嬉しいんでしょ。

 心のパンク「うへへーまれちーだいしゅきーもっと引きずってー」

 さっすがパンクさんやで。あまりにも危ない地雷、俺だったら見逃しちゃうね。

 頑張ってくれ。自分で墓穴を掘ったんだから、自分でなんとかしてくれ。

 俺も頑張って穴を掘るから。

 

 

 

 

 

 一つ誤算があった。

 ずっと穴の中で土掘ってると、どのくらい時間が経ったか全くわからん。

 刀が届くまでは鬼殺の任務はないって言ってたけど、もしかしたらもう任務に向かっているかもしれない。

 はじめのうちは要領が悪く、いまいち進みが悪かったけども。地中で広げた触手の枝を振動させれば土の結合をさらにいい感じにほぐせることがわかった。

 ずっとずっと穴を掘り進めて、ようやく山から脱出できた。

 もう全身泥だらけですよ。

 穴からボコッと這い出たら、夜空一面に星が瞬いていた。

 すげえな。大正時代だもんな、空が綺麗で当然か。街灯なんかがこんな山道にまであるわけなし。プラネタリウムとはわけが違うわ。

 つうかこれ、タイミング悪かったらここ直射日光浴びてたよね。井戸に落ちた柱の男みたいになってた。あっぶね。

 どっかりと地面に仰向けになった。泥にまみれて、今まで地面の中に入っていたんだ。地べたに横になることに抵抗なんてない。それよりずっと穴にいたから久しぶりの酸素が超うまい。

 鬼になってから随分と体力とか腕力が上がってるみたいだけど、流石に疲れた。

 全力を尽くせ、なんて言われちゃったからね。

 さて、まだパンクは生きてるかな。

 というかパンクの貞操は大丈夫だろうか。ダメそうだ。

 

「どうかされましたか」

 

 寝っ転がって天体観測なんぞやってたら、声をかけられた。

 今の俺って、泥まみれで道の真ん中で転がってる、病人か怪我人か不審者のどれかだからね。不審者である可能性を分かった上で声をかけてくれたのなら、この声の主は底抜けの善人だ。

 目を向ければ、黒服を着た少年がいた。

 パンクと同じ年頃で、髪は赤みを帯びた黒。耳にザ・日本、て感じの柄の耳飾りをつけている。

 何より腰には日本刀を提げていた。

 何奴。

 

「そんなに汚れて、まるで大根のような、ずっと土の中にいたような臭いですよ」

 

 臭いて。

 どっこいしょ、と立ち上がった。空を見上げたまま、優しく語りかける。大丈夫大丈夫、ちょっと星が綺麗だったから眺めてただけさ。

 

「星、ですか?」

 

 首を傾げられた。そらね、この時代に生きる人からすれば当たり前の夜空なんだろうね。

 俺は少年に顔を向けず、空を指差して語る。

 見てみろよ、あんなに輝く星がいっぱいなんだ、眺めていたくもなるよ。君はしっかりと星を見たことある? 10秒やそこらじゃない、一晩ずっと眺めて、星が動いていく様を目で追ったことが。そして次の日の同じ時間、同じ場所で同じ角度を見上げると、星は全く同じ位置にあるようで実は少しずれている。毎日同じ空を同じ角度で見ていくと、そのズレが少しずつ積み重なって、やはり星が動いているように見える。そして一年が経ち、同じ時間に空を眺めれば、全ての星は天を一周して一年前と全く同じ位置に並ぶんだ。

 

「積み重ね……」

 

 素直なんだろう、少年も俺の差す指の方角へと目を向け、

 

「ずっと見てらしたんですか? 何日も? 何年も? その、少しずつのズレを?」

 

 ここではないけどね。同じ山でずっと見続けてきた。

 ところで少年、桧原山ってどっちかな。

 

「桧原山、でしたらこの道を向こうにまっすぐですよ」

 

 おお、そうだったか。

 とかなんとか、そんな適当なことを言いながら少しずつ距離を取る。

 だってこの少年鬼殺隊じゃん。刀持ってるし、歩き方とかまれちーと一緒だし、あと体の中を巡る血の量と速さね。パンク並みじゃん。

 絶対強いわこんなん。

 で、鬼殺隊なら俺とか思いっきり殺害対象でしょ。目合わせらんねぇ。赤い目見られたら絶対殺される。

 気づくなよ、絶対気づくなよ。

 

「……え、この匂い、え!? 鬼」

 

 さらば!

 

 

 

 

 

 匂いで鬼と気づくとか犬かよ。

 あんな人種がいるんだな。

 そういえばパンク君はすっごい耳が良かったな。一度聞けばどんな曲でも弾ける、とか言ってたけど、じゃあ俺のボイパはどうかなズンドゥッチーと披露してやった。

 そったら、なんの音マネなの? 昆虫? とか言われた。

 君たちにはまだ早すぎたかな(マクフライ並感)。

 会社の忘年会で強いられる宴会芸のために覚えた技だ。前に出て披露したのに誰も見てくれなかったというね。騒ぐ声がでかすぎて俺のボイパが聞こえねえってさ。じゃあ黙って聞けよ、お前が前日にいきなり芸やれとか言い出したんだろが。仕方ねえから帰りの電車の中で練習したんだぞ。女性に唾吹きかけた斬新な痴漢として駅員に突き出されるところだったわ。

 

 嫌なことを思い出しちゃったけど、ともかく少年の言うとおりに桧原山へ向かった。

 パンクの修行場だ。

 めっちゃ標高高い。呼吸が苦しくなるレベル。

 とは言っても俺はもう鬼だから呼吸とか大して必要ないけど。

 高山トレーニングとか聞いたことはあるな。酸素薄いところで生活してると赤血球が増えて酸素運搬量が増えるとかなんとか。アイシールドで言ってた。



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第6話 店主の言うこと

 俺にも赤血球を増やせるのか?

 いや高山トレーニングで、ということじゃなくて。

 俺の鬼としての異能(超能力じゃなかった、死にたい)つまりは血鬼術であるところのクリムゾンロードは精密な血液操作と血中成分の選別が可能だ。最近ではそこそこ頑丈なロープとしても利用できる。成人男性二人分の体重を耐えるくらいには頑丈だ。

 赤血球を増やした状態で体内の血液循環速度を上げれば、筋肉への酸素供給効率が上昇するだろう。

 血液凝固も赤血球が関わるわけだし、赤血球やら血小板やらを自在に増やすことができればもしかしたら血で刀を作ることができるかも。

 また俺の時代が来たかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 血小板と凝固因子とカルシウムで固めたら血の刀ができたりしないかな、と思ったけど、あれ無理だわ。

 感触が硬くなるどころかゴムみたいなんだけど。

 思ってたんと違う。

 でも止血に関してはかなりいい感じに技量が上がった感がある。

 こう、道に倒れてたカラスの傷口からクリムゾンロードの触手を伸ばして、カラスの体内の血小板なりを集めて傷口に当てると、通常よりだいぶ止血が早くなる。

 んー、地味!

 なんだろう、お山にも何匹か異能が使える鬼がいたけど、もうちょいかっこいい能力だった気がする。分身するやつとか、影の中に潜むやつとか、あとあれだ、他の鬼から集めたいい匂い成分を注いでやったやつは血の鞭を振り回して周りの樹木ばっさばっさ伐採していたからね。破壊力って意味ではこいつがナンバーワンだった。まあどいつもこいつもパンクの居合で瞬殺だったけど。

 パンクなあ。あんなすげえ居合斬りができるんだからもっと自信持てばいいのにな。壱の型以外できない落ちこぼれ、て考えてるし、多分師匠やら兄弟子やら、周囲からもそんなこと言われ続けてたんだろうけど。あいつの、雷の呼吸? の型の概要教えてもらったけど、あの居合以外の技って結局どれも牽制じゃん。弐から陸の型で牽制して隙を作って壱の型の必中を狙う、みたいな。修行で壱の型も八回連続で出せるようになったし。あれ使って林の中にわらわらいた鬼二十匹くらいまとめて首飛ばしてたからね。

 それを見てたまれちーちゃんがちょっと頬を赤くしてときめいて……あれかあ。

 ……うん。

 でもまあ確かに、あれしか使えないなら牽制もなく突っ込むだけになるから諸刃の剣なところはある。パンクの耳とか俺の鼻みたいに、めっさ目の良い鬼がいたらカウンター食らう可能性大だ。だったら、牽制は他の人に任せればいいんだよ。タンク役が受け止めたところを後衛が高火力で薙ぎ払う。そういう意味ではまれちーちゃんとパンクって相性がいい気がするんだよな。水の呼吸の真髄は柔軟な受け、とか言ってたし。柔らかく受け止めて撹乱させたところをパンクがスパーン。

 まあ素人考えだけど。

 

 

 

 

 桧原山をぐるっと見て回ったところ、頂上付近に一軒のそこそこ大きい小屋があった。モダンな佇まいですげえ惹かれる。こういう民宿でキャンプ的なノリで一泊したい。超バーベキューしたい。ただし一人でな。ウェーイなノリを持ち込む奴らがいるとどうしたってカーストの低い人間が雑用任されることになるし。底辺だからってお前らの奴隷じゃねーつうの。かと言って、じゃあ俺と同じランクの奴らでキャンプやればいいのかというと、まーあ楽しくない。一っ言も喋らず焼けた肉に箸伸ばして食うだけ。ローテーションで火を仰ぐ役と肉載せる役を回してな。ただの作業じゃんって。みんな体力ねーから山頂まで移動するだけで気力も使い果たして口開く余裕もないのな。だったらせめてチェーンの居酒屋行った方がまだマシだったわくそが。帰り道では企画した同期が微妙に疎外されてたしな。

 キャンプは一人。これ鉄則。

 でだ。

 多分これがパンクの育手が住んでる修行場だと思うんだけど、人の気配がまるでしない。

 

「動くな」

 

 今人の気配しないって言ったばっかなんですけど。

 首に刀が触れてる。ちょっと切っ先が肌に刺さってる。

 これやばいってマジで。

 

「鬼……か? 貴様」

 

 違います。

 

「その気配、人間ではあるまい。しかし鬼と断じるにはあまりにも……」

 

 あまりにも、なんだよ。鬼じゃないって言ってるでしょ人の話聞けよ老害おらあ。

 

「ろうがい、が何かは分からんが侮蔑的な意味が込められてるのはわかった」

 

 しまった、テンパって対応を間違えた。

 ここは俺がかつて人間だった頃に培った営業トークスキルで警戒をほぐし、刀を引いてもらうことを優先すべきだった。

 すみません、今のちょっと待ったしていいですか。

 

「待ったて何がじゃ」

 

 あれ、お爺さん将棋とかしない人ですか? 俺の地元では待ったは三回まで有りなんですよ。

 

「そんな邪道認められるか戯けが」

 

 は? そうやって古いものに執着して新しいものを小馬鹿にしてるから発展がねーんだよ。つうか俺の地元ディスってんの? 町内の将棋大会では公式ルールで認められてたんだからな。他にも運営に課金すれば一度に二回連続で手を進められるとか手駒を無差別に一つ追加できる手駒ガチャルールとか、ソシャゲの波に取り残されないようにいろんなルールを追加していってな。子供大会はまだいいよ、大会全体で課金額は一万までって天井決められてたから。二回戦まででいくら使って残りがいくら、てことまで公表されてるからそこもまた駆け引き要素で面白かったんだけどさ。シニア大会とかすげーぞ、制限なしの無差別ルールにしたら年金投入したり定期預金崩したり、終いには審判の買収まで始まってな。金の使い道のない寂しい老人のきったねえガチファイトが展開されてさ。

 まあ、最後はその課金された金がみんな運営の総取りってことに不満を覚えた棋士たちからクレーム入ってな。棋士の誇りと将棋の新しい可能性を模索するための大会だったのに、結局大人たちの薄汚い金銭絡みのいざこざで大会は四回で廃止されてな。ほんと大人って汚いなって子供心に思ったわ。

 

「……その運営が一番金に汚いじゃろうが」

 

 はああ? 失礼なこと言わないでくれます? 俺は純粋に将棋の未来を案じてたの。金儲けのために課金要素を加えたわけじゃないの。

 

「お主が運営側か」

 

 ため息つかれた。解せぬ。

 でもまあそれはデカすぎる隙だぜおじいちゃん。

 

 俺はクリムゾンロードを解除した。

 その途端、おじいちゃんの足元が崩れ、一瞬で地面の中に消えていった。

 

 足の裏から伸ばしたクリムゾンロードの触手でおじいちゃんの足元の地面を掘り返していたのだ。網目状にした触手でおじいちゃんの体重を支えつつ、その下に5メートルの空洞を作っておいたのだ。会話しながら。

 この状態でクリムゾンロードを解除すれば足場を失ったおじいちゃんはこの通り、何もできずに穴を落ちるハメになる。

 大脱出さながらの穴掘りの経験がこんなところで生きるとは。

 人生どんな経験が役に立つかわからんな。

 

 

 

 つうか、あのおじいちゃん、あの状態で俺の首半分切り裂いたんですけど。

 パンクのお師匠強すぎぃ。

 今度パンクに責任とってもらおう。

 

 

 

 

 

 

 

 桧原山から逃げる道中、町にぶつかった。

 そこそこ賑わっている。人だかりで溢れている。彼らの服や町並みはどれも、やはりというか大正ロマネスクな懐かしさを思わせる。

 この時代に来てから初めてこう、町! て感じの町に来たけど、やっぱ時代を感じるね。

 女の人みんなすごい眉毛太いのな。

 とりあえず、服が欲しい。

 どこかに服屋でもないか、とキョロキョロしてると、周りの雰囲気がおかしい。

 なぜか俺を遠巻きにする。

 なんだ、いじめか?

 それとも俺が鬼だとバレたか?

 いや、そんなまさか。俺の外見はどこからどう見てもナイスな営業マンだ。多少土で汚れていても、スーツを着る俺は紛れもなくイケメン営業マンのはずだ。スーツを着ている時はいつでもお前はうちの社員だからな、と教育されたのだ。

 だからぜったい鬼とはバレてない。

 じゃあなんだってんだ、この視線は。

 ちょっとイライラしつつも町を歩いていると、『屋質』と看板を出している店を見つけた……ああ質屋か。

 ここなら服もあるだろう。

 刀を売って金にもできるし、一石二鳥だ。

 服屋からこっそり借りるということも考えていたけど、まあ無断で借りるより断って物々交換の方が相手を気遣えてる感じするしな。

 というわけで質屋に入ってみると、雑多に商品が並ぶ店内の奥におっさんが一人そろばんを弾いていた。

 

「へいらっしゃい何用、で……」

 

 なるべく高く刀を売りたいしな、ここでもやはり俺の営業スキルを活かすべきだろう。

 コレ、カタナ。オヤジ、カネ、ダス。オレ、ウレシイ。

 

 

 官憲を呼ばれた。

 

 

 店主のおっさんは転げるように店の奥へと向かって、奥に服が置いてあるのかな、と期待して待ってる俺を置いて裏口から外に飛び出て、強盗だと大声で叫んだのだ。しかもあっという間に5、6人の官憲に出入り口を囲まれてな。仕事早スギィ!

 二度も官憲の世話になるのは御免である。

 というわけで逃げの一手だ。

 クリムゾンロードをスッパイダーマァンよろしく高い天井を走る梁に巻きつけ、凝固因子を混ぜてゴム的性質を付与。収縮力を発揮させてそのまま上方へと体を撃ち出し天井をぶち破った。

 

 

 屋根から屋根へと飛び移って、かろうじて官憲の魔の手を振り切ることに成功する。

 というか、なぜ官憲を呼ばれたのか。

 確かにスーツは穴を掘る過程で木の根や尖った岩に擦れまくってボロボロだし、その上に土と泥で元の色もわかんないし、店主に見せるために刀を鞘から抜いたりしたけど、それがどうして強盗扱いなのか。

 中学の頃を思い出すな。クラスの給食費が無くなったのが俺のせいにされてな。金にがめついお前以外にいねーよ、とか言われたけど、金にがめついとかどこ情報? それどこ情報よ? 運動会でトトカルチョの胴元やったことか? それとも委員長ちゃんのラインの代行を有料でやってることか? おい男子ども、お前ら委員長ちゃんとラインしてるつもりで相手は全部俺だからな。告白紛いのポエム送ってきたやつ二、三人いるけどそんなんで女子に好かれると思うなよ。そう言ってやったらもう給食費のことなんかみんなの頭から消えてな。委員長ちゃんの人気が地に落ちたけど、給食費パクったのも委員長ちゃんだし。その罪を俺に着せようとしてな。

 冤罪を被せるなんて人として一番やっちゃいけないことだと思う。

 あの店主め、どうしてくれようか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日の夜、こっそり質屋に天井から忍び込んだ俺は、金を数えてた店主にクリムゾンロードを打ち込んで血を抜き、貧血を起こして気絶させた。散らばる金。崩れる台帳の束。それらに俺は目もくれず、店にあった着物数着と日除け用の編笠、ついでに目や牙を隠すために火男のお面を頂いた。

 もちろん代わりに刀を四本置いてきた。

 対価を払わないと泥棒になっちゃうからね。



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第7話 にゃー

イラスト描いていただいたり、ハーメルンの機能について教えてくださったり、本当ありがとうございました。
一字下げなんて便利な機能があったんですね。ずっと気持ち悪かった部分を修正できました。


 この時代に来てからずっと着ていたスーツを脱ぎ捨て、天井からのダイナミック飛び込み営業で購入した着物に着替える。

 俺の体より少しサイズが大きかったので、裾を地面に引きずる限界ギリギリの長さになるよう、残しておいた短刀で切って調節した。袖なんかは指の先がわずかに出る程の長さだけど、ちょっとあざとい萌えキャラっぽい。これで仮面までつけたら謎の美少女転入生キャラとして売っていけるのではなかろうか。ねーわ。

 これに編笠を被って、俺は今完全に日光を克服した。カーズも真っ青である。今思えばなぜ柱の男ってあんなに露出度高かったんだろう。

 そんなどうでもいいこと考えながら、改めて街を巡り歩く。

 今度は比較的周囲の視線も気にならない。よくよく考えたらあれだ、スーツを着た営業マンとかこの時代にいねーもんな。だから目立ってたのか。俺くらいになるとスーツ着てるだけでカリスマ営業マンとしてのカリスマがビチビチ漏れちゃうからな。

 緩くてすまんな。

 でもこうして完全防備で固めた以上、外にカリスマが溢れることはないだろう。

 これで俺も官憲の魔の手に怯えずに街を見て回ることができるってものだ。

 まれちーやパンクの手がかり、何か見つかればいいんだけど。

 まあすぐ見つかるっしょ。なにせあの黄色い頭だ。こうして見渡しても、あんな頭おかしい頭している人は見当たらない。すれ違っただけでも強く記憶に残るだろう。

 雷に撃たれて黄色くなったとかよくわからんジョーク言ってたけど、あれなんだったんだ。まれちーですら曖昧な苦笑いだった。

 

 

 

 

 

 街を歩いていて気づいたけど、ここって浅草なんだってさ。

 タイムスリップする前に一度来たことあったけど、やっぱり百年も前と比べると全然違う。

 なんだか本物って感じがする。雑多な雰囲気と発展途上の活気が実に肌に馴染む。

 現代で行った時はなぁ、観光客がほとんど外人だらけでな。それを相手にしたアコギであざとい商売が横行しててな。商売魂が逞しいといえばそうなんだけどさ。

 現代との光景の違いに若干センチメンタルな気分に浸っていると、ふと俺の鼻がある匂いを認識した。

 血の臭いだ。

 俺の鼻は、血の臭いに関してだけ犬どころでない嗅覚を発揮する。

 まれちーのような芳しいものではない。鬼がもついい匂い成分でもない。普通の人間の、しかも大量の血。これが一人の人間から出ているのだとすれば間違いなく致命傷。

 臭いを辿って暗い路地の中へと入っていくと、おかしな光景が目の前に広がった。

 高級な住宅が並ぶ界隈に、まるでそぐわない血の海。

 その中に沈んでいる禿頭の男は、全身の骨が砕けたかのようにおかしな姿勢で横たわっている。

 その横には長髪の男が目、鼻、口、耳と、顔中の穴から血を垂れ流して絶命している。

 さらに奥には、女物らしい華やかな柄の着物が落ちていた。それを着ていたはずの中身はどこにも見当たらない。

 謎である。女は裸になって逃げたのだろうか。街の中を?

 うーん、わからん。

 とりあえず撒き散らされた血をクリムゾンロードで回収した。着物に染み込んでいた血もシミすら残さず吸い上げる。

 そしたら、男二人の死体から血液どころか体液を全て取り込んでしまった。からっからのミイラみたいになってしまった。

 いっけね。吸引力強すぎた。

 このままここにこんなの残しておいたら官憲の皆様のお手を煩わせることになってしまう。こんな犯人不在の怪奇事件に人員を割かせるなんて少し心苦しいので、クリムゾンロードで穴掘って埋めてしまう。

 なんとなく両手を合わせて、ご冥福をお祈りする。

 あなた方が残してくれた着物と財布、無駄にはしません。

 

 

 

 男性二人を埋葬し終え、辺りに気を向ける。もしかしたらこれをやらかした下手人がまだ近くにいるかもしれないからだ。

 まったく、人の命を粗末にして。もったいないったら。

 すると、今までに嗅いだことがないくらい濃い香りが俺の鼻を刺激した。

 いい匂い成分だ。

 いい匂い成分を溜め込んだ鬼が近くにいる。

 それも匂いの感じから複数人。

 クリムゾンロードのロープで建物の屋根へと飛び移り、匂いの元へと走る。

 ほぼ一直線に向かった先は、郊外にある小綺麗な洋館だった。田舎だったら資料館として残されてそうな雰囲気がある。

 ただその壁はぼっこぼこの穴だらけだった。

 穴から中を覗き込む。

 庭では女の子が二人で蹴鞠で遊んでいた。

 片方は竹輪をボールギャグのように咥えた美少女で、もう片方はおかっぱ頭でしかも腕が三対六本生えている。

 個性強すぎね。カイリキー(♀)かな。

 うわなんだあれ、鞠を蹴り返そうとした竹輪ちゃんの脚がちぎれたんですけど。あのカイリキー(♀)絶対Aブッパだわ。性格いじっぱり。

 しかも足がちぎれて倒れた少女に追い打ちのサッカーボールキック。え、鞠を地面に落としたら蹴り一発、とかそんなルール?

 蹴鞠ってこんなバイオレンスな競技だったのか。平安貴族すげえな。よかった俺大正時代にタイムスリップして。これが平安時代にスリップしてたら3日と持たずに蹴鞠の餌食だったわ。

 

 近くにいた美人さんが足なし少女に駆け寄って注射を打った。ドーピングか何かだろうか。間違いないわ。一瞬で足が生えて、こんどはボレーで蹴鞠の蹴り合いが続く。リフティングじみた山なりのパスなんて一つもない、全球殺意増し増しのストレートである。

 平安貴族すげえ。

 手に汗握りながら蹴鞠対決を観戦していると、さっきの注射器お姉さんが何事かをおかっぱ少女に語りかけた。彼女は審判的ななにかなのだろうか。

 と思ったら、なんの前触れもなくカイリキーが死んだ。

 三対では足りなかったのか、さらに腹と口から腕を生やしてのダイナミック自殺である。

 えー……なぁにそれぇ。

 興ざめである。

 たぶんカイリキーが反則をしたペナルティーで退場、ということなのだろうが、何もこの世から退場させなくてもいいだろう。

 注射器お姉さんまじ怖え。

 というか、こんなやべー遊びが鬼の間では流行っているんだろうか。

 関わりたくないけど、もしかして鬼になったからには強制参加だったりするんだろうか。

 前にいた会社でもレクリエーションと称して日曜の朝から野球場に集合させられたことがあったな。部長が甲子園出場経験ありだとかで、あいつのゴリ押しで野球をやらされる羽目になって。みんなビール飲みながら適当にやりたいのに一人だけマジになってな。ピッチャーやったら130のストレート投げてきてな。あの年でそのスピードは確かにすげぇけど草野球でやることじゃねーだろ。しかも打たれたら機嫌悪くなるし。バッティングではセーフティバントから三盗にホームスチールをスライディングで決めて、膝捻って靭帯ちぎれてな。一人でマジになって一人で怪我してりゃ世話ねーわ。

 

「誰だ、そこにいるのは!」

 

 鬼になっても縦社会の接待業務に従事しなければならないのかとげんなりしていると、建物の敷地の奥から姿を現した黒服の少年に見咎められた。

 なぜか少年は匍匐前進である。

 なにそれ、流行ってるの?

 

「あ、あなたは、刀鍛冶の?」

 

 俺を地べたから見上げてきた少年は、俺の顔につけた面を見てそう言った。

 なんだか見覚えのある顔だ。

 刀鍛冶? なんのことかわからないけど、とりあえずイエスと言っておこう。馬鹿正直に鬼だと名乗る必要も、

 

「あれ、でも匂いが……鬼?」

 

 思い出した。

 匂いって、この子、穴掘って藤の山から脱出した時にあったあの少年だ。

 なんでこんなところにいるんだって。牙も目も隠したこの格好なら鬼だってバレるはずはなかったのに。やばい逃げるか? でも注射器お姉さんの隣にいる七三分けの少年がめっちゃこっち見てる。逃げる隙はなさそうだ。いやもしかしたら俺に一目惚れして見つめてるだけの可能性が微レ存。ねーわ。

 

「炭治郎さん、そこの人物は、鬼なのですか? それも、お知り合いで?」

「鬼、のはずです。でも嫌な臭いはしない。珠世さんや愈史郎さんと同じように、恐らく今まで人を食べずに生きてきた鬼なんだと思います。あと、知り合いでは恐らくなくて、ただ知人と同じ服装をしていたので驚いたんです」

「そうです、か……一体どうやって」

 

 匂いでそこまでわかるものなのか。

 犬並みか。

 というか、俺の話をしているはずなのに俺置いてけぼりなんですけど。

 なんだか暇なので、足の裏から地面に潜り込ませたクリムゾンロードを庭に散らばっているカイリキーの肉片に伸ばし、いい匂い成分を抽出する。うん、やっぱりあの山にいたどれよりもいい匂い成分が濃い。

 

「もし、そこの方」

 

 へあ? あ、すみません。今ちょっと舌鼓を打っていたもので。

 

「はあ……? よくわかりませんが、あなたも一先ず家に入りませんか?」

「珠世様! なりません、こんな顔を隠した正体不明の不審者を家に上げるなど! ましてやこいつ、鬼であると言うではないですか!」

「しかし彼は人を食したことはないと。なぜそのようなことができるのか、その手段を知れれば私の研究に役立つ可能性があります」

 

ぐぬぬ、と七三君が唸る。

 

「加えて、じきに夜も明けます。他の快楽に耽る鬼ならいざ知らず、善良かつ本能に抗う彼をこのまま放置することは……『人道』にもとるでしょう」

 

 東の空を見上げれば、確かに空が白ずんで今にも朝日が登ろうとしている気配がする。

 では、申し訳ありませんがお言葉に甘えます。

 どうぞお気遣いなく。そろそろベッドで寝るのが恋しくなってた頃なんだ。

 

 

 

 

 案内された地下室には、一匹の猫がいた。利発そうな顔をしておる。ちちち、と指を猫じゃらしのように振っても猫はにゃーと一言鳴いて地下から出て行ってしまった。

 地下室にある座敷牢には山でよく見た獣のような鬼が一匹閉じ込められており、牢の外には女性が一人毛布に包まって眠っていた。看守かな。

 洋館は診療所としての機能が備えられ、注射さんは医者としてここで働いているらしい。

 しかも患者から血を買って飲んでいるんだとか。

 でもなんで人間の血なんか飲むんですか?

 

「え、は?」

 

 注射さんだけじゃない、竹輪ちゃんを除いた3人がみな俺を理解不能の謎生物を観る目で見てきた。

 今なんかへんなこと言っただろうか。俺また何かやっちゃいました?

 

「嘘をついて、いない? この人は本当に、人を食べるどころか血を飲むことすら必要と感じていない……!」

 

 いや、そりゃそうでしょ。だれが好き好んで人間の血なんて飲みたがるの。

 

「炭治郎さん、彼は本当に鬼なのですか?」

「は、はい。それは間違いないです。そして嘘もついていない」

「そう、ですか……」

 

 注射さんの説明によれば、鬼は皆人間を餌と見る人食欲求が植え付けられるのだと。

 しかしそれを嫌った注射さんは、自分の体を改造し、少量の血だけで用が足りるようにしたのだ。しかもその血は貧しい患者さんから少量ずつ、輸血用と称して買っているのだとか。

 頭いいなこの人。

 自分を改造とか、ちょっと心惹かれるワードだ。

 

「私は今まで多くの鬼を見てきました。しかし、私を含め、人食欲求を全く持たずに生存できる鬼というものを私は見たことがありません。もしかしたらあなたの体は、私の研究に役立つかもしれません」

 

 だから、と言って注射さんは頭を下げた。

 

「どうか、あなたの血を採らせていただけませんか」

 

 その研究は、鬼を人に戻すための研究なんだと。

 犬並み少年の妹も鬼にされてしまい、それを治す方法を探しているのだとか。そのために鬼殺隊に入ったのだと。

 いいね、感動した。

 採血するくらいなら全然いいよ。



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第8話 社畜さんお逃げなさい

 い、犬鼻少年の覚悟に感動したから協力するのであって、別に注射お姉さんにビビってるわけじゃないんだからね!

 ごめんなさい、本当はめっちゃビビってます。

 ちょっと会話するだけでダイナミック自殺を強制するお方ですよ? そんな人に頭下げられてみろよ、断れるわけないじゃん。血尿出るところだったわ。そんなのお願いじゃないよ、お願いという名前の強制だよ。課長も同じことやってたわ。慌てて頷いて頭上げてもらったけど、そのせいであいつの愛人と遊ぶ時間を捻出するための休日出勤を強いられたし、あいつ課長の俺に頭下げさせたんだぜ、なんて話を広めやがってな。

 

 

 というわけで献血である、が。ここで問題が発生した。

 採血しようとしたら針が刺さらなかった。

 肌にささろうとした針がグニ、とひん曲がったのだ。

 あら、と首を傾げた注射さんかわいい。

 というか、その針どうなってるんですか。手品用のゴム製ですか、なに遊んでるんですかね。

 

「違う、貴様がそれだけ硬くなっているんだ。鬼は人間の血肉を食えば食うだけ強さと硬さ、を……」

 

 七三の言葉が途中で途切れる。

 そりゃね。俺は人を食ったことなんかないからね。あんなもの口に入れたがる神経がわからん。

 

「……どういうことかはわかりませんが、これでは検査ができませんね」

 

 血が欲しいだけなら自分で出せますよ。はいクリムゾンロード。

 俺の指先から伸びる血の触手を、机に置かれた試験管に伸ばす。その蓋を開け、触手の先端を3滴ほど中に注いで再び蓋を閉めた。

 

「器用、ですね。今のがあなたの血鬼術でしょうか。くりむ、なんですか?」

 

 ちょ、聞き返すのやめてくれます?

 実はこんな名前つけたこと微妙に後悔してっから。

 

「気になるのです。学者肌なのでしょうか、一度気になると眠れない性質で。クリム?」

 

 拾わないで! そこから話を広げたって俺の心に傷がつくだけだから!

 

「おい貴様、珠代様が聞いているんだ、クリムソン? とはなんだ」

 

 なんだよぉ、俺をいじめてそんなに楽しいの? せっかく血を分けたのにそんな扱いおかしいよ! なんでそうやって俺の会社員時代を思い起こさせようとするの? ちょっと言い間違えたり上手いこと言おうとして滑っただけでさ、なんて言ったのか何でそんなこと言おうとしたのかってネチネチとさ。その場のノリとか流れってあるじゃん。周りの会話の流れに乗って発言しただけなのに、なんで俺の時だけみんな会話が止まるわけ? 俺が口開くだけで舌打ちとかおかしいだろ。

 

「チッ、戯言はいい、さっさと答えろ」

 

 つら。

 

 

 

 

 

 七三とは絶対仲良くなれないことを確認しつつ、俺は注射さんの使い魔だという三毛猫のミィと、犬鼻君の妹さんと戯れていた。

 なんとなく気になったので、血液の簡易検査の結果を聞こうと思ったのだ。それまでの暇つぶしである。

 猫じゃらしをパタパタ振ると、ミィだけでなく妹さんまで寝転がって前足でじゃれつくのだ。

 超癒される。

 鬱と診断されて以来圧迫されていた思考回路の回転速度が回復しているような気さえする。

 

 で、その検査結果だけれども。

 俺の血を塗布したスライドガラスを顕微鏡で覗いた注射さんは「……えっ」と呟いた。

 な、なんですかそれ、すげえ不安になるんですけど。

 医者が不用意に患者を刺激するのやめていただけませんか。会社の定期診断でやった血液検査の結果見た医者の「うわ……」て顔が思い出されるわ。あなた酒飲みすぎですって、いやここ半年一滴も飲んでないから。そう言ったら「じゃあストレスですかね。肝臓ボロボロですよ」ときた。「何か心当たりはありますか」て、心当たりしかねえよふざけんな。24時間年中無休オールウェイズ心当たりだわ。

 

「恐らく、鬼舞辻無惨があなたにとりわけ多く血を与えたのでしょう。十二鬼月か、それに準ずる程の濃度です」

 

 注射さんが言うに、この世で人間を鬼に変えることができる血はそのきぶなんたらという鬼の血だけらしい。そいつの血が入ると人間はその細胞が変質し、強大な膂力と不死身レベルの再生力を得る代わりに、日光の弱点化と人食欲求、そして『呪い』を受けるのだと言う。

 呪いってなんぞ、またオカルトなものが出てきた。

 

「鬼舞辻の呪いの効果は多岐に渡ります。鬼舞辻の名前を初めとしたどんな情報でも口にしただけで体が自壊するように設定されていますし、鬼同士の共食い強制や、鬼舞辻に対する忠誠心の付与など」

 

 マジか。なにそれこっわ。俺のいた会社なら幹部待遇で迎え入れるレベル。群れることができないって、ストも起こせないし多分労基に相談することもできないんじゃないか。マジ特別顧問枠。

 

「本来血を大量に受けた場合、細胞の変化する速度に体が追いつかず崩壊します。にも関わらず、あなたは人の形を維持し、人食欲求に抗う強靭な理性を持ち、かろうじて人格を保っている」

「理性が強靭であるというより、狂人の理性であるだけかもしれませんよ」

 

 なんでちょいちょい人をディスるのか。

 違うから。社畜は人間としての本能を自己暗示でねじ伏せる能力を習得してるんだよ。上司に叱られてるときや飲みで延々と愚痴を聞かされるときも、自分に暗示をかけて、相手を尊敬してる、敬愛している、あなたの言葉に本当に感じ入ってますって、心の底から思うことができるように自己改造できるものなの。そうでもしないと、表面的な相槌なんてすぐ見抜いて来るからねあいつら。精神改造できるやつから出世していくから。そうでないやつは速攻病んで病院送りからの自主退社だから。そんなサバイバルをくぐり抜けてきた俺にとって鬼の本能なんて意味ないから。

 

「狂人は独自の規則を自分に課し、それを守ることに並ならぬ執着を持つからな。お前の中の規則が、人を食うこととたまたま相反しているために鬼の本能を抑え込めただけ、ということだ。いいか、お前は決して優しさから人を食わないわけじゃないからな、勘違いするなよ」

 

 人の話きけよ。なんで嫉妬心むき出しでマウント取ろうとしてくるのか。俺のこと嫌い過ぎじゃない?

 すると七三は俺の首に腕を回して周りに聞こえない程度の小声で、

 

「嫉妬ではない。貴様が、自分が珠代様より人間に近いと勘違いしているかもしれないからそれを正してやっているだけだ」

 

 意味わかんね。どんだけ注射さんのこと好きなの。

 どんだけ〜。

 

「な、うぐ……!」

 

 七三が赤面して黙ってしまった。

 男がそれやってもキモいだけだからな、勘違いするなよ。そんな嫉妬心をばら撒いてると注射さんも扱いに困るよ。年の差もあるし、注射さんが君を鬼にしたんだから母子的な感情を持たれるのはしょうがないとしてもさ、二十年も二人で暮らしてて未だに関係が進展してないって、え〜きも〜い、DTが許されるのは二十歳までだよね〜。もっと泰然と、余裕を持って振る舞わないと、いつまでたっても子供扱いだぞ?

 

「き、貴様! 大きなお世話だ!」

 

 七三が照れ隠しでパンチしてきた。驚かせるため、殴られたところからクリムゾンロードの触手を撒き散らして大怪我大出血したように見せかけ、仰向けに倒れこむ。

 ま、まさか一撃で心臓を破壊するとはな。だが覚悟せよ、我を倒したところで第二、第三の俺が現れ貴様の恋路を応援してやる。

 こめかみに全力トーキック食らった。

 お前、俺が鬼じゃなかったら死んでたからね。眼球飛んでったやんけ。あ、しかもそれ踏み潰された。

 俺の右目がぁぁぁぁ。

 

 まあ、クリムゾンロードですぐ直るんですけどね。

 触手を伸ばして散らばった細胞を回収して元の位置に並べ直して、細胞間を触手の棘で接着しておけばオーケー。インテグリーン。

 だから何度でも七三を煽ることができるのだ。

 あ、待って、脚やば、股関節はそんなに広がんないから。関節、関節はダメだって。なんで大正時代の人間がヒールホールドなんて知って、

 ぐああああああぁぁ。

 

 

 

 

 犬鼻君はその後すぐに妹さんを箱にしまって出発した。

 犬鼻君には黄色い髪した鬼殺隊員がいたらよろしく、と伝えて別れを告げた。俺は流石に、好き好んで真昼間のうちに外出する気もなく。日没までは注射さんのところに厄介になることにした。この場所が鬼にバレてしまったため、日没と同時にこの屋敷を引き払うことにしたらしい。その引っ越し準備をクリムゾンロードで手伝おうと申し出たら断られた。個人のカルテもあるし、精密機器なんかもあるから医療の知識が無い方には触らせられない、とのこと。しかたないので日没まではミィちゃんと遊んでようかと思ったけど、あの子は犬鼻君について行ってしまったんだと。七三の能力で姿を消して。

 マジか。一気にやることなくなったんですけど。

 仕方ないので、座敷牢に入れられてる鬼相手に猫じゃらしを振ってみた。

 そしたら、今まで牢を破ろうと柵に齧り付くだけだったのが、猫じゃらしを目で追って必死に前足を伸ばして奪い取ろうとしてくる。

 なかなかの好反応である。

 躾次第でお手や待ても覚えるかもしれない。

 そしたら側にいた看守の女性がマジギレで飛びかかってきた。

 ビンタではない、拳を握り込んでのガチ殴りである。マウントを取って、体重を十分に乗せたマジ殴りだ。歯が二本飛んだ。ちょ、やめてクレメンス、なに、なんでそんなに激おこなの。

 半泣きの看守さんの話を聞くと、牢にいるのは看守さんの旦那さんらしい。それを畜生扱いされて腹が立ったのだと。

 マジか。鬼の嫁になるとかマジ度胸ありますね。

 

 

 七三に屋敷から蹴り出された。

 編笠とお面がなければ完全に蒸発していた。

 

 

 

 とぼとぼと道を歩く。

 時系列が違っていたらしい。

 鬼になってから嫁になったのではなく、結婚してから鬼になったらしい。

 というか、鬼になったのは昨日のことだとか。

 言っといてくれよ、それ知ってたら奥さんの前で猫じゃらし振ったりしなかったって。隠れてこっそり振ってたって。

 ホウレンソウて大事だよね。社長の誕生日会なんかが企画されてな。企画したのは社長本人という時点でもうかなりやばいけど、その会場が変更になって、それを俺だけ知らされなくてな。元々の会場予定だった居酒屋に一人で行ってな。そこで本来なら予約がキャンセルになったことを店員さんに教えられて、同僚に電話なりして本来の会場に駆けつけることもできたんだろうけどさ。たまたま似たような名前の会社がその店を予約してて、店員がたまたま聞き間違えてその席に案内されちゃってな。で、俺って人の顔とか名前覚えるの苦手だからさ、そこが自分の会社だと勘違いしたまま酒を楽しんじゃってな。二次会まで楽しんでから「で、あんた誰?」なんて言われて、次の日にはなぜ私の誕生日会に来なかったのかって社長直々に詰められてな。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、ようやく日も暮れた。

 そこそこの距離を走ったのに、結局町に着くことができなかった。そのため森の中で野宿しなければならない。木の根元あたりが寝心地が良さそうだ、というわけで近くの森に踏み込む。つーか七三に追い出されなかったらあの屋敷で一泊、いや二、三泊してもよかったのに。あの二人があそこを引き払った後なら好きに使えただろうし、なんだったらまれちーとパンクを探す拠点にしても良かった。黄色い頭で汚い悲鳴をあげるビビりを見つけたらあの屋敷に来てくださいって、住所といっしょに伝言を頼みまくれば、そのうち再会できていたかもしれない。

 惜しいことをした。

 どこか別のところに拠点を作れれば、と。

 そんなこと考えながら笠と仮面を外し、服も質屋で手に入れたスーツに近い洋服に着替える。寝る時はスーツでないと落ち着かないのだ。

 しかし、寝る支度を終えた俺の前に、森の奥から人影が現れた。

 

 それは青年のようにも、妙齢の女性のようにも、子供にも老人にも見えた。

 帽子の下から覗く整った顔立ちはどこか作り物のようで、柔和な笑顔を浮かべながらもその内から滲み出る威圧感はまるで隠せていない。

 なにより、鼻をくすぐる香り。

 いい匂い成分だ。

 先の、屋敷で鞠を投げて遊んでいたメガカイリキーとは桁が違う、濃厚すぎて吐き気すら覚える香りの強さ。その体そのものが、いい匂い成分の結晶でできているのではないかと疑いたくなる。

 

「こんな存在が生まれるなんて、思ってもみなかった」

 

 それは青年の声で、俺に向かって言った。もしかしたら近くに別の誰かがいてそっちに話しかけているんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。

 青年の赤い目はまっすぐに俺を見据えている。

 俺の中にある社畜としての本能と、鬼としての理性が、どちらも最大限の警鐘を鳴らしている。




そろそろ試験が迫っているので、来週の土曜日まで連載をお休みします。


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第9話 渡航

投稿遅れました。テストとレポートが終わり今日からまた執筆再開です。先週と同じく書き溜めなしで毎日投稿を目指します、気合いで。


 ほぼ一ヶ月ぶりの休日のことだった。

 ようやくとれた休みというだけあってテンションアゲアゲだった俺はその日、溜まっていた所用を全て済ませてしまおうと朝から外出していた。

 住民票を移したり、郵便局に住所変更したり。百均に行って掃除用具を揃えないとと思っていたし。

 しかしそんな俺の思惑はすぐにご破算になった。

 商店街の片隅、人の往来がそこそこあるはずなのに、俺が目に止めたその路地だけは、まるで誰にも認識されていないかのように人の気配がなかった。

 本当なら俺は、周りの流れに逆らわず自分の要件を済ませることに集中するべきだった。だけど、その日は本当に久しぶりの休日でしかもよく晴れた秋空で、いらない好奇心を発揮させてしまった。

 その静かな路地に、入った。

 そこはどこか薄暗くて、でもゴミが散らばっていたりといった不潔な感じはしなかった。どころかアーケードと同様にレンガ調のタイルで舗装されていて、両壁を為す商店の洋風な佇まいと相まって、まるで異世界への渡航するためのゲートかのような錯覚を俺に与えた。それが人通りの少なさとの間に不快な不調和音を俺の耳元でかき鳴らした。なぜこのような綺麗な路地を誰も使わないのか、その理由が徐々に俺の前に姿を現した。

 路地は緩やかなカーブを描いており、歩を進めるに連れて道の先がどうなっているのかが明らかになる。

 その先にいるのは、商店街にはあまりにも不釣り合いなリムジンだった。しかもどピンクである。ギラギラと輝く縦も横もでかい車体が、日本車仕様の道をほぼ完全に塞いでいた。俺のような痩せ型の人間が横になればかろうじて通れるか、程度の隙間だ。この婉曲した狭い路地をよくぞここまで通ってきたと感嘆するほどその車体は長い。ハザードが点いてるあたり何かトラブルだろうか。

 バカじゃねーの、というのが正直な感想だった。

 ここで俺はさらにアホな好奇心をもたげさせ、横をすり抜けるついでにどんなアホがこんな車でかつこんなところで立ち往生させてるのか見てやろうと思ったのだ。

 日本人的に右手を手刀の形にして行先をスパスパ切りながらスミマセーンスミマセーンと通っていく。体を横にしたカニ歩きで、後部座席を覆うスモーク入った窓に目を凝らした。その窓が開いた。

 中から顔を出したのは、自分の会社の会長だった。

 そんな、会長が、ああ! 窓に! 窓に! それではSAN値チェックです。1D10/1D100でどうぞ。いやどうぞじゃねーよ、そりゃたしかに会長のヒゲあたりは宇宙的恐怖の象徴を彷彿とさせるけれども。

 それからは酷い展開だった。もしかしたら自分のことなど覚えていないのではないか、という望みは会長の「おお君かね」という言葉で即否定された。名前は覚えていないくせに顔だけは押さえられていたことに絶望しつつ、さりとて目があってこうして超至近距離で声をかけられてしまった以上当初予定していたように素通りするわけにもいかず。一人で暇そうだね、どうだねこれから食事でも。言いながらほぼ強制で車の中に引きずりこまれ。そこで気づいたが会長はポロシャツを着ていた。

 運転手さんが修理を終わらせるまでの2時間、俺は広いとはいえ車内で髭の中年と二人きりでひたすら興味のない話題について相槌を打つ羽目になった。いや他人の前で政治と野球と宗教の話はやめろと、ああ! 髭が! 髭が!

 ようやく車が動き出してどこにいくかと思えばゴルフの打ちっぱなしだった。食事はどうした。俺はその横で会長のフォームについて忌憚なく感想を言って良い、と。俺知ってるぞ、そう言われて素直に言ったらお前絶対あとあとネチネチ言ってくるやつじゃんそれ。だから必死によいしょしてたのに会長はいかにもつまんねーみたいな雰囲気醸し出してな。私はイエスマンなど求めていないんだよちみー、みたいな。じゃあ言ったるわお前まず腰が前後に揺れすぎなんだよ、回転の軸を作るんだからそんなにふらふらさせるなよ、プロのフォームは体幹がしっかりしてるから安定するんだよそんなメタボな体型で思いついたようにたまーにクラブ握るだけのやつがフォームについてとか意識高いこと言ってんじゃねーまず筋トレしろ筋トレ、といったことをふんわりオブラートに包んで言ったら、まあ機嫌を損ねてな。そんでムキになって力任せにドライバー振り回してまた球が曲がって不機嫌になって、の悪循環。しかも会長のポロシャツの脇の部分が徐々に汗で黄色く染まって宇宙的恐怖を醸し出すお髭を揺らす風とともに酸っぱい臭いが、ああ! ワキガ! ワキガ!

 そうやってSAN値ごりごり削られながらも飯のためと頑張って耐えて、2時ごろになってようやく連れていかれた店は海鮮系でな。タコとかイカとか。

 結局俺の休日は会長の接待で終わってな。もちろん用事なんて何一つ片付ける前に役所も郵便局も閉まってな。

 それ以来、100面ダイスを何度振っても一桁の数字しか出なくなってな。なのにクトゥルフプレイすると毎回間違いなくSAN値チェック失敗するしな。俺のSAN値低すぎぃ。

 

 

 

 何故こんなことを思い出してしまったのか。

 それは半分現実逃避入っているが、残りの半分は間違いなく、俺の社畜としての本能が想起させたのだ。

 社畜の本能が俺に告げるのだ。

 森の奥から浮き出るように現れ、今目の前にいるのは貴様の上司だと。はるか格上の存在であり、これに逆らえばまた仕事を押し付けられて会社に2週間は泊まり込む羽目になると。取引先の無茶振りを安請け合いした営業のしわ寄せを俺一人にあえて集中させる鬼采配。パワハラ上司の典型である。パワハラが服を着て歩いているような、パワハラの語源が目の前の男であると言っても過言ではないレベルのパワハラ、存在そのものがパワハラ。自分の思いつきで部下が過労死しようとなんとも思わないサイコパスを合併症状としたパワハラのハイエンド。かのクトゥルフ会長ですら裸足で逃げ出すパワハラ。

 

「随分君は騒がしいね」

 

 パワハラ青年が言った。

 え、今俺声なんか出してないけれど。

 

「よくわからない言葉を使うね。社畜だのパワハラだのクトゥルフだの、どういう意味かな」

 

 …………。

 じんわりと汗が背中を伝うのを感じた。

 同時に俺の中でペルソナパーソナリティを起動。社畜の基本技能である、自分のパーソナルなメンタル部分を改変、ストレス耐性と信頼性の向上。あー久しぶりだわこの感覚。会長の車に乗せられた時もやったよなこれ。

 というか心を読むとかそれアニメだと最強じゃないですかやだー。ウィークポイントとしてはセクシャルなこと考えて赤面させるとかあるよねただし相手が美少女キャラに限る。

 

「また訳のわからないことを。だけど、君の考えている通り、私が君よりはるか格上の存在であることは事実だ。君たち鬼を作ってきたのが私だ、その起源は私なのだ。鬼の中にはそれに気づかず、自分の力に酔って私に攻撃してくるような者もいるからね。初対面でそれに気づける君はその点見所がある」

 

 随分と機嫌が良さそうだ。その理由はわからないが、この方に喜んでいただけるのならそれだけで嬉しくなる。

 青年は笑みを深めて言う。

 

「私は今有力な力を持つ鬼を探している。私を脅かす存在を排除できる力を」

 

 私にそれができると?

 

「そうでなければ君に声をかけたりしない」

 

 おお、これはヘッドハンティングだ。俺の実力が評価されて、より良い待遇を提示しての引き抜き。前の会社ではついぞそういった話はなかった、というか、その手の話題が社員にいかないように情報が締め出されていたというか、取引先にも圧力がかけられていたというか。お陰で転職活動がさっぱりうまくいかないとぼやいていた先輩がいたな。同業他社はどこも先輩を受け入れることに躊躇して、かといって先輩の年齢だと全くの別ジャンルというのは冒険が過ぎる、というか今まで血尿出しながら築いてきたキャリアを全て捨て去るのは人としてどうしても踏み切れないのだと。その気持ちわかる〜と返したらお前に何がわかんだよ! てマジギレされたけど。たかが二徹くらいで余裕失いすぎでしょウケる。

 しかし、私のどこをそこまで評価していただけたのでしょうか。

 

「君の成長性だよ。もし君がこのまま成長していくのなら、もしかしたら太陽を克服できるかもしれない」

 

 太陽を?

 

「太陽の克服は私の最優先事項だ。この千年、それだけを目的として鬼を増やしてきた。それでも未だ一人も太陽を克服できた者はいないけれど、もしかしたら君がそうなるかもしれない」

 

 なるほど、わかりやすい。

 会社を選ぶとき、経営方針や社是というものは実は馬鹿にならない。そのコミュニティが何を優先して動くのか、優先順位は何か。それを理解した上で共感する人間を集めないとその会社はいずれ方向性を見失う。就活生は表面的な言葉を捉えて「御社の経営理念に共感して〜」なんて言うけれど、共感以前に理解できるほどの経験を積んでないだろ、というのが面接担当の正直な気持ちだ。何回か面接やってみたけど、まあみんな同じことを言うのな。経営理念を理解できるだけの経験を積んできたことをアピールしてくれないと、こっちから突っ込めば突っ込むほどボロを出していくからな彼らは。その辺りをしっかり関連させて自己PRできる学生は、まあ大体高学歴なわけだけど。

 そんなわけで、この上司の理念は理解できた。

 太陽の克服。

 そのために鬼を増やし、ようやく現れた私という存在の成長を促したい。

 であるならば、私は自身の成長を最優先にして、自分を強化し、太陽の克服を目指します。そのためには何を犠牲にすることも躊躇いませんし、私自身、日光に当たれない、こんな格好をしないと昼間外に出られないという今の体に強い不満を抱いていました。その点であなた様の理念に強く共感しています。私の血鬼術は必ずあなた様の理念に役立つと私は確信しています。

 そう言うと青年はさらに笑みを深めた。

 

「じゃあ、少し私に付き合ってもらおうかな」

 

 はい。どちらへ?

 

「来ればわかる」

 

 俺たちが会話しているのは、暗い森の中である。人の気配などするはずないし、まして楽器の音がするはずもない、こんな時間にこんな場所で楽器を弾くような奴がいたらそれは鬼より異常に違いない。にもかかわらず。

 

 森の中で琵琶の音が響いた。




なお、社畜が太陽を克服したら上司に捕食される模様。


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第10話 社畜が付いてくる

 鬱蒼とした森と飛び交う虫は消え、代わりに現れたのは和風の屋敷だった。360度全てが木造で、瞬間移動よりさらに異常なことに、まるで空間がねじくれたかのように床と壁と天井が縦横無尽に入り乱れているのだ。その上を、俺の視点では壁や天井にあたる部分に立ったり歩いたりしている人影がチラホラ。遠くには無表情で琵琶をべべンベンべべンと鳴らすモブキャラみたいな前髪した女がおり、他の数人は怯え、一人は困惑している。平静な顔をしているのは髪の長い男一人だけだ。見た目イケメン風味の優男なのに随分と肝が座っていやがる。

 集まった彼らは俺の隣に立つ青年を認めると即座に床に這いつくばった。社畜根性をしっかり教育されておられるようだ。あのような子供にもしっかり教育が行き届いているあたりさすがである。

 全員が頭を下げたのを見てから、俺の新しい上司が口を開いた。

 

「今日から彼が十二鬼月に入る」

 

 ざわ、と空気が震えた。

 ここに集められている鬼は、どれも俺が今まで会った鬼の中でもぶっちぎりでいい匂い成分の香りを強く纏っている者たちだ。そんなのが六匹もいて、全員が一瞬といえども殺気を溢れさせたのだ。もちろんその標的は俺であるが、この捩じくれた屋敷全体が軋んだ。

 

「で、ではその者は」

「黙れ」

 

 何を考えているんだあの女は。角が二本生えていて、今までの鬼の中で一番猫っぽくて好感が持てるが、それを差し引いても、無惨様の許しなく声を出すなど殺されても文句は言えないだろう。

 俺たちは社畜だ。

 いや、上司様からすれば家畜か。あるいは実験動物。太陽の克服という至上命題を実現するために存在するのだ。

 ああ上司様。あなたはなんて、鬼畜。人の心など失った、まさしく鬼の頂点。上司様こそ、社畜の上司にふさわしい。

 

「もちろん貴様らのうちの一人と交代になる。誰でもいい、この者に血戦を挑み負けろ」

 

 ギシリ、と上司様から発せられる圧が強くなる。心臓を握りつぶされそうな、物理的な干渉力を伴うような圧力。隣に立つ俺への余波だけでこれだ、直撃を受けている彼らの恐怖はいかばかりか想像もできない。

 とはいえ、だ。そのなんとも言えない醜態に俺の口から大きなため息が漏れた。

 上司様が横目でこちらを睨みつけてくる。

 申し訳ございません。少しばかり発言の許可を。

 

「許す。なんだ」

 

 あなた様から言葉をかけて頂く名誉を頂戴したにもかかわらず彼らは誰も名乗りでない様子。あなた様の精鋭を名乗るには皆あまりにも不釣り合い。中でも先程あなた様の許しもなく口を開いたあの鬼、彼女は彼らの中でも一際震えが大きい。あれはいけません。あなた様の目的は太陽の克服、完全な存在への進化であるはず。あのような、恐怖に怯え、あなた様に怯える存在は少々目に余ります。

 

「ふむ、そうだね。おい」

「……はっ」

 

 上司様が尊大な声を上段から投げつけた。角が二本あるその女は、下肆と刻まれた瞳に涙を滲ませて顔を上げた。

 

「貴様、普段から柱との戦いを避けているだろう」

「い、いいえ! いいえ! そんなことはございません!」

「柱の気配を察知するたび、貴様は逃げているだろう」

「柱、とは今まで遭遇することがなかっただけでございます! もし柱と出くわすことがあれば、私は全力をもってその首をとってご覧に入れます!」

 

 アホだこの女は。なぜ上司様の言葉を否定する。上司様に限らず、会議の場では相手の言葉を否定してはならないなんて常識じゃないか。いや、俺のいた会社の役員連中はそんな常識なんてなかったけどさ。ディベートじゃないんだから、ディスカッションでそんな声を張り上げて否定すんなよ、しかもよりによって上司の言葉を否定するとか、あの会社の人事課ならこの時点でリストラリストの一軍だわ。

 

「では戦え、この者と」

 

 ただでさえ青かった顔色が、オフィス宿泊5日目の後輩並になった。あいつが定時でタイムカード切るときの絶望感ほんとやばかったな。これを入れちゃったら残業代入らないんだ、という、自ら残業代を拒絶する行動であり、記録上残業がないという詐欺のような求人文句の片棒を担ぐことの絶望がない交ぜになってね。

 うん、まあさすがにあの後輩ほどじゃないからまだセーフ。あの会社に比べれば上司様なんて全然ホワイト。だって寝なくても良い体にしてくれたからね。

 

「貴様がこの者を殺せば、先の言葉を信じてやろう」

 

 上司様は、彼女に向ける辛辣な態度とは打って変わった柔らかい、誰もを魅了する笑みを俺に向けた。

 

「血鬼戦というのは、位階の奪い合いだ。階級の低い者が高い者に戦いを挑み、勝てばその階級を奪うことができる。アレは鬼の中では上から十番目の階級にいる。上位にいるだけあり、私の血も多く与えられている」

 

 本気でやっていいのでしょうか?

 

「構わない。どうせ敗けるようなのは不要だ、その者の血を全て抜いていい。それがさらに君の力になるだろう」

 

 下肆さんは上司様の言葉にギョッと目を見開いた。

 今の言葉はどういう意味か、聞こうと口を開く前に、またも琵琶の音が鳴った。

 再びの瞬間移動、上司様や他の男どもの姿はなく、俺と下肆さんだけが、清水寺の舞台のようなだだっ広いベランダに向き合って立っていた。

 見あげれば、上司様が先と同じ笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。

 

「お、おい」

 

 下肆さんが声をかけてきた。声はまだ震えているものの、上司様と離れたおかげで顔色はもう戻っていた。

 

「無惨様が先程言っていた、血を抜くというのはなんのことだ」

 

 ああそれですか。俺の血鬼術の話でして、鬼の中に流れてるいい匂い成分を抜き取ることができるんですよ。

 

「いい匂い? なんのことだ」

 

 いい匂い成分はいい匂い成分ですよ。もう少し詳しく説明するとですね、いい匂いがする成分のことです。

 

「バカにしているのか貴様」

 

 そんな滅相もない! いい匂い成分はとてもいい匂いがして、しかもとても美味しいのですよ。あなたの中にもたくさん流れているみたいですね、とても、とても美味しそうだ。

 

「!? き、貴様、」

 

 下肆さんの言葉は最後まで続かなかった。足元を大きく迂回させた俺のクリムゾンロードが、下肆さんの死角から襲いかかったからだ。百十七の触手が両足それぞれを螺旋を描くように一瞬で這い上がり、膝まで拘束したところで左右でまとまり、二本の槍となって下肆さんの眼球に迫った。

 このままでは眼球から脳髄まで破壊されると踏んだのだろう、下肆さんは逃走を図った。彼女の鬼としての膂力があれば、彼女の脚を締め付けるクリムゾンロードなんて数秒もあれば千切ることができただろう。しかし今は血の槍が眼球を抉るまでの一瞬の判断を迫る状況だ。クリムゾンロードを千切ることを選択すれば、俺の血が下肆さんの目を捉えたはずであった。

 まあ捉えたところで傷を付けることもできないけど。

 そうとも知らず下肆さんは、回避のために自分の両足を即座に切り捨てることを選んだ。

 まあ予想通りだ。

 藤の山で俺が何匹の鬼を縛りあげてきたと思ってる。

 中にはそうやってトカゲみたいにクリムゾンロードから逃れようとする鬼が何匹もいた。鬼はその身体能力と回復力に優れている。四肢を捨てたところで、数分、強いやつなら数秒で生えてくる。だからこそそうやって気軽に手足を切り捨てることができる。

 でもそれが悪手だ。

 既に俺たちの周りには、髪の毛よりも細いクリムゾンロードを縦横に張り巡らせている。まれちーを吊るす訓練と、触手の組成を変えることで得た弾性のおかげで、触手の強度上昇と同時に限りなく細くすることもできるようになったのだ。弾性を得る前だったら、こんな細さにしてしまえば自重に負けてすぐに解れてしまっていただろう。

 ありがとうまれちー。

 膝から下を切り捨てて危機を脱したはずの下肆さんの、その大きな傷口にクリムゾンロードが触れた。

 そこから触手を枝分かれさせていく。露出した両脚の血管から入り込んだ触手が下肆さんを体の内側から拘束する。

 

「な、あああ!?」

 

 宙吊りになった下肆さんが驚愕に目を見開く。その開かれた眼球を走る毛細血管すらすでに俺の支配下だ。

 鬼として永く生き、多くの戦いを経験してきたでしょうけど、さすがに血管を内側から犯される経験はないでしょう? 俺の血鬼術は、なんの力もない、穴に潜り込むことと精密な動きができるってだけの代物です。でも結局は使い方ですよね。今、俺の拘束から抜ける時に見えた、脚に生えた翼のような形をした血。あれがあなたの血鬼術でしょう? その能力は切断と加速でしょうか。

 

「だ、誰が貴様に教えるものか! くそ、なぜ回復しない!」

 

 ああ、それは私があなたの中のいい匂い成分を抜き取っているからですよ。

 

「……え?」

 

 このいい匂い成分が濃い鬼ほど強いわけですが、逆に言えばこの成分を体から奪えば奪うほど鬼は弱体化します。硬さも、力強さも、回復力も、どれもこのいい匂い成分の効力ですからね。

 

「ま……さか、まさか貴様、そのいい匂い成分とやらはまさか!」

 

 いい匂い成分を回収する速さには自信があったのですが、あなたの中のいい匂い成分はちょっと多すぎて時間がかかってしまいました。

 

「や、やめ、やめて……ぁ」

 

 ごちそうさまでした。

 

 

 

 

 

 

 

 べべん、と音がして、再び俺は上司様の前に立った。先と同じ場所で、相変わらず男連中が上司様に跪いている。

 おめでとう、と上司様は俺を労ってくださった。良い上司だ。

 

「これで君がこれから下弦の肆だ」

 

 上司様は俺の右目を指差した。それだけで右目に熱がこもる。眼球を形成する細胞がひとりでに動き回る感覚。結膜炎かなにかか。あとで医者に診てもらおう。

 

「ところで、全ての血を吸い尽くさなかったのはなぜだ?」

 

 上司様が顎で指したのは、クリムゾンロードで簀巻きにされた下肆さんだ。なぜと言われれば、私の今後のためです。ご存知と思いますが、私は鬼となって日が浅い。鬼としての振る舞い、上司様の精鋭が一人となった心構えなど、知らぬことが多くあります。恥を晒すようで恐縮ではありますが、やはりここはその恥を偲んで先達の方に教えを乞うのが良いかと存じまして、であるならば、血戦で敗れ精鋭から去ることとなった彼女が、知識的にも時間的にも教えを乞うのに最適だと判断したわけです。

 そう説明すると、上司様は納得したように一つ頷いて、先に俺に対してやったように、下肆さんに向かって指を向けた。

 すると、下肆さんの右目に描かれた漢字タトゥーにバツ印が刻まれた。

 ぎゃあ! と下肆さんが悲鳴をあげるも上司様はまるで頓着せず、好きにしろ、と仰ってくださった。



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第11話 後からついてくる

 琵琶の音を最後に、俺は元いた森に落とされた。

 足元に突然現れた襖が開き、そのまま重力に引かれて腐葉土の香り漂う地面に着地した。

 空を見上げれば、俺のいた時代には考えられない、冗談のような大きさの月はさしてその位置を変えていなかった。上司様との濃密かつ甘美なあの時は、時計で言えば長針一周分にも満たなかったようだ。

 改めて周りを見渡す。

 耳と鼻を研ぎ澄ませ、自分の知覚できる範囲に上司様の、凝縮されたいい匂い成分の香りがないことを確かめる。二百十二本のクリムゾンロードの触手をばら撒いて半径20メートルの結界を張り、羽虫以外存在しないことを触覚でも再確認。まるで花京院みたい、と思ったけどそれだと俺吸血鬼の腹パンで死ぬじゃん。

 ……上司様の腹パンで死ぬ未来が見えたんですけど。

 入念に、入念に確認を終えて、ようやく社畜としてのペルソナパーソナリティを解除する。

 ふう。

 久々に本気の社畜モードを実行したわ。

 鬼の体になっても全力社畜ムーヴは辛いんだな。知らなくていいこと知っちゃったよくそがぁ。

 前も何人かいたんだよな、表情とかから相手の感情に超聡い人。その内の一人は愛想笑いとか一瞬で見破ってわざわざ指摘してくるから業界では偏屈で通ってたけど、おれの社畜モードなら余裕だった。精神改造の域までいくからね。今回はクリムゾンロードの触手で脳神経をクチュクチュ弄ったのもあるし。精神改造(上)、みたいな。

 まあ、それもあの上司様には通じていたかどうか不明だけど。

 心読むって反則だわ。上司様まじパネっす!

 よくあの家来どもはあんなパワハラ上司に頭下げられるな、逆に尊敬するわ。

 まあ、逆らったら即首を切られていただろうしな、物理的に。

 ペナルティ重すぎっしょ。そういう恐怖政治ででかい顔するワンマン社長取引先にいたわ。社員はきっちり締め付けて躾けないとな、とかほざいてた。さすがうちの社長の飲み友だわ。係長以下社員一同の集団退職で一瞬で潰れたけど。

 でもこっちのパワハラ上司はその辺警戒して鬼同士に敵対心持たせてる、とかだったっけ注射さん曰く。しかも普段は隠れて絶対姿を現さないとか、ディオよりむしろディアボロか?究極生物を目指すあたりはカーズ様だけど。あの上司ジョジョ好きすぎじゃね。今度貸してあげよう。あと百年もしたら出版されるでしょ。いや、もしかしたらこの時代にも荒木はすでに生まれてる? 幕末から生きてるっぽいし。というかもしかして、荒木も鬼である可能性……?

 

「おい」

 

 足元に転がってる下肆さんが声をあげた。

 なにかな? いま俺、教科書が書き換わるレベルの歴史的発見に気づいて忙しいんだけど。

 

「意味わからんこと言ってないでさっさと私を解放しろ」

 

 俺の触手で簀巻きにされてるくせに随分と偉そうである。襖から落ちて受け身も取れずに顔面から落ちたくせに。ぐぇって。顔面土まみれだぞ。

 

「声真似するなウザったい! 微妙に似てるのが腹たつ。というか受け身なんか取れるわけないだろう簀巻きだぞ! 見ろ!」

 

 見なくたってわかるよ俺がやったんだから。

 つーか、口のきき方がなってない。やり直し。

 

「何が口のきき方だ、むしろ貴様が私を敬え、先達がどうのと言っていただろうが。後になって後悔しても知らんぞ、私はいつか必ず十二鬼月に返り咲く。その時貴様を絶対に簀巻きにして山道を引き回してから日炙りにしてやる」

 

 でも今の時点では鬼社会ではすでに俺が上じゃん。新人に下剋上食らったくせに。いるんだよなー、取引先怒らせて降格食らったのに、前の後輩にいつまでも先輩風吹かせるやつ。降格して、もう出世が見込めない窓際配属されて、もう維持する見栄なんか爆散してんのに無駄なプライド誇示してな。昼になると飯に誘ってくるのやめてくれねーかな、あんたと違って昼休みとかねーからこっちは、つったら涙目で戻ってったけど。

 

「それは、可愛そうだろう、もっと優しくしてやれよ」

 

 そうなんだけどさ、なんか気を使われたり同情されるのは嫌だ、みたいな人でさ。食事の誘いに頷いても、表情の硬さとか声の調子からあ、こいついやいや来てるな、てのがわかるんだって。その点君は心から僕を慕ってくれてるのがわかるよ、とか言って俺に懐くようになってさ。いや俺だってヤだよこんな無駄な時間。なんで年上の中年と面向かって飯食わなきゃなんねーの。

 

「めんどくさいなその男」

 

 いつかまた元の部署に返り咲いてやる、とか飯食うたびに言っててな。でもそんなことできるはずねーんだわ、役員連中まで怒らせちゃったから。そのことに気づいてないの会社の中でそいつだけでな。毎日企画書や予算申請やらの書類書いて提出して、まあ当然全部ボツにされてな。読みもせずに不採用の判子押されてるって知らないで何が悪かったのかって本気で悩んで俺に相談に来たりな。

 

「……哀れだな」

 

 なに他人事みたいに心配してんの、これほとんど下肆さんの話だぞ。

 

「……は!? な、何を言うか、私が、え!?」

 

 眼球にばつ印までくらって再起なんかできるわけないじゃないですかやだー。

 そもそも下肆さんの中にあったいい匂い成分なんかもうほとんど残ってないんだし。鬼になって3日目あたりの雑魚と変わんないよ?

 

「ま、待て」

 

 哀れ(笑)

 

「貴様ああああああ!」

 

 うわキレた。涙目でキレた。赤黒い触手でぐるぐる巻きにされてるのにビッタンビッタン跳ねながらだ。頭の二本の角が昆虫の触角みたいですね。

 

「誰が昆虫だ! 十二鬼月の私を、よくも! 返せ! 私の力を、鬼舞辻様に頂いた力を貴様、よくもぉおお!」

 

 叫びながら下肆さんはビタビタグネグネと暴れまわるが、ちょっと怖かったので3メートルほど離れた木の陰に隠れて様子を見てると、次第に暴れる勢いが失われていって、ついにはうつ伏せになって止まった。

 あの、下肆さん?

 

「う、うぅ……うぇぇ」

 

 ガチ泣きである。

 簀巻きのままうつ伏せになって、ちょっと震えながら泣いている。

 やっちゃった感がある。けど、なんだろう。面白いからもう少し見てよう。

 

「なんで、なんでぇ……頑張ってたのに……いっぱい人間食べてきたのに……殺してきたのにぃ」

 

 縛られ、地べたに転がされて涙を流す女性、という憐れみを誘う光景なのに言ってることが畜生のそれである。

 

「うぅぅ、うぇぇ……ゲホッえほ」

 

 噎せた。

 

「い、いちいち解説するな! ひっ、だいたい、ひっく、なんで貴様、私を殺さなかったんだ。こんな生き恥を晒すくらいなら、むしろ」

 

 死んだ方がマシ?

 

「……いや、死ぬのはダメだな」

 

 あ、そう。そのへん下肆さんドライね。女性だからかな。

 

「どらい? というかさっきから私を呼ぶ『げしさん』てなんだ」

 

 え、左目に書いてるじゃん。

 というかうつ伏せのまま会話するの辛くない?

 

「じゃあこの縄を外せと。この目は下弦の肆という意味だ、げし、と読むななんの効果音だ」

 

『弦』と『の』が書いてないけど。

 

「片方の瞳孔だけでは間が足りないから、このように略号とするしかないのだ。両目に号を刻むのは上弦だけだしな」

 

 んん? 上司さん直属の部下は十二鬼月と呼ばれていて? 上弦と下弦に六匹ずつ分けられていて。両目に刻んでる方が偉くて、片目だけとかクソダセーと上弦がマウント取ってくるんだ。もう言ってる意味わかんね。なにそれオシャレのつもりなの? 眼球にタトゥー彫るとか前衛的すぎるでしょ俺には真似できんわ。

 

「は? 何を言っている、貴様の目にも刻まれているぞ。血戦で私を倒したのだから」

 

 え、なにそれやだカッコ悪。

 

「なんだと貴様ぁ!」

 

 さて、そろそろ移動しようか、いつまでもここにいてもしょうがないしね。まれちーを探す拠点を手に入れないといけないし、何か考えないと。

 

「稀血を? ふむ、なるほど貴様も鬼舞辻様のために尽力する心構えはあるのだな」

 

 は? そんなのあるわけねーじゃんせっかく社畜生活から脱出できたのに、なんだってまたあんな鬼畜上司にへーこら媚売らないといけないの。

 

「は? はこちらのセリフだ! 貴様なにを、鬼としてあるまじき、てコラ、引きずるな、自分の足で歩くからこれ解け! おい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぜあなたは、そんなに怯えているのですか。

 なぜあなたは周囲を警戒し続けるのですか。

 なぜあなたは、世界に恐怖するのですか。

 

 

 何があなたを怖がらせるのですか。

 何があなたを脅かすのですか。

 何があなたを狙うのですか。

 

 

 怯えないでください、私があなたのそばにいます。

 警戒しないでください、私はあなたを傷つけません。

 怖がらないでください、私があなたを守りますから。

 

 

 だからどうか、私があなたのそばにいることを許してください。

 どうか、どうか、私のことを信じてください。

 あなたを信じる、私の『目』を信じてください。

 

 

 私は知っています。

 あなたの目が常に左右に振れていること。

 あなたの瞳が常に大きく開いていること。

 あなたの隈が肌に染みるほどに濃いこと。

 

 

 私は見ています。

 あなたの心臓が常に目まぐるしく動いていること。

 あなたの筋肉が誰よりも研ぎ澄まされていること。

 あなたの手指がタコと出血で石のように硬いこと。

 

 

 私は気づいています。

 あなたが誰よりも刀を振ってきたこと。

 あなたが誰よりも努力家であること。

 あなたが誰よりも臆病で、優しいこと。

 

 

 そんなあなたのために刀を振るうことを許してください。

 この身に刻んだ剣技の全てを、あなたを守るために使わせてください。

 臆病さを理由に私から逃げないでください。

 優しさを理由に私を拒絶しないでください。

 どうか私をあなたの盾にしてください。世界を作る森羅万象すべてからあなたを守る盾に。

 誰かを守りたい、誰も傷つけたくない。それはとっても立派で優しい考えだと思います。

 でも、その有象無象の『誰か』の中に、私を含めないでください。

 それが私を傷つけるのだとどうか理解してください。

 だから、どうか、私を怖がらないで。

 私を傷つけることを。

 私に傷つけられることを。

 どうか、どうか。

 

 

 

「いやだからね」

 

 私の横を歩く少年が言う。

 

「俺はそんなに強くもないし、優しくもないわけ。まれちーに評価してもらえるのは嬉しいけどさ、その過大評価は行き過ぎだと思うのよ俺は」

 

 横目でもちらちらと視界に入る黄色い髪が風に揺れている。情けなく垂れた目で私を隠し見る彼、善逸の情けない言葉に私はついため息を漏らしてしまった。

 

「そんなことはありません。善逸は強い。善逸は優しい。見ればわかりますそんなこと。善逸もいい加減それを認めなさい」

 

 私の言葉に善逸もまたため息を漏らした。

 強情なやつ、とでも言いたいのだろうが、それはこちらのセリフだ。

 善逸は、藤の山での修行以来、刀を握るだけで意識を集中させることができるようになった。

 その時の彼は意識を世界から切り離し、自身の持つ居合の技術を最大限に活用するべく体を運用する。

 私が水の呼吸で鬼を足止めし、善逸が斬りふせる。

 今まで二度ほど鬼を退治する任務が回されたが、その任務を達成できたのは善逸に依るところが大きい。

 にも関わらず、彼はその功績を認めようとしない。

 刀を握っている間の意識がないのだから当然と言えば当然なのだが。

 彼の中では、自分の気づかないうちに私が鬼を切り終えている、という認識なのだ。

 だから私がどれだけ彼に彼自身の功を説明しても、彼の目には全て私が無能な自分に気を使っている、あるいは強引に持ち上げているようにしか映っていないようなのだ。

 善逸の手柄を奪うわけにいかない以上、この話題では絶対に折れるわけにはいかないのだけれど、記憶のない彼とは常に平行線だ。

 出来損ないの自分に惚れる女なんているはずがない。

 だからこの女も何か目的があるはずだ。

 あるいは同情しているだけだ。

 だから勘違いするな。

 そんなことを考えているのだ、この男は。

 

 なんとなく空を見上げた。

 陽気が暖かく、風も心地良い。

 彼は、あの鬼の人は、こんな時私にどんな言葉を語ってくれるだろうか。また南蛮語混じりの解読不能なものをだらだらと並べ立てるだろうか。でもあの意味のわからない羅列の中にも、たまにであるがためになる言葉が紛れ込んでいたりするのだ。

 早く彼と合流したい。

 善逸と、私と、彼と。また三人で鬼退治ができればいいなと私は思うのだ。



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第12話 成敗

 藤の山から降りる際、職人が手がけた和人形のように瓜二つな少女に、今後私と善逸は二人で行動することを言っておいた。そのためだろう、鬼殺隊としての任務は今のところ二人で当たることができていた。

 私に与えられた烏の鶏助曰く、元々鬼殺隊は柱のような実力者でもない限り、数人で組を作って任務に当たるのが通例なのだとか。善逸と一緒にいられるのならばなんでもいいけど、それならもっと腕の立つ先輩もつけてくれればいいのに。

 鬼のおじさんが言っていた、おんざじょぶとれーにんぐ、とか言うやつだ。

 経験のある先輩に付いて実務をこなして経験を積む、ということらしい。

 ただそれは人員に余裕があって、新しく雇った新人を遊ばせても問題ない程度に職場が回っていることが前提だそうだ。

 新人にいきなり責任ある仕事を任せるなんてありえない。そうおじさんは言っていた。

 

『新人なんて経験どころか、その業界や職場の常識だってないんだから、言葉も通じない子供相手にしてんのと変わんないのよ。なのにあいつら、自分の知ってることは相手も知ってるって前提で説明とかするから新人なんて置いてけぼりでな。なんでも聞いて、とか言うからその新人が質問したら、そんな当たり前のことまでいちいち聞くな、とくる。お前は例えばスペースキーってなんですかなんて聞かれたらどう思う? なんて嫌みたらしく言われて、その時は説明書と用語集を渡します、て新人が返したのよ。正論だなって思ったらその先輩は屁理屈言うなと新人にキレてな。1週間でそいつ辞めちゃったわ』

 

 ところどころ意味がわからないところがあったけど、まあおおむね同意だ。

 経験者に付いて学べないなら教材をよこせ、という話だ。

 その点私は良かった。最善の教材のそばに三年間つきまとっていたし、鬼のおじさんに段階的に強さを調整しながら鬼と戦わせてもらえたし、なにより私には『目』があった。一度見たものを忘れない目が。

 

 つまり私が何を言いたいかというと、目の前の少年、竈門炭治郎のこれまでの任務の内容に対して憤りが止まらない、という話だ。

 

「いきなり一人で鬼と戦わせるって何を考えてるんですか」

「いや、それでもなんとかなったんだ」

「結果論ではありませんか、そんなの」

「う」

 

 吐き捨てれば、竈門少年は具合が悪そうに押し黙った。

 彼との出逢いは、善逸と共に雅楽打山へと向かう道中のことだった。

 褒める私とそれを否定する善逸。いつもならそれは平行線で終わるのだが、今回はそれがわずかに拗れた。

 

『いい加減にしてくれよ、俺はもの凄く弱いの! 次とかその次の任務でどうせ死ぬの! 一人で死ぬならまだいいよ、でも俺みたいなクソ雑魚ナメクジを守るためにまれちーまで死んだらどうすんだよ死んでも死にきれないだろ!』

 

 目的地が近づいてきて臆病風に吹かれたのだろう、いつもより声に張りがあった。私の方も、善逸の言葉が嬉しくて、つい照れ隠しにいつもより強い口調で彼の弱さを否定した。

 道の真ん中で、痴話喧嘩というには殺伐としたやりとりを交わす私たちを見咎めたのが竈門少年だった。

 

「今だって骨が折れているでしょうに。そんな体でどうして任務を命じられるのか」

「う、バレてたのか」

「えぇ? だだ、大丈夫か炭治郎」

「しかも痛みを止めていないでしょう、なぜそんな平然としていられるのか……」

 

 え、と二人が私に視線を向けた。

 

「痛みを止めるってどういうこと?」

「呼吸の応用です。痛みは体の神経が頭に伝える信号です。どの神経が頭に痛みを伝えているのかを把握して、その信号伝達を抑えるんです。ね、簡単でしょう?」

「……」

「……」

「何ですかその目は」

 

 しばしの沈黙の後、善逸が口を開いた。

 

「それにしても、炭治郎とあの人、人? が会ってたなんてな。変な人? だったろ」

「あ、いや、そんなことは、まあ、うん」

 

 頷いちゃったよ。

 

「でもすごい、人? だった。俺は鼻が利くんだけど、人を一度も食べても、殺してもいないってことが匂いからわかった。自分を弄ったわけでもないのに、すごい精神力だと思う。あんな人? もいると思うと、少し不安が和らぐ」

「まあそのかわり鬼を殺しまくってるけどな」

「そうなのか?」

「あの人? は鬼になってすぐ藤の山に放り込まれたんだって。以来鬼同士で殺し合いだったってさ」

「ああ、鬼は共食いするように操作されてるらしいからな」

 

 竈門少年は私たちのやりとりが目に余った、というのもあったが、なにより善逸の髪が気になったのだという。

 あの、鬼のおじさんからよろしく、と伝言を、黄色い髪の少年宛に預かっていたのだと。

 そのお陰で私たちはすぐ打ち解けることができた。

 思わぬところで、またおじさんの世話になってしまった。

 本当に頭が上がらない。

 

 

 そんなことを話しながら烏に先導されながらやってきたのは、山奥に佇む屋敷だった。

 二人が言うには、血の匂いと鼓の音がするらしい。

 そばにいた兄妹を宥めて情報を聞き出す。どうやら私と同じ稀血の子供が鬼に捕まったらしい。

 普通に考えれば屋敷に連れ込まれた時点でその子供の生存は絶望的だが、この屋敷に鬼が複数いればその限りではない。稀血の芳香に引き寄せられた鬼たちが、稀血を巡って殺しあうことがある。経験談として、そのお陰でおじさんの助けが間に合ったのだ。

 竈門少年が兄妹の下に背負っていた箱を置いて、私たち三人は屋敷へと入った。

 

「なあ炭治郎、あれ大丈夫なのか?」

「あれって何のことだ?」

「あの箱だよ。あの中、鬼が入っているだろう? というか鬼殺隊が鬼を連れ歩くってのはどうなんだ?」

「鬼ですか?」

 

 善逸は耳がいい。その音を聞くだけで、そこに何の動物がいるかまでわかる。心音や呼吸音など、生物によってこぼれ出る音は全く違うのだとか。正直意味がわからない聴力だ。

 

「……ああ、俺の妹なんだ。妹は俺の目の前で鬼になって、以来ずっと一緒にいた。その間、妹は一人も人を食べていない」

 

 あの箱に収まるなんて、よほど幼くて小さい子供なんだろう。そんな妹が鬼になってしまうなんて、なんてやるせない。

 

「というか、炭治郎が一人で任務を任されたのって、もしかしてそのせいで鬼殺隊に嫌われてたからじゃね?」

「え」

「それか踏み絵的なものかもしれませんね。妹と同じ鬼をちゃんと殺せるか。最終選別は別に殺さなくても、逃げ回って生き残ればそれで合格ですし」

「だめだ!」

 

 なにが、と思えば、先の兄妹が私たちを追って屋敷に入ってきていた。

 兄曰く、置かれた箱から音がして気味悪かったとか。

 置いてかれた箱にいる妹をどうしようとか、戦えない兄妹をどうするとか、家鳴りのような音に善逸が恐慌状態に陥ったとか、わちゃわちゃしている間に私たちは分断された。

 鼓の音が聞こえた気がする。その途端辺りの景色が一変し、気づけば屋敷の中にあるだろう居間に一人突っ立っていた。

 

「善逸……」

 

 見事に分断されてしまった。

 襖を開けながら一直線に走り続けても、一向に外に出られない。すでに二町は駆けたはずなのにだ。いくらこの屋敷が大きかったといってもさすがにそこまでではない。

 おそらく空間が捻じ曲がっている。

 永遠に抜け出せない迷路。

 この屋敷を縄張りとする鬼の血鬼術か。

 であるならば、その鬼を殺さないと私たちは外に出られない。

 屋敷の中で善逸と合流できるかも定かではない。

 一番恐ろしい可能性として考えられるのは、鬼が外からこの屋敷の空間を閉じてしまったという可能性だ、が、それはないだろう。稀血や他の餌をこの屋敷に連れ込んでいるということは、この屋敷はその鬼にとって屠殺場であり食卓でもあるのだ。外から閉じて入れない、なんてことはしないはずだし、必ず攫った稀血を貪るため中にいるはず。

 とはいえ、空間の捻じ曲がったこの屋敷の中で鬼を探し回るのもばからしい。

 

「よし」

 

 私は、懐から匂い袋を取り出した。

 藤の香りを濃縮させたそれは、『稀血』と呼ばれる私の体を流れる血の匂いを隠してくれるものだ。選別後に与えられた烏の鶏助がくれたものだ。

 それを放り投げる。部屋の襖を全て開け放ち、型稽古を行う。私の匂いが汗とともに広がっていく。

 ほんの四半刻で、鬼が一匹釣れた。

 

「なんだ、他にも稀血がいやがったのか、あの野郎隠してやがったな」

 

 現れたのは巨漢の鬼だった。

 背の丈では私の倍、重さでは三倍はありそうだ。

 こいつがこの屋敷を捻じ曲げている鬼か。鬼がこちらに伸ばしてくる腕を三枚に卸し、その勢いを失わずに体を旋回、鬼の懐に潜り込んでその太い首を切り上げた。

 水の呼吸を使うまでもなかった。

 あまりにも弱すぎる。

 期待もしていなかったが、屋敷の捻れはそのままだった。やはりこいつの血鬼術ではなかったようだ。

 

「善逸」

 

 不安は、ない。この程度のことで傷つくような男ではない。おそらくまたぴーぴーと泣き喚きながら、雷速の居合斬りで鬼を屠っていることだろう。

 その雄姿を見ることができないのが残念だ。

 

「善逸」

 

 善逸。善逸。善逸。

 

「待っていてくださいね善逸」

 

 すぐに会えますから。この程度の任務、私たちなら無傷で終えることができるでしょう。そうしたら、任務終了をともに祝いましょう。

 

 

 

 

 

 

 気づくと私は、猪頭に飛び蹴りしていた。

 反省している。しっかり首を踏み砕くべきだった。後悔はしていない。

 

 

 

 

 

 

 無抵抗の善逸をボコボコにしていた猪頭は、猪の皮を被った美少女顔の少年だった。

 私の飛び蹴りでぶっ飛んだ彼は、素顔を晒したまま気絶した。その顔立ちは確かに目を見張るものがあるが、善逸曰く「女とムキムキの男をむりやり合体させたみたい」だそうだ。

 

「ごめんなさい、善逸」

「え、なにがだ?」

「あなたを守る、と言っておきながら、私はなにもできなかった」

「あー……いや、そんなことは」

 

 誓ったのだ、善逸を守る盾になると。

 涙がでそうになる。

 なぜあなたはそんなに優しいのだ。出会って半日の、名前以外よく知らない少年の、顔も見たことのない妹のために、なぜ体を張れるのだ。

 そんなに臆病で、傷つくことを誰よりも怖がっているくせに、どうしてそんな勇気が出せるのか。

 怒りが募る。

 自分に対しての怒りだ。

 誰よりも臆病で、だからこそ誰よりも勇敢な彼を、守ることができなかった自分に。

 善逸は居心地悪そうに視線を彷徨わせて、私の右手を見た。握りこぶしの隙間から血が垂れていた。見れば手のひらの皮膚を爪が裂き、その爪自体も割れていた。

 

「まれちー」

 

 善逸が、私の名前を呼んでくれた。それだけで嬉しいと思えた。

 その声は、いつになく柔らかかった。それがなぜか、どうしようもなく悲しかった。




まれちーは孤児で本名は自分も知りません。
名前もいく先々で適当に名乗ってたのでいっぱいあってな。
社畜さんと善逸との間ではまれちー呼びが定着してるので、善逸にはずっとまれちーで通してます。


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第13話 二本

 その後、気絶した猪頭を寝かせて、私たちは被害者の方々を埋葬した。どなたも生きたまま体を雑に食いちぎられており、誰もが表情を恐怖と苦痛と絶望に歪めていた。即死できたものは一人もいなかったに違いない、彼らの末期を思うだけで怒りが湧いてくる。それを鎮めるためひたすら私は穴を掘った。

 途中で猪が目覚め、私に勝負を挑んできた。埋葬の邪魔になるので、おじさんに教えてもらったふらんけんすたいなーという技で脳天から首まで地面に突き刺してやった。生け花みたいになった。

 

「ちょ、まれちーさんやり過ぎだ」

「何を言うんですか竈門少年。善逸を一方的にボコって血塗れにしたんですよこの女顔は。隣の大岩で頭骨を砕かなかっただけ優しいではないですか」

「それ優しさじゃなくて、御法度に触れるとめんどくさいからっていう理性的な理由だろ」

 

 どうか、私を信じてください。

 どうか、どうか。

 

「いやそこでポエムとかいらないから」

 

 最近善逸が冷たい。

 

 

 埋葬を終え、猪頭も目覚め。今度は警戒して一定の距離を開けて私を中心に円を描く彼を無視して下山することとなった際、善逸がおかしなことを言い出した。善逸、よく見なさい。いえ、あなたの場合はよく聴きなさい、ですか。その正一という少年の心臓も、四肢も、肺も呼吸も、強者足り得るところはどこにもありません。

 

「い、いやでも、確かに正一君は鬼を倒したんだ! 俺を守ってもらうんだ!」

「え、倒してないです」

「倒したじゃん、なんで嘘つくの⁉︎俺の気づかないうちに頭切り落としてたじゃない!」

「善逸、あなたは耳が良くても頭が悪い」

「なんで罵倒から会話が始まるの⁉」

「日輪刀も持たない齢一桁の少年がどうやって鬼を殺すというのですか。馬鹿なことやってないで行きますよ。彼らは鬼に誘拐されたりなんだりで疲れているんです、迷惑かけて生き恥を晒すのは辞めなさい、妻である私も恥ずかしくなります」

「ちょ、まって腕、痛、なにそれ俺の肘今どうなってんの?」

 

 おじさんに教わったいのがしらあーむろっくという技で善逸の腕を極め、強制的に下山させた。

 

 

 

 

「善逸、あなたは思い込みが激しい。聞いたことを自分の先入観で曲解する。自分の都合で捻じ曲げる。一番度し難いのは、都合の良いようにではなく、都合の悪いように捻じ曲げることです」

「まれちーさん、都合の悪いようにってどういうことだ?」

「自分が無能である、役立たずである、弱者である、という思い込みを肯定するべく認識を曲げるのです」

「……弱者? 善逸がか?」

「そうだよ! 俺は弱いの、ものすごくな! ナメクジの方がまだ役に立つ自信があるぜ!」

 

 自信満々になにを馬鹿なことを。

 

「では多数決で決めましょう。善逸が弱いと思う人挙手しなさい」

「はいはいはいはいはい!」

「一票」

「異議あり! 俺今五回手を挙げたんだから五票のはずだ!」

「善逸って本当に馬鹿なんだな」

「炭治郎までそれを言うの⁉」

「そうなんですよ、妻として恥ずかしい限りで」

「まれちー⁉」

 

 あ、と炭治郎が声をあげた。

 

「さっきから気になっていたんだけど、妻ってなんだ? 二人は結婚しているのか」

「そうですよ」

「いや、えっと」

「は?」

「ひぇ」

 

 善逸は何を言い淀んでいるのか。

 

「なにか、事情があるのか? 善逸怯えてるけど。というか威圧しちゃだめだ」

「いえ事情なんて特には。善逸が私に求婚して、私がそれを受け入れた、という当たり前のことがあっただけです。仲人としておじさんも同席していました。私に戸籍がなくて入籍こそできませんでしたが、まああんなの形式的なものに過ぎませんし些細なことです」

「そっか、善逸はいい嫁さんを貰ったな」

 

 竈門少年はまるで我が事のように嬉しそうに笑った。

 

「待って、ほんと待って。違うんだ、あの時のは勢いというか、俺もまさか受け入れて貰えるなんて思ってなくて」

「でも求婚したんだろう? じゃあ責任とらなきゃダメだ」

「炭治郎は正論が時に人を傷つけることを知るべきだ」

「その時は今じゃありませんけどね。善逸、気づいてますか? あなたが否定するたびに私が傷ついていること」

 

 両目の端から、一筋の雫が流れ落ちた。それを見た二人はギョッと体を竦ませた。

 

「善逸!」

「え、ちょ、まれちーごめん、まさかそんなに傷ついてるなんて、いや炭治郎もそんな顔怖いって! 謝るから! 土下座まで視野に入れるから!」

「おお、ここまで態度が変わるなんて、さすがおじさんの言うことに間違いはあんまりないですね」

 

 ん? と二人は首を捻った。

 

「まれちー?」

「おじさんに教わったんです、女の涙に勝てる男はいないって。どんなに形勢的不利でも女が泣けばその瞬間形勢は逆転し男を有罪にすることができると。涙は呼吸の応用ですね。全身の水分の流れを把握して、少しずつ絞って涙腺から溢れさせるんです。簡単でしょ?」

「あのおっさんまれちーにいろいろ吹き込み過ぎじゃない⁉︎俺が不利になることばっかりなんだけど! 人の関節ほいほい極めたりとかさぁ!」

 

 ほんとあの、人? には頭が上がらない。

 

「結婚生活は妻が夫を尻に敷くくらいでちょうどいいんですよ。とくに善逸のような普段はやる気を見せない夫の場合は特にです」

「それもあの人? からか?」

「はい」

「おっさあああああん!」

 

 まあ、やる気を他人に見せないだけで、影で努力していることは知っていますけどね。

 

 

 

 猪頭の名前は嘴平伊之助というらしい。

 ご両親に貰った名前のようだ。褌に書いてあったとかなんとか。

 ただ育ての親は猪であると。雌の猪に育てられ、山で野獣と力比べをしながら過ごし、山の主として君臨してきたとか。

 頭の猪や脚を覆う熊の毛皮は自分で狩った動物のものであるとか。

 結局彼がなにを言いたいのかというと、まあ自分は強い、ということ。そして、

 

「いつかお前に勝つ、絶対だ!」

「今じゃないんですね」

「言ってやるなよ、二回も一瞬で気絶させられたんだから」

「なんだとテメェ弱味噌が!」

 

 猛る伊之助の剣幕にひぇ、と善逸は私の影に隠れようとしたが、私は竈門少年と一緒に善逸を伊之助の方へと押し出した。

 

「おぉぉおおおい⁉」

「今のは善逸が悪い」

「妻の陰に隠れるとは何事ですか、恥を知りなさい」

「まれちー自分を盾にしてって言ったじゃない! 言ったじゃない!」

 

 誰かを守りたい、誰も傷つけたくない。それはとっても立派で優しい考えだと思います。

 

「だからポエムはもういいって! それ前聞いた!」

「くらえおらぁ!」

 

 伊之助は全身のバネを使って跳ね、宙返りしながら善逸の首を両足で捉え、背筋を反らしながら逆立ちし、全身の膂力をもって善逸を林の中へとぶん投げた。

 あれはさっき私が伊之助に使った、おじさん直伝の投げ技ふらんけんすたいなー。

 まさか、一度受けただけで覚えたのか。私はおじさんが鬼に対して使っているのを客観的に三度観察したから覚えられたというのに。

 善逸が飛んで行った方を見る。谷や川があるわけでなし、まあ大丈夫だろう。

 おじさん曰く投げの基本は投げずに落とす。なるべく受け身を取らせないよう腕の関節を極めた状態で地面に叩きつけるのが理想、らしい。今回善逸は地面にほぼ水平に投げられた。水平にあんな距離を飛んでいくあたり伊之助の膂力は大したものだと思うが、それでは人は殺せない。案の定ケロっとした態度で戻ってきた善逸に、再び襲いかかろうとした伊之助をおじさん直伝のじゃいあんとすいんぐで優しく水平にぶん投げて、上下関係を教えてから改めて伊之助の話を聞いた。

 

「育手? なんだそりゃ」

 

 なんと、伊之助は育手を介さずに最終選別に参加したらしい。

 

「じゃあ、伊之助が使っている呼吸はなんだ? 誰かに教わったんじゃないのか?」

「腹にガッと力入れて肺臓をグッと広げて心臓をギュッギュッて締めるんだよ。お前らもやってんだろ」

「いや、え? なんの呼吸なんだ? 俺とまれちーさんは水の呼吸だけど」

「は? なんのってなんだよ。適当に獣の呼吸って呼んでるけどよ、我流だっつの」

「へー」

 

 善逸、へーじゃない。

 おじさんも私や善逸が見せた呼吸を真似て社畜の呼吸とかいいながら地味な技能を見せびらかしてキャッキャ喜んでいたけど、伊之助のこれはそんな程度の低い話ではない。

 新しい呼吸が生まれることはある。しかしそれはあくまで基本となる五つの呼吸から派生しているのであって、その根っこは似通っている部分が多い。基本の呼吸のどれかを習得してから、自分に合った形を探し、自分なりに改良を重ねて最善を目指し、才ある剣士が派生させるに至るのだ。

 それをこの野生児はあろうことか、呼吸という概念を誰にも教わらないまま、基本の呼吸の習得という段階をすっ飛ばして全く新しい呼吸を編み出したのだ。

 おじさんが言っていた。天才とは零から壱を作る者のことを言うのだと。新たな道を切り開く先駆者のことなのだと。

 もう一度、横を歩く伊之助を見る。

 上半身裸で、猪の顔を被り、基本声がでかい。常識が通じず、会話も基本成り立たない。

 おじさん曰く、天才とは常人が持つ何かを失った代わりにある能力が秀でるものである。

 なるほど。

 なんか、自分が天才じゃなくてよかったと思った。

 

 

 

 烏が私たちを案内した先は、藤の家紋の家だった。

 背の低い老婆が私たちを歓待してくれて、三人のために医者まで呼んでくれた。私は怪我をしなかったので医師の診断を受けなかった。いくら鬼殺隊を無料で世話してくれると言っても、無駄な費用を掛けさせるわけにはいかない。

 善逸は正一君を助けた時に後頭部を打ち、右肋骨の低い所、十一番と十二番を骨折していた。

 負傷が明らかとなった三人は同じ大部屋で並んで横になっていた。それを見届け、私は屋敷の中庭に出た。

 簡素な作りの庭である。京にあるような侘び寂びを意識するような作りではない。わずかばかりの木々と申し訳程度の岩がコケとともに置かれているくらいだ。雑草の手入れがされているあたり大切にされてはいるのだろう、風と虫の声が相まって居心地は良いものだと感じた。鬼殺隊員の療養としては申し分のない環境である。

 縁側に正座し、脇腹に手を当て、呼吸を整える。

 

 善逸のあれは、名誉の負傷と言える。

 善逸がいなければ間違いなく正一君は二階から落ちて、よくて大怪我、受け身も取れない彼では死んでいてもおかしくなかった。

 妻としては大変喜ばしいことである。誇ってもいい。私が見初めた夫は、子供のために命を賭けられる男なのだと。

 だが、だがだ。

 善逸の盾となると誓った身としては、到底許されることではない。

 あの時分断されたのは私の油断だ。

 私がもっと警戒し、片時も離れずにいれば防げた事態だった。

 腑抜けている。藤の山で鬼を切りすぎたからか、その後善逸と受けた任務が想像以上にうまくいったからか、あの時私は緊張感が足りなかった。

 自戒せよ。自制せよ。自省せよ。

 痛みを以って教訓と為せ。

 おじさんも言っていた。痛みがなければ覚えませぬ、と。

 

 

 パキッ

 

 

 思ったよりも乾いた音だった。

 

「ぐ、ぅうう……」

 

 それは私の肋骨の音だった。

 右手が添えられた脇腹を抉る指。右の十二番。善逸が折ったのと同じ場所だ。

 次は、十一番。

 

「が、うぁ」

 

 痛みで息がつまる。額に汗が滲む。普段なら呼吸を集中させて痛みを抑えるところだが、今はあえてそれをしない。

 これは、善逸が得たものと同じ痛みだから。それを誤魔化してどうする。痛みから逃げるな。

 これは言ってみるなら躾なのだから。

 痛みをもって覚えるのだ。

 この身は善逸の盾なのだと。

 善逸のために生きるのだと。

 

「は、はは」

 

 思わず笑みが漏れた、が、それくらいはご寛恕願いたい。なぜ笑いがでたのか、自分でもわからないのだから。

 

 よし。

 これでいい。

 この痛みがある限り、私はきっと忘れない。




おじいさんに百人一首を読み聞かせられた、という幼少期言語教育を受けた少年のセリフ

「今この刹那の愉悦に勝るもの無し‼︎」
どんな頭してんだ、脳みそ木原か(褒め言葉


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第14話 蜘蛛

 超美人なんですけど。

 

 

 竈門少年の妹の話である。

 自分への躾を終え私に割り当てられた部屋に行く道すがら善逸たちに挨拶しようと彼らの部屋に立ち寄ると、いたのだ。とんでもない美少女が。

 赤く裂けた瞳とか口に咥えた竹とか、そんな負の要素をものともしない圧倒的美少女だ。

 まじか、竈門少年まじか。あなたの家系はどうなっているんだ。

 というか、明らかに竈門少年が背負う箱に収まる大きさではないのだけれど。

 え、背丈を自由に変えられる?

 布団から出て善逸とわいわいやってる竈門少年に声をかける。

 

「もしかしてご両親は孤児を拾って育てたとかですか? あなたのご両親はお優しい方だったのですね。よかったですね竈門少年」

「確かに俺の両親は優しかったけど! 禰豆子は実の妹だし俺は父親似だ!」

「そう、ですか……良いご両親だったのですね」

「あ……ご、ごめん。まれちーさんは両親との思い出が」

 

 竈門少年が眉を下げて謝ってきた。ちょっと素直すぎるのではなかろうか。

 

「炭治郎、誤魔化されるなよ。まれちー今炭治郎を遠回しに醜男と言ったことから話そらそうとしてるだけだぞ」

「それは邪推というものです。いるんですよね、そうやって疑心暗鬼になって自分から人間関係にヒビを入れる人間って。周りからすれば勝手に思い悩んで勝手に攻撃的になったり、いきなりこっちを無視するようになるから正直意味がわからなくて混乱するんですよね。いいですか、あなたが思うほど世の中はあなたに興味はありません、好き嫌いの感情をいちいちあなたに持っていたりしないんです。大体はあなたに対して無関心なんですから、普通にしてりゃいいんですよ普通に」

「まれちー、喋り方までおっさんに似てきたぞ。なんなの? お前とおっさんて生き別れの親子なの?」

「あんな胡散臭い喋り方に似てるとか……失礼すぎます。謝罪してください」

「まれちーの方がよっぽど失礼だよ、そっちこそおっさんに謝っとけよ」

 

 というか善逸。さっきからちらちらと妹さんを見ているのはどういうことだ。

 ねえ善逸?

 善逸?

 

「ひぇ」

 

 怯えたふりをしてもダメです。ねえ善逸。私の目を見なさい。私の目のことは知っているでしょう? あなたや竈門少年がその鋭い五感で相手の嘘を看破することができるように、私は相手の瞳孔や眼球の動きを観察することで嘘を言っているかどうかがわかります。

 善逸。

 ほら善逸。

 私を見なさい。

 私の目を見なさい。

 ほら。

 

 

 

 

 まあ、私に善逸の行動や感情を束縛する権利はない。

 いくら求婚され、それを受け入れた相思相愛の関係とはいえだ。

 そも浮気や不倫が問題とされるのは、まずその男女の関係が結婚という公的な書類によって定められた関係である場合と、もう一つは不倫相手との間に子供ができた時に親権など面倒くさい問題が沸き起こるからだ。つまりこれらの問題は私と善逸の関係には全く当てはまらない。婚姻届は提出できないし、まだ清い関係である私たちの間に子供なんてできるはずもない。つまりあなたが別の女と子供を作った場合、そこにはなんの違法性もなく、ただ私が身を引く以外にない。

 それに、まあ、わかっているのだ。

 善逸からの求婚の言葉は、単にあの山で追い詰められていたが故に出た、中身の伴わない言葉であることなんて。

 愚かな善逸が、何も考えずに口を滑らせただけだということも。

 そんな言葉にすがりつく、私が最も愚かだということも。

 

 

 

 

 

 藤の家紋の家を出立し、伊之助が竈門少年を質問ぜめにして、竈門少年が脚を早めて返答から逃げたりと、そんな賑やかに向かった先は、那田蜘蛛山という鬱蒼とした木々に覆われた山だった。

 到着したのが夜であったこともあって、麓から見える山道も先が全く見通せない。

 はっきり言って不気味だ。

 鬼殺隊員である私たち四人を同時に送り込むあたり、厄介な鬼が巣食っているに違いない。

 それを察知したのか、いざ入ろう、としたところで善逸がごね出した。

 

「待ってくれ! ちょっと待ってくれないか!」

 

 キリっとした顔で何を言い出すかと思ったら、山が怖くて入りたくない、だと。膝を抱え込んで座る不動の構えで不安を主張している。

 

「なんだお前、気持ち悪いな」

「お前が言うなよ猪頭!」

「善逸、生き恥を晒すのは辞めなさい」

「まれちーが言うの⁉ ん? おいあれ」

 

 善逸が指差したのは、山から這い出てきた鬼殺隊員だった。負傷し消耗しているようで、満足に立つこともできないようだ。竈門少年と伊之助がいち早く駆け寄っていくも、その隊員は背中に張り付いていた糸に引っ張られ、山の中へと釣り上げられた。

 悲鳴ごと山に呑み込まれ、山の騒めきだけが余韻のように残った。

 あっという間の出来事だった。

 ここまで人の恐怖を演出する展開もそうはないだろう。善逸の顔色などすでに土気色で過呼吸まで起こしている。

 そんな有様を前に、竈門少年と伊之助は言うのだ。

 

「……俺は、行く」

「俺が先だ! 腹が減るぜ!」

 

 まじか、二人ともまじか。

 今のを見て即断できるのか。何があるかもわからないのに。

 もう少し情報を集めてから行くべきか、とも思うが、しかし烏が何も言わない以上、恐らくこの山に鬼がいる、以上の情報を上層部も得られていないということだろう。

 それは言い換えれば、この山に入った諜報を主任務とする鬼殺隊員が誰一人生きて帰っていない、という絶望的な状況ということだ。先の宙を舞った隊員のことを鑑みるに、逃げ出そうとした隊員すらああして連れ戻される、牢獄のような状況になっているのだろう。

 

「……まれちーさんは?」

 

 竈門少年がこちらに振り返り問うた。その目には怯えが見える。彼だって、山に入ることが恐ろしくてたまらないのだろう。それでも行く。なぜなら、ここにいる鬼が恐ろしければ恐ろしいほど、強ければ強いほど、妹さんを人間に戻す手がかりとなりうるから。

 しかし私や善逸にはそんな事情はない。中の状況がわからない以上、情報を集めることも任務の一つであるわけで、今目にした光景を伝えに戻ったとしても任務違反とはなるまい。だからここで戻ったとしても竈門少年はこちらを責めないだろう。どころか、きけんだから入らないほうがいい、とすら思っているかもしれない。

 

「私は善逸について行きます」

 

 善逸は、未だに地面に座り込んだままだ。それを見て竈門少年は、ただ一言「わかった」とだけ言って、伊之助の背中に従って山に入っていった。

 

「……」

「……」

 

 しばらく私たちは無言だった。

 善逸は帰るのでもなく、しかし山に向かうでもなく、座り込んだまま動かなかった。

 思いつめた表情で、膝を抱えたまま地面を見つめている。その隣でちゅんちゅん鳴く雀も無視して。

 

「……軽蔑しただろ」

「何をですか?」

 

 突然どうした。

 

「何をって、俺をだよ。あいつらが山に入るのを黙って見てるだけでさ」

「そうですね」

「俺嫌われてんのかな。説得されたら俺だって行くからね? なのに俺を置いてさっさと行っちゃってさ」

「つまり行きたいんですね」

 

 私の言葉に、善逸は顔をあげた。

 

「私は知っています。あなたが誰よりも臆病で、優しいこと」

「……だから、それは前聞いたって」

 

 はは、と善逸は笑った。

 

「怖いんだ。鬼が怖いし、怪我するのも死ぬのも怖いんだ」

 

 でも、と善逸は言う。

 

「期待されないのは辛いんだ。諦められるのが嫌なんだ」

 

 そして、彼は立ち上がった。

 

「俺は、期待に応えたいんだ」

 

 善逸は私に振り返った。

 

「俺の師匠とか、おっさんとか……まれちーとか、俺にいろんなことを教えてくれた。それが、それが無意味なんかじゃないって、そのおかげでいろんな人を守れるようになったって、証明したいんだ」

 

 震える足で立ち、震える声で語られる思い。恐怖に開ききった瞳孔と、引き攣る喉と頬の筋肉を見て、思う。

 誰よりも臆病で。そんなあなたにとって、ただ立つだけのことにどれだけの勇気を振り絞っているのか、私には見ればわかる。

 たかがそれだけのこと、と人は言うかもしれない。

 でも、だからこそ、私はあなたが愛おしい。

 物心ついた頃から孤児で、怒りも悲しみも、全て他人からの受け売りでしかない私の中には、どこを探しても存在しないあなたの感情が、とてもとても愛おしい。

 だから私は、もっともっと、あなたの感情を見ていたい。

 

「証明しましょう。あなたがどれだけ強くなったか、見せつけてやりましょう。私があなたの前を守ります。あなたの横で支えます。あなたの背中を押してあげます」

 

 説得してほしいならしてあげよう。

 私にはあなたを束縛する権利なんてないし、何かを強制できる立場でもない。あなたの意に添わぬことはしないしできない。でも、あなたが本当に望んでいることなら、ほんの少しだけ、背中を押してあげよう。それだけであなたには十分なはずだから。

 

「ほら、善逸。だだこねて生き恥晒してないでさっさと行きますよ」

「……もう少し言い方あるだろ」

 

 おじさんが言っていた。

 こういう男は、妻の尻に敷かれるくらいでちょうどいいのだと。

 

 

 

 

 

 

 一言で言えば、気持ち悪い。

 那田蜘蛛山という名前に肖っているのか、無闇矢鱈と蜘蛛が多い。

 小さな蜘蛛があちらこちらからかさかさとこちらを狙って忍び寄ってくる。善逸に集ろうとするやつはペシペシとはたき落としてやっているが、先ほど私は善逸の手首にいた蜘蛛に気を取られ、自分の踵を噛まれてしまった。

 すごい痛い。

 なんなんだろう、少し腫れてきたし、絶対なにか毒を持っていたに違いない。

 

「なんなんだこいつら、もーカサカサうるさいし。いや蜘蛛も一生懸命生きてんだろうけどさ」

「この数ですと、善逸の聴覚では大層耳障りでしょう」

「あと、すごい臭くない? 炭治郎大丈夫かな、臭すぎて気絶してないかな」

「伊之助がまともに介抱できるとも思えませんしね。早く合流しなくては」

 

 がさ、と一際大きな音が背後かで響いた。ビク、と背中を震わせた善逸はその驚きを誤魔化すように大声で、

 

「もーーー! いい加減うっさい! じっとして!」

 

 そこにいたのは、人面蜘蛛だった。

 

「こんなことある⁉」

 

 叫び、雷の呼吸まで使って善逸は駆け出した。気持ちはわかる。だって人面蜘蛛だ。しかも舌?を伸ばして針をこっちに打ち込んでこようとする。スパっと首を落としたが、こんな意味のわからない鬼が存在するのか。蜘蛛というだけですでにギリギリであるが、それに人の頭が合体して悍ましいにもほどがある。ここまで人間の形を失った鬼は、藤の山で鱗滝と叫んでいたあいつくらいだ。

 逃げた善逸を追うと、森の木々が切り開かれて広場となっている空間に出た。山に入って以来見ていなかった星空が覗き、その真ん中には何本もの細い糸で宙吊りにされた小屋と、吊るされた人が何人もいた。彼らは鬼殺隊の隊員もいれば、一般人もいた。おかしなことに、その手足が徐々に縮み、異形の形へと変貌しているようだった。鬼殺隊の人間はまだ変化が少ないが、一般人の方は、頭髪も抜け落ち、さっき私が殺した者とほとんど同じ形になってしまっている。

 

「え、ええ? 人が蜘蛛になってんの?」

「その、ようですね」

「お前もすぐこうなるぜ」

 

 声が、空中に吊るされた小屋から聞こえた。

 中から出てきたのは、先ほど見た人面蜘蛛の十倍はある、成人男性より一回りは大きい蜘蛛型の鬼だった。全身に毛が生えた、悍ましさも十倍のどぎつい鬼だった。

 

「うわ話しかけられた、俺あんなのと会話したくないんだけど」

「何を好き好んであんな体型を選んだんでしょう」

「禰豆子ちゃん見る感じ、体格とか融通が利くみたいだしな。趣味であれを選んでんならなおさら近づきたくない」

「多分人間だったころから友人もいなかったでしょうね」

 

 あ、蜘蛛鬼が明らかに苛立った顔をした。

 

「お前、蜘蛛に噛まれただろう」

 

 善逸が首を傾げた。

 私の体が強張った。

 

「痛みがあったろう? 毒さ。毒を打ち込まれた痛みだ。なんの毒だと思う? くふふ」

 

 ニタニタと、いかにも陰湿そうないやらしい笑みを浮かべながら、蜘蛛は言う。

 

 

 

 

「蜘蛛になる毒さ」




社畜の呼吸については、参ノ型『堅白』、漆ノ型『阿り』、玖ノ型『排人』が今のところ決まっています。


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第15話 無窮

 稀血とは、読んで字の如く、珍しい稀少な血およびそれの持ち主のことを指す。

 それは鬼にとっては垂涎のご馳走であり、稀血一人を食すだけで50、あるいは100人分の血肉を一度に食すのと同じ効果を鬼に与える。

 鬼は自身の持つエネルギーを様々な用途で消費する。

 血鬼術でも、傷の再生でも、人間離れした身体能力を発揮する時にだって少なからず消費している。

 体内に保持するそのエネルギーが多ければ多いほどできることが増えるが、逆に減れば減るほど弱体化する。血鬼術は衰え、再生は遅れ、身体能力は人間に近づいていく。

 鬼は人間の血肉を求める。それは強くなるためであり、死なないためであり。鬼舞辻無惨の役に立つためである。

 だからこそ鬼は稀血を血眼になって求める。一度に大量のエネルギーを摂取することで、自分の肉体に先天的に課せられたエネルギー許容限界を超えることができるから。

 加えて、その価値はただ栄養価が高い、というだけにとどまらない。

 ある鬼は言った。

 君のいい匂い成分は、体からどれだけ抜いても抜ききることはできない、と。

 鬼に集られる体質など嫌だ、とその鬼に相談した時、幾度かの実験の末につけた結論である。

 稀血の体内を循環するいい匂い成分は、回復すると。

 その身に宿るいい匂い成分を全て取り除いたとしても、一月もすればすっかり回復してしまうだろうと。

 稀血の人間を飼えば、その血を半永久的に摂取し続けることができる。元十二鬼月であった響凱も、そのために稀血の少年をすぐに殺さず、自分の屋敷に閉じ込めようとしたのだろう。

 

 では。

 稀血を持つ人間が鬼になればどうなるか。

 

 鬼にとって膨大なエネルギー源である稀血を宿し。

 どれだけ力を消費しても、生きる限りその血の力、ある社畜の言うところのいい匂い成分が回復し続ける鬼。

 それは、一体どれほどの化け物となるのか。

 

 

 

 まあ私のことなのだが。

 

 

 

 

 体が勝手に硬直した、と思えば、その衝撃は一瞬で全身に広がった。

 呼吸を使って毒の巡りを遅く、なんてことをする暇なんてありはしなかった。

 毒、つまりは人間の細胞を改変する働きをするその極小の鬼の群れ、とでもいいのか、それらは私の体内に入ると、私の血中にあるいい匂い成分を貪った。

 本来なら、あの特大人面蜘蛛が今解説しているように徐々に変化していくはずだった私の体は、私の血の効果によって活性化した毒素によって過剰とも言える反応を示した。

 

「なんだ?」

「まれ、ちー?」

 

 周りの音なんて耳に入らない。

 書き換えられる体。書き換わる精神。必死に呼吸を整えていないとあっと言う間に呑み込まれそう。

 背中の皮膚を何かが突き破る感触。

 それが何か、などと思うことすら必要ない。蜘蛛が生まれつき歩き方に惑うことがないように、巣の編み方を熟知しているように。私の背中に生えた四本のそれが蜘蛛の足の残りであることなんて、見るまでもなく私は知っていた。

 むしろ、なんで今までの私は手足が四本しかない体に納得していたのだろう。今思うとあまりにも心細いではないか。

 視野だってそうだ。たった二つの眼球、二つの瞳孔。こんなか細い視野しか持たなかったくせに『目』が良いと嘯いていただなんて赤面の至りだ。

 新たに手にした、否、取り戻した腕から糸を伸ばし、あたりに散らばっていた日輪刀を引き寄せる。五本の刀を構え、幾度かその振り心地を確認する。

 

「くふふははは! すげえ! なんだこいつ、なんでこんなことになる⁉︎俺の毒と何がどう反応したのか知らないが、関係ない。この毒で蜘蛛になったら俺の奴隷だ!」

「奴隷⁉」

「こんな、父さんより強そうなのが手に入ったら、もう累にデカい顔なんてさせねぇ。すぐにでもあのスカした顔をぺっ」

 

 話が長い。

 あと臭い。

 我慢できなくて、思わず切ってしまった。

 呼吸も何もない、ただ膂力に任せて跳ね、すれ違いざまに巨大人面蜘蛛を八十三の肉片にしただけだ。五本も日輪刀があれば余裕である。一歩踏み込むだけで二十歩の距離を潰し、ただ地面を蹴るだけで地震のように地が揺れた。

 私が着地するまでに、蜘蛛は塵になって消滅した。複眼に映る、小さな毒蜘蛛も消滅したようだ。人面蜘蛛たちが茂みや木の影から戸惑いながらこちらを見ている。

 

「まれ、ちー……」

 

 善逸の声がした。

 振り返れば、先と全く同じ場所で、彼は立ち尽くしていた。

 一歩、善逸に近づく。それだけで彼は尻餅をついた。

 ひどい顔をしている。

 恐怖に歪みきった顔だ。

 正直きゅんとくる。

 だって善逸は、臆病なだけじゃないから。世界一臆病で、同時に誰よりも優しいから。今彼が何に怯えているのかは知らないけれど、すぐにそれを乗り越え、立ち上がってくれるから。

 だから私は待った。震えながらも立ち上がる彼を見たいから。

 ……。

 ……………………?

 なぜ動かない。

 なぜ私から一時も目を逸らそうとしない?

 なぜ、そんな怯え切った、瞳孔の開き切った目で私を見つめるんだ?

 そして、なぜそんな善逸を見て、私は興奮しているんだ?

 この心の奥から込み上げてくる熱い感情はなんだ。

 常々私は思っていた。

 善逸と一つになりたいと。

 結ばれ、その証として子を成し、幸せな家庭を築きたいと。

 その欲求がさらに強化されたような、でも違うような。

 善逸。

 ああ、善逸。善逸。

 そんな愛らしい顔を見せないで。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、表情筋を引きつらせて、開き切った瞳で、私を見つめないで。私が一歩近づくごとに、どんどん表情が崩れていく。それでも逃げようとしないのは、腰が抜けてしまっているからか。

 そんな表情を見せられたら、ああ、とても、とても美味しそう。

 

 

 ―――まれちーの血はね、とても美味しそうなんだ。

 

 

 ふと、頭に過ぎるのは、あの男の言葉。

 

 

 ―――他の鬼どもも言ってるけど、本来はとても我慢できるようなものじゃないんだよね。他の鬼を皆殺しにしてでも食べてしまいたい、そんな暴力的な魅力のある匂いなんだよ。ひゅーまれちーったら罪作りー! まじ傾国。

 

 

 イラっとした。彼が口を開くと、三回に一回はイラッとさせられるのだ。

 

 

 ―――俺の場合はね、そもそも人間の血肉を口に入れるなんてキモい、て気持ちがあるのもあるんだけど、そもそもそういった、外的要因が自分の精神に影響を与えないようにしてるんだよね。外的要因てのは、鬼になったせいで後付けされた鬼の本能的なサムシングなんだけど。

 

 

 すでに懐かしさすら感じられるその感情に、私の理性が一瞬だけとはいえ戻るのを感じた。

 彼がこうしてだらだらと妄言を並べる時は、九割がたその言葉に意味は無いのだ、が。

 

 

 ―――精神を弄る、とはまた違うんだ。変えるんじゃなくて、不変にする。いつでもどこでもどんな状況でも。徹夜7日目だろうが、後ろでパワハラ上司が俺のパソコン覗きながら舌打ちしてようが、ノルマ締め切りギリギリの殺伐とした修羅場だろうが一切をスルーして自分を業務に没頭させる精神。一つの企業で無双を誇るまでに到達した社畜の手練。心技体の完全な合一により、どんな精神的、環境的制約の影響下でも十全の労働力を発揮する。其の名は、

 

 

 

 

「社畜の呼吸 壱ノ型 無窮」

 

 呼吸を変える。この身に刻んだ水の呼吸でも、善逸が日頃から行う雷の呼吸でもなく。自分をただの社畜に過ぎないと嘯く彼が見せた、コオォオオ、と深く吸い深く吐く、音を立てるあの呼吸。

 それを繰り返すことで、自分の精神を冒していた狂気染みた食欲が収まっていく。蜘蛛へと変えられたことで精神に上書きされたその感情が、無窮の社畜によって客観視され、矮小化され、ついには単なる雑音として処理されるようになる。

 その奥から顔を出したのは、善逸への想いだった。

 善逸を守る。善逸の盾になる。震えながらも立ち上がる彼を支え、背中をそっと押してやる。

 そのために自分は生きているのだと、痛みとともに覚えたはずのそれを再び思い出す。

 

 

 ―――もちろん無窮は無休や無給とのトリプルミーニングだよ!

 

 

 どやさ、という効果音がぴったりと当てはまりそうな表情で、なんか上手いこと言ってるつもりなのだろう、そんな意味不明なことを言っていたの思い出して、私は一人軽く笑った。

 

「まれちー、大丈夫か?」

 

 笑い、理性が戻ったことが善逸にはわかったのだろう。顔を袖でぬぐいながら、彼は私に声をかけてきた。それは未だに少し震えているが、それでもなんとか平素と変わらぬ声を出そうと努力してくれているのはわかった。

 

「すみません善逸、取り乱しました」

 

 言いながら私は背に生えた蜘蛛の足を体内にしまっていく。額に生えた八つの複眼を閉じ、牙を歯茎に収めていく。このあたりは呼吸の応用だ。血管や神経を操作するよりも楽だ。それは、私がこの体に既に適応してしまっているということだけれど。

 

「申し訳ありません善逸、随分と脅かしてしまいました」

「え、いや。怖くは、ないし」

 

 善逸が土を叩きながら立ち上がった。腰が抜けていたわけではなかったようだ。

 ということは、彼が尻餅をつきながらも動かなかったのは。

 

「今の呼吸、おっさんと同じだよな」

「え、ええ。あの人もたまには役に立つことを言いますね。五分吸って五分吐く、なんて人間だった時には不可能でしたが、今ではこうしてできるようになりました。おかげでどうにか自分を取り戻せて……」

 

 努めて明るく振る舞うも続かず、声が尻すぼみになっていく。

 一拍の沈黙を経て、善逸が意を決したように口を開いた。

 

「まれちーは、鬼になったのか?」

「どうでしょう? 鬼とはまた違う気もしますが」

 

 だが、鬼に連なる何かであることは確かだ。

 つまりは、鬼殺隊の滅殺対象。いや、鬼じゃない、人も食べてない、と訴えれば可能性は無いだろうか。

 

「ところで、今の私の外見はどんな感じですか?」

「え、どんなって? いや、その、きれい」

「人間に擬態できてますか?」

「……あ、そういう。まあ、さっきの蜘蛛よりは」

「わかりやすい回答ありがとうございます」

 

 鬼殺隊を誤魔化せるほどではない、か。まあ人間離れした感覚で鬼の存在を看破できる存在が身近に三人もいるのだ。これ以上いない、なんて憶測は楽観的を通り越してただの馬鹿だろう。

 ならば、どうする。

 

「確かに人間ではなくなってしまいましたが、鬼の定義からは外れているはずです。鬼とは鬼舞辻無惨の血を受けて変貌したもの、ですから」

「あ、ああ。というかまれちー無闇に冷静だな」

「あの、人? の教えが生きてますね。つまりですね、鬼殺隊には私が鬼とは違い、人も襲わず、なにより鬼殺隊として役に立つ、ということを主張できれば良いわけです。手始めにこの山の鬼を私たちで全滅させましょう、そうすれば彼らの滅殺対象から外れる、はずです」

 

 もちろん、そんな自信なんてないけれど。

 

「……滅殺対象にされたら?」

「その時は逃げるしかないですね。おじさんと合流して逃げ回るしかないでしょう、二人で鬼を殺しながら旅をしますよ」

「二人?」

 

 善逸の表情が厳しいものになった。なんだろうか、突然。何か気に触るようなことを言っただろうか。こんな表情を私に向けるなんて初めてだ。



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第16話 約束

 私は何か、気にくわないことを言っただろうか。

 だって、少し考えればわかることだ。

 これで私たちの関係は終わると。

 

「……俺は?」

「え?」

「二人ってなんだよ。俺は、そこにいないのか?」

 

 一瞬何を言われているのかわからなかった。

 そんなことできるはずないではないか。

 私は人間ではなくなってしまった。鬼殺隊の滅殺対象だ。人間を食べていない、なんてことは言い訳にならない。おじさんだって誰も食べていないのに藤の山に閉じ込められた。

 おじさんはまだ胡散臭いだけで限りなく人間に近い外見をしていたし、その時おじさんは鬼になったばかりでクソザコナメクジ状態だったらしい。だから脅威と看做されなくて、その場で殺されなくてすんだのだ。

 でも私は違う。呼吸で体をある程度操作できると言っても、鬼らしさ、蜘蛛らしさを完全に抜くことができない。どこか悍ましい外見のままで、しかも私の稀血が反応したためかそこらの鬼よりずっと強い。私を前にすれば、善逸以外の全ての鬼殺隊員が刀を抜くだろう。そして私はそのほとんどを返り討ちにしてしまう。今は善逸への想いがあるから化け物としての本能を社畜の呼吸で抑えてられるが、まだ未熟な私では、死の危険が目の前に迫れば応戦せずにはいられないのだ。

 しかも、私の烏である鶏助が先ほど山から飛び立ったのを見た。恐らく私が人間でなくなったことを上層部に知らせに行ったのだろう。

 さらに、周りにいた小さな人面蜘蛛たちが去っていった。きっとこの山にいる鬼たちに私の存在を伝えるのだろう。

 先ほどあの巨大人面蜘蛛は言っていた。父さん、累、と。この山にはあの蜘蛛より上位の鬼が複数存在するのだ。そいつらに私の存在が知られたのなら、きっと鬼たちが私を殺しにくる。

 今後さらなる鬼殺隊員が投入されることだろう。もしかしたら柱が派遣されるかもしれない。

 

「無理でしょう。善逸は鬼殺隊ですよ? 鬼と行動なんて不可能でしょう。だから私は逃げます」

 

 私はここで死ぬ。

 鬼と、鬼殺隊の両方が私を狙いに来るのだ。逃げられないだろうし、逃げられたとしても私の顔は割れている。おじさんとは違い、私に安息の地はない。

 

「おっさんは付いてくるって言ってたじゃないか」

「あれはあの、人? が勝手に付いてくると言ってただけです。多分それを実現する方法があるんでしょう、穴を掘ってついてくるとか。私にはできません」

「で、でもさ、でもさ、炭治郎だって禰豆子ちゃんを連れてるじゃんか」

「うまく鬼殺隊から隠せているんでしょう、日頃から箱の中に大切にしまっているようですし。でも私は無理ですよ。だから、まあここから逃げて、のんきに旅をします。善逸とはここでお別れですね。鬼殺隊には私は鬼に食われて死体も残らなかったと言っておいてください」

 

 善逸が泣きそうな顔をした。普段であれば、泣きそうになればそのまま涙を滝のように流して泣きわめくことに躊躇しないはずなのに。一体何を耐えているのか。

 

「化け物と一緒に旅なんて御法度でしょう、首を切られても文句は言えないですよ?」

「わかってる、わかってるんだよそんなこと。でも、事情を話せば」

「鬼殺隊に受け入れられる、と? なるほど、それもいいかもしれませんね。まあいきなり私が現れたら混乱するでしょうし、まずは善逸が鬼殺隊の上の人に話をしておいてくれませんか」

 

 受け入れられるだなんて、そんなこと、ありうるはずがない。私を含め、鬼殺隊には鬼に対し並ならぬ憎悪を抱く人間が大半だ。例外として、私に刀をくれた彼女は『自分より強い男性を伴侶にするため』と、なんともな理由だったがそれはともかく。

 鬼殺隊として認められるだの、無理なら逃げるだの。口ではそんな気楽なことを言いながら、その実私自身が自分の言葉を全く信じていないのだ。

 この山に巣食う鬼と、山に突入してくる鬼殺隊。この両方から逃げ、山から脱出することは、私には恐らく無理だ。

 覚悟はしていた。善逸との明確な関係を持てない自分では、いつか別れる時が来ると。

 その時が、思っていたよりも早く訪れただけ。

 そんな割り切りを、実はすでにしていた。私はこんなに思い切りの良い性格ではなかったはずだ。もっともっと、未練たらしく、執着がましい女だったと思っていたけれど、これも社畜の呼吸の効果なのかもしれない。

 

「なんで、嘘つくんだよ!」

「ぜ、善逸?」

 

 突然の剣幕だった。堪え兼ねていたものが溢れ出た、決壊とでも言うべき感情の爆発だった。

 

「嘘吐くなよ、なんでまれちーが嘘吐くんだよ! そんな、悲しい心音で、諦めた声で、どうして平気そうな顔してんだよ!」

 

 バレていた。

 善逸の聴覚については分かっていたつもりだったが、まさか、そこまで感情について把握できるものだとは知らなかった。

 

「ずっと不思議だった」

 

 そう、善逸は言う。

 

「人によって音は違うんだ。喜怒哀楽で音が変わるのは一緒なんだけど、どの音がどの感情の音なのかは初めてあったときにはわかんないんだ。一緒に過ごす時間が長いほど、精度が上がるんだけど」

「では、私の感情は全て筒抜けだったと言うことですか。まあ、別に妻ですから特に気にするようなことでもないですけど」

「でも、まれちーの『嘘』の音だけは分からなかった」

「なぜですか?」

 

 これまで一緒に戦って来た時間ではまだ足りないということだろうか。

 

「だって、まれちーは俺に嘘をついたことがなかったから」

 

 ああ、確かに。言われてみれば私は今まで一度も嘘をついたことがない。

 つく必要がなかったのもあるし、夫である善逸にはできる限り誠実でありたいと思っていたから。そのせいで随分とキツい言葉を言ってしまったこともあったけれど。

 

「まれちーが裏表のない人間だってことはわかってたんだ。でもまれちーの言葉や態度が全部本当か、逆に全部嘘なのか、俺には判断できなかった」

 

 そういうものなのか。言われてみれば、物事を判断するには比較対象が必要だ。

 

「俺のことを持ち上げて、強いだの優しいだの言って、その間も全く音に変化がなくて、もしかしてこの女は生粋の嘘つきで、生まれてからずっと嘘しかついていないんじゃないかって」

 

 でも、と善逸は私に詰め寄った。私の肩を掴み、真正面から私の目を見据えて。落ち着いた瞳孔と、微動だにしない眼球で。

 

「それが、やっとわかった。まれちーが嘘をつくときの音をやっと聞くことができた。すごい、悲しい音だ。聞いてるだけで泣きそうになる」

 

 善逸は本当に涙を溢れさせながら、言った。

 

「だから、もう嘘をつかないでくれよ。悲しい嘘なんてやめてくれよ」

 

 頼むから、と。そう懇願された。

 そんなことを言われてしまえば、妻として応えないわけにはいかないだろう。

 

「……正直に言えば、私はここで死ぬ可能性が高いです。鬼と鬼殺隊に狙われて、上層部に顔も割れてて、彼らが化け物の隊員を認める可能性なんて万に一つも無くて」

「だから、俺から離れるために?」

 

 こくり、と頷く。

 

「だって、もう無理じゃないですか。こんな私の近くにいたら絶対巻き込まれますし、どころか鬼殺隊からすれば化け物と交流があるなんて御法度もいいところじゃないですか」

「そんな話をしてるんじゃない」

 

 善逸はいつになく情けない顔で、こう言った。

 

「俺を守るって、言ったじゃないか」

「は?」

 

 それは、いつもの弱音とは違った。普段なら泣き喚き、必死にすがるようにそして無駄に力強く吐き出されるそれは、今回は驚くほど静かで、弱々しかった。こんな弱音らしい弱音を吐けたのかこの男は。

 

「俺は弱いんだぜ、まれちーが守ってくれなかったらすぐ死んじゃうぜ、いいのかよ」

「自分を人質に取ってるつもりですか?」

 

 斬新すぎるわ。

 

「何いつまでも情けないことを言っているのですか」

「守ってくれよ、一緒にいてくれよ」

「だから、もうそれはできないんですって」

 

 善逸だっていつまでも誰かに守られているわけにはいかないだろう。すぐには無理でも、幸い善逸は炭治郎や伊之助と出会った。彼らとともにいればきっと彼は死なずに済むだろう。

 

「まれちーに危険が近づいてるってなら!」

 

 そんな私の思考を吹き飛ばすような大声で、

 

「俺がまれちーを守るから!」

 

 善逸は叫んだ。

 

「鬼からも、鬼殺隊からも守るから。だから、俺を守ってくれよ」

 

 ……なんだ、それ。

 この男は自分がどれだけとんでもないことを言っているのかわかっているのか。

 この山の被害を考えれば、ここにはもしかしたら十二鬼月がいるのかもしれないし、その討伐に柱が出向いてくる可能性がある。それらを相手に私を守るなんて、その危険性を理解していないのか。

 しかし善逸は顔を真っ赤にして、肩に触れる両手の指は震えが止まらなくて、それでも目を私から逸らさないで。

 なんなんですかあなたは。

 どうしていつも、あなたはそんなにも愛らしいのか。

 すでに夫婦の関係であるのに、これ以上私を惚れさせてどうするのか。

 

「ほんと、最低ですね善逸」

「な、なにがだよ! 俺はただ、まれちーに俺とした約束を果たすように釘を刺してるだけで」

「善逸」

 

 彼の目を覗き見る。瞳孔に映る私は、瞳が赤く裂け、口の端からは牙がわずかに覗き、肌には地割れのような黒い亀裂状の痣が幾本も走っている。額にはうっすらとした裂け目がいくつもあり、その下には蜘蛛の複眼が隠れているのだ。

 およそ人間のものとは思えない。顔形は人間の頃とさして違いはなく面影もしっかりと残っているがそれだけだ。どう言い繕っても人間とはかけ離れていて、見るものに恐怖を与えるものであった。

 善逸の頬を両手で優しく挟む。

 私の指が触れても、善逸は身じろぎもしない。なに、どういう意図? というわずかな戸惑いと照れ臭さがあるだけだ。

 善逸。

 善逸。善逸。善逸。

 愛してる。

 あなたの瞳に映る私の姿が、恐ろしければ恐ろしいほど、あなたへの愛おしさが募る。

 

「大丈夫ですよ、善逸。私があなたを守ります。だから私を守ってください」

 

 約束ですよ、と言いながら。

 私は軽く、額と額をコツンと合わせた。



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第17話 懇願

難産だった……! 3回は書き直した……!
アンパンマンさんネタ提供ありがとうございます。


「何をしているのですか?」

 

 善逸と泣きながらデコツンを楽しんでいると、女性が一人、まるで空を舞って来たかのようにふわりと姿を表した。

 何をしているのかと問われれば、愛を再確認しているわけだが、正直邪魔すんな、である。

 

「だ、誰だ⁉」

 

 本当はもっと続けていたかったのに、外野の声が聞こえて善逸は私からからだを離してしまった。私を見つめていた瞳が不躾な声の主へと向かう。

 なぜだろう。

 それが、たったそれだけのことが、無性に気に障った。

 ただまあ、離れると同時に善逸が私の前に出てくれたのは大いに喜ばしいことではある。おかげで差し引きゼロだ。

 

「坊や」

「は、はい!」

 

 突然現れたその人物は、小柄な女性だった。私や善逸も着る隊服の上に柔らかな色あいの羽織を重ねている。舞い降りる姿はその軽やかさも相まって蝶のように可憐だった。

 しかしその可憐さと羽織の動きで隠されているが、私の目は誤魔化されない。

 この女は、強い。

 身のこなしだけなら、私がかつて剣の師と勝手に仰いで付きまとっていた水の剣士様を上回る。何者だろうか。

 

「あなたが庇うお嬢さんは、一体なんですか?」

「なんですか、て」

「鬼、とも違う。しかし明らかに人間ではありません。気配の強さも、禍々しさも、下弦にあるいは匹敵するかもしれません。もしかしたら鬼の進化種かも。あなたが庇っているのはそんな化け物なんですよ?」

「ダメです、善逸」

 

 私を化け物、と彼女が呼んだ時、善逸の手が一瞬震えた。腰に手を伸ばしそうになったのだろうが、それは辞めさせた。隊員同士の戦闘は御法度であるし、なにより今の善逸ではおそらく敵わないからだ。

 私たちのやり取りの意味を、おそらく気づいていただろう女はさらに言葉を紡ぐ。

 

「もしお嬢さんが鬼だった場合、坊やは隊律違反となります。鬼を庇うなど、裁判を待つまでも無く斬首が妥当の所業です」

「だめだまれちー!」

 

 善逸が女隊員を睨んだまま私を制止した。

 手元を見れば、刀の柄に伸びようとしていた右手が善逸に押さえられていた。しまった、善逸を斬首に、と聞いて一瞬だが我を忘れてしまった。

 

「あらあら、随分と血の気が多いんですね。とても鬼らしいですよ」

 

 女は朗らかな声で言いながら、いつの間にか刀を抜いていた。

 それは奇妙な形をしていた。

 一般的な刀よりかなり細身だ。というより、刃や刃紋がない。先端にわずかに刃先が残されているだけで、あれは斬撃を度外視した、突き専用の刀なのだろう。

 そんな刀で何をするつもりか。どうやって鬼を殺すのか。突きで私を殺せるとでも思っているのか。

 

「落ち着けまれちー。大丈夫だから」

 

 善逸の声で落ち着きが戻る。善逸の聴覚で私の感情を把握されているようだ。やはりというか、この体になってから思考が攻撃的になっている。自分では気づけないから気をつけようがないのが歯がゆい。落ち着け、深く呼吸をしろ、さあ社畜の呼吸壱の型。

 善逸が一歩前にでて問いかける。

 

「あなたは何者ですか」

「あら失礼、申し遅れました。私の名前は胡蝶しのぶ。鬼殺隊の柱が一人、蟲柱をお館様より拝命しています。あなたは?」

「柱……!」

 

 恐れていた事態だった。柱と対面することになるかも、と。でもそれがここまでいきなりだとは思ってもみなかった。せめてもう少し心の準備をする時間が欲しかった。

 

「俺は、我妻善逸、癸です」

「そうですか。では我妻隊員、そこを退きなさい。私には悪鬼滅殺の使命があります」

「まれちーは鬼なんかじゃない! 外見が人間から外れてしまったのは、蜘蛛みたいな鬼の毒で体が変質したからだ! 周りにいるだろ、蜘蛛みたいになってる人が!」

 

 胡蝶しのぶは視線だけをくるりと巡らせ、周囲の状況を確認した。顎に手をやり、

 

「……ふむ、眷属化の異能を持つ鬼がいたようですね。彼らの治療も急がなくてはなりませんが……その鬼はどちらに? 逃げましたか」

「まれちーが切った! まれちーは鬼殺隊としての職務を遂行している!」

 

 しばし思考した後、彼女は右手の刀を鞘に納めようとしながら、

 

「たしかに。それならまずは、あなたたちを殺すのではなく」

 

 引いてくれるのか、と。私は一瞬安堵してしまった。私のせいで善逸と柱が対立しなくて済む、と。

 

「拘束しないといけませんね」

 

 一瞬だった。

 身体を操作して額の複眼を閉じていたのがまずかった。安堵と、刀を納める所作による油断とで、目の前の女の動きが全く目で追えなかった。目で追えぬ速度で、一瞬で彼女は私の背後に回っていた。馬鹿が。この女は柱だぞ、それを忘れて、自分が人外となったことの危険性から目をそらして。

 そんな体たらくを晒した私とは違い、善逸は柱の動きに対応した。

 私の隊服を掴み、引き寄せ、高速で回転する。回る視界の端から得られる情報から、善逸が胡蝶しのぶの突きから私の身を守ってくれたことを理解した。

 結果、私はかすり傷一つ負うだけですんだ。

 顔を上げれば、私の肩を抱える善逸が、鋭い目つきで胡蝶しのぶを睨みつけている。

 

「あら」

 

 突きを放ったままこちらに背を向けていた鬼殺隊の柱は、心なしか目を見開いた、心底意外だとでも言いたげな表情で振り向いた。

 

「たかが癸、なのに。私の斬撃から他者を庇う、だなんて。随分と見込みがありますね」

 

 それだけに惜しい、と。そう呟いて胡蝶は重心を落とした。

 それを見た善逸の判断は早かった。

 

「逃げるぞ!」

 

 雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃 八連

 

 私の肩から腰へと腕の位置を変え、善逸は一気に加速した。木々の間を駆けていく。景色が後方へと飛んでいく。私の目でもギリギリの速さ。

 八連を終え、善逸のからだが技後硬直に陥る。善逸に続いて着地した私が間髪入れずに彼の体を支えて地を蹴る。人面蜘蛛を切ったときと同じ踏み込み。善逸ほどの加速は出なくとも、止まらなければ構わない。その間に善逸の技後硬直が解け、交代し、さらに霹靂一閃で加速する。

 これを繰り返していけば、如何に柱と言えども追いつくことは叶わないはずだ。

 善逸の加速が終わり、続いて私の番が来て……そこで私の体が崩折れた。

 

「あ、」

「ぐぁ!」

 

 二人で腐葉土で覆われた地面を転がる。咄嗟に善逸の頭を抱えるも、加速の勢いのままに木に激突した衝撃は殺しきれなかった。

 

「善、逸、善逸!」

 

 脚に力が入らない。転倒の原因はそれだ。でも今はそれどころではない、痺れる体を起こし、すぐに善逸に呼びかける。怪我はないか、そう叫んでも反応がない。まさか、死ん―――

 

「気を失っただけですよ、呼吸はしっかりしているようですから」

 

 後ろから、ゆったりとした静かな足音とともに、柱の女の声がかけられた。

 見覚えのある異形の刃が私の首に当てられている。

 気づかなかった。全く気配がしなかった。

 これが、柱。

 

「それにしてもおかしいですね」

「……なにがでしょう」

「あなたに入れた薬は、鬼を即座に昏倒させるものです」

「薬?」

「私、これでも薬学に通じてまして。鬼を殺す薬を作った、割とすごい人なのですが、それがあなたには効かなかった。はたしてそれはどういう意味か」

「……私が、鬼ではない、ということではないですか」

「そう、なんでしょうかねぇ」

 

 困りました。と柱の女は言う。

 

「まあ私も、鬼と人間が共存できれば、なんて思っていたりはします。しかしそれも人に害を及ぼさない存在に限る。お嬢さん、一つお聞きします。正直にお答えくださいな」

 

 キチリ、と刀が鳴る。私を殺せる『薬』の入った刀の先が、首の血管に触れる。ほんの少しでも身じろぎすれば、それが血管壁を突き破り、私の血が冒される。

 

「では聞きます。あなたは、人を殺しましたか?」

 

 殺すはずがない。私は鬼殺隊だ。鬼を殺せど人を殺す理由なんて、

 

 

 

 ―――眷属化の異能を持つ鬼がいたようですね。彼らの治療も急がなくてはなりませんが

 

 

 

 治療?

 治療と、治す、と、彼女は言った。

 治るのか? 鬼になった人間とは違って、眷属化は、治せるものなのか?

 心臓が跳ねる。背筋に汗が滴る。

 知らない、そんなこと知らない。知らなかった。あれが人間だったなんて、治るものだなんて、あの時点ではわかりようがないだろう。だってあれは見るからに人外で、しかもこちらを狙って攻撃してきた。それを私は反撃しただけだ、火の粉を払いのけただけで、だから私は、人間を、人間を、人間が、人間に、

 

「……ぁ、」

「残念です」

 

 背後の気配が一変した。私が答えあぐねた一瞬を柱は問の答えとみなして、殺意と憎悪を身に宿し、私の首の血管にその刃をつき入れようとして。

 金属音が響いた。

 首を捉えていた胡蝶しのぶの刀身が弾かれている。後ろを見れば、彼女は驚愕に染まった顔で、刀を弾かれた勢いで右手を広げ体幹を晒している。

 

「善逸……」

 

 善逸だった。

 善逸が、意識のないまま立ち上がっていた。

 殺意に反応して、意識のないままに柱の彼女すら反応できない速度で刀を振り払っていた。

 善逸が構える。

 すでに納められた刀の柄に、無意識のまま手をかけ、重心を落としたまま前のめり。

 霹靂一閃の構えだ。

 雷の呼吸の音が林の中で響く。圧力が上がる。睡眠状態で、恐怖や緊張など、世のしがらみの一切を捨てた無我の境地にて振るわれる全力の居合。

 そんな善逸の圧力を受け、柱は笑った。

 

「凄まじい集中力。その抜刀速度、身のこなし、実に将来が楽しみです。然るべき鍛錬を積めばいつか柱に届き得たかもしれない。それだけに残念です」

 

 いつか。

 そう、善逸は、いつか必ず柱になる。それだけの才能を持ち、血反吐を吐くような努力をしている。多くの鬼も殺してきた。

 きっと多くの人を守れるようになる。師である育手の誇りとなるだろう。善逸の夢は叶うはずだ。

 いつか。

 ただそれは、今ではない。

 今の時点では、不意打ちであれば辛うじて柱を驚かすことができる程度だ。正面から面と向かって立ち会えば、その結果は火を見るよりも明らかだ。

 ダメだ。

 

「ダメです善逸!」

 

 力の入らない体に喝を入れて、善逸にしがみつく。前のめりになっていた善逸と一緒に地面に倒れこむ。そのまま全体重を善逸にかけて身動きを封じる。

 最後の力だった。

 もう一歩も動けない。

 それでも、口は辛うじて動かせる。

 視線を上げることすらできない。善逸の細くも引き締まった背中に顔を押し付ける形のまま私は口を開いた。

 

「投降します。投降しますから、だから、善逸は。善逸だけは殺さないでください」

 

 胡蝶は、黙って私を見下ろしている。

 

「今善逸は意識が無いんです。無意識状態で彼は戦えるんです。私の危機に反応して反射的に動いただけなんです」

 

 胡蝶しのぶは、動かない。私の言葉を聞いているかもわからない。それが恐ろしい。恐怖で涙が溢れ、善逸の背中を濡らした。声が水気を孕み、震えも混じって聞き取りにくいこと甚だしい。それでも私にはただ懇願することしかできない。

 

「今逃げたのは、私が彼を無理やり連れ去ろうとしたんです。善逸の意思ではなくて、だから、鬼を庇ったわけじゃないんです。隊律を破ったわけではないんです」

 

 目が霞む。胡蝶しのぶに打ち込まれた薬がようやく意識に効いてきたのだろう。舌も痺れ、全身の感覚が靄がかったように希薄になる。

 

「投降します。抵抗しません、だから、どうか、どうか善逸だけは」

 

 あとはただ、どうか、どうかと。赤子のような声で繰り返していた。

 私の意識が残っていたのはここまでだ。



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第18話 裁判

 二人で手をとりあえば、どこまでもいけると思っていた。

 

 

 柱にもなれる。鬼殺隊最強にも手が届く。鬼舞辻無惨だって倒せる。

 善逸が一緒にいてくれるなら、どんな高みにでも、と。

 そう信じていた。

 

 

 

 

 

 覚醒してはじめに感じたのは、心細さだった。

 今まで、藤の山での最終選別を終えてから私は毎晩、善逸と共に寝ていた。

 もちろん無断でだ。

 善逸が寝付いたことを確認してから善逸の隣へと潜り込み、その体温だとか、匂いだとかを感じながら意識を落とす。朝も彼のあれこれを五感で享受しながら目覚め、善逸に気づかれないうちに自分の寝床へ戻る、というのが私の日課だった。

 それが、ない。

 ここにあるのは苔の匂いと、石の冷たさ。目でどこを探しても彼の輝くような髪が見当たらない。

 善逸が近くにいない。

 よくよく周りを見渡せば、私は牢に入れられていたようだ。

 

「善逸……」

 

 あの後、善逸の背中で意識を失った私は、そのままこの牢に連れてこられた、ということだろう。

 たしかにあの柱の女は、拘束するとかしないとか言っていたけど。

 なぜ殺さない? 

 善逸はどうなった? 

 善逸を探しに行こうにも、部屋を囲む六面のうち五面は石造り、正面のみが太い木材を組み合わせて作られた格子で、その表面には藤の香料が塗られているようだ。まるで近づける気がしない。というか脚がまだ痺れている。胡蝶しのぶが言っていた『薬』の効果だろう。

 やることもなく、石畳の床に座り込んで、指から出した蜘蛛の糸を使ったあやとりで善逸の顔を描いていると、金属の擦れる音が響いた。おそらく扉の蝶番、牢の間への入り口のそれだろう。どうでもいい、今私は善逸の顔を描くのに忙しい。

 

「まれちー」

 

 顔が跳ね上がった。座ったまま格子の外へと目を向ければ、そこには善逸がいた。

 黒い覆面を付けた男性に肩を借りて立っていた。右足は添え木を包帯で固定されている。

 

「善逸、怪我を⁉ ああ、転倒した時ですか、善逸! 私が、あの時転んでしまったから……えい」

「まれちーなんで自分で自分の脚折るの⁉ うわ足首えらい方向に……」

「だって、善逸が傷ついてしまったから……ああ、もう治ってしまいました」

「大丈夫だから! こんなの痛くもなんともないから!」

 

 嘘だ。肌に若干の発汗が見られる。息も浅い、深く呼吸をしようとした時、眉を潜めて呼吸が止まった。多分脇腹を痛めて、あるいは肋骨を折ってるかもしれない。

 

「よいしょ、あいたっ」

「だから手慣れた感じで自傷行為に走るのなんなの⁉ 何度もやってるの⁉ なんで肋骨⁉」

「いえまあ、戒めです。ところで、どうして善逸はここに来れたのですか?」

「さらっと流された……いや、裁判の前に面会が許されたんだ、胡蝶さんに」

「裁判ですか」

 

 善逸が言うには、問題を起こした鬼殺隊員の真偽及び量刑を決める場が設けられるらしい。

 裁判について、目覚めた私に伝える役割を、善逸は自分から買ってでてくれたのだとか。

 

「私が裁判に出るのですか?」

「いや。まれちーは出ない。鬼とか眷属になった隊員に発言権はないんだって」

「何故?」

「その、俺の言葉じゃないぞ? しのぶさんがな、鬼は保身のために嘘ばかり言う。その鬼に隷属する眷属の言葉なんて聞く価値がないって」

 

 なるほど、と思ってしまった。私だって鬼と会話することに価値なんてないと思っている。

 

「だから、裁判に出るのは俺だけだって。そこで俺がまれちーを庇ったことに対する釈明をしろって言われてる。だからまれちーから事情を聞きたくて」

「我妻隊員」

 

 善逸を支えていた隠の方が黒子の下で口を開いた。

 

「先にも言ったことだが、ここでの会話は全て記録し、胡蝶様に報告される。場合によっては裁判の場で報告もされる故、言葉には気をつけろ」

 

 だからここで口裏を合わせたり、物を受け渡したりはできないぞ、と隠から警告を受けた。

 とはいえ、そんな警戒をするくらいなら最初から善逸をここに入れなければいいのだ。

 それなのに私はこうして、格子越しとはいえ善逸と会話ができている。

 これは温情なのか。

 あるいは、最期の別れを楽しめ、とか。

 そうであるなら、私は彼とどんな言葉を交わすべきだろう。

 

「まれちー」

「はい、善逸」

「絶対助けるから。そしたら、また二人で鬼退治の旅だ」

「善逸」

 

 善逸に言われた。嘘を吐くのはやめてくれと。悲しくなると。

 だから私は、善逸には絶対に嘘を吐かない。

 

「なんだ?」

「私は人を殺しました」

「……え?」

 

 ああ、善逸の困惑が伝わる。戸惑いと、疑問がその目に宿っている。いきなりこんなこと言われても困るだけだとわかっていたのに。

 

「誰を? いつ」

「那田蜘蛛山で蜘蛛と化していた人です」

 

 善逸が首を傾げた。

 

「あ、あの小さいのか? あれは鬼じゃないのか? こっちを攻撃してきたじゃん」

「彼らや私は鬼になったのではありません、鬼の毒を入れられ眷属になったのです。これは、鬼と違って治療できるのだそうで、しかも、彼らはその原因となった鬼の隷属下にあったようで、攻撃も鬼に逆らえなかったからです」

「隷属って、そんなことわかるのか?」

「わかるんです。今、人間でなくなったこの体だと、眷属化について、なんとなく」

 

 あの時、背中から生えた蜘蛛の足や糸の紡ぎ方を自然と理解できたように。眷属化の異能についても頭に詳細が刻まれている、どころか、多分これを自分の能力として使うこともできるだろう。歯茎に隠した牙を突き立てて体液を送り込めば人間を私の眷属にすることができるはずだ。

 

「で、でも、それはしょうがないだろ。俺だってビビって逃げたから殺さなかっただけで、というかあの時点じゃ治るとか隷属とか、そんなの知りようがなかった! 鬼と区別がつかない状況だったし、仕方なかっただろ!」

「仕方なかった、と。それを、遺族の前でも言えますか」

「え」

「それを、私が死んだ時にも言えますか」

 

 善逸は沈黙した。

 

「今日、私が処刑されても、鬼に似ているから仕方なかったと言えますか」

 

 私が殺した人物にも、家族がいただろう。愛するものがいて、愛されてもいただろう。

 

「ごめんなさい、意地悪な言い方をしました」

 

 本当は、善逸には伝えたくなかった。自分が人を殺したと知られたら、嫌われてしまう、離れていってしまうと、そう思って。保身のために黙っていようと。

 それでも、嘘を吐いて、偽ったままでそばにいることはできなかった。

 化け物と化した私を、正面から受け止めてくれたあなただから。

 善逸が食いしばるような表情を見せる。それを見てさらに私の中に罪悪感が募る。

 苦しませてごめんなさい。

 悩ませてごめんなさい。

 本当は私も、嘘を吐いてでもあなたのそばにいたい。このようなことは黙っていた方が、善逸の苦悩は少なかっただろう。

 あなたを苦しめるくらいなら、私のことは忘れてほしい。こんな罪深い化け物なんて知らないと裁判で証言して逃げてくれればいい。そんなことされれればきっと私は胸が裂けるほど辛いけど、でもきっと、あなたを苦しめるよりはずっと楽だ。

 そう心から思う。

 それなのに。

 

「待ってる」

 

 それなのに、そう、つぶやくような声で善逸は言った。

 

「え?」

「ずっと待ってるから。どのくらいの罪になるかはわかんないけど、斬首だけは免れるように俺も裁判で証言するから」

「でも、もし死罪を免れても、どんな罰になるかわかりません。もしかしたらずっと幽閉されることになる可能性だって」

「それでも、待つから」

「人でなく、鬼と化し、人を殺した私を?」

「どうしようもない状況で殺したことを悔いる、優しいまれちーを」

 

 うん、と善逸は強い光を瞳に宿して、強く強く頷いた。

 

 

 

 

 善逸。

 ありがとう。私を庇ってくれて。意識がないまま立ち上がってくれて。

 嬉しかった。強さと優しさを併せ持つあなたに、私を守ると言われて。

 幸せでした。僅かな時間でも、あなたと共に過ごせて。

 御免なさい。あなたとの約束、守ることはできません。

 

 

 

 

 ―――――――――――――――――

 

 

 

 

 我妻隊員の審議が始まる。

 その罪状は、鬼となった女性隊員を庇ったこと。

 それを聞いた柱たちのほとんどは「またか」という、辟易とした反応を見せた。不死川さんなどは額に血管が浮き出るほどの怒りを滾らせた。

 

「最近の隊士はどうなってんだァ? 育手は何を教えてんだオィ」

「俺は最近どうにも鬼殺隊全体の練度が下がっているように感じられてしかたがないんだが、それはもしかして育手に問題があるんじゃなかろうな? 育手には元柱の方も随分といらっしゃるが、彼らが剣士としての技量に優れていたところで人材の育て方も巧みかと言えばまた違う話なわけだ」

 

 相変わらず伊黒さんはネチっこい喋り方をする。

 

「隊士としての力量云々より、鬼殺隊としての心構え、覚悟が足りんな! そんなことでは鬼を前にして躊躇することになる。人間であった頃の理性や人格が残ってるふりをする鬼など珍しくもないと言うのに!」

「本題に入ります。次の裁判の対象は癸、我妻隊士。こちらへ」

 

 我妻隊士は、隠に肩を借りて、足を引きずってお館様の足元に広げられた御座に着いた。

 

「鎹烏が得た情報によれば、同じく癸、まれちー隊士が鬼の眷属となったと」

「待て、胡蝶。誰だって?」

「伊黒さん、話の途中で割り込まないでください。まれちー隊士ですよ、それがどうかしましたか」

「どうしたってことがあるか。なんだその名前はふざけてるのか」

 

 私だってこんな名前を連呼するのは御免被りたい。しかし仕事だからしかたないのだ。

 

「ふざけているのは彼女の名付け親でしょう、私は至って真面目です。……まれちー隊士と共に任務に当たっていたのが彼、我妻隊士です。我妻隊士。まれちー隊士の眷属化の経緯を説明しなさい」

 

 はい、と我妻隊士は口を開いた。

 説明された内容は正直、鎹烏から得られた情報以上のものはない。小さな蜘蛛に噛まれ、眷属化の毒を注入された。その時から意識の高揚が見られ、同じく眷属となっていた人間を一人斬殺した。

 

「人を殺しているのでは論外ではないか、何を審議することがある」

「で、でも。眷属化していた人は攻撃してきたんだ、です。突然攻撃されて、しかも見た目だって、それが鬼によるものか人によるものかなんて判断つきません」

「なるほど、この場はこの餓鬼が隊律違反を犯しているか否かを争う場か」

「議論なんていらねェだろォ。滅殺対象を庇ってる時点でまれちーだかなんだかと一緒に今度こそ斬首だァ」

「いえ、まだ我妻隊士は自分の見たことをそのまま述べてるだけです。眷属化した人と鬼の区別がつかない、というのは彼の中では事実なのでしょう。我々なら気配ですぐわかりますが」

「隊士の劣化は深刻だなァ」

 

 ここで、我慢が限界にきたのか、我妻隊士が吠えた。

 

「他の眷属となった人だって人を攻撃していた! そっちはし、胡蝶様の屋敷で治療を受けているって聞いてます、なのに何故まれちーはダメなんですか!」

「鬼殺隊だからだよクソバカがァ」

 

 不死川さんが憎々しげに吐き捨てた。御座に座る我妻隊士と視線を合わせるようにしゃがみこむ。我妻隊士が体を震わせ、わかりやすく怯えた。

 

「鬼を切り、民を守る。鬼殺隊の根っこはそこだろうがァ。不覚を取って眷属に堕ちた挙句人を斬り殺しました、なんて情けなさと申し訳なさで自分から首切って詫びるのが普通の感覚だろうがよォ」

 

 違うかァ? と、不死川さんはペシペシと我妻隊士の頭を叩きながら追い詰める。

 

「勘違いがありそうだから改めて説明しますね、我妻隊士」

 

 不死川さんとは反対側に座り込む。彼は肩を小刻みに震わせてはいるが、近くで見ればその瞳は死んでいなかった。

 

「ここは、あなたを裁くための場です。まれちー隊士の処遇について相談する場ではありません。あなたが、私の、眷属化したまれちー隊士の滅殺を妨害したか否か、が争点になります」

 

 我妻隊士の顔が愕然としたものになる。

 

「私の目には、あの子は君を無理やり連れ回し、意識を奪い、保身のために人質にしたように映りました。まさに鬼らしい悪辣さと言えます」

 

 何かを叫びそうになった我妻隊士の口を人差し指で塞ぐ。そして私はそっと彼の耳元に口を寄せた。

 

「そういうことにしなさい。それがあの子の意志ですから」

 

 この、耳が良いという少年にだけ聞こえる声量で告げれば、少年は見開いた目でこちらを見た。

 その瞳に宿っていた覚悟が揺れていた。

 

「我妻隊士。正直に、心して答えなさい。あなたは、まれちー隊士に拘束され、人質にされた。そうですね?」

 

 正直、私はこの二人を生かしておいてもよいのではないかと考えている。

 ここで我妻隊士が頷けば、彼は無罪放免となる。無論、鬼に攫われた不甲斐なさを責められ減俸および癸のまましばらく昇給できないことになるだろうが、斬首よりははるかにましだ。

 そうして、ここでまれちー隊士の斬首を確定させて、地下牢にいる彼女の眷属化を治療する。その後顔と名前を変えさせて、鬼殺隊として働けばいい。

 なぜそんなことをしようと思ったのか。

 同情、ではないはずだ。

 ではなんだ、と問われても言葉が見つからないけれど。

 

 私の言葉に逡巡していた我妻隊士が、意を決したように震える唇を開こうとした、その時だ。

 

「胡蝶様、緊急連絡です!」

「何事です」

 

 隠の方が我妻隊士の言葉を遮るように声をあげた。一体なんだ。

 

「胡蝶様の屋敷にある地下牢から、件の隊士が消えました」

 

 ざわ、と場の空気が乱れる。我妻隊士の言葉を待って無言となっていた面々がその報告に身じろぎしたのだ。

 

「地下牢の床に穴が開けられており、そこから逃亡したものと思われます」

「なんで……」

 

 報告を聞き、呆然と呟かれた我妻隊士の声は、私以外誰にも聞かれなかった。




つうか元号変わってますね。鬼滅の刃ss書いといて元号変わる瞬間に更新しないこの体たらく。


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第19話 拉致

「我妻隊士」

 

 緊急事態だ。

 私の屋敷は、鬼に効果のある毒や鬼の毒に対する治療薬の研究所でもある。あそこの資料は隠してはいるし、カナヲもいるから滅多なことはないだろうが。

 それ以上にまずいのは我妻隊士だ。

 皆が報告に来た隠に注目している間に少年に語りかける。

 

「今、お館様と柱の前で誓いなさい。自分を人質にし脱走したまれちー隊士を必ず捕獲し、自決させると」

 

 鬼殺隊の隊士の質が落ちていることは私も感じていた。そんな中でこの少年の才能は実に惜しい。呼吸の常中も既にこなせているようだし、その才の片鱗が伺える。耳がよく、かつ雷の呼吸の使い手であるから、宇髄さんあたりに継子として推薦しようか。

 そんなあれそれも、結局はこの局面を乗り切れるかにかかっている。

 我妻隊士は目を閉じ、俯いたまま答えた。

 

「人質になんかされてない、です」

「誓うだけです。とにかく今は周りを納得させられればいいのです。捕獲したら私に引き渡しなさい。眷属化を治療し、鬼殺隊として復帰させてみせます」

「……俺に、まれちーを殺すと、口にしろと?」

「そうでなければあなたは切腹ですよ、彼女がそんなことを望んでいると思いますか」

 

 少年が歯を食いしばる。苦痛に耐えるように。ただ言葉にするだけのことがそこまで苦しいことなのか。

 

「対面した柱である私と当事者であるあなたの証言があれば、隊律に反したのではなく単なる癸の失態として皆に主張できます」

「代わりにまれちーを悪者にして、ですか」

「悪者にする、というより既に裁判では彼女の死は決定しています。あとは鬼として滅殺するか人として自決させるか程度です。それも、このように逃亡させてしまった時点で滅殺対象となりましたが」

「まれちーは、逃げてなんかない!」

「ええ、わかります。彼女は逃げない、恐らく攫われたのでしょう。あなたとまれちー隊士の会話は隠から報告を受けています。彼女なら、あなたを置いて逃げるくらいなら共に死んで同じ墓に入ることを選ぶでしょう」

 

 身を呈して、我妻隊士だけでも、と懇願した彼女だ。我妻隊士が裁判に出廷していることを知りながら置いて逃げる、なんてのは不自然にすぎる。

 

「彼女を救いたいなら、誰よりも先にあなたが彼女を捕獲しなければなりません。あなたが死ねば、鬼殺隊はいつか必ず彼女を斬る。わかっているでしょう?」

 

 我妻隊士は固く目を閉じ、息を大きく吐いた。肩を落とし、全身を脱力させて、

 

「……なにやってんだよおっさん」

「? 何か言いましたか」

「いえ、どちらが鬼だ、と思いまして」

「?」

「あなたは言いました。鬼は保身のために嘘ばかり吐くと。それは、俺がこれから吐く言葉と何が違うんだ」

 

 長く逡巡した後に、我妻隊士はお館様や柱たちに聞こえるよう、大声で誓いの言葉を口にしてくれた。

 自分の愛しい相手を売る、保身に塗れた言葉であった。

 そんな言葉を言わせてしまったことに、申し訳なさを覚えた。

 

 

 

 

 

 ―――――――――――――――

 

 

 

 

 

 いつのまにか寝ていたようだった。

 大きな揺れと腹部の圧迫感がなんとも不快で、そのせいで目が覚めた。目を開けると景色がものすごい勢いで後ろに飛んでいく。風が強くて目を開け続けることも難しい。

 

「お、目が覚めたか」

 

 知らない声だ。

 声の感じからすると女性か。どうやら私はこの女に荷物のように腰を右腕で抱えられているようだ。腹を絞り上げる腕力がとんでもない。揺れも相まってはきそうだ。

 

「な、なんですかあなたは。ここは」

 

 抵抗しようにも体に力が入らない。胡蝶しのぶから受けた毒の効果とは違う、全身が石のように硬直して、どれだけ力を入れてもまるで四肢が動かないのだ。

 体を見下ろせば、全身が赤い糸で……赤い糸? 

 

「これは⁉」

「体が動かんだろう、これは私の上司から分け与えられた異能だ。といってもまだまだ上司の方が扱い方が上なのだが」

 

 上司から? そんなことができるのか。なんだそれは。しかもそれで手に入れた能力がこれって。その上司ってもしかして。

 

「そんなことより、私を元の場所に戻してください! 善逸が」

「ん、隷属が解けているか。伍の奴は鬼舞辻様から眷属を作る異能を与えられていたからな。まったく、ちょっと可愛らしい見た目だからって贔屓されて調子に乗っていてな。山に引きこもって家族ごっこやってるだけのガキのくせに、死んでせいせいしたわ」

 

 私に話しかけるでもない、ほとんど一人言のようにぐちぐちと文句を垂れ流す女。なんだろうこの感じ、すごい久々なんだけど。

 目的はただ一つ、と私を抱える女性は言う。

 

「私の上司がな、眷属化の能力が欲しいというのだ。無能でいいから忠実な、命令だけを遂行する『無能な怠け者』な部下が欲しいとかなんとか。だから、私が知ってる眷属化の異能持ちを捕まえてだな、上司に献上するのだ。あの上司は他の鬼から異能や体質を継承する異能を得てな。吸収を得意とするあの上司にはうってつけだった。それを与えられて、最初に選ぶ異能が眷属化とは」

 

 社畜の鏡だ、と女性の鬼は笑った。聞き覚えのある単語だ。

 

「ところが私が山に着いた時には、那田蜘蛛山の鬼は伍のをはじめほぼ全滅していてな。どうしたものかと思っていたら貴様が残っていたんだ。貴様、眷属化の異能は継承しているだろう?」

「継承、ですか?」

「眷属化についてなぜか知っていたり、使い方がわかってたり」

「え、えぇ、まぁ」

「やはりか! そうかそうか、それは重畳。日頃の行いだな、朝昼晩と鬼を食べてきてよかった。上司が言うには、1日の生活周期を毎日一定にしろ、そのために食事は三回決まった時間に、などと個人的な部分にまで小言を言ってくるのだ。どう思う?」

 

 どう思うってなんだよ。なんだその抽象的かつ答えにくい質問は。否定したらこの女の不興を買うし、肯定すれば私の言葉としてその上司さんに伝えられるかもしれない。

 

「食料をそんな定期的にとれるはずがないだろう? そういった現場の事情や苦労を知ろうともせずに理想論だけを押し付けてくるのだ。まったく困ったものだ」

「あ、あの」

「いや、もちろん上司から吸収用の異能を分けてもらったのだがな? その赤い糸がそうなのだが、あの上司は鬼になった直後からこれが使えたから、食事に困ったことがないのだ。そのせいで食事一つにも苦労する我々の事情に理解がないのだ」

 

 一言でいうとあれだ、この鬼すごい面倒くさい。もう相槌打つのも疲れてきたんだけど。

 なんでこの鬼、人の話を聞いてくれないんだ。

 私は善逸の許に帰らなくてはならないのに。

 私を待つと言ってくれた。私を信じて、いつか私の罪を償い終える時まで待ってくれると。

 牢から抜け出してしまえばその信頼を裏切ることになりかねないし、というか、裁判の結果に影響が出るのではないだろうか。

 裁判はどうなったのだろう。

 その結果を聞けずになぜかこんな、どことも知れない場所にいる。

 というか本当ここどこ。

 裁判からどれくらいの時間が経ったのか。

 

「いい加減私を解放してくれませんか」

 

 とにもかくにもまずはそれだ。

 

「そこで私は上司にこう言ったんだ、あなたの同期にはいいとこに就職して……なんだって?」

「だから、私を解放」

「するわけないだろう」

 

 女は、いかにもこちらを小馬鹿にした口調で言った。

 

「先ほども言ったぞ、貴様の異能を上司に献上すると」

「だから、それはどのように?」

「血を呑み干して、だ。鬼の異能は血に宿るからな。これが体質のようなものであれば肉まで食らう必要が出るが。さ、着いたぞ」

 

 急激に減速する。

 やってきたのは、森の奥深くに佇む一軒家だった。

 洋風で、窓一つ一つにデザイン的工夫が凝らされている。

 そのうちの一つ、開いている二階の窓から鬼女は私を持ったまま飛び込んだ。窓の桟に両足を乗せ、私を床に転がしてから頭を下げた。

 

「依頼されていた品、探してまいりました」

 

 赤い糸で縛られたまま仰向けになって床に転がる私は、部屋の奥、机に座って何か書き物をしている男の顔を見上げた。

 端的に言えば、胡散臭い顔だった。

 まずその笑みが胡散臭い。似合いもしない笑顔で素顔を隠して、ずっとこちらとの間に線を引いた態度をとっていた。

 次にその喋り方が胡散臭い。下手くそな敬語と、営業とーくなる謎の南蛮語の組み合わせは誰が聞いてもこいつは自分に敵意があるのだと誤解させるようなものだ。

 

「ん、うん」

 

 生返事とともに万年筆が走る音が途絶え、男がようやく私に目を向けた。

 一度私の顔を見て、書類に戻り、そしてまた私の顔を見て目を見開いた。

 

「まれちー?」

「お久しぶりですねおじさんこの野郎」

 

 実に半年ぶりの、おじさんとの再会だった。




短いですが今回はここまで。
テストが近づいてきたので次の日曜日まで更新をお休みします。


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第20話 近況

更新再開です。
まだ寝てないので気分的には日曜日です。


 なんでまれちーすぐ簀巻きになるん? 

 実は簀巻きが気に入ってたのかな。古巣に帰ってくるシャケ的な本能でまた簀巻きになるために戻ってきたと。

 

「勝手なこと言ってないで解いてくれませんかねおじさん」

「おい貴様、上司殿に向かっておじさんとか言うな。実は本人気にしてるんだぞ」

 

 は? 気になんてしてねーし。夏至ちゃん勝手なこと言わないでくれる? 

 

「あなた夏至というのですか」

「上司殿に新たに名付けてもらったのだ」

 

 あだ名で呼びあった方が親密さが増すというか、アットホームな感じでしょ。他にも冬至とか立春立秋と揃えていく予定。

 

「上司殿は前髪で隠してはいるがな、後退した生え際を毎朝鏡でみては溜め息をついていてな。鬼になると体がその状態で固定されるからワカメを塗りたくったところで新しく生えたりしないと、何度言っても諦めきれんようで」

 

 そんなのわかんねーじゃん! 鬼の再生力とワカメパワーが化学反応起こしてなんかこういい感じになるかもしれないじゃん! あと気にしてるわけじゃないし禿げてもいないからな! 

 

「今机に積み上がっている書類の山もな、老いて禿げた鼠を鬼化させたものにワカメやら何やらを塗る実験の結果をまとめているところだ。正直もっとためになる仕事をやって欲しいのだが……熱狂的な鬼に知られれば本気で殺しに来るぞ、鬼舞辻様の血を鼠に与えるとはーて」

 

 ほっときゃいいんだよ、そんな個人の価値観に口出ししてくる輩なんて。公私を分けずにプライベートにまで口出ししてくる同僚とかマジいらないじゃん。勤務外まで社訓やらを生真面目に守ってるやついてさ、最初は模範社員的な扱い受けてたけど調子に乗った結果上司にまで煙たがられて、最後はナイジェリアの新支社設立って名目で飛ばされてな。俺が正しい、が口癖だったアホだから当たり前なんだけど、そんな辞令出されても辞めなかったあたり本物だわ。

 それにさ、塗るだけじゃなくてさ、ワカメの粘液を細胞一つ一つの核の中に直接突っ込んだらどうなるかとか、俺の血鬼術使えば色々とできることが多いしやりたい実験もいっぱいあるわけ。鬼の特徴や本能を出さない、日光に弱くなるだけの不老不死の薬の開発とか。鬼舞辻さんの血からなんとか作れそうだし、これあれば政府高官とか余裕で買収できるよね。

 

「暇そうですね、こちらは善逸と逸れてしまって怒りの絶頂なんですが」

 

 暇じゃないよ、ハゲに効く薬の完成は人類の夢だよ。というか、逸れたの? パンクと。なんで。

 

「なんでってあなたがそれを言いますか! 拉致されたんですよ、そこの角生えた女に! 見てわかりませんかね⁉」

 

 ……夏至ちゃん、なんでそんなことしたの? 

 

「上司殿が仰ったではないですか、眷属化の異能を持つ鬼が欲しいと」

 

 それ言ったの昨日じゃん。もう見つけてきたの? 相変わらずフットワーク軽いな。よくやったね。

 

「上司殿の教えではないですか。『明日やろうは馬鹿野郎』、『寝たがりません勝つまでは』。それにこの程度、上司殿が編み出した社畜の呼吸をもってすれば朝飯前です」

 

 うんうん、素晴らしい奉仕精神だ。そうやって滅私の心をもって社畜としての型に自分を規格化させていくと社畜の呼吸の精度も上がるからね。

 

「はい!」

 

 誇らしげに胸を張るも、その厚手の和服ではまるでサイズがわからない。早くもっと洋服流行らないかな。なんて残念な時代だ。

 

「いいから、これ解いてくれませんかね」

 

 まれちーがスタッカートもりもりなキツい口調で訴えてきた。

 え〜、でもまれちー怒ってるじゃん。

 怒るのはしょうがないけどね、ここは俺に免じて鉾を納めてくれないかな。夏至ちゃんは俺がちゃんと叱っておくから。

 

「⁉」

 

 なにかね? と気取った風に聴きながら、両肘を机に乗せ、口を隠すように指を組んだ。

 

「え、いや、これは、上司殿の命令で」

 

 ん〜? 一体いつ僕がまれちーを連れてこいなんて言ったのかね? まれちー、鬼じゃないじゃん? 鬼っぽくなってるけど厳密には違うでしょ? 

 

「い、言われてません。鬼でもないです、が、その、眷属化の」

 

 そうだね。これは君の独断だ。普段から言っているでしょう? ホウレンソウ。報告・連絡・相談。それを怠って現場判断で勝手なことをして。こんなことでは困るよ君ぃ。

 

「し、しかし」

 

 口答えかね? 

 

「……いえ。相談もせず動いた私の不徳のいたすところです。申し訳ありませんでした」

 

 次から気をつけたまえよ君ぃ。まれちーもね、夏至ちゃんはまだ新人だからさ、あんまり目くじら立てずに広い心で勘弁してやってよ。こうして反省もしてるところだし。ほら夏至ちゃんも、許してくれてありがとうございますってまれちーに。

 

「あのおじさん、そんな茶番はいいんでさっさと解け」

「おい上司殿、せっかく乗ってやったのに茶番とバレてるではないか。これではいつまでたっても私は社畜の真髄を習得できんぞ」

「早く」

 

 怒ってるじゃん。まれちー超おこじゃん。外してもいいけどさ、何もしないって約束して。その手足で俺に殴ったり蹴ったりするのダメだからね。

 

「はいわかりました。この手足でおじさんに危害を加えたりしません」

 

 絶対だからね。

 約束した上で夏至ちゃんの血の触手に俺の触手を繋いで乗っ取り、まれちーを自由にする。同時にまれちーの背中から生えた節足動物の足みたいなサムシングが俺の眉間に突き刺さり、貫通した。

 ちょ、危害を加えないって言ったじゃん、言ったじゃん! ていうかなにこれ! 

 

「手足では加えない、と言いました。いいじゃないですか、どうせ死なないでしょ鬼なんだから」

 

 死ななくても痛いの。ちょ、持ち上げないで、頭蓋骨で体重支えるとか想像を絶するレベルの激痛なんですけど。しかもさらに生えた足で肋骨を一つ一つ外すとか。そうだよ、鬼のからだは肉体の損傷はすぐ修復するけど、脱臼程度は損傷に入らないから修復できずに痛みだけが残るんだよ。藤の山で教えたことちゃんと覚えてるんだねお兄さん嬉しいよ、でもそれを俺の体で試すなんて思ってなかったわ。

 つうか夏至ちゃんてめえ笑ってんなや。

 

 

 身体中の関節をコキコキ外され、タコみたいにぐにゃぐにゃになってる様を夏至ちゃんに思う様笑われてから暫く。ようやくまれちーの病んでる部分が落ち着きを見せたのか、改めてまれちーの現状について教えてもらった。

 蜘蛛の毒で眷属になって、そしたら何故か凄く強くなっちゃって。見た目も蜘蛛的な特徴が出たから、まれちーとまれちーを庇ったパンクが鬼殺隊の滅殺対象にされて? 牢に入れられて裁判の結果待ちしてたところで夏至ちゃんに攫われた、と。

 ……ミスしたら即裁判なの? それ新撰組よりキツくない? 

 というかまれちー、それ、夏至ちゃんに助けられた感ない? 

 

「……しかし、私が消えたことで裁判中の善逸がどうなっているか」

 

 大丈夫だと思うけどね。まれちーたちと別れてから結構な数の鬼殺隊の人見たけどさ、パンクより強いのってそんなにいなかったし。人手不足がデフォかつやり甲斐系ブラックなとこがある鬼殺隊だもの、パンクを殺すような無駄なことはしないっしょ。

 

「そう、かもしれませんが、でも」

 

 まあ確認しないと不安か。でもパンクが今どこにいるかわかる?

 

「えっと、多分蝶屋敷という蟲柱の邸宅かと。詳しい場所は私より夏至さんの方が知っているかと」

「もちろんわかるぞ。あそこからまれちーを攫ってきたのだからな」

 

 あそっか。じゃあ夏至ちゃん、申し訳ないけどまた連れてってあげてよ。

 

「ヤダ」

「え?」

「絶対ヤだからな。あの時は蟲柱やその継子が那田蜘蛛山の処理やら会議やらであの屋敷にいないと確信を持てたから忍び込んだんだ。あんな穴を開けて拉致を成功させた以上向こうだって警戒するだろうし、そんな危険を犯す義理も義務もないし、ともかくヤダ。行くなら一人で行け。ここから南東に私の足で3時間だ」

「いや、大雑把すぎますよ。しかもあなた足すごい速かったじゃないですか。すごい遠いでしょそれ」

 

 夏至ちゃんはぷいとそっぽ向いて、絶っっ対に行かないという断固とした拒絶の意志を態度で示してきた。まあ夏至ちゃんて口調とか普段イキってる割にヘタレだからな。柱に近づくと考えるだけで、胃に穴が開いて再生してまた穴が開くの無限ループ突入まったなしだろう。

 んー、じゃああれだ。眷属化の異能を使って探そう。

 

「眷属化、ですか」

 

 そう。動物ならなんでもいいんだけどさ、急ぐなら鳥なんかを眷属にして探させよう。

 

「そんなことができるんですか」

 

 できるんですかって、まれちーに眷属化の毒を入れた蜘蛛だって元は普通の、眷属化した蜘蛛だからね。それと一緒。まあ使いこなせるようになるまで時間かかるかもしれないけど。

 

「……そんなに待てません。やはり自分で探しに行きます」

 

 それで鬼殺隊と出くわしたらどうするの? その見た目だもの、多分即殺しにかかってくるよ。それだったらさあ、眷属を介して文通しながらここで体を元に戻せばいいじゃん。

 

「え」

 

 ? 何よ。

 

「戻る、治せるんですか? おじさんが?」

 

 まあ、多分。少なくとも見た目は人間と同じにできると思うよ? 時間かかるけど。そういう感じの研究を鬼化した鼠使ってやってきたわけだし。鬼化戻すよりは全然ちょろい、はず。

 

 

 そう言うと、まれちーはすとん、と足の力が抜けたように座り込んで、泣き出してしまった。




元下弦の肆の名前ですが、主人公が新たに夏至ちゃんと名付けました。
響凱とか魘夢とかって絶対人間の頃の本名じゃないと思いますが、じゃあ誰が名付けたのか。鬼が自分で決めるのか上司が付けるのか。この作品では鬼は人間の頃の名前を捨て上司に名付けられる、ということにします(累と上限の陸兄妹は例外)。
なお、主人公は自分の名前は鬼になった時に忘れています。名刺はありましたが、その名前欄には『禾几昊翼』と書かれてあって主人公は思い出すのを諦めました(なお実在する苗字と名前、のはずです多分)。


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第21話 改造

 さてまれちーの体を内側から改造してやろう、心臓を強化して呼吸の効果を三倍にあげてやろう、なんて考えて再びまれちーを簀巻きにしようと血を伸ばしたまさにその時だ。

 

 琵琶の音が聞こえた。

 

 鬼は瞬きを必要としない。その瞬間たまたま目を閉じていたなんてことはありえない。

 俺の視界は片時も塞がれていなかったはずなのに、気づけば俺はあの、捻れ歪んだ城へと移動していた。

 まれちーも夏至ちゃんもいない。俺だけがここに飛ばされ、さらなる琵琶の旋律が響く。続々と城の中に気配が生まれる。

 今のうちにあのクソ上司の呪いを付け直しつつ、社畜の呼吸で精神を自己改造。

 べべん、と一際大きく音が響いたかと思うと、前回同様下弦どもが、今度は俺も一緒に一箇所に集められた……一人足りない気がする。

 誰が足りないのだったか、と首を傾げていると、背後。久々の、芳しい香り。濃厚な血の匂いが俺の鼻を痺れさせた。

 即座に振り返り、一瞬の判断で俺は呼吸を使うことを決断する。

 

 社畜の呼吸 捌ノ型 三跪九叩頭礼

 

 跪き、三度頭を地に叩きつけ、立ち上がる。これを1セットとして3セット。

 遥か海を越えた大陸、古くは清王朝の時代にてとられた、皇帝に対する最敬礼の姿勢である。俺と鬼舞辻様の間には乞食と皇帝以上の差があるが、これ以上の礼の表し方を俺は知らない。

 さらにこの捌ノ型は俺が得た鬼の力をフル活用して実行される。我が血鬼術クリムゾンロードを使った姿勢制御と慣性制御によって生み出される速度はまさに神速、余程の目の持ち主でなければただ一度勢いよく土下座したようにしか映らないし、計九度の叩頭の音は連なり一音にしか聞こえない。また叩頭の威力たるや、城の床にヒビを入れさらに俺の頭を爆散させるほどである。もちろん鬼舞辻様の前で血を撒き散らすなどはしたないにもほどがあるので、叩きつけ砕け散るたびにクリムゾンロードで肉片を回収する徹底ぶりだ。

 捌の型を終え、叩頭の余韻も去り、静寂が城を満たす。

 突然の轟音に他の下弦たちの呆気にとられた空気が感じ取れる。琵琶を引いていたモブ髪女ですらポカンと口を半開きにしてこちらに視線を向けている。

 そんな中で鬼舞辻様はさすがである。気配に淀みや隙が全くない。俺の礼を当然のものとして泰然と受け止めておられる。

 

「平伏せぬ貴様らは何様だ」

 

 鬼舞辻様のお言葉を受けてようやく俺以外の連中が這い蹲った。

 遅い。遅すぎる。こいつらには自分が鬼舞辻様のものであるという意識が足りない。じろじろと上司を眺めるなど愚昧の極み。鬼舞辻様の威光に体がこわばろうとも視線を下げるくらいはできるはずだろう。

 夏至ちゃんがいない今、前回の彼女の失態から学んだのか不用意に口を開こうとする者はいなかった。それでいい。ただ俺たち家畜は造物主のお言葉を一言一句漏らさず賜るべく耳を研ぎ澄ませておくべきだ。それ以外の全ての機能は今この瞬間不要である。

 

「累が殺された」

 

 鬼舞辻様のお声からは皸割れそうな怒りが滲んでいた。

 思い出した。累、とは確か下弦の伍、白髪の子供であった。夏至が言うに鬼舞辻様のお気に入りであったとか。相応の血と異能、特権を与えてたはずで、にもかかわらずそれが格下である人間に殺されたとなれば、それは不快にもなろう。そのお気持ちは俺ごときでは慮るに余りある。

 

「なんなのだ? 何故貴様らはこれ程に惰弱なのだ?」

 

 ああ、鬼舞辻様の苛立ちが声の震えから伝わる。なんておいたわしい、鬼舞辻様。その怒り、我ら下弦をまとめて惨たらしく殺処分しても晴れぬほど深いものでしょう。

 

「上弦は百年以上その顔ぶれに変化はない。対して貴様らはなんだ? 何故強くならない、何故すぐ殺される。何度入れ替わった」

 

 強くなるためのノウハウ、手順が確立されておりませんな。

 

「……手順とはなんだ? 言ってみろ」

 

 おっと、思考を読まれましたか。では僭越ながら私下弦の肆がご質問に答えさせていただきます。

 まず鬼は人間を食いますが、野生の人間を夜中にこそこそ食べ歩く、というのが如何にも効率が悪い。餌の安定供給のため、人間を飼い、養殖すべきです。それもただの人間ではない、希血を集め、希血どうしで掛け合わせ、もっとも鬼にとって栄養価の高い人間を作るべきです。

 そのための資金、場所は、私が研究している薬でいずれ賄えるかと。

 

「ふむ、薬とは?」

 

 不死化薬です。鬼舞辻様の血を元に開発を進めておりますこれは、実現すれば服薬したものに擬似的な、時間制限付きの不死を与えます。無論鬼舞辻様の呪いによる首輪が憑くようにもいたしますし、期限を越えれば失われる不死性であるため、一度使用した者はその金銭が尽きるまで購入し続けることになるでしょう。これを政府高官、警察庁上層部、はては女衒などの人身売買を生業とする人間に売れば、人間牧場の設立はおろか、鬼舞辻様がこの国を裏から牛耳るも可能。国家権力でもって鬼殺隊を撲滅することも不可能ではありません。

 

「貴様、鬼舞辻様の血をそのような」

「黙れ」

 

 ぐしゃり、と。聞くに耐えない音が響いた。

 ついで鳴るのは咀嚼音。巨大な肉食獣が骨ごと獲物を噛み砕き飲み込む音だ。一体どんな生物がこんな音をならすのか平伏している俺にはわからないがしかし、これが鬼舞辻様の御意志によるものであることは疑いようがない。

 

「続けよ」

 

 はい。

 さらには血鬼術の開発が皆おざなりであるように見受けられます。

 人を食らうことにのみ執着した結果、どうにも自身の研鑽に目が行っていない。その点上弦の方々は素晴らしい。あいにく壱、参、伍の方にしかお会いできておりませんが、皆が己を磨くこと、自分の行くべき道を突き進む求道者でありました。あのお三方は昨日より今日、今日より明日、人を喰わずともその修練で強くなり続けます。

 そういった目的意識がどうにも足りない。

 思うにこれは、鬼の皆様には正確な自己分析が必要なのではないかと。

 

「自己分析とは?」

 

 自分が何に向いているのか。自分が所属する組織の中でどのように自分を役立てるか。将来的に自分がどのような仕事をしたいか、そのために今自分に足りないものはなにか、それを手に入れるために必要な努力はなにか。そういった、今と未来の自分を比較し、繋げるものを探すことです。それを、ただ人をたくさん食らって強くなる、では目的として漠然としており熱意も生まれにくいでしょう。

 僭越ながら一つお尋ねしたいことがございます。

 

「なんだ」

 

 我ら鬼、そして鬼舞辻様の目的はなんでございましょうか。また、それを達成するための手段として何が考えられているのでしょうか。

 

「目的は私の邪魔となるものを全て除くこと。つまり日光の克服と鬼殺隊の殲滅。日光の克服には、まだ話していなかったか、青色の彼岸花を材料とした薬を作ること、あるいは鬼を量産して偶発的に日光に耐性を持つ体質を得た鬼が現れるのを待つこと。鬼殺隊については、それこそ貴様らが強さを得て皆殺しにしてくればいい」

 

 部隊を作りましょう。人を集める部隊、鬼殺隊を探す部隊、暗殺する部隊、正面からの殺し合いを得意とする部隊、その彼岸花を探す部隊、人肉を配る兵站部隊、適性の高い人間を見極め鬼へと誘う勧誘部隊、鬼を処罰する人事部隊。今思いつくのはこのあたりですが、つまり、役割を分担し、血鬼術をその役割に特化したものになるよう訓練させるべきです。鬼には皆個性があり、向き不向きがあります。全ての鬼に柱を殺しうる戦闘力を求めるのは労力の浪費となりかねません。

 

「……なるほど、力を削ぐことで反抗のおそれも」

 

 さらには鬼が増えすぎである点も議題としてあげさせていただきます。

 鬼舞辻様や上弦の方々が人間に血を与え鬼を作られますが、そうして鬼となった者のほとんどは理性も持たない下劣な獣と大差ない存在となります。これらを放任して、人を喰らい強くなるのを待つ、というのも一つの考え方でしょうが、これらの多くは鬼殺隊の新人に鬼退治の初級教育として始末され、鬼殺隊員の技術向上に貢献してしまう形になっております。これは鬼殺隊殲滅、と設定された目標の達成を阻害しかねません。鬼の数、特に鬼殺隊と直接相対する戦闘特化の鬼は少数精鋭であるべきです。無用な経験を奴らに積ませる義理もないのです。

 

「ふむ」

 

 要約すれば、鬼と餌の両方の完全な管理が必要です。

 ところで、血の記憶というものを鬼舞辻様はご存知でしょうか。

 

「無論だ。私も血に記憶を刷り込んで、鬼に血の力とともに記憶を与えることがある」

 

 それを鬼の間でも行わせます。各部署で専門家、先鋭化した技術や方法論を、血と共に記憶を交換させることで鬼全体で共有させます。裏方全体の技術向上を労せずに図れますし、戦闘を主任務とする鬼に最も有効です。鬼殺隊に殺される直前に鬼舞辻様の尊き血を記憶ごと回収できれば、その血を他の鬼に与えることで死んだ鬼が蓄積した戦闘経験が継承されます。

 ただこれは、血を分割して配布してしまうと継承できる記憶も断片化されます。これもあって、鬼を部隊に分けて役割分担すべきと考えておりますし、特に戦闘部隊は少数精鋭で行くべきと私が考える理由です。

 

「……………………」

 

 俺のプレゼンがひと段落つくと、鬼舞辻様はしばしのあいだ口を閉ざして黙考した。それを遮るような俺ではない、鬼舞辻様が黙るのなら俺も黙るのだ。

 

「よかろう」

 

 どうやら俺の提案は受け入れられたようだ。安堵の感情が胸を満たす。やはり鬼となってもプレゼンは緊張するのだ。

 

「その部隊分け、貴様がやれ」

 

 ……ん? 

 

「戦闘部隊、か。それは上弦の鬼を任命する。貴様はそれ以外の部隊を担当しろ。下弦の鬼は解体しようと思っていたが、適材適所というのなら、貴様がそれを見極めろ。才を見抜き、育て、分類し、統率し、運用せよ」

 

 ………………………………謹んでお受けいたします。

 

「うむ」

 

 鷹揚に頷き、鬼舞辻様が琵琶の音とともに退室されようとして、

 

「ああそうだ。薬の開発も励めよ」

 

 そう言い残して、ピシャリと閉じられた襖の奥へと消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして気づけばまたもや瞬間移動である。

 

「あれ、おじさん戻ってきました」

「上司殿、まさか鬼舞辻様に呼ばれていたのか」

 

 あ、二人とも久しぶり。

 

「ど、どうした上司どの。顔色悪いぞ」

 

 んー、まあ色々とさ。

 とりあえず呪い外して、ねえねえ夏至ちゃん聞いて聞いて。今鬼舞辻様と会って来たんだけどね。鬼舞辻様ね、女装してた。

 

「は?」

 

 着物着て髪結って、ぷっ、化粧までしてた! 

 

「え、なんで?」

 

 知らね。趣味じゃないの。しかもね、そんな美女っぽい格好してるくせに声は渋いあの声だから違和感すげーの。超ウケたわ。

 

「く、やめろ、よせ上司殿。あの筋肉ムキムキの鬼舞辻様が女装とか、くっぷふ」

 

 いやー笑えたわ。でも本人の前で笑ったら即死だからさ、耐えるのすっごい頑張ったわ。ここに帰ってようやく笑えるっていうねわはははは。

 

 はーあ。

 笑わなきゃやってらんねーよくそが。




それにしても、社畜が出ると話の進みが唐突に遅くなる謎現象。


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第22話 継子

 試験管を傾ける。呼吸が必要なくなったこの体でありながら、思わず息を詰めた。

 緊張の一瞬だ。

 震える指先で粘性の高い液体を、台に固定された72匹のネズミにゆっくりと注いでいく。

 その赤い液体が、ネズミに触れた。

 びくり、とネズミが順に痙攣していく。

 麻酔で眠らせてあるネズミが、意識のない状態でありながらも苦痛に蠢き悲鳴をあげる。鼓膜を苛む悲鳴の合唱が地下研究室を満たす。

 しばし、隣に立つ夏至ちゃんとともに経過を見つめる。

 ネズミの痙攣が徐々に収まり、ついにはぐったりとしたまま沈黙。

 またも失敗か……そんな諦めがよぎったその時、その変化は起こった。

 

「お、おい上司殿」

 

 見ているとも。

 それは、劇的だった。ざわ、ざわ、と見るものに歓喜と驚愕を与えるそれ。歴史上全ての人が夢見て、しかし挫折したそれ。人類の希望ともいえる、その変化はもはや変貌と、あるいは進化と表現してもなんら過言ではない。

 ああ、と。

 万感の思いとともに、俺の口から吐き出されたため息。隣の夏至ちゃんもわずかに涙ぐみながら、小さくガッツポーズを取った。

 

「完成、だな」

 

 ああ、そうだ。

 ついに我々は成し遂げたのだ。有史以来あらゆる天才が、あるいは世に伝わるあらゆる権力者が目指し、しかし届かず挫折した見果てぬ夢に、鬼の我々が到達した。

 今この瞬間が、人類史の最先端。誰よりも先にいるという実感。ここから生まれる全ては我々の後追いであるという絶対的優越。今日この時より、人類は明確な一歩を歩んだ。

 眼下のネズミたちを見る。

 彼らは過度のストレスを与えられ、肉体や皮膚がボロボロだった。栄養状態など極端に悪い中かろうじて生かされている。そんな彼らの自己治癒能力は通常より極端に低い。

 そんな彼らが再生するなど本来ならありえない。

 なのに。

 彼らのボロボロだった肌には、黒々とした毛が生え揃っている。

 

 毛生え薬が、ついに完成した瞬間だった。

 

 不毛となった真皮に毛根が生まれ、太くがっしりとした毛が高い密度で立ち並んでいる。

 ピンセットで毛を一本つまみあげても、皮膚がぐにっと持ち上がるだけでまるで抜ける気配がない。

 

「これで、もう」

 

 夏至ちゃんが震える声でつぶやく。

 

「もう、ネズミを管理したり薬品を一つづつ組成を変えて五日間ぶっ続けで調合したり血液成分をリストにまとめたりしなくていいんだな」

 

 ハイライトを失った目で虚空を眺めながらブツブツと呟き続けている。

 夏至ちゃんはよく働いてくれた。

 ネズミの管理といってもただ飼育していればいいというものではない。どの遺伝子型の両親から生まれたネズミなのか、年齢はいくつかを飼育箱ごとにラベリングしながら、最終的には3056匹も管理してくれた。それらを逐一遺伝子型を確認しながらだ。同じ両親から生まれた兄弟ネズミでも当然遺伝子型は異なるわけで。本来ならPCR使うところを夏至ちゃんは俺から移譲されたクリムゾンロードで遺伝子型の確認はできるため、その労力は十分の一程度ではあるが、それでも大変な作業だったろう。求める遺伝子型を産むにはどの雌雄を掛け合わせなければならないかを確かめながら。毛髪に関わる遺伝子座を4つに定めてそれぞれの優劣パターンを網羅させて毎回実験しなければならないわけだから、その労力は膨大なものだったろう。

 ただ残念なお知らせです。

 

「……なんだ、正直私は布団に入って寝たい気分なんだ。鬼なのに。あれだな、鬼でも精神的疲労ってあるのだな」

 

 悪いんだけど毛生え薬は実は、

 

「あとで聞く。起きたら聞く。だから言うな。いいか、絶対言うなよ」

 

 おまけで、本命は不死化薬です。これからその開発に入ります。

 

「言うなって言っただろうが! せっかく現実を無視して達成感を胸に安らかに休めるところだったのに!」

 

 鬼っていいよね。寝なくても活動続けられるんだから。

 たった5日程度の連勤で文句言うなよ、社畜としての自覚が足りていないぞ? 後輩にどんどん社畜ポイントが追い抜かれてるじゃないか。

 

「上司殿の育てた社畜どもと一緒にするな! あんなの洗脳ではないか。なんだ、あの壁に貼ってる標語みたいなやつ」

 

 ああ、あれ。『鬼舞辻様への奉仕は最高の幸福であり幸福は社畜の義務である』。

 

「周囲の発言の揚げ足とってすぐ鬼殺隊のスパイ扱いして処刑しあってるし! 処刑現場のすぐ隣ですら幸福ですか、と聞かれたら『私は完璧に幸福です』とみんな口を揃えて答えるあたり本当に気持ち悪い! 幸福じゃなかったら鬼殺隊のスパイとかどういう理屈だ!」

 

 完璧な鬼舞辻様に管理されてる鬼が完璧に完全で幸福じゃないはずがない。不完全かつ幸福じゃないならそいつは鬼じゃない。つまり鬼殺隊である。という簡単な三段論法だよ。それにちゃんと処刑した鬼の血を回収してるでしょ? なら記憶とノウハウは継承されるから問題ないよ。

 

「継承したあとも『次の社畜は上手くやってくれるでしょう』と唱和するからなあいつら。何度も何度も聞かされて耳から離れん。宗教よりも気味が悪いわ。いいか、私の精神はまっとうなんだ、あんな連中と争ったりなどできるものか!」

 

 え、まっとう……? 

 

「おい待て、なんだその反応は」

 

 いや、ああそうか、記憶を。

 

「なんだ、何が言いたいんだ⁉︎まさか私が知らないうち、というかまさか寝ている間に洗脳を⁉」

 

 いやだってほら、魘夢さんて強制睡眠から夢を見せる能力じゃない? あれで社畜らしい常識を毎晩刷り込んでいけば、120時間連勤にも文句言わなくなる社畜ができあがるというか。

 

「魘夢あの野郎! ぶっ殺してやる夢見せるしか能のないクソ雑魚のくせに乙女の夢に土足で入って洗脳など!」

 

 殺すとかやめてよ。鬼の本能抑えたり規則を本能レベルに刻み込むのには彼の血鬼術が最適なんだから。彼今人事の社員教育として大活躍してるんだよ、なくてはならない存在なんだから。

 

「ん? 社員教育って、鬼全員のか? 獣のような奴らを一匹ずつ探し出してか?」

 

 探して集めるのは琵琶さんがやってくれたけどね。魘夢さんと琵琶さん、二人とももう200時間くらい働きづめだよ。琵琶さんは腱鞘炎、魘夢さんは手の甲にある口の喉が潰れて声がかすれて痛いってさ。治ると同時に酷使して再発、の繰り返しらしいよ。

 

「魘夢の奴めざまみろ馬鹿が! いつもニタニタと人の失敗を笑っているからだ!」

 

 ボーナスとしてまれちーのいい匂い成分を濃縮した錠剤一個ずつあげたよ。そしたら10日後くらいに右腕震わせながらもっとくださいって二人して土下座してきたけどね。ほしけりゃもっと頑張ってって言っといた。

 さて、嬉しそうなところ悪いけど、今度こそ不死化薬の研究に入ろうね。実験操作はもう大分慣れたでしょ。取り敢えず必要な素材と薬品集めておいてよ。

 

「……わかった。やるよやりますよ、やればいいんだろうやれば」

 

 そうだよ早くやれよ。

 

「くっそ煽りよる……その間上司殿の予定は?」

 

 まれちーの改造と、あと毛生え薬を製薬会社に売り込む文句とか入れる瓶のデザイン考えたりと、あとまれちーを営業として教育する感じかな。

 

「営業にするのか?」

 

 俺の動かせる人材の中で日中動かせるのはまれちーしかいないしね。今丁度あのパワハラ太郎が製薬会社の御曹司に擬態してるからね、その伝使って会社の人間まとめて洗脳して、毛生え薬量産させて、データと実物持ってまれちーに日本の偉いハゲたちに営業してもらうわ。洗脳にはまた魘夢さんが頑張ってくれる予定。なお、乗っ取ったら会社名はアルファ・コンプレックスに変えるつもり。

 

「あるファなんちゃらはよくわからんが、魘夢についてはまあ適材だな。せいぜい使い潰してやれ。まれちーもまだあどけないが器量が良いし、ハキハキ喋るし礼儀正しいし、外見もすっかり人間だしな」

 

 あとはどうやって鬼殺隊に復帰させるかだね。人っぽくなったところで、いきなりのこのこ鬼殺隊のところに戻ったって、人殺して脱走したのは変わらないからね。

 なにかデカい土産かイベント起こさないとな。どうすっかな。

 まあそのあたりの目処が立つまではBtoB営業として回ってもらおう。

 

 

 

 

 

 ───────────────────

 

 

 

 

 

「我妻隊士は音柱の継子となりました」

 

 俺と伊之助は那田蜘蛛山での負傷を癒すため、胡蝶しのぶさんの邸宅である蝶屋敷に滞在していた。

 来てすぐに思い至ったのは、俺以外の三人の安否だ。

 伊之助は同じ部屋にいた。喉を潰され、かなり落ち込んで自虐的になっていたけど、それでも命に別状はなく後遺症も残らないとのこと。

 しかし善逸は、ここにはいない。

 まれちーさんも。

 確認するに、那田蜘蛛山にて善逸と二人で入山したが、彼女は不覚をとって鬼の眷属とされてしまい、人を殺してしまったそうだ。その上閉じ込めていた牢から逃げてしまい、善逸はそれを追うことになるのだと、しのぶさんに聞かされた。

 ただ、癸に過ぎない俺たちにそんな自由に行動する裁量はない。そのため、任務として国中を巡り歩く柱に随行するため、そしてなにより強くなるため、善逸は柱の一人である宇髄天元さんの継子となったのだと。

 

「あの、継子ってなんですか?」

「柱の弟子、と考えて間違いありません。何を教えるのか、どう教えるのか、といったところは各柱に一任されていますが」

 

 弟子? つまり戦い方を教えるのか? でも、善逸は雷の呼吸だ。

 

「音柱、ということは音の呼吸ということですよね? 違う呼吸なのに弟子となって大丈夫なんですか?」

「基本はそうですが、音の呼吸は我妻隊士の扱う雷の呼吸から派生したものなのですよ」

 

 だから技術を教えることに概ね問題はないでしょう、と微笑んで言った。

 あ、と思い立つ。呼吸と言えば、ずっと気になっていたことがあったんだった。

 

「あの、しのぶさん。来て早々いくつも質問して申し訳ないんですが、もう一つだけよろしいでしょうか」

「何でしょう、なんでも聞いてくれてかまいませんよ」

「俺の父の話なんですが」

 

 ヒノカミ神楽について聞いてみたところ、しのぶさんはそのようなものは聞いたことがないという。火の呼吸というものも存在せず、現在あるのは炎の呼吸であると。炎の呼吸を火の呼吸と呼ぶべからず、と言われているといったところまで教えてもらった。そのあたりの詳細は自分より炎柱である煉獄という方に聞くのが良いとの助言まで与えてもらった。しかもその煉獄さんという方に手紙を送ってくれるという。

 この上治療までしてもらえるのだから至れり尽くせりだ。

 礼を言い、着替えて伊之助の隣のベッドで体を落ち着ける。

 そうして治療が始まり1週間後。生まれてごめんとまで言いだした伊之助を必死に慰め励ましていると、思っていたよりずっと早くに煉獄さんからの返信がやって来たのだった。しかも、なんと本人が直接蝶屋敷にやってきての返答だ。正直驚いた。

 

「久しいな溝口少年!」

「竈門ですが!」

 

 なんでも煉獄さんは遠方での任務からの帰りであり、その途中でたまたま近くを通りかかったところでカラスから手紙を受け取ったため、そのままこちらに立ち寄ってくれたらしい。

 唐突ではあったけどありがたくもあったので、脇にあった椅子を出して座ってもらい、こちらはベッドに腰かけたままヒノカミ神楽や火の呼吸について話をさせてもらった。

 

「知らん!」

 

 にべもない。

 

「初耳だし、まず間違いなく君の父の舞や呼吸は炎の呼吸とは無関係だな!」

 

 この話はそれで終わりだ、と言って別の話題に進もうとする。

 この煉獄さんという人は、随分とまっすぐな人だな、というのが俺の抱いた印象だ。物事を簡潔でわかりやすく捉える。

 

「俺の継子になれ。立派な剣士にしてやろう。君が父から受け継いだ技術についてなにか助言できるかもしれないしな!」

 

 面倒見のいい人だな、とは思う。ただ、どこを見ているのかわかりにくいだけで。

 

「継子、ですか」

「うむ。溝口少年は見所がある」

「竈門です。誰ですか溝口」

 

 思ったのだ。

 まれちーさんと善逸に、俺は何もできなかったのか。

 あのとき、二人を待って、四人で山に入っていれば、また別の結果になったのではないか。

 善逸を置いて行ったのは、怖がる善逸に無理強いはできないという判断だった。でもそれは誤魔化しではなかったか。自分では怯える善逸を守りきれないから、足手まといだから、自分も危険にさらされるから、なんて汚い感情がなかったか。

 自分に嘘をついて誤魔化してはいなかったか。

 

「俺の、どこに見所なんてありますか」

「不死川のやつに頭突いたところだな! 剣の速度と鋭さではあいつは柱でも随一だ。それを両腕を拘束されたまま躱して頭突くなど、そうできることではない!」

 

 匂いからは、嘘や悪意と言ったものが全く嗅ぎとれない。まれちーと同じくらい、嘘の匂いがない。ただ目の前にあるものを見据え、誤魔化さず、言い訳もせず、自分の心に正直に鍛錬を続けてきた克己の塊。

 そのあり方は、単純なようで難しいと思う。

 柱にまでなった人だ、今まで多くの苦境や困難があったろう。それでも曲がらず、挫けず、進み続けた剣士の匂い。

 俺も、こうなれるだろうか。

 禰豆子を人間に戻すことは、きっと、多くの困難がつきまとう。

 鬼殺隊にだって完全に認められているわけではない、どころかあの傷だらけの人のように嫌悪されることだって普通にあるだろう。

 それでも、どんな困難にあっても、挫折しそうなことに直面しても、挫けずに進む剣士に。

 

 

 気づけば、俺は煉獄さんの継子になる旨を、頭を下げて願い出ていた。

 煉獄さんは、うむ! と頷いて、下げた俺の頭を軽く撫でてくれた。




祝、10万文字。
テスト期間があったことを考えても、一月程度でこのペースはなかなかではないかと自画自賛してます。


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第23話 おこ

 当然のことながら、ネズミを用いた実験が成功したからと言って製品として完成したわけではない。これから多くの人間を相手にした治験をこなし、データを医薬品の審査機関に提出、申請者が審査員と面談・プレゼンし、何重もの審査を経て、ようやく厚生労働省へと提出され認可を取る、という流れになる。そのあたりは一般人が関与できる領域ではない。申請から照会、信頼性、あらゆる面で製薬会社でないとどうにもならないところが多いのだ。こんな田舎の山奥でこっそり作った怪しげな混ぜ物を販売する許可なんて出るわけがない。しかもこの時代厚生労働省じゃないし。というか医薬品の製造販売承認申請が俺のいた時代と同じだったかもわからんし、ネットも人脈もないから調べようがない。製薬会社を一から起業するのも余りにも非現実的である。そのための人材と施設、設備を作るには金が必要で、というか金を作る為に薬を作りたいんだって話で。まあ土地はあるんだけどさ。

 

『だから、私から、というわけだね』

 

 今俺は、製薬会社社長のお宅に潜伏しているパワハラ太郎こと無惨様からの伝言を受け取っている。

 直接面会しているわけではない。まれちーから継承した眷属化の異能の実験も兼ねた、眷属を介した文通のような相互通信だ。

 眷属として選んだ動物は蚊である。

 鬼は血を介して記憶を継承できる。知識や情報、画像情報も込みでだ。蚊を介した血のやりとりによって遠距離間での情報のやりとりを行えるようにしたのだ。できればリアルタイムでテレビ電話的なことができればとは思ったが、まあ無理だった。まあこれでも電話より伝えられる情報量は多いし、何より秘匿性の高さが無惨様的にはポイント高いらしい。

 そんなこと言って、ほんとはいちいち他の鬼と直接会話するのがめんどくさいだけなんじゃねーかなと思ってる。基本コミュ障ぽいし。自分は間違ってない、なんて断言しちゃう人間て絶対頭のネジがどっか外れてるよね。常務のやつはその典型でな。自分は悪くないって結論ありきで話進めるもんだからまあ会話にならねーのな。そんで何かにつけて自分の成功体験を語りだすのな。最後はただの自慢になって話の本筋見失って、つまりそういうことだから、が口癖でな。いやどういうことだよ、つまりってなんだよお前なんの要約もできてねーよ。というかお前結局俺はすごい、しか言ってねーだろっていう。

 

『君の言う通り、今の私の立場からできることは多いだろう。養子としてだけではなく主任研究員としての籍もあって、研究室を一つ与えられているからね。私の名前で特許を取れば大きな金になるだろう、君の育毛剤は』

 

 蚊が腹に貯めて持ってきた血には無惨様の映像記憶が込められていた。この話をしているとき無惨様は言葉の通り研究室でなにか研究をしていたようだ、ちょうど2ミリチューブを遠心機にかけるシーンが脳に映し出される。また、あらゆる場所にばら撒いた蚊たちが吸ってきた血を取り込むことであらゆる場所の人間の記憶を覗き見ることができる。これが探し物や探し人には便利で、これを使ってパンクを探してやろうと思っているのだが、最近筋肉男と一緒にすげえ速さで移動しまくっているからいつまでたってもリアルな現在位置を掴めないのだ。

 蚊の眷属は他にも鬼たちの監視にも使っている。勤務態度が悪い鬼や人間関係を乱すような反社会性行動を取る鬼を特定し、人事部に送って再教育を受けさせたり、あと仕事の達成度に応じて評価点付けたりする、と言った具合だ。

 鬼の立ち位置は部署による縦の繋がりと、階級による横の繋がりとで定義される。どの部署でも階級は色によって決められ、下から黒、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、白の順で偉くなっていき、評価点を貯めることで稀血錠剤や上の階級を買えるようになっている。

 なお、白は無惨様ただ一人、その下の紫に上弦の脳筋連中がいて、俺と夏至は藍、下弦を始めとした部署の長が緑となっており、鬼には自分と同じか下の階級に対する処刑権が与えられている。鬼殺隊のスパイであると発覚したり、無惨様への忠誠が疎かになっている反逆的言動・怠慢・反抗的行為がみられた場合に処刑が許されるのだ。むしろスパイや反逆者を見つけておきながら見逃したならそいつも反逆者である。

 …………………………正直言って、めっちゃ楽しい。このtRPG、学生時代サークルでめっちゃやってたんだよ。それをリアルでできて、しかもGM側で参加できるとかね。張り切るしかないじゃん。毎日ウッキウキだわ。

 ちなみに、無惨様のことを俺は心の中で、皮肉を込めてウルトラヴァイオレット様と呼んでいる。この皮肉の通じる人がいないから口にはしないけど。

 

『確かに、頭髪に悩む者は多いだろう、特に男性は。他に水虫や、指の欠損程度なら修復できる傷薬を作るんだって? うん、どんどんやってくれ、動物実験での基礎データの収集はそちらに任せるよ。どうしても不死化薬を作りたいなら、それは表立った研究所ではなく、裏で作って一部の人間にのみ売るべきだ。そのために必要な人体実験用の人間や資金は上弦の弐、童磨を頼れ。奴は宗教団体の教祖を務めている。必要な物は用意できるだろう』

 

 ん、いや、ごめん。幸福薬っつうか、稀血の良い匂い成分を濃縮して作った錠剤は、そこで作ってんだよね。あそこは人だけは多いから稀血の数もまあ多く集まるわけ。そういうのばっか食ってきたからあのナチュラル畜生な教祖はあれだけ早く強くなれたんだよな。条件が恵まれてるから強くなったのに自然に周り見下してるから誰からも相手にされないんだよな。口開くだけで3番を煽るものな。一回弐と参が会話してるの見たけどもう言葉のドッジボールになってたし、壱なんかは弐をスルーしてて言葉のキャッチアンドリリースみたいな。

 ともかく、教祖には食事を少し我慢してもらって稀血を確保して、宗教団体の方で所有している土地を一つ借りてもう人間牧場できてるんだよ。まあ牧場と言っても、おいしい血を作るために野菜と鉄分多めの食事と適度な運動と、健康的な生活させている。男女の見合いもセッティングして、もう何人か稀血間の交配で妊娠してるし、多分普通に生きてるより幸せな人生送ってんじゃね。

 

『正直、人間を不死にする薬は、擬似的とは言え少し気が乗らないところがあった。鬼が増えることも、人間が死ににくくなり増えていくことも気にくわない。その点、育毛剤や水虫の薬なら別に問題はないね。むしろ私の視界からハゲがいなくなると思えばそちらを積極的に進めていきたいところだ』

 

 それにしてもあれだな、一人きりの実験室で独り言言ってんだよなこれ。一人で真面目な顔してハゲとか言ってんだからウケる。

 記憶の中の無惨様は音を立てて回る遠心機から視線を外して、ピペットをさらに巧みに操作して薬品を混ぜ合わせていく。良いピペット使ってんな。やっぱ一流製薬会社の主任ともなるとピペット一つとってもかける金が違うわ。

 

『鬼の組織化も、かなりの成果を上げているようだね。特に下弦の壱が随分と役に立っているようだ。現実と見紛う夢を見せることで人間の記憶を操り、鬼の本能すら壊し洗脳する。私は今、とても気分が良いよ』

 

 随分とまあお褒めくださることだ。でもそんなものを言葉どおり受け取る奴なんていねーっつの。このキングパワハラ、ぜってーなんか企んでるわ。もう声からしてうさんくせーもん。腹がたつけど、直接会った時はへーこら頭下げないといけないんだよな。こうして蚊通信だと社畜の呼吸使わなくて済むからほんと楽。

 

『どの鬼も私に完璧で完全な忠誠を誓っている。私のおかげで幸福であると謳い、稀血を凝縮させた薬と階級を求めて必死に働いている。以前のような怠慢さは見る影もない。ただ、この鬼たちを統括しているのは君だ』

 

 それが気にくわない、と。

 今までの朗らかさからは考えられない、冷たい声が記憶の中で響いた。

 

『君は私が思っていた以上に有能だった。鬼の組織化も私が考えていたよりずっと早く完了させ、完全に支配下に置き、さらには人間側まで支配しようとしている。そんな君は、これから何をするつもりなのか』

 

 無惨様が数歩ほど歩き、立ち止まった。そこには壁にかけられた鏡があった。無惨様のバストアップが記憶に映し出される。

 無惨様の赤い瞳が、俺を見据えている。

 

『力を手に入れた者はさらなる力を求めるようになる。欲望には限りがない。精神は、状況に慣れる能力があるからだ。どんな劣悪な状況に陥ってもいずれは慣れ、適応する。同じように、どんなに恵まれた環境に至り、自分がこの世で最も幸福だと感じても、その幸福にすら慣れる。慣れれば次は幸福に至った瞬間に得た幸福感を求めるようになる。さらに先に、さらに多く、さらに高みへ』

 

 高み。

 

『鬼たちに刷り込んだような『完璧な幸福』など存在しないとお前は知っている。知っているからこそ、お前は鬼たちを、互いに殺しあうような環境に押し込めた。それはいい。稀血薬を与えながら継承しつつ処刑し合うこの環境は、鬼を強化する場としては非常に効率が良い。以前と比べて、太陽を克服する鬼が生まれる可能性は上がっただろう。私が気にしているのはそこではない』

 

 無惨様の顔に血管がビキリと音を立てて隆起した。

 

『お前は必ず、さらなる幸福を求める。私を喰らい、鬼の頂点を目指そうとするだろう』

 

 無惨様が映る鏡にヒビが入った。破片が一部落ちて、甲高い音を立てて足元でさらに細かい破片となる。同時に俺の体も軋む。正体不明の外力が臓腑を締め付け一部砕かれ、眼窩と口腔から同時に血が噴き出した。吹き出す血をクリムゾンロードで操作し、体内にできた傷口を強引に縫合して繫ぎ止める。

 

『私が、貴様を殺さないのは。その有能さがまだ役に立っていることと。今もなお、太陽を克服する可能性が最も高い鬼が貴様であるからだ』

 

 そうだろう。そうだろうさ。そしてあんたは、俺が太陽を克服したら、上弦を引き連れて俺を捕らえに来るだろう。俺を喰らい、俺が得た日光への耐性を継承し究極生命体に至る為に。

 

『今後は発言に気をつけろ』

 

 最後にそう言い残して、盗聴野郎の記憶は終わった。体の軋みも収まる。

 いきなりのおこである。

 つまり、あれだ。俺と夏至ちゃんの会話とか、一部聞かれてたっぽい。

 もしかしたら今この瞬間俺が見ているこの景色も、あの破廉恥上司は共有しているのかもしれない。

 大分失礼なことを言ってたけど、それでも俺を殺さないのはやはり日光を克服したいからなんだろう。この千年、それだけを考えて生きてきた男だ。多少陰口を言われたくらいで殺すようなことはできないんだろう。それでもだいぶギリギリだったみたいだけど。

 まあ、呪いを外せば前に注射さんのところで見たカイリキー(♀)みたいに殺すことはできないはずだ。五感の共有もこれで遮断できる、はず。

 今までは無惨にバレないよう必要な時以外はあえて付け直していたけど、もういいや、外しっぱなしで。

 くそう。

 あのクソ上司、いつか全身の血を吸い尽くしてやるからな。



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第24話 童磨

 敵対が明確になったパワハラ男爵の下で薬を開発するのは止めることにした。

 あれの名前で特許とったら、結局財源があいつの紐付きになってしまう。協力関係を結べているうちはそれでもよかったんだけどね、一番手間がないし。

 でもそういうわけにはいかなくなった。何が悲しくて俺を食う気満々の破廉恥上司の力を増すような動きをせにゃならんのだ。予想より優秀だからなんて理由でキレるとかほんと、いやほんと、なんなの? いや俺だって陰口言いまくってたし、いつかあいつを無限に使える血液製造装置に改造してやると思ってたけどさ。人を食べるとかほんと最悪だわ。

 というわけで、次善策として上弦の弐こと童磨様のところに琵琶さんの力でやってきた。

 

「やあやあ半年ぶりだね。君の仕事ぶりは俺の耳にも届いているよ」

 

 童磨様は鬼の中でも数少ない、人間との関わりを持つ鬼だ。その人脈の広さは随一で、教祖という地位と相まってその影響力は実はあのクソ上司を上回り、クソ上司が普段からこそこそとやっている研究の費用も彼の信者から集めたお布施だったりする。

 

「それで、今日はどうしたのかな。わざわざ遊びに来てくれるだなんて。あ、これどうぞ。十三の少女からとった子宮の刺身だよ」

 

 ずい、と差し出された八角形の皿には、切り分けられた赤黒い肉が丁寧に盛られていた。その上には赤い粘性のある、ソースのような血液が細い筋状にかけられている。

 

「初潮が来た直後の子宮が一番鮮度が良くて珍味なんだ。どうぞ遠慮なさらず」

 

 いらねー。なんでそんなもん他人に勧めるんだこいつ。

 今腹いっぱいなので結構です、と断ると、童磨様は残念そうに眉尻を下げた。

 

「そっか、じゃあしょうがないな。美味しいのに。勿体無いから俺が頂くよ。君の案で作ってる稀血の濃縮薬もね、悪くはないんだよ、小腹が空いた時なんかに摘める感じで。でもやっぱり俺は肉と骨の食感が欲しいんだよね、そこに女の香りと悲鳴と、苦痛に歪んだ表情なんかが添えてあるととてもいい」

 

 朗らかに言いながら、箸で肉片を摘んではひょいひょいと口に入れていく。上品な箸の使い方だが、口の端から血が垂れてるのはなんなんだ。下手くそか。

 

「稀血を量産する薬なんてないかな。こう、双子や三つ子を産ませる薬。一組の番いから一年に一匹しか産めないなんて家畜として減点だぜ? 一度に生む数が増えれば、血を採るだけでなく肉として出荷する余裕も出てくるだろう?」

 

 そうね。その内開発しますよ。それはそうと、今回お訪ねした要件なのですが。

 

「ん? もう本題に入るのか、もっとゆっくりお話ししようじゃないか。いろんな鬼に遊びにくるよう誘っているのだけれどね、だぁれも来てくれないんだよ」

 

 俺だってできれば会いたくないんだけどな。笑顔が基本胡散臭いし、こっちに興味持ってないの丸わかりなんだよ。ここまで話し甲斐のない存在もそうはいない。興味を持たない、という意味ではあのパワハラマンだって変わらないのに、こいつの会話のし辛さはなんなんだろうな。こいつと会話すること自体が徒労な感ある。

 今回頼みたいのは、こちらで開発した薬の効果の検証をそちらの団体でやっていただきたいというものでして。

 

「ふむ? その薬はどんなものだい?」

 

 俺は鞄から書類を渡し、ざっと説明する。毛生え薬と水虫の治療薬。ネズミでは発毛率97%、人間でも今のところ牧場のを使って試したところ23人全員が塗布したところからの発毛を確認している。この後は疑似的な不死化薬の研究を本格化させるつもりだ。

 

「……いや、ちょっと予想外だよ。毛生え薬? ははは、たしかに禿げ上がってる人もいるからね。そうか、うちから出せば御仏の御威光的なことにしてしまえるし、いいかもしれないな。でもそれだと民間療法のそれと扱いが変わらないだろう? 薬を売るには許可が必要だったと思うんだが。いや詳しいわけじゃないんだけれど」

 

 別に一般に普及させるわけじゃないので。むしろ知る人ぞ知る感じで、一部の上流階級、国の警察権や流通、財政に影響力のあるところだけにこっそり贈呈する形にできれば、と。

 

「なるほど、金で売るだけじゃなくて、多方面から計られた便宜を御布施として受け取り、対して薬を万世極楽教からの贈呈品として差し出す、という取引だね。うちは宗教法人だから税金もかからないし、商取引じゃないから記録も残らないし、うん、いい案だと思うな」

 

 税金とか、鬼のくせに妙なところで人間臭いな。そんなん気にしてる鬼なんて多分俺とあんたの二人だけだぞ。

 

「じゃあ、その薬を人前で使って、効果を大々的に公表すれば良いかな。いや、しかし毛生え薬か。なんとも即物的な効果というか、いやいいんだがね?」

 

 御宅の教義と反するというなら他を当たりますが。

 

「いやいやそれには及ばないよ。それに不死化薬もいずれは作るんだろう? そういった、言ってみれば超常的な効果を持つ薬なんかは製薬会社よりうちみたいな宗教団体から出してしまったほうがむしろ受け入れやすいのさ」

 

 まあね。千切れた腕も生えてきます、なんて効果を持つ薬なんて、どれだけ説明しても嘘つくな、で申請を蹴られるだろうしね。だったら最初からお役所なんか無視して勝手にやればいいんだよな。

 

「それと、実は君に渡したいものがあるんだよ」

 

 話もひと段落し、さて帰ろうかと腰をあげかけたとき、童磨様からそんなことを言われた。なんだ、今度は乳房で作った回鍋肉かなんかか。

 いえ、人肉は結構です。間に合ってます。

 

「いやいや、まあ人肉といえばそうなんだけどね、ほら入っておいで」

 

 ぱんぱん、と童磨様が手を叩くと、俺から見て右側の襖が開き、一人の少女が入ってきた。

 髪は赤い。童磨様の頭頂部と近い、血のような色の髪を肩まで伸ばしている。目も同じく血の色で縦に裂けており、彼女が鬼であることがうかがえる。外見年齢は、まれちーよりさらに低い。

 この子は? 

 

「俺から、というわけでなくてね。実は無惨様から君に渡すように言われたんだ」

 

 ……なんで? 

 

「君、無惨様の『呪い』を自由に外せるんだろ? 君と感覚共有ができないと無惨様は言っていたよ。そこで、君に一人鬼を付けて監視することにしたんだって」

 

 君も無茶するねぇ、と童磨様はケラケラと笑った。

 いや、しかし、なぜその監視役を童磨様に渡してあるのか。

 

「その程度はお見通しってことだろうね」

 

 そう言ってなおもケラケラと笑い続ける。なにわろとんねん殺すぞ。

 

「笑わずにはいられないさ。今の君の滑稽さを見てるとね。君の行動はみんな、みーんな、無惨様の掌の上だ。釈迦の掌で遊ぶ孫悟空だってもう少し抵抗できていただろうね」

 

 パサ、と童磨様は鉄扇を広げ口元を隠した。その裏側からクスクスと小さな笑い声が聞こえる。

 

「おっと、勘違いしないでくれよ。俺は君を応援してるんだぜ? 君の言う通り稀血薬だって人間牧場だって協力してあげてるだろう? 薬の贈呈だって積極的にツテを使って君の求める人脈を広げていくよ。そうやって、個人の武力ではなく社会的な力をつけていく、という方向性は珍しいよね。とても斬新で、新鮮で、刺激的だ。今までにない道を進んだ先で君がどんな最期を迎えるのか、とても興味があるんだよ」

 

 うんうんと童磨は一人頷く。

 

「いつか無惨様を食らおうと無駄な努力を続ける様は見ていてとても面白いんだよ。無駄なことを無駄と知りながら続けて、ある程度の功績、鬼の組織化を成し遂げた。それも結局無惨様にまるっと乗っ取られることになるんだよね」

 

 目の前のナチュラル畜生は、ただ口を開くだけで相手を煽る。心がなく、配慮がない。心がある振りをしてただそれらしく振舞うだけの精神障害者。まともに相手にするだけ損であると、そんなことはわかっている。

 

「そういう意味で、君はとても人間らしいよね。人肉に手をつけなかったこともそうさ。君はまだ、自分が人間であることに拘っている。無駄な足掻きだよね、とっくの昔に、人間としての倫理観なんて崩壊しているのに」

 

 この程度で腹を立てるような俺ではない。今まで、平成の時代にどんな畜生と向き合ってきたと思ってやがる。この程度で煽られるほど俺は幼稚ではない。むしろ相手を憐れむべきだ、百年以上も生きていながらこんなことしか言えないのかと。

 

「子宮の刺身なんて見せられたら、人間なら嘔吐の一つもするもんだよ。でも君は何を思ったのかな? 可哀想? 気持ち悪い? 違うね、君は『不味そう』と思った。そうだろう? あはは、とっくに壊れてるものを、壊れていると知らずに維持しようと頑張るなんて、滑稽と言わずになんと言えばいいのかな」

 

 それで、彼女は? 渡されたあと私はどうすればいいんでしょうか。

 

「おっとそうだった。うん、彼女をね、常に侍らせておけ、とのことだよ。規則は三つ。彼女の視界から外れない、彼女に触れない、彼女に話しかけない。それだけ」

 

 完全に監視カメラ扱いだ。

 わかりました、とだけ言って、俺は席を立った。赤髪の童女も俺の後に付いてくる。その俺の背中に向かって童磨様が声をかける。

 

「薬の件は任せておいてよ。また遊びにおいで、いつでも歓迎するから」

 

 頭を下げ、心の中で思う。二度と来るかばーか。




童磨って本当に気持ち悪いなって書いてて思いました。
こんなのを煽れるカナヲさんまじパない。


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第25話 修行

 逃げてばかりの人生だった。

 

 

 逃げる先は色々だ。木の上だったり、洞穴だったり。じいちゃんが見つけてくれるという甘えだったり、どうせ自分なんてという諦めだったり。

 自分にとって都合の良い……否、都合の悪い認識の中だったり。

 そうやって、自分にとって都合の悪いものから目を逸らして。

 まれちーは言った。俺は、自分にとって都合の悪いように認識を捻じ曲げると。

 

『あなたの名前通りですね』

『名前?』

『善逸。善いものから目を逸らすのですよ、あなたは』

 

 だからもっと、自分を認めてあげてください、と。そう彼女は言ってくれた。

 まれちーが俺に対して全く、何一つ嘘をついていないと知ってから、俺は彼女から告げられた言葉一つ一つを思い返した。

 そのほとんどを俺は聞き流していた。騙されることが怖くて、陥れられないための防衛手段として、信じる信じない以前に、言葉を聞かないことを選んでいた。

 後悔が押し寄せる。

 そんな俺に対しても、まれちーはずっと言葉をかけ続けてくれていたのに。

 その有り難みを、今になってようやく理解した俺は、あまりにも愚かだ。

 

「で、なんで目ぇ閉じてんだお前」

「鍛錬の一環で」

 

 音柱である宇髄さんが尋ねてくる。

 まれちー曰く、俺は気を失い、目を閉じている時の方が動きが良いらしい。

 最初にそれを聞いた時は何を馬鹿な、と一笑に付した。意識がない時に体が勝手に動いて鬼を斬っているだなんて意味がわからない。

 でも、まれちーが言うならそれは本当なんだろう。

 俺は耳がいい。特に耳をすまさなくても対面する相手の体内の音を聞き取ることができる。

 それは心音や呼吸音、関節の軋みや筋肉の収縮する際の擦過音などだ。他にも衣擦れや重心を移動させた時に出る地面の圧縮音など、人が動く際には、本当に様々な音が伴うのだ。

 それらを、俺の耳は一つ一つ聞き分ける。

 攻撃を決意した瞬間には心拍数が上がるし、『呼吸』をしたら型を繰り出す合図になる。

 俺には、視覚なんて必要ない。

 目を閉じて、耳を研ぎ澄まして、自分の世界に入り込んで恐怖を振り払う。

 

「なめてんのかぁ!」

 

 右側方から迫る木刀を潜るように躱す。右足にかかっている重心の軽さはその足元から鳴った音の軽さからわかる。牽制を兼ねてその右足を払いにいけばその斬撃はあっさりと足を上げることで躱された。

 左から宇髄さんの右腕による袈裟斬りが迫る。雷の呼吸の壱ノ型の応用で、一瞬で方向転換、右に泳いでいた体の勢いを脚力でねじ伏せて逆側に弾け飛ぶ。袈裟斬りが前髪を掠めたが一撃にはならない。

 地を踏む音。膝関節の軋み。前蹴りの予兆音。

 金的に迫る宇髄さんの右足に左足を乗せる。

 浮き上がる体。

 ここで、目を閉じることの弱点に気づく。

 体がいきなり急加速で回転しながら跳ね上がった場合、これもうどうすればわかんないんですけど。え、なんでこんなに回転するの、柱の蹴りの威力高すぎじゃない? 

 目を開け、地面を認識して受け身の体勢に入ろうとするも、同時に宇髄さんの突きが視界に入る。

 柱の攻撃と落下ダメージの二択。

 もちろん柱の攻撃に対する防御に全振りして、かろうじて突きの直撃を避け、しかし受け身も取れずに地面に激突して俺は気を失った。

 

 

 

 

「お前の耳はどうなってんだ」

 

 目を覚ました後、開口一番に宇髄さんにそう言われた。

 

「体内の音が聞こえるって、意味がわからん。元忍として、薬物やら鍛錬やらで五感の強化もしている俺だけどな、流石にそこまでではねぇわ」

「生まれつきなんですよね」

 

 変わらず目を閉じたまま、俺は宇髄さんと草むらに座り込んで竹筒から水を飲んでいた。

 

「じゃあ今は? 水筒だって目を閉じたまま淀みなく持ったり置いたりしてるけどよ」

「会話していると声が口から出るじゃないですか。それの反響で周りのものの場所と形を聞き分けてるんですよ。会話しない時や一人の時はこう、口の中で舌打ちするみたいにして音を出してます」

 

 コッコッと口の中で舌を鳴らすと、宇髄さんは感心したように声をあげた。

 

「その年で常中もできてるし、体捌きも中々。あと単純に速い。音を聞くお陰で『早さ』もある。音感や律動を把握する能力も高いから、俺の『譜面』も受け継ぐことができるかもしれん」

 

 さすが胡蝶が推薦するだけはあるな、と宇髄さんは言った。

 

「さすが、というのは?」

「胡蝶は柱の中で一番後進の育成に力を入れているんだよ。人材を見極める目は良い、あいつの人選には大体間違いはない。まあ、俺に推薦してきたのは初めてだけどな」

「宇髄さんて癖が強いですからね」

「どういう意味だこら」

 

 お気になさらず、とだけ答える。宇髄さんはしばらく沈黙、おそらく俺を睨んでいたんだろう、していたが、

 

「雷の呼吸が壱ノ型しか使えない、つーのもまあ良い。単に雷の呼吸がお前に合ってないだけって可能性が高いし、譜面が使えれば正直型を覚える必要もない」

「そうなんですか?」

「相手の音の隙間に斬撃入れるだけになるからな。相手の攻撃を利用した迎撃が主体になるからこちらはそれほど威力を必要としないんだよ。だからあとお前に足りないのは」

「足りないのは?」

「派手さだ」

 

 何言ってんだこの人は。

 俺の戸惑いを他所に宇髄さんは立ち上がった。

 

「お前が眠ってる間に指令が来た。これから任務に向かうから準備しろ」

「派手さは?」

「場所は遊郭、鬼が出てるらしい事件が続いているそうだ。客として滞在して探りを入れる」

「ねえ派手さは?」

「今日の組手次第でお前を連れて行くかを決めるつもりだったが、まあ合格だ。喜べ、経費で遊郭を利用できるぞ」

 

 

 

 

 

 ───────────────────

 

 

 

 

 

「俺の実家に行くぞ竈門少年!」

 

 煉獄さんの継子になることを了承してもらって一月後、機能回復訓練に入って十日目のことだった。唐突にやってきた煉獄さんにそんなことを言われた。

 

「ご実家ですか? あの、それは何故か聞いても」

「一夜寝て思い出したのだがな、歴代の炎柱の手記が残っているのだ。そこになにか、君の言うヒノカミ神楽について書かれているかもしれない。まあ、俺は読んでいないからわからんがな!」

「そう、なんですか」

「どうする? もう少し体を癒してから行くか? 動けるようになったとはいえ、まだ全快とは遠いだろう、なんだったら俺が手記だけ持ってまたここに戻るというのも」

「いえいえ、さすがにそこまではさせられません! 行きます、行かせてください!」

 

 煉獄さんはニカ、と笑った。

 

「そうか! では君は出立の支度をするといい、俺は胡蝶のやつにその旨伝えてくるとしよう。ああそうだ、橋下少年、君も来い!」

「……」

「伊之助?」

「ん? ああ、俺のことか」

 

 俺の隣のベッドで我関せずと布団に包まっていた伊之助が覇気のない声で答えた。訓練で女の子に負け続けているのがよほど堪えているんだろう。

 

「聞いたぞ、君は自己流で呼吸を編み出したそうじゃないか。大した才能だが、それでも押さえるべき基本に抜けがある可能性がある。ついて来れば俺が指導してやろう」

「……あー?」

「ん? どうした橋田少年、声が小さいぞ」

「あ、あの伊之助は最近機能回復訓練で負けがこんでて」

 

 俺が庇うと、煉獄さんはふむ、と眉を潜めた。

 

「全集中の常中は使えるか?」

「なんですかそれ?」

「全集中の呼吸を常に、それこそ寝ている間も行い続けることだ」

 

 俺は絶句した。伊之助からも驚きの匂いがする。

 

「そ、そんなことできるんですか?」

「むしろ柱への第一歩だな! これができるとできないとでは身体能力が雲泥の差だ!」

 

 いや、全集中の呼吸って、少し使うだけでもかなりキツイんですが。

 

「うむ、やはり二人とも俺に付いて来い! 常中を修めるには何より心肺機能を上げることが肝要だ! 俺の実家とこの蝶屋敷を往復する間に指導をつけ、戻ってくるまでには常中を修めさせてやろう! そうすればその訓練で負けることもなくなるはずだ!」

 

 そんなわけで、俺と伊之助は煉獄さんとともに彼のご実家へとお邪魔することになった。

 走って。

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 人には才能という、厳然とした壁がある。

 人がもつ才能の総量は誰でもだいたい同じで、あとはそれをどのように振り分けるか、ということになる。大抵の人は多くの技量に均等に才能を分配して、秀でたものを得るよりできないことを減らす方向に才能を調整する。もちろん鬼殺隊の人間にそんな平和な真似は許されない。剣に才能を費やし剣士としての実力を上げる。

 だが、適性の低い分野の技術を習得するには適正の高い分野よりも消費すべき才能の量が多くなる。

 これは異能についてもそうだ。

 適性のない異能にどれだけ才と労力を費やしたところで、習得できないものはあるのだ。

 つまり、なにがいいたいのかと言うと。

 眷属化の異能を習得することは、恐らくわたしにはできないということだ。

 才能の総量が決まっているなら、私はきっとすでに自分の才能をこの目と剣技に費やしすぎてしまったのだ。

 これでは、善逸と連絡をとることができない。

 しかもおじさんから聞くに、彼は筋肉の塊のような男と毎日とんでもない速さで走り回り、決して一箇所に留まるようなことはないのだと。

 おじさんの眷属である蚊は、鬼の間では血を介した情報伝達が可能だが、人間相手にはそうもいかない。その上飛行速度に難があり、善逸を見かけた鬼から情報を吸った蚊がいたとしても、その蚊から情報を得た時にはすでに善逸は別の場所に移動してしまっているのだとか。

 参った。

 これでは、いつまで経っても善逸と再会できない。なんとか、彼の目的地を先に知ることができれば、

 

「まれちーまれちー、パンクの奴遊郭に遊びに行くってさ」

 

 ………………………………、は?




以前感想欄でいただいたコメントに、ネタやリクエストを活動報告で受けられるようにしてもらえると、というものがあったので、活動報告のところにネタ受け付け欄を作りました。なにかありましたらそちらの方に。皆さんよろしくお願いします。


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第26話 困惑

 まれちーは激怒した。必ず、かの破廉恥千万の阿呆をボコらねばならぬと決意した。

 そんなノリでまれちーは俺の研究所を飛び出してしまった。向かう先は遊郭だろう、蚊を媒介にして得る情報は数日から数週は遅れるから、今から行ってもまだパンクがいるかは不透明だ。それがわかっているからまれちーはあんなに焦って行っちゃったんだろうけど、琵琶さんに頼めば一瞬なのにね。まあまれちーは琵琶さんと面識ないし思いつけなくてもしょうがない、か? いや、琵琶さんを知らなくても瞬間移動の異能持ちがいるってのは知ってたはずなのにな。まれちー、どんだけ頭に血が上ってるんだか。

 

「いや、それ上司殿のせいだからな」

「……はぁ」

 

 夏至ちゃんの隣で監視ちゃんもその赤い頭を縦に頷かせる。何故か椅子の上に立って、ため息を吐きながらバカを見る目で俺を見下ろしてくる。

 いや、なんで監視ちゃんが会話に入ってんだよ。なんなの? 俺君に話しかけるなって言われてんだけど。

 

「……んー?」

 

 監視ちゃんは耳に手を当てながらこっちに身を乗り出してきて、「え、あんだって?」みたいな、志村がコントでやっていたような煽りムーブかましてきた。

 そうだね、話しかけたらだめだもんね。なんでもねーよ、なんも話しかけてねーよ。

 

「……はっ」

 

 こいつ、鼻で笑いやがった。チキンめ、と言わんばかりの、見下しきった視線をこちらに向けながらだ。むーざんの威を借りて調子に乗ってんなこのガキ。それともこれむーざんの指示なんだろうか。だとしたらあのパワハラ野郎小物過ぎないか。

 もういいや。夏至ちゃん、とりあえずまれちー回収して、そのまま遊郭まで送ってあげて。

 

「遊郭だと? そんなの嫌に決まっているだろう、殺す気か」

 

 殺す、だなんて剣呑な。いきなり何大げさなこと言ってんの、ちょっと距離があるくらいで死にはしないでしょ。

 

「過労死の心配をしているわけではないわ。そうでなくて、遊郭は上弦の陸の縄張りだろうが」

 

 そういやそんなこと言ってたね。妓夫と花魁の兄妹がペアで背番号6やってんだっけ。なに、上弦てそんなに縄張り意識強いの? 猫なの? 

 

「猫好きか。というか、上位の鬼の縄張りに下位の鬼が侵入するなど自殺行為だろうどう考えても。餌の横取りだぞ? 侵入するだけで敵対行動ととられ攻撃を受けることになる」

 

 なにそれメンドクセ。

 

「縄張り意識というか、餌の独占欲というか、そういう感情が上弦の陸は特に強い。奪ったら三倍以上を取り立てられる。体を関節ごとに切り分けてから毒で満たしたぴったりサイズの鉄の箱に個別に封じられて埋められる、なんてことが実際あったしな。他のところに遣いに行くのはいい、だが上弦のところだけは嫌だ。絶対だからな」

 

 ふーん、上弦のところは嫌か。じゃあ今度むーざんとこに送っちゃろ。

 まれちーは、どうかな。むーざんの血が入ってないから、鬼から見たら全然鬼に見えないんだよな。ガチ戦闘モードだと角生えて目増えて蜘蛛足飛び出ての人外丸出しスタイルだけど、普段は匂いも含めて人間そのものだしなぁ。鬼と誤認されることはまずない。

 

「あと先に言っておくが、まれちーを回収して連れ戻すというのもヤだぞ。私今異能を書類系に全振りしてるんだからな、戦闘特化のマジギレまれちーとか話しかけるだけでも命がけではないか。断固拒否だ」

 

 言いながら夏至ちゃんは腰を落とし、熊手にした両手をこちらに向けて威嚇する、断固拒否の構えをとった。なんだよ、連れ戻してから琵琶さんに送ってもらおうと思ってたのに。

 はぁー、つっかえ。

 あれもやだこれもやだって、夏至ちゃんってむしろ何ができるの? 

 

「事務系の仕事を散々やってやってるだろうが! 今も会話しながら予算申請書やっつけつつの判子三つ同時使用だ、見ろ私の机!」

 

 社畜の呼吸 肆ノ型 紫音。

 思考領域を分割させて分割思考し、作業の並列処理を可能にする。

 血の触手が夏至ちゃんの首筋から何本も伸びて、工場の機械アームみたいに書類の山を切り崩している。

 まあ忙しいけどさ、そこに暇そうに突っ立ってる奴がいるじゃん。ちょっと仕事させようぜ。

 

「⁉」

「え、それありなのか? 上司殿の監視だろう、話しかけるな、と言われたと」

 

 監視しながらでも仕事はできるし、話しかけるなって夏至ちゃんが言われたわけじゃないでしょ。どんどんこき使ってよ、むーざんだってそのくらいでごちゃごちゃ言うほど器ちっちゃくないでしょ。だってむーざんって、一番好きなものは『不変』なんだよ? そんなこと言ってる本人がそんなに感情豊かなわけないじゃない。まさかあのむーざん様がそんなに短気で心狭くて癇癪持ちであるはず痛ってえええええええ! 

 

「ど、どうした上司殿⁉︎顔面の穴から噴水みたいに血が出てるぞ!」

「……ぷっ」

 

 くっそ、呪い外すの忘れてたわ。むーざん様の野郎、監視ちゃん越しに聞いてたな、いやわかってたけど。

 床に溢れた血を触手で回収する。

 なるほどね。こうやって、むーざんの意思に反すること言った場合は痛みで警告してくるわけね。じゃあむーざん、監視ちゃんに仕事手伝わせるのは有り?

 

「……」

「……ん? 反応がないのか」

 

 つまり手伝わせてもいいってことでしょ。夏至ちゃんよろしく。

 

「……、………………⁉」

 

 ぶんぶんと顔を振って拒絶の意を示そうとする監視ちゃん。ここに来てからずっと俺と夏至ちゃんの労働環境を目の当たりにしてるからね、それを見ながらぼんやりできる優越感に浸ってたんだろうけどそうはいかねえ、社畜を煽ったらどうなるか教えてやるわ。

 

「うむ、では監視殿、まずは社畜の呼吸を覚えるところから始めよう。コツは五分間息を吸って、五分間吐き続けることだ。そうやって貯めた酸素と血液を脳に供給することで、脳を作る神経の繋がりを把握し自身の精神を操作できるようになる」

 

 ああやって説明しながらも、夏至ちゃんの机の上の作業スピードに変化がない。うん、肆ノ型を完全に使いこなせているな。

 

「……! ……!」

「血の触手は出せるか? 出せない? いかんな、作業効率を上げるためにはこれは必須だぞ。ああやって思考領域の数だけ作業ができるようになるし、脳の神経を直接弄れるし、精密性を上げれば薬の開発にも携われるからな。薬の成分が細胞内で具体的にどのように働いているかを観測器に頼らず直接評価できるからな。いきなりやると取り込む情報量が多すぎて脳みそ破裂するが、まあ鬼だし大丈夫だ。1日ほど白痴状態になるが回復はする。多分」

「……‼︎…………‼」

「まずは資材調達の申請書類やっつけて、下弦の弐に薬入れる瓶のデザインの草案提出催促して、傷薬の研究もしないとな。そろそろ手持ちの『血』が足りなくなってきたから捕獲された雑魚鬼から回収しないといけないし」

 

 狂気を滲ませる夏至ちゃんの笑顔に、監視ちゃんは必死に首を横に振って抵抗する。もちろん夏至ちゃんが貴重な労働力を逃すはずもなく、監視ちゃんは今まで立っていた椅子に無理やり座らされ、その小さな両肩を指の爪が食い込むほど強く握られている。揺れる赤い髪と一緒に両目から輝く涙がこぼれた。

 そんな涙目で俺に助けを求める視線を向けてくるけど、ごめんなー俺監視ちゃんに話しかけちゃダメなんだわーつれーわー助けを無視するのマジつれーわー。

 ざまあ。

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 

 

 

 

 見栄と欲の渦巻く夜の街、吉原。

 賑やかで、騒がしくて、そして禍々しい。

 女が体で男を集め、男が金で関心を求める。

 そんな、およそ私とは縁遠い街で、私は善逸の手がかりを探し彷徨っている。

 遊女という職業をバカにするつもりはない。需要があるから供給があるのだから。

 同情だってしない。彼女たちだって自分の人生や生き方に誇りを持っているだろうし、仮に後悔があったところで同情される謂れはないだろう。

 だが。だが、だ。

 なんだって善逸がここに来なければならない? 

 いや、確かに私はそういった方面では全く役に立っていなかった。婚前交渉はどうかと思うし、鬼殺隊として明日をも知れぬ戦いの毎日だったのだ、子供を作ろうなんて考えるほうがおかしい。

 でもだからって、妻である私が大変な時期に行かなくても良くないかな、と私は思うのだ。

 じゃああれか、将来私たちが結婚して、私が妊娠してそういったことができなくなったら、善逸はつわりで苦しむ私を置いて他所の女と遊びに行くのか。

 許せるわけがない。

 夫婦とは助け合いだ。

 自分の都合を押し付けるだけでは崩壊するし、遠慮するだけでは破綻する。

 適度な距離を、適度な触れ合いを、その時その場その状況、互いの体調と精神状態を慮りながら探っていかなければならない。

 今私たちは大きく距離が開いてしまったけれど。それでも私たちの心は繋がっているから。

 そう信じていたのに善逸あの野郎……! 

 イライラしながら歩いていると、なぜか私の周りから人が離れてしまった。目や角が出てしまったのか、いやそういう人外を見た驚きはない。

 まあいい、歩きやすくて結構なことだ。

 怒りに突き動かされて、移動を続けて十日。おじさんが蚊の眷属を用いた情報伝達の経過時間を考えれば2週間といったところか。さすがにそれだけの間遊郭で遊び続けるなんてことはないだろう、とっくにここから出て行っているはずだ。

 それでも手がかりは何か残っているだろう、なにせあの頭の色だ。2週間かそこらでは記憶が薄まることはないはず。

 とりあえず、私は今吉原の中で一番大きい店に来ていた。

 現在の吉原で人気のある花魁といえば鯉夏花魁と蕨姫花魁の二頭。彼女たちがいるときと屋と京極屋が最も大きく、務める人の数も多い。

 というわけで、私はまず京極屋へと来ていた。

 鬼殺隊の制服を着て、それっぽく振る舞えば、だいたいの人は畏怖を抱いて質問に答えてくれる。

 金色の少年が客として来なかったかと。

 草履を並べていたおかっぱ頭の禿に声をかけると、少女は私に待っているように告げ、慌てた様子で奥へと引っ込んでしまった。少し威圧が強かっただろうか。そうは思うも苛立ちが強くてどうにも加減ができない。

 というかなんで待たなきゃならない。一体何を待てというのか。

 地面をつま先で叩きながら、なんとか心を落ち付けようと店側から表通りの賑やかな雑踏を眺めていると、背後から足音が聞こえた。

 誰だよ、と振り返った私の中にあった焦燥は一瞬で霧散した。

 そこには頬に赤い紅を丸く塗り、唇を大雑把に赤く染めた、ヘッッッッッッタクソな化粧をした金髪の人物が立っていたからだ。

 

「…………………………………………」

「…………………………………………」

 

 私たちの再会は、こうして果たされたのだった。

 

 

 

 

 えぇ…………。



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第27話 潜入

テストが終わったので久しぶりの投稿です。


 言いたいことは山ほどあった。

 私のことを忘れたのか、別の女を選んだのか、怪我していないか、病気はどうだ、修行は順調か、どのくらい人を助けてきたのか……そんな言葉の数々は、一瞬で脳から焼却された。

 目の前の光景が、あまりにも衝撃的過ぎたからだ。

 なにせ女装である。

 

 旦那が、女の格好をして、遊郭に勤めてるのである。

 

 言いたいことが消えた代わりに、新たに聞きたいことが山のように出てきた。

 それらが出口を求めて同時に口へと殺到し、結局そのどれもが言葉にならずに喉奥へと押し戻されて意味のない唸り声になった。

 それでも、かろうじて出てきた質疑は、こんなものだった。

 

「何を、しているんですか、善逸」

 

 震える横隔膜から絞りだす声は、普段の張りが全く込められていない情けないものだった。

 しばしの沈黙を挟んで、今度は善逸が、

 

「…………………………です」

「え?」

 

 声が小さ過ぎて聞き取れなかった。思わず聞き返すと善逸は覚悟を決めた凛々しい表情(化粧付)で、

 

「善子でぇす(汚い高音)」

「まじかよ」

 

 思わず声が漏れてしまった。

 まじか、まじなのか善逸。あなたを見つめてきた私に対して、こんなしょうもない女装が通じると思っているのか。

 それは流石に人をバカにし過ぎではないか。

 …………いや。

 私の脳裏に、背筋の凍る予想が過った。

 まさか。

 そういうことなのか。

 善逸は、善逸ではなくなってしまった……? 

 善逸は善逸ではなく善子ちゃんになってしまったと。

 つまり、すでに善逸の善逸は旅に出てしまった、と。そういうことなのか。

 

「ご、ごめんなさい善逸……いえ善、子ちゃん」

「え、ちょ、なんで泣いて(汚い高音)」

 

 もはや取り返しの付かない。どこで切り取ったのかは知らないが、もはや文字通り、取り返したところでくっ付かないのだ、善逸の善逸は。

 認めがたい事実だ。一体どういう経緯で善逸が女性として生きることを選択してしまったのか。鬼殺隊の命令か、あるいは私が逃走した罰則として、切腹の代わりに割礼を強いられる去勢刑を受けたのかもしれない。

 だとすれば、これは私のせいだ。

 恐らくは、介錯も付けられず、匕首をもって自分で切断させられたのではないか。広場で、一人孤独に、下半身丸出しで羅切を実行したのだろう。

 しかもその上に、だ。そんな仕打ちを受けておきながら、さらに鬼殺隊は善逸を遊郭に売り払い、女として客を取らせているのだ。

 そんなのあんまりではないか。

 頑張ってきた。善逸は、その臆病な心に鞭打って、ずっと頑張ってきたんだ。頑張って、頑張って、頑張り抜いたその果ての結末がこれなんて、そんなのはだめだ。

 頑張ったのなら、その分報われるべきではないか。

 少なくとも、このままここで男を取り続けるのはダメだ。

 

「いくらですか」

「な、なにが? (汚い高音)」

「善、子の値段です。身請け金はいくらですか」

「ちょっと待って(素の声)」

 

 らちがあかない。というか、身請け云々は本人に言うより女将や番台に言うのがいいだろう。

 善子の脇を通って店内へと踏み込む。さすが、遊郭の中でも指折りの店なだけある、綺麗な建物だ。ネズミの毛やら糞やら、力尽きた鬼がそこらに転がっているおじさんの研究所とはえらい違いだ。

 

「待って、まじ待ってまれちーこれ任務」

「なんですか善子、大丈夫ですよこれ以上意に沿わない形で体を売る必要はありません。お金は心配いりません、おじさんが結構な出世をしまして、そこから経費で落ちますから」

「体⁉︎売るって」

「これからはずっと一緒にいましょう。今まで離れ離れになっていた分を取り戻すために、四六時中手を繋いで、お風呂もいっしょに女風呂に入って、寝床も一つで添い寝です。子供が作れなくなったのは少々残念ですがそんなことは些細な問題です。おはようからおやすみまでずっとずっと一緒です」

 

 善子の顔を正面から見据えた。

 

「もう大丈夫です。もう男と寝る必要はありません。これからは私があなたを守りますから」

 

 この世に蔓延る悪意から守る盾になる。その誓いを今ここに、改めて誓う。私のせいで善逸は善子になってしまったけど、その贖罪もかねて、私は生涯彼女の盾となる。

 

「……あ、わかった! 女風呂って、違うぞまれちー! 俺別に性転換したわけじゃないからな⁉」

 

 ………………? 

 性転換、していない? 

 

「で、では、善逸の善逸はまだあるのですか?」

「ああ、俺の善逸君はまだ健在だ」

「善逸には善逸が付いているから善逸は善子ではなく善逸のまま?」

「ああそうだよ善逸は善逸のままだよ、善子じゃない、ごめんな嘘ついて……てなんだこの会話」

 

 待って。待ってくれ。じゃあ、どういうことだ? 

 つまり、善逸の体は真っ当な男性のままで、にも関わらず男相手に商売をしている、と? 

 いや、もちろんそういった嗜みがあることは知っている。時代によっては女性との交わりは子供を作るためだけで男性間の交際こそ真の愛情であるとする価値観もあったということは聞き及んでいる。

 がく、と膝から力が抜けた。掃除の行き届いた床に四つん這いになってしまう。

 まれちー⁉︎とこちらを心配してくれる善逸の声が遠く感じる。

 

「……体が」

「え、は?」

「体が女になってしまったんなら、まあしょうがないという諦めもつくわけですよ。その体でも作れる愛の形というのもありますから、失ったものに拘泥せず前向きにいきましょう、と思えるわけです」

「いや諦めないでくれよ! やだよ俺の善逸君失くすの!」

 

 震える足に力を込めて、なんとか立ち上がろうとするもどうにも足が定まらない。

 

「善逸を他の女に取られることを考えて、私は怒りに震えました。これ以上の怒りはないというほどに怒り狂いました。なんか額に変な痣が出るくらい怒りました。でもそれよりもっと恐ろしく、もっと惨めなことがあるのだと気付いてしまったんです」

「いや、他の女に靡いたりとかないからね?」

「女に取られるならまだいいんですよ。それは、その女より私が至らなかったということですから。また努力して寝取り返してみせます。でももし、もし善逸を男に寝取られてしまったら、女の私にはもうどうしようもないではないですか……!」

「ひでぇ心配だな⁉」

「あ、でも私眷属としての力を使って身体改造すれば新しくくっつけることも、よし」

「くっつけたもので俺に何をするつもりだ!」

「ちょっと虫の足っぽくてトゲトゲついてますけど」

「どうしたのまれちーちょっとおかしいぞ!? なに、もう付けちゃったの!?」

 

 おかしいのは当然だ。

 正直に言わせてもらうと、私はもっと劇的な再会を期待していた。

 蚊を使った情報網から善逸が大した罰も受けずに済んだと聞いていたからこそではあるが、あの那田蜘蛛山で思いが通じ合い、地下牢で約束しあった私たちだ。人外へと落ちたことも厭わずに受け入れてくれた善逸の優しさを思いながら、いつか再会した時のために努力を続けていた。

 そんな努力に相応しい、劇的かつ感動的な、それこそ上弦の鬼に追い詰められた善逸の許に颯爽と駆けつけて救出しぃの、二人の愛の力で打倒しぃの、という展開だってありえたわけだ。

 それが、このざまである。意味のわからない女装をした善逸と涙の再会なんてできるわけねーのである。かと言ってこれで「やっほー久しぶりー最近どう?」なんて普通の友人風な会話を続けられるわけもなく。

 おっかしいなぁ。こんなはずじゃなかったんだけど。

 もうどんな調子で善逸と会話をすればいいのかもわからない。

 そんな困惑を、おそらく善逸も感じているんだろう、館のような娼館の廊下で互いに俯きがちに見つめ合っていると、

 

「何をしてるの? 善子」

「あ、雛鶴さん」

 

 通路の横道から出てきた豪奢な着物姿の女性が、善逸に話しかけてきた。

 

「ゴホッ、そちらは?」

 

 そうとうな美人だ。泣きぼくろがまた色っぽい。だがそれ以上に目につくのはその顔色の悪さだ。蒼白で、目の下の隈もひどい。編み上げた髪も一部が解れ、発汗も顕著だ。

 

「あ、こちらは俺の、えっと」

 

 善逸に軽く促されて一歩前に出る。

 

「初めまして、善逸の妻のまれちーです」

「……妻? まれちー?」

「まれちー、この人は雛鶴さんと言って、俺の上司の奥さんだ」

「え、善子、この子はまれちーが名前なの?」

 

 さすがにちょっとムッとした。

 

「そうですよ、私の名前が何かご迷惑でも?」

「あ、ううん。ただ、素敵な夫婦だなって」

 

 なんだ、いい人か。

 

「雛鶴さん、体調が悪いんですか? 随分具合が悪そうですけど」

「あら、そうかしら」

 

 善逸の指摘に雛鶴お姉さんは首を傾げたが、この発言が嘘であることが私にはわかった。恐らく善逸も見抜いただろう。しかし同時に、なにかに警戒しているような瞳孔の動きが見られた。

 ここで働くなら遣手にまず話を通すのよ。そう言って雛鶴さんは奥の部屋へと引っ込んで行った。

 ステキな女性だった。あんな女性を嫁にもらえる男は幸せ者だ。私たちをお似合いと言ってくれたし、とてもいい人だ。

 

「というか、善子や今の雛鶴さんはどうして遊郭に? 雛鶴さんは既婚者で、善子は男です、善子は男に転んだわけではないんですよね?」

「そんなわけあるか、俺は女の子でしか興奮しないから。あったかくて柔らかくてなのにほっそりしていて乳尻太ももが二つずつ」

「善逸」

「いや、えっと」

 

 善逸は一拍の間をおいて。

 

「俺たちは、遊郭に潜む鬼を探しているんだよ」



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第28話 醜男

アニメでついに善逸が登場、活躍しましたね。
善逸の魅力がこれ以上なく描かれていてファンとして大満足でした。


 鬼の血には様々なものが宿る。

 それはいい匂い成分だったり、毒だったり、記憶だったり。それぞれの鬼が独自に習得する血鬼術によって宿るものは変わるが、その容量というか柔軟性というか、まあなんというかどれも医学に喧嘩を売っているようなものばかりだ。

 で、まあ思ったわけだ。

 血の中で毒を作れるなら薬だって作れんじゃね? と。

 

「誰だぁ? てめぇ」

 

 額にぶっとい血管を浮かせて不満をこぼすのは、歪な骨格の男だった。

 肋骨が浮き出て、腹部は脊椎以外の内臓が取り立てられたのではないかというほどに細い。顔には奇妙な痣が不規則に散らばっていて、眠そうな目つきと肌色の青さも相まって死にかけの病人にしか見えない。夜のない街である吉原の、灯が届かない薄暗い路地にゆらりと立つ男の姿は幽鬼さながらだ。

 その瞳に刻まれている文字は上弦、陸。

 改革が行われた鬼集団、新たな名を妄執鬼楽団。その一団における戦闘部隊『上弦』の一翼を担う鬼。

 

「俺達の獲物を奪おうってか? バラして埋めるぞぉお前」

 

 ふた振りの鎌が空を走る。縦横に巡らせた俺の血の繊維が一瞬凝固して鎌の軌道を逸らし、その切っ先は俺の髪を数本切りとばすに留まった。

 別に獲物を奪うとか縄張りを侵すとか、そんな意図は全くない。ただ、ここ吉原に向かったはずのまれちーがこの辺りで消息を絶ったのだ。まれちーが研究所を出たのがもう2週間前。彼女の足取りを探しにここまできたのだ、が。そしたらいきなりこれである。通り魔良くない。

 なんなんですか、なぜいきなり攻撃してくるのですか。

 

「あぁ? 目の前に転がってきたクソを肥溜めに捨てるってだけだ、なぜも何もあるか」

 

 上弦の陸は妹様と常に共にいると聞き及んでいたのですが、今日はお一人ですか? 

 

「あいつは仕事だぁ」

 

 ……なるほど。この兄妹は二人の首を同時に切断しないと殺せないという話だった。妹を人混みに紛れさせて鬼殺隊が手を出せない環境に置きながら、戦闘力特化の醜男が敵に突撃する、と。

 しかもその血には解毒できない毒が入ってて、かすり傷一つで勝ち確、てか。

 なにこれ、強すぎね? 醜男のくせに頭使った作戦立ててて生意気じゃね。

 

「無惨様から指示があってなぁ。今後妹を戦闘に巻き込むの禁止ってなあ。まあ確かにあいつは戦うのに向いてねえからよぉ」

 

 あー、それ多分俺がむーざんに言ったやつだわ。上弦ってどんな鬼? て聞いた時だ。同時に首切らないと死なないのに一緒に行動するの許してるとかバカなの死ぬの? つったらむーざん激おこでな。呪いは外してるからむーざん遠隔攻撃はできないんだけど、代わりに監視ちゃんの眼球から超圧縮された血がウォータージェットの要領で俺の首を切り裂いてな。監視ちゃんもすげぇびっくりしてた。むーざんが操作して目からジェット出させたみたいだけど、なんか監視ちゃん、自分にそんな機能がついてるなんて知らなかったみたい。

 で、今も後ろから俺をガン見してるんだよね。いつでも目ジェット撃てるように。

 あとこっそり俺の影をぐりぐり踏んでるでしょ。影の頭のあたり。なんなの? ガキなの? 

 

「なぁにぼけっとしてんだぁ?」

 

 醜男は独り言のような呟きを拍子にして、ゆらりゆらりと体を左右に泳がせる。両手にぶら下げた赤黒い鎌を不規則に揺らす。鎌と体の動きがバラバラで、先の動きがまるで予測できない。

 狭い路地でははっきり言って俺の血鬼術の独壇場だ。そう思ってここまでこの路地まで醜男を引き込んだのに、逆にここでは前後にしか逃れられない分こちらが不利になってしまう。

 やむをえない。

 やはりここはかつて培った営業スキルを駆使して……! 

 

 クスリ、ウル。イモウト、モウカル。キミ、ツヨクナル。

 

「………………」

「……プッ」

 

 なに笑てんねん監視こら。

 ていうか、醜男さんなんか反応してくれませんか? 体の揺れもぴたりと止めて、死んだ魚じみた目を見開いて首を真横に傾げたままこちらを見ている。なに、女に相手にされないからって男色に目覚めたの? 

 

「…………儲かるのかぁ?」

「……⁉」

 

 まさかのヒットである。

 背後から驚愕の気配が伝わってくる。軽く振り向けば監視ちゃんが口半開きにして目を見開いていた。ちょっと驚きすぎじゃね? なんで天気を気にしてんだよ、槍なんか降らねーよ。人間の頃はエリート営業マンだったってお前に聞こえるように夏至ちゃんと話してたじゃん、なんで聞いてねーの。

 

「薬って、あの最近食ってるあの赤い錠剤かぁ? 稀血で出来ててすげえ腹膨れるやつ。俺はあれでもいいんだけど妹が嫌がってなぁ」

 

 それとは別の薬ですね。人間用のものをいくつか用意してます。さらに、上弦の陸であるあなたの血鬼術を活用して新しい薬を作ることはできないかと考えています。

 

「俺の血鬼術を奪おうってのかぁ?」

 

 いえ、奪うのではなく、あなたの血鬼術を矯正して血の成分調整ができるようにして、毒だけでなく様々な効果を持つ血を生み出せるようにして、それを妹さんを通して人間に売れば金になるのではないか、と。

 

「……矯正たぁ、めんどくせぇなぁ。俺ぁ上弦だぜ? 無惨様直属の戦闘部隊だ。なんでそんなダルいことしなきゃならねぇ、もっと楽に稼げる方法持ってこいよ埋めるぞ」

 

 子供か。そんなわがままな要求、営業マン時代でも言われたことないわ。

 いいじゃんか、どうせ妹の中で暇してたんだろ。寝てばっかじゃなくて少しは仕事しろよ引きこもり。

 

「引きこもりじゃねーよ、あいつを側で見守ってんだよあいつバカだから守ってやんねーとすーぐ泣いちまうんだよ」

 

 うっそ、あのクソ女泣くの? あの癇癪持ちの傲慢女が? 蚊を通して一回見たけど、あそこまで涙の似合わない女ってそうはいないぞ? 

 どうやって泣くの? 女らしくシクシク泣くの? 

 

「いや、ぎゃーんて。お兄いちゃあああんうおぉぉおおああ! て感じだぁ、いいだろ?」

 

 えぇ……百歳越えでそれってどうなんですかね。引くわ。

 

「ばっかそういう頭緩いところが可愛いんだろうがバカだなお前」

 

 バカはお前だよ体の中から妹見守るとかキモい性格が顔に出てるからそんな顔なんじゃんマジキモい。

 

「うるせえ死ね」

 

 腕から風のように生えた血の鎌が俺の首を裂いた。周囲に張ってたクリムゾンロードを巻き込んでだ。

 傷口から血流に毒が混ざる。

 いや、ちょ、痛、まってこれ毒の威力高すぎぃ! しかしクリムゾンロード、血管に入った毒を即効抽出して血の球にしてから後ろにパース。

 

「……⁉」

 

 あ、ごめーん監視ちゃん顔面に当たっちゃったーしゃべんないからそこにいるって忘れてたわー。

 

「……! ……っ…………、あっつ……!」

 

 顔を押さえて畳を転がりながらどったんばったん大騒ぎする監視ちゃん。ごめんなー助けたいけど関わったらメッてむーざんに言われてるんだわー。つうかお前ホントは口きけるのな。

 

「お前、えげつねえな」

 

 何引いてんだよ、いきなり斬りつけてバラして埋めるとか言ったあんたに言われたくないんですけど。

 それに監視ちゃんにはクリムゾンロード与えてるから、頑張れば自力で抽出できるよ。激痛の中でミクロ単位の血を操作して身体中を調べて毒の分子を一つずつ取り除いていけばいつか終わるよ。余裕余裕。

 

「…………⁉︎…………、…………!」

「あー、で? 一体俺に何をさせたいって? 具体的にはなんの薬よ?」

 

 そちらの血鬼術を一部譲渡……うそうそ、そんな血管浮かせて鎌構えないで。そちらでこれらの薬を作って欲しいのと、この遊郭からそれを売って売り上げの一部を譲ってほしいなって話。

 

「あー、なんか思い出した。遊びに来た弐の阿呆が言ってたわ。あれだろぉ、ハゲに効く薬」

 

 あと精力剤もできたよ。不死化薬の廉価版て感じで、塗るか飲むかすると元気いっぱいになる薬。男女共用。遊郭だと需要高いでしょ。こいつらをあんたの妹さんが抱えてる上客に売って欲しいわけ。

 

「あー、まあ売れそうだなぁ。でもなぁ、血鬼術の矯正てのが怠いなぁ」

 

 そこで、俺の血鬼術をそちらに譲渡します。

 

「てめぇのを俺にか?」

 

 さっきもちらっと口にしましたが、俺の血鬼術があれば血中成分を自在に操作できるようになります。毒を生む血鬼術を自分で弄れるようになれば、どんな調合でも自在にできるようになる、かも。

 

「それが『キミ、ツヨクナル』の部分かぁ。確かに、俺の毒ってどうにも即効性が低い気がしてたんだよなぁ、その辺も改良できるようになるかもだし……いいぜぇ、特別にお前はここにくることを許可してやる」

 

 ありがとうございます。それじゃあまずは俺の血鬼術を……と、右手を差し出したところで、遠く西の方角からおかしな声が聞こえた。

 

 ────ぅおおおおぉぉおおぉぉおぉぉぉおお

 

「……あぁ? なんの音だぁ?」

 

 それは風のような、あるいは獣の叫びのような音だった。

 

 ────ゃあああああぁぁぁああぁぁぁああぁぁ

 

 しかもそれはどうやらこちらに近づいてきている。俺や醜男さんだけではない、地面を無様にのたうちまわっていた監視ちゃんも体を起こして声のする方角を睨みつけ、戦闘態勢に入っている。

 

 ────ぅぅうぉにいぃぃいいぃぃぃいぃぃいいちゅあぁぁぁああぁああぁぁん

 

「……あ」

 

 近づいてきたその音が、どうやら女性の声であることがなんとなくわかった。

 というか、醜男さん、今「あ」つったでしょ。うん、俺も気づいた。

 

「おにいいぃぃぃちゃあああああん!!」

 

 路地を挟む建物の屋根をぶっ壊して、女が一人頭から落ちてきた。ついで体が地面に叩きつけられる。

 女は白い髪をしている。その下には気の強そうな吊り目が涙に濡れて光っている。顔立ちはとびきりの美人だとは思うけど、それも涙と鼻水と涎と血糊でぐちゃぐちゃで見るに耐えない。

 というか、むーざんもこいつのこと美人だの美しいだの言うけどさ、性根の捻じ曲がってるところが兄同様もろに顔に出ていて俺的にはノーサンキューだわ。ということを夏至ちゃんに愚痴ったら『向こうだって上司殿はのーさんきゅーだろうさ』との言葉をいただいた。つまりwin−winな関係ってことだな。

 

「お、お、おに、おにぃちゃ、うわあああああん!!」

 

 何より気になるのは、イモートの首が体から離れてることなんだけど。

 なにこれ、イモートだって一応、最弱とはいえ上弦に入ってるんですけど。まさか鬼殺隊の柱とやらが来ている?

 

「どうした? なんで首ちゃんとくっつけねーんだよ、相変わらず頭弱いなぁお前は」

「うぅぅうう、うううう……!」

「……どうしたぁ? なんでそんな震えてんだぁ?」

 

 イモートの様子がおかしい。カチカチと顎を鳴らして、首から下もブルブルと震えている。そのせいで醜男さんが首の断面に乗せた頭部が癒着する前にころりころりと肩から転がり落ちて、何度やっても再生しない。醜男さんもだんだんイラついてきてるのが後ろから見ててもわかる。再生させるより先に事情を聞き出すことを優先した。首を持って視線を合わせて、

 

「何があったぁ?」

「あ、あいつが」

「あいつ?」

「黄色い頭のブサイクなガキが」

 

 おっと、身を隠す準備をしないといかんなこれは。

 

「黄色?」

「寝てるような顔してるのに攻撃全部避けられて、どこに逃げてもすぐ場所がばれて追いかけてきて、い、い、一瞬で首切られて、稀血はどこだって意味わかんないこと言ってて……!」

 

 クリムゾンロードで地面に穴を掘る。一応監視ちゃんも穴の中に蹴り込んで、血で蓋を作って土を被せる。

 がちゃり、と頭上から音がした。

 屋根にあった砕けた瓦が踏まれた音だろう。

 穴の中から片目分の穴をこっそり開けて外を見れば、屋根の上に一人、子供が立っていた。

 子供は女物の和服に身を包み、腰には日本刀を提げて、顔にはヘッタクソな化粧を施している。イモートの言うブサイクなガキという評価はまさに正鵠である。醜男さんとは別ベクトルでブッサイクである。

 本当にブッサイクである。100年の恋も冷めるレベルだ。あんな顔を晒して道を歩くくらいなら顔を焼いてしまったほうがマシなほどである。

 その上、髪の色がパンクでファンキーな黄色なのだ。ただでさえブサイクなのに、天はなんの意図があってあの少年にこれほどの困難を与えたのだろう。あれの妻を名乗ることになる女性がいるとしたら同情を禁じ得ない。

 しかも、なんだ、化粧に失敗したのだろうか。

 その黄色い髪の下には、赤黒い痣のようなものが浮いていた。




鬼滅の刃のガイドブック、まだ手に入れてません。次の更新は来週のテストが終わって、ガイドブックを熟読してからになります。


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第29話 譜面

 月を背に立つ少年が納刀した。

 それは戦意を失った、わけではない。

 むしろ、先までよりもその殺気とも呼べる気配の濃度が増している。

 眠らない街吉原とはいえ、その路地裏であれば煌々と夜を侵す提灯と電灯は届かない。暗く、死臭すら漂う路地裏で、少年の醸し出す殺意と憤怒が闇に染み込んでいく。

 そんな空気の中で少年が口を開いた。

 

「まれちーを返せ」

 

 静かな、しかし断固とした意思とともに吐き出された言葉に、上弦の陸の主格たる妓夫太郎が傾いていた首をさらに傾げた。

 

「稀血だあ? そんなんここには」

「お前がまれちーの名前を気安く呼ぶな!」

「……何言ってんだあ、あのガキ」

 

 いつの間にか首を繋ぎ直した堕姫が怒りをあらわにしながら、

 

「不細工の分際で調子に乗りやがって、お兄ちゃんがいるんだからあんた絶対死んだからね! お兄ちゃんに人間が勝てるわけないんだから!」

「そうだなあ、頭の弱い妹をいじめやがってなあ。許せねえなあ絶対殺してやるからなあ」

「そうやって不細工な格好して油断を誘うつもりだったんでしょうけど、残念だったわね! 普段からお兄ちゃんの顔見てる私はそんな程度の不細工じゃ油断なんかしないんだから!」

「……」

 

 兄は曰くし難い表情で沈黙した。

 

「まれちーを返せ」

「またそれ……! 聞いてよお兄ちゃん、あの不細工さっきからずっとあんな感じなの! 稀血稀血ってそればっか」

 

 声が途切れた。

 妓夫太郎が背後を振り返る。

 屋根の上に立っていた頭のおかしい見た目の子供が、たったの一歩でそこまで移動していた。

 彼を盾にして少年を罵倒していた妹の、繋いだばかりの首がまた落ちていた。

 どす、と地面に堕姫の頭が転がる。

 落ちてからようやく自分が切られたことに気づいた堕姫は驚愕に目を見開き呟いた。

 

「なん、なんで?」

 

 妓夫太郎は目を細めた。

 今まで柱を15も殺し、食らってきた鬼である。そんな自分の目でも、今の居合を追うことが困難だったのだろう。

 傍目にもそれはまさに神速。その髪の色だけが闇夜のなかに残した残像のお陰で、かろうじて女装した剣士の斬撃の軌道を把握できた。

 

「……なんだぁ、てめえ」

 

 振り返りながら妓夫太郎は己の右手に持つ血鎌を視界の隅で見た。

 欠けている。

 堕姫の首を刈り取ったついでとばかりに放たれた斬撃を受けた時にできたものだ。

 神速の斬撃に無意識ながらに反応できたのは、彼が生来所有していたその情報処理能力のお陰である。

 

「あの方の言うとおり、だなあ」

 

 その一撃で妓夫太郎は悟ったように言葉を口にした。

 主たる鬼舞辻無惨の言葉は正しかった、と。

 自分の妹は、足手まといになる。片目を貸して、妹を動かしながら戦うなど、目の前の女装剣士にはただただ隙を晒すだけである。

 

「おい」

「うぅぅ、なんでわたしだけ……なに? お兄ちゃん」

「お前は首抱えて逃げろ、で早く繋げとけ」

 

 なぜ。そう激昂しかけた妹を兄は右眼の視線一つで黙らせた。

 兄の視線に宿る緊迫を、その緩い頭で感じ取ったからだ。

 

「……わかった。でも絶対殺してよその不細工! ブス! 童貞!」

 

 捨て台詞を吐き捨てて、堕姫は路地のさらに奥の方へと消えていった。

 

「……童貞は関係ねえだろがあ」

 

 何故か兄の方がダメージを受けていた。理由はわからない。ボリボリと彼は自分の顔をその鋭い爪で掻き毟る。癖なのだろう。

 彼は嘆息しながら善逸へと視線を戻す。

 

「お前も大変だなあ、そんな不細工に生まれてなあ」

 

 これは、普段の彼からはありえない言葉だった。

 妓夫太郎は生まれつきその醜い外見で、あらゆるものを奪われてきた男だった。何も持たず、与えられず、疎まれ恐れられ。だから他者から奪い続けてきた。

 自分以外の人間は、自分より多くのものを持っているのだから。

 自分は奪われてきたから、多きを持つ者から取り立てても構わない。自分には取り立てる権利があるのだと。

 そんな思考が根幹にあるこの鬼が、そんな独りよがりな哲学だけで上弦に辿り着いた男が、目の前の少年に対してまるで慰るような言葉を吐いた。

 

「そんな顔に生まれちまってなあ。神やら仏やらが本当にいるかなんて知らねえけどな、もしいたらそいつは大層性格が悪いんだろうなあ。俺もまあ醜く生まれてきたと思ってたけどなあ、流石にお前ほどではねえわ。お前、親は?」

 

 上体ごと首を傾げ、またボリボリと今度は首元の肌を自らズタズタにしながら問いかけた。

 

「……顔も知らない。名前をつけられる前に捨てられた」

「そうか、そうかあ……俺には妹がいたからなあ、下には下がいるもんだなあ。お前みたいなやつ結構嫌いじゃねえ。俺は惨めで汚いものが好きだからなあ。なあお前、鬼にならねえか」

「ならない」

 

 善逸は即答した。

 

「まあそう言うなよなあ。鬼になって、今まで奪われてたもんを取り立てんだよ。自分が不幸だった分は幸せなやつから取り立てるんだ。辛かっただろ? 不幸だっただろ? 幸せを満喫している馬鹿面見るとぶっ壊したくなるだろ? わかるぜ、お前の匂い、卑屈で、自分の存在すら疎んでる匂いだ。孤独で、誰からも疎まれて、女にも相手にされずになあ」

「俺には妻がいる」

 

 時が止まった。頬を掻く指の動きも止まる。

 慈しみの目を善逸に向けていた妓夫太郎は、彼の言葉を聞き。

 一拍を置いて、沸騰した。

 

「お前女房がいるのかよおおおお! ふざ、ふざっけんなよなああああああ‼」

 

 妓夫太郎が両腕を振るう。血の色をした二本の鎌から、血でできた薄い刃が飛んだ。路地を満たす、縦横無尽に風を切りながら飛び交う死の刃。その数は大小あわせて三十強。それらがまるで壁となって剣士に迫る。このような狭い路地裏では回避できる場所も限られている。刃の隙間をさらに刃で埋められ、女装剣士がどれだけ速さに自信があろうと回避は不可能。

 それを善逸は一本の刀で捌いていく。掠れば必殺の猛毒が込められた血鎌を、彼は真正面からいなし、捌き、凌ぐ。

 一歩、前に進んだ。

 怒りに任せた、赤い壁と見紛う斬撃の嵐を前に臆することもなく、一歩上弦の鬼へと距離を詰めた。

 

「曲がれ飛び血鎌」

 

 妓夫太郎が呻く。善逸が弾き、背後の闇の中に消えていった血の鎌が、旋回しながら善逸の背へと戻って来た。

 前後からの挟撃。それは前後から二枚の壁が人間を圧殺しようと迫るのに近い。眼球が前にしか付いていない人間に対処できるものではない。

 それを善逸は捌いた。

 一刀流の定石から逸脱した動きで、一本しかない刀を自在に操る。一太刀で背後から迫る数本の血鎌の軌道を逸らし、逸らされたそれらが別の血鎌と衝突してまた軌道を逸らす。血鎌どうしが干渉し、最終的に七度の斬撃で善逸は擦り傷一つ負わずにしのぎ切った。

 

「なんだあそりゃあ」

 

 まるで背中にも目が付いているかのような挙動。前後から迫る全ての血鎌の軌道を読み切っていないとできない芸当だ。

 言うのは簡単だ。

 だがどうやって? なぜそんなことが人間にできる? 

 目の前で行われた絶技が信じられない。そんな驚愕でできた思考の空白の間にも戦闘は続く。

 血鎌の壁をくぐり抜け、たった一歩の踏み込みで刀の圏内に入り込んだ金髪の剣士が、いつのまにか鞘に戻していた刀を腰の捻りと共に抜いた。

 音を置き去りにする抜刀。

 それを二本の鎌で受けつつ剣士の腹めがけて蹴りを放つ。空気を裂く、槍のごとき前蹴り。当たればたかが人間の体など風船のように割れ弾けるそれを、剣士は横に回転しながらかわし、同時に袈裟懸けの斬撃を放ってきた。

 斬撃の応酬。

 必殺と滅殺と確殺の猛毒が巡り巡り、隣の家屋を一つ二つと倒壊させる。

 二人の頭上から瓦と漆喰の壁が瓦礫となって降り注ぐ。

 もちろん妓夫太郎はそんなものに頓着しない。むしろ人間である目の前の剣士がそれに臆せば、その隙を突いて血鎌を放つつもりだ。

 そんな思惑を踏破して、剣士はまっすぐ妓夫太郎に迫る。

 その躊躇のなさに逆に妓夫太郎の方が面食らった。新たに放たれた斬撃を受けるのではなく下がることでの回避を選んだ。

 瓦礫が降り注ぐ。土埃が舞い、視界が遮られる。

 妓夫太郎にも瓦礫は激突したが、鬼の体では当然なんの痛痒も与えない。それより金髪の剣士だ。これだけの質量に潰されたのだ、ひき肉になってもはや原型も留めていまい。

 埃が薄れる。

 瓦礫の向こうに人影が見えた。

 額から少なくない血を流すその人影は、金色の頭をしていた。

 

「雷の呼吸 一の型」

 

 納刀し、極端に重心を前に傾けた攻撃一辺倒の構え。

 剣士の足元を見て理解する。

 倒壊し降り注いだ家屋の壁には、窓があった。彼は窓のお陰でできた瓦礫の空白にその身を滑り込ませていたのだ。

 だがそんなことが可能なのか。上弦の陸を相手に死と毒の戦闘を繰り広げながら、落ちる瓦礫の密度を把握するなど、まして戦闘しながらそこに踏み込むなど。

 それは、戦闘における上弦の陸の挙動を把握できているということではないか。

 

「霹靂一閃……六連」

 

 雷鳴。

 それと聞き紛うほどの轟音が金髪の剣士の踏み込みとともに響いた。六度の踏み込みが一つに聞こえた。戦闘に怯えて逃げる住民たちが両耳を押さえて蹲るほどの大音量。

 しかし上弦に至った鬼がたかが音程度で身を竦めるなどあり得ない。砂埃の中から剣士の姿を視認してから彼の挙動に自身の処理能力全てを使って注視していた。

 

 一歩目。

 善逸は妓夫太郎の右を駆け抜けた。

 

 二歩目。

 減速も無いまま瓦礫を踏み台に、妓夫太郎の頭上を超える角度で跳躍。

 

 三歩目。

 辛うじて残っていた家屋の柱を水平に蹴り飛ばす。この時点で妓夫太郎は善逸の姿を見失った。

 

 四歩目。

 妓夫太郎の左側に着地し同時に地を蹴る。ここで妓夫太郎が血鬼術を発動させた。円斬旋回。鎌を介さず、自身の血をそのまま刃として八方にばら撒く、自分を中心にした範囲攻撃。

 

 五歩目。

 妓夫太郎の背後をその視界を潜るように低姿勢で駆ける。自身が出す速度のために、上弦の陸が放った斬撃の群れが身に迫る速度は相対的に膨大なものになる。それを善逸は全て弾いた。まるで斬撃の位置を予め知っていたかのように。それは、音柱たる宇髄天元の修行の賜物。宇髄が譜面と呼ぶ独自の戦闘計算式。絶対音感と律動の把握能力に優れた善逸は、その人間離れした聴力と相まって、すでに宇髄並の完成度を誇っていた。

 

 そして、六歩目。

 我妻善逸の真骨頂。渾身の力を込めた踏み込みは、それ単体で見れば決して妓夫太郎の認識能力を上回るものではない。しかし霹靂一閃六連。減速無しの鋭角での方向転換を六度繰り返す、物理法則を無視したその動きは100年以上も鬼として鬼殺隊を殺してきた妓夫太郎をして常識の埒外であり、その動きを予想することは不可能であった。

 加えて、善逸はすでに妓夫太郎の譜面を完成させていた。

 どんな楽器でも弾きこなす善逸にとって、すでに妓夫太郎は慣れ親しんだ三味線と変わらない。愛用の三味線がどこを触ればどんな音を奏でるか知るように、自分がどう動けば妓夫太郎がどんな反応を返すか、その視線がどこに動くか、すでに完全に理解していた。

 雷ノ呼吸の一の型と譜面を組み合わせた、神速の機動力をふんだんに盛り込んだ幻惑。

 だから、最後の踏み込みとともに放たれた音速超過の抜刀は、まるで不意打ちのように、なんの抵抗も許さずに妓夫太郎の首を切り飛ばした。

 

 

 

 

 以上、社畜の実況でお送りしました。




鬼滅の刃公式ファンブックを読んで一番笑った記述は鬼舞辻無惨による上弦への評価、という項目での童磨への評価『あんまり好きじゃない。』
他にも無惨は貿易会社持ってるとか、下弦の肆の名前が零余子だったとか、色々な情報が知れて面白かったです。


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第30話 地中

 大したものだ。

 土の中で俺は安堵のため息をついた。

 もちろんパンクのことである。

 まるで見違えてしまった。いったいどんな経験を積めばこんな成長を遂げるのか。一体パンクの師匠は何を教えたのか。まれちーと再会したときどんな会話が繰り広げられるのか、知りたくて仕方がない。

 まれちーはこれを見てどう思うだろう。まあすごいびっくりするとは思う。

 考えてもみろ、パンクと初めて会ったときなんて、惨めな悲鳴をあげながら鬼から逃げ回っていた。涙と鼻水で顔を汚し、あとこれまれちーには言ってなかったけど、あの時パンクちょっと小便漏らしてたからな。そのくせ女と見れば声かけまくってすぐ求婚したりしてな。あんなきっつい汗臭醸してて求婚もなにもねーだろっていう。まあ1週間も山にこもってりゃ汗垢その他で誰でも体臭やばいことになるもんな、尿の1リットルや2リットル誤差の範疇か。

 あの時の情けないお漏らし少年がこんな成長をするなんて、おじさん想像もしていなかったよ。

 

 まさかあのパンクが、女装に目覚めてしまうなんてな。

 

 しばらく会わない間に男色に目覚めてしまうとか誰が想像できるよ? わざわざ女装して風俗店に勤めるなんて、もしや鬼殺隊を除隊したりしたんだろうか。それにしたってもう少しマシな格好もできただろうに。誰の趣味なんだあの口紅の塗り方は。

 女装趣味のあるブ男ってこの世で一番悍ましい存在なんじゃないだろうか。

 妓夫太郎がやけにフレンドリーに接したのも、なんかわかる。

 その優しさは即座に裏切られたわけだけど。

 ん? 上弦を単独撃破したこと? 

 あれはほら、俺が張り巡らせてたナノ単位の血の糸は回収してなかったからさ。その糸に触れた血鎌から血を吸い取ったら鎌の威力とか回転数とか、あと毒性とか? その辺もろもろ半減してたしね。

 それにこのお兄さん、血の鎌で傷付けて毒を注入して弱ったところをタコ殴りっていう初見殺しに頼ってるところがあるからね。だから正直上弦の陸って、殺傷力は高いけど戦闘の技量的には上弦の壱や参みたいな武術ガチ勢と比べると格落ちするというか。まあどちらかというと壱や参が頭おかしいって話なんだけど。

 以前上弦の参の鍛錬を見せてもらったことあるけど、最初は何やってんのか目が追いつかなくてな。体が霞んだと思ったら巨木がへし折れてたり瞬間移動じみた速度で十メートルくらい移動して正拳突きをぶちこんだり。まあそれもまれちーの血を取り込んでからは結構見えるようになってきたけど。それがなければ今回のパンクとお兄さんの戦闘だって何一つ実況できなかったはずだ。

 まれちーの視力とか動体視力の良さは生来生まれ持った性質だけど、それが鬼の眷属になったことで、なんと言えばいいのか、ある種の血鬼術に昇華されたのだ。

 その手の、人間であった頃の性分や特性が血鬼術に変化したり肉体の特徴として現れることは割とあるのだ。俺の社畜の呼吸なんかがいい例である。そうした血鬼術は血液を介して他の鬼に伝達されることは実証済み、というかリアルパラノイアと化している鬼の組織では処刑のたびに血鬼術と仕事のノウハウを血液ごと奪い合うようになっている。

 というかお兄さんさ、血が毒になるのって生前どんな経験したらそんな血鬼術ができるのかね。毒虫とか食いまくってたとか? ありそうで困る。あんな見た目じゃマザーテレサもゴミ箱に捨てるレベル。

 前に一度、むーざん越しにヒットアンドアウェイな戦略を提案してみたんだよ、相手に毒を入れたらすぐ逃げて死んだ頃を見計らって死体回収して食べたらいいよって。どうせ正々堂々とか尋常なる勝負とか気にする性質じゃないっしょ? だから毒を入れることだけに注力するように戦術を練ればいいのにって。聞いた話、それを結構忠実に実行するようになってたみたいなんだけど、今回はちょっと、ね。パンクの突然の裏切りで頭に血が上っちゃったみたいな。本来なら正面から切りつけるんじゃなくて、極小の撒菱状にした血鎌をこっそりばら撒きながら逃げればいいのにね。それをやらずにタイマン張って、しかもその毒注入を提案した俺が妨害しちゃってたしね。わざとじゃないです。血の糸しまい忘れてただけです。いやぁ不幸な事故でしたね。

 まあ、妹が安全なところにいる限りどれだけ斬られてもお兄さん死なないから、別に? て感じだ。大したことにはなんないっしょ。

 で、その妹はどこ行ったのか、パンクとお兄さんの戦闘がひと段落ついたところで探しに行こうと思ったわけなんだけど。

 血の糸をこっそり妹の背中につけていたので、それを辿っていけば追える、の、だけれど……? 

 

 

 

 

 

 ────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 たかが人間から、それも柱ですらない不細工から逃げなければならないという屈辱に頭が沸騰しそうだった。

 ちくしょう、ちくしょう、どうしてアタシが。そんな呟きが穴の中で響く。

 もちろんあの不細工はお兄ちゃんが殺してくれるだろう。アタシをあれだけ痛めつけやがったのだ、毒でもってじっくりと悶え苦しみ、後悔しながら死ぬだろう。ざまあみろ。

 ただ、その様を見ることができないのが残念だ。さぞ笑える死に様を披露してくれるだろうに。まあ、不細工が小便漏らしながら命乞いする様を見たところで、という気がしないでもないが。

 今アタシは地中を移動している。

 吉原全域に構築した、アタシだけが通れる地下道だ。

 10年ほどかけて作り上げたこれのおかげで、アタシは吉原にあるどんな店にも侵入できる。

 屋根裏に、床下に、壁や柱の内側に。

 わずかでも隙間があれば、体を帯状にして、音もなくすり抜けることができる。

 そうして様々な店の遊女たちを自分の目で品定めして、帯に指示して捕獲してきたのだ。

 さらには、その帯の内側に人間を収納し、連れ去り、貯蔵できるという異能も付加されている。

 とはいえやはり帯であるから、何人もあるいは何十人も貯蔵すれば、その分多くの生地面積が必要となって、帯の厚みと合わさって箪笥に収まりきらないほど嵩張ってしまうのだけれど。

 だからアタシは地下に道だけでなくその中心に広い空洞をくり抜いて、美しい女を好きな時に食べられるようにとっておく貯蔵庫を備えているのだ。

 その貯蔵庫を目指してアタシは移動している。

 安全な場所、と言われて真っ先に思い付くのが地下空洞の隠れ家。無惨様に戦い方の変更を命じられて以来、鬼殺隊らしき人間が近づいて来た場合その対処にはお兄ちゃんが単独で出張るようになった。

 アタシが鬼殺隊を引きつけ、お兄ちゃんがそれを狩る。

 狩りの間アタシはこうして、絶対にみつからない隠れ家でお留守番だ。

 つまらない。

 はっきり言って屈辱だ。

 足手まといと言われたのも同然である。

 アタシだって上弦なのに。まだ陸だけど、これからもっと美しい女を食べて強くなって、もっともっと柱を殺して無惨様に褒めてもらうはずだったのに。

 ちくしょう。

 そんな苛立ちに頭が茹だったまま貯蔵庫へと向かう。

 いっそのこと、今まで貯めていた女を一気喰いしてもう一度あの金髪醜男を襲ってやろうか。

 このアタシが、あんな不細工に手も足も出なかったなんて何かの間違いだったんじゃないか。

 それか、油断だ。そうだ。油断してたんだ。

 

「あんな不細工が不細工な化粧してたんだから、きっと無意識に油断してたんだ」

 

 そうに違いない。さっき油断しないとかなんとか言った気もするけど、まあ気のせいだ。

 いきなり襲われて、首を何度も切られていたから分裂していた私の体を取り込む暇がなかった。保存している女ごと取り込めば、もうあんな不細工に劣るようなことは、

 

「……なに?」

 

 おかしな音がする。

 カサカサと、得体の知れない音だ。

 地上の音か? 何かが這いずっている音が地中のここまで響いているのか。

 いや、違う。

 音は、アタシがいるこの空間と繋がっているどこかからしている。空気そのものが震えているのだ。アタシしか入れない地下道に、アタシ以外の何者かが入り込んでいる。

 音が近づいてくる。

 音が少しづつ大きくなってくる。

 蟻の巣のように、縦横深さと複雑に入り組んだ、新しい建物ができるたびに増設を繰り返したこの地下道で、音の発信源は迷いなくまっすぐ、最短距離で私に迫ってくる。

 速い。

 人間ではあり得ない。野犬かなにかが入り込んだか。

 

「なんだってのよ、一体」

 

 いいさ、何だろうと構わない。この狭い穴の中では体を帯状にできるこちらが圧倒的に有利だ。通りすがりざまに首を締め潰してやる。除け者にされた苛立ちを僅かでも解消できればいい。そうしてすぐ帯を取り込んで死にかけてるであろう金髪の下へと取って返し指先から寸刻みにしてやる。

 そんなことを考えながら進んでいくと下方向への曲がり角まで来た。

 音がすぐそこまで来ている。

 ガサガサガサガサ、気味の悪い雑音が空洞の先から聞こえる。

 ぬ、と姿を表した。

 そこには、赤い八つの眼光が、無機質に私を捉えていた。

 

 

 

 

 

 ────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 善逸と再会して少し。

 互いの近況を伝えあおうと、善逸が潜入している店舗で空室を求めて歩いていたところ、いきなり私は床下に引きずり込まれた。

 善逸と再会した喜びで浮かれていたのもあるし、こんな昼のうちから鬼が現れるなんて思ってもいなかったのもある。それよりなにより、もう二度と離れないと誓った善逸の背を注視していたのが大きかった。

 服越しでもわかる、背に着いた筋肉の厚み、密度。

 重心が低く、かつ左右へのブレが全くない歩法。歩行中のいかなるタイミングで不意を打たれようと即座に反応し切り捨てることができるだろう。

 胸部の動きから見て、呼吸で出入りする空気の量はおよそ私の1.3倍。

 明らかに私と別れた時より強くなっている。

 全身が極限まで鍛え上げられた、一振りの刀のようだ。

 というか、善逸さっきからずっと目を閉じていないか。

 聴覚だけで周りを把握しているということなのか。

 それでこの迷いのない足取りって一体どういうことなのか。

 そんな、今まで善逸に抱いていた善逸らしさと、今目の前にいる善逸との間にある差の大きさに、私は戸惑うと同時に嬉しく思っていたのだ。その嬉しさが再会に浮ついていた私の心をさらに浮つかせ、周囲への注意をおざなりにした。

 社畜の呼吸を使えばそんな心を平静に戻すなんて訳ないのだが、その時はその喜びと幸福感に浸っていたかったのだ。

 結果、私は無様に攫われた。

 二度目である。

 一体何度攫われれば私は気がすむのか。

 下手人は、床板の裏側に微動だにせず潜んでいた、鮮やかな柄の帯だった。

 床板の隙間から飛び出てきた帯は一瞬で私の体を簀巻きにした。

 振り返り、刀に手をかけていた善逸と一瞬だけ目があう。

 しかしこの時、善逸にできることは何もなかった。帯に隙間なく包まれた私の体は瞬きにも満たない時間で帯の柄となってしまったのだ、善逸が刀を振れば間違いなく私の体を裂いてしまう。そのまま私は床の下へと引きずりこまれ、地中の穴を通って広い空洞に放置された。

 怒りが募る。

 自分への怒りと、何よりこの帯畜生に対してだ。

 ふざけんなよ。

 いやほんと、マジふざっけんなよ。

 なんなの? もう、なんなの? 善逸と再会したんだよ? それなのに再会後10分で誘拐とか、ちょっとマジ意味わかんないんですけど。というか私、簀巻きにされ過ぎじゃないか。簀巻きにされる星の下に生まれたのか。どんな星だ。爆散してしまえそんな星。

 あと狭い。帯の中すごい狭い。全く身動きできない。全身がきつく縄で縛られてる感覚。

 それでもなんとか脱出しようと全身の筋肉を総動員して踏ん張っていると、ある瞬間、体の拘束が緩んだのだ。

 ここに攫われてからどのくらいの時間が経ったかはわからない。地中の、全く灯の灯されていない洞だからか、時間の感覚が全く掴めない。

 ともかく今が好機と、体を蜘蛛化させ、背中からも蜘蛛の節足を生やして力の限り暴れれば、帯は悲鳴を上げながら私を吐き出した。

 額に開かれた四対の複眼で周囲を一瞬で把握し、背中から生やした蜘蛛足を振り回す。

 帯に封じられた女性を避けて帯を切り刻み、彼女たちを解放する。

 帯の断片は悲鳴をあげて逃げ惑い、バラバラに穴から逃げ出していったが、それを追う前に私は捕まっていた女性たちの安否を確認しなければならない。

 ざっと見渡した感じ、皆呼吸があるようだ。

 鬼の習性として、生きた肉と血を食したいという欲求があるからだろう。どういう原理かは知らないが、この帯に封じられた人は食事や排泄がなくとも命を維持できるのだろう。

 全員の安否を確認し終え、ようやく私は穴から外に向かう。

 痩せ型の私でも少々狭い穴だが、蜘蛛の脚と血の糸を使えば移動自体に苦はない。

 そうしてガサガサごそごそと進んだ先に、鬼がいた。

 とんでもない美貌を讃える顔立ちであるが、その赤く染まる瞳孔と白く色の落ちた髪、なにより首から下が先まで私を拘束していたのと同じ柄の帯になっていた。見た目人の頭が付いた蛇に近い。

 なるほど。

 こいつか。

 こいつが私と善逸を引き裂いたのか。



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第31話 決着

 穴の中は完全な闇である。光が差し込む隙などないのだから当然であり、鬼でもなければ視界など全く利かない空間だ。

 その中で紅く輝く八つの球体。

 それらは蠢き、淡く明滅し、さらには堕姫を前にして揺らめきと共に輝きを増した。

 それは地獄にも似た、赤黒い炎の具現だった。

 堕姫が恐慌に陥ったのは、その八つの球体が放つ悍ましい色合いに加えて、それらがかつて自身を焼いた油と炎を想起させたからだ。

 首から下を帯に変えていた堕姫は、その体をくねらせて細い地下道を反転し、悲鳴を上げながら地上を目指した。

 鼓膜に罅が入るほど甲高い悲鳴を地下に反響させながら堕姫は逃げる。

 その背を追う、紅玉の群れ。

 狭苦しく、後退以外に逃げ道のない闇の中で、堕姫は半狂乱になって逃げ惑う。通い慣れた地下道であるにも関わらず幾度も道を間違え、最短経路を大きく逸れながらも、息絶え絶えに地上に転げ出た。

 そこは人気のない、見切り小屋と呼ばれる、使い物にならなくなった遊女の掃溜めである。寒々しい空気が風を遮り、梅毒と結核で腐った肉の悪臭が滞留している。

 死の香りが充満しているあばら家の並びを横目に、堕姫は体を元の瑞々しい色香漂う女体へと再構成し、今自分が這い出た空洞の出口を振り返る。

 がさり、と音がした。

 肩を震わせながらも堕姫は身構え、穴から出るであろう紅玉の正体を見据える。

 まず地上に姿を見せたのは、節足動物が持つ刺々しくも禍々しい、鋭利かつ殺意溢れる脚だった。

 それが二本、さらに四本。穴から出ようと地面を噛む。それらに引かれて現れたそれは、蜘蛛だった。

 胴体は黒を基調とした、装甲染みた外骨格に包まれている。そのどす黒い表面には、肝臓を噛みちぎった時に出てくる褐色を帯びた赤色が白糸の滝のように流れている。ただそこから伸びる十二本の脚は、初めに穴から見えた六本以外は、肉付きの良い女の脚だった。

 その頭部は、美しい少女の顔だったのだろう。

 しかし今では見る影もない。

 少女の面影は残っている。だが巨大な蜘蛛の頭部が、四対の複眼と産毛の生えた粘液を垂らす強靭な蜘蛛の顎が、少女の額から人面疽のように生えているのだ。

 脚といい頭部といい、中途半端に少女の面影を残しているだけなお冒涜的で背筋を凍らせる。

 そんな蜘蛛の怪物が、自分が今まで入っていた地面の細い穴から、脚を前後に揃えながらその八尺を超える身を捩らせて、ぬるり、と這い出てきた。

 鬼である堕姫ですら生理的嫌悪感に眉を潜める光景である。

 

「……なに? この化け物」

 

 自分が焼かれた記憶による混乱から立ち直り、堕姫は自分を脅かした蜘蛛を睨め付ける。

 よくも脅かしやがって。そう呟きざま、堕姫は帯の刃を七本、蜘蛛に向かって飛ばした。

 多くの鬼殺隊士を惨殺してきた斬撃である。常人であれば視認すらさせずに体を両断せしむるそれを同時に七本、確殺の確信をもって差し向け、しかしその蜘蛛は甲殻に覆われた脚を

 同じ数だけ振り回し、帯の進撃を尽く止めた。

 

「な、に……⁉」

 

 堕姫が忌々しげに口元を歪める。醜い者を見下す癖のある彼女にとって、目の前の悍ましい蜘蛛もどきが自分に抗うなど、到底許せることではなかった。ましてこいつはこのアタシを地下でさんざん脅かしてくれやがったのだ。

 

「……殺す!」

 

 四方から対象を包むように帯で囲い、一瞬で対象を細々と切り刻む、脱出不能の斬殺技巧。

 それを、蜘蛛は真上に大きく身を翻すことでかわした。

 地下道を潜ったのと同じ要領で、脚を揃えて伸ばし、通過する面積を限りなく小さくすることで帯の隙間をくぐり抜けたのだ。跳ぶことを想定していなかった堕姫の攻撃は上方への警戒が薄く、申し訳程度の斬撃しか囲いの天井を形成していなかったのだ。

 堕姫が顔を上げ、蜘蛛の行く先を目で追う。

 高い。

 月を背景に脚を広げた蜘蛛が、まるで空を舞う鳥に見える。

 数秒の滞空時間を経て、蜘蛛が堕姫目掛けて落ちてきた。

 それを帯の斬撃で迎え撃つも、それを硬化した脚でさらに撃ち落としながら蜘蛛が迫る。

 その額に生えた頑強な蜘蛛の顎を堕姫に向けて迫るそれに、堕姫は怖気を覚えながら大きく避けた。

 帯をバネのようにたたみ、縮ませることで生じる弾性力を利用した跳躍は先の蜘蛛が披露したそれより一段高く、速い。制空権を維持しつつ堕姫は帯を三本同時に上段から振り下ろした。

 蜘蛛はそれを横に飛ぶことで回避する。蜘蛛の脚から射出した赤い糸が通りを挟んだあばら家の柱に結びつき、その巨体を一瞬で巻き取ったのだ。帯は直撃した地面に皹を入れ、地を揺らして崩れかけの長屋を一つ完全に倒壊させた。

 ち、と堕姫は舌打ち一つ挟みながらも追撃を加えようとして、ぐいと強く自分が引かれるのを感じた。

 何事かと帯の先端を見れば、そこには赤い糸が絡み、ベッタリとへばりついていた。糸の先は蜘蛛の脚の一本に繋がっていて、それを認識すると同時、堕姫はハンマーの様に振り回されて、長屋の側面に叩き込まれた。木造の壁が砕け、四つの部屋を貫通したその衝撃に堕姫は首の骨が折れ、折れた先端が頚部の筋と皮膚を突き破って露出した。その傷口を目指して赤い糸が迫る。忌々しい。糸を帯で絡みとり、計2カ所の糸が付着した部分の帯を切り離す。もうもうと砂埃の舞い上がる瓦礫の中から再び帯の弾性力を利用して跳躍、今度は水平に、蜘蛛のいる方向へと一直線に突き進む。

 それを予見していたのか、蜘蛛は二階のある屋敷の屋根に糸を伸ばし、一瞬で上空へと体を跳ねあげる。すれ違うように蜘蛛のいた場所を通過した堕姫は、即座に反転して蜘蛛同様に帯を屋根へと伸ばして跡を追う。

 

「待ちなさいよこの化け物が!」

 

 人間や建物への被害を全く頓着せずに、幾本もの帯で斬撃を撒き散らしながら、屋根から屋根へと高速で逃げていく蜘蛛を追う。

 二人の巻き起こす風圧で瓦が根こそぎ吹き飛び、別の家屋に叩き込まれて壁を粉砕する。

 それだけの速度で移動しながらも、二者の間が徐々に詰まってきた。糸を活用し、自身を振り子の重りにして次々と屋根を渡っていく蜘蛛に対し、堕姫はほぼ水平に体を飛ばしていくのだ。軌道が直線に近い堕姫の方が、移動においては有利なのだった。

 

「死ね」

 

 

 血鬼術・八重帯斬り

 

 蜘蛛に追いつき、帯の射程の内へと充分に捉えたと判断するや、堕姫は自身の血鬼術を発動させた。

 四方はおろか、上下まで含めた3次元的なそれ。先に蜘蛛を囲んだものより、遥かに密度と速度が高い。

 それに対し、蜘蛛は自身を支える脚のうち八本をただ帯の斬撃に晒した。

 蜘蛛の脚と女性の脚、それぞれが何本も斬り飛ばされ、あたりに血をばら撒いた。

 同時に蜘蛛はその巨体を跳ね上げることで、迫り来る帯の牢獄の、子供一人がかろうじて通れようかという隙間を空中でくぐり抜けた。

 しかし脚がなければ糸は出せない。宙に身を投げた蜘蛛の怪物は、どう、と屋根から雑草と砂利が這う地面へと落ちる。

 堕姫の血鬼術の余波で周囲の荒れた長屋が二つ切り刻まれ、瓦礫となって崩れ落ちた。

 屋根より高く斬り飛ばされた蜘蛛の脚がくるくると、膨大な量の血を風車のように撒き散らしながら瓦礫の山に落ちる。

 ふん、と堕姫は、地に這い悶える蜘蛛を屋根から見下ろし、傲慢に鼻で笑った。

 

「ああ気持ち悪い。芋虫みたいにもぞもぞと。こんな鳥肌の立つ蟲、細切れにして肥溜めに捨、て……?」

 

 くらり、と。堕姫は足元が傾くのを感じた。

 堪えようと脚に力を入れるも、入れれば入れるほど足元の屋根と、さらにその下にある地面の傾きは大きくなり、ついには垂直に立ち上がった屋根から滑り落ちて、彼女は地面に全身を打ち付けてしまった。

 なんだこれは。

 混乱の中に嵌り込んだ堕姫は、必死に手足をバタつかせながら視線を巡らせる。

 傾いたのは地面だけではない。真円であった月もなぜか歪んでいる。自分を残して世界が姿を変貌させていく感覚。

 違う。

 堕姫は自分が寝そべる地面に掌を叩きつけ、苛立たしげに爪を立てた。

 

「……地面じゃない、アタシが、ぶっ倒れただけ」

 

 酩酊している。地面に立てた右腕に力を入れて起き上がろうとするも、筋肉が自分に叛旗を翻したかのように体が持ち上がらない。

 

「なにをしたの、この化け物が!」

 

 堕姫が吠える。霞む視界の先にあの悍ましい蜘蛛を捉えれば、芋虫のようになっていたそれは、いつの間にか欠損していた脚を生やし、その身を堕姫へと向けていた。

 まずい。

 焦燥と怒りを帯に込めて、堕姫は自由の利かない体を帯の力で無理やり立たせる。直後、自分の頭があった位置に蜘蛛の鋭い脚が突き立てられ、踏みしめられた土を深く抉った。

 

「くっ」

 

 距離を取らねば。そう判断し帯を操るも、すっかり酩酊した堕姫は帯にも力を加えることができない。踏み込んできた大蜘蛛の巨体に無様にも押し倒され、四肢と帯の先端が全て凶器よりも凶悪な蜘蛛の脚を突き立てられ、地面に縫いとめられた。

 

「はな、放せ気持ち悪い!」

 

 蜘蛛と少女を煮詰めてかき回したかのようなその醜悪な容貌を、接吻時の距離で直視することを強いられる。その距離まで近づいて、堕姫はようやく自分の異常な状態について理解が及んだ。

 稀血だ。

 周囲にばらまかれた血と、この蜘蛛の傷口から漂う香り。その濃厚な匂いは、あの最近作られるようになった稀血薬と近いものだった。あの薬の香りを何千倍にも濃縮したような匂い。深く呼吸をすればそれだけで脳の奥までが痺れに襲われる。

 ハアアアア、と、生臭い吐息が蜘蛛の口から溢れた。

 額に生える、巨大な蜘蛛の顎が開く。下顎から垂れた唾液が堕姫の首元を濡らす。あまりのおぞましさに怖気立つも、堕姫が真に顔面を蒼白に染めたのは、その口腔からずるり、と吐き出されたそれを見た時だった。

 それは、刀だった。

 青みがかった刀身を持つ、唯一鬼を殺しうる、日輪刀の一振り。

 

「な、なんでそんなものが」

 

 刀身だけが吐き出された状態で、蜘蛛はその横に開閉する顎を使って器用に刀を固定した。

 その位置で頭部を動かし、切っ先が堕姫の首へと添えられる。

 

「ちょ、助けてお兄ちゃん! なんとかして!」

 

 普段なら呼べば出てきてくれるはずの兄が、この絶体絶命の時を迎えてなお現れない。

 この時彼女の胸の内に湧いた感情は、悔しさだった。

 こんな醜い化け物に首を切られる羽目になるなんて、なんたる屈辱。

 ちくしょう、くそう。

 

「あんた覚悟しなさいよ! 絶対あとでお兄ちゃんに殺されるんだから!」

 

 それが、上弦の陸が片割れ、堕姫の最期の言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 以上、監視ちゃん☆ こと社畜鬼のお目付役の実況でお送りしたぞ。



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第32話 人間

「愚かな男だった」

 

 青年は、何の感情も込めずに言った。

 

「妹も愚かだと思っていたが、それに劣らず愚かで、何より人間らしすぎた」

 

 青年は天井に逆さまに立ったまま、こちらに関心を全く見せず、手元のスポイトの操作に集中していた。

 

「妓夫太郎には提案していたのだ。妹を常に人の近くに置いておけ、戦うのは貴様だけにしろ、直接刃を交わすのではなく、飲食に混ぜるとか撒菱を踏ませるとか、毒殺に全能力を注げと。それをあろうことか、激昂して自分から突っかかっていくなど愚昧の極みだ」

 

 青年こと無惨様の言葉に、城に詰めかけた五人の上弦たちは皆神妙に項垂れる。

 ここ百年に渡り、上弦の顔ぶれに変化はなかった。その圧倒的な実力でもって人を喰らい、鬼殺隊を殺し、柱を葬ってきた彼ら。歴代の上弦の中で恐らく最も極まった精鋭であり、無惨様としても満足していた錚々たる顔ぶれであった。

 その一角が崩れた、と彼は静かな口調で上弦に告げた。

 

「まあ、いい。負けるべき者が負けただけのことだ。妓夫太郎の血は回収したのだろう?」

 

 ええ、まあ。

 

「ならば良し。何も問題はない。新たに上弦を選出するだけのことだ」

 

 関心を見せない、と先程思ったが、あれは正にこちらには関心が無いのだろう。

 鬼舞辻無惨の目的は、太陽の克服。

 強さを得るのも、上弦を揃えるのも、鬼殺隊の滅殺も、結局は完璧なる存在に至るための手段か、あるいは障害故に排除したい、というだけのこと。

 ここに俺という太陽の克服のための有力な手段が存在する以上、これ以外のあれそれは既に無惨様の関心を誘うものではなくなっているのだろう。その思考はもはや、太陽を克服した後にどのような生活を送るかにシフトしているはずだ。

 

「とはいえ、私は貴様ら上弦を甘やかし過ぎていたようだ」

 

 無惨様はそんなことを言う。

 というかむーざんさ、実験しながらペチャクチャ喋るのは正直どうかと思う。それ絶対試験管に唾液入ってるから。マイクロ以下の単位で分量調整しながら試薬加えてんのに唾液コンタミとかさあ。しかもよりによってむーざんの唾とか劇薬じゃんよ。実験しながら何をメモしてんだか知らんけど、お前それ絶対まともな実験になってないと思うぞ。

 

「………………」

 

 あ、むーざんがポケットからマスク取り出した。え、付けるの? それ付けちゃうの? 上弦の連中キョトン顔だよ? そんなの付けてると威厳が七割減だよ? それとも風邪なの、虚弱なの? 不変が好きとか言いながら季節の折り折り体調崩すの? えーまじー? 有給許されるのはインフルエンザからだよねー。でも結局休みの間もメールで仕事送られてくるっていうかぁ、電話での打ち合わせなら寝込んでてもできる的なぁ? 

 そう思考した瞬間、頭部にチリリと痛みが生じた。むーざんが俺に対して呪いを発動させようとしたのだろう、それとほぼ同時に俺は自分の呪いをクリムゾンロードでもって解除した。

 呪いの発動が空振りに終わり、むーざんはすんげえ目でこっちを睨みつけてきたものの、結局何も言わなかった。

 

「……私はもうお前たちに期待しない。そもそも、鬼だけで鬼殺隊や産屋敷一族を根絶やしにする必要などないのだ」

 

 ピペットをテーブルに置いて作業を中断したむーざんの言葉に、上弦の面々が首を傾げる。自分たちがやらずに誰が鬼殺隊を根絶やしにすると言うのか。そんな表情だ。

 

「単純な話だ。鬼殺隊といえども人間に過ぎない。人間は人間の軛から外れることはできない。鬼にでもならない限り」

 

 つまり。

 

「人間の相手は人間にさせるに限る。そのための布石はすでに打ってある。あとはそれが芽吹くのを待つだけだ」

 

 そう告げたむーざんの顔は、やはりなんの感情も映していなかった。

 

 

 

 

 

 ───────────────────────

 

 

 

 

 困惑があった。

 一般には知られていないが、この世には鬼がいる。一千年の昔から存在していた奴らは夜闇に紛れ、人を喰らい、狡猾に逃げ回る。その姿形も一通りのものではなく、人の形から大きく逸脱するものも多い。そういったものが稀に目撃され、物の怪の類として語られることになる。

 目の前にいるこれも、その類のなにかだろうか。

 見切り小屋で妻の容態を確認した直後のことだった。吉原に巣食う鬼の一部であろう帯の監視を苦無で瞬殺し、妻の無事の確保と脱出の指示を出して、さあ妻を害したクソを殺してやろうと小屋を出た時だ。

 帯を振り回す鬼と、逃げ回る巨大な蜘蛛が屋根の上を駆け回っているのを見た。

 即座にそれを追うことを決め、周囲の建物を破壊しながらの取っ組み合いを盗み見、二匹の怪物の戦いの決着を見守った。幸いこの近辺は吉原の恥を溜め込んだ場所で人は碌に住んでいない。二匹の戦いはどんどん街の端へと向かっているため、一般人を守ることに意識を割かなくて済む立地だった。

 そして、ついに。

 蜘蛛の顎から生えた見覚えのある日本刀が、帯鬼の首を切り飛ばしたのだ。

 鬼は蜘蛛に体を拘束されながら、ゆっくりと灰になって崩れ落ちた。最後までなんでどうしてと喚いていたがどうでもいい。

 さて、と。

 あとは、この蜘蛛をどうすべきか、だ。

 なんなんだこりゃあ。そんな困惑が胸を占める。

 正直これが鬼かどうか疑わしい。

 無論、見た目は文句なしの怪物だ。蜘蛛と少女を溶かして混ぜ合わせたような造形に加え、悲鳴嶼さんよりもでかい体を覆う毛と棘。こんなものが街を練り歩けばたちまち阿鼻叫喚である。気の弱い妊婦はその場で堕胎するかもしれない。それぐらい悍ましく醜い姿だ。

 だが、だ。

 忍として五感を鍛え上げた自分には、何となくだが鬼と人間の区別がつくのだ。鬼が巣食うような町や村なら、嫌ぁな感じが立ち込めるのだ。まして、こいつが先に殺した帯鬼は下弦程度の力があった。それを上回る鬼を目の前にすれば間違いなく気配とともにそれとわかる。染み付いた血の匂い、人を見る目に宿る温度が、自分にその鬼の脅威度を教えてくれる。そのような鬼は、それだけ人間を食ってきたということなのだから。

 その、鍛え上げた忍の五感が告げるのだ。

 これは鬼ではないと。

 それは予感と呼ぶのもおこがましいほど微弱なもので、普段の自分なら無視して切りかかっていた。恐らく一瞬で首を飛ばせる、その程度の実力差はある。特に造作もなく始末できる。

 それを押しとどめたのは、蜘蛛が使った日輪刀の存在だ。

 その辺の隊士から奪ったものを使っている、という可能性もあるが。記憶の端に引っかかる。隊士、蜘蛛、女。

 忍として、隠密任務に必要な技術として叩き込まれた記憶術で脳髄の底を洗うと、一つの心当たりが浮かび上がった。

 善逸だ。

 あいつが柱合会議に出廷する原因となった存在。蜘蛛型の鬼の眷属に堕とされ、蜘蛛の特徴を体に宿したとされる元隊士。確か名はまれちー。

 継子となってから不自然なほどその名前を口にしていなかったが、それでもあいつは自身の妻となる女を探している節があった。

 強くなるのも、柱の担当圏を駆け回る自分に文句も言わず付いて回るのも、自分の妻を探すためだろう。

 その努力を知っている。忍である自分と同じように寝ずの鍛錬、三日三晩任務から任務へと走り続けることもあり、毎日のように自分にボコボコにされ。それでもあいつは弱音の一つも吐かなかった。

 それだけの努力でもって探し求める女がこんな怪物に成り果てているだなんて、それは、あまりに救いがないではないか。

 物陰から一歩踏み出す。

 音もないその踏み込みに、しかし蜘蛛は気づいた。

 額に置かれた八つの眼のうちの一つがこちらを意識しているのがわかる。

 背中に負っていた日輪刀を拘束から外し、構える。

 すでに必殺の間合いだ。

 もしこの蜘蛛が、理性なく暴れるような怪物に成り下がっているとすれば。

 善逸には申し訳ないが、そうであるならこの蜘蛛はここで始末しておく。ここにいた帯鬼も、俺が殺したことにしておく。

 自分の妻が理性のない化け物になったと知るより、人のまま生きていると思っていた方がマシだろうという判断だ。

 自分なら、この蜘蛛が動き出したのを見てからでも瞬殺できる。

 しかし俺の動きは、次の瞬間完全に止まった。

 

「鬼殺隊の方ですか」

 

 鈴のような、少女の声だ。

 蜘蛛の顎の下にできもののように生える少女の顔が発したものだった。

 

「……喋れるのか」

「え? はい、それはまあ。口はありますし」

 

 なにズレたこと言ってやがる。

 

「ちょっと待ってくださいね、よいしょ」

 

 間の抜けた掛け声一つ挟んで、蜘蛛はその身をブルリと震わせ、七輪に載せた魚のようにその体を縮めていった。額の眼は全て閉じられ、先までの硬質な肌が粘土じみた柔軟性をもって形を変え、無駄に多かった脚が引っ込んでいき、ついには刀を腰に差した、鬼殺隊の隊服を纏った少女の形をとった。

 

「初めまして。まれちーと申します」

 

 そのまま、あまりに自然な流れで、まれちーとやらはこちらに頭を下げた。

 呆気にとられる、とはこのことか。

 黒髪を後頭部で一つにまとめ、若干吊り上がった目と相まって女だてらに侍のような雰囲気を纏っている。

 というよりは、むしろ一太刀の刀を想起させるような佇まいだ。

 自分の妻たちには及ばないが、まあいい女である。善逸が命を懸けるのもわかる。

 とはいえ、だ。

 

「お前には捕縛命令が出ている。大人しくお縄につくか、抵抗して首を刎ねられるか選べ」

「……捕まった場合どうなりますか?」

「隊士として切腹だ。人として死ねるし遺体は望む相手に受け取ってもらえる」

 

 告げながらも、ジワりと重心を右足に移していく。

 まれちーの額の皮膚にうっすらと切れ目が入る。その隙間から紅い複眼が覗く。それら全てがこちらの一挙一動を見ていることがわかる。

 一筋縄ではいかない。

 ただ切りかかったところで、先の帯鬼と違い二振りしか刀を持たない自分ではこの蜘蛛女の警戒をくぐり抜けることはできまい。

 

「あ」

 

 その警戒が揺らいだ。

 すでに全身の筋肉に指令は出し終わっていた。あとは何か刺激があれば勝手に体は動き奴の四肢を刻むように神経は待機していた。まれちーの精神がぶれたことが神経の発火刺激となって、寸分の間もなく体が動き両の刃が音速で走る。

 まれちーはそれに全く反応できていない。結局棒立ちのまま、柄に手を添えることもできないままに体を刻まれることになる──その寸前、雷光が割り込んできた。

 甲高い金属音が響き、火花が散った。右の袈裟斬りが黄色い刀身に弾かれた。

 肩を狙う左の横薙ぎは、脚を払われ重心を落としたまれちーの後ろ髪を数本切り飛ばすに終わった。

 

「女の脚払いながら俺の斬撃を捌くたぁ、随分派手な真似するじゃねーかよ」

 

 割り込んできた雷光は、黄色い髪をしていた。黄色い袴を羽織り、黄色い刀を振るう、雷の呼吸の使い手。

 庇った自分の妻を横抱きにして、いつの間にか鞘に納めた刀に手を添えて、眠ったように瞳を閉ざした少年隊士。

 それだけを見るなら随分ド派手な登場シーンだ。演劇で見るような派手さである。

 にしても、だ。

 

「俺がやっておいてなんだがな、その化粧いい加減とったらどうだ」

 

 いや、罷り間違って客取らされることのないようにっつー配慮もあったんだけどな。ちょっとどこまで不細工になるか試してみたところも否定できんわ。

 

「取ったらいいとかどの口で言ってやがる……!」

「あ?」

「あんたがあたいを騙して京極屋に売り飛ばしたんだろーが!」

「あたいってお前」

 

 すっかり染まってやがる。

 見ろよ、お前の妻も腕の中で微妙な顔してんだろ。

 なんとも言えない空気になってしまったが、それを打ち破るように甲高い耳障りな警笛の音が俺たちの耳を劈いた。

 同時に何人もの、おそらく十を超えるくらいか、そのくらいの人数の足音が四方から聞こえてきた。

 その中で最も先を進んでいた音の持ち主が叫ぶ。

 それは、黒い制服を着た、筋骨隆々の男だった。

 

「何をしておるか貴様ら! 抜き身の刀を持って、街を破壊したのはお前か!」

 

 俺たちは、警官の群れに囲まれた。



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第33話 逃走

アニメ完結しましたね(遅)

そして最終話では拙作で夏至と名前を改めた下弦の肆こと零余子さんが満を辞して登場しました。
声のついた零余子さんが思っていたよりずっと可愛くて私は大満足でした。

加えて劇場版。楽しみでなりません。


 場は騒然としていた。

 数十人の人だかりが、輪を作って数人の男女を取り囲んでいるのだ。囲いを作るのは皆黒い制服と帽子を身につけた警官で、殺気とも言える気配を放っている。

 

「警部、人質が!」

「年端もいかない少女がオカマに羽交い締めにされています!」

「ぬう、なんと卑劣な! やはり人品は外見に出るということか」

「そこのオカマ、人質に手を出すと罪が重なるだけだぞ! もう逃げられないのだ、大人しく人質を解放してお縄につけ!」

 

 言いたい放題だ。

 罵詈雑言の集中砲火が善逸へと向けられている。

 まああんなブサイクな化粧してたらそれも当然か。化粧したの俺だけど。

 

「なんなの⁉︎なんで俺ばっかりそんなひどいこと言われるの⁉︎こっちのおっさんにもなんか言ってやれよ不公平だろ!」

「……おい、オカマがなんか言ってるぞ」

「……オカマのくせに国家権力相手に口答えとか生意気だな」

「……あんなムキムキで刃物持った大男に喧嘩売ったらあとで仕返しされるかもしれないだろ何言ってんだあのオカマ」

「小声でも聞こえてるぞ! なんか久々に耳の良さのせいで傷ついたよ!」

 

 ばかばかしくなってきた。

 やはりというか、一般人がどれだけイキったところで高が知れている。普段俺たちがどんな怪物どもを相手に殺し合いをしているのかという話だ。

 

「だいたいこの娘は人質じゃなくて俺のよ、よよ、嫁なの!」

「嘘を吐くな、お前のようなブサイクにそんな器量のいい娘さんが嫁にくるか!」

「どもるくらいなら初めから嘘など吐くなブサイク!」

「おい善逸」

「ブサイクブサイクって、お前らだって大して違わないじゃん! どんぐりの背比べじゃん!」

「いえ、さすがに善逸の方がブサイクですよ」

「まれちー⁉」

「大丈夫ですよ、どれだけブサイクになっても私はあなたを愛してますから」

「おいって」

「な、なんですか宇髄さん」

 

 少し大きめの声で善逸に呼びかけると、ようやくアホが反応した。耳いいくせに上司の呼びかけを聞き逃すってどういうことだよ、警官相手の口喧嘩にムキになりすぎだろ。

 

「派手に逃げるぞ」

 

 善逸にしか聞こえない声を、口もろくに開かずに並べる。

 

「閃光玉を派手に爆発させる。警官どもの目を眩ませるから、その隙に飛べ。西にある建物の屋根だ。飛べるな?」

「余裕です」

「え、何がですか?」

「目を閉じてろ」

 

 善逸ほどの聴力を持たないまれちーとやらが会話について行けずに混乱している。しかし普通の声で説明する時間はないし、警官にも聞かれてしまう。

 

「いくぞ……三、二、一」

 

 閃光が瞬く。突然の光と爆音の直撃を受け、周囲の警官たちは一斉に、悲鳴をあげて身を屈めた。

 俺と善逸は腕で目元を覆い、閃光の炸裂と同時に飛んだ。二人とも、視界がなくとも何も困らない。跳躍し、音もなく屋根の上に着地して即座に駆ける。背後から善逸の足音が辛うじて聞こえる。元忍である俺ほどではないが、善逸も隠密として通用するだけの音の消し方が身についてきた。

 逃げてる間も俺を警戒しているしな。

 俺が善逸の嫁に斬りかかっても、これでは容易く回避されるだろう。

 まったく、無駄に実力つけやがって。まあ神である俺の継子なのだからそれも当然か。

 そんなことを考えていたら、善逸に横抱きに抱えられていたまれちーとやらが、その身を捻って善逸の腕から抜けて大きく跳ねた。

 

「な」

 

 思わず声が漏れる。急制動をかけて振り返り刀に手を伸ばすが、すでに善逸が腰の柄に手をかけていた。それを見て俺は手を止める。壱ノ型の態勢に入っている善逸にとって、俺の今いる立ち位置はすでに殺傷圏内だ。

 まれちーはとっくに屋根から飛び降り、俺の視界の影を這うように移動して、すでに俺の耳ではその足音も聞こえない距離まで移動している。

 

「てめ」

「右から新手の警官が来てます」

 

 それだけ言って、善逸はまた走り出す。

 数刻ほど走って、警戒態勢に入って捜索網を広げていた警官を完全に撒いた頃にはすでに空は白ずんでいた。近場にあった、吉原に来る時にも利用した藤の家に腰を落ち着ける。ここであれば存分に身をひそめることができるだろう。

 

「さて」

「なんすか」

 

 壁を感じる受け答え。無表情で、あんたにお話するようなことは何もありません、という態度だ。

 ため息が漏れた。

 

「……警察は撒いたんだし、とりあえずテメーは化粧落としてこい。目に毒だ、そのままの意味で」

「毒殺されろ」

「残念、忍の俺に毒は効かねえ」

 

 すぱあん、と襖を開け、足音も荒く廊下を渡っていく。中庭にある井戸まで往復、化粧を落としきるまで十分はかかるだろう。

 

「出てこい」

 

 天井を見上げて声をかければ、黒く空いた隙間からするりと女が顔を出した。

 先ほど別れた、善逸の妻だ。

 

「よくお気づきになりましたね。心臓だって止めて、善逸も気づいていなかったのに」

「あいつは耳はいいが少しそれに頼りすぎだな。一流の忍であるこの宇髄様は五感全てを使って周囲を探る。それに加えて、あとは経験だな」

「経験ですか」

「ああ」

 

 出されてあった湯呑みを口に運ぶ。

 

「お前みたいな女が、自分からあの男のそばを離れるわけねえからな」

「……知ったようなことを言われると腹がたちますね。私を理解していいのは善逸だけです」

「忍として多くの女から情報を聞き出してきた俺からするとな、お前ってお前自身が思ってるほど複雑な内面してないぞ。会って数日の男にも母性本能擽られるだけで惚れそうだ」

 

 駄目男にはまりそう、とは流石に口にはしないでおく。

 黙りこくったまれちーに言葉を繋げる。

 

「で、ついて来たのは善逸のためでいいのか?」

「……ええそうですよ。せっかく再会できたのに離れるわけないでしょう」

「善逸は知ってるのか? お前が追って来てるって」

「いえ、伝えないつもりです。善逸はすぐ顔に出ますから、鬼を連れて任務を遂行する、となるといろいろと不自由が出てしまいます。だから私は気づかれないよう音を消してこっそりと支えるつもりです」

 

 まあ手紙を書いてこっそり机に置いたりはしますが。そんなことを寂しそうに宣う。

 

「……そうかよ」

「まあそれも、あなたに見つかってしまった以上無理ですけどね」

 

 では、と言って天井裏に顔を引っ込めようとするまれちーに、

 

「待て」

 

 と、つい声をかけてしまった。

 

「何か?」

 

 言葉に迷う。

 というか、何故俺は呼び止めた。

 任務を遂行するなら、そもそもこいつと会話をすること自体意味がない。既に日は昇っている。夜闇の中ならいざ知らず、昼の間であるなら確実に勝てる。最悪この建物を破壊すればこいつは逃げ場もなく日光に焼かれることになる。

 そんなことはこいつだって承知しているはずだ。

 それにも関わらず、こいつはここにいる。

 それを見て、命を賭けたギリギリの状態に自分を追い込んで、そうまでしてやることが善逸を支えるためだと。

 

「……あー、くそ」

 

 ばりばりと頭をかく。

 弟を思い出す。二つ年下の、親父と同じ思考回路を植え付けられたあいつを。

 自分を含む全ての命は任務達成のための駒にすぎない。悩むことは弱さの証。そんな価値観の下で動き続ける忍という名のなにか。

 あんな、機械仕掛けの人形のような無機質な存在に、なりたくなかった。なりたくなかったから俺は嫁たちを連れて里を抜け、鬼殺隊に入った。

 自分の意思で力を振るいたい。人を殺すのではなく救いたい。そう願ったから。

 

「善逸を頼む」

「……は?」

「あいつは技術はあるのに、どうにも精神面が追いついていない。洗脳して鬼切機械に変えることはできるっちゃあできるがな、それはしたくねえ。自分の意思で刀を振ってほしい」

 

 正座に座り直し、まれちーに向かって、頭が畳に付くくらいに下げた。

 

「もう俺があいつに教えられることは何もない。上弦を斬ったんだ、あいつは既に一人前、どころか柱として認められるのに十分すぎる働きをした。もうこれ以上俺が善逸についてやることはできないし、ついていたところで精神的な支えになることはできない」

 

 つうか男同士で心の支えとか、継子とはいえさすがにごめんだわ。

 半ば呆然とした声でまれちーが、

 

「……つまり?」

「だから、善逸を頼む。あいつを支えてやってくれ。あの才が、精神的な欠陥のせいで無様に死ぬのなんか見たくねえし、早々死なれたら指導した宇髄様は何をやってたんだって話になるだろ」

 

 たのむ、と最後にもう一度言って、俺はさらに深く頭を下げた。

 数秒、沈黙の時間が続く。俺の言葉を聞いて何を思ったか、まれちーはそのまま音もなく天井裏に逃げ込むように潜みながら、

 

「別に、そんなことあなたに頼まれるまでもありませんし」

 

 と言った。




最新刊読んだ感想

➡︎兄弟子クソすぎかよ


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第34話 救済

「教祖様、こちらでございます」

 

 信者だろう女に促され、ナチュラル畜生こと童磨は鷹揚に頷きながら部屋へと入っていった。

 でかい、洋風の屋敷である。

 ふんだんに金をかけられた、しかし品のある落ち着きをもつ、白を基調とした建物だ。

 その屋敷がある岡山まで、俺とナチュ畜、あとついでに監視ちゃんは信者が手綱を握る馬車に乗ってはるばるやって来たのだった。

 いやー辛かった。

 移動中ずっとナチュ畜とせまい馬車の中で2時間だよ? いや監視ちゃんもいたけど、あの野郎私は置物ですと言わんばかりに微動だにしなかったからな。

 つうかナチュ畜、監視ちゃんになれなれしく「元気にしてたかい?」「彼の下で働くの楽しい?」とか話しかけてたけど、こいつほんと人を自然に煽るのな。俺と夏至ちゃんで社畜教育施したんだぞ? 社畜に向かって楽しい? て聞くの割と禁忌だろ。会社員時代の俺の後輩も、同窓会で友人に「そんな会社で働いてて何が楽しいの?」なんて聞かれたらしくて精神崩壊してたしな。俺の人生こんなはずじゃなかったって。

 監視ちゃんも身動ぎもしないでシカトの構え取ってたくせに、煽られて静かに涙流してたしな。可哀想に。社畜に落ちてしまった鬼を泣かすなんてほんとこの教祖クソ野郎だわ。

 まあそんな感じでナチュ畜と二人で監視ちゃんを言葉だけで何回泣かせることができるか競って遊んでいるうちに、件の洋風の館に到着したわけだけど。

 案内された部屋には、清潔に保たれたベッドが置かれていた。

 その上には一人の痩せこけた少女が横たわっている。掛け布団から出された右肘には夥しい数の点滴の跡が残っている。すでに瘢痕化し、皮膚に歪な凹凸と赤斑が見受けられる。

 いつ死んでもおかしくない、否、すでに半分は死んでいる有様。

 

「教祖様」

 

 話しかけてきたのは、中年の男だった。短髪で、眼鏡をかけ、鼻下に髭を生やした筋肉質な男である。本来は正気溢れる男であったろうが、焦燥に頬はこけ、頭髪もわずかに乱れている。

 男はベッドの脇に備え付けられていた椅子から立ち上がり、童磨に駆け寄ってその白い頭を下げた。

 

「この度はわざわざご足労いただきまことに申し訳なく……」

「いやいや構わないよ、なにしろ可愛い信者のためだ」

 

 外見的には明らかに年上の男性に対し、童磨はその悠然とした、平成の言葉で表現するならチャラい態度を崩さない。死にかけの娘の隣には男と同年代の女性がハンカチ片手にすすり泣きをしている。その後ろに侍る和風メイドも沈痛な面持ちで俯いている。そんな沈み切った空気の中で、ナチュ畜の快活な笑顔と声は、その場にいる全員の神経を逆撫した。

 

「あなた。この方が、あなたの言う加奈子を救ってくださるお医者様だと言うの?」

「む、あぁいや……」

 

 涙を流していた女性が、身に纏う和服の雰囲気に見合う凛とした声で夫に問う。

 

「おいおい奥さんちょっと待っておくれよ」

 

 赤くなった目を吊り上げて夫に詰める奥さんに対して、ナチュ畜は相変わらずの態度でまあまあと掌を見せながら猫撫で声で話しかける。

 

「娘さんの前で喧嘩はおよしよ。家内円満、家族は仲良くないと。それと、俺は医者じゃないんだ、どこかで誤解があったようだけど。俺は万世極楽教の教祖なんだよ」

「教祖……? 宗教家?」

 

 ギンッと夫を睨み、

 

「なんですか、大金をはたいて呼んだというから何かと思えば、この後に及んで神頼みですか?」

「いやいや、俺のところは浄土系だから、神じゃなくて阿弥陀仏ね」

「お帰りください」

 

 唇を震わせながら、それでも声を荒げずに言える彼女は立派だ。マジで尊敬する。

 

「加奈子が助かるのであれば、いくらでも支払いましょう。どんな対価でも差し出しましょう。しかし断じて神や仏に頼ったりなどしない。仏とやらが加奈子に何をしてくれましたか。加奈子が仏罰を下されるほどの悪行を働いたとでも? 私は仏など信じません。ましてやあなたのような詐欺師に差し出すものなど何もありません」

「そうかい、奥さんと俺は気が合いそうだ」

 

 朗らかに笑いながら、童磨は眠る娘さんに近づいていく。

 

「信じる必要はないよ。ただあなたは知ればいい。我が万世極楽教の霊験あらかたな秘薬の力を」

「な、何をなさるの!」

 

 童磨は奥さんの制止など意に介さず、懐から取り出した小瓶の中で揺れる赤い液体を、家族の同意もなくさっさと少女の口に流し込んだ。

 

「や、やめなさい! 加奈子は何ヶ月も点滴なの、いきなり水を含ませたら窒息してしまうわ!」

「ええっ? なにそれ、不便だなあ」

「……っ」

 

 アホなことをほざく童磨からさっさと視線を外して、奥さんはメイドと一緒に娘さんの口に管を入れようとしだした。痰の吸引用のチューブだろうそれを構え、メイドに少女の口を開けさせる。そしていざ挿管しようとチューブを近づけた時、奥さんの手が止まった。

 

「これは……?」

「お、奥様。お嬢様の肌が」

 

 それは、劇的な変化だった。

 死相すら見えていた土気色の顔に色が戻っていく。それは山の葉が紅を帯びていく様に似て、同時に肌の瑞々しい張りと膨らみも戻っていく。

 隙間風のような音を立てていた喉からは、深く穏やかな呼吸音が聞こえるようになる。

 枯れ木染みた腕には年相応の筋が戻り、肘に刻まれた痛々しい針痕は皮膚の裏に沈んでいくかのように姿を消した。

 極め付けに、少女のまぶたが2、3度ピクピクと痙攣を見せたかと思うと、うっすらと目を開いたのだ。

 

「加奈子……!」

「目が、加奈子の目が」

 

 開かれた瞳は茫洋としているものの、その焦点は確実にベッドに身を乗り出している両親の顔に向けられていた。

 

「お、母……さん。おと、お」

 

 少女の呟きに、あれだけ気丈に振る舞っていた奥さんは我を忘れたように娘にすがりつき、夫である彼は両手を組んでベッドに目を押し付けた。

 周囲のメイドや看護師も、夫婦の再会に涙を浮かべて喜んでいる。全員が視線を交わし、なるべく音を立てないように部屋から退出しようと足を向けた。親子水入らずで娘の快復を喜ばせてあげようという配慮である。

 

「さて、どうかな湯浅殿。我が万世極楽教の秘薬は」

 

 こいつ。いやもうほんとこいつ。死ねばいいのにと心から思う。

 声をかけられ、戸惑いながらも男は娘から離れ、童磨の足下に跪いた。

 

「は、はい。教祖様、教祖様の御威光のお陰で、あのように娘が、娘が……」

 

 言葉が嗚咽で途切れる。感極まって涙が堪えきれないのだろう。

 

「うん。それは良かった。それでは、お布施について話しておきたいのだけれど」

「……はい。極右団体『鬼殺隊』への捜査、でしょう」

「そうそう。危険な連中でね。大正の時代になったというのに日本刀を腰に差して持ち歩くような奴らだ。俺のような非力な一般人からするとね、怖くて夜も眠れないわけだよ」

「……それは、ヤクザものでしょうか。今時刀で武装など。それが潤沢な資金源を背景に徒党を組んでいるとなると、確かに我が特高が対象すべき事案です。情報提供感謝いたします、教祖様」

「うん、では頼むよ、湯浅警保局長」

 

 童磨は男の言葉に満足そうに頷いて、踵を返して部屋から出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 特高。正式名称は特別高等警察。

 内務省警保局保安課の指揮下に置かれるその組織の役割は、国家に対する危険行為の除去──すなわち極右・極左組織によるテロ行為の撲滅である。

 

 

 

 

 

 

 

「うまくいったねえ」

 

 帰りの馬車の中で、愉快そうに童磨が笑う。

 

「やっぱり人を救うことが宗教の本懐だよな。君もそう思うだろう? やはり俺にはこういう、人の救済が天職なんだろうね。まあ教祖だしな。なあ?」

 

 そうっすね。あなたがそうおもうならそうなんじゃないっすか? あなたの中では。

 

「なんだいつれないな。せっかくまた一人、いや二人かな? 新たに信者が増えてお布施が増える、みんな救われたつもりになれて、鬼殺隊も追い詰めることができる。誰も犠牲にしない、みんなが幸せになる方法じゃないか」

 

 何が不満なんだ、とナチュ畜は言う。

 そして、あざとく拳で手を打って、

 

「ああ! それともなんだい、眷属の蚊を使って病を広めることに、今更罪悪感なんて感じているのかい?」

 

 

 

 



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第35話 孤立

 ガタガタと揺れる馬車の振動の中で、童磨がにこにこと語りかけてくる。

 俺が罪悪感を持っているのか、と。

 ……。

 …………? 

 この畜生はドヤ顔で何を言ってるんだろうか。

 

「うーん。しらばっくれてるのか、自覚がないのかな」

 

 いや……ざいあくかんってどういう意味? 

 

「そこからかあ」

 

 いや待って、聞いたことある。というか度忘れしただけだから。もうちょっとで出てくるから。区間はわかるんだけど『ざいあ』の部分がちょっと耳慣れない感じ。宗教用語? 

 

「ん、いや」

 

 教祖だからってさ、専門用語使ってマウント取ってくるのなんなの。そんなんだから無惨様にあいつはあんまり好きじゃないとか会話が微妙にめんどくさいとか言われんだよ。

 

「え、なにそれ。嘘だぁ」

 

 上弦の陸の兄貴なんか童磨さんのことアホ呼ばわりしてたからね。あ、伍の半魚人がさ、売り物の壺を勝手に持って帰るのやめて欲しいってこないだ言ってたよ。

 

「勝手って、あれ? 貰っていくよーって声かけてたんだけど」

 

 いやあの壺って無惨の貿易会社で扱う売り物だから貰っちゃだめでしょ。しかもそれに女の首とか脚とか生けてたりしてるしょ? そのこと教えてあげたら魚人さん、それもまたよしって言ってたけどあれ結構傷ついてたからね。

 

「えぇ? いやいや、よしって言ってくれたんだから褒めてくれたんじゃないの?」

 

 こいつホント言葉の裏読めねーな。

 社交辞令も理解できないんじゃ日本人としてやっていけないぞ。

 日本語ではな、褒め言葉は褒め言葉じゃねーから。『元気そうだね』は『声でけーよお前』、『最近調子良いね』は『上司へのゴマスリうぜえ』、『いい天気ですね』は『頭が脂でテカってんだよハゲ』って意味だから。日本人は控えめでお淑やかな民族だから、相手の教養を試す意味でも直接わかるように批判しねーの。そういう会話の機微を読み取れない奴から窓際に追いやられていくんだよ。

 

「ホント? え、なにそれ怖い。そんな難しいこと今まで考えたことなかったよ?」

 

 そりゃあなたキョウソサマですやん、周りの信者は気を使ってたに決まってんでしょ。なに、もしかして自分とこの信者は笑顔だからみんな幸せだとでも思った? 残念でしたーそれ七割は愛想笑いで残りの三割苦笑いですー。多分あなた、信者の間では無惨様並のパワハラ上司扱いされてるよ? 

 

「……なんて酷いことを言うんだ。君って随分意地が悪かったんだね。仲良くなれたと思っていたのに」

 

 あーそれ気のせいですよ。仲の良いはずの鬼と会話している時もさ、なんだか話がつながっていない感じあったりしません? それ、あなたの言葉を除外して繋げればちゃんと会話が成り立ってますからね。

 

「……」

 

 あ、ちなみにこれは童磨さんのことを思って教えてあげてるんですからね? 周囲に嗤われているのに気づいていない人って見てて痛々しいですし、なんだかかわいそうじゃないですか。息臭い人にはちゃんと息臭いから口閉じてって教えてあげるべきでしょう、お互いのために。それと一緒です。あ、馬車ここまでで結構です、ここからは走っていきますので。

 

「んー、そうかい。じゃあこの辺でお別れだね。なるべく早く無惨様に喰われてね」

 

 そんな捨て台詞を後ろから投げかけられつつ、俺は監視ちゃんの簀巻を振り回しながら、林の中へと身を翻した。

 まだ俺の研究所までは距離があるけど、ナチュ畜と同じ空気を吸っているのがいい加減限界だったのだ。

 

 

 

 

 ───────────────────

 

 

 

 

「奇妙だ」

 

 煉獄さんが、常にない硬い声で呟いた。

 視線を上げればその眉間には皺が寄っている。普段から特に意味もなく笑う彼にしては珍しく、固い表情で鎹烏から受け取った文を見つめていた。雰囲気の落差に隣に座って息を整えている伊之助も濡れた体を焚き火で乾かしながら首を傾げている。

 

「どうしましたか?」

「鬼がいない」

 

 端的な言葉。鬼がいない。それは、いいことではないか? 

 心肺能力を上げるために、俺と伊之助は煉獄さんの指導のもと山奥に籠もっていた。ひたすらに走り、深い川に頭まで浸かって水の抵抗の大きい棍棒でもって組手を行う。川底にある岩を足の指で掴みながら、水の抵抗の中で動き回る修行。これによって俺たちは心肺能力だけではなく、全身の筋も同時に鍛えられている。

 ただ、寒い。下手すると心臓が鍛える前に止まる。伊之助はガクガクと全身を震わせながら、

 

「そそ、それがなん、なん、何だよ?」

「伊之助、言葉が悪いぞ」

「少な過ぎるのだ」

 

 煉獄さんは文を睨み、何かを思考することに労力を割いている。

 

「少な過ぎる、というと」

「うむ、いや、今他の隊員達の仕事ぶりについてまとめられたものを届けてもらったのだがな。それを見るにここ数ヶ月で鬼の討伐数が極端に減っている」

「そりゃあ鬼どもを倒しすぎて全滅寸前ってことじゃねえのか?」

「否」

 

 煉獄さんは伊之助の言葉を頑として否定する。

 

「鬼は減らない。鬼舞辻無惨が生きており、やつの血がばら撒かれ続ける限り、鬼は増え続けるし民が害され続ける。鬼舞辻無惨を殺すまで我々鬼殺隊の任務が終わることはない」

「……では、なぜ?」

「わからん。鬼が人を食わずにいられる道理など、それこそ竈門妹のような例外くらいだ。鬼の全てがそのような例外に至ったはずもなし。にも関わらず鬼は減っている。藤襲山での最終選抜、今年は行われないそうだ」

「な、なぜですか⁉」

「鬼が山に一体もいないからだ。山から忽然と消え、新たに捕獲することも未だできていない。ただ七日間山で野宿するだけになるから、と今御館様は頭を抱えているそうだ」

 

 加えて、と煉獄さんが文から顔を上げた。

 

「鬼殺隊員が逮捕されることが増えているらしい」

「た、逮捕? ですか?」

「刀を持つことを咎められ、国家転覆を狙う過激派として取り調べを受けるのだと」

「なっ」

 

 確かに、鬼殺隊は政府の公認を受けていない。故に警官のように真剣を所持する権利なんて存在しないわけで、つまり日輪刀を持ち歩くことを見咎められることは当然といえば当然のことであるのだが、それだけで国家転覆を狙うとまで言われる筋合いはないではないか。

 

「今週になってからは刀どころか隊服を見て職務質問された、という報告が3件。藤の家紋の家に押し入りで強制捜査を受けたという報告が8件。捕まったとしても今のところは御館様が手を回して釈放させているそうだが、それだって今までの貸しの対価としてであったり金銭を渡してだったりだ。産屋敷家やあまね様のご実家、藤の家紋の家らの資金も有限。いずれは尽きる」

 

 鬼殺隊員や隠、刀鍛冶の方などを養うにも金がかかる。言い方は悪いが、鬼殺隊の任務をいくら遂行しようとも、それが金を生むことはない。

 

「しかも特高まで出てきているとなると」

「とっこう?」

「特別高等警察。言ってみれば過激な警察組織だ。逮捕した容疑者を拷問死させたこともあると聞く」

 

 拷問? 逮捕するのはわかる、しかし裁判を受ける前に拷問で痛めつけて殺すなんて、そんなことが許されるのか。

 

「その残虐性もさることながら、より脅威なのはその情報収集能力」

「と、言いますと」

「特高の能力を表す言葉にこんなものがある。『銭湯の会話すらやつらには筒抜け』」

 

 つまり、特高の監視の目はそれだけ広く、どこにでもある、ということだ。

 鬼殺隊員の周囲の気配を探る能力は常人を上回る。一般人の監視の目に気づかない者はいないはずだ。

 それでも、今後鬼殺隊の活動に大きな制限がかかることは間違いない。

 

「今までは鬼も、鬼殺隊も、その存在を秘匿されてきた。故に警察や特高が我々について調査することもなかった。しかし我らの存在が政府の人間に知られた以上、ややもすれば我々は、警察組織とも争うことになるかもしれない」

 

 なぜ、と思う。

 なぜ今になってそんなことになるのか、と。

 民を守るために剣を振るう鬼殺隊が、その民から排斥されつつあるという現実。その原因となる、政府や警察が鬼殺隊の存在を知るに至った経緯が気になって仕方がない。ただ刀を持つ不審人物がいる、という情報が広まっているだけなら、藤の家紋の家まで摘発されることにはならないはずだ。

 唐突に心細さが心胆を寒からしめる。今の自分たちの鬼殺の任務を支えているあらゆる方達を取り上げられ、犯罪者として手配される。

 社会から孤立していく恐怖。

 家族を失ったときと同種の、自身が立つ地面が崩れていく感覚。

 

「覚悟を決めろ。動くぞ。事態が、大きく」

 

 煉獄さんの呟きは虚空に溶けて消える。

 それは、予感とは呼べないほどに大きな確かさを伴う、確信だった。




原作が佳境すぎてちょっと様子見してます。


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第36話 会議

 煙草の煙が、まるで雲のように揺蕩っていた。

 縦に長い机に座す、黒い制服に身を包んだ男たち。若くて三十代、最も高齢な者で七十に届こうという男もいた。

 日も落ちて久しく、照明の灯りが漏れないようカーテンを降ろしている。部屋の周囲は口の固い警官がそれとなく監視し、盗み聞きなどされないよう万全の態勢が取られている。

 それは、異常なほどの警戒態勢。

 国を揺るがしかねないとある議題について語るために集められた面々、皆一様にしかめ面で押し黙っていた。

 その原因は、それぞれの前に置かれた藁半紙の報告書の束である。

 

「で、この文芸作品の設定集がなんだというのかね」

 

 髭も豊かな男が苛立たしげに口元の葉巻を揺らす。

 彼の肩書きは特別高等課長。組織としては、内務省における特別高等警察、外事警察、労働争議調停の三部門をまとめ上げる課の長である。

 文芸作品、という表現はまだしも優しい方だ。報告書を読んだ者たちのうちほぼ全員の脳裏によぎったのはただ一言『荒唐無稽』。

 

 

 ・鬼殺隊を名乗る詰襟姿の武装集団がいる。

 ・潤沢な資金源を持ち、市井の中にも医者や法律家を初め農家や商家など幅広い層に協力者が紛れ込んでいる(詳細は別紙3参照のこと)。

 

 

 ここまで読んだとき、農村などを巻き込んでいることから彼らは鬼殺隊をすわ社会主義思想の過激派かと警戒したのだ。数十年前に巻き起こった自由民権運動に対して明治政府は公権力のみならずヤクザ者に組織させた任侠右翼と呼ばれる政治団体とともに弾圧してきた。以来その取締り対象は大逆事件を境に暴力的な社会主義団体やらなんやらへと推移していき、その流れの中でもお上と任侠者は持ちつ持たれつの関係を保ち続けてきた。一方で各政治団体は任侠右翼との武力的拮抗を求め独自の武装集団を組織し、水面下で暗殺やその報復やそのまた報復と戦いを激化させている。

 この鬼殺隊という連中も、そういった新参の政治団体のお抱え武闘派集団だろう、と考えられていたのだ。

 だが。

 

 

 ・鬼殺隊は鬼(*1)と呼ばれる人食いの怪物を狩ることを生業とする。

 

 

 この一文で一気に意味が分からなくなった。

 鬼とはなんぞや、熊か何かの暗喩か、さては鬼殺隊とは猟師の組合か何かか、と思い文末にある補足の*1を見てみれば、

 

 

 *1 鬼とは人食いの怪物である。容姿は様々であるが基本は日本人と大差なく、眼球の赤色が共通している。成人男性の肉体を容易に引きちぎる膂力と不死身を思わせる回復能力を併せ持ち、また老いることも病に倒れることもない。これを殺害する手段は日光で炙るか鬼殺隊の所持する特殊な日本刀(*27)でもって首を切り落とすのみである。

 

 

 特別高等課長がその古傷が散見する太い指で報告書を荒く叩く。

 

「どこの伝奇小説だ。誰かねこんな報告書をあげたのは」

「私です」

 

 特別高等課長の問に手を挙げたのは、湯浅と呼ばれる壮年の男だった。童磨の齎した薬によって娘の命を救われた男である。

 会議が一気に紛糾した。

 

「湯浅殿、一体どういうおつもりなのか」

「娘御の事情はお察ししますが」

「局長殿はお疲れになっているのでは? 御家内ともうまくいっていないと聞く」

「警保局長といえど、あまりに撹乱が過ぎるようですと罷免も免れぬかと」

 

 事実にそぐわぬ暴言を好き勝手自分を貶す言葉を一切無視して、湯浅は手元の報告書のページを数枚捲った。

 

「補足に記載されている、鬼を唯一殺しうる刀。その名を日輪刀というそうですが」

 

 一拍置いて、

 

「それを数本、押収することに成功しました」

 

 ざわり、と会議場が騒めく。

 

「押収までの流れも記載されています。浅草の質屋にて押し入り強盗があったそうで。その時、衣服をはじめいくつかの品が盗まれるのと引き換えのように5本の日本刀が抜身のまま置かれていたと」

「それが、件の刀である証拠は?」

「色が違う、という点が一つ。材質は鉄でありながら、如何な加工を施したのか、青みがかっているものや黄色、緑と様々でした。それともう一つ」

 

 湯浅は表情を変えぬまま、告げた。おそらくは日本の歴史を大きく変える報告を。

 

「実際に、鬼を相手に試したところ記載した通りの効果を発揮しました」

 

 しん、と。今度は会議場が静まり返った。誰もがその言葉の意味を図りかねていた。

 

「その、湯浅殿。いくつか聞いても良いだろうか」

「なんなりと」

「鬼、なる存在が実在した、と?」

 

 湯浅はこくりと重々しく頷いた。

 

「鬼を殺す尋常ならざる規模の組織があった。これだけであれば新手の宗教かとも思いましたが、鬼殺しの武器なるものまで彼らとは全く無関係の場所から見つかったのです。ならば鬼も……あるいはそれに準ずるなにかがいるのではと考えるのが道理。よって特高警察の人員を大幅に割いて捜させました」

「そして、探し当てたと?」

「別紙の5をご覧ください。見つけた鬼はいずれも山奥の農村や寂れかけた漁村など、人口の少ない地域に根付く荒神信仰の対象として生き延びていた者です。村に恩恵をもたらす代わりに生贄を要求する、さもなければ祟りが起きるぞ、とまあそのような形です」

 

 ぺらり、ぺらり、と紙をめくる音が響く。この段になってようやく会議の参加者が報告書に真剣に目を通すようになった。

 

「神や妖の信仰が根強い地域は未だに多い。そういった地域の住民は祟りを恐れ、決して鬼の、彼らからすれば神の、ですが。その存在を漏らさない。鬼は村を安全な食料源として支配し、村は神の存在に精神的に依存する。村の法や裁判を鬼に任せていた村もあります。こうして一つの小規模で歪な国が出来上がるわけですな」

 

 あの教祖もそうなのだろう、と湯浅は思う。奇妙な目をした、人間味のまるでないおかしな男。彼もここ数十年全く姿が変わっていない、という証言を得ている。

 

「しかし、鬼なる存在を信仰の対象とするには、それなりの説得力のある土台が必要なのでは?」

「鬼が不老不死であること、人を大きく上回る膂力があることで説得力という点では十分かと。また、鬼は個体によってなにかしらの、妖術染みた奇術が使えるようになるそうで。さらに恩恵として、村の外から入ってこようとする賊を捕獲し、村人の前で大々的に捕食して見せたりもしたそうで」

「……賊から村を守っていたと?」

 

 特別高等課長が厳つい眉を歪ませながら尋ねた。まさか、本当に守神としての役割も担っていたのか。

 

「さて……そんな寂れた村を山賊の類が襲ってなんの得があるのか、という疑問はありますが。次の用紙にも記述がありますように、鬼なるものが支配していた村はどれも極端なほどに排他的な風潮があったと。病や災いは全て外から入ってくるものだと、だから外部の人間と関わってはならない、とまあそのようなしきたりが老若男女区別なく浸透していたわけです」

「それは、まあその方が隠れ潜む鬼からすれば都合がいいだろうからな」

「もちろんそういった理由もあるでしょう。加えて、鬼としては村人に対する示威行為の機会が得られる、という利点もある」

 

 示威行為。その場にいた全員の脳裏に不快な予想が過ぎった。

 

「……つまり、あれかね。例えば村にやってきた善良な旅人なり商人なりを、災害の象徴として喰い殺していた、ということか?」

「外の人間だけでなく、病に冒された村人も同様に殺していたそうです。外と交わったために病に冒されたのだ、放置すれば疫病が村に広まる。その前に病ごと食って浄化し村を守るのだ、と。そんな理屈だそうで」

「大層な恩恵だな、反吐が出る」

「鬼とは狡猾です。人の心の弱みを巧みに突いてくる。そんな鬼を殺して回っているのが、この鬼殺隊という組織な訳です」

 

 報告書を読み進めていけば、それらの村の住民たちの暮らしぶりや風俗に関することが詳細に書かれていた。村の住民のうち、口が聞ける者ほぼ全員から証言を得ている。これら詳細な証言を得るためにはたして特高警察の長である湯浅がどのような命令をだしたのか、あるいはどの程度までを許したのかを知る術はこの場にいる人間にはなかった。

 重い沈黙が降りる。村民たちの暮らしが、その歪んだ重圧が文字の羅列を通して読む側に伝わってくる。その沈黙を破ったのはやはり特別高等課長の男だった。痛むこめかみを揉みほぐしながら、

 

「……この会議は、鬼殺隊を名乗る連中の対処についてではなかったか?」

「まずは、彼らの戦力に関して共通の認識を得ておこうと思いまして」

 

 そう、ここまではただの前座。本題はここからだ。

 湯浅は今までの流れを無視し、こう述べた。

 

「では今後、鬼殺隊を如何にして解体させるべきか、ですな」

 

 な、と驚きの声が数人から漏れた。

 そのうちの一人、この会議場の中でもっとも若い短髪の男が手を挙げ発言の許可を求めた。

 

「解体と言いましても、この報告書が事実であれば彼らは日本国の安寧のために活動していた団体ということになります。そんな彼らにそれはあまりにも」

 

 若手らしい甘さのある発言を湯浅は一蹴した。

 

「武力を持つ政府非公認の組織が存在することなど、許してはなりません。その戦力が鬼以外に向かわない保証などないのですから。そもそも、怪物すら殺せるような危険な刀を帯びて外を歩いている時点で犯罪であり、法治国家たる我が日本国への挑戦に他ならない」

「ではなんとする? 正直、この鬼殺隊を解体させたとしてだ。この鬼とやらの相手を警察がするのか? それとも陸軍に討伐を要請するか?」

 

 ここで、湯浅が立ち上がった。演説のように拳を握る。

 

「目的は単純です。ただ祖国日本のために、ただそれだけです。鬼どもの持つ不死性や身体能力の秘密。鬼殺隊が持つ不死身の怪物すら殺してみせる技術。その両方を我々政府が掌握し、来たる列強諸国との戦争に備えるのです」

 

 そして、できるならばあの軽薄な宗教家が持ってきた薬の製造法も。

 湯浅はそう心の中で付け加えるのだった。

 

 

 

 ─────────────────

 

 

 

 みたいな会話があったんだよ夏至ちゃん。

 

『それはいいのだが、今私たちはどうやって会話しているんだ?』

 

 血の触手を君の鼓膜に繋げて直接振動させてるんだよ。会議の声も糸電話の要領で遠くから盗み聞きできて超便利。お陰で監視ちゃんには会話が気づかれてないでしょ。

 

「気づくとか以前に、上弦の弐のところから帰ってきてからずっと動きがないというか、白痴状態なのだが……」

 

 ああ、あの畜生教祖に精神を壊されてね。笑顔で弄り回されてね、見ていて可哀想だったよ。

 本当あいつ畜生だわ。

 待っててくれ監視ちゃん、君の仇は俺がとるから。




だいたい社畜のせい。


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第37話 死声

 十人の男女が砂利の上に跪いている。筋骨隆々な大男から小柄な女性まで様々だが、いずれもその腰に日本刀を提げており、その佇まいから尋常ではない武を秘めていることが窺える。

 彼らが見据える先には、女性に支えられて座る、顔の上半分が焼け爛れたように引き攣れた青年がいる。

 柱合会議。

 緊急で招集された今回の会議における議題は二つ。

 一つは、上弦の陸討伐の報告。

 

「よくやったね、善逸」

「は、は、はははい!」

 

 言葉を賜り、恐縮と柱達からの視線への怯えからごりごりとその黄色い頭を地面に擦り付ける。

 音柱たる宇髄天元の継子、我妻善逸が単独で成し遂げた偉業に、以前は彼の切腹を望んだ柱の面々もその評価を翻さざるを得ない、それほどの偉業。

 お館様は善逸を称え、労い、何か望みがあるなら自分に伝えるよう告げ、

 

「善逸に聞きたいことがあるんだ」

「は、はい!?」

「上弦の陸との戦いの中で、独特な紋様の痣が額に発現した、と報告があがっているんだ」

「痣、ですか?」

 

 善逸は首を捻る。自分の額など戦闘中に見ることなどできるはずもない。

 

「できればその痣が出る条件を明らかにしたいのだけれど」

「じょ、条件と言われても……まれちーが拐われて、街中を駆け回ってやっと鬼を見つけて追い回して、て感じで」

 

 うんうんと唸りながら絞り出すように、

 

「女の鬼を見つけた時に、怒りで目の前が真っ赤になって……体温が異常に高くなって、自分の心の臓がすごい速く動くようになった時、だと、思います。そうなった時に体がふわって軽くなって動きも速く、周りもよく見えるようになって……」

「体温と脈拍、ですか」

 

 胡蝶が呟く。

 

「ではこれからはその二つを目安に、痣を発現させることが私たちの急務となりますね」

「ただね、当時の記録によると。痣を発現した剣士は皆例外なく……」

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 お館様の言葉にど汚いデスボイスじみた高音を吐き出しながら発狂した善逸を宇髄天元が拳で鎮圧させたところで、柱合会議はもう一つの議題に入る。それこそが今回の本題である。

 

「刀鍛冶の里が制圧された」

 

 ざわり、と柱の面々が騒めく。

 

「鍛冶を営む彼らが皆、捕まってしまった」

 

 鬼に、ではない。

 あろうことか、守るべき人間たちの手によって、だ。

 刀鍛冶の里に武装した警官隊が群れを為して襲撃、警備に付けていた鬼殺隊員も一緒に捕まってしまったという。

 鬼殺隊の関係者がこれだけの数、同時に捕縛されたのはこれが初めてのことだ。

 一体どこから情報が漏れたのか。

 

「何者かが、警察に情報を売ったのだろうが……その経路がわからない」

 

 こういったことを避けるため隊員にも場所を教えず、里も定期的に移動させてきたのだ。

 彼らは、鬼殺隊の中核とも言える存在なのだから、考えうる最大の注意を払ってその秘匿に力を注いでいたというのに。

 

「裏切り者という可能性は考えられない。恐らく、なんらかの血鬼術だろう」

「それは、鬼と人間が手を組んだ、と考えておられるのですか?」

 

 悲鳴嶼が問い掛ければ、お館様は重々しく頷いた。その表情が歪んでいた。柔らかい、陽だまりが如き笑みを浮かべるお館様の表情が、常にはない苦悩の焦燥に満ちている。

 

「子供たちも多くが捕まってしまった。鬼が出たと報せを聞いて駆けつければそこには警官が群れを為して待ち構えていた、ということが何度かあった。おかげで、鬼狩りの任務に従事できる人員がすでに六割を切った」

 

 極め付けは、上弦が出た、という情報があったことだ。

 それを聞き、産屋敷耀哉は焦ってしまった。上弦の陸を討伐したという情報を得た直後であることも焦りに拍車をかけ、多くの鬼殺隊員を向わせてしまった。それが人間を使った鬼舞辻無惨の狡猾な罠であった。銃を、風柱の弟が持つ銃身の長い散弾銃を構えた警官に囲まれ、逃げようがなかったのだ。彼らを率いていた2名の柱を含めた数名を除いて。

 

「言い訳しようもなく……面目次第もございません」

 

 時透と甘露寺が頭を下げる。二人の眼力だからこそ察知できたことだが、その場にいた警官隊が身を包んでいた衣服は、鬼殺隊が採用している生地と同じものだった。すなわち耐刃・耐衝撃性能に優れたもので、しかも警官たちはそれを何重にも重ね着して、頭部には戦国武将もかくやというような兜で頭を保護し、かつ顔を隠していた。

 銃弾での同士討ちは期待できず、一方的に銃弾の標的にされる状態。そこに一発の威嚇射撃と降伏勧告。混乱する隊員の隙間を縫ってその場を脱出できたのは柱を始めとした上級の隊員だけで、その場で別れた者達がどうなっているのかは産屋敷家の情報網を駆使してもわからなかった。

 隊員も、日輪刀も、藤の家紋を経由した様々な物資も含め、そのほとんどが人間の手によって取り上げられていく。

 まるで真綿で締め付けるように、鬼殺隊の動きが制限されていく。

 上弦の陸を倒した、歴史的快挙を成したというのに。

 今こそ鬼に対して攻勢に出るべき兆しが見えているというのに、あろうことか守護すべき人間がそれを阻むのだ。

 胡蝶しのぶが若干顔を青ざめさせて、

 

「もしや、この屋敷の場所も知られているのでは?」

「可能性はあるね。だけどそれより、鬼殺隊の弱体化の方が深刻で重大だ。政府となんとか交渉してはみるが、それまで僕の体が保つかどうか……」

「お館様……」

 

 胡蝶はいたわしげな目でお館様を見るが、彼らに出来ることは何もない。集まっている面々は柱であり、鬼殺隊にとってなくてはならない人材ではあるのだが、彼らに最も求められるのは剣の腕であり鬼を殺す技術である。その鬼すら姿を見かけなくなった今、何もできぬまま追い詰められることへの焦燥が心を焦がす。

 

「備える必要がある。鬼が人を裏で操ろうとも、守るべき人が皆鬼殺隊に牙を剥こうとも悪鬼滅殺の使命は揺るがない。そうだね?」

 

 はっ、と柱の面々が声を揃えて頷いた。

 

「それとね、しのぶ」

「はい」

 

 産屋敷耀哉は、異質の柱、鬼を殺す毒の製作者に、ある人物との共同研究を持ちかけた。

 絶句する胡蝶も、他の柱も、産屋敷耀哉本人すら、彼の首筋から離れる蚊に気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────

 

 

 

 

 

 

 という会話をやってたみたいよ。

 

「……相変わらず有能な男だな貴様は。忌々しい」

 

 忌々しいてあんた。

 

「人間を使う策は想像以上に上手く進んでいるようだ。蚊を用いて鬼狩りどもの居場所を把握するよう言っておいたが、そちらは?」

 

 残ってる鬼殺隊員はもう九割方見つけてるよ。もちろん産屋敷の屋敷も。産屋敷屋敷ってなんか言いづらいね。

 

「そうか。順調だな。このままでいけば産屋敷と鬼狩りどもを一網打尽にする時は近いな」

 

 スルーされて寂しい。夏至ちゃんいたら突っ込んでくれるのに。

 俺がいるここは無限城。ぐちゃぐちゃに混ぜられた和風の建物の一角に置かれた二畳の畳に子供サイズのショタむーざんは腰を下ろし、俺はその正面に教師に説教される学生のように突っ立っていた。

 隣には前髪琵琶女さんがうつ伏せにぶっ倒れていた。蚊の群れを日本中に送ったり戻したりでべんべんべんべん琵琶を弾き続けていた結果がこれである。やっぱ血鬼術て使ってるとなんかMP的なサムシングを消費するくさい。

 

「鳴女、起きろ。仕事の時間だ」

「……………………………………………………………………はい」

 

 のったりと体を起こした彼女はめきめきむちぃ、と右腕からトレードマークの琵琶を取り出した。

 姿勢を整え、琵琶を構える。一拍を置いて、彼女の演奏が開始された。

 それは超高速の速弾き。

 鬼の身体能力や反射神経、鬼の身体から作り出された琵琶の性能などを盛りに盛ったその奏法は全盛期のイングヴェイ・マルムスティーンのギターソロを彷彿とさせる。指が分裂しているかのように踊り狂って弦を弾く回数は一秒間におよそ300回超、18000bpmという頭おかしいテンポだ。人外にもほどがある。リズムをとる上下運動が加速してデスメタルのヘドバンみたいなことになっている。それをこんな長々とした頭髪を乗っけた頭でやるものだから髪がぶん回されてひどいことになっているのも人外具合に拍車をかける。

 そうして弦が一度弾かれるたびに極小の、親指の爪ほどの大きさの襖窓が開き、閉じ、消滅する。つまり1秒の間に小さな襖が300個、彼女を全周囲から取り囲むように出たり消えたりを繰り返している。無論この一度の開閉で一匹の蚊が通過している。琵琶さんはこうやって、日々蚊を用いた情報収集兼鬼間の情報伝達の中継機として活躍してくれているのである。

 

「オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙」

 

 で、興が乗るとこうしてデスボイスで歌い出すのだ。あの寡黙で会話も最小限に抑えたがる琵琶さんがヘドバンしながらドぎつい低音で歌う様は、その、なんだ、正直ヒく。

 

「なんだヒくとは、貴様のところで教育を受けさせた結果こうなったのだろうが」

 

 でも有能でしょ。

 

「まぁいい。この調子で『イ゙イ゙イ゙イ゙イ゙イ゙イ゙イ゙イ゙エッ』直に情報が集ま『ヴヴヴヴヴヴヴオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙』その時が鬼狩りの最期『イエ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙』…………………………」

 

 うるさ。

 

「では鬼狩りの全員が把握できたら知らせろ」

 

 そう言ってショタむーざんは立ち上がり、目の前に開いた扉から姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 そして、3日後。

 鬼殺隊の残存勢力全ての所在を把握し尽くした鬼舞辻無惨が、産屋敷耀哉の下へと向かった。




痣の設定についてはコミック派の方を配慮してぼかしました。


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第38話 反撃

 爆発した。

 琵琶さんがむーざんを産屋敷屋敷に送り届けて15分。その屋敷がいきなり、むーざんを中心にして、なんの前触れもなく爆発四散したのだ。

 空気を灼く炎、荒ぶる熱風。

 この時俺は、無限城の片隅にある半不死身薬製造室で、琵琶さんの作る頭サイズの襖から屋敷の様子を覗き見していたのだ。

 そしたらこれである。突然の爆炎、爆風。さすがにこれは予想外だった。襖の位置が爆発源に近すぎたせいで、狭い襖から溢れる炎の勢いは火炎放射器さながらで。しかもなんか爆弾の中に金属片まで混ざっていたらしく、俺の頭部が爆音とともに音速でぶっ飛んだ。

 首の断面を燃やす俺を指差して夏至がゲラゲラ笑っている。腹が立ったので猫が飼い主に頭を押し付けるように夏至の顔面に首の炎を押し付けてやった。

 いきなりなんなん? という怒りがある一方で、再生を開始した脳味噌で思う。多分産屋敷が仕掛けた鬼舞辻無惨を殺すための罠だろう。金属片を混ぜ込むあたり相当殺意が高い。

 

「やったか?」

 

 夏至ちゃんお前、そんなフラグ立てるようなことをお前。

 あーあー、ほら夏至ちゃんが余計なこと言うからむーざん再生しちゃった。ほんとならあのまま死んでたはずなのになー。

 

「鬼舞辻様がこの程度で死ぬわけないだろうが人のせいにするな」

 

 まあそうだけどさ。

 だから作戦を何重にも練ったわけだよ。初めて見た男の鬼が拘束用血鬼術を発動させ、その隙に女医さんが特攻かます。女医さんと、鬼殺隊の女の子が共同開発したそれらを、さらに俺の技術でもって魔改造加えて作り上げた人間化薬その他もろもろを掌に包んで彼女はむーざんの中に突っ込んだ。作戦通りに。

 

「鬼を人間に戻す薬ですよ! どうですか、効いてきましたか⁉」

 

 初めは半信半疑だったむーざんも効いてきた実感が出てきたのだろう、こちらに視線を向けてきた。

 

 ──は・や・く・た・す・け・ろ

 

 まさかの口パクである。

 そらね。俺の血鬼術なら体に入った毒なんてすぐ取り除けちゃうからね。

 でもプライドとかないのかこいつは。ピンチになったら脇目も振らずに逃げるタイプだわ。

 でもまだその時ではないので、俺はとりあえずさっきの爆炎で延焼した研究室の消火にとりかかろうと思う。ほら、今俺って呪い外してるからテレパシー使えねんだわ。襖からむーざんに向けて両手でバッテン作りながら、

 

 ──ご・め・ん・む・り

 

 そう口パクで伝えてのち、燃えてる椅子に再生しかけの首から血をぶっかけた。忙しいわー、これマジ忙しいわーほっとくと半不死薬が蒸発しちゃうわーこれは最優先事項だわー。

 

「貴様あああああぁぁぁ!」

「多くを殺してしまった贖罪に、私はお前とここで死ぬ!」

「早くこっちに来い! 毒を除去しろ!」

 

 いや聞いてやれよ女医さんの話。なんか今大事なこと言ってたじゃん。

 というか人に頼み事する時はそれなりの態度があるんじゃないの? ほらお願いしますは? 

 というメッセージを蚊に込めてむーざんに送る。届けこの想い。

 

「こ、の……!」

 

 血管ムキムキでマジギレむーざん超ウケる。

 襖から夏至ちゃんと二人でむーざんを指差して笑っているうちに、柱を中心にした鬼殺隊の方々が拘束されているむーざんに向かっていった。飴に群がるアリのようである。もちろんそのまま斬られることを良しとする我らがむーざんではない。琵琶さんに指示を出したのだろう、むーざんとむーざんに向かっていた面々が吸い込まれるように無限城へと落ちていった。

 さて。

 

「やるか?」

 

 うん、ちょうどいい時間だ。

 懐中時計を見れば、約束の時間より数分早いくらいだ。もうむーざんも毒の分解に忙しくなる頃だし、やっちゃっていいよ夏至ちゃん。

 

「了解」

 

 夏至ちゃんは手の平から伸ばしていた血の触手をさらに増やす。髪の毛よりも細いそれらは研究室の隅っこに座って琵琶を掻き鳴らしている琵琶さんの耳孔や眼窩、鼻の穴から侵入し各感覚神経を犯していく。

 マトリックスという映画をご存知だろうか。

 五感を制御された人間は、プラグから脳幹へと与えられる情報によって構築される仮想世界を現実と思い込む、とかそんな設定だ。

 俺や夏至ちゃんの血鬼術は原子レベルでの物質動態の観察や操作を可能にする。女医さんの薬の開発にも存分に役に立った。今もこうして琵琶さんの五感を好きに弄ることで、彼女の血鬼術をまるで自分のもののように使用することができるのだ。

 ただ、これは被使用者の脳への負担があまりにも大きいため乱用は控えないといけない。やり過ぎれば琵琶さんのようにエクソシスト染みたヘドバンしながら鼻血を垂れ流すことがあるし、あるいは監視ちゃんのように精神に障害を負うことにもなりかねない。

 むーざんの監視を誤魔化すためにここ数ヶ月ずっと脳味噌弄りっぱなしだったんだよね。ごめんね監視ちゃん。

 最初は夏至ちゃんでね、監視ちゃんにばれないように会話する、とかそんな感じで血の触手を聴神経と繋げたりとかで試してたんだよ。それが視神経に行って、もう脳ミソ直接いじった方が早くね、となったところで夏至ちゃんに拒否されてな。

 べべん、と一際大きな音が奏でられる。

 現れたのは長い、五十メートルはあろうかという長押だ。頭上1メートルの高さに現れたそれには当然鴨居が彫られ、数十枚の襖が張られている。

 ベン、と再び琵琶の音。

 襖が、俺の立つ地点を中心に、一人でに左右に開いていく。

 現れたのは見晴らしのいい屋外の空間。地面は土と砂で、白い粉で直線が何本も引かれている。遠くには木造の、3階建ての大きな建物があり、その名称が刻まれた看板にはこう書かれている。

 設施練訓備警害災殊特国帝本日大

 そこには、千人に迫ろうかという人間が規則正しい隊列を組んで並び立っていた。

 その全員が、平成の世でいう機動隊のような服装だ。左には盾、右には銃身の長い銃。腰には日本刀が提げられている。これらに加えて四肢を守る鎧や兜まで、全てが猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石からなる、つまり日輪刀と同じ素材でできている。

 鬼殺隊お抱えの刀鍛冶達を捕らえ、家族の協力(という名の人質)の下に眠る暇もなく、罪人への拷問もかくやという環境で作らせた、対鬼用装備である。

 

「やあ鬼殿、時間どおりですな」

 

 声をかけてきたのは、以前上弦の弐とともに治療した少女の父親だ。相変わらずのちょび髭がナイスミドルだ。こちらも恰幅の良い体を同じ装甲服で覆っている。

 この度はご協力いただき感謝いたします。

 

「なに、こちらとしても、我らが日本帝国としても、そなたからもたらされたものの価値はあまりに高い。それに、祖国は揺れ動く国際情勢の荒波の只中にある。斯様な情勢で内憂を放置することなどできますまい、その意味では鬼殿には情報を提供していただいたことに感謝しなければなりませんな」

 

 どうですか、元鬼殺隊の者たちは。使い物になりますか。

 

「使い物も何も、素材としては一級品と言わざるを得ません」

 

 ちょび髭は後ろを振り返る。

 隊列を組む彼らは微動だにしない。

 彼らのうちの一割は、任務中に警察の手によって捕まった鬼殺隊員だ。捕らえられた彼らは警察から司法取引を持ちかけられ、鬼の駆除を警察と協力し合うことと引き換えに、無罪放免及び鬼舞辻無惨討伐後の警察または帝国陸軍への就職を約束することとなったのだ。

 

「呼吸、と称する技法は実に素晴らしいです。身体能力の急激な向上が修練次第で誰でも見込める。それにつれて調練の長さと密度も上げていけるのですからな、数ヶ月前とはもはや比べものになりませんよ。こんな技術が数百年前から存在していたなど……もしもっと早く公になっていたら清国や露西亜からもっと良い条件を引き出すことができたでしょうに」

 

 話がズレたことに気づいたのか、コホンと咳払いを一つ挟み、

 

「元鬼殺隊の者から呼吸をはじめとした技術技法を学び、戦力を均一化させた上で規律を学ばせ、警察の持つ戦力と融合させた部隊です。それに加えて鬼殿からいただいた治癒薬も備えておりますからな。本能のままに暴れる鬼風情など鎧袖一触に蹴散らしてご覧に入れましょう」

 

 はははは、と高く笑うちょび髭に合わせて愛想笑いを返しておく。

 

「おい上司殿、これは上司殿がよく言う死亡ふらぐというやつではないか?」

 

 しっ、聞こえたらどうすんの。

 

「さて、時間ですな」

 

 ちょび髭が時計を見ながら呟く。各部隊の長を呼び出し、周囲に現れている琵琶さんの襖のうちどこにどの部隊が突入するかを指示していく。警官の精鋭と元鬼殺隊の混合部隊が持ち場に着く。それを確認し、ちょび髭は右手を上げ、振り下ろし、

 

「突撃ぃ!」

 

 進攻が始まる。劣勢に立たされた人類の反撃が、自分たちを餌としか顧みない特大の害虫を駆除するための進軍が開始された。

 覚悟しろよ鬼舞辻無惨。お前の命も今日限りだ。



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第39話 玉壺

 鬼の組織を構築し、部署ごとに完全に分業させ担う役割にも重複がない。

 数多いる鬼を効率的に運用しようとした結果だ。

 だから今宵、無惨が鬼狩りの全滅に乗り出した時、無限城には戦闘を担う上弦の鬼しかいないのだった。

 無惨がその気になれば、知性の有無を度外視すれば下弦程度の力を持つ鬼を量産することは容易い。しかし柱相手にそのような、雑魚と言って差し支えない鬼がどれだけいたところで無意味。無惨の血を無駄にするだけだ。それに、そのような雑魚で殺せるのは同じく鬼殺隊員の中の雑魚のみであり、そういった弱者は人間の手で始末させている。だから、上弦の五体のみで残る鬼殺隊の鏖殺を命じるのが最も効率が良い、と考えていた。

 ところが、だ。

 どこから侵入してきたのか、人間に拘束させたよりも圧倒的な数の人間が大挙として無限城に押し寄せてきたのだ。

 しかも、その全員が呼吸を使うのだという。

 珠代に打ち込まれた薬を分解しながら、無惨は上弦達からの報告を聞く。

 肉の繭に包まれながら、彼は怒りに震えていた。

 あの男。

 己を社畜と呼ぶ、胡散臭い男だった。

 有能ではあったが、それ故に苛立ちを湧き上がらせる、そこに存在するだけで殺したくなるような笑い方だった。

 一体どうやって自分の監視から逃れていたのかは不明だが、裏で準備を整え、虎視眈々と待ち焦がれていたのだ。

 裏切りの準備を。

 この、鬼舞辻無惨を殺す機会を。

 腹立たしい、腹立たしい、腹立たしい。

 永遠不変を目指す自分の感情をここまでかき乱すとは。

 許すまじ。

 いくら有能だろうと、太陽の克服の可能性ももはや免罪符となり得ない。

 この身に薬を入れられようと、あの男が裏切っていなければ、柱の連中に蚊を介した毒の注入でそれこそ戦わずに一網打尽にできたのに。

 次に視界に奴が入れば絶対に殺す。

 その点では、無限城に入ってきた雑魚どもも悪いことばかりではない。

 雑魚が何倍にも増えたということは、つまり新鮮な餌が豊富に収穫できるということ。

 薬の分解に力を消費する自分にはむしろ朗報とも言える。数が必要となれば玉壺に魚を増産させれば良いし。

 ただ、分解した後に血肉を補給するために、柱どもは全滅させておかねばならない。

 というより、今の状態で柱に見つかれば相当まずいことになる。

 死ぬことはないだろうが、回復に多大な時間と力を要する負傷を得ることになりかねない。

 まあ柱とはいえ、痣も赫刀もないのだ。上弦一体につき柱二人ずつ殺していけばお釣りが来る。

 どうだ、お前ら。もう柱の一人は倒したか? いいか、私が薬を分解し尽くすまで貴様ら私の下に柱を近付かせるなよ。

 ……。

 ……………………。

 ……………………おい。

 返事をしろ。おい。

 聞こえていないわけじゃないだろう。

 おいって。

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 三次元的に入り組んだ和風屋敷の中を駆け回りながら、善逸は懐かしい音に気づいた。

 鬼殺隊に入ってから直接会ったのは二度。どちらも一方的に罵倒されただけで、自分からなんとか交流を持とうと手紙を何度も送っていたが、返事は当然のように一通もなかった。恐らくあいつは読みもせずに捨てているのだろう。

 襖を開け放った。

 そこには、装甲に身を包んだ十人組の集団がいた。

 その装甲は外観よりもずっと厚く、体内の音が聞き取りにくい。兜で顔を覆っているため面相がまるでわからないが、それでも数年毎日朝から晩まで聞き続けた音を聞き紛うはずもない。

 向こうも善逸の存在に気づいたようで、兜に覆われた顔で五人が同時にこちらに振り向き、手に持った散弾銃をこちらに向けた。

 

「……獪岳」

 

 善逸が呼び掛ければ、真ん中にいた装甲服が一歩前に出て、兜を外した。

 

「なんだお前、生きてたのか。久しぶりだなァ善逸。相変わらずチビだな」

「なんでこんなところに」

 

 はっ、と鼻で笑い、獪岳は右手をさっと上げた。背後の九人はそれを合図に銃を下ろす。

 

「鬼を皆殺しにする作戦に従事してんだよこっちは」

「警察に捕まったって、聞いたんだけど」

「捕まった? ははは、相変わらず馬鹿だなお前。こっちから乗り換えたんだよ、鬼殺隊を見限ってな」

「なんでだ! 雷の呼吸の継承者が! あんたが特高に捕まったって聞いて爺ちゃんがどれだけ悲しんだか」

 

 ガシャッ、と。

 獪岳は黒く光る銃口を善逸に向けた。持っていた兜が落ち、善逸の足元へと転がる。

 

「知ったこっちゃねえんだよ、あんな俺を正当に評価しない爺なんてよ」

 

 静かな声だった。静かな怒りと、諦観と、寂寥が入り混じった声だった。

 

「テメエと二人で後継だと? 耄碌しやがって。大体呼吸の継承なんて肩書きになんの価値があるんだ?」

「価値、だって?」

「鬼を殺し尽くしたら鬼殺隊なんて解体される。そしたら俺たちはみんなまとめて無職の集まりか? 許可なく刃物をぶら下げて、殺し屋家業かヤクザの下っ端がせいぜいだろうが。誰が評価してくれるんだそんな連中」

 

 善逸は言葉を失う。

 鬼を殺し尽くす? そんな未来のことなんて、考えたこともなかった。痣を発現してしまった自分が考えることでもない、と無意識に思考から除外していたのだ。

 

「そんな先のことなんて……」

「先? 俺たちは今日が鬼との戦いが終わる日だと定めて訓練してきたんだ。その後を見据えるのは当然だろ。俺はこうして、警察組織の中で隊長職に就いた。公務員だ!」

 

 自慢げに叫ぶ獪岳に善逸は言葉をかけようとした。完全に道の分かたれたかつての兄弟子に、しかし何を今更言えばいいのか。せめて爺ちゃんの意思だけでも伝えようと口を開き、しかしその口から溢れた言葉は全く別の言葉だった。

 

「────逃げろ!」

 

 瞬く間に装甲服のうち四人が死んだ。

 次の瞬間には、何事かと振り向いた装甲服のうち二人が死に、さらに一秒後茫然としていた二人が死んだ。

 彼らの装備していた盾も、装甲服も、そしてその内側の鍛え上げられた肉体も、全てが牙の生えた魚の群に貪り尽くされて、ものの数秒で跡形もなくなった。

 獪岳は振り向きざまわが身に迫る魚群に向かって散弾銃を発砲したが多勢に無勢、一万匹の魚の群には焼け石に水だった。

 善逸にできたのは、一番近くにいた獪岳を抱えて下がることだけだ。それ以上の人間を庇うことは時間的にも距離的にも不可能だった。

 抱えたまま後退し、背後に投げ捨てて、向かってくる魚群を切り飛ばした。上弦の陸が放った壁のような血鎌の群に比べれば楽だ。

 しかしその程度の技量では、庇うことができるのは獪岳一人だけだった。

 できることとできないことはある。

 そんなことはわかっている。

 だが、それとこれとは別だ。

 身の奥底から湧き上がる怒りを我慢する理由にはならない。

 

「ひょひょひょ」

 

 そこにいるのは、言ってみれば巨大な魚だった。

 善逸の耳でも、一体いつ現れたのか捉えられなかった。

 人の顔らしきものが付いてはいるが、目があるべき眼窩には口が、額と口腔には眼球が埋まっている。下手に人間に近い造形をしている分、生理的嫌悪感を催す顔立ちだった。

 顔の上下に覗く瞳孔には「上弦」「伍」の文字が刻まれている。

 いつのまにか置かれた壺から身をくねらせて出てきたそれは、目元に付けられた二つの口から慇懃な挨拶の口上を述べた。

 

「初めまして、私は玉壺と申す者」

 

 何か言おうとしているが、それを遮ったのは獪岳だった。

 

「し、死ね!」

 

 上擦った悲鳴と共に放たれた散弾は真っ直ぐに魚のような鬼の首へと向かっていく。当たれば首を吹き飛ばし鬼に致命傷を与えただろうが、その弾丸は宙を素通りして壁にヒビを入れるだけに終わった。

 消えた。

 

「待たれよ、まだ話は終わっていない!」

 

 またも、耳で捉えられない移動。おそらく単純な速度ではない、移動する一瞬前に突然現れた壺が奴の移動の肝。別の場所に壺を出す、足元の壺に入る、出現させた壺から現れる、の手順だ。壺から壺への移動に過程が存在しない、だから自分の耳でも捉えられないのだ。

 ならばどうする? 

 決まっている。

 自分にできることなど決まっているのだ。

 真っ直ぐ行って切り飛ばす。ただそれだけ。

 

「シイイィィィィィ……」

「⁉︎おい善逸」

 

 震える獪岳の声を無視して、善逸は納刀した。

 左脚を引き、体重の八割を右脚にかける前傾姿勢。気息を整え、呼吸によって意図的に心臓の拍動数を上げる。血が巡る。全身の血管が破裂する直前まで血が加速し、それにつれて体温も上がっていく。

 最後の引き金は、怒りだ。

 目の前で九人もの人間を細切れに食い殺した鬼がいる。

 怒りの熱を、矢を引き絞るように練り上げていけば、ふ、と。ある瞬間に体が軽くなる瞬間に辿り着く。

 柱合会議の後、師である宇髄さんや医学に詳しい胡蝶しのぶと共に調べ、痣の発現機序の体系化に成功した。お陰で自分はいつでも痣を出すことができるようになった。

 とは言えまだ柱の誰も痣の発現に成功しないし、そのままこうして最終決戦に臨むことになってしまったが、だからこそ自分ができることは大きいと思う。

 だから、行こう。

 敵が上弦だろうと恐れるな。

 恐れは身を冷やす。恐怖を忘れ、怒りに身を任せろ。

 行け。

 

 

 ──雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃

 

 

 ──十二連

 

 

 雷鳴が響く。壁に囲まれた密室の中で、善逸は壁のみならず天井まで使って上弦の伍に迫る。

 初めの三連は揺動と追跡に使い、次の斬撃で首を狙う。しかしそれでは仕留め損ね、一瞬で移動を許してしまい、また追跡と揺動のために三連を消費する。

 三度の追跡と一度の斬撃。つまり霹靂一閃、十二連でこの鬼に対して放てる斬撃は都合三撃ということになる。

 一撃目は空振り、二撃目で薄皮を削り、三撃目で皮下の筋組織を僅かに裂くことに成功した。仕留め損ねる度に確実に致命に近づいているが、しかしそこで限界だった。

 今出せる全力で、仕留めるつもりで放った渾身の霹靂一閃だったのだ、それが躱されればあとには技後硬直で上弦の鬼の前で大きな隙を晒すことになるのだ。

 

「ま、まったく驚かせてくれましたね!」

 

 善逸の背後に新たに現れた壺の中から、玉壺の声がする。

 

「ヒヤリとしましたがそれもまたよ、し……?」

 

 玉壺が言葉を詰まらせる。

 すでに新たな壺を手にしていて、壺から出てすぐその中に待機させている魚群を用いて動けぬ金髪のガキの背後から魚を浴びせようと思っていたのだ。

 それなのに、いざ壺からにゅるりと這い出ようとしたところで、頭だけ出たところで動けなくなってしまった。

 糸だ。

 粘着性の高い、無色の糸が壺の口に蜘蛛の巣状に張られていて、そこから出ようとも頭一つ出したところで遮られるようになっていた。それだけ絶妙な張力と靭性が備えられている糸の存在に玉壺は一瞬混乱し、善逸から一瞬意識を逸らしてしまった。

 その一瞬で善逸は構えを終えていた。

 玉壺は即座にその構えに気づくも、まだ余裕があった。すでに十二回もこのガキの居合を見た。確かに驚異的な速度だが、この距離なら──

 

 

 ──雷の呼吸 漆ノ型 火雷神

 

 

 それは、圧倒的な速度だった。

 霹靂一閃を大きく上回る速度でもって放たれた居合の斬撃は、正面から喰らった玉壺の目をもってしても何が起きたかすら認識できなかった。

 気づけば首を斬られて死んでいた。

 

「……はぇ?」

 

 そんな間の抜けた言葉を最後に、玉壺は塵となって消えた。

 後のことを何も考えていなかった善逸は、玉壺を斬り飛ばした直後、その速度のまま壁に激突し、鼻血を吹き出しながら床にひっくり返った。

 

「いった……」

 

 大の字のままで呼吸を落ち着け、心臓を押さえ込んで痣を消すことに専念する。鼻血が思った以上に呼吸の妨げになる。刀を納めるついでに袖で鼻下をぬぐっていると、

 

「おい」

「なんだよ」

 

 声は頭上から聞こえた。心音から何故か怒っていることがわかった。わざわざキレてる兄弟子の顔を見る気にもならないので、善逸は目を閉じたまま返事をした。その態度がさらに気に食わないのか獪岳はさらに声を苛立たせて、問うた。

 

「やっぱり、あの爺は贔屓してやがったんだな」

「……なんのことだ?」

「漆ノ型だと? そんなもん俺は教わってねえ。霹靂一閃が使えなくても、それが使えりゃ十分だったじゃねえか。なのに爺は俺には教えないでお前だけに」

「違う」

 

 鼻声のそれは『ひがう』と聞こえた。

 

「爺ちゃんを侮辱すんな。これは俺の型だ」

 

 ここで、ようやく善逸は目を開けた。

 再会して初めて、二人は目を合わせた。

 その目に宿る静けさに、獪岳は一歩後ずさった。

 

「俺が考えた俺だけの型。いつかあんたと……肩を並べて戦うための型だった」

 

 それだけ伝えて、善逸はまた再び閉じた。

 獪岳は言葉もなく、ただ無言で佇む他なく。

 二人きりの空間に、しばらく善逸の荒い呼吸の音だけが響いた。




無惨様について調べてたら、無惨様を称える蔑称に「汚いフェイスレス」なるものを見つけて超笑いました。


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第40話 薬剤

 胡蝶しのぶは困惑していた。

 血の匂いを追って辿り着いた大部屋にいた鬼を、自分は探し続けていた。

 頭から血を被ったような容貌で。

 にこにこと屈託なく笑い。

 穏やかに優しく喋る。

 姉が死に際に語った特徴にそのまま合致する、飄々とした鬼だった。

 瞳に刻まれるのは上弦の弐。

 姉の仇だ。

 生半可な相手ではない、と。姉の話を聞いた時からわかっていた。それこそ自分の命を引き換えにしても殺してみせる、と。

 そんな決意を胸に研究を重ね、胡蝶は自身の肉体そのものに藤の花の毒を詰め込むことに成功した。

 加えてとある鬼の協力の下、毒の濃縮率は桁違いに上昇し、鬼の致死量のおよそ七万倍に至った。

 とはいえ、上弦や鬼舞辻にこの毒が効くかはわからない。

 効いたところで確実に滅殺できるかもわからない。

 どんな副作用が出るかも不明だ。

 そんな不確実な可能性に命を賭けざるを得ない、それほどの強敵。鬼の首も斬れない虚弱な女の身では、一縷の望みに賭けるしかないのだ。

 そう。

 私はこれから、目の前の鬼に喰われる。

 そのために私はここに来た。

 見ていて、姉さん。

 

 

 

 

 血の匂いがする襖を開けば、そこには池があった。板張りの桟橋が縦横に渡り、水面には白蓮が浮かんでいた。その中央には大量の女性の死体の山と、その上に腰掛けて人の頭部から頬肉を噛み切っている鬼がいた。

 

「可哀想に。何か辛いことがあったんだね……。聞いてあげよう話してごらん」

 

 生理的嫌悪と怒りが湧き上がる。なぜ人間を喰いながら人間の悩みを聞こうなどという発想ができるのか。姉が亡くなり、以来姉を模して浮かべた笑顔で蓋をした激情が、火山のように噴出しようとする。

 しかしそれを抑えつけて、できうる限り冷静に誰何する。

 

「姉を殺したのはお前だな? この羽織に見覚えはないか」

「朝日が昇って食べ損ねた子だよ、覚えてる。ちゃんと食べて」

 

 我慢の限界だった。

 ほとんど癇癪の発作のように放った突きは、上弦の弐が翳した手指の隙間を塗って左眼球から脳幹を貫通した。

 同時に毒を打ち込む。

 これで、自分の作戦が成就するかがわかる。

 鬼どもの協力を乞うてまで完成させた毒が果たして上弦に通用するのか。全く効かないのであれば戦略は破綻する。僅かでもその肉体を腐食させることができるのであれば、あとは程度の問題だ。

 そうなれば、自分がこいつに喰われればいい。きっとカナヲが奴の首を切ってくれる。

 通用してくれ、少しでも効いてくれ、お願い姉さん、と。

 神頼みのように、上弦の弐を祈るように見つめる。

 すると、上弦の弐が血を吐き出した。

 

「ガハッ! これは……」

 

 ビシャア、と勢い良く口からどす黒い血が吹き出した。内臓全体に藤の毒が回り、下部消化管にも潰瘍が生じ大量に出血しているのだ。出血量が多く、一畳ほどの広さまで広がる。

 効いている。

 私の毒が効いている──! 

 

「累君の山で使っていた毒より強力……ゲホ、グッちょ、ちょっと待って」

 

 あとは戦い、なんの切り札もない振りをしてこの鬼に喰われれば──

 

「あれぇ? 毒、分解、できない……」

「⁉」

 

 四つん這いの体勢から、自重を支えきれず肘から先の下腕が捥げ、顔面を板張りの床に強打する。その衝撃で頭が砕け、脳漿が散らばった。

 

「え、あれ? 首も斬れない剣士ですらない雑魚の毒で死ぬの? あんなに人を救ってきたのに? 可哀想すぎじゃない?」

 

 鼻から下しか残っていない口元で。

 両腕のない、土下座のような態勢で。

 上弦の弐はぶつぶつと呟いている。

 

「あ──でも、やっぱり何も感じないなあ。負けて悔しいとも、死ぬことも怖くないし」

 

 そんな負け惜しみじみたことを呟きながら、上弦の弐こと童磨の体は完全に崩壊した。

 何かの罠なのではないか、実は本体は別にいて、「童磨だよー!」などとほざきながらそこの扉から三十人くらい入ってくるのではないか。一匹見れば、と言うし。

 そんなことを半ば呆然と考えていたら、本当にその扉が開け放たれた。

 ぱぁん、と勢い良く開いたそこにいたのは、

 

「師範!」

「……カナヲ」

 

 入ってきたのはもちろん童磨などではなくて、家族とも言える愛弟子、カナヲだった。

 

「これは、遺体? 鬼がいたのですか?」

「……ええ。上弦の弐が」

「! 弐は、カナエ姉さんの仇では」

「そう、ね。そうなのよね」

「や、やったじゃないですか! しかも無傷で、上弦の鬼を倒せるだなんて」

 

 そうだ。仇を取ったのだ。姉を殺した憎き鬼を。奴は毒で苦しみながら死んだのだ。これ以上ないほどの大願成就。姉もさぞいい笑顔で親指立ててくれることだろう。

 だが、だけど、なんだろう。

 

「すごいもやもやする……!」

「師範? どうしました? 師範?」

「あ、いいえ、なんでもないのよ。大丈夫。大丈夫よ、感情の制御ができないものは未熟者ですもの、えぇ大丈夫以外の何者でもないわ」

「師範⁉」

 

 死を覚悟していたのだ。蝶屋敷の面々ともすでに今生の別れの挨拶を済ませ、机には遺言を認めた手紙まで置いてきている。それが、毒が効くかを確認するための試験的な突き一つで、試合で言うところの牽制一つで終わってしまった。肩透かしもいいところである。

 というか、毒が強すぎるのだ。

 そのせいで、自分で仇を討ったという気がまるでしない。

 一回の突きで打ち込める毒の量は50ミリリットルといったところ。たったそれだけの量で上弦の鬼の致死量に達するとは、

 

「あの男、一体どんな技術を……」

 

 あの胡散臭い男が、何を考えてこれだけの技術を提供したのか。

 わからないものは恐ろしい。

 確かに恩はできた。しかし、結局自分たち鬼殺隊を利用するために協力しているだけではないのか。そんな黒く冷たい疑心がしのぶの心を満たした。

 

 

 

 

 ─────────────────────

 

 

 

 

 戦局はなかなかいい感じだ。

 夏至ちゃん越しに琵琶さんの血鬼術を操作して無限城全体の様子を見学している。

 上弦の伍と弐が、無限城全体にトビウオやら氷の人形やらの眷属をばら撒いて人間を蹂躙していた。

 散弾銃で首を破壊すれば殺せる、と聞いていた警察部隊からすれば首の無い魚や水があればいくらでも再生する氷人形は初見殺しにも程がある。

 氷人形の背中には玉壺が血鬼術で作った水がこんこんと沸き続ける壺を背負わせているからほぼ不死身だし、そのふんだんな水量で上弦の弐と同等の血鬼術を使えるものだから、氷人形が歩いた後には肺胞をズタズタにされて血反吐の海に沈んだ死体がごろごろ転がっている。どんな鎧を身に纏っていても呼吸を抑えられるわけではないからね。いやなヘンゼルとグレーテルだ。

 で、警官隊の八割が死んだところで、大活躍だった眷属がまとめて死んだ。

 何事? まさかあいつら飽きたん?

 

「上弦の伍と弐がやられたようだな」

 

 えぇ……早くない? まだ警官隊残ってるじゃん、やっぱり柱にやられたの? 

 

「弐はそうだな。毒使いの女だ。だが伍を斬ったのは金髪の平隊員だな」

 

 マジか、パンクまじか。陸に続いて伍もか。すげえなあのチキン。

 いつの間にかそんなに成長しちゃって、おじさん嬉しいよ。

 やっぱりあの痣が重要っぽいな。

 他の柱と上弦の戦いを見ても、柱数人がかりで上弦一体にあしらわれているところがある。

 ここは柱の皆さんに痣を発現してもらうしかないな。

 

「どうやってだ?」

 

 パンクと柱が色々話し合ってたんだけど、痣を出すには心拍数を上げて体温を上昇させる必要があるんだと。じゃあアドレナリンとかレプチンとか、甲状腺の活動上げて代謝機能上げて、あとメタンフェタミンでも突っ込んでやればさ、痣の一つや二つくらいでるんじゃないの知らんけど。

 

「では柱のいる部屋に小窓作るぞ」

 

 いや、柱だけじゃなくて他の鬼殺隊員にもお薬注入してあげよう。痣持ちは多ければ多いほど良いしね。

 

「警察の方は?」

 

 ゴツい服着てるし、蚊がさせる隙間ないね。そっちはスルーで。

 

「了解だ」

 

 というわけで鬼殺隊の生き残り五十二人の下にお薬を送った。やっぱりこのまま上弦の鬼に何もできず嬲り殺しだなんてあまりにも可哀想だからね、生き残りの可能性を上げるんだ、感謝で咽び泣いていいぞ。




メタンフェタミン=通称魔神薬


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第41話 天狗

 ……。

 ……………………やっべ。

 

「おい、どうするんだ」

 

 い、いやまだ大丈夫。全然問題無い。

 

「問題ないわけあるか。薬を打たれた鬼殺隊、柱以外ほとんど死んだぞ」

 

 そうなのだ。

 目論見通り鬼殺隊の面々には痣が発現した。上弦と戦っている柱達も身体能力を向上させ、少しずつ押し返し始めている。

 その一方で、アドレナリンをぶっ込んだ副作用だろうか、眷属の蚊に注入された途端、平隊員達がみんな揃って左胸を押さえて膝から崩れ落ちた。

 あーあ、なんて顔でジト目で睨まれる。

 いや夏至ちゃん、バカ言っちゃいけない。死んだわけじゃないから、心臓止まっただけだから。だからその目やめーや。

 

「……同じことだろう?」

 

 は? 全っ然違うし。鬼ってそういうところあるよね、人間を過小評価しているっていうかナチュラルに見下してる感ある。そういうところって言動に出てるからね、知らず知らずのうちに周りの人から距離置かれるようになるからね。

 

「距離置かれるほど他者の関わりがないなこんな環境では。で? 死んでなければどうするんだ?」

 

 もう一度アドレナリン射てば拍動も再開するでしょ。ほらもっかい襖開けて。心臓動くようになるまで何度でもぶち込んでやるぜ。組織の存続がかかってる修羅場で寝こけるなんて社畜の風上にも置けねーっていう。

 働け、もっと働け……。

 

「いや、まあ開けろというなら開けるが。どうなっても知らんぞ」

 

 とりあえず気付けに使えそうなものを適当に盛り込んで蚊を媒介に注入してもらう。すると寝ていた連中がビクンビクンと体をえび反りにして痙攣を始めた。

 やっべ。

 

「おい、とどめか? とどめを刺したのか? その片棒を担いだのか私は? ん?」

 

 い、いや事故だから。不幸な事故。つくづく不幸な事故でした。返す返すも残念でなりません。

 

「あ、動いた……立ち上がったぞ!」

 

 ほら見ろほーら見ろ。ちゃんと痣出してみんな生きてるじゃん。とどめだ事故だと人の判断を無根拠に批判しちゃってさ。凡人の根拠なき偏見こそ文明の発展を阻害するのだと肝に銘じたまえよきみぃ。

 

「投与した薬剤のチョイスだって根拠ないヤマ勘だっただろうが」

 

 これだから物事の表面しか見れない凡人は。いいかい、例えばかの有名なパブロ・ピカソは晩年に、十秒程度で描いたスケッチ一枚に数千万の値段を付けたんだ。それに納得がいかない記者が言うわけだ、十秒で描いた落書きがそんな価値があるわけないだろうと。ピカソそれに答えて曰く、私はこのスケッチを描くのに数十年かかったのだ、とね。

 

「で?」

 

 かっこいいよね。

 

「また意味のない戯言を並べる。ピカソとか知らんし……で? そういうお前は天才なのか?」

 

 あ、見て見て夏至ちゃん、鬼殺隊が動き出したよ、一部が戦闘を再開してる。

 しかもあそこにいるのって犬並み嗅覚少年じゃない? 女医さんのところで作った人間化薬、ちゃんと妹さんに届いただろうか。

 その妹さんのために戦う犬並み少年も、他の鬼殺隊員と同様額に痣ができて、今までとは比べ物にならない動きで戦っている。

 と言ってもほとんど意味ないんだよな。

 彼が今戦っているのは、上弦の肆。

 現在の戦況として、生き残ってる人間が250人、うち鬼殺隊が52人。

 上弦の壱と戦闘しているのが柱3人、参と戦闘しているのは柱2人。

 残った戦闘員は半分が無限城全体を散らばって鬼やむーざんを探して走り回り、残った百人ほどを上弦の肆が受け持っている。

 上弦の肆はだだっ広い、体育館のような広さの部屋に陣取っていた。板張りの床に柱、正面には木造の、四大王の像が並べられている。

 上弦の肆こと半天狗は、弱点である本体を隠して攻撃性の高い分裂体に対象を殺害させるという、実に悪辣な戦術で戦う。分裂体達は日輪刀で首を斬られても死なず、斬られることを恐れずに高威力かつ広範囲の攻撃を仕掛けてくるのだ。

 ほら今も激おこカムチャッカさんの錫杖から放出される落雷連打で警官が十人死んだ。隣の部屋では槍の人の連続突きでまた十人、団扇の人の一振りで十人がひしゃげ、空飛ぶやつは少し離れたところで人を攫っては深い縦穴部分に放り投げてて、その底は数十人分の人肉でミートソースが出来上がっていた。人が固まってるところには超高音の衝撃波をぶっ放して鼓膜をまとめてぶち破って戦闘不能に陥れた。で、巣に餌を運ぶようにまとめて縦穴に放り込んでいた。

 無双すぎる。

 見る間に人が死んでいっているんですけど。

 制圧戦において適性高すぎませんかね。

 というか、半天狗の本体を無限城で見つけるとか無理ゲーすぎるんですが。

 と思っていたら、猪の頭部を持った異形の剣士が、高いところからこっそり戦闘を覗き見ていた本体ことチビ天狗のいる方向をビシッと指差した。すげえ、どうなってんだ。

 そこから鬼殺隊は二手に、本体を追う側と、分身体を足止めする側に分かれた。

 逃げるチビ天狗、追う猪。

 痣のできた犬鼻君は空飛び丸の翼を切り落として、団扇の人の両腕を切り離した後、髪がキューティクル抜群でさらさらな隊員に声をかけられた。

 

「竈門!」

「村田さん!」

「お前もその鼻で奴の位置がわかるだろ! 追え!」

「む、村田さんは?」

 

 キューティクル隊員村田はニヒルに笑って、

 

「こいつらを足止めしてやるさ。なんか俺、今すごい体が軽いし、なんでもできそうな気がするんだ。行け!」

 

 他の隊員達にも後押しされ、犬鼻少年は後ろ髪を引かれながらも、それを振り切って駆け出す。村田の言う通りその嗅覚でチビ天狗の位置を正確に把握しているのだろう、すぐに猪頭に追いついて一緒に走り出した。

 チビ天狗が細いところに逃げ込んでも、なんだあの猪すげえな、肩の関節外してウネウネ入り込んで追っていく。犬鼻君も匂いを頼りに迂回してチビ天狗を追い回す。

 その間も鬼殺隊の指揮をとる村田の下、倒れた空飛び丸を数人がかりで床に縫い止めたりと頑張ってる。

 その傍らで激おこカムチャッカを他の上位の階級の隊員と足止めしている。誰が気づいたのか、空飛び丸から切った翼で錫杖を包んで雷撃を封殺している。

 頑張ってる。

 すげえ頑張ってる。

 頑張れ頑張れム・ラ・タ、負けるな負けるなム・ラ・タ。

 よし、頑張ってるムラタさんに免じて、手の空いてる隊員とか警官を合流させてあげよう。夏至ちゃんよろしく。

 

「まあいいが。大丈夫か?」

 

 いけるいける。むしろ御祝儀的な? 頑張る人は応援すべきじゃんね。あ、手が空いててもパンクはお疲れだからそれ以外の隊員と警官ね。

 その辺を走り回っていた連中の足元に襖を出して、分身体のいる部屋や、入りきらない分はその周りの部屋に落としてやる。近くの隊員がすぐに状況を説明し、やるべきことを理解した彼らは即座に戦線に参加する。

 襖越しに応援していると、激おこカムチャッカがマジギレボルケイノして仲間の分身体たちを共食い、融合してショタジジイ天狗が召喚された。

 

「え、子供?」

 

 村田が一瞬の驚愕で動きを止めた。そんなことをいちいち寛恕しないショタジジィは、エネルよろしく背中に生えた和太鼓をデデンと叩いて木製の竜、というか八岐大蛇的なサムシングを召喚。

 

「血鬼術 無間業樹」

 

 うねる木龍が広い部屋を蹂躙する。

 その場にいた鬼殺隊及び警官隊のほとんどを一瞬で踏み潰した。

 村田ああああああああ! 

 

「……ごめんなさい、遅くなってしまって」

 

 現れたのは、桜餅みたいな髪をした、痴女のような隊員だった。現代のコスプレイヤーでもここまで露出はしない。この時代にあんな服を作ったやつは一体何を考えているんだろう。時代を先取りしすぎである。

 

「……甘露寺、気に病むな」

 

 その隣には桜餅よりも小柄な、顔の下半分を包帯で覆った中二病患者な縦縞が寄り添っていた。

 二人は両腕に一人ずつ、計四人の隊員を抱えて木龍の蹂躙範囲から逃れていた。桜餅の右肩に村田がいた。やったな村田。だが、それ以外の隊員は全て踏み潰されていた。板張りの床全体が血に染まっている。あたりに散らばる、三桁越えの遺体に桜餅は痛ましそうにうつむくが、すぐに顔を上げてショタジジイを睨みつけた。

 その目には涙と怒りが、首元には花弁のような痣が浮かんでいる。

 桜餅は肩に担いだ隊員を下ろし、

 

「許さない……」

「極悪人めが、そこを退け」

「絶対に、許さないんだから……!」

 

 鞭のような刀を突きつけ、ショタジジイに引導を渡すべく動き出す。柔らかい体を駆使して不規則に木龍をかわし、その鞭のような日輪刀を振りかぶった。

 それとほぼ同時に、

 

「獣の呼吸 陸ノ牙 乱杭咬み!」

 

 そんな叫びがここまで聞こえた。チビ天狗をグルグル追い回して戻ってきたのだろう。見れば、猪頭が振るう二本の刀が、チェーンソーのようにその細い首を切り裂きながら交差し、ガタガタの切り傷を作りながら刎ね飛ばした。

 本体が斬られ、ショタジジイももちろん崩壊する。

 

「ゲハハハハ! 上弦をぶっ殺してやったぜ!」

 

 猪頭の勝鬨が上がる。

 怒りに任せて目の前の鬼を斬ろうとしていた桜餅は、振りかぶった体勢のままフリーズしてしまった。

 ドンマイ。



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第42話 闘気

 上弦の参は殺戮の限りを尽くしていた。

 柱数人を相手にしながら、戦闘に割って入れず周囲に立ち尽くす警官隊は、鬼の攻撃の流れ弾というか、流れ斬撃や流れ拳撃で何の意味もなく死んでいく。散弾銃を構えた警官隊も、ばら撒く銃弾がまるで当たらない。挙句どちらも無数の弾丸を全て銃口に向けて、素手で受け流す始末だ。

 何の技術もなく。立ち止まり、銃口を向けて、引き金を引く。

 それは確かに速度という点では刀よりは上であろうが、早さで比べればあまりに遅い。

 特に上弦の参である鬼、猗窩座においては引き金を引く瞬間の微弱な闘気の上昇まで感知して自動で避ける、あるいは受け流してしまうため、相性でいえば警官隊にとって彼は最悪と言ってよかった。

 常人では理解できない鬼の化け物ぶりを目の当たりにして、湯浅と呼ばれる男、今回の鬼討伐作戦の全権指揮官である彼は股間を濡らしながらへたり込んでいた。

 ありえない。

 なんだあの化け物は。

 あの男は言っていた。この特殊な鉄で作られた銃弾で首を吹き飛ばせば鬼なんてワンパンっすよ、と。

 それは事実なのだろう、しかし、しかしだ。

 鬼という物がここまで規格外だなんて聞いていなかった。散弾を避けるだと? 素手で弾くだと? 拳の一振りで、ハエを払うような何気ない、視線も向けずに振るわれるそれで人体を破壊するだと? 

 なんだそれは、こんな存在があっていいはずがない。

 今回の作戦の成就をもって大日本帝国はさらなる飛躍を遂げるはずだったのだ。

 アジア全土を欧米の支配から脱却させ、欧米諸国と肩を並べる大帝国になる。自分はその帝国の中枢を担う職に就くだろうと、そう夢想していたのだ。

 そうだ。

 諦めてはならない。

 自分はこんなところで失脚するわけにはいかない。

 心を奮い立たせ、抜けた腰を煩わしく思いながら、湯浅は腰に挿していた散弾銃を抜いた。

 柱と呼ばれる日本刀の使い手との戦いで、縞模様の鬼はこちらに注意が向いていない。

 今なら殺せる。

 膝を台座に、湯浅は狙いを定める。

 引き金に指をかけ、機会を待つ。

 縞模様の、猗窩座と名乗った鬼は、数人の剣士との戦闘で高速で動き回っている。一瞬でいい、誰か足止めをしてくれ。

 そこで、黒髪の緑色の衣を羽織っている男が、猗窩座の拳撃の嵐を真っ向から受けてたった。その周囲はまるで凪いだ海のように静かで、暴風の如き鬼の乱打を音もなく捌き続けている。

 今しかない。

 

「よせ!」

 

 その判断が指に伝わって、反射のように引き金を引いた。

 次の瞬間、跳ね返された銃弾で湯浅は顔全体に銃創を負って死んだ。

 

 

 

 

 

「これで邪魔者は全て消えたな」

 

 修羅が笑う。

 両手にこびりついた血を見せつけるように舐め取りながら。

 見渡せば、すでに人影は残っていなかった。あるのは死屍累々、砕け折られた血みどろの死体だけであった。

 拳と散弾の暴虐の中生き残ったのは、鬼殺隊の柱である煉獄と冨岡、そして後から合流した音柱、宇髄天元の三人だけだ。

 

「守れなかったか……!」

「守る? おかしなことを言うなお前は」

 

 猗窩座は辺りを見渡し、自分が築いた屍山血河を示すように両腕を浅く広げた。

 

「これらは全て、自分の意思で戦うことを選んだんだろう? 死んだのはその結果だ。弱者が身の程を弁えなかった罰だ。罰を受けることを防げなかったと他者が嘆くは傲慢だろう」

「君の言っていることがまるで理解できない」

 

 炎柱たる煉獄が屹然と言い放つ。

 鬼が直接弱き人間に襲いかかるのならばそれを防ぐべく動くことはできた。しかしこの場にいたのは自分たち柱以外全員が銃を装備した警官隊だった。

 彼らとは連携もできず、上弦の参の圧倒的な強さと鬼気に恐慌状態に陥った彼らは棒立ちかむやみやたらに引き金を引きまくるかのどちらかで、その弾丸を全て跳ね返されて死んでいったのだ。柱という肩書きも彼らには何の意味も無く、撃つのを止めろと叫びはしたがそれが聞き入れられることはなく、散弾を止めることもできない以上流れ弾や上弦の鬼がこちらに跳ね返してくる銃弾の嵐を捌き続けるだけで精一杯だった。

 散弾の集中砲火をほぼ無傷で凌ぎ地獄を作り上げた鬼が、親しげに話しかける。

 

「素晴らしい闘気だ。三人とも。見ただけで瞭然だ。柱だな? お前たち」

「俺をこいつらと一緒にするな」

 

 冨岡が言う。こいつはまたそんなことを、と宇髄は呆れる。

 その強気な言葉(に聞こえるだけだけで本当はこの二人のような立派な柱とは違いますと言いたいだけなんだけど喋るのが嫌いなのでこんな言葉しか語彙の中にない)に猗窩座は嬉しげに笑みを深めた。

 

「お前たちの名を教えてくれ」

「俺は煉獄きょ……」

「鬼に名乗る名は……」

「俺は祭りの神だ!」

 

 静寂が降り立った。

 三人が同時に口を開いたせいで、煉獄と冨岡は他の者に発言を譲ってしまい最後まで言い切れなかった。周りを無視して自分を神と言い切った宇髄はさすがである。とはいえ三人の声が混ざってしまい鬼の聴覚をしても何を言っているのか聞き取れなかった。

 まあいい、と猗窩座は気を取り直して、

 

「鬼になる気はないか。鬼となれば永遠に鍛錬を続けられる、人間を超えられる」

 

 対し柱達は、

 

「なるわけがない!」

「口を開くな」

「常識で考えろよ口臭えよお前」

 

 ボコボコに言い負かされ、ピキリと血管を額に浮かべた猗窩座は、四股を踏むように地に脚を叩きつけた。

 

 ──術式展開 破壊殺 羅針

 

「ならば死ね」

「テメエが死ね、お洒落紋紋野郎!」

 

 猗窩座が飛び込み拳を振るう。

 宇髄が二刀でもってそれを受ける。

 左右に展開した冨岡と煉獄刀を振るうが、それを猗窩座はすり抜けるように回避した。

 微かに皮膚を切りつけられるが数秒とかからず回復する。

 

 ──破壊殺 乱式

 

 乱れる拳。警官隊との戦いにて十七人を一瞬で鏖殺した絶技。その一発一発が磁力で吸い寄せられるように三人それぞれの急所へと迫る。

 この攻撃に一番戸惑ったのは宇髄だ。

 この瞬間、猗窩座の律動が変化したのだ。

 どんな者でも決まった律動が存在するはずなのに、この鬼は攻撃ごとに異なる律動でもって拳脚を振るう。それは警官隊との戦いでもそうだった。まして銃弾をかわす時など、その直前までの動き、重心、律動からはありえない挙動で身に迫る銃弾を回避していた。

 宇髄は思う。

 善逸に修行をつけていてよかった、と。

 目では無く耳で攻撃を認識している者の挙動を自分は善逸から学んだ。

 周囲の音に頼るため、眼球という正面にしかついていないものに頼るよりも広角度を知覚できるが、弱点だって当然ある。複数のものが同時に迫ると、それらが放つ音が干渉しあって正確な位置情報を掴めなくなるのだ。

 善逸は、散弾銃の弾丸を聴覚だけで捌くことはできない。

 しかしこの鬼は、背後から放たれる散弾も認識し、目も向けないまま弾き飛ばした。

 つまりこいつは、聴覚で周囲を認識しているわけではない。

 視覚でも聴覚でもないなら、何だ。

 

 

 

「素晴らしいぞお前達、その練り上げられた闘気!」

 

 ──破壊殺 重式 鬼芯八重芯

 

 乱式よりは範囲が狭い、しかしその分集中された拳の群が三人に迫る。柱達はそれを剣でいなすもその重圧を化かしきれず、肩や脇の肉を削られた。

 

 

 

 極限の戦闘の中で記憶を辿れば、この鬼は全ての銃弾を防いだわけではない。

 二度、弾丸をその身に受けていた。

 いずれも背後からの銃撃であったが、幾度も背後からの不意打ちを完全に捌いていたはずなのに食らうものがある。その違いは何か。

 一つは、銃弾を受け吹き飛んだ者に押されての暴発。

 もう一つは、鬼の後ろ回し蹴りで頭部を爆散させられた男が、その直後に放った銃弾。

 首を飛ばされて、神経を刺激されて起こる痙攣で引き金が引かれたのだ。

 

「なぜ鬼にならない! 俺には理解できない、なぜ誰も俺の誘いに頷かない!」

「お前が嫌われているからだ」

「テメエがそれを言うのか冨岡ぁ!」

「何を言う宇髄! 少なくとも俺はこの鬼が嫌いだぞ!」

 

 ──破壊殺 砕式 万葉閃柳 

 

 馬より速く駆け出しながらの大振りの拳の一撃が床に突き刺さる。拳一つで地を砕くそれは、雷でも落ちたのかという爆音と衝撃をあたりに撒き散らす。

 形あるものは刀で捌くこともできようが、純粋な衝撃波はどうしようもない。一番近くにいて「心外!」と宇髄の言葉にショックを受けていた冨岡がその衝撃をまともにくらい、内臓に平等に痛みを覚えた。肋も何本かひび割れる。その隙を突くように猗窩座が体勢も低く冨岡の懐に飛び込む。

 

 ──破壊殺 脚式 飛雄星千輪

 

 その脚は打ち上げ花火のように冨岡の胸部に迫る。踵が寸分の狂いもなく、砕式によって冨岡が帯びた胸骨のヒビを強襲したが、それより先に冨岡の波紋突きが猗窩座の首を狙う。猗窩座は身を捻ることでそれを回避するも蹴撃が乱れ、冨岡の耳をかすめるに留まる。

 

 ──炎の呼吸 弐ノ型 昇り炎天

 

 打ち上げた蹴りの勢いのまま宙に浮いた猗窩座を捉えるべく放たれた煉獄の斬撃が、猗窩座の首を半分ほど裂くことに成功する。しかし猗窩座は羽が生えているかのように空中で姿勢を変えて回避した。

 

 

 

 宇髄は思考する。

 今の冨岡の突きも、煉獄の切り上げも。どちらも猗窩座の攻撃に対して先の先や対の先を捉える見事な律動で放たれたものだ。純粋な剣士ではない自分では放つことができない洗練された剣撃。それをまるで意識することもなくかわしたのはさすが数百年を修練に当てた修羅であると称賛できるものであるが、しかし、それよりもだ。

 そもそもあの鬼は、攻撃を認識していないのではないか。

 認識しているから防御ができる、と考えていたしそれが常識である、が。

 攻撃に転じていた猗窩座の意識の隙を縫って放たれた二つの斬撃を回避したのは、その回避に意識を用いていないからではないか。

 つまり、奴の防御行動は自動で行っているのではないか。

 攻撃があれだけ精密に人間の急所を狙えるのも、各攻撃ごとに律動が変化するのも、自分の意識でもって攻撃を放っているわけではないからだ。

 

 

 

「すごいぞお前たち、さらに闘気が練り上げられた! その負傷、体力も尽きかけた身でその精神力!」

 

 ──破壊殺 脚式 流閃群光

 ──炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり

 ──水の呼吸 拾壱ノ型 凪

 ──音の呼吸 肆ノ型 響斬無間

 

 鬼が連続して放つ蹴りを捌くも、人体の構造上脚は腕の三倍の筋力を持つ。それが鬼の脚ともなれば常軌を逸した破壊力を発揮し、しかもそれがほぼ同時に十八に分かれて三人を襲った。致命傷は避けるものの、その威力全てを回避するには三人とも至らず、たたらを踏んで大きな隙を作ってしまう。

 

 

 

 

 思考が巡る。

 羅針盤。

 自動。

 磁力。

 修羅。

 

 

 ──闘気。

 

 

 

「鬼にならぬなら死んでくれ、耐えられない! 強さを衰えさせぬまま、一瞬の花火のように生き恥を晒さず散ってくれ! 若く強いまま!」

 

 ──破壊殺 終式 青銀乱残光

 

 それはまさに終わりを齎す全方位への滅殺体術。それはまさに火薬の炸裂に似た広範囲攻撃。猗窩座を中心にばら撒かれる破壊の拳が、自分たちのいる部屋全体に破壊をばらまいた。ほぼ同時に放つ百発強の乱れ打ち、これが通常の家屋であれば一瞬で倒壊は免れなかったはずで、それに近距離で巻き込まれれば間違いなく死に至る。

 

「二人、か。生き残るとは大したものだ」

 

 躱しきれず、煉獄と冨岡が跪く。口惜しげに猗窩座を睨みつけるが、その視線すら嬉しそうに鬼は受け止める。

 

「一人は死んだか。確かに剣士としては一番才能が無かった。どうだ、お前たちまでこのまま死ぬことはないだろう?」

 

 猗窩座がそう判断したのは、宇髄の闘気が消えていたからだ。

 生物であれば皆闘気を纏っている。それが消えるのは死んだ時のみ。そう誤解していたから。

 また、剣士として格下と判断した宇髄が忍として生まれ育てられた存在であると気づかなかったから。

 そもそも猗窩座が生まれた江戸の時代、すでに忍の技術など途絶えていたと考えられていたため、今ここに忍が現れるなど想像だにしていなかったから。

 だから。

 音もなく背後から近づき、気配を完全に絶ったまま人を殺す技術を幼年期より叩き込まれた宇髄天元の手によって、猗窩座の首は見事に刎ねられた。

 

 

 どさり、と落ちた鬼の首が崩れる。

 それから時間にして五秒。

 体の崩壊が始まらない、いつまでも仁王立ちのままだ。

 まさか……三人の脳裏に恐ろしい予感が過ぎる。

 無惨が頭を潰して死なないように、上弦の鬼もまた──

 三人の柱が焦りを覚えた数瞬後、首のない鬼が動きだした。

 柱たちが刀をとる。

 鬼が片足を上げ、勢いよく振り下ろす。

 術式展開の動作だ。解けた血鬼術を再展開し、闘気の羅針を起動させようとして、

 

 地を踏みつけようとした左足が、その勢いのまま砕けた。

 

 鬼はそのまま床へと倒れ伏す。板張りの床に爪を立てるも、同時に指が自壊した。崩壊は全身へと波及し、数百年を生きた上弦の参はものの数秒で塵となって消滅した。

 誰ともなく、張り詰めていた息が漏れた。

 そこでやっと、柱の三人は警戒を解いたのだった。




上弦の壱との戦いは原作どおりということで飛ばします。
単行本派の方は、上弦の壱の過去エピソードなどもぜひ原作で読んでください、すげえです。


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第43話 総取

上弦の壱との戦闘はコミック派に配慮して飛ばします。


 上弦の壱こと黒死牟もまた、柱を相手に戦っていた。

 その六つの目を用いた視野は異常なほど広く、その斬撃は人体ではありえない距離まで届く。彼の歩法は数百年の研磨であらゆる無駄がはぎ取られ、ただの一歩が凡俗には空間を渡る妖術にしか映らない。

 音もなく遠距離を移動するその歩法に、黒死牟は名前をつけていない。鳥が空を飛ぶことにわざわざ名前をつけないように、この瞬間移動じみた歩は彼にとってただ歩くことと変わらないのだ。

 それだけの修練を積んできた。

 鬼と化してより数百年、気も遠くなるほどの年月を修練に費やしてきた。

 無限の体力を持つ鬼の身で、人の身では到底耐えられぬ密度と時間でもって技の研磨を続けてきた。

 そんな上弦の壱の視界に捕らえられれば、警官隊と鬼殺隊員は斬殺の結末以外はありえない。

 

 斬り捨てる。

 人間であるなら、鬼殺隊も警官隊も容赦なく斬り捨てる。

 

 斬り捨てた。

 鬼となって以来、あらゆる侍を、鬼狩りを、老も若きも、老若男女区別なく。

 

 斬り捨ててきた。

 数百年に渡り、無駄なものをひたすらに斬り捨ててきた。

 剣の振り方も、歩の進め方も。

 家も、妻も、子供も。

 武士としての誇りも。

 人間であることも。

 

 そして、あの男も。

 

 強さを求め、あの男の影に怯え、振り払うように剣を振り続けた。

 あらゆるものを斬り捨てて、斬り捨て続けて、その果てに得たものは何か。

 何もない。

 刀すら手放したこの手に残ったものは、化物の如き生き汚い己のみ。

 何も無く、何にもなれず、結局あの男にも及ばず。

 挙句、高が人間に斬り殺されるとは、

 

 ──一体、

 

 崩れ去る自身をまるで他人事のように眺めながら、鬼は思う。

 

 ──私は一体、何のために生まれてきたのだ

 

 最期に、胸元から溢れたガラクタを眺めながら、

 

 ──教えてくれ

 

 

 

 

 

 ───────────────────────

 

 

 

 

 

 と、言うわけで。

 

「はい」

 

 無事上弦の鬼が全滅してくれましたー。拍手! 

 

「いえーい」

 

 夏至ちゃんがおざなりに拍手してくれる。もっとうまく上司をよいしょしようや、そんなんじゃこれからやっていけないぞ? 

 

「すべき時にはちゃんとやるからお気遣いなく。てぃーぴーおー、というやつだ」

 

 なるほど、俺に対しては上下の壁なくそれだけ親しみを持ってくれているということですな。

 

「ぶはっ」

 

 吹き出しやがった。

 お仕置きの必要がありますねこれは……。

 

「お仕置きだと? 貴様忘れていないか、今の私は上弦の参と伍の血を取り込んだ、いわば超零余子。今こそ復讐の時、散々簀巻にした挙句実験台にしてくれやがった積年の恨み!」

 

 そうなのだ。手分けして無限城を監視していた俺たちは、上弦が死んだらその血を回収するように決めていたのだ。

 参と伍の死に様を看取った夏至ちゃんは、当然その二人の血を取り込んでいたわけで。

 きええぇぇ! と怪鳥のような叫びをあげながら夏至ちゃんが飛びかかってくる。あたりに血の触手を張り巡らせてこちらの逃げ場を塞ぎながらの突撃だ。このままでは強化された身体能力を活かした膝蹴りが俺の顔の中心を襲う。

 もちろん、そんな蹴りが当たるはずもないんだけど。

 

「⁉︎ な、なんだ、体が……」

 

 夏至ちゃんの膝が当たる直前で、彼女の体は空中で静止した。

 なんで忘れていたのか……まあいきなり力を得てハイになっちゃったんだろうけど。

 君が二体の上弦からしか血を取れていないっていうことは俺は三体、陸の兄弟の分も入れたら四体分の血を取り込んでいるってことだよ? 

 

「⁉」

 

 で、できるようになったわけだよ、このナノ単位の細さの血の触手。この細さに加えて、人一人程度の重量ならこうして宙に固定できるようになったわけさ。

 

「ふ、ふん。持ち上げられるからなんだ。そんなことをしたって無駄だ、覚えているぞ。お前の血鬼術は鬼の皮膚を破壊できない、攻撃する手段になり得ないとな」

 

 ドヤあ、とこちらを見下ろしてるとこ悪いけどさ。

 触手で外傷を与えなくても、細胞を傷つける方法はいくらでもあるんだわ。

 

「え」

 

 俺の言葉に混乱した夏至ちゃんは、次の瞬間に大量の血を吐いた。

 

「オグ、ぐほ、なっなんだ⁉」

 

 肺胞が壊れたんだね。超細い触手を先端から細かく分離させていくんだ。すると血の粒子になって空気中をいつまでも漂うようになる。それを吸い込んじゃったんだわ。今の俺の血って上弦の陸がやってたみたいに毒を含んでるから、それが肺胞の細胞を破壊したわけ。お兄ちゃん鬼の記憶を受け継いだからね、体内で毒を作るノウハウは習得済みだよ。

 

「ど、毒、だと? では何故貴様はその毒に犯されていない⁉」

 

 当たり前だろ、フグが自分の毒で死ぬか? なんて冗談はともかく。毒が効果を発揮するのは細胞に侵入してからだ。じゃあ血管内では自分の血漿で毒分子を包み込んでしまえば毒は効果を発揮しない。俺の血鬼術ではそれができる。

 

「そんな……」

 

 ゴホゴホと結核患者のように血の咳を吐き出す夏至ちゃんの口に、血の触手をまとめて突っ込む。気道の末端にある肺胞を探って、出血部位から血管へと触手を侵入させていく。そこから全身を巡って、上弦から採取した血を回収していく。

 

「もが、がああああ!」

 

 泣きながら必死に触手を噛みちぎろうとする夏至ちゃん。だが咳中枢をごりごり刺激してるから口を閉じることなんてできやしない。何もできないまま、夏至ちゃんはいい匂い成分含めて体内の液体成分のほとんどを失ってしまった。

 うん。

 やっぱり上弦の鬼ってむーざんにとって特別だったんだろう、含まれているいい匂い成分の量が他の下弦たちと比べても桁違いだ。

 夏至ちゃんの支配から逃れた琵琶さんの脳味噌を再び触手まみれにして五感と襖を操作する。さて、第一目標だった上弦どもの血も採取できたことだし、むーざんはどうなってるかな? 繭のままなら生き残ってる柱をけしかけて殺してもらおうって感じです。

 と思ったら、ちょうど繭から出てきちゃった。

 ちょっとだけ遅かったわ。

 夏至ちゃんが下克上企まなかったら多分すんなりむーざんを殺してもらえてたのに。

 下克上狙うとか最悪だわ。

 上下関係しっかり叩き込んどけよな。

 そのせいで俺がむーざんを倒す手順が増えるじゃんね。

 で、出てきたむーざんが何しているかというと、多分女医さんに入れられた人間薬の分解に力を使いすぎたせいだろう、その力を補充すべく無限城を走り回っている。

 

『鳴女よ、人間はどっちにいる』

 

 おっと、琵琶さんに話しかけてきた。すごい便利だよね、テレパシー能力。

 でもむーざんしか使えないし、脳味噌弄ってハッキングできちゃうから蚊通信と比べて一長一短かな。

 

『こちらでぇす』

 

 とか琵琶さんのふりして対応しながら、警官隊が集まってカバディしている映像を送ってやる。警官の連中は兜で顔隠してるから映像作るのも楽だわ。

 位置情報も送ってやると襖ワープより走ったほうが早いと判断したんだろう、全身から肉の鞭みたいなものを生やして無限城を縦横無尽に最短ルートを駆けていく。それに合わせてクモの子が散るように、むーざんがいる方向とは逆向きに走る警察隊の映像を送る。

 どうやら、よほど腹が減っているみたいだ。

 むーざんに入れた毒は、人間化薬と藤の花から作った細胞破壊薬の二種類だ。

 他にも色々女医さんは作っていたみたいだけど。

 だが残念だったな、今この城には生きている人間なんて二十にも満たない! 

 しかも上弦の鬼どもによって生じた一千超のフレッシュな死体は全て俺の触手で収穫済みだ! ここに来る前には社畜教育した鬼どもも収穫したしな!

 腹減った状態で、俺が作った人間の幻影と力尽きるまで鬼ごっこしているがいいわ! 鬼だけに!

これで収穫すべき残りはむーざんただ一つ。

 勝ったな、風呂入ってくる。

 おら夏至ちゃんいつまで寝てんの。お前は仕事の時間だおらぁ。



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第44話 排出

 むーざんが走り回っている。

 ありもしない餌を探して同じ道をぐるぐる駆ける姿はさしずめキモいハムスター。

 琵琶さん経由で無限城をいい感じにくねらせて、同じ道を走っていると気づかせないのは俺の手腕によるところが大きい。

 あれだな。

 いままで散々マウントとってくれやがったクソ上司を、こうやって掌の上で弄びながら飲む酒のうまいことうまいこと超うまいこと。

 もちろんこの酒には、今まで稀血牧場で丹精込めて育てた、搾りたての稀血と抗凝固薬をいい感じにブレンドした高級稀血酒だ。稀血の濃度も普段配給に回している稀血薬とは雲泥の差。

 とはいえ俺は口から嚥下するのではなく、触手から吸い取る形で摂取している。

 人の血とか肉を口に入れるとか、いやー無理っす。

 

「……その割に、随分と簡単に人間を殺せるものだな」

 

 そんなことを宣うのは、血やいい匂い成分を限界ギリギリまで吸われた夏至ちゃんである。簀巻き姿で床にうつ伏せのままだ。

 え? なんのこと? 俺がいつ人間を殺したんだよ、言いがかりはやめてくれよ。

 

「本気で言っているのか。警察の連中は貴様があの湯浅とかいう男を焚きつけて、無限城に送り込ませたのだろうが」

 

 わかってない、わかってないよ夏至ちゃんは。

 

「なにがだ」

 

 いいかい? 人生っていうのは選択の連続なんだ。自分の人生の岐路に立った時、他者に相談するのもいいだろう、いろんな資料を調べ、情報を集めるのも結構だ。立ち止まり、大いに悩むべき時もある。でもね、最後に頼れるのは自分だけだし、選択の瞬間は自分以外を頼るべきではない。その選択の責任は結局はその人本人に帰結するんだよ。

 共食いの本能を植え付けられた鬼だけじゃない。人間だって、孤独で寂しい生き物なんだ。

 

「ほざけ」

 

 なに、どしたん刺々して。更年期か。

 

「鬼に更年期などあるか。貴様の言は詐欺師の責任転嫁だろうが。というか、あんなに人肉が転がっていたのだ、少しくらい分けてくれてもよかっただろう独り占めしおって」

 

 あ、そこ? いやでも、これからを考えると分ける余裕はないっていうか。

 

「信賞必罰が組織の基本だと言っていたではないか。私頑張ったじゃん、すごい頑張ったじゃん、結構長い間! それなのに特に褒賞も給与もなく……」

 

 そうか、辛かったね。そうやって溜めこむのは鬼といえども精神的によくない。これからはそう言う愚痴を言える相手を用意しておいてあげるからね。はい解決。

 まあそうやって、部下の悩みを解決しつつ、人間化薬の分解で減ってしまったむーざんの体力をさらに削っていると、さすがに違和感に気付いたのか。むーざんが立ち止まった。

 

『……鳴女』

 

 琵琶さんが呼ばれたのでまた本人の振りをして返事。

 

『はい』

『貴様、なにをしている?』

 

 おっと激おこ。

 

『柱を二人ほど始末したところでございます』

『私は、人間どものいる場所に案内しろ、と命じたはずだ。気のせいか先から同じ場所を』

『やつら、あまりにも足が速く。今もかなりの速度で無惨様から遠ざかっております。その速さはまさにゴキブリチックで超キモい。さあ急ぎましょう。はよ』

『貴様、鳴女ではないな⁉』

 

 なぜバレたし。声真似は完璧だったはず。

 

「当たり前だ……」

 

 一緒に聞いていた夏至ちゃんが呆れた声で呟く。床にうつ伏せのくせにまだそんなことを。腹が立ったので夏至ちゃんの背中に腰掛けて無惨通信を行う。

 

『貴様……やはり貴様か。いつか来るだろうと思っていたが、このタイミングでか。忌々しい。珠代とも繋がっていたな? 蚊を用いて連絡をとっていたか』

『あ、同じとこグルグル走り回ってた頭無惨先輩様おっすおっす』

 

 うっわ顔中に血管ビッキビキでくそきめぇ。

 

『……鳴女はどうした』

『彼女は俺の横で寝てるよ』

『?』

 

 あ、通じてない。これだから千年物の未経験は。ビンテージかよ。

 

『貴様、何が目的だ? 私を取り込むことか』

『そのつもりでいたんだけどね。なんか相手するのも面倒かなって。無惨様はこれから永遠にこの城の中で走り続ける、なんてのもありかなあと。楽しそうだし』

 

 言いながら琵琶さんを弄って無限城の構造を変えていく。

 むーざんは今長い廊下に立っている。左右への曲がり角も何一つないただの廊下だ。

 その床の部分だけがゆっくりと動き出す。

 イメージとしてはロードランナー。床が進む先には巨大な吹き抜けの縦穴だ。その底は暗く、鬼の目でも見通せない。それに気付いたむーざんは肉の鞭を使って天井に張り付いた。

 小賢しい。

 同時に天井も、壁も起動させ、縦穴に向かって高速で走らせる。廊下の中にあるもの全てを押し流す排水溝のように無惨を縦穴へと送る。

 

「くっ」

 

 肉の鞭を振り回して廊下全体を破壊する。しかし破壊された残骸はすぐ後方へと押し流され、むーざんの足元には真新しい床が流れてきてその足を掬う。そのままビタンとコケてまた縦穴へと流れるように近づいていく。

 いや、まじでハムスターみたいだなこいつ。

 

「こ、の……!」

 

 すぐ立ち上がって再び走り出す。あ、走りながら琵琶さんの制御権を奪いにきた。え、ちょっと待って奪う力強いって。

 ていうかそれと同時に無限城の形も軋むように変化していく。建物全体が悲鳴をあげて、生き残った鬼殺隊の面々も周囲を警戒しだす。

 しまったな。このままだと琵琶さんの血鬼術がそのままむーざんに奪われる。

 琵琶さんて多分歴代の鬼の中で一番むーざんと一緒にいた時間が長いんだろう。そのせいか、鬼としての存在の根本的な部分までがっつりむーざんに支配されてるから、五感をいじることはできてもむーざんとの繋がりを完全に断つということができない。

 

「お、おい上司殿? 今これなにが起こっているんだ?」

 

 ケツの下から夏至ちゃんが不安そうに声をかけてきた。

 ちょっと今むーざんに琵琶さんの支配権を奪われかけてんだわ。

 

「な、それはダメではないか? 無惨様のことだ、裏切り者となった上司殿をねちっこく追いかけ回すぞざまあ」

 

 なに嬉しそうにしてんの。むーざん的には夏至ちゃんだって裏切り者枠じゃん。なんで自分はセーフだと思うのか。

 

「は、はあ⁉︎何を馬鹿な、え、なんで?」

 

 なんでってことあるか。ずっと一緒だったじゃん今更無関係ですって誰が信じるの。むーざんの呪いまで自分で外してるくせにさ。

 

「……よし、頑張って無惨を殺そうな! 何をすればいい? 上司殿の椅子係か?」

 

 いやいいよ、俺のせいで夏至ちゃんまで命狙われるなんて胸が痛むし。一人でなんとかするから夏至ちゃんは逃げてくれ。俺に任せて行くんだ、決して後ろを振り返るなよ。そして自分なりの幸せを見つけるんだ。君と過ごした時間、悪くなかったぜ。

 

「何を仰る、私が仕えるべきはあなただけだ上司殿。わかってるぞ? 二手に分かれて追手を私に擦り付けようというのだろう? 痛むような良心だってないくせにふふふ絶対逃がさん」

 

 ばれてーら。

 でもその変わり身の早さとか、全力で媚びる表情嫌いじゃないよ。

 あー、じゃあ一緒に琵琶さんの支配を維持しよう。触手出すだけの力は残してるでしょ。

 

「よっしゃわかった。まかせろ無惨の支配などいくらでも弾いてくれるわ!」

 

 夏至ちゃんは簀巻き椅子のまま文句も言わずに、腰の横にピシッと揃えている両手の指先から血の触手を琵琶さんへと伸ばした。

 二人でグチグチと脳を弄る。

 琵琶さんの鼻や一つしかない眼窩からドプッドプッと間欠的に血が溢れてるけどまあドンマイ。

 しかし、二人がかりでもむーざんの支配に逆らうのはちょっとキツい。というか無理くさい。

 

「上司殿上司殿、これ無理じゃないか?」

 

 無理だね。

 このままでは俺は生き残った柱連中と一緒に無限城内で圧縮されちゃうか、むーざん以外の全員が無限城の外に排出されるかの二択。琵琶さんの異能を奪われることがすなわちむーざんの逃亡を許すということだ。

 俺のむーざんへの下克上の成就は、この綱引きにかかっているのに。

 それがここまで敗色濃厚だと……しょうがない。

 全員を外に出してから、むーざんに異能を奪われる前に琵琶さんを収穫しよう。

 むーざんの足元の床を不規則に加減速させてむーざんの集中を乱す。

 あ、またこけてやんの。

 まあ鬼になって膂力が上がったところで、運動神経とか平衡感覚が上がるわけでもないしね。

 つうかむーざんの走るフォームって、高校のとき同じクラスだったヒョロガリオタクの長田君そっくりでなんかバタバタした走り方なんだよな。速さがあるからバレにくいけど。

 

ねえねえ夏至ちゃん、何か一言感想頂戴。

 

『か、感想か? やだー千年も生きててまだ運動神経無惨なのー? ぷーくすくす』

『殺す……!』

『え、まさか聞かれて……⁉︎』

 

 むーざんがコケ、夏至ちゃんの煽りに気をとられたその隙に、琵琶さんの異能を全開にして、無限城の中にいる全員を地上に排出させた。



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第45話 地上

 城が鳴動する。

 まるで苦痛に身を捩る蛇のように、内部構造が目まぐるしく変化していく。

 目的は鬼殺隊の分断か、あるいは圧殺か轢殺か。

 城が揺れ、ひび割れ、まさか城全体が崩壊するのか。そうなれば自分たちは生き埋めになるのではないか。そう炭治郎は思う。

 

「な、なんだこりゃあ! 建物全体がビリビリしてんぞ!」

「落ち着いて伊之助君!」

 

 伊之助もその肌感覚で危機を察知しているのだろう、あたりをキョロキョロと見渡している。それを宥めようと甘露寺が声をかけた。

 そんな不安と恐怖に身を竦めながらも刀を構えていた炭治郎は、いきなりの浮遊感を覚えた。

 思わずといった形で一瞬目を閉じてしまい、鬼の巣窟で視界を閉ざす無様さに自身を叱咤し目を見開けば、そこは今までいた無限城の内装とはまるで違う、洋風の色が濃い大通りだった。通りの左右にはレンガ造りの壁が並び、空は未だ暗い。

 市街地だ。

 なぜこんなところに。

 混乱する炭治郎は、南の方角から剣戟の甲高い音を響いているのを聞き取った。

 同時に、悍しいまでに濃厚な、重油のような異臭。

 

「あっちか!」

 

 その悍ましさに竦み上がった自分をよそに、伊之助がその場にいる誰よりも早く駆け出す。

 それを追って、蛇柱たる伊黒と、恋柱の甘露寺が走り、ほぼ同時に炭治郎も向かった。

 視線の先に、黒い点が見える。

 遠く、何が起こっているのか初めはわからなかったが、近づくにつれ何が起きているのかがわかってきた。

 異形と化した鬼舞辻無惨の周りを、黄色い髪の剣士が稲妻のように動き回って足止めしていた。

 

「善逸!」

 

 呼びかけるも無論返事はない。

 無惨の、野太い鞭と背中から生えた触手を振り回す猛攻に、己の全神経を聴覚に回しているのだ、口を開く余裕などあるわけもない。

 そんな二者の間に、一つの人影が割り込んだ。

 黒髪の男だ。

 服は無限城にいた警官たちと同じものであるが、なぜかその男は日輪刀を握っていた。善逸と同じく刀身は黄色で、他に特徴を言うなら随分と目つきの悪い男だった。

 その男が、無惨を背後から襲いかかった。

 

「俺を見下すんじゃねえ!」

 

 彼からは怒りの匂いが強く嗅ぎとれた。

 その感情は、何故か無惨ではなく善逸に向けられている。無惨の絶え間ない攻撃を捌く善逸への怒りと嫉妬だ。

 その善逸の作った隙を狙って飛び込んだ男の斬撃は、みごとに無惨のうなじへと吸い込まれ、そのまま首を切り裂いた。

 が。

 

「なっ⁉」

 

 男が振るった日輪刀は、そのまま無惨の首を素通りした。

 まるで幻覚でも見ているかのような現象。

 

「違う! 切れた先から修復されているんだ!」

 

 伊黒が叫ぶ。黒髪の男が刀を振ったところで、無惨にはなんの痛痒も与えていない。それで勝負が決まると確信していた男は、無惨とあまりに近い間合の中で、絶望的な隙を晒してしまった。

 

「獪岳っ」

 

 善逸が叫ぶ。その声は焦りに彩られ、しかし二人は無惨を挟んで反対側に位置していた。無惨の振るう触手と鞭を大きく迂回する以外に獪岳と呼んだ男を助ける手段はなく、無惨の鞭によって右腕を切断された。

 

「獪岳うう! くそっ」

 

 ようやく獪岳の下にたどり着いた善逸は、血に塗れた獪岳を抱えて離脱する。

 かなりの距離を稼いだはずだった。

 しかしその背後に無惨が迫る。自身の膂力にものを言わせた速度で瞬きの合間に接近し、牙の組み込まれた腕を振り下ろす。

 

「善逸!」

 

 炭治郎の声に振り返るも、その時にはすでに無惨の腕が間近に迫る。その様を善逸は半ば呆然とした顔で見つめていた。

 その凶腕が、善逸の髪に掠めて地面に打ち付ける。

 炭治郎も、その横にいる柱の二人も、善逸の挙動を追えなかった。かろうじて無惨だけが、座り込んだ状態から一瞬で真横に飛んで行った金髪頭を視線で追った。

 左。

 そこには、女がいた。

 女は、鬼殺隊の隊服を着ていた。黒髪を真後ろに束ねたその立ち姿は、目付きの鋭さも相まって侍のような印象を見るものに与える。いつの間に縛られたのか、全身グルグル巻きにされた善逸と獪岳を肩に担いでいる。

 一見鬼殺隊の一員に見えるも、しかしその眼球がおかしかった。

 赤一色なのだ。

 否、よくよく見ればその眼窩に詰まっているのは、一つの眼球ではなく昆虫の複眼だった。複眼の一つ一つに微細な色の違いがあり、その全てが無惨を睨みつけていた。

 その眉間に彫られている皺は、彼女の怒りを如実に表している。炭治郎はその嗅覚でもって、少女から先の獪岳より遥かに熱いドロドロとした怒りを感じ取った。

 その強すぎる怒りの感情の奥にあるこの匂いには覚えがある。

 

「まれちー、さん?」

「竈門。まれちー、とは以前話題になっていた隊士か」

「え、この音まれちー⁉︎ちょ、待って仰向けで担がれてると腰が! 腰がぁ!」

 

 善逸はまれちーの肩でブリッジ決められていて、どれだけ首を捻っても彼女の尻しか見えない体勢だ。

 

「ちょっと、まれちー獪岳が死にかけてんだけど! 縄、縄ほどいて!」

「大丈夫ですよ、私の糸でもう腕は、止血、してますから!」

 

 ぎゃあああ、と善逸の悲鳴があがる。無惨がまれちーに襲い掛かったのだ。十を優に超える数の触手が、柱でもなければ目で追えない速度で。上下左右、八方から背後まで、あらゆる方向から迫る。

 まれちーはその触手の動き全てを視界に捉えていた。人間にはあり得ぬ脚力と体幹で触手を躱していく。全てをかすり傷一つ負わずに回避していくも、すべてをなぎ払う無惨の腕が振るわれる。触手でまれちーの跳躍を阻害してのその一撃は、無惨からすれば実に忌々しい彼女の回避行動を無にする必殺の一撃。人の身では到底受け切れないそれを、しかしまれちーは受け止めた。

 轟音が響く。同時に巻き上がる土と瓦礫に、少女たちが

 

「ま、まれちーさん⁉」

 

 炭治郎が悲鳴じみた声を出した。無惨の腕によって舞い上がった土埃に隠された少女達の姿が、風とともに現れてくる。

 土埃の下から出てきたのは、巨大な蜘蛛だ。ぱっと見では蜘蛛のシルエットである。だが、埃が完全に晴れていけば、その悍ましさに怖気が走った。

 それは、蜘蛛と少女を混ぜ合わせたかのような異形。先まであった端正な少女の顔の額から、禍々しい蜘蛛の頭部が生えている。胴体は黒い鎧じみた外骨格で包まれ、その表面を赤く明滅する地割れのような線が走っている。その外側から伸びる十六本ある脚は、蜘蛛と人間の脚が半々であった。

 その脚を七本使って、無惨の豪腕に耐えたのだ。

 

「なんだ、貴様は。なんと醜い姿か」

「ありがとうございます、私にとって醜いは褒め言葉です死ね」

 

 蜘蛛の脚が振るわれる。鋼材を吊すフックよりも太い鉤爪が無惨の体をズタズタに引き裂く。切れ味鋭い日本刀よりも僅かに治癒が遅い。その一瞬すら無惨にとっては苛立ちの対象である。無惨は両腕を振るい、叩きつける。

 

「行くぞ、甘露寺、竈門、……猪。あの蜘蛛を助ける」

 

 伊黒が声をあげ、その蛇腹状の刀で斬りつける。その切っ先は無惨の背中から生えている触手だ。少しでもあの蜘蛛への攻め手を緩めようとその場にいる全員が斬りかかる。怪獣大決戦の様相を呈するその戦いに直接介入することはできない。

 そのおかげか少しずつ蜘蛛が優勢になりつつある。

 そう炭治郎の目には映っていた。

 このままいけば……と期待と希望がよぎったその時、

 

 

 

 ガヒュ

 

 

 

 炭治郎は、おかしな音を耳にした。

 それと同時に自分の体が何かに引きつけられる感触。

 そのせいで、避けたはずの触手に、何故か体の一部を抉られていた。

 一番の重傷はまれちーだ。

 脚の右半分八本と、胴体の右側を大きく抉られていた。

 残った脚では重心を支えられず、ガシャリと大きな音を立てて地に崩れ落ちた。

 

「私は今、とても空腹なのだ」

 

 無惨は言う。声になんの感情も込めず、熟練の屠殺業者がごとき目でまれちーを見下ろしている。こちらには視線も向けない。なんの障害にもならないという無関心さがそこにあった。

 

「あの男のせいでなんら補給できなかったのだ。貴様らだけでは到底足りぬが、それでも喰わぬよりはましだ」

 

 炭治郎は混乱する。

 何があった? どんな攻撃だったのか。わからない。その威力をまれちーに集中させていたためそれ以外の四人は軽傷ではある。しかし何をされたかわからないまま斬りかかれば犬死にする可能性が高い。それでも。

 無惨の手がまれちーに迫る。まだ動いている、体の半分を抉られてもまだ生きている。動け。負傷は左肩の肉を抉られただけだ。今動かないとまれちーが死ぬ。

 動け! 

 炭治郎が立ち上がる。

 同時に、まれちーの残骸ともいえる巨大な体の影から黄色い影が飛び出した。

 

 ──雷の呼吸 漆ノ型 火雷神

 

 油断していた無惨はその一撃で体を袈裟懸けに大きく欠損する。二人が交差し、着地した善逸に向かって即座に振り返った無惨が触手を振り回す。

 同時に聞こえるあの異音。

 

 ガヒュ

 ガヒュ

 ガヒュ

 

 地が削れる。たまたまそこに立っていた電柱が半ばで削られ崩れ落ちる。

 異音とともに巻き起こる破壊の嵐の中、瞳を閉じた善逸は、最小限の動きでそれらを全て回避した。

 

「風だ」

 

 善逸はその場にいる鬼殺隊員に伝えるべく口を開く。

 

「触手や腕についている口から、空気を吸ってるんだ」

 

 ギチギチと、血が滴るほど強く、過剰な握力で日輪刀の柄を握りしめながら、善逸は唇を噛みしめながら値千金の情報を告げた。

 それは、まれちーが自身と引き換えに引き出した情報だった。



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第46話 左腕

 日の出まで残り1時間半。鎹烏が叫ぶ。

 それまでこの場に無惨を拘束できれば、陽当たりのよいここでなら、無惨を殺せる。

 つまり自分たちがすべきは時間稼ぎであり、逃がさないよう絶え間なく攻撃を加え続けることだ。

 

「まれちー、獪岳を連れて後ろに下がっててくれ」

 

 善逸の言葉を受けて、巨大蜘蛛ことまれちーは、大きく欠落した体を引きずって無惨から距離を開けていく。炭治郎には、あの巨体がまれちーであるなどあまりに信じがたいことではあるが、善逸の落ち着いた言動にそれが事実だと突きつけられる。

 

「私はいつも善逸のそばにいますよ」

「……ありがとう」

「無理しないでくださいね」

「それは無理だよまれちー」

 

 歯を噛み締める。歯の隙間から漏れる呼吸の音は、炭治郎が以前聞いていたものより各段に大きい。

 脚を引き、納めた刀に右手を添えて、全身の筋繊維一つ一つに丹念に力を込める。

 

「嫁を抉られて頭に来ない男はいないから」

 

 ──雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃 十六連

 

 善逸が斬りかかる。上弦の陸すら幻惑させたその挙動に、しかし無惨は余裕をもって追従する。情報の処理能力が妓夫太郎よりも高い。六度目の踏み込みを終えても未だ善逸は無惨の視界から逃れられていない。

 その原因を、善逸はその聴覚で聞き取っていた。

 脳が五つ、心臓七つ。

 無惨は、五感から得た情報を五つの脳で処理しているのだ。前後左右の高速機動、虚実を交えた連続の霹靂一閃は確かに脳を幻惑させるに足るものではあるが、一つの脳を惑わしたとしても他の脳が情報を補完する。

 また、これが無惨が首を切られても死なない理由だろうと善逸は思う。

 上弦の陸が兄妹の首を共に切断しないと殺せなかったように、無惨の場合は全ての脳を分断しなければならないのだろう。それもあの回復力を潜り抜けて。

 歯噛みする。

 十度目の踏み込んだ先に無惨の触手が六本、善逸を囲むように迫る。他の触手で誘導されて嵌まり込んだ袋小路。

 十二度重ねるはずだった霹靂一閃を途中で取りやめ、その時点で抜刀。自分の嫁を傷つけた怒りを指に込めて全力で振り抜く。

 

「っ⁉」

 

 驚愕したのは無惨だった。

 金髪の小僧が握る日輪刀の、赫赫とした刀身の色に。

 切り払われた触手の断面の違和感に。

 焼けるような、痛み。常より圧倒的に遅い回復。

 覚えがある。思い出すのも忌まわしい記憶。

 それは、数百年も昔。

 ここ数百年ぶりの、あの男の斬撃を受けて以来の痛みだった。

 

「……忌々しい!」

 

 悍しい記憶を振り払うべく無惨は腕を伸ばす。抜刀直後の技後硬直に合わせ、地に脚が付くより早くその頭を齧り抉ろうと襲いかかる。

 善逸の視界の外から襲いかかった無惨の腕は、空振りして地面に叩きつけられた。

 何かに引っ張られるように善逸の体が体一つ分真横に滑ったのだ。

 糸だ。

 善逸の背中に張り付いている糸が巻き取られ、着地点がズレたのだ。

 驚くべきは、金髪の剣士の動きだ。

 意思疎通も合図もなくいきなり体を横に引かれたのだ、体に走る衝撃や視界の変化に対応しきれず、そこには必ず隙が生まれるはずである。

 しかし伸ばされた無惨の左腕の外側に逃れた善逸は、反射的に風を吸う孔に向け逆手に握りしめた刀で斬り上げを放つ。自分の真横に開いた異形の孔が空気を吸おうとしているのを聞き取ったためだ。

 そのまま流れるように納刀。

 呼息を整え、渾身の踏み込み。

 

 ──雷の呼吸 漆ノ型 火雷神

 

 糸に引かれた動揺を全く見せぬまま、善逸は無惨の切断された腕に切っ先を差し込んで、上腕を縦に切り裂いていく。上腕二頭筋と上腕骨の間で脈打つ心臓を一つ斬り捨て善逸の刃が無惨の胸部を抉り、左胸に納めていた心臓を砕く。

 

 無惨は苛立っていた。

 

 ガヒュ、ガヒュ、と触手の先端や腕に開けた口から空気を吸い込み善逸の行動を阻害しようと試みるも、その聴覚でほとんどを回避する。その踏み込みはあまりにも深い。その距離は柱である伊黒や甘露寺ですら真似できるものではない。にも関わらず暴風の様に荒れ狂う無惨の懐に潜り込んでなお善逸が無傷であり続けるのは、無惨に技の出し終わりを狙われる度に蜘蛛の糸が体を動かし、金髪の剣士もまたそれをわかっているかのように牽引直後に走り出すためだ。

 その場にいた四人も、触手や腕の切断を狙って刀を振るう。

 無惨にとってさらに腹立たしいことに、後から続々と柱が集結してきているのだ。

 

「よくやった善逸!」

「よく耐えた炭治郎、伊之助! さすが我が弟子だ!」

 

 ──音の呼吸 肆ノ型 響斬無間

 ──炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり

 

 派手な二人が豪快に触手を斬り払い、その隅で冨岡が無言で無惨の右腕を斬り落とした。

 悲鳴嶼が念仏を唱えながら鉄球を左腕に叩きつけ、不死川が涙を流しながら斬りつける。無惨の攻撃に体を削られた竈門以下四人は交代の形で下がり、後方に控えていた胡蝶とカナヲの治療を受け始めた。

 

 腹立たしい。

 

 集う柱がどいつもこいつも本人の了承もなく投与された薬剤のせいで痣を発現している。無限城におびき寄せた時には金髪の剣士にしか痣は出ていなかったのに、いつの間にこうなったのか。金髪ほどではないが、痣を持つ剣士がおぼろげながらもその手に持つ刀に赫刀の兆しが出ていて、これに切られた触手が多少なりとも再生が遅れてしまう。

 柱が総出で作った隙を利用して善逸が離脱し、叫ぶ。

 

「無惨には脳が五つ、心臓が七つある! 孔から空気を吸って体を削ってくる!」

 

 ああ腹が立つ、腹が立つ。

 

 空気孔から削る攻撃方法を金髪によって周知され、柱たちは触手を大きく回避するようになる。

 治療を終えた柱たちも戦線に復帰し、金髪の剣士の赫刀がさらに身を削るようになる。

 生き残った鬼殺隊が全て自分に向かってくる。痛手を負わせるでもなく、ただただこちらを足止めするためだけの、戦闘とも呼べない立ち回り。

 

 本当に、羽虫のようにしつこい奴らだ──

 

 

 ガヒュ

 

 

 それに反応できたのは、噴出口周囲の肉の蠕動に聴覚で気づけた善逸と悲鳴嶼、宇髄と、肌で空気の動きを知覚できた伊之助の四人だった。

 今まで吸気しかしていなかった無惨が、それらを突然逆転させたのだ。吸われないようある程度の距離を開けて剣を振っていた他の剣士たちは皆、近距離から吐き出された、圧縮された空気の直撃を喰らっていた。

 柱たちによって動きを制限されていた触手が解放される。それに気づいた善逸はそれでも前に進む。ここで手を緩めれば日が出る前に無惨に逃げられてしまうから。残った鬼殺隊員は二十にも満たない。隠のほとんども無限城に引き込まれたと聞いた。

 

 今この機会を逃せば、無惨を殺せる機会を永遠に失うことになる。

 そんな焦りが自分にあったことは自覚している。

 糸から伝わるまれちーの制止の意思も伝わってくる。

 それでも止まれるはずがない。

 背中をまれちーに任せて、無惨へと向かう。

 

 

 ガヒュ

 

 

 音は、善逸の背後から聞こえた。

 善逸の背後に回っていた触手が、彼の背中と繋がっていた糸を吸息によって巻き込み、切断したのだ。

 無惨の右腕が、触手を七本引き連れて自分に迫ってくる。あと数瞬後には、自分は全方向からあの孔によって全身を抉り尽くされることになる。

 善逸、と叫ぶ声を耳が拾った。

 それでも、踏み込む。

 

 ──雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃<神速>

 

 触手に囲まれるより一瞬早く、片足を犠牲にして駆け抜けた。以前より鍛えられた右脚に痛みが走る。無惨の首筋に切傷を与えながら交差し、奴の背後に着地する。

 狭い隙間だった。一瞬でも躊躇していたら死んでいた。

 

 左腕一本と引き換えに命を長らえたのだから上等だろう。

 

 腕一本でもまだ戦える。

 四人で踏ん張っている彼らも、まだかすり傷だけだ。

 吹き飛ばされた者たちも死んでいない。

 まだ大丈夫。まだ──

 

「終わりだ」

 

 依然触手を振り回す無惨は、静かに口にする。

 

「貴様らの体に私の血を混ぜた」

 

 それは、膝を折るには十分な絶望だった。

 

「鬼にはしない、大量の血だ。それは貴様ら人間には猛毒と同じ」

 

 ふん、と無惨は鼻で笑う。

 

「全身の細胞を破壊されて死ね」



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第47話 収穫

 日の出まであと五十分。

 無惨は余裕をもって鬼殺隊の相手をしていた。

 自身の血を注入したのだ。例え柱であったとしても二分もかからず動きに精彩を欠き、五分もあれば動けなくなる。

 未だ動き続けるのはこいつらが異常者だからだ。

 日の出までは余裕がある。

 今まで散々自分を煩わせてきた鬼殺隊の全滅する様を見て、今後心穏やかに暮らすための一助としてやろう。鬼殺隊の滅殺という長年の悲願、その達成の瞬間なのだから。

 

「いつまでも足掻くな。煩わしい」

 

 最後の悪足掻きにうんざりと、早くくたばれと思いながら一分経ち、二分経ち。

 与える血が足りないのかと攻撃が当たるたびに追加で血を加え。

 五分が経ったところで違和感を覚え、烏が日の出まで残りあと四十分だと叫ぶことでようやく無惨はその異常事態を確信した。

 

「……何故だ」

 

 鬼殺隊の者どもに、まるで疲弊が見られない。

 こいつらが柱だからか、それとも痣を発現させたからか。

 

「なぜ貴様らさっさと死なない?」

「何言ってやがる、テメェが死ぬまでド派手に元気いっぱいだわ!」

 

 原因を探ろうと剣士たちの体に目を凝らしながら、桃色の髪をした女にまた一撃を加えた。

 女が倒れる。

 傷自体は脇の骨を削った程度だが、本来ならその場で体の膨張が起こり灰となって崩壊する量の血を叩き込んだ。

 今度こそ死ね。

 しかし、あろうことか。そのすぐ傍の地面から生えてきた、径1センチほどの血色の触手が女の踵に突き刺さったのだ。

 何が起こっているのかすぐに分かった。

 

「貴様かああああ!」

 

 無惨は絶叫した。

 姿が見えないからと油断した。無限城の底で潰れているものだと思っていたのだ。死にはしなくとも奴の血鬼術で脱出などできるはずがない、と。

 ガヒュ、と右腕から音を立てて、苛立ちまじりに血の触手目掛けて圧縮した空気を放つ。

 桃色髪の女は蝶の髪飾りをつけた女に庇われたが、生えていた血の触手は空気弾によって地面ごと抉り砕かれた。

 

「どこを狙っている!」

 

 竈門炭治郎が叫び、日の呼吸でもって斬りかかる。しかしそんなもの、今更大した興味を引くものでもない。かつていたあの剣士に比べれば、こんなもの児戯にも等しい。

 そんなことより今気にするべきは。

 

「あの男め……」

 

 道理で、まるで柱どもに弱る気配が無いわけだ。

 視線を巡らす。柱たちとの戦闘を行いながらだから注視するほどの余裕はないが、他に何本の触手をあの男は地上に伸ばしているのか。

 一つ二つ、と数えるのも馬鹿らしい。数センチだけ頭を出した触手の先端が、ざっと見渡しただけで百はくだらない。通りの端まで小さな赤い触手の先が見えている。

 これらを使って、鬼殺隊に注入した血を取り除いていたのか。

 くらり、と無惨は自分の視界が揺らぐのを感じた。

 珠世に投与された人間化薬の分解で力を使いすぎた……だけではない。確かにそれ以降血肉の補充をしていないし、柱どもを手早く殺すために自分の血を外に出しすぎた。

 しかしどれも些細な問題でしかないはずだ。この程度で、この自分が立ちくらみなど。

 

 待て、と。

 

 無惨ははたと気づく。

 あの男の触手。数百、否、自分のいるこの大通り全体に触手が首を出すよう分岐させている。

 それらが、攻撃を受けた柱から猛毒の血を取り除き、また傷口の縫合もしている。出血の多い者にはどうやら輸血もしているようだ。

 だが、その作業を行うのに、これほど触手を分岐させる必要はない。

 なんだ、何を狙っている。あの男の狙いはなんだ。

 そもそも、なぜ自分はここにいる連中をさっさと殺しきれない。先も思ったとおり、こいつらの剣技など児戯だ。この程度の剣士が束になってかかってきたところで、こうまで拘ってしまう理由など本来ない。

 間違いなく、あの男が何かをしている。

 眼球を改造し、顕微鏡のように水晶体を直列につなげる。解像度を上げ、焦点距離を調整し、頭を出す血の触手の先端を注視する。

 

「霧、だと」

 

 そこからは、粒子が舞っていた。

 触手の先を少しずつ切断し、生じる細かな、通常の眼球では認識すらできないほど細かな断片を、大気中に浮遊させているのだ。

 それらは風に乗って拡散し、大通り全体に充満していた。そうとも知らず自分は空気を取り込むことで柱たちの肉体を削ろうと躍起になっていた。

 あの男が無意味にこんなことをするはずがない。

 今も地面から吹き出る粒子には一体何が含まれているのか。

 体内を精査する。そうしている間も金髪の剣士が振るう赫刀が煩わしい。しかももはや、吸息による攻撃は使えない。吸えない以上、呼息による空気の圧縮も撃てなくなった。

 

「──攻撃の手が緩んできた! かかれ!」

 

 盲目の大男が叫ぶ。うるさい。今私はそれどころではない。

 胴体に大きな口を作り、衝撃波を放つ。威力こそ低いが、人間の筋を麻痺させる効果のある雷撃だ。

 

 ──恋の呼吸 参ノ型 恋猫しぐれ

 

 近づく柱を纏めて潰そうと放った雷撃は、桃髪の女が振るう鞭のような刀で全て斬り捨てられた。

 

「よくやった甘露寺!」

 

 ──炎の呼吸 玖ノ型 煉獄

 

 炎の呼吸の使い手が、雷撃を放った胴体を孔にそって袈裟斬りにした。

 無意識だろうが、柱の中で最も強く赫刀の発現に成功している剣士の一撃だ。

 金髪の剣士にはない人間離れした膂力で、煉獄が握る赫刀は突進の勢いのままに無惨の体を貫き、その背後三メートルの位置にあったレンガ壁へと串刺しにした。

 ここで、ようやく無惨は自分の体内で起こっていた変化を知る。

 

 空気中に漂う血の霧には、珠世が作った人間化薬が含まれていた。

 

 柱たちの体を抉るために、無惨は地上に出てからずっと、大量の空気を吸い続けていた。

 

「日ノ出マデ、アト三十分ンン──!」

 

 その時間はおよそ一時間。

 その間に吸収してしまった人間化薬の量は、珠世によって投与された量のおよそ十七倍。

 柱どもを殺せなかったのも当然だ。自分が人間に近づいているからだ。

 刻一刻と、自分は弱体化している。

 それを自覚すると同時に、無惨は血を吐いた。

 何が。

 動揺を隠せない無惨の脳裏に、殺したはずの女の声が響く。

 

『彼が上手くやってくれたようですね』

『珠世……!』

 

 珠世が笑う。蟻を踏みつぶす子供のような嗜虐的な笑みで、無惨の頬を撫でた。

 それは、あまりにも冷たい指で。

 

『私があなたに加えた薬は、人間化薬だけではありません。貴方が弱った所に、あなたに加えたもう一つの薬、細胞破壊薬の効果が発揮する』

 

 さぁ、と珠世が耳元で囁く。愉悦に染まった声色で。

 

『死がついにお前を迎えにきたぞ』

 

 珠世の指の冷たさは、無惨に暗い死を想起させた。

 

「女狐め……!」

 

 自分を壁に縫い付ける煉獄を殺そうと腕を振るうも、その全てを剣士に妨害される。自分が守られると信じて疑わないのか、煉獄は自身に残る全ての力を込めて日輪刀を握りしめる。

 

「おおおおおおおおお!」

 

 煉獄の雄叫びに合わせて、日輪刀が赫く染まる。無惨の吐血も量を増す。自身の弱体化を自覚し、無惨はこの場を見切った。

 ここで鬼殺隊を全滅させることはできない、と。

 業腹ではあるが、これ以上拘っても何の意味もない。

 そう決めた無惨は早かった。

 

『クスクス』

 

 笑い声が聞こえる。

 黙れ。逃げる私を笑うか。

 こんな異常者どもをまともに相手する方が馬鹿げているのだ。

 馬鹿馬鹿しさを覚えながら、細胞に仕込む引き金を、引いた。

 

『フフ、アハハ』

 

 奥の手が起動する。

 四肢が先端から膨張する。

 弱体化している今では大きなダメージを負うことになるだろうが、構わない。潜伏し、また鬼を増やしていつか皆殺しにしてやる。

 膨張が全身へと波及し、細胞間の接着を限界まで張り詰めさせ、臨界点を超え、弾けた。

 

 

 無惨の肉体は、千八百超の肉片に分裂し、柱たちの日輪刀をすり抜けて、八方へと飛び散っていった。



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第48話 想い

 肉体を分裂させるのは、無惨にとっては大きな危険を伴う奥の手だった。

 逃げ場がなくなり、日の出も近い、そんな時にとる最終手段。

 1800以上の細かな肉片に別れ、破裂させる。人間では目に追えない速度で放たれるそれらは乱数で八方へと弾け飛び、人の手によって捕らえることも目で追うことすら不可能。

 逃走の成功を確定することと引き換えに大きく力を損なうことになるが。

 それでもあの場に留まっているよりはマシであると、そういう判断だった。

 この手段をとるのはこれで二度目だ。

 一度目は始まりの呼吸の使い手。1800の肉片のうち1500をその場で斬り捨てられた。あの時の恐怖と痛み、力を削がれた虚脱感を思い返すと今でもハラワタが煮え繰り返る。

 そして、今回の二度目。

 斬られた肉片は、ない。全ての細胞が十全な状態で逃げ切れたようだ。

 である以上、さっさと細胞を集合させ、身を潜めなくてはならない。あの場にいた者たちの寿命が尽きるまでの我慢である、今度は大した時間もかかるまい。

 そう、安堵と怒りを胸に燻らせていると、無惨の意識にまたあの耳障りな笑い声が。

 

『ふふふ、あははは、あぁおかしい』

 

 女狐め、未だ吸収しきれていないか。

 この身に取り込んだ細胞の残留思念に過ぎない貴様が何を笑う、往生際の悪い。それとも気でも触れたか、千載一遇の機会を逃して。

 珠世は口元を手の甲で隠して、苛烈なほどの上品さで嗤うことをやめない。

 

『気も触れようというもの。お前が見事に私たちの目論見に嵌ったのだもの。その喜びに、ああ、頭がおかしくなりそう』

 

 ……くだらん。この期に及んで負け惜しみか。

 

『まだ気づかないのですね。お前の細胞が、全てあの男の血鬼術に囚われていることに』

 

 何を言うかと思えば馬鹿馬鹿しい。

 やつの触手は地中に埋まっていた。そこから霧状に血を噴出させていたが、それがなんだ。切り離され霧となればその動きを制御できなくなる。だからただ浮遊させ、私が吸い込むのを待つしかなかったのだ。

 血の霧が私を捕えるような動きをすることなど不可能だ。

 私の言葉に、ふふ、と珠世は嗤う。

 

『あの場には、目に見えないほど細い血の糸が、半径二十メートル。お前を包み込むように半球状に張り巡らされていたのですよ』

 

 戯言を言うな。私の目で見えない糸だと? 細胞も、細菌も私の目を逃れることなどできない。細菌よりも小さい? そんなもの作れるはずがない。

 

『無惨、お前は傲慢だ。自分が正しいと言えば全て正しい、自分は何も間違えない。自分の目に映るものだけが真実で、一度信じてしまえば疑うことをしない。千年以上も生きていながら、その精神のあり方は子供と何も変わらない』

 

 事実だ。

 霧の粒子はその直径をμmの単位で測定する。平均すれば30μmといったところか。

 その程度の大きさの粒を生み出す土台は、直径が1cmもある血の触手だ。

 やつの触手の動く速度、太さは知っていた。どれだけ細くしようとも1mmが限界だ。霧を噴出していた時も、柱どもを治療していた時もその太さだった。触手の動く速度も、飛び散る私の肉片を追えるものではない。

 

『それが限界と誰が言いました? 教えてあげます。彼が作る触手の最小径は、10nm、あなたが識別できると語った細胞や細菌など小さくても10μm前後。その1000分の1の太さの糸です』

 

 ……馬鹿な。

 

『ウイルス、というものをご存知? ほんの数年前に仏蘭西の学者が見つけた、細菌の1000分の1の大きさの病原体です。そんな小さなものまで彼は操作できるようになった』

 

 そんなはずがない。そんな小さなものが病を生じさせるなどありえない。それに、そこまで小さなものを操る力は奴にはなかった。いつそれほど力を付けたというのだ。

 

『ナノレベルの太さで触手を操作することは今までできていませんでした。生体内ならいざ知らず、空気中では直径1μmの太さがせいぜいで、それより細くなると重力に負けて千切れるか、すぐ蒸発してしまうかでした。それが可能になるほど力をつけたのは今日のことです』

 

 今日、だと? 

 

『地上に存在する全ての鬼から貴様の血を奪い、保存していた。稀血の協力で製造した稀血薬の在庫を全て飲み干した。無限城で死んだ千人超の人間たちの血を取り込み、鬼殺隊に倒された上弦も吸収した。彼が今まで築いた全てを今この時のために投入した。そのお陰で、貴様の目にも見えない細さの触手を形成することに成功した』

 

 珠世が、あるはずのない私の頬を撫でた。こちらを見上げる女狐の目には、隠し様のない愉悦が浮かんでいる。こちらが見下ろしているはずなのに、その縦に裂けた瞳孔は、まるで右往左往する鼠の逃げ道を塞いで弄ぶ猫のようだった。

 待て。ではなぜ地面から出ていた血の触手はあの太さだった? 可能な限り細くしていれば、私に見つかることもなかったはずだ。

 

『それはもちろん、お前に分裂という逃亡手段に出てもらうため。言ってみれば油断を誘うためです。

 稀血薬を作ったのも。

 人間に警官隊を組織させたのも。

 柱たちを陰ながら援護したのも。

 全ては貴様を『食べやすくする』ために他ならない』

 

 いきなりだった。

 いきなり、虚脱感が襲ってきた。ただでさえ失っていた力をさらに搾り取られる感覚。

 奪われている。

 自分の血も、細胞も、力も何もかも。

 

『お前が傲慢で良かった。自分の目に見えないものは存在しないと断じる傲慢さが。自分の認識が間違っているかもしれないと、疑う謙虚さを持ち合わせていなくて本当に良かった』

『むーざんが頭無惨で良かったよ、いやほんと』

 

 この、声は。

 忌まわしい、今となっては不倶戴天の敵。

 相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべ、軽薄な声で、こちらを煽る我が仇。

 火に包まれるようにして消えた珠世と入れ替わるように、あの男が私の意識の中に現れた。

 

『初めて会ったその日から、ずっとむーざんを食べることを夢見ていたんだよ。お前をいつか必ず食べる、という想いだ。念願成就。やったね』

 

 夢、だと。

 想いだと。

 私を食べることが、か。

 自分の抱いていた、永遠という夢と比べればまるでとるに足らないそれが。

 そのために、たかがそれだけのために貴様は一体何人の人間を犠牲にした? なぜそんなことを? 

 

『そんなことむーざんには聞かれたくないんですけど……まあ、今日のも入れれば二千人くらいじゃない? 知らんけど。藤の家紋の家の人達とか特高に拷問されてたし、集めた稀血の牧場に鬼が乱入したり伝染病が流行ったりとかいろいろ、うん、いろいろ』

 

 人間は人間を殺すことを忌避するのではなかったのか。貴様は自分を人間だと自負していた。今まで人間を一人も殺さず、稀血薬なるものまで作った。人間を殺すことを厭うていたのではないのか。

 

『え……いや、別に俺が殺したわけじゃないし、そんな責められても』

 

 馬鹿な。

 殺しただろう。

 私とて、殺した人間のことなど誰一人として覚えていない。だが、殺したということを否定しない。何千人と殺して何の天罰も下っていない、と産屋敷に語ったこともある。

 それをこの男は、本気で戸惑っている。直接手をくだしたわけでなくとも、貴様が死に向かって駆り立てたのだろう。なぜそのような戸惑いの表情を浮かべる? 

 

『でもね』

 

 と男は言う。相変わらずの笑顔のまま。

 

『想いや願いを叶えるには犠牲が付き物だ。なんの犠牲も払わずに叶う願いなんてない。だからこそ、人の想いは尊いんだ』

 

 その想いとやらの犠牲を払ったのは貴様ではないだろうが。

 

『そうだね。

 みんな、俺のために犠牲になってくれた。

 だからこそ、俺は彼らの命を、想いを、背負って生きていかなくちゃならないんだ。

 彼らが残してくれたものは、さらに先に進めなければならない。それが生き残った者の役目だから。

 俺は彼らの想い全てを背負う。全てを背負う覚悟を決めたんだ。お前を残さず食べるために』

 

 悍しい。

 意味がわからない。

 正体不明の怪物を目の前にしている感覚。

 お前が想いを背負ったから何だというんだ。

 

 ──意識が遠のく。わずかに残された力が最後の一滴まで搾り取られる。

 

 ──私は、死ぬ。

 

 産屋敷。貴様が言っていたのはこういうことか? 想いは受け継がれると。だから想いは不滅だと。

 こんな悍しいものを、貴様はああも誇らしげに語ったのか。

 

 

 だとすれば、やはり貴様は異常者だ。産屋敷。



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第49話 営業

 善逸はその類稀なる聴覚で、無惨の肉体に起きた異変に気付いた。

 しかしその異変が何を意味するのかはわからなかった。

 体が内側から膨張する音。ぶちぶちという繊維質な音が、細胞間の接着が強制的に千切れていく音だと気付いたのは、無惨が飛散する直前だった。

 無惨が弾け散る。

 柱もさすが柱としての剣技を持っているが、それぞれ斬ることができた無惨の肉片はせいぜい十かそこらで、千を優に超えて分かれた無惨の肉体のほとんどを見逃してしまった。

 これが無惨の逃走であることは、その場にいる全員が気付いていた。

 全員の心を絶望が占める。

 お館様を、柱を除く鬼殺隊のほぼ全員を犠牲にして得た千年に一度の機会を、こうして無駄にしてしまった。

 

「そんな……」

「くそが……クソォ!」

 

 恋柱、甘露寺が呆然と呟き、両膝をついた。風柱の不死川が地面に拳を叩きつける。

 

「……え?」

「……あぁ?」

「なんだ、これは」

 

 その一方で、怪訝な顔で周囲に視線を巡らせているのが、善逸、宇髄、悲鳴嶼といった聴覚に優れた隊士たちだ。それに数瞬遅れて炭治郎や伊之助がその五感でもってそれに気づいた。

 

「悲鳴嶼さん?」

 

 呟きに反応した胡蝶が悲鳴嶼を見上げて問い掛ければ、彼は首を傾げながら、

 

「無惨の肉片が、宙に浮いている?」

「というより、細い糸に引っかかっているようです。糸にくっついて振動しています」

 

 善逸が残った方の手を耳に当てて答える。柱たちが目を凝らせば、確かに寒気がする数の細かな肉片が、自分たちを囲むように浮いている。無惨に囲まれているなど吐き気がする。

 その後それらは、見ている間にみるみるその大きさを減じさせ、ついにその姿を消した。

 同時に、張り巡らされていた糸がほつれ、消滅する。

 

「今の糸は、無惨とは違う匂いがしました。というか、この通り全体に広がっている匂いと同じ血の匂いが……」

「つまり、別の鬼の血鬼術か」

 

 一体なにが起こったのか。

 おそらく、信頼できる配下を使った無惨の逃走手段なのだろう。見晴らしのいいこの大通りでは、ただ飛び散った肉片は全員で探せば、その多くを見つけることができただろう。それを封じるために、糸を繰り出す鬼を配置させていたということか。

 ここまで完全に逃げられると、その足取りを追う手段も、時間も彼らにはなかった。

 何故なら自分たちは、治療に回っていた胡蝶を除き、全員が無惨の血を身に受けていたのだから。

 無惨の語るようにそのまま毒で死ぬのならまだいい。無惨の血によって鬼に転じるようなことがあるのなら、一刻も早く日輪刀で自ら首を切り落とさなければならない。おそらく、すでに鬼になりかけているだろうから。

 

「首を、斬ろう」

 

 悲鳴嶼の言葉に皆沈痛に俯く。それしかなかった。呼吸を使える自分たちが鬼となれば尋常ではない被害がでる。

 傷を負っていない胡蝶を除く、全員がその場に正座した。日輪刀を抜く。

 

「胡蝶よ」

 

 悲鳴嶼が呼ぶ。

 

「……はい」

「もし、首を切った後も死体が残ったら埋葬を頼む。そして、あとは任せる。お前一人でも生きていれば、鬼殺隊は終わっていない」

「……」

「胡蝶」

「…………………………は、い」

 

 胡蝶が目を閉じる。涙を堪えているのだ。

 鬼殺隊としての矜恃と、救われた恩義の板挟みで、砕けそうになる心を持て余して、彼女の表情は年相応のそれとなっていた。

 その傍らでは、体の修復を終え人型になったまれちーが善逸に肩を貸して、耳に向かって小声で話しかける。

 

「逃げましょう」

「……まれちー」

 

 それはできない、と善逸は首を振った。

 

「何故ですか。鬼になったから何だというのですか。人間でなくなるのは嫌ですか? 私を守ってくれると約束したじゃないですか。むしろ鬼になった方が死ににくくなって鬼舞辻無惨を殺しやすくなるじゃないですか。鬼になればその腕だって生えてくるでしょうし、何を迷うことがあるのです」

「……」

 

 確かに、と善逸は思う。

 痣のことをまれちーは知らないだろうが、おそらく、人外となったまれちーの寿命は人間よりも遥かに長いのだろう。

 彼女を孤独にするくらいなら、彼女と共に人外に堕ちて。炭治郎も、伊之助も宇髄さんも、全ての柵を捨てて逃げるのも、

 

 

「ほい」

 

 

 その人? は、いきなり現れた。

 周りにいる柱も、善逸の耳でも、誰一人としてそれに反応できなかった。

 男は、無惨が着ていたような洋風のキッチリした灰色の服を着ていた。その格好は何故か土汚れでドロドロで、いろんなところが破けていた。まるで瓦礫から這い出てきたような。

 その人? が、ほい、なんて間抜けた掛け声で、切断された善逸の腕を持って、善逸の切断面に押し付けていた。

 

「え、おっさん何してんの」

「いや、くっつくかなって」

「鬼と一緒にすんなよ……」

 

 善逸が戸惑った声をあげる。そこでようやく柱たちも男の存在に気付いた。

 いざ首を切らんと日輪刀を首筋に当てていた彼らは、即座に立ち上がり男に対して構えをとった。

 男は善逸の腕を押し付けたまま、向けられた刀の切っ先にまるで反応しない。

 そのまま数秒、沈黙の時間が過ぎて男が一言、

 

「え、今なに待ち?」

「おじさんの自己紹介待ちじゃないですかね」

「あ、まれちー久しぶり。というか、え、俺待ち? どうも、私こういう者です」

 

 相変わらずの軽薄な笑みを浮かべながら、男はにゅるりと伸ばした血の触手で、初めてまれちーと出会ったときに渡したものと同じ四角い紙切れを渡した。

 

「……ここの、これがおっさんの名前なの?」

 

 善逸が紙の表面を指差して問う。

 そこには『禾几昊翼』という、判読不能な文字が並んでいた。

 

「読めないんだけど。なんて読むの?」

「え、読めないの? それはちょっと善逸学がなさすぎじゃない? まあ孤児だししょうがないよね。でも自分の境遇に甘えて無能を享受するのは人としてどうかと思う。向上心が足りないというかさ、礼節くらいは学ぼうよ。教えを乞う時ってそれなりの態度ってあるよね」

「うおお、久しぶりのおっさん節超うざい……教えてくださいお願いします」

「いや俺に聞かれても知らんし。鬼になった時に忘れちゃってさ」

「こいつ……!」

 

 善逸の問いに男はそんなことをこともなげにいう。鬼だ、と。鬼殺隊の敵であると。

 無論、柱やそれに準ずる力をもつならば鬼であることなど一目で看破する。それがどの程度の力を持つかも。

 今、目の前に唐突に現れた男は、無惨を前にした時と同等かそれ以上の圧がある。

 背中にビリビリと、怖気の走るような圧迫感。濁った油の塊が如き重い空気を発している。

 その飄々とした馴れ馴れしい口調との差が、より一層嫌悪感を掻き立てる。

 

「おい善逸、テメェなにまったり鬼と会話してやがる、そいつの派手な強さ気づいてねーのか」

「え、だっておっさんだし。いえ宇髄さんの言うことはわかりますよ、でもこの人? は人間を殺したり食ったりしないんだ」

「善逸、その鬼は、張り巡らされていた糸と同じ匂いがする」

 

 炭治郎の言葉に、柱たちの殺気が高まった。

 

「つまり、鬼舞辻を逃した鬼ってことかァ……!」

「待て不死川!」

 

 不死川が斬りかかる。その速度はまさしく風のごとし。鬼はなんの抵抗もできず、首を両断された。

 もちろん、男の首は斬られた先から回復して、単に刀を素通りさせるに等しい。

 

「あ、犬鼻少年久しぶり。人間化薬届いた? 無惨にも効いたくらいだし妹さんもきっと人間に戻るよ」

「え……あ、あなたはあの時の、珠世さんのところの」

「ま、待って待って! ほんと、この人? は無害なんだって! 俺もまれちーも何度も助けてもらって。ていうか柱に刀向けられてんのになんでおっさんそんな呑気に話しかけてんの⁉ 首斬られたじゃん!」

「ぜ、善逸……腕が」

「え? あ」

 

 禾几昊翼を名乗る鬼を庇おうと前に出て両手を広げた善逸は、切断され、押し付けられていた左腕が動いていることに、まれちーに指摘されてようやく気づいた。

 

「おおおおお、おっさん、これ、これ⁉」

「俺の血鬼術でね。細い血の触手で筋肉と神経を繋いだんだ」

 

 男は周りの柱たちを見渡して、

 

「君たちだって、怪我をした割に出血少ないよね? それ、俺がこっそり血管を繋いで血が出ないようにしてたんだけど知ってた?」

 

 柱の視線が胡蝶に集まる。治療に専念していたのは彼女だからだ。

 

「……そう、ですね。私が止血処置をしようとした時には、ほとんど出血が止まっていました」

「でっしょー?」

「ですが、いつそんなことを? たった今まで私たちは鬼舞辻無惨と戦っていました」

 

 疑問を呈する胡蝶が一度、瞬きをした。瞳を閉じて、開く。その一瞬にも満たない時間で、男の触手が一本胡蝶までの距離を詰め、先端が彼女の長いまつ毛を一本抜いた。ぱちん、と目蓋が音を立てた。

 

「いった……!」

「多少動き回る程度で俺の触手からは逃げられないよ。腕丸ごとならともかく、血管程度なら一瞬だし。まあ、直した対価に、体の中に入ってた無惨の血を貰っちゃったけど……」

 

 だめだった? と首を傾げて親しみやすさを演出しようとして失敗している鬼の言葉に、柱たちは目を見開いた。

 

「待て。無惨の血を貰う、とはどういう意味だ?」

 

 皆を代表して悲鳴嶼が問いかける。

 

「どういうも何も、そのままだよ」

 

 鬼は手のひらから髪より細い触手の束をわっさあと出した。

 

「うわきっしょ」

「この触手を血管に侵入させて無惨の血だけを吸い取ったんだよ。だから誰も死ぬどころか痛みもないでしょ? あときしょいって言った奴あとで尿道塞ぐから」

 

 すぐ隣にいる善逸が真っ青な顔をした。

 それを無視して悲鳴嶼が、

 

「なぜ我々を助ける。目的はなんだ?」

「恩返し」

 

 鬼は、満面の笑みで言った。

 うっさんくせぇ。柱の心が一つになった。

 

「俺には夢があった。それは、俺を鬼にしやがった挙句にこき使ってくれちゃった無惨を食ってやることさ。それが成功したのは、君たちの頑張りが大きい」

 

 君たちには感謝しているんだよ、と。

 

「君たちが無惨を追い詰めてくれたから、無惨を食べることができたんだ」

 

 その言葉は、真偽を嗅ぎ分ける竈門炭治郎の鼻を誤魔化し。

 嘘を聴き分ける善逸の耳からも真意を隠した。

 無惨との会話で学んだのだ。

 自分の今までの行動って、もしかしてヤバいかな? ヤバいのかな? と。

 確かに女医さんだってこの計画を語った時に強い拒絶を示したのだ。でも人間化薬を作ってくれないとどうしようもないので、下弦の壱に協力してもらってね。女医さんが自分の夫と子供を食い殺す場面の夢を十万回くらい見せ続けてね。味や匂い、食感まで再現してさ。精神壊れる寸前まで追い詰めてからお子さんの声で「お母様は悪くないよ、悪いのは無惨だよ」って言わせたらね。無惨を殺す以外どうなってもいい絶対無惨殺すウーマンにメガ進化してね。

 つまり、一般的にはそれだけ嫌がられる計画だった、てことは学習したんだよ俺は。

 何がそんなにヤバいのかはわかんないから、とりあえず他の人には詳細を語らず『無惨を食べるために頑張った』で押し通す。

 ただ、この場にはパンクがいる。嘘はバレる。いかに嘘を吐かずに誤魔化すかの勝負である。

 ここにいる優秀な鬼殺隊の皆さんには、今後とも良いビジネスをしていきたいからね。

 うんうんと頭で方針を確認している俺に、なんか泣いてる大男が、

 

「食べる、とは? 鬼舞辻は死んだのか。逃げたのではなく」

「死んだよ。張り巡らせていた糸で全部吸収してやったんだ。濃厚過ぎてちょっと胸焼けしてるんだけど」

「おっさん、なんでここにいたんだよ。糸を張ってたのもおっさんだろ? 今回の作戦知ってたのか?」

「警察の偉い人と知り合いでね。今回警察が突入する作戦についてその人が話してたんだ」

「警察って、おっさんマジで人間なんだな」

 

 善逸の言葉に俺は笑みを浮かべた。

 もちろん無言である。

 

「あの、あなたは本当に人間を食べていないんですか?」

「もちろん」

「でも匂いが。とても血の匂いが強いんですが」

「んー、匂いと言われてもね。無惨を食べたからじゃないかな」

 

こんな調子で質疑応答をしているうちに、日の出が近づいてきたのである。




次回エピローグ


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最終話 幸福

 そろそろ日の出も近いということで、みんなで場所を変えようという話になった。

 琵琶さんを取り込んだ夏至ちゃんに、無惨式テレパシーで命令を送って新築無限城に移動させてもらった。

 もちろん鬼殺隊の皆さんも一緒である。

 新築無限城は、無限と呼ぶのが恥ずかしいくらいのこじんまりとした作りになっている。むーざんが癇癪起こして九割方が瓦礫になったので、そのまま再建するくらいならいっそのこと、ということで以前のごちゃごちゃしたインテリアをビフォーアフター。しっとりと落ち着いた、わびさびの風情を称える和風屋敷へと変身を遂げた。

 夏至ちゃん、なかなかのセンスである。

 というか、今までの無限城が頭おかしかったのだ。誰が考えたんだあれ。

 あの三次元インテリアを設置したであろう琵琶さんは、俺とむーざんとの間で逆ハーよろしく奪い合った結果、二人の男に挟まれて儚くなってしまった。逆ハー狙い乙女ゲー転生ヒロインよろしくざまあされた形、と表現すれば一番近いと思う。その後琵琶さんの持っていたものが夏至ちゃんに譲渡されたわけだが、うん、夏至ちゃんが悪役令嬢ポジなのかもしれない。

 

 

 

 新築無限城でお茶を飲みながらまったり質問に答えていると、盲目の大男さんの心臓がいきなり止まりかけた。

 どんだけ無理したんだ。むーざんを倒すことにそれだけ賭けていたんだろう、それが成就されて気が抜けたのかもしれない。

 

「よせ、胡蝶。薬は使うな、手遅れだ」

「しかし、悲鳴嶼さんっ」

「貴重な薬を溝に捨てることになる」

「……っ」

「お前には、無茶ばかり言ってしまったな、胡蝶」

「いいえ、いいえ……! 私こそ、悲鳴嶼さんに助けられてからずっと、いつかあなたに恩返ししたいって!」

 

 巨人さんが、その場にいる全員に言葉を遺していく。皆は静かに聞き入っていた。最期の言葉を聞き逃さないようにと、皆が集中している。大層な人望だと思う。

 

「ああ……お前たちか」

 

 誰? 

 最後に回された犬鼻少年に、君を認める云々と言った直後だ。もう語る相手はいないはずだが、なんか幻覚見てるっぽい。

 

「そう、か。私を守ろう、と……獪岳が、か……すまなかった、守ってやれ、ず」

 

 彼は涙を溢し、ゆっくりと目を閉じた。

 

「じゃあ行こう……みんな、で……」

 

 ただ彼は柱のリーダー的存在、他の人たちからも一目置かれた精神的支柱である。

 こんなところで死なれちゃ敵わんのだ。

 というわけで半不死薬を心臓に直接ドン。ついでに体中を触手で精査して、ズタボロになった心血管と肺胞を修復していく。というか、なにこれ。内臓も筋肉もボロッボロやんけ。

 半不死薬で体を直しても身体機能がだいぶ低下しちゃうな。

 んー、まあいっか。

 死ぬよりマシっしょ。

 巨人さんがいきなり死ぬ気満々ムーブ始めて慌てていた鬼殺隊の皆さんが泣きながら見送ったところで、巨人さんは蘇生した。

 

「……………………」

「……………………」

 

 右の手首から巨人さんの脈をとっていたお蝶夫人が、えっ、と声をあげた。

 どう? 俺が開発した半不死化薬。効き目すごいっしょ。また痣を出さない限り普通に寿命まで無病息災で生きられると思うよ。

 ん? どしたん。感謝していいよ。

 なにさ。別れの挨拶をした直後で気まずいとか、そんな薬があるならさっさと使えとか。

 生き残ったっていう圧倒的事実の前には些事でしょ些事。だからもっと褒め称え崇め奉れよ。むーざん殺した立役者だぞ。

 

 

 その後、まれちーに後方へと下げられていたパンクの兄弟子が、むーざんの血を取り忘れていたために鬼になっていて、日が出たために木陰から動けなくなってた、とか。

 仕方ないので新築無限城に連れてきた鬼の兄弟子に気づいた巨人さんが、まーた痣を出して即吐血して死にかけたり、とか。

 それでも兄弟子君を殺そうと暴れる巨人さんをみんなで押さえつけて、事情を聞いた傷男が、

 

「鬼なんだし首斬っていいんじゃねえかァ?」

 

 派手男も、

 

「つうか鬼殺隊の情報を自分から警察に売ったんだろ? 鬼殺隊の隊律に照らしても斬首が妥当じゃねえか、隠や藤の家紋の者たちが何人捕まって死んだと思ってやがる」

 

 ということで落ち着いた。

 巨人さんの話を聞けば聞くほど胸糞悪い男だよ。

 そうか、鬼殺隊の犠牲はきっと全部こいつのせいなんだな。

 まったく、信じられないレベルの悪人だ。

 こいつのせいで一体何人の無辜の民が犠牲になったんだろう。それを思うだけで心が痛む。

 

 いいかいまれちー、善逸。君たちは絶対あんな悪人になっちゃだめだからね。

 

『……………………』

 

 夏至ちゃん。無惨式テレパシーで無言を伝えてくるのやめてくれないかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 あれから一月が経った。

 琵琶さんから受け継いだ夏至ちゃんの血鬼術・どこでも襖で、彼らとは今でも連絡を取り合う仲だ。

 

 

 パンクは自分の師匠のところに、無惨討伐及び結婚の報告をしたそうだ。

 無惨の死を喜び、パンクの生還を喜び、まれちーの器量の良さに喜び。なんかえらい流暢に話す鎹烏からパンクがいかに上弦や無惨と戦い貢献したかを聞いて、「お前は儂の誇りじゃ」と泣き出してパンクを抱きしめた。

 

 

 犬鼻少年は、こちらも自分の師匠のところに戻っていった。

 そこには人間に戻った妹さんがいて、天狗の面をつけた師匠さんと三人で泣きながら抱き合っていた。しばらくはここで三人で暮らすことにしたとのこと。

 そのすぐ近くの小屋に寡黙なむっつりさんも住んで、毎日なんか大きな石の前に毟った花を置いて手を合わせている。何か宗教的な儀式だろうか。

 

 

 包帯君と桃髪さんも、最近いい感じだ。

 意味もなく毎日のように飯を一緒に食っている。一日三食を共にして、さらに夜には酒まで一緒に飲んで、しかしまだ二人は男女の仲になっていない。どうも包帯君が日和っていまだ交際に踏み切れないらしい。口元が気になるなら治そうか? と聞いても、「そういう問題じゃない」と静かにマジギレされた。解せぬ。悔しいので春画本を桃髪さんの部屋にある包帯さん用の荷物置き場にわかりやすく置いておいた。

 

 

 巨人さんはお蝶夫人の屋敷でリハビリ中らしい。

 二度目の痣発現がかなり致命傷だった。俺の触手で直すと、寿命を伸ばす代わりに体を削る感じになるから、今では歩くことも厳しいんだとか。

 あと、お蝶夫人の弟子的な女の子が、犬鼻少年と文通してるんだって。

 いいよね、そういうの。

 あと何故か猪頭の人もいた。たまにお蝶夫人を母ちゃんと呼び間違えて悶えてたりする。野生の本能がバブみを感知しているのだろうか。

 

 

 燃える髪の熱血さんは、普通に実家に帰った。

 親が生きてる鬼殺隊の人って何気に珍しい。毎日ゴロゴロと酒をかっくらっている父親の背中に向かって彼は、

 

「父上! 鬼舞辻無惨の討伐任務、果たし終えましたこと、ここにご報告いたします!」

 

 無惨……無惨⁉︎と慌てふためいて後に、鎹烏の報告を聞いた親父さんは、ただ一言。

 

「杏寿郎……!」

 

 とだけ呟き、泣き出してしまった。

 

 

 派手の人は、嫁三人と共に一般人として町に溶け込んでいた。

 潜入や潜伏はニンジャとしての必須スキルではあるが、そういうことではなく、本気で普通の暮らしと平和を享受しようということらしい。

 

 

 全身傷だらけの人、あれじゃん、この時代に来た直後の俺を追い回していたヤバい人じゃん。

 こっわ。近寄らんとこ。

 

 

 あと、パンクの兄弟子は死んだ。

 

 

 そして、俺は。

 

『上司殿、もう出航するそうだ』

 

 俺は、夏至ちゃんと同じ船に乗っていた。

 もともとはむーざんが人間に擬態するために用意した貿易会社の船だ。むーざんが使っていた貿易会社の社長の立場と戸籍を、むーざんそっくりに顔を変えて乗っ取ったのだ。

 あの親娘が鈍くて良かった。

 しかもむーざん配下の時代に作った薬の技術とか女医さんが溜めていた研究資料なんかを子会社の薬剤系の開発部門に流したものだから、今うちの会社は業績がうなぎ上りなのだ。

 しかしせっかく社長になれたにも関わらず、船での移動のために船室を借りたわけではない。日光の問題があるから、俺と夏至ちゃん、加えて下弦の壱こといっくんは、棺桶の中に収まって貨物として貨物船に乗せられているのだ。ザ・密入国。

 

『意外とこの血鬼術は不便だな、一度行ったところでないと襖が繋がらないとは』

 

 その辺もどこでもドアと同じ縛りだよね。まあ、むーざん食べるまで俺らしばらく働きっぱなしだったし、休暇ってことで割り切ろうよ。

 

『こんな配送物扱いで休暇などと言えるものか……。というかだ、休暇扱いで給料でないのに仕事量は普段と変わらないっておかしいだろう、休暇というなら何故書類とペンを棺桶の中に同梱する』

 

 休みの日にも仕事できるなんて幸せでしょ? 幸せでしょ? 

 そう言うと夏至ちゃんは黙ってしまった。無惨式テレパスでどれだけ話しかけても返事をしてくれない。

 ちなみにいっくんは棺桶に突っ込む直前、自分に自分の血鬼術を掛けて、向こうに着いても絶対に起きないからね! と精神的篭城の構えをとった。

 

『くっそ、あいつ自分だけ逃げやがって。大陸に着いたらゴリゴリに使い潰してやるからな……なあ、なんか変な呻き声が棺の外から聞こえてくるんだが』

 

 そう、俺たちは今なんと中国、この時代では清から中華民国へと名前を変えたお隣の国に向かうところなのだ。

 青い彼岸花、というものを無惨は探していた。

 日本中を探していたらしいけど、それでも千年間見つかっていなかったそうだ。そんな正体不明の未確認物質を部下に探させて、見つかりませんでしたって報告させては折檻するという老害ムーブをかましていたらしいのだ、むーざんは。

 無駄の極みである。

 とにかく、むーざんを取り込んだ時に得た記憶から、マジで日本には青い彼岸花なる植物は分布していないっぽい。

 日本にないなら外でしょ。

 というわけで中国だ。

 むーざんは平安時代に処方された薬で鬼になったのだという。

 じゃあ平安時代に日本と貿易のあった国といったら、まあ中国なわけだ。当時は唐の時代だけど。

 ともかく、貿易で日本に運ばれてきた珍しい花を、あの医者はなんとなく粉末にして、死亡確定の半死人に飲ませてみたらクソヤベーことになった、とそんな感じなのだ。

 だから処方箋を見ても詳しい薬の作り方は載っていないのだ。

 

『なんか呻き声がぐるぐる私の棺の周りを回っているんだが、なあこれ何がいるんだ? すっごい鼻息が近いんだが、え、なにこれ。ねぇなにこれ。私は何系の貨物として運ばれてるんだ?』

 

 だから、俺たちは日光を克服するため、中国に行かねばならないのだ。

 俺たちが日本を離れている間は、俺の会社は産屋敷という家の人に任せてある。

 財務管理の部門にすごい優秀な人が揃っているんだよねあの家。

 鬼殺隊の人たちはみんな体がボロボロだった。それを適当に直してあげて、さらに恩を売っておいた甲斐があった。彼らの紹介があって、そういった人員を借りることができたし、代わりに元鬼殺隊の人たちを雇うこともできた。

 産屋敷からお金はたくさん貰えてるらしいけど、結婚するって人はやっぱり自分のお金で家族を養いたいものね。

 お蝶夫人と巨人さん以外は、大体うちの会社に就職することになった。むーざん討伐作戦でガチの全滅という憂き目に遭ったせいで、呼吸という技術はインチキ宗教の詐欺商法、ということに政府では落ち着いたのだ。そのせいで鬼殺隊の彼らは警察や軍隊などをはじめとした公務員的な職に採用されることはなくなってしまったし、上弦の弐が運営してたマルチ宗教団体が湯浅とかいう偉い人を騙して警官隊を殺戮した罪で一斉検挙という憂き目に遭ってしまったが、これからの日本の歴史を考えればむしろ鬼殺隊の彼らには朗報かもしれない。

 彼らは、もう戦う必要がない。

 休んでいいのだ。

 十分すぎるほど、君たちは戦ってきたのだから。

 誰にも讃えられない、歴史の裏に埋没する、決して表舞台に出ることのない、日本の存亡を賭けた戦いを君たちは千年も続けてきたのだから。

 戦うとなれば、彼らは自分のことなど省みず、再び痣でもなんでも使って戦おうとするだろう。

 あの痣は、すごい体に負担がかかるのだ。

 もうこんなものに頼るのはやめてね、と皆に言っておいた。

 むーざんを殺すために生きてきたのはわかるけど、もうむーざんは死んだのだから。これからは自分の幸せを第一に考えて生きるように、と。

 突然戦いを忘れて生きろと言われても、きっと難しいだろうけど。

 でも、それが残された君たちの使命だから。

 あの決戦で犠牲になった人たちも、きっと俺たちの幸福を望んでいるはずだから。



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