ハリー・ポッターと獣牙の戦士 (海野波香)
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ハリー・ポッターと賢者の石
フクロウを食べてはいけない


処女作です。どうぞよろしく。


 スコットランドの長閑な、つまり、寂れた村の外れで、積まれた牧草に埋もれた少女が足を漫然とばたつかせていた。乾いた牧草の香りはいい。気持ちを穏やかにさせる。心地よい眠りに誘う。しかし、問題は、

 

 

「……腹減ったあ」

 

 

 彼女の空腹を満たすのには微塵も貢献していないということだ。

 

 ジュリア・マリアットは猛烈な空腹感、あるいは飢餓を感じていた。三日前にネズミを食べたのが最後の食事だ。あるいは母が生きていれば、魔法でどこかしらから調達していたかもしれない。そんなくだらないことを思い浮かべて、ジュリアは笑ってかぶりを振った。

 

 ぼんやりと母の言葉を思い出す。確かガンブのなんとかの法則で、食べ物は作れないのだったか。レイブンクローの才女であった母の言葉はジュリアにとって時折暗号にも思えた。しかし、感情的に喚き散らすタイプの生き物よりははるかにいい。ジュリアは母が好きだった。

 

 餓えでジュリアの視界がぼやけてきた。最後の晩餐は母が焼いたサーロインステーキがいい。筋切りなんてしなくていいから、レアでさっと炙ったやつにかぶりつきたい。ジュリアは短くしたばかりの髪をがしがしとかいて、ため息をついた。

 

 そんなとき、音もなく近寄る獣の――鳥の匂いをジュリアの鼻が感じ取った。猛禽類だ。小さい。フクロウかミミズクだろう。そこは誤差の範囲だ。

 

 食うか。食おう。

 

 そう思った次の瞬間には、ジュリアの左手がフクロウを締め付けていた。たまらずフクロウは悲鳴を漏らすと、運んでいた封書をジュリアの顔めがけて落とし、翼をはためかせて暴れる。

 

 

「んあ、手紙か。てことは、お前どっかのフクロウか」

 

 

 しょうがねえなあ、とぼやきながら手を放すと、フクロウは別の牧草ロールで羽を休ませた。事実、彼だか彼女だかわからないが、このフクロウには先ほどの乱闘から回復する時間が必要だっただろう。

 

 手紙には蝋封がなされていた。獅子、蛇、穴熊、鷲。そして”H”の文字。

 ペパーミントを口いっぱい頬張ったときのように――あれは二度とやりたくないとジュリアは思っているが――さっと頭が鮮明になった。

 

 ホグワーツ魔法魔術学校。ああ、懐かしい響きだ。何度母から聞かされたことか。思わずジュリアの左手が杖を挿したホルスターに伸びる。

 

 

「そうか、ホグワーツ……あたし、11歳になったんだなあ」

 

 

 手紙を握りしめたままジュリアは大きなあくびをした。常人より少し鋭い歯がちらりと見える。フクロウがもう少し距離を取るそぶりを見せたのを尻目に、ジュリアは独り言をぼやきはじめた。

 

 

「で、どうしろってんだこれ。金はねえ足はねえ飯はねえの無い無い尽くしだっつのに。ポケットには……ねえな、クヌート銅貨すらねえ。でもなあ、ここに学歴もねえって付け加わったら母さん怒るわな。あー、だめだ、腹減って頭回んねえ」

 

 

 やっぱフクロウ食うかなあ。その呟きにフクロウはもうひとつ間を開けた別の牧草ロールに飛び移った。

 

 

「そのようなことはいけません、ミス・マリアット」

 

 

 牧草ロールに埋もれていて気づくのに遅れたが、声をかけられる前には誰かが姿あらわしをしてきたらしいとジュリアは理解した。厳めしい女性の声だ。きっとしかめ面をしているのだろう。そこまでジュリアは予想できていた。

 

 

「はじめましてだな、ミネルバ・マクゴナガル」

 

「……いくつか指摘すべき点はありますが、先に訊いておきましょう。なぜ私だと?」

 

 

 ジュリアは愛しのベッドから弾みをつけて飛び降りると、太陽に目を細めて、背伸びをした。それから、深緑色のローブとやたら大きなとんがり帽子を被った、老境にさしかかった気配を刻まれた皺に感じる彼女に向き合った。

 

 

「あたしにミスなんてつけるお上品な連中は教育者だ。でもってホグワーツから手紙が届いた直後に姿あらわししてきた。そしてあんたからは猫の匂いがする。母さんがアニメーガスになる指導を受けたのはホグワーツのミネルバ・マクゴナガルで、その人は猫のアニメーガスだったそうだ」

 

 

 ジュリアは別段自慢げな表情を浮かべるでもなく、屈伸して膝を慣らすと、もう一度あくびをした。まだ牧草の柔らかな心地よさが背中に残っているのかもしれない。あるいは、牧草そのものが。

 

 一方で、魔女の瞳には仄かな困惑が見られた。

 

 

「エレン・マリアットの聡明さは確かにあなたへと受け継がれたようですね、ミス・マリアット。あなたの言うとおり、私はミネルバ・マクゴナガル。ホグワーツ魔法魔術学校で変身術の教鞭を執っています」

 

「こいつぁどうも。あたしは名乗ったほうがいいか?」

 

「いいえ、ミス・マリアット。私があなたに求めるのは、年長者を敬う態度だけです」

 

 ジュリアは肩をすくめると、「はいよ、先生」とだけ答えた。もう少し気品よく振る舞っておけば、サーロインステーキにありつけたかもしれないと閃いたのはもう少し後になってのことだ。



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11歳からの借金

 ジュリアにとって、ダイアゴン横丁は眩しい場所だ。まだノクターン横丁のほうが馴染み深い。両者に共通するところは、金のない者が踏み入る場所ではないということだろう。そして、ジュリアのホットパンツには銅貨の一枚もなかった。

 

 きびきびと歩くマクゴナガル”先生”の後ろをついていく。漏れ鍋でチキンを二皿ばかり買ってもらったジュリアの腹はそこそこ満たされていた。だから、ジュリアはかなり機嫌がよかった。無一文でも。

 

 

「そんで、先生。あたしはどうやって通うことになるんだ? ホグワーツでメイドでもやれば教科書代くらいにはなるか? あたし家事できねえけど」

 

「ミス・マリアットの家事能力と口調に関しては今後の努力に期待するとして、ホグワーツには奨学金制度があります。あなたのようにあの戦争で養育者を喪った生徒たちの多くはこの奨学金を受給しています」

 

「そいつは景気のいい話じゃねえか」

 

「卒業後は返済義務があります」

 

「ちぇっ、あてが外れた」

 

 

 数秒、ジュリアは思考した。

 

 奨学金を借りた場合。自分は就職先に恵まれるとは思いがたい。別にマグルの世界で力仕事をすることも厭わない心積もりだが、それを魔法界の金に両替して返済して、となると小鬼に手数料を取られる分損だ。魔法界がもう少し野蛮なところであれば自分の仕事も見つかったというのに。

 

 奨学金を借りなかった場合。ホグワーツに行くことはできない。必然的に魔法教育を受けることはできず、それどころか枷をはめられることになるとも耳にしている。母は必ずホグワーツに行けと言っていた。父もそう願ったと聞いている。

 

 その願いを裏切ることはできない。

 

 

「あのさ、先生」

 

「なんでしょう、ミス・マリアット」

 

「……ホグワーツの飯はうまいか?」

 

 

 マクゴナガルは立ち止まって振り返ると、初めて柔和な笑みをジュリアに見せた。

 

 

「私が保証しましょう。ホグワーツのしもべ妖精が作る食事は絶品ですよ」

 

「そりゃいいな。借金してでも行く価値がある」

 

 

 結局、ジュリアは目先の欲を取ったことにした。

 

 それから、アイスをねだり、チョコレートをねだり、もう一度アイスをねだり、少々叱られたジュリアは、チョコレートの最後の一欠片を口の中で溶かしながら、しおらしい態度でマクゴナガルの後をついていった。どうせ自分の借金だから好きに使おうと考えたのだが、この厳格な魔女はそれを許さなかったのだ。

 

 しかし、メタリカのバンドシャツにホットパンツのまま、錫製標準2型の大鍋に教科書やら望遠鏡やらを詰め込んで、それを片手に担いで歩いていると、奇抜な人間が多いダイアゴン横丁でも少々浮くようだ。視線が刺さる。

 

 

「ミス・マリアット」

 

「なんすか、先生」

 

「大鍋を両手で持つつもりは?」

 

「奇人ウリックが三角帽を被ったら」

 

 

 マクゴナガルはため息をつくと、「制服を仕立てに行きますよ」と言った。奇人ウリックについて知っていたことで加点があるかと思ったが、残念ながら追加のアイスはなさそうだった。

 

 マダム・マルキンの洋装店――普段着から式服まで。今時洋装店はないだろうとジュリアはため息をついたが、どうやらここが一番大きく、一番古く、一番ましなアパレルショップらしい。

 

 マクゴナガルはグリンゴッツでジュリアの「借金」に関する手続きをしてくるとのことで――つまり、今まではポケットマネーで建て替えてくれていたらしい。ジュリアはマクゴナガルに感謝した――一人でその洋装店なる場所に向かった。

 

 ちょうど看板の下に辿り着いた時、飛び出してきた少年がジュリアにぶつかって尻餅をついた。

 

 黒髪で痩身。ひび割れた眼鏡をかけている。貧民窟の住民にしては薬臭くない。マグルらしさのあふれる格好をしているが、手には制服の包みを持っている。

 

 同じ「借金組」だろうか。

 

 

「悪い。大丈夫か?」

 

「あ、うん。ごめん」

 

 

 ジュリアが差し出した手を取って、少年は立ち上がった。背はジュリアより高い。少しだけ小動物の匂いがした。しかし、それほど濃い匂いではない。ペットショップでも覗いてきたのか、あるいは連れが飼っているのか。

 

 

「気にすんな。ホグワーツか?」

 

「そう。もしかして、君も?」

 

「ご覧の通り」

 

 

 ジュリアが大鍋を持ったまま肩をすくめると、少年は何事かをいいかけて、微妙な表情で「人を待たせてるから」と去っていった。ジュリアははっきりしない人物があまり好きではなかったが、物事のすべてがはっきりしていないことも承知している。ジュリアは空いた手をひらひらと振って彼を見送ることにした。

 

 去り際、少年の前髪を風が散らして、稲妻の傷痕を露わにした。

 

 決して軽やかとは言えないその足取りを目で追うと、少年はやたら図体の大きな男と合流して、アイスを受け取った。図体の大きな男が羽織ったコートのポケットからヤマネが顔を覗かせていた。

 

 

「なるほど。……なるほどねえ」

 

 

 ジュリアの手が太もものホルスターに挿した杖を撫でる。ジュリアの予想が正しければ、あれがハリー・ポッターだ。彼はどうやら人型決戦兵器というわけではないらしい。

 

 しばらくその後ろ姿を眺めていたが、戻ってきたマクゴナガルに促され、ジュリアはとうとう洋装店の門をくぐった。



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戦士の杖、それとアイス

 マクゴナガルが有無を言わさずに「着せて帰りますので」と支払いをしたので、この夏に入る前にマグルの農家でバイトしてまで買ったメタリカのTシャツとホットパンツは鞄に収納された。

 

 そう、ジュリアは鞄を買った。マクゴナガルは渋い顔をしていたが、ジュリアは機動性と機能性を重視して、ローブの下に隠しても違和感のないウェストポーチをチョイスした。多少小さくとも、検知不可能拡大呪文がかかっていれば安アパートの一室程度のスペースが確保できる。これで安心して大鍋を収納することができた。明らかに収納物と搬入口のサイズが見合っていないが、そこは魔法だ。

 

 

「あとは、杖ですね。オリバンダーの店に向かいましょう」

 

「杖、ね」

 

 

 マクゴナガルはジュリアのホルスターを一瞥して、言葉を続けた。

 

 

「熟達した魔法使いであれば他人の杖を用いて魔法を行使することも可能ですが、まずは自分の杖を持つべきでしょう。たとえ、あなたがその杖にどのような想いを抱いていたとしてもです」

 

「ちぇっ、またあてが外れた」

 

 

 他人の杖なんかじゃない。

 

 ジュリアは内心で小さく呟きながらも、肩をすくめてみせた。厳格な魔女はジュリアのジョークにくすりともしなかったが、少なくとも先導と会計を続ける義務は放棄しないと見えて、静かに、しかし力強く歩き始めた。

 

 オリバンダーの店は狭くて埃臭い、ねぐらには最適の場所だった。無数の杖という爆弾さえ置いていなければ、ここに間借りしたっていいくらいだというのがジュリアの感想だ。

 

 もっとも、薄気味悪い店主の銀色に光る目でじろじろと見つめまわされては、その感想も覆るというものだ。

 

 

「今日は懐かしい顔をよく見る日じゃ、ジュリア・マリアットさん。髪を伸ばせばお母さんにそっくりじゃろう。あの杖はニレ、30センチ、心地よくしなる、静かな湖の妖精を思わせる杖じゃった」

 

「はあ、そいつはどうも」

 

 

 この詩人だか売人だかわからない怪しげな老人が、なんとなくジュリアは苦手だった。しかし、嫌いにもなれなかった。

 

 彼の瞳には知性が輝いていたし、彼の言葉には知識の重みがあった。ジュリアは賢者、隠者の類を比較的好む性質だ。そして、おそらく苦手意識を乗り越えることができれば、オリバンダー氏のことも好きになれそうな気がした。

 

 

「おや、お父さんの杖をお持ちですな。イトスギにユニコーンの毛、28センチ。良質でしなやか。ふむ、大事になさるとよろしい」

 

「よく気づいたな」

 

「わしの店の中にある杖はすべてわしの頭の中にあるのじゃよ、元気なお嬢さん。さて、杖腕をお出しいただいて」

 

 

 オリバンダーが皺の寄った手を叩くと、カウンターのランプが灯った。蛇が這うように巻き尺がすり寄ってくる。これは例の洋装店でも経験済みだから、一般的な魔法なのだろうとジュリアはされるがままにした。ただ、鼻の穴に入ろうとしてきた巻き尺だけは噛みつくふりをして追い払ったが。

 

 

「では、まずこれを。モミの木にドラゴンの心臓の琴線。23センチ。強い意志に応える」

 

 

 ジュリアがやや短いその杖を振ってみると、奥の棚で何かが派手に弾ける音がした。

 

 

「これではない。次はクマシデにユニコーンのたてがみ。28センチ。持ち主に忠実」

 

 

 今度はもっと手前で目に見えない爆発が起こった。

 

 

「ふむ、刺激的ですな。となれば……リンボクにドラゴンの心臓の琴線、25センチ。鞭のようにしなり勇猛な戦士の剣となる」

 

 

 これだ。

 父の杖から出る火花で火おこしをしていたときとはわけが違う。指先に熱を感じる。ジュリアが手首を返すように杖を振ると、冷たい火の粉が雪のように降り注いだ。

 

 この時ばかりはマクゴナガルも拍手をしてくれた。そして、オリバンダー氏は「すばらしい!」と叫ぶと、吹き飛んだ箱を呼び寄せて、銀色の瞳に穏やかな感情を浮かべた。

 

 

「いや、よかった、よかった。ジュリア・マリアットさん。この杖の本質は闘争じゃ。できれば棚で埃を被っていてほしかった。しかし、世に出たということは、その杖がきっと役に立つ時が来るということじゃ」

 

「そいつぁいいや。なんとも、あたしらしい」

 

 

 ジュリアはオリバンダー氏に杖を渡しながら、牙にも見えるその歯を剥き出しにして笑った。闘争の予言に心が躍るのかもしれない。あるいは血なまぐさい自分自身への嘲笑かもしれない。ジュリア・マリアットとはそういう人物だった。

 

 それから、ドラゴン革のホルスターを新しく買って、古いホルスターも調整を入れてもらって、素早く抜き差しができることを確認して、ようやくジュリアとマクゴナガルはオリバンダー氏の店を辞した。

 

 

「ミス・マリアット。ペットを購入していきますか? その程度の余裕はあります」

 

「んあー……非常食」

 

「なんですって?」

 

「なんでもないっす。まあ、世話が大変だし、やめとく」

 

 ジュリアは一度だけ蛇を飼ってみたことがあったが、意思疎通もできないし、噛みつこうとしてくるし、結局串焼きにしてしまった。

 

 

「そうですか。では、買い物はこれですべてです。農家の敷地内に無断で滞在するよりは、漏れ鍋に宿泊することをおすすめします。切符を渡しておきます。キングズ・クロスへの行き方はわかりますね?」

 

「ロンドンからロンドンへ」

 

「わかっているのなら結構。ただし、私の試験でそのような回答をしようものなら容赦なく落第点をつけます。もう一度聞いておきましょう。わかりましたか?」

 

 

 ジュリアは肩をすくめて、漏れ鍋からキングズ・クロスまでの道をざっと口頭で説明してみせた。マクゴナガルは満足げに頷くと、切符と書類の入った封筒をジュリアに手渡した。

 

 

「滞在中にグリンゴッツで杖を登録しておきなさい。奨学金を引き出すための鍵を発行できます。くれぐれも無駄遣いしないこと。エレン・マリアットの賢明さがあなたにも宿っていると信じています。では」

 

 

 マクゴナガルはそれだけ言い残すと、その場で姿くらましした。誰も驚く人はいない。ここは魔法界だ。ジュリアは大きく背伸びをすると、とりあえずアイスを食べようとダイアゴン横丁を引き返した。



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車窓を眺める暇もない

 人ごみは好きではなかったから、ジュリアは早々に紅色のホグワーツ行特急へと乗り込んだ。ホームは見送りと生徒でごった返している。

 

 発車前の車窓をちらりと眺めて、ジュリアはクエンティン・トリンブルの『闇の力――護身術入門』を取り出した。もうとっくに読み終えていたが、暇つぶしだ。

 

 コンパートメントを独占してのんびりするのは悪くない気分だった。漏れ鍋の宿泊費は安かったが、ベッドはスプリングが嫌な音を立てるし、シーツは染みだらけだし、枕には虫が湧いていた。

 

 結局、ジュリアはこの数週間、床で寝ることを選んだ。久しぶりのクッションは心地いい。試しにシートの上をごろごろしてみたが、中々の感触だ。

 

 しかし、脳裏にあの厳格な魔女の顔が浮かんできて、ジュリアはシートに座りなおすと、ウェストポーチからコンパクトミラーを取り出した。

 

 七分丈の白シャツ。ホルスターが着けられるぎりぎりの裾のスキニージーンズ。ドラゴン革のローファー。ジュリア基準で十分にイカす、かつマクゴナガル基準でぎりぎり下品でない、ちょうどいいコーデだ。とはいえ、どうせ着いたら暑苦しいローブに着替えるのだが。

 

 コンパクトミラーを閉じてウェストポーチに放り込むと、窓際に置いたままだった『闇の力――護身術入門』を一瞥した。マグル界も魔法界も両方のイギリス中を転々としたジュリアからすれば、この本は入門とも呼べないように感じる。しかし、今のジュリアにはその程度の基礎すらないのだろう。

 

 

「……プロテゴ、護れ」

 

 

 唱えながら杖を振るうと、魔力の半球がジュリアの眼前を覆う。盾は基本だ。殺しても殺されては勝ちにならない。相討ちは負けだ。

 

 杖をホルスターに戻す。引き抜く。唱える。戻す。引き抜く。唱える。

 

 着くまで少し繰り返してみるか、などと思っていた矢先、コンパートメントのドアがノックされた。ジュリアが返事をする前にドアが開く。反射的に杖を向けると、黒髪の少年が引きつった表情で両手を上げていた。

 

 

「あー、えっと、ごめん。降参だ。……僕を呪ったりしないよね?」

 

「あたしが着替え中だったら特上のをかけてたかもな。ノックの後は返事を待つってのが上品なやり方らしいぜ、ハリー・ポッター君」

 

 

 少年の目が驚きに見開かれるのを見てくつくつと笑いながら、ジュリアは自分の杖をホルスターに戻した。

 

 

「気にすんな。マナーってやつはあたしも最近叩き込まれたばっかだ。席探しか? そうか」

 

 

 ジュリアは対面のシートを顎で指すと、自分のシートに戻って次の暇つぶしをウェストポーチから取り出した。少し迷ったが、ここはミランダ・ゴズホークの『基本呪文集』だ。変身させる対象もないのに『変身術入門』を読んでも仕方がない。

 

 ハリー・ポッターはしばらく戸惑っていたが、どこか諦めたような、あるいは決心したような顔つきでジュリアの対面に座った。

 

 しばしの沈黙。ジュリアには心地よく、ハリー・ポッターには居心地が悪い。

 

 

「あの……」

 

「今からしようとしている質問はマダム・マルキンの洋装店でプラチナブロンドの坊ちゃんに聞かされた以外のことか?」

 

「あっ、君、あのときの!」

 

 

 ジュリアは教科書から顔を上げて、彼に微笑んでみせた。相変わらず眼鏡はひび割れているし、痩せこけているが、彼はハリー・ポッターで、そしてなによりジュリアにとっての同級生だ。

 

 

「ジュリア・マリアット。新入生だ。ジュリアでいい」

 

「じゃ、じゃあ、僕もハリーで」

 

「オーケー、ハリー。――それで、ドアの前に突っ立ってる、ネズミ飼いの坊やは誰だ?」

 

 

 ハリーの視線がコンパートメントのドアに向かう。動く気配はない。ジュリアはため息をついて立ち上がると、ドアを開いた。

 

 音を立てて開かれたドアの向こうには、気まずそうな顔の赤毛がいた。まだトランクを抱えたままだ。ジュリアの推察が正しければ、この少年も席探しだろう。

 

 

「えっと……」

 

「簡単なステップだろ。挨拶する、名乗る、座る。ほら、トランク寄越せ、棚に載せるから」

 

 

 ジュリアがトランクを奪って網棚に載せる間に、赤毛はモゴモゴしながらもジュリアに言われたとおりのステップを踏みはじめた。

 

 

「はじめまして、僕、ロン・ウィーズリー。あの、座っていいかな。他、どこも空いてなくて……」

 

「聞いてたと思うが、ジュリア・マリアットだ。ジュリアでいい。席は空いてる」

 

「ハリー・ポッター。僕もハリーでいいよ。座って」

 

 

 ロン・ウィーズリーと名乗った赤毛の少年は、混乱と興奮が入り混じった奇妙な声を上げてハリーの隣に座った。

 

 

「君、ほんとにハリー・ポッターなの?」

 

「他にハリー・ポッターがいるのか知らないけど、僕はハリー・ポッターだよ」

 

「じゃ、君、本当にあるの? あの……」

 

 

 ハリーが額の傷痕を見せると、ロン(そう呼んでほしいと慌てたように口にした)はますます興奮した。

 

 ジュリアから見て、二人は少しずつ良好な友人関係を構築していっているように思えた。お互いに自分の過去を開示して、パーソナルデータを共有する。車内販売で豪遊し、それを共有する。ジュリアもマグル界でバイトをするときは架空の経歴をでっち上げ、まかないをシェアして”お友達”を作ったものだ。

 

 しばらくして、話題は教科書に視線を戻していたジュリアに向かった。

 

 

「そういえば、ジュリアはなんで僕がスキャバーズを飼ってるってわかったの?」

 

「スキャバーズ……ああ、ネズミか。匂いだよ」

 

「えっ……僕、臭い?」

 

「あたしの鼻が特別きくだけだ、気にすんな」

 

 

 そういうものか、と安心した様子のロンが件のネズミを取り出したので、ジュリアは顔を上げてそちらを見た。ぐったりしている。生きているようだが、フクロウの餌と言われた方がしっくりくるだろう。

 

 それについてはロンも同感なようで、「死んでたって、きっと見分けがつかないよ」とうんざりした口調でぼやいた。

 

 

「少し面白くならないかと思って、黄色に変えようとしたんだ。でも呪文が効かなかった。見てて……」

 

 

 ロンがボロボロの杖――ジュリアの観察が正しければ、はみ出ているのはユニコーンのたてがみだろう――を振り上げたその瞬間に、コンパートメントのドアが開かれた。栗色の髪の少女が、丸顔の今にも泣き出しそうな少年を引き連れて立っている。

 

 

「誰かヒキガエルを見なかった? ネビルのがいなくなったの」

 

「嬢ちゃん、ノックって知ってるか?」

 

「あら、魔法をかけるの? 見せてもらうわ」

 

 

 ジュリアは心の中でぼやいた。だめだ、会話が成立しない。「あら、ごめんなさい」の一言もないようじゃ、この少女はきっとこれからの学校生活でハブられる。どれだけ優秀でも潰される。

 

 かといってそれを指摘してやるほどジュリアは優しくないし、指摘したところで受け入れるほど少女も柔軟ではないだろう。ジュリアはあくびをして、様子を見ることにした。

 

 もちろんネズミが黄色くなることはない。色だけとはいえ、生物を変化されるのは変身術の領域だ。ちょっとしたおまじないでできるものではない。

 

 ハーマイオニー・グレンジャーと名乗った少女は、立て板に水とばかりに教科書のことやら、ハリーの名声のことやら、寮のことやら喋り倒すと、

 

 

「あなたたち着替えたほうがいいわ、もうすぐ着くはずだから」

 

 

 と言い残して、ヒキガエル探しの少年を連れて去っていった。嵐のように。

 

 ジュリアはため息をついて、二人に肩をすくめてみせると、網棚からトランクを引き下ろしはじめた。ロンはまだ呆然としている。ハリーは食べ散らかしたお菓子を片付けようとしている。こういうところで性格と経験が出るのだろう。

 

 

「んじゃ着替えるかね。あーあ、何が楽しくてKKKの色違いにならなきゃなんねえんだか」

 

 

 シャツのボタンを外しはじめて、ジュリアは二人の視線に気づいた。見つめ返してやると赤い顔を背ける。

 

 

「こんな貧相な体でも見ちまうんだから、男の性ってのは哀れだよなあ。悪い、先に着替えるから門番頼むわ」

 

「わ、わかった」

 

 

 これで一段落。そう思ってボタンに手をかけた途端、ドアの向こうから気障ったらしい声が聞こえた。

 

 

「このコンパートメントにハリー・ポッターがいるって、汽車の中じゃその話でもちきりなんだけど。それじゃ、君なのか? で、なんでドアの前でつったってるんだ?」

 

 

 到着するまでに着替えられるんだろうか。ジュリアはボタンを戻すと、うんざりした顔でドアの取っ手に指を乗せた。



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些細な、そう、些細なトラブル

「このコンパートメントにハリー・ポッターがいるって、汽車の中じゃその話でもちきりなんだけど。それじゃ、君なのか? で、なんでドアの前でつったってるんだ?」

 

 

 ジュリアはドアを勢いよく開けた。まずは衝撃音で牽制して、嫌な空気をストップする。

 

 ジュリアは一瞬だけ相手を観察した。マダム・マルキンの洋装店でハリーと話していた少年だ。あまりに青白い顔をしているので貧血なのではないかと少し心配したのを覚えているが、この面倒くさい絡み方からして血の気は多い方だ。

 

 お供は二人。極東のスモウ・レスラーを間抜けにしたようなミニトロールだ。列車の揺れに合わせて体が揺らめいていることから考えて、格闘技の心得はない。しかし、腕力は侮れないだろう。

 

 ようやく青白と目が合ったので、ジュリアは口を開いた。

 

 

「なんで立ってるかって、そりゃあたしが着替え中だからだジェントルマン。なんなら半裸で出てきてやったほうがよかったか? え?」

 

 

 ジュリアはどちらかと言えば一人の時間を大切にする人物だった。母が他界してから、癒やしの時間とは一人の時間を意味した。コンパートメントを独占して教科書を眺めながら様々なことに思いを馳せるのは、漏れ鍋の憂鬱なボロ宿生活から明けたジュリアにとって久々の癒やしだった。

 

 そこにハリー。まだ許せる。ロン。ぎりぎりセーフ。ハーマイオニー・グレンジャー。そろそろアウト。青白。アウト。

 

 つまるところ、このお坊ちゃんはタイミングが悪かった。

 

 

「な、君、礼儀というものを――」

 

「名乗りも上げずに礼儀を語ろうってか、笑わせるぜ坊や」

 

 

 ハリーは完全に置いてけぼりを食らって、ジュリアとロンを交互に見やっている。ロンはロンでジュリアとハリーを交互に見やっている。随分と仲良くなったものだ。

 

 

「ぼ、僕は聖28氏族のドラコ・マルフォイだ!」

 

「ああ、左様で。あたしは名乗り返さねえし、名乗り返す必要もねえし、名乗り返すことを求められてるとも思ってねえ。だからちょっとだけアドバイスだ」

 

 

 ホルスターから抜く。構える。撃つ。

 

 衝撃呪文が青白の耳を掠めて、ホグワーツ行特急の壁面で火花を散らした。

 

 

「あたしのコンパートメントで騒ぎを起こすな、用件は手短に済ませろ、終わったらさっさと立ち去れ。わかったか青白坊や」

 

 

 青白がもっと青白になった。

 

 一方で、ジュリアも顔色を青ざめさせたい気分だった。かっとなってやった。別段後悔はしていないが、この青白坊ちゃんと同じ寮になった場合が厄介だ。告げ口されても厄介だ。ハリーとロンもおそらく引いているだろう。厄介だ。

 

 

「それじゃ、あたし着替えるからよ」

 

 

 ジュリアはドアを閉じて、深呼吸した。やらかしたかもしれない。

 

 しかし、呼吸が落ち着いて、学校用のシャツに着替え、ジーンズを脱ぎ、ローブを羽織るころには、だいぶ楽観的な思考が戻ってきた。

 

 どうせ7年間も共同生活をするのだ。地は隠しきれない。だったら時間の問題だ。それに、一人は慣れている。何も問題は無い。

 

 結論が出たところで通路に出ると、もう青白たちはいなくなっていた。微妙な顔をしたハリーとロンにコンパートメントを明け渡して、ドアにもたれかかる。

 

 さっき見た栗色がまたやってきた。今度は一人だ。しかし、嵐は一人でも嵐。

 

 

「いったい何やってたの?」

 

「ハロー・グッバイくらい覚えたほうがいいぜ嬢ちゃん。ビートルズは聴かねえのか?」

 

「あなたは質問に答えるってことを知らないの?」

 

「知ってるさ、相手が礼儀正しいときはな」

 

 

 この返答にハーマイオニー・グレンジャーは気分を害したようで、しかし、自分の礼儀知らずにも少しは心当たりがあるようで、「騒ぎを起こさないでよね!」と捨て台詞を吐いて去っていった。どちらがより騒がしいのかは言うまでもない。

 

 そうしているうちに、汽車は速度を落とし、やがて停車した。もう少し車窓を楽しみたかったと思いながら、ジュリアはコンパートメントのドアをノックした。



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長い長い初日

 ハリー曰く、あのやたら図体の大きな男はハグリッドというらしい。ハグリッドの先導で木立を進み、湖に辿り着き、ボートに乗った。ボートにはあの騒々しい栗色娘が同席したが、ジュリアを一瞥すると鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 

 別に話しかける必要もないように思えたので、ジュリアは彼方に見えるホグワーツ城に思いを馳せていた。かつて両親も、その先祖も通ったという魔の学び舎。自分はここで何を得るのだろうか。

 

 

「これはお前さんのヒキガエルか?」

 

「トレバー!」

 

 

 どうやらヒキガエル探しの少年は求めていたものを見つけられたようだった。喜ばしいことだ。

 

 木製の巨大な扉が開いて、厳めしい顔をした魔女――マクゴナガルが現れた。相変わらず怖そうだ。しかし、漏れ鍋に宿泊している間、なんやかやと世話を焼いてくれた恩は忘れていない。あの人はいい魔女だ。厳格ではあるが。斜め後ろに立っているハリーが怖じ気づいたようにごくりと唾を呑んだ。

 

 

「マクゴナガル教授、イッチ年生をお連れしました」

 

「ご苦労様、ハグリッド。ここからは私が」

 

 

 マクゴナガルに引き連れられて、大理石の階段を傍目に石畳のホールを横切り、小部屋に押し込まれた。正直容量オーバーにも思える。毎年これなら設計ミスだ。小部屋に「収容」された1年生たちは互いに寄り添って不安を慰めようとしている。

 

 

「ホグワーツ入学おめでとうございます。これから行う寮の組み分けはとても大切な儀式です。待っている間、できるだけ身なりを整えておきなさい」

 

 

 ちらりとマクゴナガルがジュリアを見たので、ジュリアはウィンクで応えた。しかし、あまり効果的とは言えないようだ。マクゴナガルは視線で叱るという器用な真似を見せて、小部屋を後にした。

 

 

「いったいどうやって寮を決めるんだろう」

 

「すごく痛いってフレッドが言ってたけど、きっと冗談だ」

 

 

 ハリーとロンが囁きあう斜め前――つまり、ジュリアの隣で、ハーマイオニー・グレンジャーはぶつぶつと教科書に載っていた呪文を暗唱しはじめた。組み分けが試験だと思っているのだろう。

 

 もし試験だとしたら、マグル生まれはスタートから不利だ。これが階級ではなく寮である以上、均等に機会は与えられると思っていい。なら、何も用意する必要はない。

 

 そこまで考えて、ジュリアは背伸びをした。長いこと座っていたから腰が疲れている。ハーマイオニー・グレンジャーがジュリアに視線を投げ、「なんて緊張感がないの」と毒づいた。ジュリアはそのままあくびもした。

 

 

「さあ行きますよ。組み分け儀式が間もなく始まります」

 

 

 マクゴナガルの指示に従って、1年生たちは一列で大広間へ向かった。ジュリアはハーマイオニー・グレンジャーの後ろだ。彼女はまだ呪文を暗唱していたが、2年生の教科書に載っている分を"再生"したところでようやく終了した。

 

 見事な景色だった。天井の代わりに星空が広がり、蝋燭が何千と浮遊してあたりを照らしている。その光を反射するのは、4つの長テーブルに置かれた金の皿や杯だ。

 

 

「本当の空に見えるように魔法がかけられているのよ。『ホグワーツの歴史』に書いてあったわ」

 

 

 ハーマイオニー・グレンジャーはどうやら本の虫と見て間違いないだろう。しかし、レイブンクローという感じではないともジュリアは思っていた。彼女はジュリアの母とは違うスタンスだ。ジュリアの母が知を大鍋で煮込む魔女ならば、ハーマイオニー・グレンジャーは知を盾と剣にする魔法戦士だろう。

 

 そんなことを思っていると、年季の入ったバリトンで何者かが歌い出した。しゃがれてはいるが、いい声だ。どうやら組み分け帽子というらしい。つまり、帽子が組み分けするのだ。

 

 

「僕たちはただ帽子を被ればいいんだ! フレッドのやつ、トロールと取っ組み合いさせられるなんて言って」

 

 

 後方から聞こえるロンの興奮した声には明らかな安堵が含まれていた。そして、意外なことに、ハーマイオニー・グレンジャーからも安堵のため息が聞こえた。

 

 

「よお嬢ちゃん、簡単なテストで落胆するもんだと思ってたが」

 

「だって、それは……全部の呪文を試したわけじゃないし、完璧な自信はなかったわよ」

 

「随分先まで予習したその努力は間違いなく評価されるだろうよ、グレンジャー」

 

 

 ジュリアが微笑んでみせると、グレンジャーは戸惑うようにはにかんだ。なんだ、案外可愛いじゃないか。

 

 

「ABC順に名前を呼ばれたら、帽子を被って椅子に座りなさい。……アボット・ハンナ!」

 

 

 ハッフルパフ。

 

 ボーンズ・スーザン。ハッフルパフ。

 

 ブート・デリー。レイブンクロー。

 

 ブロックルハースト・マンディ。レイブンクロー。

 

 ブラウン・ラベンダー。グリフィンドール。

 

 ジュリアの姓はマリアット、イニシャルはM。しばらく待つことになりそうだった。

 

 グレンジャー・ハーマイオニー。グリフィンドール。予想が当たった。

 

 ロングボトム・ネビル。ヒキガエル探しの少年だ。途中で転び、被られた帽子もしばらく無言だった。こればかりは予想がつかない。ジュリアは彼に関して「ヒキガエルをなくした」「泣きべそをかいていた」くらいの情報しか持っていないからだ。この程度の情報から予測しようとするのは馬鹿のすることだ。

 

 

「ああいう間抜けはハッフルパフって相場が決まってるんだ」

 

 

 後ろで囁く声がある。その理屈でいけばお前がハッフルパフだと内心で呟いて、ジュリアはあくびをした。

 

 ロングボトム・ネビル。グリフィンドール。

 

 

「マリアット・ジュリア!」

 

 

 ジュリアは静かに、ゆっくりと大広間の中心を歩いていった。視線を上げると、教員席がある。空席はマクゴナガルだろう。髭を生やした小鬼、ふくよかな婦人、育ちすぎた蝙蝠、紫ターバン。そしてなにより、賢者然とした長身の老人。なんとも彩り豊かだとジュリアは笑って、帽子に辿り着くと、スムーズに着席した。

 

 

「ふむ。ヘクター・マリアットとエレン・ムーアクロフトの子か。壮健かね?」

 

「どっちも死んだよ」

 

「それは失礼。さて、君の組み分けに取りかかろう」

 

「希望は通るのか?」

 

「それが適した選択であれば。言ってごらん」

 

 

 ハッフルパフで友に恵まれたと聞く父。レイブンクローで知恵と知識を再構築したと語った母。二人を思い出す。しかし、ジュリアは小さく息を吐いた。自分はそのどちらにもなれる気がしない。

 

 

「いや、なんでもねえ。任せるよ。なるようになるし、なりたいようになるさ」

 

「そうか。その潔さは君の勇気だ。今は静かに凪いでいるが、君の奥底には炎が眠っている。炎は残忍にもなるが、友を暖めることもできるだろう。しかし、その輝く赤は――」

 

 

 マリアット・ジュリア。グリフィンドール。

 

 ジュリアは帽子を脱ぎ、椅子にそっと置くと、しっかりとした足取りでグリフィンドールのテーブルに向かった。グリフィンドールという選択は悪くない。父の友人が属していた寮だとも聞いているし、マクゴナガルが寮監を務めている。少なからず楽しめる要素のある場所だ。

 

 空いていたのでグレンジャーの隣に座ると、意外にもグレンジャーのほうからジュリアに話しかけてきた。

 

 

「……ねえ、あなたちょっと歯を見せて」

 

「変わった趣味をお持ちだこって。新手の口説き文句だってんなら歓迎するが」

 

「違うわよ。ほら、いーってして」

 

「いー。……満足したか?」

 

「んー、極度の切縁結節ってわけでもないのね。歯自体はしっかりしてるのに、なんだか尖ってる。不思議」

 

 

 不思議なのはお前だと言おうか言うまいか悩んで、結局ジュリアはそのままコミュニケーションを続けることにした。グレンジャーと対話が成立している。これは喜ばしいことだ。

 

 

「あたしの歯は病と愛でギザギザなんだよ、グレンジャー」

 

「なにそれ」

 

「まあ遺伝性の奇形とでも思ってくれ。心配しなくても噛みつきゃしねえよ」

 

「あっ……ごめんなさいマリアットさん。私、パパとママが歯医者で、だから矯正とか治療とかに興味があればおすすめできるかなって思って……」

 

 

 ジュリアはグレンジャーの評価を大幅に修正した。この少女は興奮していなければ自ら非を認めて頭を下げることができるし、自分の知識を他人のために活用しようと努力することもできる。ジュリアが今まで出くわしてきた魔女の中ではかなりの善人に分類される。

 

 

「気にすんな。あと、ジュリアでいい。長い付き合いになるが、まあほどほどによろしく」

 

「ふふっ、なにそれ。じゃあ、私もハーマイオニーって呼んで。よろしくね、ジュリア」

 

「オーライ、ハーマイオニー」

 

 

 ジュリアが拳を差し出すと、ハーマイオニーは数秒間首を傾げて、そしてはにかみながら優しく拳をぶつけてきた。

 

 かなり可愛いじゃないか。今のはくらりときたぞ。

 

 ジュリアがほだされているうちに組み分けは随分と進んだようで、青白坊やはスリザリンのテーブルでふんぞり返っているし、赤毛の双子が「ポッターを取った! ポッターを取った!」と歓声を上げている。

 

 体を捻って組み分け帽子のほうを見れば、ハリーがフラフラとグリフィンドールのテーブルに向かってくるところだった。

 

「ようハリー、すっかり気が抜けちまってるな。落とした眼鏡でも見つけたか?」

 

「ジュリア、勘弁して……隣いい?」

 

「おう、座れ座れ。そうだ、眼鏡で思い出したんだけどよ」

 

 

 ジュリアはくるりと向きを変えると、ハーマイオニーに視線を合わせた。ハーマイオニーが本の虫なのは把握しているが、その実力はまだ把握していない。具体的には、彼女が杖を振る姿をまだ見ていない。

 

 

「勉強家さんのお手並みを拝見するチャンスかと思ってな。ハリーの眼鏡に実験台になってもらおう」

 

「どういう意味?」

 

「嬢ちゃんは医者。眼鏡は患者。ハーマイオニー先生の最善のオペが見てえなー」

 

 

 慌ててハリーは眼鏡を隠そうとしたが、それより前に袖から抜かれたハーマイオニーの杖が温かな光を眼鏡のひびに投射した。

 

 

「オキュラス・レパロ。はい、満足かしら?」

 

「お見事。あたしが寮監なら加点してたとこだ」

 

 

 杖を抜くのもなかなか早い。呪文の選択も適切。そして効果は明確に発揮されていることを、新品同様の眼鏡をいじくりまわして感激の声を上げているハリーが証明してくれている。ジュリアの中でハーマイオニーの格がまたひとつ上がった。

 

 

「ちやほやしても何も出ないわよ。それより、あなたは何か見せてくれないの?」

 

「歯ぁ見せたろ、それで帳消し」

 

「残念。授業を楽しみにしてるわ。あ、組み分けもうすぐ終わるわよ」

 

 

 見てみれば、ちょうどロンが組み分け帽子に向かうところだった。顔が真っ青だ。あの調子だとどの寮に送られても席に着いた瞬間に吐きかねない。ジュリアはロンの学校生活のために一応スコージファイを唱える覚悟をしておいたが、正直この手の日用呪文は得意ではなかった。

 

 帽子はロンの頭に乗るか乗らないかのうちに「グリフィンドール!」と叫んだ。よたよたと歩いてきたロンはハリーの隣の席に崩れ落ちて、兄弟と思われる赤毛――あとで監督生だとわかった――に声をかけられても生返事だった。

 

 組み分けが終わったということは、残された活動はひとつだけ。ジュリアは金の皿を見つめて生唾を呑んだ。そう、空腹なのだ。とてつもなく空腹なのだ。マクゴナガルが保証したホグワーツの食事を堪能するときが来た。そのはずだ。ジュリアはもうカトラリーに手を伸ばそうとしていた。

 

 

「ホグワーツの新入生、おめでとう! 歓迎会を始める前に、二言、三言、言わせていただきたい」

 

 

 ジュリアはナイフとフォークを手中に収めた。万全の態勢だ。しかし、肝心の食事がないので、その二言、三言とやらを待つことにした。

 

 

「そーれ! わっしょい! こらしょい! どっこらしょい! 以上!」

 

 

 拍手喝采が大広間に響いたが、ジュリアは「四言じゃねえか!」とツッコミを入れ、それを聞いた周りのグリフィンドール生が笑った。

 

 とにもかくにも食事だ。ジュリアはこれを期待して車内販売の誘惑に打ち勝ったのだから、いい加減「待て」が辛くなってきた。教員席の中央に座る長身の老人――先ほどの「四言」を放った人物だが――が椅子を引く音と同時に、金の皿が食べ物でいっぱいになった。ジュリアはこれを待っていたのだ。

 

 

「ダンブルドアって、ちょっぴりおかしいの?」

 

「おかしいだって? あの人は世界一の魔法使いさ! でも少しおかしいかな、うん」

 

 

 ハリーと赤毛上級生の会話を尻目に、ジュリアは全力で食事を楽しんでいた。ステーキ、ステーキ、ステーキ、茹でたポテト、ステーキ、ステーキ、グリルポテト、ステーキ、ステーキ、フレンチフライ、デザートにステーキ。ミディアムレアだが、十分だ。合格点。

 

 

「ちょっとジュリア、あなたステーキとポテトしか食べないつもり?」

 

「あたしはレアステーキと芋がありゃ生きていける。ジャーマンポテトとマッシュポテトがねえな……あ、湧いてきた。ハーマイオニーも食うか?」

 

 

 ハーマイオニーに呆れた視線を向けられたので、ジュリアはステーキのおかわりをもう一枚だけにした。幸運なことに最後の一枚は焼きたてのレアステーキだった。しもべ妖精の粋な計らいだろうか。

 

 ジュリアがステーキに溺れている間に、赤毛の上級生はパーシーという監督生だとか、魔法薬学のスネイプは闇の魔術にどっぷりだとか、ハリーが教員席を見て奇声を上げたりだとか、玉石混淆の情報が流れてきた。そして、デザートも消えると、四言爺さん――ダンブルドアが立ち上がった。

 

 

「全員よく食べ、よく飲んだことじゃろうから、また二言、三言。新学期を迎えるにあたり、いくつかお知らせがある」

 

 

 まず、森に入ってはいけない。ジュリアは森が好きなので、少々残念だった。森を散策するのはいい運動になるし、多くの場合一人になれるからだ。

 

 次に、管理人から授業の合間に廊下で魔法を使わないようにという注意。校則でないなら気にする必要はないだろうとジュリアは判断した。別に濫用するつもりはない。

 

 それから、クィディッチチームの参加方法と予選の連絡。今のところ、ジュリアはクィディッチをプレーする予定はなかった。むしろなぜやりたがるのか疑問ですらあった。絶対股が痛くなるだろうに。箒の柄に跨がるのだから。

 

 最後に、4階の右側の廊下に入るととても痛い死に方をするという警告。これが魔法界の常識なのだとしたら、ジュリアはだいぶ思考を矯正する必要がありそうだった。しかし、ハリーとパーシーの会話を聞いて、これが常ではないとわかったのでひとまずは安心した。

 

 

「では、寝る前に校歌を歌いましょう! 自分の好きなメロディーで。では、さん、し、はい!」

 

 

 ダンブルドアが声を張り上げて、杖先から金色のリボンで歌詞を流した。教員の笑顔がどこか硬い。大人になると恥をかくのが難しくなるとマグルのバイト仲間が言っていた。そういうことだろうか。

 

 せっかくだから、ジュリアは楽しむことにした。ローブの下のウェストポーチからハーモニカを取り出して、構える。ジュリアはこれの演奏に関してなら自信があった。路上で吹いて小銭を稼いだこともある。

 

 メロディーは去年バイトしていた飲食店のラジオで流れていた「ステップ・バイ・ステップ」にした。ダンブルドアと目が合ったのでウィンクしてみると、ウィンクが返ってきた。中々話のわかる人のようだ。調子に乗ってマクゴナガルにもウィンクしてみたが、口パクに必死のマクゴナガルはそれどころではなさそうだった。

 

 全員が歌い終わって、拍手とともに解散になると、パーシーに先導されて廊下を通過し、階段を上り、肖像画に手を振り、隠し扉をいくつか覚え、うとうとし始めたハーマイオニーを背負い、螺旋階段の先にあるベッドに辿り着いた。

 

 

「ありがとう……ママ……」

 

「おいおい、あたしがママかよ、ったく。ほら、腹冷やすなよ」

 

 

 ジュリアはハーマイオニー・グレンジャーの名札が下がったトランクが脇に置いてあることを確認して、ハーマイオニーをベッドに寝かせ、布団をかけてやった。

 

 ここまでやる義理はどこにもないはずのだが、ジュリアはハーマイオニーと「共有」を済ませてしまった。つまり、ジュリアの心中にもそこそこの親愛感情が芽生えていた。

 

 

「うん……おやすみなさい」

 

「ああ、ぐっすり寝ろよ。そしたらお楽しみの授業だ。……おやすみ」

 

 

 案外、ホグワーツは悪くない場所かもしれない。ベッドに腰かけて窓の外を見ながら、ジュリアは古いホルスターのほうの杖を撫でた。

 

 入学初日はいい月夜だった。



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迷宮、大ジャンプ、ラスボス

 学び舎というよりは、騙し絵か知恵の輪だ。

 

 ジュリアは早くもホグワーツという迷宮に愉快さを見出していた。ただし、この愉快さはフラストレーションの溜まる愉快さだ。具体的には、未知の法則で動く階段、正規ルートの隠し扉、訪問しあう人物画、編隊が変わる甲冑……そういった諸々だ。

 

 一見、すべてが学びを妨害しているようにすら思える。しかし、これらにはすべて法則性があり、知識と経験の蓄積、加えて少しの論理的思考能力があれば、ホグワーツは素敵なダンジョンだった。

 

 多くの新入生がこの城に翻弄されている。もちろんジュリアもその一人だ。しかし、本屋のバイト中に立ち読みしたD&Dのルールブックを思い出せば、この程度のことは楽しめる。残念ながら購入する金もなかったし、TRPGを一緒に遊ぶような友人もいなかったが、それはそれだ。今はリアルでマジックを堪能しているのだから。

 

 とはいえ、天文学で深夜に一番高い塔を昇って天体観測をさせられ、その翌日に朝一番で変身術ともなると、さすがに無理難題を言っているように思える。1年生の時間割にしわ寄せが来ているのか、それともホグワーツなりの洗礼なのか。

 

 ともかく、夜更かしに慣れていなかった「いい子ちゃん」のプリンセス・ハーマイオニーを叩き起こして、可能な限りの速度で変身術の教室までお連れするのが今日のジュリアの任務だ。

 

 

「嬢ちゃんはもっと悪い子になんなきゃな。つまり、夜更かしに慣れんだよ。じゃなきゃ入学早々変身術は落とすことになる」

 

「だって、こんなのあんまりよ。私、本を読みすぎて目が悪くなるからって9時には寝かされてたのに」

 

「生憎とまだここはお前のお城じゃねえんだ、お姫さま。っと、見つけた」

 

 

 ハーマイオニーの手を引いてタペストリーをくぐったジュリアは眼下に変身術の教室を見つけたが、どうやら今は離れ小島になっているようだった。しかも上階に出てしまった。これはまずい。

 

 時間はあまり残されていない。マクゴナガルは遅刻に寛大なタイプではないだろう。となると、多少の無茶も通さねばならない。ジュリアは冷静に城の法則を観察した。

 

 

「……よし、あの階段だ。昇るぞ、ハーマイオニー」

 

「何言ってるの、変身術は下じゃない。下りの階段を待たなきゃ……ああ、マクゴナガル先生は許してくれるかしら」

 

「お忘れのようだから教えてやるが、ここは魔法の城、マクゴナガルは鬼寮監、物体は重力に従って落下する。んじゃ、失礼して」

 

「ちょ、ちょっと、何して、きゃあっ!」

 

 

 まだ頭がぽやぽやしている様子のハーマイオニーを抱き上げ、旋回を始めた階段を三段飛ばしで駆け上がる。変身術の教室は対角線上。階段の高度は十分。どこにも繋がっていない頂点までトップスピードを維持し――

 

 

「え、嘘でしょ、無理よ、無理無理!」

 

「今日のおめざだ、ハーマイオニー。お口閉じてねえと舌噛むぞ。らあっ!」

 

 

 全力で階段の縁を蹴る。

 

 時間の流れが遅く感じる。ゆっくりと降下――正確には、落下していき、変身術の教室前の踊り場が近づく。ジュリアは大理石へのしなやかな着地を試み、そして、それは成功した。

 

 対岸から歓声が上がる。観衆がいたようだ。しかし、ジュリアはそれには応えず、まずハーマイオニーの状態を確認した。

 

 

「ほい、ご到着。もう口開いていいぞ」

 

 

 ハーマイオニーはしばらく口を閉じたり開いたりさせていたが、次の瞬間にはここ数日の付き合いで一番の声量でのお叱りをいただいた。

 

 

「ば、馬鹿じゃないの? あなた馬鹿なのねジュリア! 着地できなかったら、し、死んでたかもしれないのよ? 命の危機! 命の!」

 

「どうどう。あたしはちゃんと計算したし、そこにはお前の羽根みたいな体重も一応含まれてるし、成功の確信があったから飛んだ。んで、あたしらは授業に間に合う。それともここで口論して授業サボるか?」

 

「でも……でも、あなた、怪我してないの? 骨折は? 捻挫も?」

 

 

 結局のところ、この可愛い子はジュリアのことを含めて心配してくれているから、怒っているわけだ。そう思うと、少々態度が軽率だったような気がしてくる。ジュリアの胸中には申し訳なさがこみ上げてきた。

 

 

「平気だ、ハーマイオニー、万事快調。だが、まあ、お前を命の危機に晒したことは謝らなくちゃいけねえか。ごめん」

 

「……はあ、すっかり目が覚めちゃった。降ろして、ジュリア」

 

「はいよ。立てるか? 腰抜けてねえか?」

 

 

 ハーマイオニーはジュリアの腕から降りると、ローブを整えて、とんでもない方向を向いているネクタイを直して、杖がちゃんとあるか確認したあと、ジュリアを見て小さくため息をついた。

 

 ジュリアにはハーマイオニーが何を思っているのかさっぱりわからない。まだハーマイオニーの思考パターンも把握していないし、この行為自体イレギュラーだ。しかし、自分でもうまく言語化できないが、そもそもそういう問題ではないような気がしていた。

 

 まだ数日の付き合いだが、ハーマイオニーという人物と接するにあたっては、計算だとか、パターン化だとか、そういったものがかえって逆効果なように感じられたのだ。これまで一時的な「お友達」を作るのには便利だったツールが、何もかもまともに機能しない。

 

 ジュリアが黙っていると、ハーマイオニーはおもむろに手を伸ばし、そして、ジュリアの頬を引っ張った。

 

 

「いでで、なにすんだ」

 

「なにしょぼくれた顔してるのよ、まったく。ほら、最後までエスコートしてくれないの?」

 

 

 ハーマイオニーはジュリアの頬から指を放すと、言葉を続けた。

 

 

「それは、もちろん、びっくりしたし、怖かったし……でも、少しも痛くなかったし、正直ちょっとドキドキした。それに、授業に間に合うもの。だから、その……ありがとう」

 

「……お前時々すげえ可愛いよな」

 

「あなた時々すごく失礼よ」

 

 

 一瞬の間があって、二人の笑い声が弾けた。

 

 ジュリアはハーマイオニーの手を取ると、変身術の教室の戸を押した。時間はまだある。大体の生徒は揃っているかもしれないが、遅刻ではない。だからセーフだ。

 

 

「なにもセーフではありませんよ、ミス・マリアット」

 

「ひっ」

 

 

 ミネルバ・マクゴナガルというよりは、マホウトコロで使役されているとかいうオニに近いものがいた。さすがのジュリアも息が苦しくなった。

 

 なぜ考えが読まれているのかだとか、まさか生徒に読心術は使わないだろうなだとか、そんなことを考える余裕もなかった。ジュリアは母さんと同じくらい怖い生き物がいることを知った。

 

 マクゴナガルの眼光はジュリアにのみ向けられていた。どうやら彼女の中でハーマイオニーは被害者という扱いになるようだ。

 

 

「ミス・マリアット。ホグワーツ魔法魔術学校は爽快感を味わえるマグル向けアスレチックではありません。もしそのように考えてらっしゃるのなら、アスレチックでもジャングルでも農場でも、好きなところにお帰りなさい。グリフィンドール5点減点」

 

「……遅刻しないルートを通ったらまさかの減点。遅刻したって当然減点。しかも自分の寮から。あんた面白い寮監だぜ、先生」

 

「記憶が正しければこの後のコマは空いていましたね。ミス・マリアット、あなたは居残りです。友人を命の危機に晒すということの重みを理解するまでは、変身術の複雑性と危険性も理解できないでしょうから」

 

 

 教室のあちこちからクスクスという笑い声が聞こえた。咄嗟の口答えを完封されたのが滑稽だったのだろう。こればかりは悪癖であるとジュリアも自覚していたが、今回ばかりは顔から火が出そうな気分だった。

 

 命の危機、というフレーズでハーマイオニーの顔が赤くなった。そして何か反論をしようと口を開いたので、ジュリアは慌ててハーマイオニーの口を塞ぐと、マクゴナガルに頭を下げた。

 

 

「そこについては反省しますんで、ほんと。はい。居残りでもなんでも。……ほら、席に座んなハーマイオニー。座れったら」

 

「……よろしい。それでは授業を始めます。ああ、その前に」

 

 

 マクゴナガルはハーマイオニーに微笑みを投げかけると、一転して穏やかな口調を見せた。

 

 

「友人を教室の前で怒鳴りつけてまで良心というものを思い出させたのは、実にグリフィンドールらしい行いです。ミス・グレンジャーに5点差し上げましょう」

 

 この人なんだかんだ甘いんじゃないか。そう思ったジュリアに、もう一度鋭い眼光が突き刺さった。さながら不可視の矢に射貫かれたような気分で、今後は「マクゴナガルは目から魔法が撃てる」という噂をまことしやかに広めていこうとジュリアは現実逃避をはじめた。



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猫と狼のお茶会

 マクゴナガルの執務室はシンプルだが落ち着いた調度品で統一されていて、その静けさがジュリアには緊迫感を与えていた。特に、これからどのようなお説教が待っているかについては、なんともワクワクすることで、考えたくもなかった。

 

 マクゴナガルは執務机と思わしきマホガニー材のデスクを挟んで向こう側に座ると、杖を軽く一振りして、こちら側にも座り心地のよさそうな椅子を出した。

 

 

「お座りなさい、ミス・マリアット」

 

 

 どうにもマクゴナガルが説教という面持ちでないことに違和感を覚えながら、ジュリアはおずおずと椅子に座った。

 

 マクゴナガルはなにやら思案している様子だった。次の瞬間にはどんな辛辣な言葉が飛んでくるかと思うと、ジュリアは気が抜けない。けれど、何も考えずハーマイオニーを命の危機に晒したのは事実で、その点に関してはどうしようもなく落ち込んでいたので、なんであろうと受け止めるつもりでいた。

 

 しかし、話題は思わぬ方向へ進んだ。

 

 

「まず、あなたに会って最初に口にするべき言葉を伝え損ねました。よって、私はそこからやり直す必要があります。……ミスター・マリアットとミス・ムーアクロフトのこと、お悔やみ申し上げます。二人は私にとっても大切な教え子でした」

 

「あー、いや、それはあたしが先手を打ったせいで、先生のせいじゃないっつうか……まあ、ありがとうございます」

 

 

 マクゴナガルは本当に沈痛そうな表情だった。思い返せば、ジュリアの母はレイブンクローの生徒であったにもかかわらず、マクゴナガルに師事してアニメーガスになった。そして、それはジュリアの父のためだった。

 

 ジュリアの父、ヘクター・マリアットはどこにでもいる人狼だった。フェンリール・ファッキン・グレイバックとかいう子供でも恥ずかしがるようなダサい名前――ジュリアは本心からそう思っている――に噛まれ、苦しい日々を送っていた。

 

 しかし、とても心優しく、また友と恋人に恵まれていたために、無事学生生活を終えられたのだと、そう母から聞かされた。つまり惚気だ。

 

 二人とももういない。

 

 

「まあ、あれっすね。先生のおかげで母さんはスパルタ教育の術を身につけてたし、そのおかげであたしは母さんが父さんのとこに逝っちまったあとも生きてこれたし。あたしはもっと感謝しなきゃいけねえっつうわけだ。ありがとうございます」

 

「いいえ、いいえ……その感謝を受け取る資格は、私にはないのです、ミス・マリアット。戦争が終わった後、ヘクターを喪ったエレンのそばに私がいれば。そうであれば、服毒自殺など」

 

「――そいつぁ了見違いだ、マクゴナガル」

 

 

 涙をこぼそうとしたマクゴナガルに、ジュリアの冷徹な言葉が刺さった。こんなにも冷たい声が出せるのかと、ジュリアは内心で驚いてすらいた。

 

 

「確かにエレン・マリアットは服毒自殺した。だが、だがよ。あんたならわかるだろ。母さんは一時の感情に身を委ねて取り返しのつかないことをする生き物じゃねえ」

 

 

 まだジュリアが7歳のころだった。

 

 いつも通りストリートチルドレンの格好をして、魔法薬の材料を刻んでいる母を邪魔しないように挨拶だけして出発して、1ヶ月契約だったバイトを終わらせて、初めての給料なんてものに心を躍らせながら、自宅へ帰った。

 

 出迎える声がなくて、大鍋が煮える音もなくて、母はベッドで横になっていた。てっきり遅めの昼寝でもしているのかと思って、買ってきたケーキをテーブルに出して、紅茶を淹れる準備をした。

 

 バスを乗り継いで、薬瓶を握りしめて聖マンゴに駆け込んだのは、大鍋の横に母のノートと遺書が置かれているのを見つけた直後だった。しかし、母の後輩だという癒者を連れて自宅に戻ったが、どんな呪文も解毒薬も意味を成さなかった。そういう魔法薬だったのだ、母がずっと調合していたのは。

 

 初めて、母の幸せそうな笑顔を見た。

 

 

「計算に計算を重ねて、あの人にしかわからねえ方程式から解を導いて、ようやく父さんのところに戻ったんだ。その解は、おそらくあたしが一人で生きていく力を身につける時を指し示していた。それだけの話だ、そうだろうが。なあ。あんたが一番よく知ってんじゃねえのかよ!」

 

 

 机を叩いた拳が鈍く痛んだ。そしてその痛みがすっと消えるころには、マクゴナガルの涙も消えていた。

 

 ジュリアは別にマクゴナガルが薄情だとも、無責任だとも思っていない。ただ、自分が記憶している唯一の家族を誤った文脈で語られたくなかった。それだけだ。

 

 

「……そう、ですね。ミス・ムーアクロフトはレイブンクローきっての成績優秀者でした。そして、それ以上に、スリザリンを思わせるような計算高い人物でもありました。もちろん、愛情深い魔女でしたが」

 

「あー、そのへんは散々聞かされてるんで飛ばしてくれ。完璧に計算され尽くしたデートだとか、精力剤と叫びの屋敷だとか、そのへん。自分の娘に話すかっつうの」

 

「彼女なりの思い出話だったのでしょう。夫の思い出が我が子にないというのは、きっと辛いことでしょうから」

 

 

 マクゴナガルはぎこちなく微笑んでみせると、杖を振ってティーセットを出した。

 

 

「砂糖とミルクは?」

 

「いや、ストレートで。……うまい。紅茶をおいしく淹れる呪文だけは習得したいっすね、いやほんと」

 

「意外ですね。ジャンクフードとコーラのほうが好みかと」

 

 

 大した理由ではない。母の唯一のわがままが紅茶で、ジュリアに淹れさせては「ヘクターはもっと上手に淹れたわ」と真顔で文句を言うのだ。それも砂糖とミルクたっぷりで。

 

 そのせいで、結局ファーストフード店よりも喫茶店のキッチンバイトに入った経験のほうがはるかに多い。ジャンクフードを口にしたことなど数えるほどしかないだろう。ステーキのつけ合わせのポテトは別として。

 

 

「それで、先生。昔話のための居残りじゃないんだろ?」

 

「ええ……ええ。あなたの蛮勇はしっかりと見届けました。かつてのジェームズたちを彷彿とさせる、グリフィンドールの悪い面です」

 

「フォースの暗黒面ってやつか」

 

「何か?」

 

 

 ジュリアは返事の代わりにカップを口に運んだ。

 

 

「あなたはハン・ソロではなく、ルーク・スカイウォーカーを目指すべきです」

 

「いや知ってんならツッコんでくださいよ」

 

 

 あやうくマクゴナガルの顔面に紅茶を吹きかけるところだった。それはあまりにシュールな光景だ。ジュリアはカップをソーサーに置くと、背伸びをして首を鳴らした。

 

 しかし、挙がった名前がどちらも男ときた。ジュリアは別に乙女として見られたいなどと思ってはいないが、もっと他に候補はあったのではないか。ジャンヌ・ダルクとか、フローレンス・ナイチンゲールとか、あるいはマクゴナガル自身とかでも面白い。

 

 

「あなたはミス・ムーアクロフトの悪い部分も受け継いだように見えます。つまり、人間関係において計算と理屈が先にくることです。あなた自身は計算づくで動いていないにもかかわらず」

 

「あー、確かにハーマイオニーとの関係は計算じゃうまくいかない。これまでの考え方を一度白紙に戻す必要がある。そいつはわかってるよ」

 

「そしてあなたは別の計算と理屈を捻り出すのでしょう。自分自身が従えないルールを」

 

 

 柱時計の振り子が鳴らす均一なリズムだけが部屋の空気を振動させていた。

 

 ジュリアにもマクゴナガルが言いたいことはなんとなくわかっていた。つまるところ、もっと子供らしく振る舞え、無邪気に接しろ、そういうことなのだろう。

 

 しかし、ジュリアが母に教わった「人付き合い」とは計算、理屈、パターン、ルール、そういうものだった。そして、母が死んでからはその知識を最大限に活用して、その場限りの「お友達」を渡り歩いてきた。

 

 つまり、ジュリアは友人との接し方をまだ知らないのだ。

 

 ハリーは「生き残った男の子に対してではなく、魔法界の友だちに対しての態度で接してくれる人」を求めていると予想して、そのとおりにロールプレイした。結果としてハリーはジュリアを友人と見なしている。

 

 ロンは「ウィーズリー家の冴えない末弟から自分を脱却させてくれる、近い距離で導いてくれる人」を求めていると予想して、そのとおりにリードした。結果としてロンはジュリアを友人と見なしている。

 

 ハーマイオニーは「未知の世界で弱い自分を支えつつ、自分の努力と実力を尊重してくれる人」を求めていると予想して、そのとおりにカードを切った。結果としてハーマイオニーはジュリアを友人と見なしている。

 

 

「どうしろっつうんだよ」

 

「質問は明確に、ミス・マリアット」

 

「……あたしは計算と理屈での人付き合いしか知らねえ、そんなことはとっくに自覚してんだよ。母さんが教えてくれた人付き合いってのはそういうもんだった! でも、でも、それじゃあだめだってんなら」

 

 

 落ち着け、ジュリア・マリアット。呼吸を荒らげるな。思考を乱すな。ジュリアは頭の中に焼き付けるくらい自己暗示をかけようとして、それでも、気づけば頬に雫が伝っている。

 

 この賢い魔女に泣き顔を見られたくなくて、ジュリアは俯いて膝の上の拳を震わせた。

 

 ジュリアだって、友人になりたいと思っているのだ。

 

 

「あたしは、どうすりゃいいんだよ」

 

 

 マクゴナガルは黙って紅茶にミルクを垂らすと、カップを口に運んだ。静かだった。ただただ、静かで、だからジュリアは自分のしゃくり上げる声が耳障りだった。

 

 

「なるほど、それしか知らない、と。どうやら認識の齟齬があるようですね」

 

「……は?」

 

 

 マクゴナガルがカップを置き、杖を振ってティーセットを消し去った。ジュリアは母が言っていた法則を思い出した。ガンプの元素変容の法則だ。でも、今はどうでもいいことだった。

 

 

「しかし、その齟齬は自ら解消すべきものでしょう。……ミス・グレンジャーは聡明かつ勇敢な魔女です。ミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーとも親交があるようですね。二人とも少々問題はありますが、純朴かつ快活な少年です。ああ、ミスター・マルフォイとの間には少々トラブルを抱えているそうですね」

 

「……趣味、わりいぞ。生徒の素行調査かよ」

 

「寮監ですから」

 

 

 マクゴナガルはすまし顔で立ち上がると、時計にちらりと目をやった。思えば随分と話し込んでいる。次の授業は……なんだったか。まるで記憶がにじんでいるようだ。

 

 マクゴナガルにつられてジュリアも立ち上がる。マクゴナガルは杖の一振りで椅子も消し去ると、棚から書類の束を呼び寄せた。どうやら上級生のレポートのようだ。

 

 

「私はこれからこのレポートを添削します。多少ずるをした生徒もいるでしょうが、多くは真剣に取り組んでいることでしょう。間違っていたとしても、ここには学びがあります。わかりますか、ミス・マリアット。ホグワーツには学びがあるのです」

 

 

 ジュリアはその声の柔らかさと優しさに驚いて、返事ができなかった。

 

 マクゴナガルは誇らしげに微笑んでいる。それは自慢でも陶酔でもなく、教師としての誇りと優しさを最大限に発露させたもののように思えた。

 

 

「学べばよいのです、ミス・マリアット。どうやらあなたはすでに授業だけがホグワーツで得られるすべての学びではないと理解しつつあるようですから、これに関してもさほど難しい課題ではないでしょう。いい報告を期待していますよ」

 

「……ひとつ、認識の齟齬ってやつがあるみてえだから言っとく」

 

 

 ジュリアは目元を手の甲でこすってから、マクゴナガルの微笑みに不敵な笑みで返してみせた。

 

 

「ハン・ソロはアウトローの皮肉屋だが、友誼に篤いイカした男だ。エピソード6を復習するんだな」

 

「まったく……口の減らない子です。さあ、お行きなさい。スプラウト先生の薬草学に遅れますよ」

 

「げえっ、温室じゃねえか。急がねえとハーマイオニーに説教食らうな。失礼するぜ」

 

 

 ジュリアは転がるようにマクゴナガルの執務室から飛び出ていった。だから、その背に向けられた穏やかな、少しだけの心配を隠した視線には気づかなかった。

 

 

「どうか、あなたが苦難を乗り越えて、また今のように笑えますように。ヘクターとエレンの子」

 

 

 



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なんともわくわくする魔法薬学

 クィレルの「闇の魔術に対する防衛術」は一番の期待外れだということでジュリアたち4人の意見は一致していた。特に鋭い嗅覚を持つジュリアにとって、あのニンニク臭は強い効果をもたらす。他の教科の内職をするのも難しく、一方で無理して集中してまで得るもののある授業ではない。

 

 意外にも「魔法史」に関しては、運のいいことにジュリアの母が歴史マニアだったおかげで苦戦せずに済んだ。つまり、ビンズの催眠音波に身を委ねてぐっすりでも問題はなさそうだった。ハーマイオニーはそれをあまり快く思っていないようだったが。

 

 

「おはようさん、ハリー、ロン。今日は早いじゃねえか」

 

「おはようジュリア。今日はなんとか迷子にならずに下りてこれたんだ。……すごい量のベーコン」

 

 

 ジュリアの皿を見てハリーが眼鏡の奥で緑色の目を見開いたが、ジュリアからすればこの程度の厚切りベーコンはちょっとしたお茶会のお菓子のようなものだった。

 

 昔はよく空いた時間で猟に出て、捕まえてきたウサギやらキジやらを母にグリルしてもらった。寄生虫がいたら虫下しを調合するのが面倒だからという理由でしっかり火が通っていたが、あれはあれでおいしかった。ジュリアはなんとなくそのことを思い出しながら、ベーコンサンドベーコンにかぶりつく。

 

 

「金稼ぎと食事と親孝行」

 

「なんだいそれ」

 

「やってねえと後で後悔することだ、ロン。ほら、食いなよ」

 

 

 二人が席についてオートミールを”少しだけ”皿に盛るのを見ていると、ヨーグルトにとりかかっていたはずのハーマイオニーから厳しい声が飛んできた。

 

 

「ジュリア、あなた栄養バランスってご存知?」

 

「知ってる、肌荒れとかしたときに魔法薬で整えるやつだろ」

 

「その年からサプリメントに頼ってると老後が怖いわよ、まったく。ロン、あなたもオートミールに砂糖入れすぎよ」

 

 

 自分に矛先が向いたと感じたロンは、慌てて話をずらした。

 

 

「ハリー、ヘドウィグだ! 手紙を持ってる!」

 

「え、本当? うわあ、僕……僕、手紙なんて初めてだ」

 

 

 ハリーは破るような勢いで封を開けた。煙と獣と木の匂いがするその便箋は、どうやらあの図体の大きな男、ハグリッドからの手紙のようだ。

 

 

「ハグリッドが、今日の午後にお茶しませんかって」

 

「おー、よかったじゃねえか。あと、初お手紙おめでとう、だ」

 

 

 ジュリアがハリーの頭を乱暴に撫で回すと、ハリーは愉快そうに笑った。

 

 もっとも、その愉快さも長くは続かなかった。育ちすぎたコウモリ――スネイプの「魔法薬学」は、どうやら楽しい薬品実験のお時間というわけではなさそうだからだ。

 

 スネイプが出席を取っていく。そして、ハリーの名前を読み上げるところで止まった。

 

 

「ああ、左様。ハリー……ポッター。我らが新しい――スターというわけだ」

 

 

 スリザリンの席から――席が決まっているわけではないが、二つの寮の確執を考えれば分かれるのが自然だ――クスクスと冷やかし笑いが聞こえた。ジュリアがちらりと目をやると、いつぞやの青白坊ちゃんとその取り巻きだった。

 

 あの坊ちゃんが余裕ぶっているということと、スネイプという教師が贔屓をするという噂は、噛み合うのだろうか。ジュリアは考える。もし噛み合うとすれば、あの坊ちゃんは可哀想だ。適切な評価を得られないまま成長した人間は自尊心や自己評価に問題を抱える。そういう大人をジュリアは何人も見てきた。

 

 そんなことを考えているうちにスネイプの演説が終わってしまった。名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し、死にさえ蓋をする方法。なるほど、功名心の強いグリフィンドールとプライドの高いスリザリンを煽るには中々の表現だ。

 

 

「ポッター!」

 

 

 スネイプがハリーを指名した。別に彼は”まだ”なにもやらかしていない。

 

 

「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になる」

 

「わかりません」

 

 

 生ける屍の水薬。ジュリアは胸の中で答えるに留めた。アスフォデルの球根を粉末にするのには生のまますり下ろすのではなく下ごしらえしてから乾かす必要がある。カノコソウの根と催眠豆の汁も必要だ。実際は催眠豆を噛んでいても眠ることはできるが、起きることができる保証はない。

 

 ハーマイオニーが手を挙げていたが、無視された。

 

 

「有名なだけではどうにもならんらしい。もう一つ聞こう。ベゾアール石を見つけるにはどこを探す」

 

「わかりません」

 

 

 山羊の胃。ただし魔法薬を専門にしている魔女や魔法使いの倉庫を漁った方が早い。余談だが、ジュリアの母は山羊のアニメーガスだったが開腹してもベゾアール石は出てこなかったそうだ。

 

 ハーマイオニーがさらに高く手を挙げていたが、無視された。

 

 

「授業までに教科書を開いてみようとは思わなかったわけだな、ポッター。もっと易しい問題がお望みか。モンクスフードとウルフスベーンの違いは」

 

 

 ジュリアは思わず鼻で笑ってしまった。違いを答えよという問いに対して違いが無い場合は、”無し”と書けばいいのか、空欄にすればいいのか。しかもわざと4つの呼び名から長い名前だけ引っ張ってくるあたり意地が悪い。

 

 ハーマイオニーが立ち上がって手を挙げた。

 

 

「わかりません。ハーマイオニーがわかっているみたいですから、彼女に聞いてみてはいかがですか?」

 

 

 一瞬だけ、グリフィンドールからも笑い声があがった。しかし、スネイプの不快そうな視線が、それをすぐに鎮圧する。この男はデモ隊やストライキへの交渉人にも向いていそうだと思いながらジュリアは彼を見つめた。

 

 

「座りたまえ」

 

 

 スネイプがぴしゃりとハーマイオニーに言いつけて、不満そうなハーマイオニーが口を開く前に説明を始めた。生ける屍の水薬。山羊の胃。とりかぶと。この程度は子供のおままごとだと思っていたので、ジュリアは正解していたところで喜びを露わにしようなどとは思わなかった。

 

 

「……諸君、なぜ今のをノートに書き取らんのだ? ポッター、その無礼な態度でグリフィンドール1点減点」

 

 

 ジュリアは口から出そうになった「そらあんたが威圧的で早口だからだ糞ナード」という言葉を呑み込んだ。この教師に露骨な態度で逆らうつもりはない。教師に逆らうメリットがまずそれほどないし、彼は母の友人だったと聞いていたからだ。まさかここまで性悪だとは思っていなかったが。

 

 一応ノートを取るふりをして――崩した筆記体というのはいいものだ。適当に線を引いているだけでも見分けがつかない――、それから二人一組で調合の実習に入った。

 

 

「ハーマイオニー、干イラクサを量ってくれ。葉の刺毛に気をつけろ、そいつが薬効のメインだ」

 

「わかったわ。でも、聞いたことないんだけど、それ、なんの参考書に載ってるの?」

 

「母さんの知恵袋。……そんな拗ねた顔すんなって、夜にでもまとめとくから」

 

「――ムーアクロフト」

 

 

 突然母の旧姓で呼ばれたので、ジュリアは反応が遅れてしまった。今まで母の旧姓で呼ばれる機会などなかったのだ。それを誤魔化すようにゆっくりとすりこぎを置いて、ジュリアはスネイプに返事をした。

 

 

「母なら随分前に死にましたよ、ご存知でしょうがね」

 

「……マリアット。先ほどグレンジャーと話していたことについてレポートにまとめて提出したまえ」

 

「うっす」

 

「それから、授業が終わったら我輩の研究室に来るように」

 

「うっす」

 

「……ムーアクロフトは君に礼儀作法を教えなかったのか」

 

「少なくとも生きてる間はあんまり」

 

 

 スネイプは無愛想な顔をもっと仏頂面にして、小さくため息を吐いた。これは減点かなというジュリアの考えが顔に出たのだろう、スネイプはジュリアに背を向けて話を続けた。

 

 

「今回は減点しないが、君の将来のために今後は周囲を見て努力するように。角ナメクジを茹ではじめたまえ」

 

「あざっす。ヘビの牙は……よし、よさそうだな。ハーマイオニー、あたしの銀メス取ってくれ、内臓抜くから」

 

 

 スネイプがマントを翻して去っていった。ジュリアは「あの人よく大鍋だらけの場所でマント羽織っていられるな」などとつまらないことを考えていたが、ヘビの牙が十分よく砕けたのを確認して次のステップに進んだ。

 

 ジュリアは片手で角ナメクジを押さえてもう片方の手で開腹をしていく。おそらく養殖の角ナメクジだとは思うが、野生のものが混じっていると生前に食べた内容物で薬をだめにしてしまうのだ。薬に関しては正確にかつ合理的に、というのが母の教えだった。

 

 

「ねえジュリア、ムーアクロフトって」

 

「母さんの旧姓。若いころスネイプ……先生とお友達だったんだと。ほら、山嵐の下処理しといてくれ」

 

 

 このあと、ハリーはもう1点理不尽な減点を食らった。ハーマイオニーは怪訝そうな顔でジュリアとスネイプを交互に見ていたが、賢明なことになにも口にしなかった。

 

 



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蝙蝠と狼のお茶会

 この数日間でグリフィンドールとスリザリン両方の寮監に招かれることになるとは思っていなかった。共通しているのは、二人ともお茶を淹れる魔法がうまいということだ。ジュリアはハーブティー――ハイビスカスとレモングラスのブレンドだ――の入ったカップを手にして、スネイプの発言を待った。

 

 

「……エレンの葬式以来だな、ジュリア・マリアット」

 

「あー……そっすね、そういえば」

 

 

 参列者の顔は覚えていなかった。誤魔化そうとしたが、スネイプは表情を変えずにハーブティーを口に運んだ。

 

 

「我輩に気づいていなかったか。さもありなん、君は茫然自失を体現したかのような状態であった。……とはいえ、エレンの知識と技術を君が継承しているのは喜ばしいことだ、ジュリア・マリアット」

 

「あの。なんでフルネームなんすか」

 

 

 スネイプは無表情を貼り付けて、カップをソーサーに置いた。彼の指先がソーサーの蔦模様を這う。考え事をするときに手を動かすタイプの人なのだろうか。

 

 硝子瓶に詰められた薬液の中でサルの胎児から泡が漏れている。あれはまだ生きているのか、それともガスが漏れているだけなのだろうか。もしかすると薬液自体がサルの胎児から溢れているのかもしれない。

 

 ややあって、スネイプが重い口を開いた。

 

 

「……友人の遺児を無碍に扱いたくないという気持ちを持つのはごく自然なことだ。しかし、我輩は教育者でもあり、特定の生徒を贔屓するような振る舞いは慎まねばならない。妥協点だ」

 

「意外っすね。結構……その、私情挟んでる気がするし」

 

「ポッターと我輩の関係については、まあ、聞いていないであろうな。ヘクターもエレンも他人のプライバシーを侵害するような思慮に欠けた人物ではなかった」

 

 

 スネイプが両親をやたら褒めるのが意外で、ジュリアは妙にこそばゆかった。しかし、答えになっていない。ジュリアが視線で続きを促すと、スネイプはもう一口喉を潤した。

 

 

「当時、我輩にとって友人と呼べるのはルシウス・マルフォイ、ヘクター、エレンだけだった。卒業間近にはヘクターとエレンすら疎遠になっていた。そして、ルシウスは少々……いや、かなり権力と闇の魔術に魅せられていた。一方で、ポッターの父親やその取り巻きどもは腹立たしい、実に不愉快な、グリフィンドール的悪童だった。我輩はルシウスと親しくなり、奴らはグリフィンドールらしい正義感のもとに我輩を……そう、不快にさせた」

 

「あー、じゃあ、つまり……あれっすか。死喰い人だったんすか」

 

 

 スネイプと青白坊ちゃんの父親は友人関係。二人は闇の魔術に傾倒。そんなスネイプをハリーの父親が攻撃。それらが現在の人間関係に影響を及ぼしている。情報量が多すぎて、混乱したジュリアは思わず一番質問してはいけないようなところを訊いてしまった。しかし、スネイプは怒るでもなく、口を開いた。

 

 

「否定はしない。しかし、前述したとおり、我輩はホグワーツの教師であり、アルバス・ダンブルドアの部下だ。……君には知る権利がある」

 

 

 君には知る権利がある。その言葉がやけに重くのしかかって、ジュリアの思考を締め付けた。これは権利というより、義務だった。ジュリアは父のことをよく知らない。父については母の口から聞いたことがすべてだ。だから、これから確かめていかねばならなかった。

 

 なによりジュリアが知りたいと思ってきたのは、父の最期だ。

 

 

「先生は最後の戦いにも参戦してたんすか。つまり、魔法省の戦いに」

 

 

 ジュリアの父、ヘクター・マリアットは死喰い人が魔法省に大攻勢をかけた時、狼化した状態で防衛側として参戦した。しかし、魔法省に置かれている戦没者慰霊碑にはヘクター・マリアットの名は刻まれていないという。

 

 

「いや、我輩は……別の場所にいた」

 

「そっすか。……あたし、知りたくて」

 

「何をだ」

 

 

 一瞬、スネイプの表情が強張った。おそらく、最後の戦いの時にどこにいたのかを聞かれたくないのだろう。しかし、ジュリアはそんなことに興味はなかった。スネイプのプライバシーを詮索するつもりはない。もっと重要なことがある。

 

 

「父さんを殺したのは、”どっち”なのか」

 

「それは……」

 

「人狼なんて狼化しちまえば見分けがつかねえし、あの時ファッキンヴォルデモートの配下には人狼がわんさかいたって聞いてる。だから、乱戦になれば事故は起こる。でもよお、先生」

 

 

 ジュリアはハーブティーを一気に飲み干した。喉がひりついていたからだ。

 

 

「マグル界じゃ事故でも犯人は罰せられる。過失致死傷罪。あたしはそっちのシステムのほうが好きだ」

 

「仇討ちを望んでいるのか、ジュリア・マリアット」

 

「そんなんじゃねえよ。ただ、区別のつかない人狼だからってだけで”事故死”した父さんと、父さんのために頑張り続けた母さんがあまりに報われねえ。顔も知らねえ父親でも、あたしは愛してんだ」

 

 

 愛、と呟いてスネイプは目を伏せた。表情は変わらなかったが、心の奥底まで自分を潜らせて何かを考えているのだということはジュリアにもわかった。

 

 ジュリアは父の顔を知らなかった。母は写真を好まなかったし、母以外に家族もいなかったから、当然のことだ。スネイプはジュリアの父のことをどれくらい覚えているだろうか。狼化した父の姿を見たこともあるのだろうか。それを、どう思ったのだろうか。

 

 

「両親を恨まんのか」

 

「なぜ」

 

「君の病は父から遺伝したものであろう」

 

「病っつってもなあ。歯が鋭い、爪が硬い、五感がちょっと変わってる、体が強い、月の光で魔力が高まる……あとレアステーキが好き。プラマイでプラスっすよ。いい個性」

 

「明言したほうがわかりやすいか。我輩は君が在学している間、脱狼薬を調合する用意がある。それに加えて、校長も狼化中に君が安全に過ごせる場所を用意して――」

 

 

 ジュリアが笑い声を上げたので、スネイプは言葉を止めてジュリアの目を見た。スネイプとしっかり目を合わせるのは初めてかもしれない。吸い込まれるような感覚があった。

 

 

「ご心配どうも。あたしはこの力を制御できてんだ、先生。より正確に言えば、狼化するという性質を継承できなかった」

 

「しかし、エレンは君の人狼としての性質をコントロールするために聖マンゴを退職した。何か彼女が調合した魔法薬によって制御しているのではないのか」

 

「母さんがやったのは投薬治療でも外科治療でもねえんだ、調教なんだよ先生。先天性半人狼、つまり半分犬ころの娘に人間としての振る舞いを叩き込んだ。それだけだ」

 

 

 スネイプはまじまじとジュリアの目を見つめて、それからこの会話を無かったことにするような素振りで咳払いをした。

 

 

「用件は以上だ。下がってよい。レポートは来週提出すること」

 

「うっす、んじゃまた来週」

 

「……卒業までに淑女らしい口調を身につけるように」

 

「あいあい、それでは”ごきげんよう”だ」

 

 

 扉を閉じて、地下牢の薄暗い廊下を歩きながら、ジュリアは頭をかいて、あくびをした。別に眠いわけではない。これが癖なのだ。

 

 地下牢を出ると、石壁に背を預けてハーマイオニーが立ったまま本を読んでいた。

 

 

「談話室で読みゃいいものを」

 

「談話室は騒がしいから」

 

 

 本から顔を上げないが、目が動いていない。ジュリアにはハーマイオニーが自分のことを待っていてくれたことが容易にわかった。

 

 そこまで話し込んではいないが、広間の片隅で一人立ったままジュリアを待ち続けるのは心細かったかもしれない。

 

 

「悪い、待ったか?」

 

「今来たとこ、って返せばいいのかしら」

 

「わかんねえ、生憎とデートの経験はねえんだ。……よし、まだ夕食まで時間あるし、ちょっとデートするか、ハーマイオニー」

 

「素敵なお誘いね。どこに連れてってくれるの?」

 

「湖の畔なんてどうだ」

 

 

 ハーマイオニーは顔を上げてにっこり笑った。



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箒に跨がるなんて正気じゃない

 随分と楽しみにしていた様子の飛行訓練当日、ハリーが朝食の席でコーンフレークをつつきながらやけにしょぼくれていた。

 

 

「よお、どうしたハリー」

 

 

 ジュリアはハリーの隣に座ると、厚切りベーコンの大皿から焼きたてのベーコンを10枚ばかりかっさらった。

 

 相変わらずハリーはミルクに浮かんだコーンフレークを沈没させている。霧の海に沈んでは浮かぶ穀物船。なんともシュールな光景だった。

 

 

「飛行訓練の貼り紙、見た?」

 

「見たくもねえ」

 

「あー、そっか、箒嫌いなんだっけ。……スリザリンとの合同なんだってさ」

 

 

 ジュリアは箒が嫌いなのではない。ただ、箒の柄に跨がるなんてどう考えても股が痛くなるに決まっている、ジュリアはそう確信していた。さらに言えば、ずっと乗っていたら”がに股”になるようにも思えた。

 

 問題はハリーがなぜ落ち込んでいるかだが、解答を導き出すのはたやすい。スリザリンと合同の魔法薬学でハリーは晒し者になった。加えて、青白坊ちゃん――ドラコ・マルフォイがいる。どうやらハリーと彼との間には妙な確執が生まれてしまったようだ。

 

 

「僕、何よりも空を飛ぶのを楽しみにしてた。本当に。だけど、マルフォイの目の前で箒に乗って、あいつに負かされて、笑われるんだ、きっと」

 

 

 重症だ。マルフォイ性ドラコニックシンドローム。

 

 関係性や感情はともかく、ライバルがいるというのはいいことだとジュリアは思っていた。時折卑屈になるハリーに熱を与えてくれる。こういうとき、友人ではうまくいかないものだ。そうジュリアの母が言っていた。

 

 しかし、今回は始める前から負かされることを恐れている。あるいは、笑いものにされる羞恥を恐れている。もちろん、誰だって負けたり笑いものにされたりするのは嫌なことだ。

 

 ハーマイオニーは朝食を抜いて『クィディッチ今昔』を読み聞かせしているし、ロングボトムはハーマイオニーの信徒のように縋り付いてそれを聞いている。ジュリアは途中までそれを眺めていたが、空腹には勝てなかった。

 

 

「初めてのチャレンジに飛び込む前からチキるのはダサいと思わねえか、ハリー」

 

「だって、マルフォイはいつもクィディッチがうまいって自慢してるし」

 

「――そうとは限らないよ、ハリー。ジュリアもそう思うだろ?」

 

「ある程度はな」

 

 

 寮から下りてきたロンが両面焼きの卵を皿にとりわけながら、明るい顔で声をかけてきた。

 

 

「どういうこと?」

 

「ヒントやるよ、考えてみな。青白坊ちゃんは魔法界の名家。魔法界は秘匿されてる。青白坊ちゃんのクィディッチ自慢はいつもマグルのヘリコプターをかわすとこで終わる」

 

「……あいつが嘘ついてるってこと?」

 

「なかなか冴えてるじゃねえかハリー。飯食えばもっと冴えるぜ。ほら、そろそろその沈没船団すくってやれよ」

 

 

 コーンフレークはすっかりふやけていたが、ハリーはいくぶん元気な顔になってそれを食べ始めた。

 

 

 

 さすがに昼食は食べさせるために一度『クィディッチ今昔』を没収してハーマイオニーを連れ出したが、どうにもハーマイオニーは”箒酔い”で吐くのが怖いらしかった。

 

 動く挿絵で「競技場に高所から嘔吐するクィディッチ選手の図」を見せられたジュリアはさすがに少しげんなりしたが、この図はむしろハーマイオニーを説得するのに役立つことになる。

 

 

「いいか、あたしらはクィディッチ選手になろうってんじゃない。ほら、小学校でかけっことかクリケットとかやらされなかったか? あれで陸上選手のタイムとかプロプレイヤーの打率とかを要求されるか? そういうことだよ」

 

「ただの運動ってこと?」

 

「あるいはマグル出身の生徒が魔法界の競技に触れる機会を作るためか、まあそんなとこじゃねえの? ともかく、そいつは杞憂ってやつだ。ほら、オレンジ剥いてやったから食えって」

 

 

 実際のところ、ジュリアは小学校なんてものに通ったことはない。バイトで一緒になった年上の「お友達」が「家庭の事情で学校に行ったことがないジュリアちゃん」を哀れんで話してくれただけだ。情報は意外なところで役に立つものだとジュリアは実感した。

 

 ようやくハーマイオニーがちまちまとオレンジを食べ始めたのを眺めながら、ジュリアはベーコンエッグをおかわりする。最近ハーマイオニーがジュリアの食生活に口出しするようになってきたので、肉以外も多少は食べるように心がけているのだ。

 

 そして、昼食が終わり、飛行訓練の時間になった。晴天なれどやや風強し。「禁じられた森」の中にちらつく影が見えるほどの視界良好。絶好のスポーツ日和だとジュリアは悪態をついて芝生を蹴った。

 

 グリフィンドール寮生とスリザリン寮生が整列させられて箒の横に立っている。先頭には鷹のような目をした白髪の女性、彼女が教官だろう。色々な意味でマクゴナガルと同種の気配がした。

 

 

「なにをボヤボヤしているんですか、右手を箒の上に突き出す! そして『上がれ!』と言う!」

 

 

 ジュリアは内心で早くもうんざりしていた。自分にあてがわれた箒――ちゃっかり一番後ろを陣取ったが、状況からしてサボれそうな気配はない――はどうやらとんでもないオンボロの粗製品らしく、柄はささくれているし、節は出っ張っているし、挙げ句の果てに束ねた小枝が爆ぜていた。

 

 

「おいおい、これに跨がれってのかよ、冗談じゃねえ……」

 

「上がれっ! いいから、やるの! 上がれっ! 上がれっ!」

 

「転がってんぞハーマイオニー。はあ……上がれ棒っきれ」

 

 

 箒が勢いよく跳ね上がって、ジュリアの額を叩きつけようとしてきた。ジュリアはすんでのところでそれを避けたが、また箒は地面の上だ。

 

 

「しまいにゃへし折って焚きつけにすんぞオンボロ。嫌なら上がれ、おら、上がれっつの。……よーし、いい子だ」

 

「卑怯よジュリア、それって脅しだわ!」

 

「箒に対する恐喝罪で逮捕。魔法史の教科書に載っちまうなー、いやー参ったなー」

 

「ああもう……上がれ!」

 

 

 結局、箒が上がらなかった生徒は手で拾わされた。それから、跨がり方と握り方を指導され――ジュリアは教官に「本当にこんなもんに跨がるのか? 鞍もなしに?」と”質問”したが、鷹の目で睨まれるだけだった――、青白坊ちゃんがずっと間違った握り方をしていたと指摘されたことにハリーとロンが歓喜した。

 

 

「私が笛を吹いたら、地面を強く蹴りなさい。浮くだけですよ、いいですね。では、一、二の――」

 

 

 ロングボトムが飛んだ。

 

 極東から留学してきたとかいう学生に教わった歌があったな、とジュリアは思い出した。ロングボトム飛んだ、屋根まで飛んだ。屋根まで飛んで――

 

 ロングボトムの体が傾いた。素人のジュリアでもわかる、あれは落ちる前兆だ。高度は6メートルほど。頭から落ちたら命はない。

 

 くそったれな箒を地面に叩きつけて、ジュリアは駆けだした。

 

 姿勢は前傾で、蹴るように。正しいフォームではないかもしれないが、ジュリアが一番パフォーマンスを発揮できるフォームだ。視界の中にロングボトムをしっかりと捉えておく。

 

 ただキャッチしただけでは意味が薄い。ロングボトムは首がむちうちになるだろうし、ジュリアは肩と腕を痛める。おそらく腰と膝も。だから、ジュリアも落下する必要があった。

 

 ロングボトムの着地点を追い越して、壁面へ。ロングボトムの高度4メートル。

 

 全力で蹴って宙に上がる。ロングボトムの高度2メートル。

 

 ちょうどやってきたロングボトムを抱える。そしてそのまま着地姿勢を取り、衝撃を分散させる。高度0メートル。

 

 

「よおロングボトム、息してるか?」

 

 

 返事はない。ロングボトムは気絶していた。魔力を持った子どもというのは危機が迫ると魔力を暴発させるとジュリアは聞いていたが、もしそれが機能したなら別に助けなくてもなんとかなったのではないか。そんな疑問がジュリアの頭をよぎったが、それはフーチ教官の声でかき消された。

 

 

「よくやってくれました、マリアット! グリフィンドールに10点! 双方とも怪我はありませんね? 気絶している? 大丈夫です、大丈夫。あとは私が預かります、医務室で気付け薬をもらわなければ」

 

 

 焦りやら興奮やらで嵐と化したフーチ教官は、ジュリアからぐったりしたロングボトムを受け取ると、ざわつく生徒たちに向き直った。

 

 

「私が戻ってくるまで誰も動いてはいけません。もし箒で飛んだりしようものなら、クィディッチのくの字を言う前にホグワーツから出ていかせますからね!」

 

 

 ジュリアは確信した。この教官はカテゴリー・マクゴナガルだ。校内にロングボトムを運んでいく教官を背に、ジュリアは生徒たちの列に戻った。

 

 グリフィンドール寮生には盛大に歓迎された。背中を叩かれ、肩を叩かれ、ハーマイオニーに頭を撫でられた。

 

 

「すっごいや、君……おったまげー」

 

「すっげえ間抜けなコメントをどうも、ロン」

 

「君サッカーとかやってたの? それとも陸上?」

 

「ハンティング」

 

「あの加速と壁蹴りは魔法よね?」

 

「ノードーピングだ、ハーマイオニー」

 

 

 盛り上がっているグリフィンドール寮生を好ましく思わない人物がいた。青白坊ちゃんである。彼はフーチ教官が声の届かないところまで行ったのを確認してから、嘲るような笑い声を上げた。

 

 

「見たか、ロングボトムの間抜け面! あれだけで一週間は笑えるね」

 

 

 他のスリザリン寮生も囃し立てるようにしてそこに加わった。

 

 ジュリアは放置するつもりだったが、勇敢なことに、ジュリアのルームメイトである女子生徒――ジュリアの記憶が正しければ、パーバティ・パチルという名前のはずだ、たぶん――が声を上げた。

 

 

「やめてよ、マルフォイ」

 

「へー、ロングボトムの肩を持つのかい」

 

「パーバティったら、あのチビデブの泣き虫に気があるんだわ!」

 

 

 今度はスリザリンの女子生徒が冷やかした。ジュリアが思うに、この女子生徒も他人の容姿をどうこう言える見目ではないのではないか。いや、そもそもルックスの話は価値観に強く依存するから不毛だ。ジュリアは考えないことにした。

 

 

「ごらんよ! ロングボトムのバカ玉だ」

 

 

 青白坊ちゃんが高々とさし上げているガラス玉は、どうやらロングボトムのものらしかった。中に霧のようなものが渦巻いていて、それが日の光を浴びて煌めいている。美術品としての価値は高そうだ。家を持ったら窓辺にひとつ置いておきたいかもしれない、などとジュリアは思った。

 

 無意識に意識しているライバルのご登場で興奮したのか、それともどこで身につけたのやらわからない持ち前の正義感を発揮したのか、ハリーが一歩前に出た。

 

 

「それをこっちに渡してもらおう、マルフォイ」

 

 

 不思議とハリーの静かな声は波紋のように広がって、騒がしかった集団は青白とハリーの二人に注目した。

 

 青白が不敵な笑みを浮かべる。

 

 

「嫌だね。ロングボトムが自分で取りにくればいい」

 

 

 青白は素早く箒を手にしてひらりと跨がると、芝生に影を落とすいっとう高い樫の木と同じ高さまで舞い上がった。

 

 なるほど、少なくともクィディッチ経験があるというのは事実だったようだ。別に評価を修正する必要はないが、ジュリアは青白の認識を改めることにした。こいつに箒を渡すと空に逃げる。

 

 

「それとも、ここまで取りにくるか、ポッター!」

 

 

 ハリーが手をかざすと、自然と箒が浮かび上がって握られた。

 

 

「だめよハリー、だめ! 動いちゃいけないって言われたでしょう、私たちみんなが迷惑するの!」

 

 

 ハリーはまるで愛馬に跨がるようなスムーズさで箒に乗り、地面を蹴った。ローブが風に煽られてはためいている。ハリーは堂々と箒を乗りこなしていた。

 

 急加速して青白のいる高度まで上昇したハリーに歓声や黄色い悲鳴が上がる。ここはコロッセオだ。人気グラディエーターのハリーがヴィランの青白に挑戦しようとしている。

 

 何か空中でやりとりがあって、ハリーが矢のように青白めがけて飛び出した。青白は掠めるようにそれをかわし、ハリーは再び青白のほうを向く。

 

 

「すっげえ、ハリーは生まれついてのクィディッチ選手だよ! チャドリー・キャノンズに入団するのだって夢じゃない!」

 

 

 ジュリアは共感すればいいのか、ツッコめばいいのかわからなかった。確かにハリーは教わってもいない操縦方法で箒を自在に操っている。しかし、ここ100年優勝していないチームに放り込まれたハリーの心境やいかに。

 

 そして、青白はついにギブアップしたと見えて、ガラス玉を高く放り投げて急降下し、取り巻きの中に戻った。あれもあれでなかなか乗りこなしている。絨毯だって浮遊するより着地するほうが難しいのだ。ジュリアは二度と絨毯には乗りたくないと思っている。

 

 そして、重力に従って落下するガラス玉を追いかけるように、ハリーも垂直になって降下しはじめた。恐ろしい速さだ。悲鳴が上がる。

 

 

「ああもう、見てられない……」

 

 

 ハーマイオニーは両手で目を覆ってしまった。スプラッタな予測を立てたのだろう。ジュリアも万が一に備えてホルスターに指を添えた。地面にスポンジファイをかければ少しはダメージが軽減できるかもしれない。

 

 加速、加速、加速。ハリーは隕石だ。グリフィンドールのローブに縫い込まれた赤が燃えているように見えた。

 

 そして、ハリーはガラス玉を掠め取り――

 

 

「やった、やったぞ! すごいやハリー!」

 

 

 ロンの飛び跳ねんばかりの歓声でハーマイオニーがそろそろと手を下ろした。ハリーは見事な立てなおしを披露し、ガラス玉を掲げて軟着陸に成功した。ロンを先頭にグリフィンドール寮生がハリーへと駆け寄っていく。陽射しを受けてか、遠目に眺めるジュリアには一瞬だけガラス玉が金色に輝いたようにすら見えた。

 

 ハリーはすっかり自信、自尊心というものを獲得したようだった。そして、自分の成し遂げたことへの感動も。近づかなくてもわかる。いま、ハリーは幸福だった。

 

 しかし、それを打ち破るかのような雷が落ちた。

 

 

「ハリー・ポッター……!」

 

 

 我らが”オニ”のご登場だ。



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決闘は始まる前に勝敗が決する

 驚くべきことに、心底驚くべきことに、あの寮監は寮杯と私情を優先したらしかった。話を聞いていたジュリアはフィレステーキにナイフを入れる手が止まるくらい驚愕した。なんと、校則を無視してまでハリーをクィディッチの寮代表選手、しかも重要なポジションであるシーカーにしようというのだ。一緒に聞いていたロンも叫ぶくらい驚いていた。

 

 

「シーカーだって? だけど1年生は絶対だめだと……ハリー、君は最年少の寮代表選手だよ! 何年ぶりだろう……」

 

「百年ぶりだって。ウッドが言ってた」

 

 

 ハリーは刺激的な午後のおかげで食欲が増進しているのか、ミートパイをがっついていた。顔色もいい。ただ、がっつきすぎて時折むせそうになっていたので、ジュリアは水差しからよく冷えた水を注いでハリーに渡した。

 

 

「ありがとう、ジュリア。それで、来週から練習が始まるんだ。でも誰にも言わないでね、秘密にしておきたいんだって」

 

 

 赤毛の双子――このウィーズリー家の悪戯兄弟は、匂いでしか区別がつかない――がホールに入ってきて、ハリーの肩をばしばし叩いた。

 

 

「すごいなハリー。ウッドから聞いたぜ。俺たちも選手だ。ビーターさ」

 

「今年のクィディッチ・カップはいただきだな。チャーリーが卒業して以来か。ウッドのやつ、小躍りしてたぜ」

 

「じゃあな、俺たちもう行かなきゃ。リーがホグズミードに出る秘密の抜け道を見つけたらしくて」

 

「たぶん俺たちがもう知ってるやつだけどね。『おべんちゃらのグレゴリー』の銅像の裏にあるやつ。またな、ハリー!」

 

 

 嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。いつぞやのハーマイオニーを彷彿とさせる。そんなことを思いながらジュリアはフィレステーキをおかわりした。

 

 しかし、またもナイフを入れる前に、騒がしいやつが現れた。青白坊ちゃんだ。

 

 

「ポッター、ホグワーツ最後の食事はどうだい?」

 

「地上ではずいぶん元気だね。小さなお友達も一緒だし」

 

 

 11歳にしてはなかなか皮肉の効いた言い回しだった。ジュリアは口笛を吹きたかったが、まだ口の中にマッシュポテトが残っている。ハリーのクールな一撃が応えたと見えて、青白坊ちゃんは挑発を始めた。

 

 

「お望みなら僕一人で相手してやろうじゃないか。今夜、魔法使いの決闘だ。魔法使いの決闘なんて聞いたこともないだろう?」

 

「あるさ。僕が介添人だ。お前のはどっちだ?」

 

 

 ロンがまんまと挑発に乗ったので、青白坊ちゃんはご機嫌なご様子だった。せせら笑うと、後ろに控えたミニトロール2体を交互に見やる。しかし、特に意図があって見ている目つきではない。あれは獲物をいたぶる悪い狩人の目だ。ジュリアは青白坊ちゃんが罠をかける気だと理解した。

 

 

「クラップがやる。真夜中だ。トロフィー室に来い」

 

 

 青白坊ちゃんがトロールを連れて去っていくと、ハリーはロンと顔を見合わせた。

 

 ハリーの目に困惑が現われている。パイの欠片を口の端につけたままで、のんきなものだ。ジュリアは呆れながらようやくステーキに辿り着いた。

 

 

「魔法使いの決闘? 介添人って?」

 

「介添人っていうのは、君が死んだら次は僕が戦うってことさ」

 

 

 ハリーの顔から血の気が失せた。マクゴナガルに名前を怒鳴られた時よりもショックを受けている。もちろん、退学よりも死のほうが怖いのは当然のことだが、ジュリアはなんだか愉快なことになってきたと感じた。

 

 

「もちろん、死ぬのは本当の魔法使いが本気で決闘した時だけだよ。だって考えてもみろよ、君やマルフォイに相手を吹っ飛ばすような魔法が使えるかい? あいつ、きっと君が断ると思って、恥をかかせにきたのさ」

 

「でも……もし僕が杖を振って、何も出せなかったら、どうするの?」

 

「鼻っ柱へし折ってやるのさ、パンチで」

 

 

 ロンの推理はおおむね当たっているだろう。断れば恥をかかせる。乗れば告げ口なりなんなりして罠をしかける。うまい手口だ。マルフォイ。ジュリアはあの少年の名前をちゃんと覚えた。

 

 そこによく知った匂いが近づいてきたので、ジュリアは慌てて大皿からレタスとトマトのサンドイッチを取った。

 

 

「ちょっと、失礼。聞くつもりはなかったんだけど、あなたたちとマルフォイの話が聞こえちゃって」

 

「聞くつもりがあったんじゃないの」

 

 

 ロンが小声で毒づいたが、あの声量でやり合っていたらグリフィンドール寮生はだいたい聞いていただろう。それよりも、ハーマイオニーがちゃんと会話に割り込む際の挨拶を身につけたことがジュリアには喜ばしく思えた。もちろん、当人に伝えたら機嫌を損ねるだろうから口にはしないが。

 

 

「夜に出歩くなんて絶対だめ。捕まるに決まってるわ。捕まったら何点減点されるか考えてよ。なんて自分勝手なの」

 

「大きなお世話だよ」

 

「まったく……ジュリアからも何か言ってよ!」

 

 

 突然話を振られたので、ジュリアはトマトを頑張って飲み込んで――ジュリアはあの魔法生物の卵みたいな種部分が嫌いだ――、水を飲み干してから返事をした。

 

 

「男は殴り合って友情を深めるんだろ? そういうもんなんじゃねえの、あたし知らねえけど」

 

「いや、違うよ」

 

「もう、ジュリア!」

 

「はいはい、もう寮に戻っておやすみなさいしような。いい夜にしろよ、野郎ども」

 

 

 すっかりお怒りなご様子のハーマイオニーを連れて寮に向かいながら、ジュリアは一口でサンドイッチを頬張った。まずい。



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蛮勇と成り行きが深夜徘徊を生む

 パジャマの上からピンクのガウンを羽織り、談話室のひじかけ椅子でランプを抱えるハーマイオニー。その横顔を見ながら、この子もすっかり夜更かしに慣れたなあとジュリアは感慨に浸った。壁に寄りかかってローブの懐から真鍮の懐中時計を取り出す。時刻は十一時半。

 

 

「ジュリア、あなたどうしてローブなの?」

 

「パジャマ持ってねえし。めんどくさくていつもシャツで寝てんだ」

 

「ちゃんと着替えてるでしょうね」

 

「おいおい、信用ねえな。さすがに着替えてるさ」

 

 

 ハリーとロンが来ないので、すっかり雑談モードになってしまった。このまま夜更かしして、おねむになったハーマイオニーをベッドにお持ち帰りするのが理想的なのだが、そうもいかないようだ。

 

 男子寮のドアが静かに開いた。ハリーとロンだ。

 

 ジュリアは懐中時計を閉じると、ハーマイオニーに目配せをした。

 

 

「――ハリー、まさかあなたがこんなことするなんて」

 

 

 ハーマイオニーがしかめ面でランプを灯した。ジュリアには少々眩しい。しかし、ハリーとロンはこれでようやく気づいたようで、目をこらすと苛立ちの表情を浮かべた。

 

 

「また君か!」

 

「ジュリアもいるわ」

 

「あたしはそこのお姫さまの護衛だよ、気にすんな」

 

 

 ジュリアが影から身を現すと、ハリーとロンは肝を冷やしたように跳び上がった。この調子でトロフィー室まで辿り着けるのだろうかとジュリアは思わず笑った。場末の見世物小屋でもお漏らししそうな勢いだ。いや、もうちびっているかもしれない。

 

 

「本当はパーシーに言おうかと思ったのよ。監督生だから絶対に止めてくれるわ」

 

「お節介って言葉を知らないのかい、君は!」

 

「行こう、ロン」

 

 

 ハリーが「太った婦人の肖像画」を押し開け、ロンが後に続いた。これで二人は見事にマルフォイの罠にはまったことになる。

 

 しかし、ジュリアが驚いたのは、ハーマイオニーが後を追ったことだ。静かに怒鳴るという器用な真似をして二人を叱りつけながら、グリフィンドール塔を出ていってしまったのだ。

 

 男二人が冒険して、少し痛い目に遭って成長するのはいい。しかし、その行為に反発しているハーマイオニーが巻き込まれるのは可哀想だ。そう思って、ジュリアは自分も後を追うことにした。

 

 

「自分のことばっかり気にしてるのよあなたたち。私が変身術の授業でいただいた点数を、あなたたちがご破算にするの。わかる?」

 

「ほら、そのへんにしとけハーマイオニー。言っても聞かねえよ」

 

「はあ……いいわ、ちゃんと忠告しましたからね」

 

「足元に気をつけろよ、今日は木曜だ。6階の階段の上から8段目が悲鳴を上げる。んじゃ、いい夜を……」

 

 

 軽口を叩いて去ろうと思っていたジュリアの計画はご破算だった。中に戻ろうと後ろを向いたハーマイオニーが小さく悲鳴を上げる。肖像画は縁取りだけになっていた。つまり、寮への門は閉ざされた。ハーマイオニーとジュリアは意図せずグリフィンドール塔から締め出されたのだ。

 

 

「さあ、どうしてくれるの?」

 

 

 ジュリアは吹き出しそうになるのをこらえた。自分でついていって、さも巻き込まれましたと言わんばかりの態度だ。

 

 

「知ったことじゃないね。ハリー、行こう。遅れちゃうよ」

 

「あー……心配せずとも遅れるってことはまずねえだろうな」

 

 

 ジュリアだって好き好んで叱られたいわけではない。ベターな解決策は、ハリーとロンに状況を理解させて、太った婦人が帰ってくるのを待つというものだ。これならマクゴナガルに雷を落とされることも、たぶん、ない。

 

 

「マルフォイは罠をしかけた」

 

「トロフィー室に?」

 

「ロン、最後まで聞け馬鹿。いいか、自分が飯食ってたときに言ったことを思い出せ。マルフォイはハリーがどうすると思ってた?」

 

「あー……断ると思ってた。でも」

 

「最後まで聞けっつの。断れば恥をかかせる。だが乗ってくる可能性もある。あのお坊ちゃん、そこを考えねえほど馬鹿じゃねえぞ」

 

 

 ロンはイライラした様子で頭をかいた。

 

 

「だからなんだよ、決闘に来なかったら言いふらされて恥をかくじゃないか!」

 

「そこだ。おつむを使え坊や。お前らが行かないで、あいつらがそれを知って、なんて吹聴する?」

 

「知らないよ!」

 

 

 ハーマイオニーがはっと息を呑んだ。

 

 

「そうだわ……マルフォイは言いふらせない!」

 

「いい子だハーマイオニー。そう。『僕は深夜にトロフィー室で決闘をする約束をしてたのに、ポッターとウィーズリーは来なかったよ! とんだ腰抜けさ!』ってか? 自分から校則を破りましたって挨拶して回るわけだな?」

 

「あっ……」

 

「オーケー、わかったな? それじゃあ落ち着いて――」

 

 

 ジュリアがうまくいくと確信した矢先、黙って話を聞いていたハリーが口を開いた。

 

 

「でも、マルフォイは僕たちと同じくらい馬鹿かもしれない。ジュリア、君はマルフォイを買いかぶってるよ」

 

 

 どうやら、ロンもハリーの意見に同意らしかった。二人の目に蛮勇の火が灯る。こうなったらもう止められない。ジュリアはお手上げのポーズを取った。

 

 どうして「狡猾」が売りのスリザリンを狡猾さにおいて見くびることができるのだろうか。それはもちろん、あのミニトロールペアだっているが、全員の脳みそがのんびりしているわけでもない。しかし、今は考えても無駄だ。

 

 

「はいはい、そうだな、今のは全部あたしの想像だ想像。確かめにいきゃいいさ、好きにしな」

 

「ジュリア、一緒に行くわよ」

 

「……なんて?」

 

 

 ジュリアは耳を疑った。

 

 

「一緒に行くの。それで、フィルチに見つかったら全部本当のことを話す。二人はマルフォイにはめられた。私たちは二人を止めようとした。いい、あなたたち証人になりなさいよね。自首するのよ」

 

「君さあ、どうかしてるぜ」

 

 

 ロンが声を荒らげたとき、暗闇の中で何かが動いた。

 

 

「静かに」

 

 

 ハリーも気づいたようで、震えた手で杖を抜く。

 

 

「何かいるね」

 

「まさか、ミセス・ノリス?」

 

「あの猫だったらあたしが匂いで気づいてるっつの。あれは……ロングボトムか」

 

 

 床で寝息を立てていたロングボトムの尻をジュリアは蹴っ飛ばした。

 

 

「痛い!」

 

「おい馬鹿。ここでなにしてんだ馬鹿。ここはベッドじゃねえぞ馬鹿」

 

「違うんだよお、医務室から帰ってきたんだけど、新しい合言葉を忘れちゃったんだ」

 

「気付け薬が効かなかったの? 怪我してた?」

 

 

 ハリーの問いかけに、ネビルは首を横に振った。

 

 

「ううん、気付け薬は効いたんだけど、効きすぎちゃって」

 

「気付け薬が効きすぎるってなんだよ」

 

「幸せな気分になって、視界がきらきらして――」

 

「オーケー、お前がアッパー系のヤクキメてきたのはわかった」

 

「おい、君ら」

 

 

 ロンがおんぼろの腕時計を指さして、ジュリアとハーマイオニー、ついでにネビルを睨んだ。

 

 

「君らのせいで僕たちが捕まったり、馬鹿にされることがあったら、僕が『悪霊の呪い』を覚えて君らにかけるまで許さないぞ、絶対だ」

 

「行こう、ロン」

 

「そんな、置いてかないでよ!」

 

「シーッ。ネビル、僕たちは行かなきゃいけないんだ。ついてくるなら静かにね」

 

「ロングボトムまで連れてくのかよ、完全に被害者だぜこいつ」

 

「ジュリア、静かに」

 

 ジュリアは肩をすくめた。どうやら、このパーティーに参加して斥候をするのが今夜の任務らしい。



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想定内の結果と、想定外の帰り道

 トロフィー室は4階にある。とはいえ、抜け道を使えばそこまで長い道のりではない。6階の階段に気をつけて、警備鎧の視界をくぐり抜けて、タペストリーの裏にある滑り台を下れば、あとはすぐだ。

 

 いちいちロングボトムが悲鳴を上げそうになるので、ジュリアは何度舌縛りの呪いをかけてやろうかと思ったかわからない。

 

 もしロングボトムが絶叫したとしよう。ゴーストに見つかる。それはセーフ。絵画に見つかる。それもまあセーフ。ピーブズに見つかる。おそらくアウト。フィルチやミセス・ノリスに見つかる。完全にアウト。

 

 ゴーストは特有の微かな浮遊音を出しているし、フィルチやミセス・ノリスは匂いがあるから、ジュリアが警戒していればなんとかならないでもない。ハリーもなかなか気配に鋭いからカバーが利く。

 

 問題はピーブズだ。自分の音を消すことができるし、匂いもない。そして生徒が一番嫌がることがなんなのかよく理解している。ピーブズに遭遇するか、ロングボトムが叫んで呼び寄せたら、そこでゲームオーバーだ。

 

 しかし、運よく5人はトロフィー室まで辿り着いた。案の定、マルフォイはいない。

 

 

「よし、いないな、確認したな、戻るぞ馬鹿」

 

「待って。まだ時間が残ってる……それに、怖じ気づいて遅れてるのかもしれない」

 

 

 ジュリアは汚い言葉を吐き捨てると、ガラス棚の影にもたれかかった。窓から月の光が差し込んで、カップや盾、像などを暗闇の中で金銀の輝きに変えている。寮杯やクィディッチ・カップも飾られていた。どちらも緑と銀の帯――スリザリンのものだ。グリフィンドール寮生がこの調子じゃ当然だろうよ、とジュリアは内心でまた汚い言葉を吐いた。

 

 そのとき突然、隣の部屋にフィルチとミセス・ノリスの気配が現われた。

 

 ジュリアの思考が加速する。匂いは間違いなくフィルチとミセス・ノリスだ。校内で姿あらわしはできないし、そもそもできれば検挙率はもっと上がっている。だとしたらなぜ。あらかじめ告げ口されているのは予想できていた。しかし、現れ方がわからない。とにかく、隠し通路でも隠し扉でも使って避難を――そうか、隠し通路。

 

 考えてみれば当たり前だった。トロフィー室にあるのは貴重品。貴重品を管理するのは管理人。管理人室から直通のルートがあってもおかしくない。迂闊。迂闊極まる行動だ。ジュリアは頭が煮えそうな思いで奥歯をかみしめた。

 

 ジュリアは反対側のドアを静かに開けると、ハンドサインで外に出るよう促した。

 

 

「いい子だ、しっかり嗅ぐんだぞ。どこかこのへんにいるはずだ……隠れているに違いない………」

 

 

 フィルチのしゃがれた声を背に、5人はおっかなびっくりトロフィー室を脱出した。鎧の並ぶ回廊を黙って進む。フィルチの足音が近づいてくる。

 

 ミセス・ノリスが鳴いた。

 

「ひ、ひいっ! ひいいっ!」

 

 

 ロングボトムが恐怖のあまりとうとう悲鳴を上げ、最後尾から走り出した。そしてなにもないところでつまづき、ロンの腰に抱きついて、二人揃って年代物の鎧に飛び込むはめになった。

 

 ジュリアの耳が一瞬麻痺した。ホグワーツ中に響いたのではないかというくらいの騒音。

 

 

「走れ!」

 

「逃げろ!」

 

 

 ジュリアとハリーの声が重なった。

 

 振り向く余裕はなかった。回廊を抜けるため、ドアを通り、廊下を走り、タペストリーを潜り……ジュリアの嗅覚が追跡者を撒いたと判断したところで、ハリーが声を上げた。額から汗が滴っている。

 

 

「ここ、呪文学の教室前だ。だいぶ離れたし、撒いたかな」

 

「少なくとも今のところはな。このへんにあいつが知ってる隠し通路がなきゃいいんだが」

 

 

 ハーマイオニーは胸を押さえて、呼吸もままならない様子でなお文句を言い立てた。

 

 

「だから……そう、言ったじゃない。はめられたのよ」

 

 

 ハリーもロンも返事をしなかった。認めてはいたが、それを表明することはできないのだろう。

 

 

「寮に戻ろう」

 

 

 今回ばかりはロンの提案に賛成だった。ロングボトムがいることを確認して、ハーマイオニーが呼吸を整えたのを確認して、ジュリアは階段へと向かい――教室のドアから”それ”が飛び出してきた。

 

 

「ハッハー! 真夜中にフラフラしてるのかい、1年生ちゃんたち」

 

 

 弱り目に祟り目。ピーブズはケラケラ笑っている。最悪の遭遇だ。ジュリアはホルスターに指を伸ばした。ポルターガイストにも効果がある呪文はある。問題は、間に合うかどうか――

 

 

「生徒がベッドから抜け出した! 「呪文学」教室の前にいるぞ!」

 

「ラングロック、舌縛り」

 

 

 ピーブズは間抜けな声を上げて口に手を突っ込んだ。どちらにせよお互い手遅れだ。こちらは場所がばれた。ピーブズは呪いが解けるまで喋ることができない。

 

 ハリーが全速力で走り出し、残る全員が後に続いた。闇雲に曲がり、そして辿り着いた先は廊下の突き当たり、ドアが一つ。鍵がかかっている。

 

 

「おしまいだ!」

 

 

 ロンが情けない声で呻くのを無視して、ジュリアは声を上げた。

 

 

「ハーマイオニー、頼む」

 

「任せて。アロホモラ!」

 

 

 解錠音とともにドアが開いた。5人はその先に雪崩れ込み、ロンが急いでドアを閉めた。全員沈黙している。またフィルチの足音だ。

 

 

「どっちに行った。早く言え、ピーブズ」

 

「んあー、んあー!」

 

「喚いてないで早く言え!」

 

「んあー!」

 

 

 フィルチが怒り狂ってランプを叩きつける音がした。足音が遠のいていく……。

 

 

「フィルチはこのドアに鍵がかかってると思ってる、もうオーケーだ……」

 

「なにも、オーケーじゃねえよ、間抜け!」

 

 

 ジュリアはあまりに異様な獣臭さに振り返ると、ホルスターから杖を抜いた。

 

 

「ルーモス!」

 

 

 弱々しい光に照らされた先は、部屋ではなく廊下だった。闇雲に駆け抜けてきたので、正確な位置はわからない。しかし、目の前に映し出された光景が、「ここは4階の右側の廊下」という標識以上に現在地を示していた。

 

 床から天井まで、黒い毛皮が埋め尽くしている。三対の血走った目が侵入者を睨み付け、三つの口が黄ばんだ牙を剥き出しにして唸りを上げていた。三頭犬だ。そのあまりに危険な魔法生物の口からは唾液がとめどなく流れ落ちて、巨体を乗せた金属製のハッチを濡らし、杖からの光を反射していた。

 

 もう限界だ。ジュリアはドアを蹴破ると、ハーマイオニーを掴んで扉から飛び出した。後から3人の足音が聞こえる。そして、3人を追って3つの首が迫っている。

 

 

「全員出たか!」

 

「うん!」

 

 

 ハリーの返事を信じて、ジュリアは後ろ手に杖を向けた。狙うのは足音と足音の間だ。

 

 

「イモビラス! コロポータス!」

 

 

 どちらかが当たればいい。止められればひとまず逃げることはできる。できれば後者だ。しかし、ジュリアはこういう日用的な、あるいは応用的な呪文が得意ではなかった。ひたすら祈る。天にましますファッキンゴッド。

 

 粘着質な音がして、ドアが”閉鎖”されたとわかった。

 

 

「よし勝った! 走れ走れ走れ!」

 

 

 今度はジュリアが先導して、把握している限りの最短ルートで駆け抜けた。息切れしはじめたハーマイオニーとまた転びそうなロングボトムを抱えて、ハリーたちがついてこれる最大限の速度を出した。本棚を蹴り飛ばし、ドアを蹴り飛ばし、タペストリーを突っ切った。

 

 そして、ようやく7階だ。

 

 太った婦人は肖像画に帰ってきていた。

 

 

「まあ、こんな時間にいったい――」

 

「豚の鼻! 開けろ阿婆擦れ!」

 

「なんて失礼な」

 

 

 ジュリアを糾弾しながら開いていく肖像画の隙間を潜り抜け、談話室に誰の気配もないことを確認して、ジュリアはロングボトムをソファに放りこみ、ハーマイオニーをひじかけ椅子に置くと、カウチに倒れ込んだ。全員が呼吸も絶え絶えで、口がきけるようになるには時間が必要だった。特にロングボトムには人一倍の時間が必要だろう。気絶していないのが不思議なくらいだ。

 

 

「あんな……あんな化け物を学校に置いておくなんて、何を考えてるんだ!」

 

 

 ロンがぜえぜえ言いながら悪態をついた。ジュリアも是非”飼い主”の意見を拝聴したい気持ちだったが、それを口にする前にハーマイオニーが怒りを露わにした。落ち着いた場所に戻ってきて、2人への怒りが再燃したらしい。

 

 

「あなたたち何を見てたの? あの犬が何の上に立ってたと思う?」

 

「床でしょ、床。頭が3つもあったんだよ、足元まで見てられないよ」

 

 

 ハリーの回答はハーマイオニーのお気に召さなかったと見えて、露骨に鼻を鳴らした。ロンがうんざりした声を上げたが、無視だ。ロングボトムがひいひい言っているが、それも無視だ。

 

 

「仕掛け扉の上よ。きっとあの廊下の番犬なんだわ。あなたたち、これで満足? 殺されてたかもしれないのよ? もっと悪ければ退学だったかも。ジュリア、行きましょ」

 

 

 どうやら死よりも退学が恐ろしい人物が身近にいたようだ。あるいは錯乱しているのかもしれないが。ジュリアはハーマイオニーが置き去りにしたガウンとランプを回収して、唖然としているロンに肩をすくめてみせると、ハリーに目を向けた。ハリーはこの大冒険が終わった直後にもかかわらず、何か思案にふけっているようだ。ジュリアには彼の考えを汲み取る余裕はなかったが、一言だけ残していくことにした。

 

 

「三頭犬が気になるのか」

 

「うん……」

 

「マグルはケルベロスっつうんだったか。とにかく、あれについて知りたきゃオルフェウスの冥界下りを読むんだな」

 

「ジュリアは知ってるの、あれが何だか」

 

「バイト先で立ち読みした程度に。んじゃ、今度こそ失礼するぜ」

 

 

 ハリーは何かを考え込んでいた。しばらく立ち上がる気配はなさそうだ。ジュリアはホルスターに杖をしまって、ランプの明かりを消すと、女子寮の扉を押した。今夜は月見の余裕はない。



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重力に逆らう、マグル驚愕の魔法力学

 幸運なことに、まだあの”大冒険”は教員たちに気づかれていないか、少なくとも罰せられる予定はないらしかった。それどころか、ハリーとロンはあの晩の出来事を文字どおり冒険だったと思っているらしい。三頭犬が何の番犬なのか、熱に浮かされた様子で熱く語り合っていた。

 

 ハリーはどうやら仕掛け扉の下に何が隠されているのか、少しだけ心当たりがあるような、そんなことをロンに話していた。しかし、ハーマイオニーが断固として2人に近づこうとしないのと、ジュリアも進んで友人を”命の危機”に晒すつもりがなかったのとで、話を聞く機会がないまま時が過ぎていった。2人の態度が気に食わなかったという理由も多少はある。

 

 一週間ほど経って、ハリーのもとにやたら大きな細長い包みが、コノハズクの6羽編成で届けられた。少し離れた席までロンの歓声が聞こえる。どうやらマクゴナガルは本当に校則を無視してハリーをクィディッチ選手にするらしい。ジュリアは呆れて笑いをこぼした。

 

 

「ジュリア……あれ、何が届いたの?」

 

「箒」

 

「1年生は禁止のはずだわ」

 

「マクゴナガルもお優しい人間ってことさ。あーあ、優しいついでにあたしの奨学金も返済チャラにしてくれねえかな」

 

 

 ジュリアは頬杖をついて、ハーマイオニーに押しつけられた野菜オムレツをつついた。あまり隣は見たくない。小さな”オニ”が降臨しているのは考えるまでもないことだ。ジュリアの耳が、マルフォイをうまくやりこめて笑いあうハリーとロンの声を拾った。

 

 

「マルフォイのおかげで買っていただきました、だとよ。マルフォイ、あたしの学費も肩代わりしてくんねえかな」

 

「なにそれ」

 

「ほら、飛行術の時のガラス玉事件」

 

「じゃああの人たち、校則を破ってご褒美をもらったと思ってるわけね。しかもそれで人をからかって。最低だわ」

 

「かっかしてると飯がまずくなるぞ。ほれ、オムレツお食べよ」

 

「だめ、食べなさい」

 

 

 怒っているのか冷静なのかわからない。ジュリアはやむを得ずオムレツに噛みついた。ほうれん草が歯に挟まったような気がして、ますますうんざりした。

 

 それからというもの、ハーマイオニーはハリーとロンを完全に無視しているし、ハリーとロンはそれが快適だと思っているようだし、面倒なことになった。ジュリアは1人でいるときなら多少はハリーとロンに声をかけることができる。しかし、ハーマイオニーが一緒にいるときは近づくだけで責めるような目で見てくるので、結局ハーマイオニーとばかり行動するようになった。

 

 解決策を考えようにも、ジュリアは集団生活における人間関係のこじれなんて扱ったことがない。いつも短い付き合いのご近所さんと上司と「お友達」の中でうまく立ち回る処世術だけを活用してきた。初めての板挟みだ。おまけに宿題、不定期で襲い来るスネイプのレポート、時折つまづく呪文学やなかなか上達しない変身術もある。

 

 ハーマイオニーの苛立ちは次第に表面化して、周囲も彼女を避けるようになった。対応を誤るとジュリアに対しても声を荒らげることがある。しかし、ここで離れても1人と1人ができるだけだ。ジュリアはより適切な対応を心がけた。

 

 そうこうしているうちに、ハロウィーンがやってきた。早朝からパンプキンパイを仕込む香りで目覚めたジュリアは、ハーマイオニーのベッドの隣にスツールを引き寄せて、彼女が起きるのを待った。健やかな寝顔だ。黙っていれば可愛い。もちろん、起きている間のハーマイオニーが十分に魅力的なことはジュリアも承知していたが、ここしばらくは寝ている間のほうが素敵に感じることもあった。

 

 その日の午前中は「呪文学」の授業だった。フリットウィックの指導は丁寧かつ的確だが、古い教科書で「妖精の魔法」と分類されているような、日用的だったり、応用的だったり、悪戯的だったり、手でやったほうが早かったり、そういった魔法に関しては、飛行術と並んでジュリアの弱点科目と言える。

 

 

「今日は物を飛ばす練習をしましょう。さあ、手首の動かし方は覚えていますね?」

 

 

 フリットウィックはランダムに2人組を組ませていく。ジュリアはロングボトムと組むことになって、泣きそうなロングボトムに「呪文学苦手組だな。まあ頑張ってみようぜ」と笑いかけたが、ロングボトムはますます泣きそうになった。何がいけないってんだ、と胸の中で口汚く罵る。

 

 ハーマイオニーのほうを見ると、なんとロンと組まされていた。すでにお互い苛立ちを隠せないでいる。これは一波乱ありそうだ。

 

 

「呪文も正確に。ウィンガーディアム・レヴィオーサですよ! さあ、始めてください」

 

 

 ジュリアは何度か羽に向かって呪文を唱えてみたが、うまくいっても少し浮いて揺れながら落ちてくるだけだった。これは期末試験が危ういかもしれない。ロングボトムに至っては羽が動きすらしない。せめて実力のある相手と組むことができれば学びもあったかもしれないが、これでは落ちこぼれと落ちこぼれがもっと落ちこぼれになるだけだ。教育システムに問題がある。ジュリアは現実逃避を始めた。

 

 

「――呪文が間違ってるわ。レヴィ・オー・サ。あなたのはレヴィ・オサー」

 

「そんなに得意ならやってみろよ! さあどうぞ!」

 

 

 ハーマイオニーはローブの袖をたくし上げて白い細腕を出すと、滑らかな手首の動きで杖を振った。

 

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」

 

 

 ふわりと羽が浮かび上がり、静止する。見事な浮遊呪文だった。マグルの物理学者を連れてきたらひっくり返るだろう。それとも、魔法力学という新しい科学に落とし込むのだろうか。どちらにせよ、ジュリアが理解するにはまだ経験と知識が不足していた。

 

 

「皆さん、グレンジャーさんがやりましたぞ! グリフィンドールに5点差し上げましょう!」

 

 

 ジュリアも加点を狙って小さく唱えてみたが、どうにも半端だった。



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毛皮を脱ぐとき

 ハーマイオニーはフリットウィックに質問があるというので、先に彼女の荷物を持って教室を出た。最近、彼女の世話を焼くのが習慣になりつつある。そのくせしてハーマイオニーは何かと苛立っているから、うまく接するのに苦労していた。

 

 ジュリアは考える。なぜハーマイオニーに付き合い続けるのか。つまり、この労力を割く価値はあるのか。世話がかかり、お節介で、謎の正義感を持ち、おまけに反抗期だ。いや、反抗期というものはもう少し後にくるのではなかっただろうか。ジュリアは育児に興味を持ったことがないのでわからないが、反抗期の娘を持った母親というのはこんな生活なのだろうか、などと想像してみた。

 

 入学初日に”ママ”と呼ばれたことを思い出す。不思議な気分だった。

 

 そんなことをとりとめもなく頭の中で流しているうちに、人ごみの中で見慣れた2人の背中が視界に入った。ハリーとロンだ。久しぶりに声をかけようと思った矢先、2人の会話が聞こえてしまった。

 

 

「――あいつには本当に我慢できないよ、誰だってそうさ。悪夢みたいなやつだ。お付きをやってるジュリアの気が知れないね」

 

 

 ジュリアは無性に腹が立って、一発叩き込んでやるかとホルスターに手をかけた。衝撃呪文で脳天をぶち抜く。それで体勢が崩れたところを蹴り飛ばす。よし、それでいこう。

 

 しかし、親しんだ匂いが駆け足でジュリアを追い抜いていった。癖のある跳ねた茶色の髪がどこか萎んでいる。鼻をすする音が聞こえた。聞こえてしまった。

 

 ハーマイオニーはハリーにぶつかって、振り向きもせずに追い越していった。

 

 

「聞こえたみたい」

 

「それがどうした? あいつに友だちがいないことはあいつが一番わかってるだろうさ」

 

 

 ジュリアはすっと意識が冴え渡るのを感じた。人ごみが邪魔だが、この程度の障害はさしたる問題ではない。抜く、構える、撃つ。それだけだ。

 

 青い閃光が赤毛の脳天を貫き、盛大に転ぶのを確認した。欄干を足場にして人ごみを回避し、駆け抜けて、着地する。

 

 

「痛、くそっ、いったいなんだっていうんだ!」

 

「ロナルド・ウィーズリー」

 

 

 立ち上がろうとした背中を蹴り飛ばす。

 

 

「今は急いでるからこれぐらいにしといてやるよ、くそったれ」

 

「ジュリア? 待って」

 

「悪いなハリー、あたしは”友だち”のハーマイオニーに荷物を持ってくんだよ」

 

 

 感情に振り回されて無駄な時間を使ってしまった。ジュリアはホルスターに杖を戻す。もうハーマイオニーの姿はないが、匂いは覚えている。ジュリアは隙間を縫うようにして駆けだした。

 

 3階、2階、1階。広間を通り過ぎて、廊下を進み、女子トイレへ。

 

 一番奥の個室から、すすり泣く声が聞こえた。

 

 

「……ハーマイオニー」

 

「なんで、いるのよ」

 

「追いかけてきた」

 

「……ほっといて。好きなところに行けばいいでしょ。あなたは私の、お付きなんかじゃないんだから」

 

 

 これは重症だ。ジュリアはハーマイオニーの性格からいくつかのパターンを想定し、最善と思われるものを選び、うまく宥めようとして――マクゴナガルとの会話を思い出した。

 

 計算と理屈でしか人付き合いができない。

 

 ジュリアは考えあぐねて、こんがらがって、ようやくすべての思考を捨て去った。

 

 

「確かにあたしはお前のお付きじゃねえな」

 

「そうよ……ほら、どっか行きなさいよ!」

 

「なあ、ハーマイオニー。こんな話を知ってるか」

 

 

 ジュリアは今、思いつくままに喋っている。計算もしていない。理屈も使っていない。浮かんだ言葉をそのまま投げている気分だ。

 

 

「初対面の人間が2人いる。一方がパーソナルデータを開示する。もう一方は会話を続けるために質問をするか、自分もパーソナルデータを開示しなくてはいけなくなる。その繰り返しがお互いのパーソナルデータを共有させ、信頼関係を構築する」

 

「……理屈は、わかるわ」

 

「あたしがホグワーツ行特急のコンパートメントでハリーとロンを誘導して使わせた手法だ。結果としてあいつらは仲良しこよししてる」

 

 

 ハーマイオニーは沈黙していた。考えているのか、聞いていないのか。ジュリアの口は勝手に続きを語りはじめる。

 

 

「こんなのもある。新しい環境に一人の人間を放り込む。出身、言動の観察、数回の会話からその環境に対するおおよその期待と不安を把握する。環境が期待以上のものであると示し、不安に対しては理解と支援を行ってみせる。自然とそこには信頼が生まれる」

 

「……そうね」

 

「あたしが入学初日にお前に対して使った手法だ」

 

 

 ひゅっ、と息を呑む音がした。

 

 理解したのだろう。理解してしまったのだろう。自分が抱いている信頼は意図的に構築されたものだと。ジュリアは胸が締め付けられるような思いだった。それでも口は動き続けた。

 

 

「実験と観察、計算と理屈、パターン化と実証。母さんの知恵袋ってやつだ。あたしはそういう生き物として調教された。そうでもしなきゃあたしは生きていけねえってことを、母さんはわかってた。……あたしが生まれついての半端者、人狼の呪いを部分的に受け継いだくそったれな犬っころだからだ」

 

 

 返事はない。もう返事はないのかもしれないと思いながら、それでもジュリアは話すことをやめなかった。

 

 

「あたしは半分浮浪者みてえに育った。短期間のバイトを転々とし、正体がばれる前に母さんとイギリス中を飛んで回った。死んだ父さんを母さんが追いかけてからは本当にストリートチルドレンだった。想像できるか? ホグワーツの入学許可証が届く前は、寂れた農村の牧草で寝泊まりして、ネズミ食って生きてたんだぜ?」

 

 

 もう、自分で自分が何を言っているのかわからなくなってきた。

 

 

「友達だって言えるようなやつはいなかった。ホグワーツに入っても無理だろうなと思ってたし、学歴だけもらってさっさと卒業しようと思ってた。だけど、だけどよ……お前がいたんだ」

 

 

 頭が回らない。視界がぼやける。

 

 

「嵐みたいなやつだって最初は思ってた。でも、気まぐれで褒めたらはにかんでくれた。あたしの牙を見て心配してくれた。ほとんど初対面なのに、あたしに頼って、任せてくれた。あたしを本気で叱ってくれた。あたしの考えをぶち壊して、振り回してくれた。あたしの魔法の練習にとことん付き合ってくれた。あたしのそばにいてくれた。あたしは、あたしはさ」

 

 

 もう何もわからなかったが、ジュリアはすべての感情をぶちまけるように、声をこぼした。

 

 

「あんたが、好きだよ。ハーマイオニー」

 

 

 もう言えることは何もない。無言だろうと、罵声だろうと、なんでもいい。これを終わらせてほしかった。しかし、終わりにしたくなかった。ジュリアは目を閉じて、俯いて、震えていた。握りしめた拳に爪が食い込んで血が滲む。

 

 個室のドアが軋んで開くのが聞こえた。

 

 

「――無愛想で態度の悪い人だなって最初は思ってた。でも……でも、マグル生まれで、みんなに追いつかなきゃ、小学校のときみたいに一番にならなきゃって焦ってた私を落ち着かせてくれた。私に魔法を使うタイミングをくれて、それをちゃんと評価してくれた。グループに溶け込めなくて緊張してた私をマイペースなジョークで和ませてくれた。生意気でお節介な私を甘えさせてくれた。ホグワーツが楽しいところだって教えてくれた。どんな無茶を言って後悔しても、笑ってついてきてくれた。私の魔法を何度でも褒めてくれた。私のそばにいてくれた」

 

 

 本と埃とシャンプーの匂いがする。大好きな香りが、ジュリアを包み込んでいた。

 

 

「私も、好き。好きよ、ジュリア」

 

 

 ジュリアは壊れ物を扱うように、そっと、そっとハーマイオニーを抱き返した。

 

 

「あたし、あんたの友達か?」

 

「違うわ、親友。私はジュリアの友達?」

 

「いや、親友だ。……うん、親友だ」

 

 

 ジュリアがハーマイオニーを抱き上げると、ハーマイオニーは力を込めてジュリアにくっついてきた。それが愛おしくて、ジュリアはハーマイオニーに頬ずりした。

 

 

「ジュリア、泣きすぎ」

 

「だって」

 

「ほら、ハンカチ貸してあげるから」

 

「おう……ありがと」

 

 

 ジュリアはハーマイオニーのハンカチで涙を拭き取って、それから濡れていない部分でハーマイオニーの目元を拭った。ハーマイオニーはこそばゆそうにしていたが、されるがままだった。

 

 ジュリアは洗って返すと言ったが、ハーマイオニーは気にせずハンカチを受け取って畳みなおした。

 

 

「私、もう少しパーソナルデータの開示を要求したいんだけど」

 

「なんでも聞けよ」

 

「そうね、目下一番気になるのは人狼の呪いを受け継いだってところかしら。あれは個人から個人への感染性の闇の魔術で、遺伝するものではないって闇の魔術に対する防衛術の参考書で読んだ気がするのよね。だから、ジュリアは非常に特殊な事例だと思うの。それで、現出してる性質に関してなんだけど」

 

「どうどう、今度母さんのノートと聖マンゴのカルテのコピー持ってきてやるから。だいぶ疲れちまった、頭回んねえ……」

 

 

 久しぶりに嵐のようなハーマイオニーと遭遇して、ジュリアは苦笑した。すっかり元通りのようだ。

 

 その時、ジュリアの嗅覚が腐った雑巾のような汚臭を感知した。

 

 

「ハーマイオニー」

 

「なに、私にも何か聞きたい?」

 

「あたしの後ろに。何か来る」

 

 

 振動が近づいてくる。何かを引きずる音も。

 

 このトイレは突き当たりだ。飛び出て廊下で相手を見るべきか、それともここで籠城するべきか。

 

 ハーマイオニーも近づいてくる存在を感じ取ったようで、震える手でジュリアのローブの裾を掴んだ。

 

 ジュリアとて実戦経験があるわけではない。緊急時の判断に慣れているとは言い難い。それでも、素早く思考を再度回転させて、ハーマイオニーの安全のために籠城を選んだ。迫り来る何かが引き返す可能性にも少しは期待している。

 

 しかし、おそらくこれは悪手だった。

 

 

「トロール……」

 

 

 ハーマイオニーが恐怖に目を見開きながら呟いた。大正解だ。灰色の巨体が、長い腕に棍棒をずり下げて、女子トイレの入り口に立ちはだかった。



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猛る、吼える、護る

 ジュリアはできるだけ口で呼吸しながら、女子トイレに押し入ったトロールを睨みつけていた。トロールの退治方法なんてものは教わっていない。そもそもトロールはそのあたりに徘徊しているような隣人ではないからだ。

 

 

「あたしが隙を作る。右側の洗面台に隠れて脱出しろ」

 

「ジュリアはどうするのよ!」

 

「汚えトロールなんかに噛みつくのは気が向かねえな。魔法でなんとかするか」

 

 

 ホルスターから杖を抜く。有効な呪文を思い出せ。思考しろ、ジュリア・マリアット。ジュリアは奥歯を噛みしめた。

 

 

「無理よ、今度こそ死んじゃうわ!」

 

「一人は生き残る。そうすりゃ助けが呼べる。そしたらもう一人も生き残る。ほら、イージーなゲームだ」

 

 

 そう嘯きながらも、手が汗ばんできたのをジュリアは感じていた。これが命がけ。これが、戦い。

 

 その途端、杖からどっと熱が入り込んできて、ジュリアの心臓は跳ね上がった。熱は指先までまんべんなく広がり、脳天まで突き抜けて、全身を包み込む。杖がジュリアを促していた。

 

 オリバンダー老人の言葉を思い出す。この杖の本質は闘争。

 

 

「オーケー、やってやろうじゃねえか」

 

 

 ジュリアは牙を剥きだしにして笑うと、勢いよく手首を返し、トロールの小さな頭にとびきりの衝撃呪文を叩き込んだ。

 

 

「おら、来いよデカブツ。あたしはここだ!」

 

 

 左斜め前へ二歩。半身を個室の壁に隠すような姿勢。これでハーマイオニーに棍棒は当たらない。

 

 もう一発青い閃光を放つ。トロールは唸り声を上げて棍棒を振りかぶり――

 

 

「プロテゴ!」

 

 

 ジュリアだけを残して、トイレの個室を粉砕した。

 

 プロテゴは所詮盾でしかない。怪力を叩きつけられたジュリアの右腕には相応の負荷がかかっている。ジュリアはそれを、人狼の膂力で凌いでいた。内心は冷や汗がだらだらだが、不敵に笑って挑発してみせる。

 

 ハーマイオニーが白磁の洗面台を潜ってゆっくりと出口に進んでいく。ジュリアはそれを横目に、杖を振り続けた。

 

 

「ディフィンド! そりゃ通らねえか。レダクト! だめだ、弱い。ステューピファイ! くっそ、分厚い面の皮しやがって、ファッキントロール。っと、プロテゴ! こっちだってガードは堅いんだ間抜け」

 

 

 ハーマイオニーはトイレの中ほどまで進んでいた。千日手というわけではない。スタミナでは圧倒的にジュリアが不利だ。しかし、少しの間だけこのまま拮抗状態が続くなら、倒せなくても負けはしない。負けないなら、援軍が来る。援軍が来るなら、勝ちだ。

 

 一瞬。そう、一瞬の慢心だった。

 

 トロールが唸りながら、棍棒を横薙ぎに振り払う。計算外の動き。左から、右へ。ジュリアからハーマイオニーへ。

 

 ジュリアに考える時間はほとんどなかった。咄嗟にジュリアはハーマイオニーの隣へ跳躍し、杖を傾けて無言で脆い盾を展開する。プロテゴは半球の盾を出力する。球は力を受け流す。つまり、軌道を変えられるはずだ。

 

 そして、砕けた盾ごと吹き飛ばされた。

 

 

「ジュリア! きゃあっ!」

 

 

 棍棒が洗面台を掠めて砕く音がした。ハーマイオニーの甲高い悲鳴が聞こえる。配水管から水が噴き出ている。頬が冷たい。

 

 ハーマイオニーに揺さぶられて、自分が倒れていることに気づいた。

 

 トロールが棍棒を振りかぶる。ジュリアは浅く息を吸って、吐き出した。ひどい臭いだ。

 

 口の中を切ったらしい。頭を起こして血の混じった唾を吐き捨てると、ジュリアは右手で杖を構えた。杖腕が折れなかったのは幸いだ。杖が無事なのも幸いだ。つまり、まだ運は切れていない。ジュリアは諦めていなかった。

 

 

「プロテゴ。……っつう、響くじゃねえか」

 

 

 ハーマイオニーに早く行けと促す。ジュリアに次の一発を押さえられる自信はなかった。だというのに、ハーマイオニーはジュリアに縋りついて、震える手で杖を構えている。

 

 

「ぷ、プロテゴ。プロテゴ。……プロテゴ!」

 

 

 何度唱えてもハーマイオニーの前に盾は現われない。盾の呪文には相応の集中、相応の鍛錬、相応の覚悟が要求される。今のハーマイオニーにはどれも不足しているだろう。ジュリアは”もう一度”が成功することに期待して、杖を握りしめる。

 

 その時だった。

 

 見慣れた黒髪がトロールに飛びついて首を押さえ、もがき、何を思ったか鼻に杖を突き刺した。そして、痛みに暴れるトロールの、その手に握られた棍棒に向けて、

 

 

「――ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」

 

 

 浮遊呪文の光が走った。

 

 トロールの棍棒が宙に留まり、そして頭へと落下する。ノックアウトだ。白目を剥いて倒れるトロールの向こうに、見慣れた赤毛が立っていた。

 

 

「あーあ……見せ場、取られちまった」

 

 

 そこで、ジュリアの記憶は途絶えた。

 



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初めての医務室

 清潔なシーツと、消毒液と、ささやかに香る花の匂いが鼻をくすぐる。天井は白く、カーテンも白く、棚も白い。きっとここで白くないのは燭台の灯りだけだろう。潔癖を感じる空間だった。

 

 ジュリアは寝心地の悪い寝台の上で、光に右手をかざしてみた。動く。傷もない。腕には包帯が巻かれていたが、痛みはなかった。次は左手。こちらも動く。これといって異常は見当たらない。ホルスターは太ももに巻かれたままだ。両手をそれぞれの杖に伸ばし、抜き、構え、収める。良好。

 

 

「目が覚めて最初にとる行動が杖の確認とは、驚くべき冷静さじゃのう、ジュリア。まるでアラスター・ムーディのようじゃ」

 

 

 いつ現われたのかはわからなかったが、気配には気づいていた。隠す気もなかったのだろう。羊皮紙の匂いをかすかにまとった老人――アルバス・ダンブルドアがスツールに腰かけてジュリアを見ていた。寝顔を見られたのは少々癪だったが、そんな些細なことをぐちぐち言うよりも、気にすべきことがジュリアにはある。

 

 

「ハーマイオニーに怪我は」

 

「無事じゃよ。君は護りきった。まっこと、友情とは美しいものじゃ」

 

「そうか」

 

 

 ジュリアは上体を起こして、どこも痛まないことを確認してから、大きく背伸びをした。体の強張った感触から察するに、少なくとも丸一日は寝かされていたらしい。

 

 それから、ジュリアはダンブルドアを睨んだ。

 

 

「こういうの、監督責任っつうんじゃねえの」

 

「いかにも、君は聡明じゃな。ミス・グレンジャーと君を危険に晒してしまったのは、わしの監督責任と言えよう。すまなかった」

 

「……ってことは、ハリーとロンが危険に飛び込むのは想定内だったわけだ」

 

 

 ダンブルドアは何も答えず微笑んでいる。ジュリアは小さく舌打ちをした。

 

 母の言葉を思い出す。ダンブルドアの前で自分の本性を隠せる人間はいない。だから、ジュリアは取り繕うことなく、平然と悪態をつく。

 

 

「ファッキントロールはパンプキンパイのデリバリーには向かねえと思うがな。少なくともあたしのほうがいい仕事をする」

 

「そうじゃな、君にとって初めてのホグワーツで過ごす、友人とのハロウィーンを台無しにしてしまったことも詫びねばならん。君には頭が上がらんのう」

 

「……あんたには人狼の生徒を安全な場所に隔離する用意がある。そうスネイプ先生から聞いた。つうことは、父さんもその世話になったんだろ? その恩がある。だから、まあ……当分の厄介事はチャラにしといてやるよ。あたしに関してはな」

 

「ありがとう、ジュリア。君は実に愛情深い子じゃ」

 

 

 ダンブルドアは目をキラキラさせて、鷹揚に頷いた。そして、杖もなしに空中から水差しを取り出すと、グラスに注いで差し出した。ジュリアは小さく感謝の言葉を述べて、それを一気に飲みほす。口の中の傷も治っているようだ。

 

 魔法はすごい。傷を治す。水を生み出す。衝撃から身を守る。しかし、ジュリアにはまだ敵を打ち倒す魔法が不足していた。もし早々にトロールを片付けられれば、ハーマイオニーに怖い思いをさせずに済んだかもしれない。ジュリアは悔しかった。

 

 

「ディフィンドは表皮に傷をつけるだけだった。レダクトで砕けるほど棍棒はやわじゃなかった。頭を狙った失神呪文ですら今のあたしじゃトロールも倒せねえ」

 

「しかし、盾の呪文は見事に君とミス・グレンジャーを脅威から守った。知っておるかな、今は大人の魔法使いや魔女でも盾の呪文を使えない者が多いのじゃ。君は誇っていい」

 

「そんなんじゃねえよ」

 

 

 ジュリアはグラスを差し出して、水のおかわりをもらうと、また飲みほした。まだ戦いの熱が燻っているような気がしたのだ。水はよく冷えていて、少しレモンの風味がした。気が利いている。

 

 

「あんたには常に何かしらの考えがある。だからホグワーツで起こることに無意味なことは何もない。母さんの言葉だ」

 

「レイブンクローの才女で名を轟かせたミス・ムーアクロフトがそのようなことを言っていたとは、照れてしまうのう。耳が真っ赤になりそうじゃよ」

 

「だから、ひとまずあたしはあんたを信じてんだ、ダンブルドア。でも、信じる者がすくわれるのは足だけ。あたしはそういう世界も見てきた」

 

 

 ジュリアは寝台に体を戻すと、大きく息を吐いた。

 

 いつもジュリアの演奏に拍手してくれて、明日は賛美歌をとリクエストして、翌日に凍死していた浮浪者の老人。ジュリアがバイトで入ったばかりの酒屋で、長年勤めていた店員に売り上げを持ち逃げされ、酒浸りになった店長。ジュリアが店番していた本屋の常連で、いつか小説家になるのだと息巻いていて、詐欺の容疑で捕まったと報じられた青年。皆なにかを信じていた。しかし、力が足りなかった。

 

 

「ただ信じて空を仰ぐだけじゃだめだ。あたしには天に食らいつく力が必要なんだよ」

 

「ジュリア。今の君には十分すぎるほどの力と情熱がある。わしには眩しいくらいじゃ」

 

「その言葉は甘い蜜だ。あたしを絡め取って、固めて、止まらせちまう。……あたしは強くならなきゃいけねえんだ」

 

 

 ダンブルドアは相変わらず微笑んでいたが、瞳の奥には叡智と憂いが溢れんばかりに渦巻いている。この老人の考えはやはり少しもわからなかった。

 

 しばらく沈黙して、今度はダンブルドアから口を開いた。

 

 

「フリットウィック先生は昔、決闘クラブのチャンピオンじゃった」

 

「ほう」

 

「マクゴナガル先生も闇の勢力と戦った勇ましい魔女じゃ」

 

「それは想像つくな」

 

「スネイプ先生は学生のころから独自の呪文を開発し、しかもそれを実戦に投入した。おや、ここに上がった3人の先生方だけを見ても、君は指導者に恵まれておるのう」

 

 

 ダンブルドアは皺の寄った長い指でジュリアの頭を優しく撫でた。ジュリアは黙って受け入れる。悪くない心地だ。

 

 

「学ぶのじゃ、ジュリア。じっくりと、着実に。ホグワーツは学び舎なのだから」

 

「……いつか、あんたも教えてくれるか? グリンデルバルドと決闘した魔法戦士として」

 

 

 少し不躾なお願いだったかもしれない。いきなり最強の魔法使い、イギリスの英雄、魔法戦士隊長に指導を乞うというのは、他の先生たちを軽んじているように聞こえたのではないか。

 

 ジュリアはそう心配したが、ダンブルドアはお茶目にウィンクした。

 

 

「一歩一歩じゃよ、ジュリア。一段ずつ踏みしめていけば、きっと次の階に辿り着ける。もしくは階段をジャンプ台にすることもあるやもしれんがのう」

 

「いやー、お恥ずかしい限りっすね、はは」

 

 

 ダンブルドアは立ち上がると、座っていた紫のスツールをあっという間に消してしまった。

 

 

「その元気があれば、マダム・ポンフリーも面会を許可してくれるじゃろう。外で君の友人たちがお待ちかねじゃよ」

 

 

 ジュリアは医務室の外から聞こえる3人の話し声に耳をすませた。角の取れた口調のハーマイオニー、つっけんどんなところのなくなったロン、快活に話すハリー。3人の話題は一貫してジュリアのことで、なんだか恥ずかしくなった。

 

 ダンブルドアがひらひらとジュリアに手を振って、カーテンを捲り去っていく。3人が歓声を上げて駆け寄ってくるのがわかった。じきにマダム・ポンフリーが飛んできて叱りつけるだろう。それくらい賑やかだった。

 

 

「ったく、すっかり仲良しこよしになりやがって」

 

 

 危機的状況の共有と協働による親密度の上昇。そんな言葉が頭に浮かんだが、ジュリアはかぶりを振ってそれを打ち消した。3人は、いや、4人はそんな単純化された理屈で説明できる関係ではないのだ。

 

 ジュリアはハリーとロンにげんこつを落とす準備をしながら、思わず笑みをこぼした。



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クィディッチ・シーズン到来

 一気に寒波がやってきた。

 

 グリフィンドール寮はやたら浮かれている。クィディッチ・シーズンはいつもこうだとパーシーが眼鏡を光らせてぶつくさ言っていたが、なんだかんだでこの男もごきげんなのはジュリアもわかっていた。

 

 ジュリアはクィディッチをやりたいとは思わないし、それどころか箒に跨がりたいとも思わない。ハーマイオニーが『クィディッチ今昔』から仕入れた情報によれば、箒の柄にはモリアーレというクッション呪文がかけられているらしい。その呪文は有用そうだから練習するとして、乗り心地がいいとしてもあんな頼りない線分に身を委ねるのはごめんだった。

 

 とはいえ、ハリーが選手であることに変わりはないし、選手であるということはクィディッチ・シーズンの間多忙を極めることになるということになる。ロンもハーマイオニーも、もちろんジュリアもハリーをサポートした。ハーマイオニーはハリーとロンの宿題を手伝ったし、ロンはナショナルリーグのプロ選手がどんな技を駆使するか熱く語ってハリーを鼓舞したし、ジュリアはハリーが一番の苦手としている魔法薬学の手引きをした。

 

 

「ロン、私は確かにハリーをサポートするつもりだけど、だからってあなたに宿題の答案を丸写しさせるつもりはないわよ」

 

「そう言わずに頼むよハーマイオニー、魔法史と魔法薬学だけでいいから」

 

「今出てる課題全部じゃない。仕方ないわね、見てあげるだけよ?」

 

「ちょいとチョロすぎんぜハーマイオニー。魔法薬学はあたしに回しな、しっかり叩き込んでやる」

 

「うへえ」

 

 

 ロンが羊皮紙の束を机に投げ出して突っ伏すと、ジュリアとハーマイオニーは顔を見合わせてクスクス笑った。今頃ハリーは寒空を飛び回っているころだろうか。明日は彼のデビュー戦だった。キャプテンのオリバー・ウッドは相当なしごきをチームに課しているらしく、ハリーはいつもぐったりして帰ってくる。

 

 肖像画が動く音がして、寒さに震えるハリーが談話室の暖炉前に転がり込んだ。

 

 

「早かったな。死人でも出たか?」

 

「出るとしたら真っ先に僕だよ、ジュリア。明日に体力を残しておけって、連携の確認だけで終わったんだ」

 

「あのクィディッチ狂いにしちゃまともな判断だ」

 

 

 ハリーの顔が白いのはどうやら寒さだけのせいではなさそうだった。デビュー戦、しかも大役ともなれば緊張するだろう。スニッチを取れば150点入って試合終了。ほとんどの場合、勝利を意味する。つまり、ハリーの双肩には勝利の重荷がのしかかっているというわけだ。

 

 ハーマイオニーもハリーの様子に気づいたと見えて、ロンのために開いていた魔法史の参考書を閉じると、明るい声を上げた。

 

 

「次の授業まで時間あるし、ちょっと外に出ない?」

 

「賛成。頭が茹だりそうだよ」

 

「まだなんも勉強してねえだろお前。で、どこ行く?」

 

「中庭とかどうかしら」

 

 

 ようやく震えの収まったハリーがソファに倒れ込んで、足をぶらぶらさせた。何も考えたくないという様子だ。ハリーはクッションに顔を埋めたままくぐもった声を上げた。

 

 

「外、すっごく寒いよ。耳が取れるかと思った」

 

「そりゃ寒空を矢になって飛び回ってんだから耳も取れるだろうよ」

 

「取れてないよ」

 

「取れたらマダム・ポンフリーのところに行くのよ、ハリー。で、寒さ対策なんだけど、見てて」

 

 

 ハーマイオニーがいつぞやも使っていたランプを鞄から取り出した。魔法で火を灯すタイプのシンプルなものだ。

 

 とはいえ、ランプは暖になるとは言い難い。しかし、ハーマイオニーが杖を取り出したからには、何かを披露してくれるのだろうとジュリアは期待して待つことにした。

 

 

「ラカーナム・インフラマレイ!」

 

 

 ハーマイオニーの杖から鮮やかな空色の火が噴き出て、ランプいっぱいに詰め込まれた。ハーマイオニーがランプを閉じて軽く揺らすと、中で白混じりの空色が液体のように波打つ。

 

 ジュリアはそっと指先でつついてみて、十分な熱源になっていることを確認すると、ハーマイオニーに賞賛の拍手を送った。

 

 

「さすがだ、お見事。これは……面白いな。インセンディオとは性質が違うんだろ?」

 

「ありがとう。そうね、インセンディオは対象に魔力を向けて炎上させる魔法。この魔法は火をその空間に発生させる魔法。そんな感じかしら」

 

「なーる。火の性質はイメージで変化すんのか? それとも守護霊の呪文みたいに術者の性質に依存すんのか?」

 

「それに関しては私も『18世紀の魔法選集』を読んでみたんだけど――」

 

 

 ジュリアは続きに興味があったが、ロンが唸り声を上げて机を叩き、話の流れを切った。

 

 

「勘弁してくれよ、ただでさえ頭がグツグツしてるのに。それはあったかいんだろ? それでいいじゃないか。もう行こうよ」

 

「オーライ、出発だ。行こうぜハリー」

 

「僕……」

 

 

 久しぶりの重症だ。今回はどんな病名をつけようか。いや、単に緊張とだけ呼べばいいだろう。ジュリアが益体もないことを考えていると、ハリーが弱々しい呻き声を上げた。少し治療が必要だ。

 

 ジュリアはソファに歩み寄ると、クッションに埋もれたハリーの頭をがしがしとかき乱した。

 

 

「わぷっ、ジュリア?」

 

「一流の選手ってのはオンとオフを使い分けるもんだぜ」

 

「僕……僕、一流じゃない」

 

「これからなるんだろ? ほら、最初の飛行術を思い出してみろよ」

 

 

 ロンも同調するように明るい声で励ましはじめた。課題のことは記憶の隅に追いやったらしい。

 

 

「そうだよハリー、あの時の君、最高にイカしてた!」

 

「そうね、私もびっくりしたわ」

 

 

 ゆるゆるとクッションから顔を上げたハリーの瞳には、初めて空を飛んだときのあの自信と自尊心が帰ってきたようだった。ハリーはソファから起き上がって頬を叩くと、感謝するように微笑んだ。3人も微笑みを返した。

 

 中庭は風が通らないので、ランプに込めた火だけで十分暖まることができた。4人は体を寄せ合って色々なことを話した。ロンの兄がルーマニアでドラゴンを扱う仕事をしていること。マグルの歯科治療はドリルで歯を削ること。トロールとマルフォイに効きそうな呪いのこと。

 

 ハリーは楽しそうに喋り、聞き、笑っていた。『クィディッチ今昔』を大事そうに抱えていた。

 

 しかし、残念なことに――少なくとも、ハリーにとっては残念なことに、スネイプが廊下を歩いてきた。足を痛めているのか、片脚を引きずっている。血の匂いがした。加えて苛立っている。ジュリアは目配せして、スネイプに見つからないよう小さくなって身を寄せ合った。しかし、かえってそれが目についたようで、スネイプは声を荒らげた。

 

 

「そこでなにをしている。……ポッター、図書館の本は屋外に持ち出し禁止だ。我輩から返却しておく。グリフィンドール5点減点」

 

 

 ハリーは『クィディッチ今昔』を差し出した。減点を避けるためにできるだけ不快感を表情に出さないよう努力しているようだが、ハリーはあまりポーカーフェイスが上手くないようだ。

 

 

「マリアット、放課後に我輩の執務室まで来るように」

 

「うっす」

 

 

 スネイプが脚を庇いながら立ち去ると、口々に文句を言い始めた。

 

 

「絶対でっち上げだよ、校庭で本を読むときはどうするのさ」

 

「八つ当たりね。あの脚、どうしたのかしら」

 

「血の匂いがした。ありゃ結構な傷だろうな。それでいつも通りなんだから大したもんだ」

 

「ものすごく痛いといいよな。ジュリア、確かめてきてくれよ。でも、気をつけて」

 

「別にスネイプは人を食ったりしねえよ」

 

 

 そんなことを話しているうちに、授業の時間が近づいてきた。4人は寒気の忍び寄る廊下をランプで暖まりながら、次の教室へ向かった。



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狩るものと狩られるもの

 薄暗いスネイプの執務室で、ジュリアはホットチャイを啜っていた。ミルクと茶葉の甘い香りが鼻を抜け、香辛料が体を温めてくれる。やはり気の利く男だった。地下牢の奥にある執務室はいるだけで底冷えする。大鍋が火にかけられていればまだましなのだが、今日はなんの魔法薬も調合していないらしい。

 

 スネイプはしばらく黙ったまま、ガラス瓶に詰められた緑色の水薬を採点していた。

 

 

「縮み薬っすね。あ、それ出来が悪いな」

 

「左様。失敗の原因はわかるか、ジュリア・マリアット」

 

 

 手渡されたガラス瓶を揺らしてみる。僅かに濁り、半透明の沈殿物も確認できる。栓を抜いて匂いを確認すると、まずネズミの脾臓の悪臭が鼻をついた。素材の匂いが残っているということは、魔法薬として反応が不完全だったことを意味する。

 

 他の素材はしっかりと溶け合っているので、ネズミの脾臓を処理する際に問題が生じたのだろう。もう少し情報が欲しかった。

 

 

「ネズミの脾臓は乾燥させたもんを?」

 

「いや、解剖から行わせた」

 

「んー……血抜きはしたが、リンパ液まで頭が回らなかった。そんなとこっすかね」

 

 

 スネイプは感心したように眉を上げた。この男はジュリアが思っていたよりも表情が豊かだ。

 

 スネイプは栓をしなおしたガラス瓶を受け取って、レイブンクローの鷲と”3”の数字が焼き印された木製のラックに立てた。

 

 

「叡智を誇る寮の3年生が、グリフィンドールの1年生に劣るとはな」

 

「人それぞれっすよ。あたしも変身術と呪文学は詰まること多いっす」

 

「口調と態度もであろう。グレンジャーを見習いたまえ」

 

 

 今度はジュリアが感心する番だった。てっきりスネイプはハーマイオニーのことが嫌いだと思っていたのだ。

 

 いつぞや、歌も教えてくれた極東からの留学生が、暴徒と化したデモ隊のニュースを見ながら教えてくれた言葉がある。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。スネイプはハリーの父親を憎むあまり、グリフィンドール全体とそこに属するすべての寮生に悪意を向けている節があった。

 

 

「そこまで意外か」

 

「あー、まあ」

 

「真面目な生徒を嫌う教師はそう多くはない。あそこまで出しゃばりでお節介が過ぎると辟易するが」

 

 

 ジュリアはハーマイオニーの悪癖を思い出して、微妙な笑みを浮かべた。弁護のしようがない。スネイプはジュリアのぎこちない笑顔を鼻で笑うと、ガラス瓶を棚に片付けた。

 

 

「もっとも、アラスター・ムーディのような例もある。礼節を弁えずとも、実力と成績が伴うならば君には闇祓いの道が開けているだろう」

 

「闇祓いねえ」

 

「そのような進路を希望していると考えていたが」

 

 

 まさか進路相談が始まるとは思わなかった。ジュリアはチャイを飲みながら考える。なんだかんだでホグワーツには来ることができた。では、ホグワーツを卒業した後、どうなるのか。

 

 正直、あまり明るい未来はイメージできなかった。

 

 

「あたしみたいな犬っころを魔法省が雇ってくれるとは思えねえんすよね」

 

「……人狼に対する偏見が存在しているのは事実だ。人狼に噛まれ、治療が間に合わず退職する闇祓いがいることも、また事実だ」

 

「期待させて落とすのはたちが悪いっすよ、先生」

 

 

 スネイプも一口チャイを飲んだ。この男が甘いものを飲むということがジュリアには意外だったが、ご多分に漏れずこのチャイもおいしく淹れられていた。いや、チャイは煮出すのだったか。

 

 ややあって、スネイプが静かに口を開いた。

 

 

「強くなりたいそうだな」

 

「ダンブルドアが?」

 

「校長だ、ジュリア・マリアット」

 

「あいあい。で、ダンブルドア校長から聞いたんすね?」

 

「聞かされた。トロールとどのように戦闘したか説明してみろ」

 

 

 ジュリアにとっては少々苦い思い出だ。敗北ぎりぎりだった。ハリーとロンが現われなければそれこそ命の危機だ。しかし、敗北から学ぶこともある。ジュリアはレポートを提出する気分で目の前の一流魔法使いに説明を始めた。

 

 衝撃呪文による挑発。頭部、特に目を狙い、衝撃と閃光の両方で注意を引きつける。こちらに注意が向いたらハーマイオニーに棍棒が当たらない位置に移動。棍棒の叩きつけを盾の呪文と持ち前の膂力で受け止め、さらに挑発。この時点で個室の隔壁は破壊され、視界が開けるのも想定済み。

 

 ここから戦況が変わる。断裂呪文を脚に放つが、表皮を切るだけに留まる。次に粉砕呪文で棍棒を狙うが、対象が大きすぎて効果が発揮されない。失神呪文が目に直撃するも、威力不足でよろめかせる程度。手詰まり。

 

 そして、横薙ぎの可能性を想定していなかったために、棍棒の直撃圏内にジュリアとハーマイオニーの両方が入る。咄嗟の判断でハーマイオニーの横まで跳躍、盾の呪文で棍棒の軌道を曲げる判断をする。唱える時間はなく、無言呪文で不完全な盾を展開するが、盾は砕け、壁に叩きつけられた。しかし、わずかに軌道を曲げることには成功し、ハーマイオニーには棍棒が当たらない。

 

 負傷し起き上がるのも困難な状態ではあったが、杖腕は動いたため、盾の呪文を再び展開。横になっていたため、棍棒の振り下ろしを盾で受ける衝撃を全身で受けることになる。痛みで集中が途切れ、次の攻撃に対する防御は展開が困難だと判断するも、動くことはできない。

 

 このタイミングでハリーとロンが登場。ハリーはトロールに物理的な痛みを与えて錯乱させ、ロンは浮遊呪文で棍棒をトロール自身に当て、トロールを気絶させることに成功する。

 

 これが、ジュリアの記憶しているあの戦闘のすべてだ。

 

 

「……なるほど」

 

「いやあ、途中までは頑張ったんすけどね、我ながら無様っつうか、なんつうか」

 

 

 ジュリアは肩をすくめたが、スネイプは否定するようにかぶりを振った。

 

 

「盾の呪文を無言呪文で展開するのは一部の魔法戦士や闇祓いの技量だ。……なぜそれほど守りに特化している? ムーアクロフトは君に何を教えた?」

 

「殺しても殺されたら負け」

 

 

 スネイプが息を呑んだ。

 

 

「あたしは犬っころだ。人間より多少呪いに強いし、力もある。それに、牙と爪も。弱い魔法使いや魔女なら無理なく狩ることができる」

 

 

 ジュリアは指先から鋭い爪を生やしてみせた。この爪で喉を貫くだけで、きっと人間はあっさり死ぬ。

 

 

「でも、ある程度の力量がある魔法使い、魔女、魔法生物、それから純粋な人狼。そういった連中に対しては、刺し違えることはできても生き残ることはできない。もっと上になるとお手上げだ」

 

「なぜ、戦うことが前提なのだ」

 

「あたしが狩られる側だから」

 

 

 今度こそ、スネイプは驚愕で目を見開いた。

 

 おそらく、スネイプは人狼を凶暴なハンターだと思っていたのだろう。たとえ弱点や性質を心得ていたとしても、印象というものはそうそう変わるものではない。

 

 魔法界全体の認識はもっと悪い。人狼を凶悪で凶暴で制御不能な疫病持ちの犯罪者予備軍だと考えている。純血思想の持ち主や人狼の被害者は排斥運動まで行っているし、噂によれば反人狼法を提案した高官もいるらしい。

 

 魔法界にとって人狼とは獣であり、獣とは狩られるべきものなのだ。

 

 

「ハンターは狼じゃない、人間なんだよ、先生。ましてや、あたしみたいな半端者の犬っころはウルフパックを組むことすらできねえ。あたしは一生、狩人から逃げ続けなくちゃいけねえんだ。……それが、母さんの教え」

 

 

 ジュリアはチャイを飲みほした。すっかりぬるくなっている。

 

 

「おおよそ、理解した。そのように思う。……わかった」

 

「え、なんすか」

 

「フリットウィックとマクゴナガルにもこの話はいっているようだが、我輩が受け持とう。君を鍛える。習得した魔法をより強力なものとし、実戦向きの魔法を指導し、君に適した独自の魔法を構築する。来週、いや、再来週からだ。部屋を用意しておく。異論はないな?」

 

「マジで……いや、なんつうか」

 

 

 ジュリアは思わず泣きそうになるのをこらえて、頭を下げた。

 

 

「ありがとうございます、先生」

 

「……まともな言葉も使えるではないか」

 

「めっちゃ頑張ったんすよ今の」

 

「もう崩れているぞ。……その泣きそうな顔をどうにかしたまえ。ムーアクロフトの顔で泣かれると、とても悪いことをしてしまった気分になる」

 

 

 泣かせたことがあるのだろうか。ジュリアは内心驚きながら、袖で顔をごしごしこすった。

 

 話は終わりだと言わんばかりにスネイプは棚から未採点のガラス瓶を呼び寄せたが、ジュリアはふと思い出して問いかけた。

 

 

「そういや先生、なんで三頭犬に噛まれたんすか。エピスキーで治るなら使いますけど」

 

「何?」

 

 

 スネイプの手が止まった。

 

 

「いや、匂いでわかりますって」

 

「どこで三頭犬の匂いを……ああ、言わんでいい。減点するのも面倒だ、まったく。あの閉鎖呪文は君だな。どこで覚えた」

 

「狼狩りの押し入りから逃げるときに時間稼ぎが――」

 

「わかった、言うな、口を開くな。……このことはポッターどもには」

 

 

 スネイプが厳しい視線で睨みつけてくるので、ジュリアは慌てて首を横に振った。

 

 

「先生が三頭犬に噛まれたことは言ってねえけど、4階の廊下で仕掛け扉の上にいる三頭犬自体はハリーたちも見てる。というか一緒にいた。ハリーは仕掛け扉の下に何が隠されてるのか気にしてるし、なんか先生のことを怪しんでるが、それはハグリッドのうっかりと先生の態度が原因。……オーケー?」

 

「最悪ではないが、望ましくない状況だ。……上手く誤魔化せ。気づかなかったように振る舞え。いいな?」

 

「あいあい。傷は可能な限り隠したほうがいいっすね、ハリーは近々本を回収しにくるつもりだ」

 

 

 スネイプは大きくため息をつくと、執務机の引き出しから『クィディッチ今昔』を取り出して、ジュリアに差し出した。

 

 

「返してやれ。……この後教員会議がある。それが終わったらフィルチに手当を頼むつもりだったが、どこにポッターどもが現われるかわかったものではない。気が抜けんな」

 

「先生、ちょっと脚出して。……しみるから食いしばって。テルジオ、拭え」

 

 

 スネイプが小さく唸ったが、化膿しはじめていた大きな傷は少なくとも清潔になった。ジュリアは懐からマートラップ触手液の小瓶を出して傷口にまんべんなく塗る。魔法生物から受けた傷だ、すぐには回復しない。それでも手当てしないよりはましだろう。

 

 

「よし、あとは……フェルーラ、巻け」

 

 

 ジュリアは杖から包帯を出して、傷口を覆った。傷口の洗浄、治療薬の塗布、包帯による清潔の維持。日用魔法は苦手だったが、これも母に叩き込まれた。

 

 

「きつくないすか? 本当はハナハッカ・エキスがあればよかった」

 

「……問題ない。そうか、ムーアクロフトは聖マンゴに勤めていたな」

 

「研究棟っすけどね。でも実習は受けてたみたいで……あ、先生、時間」

 

 

 スネイプは壁掛け時計をちらりと見て、無言で立ち上がると、早足で執務室を出た。ジュリアは『クィディッチ今昔』を忘れずに抱えて、スネイプの後を追い、何事もなかったかのように途中で別れた。



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誰が箒を呪ったか

 ハリーのデビュー戦当日。死を宣告された患者のような沈痛さを全身で醸し出しながら、ハリーはコーンフレークをミルクに沈没させている。

 

 ジュリアはなんとか気を紛らわそうと――シーカーが一番に狙われるなどと余計なお節介を口にした少年を睨んで黙らせたが、遅かったようだ――スネイプとの個人授業を話題として提供した。しかし、それこそロンにとっては死の宣告に思えたようだ。

 

 

「ジュリア、君、気は確かか? だって、あのスネイプだぞ? 嫌味で、陰湿で、闇の魔術にどっぷりの、悪党!」

 

「お生憎様。お前の大好きなスネイプは、あたしにとっちゃ両親の友達でいい先生だよ」

 

「あなた魔法薬学得意だものね、ジュリア。個人授業はどんなことをするの? スネイプ先生オリジナルの魔法薬を調合するとか?」

 

 

 ロンとは対照的に、ハーマイオニーは個人授業の内容に興味津々のようだった。いつもジュリアと組んで調合し、ジュリアが提出したレポートへの添削を食い入るように読んでいるハーマイオニーも、グリフィンドール寮生にしては珍しくスネイプに悪感情を抱いていない。

 

 ジュリアはキュウリのサンドイッチを冷えたミルクで流し込んで――キュウリの青臭い、メロンの食べられないところのような匂いも嫌いだ――質問に答えた。

 

 

「ちょっと呪文の個人指導をな。あたしはもっと強くなるから楽しみにしてろよ、ハーマイオニー」

 

「あなた、まさかまだハロウィーンのときのこと気にして……」

 

「トロールくらい片手間に狩れるようになるさ。なんてったってホグワーツは魔窟だ、マジの魔窟」

 

「聞けよ、ジュリア」

 

 

 ロンが教員席をちらりと見て、密告するかのように声を潜めた。スネイプはいない。彼が朝食を広間で食べている姿をそもそも想像できなかった。校長になれば毎朝来るのかもしれないが、今のところその路線ではなさそうだ。ジュリアは、”スネイプ校長”を頭の中に描いてみる。つばの大きなとんがり帽子を被ったスネイプが、仏頂面で「二言、三言。わっしょい、こらしょい、どっこらしょい。以上」と口にするわけだ。

 

 

「ちょっと、何笑ってるのさジュリア」

 

「いや、なんでもねえ。で、どうした」

 

「トロールをやっつけたあの日、他の先生たちはクィレルが言ったとおり地下を目指して急いでた。なのに、スネイプは4階のあの廊下に向かってた。怪しいと思わないか?」

 

「お前、寄り道したのか。おかげさまで結構痛めつけられたぜ、あたし」

 

「いや、それは、その……とにかく、スネイプは怪しい! ハリーもそう思うよね?」

 

 

 ハリーは上の空で「うん……」とだけ返事して、スプーンを置いた。

 

 

「僕、何も食べたくない」

 

「トースト用のバターでも口に放り込んどけ、エネルギーにはなる」

 

「不健康よ、それ」

 

 

 ジュリアは肩をすくめて、教員席を見た。ターバンを巻いたクィレルの姿もなかった。

 

 最近まではマグル学の教授だったという。その男が、アルバニアで修行を積み、闇の魔術に対する防衛術の教授として着任した。ジュリアは前のバイト先でラジオから流れていたニュースを思い出す。欧州の最貧国アルバニアが社会主義路線から資本主義路線へ転向し、アルバニア共和国と名を改めたのは今年のことだ。情勢は不安定。修行にはなるかもしれないが、なぜアルバニアなのか。力をつけるならアフリカのワガドゥに研修を依頼してもよかったはずだ。

 

 母が語った時代のホグワーツにクィレルという男はいない。何者なのか。ジュリアは思案に耽りながら、パリッと焼けたソーセージを口に運んだ。

 

 クィディッチ競技場の観客席はちょっとした塔になっていて、ひどく寒かった。この寒さの中で飛び回る選手はもっと寒いだろう。それともスポーツ特有の脳内麻薬で寒さを感じないのだろうか。ジュリアはマフラーがしっかり巻かれていることを確認して、手をさするハーマイオニーに寄り添った。

 

 グリフィンドールは先ほど先取点を決めたばかりで、全体的に興奮している。穴だらけのシーツで作った「ポッターを大統領に」という赤い旗が、色とりどりに光る獅子の絵を載せてはためいていた。シーツを用意したのはロン、絵を描いたのはディーンとかいうサッカーマニアの少年、発光する呪文をかけたのはハーマイオニーだ。ジュリアは絵の具にちょっとした魔法薬を加えて、グリフィンドールが点を取るたびに獅子が吠えるようにしてやった。

 

 

「おう、ちょいと詰めてくれ」

 

「ハグリッド!」

 

 

 双眼鏡を首からぶら下げた大男が、ふうふう言いながら観客席まで昇ってきた。今日は何も動物を連れていないようだが、それでも獣の匂いがする。ハグリッドは分厚いコートのポケットからロックケーキを取り出すと、3人にすすめた。

 

 

「ほれ、食うかロン、ハーマイオニー。お前さんがジュリアだな、話はよう聞いとる。エレンにそっくりの別嬪さんだな。おまえさんも食え食え」

 

「おう、ありがとよハグリッド」

 

「笑い方はヘクターによう似とるなあ。おーっ、ハリーが動いたぞ!」

 

 

 慌てて視線をコートに戻すと、スリザリンのシーカーからわずかにリードしてハリーが空を駆けていた。生徒たちは双眼鏡でその姿を追いながら興奮の声を上げている。ジュリアの目にも金色の光が見えた。あれがスニッチだろう。

 

 あと少しだ。手の届きそうな、ぎりぎりの距離。ハリーが片手を箒から伸ばす。

 

 その時、体格のいいスリザリンの選手がハリーにタックルして妨害した。ハリーは一瞬不安定な姿勢になったが、何とか落下せずに復帰する。しかし、そのころにはスニッチは彼方へと逃げていった。

 

 

「反則だ!」

 

 

 ロンを筆頭にグリフィンドールの観客席から罵声が上がる。ジュリアもタックルした選手に中指を立ててやろうとしたが、ハーマイオニーに手を押さえられた。確かこういうときは選手に生卵を投げつけるのが一番いい嫌がらせだったか。とはいえ、この距離で卵を投げつけたらさすがに怪我をするだろうし、卵を持ち歩いているわけでもない。ジュリアは無言で座りなおした。

 

 実況中継も――驚くべきことに、実況はグリフィンドール寮生のリー・ジョーダン、解説はマクゴナガルが担当している――明らかな妨害行為に不快感を示していた。

 

 

「えー、胸糞の悪いふざけたインチキの後……」

 

「ジョーダン」

 

「では、くそったれで不快なファールの後……」

 

「ジョーダン!」

 

「アイアイ、マム。フリントが誰にでもある些細なミスでグリフィンドールのシーカーを殺しかけた後、ペナルティー・シュートです。スピネットがスロー。よし、決まりました。クアッフルはグリフィンドールが持っています。ゲーム再開です」

 

 

 ジュリアが「いい実況じゃないか」と褒めようとした矢先、ハリーの挙動がおかしくなった。まるでロデオでもしているかのような――つまり、箒が乗り手を拒否しているような挙動を見せている。

 

 

「ちょいと意見を聞きたいんだが」

 

「何? ああっ、スリザリンが得点しちゃった!」

 

「ハリーの箒がおかしい。箒ってのは乗り手を選んだりするもんか? それともウッドがしごきすぎて故障したのか?」

 

 

 ハグリッドが慌てて双眼鏡を覗き込む。そのころには明確に箒がハリーを振り落とそうとしていた。

 

 

「箒はそう簡単に故障なぞせん。しかし、コントロールを失うなんて、ハリーに限って……」

 

「きっとスリザリンの連中が呪いをかけてるんだ!」

 

 

 ロンが悲鳴のような怒り声を上げたが、ハグリッドは否定した。

 

 

「箒には強力な魔法がかかっとる。チビどもがニンバス2000に手出しできるものか。よっぽど強力な闇の魔術でもなきゃありえん」

 

「まさか……ハグリッド、貸して!」

 

 

 ハーマイオニーはハグリッドから双眼鏡をもぎ取ると、ハリーではなく、観客席を見渡しはじめた。ハリーを落下から守るため双子のウィーズリーが旋回し、その間にスリザリンは得点を重ねていく。しかし、もはやゲームどころではない。

 

 ハーマイオニーが双眼鏡を握りしめた。

 

 

「スネイプだわ。……ロン、見てごらんなさい」

 

 

 ロンが双眼鏡を受け取ると同時に、ジュリアも向かい側の教員席に目をこらした。スネイプがハリーに視線を向け、まばたきもせず、なにかを唱え続けている。

 

 

「呪いをかけてるんだわ……間違いない。ちょっと行ってくる!」

 

 

 返事をする前にもうハーマイオニーの姿は消えていた。観客はもうゲームに集中していない。ハリーが今にも落下して命を落とすのではないか、そんな空気が充満して恐怖の囁きが聞こえる。

 

 双眼鏡をハリーに向けたまま、ロンが震える声で囁いた。

 

 

「早くなんとかしてくれ、ハーマイオニー」

 

 

 ジュリアは危機を感じていた。よく観察して落下地点さえわかれば、先日『クィディッチ今昔』から学んだばかりのモリアーレ――無重力呪文でダメージを抑えられるかもしれない。だから、ハリーに関してはひとまずなんとかなる。問題は、ハーマイオニーが向かったと思われる教員席だ。本当に、万が一スネイプが呪いをかけているとしたら、熟達した闇の魔術の使い手に1人で挑むことになる。ジュリアは教員席に目をやった。

 

 そして、気づいた。

 

 クィレルが嫌な笑みを浮かべながら、ハリーの箒を注視してなにかを唱えている。どもりながら教科書を読み上げる授業をしている”先生”の表情ではない。ジュリアを「狼女の出来損ない」と呼んで磔の呪いをかけてきた人狼狩りの魔法使いのような、暗い、暗い笑みだ。

 

 パズルのピースがパチパチとはまっていく。トロールを最初に発見したのはクィレル。クィレルは今年から闇の魔術に対する防衛術の教授になった。その前の期間でアルバニアで修行を積み、今年になって熟達した魔法使いとして帰ってきている。そして、今年はホグワーツに何かが隠され、守られている。

 

 

「なるほど。……なるほどねえ」

 

 

 どこまでダンブルドアの掌の上なのだろうか。ジュリアは考える。クィレルが怪しい。しかし、その程度はダンブルドアも承知の上だろう。そして、そのクィレルを教員として迎え入れ、よりにもよって生徒の護身術である「闇の魔術に対する防衛術」を任せている。わからない。情報が必要だ。

 

 その時、教員席にちらりと鮮やかな空色の炎が現われ、教員席の誰かが「火事だ!」と叫んだ。炎はすぐに”収納”されたようだ。

 

 そして、箒に復帰したハリーが急降下し――

 

 

「スニッチを取った!」

 

 

 口からスニッチを吐き出した。

 

 あれはルール的に許されるのかとジュリアは誰かに聞きたかったが、一転して熱狂状態の観客席では誰もがグリフィンドールの勝利についてしか語らない。ジュリアは自信に溢れた表情でスニッチを掲げるハリーと、震える足で教員席から立ち去ろうとしているクィレルに目をやり、小さく肩をすくめた。

 

 

「グリフィンドール、170対60! 勝利、勝利です!」

 

 

 厄介事の気配がする。



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体は重い、口は軽い、これなーんだ

 ジュリアは今すぐにでもスネイプの執務室を訪ねて知恵を借りたいと思っていたが、ロンとハーマイオニーに引きずられて、試合直後のハリーとともにハグリッドの小屋にお邪魔していた。燻製肉や血抜きしたキジがぶら下がっていて、暖炉もある。どこかからブランデーの匂いもした。ジュリアはまた今度、厄介事のないときに遊びに来たいと感じた。

 

 ハグリッドは4人に濃い紅茶を淹れてくれた。ジュリアが「ブランデーを少しもらえると嬉しいんだが」とウィンクすると、「どうやって気づいたんだお前さん」とクスクス笑いながら、三分の一ほど残っていたVSOPをボトルから少し垂らしてくれた。いい香りだ。そしていい男だ。

 

 

「スネイプだったんだ。僕もハーマイオニーも見た。ハリーの箒に呪いをかけて、殺そうとしてたんだ!」

 

「馬鹿な。だいたい、なんでそんなことをする必要がある?」

 

 

 ハリーたちは悩んでいたようだったが、彼らの共有している”秘密”をハグリッドに打ち明けることにしたようだ。

 

 

「あいつ、ハロウィーンの日に4階のあの廊下に向かってたんだ。きっと三頭犬が守ってるなにかを狙ってる」

 

 

 論理の飛躍だ。4階の廊下に何かが守られているとして、そこにスネイプが向かったのなら、守りを固めるためという考え方もできるし、それにハリーを殺そうとしたことと何の関係もない。しかし、ハリーたちのなかでスネイプはすっかり”闇の魔術師”扱いのようだった。

 

 ハグリッドが驚いて紅茶を注いでいたティーポットを落とす。ジュリアは杖を抜いて、ようやく様になってきた浮遊呪文を唱えた。少し紅茶がこぼれたが、なんとかハグリッドの手に戻ったティーポットは、暖炉の上に置かれた。

 

 

「ああ、すまんなジュリア。で、なんでフラッフィーを知っとる」

 

「フラッフィー?」

 

「あいつの名前だ」

 

 

 ジュリアはあの血走った目を思い出した。どう考えてもフラッフィーという柄ではない。グランデルとか、ファフニールとか、そんなところがお似合いだ。

 

 そんなことより、どうやらハグリッドはあの三頭犬についてなにかを知っているようだった。

 

 

「去年パブでギリシャ人から買ったんだ。俺がダンブルドア先生に貸した。あれを守る……」

 

「何を守るって?」

 

「いかん、聞かんでくれ。重大秘密なんだ」

 

 

 ジュリアメモ。ギリシャには相変わらずケルベロスがいる。ひょっとすると、ギリシャ神話の怪物は全部いる。ヘロドトスが記録したような怪物も全部いるかもしれない。

 

 3人はそんなことを少しも気にしていない様子で、ハグリッドを問い詰めた。

 

 

「だけど、スネイプが盗もうとしたんだ。……そうか、あの足の傷は三頭犬にやられたんだよ!」

 

 

 ジュリアは胸の中で「すまねえ先生、ばれた」と呟いた。まさか自力でそこに辿り着くとは。

 

 しかし、ハグリッドは断固としてその可能性をはねのけるようで、首を横に振った。

 

 

「スネイプはホグワーツの教師だ。そんなことをするわけなかろう」

 

「でも、ハリーを殺そうとしたわ! 呪いをかけてた。目をそらさずに、まばたきせずに、じーっとハリーを見続けてた。私、本で読んだんだから!」

 

 

 本で読んだ。懐かしい響きだ。しかし、本の虫殿はすっかり反スネイプ派に染まった様子だった。友達を殺されそうになったと思い込んでいるのだから、仕方のない話だろうか。加えて、スネイプにまつわる多くの噂――たとえば、闇の魔術にどっぷりであるとか、そんな噂――がこの憶測に信憑性を持たせてしまっていた。

 

 ハグリッドはあくまで譲らない様子だ。

 

 

「箒についてはわからんが、スネイプは生徒を殺したりはせん。お前さんたちは危険なことに首を突っ込んどる。フラッフィーが守っとるもののことも忘れるんだ。あれはダンブルドア先生とニコラス・フラメルの――」

 

「ニコラス・フラメルって人が関係してるんだね?」

 

 

 ハグリッドはすさまじく怒っている様子だった。それも、自分自身に対して。これ以上長居するのは得策ではないと判断して、ジュリアは紅茶を飲みほした。

 

 

「紅茶ごちそうさん、ハグリッド。今度は森を案内してくれ、楽しみにしてる。ほら、帰るぞ」

 

 

 ハリーたちはまだ聞き足りない様子だったが、ハグリッドがカップを片付けはじめたのを見て、ひとまず諦めてジュリアの後についてきた。ジュリアは冷たい風の吹く校庭を城に向かって歩き、そして考える。どこまでハリーたちに話せばいいのか。どこまでダンブルドアは考えているのか。



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個人授業、情報交換、現状把握

 ジュリアは案山子の並んだ戦闘訓練用の小部屋――必要の部屋で杖を振るっていた。スネイプの監督下で、様々な呪文を練習し、そして覚えた呪文をより正確に、強力にする。楽しい時間だ。

 

 衝撃呪文の抜き撃ちは陽動や牽制に便利だが、まだ攻撃としては弱い。有言での盾の呪文は抜き撃ちでも安定しているが、無言ではまだ脆い。目下、習得すべきは攻撃手段と、無言での盾の呪文ということになった。

 

 失神呪文、そして蘇生呪文を徹底的に繰り返す。スネイプは最初、武装解除呪文から始めようとした。しかし、ジュリアが杖を二振り用意していることを見せると――ホルスターを見せたとき、「みだりに太ももを晒すな」と叱られた――何回か試験して、少なくとも動いているスネイプの杖を弾き飛ばす程度のことはできるとわかったので、より攻撃的な呪文を、ということになった。

 

 最初は弱々しく細い光線。しかし、スネイプの指示と説明をよく聞いて、より鋭い杖の振り方、より明瞭かつ素早い発音、敵の神経を麻痺させ活動を一時停止させるイメージを身につけていくうちに、ジュリアの失神呪文は鋭利で強固な紅の槍となった。動き回る案山子に赤が音を置き去りにして突き刺さる。これは十分な攻撃手段と言えそうだ。

 

 回が重なるうちに、スネイプは片手で盾の呪文を展開しつつ、もう片方の手で攻撃するよう指示してきた。

 

 

「え、そんなことできんの」

 

「知らん。だが、可能であれば極めて強力な戦法となる」

 

「……っし、やってみるか」

 

 

 左手に父の杖を構え、まず盾の呪文を唱える。ここは成功。盾を維持しつつ、頭の中にある盾のイメージを縮めて、余裕を作っていく。そして右手で杖をしならせ、

 

 

「ステューピファイ!」

 

 

 失神呪文を受けた案山子がきりもみして吹き飛び、倒れた。

 

 ガッツポーズ。完璧とは言えない。盾を展開してから攻勢に出るまで多少の時間を要するし、失神呪文も普段よりいくぶん威力が低い。しかし、成功は成功だ。ジュリアは盾を解除して、スネイプにニヤリと笑ってみせた。スネイプも無愛想な表情ではあるが、拍手を送ってくれる。

 

 

「これは、使えるぞ先生」

 

「さらに素早くこなせるようになれば、十分に君の武器となるだろう。励め」

 

「うっす。盾と剣か。まさに戦士って感じで……剣?」

 

 

 ジュリアは右手の杖を見つめた。この杖は"鞭"のようにしなり、”戦士の剣”となる。剣。そうだ、なぜ考えなかったのだろう。ジュリアには人狼の膂力がある。

 

 

「先生、呪文の開発ってのは基本的にラテン語ベースだよな」

 

「左様。いずれラテン語も学んでもらう」

 

「オーケー。ちょっと時間くれ」

 

 

 スネイプが腕を組んで壁に背を預ける。やってみろ、という意味だ。ジュリアは二振りの杖を構えた。

 

 

「プロテゴ。……よし」

 

 

 イメージするのは、牙と爪。鋭い刃となって敵を切り裂き、致命の一撃を与えるもの。

 

 

「――グラディウス!」

 

 

 杖を握る右手が熱を感じ、そして杖先から閃光が迸った。白い刃の鞭が突き刺すように案山子へと伸び、そして貫く。

 

 

「これは――」

 

「まだ終わりじゃない……!」

 

 

 鞭を収縮させ、盾で身を隠したまま床を蹴って案山子へと跳躍する。白い刃は厚く太くなり、やがて杖を柄とした一振りの剣になった。ジュリアはその柄を力強く握り、案山子に足をかけ、上へと振り抜き――

 

 

「っらあ!」

 

 

 案山子を真っ二つに切り裂いた。

 

 ジュリアは杖を下ろして呼吸を整えながら、今し方退治した案山子を観察した。断面は黒焦げになっている。刃が熱を帯びていた証拠だ。熱と切断。ジュリアは有力な攻撃手段を手に入れた。

 

 満足していたジュリアの頭に、スネイプの杖が叩きつけられた。

 

 

「痛っ」

 

「呪文を開発するときは計算と実験を重ねて安全を確認してからにしろ、この馬鹿者! もしあの刃が逆噴射されていたら、医務室行きでは済まなかったのだぞ!」

 

「いや、なんか、こう、確信みたいなものが湧いてきて……。それに先生もやってみろって雰囲気出してたじゃん」

 

 

 スネイプは呆れた様子でもう一度ジュリアの頭を叩くと、ため息をついた。

 

 

「既存の呪文をラテン語に分解して再構築することを期待したのだ。アメリカとイギリスでは同じ呪文でも発音が違う。……我輩は6年生のときにセクタムセンプラを編み出したが、その時ですら何度も指を失いかけた。君の行いは蛮勇であり、思慮に欠け、まったくもってグリフィンドール的だ」

 

「はい、すんません」

 

「ちゃんとした、言葉で、謝れ」

 

「ご心配おかけしました、申し訳ありません、先生」

 

「はあ……次からは考案した呪文を魔法理論に落とし込んで計算したものを提出するように」

 

 

 スネイプはどっと疲れた様子で、土気色の顔から血の気が失せているようにも見えた。ジュリアは申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、この男を元気づける術は持ち合わせていない。とにかく反省すること、そして次に活かすこと。それがジュリアにできる最善だ。

 

 

「お疲れのとこ、悪いんだが……いくつか報告が」

 

 

 スネイプはジュリアを睨みながら顎で話の続きを促した。

 

 

「ハリーたちはじきに賢者の石が隠されていることに辿り着くぞ」

 

「一体……君は……最初から説明しろ、簡潔に、すぐに」

 

「ハグリッドが4階の廊下に隠されているものについて、ニコラス・フラメルが関係しているとうっかり漏らした。ハリーたちは今夢中になってニコラス・フラメルを調べてる。ニコラス・フラメルが最近の魔法使いだと思い込んでるおかげでまだ見つけちゃいないが、600年ほど魔法史を遡れば著名な人物として出てくる。あるいはボーバトンの資料を漁れば講義録すら出てくるんじゃねえの? なんのきっかけで気づくかわからん」

 

 

 スネイプはうんざりした表情で壁にもたれかかると、「あの間抜けな森番め」とぼやいて懐から銀のスキレットを取り出した。ファイア・ウィスキーの匂いだ。スネイプは呷るようにそれを飲むと、大きく息を吐いた。

 

 

「ついでに言えば、ハリーたちは先生がそれを盗もうとしてると考えてる。こないだのクィディッチの試合、クィレルが呪いをかけてただろ。先生がなにしてたのか知らねえが、ともかくハリーをガン見してるのにハーマイオニーが気づいて、そこで先生は容疑者として浮上した。ハリーたちは先生を、ホグワーツに潜む闇の魔法使いだと思い込んでる」

 

「……我輩は反対呪文を唱えていた。一見しただけではどちらが呪っているかなどわかるまい。……もう一口だけ飲もう」

 

「ダンブルドアはどこまでお見通しなんだ?」

 

 

 スネイプは明らかに一口ではない量を飲み込んで、少し咽せそうになってから、ようやくジュリアの方を向いた。

 

 

「……はあ。校長だ、ジュリア・マリアット。ダンブルドア校長はクィレルが闇の帝王と繋がっているとお考えだ。だがまだ確証がない。アルバニアから帰ってきてから奴は完璧な閉心術を使いこなし、真実薬を使う隙も見せない。今は泳がせておくことになっている」

 

「ファッキンヴォルデモートかよ。ハリーが殺したってことになってるんじゃねえのか」

 

「生きてはいない。しかし、死んでもいない。それがダンブルドア校長の見解だ。……これを見ろ」

 

 

 スネイプはローブの左腕を捲り上げた。

 

 まるで消すのに失敗した刺青のように、薄らと奇妙な焼き印があった。口からヘビが覗くドクロの印だ。マグルならブラック・サバスの熱狂的なファンかなにかだと思うかもしれないが、スネイプがメタルバンドのファンだったというわけでもないだろう。

 

 

「闇の印という」

 

「まんまっすね」

 

「闇の帝王はネーミングセンスとデザインセンスに問題を抱えていた。ともかく、これは闇の帝王が配下の死喰い人を招集する際に使うものだ。もし闇の帝王が完全に消滅しているなら、この印も消えるはずだった」

 

「でも……完全に現われているわけでもない、と」

 

「左様」

 

 

 スネイプが左腕をしまい、ついでにスキットルも栓をして懐に入れる。

 

 

「もし賢者の石を帝王が手に入れれば、復活することもありうる」

 

「なんで壊さねえんだ」

 

「いくつか理由はあるが、流石にそこまでは話せん。……時間だ。ポッターどもにはいつも通り」

 

 

 ジュリアは杖をホルスターに収めて、壁に掛けてあったローブを羽織り、スネイプに軽く頭を下げた。

 

 

「あいあい。沈黙と誤魔化し。そういうのは得意だ、上手くやるさ。んじゃ、ごきげんよう、先生」

 

 

 ジュリアは知りすぎてしまったような気分がした。記憶を引き抜いてしまっておきたいくらいに。友達に隠し事をするというのは、胸が痛む。しかし、友人を命の危機に晒すというのは、もっと胸が痛む。



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1年目のメリークリスマス

 クリスマス休暇が近づくと、パーシーですら文句を言わないほど浮かれた空気がホグワーツを満たしていた。ジュリアは静かに祝うクリスマスが好きだ。無口な母と小さなケーキを分け合って、ささやかなプレゼントを交換して、温かい紅茶を飲みながら窓辺の雪と凍り付いた窓を眺める。幼少期の美しい思い出。もっとも、ここ数年はクリスマスといえばバイト先が休業する日程度の印象しかなかったが。

 

 ただ一人、スネイプだけが陰気な表情を崩さなかった。魔法薬学の授業はいよいよスリザリン寮生の指先すらかじかませ、吐息を白くさせている。ハーマイオニーが温熱の呪文というなかなか便利そうな魔法を試してくれて、これは事実ジュリアたちを寒さから一時解放した。しかし、ハリーとロンに魔法がかかっていることに気づいたスネイプがいつも通りの減点を通告したために使用禁止。ジュリアは何度も心の中で悪態をつきながら、震える指先で鰻の目玉から水晶体を取り除いた。

 

 

「可哀想に、クリスマスなのにおうちに帰れない子がいるんだ」

 

 

 マルフォイがハリーを挑発するが、ハリーは黙ってカサゴの脊椎の粉末を天秤に載せている。冷静だ。

 

 クィディッチでのハリーの活躍以来、マルフォイはなんとかハリーを笑いものにしようと奮戦しているようだった。嫉妬。自分はチームにも入れてもらえず、ライバルのハリーはチームに入って英雄扱いを受けている。そこで自分が上がるのではなく相手を落とすことを選ぶあたりがスリザリンらしかった。

 

 

「家族に大事にされないって、きっととても辛いんだろうねえ。僕にはわからないけど」

 

「それはお前の家族を人質に取ればなんでもしてくれるって意味か、聖28氏族のドラコ・マルフォイ坊ちゃん」

 

「ぼ、僕を脅す気か、マリアット!」

 

 

 小さく悲鳴を上げて、マルフォイが薬匙を大鍋に落とした。こういう小心者の小悪党は可愛らしい。ちょっとつつくだけでいい声で鳴く。

 

 もう少し遊んでやろうかと思ったところで、スネイプが大鍋からマルフォイの薬匙を引き上げた。少し縮んだようにも見える。

 

 

「軽率な言動は慎みたまえ、マリアット」

 

「うっす、すんません先生」

 

 

 明らかに不服そうな表情で「なんで減点しないんだ」と訴えるマルフォイを尻目に、スネイプはグリフィンドール寮生の調合法を見て回っては粗探しをしていた。ハリーとロンがにやりと笑ってガッツポーズした。

 

 地下牢を出て、大広間に繋がる廊下でもみの木を抱えたハグリッドに出会った。正確にはハグリッドに抱えられたもみの木だろうか。あの巨体が埋もれるほどの大きなもみの木を、フウフウ言いながら運んでいる。

 

 

「おう、お前さんたちか。ほれ、おいで。大広間がすごいぞ」

 

 

 足の生えたもみの木についていく。ちょうど、マクゴナガルとフリットウィックがクリスマスの飾り付けをしているところだった。編まれたヤドリギが壁に飾られ、柊の実が色鮮やかな花火を散らし、輝かしいクリスマスツリーが11本――いや、ハグリッドが持ってきたものを合わせて12本。見事なものだ。あっけにとられたジュリアを見て、マクゴナガルが微笑んだ。

 

 

「ジュリア、ハリー、ロン、お昼まで30分あるわ。図書館に行かなくちゃ」

 

「そうだ、行こう」

 

「マジで言ってんのか。あたしは残るからな、クリスマスムードに浸らせてくれ」

 

「ジュリアの言うとおりだ。お休み前だぞ? お前さんたち、勉強熱心なのは偉いが……」

 

 

 ハグリッドが呆れた声を上げるが、じきにその表情は固まることになる。

 

 

「僕たち、ニコラス・フラメルについて調べてるんだ」

 

「なんだって――ああ、まったく。お前さんたちは余計なことに首をつっこんどる」

 

 

 ジュリアも同感だったし、なんならクリスマスの飾り付けを手伝うほうが有意義な時間を過ごせるとすら思っていた。それに、プレゼントの用意もしなくてはならない。今日の魔法薬学でもスネイプはレポートを課してきたし、休み中も個人授業は続くようだし、ジュリアは忙しいのだ。

 

 しかし、3人はジュリアのささやかな願いを受け入れるつもりはないらしかった。彼らの胸にはいかにも魔法使いらしい探究心と、いかにもグリフィンドールらしい正義感が燃えている。

 

 

「ハグリッドが教えてくれたら、ゆっくり休めるんだけど。もう何百冊も調べた気がするのに、どこにも載ってないんだ」

 

「俺はなんも言わんぞ」

 

「じゃあ自分たちで見つけなくちゃね。ほら、その氷柱は食べられないわよジュリア」

 

「食おうとしてるわけじゃねえよ! はあ、あたしも行くのか? 行くのか、そうか」

 

 

 3人が図書館に向かうのをゆっくり追いながら、ジュリアはすれ違いざまにハグリッドに囁いた。

 

 

「あいつらはまだ賢者の石を知らない」

 

「お前さん……」

 

「またな、ハグリッド」

 

 

 やむを得ず追いかけて図書館に辿り着くと、3人はすでに調べものを始めていた。『二十世紀の偉大な魔法使い』やら、『現代の著名な魔法使い』やら、3人はニコラス・フラメルに対して「最近の」「ダンブルドアに比肩する」という人物像を描いているようだ。後者は当たり。前者も、当たりと言えないこともない。

 

 ジュリアは重い本を運ぶ重機代わりにこき使われつつ、3人を現代魔法史にうまく閉じ込めていた。喜ばしいことだ。結局その日も昼食まで収穫はなく、3人はジュリアに促されて図書館を出た。

 

 

「ハーマイオニー、家に帰ったらパパとママにフラメルについて聞いてみて。パパやママなら聞いても安全だろ?」

 

「安全ね。二人とも歯医者だもの」

 

 

 こうして、クリスマス休暇前日は無事終わった。

 

 翌朝、ジュリアは目が覚めて、ハーマイオニーのベッドが空だと気づいた。これからしばらくはハーマイオニーロスが続くだろう。本当はハーマイオニーと一緒にクリスマスを祝いたかった。

 

 談話室に下りると、ハリーとロンが魔法使いのチェスを指していた。暖炉には串に刺したマシュマロがかけられている。休暇を満喫しているようだ。

 

 意外に、と言うべきか、ロンはチェスの名手だった。古参兵然とした傷だらけの駒を縦横無尽に操っている。ハリーは誰かからの借り物のようで、まず駒から信用されていない。

 

 

「冗談じゃないよお、君ねえ、僕をそこに進める気かい? あそこに敵のナイトがいるだろう、節穴なんだよ君はあ。あっちの駒を進めなさいよお、あの駒なら取られたってかまわないんだから」

 

 

 妙に腹立たしい声でビショップが叫んだ。

 

 

「Nxc2にRxc2でルークが利くから取られ得だぞハリー」

 

「ジュリア、チェス指せるの?」

 

 

 ぶちぶちと文句を言いながらハリーのビショップが取られた。

 

 

「いや、教本とスコアをざっと読んだだけ。指したこともねえし、ロンほど上手くもねえよ。……あー、今のは悪手だったか、悪いなハリー」

 

「えっ」

 

 

 Qxc2。がら空きになったハリーの陣地にクイーンが睨みを利かせていた。

 

 それから、ジュリアもハリーと交代でロンに挑戦し、興奮のあまり何度も罵声と悪態を吐いて2人を笑わせ、ボロボロに負けて夜を迎えた。ジュリアは貸し切り状態の寝室で月を眺めながら、来年度はトランプを2組持ち込んで、ポーカーで下着までひん剥いてやろうと決心した。

 

 翌朝、ジュリアはベッドの足元にプレゼントが置かれていることに気づいた。きっとしもべ妖精が配達したのだろう。こういう粋な演出をするホグワーツのことをジュリアは気に入っていた。靴下を吊るしておけばよかったか、などと思いながら、ひとつずつ開けていく。

 

 ハグリッドからは鹿肉のジャーキー。「ヘクターもこいつが好きだった。メリークリスマス。ハグリッドより」と下手な、しかし温かみのある字のメモが入っていた。

 

 ハーマイオニーからはマグル界で売っているステンレス製の爪ヤスリ。先日、ガラス製のものが折れてしまったのだ。少々お小遣いを奮発した気配がする。本に使う予算を少しこちらに回したのではなかろうか。大事に使わせてもらうことにした。

 

 母の後輩からも届いている。水晶製の薬瓶一式だ。高かっただろうに、と思いながらも、メッセージカードを読む。

 

 

「ジュリアちゃんへ。セシリーお姉さんです。ホグワーツに入ってくれたおかげでようやく送り先がわかるようになったし、かさばるものをプレゼントしても大丈夫になったから、悩みに悩んで、これを贈ることにしました。大きくなったジュリアちゃんに会いたいな。来年の夏休み、どこかでうまく休みを取るから遊びに来てくれない? ぜひお友達も一緒に。お手紙待ってます。セシリー・オニールより」

 

 

 聖マンゴの消毒液とシーツの匂いがする。きっと職場で急いで書いたのだろう。ジュリアはメッセージカードをそっと胸に当てた。

 

 ジュリアはこれで終わりかと思っていたが、まだあった。マクゴナガルからと、スネイプからと、差出人不明だ。

 

 マクゴナガルからは真鍮の手鏡が届いていた。身嗜みに気をつけろということらしい。寝癖もそのままにシャツとショートパンツであぐらをかいているジュリアが鏡に映っている。ジュリアは笑って櫛を手に取った。

 

 スネイプからは本だ。表紙には金の箔押しで『気品ある発音と表現――社交界デビューを迎えるご子息・ご令嬢のために』と書かれている。ぱらぱらと捲ると、クリスマスカードが挟まっていた。

 

 

「君が荒くれ者の傭兵かアラスター・ムーディになるのでもない限り、きっと役に立つだろう。勉学と両立して励むこと。メリークリスマス。S.S.」

 

「荒くれ者の傭兵とアラスター・ムーディって大体同じじゃねえか。……同じではありませんか。なんか気持ち悪いな」

 

 

 ジュリアはぼやきながらも、最初のページにしおりを挟んで鞄に入れた。ゆっくり読もう。

 

 最後の包みはセーターとたっぷりの焼き菓子だった。セーターは手編みだ。ジュリアの髪と同じ紺色のセーター。とても暖かそうで、一箇所もほつれがない。昔、バイト先の男がはしゃいでいたのを思い出す。「フィアンセに編んでもらったんだ!」などと言っていただろうか。

 

 ジュリアはしばし悩んで、シャツの上に分厚いセーターを着ると、杖を確認し、もう一度手鏡で髪が跳ねていないのを見て、談話室に下りていった。

 

 

「よう、メリークリスマス」

 

「メリークリスマス、ジュリア。ペンナイフのプレゼントありがとう、大事に使うよ」

 

「おう。間違ってもダーズリーの連中は刺すなよ、ジュリアお姉さんとの約束だ」

 

「メリークリスマス。ママったら、ジュリアにも『ウィーズリー家特製セーター』を贈るなんて……。あっ、ネズミ用栄養剤ありがとう、さっそく1本スキャバーズに飲ませたよ」

 

「これ、ロンの母さんからか。あとでお礼のフクロウ飛ばさなきゃな。……なに変な顔してんだよロン」

 

 

 ロンはしばらく黙っていたが、ジュリアがじっと見つめると、目をそらしてボソボソと返事をした。

 

 

「いや、その……ママに君のこと話したんだ。なんていうか……1人で暮らしてることとか、そういうことを」

 

「あたしが一文無しのストリートチルドレンだってことか?」

 

「えっと……嫌だったかな、ごめん」

 

 

 ジュリアは歩み寄るとロンの赤毛をぐしゃぐしゃにかき乱した。なんだかんだでこいつも可愛げがでてきた。生意気な少年だが、ジュリアにとってはいい友達だ。

 

 

「気ぃ遣わせちまったな、ありがとよ。別にあたしは今の生き方を恥じちゃいねえし、それを友達に語られることくらいなんとも思わねえさ」

 

「――速報! ロニー坊やにガールフレンドの気配!」

 

 

 談話室に飛び込んできた双子が喚きながらジュリアとロンの周りをぐるぐる回った。

 

 

「しかもウィーズリー家のセーターまで! もう僕らの家族か、手が早いなロン!」

 

「おっと、子孫繁栄はお祈りしないでくれよ? もう隠れ穴は満員だ!」

 

「ちょっと、フレッド、ジョージ、そんなんじゃないって! ジュリアからも何か言ってよ!」

 

 

 ジュリアは色々考えた末、ニヤリと笑って口を開いた。

 

 

「生憎とあたしはハーマイオニーのボーイフレンドなんでな。ジュリア・グレンジャーになるのかハーマイオニー・マリアットになるのかは知らんが」

 

「……わーお、驚き桃の木」

 

 

 そこにパーシーがセーターを抱えたまま顔を出して、また騒ぎになった。

 

 ジュリアにとっては初めての賑やかなクリスマスだった。



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手紙、透明なハリーの冒険

 クリスマスの夜、ジュリアは談話室のソファに腰かけて手紙を書いていた。ロンの母にあてたセーターのお礼と、ジュリアの母の後輩――セシリー・オニールへの返事だ。セシリーはジュリアの姉を自称し、聖マンゴに勤務する多忙な身ながらジュリアのことを気にかけてくれる貴重な人物だ。法律上はジュリアの後見人でもある。

 

 

「セシリー姉さんへ。今まで連絡しなくて悪かった。薬瓶ありがとな、大事に使う。スネイプのこと、覚えてるか? 母さんの友達だった、鷲鼻で目つきの悪いあいつだ。ホグワーツでは随分世話になってる。母さんの師匠だったマクゴナガル先生にも目をかけてもらってる。ホグワーツはいいとこだな。ジェームズ・ポッターの息子とウィーズリー家の末弟が友達になった。どっちもやんちゃ坊主だ。それから……」

 

 

 一度、羽ペンの動きが止まる。ハーマイオニーのことについてどう書くか、悩ましい。セシリーはジュリアに「体の秘密は信頼した相手、それも口の堅い相手にだけ話すように」と、繰り返し忠告してきた。どのようにしてハーマイオニーに打ち明けることになったか、そのうち話すことになる。

 

 ハロウィーンの事件に関しては会ったときに話せばいいだろう。羽ペンが再び動き出した。

 

 

「マグル生まれで学年一頭のいいハーマイオニー・グレンジャーに訳あって全部話した。それでもあたしのことを好いてくれてる。変わった奴だよ。勉強は時々つまづくが、ハーマイオニーが助けてくれることもあって、まあ大体は順調。モップに床を拭かせる呪文を習ったんだが、手でやったほうが早い気がすんだよなあ。ここは主婦訓練学校かっつの。忙しいだろうから返信はしなくていい。休み取れそうだったら早めに連絡してくれ、今年の夏はどっかに定住しておくからよ。会えるの、楽しみにしてる。ジュリアより。……よし、書けた」

 

 

 蝋を垂らして、スタンプを捺す。紺色の封蝋、それからレターセット、この2つは切らさないようにしていた。

 

 蝋が冷めたのを確認して、満足したジュリアは頷き、それから姿勢を正してもう一枚の便箋に向き合った。今度はウィーズリー家あてだ。あまり野卑な言い回しは使わないほうがいいだろう。さっそくスネイプからのプレゼントが役に立つときがきた。

 

 

「ロンのお母さんへ。はじめまして、ジュリア・マリアットです。最初に。丁寧な言葉を使い慣れていないので――ロンから聞いてるかもしれないけど――変なところがあってもご容赦……ご容赦は違うな……笑ってお許しください。セーター嬉しいです、今これを着て談話室で書いています。とてもあったかいです。感謝……感謝は大げさか。えっと、ありがとう、ございます。……ああもう、頭煮えそうだぜ。あとは、そうだな……ロンは素敵なご家族のお話をよくしてくれます。一度どこかでお会いしたい……お目にかかるなんて言い方があるのか、まあ、いいだろ……お会いしたいです。寒いですから、お体にお気をつけて。ジュリア・マリアット。……っし、書けた書けた。お上品な文章ってのは肩が凝るな」

 

 

 ロンの母への手紙は丁寧すぎないように、かといって粗暴すぎないように、少し緊張しながら書くことになった。あまりに雑すぎると思った表現はスネイプの本を参考に修正し、少なくともジュリアにしてはマシな手紙が完成した。字が少し荒いのはご愛嬌だ。

 

 そんなとき、男子寮のドアが静かに開いて、そして静かに閉じた。

 

 誰もいない。しかし、ハリーの匂いだけが動いている。

 

 

「いい夜だな、ハリー」

 

「うわっ!」

 

 

 ジュリアは封筒に紺色の蝋を捺して伸びをすると、ソファから立ち上がった。ハリーの頭だけが宙に浮いている。ジュリアの母が昔話をするときによく登場した”悪戯仕掛人”たちの必須アイテム、透明マントだ。

 

 

「当ててやろうか。ハリーの父さんが使ってた透明マントだろ」

 

「えっと……なんで気づいたの? なんでわかったの?」

 

「なんでが多いぜ坊や。一歩ずつだ、一歩ずつ」

 

 

 さて、何から話すのがよいか。ジュリアは思案した。ハリーは彼の両親についてほとんど知らない。きっと両親についての話をすれば喜ぶだろう。しかし、ジュリアの母はさほど多くを語らなかったし、ハリーの両親やその友人たちについてはいい話も悪い話も聞いている。話の選別が難しい。

 

 

「まず、1つ目の質問だが、匂いだ。透明マントは匂いまで誤魔化せる代物じゃない」

 

「あー、そっか……じゃあジュリアにはバレるんだね」

 

「風が吹いてなけりゃな。で、2つ目の質問だが、ジェームズ・ポッター、つまりハリーの父さんが使ってたって話を母さんから聞いてる」

 

「父さんのこと知ってるの?」

 

 

 そら、食いついた。ジュリアは慎重に言葉を選ぶ。

 

 

「少しだけな。あたしの母さんはハリーの父さんたちのひとつ上だった。あたしの母さんが魔法の練習や勉強の面倒を見て、その代わりハリーの父さんたちは温室や禁じられた森から魔法薬の材料を頂戴してくる。そんな関係だったそうだ」

 

「そうなんだ。……僕もジュリアに何か取ってきたほうがいい?」

 

「そういうことは気にすんな。強いて言えば肉がほしいが、ここは飯が出てくるし、自分で狩れるしな」

 

 

 ハグリッドからもらったジャーキーを咥える。硬い。そして塩気が強い。口が寂しくなったときにちょうどよさそうだ。ジュリアはハグリッドにもお礼を言いにいくことに決めた。

 

 ハリーのお腹が小さく空腹を主張したので、ジャーキーを一切れ投げて渡す。ハリーは噛みついて、引きちぎるようになんとか一口目を咀嚼した。ハリーには硬すぎたようだ。

 

 

「それで、今夜はどこにお散歩だ?」

 

「うん……ちょっと、図書館の禁書棚に」

 

「ニコラス・フラメルのことか?」

 

「うん」

 

 

 ジュリアは悩んだが、見送ることを選んだ。賢者の石は理論が極めて難解かつ素材の入手も製法も恐ろしく困難だが、危険物でもなければ闇の魔術に分類されるものでもない。ジュリアの母も一度挑戦してすぐに挫折したと言っていた。ということは、禁書棚に行っても別段収穫はない。危険な本や奇妙な本でちょっとしたスリルを味わうのも悪くないだろう。

 

 

「触るだけで呪われる本もある。さすがに死ぬようなやつは置いてねえだろうが……まあ、冒険楽しんでこいよ」

 

 

 ハリーは一瞬不安そうな顔をしたが、笑って頷くと、マントを被りなおして寮を出ていった。ハリーにはきっと、冒険の経験が必要になるだろう。ヴォルデモートがまだ存在しているとわかった以上、ハリーが狙われる危険は常にある。もちろん、ハリーが自ら危険に飛び込んでいく可能性も。だから、ホグワーツで経験を積むのは、きっといいことだ。

 

 

「……学べ、ハリー。学ぶんだ。ここは学び舎なんだからよ」

 

 

 ジュリアは手紙と封蝋の残りやスタンプを手に、寝室へと向かった。今夜は1人で月見だ。



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あなたのこころののぞみをうつす

 ハリーは食事もせず、取り憑かれたように喋り続けている。昨夜の冒険はハリーにあまりよくない収穫をもたらしたようだ。ジュリアはハリーの瞳をじっくりと覗き込んで――もし本当に憑依や魅了の呪いを受けていれば、目がうつろになると母が言っていた――、どうやら単に魅入られただけだとわかった。

 

 家族を映す鏡。ジュリアも興味がないわけではない。もし父の姿を見ることができれば、それは喜ばしいことだ。しかし、死者の世界と生者の世界を繋ぐ魔法というのは並大抵のものではない。ジュリアの記憶が正しければ、神秘部に就職したという母の先輩がそのようなゲートを研究していたらしいが、結果は一方通行のものが作られただけだ。姿を見せるだけとはいえども、危険なものである可能性は高い。

 

 

「いいか、ハリー。よく聞け。死者ってのは帰ってこねえ。その鏡は危険だ」

 

「でも、ジュリア……あの鏡には本当に僕の家族が映ったんだ」

 

「ハリー、僕も君のパパとママに会ってみたい」

 

 

 ロンも危険性を認識していないようだった。この調子だと今晩も鏡のもとに向かうのだろう。

 

 ロンが見たとき何を映すのかもジュリアの興味をかき立ててしまった。ハリーは顔を知らなかった両親、それにおそらく祖父らしき人物まで見た。いずれも故人だ。まだ情報が不足しているからなんとも言えないが、見た者に縁故のある死者を映す鏡なら存命のウィーズリー家は映らない。しかし、ロンが見てもハリーの家族を映すようなら、誰かがハリーに見せるために設置した”家族写真”か、もしくはとてつもない呪具か。

 

 友達を守りたい、自分の家族を見たい、知的好奇心を満たしたい。3つの欲求がジュリアの背を押した。

 

 

「オーケー、危険性については置いとくことにしよう。あたしも連れてけ」

 

「3人も入るかな」

 

「あたしはハーマイオニーより小せえんだぞ、いけるいける。つうかお前ら少し身長寄越せ」

 

「そのうち伸びるよ、ジュリア。ハリー、君はパパとママどっちに似てた?」

 

「パパ。でも、みんな言うとおり、目はママに似たみたい」

 

 

 ハリーは陶然としている。ニコラス・フラメルのことを調べるなどという考えはすっかり頭から離れたようだ。一難去ってまた一難。

 

 その晩は3人で夜の散歩ということになった。ハーマイオニーから教わった温熱呪文のおかげで凍えはしないが、もう1時間近くさまよっている。なぜならハリーが辿ったルート――図書館を経由し、スネイプとフィルチから逃げた道を、おぼろげな記憶を頼りに進んでいるからだ。

 

 

「ねえ、もう帰ろうよ」

 

「嫌だ! このあたりのはず……ここを曲がった……ここだ!」

 

 

 ハリーがドアを押し開けた。今は使われていない教室のようだ。壁際に寄せられた机は畳まれて逆さに置かれ、その上に椅子が乗せられ、隅には空のゴミ箱がひっくり返されている。鏡の件がなければ、魔法の練習をするのに適した場所のように思えた。

 

 確かに鏡がそこにあった。ジュリアはハリーが脱ぎ捨てた透明マントを拾うと、まずは鏡の全体を観察する。天井まで届きそうな枠が金色に輝いている。真鍮ではない。ジュリアの直感と知識が鏡を危険だと糾弾していた。黄金が使われる魔法の道具は黄金の価値に準ずるだけの効果を持つ。魔法界の古い言い伝えだ。

 

 

「ほら、見て……みんないる」

 

「僕、君が映ってるのしか見えないよ」

 

「そんなはずない。ほら、こっちに立って」

 

 

 警告の声を上げる前に、ロンが歓声を上げた。

 

 

「うわあ……僕、僕が映ってる」

 

「正気かロニー坊や、鏡は反射するもんだ」

 

「違うんだよ。もっと年上で……主席のバッジをつけてる! ビルがつけてたやつだ。それに、寮杯とクィディッチ・カップも持ってる……これが僕の未来なのかな」

 

 

 ロンも鏡に魅入られた様子で、すっかり興奮している。

 

 ジュリアの頭は回転しはじめる。ハリーには家族が見える。ロンには名声が見える。まだ判断するには情報が足りない。

 

 

「ちょっと照らすぞ。ルーモス」

 

「眩しいよ、ジュリア」

 

「んじゃそこどけ」

 

 

 ジュリアはできるだけ鏡面を見ないようにしながら、鏡を観察しはじめた。枠に彫り込みがある。

 

 

「すつうを、みぞの、のろここ、のたなあ、くなはで、おか、のたなあ、はしたわ。なるほど。……なるほどねえ」

 

「なんだいそれ、呪文?」

 

「鏡の上の彫り込みだ。……ノックス、闇よ」

 

 

 ジュリアはハリーにマントを投げ渡すと、鏡に背を向けた。この鏡を見てはいけない。ジュリアの意識が警鐘を鳴らしている。

 

 

「帰るぞ。ミセス・ノリスの匂いが近づいてる」

 

「待って、もう少しだけ」

 

「ハリー……ここであたしに失神させられてミセス・ノリスに見つかんのと、今すぐ一緒に帰んのと、好きなほう選びな」

 

 

 ハリーは渋々マントを広げた。ジュリアはハリーの手を取って部屋から連れ出したが、ハリーはまだ未練がましい目つきで鏡のほうを見ていた。

 

 翌朝になってもハリーの顔はぼんやりとしていた。魔法史の授業を受けているときよりも意識がふわふわしていそうだ。今なら詐欺にだってかけられそうで、ジュリアはため息をついた。

 

 ロンもどうやらハリーを見て危険を悟ったらしい。ハリーの意識を鏡からそらそうと、あの手この手でハリーを誘っている。

 

 

「ハリー、チェスしようよ」

 

「ううん、しない」

 

「じゃあ、ハグリッドのところに行かない?」

 

「うーん、いいや……」

 

「しっかりしろよハリー。あの鏡、なんだか嫌な予感がするんだ。それに、フィルチもスネイプも見回ってる。もう行かない方がいい」

 

 

 返事はない。ハリーは行く気のようだ。ジュリアは覚悟を固めた。

 

 その晩、ハリーが寮を出るより先に、ジュリアは鏡のもとに向かった。ジュリアは透明マントも持っていなければ、自分を透明にするような呪文もまだ知らない。しかし、入学してから地道にホグワーツを学んできた。そして、鋭い嗅覚と夜目がある。一人であれば夜の散歩もさほど難しくはない。

 

 鏡は依然としてその教室に置かれていた。人の気配はない。

 

 

「私はあなたの顔ではなくあなたの心の望みを映す、ね。願望、欲望……さあ、見せてもらおうじゃねえか」

 

 

 ジュリアは大きく息を吸うと、鏡の前に立った。観察しなくてはならない。

 

 

「落ち着け……落ち着くんだジュリア・マリアット……心を無にしろ」

 

 

 ジュリアの考えが正しければ、この鏡にはある種の開心術がかけられている。しかし、それだけではないだろう。深層心理を読み取り、最も求めているものを差し出し、しかし与えない。人を虜にする基本的な、しかし最悪の手法だ。

 

 ジュリアは聞きかじった程度の閉心術を試みて、鏡を睨みつけた。

 

 ヘーゼルの瞳が、優しくジュリアを見つめている。明るいブラウンの髪を横に流し、穏やかな紳士然とした長身の男。顔には三筋の爪痕がある。長い腕を伸ばし、小さな手と指を絡めている。

 

 紺色の髪を腰まで伸ばした小さな魔女が、ジュリアにだけわかる薄らとした微笑みを鏡から向けている。ジュリアと同じ琥珀色の瞳は叡智に溢れ、そして絡めた指を愛おしそうに握りしめている。

 

 ヘクター・マリアット。そして、エレン・マリアット。

 

 

「……くそったれ、娘の前でいちゃつきやがって」

 

 

 ジュリアは涙を拭うこともせず、杖を抜いた。この鏡はあってはいけない。毒だ。それも劇毒だ。可能な限りの手段で破壊を試みねばならない。保護がかけられていたら、拳で砕くまでだ。

 

 ジュリアは杖を振りかぶり――

 

 

「その鏡は魔法を反射するようにできておるそうじゃ。わしにも壊せん。それに壊してほしくもないのう」

 

 

 皺の寄った細長い手が、そっとジュリアの右腕を掴んだ。

 

 

「……三頭犬、トロールの次は魅了の呪具ときた。とんでもねえダンジョンだな、ダンブルドア」

 

「君の鋭い理性と知識はまさにエレン・ムーアクロフトの再来じゃな。そして、友を守るため危険とわかっていても立ち向かう勇気は、ヘクター・マリアットからしっかりと受け継いだようじゃ」

 

「危険だってわかってんなら、なんで……なんでハリーに見せた!」

 

 

 ジュリアの激昂に応じるように杖が熱を帯びる。ダンブルドアには何かしらの考えがあるのだろう。しかし、今回のそれはジュリアに容認できるものではない。しかし、ダンブルドアは微笑を崩すことなく、レースの縁取りがなされた紫のハンカチを取り出すと、優しい手つきでジュリアの涙を拭いた。

 

 いけない。感情的になっている。

 

 ジュリアはいつの間にか荒くなっていた呼吸を落ち着かせると、素早く杖をホルスターに収めた。そして、床を蹴るようにして鏡とダンブルドアから離れる。今はどうしてもこの老人が信用できなかった。

 

 

「答え合わせをしよう、ジュリア。君はどこまで理解したのかな」

 

「……基礎部分はおそらく開心術で構成されてる。見たやつの願望、欲望を読み取り、その中で最も強いものを選別してるんだろう。だが、それだけじゃねえな。最も強い望みに対して、求めているものを差し出す。この部分は見た者の記憶からだけじゃ生み出せねえ。なんらかの情報源に接続して、その情報を映してると考えるのが妥当。それがどういう魔法なのかはわかんねえけど、さらに魔法を反射するっていうならたぶんそうとう古い魔法だ。……だが、それはあくまで情報で、そして映像だ。実体じゃねえんだ」

 

 

 鏡をちらりと見やる。ある冬の夜、ジュリアは空っぽの腹を抱えて雪に震えながら、バーガーショップの広告を見上げていた。その晩は野草を食んで朝を迎えた。母が恋しかった。温もりが恋しかった。しかし、広告からビーフのパテは出てこない。

 

 

「一番ほしいもんをちらつかせて、手の届かないところで見せつける。くそったれの、最悪な、呪いの鏡だ」

 

「見事。見事じゃ。今夜の散歩分の減点を埋めあわせるには十分すぎる知恵と知識をありがとう、ジュリア。君が理解したとおり、この『みぞの鏡』には多くの魔法使いや魔女が魅入られ、正気を失い、時には命を落としてきた。しかし、しかしじゃよ、ジュリア。真に賢明な魔法使いであれば、望むものを見ただけで満足し、魅惑から脱することもできる。――そうじゃろう、ハリー」

 

 

 透明マントが床に落ちる音で、ようやくジュリアはハリーが部屋に入ってきていたことに気づいた。明るい緑色の瞳に困惑が浮かんでいる。彼はどこから聞いていたのだろうか。そして、どこまで理解したのだろうか。

 

 

「わしにとっては3夜連続、しかし、ハリーにとっては今夜が初めてになるのかのう。こんばんは、ハリー」

 

「あの……こんばんは、先生。それに、ジュリアも」

 

「……おう、ごきげんよう、だ。この深夜徘徊少年」

 

 

 ジュリアはハリーから目を背けて、吐き捨てるように挨拶を返した。取り乱したところを見られただろうか。もしそうなら、あまり喜ばしくない。ジュリアは自身の感情的で直情的な部分を――母と対立した部分を好んでいなかったし、尊厳のために秘匿するべきだとすら考えていた。

 

 

「ハリー。君の友達のジュリアが見事な説明をしてくれたとおりじゃ。『みぞの鏡』は心の一番奥底にある、一番強い望みを映し出す。しかし、それは真実でもなければ、現実でもない。どうじゃろうか、ハリー。君は家族を見た。それは取り戻せないものかもしれないが、見ることができたということに価値があると思わんかね?」

 

「僕……僕、パパやママを初めて見ました。すごく、すごく嬉しかった……。だけど、そっか、もう会えないんですね」

 

 

 ダンブルドアが項垂れるハリーの頭に、そっと手を置いた。ダンブルドアの紫のローブがハリーを包む。それはまるで悲しむ孫を優しく慰める祖父のようでもあった。

 

 ダンブルドアはハリーを特別目にかけている。ジュリアにはそれがわかった。ダンブルドアは惜しみない慈しみの感情をその瞳に宿している。ハリーの顔は見えないが、きっと涙を流しているのだろう。しかし、2人の間には温かな繋がりが生まれようとしていた。

 

 

「逝ってしまった者たちと直接対話することはできない。それでも、彼らは記憶の中に生き続ける。ハリー、君は家族を知った。これからは君の中に家族がいるのじゃよ」

 

「僕の、中」

 

「そうとも。……さて、そろそろミセス・ノリスが巡回してくる時間じゃ。ジュリア、ハリーにその素敵な温熱の呪文をかけてやってくれるかな。この寒い中、パジャマにマント一枚では体に悪いからのう。この鏡は明日よそに移そうと思っていたところじゃ。もちろん、そうしなくとも君は鏡を探したりしないじゃろう。そうだね、ハリー?」

 

 

 ハリーが鼻をすする音が聞こえた。しかし、しばらくして、ハリーはしっかりとした声で返事をした。

 

 

「はい、先生。……先生、1つ質問が」

 

「いいとも」

 

「先生には、何が見えたんですか?」

 

「厚手のウールの靴下を一足、手に持っておるのが見えたよ。わしにクリスマスプレゼントをくれる人はなぜか本ばっかり贈りたがる。ハンカチと靴下はいくつあってもいいものじゃのにのう」

 

 

 ダンブルドアはおちゃめにウィンクしてみせた。ダンブルドアにはきっと別のものが見えている。それが家族と共にいる自分なのか、グリンデルバルドに打ち勝った若き日の自分なのか、魔法省大臣の執務椅子に座る威厳ある自分なのかはジュリアにはわからない。しかし、きっとこれ以上ダンブルドアは語らないだろう。

 

 ジュリアとハリーはダンブルドアにおやすみなさいと挨拶をして、寮に戻った。誰に出くわすこともなく、何の会話もなかった。ホグワーツは沈黙を保っている。まるでダンブルドアの心のように。

 

 ジュリアは黙って女子寮のドアに手をかけたが、ハリーは透明マントを畳みながら、その背へと静かに声をかけた。

 

 

「ジュリア」

 

「……なんだ、ハリー」

 

「ありがとう。心配してくれて」

 

「明日、ロンにもしっかり謝っとけよ」

 

「うん」

 

 

 ジュリアは背を向けたまま手を振ると、今度こそ女子寮のドアを開いた。

 

 こんな日に限って月は雲に隠れていた。

 



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魔法界の子どもは蛙チョコレートで歴史を学ぶ

 ジュリアにとって喜ばしいことがいくつもあった。

 

 まず、ハーマイオニーが帰ってきた。ジュリアはハーマイオニーを抱き上げて笑いながらぐるぐる回り、女子寮にいた他の生徒たちを驚かせた。ハーマイオニーも口では恥ずかしがっていたが、笑みがこぼれていた。

 

 次に、盾の呪文を展開しながらの失神呪文が安定し、より素早く撃てるようになった。スネイプは「1年生としては上等な部類だろう。慢心せず励め」と彼なりの言い回しでジュリアを褒めてくれた。

 

 そしてなにより、グリフィンドールのクィディッチ・チームでキャプテンを務めるオリバー・ウッドはチームにさらなる過酷な試練を提供し、冷たい雨と泥の中でハリーは延々と飛び回っていた。体力の大半をウッドのしごきに持っていかれたハリーのサポートをするために、3人はニコラス・フラメルの調査から離れつつあった。

 

 グリフィンドール寮の窓を風雨が叩く中、ジュリアはハーマイオニーとロンがチェスを指すのを眺めていた。ハーマイオニーもいい指し手とは言えない。こればかりは兄弟とひたすら遊び続けてきたロンの経験が勝る。口出しするとまたボコボコに負かされるのがわかっていたから、ジュリアは黙って隣のカウチで硬い爪にやすりをかけている。

 

 寮の入り口から冷たい風が吹き込んで、真っ白な顔をしたハリーが転がり込んできた。寒さにやられたということはない。ハーマイオニーが毎回かける手間を惜しんで、ハリーとロンに温熱呪文をしっかり教えたからだ。ハリーは震える声で囁いた。

 

 

「次の試合、スネイプが審判だって」

 

 

 反応は劇的だった。ロンはこの世の終わりだと言わんばかりの顔をしていたし、ハーマイオニーは立ち上がってちゃっかりチェス盤をひっくり返した。

 

 

「試合に出ちゃだめよハリー」

 

「仮病を使おう」

 

「足を折ったことにするのはどうかしら」

 

「いっそ本当に折るとか」

 

 

 哀れセブルス・スネイプ。3人はいまだにスネイプを「ニコラス・フラメルとダンブルドアがホグワーツに隠した宝を狙う闇の魔法使い」と認識していた。もちろん、日頃の行いがいいとは言えない。ジュリアが彼を弁護できるわけではない。しかし、ジュリアにとっていい先生であるスネイプがここまで濡れ衣を着せられているのを見ると、流石に悲しくなった。

 

 ハリーも悲しそうな顔をしていたが、理由は違う。シーカーに補欠はいない。どうあがいてもスネイプの監視下でプレイするしかないのだ。ハリーは悲壮な、そして見当違いの覚悟を固めていた。

 

 話題はどうやってスネイプを妨害するかに移り変わり――スネイプを闇の魔法使いだと考えている割には、できものの呪いだの、クラゲ足の呪いだの、なんともお粗末な”攻撃”を考えているようだった――、そのときロングボトムが談話室に倒れ込んできた。

 

 

「ネビル!」

 

「……足縛りの呪い。ハーマイオニー、解けるか」

 

「フィニート・インカンターテム、呪文よ終われ。……大丈夫?」

 

 

 談話室のあちこちからロングボトムの醜態への嘲笑が聞こえてきた。しかし、ジュリアも、ハーマイオニーも、もちろんハリーとロンも笑わなかった。ここまでウサギ跳びでなんとか移動してきたのだろう、足が痙攣している。ジュリアが治癒呪文をロングボトムにかけはじめると、ロングボトムは震える声で報告を始めた。

 

 

「マルフォイに、図書館の外で……誰かに試してみたかったって……」

 

「マクゴナガル先生のところに行きましょう、ネビル! マルフォイにやられたって報告するのよ!」

 

「僕……僕、これ以上面倒は嫌だよ」

 

 

 心が折れかけている。ジュリアは静かに膝からアキレス腱まで杖を滑らせた。図書館から寮までとなると、相当な距離だ。ロングボトムにそれだけの体力があったことは賞賛に値するが、一方で精神力には問題が見られる。入学してから今まで、彼はずっと多方面から嘲りの目で見られていた。そのことが彼をさらに摩耗させたのだろう。

 

 

「僕がグリフィンドールに相応しくないのはわかってる。……マルフォイにもさっきそう言われたもの」

 

 

 ロングボトムは今にも泣き出しそうだった。自分がスクイブなのではないかと恐れ続け、やっとホグワーツに入学し、グリフィンドールに組み分けされることができた。しかし、成績も振るわず、呪文はなかなか上達せず、スネイプにはいびられ、同じグリフィンドール寮生にすら笑われる。

 

 しかし、そこに立ち上がる人物がいた。ハリーだ。

 

 ハリーはポケットから蛙チョコレートを取り出し、屈んでロングボトムに差し出した。ロングボトムが震える手でそれを受け取る。ハリーは穏やかな、しかしはっきりとした声でロングボトムを励ました。

 

 

「マルフォイが10人束になったところで、ネビル、君には及ばないよ。だって、君はグリフィンドールに選ばれた。あいつは腐れスリザリンだ」

 

 

 ロングボトムはハリーの言葉に勇気づけられた様子で、鼻をすすって目元を拭うと立ち上がった。足も一晩寝れば十分回復するだろう。筋肉痛は出るかもしれないが。

 

 

「ハリー、ありがとう……。僕、もう寝るよ。カードあげる。集めてたよね。おやすみ」

 

「おやすみ、ネビル」

 

「ぐっすり寝ろよ、ロングボトム」

 

 

 ロングボトムはジュリアとハーマイオニーにも小さく感謝を述べると、男子寮に去っていった。

 

 

「またダンブルドアだ。僕がホグワーツ行特急で初めて見た……これだ!」

 

 

 ハリーは熱に浮かされたように囁いた。ダンブルドアの「有名魔法使いカード」をじっと見つめている。そこには『ニコラス・フラメルとの錬金術の協同研究などで有名』の一文があった。ハーマイオニーが女子寮から大急ぎで引っ張ってきた埃臭い本は、『魔法界における錬金術の伝承と歴史』と題されている。ジュリアはとうとう状況が動いてしまったことを理解した。

 

 

「ニコラス・フラメルは、賢者の石の創造に成功した唯一の者。『賢者の石』はいかなる金属をも黄金に変える力があり、また不老不死の源である『命の水』を生み出す……賢者の石。これを守っているんだわ……!」

 

 

 しかし、ジュリアが注目したのはそこではない。ニコラス・フラメルはダンブルドアと協同研究を行った。だとすれば、賢者の石に関しても、ダンブルドアの考えの内なのだろう。ジュリアはみぞの鏡を思い浮かべる。目の前に最も望むものを映し、しかし与えない鏡。ヴォルデモートが賢者の石を狙っているなら、ダンブルドアはみぞの鏡そのものだ。

 

 案外、あの老人は残酷なのかもしれない。ジュリアは瞳を輝かせて柔和な微笑みを浮かべる老賢者を思い浮かべて、小さく首を横に振った。

 



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クィリナス・クィレルという人物

 クィレルは教師として無能なわけではない。ニンニク臭いことと、どもり癖があることを除けば、実直で丁寧な授業をする。厄介なミイラを退治してターバンを下賜されたという点に関しては疑わしいが、少なくともその知識は確かだ。人狼に噛まれた際の処置について実例を挙げながら、しかし教科書に書かれている内容から外れることもなく解説する様子は、最低限教師としての義務を果たしている。

 

 授業内容を聞く限り、クィレルの人狼に対する態度は極めて中立的だ。時折、自分で用意した図像に怯える姿を見せて失笑を買ったが、それに対して何を言うでもなく、静かに人狼の感染や満月による狼化、理性の消失について説明し、人狼が噛みついて感染させるのは感染を意図したときか、狼化したときだけであること、理性の消失は近年発明された脱狼薬の服用によって抑えられることまで言及している。その表情に人狼への嫌悪感は見られない。

 

 ジュリアはまだ、個人的にクィレルと話したことはなかった。ダンブルドアもスネイプもクィレルがヴォルデモートと繋がっていると考えている。二人とも聡明で賢明な魔法使いだ。もちろん、ジュリアは彼らの言うことを疑っているわけではない。しかし、それとは別に、クィリナス・クィレルという人物への興味があった。

 

 

「先生、ちょっとお時間いいっすか」

 

「お、おや、ミス・マグリット。し、し、質問ですか?」

 

 

 穏やかに。丁寧に。しかし、猫を被る必要もない。ジュリアは静かに口を開いた。

 

 

「いや、なんつうか……先生と個人的に話したこと、ねえなって思って。いや、忙しかったらいいんすけど」

 

 

 クィレルの頬が引きつったが、どうやら彼なりの微笑みのようだった。話をする気はあるようだ。クィレルは資料を教壇に置き、丸椅子を手で引いてジュリアの前に座った。

 

 

「前はマグル学を受け持ってたんすよね?」

 

「え、ええ、はい。ま、マグル学に興味が?」

 

「んー……あたし、4年くらいストリートチルドレンやってたんすよ。チャイナタウンでゴミ漁りしたり、深夜にピザの配達したり。だからマグル界も魔法界も割と知ってるつもりではあるんすけど……ああ、別に同情を買おうってんじゃないんで、そんな顔しないでくれ……じゃない、ください」

 

 

 クィレルは沈痛そうな表情だった。ジュリアは彼から、どこか、自分自身の苦しみに直面したような、過去の記憶に傷つけられたような、そんな雰囲気を感じ取った。

 

 

「そ、そういうことでしたら、無理に丁寧な言葉を使う必要は、あ、あ、ありませんよ。わ、我々は教師と生徒であり、ほ、本来それは対等な関係なのですから」

 

「……そんなことを言ってくれたのはあんたが初めてだ、クィレル先生」

 

「きょ、教師と生徒の関係において、教師が生徒の個人的な部分に踏み込むのは、ま、ま、マグル界の教育でも問題視されつつあります……こ、これも、昔取った杵柄ですが」

 

 

 クィレルはなんとか微笑もうとしているようだったが、やはり頬が引きつったようにしか見えなかった。それでも、彼なりの優しさとジョークを理解して、ジュリアは微笑を返した。

 

 ゆったりした時間が流れていた。クィレルはレイブンクロー寮生だったが、ジュリアと同じく繊細な呪文の実践が得意ではなかったこと。誰もいない湖の畔で多くの本を読んで学んだこと。半純血で、マグル界も魔法界も知っていたために、マグル学の成績は秀でていたこと。本当は魔法生物が好きだけれど、緊張すると上手く呪文が使えないので調教師などにはなれなかったこと。それでも独学で魔法生物、特に危険だと認定されているものについて学び、その一部は今の役職にも活かされていること。

 

 クィレルはずっと話相手を求めていたようだった。彼はどもり、つっかえ、それでもジュリアに多くを語った。ジュリアも丁寧な口調ではなかったが、笑ったり、驚いたりしながら話の続きを促した。

 

 

「以前、旅行中に山トロールに遭遇したのですが、驚くべきことに彼は私の焚火のそばで一晩を過ごし、そのまま去っていったのです。私はこれを興味深い記録として魔法生物学会に提出したのですが、残念ながら……お、おっと、ずいぶん話してしまいましたね。つ、つ、次の授業の準備をしなくては」

 

「もうこんな時間か。悪いな先生、時間取らせちまって」

 

「い、いえ、私こそ自分で話してばかりで……」

 

 

 クィレルは悲しそうに眉を下げた。きっと、彼は乾いていたのだろう。他の教師たちには警戒され、生徒には馬鹿にされ、この広い、広いホグワーツで、彼は独りだったのだ。

 

 

「いや、楽しかったよ。ありがとな、先生。……そうだ、最後に1つだけ」

 

「はい、な、なんでしょう」

 

「確か、アルバニアで修行してたんだよな。去年はずいぶん荒れてたって聞いたが……あそこになにかあるのか?」

 

 

 クィレルは一瞬沈黙して、小さく首を横に振った。

 

 

「あ、あなたが興味を持つようなものは、きっとなにも。しかし……私は強くなりたかった」

 

「……そうか。まあ、先生が五体満足で帰ってこれてよかったよ。それじゃ……また」

 

 

 きっと、”また”はないだろう。

 

 それでも、ジュリアは悲しかった。どれだけ強かろうと、オオカミは独りでは生きていけない。人間もそうだ。クィレルは群れからはぐれてしまった。群れに戻るために力を求めて、群れから追い出される理由を作ってしまった。あまりに哀れで、苦しくて、それでも、ジュリアはクィレルに笑顔で挨拶をした。きっと、彼はそれを求めているから。

 



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試験勉強に集中したい

 ハリーが試合開始から5分でスニッチを取った記録的な試合の後、3人は箒置き場に向かったはずのハリーを待っていた。談話室は今ごろお祭り騒ぎだろう。フレッドとジョージがどこかからケーキを調達してくると言っていたし――ジュリアはいつか必ずそのルートを把握し、活用すると誓った――、ウッドはサンバでも踊り出しそうな勢いで吼え猛っていた。

 

 しかし、しばらくして帰ってきたハリーは、蒼白な顔で「どこか誰もいない部屋へ」と口にした。その尋常ではない様子に気圧されて空き教室に向かい、ピーブズがいないことを確認すると、ハリーは堰を切ったように話しはじめた。

 

 

「ぼくらが正しかった。スネイプが狙ってるのは『賢者の石』だ。クィレルを脅してた……フラッフィーを出し抜く方法と、あと、『怪しげなまやかし』のことについて……きっと、守りはフラッフィーだけじゃないんだ。クィレルがスネイプの闇の魔術から『賢者の石』を守ってるんだと思う」

 

 

 ジュリアは頭を抱えればいいのか、誤魔化せばいいのか、わからなくなってきた。スネイプほどの魔法使いであれば、ハリーの気配には気づいていただろう。だとしたら、わかっていて見せたのかもしれない。そうすると、スネイプは自ら悪役を買って出たということになる。そして、それはおそらくダンブルドアの指示だ。ダンブルドアはハリーを守っている。クィレルはアルバニアに行って強力になった。クィレルとハリーが対峙すれば、負けるのはハリーだ。ダンブルドアはハリーを守るためにスネイプをスケープゴートにしている。

 

 これらはすべて憶測でしかない。確認すべきだ。次の個人授業で確認すべき点があまりに多い。今のところは口を挟まないほうがいいだろう。ジュリアはハリーの話を真に受けたふりをした。

 

 

「それじゃあ……『賢者の石』が安全なのは、クィレルが抵抗できている間だけってことになるわ」

 

「三日ともたないな。石はすぐなくなっちゃうよ」

 

 

 ロンは諦めたようにぼやいた。

 

 このことをきっかけとして、ハリーたちがクィレルに対して好意的に振る舞うようになった。これもジュリアにとっては悩みの種だった。ハリーたちをクィレルに近づけるべきではない。しかし、露骨に引き離せば勘付かれる。ジュリアは「もしクィレルがスネイプから石を守っているのなら、余計な刺激でストレスをかけるべきではない」と言いくるめることで、なんとか3人を普段通り振る舞わせることに成功した。

 

 そして、スネイプとの個人授業では褒められたり、叱られたり、珍しく大騒ぎだった。

 

 

「もしクィレルが君に開心術を使えば、計画がすべてご破算になるところだったのだぞ」

 

「完っ全に失念してました、ごめんなさい。……だが、開心術のあの気持ち悪い感覚はなかった」

 

 

 スネイプはもはやこの話題になると最初からスキットルを手にするようになった。彼が酔う様子はなかったが――ひょっとするとザルなのかもしれない――、それだけのストレスを与えていると思うと多少の申し訳なさを感じる。しかし、ジュリアにとっては友達の命の危機だ。遠慮している場合ではなかった。

 

 

「クィレルが一流の開心術師でないことを祈るしかない……しかし、君は奴に心を開かれている。怪しまれない程度に距離を取れ。心優しい優等生を演じろ」

 

「もとからあたしは心優しい優等生様だ、先生。ハリーにクィレルを脅してるところを見せたな?」

 

「いかにも。クィレルはポッターの手に負える相手ではない」

 

「ダンブルドア……校長の指示か?」

 

「左様。今日は復活祭休暇の準備のために教員会議が繰り上げになっている。我輩は教員室に向かわねばならない。いいか、くれぐれも」

 

「ハリーたちに隠し通せ、だろ? 全力でやってるさ」

 

 

 ジュリアは肩をすくめたが、スネイプは仏頂面を崩さず鼻を鳴らした。

 

 

「それから、礼法と試験勉強もだ」

 

 

 スネイプの言うとおり、ジュリアは試験勉強に励まねばならなかった。試験は10週間先に迫り、先生方の”温情”によってたっぷりの宿題が言い渡されている。もちろん、ジュリアは宿題だけやっておけばなんとかなると思うほど楽観的ではなかった。なんといっても実技があるのだ。ジュリアは変身術でいま取り組んでいる石を小鳥に変える魔法にも苦戦していたし、呪文学の箒にタップダンスを踊らせる呪文にもうんざりさせられていた。

 

 ジュリアは繊細な魔法が得意ではない。しかし、これを弱点にしたまま進んでいくと、大規模な魔法の緻密な部分でミスを犯しかねない。幸いにして理論は理解している。あとは発音、杖の振り方、イメージ、魔力の操作だ。こればかりは練習あるのみ。ハーマイオニーがノートにマーカーを入れる隣で、ジュリアは杖を振り続けた。小鳥、石、小鳥、石。

 

 

「あのさあ君たち、試験は10週間も先だよ?」

 

「ニコラス・フラメルにしたら1秒よ」

 

「お忘れじゃありませんかね、僕ら600歳じゃないんだぜ」

 

「10週間は70日。70日は1680時間。1680時間は100800分。1分に1回杖を振っても10万回しか振れねえんだぞロン」

 

「ジュリアまでおかしくなっちゃった……」

 

 

 小鳥、石、小鳥、石、小鳥、羽の生えた小石。小石が飛んでいく。

 

 

「あ、くそっ。そいつ捕まえてくれ」

 

「取ってくるよ、ここにずっといると頭が煮えそう……ハグリッド! 図書館でなにしてるんだい?」

 

 

 流石に本棚よりは小さいと言えども、コソコソするのに向いている体格ではない。何かを隠すように調べていたハグリッドはあっさり見つかってしまった。

 

 

「んおう! なんだ、ロン、お前さんか。ちーっとな、読書ってやつを……」

 

「もしかして、石のことかしら」

 

 

 ハーマイオニーの言葉にハグリッドが固まった。さぞかしショックだろう、自分が口を滑らせたせいで、こっそりグリンゴッツから運び出した"ダンブルドア先生の秘密"がバレてしまったのだから。目が合ったので、ジュリアは肩をすくめて首を横に振った。自分は何も話していない。

 

 

「そのことは大声で言い触らしちゃいかん!」

 

「そうだ、ハグリッド」

 

 

 机に突っ伏して教科書の上で今にも眠りそうだったハリーが、身を起こした。

 

 

「フラッフィー以外にあの石を守ってるのって、どんなの? たとえばクィレル先生なら――」

 

「言い触らしちゃ、いかん! まったく……あとで小屋に来てくれ。ここでそのことについてあれこれ言われちゃ困るだろうが」

 

「わかった、またあとでね」

 

 

 ハグリッドが何かを懐に隠して、小枝やら獣の毛やらを落として去っていくと、ハリーたちは顔を見合わせて囁きはじめた。

 

 

「ハグリッドが隠してたのは何かしら」

 

「石と関係があると思う?」

 

「関係があったら軽い読書とは言えねえな。……くそっ、また羽つき小石だ。ステューピファイ。よし」

 

「いやよしじゃないよ、まだ練習してたのかいジュリア。僕、ハグリッドがどの棚にいたのか見てくる」

 

 

 さほど時間はかからなかった。ロンが持ち帰ってきたニュースは、ドラゴン。厄介事の気配に、ジュリアはとうとう杖を収めて頭を抱えた。

 



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違法で危険で素敵な卵

 ハグリッドの小屋はパッチワークのカーテンがすべて閉ざされ、汗ばむ陽気だというのに煙突から煙が上がっていた。明らかに怪しい。4人は頷きあった。ジュリアの予想が正しければ、あの少し抜けた大男は、重大な法律違反を犯している。

 

 

「ロン、なんつったか、あの法律」

 

「ワーロック法だよ、1709年。チャーリーに教え込まれたんだ。これさえなかったら自分もドラゴンを飼ってたって。でも、そんなことしたら、隠れ穴が吹き飛んじゃう」

 

「ハグリッドの小屋だって吹き飛んじゃうわ……。とにかく、まずは石について。次に、ドラゴンについて。いいわね?」

 

 

 ハリーがドアをノックした。ハグリッドは明らかに警戒した声で「誰だ?」と確認し、ハリーたちだと声でわかると素早くドアを開いて、そして4人を引っ張り込むと素早くドアを閉じた。

 

 相変わらず色々な匂いが充満していたが、それでもジュリアはその卵に気がついた。地上で――正確には空も含めて――最も凶暴な爬虫類、おそらくマグルが一番よく知る魔法生物。ドラゴンだ。間違いない。

 

 ジュリアが顔を引きつらせているうちに、ハーマイオニーはどこで学んだのか、ハグリッドを優しく追い詰めて、とうとう口を割らせてしまった。

 

 

「まあ、誰が守っとるくらいは言っても構わんだろう。そのほうが安心するってもんだ。俺からフラッフィーを借りて、スプラウト先生、フリットウィック先生、マクゴナガル先生、クィレル先生、もちろんダンブルドア先生も。ああ、それから、そうそう、スネイプ先生」

 

「スネイプだって?」

 

 

 ハリーは素っ頓狂な声を上げた。ハリーたちの中でスネイプは”先生”ではないらしい。スネイプとダンブルドアの作戦は上手くいっている。上手くいきすぎなくらいだ。

 

 

「まだ疑っとるのか。スネイプ先生は石を守る側だぞ」

 

「でも……うん。ところで、フラッフィーをおとなしくさせる方法はハグリッドしか知らないんだよね?」

 

「俺とダンブルドア先生以外は誰一人として知らん」

 

 

 答えはノーだ。

 

 ジュリアは埃臭い古書店で店番をしていたころに読んだオルフェウスの冥界下りを思い出す。オルフェウスの竪琴でたちまちケルベロスは眠りについてしまった。そうしてオルフェウスは愛する人を取り返すために冥界へと進んだのだ。あのバイト先は悪くなかった。店主の老人は無口で詮索しない人物だったし、客も知的で本にしか興味のない人たちだった。もっとも、人狼狩りの魔法使いに見つかって大慌てで辞することになったが。

 

 しかし、ハリーたちは安心したようで、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 

 ジュリアにとってはここからが本題だ。

 

 

「んじゃ、次はあたしの手番だな。聞かせてもらおうじゃねえか。暖炉の中にある、とってもキュートな爬虫類の卵について」

 

「えーと、あれはだな……」

 

「ハグリッド、隠し財産でもあったの? すっごく高いよね?」

 

「賭けに勝ったんだ、トランプをしてな。ホッグズ・ヘッド、ホグズミードにあるパブで……知らない男だったが、そいつも厄介払いできて喜んどった」

 

 

 今はそういう話をしているんじゃないんだ、ロニー坊や!

 

 ジュリアは怒鳴りたくなるのを必死にこらえて、可能な限りにこやかに口を開いた。

 

 

「んじゃあ、あたしともトランプするか、ハグリッド。ポーカー、ブラックジャック、バカラ、どれがお好みだ? 賭け金はもちろん、その卵。負けたらあたしの奨学金全額くれてやるよ。勝ったらその卵は、そうだな、1週間後には最上級の不妊治療薬になって聖マンゴ行きのフクロウ便の中だ」

 

 

 もちろん、ちょっとしたトリックは使わせてもらうが。

 

 

「いかん! これがどんなに貴重なもんか……」

 

「でも、ハグリッド、もし卵が孵ったらどうするつもり? この家は木の家なのよ?」

 

 

 ハグリッドは夢が叶ったという様子で鼻歌まじりに薪をくべた。珍しく、4人の意見は完全に一致しているようだ。厄介なことになった。ジュリアの中に奇妙なイメージが組み立てられた。ホグワーツにドラゴン。つまり、ダンジョンズ&ドラゴンズだ。この冒険でファンブルを引かないことを祈るしかない。



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致命的失敗

作者より一言:本日、筆を執って1ヶ月記念日です。


 幸いだったのは、ロンの兄――チャーリーが違法な魔法生物の密輸に関して協力的な人物だったことだ。とうとうハグリッドの手に負えなくなったドラゴンは、ドラゴンの飼育地として有名なルーマニアに送られることになった。

 

 しかし、問題も多い。土曜の深夜にドラゴンが入った箱を天文台まで運ばねばならない。チャーリーの友達が引き取りに来るのだ。そのためにはまた夜の散歩をしなければならない。それも、いつもとはわけが違う。法に抵触し、校則を破り、場合によってはドラゴンの幼体という危険からも身を守らねばならない。

 

 何より最悪なのが、マルフォイにそのことを知られたことだ。盗み聞きでドラゴンのことを知ったマルフォイは、ドラゴンに手を噛まれて入院していたロンからチャーリーの手紙を盗み出した。トロフィー室のときと同じように、狡猾な罠を張っていることだろう。

 

 それでも、ハリーたちは友達のハグリッドを見捨てる気はないようだし、ジュリアも毒と炎の竜ノルウェー・リッジバックが闊歩するホグワーツというのは少々御免被りたいので、やむを得ずドラゴン輸送作戦はスタートした。ジュリアの知識をもとにハーマイオニーがルートを組み立て、ジュリアとハリーがドラゴンの入った箱を持っていく。緊急時にはハーマイオニーが双子から仕入れた大砲の音が鳴るクラッカーでフィルチを引きつける。穴だらけの作戦だが、上手くいくことを祈るしかない。

 

 

「いいか、ハリー。あたしの鼻は万能探知機じゃねえんだ。隠し扉の向こうにフィルチがいるかもしれねえし、踊り場の影にピーブズがいるかもしれねえし、はっきり言って状況は最悪。加えてマルフォイがどこかで何かを仕掛けてきやがるのは間違いない。ああ、くそったれだ」

 

「落ち着いて、ジュリア」

 

「落ち着いてるさ、最高に冴え渡ってるね。証明してやるよ。……前方にマクゴナガルとマルフォイだ」

 

 

 タータンチェックのガウンを着たマクゴナガルが、ランプを手に”オニ”のような形相を浮かべている。ハリーたちに対してではない。マルフォイに対してだ。ランプの火と同じくらい、マクゴナガルの目は燃え上がっていた。

 

 

「本当なんです、先生! ハリー・ポッターが来るんです! ドラゴンを連れて!」

 

「馬鹿馬鹿しいことを! スリザリンから20点減点、罰則もです! ついてきなさい、スネイプ先生を起こさねばなりません」

 

 

 哀れスネイプ、マクゴナガルとパジャマパーティー。ジュリアがそう呟くと、ハリーがクスクス笑った。箱の中のドラゴンが音を立てて暴れ始めたので、ハリーはすぐに笑うのをやめた。

 

 綿密なルート構築のおかげで、時間には余裕を持って天文台に到着することができた。今夜は新月だ。ジュリアは星座を観察して天文学の復習をし、ハリーはドラゴンの入った箱に腰かけて船を漕いでいる。

 

 20分ほどして、4人の男たちが静かに箒で空を駆けてきた。みなどこかしらに傷痕がある。チャーリーの愉快で陽気なドラゴン仲間だ。ハリーとジュリアは4人に協力してドラゴンを牽引できるよう繋ぎ止め――暴れるドラゴンをジュリアが引っかかれてまで力づくで押さえ込むことになった――4人はハリーとジュリアに代わる代わる挨拶をすると、箒で去っていった。

 

 今度こそジュリアはほっとして胸を撫で下ろすことができる。違法な魔法生物は”密輸業者”の手に渡った。マルフォイはマクゴナガルに連れられて地下牢行き。何も問題はない。二人は透明マントを被ると、足早に天文台を下りていった。

 

 ジュリアは完全に油断していた。一番警戒すべき人物のことを失念していたのだ。

 

 

「くそっ、ハリー止まれ! フィルチだ!」

 

「え、うわっ!」

 

 

 驚いたハリーが足を踏み外して灯りの下に転げ落ちた。ジュリアは手早くマントをウェストポーチに収納すると、ゆっくりハリーの隣に並ぶ。

 

 

「お前を捕まえる日を心待ちにしていたよ、ジュリア・マリアット」

 

 

 ジュリアにとって久しぶりの失敗だった。それも、致命的な失敗。



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マクゴナガル、もしくは秩序と調和について

 マクゴナガルの執務室で、ジュリアは新しいことを知った。それは、人は極度の憤怒に陥ると無表情になるということだ。マクゴナガルがまさにそれだった。ハリーとジュリア、そしてなぜかロングボトムを立たせたまま、杖で掌を叩いていた。

 

 

「呆れ果てたことです。ミスター・マルフォイを罠にかけ、ロングボトムまで巻き込み。とんでもないことです。50点。グリフィンドールから減点です。1人50点です」

 

 

 ハリーが息を呑んだ。おそらく寮対抗のことを考えているのだろう。ジュリアは比較的落ち着いていた。そして、ハリーを守りきれなかった自分自身に失望していた。何が人狼だ、何が鋭い嗅覚だ。

 

 

「ポッター、ロングボトム、ベッドに戻りなさい。……マリアットにはもう少し話があります」

 

 

 茫然自失の体でゆらゆらと執務室から出ていく2人を見送って、ジュリアはマクゴナガルとしばし見つめあった。

 

 

「……確かに私は友達を大事にしなさいと言いました、ええ、そのようにあなたを導いたように思います」

 

「ああ」

 

「しかし、それは悪戯に手を貸せという意味ではありません。友達を止めるのもまた友達の役目なのですよ、マリアット」

 

「わかってる」

 

「わかっているものですか。あなたは計算し続けるか計算しなくなるかの二択でしか行動できないのですか!」

 

「するってえと、あれだな。ドラゴンなんて嘘っぱち、あたしとハリーはロングボトムとマルフォイを騙して深夜のデートと洒落込んだ、そうお考えなわけだ」

 

「言い訳は聞きたくありませんよ。ヘクターとエレンに顔向けができません、まったく……」

 

 

 ジュリアは返事の代わりに、ローブを捲ってみせた。

 

 ノルウェー・リッジバックの幼体は鋭い爪を持つ。もしかすると爪にも毒があるかもしれない。その四肢をジュリアは全身で押さえ込んでいた。当然、多少の傷を負うことになる。

 

 太ももを深く切り裂いた傷は脈打ち、血を流し続けていた。

 

 

「それは、一体」

 

「あたしもさっさと手当てがしてえから一気に話すぞ。ハグリッドが法律で飼育を禁止されてるドラゴンの卵を入手し、孵化までさせた。入手した場所はホグズミードのホッグズ・ヘッドだ、探せば目撃者がいる。そうでなくともハグリッドの小屋を見ればドラゴンの痕跡が残ってる。ハリーたちはハグリッドを犯罪者にしないために、チャーリー・ウィーズリーに連絡を取ってドラゴンをルーマニアに密輸することにした。この計画がロンのミスでマルフォイの野郎にバレた。ロングボトムがなんでいたのかは知らねえ。ドラゴンは今ごろ空の上だが、数日後にルーマニアの飼育地に確認を取ればメスのノルウェー・リッジバックが一頭増えてることがわかるだろうよ」

 

 

 マクゴナガルは硬直して、目を見開いていた。

 

 そう、初めからこの計画は穴だらけだった。探そうと思えばいくらでも証拠は見つかる。マルフォイが悪辣でなかったか、その家族が暇でなかったからこれだけで済んだのだ。マルフォイが実家に連絡し、その家族が魔法省に働きかけ、魔法省が査察に来れば、その時点でハグリッドは終わっていた。これは幸運な結果だ。

 

 ジュリアは痛む傷を無視して、言葉を続けた。

 

 

「あたしはこのことを揉み消すつもりでいる。政治には疎いが、危険な魔法生物の密輸入ってのは流石に国際問題だろ? それに、これがバレればハグリッドは辞職じゃすまねえだろうなってこともわかる。だから、あたしは黙って減点を受け入れるし、罰則を受けるが、父さんにも母さんにも恥じる気は一切ねえ。あたしはあたしの思う正しいことをした。あんたはどうする、マクゴナガル先生。これを報告してハグリッドを首にし、ついでにルーマニアとの間に国際問題を引き起こすか? それとも黙っていつも通りの厳格な寮監として振る舞うか?」

 

 

 そこまで言い放つと、ジュリアは杖を抜いて、手当を始めた。十分血は流した。瀉血など古いやり方だが、もし爪に毒があったなら、それが抜けていることを期待するしかない。

 

 傷口を拭い、筋繊維から順にゆっくりと繋ぎ、塞いでいく。傷痕はともかく、後遺症は残したくない。動きに支障が出るのは、ジュリアにとって死活問題だ。

 

 ジュリアが包帯を巻き終えたところで、マクゴナガルは静かに口を開いた。

 

 

「ルビウス・ハグリッドの処遇についてはダンブルドア校長にお伝えしておきます。ドラゴンに関しても、おそらくは何もなかったことになるでしょう。……我々は幸運でした」

 

 

 マクゴナガルは一気に老け込んだように見えた。校内で生じた重大な法律違反を揉み消す片棒を担がされたのだ。マクゴナガルはジュリアから見て秩序の人物のように思えた。であるならば、なおのこと彼女には苦痛だろう。

 

 

「あんたを苦しめるつもりはなかったんだ、先生。ただ、ハリーのことを思うなら、事実を知ってる大人が誰か必要だと思う。そして、あたしがこんなことを話して信じてくれるのはせいぜいあんたか、スネイプ先生だ。そして、スネイプ先生ならハグリッドを首にする選択を取るし、ハリーを支えたりもしない。だから、話せるのはあんただけだった。……もう行っていいか?」

 

 

 きっとジュリアは明日から”狼少女”扱いを受ける。誰に何を言っても信用してもらえないだろう。ジュリアはそれでも構わなかった。しかし、ハリーは別だ。ハリーを信じて、支えてくれる大人が必要だとジュリアは考えた。ロンや、ハーマイオニーや、ジュリアでは足りない。計画の協力者である双子もある程度事情は理解しているが、それでも足りない。偏見の目で見ない大人の助けが必要になる。

 

 ジュリアはマクゴナガルに背を向けると、執務室から辞去しようとした。

 

 

「……待ちなさい、ミス・マリアット」

 

「何だ、先生。あたしだって流石に眠いんだ」

 

「医務室まで送ります。傷痕が残らないよう、マダム・ポンフリーに見てもらうべきです」

 

 

 マクゴナガルの声は震えていた。その表情は想像したくない。ジュリアは後ろを振り向かないようにして、マクゴナガルを連れて医務室に向かった。

 

 廊下は静かだった。女のゴーストがすすり泣く声がどこかから聞こえていた。ジュリアの記憶が正しければ、レイブンクローのゴーストだ。彼女は何を思って泣いているのだろう。

 

 少しだけ、ジュリアも泣きたい気分だった。

 

 

「ミス・マリアット」

 

「何だ、先生」

 

「……うまく言葉にできませんが、やはりあなたはヘクターとエレンの子ですね」

 

 

 マクゴナガルが何かを言いよどむのは、ジュリアの知る限りこれが初めてだ。ジュリアはなにも返事をしなかった。

 

 廊下は暗いが、ジュリアは夜目がきく。だから、マクゴナガルのランプが眩しかった。それでも、今は月明かりと、ハーマイオニーが恋しかった。



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噛みつく

 ハリーに対する嫌悪の刺が四方八方から向けられていた。一晩で150点を引かれた目立ちたがりの自己中心的な子ども。それが4つの寮に所属する寮生の共通認識となっていた。スリザリンはあからさまに感謝を示し、グリフィンドールはおおっぴらに悪口を言い、ハッフルパフとレイブンクローですら悪意のまなざしでハリーを見た。みんなの嫌われ者であるスリザリンから寮杯を奪うチャンスを潰したのだ。

 

 ハリーはクィディッチで得点を稼いでいた。つまり、英雄扱いを受けていた。その分、掌返しの落差は激しい。ハリーはできるだけ試験勉強に没頭しようとしている様子だったが、それでも苦しんでいるのはジュリアにもわかった。

 

 もちろん、ジュリアも悪意に晒された。ジュリアはハリーほど目立っていなかったから、「ハリーと一緒に減点された奴」程度の認識しかされていないし、元々友達が多いわけでもない。ジュリアは隠し通路で教室に向かい、空き教室で本を読み、門限ぎりぎりに女子寮のドアを押した。食事だけは広間に出ないとどうしようもなかったが、そこはマクゴナガルが目を光らせてくれていた。

 

 しかし、ジュリアの悪口を言われるたびにハーマイオニーが怒るのは問題だった。ハーマイオニーが悪目立ちするのはジュリアにとって本望ではない。人は悪人を庇う人物もまた悪人であると考える傾向が強い。人狼狩りの魔法使いがジュリアの母を闇の魔法使いだと決めつけたように。

 

 

「グレンジャー、あなたならわかるでしょ? もうあの女とつるむのはやめなさいよ。あなただけよ、あんな屑の人でなしと付き合ってるのは」

 

「お生憎様ね、ブロックルハースト。ジュリアはこんなところで私に陰口を吹き込もうとする人なんかよりずっと素敵で立派な人だわ」

 

「へえ、あくまでもあの女の肩を持つのかよ、グレンジャー」

 

「マクラーゲン、だったかしら。そうよ、ジュリアは私の親友。なにか文句でもある?」

 

「ああ、あるね。あいつはポッターと一緒に寮対抗を台無しにした」

 

「それで? ご自分で稼いだ点はどれくらいあるのかしら? 私よりも多い? 記憶が正しければ、ジュリアだってトロールと戦ったときに10点もらっているのだけど、あなたは10点でも稼いだことがある?」

 

「……僕を挑発したな、グレンジャー」

 

「知らないの? グリフィンドールって勇敢なのよ。ああ、あなたには関係のないことだったわね、マクラーゲン」

 

 

 ジュリアはしばらくその会話をタペストリーの裏で聞いていた。出るタイミングを失ったとも言える。ハーマイオニーが自分のために熱くなってくれるのは嬉しい。しかし、こうやって他の寮に敵を作っていくのは、彼女のためにならない。確かに、親友のために戦うのはグリフィンドールらしい勇敢さだが、その勇敢さが彼女自身を傷つけることになるのではないかと思うと、ジュリアは胸が苦しくなった。

 

 マクラーゲンかブロックルハーストかのどちらかが杖を抜いた音がした。

 

 

「――おやおや? あたしの可愛いお姫さまに杖を向ける、悪い魔法使いが、ひとーり、ふたーり」

 

「ジュリア、どうして」

 

 

 隠し通路の斜面を蹴って、一歩で廊下の中心、”悪い魔法使い”とハーマイオニーの間に躍り出る。ハーマイオニーは壁際まで追い詰められていた。気丈なことを口にしていたが、顔色はよくない。

 

 ジュリアはマクラーゲンとブロックルハーストに向き直ると、両手を広げて笑ってみせた。

 

 

「どうした? お前らの憎い、にくーい、屑で人でなしのジュリア・マリアットはここだ。お前らの杖が届く一歩先だぞ。さあ、杖に力を込めろ。呪文は正確にな。何をかけたい? 磔の呪いか? しっかり憎しみを込めて唱えろ、それがコツだそうだ」

 

 

 ジュリアが小さく踏み出すと、マクラーゲンとブロックルハーストは杖を構えたまま一歩退いた。

 

 

「ああ、法に触れるのが怖いか? そうか、でも安心しろ。お前らにとってあたしは人じゃねえんだろ? ほら、ハンティングのお時間だ。呪いを唱えろ。獲物をいたぶれ。そして仕留めて、お前らは栄光を手にするんだ」

 

 

 ジュリアはもう一歩踏み出した。マクラーゲンとブロックルハーストの杖が胸に当たる。ジュリアの黒いローブの上に小さく火花が散った。2人の手は震え、ブロックルハーストは涙すら浮かべている。

 

 

「どうした。……ああ、呪文を忘れちまったのか。もっと簡単な呪いだっていい。スコージファイは相手を窒息させられる。死だ。インカーセラスは相手を絞殺できる。死だ。インセンディオは相手の衣服から頭髪まで炎上させられる。死だ。あたしを殺すのは簡単だぞ? さあ、さあ、さあ!」

 

「――もうやめて、ジュリア!」

 

 

 ハーマイオニーの叫びに、すっと意識が冷めていった。

 

 転げるようにして教室に駆け込んでいく2人の背を眺める。きっと「ジュリア・マリアットに脅された」とでも告げ口するのだろう。しかし、ジュリアのローブには小さな焦げ跡が2つ残っている。ジュリアは冷静だった。極めて冷静だった。

 

 

「悪いなハーマイオニー、本当はもっと早く――」

 

 

 ジュリアの右頬に痛みが走った。

 

 思わず頬に手を添える。熱い。涙ぐんだハーマイオニーが、息を荒げてジュリアを睨みつけていた。ハーマイオニーにこれほど鋭い視線を向けられるのはいつ以来だろうか。ひょっとすると、初めてかもしれない。ジュリアはただただ、驚いていた。

 

 

「馬鹿、ジュリアの馬鹿! あなた、もっと人付き合いがうまかったはずでしょ? どうしてそうやって、自分から敵を作るのよ!」

 

「ハーマイオニー」

 

「自分で言ってたじゃない! 実験と観察、計算と理屈、パターン化と実証! あなたならもっと賢く立ち回れるはずなのに!」

 

「ハーマイオニー!」

 

 

 口を開いてから、ジュリアは驚いた。まさか自分がハーマイオニーに声を荒げることになるとは思ってもみなかったのだ。しかし、譲れない一線というものがあった。

 

 

「あたしはちゃんと計算したさ。杖も抜いてない、脅しと取られる発言もしてない、相手が杖を構えた証拠だって残してある」

 

「でも、あの人たちはジュリアを敵視するわ。ずっと、ずっと。それがわからないの?」

 

「そんなことどうだっていい。ハーマイオニーが傷つけられそうになるならあたしはなんにだって噛みつくさ」

 

 

 ハーマイオニーはこぼれ落ちる涙を隠そうともせず、ジュリアの目を見ていた。ジュリアも、じっとハーマイオニーを見つめ返した。

 

 

「言っただろ、あたしはくそったれの犬っころだ。あたしを親友だって言うなら覚悟しろ、ハーマイオニー・グレンジャー」

 

 

 ジュリアも、ハーマイオニーも、荒くなった呼吸を何とか整えようとしていた。廊下は2人の貸し切りで、動くものは絵画だけ。その絵画すら沈黙を保っている。

 

 大きく息を吐いて、ハーマイオニーが壁を背に崩れ落ちた。

 

 

「……大丈夫か」

 

「少しも大丈夫じゃないわよ。馬鹿。馬鹿ジュリア」

 

「わかってる。あたしは馬鹿だよ」

 

「自尊心の欠如。自己犠牲。攻撃的。直情的。……躾けなきゃいけないことが多すぎて、親友として頭が痛いわ」

 

「今日は随分と手厳しいな。あたしはそういう奴だ。忘れちまったのか?」

 

 

 ジュリアはハンカチを取り出して、跪くと、ハーマイオニーの涙を拭った。ハーマイオニーは座り込んでされるがままになっていた。

 

 

「人は成長する生き物よ、ジュリア。向上心を忘れないで。私も、ちゃんとそばにいるから」

 

「あたしは……」

 

「あなたは人。犬でも狼でもない。そうでしょ? ……授業に遅れるわ。手、貸して」

 

 

 あなたは人。

 

 この一言が、ジュリアの頭の中で反響していた。ジュリアは自分のことをどこか人でなしだと思い続けていた。人でなしだから打算で人付き合いができると思っていた。人でなしだから半人狼の力を活用していると思っていた。人でなしだから、人でなしだから。

 

 ある記憶が蘇る。高級なローブを着た男が、ジュリアの母に磔の呪いをかけている。ほとんど表情の変わらない、それでも床に倒れて悶え苦しむ母を足蹴にして、男は愉悦に顔を歪めながらジュリアに杖を向ける。そして、ジュリアは――

 

 ジュリアはハーマイオニーが差し出した手を引き上げて、彼女の軽い体を抱き上げた。

 

 

「ちょっと、ジュリア」

 

「温室でハリーが針のむしろに座ってるだろうな。急がなきゃいけねえ。そうだろ?」

 

「でも、それは、ちょっと、あああ! 馬鹿、馬鹿ジュリア!」

 

 

 ハーマイオニーを抱いて、最速でホグワーツを駆け抜ける。風を切る頬が心地よい。安全な、しかし最短距離のルートで、ジュリアは薬草学の授業に向かった。

 

 いつか、人になれるだろうか。

 



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禁じられた森に潜むもの

 試験が着実に迫っている中、ハリーはどうやらまた厄介な情報を拾ってきたようだ。クィレルが何者かに降参した。ジュリアは朝食の席でそれを聞かされながら、ベーコンを頬張っていた。

 

 どうやらハリーはもう”大冒険”に飛び込むつもりはないらしい。憔悴した様子でトーストをかじっている。ロンが一瞬正義感の火を熾したが、それはたちまちのうちにハリーとハーマイオニーの正論――自分たちの手に負えるものではないという発言によって鎮火された。

 

 そのとき、もうひとつ情報が届いた。手紙だ。

 

 

「処罰は今夜11時に行います。玄関ホールに集合すること。マクゴナガル教授」

 

 

 ハリーはすっかり処罰のことを忘れていたようで、トーストをぽろりと落とした。落ちたトーストをスキャバーズがかじっていた。

 

 夜11時。ハリーとジュリアは悲痛な面持ちのロンとハーマイオニーに別れを告げ、ロングボトムを連れて玄関ホールに向かった。フィルチと、そしてマルフォイがいた。いつもハリーを見てにやついているマルフォイですら、葬式のような顔をしていた。青白い顔がより一層青白かった。

 

 

「これで、規則を破る前に、よく考えるようになることだろうさ。昔のような体罰がなくなって残念だよ、私は……。逃げようとするんじゃないぞ、もっとひどい目に遭うからねえ」

 

 

 フィルチを先頭に、暗い校庭を進んだ。月に雲がかかっている。ロングボトムはジュリアの後ろで早くも泣き始めていた。

 

 

「ロングボトム」

 

「な、なに、ジュリア……」

 

「お前、どうして外にいたんだよ」

 

「どうしてって……マルフォイが君たちをはめようとしてるって聞いたんだ。だから、助けなきゃって思って……」

 

 

 ジュリアは意外に思った。どこかでロングボトムのことを見下していたのかもしれない。結果が伴わなかったと言えども、彼は勇気ある行動を選んだ。マルフォイに呪いと罵声を浴びせられて心が折れかけていたときから、随分立ち直ったようだ。あるいは、何かが彼を成長させたのか。

 

 

「ありがとな、ロングボトム」

 

「え……」

 

「んだよ、あたしだって礼くらい言えるっつの」

 

「いや、違うんだよ、その……」

 

 

 ロングボトムは何かを言いかけたが、フィルチが振り返ってぎろりと睨んだので、それきり怯えて黙りこくってしまった。

 

 

「私語は慎むんだな、小僧ども。楽しいピクニックじゃないんだ」

 

「あたしは女だぞフィルチ」

 

「ああ、いちいち腹立たしい小娘だよお前は。だが、その余裕も今日で終わりだろうさ。森の狼人間どもは若い娘の柔らかい肉が好物だ……」

 

 

 フィルチの脅しを聞いて、マルフォイが跳び上がった。

 

 

「森だって? 禁じられた森になんて、行けないよ。そんなの、生徒がすることじゃない!」

 

「悪いことをしたら償いをしなくちゃあいけない。償いをしなくちゃあ生徒ではいられない。悪さをする前に考えておくんだったな」

 

「――その辺でいいだろう、フィルチ。説教するのはお前の仕事か? ここからは俺が引き受ける」

 

 

 暗闇から巨体が現われた。常人であれば両腕で抱えるようなクロスボウを手に持ち、肩には矢筒をかけている。飼い犬のファングも一緒だ。ハリーとネビルは明らかに安堵した声を上げた。

 

 

「ハグリッド!」

 

「大丈夫か、ハリー。ジュリアは大丈夫そうだな、お前さんはたくましい奴だ」

 

「女に対する褒め言葉じゃねえ気がするが、ありがたく受け取っとくよ」

 

 

 事実、ジュリアはフィルチの脅しに恐れをなしてもいないし、森に入るにあたって怯えたりもしていない。今回の仕事はハリーとロングボトムを無事に帰らせること。それからもうひとつ、ジュリアには森を満喫しなくてはならない理由がある。

 

 フィルチは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、「夜明けに体の残りを引き取りにくる」と言い残して城に帰っていった。

 

 ハグリッドがランプで獣道を照らし、4人が後に続く。ジュリアは様々な気配と匂いを感じていた。ここはフクロウからケンタウロスまで、幅広い生物の縄張りらしい。時折、ジュリアも知らない魔法生物が下草を踏み荒らして駆けていくのがわかる。静かな森ではない。森のざわめきを誤魔化すように、ハグリッドが声を上げた。

 

 

「俺たちが今夜やる仕事は危険だが、大事な仕事だ。軽はずみなことはしちゃいかん。救難信号の呪文はちゃんと教わっとるな? なにかあったらすぐに打ち上げろ。みんなで助けに行く。……あそこを見ろ」

 

 

 ハグリッドがランプを高く上げ、照らした先を指し示した。地面に銀色の光が滲んでいる。説明されるまでもなかった。ひどく悲しく、苦しくなる匂いがする。とても美しく、とても気高いものの断末魔の匂いだ。

 

 

「ユニコーンの、血」

 

「わかるか、ジュリア。そうだ。今週でもう二度目になる。水曜日には最初の死骸を見つけた。何者かがこの森でユニコーンを傷つけとる。みんなで傷ついたユニコーンを探すんだ。それで、もし助からんようなら、俺が楽にしてやらにゃならん」

 

 

 ハグリッドは悲壮な表情でランプを下ろした。

 

 ジュリアの嗅覚は、すでに息絶えたユニコーンの肉と血を感じ取っている。ジュリアはまだ生きたユニコーンを見たことがなかった。本当は、もっと幸せな形で出会うことができたら、さぞかし素敵だっただろう。しかし、今は目を閉じて、ユニコーンのために祈るしかなかった。

 

 

「二組に分かれる。ハリーとドラコはファングを連れていけ。ジュリアとネビルは俺と一緒に。ジュリア、お前さんの鼻が頼りだ」

 

「任せな。……この森は荒らされていい場所じゃねえ。あたしにもわかる」

 

 

 ジュリアの中の”獣”が低く伏せて唸りを上げている。

 

 ハグリッドが道を開き、定期的にジュリアが匂いの方角を示す。ネビルは怯えながらも何とかそれに付いてきていた。

 

 

「ハグリッド。聞きてえことがある」

 

「何だ」

 

「人狼」

 

 

 ハグリッドもジュリアも、警戒は怠らない。ジュリアは常にホルスターに指を添え、ハグリッドはクロスボウに矢を番えている。森の住民に対しての警戒ではない。ユニコーンを襲った侵入者に対しての警戒だ。

 

 

「やはり、気にしちょったか」

 

「数は」

 

「わからん。ダンブルドア先生が保護して、隠れ住んどる。もう言葉も魔法もわからんのかもしれん。死肉を漁り、人影に怯える。哀れな連中だ」

 

「……そうか。ありがとよ」

 

 

 話しながらも、ジュリアは森の奥をじっと見つめていた。見つめあっていた。緑の瞳をした、痩せ細った男がいる。襤褸を纏い、歯を剥き出しにしてこちらを警戒する様は、野犬のそれに近い。

 

 きっと彼にも噛み痕があるのだろう。そして、月が満ちるたびに苦しんでいるのだろう。

 

 

「……狼人間がユニコーンを殺してるの?」

 

「人狼だ、ロングボトム。人狼は動物を襲わねえ。闇の魔術に対する防衛術でやっただろ。……ハグリッド、救難信号!」

 

 

 空に赤い花火が打ち上がった。さほど遠くない。ユニコーンの血の匂いがする方角だ。続いて、マルフォイの悲鳴が遠ざかっていった。

 

 

「いかん、急ぐぞ!」

 

 

 ハグリッドが枝をかき分けて歩みを早めた。ロングボトムも震えながら杖を取り出している。ハリーに危機が迫っているのだ。急がねばならない。

 

 一瞬、ジュリアが視線を戻したころには、彼はもういなくなっていた。



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推理と後悔

 ケンタウロスの背に乗せられたハリーは青ざめていたが、どこか怪我をしているわけでもなく、また呪いを受けた様子もなかった。ただ、緑の瞳だけが奇妙な光を宿していた。復讐心とも違う、恐怖とも違う、憤怒とも違う。ある種の覚悟と、確信と、使命感のようなものが見て取れた。ジュリアは今度こそ慎重に、警戒しつつハリーとロングボトムを談話室まで連れ帰った。

 

 日付の変わった談話室にはロンとハーマイオニーしかいなかった。ハーマイオニーは本を開いていたが目が動いていなかったし、ロンはスキャバーズを嗅ぎタバコ入れに変える練習をしていたが、微塵も変化はなかった。ハリーはロングボトムが寝室に向かったのを確認すると立ち上がり、震えながら暖炉の前をうろうろして呟きはじめた。

 

 

「僕は禁じられた森であいつを見た。あいつはユニコーンの血で生きながらえていたんだ。ヴォルデモートだよ。間違いない。スネイプはヴォルデモートを復活させるために石を盗もうとしてるんだ!」

 

「ハリー、その名前を言うのはやめてくれ!」

 

 

 ロンの悲痛な嘆願は耳に入っていないようだった。

 

 ジュリアは考える。禁じられた森にヴォルデモートが潜伏しているとしたら。なぜ最も恐れるべき敵であるダンブルドアと、自らを打ち倒した相手であるハリーの目と鼻の先に。それも、ケンタウロスに追い払われる程度の力しか持たずに、だ。どこで賢者の石の情報を手に入れたのだろう。どうやってホグワーツに侵入することに成功したのだろう。

 

 クィレルがダンブルドアに誘導されて手引きした? それはあまりいい仮説とは言えない。ダンブルドアが賢者の石を釣り餌にヴォルデモートを呼び寄せるつもりだったなら、教師を生け贄にする必要はなかったはずだ。

 

 クィレルが自発的に手引きした? クィレルが自ら闇の陣営に加わり、ヴォルデモートから力を授かり、そして教師として着任することでヴォルデモートの侵入経路を確保する。無理な仮説ではない。しかし、それならなぜクィレルは「何者かに脅され、屈した」のか。

 

 クィレルはヴォルデモートに忠誠を誓っていないが、協力を強いられていた? あり得る。マグル学の教授であるクィレルと、純血主義過激派テロリスト集団の首領だったヴォルデモートは相容れない。しかし、クィレルは力を求めていた。なんらかの契約関係、ファウストとメフィストフェレスだったとしたら。最初はクィレルに力を与え、グリンゴッツ破りをさせた。しかし、賢者の石はなかった。本来ならここで契約は満了だったのかもしれない。しかし、ヴォルデモートはさらなる力と甘言を武器に、クィレルをホグワーツで動く駒にした。そして、賢者の石が目前にあるにもかかわらず手が届かないことに苛立ちはじめ、クィレルに強硬手段を取るよう脅しはじめた。

 

 何かがおかしい。そもそも、ヴォルデモートはどこにいる? 本当に禁じられた森をねぐらにしているのか?

 

 考えろ。考えろ。考えるんだ、ジュリア・マリアット。

 

 

「ベインが言っていた。惑星はヴォルデモートの帰還を予言してるんだ。そして、ヴォルデモートが僕を殺すなら、それを止めてはいけないと思っている。僕はスネイプが石を盗み出すのをただ待っていればいい。そしたら、ヴォルデモートがやってきて、僕を殺す……。それが予言なんだ」

 

 

 ケンタウロスはヴォルデモートの帰還を予言した?

 

 スネイプの闇の印は薄らとした火傷痕程度でしかなかった。ヴォルデモートは生きていないが、死んでもいない。ユニコーンの血には呪われた延命効果がある。呪われてまで延命しなくてはならないほど弱っているのに、ユニコーンを傷つけるほど力を持っている。そしてまだ帰還していない。

 

 クィレルはなぜアルバニアに行った? クィレルは「強くなりたかった」と言っていた。力を持っているのはクィレルだ。ヴォルデモートではない。

 

 その仮説は本当に正しいか? ヴォルデモートは卓越した闇の魔術の使い手だったはずだ。しかし、ハリーによって打ち倒された。まだ赤子だったハリーによって。

 

 情報が足りない。記憶を精査しろ。疑問点を摘出しろ。思考を回転させろ。考えるんだ、ジュリア・マリアット!

 

 

「……ハリー。クィレルは脅されてた、そうだな?」

 

「うん、それで泣きながら崩れたターバンを直して、教室を出ていったんだ。時間がない、時間がないんだよジュリア。スネイプはいまこの瞬間にもフラッフィーのところに向かっているかもしれない!」

 

 

 ターバン。

 

 クィレルはアフリカでミイラを倒して下賜されたと言っていた。しかしミイラの倒し方については口を濁した。

 

 クィレルはアルバニアで吸血鬼に遭ってニンニクを詰めていると言っていた。しかし授業で平然と吸血鬼を扱った。

 

 ターバンの下に何を隠している? 教室で誰と話していた? なぜターバンを巻き直す必要があった?

 

 ヴォルデモートは「生きていないが、死んでもいない」状態だ。そして、クィレルは「卓越した閉心術師で、熟練の魔法使い」になった。

 

 パズルのピースがはまっていく。しかし、すべては仮説に過ぎない。だからといって、スネイプやダンブルドアに相談する時間はもうない。ジュリアが直接クィレルを問い詰めることもできない。もし予想が正しければ、この予想に辿り着いてしまったこと自体が危険だ。

 

 口を閉ざさなければならない。

 

 

「……ハリー、返し忘れてたな。透明マントだ」

 

「ありがとう、ジュリア。でも、もうこれを使う機会はないかもしれないね。僕は殺される……」

 

「ハリー、ダンブルドアは『あの人』が唯一恐れてる偉大な魔法使いよ。ダンブルドアがいる限り、『あの人』はあなたに近づくことすらできない。大丈夫」

 

 

 ジュリアは同意を示すように頷いてみせると、肘掛け椅子から立ち上がった。

 

 

「さ、おやすみなさいの時間だ。窓見てみろよ、もう夜が明ける。あと数日で試験だ、少しは寝たほうがいい。ほら、ハーマイオニー」

 

「そうね。安心して、ハリー。おやすみなさい」

 

「……うん。おやすみ」

 

 

 ジュリアにとって試験の内容はもはや重要ではなかった。クィレルに気づかれない。普段通り振る舞う。そこに注力しなくてはならないのだ。ジュリアは後悔していた。スネイプには攻撃手段より先に閉心術の指導を乞うべきだったのかもしれない。




作者から一言:ファンアートをいただきました。ありがたいことです。どこに掲載すればよいか、いまいち勝手がわかりません。あらすじを加筆してそこに入れさせてもらおうかと考えています。ともかく、お楽しみに。


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万事休す

 ハリーは怯えていたが、呪文学の教室近くを通るたびにおっかなびっくり「あの廊下」に近づいて、三頭犬の無事を確かめていた。どうやら何者もまだ突破していないようだ。

 

 ジュリアはなんとかロン・チェイニーを思い浮かべてパイナップルにタップダンスを転ぶことなく踊らせることに成功させ、変身術ではネズミを無骨な銀の嗅ぎタバコ入れに変身させた。加点はないが、減点もないだろう。苦手な2つを突破した。死ななければ進級はなんとかなる。

 

 忘れ薬を調合している間だけは命の危機を忘れて没頭することができた。事前に材料の持ち込みを申請することができたので、ジュリアは石化した蛙の卵を使い、忘却呪文と同程度の効果と指向性を持つ忘れ薬の調合に成功した。

 

 一番恐れていた闇の魔術に対する防衛術は、クィレルが憔悴しきって常に俯いていたおかげでなんとか片付いた。ミスがなければ、まず満点は取れたはずだ。

 

 魔法史を手早く片付けて、ジュリアはほっと息をついた。変身術と呪文学の実技を除けば、実力は発揮できているはずだ。進級はできるだろう。あとはダンブルドアがヴォルデモートをなんとかしてくれるのを待つだけだ。

 

 4人は湖畔の木陰で日が暮れるのを眺めながら羽を伸ばしていた。ハーマイオニーは答え合わせをしたがっていたが、ロンはそれを拒否して寝転ぶ。ジュリアも寝転びたい気分だったが、まだ心臓が落ち着かない。

 

 そのとき、ハリーが突然立ち上がって呟いた。

 

 

「何かがおかしい」

 

「大丈夫だよハリー、試験でしくじったところで、結果が出るまであと一週間も」

 

「――違うんだ、ロン。ハグリッドに会いに行かなきゃ!」

 

 

 ハリーは小屋に向かって駆けだした。急いで後を追う。走りながらも、ハリーは話し続けた。

 

 

「ハグリッドはドラゴンを飼うのが夢だった。でも、法律で禁止されてる。それに、ロンやジュリアが言ってたとおり、貴重な品だ。それなのに、卵を持った顔も知らない奴が、パブをうろついていて、ハグリッドに偶然出会って、それを譲る。おかしいと思わないか?」

 

 

 盲点だった。ジュリアはハグリッドの軽率な行動に驚くあまり、その背景に考えが及ばなかったのだ。

 

 ジュリアは地面を蹴った。

 

 

「先に行く。城に戻ってダンブルドアを探せ。すぐに追いつく」

 

「どういうこと? ジュリア、一体何がどうなってるんだ?」

 

「石がピンチってことだ、ロン。行け、走れ!」

 

 

 ジュリアの脚を以てすれば、ハグリッドの小屋までは一瞬だった。肘掛け椅子に腰かけて、にこやかに何か言おうとしたハグリッドに被せるように、ジュリアは問い詰めた。

 

 

「ようジュリア、随分急いで――」

 

「ああ、急いでる。だから聞かせてくれ。卵のことだ。相手の顔は知らなかった、そうだな?」

 

「おう、そうだな、マントで顔を隠しちょった。ホッグズ・ヘッドじゃそんなに珍しくもねえ話だ。ドラゴンの売人だったのかも。それに、俺も随分呑んどったしな」

 

 

 ハグリッドは笑った。ジュリアは笑えない。笑える状況ではない。

 

 

「次だ。ドラゴンについて詳しい話はあったか?」

 

「いや、ただ飼うのは難しいと言うとった。だから、多少は心得がある、三頭犬だって飼っちょるんだ、と笑ってやった。なに、ちょいとした自慢だ」

 

 

 ますます”まずい”流れだ。

 

 

「よし、最後だ。奴は三頭犬に興味を示したか?」

 

「そりゃもちろん、珍しいからな。だが、宥め方を知っちょれば赤ん坊みたいなもんだ、ちょいと音楽を聴かせればおねんねしちまう……いかん、こいつはお前さんに話しちゃならんのだった!」

 

「もとから知ってる。悪いな、あたしはもう行く。大丈夫だ、安心しろハグリッド。……大丈夫だ」

 

 

 ジュリアは走りながら祈った。天にましますくそったれなマザーファッカーゴッド、たまには役に立て。

 

 門を潜り抜け、ハーマイオニーたちの匂いを追って階段を駆け上がった。急がねばならない。欄干から欄干へと飛び移り、タペストリー裏の坂道に爪を立て、フィルチの怒声を無視し、そして、辿り着いた先には、立ち去るマクゴナガルの背を見つめて呆然とする3人の姿があった。

 

 

「ジュリア、どうしよう――ダンブルドアがいない!」

 

 

 目の前が真っ暗になった。



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グリフィンドール的態度

 夜の談話室に誰もいないのは幸運だった。今や4人は全校の嫌われ者で、4人が密談をしているのを夜更かしして監視しようなどという奇特な人物はいない。ハリーは少しずつ、考えを話し始めた。

 

 

「僕が奴より先に石を手に入れる。それしかない」

 

「気は確かかハリー! 『例のあの人』は君を殺そうとしてるんだぞ!」

 

 

 ハリーの覚悟はすでに決まっているようだった。蛮勇とも違う、好奇心とも違う、静かな、静かな炎が揺らめいている。だからこそ、ロンの怒声にハリーは怒鳴り返した。

 

 

「だからなんだって言うんだ! 奴の復活を阻止して殺されるか、奴が復活してから殺されるかだろう! どっちがいいかはわかりきってる! ジュリアがマントを隠しておいてくれたのは運がよかった。僕は今から、行く」

 

 

 ロンが立ち上がった。ゆっくりと、彼の瞳にも火が灯る。彼は友誼の人物だ。ジュリアにとってのハーマイオニーがそうであるように、きっと彼にとってのハリーも、見捨ててよい命ではないのだろう。

 

 彼はガンダルフでもなければ、アラゴルンでもない。しかし、サムワイズになることはできる。ロンはハリーの友として、この死出の旅に供をする覚悟を決めた様子だった。

 

 

「……4人でマントに入れるかな」

 

「君こそ気は確かか、ロン! 僕は死にに行くんだぞ!」

 

 

 次に声を上げたのはハーマイオニーだ。

 

 

「あら、私たちがいなかったら、どうやって石まで辿り着くつもりなの?」

 

 

 表面上の道理は通っていた。ホグワーツの教師たちが仕掛けた罠を突破するには、ハリーとロンだけでは心許ないどころではない。ハーマイオニーの知恵と知識、そして杖捌きはほんの少しであっても彼らの支えとなる。

 

 しかし、ハーマイオニーは自分の力が役に立つからという理由だけで出しゃばりのお節介を焼いているわけではない。彼女もまた友人のため、揺らぐことのない気持ちを固めたのだ。

 

 ジュリアは思考する。まだ引っかかりがあった。クィレルは危険な魔法生物について独学で学んでいた。神話や伝承は魔法生物の宝庫だ。加えて、クィレルは半純血で、読書家だった。オルフェウスの冥界下りくらい知っていてもおかしくない。なら、なぜドラゴンの卵をハグリッドに与えてまで聞き出したのか。

 

 クィレルはヴォルデモートに脅迫されていた。そして、あるとき折れた。つまり、それまでは折れなかった。クィレルはヴォルデモートに抵抗していたのではないか。三頭犬の対処法を知らなかったのは、クィレルではなくヴォルデモートだったのではないか。

 

 スネイプの言葉を思い出す。クィレルは閉心術を完璧に使いこなしていた。忘却呪文でも、闇の魔術でもなく、閉心術を。誰に対してだ。ヴォルデモートに対してではないのか。

 

 すべては憶測だ。しかし、クィレルは孤独に苛まれ、会話を楽しみ、別れを惜しむ、静かな、知恵に満たされた瞳の人物だった。

 

 あの人を助けたい。ジュリアは立ち上がった。

 

 

「行くぞ。時間はもうねえんだ」

 

「――行かせるもんか。また外に出るんだろ」

 

 

 柱時計の影から現われたのは、ロングボトムだった。ヒキガエルを抱え、膝を震わせている。ずっと聞いていたのだろうか。

 

 彼は勇敢だ。ハリーとジュリアをマルフォイから救うために深夜のホグワーツをさまよった。禁じられた森でハリーが救難信号を打ち上げたとき、震えながらも杖を抜いた。そして今、「友人を止める」という「友人の役目」を果たそうとしている。

 

 怒鳴ろうとしたロンを抑えて、ジュリアは前に出た。

 

 

「ロングボトム。……いや、ネビル」

 

「僕、君たちの話を聞いてても、なんもわからなかった。でも、危ないことをしに、寮を出るつもりなのはわかった。だから、僕、僕……君たちを止める」

 

「ネビル、あたしたちはな、攻めの手を指すんじゃねえんだ。守りの手を指すために……いや、守りの手で指されるための捨て駒になる」

 

 

 ようやくジュリアは気づいた。

 

 この盤の指し手はジュリアたちではない。ダンブルドアとヴォルデモートだ。それも、ハンデつき駒落ちつきのイージーゲーム。ダンブルドアはヴォルデモートを殺さねばならないが、ヴォルデモートは賢者の石さえ手に入ればいい。ダンブルドアは守りを固めたが、ヴォルデモートは少しずつ駒の隙間を縫う道を見つけていった。

 

 そして、今夜は守りの指し手が不在だ。攻め手はこれをいいことに自分だけ手番を進め続けている。幸いなのは、これが魔法使いのチェスだということだろうか。今、駒たち――ハリーたちは自分で思考して動いている。だから、ジュリアもまた自ら動き、そして最後には捨て駒にならなくてはならない。

 

 なんとも犬っころにはお似合いの結末じゃないか。ジュリアは笑った。

 

 

「あたしは守りにいくんだ、ネビル」

 

「……ジュリアはいつだって、守ってくれる。僕のことも。飛行術の時だって、禁じられた森の時だって」

 

 

 ジュリアにとってこれは意外だった。確かに、ジュリアはネビルを助ける機会があった。飛行術の初授業で落下したネビルをジュリアが受け止めた時、ジュリアは目の前で同級生の死人が出ることを不快に思ってやれることをやった、それだけだ。禁じられた森で暗闇の中ネビルを先導したのは、自分が禁じられた森に馴染んでおきたかったから。それだけだ。だというのに、この少年は、ジュリアに感謝の感情を抱いている。

 

 ネビルはヒキガエルを落とすと、拳を構えた。震えている。しかし、視線はまっすぐだった。

 

 

「だから、今度は僕が守らなきゃいけないんだ。僕がジュリアたちを止める! だって、ジュリアたちは僕の――」

 

「……ステューピファイ」

 

 

 一年間ずっと訓練してきた赤い閃光がネビルを貫く。ジュリアはネビルを気絶させた。崩れ落ちる彼の体を受け止め、ソファに寝かせる。強張ったネビルの顔を、ジュリアは直視できない。

 

 

「悪いな。だが、その先は今のあたしたちに聞く資格はねえよ。……行くぞ」

 

 

 ジュリアはホルスターに杖を収め、肖像画を押し開けた。



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試練の始まり

 4階の扉はすでに開いていた。部屋を入ってすぐの場所にハープが置かれていて、ひとりでに音楽を奏でている。ヴォルデモートが三頭犬を突破したことは明白だった。

 

 部屋に踏み込んだ途端、ハープは演奏をやめた。ジュリアは落ち着いてハーモニカを取り出す。ハリーも自分なりに三頭犬について調べたのだろう、臆することなく木彫りの横笛を口に添えていた。

 

 

「ハリー、合わせるぞ。きらきら星は吹けるか」

 

 

 ハリーが小さく首肯したのを確認して、ジュリアは肺いっぱいに空気を吸い込んだ。このハーモニカを吹くのも入学式以来だ。そして、きっとこれが最後になるだろうとジュリアは予想していた。

 

 きらきら光る、お空の星よ。もうすぐそこに行くからな。

 

 まずハリーが仕掛け扉から飛び降り、ロン、ハーマイオニーと続いた。ジュリアはハーモニカを口にあてがったまま仕掛け扉に近づき、そして三頭犬を片手で撫で、落下に身を任せる。

 

 柔らかい着地だった。まるで濡れたロープを敷き詰めたような場所。真っ暗だ。光のない空間でロンの声が響く。

 

 

「なんか、植物みたいだ。クッションかな? なんにせよ、ラッキーだ」

 

 

 植物。ジュリアはハグリッドの言葉を思い出す。罠に手を貸しているのは教員の大半だった。そこには薬草学のスプラウトも含まれている。

 

 ジュリアの思考が回転しはじめたころには、罠が動き始めていた。

 

 

「なにも、ラッキーじゃねえ、くそったれ!」

 

 

 ジュリアは杖を抜こうとしたが、腕を蔦に絡め取られた。強引に引きちぎるも、次々と伸びてくる。ホルスターを太ももに巻いていたことが今回は悪く働いてしまった。

 

 蔦はロンの首を狙い、ハリーの胸に巻き付き、そしてジュリアの腕を裂こうとしている。間違いなく罠だ。

 

 

「これ、『悪魔の罠』だわ!」

 

「見た目通りの名前だな! くそ、きりがねえぞ。対処法は!」

 

「『悪魔の罠』、『悪魔の罠』……湿気と暗闇を好み……」

 

 

 ハーマイオニーは壁際まで追い詰められているようだ。そして、思考も追い詰められている。答えが中々出てこない。

 

 

「だったら火だ!」

 

「でも、薪がないわ!」

 

 

 ロンが今日一番の大声で怒鳴った。

 

 

「君はそれでも魔女か!」

 

「そうだった! ラカーナム・インフラマレイ!」

 

 

 鮮やかな空色の火球が放たれた。火球は火の粉を散らし、『悪魔の罠』はみるみる萎びていく。4人は落下して石畳に尻餅をついた。

 

 

「ハーマイオニーに感謝だ。薬草学の勉強をたっぷりしてたことと、最高に笑わせてくれたこと」

 

 

 ジュリアは立ち上がって、杖が二振りともあることを確認すると、ハーマイオニーに手を貸して立ち上がらせた。ハーマイオニーはまだ少し恥ずかしそうにしていたが、今はからかっている場合ではない。次の罠が待っている。

 

 通路は下り坂で、ホグワーツのずっと下を進んでいるようだった。誰も喋らなかった。水の滴る音、何かが羽ばたく音、そしてかすかな金属音が聞こえてくる。

 

 通路を抜けた先には、光の差し込む小部屋があった。ジュリアは突然の眩しさに目を細める。どうやら天井の近くを無数の小さな何かが飛んでいるらしい。奇妙なことに、小さな飛行体からは何の匂いもしなかった。

 

 

「鳥かな。あれが襲ってくるとか?」

 

「向こうに扉があるよ。あそこまで逃げ切る罠……なんか違いそう」

 

「……鍵だ。空飛ぶ鍵」

 

 

 ようやく明るさに慣れたジュリアの目が、透き通った虹色の翅をはためかせて飛ぶ鍵たちを捕捉した。あの鍵鳥だか鍵虫だかのどれかが”正解”なのだろう。なんともフリットウィックらしい。ジュリアはあの穏やかながら知的な小さい老人を思い出した。

 

 

「ロン、扉の錠はどんなやつだ。材質、形状」

 

「待ってて。銀……たぶんゴブリン銀だ、一度だけビルに見せてもらったのと同じ光り方してる。鍵穴は大きい。すごく古いタイプだ。……あっ、箒。箒だ、ハリー! 隅に箒があった!」

 

「オーケー、ナイスだロン。ハリー、鍵は光沢のある錆ひとつない銀製、大型、アンティーク。最年少シーカーの腕を見せてやれ」

 

 

 ハリーが無言で頷き、箒に飛び乗る。狭い空間、四方を石の壁に囲まれ、条件はよくない。それでも、ハリーは急速旋回しながら上空へと舞い上がっていく。

 

 ジュリアもじっと鍵たちを観察していた。動きに法則性はない。おそらく、本当の鳥か虫のように飛び回るような魔法がかけられている。その中からおそらく唯一の”正解”を捕まえなければ突破できない。これはそういう罠なのだろう。

 

 

「見つけた!」

 

 

 ハリーが叫び、箒を傾ける。ハリーは矢のように鍵の群れへと飛び込み、そしてその勢いのまま降下してきた。手には暴れる鍵を握っている。銀製、大型、アンティーク。要素は一致している。ハリーは飛びつくようにして扉に駆け寄り、鍵を差し込んだ。

 

 扉が開く。

 

 

「よし、次にいこう。準備はいいね?」

 

 

 3人は頷いた。



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駒が欠けていく

 無骨な燭台に灯された火が照らす部屋には、白と黒の大きなタイルが敷かれ、そしてその上には4人の中で最も高身長なロンの背をさらに超える大きさの駒が整列していた。駒は白の軍勢と黒の軍勢に分かれて睨み合っている。さながらこの部屋は巨大なチェス盤だ。

 

 ロンが黒のナイトに近づくと、顔のない騎手は馬上からロンを見下ろした。

 

 

「あの……向こうに行くには、チェスを指さなきゃいけませんか?」

 

 

 返事はない。しかし、首を横に振るわけでもない。

 

 

「違う、これは、たぶん……もう一度質問させてください。僕たちが向こうに行くには、チェスに参加して、勝たなくちゃいけませんか?」

 

 

 黒のナイトが首を縦に振った。

 

 この厳密さはおそらくマクゴナガルだ。変身術の基礎である思考能力、魔法使いの基礎である経験、そしてグリフィンドール寮生の基礎である勇気を問う罠。

 

 当然ながら、この4人はそれぞれがそれぞれの長所と短所、そして特技を持つ。思考能力で言えばハーマイオニーがずば抜けているだろう。経験で言えばジュリアが多少抜きん出るかもしれない。勇気ではハリーが一歩勝る。それでも、この罠に立ち向かう最適のプレイヤーは、ロンだ。

 

 

「気を悪くしないでね。3人とも、チェスは上手くない。だから……」

 

「お前に預ける、ロン。指示を寄越しな」

 

 

 誰も異論はないようだった。ハーマイオニーがルーク。ハリーがビショップ。ジュリアがクイーン。ロンがナイト。黒の駒と交代する形で、生身の4人が盤面に立つ。

 

 ロンの指す通りに駒は進んでいった。

 

 ポーンが互いに2マス進む。ナイトが互いに跳ぶ。ビショップがその隙間を縫うように前進。キャスリング。

 

 序盤は何事もなく手が進んだ。

 

 最初に取られたのは黒のナイトだった。白のクイーンが黒のナイトを旗で殴りつけると、騎手の首から先が砕け飛ぶ。そしてクイーンは騎馬を盤外に放り出すと、静かにマスへと収まった。

 

 盤面に残った大理石の破片から青ざめた顔を背けて、ロンが指揮を飛ばした。

 

 

「これで、道が空いた。ハーマイオニー、進んで」

 

 

 中盤戦は苛烈だった。取る、取られる。おそらく生身の駒を取るときも白の駒は容赦しないだろう。ジュリアはポーンが構える石の剣をちらりと見る。これは少々痛いでは済まされない。おそらく、取られれば脱落する。

 

 そして、さらに手が進み、その時が来た。

 

 一度指揮を止め、黒の指し手――ロンが呟く。生き残った白の駒は微動だにせずこちらの動きを待っている。ロンの指揮が一手ずつ盤面に変化を生み、そして今、ロンの目には道が見えているのだ。

 

 

「詰めが近い。そのためには……」

 

 

 ロンが斜め前のマスに視線を向けた。そこは白のクイーンが利いている。ここから先の詰めはジュリアにもわかった。

 

 白のクイーンが黒のナイトを――ロンを取る。ジュリアがチェックをかける。白のクイーンが道を塞ぐ。そこにハリーが出る。白に守りの手はない。

 

 

「僕が取られるしかないみたいだ」

 

「だめ!」

 

 

 ハリーとハーマイオニーの叫びが響いたが、両陣営ともに駒は微動だにしない。そして、ロンもまた、揺らぐことはない。彼は指し手としての勝利を確信しており、同時に駒としての敗北を確信している。

 

 ロンは血の気の引いた顔で、しかし気丈にも笑ってみせた。

 

 

「いいプレイヤーは駒の切り時を心得てるんだ。ジュリア、ハリー、このあとの動きはわかるよね?」

 

「散々叩き込まれたからな。……ロンが取られる。あたしが出てチェック。白のクイーンがあたしを止めるが、向こうもあたしに止められる。そして、ハリーが王殺しだ」

 

 

 ジュリアは何度も再計算した。立ち読みしたスコアを思い返し、ロンとの対局を思い返し、それでもこれ以上の最善手は思い浮かばなかった。

 

 黒の騎馬に跨がったロンが頷く。

 

 

「それでいい。……いいかい、ハリー。絶対に石を守ってくれ」

 

 

 ハリーの返事を待たずにロンが進む。そして、白のクイーンが幾度となく黒の駒を砕いた旗を、ロンの頭へと振り下ろした。

 

 鈍い音がして、ロンが騎馬からずり落ち、盤上に崩れ落ちる。

 

 

「ロン!」

 

「動くな! ……いいか、動くな」

 

 

 ハーマイオニーの叫ぶような悲鳴に被せて、ジュリアは怒鳴った。今動けば、計算が全て崩れる。そして、指し手を失った黒の陣営にとって、ここは最後のチャンスだ。

 

 ジュリアは深呼吸する。大丈夫だ。駒は脱落するだけ。そうでなくては、次の一局が指せない。魔法使いのチェスとはそういうものだ。だから、ロンは死んでいない。

 

 ジュリアは進んだ。そして、白のクイーンがそれを阻む。

 

 

「よう、糞アマ。てめえはここであたしと睨めっこだ。……ハリー、行け!」

 

 

 震える手を握りしめ、ハリーが白のキングを捉える。

 

 

「――チェックメイト」

 

 

 王殺し。白のキングは王冠をハリーの足元に投げ出すと、お辞儀をして固まった。ゲーム終了だ。

 

 3人はロンに駆け寄った。意識はない。出血もない。そっとジュリアがロンの頭に指を這わせる。陥没や骨折もなさそうだ。

 

 

「……行こう、ジュリア、ハーマイオニー」

 

 

 ハリーの言葉に立ち上がって、3人はロンを残し盤上を去った。

 

 通路はまだ下っている。ここはまだあの城の地下なのだろうか。湖の下かもしれないし、森の下かもしれない。ジュリアはそろそろ方角がわからなくなってきていた。

 

 

「次はなんだと思う?」

 

「スプラウト先生は悪魔の罠だったわ。鍵を飛ばせたのはフリットウィック先生ね。チェスの駒に命を吹き込んだのはマクゴナガル先生だし……あとは、クィレル先生の『怪しげなまやかし』とスネイプの……」

 

「――止まれ」

 

 

 ジュリアの鼻が、知っている匂いを嗅ぎ取った。腐った雑巾と吐瀉物のような悪臭。

 

 

「なるほど。なるほどねえ、そういうことかよ、クィレル先生」

 

「ジュリア?」

 

「トロール。クィレル先生の罠はトロールだ。……あたしが扉を開く」

 

 

 ジュリアは口で思いきり息を吸うと、扉を蹴り開けた。

 

 想像を絶する、とはこういうことを言うのだろうか。天井は見えず、首が痛くなるほど見上げてようやくトロールと目が合う。これがクィレルの言っていた山トロールという種族だろう。手には大木のような棍棒を握っている。

 

 トロールが棍棒を振りかぶった。奥には通路が見える。扉はない。

 

 ジュリアは素早く判断を下した。

 

 

「走れ」

 

「ジュリア!」

 

「ぐずぐずしてんじゃねえ!」

 

 

 思考は冴え渡っていた。両手が素早くホルスターから杖を抜く。指に熱を感じる。父の杖は温かく、自分の杖は焼けるようだ。ジュリアは求めた。杖は応えた。

 

 通路に向かう2人に振り下ろされた棍棒を、ジュリアの盾が受け止める。魔法で緩和されてなおその圧倒的な威力はジュリアの腕に悲鳴を上げさせ、大きく後ずさりをさせた。2人が心配そうにジュリアを見やるのが目に入る。

 

 

「行け、行ってこい。あたしも後から追いつくさ」

 

 

 上手く笑えているか自信がなかった。しかし、笑わなければならない。不安を抱えさせたまま前進させるわけにはいかないのだ。ジュリアはそのままトロールに自分の杖を向けた。刺すように鋭く、発音は正確に、狙うのは頭、可能であれば目。

 

 

「ステューピファイ、麻痺せよ! ……行け!」

 

 

 2人が部屋から去ったのを確認して、ジュリアは今度こそトロールに向き直った。

 

 リベンジの時が来た。



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クィレルの友達

 床を蹴って棍棒を躱す。視野を広く維持し、振り下ろしには大きくサイドステップを、薙ぎ払いには高く跳躍を。

 

 石畳が砕けて弾ける鋭い破片を盾の呪文で防ぐ。この礫は散弾だ。一瞬でも防ぎ損ねれば、肉を裂き骨に食い込む。

 

 失神呪文を叩き込む。回避と同時に、または空中で、または盾を展開しながら。一年間の訓練が成果を見せるときだ。紅に染まった閃光の槍が山トロールの巨躯に乗った頭を貫き、時折よろめかせる。倒れはしないが、ダメージは蓄積している。

 

 シンプルな作業だ。以前とは違う。ジュリアは攻めの手と守りの手を兼ね備えている。ミスさえなければ、勝ちはきっと掴み取ることができる。ジュリアは確信していた。

 

 

「そんな大振り、当たるかよデカブツ。ステューピファイ! くそ、まだピンピンしてやがる。神経まで鈍いのか、あ?」

 

 

 ジュリアはトロールを観察しながら、クィレルの言葉を思い出していた。クィレルはトロールと焚火を囲んで一夜を明かした。そして、そこからトロールを研究したが、評価はされなかった。

 

 ハロウィーンにクィレルはトロールをホグワーツへ侵入させることに成功している。クィレルはトロールの扱い方を知っていたのではないか。そうでなければ、自分が仕掛ける罠にトロールを起用するはずもない。

 

 スネイプはクィレルの何を『怪しげなまやかし』だと考えていたのだろうか。閉心術ではないだろう。それを指摘するということは、開心術を試みたと白状するようなものだ。スネイプとダンブルドアは、彼のどこに謎を見出していたのだろう。

 

 トロールの薙ぎ払いを跳躍して回避する。このコロッセオはワン・オン・ワンだ。ジャイアントキリングに挑むグラディエーターもまた獣。お互い守るものも観客もなく、ただひたすらに相手の喉笛を狙う。

 

 

「ステューピファイ、ステューピファイ、もうひとつおまけだ、ステューピファイ! 少しは効いたろ、のろま野郎!」

 

 

 トロールの巨体がぐらつく。しかし、トロールは棍棒を支えにして姿勢を立てなおし、ジュリアに向かって吼えた。

 

 何がこのトロールをそこまで駆り立てるのだろう。トロールは愚鈍な魔法生物だ。日の光に弱く、暴力的で、ほとんど会話も成立しない。トロールとクィレルの間に何があるのか。

 

 防ぎきれなかった破片がジュリアの頬を切った。熱い。じわりと血が滲むのを感じる。

 

 

「クィリナス・クィレル、あんたの置き土産はちょっとでかすぎるぜ」

 

「くいりなす」

 

 

 棍棒を振りかぶったトロールが、そのまま動きを止めた。

 

 ジュリアは耳を疑った。いま、このトロールは、何と言った?

 

 

「……そうだ、トロール。クィリナスだ。お前はクィリナスの友達か?」

 

「みーく、くいりなす、ともだち」

 

 

 会話が成立している。

 

 ジュリアは頬の血を拭うと、トロールの目を見上げた。表情はわからない。ジュリアにトロールを見分ける知識はない。もしかしたら、クィレルにならわかったのかもしれないが。

 

 

「ミークか。ミーク、お前はどこから来た」

 

「やま。とおく。くいりなす、つれてきてくれた。なまえくれた。あるいた。みずたまり、わたった。ここ、はいった」

 

 

 聞き苦しい声だったが、トロール――ミークは確かに返事をしている。ふと、ジュリアの頭にひとつの可能性を描いた図像がよぎった。一人旅をするクィレル。山の中で焚火に当たり、獣に怯えている。そこに、一体のトロールが現われる。

 

 ジュリアは杖を下ろすことなく、しかしミークとの会話を続けた。

 

 

「クィリナスになんて言われた? どうしてあたしらを襲う?」

 

「くいりなす、きた。ないてた。おねがいされた。まもって」

 

「そうか。……そうか」

 

「おまえ、くいりなす、ともだち?」

 

 

 ジュリアは苦しかった。この愚鈍で暴力的な魔法生物は、しかし、純朴なのだ。つい先ほどまで己に呪文を突き立てていた相手に、自分の友達の、友達なのかと尋ねるほど。泣きながら駆け込んできた友達を守るために、ひたすら棍棒を振るうほど。

 

 理性的で計算高いジュリアが囁く。騙してしまえ。クィリナス・クィレルの友達だと言え。クィリナス・クィレルを助けに来たと嘘をつけ。そうすれば、このトロールは安心する。ジュリアは二人の後を追い、そしてトロールは、ミークは、ダンブルドアたちに処分される。

 

 クィレルの寂しげな顔が忘れられなくて、ジュリアは笑って杖を構えた。

 

 

「お生憎様だ、くそったれ。あたしは敵だ。クィリナス・クィレルを殺す狩人だ。さあ来いファッキントロール、あたしをぶっ潰してみろ! さあ、さあ、さあ!」

 

 

 トロールは怒り狂ったように吼えると、力任せに棍棒を両手で握り、そして2つに引き裂いた。

 

 盾の呪文は半球を生み出す。右を守れば左は空き、左を守れば右は空く。そして、ジュリアは片手で守り、片手で攻める戦法のみを練習してきた。攻撃の方向が増えれば増えるほど、ジュリアが受けるダメージは増加する。

 

 それでも、ジュリアは牙を剥き出しにして笑った。

 

 

「そいつがトロールの二刀流か。あたしを真似したつもりか? 舐めんなよ」

 

 

 ジュリアを両側から挟むようにして、棍棒だったものが叩きつけられる。跳躍したジュリアの背に砕けた石畳の破片が突き刺さる。ジュリアは棍棒の片割れの上に着地して、息を吐いた。痛みで視界が白くなるが、かえって思考は澄み渡っている。

 

 杖が熱い。今なら失敗することもないだろう。

 

 鋭く、鋭く、ひたすらに鋭く。イメージするのは牙と爪。己の、人狼の誇り。

 

 ジュリアは想起する。ハーマイオニーはジュリアを人だと言った。であれば、この牙も、爪も、ジュリアの剣だ。ジュリアは獣皮を纏い、獣爪を振るい、獣牙を剥く、獣を宿した人の戦士だ。

 

 剣を。

 

 

「剣ってのは、こう使うもんだ――グラディウス、貫け!」

 

 

 白い閃光が部屋を照らす。狙うのはトロールの喉笛。刃の鞭が突き進む。トロールが両腕で防ごうとするが、それは悪手だ。持ち上げられた棍棒の勢いに乗って、ジュリアは光を追うように空を蹴った。

 

 刃が収縮し、厚く、太くなっていく。眩しい。

 

 灰色の肌が近づく。あと少しだ。

 

 

「――あばよ」

 

 

 そして、光が貫いた。

 

 トロールの首元を蹴って刃を引き抜き、ボロボロになった床へと着地する。降り注ぐ生臭い鮮血を浴びながら、ジュリアは古本屋の老店主が教えてくれた、ニーベルンゲンの歌を思い出した。ジークフリートは悪竜を倒して竜血を浴び、無敵の体を手に入れたのだったか。トロールの血を浴びたジュリアは何になるのだろう。賢さが下がる? それは勘弁願いたかった。

 

 膝に力が入らない。ジュリアは床に倒れ込んで、全身の痛みに顔をしかめた。

 

 トロールは両腕を半端に浮かせたまま、そして両足で立ったまま、ジュリアを睨みつけている。もう声を上げることはない。

 

 

「タフな野郎だ。……くそ、流石に痛むな。来年は鎧でも……っ!」

 

 

 トロールの両腕がジュリアめがけて振り下ろされる。

 

 世界がやけにゆっくりと動いていた。思考するジュリアと、体を動かすジュリアと、悪態をつくジュリアがいる。思考するジュリアが分析した。ニワトリは首を落としても走り回るという。トロールにもそれと同じ現象が起きているのだろう。トロールは死んでいるが、命令だけが生きている。体を動かすジュリアが両腕を構え、口に盾の呪文を唱えさせる。悪態をつくジュリアが怒鳴り散らす。

 

 

「殺しても、殺されたら、負けなんだよ! プロテゴ、護れ!」

 

 

 二重の盾がジュリアを包む。しかし、トロールの両腕が叩きつけられる衝撃は、盾から腕へ、腕から肩へ、肩から背中へと伝わっていった。

 

 腕を弾かれたトロールが倒れていくのが霞んだ視界に映った。ジュリアは笑って、笑って、痛みに身を委ね、そして深く暗闇へ沈んでいった。

 

 

「――あたしの勝ちだ」



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墓標を

 この場所に来るのは二度目だ。ジュリアはまず匂いで気づいた。消毒液、魔法薬、花の匂い。目を開くと、真っ白な中に温かな照明が吊るされている。今日は柔らかいベッドに寝かされていた。

 

 ジュリアは両腕を宙に伸ばす。指は正常に動く。肘も問題なし。肩も良好。しかし、全ての関節が以前より強張っている。数日寝込んでいたようだ。

 

 そのまま太もものホルスターへ。杖は二振りともある。抜き、照明にかざす。傷は見当たらない。僥倖だ。ホルスターに戻して息をつく。

 

 

「乙女の寝顔を覗くのは悪趣味だって教わらなかったのか、ダンブルドア」

 

 

 紫のスツールに座った長身痩躯の老人が、ジュリアに柔和な微笑みを向けていた。賞賛と感嘆、それから少しの安心と言ったところか。少なくとも、いまこの賢者が表面に出しているのは、そういった感情だった。

 

 

「いやはや、相変わらず君には頭が上がらんのう。しかし、わしが君を心配する気持ちもほんのちょびっと理解してくれないかね?」

 

「心配なのはあたしのほうさ。ハーマイオニーたちは無事か」

 

「無事じゃよ、ジュリア。無事じゃ。ミス・グレンジャーとミスター・ロナルド・ウィーズリーは君が目覚めるのを心待ちにしておった。ハリーは隣のベッドで寝ておるが、もうじき目を覚ます頃合いじゃろう」

 

 

 ダンブルドアが挙げた名前に、クィリナス・クィレルはなかった。

 

 

「クィレル先生は、死んだのか」

 

「悲しいことじゃ。彼はヴォルデモートに魅了されておった。もはや彼の体は呪いに侵されきっておったのじゃ。ハリーは彼と勇敢に戦い、そして打ち倒した。ある意味では、彼を救ったのかもしれん」

 

「違う」

 

 

 ジュリアはできるだけ憶測で物事を語りたくなかったが、もう死んでしまった人物について語るには、憶測を挟むしかない。ジュリアはゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 

「あんたは悲しんじゃいないさ。あんたはクィレル先生を助けようとも、理解しようともしなかった」

 

「彼はよき教師じゃった。それはもちろん、素晴らしいことじゃ。しかし、アルバニアで彼はヴォルデモートと出会い――」

 

「力を求めて、自ら憑依された。そうだろ?」

 

 

 ダンブルドアは嬉しそうだった。ジュリアにはこの老人がなぜ喜んでいるのかわからなかった。

 

 

「君は冷静に推理し、多くの情報を精査し、見事真実に辿り着いた。見事、見事」

 

「そういうことじゃねえよ」

 

 

 ジュリアは体を起こした。ハリーが眠っているのなら、声を荒げるわけにはいかない。しかし、ただこの男の甘い言葉に身を委ねるわけにもいかない。

 

 ダンブルドアが水差しとコップを取り出したが、ジュリアは首を振って断った。

 

 

「アルバニア語はわかるか」

 

「名高きバーテミウス・クラウチ氏ほどではないが、心得はある。クィレル先生から何か聞いたのかね?」

 

「ミーク、ってどういう意味だ」

 

「”友達”じゃよ」

 

「そうか」

 

 

 ジュリアの中でひとつの憶測が確信に変わった。

 

 

「クィレル先生はな、あのトロールに名前をやったんだ。あいつはミークって名前だった」

 

 

 ダンブルドアは沈黙していた。微笑みこそ崩さなかったが、何の感情も表に出していないように思えた。

 

 

「これはあたしの推理だ。あたしはシャーロック・ホームズでもないし、母さんみたいに頭がいいわけでもない。でも、パズルのピースはあらかた揃った」

 

「ふむ」

 

「……学生時代、クィレル先生はレイブンクローの落ちこぼれだった。実技ができなかった。あそこじゃできない奴はハブられる。きっと、ずっと独りだった。あの人は力を得れば仲間ができると思った。それで、アルバニアに行った。ここは情報が足りねえ。アルバニアにヴォルデモートが潜伏しているのをどこで知ったのか。自力じゃねえな。誰かに吹き込まれた。その可能性が高い」

 

 

 そして、もしかすると、吹き込んだのはこの老人だ。ジュリアはダンブルドアの目を見たが、そこには白いローブを着せられたジュリアだけが映っていた。答えはない。

 

 ジュリアは言葉を続けた。

 

 

「クィレル先生はアルバニアに向かった。山中でトロールと友達になった。その前か後かはわからねえけど、たぶん、ヴォルデモートのことを倒そうと考えてたんだろうな。だが、腐ってもヴォルデモートはヴォルデモートだ。クィレル先生は闇の力に魅了され、憑依されることを選んだ」

 

 

 ダンブルドアは何も言わない。否定もしない。

 

 

「さて、お話はここから始まったわけだ。ハリーが入学した。あんたはハリーに試練と機会を与えた。ハリーは少しずつ自尊心と勇気を獲得していった。一方で、ヴォルデモートは復活のために賢者の石を狙った。あんたは賢者の石を餌にヴォルデモートをホグワーツまで釣り上げた。生き残った男の子と、ぶっ飛ばされた闇の帝王。両者がホグワーツに揃ったわけだ。……このあたりは、ハリーも気づいてるだろうよ」

 

 

 ケンタウロスに背負われたハリーの燃える瞳を思い出す。あの時すでに、ハリーは覚悟していた。そして、ハリーも馬鹿ではない。わざわざ自分が入学する年にダンブルドアが敵の最も求めるものをホグワーツへと運び込んだのだ。多少は察しがつく。

 

 

「あんたは気づいてたかもしれない。だから、これは馬鹿なあたしの独りよがりなスピーチになるかもしれない。でも、言わせてくれ。クィリナス・クィレルは、抵抗していたよ」

 

「君が愛情深い子なのはよくわかるよ、ジュリア。しかし――」

 

「なるほど。気づいてなかったなら教えてやる。ヴォルデモートは三頭犬の突破方法を知らなかった。だからクィレル先生にハグリッドと接触させて情報を引き出した。でも、クィレル先生はマグル学の教授で、読書家だ。オルフェウスがどうやってケルベロスを寝かしつけたかなんて、あたしでも知ってる。それを、クィレル先生は隠し通した。おそらく、真っ先にヴォルデモートから習った、閉心術を使って」

 

 

 ジュリアの頬を涙が伝った。ジュリアは不思議だった。自分はこんなに感情的な人物ではなかったはずだ。なぜ泣いているのだろう。誰のために泣いているのだろう。

 

 

「クィレル先生は闇の魔術に対する防衛術の教師として、多少の問題はあったが、十分な仕事をした。ターバンの下には常に脅してくるヴォルデモートを隠し、ヴォルデモートを隠していることをあんたらに隠し、生徒を大事に思っていることをヴォルデモートに隠した。隠して、隠して、隠し通して、結局群れに戻れないまま、死んじまった」

 

 

 今度こそ、ジュリアはダンブルドアを睨みつけた。今はこの男を許せる日が来るとは思えないほど、腹立たしかった。そして、それ以上に悲しかった。

 

 

「あんたなら救えたんじゃねえのか、アルバス・ダンブルドア。それなのに、ヴォルデモートに最も望むものを見せびらかして、与えず、それどころか従わされていたクィレル先生を殺した」

 

「彼は手遅れじゃった。ヴォルデモートと魂を分け合い、もはやハリーの護りに触れるだけで崩れるほどに呪われておった」

 

 

 冷静なほうのジュリアがメモを取った。最初に出会ったときの予想は間違っていた。ハリーにはなんらかの”護り”がかかっており、それによって彼は対ヴォルデモート用人型決戦兵器として運用されている。熱された盾で殴るようなものだろう。

 

 

「だからハリーにクィレル先生を殺させた」

 

「ハリーはヴォルデモートを倒した。ヴォルデモートを失ったクィレル先生は死んでしまった。間接的な原因ではあるかもしれんが、殺したのはヴォルデモートじゃ。その穿った見方は、少々ハリーに厳しすぎるのう」

 

「あたしが厳しいのはあんたに対してだ。どうしてクィレル先生を使い潰してハリーを育てた。より大いなる善のために、か?」

 

 

 ダンブルドアの笑顔から、一瞬だけ温かみが消えたような気がした。

 

 ダンブルドアはじっとジュリアを見つめている。ジュリアは視線をそらすことなく、糾弾を続けた。

 

 

「あんたがやったことは正義かもしれない、ああそうさ。だが、あんたの理念は、あんたが打ち倒したグリンデルバルドと同じだ。ヴォルデモートを倒すためなら、マグル学の教授くらい使い潰したっていい。そう考えちゃいねえか?」

 

「……わしほど年老いると、時折自分で自分が何を考えているのかわからなくなる。考えることを考えが勝手に行ってくれるのじゃ。便利だけれども、時には全てを把握していないことが恐ろしくなるのう」

 

 

 誤魔化しと肯定が半々と言ったところか。

 

 これ以上言い立てても、クィレル先生は帰ってこない。このことを早く忘れてしまわないと、ハリーを傷つけることになるかもしれない。ジュリアは横になると、ダンブルドアに背を向けた。シーツに皺が寄る。

 

 

「あんたがここで安心してるってことは、ヴォルデモートは追いやられたってことだ。でも、ヴォルデモートが完全消滅したなら、もっとお祭り騒ぎになってていい。それに、表向きは死んだことになってるヴォルデモートがホグワーツに侵入していたなんてことになったら、生徒の家族は急いで子どもを呼び戻すだろうよ。だから、公表される悪役はクィレル先生になる。そして、ヴォルデモートは消え去ったわけじゃない。……そうなんだろ、ダンブルドア」

 

「残念なことじゃ。もし人が敵を目前とせずとも団結し、打ち倒すべき者がなくとも勇気ある行動を賞賛できるのであれば、悪役など必要ないというのに」

 

「ああ。残念だ。残念だよ、くそったれ。……寝る。ハリーと話すんだろ、行けよ」

 

 

 ジュリアはシーツをたぐり寄せて、顔をうずめた。

 

 

「ゆっくりおやすみ、ジュリア。見事な推理と、見事な愛情をありがとう。わしもまだまだ学ぶことが多い」

 

 

 返事はしなかった。ジュリアは丸まって、奥歯を噛みしめた。

 

 ダンブルドアの気配がカーテンの向こう側に移動して、マダム・ポンフリーの足音が近づいてきた。長く話していたから、調子を確認しに来たのだろう。

 

 

「……マダム・ポンフリー、音楽かけてくれよ」

 

「あなたに必要なのは音楽ではなく休養です」

 

 

 マダム・ポンフリーは、声を上げずに泣きじゃくるジュリアに何かを聞くこともせず、ただ布団をかけ直してくれた。

 

 まだ、知らなくてはいけないことが沢山ある。知らなくてはならない。無知は罪だ。無知は死を招く。自分の死だけではない。周りに死をばらまくことになる。ジュリアは己の無知が恐ろしかった。だから、頭に詰め込むために、クィリナス・クィレルという穏やかで臆病で迂闊にも無知であった教師を、小さな墓標の下に納めて、あとは忘れることにした。



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1年目の終わり

 学年度末パーティーの夜、つまりジュリアとハリーが退院した夜。グリフィンドールのテーブルで、ジュリアたち4人はただ黙って座っていた。4人は、特にハリーはすっかり時の人となっていて、ちょっと動くだけでも大広間がざわつくのだ。誰もがハリーを一目見ようとしていた。生き残った男の子、再び闇の魔法使いを打ち倒す。これはどうやら一大ニュースのようだった。

 

 

「また、一年が過ぎた! 諸君の頭がごちそうでいっぱいになってしまう前に、そして、諸君の頭が夏休みで空っぽになってしまう前に、少々お時間をいただかねばならん。寮対抗杯についてじゃ」

 

 

 4色並んだ大広間の砂時計をちらりと見やって、ダンブルドアは点数を読み上げた。

 

 グリフィンドール、287点。

 

 ハッフルパフ、352点。

 

 レイブンクロー、426点。

 

 スリザリン、497点。

 

 どうやらジュリアは自分で思っていたよりやんちゃをしすぎたようで、それこそハーマイオニーが稼いだ点をご破算にしていたようだった。ダブルスコアとまではいかないものの、スリザリンには大差をつけられている。来年はもっと周囲を確認してから魔法を使う、大胆なショートカットをできるだけしない、そしてフィルチに見つからない、そうジュリアは誓った。

 

 スリザリンのテーブルから歓声、足を踏みならし、杯をぶつけ合う音が上がった。7年連続の寮対抗杯、しかもグリフィンドールが最下位。彼らにとっては最高の夜だろう。大広間の天井を支配する蛇の横断幕がうねっていた。

 

 

「よし、よーし。しかし――駆け込みの点がまだ勘定に入っておらなんだ」

 

 

 大広間が静まりかえった。にやついてグリフィンドールのテーブルを指さしていたスリザリン寮生ですら、手を下ろして沈黙していた。

 

 

「まず、ミスター・ロナルド・ウィーズリー。ホグワーツですら滅多に見ることのできない、たぐいまれなる指し手として、最高のチェス・ゲームに見事勝利したことを称え、グリフィンドールに50点与える」

 

 

 グリフィンドールのテーブルから歓声が爆発した。フレッドとジョージの二人に至っては本当に爆発させようとすらしていた。パーシーですら興奮して「僕の一番下の弟だ! マクゴナガルの巨大チェスに勝ったんだよ!」と真っ赤な顔で叫んでいる。

 

 

「次に、ミス・ハーマイオニー・グレンジャー。火に囲まれながら、冷静な論理と思考を途切れさせることなく、解を導き出したことを称え、グリフィンドールに50点与える」

 

 

 腕に顔をうずめたハーマイオニーが嬉し泣きしているのがわかって、ジュリアはそっと彼女の肩に手を添えた。おそらくハーマイオニーがグリフィンドールの得点王だろう。得点女王と言うのだろうか。

 

 

「そして、ミス・ジュリア・マリアット。友のため、愛のため、危険を承知の上でなお力、知恵、そして勇気を武器に戦い続けたことを称え、グリフィンドールに50点与える」

 

 

 少なくとも減点分の9割は取り戻しただろう。ジュリアは教員席のマクゴナガルにウィンクした。驚くべきことに、マクゴナガルは微笑を浮かべてウィンクを返してきた。

 

 

「それから、ミスター・ハリー・ポッター。その完璧な精神力と並外れた勇気を称え、グリフィンドールに60点を与える」

 

 

 ジュリアの耳が麻痺するほどの歓声だった。フレッドとジョージが花火を打ち上げていた。大広間の満天の星空に色とりどりの光が散る。誰も止めはしなかった。スリザリンと並んだのだ。

 

 

「勇気にもいろいろある」

 

 

 ダンブルドアのよく通る声が、少しずつ大広間を落ち着かせた。

 

 そう、ジュリアの考えが正しければ、誰よりも加点されなくてはならない少年がいる。

 

 

「味方である友に立ち向かうのには、大いなる勇気が必要となる。彼はそれを見事発揮してみせた。そこで――ミスター・ネビル・ロングボトムにわしから10点与えたい」

 

 

 グリフィンドール寮生は席から立ち上がり、帽子を投げて抱きしめあっていた。こうでなくては。ジュリアは満足して杯を胴上げされているネビルに掲げると、一息に葡萄ジュースを飲みほした。

 

 ジュリアがネビルを失神させたとき、ネビルが何を言おうとしていたか、ジュリアには予想することしかできない。でも、ネビルが”友達”と言おうとしてくれていたなら、もしそうなら、ジュリアは嬉しかった。ジュリアは勇敢な、とても勇敢な友達を得たのだ。

 

 

「ということは、飾り付けをちょいと変えねばならんのう」

 

 

 ダンブルドアが手を叩く。緑が紅に、銀が金に。蛇は追いやられ、立派なたてがみの獅子が現われた。

 

 スネイプが苦虫を噛み潰したような、それでもなんとか作り笑いをして、マクゴナガルと握手している。スネイプには悪いことをしたかもしれない。しかし、ジュリアは満足だった。散々人にレポートを課しておいて、一度たりとも加点しなかったのは、スネイプが悪い。

 

 ジュリアは腕を伸ばして、ハリーとロン、そしてもちろんハーマイオニーの肩を抱いた。ぎりぎり届くか届かないかの距離をなんとか頑張っていると、3人のほうから肩を組んできた。ジュリアは幸福だった。寮杯よりなにより、こうして友人と楽しい時を過ごせる日が来たことが、最上級の幸福だった。

 

 それからジュリアは久しぶりにステーキを頬張り続けたが、今日ばかりはハーマイオニーも止めなかった。大いに食べ、大いに笑い、大いに咽せ、大いに飲んだ。

 

 翌朝、成績が発表された。ハーマイオニーは学年でトップだ。これは喜ばしいことだった。ジュリアはハリーとロンが魔法薬学を落とすのではないかと心配していたが、流石にスネイプも成績まで私情を挟むことはしないと見えて、総合的に中々の成績を確保していた。

 

 ジュリアは自分の成績表を見つめる。魔法薬学は学年でトップを取った。呪文学と変身術も平均には届いている。飛行術はどうせ今年しかやらないのだから見なかったことにしていい。上々だ。

 

 荷物をまとめて――ジュリアは相変わらずウェストポーチひとつだ。「借金」をいくらか消費したことを考えても、いい買い物をした――ホグワーツ特急に乗り込んだ。ジュリアは早々にローブから懐かしのマグル服に着替えて、少し丈が足りなくなっていることに歓喜した。そして、その様子を見られて3人に大笑いされた。

 

 

「夏休みに3人とも家に泊まりに来てよ。部屋が足りるかは怪しいけど、きっとみんな喜ぶ。ふくろう便を送るよ」

 

「ありがとう! これで貴重な楽しみができた。ダーズリー家は最悪なんだ」

 

 

 ジュリアはウィーズリー家に受け入れてもらえるか少し不安だったが、この調子だと長い付き合いになりそうだった。ジュリアは覚悟を決めた。この後、ロンの母さんに挨拶をしよう。

 

 マグル界のプラットフォームに出ると、赤毛の女の子が金切り声を上げてハリーを指さした。

 

 

「ママ、見て! 彼だわ、ハリー・ポッター!」

 

「ジニー、お黙り。人を指さしてはいけないと教えたでしょ」

 

 

 聞かなくてもわかる。あれがロンの母さんだ。ジュリアは緊張してハーマイオニーの手を握った。初めてバイトの面接に行ったときよりも緊張している気がした。

 

 

「忙しい一年だったみたいね」

 

「とっても。お菓子とセーターありがとうございました、ウィーズリーおばさん」

 

「どういたしまして。ああ、あなたがジュリアね。お手紙ありがとう」

 

「あー、いや、お礼を言わなきゃいけないのはあたしだ。ありがとう、ございます」

 

 

 ロンが「無理すんなよジュリア」と肘でつついてきたので、ジュリアは唸った。礼儀作法の本はちゃんと読んだが、どうにも肌に合わないようだ。ジュリアは諦めて、「ありがとう、ウィーズリーおばさん」と言い直した。

 

 しばらく歓談していたが、口ひげを生やした赤ら顔の中年男性がハリーに嫌そうな顔をして声をかけた。

 

 

「小僧、準備はいいか」

 

 

 これが例のダーズリーだろう。ジュリアは記憶と知恵を総動員して、久しぶりの「打算的なコミュニケーション」を画策した。ジュリアはまともな格好をしているし、ふくろうも連れていない。荷物はウェストポーチひとつ。杖はホルスターに隠れている。万全だ。

 

 

「――あの、ひょっとして、バーノン・ダーズリー社長じゃありませんか? グランニングズ社の。お目にかかれて光栄です、ジュリア・マリアットと申します。私、オフィスの向かいのカフェでアルバイトしてたことがあって、今でもたまに挨拶に行くんです。あなたがたがハリーを育ててくださったんですね、友人として心から感謝いたします」

 

 

 ジュリアは丁寧にお辞儀してみせた。ダーズリーは困惑した表情を浮かべている。

 

 ここだ、まくし立てろ。

 

 

「ハリーには生活面で随分助けられました。恥ずかしながら、私は家事がそれほど得意ではないので……。ご自宅ではハリーと奥さんが協同で家事を?」

 

「まあ、んむ、そうだ」

 

「素敵ですね。私は早くに家族が他界したものですから、家族と一緒に家庭のことをした記憶があまりなくて。その、ハリーに関する突飛で特殊な事情がご迷惑をおかけしているかもしれませんが……どうぞ、今後ともよくしてあげてください。ああ、いえ、私が申し上げるまでもありませんね、失礼しました」

 

「うむ、そう、そうだな、当然の義務は果たしている。……家族が他界したと言ったか。それは、その」

 

「父は”事故”で私がまだ赤ちゃんだったころに。母は薬品関係の仕事をしていたのですが、その薬品が悪さをしたようです。もう随分昔の話ですから、お気になさらないでください。私にはハリーのような素敵な友人がいますから。……随分長く引き留めてしまいましたね、失礼いたしました。それでは、ごきげんよう。……行こうか、ハーマイオニー」

 

 

 唖然としているハーマイオニーの手を取って、ジュリアはハリーにウィンクしてみせた。ハリーにはまともな友人がいて、口が上手く、そしておそらく会社の近くに住んでいる。そう思い込んでしまえば、ダーズリーは迂闊な行動を取れない。どこに目があり、どこに目と口があるのかわからないのだ。牽制としては十分だろう。

 

 

「あー、つっかれたわ。表情筋攣るんじゃねえかと思った。ハーマイオニー、あんたのご家族はどこだ。挨拶する」

 

「あっち。どこで覚えてきたのよ、あんなお作法」

 

「お優しいスネイプ先生のクリスマスプレゼントさ。あたしは最初からスネイプ先生の味方だったってわけ」

 

「もう……ちゃーんと全部話してもらいますからね。ジュリアって案外、秘密主義だわ。あっ、パパ、ママ、こっち!」

 

 

 ジュリアはもう一度緊張の時間がやってくると覚悟した。しかし、予想外の展開がジュリアを待ち受けていた。明るい茶髪を清潔感のある髪型にまとめた穏やかそうな夫婦と歓談しているのは、若白髪交じりの黒髪、銀のイヤリング、男物のジャケットにジーンズ、快活な笑顔――ジュリアの後見人、セシリー・オニールだったのだ。




次回、「ハリー・ポッターと賢者の石」完結。


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帰宅

 ジュリアにとって予想外の人物が、しかもハーマイオニーの両親と会話を楽しんでいる。ハーマイオニーは悪戯が成功したかのような笑みを浮かべると、ジュリアの手を引いて駆け出した。

 

 まだ頭が混乱している。しかし、匂いは間違いなくジュリアの姉弟子だ。消毒液と清潔なシーツ、魔法薬、それから爽やかな香水の匂い。こちらに気づいた様子の大人3人が、にこやかに手を振って出迎える。

 

 

「おかえりなさい、ハーマイオニー。楽しかったかい? うん、楽しかったようだね、安心したよ。それで、そちらが噂の王子様かな?」

 

「え、あ、あの」

 

「なに固まってるのよ、ジュリアちゃん。ほら、セシリーお姉ちゃんにただいまのハグは?」

 

 

 ジュリアがセシリー・オニールという後見人兼姉弟子に会うのは、おおよそ4年ぶりであった。慎ましやかに執り行われた母の葬式からしばらくして、ジュリアは彼女のもとを去る決断を下したのだ。しかし、それは彼女への感謝や愛情がないことを示すものではない。

 

 つまるところ、セシリーはジュリアにとって大事な姉であり、その姉と4年ぶりの再会を、しかも穏やかでにこやかな突然の再会をどう受け止めればよいのか、頭が追いついていないのだ。

 

 怒っていないだろうか。心配をかけただろうか。自分をどう思っているだろうか。無数の不安が浮かんでは消え、浮かんでは消え、ジュリアは返事に詰まって、あれこれ悩んで、それでも姉を信頼して、ようやく口を開くことができた。

 

 

「とうとうクビにでもなったか?」

 

「ひどい! 休暇もぎ取るの大変だったのにー」

 

「あーあー悪かったよ、ただいま姉さん、心配かけて悪かった。えっと、それで……」

 

 

 ハーマイオニーの両親はクスクス笑って2人のやりとりを見ていた。ハーマイオニーの性格からわかっていたが、悪い人たちではなさそうだ。

 

 挨拶せねばならない。ウィーズリーおばさんで経験を積んだジュリア・マリアットは成長しているはずだ。ジュリアは言葉を選び、選び、そして選んだ。

 

 

「はじめまして、ジュリア・マリアットです」

 

「こんにちは、ジュリアちゃん。ダン・グレンジャーです。ハーマイオニーから君の話は聞いているよ、その、ふくろう便とやらで。まるで白馬の王子様に出会ったかのような口ぶりだった」

 

 

 ハーマイオニーの父さんから大きな手を差し伸べられたジュリアは、沢山の疑問符を頭に浮かべながら、握手に応じた。

 

 

「それは、えっと、光栄です……?」

 

「はは、無理せず君の素で接してくれて構わない。そうだろう、アリソン」

 

「そうね、子どもは元気なのが一番だわ。それにしても、ハーマイオニーが本以外のお友達を連れてきてくれるなんて。アリソンおばさんと呼んでくれていいですからね。ああ、本当に嬉しいわ」

 

「あー、それじゃお言葉に甘えて。よろしく、ダンおじさん、アリソンおばさん。それで……なんでお二人は姉さんと一緒に?」

 

 

 グレンジャー夫妻も、セシリーも、そしてハーマイオニーも、悪戯げな笑みを浮かべた。まるでとっておきのサプライズが成功したかのような様子だった。

 

 サプライズの内容はセシリーの口から開示された。

 

 

「お姉ちゃんとしてはね、ジュリアちゃんに定住してもらいたいの。それも、信頼の置ける親友ちゃんと、そのご家族とね」

 

「は?」

 

 

 完全な想定外。それどころか、言っている意味がわからなかった。

 

 ジュリアは数週間、セシリーと同居していたことがある。まだジュリアが母の死から立ち直ることができていなかった時期のことだ。しかし、彼女は聖マンゴの癒者であり、脱狼薬改良チームに所属する研究者でもあり、すなわち非常に多忙であった。

 

 セシリーは深夜にジュリアが待つ自宅へと姿あらわしをして、ジュリアのために防護呪文や警戒呪文をかけ、疲労を隠した笑みでジュリアを優しく抱きしめて、また姿くらましで職場に戻っていった。これが彼女にとって大きな負担となっていたのは明らかであり、心身ともに復調したジュリアは置き手紙を残して失踪した。

 

 ジュリアももちろん定住できるなら定住したい。しかし、それが誰かの負担になるのなら、ましてや大事な人の負担になるのなら、放浪していたほうがいい。なぜ今になって、セシリーがこのようなことを言い出したのか。困惑のあまり返事を忘れたジュリアを見てくすくすと笑いながら、ハーマイオニーがジュリアの腕を取った。

 

 

「一緒に暮らすの、ジュリア。今日からお引っ越しよ」

 

 

 ハーマイオニーの顔を見て、ダンおじさんとアリソンおばさんの顔を見て、最後にセシリーの顔を見て、どうやら彼らの中では決定事項のようだとジュリアは理解した。

 

 

「どうしてそういうことになったんだ?」

 

「ジュリアが見せてくれたカルテの写しからセシリーさんの配属先を見つけて、ふくろう便を飛ばしたの。それで、セシリーさんの許可を取って、パパとママに事情を相談して、二人とも私の部屋にベッドが1つ増えることに同意してくれた。そんな流れかしら」

 

 

 げに恐ろしきはハーマイオニーの行動力である。半人狼としてのカルテ――厳密には、「遺伝性獣筋骨格症」という障害の経過観察に偽装された文書だが――からジュリアの後見人が聖マンゴのどこに配属されているかを見つけ、その上で後見人と自分の両親を説得し、ジュリアのために寝床を確保してくれた。それも、ジュリアに気づかせることなく。

 

 しかし、それはあまりにも申し訳ない話だ。ジュリアは長らく”遊牧”してきた。それは人狼狩りから逃れるためでもあり、定住するだけの金がないからでもあった。ジュリアの母、エレンの致命的な失敗は、ジュリアに財産をほとんど遺さなかったことだ。彼女は賢い人物だったが、しばしばそういった盛大なうっかりをやらかした。彼女はそもそもグリンゴッツに口座を開設していなかったのだ。

 

 ジュリアはハーマイオニーのことを親友だと思っている。だからこそ、そういった点で迷惑をかけるのは気が引けた。魅力的な提案だが、お断りをしなければならない。

 

 

「……お気持ちだけ受け取っとく、ありがとな。あたしには家賃も払えないし、それにいるだけで迷惑がかかるんだ」

 

「そのあたりはお姉ちゃんが説明しよう!」

 

 

 セシリーがない胸を張るので、ジュリアはため息をついた。どうあってもこの姉弟子兼後見人はジュリアをグレンジャー家に預けたいらしい。

 

 

「……まあ聞いてやるよ」

 

「よしよし、いい子。まず、金銭面は心配しなくていいです。お姉ちゃん、最近昇進してね、ちょっと特殊なチームに加わることになったんだ。グリーングラス家ってわかる?」

 

「……あー、スリザリンの。あいつ結構可愛いんだよな、頭もいいし。痛っ、妬くなよハーマイオニー。で、グリーングラスがどう関係してくるんだ?」

 

「患者の情報保護の関係から詳しいことは言えないけど、あそこの家族が抱えてる疾患を扱うチームに入ったの。脱狼薬の研究は継続したままで、チームに入ってからぐんと昇給したんだ。もう安月給の研究室泊まりはおしまい。だから、養育費くらいは払うよ」

 

「いや、それは」

 

「払うから。このままじゃエレン先輩に顔向けできないよ。もうできない気がするけど、まあここから挽回、みたいな? というわけで、ダンとアリソンにはちゃーんと養育費プラス謝礼金をお支払いします」

 

 

 母の名前を出されると、ジュリアにはもうどうしようもなかった。

 

 セシリーはジュリアの母が服毒自殺したとき、真っ先に駆けつけてくれた癒者だった。あらゆる解毒を試し、自腹を切って蘇生を試み、手遅れだとわかっても、決して泣くことなく、ジュリアを抱きしめてくれた。葬儀の手配から何から、すべて彼女がやってくれた。そして、彼女は転属願を提出してジュリアの母の研究を継ぎ、”安月給の研究室泊まり”になった。そんな彼女に迷惑をかけたくなくて、ジュリアは置き手紙を残し、失踪した。

 

 この人には頭が上がらないのだ。

 

 

「いや、私たちは謝礼なんていいと言ったのだけどね。娘と3人で暮らしてきたから余裕もあるし、何より、娘の親友なら娘も同然だ。第二子を授かったと思えばいい」

 

「ダンおじさん……でも、あたしにはちょっと厄介な事情が」

 

「それについても差し障りのない範囲で伝えてあるの、ジュリア。私、ジュリアのカルテをちゃんと、しっかり読解したわ。つまり、生まれつきの疾患があるってことについてはパパとママも理解してる。それに」

 

 

 ハーマイオニーはジュリアを見て、何かを思い出すような笑みを見せた。

 

 

「愛と病でギザギザの牙を持った狼さんが、歯医者に潜伏しているなんて、誰が予想するかしら」

 

 

 今度こそ、ジュリアはお手上げだった。

 

 

「あたし、家事は勝手がわからないぜ? 母さんはなんでも家事魔法で片付ける人だった」

 

「大丈夫よ、ジュリアちゃん。ゆっくり練習しましょう、ハーマイオニーと一緒に」

 

「それに、ご覧の通りがさつだし、口も悪いし、発音も下手だ」

 

「私としてはね、人は見かけや振る舞いではなく、信念で評価すべきだと思っている。そして、どうやら話を聞く限り、君は娘の命の恩人で、親友のようだ。私たちはハーマイオニーの人を見る目を信頼している」

 

「……降参だ。歯列矯正とかつけたほうがいいか?」

 

 

 笑いが弾けた。

 

 セシリーはジュリアの紺色の髪をかき乱すように撫で回して、それから抱き上げて、頬にキスをした。ジュリアはされるがままになっていた。この人にはそうする権利があると思っていたからだ。沢山心配をかけたのはわかっていた。

 

 

「ダンおじさん、アリソンおばさん。……あたしのことはジュリアでいい。その、なんだ。お世話になります」

 

「ようこそ、ジュリア」

 

「ええ、歓迎するわ、ジュリア」

 

 

 それから、ダンおじさんの運転する車に乗って、グレンジャー・デンタルクリニックに到着して、本がずらりと整列する部屋に置かれた2つのベッドを見て、ジュリアはついに、定住するのだと実感した。




 賢者の石篇が完結しました。

 二言、三言。(そーれ、わっしょい、こらしょい、どっこらしょい!)

 1つ目。

 記念コラムを活動報告に投稿しました。テーマは「クィリナス・クィレルという人物について」で、本作におけるクィレル先生と原作でのクィレル先生についてお話しすることになっていますが、脱線するかもしれません。よろしければご覧ください。

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=220052&uid=244813

 2つ目。(2019/08/07改訂)

 諸般の事情から(主に体調面の問題で)しばらくお休みをいただいていました。(随分とご心配をおかけしました。もうきっと大丈夫です、ありがとうございます)予約投稿分がまだ残っていたので、しばらくはいつも通りのペースで更新できます。それまでに執筆スピードが戻らなかった場合、更新が少し遅れることになります。ご容赦ください。不調だったころの詳細はこちらに書きました。

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=220007&uid=244813

 3つ目。

 明日から秘密の部屋篇が始まりますが、原作の冒頭に辿り着くまでは少々の話数をいただくこととなります。加えて、本話から登場したセシリー・オニールというオリジナルキャラクター、原作では名前のなかったハーマイオニーの両親は今後も作中で重要な役割を帯びます。少々原作から外れたストーリーとなりますが、のんびりとお付き合いいただければ幸いです。


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ハリー・ポッターと秘密の部屋
グレンジャー家の番犬


 ジュリア・マリアットの新しい生活は、これまでの”遊牧”より格段に快適だった。

 

 早朝に目を覚まし、家族を起こさないように家を出る。新聞配達のバイトだ。当初、ダンおじさんとアリソンおばさんはジュリアにお小遣いを与えようと考えていたが、ジュリアはそれを固辞して、自力で稼ぐことを選んだ。今履いているスニーカーも自分で購入したものだ。

 

 運動がてら素早く配達を終わらせて、家に戻る。マグル界の街並みはどこも似通っていて記憶に残りにくいが、ホグワーツほど難解なダンジョンではない。仕事前のコーヒーを堪能しているダンおじさんとアリソンおばさんに朝の挨拶をし、ハーマイオニーを起こして朝食を食べる。栄養バランスに気を使った、腹持ちのいい、そしてちゃんとした肉がある食事。ジュリアの食生活についてはハーマイオニーから聞かされていたようで、アリソンおばさんは冗談めかしながらもジュリアに健康の重要性を語った。

 

 ハーマイオニーと分担して家事を片付ける。掃除はハーマイオニーのほうが几帳面で丁寧だったが、皿洗いの速度と正確性においてはジュリアが一歩先をいく。定住してみると、存外これまでのバイト経験が活きてきた。特にキッチン周りはアリソンおばさんとジュリアの独壇場だ。まだまだ学ぶことは多いが、グレンジャー家の人々はジュリアが焼いたマフィンがすっかりお気に入りになったようだった。

 

 その後は自由な時間だ。ここしばらくは近年活躍した魔法使いや魔女から新年度の「闇の魔術に対する防衛術」の教師を予想したり、マグル界、魔法界を問わず様々な本を読み漁ったり、愉快な日々を過ごした。加えて、ハーマイオニーの体力向上のために公園でバドミントンもプレイした。この競技はジュリアにとってもいい訓練になる。力を込めすぎてもだめ、おっかなびっくり打ってもだめ。杖の繊細な動きをイメージして、ハーマイオニーが肩で息をするまでシャトルを飛ばし続けた。

 

 昼食はジュリアが用意する。手早く食べることができて、爽やかなものが望ましい。ダンおじさんとアリソンおばさんは仕事の合間だし、ハーマイオニーは朝の運動で疲れきっているからだ。トーストしたバケットのサンドイッチとライムを搾った炭酸水は好評だった。飲み物が「歯に悪くないもの」だったのも高得点らしい。

 

 そして、昼寝をするハーマイオニーの寝顔を眺めながら、爪を研ぐ。1年経って、また少し爪が硬くなった。そろそろ爪切りよりナイフが必要になってくる。

 

 ナイフ。ジュリアはウェストポーチに目をやる。ジュリアは確かに定住していたし、ご近所さんにも「グレンジャーさんのところにホームステイしている子」として認識されつつあるし、グレンジャー家の人々もジュリアを家族として扱ってくれる。ジュリア自身、まだ実感はないが、家族ができたのかもしれない、と考えつつある。それでも、いつでもひとりで生きていけるだけの荷物はウェストポーチに入れてあった。

 

 

「……ジュリアぁ」

 

「寝言まであたしかよ、ったく」

 

 

 寝返りとともにずり落ちそうになったタオルケットをかけなおしてやる。まだしばらくは眠っていそうだ。確かにハーマイオニーは少し前歯が伸びぎみだし、茶色の髪は伸びきっている上に癖だらけでぼさぼさだ。しかし、その程度は愛嬌。ジュリアから見て、ハーマイオニーは十分に可愛い女の子だった。

 

 ジュリアはイヤホンをつけてラジオのスイッチを入れる。ハーマイオニーとジュリアの部屋は2階にあって、電波の通りがいい。ほとんどノイズの走らない音声が、最新のニュースを淡々と伝えてくれた。

 

 

「アブハジア紛争、ね。グルジアも随分ときなくさいじゃねえの。案外ファッキンヴォルデモートが潜んで……ありうるな、やめとこう。ほう、バルセロナオリンピック。バルセロナ……バルセロナってどこだ。スペイン? へえ……。まあ、ハーマイオニーは興味ねえだろうな。いや、わかんねえか、クィディッチで興奮してたし」

 

 

 おおよその情勢を把握して、アンテナを畳む。このラジオはもともとダンおじさんのものだったが、ジュリアがニュースや音楽を好むことを知って、快く譲ってくれた。なかなかいい品だ。

 

 微妙に時間が空いてしまった。運動をするには陽射しが強すぎる。なにより、寝ているハーマイオニーを残して外出するのは得策ではない。ジュリアはグレンジャー家の”番犬”だ。大事なご令嬢を守らねばならない。

 

 ふと、デスクに目をやる。ジュリアはロンからの手紙に返事を出していないことを思い出した。ウィーズリー家の老いたフクロウはジュリアが公園から拝借してきた枝で急遽用意された止まり木に何とか掴まり、羽を休ませている。ロンはハリーのことを心配しているようだ。ジュリアも、ハーマイオニーも同感だった。なぜなら、手紙に返事がないからだ。

 

 

「……考えられるのは、ハリーが何か致命的なミスをやらかして、あたしたちの手紙を受け取らせてもらえねえって状況。もしくは、ハリーがやっぱり致命的なミスをやらかして、手紙は受け取っちゃいるが返事を出させてもらえねえって状況。大穴は、魔法界の何者かが妨害してやがるって状況だ。さて、どうしたもんかね」

 

 

 ジュリアは考える。

 

 昔のバイト先――グランニングス社のオフィスビル向かいのカフェに戻って、ダーズリーを捕まえ、状況を上手く聞き出す。これは悪手。多少の牽制は食らわせたが、魔法界の人間という時点でダーズリーはジュリアを信用していないだろう。そんな相手に居候させている甥を虐待しているなどという話をするはずがない。

 

 直接ダーズリー家に赴き、状況次第ではハリーを攫ってくる。これはありだが、実現性に乏しい。そんなことをすれば押し入り強盗扱いを受けるだろうし、そうなればグレンジャー家に迷惑がかかる。何よりハリーをかくまうことができない。もし攫うとしたら、ダーズリーが沈黙するしかない手段、そう、たとえば、魔法を使うとか……。

 

 それだ。

 

 ジュリアは嬉々として、ロン宛てに遠回しな犯罪教唆の手紙を書き始めた。



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サプライズ

 7月30日。ジュリアの誕生日だ。去年はこっそりお邪魔していた農場の牧草ロールで飢えと闘いながら迎えた。一昨年は裏路地で空き缶拾いをしていたような記憶がある。その前はノクターン横丁で絡んできたごろつきに軽い”挨拶”をしてせしめた財布でチキンを食べたのだったか。随分と充実した日々を過ごしている。

 

 日の出を背にしてグレンジャー家のドアを静かに開け、靴を揃える。まだ家族は眠っているだろう。冷蔵庫にあるもので何か一品作っておこうか。そんなことを思ってリビングのドアを押し開ける。

 

 その瞬間、破裂音がリビングに響き渡った。

 

 咄嗟にジュリアは後ろに跳び、壁を背にしてホルスターから杖を抜く。

 

 思考の加速。銃声? それにしては軽い。弾丸が何かに当たった音も、血の匂いもしない。

 

 しかし、火薬の匂いがする。昨日の時点でリビングにもキッチンにも火薬なんて物騒なものはなかった。

 

 侵入者の可能性がある。だとすれば、何のために? 自分の正体と居場所がばれた? 人狼狩りの連中が火薬を使う? ありえなくはない。腐っても魔法使い、魔女だ。マグルに魔法をバラさず狩ることができるなら、何だって使う。そういう連中だった。油断していた。

 

 情報が必要だ。感覚を研ぎ澄ませろ。視界を広く。テーブルには料理が置かれている。キッチンからは肉が焼ける匂いがする。

 

 そして、ドアの近くに、一番好きな匂いと、ここしばらくでしっかり馴染んだ匂いが――。

 

 そこまで考えたとき、ジュリアの頭に色とりどりの紙リボンが舞い降りてきた。

 

 

「……へ?」

 

「ほら、だから言ったでしょパパ。ジュリアにサプライズは向いてないのよ」

 

「しかしだね、初めて祝う誕生日はやはり盛大でないと……。ああ、すまないジュリア。驚かせてしまったようだ」

 

 

 そうだ、誕生日。

 

 一気に気が抜けて、ジュリアは杖を収めてへたり込んだ。クラッカーを手にしたダンおじさんと、クスクス笑うハーマイオニーが開いたドアの裏から現われる。ジュリアは顔を覆いたくなるくらい恥ずかしかった。何が侵入者だ。

 

 

「誕生日おめでとう、ジュリア。あなたにとっては本当に”サプライズ”だったみたいね」

 

「ああ……。ありがとよ、ハーマイオニー、ダンおじさん。最高に”サプライズ”だったぜ。おい、笑うなよハーマイオニー、笑うなって」

 

「だって、あなた、まるで強盗でも嗅ぎつけたみたいに……」

 

 

 ハーマイオニーは笑うのをやめた。ジュリアが何を警戒していたのか理解したのだろう。少し青ざめてすらいる。

 

 ジュリアは平気な様子を装って立ち上がると、頭からリボンを取った。紫色。薄く、長く、しなやかだ。リボンはいい。幸福と平和の象徴のように思える。ジュリアの髪はリボンで結べるほど長くないが、ハーマイオニーなら十分だろう。

 

 今にも泣き出しそうな顔で駆け寄ってくるハーマイオニーを抱きとめる。

 

 

「ジュリア、ごめんなさい、私、私……浅はかだったわ」

 

「んなこたぁねえよ。あたしはちゃんと喜んでるさ。……よし、長さは足りたか」

 

 

 ジュリアはハーマイオニーの髪を指先で撫でて、まとめて、後頭部で1つに結わえると、彼女の頭を優しく叩いた。

 

 

「ラッピング完成。自分へのプレゼントを自分で包装するってのも貴重な体験だな」

 

 

 そのままハーマイオニーをくるりと回す。ふさふさでふわふわのポニーテールが宙になびいた。なかなか似合っている。髪型を色々といじるのも面白いかもしれない。癖っ毛を整える魔法薬を調合してやるのも手だ。ジュリアはそういったことに無頓着だったが、母の腰まで伸びた髪を梳くのはジュリアの役目だった。懐かしい記憶が鮮明に蘇る。

 

 一回転させられたハーマイオニーをもう一度抱きしめ、背中を軽く叩いて、ジュリアはできるだけ明るい声でハーマイオニーに話しかけた。

 

 

「ほら、お祝いしてくれるんだろ? びびっちまって悪かったな、あたしが大げさすぎた」

 

「うん……そう、そうね。お祝いしなくっちゃ」

 

 

 ハーマイオニーはジュリアからゆっくり離れると、指先で目元を拭って、何とかジュリアに微笑みを向けた。ジュリアもそれに笑顔で応える。いい一日にしなくては。

 

 

「ダンおじさん、ポニーテールのハーマイオニーってのもなかなか可愛いもんだろ?」

 

「ああ、そうだね、意外な快活さが出てとても素敵だ。さあ、食事にしよう。時間はたっぷりある。ああ、アリソンがステーキを焼いているよ。確か、レアが好みだったね?」

 

「やったぜ。最高のプレゼントだ」

 

 

 ジュリアはハーマイオニーの腰に手を回してリビングに入り、キッチンのアリソンおばさんにも挨拶をする。

 

 

「おはよう、アリソンおばさん」

 

「おはよう、ジュリア。誕生日おめでとう。今お肉が焼けますからね、席に座って待ってらっしゃい」

 

「ここ最近で一番嬉しいニュースだ……お、さらにニュースが増えそうだぞ、ハーマイオニー」

 

 

 ジュリアの嗅覚が3羽のフクロウが接近するのを感知した。マグル界の住宅街にフクロウが飛び回ることなどまずない。つまり、これは魔法界からの知らせということになる。

 

 リビングの窓辺にフクロウたちがやってくるまで、そう時間はかからなかった。

 

 おっとりした1羽はジュリアの姉弟子――セシリーからの手紙。誕生日のお祝いに近々休暇を取るから、スケジュールを調整してダイアゴン横丁で落ち合おうという走り書きと、休暇を取れる日のリストが添えられていた。

 

 よれよれの1羽はロンからの手紙。ハリー救出計画は秘密裏に進められているようだ。ハーマイオニーはハリーとロンが違法な手段を用いるのではないかと心配の声を上げた。ジュリアに言わせれば、大事なのは法よりハリーの命だ。ウィーズリー家の人々が甚大な損害を被らないのであれば。そして、ロンや双子の兄弟はきっとうまくやる。

 

 最後の神経質な1羽はホグワーツからの手紙。新しい教科書のリストだ。サラダを取り分けるジュリアの隣で、ハーマイオニーがリストを読み上げた。

 

 

「『泣き妖怪バンシーとのナウな休日』、『グールお化けとのクールな散策』、『鬼婆とのオツな休暇』……すごいわ、新しい『闇の魔術に対する防衛術』の先生はきっと彼のファンね!」

 

「あるいは、ご本人様か。ロックハート……ロックハートねえ」

 

 

 ジュリアもハーマイオニーも、ギルデロイ・ロックハートの本は多少目を通していた。ハーマイオニーは彼のファンだ。恋しているくらいに。これはジュリアにとってあまり面白くないことだった。

 

 加えて、ジュリアはギルデロイ・ロックハートという人物にいくつかの疑問を抱いていた。武勇伝は確かに見事だ。しかし、奇妙なのは、話ごとに戦法や態度が異なるように思えること。そして、これほどまでの武勇で名を馳せながら、魔法戦士隊に所属していないこと。加えて、ホグワーツのトロフィー室に彼の名前がなかったこと。

 

 もし、彼がハーマイオニーの信じるとおり著書そのままの人物であれば、今年はいい勉強ができる。しかし、そうでなかったとしたら――

 

 そこまで考えて、ジュリアは思考を投げ捨て、焼きたてのステーキにナイフを入れた。こちらが最優先事項だ。



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ロックハートのサイン会

 グレンジャー夫妻とセシリーのスケジュールをすり合わせた結果、水曜日にダイアゴン横丁へ向かうことになった。ハリーとウィーズリー家の人々にもそれを知らせる。ウィーズリー家のフクロウはご老体だから、返事を待っていたら予定日を過ぎてしまう。会えることを期待するしかなかった。

 

 ダンおじさんはドライブが好きだったが、「漏れ鍋」の近くにパーキングスペースはない。4人は電車とバスを乗り継いでロンドンに向かった。地下鉄でフクロウの入った籠を抱えて居心地悪そうに座る青年を見かけた。きっと”ご同輩”だろう。

 

 懐かしの「漏れ鍋」で4人はセシリーと合流した。黒のライダースジャケットを羽織ったセシリーは上機嫌でジュリアを抱き上げ、続けてハーマイオニーにも同じことをした。香水で隠しているが、消毒液の匂いが抜けていない。つい先ほどまで職場にいたようだ。ジュリアは姉弟子がそのうち倒れるのではないかと心配でならなかった。

 

 

「まずはグリンゴッツだね、教科書代とか諸々引き出さなきゃ。ダンとアリソンはジェットコースターとか好き? そう、それはよかった。グリンゴッツはきっと気に入るよ、いいとこだもの。ジュリアちゃんの奨学金が返済免除になればなあ。呪文学と変身術、みっちり練習すること。スネイプ先輩だけじゃなくてマクゴナガル先生にも個人授業やってもらいなよ、ついでに礼儀作法も。ハーマイオニーちゃんはあんまり参考書を買いすぎないようにね、鞄がパンクしちゃう。そうだ、鞄! 拡大呪文のかかったのを買うといいよ。検知不可能拡大呪文つきのは高いけど、ただの拡大呪文ならワゴンセール品でも広いのが――」

 

「姉さん、たまには呼吸ってやつを思い出したらどうだ」

 

 

 セシリーはいつにも増して饒舌だった。きっと仕事の疲れがたまっているのだろう。それでも先導はしっかりとしてくれて、混み合うダイアゴン横丁を進み、ノクターン横丁との交差点にそびえ立つ白亜の城、グリンゴッツに辿り着いた。

 

 1年ぶりのトロッコでグリンゴッツを下り――ジュリアは匂いで確信した。ここにはドラゴンがいる――、ダンおじさんとアリソンおばさんの聞いたこともないような歓声に驚き、それからジュリアは「借金」を所定の金額まで引き出した。グレンジャー家はそこそこの額を魔法界の通貨に両替したと見えて、ハーマイオニーの金庫にはかなりの金貨が積まれていた。きっとこの大半が図書代に消えるのだろう。グレンジャー夫妻はハーマイオニーの教育に投資を惜しまない人たちだ。

 

 グリンゴッツを出たところで、ジュリアの鼻がハグリッドとハリーを見つけた。あまりよろしい状況とは言えない。ドラゴンという前科を持つハグリッドはともかく、ハリーが魔法界の薄暗がり――ノクターン横丁にいる理由がジュリアにはわからなかった。

 

 

「姉さん、ハリーがノクターン横丁にいる」

 

「ハリー・ポッターが? 無事?」

 

「ハグリッドと一緒だ。まあ大丈夫だろ、何してたのかは知らねえけど。リータ・スキーターが嗅ぎつけねえといいな、明日の大見出しになるぞ――生き残った男の子、闇の魔術に傾倒か」

 

 

 ハグリッドがハリーを抱えて明るい通りに出てきた。ハーマイオニーが駆け寄っていく。友人たちとの再会だ。ハリーがいるということは、ウィーズリー家の人々も来ているのだろう。

 

 

「ねえ、ジュリアちゃーん」

 

 

 セシリーが物欲しげな甘えた声を上げてジュリアの体に腕を絡ませた。彼女の悪癖――ちょっと危ないショッピングへのお誘いだ。

 

 せっかく休暇をもぎ取って誕生祝いとして買い物に同行してくれているのだから、多少のわがままには付き合いたい。そう考えて、ジュリアは小さく頷いた。

 

 

「わかってる。あとでノクターン横丁覗こう」

 

「やった! いやー、休暇取った甲斐があるってものよね」

 

「あたしの誕生祝いじゃねえのかよ」

 

「拗ねるな拗ねるなー」

 

「拗ねてねえからそのだらしねえ顔しゃきっとさせろ。ほら、行くぞ。ダンおじさん、アリソンおばさん、あそこででかくてごついのに抱えられてるのがハリーだ。今紹介する」

 

 

 ほどなくして、ウィーズリー家の人々とも合流できた。ウィーズリーおばさんはハリーを無事ノクターン横丁から”回収”したハグリッドに心から感謝しているようだった。どうやらハリーは煙突飛行の事故で飛ばされたようだ。生きているのは幸いだった。

 

 ウィーズリーおじさん、つまりアーサー・ウィーズリー氏はマグル界のことに興味津々のようで、目を輝かせてグレンジャー夫妻に「漏れ鍋」で是非一杯、と誘った。セシリーがハーマイオニーのことを請け負うと、夫妻は新しい友人と「漏れ鍋」に向かった。異文化交流の時間だ。

 

 アイスクリームパーラーを通りかかったところでハリーがポケットから銀貨を取り出したので、セシリーはそれを制止して、4人にお揃いのアイスを買い与えてくれた。

 

 

「こういうのはね、大人の役割なのよ、少年少女」

 

 

 彼女自身もラムレーズンのアイスをなめながら、上機嫌でジュリアの手を引いていた。

 

 羊皮紙やインクといった買い物を片付け、「ギャンボル・アンド・ジェイプスいたずら専門店」を冷やかし、教科書を扱っている「フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店」に向かった。すさまじい人だかりだ。ジュリアはぶつからないように急いでアイスを平らげた。ほとんどが中年の魔女で、しかもきつい香水を浴びるようにかけてきている。暑さと悪臭でやられないうちに退散したいところだったが、教科書を買わなければならない。

 

 セシリーを通りの向かいに待たせて、4人は群衆の中に飛び込んだ。やはり、ひどい臭いだ。ハーマイオニーが上階を指さして何か黄色い声を上げたが、ジュリアの目と耳は人ごみで埋め尽くされていた。

 

 

「彼に会えるんだわ!」

 

「彼って誰だよ。おいロン、そいつはあたしの足だ、踏むなら他のにしろ」

 

「ごめん、あいたっ! でも、この混み具合じゃママを見つけられない、あいたっ!」

 

 

 4人は押され、踏まれ、潰されかけながらも、なんとか店内に入ることができた。『泣き妖怪バンシーとのナウな休日』を人数分抱きかかえる。会計を済ませれば任務達成だ。しかし、そのために4人はまた人ごみをかき分ける必要があった。

 

 ようやく発見することができたウィーズリーおばさんと一緒に列に並ぶ。彼女の頬が赤いのは暑さからだけではなさそうだ。

 

 

「もうすぐ彼に会えるわ……」

 

「だから、その彼って……ああ、なるほど」

 

 

 ジュリアはようやく店内の貼り紙と目が合った。実にハンサムで、気障ったらしい笑顔。ギルデロイ・ロックハートのサイン会が開かれているらしい。なんとも見事なタイミングだった。

 

 列がご本人まで進むのに、さほど時間はかからなかった。それでもウィーズリーおばさんは上気した頬を扇ぎ続け、ハーマイオニーは3回もコンパクトミラーを開き、ジュリアは適当な理由をつけて教科書と代金を預け抜け出そうかとすら考えた。

 

 そして、ギルデロイ・ロックハートがもう目の前というところに来て、ふと彼が顔を上げ、その視線がハリーを捉えた。

 

 

「もしや……ハリー・ポッター!」

 

 

 ああ、また厄介事だ。ジュリアはうんざりしながら代金を置いて早々に退散した。ああいう男に書かせるサインは連帯保証人の署名だけでいい。『泣き妖怪バンシーとのナウな休日』を抱えて転がり出たジュリアに、セシリーは笑いかけた。

 

 

「あら、ジュリアちゃんはロックハートのサインもらわないの?」

 

「うんざりだよ、くそったれ。ほしけりゃ姉さんがもらってくるといい」

 

「私、ダンディなおじさまのほうが好みなのよね」

 

「姉さんの恋愛事情も性生活も知ったこっちゃねえが、あたしもああいうのは好みじゃねえな」

 

 

 ギルデロイ・ロックハートはハリーと握手し、強引に肩を組み、写真を撮らせていた。明日の日刊予言者新聞の一面見出しだろう。魔法界のスターと魔法界の英雄。なんとも輝かしい組み合わせだ。

 

 そして、ギルデロイ・ロックハートはハリーにサイン入りの自伝を無料でプレゼントし、とんでもない事実を公表した。

 

 

「ここに、大いなる喜びと、誇りを持って発表いたしましょう。この9月から、私はホグワーツ魔法魔術学校にて、『闇の魔術に対する防衛術』の教鞭を執ることとなりました!」

 

 

 群衆から歓声が上がった。もう一度ホグワーツに戻りたいと嘆く魔女すらいる。ジュリアはうんざりして、気障なスマイルを見せる表紙にデコピンを食らわせ、ウェストポーチに放り込んだ。

 

 今のところ、ジュリアのギルデロイ・ロックハートに対する印象は最悪だった。しかし、優れた戦士はオンとオフを切り替えるものだ。魔法戦士としての彼に期待するしかない。

 

 

「姉さん、どう見る」

 

「んー、まだ情報不足。同期から聞いた話なんだけど、あれだけの冒険を語ってるのに、聖マンゴには彼のカルテがないらしいの。全ての冒険を無傷で乗り越えたか、あるいは――」

 

「でたらめほざいてやがるか、か。できれば期待したいんだがな」

 

 

 いずれにせよ、授業でわかる。ハリーが山積みの教科書を抱えて出てくるのを眺めながら、ジュリアは今年が実りある年になることを祈った。天にましますくそったれ永劫名誉チェリーボーイ。



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大人の喧嘩に口を出してはいけない

 一難去ってまた一難。人だかりから少し離れた場所で、ハリーとマルフォイが睨み合っていた。いつも通りの争いが、少し場所を変えただけだ。ジュリアが不思議に思うのは、魔法界の名家、その跡継ぎであるマルフォイ少年が大衆の面前で生き残った男の子相手に喧嘩を売って、パパ・マルフォイに叱られないのかということだが、まだ少年の彼にそこまでの思慮深さはないのかもしれない。

 

 

「いい気持ちだろう、ポッター。書店で買い物するだけで一面大見出し記事だ」

 

「ほっといてよ!」

 

 

 勇敢なことに、ウィーズリー家の末妹――確か、ジニーといったか――がハリーを庇うように前に出た。身なりを整えれば映える顔立ちをしている。ジュリアは予想を立てた。あの子もグリフィンドールに来るだろう。

 

 これで2対1。無言で睨んでいるロンを入れれば3対1で、介入する気があまりないジュリアも入れれば4対1だ。今日はミニトロールのペアはボディーガードをしていない。しかし、マルフォイは余裕を崩さなかった。

 

 

「おや、ポッター。ガールフレンドかい? ……ああ、ウィーズリーか。まったく、君らがこの店にいるのを見て驚いたよ。あれだけの教科書だ、君らの両親は当分飲まず食わずだろうね」

 

 

 実にドラコ・マルフォイらしい、最低の挑発だ。家族と経済状況を引き合いに出すのは極めて無礼な行為だと言える。ハリーもロンもジニーの大鍋に教科書を放り込み、マルフォイめがけて飛びかかろうとしていた。しかし、喜ばしいことに、我らの良心、ハーマイオニーが2人の上着をしっかりと掴んでいたので、なんとか殴り合いに発展せずに済みそうだった。

 

 しかし、ますます厄介なことに、両陣営の大人が首を突っ込んできた。

 

 

「これは、これは――アーサーではないか」

 

「ルシウス」

 

 

 ルシウス・マルフォイのご登場だ。ジュリアはじっくりと彼を観察した。時代錯誤なステッキがやけに似合う、貴族然とした男。プラチナブロンドを長く伸ばし、優雅で冷たい雰囲気を纏っている。しかし、子どもの喧嘩に首を突っ込むあたり、そこそこの親馬鹿ではあるのだろう。

 

 ジュリアはルシウス・マルフォイという名前をどこかで聞いた気がしたが、どうにも思い出せなかった。

 

 

「お役所は随分とご多忙なようですな。なにせ抜き打ち調査を何度も。もちろん、残業代は……ふむ、もらっているようには見えんが」

 

 

 パパ・マルフォイは、ジュニア・マルフォイの肩に手を置くと、冷めた視線でジニーの大鍋を見下げ、そこからボロボロの『変身術入門』を引っ張り出した。

 

 

「役所が満足に賃金を支払わないようでは、わざわざ魔法使いの面汚しになる甲斐があるのか、私には見当がつきませんな」

 

「ルシウス・マルフォイ。魔法使いの面汚しの定義について、どうやら私たちの見解は異なるようだ」

 

「左様ですな、喜ばしいことに」

 

 

 ルシウス・マルフォイの視線が、ウィーズリーおじさんの後ろで心配そうに事態を静観していたグレンジャー夫妻に刺さった。

 

 

「ああ、アーサー……こんな連中と付き合っているのか。君の一族はもうすっかり落ちるところまで落ちたと考えていたが、どうやら君は、底を知らんらしい」

 

 

 声、目、空気。すべてに明らかな侮蔑の色を感じる。賑わうダイアゴン横丁の中で、ジュリアにはルシウス・マルフォイだけが見えていた。グレンジャー家への侮辱はジュリアという猟犬を猛らせるには十分な振る舞いだ。

 

 ホルスターに指を伸ばそうとして、止める。呪いは得策とは言えない。ドラコ・マルフォイの父親、聖28氏族だ。魔法界を代表する名家の当主に不意打ちで呪いをかけるのは、狭い将来をさらに狭める。

 

 普通の子どものように振る舞って殴りかかるか。悪くない。しかし、奴がどのような手口で反撃してくるかわからない。正面から攻めるのは愚か者のやることだ。

 

 いったん人ごみに紛れ込み、通りがけに急所を狙って一撃を食らわせてすぐ戻るか。これがいい。ジュリアは自分の小さな体格を自覚している。人ごみに隠れる程度はたやすいと判断した。

 

 そして、ジュリアが一歩踏み出そうとしたその時、

 

 

「――だめ、ジュリアちゃん。ルシウス・マルフォイに手を出してはいけない」

 

「うまくやる」

 

「だめ、冷静に。……あいつは聖マンゴに顔が利く。見ようと思えば”先輩の研究”を入手することもできるかもしれない」

 

 

 頭に昇っていた血が一気に散っていった。

 

 ドラコ・マルフォイを経由すれば名前と顔が一致する。役所、学校、病院は権力者にとっての情報源だ。もしかすると、ジュリアの出生に辿り着いてしまうかもしれない。

 

 ジュリアの肉体は「遺伝性獣筋骨格症」という表向きの病名がつけられており、母胎から離れてしばらくの間検査され、運動能力などに影響を及ぼす可能性はあるものの生活に支障はないと診断されたことになっている。もちろん、そのカルテも聖マンゴに保存されている。

 

 しかし、それとは別に、「ムーアクロフト・レポート」と呼ばれる資料が存在している。これも表向きはジュリアの母が聖マンゴを退職してから行った脱狼薬の研究データということになっている。ここにジュリアの”正体”が書かれているのだ。

 

 聖マンゴで「ムーアクロフト・レポート」を扱う人物はごく少数。その代表がセシリーで、彼女は長らく聖マンゴ研究棟に寝泊まりして解読を試み、ジュリアの本当の疾患、「先天性半人狼」の研究を進めていた。何もこれは私情からのみ行われたものではない。ジュリアの母、エレン・マリアットは脱狼薬の改良に短い生涯を費やした。そして彼女は未完成の研究と「ムーアクロフト・レポート」に、1つの可能性を残した。脱狼薬改良の到達点、その1つには、「人狼の呪いの完全制御」がある、と。

 

 無論、魔法省が知ればいい顔はしないだろう。人狼の多くは闇に身を潜め、犯罪に手を染めている。そんな「犯罪者の群れ」にわざわざ力を制御し人間に溶け込む薬を与えるなど、あまりに危険だ。その反応が予想できているために、「ムーアクロフト・レポート」の真実は秘匿され、ただ「脱狼薬の研究チーム」にのみ共有された。チームに参加している研究者の中にはジュリアを外に出すべきではないと考える者もいたが、誰が「先天性」の、しかも「半人狼」などという笑えないジョークを信じるだろうか。

 

 しかし、「ムーアクロフト・レポート」とジュリア・マリアットが合わされば、チームにもジュリアにも危険が及ぶ。

 

 

「……悪い、かっとなった」

 

「我慢できたね、いい子。あとでご褒美あげる」

 

 

 ご褒美をもらう資格なんてない。ジュリアは泣きたいくらいだった。

 

 ハーマイオニーに見せた情報ですら、個人、日時、場所を特定できる部分はすべて処理を施され、ただ「人狼の呪いが部分的にしか発現しなかった珍しいケース」として閲覧できる状態になっていた。これを取り寄せる名目も「闇の魔術に対する防衛術の参考資料」として届け出がなされている。そして読み終わった後は焼却処分までしてもらった。可能な限り疑われる要素がないように。

 

 なんという迂闊、なんという浅慮。

 

 ジュリアは「待て」ができる犬にならなければならない。



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ノクターン横丁を、ぶらーり

 大人組の殴り合いがハグリッドによって強引に引き分けとされ、書店を去り、騒動にびっくりしていたグレンジャー夫妻をセシリーが落ち着かせ、それからハリーとウィーズリー家の人々とお別れの時間がやってきた。

 

 

「ハリー、ロン、また9月の頭にな」

 

「うん、ジュリアもハーマイオニーも元気で」

 

 

 短く挨拶を交わし、次々と「漏れ鍋」の暖炉で煙突飛行の炎に包まれる彼らを見送る。きっとウィーズリー家の「隠れ穴」に向かったのだろう。

 

 ジュリアは片手をセシリーに、片手をハーマイオニーに握られていた。山、谷、平地。この1年でハーマイオニーは身長を伸ばしている。ジュリアの母は小さな魔女だった。ジュリアもそうなるのだろうか。

 

 

「そうだ、ジュリアちゃんに誕生日プレゼントを買ってあげるんだった! ダン、アリソン、ちょっとハーマイオニーちゃんを借りてもいい? 大丈夫、さっきみたいな馬鹿騒ぎはそうそう起こるものじゃないから。うん、安心して、私がちゃんと預かる。それに、ハーマイオニーちゃんにも魔法界をもっとよく知ってもらったほうがいいと思うんだ。ほら、学校って狭いコミュニティでしょ? うちの職場でも長期入院の患者さんとか、結構視野が狭くなっちゃう人がいるからさ。あ、これオフレコね、こんなこと言い触らしてるってバレたらボスに怒られる。それじゃ、漏れ鍋でのんびりしてて。ここのサングリアはなかなかいけるよ。ほら、ジュリアちゃんどうしたの、気が抜けた顔しちゃって。お買い物しよ?」

 

「……悪い、ダンおじさん、アリソンおばさん。姉さん、ちょっとハイになってんだ。大丈夫、ハーマイオニーはあたしが守るから。うん。……行ってきます」

 

 

 セシリーに引っ張られて、まだ気分が重いままのジュリアはダイアゴン横丁を進んだ。書店。用済み。ペットショップ。興味なし。アイスクリームパーラー。気分ではない。オリバンダーの店。杖に問題はない。3人はもうグリンゴッツの前まで来ていた。

 

 グリンゴッツの前は十字路になっている。1つの道は日向の道。店々が軒を連ね、明らかに魔法的増築がなされた店舗から飛び出た輝く看板や垂れ幕が視線を惹きつけ、賑やかな人ごみに満ちている。ジュリアにとっては少々眩しく、少々騒がしい。

 

 そして、セシリーの目的地は、もう1つの道だ。

 

 

「姉さん、まさかハーマイオニーを連れてく気か」

 

「清濁併せ呑んでこその魔女ってものでしょ。私たちがついてるんだから大丈夫」

 

「あの、セシリーさん。もしかして……”あそこ”に行くんですか?」

 

 

 ハーマイオニーがおずおずと指さした先には、イギリス魔法界のちょっとした日陰、ジュリアの古いねぐら、ノクターン横丁があった。

 

 セシリーは満面の笑みで首肯する。ハーマイオニーの表情が固まった。当然だろう。安全な場所ではないと一目でわかる。ジュリアも、ハーマイオニーを連れていくのはさすがに反対だった。

 

 

「だから言ったろ姉さん、ハーマイオニーにはちょっと冒険が過ぎる」

 

「でも、私たちにとっては庭みたいなものじゃない」

 

 

 ジュリアは一時期、ノクターン横丁に居城を構えていた。突っかかってくるごろつきから財布をせしめるのにも有用だし、魔法省の手が入っていない無法地帯は父の杖で法の目をかいくぐりつつ魔法の練習をするのに適していたし、いい場所だったのだ。ただ、セシリーに発見されそうになって、ジュリアはここから逃げることを選んだ。

 

 

「そりゃ、そうだけどよ……ハーマイオニー、グリンゴッツで待ってるか?」

 

「……ううん、行く。これも社会勉強よ」

 

 

 とりあえず勉強とつけておけばハーマイオニーは釣れるのではないか。ジュリアは心配になった。

 

 ノクターン横丁は1世紀ほど時代を巻き戻したような不気味さと不衛生さで、ハーマイオニーを怯えさせていた。ジュリアはハーマイオニーの手をしっかり握る。今度はセシリーとジュリアがハーマイオニーを挟む形だ。セシリーの杖腕は左、ジュリアの杖腕は右。何かあっても素早く対処することができるよう、しかし警戒していることを悟らせないよう、ジュリアとセシリーはとりとめもない会話をしながら歩いた。これはジュリアにとっていい気分転換にもなった。

 

 

「繊細な魔力操作が後々重要になってくるのはあたしにもわかる。けどよ、なんでパイナップルにタップダンスなんだ。なんか、こう……なんかあるだろ」

 

「ラディッシュにポールダンスとか?」

 

「もっとひどいじゃねえか」

 

「私の時は確かそれだったよ。あ、おばあちゃん。人間の生爪なら間に合ってるよ、聖マンゴはもっとシンプルな素材で水虫治療薬を作ってるからね」

 

「相変わらず阿漕な商売してんな、ばあさん。じゃあな、長生きしろよ」

 

「ジュリア……人体の売買って法律で禁止されてるんじゃないの?」

 

「そりゃもちろんご禁制だ。だが、こういうとこで薬を買わなきゃ死ぬ奴もいる」

 

 

 ハーマイオニーが小さく息を呑んだ。

 

 今のところ、ハーマイオニーは基本的に「いい子ちゃん」だ。多少は規則破りに寛容になったが、流石に法律違反を無視できるほどではない。しかし、魔法界の法律などという檻は不完全で、不寛容で、不誠実極まりないものだ。

 

 聖マンゴ魔法疾患傷害病院に駆け込むこともできず、密造された怪しい魔法薬でなんとか明日を迎えるこそ泥。そのこそ泥がとうとう財布の金も尽きたときに、歯やら爪やらを買い取る魔女。そしてこそ泥の命が尽きたときに、その死体を腑分けし、有効活用できる人々に流通させる管理人。いずれも法の光が照らせばお縄になる。しかし、影の中であればしばらく生きながらえることができるのだ。

 

 ジュリアはちらりとセシリーの顔を見上げる。おそらく、セシリーはハーマイオニーを試したかったのだろう。勇気と正義を美徳とするグリフィンドールに属するハーマイオニーが、日陰者のジュリアを友とする上で、どこまで綱渡りができるのか。

 

 セシリー・オニールという人物はジュリアを大切にしてくれている。しかし、その手口は快活で陽気な振る舞いとは裏腹に、エレン・ムーアクロフトの弟子らしい計算高さと、スリザリンの卒業生らしい狡猾さに満ちているのだ。

 

 しかし、ジュリアはこの1年でハーマイオニーのことを多少なりとも理解したつもりでいたし、その人間性は信頼できるものだと判断していた。だから、不自然でない程度の明るさで空気を入れ換えることにした。これ以上彼女を試す必要はない。

 

 

「まあ、水虫で死ぬ奴なんてのは聞いたことねえけどな。……いねえよな?」

 

「さあ、私は基本的に臨床医じゃないから。足の裏からフライドオニオンが出てくる患者さんなら病棟で見かけたことあるけど」

 

「なんだそりゃ。まあ、そういうことだよ。ここにはちょっとした日陰者とちょっとした必要悪ってやつが集まってんだ。前者が9割、後者が1割」

 

「……ほとんど日陰者じゃないの、もう。それで、お二人のお目当ては?」

 

 

 さて、とジュリアが狭い通りを見渡す。ノクターン横丁の露店や商人の大半はぼったくりか詐欺だ。まともな買い物はまずできるものではない。だから、まともでない買い物をするのには適している。

 

 現状、ジュリアは「ボージン・アンド・バークス」に用はない。あの店は闇の魔術や呪いに関わる品を扱っている。ホグワーツに持ち込むことのできるような品はほとんど扱っていないだろうし、持ち込むことのできる品などは大したものではない。

 

 露店にコウモリの丸干しが並べられている。食用だろう。見た目に反してなかなかいける味をしていることをジュリアは体験している。とはいえ、食事には困っていないし、お土産にも適さない。ラッピングしてスネイプに贈ったら怒られるだろうか。少なくとも機嫌を損ねることになるだろう。ジュリアはハーマイオニーの手を引いて歩みを進めた。

 

 ペット用というには少々無骨な檻に、丸々と太った大きな蜘蛛が入れられている。ノクターン横丁で売られているということは、まず間違いなくただの蜘蛛ではない。少なくとも売り手はそのように説明するだろう。

 

 

「姉さん、あの蜘蛛なんだかわかるか?」

 

「聞いてみよっか。ねえお兄さん、その蜘蛛、見物料いくら? えー、3シックルはぼったくりだよ、どうせ檻から出せないんでしょ? 1シックル。この子らの分も? しょうがないなー、子どもだから3人で2シックルね。……うーん、出せないってことは毒持ちかあ。これで成体? 子蜘蛛なんだ。結構可愛い眼してるね」

 

 

 ジュリアも檻の中の子蜘蛛をじっくりと観察する。近くで見ると意外と大きい。ジュリアには両腕で抱え上げるのが精一杯だろう。厚く黒い体毛が丸い体を覆っており、こちらを警戒するように鋏を鳴らしている。8つの目はつぶらだが、それを可愛いと評価するかは人によるとジュリアは思った。

 

 

「毒だけ買えたりしない? 小瓶でガリオン単位は流石に冗談きついよー、え、本気で言ってるの? じゃあ毒液見るだけ、ね、お願い! 2シックルも取っておいてまだおねだり? はしたない商売人だなあ。一晩? だーめ、あなた好みじゃないし、それに病気持ちでしょ。爪のひび割れ、目の濁り、貧乏揺すり。私、こっちが本業だから。そうだなあ、お薬出してあげるから、毒液と交換。どう、いい条件だと思わない? ……よし、契約成立」

 

 

 売人は明らかに苛立っているようなそぶりを見せたが、濁った瞳には安堵が浮かんでいた。ノクターン横丁で女を買ってよくない病気をもらったのだろう。セシリーはポーチを漁ると、緑色の小さな缶を取り出した。わずかに清涼感のある匂いが漏れ出ている。

 

 

「軟膏だよ。発疹の出てるところに、1日1回、レンズ豆くらいの量を塗る。多くても少なくてもだめ。1週間分入ってるよ。少ししみるけど、二度とできなくなるよりましでしょ? じゃ、毒液が先ね。当たり前、慈善事業じゃないんだから。……はい、毎度あり。お大事にねー」

 

 

 売人は軟膏の缶をポケットにねじ込むと、檻を掴んで逃げるように去っていった。

 

 

「大した癒者っぷりだな、姉さん」

 

「んふふ、でしょ。で、ハーマイオニーちゃん、あの蜘蛛なんだかわかるかな?」

 

 

 ハーマイオニーはここまでずっと沈黙していた。彼女には色々と衝撃が強すぎたのかもしれない。彼女はまだ12歳の誕生日も迎えていないのだ。社会勉強には少し、いや、かなり過激だった。

 

 それでも、優等生の頭脳は解答した。

 

 

「……アクロマンチュラ。M.O.M.分類はXXXXXで、実験飼育禁止令の対象生物です」

 

「よくできました、グリフィンドールに10点。魔法生物飼育学ってまだだったよね、勉強してるなあ。偉い偉い」

 

「あの……質問があります、セシリーさん」

 

「はいはい、何かな?」

 

 

 ハーマイオニーは考えている。きっと、何から質問すべきかを整理しているのだろう。ジュリアはそう予想した。ここまでの道中、そして今の取引でハーマイオニーは多くの情報を得た。それをどう学びに繋げるかは彼女次第だ。

 

 

「さっきの人は、治るんですか?」

 

 

 この質問は予想外だった。

 

 初対面の、それも怪しい売人で、扱っていたのは取り締まりの対象になる魔法生物。きっと二度と会うこともない人物だ。ハーマイオニーはおそらく彼の疾病がどのようなものであったかわからないだろうし、セシリーもできるだけぼかして話していたように思う。それでも、あまり表沙汰にできないような病なのは伝わっただろう。それなのに、ハーマイオニーはあの売人の心配をしている。

 

 ジュリアはもちろんのこと、医療従事者のセシリーもまた聖人ではない。もし聖人なら彼を掴んで聖マンゴに飛んでいるだろう。そして、私財を投じて治療を施し、何も問わずに送り返すだろう。そんなことをやっていたらきりがないのだ。

 

 あの男が目先の欲を取って薬を売り、病魔に蝕まれようと、あるいは進行する症状を恐れるあまり乱用し、十分な効果を得られずに薬を使いきってしまおうとも、知ったことではない。取引は終わった。今後どうするか、どうなるかは彼の責任だ。ジュリアの知っているセシリーはそのように考える人物で、そしてジュリアは少なからず彼女のそういった側面を好んでいたし、時には模倣すらした。

 

 だからこそ、ジュリアはハーマイオニーが眩しく思えた。そして、自分が薄汚れているようにも感じたし、彼女がそんな自分と手を繋いでいてくれることを誇らしくも感じた。それらの複雑な要素が合わさって、ジュリアの感情は大いに乱れ、そして笑い声という形で噴出した。

 

 

「あっはは、流石だハーマイオニー、いや、流石だ。これこそ”サプライズ”だな」

 

「何がよ」

 

「いや、あたしもまだまだわかってねえな、って。安心しろよ、姉さんはこれでも癒者だ。お、レタス食い虫。ホグワーツで増やす用に買ってくかな」

 

 

 ハーマイオニーは訝しげな表情を浮かべていたが、ジュリアはそれに応えず話題をそらした。ジュリアはどこかで、ハーマイオニーのことをわかったつもりでいたのかもしれない。しかし、その気づきを口に出して伝えることに意味はないだろう。ただ、反省し、認識を改め、今後に活かせばいい。そんなことを考えながら、野菜屑を食むレタス食い虫を眺めた。

 

 ジュリアはレタス食い虫の売人から「ハグリッドがレタス食い虫の駆除剤を大量に買っていった」と聞かされ、大いに凹んだ。



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幸せが怖いということ

 結局、ノクターン横丁での買い物はアクロマンチュラの毒液だけになった。セシリーはそれを誕生日プレゼントとしてジュリアに与えてくれた。これはスネイプとの交渉材料に使えるだろう。ジュリアは薄汚れたガラス瓶に日付のラベルをつけ、セシリーに防護呪文をかけてもらってウェストポーチにしまった。

 

 セシリーはまだ物色したい様子だったが、時間が押していたし、ハーマイオニーをあまり長居させたくなかったので、ジュリアは滅多にしない「おねだり」をしてセシリーを諦めさせた。

 

 明るいダイアゴン横丁に戻ってくると、ハーマイオニーはだいぶ気が楽になった様子だった。彼女のリクエストでフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店に再度赴き――サイン会は終了したようで、うってかわって閑散としていた――いくらかの”軽い”参考書を仕入れる。そして、ハーマイオニーはジュリアへの誕生日プレゼントまで買ってくれた。楽譜集だ。

 

 

「ハーマイオニー、気持ちは嬉しいけどよ……家でお祝いしてもらったのに、プレゼントまでもらうってのは、なんか贅沢過ぎる気がして……その」

 

「その?」

 

「なんか、怖い」

 

「なにそれ。いいから、今度聴かせてね。ジュリアの吹くハーモニカって素敵だし、魔法界の音楽知らないから、楽しみだわ」

 

 

 ジュリアは押しつけられた楽譜集をぱらぱらと捲って目を通す。最近刊行されたもののようで、知らない曲ばかりだ。わくわくしないと言えば嘘になる。ありがたくいただくことにした。

 

 ジュリアも買い物をした。正確には済ませていた。以前ウェストポーチを入手した鞄店にふくろう便を飛ばして、ハーマイオニー用の鞄をオーダーしておいたのだ。素材はヤギ革――禁じられた森で狩ってハグリッドの小屋で鞣したはいいものの、長らく死蔵していた――を持ち込み、ショルダーバッグにもリュックサックにもなるデザインに仕立ててもらった。多少「借金」に手はつけたが、これくらいなら許容範囲内だ。

 

 

「ジュリア、これ……高いんじゃないの?」

 

「革は持ち込みだし、デザインはスネイプ先生に任せたし、結構安くあがった。去年の分も合わせて2年分の誕生日プレゼントってことで、まあ、大事に使ってくれよ。これでいよいよ移動図書館だ」

 

「移動図書館! ありがとう、大事にするわ。……スネイプが? デザイン?」

 

「先生だ、ハーマイオニー。あの人、あれでなかなかセンスあるぞ」

 

 

 ハーマイオニーは複雑そうな表情で鞄を矯めつ眇めつしていたが、なんだかんだでスネイプのシンプルながら気品あるデザインはお気に召したようだった。検知不可能拡大呪文は標準でついてくる。オプションで防水防火呪文と防護呪文をつけた。卒業まで愛用してほしい。

 

 最後に薬問屋を覗いたが、予想外に今年分の「借金」が手元に残ったので、ジュリアは学生らしい使い方をすることにした。ここの薬問屋は毎月魔法薬やその材料のカタログを発行しており、年間定期購読で商品の送料が無料になるのだ。これでホグワーツにいても良質な材料を安定して取り寄せることができる。喜ばしいことだ。

 

 こうして買い物を終え、漏れ鍋でグレンジャー夫妻と合流する。2人もいくらか魔法界に打ち解けたようで、とんがり帽子の魔女と店主のトムを交えて歓談していた。話題が「うちの娘たち」だったのは聞かないことにして、ジュリアは2人に無事買い物が終わったことを告げた。

 

 

「おかえり、ハーマイオニー、ジュリア。面倒見てくれてありがとう、セシリー。いいものは買えたかい?」

 

 

 問いかけに頷くと、ダンおじさんは晴れやかに破顔して、席を立った。酒はほどほどにしておいたようで、目つきもしっかりしているし、足もふらついていない。立派な大人だ。

 

 

「それはよかった。よし、帰るとしようか。トム、それにマダムも、楽しい話を聞かせてくれてありがとう。ごちそうさま。会計はそちらのお金のほうがいいのかな? ああ、こちらの紙幣が使えるんだね、助かるよ。それじゃあ、また」

 

「ジュリアちゃん、夏休み満喫してね! ハーマイオニーちゃんも! 来年は絶対に、絶対に全休もぎ取ってみせるから、ゆっくり遊ぼう! また来年!」

 

 

 返事をする間もなく、セシリーは姿くらまししていった。職場に戻るのだろう。グレンジャー夫妻は姿くらましに驚いた様子だったが、「今まで見た中で一番魔法らしい魔法だ」と笑っていた。

 

 帰りの電車でさっそくハーマイオニーは教科書を読みたがった。しかし、魔法がどうこう、呪文がどうこうと書かれた表紙、しかも動く写真つきというのは少々まずい。アリソンおばさんが新聞紙で手早くブックカバーを作り――手慣れた様子から見るに、いつものことのようだ――、ダンおじさんとアリソンおばさんがジュリアとハーマイオニーを挟む形で座ることで、なんとかハーマイオニーの読書の時間は確保された。

 

 バスの中でもハーマイオニーは本にのめり込んでいたので、ジュリアは落ち着いて車窓に映る風景を眺めながら物思いに耽ることができた。もちろん、グレンジャー家での生活には満足しているし、感謝している。しかし、時折こうして静かに思索する時間があると嬉しく思えたし、他者との共同生活を営むようになってからは一層この時間が貴重に感じた。

 

 買い物をした。姉弟子と遊んだ。ハーマイオニーと遊んだ。ハリーやロンとも会った。そして、落ち着いた静かな時間を経て、帰宅する。素晴らしい一日だ。

 

 そして、ジュリアのこれまでがそうであったように、いいことの後には悪いことがやってくる。和やかに食卓を囲み、ジュリアが食器を洗い、ハーマイオニーが新たな本への期待に胸を膨らませて階段を上っていった後、いつになく強張った表情で、ダンおじさんがジュリアに声をかけた。

 

 

「ジュリア、少し時間をもらえるかな。色々と、聞かせてほしいことがあってね」

 

「もちろん、なんでも。飲み物はどうする? 実は漏れ鍋でサングリアのボトルを1本買ってきたんだけど――」

 

「いや、いい。座ってくれ。アリソンも」

 

 

 清潔なリビングの空気がやけに張りつめていた。グレンジャー夫妻は不安と緊張が織り交ぜになった目を、医療者特有の自然な作り笑いで隠している。しかし、その作り笑いはジュリアに通らない。ジュリアは母が死んだ後、姉弟子の顔に貼り付いたそれを散々見てきたのだ。

 

 

「ジュリア。私たちは、君を家族として歓迎している。もちろん、まだぎこちない部分はあるよ。しかし、ホームステイだって同じことだろうし、きっとハーマイオニーも君たちの学校で馴染めない時期があったと思う。だから、これに関してはこれから解決していくものだと確信している。君が、打ち解けてくれればだ」

 

「……ダンおじさん、あたしは確かにクラッカーで腰を抜かすビビりだし、まだご近所さんともそんなに馴染めてない。それに関して言い訳するつもりはねえけど」

 

「いや、私たちはその言い訳が聞きたいんだ。……つまり、何が君をそこまで警戒させ、怯えさせるのか、そろそろ知るべきだと思う。親としてね」

 

 

 ジュリアの体から熱が抜けていった。

 

 結局のところ、彼らはジュリアを警戒していたのだ。ジュリアはそのように解釈した。数週間の「滞在」はハーマイオニーが親友と呼ぶ謎の人物を見極めるために承諾したこと。もしかすると、彼らのほうから申し出たのかもしれない。そして、ハーマイオニー、彼らの娘に害のある人物であると判断すれば、彼らはジュリアをあっけなく放り出す。そういうことなのだろう。

 

 ジュリアは常に荷物をまとめている自分を賞賛した。よくやった、ジュリア・マリアット。迷惑をかけずに出ていくことができるぞ。

 

 しかし、この数週間、彼らはジュリアに対して親切に接してくれた。加えて彼らはハーマイオニーの親であり、いずれジュリアについて知ることになる。ジュリアは感謝を込めて、初めて自己紹介をすることにした。

 

 

「あたしの体についてはどこまで聞いてる?」

 

「魔法界に特有の、非常にまれな先天性の疾患を抱えているという話は聞いているよ。骨格や筋肉が通常と少し異なり、感覚器官が発達していて、月の光に影響を受ける。それから、レアステーキを好むようになる、と」

 

「なるほど。ハーマイオニーは肝心のところを伝え忘れたってわけだ。……あたし、あたしさ。狼女なんだよ。こっちではなんつうのかな。ウェアウルフ? あたしたちの世界では狼人間、正式には人狼って呼ばれてる」

 

 

 グレンジャー夫妻の表情は変わらない。ひょっとしたら、予想していたのかもしれない。月に影響を受ける、牙の生えた、生肉を好む生き物。マグルでも人狼を思い浮かべる。

 

 ジュリアは言葉を続けた。

 

 

「あたしは狼になることもできねえし、噛みついて仲間を増やすこともできねえ、半端者の半人狼。でも、お察しの通り、人狼なんてのは忌み嫌われてる。ごみだめに棲みつく犯罪者の群れだと思われてんだ。その半端者なんて、正義の魔法使い様にとっちゃハンティングの獲物でしかねえだろ? だから、あたしは逃げ回ってきた。魔法使いからも、人狼からも、うまいこと隠れてきたつもりだった。でも、連中は嗅ぎつける。母さんを拷問し、あたしをいたぶった。……そういう生き物なのさ、あたしは」

 

 

 返事はない。こういうとき沈黙するところは親子で似ているのだな、とジュリアは少し羨ましくなった。彼らは家族だ。12年間も一緒に安定した生活を送れば、似てくる部分もあるのだろう。

 

 ジュリアは席を立った。出ていくならハーマイオニーが部屋にいるうちがいい。あの部屋の窓から玄関口は見えないし、今から出ればバスと電車でロンドンに行くことができる。そうすれば、漏れ鍋の埃臭い床で朝を迎えることができるだろう。

 

 

「答えになったか? まあ、そういうことだ。わからねえとこがあったらお嬢さんに聞けばいい。世話になった。少ないけど、サングリアは礼だと思って受け取ってくれ、置いてくから。……じゃあ、体に気をつけて」

 

「待ちなさい、ジュリア」

 

「なんだ、ミスター・グレンジャー。ドクターのほうがいいか? できれば今日中にはロンドンに着きたいんだが」

 

「座りなさい」

 

「悪いが、時間がねえんだ。バスの最終便には潜り込みたいし、それに電車も――」

 

「ジュリア」

 

 

 初めてハーマイオニーの父さんが怒るのを見た。彼は静かに怒っていた。決して声を荒げてはいなかったが、明確な圧があり、視線はジュリアに座ることを要求していた。

 

 ハーマイオニーも、こうして叱られ、育てられたのだろうか。

 

 

「私たちは確かに、君に関する、なんと言うべきか……そう、未知の部分を気にしていた」

 

「だろうな」

 

「しかしそれは、君がこれまで苦しい目や、辛い目に遭ってきたのではないかと考えたからだ。率直に言うと、私たちは君にセラピーの必要があるかを考えていたし、その用意があった」

 

「……え?」

 

「私の学生時代の友人にメンタルヘルスクリニックを開業した男がいて、彼と連絡を取っていた。そして、君の行動を観察し、彼に報告してカウンセリングやセラピーが必要か検討してもらっていた。これに関しては謝らなくてはならない。監視するようなことをしてすまなかったね。しかし、私たちは家族として、君のことを心配する義務と権利がある」

 

 

 なにがなにやら、さっぱりだった。

 

 警戒されていると思っていた。行動を見られているのにも気づいていた。そして、自分の正体を明かした。ジュリアの常識から言えば、追い出されるのが当然だ。

 

 それなのに、机を挟んだ向こう側の男は、ジュリアのことを案じて怒っている。

 

 

「ここまで深刻だとは思っていなかった。ひどくても身体的特徴や家庭事情に関するいじめがあったとか、そういう話だと思っていたんだよ。もちろん、そういった事例も深刻なことに変わりはないが……。君の計算に基づく人間関係の形成についても、そういった危機への対策としてお母さんから教えられたものだと。しかし、君はクラッカーの破裂音に対して、咄嗟に杖を抜いた。私たちの世界で言えば、銃を構えたり包丁を掴んだりするようなものなんだと思う。君は明確に命の危機を感じて行動していた。……もちろん、例の友人にはぼやかして、常備している護身用の武器とだけ伝えた。ちゃんとした診察を受けてみないとわからないが、君にはPTSDの傾向があると彼は考えている。そして、話を聞いた今、私も同じことを考えているよ。明日の新聞配達は休みなさい、私が連絡を入れておく。ゆっくり起きて、それから車を出すから、アリソンと一緒に説明を受けて――」

 

「やめてくれ」

 

 

 限界だった。

 

 ジュリアはリビングのドアを押し開けて、玄関に飛び出した。何も考えたくない。とにかく夜風を浴びて、人目につかないところまで駆け抜けて。これからのことは、それからだ。それでいい。

 

 玄関の鍵に手をかける。

 

 

「お願い、話を聞いてちょうだい、ジュリア。私たちはあなたが――」

 

「頼む、やめてくれ」

 

 

 声が震えるのが抑えられなかった。指には力が入らず、まともに鍵を捻ることもできない。視界が滲んで、呼吸が苦しくなった。

 

 この1年で、ジュリアはあまりにも弱くなってしまった。ハーマイオニーという親友を得てしまった。ハリーとロンという仲間を得てしまった。マクゴナガルとスネイプという指導者を得てしまった。優しさを浴びれば浴びるほど、ジュリアは脆く、弱くなる。ここに「家族」なんて疑似餌を落とされてしまったら、ジュリアはあっさり食いついて、釣られてしまう。

 

 

「期待して、裏切られんのは、もう嫌なんだ……やだよ」

 

 

 わかっていた。グレンジャー夫妻が驚くほど親切で良心的な人物で、心からジュリアを歓迎してくれていることなど、わかっていたのだ。だからこそ、ジュリアは自分が崩れてしまう前に、逃げたかった。

 

 怖い。

 

 ハーマイオニーから誕生日プレゼントをもらったときも、同じことを思った。幸福は大きければ大きいほど、失ったときの落差が激しい。当たり前のことだ。そして、ジュリアの身に流れる呪いはたやすく幸福を失わせる。

 

 

「やだ、やだよ……」

 

 

 アリソンおばさんに抱かれて泣きじゃくりながら、ジュリアは母が死んだときのことを思いだしていた。

 

 一ヶ月契約だったレタス食い虫の養殖バイトが終わり、給料の封筒を受け取った。帰りに自分の小遣いからケーキを二切れ買って、母が待っているはずの家に帰った。きっとお祝いをしてくれると思っていた。しかし、母はベッドで眠っていた。ここしばらくずっと大鍋の前で作業していたから、疲れたのだろう。そう思って、ティーセットを出して、カップを温めた。ケーキに合う茶葉を選んで、今日こそは母を満足させる紅茶を淹れようと気合いを入れて、ケーキを皿に出した。そして、大鍋の隣のテーブルまで持っていって、遺書とノートを見つけたのだ。

 

 期待すれば絶望が待っている。それがジュリアの学んだことだった。

 

 

「ジュリア。私たちのことを信用するのは、まだ怖いかもしれないわね。でも、私たちに連絡を取って、あなたが住めるよう環境を整えてくれたセシリーのことや、あなたのカルテからセシリーの連絡先を調べて交渉したハーマイオニーのことは、信用できるんじゃないかしら」

 

「……そう、かも」

 

「だったら、そこから始めればいいのよ。大丈夫。私たちはただの歯医者だから、悪い魔法使いに密告もできないし、疑われることもない。それに、ハーマイオニーはあなたがいなくなったら悲しむわ。だから、ゆっくり仲良くなればいいの。少し、安心した?」

 

「……たぶん」

 

 

 もう、鍵から手は離していた。

 

 

「いい子ね。話してくれてありがとう。ねえあなた、カウリーさんのところにはとりあえず在宅療法を選ぶってことでお伝えして、今はゆっくりしたほうがいいんじゃないかしら。やっぱり、急ぎすぎたと思うの」

 

「そうだね、そうかもしれない。すまないねジュリア、君を怖がらせてしまった。遅くなったけど、ベッドの隣に誕生日プレゼントを用意したから、寝る前にでも見ておいてほしい。ちゃんと話してくれてありがとう」

 

 

 ジュリアは頬を伝う涙を袖で拭って、振り返った。2人を見るのが怖かった。それでも、俯いたままなのは不誠実なように思えて、ジュリアは顔を上げ、2人の目を見た。そこには警戒も、不安もない。ただ、困ったような、失敗してしまったときのような、それでも、心配しているような笑みが向けられていた。

 

 怖いのは相変わらずだ。それでも、2人は根拠を提示してくれたし、努力も示してくれた。だから、ジュリアもそれを飲み込んで、努力する必要があった。

 

 

「あたしは、まだ怖い。でも、ハーマイオニーも、ダンおじさんも、アリソンおばさんも……好きだ。だから、頑張る。ゆっくりでもいいか?」

 

 

 2人が頷くのを見て、ジュリアはようやく呼吸ができるようになった気がした。

 

 

「……おやすみ、おじさん、おばさん」

 

「ああ、おやすみ」

 

「おやすみなさい、ジュリア」

 

 

 ジュリアは階段を駆け上がって、ハーマイオニーの部屋に逃げ込んだ。今はこれが精一杯で、全力だった。ハーマイオニーはベッドに腰かけてロックハートの著書を読んでいたが、ジュリアの顔を見ると驚いた顔で本を閉じた。

 

 

「どうしたの、ジュリア」

 

 

 言葉が出てこない。ただ、自分のしゃくり上げる声が無様で、情けなくて、ジュリアはハーマイオニーの胸に飛び込んだ。ホグワーツでずっと一緒に過ごした、大好きな匂い。紙の匂いが染みついていて、少し埃臭くて、しかし石鹸の優しい清潔さを纏っている。

 

 また失うのが怖くて、何も得ずに生きようと思っていた。しかし、ジュリアはもう得てしまった。だから、どうしようもなく怖くて、恐ろしくて、手放すまい、手放すまいとハーマイオニーを抱きしめた。

 

 怖くて泣いて、温かくて泣いて、嬉しくて泣いて、寂しくて泣いた。沢山の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消え。

 

 大好きな匂いに包まれたまま、ジュリアは暗闇に沈んだ。



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ハーマイオニーの反抗期

 大騒ぎだった。

 

 昨晩の状況を聞き出したハーマイオニーが、リビングに下りて早々、ダンおじさんに対して半ば癇癪のような説教を始めたのだ。理路整然としているだけにたちが悪かった。

 

 

「パパ、ジュリアにもプライバシーがあるの! ジュリアにはジュリアの過去があって、そのなかにはジュリアを今も傷つけている記憶があるかもしれない、ええ、そうね。でも、考えてみなかったの? 傷口に刺さった破片を、消毒も麻酔もレントゲンもなしにいきなり引き抜こうとしたら、誰だって苦しいし、痛いし、傷が悪化することだって沢山あるわ! それでも歯医者なの?」

 

「ああ、うん、そうだねハーマイオニー、パパが間違っていたと思う。だから……」

 

「思う、じゃだめなの! 昨日の夜から朝まで、ジュリアは私にしがみついて、ずっとうなされていたわ。ずっとよ、わかる? 毎晩、私が寝付くまで月を眺めて、私が起きるころにはもう元気にアルバイトをしているジュリアが、泣き疲れて寝て、さっきようやく目が覚めた! それほど苦痛だったのよ、パパの尋問は! それなのに、リビングに下りてみたら、コーヒーと新聞!」

 

「いや、なんというか、下手に姿勢を変えて刺激するのもよくないかと思ってね」

 

 

 確かに、ハーマイオニーに手を引かれてジュリアがリビングに下りたとき、ダンおじさんはコーヒーを手に新聞を眺めていた。しかし、コーヒーは湯気も立っていないのに一口も減っておらず、新聞を文字どおり眺めていただけだった。

 

 彼の言うとおり、ジュリアは昨晩の記憶をあまり刺激されたくなかった。ハーマイオニーに抱かれてゆっくり寝たことで気分はかなり回復したが、それでも不安、恐怖、そして醜態をさらしたことへの羞恥心が残っているのだ。

 

 

「あの、ハーマイオニー」

 

「ごめんなさいジュリア、パパにはしっかり通告しておくから。いい、パパ。本当にジュリアのことを家族として歓迎したいんだったら、ちゃんとしたやり方で向き合うべきだわ。詮索したり、尋問したり、先回りしたり、そういうことをする大人は姑息で、恥ずべきだって、自分で言ってたじゃない! ジュリアはついこの間12歳になった女の子なのよ、女の子! ご自分がなにをしたか、おわかりかしら!」

 

「ハーマイオニー。その、あたしにもプライバシーってもんがあるなら、そのへんで勘弁してくれねえかな。……あたしが恥ずかしいよ」

 

 

 嵐になるハーマイオニーは何度も見てきたが、その対象が自分になるとこれほどまでに恥ずかしくなるのだとは、ジュリアは微塵も思っていなかった。ジュリアはハーマイオニーのパジャマの裾を引っ張って、なんとか意見を主張した。なんとかこの嵐を止めねばならない。ハーマイオニーは大きくため息をついて、ダンおじさんを糾弾するように指さした。

 

 

「はあ……ジュリアのために、今日はここまでにしておくわ。でも、パパ、この埋め合わせはしっかりしていただきますからね。もちろん、勝手に連絡したメンタルヘルスクリニックとか、カウンセリングとか、そういった押しつけではなく、ちゃんとした形で! ジュリア、部屋に戻りましょ」

 

「あ、えっと……いや、あたしからも少しだけ」

 

「少しじゃなくていいのよジュリア、パパなんかやっつけちゃいなさい!」

 

 

 すっかり頭に血が上っているハーマイオニーの手を握って、ジュリアはおずおずと隣に並んだ。気にしている様子を見せるとますますぎこちなくなるだろうという予想はついていたが、それでも、やはりこれが今のジュリアにできる精一杯なのだ。

 

 

「いや、少しでいい。……その、さ。確かに昨日は怖かった。でも、約束したとおり、あたし頑張るから、よろしく。……それだけ」

 

「すまなかったね、ジュリア。私たちも誠実に努力することを誓うよ」

 

 

 それだけのやりとりだったが、ジュリアはもうこれで終わりにしたかった。後は黙って努力するしかない。昨日のやりとりを何度蒸し返したところで、進歩はないのだ。それに、恥ずかしい。

 

 ハーマイオニーに醜態をさらした。これが何より恥ずかしかった。朝、目が覚めるとやけに部屋が明るくて、しかも自分は温もりに包まれていたのだ。そして、ハーマイオニーの心配そうな顔があまりに近くて、ジュリアは声も出なかった。それから、ハーマイオニーに尋ねられるままにゆっくりと事情を説明し、また泣きそうになってしまった。恥だ。

 

 ハーマイオニーに手を引かれるまま、ジュリアは階段を上がり、部屋に戻った。ハーマイオニーが手を放してくれないので、ジュリアはハーマイオニーのベッドに並んで腰かけることになった。

 

 

「……ごめんなさい、ジュリア。私まで傷口を抉るようなことをしちゃったわ」

 

「大丈夫だ、ハーマイオニー。大丈夫」

 

「本当に?」

 

「あたしがハーマイオニーに嘘ついたことあったか?」

 

「隠し事はいっぱいしてるわね」

 

 

 静かに笑って、少しずついつも通りの空気が戻ってきた。

 

 しばらく、ベッドに腰かけたまま、寄り添っていた。壁掛け時計が示す時刻は8時半。普段ならとっくに新聞配達を終えて、ハーマイオニーと一緒に朝食を食べている。

 

 朝食のことを考えたら、ジュリアのお腹が鳴った。

 

 

「朝ごはん食べ損ねちゃったわね。……お菓子、食べちゃおっか」

 

「栄養バランスってご存知か、お嬢ちゃん」

 

「お肌が荒れたりしたときに魔法薬で整えるものでしょ、知ってるわ」

 

「悪い子になったな、ハーマイオニー」

 

「違うわ。ジュリアが魔法をかけたのよ」

 

 

 また、静かに笑った。

 

 2人は蛙チョコレートを食べ、かぼちゃジュースを飲んだ。ハーマイオニーはニコラス・フラメルのカードを引いた。ジュリアはコーネリウス・アグリッパだった。2人とも著名な錬金術師だ。

 

 

「あーあ、もっと早くこのカードを引いてたら、随分楽にことが進んだのに」

 

「あたしはハーマイオニーならもっと早く気づくと思ってたけどな。ニコラス・フラメルは今でもボーバトンで講師をしてる有名な錬金術師だ」

 

「それなら近年の活動も本に残しておくべきよ。……で、ジュリアはいつから、どこまで気づいてたの?」

 

「聞きたいか?」

 

「パーソナルデータの開示を要求します」

 

「へいへい。そうだなあ、どこから話したもんか」

 

 

 足を伸ばして、漫然とばたつかせて、それからジュリアはゆっくりと語りはじめた。



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静かな決心

 ジュリアは一年間を思い返す。ハーマイオニーに聞かせるべき話はどれだろうか。まず、冤罪を晴らすことから始めよう。ジュリアはスネイプの信頼が回復することを期待して、彼についての話題を選んだ。

 

 

「まず、あたしはスネイプ先生が犯人だとは思ってなかった。少なくとも、早々に候補から消した。確定したのは、ハリーのデビュー戦の時だ」

 

「クィレルが呪いをかけた時ね」

 

「そ。でも、まだクィレル先生が犯人だって確信は持てなかった。これはスネイプ先生も言ってたけど、証拠がなかった。黙ってた理由の1つがこれだ」

 

 

 ジュリアはかぼちゃジュースを一口飲んで、まったりとした甘さで喉を潤してから、話を続けた。

 

 

「マグル学の教授だった男が、修行と称して当時荒れてたはずのアルバニアに行き、性格が変わって、力を得て、闇の魔術に対する防衛術の教授として帰ってきた。しかも、ハリーの箒に呪いをかけてるのをあたしは自分の目で見た。最有力候補だ」

 

「そうね、私も反対呪文を唱えてたスネイプより先にクィレルを見つけてたら、クィレルを疑ったと思うわ」

 

「それから、ニコラス・フラメルのことをハグリッドが漏らして、ハーマイオニーたちが動き出したから、あたしはスネイプ先生に賢者の石について相談した。個人授業のときにな」

 

「そこからもう繋がってたのね。ジュリアって、スパイの才能あるわよ」

 

「そう褒めんな。それから、クィレル先生はヴォルデモートの部下で、賢者の石を狙っている、そんな感じのスネイプ先生とダンブルドアの断定に近い推理を受けて、あたしはクィレル先生と話をしてみた」

 

 

 ハーマイオニーがかぼちゃジュースの瓶を取り落としかけた。

 

 

「ジュリア、それって危険よ。詳しくはまだ勉強してないけど、相手の心を読む魔法があるって、本で読んだわ」

 

「あたしもすっかり頭から抜け落ちてた。スネイプ先生に拳骨落とされたよ。反省した。でも、まあ、収穫はあった。……ちょっと想像してみてくれ。レイブンクローに組み分けされたけど魔法が苦手な落ちこぼれで、読書とマグル学しか取り柄のない、友達のいない奴。そいつが、口の上手い闇の魔法使いに出会ったら」

 

「……たぶん、闇の魔法使いは唆すんでしょうね。力さえあれば仲間ができる、そんな感じで」

 

「あたしもそう思う。あの人は、強くなりたかったって言ってた」

 

 

 ジュリアはかぼちゃジュースをもう一口飲んだ。甘ったるさが心地よい。

 

 

「あたしさ。あの人のこと、今でも憎めねえんだ。忘れようとはしてるんだけどな。ずっとひとりぼっちで、ようやく力が手に入ったと思ったら、悪いやつに脅されて、同僚や校長からは警戒されて。それでも、あの人は教師をやり続けた。すげえと思う」

 

「そう、そうね。……でも、クィレルはヴォルデモートの部下で、ハリーを殺そうとしたわ」

 

「あの人は加害者で、同時に被害者だったんだと思う。罪があるからって被害が消えるわけじゃねえ、そうだろ?」

 

 

 ハーマイオニーもかぼちゃジュースを飲んで、それからゆっくりと頷いた。

 

 

「私もその理屈は正しいと思うわ。罪を償うことができれば、だけど」

 

「ダンブルドアは、クィレル先生の行いを許されない罪だと考えたんだろうな。だから、クィレル先生を見捨てた」

 

「ダンブルドアが?」

 

「これは完全に憶測でしかねえけど、まあ、そんなに外れてはいねえと思う。ヴォルデモートが死んでない以上、ハリーには経験が必要だ。そして、事件には犯人が必要だ。クィレル先生はそこに収めるのにちょうどよかった」

 

「それは……それは、残酷だわ。でも、クィレルは自分から闇の魔術に手を染めたのかもしれない」

 

「そこはわかんねえなあ。でも、あの人が根っからの悪人じゃなかった証拠をあたしは持ってる。殺しちまったけど」

 

 

 ジュリアは最後の戦いを思い出した。ジュリアが喉笛を切り裂いたとき、大きなトロールは何を思っていたのだろうか。鋭く、恐ろしく、勇ましい目だった。魔法界で愚鈍の喩えに用いられるトロールが、あのような眼光を見せるとは。

 

 

「あたしが最後に戦ったトロールに、クィレル先生は名前をやった。ミーク。アルバニア語で友達って意味だ」

 

 

 ハーマイオニーは沈黙している。やはり、考えるときに沈黙するのは親子共通の癖のようだ。

 

 癖。ジュリアはクィリナス・クィレルという人物の癖も、個性も、ほとんど知らないうちに、会えなくなってしまった。さよならを言うこともできなかった。

 

 

「あの人を助けたかったよ。あたしが助けるなんておこがましい話だし、結局なにもできなかったけどな。あの人は灰になって、あたしは友達まで殺しちまった」

 

「ジュリア……」

 

「だからってのもおかしいが、あたしだけでも、あの人のことを弔う。あんまりにも、哀れじゃねえか。……あたしが隠してたのはそんなとこだな。ハリーたちは言っても信じなかっただろうし、もし信じてたらあの人を甘く見て返り討ちに遭ってたと思う。だからスネイプ先生がスケープゴートになってハリーたちを引きつけた。あたしはその協力をしてた。悪かったな、黙ってて」

 

 

 かぼちゃジュースを飲み終わってしまった。帰りのホグワーツ特急で買ったボトルはまだ残っているが、なんとなく開ける気分ではない。ジュリアは空き瓶を手に握ったまま、しばらく沈黙を肌で感じていた。

 

 表の通りをバイクが駆け抜けていく音。秒針が流れる時間を刻む音。グレンジャー・デンタルクリニックのドリルが虫歯を削る音。静かだった。

 

 

「ねえ、ジュリア」

 

「何だ」

 

「私、強くなりたい。ジュリアの隣に並びたい」

 

「そうか」

 

 

 ハーマイオニーもかぼちゃジュースを飲み終わった。

 

 ジュリアはどう答えればいいのかわからなかった。ハーマイオニーを危険に晒したくない。自分が守りたい。しかし、どうあがいても自分の手に負えない事態はやってくる。そして、ジュリアもまた、ハーマイオニーの隣に並びたいと思っている。

 

 ジュリアは考えて、考えて、とりあえずの答えを出した。

 

 

「マクゴナガル先生は闇の勢力と戦った魔女だそうだ」

 

「想像はつくわね」

 

「フリットウィック先生は昔、決闘チャンピオンだったそうだ」

 

「それは……意外かも」

 

「まあ、そういうわけで、ホグワーツの層はなかなか厚い。個人授業、頼んでみるのもありなんじゃねえか?」

 

「……スネイプは?」

 

「スネイプ先生はハーマイオニーが苦手なんだとよ」

 

「なによ、それ」

 

 

 ハーマイオニーがジュリアにもたれかかってきたので、ジュリアも負けずとハーマイオニーに体を預けた。温かかった。

 

 

「絶対追いつくわ、ジュリア」

 

「待ってる」



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家族からの誕生日プレゼント

 静かな寝息を立てはじめたハーマイオニーをそっとベッドに横たえ、タオルケットをかけてやる。お菓子を食べて、甘いものを飲んで、歯も磨かずに寝るなんて、すっかり反抗期のご様子だ。

 

 小さいころ、ジュリアも歯磨きについては随分と躾けられた。しかし、それはジュリアにとって牙が武器だからだ。ジュリアの母はジュリアが生きていく上で必要なことを徹底して叩き込んだが、必要でないことに関しては無頓着だった。服の選び方、ジョークのセンス、音楽。そういったものは全てバイト先で覚えた。

 

 ジュリアは想像する。もし母が生きていて、今のジュリアを見たら何と言うだろうか。ロックを聴き、栄養バランスの整った食事をし、親友とバドミントンをする。しかも……家族ができた。流石の母も驚くのではないだろうか。

 

 家族。

 

 自分に用意されたベッドの隣に、小さな2つの包みが並んでいる。ダンおじさんと、アリソンおばさんからの誕生日プレゼントだ。プレゼントをもらう、それも出会って数ヶ月も経たない大人に。ジュリアにとってはまったく予想外の出来事だった。安全な寝床を用意してもらえるだけでも感謝しきれないというのに、誕生日を祝ってくれまでする。信じがたいことだ。

 

 光沢のある紺色の包装紙で覆われた2つのプレゼントを手に取る。グレンジャー夫妻はジュリアの髪の色を見て包装紙を選んでくれたのだろう。ジュリアもこの色には思い入れがある。紺色は母の色であり、自分の色でもあるからだ。封蝋、スニーカー、鞄のベルト。色を選ぶことができるものはできるだけ紺色を選んでいる。ちょっとしたこだわりだ。

 

 リボンを解き、破かないよう丁寧に包装紙を開いていく。まずはアリソンおばさんの分から。紙箱に収められた堅焼きビスケットが2ダース、それからバースデーカード。ジュリアはビスケットを1枚取り出して口にする。小麦の優しい甘みがじわりとしみ出てきた。どうやら砂糖を使っていないようだ。なんとも歯医者らしいチョイスにクスリと笑って、バースデーカードを開く。

 

 

「ジュリアへ。12歳の誕生日おめでとう。私たちはあなたが来てくれたことをとても嬉しく思っています。あなたのおかげで家はいつにもまして活気にあふれるようになったし、ハーマイオニーが誰かと楽しそうに走り回っているのを見るのは初めてかもしれません。本当にありがとう。そんなあなたの健康な食生活のために、ビスケットを焼きました。我が家の特別レシピです。これからの1年間が、素敵で快適なものでありますように。アリソンおばさんより」

 

「我が家の特別レシピ、か」

 

 

 唾液で柔らかくなったビスケットを奥歯で噛んでいると、ジュリアの頭に不思議なイメージが浮かんだ。小さいハーマイオニーがビスケットを両手で抱えてサクサク囓っている。次第にそれは増えていき、物欲しそうな目でジュリアを見上げてくる。そして、ジュリアに群がり、這い上がり、ビスケットの箱まで辿り着く。彼女たちは満足そうにそれを手にする。

 

 ハーマイオニーがビスケットを食べる姿はなんとなく見たかったが、これは1人で堪能させてもらおう。ジュリアはベッドの脇に備え付けられた自分用の小さな棚にビスケットの箱を収めた。この棚に何かが入るのは初めてだった。

 

 ダンおじさんからは、三日月のチャームがついた銀のブックマーカーだった。アンティークのようで、少し傷があるもののよく手入れされている。もちろんバースデーカードも入っていた。

 

 

「ジュリアへ。12歳の誕生日おめでとう。ハーマイオニーがホグワーツに行って、真っ先に寄越した手紙の末尾に書いてあったのが君のことだったんだ。素敵な友達ができたと聞いてとても嬉しかったよ。君は活発で、ワイルドで、感情豊かだが、時折驚くべき冷静さと賢明さを見せてくれる。君みたいな子どもにプレゼントをするのは初めてだから、随分悩んだよ。気に入ってくれると嬉しい。よい日々と、よい読書を。ダンおじさんより」

 

 

 思い返してみると、ジュリアの私物に本というものはあまり多くない。母の蔵書は遺言に従ってあちこちに送られたそうだし、独りで暮らすようになってからは本を買う余裕も、置いておく場所もなかった。静かで知的な時間を求めて立ち読みをしたり、古本屋で店番をしたりはしたが、自分で所有している本というのは教科書や参考書くらいだ。

 

 ジュリアはウェストポーチから財布を取り出して、小銭といくらかの紙幣を数えた。喜ばしいことに、新聞配達のバイト代も少しずつではあるが貯まりつつある。この素敵なブックマーカーに見合う本を探すのも楽しいかもしれない。たとえば、昔のバイト先で途中まで読んだ『指輪物語』を全巻揃えてみるのもいい。ジュリアの中でフロド・バギンズの旅は灰色のガンダルフがモルゴスのバルログと相討ちになったところで止まっているのだ。ジュリアはガンダルフのことが気に入っていたので、大きなショックを受けた。

 

 ジュリアはウェストポーチからレターセットを取り出して、グレンジャー夫妻宛ての手紙を書き始めた。今はまだ面と向かって無邪気にお礼を言える気分ではない。それでも、喜びと感謝を伝えたかった。

 

 それに、家族に宛てた手紙というのも悪くない。

 



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2年生の始まり

 少しずつジュリアとグレンジャー夫妻との関係は再構築されていった。ジュリアはまた前のように朝の挨拶をできるようになったし、キッチン周りの家事をしながらアリソンおばさんと談笑できるようになったし、ダンおじさんの日曜大工やドライブに付き合うこともできるようになった。

 

 そうして、穏やかながら慌ただしい時間が流れていき、いよいよ9月がやってきた。2年生の始まりだ。ダンおじさんの車に乗ったジュリアとハーマイオニーは、新年度への期待に胸を膨らませていた。

 

 

「真っ先にマクゴナガル先生とフリットウィック先生に個人授業のお願いをしにいかなくっちゃ。それに、まだ読んでない本が沢山、沢山あるし……それから、彼の授業も!」

 

「いくつか確認しておくぞ、ハーマイオニー。初日は組み分けと歓迎会だからさっさと飯食って寝る。閲覧禁止の棚には近づかない。彼という代名詞はロックハートのみを指すわけじゃねえから紛らわしい」

 

「わかってるわよ……でも、こう、わかるでしょ?」

 

「ダンおじさん、どうやらお嬢さんの初恋だぞ。それもべた惚れ」

 

 

 ダンおじさんは笑いながらハンドルを切った。

 

 

「なに、歌手に憧れるようなものさ。私も若いころは……いや、なんでもないよアリソン、なんでもないとも」

 

 

 ジュリアは知っている。アリソンおばさんには隠しているが、ダンおじさんはマドンナよりシンディ・ローパー派なのだ。どうやら誰もが、そしていくつになっても通る道らしい。ハーマイオニーのロックハート・ハートロック・シンドロームに関しては当面諦めるしかなさそうだ。

 

 昨年度の試験について、ハーマイオニーがいかに簡単であったかを饒舌に語り、ジュリアがぶつくさと文句をこぼし――相変わらず、パイナップルにタップダンスをさせる実技試験だけは納得がいかなかった――、そうこうしているうちにキングズ・クロスに着いた。

 

 相変わらずホームは人で(正確には、それに加えてフクロウやらヒキガエルやらで)ごった返している。当然ながらマグルには奇異の視線を向けられるが、多くの魔法族は気にしていないようだ。人酔いしないうちに、ジュリアとハーマイオニーはグレンジャー夫妻に挨拶を済ませた。

 

 

「手紙を送ってちょうだいね。危ないことは先生に許可を取ってから。お友達と仲良くするのよ?」

 

「大丈夫よ、ママ。ジュリアはどうか知らないけど」

 

「おいおい、あたしだって大丈夫さ。約束する」

 

「二人が大丈夫だと言うなら大丈夫だろう。さ、いってらっしゃい」

 

 

 行ってきますのハグをして、ジュリアとハーマイオニーは9と3/4番線に駆け込んだ。こちらもひどい混雑だ。幸いだったのは、鞄のおかげでジュリアもハーマイオニーも大きなカートを押す必要がないということ。ジュリアはハーマイオニーの手を引いて群衆の隙間をすり抜け、早々にコンパートメントを確保した。

 

 ハーマイオニーは早速ロックハートの著書を鞄から取り出したし、ジュリアも2年生用の『基本呪文集』で目星をつけておいた呪文の練習を始めた。予習できる環境にあるなら予習しておくに限る。そして、呪文学で扱う魔法の中でも初歩的なものは、少なくとも変身術よりは事故の危険性が低い。

 

 しばらくの間、ジュリアはコンパクトミラーに空中でワルツを踊らせるという複雑な挑戦をしていた。半開きになったコンパクトミラーはなんとか空中で食いしばっていたし、回転もしていたが、ワルツというより墜落寸前のヘリコプターだ。どうにもジュリアは優雅だったり繊細だったり、そういった魔法に適していないようだった。

 

 そうしているうちに、ホグワーツ特急は発車した。静かだ。悪い環境ではなかったが、何かが不足しているとジュリアは感じた。

 

 

「ハーマイオニー」

 

「今いいところなの、ジュリア」

 

「ハーマイオニー、ハリーとロンがいねえぞ」

 

「きっと他のコンパートメントにいるのよ。ほら、ネビルとか、フレッドとジョージとか。……いるわよね?」

 

 

 しかし、それほど経たずにネビルも、フレッドとジョージもハリーとロンを探していることがわかって、捜索隊が結成された。双子曰く、マグル側のホームまでは一緒だったらしい。隠れ穴からウィーズリーおじさんの車でキングズ・クロスまで来て、ぎりぎりに滑り込んだそうだ。しかし、捜索隊はついに結論を出した。ハリーとロンは車内にいない。

 

 

「どうするよ、俺たちだって乗り遅れたことは流石にないぜ」

 

「ああ、一番悪くても最後尾の手すりには掴まってた」

 

「あれは最高にスリリングな登校だったな、マジで」

 

「ハリーがヘドウィグを飛ばすわよ、たぶん。まさか最後尾の手すりにはいないでしょうし」

 

 

 あの賢いフクロウがマクゴナガルのところまで飛んでいって、彼女が説教しながら2人を連れて姿あらわしし、ホグワーツに連れていく。それがベターだし、そうなってほしいとジュリアは思っていた。

 

 しかし、数時間後、ジュリアは腹を抱えて笑うことになる。




 ようやく魔法界入りです。お待たせしました。



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愉快痛快、爆発と期待の新学期

 ジュリアは笑いすぎて腹筋が痛かったし、ハーマイオニーはお怒りのご様子だった。なぜなら、ハリーとロンが空飛ぶ車でロンドンからはるばるホグワーツまでやってきて、暴れ柳に突撃したからだ。退校処分になったという噂まで流れていたが、ジュリアの予想が正しければ、ダンブルドアはそんな”些細”なことでハリーを退校処分にするような人物ではない。

 

 そして予想通り、英雄たちがグリフィンドール寮の談話室に現われた。マグルの服装のままだ。

 

 2人は盛大な拍手で迎えられ、背中を叩かれ、口笛を吹かれ、にやけ面で男子寮へと向かっていった。ハーマイオニーやパーシーは説教するつもりでいたようだが、この混み具合では耳を引っ張るどころか近づくのも困難だろう。きっとグリフィンドールの全員が起きていた。

 

 

「もう、あの2人ったら、信じられない! ジュリア、笑い事じゃないのよ!」

 

「だってよお、馬鹿、マジで馬鹿! ハリーも馬鹿、ロンも馬鹿、一番馬鹿なのはウィーズリーおじさんだ! 空飛ぶフォード・アングリア! くっそ、腹痛い」

 

 

 ダイアゴン横丁でロンから受けた報告が正しければ、その車はハリー救出作戦の要となったものだ。空を飛び、透明になり、車内は拡大呪文で快適。それが暴れ柳に殴られて禁じられた森に逃げ込んでいる。ジュリアは今すぐにでも禁じられた森に行ってその車を探したい気分だった。

 

 

「あの2人は『未成年魔法使いの制限事項令』に違反しているわ、ああ、もう!」

 

「いやー、笑った笑った。しかし、あれだな。車飛ばしても許されんなら、家で魔法の練習くらいさせろよな」

 

「それは確かに……そういう問題じゃないのよ、ジュリア!」

 

 

 誤魔化し誤魔化し、ハーマイオニーをベッドまで連れていく。ひとまずハーマイオニーは落ち着いたようで、怒りから呆れと心配に移行しつつあった。

 

 

「2人とも、きっとひどい罰則を受けるでしょうね」

 

「それなりにはな。加えて、我らが寮監の眼光が突き刺さったことだろうよ」

 

「マクゴナガル先生の目から魔法が出るって噂流したの、ジュリアでしょ」

 

「あたしは考えただけ、流したのはフレッドとジョージ」

 

「もう、また居残りさせられるわよ。それじゃ、おやすみ」

 

「おう、おやすみ」

 

 

 久しぶりのホグワーツから眺める月だ。ジュリアは窓際にスツールを引き寄せて、この冷たくも優しい光を堪能することにした。

 

 大広間で魔法の天井に覆われながら食事を取ると、いよいよホグワーツに戻ってきたという実感が湧いてくる。ハーマイオニーは銀のミルクピッチャーに『バンパイアとバッチリ船旅』を立てかけてニシンの燻製をちまちまつついているし、ネビルはふくろう便で忘れ物が届くのをそわそわと心待ちにしている。

 

 

「ハーマイオニー、文字は栄養にはならねえぞ」

 

「わかってるわ、食べてるわよ」

 

「いいや、食べてねえよ。ほら、あーん」

 

「ん。……なにこれ」

 

「ニシンの目玉」

 

「もう、ジュリア!」

 

 

 ようやく自分の手でニシンに取りかかったハーマイオニーを横目に、ジュリアはトーストにたっぷりのベーコンと卵を載せてかぶりついた。栄養バランスの整った食事もいいが、たまには羽目を外したい。今がその時だ。

 

 そのとき、ハリーとロンが下りてきた。

 

 

「おはようさん。初日からぶちかましたな」

 

「おはよう、ジュリア、ハーマイオニー。スネイプとマクゴナガルにこってり絞られたよ」

 

「ロン、それが当然なの、当然」

 

 

 ロンがうんざりした顔で天井を見上げた。

 

 ちょうどその時、フクロウの大群が大広間にやってきて、あちこちの生徒に小包やら封筒やらを落としていった。ネビルのところには随分と大きな小包が――大包という言葉があればまさにそれだろうとジュリアは思った――届いた。彼の忘れ物たちだ。

 

 ジュリアの手元にも一通の封筒が落とされた。一見飾り気のないシンプルなものだが、透かしでセブルス・スネイプのサインが入っている。封蝋は黒みがかった銀。いいセンスをしている。

 

 しかし、スネイプからの手紙を開封する間もなく、灰色の羽毛の塊がミルクピッチャーめがけて落下してきた。このままでは見事な着水――いや、着ミルクか――を見せ、辺り一面にミルクと羽毛をばらまくだろう。ジュリアは咄嗟の判断で杖を抜き、盾の呪文を展開した。

 

 ミルクを防ぐことができるかいまいち自信がなかったが、ジュリアとハーマイオニーは新学期早々ミルク浸しになることを免れた。ハーマイオニーの『バンパイアとバッチリ船旅』は些細な犠牲だ。

 

 ミルクピッチャーからフクロウの足が飛び出ている。見覚えのある足だった。

 

 

「エロール!」

 

 

 ロンが悲鳴を上げて、びしょ濡れのそれを引きずり出す。中々奇妙な光景だ。灰色のフクロウがミルクピッチャーに頭から突っ込み、それを少年が救出する。ホグワーツでもあまり見ることができないシュールさにダンブルドアが加点してくれるかもしれない。

 

 引きずり出されたフクロウは気絶しているようだったが、それでも任務は果たしたと見えて、嘴に赤い封筒を咥えていた。ふやけていないあたり、何かしら魔法のかかったものなのだろう。ロンがまた悲鳴を上げた。

 

 

「今日はよく鳴くな、ロン」

 

「冗談言ってる場合じゃないよ……ママが、ママが『吼えメール』をよこした」

 

 

 吼えメールとはなんぞや。払拭呪文と乾燥呪文をロックハートにかけているハーマイオニーも知らない様子だし、ハリーもぽかんとしている。ただ一人、ネビルだけが沈痛な面持ちでロンに声をかけた。

 

 

「ロン、開けたほうがいいよ……僕もばあちゃんに送られたことがあるけど、放っておいたら……」

 

 

 この先は口にするのも憚られる、とでも言わんばかりの顔だ。ロンもネビルも、まるで爆発物が届いたような目でそれを見ている。ここは魔法界だ。爆発する手紙があってもおかしくない。ジュリアはもう一度盾の呪文を展開する準備をした。

 

 そして、ロンが怯えながらも封を開くと、手紙は「爆発」した。

 

 

「ロナルド・ウィーズリー! 車を盗み出すなんて、退校処分になって然るべきです! 昨夜ダンブルドアから手紙をいただきました、あなたの悪行の一部始終を説明していただきましたよ! おまえもハリーも、一歩間違えば死ぬかもしれなかった……! それに、お父さんはお役所で尋問まで受けたのですよ! いいですか、今度ちょっとでも規則破りをしたら、わたしの手で退校させますからね!」

 

 

 手紙は大広間中に聞こえる爆発音で怒鳴り散らすと、ようやく満足したと見えて、燃え上がり灰になった。ジュリアはまだ耳が麻痺している気がした。ジュリアメモ。ウィーズリーおばさんは声で失神呪文を放つことができる。少なくともハリーとロンを呆然とさせ、ジュリアに頭痛を引き起こし、ハーマイオニーが驚いて椅子から落ちかける程度の破壊力はある。

 

 大広間に笑いと喋り声が戻ってきても、まだハリーとロンは固まったままだった。ハーマイオニーがようやく元通りになった『バンパイアとバッチリ船旅』を閉じ、呆れた様子でロンに視線を向ける。

 

 

「お気付きでしょうけど、ロン、これはあなたにとって……」

 

「当然の報いって言いたいんだろ」

 

「耳だけ失神呪文食らった気分だ、くそ……。まあ、なんだ。今年は少しパーシーかハーマイオニーを見習うのが身のためってもんだな」

 

「ご忠告どうも」

 

 

 ロンはやけになってオートミールをがちゃがちゃとかき混ぜるようにかき込んでいた。親の車を盗み、法を破って空の旅を楽しみ、挙げ句の果てに老木を傷だらけにして車を逃がす。これだけやらかしておいて罰則と遠隔説教くらいなら、ましなほうだろう。

 

 マクゴナガルが2年生の時間割を配りはじめた。初日はハッフルパフと薬草学だ。ジュリアにとって一番の楽しみは魔法薬学だが、その次に来るのは薬草学だろう。なんといっても温室は新鮮な素材の宝庫だ。それもかなりの量があるので、少し頂戴する分には都合がいい。

 

 ジュリアは気分をよくして、スネイプからの手紙を開いた。

 

 

「昨年度の諸々を受けて、君からいくつかの報告を受ける必要があると判断した。今年の個人授業についても日程を組む。加えて、場合によっては渡すものがある。鞄を忘れないように。本日放課後、執務室に来ること。S.S.」

 

 

 ジュリアはますます気分が高揚した。何を報告させられるのかはわからないが、少なくとも彼は今年も個人授業を継続してくれるらしい。その上、何やらもらえるようだ。スネイプはどうでもいいものを押しつけるような人物ではない。期待が高まる。いい一日になりそうだった。



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マンドレイクは中々高価

 なぜかスプラウトと一緒にギルデロイ・ロックハートがいる。これだけでまずけちがついた。暴れ柳の”正しい”治療法とやらをスプラウトに押しつけたらしく、スプラウトの機嫌が悪い。またけちがついた。しかし、大きな錠前のかかった3号温室に入った途端、ジュリアはそれらを些事として片付けた。

 

 ずらりと植木鉢が並び、その前に耳当てが置かれている。耳当てが必要な薬草。ジュリアの予想が正しければ、滅多にお目にかかれない植物だ。

 

 

「今日はマンドレイクの植え替えをやります。マンドレイクの特徴がわかる人は……おや、ミス・マリアット、いつにもましてご機嫌ですね。答えてみなさい」

 

「マンドレイク、あるいはマンドラゴラ。根茎が醜い人型をしていることで有名だが、重要なのはそこじゃない。正しい手順で根茎から成分を抽出すれば、魔法薬、呪い、毒物、そういったもので変容した生き物を正しい形に復元することができる。幅広い解毒剤に用いられていて、価値が高い。健康に成熟したものでまだ生きているものを扱うとしたら、1株あたり10ガリオン、いや、もう少し高くつくか? 株分けが難しくないおかげで量はそこそこ出回ってるが、引き抜く時の悲鳴が命取りなせいで相場が跳ねてる感じがするな。初めて現物にお目にかかる……!」

 

 

 スプラウトも幾分機嫌が回復したようだった。

 

 

「完璧な説明ですね、10点あげましょう。自分で貴重だと言ったのですから、ポケットにうっかり転がさないように。見逃しませんからね。さて、ミス・マリアットが説明したとおり、マンドレイクの泣き声は命を奪います。しかし、これはまだ幼体ですから、せいぜい気絶程度で済むでしょう。気絶したくなければ、私が手を上に挙げて合図をするまで耳当てを完全につけているように。それでは、耳当て、つけ!」

 

 

 全員が耳当てをつけたのを確認してからスプラウトが植木鉢から苗を引き抜くと、土まみれの不気味な赤子――マンドレイクの根茎が現われた。ジャガイモのような頭がイヤイヤと首を振って泣き喚いているようだ。肌は緑がかっていて、健康体そのもの。ジュリアは是非とも入手したかったが、流石に置き場がなかった。

 

 スプラウトの模範の後、4人1組で植え替え作業を始めた。ハリーはマンドレイクに指を噛まれていたし、ロンは持ち上げすぎて鼻を蹴られていた。ジュリアも太ったマンドレイクを力づくで植木鉢にねじ込んだころには、すっかりこの醜い赤子に愛想が尽きていた。やはり薬草は使う側がいい。

 

 次は変身術だ。へとへとになって温室から脱出し、泥を落として、教室に向かった。

 

 今年度最初の課題はコガネムシをボタンに変えることだったが、ジュリアはこれにも苦戦させられた。胴体に集中すれば脚の生えたボタンになり、脚を消そうと頑張れば潰れたコガネムシに4つ穴があいたものが生まれる。授業が終わるころにはなんとかコガネムシ色のボタンが完成したが、これが期末試験なら少々減点を食らうだろう。

 

 隣でハーマイオニーが3つ目のボタンを完成させた。上等なコート用の見事な金ボタンだ。彼女はコガネムシさえいれば替えのボタンに困ることはない。コガネムシを持っていてボタンがない状況は想像がつかないが。

 

 ジュリアが渋い顔のマクゴナガルにひとまずの及第点をもらって席に戻ると、ロンが煙の中で折れた杖を振り回していた。教室に広がり始めた煙からは腐った卵の臭いがする。

 

 

「そいつはもう使いものにならねえと思うぞ、催涙ガスの練習をしてるんなら話は別だが」

 

「修理は……したんだけど……こん畜生!」

 

 

 ロンのコガネムシが潰れた。

 

 今度は腐った卵の煙幕から脱出し、大広間で昼食にありついて、ジュリアはようやく一息つくことができた。どんなときでもベーコンは裏切らない。卵のまろやかさもトーストの甘みも悪くない。ベーコンエッグトーストがジュリアを癒やしてくれた。

 

 午後の授業が闇の魔術に対する防衛術だものだから、ハーマイオニーはすでに鼻歌でも歌い出しそうな様子だった。相変わらず『バンパイアとバッチリ船旅』をミルクピッチャーに立てかけ、微笑すら浮かべている。少々不気味だ。

 

 不気味という点についてはハリーも同意見のようで、おそるおそるジュリアに声をかけてきた。

 

 

「ジュリア……ハーマイオニーのあの調子、どうしちゃったのさ」

 

「授業が楽しみなんだとよ、ハリー」

 

「それはいつものことだよ。なんか、こう、雰囲気が違う」

 

「ロックハート・ハートロック・シンドローム」

 

「なんて?」

 

「なんでもねえよ。……ほら、ハーマイオニー、あーん」

 

「ん。……またニシンの目玉じゃない!」

 

 

 恋の病から一時的に回復させるには、げてものを食べさせるのがいい。ジュリアはまたひとつ賢くなった。



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サイン入り写真

 午後の授業まで時間があるので、4人は中庭でのんびりすることにした。とはいっても、ハーマイオニーは本に夢中だし、ハリーとロンはクィディッチ談義を始めたし、ジュリアは少々暇をもてあましていた。石段に腰かけて爪にヤスリをかけながら、どんよりと空を覆う雲を眺める。今夜は月を拝めそうにない。

 

 何者かが背後から視線を向けているのに気づいて、ジュリアはちらりと振り返った。首からカメラを提げた小柄な男の子が熱に浮かされたような表情でハリーを見つめている。ハーマイオニーがロックハートのブロマイドに向けるそれに近い。

 

 

「ハリー、客だ」

 

「え、僕に?」

 

 

 ハリーが目を向けると、少年は真っ赤になって縮こまった。それでも、カメラをしっかり握って、少年は口を開いた。

 

 

「ハリー、こんにちは、元気? 僕、僕、コリン・クリービーです。僕もグリフィンドールです。あの、もしよければ、写真を撮ってもいいですか?」

 

「写真?」

 

「僕、あなたのことなんでも知ってます。『例のあの人』があなたを殺そうとして、それでも生き残ったとか、それで『あの人』が消えちゃったとか、そのときあなたの額に傷ができたとか、なんでも」

 

 

 ああ、これまた重症だ。そろそろシンドロームの命名規則を作っていいくらいだろう。今年はホグワーツに愛の妙薬でも撒布してあるのだろうか。ジュリアはロンと顔を見合わせて肩をすくめた。

 

 コリン・クリービーはまた一歩詰め寄って、困惑しているハリーに懇願した。

 

 

「あの、できれば、あなたの友達に撮ってもらって、それで、僕の隣に並んでくれませんか? それから、サインも――」

 

「サイン入り写真? ポッター、サイン入り写真を配ってるのかい?」

 

 

 厄介な奴が来た。マルフォイだ。いつも通りミニトロールを2頭連れ回している。リードをつけていないあたり、懐かれてはいるのだろう。あるいはトロールの言語を解するのかもしれない。もしそうなら、魔法界にはトロールの調教師がいるそうだから、もしマルフォイ家が落ちぶれても彼が職に困ることはないだろう。もちろん、マルフォイはそのような仕事を好む人物ではなさそうだが。

 

 ジュリアの頭の中でトロールの調教をさせられているとはつゆ知らず、マルフォイ少年はいつもの皮肉げな笑みを浮かべて、悠々と中庭まで石段を下ってきた。

 

 

「我らのスター、ハリー・ポッター様がサイン入り写真を配っているぞ! みんな、並べよ!」

 

「黙れマルフォイ、僕はそんなことしてない!」

 

 

 こうなると面倒だ。何かしらの決着がつくまでこの2人は落ち着くことがない。飛行術然り、トロフィー室然り、ドラゴン密輸然り。勇敢さではハリーが勝るが、狡猾さではマルフォイが勝る。そして、口喧嘩に必要なのは勇気より狡猾さだ。

 

 ジュリアはひとまず爪ヤスリをポケットにしまって、静観することにした。場合によっては介入することもやぶさかではないが、できればハリーとマルフォイの喧嘩は2人の間で完結させたい。ジュリアは2人がライバル関係にあると考えていた。そして、ライバルとは高めあうものだ。

 

 しかし、小さな勇者がここに乱入してきた。コリン・クリービーだ。

 

 

「君、ハリーに嫉妬してるんだ」

 

「嫉妬? この僕が?」

 

 

 マルフォイはせせら笑った。中庭にいる全員がハリーとマルフォイ、そして小さなコリン・クリービーに注目している。

 

 

「ありがたいことに、僕は額に醜い傷なんてないし、そんなものがなくても特別な人間だと考えているのでね」

 

「ナメクジでも食らえ、マルフォイ」

 

 

 ロンの参戦だ。こうなると流石にハーマイオニーも読書に熱中とはいかないようで、緊張した面持ちで事態を見守っていた。

 

 ジュリアは考える。どのタイミングで介入するのが一番面白いか。まだ様子見だ。

 

 

「言葉に気をつけろ、ウィーズリー――今度ちょっとでも規則破りをしたら、わたしの手で退校させますからね!」

 

 

 近くにいたスリザリンの一団が笑い、ロンが真っ赤な顔で折れた杖を取り出した。しかし、ここで呪いをかけさせるのは得策ではないだろう。ましてや、折れた杖で呪いなど、何が起こるかわかったものではない。ジュリアは立ち上がり、そろそろこの騒動に介入することにした。

 

 

「随分と自信があるようじゃねえか、マルフォイ坊ちゃん」

 

「ふん、マリアットか。もちろん、僕はいつだって自分に自信がある。マルフォイ家の跡継ぎとしての誇りに満ちているからね」

 

「そいつは重畳。――聖28氏族、マルフォイ家の跡継ぎ、ドラコ・マルフォイ様がサイン入り写真を配るとよ! ほら、並べよお前ら!」

 

 

 ジュリアは自分の声が中庭全体に響き渡ったのを確認して、にっこり笑った。

 

 実に間抜けな表情だ。自分が同じ手でやり返されるとは思ってもみなかったのだろう。2年生のマルフォイ少年にはまだまだスリザリンらしさが不足していた。

 

 

「おやおや、誰も並ばねえな。だが、気にすることはねえだろ? だって、嫉妬してねえんだもんな? 自分の写真を誰も、だーれもほしがらなくったって、なんとも思わねえ。そうだろ、跡継ぎのマルフォイ坊ちゃん?」

 

「マリアット、貴様、貴様は……」

 

「顔が赤いぞ、マルフォイ坊ちゃん。どうした、カメラには慣れてねえのか? それとも、ひょっとして、もしかすると、嫉妬しちまったか? だって、ハリーにはここにファンがいるもんな? そうだろ、コリン・クリービー少年」

 

 

 ジュリアはコリン・クリービーの小さな肩を抱き寄せた。少年は緊張で体を強張らせているが、小さくてもグリフィンドールだ、この場を切り抜けるくらいの度胸はあるだろう。

 

 コリン・クリービーがかくかくと頷いて、マルフォイが何か言い返そうとしたところで、中庭に颯爽と「奴」が現われた。軽やかに香る香水。自信に満ちた大股の足音。ハーマイオニーが顔を赤らめる。ギルデロイ・ロックハートだ。

 

 

「サイン入り写真を配っているのは誰かな? 聞くまでもなかったね! やあ、ハリー!」

 

 

 この騒動もここで終結だろう。名高いギルデロイ・ロックハートの前でハリーやロンに喧嘩を売るほどマルフォイも馬鹿ではない。ハリーは可哀想だが、無事に事態が解決したからよしとしよう。ロックハートに無理矢理肩を組まれて写真を撮られているハリーを眺めて、ジュリアはあくびをした。

 

 

「父上が黙ってないぞ、マリアット」

 

「んじゃその父上に決算報告するんだな、サイン入りブロマイドの売り上げでハリー・ポッターに負けました、ってさ」

 

 

 マルフォイはいい脅し文句が思いつかなかったと見えて、「後悔するぞ」とだけ捨て台詞を吐いて人ごみに消えていった。

 

 そんなことより、この後は闇の魔術に対する防衛術の授業だ。ギルデロイ・ロックハートの真価がわかる。ジュリアにとって重要なのはその一点だった。



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ペスキピクシペストルノミ!

「私だ」

 

 

 知るか。ジュリアはこの男のウィンクにだけは応じないと固く誓った。教科書の表紙までウィンクしてくる。なんとも気障で腹立たしい。ほとんどの男子生徒と一部の女子生徒は表紙を下にして教科書を積んでいた。

 

 

「勲三等マーリン勲章、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員、『チャーミング・スマイル賞』5回連続受賞。もっとも、私はその話をしに来たわけではありませんよ。バンシーをスマイルで追い払ったわけじゃありませんしね!」

 

 

 幸いなことに、この男のスマイルとやらはジュリアを追い払う程度の効果はある。泣き妖怪バンシーに対してはどうか知らないが。

 

 大半の生徒は少なからずジュリアと同意見のようで、ロックハートのジョークに笑いは生まれなかった。しかし、中々どうしてこの男も折れない。

 

 

「今日は最初にちょっとしたミニテストをやります。ああ、心配ご無用、教科書を読んでいればわかる簡単なものですから。ちょっとしたチェックですよ」

 

 

 伏せられたテストペーパーが回ってくる。そこそこの長さだ。ジュリアは一縷の望みをテストペーパーの表側に託した。もしかしたら、教科書で披露された戦法や技術に関するテストで、正答率の低かったものからカリキュラムを組んでいくとか、解説をするとか、そういった秘めたる知性があるのかもしれない。

 

 そして、合図と同時にテストペーパーを捲る。

 

 ギルデロイ・ロックハートの好きな色。ギルデロイ・ロックハートのひそかな大望。ギルデロイ・ロックハートの業績であなたが一番偉大だと思うもの。エトセトラ、エトセトラ。そして、最後は、ギルデロイ・ロックハートの誕生日と、理想的な贈物。

 

 ジュリアは今すぐこの羊皮紙を破り捨てて山積みの教科書を奴の眉間に投擲し、奴の全身に早撃ちで失神呪文を叩き込んで、とどめに使い古した羽ペンを奴の尻に挿して帰りたかった。この男を採用した人事は何を考えているのか。そもそもホグワーツに人事はいるのか。ダンブルドアの一存だとしたら、とうとう耄碌したとしか思えない。ジュリアは祈った。母さん、あなたが言っていたよりダンブルドアはぶっ飛んでます。悪い方向に。

 

 それでも成績不振で奨学金を止められると困るので、やむを得ずジュリアは最低限の解答をしていくことにした。半分も埋めれば悪目立ちはしないだろう。この男の居残りだけは勘弁だ。

 

 30分でテストペーパーは回収され、ロックハートは素早い手つきで生徒たちの答案を確認していった。手先の器用さはサイン会で慣らしたのだろうか。

 

 

「おやおや、私の好きな色はライラック色ですよ、『雪男とゆっくり一年』の中で言及しましたね。それに、『狼男との大いなる山歩き』の第12章ではっきり書きましたが、理想的な贈物は魔法界と非魔法界のハーモニーです。もっとも、オグデンのオールド・ファイア・ウィスキーでも歓迎しますがね!」

 

 

 そろそろジュリアは悲しくなってきた。「借金」を消費して自慢話だか自分語りだかわからない伝記を買い揃えさせられた上、初めての授業からギルデロイ・ロックハートという人物についての記憶テストをさせられ、ひょっとすると遠回しな賄賂の要求までされたかもしれない。素晴らしい。ジュリアは今、闇の話術に対する防衛術を学んでいる。人をうんざりさせる呪文とか、人を退屈させる呪文とか、その手の精神を操作する高度な呪いを口から放つことができるのだろう。人の気分を悪くするという意味ではアズカバンにいると聞く吸魂鬼に似ているかもしれない。

 

 何よりうんざりさせられるのは、この男にまだ信奉者がいるということだ。それも、極めて身近なところに。

 

 

「素晴らしい、満点です! ミス・ハーマイオニー・グレンジャーはどなたですか?」

 

 

 隣の席でハーマイオニーが耳まで赤くしながら手を挙げている。普段のハーマイオニーであれば空気を貫くように鋭く手を挙げるところが、今日は弱々しく震え、まるで子ウサギのようだ。

 

 

「素晴らしいですよ、お嬢さん。10点あげましょう!」

 

 

 隣のハーマイオニーに注目が向いているので昼寝するわけにもいかず、ジュリアは目だけを動かして教室の観察を始めた。前任者が図や動く写真を吊るすのに使っていたロープにはロックハートの写真が飾られている。次。窓辺にライラック色の写真立てでロックハートが飾られている。次。教壇の下から不衛生な獣とも鳥ともつかない臭いがする。これだけがこの教室に似つかわしくなく、そして唯一の「闇の魔術に対する防衛術」らしさを見出せる要素だ。

 

 そして、ようやく授業が始まった。ロックハートが教壇の下から覆いのかかった籠を取り出す。甲高い鳴き声を上げて無数の小さな何かが飛び回っているのがわかる。

 

 

「この教室でこれから君たちは、これまで経験したことのない恐ろしい目に遭うことでしょう……しかし、私がここにいる限り、何物たりとも君たちに危害を加えることはない。ただ、落ち着いていればよいのです」

 

 

 教室中が籠に注目していた。少年少女の興味を惹くには十分な声色使いだ。ジュリアも少しだけ籠の中身に期待している。闇の魔法生物。もしくは、呪いに憑かれた凶暴な小動物。そのあたりが望ましい。

 

 

「さあ、ご覧あれ――捕らえたばかりのピクシー小妖精!」

 

 

 なるほど。ジュリアはほんの僅かではあるが感心した。この群青色に染まった不愉快な悪戯悪魔は、これを見て失笑している生徒たちの手に負えるほど穏やかでも優しくもないだろう。ましてや苛立った群れとなれば、ジュリアも好き好んで近づきたくはない。小さいころ、巣に手を突っ込んで大泣きさせられた経験があるのだ。母が助けに来てくれるまで枝に吊るされていた。

 

 しかし、生徒の大部分はこの小妖精を舐めきっている。それはロックハートにも伝わったようで、彼は檻の鍵に手をかけた。

 

 

「では、皆さんのお手並み拝見!」

 

 

 ロックハートがどこまで予想していたのかはわからないが、少なくとも2年生の少年少女にちょっとしたトラウマを植え付けることには成功しそうだった。無数のピクシーが飛び回り、ロックハートの写真を引き裂き、窓を破り、教科書を投げ捨てる。今のところ善行しか積んでいないが、少なくとも教室は大騒ぎだ。

 

 ロックハートが杖を抜いて声を張り上げた。

 

 

「さあ、たかがピクシーでしょう、捕まえなさい! ペスキピクシペストルノミ、ピクシー虫よ去れ!」

 

 

 ピクシーがロックハートの杖をもぎ取って窓の外に放り投げた。ナイスプレイ。

 

 たまらずロックハートが教室から逃げ出すのを見て、ジュリアは両方の杖を抜いた。ここからは的撃ちの時間だ。羽音の近いものから順に衝撃呪文で叩き落としていく。鋭く、早く、正確に。毎回こうなら少しはいい訓練になるかもしれないが、ロックハートも毎回杖を奪われたくはないだろう。

 

 

「24、25、26、27、28……随分多いな。っと、30。ハーマイオニー、ご感想は」

 

「体験学習よ、いいことだと思うわ」

 

 

 ジュリアが撃ち落としたピクシーを、ハーマイオニーがてきぱきと浮かせて籠に詰めていく。その奥でハリーとロンがインクまみれになっていた。

 

 

「体験? ご自分は杖を奪われておいて? 彼のほうがよっぽど体験すべきだよ」

 

 

 ロンの耳を囓っていたピクシーを教科書ではたき落として、ハリーがうんざりした声を上げた。ジュリアも同感だ。今年の「闇の魔術に対する防衛術」は一切の期待を捨てて取りかからねばならない。

 

 

「でも、彼って、あんなに目の覚めるようなことをやってるじゃない。彼の本にそうあるわ」

 

「本には、ね」

 

 

 ロンが呟いた。これも同感だ。加えて、どうにかハーマイオニーの目を覚ます手段を見つけなくてはならない。



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クィレルの形見分け

 スネイプの執務室は珍しく窮屈だった。というのも、普段は薬品ケースが整列している棚や机に大量の羊皮紙が積まれ、床に直置きで様々な本が山をなして、さらにはスネイプが妙に苛立っているからだ。ジュリアは比較的低い山の1つにおっかなびっくり手を乗せて、崩れないことを確かめてからそこに腰かけた。

 

 無言のスネイプからティーカップを受け取る。嗅いだことのない香りだ。くだもののようなみずみずしさと薬のような不思議さが混ざっている。嫌な匂いではない。一口含むと、味わい深い渋みが広がった。

 

 

「なんだこれ、うまいな。初めて飲む味」

 

「鉄観音。中国の茶だ」

 

「へえ、夏季休暇中はアジア旅行か?」

 

「我輩にそのような暇はない。3年前、クィレルが旅行先で買ってきたものだ」

 

 

 一瞬、大きなティーカップを抱える両手に力が篭もった。焦がしたような深い茶色の水面が揺れる。クィリナス・クィレル。ジュリアの中に並ぶ墓標の1つに刻まれた名前だ。彼は故人で、しかもまともに会話したのは一度だけ。だというのに、なぜ自分がこれほどまで感傷に浸り続けているのか、ジュリアにはわからなかった。

 

 ジュリアの中で隣人との離別という出来事はさほど珍しいことではない。その中には死別も含まれている。クィリナス・クィレルの死も取るに足らない記憶として色あせていくと思っていた。ハリーの箒を呪っていたときの嫌な笑みも覚えている。あのとき彼はヴォルデモートの配下であり、闇の魔法使いだった。

 

 彼は敵だった、そしてもう死んだ。そう割り切れたらどんなによかっただろう。ジュリアは自問自答する。人狼狩りの魔法使いたちが死んだとき、自分は奴らの死を悼むだろうか。きっと悼まないだろう。なら、彼と奴らとの違いはどこにあるのか。どちらも加害者で、もしかするとどちらも被害者だったかもしれない。条件はさほど変わらない。だとしたら、何が自分を苦しめているのか。哀れみ、同情、そんなものを抱くほど、自分は弱い生き物だっただろうか。

 

 

「……茶葉ってそんなに長持ちするんすね。あ、魔法か」

 

 

 自分は今、上手く笑えているだろうか。ジュリアは自信がなかった。

 

 

「クィレルという男は、夏季休暇が始まると手早く事務仕事を片付け、気づいたころにはもう旅行に出ている、そのような輩であった」

 

「なんだよ先生、やめろよな。葬式みてえなこと言って」

 

「葬式と形容しても差し支えなかろう。遺品に囲まれ、故人を語っているのだから」

 

「あんたも、冗談言うんだな」

 

 

 今度は上手く笑えなかった。

 

 スネイプの仏頂面から目をそらして本の山を見やる。ジュリアはその中にロバート・グレイヴスの『ギリシア神話』を見つけた。クィレルはやはりオルフェウスの冥府下りを知っていたのだろう。そして、ここにある本はすべて、彼の遺品なのだろう。

 

 

「我輩の目を見ろ、ジュリア・マリアット」

 

「あんたと見つめあう気分じゃねえな」

 

「見るのだ」

 

「嫌だ」

 

 

 机の向こうから伸ばした腕で頭を押さえられ、無理矢理顔を覗き込まれる。スネイプの瞳にいつにも増して不機嫌そうなジュリアの顔が映っていた。様々な魔法薬と、少しだけ香辛料、加えてカビの匂いがする。ジュリアはこの男の匂いも嫌いではなかった。

 

 しばらくスネイプはジュリアの目を見ていたが、小さくため息をつくと、ジュリアの頭から手を放し、椅子にもたれかかった。

 

 

「やはり、魅了でも憑依でもないらしい」

 

「ご心配どうも。あたしは正気だ」

 

「校長は、君がクィレルに魅了された可能性を疑っておられた」

 

「そりゃ随分な名探偵だこって」

 

「闇の帝王を身に宿した者と対話し、正体を知ってなお死を悼む。それこそ、正気の沙汰ではない」

 

「まあ、な」

 

 

 ジュリアは山積みの本に背を預けた。羊皮紙と埃の匂い。落ち着く匂いだ。これがすべてクィレルの遺品だと思うと、奇妙な感覚になる。まるで、今この瞬間にも彼がおどおどしながら戸を開けて、つっかえつっかえ授業を始めるのではないか、そのような感覚に。

 

 つまるところ、ジュリアはまだクィリナス・クィレルという人物の死から抜け出せないでいた。ヴォルデモートに魅了されていた、憑依されていた、そういったことを抜きにした、彼個人の死が忘れられないのだ。

 

 

「やっぱ、正気じゃねえのかもなあ」

 

 

 ジュリア・マリアットは正気ではない。呟いた自分の言葉がじわりと広がった。

 

 

「奴の人となりに関する君の推理については、校長から聞かされている」

 

「あんたはどう思ったんだ、先生」

 

「さほど交流があったわけではない。君の推理に正否の判断を下すのは難しい」

 

「それでもいい。先生の見たあの人は、どんな人だったんだ」

 

 

 しばらく、2人は沈黙していた。本の山の向こうで、大鍋がひとりでにかき混ぜられる音がする。一定のリズムで水薬が揺れ、混ざり、熱せられ、泡とともに蒸気を上げる音。静かだ。

 

 

「奴は」

 

 

 スネイプが突然声を発したので、ジュリアは体を強張らせてしまった。妙な向きに体重のかかった山から何冊か本が落ちてくる。ティーカップを落とすわけにもいかず、いくつかを両腕で受け止め、1冊に頭を打たれたジュリアに、スネイプは呆れたような視線を向けた。

 

 

「聞く気があるのか、ないのか」

 

「ある、あるからちょっと待ってくれ。頭から血ぃ出てる気がする」

 

「出ていない。……奴は、温和な男だったように思う」

 

 

 スネイプはティーカップを執務机に置いて、語りはじめた。饒舌ではなかったが、その淡々とした語り口はジュリアに痛みを忘れさせた。

 

 

「毎年、旅行のたびに土産を買ってきた。茶葉、菓子、乾物。旅先での見聞を授業で扱っていたとも耳にしたことがある。……それから、花を好んだ。執務室には植木鉢がいくつか並んでいたし、そこに積まれている本にも多くは押し花が挟まれている」

 

「押し花」

 

「植物学における標本作製の手法だ。もっとも、奴は栞として用いていたようだが」

 

 

 ジュリアはそっとティーカップを脇に置いて、落ちてきた本の中から一冊のページを捲る。『オカルティズム、魔術、文化流行』と題された分厚いその本には繊細な文字で書き込みがされていた。「一般的な魔法史と並べると面白い」「ここは一般化が過ぎるか?」「興味深いが不明瞭、要調査」「現地での観察の結果、一部に異なる結論を得た。通読後に私の見解をまとめる」時には辛辣に、時には愉快そうに羽ペンが踊ったのがわかる。

 

 そして、ラベンダーが挟まれたページから先には、何も書き込まれていなかった。

 

 今のジュリアにこの本の内容を理解することはほとんどできない。マグルの研究者が著した難解な書物なのだろうということだけがわかる。しかし、その研究書を読み解き、自分の考えと織り交ぜた彼の「マグル学」は、きっと面白かった。これは確信だった。

 

 

「……クィレル先生のマグル学、受けてみたかった」

 

「スリザリン寮生にマグル学を選択する者はほぼいなかった。ゆえに、奴がどのような授業を行ったのか詳細は知らん」

 

「まあ、だろうな」

 

「しかし、ここには奴がマグル学の教鞭を執っていたころの蔵書がいくらか揃っている。校長は君が形見分けに参加する権利があるとお考えだ。君と、どうせ首を突っ込んでくるであろうグレンジャーのために、奴が書き込みを残したものや図書館の蔵書と重複するものをここに用意した」

 

 

 自分で学べ。そういうことだろうか。ジュリアはクィレルの細やかな筆致を指先でなぞった。彼の瞳には叡智が渦巻いていた。あの高みまで到達するのに、自分はどれだけかかるだろう。

 

 しばらく考えて、ジュリアは頷いた。

 

 

「受け取る。全部理解するのには一生かかっても足らないかもしれねえけど」

 

「全部持っていく気か?」

 

「持っていっていいなら」

 

 

 スネイプは目を閉じて何か考えているようだったが、やがて杖を取り出し、本の山を浮遊させて整理しはじめた。紙の渦に巻き込まれないよう、ティーカップを手に山から飛び降りる。鉄観音がこぼれそうになって、ジュリアは慌てて一口啜った。

 

 

「まずは手近なものから始めろ。関心と興味の向いたものからだ。必要に迫られているわけではないのだから、時間をかけて余暇に学べ。君が励むべきは学業、礼法、訓練、その3つであることを忘れるな」

 

 

 ジュリアにそう言い聞かせながら、スネイプは渦巻く本を使い古された小さなトランクケースに流し込んだ。無数の本を飲み込んだトランクケースがぱたりと閉じる。

 

 そして、差し出されるままにジュリアはトランクケースと巻かれた羊皮紙を受け取った。

 

 

「それが目録だ。鞄に手を入れてタイトルを呼べば取り出すことができる。どちらも貴重品と思って扱え」

 

「あいあい、感謝します。……これ、先生が書いたのか?」

 

「ひどく時間のかかる作業であった」

 

 

 ジュリアはしっかりと頭を下げた。きっと大変だっただろう。

 

 スネイプは鼻を鳴らすと、杖を振って2人のティーカップにお茶を補充した。まだまだ話は続くらしい。ようやく椅子を出すスペースができたので、ジュリアはスネイプの向かいに椅子を引いてきて座った。



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次のステップへ

 執務机の上に残った埃を拭い取って杖を収めると、スネイプはジュリアに睨むような目を向けた。ジュリアは今年度に入ってからまだ何も、ほとんど何もしていないはずだ。

 

「さて、順番が前後したが……我輩の記憶が間違っていなければ、君には報告すべきことがあるはずだが?」

 

「えっと、どれだ……マルフォイをちょっとからかったこと?」

 

「それに関しても報告が来ているが、その話ではない。いや、しかしそれについても警告しておく。ルシウス・マルフォイは名家の当主に相応しいだけの余裕を持ち合わせた人物だが、一児の父でもあり、さらには家格相応の権力者でもある。無益な綱渡りはしないのが身のためだ」

 

「余裕、ね。ダイアゴン横丁でアーサー・ウィーズリーと取っ組み合いしてたけど」

 

「……彼も時にはそういう一面を見せる。ともかく、それは本題ではない。ポッター共と君の小さな冒険について、我輩はまだ説明を受けていないように思う。特に、あのトロールに何を使ったか」

 

 

 スネイプの視線から逃れるように、ティーカップを口に運ぶ。クィレルの罠であるトロールと戦った、その最後の一撃に、ジュリアは剣の呪文「グラディウス、貫け」を用いた。これはジュリアがスネイプの個人授業でうっかり生み出してしまったオリジナルだ。白熱する鋭い刃を鞭のように伸ばし、収縮させることで一振りの剣となるこの魔法は、巨大な山トロールの喉笛を貫き、切り裂いた。

 

 スネイプ曰く、呪文の開発というものは発想を魔法理論に落とし込んで綿密な計算を行い、小規模な実験を重ね、ようやく実用化に至るものとのこと。それをジュリアは一発で成功させ、事故を起こすことなく制御した。これは極めて幸運なことで、もし刃が逆噴射されていれば、最悪の場合肩から先と”お別れ”をしていたかもしれないのだ。

 

 

「いや、その……杖が応えてくれたっつうか、確信が湧いてきたっつうか」

 

「魔法は、オカルトでは、ない」

 

「その台詞すげえ面白いぜ、先生」

 

 

 スネイプは不愉快の極みと言わんばかりに鼻を鳴らして、ジュリアの頭を巻かれた羊皮紙で叩いた。それほど力は篭もっていなかったが、かえってそれが不気味だった。

 

 

「え、なんだよ今の、とうとう杖の代わりに羊皮紙で呪いがかけられるように……」

 

「なっていない。もう一度だけ言うが、魔法はオカルトではない。……夏の間にあの呪文を再現し、分析した。読み込んだ上でどのような作用が生じているのか理論に落とし込み、レポートにして提出したまえ。参照すべき文献はいくつか載せておいた。レポートの添削を繰り返し、及第点を取るまでは使用を禁ずる」

 

 

 押しつけられた羊皮紙を広げると、そこにはスネイプの神経質な細かい字でみっしりと、しかし整然とまとめられた実験記録らしきものがあった。ちらほらと知らない単語も飛び交い、ジュリアの頭では解読するだけでもかなりの時間がかかるとはっきりわかる。これを理解した上で、自分の言葉に噛み砕き、さらにそれを既存の理論に当てはめて分析し、再度文章化しなくてはならないらしい。

 

 ジュリアが思わずげんなりすると、スネイプから厳しい言葉を浴びせられた。

 

 

「我輩としては、君が自らすすんで杖腕を捨てるというのなら、なにも気にすることはない。ただ夏に少々の時間を浪費しただけで終わる。しかし、君は強くなることを求めており、我輩の提案に対して頭を下げた。合理的な選択と判断ができるようになるまで個人授業をお預けにしても構わんのだぞ?」

 

「……はい、頑張ります、当面使いません、ありがとうございます、今年もよろしくお願いします」

 

「結構。少しは発音もまともになってきたようだな」

 

「お、マジで?」

 

 

 頭を上げた途端、スネイプの杖がジュリアを叩いた。今度はそれなりに痛かった。

 

 

「もう崩れている。加えて、あの呪文は殺傷力があまりに高い。緊急時にのみ用いるように」

 

「トロールは緊急時だっただろ」

 

「左様。我輩は一言もあのトロールに対し行使した件を糾弾してはいない。君が生きて帰ったことを、指導者として少なからず誇りに思っているのも確かだ」

 

 

 スネイプの意外な台詞に、ジュリアは思わず彼を凝視した。ジュリアはスネイプの善良な側面を少なからず知っている。しかし、彼がこれほどまでに明確な形でその側面を態度に表したことはなかった。それどころか、彼は自分の少し歪な優しさを秘匿しようとしているようにすら思えた。それゆえに、ジュリアは衝撃を覚えた。

 

 スネイプは仏頂面で、落ち着いていて、ティーカップを優雅に口へと運んでいる。いつも通りのスネイプだ。

 

 

「先生」

 

「何だ」

 

「もっかい言って」

 

「断る。さて、今年度の個人授業についてだが……何か希望はあるか?」

 

 

 ジュリアはまだのぼせたような感覚が残っていたが、動かせるだけの理性を総動員して、自分に必要なものを考えた。防御に関しては盾の呪文の二重展開が可能。攻撃手段は失神呪文を得た。奥の手として剣の呪文が控えている。まだまだ学ぶことは多いが、それゆえに次の一歩が悩ましい。

 

 ジュリアは悩み、様々な状況を想定し、なんとか答えを絞り込んだ。

 

 

「舌縛りの呪文って、先生のオリジナルだよな?」

 

「どこで知った」

 

「いやあ、母さんに口答えするとよくかけられてさ。セブルスが開発した呪文で一番使い勝手がいい、って言ってた」

 

 

 スネイプはしかめ面をして眉間を押さえた。ジュリアの想像が正しければ、きっとこの男もジュリアの母に振り回されたのだろう。エレン・ムーアクロフトは計算高い人物ではあったが、その計算はしばしば自分の利益を中心に動作しており、必然的に”台風の目”になっていた。ハグリッド、マクゴナガル、マダム・ポンフリー、そしてジュリアの意見が一致している部分である。

 

 

「あの人は……それで、何が言いたい」

 

「あれはただの悪戯じゃなくて、無言呪文を使えねえ相手に有効な呪いだと思う。つまり、なんつうのかな……傷つけない、拘束とか、制圧とか、そういうの。あ、もちろん、されたときの対処も」

 

「対象を傷つけない攻撃手段と、その対処。そのような解釈でよいか」

 

「そう、それ!」

 

「どういう心境の変化かは知らんが、君が殺すか殺されるかの世界から足を洗おうとしているのは喜ばしい。今年度は昨年度の復習も行いつつ、その方向でカリキュラムを組む。いつもの部屋で、来週から行う。時間割を見せたまえ……木曜の3コマ目だ。質問はあるか?」

 

 

 ティーカップを消失させ、棚から書類の束を呼び寄せてジュリアを追い出す準備をしているスネイプに、ジュリアはしっかりと頭を下げた。去年、個人授業の提案を呑んだときと同じか、それ以上の嬉しさがこみ上げてきたのだ。

 

 自分の生存だけを考えるなら、失神呪文と盾の呪文さえあればいい。しかし、失神呪文は攻撃的な呪文で、明確な攻撃の意思があったと判断される。ましてや剣の呪文など、人に向ければ殺意があったとされるだろう。ジュリアにはもう守らなくてはならない人々がいて、帰らなくてはならない居場所がある。攻めねば殺されるかもしれない。しかし、傷つければ守れないかもしれない。

 

 

「ありがとうございます、先生」

 

「励め。……言い忘れたが、君は正気だ、ジュリア・マリアット。敵だから殺してもよい、敵に与すれば殺してもよい、そのような御旗を掲げる者共よりずっと、正気だ」

 

「そっか。……うん、ありがとな、先生」

 

 

 返事はなかったが、ジュリアは満足だった。ヴォルデモートの配下だった男の死を悼んでいてもよいのだ。そう思うと、幾分気が楽になった。安心して、心の中で静かに弔うことができた。ジュリアはようやく、クィレルにさよならを言うことができた気がした。



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それぞれの個人授業

 ジュリアがスネイプと個人授業の約束を今年も取りつけたのを知って、黙って見ているハーマイオニーではなかった。

 

 まずハーマイオニーは金曜の午前に「呪文学」の授業でいつにも増して実力を発揮し、それに加えて制御不能に陥りロンの手から「発射」された杖をジュリアに素早く指示して掴ませ、ぎりぎりのところでフリットウィックを守った。優雅で、熱心で、親切。完璧な優等生だった。

 

 そして、上機嫌のフリットウィックに穏やかな口調でお願いをしはじめた。昨年度の成績、決闘チャンピオンへの憧憬、より高度で複雑な呪文への挑戦意欲、切れるカードを全て切って、ハーマイオニーはフリットウィックとの個人授業を取りつけた。木曜の3コマ目だ。

 

 ハーマイオニーはさらに前進する。

 

 ジュリアを掴んでマクゴナガルの執務室に駆け込むと、ジュリアがスネイプに個人授業を受けていること、友人として自分も負けたくないこと、教えあい高めあうためにはジュリアの弱点科目である「変身術」が望ましいと考えたことなどをまくしたて、マクゴナガルとの個人授業まで取りつけた。金曜の5コマ目だ。

 

 この2つの個人授業について、ジュリアの予想が正しければ、これらはきっと授業内容の補完と発展から始まるだろう。ジュリアがスネイプと行っているような訓練とは幾分異なる。しかし、それでハーマイオニーが成長するのは喜ばしいことだ。さらに言えば、ハーマイオニーが個人授業を受ける「変身術」と「呪文学」はジュリアの苦手科目であり、ハーマイオニーを通じて自分も少しは成長できたらさらに喜ばしい。ジュリアの密かな企みである。

 

 何はともあれ、夕食の席でより密度の高まった時間割を抱えたハーマイオニーはご満悦だった。

 

 

「このペースでいけば主席はもらったようなもんだな、ハーマイオニー」

 

「油断はできないわ。個人授業をお願いした分、今まで以上にしっかり勉強しないと」

 

「それ以上しっかり勉強するとロンの杖みてえに脳みそがすっぽ抜けるんじゃねえか。ほれ、サンドイッチお食べよ」

 

「だめ、食べなさい。ママに報告しておきますからね、ホグワーツでの食生活のこと」

 

 

 ジュリアは慌ててサンドイッチにかぶりついた。ハムとキュウリだ。ジュリアはキュウリの奇妙な匂いが苦手だった。メロンの皮を囓っているようでひもじくなるのだ。何が楽しくて衣食住を得たのにこんなものを食べなくてはならないのか。それでも、ハーマイオニーが睨みを利かせているので、ジュリアは仕方なくキュウリを飲み込んで食事を済ませ、寮に向かった。

 

 ハーマイオニーの気分をさらに高めたのは、ジュリアが膨大な量の蔵書を獲得したことだ。最初はクィレルの遺品と聞いて顔をしかめていたが、スネイプの手によって編纂された蔵書リストを目にすると一気に喜色満面となった。

 

 

「すごい……神話、伝説、伝承、物語。知らない本ばっかりだわ!」

 

「静かに、他の連中が起きちまう。マグルの学術書、研究書が大半だとさ。あたしがちゃんと読めるようになるまでどれくらいかかるかわからねえけど、まあ、あんたとの共有財産だ」

 

「どうしよう、こんなにいっぱい……家に図書室を作る必要があるわ」

 

「ハーマイオニー、あたしらがなんの学校に通ってるか覚えてるか?」

 

 

 どうにもハーマイオニーは興奮すると魔法の存在を忘れる節がある。たとえば、「薪がないわ!」である。いずれ魔法界に馴染むにつれてこの傾向も薄れていくだろうが、ジュリアはそれまでこの適応過程を観察して楽しむことにした。

 

 本のトランクがウェストポーチに入ることを確かめ、本のトランクから本を呼び出せることを確かめて、ハーマイオニーは10分もの間リストを睨みつけ、最終的に『火の起原の神話』を呼び出してベッドに向かった。あれはきっと夜更かしするだろう。明日が土曜日であることを言い訳にして、遅くまで読むに違いない。

 

 案の定、杖灯りがハーマイオニーのベッドから漏れ出ているのを見て、ジュリアは肩をすくめてリストを丸めようとした。その時ひとつのタイトルが目に入った。セイバイン・ベアリング=グールドの『人狼伝説』だ。

 

 魔法界に人狼の歴史をまとめた書物があるという話は聞いたことがない。もしあれば1年生の「闇の魔術に対する防衛術」でクィレルが紹介していただろうし、ジュリアの事情を知っているハーマイオニーが挑戦しているだろう。では、マグル界ではどうか。マグルが言い伝える人狼の全てが本当の人狼であるとは限らないし、また人狼の歴史の全てをマグルが言い伝えているとも思えない。しかし、読まないよりは意味があるのではないだろうか。

 

 ジュリアはしばらく考えてから、トランクを再び開き、『人狼伝説』を呼び寄せた。

 

 この本にもやはりクィレルの書き込みが多く残されていた。紹介されている事例と魔法史に残る事件を照らし合わせていたり、伝承とその地域の環境を組み合わせて考察していたり、もはやクィレルによる増補と解説が加えられた新版になっている。そのおかげでジュリアにもいくらか読みやすく思えた。

 

 しかし、今すぐ読み耽ってわかった気になってしまうのはもったいないような気がして、ジュリアは最初のページにブックマーカーを挟み、ウェストポーチにしまった。

 

 

「人狼、ねえ」

 

 

 ジュリアが人狼それそのものに関心を抱き始めたのは、グレンジャー家に定住するようになってから、より正確にはグレンジャー夫妻と交流するようになってからだ。ハーマイオニー、すなわちヘルミオネー。ジュリアはマグル界の図書館でギリシア悲劇を漁った。絶世の美女ヘレネーの娘に産まれ、父の命でアキレウスの息子に嫁がされ、夫を殺したオレステスの妻となる。グレンジャー夫妻がどこまでこの物語を知った上で名付けたのかはわからないが、これがハーマイオニーの”源”だ。

 

 ジュリアは自分の先祖について興味を持ったことはなかったが、自分の呪いについてであれば興味があった。つまり、人狼とは何者なのか。どこからきて、どこへゆくのか。漠然とした思いでしかない。しかし、生活に余裕とゆとりができた今、興味を捨てる必要はなかった。

 

 これはクィレルとジュリアの個人授業だ。『人狼伝説』を軸に、クィレルが引用している文献、ベアリング=グールドが引用している文献の両方を読み解く。最終課題は人狼の”源”に辿り着くことだろうか。

 

 じっくり取り組もう。そう決めて、ジュリアはもうひとつの個人授業で出された課題――剣の魔法についてのスネイプによる調査記録を開いた。こちらもじっくり取り組まなければならない。



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純血主義者へのご挨拶

 土曜日。今日はハグリッドの小屋を訪ねる予定だったが、ハリーがオリバー・ウッドに捕まって早朝からクィディッチの練習に”拉致”された。ロンが起きたころには走り書きだけが残されていたそうだ。そのため、残された3人は朝食を持ち出して、霧の名残が漂う芝生の中をクィディッチ競技場へと向かっていた。

 

「あたしの知識が正しけりゃ、スポーツってのはしっかり寝て、しっかり食ってなんぼだろ」

 

「去年の大敗からずっとウッドは燃えてるみたいね。ジュリア、食べながら歩くのやめなさい、みっともないでしょ」

 

「あいあい。でもよ、ハリーに関しちゃ事故だろ事故。あのとき無傷だったのハーマイオニーだけだぜ? あたしはトロールとやり合ったし、ロンだってチェスの駒にぼこされた」

 

「あれは痛かったなあ。でも、ほら、名誉の……名誉の、あれ」

 

「負傷か?」

 

「そうだ、名誉の負傷」

 

「ウッドにとってはクィディッチ・カップだけが名誉なんでしょうね」

 

 

 なにがオリバー・ウッドを狂わせるのか。いや、それはもちろんクィディッチなのだが、なぜそこまでクィディッチが彼を、彼らを狂わせるのか、ジュリアにはさっぱりわからなかった。声高に主張しないだけで、今でもクィディッチなどという競技は――それが本当にスポーツであるとして――正気の沙汰ではないとすら考えている。不安定な線分に身を任せて、地から足を離し、剛速球で選手を狙ってくる球体から身を守り、ゲームセットの合図になる拳大の球を掴むだけでそのチームに15回分のゴールと同じだけの点数が入る。ルールから何から滅茶苦茶だ。

 

 そう思ってはいても、ハリーは熱心な選手だし、ロンには贔屓のチームがあるし、ハーマイオニーですら試合観戦に熱狂している。ジュリアはこの困惑にも似た感情をひとまず1人で消化しなくてはならなかった。魔法界の競技にはわけのわからないものが多い。悪臭を吹きかけてくるビー玉。爆発するトランプ。駒が言うことを聞かないチェス。開発者はウィーズリー家の双子と似た性質の持ち主だったに違いない。ジュリアはひとり静かに確信した。

 

 てっきり競技場ではオリバー・ウッドに檄を飛ばされながら選手たちが飛び回っているものだと思っていたが、スタンドに着いてみればようやく赤いローブの選手団が更衣室から出てきたところだった。

 

 

「よおハリー、今から解散して朝飯か?」

 

「まだ始まってすらいないんだよ。新しい戦術のことでね」

 

「そりゃ結構なことで」

 

 

 トーストを食べるロンとハーマイオニーに対するハリーの羨ましげな視線から察するに、オリバー・ウッドは更衣室に軽食を用意することも忘れたようだ。ジュリアはハリーにマフィンを1つ投げてやった。

 

 

「ありがとう、ジュリア!」

 

「ナイスキャッチだ、シーカー。ぶっ飛んでこいよ」

 

 

 ジュリアたちの後ろでコリン・クリービーが歓声を上げながらシャッターを切っている。この熱狂的なハリーファンの少年がいつからいたのかは知らないが、軽快に空を舞う選手たちの姿が鮮やかなものであることは、流石のジュリアも認めざるを得なかった。見ている分には嫌いではない。

 

 実を言うと、ジュリアにも空を飛ぶことへの憧れはあった。しかし、その憧れはまず3歳半のころにピクシーの群れによって強引に叶えられ、次に5歳のころに暴走飛行する絨毯によってまたも強引に叶えられ、そして9歳のころにマグル界の広告を見て確信した――空を飛ぶことに関してはマグルの方が優れた技術を持っている。

 

 ジュリアがハンググライダーに挑戦する妄想を膨らませているうちに、競技場の様子がおかしくなってきた。別の更衣室から緑のローブを着た一団が入場してきたのだ。

 

 

「スリザリン・チームと親睦会か? スポーツマンシップってのはすげえな」

 

「暢気なこと言ってる場合じゃないよジュリア、競技場は予約制なんだ。じゃなきゃ戦術を盗まれちゃう」

 

「様子がおかしいわ、行きましょ」

 

 

 友人の危機を感じれば自らトラブルに飛び込む。ハーマイオニーについて、スネイプが下した評価を思い出す。出しゃばりでお節介。しかし、ジュリアにはこの悪癖が美徳に思えることもあった。たとえば、今のようなときだ。

 

 競技場の中央、集団に合流したときには、スリザリン・チームが余裕の笑みを浮かべてグリフィンドールの面々を見下していた。緑のローブを纏った彼らはお揃いの新品の箒を手にしている。ジュリアにもわかる、これは高級品だ。一方のグリフィンドールは、控えめに言って見劣りする。ハリーのニンバス2000ですら。

 

 

「一体何してるんだ? それに、なんでマルフォイがここにいるんだ?」

 

「ああ、タイミングがいいじゃないか、ウィーズリー。僕はスリザリンの新しいシーカーで、僕の父上がチーム全員に買ってくださった最新型の箒、そう、このニンバス2001をここのみんなで賞賛していたところだよ。疑問が一気に解決して嬉しいだろう?」

 

 

 ロンは愕然とした様子で口を開いたまま固まった。情報量が多すぎるのだろう。にっくきドラコ・マルフォイがスリザリン・チームの新しいシーカー。ルシウス・マルフォイがスリザリン・チームに箒を寄贈。箒は全て最新型で、ハリーのものをすら凌駕する。

 

 マルフォイは得意げに、そしてあざ笑うように言葉を続けた。

 

 

「グリフィンドール・チームも新しい箒を揃えれば少しは差が埋まるんじゃないか? そのクリーンスイープ5号を博物館か骨董商に売れば小銭にはなる」

 

 

 スリザリン・チームのにやけ笑いが爆笑に変わった。ロンの日頃から繰り広げられるクィディッチ語りが正しければ、グリフィンドール・チームの箒は骨董品と言っても差し支えない。ジュリアはクィディッチという競技にさほど明るくないので、両チームのプレイングスキルを比較することはできないが、スポーツとは多くの場面で狡猾さが有利に働くイベントだ。フェアプレイでスリザリン・チームに勝っていくには相応の技量と、そして相応の性能が必要になる。

 

 グリフィンドール・チームの面々は怒りに顔を赤く染めたり、眉間に皺を寄せたり、それぞれのやり方で不快感を示していた。中でもオリバー・ウッドは今にも爆発しそうな勢いで蒸気を上げていた。

 

 ここに割って入った勇者がいる。ハーマイオニーだ。

 

 

「少なくとも、グリフィンドールの選手は誰一人としてお金でなんか選ばれていないわ。こっちは純粋に才能で選ばれたのよ」

 

 

 痛烈な反撃だった。事実、グリフィンドール・チームは骨董品を相棒として戦い続けてきたわけで、その技量は並大抵のものではない。去年はハリーが医務室送りにならなければクィディッチ・カップを手にしていた可能性もあった。それほどの熟練兵たちなのだ。

 

 そのことはマルフォイも理解していたようで、自慢げな顔が歪んだ。せっかくの愉悦に、しかも己の家格によって勝ち得た愉悦に水を差される不愉快さ。ジュリアには彼の気持ちがわからない。しかし、表情から察するに、その程度は些細なものとは言えないようだ。

 

 そして、彼はその気持ちを最大限の罵倒に変換した。

 

 

「誰もお前の意見なんか求めてない、この『穢れた血』め」

 

 

 グリフィンドール・チームから怒声が上がった。ウィーズリー家の双子がマルフォイに殴りかかろうとし、オリバー・ウッドが声にならない声を上げ、女性陣からも悲鳴のような糾弾が聞こえた。

 

 ジュリアも怒っていた。このような罵倒はそうそうお目にかかれるものではない。むしろ、暗がりの世界では生まれを蔑むような言葉は使われないのだ。スラム街で素性の知れない荒くれ男に中指を立てるのと同じくらいの危険がある。誰しも己の命を守るため、そして暗黙の了解と化した良識のためにこのような言葉は使わない。だから、この怒りは新鮮だった。それゆえに熱く、焼けるようだった。

 

 しかし、最も怒り狂っていたのはロンだった。彼はローブから折れた杖を引き抜き、マルフォイに突きつけた。呪いをかけるつもりだ。

 

 

「マルフォイ、思い知れ!」

 

 

 しかし、ロンの杖は主の意思に逆らい、呪いを逆噴射させた。緑の光弾がロンの胃に向かって撃ち出され、ロンは衝撃に尻餅をつく。そして、彼は何か言おうとして、言葉の代わりに大きなナメクジを1匹吐き出した。

 

 スリザリン・チームの盛り上がり具合といったらすさまじいもので、一番体格のいい男――ジュリアの記憶が正しければ、去年の試合でハリーにタックルして殺しかけた男だ――は膝をつきそうなほど笑っているし、マルフォイもすっかり機嫌を直したようだった。さぞや滑稽だろう、「思い知れ」と叫んで呪いを放った術者が自らナメクジを吐いているのだから。

 

 しかし、ジュリアにはロンの怒りがわかった。ウィーズリー家は話を聞く限り歴史の長い名家だ。その彼らがスリザリンではなくグリフィンドールに属しているという事実によって、彼らがこの最低の罵倒をユーモアのあるジョークとして認めない騎士道精神の持ち主であることが証明されている。

 

 ジュリアは母の言葉を思い出す。頭に血が上ったときは、自分より怒っている人物を探せ。自分より怒っている人物の醜態を見れば、自然と冷静さが帰ってくる。そう、ジュリアはこの上なく冷静だった。同時に、ロンの様を醜態とも思わなかった。だから、たまにはグリフィンドールらしく――獅子のようにあることを選んだ。

 

 

「随分とお楽しみだな、マルフォイ」

 

「は、マリアットか。今度はどんな手で僕を馬鹿にしようっていうんだ? ナメクジの次はゲジゲジでも吐いてくれるのか? ほら、見せてくれよ」

 

「あたしはマルフォイ家の跡継ぎに呪いをかけるつもりはねえよ。ただ――」

 

 

 ジュリアは爪を伸ばす。鋭利に、硬質に。ほんの数センチにも満たない5本の刃。魔法が大っぴらに使えなかった時期、ジュリアにとってこれは剣だった。そして、魔法を使える環境になった今でも、剣の振るい方くらいは覚えている。

 

 ジュリアの手刀がマルフォイの頬を浅く切った。遅れて、静かに血が伝う。

 

 

「おっと、悪いな。つい手が滑っちまった。そう、お前が口を滑らせちまったのと同じように」

 

「ひいっ……血が、血が」

 

「ドラコ・マルフォイ」

 

 

 胸ぐらを掴む。もはやその顔に嘲笑はなく、いつも以上の青白さに覆われている。この男の血も赤いらしい。同じ赤なら、そこに穢れもなにもあったものだろうか。所詮、純血とは近親交配者を高尚に言い慣わしただけのことであり、古い言い伝えにあるような、青い血が流れると噂された王侯貴族ではない。

 

 無様な近親交配者の末裔に、囁きかける。

 

 

「その流れる血にとくと刻め。お前が悔い改め懺悔するその時まで、あたしはお前を許さねえ。一瞬たりとも忘れることなく憎み続けよう。静かに、冷たく、喉笛に食らいつく時を狙おう。あたしとお前の約束だ。楽しみに待ち続けろ」

 

 

 静まりかえったクィディッチ競技場に、青ざめたマルフォイを投げ捨てる。もはや嘲笑も、怒声もなかった。

 

 ジュリアは黙ってロンを立たせた。もうこの場に用はない。彼を治療する必要がある。

 

 

「ハリー、手伝ってくれ。あたしの背じゃロンを運べねえ」

 

「わかった、行こう」

 

 

 ナメクジを吐き続けるロンを支えて、4人はクィディッチ競技場を後にした。



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ぬめり、ぬめり

作者より一言: お待たせしました。


 ハグリッドの小屋で、ロンは洗面器にナメクジを吐き続けていた。大小様々、色とりどり。ジュリアとしては、ロンがナメクジから寄生虫に侵蝕されないか、そこが心配だった。

 

 なぜロンがこの高度な、そして悪意ある呪いを知っていたのかは知らないが、ハーマイオニーの説明によれば、これはナメクジを胃袋の中に生成するのではなく、ナメクジを呼び寄せて胃袋に集合させる類のものだ。終了呪文をかけようにも呪いはすでに完了しているし、野生のナメクジなので簡単に消失させることもできない。絶望の中で吐くのが最善だ。

 

 ハリーは心配そうにロンの背をさすっている。特大の1匹が粘液とともに口からあふれ出た。活き活きとしている。

 

 

「ハーマイオニー、魔法でなんとかできないの?」

 

「たぶん、吐ききっちゃったほうが簡単ね」

 

「そうだ、出んよりは出ちまったほうがいい。そんで、ロンは誰に呪いをかけるつもりだったんだ?」

 

 

 ロンが答えようとして小粒のナメクジを大量に溢れさせた。慌ててハリーが背をさする。じきに洗面器はぬめる軟体動物で埋め尽くされることだろう。無数の斑とヒダがうねり、蠢き、触角をちらつかせる。あまり想像したくはなかったが、ロン・ウィーズリーの勇気と正義感の結晶だ。ジュリアは敬意を持って彼の言葉を代弁した。

 

 

「マルフォイだ、ハグリッド。ほら、禁じられた森の仕事でハリーと一緒だった青白坊や」

 

「マルフォイがハーマイオニーのことを、ええと、なんとかって呼んだんだ。ひどい悪口だったんだと思う。みんなかんかんだった」

 

「最悪の悪口さ」

 

 

 ロンが洗面器から顔を上げた。なんとか呼吸を取り戻して、一瞬の発言権を得たようだ。

 

 

「あいつ、ハーマイオニーのこと『穢れた血』って言ったんだよ」

 

「本当に言いよったのか、そんなことを!」

 

「言ったわ。どういう意味か私は知らない。きっと失礼な言葉なんだろうけど……」

 

 

 ハーマイオニーがさほど傷ついた様子を見せていないのは不幸中の幸いだった。知らないスラングで罵倒されたようなものだから、衝撃も大きくはないのだろう。とはいえ、文脈から罵倒であることは察せられる。意味がわからないとはいえ、罵倒されて愉快な気分になることもそうそうないだろう。

 

 ジュリアは静かに、言葉を選びながら説明を始めた。

 

 

「まず言っておくのは、あの言葉はあたしでも使わねえくらい最低で、最悪の侮辱だってことだ。ハーマイオニー、『純血』はわかるよな?」

 

「先祖代々魔法使いの血筋のことよね」

 

「そうだ。それを誇るのが純血主義。そして、あの言葉はその反対。つまり、両親とも魔法使いでない者を蔑む言葉だ。……どうだ、下らねえ考えだろ」

 

 

 ウィーズリー家やロングボトム家も純血だが、純血主義者ではない。ジュリアの見聞が広いとは言えないが、それでもジュリアが知る限り、純血主義者などというものはスリザリン寮生や出身者の一部にしかいない。ジュリアの後見人、セシリー・オニールもスリザリンの出身者だが、血筋にこだわる人物ではない。もはや風化しつつある思想なのだ。

 

 

「穢れた血、卑しい血だなんて、狂ってるよ。今どき、魔法使いなんてほとんどが混血さ。もしマグルと結婚してなかったら、魔法使いは絶滅しちゃうよ」

 

 

 ジュリアはロンの言葉に意表を突かれた。魔法界に生きてきた人物としてはずいぶんと合理的な考え方だ。マグルに親しむアーサー・ウィーズリー氏の影響だろうか。少なくとも見当違いではない。

 

 ジュリアも実際のところ、魔法界について見聞が広いわけでも、造詣が深いわけでもない。それこそ「魔法界学」があれば取りたいくらいだ。だから、純血の家に生まれ育ったロンの言動はジュリアにとっていいサンプルで、そのロンから絶滅という用語が出たのは興味深かった。

 

 

「いいこと言うな、ロン。ついでだハーマイオニー、ちょっと考えてみろ」

 

 

 せっかくの機会だから、ジュリアはハーマイオニーに悪い知恵を吹き込むことにした。ジュリア自身も母から吹き込まれた、魔法界にまつわる暗い物語だ。しかし、この純血にまつわる物語はおおよそ正確な事実を伝えているように思える。だから、まだ魔法使いの血筋について無頓着で無垢なハーマイオニーに囁くのには適していた。

 

 

「何を?」

 

「ロンが今言ったとおり、魔法使いの大半は混血だ。じゃあ、純血を保つためにはどうすればいい?」

 

「同じ純血の家と結婚するのよね? それで……子どもを授かる」

 

「その子どももまた純血の家と結婚し、そのまた子どもも純血の家と結婚する。だが、そんなに純血の一族は残っちゃいねえ。さあ、どうする?」

 

「……まさか、親族と結婚するの? でも、それって……近親婚だわ」

 

「よくできました、グリフィンドールに10点。連中は純血を保つために血を濁らせてんのさ」

 

 

 ハーマイオニーはぞっとした様子だった。魔法界の権力、その中枢を掌握していると考えている人々は、己の思想に縛られるあまり悍ましい慣習を生み出したのだ。あるいは、その慣習が悍ましいからこそ、多くが闇の魔術に親しむ彼らには馴染み深いのかもしれない。純血主義者でないジュリアには想像することしかできなかったが、少なくとも彼らの血統が繁栄とはほど遠いことくらいはわかる。そして、聡明なハーマイオニーにもそれは理解できるだろう。

 

 ハーマイオニーは恐ろしいような、悲しいような、それでいて静かな面持ちだった。きっと純血主義者たちの未来を憂いているのだろう。そして、その悲しい未来予想図が簡単に覆るものではないことも。

 

 

「私……私、マルフォイに穢れた血って言われたとき、不愉快だったわ。今の話を聞いても、やっぱり失礼な言葉だと思う。でも、なんていうか……彼らが生きる道はないのかしら」

 

 

 ハーマイオニーという正義の人物、その感情と理性が詰め込まれた言葉だった。侮辱は侮辱であり、それは失礼として怒る。しかし、それとは別に、純血主義者たちを人間として扱い、彼らに救いがないのかと考えるだけの倫理観が働いている。

 

 

「哀れんでやれ、ハーマイオニー。それが一番あいつらを苦しめるやり方だ」

 

「そういうつもりじゃないのよ、ジュリア」

 

「わかってる、冗談だ。だが、まあ、連中は主義に生きてる。それを哀れまれるのはなにより苦痛だろうよ」

 

 

 小屋の中は静かで、時折ロンがナメクジを吐き出す呻き声だけが聞こえていた。ハーマイオニーは純血主義者を知った。そして、彼らの悲哀に満ちた末路も予想した。それでもなお、彼女は純血主義者を哀れんだ。純血主義者過激派集団の首領であったヴォルデモートに両親を殺されたハリー。純血の一族でありながら純血主義を唾棄すべきものと考えるロン。マグル生まれでありながら純血主義者の行く末を案じるハーマイオニー。不思議な空間だった。

 

 ロンの背中をさすりながら、ハリーがゆっくりと口を開いた。

 

 

「入学する前、マダム・マルキンの洋装店で、マルフォイと話したんだ。両親とも魔法使いでない子どもはホグワーツに行かせるべきじゃないって、そう言ってた。嫌な奴だなって思った。今もそう思ってる」

 

「そうだろうな、お前らの関係はそこから始まった」

 

「うん。だけど、なんだろう。僕、あいつのことを全然知らない。ただ嫌な奴としか思ってなかった」

 

 

 意外な言葉だった。ハリーはマルフォイのパーソナリティに興味を抱いているのかもしれない。それはつまり、敵対視して遠巻きにする無自覚のライバルから、相手を知った上で向かい合う自覚したライバルへと進む一歩となりうる。ジュリアの考えが正しければ、これは喜ばしいことだ。

 

 しかし、ことを急く必要もない。

 

 

「そりゃきっとお互い様だろうよ。今すぐ詮索する必要もねえだろうし、詮索してもお互い不愉快になるだけだ。どうせお前らはこれから6年ぶつかり合うんだろ。そのうち何かしらを知ることになるだろうさ」

 

「そっか……うん、そうだね」

 

 

 ハリーは納得した様子だった。進んでマルフォイと語り合う気があったわけでもないのだろう。ただ、喧嘩相手の事情を知らない、そのことに気づいた。それだけでも12歳の少年としては大きな成長なのかもしれない。

 

 しかし、ハグリッドも、洗面器から顔を上げたロンも、微妙な表情を浮かべていた。

 

 

「知って得するもんでもないと思うがなあ。マルフォイ家の連中っちゅうのは腐りきっとる。金、権力、闇の魔術だ」

 

「そうだよ。あいつの父親は例のあの人の右腕だったんだぜ、パパが言ってた」

 

 

 ルシウス・マルフォイ。ジュリアはあの冷たい目つきを思い出す。マグルを心から蔑む、純血主義者の代表格的存在だ。そして、聖マンゴに顔が利き、クィディッチ・チーム全員分の箒を買い与える程度には子煩悩。もしも我が子が魔法事故に巻き込まれたら、そのようなことを思って聖マンゴにちょっとした支援を――つまり、多額の寄付をしているのだろう。そう考えると、マルフォイ家も完全に憎みきれる存在ではないようにジュリアは思えた。彼らもまた人なのだ。

 

 とはいえ、警戒しなくてはならない。ジュリアには秘密があり、秘密は秘匿されているとはいえ、そこまで手を伸ばすことのできる場所にルシウス・マルフォイは立っているかもしれないのだから。

 

 

「まあ、自分の目で確かめてきゃいいさ。あたしは連中に自分から関わるつもりはねえよ」

 

「あら、盛大に喧嘩を売ったじゃない」

 

「あれはちょっとしたご挨拶。ルシウス・マルフォイも息子の頬が切れたくらいで大騒ぎするほど落ち着きのない馬鹿じゃねえだろ」

 

 

 競技場での様子を思い出したのか、ハリーとハーマイオニーがクスクス笑った。あの時マルフォイは怯えていて、確かに少々滑稽だったかもしれない。彼もまた12歳かそこらの少年だ。お漏らししなかっただけ上等というものだろう。

 

 どのみち、ハリーたちとつるんでいればジュリアはマルフォイに敵視される。これまでも何度かからかって遊んだ。彼にはっきりと”ご挨拶”をするのは時間の問題だったのだ。それが、ハーマイオニーへの罵倒という形で機会を得てしまった。

 

 とはいえども、ジュリアはドラコ・マルフォイという少年を、そしてマルフォイ家という聖28氏族筆頭を侮るつもりはなかった。彼らは狡猾な蛇だ。イヴに囁いたように、自らの手を汚すことなく罪を犯させることに長けている。ジュリアはうまく立ち回らねばならない。計算高い方のジュリアが関係改善を提案したが、ジュリア議会はその案を否決した。状況からも環境からもすでに手遅れであるとわかる。

 

 

「まあ、ロンの呪いがやっこさんに当たらなかったのはついとった。アーサーの息子が呪いをかけたなんてことになったら、それこそルシウス・マルフォイはホグワーツに乗り込んできおったかもしれんぞ」

 

「ロンの父さんとルシウス・マルフォイはなかなか、こう、因縁浅からぬ仲ってやつみてえだな」

 

「パパはなんとかあいつの尻尾を掴もうとしてるんだ。でも、毎度うまくいかなくて、そのたびにあいつは嫌みったらしいことを言ってくる。あいつのことになるといつもパパはカンカンだよ」

 

 

 つまるところ、二人は少し大人なトムとジェリーなのかもしれない。ジュリアはそのように2人を分類した。

 

 それから、ロンのナメクジが落ち着くのを待って、4人はハグリッドがハロウィーン用に育てているかぼちゃの畑を見物した。とてもよく肥えている。魔法的な成長促進が行われているのが明らかなほどだ。ハリーの話を聞く限り、ハグリッドはホグワーツを退学処分になって杖を折られたらしい。しかし、ロンの杖がそうであるように、扱い方を心得ていれば折れた杖でもそれなりに役立つ。

 

 かぼちゃ、かぼちゃ、かぼちゃ。ジュリアは今年のハロウィーンが楽しみだった。




予定より遅くなりましたが、更新再開です。まだ本調子ではないので更新ペースは落ちます。不定期にはなりません。

これまでと今後について、詳しくはこちら。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=226266&uid=244813


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秘密の部屋は開かれたり

 ジュリアは少しだけ苛立っていた。今年こそはパンプキンタルトを堪能する気でいたし、パンプキンパイをかぼちゃジュースで流し込む贅沢をしようと思っていたし、かぼちゃプディングにも挑戦したいと思っていたのだ。だから、自分の死んだ日を祝うゴーストのパーティーなどというものには、正直に言って微塵も興味がなかった。

 

 

「絶命日パーティー? パスだパス、あたしは絶対に行かねえかんな。かぼちゃの馬車があたしを待ってんだ」

 

「でも、きっと生きているうちに招かれた人って、滅多にいないと思うの。面白そうじゃない?」

 

「行けなかったと行かなかったの違いだろ。ロン、イモリの尻尾の分量が違うぞ」

 

 

 談話室で羊皮紙を前に唸るロンの面倒を見ながら、ジュリアはハーマイオニーの提案を素っ気ない態度で蹴った。それどころか、ハーマイオニーの興味をなんとか絶命日パーティーから逸らしたいとすら思っていた。なんといっても昨年度のハロウィーンは散々であったし、たとえあの事件が4人を結束させる切っ掛けになったとしても、それはハロウィーンパーティーをハーマイオニーと楽しめなかった事実を帳消しにするわけではないのだ。

 

 目下、ハーマイオニーを誘導する有力な手段はロンだ。魔法薬学の課題を抱えている。そしてそれをジュリアが世話している。最低限のヒントと指摘しか与えていないおかげで、ロンはかなりの苦労を強いられており、機嫌がよくない。そしてその不機嫌は絶命日パーティーにも向けられている。

 

 

「自分の死んだ日を祝うなんて、死ぬほど落ち込みそうじゃないか……。それより、スネイプのこれをやっつけるの手伝ってよ」

 

「落ち込むかどうかはわからないわ。私、死んだことはまだないから。そういえば、ゴーストってどうやってなるのかしら」

 

「魔法史のビンズ先生は暖炉の前で居眠りして、翌日の授業に出ようとして魂だけ抜けちまったらしいぞ。ロン、その量の催眠豆は致死量の煮豆だ」

 

「ああ、もううんざりだ……で、君たちは行くんだろ? その、絶命日パーティーとかいうやつに」

 

 

 レポートの添削をしながら、ジュリアはこの厄介な状況を理解した。ハリーはほとんど首なしニックに出席の約束をしてしまっている。ハーマイオニーはゴーストに興味津々。2人が行くならなんだかんだで付き合いのいいロンは同行する。そうなると3対1。ジュリアも連行されることは目に見えているのだ。

 

 ハーマイオニーがどうしても行くというのであれば、ジュリアはもうお手上げだった。ジュリアにとってハーマイオニーは親友であり、冷静なジュリアも感情的なジュリアも親友とのイベント共有を望んでいる。それが陰気で凍てつく絶命日パーティーであろうと、陽気で温かなハロウィーンパーティーであろうと、結局ジュリアはついていくのだ。

 

 

「行きましょうよジュリア、きっとすごく興味深いわ。それに、ずっと昔のお話を色々聞けるかもしれないし、ホグワーツの外から来るゴーストと交流できる貴重な機会でもあるし――」

 

「オーライ、どうあがいても行きてえってことは変わらねえんだな。わかったわかった、ついてく。でもまずはロンを進級させる準備からだ」

 

 

 ロンの羊皮紙に記述されたレシピは、本来「だらけ薬」を完成させるためのものだが、いつの間にか濁った毒性のある煮豆を量産する非効率的な方法に置き換わっていた。魔法薬学に関して言えば、ハリーとロンが前学期にそこそこの成績を取っていたのが不思議なくらいだ。ひとまずジュリアはロンに教科書を真面目な態度で読ませるところから始めることにした。

 

 ハロウィーンが近づくにつれて、ハリーも絶命日パーティーへの出席をキャンセルできないかと考え始めたようだった。しかし、そこに待ったをかけるのがハーマイオニーだ。この秩序と正義の女神は「約束を反故にする」ということを認めないらしい。おそらくそこにはゴーストと絶命日パーティーへの興味という私欲が多分に含まれているが、少なくとも言っていることは正論で、ハリーは出席を余儀なくされた。そうなると必然的にロンとジュリアもついていくことになる。

 

 一方でホグワーツはハロウィーンムードに沸き立ち、まだホグワーツのハロウィーンパーティーを知らない1年生たちにまでその期待と幸福感は伝播していた。ハグリッドが育てた巨大かぼちゃが運び込まれ、それこそそのまま馬車にでもなりそうな提灯となって大広間に置かれている。

 

 ダンブルドアが余興に「骸骨舞踏団」を予約したという噂までジュリアたちの耳に届いた。「骸骨舞踏団」といえば、魔法界で最高に人気な劇団だ。一説には本物の人骨を――それも、一流ダンサーの人骨を使っているとされるその舞台は、さぞ見事なものだろう。

 

 ジュリアは知恵を絞ってなんとかハロウィーンパーティーに引き返す方法を模索したが、ハーマイオニーに手を取られ、じめじめして薄暗い地下牢へと進んでいた。ひどく陰気で、不幸感を煽る雰囲気が漂っている。黒板を引っかくような、極めて耳障りな”演奏”にジュリアは鳥肌が立つのを感じた。

 

 

「やあ、ニック。なんというか……おめでとう、でいいのかな?」

 

「その言葉と、なにより招待に応えてくれたことだけで私の死も報われるというものです。ハリー、親愛なる友よ」

 

 

 絶命日パーティーのホストを務める悲しげなニックに軽く挨拶をして――寒さと不快感が、軽い挨拶をする程度の余裕だけを残して気力を根こそぎ奪っていった――4人は会場を見て回った。

 

 確かに、時代も死に様も様々な何百というゴーストたちが幽かな浮遊音とともにワルツを踊る光景はそう見ることのできるものではない。シャンデリアには群青色の火が灯され、空間の神秘性をより一層高めている。

 

 ハーマイオニーが言うとおり、興味深い話を聞くこともできた。スコットランドを最初に治めた王、ケネス・マカルピンの給仕係からはスコットランド王国がどのようにして成立していったか、その始まりとホグワーツの4人の創設者について語ってもらえた。彼は魔法史の教科書を編纂しているバチルダ・バグショットに取材を受けたこともあるそうだ。また、ポッター家がスティンチコームのリンフレッドという12世紀の魔法使いまで遡ることのできるピクト人の一族であることにこの給仕係は大変喜んでいた。

 

 しかし、鋸で奏でられる異音のオーケストラ、吐息も凍るような寒さ、腐って蛆の湧いた食事、なにもかも明らかに、そして当然ながら、ゴーストのためだけにある空間だった。

 

 丁寧な言い方をすれば、そう、謹んで辞去して然るべきであると4人は理解した。そして、招待客に会釈をし――よりにもよってピーブズに会釈した生徒は自分たちだけだろうと、ジュリアは確信した――、できるだけすり抜けないように気をつけて、この不完全に死んでいる空間から立ち去ることを選択した。

 

 まさに葬式的な宴会場から抜け出して、それこそ葬式に参列してきたかのような表情でロンがぼやいた。

 

 

「デザートがまだ残ってるといいな」

 

「あたしはまだかぼちゃパイの可能性を信じてるぞ。食えてちゃんと味がするならかぼちゃパイのゴーストでもいい。あたしの腹がかぼちゃを求めてんだ、かぼちゃを」

 

「この際、あったかい食べ物ならなんでもいいわ……」

 

 

 4人はすっかり絶命日パーティーの神秘性、つまり吐き気を催すほどの寒気にあてられていて、ジュリアはハーマイオニーの繋いだ手が震えていることをしっかり感じていた。やはり生者が楽しむのは生者の祭りに限る。ジュリアはかぼちゃのポタージュが一口でも残っている可能性に期待した。最悪、ジュリアは買い溜めしておいたジャーキーで誤魔化せるが、ハーマイオニーには温かいものが必要だ。

 

 しかし、玄関ホールまであと少しというところまで来て、唐突にハリーが立ち止まった。

 

 

「ハリー、早く行こうよ」

 

「声だ」

 

「声?」

 

「ちょっと黙ってて……こっちだ!」

 

 

 ジュリアの耳には届かない何かがハリーには聞こえている様子だった。ロンもハーマイオニーも困惑した表情を浮かべているところを見るに、その声は少なくとも4人の中でハリーにだけ聞こえているものであることに間違いない。

 

 ジュリアは考える。いくらホグワーツ城とはいえども、音に指向性を持たせるような――つまり、集団の中で一人だけに特定の音を届けるような仕組みがあるという話は耳にしたことがない。では、ハリーは何を聞いているのか。可能性としてありうるのは、絶命日パーティーでハリーに何かが憑いたという説だ。しかし、ほとんど首なしニックがそのような悪さをする客を招待するだろうか。ほとんど首なしニックの善良さを疑うのは難しいが、ゴーストの倫理観は生者にわかるものではない。特に、他の参加者に関しては。

 

 ハリーは玄関ホールを通り過ぎて2階への階段を駆け上がっていった。相変わらずジュリアにはハロウィーン・パーティーの喧噪しか聞こえないが、ハリーが何かの音、もしくは声を追っているのは確かだ。

 

 情報が不足している。ジュリアはハリーの後を追いつつ、耳をそばだてた。聴覚においては一頭地を抜くジュリアを以てしても、その声は捉えられない。ハリーにしか聞こえない声。どうやらそういうことで間違いないようだった。

 

 

「ハリー、声はなんて言ってる?」

 

「殺してやる、腹が減ったぞ、って」

 

 

 状況はひどくまずいものであるとジュリアは判断した。ゴーストの悪戯にしては悪趣味が過ぎる。ゴーストがどのような力を持っていて、なにができるのか、そういったことをジュリアは知らない。しかし、たやすく何かを殺すことができるものを招待客として認めるほど、魔法魔術学校としてのホグワーツが杜撰な警護をしているとは思えない。

 

 ホグワーツ城に眠る仕掛けが目覚めたか、あるいはホグワーツ城に潜む何かが動き出したか、もしかするとヴォルデモートの残滓がハリーと呼応しているか。正体はわからないが、殺意を持ったものが安全であるとは思いがたい。

 

 ジュリアはホルスターから杖を抜いた。

 

 

「ハリーとあたしは声を追う。ハーマイオニー、ロンを連れてマクゴナガル先生のところへ。ハリーにしか聞こえない、無差別な殺意を表明する声が移動してる。ハリーとあたしが追跡中だが、あたしらの手に負えるとは思えねえ。いいか、大至急だ」

 

「ジュリア、一体何が……」

 

「頼んだぞ、ハーマイオニー。場合によっちゃ命の危機だ。ハリー、声を追ってくれ。後ろはあたしが受け持つ」

 

 

 困惑した表情で、しかしロンを連れて大広間に向かったハーマイオニーを背にして、ジュリアはハリーを追った。現状、ジュリアは不可視の存在に対する攻撃方法を持ち合わせていない。それはハリーも同じことだろう。しかし、運がよければ――つまり、相手が実体を持っていて、呪いが効くようであれば、多少の足止めはできる。

 

 誰もいない3階の廊下を駆け抜けながら、ジュリアは考えた。今回はイージーなゲームとは言い難い。なぜなら、すでにジュリアの嗅覚が鉄臭い塩気のある匂いを、血の匂いを捉えていたからだ。犠牲が出ている。ただの悪戯ではない。

 

 

「止まれ、ハリー」

 

 

 角を曲がる寸前に、ジュリアはハリーのローブを掴んで止めた。匂いが近い。何かがいるとしたらここに間違いないが、何者の気配もしない。姿のないものか、あるいはすでに去ったか。

 

 

「ハリー、声はまだ聞こえるか」

 

「いや……もう聞こえない」

 

「そうか……よし、そいつが何者かは心当たりがねえ、そうだな?」

 

「うん」

 

「なら、殺意剥き出しの腹ぺこ野郎が立ち去ってるのを祈るのみだ。杖を。3つ数えたら突入だ、いいな? 3、2……1!」

 

 

 ジュリアとハリーは同時に廊下へと飛び出た。

 

 床にできた水たまりから汚臭が漂っている。そして、その水たまりをちらちらと照らす松明の腕木に、猫が――ミセス・ノリスがぶら下がっている。

 

 一見死んでいるようだが、ジュリアの感覚はそれを否定していた。死体特有の、物になってしまったような、気配が落ち抜けてしまったような感覚がない。それよりもむしろ、死んでいないのに止まっている、そう、生きていないが死んでもいないような雰囲気をジュリアは感じ取っていた。

 

 なにより、濃厚な血の匂いはミセス・ノリスから発せられたものではなかった。壁面にまだ乾ききっていない赤が文字を形作っている。

 

 

「……秘密の部屋は開かれたり。継承者の敵よ、気をつけよ」

 

 

 秘密の部屋。継承者。敵。何もかもが謎のまま、ジュリアはマクゴナガルが到着し驚愕の声を上げるまで、固まったミセス・ノリスをじっと見上げていた。



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這い寄る影

作者から一言:今日は作者の誕生日です。


 ジュリアの機嫌を損ねることがいくつもあった。

 

 まず、壁に書かれた文言について、マクゴナガルは心当たりがあるような様子だった。しかし、ジュリアたちに何を語るでもなくただ廊下を封鎖し、「この一件は校長先生にお預けします」と背を押して寮に帰らせた。ひどく深刻そうな面持ちで。

 

 次に、フィルチが憔悴していた。時折思い出したように生徒を捕まえては校則違反だ、処罰だと怒鳴り散らし、次の瞬間には気が抜けたように立ち去ってしまう。管理人室からは押し殺した泣き声が毎日聞こえ、生徒の間では「ミセス・ノリスが死んだのではないか」という噂が広まりつつあった。

 

 そして、4人が沈黙を保っているにもかかわらず、どこからともなく噂が流れ始めた。秘密の部屋が開かれた。怪物が棲んでいる部屋だ。これから怪物は生徒を殺して回る。曖昧でつかみどころのない噂であるがゆえに、少しずつ恐怖が生徒を蝕んでいる。

 

 なにより、ギルデロイ・ロックハートがこの噂に便乗していた。

 

 

「いいですか、皆さん。秘密の部屋とは文字どおり秘密、シークレットなのです。それゆえに、這い寄る闇はまるでベッドの下の怪物のように皆さんを恐れさせる……。しかし、心配ご無用! 闇の魔術に対する防衛術連盟名誉会員である私が皆さんの健やかな眠りを守り、そして皆さん自身が闇から身を守る術を身につけられるよう、惜しみなく指導しましょう。さあ、『鬼婆とのオツな休暇』の83ページを開いて――」

 

 

 教科書を読んでいるふりをしながら、ジュリアは頭の中で情報を整理していた。誰にも聞こえない声が聞こえるのはしばしば狂気の始まりとされる。しかし、ハリーが狂気に犯されていると考えるのは早計だろう。事実、声を追った先には事件があった。問題は、声の主が見えないという点だ。

 

 謎の声、そしてミセス・ノリスの仮死に直面したことですり減っていたハリーの精神は、ロンとの日常でいつも通りに戻りつつある。誰にも聞こえない声については図書館の、すなわちハーマイオニーの役割だ。

 

 そうすると、ジュリアは何をすればよいか。すべきことは多く、また、すべきでないことも多い。それらを峻別しなくては、ミセス・ノリスの二の舞になりかねない。まだ何の呪いか、いや、呪いなのかすらわかっていないのだから。

 

 たとえば、ウィーズリー家の末妹、ジニーがひどく気を落としているので、これを元気づける。どうやらがさつで気の利かないロンには難しいらしい。もっとも、ジュリアにも同じことは言えるのかもしれないが。

 

 もしくは、ミセス・ノリスの状態について知るためにフィルチを訪ねる。一年にして因縁浅からぬ仲となったジュリアとフィルチだが、現場にいたということを話せば情報交換が可能かもしれない。フィルチに正気が残っていればの話だ。

 

 あるいは、片っ端から教師を捕まえてミセス・ノリスの状態について話し、見解を聞く。マクゴナガルが適任だが、「ミセス・ノリスは生きている」以上のことについてどうにも口を割らない。わざわざ猫に魔法薬を飲ませてあの奇妙な状態にするとも思えない。マクゴナガルとスネイプがだめとなると、ジュリアの人脈で漁ることのできる情報には限界がありそうだった。

 

 羽ペンをくるくると回して頭を悩ませていると、隣の席から羊皮紙の切れ端が差し出された。ハーマイオニーからだ。

 

 

「声については情報不足、時間が必要。部屋については記憶が正しければ『ホグワーツの歴史』に記述あり。全巻貸出し状態につき閲覧不可」

 

「声の調査は続行。部屋の情報はこちらで」

 

「了解」

 

 

 かの大著『ホグワーツの歴史』に記述があり、それらが全巻貸し出されているとなれば、聞き込みで情報を得るのが早い。しかし、伝聞に伝聞を重ねた状態では情報の精度が低い。より信頼性の高い情報源が必要だろう。

 

 ジュリアの知る限り、ホグワーツの年長者の中で最もジュリアたちに親しく接してくれる、かつ、最も口の軽い人物は、ハグリッドだ。

 

 授業終了の鐘が鳴ると、ジュリアはロンをハーマイオニーの助手につけ――ロンはこの役割に少々うんざりしていたが――ハリーとともにハグリッドの小屋へ向かった。

 

 

「名案だよ、ジュリア! だって、ハグリッドは長いことホグワーツにいるし、生き物にも詳しいから、もしかしたらミセス・ノリスのことについても何かわかるかもしれない!」

 

「ミセス・ノリスについてはともかく、秘密の部屋についてなら何かしら情報が得られるだろ。よお、セド! 引率か? 来年はセドがハッフルパフの監督生で決まりだな」

 

 

 大広間を抜け、階段を下るところで、2人はハッフルパフの一団と出くわした。背の低い――ジュリアよりは大きいが――下級生の集団を率いているのは、ハッフルパフでもいっとう面倒見のいい好青年、セドリック・ディゴリーだ。

 

 ジュリアとセドリックはジュリアが禁じられた森で罰則を受けて以来の仲だった。ハッフルパフの上級生がジュリアに余計な真似をしようとしたところを諫めてくれたのだ。この爽やかで紳士的な上級生のことをジュリアは気に入っていたし、彼も「セド」と呼ぶことを許してくれる程度にはジュリアを気に入っているようだった。

 

 ところが、セドリックの表情は優れない。見れば率いられている下級生も少々怯えているようだ。しかも、1年生たちの視線はハリーに向けられていた。ハリーは昨年度の英雄で、さらに遡れば1981年10月31日の英雄だ。向けられるべき視線は憧憬であって、恐怖ではない。

 

 

「ジュリア、ちょっといいかい」

 

「デートのお誘いならまた今度な、今からハグリッドのとこに行くんだ」

 

「少しでいい。真面目な話だ」

 

 

 ジュリアは肩をすくめると、ハリーに少し待つよう言ってセドリックの背を追った。ちょうど近くに小部屋がある。組み分け前に待機させられたあの部屋だ。

 

 セドリックが扉を閉めると、部屋は大広間の喧噪から切り離された。

 

 

「さて、二人きりだ。何が聞きたい?」

 

 

 セドリックは腕を組んで壁に背を預けると、ゆっくり口を開いた。

 

 

「秘密の部屋について。ハリーが開いたって噂が流れてるんだ」

 

「おいおい」

 

「わかってるよ、もちろん僕も信じてないし、信じてる人はそんなに多くない。そもそも秘密の部屋が何かもはっきりわからないしね。でも、下級生は怯えてるし、ハリーを怖がってる。ジュリアたちはハロウィーンパーティーにいなかっただろ?」

 

 

 まずい展開になっている。

 

 ジュリアは状況を少しずつ飲み込み始めた。犯人はハリーを陥れようとしている。目的はまだわからない。ロックハートが新しい著書に登場させる悪役を求めて動いているのかもしれないし、今年もヴォルデモートが忍び込んでいるのかもしれないし、ひょっとするとスリザリン寮生に大がかりな謀略を得意とする親ヴォルデモート派ないし反ポッター派の人物、または集団が生じたのかもしれない。

 

 ともあれ、セドリックは信用できるというのがジュリアの認識だった。セドリックが求めている情報を提示し、同時にセドリックから情報を得る、これが今指せる最善の手だろう。

 

 

「あたしとハリー、それにもちろんハーマイオニーとロンも、この4人はハロウィーンの日に先約があった。ほとんど首なしニックの絶命日パーティーだ」

 

「絶命……なんだって?」

 

「ゴーストの死んだ日お祝いパーティー。ともかく、そこに招待されて出席してたことはホグワーツ中のゴーストが知ってる。太った修道士もいた。1年坊主どもを安心させる説得材料にはなるだろ?」

 

「なるほど……うん、ありがとう」

 

「ああ」

 

 

 さて、何から聞くべきか。今のジュリアには情報が足りない。圧倒的に不足している。

 

 数秒悩んで、ジュリアはセドリックに問いかけた。

 

 

「噂がどこから流れたかわかるか」

 

「わからない。でも、下級生からしか聞かされていない。上級生はむしろ秘密の部屋について噂しあってるよ。マグル生まれの生徒が殺されるとか、そんなことを。だから団体行動を取るよう指示が出たんだ」

 

「下級生ね、オーライ。幾分絞り込めた。……マグル生まれが殺される?」

 

 

 これは新しい情報だ。ジュリアは眉を上げた。

 

 

「真っ先に『ホグワーツの歴史』を確保した生徒が、秘密の部屋についての記述を見つけたんだ。サラザール・スリザリンがホグワーツを去るとき残した部屋で、彼が生み出した怪物が棲んでいるらしい。サラザール・スリザリンがホグワーツを去ったのは――」

 

「マグル生まれを受け入れるかどうかでゴドリック・グリフィンドールと対立したから、だな」

 

「知ってたのかい?」

 

「いや。あたしの母さんは歴史マニアだったが、あたしに教える内容はあれでもまだ厳選されてたらしいな。で、その怪物がスリザリンの遺志を継いでマグル生まれを駆逐する、そういう話か」

 

 

 セドリックが頷くのを見て、ジュリアは小さくため息をついた。本当に「スリザリンの怪物」とやらが相手なら、非常に厄介だ。ヴォルデモートは冷静な指し手だった。少なくとも盤の上で駒を動かしていた。しかし、怪物はおそらくマス目も知らないし、駒の動き方にも興味がない。つまり、どこから現われて何を殺すかわからない。

 

 今回は自衛に徹するのが得策だろう。ジュリアはそう判断した。探偵ごっこはジュリアの領分ではない。得た情報をマクゴナガルなりスネイプなりに提供して、ハリーという探知機を頼りに安全なルートで移動する。これがよいように思えた。

 

 

「セド、これは秘密にしておいてほしいんだが……ミセス・ノリスを最近見かけないよな?」

 

「そうだね、見かけない。今回の件と関係が?」

 

「ミセス・ノリスが怪物の犠牲になった。死んではいない。まるで、こう、石になったような状態で吊るされているのを、ちょうどあたしたちが目撃して、マクゴナガルだけに報告した。……どうだ、情報は繋がったか?」

 

「怪物が必ずものを殺せるとは限らない、そして……部屋を開いた人物はハリーをはめようとしている。そうだね?」

 

「おそらくな。あたしたちもできることはやってるが、そもそもあたしは寮で浮いてる方だし、他の寮に伝手もない」

 

「わかった。僕もできるだけのことをしよう」

 

「ありがとよ。礼は必ず」

 

「礼なんて。それより、ハリーによろしく。彼とはまだ話したことがないんだ」

 

 

 セドリックは軽く手を振って、いくらか柔らかくなった顔で部屋を出ていった。

 

 ハリーのもとに戻らねば。そう思いながらも、思考が回転する。下級生の噂。ハリーに向けられた悪意。怪物。情報を深めるつもりが広がってしまった。

 

 しかし、去年とは違う。ジュリアには協力者がいる。これは大きな違いだ。

 

 目下ジュリアがすべきことは、ハッフルパフの下級生に怯えられて居心地悪そうにしているであろうハリーを救出することだ。ジュリアは小部屋を出て、ハリーに手を振った。



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誰が雄鶏殺したか

 ローストチキンサンドに、チキングリル、チキンスープ。鶏肉尽くしは悪くないが、ハグリッドが精肉店を開いたという話は耳にしていない。ハグリッドの小屋の中は今や燻製された鶏肉に占拠されていた。噂に聞くウィーズリー家の洗濯物といい勝負の量だろう。

 

 

「このチキンはどういうこったよハグリッド、ホグワーツ養鶏場計画が破綻したとか?」

 

「いんや、それがちょいと厄介なことになってな。まあ食え食え。ほれ、ハリーも」

 

 

 ジュリアは木彫りのトレーに乗せられた皿からサンドイッチを取って、トマトの汁が垂れないように大口でかぶりついた。あいかわらずトマトの種部分にまとわりついたゼリーの食感は苦手だが、ローストチキンの間に挟まれたスモークチーズのスライスがほどよく緩和して、なんとかジュリアでも楽しめるものになっている。ハグリッドは自分の感覚で料理をするところこそあるものの(ロックケーキがいい例だ)、味つけや食材の組み合わせはなかなかに上手い。

 

 ハリーはチキンスープのカップを手に取ったが、湯気に眼鏡を曇らされていた。ジュリアの予想が正しければ、チキンスープは飲める温度になるまでまだしばらくかかる。

 

 ハリーが眼鏡を外してローブの袖で拭いているうちに、ハグリッドが話の続きを語りはじめた。

 

 

「ここ最近になってホグワーツの雄鶏が殺されちょる。見事に雄鶏だけやられてなあ」

 

「雄鶏だけ? 何に襲われたんだ、ダグボッグでも流れ込んだのか?」

 

「ジュリア、ダグボッグって?」

 

「這い寄って噛みつく枯れ木、詳しいことは教科書読め教科書。で、ハグリッド、下手人は?」

 

「それがなあ」

 

 

 ハグリッドが一口スープを啜った。

 

 

「鶏たちが騒いどるのをジニーが偶然聞きつけてな、見に行ってくれたんだが、そのころにはその鶏舎はもう手遅れになっちょった。刃物で首をすっぱりだ」

 

「ジニーが?」

 

 

 意外な名前だったのか、ハリーが声をあげた。ハリーはジニー・ウィーズリーと少なからず交流があるようだ。ロンから冗談交じりに聞かされた隠れ穴での言動からして、ジニー・ウィーズリーという少女はハリーに憧れか、もしくは初めての恋心を抱いているに違いない。ハリーとて12歳の男の子だ、自分に好意を寄せている年下の女の子が気にならないということはないだろう。

 

 ジュリアはチキングリルを見つめた。単なる悪戯で済ませるにはたちが悪い。卵や鶏肉が食卓に上がらなくなるのはジュリアにとっても大きな損失だ。しかし、雄鶏殺しは今回の「秘密の部屋事件」と関係があるだろうか。もしないとすれば、二つの事件が同時に動いていることになる。秘密の部屋のほうは自衛すら怪しいが、雄鶏殺しの犯人捜索くらいならジュリアたちにも協力できるかもしれない。

 

 ジュリアの中で計算が動き始めた。まずは秘密の部屋についてハグリッドが持っている情報を話してもらう。その後、ジュリアは雄鶏殺し事件の解決に協力する。ハグリッドにはドラゴンの卵の件を差し引いても余りあるほど世話になっていた。具体的には禁じられた森での狩猟採集に付き合ってもらったり、革のなめし方を教わったり、そういったことだ。

 

 

「雄鶏殺しについてはあたしもできる範囲で協力する。チキンがねえとサラダを食うのに苦労するしな」

 

「ありがとうよ、ジュリア。ただの馬鹿がお遊びのつもりでやってるっちゅうにはちょいと度が過ぎる。一寸の虫にも……虫にも……」

 

「五分の魂?」

 

「そう、それだ。だが、忘れちゃならんぞ。お前さんらは生徒で、危ないことに首を突っ込むのは――」

 

「それなんだけど、ハグリッド」

 

 

 ジュリアが返事をするより早く、ハリーがハグリッドの言葉を遮って口を開いた。

 

 

「僕たち、秘密の部屋について調べてるんだ」

 

「ハリー、お前さん、今なんと……」

 

「秘密の部屋だよ、ハグリッド。ミセス・ノリスが石になった現場を見つけたのが僕たちだったって、聞いてない? それに……」

 

 

 ハリーは何か躊躇するようにカップを持ち替えて、スープを一口啜った。その様子を見るハグリッドの目は見開かれていた。まるで、秘密の部屋という言葉に聞き覚えがあるような、そしてとても嫌な記憶を蘇らせたような、そんな顰め面だ。

 

 なんとかチキンスープを飲み込んだハリーは、息を吐いて、それから、躊躇していたそれをゆっくりとこぼしはじめた。

 

 

「僕を怖がってる人たちがいるんだ。ミセス・ノリスを見つけたことなんて誰も知らないはずなのに、ハロウィーン・パーティーにいなかったってだけで僕のことを疑ってる。まるで……まるで、僕が秘密の部屋を開いたみたいに」

 

「そんな馬鹿げた話があってたまるか。リリーもジェームズも、もちろんハリー、お前さんもグリフィンドールだ。ちっともスリザリンなんかと関係ない、そうだろうが」

 

「スリザリン? 部屋はスリザリンと関係があるの?」

 

 

 返事の代わりにハグリッドは低く唸って、スープの釜を炉から下ろした。そして、それきり黙って腕を組んでいるので、代わりにジュリアが秘密の部屋について説明した。

 

 

「秘密の部屋っつうのはな、ハリー。ホグワーツを創始した魔法使いの一人、サラザール・スリザリンが作った部屋だそうだ。当然、そこにいる怪物もスリザリンが育てたか作ったかした怪物だろうな」

 

「ジュリア、知ってたの?」

 

「いや、全然。調べたり聞いたり、あたしとハーマイオニーも動いてたってわけだ。ともかく、秘密の部屋ってのはそういうとこで、そうすると継承者ってのはスリザリンの何かしらを継いでる奴ってことになる」

 

「ようわかっただろう、ハリー。お前さんが心配するこたあねえ。スリザリンの血はスリザリン。ウィーズリー家がグリフィンドールと決まっとるようなもんだ」

 

 

 ハリーの顔色が優れないのを見て、ハグリッドが言葉を続けようとした。しかし、それより早く、ハリーがスープのカップを置いて口を開いた。

 

 

「僕、本当はスリザリンに組み分けされるかもしれなかったんだ」

 

 

 予想外だ。ジュリアも沈黙せざるをえなかった。ハリーがスリザリンに。ジュリアはスリザリンが悪い寮だと考えているわけではない。しかし、現状に関して言えば、その過去はハリーの気分を塞がせる原因にしかならない。

 

 ハリーが俯いたまま、ぽつり、ぽつりと続きを語る。

 

 

「組み分け帽子が、僕はスリザリンでなら偉大になれるって。それに、絶命日パーティーで、ポッター家はとても古い家だって教わったよ。僕、僕……本当はスリザリンなんじゃ……」

 

「ハリー! 馬鹿言っちゃいけねえ。お前さんは勇敢なジェームズと優しいリリーの子どもだ、ちゃんとその強さっちゅうやつを受け継いどる」

 

「もし、もしもお前がスリザリンだったとしてもだ、ハリー」

 

 

 ハリーの頭の中で渦巻く疑念はそう簡単に晴れるものではないだろう。であれば、ジュリアにできることは疑念の向く先を――スリザリンの可能性を明るくすることだろう。ジュリアは記憶と知識を総動員して、そしてできるだけ落ち着いた声を出した。

 

 

「スリザリン出身で一番偉大な魔法使いは誰だかわかるか?」

 

「えっと……わからない」

 

「お前も聞いたことがある魔法使いだ、イギリス人なら大体知ってる」

 

「ヴォルデモート?」

 

 

 ハリーが挙げた名にハグリッドの大きな肩が跳ねたが、ジュリアはそれを無視した。

 

 

「あんな純血主義過激派テロリストなんざ木っ端だ木っ端。もっとヒントやるよ。ブリテンの伝説に名を残す魔術師」

 

「うーん、マーリンとか? でも、あれは伝説だし」

 

「おいおい、お忘れのようだが、お前が今いるのはドラゴンやらケンタウルスやらがいる世界だぜ?」

 

「え……でも、そんな、嘘だよ」

 

「魔法界が輩出した偉大な魔法使い、マーリンはサラザール・スリザリンの愛弟子だ。時代的にはちょうどスリザリン寮初期の生徒だっただろうな。探せば肖像画もあるんじゃねえか」

 

 

 実はマーリンの肖像画が大階段のどこかに飾られていることをジュリアは知っているが、あえて探そうとも思わなかった。母の言葉が正しければ、マーリンの肖像画は迂遠な言い回しで人を煙に巻くばかりで、中身のあることを語ってくれないのだ。

 

 ハリーの顔色はいくらかましになったが、それでもグリフィンドール寮生として過ごす中で醸成されたスリザリンへの反感は根深く定着したと見えて、困惑の表情は抜けていなかった。

 

 そこに、ハグリッドが重い口を開いた。

 

 

「俺がまだほんのちっぽけな学生だったころ……そう、まだホグワーツの生徒だったころだ。秘密の部屋が開かれた」

 

「部屋が? じゃあ、スリザリンの継承者はハグリッドが生徒だったころから生きてるの?」

 

「わからん。ただ、あの時は女の子が一人死んじまって、それから……」

 

「それから?」

 

 

 続きを促すハリーに対して、ハグリッドはちらりと視線を向けて、小さく咳払いをした。

 

 

「ある生徒がスリザリンの怪物を追っ払ったっちゅうことになった。俺はそのどたばたで、あれだ、退学を食らった。みんなあいつの言うことを信じちょった。だが、ダンブルドア先生だけはあいつを信じなかった。それに、今度も怪物が出たっちゅうことは、あいつが嘘をついとったっちゅうことだろうが」

 

「あいつって?」

 

「名前は言えんことになっとる。ほれ、俺があいつの悪口を言って回ったら、ディペット校長、そんときの校長だが、あの人の面目が丸潰れだ。森番になるときにそういう約束をした」

 

 

 ジュリアは黙って、情報を整理し始めた。ハグリッドの在学中、ホグワーツでは秘密の部屋が開かれた。その時は死者が一人。加えて、ハグリッドが退学になった。何者かが事件を解決、少なくとも脅威である怪物を排除したように喧伝し、周りはそれを信じたが、ダンブルドアはそれを信じなかった。

 

 ジュリアはアルバス・ダンブルドアという人物を信頼していない。しかし、その能力を信用することはできると考えている。ダンブルドアが信じなかったのであれば、その生徒が嘘をついていた可能性は高い。

 

 加えて、今回も秘密の部屋から怪物が出ている。スリザリンの怪物がホグワーツのどこかで繁殖しているのでもない限り――できればそのケースは想像したくない――怪物は排除されなかったと考えるのが妥当だろう。

 

 しかし、真実を一切含まない嘘を信じさせるのは困難だ。少なくともその生徒は何かしらをホグワーツから追い払い、そしてそれは怪物と形容するに相応しいものだったのだろう。

 

 多くの情報を得た。しかし、まだ不足している。秘密の部屋について探るにも、ハリーの不安を解消するにも、まだ不十分だ。

 

 

「ハグリッド、その人って――」

 

「これ以上は話せん。お前さんらはホグワーツの生徒で一番秘密の部屋に詳しくなった、これで十分だろうが。余計なことを話しすぎると、また危ないとこに首を突っ込みかねんしな。まあ、石のときはそのおかげで助かったんだが」

 

 

 ハグリッドは髭を揺らして笑うと、スープ釜から自分のカップにおかわりを注いだ。コンソメのいい香りが湯気に乗って小屋に広がり、空気が切り替わるのをジュリアは肌で感じた。

 

 

「お前さんらは立派で、勇敢だ。なんも恥じることはねえ」

 

 

 それから、ジュリアは鶏肉のジャーキーをたんまりもらって、ハリーの背を押して寮に戻った。

 

 収穫はあった。しかし、謎が謎を呼んでいる状況に変わりはない。ジュリアは自分の中に芽生え始めた不安を押し殺して、スモークのきいた鶏皮を噛みちぎった。



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歴史が語るもの

 木曜の2限目。冷え込みはじめた地下牢での魔法薬学の後だ。いつも通り、ジュリアは魔法史の時間を昼寝に充てるつもりだった。ビンズは生徒がなにをしていようと興味を示すことはない。爆発スナップだろうが、ゴブストーンだろうが、完全に無視してくれる。気づいていないのかもしれない。ともかく、課題を出して期末試験を突破すればいいのだから、魔法史家であるバチルダ・バグショットの著書を一通り読んでおけばいい。要領のいい生徒はみなそうしているし、そうでなくとも睡魔に抗うのが難しい授業だ。

 

 幸いにしてと言うべきか、歴史マニアの母に知識を叩き込まれたジュリアは、魔法史の学習においてさほど苦労を感じたことはない。魔法史の教科書と、地域ごとに軽めの歴史書を通しで読んでおけばおおよそ必要とされるだけの情報は得られる。ビンズの授業に意義がないとは言わない。文字を集中して読むのが苦手な生徒にとってはいくらかマシな勉強方法だろう。しかし、教科書を自力で読むことができるジュリアにはさほど重要ではない時間だった。

 

 入学してからしばらくはハーマイオニーも不真面目なジュリアの態度を正そうと叱ったり諭したりしてきたが、ビンズの授業がよくも悪くも教科書に忠実であることを理解してからは、真面目な態度で授業に臨むことを求めることはなくなった。ただ、勉強熱心な彼女は「復習のいい機会になるから」と授業時間目いっぱい羽ペンを動かしている。

 

 ところが、今日は様子が違う。ハーマイオニーがやけに張り切っているのだ。そわそわして、落ち着きがなく、羽ペンを5秒に1回は回転させている。そのくせして、ノートはほとんど進んでいない。ハーマイオニーらしからぬ集中力の欠如だった。

 

 授業が国際魔法戦士条約――1709年のワーロック法または魔法戦士法を制定した方ではなく、1289年のヨーロッパ魔法使い会議で定められた方だ――にさしかかったとき、とうとうハーマイオニーが行動を起こした。手を挙げたのだ。この行動に起きていた数少ない生徒がざわめきはじめ、数人が浅い眠りから目覚めて怪訝そうに頭を上げた。

 

 

「えー……ミス……?」

 

「グレンジャーです。先生、質問よろしいでしょうか」

 

「それは、まあ、構いませんが」

 

「では、少し時代が戻るのですが、秘密の部屋について教えていただけませんか。サラザール・スリザリンの」

 

 

 ビンズは面食らった様子で数秒沈黙していた。無理もない、つい先ほどまで仮眠室と化していた教室、その席を満たす生徒からは眠気が消し飛び、誰もがハーマイオニーとビンズのやりとりに注目しているのだ。

 

 

「私がお教えしとるのは歴史、すなわち事実でありまして、神話や伝説はこの授業では扱わないんであります。よろしいですかな、ミス・グレンジャー。さて、どこまで話したか……同年9月、サルデーニャ島の魔法使い小委員会では――」

 

「先生」

 

「まだ何か、ミス、あー、グレンジャー」

 

 

 ハーマイオニーの頬は紅潮していた。授業を遮ることへの罪悪感、それを補って余りある使命感、そんなところだろうか。

 

 

「お願いです、先生。先生が仰るところの伝説、それがどのような歴史から生まれたのかを語ってくだされば結構ですから」

 

「あー……確かに、それもまた歴史の役目ではありますな。しかし……」

 

 

 ビンズはハーマイオニーをじっと見つめて、それから、ハーマイオニーの隣に座るジュリアに気づくとなぜかため息をついた。ため息をつかれた理由もわからず、ジュリアは机に伏せたままだった身を起こした。

 

 

「このあたりはミス・ムーアクロフトの領分でしょうに。いつまでも学生をやっていないで、バグショットのところに弟子入りでもしたらいかがですか」

 

「……は?」

 

「呆けてないで。概略的に、かつ正確な説明をお願いしますよ。ホグワーツの創始から創始者の決別あたりまでで十分でしょう、そうですね?」

 

「あー、まあ」

 

 

 どうやらビンズはジュリアを母であるエレン・ムーアクロフトと勘違いしているようだった。確かにジュリアの母はジュリアに魔法史を楽しそうな様子で語ったし、度々ビンズやバグショット女史の名も登場した。しかし、在学中にこんなことをしていたという話は聞いていない。

 

 ともあれ、間違ったことを言えばビンズが訂正を入れてくれるだろう。それに期待して、ジュリアは立ち上がり、注目が自分に集まっていることを確認し、口を開いた。

 

 

「ホグワーツの創設については諸説あるものの、おおよそ993年ごろに成立したという見解が一般的で――」

 

「その年号は厳密さに欠けますぞ」

 

「まあそこは本筋じゃねえから、各々教科書で確認してくれ。で、4人の創設者、この4人の名前は今も寮として残っているわけだが……その4人というのが、勇敢さを貴ぶゴドリック・グリフィンドール、すべてに寛容であったヘルガ・ハッフルパフ、ホグワーツの設計者としても知られるロウェナ・レイブンクロー、そして今話題のサラザール・スリザリン。4人の性質は寮の性質にそのまま受け継がれてるとこもあるな」

 

 

 ジュリアは杖を抜いて浮遊呪文を唱え、チョークを浮かせて黒板に4人の創設者の名前を書き記した。毎度毎度ビンズがすり抜けるこの黒板に対して、ビンズがチョークを当てたことが何度あっただろうか。この幽霊教師は不親切にも板書というものをしない。もっとも、板書をしたところで生徒がそれをノートに写すかというと、怪しい話だが。

 

 

「さて、ホグワーツが創設されてからしばらく経つと、創設者たちの間にも溝が生じてきた。具体的にはスリザリンと、他の三人との間に。サラザール・スリザリンの思想は後に純血主義と呼ばれるそれの源流で、魔法教育は純粋な魔法族の家系にのみ施されるべきだと、まあそういうあれだ」

 

 

 今度はチョークでサラザール・スリザリンと他の三人との間に横線を引いた。だいぶ話を飛ばしたせいか、ビンズが渋い顔をしている。本当はジュリアもアングロ=デーニッシュ体制確立以前のヴァイキングによる襲撃と略奪であるとか、アングロ=サクソン・ルーンが刻まれた憂いの篩の来歴に関する諸説であるとか、そういった話をしたくはあったが、他の生徒たちを余計な歴史話で焦らすのも親切とは言えない。

 

 

「4人、特にゴドリック・グリフィンドールとサラザール・スリザリンがこの受け入れ方針について大いに揉めて、最終的にスリザリンがホグワーツを去る形になった。秘密の部屋にまつわる伝説はこのあたりから生じたっつうのが、まあ、妥当な線だろうな」

 

「結構、結構。おおよそ十分に正確な説明だと言ってよいかと。グリフィンドールに10点差し上げましょう。サラザール・スリザリンが去った、ここまでが歴史であります。然るに、部屋だとか怪物だとか、そういった噂は、この点から生じたある種の妄想であると、そのように……あー、まだ何か不十分ですかな」

 

 

 あちこちでひそひそと会話がなされていた。ビンズが授業を再開するよりも早く、生徒たちが声を上げた。騒々しいほどに賑やかだ。ビンズの表情から察するに、魔法史の授業が開かれて以来一、二を争うほどの活気が教室を満たしていた。

 

 

「先生、部屋がスリザリンの継承者によってのみ開けることのできるものなら、他の誰もそれを見つけられない、そうでしょ?」

 

「くだらない。歴代の校長が何も発見しなかったことからもわかるように――」

 

「闇の魔術を使わなきゃいけないから見つからなかったんじゃありませんか?」

 

「使わないと使えないの区別をはっきり持つことですな」

 

「でも、スリザリンの継承者、つまりスリザリンと血が繋がっていなくちゃいけないのでは……つまり、校長先生たちはスリザリンの継承者じゃなかったから――」

 

 

 ビンズがノートを閉じて、声を張り上げた。

 

 

「そこまで! これは歴史の授業であるからして、神話、そう、神話について妄想を膨らませる場ではないのであります。ここにいる全員が進級する意志を喪失したのでもない限り、歴史の、すなわち検証できる事実の授業に戻ることとするが、いかがか!」

 

 

 さすがの噂好きたちも進級を人質に取られてはどうしようもないと見えて、たちまちのうちに教室は静寂を取り戻し、そして数分後には眠気が再び支配的となった。ジュリアの感覚と予測が正しければ、カスバート・ビンズというこの幽霊教師はスネイプに近い性格の持ち主だ。正確な知識を差し出してくれはするが、学生に寄り添う気はさらさらない。魔法史への興味と関心を持って授業を受けることで初めてその知識を受け取ることができるのだ。

 

 ジュリアは幾分ビンズへの興味が湧いてきた。なにより、母のことを覚えていて、何かしらの印象を持っているというのは大きい。ジュリアは学生時代の母を知りたかったし、学生時代の母を知る人物――ゴーストを人物として数えるべきかについては意見が分かれるかもしれないが――がどのような人々であるかも知りたかった。

 

 

「ハーマイオニー、このあとちょっと残れるか」

 

「いいけれど、ビンズ先生はもう何も教えてくれないと思うわよ」

 

「いや、ちょっと別件」

 

 

 魔法史がサルデーニャ島の委員会からの要請とフランス王国魔法戦士隊による教皇領魔法使いの救援にさしかかったあたりで、ジュリアは再び眠りについた。魔法史の授業では一眠りが10年にも100年にもなる。そう思うと、この居眠りがとても有意義なものに感じられる。ましてや、このあと母の過去を知る機会を得られるかもしれない。そう思うと、ジュリアの眠りはいっとう心地よいものとなった。

 

 




予想外に頭が鈍っていたのでちょっとリハビリしてきます。一ヶ月以内に帰ります。


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母の恩師

 授業終了の鐘が鳴った。ビンズが黒板をすり抜けて消えていくのを傍目に、ジュリアは伸びをして、それから出すだけ出しておいた教科書をウェストポーチに放り込んだ。

 

 

「それで、どうするの?」

 

「んー、ビンズ先生の執務室行きたい」

 

「ゴーストにも執務室ってあるのね」

 

「なかったら霊権侵害だぜ、霊権なんてあるのかは知らねえけど」

 

 

 首を鳴らして、頭の中で地図を回す。魔法史の教室は2階。ジュリアの記憶が正しければ、カスバート・ビンズの名札がかかった執務室が5階、去年ハリーがみぞの鏡に魅了されかけた空き教室の近くにあったはずだ。

 

 木曜は2限目の魔法史と4限目の魔法薬学の間が空いているから、時間に余裕がある。とはいえ、だらだらと大階段を上っていくのも時間の浪費だし、他の寮や学年が3限目に魔法史の授業を受けるかもしれない。タペストリーで隠された通路、本棚の裏の昇降機、そういったものを駆使した方が早いし、より確実にビンズの話を聞くことができるし、なにより気分がいい。

 

 そうと決まれば、行動あるのみだ。ジュリアはハーマイオニーの手を引いて混雑をすり抜け、人ごみに紛れてタペストリーをくぐり、隠し通路に辿り着いた。 ジュリアの経験に従えば、この通路が一番5階まで近く、またほとんど人に知られていない。

 

 

「ねえ、ジュリア」

 

「どうした?」

 

「ジュリアっていつの間にかホグワーツに詳しくなったわよね。秘密の道もそうだし、歴史のことも」

 

「ダンジョンアタックが楽しいお年頃なのさ」

 

「なにそれ」

 

 

 ハーマイオニーが空いた手を口元にやって静かに笑った。つられてジュリアも笑った。狭い隠し通路に二人きり、早くもなく遅くもない足取り。ジュリアはこの時間が好きだった。

 

 ダンジョンアタック。ジュリアはホグワーツを攻略するのも楽しく思っているが、昔憧れた、ゲームに手を伸ばすという野望も捨ててはいない。新聞配達のアルバイト中に読んだ広告によれば、ウォーハンマー:ファンタジーバトルの第4版が今年発売される予定か、もしくはもうされるのだったか。バイト代もそこそこ貯まった。ハーマイオニーとミニチュアゲームやRPGで遊ぶのも楽しそうだとジュリアは想像を膨らませた。ただ、そうなるとロンは呼ばないほうが賢明だろうか。彼は駒が動かないと楽しめない生粋の魔法族だ。楽しめない遊びを強要することほど無益なものもそうそうない、ジュリアはそう考えていた。

 

 通路の行き止まりには本棚が置かれている。この本棚に並ぶ取り出せない本を正しい順番で押すことで、本棚が動いて昇降機への道が開ける。順番を間違えると本が襲いかかってくるので、気をつけなくてはならない。ジュリアはウィーズリー家の双子からこの通路の情報を得たが、飛び回って噛みつく本たちにずいぶん苦戦させられた。対処法は小鳥に変身させてしまうことである。ジュリアの苦手な変身術だ。

 

 1つ、2つ、3つと本の背表紙を押すと、静かに本棚が開いた。その奥にはぽっかりと穴が空いており、鎖が縦に伸びている。昇降機の鎖だ。ジュリアが壁に据え付けられたベルを杖で叩くと、彼方で滑車が鳴きながら鎖を手繰り、昇降機を引き寄せはじめた。少し騒々しい。

 

 さほど時間の経たないうちに降りてきた鉄の籠を見て、ハーマイオニーがぼそりと呟いた。

 

 

「骨董品ね」

 

「落ちたとか床が抜けたって話は聞かねえし、大丈夫大丈夫」

 

「そもそもこのエレベーターの話を聞かないわよ。本当に大丈夫なの?」

 

 

 返事の代わりに扉を開いて飛び乗る。少し軋むが、問題はない。おそるおそる足を乗せたハーマイオニーを引き寄せて、ジュリアは上昇のベルを鳴らした。

 

 それなりの速度で暗闇の中を上昇する。滑車はいよいよ悲鳴を上げ、籠を揺らす。ハーマイオニーの手がジュリアのローブを握りしめているのに気づいて、ジュリアはハーマイオニーの背に腕を回した。

 

 

「落っこちねえから安心しろって」

 

「別に、怖いわけじゃないわよ。ジュリアが落ちるんじゃないかと思ったの」

 

 

 実に合理性を欠いた、ハーマイオニーらしくない言い訳だ。暗闇に隠れて見えないはずの白い首筋が冷や汗をかいているようにすらジュリアには思えた。

 

 

「そうかい。じゃあ落っことさないようしっかり掴まっててくれよ、そろそろだから」

 

「それってどういう――」

 

 

 昇降機が急な減速をかけ、暗闇の中で停止した。光はないが、5階に到着だ。勢いを殺しきれずにハーマイオニーがよろめくのを支え、そのまま石畳に移る。昇降機が落ちると思っていたわけではないが、それでもやはり足元はしっかりしているほうが安心できた。それはハーマイオニーも同じことと見えて、いくぶん呼吸が落ち着いている。

 

 ジュリアはハーマイオニーの背に回していた左手をそのままハーマイオニーの強張った右手へと下ろし、そっと握った。そして反対の手で杖を抜き、光を灯す。石壁に松明が2つ、そして行き止まりだ。

 

 

「さて、どうやって開けるんだったかな」

 

「ちょっと、ジュリア」

 

「冗談だ、冗談。インセンディオ」

 

 

 両方の松明に橙色の炎が灯るとすぐに、さっと強い光が差し込んだ。道を塞いでいた本棚が動いたのだ。ホグワーツの本棚と肖像画は扉代わりである。ジュリアはこの一年と少しで怪しいと思った本棚を押す癖がついたし、とりあえず肖像画と話してみて合い言葉を訊かれないか確認してみるようにもなった。

 

 回廊を抜けて肖像画を押すと、そこはもう5階だった。おべんちゃらのグレゴリー像――フレッドとジョージの言葉が正しければ、外に繋がる通路を隠している像だ――を挟んだ窓の向こうにはレイブンクローの塔がある。現役の寮生に知り合いがいないので、中がどうなっているかはわからない。ただ、グリフィンドールのそれと大きく異なるということもないだろう。

 

 

「なあ、ハーマイオニー」

 

「どうしたの?」

 

「いや、レイブンクローの談話室ってどんな感じだろうなあって」

 

「レイブンクローの。そういえば、他寮の談話室って入れないのかしら」

 

「入れないことはないんじゃねえの? 完全に敵地だから進んで行きたかねえけど」

 

「ハッフルパフとか、歓迎してくれそうじゃない?」

 

「あー、それは確かに」

 

 

 なんの益もないことを話しながら、ジュリアは1年生のころの記憶――具体的には、ハリーやロンと一緒にみぞの鏡を見に行った記憶を頼りに、ハーマイオニーの手を引いてビンズの執務室へと向かった。

 

 小さな扉にカスバート・ビンズの札がかかっている。ジュリアは少し悩んでから、ローブの前を整えて、扉をノックした。

 

 

「――どうぞ」

 

 

 扉を押し開ける。小さな、埃っぽい部屋だった。壁沿いに本棚が置かれ、執務机にも何冊かの本が積まれている。椅子やソファは使われていないようで、蜘蛛の巣が張っていた。空のティーカップが置かれたままだ。

 

 カスバート・ビンズは入室者に目もくれず、羽ペンを握って執務机の前で浮遊していた。

 

 

「失礼、今月の指導報告書を仕上げねばならんので。どうせ見もせん報告書を上げさせるなど、役人はいつの時代も変わらんですな、まったく。……ああ、好きなようにお座りになるとよろしい」

 

「うぃっす、失礼します」

 

 

 ジュリアはそのままソファに腰を下ろそうとしたが、それより早くハーマイオニーが杖を抜いて埃と蜘蛛の巣を拭い取った。

 

 二人はしばらく黙って座っていた。羽ペンが羊皮紙の上でかりかりと音を立てるのだけが聞こえる。この部屋は沈黙に満ちていて、それはまるでカスバート・ビンズという人物を表しているかのようだった。

 

 

「あなたが黙りこくっているのは珍しいですな、ミス・ムーアクロフト」

 

 

 やはり、ビンズはジュリアをジュリアの母だと勘違いしているようだ。

 

 

「あー、そのことなんだが、先生。あたしはエレン・ムーアクロフトの娘だ」

 

「娘ね。……娘? 子ども?」

 

「そうとも言う」

 

 

 ビンズは羽ペンを放り出してジュリアの方に向き直った。眼鏡の向こうで目を見開いている。少し奇妙だった。これほどまでにビンズが驚いているのも、そしてその感情をこれほどまでに露わにしているのも。

 

 

「なるほど、まあ、あれも人の子だったということですかな。娘……娘か。名前は」

 

「ジュリア。ジュリア・マリアット」

 

「ほう……ふむ……なるほど……。あれならもっと仰々しい名前をつけると思っていたのですがね、モルガンであるとか、エルフリーダであるとか。いや、あれが子を授かるということ自体まったくもって驚愕すべき事態でありますが。それで、何用ですかな。言付けでもありましたか」

 

「いや、そういうわけじゃねえんだ。なんつうか、そう。生きてたころの母さんのことをよく知ってる人から、母さんの話を聞きたくて」

 

「生前」

 

 

 ビンズの動きが止まった。より正確には、半透明の表情が止まった。まるで急速に年老いていくかのように、力が抜けていく。

 

 

「そうですか。あれは死にましたか。……そうですか」

 

 

 ビンズの表情は読めなかった。しかし、ひどく静かだった。

 

 しばらくの沈黙を経て、ぽつり、ぽつりとビンズが語りはじめた。

 

 

「ミス・ムーアクロフトはこの長い教師生活の中で一番手を焼かされた生徒でありました。悪童というわけではない。より相応しい言葉を探すなら……知識欲の権化、そう言えるでしょうな」

 

「知識欲の権化、ね。確かに母さんはそんな感じだった」

 

「なまじ行動力があるからなお厄介でしたな。しばしば授業の合間にここまで押し寄せてきて、勝手に紅茶を淹れ、勝手に本を漁り、勝手に喋り倒して。校長室に押し入って憂いの篩を調べようとしたこともあったとか、なんとか。あれははっきり覚えておりますぞ、ミス・ムーアクロフトが受けた唯一の減点でしたからな」

 

「それは初めて聞いたかもしれない」

 

「さもありなん、あれは己の失敗をすすんで人に語る性格ではなかった。しかし、まあ、優秀ではありましたな。だからバグショットのところに推薦状まで書いたわけですが」

 

 

 このあとの顛末は知っている。ジュリアの母は歴史家であるバチルダ・バグショットに師事するか、聖マンゴの癒局で狼憑きの研究癒になるかの岐路に立ち、迷うことなく癒者の道を選んだのだ。それは己の才能を賭けた挑戦でもあり、愛する夫への献身でもあった。

 

 

「あれが卒業すると聞いたときは、引退するときが来たかと思ったものですが、一向に音沙汰がないと思えば……死んでいたとは」

 

「あたしに魔法史を叩き込んだとき、母さんはよく先生の話をしてた。マクゴナガルの次か同じくらいにお世話になった、って」

 

「私はなにもしていない。あれが勝手に学んで、勝手に去っていっただけでしょう」

 

 

 それからまた、ビンズはしばらく黙って漂っていたが、ゆっくりと執務机の前に戻り、引き出しから一枚の紙切れを引っ張り出した。色あせたそれは、どうやら写真のようだ。ビンズはそれをジュリアに差し出した。

 

 

「勝手といえば、これがありましたな。あれが私の絶命日を勝手に決めて、勝手にパーティーを開いたときのものです。一緒に写っている生徒の名前は忘れましたが」

 

「……ジュリア、これって」

 

「ああ、うん。母さんだ。並んでるのは父さん」

 

 

 間違いなかった。紺色の髪を腰まで流した小柄な魔女が、身内にしか分らない自慢げな笑みで、胸の前に本を抱えている。エレン・ムーアクロフトだ。レイブンクローのローブは袖が余っていて、安っぽいパーティー帽も相まってアンバランスな雰囲気を醸し出している。

 

 その隣で困ったような笑みを浮かべて頬をかいているのが、ヘクター・マリアット。顔に薄らと三筋の爪痕が見えるが、それすらも勇ましさに変換させるだけの美貌を備えている。ヘーゼルの瞳がジュリアを捉えると、ふわりと破顔して小さく手を振った。

 

 そして、二人の前に立たされた――ゴーストにこの表現が適しているかは微妙なところだが――ビンズが、少し困惑したように眉を曲げている。

 

 

「進呈しましょう。引き出しに眠らせておくよりは幾分有意義ですからな」

 

「いいのか?」

 

「持っていきなさい。……ホグワーツのゴーストというのは不便なものです。知識を更新することもできない、紅茶を飲むこともできない、教え子の墓に花を手向けることもできない」

 

 

 返事に困って、ジュリアは無言で写真を受け取った。ビンズも返事を望んでいるわけではないようで、まるで一人の世界に沈んでいるように目を閉じていた。

 

 ビンズが指導報告書に戻ったので、ジュリアとハーマイオニーは彼の執務室を辞去した。

 

 ジュリアの母は写真を遺さなかった。少ない写真をかき集めて作ったアルバムはセシリーに預けたままだ。このあとセシリーにふくろうを送ってアルバムを届けてもらおう。ジュリアはそう決めた。



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血の匂い漂う

 ジュリアはいくぶん気合いが入っていた。セシリーから送ってもらったアルバムに少しずつ写真が追加されている。おそらくビンズから話がいったのであろうが、マクゴナガルやフリットウィック、マダム・ポンフリー、さらには顔も知らない古代ルーン文字学のバスシバ・バブリングからまでもいくらか写真が届いたのだ。

 

 動物もどきになりたてと思しき、変身を自慢げに見せびらかす母。そしてそれを隣で微笑ましげに見る父。長机の上で林檎を行進させる母。そしてそれを端から魔法の矢で射貫いていく父。医務室のベッド脇でこれ見よがしにケーキを頬張る母。そしてそれをベッドの上から苦笑いで見る父。アングロ・サクソンルーンの刻まれた木板から吹き出すそよ風に前髪を踊らせる母。そして何も生じさせない板を怪訝そうな表情で矯めつ眇めつしている父。過去の、しかし、確かにあった幸福の一ページ。

 

 コリン・クリービーに何枚か写真を撮らせてから――中庭での事件以来、この少年は不思議とジュリアを慕っていた――それをアルバムに挟み込んだ。月を眺める、本を読むと同じくらいに好きな夜更かしができあがった。つまり、ジュリアはここしばらくごきげんだった。ロンにチェスでぼこぼこにされてもまだごきげんだ。

 

 

「ナイトだジュリア、ナイトでフォークが効く」

 

「パーシー、余計な口出しするとジュリアの勝率がますます低くなっちゃうよ。パーシーはうちで一番弱いんだから」

 

「ジニーよりか?」

 

 

 ジュリアがない知恵を絞って長考しているのに対して、ロンは早指しで返してくる。これがますますジュリアを焦らせるのだが、ロンとしてはきっとハンデのつもりなのだろう。もしくは考えるまでもないのか。悩みに悩んで助言どおりナイトを出すと、予想外のビショップが飛んできて騎手の首がへし折られた。実に過激な遊びだ。

 

 

「ジニーは強いよ。9歳のときにはもうチャーリーといい勝負してた。でも、今ならパーシーでも勝てるんじゃないかな」

 

「ロン、君は兄なんだから、そういう考え方はよくない。ジニーにはきっとなにか悩みがあるんだ」

 

「あー、そういやなんか塞ぎ込んでるんだったか。クリービーからも聞いたな、マクゴナガルに指されて気づかなかったって話」

 

「そうなんだよ。……ジュリア、恥を忍んで尋ねるんだが、妹から悩みを相談してもらえる兄になるにはどうすればいいと思う? 女の子としての意見を聞かせてくれ」

 

「知らん。あたし兄弟いねえしな。クリアウォーターに聞けよ、付き合ってんだろ」

 

 

 パーシーがまるで金縛り呪文を受けたかのように固まった。ジュリアでも知っているくらい周知の事実だ。噂話をさほどしないセドリックですらも知っているのだから、ばれていないと思っているのはパーシーだけだろう。

 

 数手進んでから――この間にジュリアのポーン戦列がナイトに蹂躙された――パーシーが顔を赤らめて口を開いた。

 

 

「それはともかくだね、ジニーにはまだ親しい友達がいないみたいだから……」

 

「そういうとこで余計な気を回すとだいたい嫌われるぜ、パーシー」

 

「そうだよ、パーシー。きっとまだホグワーツに馴染んでないだけさ。チェックだよ、ジュリア」

 

「おっと、少し考えさせろ。まあ、知らない仲じゃねえし、少しは気を回しとくさ」

 

 ジネブラ・ウィーズリー。赤毛のウィーズリー家で育った末妹だ。ハリーにお熱な点で言えばコリン・クリービーと気が合いそうにも思えるが、同世代の男の子と積極的につるむのは難しいお年頃なのかもしれない。加えて性別を問わずまだ友達ができていないとなれば、ホグワーツでは苦労していることだろう。

 

 ジュリアにはハーマイオニーがいたからよかった。最初は打算での付き合いだったとはいえ、孤立せずに済んだのは彼女のおかげだ。どうやらウィーズリー家の人々は打算で人との交友関係を始めるのに長けているとは言いづらいようだから、巡り合わせに頼るしかない。ジュリアはその”巡り合わせ”になってやるのもやぶさかではないと思っていた。ウィーズリー家にはセーターの恩もある。

 

 

「ああ、うん、ありがとうジュリア。ところでその盤面はもう詰んでないか?」

 

「あーくそ、やってらんねえ。パーシー、爆発スナップやらねえか」

 

「僕が弱いの知ってて言ってるだろう、君」

 

 

 ジュリアはちろりと舌を出してみせると、ソファから腰を上げて背伸びをした。ハーモニカはポケットの中。杖はホルスターに収まっている。気分は上々。ハーマイオニーはフリットウィックと個人授業中だから、暇なことこの上ない。ジニーと喋るには悪くないコンディションだ。

 

 ぐるりと見渡してジニーが談話室にいないこと、そしてコリンがいる――つまり、グリフィンドールの1年生がこの時間授業でないことを確認したジュリアは、女子寮に向かった。

 

 

「ジニー探してくる。ロン、あとでスコアの写しくれ」

 

「いいけど、チェスのスコアは自分でつけないと実力つかないよ」

 

「自分で宿題やってから言うんだな、ロニー坊や」

 

 

 女子寮の扉を押す。グリフィンドール寮生は250人。単純計算でいけば女子だけで125人。寝室はジュリアの知る限り5人部屋だから、合計25部屋あることになる。グリフィンドール塔は外から見てそれほど広くない。きっと拡大呪文がかけられているのだろう。

 

 ジュリアは1年生の寝室が集まっているあたりを見て回り、扉にジニー・ウィーズリーの名札がかかっている部屋を見つけた。ところが、名も知らないジニーのルームメイト曰く、ジニーは授業が終わってすぐに荷物を置いて寮を出たというのだ。

 

 

「なんか、ハグリッドのところに行くって言ってました。いつも持ってるノート抱えて急いで出ていきましたよ」

 

「へえ、ノートね」

 

「はい。大事にしてるのかな、まだ何も書いてないみたいで」

 

「うーん……なんもわかんねえな。ま、行ってみるか。ありがとよ、これ食いな」

 

「わあ、マフィン! ありがとうございます!」

 

「おう、ジニー帰ってきたらあいつにもわけてやってくれ。じゃあな」

 

 

 好印象を与えつつ、ジニーとルームメイトに共通の話題を提供する。最近、ジュリアは自分が打算で行動しているのか、それともこれが素なのか、わからなくなりつつあった。しかし、どちらであろうとも、必要な場面で円滑なコミュニケーションを成立させることができるという点においてなんら悪いことはない。

 

 談話室を抜けて塔を降り、森に続く道を進む。ジニーは何の用があってハグリッドを訪ねるのだろう。ジュリアの思考がゆっくりと回転を始める。首を切られた雄鶏。第一発見者。秘密の部屋。謎の声。スリザリンの怪物。ミセス・ノリス。これらは一連の事件なのか、それともいくつかが並行しているのか。そして、ジニーはホグワーツに馴染んでいないだけなのか、事件に関与しているのか。考えるべきことがあまりに多く、また考えるべきでないこともあまりに多い。藪をつついて蛇を出すのは望ましくない。

 

 初雪はまだだが、風は冷たく、冬の訪れを十分に感じさせる。しかし、マフラーを巻くにはまだ早いだろう。幸いにしてジュリアがローブの下に羽織っているパーカーは質がよく、多少の寒さであれば防いでくれる。新聞配達のアルバイト代で買ったものだ。

 

 一人で静かに風を浴びて過ごすのは久しぶりで、それゆえにジュリアは機嫌がよく、思考もよく回転した。しかし、風に混じる血の匂いがジュリアの歩みを止める。

 

 生半可な量ではない。

 

 ジュリアは静かに、そして素早くホルスターから杖を抜いた。じわりと杖から腕へと熱が広がっていく。この感覚をジュリアは幾度となく味わっていた。闘争の気配だ。杖が示している。

 

 血の匂いに巻かれてやってきたのは、蒼白な表情のジニー・ウィーズリーだった。

 

 

「よう、ジニー」

 

「ジュリア、さん」

 

「いい香水だな、マドモワゼル。そんなに血の匂いが好きか? 何を殺した? 当ててやろうか、雄鶏だろ。それも、ご機嫌なくらい沢山」

 

「違う、違うの! 私じゃない!」

 

「じゃあ説明してもらおうか。まずはポケットから物騒なものを捨ててくれ。あたしは臆病なんでな、ナイフを隠した奴と笑ってお喋りできる度胸はねえんだよ」

 

 

 ジニーは慌てた様子でローブのポケットを探り、まだ乾ききらない血にまみれたナイフを見つけて、青ざめた顔からさらに血の気を引かせた。そして、それを放り捨てた。

 

 ジュリアにとって意外だったのは、ジニーがナイフを捨て、また杖も抜かなかったことだ。このあとの説明次第では、ジニーに杖を向けていることを謝らねばならないかもしれない。ジュリアは警戒のレベルを一段階下げた。

 

 

「結構。それじゃ、聞かせてもらおうかね」

 

「お、脅されてるの」

 

「誰に?」

 

「トム……トム・リドル。最初は相談に乗ってくれて、いい人だと思ってたの。でも、だんだん頭がぼーっとしてきて、知らない間に何かをしてることが増えてきて。この間も、気づいたらナイフを持ってハグリッドの鶏舎にいて」

 

 

 トム・リドル。ジュリアはその名前を深く胸に刻み込んだ。ホグワーツに戻ったら教師に伝えて調査してもらう必要がある。

 

 

「そのトム・リドルってやつはどこの寮で、何年生だ」

 

「わからない」

 

「わからねえのに脅されてる? ローブの色とか、背格好とか、あるだろ」

 

「その……顔を見たことがないの。私、私、どうしよう!」

 

「オーケー、落ち着け。でもって伝わるように話してくれ。悪いようには――」

 

 

 無言呪文の盾が間に合ったのは幸運だった。

 

 ジニーが放った赤い閃光が盾に弾かれて逸れていく。微笑みを浮かべて杖を弄ぶジニーは、ひどく冷たく、無機質な空気を纏っていた。ジュリアは杖を向けたまま、相対する”それ”をじっくりと観察する。震えていた体は泰然と、しかし隙がない。杖は静かにジュリアへと向けられている。そして、その眼は赤く、吸い込まれるようで――

 

 

「……ジニー・ウィーズリーに開心術の心得があるとは思えねえな」

 

 

 ジュリアは視線を相手の杖先まで落とした。閉心術の訓練が十分でない以上、唯一の有効策は目を合わせないことだ。呼吸が読めないのは戦闘において大きな痛手だが、それでも全てを知られるよりはいい。

 

 

「目を逸らす。開心術への初歩的な、しかし有効な対抗策だね。君は粗暴な振る舞いとは裏腹に優秀なようだ、ジュリア・マリアット」

 

「お褒めにあずかりどうも。お前がトム・リドルか?」

 

「そうであるとも言えるし、違うとも言える。僕はトム・マールヴォロ・リドル。3つヒントをあげよう、小さな名探偵。3つだ」

 

「まどろっこしいことをせずに失神呪文をぶち込んだっていいんだぜ? あたしが、お前に」

 

「そうか、そうかもしれない。でもそれではつまらないから……こうしようか」

 

 

 口を閉じた”それ”が擦れるような掠れた音を発すると、ジニーのポケットから蛇が這い出てきた。ジュリアの記憶が正しければ、あれは毒蛇だ。その蛇はそのままジニーの首に巻きつき、まるでネックレスのように固まった。

 

 

「君が外せばジニーは死ぬ。当てれば、そうだね、その勇気に免じて、僕と決闘するチャンスを与えてあげよう」

 

「あたしが自分の命より小娘一人の命を優先すると思うか?」

 

「思うね。君のことはジニーから聞いているよ。ハリー・ポッターに近く、兄とも仲がよく、そして穢れた血の親友だ。君はこの3人のためにジニーを守るだろう。守る相手に攻撃されるというのは、不思議な気分だろうね」

 

「なるほど……なるほどねえ。わかった、乗ってやる」

 

 

 ジュリアはなんとか笑ってみせた。怯んではならない。臆せば死ぬ。その死がジニーの死かジュリアの死かはわからないが、ともかく命の危機だ。

 

 どうやらジュリアの振るまいは”それ”のお気に召したようで、ジニーの顔が笑みを深めた。

 

 

「1つ目。僕がスリザリンの継承者だ」

 

「雄鶏殺しと秘密の部屋事件が繋がったな、ありがたい情報をどうも」

 

「2つ目。今の僕はトム・マールヴォロ・リドルの名を捨てた。しかし、この僕はトム・マールヴォロ・リドルだったころの僕だ。僕は僕の過去だ」

 

「時間の跳躍……いや、違うな。ゴーストでもない。憑依なんてのは迷信だ。記憶。なんらかの形で記憶が意思を持っている。いい線いってるだろ?」

 

「やはり君は賢い。3つ目。今の僕は偉大であったが、しかし敗れた。何の変哲もない少年、ハリー・ポッターに」

 

「……オーケー、答え合わせだ」

 

 

 ジュリアは慎重に、背筋の冷や汗を極力無視して、ゆっくりと口を開いた。心臓が口から飛び出そうだった。これまでにない危機だ。

 

 

「ヴォルデモート卿の過去。それがお前だ」

 

「素晴らしい。グリフィンドールに10点進呈しよう。実は教師になるのが夢だったんだよ。意外かい?」

 

「蛇をどかせ」

 

「ああ、そうだったね、そういう約束だ。エバネスコ」

 

 

 蛇が音もなく消えていくのを見ながら、ジュリアは何もできなかった。杖はジニーの首に向いている。今動けば、ジニーが殺されかねない。

 

 それ――若き日のヴォルデモートはジニーの杖を胸の前で構えた。

 

 

「決闘の作法は知っているだろう?」

 

「ああ」

 

 

 ジュリアも右手の杖を胸の前で構える。心臓が脈打つのを感じる。苦しい。しかし、杖は熱く、ジュリアに戦うことを促してきた。背を向ければ死が待っている。

 

 なら、先手を打つしかない。

 

 ジュリアは左手首をしならせた。

 

 

「インカーセラス、縛れ!」

 

「舐められたものだ。エバネスコ」

 

 

 ジュリアが放った縄はヴォルデモートの体に届くことなく消されてしまった。認めざるを得ない。杖捌きではヴォルデモートが優る。では、ジュリアは何で勝負するべきか。手数だ。

 

 

「ステューピファイ、ステューピファイ、ステューピファイ!」

 

「二振りの杖を使いこなす魔法使いは初めて見るかもしれない。これは興味深いが……それだけだ。コンフリンゴ、爆発せよ!」

 

 

 咄嗟にジュリアは地面を蹴った。しかし、それでもなお追いすがる爆風がジュリアのローブをはためかせる。土煙が二人を隔てている、この一瞬にジュリアの思考は最大限の加速を見せた。

 

 初撃で許されざる呪文が飛んでこないのはどういうことか。いたぶるのが目的なら磔の呪文で済むはずだ。決闘ごっこに付き合っている理由は? もし――もしも、ジニーの体が枷となっているとしたら?

 

 確かめる価値はある。ジュリアは口を開いた。

 

 

「お得意のアバダケタブラはどうした? インペリオでもいいだろ? あたしをいたぶりたいならクルーシオがぴったりだよな? 使わないのか? それとも、もしかして、ちっちゃなトム・リドル坊やには使えないのか?」

 

「煽るじゃないか、ジュリア・マリアット。ヴォルデモート卿を相手にしてそれほどの軽口が叩けるのは見事だ。認めよう、この僕は許されざる呪文はおろか、無言呪文すら習得していない。だが……ヴェンタス」

 

 

 放たれた風によって土煙が晴れる。休憩はおしまいらしい。

 

 

「杖捌きでホグワーツの2年生に劣るほど、僕は間抜けではない。インセンディオ!」

 

「プロテゴ!」

 

 

 ただの炎が、ひどく重い。まるでまとわりつくようにジュリアの盾を覆った。

 

 

「そして、君は開心術を恐れるあまり、僕から目を逸らし続けている。フルガーリ、閃光」

 

 

 閃光の帯がジュリアの右腕に絡みつこうと迫る。左腕は盾を展開しているから、右腕で対処するしかない。

 

 

「くそっ、エマンシパレ、解け」

 

「さて――チェックかな」

 

 

 炎が消えると、いつの間にかヴォルデモートが目前に迫っていた。ジュリアは咄嗟に両方の杖を向けようとしたが、それよりも早くヴォルデモートがジュリアの胸に杖先を当てる。ちり、とローブに焦げ穴が空いた。

 

 詰み。

 

 

「杖を下ろしてもらおう。……それでいい。僕は君を高く評価している。ハリー・ポッターに生徒達の嫌疑を向けようとジニーを動かしたが、その全てがことごとく邪魔されてきた。最初に部屋を開いたときは教師を呼ばれ、噂を広めさせたときは上級生に根回しされ。面白いね、とても面白い」

 

「お前のやり方が稚拙なんだ、坊や。稚拙ってわかるか? がきっぽいってことだ」

 

「そしてその勇気も。実にグリフィンドール的じゃないか。その勇気と機知に免じて、君には生きたまま、苦しんでもらおう。僕の掌の上で」

 

 

 ヴォルデモートの――ジニーの握る杖が、ジュリアの額まで上がる。汗が伝う。心臓が早鐘を打つ。しかし、逃げの手が思いつかない。

 

 

「安心するといい。すべていつも通りになるだけだよ。――オブリビエイト」

 

 

 ジュリアの視界が白く染まった。



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たくさんの宿題

 風に草葉の青々とした香りが乗っている。寄せては返す見えない波。

 

 吹き、そして散る冬の気配に、ジュリアの意識はゆっくりと浮上した。陽は高く昇っており、一度は瞼を上げた瞳を細めさせる眩しさだ。時刻は13時、いや、14時に近いだろうか。

 

 ホルスターに杖。状態も問題なし。手の指に力を込める。こちらも問題なし。体を起こし、関節が痛まないことを確認して――

 

 

「なにやってんだ、あたしは」

 

 

 ふっと苦笑を漏らした。

 

 ジニー・ウィーズリーを探しに寮を出たはいいものの、ハグリッドのところから帰ってくるのを待つのが得策と判断し、早めの昼寝を決め込んだのだったか。これではまるで戦いのあとだ。

 

 妙に気分が晴れやかだった。能天気と評してもいい。どこまでも果てなく澄み渡っている今日の空のように、思考を詰まらせていた諸々の厄介事が意識から遠く離れて感じる。たまにはこんな調子でも悪くはないだろう。

 

 大きく背伸びをして、首を鳴らす。それほど長い睡眠ではなかったはずだ。

 

 パーカーのフードについた草を払っていると、森の方から近づく足音がジュリアの耳に届いた。軽く、歩幅が狭い。好き好んで森に近づく低学年の女子がいればジュリアとは知り合いになっているはずだが、そんな生徒は記憶にない。となれば、答えは一つだ。

 

 

「よお、ジニー」

 

「ジュリアさん。……えっと、何してるの?」

 

「ジュリアでいい。お前のこと待ってたんだ。もう用事は済んだのか?」

 

「うん」

 

「んじゃちょっと歩くか」

 

 

 ジュリアは立ち上がってローブをはたくと、もう一度背伸びをした。古書店でアルバイトをしていたころ、狭いカウンターで長い間座らされていたせいで、すっかり背伸びが癖になっている。猫背が癖になるよりはましだろう。

 

 ジニーは戸惑いを顔に浮かべていたが、ジュリアが歩き出すとおとなしく後をついてきた。

 

 

「ちょっと遠回りするぞ。ブラックベリー好きだろ?」

 

「うん、好き。でも、季節じゃないよね?」

 

「聡明にして温厚なるポモーナ・スプラウト御大の温情ってやつでな。いつでも食べごろのブラックベリーがあるんだよ」

 

 

 ジニーはジュリアの言い回しに首を傾げていたが、茂みをかき分けた先に山ほど実ったブラックベリーを前にすると、目を丸くさせた。

 

 二人は時間ぎりぎりまでブラックベリーをつまんで過ごした。ジニーはどこか遠慮しがちで、少し臆病な様子を見せたが、ジュリアは気にせず語りかけ、言葉を引き出し、ジュリアと呼ばせるにまで至った。

 

 

「このへんの野草で香水を作るなら、そうだな……やっぱルピナスだな」

 

「ルピナスってそんなに香り強くないよ?」

 

「あれ単体だと強くねえな。でも、グランバンブルの糖蜜を少し入れてやるといい香りになるし、気分も落ち着く。これは受け売りだが、香水ってのは服と一緒で――っと、もうこんな時間か」

 

 

 ジュリアはジャム瓶にブラックベリーを詰めて、ジニーに渡した。

 

 

「やるよ。ルームメイトと一緒に食いな」

 

「ありがとう。でも……」

 

「あいつら、あれでもお前のこと結構心配してんだぜ? 人間関係ってのは別に最初から好意で始まる必要もねえしな。打算でスタートしたっていいんだよ。こいつも受け売りだ」

 

 

 ジニーは少し悩んでから、ジャム瓶を両手に握ってこくりと頷いた。

 

 それから、談話室でジニーが同級生と話している姿を見かけるようになった。ジュリアも顔を合わせれば挨拶はするし、手が空いていれば話し相手にもなる。一度だけチェスの対局もしたが、こっぴどくやられてしまった。

 

 ジュリアの気分は上向きだった。一緒に時間を過ごすハーマイオニーもまた上向きなことが多い。しかし、スネイプはそうもいかないようだった。

 

 

「妙だ」

 

「何がさ」

 

 

 ジュリアが案山子に腕縛りの呪いをかけていると、スネイプが何事か呟き始めた。この育ちすぎた蝙蝠のような男が一人でぶつぶつと唱えているのはひどく不気味だ。それこそ、怪しげなまじないをかけているような趣すらある。

 

 

「君の無鉄砲さを考えれば、そろそろ新しい火遊びを思いついて火傷をする頃合いだと踏んでいたのだが」

 

「なんだそりゃ。あたしはこれでも臆病で神経質なほうだぜ?」

 

 

 スネイプは返事の代わりに鼻を鳴らした。これで機嫌が悪いわけではないのだから、驚きである。そして、懐から巻かれた羊皮紙を取り出すと、ジュリアに投げてよこした。2枚ある。1枚はジュリアの知らない呪文が記されたもので、もう一枚はどこかに提出する公文書のようだ。

 

 

「呪文のほうから説明する。非殺傷の捕縛を目的とした呪文のうち、対策の取りづらい、古いものを発掘した。1つ目はカーペ・レトラクタム。魔法力の綱で対象と自身を結びつける呪文だ。行動を阻害し、引き寄せ、君の膂力であれば振り回すことも可能だろう」

 

「カーペ・レトラクタム、ね」

 

「2つ目はフラグラム。魔法力の鞭だ。君の開発した剣の呪文から殺傷性を抜いたようなものだと思えばよい。かつてある死喰い人がこの呪文を基に極めて強力な呪いを開発した。その男は今もアズカバンにいる」

 

「それは――」

 

「当然、使わせん。順調に進めばいずれ学ぶ機会は与えるやもしれんが、闇の魔術に手を染める機会を与える気はない」

 

 

 スネイプの鋭い視線がジュリアに刺さった。軽率な発言をしようとした。死喰い人の開発した呪文であれば、闇の魔術であっても何らおかしくはない。むしろ自然だ。ジュリアも闇の魔術を使ってまで誰かを殺める予定はない。

 

 数秒後にはいつもの空気が戻っていた。

 

 

「もう一枚の羊皮紙は、魔法省に提出するものだ」

 

「魔法省?」

 

 

 見れば、下に魔法省の”M”の焼き印が押されている。この焼き印を見るのはグリンゴッツで杖を登録したときの書類以来だ。

 

 

「正確には魔法省が運営する委員会、実験的呪文委員会にあてて送るものだ。新呪文の開発を管理し、認可した呪文の権利を保障する。君が公の場で剣の呪文を使い続けるなら、提出しておくのが身のためであろうな」

 

「あー、なるほど。魔法省……」

 

 

 ジュリアの内心で葛藤が始まった。僅かに残った遵法精神が、登録しておいたほうが周囲に迷惑をかけずに済むと囁いている。しかし、心の中の薄暗がりが、魔法省にも隠した武器を一つ抱えることのメリットを強く押し出している。

 

 スネイプが仏頂面を崩さずに言葉を続けた。

 

 

「ここで認可された呪文のすべてを把握している者はいない。提出した記録以上のことは何も残らんだろう。委員のほとんどがフリットウィックの教え子で、皆彼を慕っている。奇人の集まりだ。君が心配しているであろう問題は一切生じない」

 

「なら、まあ」

 

 

 よろしい、とスネイプは頷いた。

 

 

「次の委員会は2月だ。それまでに件のレポートを完成させるように。アダルバート・ワッフリングの著書はすべて目を通したか?」

 

「あー、途中」

 

「励むのだ。我輩の記憶違いでなければ、君には怠惰な時間を過ごす余裕などなかったはずだが?」

 

「うっす」

 

「時間は有効に使え。遊ぶなとは言わん。価値のあることに時間を割け」

 

 

 魔法理論を学ぶたびに、ジュリアの中ではある疑問が浮かび上がっていた。日によって自分が操る呪文の精度が異なるのだ。月に一度は変身術も呪文学も抜群に冴えている日が来るし、逆にくすぐり呪文のような簡単な呪文すら安定しない日もある。

 

 どうやらスネイプもこの問題にはすぐさま答えが出るとはいかないようで、宿題を増やすこととなった。

 

 

「毎日同じ呪文を試すのだ。浮遊呪文、温熱呪文、なんでも構わんが、統一したまえ。感覚と効果を記録し、一ヶ月後に持ってくるように」

 

 

 尋常ならざる宿題の量に一瞬うんざりした表情を出しそうになったが、ジュリアはそれを堪えて頷くに留めた。頼んで個人授業をしている身なのだから、嫌な素振りは見せるべきではない。

 

 幸いにして、新しい呪文はいずれも便利だった。カーペ・レトラクタムは隠し通路を抜けるのにも使えるし、本棚の高いところから狙った本を引っ張り出すのにも適している。フラグラムは巻きつかせて引っ張れば案山子を折る程度の強度がある。鞭のように鳴らせるのもいい。

 

 なにより、魔法理論の学習が進んだおかげで、呪文学の宿題が楽になった。相変わらず折れた杖で苦戦しているロンは授業からドロップアウトしつつある。せめてレポートだけはいいものを出させて進級の助けにしようと支援をしながら、いつもの4人は談話室でくつろいでいた。

 

 

「じゃあ、ジニーはもうずいぶんよくなったの?」

 

「よくなったの定義によるとは思うが、まああれでいいんじゃねえの。こないだチェスでぼっこぼこにしてきたときは遠慮なかったし」

 

「ジュリアは弱いわよね、チェス」

 

「最弱王決定戦するか、ハーマイオニー」

 

「そんな不毛なことしてないで、僕の宿題を助けてよ……」

 

 

 そのとき、ロンの杖が火を噴いて、羊皮紙をちりちりと燃やしはじめた。ロンは怒りで顔を真っ赤にして「標準呪文集・二学年用」を閉じると羊皮紙に叩きつけた。

 

 

「ああもう、うんざりだ。他の話しよう」

 

「宿題の話したのお前だろ」

 

「次に宿題って言ったらこの杖を君に叩きつけるからな。……ミセス・ノリスはどうなったと思う? あれで生きてるのかな?」

 

 

 ミセス・ノリスは相変わらず姿を見せない。フィルチが挙動不審で悲嘆に暮れているのも相変わらずだ。ジュリアはこのところフィルチの罵声を聞かないせいで張り合いがないとすら感じていた。

 

 マクゴナガルは「ミセス・ノリスは生きている」と答えるが、それ以上のことを教えてくれない。言い出す機会を逃して、スネイプには聞いていない。情報不足だ。そして、その不足を埋めようと思うほどジュリアは命知らずでもない。

 

「ダンブルドアにも治せないなら、死んでるようなもんなんじゃないか?」

 

「もしかしたら、呪いじゃないのかも。魔法生物にやられたとか……」

 

「スリザリンの怪物ってやつか」

 

 

 ハーマイオニーは無言で首肯した。

 

 

「おかしなことばっかだ。ミセス・ノリスは石みたいになっちゃうし、変な声は聞こえるし、9と4分の3番線はふさがるし……」

 

「おい、9と4分の3番線がふさがったってのは聞いてねえぞ」

 

「通れなかったんだよ。だから車で飛んできたんだ。おかしなこと……そうだ、ドビー!」

 

「なんだそりゃ」

 

 

 ハリーは興奮した様子で立ち上がった。なにか重大なことを思い出したようだ。途端に談話室中から視線が刺さったので、ジュリアは慌ててハリーを着席させた。

 

 

「僕あての手紙を全部隠してたやつがいたんだ。屋敷しもべ妖精のドビー」

 

「なるほど、それで返事がなかったわけだ。……屋敷しもべ妖精?」

 

「うん、耳が尖ってて、目がぎょろっとしてて――」

 

「ぼろ切れを着てて、卑屈。なんだって屋敷しもべ妖精がダーズリー家にいるんだよ」

 

 

 ハーマイオニーに屋敷しもべ妖精の説明をしたり、ロンが屋敷しもべ妖精を管轄する部署について説明したり――魔法省で一、二を争う退屈な部署らしい――、あれこれと話しはしたが、謎が深まるばかりだった。これも宿題だ。



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穴だらけの大作戦

「何者なのかしら、継承者って」

 

 

 ハーマイオニーの何気ない一言がロンに火をつけたようだった。鼻息が荒い。談話室の隅で、名探偵ロナルド・ウィーズリーの推理が披露された。

 

 

「おいおい、もう見当はついてるだろ? サラザール・スリザリンは純血が大好き。その継承者なんだから、マグル生まれが大嫌いなやつ。僕らもよく知ってるだろ、そういうやつを」

 

「まさか……マルフォイのことを言ってるの?」

 

 

 ドラコ・マルフォイ。ジュリアの認識では、幼い差別主義者で、長いものに巻かれる、お調子者の小物だ。しかし同時に、ロンが主張するとおり彼はマグル生まれを嫌悪している。肯定する理由もないが、否定する根拠もない。

 

 ジュリアの思考が回転する。ハロウィーンの夜、マルフォイが秘密の部屋を開くのは可能か。これについては考えるだけ無駄だ。ジュリア達はハロウィーンパーティーに出席していなかったからマルフォイの所在を確認できていないし、秘密の部屋の開き方も知らない。

 

 では、ハリーを追い詰めるような噂を流すことについては。これは微妙だ。彼のスリザリン的性質が存分に発揮されたのなら、ハリーを貶めるためにそのような計略を謀ることもあるだろう。しかし、どちらかと言えばドラコ・マルフォイという少年は目立ちたがりのでしゃばりだ。現状、彼よりもハリーが目立っていることに満足するとは思えない。

 

 もうひとつ考えたいのが、しもべ妖精だ。マルフォイ家ほどの名士ともなれば、屋敷しもべ妖精を何匹抱えていようとおかしくはない。マルフォイが親に黙ってそのどれかをハリーへの嫌がらせに使っているとしたら……。

 

 沈思黙考の末、ジュリアは結論を保留することにした。情報があまりに不足している。

 

 

「んー、わかんねえな。なしとは言えねえけど、ありとも言えねえとこだ」

 

「継承者って言うくらいなんだから、代々受け継がれてきたのかも」

 

「トラピストビールじゃねえんだぞ、ハリー」

 

「とら、なんだって?」

 

 

 気にするな、とジュリアは手を振った。少し顔が熱い。ジョークが通じないというのは意外と恥ずかしく、また自信を失うのだと、ホグワーツに来てから身にしみて学んだ。

 

 グレンジャー家の居候になってからずっと酒を飲んでいない。ジュリアはハーマイオニーと酒を飲み交わす日を楽しみにしている。酔ったハーマイオニーはきっと、いや、絶対に可愛い。

 

 それはそうと、継承者の継承問題である。もしハリーが言うとおり代々受け継がれてきたのなら、なぜこのタイミングで、という謎が残る。あり得る解のなかで最も可能性が高そうなのは、ハリー・ポッターだ。ヴォルデモート卿が存命――存命と言っていいのかはわからないおぼろげな状態らしいが――である以上、その配下であったと考えられるマルフォイ家がハリーを狙うのは不自然なことではない。

 

 

「何世紀も秘密の部屋の鍵を預かっていたのかもしれない。ありえそうだろ? 秘密の部屋ができたのって、えっと、何年前だっけジュリア」

 

「だいたい千年前」

 

「じゃあ、千年もの間、継承者を継承し続けてきたのかしら。そう、そうね……なしではないと思う」

 

 

 ジュリアも同意見だった。

 

 

 ――間違っている。

 

 

「ん?」

 

「どうしたの、ジュリア」

 

「んー……いや、なんでもねえ」

 

 

 ジュリアは小さくかぶりを振った。自分の声が聞こえたなどと、言えるはずもない。これ以上謎の声はごめんだ。ジュリアはひとまずこれを空耳として片付けた。

 

 それより、問題はどうやって継承者疑惑を究明するかだ。

 

 

「証拠を掴んで、マルフォイを突き出そう。クリスマスには平和なホグワーツさ」

 

「あたしらが入学してからホグワーツが平和だったことあったか?」

 

「まあ、それはないけど……それより、どうする?」

 

「方法はあると思うけど……」

 

 

 ハーマイオニーは暖炉の前で本を読んでいるパーシーをちらりと盗み見てから、一段と声を潜めて話を続けた。

 

 

「とっても難しくて、とっても危険。それに加えて、校則をたくさん破ることになるわ。50くらい」

 

「それじゃ、ドラコ・マルフォイ様がホグワーツの城主になる前にその気になったら教えてくれよ」

 

「マグル生まれの死体で王座ができる前じゃねえと困る」

 

「今話すわよ、今。私たちがスリザリンの談話室に入り込んで、マルフォイに正体を気づかれずに、質問をするの。スリザリンの継承者とか、秘密の部屋とかについてね」

 

 

 ロンが大仰に肩をすくめた。気持ちはわからないでもない。何もかも、何もかもが無謀だ。談話室の合言葉も知らない、正体に気づかれずにマルフォイと話す方法も知らない、質問して答えを引き出す術も知らない。

 

 

「不可能だよ」

 

「私、学んだの。魔法は意外と不可能を可能にしてくれるものよ」

 

「じゃ、なにか手があるんだな?」

 

「ええ。ポリジュース薬」

 

 

 納得の声がひとつ、困惑の声がふたつ。言うまでもなく納得しているのがジュリア、困惑しているのが男子だ。

 

 ハーマイオニーの言いたいことは理解したが、ジュリアにはあまりいい手とは思えなかった。

 

 

「あー、ポリジュース薬ね」

 

「それ、なに?」

 

「先々週の魔法薬学でスネイプ先生が話してた――」

 

 

 ロンが顔をしかめた。冤罪が晴れた程度ではかのセブルス・スネイプ御大への不快感は払拭されないらしい。ジュリアも別段それを変えようとは思っていない。確かにスネイプはジュリアによくしてくれているし、ジュリアも彼のことを慕ってはいるが、その関係は依怙贔屓をする教師とされる生徒のそれと言えなくもない。そう解釈されるだけの振る舞いをしている男なのだ。

 

 その点、ハリーやロンは――彼らにとっては幸運なことに――スネイプの”寵愛”を受けていないから、安心してスネイプを嫌うことができる。ハリーなど、昨年度は命を救われたというのに、すっかり恩を忘れた様子だ。

 

 

「魔法薬学で僕らがスネイプの話を聞いてると思う? もっとましなことをやってるよ」

 

「お前らの名誉のために何やってるかは黙っててやるけど、魔法薬学のほうがいくぶん”まし”だぞ、あれは」

 

「なにやってるのよあなたたち」

 

 

 ハリーとロンは顔を見合わせると、二人して曖昧に肩をすくめた。この二人はクラップとゴイルのどちらが先に調合で失敗するかを賭けているのだが、あまりにくだらないのでジュリアは放置することにしている。

 

 

「それより、ポリジュース薬だろ。簡単に言えば誰かに変身する飲み薬だ。スリザリンの誰かに変身しようってんだな?」

 

「そう。私たち4人で、スリザリンの誰か4人に変身するの。マルフォイはきっと自慢したくて仕方がないから、私たちになんでも話してくれるわ」

 

「それって、戻らなかったらどうなるんだ? 僕いやだぞ、一生スリザリンの誰かのままなんて」

 

「そんな長続きする薬じゃねえよ。なるほど、ポリジュース薬か……」

 

 

 成功するかどうかはともかく、ポリジュース薬を調合してみたいという興味がジュリアの中で首をもたげていた。時間がかかることを除けば、さほど難しい薬ではない。それだけに、ジュリアの悪戯心に無用な刺激を与える可能性を考慮したのか、ジュリアの母はジュリアに調合法を教えなかった。

 

 加えて言えば、校則だけでなく法的にも少々危ない薬だ。悪用しようと思えばいくらでも悪用できる薬であるため、特別な免許が必要になる。密造したところで刑罰の対象になるわけではないが、少なくとも法的に禁じられていて、足がつかないように調合しなくてはならないのは確かだ。

 

 あまりに不確定要素の多い、不明瞭な計画だ。しかし、ジュリアは好奇心に負けた。

 

 

「よし、やろう」

 

「そうこなくっちゃ。ジュリア、材料知ってる?」

 

「いや。『最も強力な魔法薬』に載ってるんだったか。あれ禁書だよな、前に探しててマダム・ピンスにどやされたぞ」

 

 

 あれは純粋な学術的好奇心によるものだった。頭冴え薬がどのようにして脳神経系に作用するのかを調べていて、読んでいた論文が『最も強力な魔法薬』を参照していたのだ。

 

 

「うーん、許可証にサインが必要ね……。白紙の許可証自体はもしもの時に備えて持ち歩いてるんだけど」

 

「下手にサインもらいにいくと怪しまれるし、そうじゃなくても足がつくな。どうする?」

 

「理論的な関心だって押し通せばいけないかしら」

 

「それで騙されるのはだいぶ鈍いだろ。魔法薬学学会の会報を図書館から引っ張り出して、ポリジュース薬を扱ってる研究者を見つけて、手紙を送るとか……」

 

「難しい話してるところ悪いけど――」

 

 

 ロンが声を上げた。

 

 

「鈍い先生なら、僕らよく知ってるだろ?」

 

 

 不可解そうな顔をしているのはハーマイオニーだけだった。



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