キッテル回想記『空の王冠』 (c.m.)
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主人公 略年譜(ネタバレ有)

 年数の記載が多くなったり、主人公があちこちに行っているので、纏めてさせて頂きました。


※撃墜数は公式記録によるものになります。

 

ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテル略歴

統一歴満年齢項目受勲戦果(累計)

1899年11月0歳長男として出生

1902年3歳乗馬を父に乗せられて経験。

1903年4歳一人で馬に乗れるよう練習を始める。

1904年5歳お抱えの医師から魔導師適正なしと診断。

以後、陸軍軍人としての教育を父と家庭教師から受ける。

1906~

1908年

7~

10歳

狩猟とフェンシング、器械体操などを嗜む。

1910年11歳士官候補生となるべく、帝都ベルンの上級学校に入校。

1911年12歳上級学校を二年飛び級。卒業までの期間は計4年に。

1915年16歳上級学校卒業。

士官学校入校。

・曲馬徽章

1916年17歳

・黄金(最優秀)馬術徽章

1917年18歳士官学校卒業。

少尉任官後、帝国近衛槍騎兵(ライヒス・ガルデ・ウラーネン)第一連隊配属。

・フェヒター章

1918年3月19歳空への憧れから、新設された帝国陸軍航空隊に転属。

4月航空隊員として一ヶ月の基礎訓練。

5月南方大陸の帝国保護領ファメルーンへ。

以降約半年間、国境付近で連合王国・共和国との小規模戦闘に参加。

初任務で魔導士官一名撃墜。

・野戦従軍章(二級)

・空戦技能章

・野戦航空戦技章

6月魔導師4名、戦闘機1機、偵察機1機撃墜の功で中尉進級。

・野戦従軍章(一級)

・二級、一級鉄十字章

8~

12月

・白金十字

・航空突撃章

・魔導師22名

・戦闘機6機

・偵察機2機

1919年1月20歳空軍開設に伴い、陸軍から転籍。

2月教官としての内地勤務に伴い、大尉進級。

1920年2月21歳教練終了に伴い、前線に復帰。帝国領ノルデンに出向。

5月魔導小隊救出の功により銀翼突撃章受章。

同時に帝国軍統帥より直接授与される規定であった為に、手付かずであった勲章を受章。

・銀翼突撃章

・黄金柏剣付白金十字

・柏葉剣付白金騎士突撃章

・魔導師58名

・戦闘機17機

・偵察機2機。

7月ノルデン領の戦線膠着(安定)に伴い、ファメルーンに転属。

8月ファメルーン反乱軍掃討戦に従事。

同月、戦闘機による地上攻撃を成功。

9月20日新型機にて多大な戦果を上げる。

以降、新型機による出撃での魔導師の撃墜スコアカウントは禁止。

・魔導師82名

・戦闘機35機

・偵察機9機。

11月15日皇帝(カイザー)よりフュア・メリット勲章を。

帝国軍統帥より黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字を受章。

・フュア・メリット

・黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字

・魔導師82名

・戦闘機62機

・偵察機9機

12月1日シャルロブルク軍大学校入校。

空軍指導部の早急な人材確保の為、在学期間を一年に圧縮。

在学中『戦略爆撃』『電撃作戦』『爆撃機運用論』を執筆。

1923年6月24歳帝国領ノルデンの新設基地査察中、協商連合軍越境の報を受ける。

(中央大戦開始)

中佐に進級後、空軍総司令官の副官として中央参謀本部に出頭。

柏付銀翼突撃章

・魔導師82名

・戦闘機88機

・偵察機9機

・爆撃機1機

8月南東戦線(ダキア戦役)に参加。

・魔導師82名

・戦闘機322機

・偵察機9機。

・爆撃機1機。

9月ダキア大公国、帝国に降伏。

本国指導部勤務と進級を言い渡されるも撤回。

ライン戦線に参加。

11月本国指導部の命により、ライン戦線から送還。

本国指導部勤務。

・黄金柏葉剣付白金騎士突撃章

・魔導師82名

・戦闘機365機

・偵察機12機。

・爆撃機8機。

1924年1月25歳大佐に進級。

1925年6月26歳レガドニア協商連合への攻勢を開始。

6月23日協商連合に派遣されたアルビオン艦隊を空爆。

11月20日レガドニア協商連合が帝国に降伏。

1926年3月27歳共和国軍の撤収行動『方舟作戦』阻止の為、独断で軍を動かした結果、一時逮捕・拘留を受けるも無罪判決を得る。

4月1日フランソワ共和国、アルビオン連合王国双方が帝国に降伏。・戦勝メダル(アルビオン・フランソワ戦役)

6月21日ルーシー連邦、帝国に対し奇襲攻撃と侵攻を開始。

6月22日帝国がルーシー連邦に宣戦布告。

東部戦線に参加。

7月初の被撃墜。戦域から帰還後、一週間入院。

・魔導師82名

・戦闘機405機

・偵察機12機

・爆撃機11機

8月ターニャと婚約。

退院から一週間後、軍務に復帰。

9月協商連合に派遣される。

協商連合との秘密協定の一環として、協商連合との次年の春季攻勢に向けて協商連合の空軍教官を務める。

10月空軍総司令部から、女性捕虜の保護を言い渡される。

1927年2月28歳ルーシー連邦軍、帝国に対しての再攻勢と、協商連合への侵攻を開始。

レガドニア協商連合、ルーシー連邦への宣戦布告と帝国との軍事同盟を締結。

1928年1月29歳少将進級に伴い本土に帰還。

戦闘爆撃機総監職に着任。

・黄金柏葉剣ダイヤモンド付白金騎士突撃章

4月戦闘爆撃総監職を解任。東部に復帰。

6月連邦軍赤色空軍、帝国本土の水素化合工場を空爆。

7月帝国軍、核ミサイルを連邦領に発射。

モスコー上空にて、シェスドゥープ親衛中佐と交戦。

8月1日中央大戦、終結。終戦記念日を制定。

・魔導師82名

・戦闘機449機

・偵察機12機

・爆撃機19機。

 

 



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帝国軍叙勲規定(勲章類の設定)

※この規定は本作品の中だけの独自設定である事を、予めご留意ください。
※原作と同様の設定は、巻数等ソースを記載しています。


【パイロット・航空魔導師の撃墜点数における、帝国軍戦功章叙勲規定】

 

 ※剣付白金十字以上の軍事功労勲章は、本国軍統帥より直接授与。

 ※勲章の授与に関してはポイントだけでなく、この他にも勤務態度や出撃回数、

  地上兵器の撃破や遂行任務の難易度なども戦功評定として加味されます。

 

(統一歴1918~1921年)

【授与基準に基づくポイント】

 ※共同スコアの場合、ポイント数は対応人数によって最大五分の一減。

 

【航空魔導師】

 魔導師1名=1ポイント

 戦闘機1機=0.5ポイント

 偵察機1機=0.25ポイント

 

【航空隊員(パイロット)】

 魔導師1名=1ポイント

 戦闘機1機=1ポイント

 偵察機1機=0.5ポイント

 

   2ポイント=二級鉄十字

   5ポイント=一級鉄十字

  15ポイント=白金十字

  30ポイント=剣付白金十字

  50ポイント=黄金剣付白金十字

  70ポイント=黄金柏剣付白金十字

 100ポイント=黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字

 

     ◇

 

(統一歴1921~1923年8月)

【授与基準に基づくポイント】

 ※共同スコアの場合、ポイント数は対応人数によって最大五分の一減。

 ※魔導師と航空機との性能・高度差から来る住み分けに伴い、魔導師による航空機撃墜及び、航空機による魔導師撃墜は、1921年以降撃墜数にカウントせず。

  但し、撃墜スコアに登録されないだけで、魔導師・パイロットによる双方の撃墜そのものは論功行賞に加算され、他の叙勲の評定基準にも影響される。

  この他にも、魔導師による航空機撃墜ないし、航空機による魔導師撃墜は、叙勲推薦の順位繰上げや賜休期間の増加といった特典が得られる。

 

【航空魔導師】

    士官魔導師1名=1.5ポイント

 兵・下士官魔導師1名=1ポイント

 ※戦域、相手国、敵演算宝珠の性能によってはポイントの増減有。

 

【空軍パイロット】

 大型爆撃機(四発機)1機=3ポイント

 中型爆撃機(双発機)1機=2ポイント

        戦闘機1機=1ポイント

        輸送機1機=0.25ポイント(撃墜数にはカウントせず)

        偵察機1機=0.25ポイント(撃墜数にはカウントせず)

 ※共同スコアの場合、ポイント数は対応人数によって最大五分の一減。

 ※戦域、相手国、敵機性能によってはポイントの増減有。

 

   3ポイント=二級鉄十字

   5ポイント=一級鉄十字

  25ポイント=白金十字

  50ポイント=剣付白金十字

 100ポイント=黄金剣付白金十字

 150ポイント=黄金柏剣付白金十字

 200ポイント=黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字

 

 


 

 

【突撃章の授与規定】

 ※全6等級。

 ※()()()攻勢の先鋒を務めた『部隊』に一般突撃章を授与(原作1巻P78)

 ※部隊内で確固たる功績を収めた『個人』には柏()付突撃章を授与(原作1巻P78)

 

【突撃章等級】

 【功六級】※1回の攻勢で授与。

  ・一般突撃章(部隊授与)

  ・柏葉付突撃章(個人授与)

   ※『一般』の部分は所属組織に応じて名称が変更され、デザインも所属ごとに異なる。

    例:空軍・魔導師→航空突撃章。

         地上軍→歩兵突撃章・戦車突撃章など。

 

 【功五級】※3回の攻勢で授与。

  ・騎士突撃章(部隊授与)

  ・柏葉付騎士突撃章(個人授与)

 

 【功四級】※5回の攻勢で授与。

  ・白金騎士突撃章(部隊授与)

  ・柏葉付白金騎士突撃章(個人授与)

 

 【功三級】※10回の攻勢で授与。

  ・剣付白金騎士突撃章(部隊授与)

  ・柏葉剣付白金騎士突撃章(個人授与)

 

 【功二級】※15回の攻勢で授与。

  ・黄金剣付白金騎士突撃章(部隊授与)

  ・黄金柏葉剣付白金騎士突撃章(個人授与)

 

 【功一級】

  ※功二級『柏葉』突撃章(黄金柏葉剣付白金騎士突撃章)受章者である事が前提。

  ※攻勢の『大小を問わず』攻勢参加回数(先鋒である必要はない)が計100回に到達した『個人』に授与。

  ・黄金柏葉剣ダイヤモンド付白金騎士突撃章(個人授与のみ)

 

 


 

 

【各種突撃章授与規定】※一般突撃章と異なり、個人の貢献、能力を評価し授与される。

 

 【銀翼突撃章】

  ※危機的状況に置かれた友軍部隊を救った個人に授与。

  上官の推薦でなく、救出された部隊指揮官の推薦(指揮官死亡の際は最先任が推薦する)によって授与される規定。授与規定が熾烈なものであることから、受章者の大半が死後追贈となっている。(原作1巻P79)

 

 【野戦突撃章】※突撃を行った個人に授与。

         突撃時、勇敢な行動と認められた個人には1回目に授与(通常は3回)。

 

 【白兵突撃章】※全3等級。装甲兵力支援なしで近接戦闘を行った個人に授与。

 ・白兵二級突撃章

  ※15日間装甲支援なしで近接戦闘を行った個人に授与。

   激戦区と認む戦域勤務者ないし負傷者、東部戦線の勤務者は10日間の近接戦闘で授与。

 ・白兵一級突撃章

  ※30日間装甲支援なしで近接戦闘を行った個人に授与。

   激戦区と認む戦域勤務者ないし負傷者、東部戦線の勤務者は20日間の近接戦闘で授与。

 ・白兵特級突撃章

  ※50日間装甲支援なしで近接戦闘を行った個人に授与。

   激戦区と認む戦域勤務者ないし負傷者、東部戦線の勤務者は40日間の近接戦闘で授与。

 

 


 

 

【傷痍・戦傷における規定】

 ※傷痍・戦傷認定は前線勤務ないし、特別の理由と認め得る場合のみ対象とされる。

 

・傷痍徽章(傷痍メダルとも)

 ※1回の負傷で授与(等級なし)

・戦傷十字章

 ※5回の負傷で授与。

 ※『極めて危険度の高い』任務に従事し、負傷した場合。

   もしくは失明や四肢の切断、再起不能と診断された軍人や軍事協力者は1回の負傷で授与。

 

 


 

 

【後方勤務者における叙勲規定】

 ※後方での功労(例:医療・研究・諜報活動等の情報収集など)は『白翼』を付された鉄十字。

  もしくは所属に応じた各種勲章類を授与される。

 

 【白翼鉄十字】※全4等級。直接戦闘以外において、顕著な功績を上げた個人に授与。

  ・二級白翼鉄十字

  ・一級白翼鉄十字

  ・白翼大鉄十字

  ・白翼大鉄十字星章

 

   ※蛇足だが『白翼』は血と泥の汚れを知らぬ『無垢な翼』と前線勤務者から一段下に見られる傾向にある。その為、白翼鉄十字と鉄十字の双方を授与された場合は、白翼鉄十字を通常の鉄十字(戦功章)より上の位置に佩用する規定が存在する。

 

 【技術鉄十字】

  ※等級なし。兵器開発において、顕著な功労を果たした個人に授与。

   直接開発した技師だけでなく、開発協力者も授与の対象とされる。

 

 


 

 

【他、各種メダル、徽章、功労賞(章)の授与規定】

 

 【空戦技能章】

  ※等級なし。一般に幼年・士官学校その他の軍学校で、航空戦技能を認められた軍関係者に授与される。

   陸軍航空隊が開設されてからは航空隊員も授与対象となり、前線勤務中に一定の成果を収めたパイロットにも授与された。

   帝国空軍開設後は、原則として航空学校生徒が授与対象となる。

 

 【野戦航空戦技章】

  ※等級なし。前線で卓越した技能を示した魔導師・パイロットが、上官から推薦を受けることで授与される。

 

 【参謀徽章】

  ※等級なし。軍大学その他で参謀教程を修了した将校に授与。参謀本部勤務ないし、参謀としての職務に従事する立場にない軍人でも佩用し、参謀の二文字を階級の手前に付す事を許される。

   なお、正規参謀として勤務する参謀将校には、参謀飾緒の着用が義務付けられる。

 

 【塹壕功労賞】

  ※全2等級。塹壕内で一定日数戦闘を行った個人。

   もしくは塹壕内での戦闘で、一定の功労が認められた個人に授与。

 

  ・塹壕二級功労賞

   ※塹壕内で合計30日間戦闘を行った個人が授与。

  ・塹壕一級功労賞

   ※塹壕内で合計60日間戦闘を行った個人。もしくは陣地防御において卓抜なる指揮

   ないし戦闘を行った場合や、敵塹壕内にて勇敢な戦闘を行った個人に授与。

 

【野戦従軍章】

 ※全2等級。従軍記章とは別に制定されている、歴とした功労章。

  従軍時に直接敵と戦闘を行った将兵に授与される。

 

 ・二級野戦従軍章

  ※一度の直接戦闘を行った将兵に授与。

   実戦経験者の証とされており、義務兵役を終えた徴募兵はこれを得ているかで地元での扱いが変わるほど名誉なものとして扱っている。

   通常、野戦従軍章といえば二級を指す。

 ・一級野戦従軍章

  ※一〇回以上の直接戦闘を行い、上官から勇敢な行為であると推薦を受けた将兵に授与。

 




 漏れがないように設定だけは書きましたが、これらの勲章のうち、作品内に出てこない物の方が多そう……。



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00 注意事項と註釈

前書きと注意事項

 

 本作品は『幼女戦記』の二次創作になります。

 物語の都合上、原作と設定・時系列等が乖離している部分がある事を予めご留意ください。

 

【以下、注意事項】

 

※クロスオーバータグは物語後半に、幼女戦記以外の版権作品から、三名キャラクターを出演させた為、付けさせて頂きましたが、物語に大きく関わる事はなく、殆ど名前だけの出演となります。

 

※主人公の苗字はキッテルですが、ドイツ空軍軍人のオットー・キッテル空軍中尉殿とは無関係です。(主人公の名前と姓は不完全なアナグラムですので、元ネタとかはありません)

 

本作は以下の内容を含みます。

 ・オリジナル主人公による自伝風の物語。

 ・主人公を含む一部登場人物の、実在人物をモチーフとした経歴や思想、エピソード。

 (有名な部分ではルーデル大佐殿やリヒトホーフェン大尉殿など)

 ・原作登場人物の独自設定・性格改変。

 (主にタネーチカ政治委員さん。あの人11巻時点で詳細設定明かされていなかったので)

 ・多数のオリジナル設定。

 ・オリジナルの登場人物(複数)。

 ・幼女戦記(書籍・web版)では登場しない勲章・記章類。

 ・政治思想的発言。

 ・書籍版とは異なる組織名(例:参謀本部→中央参謀本部[漫画版])

 

 また、本作品を執筆するにあたって原作から改変している部分は多くありますが、大きなものは以下の二点です。

 ・他国と帝国との条約締結時期の変更。

 ・史実ドイツ寄りの登場人物の独自呼称。

  ※原作幼女戦記では一代限りの貴族称号にフォンのみを記載していますが、バイエルンをはじめドイツの一代貴族にはフォンの前にリッター(勲爵士)と入れますので、本作品ではそのように表記させて頂きました。

   (実在人物を例に挙げますと、ドイツ陸軍大将フランツ・リッター・フォン・エップ閣下がこれに該当します)

   また、軍大学などで参謀課程を修了した将校(佐官まで)は、参謀として勤務していない場合でも階級の前に参謀と付されますので、本作品でもその様にさせて頂きました。

   (ただ、混乱を避けるため「○○参謀中佐殿」という風に口頭では余り言わなかったそうなので、本作品でも地文での記載のみですが)

   ですので、軍大学卒業後のデグ様のお名前と呼称は、

   ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフ参謀○○(○部分には階級を付す)

   とし、これを軍大学卒以降の正式な呼称に致しました。

 

以上が問題ない方は、本作をお楽しみ頂ければ幸いです。

 

 なお、以下の内容は回想録風の物語を作るに当たって用意した、秋津島の訳者さんによる註釈(という設定)です。

 物語そのものは次話からですので、こちらは斜め読みして頂いても大丈夫です。

 

 


 

 

訳者註釈

 

 本書は一九六七年にWorld Today's News通信社、アンドリュー氏が連合王国ならび合州国向けに翻訳した『N.v.Kittel memories “Sky Crown”(原題:Die Krone des Himmels)』を邦訳したものである。

 

 原著からの完訳を望まれる声は多かったが、アンドリュー氏とフォン・キッテル夫妻の対談など、連合王国公用語(クイーンズ)訳のあとがきは、原著者を知る上で意義あるものと信じたため、当出版社はこちらから訳させて頂いた。

 

凡例

 

 一、連合王国公用語(クイーンズ)訳が出版された後に問題とされた誤記・誤植・誤訳については可能な限り原著と照らし合わせ、修正した。これらに関しては註記する必要はないと当出版社と訳者は判断した。

 

 二、コールサイン等、一部カナ表記はライヒ語でなく、連合王国公用語(クイーンズ)の訳を採用しているが、こちらは現在の秋津島人に定着しているため、そちらをそのまま採用させて頂く。

 

 三、ことわざ等、註訳が膨大となるものに関しては、一部を秋津島のそれに置換させて頂いた。

 

 四、国際基準においては五機撃墜をエースとし、秋津島では一般にこれを撃墜王と訳すが、帝国(ライヒ)の論功行賞においては五〇機撃墜した魔導師ないしパイロットをエース・オブ・ザ・エースと定め、数多くの特典を設けていたのに対し、五機撃墜した者をエースとして登録するに止めていたことから──撃墜数に値する叙勲は有──本書ではエースをカナ表記で記すか、秋津島語で記載する際は一流と訳し、エース・オブ・ザ・エースに撃墜王の訳を当てる。

 

 五、連合王国公用語(クイーンズ)訳では火砲・機銃を問わずミリ単位に置換しているが、帝国(ライヒ)では弾丸ないし砲弾直径が二〇ミリ以上の物は火砲に分類される。本書では原著に従い、センチ表記に再度修正した。

 

 六、原文内の原註に関しては文中に*1・2・3……と記載し、各話の末に掲載する。

 

 七、原文内の訳者と出版社の補註に関しては、各文に◆1・2・3……とルビを振り、原註の手前に分けて記載させて頂いた。

 

 八、連合王国公用語(クイーンズ)訳者・邦訳あとがきの補註に関しては原註と同様に*1・2・3……と記載し、各話の末に掲載する。

 

 

 本書の邦訳を担当させて頂いた幸運と出版社に感謝を。

 

 統一歴二〇〇一年 八月一日

岩本三郎

 




 出来るだけ回想録風の物語らしくしようと描写に拘ったけど、需要なさそう……。


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01 誕生-軍人となる為に

表紙 
【挿絵表示】

※2020/2/20誤字修正。
 410さま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!



 しんしんと降る雪が屋根へと積もり、いよいよ本格的な冬の到来を知らせる頃、私は暖炉の温もりと、家族の愛情に守られながらこの世に生を享けた。

 普段であれば黒檀に銀細工の握りをあしらったステッキを手に、厳しい表情を崩さぬ父上が、その相好を好々爺のように崩し、蓄えた髭を私の頬にこすると、私は一層声を上げて泣き腫らしたと言う。

 一八九九年の一一月。帝国北東部の片田舎といっても差し支えない、長閑な土地に生まれたキッテル家の長男は、四つ程離れた姉上と両親の接吻と、父上が帝都ベルンより招き寄せたヨハン・クラメル上級宮廷説教師の洗礼によって、この偉大なる祖国に尽くす栄誉と機会を与えられた。

 

 帝国北東部は他に知られている通り、土地こそ痩せていたが、幸いにして我が家の領地に餓死者が出るような飢饉は一〇〇年以上なく、従って私ことニコラウス・アウグスト・フォン・キッテルもまた、逞しい肉体を作る事に不自由しなかった。

 

「ニコ、お祖父様に挨拶なさい」

 

 金髪の美しい母上は、物心ついてすぐの私の手を引いて肖像画の前に立たせた。

 そこは、今日という日まで入る事を許されなかった父上の──より正確には歴代キッテル家当主の──執務室であった。

 

「ニコラウスよ、忘れてはなるまいぞ。我が家はかの兵隊王の治下より、この地の領民に尽くし、身命を以て忠を捧げた。我が家は過去も未来も、そして現在も、帝国に仕え続ける」

 

 無論、お前も。と父上は私の肩に手を置いた。肖像画の祖父は煌びやかな勲章を胸に飾り、プルシアンブルーの軍服を纏う厳格な武人であり、正に帝国の範とする質実剛健なる軍人を体現する人物だった。

 決して大きくはない肖像画に描かれた祖父は、しかし物心つくかどうかという幼子の私にさえ、威風堂々足る風格を知らしめていたのである。

 執務室に飾られている我が家の人間は祖父のみであり、他は全て当家が仕えてきた歴代の国王ないし皇帝(カイザー)であった。

 これはキッテル家の慣習であり、執務室に置かれるのは他界した先代当主に限られ、次代の当主がその席に就く毎、先代の肖像画は他の父祖の肖像画と同じく広間に飾られる。

 この時の私は執務室に漂う、独特の空気に圧倒されて固まるばかりであったが、父上は自分もそうだったと言うように微笑を浮かべ、壁に立てかけられた宝剣を、白手袋の填められた手にとった。

 デュペー、アンゼン、グレツケニッヒ……何れも祖国の歴史に名だたる激戦地の名で飾られた剣身の飾り文字は、その地でキッテル家の父祖が赫々たる武功を重ね、古プロシャ王(◆1)から現代の帝国までの時代に送られた物である。

 

「私は未だ、この剣に新たな土地を加える事は叶わない。だが、お前ならば叶うやも知れん」

 

 前もって告白すれば、父、エドヴァルド・フォン・キッテルのそれは、息子への期待ではない。あくまでこれは、貴族として当然の義務を果たせと言っていたのだ。

 自分で言うのも何であるが、貴族とは恵まれた存在である。孤児のように親を知らず、或いは親や世を憎み生まれ育つ事もなければ、寒さに凍え震える事も、飢餓に苛まれる事もない。

 多くの特権を持つ事を人生の中で約束されている以上、それに相応しい勤めを果たす事は、当然の義務に過ぎない。

 例えそれが、いま齢五歳になろうという子供の理解には及ばずとも、これは時が経てばその肉体と魂が、高潔な義務を果たせるよう動ける為の、将来に向けての儀式なのだ。

 

 

     ◇

 

 

 そこから先、私が育った環境はプロシャ軍人としての厳格なる道であった。

 父上は私に家庭教師を付ける一方、自らもまた軍務の傍らに教鞭を執り、古今東西からなる戦史と作戦、そして兵卒としての基礎を私に叩き込んだ。

 丸一日の休みなど存在せず、安息日の午前か午後の一方、或いは教会のミサだけが、与えられた自由な時間であったが、私自身、厳格な家庭というものが当然であり、それを苦と思う事は一度としてなかった。

 むしろ、軍隊という世界を伝説の英雄譚の一幕のように見ていた感が否めなかったし、何より両親や家令らの愛情は本物であったのが大きかったのだろう。

 それこそ、休みなどあろう筈もない父上が、幼い頃の私を腕に抱きながら馬に乗せては湖畔を駆け回り、九になり手足が支えられるようになれば、猟銃を手にしては私に狩りの作法を教えてくれた日の事は、今も瞼を閉じれば想い返すのに難はない。

 

 目まぐるしいまでの毎日は、常に青春と情熱と、何より新しい物を見つける事に溢れていた。私は家庭教師がいる為に学校には通っていなかったが、それでも運動は学校の施設を父上の口利きで使わせて貰い、生徒らとも友誼を育んだ。

 学校一背が高く、腕も長いミールケのフェンシングの剣捌きは鋭く見事で、器械体操で柔軟な動きを見せるアルフォンスは、中性的な顔立ちと肉体美も相まって、同年代の子女らに大層人気であった。

 私はこの二人に取り入ろうという気はなく、むしろやんちゃ盛りで負けず嫌いであった為に、何としても勝ってやろうと躍起になったものだが、結局剣士としてはミールケには及ばず、動きの精細さでは、やはりアルフォンスこそ一番だと膝を折ったまま、私は彼らが卒業するより早く、士官候補生になる前段階として、帝都の上級学校に送られる事になってしまった。

 キッテル家の男児は皆、一一になる年に軍人としての一歩を歩むのがしきたりだったからだ。

 

「ニコ。お前、言ってた通り、本当に軍人になるんだな」

 

 何を今更と肩を竦める私に、アルフォンスは目尻に涙を湛えて私を包容し、次いでミールケも私を抱きしめた。

 

「腕を磨いて、俺に一本取れるようになって来い」

 

 平民でありながら敬語を用いないのは同年代ということもあるが、それ以上に私が彼らを対等な存在としたかったという我が儘からでもある。

 とはいえ、この時代でも、未だ封建的な習慣が根強く残る地方のことだ。当初、親友の御両親は私との会話に目を丸くし、実家に謝罪に来たことがあるが、私の両親は二人の父母に笑って。

 

「息子を負かせるような強い御子息をお持ちとは。帝国臣民として、誇らしいものです」

 

 と。そのまま夕餉に招いて、貴重な仔羊をテーブルに載せて振舞った。

 常に質素と清貧を尊ぶあの父上が、私に友人が出来た事を喜んで大盤振る舞いをして下さったのは、私の思い出の中でも特に喜ばしい一幕である。

 そんな二人の親友との別れには、私も胸にじんと込み上げるものを抑えきれなくなりそうであったが、しかしこれは帝国軍人としての門出であり、感情を爆発させるなどというのは、将来の士官には許されざる事である。

 喜びも悲しみも、理性の内であらねばならぬ。私はぐっ、と拳を握り、涙も声の震えも飲み込んで、凛と背筋を伸ばして胸を張り、二人を優しく、卵を割らぬようにするように包容し返した。

 二人の目には、自分がまるで年の離れた大人のように映ったのかも知れない。だが、それが貴族というものなのだ。キッテル家の長男、ニコラウスは上級学校の門を未だ潜らずとも、折り目正しき軍人の卵なのだ。

 

「二人に出会い、友誼を結べた事は何物にも代え難い宝だった。勤め故、死の淵に立つ事になるとても、この日を思い出せば、私は孤独を思わず高き所に逝けるだろう」

 

 芝居掛り過ぎている事は承知している。しかし、こうした大仰な仕草でなければ、大人のように背伸びをしなければ、私は頬に雫を垂らしてしまう。

 私は纏めた荷を手に馬車へ乗り、家族の待つ駅へと向かった。

 

 駅での別れ際、嫁ぎ先から見送りの為だけに足を運んで下さった姉上は目元を拭いつつ、私にリネン生地のハンカチを手渡された。私のイニシャルに加え、『幸運を』という言葉の入った刺繍は、姉上が手ずから針で入れて下さったものだ。

 将来は自分と同じように列車に乗るだろう弟も、誇らしげな中に寂しさを隠していたが、それを必死にこらえていた。

 胸を張って見送って下さった母上は出発間際、私の首に銀のロザリオをかけられ、軍人の、キッテル家の夫人に相応しい、堂々たる声で激励を送った。

 

「お行きなさい、ニコラウス。逞しい軍人におなり」

「行って参ります、母上。皆も、どうか息災で」

 

 濛々と煙を吐き、高い音を響かせて、列車は私と故郷を引き離して行く。

 窓辺から、姉上と歩んだ湖畔が見えた。父上や弟と共に馬で繰り出した草原が見えた!

 これぞ我が故郷! 西部の神々しい聖堂と古城の聳える古都よりも、南部のバロック様式溢れる絵画の如き都よりも、私にはこの長閑な大地こそが素晴らしい!

 私がキッテル家の人間でなければ、一人の貴族でなければ、今すぐにでも窓を開け、身を乗り出して涙を風に運ばせただろう。

 

 母上! 姉上! 我が弟、エルマー! エミール! アルフォンス!

 

 親しい人の、肉親の名前を次々に叫びながら、私は嗚咽と共に故郷に別れを告げられたならば、この胸の裡を吐き出せたならば、どれだけ幸福なことだろうか?

 だが、それは決してしてはならない事である。軍人の卵が、別離を惜しむ妻や子女のようにわんわんと泣き腫らしてしまうような真似が、どうして出来ようか?

 私は一冊だけ家から持ち出した詩集を開く。文学は偉大だ。感動も、情熱も、文字の中に閉じ込めて万人を何世代に渡って魅了し、大人へと教育させてくれる。

 

 この世に本がなければ闇とは、正しく至言である。

 

 私は本の世界に入ることで、現実と切り離そうとした。だが、今まさに本著の執筆を務める傍ら、私の執務室にあるその本には、数滴の涙の痕が残っている。

 

 

     ◇

 

 

 長いようで短く、遠いようで近く感じる列車での短い旅を終え、私は上級学校の宿舎に足を運んだ。

 既に日は沈み、夜も更けていたが、私が今日この時間に来ることは前もって電報で報せていた為、分厚い格子の門を潜る事に問題はなかった。

 上級学校は基本的には私と同じ貴族か、或いは中流階級以上の比較的裕福な家庭の子息が入校するが、宿舎に関しては連帯感を高める為と、何よりも温室育ちからの脱却の為に、相部屋となる事を定められている。

 入寮し初めのヒヨっ子は抵抗があるだろうが、士官学校に入校すれば──少なくとも貴族は──個室が与えられる為、この()()で六年間の、それなりに長い宿舎の生活を苦難の時と割り切るのであるが……この程度のものは、後に語る逃れられぬ問題に直面するまでの、ささやかな準備期間に過ぎない。

 消灯時間はとうに過ぎていたが、幸いにして入校前に地方から訪れる者は自分を含めて多く、晴れがましい席に着く多くの少年少女らを迎え入れる為に、入校前のひと月は、列車の最終便から二時間は明かりが灯されていた。

 

「私はノルケ・フォン・ヘルドルフ。西部から来た。貴君は?」

 

 相部屋となった同期生からかけられた、簡素ながらも宮廷作法に則った優美なイントネーション。フォン・ヘルドルフは、そのベッドからの立ち上がりも動作も含めて、実に非の打ち所のない都会人という様を有りありと見せつけた。

 

「ニコラウス・フォン・キッテル。北東部からだ」

 

 指定された番号の簡素なベッドの下に最低限の荷を置き、差し出された手を固く握り返す。恐らくはフェンシングによるものだろう。右の腕は左のそれと比べやや太く、端正な顔立ちに反して、指も太く硬質なものだった。

 

「貴族の御子息が二人に平民が二人。バランス取りかな? 自分はバルヒェット。こっちの大人しいのがディール。姓はどっちもリューガーだけど、兄弟じゃないし出身も違うから、気を付けてくれ」

 

 私が間違えてね、と。フォン・ヘルドルフが苦笑するが、言われなければ私とて双子の兄弟か、それとも両親が機を見て年の近い兄弟を離れさせまいと、揃って上級学校に入れたのだと勘違いしただろう。

 

「宜しく。親しい者は私をニコと呼ぶ。皆にも、そう呼んで貰えれば幸いだ」

 

 こちらこそと固い握手を交わし、ファーストネームを呼び合う仲になると、私は皆を改めて見直す。この四人の内、全員が揃って卒業する事はない。だが、初めの一年に限っては――脱走や退学といった不名誉な事態に陥るか、何かしらの事情を抱えて去らない限り――私達はルームメイトとして苦楽を共にして行くのだ。

 

 

     ◇

 

 

 翌朝、我々は絆を深め、苦楽を共にする上で、そして軍人のヒヨッ子としての洗礼を入学初日に味わう事になる。

 

「これはまた……」

 

 酷い臭いだと言いたいのだろう。だが、臭い以上にこの光景にバルヒェットとディールは絶句していた。

 朝、尿意を催してトイレに足を運んだ我々が目にしたのは、二〇名は一度に用を足せるであろう共用トイレで、半数近い生徒がチラチラと周囲を窺いながら、或いは気恥ずかしさ故に顔を伏せながら用を足している姿だったのだ。

 

「ドアも鍵もなしなの?」

 

 まるで列車の席の様に、向かい合わせで便座に腰掛ける少年達の姿を前に、神の存在を否定された敬虔な信徒のような面持ちでディールは声を震わせた。

 ここで読者諸氏は、私達の誰もが、宿舎のトイレ事情を知らなかった事に疑問を抱くだろう。しかし、これは上級学校が入学初日の朝までトイレの入口を見張り付きで封鎖し、尿意・便意をこの時間帯に催すように狙って、前日の夜間二〇時まで教官達が使用するトイレを貸し与えていたのである。

 

「ここが特別じゃないぞ。何処の兵舎でも、同じような物だ」

 

 本当に? とノルケの言にディールは耳を疑っているようだが、純然たる事実である。違いがあるとすれば、便座の足元に紙片の入った籠が置かれている事か。

 実際の兵舎に紙はなく、各自が読み終えた古新聞やらビラを破って尻を拭くのだが、どうやら後に聞いた話によると、心優しい上級生らが籠を用意して下さったらしい。

 籠の紙片には『一人じゃ尻拭き紙も用意できないお坊ちゃま達へ』『次は左手で拭くように』などと、実に心温まるメッセージまで寄せて下さっていたが、中には用意周到な手合いも居たようで──私やノルケもその内の一人だが──彼らは腰部のポケットから自前の紙片を取り出して尻を拭いていた。

 とはいえ、いつまでも男共が用を足す姿を眺めている訳にも行かない。

 

「する事をして、早く出よう」

 

 羞恥心もあったのだろうが、バルヒェットの提案は実に合理的である。塹壕で用を足すのに時間を掛け、砲弾で吹き飛ばされるか、間抜けにも尻や逸物を出したまま銃で撃ち抜かれるような死に様だけは、軍人としても一個人としても御免蒙りたい。

 が。ディールと言えば、もじもじとするばかりで動けないでいる。

 

 ははあ、どうやらでかい方だな、と私は察し、ここは父上に連れられた事で、少しばかりは兵舎生活の経験がある先輩として背を押してやろうと、烏滸がましくも特に便意が込み上げている訳でないというのに、堂々とサスペンダーのフックを外し、どっかりと便座に跨った。

 人間、慣れていればスムーズに行くもので、座るまでは感じなかった便意が込み上げ、ひと際大きな音を立てて糞をひり出していた。

 羞恥心など当然なく、むしろ堂々と新聞か、ポケットの本を広げて一読したいものであったが、そこまでする必要はあるまい。ここまで堂々とした隣人がいれば、誰も彼もと後に続く。

 私は共同トイレの前で右往左往していた、子女の様に貞淑な少年達と共に便座を奪い合うディールの姿を後に、悠々と食堂に向かった。

 

 

     ◇

 

 

 さて。ここで上級学校が、他の幼年学校と異なる点を語る事としよう。

 我が母校ベアリーン上級学校は、その歴史と教育内容の奥深さも然る事ながら、何にも増して特筆すべきは、飛び級を前提とした進級・教育制度を採用している事だ。

 最初の一年こそ皆仲良く手を繋いで横並びであるものの、そこから先は一年間での成績内容と、希望兵科があればそれに沿う形で、専門校や士官学校に向けての勉学が始まる。

 教条主義的な性が強い帝国にあって『質実剛健・用意周到。なれども頑迷固陋せず』を体現する上級学校は、出自に一切の貴賤を設けない。

 求めるは当人の実力のみ。貴族の子息であれ、市井の市民であれ、教会の孤児であれ、相応しければ機会を平等に与えて下さる上、入学に当たっての年齢に上限はあれど下限はない*1

 

 最初の一年は、飽くまで軍隊という環境に慣れるためと、最低限のルールを肉体に刷り込む為の準備期間なのだ。

 最長で六年と上記で語ったのはこの飛び級制度故で、前もって実家で士官となるべく教育を受けてきた貴族達は──よほどの低年齢で入校しない限り──まず一年の短縮を約束されているに等しい。

 入校した時点でそれを知らない者は殆どいないが、中には富裕層の親が物見遊山のつもりで子息を入学させ、定期の筆記試験での出題範囲と難解さに、思わず筆をへし折るというのは、愛しき母校の笑い話の一つである。

 我が同期生にして、背の低さと童顔から皆に可愛がられて止まないディールもまた、その笑い話に上がる一人であったが、彼は生来の努力家であったようで、我々に笑われながらも必死に授業に食らいついてきた。

 意地悪なバルヒェットが「成績が悪いと退学だぞ」と脅したのも、必死になった要因だろう。蛇足だが、ベアリーン上級学校に留年制も落第もない。実力主義であるが故に、付いて行けない者は容赦なく門から叩き出されるのだ。

 

 ともあれ、最初の一年での筆記試験を六〇点以上出せる者は、次代の高級参謀として目をかけられるといえば、その内容の密度と水準の高さが窺い知れよう。

 私も家の名に恥じぬよう他人より多く努力したという自負はあったが、それでも語学以外での自信はなかった。

 同期生の中での私の成績は上の下といったところだったが、それでも短縮出来たのは二年間であり、目標の三年には届かなかった。が、我が友にして最優秀の成績を収めたノルケは、同期生で唯一、三年の飛び級を言い渡された。

 

「四年は行けると思ったのだがな」

 

 ノルケは悔しそうにしていたが、四年間の短縮というのは、ベアリーン開校以来両の指を数えるばかりの俊英達であり、将来帝国の枢要を担うに足る傑物達である。

 三年の飛び級が認められただけでも誇るべきであるし、私はノルケのような優秀な男と同期生の、それも宿舎で同室の親友になれた事は誇らしかった。

 実際、士官学校卒業後のノルケのキャリアは順風満帆そのもので、陸軍の花形である近衛歩兵第一連隊に士官として配属され、見事終戦まで生き抜いて将軍の座を掴んだ。

 

「世の中、そう上手くは行かんよ」

 

 ノルケに対し、溜め息交じりに肩を竦める私だが、多くが一年の飛び級に留まる中、二年間も士官学校への道を短縮出来たのは大きかった。

 二つ下の弟も上級学校に入る手前、抑えられる学費は抑えておきたい。貴族といえども、少尉となった際に何かと物入りとなることを思えば、これは当然の考えだ。

 

 しかし、仮に飛び級が一年であったとしても、私は弟の将来を気に病みはしなかっただろう。何せ我が弟エルマーは、一族きっての天才である。

 エルマーはどのような数学の公式であろうと、一目見るだけで写真を写したかのように暗記し、両親の期待が肥大化し過ぎないよう、気を回した家庭教師が出した士官学校の入学試験すら、何と九歳で合格水準に到達した神童なのだ。

 長男としては実に鼻が高い反面、将来上級学校に入校すれば、間違いなく私を追い抜いて卒業する事が予想し得ただけに、兄としての尊厳が崩れはしないだろうかと戦々恐々としてしまったものである。

 

 だが、嗚呼、だがなのだ。世の中は上手く行かない。

 

 この言葉を、私は正に翌年の冬に思い知る。

 実家から私宛に届いた電報は『本日、エルマーが高熱を発症。危篤状態に有り』というものであった。

 統一歴一九一一年、一二月二日。このひときわ寒い冬以上に、私の心を恐怖で凍らせた日を、私は忘れる事は決して出来ない。

 出来る事ならば、今すぐにでも列車に飛び乗り、実家の弟の元へと向かってやりたかった。

 

 可愛いエルマー。姉上と私によく懐いてくれた、あの利発な男の子。父上からは未来の大モルトーケになると惜しみない期待を込められ、母上からも誉れの息子と愛された弟。

 誰からも愛され、やがては帝国の未来を背負って立つであろう、キッテル家の希望の光。

 それが、途絶えてしまうのか? 主よ、この聖なる帝国に必ずや必要となる逸材を、その芽が出るより早く御身の御手に委ねねばならないのですか?

 電報が届いたその日から、授業の終わりと共に、帝都の教会で私は膝をついて腕を組んだ。

 祈るときは、眠りの前に。家族と帝国の安寧を願うだけであった私は、おそらく敬虔なる帝国臣民にあっては、信仰心の足りぬ存在であることは間違いない。

 だが、遠く離れたこの地において私に出来るのは、ただエルマーの命が救われる事を祈るより他に何もなかった。

 

「いと高き主よ、貴方が神敵を滅せよと命じられれば、私はその勤めを果たしましょう。慈悲深き聖母よ。貴女が敵を赦せと命じるならば、どのような怨敵とて、どのような罪人とて、赦しましょう。

 私の身に適う全ての事を、貴方方の求められるままに果たしましょう」

 

 たとえそれが、この魂を炎にくべる事なのだとしても、私は一切躊躇すまい。

 明日この命が尽きるとても、それでエルマーが明日の光の中を歩めるならば、私はそれに悔いはなかった。

 私は教会で日夜祈りを捧げ続け、そして一週間後、新たな電報が私宛に届けられた。

 

『峠は越え、意識明瞭なれど、左足に麻痺。快復の見込みは───』

 

 そこから先の文を、本著に記載する必要はないだろう。

 エルマーは、あの天童は、武人の道を完膚なきまでに閉ざされてしまった。

 父上は嘆かれるだろう。母上と姉上も、さぞ悲しまれるだろう。

 だが、私は落胆の中でも希望を見出していた。

 我が弟、エルマー・フォン・キッテルは死の運命に抗い、勝利したのだ!

 それを思えばこそ、嘆く理由が何処にあろう? いいや、本当は嘆くべきなのだ。もうエルマーは、私と戦場を駆けたいという願いを果たせなければ、中央参謀本部*2でその天才的頭脳を活かす事も出来なくなった。

 軍人として、キッテル家の人間としての人生を、病魔の闇に閉ざされてしまった。

 だが、私は知っている。エルマーは強い男の子なのだ。キッテル家の誇りたる次男坊なのだ。病魔は弟から左足の自由を奪ったが、神より与えられた頭脳までは奪えなかったではないか。

 私はすぐさま、エルマーへと電報を打った。

 

『如何なる道を歩もうとも、兄はお前を誇りに思う。フォン・キッテル家の次男、我が愛しの弟へ』

 

 電報の返信として届いたのは、家紋の封蝋が為された母上からの手紙だった。

 エルマーは機能訓練故に病院にいるが、それでも人生に絶望はしていないこと。

 将来はベルン大学にて工学を専攻し、造兵廠の一員となって、祖国に尽くしたいと胸を張っている旨が記されていた。

 ああ、やはり我が弟は逞しかった。私は胸を撫で下ろし、感謝の祈りを主と聖母に捧げた。

 

 

     ◇

 

 

 その後、今日の帝国国民の多くにおかれてはご承知の通り、エルマーは新たなる志を貫徹した。我が弟は一三で一般高を飛び級し、歴代最年少でベルン大学へ入校。

 大学でも飛び級を重ねたばかりか、在学中に三つの博士号を取得し、一五で卒業した後は技術将校として軍服に袖を通し、造兵廠で辣腕を振るった。

 現在、エルマーが発明した数々の兵器に対し、世界中の人間から賛否の声が上がっている事は承知の上である。

 だが、どうかこれだけは疑わないで頂きたい。

 

 私の弟は家族と祖国を心から愛していたからこそ、帝国の発展と勝利に、その生涯を捧げてくれたのだと。

 


訳註

◆1:帝国統一以前のプロシャ王国(統一歴一七〇一年~一八七一年)までを指す。

*1
 但し、教育に手厚い反面、学費の面から入校出来ない者もいれば、自らの能力に自信がある者は学費の免除される各州の幼年学校に入校する者も多い。

*2
 正式名称は帝国陸軍参謀本部。

 参謀本部は陸のみならず他軍種(海・空)にも存在するが、戦時下においては陸軍参謀本部が上位となって帝国軍全体の軍令事項と戦争指導を──陸軍大臣の承認を得て──行う事から、このように称される。




補足説明

※この作品のデグ様はBL要素がないので、ボーイズラブのタグは付けずに行きたいと思います。

※原作4巻で第二『親衛』師団が登場したので、本来なら『近衛』でなく『親衛』とすべきなのですが(第二親衛師団は宮中の繋がりがあるとのことでしたし[4巻P451])、後々に登場させる部隊のために、本作品では『近衛』と『親衛』を分けさせて頂きたくあります。
 本作品内での設定としては、
 親衛=帝国軍内で称号を与えられたエリート部隊(ソ連まんま)。
 近衛=帝室の持ち物(建前)。
 といった感じで行こうと思っています。
 実際のドイツ帝国には親衛ないし直衛とつく近衛的ポジションの部隊も存在するのですが(親衛驃騎兵などが有名)、部隊ごとに親衛と近衛双方を出すのは紛らわしいので、この作品では帝室が関わる部隊は近衛で統一させていただきたくあります。

※古プロシャ王国について。
 本作品内での帝国は史実ドイツ同様、統一戦争の後に帝国が誕生したという設定となっております。ですので帝国建国以降、プロシャ王が皇帝(カイザー)を務めるよりも『前の時代』を、古プロシャと記載しています。

以下、名前・地名等の元ネタ
※兵隊王やプロシャといった名前と元ネタが一致するものは元ネタの欄から除外していく予定です。
※名前の元ネタとなった実在人物と、本作品のキャラクターの設定は乖離する場合がございます。予めご了承ください。
【史実→本作】
【地名】
 デュッペル→デュペー
 アルゼン→アンゼン
 ケーニヒグレーツ→グレツケニッヒ


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02 士官の卵-夢と初恋

※2021/2/14誤字修正。
 みえるさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 ベアリーン上級学校の卒業式、私は空に心奪われた。

 いいや、本当はもっと前から、私の心は空にこそあった。

 

 私が父上から、陸軍軍人としての薫陶を授かる事が決定した五歳の日。私は健康診断で、魔導師としての適性が皆無であると宣告されたのだ。

 幼い頃の私は、その意味を深く理解してはいなかった。そも、父上も祖父も曽祖父も、我が家は皆陸軍軍人を輩出し続けてきた。

 キッテル家は地を駆け、時にサーベルを、時に指揮銃を掲げ、時には砲弾の驟雨を敵陣に注いできた。だからこそ、父上は宣告に対して涼しい顔であったし、私も深く考えはしなかった。

 

 ……父上が、兵舎に訪れた私に、彼らの姿を見せるまでは。

 

 幼き日の私には、それが現実のものとは思えなかった。首に下げられた演算宝珠なる魔道具によって、世界に術式という形で干渉し、人の身でありながら天を駆ける、超常現象を科学の力で支配する現代の魔法使い達。

 朝口に運んだハーファーフロッケン(オートミール)の一粒より、私の目に小さく映る彼らの英姿が、どうしようもなく私の胸を沸き立たせた。

 背中に翼も無ければ、頭に光の輪もつけず、天馬に跨ることもせずに、彼らは誰より自由に空を駆けている。

 

「父上、彼らは! 彼らも帝国軍人なのですか!?」

 

 幼い私は、無邪気にも袖を引いて訊いてしまった。

 決して、私には届かない夢を。

 

 

     ◇

 

 

 そして今、晴れがましき上級学校の卒業式に、私はまた空を見上げた。憧憬と、羨望と、そして僅かながらの嫉妬を込めた眼差しで。鮮やかな編隊飛行で手を振る彼らの英姿を、重力という軛に繋がれた大地に立って!

 

 張り裂けそうな胸が、叶わない夢を見たあの頃を思い起こした。

 忘れかけていた夢が、再び現実となって打ちのめしてくる。授業で彼らを改めて目の当たりにし、適性ある学友達が航空魔導師の道を志す中、私は一人、叶わぬ望みに背を向けて上級学校を後にし、帰郷する事もないまま、推薦合格を勝ち取った士官学校の門を潜った。

 士官学校では、前もって兵科の希望があれば一号生から、そうでなければ二号生から兵科を選択し*1、専門的な講義を受ける。

 幼い夢から逃れたい一心だった私は、せめてより自由に大地を駆けたいという願いから、騎兵の道を選択したが、斯様な私の心根など知らぬ父上は、この選択を歓迎した。

 

 私の曽祖父も祖父も、騎兵として戦地を駆けたからである。

 

 一八七〇年。フランソワ共和国との間に勃発したプロシャ・フランソワ戦争は、父、エドヴァルドから祖父に当たるフィリップを奪い、父に当たるフランツは、砲弾の破片による後遺症に苦しめられた。

 我が祖父フランツと私との間に直接的な面識はなく、祖父は第一子たる我が姉上、コンスタンツェ・フォン・キッテルの誕生を見届けて名付け親となり、静かに息を引き取ったという。

 

「お前の祖父。私の敬愛する父上は上官を庇い、背に砲弾の破片を受けながらも立ち上がり、朦朧とする上官を馬に乗せ、窮地を救った。お前もまた、我らの父祖に恥じぬ振る舞いを心がけるのだぞ」

 

 父上の掛け値ない期待は、現実から逃げたいという一心であった私の醜く、破廉恥な心を深々と抉った。

 後悔が早鐘のように私の胸を叩き続ける。現実の苦しみから逃れたいが故に、斯様な選択をしたと知れば、父上はどれほどお嘆きになるだろう?

 震えそうになる唇を、私は真一文字に閉じる事で隠し、粛々と頷く事でこれを誤魔化した。

 だが、たとえどのような過程や挫折があろうとも、私は騎兵科の道を確かに己の意思で選択したのだ。ならばこそ、この道にて軍人としての勤めを全うしようと──少なくともこの時は──そう決意した。

 

 元より物心つくより早く、馬の背に跨ってきた私である。峻厳な山々であろうと、鬱蒼とした森であろうとも、幼少の頃の私は馬の呼吸を乱す事なく駆け回ることが出来た。

 上級学校でも模範生として通っていた私は、今年帝国軍士官学校をご卒業なされたバイアーン王国(バイアーン州)第二王子、ルイトポルト王子が招かれた席においても軍馬に跨り、先頭に立って行進を指揮したものである。

 上級学校時代の私は背が伸びきっていなかったが、それでも一度馬に跨がれば、それは何処に出しても恥じることない、英姿颯爽の武人である。

 

 膝から下の足を膝より()()と引き、弓なりになるこの姿勢は肉に負担こそ多少かけるが、凛と背の筋は伸びる為、衆目には「おお!」と目を開かせる堂々たる騎手が出来上がる。

 私は畏れ多くも式典でルイトポルト王子にお声をかけられ、前もって用意されていた『曲馬徽章』を直接下賜された日の事は、今も時折夢に見る。

 

 馬となれば、何者であれ右には出さぬ。

 士官候補生時代の私は、父上への罪滅ぼしの気持ちがあってか、このような大言壮語と言わざるを得ない自負を抱き、現実に帝国国内での障害競技をはじめとする各種馬術大会で優勝しては、優勝杯と賞を攫って行ったものである。

 騎兵隊の卵として、また騎手としての私は、帝国馬術協会から惜しみない賛辞と共に『黄金(最優秀)馬術徽章』を授与され、その将来を嘱望された。

 私の道は、結果として彼らの望みとは異なるものになったが、この日々の中で培った技術と目が、今日の私を築いたのだと信じる。

 

 

     ◇

 

 

 士官候補生時代の私は、元来友人家族らに見せてきた柔らかさはなりを潜め、将来への責任感から、兎角プロシャ軍人的な厳格な気風に全身を支配されていたが、それが良い方に出た事もあった。

 

 士官候補生の中で貴族ないし官吏の子息に当たり、かつ素行優良なる成績優秀者は、侍童(パージェ)として皇帝(カイザー)に拝謁する栄誉を授かるからである。

 無論、士官候補生である以上、本分たる学業を疎かにする事は許されず、侍童(パージェ)に選ばれた候補生は、その期間を内心悲鳴を上げつつ過ごす事になるが、現代に至るまで、侍童(パージェ)を辞退した者が現れたという話を耳にした事はない。

 

 こう書いては侍童(パージェ)とは、実に肩肘の張る仕事なのだなと思われるだろうが、我々の侍童(パージェ)としての仕事は短く簡潔なものである。

 我々の仕事は皇帝(カイザー)の入来に際し、所謂「皇帝陛下のおなり」を当日の催したる騎士叙任式と宮廷演奏会に示すだけであり、それ以外の宮中の貴人や廷臣に付き従う、本来の意味での侍童(パージェ)はより年若く見目麗しい、代々帝室に仕える家令の子息達に任されている。

 我々士官候補生はあくまでゲストに過ぎず、将来有望なる士官の卵を、国内の有力者や海外の大使達にお披露目する為のものなのである。

 とはいえ、その短く簡単な仕事の中にもこと細かな作法が求められているだけに、誰もが失敗を恐れて萎縮するものである。かくいう私も表向きは泰然としながら、手の内にはじとりとした汗をかいたものだ。

 そして来る日。宮中に招かれた侍童(パージェ)は優美な帯剣を腰に吊るし、羽飾りの帽子を脇に抱えた姿勢で式典参加者の列を見送るが、歴代士官候補生の侍童(パージェ)らが必ずそうであったように、私もまた例外なく偉大なる皇帝(カイザー)の玉体に目を奪われた。

 祝典で歩を進める皇帝(カイザー)は、正しく帝国の威を示すに相応しき、天上人を彷彿とさせた。雷光のように激しくも魂に通る声音と、峻厳なる山のような体躯。空の様に澄んだ色素の薄い瞳は、我々帝国臣民の心を、何処までも深くご理解されているようであった。

 

 

     ◇

 

 

 短くも簡潔ながら、一瞬の気の緩みも許されない騎士叙任式と宮廷演奏会が終われば、最大の特典が待っている。

 当日の祝祭夜舞踏会の参加を両親と共に──侍童(パージェ)が貴族と官吏子息に限るのは、両親に(・・・)最低限の宮廷作法が備わっている事が前提である為だ──許されるのだ。

 官吏子息は宮廷人らとの繋がりが持てる事を両親と共に喜び、滅多に王宮に立ち寄れぬ下級貴族達もまた、同じくその栄誉に浴する訳であるが、この日の私は生涯忘れ得ぬ、しかし許されざる初恋を経験してしまう。

 

 この初恋を本著に記す事は聊か躊躇われたものの、当時からして宮中では語り草となり、私が帝国軍の最多撃墜王として世に出た折には、イルドア王国に嫁がれたヴィクトル・ルイス王太子妃(後のイルドア王妃)ご自身が、うら若き日のロマンスとして打ち明けられた以上──当時の新聞記事には理想の帝国騎士というプロパガンダの意味合いもあってか、かなり脚色されていたが──包み隠さず語る事にしたいと思う。

 

 

     ◇

 

 

「もし」

 

 空に星が瞬く頃。ホールではシャンデリアと壁灯に明かりが灯され、この日の為に研鑽を積んだベルン・フィルの演奏団が優美な音で皆を天上の別世界に誘う中、私は短くかけられた声に。そして、目の前に立つ淑女の姿に、思わず喉からせり上がった声が出かかったが、ぐっ、とそれを飲み込んで、士官候補生の代表として、また王宮に招かれた貴族として、かくあるべしと示すように腰を折った。

 

「拝謁の栄に与り、恐悦至極。自分は」

「名乗らないで下さいまし、紳士殿。どうか、一曲踊って下さい」

 

 私の口を噤ませた淑女はドレスの裾を恭しく持ち上げ、誰もが見惚れる挙措で一礼すると、私は請われるがままに、細い、手袋に包まれた手を取った。

 

「光栄です、殿下」

 

 そうしてホールの中央へと、私を紳士としてお声かけ下さった方をエスコートする。

 ヴィクトル・ルイス皇女。我が祖国で知らぬ者のない、帝国が世界に誇る宝石を一目見ただけで、私は不覚にも心奪われた。

 ルイス皇女のお姿は、幾度となく新聞で目にしてきた。その美貌が如何に素晴らしいか、私は幾度となく宮廷人の子息やラジオで流れる美辞麗句から耳に憶えて来たものである。

 だが、音は私に姿を捉えさせず、新聞に写るルイス皇女の姿は、近衛騎兵の名誉連隊長としての、戦乙女の如き麗しくも凛々しい宝剣の如き御姿だっただけに、白薔薇を思わせるドレスに身を包んだルイス皇女の姿は、ホールに集まる全ての人間を魅了し、釘付けとさせるには十分であった。

 

 ホールの端で爵位の近い将軍や官吏らと談笑していた父上など、私がルイス皇女のお手を取る姿に息を呑み、手にしていたグラスを震わせていたらしい。

 らしいというのは、私には父上の顔を横目見る余裕さえこの時は失われていた為、後日人伝に耳にしたからである。

 もし、私が第三者の立場であれば、列席した武官らと同じく、狼狽する父上の姿に仰天したに違いない。

 軍務に就く父上は、まことプロシャ軍人を体現する豪胆かつ冷静なる武人であり、揺り籠で生まれてから死の間際まで、一度として動じる事はないだろうと、冗談交じりに同僚らから語られるようなお方であったから、その日の父上が如何に狼狽えていたかは、今となればその様子が手に取るように分かる反面、この時の私は父上以上に気が気でなかった。

 肩甲骨に当てた手の震えを抑え、ドレス越しに触れ合う手の温もりに、耳朶まで赤く染まっている事を自覚してしまう。

 熱を持った心臓が、まるで教会の鐘のように鳴り響き、ルイス皇女の耳にまで届いてはいまいかと危惧していた程だ。

 

「楽になさって」

 

 我が身を案じて下さがったが故のルイス皇女の言葉と微笑は、しかし私の心を静めるには至らない。軍人として生きるべく、泰然自若を貫かんと日々己を戒めてきた心の鎖は、今日という日に限って、枯れ草のように容易く引き千切られてしまう。

 だが、ルイス皇女はそんな私に気を悪くするどころか、一層笑みを増して、私と目を合わせて下さった。

 皇帝(カイザー)譲りの、大空を映すような群青の瞳が私の顔を映し出す。私は自分の顔がどうなっているのかつぶさに観察できてしまう程、その瞳に魅せられ、呑まれてしまう。

 自分が都合の良い夢を見ているのではないかと、私は頬を抓りたい気持ちになった。

 微睡みの中から目覚めれば、宿舎のベッドと朝日が出迎え、意識が定まらぬ中で前日に磨き上げた長靴を履いているのだろうと、そのような事を僅かに考え、しかし、この感触と温もりと、何よりも鼻腔をくすぐる芳しい香水の香りが、私を後暗い幻惑から引き戻してくれる。

 

“明日、死するとも悔いはない”

 

 かの童話で、灰かぶりの姫を見初めた王子は、このような思いだったのかもしれない。

 この世のものと思えぬ美貌。世界に誇る帝国の宝石は、私にとって、手を伸ばせど届かぬ月だと理解していている。だが、輝く月に。深海に沈みながら永劫輝く宝石に、一度でも触れてしまえたなら、誰であろうと二度と手放せはしないだろう。

 たとえそれが、明日の我が身の破滅だとしても、私はきっと後悔しない。

 音楽が強くなる。小さな声なら、誰の耳にも届きはすまい。

 この猛る思いを伝えたら、ルイス皇女はなんと答えて下さるだろう? いいや、たとえ拒絶されたとしても、この胸の裡さえ明けられたなら……

 

「ひと月の後、私は婚姻を結びます」

 

 音楽が、私の耳に届かなくなった。いいや、音楽もダンスも、周囲の視線も、私には何も届かなかった。ルイス皇女との蜜月だけが今の私の全てだった。

 

「心より、お慶び申し上げます」

 

 だが、貴族として。帝国臣民としての私は、意思に反して言の葉を紡いでいた。

 実際、私はその事を知っていた。知っていながら、受け入れるべき現実から目を逸らしたのだ。空に憧れを抱きながら、地を駆ける道を選択したように。私は決して覆らない現実の無常さを、違う何かで誤魔化したのだ。

 

「気持ちの込もらぬ言葉ですね」

 

 お叱りの言葉の筈だ。どうしようもない、俗な男の心を見透かしての叱責の筈だ。

 だというのに、どうしてルイス皇女はそのような弾む口調なのであろうかと、私は耳を疑った。

 

「誤解なさらぬよう。私は、夫となる方を愛しております」

 

 妻となり、他国の王族に嫁ぐ事に否はない。それは紛れもない本心で、だからこそ私は胸が苦しかった。

 

「あの方は、善き方です。高潔で、慈愛に満ち、後世も民に愛されると信じております」

 

 私の心は、一語一句が耳に入る度にズタズタと短剣で引き裂かれる思いだった。

 自分の両耳に万年筆を突き入れて、鼓膜を破りたい衝動に駆られながらも、私は自制しつつ耳を傾けた。

 

「けれど」

 

 そう短く漏らされた言葉が、聴き違えたものと、或いは私が願った幻聴のものではなかろうかと疑い、しかし、もの悲しげな瞳が私に目を離さぬようにと訴えていた。

 

「生涯、一度だけは、自分の意思で殿方を選びたかったのです」

 

 貴顕故の付き合いからでなく。定められた人生からでもなく。

 ただ一度、一人の女性としてと。

 込められた言葉と思いに、私は微かに握る手に力が入ってしまった。

 

「ふふっ」

 

 こんな、恥じるべき粗相にさえ、ルイス皇女は微笑んで下さる。私のような男に、至高の笑顔を贈って下さった。

 音楽は止む。一曲限りの蜜月の時間。魔法の解かれる灰かぶり姫の時間より短い出来事。

 

「生涯、今日という日を忘れません」

「はい」

 

 私も、と。礼の後に別れたルイス皇女は、そのままホールから去って行く。

 その背を見送り、腕に残る余韻を感じながら、私は給仕が運んだライン産のワインを一口含む。生涯の中でこれ以上ない筈の美酒はしかし、この日の私には、何処までも苦かった。

 

*1
 例外は先天的素質を持つ魔導士官候補生で、航空戦での生存率を上げるため、志望者は一号生から魔導将校としての勉学に勤しむ。




 ルイス皇女の元ネタのルイーゼ王女様は17歳で親衛驃騎兵第2連隊の名誉連隊長をお勤めになられておりますので、軍服姿の写真がいっぱい残っております。軍服萌えの読者様がおられましたら、是非一度ご覧になってくださいませ。

※また、史実においてルイーゼ王女様は英国に嫁ぎましたが、本作品のルイス皇女はパスタの国に行っちゃいました。
 今後もこうした元ネタの人物とは異なる部分が出てくる予定です。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物】
 ヴィクトリア・ルイーゼ王女→ヴィクトル・ルイス
【戦争】
 普仏戦争→プロシャ・フランソワ戦争
【地名】
 バイエルン→バイアーン


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03 少尉任官-我が道は空か馬か

※2020/2/20誤字修正。
 くるまさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 一八にて士官学校を第五──騎兵科内では首席──席次で卒業した私は、成績と素行を評価されてか、全帝国騎兵が羨望して止まない帝国近衛槍騎兵(ライヒス・ガルデ・ウラーネン)第一連隊に士官候補生として入営した後、騎兵少尉として正式に任官、配属することを通達された。

 父上にはこの通達を大いにお喜び頂け、家族皆も祝福して下さったものの、反面、私の心は萎えていた。

 戦争における流行り廃りとは実に残酷なもので、かつては戦場の花形として騎士の姿を体現せしめた騎兵は、もはやその煌びやかな装いとは異なり、日陰より一層暗い所へと追いやられていたからだ。

 

 読者諸氏は考えてもみて欲しい。私の父上の時代さえ、既に塹壕という概念が存在し、陣地には有刺鉄線が張り巡らされていたのだ!

 一八という私の若き日の頃には、平野での一大決戦などというロマンチズム溢れる戦いは絶滅していた。歩兵はシャベルを手に塹壕を掘り進め、突貫する敵兵を有刺鉄線が食い止め、機関銃が薙ぎ払うのは当然として、その塹壕を突破すべく、アルビオン連合王国は戦車を発明し、我が帝国の兵器開発に多大な影響を与えていた。

 騎兵が前線を駆け回るのは自殺行為であり、後方での伝令さえ、電信を使用した通信網に置換されている。ばかりか、最近では騎兵に代わり斥候と障害設置を担当する、オートバイ部隊などという物まで現れ始めていた。

 

 時代は変わった。

 老いた者、歴史に取り残された者はそう懐古するが、騎兵もまた例外ではない。

 

 騎兵科は縮小の一途を辿り「近衛に配属されたければ騎兵科を選択せよ」とまで、当時は軽口混じりに語られていた程である*1

 騎兵が肩で風切る時代は、当の昔に終わっていた。

 それでも諦めの悪かった騎兵達は、出来る範囲で結果を残そうとした。

 最精鋭にして最高峰の錬度を誇る我が第一連隊は、周囲から向けられる『騎兵不要論』の嘲笑に反骨精神を燃やし、陸軍のどの兵科の古参軍人でも根を上げるような苛烈極まる訓練を連隊員に課したが、誰一人として一言の弱音を吐くこともなければ、一滴の涙も訓練の中で流す事はなく、むしろ喜々として辛苦の限りを受け入れた。

 世間では近衛が優遇され、パレード用の儀仗兵としてしか活躍できぬ存在と決めつけていたが──これ自体は騎兵に限らず、どの近衛連隊でも同様であったが──我々は帝室の守護者として、また帝国軍人の模範たらしめるべく日夜研鑽を積み、求められる要求には──例えそれが馬鹿げた、冗談の類であろうとも──全て応えてみせた。

 

 今日まで多くの者が誤解している事なので、敢えてこの場を借りて説明させて頂くが、近衛の俸給は他の部隊と同様であり、決して他に比べてえこ贔屓されている訳ではない。

 どころか、近衛将校の給料は生活難に喘ぐ徴募兵や、一般兵らへの配慮から通常の将校以上に俸給を抑えられていたのである。

 戦功を立て、機会を得れば叙勲に伴う年金で食い繋げるし、中級貴族からならば実家に仕送りをするほど逼迫しないだろうが、兄弟姉妹の多い下級貴族や市井からの将校は俸給だけで食って行けず、海外文学や論文の翻訳といったアルバイトで生計を立てていた。

 当然、仲間意識の強い軍隊のこと。そんな戦友を放ってはおけないと、私も含めた比較的生活に余裕のある者達は──しかし、決して裕福ではない。軍服の仕立て金*2や馬具はおろか、騎乗する軍馬さえ自費で揃えるのが慣例だからだ──アルバイトをして稼いだ給料を、気前よく分け与えたものである。

 

 また、近衛武官の進級が早いというのは、彼らの多くが血統確かなる貴族故でも、箔付けの為という訳でもなく、近衛に任じられる者は、それに相応しい才覚を有しているが故であると、彼らの名誉の為に記載させて頂く。

 

 少々話題が脱線したが、そうした騎兵の内情故に、私もまた自らを不要と断ぜられる事が我慢ならず、古参連隊員さえ目を張る鍛錬を己に課した*3

 その甲斐あって、私は最年少にありながら各連隊内で一二名のみに授与される最高の槍騎兵の証、フェヒター章を第一連隊名誉連隊長たるベルトゥス皇太子から下賜された。

 

 私は同連隊の隊員達から持て囃され、軍務にもやりがいを感じたが、悲しいかな、生き甲斐には程遠かった。

 どれだけ結果を出そうとも、私の心は、やはり空に残っていたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 そんな私に、人生の転機が訪れた。

 近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊に所属して一年後、航空隊員の募集が、突如として航空魔導師を除く全陸軍兵科に舞い込んだのである。

 資格要件は現役武官・民間人を問わず。

 航空隊員となるには身体検査と筆記試験、各種精神鑑定に合格する必要があり、パイロットを希望する場合、年齢は二八を上限としていた。

 募集を知るより以前から、私は魔導師でなくとも飛行機に乗れば飛べる事は知っていた。

 だが、陸軍航空隊が正式に発足されたのは、私が士官候補生の二号生となってからであり、一号生の時点で騎兵となる道を選んだ時点で、縁のない話だと割り切っていたのである。

 何より当時の私は――今日の読者諸氏には信じ難い事と思われるが――航空隊の命は騎兵より短く儚いものであろうと考えていただけに、この募集を受けるか否か真剣に悩んでいた。

 

 既に私は、将校としての未来を約束されているに等しい身である。皇・王族が代々名誉連隊長を務め、式典にも必ず参加する近衛騎兵が──縮小はするだろうが──解散などされる筈もなく、まして私はフェヒター章という最高の栄誉を授かった身であるから、周囲からかけられる期待も大きかった。

 父上も、行く行くは名誉連隊長の副官として、ベルトゥス皇太子のお側に侍る事になるだろうと、戦働きこそ出来ずとも、私の出す結果に十分ご満足して頂けていた。

 その私が空を飛びたいという思いからだけで、先のない航空隊に転属するなどと言えば、周囲がどのような顔をするかは想像に難くない。

 同僚たる連隊員からの私刑などは可愛いもので、最悪、殺されても可笑しくはないだろう。それを薄情や残酷とは思うなかれ。家族のように絆が深いからこそ、それが反転してしまった時の憎悪も、一層深くなってしまうものなのだ。

 

 

     ◇

 

 

 そこまで理解していて尚、私は航空隊のポスターから目が離せない。

 航空隊募集を一任された人事局要員管理部*4も必死なのだろう。

 現役武官はパイロット未経験者であろうと同階級にて転属させ、専門訓練を受けさせると確約しているし、万一航空隊が廃止されるようになれば、原隊への復帰も認めるという旨も記載されてはいたが、私は一度離れれば絶対に戻ることは出来ないし、そもそもにして上官が受理するとも思えない。

 私は悩みに悩んだ。このまま軍人として武勲を重ねる事も、空にかける情熱に胸躍らせる事もないまま、安定と出世の為に騎兵を続けるか。それとも藁に縋る思いで、航空隊の門を叩くか。

 悩み抜いた末、私は空への夢を求め、当然の如く周囲からは猛反発を受けた。一年とは言え、苦楽を共にした連隊員達は、どうなっても知らんぞと冷ややかな目で私を送り出し、父上は烈火の如く怒った。

 

「軍は子供の遊び場ではない! お前をそのように育てた覚えはないぞ!」

 

 日頃、父上が怒りを見せる時は理性の中にある静かで、しかし有無を言わせぬものであった。厳しくも教え諭し、前に進ませるという人格者としての正しい怒りであり、だからこそ父上を知る誰もが尊敬こそすれ、無闇に恐れ、疎う事は決してなかった。

 

 しかし、この日ばかりは父上も堪忍袋の緒が切れたのだろう。騎兵が前線に姿を見せず、将来は機械化された軍隊に置き換わる事は、父上とて十分理解していた。

 理解しているからこそ、父上は私に激怒している。仮にこれが他の兵科であったならば、父上とてここまで激しはしなかった筈だ。

 戦場から消える事を由としないのであれば、それは帝国の利となり、糧となる道を選ぶべきである。歩兵であれ、砲兵であれ、或いは衛生兵や輜重隊であれ、それが未来ある選択ならば、最後には肩を竦めて背を押して頂けたに違いない。

 

 だが、私が選んだのは、先などないと誰もが口を揃えて断言する航空隊だ。

 望み薄どころの話ではない。文字通り望みも希望も未来もない道だと、私自身心の何処かでは理解出来ており、だからこそそんな私を見透かして、父上は一層厳しく責めた。

 

「なんと愚かなるかなニコラウス! お前は今まさに、決して背を向けてはならぬものに背を向けたのだ! 世とは理不尽なもの。不条理なるものである。叶わぬ夢など、幾らでもあるだろう。だが、ならばこそ残された道の中から、悔いなく誇りを持てる道を選ぶべきだったのだ!

 お前の弟、死の淵から舞い戻った、誇り高きエルマーのように!

 エルマーは武人の道を絶たれた時、子女のように泣き喚く事も、自暴自棄になる事もなかった! 将来の道を、キッテル家に恥じぬ道を歩むと決めたのだ! だというのに長男の、武人となれた、我が家を継ぐお前が……」

 

 父上は目頭を押さえ、次いで祖父の肖像画を見上げた。

 

「……我が父に、お前の祖父にこの場で詫びよ。馬鹿げた夢は、今ここで捨てると誓え」

 

 それで終いだと、そう睨む父上に、しかし私は応えない。

 

「どうあっても、これ程まで私が言っても、お前は……!」

 

 父上は私を拳でなく、杖で殴った。口端が切れ、口内を鉄臭い味が満たしたが、それでも私は黙し続けた。

 

「……良かろう。好きにせよ。だがニコラウスよ、たとえ規則がお前を許そうと、私はお前に帰る場所を与えぬ!」

 

 父上は怒号と共に私の軍服に手をかけた。

 

「お前はもはや騎兵ではない!」

 

 まず、父上は曲馬徽章を剥ぎ取った。

 

「お前の未来に栄光の光はない!」

 

 次いで、黄金馬術徽章が床に転がった。

 

「玩具に跨り、夢から醒めぬまま世を去るか、軍を去って野に降るが良い!」

 

 そして、最高の槍騎兵の証たる、フェヒター章が毟り取られた。

 

「出て行け! 二度とキッテル家の敷居を跨ぐでない!」

 

 

     ◇

 

 

 締め出された扉の向こう。執務室から響いてくる父上の嗚咽が、殴打以上の痛みを私の胸に響かせた。私は耳を塞ぎたいという思いを堪えつつ、人生にやり直しは効かないのだと言い聞かせながら、我が家を去るべく歩を進めた。

 

 

     ◇

 

 

 私は親不孝などという言葉では、決して足りぬ人間だろう。

 万の言葉で口汚く罵られようと、まだ足りぬと蔑まれて当然の愚物だろう。

 夢から醒めよ、ニコラウス。その両眼で、現実のお前の姿を見るが良い。

 お前は生まれながらに翼を持たぬ身ではないか。地を駆けるだけの、矮小なる人間ではないか。ニコラウス、お前はなんと無知蒙昧なる男であろうか。

 

 脳裏に響く自責の幻聴は、父上との仲違いから常に私の頭に響いていた。

 以前の私ならば、そのような思いを振り切るのに読書をしたものであるが、今は煙草へと逃げていた。

 フランソワ共和国産の黒煙草を吹かし、落ちぶれた浮浪者のような足取りで進む私は、文字通り全てを失った落伍者であり、絞首刑台に上がる囚人のようにさえ見えた事だろう。

 

「兄上!」

 

 だが、そんな身も心も腐りかけた私に情けをかけたのは、私を心から愛してくれる、私より遥かに素晴らしいキッテル家の男児に育った、精悍なる弟だった。

 

「父上は、動転しておいでなだけです。どうか真に受けないで下さい」

 

 父上が話題に出す筈もない。おそらくは母上が、私を案じてエルマーに報せて下さったのだろう。今や昼夜を問わず激務に追われ、片時とて手を離す暇などないエルマーが私の元へ会いに来てくれた事は、それだけで私の心に活力の火を与えてくれた。

 

「……エルマー、お前は、いつも家族に優しいな」

「我が家に、家族を愛さない不得な者は居りませぬ。兄上も、姉上も、私と同じ程家族を愛して下さいました。父上も、同じなのです」

 

 だから、どうかと。出来る事ならば、今すぐにでも和解して欲しいのだろう。だが、そればかりは出来ない相談だ。

 

「エルマー。やはり私は、諦めきれない」

 

 航空隊員など玩具のお遊びだと理解していて、先などないと分かっていても、私には空への憧れを抑える事は出来ないのだ。

 

「それほどまで、空とは魅力的なのですか?」

 

 実際に飛んだ事など一度としてなく。ただ、見上げるだけであった人生なのに? と。エルマーはそう言いたかったのだろう。

 

「ああ。本望だ」

「なら」

 

 エルマーは静かに、何かを決意した表情で告げる。

 

「兄上、どうか二年お待ちを。必ずや、兄上を大空に……」

「嬉しく思う。本当だ。だが、お前は既に戦車開発で手一杯だろう?」

 

 ベルン大学を卒業後、エルマーは造兵廠で戦車開発に携わり、着任してから数ヶ月足らずで、兵器開発の枢要たる兵站総監部技術局に転属。総監部の上官のみならず、軍首脳部や陸軍技術廠からも、戦車開発の第一人者として、将来を嘱望されていた。

 エルマーは戦車を塹壕突破という歩兵支援の形に留まらせず、戦車によって戦車を撃破する対戦車戦闘という形を提案。

 多砲塔という帝国のみならず、各国で研究されているスタイルをコストの無駄と上官らの前で一刀両断し、多砲塔に付随する数々の問題を指摘した。

 その代案として傾斜装甲という防御強化と、単砲塔に絞る事での砲の大型化による攻撃性能の上昇、機動性の確保を提案。帝国技術部はエルマーが手ずから設計した戦車に驚愕し、そのブレイクスルー故にパンツァーショックという名が付けられた程である。

 

「既に一級白翼鉄十字*5の受勲も確定したと聞いている。お前まで、経歴を無駄にする事はない」

「兄上。私が一度でも『出来ない』と根を上げた事がありましたか?」

 

 ああ、そうだ。その通りなのだ。我が弟の辞書に、不可能の文字など無い事は、兄たる私が一番よく知っている。

 

「そうだな。お前は何時だとて優秀だった」

「ならば、頼んで下さい。私に、最高の翼を与えてくれと」

「はは、こいつめ。兄が頭を下げる姿が見たいというのだな?」

「それはもう。この機会を逃せば、二度と無いでしょうから」

 

 笑い、肩を叩いて私はエルマーに頭を下げた。普通、仲の良い兄弟でも喧嘩ぐらいはするものだが、キッテル家はその厳格な気風故に己を戒めがちであり、口喧嘩はおろか、兄弟間でそれという頼みをする事さえなかった。

 ましてや、兄が弟に──というより兄弟のどちらかが──頭を下げるなどというのは初めての事だったのだ。

 

「頼む。正直、お前が力になってくれれば、これ以上なく心強い。だが、無理はするなよ。気持ちだけでも嬉しいのは、本当なのだからな?」

「兵器廠は人の缶詰だと言われますがね。私に言わせれば、彼らは仕事が遅いのです」

 

 それはお前が飛び抜けているからだと、私はエルマーに笑う。戦車設計の傍ら、手慰みにと数学論文をメモ用紙に書き綴るのは、世界広しといえども我が弟ぐらいのものだろう。

 

 

     ◇

 

 

 多神教なるオリエントにおいて、捨てる神あらば、拾う神有りという言葉があるらしいが、エルマーだけでなく、二児の母となった姉上もまた私の選択を応援して頂き、父上を取り成しておく旨の手紙が私宛に届いた。

 そして、最も私を驚かせたのは、近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊名誉連隊長、ベルトゥス皇太子が私をお叱りするどころか、応援すると仰って下さった事である。

 

「いつかは、こんな日が来ると承知していた」

 

 近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊の証たる、プルシアンブルーと白で構成された礼装とフェヒター章を含む徽章類全てを正式に帝国へ返納*6するとした私に、ベルトゥス皇太子は寂しげな、けれど諦められていた事を、私を安心させるような柔らかな口調で伝えられた。

 

「槍騎兵としての少尉に、非の打ち所はなかった。だが、少尉は我ら皇族の『玩具の兵隊』に留まるには器が大き過ぎたようだ」

 

 玩具の兵隊。自分達近衛騎兵が、そう帝国軍からも、市井からも影で囁かれている事は、当然ベルトゥス皇太子のお耳にも入っていたのだろう。

 近衛騎兵の誰も彼もが帝室への不敬だと憤り、その都度自らに重責を課して来たが、どのような努力をしようとも、心無い風聞が消え去る事はなかった。

 

「殿下。小官は……」

「良いのだ少尉。最早騎兵の時代は過ぎた。我々帝室の伝統が、少尉のような少壮の軍人を縛る事こそ間違いなのだ」

 

 暫し、沈黙が満ちた。執務室で柱時計の音が虚しく響いたが、ベルトゥス皇太子は重苦しい空気を払うように、再び優しげな口調で声をお掛け下さる。

 

「制服と徽章は、個人的に預かる。飛べなくなれば、すぐに戻るように」

 

 なんと慈悲深く、寛大なお言葉であろう。己が欲望の為、下らぬ夢の為に連隊を去ろうという恩知らずを、しかしベルトゥス皇太子は我が子の行く末を案じる親が、子を送り出すような思いで見送って下さるというのだ。

 

「この御恩は、終生忘れません」

「何を言うか。私は帝国軍の規則に従っているに過ぎんぞ?」

 

 募集要項に目も通していないのか? とベルトゥス皇太子は冗談交じりに微笑まれた。

 

 

     ◇

 

 

 かくして私は陸軍省人事局に転属願を提出し、航空隊員としての第一歩を踏み出すべく、適性検査と飛行資格試験を受ける事となった。

 陸軍省人事局のみならず、検査官も私の経歴を二度ならず三度、四度と確認し「悪いことは言わないから引き返せ」と気遣って下さったが、私の決心は変わらない。

 

 身体検査では私の身長が一八〇と、パイロットとしては高身長である事が問題視されたが、逆に問題視されたのはその一点に止まった。

 視力は両目共に二・五。これは一番下をスラスラと当ててから更に確認したもので、より詳しく検査すれば正しい数値が出るだろうが、これ以上は必要ないとされた。

 肺活量に関しても十分で、こちらも難なく一番で通った。

 この他にも事細かな検査はあったものの、大半が徴兵時の兵役検査と変わりない物であった為、本著では省略させて頂く。

 

 ここから先がお待ちかねの、動力機への搭乗である。

 志願者には高所に対し恐怖を感じる者も多く──教会の尖塔程度の高さで問題なくとも、飛行機では勝手が違うものらしい──恐怖心に耐えられない者。また、肉体が高度に耐えられず、失神や嘔吐する者も航空隊員候補から外される。

 その為、動力機では当時高高度飛行のみに全力を注いだ専用偵察機を使用し、この確認に当たる事となった。

 他の志願者が緊張に顔を強ばらせる中、私は喜々として複座式の後座席へと乗り込み、検査官を急かすように飛んで貰った。

 生まれて初めて空から見た世界は、どんな教会の尖塔から見える景色よりも、遥かに違って見えていた。顔に吹き付ける風も、想像以上の寒ささえ、この景観の前には些事に過ぎない。

 世界とは、こんなにも広く大きなものだったのか。何処までも高く、遠くに広がる青と、大地に根付き色づく文明の双方が、私の瞳を子供のように輝かせる。

 この時の私は個人として、軍人として、貴族として、己を戒める為の枷を知らぬ内に外してしまった。それ程までに、空は私の心を自由奔放にさせてしまっていたのだ。

 私は大声を上げたり、腕を伸ばして風を感じたいという衝動に駆られたが、検査官はそんな私に対してミラー越しに──後座席を確認する為、前側の座席にはミラーが取り付けられている──「問題ないか!?」と大声で聞いてきた。

 

「最高であります!」

 

 私は無邪気に大声で答えると「なら、もっと行けるな!」と検査官は更に高度を上げた。

 メーターの高度は一万三〇〇〇フィート。これが涙ぐましい努力によって製造された、当時の高高度偵察機の性能である。

 

「もっと高く飛べませんか!?」

 

 しかし、まだまだ満足できない私は、再び大声で叫んだ。

 

「踏ん張れば、あと五〇〇〇は伸ばせるだろうな!」

「お願いします!」

 

 私は検査官の言葉に飛びついた。

「よし来た!」と明るく、気前の良い検査官は私を高みへと押し上げて下さり、私は感無量と行った心地で地上へと降りた。

 検査結果は『最高高度へ耐える頑健な肉体。しかし好奇心旺盛に過ぎる』という、苦言・苦笑混じりのものであった。

 

 私の顔は羞恥で真っ赤になり、二度とこんな振る舞いはすまいと、制帽を目深に被って、そそくさと隅の方に行く事にしたのであった。

*1
 事実、三年後の一九二〇年に近衛連隊を除く騎兵部隊の大半は廃止され、軍馬は輜重科に転用。陸軍に残った騎兵科軍人は戦車兵やオートバイ部隊員となる。

 近衛騎兵も式典と一部訓練を除いて軍馬に跨る事はなくなり、他の騎兵軍人と同様、機甲部隊の教育を受けた。

*2
 軍服に関しては任官時に被服費が出るが、礼装を始め複数着用意せねばならない為、到底賄いきれるものではなかった。

*3
 本来ならば、任官一年目の近衛騎兵は士官心得として典礼の勉強や上官の馬具の取り扱いについてなど、所謂かつての従騎士としての心得作法を学ぶのであるが、私はキッテル家の貴族としてそれらを完璧に心得ていたので、正規士官として一年目から訓練に参加する事を許されていた。

*4
 ここで記載する人事局とは、個人・部隊の論考調査や、評価・報酬・等級を管理する陸軍参謀本部(中央参謀本部)の一部局のものではなく、陸軍省の人事局を指す。以降、陸軍省管轄の場合、混同を避ける為、陸軍省人事局と記載する。

*5
 白翼鉄十字は直接戦闘以外において、顕著な功績を上げた個人に授与される栄誉ある勲章。

 エルマーはこの時点で技術鉄十字勲章、二級白翼鉄十字勲章を受勲している。

*6
 将校の軍服は各人のオーダーメイドだが、死亡・傷病・退役以外で隊を離れる際は、国に返納ないし処分する事を求められる。




補足説明

※徴募兵について
 今話で『徴募兵』の単語を出したので、この場をお借りして独自設定の説明をさせて頂きます。
 幼女戦記原作では、帝国では魔導適正を持った者が「将来徴兵されるから覚悟してね♪」的な赤紙送られて強制徴募対象となる以外は、一般に志願制(1巻P176)とのことだったのですが、本作品では史実ドイツ同様、徴兵制度を採用しております。
 理由としては、原作1巻P31で『長大な国土防衛の兵力は喫緊の課題』と明記されているのに、魔導師だけを半強制的に放り込むのは(如何に帝国軍が任務遂行型の、現代戦よろしくなプロ軍人ご用達の集団といえど)フレッシュミートと言う名の人的資源を維持するのが困難であろうと考えた為であります。

 ……尤も、志願制であったとしても、現実のドイツのように、徴兵で軍役に就かなかった場合は、周囲から虐めに遭う(戦後のドイツ連邦でも、軍の徴兵じゃなくてボランティアに行った人は、職場でも軟弱者扱いされて公然と苛められてたそうです)ので、「男は志願するのが当たり前だから、徴兵なんて必要ない」という理屈なのかもしれませんが。
 そこを説明すると、紙文を余計に割かないといけないので、本作品では「原作と違って史実通り徴兵されるよ! お国の為に元気よく死んでね!」という設定で行かせて下さい。

※将校の軍衣を含む自費購入品について。
 史実ドイツをはじめとして、WW2までは基本的にどの国でも少尉任官時にはオーダーメイドで制服を仕立て(日本やドイツでは少尉任官時に『被服費』が出ましたが、足りなかったそうです)必要物品は自費で購入しました。
 現代でも制服の自費購入は自衛隊を始め、どこの国でもやっているそうです。
 騎兵が馬を購入しないといけないのも史実で、シュリーフェンプランで有名なシュリーフェン伯家も、幼少期に父親が息子を騎兵に入れたいが為に、わざわざ馬を買ったという話が残っています。

※フェヒター章の元ネタはドイツ帝国の『Fechterabzeichen』です。
 連隊司令官が一年間で最大一二名まで授与できる物で、授与された人の軍服の右腕にV字の徽章が付きます。
 多分WW2ドイツに詳しい人が真っ先に『アルターカンプ』かな? と思っちゃうデザイン。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 フーベルトゥス王子→ベルトゥス皇太子


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04 南方大陸へ-伝説の男との出会い

※2020/2/20誤字修正。
 くるまさま、びちょびちよさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 検査官の手に委ねられたものとは言え、最高の初飛行を終えた私は、その後約一ヶ月、航空隊員として座学と操縦に関する基礎訓練を課せられた。

 航空魔導師は幼年学校から鍛え上げられ、戦況が逼迫して短縮でもされない限りは、最低でも二年間はみっちりしごかれるのに対して、私達パイロット候補生の動力機の機上訓練は、僅か二〇時間に過ぎなかったのだから、如何に航空隊が陸軍の窓際なのかが判ろうというものである。

 

 とはいえ、私とて航空隊の懐事情を理解していなかった訳ではなく、また、窓際どころか断崖絶壁の崖に片手でしがみついているとさえ言われるパイロットが、どのような場所に配属されるかも十分に理解できていた。

 当時の陸軍航空隊の任地は帝国領オストランド(東方領)、帝国領ノルデン(北方領)、帝国保護領ファメルーンの計三箇所であり、成績に応じて志願者を出向させていた。

 帝国領オストランド、帝国領ノルデンは航空隊員の受け入れ先としての基地が複数──といっても二箇所だが──存在したが、ファメルーンには一箇所しか航空隊を受け入れる基地は存在しなかった。

 世界に冠たる我らが帝国本土を去り、航空隊志願者一七名の内、私を含む四名と物資を乗せた輸送船が到着したのは、南方大陸の帝国保護領ファメルーンであった。

 

 

     ◇

 

 

「少壮気鋭にして、栄えある陸軍航空隊に志願してくれた諸君を歓迎する」

 

 ファメルーンの陸軍航空隊試験工廠監督官ならび航空技術研究所所長は、そう我々を歓迎したが、言葉とは裏腹に覇気は皆無であり、全身から伝わるのは結果を出せない事への憔悴と、諦めにも似た光のない瞳だった。

 

「見ろよウルス。新しいお嬢様達だ」

 

 軽口と共に、兵舎で寛いでいた航空魔導将校が、にやけ面で私達に近付くと「煙草はあるか?」と聞いていた。

 

「はい。中尉殿」

 

 私は肩の星が違う事もあって、粛々と煙草を一本差し出すが、そうじゃないと彼らは笑う。

 

「一箱だ。魔導師達へのチップだよ」

 

 成程と、私は抵抗する事なく煙草を一箱と言わず、手持ちの三箱全て差し出した。本音を言えば少々惜しいが、所詮は嗜好品であるし戦闘口糧の兵隊煙草もある。

 何より彼らから漂うのは、硝煙弾雨に慣れ親しんだ古参特有の空気だ。新品少尉同然の私にしてみれば、仲良くしておくに越したことはない。

 フランソワ共和国産の黒煙草と私の気前の良さに気を良くしたのか、魔導中尉は連れのウルス少尉と一緒に私の肩を叩いた。

 

「俺はアントンだ。ケツが狙われたら、真っ先に助けてやる」

 

 アントン中尉の言葉は嫌味ではなく、本心から来る親切心である。

 私が本著で散々航空隊に──より正確には航空機に──未来がないと述べたのは、当時は彼ら航空魔導師と比べ、航空機の性能が目を覆わんばかりだったからだ。

 

 ここで、当時の列強国における空の事情を説明したい。

 航空魔導師の出現は、気球による敵地観測を不可能たらしめ、これを克服する『逃走目的』として偵察機が出現したが、この航空機は当初、軍部の要求を満たすものではなかった。

 実用・限界高度は兎も角、飛行速度に関しては航空魔導師が優位性を保ち続け、貫通術式による長距離射撃が、より高みにある筈の偵察機を撃ち落とし続けたのは、性能差からくる当然の帰結であった*1

 

 一度空に上がれば鉄の棺桶となって散華する事から、偵察機は『鉄の花火』の蔑称を授けられ、偵察隊員は出撃前に必ず遺書を戦友に手渡してから出撃したものである。

 航空技師は死亡率を下げる為に苦心し、最終的には装甲を犠牲に高度限界を一万三〇〇〇まで確保する事に成功。速度も同様に底上げされ、魔導師に運悪く発見されたとしても、確実に撃墜されるという事態は回避できたが、技術とは一つの分野だけが突出する訳ではない。

 技師達が航空機設計に苦慮する中、航空魔導師の心臓たる演算宝珠も、同様に進化を続けていた。

 空を飛ぶばかりが魔導ではない。彼ら魔導師は魔導障壁によって銃弾から身を守り、貫通術式によって航空機のエンジンさえ貫通させ、爆裂術式によって地上軍に砲兵同様の被害を与える、正しく人間兵器にして万能の兵科である。

 

 対し、航空機の役割はどうか? 空から敵陣地を撮影ないし記録し、これを魔導師に撃墜される恐怖に苛まれながら、後方に届けるという役割は、やろうと思えば魔導師にも可能である。

 そうならず済んでいるのは、魔力波長の探知技術が、航空機探知レーダーの技術以上に優れており、結果として偵察機が首の皮一枚繋がっている事にある訳だが、有用であるが故に対策された魔導師に対し、手をつけぬまま見逃された偵察機の存在は、何とも哀れなものであった。

 

 しかし、これが航空技師らに火を点けた。

 

 必ずや、自分達は航空魔導師を倒す。自分達の作品が、空を席巻する日を夢見、その妄執の末に『戦闘機』が各国列強で少数ながら開発された。

 

 いつか。きっと。必ずや。

 

 しかし、その熱意は現実の壁に阻まれた。

 一九一八年。私がファメルーンに到着した時点における帝国軍制式採用戦闘機の性能は、巡航速度六五ノット。最高速度でも七五ノットであり、実用高度に至っては、約四〇〇〇フィートに過ぎない。

 これは、当時帝国軍航空魔導師の装備として制式採用されていたエレニウム八〇式の巡航・最高速度と互角のものであり、高度限界だけは一〇〇〇フィートもの大差をつけて勝利したが、こんなものは負けない為の、逃げる為のものであって、魔導師を打倒するという当初の目的には沿わなかった。

 

“どれだけ高く飛べようと、自分達から近づく必要があるからな”

 

 斯様なまでの醜態を戦闘機が晒すのは、その武装故である。

 魔導障壁を展開する航空魔導師に、貫通術式等の魔導を行使せず有効打を与えるには、当時は一般に七・七ミリ以上の銃弾を()()する必要があった。

 これは帝国技術廠のデータが証明した、極めて正確な結果である反面、非常に困難な問題だった。何しろ魔導師といえば、縦横無尽に格闘戦を仕掛け、射角さえ三六〇度自由自在に変換できる相手で、しかも的は非常に小さいと来ている。

 加え、当時の機銃は命中精度が劣悪で、接近を余儀なくされることから、明らかに分が悪いどころか、まともな戦いにもならなかったのだ。

 魔導障壁に命中したとしても、一発は耐えられるし、場合によっては下なり上なりに逃げて、エンジンに穴を開けられればそれだけで戦闘機は終わってしまう。

 そこで戦闘機は、二センチにもなる火砲を二門備え、これを以て魔導師の防御を一撃で抜くという手段が選ばれた*2

 一発でも中てるのが難しいなら、その一発で決めろということだろうが、明らかに当時の航空機には重量過多の武装を付けた事で、戦闘機は飛ぶ力を根こそぎ奪われていたのだ。

 

『幸運なるパイロットよ! 汝、空の安全は我らに任せ、敵の情報を持ち帰り給え!

 諸君らがやがて至るヴァルハラの門は、我らが先んじてお守り致そう!』

 

 かつての航空魔導師の間では、航空隊員の出撃前に、こう歌うのが定番だった。

 航空機など、資源と燃料と人命を無駄にする騎兵以上の無駄飯喰らいであり、空飛ぶ棺桶に乗ろうとする者は、軍人として後のない者だと嘲笑された。

 当時の軍事評論家や有識者達が、『戦闘機不要論(輸送・高高度専用機は改良の余地有と除外されていた)』を語るのも無理からぬ話である。

 

 これが将来は、航空隊が帝国空軍なる陸海と並ぶ帝国第三の軍となり、魔導師が陸海の一兵科に収まり続けているのだから、まこと世の流れとは分からないものである。

 

 

     ◇

 

 

 ファメルーンでの我々航空隊員の任務は、表向きアルビオン連合王国植民地ニジェリアと、フランソワ共和国植民地・南方大陸西部との国境線の監視と哨戒にある訳だが、現実には異なる。

 

 国境地帯では常に小規模な戦闘が続いており、毎日のように兵士達が命を落としているが、帝国・連合王国・共和国三国の本国国民はおろか、政府さえその事に関心を払わない。

 原因としては、当時三国が出した犠牲者の大半が本国国民でなく、保護・植民地領出身の兵士であった事。何よりこの土地での……より正確に言えば、南方大陸での列強の戦闘は、全て新型兵器のテストに費やされていたといっても過言ではなかった為だ。

 

 無論のこと、前線将兵は大真面目に戦うし、国の為に命も捧げる。だが、本国国土への直接的被害がないというだけで、国民の危機感というものは何処までも薄くなるのである。

 ここファメルーンに、本土以上に立派な航空工廠や航空技術研究所があるのもそうした理由で、時に己の技術を高め、時に敵の技術を盗みながら、日夜熱心に自国の兵器を開発していた*3

 

 我が弟、エルマーの戦車も南方大陸で試作機が作られ、在ニジェリア連合王国軍の心胆を寒からしめたのは、帝国・共和国軍においては、つい昨日の出来事である。

 

「少尉が、あのエルマーの兄というのは本当なのか?」

 

 これは南方大陸で上官・部下問わず、私の姓を知った者が、最初に問う言葉となっていた。エルマーが本国で開発した兵器は次々と南方大陸でも輸送ないしコピー生産され、テストされたが、私が初めて南方に着任した半年間(一九一八年、五月~翌年一月)で、エルマーの兵器が制式採用を見送られた事は一度としてなかった*4

 

 そんな事情であるからして、哨戒飛行を行うと言うことは、敵との交戦を意味している。よって、生存率を高める為、哨戒任務に就くには、訓練と模擬戦の双方で一定の水準を満たす事が条件とされたが、ここで私は伝説の男との邂逅を果たした。

 

 彼の名は、イメール・マルクル中尉。

 

 航空界と空軍史において今尚、そして未来永劫語り継がれるであろう、私が生涯尊敬し続けた帝国将校にして、読者諸氏も名前ぐらいは聞いた事があるだろう『イメール・ターン』なる空戦機動を編み出した、至高のエース(エクスペルテン)である。

 

「新しいパイロットだね?」

 

 マルクル中尉は、まだファメルーンに着任して間もない私にお声をかけられたが、この時にして既に、私はマルクル中尉の『伝説』を聞き及んでいた為に、まるで将軍に対して行うように大仰な動作で踵を鳴らし、直立不動の姿勢を取った。

 

「中尉殿! お会いできて光栄であります!」

「必要以上に畏まらなくて良い。私は運が良かったに過ぎないし、航空隊で持て囃されているのも、それぐらいしか良い話題がないだけだよ」

「運で魔導師を二名撃墜は出来ませんよ、中尉殿」

 

 横合いから声がかかるのは、美髯の美しい、三〇間際の少尉だ。名をダールゲ・クニックマンと言い、ファメルーン航空隊内でもムードメーカーとして知られ、誰にでも声をかけては、好かれるか嫌われるかのどちらかだったが、憎まれる事はないという変わった性分の男であった。

 ダールゲ少尉はどんな時でもユーモアを失う事のない快活な人物で、私も含めてそれに助けられた航空隊員も多く、私や他の航空隊員達は、親しみを込めて彼をファーストネームで呼んだ。

 

「中尉殿、小官も同意見であります」

 

 ダールゲ少尉に追従し、私はマルクル中尉が如何に誇らしいかを力説したい気持ちだったが、中尉はやめてくれ、と笑いながら手を振った。

 マルクル中尉はその名にフォンが付かない事からも判る通り、貴族の生まれではない。しかし、その整った顔立ちと洗練された動作。何より、非の打ち所のない潔癖なお人柄が、中尉を貴族以上に男らしい士官に仕立てていた。

 私は、マルクル中尉のような帝国最高のパイロットが何故声をかけてくれたのかトンと見当がつかず、内心首を傾げていたのだが、要件はすぐさま中尉自身の口から伝えられた。

 

「まだ飛ぶ為の条件を満たしてないのだろう? 私でよければ、付き合うよ?」

 

 なんと! 伝説の男が、私の模擬戦デビューを務めて下さるというのだ!

 私はその申し出に誇張ではなく飛び上がり、抱き着かんばかりに受諾の意を全身で表現した。

 しかし残念ながら、それは私が特別という訳ではなくて、マルクル中尉は非常に面倒見の良い、戦友思いの男であったから、新人にはまず声をかけて実力を把握し、実際に飛ぶ段になっても、後方で見守って下さる為だったのだ。

 

 

     ◇

 

 

「また中尉殿が始めるぞー!」

 

 新人との模擬戦は、ここでの風物詩なのだろう。私が今日すぐにでもと模擬戦を受けた途端、航空隊員のみならず魔導師や手の空いている兵卒らが、我も我もと見物に来ては、賭けの元締めなぞやっている下士官の軍帽にマルクやペニヒ硬貨を放り込んでいた。

 これは私とマルクル中尉のどちらが勝つか、ではなく、私が何分持つかを賭けるものである。

 私は過去の最高は何分かとダールゲ少尉に問えば、離陸してから三分半であり、四分を越えた者はないという。

 

「いいか? ここだけの話だが、中尉殿に長く粘ったからって、そいつが強い訳じゃあ無いんだ。中尉殿に『芸術』を使わせた奴が、この航空隊で長生きするんだ」

 

 その芸術とは何なのか、ダールゲ少尉は私に教えてはくれず、ニヤニヤとした表情でさっさと乗れと顎で示した。

 

「準備はいいな!?」

「はい、中尉殿!」

 

 始動したエンジンの轟音にかき消されないよう声を張り上げると、マルクル中尉は私に親指を立てた。その様がどうしようもなく絵になって私は見惚れかけたが、すぐに気を引き締めて離陸準備を始める。

 機体はどちらも同じフォルカーD型。性能面に差はなく、整備も職人気質の帝国人であるから、私は自分の実力こそ全てだと自信を持って迎え撃つと決めた。

 真っ直ぐな滑走路を、二機の戦闘機が進む。スロットル・レバーを全開にした際、私はちらと横目にマルクル中尉を見やると、なんと中尉の方が明らかに早い!

 機体が一切ぶれる事なく、真っ直ぐ進めている証左だ。私はこの時点で、彼我の実力差を認めざるを得なかった。やはり物が、格が違う。当然と言われればそれまでだが、何事にも全力で取り組む、負けず嫌いな性分の私は、この程度で挫けてなるものかと己を鼓舞した。

 地上滑走と離陸の早さでは敵わないが、完全に飛ばれるまでの差は僅かだ。

 

 読者諸氏の中には、遅く飛んだ方が後ろから狙いをつけられるので有利だと思う者も居られるだろうが、そうした行為はこの場合『反則』である。

 よって、機体が二機とも水平飛行に移り、横並びに飛んでからが本当の勝負だ。

 私は速度を落とし、後ろに付こうとしたが、マルクル中尉はいち早く察知して機首を落とすと、地面に触れるのではないかという低空で飛行してみせた。

 その命知らずな行為に私は目を丸くしたが、すぐに勝負なのだと思い出して、照準器に相手を収めようと覗き込んだ。

 勝利条件は、ぴたりとエンジンないしコクピットを五秒以上捉える事で、結果は自己申告なのだが、地上のギャラリーは経験豊富な者が多く、何よりパイロットは気位が高いので、決して嘘は吐かない。負けた時は負けたと盛大に悔しがり、勝った時は両手を挙げて喜ぶのだ。

 

 私は五秒ぐらいどうという事はあるまいと高を括っていたのだが、なんと二秒と持たずマルクル中尉は左右に機体を揺らして狙いを外す。

 私は実弾の試射を何度か見ていたし、実際に中るかどうかを頭の中でシミュレート出来たが、一向に弾が中ったというイメージがない。むしろ、私は散々に無駄弾を撃たされ、ばかりか集中力まで削られていると感じていた。

 

“このっ!”

 

 私は後ろを取っている。有利なのは間違いなく自分の筈だ。そう思う事で気を鎮めようとしたが、思いに反して心はエンジンより昂っていた。

 

“上がってこい”

 

 私は、地面すれすれの方が撃たれにくいのだと察して──勿論こんな行為は、さしもの伝説の男と言えど実戦では無理だろうし、私はマルクル中尉が低空飛行で狙いを逸らすのは、これ以後も模擬戦以外で見たことがない──敢えて隙を作ったが、乗って来ない。

 マルクル中尉が機首を上げ、上昇してきたのは、私の張り詰めた緊張の糸が緩んだ、刹那にも満たない時間、本当の意味での隙を晒してからだった。

 

南無三(しまった)!”

 

 後悔は、余りに遅い。私は逆に後ろを取られそうになり、これを振り切るべく右へ左へと旋回したが、マルクル中尉の機体は、私の機体の尾翼から伸びた糸で結ばれているかのように、ぴったりとくっついて離れない。

 意識の隙間に入り込み、立ち所に攻守の境を異にするその手管は、正しく達人の手管だった。

 

“負けて、なるものか!”

 

 しかし、何度も書いたが、私は負けず嫌いで諦めも悪いのだ。操縦桿を手に旋回を続ける中、どうすれば、より機体が小さな円で旋回出来るか感覚を掴んできた。後は動く上での適切なタイミングだ。私は心の中で秒数を数えた。相手が自分に合わせて舵を切った瞬間、何秒で追随出来るか?

 一、二……心中の時計が秒針を刻み、私はそれに合わせて操縦桿に力を込めた。

 

“いま!”

 

 私は馬鹿の一つ覚えの旋回に見せかけて、マルクル中尉の下腹へと速度を落として潜り込んだ。中尉も予想してなかったに違いない。私だって、旋回を直前まで考えていた。だが、何度も旋回して見せて、徐々に上手くなったのだから、今なら誤魔化せるのではないかと賭けに出たのだ。

 

“やったぞ、成功だ!”

 

 内心自分に喝采を送り、再び後ろを取った一瞬を照準器で覗こうとし──瞬間、マルクル中尉が空から()()()

 

 馬鹿な、何処だ、有り得ない、後ろを取られた、左、右、いや……

 

“どれも違う!”

 

 幼少の頃より、器械体操と馬術で培った動体視力が、三次元的な空間を正しく認識し、刹那の判断で私は機体軸を横にずらして回避運動を取った。

 

“中尉殿は、()だ!

 

 横でなく縦の機動! 垂直上昇からの失速反転!

 私はダールゲ少尉の『芸術』の正体を即座に看破したものの、同時に脳裏に刻まれたのは、紛れもない敗北のイメージだ。

 マルクル中尉と私の距離は五〇メートル以内。火砲どころか、機銃による有効打を与えるのにも確実な距離。私の回避は間に合わない。翼は確実に捥がれただろう。運さえ良ければ、エンジンは無事か? いいや、一発は絶対に命中した。コクピットは? 判らない。

 いずれにせよ、二センチもの火砲を受けて無事な戦闘機など有る筈もない。人間が無事だとしても、すぐさまパラシュートで飛ばねば、地面に激突して終わるだろう。現実の空中戦なら、直ちに燃料と点火装置を切って脱出に備えなければならない場面なのだ。

 私は五秒のルールなど、この時点で頭からすっぽ抜けていた。そんなルールなどなくとも、自分は完膚なきまでに敗北したのだと、私自身が一番理解出来ていたからだ。

 

 私は降参を示した後、滑走路に着陸した。着陸は自分でも良い出来栄えだったと思うが、負けた事への悔しさの前では、何の慰めにもならない。

 目に見えて肩を落とす私に、しかし後ろから勢い良く抱きつく者があった。

 

「あれで()()()()()()のは、少尉が初めてだよ!? 誰かから聞いていたのかい!?」

 

 伝説の男は飛行眼鏡(ゴッグル)を外しながら、悔しさを微塵にも感じさせない、朗らかな笑みで私に肩を回した。私は驚きと負けた事での萎縮からたじたじとなり、まるで内向きな少年の様に返した。

 

「その、ダールゲ少尉から『芸術』を使うと……警戒はしておりました」

「あいつか。だが、あいつはそれ以上は絶対言わないな。良いぞ、実に良い」

 

 しきりに満足げに頷かれるマルクル中尉に、私は気になっていた事を訊ねた。

 

「中尉殿……小官は、死ななかったのですか?」

「模擬戦で死ぬ奴はいないよ……と、言いたいが、降参した時点では生還だな。少尉の体には中らなかった。エンジンに一発は穴を開けたろうが、あの高さならパラシュートは開くよ」

 

 私のイメージと、マルクル中尉のそれは同じであったらしい。中尉は皆の方に顔を向けると、高らかに宣言した。

 

「決めたぞ! この少尉は私の僚機にする! 少尉のケツが欲しいなら、私に勝ってからにしろ!」

 

 私は一瞬、頭が真っ白になった。そして、頭がマルクル中尉の言葉を反芻し、意味が分かった途端、嬉しさのあまり中尉に抱きついてしまった。

 

「中尉殿、結婚式は何時ですか!?」

 

 ダールゲ少尉のジョークは、大爆笑の渦を生んだ。

 

 

*1
 これは気球も同様で、どれだけ高く飛ぼうと止まっていれば複数人によって同調・強化された貫通術式が確実に墜とした。当時の魔導師達は、これを『風船割り』と称した。

*2
 当時から一三ミリ機銃は既に存在していたが、炸裂弾の開発はなされておらず、高速移動する魔導師を一撃で下すには不向きとされ、実装はされなかった。

*3
 ファメルーンで航空隊員の受け入れが一箇所であったのは、これが原因である。私達志願者は、彼らの開発した航空機に搭乗し、結果を出す必要があったのだ。

*4
 というより、エルマーが生涯の中で採用を見送られた兵器は一作品のみであり、そちらも実用性が証明されてから制式採用の運びとなった。




補足説明

※ドイツ陸軍航空隊では、単座式戦闘機に乗るまでには
 複座機での観測任務→爆撃機→複座戦闘機
 と段階的に経験を積まないといけないのですが、本作品では物語をスムーズに進めるため、一気に単座式戦闘機に乗せています。
 ……この話の時点では、まだ爆撃機が影も形もないという理由もありますが。

※幼女戦記原作1巻の参謀本部会議では、帝国軍は自分たちの地上戦力を『大陸軍』と呼称しているのですが、本作では『地上軍』に変更しています。
 これは後々この作品で、ナポレオンの大陸軍を『フランソワ大陸軍(グランダルメ)』ないし『大陸軍』という名前で使ってしまったので、混同を避けるために変更させて頂きました。
 お気に触られた読者様がおられましたら、この場をお借りしてお詫び申し上げます。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【社名】
 フォッカー社→フォルカー社
【人物名】
 マックス・インメルマン→イメール・マルクル
【地名】
 カメルーン→ファメルーン
 ナイジェリア→ニジェリア


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05 初任務-撃墜王への一歩

※2020/2/20誤字修正。
 kkeさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


「ところで、私は何分持っただろうか?」

 

 ダールゲ少尉に訊ねると、二分五〇秒だと答えた。あの壮絶な、私の中では一〇分にも二〇分にも感じられた時間が、三分にも満たないとは!

 私は肩を落としそうになったが、ダールゲ少尉は何を言っているんだと小突いてくる。

 

「中尉殿の『芸術』を見て生還したんだぞ? 自分の時は、腸詰用の挽肉にされたよ」

 

 負けは負けとは言え、誇るべき敗北だとダールゲ少尉は言う。しかし、私の関心はもう、勝ち負けとは別のところにあった。

 

「あの『芸術』を、私も使えるようになるだろうか?」

「練習すれば、少尉なら出来るだろうな。自分も、ガワだけならすぐ真似られるようになった」

 

 だが、実戦となれば話は別だという。

 

「魔導師は小回りが利くどころじゃない。あいつらは空中で静止(ホバリング)なんぞしやがるし、的もえらく小さい。その癖堅いから近づかなきゃ仕留められないと来たもんだ。

 中尉殿のあれを『曲芸』じゃなく、皆が尊敬を込めて『芸術』って呼んでんのは、そんな理不尽極まりない連中を殺せる領域にまで押し上げて昇華したからだ。

 先達として言わせて貰うなら、猿真似じゃ死ぬだけだな。生き残りたけりゃ地力を上げるのが一番ってことだ」

 

 私もパイロットとして経験を積んだ後だからこそ言えることだが、宙返りなどの芸を多く修めたところで、それが実戦で通用せず、枝葉末節の曲芸として敵味方に披露した後に散華した者は後を絶たない。

 ダールゲ少尉の言う通り、腕を磨いて生存率を高めたいのであれば、小手先の技術を取り入れるより、素直に機体を完全に制御するだけの地力を得る方が余程建設的なのだろう。

 

 しかし、成程と神妙に頷きつつも、私はその頑固さと若さ故に、逆に火を点けていた。

 あの美しい妙技を枝葉末節の一芸でなく、空戦機動(マニューバ)の切り札にしたい。そうした向上心と好奇が、男心をくすぐって止まなかったのである。

 何より、口では新人(わたし)を諭していても、ダールゲ少尉とて『曲芸』を自分の『芸術』にしてみたいという欲求があるに違いない。でなければ、こうも熱く語る筈がないのだ。

 

「ところで、物は相談なんだけど、煙草持ってないか? 魔導師に全部持ってかれたんだ」

 

 私は快くブーツに隠していたシガーチューブを取り出し、秘蔵の一本たる南国産の葉巻をくれてやった。だが、魚心あれば水心ありだ。

 

「時間が許す限り、私の自主訓練に付き合って貰うぞ」

 

 ダールゲ少尉はこの日、葉巻を嗅ぎながら満足げに頷いていたが、私が撃墜王として脚光を浴びた際、インタビューでこう答えたという。

 

「あの時は、とんでもない安請け合いをしたもんだ。ニコのせいで、自分は空との離婚を何度か考えたよ」

 

 

     ◇

 

 

 その日から初任務までの間、時間が許される限り、私はみっちり飛び続けた。ダールゲ少尉が四度目の飛行で勘弁してくれと泣き言を喚いたが、手足に震えはないし、視線も安定していたので六回は飛んだ。

 七回目に移ると、本当に限界に達したようで、目を回して座り込んだ。

 

「少尉……あんた、今まで何処に居たんだ?」

 

 私は自分が近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊の所属だった事を告げると、ダールゲ少尉は「何でこんな世界の果てに来たんだ?」と訝しみ、同時に納得もした。

 

「あそこかぁ。いや、噂には聞いてたぞ? 最も実戦に向かない、最も錬度の高い連隊だってのはさ」

 

 剣と槍の時代なら、さぞ武勲を挙げられたろうにとダールゲ少尉は哀れんだが、私としては、そういう少尉の事情こそ気になった。

 こう言ってはなんだが、ダールゲ少尉は口数こそ多いが気骨があり、私生活はともかく勤務態度も真面目である為、少尉自身の言う『世界の果て』とやらに来た理由が分からなかったのだ。

 

「前はリスト連隊に勤務していた。連隊にゃ不満はなかったんだが、魔導師じゃなくても、飛びたかったのさ」

 

 それが全てだと語るダールゲ少尉に、私は胸を打たれた。他人をエリート呼ばわり出来る経歴ではない。ダールゲ少尉もまた、数ある中でも屈指の精強さと偉功を誇る連隊の所属だったのだから。

 

「分かるよ。私も、それが理由だった」

 

 暫しの間、二人で口元をにやけさせながら空を見上げた。本土でもファメルーンでも、天気さえ良ければ空は何処までも澄み切っていて、果てのない自由な世界だった。

 

「馬鹿だねぇ。近衛からこっちに来た理由がそれとは」

「お互い様だ。さて、それなら、飛ぶ事に否はない筈だな?」

 

 明日も飛ぶぞと笑う私に、ダールゲ少尉は、空以上に顔を青くした。

 

 

     ◇

 

 

 もうやめてくれ。勘弁してくれ。自分以外にも隊員は居るじゃないか。

 ダールゲ少尉からの苦情は訓練場での日課となり、兵舎の人間の風物詩となった。

 無論、ダールゲ少尉の台詞も尤もな話で、彼が私との模擬戦を行えない時と、マルクル中尉が模擬戦をして下さる際はそちらを頼る。

 しかし、私はマルクル中尉の次に腕が立つのはダールゲ少尉だろうと最初の頃から確信しており、マルクル中尉からも「自分がいなければ奴がここのトップだっただろう」とのお墨付きの言葉を頂いていたので、私は常に、何処に隠れようともダールゲ少尉を見つけ出し、訓練に付き合って貰った。

 

「我々パイロットは、空で圧倒的優勢を誇る魔導師を前にしても臆す事なく戦えるようになる必要がある。その為には、弛まぬ練磨こそ不可欠だろう」

「判る! 判るが通常訓練であれだけ飛んで、まだ飛ぶのか!?」

 

 ああ飛ぶとも。『曲芸』が『芸術』に昇華されるまで、何度だろうと飛ぼうとも。

 

「休んでいる暇はない。訓練あるのみだ、ダールゲ少尉」

 

 

     ◇

 

 

 この後も私はダールゲ少尉との訓練を続けたが、初任務までに『曲芸』を『芸術』へと昇華する事は叶わず、遂に任務としての初飛行を迎える事となってしまった。

 これには理由があって、民間から派遣された現地整備員と、帝国整備兵双方から、散々に苦情が来たからである。

 当時のエンジンは航空機の軽量化に合わせた結果、耐久性能に非常に難があったのだ。そんな劣悪で傷めやすく、場合によっては数回の飛行でお釈迦になるエンジンを、私は訓練で幾度となく潰してしまった為、これ以上使いたいなら結果を出して来いと整備員・兵一同が直訴してきたのだ。

 加え、「あいつは十分実戦で飛べるのに、サボっている」と上に告げ口までされてしまっては、私としてもどうしようもない。

 日数としてみれば、私のファメルーンでの訓練期間は他と比べても決して長くない。私より多くの時間を訓練場で過ごし、意図的なサボタージュを行う者も──少数ではあるが──居ただけに納得しかねたのだが、密度で言えば確かに誰よりも濃い為、渋々ながらに任務に就く事と相成った訳である。

 

 ……やっと解放される。

 

 口にこそしていないが、目と全身からその態度を有りありと示してきたダールゲ少尉に、私は結果を出したら、また首根っこを掴んで空に上げてやると心に誓った。

 ダールゲ少尉との訓練は私にとって実に有意義なもので、自分でもメキメキと上達していたのが実感出来たから、こんな逸材を手放せる筈がなかった。

 航空隊の皆は、私がマルクル中尉と婚約しながら、ダールゲ少尉と不倫していると笑っていたが、そんな事は気にも留めない。

 私もダールゲ少尉も、そしてマルクル中尉もまた、空こそ焦がれる対象なのだから。

 

「緊張は、していないようだな」

 

 大変結構と、私の初任務で航空隊指揮官を務めるマルクル中尉はニコリと微笑む。

 今回の任務は表向きの事情そのままに国境の哨戒なのだが、当然敵との遭遇は避けられないし、相手は航空機だけでなく、魔導師もいるだろう。

 それはこちらも承知しており、三機編成の航空隊には、一個小隊(四名)からなる航空魔導師が随伴して下さる事になっていた。

 魔導小隊は例の『〽幸運なる~』という歌を、私達の出撃前にも歌ったが、マルクル中尉は気を悪くする事もなく、むしろ美声が良いとアンコールまで求め、心強い味方だと彼らを称えた。

 私はマルクル中尉のお人柄に、なんと慎ましいお方だと感銘を受け、魔導小隊に対するささくれ立った気持ちを綺麗に忘れる事が出来た。

 

 

     ◇

 

 

 我が初任務における航空隊の編成は、指揮官にマルクル中尉。二番機にダールゲ少尉であり、私は三番機だった。

 この三機編隊は、私の生涯を通しても帝国最強の編隊だと今も信じて疑わない。

 

「空の旅は快適かい?」

 

 そう声をかけたのは、着任して早々、ウルス魔導少尉と私の煙草を持っていった、アントン魔導中尉である。向こうは魔導師用咽頭マイクのおかげで声が通るが、こちらは航空機同士や魔導師と連絡を取り合える無線機や咽頭マイクなど配備されている筈も──それどころか作られている筈も──ないので、親指を立てて最高だと示した。

 ピストル型の発光信号機なら有るが、流石にこれを使うような場面でもないからだ。

 

「だろうな! 気持ちは分かる!」

 

 アントン魔導中尉は溌剌と気持ちの良い声で叫んだ。大声を出す必要などない筈だが、大空が開放的にさせているのかも知れない。

 それにしても、魔導師とは何と悠々自適に飛ぶのだろう。夢の国で、年を取らない子供が妖精と空を飛ぶ童話を思い出すが、彼ら魔導師は当然大人で、その飛行は力強く、自分達を阻む者は何者もないと知らしめる、正に空の王者たる荒鷲の風格を備えていた。

 いつ敵が来るだろうかと、背筋に汗を伝わせるのが常の航空隊員とは、月と(スッポン)ほどの差ではないか。

 私は彼ら魔導師の背を追う余り、自分が任務中である事を忘れてしまわないだろうかと、ふと思い、慌てて周囲に目を凝らした。

 魔導師達が首に提げた双眼鏡で周囲を探索する中、私は彼らに先んじて飛行眼鏡(ゴッグル)越しに、空の彼方にピカ、と陽光に反射した物体を見つけ出した。

 敵にこちらを察知されないよう信号機を用いず、手信号でアントン魔導中尉に一一時の方向を示す。

 アントン魔導中尉は探索に夢中となって、私の方に目もくれていないのではないかと不安になったが、どうやら杞憂だったようで、当たりだ! でかした! と親指を立てた。

 

「ツキがないな! 航空隊は下がれ! 魔導師だけの二個小隊だ!」

 

 彼ら魔導小隊の中では、私達と共に戦うという選択肢はない。なにせ敵の数はこちらの倍だ。そんな中では、如何に演算宝珠の性能に勝ると──当時はそう信じられていたが、実際のところ防御力と貫通術式の精度はあちらが上だった。純粋に個人の技量で、帝国の方が勝っていただけだったのである──言われても、子守をしながら戦える余裕はない。

 アントン魔導中尉は応援を要請し、遅滞戦闘で増援到着まで消耗を抑えつつ粘るか、一人でも多くの魔導師を撃墜すべく、麾下の魔導師と交戦を開始した。

 

「ハウンド〇二、交戦開始(エンゲージ)!」

 

 開戦の火蓋を高らかに切り、アントン魔導中尉は小銃を担ぐと、部下らも一斉に銃を揃える。一分の隙も、僅かなズレもない見事な挙動は、古プロシャ軍の戦列歩兵が如き美しさであり、それだけで魔導中尉の率いる小隊の錬度が窺い知れた。

 

“これが、本物の魔導師!”

 

 私は帝国本土の式典や訓練でなく、初めて実戦で目にする彼らの姿が、これ程まで勇壮にして美しいものとは知らなかった。

 マルクル中尉が彼らを称えたのは、決して媚びていたのではない。中尉は、彼らという帝国の先槍に、最大限の敬意と賞賛を込めているからこそ称えたのだ。

 貫通術式を付与して放たれた七・六二ミリ弾が、敵航空魔導師二名(一個分隊)を早々に屠る。連合王国軍魔導師は、将校を除けば植民地からの引き抜きなのだろう。明らかに錬度が帝国軍魔導師のそれと比べ劣っていたが、やはり数というものは馬鹿にできない。

 先に記載した通り、防御はあちらが上であり、数で束ねて密集すれば、集中して攻撃しても中々墜ちない。

 

「それで良い。良い子だからそのまま耐えてろ」

 

 アントン魔導中尉からすれば、増援が到着するまで持ち堪えれば良いのだ。

 だから、相手が集まって震えてくれる分に不都合はないのだが、私は奇妙だと感じた。

 こう言っては差別的だろうが、連合王国人は他の列強国以上に、植民地人への差別意識が強い。それは、歴史書の中で彼らが行ってきた政策を見れば読者諸氏にもご理解頂けるであろう。だからこそ、たとえ演算宝珠の価値や魔導師の希少性を考慮しても、敵士官が敢えて防御を優先させる理由が、私には引っかかって仕方なかった。

 そしてここでも、私の抜群の視力が、引っ掛かりの正体を看破した。

 

「アントン中尉殿! 退避して下さい!」

 

 喉が引き裂けんばかりに声を張り上げつつ、慌しく発光信号機の引き金を引いて窮地を知らせる。だが、命じられるがまま安全圏にいた私の声も光も届かない。だから私は、必要もないのに敢えて回避運動を取る事で、それを知らせようとした。

 

「!? 退避、退避ぃ……!」

 

 アントン魔導中尉は、その段で察してくれた。部下に命じつつも魔導障壁を展開し、衝撃に備えたが、次の瞬間には閃光と爆音が、アントン魔導中尉を飲み込んだ。

 爆裂術式。対地上陣地・対戦車への攻撃手段として魔導師が使用するこの術式は、当時は起動こそ単純でも、発射までのタイムラグと弾速の遅さを難としていた。

 何より不便なのは、使用時に防御術式を解除する必要があった点から、もっぱら地上への攻撃にのみ使用され、航空魔導師同士の交戦では、実用的ではないとされてきた。

 だが、敵魔導師はそれを使用した。部下を防御用の壁兼目隠しとして使用し、その背後で着々と帝国軍魔導師を吹き飛ばすべく、準備を進めていたのだ。

 この時点での帝国軍魔導師の損耗は二。

 アントン魔導中尉も左腕を骨折しており、腕があらぬ方向へと曲がっていた。

 

「逃げろ! お前らだけでも逃げるんだ! 忘れるな、『空の安全は』」

 

 アントン魔導中尉が我々の安否を気遣う中、マルクル中尉は彼らを救うべく突貫し、私とダールゲ少尉もそれに続いた。

 戦友を置いて逃げるなど、栄えある帝国軍人には許されない。例えそれが無駄死にであろうとも、私達航空隊の心はこの時一つだった。

 

「今までの借りを返すぞ!」

 

 声は届かなかったが、後で聞いた話では、マルクル中尉はそう言ったらしい。

 マルクル中尉はまるで機体が影絵にでもなったかのように、貫通術式の弾丸をすり抜け『芸術』を使用するまでもなく魔導師一名を撃墜。仰天する経験の浅い魔導師は、太陽を背にしたダールゲ少尉が食った。

 よもや、鉄の棺桶(せんとうき)がたちどころに二名もの魔導師を墜とすとは思わなかったのだろう。

 数の上では相手は四(内二名が士官)。こちらが戦闘機三、魔導師二の計五であるが、魔導師は二名とも負傷している上、最高戦力たるアントン魔導中尉は左腕を潰されている。

 私もマルクル中尉やダールゲ少尉への対抗心から、負けじと敵を狙うが、逆に一番経験が浅いのが私だと敵は目敏く察知したのだろう。

 私に食らいついて来たのは、何と敵の士官であった。

 

 私は縦横無尽に飛び回り、せめて一矢報いたいという思いがあったが、どうしても士官には照準を合わせられず、逃げるのに手一杯である。

 だが、私は諦めない。狐のように追い立てられ、逃げ惑うためにパイロットになった訳ではないのだ。だから必死に照準器を睨みつけ、その時が来れば曳光弾を叩き込もうと躍起になったが、その時運良く、間抜けな敵魔導師が私の射線に入ってくれた。

 

“しめた!”

 

 私は迷うこと無く火砲を浴びせたが、しかし敵魔導師は魔導障壁を盾状に展開し、それを傾斜させる事で、器用に砲弾を逸らしてしまった。

 

“そういう使い方もあるのか!”

 

 受けるのでなくいなす。距離があったとはいえ、斯様な芸当が可能とは思いもよらず、私は敵ながら相手を讃えつつも、この教訓を活かすことを誓う。

 何より、仕留めることこそ出来なかったが、私の射撃は相手の足を止める役は果たせた。この勝機を帝国魔導師が逃す筈も無く、アントン魔導中尉は部下の肩に小銃を載せ、渾身の魔力を込めた貫通術式で、足止めされた魔導師の頭蓋を吹き飛ばした。

 

「お見事!」

 

 何と天晴れなる槍働きであることか! あれだけの負傷でありながら、彼ら魔導師は未だ闘志を燃やし、見事一矢報いたのである!

 万雷の拍手を送りたいが、私は未だ敵士官に狙われ続ける身であったからそれは出来ない。

 敵は残すところ三名。一名は私を殺すべく追い立て回し、もう一名の敵士官はこれ以上はさせまいとアントン中尉ら魔導師を集中的に攻撃している。

 最後の一人は下士官だが、見るからに古強者といった男であり、彼はマルクル中尉とダールゲ少尉の二人を相手に粘っていた。

 

“しかし、しつこいものだ”

 

 大方、私を墜とせない事に苛立っているのだろう。マルクル中尉との模擬戦デビューでは、低空飛行からの上昇の際、中尉を逃すという失態を晒したが、こと体力には自信があるので、あとは平常心さえ保てれば私が集中の糸を切らすことはないし、ダールゲ少尉との訓練でも、私は技術面以上にそちらを磨く事に注力していた。

 敵士官も、徐々に疲労が出ているのだろう。動きに精彩が無くなってきたが、私は飛行が許される限りにおいて、このフォルカーD型のエンジンが焼き潰れるまで、精神と体力を維持出来る。精神面でならともかく、こと肉体面の我慢比べで私に勝てる者など、地獄の訓練を課す近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊でも居ないだろうと自負していた。

 逃げ続ければ、いずれ応援は来る。後はそちらに任せても良い。初任務において二個小隊の魔導師を相手に生還したというだけでも、十分な経験には違いない。

 

 そうと分かってはいても、やはり私の中に流れる尚武の血が、武勲を欲していたのだろう。

 未だマルクル中尉のような『芸術家』には程遠いが、それでも『狩人』としてならば、私は及第の筈だ。

 エンジンにも翼にも頼らぬ敵魔導士官が、今度こそはと狙いをつけた。私は逃げ続ける中、獲物を観察する猟師のように、相手の感覚を、視線を、動きを読み、把握すべく注視していた。だからこそ、その瞬間が確かに掴める。小銃を担ぐ瞬間が、狙いをつける一瞬が、射撃の際の、瞬きほどの硬直が、私にははっきりと分かるのだ。

 私はここぞというタイミングで、勢いよく操縦桿を切った。訓練で磨き上げた鋭い左旋回が機体を弾丸の射線から離し、同時に照準器の中心に、驚愕する魔導士官の表情を捉えた。

 

“距離は五〇メートル以内。有効射撃を可ならしむ”

 

 私の曳光弾は一秒ほど魔導障壁の前に止められるも、火砲掃射の弾雨はこれを粉微塵に砕き、敵士官魔導師は空に散った。

 私はそのままマルクル中尉やアントン魔導中尉の応援に駆けつけるべく視線を向けたが、既にしてマルクル中尉が魔導士官を撃墜。残る下士官は勝ち目がないと見て、銃を捨てて捕虜となる事を選んだ。

 

 こうして私は、初任務を白星で飾った。

 

 



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06 戦場の星-巨匠の最期

※2020/3/5誤字修正。
 あかさたぬさま、ご報告ありがとうございます!



 哨戒任務を終え、基地に帰還した私達航空隊と魔導小隊の報告を、上官は信じ難いという表情で耳にしていたが、捕虜となった黒人下士官の証言や、アントン魔導中尉のこと細かな報告。何よりも保護領内で確認された、火砲で肉片になった魔導師らの遺体と、演算宝珠の記録映像が決め手となり、私達航空隊の戦果は、正式に撃墜スコアとして登録されるに至った。

 

 当時の航空隊は陸軍所属である為、魔導師も航空隊のスコアとしてカウントされたのである。

 また、空軍設立時に際しても初期段階では航空機と魔導師の性能に開きがなかった為、暫くは撃墜スコアとして記録されていた。

 魔導師が空軍の撃墜スコアに登録されなくなった*1のは、大規模な新型航空機開発によって列強各国で両者に性能差が現れた、一九二一年からである。

 

 マルクル中尉は過去一個分隊(二名)の魔導師を撃墜した功で、既に二級鉄十字を拝受しており、ファメルーンでは戦闘機を二機撃墜し、今回の件で更に一個分隊の魔導師を撃墜した事から航空隊のエースとして登録され、一級鉄十字の叙勲と大尉への進級も決定した。

 戦闘機を相手にしてのエースはマルクル大尉以外にも数名いたが、魔導師を撃墜したエースパイロットは、大尉が世界初である。

 

 ダールゲ少尉と私は航空魔導師一名を撃墜した功により、空戦技能章並び野戦航空戦技章(航空魔導師の章と同一)を受章。ダールゲ少尉に関しては、過去戦闘機を一機撃墜していたので、二級鉄十字を叙勲申請すると言う。

 今回の任で実戦経験者の証たる野戦従軍章を拝受した事も含め、私はこれ以上なく晴れがましい気持ちであったのだが、マルクル大尉とアントン魔導中尉は、士官魔導師は下士官・兵の魔導師二名に相当して然るべきだと、私の二級鉄十字授与を推薦して下さったのである。

 しかし、一名だけでは推薦しても功績調査部は決して認めないだろうと基地司令官は仰られ、私もたった一名の撃墜で、戦功章を拝受する栄誉を授かるのは問題だろうと考えていた為、お二人には感謝しつつも推薦を退けて頂くよう固辞した。

 

 

     ◇

 

 

 私が初任務から帰還してから、航空隊内はお祭り騒ぎの状態だった。マルクル大尉以外不可能とされてきた魔導師撃墜を、新たに二名もの航空隊員が達成したからである。

 皆ファメルーンで買い込んだ酒や煙草を持ち寄ってグラスを鳴らし、私に対して辛辣であった──とはいえ、彼らの立場からすれば当然なのだが──整備員・兵のみならず、研究所の技術将校までもが、私に戦闘機の訓練を自由にしてくれて構わないという旨が伝えられ、引き換えに戦闘機運用と、戦闘機改良の為のレポートの提出を要求したのである。

 当然私は快く引き受けた。飛べるならば、どんな労力とて惜しくはない。

 ダールゲ少尉は「なんて事をしてくれやがったんだ!」と憤慨したが、当時の私からしてみれば、憤慨したいのは私の方だと言い返した。

 

 今にして思えば、ダールゲ少尉には心無いことを言ってしまったと猛省するばかりなのだが、当時の私はとにかく飛んで腕を磨きたいという一心だった。

 自分本位な私は、ダールゲ少尉が自分と違って、そこそこの体力なのだと──とはいえリスト連隊の出身である以上、十分過ぎるほどの精鋭なのだが──考えてはやれず、むしろ勝手に「訓練すれば体力なぞ幾らでも付くだろう」と、スパルタの戦士の如き訓練を少尉に課してしまったのである。

 その甲斐あって、ダールゲ少尉は古代の剣闘士の如く美しい肉体と鋼の精神をファメルーンで手に入れた。

 かといって、その件でダールゲ少尉が、私に礼を言った事は終ぞなかったのだが。

 

 

     ◇

 

 

 私がレポートでまず纏めたのは戦闘機運用からであり、戦闘機の持つ優位性を如何に活かすか。即ち、掃射という火力運用を、何処まで効率的に行えるかという点であった。

 速度において魔導師と戦闘機に差はなく、機動・格闘性能ではどう足掻いても航空機が劣る以上、打つ手といえばそれぐらいしか思い付かなかったからだ。

 魔導師が航空機を相手に用いるのは七・六二ミリ口径の小銃であり、拳銃弾を使用する短機関銃では、たとえ貫通術式を用いても射程距離と命中精度の観点から有用ではない。

 対し、戦闘機の両主翼下に一門ずつ吊られた二センチ火砲は、随時手動装填を要するボルトアクション*2と異なり、毎分三〇〇発近い連射速度を誇る。

 これは初速こそ遅く中てる事が難しいが、魔導師一名に対して最低でも二機、出来る事ならば三機で集中的に狙えば、魔導師を足止めして魔導障壁を砕く事は十分可能であろう。

 

 火砲の連射性以外に唯一残された優位の高度差を活かして、射撃を浴びせた後に上昇して敵魔導師の追尾を逃れ、反転して再度攻撃を仕掛ける離脱戦法もこれに組み合わせれば、生存率も高まる筈だ。

 

 無論、出来る事ならば今以上に接近せずとも有効打を与えられるような、三センチ以上の火砲ないし、それに準ずる火力を装備して尚、実用可能な性能を出せる戦闘機があれば言う事はない。

 しかし、新型機を造るには予算が必要であり、予算を国家から引き出すには、戦果を挙げて成果を示すより他にない。

 では、戦果を挙げる為にすべきは何か? 兵器の改良が難しい以上、私にはたった一つのやり方しか思い浮かばなかった。

 

「訓練だ。訓練しかない」

 

 航空魔導師の力を借り、彼らに訓練で魔導障壁を張って頂き、それに弱装弾を中てる訓練を行う事で、航空隊員の命中精度を向上させる。

 何であれば、逆に航空魔導師からも模擬弾で戦闘機を撃って貰った方が良いだろう。その方が、嫌が応にでも回避に身が入ろうというものだ。

 兵器が強くなれないなら、人間を強くすれば良い。血を吐き、泥を啜り、涙と汗が枯れ尽くしても、最後の一滴まで絞り尽くす。それで死なないなら万々歳ではないか!

 

 私はすぐさま、権限のある技術将校らにレポート片手に意気揚々と提案した。技術将校達は顔を青くしたが、予算の問題から手詰まりである事は理解していたのだろう。

 新型を作るより、弾を揃える方が安いという事もあって私の提案は受け入れられ、通常訓練に航空魔導師が参加する旨が通達された。

 

 

     ◇

 

 

 しかし。結果は散々であった。

 何しろ当時も現在も、帝国航空魔導師は世界最高の錬度を誇る、世界最強の魔導師である。航空隊員らの弾丸は彼らをすり抜け、反対に戦闘機はペイント弾で前衛芸術へと仕立てられる。

 何より問題なのは、私の戦闘機の運用プランは穴だらけだったと判明した事だ。

 一名の魔導師に対し、五〇メートル圏内に二機以上の戦闘機が接近するのは、接触事故を引き起こしかねない非常に危険なものだった。

 これを解決すべく航空隊員の一人が、二機のうち片方が足を止める為に遠距離で発砲し、もう片方が近距離で止めを刺す方式を提案したが、こちらは阿吽の呼吸以上の連携を僚機に要求する上、タイミングを間違えれば、発砲を続ける後衛機が前衛機を同士討ちしてしまう。

 

 そして攻撃後の離脱に関してだが、相手が一人ならいざ知らず、複数の魔導師が相手では、攻撃後の離脱時に、他の魔導師が戦闘機の背中を堂々と狙い撃ってしまったのだ。

 ただ、この攻撃後の離脱戦法は魔導師の方には有り難がられた。敵機として迎え撃つ戦闘機に対して、カウンター戦法を確立する事が出来たからだ。

 

 私は運用案を練り直した。最終的に皆から採用されたのは、事前に前衛・後衛を各編隊で割り振り、一定以上魔導師に僚機が接近した際は、発砲を控えるという簡潔なものだった。

 

 この他に航空隊員が提示した案としては、高度差を活かして急降下し、その加速でもって離脱戦法を完成させるというものが出た。

 アイデアとしては非常に良かったが、残念ながら唯でさえ構造上取り付けが脆弱な下翼に火砲を吊っている為、一定以上の時間と角度で急降下などしようものなら、機体はバラバラになってしまうと熟練者らが却下した。

 当時、この急降下を完璧に使いこなせたのはダールゲ少尉ぐらいのもので、彼は機体にどれだけの負荷がかかれば危険かを正しく理解していたからこそ、私の初白星となる戦闘でも、太陽を背に急降下することが出来たのである。

 

 急降下に関しては、私は初期の一ヶ月で座学を受けていたので知っていたが、当時は最低限の飛行訓練だけで派遣されたという航空隊員も多かったので、航空機の知識量にバラつきが見られたのだ。

 

 これに関しては、問題が表面化した良い事例であったと言えよう。この事情を知ってから、私達は各々所持していた専門書やマニュアルを寄せ集めて定期的に勉強会を行い、工廠や研究所の職員にも、拝み倒して教えを請う事になったのである。

 

 やや話が逸れたが、当座の対魔導師航空戦での運用が決定した為、この戦法に則って訓練を再開したが、やはり一朝一夕とは行かぬもの。

 魔導師に有効打を与えられたのが、マルクル大尉とダールゲ少尉、そして私の三名だけという結果となったのは、順当以外の何物でもなかった。

 しかし、当時の私はそんな事はお構いなしだ。少数の意図的なサボタージュを行った者は当然として、他の航空隊員にも悔しくはないのかと嘆いた。

 皆、当然悔しいし、忸怩たる思いを抱えているのは分かっている。だが、戦争とは結果こそ全てであり、勝利か死かの残酷な世界なのだ。

 私は心を鬼にして彼らを説き伏せ、自ら範となるべく、これまで以上の密度で飛んだ。

 食事と就寝、レポート提出等の地上勤務。勉強会や座学以外の全てを空で過ごし、ダールゲ少尉の次に魔導師らに悲鳴を上げさせてやると躍起になった。

 しかし、魔導師は航空隊と比して人数が充足しているので、交代すれば良いから悲鳴は聞けなかった。悲鳴を上げたのはいつもダールゲ少尉だった。

 

 

     ◇

 

 

 正直なところ、この訓練で一番得をしたのは私だった。私は魔導師が術式を込める際の発光や、各術式の込められた弾丸の特徴を眼球と言わず脳髄に焼き付ける事が出来たし、生身であるが故の魔導師の立ち回りというものを、肉体に刷り込む事も出来た。

 針の穴のように小さい彼らに弾丸を通すのは並大抵の事ではないが、それでも決して不可能ではない。

 最初の頃は一番的の大きい胴体を狙っていたし、実戦でもまずそこを狙うが、訓練では、ぴたりと頭に狙いを付けられるようにまでなった。

 

 そんな私であるから、撃墜スコアは出撃の度、順調に伸びた。魔導師を航空機で撃墜する事は『伝説』ではなくなり、技術あるパイロットならば可能な『現実』になって行った。

 運悪く哨戒だけで終わる事も度々あったが、いざ会敵すれば私は確実に撃墜したし、逃がすようなヘマもしなかった。

 無論これは私一人の力ではなく、マルクル大尉とダールゲ少尉との連携の成せる技であるのだが、日を追う毎、私はマルクル大尉の様子に違和感を覚えた。

 マルクル大尉の空戦機動(マニューバ)は芸術的であり、その美しさを疑う余地など一点もないのだが、大尉自身が『芸術』を披露する様を、私は五月の初任務以降、訓練を含め、二度しかお目にかかっていなかったのだ。

 

 敵に手の内を知られたくないのか? それとも使うまでもないという事なのだろうか? しかし、マルクル大尉が『芸術』を用いれば確実に仕留められたであろう魔導師は私の知る限り五名以上であり、今月(七月)に入ってから、一緒に飛ぶ事すら少なくなった。

 私はそれを訓練と実戦の疲れからだろうと思い、同僚の航空隊員達と共にマルクル大尉の療養を基地司令官に嘆願したが、大尉は頭を振って「飛ばせてくれ」と頼んできただけに合点が行かず、私の頭には疑問符が浮かぶばかりだった。

 

 

     ◇

 

 

 疑問を抱えたまま時計の針は進み、いよいよ口にしてしまおうかと考えたのは、ダールゲ少尉が航空魔導師三名、偵察機二機撃墜の功で中尉に進級──私自身は六月時点で魔導師四名、戦闘機一機、偵察機一機を撃墜し、中尉に進級した──して程ない頃である。マルクル大尉は、唐突に私達とのトリオを解散する事を告げた。

 マルクル大尉の言い分は、私達は二人共指揮官として他の面倒を見てやるべきだと言うもので、それは確かにそうなのだが、だとしても腑に落ちない。

 私はマルクル大尉に、口に出来ない事情がある事を察していたし、それはダールゲ中尉も同じだっただろう。さしもの大尉も私達二人を前にしては逃れられないと観念したのか、椅子に背を預け、ゆっくりと口を開いた。

 

「最近、目の調子が悪いんだ」

 

 それはパイロットにとって、致命的な問題だった。言われてみれば、微かにマルクル大尉の目が、白く濁っているように見える。

 

「医師には……」

「診て貰ったとも。残念ながら、現役を続けられるのはあと二、三年と言ったところかな」

 

 軽い口調に反し、マルクル大尉の心は澱のように深く沈み込んでいた。

 世界初の、魔導師を打ち破った伝説の男が、空を見渡す瞳を刻一刻と奪われようとしている現実に、私は声も出せなくなった。

 運命とは、どうしてこんなにも残酷なのだろう? 我が弟、エルマーから片足を奪うに飽きたらず、この偉大なる芸術家から光さえ奪おうというのか?

 

「ニコ、ダールゲ。友として頼む。どうか私が飛べなくなる日まで、この事を秘密にすると誓ってくれ」

 

 たとえ、それが原因で空の上で死ぬとしても悔いはない。

 翼を奪われる人生など耐えられないと。偉大なる芸術家は、人生の最期の瞬間まで、筆を執り続ける道を選んだのだ。

 

「誓います。ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテルの名誉にかけて」

「誓います。ダールゲ・クニックマンの誇りをかけて」

 

 ありがとう、と。短くマルクル大尉は笑った。

 それが、私の知る大尉の最期の言葉だった。

 

 

     ◇

 

 

 その日の夕刻、マルクル大尉は魔導小隊の救援に駆けつけるべく、魔導師達と空を飛んだ。私とダールゲ中尉は別働隊として出ていた為、動ける航空隊員は、マルクル大尉とエースには程遠い一般パイロットしか居なかったのだ。

 血のように赤く、燃え輝きながら沈む太陽の中、マルクル大尉は魔導師達と獅子奮迅の活躍を果たし、その偉大なる『芸術』を三度も披露して、一個小隊もの魔導師を撃墜したという。

 そうして最後、大尉は空に散った。

 その手で救った友軍を優しい笑顔で見つめながら。燃え盛る自身の機体と共に、流れ星のように煌めいて散ったのだ。

 

 イメール・マルクル。最終階級 中佐。

 危機的状況にあった魔導小隊を救った功により、銀翼突撃章ならび白金十字を死後追贈。

 一九一八年、七月一五日時点での正式な撃墜スコアは魔導師一〇名、戦闘機五機、偵察機二機であったが、私はここに、マルクル中佐と共同で得た航空魔導師二名の戦果を加えさせて頂きたく有る。

 

 空に還った偉大な巨匠の最期を、私は生涯誇りに思う。

 

 

*1
 撃墜スコアに登録されないだけで、魔導師撃墜そのものは論功行賞に加算される。

 これは魔導師が航空機を撃墜した場合も同様で、叙勲の評定基準にも影響され、叙勲推薦の順位繰上げや賜休期間の増加。

 A物資配給券(ワインをはじめとする酒精や葉巻。当時はそれなりに値の張る代物であった、チョコレートやキャンディといった嗜好品を受けられる配給券。参謀本部をはじめとする枢要機関勤務者や、功労ある将兵に対し支給された)の贈呈といった特典も付随した。

*2
 この時点でも既に自動小銃は存在していたが、歩兵が運用する場合は泥や砂塵の問題ですぐ動作不良を起こす上、航空魔導師も安定性に問題があるとして、装備が優先配備されるコマンド部隊以外、用いようとしなかった。




補足説明

※叙勲に関して。
 WW2のドイツ空軍だと戦闘機一機でも撃墜の確認が取れれば二級鉄十字(以下二鉄)が貰えるのですが、本作では一人落として「はい叙勲ね」というのも如何なものかと思ったので、航空隊員は、
 戦闘機二機or魔導師二名(もしくは一名と一機)で二鉄
 戦闘機・魔導師の合計数五(いずれか一方でも可)で一鉄
 といった具合にしました(叙勲の細かい規定に関しては別に投稿します)。
 ただし、後々戦闘機が量産される予定なので基準は変わる予定です。
 偵察機に関しては数の上ではカウントされるし五機の撃墜でエースに入るけど、叙勲のポイントとしては魔導師・戦闘機が一として、〇・五ポイントと考えて下さいませ。
(魔導師は二ポイントにしても良かったのですが、これも主人公の叙勲が早くなりすぎるのと、戦闘機自体現状では数が少ない設定なので同ポイントにしました)

※パイロットによる魔導師撃墜と、魔導師による航空機撃墜について。
 幼女戦記原作2巻で、デグ様が「空軍のエースになりたかったところだ! ついでに爆撃機撃墜で諸々の特典もゲットぉ!」って息巻いてたところで、「戦闘機じゃないと無理です」って言われたので、スコアにはならないのですが、流石に
「軍種が違うから手当ても評定も全くなしね」
 というのは、士気低下だけじゃなくて前線将兵が『得点にならないから、わざと見逃す』可能性もあると思うので、本作品では、撃墜数にはならないけど、ご褒美は有るよ! 頑張ってね!
 という措置をとらせていただきました。
 やったねデグ様! チョコレートが一杯手に入るよ!(そして一層地獄の戦場にぶち込まれる模様)

 尤も、原作の魔導師とパイロットからしたら、

魔導師「あんな高度差ある奴ら撃墜しろとか無茶ぶりすぎるだろいい加減にしろ!」
パイロット「光学術式で分身したり、不利になったら地上に降りて対空兵器になる超絶バカ火力の連中相手にするとか自殺行為だろいい加減にしろ!」

 といった感じなので、わざわざ評定規定用意して前線の連中に無理させるより、住み分けしたほうが被害出ないし良いよね、という理由なのでしょうが。
 デグ様と二〇三大隊が異常なだけで、平均的な魔導部隊は一方的に爆撃機が魔導師蹂躙しますし……。



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07 帝国空軍設立-愛しき我が家の誕生

※2021/2/14誤字修正。
 みえるさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 マルクル大尉の二階級特進は、保護領のみならず、帝国本土でも大々的に報じられた。

 偉大なる芸術家は戦場で星となり、大地に埋まる事なく、今も空から帝国を見守って下さっていると私は信じるが、当時は私も含めた全ての航空隊員のみならず、魔導師達もその死を悼んだ。

 マルクル中佐は誰からも愛される温厚な人柄で、常に私達航空隊と魔導師との仲を取り持って下さったから、どちらにとっても、兄や父のように慕われていたのだ。

 

「仇を討とう」

 

 航空隊の誰もが、そう口にした。魔導師達も同様だった。

 これまでの航空隊には、マルクル中佐という偉大な芸術家がいた。だから誰もが、中佐に甘え続けていた。航空隊員はこの日、親を失い、独り立ちしなければならなくなった子供のように、大人びた表情で私の方へ向いた。誰も彼も、皆目つきが違っていた。鳩のような丸い瞳が、荒鷲のように鋭くなっていたのだ。

 もう絶対に弱音は吐かない。死ぬ気でしごいてくれ。

 隊員の誰もが、飛行訓練では極端に敬遠していた筈の私に、そう頼み込んできた。

 私もまた、いちにもなく彼らの言葉を受け入れた。

 

「私も死ぬ気でやる。付いてこれるな?」

 

 返答は、一斉に鳴る踵の音だった。

 この日、巨匠が死を迎えた七月一五日に我らは生まれた。

 

 世界に冠たる空の無敵艦隊(ルフトアルマーダ)──帝国空軍の前身が。

 

 

     ◇

 

 

 この日以来、ダールゲ中尉は弱音を吐かなくなった。持ち前の明るさで訓練に対するジョークを口にした事はあっても、本気で逃げ出したり、へとへとになって目を回すような真似は一度としてしなくなったのだ。

 私はマルクル中佐が亡くなった日、どうしていち早く飛んで駆けつける事が出来なかったのかと己を責めながら、より無駄のない、燃料を節約する飛び方をレクチャーしつつ、自分の空戦機動(マニューバ)を、あの『芸術』の粋に押し上げるべく試行錯誤を重ねていた。

 既に私は三機編隊(ケッテ)の指揮官として飛んでいたが、マルクル中佐のように決まったメンバーで飛ぶ事はなく、常に動ける人間を連れて、一日に三度も四度も出撃するのが常だった。

 

「そんな飛び方じゃ、すぐに死ぬぞ」

「空で死ねるなら、本懐だ」

 

 これが、ダールゲ中尉と私の定番のやりとりとなった。基地司令官も出撃が終わる度に、私の目を見て休めと声をかけて下さったが、私は地上に降りる気持ちにはなれなかった。

 より速く、より高く、より鋭く。頑健極まりない筈の肉体が痺れを覚え、限界を迎え、極限の中にあって無駄を削ろうと本能が己を研ぎ澄ませる。

 鈍重ななまくらを、ゾーリンゲンの如き美しい鋭利さを備える刃に鍛え、研ぎ直す。

 

“まだだ……まだだ!”

 

 マルクル中佐の飛行は、こんな物ではなかった。もっと、もっと、もっと先がある筈だと、そう叱咤して操縦桿を握った時、僚機から悲鳴のような音が耳に届いた。

 

「っ、テルボーフェン少尉!?」

 

 今まで一度として僚機を失わぬよう心がけてきた私の横で、初めて上がる煙に目を剥いた。助けなければ! しかし、まだ敵はいる。一刻も早くテルボーフェン少尉を救うか逃がすか、どちらにしても敵を引き付けねば始まらない。

 発光信号で離脱するよう告げつつ、私は敢えて敵魔導師の前に機体を晒した。しかし、それは私の想定より前に出ていた。明らかな操作ミスだった。

 完全なる自殺行為。飛んで火に入る夏の虫とばかりに、魔導師は銃口を突きつける。

 撃たれる、死ぬ、避けられない。濃密な死の気配が全身を包みかけたが、しかし背後にまだ部下がいる。ここで私が死ねば、敵は確実に部下を追う!

 

“させるものか!”

 

 私はこの時、自らを高める事も、敵を倒す事も忘れていた。唯々、部下の命こそが気がかりだった。

 強ばった体から力が抜け、張り詰めた糸がぷつっと切れる。操縦桿を握る手が、剣を持つそれでなく、画家が筆を執るような繊細な物へと置き換わった。

 

 

     ◇

 

 

 気付いた時、勝者と敗者の構図は逆転していた。

 

 敵は地に墜ち、私は未だ空を翔けている。そして、窮地を脱した部下達と地上に戻った時、テルボーフェン少尉はこう言った。

 

「まるで、マルクル中佐殿を見ているようでした」

 

 偉大なる巨匠の『芸術』。その形を、私は実感もないまま、この手に掴んだ。

 だが、これは私の力ではない。部下を救う為に、あの窮地にあったからこそ、私は亡き巨匠から、力を継ぐ事を許されたのだ。

 

 偉大なる、マルクル中佐の反転(イメール・ターン)を。

 

 

     ◇

 

 

『マルクルの亡霊』。それが、エースとしての私に敵が最初につけた渾名だった。

 だが、マルクル中佐の芸術は既に私だけのものではない。部下を窮地から救ったあの日以来、私は憑き物が落ちたように、マルクル中佐が実戦で教えてくれた技術を、戦友達に分け与えていた。

 私が『芸術』を、イメール・ターンを使いこなせたからとて、それは形見の一つを受け取ったに過ぎない。離着陸も、旋回も、マルクル中佐の飛行は、その全てが芸術的美しさを兼ね備えていた。

 獲物を狩るだけならば、猛禽は爪と嘴で出来る。人間は猟銃を用いれば出来る。だが、芸術を形作るのは、美しさを理解出来る者だけだ。

 アルビオン連合王国も、フランソワ共和国も、マルクル中佐の名声に怯えた者達は、将来、何十という中佐の影に恐れ戦く事だろう。

 偉大なる巨匠の後継者達は、今日という日にも精密なタッチで絵を描いている。生き残りさえすれば、この中の全ての隊員が巨匠の後継者になれる。

 今は私だけのイメール・ターンも、いつかは皆の物となるだろうと、そんな事を考えていた時、基地司令官からの招集がかかった。

 

『帝国陸軍航空隊員は非番の者も含め、大至急、兵舎中央広場に集合せよ!』

 

 これは只事ではないと、私は非番で出ている者も含め──といっても、この命令は午前の物だったので、任務で飛んでいる者以外は連れ戻す事は容易だった──慌てて招集した。

 元々航空隊には士官が少なかった上、着任してから積み上げた戦功の結果、今や私とダールゲ中尉の両名が事実上のツートップとなっていた為だ。

 広場に集合した我々は、基地司令官の言葉を待った。魔導師がこの基地を地上爆撃すべく迫っているのか。それとも、何らかの特命があるのか。或いは……想像したくはないが、陸軍航空隊の解散が通達される可能性もあるだろう。

 沈黙の続く内、誰かが生唾を飲み込む音が響いたが、私は自分が侍童(パージェ)であった頃を思い出しながら直立不動を保ち続けた。

 

「諸君に、陸軍省人事局より通達がある」

 

 ぶわっ、と。全員の全身から汗が噴き出した。自分達は、確かにここファメルーンで武勲を立てた。最早自分達を嘲弄する歌を合唱する航空魔導師は存在せず、対等な戦友として肩を組むにまで至ったが、しかしそれは、飽くまでこの基地の航空隊が為した成果に過ぎない。

 本土の新聞や軍事広報で、ファメルーンの戦いが書き綴られるようになった一方、帝国領オストランドやノルデンの係争地で飛ぶ航空隊員が、一度として魔導師を破った事があったか?

 この地以外でエースとなったパイロットの撃墜スコアに、戦闘機は何機入っている?

 

 誰も彼も、七・七ミリ機銃を装備した高度戦闘機で、非武装の偵察機を追い立て回して稼いだという方が多いだろう。

 そんな私の危惧を、現実を告げるように、司令官は訓示の如く、司令官の立場として、伝えねばならないという面持ちで言った。

 

「本年一二月を以て、陸軍航空隊は解散とする事が決定した。これは、陸軍省人事局からの正式な通達である」

 

 ああ、やはり……この地に訪れる以前、航空隊の募集を見た時から、覚悟していた事が現実となった。

 戦争とは、個人の武勇を競う場ではない。たとえ一つのナイトを、ビショップを、クイーンさえ失おうとも、代替が利く組織である事が軍隊に求められる絶対条件である以上、この結果は必定のものだったのかもしれない。

 

 見れば、涙を堪えきれない航空隊員の姿があった。目でなく鼻から雫が滴り、上着を汚してなお彼らは直立不動を保っている。傍目には滑稽に映るかもしれないが、もし彼らを笑う者がいたならば、私は容赦なくその顔面に鉄拳を見舞ったことだろう。

 戦友よ、私達は空で華々しく戦った。結果は無残だったとしても、私達はマルクル中佐の気高い遺志をこの地で引き継いだ。

 だから、夢から醒めよう。もう十分飛んだんだ。思い残す事は何もないじゃないか。

 そう慰めてやりたい気持ちで胸が一杯になっていたが、しかし我々に「解散!」という合図は言い渡されない。まだ我々に何かあるのか? 航空機に乗れなくなる以上、これまでの戦功を、功績調査部が見直して調整でもするのだろうか?

 せめて徽章ぐらいは、思い出の品として残して貰いたいものなのだがと、そんな心配を他所に、司令官はにこっ、と。そのカイゼル髭には余りに似合わない笑みを浮かべた。

 

「よって来年から、諸君らは新たに開設される帝国第三の軍、帝国空軍に転籍して貰う!」

 

 冗談ではなく、……私は、本気で聞き間違いだろうと思った。或いは、帝国空軍とは魔導師が勤めるもので、自分達は全員偵察隊行きなのだろうと疑ってもいた。

 だが、司令官は「それは違うぞ」と念を押した。

 

「魔導師は先天的才覚に左右される故、大規模編成は不可能だ。軍の体を成すには、安定した供給を続けられる組織でなければならん」

 

 つまり、諸君らだと。諸君達こそが一騎当千の魔導師を差し置いて、新たな軍に加わる栄誉を得たのだと。やはり似合わない笑顔で司令官は私達を寿ぐ。

 

「胸を張り給え。諸君らは『我が家』を得るに足る功績をこの地で成したのだ」

 

 絶望が歓喜に塗り潰され、叫びは天にまで響いた。軍帽が高らかに宙を舞い、隣合う者同士で抱き合った。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が歓喜に変わり、声を張り上げて「空軍万歳!」の叫びを上げた。だが、私としては万歳と叫ぶべきは空軍だけではない。

 

「我らがマルクル中佐殿に!」

「「「「マルクル中佐殿に!」」」」

「今は亡き戦友達に!」

「「「「戦友達に!」」」」

 

 五月にこの地に派遣されてから、約半年。マルクル中佐のみならず、一二名の尊い航空隊員が戦闘機で、或いは偵察機で帰らぬ人となった。

 彼らの勇気と献身こそが、残された一六名に我が家を与えてくれたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 ここまでならば、麗しき思い出にして栄光の帝国空軍の時代が幕を開けたと語れるのだが、生憎ながら本著は創作でなく現実のものであるため、ここからは物哀しい現実の事情を語ることとする。

 まず、我々航空隊は皆帝国空軍への転籍が決定したのであるが、専用の制服が兵卒に配られる事もなければ、将校がオーダーで発注するにも『型』が足りないと言う始末だった。

 加え、募集ポスターに載った制服の見本は、当時大変不評であったのである。

 

「おい、ネクタイだぜ?」

「背広着て空飛ぶのか?」

 

 私達航空隊が武功卓抜なる航空魔導師に先んじ、新たに帝国空軍となる事を心から祝福してくれたファメルーンの魔導師らは、このポスターを見て大笑いした。

 

「お前らは明日から『ネクタイ兵』だな!」

 

 開襟のジャケットにネクタイの制服は、成程確かに背広姿で、そのあだ名もむべなるかなである。伝統を重んじる帝国人には、この制服は余りに先駆的過ぎて奇抜に見えてしまったのだろう。

 何にも増して、当時の帝国軍人は軍服を『王様の制服』と称し、皇帝(カイザー)への忠誠を絶対視する傾向にあったものだから、まるで旅客機パイロットのような制服は、帝室の品位を損ないかねないとまで見る向きさえあった。

 

 結局航空隊員達は、これなら原隊の制服の方が良いと、後に制服が支給される段になっても、式典等の正式な場以外では、兵科色だけを変えた陸軍時代の制服を着用したり、或いは将来、プロパガンダとして撮影された私の槍騎兵服(ウランカ)*1にあやかって、灰緑色(フェルトグラウ)槍騎兵服(ウランカ)を着用してしまったのだった。

 

 

     ◇

 

 

 そして、制服以上に厄介な問題は、私達は遂に手に入れた筈の我が家に帰る機会を──正確には赴く機会をだが──何と年が明けて、正式に開設しても得られなかったのである。

 確かに帝国軍首脳部も帝国政府も、空軍の開設には賛成であり、申請書類も全て受理されている。募集人数も日々増加しており、規定人数の条件も一応は──これは採用人数ではなく、志願人数で統計を取ったからでしかないが──満たしてはいる。

 だが、如何に予算が通り人員が集まろうとも、魔導師の手を借りず航空機に乗って戦える人間が、直ぐに死なず生き残れる人間がいるのかと問われれば、皆黙って目を逸らす始末だった。

 

 ファメルーンでも私が着任した半年で──私とダールゲ中尉以外の編隊は、魔導師が護衛として付いていながら──半数近い死者を出した。帝国陸軍航空隊を見渡しても、間違いなく最精鋭であろう我々ですらそうなのだ。

 徒に死者と負傷者を増やし、遺族への恩給や傷痍軍人への一時金で国庫を圧迫するような愚は、何としても避けたかったに違いない。

 

 新規志望者の育成は他に回し、ファメルーンの熟練パイロットは、二月から係争地に点在する既存の各基地に配属され、そこで技術交換と教練を務める事になった。

 そして、志望者の中でも分けて芽のある新人の指導と養成には、私とダールゲ中尉が中心となって当たり、その補佐をある程度実戦経験を有する、ファメルーン以外の航空隊パイロットが教官となって行うのが最適解だろうという声がファメルーンでも、新たに開設された空軍首脳部*2でも上がった。

 正直なところ、私はこの半年間で自分がどれだけ無茶な訓練を航空隊員に課してしまったかを、憑き物が落ちてからは嫌が応にも理解出来てしまったし、かと言って手を抜ける性分でもないので不安だったが、そこはダールゲ中尉がフォローするという事で収まった。

 

「こうしてみると、空軍開設は明らかに時期尚早だよなぁ」

「言うな、ダールゲ。政府も軍も、時節を見た結果だ」

 

 連合王国・共和国双方が空軍をいち早く開設した手前、早急な対応を迫られての空軍開設なのだろう事は、口にしたダールゲ中尉にも分かっている筈だ。

 かつて、連合王国が戦車を発明しながら、その価値を理解できず『戦車不要論』が囁かれる中、戦車の脅威を直接肌で感じ取った帝国が、戦車開発を推し進めたように。

 昨年の我々の活躍が、各国に『航空機侮り難し』という危機感を植え付けたのだ。

 

「そんで尻に火が点いたお上が、ようやく価値を認めて下さったと」

 

 締まらねえなあとダールゲ中尉はぼやく。しかし、逆に言えばまだ何処の国も航空機開発や人員育成が磐石でないという事でもあり、ここから追いつき追い越す事も不可能ではない筈なのだ。

 

“何より、航空機に関しては、来年には変わるだろうさ”

 

 エルマーとの約束を思い出しながら、私は口元を僅かに綻ばせる。弟が私との約束を破る事はなかったから、一体どんな飛行機を作ってくれるのだろうと、私は誕生日プレゼントを待つ子供のように、期待に胸弾ませていた。

*1
 私自身は革新的な空軍の制服を気に入っていたのだが、帝国航空省人事局や宣伝局は『空の騎兵』という私の異名を前面に出すため、式典であろうとも私に槍騎兵服を着用させ続けた。

*2
 空軍開設初期は戦略眼を有するパイロットが居なかった為、空軍首脳部は中央参謀本部・海軍参謀本部から派遣された魔導将校で構成された。

 当時としては非常に革新的な方策であった反面、これが原因で戦略眼を有する陸・海軍魔導将校が激減するという弊害を招いた。




補足説明

※兵科色について。
 ドイツ帝国では兵科で軍服の肩章やパイピングの色を分けるというのは、確かにあったのですが(ドイツ帝国は1915年時点に制服を更新した段階で制定してます。その後何度か改訂もあったようですが)、連隊色という独自のものや、バイエルンなど出身で異なったりと非常に面倒なので(何と将官に至っては、出身で襟章のデザインまで違ってたりします)、この作品ではWW2の兵科色を用いて統一させて頂きます。

 多分ライヒ統一時に全部ゴリ押ししたんだよきっとそう! ……と、言うことにさせてくださいお願いします(土下座)。




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08 教練の日々-ひな鳥と逃げ上手

※2020/2/20誤字修正。
 くるまさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 私とダールゲ中尉は帝国空軍軍人の第一歩として、当時ベルンに臨時で用意された特別司令部──後に空軍総司令部に改名した──にて空軍総司令官を拝命された、ルドヴィク・フォン・エップ参謀大佐*1への挨拶を済ませ、広報用に握手の写真を撮った。

 今後、公私を分かたず長い付き合いとなるフォン・エップ参謀大佐は、質実剛健な帝国貴族というよりも、これぞアルビオン貴族と言わんばかりの、気品溢れる容姿であった。

 武人らしい太い口髭に見合う、秀麗な相貌。広い肩幅の凛々しい長身は、獅子心王を髣髴とさせる権力者の絵姿そのものと言って良かったが、その栄誉を渇望するぎらぎらとした瞳からは、ロンディニウムの上級階級にない、底知れぬ野心が垣間見えた。

 当時帝国では表向きにこそ、憲法上出身地や人種による差別などないとされていたが、現実には出身地(州)ごとの差別意識や男性優位の軍機構が存在しており、フォン・エップ参謀大佐はそれがために、将官への進級や、高位顕職の抜擢人事から外されていたのである。

 前線・後方共に華々しい勲功に満ち、明晰な頭脳を誇ったフォン・エップ参謀大佐が、敢えて帝国空軍の司令官として転籍したのは、そうした軍機構への反骨心あっての事だったのだろう。

 

 ただ、フォン・エップ参謀大佐自身はそうした軍機構にこそ反発していても、戦友同朋に対しては、一切の差別や過去の不満を持ち込むことはなかった。

 プロシャ出身であるが為に、意図せず恵まれた立場にあった私に対しても、フォン・エップ参謀大佐は壁を作ることなく接してくださり、その誠実な人柄故に、空軍の父となられたフォン・エップ参謀大佐に対し、私も上官に対する伝統ある忠誠を誓ったものである。

 

 

     ◇

 

 

 広報にかかわる勤めを終えた後、私とダールゲ中尉は、ベルン郊外の飛行場へと到着した。

 居並ぶ教官パイロット達は、先に語った通りある程度は()()()パイロットの筈なのだが、残念ながら苦楽を共にした戦友達程の覇気は誰一人として備えておらず、芽のある新人達も、民間人としての癖が抜けていない、尻に殻の付いたヒヨコ達が半数を占めていた。

 

 後ほど彼らの経歴を確認して分かった事だが、経験者たる各方面のパイロットは、要するに逃げ足の速さに定評が有る者達で、魔導師を見れば即撤退し、戦闘機の相手も極力避けていた手合いらしい。

 敵わない相手に猪突猛進する事が正しいとは微塵も思わないし、勇敢毅然より臆病な慎重さが評価されることは否定しないが、逃げ上手なだけでは教官として不適当であろう。

 迅速慎重な判断とは戦闘に、引いては戦争の勝利遂行の為にあるべきなのであって、保身に用いるものではないのだ。

 

 では、新人達の方はどうかと言えば、こちらが芽があると見做されたのは、学生時代グライダー飛行の経験があったり、民間機のパイロットを若手とはいえ勤めていた事から、他の志願者に比べて要領と筆記の点数が良かったというのが基準であった。

 

「これは、骨が折れそうですな」

 

 ダールゲ中尉が小さく耳打つ。敬語であるのは、本日を以て私が大尉となったからである。これは、私がファメルーン勤務の半年間で二個中隊相当の魔導師を撃墜した勲功故だが、半年に満たない期間で二階級もの進級を果たすのは──エルマーのような天才でもない限り──如何なものかと理由から、教官を務めるまで進級を先送りされていたのだ。

 

「だが、目に輝きはある」

「みんな大尉殿に恋してますからね」

 

 彼らの、特に新人の私を見つめる瞳は、空飛ぶ魔導師を見つめた幼い日の私のようであり、私はそれが面映く、彼らを甘やかして可愛がってやりたい気持ちになったが、しかしプロシャ軍人としての血が、すぐさま己を厳格な軍人として律した。

 

「総員、傾注!」

 

 ざ! と足並みを揃えての整列とは行かない。既に軍人としての気質が出来上がっている教官パイロットは兎も角、新人達は兵舎での初期訓練で何をやっていたのかと言いたくなった。

 

“本当に骨が折れそうだな”

 

 緊張から、おろおろと目を泳がせる新人達を前に、私は内心息を零した。

 

 

     ◇

 

 

 訓練初日から十日が経過した。教官パイロットへの指導も適宜行っており、こちらは全員の癖や編隊飛行時の動きから無駄を削ぎ、次の段階に移れるよう計画を練っていたが、ダールゲは私達が教官として与えられた執務室で、来賓用の長椅子に背を預け、だらりと手足を伸ばして倦怠感を顕にしていた。

 

「大尉殿、小官は前線勤務に復帰したくあります」

「却下だ」

 

 この飛行場で実戦的指導を施せる者は、私とダールゲ中尉以外ない。他国から精密なる戦闘機械とまで畏怖された帝国軍の中にあって、帝国空軍は完全に行き当たりばったりとしか言いようのない有様であった。

 

「そうは言いますがねぇ。あのヒヨコ共、あと一月は徴募兵と同じ兵営に入れとくべきでしたよ? あいつら、軍人としての土台が出来ちゃいないんです」

「……承知している」

 

 私はこめかみに指を当てて揉み解した。私とて、彼ら新人が出来上がっていないのは百も承知である。ここに来るまでの訓練内容を見通したが、ダールゲ中尉の言通り、本来一〇週間からなる兵営での教練を、一日も早く航空機の訓練に入らせる為に、五週間に短縮してしまっていたのだ。

 

「かくなる上は仕方あるまい。私がヒヨコを荒鷲にしてやる」

「……おお、主よ」

 

 ダールゲ中尉は大仰に十字を切ったが、新人が新兵となる前段階として。何より彼らを一人として余さず帝国空軍の価値ある構成員としなければならない以上、これは止むを得ぬ措置なのだ。まずは残りの五週間を、ここで穴埋めして貰うとしよう。

 

 

     ◇

 

 

「魔導少尉、仕上がりはどうかね?」

「歩兵に出来ないのが惜しいぐらいですよ、大尉殿」

 

 空軍総司令が魔導師出身であった事からも分かる様に、空軍は人材不足であり、教練に至っても、内勤の事務屋に至っても、各方面から兵科や所属に関わらず──なんと海軍軍人の姿もある──臨時補助要員として出向して頂いていた。

 特に私が重宝したのは衛兵司令から招かれた憲兵達で、どのような些事も見逃さない彼らの職業意識の高さと、卓抜した几帳面さには感服したものである。

 

 勿論、本人の希望や航空省人事局からの要請で正式に転籍した者もいたが、皆原隊の軍衣を着用しているので、私やダールゲ中尉のように事前に官姓名を叩き込んでいる人間以外には、誰が正規空軍なのかは判らないだろう。

 当然これは問題となったので、すぐに空軍軍人は航空隊員の兵科色である黄橙色の腕章──といってもフェルト地の布を巻いた簡素な物──を、航空隊員でない軍医や技術者らも含めて着用する事になった。

 

 バラバラの制服を纏う彼らは時に書類を運び、時に新人改め、新兵と呼べるに至ったヒヨコ達に怒声を張り上げ、時に教鞭を執る。

 特に技術局局員の講義に関しては、私やダールゲ中尉にとっても大変有意義であったし、パイロットのみならず魔導師にとっても航空機の特性を知る事は将来的にも必須である為、皆真剣な顔つきで筆を走らせていた*2

 

 教練初日から四週間。目標の三週間には届かなかったが、新兵の最低限の下積みは出来たと見て良いだろう。

 とはいえ、する予定のなかった教練なだけに、大幅なロスには違いない。

 上層部からの要求は、私達がファメルーンで費やした時間。即ち「半年間で彼らを()()()にせよ」というもので、その()()()の基準は「航空魔導師の随伴なく、敵機及び敵魔導師と伍する錬度であれ」というものであったが、私とて、これが如何に馬鹿げた命令であるかは、嫌と言うほど理解している。

 ファメルーン帰りの大半は、文字通り死に物狂いだった。血みどろの努力と猛訓練を経て、ようやく戦えるといった者ばかりだったのである。まして、現状の機体性能で魔導師を伴わないなどというのは、私やダールゲ中尉のように突出したパイロット以外には、自殺以外の何物でもない筈なのだ。

 上層部の要求を耳にしたダールゲ中尉の憤激は特に凄まじいもので、普段毒を漏らすにもジョークで包む中尉が、この要求にはあらん限りの語彙を尽くした罵詈雑言を吐き出した。

 散って逝った戦友の努力が、まるで小遣いで菓子を買うように扱われたともなれば、その怒りは正当なものだろう。私とて、口にしなかったというだけで、怒り心頭であったのだから。

 

 

     ◇

 

 

 しかし、戦闘機のみの編成という無謀な蛮勇が、明らかなる自殺行為が、現実に戦果をもたらしたと私達の元に届いたのは、空軍設立から半年にも満たない四月の事だった。

 

 他国は帝国に先んじて係争地に戦闘機を配備しており、帝国航空魔導師一名に対し、三機編成で当たるという物量戦で、帝国航空魔導師との質を埋めたのだ。

 無論、帝国軍の魔導師とて即座に対応し、密集編隊を組む航空機には爆裂術式で対応するという、私の初任務で魔導小隊が連合王国に受けた戦法を利用したのだが、そう何度も同じ手は使えず、航空魔導師の射程圏外から散開し、二機が十字砲火で足を止めた後、三機目が止めを刺すという手を打ってきた。

 

「我々航空隊が、ファメルーンでやった手だな」

 

 何もかもが焼き増しだ。私が会敵した相手は一人として逃がしはしなかったが、他の隊員に関してはその限りではない。戦法を知られて逃げられ、次の戦いで墜とされた者は多かった。

 

「報告によれば、連合王国も共和国も、既に一定速度なら急降下に耐え得る機体が出ているとか」

 

 無論、ダールゲ中尉に言われるまでもなく私も耳にしていた。実際に我々に当たった二国だけでなく、レガドニア協商連合でも、これを期に航空機開発に乗り出すという事も。

 現在、帝国魔導師と敵戦闘機との損耗比(キルレシオ)は一:八であり、帝国魔導師の優勢は数字の上では揺るぎない物であるが、そもそも前線で戦える魔導師とはそれ自体が貴重なものであり、補充の利く八機では到底割に合わない。

 

「敵は、ここぞとばかりに増産してくるだろうな」

 

 敵からすれば、世界最高の魔導師を八機の戦闘機で潰せるという戦果は、狂喜して然るべきものだろう。

 暗澹たる思いで私は執務机に肘をつき、手を組んだ。上が、まだ使えない連中を前線に送るよう要請してくる可能性を無視出来なかったからだ。

 ここで彼らを前線に送ったとしても、出来上がるのは鉄の棺桶だという事を、私もダールゲ中尉も正しく認識している。しかし、敵に対して成果を出せない上が、功を焦り引き渡しを要求すれば、軍属である我々が拒む事は不可能なのだ。

 

 重くなる空気が執務室を満たす中、卓上電話からベルの音が響く。

 私は受話器を取った次の瞬間、背筋に汗が伝った。電話の相手は、空軍総司令官のフォン・エップ参謀大佐だったからだ。

 まずい! 私は内心叫んだ。部下を引き渡せとせっつかれ、こちらに電話を入れてきたに違いないと勘ぐったからだ。

 

 しかし、それは杞憂であった。受話器越しのフォン・エップ参謀大佐は、既に空軍の親玉であり、自分達の父親である筈なのだが、演算宝珠開発の一角であるエレニウム工廠が、新型演算宝珠の制式採用を決定したと自慢して来たのである。

 私は胸を撫で下ろすと同時、フォン・エップ参謀大佐と共に新型機の採用を喜んだ。

 決してゴマすりではない。私は初任務での彼ら魔導師の勇姿と活躍を見て以来、すっかり航空魔導師のファンになっていたし、何より苦楽を共にした戦友達が、新たな力を得られる事を喜ばない道理があろう筈もなかった。

 私はすっかり上機嫌になったフォン・エップ参謀大佐と盛り上がり、最後にこう切り出した。

 

「一名でも構いませんので、新型機とそれを扱える魔導師を送って頂きたくあります」

 

 これには上機嫌だったフォン・エップ参謀大佐も言葉を濁した。

 新型機もそれを使い熟せる魔導師も貴重である事に加え、最先端魔導工学技術の結晶たる次世代機を持ち出す事は、機密保持の観点から見て望ましくないからだ。

 その点私も重々承知していたのだが、世界最先端たる帝国魔導師の力を、何としても他国に先んじている今の内にパイロットの糧にしたかった。

 私一人が魔導航空隊の試験工廠に赴いて見聞きするより、こちらに来て貰った方が遥かに有意義なのだ。

 フォン・エップ参謀大佐は私の熱意に根負けし「一名だけだぞ」と念押しした。

 私は受話器越しにフォン・エップ参謀大佐に口付けしたい程感極まり、ここぞとばかりにフォン・エップ参謀大佐を持ち上げ、まだ知りもしない新型機と開発に携わった技師の努力を、あらん限りの美辞麗句で褒め称えた。

 

 フォン・エップ参謀大佐は「おだてても何も出んぞ」と苦笑したが、新型機と魔導師は出たのだ。だからあと一押しすれば、もう一人追加で送ってくれはしないだろうかと打算も入っていたのだが、ここからフォン・エップ参謀大佐の話題は、開発陣に切り替わってしまった。

 私は帝国軍技術者の事は当然尊敬していたし、フォン・エップ参謀大佐への追従も、決して厚顔令色の類ではないのだが、しかし最後の一言だけは納得しかねた。

 

「かのドクトル・シューゲルは正しく帝国随一の天才だな。貴官もそう思うだろう?」

 

 私は微笑みながら受話器越しに頷いたが、これだけは本心と違った。私はフォン・エップ参謀大佐に「私の弟の方がずっと凄いんだからな」と言ってやりたかったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 しかしながら、フォン・シューゲル技師が紛れもない天才なのだという事を、私は出向してきた魔導将校と、次世代新型機との呼び声高いエレニウム八四式を見て確信せざるを得なかった。

 フォン・シューゲル技師が新たに演算宝珠に組み込んだ新術式は、正しく『航空機殺し』ともいうべき代物であるどころか、既存魔導師すら一方的に蹂躙し得る性能を有していたからだ。

*1
 帝国軍では軍大学その他で参謀教程を修了した将校(佐官まで)は、参謀として勤務していない場合でも、階級の手前に参謀と付す。

*2
 但し、機密事項(最新機の性能等)に関わる内容は、従来の軍事講義通り、メモ書き、ノート取りは不可で、他言も厳禁とされた。




補足説明

【帝国内における差別について】

 漫画版幼女戦記11巻では、「伝統と格式を保ちつつも、差別のない国家を目指した新興国が帝国だ」と語られていますが、書籍版2巻P332では、「忌々しいまでに男性優位の軍機構」だとデグ様が漏らしております。
 おそらくは、軍が管制官などの後方要因や、魔導師を確保するために「女性にも権利保護が約束されているよ!」という建前がありつつも、実情は……と言った所なのでしょう。

 ただし、出身地(州)ごとの差別というのは幼女戦記の設定でなく、史実のドイツ帝国内でのことであります。
 ドイツ帝国はプロイセンが中心となって諸邦を纏め誕生した国家ですので、大参謀本部(本作品での中央参謀本部)などといった要職は、プロイセン出身者で構成されておりました。
 これが覆されたのは貴族でないにも拘らず、三〇という若さで参謀本部付きとなり、後のWW1で実質的にドイツ全軍の戦争指導を行う立場になった、ルーデンドルフが芽のある将校たちを起用するまで待つ事になります(それでも完全ではありませんでしたが)。

 よって本作品の帝国は、クッソ性格の悪い作者の手によって、幼女戦記と史実ドイツ帝国双方の後ろ暗い部分が混在しているという設定にさせて頂きました。
 差別なき理想国家なんてのはね、国民にそう思わせとけばいいんですよ(ゲス顔)


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09 エレニウム八四式-リービヒ中尉との模擬戦

※2020/2/20誤字修正。
 水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 本国戦技教導隊より、ギルベルト・リービヒ魔導中尉が当飛行場に本日出向するとの報せを受けた私は、襟を正して歓待の準備を整えていたが、私のみならず、同飛行場内の航空・地上要員や魔導師達でさえ、出向を受けたリービヒ中尉に驚かされた。

 

 リービヒ中尉は何と、新機能である光学術式を用い、フォン・エップ参謀大佐に扮して我々の前に現れたのだ。

 我々は、空軍総司令官が飛び込みで閲兵にいらしたという憲兵の報告に大慌てになり、全員がどやどやと飛行場近くの広場に整列してこれを迎えた途端、フォン・エップ参謀大佐は全く別人の魔導中尉に早変わりしたのである。

 階級が上の私も、そして皆もリービヒ中尉の悪戯に対し、怒る事さえ忘れて阿呆のようにぽかんと口を開けた。

 

 そして、悪戯が成功したリービヒ中尉は自己紹介の後、これだけではないと新しい玩具を自慢する子供のように、私達の前に実物と寸分違わぬフォン・エップ参謀大佐の像を二つも用意して見せたのである。

 私達は恐る恐ると言った手つきでその像に触れて、手が像をすり抜ける光景に驚かされた。

 

「嫌な上官を的に出来そうですな」

「実にその通り!」

 

 ダールゲ中尉のジョークは大受けだった。皆、考えることは同じだったからである。しかし、それは当然本来の用途ではない。立体映像として複数の像を作る本来の用途は、敵に誤認させる為の(デコイ)なのだ。

 

「一番最初の変装も、本当の目的は周囲の風景に溶け込む事です。ほら、こんな風に」

 

 そう言って、リービヒ中尉は私達の前で透明人間になって見せた。声のした方に手を伸ばすと、リービヒ中尉は私の手を掴んで見せてくれた。カメレオンも真っ青の擬態だが、何もかもが完璧には行かないという。じっと立ち止まっていれば完璧な透明人間だったが、動くとそこだけ景色がずれてしまうのだ。

 加え、透明化は消費魔力も桁違いなので、数秒も持たないという事だが、それでも交戦中の魔導師が姿を消せば、敵の混乱は避けられないし、立ち回りでも大いに役立つ筈だ。

 先の立体映像と組み合わせれば言うことは無いだろうが、残念ながらどちらも燃費が悪い上、新型演算宝珠でも回路が焼き付いてしまうので、術式の同時起動は不可能だという。

 

「そしてここからがメインディッシュ。新式の魔導障壁、防殻術式です」

 

 これまでの魔導障壁は、術者を中心に球状に展開していた防御膜に限られた──私が初交戦した魔導師のように、防御膜の形状を任意に変化させる事は可能だ──が、新しい術式はまるで甲冑のようにリービヒ中尉の全身を包み込み、防御膜を展開した際のような、淡い光を放っていた。

 

「消費魔力は従来の魔導障壁の二分の一で、瞬間的な防御力は従来の球状防御膜とほぼ同等。持続時間は三〇秒で、魔力量を増やせば伸ばせますがそちらはお勧めしません。何しろ、こいつの本領はその低コストですから」

 

 従来、魔導師が飛行術式*1を使用しつつ、更に複数の術式を同時ないし多重展開する事は、精鋭と称すべき錬度を要求してきた。

 それは術式の展開に生じる消費魔力と、各術式を展開する上での演算宝珠の処理能力双方の問題*2から来るものだったが、言い換えれば消費が少なく、単純な術式であれば現行の演算宝珠であっても短時間の同時・多重展開どころか、複数の常駐式展開も可能という事である。

 現にフランソワ共和国軍魔導師は、タイムラグこそあれど起動そのものは単純な爆裂式と、魔力を自動感知・追尾する誘導干渉式を組み合わせた複合術式を利用して、保護領の帝国魔導師を散々に苦しめていた。

 

「これ単体では便利な鎧に過ぎませんが、従来使用していた『魔導刃』と組み合わせれば」

 

 防御と攻撃手段の両立。デモンストレーションにおいて、銃剣に魔導刃を纏わせた状態で水平飛行を敢行。

 地面すれすれの超低空水平飛行で突貫したリービヒ中尉の銃剣突撃は、固定された廃棄予定の戦闘機エンジンを深々と貫いたばかりか、固定台座から吹き飛ばしていた。

 ランスチャージさながらの光景と破壊力は、私達パイロットのみならず、居合わせた航空魔導師さえ絶句した。

 光学術式迷彩による回避と隠密性だけでも、魔導師の生存率は著しく向上する。しかし、この防殻と魔導刃の組み合わせは航空隊員にとって余りに凶悪極まりない代物だった。

 魔導師を墜とすに足る有効射程圏は、現行戦闘機で五〇メートル。その地点に踏み込んだ時点で、火砲掃射によって敵に防御態勢を取らせ、そのまま火力で押し通す事が、我々航空隊員が確立してきた勝利の方程式だった。

 しかし、もはや魔導師は防御時に足を止める必要はなく、むしろ懐に飛び込んだ戦闘機を、好機とばかりに返す刀で刺し貫いてくるだろう。

 それは相手が魔導師であろうと例外ではない。三〇秒という時間は、空戦において余りに長い。七・六二ミリ弾のボルトアクションでは急接近する魔導師を前には狙いは定まらず、短機関銃の斉射も、全弾を的確に命中させねば、防殻を破壊するには至るまい。

 唯一の対抗策は複数人の爆裂術式による面制圧だが、乱戦となる事が前提の魔導師同士の空戦で、しかも超高速で飛来する人間砲弾を目視し、そこから起動の遅い爆裂術式を展開して封殺する事は不可能に近い。

 

 一体どうやればこんな怪物を倒せるというのか。パイロット達は自分達が帝国魔導師の敵でない事を神に感謝し、魔導師らはこの光景を目に敵を僅かに憐れみつつ、新型機の到来に喝采を上げた。

 だが、魔導師は兎も角として、パイロットは喜んでばかりでは居られない。今はまだ帝国が開発し、独占し、他を圧倒し蹂躙するであろう技術だが、これが将来的に他国の標準装備となる事は十分有り得るどころか、戦争史を紐解くまでもなく必定と言って良い。

 

 だからこそ。まだ帝国が技術を独占している今だからこそ、時間という最大のアドバンテージを利用しない手は無いのだ。

 私とダールゲ中尉は事前に新兵・教官を問わず全パイロットから選抜した最優秀者三名による三機編隊での模擬戦を、リービヒ中尉と行う事を打ち合わせ通り通達したのだが、既に三名の心は折れていた。

 私とダールゲ中尉が指導を続け、ようやく形になってきたばかりの戦法が徹底的に対策されているのだから当然だが、何も勝ちに行けなどと言う気は微塵もなかった。

 悪夢も同然の新型機の性能も然る事ながら、リービヒ中尉は帝国魔導師の中にあって、最高峰の実力を有する戦技教導隊から、総監部付き技術検証要員として出向してきた、正に世界最強魔導師の一角なのである。

 幼年学校卒業と同時に前線勤務に従事し、現在に至るまでの魔導師撃墜数は四四。歴代航空魔導師でも、片手の指でさえ余る撃墜王(エース・オブ・ザ・エース)の座にリーチをかけたリービヒ中尉が相手では、たとえエレニウム八四式を用いずとも一方的な蹂躙という運命からは逃れ得まい。

 

「胸を借りるつもりで行け」

 

 そう言って私は彼らを送り出したが、やはり誰一人としてリービヒ中尉に有効打を与えるどころか、防殻を展開するまでもなく模擬戦は終了した。

 リービヒ中尉のペイント弾は的確に燃料タンクに命中し、瞬く間に撃墜判定を下したが、これはリービヒ中尉の手心で、コクピット付近やエンジン部は万が一があってはならないという理由から、意図的に避けていたのである。

 

 よく頑張ったとダールゲ中尉は肩を叩き、私もそれに追従したが、何とダールゲ中尉は、是非自分にも相手になってくれと頼んだのである。

 パイロットとしてのプライドと好奇心、両方からの願いだったのだろうが、新型機を用いる事が出来るのはリービヒ中尉のみである。私はリービヒ中尉に無用な負担はかけさせたくはなかったのでダールゲ中尉を窘めたが、リービヒ中尉はこの申し出に快く応じて下さった。

 

「模擬戦程度なら一日に六回は楽に飛べますよ」

 

 リービヒ中尉の出向期間は一月であるが、当然休暇も入れねばならない。しかし、一日に六回というのは、それを補って有り余るものだろう。

 

「一日に六度って、大尉殿の同類か何かか?」

 

 ダールゲ中尉の言葉が琴線に触れたのか、リービヒ中尉が本当かと私の方を向いた。私は六度と言わず、飛べるならば朝起きて晩寝るまで飛んでいたいと、あるがままの本音を伝えた。

 

「大尉殿、是非ダールゲ中尉との後は、ご指南仕りたくあります」

「願ってもない!」

 

 私とリービヒ中尉は、空に魅せられた男としてのシンパシーを感じ取って、固い握手を交わした。が、何はともあれまずは「うわぁ」と口を開けて見ているダールゲ中尉との一戦が終わらねば始まらない。

 

「ダールゲ中尉。悔いなく、全力でぶつかり給え」

「大尉殿。遠回しに負けるって言う辺り、あんた本当は小官のこと嫌いでしょう?」

 

 何を言う。私ほどパイロットとしてのダールゲ中尉を愛し、信頼する理解者はいない。だからこそ、彼とリービヒ中尉との実力も理解しているというだけだ。

 敢えて口にしなかったことを察せられた以上、気遣って隠し立てする必要もないので告げたが、ダールゲ中尉は善戦こそ出来ても、確実に墜ちる。マルク金貨を賭けても良い。

 

「これ以上ない程に嫌な信頼でありますな。リービヒ中尉、立体映像にキッテル空軍大尉殿のデータも追加してくれ。後で使いたい」

「大尉殿でマスを掻きたいなら却下だ。妄想で我慢してくれ」

 

 ダールゲ中尉は、本気で舌打ちしてから戦闘機に乗り込んだ。

 

 

     ◇

 

 

一射一殺(ワンショット・ワンキル)と行かなかったのは久方ぶりです。流石はファメルーン帰りのエースですな」

「二分半も持つとはな。流石だダールゲ中尉。教官としての面子も保たれたな。模擬戦は残念だったが、後で私の葉巻(コロナ)をやる。そう気を落とすな」

「……ありがとうございます」

 

 模擬戦前には辛辣な言葉をかけてしまったが、私は心からリービヒ中尉と共に、ダールゲ中尉の健闘を称えた。あれ程までに正確無比なリービヒ中尉の射線を掻い潜り、防殻に弾丸を届かせたダールゲ中尉の手腕は、流石はマルクル中佐がお認めになられた空の男だと感服するものであった。

 

「大尉殿、小官は未だ意気軒昂であります。準備をお願いします」

「ああ。時間は取らせん」

 

 整備員が滑走路にフォルカーD型*3をつけ、私は航空隊員として必須である外側からの点検を終えた後に乗り込もうとしたが、その前に皆に伝えなければならない事があったと振り返った。

 

「これから私がする操縦は、大変危険なものであるから、絶対に真似しないように」

 

 皆は私が冗談を言っているのか、それとも、やれるものならやってみろと挑発しているのだろうと笑っていたが、これは冗談でも何でもない。

 今しがた落ち込んで項垂れていた、普段ジョークや身振り手振りで皆を笑わせているダールゲ中尉も「本当に危険だから真似はするな。栄誉のない死を迎える事になるぞ」と、本気で脅しにかかった程だ。

 

 私は教官を勤めてからというもの、一度として本気で飛んだ事はなかった。

 私と愛機のフォルカーは最早熟年夫婦の間柄であり、私はダールゲ中尉以上に彼女(フォルカー)が何処まで飛べるのか。何処まで無理が出来て、何処までからが危険なのかを完璧に熟知した上で、いつもファメルーンではギリギリを見極めて飛んだものだった。

 これは私の操縦が荒っぽい訳でも、限界への挑戦を目指したのでもない。そうでもしなければ、戦闘機だけで航空魔導師に打ち勝つ事は不可能だったからである。

 しかし、そんな操縦を教練でやってみせて、もし教え子達が真似すればどうなるだろう? あっという間に機体はバラバラになるか、エンジンが燃えて火だるまになってしまう。

 そんな危険極まりない操縦を、間違っても彼らに教える訳には行かなかった。

 

「私はリービヒ中尉に対し、空の勇者として最大限の敬意を払うからこそ全霊で挑むが、これは先に語った通り、危険操縦であるから真似は許さん。私は諸君らが、分別ある良識的な軍人だと信じる」

 

 私は新兵をしごきあげた際と同じ顔つきになって、もう一度、今度は強くはっきりと同じ事を言った。もし似たような真似をしたら、不名誉除隊にするぞとも付け加えた。

 しかし、操縦席にいざ乗り込んだ時、私にあったのは、やってしまった、という後悔の念だった。

 私は責任ある立場の人間だ。本来であれば予定のない模擬戦などすべきではないし、挑まれても断らねばならない立場である。しかし、世界最高の魔導師と空での一騎打ちなど、おそらく二度と実現すまい。

 その誘惑が、貴族として、軍人として戒めるべき己の好奇心を沸き立たせてしまったのだ。しかし、後悔は先に立たない。私は飛ぶ事を、戦う事を選択した。

 周りを見渡せば人は更に集まり、私とリービヒ中尉の対決を、仕事を投げ出してまで見学に来ていた。

 当然、今すぐにでも機体を降りて怒鳴りつけ、持ち場に戻らせるべきだろう。しかし、規律に厳格な憲兵さえ見学に来ているとあっては、もう私に逃げ場はない。

 臆病風に吹かれたのだと勘違いされれば、誰も教官として、パイロットとしての私に、心からの信頼を置く事は無くなってしまうだろう。

 そうした澱のように沈み濁った心は、しかし咆哮のようなエンジン音と共に霧散した。

 

 この音は、空への羽ばたきは、何時だとて私の心を子供に戻す。空への憧れは、それ程までに抗い難いのだと思い知らされる。

 私はもういっそ、何もかも考える事を止めて開き直る事にした。

 リービヒ中尉から願い出た事であるし、私は新型機の性能を確認する為のテストを行っているだけだ。皆の実力が付いて行けないから、一番上の私が模擬戦という形式で性能把握に勤めているだけなんだ。これは仕方のない事なんだ、と。

 

 我ながら何と子供じみた言い訳なんだろうと思ったが、一度空を飛んでしまえば、そんな言い訳さえどうでも良くなってしまった。

 空を翔け、準備の整った時点で、リービヒ中尉の銃身が、私の機体にぴたりと擬せられる。機体に向けられている筈のそれは、私の心臓へと狙いを定めているようだと感じたが、それは正しい。

 私にとって、燃料タンクは血液であり、エンジンは心臓なのだ。そしてリービヒ中尉は、私を手心を加えるべき『遊び相手』としてでなく、『狩りの標的』として見ていた。

 私はリービヒ中尉の呼吸を、指にかかるであろう力を経験と空気から感じ、発砲の瞬間回避運動に移ったが、瞬間、機体の真横から爆炎が空間を満たした。

 

 起爆と同時に広がる閃光は爆裂術式のそれであり、中れば当然私は死亡していただろう。いや、中らずとも銃弾の破片でずたずたに引き裂かれていた可能性すらあった。

 当然ながら、訓練での許可なき爆裂術式を含む攻撃術式は厳罰対象であるし、何よりこれは上官への殺人未遂であったから、軍法会議の後に銃殺も十分有り得る。

 しかし、教導隊出身のリービヒ中尉が、そのような真似をするとは俄かに信じられず、私は先の爆裂術式にも違和感を覚えていた。

 爆発の耳を劈く様な音もなければ、機体も全くぐらつかない。私はそれが、爆音で脳を揺らされて鼓膜が破れ、意識が数瞬飛んだからではないかと思ったが、耳からどろりとしたものの感触もなければ、高度も変化はない。

 当然、ここまで来ると手品の種は割れ、私はすぐさま回避運動に入って、リービヒ中尉の次弾を回避した。

 リービヒ中尉は術式を用いず、通常弾で第一射を放ち、それに合わせ光学術式で爆裂術式を用いたように見せかけたのであろう。よくよく思い返せば、リービヒ中尉がフォン・エップ参謀大佐に扮していた時も、彼は一言も喋らなかった。

 光学術式は幻影を作り出せても、今の技術では音を再現するに至っていないのだ。

 

 私はまんまと騙された自分に腹を立てたが、それ以前に、銃口から術式展開時の発光が見えなかった時点で、目晦ましと気付くべきだった。そうであれば、みすみすリービヒ中尉に再装填の時間を与えるまでもなく、後の先を取る事は可能だっただろうに。

 リービヒ中尉は、私が二射立て続けに回避した事を気にも止めていない。彼は私が一射目を確実に外すと予想し、私は彼の期待通り回避した。ならば手品を見破る事も、当然と考えたのだろう。

 私は有効射を加えるべく、スロットル・レバーを押して加速すると、リービヒ中尉は刹那のタイミングを見計らって弾丸を叩き込んできた。上下左右の方向転換の利かない、魔導師にとって絶好のタイミングであり、戦闘機乗りにとっては不可避の瞬間とされる一瞬。しかし私にはそれが当て嵌らない。

 私は操縦桿を引いて横に倒す事で、機体を横転させつつ機首を上げた。リービヒ中尉の小銃弾の弾道を一本の棒として、フォルカーはその棒に巻き付くかのような螺旋を描きながら、速度を落とさず回避と直進を同時にやってのけたのだ。

 私はこの技で射撃直後の魔導師を五名撃墜し、ダールゲ中尉はこの空戦機動(マニューバ)をバレルロールと命名したが、他の魔導師ならばいざ知らず、小技一つでリービヒ中尉が墜ちるなどとは私は微塵も思っていない。

 現に、リービヒ中尉の表情は悔しさよりも私への賞賛と期待から喜悦の笑みを零している。彼は私がこのまま直進する事を理解した上で急接近して来たので、私は思わず仰天した。

 

 銃剣突撃を仕掛けると思ったからだ。しかしなんと、リービヒ中尉は思いがけない速度で上昇しつつ小銃の槓桿を引き、私の真上で狙いを定めているではないか!

 新型機たるエレニウム八四式は、格闘性能も向上していたのだ。私はデモンストレーションで見せた銃剣突撃の速度から、新機能が付いただけで基本性能そのものに変化はないのだろうと考えていたが、とんでもない。

 リービヒ中尉は機密保持の為に、言う必要のないところは口にしなかったのだ。

 そうなると当然話は変わってくる。私は一先ずリービヒ中尉との対決を脇に追いやり、エレニウム八四式の性能を、今この場で丸裸にしてやろうと考えた。

 私は横滑りの機動でリービヒ中尉の弾丸を避け、加速して距離を取ろうとしたが、徐々に追いつかれる。

 リービヒ中尉の飛行速度は、体感で九五ノットといったところだろう。私は自分の体感や目測を外した事がなかったので自信があった。

 従来のそれより二〇ノットも速いが、果たしてこれは限界か? いや、リービヒ中尉の形振りの構わなさは本物だ。先回りして来ない事から言っても、ここいらが限度だろう。

 次は高度限界だ。まだ距離はある。追いつかれていない以上、上に飛べる筈。私は機首を上げ、限界高度まで飛んだ。向こうは付いて来ない。周囲にリービヒ中尉の姿もない事から、(デコイ)の可能性も消えた。

 おそらくだが、格闘戦と各種機能は対戦闘機の問題を、可及的且つ速やかに解決すべく備えられたものであり、高度限界に関しては保留にされたと見るべきだ。

 私の上を取ったあの位置が、実用限界高度だったのだろう。

 流石に全ての性能が向上しているような、出鱈目を通り越した反則は、さしもの帝国といえど不可能であったらしい。とはいえ、その不可能を可能にしてしまえるところが、帝国の恐ろしいところではあるのだが。

 

 成程と私は首を鳴らした。背後では私を墜とすべくリービヒ中尉が躍起になっていたが、私は発砲と装填の合間を縫い、右旋回で振り返った瞬間に火砲を叩き込んでやった。

 彼我の距離がある為、有効ではないが、慌てて防御膜を張ったリービヒ中尉の姿に、私は胸がすく思いだった。

 だが、これがリービヒ中尉の闘争心という炎に、ガソリンをぶちまけたのだろう。リービヒ中尉は忽然と姿を消した。が、その擬態は決して完璧でない事を私は知っている。

 たとえどれだけ巧妙に姿を隠せても、マズルフラッシュまでは隠せまい!

 

「馬鹿な!?」

 

 信じられないという、リービヒ中尉の叫びが私に届いた。

 もし、リービヒ中尉が旧型機を使用していたならば、或いは結果は違ったかもしれない。彼は新型機の性能と、その新機能を過信し過ぎたのだ。

 複雑な、主立って使用する術式は多重展開出来ない。ならば、光学迷彩を使用する今のリービヒ中尉に、防殻は存在しないという事だ。

 私の曳光弾は、全てリービヒ中尉の周りを通過した。しかし、それがわざとだという事は、他ならぬリービヒ中尉が承知していた事だろう。

 姿を消して発砲した弾丸を私は回避し、次の瞬間には、私はこの青空の中から見つけ出したリービヒ中尉の周囲に火砲を放ったのだから。

 リービヒ中尉は光学迷彩を解いて地上に降りると、私も滑走路に着陸した。

 

「良い勝負だった」

 

 飛行手袋を外して右手を差し出すと、リービヒ中尉も私の手を、これ以上なく強く握り返してくれる。地上の皆は私達の模擬戦に喝采を送ったが、一つだけ問題が発生した。

 地上で観戦していた憲兵が、リービヒ中尉が模擬戦で私に爆裂術式を使用したとフォン・エップ参謀大佐に報告したのだ。

 当然そんな事実はない。当日の私はあれが光学術式の偽物だという事を、はっきりと皆に説明もしていた。しかし、律儀にも仕事を続けながら、遠巻きに飛行場を見ていた憲兵には伝わっていなかったようなのである。

 報告を受けたフォン・エップ参謀大佐が大慌てで私に電話をかけてきたが、私はあるがまま事実を伝え、参謀大佐は胸をなで下ろした。

 ともあれ模擬戦は終了し、地上で負けを認めたリービヒ中尉は、しかし私に対してこう言ってきた。

 

「是非、もう一戦」

 

 その提案は大変魅力的で、私も出来る事ならもっと飛びたかったが、これ以上は仕事に差し支えるので断った。しかし、私は日々の仕事を終えてからは、必ずリービヒ中尉と飛んだ。教官と戦技教導官による模擬戦など、二度も三度も出来る物ではないのだが、そこは物は言いようという言葉がある。

 私とリービヒ中尉が一緒に飛ぶ際の名目は『搭乗員(パイロット)の対魔導師飛行訓練の、実践的教練方法の研究』であった。私とリービヒ中尉の模擬戦の結果は、初めての模擬戦も含め、私の五勝七敗だった。

 模擬戦で私に黒星をつけたのは、マルクル中佐とアントン中尉に続いて、彼が三人目だった。

*1
 飛行術式と記載すれば単一式のものと思われるだろうが、実際には飛行に伴う慣性制御や身体機能の向上、酸素供給といった多数の式を複合して行使している。

*2
 これを個人技量以外で『完全に』克服するには、複数の宝珠核を同調させ、タスクを並列処理させる事で、多重術式起動を難なく成功させるに至った、エレニウム九五式以降の演算宝珠の登場を待たねばならない。

*3
 この頃にはフォルカーもマイナーチェンジされていたが、そちらは前線に送られていた為、飛行場では旧型機が使われ続けていた。



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10 フォルカーD.Ⅻ-弟からのプレゼント

※2020/2/20誤字修正。
 水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 リービヒ中尉との模擬戦は、表向きの報告である『エレニウム八四式による対戦闘機性能の確認』という建前が、十分な説得力を得られる結果となった。

 当然、総監部は私達の基地にリービヒ中尉を送る以前から、ファメルーン帰りの航空隊員にもエレニウム八四式が何処まで性能を発揮できるか確認させていたのだが、結果は『現状の戦闘機に打つ手はなく、対魔導師であろうとも一方的戦果を得るに足る』というものであったのである。

 

 しかし、私とリービヒ中尉の模擬戦が、エレニウム八四式の思わぬ弱点を表面化させた。

 光学術式による迷彩は、術式の起動やマズルフラッシュまでは誤魔化せず、その間一切の防御術式を起動出来ない事から、迷彩使用は緊急回避と潜入に留める事を徹底させるよう、運用用途に明確に記載された。

 

 また、数度の模擬戦で判明した事だが、銃剣突撃はその威力と瞬間防御という点に目を見張るものがあるが、万一回避された場合ないし、突撃後の即時離脱を成功させなければ、防殻効果が切れた瞬間を突き、攻撃を受けた自軍機もろとも魔導師を撃墜するという戦法を取る事も可能である事が示唆されたのである。

 こちらの対策に関しては、銃剣突撃に際して敵機を盾にする位置取りで行うか、軍刀を袈裟懸けに構えて突貫しつつ、主翼や燃料タンクを破壊して離脱するという手法を用いる事とした。

 

「これで、当面は各戦線が安定するな」

「また『戦闘機不要論』が持ち上がりかねませんがね」

 

 ダールゲ中尉はため息を零しつつ、軍事公報を畳む。エレニウム八四式の制式配備以降、係争地と保護領では魔導師による戦闘機の撃墜スコアが跳ね上がり、公報は読み物というよりも、数字の羅列を記載しているという有様だった。

 人事局功績調査部では、撃墜スコアに基づく叙勲規定を改訂しようとする動きも見られていると訊く。

 

「自分も新型機が欲しいものです。何時までも旧式のマイナーチェンジ同然のじゃ、格好がつきませんよ」

「気持ちは判るがね、中尉。今の私達の仕事は教練だ。空の安全を航空魔導師が守って下さるなら、私達の仕事がし易いじゃないか」

 

 帝国魔導師の優勢が確立された以上、私達が急ぐ必要はなくなったし、上も当初の予定である半年を一年まで伸ばしてくれるというから、願ったり叶ったりである。

 とはいえ、ダールゲ中尉の危惧も尤もな話であった。仮に現状の機体のまま飛び続けなくてはならないのだとすれば、パイロットは将来、戦艦と帆船程の開きのある戦力差で戦わなくてはならないからだ。

 個人の能力が兵器性能をも克服し得る事は、不可能とまでは言わない。しかし、そんな真似が出来るのはごくひと握りの人間だけである以上、航空技師らには是非とも新型機の開発を急いで頂きたいものである。

 エルマーのプレゼントは楽しみだが、総監部と大分揉めている事は私の耳に届いていたし、帝国航空技師としての意地というものを、世界に示して欲しかったのもある。

 陸はおろか、空までエルマーの手を煩わせては、世界に冠たる帝国の格好がつかなくなってしまうように思えたからだ。

 だが、エルマーの才は本物であった。エレニウム八四式の登場から、四ヶ月後の一〇月。国家の努力さえ嘲笑うかのように、エルマーの作品は他の追随を許さぬ性能でもって、この世に生を受けたのである。

 

 

     ◇

 

 

 ここで、私に二年間の時間を与えて欲しいと言ってくれた、エルマーの話に移りたい。

 エルマーは私の航空隊への転属が正式に決定した後、総監部にこれからの時代は空であるから、自分に航空機開発をさせて欲しいと嘆願したという。

 総監部の上官や同僚は何事かとざわめいたが、私が騎兵から陸軍航空隊に転属するという事実を知り、ああ、これは兄可愛さに言っているのだなと、エルマーの言を取り合わなかった。私が彼らの立場であっても、決して取り合わなかったろう。

 

「君には戦車という、陸の王を進化させる大役があるのだ。空を飛ぶだけの玩具など、他の技師に任せたまえ」

 

 上官達はエルマーの発言に対して、諄々として諭すように、言葉を尽くして戦車開発の席に括りつけたが、弟は諭し続ける上官に、かつての戦車設計の折と同じように、辛辣な口調で告げた。

 

「戦車など所詮は一兵器に過ぎません。壊そうと思えば、いとも容易く壊れるのだという事を、証明してご覧に入れます」

 

 これには上官達のみならず、総監部の全技師が驚かされた。エルマーは戦車開発の雄として地位を不動のものにしていたからだ。従来のリベットによる装甲は被弾した際に吹き飛んだリベットが兵士を殺すとして、新たに装甲板を『組み木』のように噛み合わせる事で、強度維持と防弾性を向上させた溶接法を確立。

 サスペンションを改良する事で、悪所での走破性も従来の物とは比較にならない程高まっただけに、帝国軍の戦車が『陸の王』の名を冠したのは当然であった。

 

 そんな怪物を世に生み出したエルマーが、怪物を容易く殺す兵器を作れると言うのだから、注目は厭が応にも集まった。

 エルマーは従来対魔導師用に設計された高射砲の大口径化を図り、八・八センチ砲に改造。それによる水平射撃は、アルビオン連合王国・フランソワ共和国軍の戦車を一キロ先の距離から一方的に破壊し尽くし、その威力はエルマー自ら設計した帝国軍最新式戦車さえ容易く破壊するという結果を示した。

 加え、エルマーは安価な歩兵装備として対戦車火器を同時に設計。携帯型対戦車ロケット擲弾発射器として作成された無反動砲は、戦車のみならず装甲車や輸送トラックにも甚大な被害を与えたのだ。

 

 エルマーは有言実行の男である。私はそれをよく知っていたし、おそらく総監部の人間も結果を出すのだろうと考えてもいた。

 しかし、エルマーが結果を出す頃には、戦闘機の存在など、影も形もない程の期間が経過しているものと信じて疑わなかったに違いない。

 エルマーがこれら全ての開発を終え、正規配備が決定し戦果が報告されたのは、エルマーが航空機開発に携わりたいと嘆願した三月から、九ヶ月しか経過していなかったのだ。

 

 総監部は大層頭を痛めたらしい。確かにエルマーの結果は申し分ない。申し分なかったからこそ、惜しいのだ。エルマーが開発した兵器は、全てが地上軍のものである。だからこそ、エルマーが航空機開発に乗り出したとして、果たして地上軍の兵器と同様の成果を見込めるかは未知数。

 仮に成功するにしても、航空機開発のノウハウを習得する間は、エルマーの手が止まってしまう事も危惧していた。

 だからこそ、総監部の人間はエルマーを諭すのだ。

 

「貴官の兄は、既に空軍軍人としての栄光の切符を手に入れた。貴官が兄の為に身を捧げる必要はなくなったのだ」

 

 だが、妙に頑固なところが私に似て、というより私の家系に引き継がれてきた特質なのだろうが、エルマーは梃子でも動かなかった。

 

「上官方は、何時まで魔導師などという高価で補充の利かない存在に空を任せ続けるのですか? 私なら魔導師を恐竜から化石に出来る! 空の王者たる地位を奪い、帝国空軍に輝ける王冠を授けてみせる!」

 

 これは明らかに帝国魔導師への挑戦状であり、それ以上はやめろと本気で総監部員全員で止めたが、逆に言えばそれほどまでの熱意を持っているという事でもある。

 とはいえ、当然こんな事を宣えば、魔導工学の技師が黙っていない。特に、この宣戦布告を耳にしたフォン・シューゲル技師の怒りは天を衝かんばかりだったという。

 

「地を這うばかりが能の物しか作れん、ビッコの青二才風情が粋がりおってッ! この私が、私の作品が如何に素晴らしいかその目に焼き付けるが良いっ!

 貴様の大層ご立派な兄上が、魔導師の力を前に膝をつく姿が目に浮かぶわ!」

 

 ……原因が私にあるとは言え、妙なところで因果が出来てしまったものだと思う。しかし、私自身はフォン・シューゲル技師が天才だという事は、この身をもってエレニウム八四式を体感した時点で疑う余地などないし、魔導師の事も愛しているので、彼らと相争うつもりは毛頭ない。

 膝をつくどころか、諸手を挙げて喜んだぐらいなのだ。

 とはいえ、そんな私の内心など、彼らには知った事ではないのだろう。特にエルマーは、私の事をフォン・シューゲル技師が持ち出した事が許せなかったようである。

 

「兄上を侮辱するか!」

 

 と。たまたま居合わせてしまったフォン・シューゲル技師と掴み合いになったと話を聞いたので、私はエルマーを嗜める手紙を出して、お願いだから無理はしないでくれ、私の為に立場を危うくするな、と再び念を押した。

 

 手紙を出して以来、エルマーは魔導師に対する苛烈な主張を放つ事はなくなったものの、航空機に関しては徹底抗戦の構えを見せた。

 既に受章した白翼鉄十字を佩用しなくなり、内定を受けた叙勲予定の勲章・功労章全てを、航空機開発に携われないなら受け取らないし、進級も拒否すると言い出したのだ。

 そんな事をすれば軍の面子は丸潰れであるからして、全力で止めねばならない。これが無能なら軍籍を剥奪し、とっとと追い出してしまえば良いが、エルマーは優秀という言葉では及びもつかぬ大天才であったから、総監部は何が何でも手元には置いておきかった。

 結局、最後に折れたのは総監部だった。国内の演算宝珠のみならず、他国の航空機と比しても性能に劣る帝国空軍の航空機が一向に改善の兆しを見せない以上──とはいえ、徐々に改良はしていたし、何処の国も戦闘機開発には四苦八苦しており、帝国が飛び抜けて劣っていた訳ではないのだが──エルマーという天才の手を借りる事も止むなしとされたのだ。

 

 しかしながら、私が思うに総監部はエルマーの功績に感覚が麻痺していたと思う。

 エルマーは着任して数年足らずで、地上に勝利の栄冠をもたらし続けたが、他国の兵器開発過程を見れば分かる通り、一足飛びに世界を変えてしまうような発明というものは、それ自体が異常極まりない事である。

 航空機の開発が遅れていると、総監部は言う。しかしそれは、帝国軍の増産・研究体制が遅れていたからであって、エルマーの手を煩わせずとも、下地さえ作れば他国と十分渡り合えるものを作れた筈なのだ。

 

 だから、私は筆を執る今日も後悔する。もし、総監部がエルマーの手を煩わせないような土台を作ってくれていたら。もしエルマーが、地上だけに関心を向けていてくれたら。もし私が、エルマーに甘えさえしなければ。

 私が、もっと頼りになる兄だったなら。

 私の愛しい弟は、世界から恐れられる事はなかった筈なのに、と。

 

 

     ◇

 

 

 二年間、私は待つ予定だった。しかし、現実には一年と七ヶ月で、エルマーは私に一足早い誕生日プレゼントを贈ってくれた。

 

「航空工廠と技術局のお偉方が、目玉をスプーンでほじくり出したぐらい飛び出させてましたよ」

「気持ちは分かるな。見たまえダールゲ中尉。私の弟は、空軍に最高の翼を与えてくれたぞ」

 

 エルマー曰く、時間がなかったのでフォルカー製のそれをベースにせざるを得なかった。不出来な自分を許して欲しいと手紙で告げてきたが、謙遜も過ぎれば嫌味になるというのは、心の底から同意できる。

 フォルカーD.Ⅻ。複葉機という基本的なスタイルを継承しつつ、その洗練されたフォルムで技師のみならず我々航空隊員を一目惚れさせた機体は、これまでとは何もかもが別次元のものと言って良かった。

 巡航速度一一〇ノットにして、最高速度はなんと一三〇ノットにも達する圧倒的速度。魔導師が空飛ぶ存在ではなく、重力の軛に繋がれているではないかと錯覚させかねない、一万二〇〇〇フィートという高高度偵察機をも凌駕した最高高度。

 武装に至っては一三ミリと火砲から機銃に置換されたが、新たにエルマーが炸裂弾を開発したことで総合火力は向上し、弾道も従来のものよりずっと安定していることから、より正確に魔導師を攻撃することが可能になっていたし、何より舵のききが素晴らしい。

 新米にはじゃじゃ馬になること請け合いだが、熟練のパイロットならば、それこそ軍馬の手綱のように自由自在に機体を捌いて、敵味方問わず超絶技巧を披露することだろう。

 

「大尉殿の弟御って、タイムマシンに乗ってやってきてたりしませんよね?」

「アルビオン小説は愛好しているし、その方が説得力もあるがね。エルマーは紛れもなく、私と同じく父上と母上との間に生まれた子だ」

 

 うっとりとした表情で、私をはじめとする航空隊員は機体を撫で続ける。

 このまま一日中過ごしていたいところだが、我々は慣熟飛行を行い、一日でも早く、この機体を身体になじませておかねばならない。

 最も重要なのは限界高度にどれだけの人数が耐えられるかで、これに関してはフォルカーD.Ⅻを元に開発された複座式の初歩練習機*1に、特別頑丈な私が部下と乗り込み、一人一人確認する予定となっている。

 高度検査に関しては九割が問題なかったが、残る一割は耐え切れず、彼らは気圧に耐えられるようになるまで、一定以上の高度で飛ばないよう厳命を受けた。

 一割の者達は残念だったが、それでも彼らを含め、私達は待ち侘びた新型航空機の到来に歓喜し、エルマーに感謝の念を込めて、皆で酒やチョコレートを詰めて送った。

 エルマーは私達からの贈り物を大変喜んでくれたようで『兄上の為にもっと凄い物を作ってみせます!』と手紙で涙が思わず溢れそうな文を認めてくれた。

 

 

     ◇

 

 

 そして一九二〇年、一月。ヒヨコは若鳥に、逃げ上手な経験者達は誇り高い荒鷲となって、巣立ちの日を迎えた。

 

「キッテル大尉殿に、敬礼!」

 

 ダールゲ中尉の号令と共に、一糸乱れず踵を鳴らして礼を取る彼らの姿は誇らしく、同時に不規則な敬礼を私に見せたあの頃が、今となっては微笑ましいとさえ思えた。

 私は彼ら一人一人と握手を交わし、声をかけ、時に頬をつねるなどの悪戯をしながら、彼らとの別れを惜しむ気持ちを抑えて背中を押した。

 一体彼らのうち、何名が老いて地に足をつけ、子や孫に囲まれて、息を引き取る事が出来るだろうか?

 無論、今本著を綴っている私は、大戦で帰らぬ人になったのが誰で、今も健やかなる日々を過ごしている者が誰なのかを知っている。

 彼ら一人一人の顔と名前を、私はしっかりと覚えている。

 だが、この時の私は、彼らの無事を静かに祈る以外にはなかった。いつかきっと、命知らずな私は空で死ぬだろう。だから、そんな自分よりは、彼らの方が長生きして欲しいと思っていたのだが、多くの者が私より早く逝ってしまった。

 あれ程までに過酷な戦場を、壮烈な空を翔け、自ら幾度となく死地に飛び込んだ私が生き残って、彼らが帰らぬ人となる事は、人生の不可思議以外の何物でもない。

 

 そしてこの日。私もまた彼らと同じ空に帰る決意を、ダールゲ中尉と固めていた。

 私達は前線勤務を希望し、内地に残れというフォン・エップ参謀大佐を説得して、それぞれ戦いの地に向かった。

 私はノルデンに。ダールゲ中尉はオストランドに。

 私達が再び出会うのは、この年の八月になってからのこと。運命の再会は、私達にとって因縁浅からぬ、あの南方大陸だった。

*1
 前座席と後座席の操縦装置が連動しているもの。後にエルマーは複座式魔導攻撃機にもこれを採用し、一方が死亡しても操縦して帰還出来る仕組みを作った。



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11 撃墜王の座に-満たされぬ栄光

 多くの評価、コメントをありがとうございます。
 評価コメントを寄せて頂いた読者様におかれましては、メッセージにてコメントの返信を送らせて頂きましたが、この場をお借りして、評価を付けて頂いた読者様にも厚く御礼申し上げます。
 この度は本当にありがとうございました。今後とも本作品を宜しくお願い致します。

※2020/2/6誤字修正。
 フラットラインさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 帝国領ノルデンに到着した私は、前線基地でファメルーン帰りの戦友達と固い握手を交わし、知己以外の戦友達とも友誼を結びつつ、彼らの今日までの祖国への献身に限りない感謝の念を表した。

 戦友愛に厚い皆は口々に私の到着を喜んでくれただけでなく、エルマーが、自分達にとっての守護天使だと褒め讃えた。

 帝国軍魔導師が敵機と魔導師を撃墜する中、自分達パイロットは敵魔導師から下し易い存在として、集中的に墜とされていた。

 ノルデンでもオストランドでも、航空機の性能に劣るパイロット達は魔導師を前に辛酸を舐め続けていたから、そんな中にあって新型航空機(フォルカーD.Ⅻ)の登場は正しく天の助けだったという。

 

「この機体のおかげで、ようやく一矢報いることが叶いました。勿論、勇敢毅然なる航空魔導師に、我々の背を守って頂いたからでもありますが」

 

 そう朗らかにパイロットの一人が笑うが、私は心穏やかでは居られなかった。ファメルーンの生き残りたる一六名の内、今も尚無事であるのは、僅か七名となっていたからだ。

 だが、私が来た以上、もうこの地で一機たりとて墜とさせる気はなかった。

 

「これからは私と飛べ。我々帝国空軍がスコアではなく、恐るべき敵であると協商連合に教えてやろう」

 

 今日という日まで、我々を侮り続けた敵に思い知らせなくてはならない。帝国空軍は籠の小鳥などではない。お前達を殺し尽くせる荒鷲にして、偉大な芸術家の後継なのだということを。

 

 

     ◇

 

 

 帝国領ノルデンは、帝国北方に位置する半島と小さな島々からなる土地であるが、この地は予てよりレガドニア協商連合との領土問題の対立が激しく、係争地として絶えず尊い帝国軍人の血が、しかし一大戦争に勃発しないギリギリの量で流されてきた。

 私はその空を、魔導師をつけることもなく四機編隊で──厳密には魔導師に代わって三機編隊に私が随伴しているだけで、四機編隊(シュバルム)はこの時点でのスタンダードな編成ではなかった──飛んでいた。眼下に広がるのは見た目こそ美しい大地だが、その土は両軍の兵士の血がたっぷりと染み込んだ忌まわしい土地でもある。

 

 そして今、私はこの土地に、新たな養分を撒くのだろうなと嫌な事を考えてしまったが、元より私は軍人であるし、軍人以外の生き方など考えたこともない。

 何より、我々がこの地で戦わねば、父祖が命をかけて手にした土地が奪われ、流れ続けた尊い血の全てが無駄になってしまう。

 敵に対し、殺人を犯すなどという考えは持つべきではない。我々は生まれた土地、仰ぐべき国旗や奉じる対象こそ違えど、祖国の為、血を流す覚悟を持って軍服を着た時点で──実情はどうあろうと──互いにその覚悟を固めたのだと見做すべきなのだ。

 

 ましてや私は帝国貴族として、たとえ相手が自分達より強かろうと、最期の瞬間まで剣を執る覚悟で臨んでいる。それは、プロシャにおける古き善き従士の忠誠(ゲフォルクストロイエ)的価値観であり、たとえどれだけ時代が下ろうとも、貴族が貴族であり、祖国に事変あるならば絶えることなく駆けつける貴顕に根付く、犯し難い観念だった。

 だが、たとえ私が市井の人間であったとしても、仕官した軍人として祖国と皇帝(カイザー)に忠誠を捧げると軍旗に宣誓した以上は、そこに一切の怯懦も迷いも許されない。

 祖国の、愛する者の、隣人や家族、戦友の為。身を捧げると誓った全ての為に戦う事こそ軍人の本懐なのだから。

 

 気を引き締めた私は、頬をぴしゃりと叩き、目敏くこちらを見つけた敵魔導師を確認した。向こうは我々の新型機を既に知っており、警戒したが、こちらに魔導師がいないと見るや、目に見えて動きに余裕が現れている。

 私は部下に経験を積ませる為、後ろで何時でも駆けつけられるようにして、見守る事にした。

 三機編隊は敵魔導小隊の内、一名を撃墜出来たが、そこが限界だったようである。こちらには魔導師が付いていないのだから上々だろう。

 そんな事を思いながら部下をカバーしつつ、残りを平らげる事にした。

 

 

     ◇

 

 

 ノルデンでの私の日々は、ファメルーンで過ごした時と同じだった。つまりは起床して朝食を摂って出撃し、帰還してすぐに昼食を流し込んで出撃し、再度帰還して夕食を摂った後は夜間偵察等の任に出て帰還し、戦闘詳報を纏めて就寝するといった流れである。

 勿論毎日がこの通りには行かず、乗機の中で食事を摂って日中何度も出撃する事もあれば、遠距離を偵察する為に、一度の出撃で終わってしまう日もあった。

 戦友達は私を気遣って可能な限り出撃を譲ってくれたが、時には整備が間に合わなかったり、少ない機体を複数人で使っていたので、自分の番が来ない日もあった。

 

 前線基地の司令は、私が戦死すれば士気に関わる為、出来れば地上勤務か、短時間の偵察や哨戒にのみ勤めて欲しかったようだが、既に私は航空機乗りというより戦闘機乗りとして出来てしまっていた為、完全武装していない機には乗りたくなかった。

 何より、この新型機はエルマーが作ってくれたものである。私はこの機体に乗っていると、幼い日にエルマーが、私と共に戦場を駆けたいと言ってくれたあの頃の約束通り、共に空で戦えているような気がしたから、このフォルカーと離れたくなかったのだ。

 

「大尉殿は、お休みになられないのですか?」

 

 ある日、新しく派遣された空軍下士官がそんな事を聞いてきたので、私は笑って答えた。

 

「私は地上で横臥するより、空を飛んでいる方が心地良いのだよ」

 

 この言葉に嘘はなかったが、それ以上に戦友が大事だったというのが本音だった。私が飛び、戦い続ければその分敵は我々に恐怖し、戦友達は命を拾い、負担軽減に寄与する事が出来ると信じていたからである。

 だからノルデンでの私は、休暇を与えられても飛んだ。パイロットが一人も飛べない日は、魔導師と一緒になって同じ速度で飛び、接敵の度に彼らと戦果を競い合ったものである。

 

「気を付けろ、あの空軍大尉は俺たちのスコアを横取りする気だぞ」

 

 勿論そんな事はしないし、それが航空魔導師達のジョークだと私は知っている。私は既にして幾多もの魔導師と戦闘機を墜としていたし、友軍を助ければ撃墜スコアは勝手についてくる。

 別段撃墜数そのものに拘りのなかった私は、ノルデン以降、共同スコアを自身の撃墜数には登録せず、全て魔導師やパイロットに譲る事にしていた。

 これは、信心深い母上が私に奪う者でなく、分け与えられる者になりなさいといつも言っていたからというのもある。

 そして、困っている者が居れば、その方達の力になっておやりなさいと姉上から教えられても来た。

 私はこの教えを忠実に守り、戦友の窮地とあらば、いつなんどきもこれに駆けつけ、敵を追い立て追い散らし、二度と歯向かう事が出来ないよう、徹底的に墜としてやろうという気構えで任に就いていたものである。

 尤も、我が帝国軍の魔導師は精強であるし、エレニウム八四式は敵を圧倒出来ている性能なのだからそんな事態は早々なかったが、運悪く魔導小隊が敵魔導大隊*1と遭遇し、交戦せざるを得ない状況に出くわした事があった。

 私と僚機が応援要請に間に合ったのは、エルマーの新型機のおかげだった。私達空軍は魔導小隊を救援すべく、追加の増援が来るまで粘ろうとしたのだが、私はここで、生涯一度として墜とすまいとした僚機を、パーペン伍長という一人の戦友を失ってしまったのである。

 

 私は常々、自分の身が危険になるような真似は極力するな。命の賭け時だけは間違えるなと部下に言い聞かせてきたが、この事態は敵が強かったからでも、パーペン伍長が無謀な行動に出たからでもない。パーペン伍長は幾度となく魔導師に命を救われており、恩返しがしたいと常々言っていた。

 そして今まさに、弾薬尽きた状態では敵にその身をぶつける事でしか、窮地にあった魔導師を救えないとパーペン伍長は考えたのだろう。

 魔導障壁を展開した敵を圧殺し、自機をぐちゃぐちゃに潰したパーペン伍長は、乱戦に縺れ込んだ私の視界の端で火を噴いて、急転直下していった。

 無残なパーペン伍長の最期を目の当たりにした私は血の気が失せ、次の瞬間には僚機を守りきれなかった自分を殺してやりたくなった。

 

“っ……!”

 

 奥歯を噛み締め、血走らんばかりに墜落したパーペン伍長と共に逝った敵を睨めつけたが、それを私は無意味と悟って、口端を噛み切って意識を切り替えた。

 仇を討つにも相手はいない。そもそもパーペン伍長は、敵を殺すのでなく仲間を救いたかったのだ。なら、残された私と僚機がすべき事は、今なお懸命に戦い続ける魔導小隊を、一人でも多く帰還させてやる事だ。

 但し、残る二機の僚機も守りながらでなくてはならない。出来るか? いいや、やるのだ。私とこの機体なら必ず出来る筈だ。

 私は周囲に目を光らせ続け、墜とせる者、戦友に近付く者を片端から墜としてやった。半分以上片付いてから、ようやく魔導師の増援が来てくれた。

 とはいえ、彼らとて全力で飛んでいたのだ。もし私達が旧型機に乗って飛んでいたら、今頃魔導小隊は誰一人として残っておらず、敵大隊は意気揚々とこの場を去ってしまっていた事だろう。

 私は増援の到着に安堵して、操縦桿を握り直した。これでようやく、攻守が交代出来るからだ。

 

 

     ◇

 

 

 魔導小隊救援の後、私は生き残った魔導小隊の最先任から、銀翼突撃章の推薦を受けた。あのマルクル中佐が、友軍の窮地に駆けつけた功で、死後追贈された栄誉ある章と同じものをである。

 しかし、最先任たる曹長には申し訳ないが、私はこれを固辞するつもりであった。あの時、真の意味で自己犠牲を惜しまず、帝国軍人として壮烈なる戦死を遂げたパーペン伍長こそ、銀翼突撃章の栄誉を受けるに相応しいと信じて疑わなかったからだ。

 だが、軍曹はパーペン伍長も含め、私と僚機に搭乗したパイロット全員を推薦するので、どうか受けて欲しいという。全員の推薦が通る事はないだろうが、パーペン伍長に関しては間違いなく死後追贈を約束出来ると保証してくれたので、それならばと私は了承した。

 ただ、銀翼突撃章は飽くまで部隊でなく個人に送られるものであるから、私は推薦など通るまいと考えていただけに「貴官にも推薦が通ったので、直ちに本国へ帰還するように」と前線基地司令官から直々に言い渡された際には、思わず耳を疑った。

 我が身を挺してまでも、戦友を救わんとしたパーペン伍長の自己犠牲と比ぶれば、身に一切の傷を負わず、僚機を守る事も出来ずにいた私に、その勲章を授かる資格があるとは到底思えなかったからだ。

 

「おそれながら、小官には挺身が足りないかと」

「分隊規模となった航空魔導師と、四機の戦闘機で敵魔導大隊と交戦し、増援来援まで勇戦。演算宝珠の記録映像から確認する限りでも、半数以上の敵魔導師を単騎で撃墜した英雄的戦果で足りなければ、銀翼突撃章はライフルとヘルメットの代理授与(死後追贈の意)しか許されんぞ」

 

 貴様は皮肉を言っているのか? それとも自分の偉業を他人の口から言わせて悦に浸る嫌な趣味でもあるのかと睨まれた。そんなつもりではなかった私は司令官に深く謝罪し、勲章授与式典列席の為に本国に一時帰還する事にした。

 

 

     ◇

 

 

 一九二〇年、五月二日。

 叙勲委員会主催の元、軍戦死者へ顕彰式──パーペン伍長を初めとする、勲章の死後追贈──と併せ、私を筆頭とした各軍種の軍功労者への勲章授与式典が、プロシャ州首相官邸の大ホールにて執り行われた。

 帝国軍統帥*2から銀翼突撃章を授与された私は、これまで前線勤務であったが為に、帝国軍統帥から直接授与される規定であった手つかずの勲章を、本勲章授与式典でそのまま拝受する運びとなった。

 

 私は四月時点で魔導師三六名、戦闘機一七機、偵察機二機を撃墜し、パイロットとしては史上初──航空魔導師も含めれば五人目──の撃墜王(エース・オブ・ザ・エース)となっていたが、先の敵魔導大隊との交戦で二二名の魔導師を撃墜した事で、航空魔導師だけでも撃墜王たる資格を有する事となった。

 統帥は私の首に帝国軍の高位戦功章たる黄金柏剣付白金十字をかけられ、大規模攻勢において先鋒を務め、確たる功績を上げた個人に与えられる柏葉突撃章の中でも、高位に位置する柏葉剣付白金騎士突撃章が、銀翼突撃章共々左肋に留まった。

 統帥は私の肩に手を置くと、敬慕を表すように微笑まれる。

 

「大尉こそ帝国軍人の誉れにして、帝国貴族の献身を体現する軍人である。お父君も、大尉を誇りに思われるであろう」

 

 父上……その話題を耳にしたとき、私の心にはあらゆる賛辞も、周囲からの拍手も届かなくなっていた。やり場のない憤りと羞恥が、自責となって私の胸を満たしてしまった。

 確かに私は名誉を、栄光を手にした。しかしそれは父上を悲しませ、多くに迷惑をかけて得てしまったものなのだ。

 

 私は自分の人生をやり直したいと思わないし、空を飛べない人生も考えられない。

 ただ、仲違いしてしまったあの日以来、一度もお会いしていない父上の事だけは、どうしても気がかりだった。この式典には、父上も参列している筈だ。私は父上を見つけて、あの日の事を謝罪したかった。自らの夢で、父上の心を深く傷つけてしまった事を詫びたかった。

 けれど、父上は参列していなかった。高熱故に参列出来ないという事で、前日に電報が届いたらしい。

 あの厳格な父上が仮病を使うなどとは誰も考えないであろうし、ましてや嫡子の晴れ舞台に顔を出せないのは、さぞ無念だろうと皆お嘆きになられていたが、私はそれが嘘だと思った。

 

 父上はやはり、貴族として許されぬ振る舞いをした私をお嘆きになっているのだ。或いは私の事でお悩みになり、本当に病まれてしまわれたのかもしれないが、いずれにせよ、私は未だ父上にお許しを得られるような立場ではないのだとはっきり自覚してしまった。

 

“前線に戻ろう”

 

 私の帰る我が家は、帝国空軍にしかない。私に残されているのは空に生き、空に死ぬ道だけなのだ。

 

 

*1
 魔導大隊は三個中隊(三六名)からなる。

*2
 帝国軍はカイザーを頂点たる大元帥としているが、これは名誉階級であり、実質的な三軍の統帥は最高統帥府より選任された武官──慣例として元帥府の中から──が就任する。




補足説明

※帝国軍の統帥について。
 WW1での軍政・軍令機構における統帥は大(陸軍)参謀本部が統帥部となり、参謀総長が就任するのですが、幼女戦記での最高統帥会議は軍高官と文官での合議的なものになっていましたので、統帥府を別に設け、参謀総長でなく元帥府から抜擢された元帥を統帥とさせて頂きました。



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12 さらばノルデン-死者に捧ぐ花

※2020/2/6誤字修正。
 くるまさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 勲章授与式典と、それに付随する各種軍務──宣伝中隊からの軍事公報用のインタビューなど──を終えた私は、与えられた恩賜休暇を殆ど使う事もなく、逃げるように本国からノルデンへと舞い戻った。

 

 前線基地の皆は、勲章を身に着けた私が戻ってくるなり「撃墜王キッテル万歳!」と祝福の歓声を上げながら、代わる代わる基地中を担ぎ回ってくれた。

 暗く沈みこんだ私の心は、戦友たちの温かな気持ちに包まれ、何とか身体に前を向けるだけの意思と活力が吹き込まれる。叙勲を言祝いでくれた彼らの戦友愛は私にとってこれ以上ないほどの励みであった。

 基地司令官は私が休暇を使わなかった事にはじめは良い顔をしなかったが、笑顔を貼り付けた私の表情の裏に、翳りがあることを察して頂けたのだろう。深くは追求せず、黙して肩に手を置いて下さった。基地司令官の慈愛は、その掌の温もりと、私の心を案じて下さる視線から汲み取れたものである。

 

 ノルデンに戻る際、銀翼突撃章を始めとした叙勲に伴う特別賞与金を、実家に送る分を除けば全て戦友達への酒精や煙草、キャンディやチョコレートといった嗜好品に変えていた私は戦友達にこれを振る舞うと、彼らは狂喜して受け取り「何か頼みがあれば遠慮なく言って欲しい」と口々に言うので、私は空を飛びたいと思いを告げた。

 皆、本当に空のことしか頭にないのだなと私を笑い、私も釣られた様にして無理に笑いながら、基地司令官にもシャンパンと葉巻を渡し、頼むから空を飛ばせて欲しいと頼み込んだ。

 今の私は、安息など欲しくなかった。地に足を着け、息つく暇など与えられてしまえば、途端に鉛のように重くなった心が自責の念で体さえ縛り、軍務に精を出す事さえ出来なくなってしまうかもしれない。

 我が身の罪業を顧みれば、きっと私は飛ぶことさえ出来なくなるだろうという不安に苛まれていたのだ。

 

 私は家族を愛している。心から両親を尊敬し、姉上を敬愛し、弟を誇りに思っている。だが、私は我が家に帰る事を許されてはいない。

 あの美しい帝国北東部に戻れないのであれば、長期の休暇に一体何の意味があろう? 勿論、幼い頃の友人達は私が故郷に戻れば歓迎して泊めてくれるだろうし、今や軍事公報だけでなく、帝国中の新聞やラジオで持て囃されて時の人であるから、故郷の誰もが歓迎してくれるに違いない。

 しかし、最愛の家族のいる我が家だけは、私に対して門を閉ざさざるを得ない。それは全て、私自身が招いた事だ。

 

 だからこそ、私は第二の我が家たる帝国空軍こそを、心から愛し尽くすのだ。たとえそれが、現実からの逃避に過ぎないのだとしても、同じ我が家に住む家族を守りたいと思う気持ちに嘘はない。

 私は前線基地に戻ってから、皆に祝福された今日だけは休む事にした。

 そしてまた次の日には空に戻る。我が家に住む、皆と共に。

 

 

     ◇

 

 

 同月、勝利を信じて疑わなかった帝国軍は、思わぬ苦戦を強いられた。

 エレニウム八四式の光学術式を、敵が見破り始めたというのだ。これに関しては、経験を積んだ熟練魔導師であれば迷彩を見分ける事も可能である事を技術局の技師から伝えられていた為、はじめは驚くに値しなかったが、明らかに敵が魔導師の動きを察知しているとなれば、嫌が応にも危機感は高まった。

 加え、敵魔導師の運動性能や速度も、帝国魔導師に追いつき始めたとなれば、導き出される答えは一つである。

 

「敵も新型を作ったと見るべきだな」

 

 基地司令官は紫煙を燻らせながら漏らし、私を始めとする空軍将校と魔導将校も同意した。

 

「キッテル大尉。貴官の目から見て、敵はどの程度のものと感じたかね?」

「はい、閣下。敵魔導師は我々との交戦で光学術式を始めとする新規の術式を使用して来ない事から、格闘戦の向上を重視した演算宝珠であると予想されます。速度は大凡一〇五ノット。高度限界は四二〇〇フィートと言った所かと」

「うむ。魔導将校らは、空軍大尉の意見に反論はあるかね?」

「はい、いいえ閣下。キッテル大尉の目測は、正鵠を得たものと考えて宜しいかと」

「加え、敵魔導師の演算宝珠は、至近距離内での魔力波長を探知するソナーとしての機能を有していると見るべきでしょう。或いは、陸軍総監部で開発中と噂のある『熱源探知』の可能性も視野に入れるべきかと」

「考えたくはないが、敵の無能を期待する愚将になるのは、私は御免だな。では対策を。皆、忌憚無く意見具申してくれたまえ」

 

 基地司令官の申し出に一同は唸った。自分達の隠密性が小手先の手品に落ち、基本性能でも上を行かれた以上、これの攻略手段を確立する事は至難の業だ。何しろ一芸特化とは違い、性能の向上というものは隙のない強さなのだから。

 

「古典的手法となりますが、分隊に対し小隊で当たり、中隊には大隊で当たるべきかと」

「質を数で圧するのは基本だな。しかしキッテル大尉、魔導師は数を揃えられん。それは貴官とて承知の筈だ」

「はい、閣下。しかし基本性能という点では、我々戦闘機乗りにこそ分があります。我々空軍は従来、小隊(三機編隊)での行動を前提としてきましたが、本土からの新規隊員と戦闘機を含めれば中隊(三個小隊)での活動でも十分ローテーションを組めます。

 魔導小隊と航空中隊の混成部隊であれば、数の上で十分優位に立てるものと判断致しました。元より我々空軍は常に航空魔導師に随伴しておりましたので、連携の点でも問題ないかと」

「航空魔導師としての意見は?」

「空軍には負担を強いる形となりますが、現状ではそれが確実かと愚考致します」

「中尉、我々は幾度となく魔導師に窮地を救われた身だ。この程度では、とても借りなど返しきれんよ」

 

 私が微笑を浮かべて魔導中尉に告げると、中尉はもう十分返して貰っておりますと返した。だが、それは過小評価というものだ。彼らがいなければ私を含むファメルーンの航空隊員は、誰一人として生きて祖国の土を踏む事は出来なかった筈なのだから。

 

 

     ◇

 

 

 我々帝国空軍と航空魔導師の混成部隊は損耗を抑えつつ、順当に勝利を収める事に成功した。以前であれば圧倒的優位を確立し得ただけに歯痒いものを感じるが、私はパイロットに決して敵を深追いしないよう厳命していたし、それは魔導師も鉄則として心得ているのだから、耐え忍ぶべきだろう。

 敵を全滅させられずとも、味方が生き残って経験を積めれば糧に出来る。そうして生き残って強くなった兵が、また次の面倒を見る。軍隊が強くなるには、そうした生存術こそ必須なのだと私は信じている。

 

「スコアが落ちましたな、大尉殿」

「そうだな。しかし、部下の経験こそ代え難い奇貨だ」

 

 至言ですなと魔導中尉は頷く。前々から共同スコアは譲っていた身であるから、その事は気にしていない。今はそれより、一人でも多くの部下を育てる事にこそ注力したかった。

 

「やはり、学校は偉大だな。基礎というものを、しっかりと土台から作ってくれる」

 

 今年に入ってから帝国では初の空軍学校が開校し、志望者は教育の後に各戦線へ送られてきていた。

 私やダールゲ中尉にも、開校が決定した時点で教育総監から教官としての声はかかっていたのだが、その時の私達は、とにかく自分達が飛ぶ事で頭が一杯だったし、基礎なら教えられる者は幾らでも居るだろうと考えて、気にも留めず前線への転属願いを何枚も書き連ねていたのであった。

 

“今にして思えば、その道も悪くなかったのではないか”

 

 この時はそう自分の選択を惜しんだものだが、二年後の私は、その思いを撤回することになる。もしも教官になってしまえば、当然私が前線に出ることはない。そうなれば、私が生涯をかけて愛する女性が、命を落としていたかもしれないからだ。

 

 とはいえ、この時の私に、そんな思いも寄らぬ未来の事情など知る由もない。私の頭の中は、立派に成長して大編隊で飛行する部下達の英姿で一杯だったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 ノルデンは安定し始めた。以前までの苛烈な戦死報告はなりを潜め、互いが膠着の姿勢を取り出したのだ。

 帝国もレガドニア協商連合も、係争地での我慢比べめいた戦いは、潮時だと考えたのかもしれない。

 如何に戦闘機を増産出来ても、人的資源の損耗が大き過ぎては話にならない。

 航空機は確かに役に立つ。しかしそれだけでは、魔導師を完全に駆逐するには至らない。

 敵味方両方に魔導師と航空隊がいる以上、互いに守り、ぶつかり合う以上、両者共に数を減らしては増やしていく。空の世界に新規参入者が加わったというだけで、戦争の形が変わってしまうほどの変化ではなかったのだ。

 

「一度作られた以上、これからも航空機は増えるでしょうが、どれほどになるでしょうか?」

「互いが、空を埋め尽くすぐらいは作るだろうな」

 

 空軍将校の疑問に、私は簡潔に答えた。有用ならば作られる。戦力は多ければ多いほど良い。そして互いが力を貯め込めば貯め込む程、互いに手が出せなくなっていく。

 協商連合は、独力で帝国と矛を交えられる程の国力を有していない。帝国はやろうと思えば協商連合に勝利出来るが、主要列強は──少なくともフランソワ共和国は確実に──それを容認すまい。

 この大陸中央部に他国より突出した国家が誕生すれば、それは列強間の力関係を決定的なまでに崩す事になる。

 帝国がレガドニア協商連合に勝利したとしよう。では次に帝国は何処に向かう? アルビオン連合王国か、フランソワ共和国か、それともダキア大公国やルーシー連邦か?

 列強は帝国を恐怖し、それ故に一致団結するだろう。それぞれの思惑や利益はどうあれ、安全保障の観点から見るならば、周辺国は帝国の勝利を望まない。

 帝国も、それに気付いている筈だ。一介の空軍大尉が危惧している事を、国家の頭脳が予想し得ない筈がないし、だからこそ係争地は一大戦争にならず済んでいる。

 

 しかし、ここに来て空軍という新規参入者が現れた事で、係争地は限界を迎えてしまった。これまでギリギリのラインで保った血潮の水嵩が、遂にそれを吸う大地の許容量を超えたのだ。

 これ以上の戦いは全面戦争への片道切符に等しく、帝国と協商連合は、兵力を配しながらも直接殴り合う事を控えた睨み合いに切り替えた。

 敵を殺す為に作る兵器と人員が、敵味方の流血を止める結果となるのは、なんとも皮肉なものである。

 

「ですが、無念です。出来る事ならば勝利したいものでした」

「気を落とす事はない。こんなものは準備期間だ」

 

 争い合うのは人の性だ。戦争は私達の父祖より遥か古くから、常に人の側に寄り添い続けた存在だ。この膠着も、いつか誰かが、何かが確実に狂わせる。

 空軍という新規参入者のように。戦車という大地の王者のように。新しく生み出された何かが、或いは国家の思惑や個人の思想が、時代を動かし流血を求めるだろう。

 しかし、その絶え間ない流血の中に用意された一時の膠着を、私達は噛み締めておくべきだ。今、この僅かな時間だけは、私達は息つく事を許されているのだから。

 

 

     ◇

 

 

 基地司令官より私に辞令が出た。戦局の膠着したノルデンを去り、直ちにあの懐かしきファメルーンに向かえと言うのである。戦友達との別れは何度も経験しているが、やはりこればかりは慣れる物ではない。

 私は戦友達一人一人の顔を頭と心に焼き付け、出立の前日に、花輪と色とりどりの花束を手に航空機に乗った。空から見える、この多くの血の流れたノルデンに献花を捧げたかったからだ。

 私は空から、帝国・協商連合双方の国旗を巻いた二つの花輪を海に投げ、大地に紐解いた花束を撒いて弔意を示した。敵も味方も、多く亡くなった。私は生ける敵兵とは戦うが、死者にまで敵意は抱かない。どちらも祖国に殉じた勇者であり、その死に貴賤は決してないと私は思う。

 人によっては、私の行為は自己満足や、エゴイズムでしかないと思われる事だろう。私はそれを否定できないし、無理に理解して欲しいとも思わない。これは私自身がしたいと思ってした事であり、私なりのやり方で、死者に敬意を表したかったというだけなのだ。

 

 十字を切って聖句を唱え、黙祷を終えて引き返した私は、このような我が儘を聞き入れて下さった基地司令官に心からの感謝を述べると、基地司令官は晴れやかな表情で口を開かれた。

 

「この地の戦いが終われば、私は慰霊碑を建てたいと考えていた。貴官のように、軍人の死を数字として見ず、悼んでくれる者が居てくれる事を喜ばしく思う」

 

 基地司令官は私に抱擁し、別れの挨拶と共にパイプを渡して下さった。メシャムという石と、瓢箪を削って作られたキャラバッシュパイプなる品で、息つく間もなく飛び続ける私への気遣いとして、ゆっくり時間をかけて一服するようにと仰って下さったのである。

 このパイプは、私が喫煙をやめた今も執務室に飾っている。

 

 アルビオン連合王国仲介の下、レガドニア協商連合との間に、事実上の国境線を規定するロンディニウム条約が妥結されたのは、私がノルデンを発ったひと月後の事だった。



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13 ファメール将校の反乱-新戦法への挑戦

※2020/2/20誤字修正。
 フラットラインさま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


「大尉殿! ご壮健で何よりです!」

 

 溌剌とした声でファメルーンに到着した私を出迎えてくれたのは、最早腐れ縁という言葉さえ通り越した大親友たるダールゲ中尉だったが、肩の星をみれば、何と私と同じ大尉となっていた。

 

「ならば、もう敬語の必要は無くなるな」

 

 勿論、これからはそうさせて貰うとダールゲ大尉は首肯する。

 

「その為にオスト*1で気張ったからな」

 

 見ろよ、ダールゲ大尉は首元の勲章を指で弾く。大尉の首には剣付白金十字が下げられており、陽光に反射してキラキラと輝いていた。

 

「ニコほど化け物にゃなれないが、自分だってやれば出来るんだぜ?」

「そんな物が無くとも、私は貴官が優秀だと知っているよ」

 

 愛称で私を呼ぶダールゲ大尉に、思わず私の顔が綻ぶ。そういえば、久しくその愛称で自分は呼ばれなかった。軍隊は厳格な縦社会であるし、母上や姉上とも離れたままであるから当然だ。

 愛称で呼ばれた事に気を良くした私であるが、そんな和気藹々とした空気も、ファメルーンでの報告を受けてからは霧散した。

 私が現地到着までに耳にしていたのは『ファメルーン出身の将校団が蜂起したので、直ちにこれを制圧せよ』という物であった。

 しかし、いざ現地に着いてみれば、将校団のみならず保護領軍人の大半がこの反乱に加担したばかりか、帝国と隣接するアルビオン連合王国・フランソワ共和国両国の植民地軍とも内応していたと言うのである。

 

「なんで帝国に……連合王国とか共和国なら判るけどよ。あいつら恩知らずにも程があるだろ」

 

 ダールゲ大尉はそう不平を漏らしたが、これは大尉が自民族至上主義者であるが故に、保護領軍人を一段下に見ているという訳では無いし、ここで口にした『恩知らず』とは所謂列強国の特有の『文明を野蛮人に与えてやった』という意識からでもない。

 ダールゲ大尉は、栄達の機会を与えてくれた『帝国軍』に対して、保護領軍人を『恩知らず』だと言ったのだ。

 連合王国や共和国と異なり、当時の帝国では保護領出身であっても本国軍人と同様の功労で出世する事を確約していた。

 これは人権意識からではなく、他の列強と比して保護領政策に遅れた帝国が他国に対抗する為の措置(◆1)だったが、そうした政治的事情など関係なく、私達帝国軍人は尚武の気質を有していたから、彼ら保護領軍人に対して思う所は何もなかった。

 

 むしろ、帝国軍人にも負けず劣らずの気迫でもって最前線で戦うファメルーン人の姿には、私達帝国人も負けていられないと大いに鼓舞され、任務が終われば共に酒を酌み交わしたり、数の少なくなった煙草を回して吸ったりしたものである。

 ダールゲ大尉も私も陸軍航空隊時代はパイロットであったから、彼ら保護領軍人とそこまで深い関わりがあった訳では無い。しかし、地上要員として基地内で働くファメルーン人とダールゲ大尉はよく談笑していたし、困った時には何かと手を差し伸べていた。

 普段からユーモアを忘れず、ファメルーンから幾度となく死地を潜り抜けて来ただけにタフな印象を与えるダールゲ大尉だが、その実かなり繊細な所のある情に厚い男でもあったので、彼らの反乱がやりきれず、また、これまでの友情が偽りに過ぎなかった事へのショックから、こんな言葉を口にしてしまったのだろう。

 

 私はダールゲ大尉を慰めてやりたい気持ちで一杯だったが、今は軍務に就いているし、上官からの質疑応答も有ったので、そちらに意識を回さざるを得なかった。

 

「現在、この反乱に対して連合王国・共和国両国は関与を否定しているが、それを鵜呑みにする無能は我が軍に居まい。情報部の報告と反乱軍の装備から、間違いなく両国から人員、物資両面での支援を受けた上で反乱を計画した事は明白である」

 

 実際、この反乱の首謀者たるハルシャール歩兵少佐は、ファメルーン独立と帝国からの解放のみならず、これを期に南方大陸全体での一大決起と大独立を呼びかけたが為に、これまで忠勤に勤めていた植民地軍人が、唆されて去ってしまったと連合王国・共和国は言う。

 その上『自分達の元を去る際に軍需物資まで植民地軍は強奪していった』『自分達も被害者なのだ』と、連合王国と共和国は関与を疑う帝国に抗議したそうだが、白々しいにも程がある。

 軍需物資を強奪された挙句、植民地人におめおめと逃げられたなど、あの苛烈な植民地支配で知られる連合王国と共和国が許容する筈も無い。

 

 見せしめとして現地部族の族長達を吊るすのは当然として、植民地軍内でも徹底的な粛清の嵐が吹き荒れるのは当然だろうに、袂を分かった植民地軍に『罪を不問とするので、装備を返却し原隊に復帰せよ』などと呼びかけるだけに留めているのだから、明け透けにも程があろう。

 尤も、内応自体初めは本物で、後からこれを利用した可能性も十分あるにはあるのだが、いずれにせよ帝国が被害を被っている以上、細かな経緯を考える事に意味はない。

 仮にハルシャール歩兵少佐が本気で南方大陸全土の独立に動き、連合王国・共和国両国が手を噛まれそうになったとしても、帝国と比して駐留軍が圧倒的に多い両国ならば、早期鎮圧は容易いだろう。

 

 そうした国家の思惑は一先ず脇に置き、今は軍人としての仕事を全うすべきだと私は意識を切り替えた。私達空軍に与えられた任務は、反乱軍魔導師を含む航空戦力を徹底的に叩く事であり、これを受けて「お任せ下さい」と胸を叩く私の姿を、皆頼もしいと言いつつ苦笑していた。

 

「もう空はニコに任せておこうぜ。旧式の魔導師と戦闘機なんぞ、一日で全部墜ちるだろうさ」

 

 サボタージュは許されないと私はダールゲ大尉を叱責したのだが、どうやらこれは他の者も同意見だったらしい。幾ら私でも、規模も所在も未知数の航空戦力を、一日で全て撃墜する事など不可能だ。見つければ確実に墜としてみせるが。

 

 

     ◇

 

 

 だが、ダールゲ大尉にとっても私にとっても予想外であったのは、反乱軍が実に用意周到で嫌らしい存在であったという事だ。

 反乱軍魔導師は決して小隊以上の規模で行動せず、二人一組(ツーマンセル)で鉄道破壊など、補給を遅らせる事に注力。地上での帝国軍陣地への苛烈な攻撃ぶりや奇襲とは異なり、空の上では決して戦おうとはしなかったのである。

 

「ニコが有名になり過ぎたってのも有るんだろうが、流石は元帝国軍人。彼我の実力差ってもんを実に良く理解していらっしゃる」

「有能でなくば、佐官になどなれんよ」

 

 武功だけでのし上がれるのは尉官まで。そこから上を行きたいならば、広い視野と知識を兼ね備え、地位に相応しい責任を持つ必要が有る。

 

「まかり間違っても、教育総監からの誘いを蹴って、前線勤務を希望する馬鹿共に勤まる役職ではないからな」

「違いない!」

 

 ダールゲ大尉は大笑いし、私も一緒に笑った。だが、笑い声とは裏腹に、私は内心焦っていた。

 地上における帝国軍の被害は想定より遙かに甚大だ。帝国の為を思い作ってくれたエルマーの兵器は、当然の事ながら反乱軍が用いてもその優秀さを遺憾なく発揮していた。

 安価であるが故に数の揃っていた無反動砲は多数の戦車を潰して尚有り余り、輜重隊の馬車*2などには、遙か遠距離からの高射砲で護衛ごと粉微塵に吹き飛ばされた。

 

 帝国航空魔導師は地上軍への支援を惜しまず、爆裂術式や貫通術式を用いて砲兵や機関銃手を潰してくれているが、何分にも敵の攻撃範囲が広すぎる事や、エルマーの高射砲から放たれる炸裂弾は彼ら魔導師にとっても大変危険であったので──そもそも高射砲は最初期において、航空魔導師を地上から撃墜する用途で作られたのだから当然だが──敵地上兵力を満足に叩けていなかった。

 

「ダールゲ大尉、我々にも出来る事はないだろうか?」

「哨戒以外となると、輸送機で空から物資を運ぶぐらいだな。まぁ、輸送機は貴重な上に燃料も食うから、許可は下りないだろうが」

 

 敵さんが空に近づいてくれればなぁ、とダールゲ大尉が零す。大尉にとっては唯の愚痴のつもりだったのかもしれないが、その言葉が私の琴線に触れた。

 

“敵が我々に近づかないなら、我々が近付けば良いのではないか?”

 

 私は思いついた。戦い方を変えてみよう、と。

 

 

     ◇

 

 

 私は上官らに、航空戦力とは戦わない事にしたと告げた。より正確には、航空戦力という物に拘らないようにしたと言うべきか。無論これは、私が敵と相見える機会がない為にサボタージュをしようと言うのではない。

 

「一体どういう事か?」

 

 説明したまえという上官に、私は敵航空戦力が自分達と矛を交える気がなく、幾ら哨戒を行ったとしても、これでは時間と燃料を浪費するばかりだと訴えた。

 

「先の鉄道破壊に於いても、敵魔導師は離脱するギリギリまで飛ばなかったと聞き及んでおります。戦闘機も姿を見せない以上、今叩くべきは間違いなく地上戦力です」

「しかし、貴官らは空軍であろう?」

「はい。しかし、攻撃手段はあります。我々の戦闘機が装備する一三ミリ機銃は対魔導師を想定した物でありますが、地上軍にもその威力を発揮し得ると、確信を持って申し上げます」

 

 これまでの戦闘機は空で魔導師と、或いは戦闘機や偵察機といった、空の住人と戦う為の物であった。そもそもの戦闘機の始まりからして、魔導師を撃墜する為の大口径装備であったのだから当然だが、テーブルに卵を立てた船長のように、物の見方を変えてしまえば良いのだ。

 

「是非ご想像下さい。三〇機余りの戦闘機群が、反乱地上軍に一斉掃射を仕掛ければ、如何程の戦果を得られるでしょうか?」

 

 

 

     ◇

 

 

 このような大言壮語を吐いたものの、しかし問題もあった。私も含めて、パイロットの誰一人として、地上標的に対して攻撃を行った事などなかったのだ。

 戦闘機は航空戦力と戦うという固定観念は拭い難く、誰一人として魔導師が爆裂術式を用いるように、地上に機銃や機関砲を放とうとは思い至らなかったのである。

 

 私がこの案を基地内の上官らに提示する以前には、パイロットに対して事前に案を話し、当然テストも行った。案山子を標的に見立て、それを降下しつつ訓練用の弱装弾で狙い撃つというものだ。

 はじめは誰もが楽勝だと胸を張った。空を縦横無尽に駆ける航空魔導師や戦闘機を相手にしてきた自分達が、地上で動かない的に外す訳がないと思ったのだろうが、これが中々に難しい。

 勝手が違うというのも、無論ある。しかし、誰もが事に当たる時、降下時の空中分解を恐れて機首を必死に上げ下げしていたから狙いが定まらず、満足の行く結果を得られなかったのだ。

 

 旧型機がそうであったように、やはり大口径の武装が、機体の急降下を妨げていた。空中戦での一定の動力降下*3には耐えられても、地上めがけてのそれとなれば、話は全く変わってしまう。

 私達は加速する機体を押さえつけながら標的を狙わなくてはならないが、これは決してエルマーの機体のせいではない。本来の用途と、全く異なる使い方をした私の方が問題なのだ*4

 

 それでも私は機銃での地上攻撃が見込める戦果は大きいと信じていたから、皆には一定以上の速度に達しそうになったらその位置で攻撃し、機首を上げて離脱するよう指示した。

 対して私自身は、無理や無茶など慣れっこであるから、どれだけ動力降下が出来るか。どれだけ接近すれば地上目標に対して、確実に命中させられるかを何度も自分でテストした。

 ただ、これまでのテスト飛行では、私の無茶を苦笑しつつ許容していたダールゲ大尉が、今回に限って必死で止めたのは誤算だった。

 

「こんな下らない実験で撃墜王が命を危険に晒すんじゃない! 死ぬなら空の敵と戦って死ね!」

 

 これまでにない声と形相だっただけに、私は委縮してしまった。しかし、自分以外に実験出来る者が居ない以上、私はダールゲ大尉に頭を振った。

 

「危険操縦なら、知っての通り私は慣れっこだ。私が機体性能を確認する為に、どれだけ無茶な飛行を続けてきたか、知らない大尉ではないだろう?」

 

 ゆっくりと、声を張り上げるダールゲ大尉の怒りを私は鎮めようとした。けれどそれは、ダールゲ大尉の怒りに油を注いだだけだった。

 

「ニコ! お前は今、高く飛んでるんじゃない! 地面に()()()いるんだ! 悪ふざけの曲技飛行とは別物だ! いいか、分かっていてやってるんだろうが、この際だからはっきり言ってやる! この高さじゃ、絶対にパラシュートは開かない! 何かあったら、確実に死ぬんだよ!」

 

 だから止めろ。金輪際、こんな真似だけはしてくれるなと。それは戦友として、空を飛ぶ仲間として、最も愛すべき、親しみ深くかけがえのない友人としての、ダールゲ大尉の心からの泣訴だった。

 

「ダールゲ大尉。貴官の思いは嬉しく思うが、これが成功すれば多くの戦友達を救う事が出来る。手を拱いている時間は終わりにしたいのだ」

「だったら自分や他の連中に任せろ! ニコが危険な目に遭うぐらいなら、誰だって身代わりになる! 自分達とあんたじゃ、命の価値が違うんだぞ!?」

「それは違う! 私と貴官や戦友の命に、貴賤などあろう筈がない!」

 

 私はこの時、将校として、軍人としてでなく、個人としての意思で叫んだ。祖国の為、国民の為に賭ける命に貴賤はないと反駁した。しかし、それは違うとダールゲ大尉は言う。

 

「ニコは皆の英雄だ。今も、これから先も、あんたは自分達パイロットに、空軍に、帝国に必要なんだよ。イメール・マルクルはもう居ない。もう、ニコしか象徴になれる人は残ってないんだ。

 将校は皆の模範たれとは言う。国から部下を預かる以上、しっかり守るのも当然だ。

 でもな、これは本当に、ニコがやらなくちゃならない事か? ニコ自身の手で、尽くさなきゃならんものなのか?」

 

 胸に手を置いて考えろ。必要ならば命じろ。それがもたらす結果と利益の天秤とを、きちんと釣り合わせてから判断しろ。

 ダールゲ大尉の言葉は、何もかもが正論で、何もかもが彼の誠実さと良心と、軍人としての規律の上に成り立っていた。

 だが。しかし。それでも。

 

「これは私の案だ。提案した以上、私はそれをきちんと実行できる形にした上で、貴官らに役を任せたいと思う」

「……そうかい」

 

 私は、いつも駄目な所で頑固だ。父上との離別も、ダールゲ大尉との、このやりとりも。いつも張らなくて良い筈だと言われる場面で意地を張る。だが、父上との時とでは決定的に違うことが一つある。

 

「私は、貴官らを失いたくはないのだ」

 

 戦場で、誰一人として死なせない訳には行かない。死は悲しく、別離は苦しいが、それは誰もが覚悟の上で軍服を纏う。だからこそ。嗚呼、だからこそなのだ。

 

「私は栄光の勝利と、相応しい死を与えてやりたい」

 

 将校として、預かった部下達が、最期の時に胸を張っていと高き場所に逝けるように。

 

「全く、この頑固者が」

 

 重く、深い溜息を吐きながら、しかしダールゲ大尉の口調は、いつもの軽やかなものに戻っていた。

 

「一体どういう教育を親御さんから受けりゃ、こんなんになっちまうんだか」

「代々プロシャ軍人の家系でね。頑固さは、父祖譲りであろうさ」

「プロシャ人ねぇ? 頑固さと折り目の正しさはそうなんだろうが、豪快さが足りないな」

 

 違いないと私は笑う。プロシャ人といえば、多くがその厳格さ故に無駄口を叩かず、寡黙で威厳ある人物像を思い浮かべるだろうが、彼らは基本的にゲルマニア気質が強く、豪放磊落で声は大きく、自己主張の激しい者達なのだ。

 

「私のこれは、我が家の処世術でね。宮中で声が大きくては、受けが宜しくないのだよ」

「成程。出世して登城出来るようになったら、是非ニコの言動を参考にさせて貰うよ」

 

 先の長い話だと肩を叩きながら、私は戦闘機に乗り込んだ。但し、これからは慎重にしようと心に決めて。

 

 


訳註

◆1:帝国軍内においては差別こそなかったが、ファメルーンにおける帝国人及び政府の意識と政策は他の列強と比して変わるところはなかった。

   帝国人入植者はファメルーン人に対して労働保証のない薄給で各種職務に従事させていたし、政府もファメルーン人に多大な税負担を強いていた。

   帝国軍はそうした中にあって数少ない『逃げ道』の一つとされていた為、保護領軍人は栄達を求めて意欲的に働いていたというのが現在の共通認識である。

 

 

*1
 オストランドの略。

*2
 トラックなど機械化された輸送が完全に行き渡るのは遙か先の事であり、この頃の輸送や兵器の牽引などには、未だ数多くの軍馬が使用されていた。

*3
 エンジン推力を維持した状態での降下。

*4
 対高度偵察機用の七・七ミリ機銃を装備した戦闘機ならば急降下は容易だったが、こちらは数が少なく、哨戒機としても頻繁に使用しなくてはならなかったので、地上攻撃への使用は見送らざるを得なかった。




 この物語はニコ君の自伝です。上記の訳註(補註)にも記載しましたが、実際の帝国植民地での政策、現地帝国国民の心象や意識とは異なる可能性があります。
 以下、現実。

帝国軍「軍人になれば立身出世も夢ではないぞ! ん? 現地民への配慮? いやそれうちの仕事じゃねーし」
帝国人入植者「ただ同然で使える人的資源とか最高やん!」
帝国政府「税金かけまくって国庫が潤うぜ!」

 大体こんな感じ。列強が支配地域に対してまともな訳ねーのである。
 え? 自国のお金でインフラ整備までやった大正義日本がいるだろって?
 ……う、うん。そうだね。日本はいい子だよね(WW1以降のアレっぷりから目を逸らしつつ)


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14 実験成功-エルマーの怒りと宣言

※2020/2/20誤字修正。
 カカオチョコさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!



 地上目標への攻撃テストに区切りをつけた私は、他のパイロットも一先ずは目標近くに機銃弾を届かせたところで良しとした。これ以上時間をかける訳にも行かなかったというのもあるが、上とて私の大言壮語そのままの戦果は期待していまい。

 

 仮に一介の空軍大尉の主張がそのまま現実となるようなら、既に帝国技師やエルマーが、それを提案しない筈がないという確信が、私の中にあったからだ。

 だが、後で知ったことだが、私の考えとは裏腹に帝国技師はおろかエルマーさえ、現行戦闘機での地上目標への攻撃は想定していなかったらしい。この事については後ほど語るので、今はファメルーンの話題に戻そう。

 

 私が率いる戦闘機隊は一個中隊であり、これは上官に告げた半数に過ぎないが、もう半数はダールゲ大尉が時間を置いて支援する手筈となっている。

 これはやはりエルマーの高射砲が大変脅威で、当時主流だった高射砲の倍近い対空射程と、分間一五発以上もの連射性能を有していた為、下手に数を揃えて密集しては、大きな的が出来上がるだけだからだ。

 こんな物を相手に、我が身を顧みず友軍を支援してきた航空魔導師には頭が下がるばかりだが、これからは我々も、彼らと同じく矢面に立たねばならない。

 

 エルマーの高射砲は旋回角も三六〇度と死角はなく、弾を撃ち尽くすか外し切るか、或いは当然だが、破壊しなければ安全は確保できない。我が弟ながら、敵に回すと恐ろしい技術である。

 事前の打ち合わせ通り、真っ先に私がこの高射砲を潰す事にした。砲兵や機関銃手は、他の戦闘機の担当だ。

 ダールゲ大尉にあれだけ言われておきながら、それでも最も危険な役を引き受けたのは、私以外に高射砲を回避した者が、帝国陸軍との合同訓練で一人も出なかったからだ*1

 

 私は限界高度を維持しつつ、通常の編隊飛行以上に間隔を開けて待機する中隊から外れ、お先に失礼とばかりに高射砲に飛び込んだ。

 やはり高射砲の連射速度は凄まじいし、威力も高い。魔導師の爆裂術式以上の威力と発射音には、味方であった時も相当驚かされたものだが、敵に回るとなると緊張の度合いは格段に高まる。

 だが、私の相手となる砲手は優れた得物を持ちながら、その腕前が釣り合うものではなかった。もしこの砲手に、かつて相対したリービヒ中尉程の射撃精度が備わっていたとしたら私は炸裂弾で粉微塵に吹き飛んで、大地に衝突する事もなく即死しただろう。

 敵が有する高射砲のうち、私を狙う余裕があったのは二門だが、危なげなく回避する事が出来た。

 

「存外にあっけない」

 

 私はそう漏らして、一つ目の高射砲を潰してから高度を戻した。当然もう一つの方も含め、残りの高射砲が私を潰そうと砲身を向けたが、それこそ私の狙いだった。敵高射砲がこちらに意識を向けた瞬間、味方の高射砲や航空魔導師が、それらを潰してくれたのだ。

 これまで地上軍は高射砲同士で戦車対戦車戦のように撃ち合い──この頃は新型戦車を開発した帝国軍を除き、戦車同士の戦闘は一般的でなかったが、便宜上そのように記載する──他の砲兵もまたそれを支援してきた。

 互いにとっての脅威たる八・八センチ高射砲を、一門でも多く先に潰せた方が有利だったからだろう。

 両陣営共に今日という日まで凄惨な光景を作り上げてきたが、これからはその構図も変わってくれると信じたいものである。

 

“それは、貴官らの仕事ぶり次第だぞ”

 

 心中で激を送った私と入れ替わるように、八・八センチ高射砲が消えた敵に対し、待機していた中隊が喰らいかかった。戦闘機群の接近に際し、健気にも小銃を構えて戦闘機を狙おうとした敵歩兵は真っ先に帝国軍砲兵と魔導師の餌食となり、身を伏せざるを得なくなった所に、戦闘機による地上攻撃が追い打ちをかけた。

 安全確保を優先した為、やはり命中率は高くなかったが、それを補って有り余る威力と戦果である。

 まるで砲弾や爆撃術式を受けたように敵兵が吹き飛び、魔導師でもないのに幾人も宙に浮いては手足が吹き飛んで地面へと叩きつけられる。

 凄惨な死の瞬間というものは、相対してきた魔導師を前に幾度として目にしてきた。しかし、これ程までの規模のものを間近で見たのは、おそらくこの日が最初であったと思う。

 帝国軍陣地に攻撃を仕掛けた反乱軍は撤退を試みたが、彼らを逃がせば再び体勢を立て直して再起を図る。敵を叩ける内に叩くのは鉄則である以上、私は敵を逃すつもりは無かった。

 ダールゲ大尉麾下の一個中隊が、撤退を試みる反乱軍を追い回し、徹底的な蹂躙を始めると敵の心は折れた。未だ奇声を上げ、恐怖で糞尿を散らしながら潰走する兵はさておき、多くは武器を捨て、降伏を願い出たのだった。

 

 

     ◇

 

 

 我々空軍は、その戦果故に大いに持て囃され、本国総監部にもその有用性を過剰なまでに報告されたが、しかし、これを受けたエルマーは私に対して生まれて初めて激怒した。

 本国総監部から報告を受けたエルマーは何もかもを投げ出して、当時は将官か、戦局を打開する切り札として活用する魔導師部隊しか搭乗を許されなかった輸送機に乗り込み、なんとファメルーンの軍港まで飛んでから電話で私に怒鳴りつけて来たのだ。

 

「このような真似は金輪際お止め下さい! 兄上の行為がどれほどの無謀であったか、設計した私が誰より理解しているのですよ! そのような用途での使用は想定しておりません!」

 

 それは判るのだが、あのエルマーが航空機による地上攻撃という物を、一切考えなかったという点に私は疑念を抱いた。それを見越してか、エルマーはゆっくりと切り出した。

 

「良いですか、兄上。私は総監部の連中に、この反乱軍との戦いの間は新型兵器の一切を送るなと要求しました。兄上の仰る地上攻撃を可ならしむ航空兵器は既に考案し、実働さえ可能です。ですが兄上、ファメルーンでの活躍は、列強国全てに注目されているのですよ?」

 

 ここまで言われて、気付かない者はいまい。ファメルーン将校の反乱は、帝国軍を摩耗させ、出血を望んだ物では無い。無論、反乱軍の当事者らは我々を殺せるなら言う事はないが、アルビオン連合王国やフランソワ共和国の意図は異なる。

 我々帝国軍が状況を打開する上で投入するであろう新兵器を、或いは僅かなりともその技術を、自国軍の犠牲を払う事なく入手したいが為のものだったのだ。

 

「本国は、その事を?」

「承知の上で兵を送っています。無論、現場の士気に係わるので公表しないでしょうが」

 

 この電話とて、本来なら問題だろう。だが、エルマーは自分の憶測を語っているだけで、直接上がそれを口にした訳ではないから問題ないとした。

 但し、ひと足早く兵器輸送を差し止めた事を黙認している時点で、それが紛れもない真実なのだと雄弁に語ってもいたが。

 

「……正直、私は兄上を軽んじていたのやも知れません。他の技師や軍人と同様、私が新兵器でもって新しい戦いというものを教授しなければ、そこから先へは進むまいと」

 

 だからこそ、却って安堵もしていたという。反乱軍が魔導師や戦闘機を持ち出さないのも、新しい玩具が出てくるタイミングを連合王国と共和国が見計らっているからこそ、無駄な消耗は控えろと反乱者達に諫言している筈だ。

 その間は私の身に危険が及ぶ事はまずないのだから、エルマーの弟としての立場であれば、幾らでも相手には待って貰って構わなかった。

 しかしそれは、新兵器が登場しない限り、相手が粘り続けるという事を意味している。自分達の軍が傷付かず、他が勝手に戦って勝手に死んでくれるのだから、幾らでも待ってくれるだろう。

 

「つまり、長引くのだな?」

「当然でしょう。帝国がカードを切るタイミングを虎視眈々と狙っているのですから。ああ、全く。謹んで申し上げますが、兄上は愚か者ですぞ」

 

 しなくても良い事をして、命を危険に晒したばかりか、仮想敵国に戦い方を教授してしまったのだ。エルマーが辛辣になるのも、無理からぬことだった。

 

「すまない。だが、友軍を救いたかったのだ」

「兄上の性格は承知しています。ええ、私が一番承知しておりますとも。ですから兄上が自殺紛いの真似をした事も、敵に御大層な新戦法とやらを教授した事も、これ以上は不問と致しましょう」

 

 怒っているな、と私は感じつつも粛々と受話器に耳を当てていた。エルマーは苛立ちからか、私の贈った蛇木の杖をコンコンと床に打ちつけているようだ。

 

「敵に手札を曝した以上は仕方ありません。兄上とて、どうせ私が本国に戻れば同じ手を使う気でしょう?」

 

 私の気も知らないで、と、エルマーはまるで恋人に不満を漏らすように、恨めしげに苦言を呈する。流石は我が弟、兄の根本的に駄目でどうしようもない部分を、誰より良く理解していた。

 

「上には、私が直々に説得しましょう。見様見真似の玩具など幾らでも作らせれば良いと。敢えて口にしますが、これは兄上の為ですので存分に感謝して下さい」

 

 本来なら、敵にゴミの山となる予定の旧式機を抱えさせた後に手札を切るつもりだったとエルマーは語る。確かにその方が、帝国にとって遥かに利となるだろう。

 今まさに、多くの犠牲を払い続ける将兵達の姿に目を瞑れば、だが。

 

「兄上、私の()()は以前のような模造品とは違います。間違いなく、兄上に勝利と栄光をもたらすでしょう。ですが、ゆめお忘れなきよう。兄上はあくまでも人の身である事を。どれほどの力を手に入れても、死は絶対なのです」

「私は、自分を不死身だとは思わないよ」

 

 ただ戦い、戦い、戦って死ぬ軍人だと告げて。エルマーはそれを認めなかった。

 

「兄上は死なせません。たとえ世界が、たとえ()()()()()()()()共が兄上の命を奪おうと企てても、私は兄上と家族を、私達が生きる帝国を守り抜きます」

 

 あのエルマーにしては、随分と詩的な表現だと私は感じた。弟は幼い頃から勤勉だったが、神学の類となるといつも顔を顰め、ミサも居心地悪そうにしていたので、母上から何度かお叱りを受けては、私がよく取り成していたものだった。

 また、数学や科学を積極的に学んでも、芸術や文学の類は興味を一切示さなかったから、この時の発言は不思議と私の記憶に残っていた。

 今にして思えば、この時の発言こそエルマーにとっての決意表明だったのかもしれない。愛する祖国と家族の為。ただそれを縁に、神をも恐れぬ領域に踏み込む為の。

 

 

     ◇

 

 

 飛ぶように本国に戻って行ったエルマーは、私に告げた通り、本国の軍首脳部を説き伏せた。いや、この場合は押し通したと言うべきか。

 当然ながら、帝国軍首脳部も事実を知るごく一部の総監部の人間も困惑した事だろう。技術者として本国から一歩と出る事のないまま連合王国と共和国の意図を読み切り、自分達が制する前に帝国技術の流出を差し止めたエルマーが、掌を返すように兵器を送れと言いだしたのだから。

 上の人間はおそらく、また私絡みなのだろうなと考えていたようだが、航空機開発に携わると主張した時と違い、今度は堂々とその通りだとエルマーは上に言い切ったらしい。

 

「我が兄、キッテル空軍大尉は既に私が開発した地上攻撃機と同様の戦法を戦場で用い、効果を発揮致しました。誓って言いますが、これは私が兄上に申し伝えた訳ではありません。

 フォルカーには敢えて(・・・)、あのような行為に及べるだけの性能は与えていませんでしたからな。兄であり、英雄たる軍人を無謀な戦法で殺すような真似は真っ平御免ですので。

 ですが、一度効果を挙げてしまった以上、どの国家でも研究は進みます。今私が完成させた機体とて、幾年先には他国が肩を並べてくるでしょう。

 現状の技術では恐竜であれ、数年後には化石となる。以前にも用いた表現ですが、それは私自身が、私の作品でもって証明した事実であります。

 見られたのならば、知られたのならば教えて差し上げれば宜しい。存分に恐怖して頂けば宜しい。一年の後に彼らが追い付こうと、次の瞬間には更に一〇年の先へ進んでみせます。世界全てとさえ、渡り合って御覧に入れましょう」

 

 全世界を見渡しても、ここまで自信を持って世界を相手すると豪語した人間は、愚者を除けばエルマー唯一人だろう。

 ファメルーンは、帝国の狼煙だとエルマーは語った。帝国とは、その力とは如何程のものか。それを憐れな反乱者の身で以て、全世界に教えてやれと宣言したという。

 余りにも不遜な発言は、しかし何よりも強い説得力でもって迎え入れられた。

 航空機を、列強国全てが役立たずだと断言した空飛ぶ玩具が、エルマー自身模造品に過ぎないとした物でさえ、基本性能では当時の魔導師を大きく上回った。

 ならばエルマーが私に、勝利と栄光をもたらすとまで言い切った翼とは、どれ程強大で恐ろしい物なのだろうか。

 私は、自分の物となる筈の翼を想像した時、飛ぶ事への歓喜だけが胸を満たし続けていた人生の中で、初めて恐怖を覚えたのだった。

 

 

*1
 この訓練は実弾を用いたものではなく、地上観測による戦闘機の機動と、高射砲の発射間隔と着弾予想から導き出された計算によるものである。




 数年経ったら追いつかれる技術。(敵が確実に追いつけるとは言ってない)


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15 ゾフォルト-怖れは味方から

※2020/2/20誤字修正。
 水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


「やっぱり、ニコの弟は未来から来たんだ」

 

 エルマーの作品を見たダールゲ大尉は、開口一番にそう漏らした。

 

 エルマーの希望が帝国軍首脳部に通った後、大規模な輸送・補給艦が、ファメルーンの軍港へと集った。反乱軍との消耗戦をアルビオン連合王国とフランソワ共和国が望んで止まないのだとすれば、何としても大規模かつ迅速な物資輸送は阻止しようとしただろうに、今回に限って両国はこの輸送船団を無視し、黙認したのである。

 エルマーの言は正しかった。他国の植民地領海域に入って尚、帝国軍の輸送船団を見逃した事が何よりの証左であり、それが故にファメルーンの帝国軍は出血を抑えられるのだから皮肉な話であった*1

 

 ともあれ、ファメルーンの軍港では、すぐさま航空兵器の組立が昼夜を問わず行われ、合計四機の内、私とダールゲ大尉が搭乗する二機がお披露目する事となったが、我々空軍のみならず、居合わせたファメルーン駐在の軍高官や魔導師らも、この機体を前には言葉を失い、冒頭に記載したダールゲ大尉の台詞が、ようやく私を含めた皆の時計の針を進めてくれた。

 

 私を含め、この場にいた多くが機械工学の専門家という訳ではない。しかし、目の前に存在する航空機が余りに隔絶した、それこそ他国を一〇年以上もの差で引き離した代物であるという事だけは理解出来てしまった。

 フォルカーD.Ⅻの時は、ただ美しいと、素晴らしいという思いから目を奪われたものだが、今の我々には、この機体が従来のものとは何もかもがかけ離れていたが為に目を離せずにいた。

 これまで航空機とは、複葉機である事が当然のものとされてきた。張線支持などを採用した単翼機も無論存在こそしており、各国でも研究されていたものの、エンジンの非力さから重量や資源、整備性を犠牲にしてでも、揚力の確保を優先せざるを得なかったからだ。

 だが、何ということか。この航空機は単翼機というエンジンの推力に頼らざるを得ない設計でありながら、全金属製という我々の常識を完膚なきまでに叩き壊す外観を有していたのである。

 

「こいつなら垂直降下でも耐えられそうだ」

 

 確かにダールゲ大尉の言う通りである。急降下時の衝撃に耐えるというコンセプトでの全金属化なのだろうが、私はそれ以上に主翼にこそ目が行っていた。

 

「降下時にも視界を確保する為なのだろうが、力強いデザインだ」

 

 W字型となっている主翼を撫でながら、コクピット部分を見やる。本来パイロットが搭乗する部分はガラスで囲まれていたので、これなら風圧に顔をやられる事もないし、今後は鯨油を顔に塗る手間も省けるなと安堵した。

 

「ニコ、無線機もある! 魔導師でも持ってない小型のだ!」

 

 新しい玩具を買って貰った子供のようにはしゃぐダールゲ大尉に、皆もわらわらと覗き込んできた。照準器も眼鏡式から光像式*2になっており、許可を得て操縦席に座ったパイロット達は、これまでと違いすぎる照準器に驚き、是非自分の機体にも欲しいと声を上げた。

 

「悪いな皆、こいつはニコと自分の分しか無いみたいなんだ」

 

 当然皆不平不満を喚きたて、階級の差も気にせずダールゲ大尉に物を投げる者まで出たが、機体を傷つけなければ許すと私は許可した。ダールゲ大尉の冗談は、既に皆にとっての定番となっており、高官らも自分達のはしゃぎようを苦笑しつつも、止めようとはしなかった。

 

「しかし、何故複座式にしたのだろうな?」

 

 この機体が、筆舌に尽くし難い性能を有している事は誰の目にも明らかだろう。しかし、複座式となれば使用されているのは高高度偵察機*3か初歩訓練機で、後は民間機ぐらいのものだろう。

 高高度偵察機に関しては背後を狙う為に、パイロットと背中合わせになる。初歩訓練機は操作を新米に指南する為に必要であるし、民間機に関しては富裕層の道楽としての相乗りか、純粋に足として後席に客を乗せるのだから当然だ。

 しかし、この後席に関しては全くの謎だ。前席同様、後席にも操縦桿やレバーが備えられており、スイッチを入れれば連動するという初歩訓練機と同様の仕組みに入/切の機能を付け加えていた。

 何にも増して不可思議なのは、どう見ても魔導師の宝珠核に使用されるものと同様の、しかし大型化された機材が組み込まれていた事だろう。

 

「まさか」

「その、まさかと思い至った点を口にして頂けますかな? キッテル大尉」

 

 にやにやとこちらを見るのは、総監部より説明の為に派遣された航空技術大尉である。彼の後ろには、明らかに年若い新品少尉二名が待機していた。

 私は、まさかの部分を口にした。すなわち、この機体は魔導師の術式発現を可能にしてしまったのではないか、と。

 正否については聞くまでもない。言葉にするよりも雄弁な首肯が、全てを物語っていた。しかしだ。自ら飛べる魔導師を、後席に縛り付けるメリットなどない。

 加えて、宝珠核のサイズは通常だというのに、どういう訳か機関部を含む各種機材は巨大化し、複雑化しているのだから、整備面でも問題が出るだろう。

 疑念を呈する私を技術大尉は全く否定せず、全て正鵠を得たものだと開き直っていた。

 

「ですが、それを補ってでも、この起動装置には有り余る魅力があるのですよ。これにかかる魔導師への魔力負担は、何と五〇分の一なのですから!」

 

 桁が違うとはこの事だろう。カタログスペックを水増しするのは技術者の常套手段だが、だとしてもその数字は有り得ない。その値では、魔導師としての適性を認められないではないか。

 

「その通り。私達がこの日の為に訓練を課してきたシャノヴスキー少尉とグロート少尉は、独力での飛行さえ不可能ですが、決して魔力が皆無という訳ではありません。

 彼らは共に閾値に届きませんでしたが、たとえ彼ら以下の、雫の一粒程度の魔力であっても、この機体に搭乗してしまえば、術式の起動は片手で可能なのです」

 

 連動する操作に合わせ、各術弾の発射ボタンを押せば良い。後席は前席より挙動が早いのでタイミングも合わせやすく、誤差が出ても問題ないように設計されているという。

 魔導師が自分で干渉式を立ち上げて、世界の法則を強引に捻じ曲げるのとは訳が違う。あの爆裂術式とて、タイムラグはゼロ。発射間隔は機銃性能に完全依存という優れものだと豪語した。

 

「エルマー(◆1)技術中佐殿としては、注入した魔力を備蓄する方式で、魔力が皆無であるパイロットにも術式の発現まで問題なく使用させたかったようですが、流石に現状の技術では不可能だと早々に見切りをつけたそうです。

 干渉式の立ち上げは、その時点で使用者が魔力を込めなくてはなりませんでしたからな。

 それにしても、この大型演算宝珠は素晴らしいでしょう? 宝珠核という超小型エンジンを動かす為に魔導師は魔力を消費しますが、飛行の為には重量を削らねばなりません。

 結果、消費魔力という点で魔導師適性の要求水準はどうしても高くなりましたが、攻撃機に組み込む程の補助機材が用意できれば、水準は大きく下回りますからね。

 人材不足に悩まされる事は、金輪際ないと保証しますよ」

 

 蒼白となる魔導師に対し、軍高官は沸き立った。これまでネックであった適正依存からなる魔導師の慢性的人材不足とは無縁の、非常に高価であるが量産の効く超高火力の航空戦力を得る事が出来たのだから当然だろう。しかし、全てにおいて従来の魔導師の手を借りずに済む訳では決してないと、技術大尉は熱を上げる高官を落ち着かせた。

 

「ただ、弾薬の補充には、常に航空魔導師の要求値を満たした人材の手を借りねばなりません。魔導師が魔力を封入しなければ、術弾など希少金属を浪費するだけの無駄飯食いですからな。現在はライン式の工場で、幼年学校生の魔導師に封入作業を行って頂いています。

 この弾薬補給に関しては、現在効率化を図るべく検討されておりますが、ファメルーンでの備蓄分には問題ありません。キッテル大尉も、その点は重々ご安堵下さい」

 

 高官はまだしも同階級の人間に対し、ここまで下手に出るのは少々気持ち悪さを感じたが、私がエルマーの兄という事で、当時の技術大尉は相当気を回していたのかもしれない。

 私は技術大尉に対し心中で謝罪したが、無論それが相手に届くことはなく、技術大尉は我が事のように胸を張りながら説明を続けた。

 

「では武装についてご説明致します。今回エルマー技術中佐殿が発明した複座式魔導攻撃機の標準武装は、七・九二ミリ機銃三門。これらは通常弾、術弾の切り替えも可能にしていますが、魔導師と相対するならば貫通術式弾の使用を推奨致します。

 仮に敵魔導師が光学迷彩を使用した場合、操縦桿に組み込まれた光像照準器のスイッチを押して下さい。数秒であれば、近距離の魔力波長を探知して像を作る事が可能です。

 爆裂術式弾も十分な数を揃えていますが、こちらは地上標的に使用すべきでしょう。胴体下部には爆弾架を備えていますので、急降下が厳しければ二五〇キロ爆弾の投下で対空火器と兵士を潰すのが確実です」

 

 先程まで歓喜に湧き、無邪気に喜ぶばかりだった高官も、空軍将兵さえ説明を受けて絶句していた。

 魔導師の神秘にして力の象徴たる術式弾を使用し、ばかりか爆裂術式以上の、二五〇キロというこれまでに類を見ない爆弾を投下して敵を吹き飛ばせなどと技術大尉が宣った時点で、皆心身共に凍りついてしまった。

 私はもう、ダールゲ大尉が冒頭で零した冗談を笑えなくなっていた。エルマーの頼もしい点としては、確かにその驚異的な頭脳を挙げるべきだろう。

 

 しかし、何にも増して皆が恐ろしいと感じた部分を語るならば、エルマーの発明には、結果(・・)はあっても過程(・・)が存在しないという事だ。

 エルマーは常に、その時代の最先端の()()一歩、或いは二歩先を行く。技術的には可能な、けれどそれを用いる人間の()()()()は追いつけない。

 機関銃を前に、匍匐前進という移動法を知らないまま突撃した哀れな兵士のように、生み出す技術と用いる人間との間に、隔絶した差が現れてしまっていた。

 試行錯誤を重ねながら階段を上る技術者たちは、確実に足跡を残してくれる。だからこそ後世の人間は、彼らの偉大な発明に納得し、賞賛してくれる。

 

 爆弾を空から落とす。魔導師の術弾を攻撃機が放つ。これら一つ一つが、全く別のものとして。或いは試行錯誤を繰り返した末に誕生したならば、我々はそれを努力の成果として受け入れる事も出来ただろう。

 だが、エルマーは違う。神童と謳われ、天才と、帝国が誇る最高の頭脳と生涯()()()()()持て囃され続けた弟は、決して過程を残さなかった。

 

 勿論、それはエルマーの頭の中にだけあったものなのだろう。数学で式を記載せず、解のみ世界に書き記しただけなのだろう。しかし、それこそが弟の唯一の過ちだと、私には理解できた。

 恐ろしいと人が感じてしまうのは、その相手を理解出来ないからなのだと。私がエルマーから与えられた翼に言い知れぬ恐怖を僅かにも感じてしまったのは、それが原因なのだとも理解して、ようやく安堵出来た。

 ああ、何も怖がることはない。エルマーは頭は良いが、それ故に少しだけ配慮が欠けてしまった、優しい私の弟に過ぎないのだと。決してこの場にいる者達が想像するような、そう、エルマーの言葉を借りるならば、人ならざる者では断じてないのだ。

 だから私は、思いつくままに技術大尉に問う事にした。

 

「この攻撃機を、先程から複座式魔導攻撃機と呼称しているが、名は無いのかね?」

「? はい。本来は急降下爆撃を想定しておりましたので、急降下爆撃機(スツーカ)と名乗る予定でありましたが、ご説明した通り、あらゆる局面に対応出来る仕様となっております。実用高度限界は五万五〇〇〇ですので、超高高度偵察機としての運用も可能でありますし、速度も最大で二〇五ノットに到達しますので、航空兵力としては間違いなく世界最速の軍用機です」

 

 つまり、名は決まっていないのだな? と私は本来なら無意味極まりない質問をした。

 技術大尉は意図が分からないのか、戸惑いつつも首肯したので、私はぽん、と手を叩く。

 

「では、緊急(ゾフォルト)と名付けよう。理由が分かるかね? エルマー技術中佐殿が、()()死を望まず、即座に手を打ってくださったからだ」

 

 これが詭弁だという事は、おそらく技術大尉には分かっていただろうし、高官も同じだっただろう。しかし、戦友達は私の言葉に、少なからず感じ取るものを持ってくれたらしい。

 先程まで、攻撃機を通してエルマーを本気で未知の怪物か未来人のように見ていた者達の目が、戦友を見るそれに変わってくれていた。

 

「じゃあまた、技術中佐殿に礼をしなくちゃだ。ここじゃあ、酒ぐらいしか手に入らんが」

 

 そう切り出してくれたのは、やはり親友たるダールゲ大尉だった。それに続く形で、皆が色々と提案してくれる。

 

「戦闘口糧のチョコレートでしたら手元にありますがね、軍規でおいそれとは開けられません」

「余りがあればそちらを回してくれ。代わりに私の煙草を幾らでもやろう。エルマー技術中佐殿は甘いものに目がなくてな、姉上のシュトルーデルをリスのように頬張っていたものだ」

 

 これは本当だぞ、と技術大尉に耳打つと、エルマーが頬張る姿を想像したのか、軽く吹き出してしまった。

 フォン・シューゲル技師との不仲が既に噂となっていた為に、自分達を駆逐する気なのではないかと恐れていた魔導師達も、この時は無理だったが、決して魔導師に、かつての航空隊員のように名誉のない時間を与える事はないと後ほど時間をかけて説き伏せた。

 私は魔導師を心から尊敬しているし、私自身何度も魔導師に命を助けられた事はエルマーも知っているから、決して本気で魔導師をお役御免にしようとは思わない筈だと。

 

 私の言葉は、嘘も多く入っていたが、構うまい。エルマーが帝国人からも、戦友達からさえ恐れられるような事だけは、絶対に避けたかったのだ。

 

 


訳註

◆1:原文では著者を含め、キッテル家の面々が公人として扱われる際は、全てフォン・キッテルの姓で記載され、役職と階級を表記することで混同を避けている。

   しかし、クイーンズ訳では、より簡潔に混同を避けるための措置として、著者以外ファーストネームで記載された。

   本書もクイーンズ訳に従い、著者以外の家族はファーストネームで記載する。

 

*1
 蛇足だが、当然後になって、この領海侵犯の見返りを連合王国と共和国は要求した。彼らは帝国軍の輸送船団を通したのは、自分達にかけられた嫌疑を払拭する為のものであり、帝国政府には謝罪として、失った兵器の幾ばくかを金銭ないし兵器で以て払うよう要求した。

 これに対して帝国政府は「問題があったならば警告すれば通常の航路を取った」「二国に対して我が国が誠実さを欠いていた事は認めるが、であるならば、身の潔白を証明したいと事前に申し出てくれれば良かった。契約のなかった取引には応じられない」と声明を発表した。

*2
 反射ガラスに照準を投影する仕組み。後の航空照準器の基本となった。

*3
 帝国軍をはじめ列強各国の高高度偵察機は日々改良されており、この時点では背後から迫る戦闘機に備える為、後部銃手を乗せて飛んでいた。




 複座式攻撃機の名前はゾフォルトですが、外観やスペックはスツーカB型に近いものとなっております。
 なお、チートっぽい性能のようですが実際は欠点まみれで、普通にスツーカ作った方がコスト的にも安全的にも、よっぽど良かった模様w

 主にコストとかコストとかコストとか……ご存知ですか? 演算宝珠って小型で安価なイメージ有るけど、実際は主力戦車や戦闘機より高価(書籍版4巻P289)で、web版では希少金属使いまくりで、戦車の生産ラインにまで影響出るレベルの代物だと明言されていることを(震え)
 しかもです。こいつぁ後部機銃手がいないので背後が無防備と来ていやがります! 木造複葉機メインのこの時期ならまだしも、技術が追いついた日には、変態パイロットの主人公以外にゃあ、マジで棺桶確定ですよ!?

【悲報】ブラコン技術者はお兄ちゃんの事しか考えてなかった件【欠陥機】

 いやまぁメタ的な事を言うと、こいつは直接的な戦力以上に、物語に必要だから用意したってだけなんですけどね(役目が片付いたら、その都度説明させて頂きます)。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 アルフレート・シャルノヴスキー→フート・シャノヴスキー少尉


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16 蹂躙劇-尊厳なき死

※2020/2/20誤字修正。
 水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 残る二機の軍用機が厳重な監視体制の下で組み立てられる中、私とダールゲ大尉は、それぞれ後席の相棒として長らく過ごす事になる新品少尉に、挨拶とささやかな交流をして過ごした後、地上試運転と慣熟飛行を行う事とした。

 

 私の後席に着く事になったフート・シャノヴスキー少尉は、その姓が示す通りルーシー系帝国人であり、父の代にルーシーで革命が巻き起こった際、妻が帝国人であった事を縁に亡命に及んだのだという。

 シャノヴスキー少尉の父は、初めの内こそ農家の出であったから、人民の味方を僭称する共産主義革命とやらを無邪気に喜んでしまったが、彼らが戦時下となれば物資を徴発してきたルーシー帝国軍より、遥かに野蛮な存在だといち早く気づき──というより被害に遭い──このままでは皆飢えて死ぬか殺されるだけだと、父祖から継いだ土地さえ捨てて、暴力支配が展開された祖国から逃げて来たそうだ。

 

「小官は、運が良かったと思います。母が帝国人でしたから、幼年学校に志願して軍人になればすぐ家族を養えますし、父も母の実家の伝手で工場で働けましたから」

 

 シャノヴスキー少尉の語った事情は、殊更珍しいものではない。ルーシーの地に誕生した社会主義国家は人民の楽園を自称して憚らないが、その全容が明らかになる事はなかった。

 表向きは、自分達の生活水準を公表してしまえばルーシー連邦への亡命希望者が膨れ上がって周辺国から圧力が掛かってしまう、という鼻高々なものであるが、そんな眉唾以下の情報を信じる者は──少なくとも共産主義者や赤色シンパ以外では──当時から存在しなかった。

 

 血の匂いは、何処からか確実に漏れてしまう。合州国の独立戦争時、アルビオン王立陸軍が行った虐殺が世界にいち早く広まったように。ブールやワズール戦争での流血の悲劇が、我々にとって馴染み深い物でもあるように。

 共産主義者の魔の手を逃れた人々が自らの体験を赤裸々に語る事で、その蛮行は周辺国の耳にも届く事となった。

 当時のルーシー連邦は、それを資本主義者の悪質な政権批判だとして、将来政府指導者全てが国際裁判の席に立つまで、いや、死の間際まで否定し続けた者さえ居たが、彼らの蛮行が如何に常軌を逸したものであったかは、読者諸氏は既にご存知の事と思う。

 

 少々余計な部分にまで紙文を割いてしまったが、似たような事情を持つ同僚は帝国空軍にも少なからず居た為に隔意など生まれることもなく、シャノヴスキー少尉はその真面目さとリスのような愛らしい仕草も相まって、すぐに基地内では人気者になった。

 ただ、私に対してはどうにも撃墜王や上官という立場が災いしてか、相棒になるというのに心を開いてくれるまで少し時間がかかってしまい、こうして慣熟飛行の日に身の上話をしてくれた時も、口調から遠慮というか、上官と部下以上の壁が感じられてしまった。

 しかし、シャノヴスキー少尉は術弾の発射実験の際も、私の希望するタイミングから誤差なく的確に以心伝心とばかりに術式を起動してくれたし、高高度でも失神や酩酊状態に陥る事はなかった。

 元々後席手として訓練を続けていたのだから、私よりずっと慣れているのだろう。

 

「次は急降下だが、大丈夫だな?」

「はい! 大尉殿!」

 

 溌剌とした声に、よし来たと私は限界高度から降下した。風防ガラスが有りながら、凄まじい加速に機体も身体にも圧がかかり、臓器という臓器が締め上げられる感覚を覚えたが、私の体にはまだ十分に余裕が有った。だというのに、私は思わずびくっ、と身を竦ませてしまったのである。

 ゾフォルトが急降下すると、まるで喇叭(ラッパ)のような音が響いて来たからだ。

 ああ、これが搭乗前に技術大尉が口にした奴だな、と私は強張る身を落ち着かせるように自分に語りかけた。

 

『急降下時の風切り音が、喇叭に近い音を響かせる』

 

 説明は受けていたし、マニュアルにも目を通していたが、実際に耳にすると、成程確かに喇叭である。

 それも、起床の際に兵舎の人間を叩き起すような優しい類のものではなく、とてつもなく恐ろしい、まるで悪魔がお前の命を奪いに行くのだと告げるような、そんな不吉な音だった。

 

 初戦闘の時にも、音を聞いた反乱軍兵士は何事かと皆空を見上げ、次の瞬間には、私が投下した二五〇キロ爆弾が彼らの真ん中へと飛び込み、皆大空へと舞い上がった。

 本来なら水平爆撃で良いとされていた爆弾を急降下で投下したのは、少しでも命中率を上げ、敵の被害を大きくする為だったが、後にこの方法は効果大とされ、単発爆撃の標準的な投下方法に指定された。

 

 だが、この時の私は、それが余りに過剰な行いであり、ここまでする必要はなかったのではないかと敵に対して同情の念さえ寄せてしまった。

 濛々と立ち込め、空に昇る黒煙。吹き飛ばされて落下する人間や大砲、機関銃。戦艦の主砲でも命中したような光景に、敵味方問わず固まってしまった。

 味方はまだ良い。これが帝国空軍からの支援攻撃である事は、事前に理解していた。ただ、想定より遥かに規模が大きかったというだけだ。

 しかし、敵は違う。土砂に埋まり、鼓膜を破られて尚運良く這い上がった反乱軍は、安全圏に逃れた私と入れ替わるように、ダールゲ大尉が水平爆撃で切り離した爆弾の餌食になってしまった。

 

 この日から、反乱軍にとっての終わりが始まった。

 彼らにとっての、黙示録が。

 

 

     ◇

 

 

 ファメルーン反乱軍は、自分達に甚大極まりない被害をもたらしたゾフォルトを撃墜すべく、直ちに動き出した。これまで影も形もなかった戦闘機と魔導師が、ノルデンですらお目にかかれなかった大編隊で現れたのである。

 無論のこと、帝国軍は彼らの登場を予期していた。新型兵器という手札を切った以上、そのカードの強さがどれ程なのか。反乱軍の陰に潜む列強国は、ゾフォルトの性能を丸裸にしたいという欲求を隠そうともしていないのだ。

 

 初出撃の爆撃時は余りの速度・高度差に随伴機を伴わず、二機で出撃した私とダールゲ大尉だが、今は背後に出撃出来るだけのフォルカーを可能な限り出撃させ、航空魔導師とも合同で敵航空戦力の迎撃に当たった。

 敵は数こそ多くとも、戦闘機も魔導師も皆旧型。対してこちらのフォルカーは万全で、魔導師も列強各国に基本性能で並ばれてこそいるが、最新型機とも十分殴り合えるだけの性能は維持している。

 敵味方入り混じりながらの乱戦は大変目まぐるしく、右も左も敵だらけだったから、私は目に付く限り片端から墜としていくが、余りに簡単に敵が落ちてしまう。

 これまでの一三ミリと違い、七・九二ミリ機銃は弾速が凄まじく速い上、感覚で行ってきた着弾予測さえ必要ない程、思い描いたように飛んでくれたものだから、私は敵がふざけているのか、それとも飛行訓練だけ済ませた連中を、旧式機に乗せて数だけ揃えたのではないかと本気で疑ってしまった。

 当然敵は大真面目だし、中にはベテランも居ただろう。共和国や連合王国でも、帝国同様植民地人にパイロットを任せる事は珍しくない。むしろ、死亡率の高さから給与を餌に率先して乗せていたという。

 

 私はこのままだと、今日は全員がエースになるな、などと初めは軽い気持ちでいたが、しかし現実はそう甘くない。敵の数は多く、彼らも必死なのだから、当然帝国軍の犠牲は出てしまう。

 私はパラシュートを開いた航空隊員を、機銃で狙い撃とうとした戦闘機を即座に撃墜し、左拳で頬を殴った。ニコラウス、この大馬鹿者! 貴様は今戦闘を、生き死にの駆け引きをしているのだぞ! 貴様が腑抜けて、戦友を死なせてどうする!

 そう自分に喝を入れた私は、すぐさま密集防御を取りつつフォルカーを撃墜する敵魔導小隊に爆裂術式を浴びせ、自分達が何をされたか理解した残存魔導師に、大当たりだよと貫通術式を見舞ってやった。

 

 私はこのたった一日の交戦で、確認出来る限りでも二四名の魔導師と一八機の戦闘機、そして、情報を持ち帰ろうとした三機の偵察機まで撃墜した。

 機体に前もって装着していたガン・カメラがなければ、私自身だって戦果を信じなかっただろう。

 私の魔導師の撃墜記録は、八二名という前人未到の域に達したが、これ以降、私がゾフォルトに乗った場合は、撃墜スコアに魔導師をカウントしない事が定められた*1

 

 

     ◇

 

 

 それから先も、敵は幾度となくゾフォルトを撃墜すべく様々な手を打ったが、やはり最も脅威だったのは高射砲による対空攻撃だ。あれだけはどれだけ高く飛んでも安心は出来ないし、破壊するには近づかなくてはならないから、危険である事は変わらない。

 エルマーは私を唯の人間だと言っていたが、命の危険にあるときは、一層強くそれを自覚出来るものである。

 

 しかしながら、一〇月に入ると、敵も随分と様変わりしたものだ、と私は思うようになった。以前ならば、地上にいたのは薄汚れていながらも軍服を纏い、指揮官に率いられた兵士達が、規律を持って帝国軍に果敢に挑んでいたというのに、今となっては老人や少年までもが、銃を手に帝国軍陣地の攻撃に駆り出されていた。

 彼らは一体、どんな気持ちなのだろう? 独立の夢が、命さえ捨てる程に甘美な響きであろう事は、一軍人としては理解出来る。しかし、仮にダース単位の奇跡の果てに彼らが独立を成し遂げたとして、この地に誕生する国家に未来はあるだろうか?

 国家運営のノウハウもなく、また、技術力を欠いたファメルーンが帝国の手から離れたとして、彼らが今のような暮らしを維持出来るかと問われれば否だろう。

 或いは、彼らは元の部族単位での、野を耕して山羊や牛を飼う暮らしを営みたいのか?

 

 はっきり言おう。その暮らしは帝国保護領で(・・・・・・)あったならば、どちらも可能だったと。

 そして、独立を手にすれば不可能になってしまうのだとも。

 技術も国家としての土台もない彼らから帝国が去れば、確実に連合王国や共和国が彼らを呑み込み、そして帝国とは比べ物にならない苛烈な植民地政策が、彼らから最後の血の一滴まで搾り取る。

 今は裏で糸を引き、独立の後の安全保障などを耳元で囁いていたとしても、必ず何処かのタイミングで掌を返す。

 独力で我が身を守れるだけの力のないファメルーンの民は、帝国という庇護者を失う事で『平和』という最大の財産を失う。自らの手で、夥しい国民の流血と屍の上に築く事で成り立ち、武力維持の為の財産を有する事で、初めて他国から脅かされずに済むという、最も高価な財産をだ。

 

 だからこそ、私はインペリアリストとしてでなく、一軍人としての思いからでもなく、彼らの将来を思うが故に、そして払わずとも良い犠牲を払う戦友の為に、爆弾を投下した。

 読者諸氏は、私のこの行為を「非人道的な、列強軍人のエゴイズムそのものではないか」と憤ってくれて構わない。私は自分のした事を否定しない。

 敵は非力な存在であった。しかし、武器を手に戦える者達であり、現に我々を殺そうとした者達だ。現代の戦時国際法の観点から見ても、正規軍人でも民間防衛隊でもない武装勢力はテロリストとして認められる上、彼らに降伏の意思はなく戦闘を継続していた。

 ある者は手榴弾を抱えて塹壕に飛び込もうとし、ある者は無反動砲を担いでいた。この世の地獄も同然の光景は、空でも地上でも絶え間なく続いた。

 特に空は酷く、飛ぶ事しか出来ないが、魔導適性を持っている若者がゾフォルトやフォルカーに抱きついて自爆しようとしたり、戦闘機そのものが突っ込んで来た事も数え切れなくなった。

 

 誰もが、彼らは無駄死にだと悟った。

 どうしようもなく、尊厳の欠片もない死を強要されていたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 だが、そんな地獄も長くは続かない。エルマーが贈ってくれた、残りの二機が出撃出来るというのだ。

 私達は、どうして後の二機がこれほどまで時間をかけたのか不思議でならなかったが、それも実物を見て納得した。

 残りの二機は、ゾフォルトではない。帝国内での痛ましい爆発事故から使用されなくなった飛行船程でないにせよ、その巨大さと重厚感は、ゾフォルトの比ではなかった。

 

「試作型双発爆撃機、ドルニ。最高速度一四〇ノット、高度限界は一万四〇〇〇と、ゾフォルトと比すれば見劣りしますが、最大一〇〇〇キロもの爆弾が搭載可能となっております」

 

 もう誰も、驚きに飛び跳ねたり、それどころか恐れる事さえしなくなっていた。誰も彼も、感覚が麻痺してしまっていたのだ。

 

「反乱騒ぎは、もう終わりだな」

 

 軍高官の発言は、実に正鵠を得た物だった。

 ゾフォルトに比べて倍近い航続距離を有しながら悠々と飛行するドルニは、この地上からファメルーン人が消えてしまうのではないかと危惧する程、無慈悲な地上爆撃を行った。

 一発当たりの爆弾の重量は一〇〇キロ程だとしても、それが一〇近い数で降り注げば、待っているのはゾフォルト以上の地獄絵図だ。

 聖なる書の中に描かれた、悪徳と廃退に満ちた都市が滅ぼされたという伝承を思い出す。彼らは決して悪ではなかったが、しかし敵兵だった事が、この結果をもたらしてしまった。

 歴戦の古参兵さえ、この光景には目を逸らしたとしても責められまい。だというのに、ドルニは攻撃を止めない。一機目が全てを投下し、陣地を更地にしたと思えば、行軍の列を為す敵にさえ、爆撃を行った。

 私やダールゲ大尉はドルニの護衛として付いていたので、その光景を幾度となく目にしていたが、よくぞまあここまで徹底出来るものだと思った。敵に近づいて死を確認する自分達と、水平投下後にすぐ離脱する爆撃機搭乗員とでは、受け取る感覚が違うのかもしれない。

 

 二機のドルニは、最後の仕上げとして情報部が寄越した敵拠点に絶え間ない爆撃を行い、反乱首謀者たるハルシャール歩兵少佐と()()()人物が後に廃墟と化した拠点から見つかった*2

 

 ともあれ、ファメルーンの我々の戦いは、終息した。名誉とは程遠い、無為な血を流すばかりの地獄は、ようやく終わってくれたのだ。

 

*1
 そしてこれ以降、私の撃墜スコアから魔導師のスコアが増える事はなくなった。

*2
 しかし、後年の調査でハルシャール歩兵少佐は九月時点で死亡していた事が判明した。連合王国・共和国派遣将校との軍事作戦上の諍いが原因されているが、おそらくはゾフォルトの性能を知りたいが為の航空兵力投入に反対した為だろうと言われている。




【今回の主人公のヤベーところ】

主人公「君たちファメルーン人には、帝国が必要なんだ!
    だから平和維持のために、爆弾を落とすよ!」

 アメ公かな?


以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【戦争】
 ボーア戦争→ブール戦争
 ズール戦争→ワズール戦争
【爆撃機】
 ドルニエ社→ドルニ


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17 フュア・メリット-黄金の一日

※2020/2/8誤字修正。
 水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 勝利と栄光。口にすれば簡単な二つの単語だが、それを手にするまで、一体どれほどの人間が道半ばで倒れただろう。

 エルマーは私に、それを贈ると言ってくれた。かの偉大なゾフォルトの翼が、大空の剣が私に黄金の時間をもたらしてくれたのだ。

 一九二〇年、一一月一五日。皇帝(カイザー)厩舎(きゅうしゃ)より寄越された二頭立ての箱型馬車が、特別司令部に待機していた私を迎え、宮中まで届けてくれた。

 これ程の歓待は侍童(パージェ)であった頃でさえなかったもので、宮門の衛兵は窓から外を眺めていた私に、捧げ銃をして通してくれた。

 

「お加減が、優れませんかな?」

「いいえ、胸の高鳴りを抑えられぬのです」

 

 私の返しに気を良くして下さったのだろう。この道に生涯を捧げてきた御者は「誰もが初めはそうなるものです」と優しく微笑まれた。

 

 

     ◇

 

 

 帝国本土に帰還してからというもの、私は様々な者達から声をかけられ、会食や挨拶に足を運ばざるを得なくなった。

 前人未到の最多撃墜王。魔導師から空の王冠を簒奪した男。好みに沿う沿わないは別として、帝国中の新聞が私を書き立て、無数の記者が万年筆や鉛筆を手にして質問攻めに来る日もあれば、まるで映画や舞台俳優に求めるように、握手やサインをせがむ者まで多く出た。

 こうした事態は一度目のファメルーンからの帰国や、銀翼突撃章の叙勲式の折にもあったが、流石に今回は数が数なので参ってしまい、軍高官や官吏が呼んでいるとお声がかかった時には、逆にこれで逃げられると思ったものであるが、しかし気は休まらない。

 

 何しろ、私の父上さえ顎で使える*1ような陸海軍の元帥方や政府高官が、私とフォン・エップ少将(一九二〇年、八月進級)との会食を望まれたのだ。

 フォン・エップ少将は汗をかきつつも私を褒め称えて下さり、大臣や元帥方におかれても私の活躍を大いに寿いでくださったが、反面私は気が気でなかった。

 一体何故、多忙を極める高位官吏や陸海軍の元帥らが、私如き一士官を会食に招かれたのか? 確かに今は世間で持て囃されて時の人であっても、それが有用なのは航空省人事局や宣伝局の人間だけである。

 英雄の誕生を寿ぎたいというのであれば、それは式典で盛大に行えば良い。しかし、その式典こそ最大の問題であり、お歴々が私とフォン・エップ少将を招いた理由でもあった。

 

我らが皇帝陛下(マインカイザー)が、貴官への叙勲を望まれておいでだ」

 

 私は叙勲の沙汰に接して、ナイフとフォークを持つ手を感動に震わせた。

 帝国(ライヒ)統一戦争以降、帝国はプロシャ王が頂点たる皇帝(カイザー)として君臨し、諸邦は恭順を示すか、降伏の後に和解した王家が治める連邦国家として誕生したが、帝国軍創設以降、戦功・功労章は大規模改定が行われ、これらの勲章は軍が授与する規定となっていた。

 皇帝(カイザー)や諸邦の王が伝統ある勲章を授与するのは、自州で華々しき功労を果たした退役軍人や終身制たる元帥位の授与者か、或いは政治家や科学者、芸術家に対してであり、現役武官の、ましてや今月二一になろうというばかりの若造大尉に、皇帝(カイザー)が御自ら勲章を下賜されるなどというのは、正しく前代未聞である。

 

「本当に、小官如きが騎士勲章を……?」

「そちらの方が良いかね? だが、それは無理だ。貴官に授与されるのはフュア・メリット勲章だからな」

 

 私は言葉さえ失い、フォン・エップ少将などは、まるでコメディアンのように音を立ててフォークを落とし、口を開けて固まっていた。

 

 

     ◇

 

 

 フュア・メリット(勲功に報いて)の意が示す通り、この勲章は古プロシャ大王が制定して以来、戦場の英雄として後世に語り継がれるに値する者のみ授与*2される事を許された、プロシャ王国の最高名誉勲章である。

 かくも偉大にして過大なる勲章が授与されるに至った理由を訊ねれば、最早私に授与する勲章がないからだ、と会食時にお歴々は肩を竦めた。

 

「貴官は既にして帝国軍の最高軍事功労勲章たる、黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字の授与規定を満たして尚、余り有る戦功を立てた。

 無論、それは貴官の弟君たるエルマー技術中佐の攻撃機あってのものであるし、敵機や魔導師も多くが旧式だったことも聞き及んでいる。

 その間の論考基準値を半減せよとの声は、人事局功績調査部からも当然上がったがな。それをして尚、この勲章に貴官は手を届かせたのだ」

 

 加えるに、私は九月二〇日以降魔導師撃墜をカウントせず、これ幸いとばかりに戦友達にスコアを譲り続けていた。

 そんな事は上も承知していたが、戦果を報告せねばならない以上、数字を誤魔化す為に戦友を使った時点で彼らも同罪である。

 当然、帝国軍の士気を上げ、国民に戦意掲揚を促したいが為に人事局功績調査部や宣伝局も黙認していた訳だが、これは致し方ない面もある。

 ファメルーンでの私の正確なスコアなど公表しては、他国からは悪質なジョークか、過剰過ぎるプロパガンダにしか見られないだろう。

 そこに撃墜スコア以外の戦功評定基準となっている、出撃回数や地上兵器の撃破数なども含めるとなると、会食の主催者らが苦笑いしつつ肩を竦めたのも無理からぬ話であった。

 

「貴官が佐官か将官ならば、名誉章や各種功労章の授与と年金で埋め合わせる事も出来たが、年功さえ足りんと来た。貴官は知らんだろうが、皇帝陛下は大層貴官を気に入られておいでだ。正確には、英雄たる貴官の『戦果』と『経歴』をだが」

「皇帝陛下は、海軍の拡張こそ関心を払われておいでと小耳に挟んでおりましたが?」

 

 更に言えば、皇帝(カイザー)は中央参謀本部の特別大演習に騎兵将校として参加したというのは、帝国軍でも大変有名な話である。

 全騎兵の誉れたるフェヒター章を受けながら、パイロットとして空を飛んだ私は、どう考えてもお気に召されるような経歴ではない筈だ。

 

「そこはベルトゥス皇太子殿下の口添えあってのものだ。貴官の活躍は騎兵への裏切りでなく、武人として帝国に尽くしたいが為のものであるとな」

 

 空の王者たる魔導師に果敢に挑み、遂には空軍さえ開設させるに至った私と航空隊員を、ベルトゥス皇太子は「彼らこそ空の騎兵です」と讃えて下さり、皇帝(カイザー)も溜飲を下げられたのだという。

 そこから先の話は早く、撃墜王に至るまでの目覚しい活躍や、プロシャ王と皇帝(カイザー)に仕え続けた貴族の血筋。何より軍用機や魔導師との対決は馬上槍試合(ジョスト)にも似た趣があるということで、槍騎兵であった頃の経歴も含め、徐々に英雄を好む皇帝(カイザー)の関心を得るに至ったという。

 

「エップ将軍。将軍はどうして開設から今日まで、空軍に潤沢な予算が回され続けているか、考えた事はあるかね?」

 

 にっこりと微笑む海軍元帥は、決して目が笑っていなかった。本来融通を付けて頂ける筈だった海軍の予算が、新興の第三軍に回されたのだから、その怒りも当然である。

 軍種こそ違えど、相手は天上人。フォン・エップ少将は深々と謝罪し、私もまた右に倣った。

 

「海軍は前々から優遇されておったろうに。陸軍にはそのような恩寵、一度として得られなんだぞ?」

「海軍を陸軍の外局扱いしている身でよく言うものだ。予算ならば、そちらが常に多く持って行くだろうに」

 

 私とフォン・エップ少将は、心も胃の痛みも同じだった事だろう。陸海軍両元帥との優雅極まる会食を終えた私とフォン・エップ少将は、仲良く寝る前に胃薬を飲んだ。

 

 

      ◇

 

 

 こうして後日、叙勲式典の日程調整や打ち合わせに追われ、馬車で王宮に到着した私は宮中で朝食を摂った。

 酒を入れる訳には行かないのは当然の為、食後酒の代わりとして葡萄ジュースが振舞われたが、ワイン用の葡萄からアルコールを止めて作られたジュースは大変美味で、ワインと変わらない味わい深さであった。

 そうして舌鼓を打った後は、私のような見習い以下であったそれと違う、本職の侍童頭が着付けを始めてくれたが、用意された礼装には大層驚かされた。

 なんと、私がかつて返納した筈の近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊のものであり、唯一の違いがあるとすれば、肩章がエポレットではなく、空軍大尉のそれに変わっているぐらいだった。

 

「これは、もしや」

「はい。ベルトゥス皇太子殿下より、お預かり致しました」

 

 自らの元を去った一士官に、ここまでのご厚情を頂けようとは。私は瞳から雫を零すのをこらえていたが、その間にも侍童頭はてきぱきと着付けを済ませ、最後に首元のホック留めて満足げに頷かれた。

 騎兵の頃と比べて体がなまり、軍服が体に合わないのではないかと袖を通すまで心配していたが、私の体は一層逞しくなっており、少々窮屈ささえ感じる軍服が却って体のラインを強調し、メリハリを与えてくれていた。そして何に増しても驚くべきは、あのフェヒター章が腕に留まっていた事だ。

 

“これを、身に着ける資格はあるのだろうか?”

 

 いや、無いと言えば、それはベルトゥス皇太子への紛れもない背信である。これを再び身に着ける栄誉をお与え下さったベルトゥス皇太子のご期待を、私は生涯決して裏切るまいと誓った。

 

 

     ◇

 

 

 本来、宮中の叙勲式典は厳格な規定の上に成り立っており、騎士の間*3にて叙勲を行うのが慣例であったが、私は騎士勲章を得る資格を有していない為、異例だが祝典の催される白の間にて叙勲式を執り行う運びとなった。

 士官候補生時代、ヴィクトル・ルイス皇女とひと時の蜜月を過ごした、あの広間である。しかし、そこがかつて歴史ある調度で溢れ、着飾られた貴婦人が談笑し、ベルン・フィルの楽団が天上の調べを奏でた広間だと言われても、おそらく誰も実感は沸くまい。

 広間の左右に居並ぶ方々の厳格な空気が、優美なる広場の面影を完全に塗り潰していたからだ。

 叙勲式の作法に倣い、右側は帝国宰相や宮内庁大臣、宗教顧問員といった高位顕職が爵位と役職に応じて並び、彼らと向き合うように帝国軍統帥、陸軍大臣、参謀総長に続く形で各軍の元帥らが並んでいた。

 

 その中には無論のこと、フォン・エップ少将も空軍総司令官たる職務に就いておられる以上参列なさっておいでだったが、爵位においても階級においても本来なら参列を許されない身であり、先駆的過ぎる空軍の装いも相まって、かなり浮いてしまっていた。

 私の目から見てもそうなのだから、当人の居心地悪さは相当のものだろう。私は思わず苦笑しそうになる口元を真一文字に引き締めて堂々と、しかし作法に則った足取りで泰然と歩を進めた。

 反射する大理石の床は長靴を鳴らし、かつかつと音を響かせる。

 玉座に座す皇帝(カイザー)は、敬虔なる信徒が瞑想するような神聖さを放っており、静謐の中にある絵画の如き美しさであったから、私はその姿を前に何度も足を止めて、本来跪かねばならない位置より遠くに跪いてしまいたくなった。

 だが、此度の叙勲式は畏れ多くも私の為に催されたものなのだからと、私はそれを堪えて帝国軍人らしく昂然として胸を張って進み、何とか言われた位置に辿り着く事が出来た。

 私が片膝をつくと同時に、皇帝(カイザー)がゆっくりと腰を上げられる。皇帝(カイザー)近衛胸甲騎兵(ギャルド・ドゥ・コーア)の軍服を纏っておられたので──おそらくは私の槍騎兵服(ウランカ)に合わせて下さったのだと思われる──、がしゃりと重厚な音を立てられたが、それが何とも言えぬ威圧感と王者の風采を放っており、皇帝(カイザー)の威光に当てられてしまった私は、己など、英雄とは程遠い小童に過ぎないではないかと感じた。

 皇帝(カイザー)侍童(パージェ)の中でも、ひと際見目麗しい宮侍童(ホーフパージェ)がビロードのクッションに乗せて恭しく運ばれたフュア・メリット勲章を手に取り、私の首にかけて下さった。

 黒と銀のリボンに、七宝焼きの青いマルタ十字。数多の武人が手にする事を望みながら、しかし多くが叶わなかった英雄の証に私の胸は高まる一方であったが、しかし皇帝(カイザー)は未だ、私が拝謁の栄に与る事をお許し下さらない。

 いや、そもそも本来であれば面を上げる事を許された後に、授与されるのが慣例の筈であっただけに、私は混乱するばかりであったのだが、やがてその疑問に応えて下さるかのように、私の肩に剣身が添えられていた。

 

「ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテル空軍大尉。

 ファメルーン、ノルデンでの働き、大儀であった。余はフォン・キッテル家の剣に、新たなる二つの土地を付す。更に、貴官が世界に冠たる帝国の為、大いに貢献したとし、ここにフュア・メリット勲章を授与する。英雄よ、面を上げよ」

 

 ゆっくりと面を上げると、皇帝(カイザー)は私の頬を強くぶたれた。個人として、軍人として忍耐を忘れず、驕れる事を許さぬという皇帝(カイザー)からの戒めであったが、痛みからでなく、私の頬には一筋の雫が伝った。

 二度とお許し頂けぬものと思っていた。どのような勲功を得ようとも、お認めになるまいと悔いていた。私にはもう、帰る我が家は軍だけなのだと諦めていた。

 

 だが、この剣こそ父上の心そのもの。何よりも深い慈悲と赦しの表れに他ならず、それを思えば、今だけは涙する事をお許し頂きたくあった。

 

「強く、打ち過ぎたか?」

「いいえ、いいえ、陛下。ですが今だけは、何卒、今だけはご寛恕を」

 

 私の涙の理由を、皇帝(カイザー)は決して理解されておらぬだろう。だが、皇帝(カイザー)は私の肩に優しく、静かに手を置かれた。

 

「許そう。今だけは、その涙を、耐えぬ事を許そう」

 

 慈悲深きお言葉は、私の心を抱擁するかのようだった。

 

 

     ◇

 

 

 赤く腫れた目元を皇帝(カイザー)は大層(いたわ)って下さったが、これが歓喜の涙だという事を私がお答えすると「ならば、もう大丈夫だな」と微笑んで下さった。

 幾人かの武官や役人は、私の涙を芝居がかった演出と見たかもしれないが、私の涙は父上に対してのものであって、断じて嘘偽りの演技ではない。それは誰よりも私の肩に手を置き、今まさに微笑んで下さっている皇帝(カイザー)の瞳こそが証明しておられた。

 仮に私が偽りの涙を流し、虚構の感動を皇帝(カイザー)に示そうものならば、あの澄んだ、万物さえ見通してしまいそうな程深い瞳が容易くそれを看破して、私から勲章を取り上げたに違いない。

 

 そして、晴れがましい叙勲式を終えた私は、何と宮中の遊歩庭園を皇帝(カイザー)と並び歩むという栄に浴したばかりか、皇帝(カイザー)はそのまま午後の茶宴へとお誘い下さったのである。

 このような席には、武官であれば参謀総長や陸軍大臣が招かれるものであって、大尉に過ぎない私には畏れ多いばかりだったのだが、今回は私だけでなく他にも客を招いているので、固くならずとも良いと皇帝(カイザー)は仰られた。

 この言葉を受けて私は、ああ、フォン・エップ少将だろうな。空軍総司令官閣下が、感動のあまり心臓発作で倒れなければ良いが、と身近な人間を想像して──それでも少将と大尉では雲泥の差であるのだが──心に余裕を持つことが出来た。

 

 しかし、そんな私の予想は的外れも甚だしかったと、現実を見て愕然とした。

 用意された茶宴の席に、直立不動で皇帝(カイザー)と私を出迎えて下さったのは、参謀総長たる小モルトーケその人であったのだ。

 私はかの偉大な御仁に立ち会えた事への感動と、軍人としての習性から踵を鳴らして敬礼したが、小モルトーケ参謀総長はその逞しい体躯には控えめな、しかし気品ある口髭を撫でながら私を窘められた。

 

我らが皇帝陛下(マインカイザー)の御前である。軍人としての作法でなく、貴族として振る舞い給え」

 

 語句こそ厳しくも、慈愛と気品溢れる声音で諭された小モルトーケ参謀総長に深い感銘を受けつつ、皇帝(カイザー)に促されるまま参謀総長と共に席に着いた。

 

 帝国国民であれば語るまでもない人物であろうが、小モルトーケ参謀総長はその名から察せられる通り、プロシャ・フランソワ戦争で勇名を轟かせ、私が本日拝受したフュア・メリット勲章の最上位等級たる、フュア・メリット大十字星章を授与された世界最高峰の軍人、大モルトーケ伯の甥に当たるお方である。

 帝国(ライヒ)建国の臣たる大英雄を叔父上に持つ以上、周囲からの期待は並々ならぬものであった事だろうが、小モルトーケ参謀総長はその期待に見事応えられ、彼こそ帝国軍の未来を担うであろうと、誰もが期待と尊敬の眼差しを向けていた。

 

 それにしても、と私は小モルトーケ参謀総長を間近で見て思う。一九〇以上の長身に、鍛え抜かれた厚みのある体躯。鷲のような眼光鋭い瞳に見事な禿頭と、正しく豪傑で鳴るプロシャ軍人を体現する風采だというのに、何と洗練された行儀作法であろう。

 私は父上から、宮中で偉ぶったが為に顰蹙を買った将軍は多い。お前は決してそのようにはなるなと再三聞かされては作法を叩き込まれてきたが、私などより遥かに優美な小モルトーケ参謀総長の物腰には、思わず陶然としてしまったものである。

 そこから先も、皇帝(カイザー)は私や小モルトーケ参謀総長との歓談に際し、軍の話題をお振りになられるのだろうとばかり考えていたが、お二方の話題はもっぱら芸術や音楽、文学に対してのみであり、私は面食らいつつもお二方との歓談を楽しんだ。

 

 特に、初めの内こそ私に対しては口数少なかった小モルトーケ参謀総長であったが、私がお二方の予想以上に、これらの話題に対して造詣の深い事に気を良くされたのだろう。

 小モルトーケ参謀総長の口からは途方もない文学に対する愛情と知識が溢れ出し、同じく文学を愛好する者として、私は一層参謀総長に対して深い敬意の念を抱いた。

 しかし、文学以上に小モルトーケ参謀総長が好まれるのは音楽のようであり、私が古プロシャ大王への憧れからフラウト・トラヴェルソ(◆1)を嗜んだのに対し、参謀総長は純粋な音楽への愛情から、自らチェロを弾かれる事が多いと言う。

 心地よい時間の中、皇帝(カイザー)は私が槍働きで鳴らすばかりが能の武辺者ではなく、貴族として相応しい教養を持っている事に、いたく満足されたようであった。

 

「貴官は、自負と傲慢を履き違えておらんようだ。礼節も、慎みもある」

 

 余は嬉しいぞ、と紅茶を含みながら漏らされたお言葉には、私の方こそ嬉しさの余り身を震わせてしまった。

 そんな私に小モルトーケ参謀総長はいじらしい少年を見るように穏やかな表情を浮かべ、皇帝(カイザー)もまた、何度も満足げに頷いて下さった。

 

 

     ◇

 

 

 茶宴が終わり、特別司令部へと来た時と同じく箱型馬車で送り返された私は、恍惚の表情のままベッドに横たわる。まどろみの中、机の上に寝かされたキッテル家の剣が、月明かりに反射して煌めいていた。

 

 


訳註

◆1:今日のフルートの前身となった横笛。

 

*1
 一九二〇年時点での我が父、エドヴァルド・フォン・キッテルは御歳五〇歳であり、歩兵中将として精力的に軍務に励まれていた。

*2
 勲章制定に当たって、制定者が自ら佩用することは慣例として認められるが、古プロシャ大王はフュア・メリット勲章に対して、そうした名誉・儀礼的措置の一切を禁じた。

 今日に至るまで、この勲章は古プロシャ大王の遺言に従い、皇・王族に対する儀礼的授与や皇帝への没後授与も含めた一切の例外(戦功以外での授与)が認められていない。また、仮に時のプロシャ王が自ら佩用したとしても、死後功労に値しなければ剥奪することも遺言に遺されている。

*3
 騎士勲章を授与された者は騎士団の団員となる為、そちらで勲章授与と騎士叙任式が行われる。




 この作品で会食時の元帥たちのお名前が載らない理由は、実名出すと色んな所から怒られちゃうからだね、仕方ないね。(但しこれでも相当マイルドな描写だったりします。現実? 言葉のスターリングラードから始まって、リアルファイトのゴングが鳴りかけたよ?)

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【勲章】
 プールルメリット→フュア・メリット勲章
【人物名】
 小モルトケ→小モルトーケ


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18 宝剣の返上-父上との和解

※2021/1/19誤字修正。
 TOMO_dottyさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 宮中での叙勲式から一夜明けた後、私はキッテル家の剣を父上に返上すべく、帝国北東部行きの列車へと乗り込んだ。

 私は此度のフュア・メリット勲章と、帝国軍総帥から賜った黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字の特典として、一二月一日にシャルロブルク軍大学へ入校するまでの間は恩賜休暇を賜る事と相成った訳だが、今の私は一等車で航空省人事局と宣伝局、そして民間記者の三方からの質問攻めに応対しつつ、撮影会を行わなくてはならなくなっていた。

 

 今まで私が休暇の類を全くと言って良い程使用しなかった為、どうせ今回も仕事漬けだろうと考えたフォン・エップ少将が、航空省人事局や宣伝局に何時でも大丈夫だと言ってしまったが為に起きた結果だったが、これははっきり言って私が悪い。

 今の今まで休めと命令されても強引に働き続けていた男が、今回に限って休ませろというのだ。既に各部署に許可を出している手前、ここで断ってフォン・エップ少将の顔に泥を塗る真似は部下としても人間としても許されまいと、私は仕事を引き受けた。

 

 しかし、航空省人事局や宣伝局もそうであるが、この時の彼らが真っ先に話題としたのが、私とヴィクトル・ルイス王太子妃が、士官候補生と皇女であった頃の祝賀夜舞踏会での一幕だったことには流石に閉口した。

 これが宮中の者達からのものだけなら恍ける事も出来たのだが、士官候補生時代の頃で語った通り、この話は私が最多撃墜王として世に出た時点で、ルイス王太子妃が大変楽しげにお話しされていたという事であったので、逃げる事は不可能だったのだ。

 ルイス王太子妃にしてみれば、祖国が誇る英雄への話題作り──王家がささやかな娯楽を国民に提供する為、思い出を語るのは珍しい事ではない──もあるだろうが、私が『空の騎兵』として喧伝されていた事が耳に届き、昔を懐かしまれて必要以上に多く語られたのだろう。

 

 あの頃の私とルイス王太子妃はどちらも十代。まだ顔立ちに幼さを残した男女による、騎士と王女の織り成す宮廷的至純愛(ミンネ)にも似た蜜月のひと時というものは、あらゆる出版関係者が飛びついて止まない垂涎もののネタだというのは分かる。

 私としては当時を思い返すだけで大変気恥ずかしく、またルイス王太子妃はかつての頃より一層お美しくなられた事を、新聞を通して知っていただけに、かつての恋心が燻りかけた。

 しかし、あの一夜は最早彼方に過ぎ去った日だ。今は遠く、振り返って懐かしむだけのものに過ぎないからこそ、ルイス王太子妃はイルドア王国と帝国国民への話題として取り上げたのだろう。

 私のルイス王太子妃への想いは、あの時限りのもの。一夜の逢瀬と一夜の舞踏、そして一夜の別れこそが全てであり、今となっては胸に仕舞うべき思い出ですらない。

 私達の恋は、もう自らの胸を焦がすものでなく、人に楽しまれる『物語』となったのだ。

 それを思えば、私はようやく、本当の意味で初恋を終わらせる事が出来たのかもしれない。こうしてこの日まで、ルイス王太子妃の記事を追い続けていたのは、きっと未練からだったのだ。

 ならば、私はそれを断ち切ろうと記者たちに出来る限り面白く、けれど事実からは逸脱せず、ルイス王太子妃のお言葉とも食い違わないよう気遣いながら話す事にした。

 

 記者の質問の中には──おそらくは何処ぞの出版社が、娯楽性を高める為に過剰な記事を書いたのだろう──ルイス王太子妃が去り際に私に接吻されたのは本当なのか?

 いいや、お手をお許しになられたと伺ったなどと、まるで演劇か子女の好むラブロマンスのような内容のものも多く含まれていたが、流石にそのような事は畏れ多いと否定した。

 私はルイス王太子妃とメリー・ウィドゥ・ワルツを踊ったに過ぎない。甘く切ない、けれど若さと情熱に溢れたダンスを。

 かつての余韻に浸るように語れば、記者だけでなく航空省人事局や宣伝局も満足げに聞き入っていた。

 

 

     ◇

 

 

 かくして諸々の質問を語り終えた頃には、北東部まであと僅かな距離となっていた訳であるが、航空省人事局も宣伝局も、まだ私への仕事は残っているという。

 そちらに関しては、当時は帰りの列車でという話になったのだが、本著では冗長となる為、ここで語ってしまうとしよう。

 彼らの要望は、今後私が帝国のプロパガンダとして執り行われるニュース映画への出演日程の調整であり、またフュア・メリット勲章と黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字授与に伴い、新たにブロマイド用の写真撮影の段取りの必要があるという*1

 宣伝局は私のブロマイドの売れ行きは大変好評であり、特に帝都の子女からはファンレターが溢れんばかりに届いていると持ち上げていたが、私には何もかもが初耳のことであった。

 

「これまで、手紙の返信はどうしていたのかね?」

「キッテル大尉殿は常にご多忙の身でありますからな。宣伝局で雇った下請けの者達に、『大尉殿の部下○○が、お忙しいキッテル空軍大尉殿に代わり、返信致します』と記載した上で、お礼の言葉とお伝えし得る限りの大尉殿の動向を記しておきました」

 

 それは少々誠意に欠けるのではないかと私は考えたが、送られてくる私信の数を聞いて、考えを改めざるを得なかった。しかし、自分に宛てて書いて頂いた手紙に目も通さないというのは気が引けるし、中には知己や戦友からの手紙もある筈である。

 私はひとまず、送られてくる私信に現役武官や故郷からのもの、そして亡くなられた戦友遺族のものがあれば、自分に送って欲しいと頼む事とした。

 

 肝心のブロマイドに関してだが、後に話が大きく変わり、当時としては映画や売れ筋の舞台女優でさえ珍しい、写真集として販売される事となった。

 宣伝局はこれまでの売れ行きから行けるだろうと豪語していたが、間違いなく冒険だった筈であるし、経費もかなりの額に上ったので、失敗すれば何人かは確実に首が飛んだであろう事は当時でも想像に難くなかった。

 写真集の表紙にはカラー写真(オートクローム)による近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)の礼装を纏う私がゾフォルトと共に掲載されたが、機体の両翼には青のマルタ十字がマーキングされ、尾翼部分には私の魔導師、戦闘機、偵察機を合わせた合計撃墜数たる一五三の数字が堂々と記されていた。

 

 これ以外にも、私が垂直尾翼に五機撃墜を示す黄色い棒状マーク(バルケルン)を描いている図や、若手パイロットに指導したり、同僚とのチェスを楽しむ最中のもの。飛行帽とゴーグルを着けた犬と戯れているものなどが写真集に掲載されたが、これらは実際にやっていたのではなく、全て打ち合わせの上で撮影しただけだ。

 この宣伝局のイメージ戦略の効果は絶大で、写真集を確認した若者は挙って空軍に入隊希望届を出し、是非撮影に使用されたゾフォルトを見たいという者も多く出たが、撮影に使用したのは外側だけを似せた張りぼてに過ぎない。

 機密保持の点から、どうしても実物を使う許可が下りなかったのだ。

 

 ただ、この写真集は反響が大きかっただけに、誤解と空軍内の悪弊も多く招いた。両主翼のマルタ十字に関しては、後に私のシンボルマークとして正式に採用されたのであながち嘘ではないが、撃墜数や棒状マーク(バルケルン)に関しては──整備員や戦友が勝手にやった事は多くあるが──私は過去にも未来にも、一度として自分からマーキングはしなかった。

 撃墜スコアは軍がカウントしてくれている以上、わざわざ自分で機体に描く必要は無いという理由からである。しかし、これが多くのパイロットの流行りとなった。

 

 若手パイロット達は自分達が使用する機体に撃墜数を載せたがり、空の上で悪目立ちするようになったのだ。

 これは味方だけでなく、敵にも見えた事なのでお相子と言えばそうなのかもしれないが、それにしても当時の私は、実力が見合わない内から、そんな真似をして敵に狙われたらどうするのだ、と内心ハラハラしたものである。

 そして、若手パイロット達は尾翼に何もない私の機体を見ると「もう撃墜数は描かれないのですか?」と問うのが定番となった。

 そんな面倒な事をやる暇があったら、一秒でも長く飛んでいるよ。と言いたくなったが、若者の夢を壊すのも気が引けたので、こういう時、私はいつも同じ言い訳をしていた。

 

「これ以上描くと、尾翼からはみ出てしまうからね」と。

 

 皆は私の言葉を、疑いもせず瞳を輝かせた。

 

 

     ◇

 

 

 ニュース映画の方はというと、こちらは私個人や軍の宣伝というよりも、航空学校の入学希望者を増やしたいという要望からの制作だった。

 校内で食べられる三食は現役パイロット同様、カロリー消費を考慮して優遇しており、生徒らが美味しそうに食事を頬張る姿や、熱心に勉学に励み、飛行訓練に勤しむ姿が撮影された。

 

 私に与えられた役割は、空軍開設に至るまでのファメルーンでの体験談を語る──この映画は、当時としては映画大国である合州国でも革新的な発声映画(トーキー)の走りだった──事だった。

 私はまず、航空隊員達の身に降りかかる敵魔導師の脅威や、自分達が生き残るための過酷な訓練──読者諸氏は初期の頃は私が訓練を強要したものとご存知だろうが、この映画では初めから自主的なものであった事にした──の果てに、ようやく帝国魔導師と共に戦えるようになったこと。

 そして、偉大なるマルクル中佐の英姿を特に熱心に語り、中佐が如何に高潔な英雄であったか。その最期の一瞬までを克明に説明した上で、中佐が我々に遺してくれた最高の芸術たるイメール・ターンを、私自身が披露して映画の幕を下ろすという物だった。

 

 私の撃墜記録や相次いだ叙勲のせいで、マルクル中佐が帝国内で語られることは少なくなったが、私はこれを機に、僅かにでも中佐の事を国民が思い出して欲しいと考えていた。しかしこの映画は、そんな私の予想を遥かに超える大反響を呼んだ。

 映画の公開後は国内のマルクル中佐の墓地が帝国中からの献花で溢れ、中佐の故郷には慰霊碑と銅像が建った。

 更には、これまでマルクル中佐の事などすっかり忘れていただろう上層部から、後に私も改定に携わった航空部隊編制の際、『第一戦闘航空団はイメール・マルクルの名を冠するべし』との通達を受けた際には、私も苦笑いが止まらなかったものである。

 これは他の航空団でも同様の措置が取られ、航空団の名はファメルーンで散った英霊達の名で構成される事となった。

 

 

     ◇

 

 

 列車の到着が知らされると、私はキッテル家の剣を納めた紫檀のケースを手に、駅から実家まで馬車で送って貰う事とした。

 記者に関しては既に記事のネタを聞いた為、一足先に帝都へと引き返し、航空省人事局と宣伝局は私が戻るまで駅で待機するという。

 父上との離別から、一度として戻る事のなかった故郷であるが、富裕層が何台か自動車を持つようになった程度で、依然として幼い頃の情景そのままの長閑な景色が広がって見えた。

 道行く人々は、撮影のため着用したままの近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)の礼装を纏う私に帽子やハンカチを振り、子供たちは敬礼をしてくれたので、私は嬉しくなって答礼すると、彼らは実に見事な礼を示してくれた。

 

 そうして馬車に揺られつつ実家に戻る途中、私は幼い頃の親友である、エミールとアルフォンスにも再会した。どちらも家業を継ぐ道を選んだようで、一八からの二年間の兵役を立派に果たした後、エミールは靴屋に、アルフォンスは帽子屋になっていた。

 二人は店に寄る私を見るや平身低頭してしまったが、私が幼い頃のように肩を組み「どうしたガキ大将、随分良い子になったじゃないか」と笑うと、すっかり昔の調子を取り戻し、かつての頃のように笑い合った。

 とはいえ、私達ももう大人だ。私は貴族として彼らの上に立ち、彼らを庇護し支えねばならない地位にある以上、何もかもが昔のようには行かない。

 

「再会を嬉しく思う。そして、国家への献身に心から感謝を。貴君らこそ、帝国臣民の鑑だ」

 

 私の言葉には、先程とは違い壁があると二人は感じたかもしれない。しかし、貴族と市井の者が分け隔てなく笑い、時には感情を発露する事さえ許されるのは、戦友愛に結ばれた軍にあってさえ──無礼講として許されない限り──同じ階級にある者だけなのだ。

 

 上官として、貴族として許される笑いとは本来微笑みだけであり、怒りとは国家に仇なす敵と、無能であるが故、或いは背信故に組織を食い潰す寄生虫にのみ向けねばならない。

 たとえどれほど心の中で憎悪を叫ぼうと、どれほどの歓喜が胸の内を占めようとも、言の葉に乗せる時には、表情に出す際には、それを理性の中に押し込めた上で行うべきなのだ。

 勿論、それが難しい時もある。どうしようもなく苦しく、耐え切れなくなる事もあるだろう。果たせない時もあるだろう。貴族もまた人間である以上、それは致し方ない事かもしれない。

 しかし、それを耐えようとする心だけは忘れてはならない。貴族として世に生を享けた以上、私は常に彼らの模範たるべき人間として務めねばならないのだから。

 

「ニコは、立派になったな」

 

 私は別々の店で、別々の時間で、別々の友人から、けれど全く同じ言葉を受け取った。

 

「貴君らとの切磋琢磨があったればこそだ。さて、それではマイスター。注文を受けて頂けまいか。何を驚くのかね? ここは店だろう?」

 

 私はエミールから長靴を、アルフォンスから軍帽を仕立てて貰う事とした。半年の後、二人共マイスターと称するに足る、見事な仕上がりの逸品を私の元へと届けてくれた。

 

 

     ◇

 

 

 かくしてささやかな寄り道の後に実家へと到着した私が、御者を待たせた上で我が家への門を潜ると、少々白髪の増えた最年長の家令は、私の帰宅を心から喜んでくれた。

 

「奥様! ニコおぼっちゃまがお戻りになられましたよ!」

 

 ただ、何時までも私を子供のように呼ぶのは気恥ずかしいので止めて欲しいものだとも内心思ったが、この家令にしてみれば私は孫も同然であり、私もまた祖父を写真や肖像画でしか知らぬ身故、彼を(じい)と呼んで慕っていたので、どちらもお相子ではあった。

 (じい)の知らせを受けて母上は階段を慌ただしく降りられると、勢いもそのままに私を抱擁してくれた。

 

「ニコ、良かった! もう戻って来ないものと思ったのよ?」

「父上が、私にお慈悲を賜り下さったのです。此度は、我が家の宝剣を返上すべく参った次第です」

「まぁ、それで」

 

 どうやら母上は、父上が私をお許しになられた事をご存知無かったそうである。エルマーや姉上からの手紙では、私が父上と仲違いした後、母上は父上に涙ながらに懇願したものの、終ぞお許し頂けなかったとの事で、その後もエルマーや姉上を通じて父上に働きかけて頂いていたらしい。

 

「母上、私は親不孝な息子でありました。父上の期待を裏切ったばかりか、母上に涙を流させるような真似まで」

「良いのです。貴方はキッテル家の誰より、勇ましい武勲を立てました。此度の件は、少なくとも私はそれで不問とします。さぁ、執務室へ。お父様がお待ちですよ」

 

 幼い頃のように母上に招かれ、父上の執務室へと辿り着く。常日頃より多忙な軍務故に家を空けることの多い父上が執務室にいるのは、私が直ちに剣を返上するだろうと予期しての事に違いない。案の定、父上はお許しを得て入室する私に対し、待っていたと切り出してきた。

 

「仕事を控える身故、手短に済ませよ」

 

 これが私を嫌っての事でなく、本当に多忙なのだという事は、父上の仕事ぶりを同僚から聞かされてきた私は十分理解していた。常人であればひと月と持たず倒れる仕事を抱えながら、父上は弱音一つ吐かず、日夜精力的に取り組んでおいでなのだと。

 私は紫檀のケースから取り出した宝剣を恭しく差し出すと、父上は鞘から剣身を抜き、新たに付された土地を目で追った。

 

「ニコラウスよ、お前の罪は敢えて口にするまでもあるまい。お前がどれだけ、多くの人間に迷惑を被らせた上で栄光を得たか、お前自身が最もよく知る身であろう。

 だが、お前がその罪を雪ぐだけの働きをした事もまた、動かぬ事実である」

 

 父上は静かに剣を鞘に収め、壁へとかけた。そして、ゆっくりと私に振り向く。

 

「この場で我が父に、お前の祖父に詫びよ。お前の罪、お前の不純を。それを以て、私はお前を真の意味で赦すとしよう」

「はい。父上」

 

 私は跪き、祖父の肖像に、その魂に対して謝罪した。国家の為でなく、己が夢の為に空を目指したこと。多くの期待を裏切り、母上と姉上、エルマーをはじめとした多くに迷惑をかけ続けたこと。

 数え上げればきりのない謝罪を父上はじっと、私のそれが心からの物であるのかを、耳を澄ませて検分していたが、全てが終わった後は、私を優しく抱擁してくれた。

 

「私も、父上に詫びよう。お前が手にした栄誉を、無残にも引き剥がした事を。お前を我が家から突き放した事を。お前に、多くの痛みを与えた事を」

「いいえ、父上は何も間違ってはおりません」

「いいや、間違いなのだ。どのような動機であれ、お前の行動は軍規に悖るものではなかった。私がキッテル家の名を傷つけまいという保身から、お前を責め立てたのだ」

「家の名に泥を塗るような長男を、お怒りになるのは当然の事です」

 

 父上は譲らなかった。私も譲らなかった。ああ、全くもって何と似たもの親子であろう。母上が参られ、どちらもお止しなさいと言われるまで、私と父上は己を責め続けた。

 

*1
 当時、白金十字以上の勲章受章者は、ポストカードなどに写真を印刷して販売されていた。




 帝国軍は有給休暇取り放題のホワイトな職場(なお職務態度と成績次第の模様)を自主的にブラックにしていく主人公のスタイルは、父親譲りだったようです
(なおこのワーカーホリック一族が過労で死んだことは一度もない模様)


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19 シャルロブルク軍大学校-学び舎での一年

※2020/3/5誤字修正。
 ドン吉さま、水上 風月さま、あかさたぬさま、ご報告ありがとうございます!



 父上との和解が成った事で後顧の憂いを無くした私は、実に晴れやかなる面持ちでシャルロブルク軍大学校の門を潜ったが、決して学生気分で居て良い場所ではない。

 それどころか、並々ならぬ熱意でもって出願届けを提出して合格を勝ち取った者。或いは軍功推薦で入校した為に、原隊の期待に応えねばと奮起する将校ら以上に、私は気を引き締めねばならぬ身分にあった。

 

 というのも、私の軍学校入校は、現在の帝国空軍に欠けている戦術・戦略思想を早急に確固たる物とすること。その為に前線武官としてでなく、高級将校としての視野と知識を培って来いと、フォン・エップ少将が直々に軍功推薦枠に署名して下さったのだ。

 加え、私の推薦人として連名で署名して頂いた御仁の中には、宮中で歓談した小モルトーケ参謀総長の名まであった事には仰天したものである。

 小モルトーケ参謀総長から、これほどまで目をかけて頂いた事を光栄に思いつつも、仮に不甲斐ない結果など示そうものなら、生きて顔向けは出来ぬとさえ考えていた程には、当時の私は思いつめていた。

 

 

     ◇

 

 

 本来、軍大学の受講期間は二年であるが、私は特例として一年の短縮──正確には圧縮だが──を事前に通達されていた。

 これは当時の空軍の内部事情によるもので、先に語った通り空軍に戦術・戦略的思想が欠けている事が原因だった。

 辛辣な言い方をしてしまえば、発足から二年が経過しようという現在の段階に至ってさえ、空軍は『軍』として正しく機能していないばかりか、陸軍航空隊の頃から、全くという程進歩していなかったのだ。

 軍が求められる役割とは何か? 当然誰もが、防衛・侵略を問わず戦争に勝利する事。或いはその力を内外に誇示する事で、抑止力としての機能を示す事だと語るだろう。

 だが、後者は兎も角として、前者に関しての帝国空軍は、実にお粗末な有様としか言いようがなかった。

(とはいえこれは帝国に限ったものではなく、他国の空軍も似たようなものだったが)

 

 戦闘機は魔導師に勝利し得るという図式が証明されたことで、他国では大規模な航空機増産が決定され、航空学校や第三の軍たる空軍さえ設立したが、どの列強国においても、航空機の役割を偵察と敵航空兵力の掃討と割り切っていた。

 彼らは最も重要な、『確保した制空権をどのように運用するか』という点を丸きり無視するか、他の軍種に丸投げ*1していたのである。

 

 戦闘機が戦果を上げるまで、制空権を確保するのも運用するのも、航空魔導師の仕事だった。

 魔導師は爆裂術式と貫通術式を用い、敵砲兵や機関銃座を沈黙させる『空の砲兵』として、或いは一方的に敵将校や通信・伝令・斥候兵を駆逐する『空の狙撃手』として『局地的な状況打破』や増援到着までの『遅滞戦術』を担って来たが、逆に言えば、我々より年季の長い航空魔導師でさえ、戦術的には兎も角、戦略的運用を想定されて来なかった。

 無論これは航空魔導師の怠慢などではなく、彼らの動員数の限界とコストから来る必然的な問題だったし、だからこそ魔導師は各軍の一兵科に収まっていたと言える。

 

 こう書いては私が航空魔導師を悪し様に語っているようだが、彼らの戦闘力が本物だという事は疑っていないし、当然否定するつもりもない。魔導師は時として砲兵と同じく戦場の女神となり、或いは膠着した戦線を突破する破城槌の役割を担ってくれた。

 魔導師が他の兵科と比して、圧倒的少数の規模にありながら中隊や大隊を名乗るのは、それに見合う戦力を彼らが有している事の証左である。

 しかし、戦いにおいて数ほど恐るべき脅威もなく、数なくして戦略目標を達成し得るかと問われれば、誰もが眉間に皺を寄せる事だろう。

 だからこそ航空魔導師は、その圧倒的火力と機動性でもって地上支援に注力する事で、自らの存在意義を確立させてきた。自分達に何が出来て、何が出来ないのかを、彼らは正しく理解していたのだ。

 

 対して、これまでの空軍の役割はどうか? 陸軍航空隊としての時点では、対魔導師としての実験的側面から必要とされた。

 ノルデンやオストランドでは、敵航空戦力の迎撃ないし邀撃という任に就いた。しかし、それは飽くまで戦闘に勝利したものであって、戦術的・戦略的な目標を達成する為に動けたかと問われれば、間違いなく否である。

 

 おそらくだが、仮にノルデンやオストランドでの戦いのように、ただ徒に航空機を増産し、敵味方の魔導師と入り乱れての戦闘をこれからも続けるようであれば、列強諸国は航空戦力を保持しつつも空軍を解体し、陸海の航空隊に収まるよう指示を出した事だろう。

 

 だが、二度目のファメルーンでの戦いが、全てを大きく変えた。私やゾフォルトの戦果では勿論ない。ゾフォルトの地上攻撃は確かに素晴らしいものだったが、あれは航空魔導師の地上支援と同等の域を出るものではなかった。

 爆撃機という、あの地獄絵図という字句通りの光景を大地に作り上げた兵器こそ、世界を一変させるに足るものだった。

 

 私はこの時、既に確信を得ていた。最早、航空機と魔導師が戦う時代は過ぎたと*2

 

 エルマーは世界に、爆撃機の完成形を見せた。ならば各国は拙いながらも、その技術に追いつくべく全力を挙げるだろう。あれだけの破壊を、あれだけの掃討力を示した兵器は、列強国にとって見れば、ゾフォルトより遥かに価値ある代物だ。

 魔導師の手の届かぬ安全圏から一方的に地上軍を蹂躙し、殲滅する神の怒りの如き破壊力。どれだけ敵が大規模な陸軍戦力を有そうとも、それを地上から消し去る事が出来る夢の兵器だと、列強は信じて疑うまい。

 

 戦争は変わる。間違いなく歴史の針は大きく動く。遠くない内、我々空軍と魔導師は住むべき場所を分ける事になる。

 戦闘機は魔導師と戦うのではなく、爆撃機と共に高高度を維持しつつ、敵戦闘機から爆撃機を守る事が主任務となる。

 爆撃機は魔導師にさえ不可能な大規模破壊でもって敵の鉄道を、基地を、前線の軍を、或いは航続距離を伸ばし、戦艦や駆逐艦さえ爆撃するかもしれない。少なくとも、軍港ぐらいなら襲えるだろう。

 それに気付いた時、私は陸軍国の人間として目眩が起きると共に、かねてからの懸念であった『戦争の長期化に伴う国力の疲弊』を、空軍が解決し得るのではないかと考えた。

 戦争は軍人にとっては勲章と進級を稼ぐ絶好の機会かもしれないが、私自身は国が潰れるようになってまで栄光を掴みたいとは微塵も思わない。

 戦争は飽くまでも外交の一手段であって、決してそれを目的にしてはならないのだから。

 

 

     ◇

 

 

 私は軍学校で勉学に励む傍ら、二つの論文を執筆する事とした。

 一つ目は制空権の確保を勝利の最重要課題とし、爆撃機によって鉄道網をはじめとする兵站・人員輸送路、連絡線を寸断ないし徹底破壊する事で敵軍に大規模麻痺を生じさせつつ、これを陸軍らと共同で叩く無制限爆撃―─無制限と記したが、爆撃対象に民間施設や病院は含んでいない。軍事作戦の達成にこれらは関わりない上、国際社会の非難は免れないからだ──を提唱した『戦略爆撃』。

 

 二つ目は現在も航空魔導師とゾフォルトが行っている地上支援を効率化するもので、航空機の速度優位を活かし、前線のみならず敵地後方まで飛行し、敵軍前線と援軍とを遮断。

 戦闘機による制空権維持を努めつつ、急降下爆撃で進撃路を開き、更には有線通信網にも可能な限り打撃を加えていく事で、陸軍の進撃速度を大幅に向上させる事を目的とした『電撃作戦』だ。

 

 これらの論文に対する評価は、敵施設の破壊や陸軍との連携は、現在魔導師にのみ配備されている無線を使用した空域管制が、空軍にも行き渡るのを待つ必要があるが、一定の戦果は十分に見込めるものと判断するというものだった。

 

 これに加え、論文に目を通した上層部は私に対し、敵都市への攻撃を強く推奨してきた。彼らにしてみれば、敵都市を攻撃すれば、敵国民は恐怖から厭戦感情が沸き立つだけでなく、敵国家の継戦能力を奪うことが可能な一石二鳥の案だというのであるが、先ほど上に記したように、私は軍事作戦に関わりない施設を破壊する事だけは拒んだ。

 この件に関しては、私は上層部の考えが誤りである事を、立場の差があろうと具申せねばならないと考えていたので、断固として譲らなかった。

 

 まずもって、仮に自分達が都市爆撃を受けた立場であったならば、厭戦気分など起きようがない。殴られれば殴り返す。右の頬を打たれて、左の頬を差し出せるような聖人ばかりであるならば、世が争いで満ちている筈もないのだ。

 憎悪には憎悪を。奪われたものは自ら剣を執り、取り戻すのが人間だ。私は上層部に、自分達の親兄弟や幼子が瓦礫の山に埋まったとすれば、どのような想いを抱くかと答えを求めた。当然、答えは聞くまでもない。

 

 次に、都市部を破壊されたとして、復興費用に財源を回すのは戦争が終わってからであり、むしろ財源を確保すべく、何としてでも勝利を手にしようと躍起になる筈だと示した。

 その場合、万が一にも負けるような事があれば、どれだけの賠償金が課せられるかを想像して頂きたいとも付け加えた。

 私の考えを敗北主義的ではないかと否定する者も出たが、そうした手合いには精神論でなく、現実を直視した上であらゆる物事を想定して頂きたいと一蹴した。

 

 上からの心象は少々悪くなったものの、私は軍人としての判断と己の良心に従って発言した以上、何一つとして悔いはなかった。

 そして、今後このような意見が出ないよう、如何に都市攻撃が結果に対して、リスクとデメリットが多いものであるかを『爆撃機運用論』の中に盛り込んだが、こちらの評価はそっけないもので、当時多くの者が「当たり前の内容で中身が薄い」と私を笑った。

 だが、可笑しくて笑いたいのは私の方だった。言われれば当たり前だと笑い飛ばせる事と真逆の主張が、つい最近まで熱心に唱えられていたのだから。

 

 

     ◇

 

 

 少々、空軍事情が長くなり過ぎてしまったので、私にとって初めてのキャンパスライフに話を移したい。

 私の軍大学での生活は、こうした論文作成を除けば他の者と変わらぬ講義内容──但し、軍大学が私に用意する課題は凄まじく多かった──であった。

 課目の主体は戦術、戦史、戦略、参謀要務、兵要地学といった前線・後方を問わず広く役立つものばかりで、私のお気に入りは兵棋演習の中でも特に大規模な、月一に三日二晩通して行われる司令部実設演習だった。

 これは学生が軍司令官や参謀以下、第一線隊長までの役を務め、各司令室を設けて電話を架設し、大講堂に広げられた巨大な地図を戦場として、担当教官が兵棋を用いて両軍の戦闘審判を行うというものだ。

 

 前もって白状すると、私はこの演習が全く得意ではなかった。幼少の頃から兵棋演習そのものには慣れ親しんできたし、上級学校や士官学校でも幾度となく上級生方を負かしてきたが、そんな経験はまるで役に立たなかった。

 地図という世界を直接遥か高みから睥睨し、自軍を己が意のまま自在に操る。

 実際には指揮単位ごとの兵棋(コマ)があり、それぞれの役割に応じた担当者が着くが、命令通りに兵棋が即応して──賽子の目によっては失敗もあるが──部隊の隅々まで命令が行き渡り、担当者同士で相互に状況把握が出来る点からして、現実と比べれば遥かに優しい仕組みである事は間違いない。

(それでも現実に近づけるべく、索敵範囲外の敵軍は確認出来ないなどの措置も取られてはいたが)

 

 私が従来行っていた兵棋演習とは、要するに『作戦の目的を定め』、『戦場の地理的状況・条件を確認』し、『彼我の戦力を正しく推察』した上で『敵の行動を予想』し、これを覆すという『戦いを始めるまでの準備』をどれだけ完璧に整えるかが、勝敗の分かれ目だった。

 

 だからこそ、私の将としての鍍金はこの演習で容易く剥がされ、醜くくすみ切った地金を晒した。私がこれまで兵棋演習で勝ってきたのは、私が千差万別の状況下に対応できる、臨機応変かつ柔軟な優れた将だからではなく、事前に何十通りものパターンを用意し、即座に対応して叩けるだけの準備を整えてきていたからに過ぎなかったのだと、思い知らされたのである。

 参謀役では、まだ従来の手段が通用した。作戦の構築は演習開始時から一定の時間的猶予を設けられていたから、計画を軍司令官に作戦指導として通達し、作戦が前線でも機能しているか、伝令を密にして調整すれば良い。

 しかし、軍司令官と第一線隊長の役は散々だった。私は自らの軍の勝利に固執する余りに戦線全体を俯瞰できず、千変万化する各司令部の状況に、合わせようとしても付いて行けなかったのだ。

 軍司令官では勝利と前進に浮かれて、戦線に不要な突起部を作っては敵軍に包囲された。

 逆に第一線隊長の役では、この失敗への恐れから、上からの指示と参謀役の作戦案に固執してしまい、情況に則した動きを取る事が出来なかったという体たらくには、当然皆から散々に笑われたものである。

 

「キッテル大尉は、もう少し柔軟になるべきだな」

「頭も装甲のように固いから、魔導師に突っ込んで行けたと見える」

 

 私には将にも前線指揮官にも不可欠な融通性というものが、この日まで欠けていた事を自覚すると共に、小モルトーケ参謀総長に目をかけられながら、このような結果に至ってしまったという不甲斐なさに歯噛みした。

 

「……返す言葉もないな」

 

 軍学校でも私は大変有名であった上、フュア・メリットと黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字はいずれも常着義務が課せられていた──白金十字以上の戦功章は狙撃・暗殺の恐れがある最前線以外では佩用しなければならない規定だった──から、非常に悪目立ちしたものである。

 しかし、こうした苦手なものこそ、軍人として徹底的に挑戦したくなるし、負けず嫌いな私であるから、口では穏やかでも心には一気に火が点いた。

 私の講義は一年分の圧縮のせいで、上級生に混じっての司令部実設演習や通常の兵棋演習も頻繁にやっていたから、彼らの上手いところ、自分と比べて効率的なところを徹底的に取り込んだ。

(但し、猿真似だけは絶対に避けた。自分はゲームに勝ちたいのではなく、将来戦争に勝つ為に勉強しているからだ)

 

 夜間の私は軍大学から出される課題の合間、民間や陸軍航空魔導師の航空図(チャート)を取り寄せては、それを空軍のものに直す作業をしていたが、そこに就寝時間を削って頭の中で戦争を始めた。

 司令官として果たすべきは、目先の勝利ではなく戦争の勝利であり、戦略ないし戦術目標の達成だ。敵を効率よく殲滅し、かつ自軍の目標を達成するには、各司令部との相互連携が不可欠であり、各々の司令部が『何を目的としているか』を正しく理解せねばならない。

 優れたる将は正しく作戦の意図を把握するというが、司令部実設演習では自分達の上位者たる中央参謀本部や統帥府が存在しない以上、それぞれの参謀がバラバラの作戦を立てている状態だ。

 私は司令官として、任された前線での勝利の計画を参謀から渡されても、それをそのまま使用すれば良い訳ではない。各司令官がどの位置でどう戦い、どのタイミングで勝利するかを見極めた上で勝利し、次に他戦線との連携に努める必要があった。

 

 そして自分が最前線の指揮官であったならば、命令を逸脱しない範囲で、可能な限り臨機応変に立ち回る事を己に課さなくてはならない。

 私は毎日グツグツと頭を煮えさせながら、兎に角今の自分に欠如している作戦の即応能力の向上に努めた。

 

 

     ◇

 

 

 これだけ聞くと、何故私がこの演習を好きになったのかと思うだろうが、通常の兵棋演習の後には講評があるように、この演習が終了した後には、教官が互いの良し悪しをしっかりと示してくれるのだ。

 学徒らは三日二晩かけて行う司令部実設演習で精根尽き果てるが、それでも講評だけは何としてでも頭に叩き込まねばならない。

 何しろこの大演習には、軍大学の生徒や教官だけでなく、経理学校や医大学校などの教官と学生も参加し、学校幹事が統裁するという非常に大掛かりなものだったからだ。

 

 医大学生と教官らは負傷者数から割り出して、果たして作戦継続が可能であったかどうかを正しく見極め、経理学校は砲弾や弾薬、食料といった消耗品の損耗や補給が、国家の負担に耐え得るか真剣に協議した。

 熱心に講義を受ければ、同じ間違いをしなくて済む。それにこれは実戦でなく演習だから──勿論、実戦のつもりで臨むべきだが──限りなく現実に近い想定であろうとも、人死が出る事は決してない。

 次に活かして挑戦出来て、自分が前に進める事を実感出来るというのは、たとえ苦手でも得難い経験には違いないのだ。

 

 私は入校から三ヶ月で何とか人並みには動けるようになり、半年で恙無くこなし、卒業間際には、始めの頃が嘘のようだと皆を驚かせる事に成功した。

 

“よし! 私は出来る! 前線狂いの阿呆ではないぞ!”

 

 内心そう高らかと声を上げていた私だが、全体の成績を見れば、中の上といったところだ。出来るようにはなっても、それは初めと比べての事。学ぶべき事、学びたい事は未だ多く、それを思う度に私は「あと一年あれば」と悔やんだ。

 戦場を睥睨し、一目見ただけでそこにある真理と本質を掴む、電光石火の閃き。全軍を意のままに操り勝利したナポレオーネの如き『鋭い一瞥(クー・ドゥイユ)』も。

 大モルトーケ元帥が如き作戦能力と明快なる判断能力も、ここで学び続ければ至れるのではないかと自惚れてしまいそうなほど、シャルロブルク軍大学校には抗い難い学び舎としての魅力があったが、軍の指示は絶対だ。

 幾ら軍大学が英知を授けてくれる知恵の泉で有ろうと、その図書室が寮の資料室を、質・量共に遥かに凌ぐ読書家の楽園であっても、こればかりはどうにもならない。

 幸いにして、軍学校卒業生や高級将校は図書室への入室を許されるので、私は本国勤務時の休暇や仕事終わりに、通える限りにおいて通い続け、本に囲まれた幸福な日々を噛み締めると共に、不足している知識を補いつつ、知見を深める事とした。

 人とは学べるときに学ばねばならない。ましてや、高級将校として多くの命を預かる身である以上、生涯を通じて学び続ける事は、義務とさえ言って良いだろう。

 

 かくして、私は後ろ髪を引かれる思いで卒業を……と言いたいところだが、軍大学に身を置いた以上、ここの名物たる参謀旅行を語らずにおくのは問題であるので、最後に記すとしよう。

 

 

     ◇

 

 

 観光名所として国外からも名高いマインネーン……の付近に聳える峻厳かつ万年雪の残る過酷な山岳地帯の、更に険しい山岳旅団の訓練区域を、ある時は軍馬と共に不眠不休で巧みに駆け抜け、ある時は五〇キロ以上の機関銃を他の学徒と担いで一昼夜歩き通し、ある時は壕を掘って眠る丑三つ時を、怒声と共に蹴り起こされては朝日を拝むまで走り抜く。

 当然ながら、機関銃や装備を置いて行く事は許されない。

 

 そうして心身共に疲労困憊となった学徒らに、教官殿は優雅なる怒声を響かせて、やれ、あの地点に敵が防御火点を構築したとしたら、だの。

 撤退中の我々に対し、敵魔導小隊が攻撃を仕掛けて来た場合どうすべきか、といった状況を一方的に与えて進めていくのだが、私に限って言えばこれは楽勝だった。

 フランソワ大陸軍(グランダルメ)のルーシー遠征すら生温いと言わしめる、近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊の訓練に死に物狂いで食らいつき、それからも日々肉体を酷使し続けてきた私である。だから、当時の参謀旅行を経験した時だけは、自分の在学期間が半減している事を喜んだ。

 

「こんな所に二年もいては、体が鈍って仕方ない」

 

 参謀旅行とやらは女性士官の増加に伴って、相当お優しくなられているのではないかと本気で心配したほどだ。しかし、皆はそんな事を平然と漏らした私に対し、まるで化物を見るような目を向けた。

 私は彼らの視線を受けて、後方勤務に身を置ける立場になれるからと言って、甘えるなと活を入れてやりたくなったが、教官の一人が「貴様がおかしいのだ」と皆を代表するように機先を制するので、言葉を呑み込まざるを得なかった。

 しかし、不満げな表情をしている私を見て「いや、実は過去にも大尉と同じような方はいたのだ」と、最年長たる年嵩の教官が口を開かれた。

 

「小モルトーケ参謀総長閣下はな、参謀旅行でポケットに本を詰め込み、馬上で読み耽られていたそうだ」

 

 流石は小モルトーケ参謀総長! 私には到底及びもつかぬ事を平然となされる!

 かの参謀総長に於かれては、この程度の試練は取るに足らぬという事なのだろう。

 私を含む学徒は小モルトーケ参謀総長への尊敬の念を益々強くしながら、参謀旅行を無事終えたのだった。

 

 

*1
 とはいえ空軍指導部も全く仕事をしなかったという訳でなく、偵察機による敵司令部発見や地上軍の行軍ルートの確保。魔導師による拠点制圧の補助など、帝国軍の勝利には寄与していた。

 しかし、これらは皮肉な言い方をすれば『陸軍の腰巾着』も同然であり、空軍独自の戦争を遂行していたとは言い難いものであった。

*2
 念の為言うが、これは魔導師を不要だと言っている訳ではない。




補足説明

※原作デグ様の第二〇三魔導大隊の編成時期を考えると、一二月入校は明らかにおかしいのですが、本作品ではどうしてもここぐらいにしか入れられなかったので、強引に入学させてしまいました。
 そして辻褄合わせにデグ様も一二月入校にしてしまったので、原作の時系列から微妙にずれてしまいました。ご不快に思われた読者様がおられましたら、お詫び申し上げます。

※ただし、大戦の開始やルーシーの降雪など、原作の重要イベント発生の時系列をずらしたりはしてません。そこは調整しておりますのでご安堵ください。

フランソワ大陸軍(グランダルメ)のルーシー遠征の元ネタは、ナポ公のロシア遠征。
 行くも地獄帰るも地獄。おまけに兵士は強引に引っ張られて連れてかれたというクソクソ&クソな遠征。

※ちなみに小モルトーケ参謀総長は、参謀旅行で当然のごとく落馬した模様。
 これは史実の小モルトケが参謀旅行とかでポケットに本詰めて馬上で読んでたエピソードが元です。勿論本物も落馬しました(割と頻繁に)


【コールサイン命名のお礼とアンケートについて】

 この度は主人公のコールサインに、多数のご応募を頂きまして、誠にありがとうございます。
 今話を持ちまして、アンケートに移りたいと思いますが、アンケートの文字数の関係上、募集したコールサインそのものを記載する事は出来ても、名づけ理由までは記載できなかったため、この場をお借りしてコールサインの名づけ理由と、作者の感想を添えさせていただきたいと思います。

【以下、コールサイン】※並びは五十音順です。

コールサイン:クロウ(crow カラス)
応募者様:まーろんさま
命名理由:元ネタはエスコン0から。ドイツ語だと Krähe。
     コールサインに鳥の名前を当てるのは一般的かなと思ったのと。
     後は連想ゲームですね。ターニャがフェアリー(妖精)の名前を持つ魔導師なら女の魔導師=魔女ってことで、それなら魔女の相棒にはカラス! という感じです。あと一文字 n を足せば “crown”=王冠になるのもなんかピッタリくるかなと。
作者感想:魔女の相棒という点も然ることながら、何より目から鱗だったのは、一文字足して王冠にするという、アイデアです。
     このネーミングセンスには脱帽するしかありませんでした。

     ◇

コールサイン:ケストレル
応募者様:Dixie to armsさま
命名理由:┈┈エンジン名ですね、元ネタ。
作者感想:Dixie to armsさま一押しのブラックバーンを押しのけて、これを選んだ理由はエスコンの「イエス・ケストレル」が頭から離れなくなってしまった……というのは半分冗談です(つまり半分は本当w)
     これを選ばせて頂いた理由は、ケストレルがチョウゲンボウなる隼の英語読みであること(決してすばやくないが、急降下して獲物に喰らいつくというさまが、21話で搭乗するゾフォルトに合っていたというのがあります)や、発音がしやすいことにありました。

     ◇

コールサイン:スカイ
応募者様:KTDBさま
命名理由:まんま。空の英雄である撃墜王ってんならありだと思う。
作者感想:シンプルイズベストの一言に尽きます。
     アメリカの第1歩兵師団の『ビッグ・レッド・ワン』もそうですけど、こういう飾らない格好良さというものに、凄くトキメキました。

     ◇

コールサイン:ディサイプル(弟子)
応募者様:かくれんぼさま
命名理由:巨匠イメール・マルクルへの敬意から。
     今後芸術を描くパイロットは増えていくだろうことを考えると個人特定も防げるかなと。
作者感想:亡き師にして、航空隊の立役者。 マルクル中佐に対して、これほどリスペクトを感じるコールサインはありません。

     ◇

コールサイン:ドギード(頑固者)
応募者様:yagoさま
命名理由:doggedは根気強い、頑固なという意味の言葉です。
     まとわりつく犬のしつこさから来た言葉ですね。
     個人的にはこういうのは皮肉や笑い話からついたものが、最終的にすごいかっこよく聞こえるのが好きです。
作者感想:無駄に頑固な上にしつこく、その癖帝国にとってはこれ以上ない忠犬な主人公には、ぴったりなコールサインだと思いましたw
    現実のコールサインもジョークや好物から来ていますし、作者的にもこうした名前は大好きだったので候補にさせて頂きました。



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20 空軍総司令部付き勤務-航空兵力編制

※2020/2/8誤字修正。
 水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 一九二一年、一二月。シャルロブルク軍大学校を卒業し、参謀教程修了を証明する参謀徽章を拝受した私は、すぐさまフォン・エップ少将から少佐への進級と特別司令部改め、空軍総司令部付勤務の辞令を言い渡された。

 遊ばせる為に学ばせた訳でない以上、すぐにでも有効活用しろというのは、成程戦争機械たる帝国軍らしい辞令である。

 

 ただ、今日の読者諸氏は私の未来の妻や、エルマーの進級速度と業績の数々に感覚が麻痺しておられるやも知れないので述べておくが、齢二二の若造が『芋虫ぶら下げ屋(ラウペンシュレッパー)*1』になるのは、皇・王族や公爵位でもない限りは異例の進級である。

 この進級に対して、私は外側こそ誇らしげに胸を張って見せていたものの、その実年若く、未熟な自分が佐官という重責に堪えられるだろうかと、不安が心に重くのしかかっていた。

 しかし、表面にはそんな不安をおくびにも出さない私に、フォン・エップ少将は期待しているぞ、という更なる重圧を課してくる。逃げ場の無い私は、粛々とそれに応えるより他になく、地位に相応しい職責を果たすべく、一層鋭意努力するしかないのだと己を戒めた。

 

 

     ◇

 

 

「貴官の論文は目を通した。『爆撃機運用論』は中身が薄かったが、他二つは一考の余地がある」

 

 私は内心苦笑しつつ、フォン・エップ少将に「ありがとうございます」と簡素に返した。

 私に与えられた仕事は、帝国空軍航空部隊の編制を戦略・作戦・戦術単位に分けるので、これを各員と検討せよというものであった。

 数を決めろと言われれば簡単かもしれないが、そもそもにして、現状の我が帝国空軍の航空機保有数は何機なのか。整備員や管制員を含む補助要員や新設された各基地の配備数も含め、知るべきことは山のようにある。

 私は部下に書類を片っ端から持ってきて貰い、自分のデスクに置かれた卓上電話を回した。

 

「空軍総司令部のキッテル少佐だ。兵站総監部のエルマー技術大佐殿(一九二〇年、一二月進級)に繋いでくれ」

 

 交換手が快く引き受けると、エルマーはすぐに電話を取ってくれた。総監部然り中央参謀本部然り、これまでは傍受対策の為に外線が敷かれていなかったのだが、エルマーは空軍総司令部が出来ると同時、総監部と空軍総司令部を繋ぐ専用の交信手段を設けてくれたのだ。

 当然総監部は良い顔をしなかったが、そこはエルマーが秘話装置を造った上で行うと直談判して乗り切ったらしい。

 尤も、この後もエルマーは中央参謀本部にまで外線を入れたりと、兎に角時間を節約したがったそうなので、別段空軍総司令部が特別という訳ではなかったのだろうが。ともあれ、今は交換手が繋げてくれたエルマーとの会話に移ろう。

 

「私だ。ニコラウスだ」

「ああ、兄上。論文は読みましたよ。『爆撃機運用論』は阿呆共に釘を刺すには良いですが、他二つは凡庸ですな。失礼を承知で申し上げますと、中身が薄いかと」

 

 まさか他の者と真逆の評価を得るとは思わなかったが、何より驚きなのは、エルマー程の男が私如きの論文に目を通してくれた事だ。正直、弟なら他に読むべき物は幾らでもあると思うのだが。

 

「別に何を読んでも、家族からの手紙以外は心が湧き立ちませんのでね。勿論、兄上の戦友方からの手紙は別ですよ? さて、本題は航空機の生産数についてでしょう?」

 

 我が弟は読心術でも使えるのかと思ったが、世間話以外で、しかも空軍総司令部からとなれば、技術者たるエルマーに声がかかるのは新型機の催促か、量産についてぐらいかと納得した。

 

「話が早いな。それで、戦闘機は何機ある? それと、試作爆撃機のラインに関しても教えてくれ」

現行戦闘機(フォルカーD.Ⅻ)は七〇〇〇程ですが、既に大半がイルドアやイスパニア、秋津島といった買い手が付いています。武装を七・七ミリ機銃に換装してしまえば、高高度を維持しつつ爆撃機の護衛任務に当たれると伝えれば、それはもう飛ぶように売れましたよ。

 残りは練習機として使用するか、更新までの繋ぎとして手元に残す程度ですな。

 試作爆撃機は兄上の為に回した二機以外ですと練習機が二機ですが、こちらもイルドアと秋津島が高値を付けて頂いたので、一機ずつ両国に売って、練習機として残した二機はそのまま航空学校に送ります」

 

 ガラクタが実に良い金になったと、おそらくはほくほくとした笑顔で語っているのだろうエルマーに、私は開いた口が塞がらなかった。

 イルドア王国は地理的にも国力的にも我が国と直接敵対したいとは考えないであろうし、イスパニア共同体も、イルドア同様国交面でも問題ないから良しとしよう。

 しかし、極東の島国たる秋津島皇国に売却とはどういった存念からだろうか?

 あの国は確かに近代国家として建設する際、帝国を指針としてきたが、別段仲が良いというのではなく、近付いてきたのは中央大陸の強国であったが為に過ぎず、我々を『師』というより『教材』として見ていた向きが強い。

 確かに秋津島人の国民性は誠実かつ勤勉だと言われるし、実際皇軍は国際法を守る遵法精神も持ち合わせていたが、他国の技術を貪欲なまでに吸収し、しかもそれがどの国の由来であろうと全く頓着しないという無節操さを持っている。

 

 昨日帝国軍人を軍事顧問に招いたかと思えば、明日には共和国を、明後日には連合王国に声をかけ、それらを良いとこ取りするように組み合わせる。今回購入した爆撃機や戦闘機とて、すぐさま自国内で似たものを造り始めるに違いない。

 確かに秋津島は近代国家としては帝国以上の新興国だが、自分達が中央大陸と比して遅れていると自覚しているからこそ、その知識欲と探究心に歯止めがない。

 ある意味、この世界のどの国家よりも油断ならない国なのだが、エルマーにしてみれば、それで良いという。

 

「列強国では既に爆撃機を生産しているのですから、価値のある内に一番高値を付けて頂いた所に売れば良いのです。まぁ、共和国だけは売却対象国から外せと総監部一同から釘を刺されましたがね。私も仲の悪いお隣さんに贈る気は微塵もありませんでしたから、それは構いませんでしたが」

「最大仮想敵に売らずにいてくれた事は、喜ばしいし安堵しているよ。試作爆撃機の件だが、あれがゾフォルトの印象を薄める為のものだという事ぐらいは分かっているつもりだ。

 エルマーなら、既に本命を用意しているのではないか?」

「ご明察です。あの爆撃機は兄上のご指摘通り、ゾフォルトの対抗馬を遅らせる為に、他国が生産出来るギリギリのラインで設計しました。

 既に爆撃機も戦闘機も、偵察機を始めとする各機も、昨年度から量産体制に入っています。勿論、極秘裡にですが。現状の工場の稼働率から考えますと、今年一年で戦闘機二七六、爆撃機一六五、魔導攻撃機四六、偵察機三五三、輸送機三三二、練習機や連絡機が合計一七〇〇といったところでしょう」

「凄まじいな。一年でこれとは」

 

 エルマーの兵器は発案し、生産すれば即実用可能と言われる為に、他と比べ圧倒的に兵器更新速度が速い事は聞き及んでいたが、それにしても異常と言わざるを得ない。

 とはいえ、この結果に対して、エルマーは大いに不服であるらしい。

 

「本来なら月二〇〇〇が最低ラインでしたが、上が戦車工場を削りたくないと渋ったのですよ。とはいえ、他国の航空機保有数を示せば見方も変わると思いますので、それが狙い時でしょうな。

 兄上はダキア大公国の軍備をご存知ですか? あの時代錯誤な骨董品共、目の色を変えて複葉機を増産しています。来年には、一万九〇〇〇は行くでしょう。他国からも必死に買い漁っている始末ですので、総保有数は二万五〇〇といった具合かと」

 

 エルマーの予想が見事的中したと知ったのは後年の事だが、この時の私は、それを聞いて受話器を落としかけたものである。

 

「何時、上に掛け合うつもりだ?」

「どう足掻いても、こちらが追いつかなくなってから」

 

 それが狙いか、と私は嘆息した。或いは交換手が盗聴していて、上に伝えるという可能性もあるが、それはそれで構わないのだろう。一気に工場を増やすか、危機感を抱いて増産するようになるかは問題ではない。

 相手がようやく増産できた所で、それより遥かに高性能な機体を揃えて優位に立つ。これまでもそうだったように、エルマーは常に古い物を役立たずにしたいのだ。

 

「では兄上、私はそろそろ仕事に戻らねばなりません。航空機の仕様書は、責任を持って公用使に運ばせますので、それを参考にして下さい。ああ、それと言い忘れておりましたが、私は兄上の為にゾフォルトと試作爆撃機を送ったのであって、他はおまけです。

 嘘はいけませんな、母上に叱られてしまいますぞ?」

 

 ファメルーンのやり取りを聞いての事だろう。お前の為を思っての事だったのだがなぁとは思いつつも、頼まれてもいない事をしたのは私である。

 

「悪かった。今度埋め合わせをしよう」

「では、シュトルーデルでも食べましょう。美味しい店は、ベルンに幾らでもありますから」

 

 腹が裂けるまで食わせてやるという私に、エルマーは満足げに電話を切った。

 

 

     ◇

 

 

 送られてきた各機の仕様書に目を通した空軍総司令部は、設計者にエルマーの名が入っていただけで、このスペックが事実かどうかさえ検討せず私に投げた。

 

「仕様書の数字を深く考えるな。頭がおかしくなるぞ」

 

 そんなのは新型機を何度も見てしまえば、誰だとて慣れるだろう。そう思っていても、やはり数字を見てしまうと現実か否かを疑いたくなり、しかしあのエルマーの作品だからと自分を納得させるしかないのは、最早帝国軍人の恒例行事であった。

 

『戦闘機ヴュルガー(百舌鳥の意)。最高速度三三二ノット。実用限界高度三万四七〇〇フィート。航続距離八〇〇キロ。二センチ機関砲を両主翼に二門と、機首に七・九二ミリ機銃二丁装備。但し高度二万以上で機体性能に著しい低下が見られる為、二年以内の改修を前提とする』

 

『爆撃機コンドル。最高速度一九六ノット。実用限界高度二万フィート。航続距離四四四三キロ。最大爆薬搭載数二一〇〇キログラム。

 搭乗員数五名。一三ミリ機銃四二丁、二センチ機関砲一門装備。輸送任務での使用も可』

 

『近距離偵察機ウーフー(ワシミミズクの意)。最高速度一八〇ノット。実用限界高度二万三〇〇〇フィート。航続距離八三〇キロ。

 搭乗員数三名。七・九二ミリ機銃六丁装備。最大二〇〇キロ爆弾搭載可』

 

『輸送機ユンカー──後の前線兵士からのあだ名はユーおじさん(オンケル・ユー)──最高速度一四五ノット。実用限界高度一万八〇〇〇フィート。航続距離一二八〇キロ。

 貨物搭載量一〇〇〇キログラム。人員輸送は一八名を限度とす』

 

 私は仕様書を投げたくなった。何処ぞの若い技師見習いが、将来はこんな機体を作ってみたいと夢現で書き殴ったと言われた方が、余程説得力がある。

 ウーフーだけは偵察任務効率化の為、中央胴体前後をガラス張りとした中央短胴双側胴機という奇抜なスタイルを取っているが、他は全て当然だと言わんばかりに、全金属製の単葉機と来た。

 

 コンドルに関しては双発どころかエンジンを四機搭載。ユンカーも三機同調。馬力を上げて推力を高めるというのは他国でも研究されていたが、木造複葉機では主翼の重量限界と強度面からどうしても実現出来なかったものだ。

 だが、それ以上に新型戦闘機と爆撃機に見られる、車輪の脚を引っ込めるというのは革新的だ。エンジンに頼らず、空気抵抗を抑える事で速力を高めるというのは、どの国も欲して止まない発想だろう。

 爆撃機に搭載する爆弾にも手を加え、破片弾(SD)や徹甲弾(PC)だけでなく、対要塞仕様のコンクリート破壊弾(SBe)の開発も完了した為、こちらも増産でき次第送るとの記載があった。

 

「当分は、航空兵器の更新は必要なさそうだな*2

「同感です」

 

 だが、戦闘機に関しては二年以内に次のものを出すと前もって記載しているのだから、私や部下の苦笑いは止まらなかった。

 それにしても、ここまで来るとなると航空学校も偵察機のみならず、爆撃機の専門学校を用意しなくて良いのかと思ったものだが、案の定仕様書に目を通していた上の人間は、すぐさま専門校の開校に踏み切ったらしい。

 その点爆撃機に関しては、既に航空学校でも専門課程が用意されていた為スムーズだったそうである。

 元々空軍の入隊希望者は戦闘機乗りを希望して止まなかったようだが、そこは宣伝局のアピールで一定人数を確保する事に成功したという。

 

 ともあれ、私の仕事はこれらの航空兵力を最大限利用し得る編成を組織せねばならないので、責任は重大である。

 私はまず、対魔導師戦を想定した最小編制数たる三機編隊(ケッテ)を戦闘機小隊から廃することにした。

 既にして航空機は魔導師の高度領域からかけ離れており、エルマーの作品全てが、今後彼らに追いつかれる事はないだろうと考えた為だ。

 

 実際、あの魔導工学の権威たるフォン・シューゲル技師が対航空機に執念を燃やし、限界高度と最高速度を追求する余り、コンペを落としたというのは有名な話である。

 エレニウム八四式以降、帝国軍ではエレニウム工廠だけでなく、民間も含めたトライアルを実施した事で、これまでにない多種多様な魔導術式を確立させるに至ったが、その理由は、『エルマーが航空機開発に着手してしまったから』である。

 

 これまでの航空機開発は帝国軍主導ではあったものの、民間企業も少数ながら参加しており、フォルカーも最初期は飛行機開発に成功し、実用化すると共に会社の権利を帝国軍が買い取った──会社が零細で大量生産に向かなかった為──という経緯がある。

 しかし、あのエルマーが空の世界に踏み込んできたという情報が入った時点で、航空機会社は民間機専門に切り替えるか、これまでの積み重ねを捨ててまで、エンジン周りの技術を流用出来る、演算宝珠開発に舵を切り替えてしまったのだ。

 

「あんな化物と戦える訳がなかろう。エレニウム工廠に殴り込みをかける方がまだマシだ」

 

 これは時の航空機開発の権威にして、エンジン製造メーカー『ユンケルス社』社長、ユンケルス博士が放った、余りに有名な台詞である。

 この後のユンケルス博士は、帝国軍魔導工学に多大なる貢献をもたらした。

 各術式の簡略化に伴う、爆裂術式を筆頭とした攻撃術式の高速処理に加え、ゾフォルトの単装爆撃にも劣らぬ大規模爆撃を可能とする空間爆撃術式といった、地上制圧に力を注ぐ事で航空機を相手にしない方針を固めた。

 他企業も、航空機との高度差は酸素量や気圧差から克服し難く、従来通り対魔導師戦闘と地上支援を意識した設計にすべきという意見で一致した。

 

 これは魔導師にとっても喜ぶべき事で、航空機優勢という逆転された現象に住み分けの場を用意してくれただけでなく、軍主体であったが為に硬直化していた思想が柔軟になった為、これまでにない速度で技術拡張が進められたのである。

 光学系術式を攻撃手段に転用した狙撃・砲撃術式などはその典型で、空気抵抗に依らない安定した攻撃と防殻貫通性能は、全魔導師の必須スキルとなったほどだが、特に凄まじいのは消費魔力の削減と、魔導障壁の機能向上だろう。

 従来の防御膜は一般的な小銃弾(七・六二ミリ)までが防御可能な閾値であったのに対し、新型機は一二・七ミリ弾まで向上。

 防御にリソースを回せば、四センチの火砲さえ耐えられるというし、何より演算処理の拡張によって、防御膜と防殻の同時起動を実現させた事は鉄壁と言う表現でさえ余りある事から、魔導攻撃機を有さない他の列強国は、軍用機で魔導師の相手をしようとはしなくなった*3

 

 そして消費魔力量の削減は魔導師人口の大規模な増加を約束したが、これが原因で魔導師に一層の低年齢化を招いた事は、技術向上がもたらした悲劇とも言える。

 私の妻をはじめ、多くの少年少女が戦地に赴く事となった時代は、すぐそこまで来ていたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 少々余談が過ぎたので、魔導師の事情は置くとしよう。

 私は三機編隊(ケッテ)に代わる最小編隊数として二機編隊(ロッテ)を定め、これを分隊とする事とした。

 戦術単位の最小たる飛行小隊は、この二機編隊二組の計四機から成り、この飛行小隊が三個で飛行中隊。飛行中隊三~四個と中隊本部で飛行隊(飛行大隊)。三~四個飛行隊で航空団となり、戦術単位の最大が航空団だ。

 この航空団が、空軍の戦術運用の基本単位となる。

 小隊から航空団までは単一機での構成であり、戦闘機なら戦闘機小隊。爆撃機なら爆撃機小隊となるが、爆撃機に関しては従来通り三機編隊を一小隊とする事にした。

 二機ずつで組ませるよりも、三機の方が地上制圧の効率が良いと判断されたからである。

 

 次に戦術単位の上位たる作戦単位だが、こちらは航空軍団と航空師団の二つを置く事とした。

 航空軍団は爆撃機航空団、魔導攻撃機航空団、教導航空団、研究実験大隊から編制されるが、必ずしも航空軍団はこの編制下にある訳ではなく、輸送航空団や偵察飛行大隊が加わったりと、柔軟に変化する事が前提となっている。

 これは後述する戦略単位における、唯一の編制である航空艦隊の傘下に作戦に応じて加わる為の措置で、独立性を確保する為、航空軍団指揮官には移動する飛行場の指揮権も付与した。

 航空軍団は陸軍の進出に合わせて基地を移動していくので、指揮権を与えなければ補給等に問題が生じる為だ。

 

 一方、航空師団の編制は簡潔で、原則としては爆撃機航空団、爆撃機大隊の二つによって編成される。(但し、こちらも作戦内容によって内部編成が変化する)

 

 最後に語る航空艦隊は空軍総司令部の直轄であり、決められた戦域部隊を管理する司令部としての役割を担う。

 航空艦隊の編制は航空管区、戦闘機司令部、爆撃機軍団、航空師団からなり、戦闘機司令部の下には戦闘機軍団が着く事となっている。

 

 私は最終的には、四個からなる航空艦隊があれば十分に戦略的軍事行動が可能だろうと考えていた。無論、これだけの規模を整えるともなれば五年単位の時間を要するし、運用に当たっては国内や国境周辺の空軍基地の増設や管制面の拡充も必要である。

 先は長いが、しかしどの国でも爆撃機増産に注力しつつ編制作業を進めている以上、最低でも三年は大規模な戦争など起こさず、列強国は大人しく、しかし着実に戦力を蓄えるに違いないと私は読んでいた。

 

 だが、この予想は裏切られ、私の──というより空軍の──将来設計は脆くも崩れ去る。

 空軍総司令部付となって僅か一年余り。帝国領ノルデンにて新設基地の視察中に、悪夢のような報が飛び込んで来た。

『レガドニア協商連合軍が、我が国との国境を越境せり』と。

 

 後世の歴史書、教科書にその名を刻まれる史上最大規模の大戦争。

『中央大戦』の幕開けである。

 

 

*1
 兵隊用語での佐官階級を指す。これはエポレット肩章からぶら下がる『総』が芋虫に見えた事に因む。

*2
 当時の私はこのように楽観視していたが、これは最大級の誤りであった。

 後の歴史が証明したように、新型機の登場以降、各国は航空機の生産・研究レースに邁進し、想像を絶する追い上げを見せたのである。

*3
 但し、以前にも註釈に記載したように、一九二一年からは帝国軍では大規模な撃墜スコア改定が行われており、魔導師と戦闘機は互いを撃墜数にカウントしなくなった。




 次回、デグ様が満を持して登場いたします(告知)
 ここまで長かった……。

補足説明

 幼女戦記の本来の歴史なら、原作1巻時点で第6航空艦隊とか居るし2巻ダキア戦で爆装済みの第7艦隊とかが出てくるぐらいヤベー規模な帝国空軍なのですが、この作品では主人公のせいで空軍編成がめちゃくちゃ遅れてしまった模様。

 遅れた原因はというと。

 本来、戦闘機の対魔導師戦は早々に打ち切られて、民間航空会社が参入する予定でした。
 そして高高度爆撃機とかの研究が進んで、原作通りの世界に行く筈でした。

 だけど、ファメルーンに何かスゲー勢いで魔導師撃墜しまくる化物がやってきました。
 航空技師も「おいこれマジで対魔導師イケるぜこれ!」とめっちゃノリノリになりました。
 他所の国も「帝国軍航空隊ヤバくね? ウチも似たようなんガンガン作っていこうぜ!」と乗り気になります。
 そして皆、対魔導師専用機としてしか戦闘機を見なくなりました。爆撃機とか地上攻撃とか思考の外です。戦術とか戦略思想もめっちゃ遅れます。そんなことより魔導師撃墜だ!

 他所の国でも帝国国内でも、民間・国家を問わず戦闘機ばっか作りました。大口径重武装のせいで、めっちゃ重くて足が遅いガラクタです。そして当然弾速も遅い。高威力を武器に急降下して地上攻撃とか論外です。
 木造飛行機にクソみたいな重武装積んだ機体とか、一部のアホみたいな技量のパイロット以外は機体がバラバラになります。ただのゴミじゃねーか!

 だけど帝国は、突然クッソやばいエルマーくんが、化物兄貴の為に明らかにオーバーテクノロジーの塊な兵器をガンガン完成させました。
 結果、ここに来てようやく各国もマトモな方向にシフトしました。でも、世界規模で航空機の技術と思想はめっちゃ遅れました。
 本来だったら今頃民間企業が入って、ガンガンまともな大型爆撃機とか高度偵察機とか作れてたのにです。でも、帝国軍の民間企業はもういません。みんな魔導工学に行っちゃったからです。
 このままエルマーくん死んじゃったらマジで帝国の空は詰むね! 全部化物兄貴のせいだね!


 ※航空機生産数は一九三四年ドイツのものを参考にさせて頂きました。
  但し、魔導攻撃機はアホみたいなコストなので、普通の急降下爆撃機の数字から半分にまで減ってます。
  演算宝珠って、主力戦車や戦闘機より高価ですからね……大型化なんかしたら、そりゃあアホみたいな額になるわけで……。

 ※なお、エルマー君は姉上の手作りだから甘い食べ物を喜んだのであって、別に甘党ではない模様。総監部やら中央参謀本部の電話も、主人公の負担を減らすためだけにやったみたいです。

 ※主人公のお仕事の航空兵力編制は、まんまドイツ空軍の編制です。『図解・ドイツ空軍』や『[図説]ドイツ空軍全史』が大変詳しく分かり易いので、ドイツ空軍が好きな方には是非お勧め致します!(ダイマ)

 ※航空機のスペックは元ネタの機体のものを使用していますが、資料によってスペックに違いがあります。作者は『ドイツ空軍軍用機集1928~45』を基本資料とし、こちらに記載がない項目に関しては『図解・ドイツ空軍』のドイツ空軍の機体の項を参照させて頂きました。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【航空機】
 フォッケウルフFw190A3→ヴュルガー
 Fw200コンドルC3型→コンドル
 タンテ・ユー(ユーおばさん)→オンケル・ユー(ユーおじさん)
 フォッケウルフFw189→近距離偵察機ウーフー
 ユンカース→ユンカー
【人名】
 ユンカース博士→ユンケルス博士



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21 フェアリー〇八-善き少女に『幸運』を

中央大陸 各国勢力図1923年6月

【挿絵表示】


戦略ゲームってさ、要するに塗り絵を楽しむものだと思うんだ(帝国主義者並感)

※募集した主人公のコールサインを、クロウに決定いたしました!
 まーろんさま、おめでとうございます!
 そして、多数のご応募を頂きまして、この度は本当にありがとうございました!
 投票していただいた読者様、そして、コールサインをご応募してくださった読者様に、改めて厚く御礼申し上げます!


 レガドニア協商連合軍の越境侵犯と、それに伴う帝国の宣戦布告を耳にしたとき、私は帝国軍情報部が、自作自演で開戦理由をこじつけたに違いないと本気で信じて疑わなかった。

 

 勿論、今日の読者諸氏はそれが誤解に過ぎず、レガドニア協商連合の政治家が自国内の貧富格差を誤魔化す為であったり、或いは支持率獲得の為のアピールとして自国軍を差し向けた事はご存知の事と思う。しかしながら、当時の私はそのようには考えなかった。

 

 内側の問題を外敵に向ける事で、その場を凌ぎたがるのは政治屋の常であるが、まさか軍事的観点から見て、ここまでの無能を協商連合が晒すなどとは露とも思わず、不当かつ大迷惑極まりない怒りを、心中で味方の情報部に向けていたのである。

 正直に告白すると、情報部連中を一人残らず銃殺刑にしてやりたいとすら思った。今となっては謝罪の言葉しか出てこないが、とにかくこの時は、それぐらい本気で腸が煮えていたのだ。

 

“まだ空軍は新型機を更新し切ってさえいないのだぞ!? 陸・海軍だけで勝てるとでも考えたのか!?”

 

 確かに彼我の国力差なら、それも可能ではあるかもしれない。だが、こんな真似をすれば間違いなく列強諸国は黙っていない。確実に自分達(ライヒ)を横合いから、全力で殴りつける事が予期し得ただけに、私は苛立ちつつも将として冷静に対応すべく頭を回した。

 

“帝国には『プラン三一五』がある。内線戦略の粋として練り上げられ、芸術とまで謳われた鉄道ダイヤによる域内機動ならば、地上兵力の迅速な大規模導入は可能であるし問題ない。

 我々空軍は第三国の介入に備えて警戒網を各基地が敷き、仮に共和国やダキアが帝国に踏み入るようならば、共和国は制空権を確保しつつ遅滞戦闘に留め、地上軍の増援を待つべきだ。ダキアは空軍の『プラン』通り、地上軍到着より先に航空勢力を潰す”

 

 私は仮に自分達の戦力が万全であったとしても、空軍だけで戦争を終わらせられるとは考えていない。

 決定的な勝利をもたらすのは、常に歩兵の銃剣を敵首都と指導者の喉元に突き付ける事*1であり、空の上からだけで首都を包囲、制圧する事など不可能だからだ。

 まして、戦力が全くと言って良いほど整っていない現状では、出来る事など限られている。

 

「基地司令官閣下、小官もゾフォルトで出撃します」

 

 総司令部付きの佐官が出撃するなど正気の沙汰ではないが、フォルカーを尽く売却してしまった手前、どの基地でも軍用機が不足している状態だ。出せるのなら一機でも。動ける人員は一人でも多く出撃し、敵航空兵力を叩く必要がある。

 正直なところ、今回の私は不運であったが、同時に幸運にも恵まれた。視察にあたっては陸路より空からが速いからと、総司令部勤務となって以来、最低限の飛行訓練以外で乗る事のなかったゾフォルトに乗って、他の基地からより前線に近いこの基地まで飛んで来ていたのだ。

 

“前の基地の者に勧められた通り輸送機で来ていては、出撃もままならなかったろうな”

 

 この日、私の後席に着いたのはシャノヴスキー少尉ではなく、年若い色白の伍長だ。シャノヴスキー少尉は、出来れば是非空軍総司令部で私の副官になって欲しかったのだが、将校としても軍人としても学ぶべき事は多いとして、ファメルーン以降は別の任地に就いていた。

 とはいえ、この伍長も線こそ細いが目にはしっかりと力が入っており、私は十分に活躍してくれるだろうと信じることが出来た。

 伍長は私の後席に座る事を大変畏れ多いと言っていたが、私はそれを笑って否定した。

 

「私は所詮、一士官に過ぎんよ。そう気負わず、己の勤めを果たしたまえ」

「はっ!」

 

 元気の良い返事に、私は良しと頷いた。現在、協商連合軍は地上軍の越境侵犯から何故か遅れる形で──後に判明したが、協商連合軍にとってこの越境侵犯は、自国主権領域圏内の哨戒任務としか考えていなかったらしい──侵攻する敵航空兵力に対し、防空遊撃に徹する事が私の任務である。

 本来、最低でも二機編隊での出撃に、単機飛行で駆り出されている所からも、空軍の余裕のなさが伺えた。

 

 とはいえ、単独飛行が私だけだったのを考えるに、基地司令部も私が撃墜されるなどとは夢にも思っていないのだろう。

 確かに私は今のところ戦傷十字章どころか、傷痍徽章さえ得る機会のない身だが、そんなものは所詮運であって、何時墜ちても可笑しくないのが空の世界だ。

 私はひょっとしたら、自分が嫌われているのではなかろうかと不安になって伍長に尋ねてみたが、伍長は私の問いかけに吹き出してしまった。どうやら冗談に聞こえたらしい。

 

「キッテル少佐殿を墜とすなら、一個師団は必要ですよ!」

「過分な評価だ」

 

 皮肉でも謙遜でもない。幾ら私でも、単機で一個師団に囲まれては確実に死ぬ。

 弾薬も燃料も足りないのだから、当然だろう。

 

 

     ◇

 

 

 私と伍長の遊撃は、実に呆気ないものだった。ゾフォルトの爆裂術式弾の前に、密集編隊を取る複葉機など的が集まっているような物に過ぎず、散開したところで既に貫通術式の有効射程内に入っている以上、私には鴨打ちも同然の有様だった。

 接敵した飛行中隊をあっさりと片付け、伍長から賞賛と拍手を貰ったが、これは私の腕というより純粋に機体性能の差でしかない。

 かくして悠々自適な空の旅を切り上げ、通信機から次の指示を受け取ろうとした矢先、女性管制官の声が響いてきた。

 

「ノルデンコントロールよりクロウ〇一*2へ。応答せよ(ピテ・メルデン)

「クロウ〇一よりノルデンコントロールへ。我、受信せり。感度良好」

 

 私は無線機から求められたままに応答すると、間髪入れず、しかし沈着を保ったまま管制官が用件を述べた。

 

警報(アハトゥング)、空中状況報告。砲撃観測手としての任に就いたフェアリー〇八からの救援要請。座標、戦域α、ブロック八、高度四三〇〇」

 

 友軍の撃墜さえ淡々と報じると、航空部隊より皮肉られて止まない管制官は、今日も今日とで冷静であるが──勿論それは、訓練と指導によって不動の精神を培っているに過ぎず、管制官に血が通っていない訳ではない──反面、私は気が気ではなかった。

 小隊でも分隊でもなく、単騎のコールサインでの救援要請。間違いなく危機的状況下に有り、一刻の猶予もない事は即座に察せられた。

 

「クロウ〇一からノルデンコントロールへ! 一八〇以内に到着する! フェアリー〇八の即時離脱許可を乞う!」

「ノルデンコントロールからクロウ〇一へ。防空圏維持の為、フェアリー〇八の戦域離脱は許可出来ない。至急、応援に向かわれたし」

了解(フィクター)……フェアリー〇八に『幸運を祈る。神は我らと共に』と伝えられたし」

「ノルデンコントロール了解……全速、願います(ビッテ・フォルガス)

 

 最後の一言は、感情を殺して必要事項のみ述べ伝えねばならない管制官の職責を逸脱するものではあった。

 それでも口にしたのは、管制官にとっても友軍の窮地を理解していた為の泣訴であり、紛れもない戦友愛の発露だったことが私の胸を打ち、最大級の返礼を述べる。

 

その言葉が聞きたかった(ヤヴォール)!」

 

 管制官の信頼と安堵の吐息が吹き込まれた通信が切れると同時、私は己が使命を全うすべく、勢い良く操縦桿を切った。

 

“待っていろ、すぐに駆けつける!”

 

 方位指示計を目標地点に合わせる形での右旋回。ノルデンの分厚い層雲を突き破り、吹き募る風を引き裂きながら、エンジンが燃え上がらんばかりに機速を上げた。

 スロットル全開(フォルガス)! 早く、早く、急げ、急げと、意味もないのに自分を急かす。戦友が私を待っている。傷を負い、多くに囲まれ、一方的に甚振られながら、それでも救援を信じて待ってくれている。それを思えば、私の心は早鐘が鳴った。

 

 どうか無事で居てくれと。絶えず狂うほどに祈り続けて。だが、嗚呼、だが……。

 

「止めろ、フェアリー〇八……!」

 

 私は絶叫した。敵魔導中隊を巻き込んでの自爆。花火のように美しく、しかし凄絶で残酷な爆炎が、曇天の空に吹き荒れた。

 

 

     ◇

 

 

 撤退する敵魔導中隊の生き残りと、落下するフェアリー〇八。冷徹かつ合理的な軍人ならば、戦友の稼いだ時を無下にせず、ここで魔導中隊を始末すべきだろう。少なくとも、私ならば敵魔導師を確実に、一名たりとて残さず片付ける事は容易だ。

 だが、この時の私には、そんな気は微塵も起きなかった。それどころか、敵の事など視界にさえ入っていなかった。

 

「フェアリー〇八!」

 

 私は機首を落とし、減速して潜り込むようにフェアリー〇八の落下域に先んじた。同時、フェアリー〇八の落下速度が鈍り、風防を開けた私のコクピットへと吸い込まれるように綺麗に落ちる。

 

「伍長、感謝するぞ!」

 

 私は振り返って礼を言った。後席に宝珠核が搭載されている以上、伍長ならば術式を起動出来る。とはいえ、魔導師としての基準値を満たしていない人間のしたことである。伍長はなけなしの魔力を使い切ってしまったのか、肩で息をして顔を青くしながらも、無理に私に微笑んだ。

 

「お役に立てまして、光栄で、あります。少佐殿、基地への帰還までは、私が操縦します。フェアリー〇八は」

「ああ、私が手当する! よくやってくれた伍長!」

 

 私は自分が被弾した際の応急キットを取り出しつつ、フェアリー〇八のプレートキャリアのベルトに巻きつけるように背に装備されたシースナイフで、不要な各種装備を切り離して空に捨てた。血液の循環と気道を妨げないようにする為だ。

 頻脈に頭のふらつき、蒼白となった顔面に冷汗。全てが危険な兆候を示すサインである。先程まで死ぬまで離すまいとの覚悟の表れから銜えていた演算宝珠さえ、今は口からこぼれて首にぶら下がっている有様だった。

 

“骨折は右腕と左足。右目からは出血しているが眼球は無事。おそらく傷は瞼の裏か何処かだろう。左頬の裂傷も後回しで良い。問題は四肢の被弾に伴う出血だ”

 

 おそらくは動脈を傷つけている。私は腕と足の付け根をベルトで縛って止血した。血を止めるには十分な緊縛力が必要とされるので、フェアリー〇八には相当な痛みが走るが、我慢して貰うより他にない。きつく縛ると、フェアリー〇八は強く体を痙攣させた。

 

「済まない、耐えてくれ」

 

 謝罪しつつ、次に腹部銃創の類がないか確認したが、幸いにも致命傷は避けていた。おそらく、防殻で臓器類や致命部位を重点的に保護したのだろう。私は僅かに安堵の息を吐いたが、しかし予断は許されない。フェアリー〇八は、今まさに生死の境にあるのだ。

 

「フェアリー〇八! 目を開けろ、フェアリー〇八!」

 

 私は頬の裂傷にガーゼを当て、被弾のみならず火傷を負った左腕に包帯を巻きつつ、懸命に声をかけた。

 

「ぅ……、あ」

 

 パクパクと。陸に上がった魚のように口を開く。それが私のかけた声に対してのものなのか。それとも死の間際の兵士が、水を求めるように口を開いているのかは判断できない。

 だから、私は右腕と比べて無事な左の手を握って、必死に声をかけ続けた。

 

「もう敵はいない! 居ないのだ! 貴官は義務を果たした! 生きて帰るんだ! 神も、聖母もそれをお望みの筈だ!」

「か、み……」

「ああ、神のご加護を、」

「神など、いない」

 

 震える声音で。この世の全てを恨むような目で、フェアリー〇八は私を捉えた。初めて耳にした声は幼くも美しく、けれど、どうしようもなく掠れていた。

 

「あ、あ、いや、だ」

 

 嫌だ、嫌だとフェアリー〇八は漏らす。声は何処までも悲しく、私の胸を、これ以上なく締め上げて止まない。

 

「しに、たく、ない」

 

 その言葉を。一切の虚飾のない生の渇望に、私は打ち拉がれた。そしてようやく、この時になって初めて、私はフェアリー〇八を、彼女を義務を果たした軍人ではなく、一人の少女として見た。

 まだ、一〇にも届かない幼い少女。彼女が小銃を握って戦い、傷つき、そして今その命が尽きようとしている中、神を否定する言葉を口にしたが、それを罪だと私は思えなかった。

 

 本来なら、彼女のような少女は、こんな場所に居るべきではない。普通に学校に通い、同級生と恋やお洒落の話で盛り上がり、休みには家族と街に出かけて、温かな日々を送らなくてはいけない筈だ。

 私達大人が、私のような軍人が不甲斐ないばかりに、彼女に銃を握らせたのだ。

 人は、生まれを選べない。才があれば、齢がどれだけ幼かろうと魔導師として取り立てられる。彼女は決して、私のように空に憧れた訳ではあるまい。ただ、他に選択肢がなかっただけだ。

 それ以外に、一体どんな理由がある? 私のように貴族であったとして、戦地に女性士官として赴くのだとしても、せめて婚姻を果たすなりしてから来る筈だ。

 実際、齢に差はあれど、彼女のような魔導師や軍人は多い。赤紙を寄越された孤児院が、まだ徴兵年齢に達してない少年少女を、『自主志願』として幼年学校に送り出すのは帝国の恥ずべき現実だった。

 

「しに、たくない」

 

 死にたくない。うわ言のように、彼女はその言葉を繰り返している。歯の根は合わず、ガチガチと全身を震わせて。美しい薄紅色だった筈の唇が紫になっても、そう漏らし続けている。

 

「死なせなど、するものか」

 

 強く強く、震える少女の手を握りながら、私はそう宣誓する。

 

「フェアリー〇八! 神を信じないなら、それで良い! 私を信じてくれ! 私が君を必ず助ける! 必ず君を、伍長と病院に届けてみせる!」

「しん、じ、なくて」

「ああ、神も聖母も、今は忘れていい! 否定して良いんだ! そんな事で、誰も君を責めるものか!」

 

 私の発言を知れば、母上は卒倒するだろう。けれど、今の彼女に必要なのは神の愛でも、許しでもない。生きたいという、誰もが当然のように願う事を、叶えてくれる手足こそが必要なものだ。

 

「そう、か。わたし、は」

 

 その言葉の後に、何が続く筈だったかは分からない。ただ、先程のような怒りとも嘆きとも違う、安堵するような吐息が、私の耳へと届いた。

 

 

     ◇

 

 

 最短距離の帝国空軍基地に到着した私は、伍長を後席に乗せたまま、担架で運ばれるフェアリー〇八に寄り添い、手を握り続けた。

 

「少佐殿、後は軍医が」

「ああ……そうだな」

 

 私が出来るのは、ここまでという事なのだろう。出来る事ならば最後まで付き添いたかったが、しかし、フェアリー〇八に必要なのは治療であって、私ではない。

 私は片手でフライトジャケットのボタンを外し、母上から贈られたロザリオを握らせようと思ったが、止めた。フェアリー〇八は神を必要としていない。彼女が、本当に必要なのは別のものだ。

 

「これを」

 

 私はポケットから、姉上のハンカチを取り出した。『幸運を』という言葉が、私にツキを運んでくれるような気がして、ずっとお守り換わりにしていたものだ。

 

「大丈夫。君は、助かる」

 

 私の手を固く握っていた左手は、そのままハンカチをギュ、と握った。私はその力強さに、きっと大丈夫だと安堵する事が出来た。担架に乗せられ、遠ざかるフェアリー〇八を見送りつつ、私は曲げた親指でもう一方の親指を押す(◆1)

 そして、魔導軍医の治療が行われているだろう間、母上のロザリオを握り祈った。

 

「いと高き主と聖母よ、彼女の罪をお許し下さい。彼女は貴方達の愛を、知らず生きて来ました。私達大人が不甲斐ないばかりに、彼女はロザリオでなく剣を握り、国に身を捧げ、己と敵を傷つける人生を歩ませてしまいました。

 全ての罪は、私達にこそあるのです。どうか、慈悲深き御心をもって、かの者に慈悲と許しの機会をお与え下さい。彼女は、祖国の為に身を擲って下さいました。私達、不甲斐ない大人の代わりにです。

 どうか、かの者に加持を。そして祈りの機会をお与え下さい。彼女は善き少女です。今は無理だとしても、いつかきっと、貴方達と世界を愛する事が出来る筈です。

 その日までは私が彼女の分まで懺悔し、彼女の分まで祈りを捧げ続けます」

 

 この誓いに、嘘はない。私はこの日から主と聖母に祈り続ける日々を送った。

 

 

     ◇

 

 

 そして、別の誓いも立てた。

 

“あの子はまた、銃を執ってしまうのだろうな”

 

 目が覚めて、歩けるようになって、戦えるようになれば、きっとそうなる。

 花畑でなく荒野を見渡し、活気溢れる街でなく戦場を駆け巡り、殿御でなく銃と勝利を愛してしまう。

 

「それだけは、駄目だ」

 

 私は拳を強く、飛行手袋の上からでも爪が肉に食い込み、血が滲むほど固く握った。

 彼女が、フェアリー〇八が快復するまでに、戦争が終わる事はないだろう。それでも、終わらせる事を早めるぐらいは出来る筈だ。

 私は過去、ノルデンで教官にならなかった事を悔いた事がある。しかし、今日この日に私はそれを撤回した。

 必ずや、一日でも早く帝国に勝利を届けねばならぬ。もう、私はあの子のような幼い少女を、戦場に行かせては決してならない。

 瞳に闘志を宿して、私は滑走路のゾフォルトに戻った。伍長は地面に座っていたが、私を見るなり姿勢を正し「何時でも出撃できます!」と元気よく言ってくれた。

 

「良いのだな? 私は本当に飛ぶぞ?」

「構いません。もう動けます!」

 

 嘘はないと、私には分かった。血色の良い顔には、私にも負け劣らぬ意気込みが感じられる。

 

「宜しい。そして、感謝する。貴官の力が、敵飛行中隊を撃退し、一人の妖精を救ってくれた。これは白金十字にも値する功績だ」

 

 私は伍長の両肩に手を乗せ、再度ありがとうと感謝の言葉を贈った。

 

「光栄であります、少佐殿」

 

 感極まった伍長に対して私は満足げに頷き、弾薬と燃料の補給を終えたゾフォルトに乗り込んだ。

 そうだ。戦争を一日でも早く終わらせるのだ。一人でも多くの敵をこの手で倒し、殲滅し、この空と大地の全てから、帝国の敵を根絶やしにせねばならぬ。

 そうして初めて、フェアリー〇八は戦場の曇天でも荒野でもなく、黄金に輝く帝国(ライヒ)で生きる事が出来るのだから。

 


訳註

◆1:帝国(ライヒ)において、幸運を招くとされる動作。

 

*1
 より深く発言するならば、政治的中枢の破壊と、敵国領土の物理的占領が勝利に不可欠な要素である。敵野戦軍の駆逐をこれに加える識者は多いが、私はこれが勝利の決定打になるとは考えていない。

 何故ならば、野戦軍を駆逐したとしても『亡命政権』が成立してしまえば、義勇兵が組織され、勢力を盛り返すからである。

*2
 これは私のコールサインとして、最多撃墜王となってから、空軍内で用意されたものである。

 烏は魔女の相棒であり、魔導師とは陸軍航空隊時代から飛んでいたこと。

 クイーンズでの烏の訳はCROWであり、N(私の名である、Nikolausの頭文字)を末尾に加えれば“CROWN”=王冠になることから命名された。

(訳註:原著ではライヒ語である為、クレーエ[Krähe])




 ニコ君からしたら、協商連合との開戦はWW2ドイツのポーランド侵攻並みの自演臭だった模様。そりゃあ真っ先に身内を疑う。

 管制官の締めのセリフは原作だと『幸運を』だけで、アニメだと『幸運を祈る。神は我らと共に』でしたが、今回は後者にしました。ようやくここまで使えなかった姉上のハンカチと母上のロザリオを出せた(感無量)

 そして超絶欠陥機ゾフォルト君の一つ目の役割が終わりました。魔法が使えるようにしたのは、デグ様を浮遊させて優しくキャッチして、本音まで聞くためだったのです!
 後席の奴が操縦出来る仕組みなのも、デグ様とのお医者さんごっこに勤しむという、超絶マニアックプレイの為でしたとさ! 
 ……これだけの為に御大層な兵器用意したとか、作者はバカなのでは?(今更)

 あ。ゾフォルト君のもう一つのお役目は、至極まともで真っ当な理由です。そちらを説明するのはかなり後になりますが、この欠陥機がきちんと活躍できます。
(というか、大真面目にそれぐらいしか活躍させる理由がないという)


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22 赤小屋への出頭-参謀総長の真意

※2021/2/14誤字修正。
 みえるさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


“『ターニャ・デグレチャフ魔導少尉。救援到着まで敵魔導中隊を拘束。満身創痍となりながらも撃破確実四、不明二の赫々たる戦果を挙げ、敵部隊の戦線突破を阻止した功を友軍への多大な貢献と認められ、銀翼突撃章を受章。「白銀」の二つ名を拝命す』か”

 

 軍事公報を目で追いながら、私はフェアリー〇八改め、デグレチャフ少尉が無事快復した事に心から安堵した。

 デグレチャフ少尉の銀翼突撃章受章に関しては、私は推薦人となる事も出来たがそれをせず、飽くまでゾフォルトの記録映像と戦域付近の遺体から確認し、人事局功績調査部の判断に委ねることとした。

 これは何も、年端もない少女に勲功を与え、英雄に祭り上げるのを嫌ったという訳ではない。私が過去にも、そして今現在さえ撃墜スコアを他人に譲ってばかりいるので、私が推薦人になっては、却って信憑性が薄まってしまうと危惧したからだ。

 

 人事局としては、私にもデグレチャフ少尉を救出した功で銀翼突撃章の柏付──同勲章を複数回授与された際は、柏が付く規定となっている──を贈りたかったようだが、流石にあからさまな話題作りの為に名誉ある勲章を頂くのは、過去に同じ勲章を受章された偉大な先人達に失礼であるので、今回ばかりは固辞した。

 何よりここで無理に柏付きを貰わずとも、私は既に空と言わず陸と言わず友軍の救援には心血を注いでおり、既に複数部隊から柏付銀翼突撃章の推薦を得ている為、話題作りに乗る必要はなかったというのもある。

 

 それにしても、と。私は軍事公報の記事に再度目を通した。幼年学校には通わず、八歳という皇族でさえ前例のない最年少での士官学校合格を果たし、飛び級を重ね僅か一年で次席卒業。

 エルマーにも匹敵するのではないかというデグレチャフ少尉の天才ぶりには、私も目を皿のように丸くしたものである。

 

“その才が、軍以外で使われてくれれば”

 

 そんな、軍人としては恥ずべき考えが脳裏に浮かんでしまうのは、やはりデグレチャフ少尉が、私に死にたくないと縋ったからか。いや、これが大人の士官であれば、間違いなく私はこんな事を考えなかったろう。

 死にたくないのは、誰だとて同じだ。将校となるべく志願し、覚悟を持って軍衣に袖を通した以上、いつか死ぬその時まで戦うか、嫌ならば除隊しろと冷たく突き放したに違いない。

 全くもって酷いえこ贔屓だとは、私自身自覚している。大人か子供か。違いはただ一つだけで、デグレチャフ少尉以外にも少年兵は居るというのに。

 

「中佐殿、到着致しました」

「ご苦労」

 

 私は運転兵に礼を述べ、軍帽を被って将校鞄を手に、赤小屋へと歩を進めた。赤小屋などという愛称は口にすれば可愛いものの、重厚な赤煉瓦造りの中央参謀本部は、正しく帝国の中枢にして頭脳と呼ぶに相応しい威圧感を見る者に与えていた。

 

「重役出勤かね? 中佐」

「遅参をお詫び致します、閣下」

 

 冗談だという事は分かっているが、この場では人目がある上に厳格な空気がのしかかっている為、私は謝罪と共に敬礼する。

 

「いや、時間通りだ。行くぞ」

「はっ」

 

 私は進級理由に心当たりがないまま、突如ノルデンで中佐への進級と帝都への帰還を命じられた訳だが──そもそも私は総司令部付の為、前線で飛んだこと自体問題なのだが、そこは緊急時故に不問にされた──ベルンに到着して早々、レガドニア協商連合の越境侵犯の直前に進級されたフォン・エップ中将から直々に、迎えを寄越すので赤小屋に出頭するよう言われて得心した。

 要するにこれからフォン・エップ中将の副官として、また辛労を少しでも和らげる為に、矢面に立ってくれという事なのだろう。案の定フォン・エップ中将は、私に打ち合わせも同然の愚痴を零して来た。

 

「参謀長方が、周辺国に動きがないのを良い事に『大規模攻勢に出るべきだ』などと中央に提言しおった。赤小屋の参謀連にも、同調する声は多い」

 

 正気の沙汰ではないな、という私の内心は間違いなくフォン・エップ中将も同じだっただろう。

 プラン三一五は、四方を列強に囲まれた帝国の地政学に基づき構築された内戦戦略であり、どのタイミング、どの国家からの奇襲を受けようとも即応可能な鉄道輸送網であるが、仮にここで大規模攻勢などに出てしまえば、間違いなく乱れのないダイヤに支障をきたすどころか、帝国防衛網の崩壊さえ招く恐れがある。

 

「連中の飾緒が、豚の紐飾りに見えたら終わりだぞ。この国に未来がないと思うのと同義だ」

 

 普段ならば慎重な所があるだけに声を押し殺して、それも決して他軍種の前では罵詈雑言など口になさらないフォン・エップ中将が、ここまでの怒りを顕にしている時点で大凡の事情は察せられた。つまりは私のような、帝国の頭脳とは比べるべくもない凡庸な人間さえ、顔を顰めざるを得ない状況という事だ。

 だが、フォン・エップ中将がこれ程までお怒りであるのは、参謀長方の妄言だけが理由でない事は、私にも容易に察せられた。

 

“空軍の長たる閣下が、中央参謀本部に『出頭』せねばならないともなればな”

 

 如何に中央参謀本部が帝国の枢要を担う、陸軍省から独立した最高機関であっても、陸軍全体でみれば、あくまで一機関に過ぎない。既にして空軍は国家航空省が置かれ、指導部が存在し、参謀をはじめ多くの頭脳が存在している。何もかもが陸軍任せだった頃は、とうの昔の話なのだ。

 

 だが、陸軍は未だその認識が無いのだろう。或いは過去の会食で海軍元帥が不平を漏らされたように、空軍もまた外局かそれ以下の扱いというだけの事かもしれない。

 如何に中央参謀本部が戦争指導を担うとはいえ、本来であれば陸海がそうであるように、他の軍種とは最高統帥府内での合議によって戦略を固め、それを元に中央参謀本部が統帥府に戦争ないし国防計画を帷幄(いあく)上奏するものである。

 空軍総司令の副官たる私のみを通すならばいざ知らず、曲がりなりにも総司令官たるフォン・エップ中将にまで出頭を要請するのは、我々空軍は統帥府内での合議には値せず『この程度の場』での調整で十分と考えているのが、透けて見えてしまっていた。

 

 そして、そこまで分かっていながら、出頭要請を呑まねばならなかったフォン・エップ中将のお立場は察するに余りある。

 陸海空三軍の中において空軍は他の軍と比べ、その規模は余りに脆弱だ。仮にフォン・エップ中将が空軍の名誉を守る為、意地を見せたとしよう。空軍内での若手の士気は上がるかもしれないが、陸軍は間違いなく圧力をかけてくる。

 陸路での補給を滞らせたり、人員輸送を後回しにするのは可愛いもので、本来基地防衛に必要な人員さえ手を引くやもしれない。

 面子の為だけに友軍を窮地に陥れるのかと思われるやもしれないが、陸主海従という言葉が帝国軍に知れて久しい通り、どちらが上かを徹底的に分からせようとしてくるのは確かだろう。

 

 フォン・エップ中将を始め、陸軍から出向した時点で首輪を繋がれた人材は、陸軍の手口を嫌というほど理解している者達だ。

 他国の目からは、或いは軍というものの内部を知らない市井の人間には、三軍は一枚岩に映るのかもしれないが、その内情はドロドロとした政の世界と大差はない。

 政治と違いがあるとすれば、こうした後方の考えとは異なり、助け合わねば生き残れないという意識が前線将兵に戦友愛と紐帯精神を培い、所属の違いなど些事同然と笑い飛ばせる柔軟さを有していた事か。

 

 後方で悪い上官に唆され、現場で他軍の将兵と諍いを起こす者も居ない訳ではないが、そうした手合いは長生きできないから止めろと周囲が忠告する。それでも相互依存の精神を養えず、変わらない馬鹿ならば、早々に泥の棺桶に足を突っ込む羽目になるのが定番だ。

 だが、ここは飽くまで前線でなく後方。互いが互いを影で嘲り、唾棄し、自軍が上に立とうという野心と支配欲渦巻く伏魔殿の一角なのだ。

 そして、今や私は帝国陸軍の近衛槍騎兵でなく、空軍将校にして忠誠を尽くすべきフォン・エップ中将の副官でもある。

 上官への忠誠は帝国軍にとって絶対の掟である以上、私は何事があろうともフォン・エップ中将の側に立たねばならぬ。

 

「閣下。小官は副官として、断固として空軍の意を表する覚悟は出来ております」

「すまんな」

 

 短く謝罪されるフォン・エップ中将に、私は「勿体無い言葉です」と返した。元は陸軍からの転籍であろうと、フォン・エップ中将は空軍に決して欠けてはならない才覚を有しておられる。こんなところで不興を買い、後に響いてしまうような事があっては決してならない。

 押し付けられたものであったとしても、フォン・エップ中将の為に嫌われ役を務めよと言われれば、私は喜んで引き受けよう。

 

 

     ◇

 

 

「エップ空軍総司令、キッテル参謀中佐、入ります!」

 

 ノックと共に中央参謀本部第一部(戦略)会議室に入室する。目に眩しいほどの明かりで溢れた空間は、同時に紫煙が充満しており、喫煙者である私でさえ少々目に痛いので換気を推奨したくなった。

 

「ご苦労、楽にしたまえ」

 

 しかし、私達を促された小モルトーケ参謀総長は、葉巻や紙巻の類を銜えられてはいなかったし、灰皿に置かれてもいない。その眼光鋭い視線は、卓上に広げられた地図に描かれた戦場全体に注がれており、私達を一瞥さえしていなかった。

 

“なんという集中力だ”

 

 やはり小モルトーケ参謀総長は、他の者とは一桁も二桁も違っておられる。今、小モルトーケ参謀総長の意識は、私達には到底及びも付かない深遠無辺の世界にあるのだろう。

 だからこそ、私は思わずにはいられなかった。

 

 それに引き換え、と。

 

「参謀総長。私はやはり、戦力の逐次投入は避けるべき愚と提言致します。今こそ大規模攻勢によって、敵を完膚なきまでに追い込むべき好機であると考えます」

「小官も参謀長に賛同致します。我々帝国軍は、ようやく国防の地政学的課題を解決する機会を得るに至ったのです」

 

 協商連合さえ潰せれば、ノルデンでの国境問題は片が付く。少なくとも事が成功した暁には、他戦線での防衛線を厚くする事が可能だというのは、成程、中央大陸の実質的中心地に位置する国土故に、四方を潜在的敵国に囲まれている帝国にしてみれば、魅力的な提案ではあるのだろう。

 全てが大規模攻勢の『成功』を『前提』としたものである、という点に目を瞑ればだが。

 

 一方、こうした攻勢意見に対し、反対意見がない訳ではない。

 フォン・ゼートゥーア、フォン・ルーデルドルフ両准将は、大規模攻勢はプラン三一五の前提基盤を破壊するばかりか、戦略的にも無意味であると語る。

 曰く、帝国軍は現状況下において既に敵野戦軍を殲滅している。この上で防衛線の崩壊さえ招くリスクを孕んでまで、敵への追撃に兵力を投入する意味などあるのか? と。

 

 立場を弁えず口に出来るならば「無い」と断言してやるところだ。目先の勝利に目が眩む余り、博打に貴重な財産を注ぎ込むなど冗談ではない。それも、失えば家が傾くような金額をとなれば尚更にだ。

 私は攻勢を主張するルートヴィヒ中将(参謀長)以下の幕僚と、赤小屋の参謀連を内心唾棄しつつも、少なくとも小モルトーケ参謀総長以外に良識と知性を保っていた優秀な軍人が居てくれた事に心から感謝した。

 

 しかし、同時に中央参謀本部という組織に対しては疑心が生まれた瞬間でもある。大モルトーケ伯の手で育てられ、完成した帝国軍の『叡智の殿堂』。我が祖国が誇る、究極の頭脳集団からなる『実務の館』。

 私が頭の中で築き上げてきたそうした『盲信』は、今この時を以て瓦解した。偉大なる小モルトーケ参謀総長や優秀な参謀個人としてはともかく、少なくとも組織としての中央参謀本部は、決して全てを委ねるに足る全能の存在などではなかったのだと落胆したものである。

 しかし、そんな私の思いなど知る由もなく、ルートヴィヒ中将は私とフォン・エップ中将に水を向けてきた。

 

「空軍の意見を訊きたい。地上軍の大攻勢と勇猛なる諸君らの活躍があれば、間違いなく協商連合は膝を屈する。係争地の確保や賠償金ばかりではない。協商連合の中核州さえ、掴む事は夢ではないぞ?」

 

 嗚呼、なんと魅力的な提案であろう事か。ルートヴィヒ中将は自分達の側に付けと仰りたいのだろう。勝ちに浮かれ、驕り、その傲慢さ故に寝首を掻かれた愚将の例は枚挙に暇はないが、これ程までの増上慢を見せられては、怒りよりも呆れが先に来てしまった。

 

「おそれながら中将閣下、空軍は大攻勢に反対致します」

 

 水を向けたルートヴィヒ中将はフォン・エップ中将からでなく、一佐官から述べられた反対意見が殊更腹に据えかねたのだろう。鼻を鳴らしつつ私を視界から外し、フォン・エップ中将を見据えたが、私は更に横合いから口を挟んだ。

 

「エップ総司令閣下も同様であります。小官は閣下の声として、空軍の総意を述べているに過ぎません」

 

 副官としても階級としても過ぎた発言であるが、元より弾除けないし、海軍で言う被害担当艦として矢面に立つ為の進級と出頭である。

 ことが終われば中央参謀本部の面子を保つ為、懲罰人事として最前線に配置されるだろうが、私にしてみれば最前線は帰るべき場所であって懲罰でも何でもない。

 初めからそのつもりで私を副官に宛がったのだから、フォン・エップ中将も人が悪いものである。

 或いはルートヴィヒ中将もそれを見越して、前線から離れた僻地辺りに私を飛ばせと空軍の人事に口を挟んでくる可能性もあったが、それならそれで別の手がある。具体的には、後に矛を交えるであろうダキアに私を飛ばすのだ。

 退路が確保されている以上、私に恐れ、萎縮する理由など何処にもない。胸に去来した反感と憤怒は、この際フォン・エップ中将の分まで吐き出してしまう事にした。

 

「では中佐。貴様の、いや、空軍の反対する根拠はなんだ?」

「はい、閣下。現在我が軍は再編成が間に合わず、敵航空戦力に対し寡兵で防衛空域を確保している状況が続いております。その上での大規模攻勢など、現実的とは申せません」

 

 私は北方戦線(ノルデン方面)での各基地の配備数を示す記録簿を提出した。売却された旧型機と導入された新型機の落差は著しいもので、同時にその数字は、ルートヴィヒ中将を激高させるばかりか、この会議室の参謀らを絶句させるには十分過ぎる数字だった。

 年間での配備数は予算案の提出と軍事計画の作成上、事前に陸海軍に送ってはいたのだが、どうやら工場の稼働率が想定以上に悪かったようである……というのは嘘だ。

 実際には前年度に工場稼働率を水増しして提示し、あたかも今年の配備数が『偶然』間に合わなかったかのように見せているに過ぎない。

 そうでもしなければ、到底軍を名乗るには数が足りなかったからだ。案の定、ルートヴィヒ中将もそこを突いて来た。

 

「貴様らこんな数で軍を名乗っておるのか!? いや、待て! それなら今日までの戦果はなんだ!? まさか貴様一人で半数以上平らげたとでも言う気か!?」

 

 語気荒く怒号するルートヴィヒ中将は、数字を誤魔化しての提示だと考えたのだろう。その考えは正しくもあり、間違いでもある。まず、数字に関しては飽くまでノルデン方面の各基地の配備数であって、全体のそれではない。単にノルデンの配備数が他と比べ、圧倒的に少ないだけだ。

 しかし、戦果に関しては紛う事なき事実でもある。私が食ったのは全体の五分の一もない。

 

「はい、いいえ閣下。空軍は一昨年から大規模な軍用機更新に踏み切り、昨年から再編成を計画しておりました。我々の編成計画は最低でも三年の時間を要するものでしたが、これは各国でも同様の期間を要するものである為、問題視されていませんでした。

 現在、空軍が敵航空兵力を圧倒しているのは、エルマー技術少将閣下(一九二三年、一月進級)のもたらした、圧倒的性能差があったればこそなのです」

「何故旧型機を残さなかった! 用兵以前の基本を忘れたか!」

 

 士官学校や軍大学では、ナイフとフォークの使い方しか学ばなかったのかとルートヴィヒ中将は口角泡を飛ばしたが、私は柳に風とばかりに返した。

 

「航空兵力は魔導師と異なり、飛行には燃料を必要とします。加え、航空機の製造は演算宝珠ほどでないにせよ予算を要し、人件費を含めた維持・整備にかかるコストも莫大*1なものであります。価値ある内に旧型機を手放さねば、予定している編成計画の目標数に達する事は、至難を極めたでしょう」

 

 実際には空軍の予算は潤沢であり、しかも新型機の開発に当たって付き纏う技術者の試行錯誤に伴う実験を含む研究費は、エルマーという発案即実用可能な天才技師のおかげで、大幅という言葉でさえ可愛く思えるほどのコスト削減が為されている。

 ゾフォルトのような中型(双発)爆撃機に匹敵する高級機を持ち得ながらも、その気になれば航空省主導で工場を増設する事は十分可能だったが、それを口にしてやる理由はない。飛行機を作るばかりが、金の使い道ではないのだ。

 

「そして、戦いにおいて数が必要であるという意見につきましては、小官も賛同致します。しかし、小官のような一部のパイロットを除けば、帝国と他国との錬度に差はありません。いえ、我々帝国軍よりもいち早く航空機の価値に気付いた他国にこそ、一日の長があります。

 仮に旧型機で出撃させれば、これ程までの戦果を我が軍が得る事は叶わなかったでしょう。これまで育ててきた、貴重な搭乗員達を徒に消費するばかりであったと確信を持って申し上げます」

 

 これも嘘だ。帝国空軍の錬度は、たとえ同性能の機体であっても、他の列強国に対して十分以上の戦果を挙げる事は可能だろう。ルートヴィヒ中将の言通り、やはり数という埋めがたい差により、この程度の戦果しか出せていないという事実には歯痒ささえ感じている。

 寡兵で敵大軍を破るという構図は、国民や戦友を湧かせるには良いかもしれないが、やはりこちらの被害が皆無という訳ではない以上、もどかしさはどうしても拭えない。

 

“それでも、『今後』を考えればこれ以上北方戦線に回してもやれん”

 

 前線の戦友達には悪いが、今しばらくは耐えて貰わなくてはならない。何故ならば、我々帝国と協商連合との終戦を望まない国々(ものたち)がいるからだ。

 

「話は分かった。空軍の立場もな」

 

 もう帰れとルートヴィヒ中将は言いたいのだろう。言うべき事は言った以上、こちらとしては留まる必要はない。後はフォン・エップ中将が私に最前線行きを命じれば、全てが丸く収まる筈だ。しかし、ここで待ったをかけた者が居た。誰あろう、小モルトーケ参謀総長である。

 

「中佐。エップ空軍総司令の声として、私の質問を代弁したまえ」

 

 これまで一言も喋ることなく、静観に徹していた小モルトーケ参謀総長からの言葉であっただけに、皆一斉に意識を参謀総長へと向けた。先程まで興奮冷めやらぬ状態であったルートヴィヒ中将さえ、息を呑んで言葉を待っている。

 

「はい、閣下。何なりと」

 

 内心張り裂けそうな程鼓動が響く心臓を抑えながら、私は平静に努めて応えた。

 

「空軍が攻勢をかけられない事情は理解した。では、プラン三一五そのものについて意見はあるか?」

「プラン三一五は帝国が誇る防衛機構の芸術であり、より優れた防衛案を提示する事のないまま、これを崩す事は帝国の安全を脅かすものであると考えます」

「宜しい。では、重ねて問おう。プラン三一五を維持した上で帝国が勝利するには、どれ程の期間を要する?」

「協商連合の本心と致しましては、即時にでも和平交渉の席に着く用意があるでしょう。ノルデンに関しても、ロンディニウム条約で見せた妥協以上の領土を我々に提示し得るかと」

「その根拠は?」

「この戦争は、協商連合にとって初めから勝ち目のないものであります。帝国と比して彼らの軍事力、国力は脆弱と言えぬまでも、決して独力で乗り越えられるようなものではありません。

 敗戦の後に全てを失うのは必然。であれば、戦力を手元に残せる現段階で交渉の席に着けるならば、彼らとしても望外の幸福である筈です」

 

 ですが、と。ここで顎に手を当てていた小モルトーケ参謀総長に、私を含む空軍指導部が懸念し、合議していた事を告げる事にした。

 フォン・エップ中将の声という職責から、外れる事を自覚した上で。

 

「フランソワ共和国とアルビオン連合王国は、間違いなくそれを阻むでしょう。共和国は、仮想敵国たる我が国が勝利者となり、北方に安全圏を築く事を良しとはしません。北方の兵力が、そのまま自分達に向く事を、彼らは恐れて止まない筈です。

 そして、連合王国は長い歴史において、幾度となく中央大陸内での戦争に介入してきました。連合王国は我々が隣り合う者達と戦い、疲弊すればする程に、南方大陸を始めとする植民地確保を容易とするばかりか、自分達の国力をその間に増幅させる事が出来るのです。

 アルビオン連合王国は『日の沈まぬ国』を維持する為、何としても我々の肥大化を阻止しようとする筈です」

「つまり、現状仮想敵国が我々に攻勢を仕掛けない*2のは、まだその時ではないというだけであり、牙を研いで機を待っていると言いたいのだな、貴官は」

 

 エップ空軍総司令は、と言わない辺り見透かされているのだろう。いや、このお方は初めから何もかも理解されていた上で、私に質問されたに違いない。

 小モルトーケ参謀総長としては、当然プラン三一五を崩したくはなかっただろう。しかし、鶴の一声で全てを決しては、英知の結集たる中央参謀本部の気質から大いに逸れてしまう。

 かといって、現状大攻勢に反対しているのは、二名の准将を中心とした佐官ばかり。

 肩の星が多い者達が攻勢側に立っている以上、小モルトーケ参謀総長は我々空軍に反対の立場を取らせる事で釣り合いを取らせ、皆を納得させるに十分な意見が出たところで、そちらに誘導しようという腹積もりだったに違いない。

 

「はい、閣下。おそらくフランソワ共和国は、既にダキア大公国を引き込む手立てを整えている事でしょう。かの国は六〇万を擁する陸軍のみならず、二万近い航空兵力を有しております。()()()()()我々の防御を抜くに当たって、現状では最高の戦力と言えます」

 

 二万という数字に、誰しもが表に出さないまでも、内心息を呑んでいる事だろう。彼らの頭の中には当然情報部から送られてきた各国の兵力が刷り込まれているが、現実に敵対するとなれば、やはり動揺の色も見えてくる。

 地図の上に視線を這わせ、敵の予想進撃路と防衛網を計算。敵航空兵力が展開し、我々が迎撃に出た所までを想像した段階で、一斉に私とフォン・エップ中将に視線を寄越した。

 

 それの意味するところは一つ。お前達はどれだけ粘れるのか、だ。

 

 彼らの頭に、空軍(われわれ)が勝つイメージはない。現状の航空兵力と、私が語った二万の数字。そしてダキア方面の空軍基地の数は、彼らの脳裏に瞬時に残酷な計算式を立てるには十分だった筈だ。唯一人。小モルトーケ参謀総長を除いては。

 

「そこまで読んだ以上、手はあるのだろう。申せ」

 

 私はフォン・エップ中将を僅かに横目見た。この計画は我が空軍における秘中の秘であり、来るべきダキア戦までは、何者にも口外する事を許されない策だったからだ。

 先に語った通り、三軍は前線ではともかく、後方では陸が頂点に立って海空を従わせようという図式が成立してしまっている。

 空軍内でも陸軍に対する不満と不信の声は上がっており、計画発動前に仔細を打ち明けては、陸軍はこれが自分達の発案であったと統帥府に根を回し、手柄を掠め取るのではないかと危惧する者は多かった。

 それでも私が小モルトーケ参謀総長に必要以上に語ったのは、何としてでもプラン三一五の崩壊を阻止する為と、フランソワ共和国とダキア大公国に左右を挟まれた際は、ダキアに最優先で陸軍を送って貰う必要があったからである。

 しかし、私の本命はそこではない。

 

 仮に、いや、万が一にも有り得ないであろうし、こんな事は私とて考えたくはない。しかし、もし他の低俗なる陸軍高官同様、小モルトーケ参謀総長の胸に陸主他従の精神が根付いていたなら?

 ここで計画を打ち明けた結果、来るべきダキア戦役の功を奪われたとしても、私はそれはそれで構わないという考えであった。

 私にはまだ、他の空軍高官とは異なり、僅かながらにも陸軍には信頼を築く余地が有ると考えていたからである。

 中央参謀本部の内情には不信を抱いたとしても、少なくとも良識ある誠実な軍人が、他の手柄を自分のものとするような、破廉恥極まりない蛮行を止めてくれるだろうという、期待を抱ける程度には。

 だからこそ、ここが私にとっても、空軍にとっても分水嶺となる場面であった。

 小モルトーケ参謀総長さえ、陸軍高官に見られる支配欲に感化されてしまったとしたら……私は、否、空軍は陸軍と袂を分たねばなるまい。

 

 空軍は完全に、空軍独自として自主権ある軍を持つ。これまで陸軍に頼りきりだった地上兵力を自ら持ち、航空魔導師を裏で引き抜き、自分達で完全に独立した軍に切り替えるべきという、空軍内でも『急進的拡大派』と称すべき者達の主張に賛同し、これを推し進める事も現実に考慮せねばなるまい。

 私は再度、フォン・エップ中将に視線を投げた。言うべきだと。私はここで、彼らの本性を白日の下に晒すべきだと視線で訴えた。

 もしも空軍の全ての栄を奪い、誇りに唾を吐くような結果となれば、私は近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)の軍服を脱ぎ、徹底的に彼らと抗する道を取る。

 

 だが、もし我々の不信が杞憂であったなら、少なくとも小モルトーケ参謀総長がその偉大な才覚に相応しい、英雄たる高潔な精神を持ち合わせているのだとしたら。我々の側からも、彼ら陸軍に歩み寄る余地は十分に有る筈だ。

 或いはそれを機として、陸・空の間に横たわる亀裂の架け橋になり得るかもしれない。いがみ合い、憎み合うのでなく、皇帝(カイザー)の赤子として手を取り合い、支えあう未来もある筈だと。

 フォン・エップ中将は私の視線に対し、神妙に頷かれた。そして、ここから先は私の身に余ると判断したのだろう。フォン・エップ中将は私に声の役を降りさせた。

 

「参謀総長。我が空軍の作戦はダキア大公国に対して、確実な戦果をもたらすものと確信を持ってお伝え致します。少なくとも、ふた月(・・・)以内にダキア大公国の航空戦力を沈黙させる事を確約致します」

 

 随分と多めに見積もったものだと私は思う。周囲に配慮して、辛うじて現実的に可能であろう数字を提示したつもりなのだろうが、それが通用する程、小モルトーケ参謀総長は甘いお方ではない。

 

「エップ空軍総司令、正確な数字を出せ。何日でダキア空軍を落とす気でいた? 我々は一朝一夕で作戦案を練っている訳ではないのだ」

 

 正確であればあるほど。提示するのは早ければ早い程良い。そして、数字に嘘がなければ、それに見合う作戦を用意すると小モルトーケ参謀総長は豪語される。

 ここいらが潮か、と、この時私は他人事のように思った。元より空軍だけで戦争が終わる訳がない以上、どうあっても陸軍の手は借りねばならない。いや、今も昔も、戦場の主役は彼らなのだ。我々空軍はただ、戦争にかかる時間を縮めるだけだ。

 フォン・エップ中将は先程とは違い、空軍指導部が弾き出した正確な数字を示した。

 

「三〇日で、各前線及び後方の敵空軍基地を破壊し尽くす予定でありました」

「始めの二週間で、前線は片付くな?」

 

 ダキアの駐在武官や、情報部の報告に嘘がなければという前提の上であるが、フォン・エップ中将は首肯した。

 

「宜しい。私とて陸軍の専横は目に余ると感じていた。仔細を語れぬ空軍の気持ちは、よく分かる。我が叔父上の名と、中央参謀本部の名誉にかけて誓おう。我々中央参謀本部は、空軍の手柄を簒奪する事は決してしないとな。この場に居る全員が証人だ」

 

 そこまで言って、小モルトーケ参謀総長は全員をその鋭い眼光で射抜いた。ここまで自分に言わせておきながら、統帥府に良からぬ事を告げるような者は、よもや居るまいな? と。その視線に皆は唯々圧倒され、静かに頷く事で意を示した。

 

「皆、一時退席してくれ。エップ空軍総司令とキッテル中佐に話がある」

 

 高級参謀はダキア戦を想定した、空陸作戦の打ち合わせだと考えたのだろう。事務的な動作で書類を片手に退席した途端、小モルトーケ参謀総長はその自信溢れる顔つきを萎ませ、深いため息を漏らされた。

 

「エップ空軍総司令、キッテル中佐。此度の中央参謀本部への招集に対する非礼は私からお詫びしよう。次の機会には、必ず最高統帥府に二人の席を用意させて頂く。今回の事情に関しては、察して頂いていると思う」

 

 恥ずかしい限りだよ、と小モルトーケ参謀総長は零された。私達にしても、今日一日だけで中央参謀本部の事情は嫌と言うほど理解してしまった。何より、これ程まで御労しい小モルトーケ参謀総長の姿を前にして、なお陸軍や中央参謀本部に対する不満を吐き出せる程、私もフォン・エップ中将も厚顔では居られない。

 小モルトーケ参謀総長はもう一度私達に対し、誠実に謝罪して下さると、そのまま訥々と語り出された。

 

「昔は、こうではなかったのだよ?」

 

 前参謀総長たるシュリー伯とプラン三一五の計画案を練っていた頃。小モルトーケ参謀総長は、参謀次長としてシュリー伯の側に侍っていたという。

 

「あの頃の中央参謀本部は不夜城でね。シュリー伯は唯でさえ勤勉かつ自他共に厳しいお方だったから、皆気が抜けなかった。誰もが休みをくれ。一〇分でも良いから寝かせてくれと、内心悲鳴を上げていた。

 私も同じだった。私は叔父上とは違うのです。決してシュリー伯の片腕となれるような男ではないのですと、心中で弱音を吐き続けていたものだ」

 

 辛かった日々だ。しかし、栄光と活力に満ちた日々であったとも語られる。

 

「少なくとも、あの頃の中央参謀本部は、帝国の誰もが思い描く『叡智の殿堂』だった。シュリー伯は、どのような石でさえ美しく磨き上げられる方だった。伯の指導と仕事は厳しかったが、皆成長し続けていた。私とは違う、紛れもない叔父上の後継者だった」

 

 私には、才能が無かったのだと小モルトーケ参謀総長は零された。無論、私もフォン・エップ中将もそれを否定した。小モルトーケ参謀総長程のお方に才気が無いとするならば、この世の全ては木石のそれではないか。

 

「今の中央参謀本部を見て、それを言うのかね? 私は、シュリー伯のように皆を纏められなかった。いや、伸ばし続ける事が出来なかったと言うべきだろうな」

 

 才とは、能力とは劣化しないだけでは駄目なのだ。常に新しい物を吸収し、絶えず己を磨き続け、昨日より今日、今日より明日と飛翔を続ける事。それが出来ない軍ならば、間違いなく他国の餌となり国家を崩壊に導いてしまうだけだと語られる。

 

「ルートヴィヒ中将を見ただろう。彼の旗下に集った者達も。皆、シュリー伯が存命の頃は、赤小屋の門弟であった頃は才気溢れる者達だった。常に貪欲に知識を求め、国に尽くし、最善を模索し続けていた。

 だが、私が彼らを老いさせたのだ。この美しい、シュリー伯の芸術たるプラン三一五を壊せばどのような結果となるか、それさえ想像出来ん者達に……私は、自分が恥ずかしい」

 

 辞表を出す事さえ、小モルトーケ参謀総長は何度も考えたという。現に、皇帝(カイザー)にもそれとなく参謀総長の職を辞したいという意思を伝えられたとも。

 

「だが、陛下はそれを呑まれなかった。当然だな、私の他にはまだ誰も値する者が居らん。ルーデルドルフか、ゼートゥーアか。後任にはどちらかを据えたいが、現状ではどちらも肩の星が足りんと来ている」

 

 それでも、自分はまだ恵まれていると小モルトーケ参謀総長は語られた。自分が存命のうちに、次代の長たり得る者を二人も見出せたと。

 それは紛れもなく偶然の産物に過ぎないし、自分は彼らに何一つとして与えられるような知識を持たないが、それでも大モルトーケ伯とシュリー伯から継いだ、中央参謀本部を壊さずに済むと安堵していた。

 

「愚痴が長くなりすぎたな。外の者も、堪りかねて聞き耳を立てる頃合だ。エップ空軍総司令、これからは陸空の友誼を深める為、幾度かキッテル中佐を借りる事になるが、良いかな?」

「存分にお使い下さい。此奴めは、目を離せばすぐに空の上に逃げますからな」

 

 小官は、自分の仕事を投げ出した事は有りません。と苦言を呈したかったが、小モルトーケ参謀総長は聞く耳を持って下さらず、それは行かんぞと私をお叱りになられた。

 

「貴官は既にして十分に祖国に尽くし、最高位の戦功章さえ手にしたではないか。貴官の能力は、新たに空を飛ぶ若人の為にこそ使うべきだ」

 

 まこと仰る通りである。耳の痛い正論とはこの事か。しかし、表向き小モルトーケ参謀総長に粛々と頷きつつも、内心では決して地上勤務だけに(・・・)収まる気はないぞと反骨していた。私は空を飛ばねばならない。

 少なくとも、デグレチャフ少尉が平和な世界を謳歌出来るようになる、その日までは。

 

 

*1
 この点演算宝珠は、使用魔導師の月一の定期メンテナンスだけで問題なく使用できるという利点を有している。

*2
 ここでの仮想敵国とは、アルビオン連合王国とダキア大公国、そしてルーシー連邦を指す。

 フランソワ共和国はロンディニウム条約締結時に、帝国の膨張を抑えるための措置として、レガドニア協商連合と軍事同盟を締結しており、レガドニアと帝国との開戦時に、なし崩しに参戦していた。

 アルビオン連合王国が旗幟を鮮明にし、今日に知られる一大『連合軍(アライド・フォース)』の体を成したのは、ダキア大公国の参戦が決定してからである。

(訳註:連合軍[Allied forces]は俗称であり、正式名称は対帝国『同盟及び連合国[Allied and associated Powers]』である。同盟は中央大戦以前に軍事同盟を締結していた共和国-協商連合間を。連合は開戦後に帝国への宣戦布告を行ったダキアと連合王国を指す)




 主人公がモルヒネデブみたいなこと言い出しかけましたが(空軍が独自の地上戦力持つ云々)寸でのところで止まってくれました(……あっぶねぇ)

 ちなみに小モルトーケさんは、仮にプラン三一五以上の案があったとしても、「一度決めたことをコロコロ変えるな!」って史実通り突っぱねた筈ので、結果的に帝国にとってセーフだっただけだったりします。
 ていうか物語的には、それを見越しての小モルトーケさんの起用でした。
(書籍版1巻に名前だけだけど、大モルトーケさんが出てきてくれてたというのも起用理由ではありますが)

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 シュリーフェン伯爵→シュリー伯



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23 ターニャの記録1-選択肢

 yuzupon_hamburgさまより、素敵なイラストを頂きました!
 yuzupon_hamburgさま、この度は本当にありがとうございました!

【イラストタイトル:Sutuka in Famerun】
【挿絵表示】


※2020/2/10誤字修正。
 かめがめさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 親愛なる読者の皆様に、この場をお借りしてご挨拶申し上げます。私はターニャ・リッター・フォン・キッテル。若りし頃は魔導兼参謀将校として戦場を駆けた身ではございますが、今は軍を退役し、我が夫、ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテルの妻として夫を支え、家族を愛する事を至上の喜びとしております。

 

 本書はその表題にある通り、我が夫の軍人としての半生を記録したものでありますが、回想記の構成上、夫の視点だけでは分かり得ない部分や、説明が不十分となる箇所が出て参ります。

 そこで、夫が本著を執筆するに辺り、私にも是非補足として、当時のあるがままのターニャ・デグレチャフを綴って頂きたいとのご依頼を出版社から受け、こうして幕間とも外伝とも取れぬ記録が完成する事と相成りました。

 この度、私が本著の紙文を割く事にご不満の声が上がる事は想像に難くはありませんが、何卒、ご寛恕頂きたくあります。

 

 加え、誠にお恥ずかしい話ではございますが、当時の私は夫や一般的な帝国国民のように日記をつける習慣は持ち合わせておらず、軍から許可を得てお借りした行動記録や私自身の報告書。夫との私信等を元に、当時を回顧しつつ執筆致しました。

 記憶が曖昧な部分は、複数の証言等を元に可能な限り再現している筈ですが、意図せず事実と異なる部分が記載されてしまう可能性がある事を、予めご了承下さい。

 

 

     ◇

 

 

 一九二三年、六月。私ことターニャ・デグレチャフが目を覚ましたのは、北方戦線でも比較的安全な空軍基地の医務室だった。

 だが、この時の私は自爆したところまでしか記憶がない。敵魔導師に背後から抱きつき、出来うる限り多くを巻き込んでの自爆術式を発動させたところで、記憶は途切れてしまっていたのだ。

 だから、私は可能な限り自分の状況を確認する事にした。まるでムチウチにでもなったように首を動かすと痛みが走る。右腕は三角布で吊られ、右足も骨折故か、クッションの上にギプスで固定された状態で置かれていた。正しく満身創痍と称すべき負傷である。

 そして、この段になってようやく、私は左手に柔らかな布の感触があるのに気付いた。

 

“『幸運を』『N.A.v.K』?”

 

 誰かが私に持たせたのは、容易に察せられる。リネン生地のハンカチは当時としてはそこそこに貴重で、戦地に赴く男達に、家族や恋人がイニシャルを刺繍したハンカチを贈るのはよくある話だったからだ。

 だが、それを態々私に持たせた事が解せなかった。ハンカチに血が付着していないところや色褪せもない事からして、おそらく普段使いの類ではない。にも関わらず私に持たせたのは、恋人と別れでもしたか、家族と疎遠になってしまったからか。

 

“或いは純粋に、私の身を案じてくれたのか”

 

 いずれにせよ、やはり幼い少女というものは、同情心を擽るのだろう。私としては役得と思う反面、こうした気遣いは少々重くもあった。

 する事など何もないので、手元のハンカチについて軽く思考を巡らせたつもりだったが、いざ礼を返すとなると、どの程度のものが適切なのかという子供らしからぬ思考に至るのは、やはり軍人としての生活に染まったが故だろう。

 そうした事を考えている内、私の元へ近付く足音が聞こえた。敵でないという事は分かりきっているというのに、それでも小銃と演算宝珠を手探りで探してしまうのは、魔導士官候補生として身に着いた悲しき習性だ。

 

「目が覚めたようだね?」

 

 空軍軍医少佐は私を笑顔で見下ろすと、カルテを手に私の負傷を出来る限り簡潔に説明した。四肢への被弾に、各部への裂傷と火傷。幸いにして臓器と脳は防殻術式で無事だったものの、救助と応急処置が遅れれば危うかったと言う。

 

「キッテル少佐の処置の賜物だ。あの方に足を向けては眠れんな」

 

 軍医少佐は勿論冗談のつもりだろうが、私は理解が追いつかなかった。

 

“助けられた? 誰に? キッテル少佐?”

 

 私の知るキッテルという軍人は、かの高名な軍人一家しか居らず、しかも空軍佐官とくれば、該当する人物は一人だけ。今日日、教養ある帝国国民なら子供から老人まで、誰もが知る大英雄だ。

 

“『N.A.v.K』──ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテル!?”

 

 嘘だろうと私は頭を抱えた。いや、私自身はフォン・キッテル参謀少佐に苦手意識がある訳ではないし、そもそも面識など一切なかった身だ。しかし、まかり間違っても不興を買う訳には行かない人物ではないか。

 とんでもない相手に借りを作ってしまったぞ、と私は冷や汗を掻いたが、軍医少佐は勘違いも甚だしく、私に熱があると考えたらしい。

 

「酷い発汗だな。今、従軍看護婦に着替えを持って来させる。君はもう目を閉じて休み給え」

 

 軍医少佐の気遣いは見当違いのそれだったが、目を閉じて休めというのは嬉しかった。無駄にどうにもならない事を考えるぐらいなら、静養に務めるのが最良というものだ。

 

 ……と。この時の私は考えていた。

 

 

     ◇

 

 

「キッテル少佐殿が、面会に来られていたのですか?」

「ああ。私も含め、必要なら起きて頂くと言ったのだがね。君に負担がかかるような事はしなくて良いと断られて、帝都に戻られたよ。まぁ、あの方がお忙しいのはいつもの事だ。キッテル中佐殿から君宛の手紙を預かっている」

 

“進級しているではないか!?”

 

 どうやら大英雄殿は、順調に立身出世の道を歩まれておいでのようである。私はフォン・キッテル参謀中佐の文を軍医少佐から受け取ったが、片手では口でも使わねば開封出来る筈もないので、軍医少佐は気を利かせてペーパーナイフで封筒を開けて下さった。

 封筒も便箋も軍で使用されるものではなく、私信用の上質紙であったし、文も万年筆の手書きである。帝都への出立前、この基地で書いて軍医少佐に渡されたそうだ。

 軍医少佐は読み辛ければ朗読してくれるとも言ったが、それが私への好意ではなく、厭らしい好奇心の類である事は誰だとて分かる。現に、横の従軍看護婦は冷ややかな目をしているぞと言いたかったが、その看護婦も興味は隠せていない。

 

 物好きな連中め、と内心嘆息しながら、私は文に目を通した。

 

『戦友たるフェアリー〇八へ。貴官の功績と挺身は帝国軍将兵の模範であり、私もまた、軍人として貴官を誇りと思います。一日でも早い貴官の快復と、武運長久を心より願い、お祈り申し上げます。

 ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテル参謀中佐』

 

 ここまで目を通して、これだけか、という思いと、なんとも堅苦しい軍人の挨拶だなという印象を同時に抱いた。

 そして未だ興味津々そうな、うら若き従軍看護婦に「見たいのであれば」と手紙を渡し、看護婦は落胆の面持ちを隠す事なく手紙を返したが、ふと私は違和感に気付いた。封筒の底に貼り付けるように、別の便箋が隠されていたのだ。

 私は席を外した軍医と看護婦に礼を述べ、封筒を片手でバラバラにしてみると、先程とは打って変わった私信が出てきた。

 

『このような形で、淑女に文を差し上げた非礼をお許し下さい。

 他の帝国軍人は、貴女の負傷を栄誉のものと称えるでしょうが、私は自分を不甲斐なく思います。貴女が軍人としての道を行く事に一切の疑念も躊躇もなく、ただ国家への献身が全てなのだとしたら、私の言葉は侮辱以外の何物でもないのでしょう。

 それでも、私は貴女の傷ついた姿を見て、こう感じたのでございます。私は、私達大人は誰も彼もが愚か者だと。救いようのない人間なのだと。

 貴女のように幼い少女が花でなく銃を取り、ドレスでも流行りの服でもなく、軍衣を纏う事を由としたこの世は酷く歪んだものであり、それを強要してしまったのは、我々が今日という日まで、争い続ける日に終止符を打てなかったからです。

 私達大人の無能が、貴女にその道を選ばせてしまった。いいえ、他の道を選ぶ機会さえ用意できませんでした。

 だからこそ、私は貴女に誓わせて頂きたいのです。一年でも、一日でも早く、貴女に戦争のない日をお届けする事を。今すぐは無理なのだとしても、貴女の人生に、貴女自身が選択肢を得られるようにしたいのです。

 私のこれは、傲慢なのでしょう。自己満足の類でしかないのでしょう。もしお怒りを抱いたならば、私は改めて心からお詫び申し上げます。

 帝国軍人としてでなく、一個人として貴女の快復を心からお祈りしております。

 ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテル』

 

 私は手紙を折り畳むと、今度は他人に見せようとは思わず、枕の下に入れておく事にした。私はフォン・キッテル参謀中佐の想いを、侮辱とは思わなかった。私が軍人となったのは、参謀中佐の想像通り、他に選択肢がなかったからに過ぎない。

 魔導適性を持つが故に赤紙を受け取り、いつかは徴兵される身ならば、己が才を信じて士官学校の門を叩くのが最適解だと。私は子供らしからぬ早熟さであったが故に、躊躇なく軍人としての道を歩んだ。

 別段、私は花やドレスになど興味はなかった。衣食住と金銭が保証され、不自由しない範囲での一生を送れたなら、他に望むものはさして無い。

 

 だが、人生に選択肢が有るというのは良い事だ。人間の選択とは、常に当人の能力と健全な社会制度の下にある、自由の中に置かれたものでなくてはならない。

 人は生まれを、時代を選べない以上、どうしたところで不自由とは出てくるものだが、それでも用意してくれるというなら、期待ぐらいしても良いだろうと……そんな甘っちょろい考えは、この時の私は抱けなかった。

 むしろ、将来の夫の事をこの時は鼻で笑ったものである。

 

“今更か?”

 

 今更、女子供を戦場に送る異常性に気付いたのか? 目の前で幼子が傷つく様を見てでしか自覚も出来ず、その頭で想像する事も出来なかったのか?

 戦争というものは、人間の死を始めとする倫理観を狂わせてしまうものだが、大英雄殿とてそこに例外はなかったらしい。

 お笑い草だよ、と私はハンカチを見て思った。現役時代の私は、祖国に対しては自己犠牲を厭わぬ忠勇烈士の人という印象であったようだが、少なくともルーシー戦役までのそれは自己保身や栄達の為に自ら作った偶像に過ぎなかった。

 

 私は唯、生き残りたかっただけだ。上官や軍の不興を買わず、勤勉で誠実な軍人として見られれば、安定したキャリアを得られると疑わなかったからだ。

 勿論、私が軍人としての義務を誠実に果たした事は、誰に対しても胸を張れる仕事ぶりであったと自負するものではある。しかし、好き好んで軍人をやっていた訳では決してない。何度も言うが、その魔導適正故に赤紙を受け取った孤児院育ちの小娘には、他に選択肢など無かったからだ。

 

 選択肢を与えてやるというのなら、後方勤務にでも就けるよう融通を付けるぐらいはして欲しいものだ。

 最前線で小さな家畜と同居し(ノミやシラミにかじられ)、塹壕で泥塗れになる生活など御免蒙る。白いベッドと食事を出せ! と思ったところで、その二つは今は有るな、と気を静めた。

 

 どうやら私は、ひどく動揺していたらしい。おそらくは、ようやく真っ当な価値観を持った人間に出会えた事と、その相手が自分に対して甘さを許してくれる手合いだと文面から察する事が出来たからだろう。

 怒られる心配のない相手の方が怒り易いというのは、実に理不尽な話であるが、おそらく、この時初めて子供らしい癇癪を許してくれる相手を得た事が、私の精神を幼稚に……というより年相応にさせたのだろう。

 私は一人ベッドの中で、まだ直接お会いした事もない参謀中佐に、心の中で当たり続けていた。

 

 

     ◇

 

 

 それから五日。私は銀翼突撃章の授与と、恩賜休暇を言い渡された。私の傷は帝国軍が誇る魔導医療と従軍看護婦の献身的な看護の甲斐もあって一五日で快復し、あれ程までの痛々しい火傷や裂傷も、痕を残さず綺麗に消えてくれた。

 軍医少佐は、嫁入り前の身体に傷が残らなくて良かったよと笑ったが、そもそも嫁入り前の小娘を最前線に送る方が間違いだろうと、私はこの戦時下特有のズレに、内心辟易としたものである。

 しかし、私は短い時間とはいえ、前線から離れられる事には心から歓喜した。銀翼突撃章には、恩賜休暇だけでなく特別賞与まで付いてくる。私は帝都で優雅なランチを楽しみつつ、代用でない本物のコーヒーの香りを楽しむところまで想像して、すぐに北方駐屯地の司令官から呼び出しを受けた。

 

 いい空気に水を差してくれたものだと思いつつも、銀翼突撃章は白金十字以上の名誉ある勲功であり、それに付随する義務もまた多い。具体的には、宣伝局広報部に終始プロパガンダ作成の為に付き纏われる羽目になるのだ。

 どうせ撮影やらサインやらインタビューやらの打ち合わせをさせられるのだろうと、私は内心辟易しつつ、同時にこれで休暇が潰されては目も当てられないなとも思った。

 広報活動とて立派な軍務なのだから、しっかり仕事分の給料を支払って、別に休暇を用意してくれと。

 

 しかし、司令室に到着した私は、次の配属先を複数の書類から選べと言いつけられた。

 書類は全てが本国配置の後方勤務。しかも、自分が切望して止まない、完全な安全圏たる鉄道部や中央参謀本部勤務など、正に選り取り見取りの至れり尽くせりであったが、上手い話には確実に裏があるものだと、この時の私は変に勘ぐってしまった。

 

「前線勤務が見当たりませんが」

 

 それとなく、あくまでも一武官として当たり障りのない語句を選んだつもりであったが、これが不味かった。司令官は私の疑念に対し、当然の反応だなと言わんばかりに息を零された。

 

「不服なのは、分かっている。魔導師にとっての誉れたる二つ名まで頂いた貴官にとって、この人事に思うところがあるのは、私とて十分理解しているつもりだ。

 だが、上は幼子が最前線に勤務するのは、対外的にも問題だと言うのだ」

 

 分かってくれ、と。私を幼子として扱わず、帝国軍人として見る司令官は職務的にも帝国の価値観としても正しい。魔導適性故に赤紙が来たことが元凶(はじまり)とはいえ、どうせ義務兵役で軍に身を置くならと()()した時点で、私は徴募兵でなく職業軍人として奉職する立場にある。

 こと帝国に、帝国軍においてひとたび軍衣を纏った以上、年齢や性別への拘泥など──表向きは──存在しない。能力主義を第一の指標とする我が祖国は名誉、忠誠、献身こそを何よりも貴び、対外的な視点で見るならば、私は戦友と祖国の為に自己犠牲を惜しまなかった高潔な士官である。

 他国や後世の人間にしてみれば、私は国家ないし軍という血も涙もない暴力装置に強引に手を掴まれ、部品として組み込まれるように銃を担がされ、死の恐怖に怯えながら引き金を引く社会的被害者に映るかもしれないが、帝国の、少なくとも当時の常識の中にあって、それは正しい価値観ではない。

 この時代の、先の負傷と叙勲に伴う私の立場を帝国軍並び、国民が見るとこうなる。

 

 何と勇ましき武功である事か。

 何と言う祖国と戦友愛に満ちた、黄金の精神である事か。

 国民よ、戦友よ。ターニャ・デグレチャフの名誉を讃えよ。

 全ての国民は、その献身と忠誠を範とせよ。

 

 ……とまぁ。後世の人間が、この時代を狂気にあったと評するのもむべなるかなという一般論にして価値観であるが、それがスタンダードだったのである。

 はっきり言って、逆に我が未来の夫の価値観は、当時からすれば異常とさえ言って良い。

 子供だからという理由()()で、祖国に対しこれ程までの貢献をした職業軍人を餓鬼扱いしたばかりか、その名誉に泥を塗ろうなど、同じ軍人として見下げ果てた奴だと、仮にフォン・キッテル参謀中佐の思想が世間に広まれば、散々な酷評を受ける事は請け合いだ。

 

 勿論、この()()()が個人的には大迷惑極まりない価値観である事は語るまでもない。

 いっそのこと、存分に甘やかしてくれて構わないのだが、そんな事を口に出来る場面ではないし、もしそんな態度を取ろうものなら、確実に不興を買ってしまう。

 私はようやく空軍の大英雄様だけでなく、自分の負傷を機に帝国軍も()()()の異常性に疑問を抱いてくれたのだなと感動しかけたが、ふと内心首を傾げた。幾らなんでも、都合が良すぎだろうと。

 

「キッテル中佐殿の、差し金でありますか?」

 

 思わず口にしてしまった私の疑問に司令官は息を呑み、やがて観念したように「そうだ」と零した。

 

「貴官を、いや、貴様を救出したのが奴なのは既に承知の事だろう。奴は貴様の負傷を機に、これまでより一層前線勤務者に甘くなりおったようだ。スコアを譲るだけならまだしも、名声を笠に宮中の人間まで動かして、陸軍の人事に容喙(ようかい)して来おったわ」

 

 不快極まりないと司令官は言う。しかし、私は少々自分を顧み、そして恥じていた。選択肢を与えて見せろと内心叫んだが、まさか本当に用意してくれるとは思わなかった。何より、今にしてみれば助けてくれた相手に当たるなど、場違い極まりないではないか。

 私はフォン・キッテル参謀中佐に心中で謝罪しつつ、司令官に向き直った。参謀中佐のご厚意を無駄に出来ない。何よりこのままでは、自分が後方勤務に就く事に同情した司令官が、強引に前線勤務に変えてしまう恐れがある。

 それだけは断固として阻止せねばならない。私は本国で安全に、そして安定した生活を送りたいのだ。ベルンのコーヒーが私を待っているのだ!

 

「ですが、ここで断る事はやはり対外的にも、司令官閣下にとっても宜しくはないでしょう」

 

 私がここで無理強いをしてしまえば、内示を受け取った司令官方にまで類が及びかねない。帝国陸軍の名誉の為にも、私は内示を受けるのだという事にしてしまえば、全てが丸く収まる筈である。誰も損をしない最高の展開だ。

 司令官は私に謝罪するような視線を寄越してきたが、私にしてみればこの中から当たり障りのない配属先を選ぶのが先決である。口惜しいが、鉄道部は安全すぎるので却下。

 中央参謀本部勤務も士官学校の成績面からすれば問題ないが、フォン・キッテル参謀中佐の梃子入れに人事局が気付かない筈もないので却下。変に同情されて最前線送りなど最悪だ。

 

 となると、残るは一つ。本国戦技教導隊付として、総監部付き技術検証要員への出向だ。

 字句だけでも飛び上がりたくなる内示である。帝国軍最精鋭部隊の教導隊員の末席に加わるのみならず、最新鋭機のテスト要員ともなれば、間違いなくキャリアは順風満帆。

 エースとして、銀翼突撃章保持者としての立場を崩す事なく、後方の代表格たる総監部の席も与えられるとなれば、正に一石二鳥ではないか。

 

「ここでならば、来るべき日の為に己を磨けます。『白銀』の名を錆びつかせずに済みそうです」

 

 そして最後に武官としてのアピールも欠かさない。ここまで言い切れば、私がこの内示を受ける事に疑問を挟む余地は欠片もない筈だ。

 私は踵を鳴らし、折り目正しい敬礼と共に、司令官の武運長久をお祈りした。そして、司令官はそんな私に一言。

 

「必ずや、貴様に相応しい戦場を用意する。壮健でな」

 

 結構だから、こんな戦争はとっとと終わらせてくれ、とは私は勿論口にはしなかった。

 

 




 デグ様は退役したのを良い事に、洗いざらい本音をぶちまける事にしたようです。
 それと、デグ様のお返しはサラリーマン的思考なのですが、流石にそれを口外する訳には行かねーので、本著では全部軍隊生活ゆえの思考に置き換わった模様。
 女性的な考えを持てないのも、同じく軍隊生活のせいということにしています。
 軍が悪いよー軍が(棒)


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24 ターニャの記録2-技術検証員として

※2020/2/10誤字修正。
 赤土 かりゅさま、フラットラインさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 安全な後方で優雅に過ごしつつキャリアを積む。そんな私の目論見は、呆気なく崩れた。

 

“嫌だ、嫌だ! 流石にもう限界だ! 最前線の方がマシとかどうなっている!?”

 

 何故素直に鉄道部か、中央参謀本部勤務を選ばなかったのかと、私ことターニャ・デグレチャフは小一時間己を責めたくなった。過去に戻ってやり直せるなら、絶対にそれだけは選ぶんじゃないと、自分のこめかみにピストルを押し付けてでも止めただろう。

 総監部に新型演算宝珠のテスト要員として招かれた私は、それはもう地獄のような日々を送っていた。明らかに当時の技術限界を超えた、一万三〇〇〇という高高度を飛行して死にかけた日もあれば、爆発干渉術式を起動していないのに演算宝珠が起爆し、北方戦線での自爆さながらの大惨事の憂き目にあった事もざらだった。

 

“何もかも、この欠陥機のせいだ!”

 

 九五式試作演算宝珠。後の私の切り札*1たるエレニウム九五式の試作機であるこれは、エレニウム工廠とその主任技師、フォン・シューゲルが起死回生の一手として制作したものだ。

 宝珠核の四機同調によって複数術式の発動のみならず、基本性能面でもカタログスペックの上では絶大な性能を有していた。

 しかしだ。所詮カタログスペックはカタログスペックに過ぎない。現実には四機の宝珠核を積みながらも、従来の演算宝珠と変わらぬ小型化に成功した事によって、遊びは皆無で整備性は最悪。しかも四機の宝珠核を発動させるという事は、最低でも四倍の魔力という燃料を食う。現実に戦闘飛行を行うとすれば、間違いなく六倍の消費は固いだろう。

 

 その上聞いて驚き給え読者諸君! 何とこれには、意味もなくランダムでの自爆機能まで搭載済みだ!

 

 ……失敬。興奮しすぎたようだ。ともあれ、そんな代物であったから、私は何度もフォン・シューゲル主任技師に抗議した。私達魔導師が扱っているのは軍用品であって、一点物の高級車や、サーキット用のレーシングカーでは断じてないと。

 フォン・シューゲル主任技師は、全く取り合わなかった。主任技師の言い分は、「理論上は可能」「私の扱いが悪い」の一点張りだった。

 はっきり言わせて貰うが、こんなものはどんな撃墜王魔導師でも使いこなせない。私の夫が魔導適性を持って生まれ変わりでもすれば、万に一つの可能性はあったのかもしれないが、どの道軍用品としては最低最悪の部類であるという事実は変わらない。

 それでもフォン・シューゲル主任技師やエレニウム工廠の技師達が、この試作機を失敗と認めたがらないのは、フォン・シューゲル主任技師の航空機への対抗心もあるだろうが、最早エレニウム工廠に後がないからだ。

 

 航空機と魔導師の立場は逆転した。『戦闘機不要論』は過去の遺物と成り果て、誰もそれを口にしなくなって久しい。

 空の王冠は簒奪された。かつては木製の小鳥に過ぎなかった者達は今や鉄の荒鷲となり、パイロットは空の騎兵と謳われたが、それはフォン・キッテル参謀中佐の活躍や、その弟御の発明があってのものでもなく、必然であったように私は思う。

 魔導師というものは、どう足掻いても生身で空を飛ばねばならない存在だ。両手で抱えられる武装の量は限られており、空を高く飛べば飛ぶ程、速く進めば進む程、専用の術式が枷となる。

 酸素の供給。気圧変化への対応。増大する重力加速度の克服。戦闘に回せるリソースは少なくなるどころか、常駐式の多用で飛行そのものさえ覚束無くなって行く。

 

 対して、航空機は違う。魔導師という生身でなく、パイロットは航空機という外殻に守られている。エンジンも機関部も演算宝珠とは違い、圧倒的に大型化出来る。

 新しいものを次から次に詰め込める魔法の箱。魔導師が口にするような言葉ではないかもしれないが、航空機にはそれを実現出来るだけの素地が確かにあったと思うのだ。

 

 勿論、これは後から結果を知ってしまっている人間の戯言に過ぎないというのは分かっている。未来を知る者が、訳知り顔で過去を語るのは、実に烏滸がましい行為なのだろう。

 だが、それを受け入れられなかったのがフォン・シューゲル主任技師であり、エレニウム工廠だった。過去に航空技師が、魔導師打倒を胸に誓ったように。今はフォン・シューゲル主任技師が、航空機に勝利する事を望んでいた。

 より高く、より速く。航空機と戦える距離まで至る。航空機より速く進んで見せる。その妄執が、フォン・シューゲル主任技師とエレニウム工廠の凋落を招いた。

 高さ速さに拘泥し、それのみを求め続けた彼らは、自分達が何を作っているのかを忘れてしまった。

 

 彼らが戦おうとした相手は、最早彼らを見てはいない。大地に蠢く万の軍勢を焼き払い、あらゆる空の敵を撃墜する。魔導師も航空機も、最早今の『空軍』には特別な好敵手ではなく、戦果の一つとして数えられる、敵の一つに過ぎないのだ。

 魔導技師にとっては余りに残酷な現実を、彼らは決して認めなかった。空の王冠を簒奪者から奪い返す。いつの世も、常に魔導師こそが頂点に立つのだと信じて疑わない。

 その集大成こそが、四機同調という究極の無茶だ。不可能とされてきた複雑かつ膨大な魔力消費を伴う、高難易度術式の多重起動。未だ帝国軍航空機の限界高度には届かずとも、狙撃そのものは可能とする超長距離術式。

 これが実現すれば、魔導師の将来は大きく変わる。少なくとも、かつての航空機がそうであったように、魔導師を軽視する者は居なくなるだろう。

 

 ……その為のモルモットにされるのは、正直いい迷惑でしかないのだが。

 

 

     ◇

 

 

 かくしてフォン・シューゲル主任技師とエレニウム工廠の野望の為、日夜手足が吹き飛びかねない実験に身を晒された私は、戦傷十字の申請資格を得るにまで至った。おそらく、帝国史上類を見ないほど、不名誉かつ理不尽な受章資格であろう。

 ここでの生活を長々と説明するのは私の精神衛生上もそうだが、読者諸君の心臓にも悪いと思われるので、一区切りとしたい。私としても、少々気が滅入ってきたところだ。

 なので、ここからはエレニウム工廠以外のエピソードを語ろう。

 

 その日の私は怒っていた。これ以上なく激怒していた。一体どうして未来に流行るコメディ映画よろしく、日夜爆発劇を繰り広げねばならぬのか。

 特に前日は首から上が吹き飛びかけた事もあって、完璧に形式を整えた転属願いを脇に抱え、総監部に直接乗り込む程に私は追い詰められていたのだ。

 

“これで駄目なら最前線だ! もう最前線に逃げるしかない!”

 

 ここは地獄より地獄だ。最前線に逃げるというのは自分でも表現としてどうかと思うが、とにかくそれぐらい私は命の危険に晒されていたのだ。

 私は肩で風切る高級将校もかくやと言わんばかりに、ずんずんと進んでいったが、それを総監部の者達は必死の形相で止めてきた。私が上官を殺しに来たと勘違いでもしたのだろうと思ったが、そうではない。

 

「これ以上進めば、少尉を機密保持上逮捕せねばならなくなる」

「は?」

 

 一体何を言ってるのだ、こいつは。と思いたくなったが、肩章の色と制服からして、情報部の人間のようである。つまり、冗談の類ではない。私はこれ以上進めば、営倉すら可愛い悪夢の監禁生活が待ち受けている事を悟った。

 

「エルマー技術少将閣下が通られる! 道を開けろ!」

 

 一体どこのお大臣だと私は突っ込みたくなった。兄とは違う意味で怪物だということは私も存じていたが、まさかここまで優遇されているとは思わなかった。

 しかし、何故通路を通る姿を見ることが、機密保持上問題となるのか? 私は好奇心もあって、遠巻きからフォン・キッテル参謀中佐の弟御を拝見する事にした。情報部は勿論、良い顔をしなかったが。

 

 そして、私はエルマー技術少将の姿を見て驚愕した。左足を患っているようで、地に足を引き摺りながら歩を進めていたのだが、杖を突く様子はない。

 エルマー技術少将は、足を引き摺ったままバインダーに挟んだ用紙に何やら文字を書いている。それも、とてつもなく早い。それは政府高官の秘書や専門のタイピストでさえ到底追いつけない速度で、おそらくは口述や速記記述法を用いるプロフェッショナルよりもずっと早いだろう。

 エルマー技術少将は書き終わるや否や、用紙を床に捨ててしまう。そして手に持った鉛筆が使えなくなると、それも同じように床に捨てては、首から紐でぶら下げた大量の鉛筆から一つを取って書き続ける。

 私が横目見た姿は僅かだったが、それでも一〇枚以上の用紙と鉛筆が散らばっていたのは確かだ。全ての用紙を使い切ると、次はバインダーさえ投げて次の用紙が挟まれたバインダーを受け取っていた。

 

「あれが、帝国の頭脳ですか」

「帝国一の変人でもあるがな」

 

 あれがまともに会話をするのは家族だけで、その時だけは人間らしくなるのだと情報部将校は語られた。

 

「床に落ちた紙切れ一枚で、一生寝て暮らせる金を積む国は五万とある」

 

 これは誇張でも何でもない。石炭から石油を精製する合成石油。海軍国たるアルビオン連合王国でさえ躓いた酸素魚雷。パイロットが高高度の低気圧下でも順応出来るようにする為の低圧室。

 泥濘地帯を悠々と走破するハーフトラックなど、あの紙切れの束がどれだけ帝国に貢献したかは計り知れない。

 しかし、あの紙に書ける範囲は当然限られているので、一から十までという訳には行かないらしく、大抵は専門家に回して各々で研究を進めて貰っているという。

 唯一の例外は空軍の──というより兄の──為、空軍設立からこちら、予算を奪われたことで目の敵にされている海軍の留飲を下げるために、()()()()の労力を費やしたことか。

 エルマー技術少将(設計時は大佐)は当時のスタンダードモデルであった潜水可能な『水上艦艇』であった潜水艦でなく、現代の我々が思い描く、過酸化水素を利用する熱機関と、水中航行用の蓄電池を取り入れた、全く新しい『水中高速型潜水艦』を一から設計して見せたのだ。

 中央大戦戦勝後、ダイヤ付き白金十字を賜ることとなる『灰色狼』ペーニッツ中将(当時)などは、この潜水艦に驚喜して感状を送った*2そうである*3

 これらは情報部将校がこの場で語ったものではなく、戦後、エルマー兄様が私に打ち明けてくれた事だから間違いない。

 エルマー兄様曰く、航空機開発だけでは時間が余ってしまうが、かといって本格的に開発して、空軍の兵器や設備が後回しになっては意味がないので、作業机に着くまでの息抜きだと語られた。

 

 後に私は、エルマー兄様の計らいで作業を見せて貰う機会があったが、こちらはもっと凄かった。エルマー兄様は両手で筆を執り、左右別々の手が、定規もコンパスもないのに直線や真円を描き、計算尺も使わずに、あっという間に一枚の正確な図面を描き上げてしまったのだ。

 それこそまるで、複写機を使っているような速度で図面が出来上がり、作業机に見習い技師達が次の紙を敷いて固定すると、また新しく図面が仕上がる。

 そうした図面が何十枚にもなると、それらは情報部将校が厳重に封をした上で、別の場所へ運ばれていく。私が見た時は、飽くまで見学だからという事で一〇分程で終わったが、あの時の衝撃は、私の生涯でもかなりの上位に入ると思う。

 エルマー兄様はこの作業を朝から晩まで、それこそ食事と就寝、排泄や入浴といった、生活に関わる事柄以外は続ける。唯一の例外は、兄や家族から連絡が入った時と、後に出来る唯一の、私にとっては本当に不本意で、相手を選べと言いたくなった友人との交友だけだ。

 他は本当に必要な時に、事務的なことしか喋らなかったというのは総監部の皆が口を揃えて語るので、おそらく事実なのだと思う。

 

 ともあれ、この場においては私とエルマー技術少将との邂逅……というより観察とでも言うべきだろうか。とにかくここで関わり合いになる事もないまま別れてしまう筈だったのだが、すぐに杖が床をつく音が聞こえてきた。

 先程まで目の前を通り過ぎたエルマー技術少将が、趣味の良い蛇木の杖を片手に私へと近付いてきたのだ。

 

「デグレチャフ魔導少尉だね。勇名は耳にしている。ノルデンで名誉の負傷を負ったと伺ったが、壮健そうで何よりだ」

 

 先程までの、無表情な自動筆記人形か何かのような姿とは全く異なっていたので、私は別人ではないのかと一瞬我が目を疑った。

 軍事公報で拝見する、兄そっくりの端正な顔立ちと、細くすらりとした長身。肌は象牙のように白いが、病的というよりも彫刻のそれに近い美しさがある。

 首にぶら下げた無数の鉛筆も今はなく、軍衣の上から白衣を羽織る姿は、正しく若手のエリート技術将校そのものの姿だった。

 

「キッテル参謀中佐殿の救援があったればこそです。あの方が居なければ、今頃はどうなっていたか」

「いや、少尉のカルテは見たが、あれであれば兄上が来られずとも命に別状はなかったろう。発見日数によっては、危うかったろうがね。貴官の防殻術式展開は見事な手際だ。あれなら十分教導隊でやって行ける。そう私が兄上に太鼓判を押した」

 

“こいつが私を教導隊に……”

 

 私は理不尽にも内心に怒りが込み上がるのを感じた。勿論、選んだのは私なのだから、文句を言える立場では断じてないのだが。

 

「そう怒らないでくれ。まさか、あのような場末の工廠に回されるとは夢にも思わなかったのでな。兄上に知られて困るのは私も同じだ。ここは一つ、互いの為に話し合おうじゃないか」

 

 付いて来てくれ、と食堂に招かれる。無論技術局は昼夜など有ってないようなものなので、どのような時間でも食事を摂る者は存在する。

 私は将校用の席で歓待を受け、早めのランチと相成った。

 

 

     ◇

 

 

「デグレチャフ少尉。あの工廠で貴官が受けた被害に関しては、間違いなく不当であり、国家の貴重な血液たる魔導将校を食い潰す害悪でもある。私が口添えすれば、すぐにでも地に墜ちた元天才とその部下の首を飛ばせる。

 これはデグレチャフ少尉にとって最も楽で、私にとっては余りやりたくない手段だ。兄上に少尉の負傷を勘付かれては困るのだよ。なので、代案を出そう。

 近々エレニウム工廠は、総監部の命により『閉鎖』となる。少尉の正確なレポートに加え、私の『構造的欠陥の指摘』があって嫌と言える者はおらん」

 

 私は開いた口が塞がらなかった。今でさえ手元に有る転属願いの事さえ忘れる程、エルマー技術少将の言葉に愕然としたものだが、すぐに理性を取り戻して熟考した。

 複座式魔導攻撃機などという埒外な代物を作った所からしても、魔導工学を修めているのは確実。おそらくだが、欠陥機と称すべき試作機は徹底的に問題を追及された上で叩き潰されるだろう。

 私としてはキャリアに傷が付く事なく足抜け出来るのだから、断る理由は何一つとしてない。しかし、気になる部分もあった。

 

「大変魅力的な提案ですが、何故小官如きの為にそこまで?」

「単純な話だ。私にとって、家族こそが全てなのだよ」

 

 国家への忠勤も成果も、全ては家族が喜んでくれるから、しているだけの事。仮に他の道を望むようならば、エルマー技術少将は一切の躊躇なく軍を抜けてそちらの道を進むと言う。

 

「私はね、少尉。家族に嫌われたくないのだ。勿論、兄上や他の皆が私を嫌うなど有り得ないと分かってはいても、不安材料は潰したい。

 兄上は貴官の事を大層気にかけておいでだ。後方への斡旋とて、貴官に対する侮辱ではないだろうかと気を揉んでおいでだったのだよ?

 まぁ、貴官が宣伝局が触れ回っているような軍人でない事は、一目実物を見て察したがね」

 

 私はどんな嘘だろうと見破れる。どんな虚飾だろうと引き剥がせる。どんなに仕草や表情で、視線や言葉で世界中の人間を誤魔化しても、私は決して騙されない。

 口元に弧を描いて指を組むエルマー技術少将は、まるで悪魔のような笑みで私を見ていた。

 

「だから私は、心から家族を愛しているのだよ。家族は決して、貶めようという意図で私を偽らない。利用しようという腹積もりで、私に関わらない。どんな時でも私を裏切らず、心から愛してくれている。

 そして少尉。貴官が兄上を、便利な男として見ている程度だという事も理解しているつもりだ。私に兄上の名を出した時、貴官に陶酔や真の意味での感謝の色はなかった。あったのは私に対してのへつらいだけだったからな。正直失望したぞ。

 ああ、これに関しては口外するつもりはないので安心してくれて良い。貴官のキャリアを傷つけるような真似もしないとも。

 この場で聞き耳を立てている輩も、一言でも漏らせば首を飛ばしてやる。私にはそれだけの力が既にあるのでね」

 

 皆の食器が音を立てた。誰もが決して口外しないと目で訴えていた。それ程までに、エルマー技術少将が恐ろしいのだろう。かくいう私とて、それは同じだ。顔芸は得意なつもりだったし、声色も完璧だった筈だが、やはりこの程度では天才の目は欺けないという事か。

 

「少尉。そこで先程の質問の答えを示そう。何故、貴官の為に私が行動するか? 兄上が、貴官の平穏を願って止まないからだよ。貴官が傷つけば、兄上はお嘆きになる。

 元より他者の為に身を擲てる方ではあったが、死にかけた貴官の姿は、相当に堪えたらしい。ましてや今回は、自分が送った後方での負傷だ。あの心優しい兄上が、どのような反応をされるかは想像に難くない。

 教導隊の席を兄上の為に薦めた私にも責は無論あるが、兄上は私を責めはすまい。それが、私には大変心苦しいのだよ。当たられるより、ずっとずっと私は苦しい」

 

 だからこそ、総監部にいる限りエルマー技術少将は私を守るという。そして、今後も必要ならば可能な限り便宜を図ってやるとも。

 

「私から見た貴官は、外側だけが幼女の狡猾な男だ。思考が女のそれではなく、実に合理的で打算に塗れている。企業なら大層出世したろうが、私とは別の意味で友人の出来ん手合いだな。人の理性を過信する余り、感情の愚かさには配慮が行き届かん類だ。

 忠告しておくが、誰もが貴官のように優秀にも合理的にもなれん。他人が自分のように生きていると思えば、手痛い目に遭うぞ」

 

 耳に痛い言葉である。確かに私は、常に合理的な言動を心がけているつもりであっても、それが予期せず他人に異なる印象を与えたり、或いは理性ある人間なら、必ず自分の意図を察してくれている筈だと過信して、その人が全く予期しない行動に出ると「どうしてこうなってしまったのだ!?」と自問自答に陥ってしまう事もしょっちゅうだった。

 実際この問題は、私が改心するまで散々に付き纏ってきたので、この時の忠告をより深く心に留めておけば良かったと、後になって何度も後悔したものである。

 

「しかし、兄上から見た貴官は戦争が生んだ社会の被害者であり、いたいけな少女であり、守るべき対象の一人なのだ。馬脚を現さねば、今後も兄上は貴官によくしてくれるであろうさ」

 

 精々仲良くするといいと吐き捨てるエルマー技術少将に、私は疑問を投げた。何故、「兄上に関わるな」と言わないのかと。

 

「どうせあのお優しい兄上の事だ。私が本性を語った所で、それは貴官の責任ではなく貴官の環境のせいだと仰られるし、貴官を案じている以上、いつか兄上の方から声をかけられる。

 貴官がそれを鬱陶しいと跳ね除ければ別だが、それは絶対にすまい? 貴官にしてみれば、金の鵞鳥(ガチョウ)を手放すようなものだ。度が過ぎれば流石に兄上も心がお離れになるだろうが、貴官は間抜けではあるまいし、抜け目もない。

 私なら貴官を兄上から遠ざけるのも可能だが、やりたくないな。私は兄上に嫌われたくないし、貴官は兄上にとっての清涼剤にもなる。戦争で心を病む事などないだろうが、それでも貴官が息災なら気も和らごうさ」

 

 まるでアルビオン小説の名探偵のような男だと私は思った。浮世離れして人間嫌いで、助手の博士以外に心を開かないところなどそっくりじゃないか。

 

「話は以上だ。転属届は私から出してやろう。貴官より、よほど真に迫った演技も私は出来るぞ?」

「小官の怒りは、演技ではございませんが」

 

 知っているとエルマー技術少将は含み笑った。私と未来の義弟は、最悪の出会い方をしたものである。しかし、これを機に私は、ようやく命の危機を脱した……筈だった。

 

 

     ◇

 

 

 なんという事でしょう。道連れは一人でも多い方が良いと狂ったフォン・シューゲル主任技師が、事もあろうに予定にない試作演算宝珠稼働実験を敢行してくれやがったのございます。

 

「呪われてあれ! 呪われてあれドクトル・シューゲル! 呪われてあれエレニウム工廠!」

 

 私の怨嗟は天に轟かんばかりだった。しかも、ここに来て完璧にフォン・シューゲル主任技師は狂ったのだろう。これまで無神論者だった主任技師は、今日になって急に敬虔な信徒に鞍替えし、神に祈れば実験は成功すると無線で宣って来たのである。

 

 困った時の神頼みとは言うが、流石にこれは酷すぎる。行き詰った失敗確定の研究に他人を巻き込んだばかりか、技術的改良もないまま魔導師を空に上げてくれやがったフォン・シューゲル主任技師に、私は今手元に小銃さえあれば、自爆も覚悟の上で空間爆発術式をぶち込んでやると憎悪の火を燃やした。

 しかし、今の私は他人への憎悪より自分の命こそ大事である。私は藁にも縋る思いで、本当に心の底から現状に対する不平不満をぶちまけた後に、神に祈る事にした。

 

 

     ◇

 

 

 結果は、成功だった。

 

 納得が行かない。これ以上なく納得が行かない。明らかな欠陥機が、欠陥機のまま問題なく起動している。

 魔導核の魔力暴走中、運良く干渉式が一致した為に暴走が停止。融解しかけた魔導核がコーティングの役割を果たした事で、軍用機として振り回す事にも問題がなくなった訳だが、こんなものは偶然と偶然と、そして偶然と幸運が重なっただけの結果でしかない。

 何しろこの後、この実験成功を機に中央直轄の魔導教導隊員が同調実験を行ったところ、エレニウム工廠ごと吹き飛んでしまったのだ。

 もし実験に参加したのが、かつて我が夫と対決したリービヒ大尉(一九二一年、進級)でなければ、間違いなく即死していただろう。リービヒ大尉は不幸にも全治一ヶ月の重症を負ってしまわれた。名誉なんて言葉は欠片もない、本人もこんな惨めな負傷は初めてだと男泣きに泣かれていた程の悲痛さと悲惨さである。

 エレニウム工廠が吹き飛んだ事への痛快さなど、リービヒ大尉の負傷の報に私でさえ同情の余り忘れた程だ。

 余談だが、リービヒ大尉の元へは後日、フォン・キッテル参謀中佐が見舞いに来たらしい。私にも後年の手紙で、あの時の事は本当に嬉しかったと送ってくれた。

 

 ともあれ、新型試作機の成功例は私だけ。九五式試作演算宝珠は、その名をエレニウム九五式と改められ、私は試験運用という形で西方戦線に送られた。

 その別名をライン戦線。レガドニア協商連合と軍事同盟を結んでいたが為に、なし崩しで帝国に宣戦布告したフランソワ共和国との、地獄の防衛戦を繰り広げた戦線である。

 私はここでの初戦闘で撃墜六、撃破三、未確認三という大戦果を収めたものの、しかしそれを新型機の性能故と上は世間に公表しなかった。

 何故飛んでいるのかも分からず、量産さえ不可能な欠陥機。そんなものを告知するぐらいなら、銀翼突撃章保持者の技量という形にして、大々的にプロパガンダに利用しようというというのが、上の方針だったようである。

 かくして順当に戦果を挙げ続けた私の魔導波形を、敵はネームド*4として登録し、こう畏怖した。

 

 ラインの悪魔、と。

 

 

*1
 後に安全面を考慮して再設計された双発式九七式『突撃機動』演算宝珠であってさえ、当時の諸列強国が制式配備している演算宝珠の性能を凌駕していた。

 エレニウム九五式は四発機という、当時はおろか現代魔導師の水準をも凌駕し得る粋にあった為、私(ターニャ・デグレチャフ)は九五式を秘匿すべき性能と判断し、必要に差し迫った時以外は使用を自制していた。

 ……純粋に、安全面から使用を憂慮していたのもあるが。

*2
 そして、当然ながら海軍はエルマー技術少将を海軍工廠に引き抜こうとしたが、エルマー技術少将が首を縦に振ることはなかった。

*3
 これに加え、帝国空軍も謝罪の後に、海軍との連携を重視する事を確約していた。後に帝国海軍の名を世界に広める『オステンデ海戦』を筆頭に、帝国空軍は常に海軍への助力を惜しまなかった。

*4
 エースを六名以上有する部隊ないし、個人による撃墜スコアが三〇を超えた魔導師は敵軍に魔導波形を『登録』され、識別コードを割り振られるが、ネームドはこれら登録対象の総称である。

 ネームド部隊ないし魔導師は、味方から崇敬の、敵からは畏怖の対象とされた。




 デグ様は今日もノリノリで執筆作業に勤しまれているようです。
 多分後年の秋津島読者からの渾名は腹黒デグちゃま。
(なお回想記中盤になると、渾名が大魔王デグ様になり、ラストはターニャちゃんにシフトチェンジする模様)

 次回からはニコ君の話に戻ります。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 デーニッツ元帥→ペーニッツ大将


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25 南東戦線-黄と緑の場合

※2020/2/20誤字修正。
 びちょびちよさま、oki_fさま、フラットラインさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 アルビオン連合王国とダキア大公国の同時宣戦布告により、レガドニア協商連合との講和にも至らないまま、帝国は三正面という、字句通りに受け取れば悪夢以外の何物でもない情勢に直面した。目下、連合王国は協商連合に艦隊を派遣している筈だが、こちらは帝国海軍と北方方面軍に任せるしかない。

 我々帝国空軍は、何を置いてでもダキアを優先せねばならないのだから。しかしだ。

 

“協商連合に余裕がある内に、宣戦布告するものと思っていたのだがな”

 

 随分と遅きに失したものだと思う。おかげで帝国空軍は、その間北方でも西方(フランソワ方面)でも最低限の軍備に留めざるを得なかった。だが、それも今日この日までである。

 この日、一九二三年、八月に我々帝国空軍はようやく自縄自縛から解き放たれる。

 

「現刻、二一〇〇を以て予定通り南東(ダキア)方面空軍は作戦を決行する。『黄と緑の場合』を発動せよ」

 

 黄と緑はダキア大公国の伝統的な国旗色の組み合わせであり、『黄と緑の場合』は敵前線空軍基地の夜間掃討爆撃から始まる、南東戦線(ダキア方面)の攻撃作戦であった*1

 

 

     ◇

 

 

 従来、航空戦闘において夜間戦闘は行われなかった。管制システムの不備もあるが、暗視装置類の開発がどの国でもなされておらず、魔導波形を探知できる魔導師同士でさえ、同士討ちの危険があった事から、原則として夜間は敵魔導師の奇襲攻撃に備える哨戒任務として、航空機が魔導師と就くのが精々だったのだ。

 

 私も過去に夜間偵察に繰り出した折、運悪く敵魔導師と遭遇し、乗機に軽い被弾を負った事がある。その時は月が隠れて難儀したが、夜目に慣れていた事と敵のマズルフラッシュが位置を教えてくれたので、曳光弾は綺麗に相手に吸い寄せられてくれた。

 その後で私は何故情報を送って逃げなかったと大目玉をくらい、私は自分が戦闘中、哨戒区域から離れてしまっていた事を素直に話した。逃げるにしても、敵を倒してからでなければ、居場所を把握出来なかったのだ。

 それ以来、私は夜間飛行を厳禁とされた訳であるが、この件は空軍内でも教訓となった。航空機の性能だけでなく、基地と航空機が互いの位置を正確に把握できる管制システムは必須であるという事だ。

 そして、管制システムさえ十全ならば、夜間戦闘も問題なく行えるという事が発覚すると、そこから先は早く、空軍は目の色を変えて夜間戦闘の訓練を始めた。

 月明かりの下で編隊を崩さずに航行するよう隊員に努めさせ、各飛行部隊が問題なく航行出来るよう、夜間戦闘機を造ってくれとエルマーに空軍が頼み込んだのである。

 エルマーは自分から兵器を発明するばかりで、他人の指示を受けて造るという事をしたがらないのだが──基本的にエルマーは即実用・有効利用出来るもの以外、却下していた──今回に限っては、すぐに取り掛かると言ってくれた。

 エルマーとしても夜間攻撃案自体は前からあったが、肝心の管制システムがおざなりでは意味がないと、そちらを優先していたのである。

 

 かくして世界初の夜間専用戦闘機ウーフーが開発・生産されたのは、他の新型機が量産体制に入った翌年、私が空軍総司令部付となった一九二一年末であったが、南方戦線に集中配備する分には、問題なく数を揃える事が出来た。

 名が近距離偵察機と同じであるのは、他国の目を欺く為の措置で、この戦闘機は練習機の中に紛れ込ませていたのだ。アルビオン連合王国が、世界初の戦車を『水槽(タンク)』と呼称して誤魔化したのと似たようなものである。

 

 夜間戦闘機が実戦運用された後は、近距離偵察機との混同を避ける為に各機体に識別文字と番号が表される事になった。例を挙げるならば、夜間戦闘機ウーフーは『Na101ウーフー』だ。Naは夜間戦闘機(Nachtjäger)の頭二文字から取ったもので、一〇〇番台は夜間戦闘機の型番となっている。

 

 但し、数字の大きい方が新型という訳では決してなく、生産が終了・廃棄された機種の番号を割り振られる場合もある。その場合も混同を避ける為、番号末にアルファベットが加わる。戦闘機を例に挙げると、Jä003が廃棄された場合、次に同番号が与えられる新型機は、Jä003Aという訳だ。

 蛇足だが、同機体の改修・改造型の場合は別で、エルマーが二年以内の更新を約束したヴュルガーを例に挙げると、初期型が『Jä001ヴュルガー』。エンジンを含む改設計を行った交代機が『Jä001-1ヴュルガー』。

 一九二五年に実戦運用された、翼下と胴体下部に爆弾を搭載し、装甲を厚くして戦闘爆撃機になったモデルは『Jä001-1Fヴュルガー』といった具合に、ハイフンと数字、アルファベットが付く。

 

 

     ◇

 

 

 解説に文を割き過ぎたため、この辺りで話を戻すが、管制システムや夜間戦闘機自体は、攻撃には使用されない。敵航空施設を潰すのは従来通りの昼間攻撃機であり、爆撃機と、それを護衛する戦闘機ないし、魔導攻撃機の仕事だ。

 攻撃を行わない理由は初期の管制システムの性能限界にあって、どう足掻いても自分達の基地から一定の空域しか処理できなかったのである。

 

 空軍総司令部は落胆したものの、しかし、私は夜間攻撃が大変魅力的だったので諦めなかった。十分な錬度と編隊飛行を行い、敵基地の場所さえ確認できれば、爆撃そのものは問題なく行える。今の帝国空軍の質的優位は絶対であり、高高度さえ維持すれば絶対に敵は攻撃できないし、速度差を活かして振り切れば良いと進言した。

 そして私は、あわよくば夜間爆撃の指揮を執ってやろうと思っていた。現時点での私の錬度は間違いなく夜間だろうと最高であり、これを機に夜間出撃禁止令を取り下げて貰おうという腹積もりだったのだ。

 

 私の進言は、空軍総司令部に届いた。しかし、私の夜間出撃禁止令は続いた。フォン・エップ中将は「奴が夜にまで飛ぶようなら、鎖にでも繋いでおけ」とまで言い切った。

 私は壁を思い切り殴って吠えたくなった。「何故、自分の案が通って自分の出撃が許されないのだ!?」と。皆、私に同情はしてくれず、フォン・エップ中将の側についた。

 当時は裏切り者め、と戦友を恨んだが、今にして思えば彼らの方が絶対に正しい。私の魂胆が見え透いていたのも、禁止令が継続した原因だろう。反省の色がない馬鹿を飛ばす訳がないのだ。

 

 だからこそ、私はこの鬱憤を昼間に晴らした。総司令部付きでフォン・エップ中将の副官とは言え、流石にいざ大空戦になるという段にまで、むざむざ撃墜王を遊ばせておく訳には行かないだろう……と、私が直談判した。

 元よりフォン・エップ中将の副官になったのは、中将の弾除けの為であって、それ以上の意味はない。中央参謀本部との連絡将校や公用使の役は他の人間で代用出来るが、最前線で私以上に活躍できるパイロットはいまい。事務仕事は、それはそれで悪くないが、空を飛べないのも、祖国の窮地にあって友軍を救えないのも嫌だった。

 勿論フォン・エップ中将は凄く嫌な顔をしていたが、ダキアに私を墜とせるような相手は居ないからと納得させた。

 私は戦争を一日でも、一分でも早く終わらせたい。それを阻まれるなど、決して我慢できなかったのだ。勿論、空に魅せられていることは否定出来ないが。

 

 

     ◇

 

 

 宣戦布告直後のダキアは、自軍の大規模出撃を鮮やかな奇襲と疑わなかったようだが、帝国空軍にしてみればダキアが敵に回る事は既定路線だった以上、周到に準備を進めていたのは当然と言える。

 

 我々の管制システムは、このダキア軍の奇襲にこそ最大の真価を発揮した。

 作戦指揮所に設置された『オペラハウス*2』はエルマーが従来の管制システムに改良を施した、航空情報部(フルコ)の最新鋭レーダー設備であり、早期警戒網と迎撃システムで構成されていた。

 我々のレーダーにダキア空軍の姿は丸裸となっていたが、ここに辿り着くまでの苦労は並々ならないものだった。何しろ、レーダーの感度が良すぎて、小鳥の群れを大規模航空兵力と間違える事などしょっちゅうだったからだ。

 

 しかし、敵の位置や規模を割り出すことに成功し、レーダーの誤作動も今は極限まで抑えられている。

 私はありったけの爆裂術式と、新たに搭載された空間爆発術式弾を抱え込んだゾフォルトに搭乗し、同じく完全武装下にある魔導攻撃一個中隊に、戦闘二個中隊を加えて敵に突貫した。

 どれだけ数が多かろうと所詮は旧式の木造複葉機であり、今となっては各国が鈍重になるからと外した火砲をぶら下げたまま飛んで来たので、私達には鴨でしかなかった。

 三〇〇以上になる敵の大編隊が、まるで火に飛び込んだ虫のように燃え上がり、地面に叩きつけられる前に砕け散る。敵の密集編隊とゾフォルトの空間爆裂術式弾の組み合わせは、それはもう見事なぐらい、あっという間に纏めて燃やしてくれたものである。

 

 私はダキアでの初戦闘で五〇機は確実に落としたが、これならば弾種を貫通術式弾にせず、通常弾で飛んで節約すべきだったと後悔した。

 そして、私はこのままでは食い足りないと、大物の爆撃機を探したのだが、そちらは一機もないし、魔導師の姿も見当たらない。

 侵攻戦域を制空支配してから出撃させるつもりだったのかとこの時の私は思い、ならばもう空は我々のものだと勝鬨を上げた。

 皆すぐさま無線で爆撃機を要請し、こちらに進軍中の敵地上軍を食い潰して貰う事にした。勿論、その間も私は指を咥えて待つような真似はしない。

 空間爆発術式弾も爆裂術式弾も、敵機を食い潰して尚余っているのだ。帰りの安全も確保している以上、無駄に弾を残す理由はない。

 私は少しばかり後方まで飛び、敵軍の輸送列車がトンネルに入ったのと同時に急降下して、出入り口を空間爆発術式弾で封鎖してやった。

 出来る事なら線路以外も潰してやりたいが、敵師団の行軍に支障が出すぎるのは問題なので止めておいた。敵兵力は、纏まっていればいる程良い。的が大きい方が、爆撃機は仕事がし易いのだ。

 

 かくして予定時間通り到着した爆撃機は、六〇万を擁する大軍勢を、味方地上軍が到着するまでに、完膚なきまでに粉砕した。

 前線からの吉報を、今や遅しと待っていた空軍総司令部は我々の報告に狂喜したが、本国統帥府も南東方面軍総司令官も、地上軍到着までは我々の戦果を過大報告としてしか見ようとしなかった。

 見渡す限りの戦闘機の残骸と歩兵の屍。魔の台風の爪痕のような戦場を直接目の当たりにして、ようやく地上軍は我々に対して誠実に謝罪したのである。

 そしてその後、私達を疑わなくなった陸軍は、私達の報告を元に適切に軍を動かす事を確約してくれた。

 この動かぬ事実によって陸軍と空軍は、以降空陸一体の迅速な共同作戦が遂行出来るようになったのである。

 

 

     ◇

 

 

 昼間の話が長くなったが、今回のダキア戦においての主役は、冒頭にあるように夜の話である。夜間爆撃は問題なく敢行され、当時サーチライトも何もなかったダキア空軍基地や陸軍の前線基地は、あっという間に火の海に包まれた。

 赤々と燃え、徹底的に破壊し尽くされ、瓦礫の山となる基地から悠々と引き返し、爆撃の成功が確認出来た基地から、敵の被害総数を割り出した数日後。案の定、敵も報復として夜間攻撃を敢行してきた。

 

「来たか!」

 

 皆は歓喜の声を上げた。特に、この日の為に徹底して夜間飛行訓練を行ってきた夜間戦闘飛行隊の士気は凄まじいもので、敵の到着を今か今かと空で待っていたのである。

 ここから先は、私もレーダーでの観測と報告からでしか分からないので、悔しいが上手く説明できる自信はない。本著を執筆する事をこの時の自分が知っていれば、克明な記録を残す為に、戦わずとも後方で飛行させて貰っていたのだが。

 

 しかし、レーダー越しにでも互いの情報を掴んでいる以上、大凡の経過は把握できた。

 ダキア空軍は昼間戦闘でもそうであったのだが、密集編隊を崩す事なく、規則正しい飛行で帝国軍基地を爆撃すべくやってきた。が、我々は既に、この編隊を時代遅れで危険なものとして廃止していた。

 対魔導師戦闘において、密集編隊が危険極まりない事を熟知していた帝国空軍は、試行錯誤の末に散開戦闘編隊を導入し、夜間戦闘飛行隊もこれを以て相対した。

 散開戦闘編隊は個々の二機編隊、四機編隊、中隊の間隔を大きく取り、異なる高度を飛行するというものだ。

 これによって間隔の空いた我々は視野を拡大させ、急激に高速化した帝国軍航空機にとって、安全な飛行を約束する革新的なものだったが、何よりも素晴らしいのは密集編隊より敵に発見され辛く──深い闇の帳の中では、一層それは顕著であった──編隊維持の負担も減るので、敵に集中出来るようになった事だろう。

 

 夜間戦闘飛行隊は、昼間戦闘要員にも劣らぬ大金星を上げた。彼らは一〇機以上の爆撃機と随伴機を墜としたと夢中になり、レーダーで確認できる限りにおいても、それ以上の戦果は確実とされた。

 私はまだ、爆撃機を協商連合相手に一機しか墜とした事がなかったから、この時の悔しさはひとしおで「次は是非私も呼んでくれ」と夜間戦闘飛行隊の隊長に懇願したが、隊長は苦言を呈してきた。

 

「中佐殿は十分にご活躍なさったではありませんか。小官とて、昼に飛びたかったのですよ?」

 

 言われれば尤もな話である。私が戦っているのは戦争を終わらせる為であって、部下の手柄まで取る事ではない。

 私は隊長に深く謝罪し、二度とこんな我が儘は言わないと誓った。そしてその分、昼に目一杯飛んで敵を墜とし、ダキア地上軍にも友軍支援の一環として可能な限り入念な地上攻撃に邁進した。砲と機関銃座は念入りかつ徹底的に。友軍の命を刈り取る兵器は、根こそぎ潰すのが私の信条だ。

 昔は怖かった高射砲も、今は全く恐怖を感じない。やはりファメルーンの時は、エルマーの作品だったから手こずったというのも大きかったのだろう。

 

 ただ、どうにも私達帝国軍は、ダキア大公国を過大評価していたらしい。敵兵力は航空機を除けば大多数が歩兵で、大砲も機関銃も数世代前の骨董品。高射砲に関しては、それこそ開発初期のものをタダ同然で共和国辺りから譲って貰っていたのだろう。

 魔導師に至っては……ゼロだ。

 ダキア国軍は明らかに兵農混成の、旧時代の遺物に過ぎなかったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 連戦連勝と破竹の進軍を重ね続ける帝国軍に、ラジオも新聞もお祭り騒ぎが続いた。特に私の戦果に関しては、国民も疑問を持つ事がなくなったのか、或いは感覚が麻痺してしまったのか。昔はそれとなく控えめにしていた数字も、今では堂々と公表し、明日は何機落とすか楽しみだと騒がれていた。

 この賭けは空軍基地でも流行り、私自身も参加した。出撃して四機以下の記録なら、部下に酒と煙草を振舞うのだ。

 私は運悪く出会えない日は振舞わざるを得なかったが、それ以外の日は確実に撃墜した。勿論、可能な限り譲れるスコアも譲った上でだ。ただ、流石にスコアに関しては譲り過ぎたようで、指導部から直々に今後は絶対に譲るなと釘を刺された。

 

「魔導師は五名墜としてエースだけど、空軍じゃ二〇機からようやくエースだ。

 何故って? 一五機は別人が墜としてるからさ!」

 

 当時の有名な空軍のジョークに、こんなものまで出来てしまった。譲るといっても私は無理のない範囲で現実的な数を譲っていたのだが、それでも譲る人間が多くなり過ぎたのは問題だったようだ。

 私はスコアを譲らない代わり、可能な限りの最前線勤務を要求し、兎に角私から欲しいと言わない限り、休暇命令を出さないでくれと希求した。

 目の前に敵がいるのに、安穏と惰眠を貪るなど耐えられない。地上勤務でも何でもいいから、とにかく仕事が欲しかったのだ。

 上が休まないと、下も休みを取り辛いとはフォン・エップ中将のお言葉だったが、私は常日頃から部下達には休暇を取るように言いつけているから大丈夫だと言った。

 私は常々、パイロットも機体も、出撃の際は常に最高の状態でなくてはならないと考えていた。パイロットというものは余人が思う以上に体力を消耗し、敵機と戦う上でも集中力を欠く事を許されない過酷な役である。

 そんな彼らが体調不良を隠して無理に出撃したところで、決して良い結果にはならないし、僚機にも迷惑がかかるからだ。

 だから私は必ず目の届く範囲では、自分の目でパイロット達の体調を確認し、軍医にも各員の体調確認と管理を徹底させた。そして、精神面でもストレス等の問題を抱えているならば、それも積極的に聞いて負担を軽くもした。

 苦い話だが、そこまでして、ようやく生存率が何割か上がる程度だという現実を、私は経験していたからだ。

 では、休みなく出撃する私はどうなのかと問われれば、全く問題ない。私は何時如何なる時だろうと万全の状態であり、夜間禁止令も継続中なので、朝出撃して夜眠るという規則正しい生活を()()()()されていたからだ。

 

 かくして私は毎日飛び、ラジオは冗談めいた撃墜記録を垂れ流し、部下達は賭けに勤しみつつも「自分達の分も残して下さいよ?」と私に頼むのが定番の流れになった。

 勿論、私は手柄を譲った。撃墜スコアを譲渡するのではなく、部下に可能な限り経験を積ませる為に後方に待機し、危なくなったら助太刀する事にしていたのである。

 これはスコアを譲っていた時から行っていた事で、この時に僚機の後ろに食らいついてきた敵機を私が墜としたのをスコアとして譲っていたのだが、それがダキア以降はそのまま私のスコアになった。

 ただ、ダキア戦役では、私が助太刀するような機会は殆どなかった。運悪く、圧倒的な数的不利から後ろを取られることはあっても、皆すぐに引き離して撃墜してしまったのだ。

 パイロット達にとってダキアは絶好の狩場だったが、当然撃墜スコアに伴う叙勲は調整された。他の列強国一機が、ダキア五機分の戦果だと功績調査部から通達されたが、私にしてみれば、一〇機でも良いぐらいだと言える。

 南東方面空軍は皆こぞって戦果を競っているので、私はここで勝ち癖をつけるのは良いが、敵が弱すぎて危機管理が疎かになりそうだと心配してしまった程なのだ。

 

 とはいえ、流石にそんな糖蜜のように甘い時間は何時までも続かない。帝国空軍は鉄道を、有線通信網を、敵基地を何の苦もなく破壊し、蹂躙し尽くし、味方地上軍を悠々と前進させているのだ。

 空軍指導部は一月でダキア大公国の航空兵力を沈黙させると誓ったが、現実には一月でダキア大公国は帝国に降伏した。調印がきっかり一月後なので、実質的な降伏はそれより一〇日以上は早かっただろう。

 フランソワ共和国や他国から、単独降伏に対する圧力は当然あったと思うが、首都を完全包囲下に置かれて抵抗できるような国家は、そうあるまい。

 

 終わってみれば、いいや、私は南東戦線での開戦から一〇日でズタズタになった敵を見て、呆気ないものだと思ってしまった。だが、まだ帝国には予断は許されない。

 西方でも北方でも、空軍の手を借りたい者達は五万と居るのだから。

 

 

*1
 実際には『黄と緑の場合』は、ダキア戦役後に宣伝局が名付けた作戦名である。当時の本当の作戦名は防諜面から『海の場合』としていた。これは作戦名が漏れても、北方(協商連合)への海上作戦と誤認させる為の措置だった。

*2
『オペラハウス』の名は、各所の連絡将校や航空隊の司令官が雛壇のように並べられた机に配置され、九メートル四方のガラス製投影スクリーンを確認しつつ指揮を執った事に由来する。




【今回の主人公のヤベーところ】
 主人公「私は、規則正しい生活を強いられているんだ……!」

 一体何が問題だってんだよ?

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【航空機】
 フォッケウルフFw190D→Jä001-1ヴュルガー
 フォッケウルフFw190F→Jä001-1Fヴュルガー(エンジン部は改修済みなので、実質Fw190Dの戦闘爆撃機型であるFw190D-12を装甲強化した魔改造機)


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26 西方の現実-ターニャの記録3

※2020/2/13誤字修正。
 水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 ダキア大公国の降伏文書調印と共に、帝国は降伏に伴う条約を発効した。

 帝国側の条件は、ダキア大公国の国力と戦後復興や遺族恩給に伴う出費を考慮した上で、第三国通貨ないし貴金属での賠償金の支払い義務を課す。金銭での支払いが難しいのであれば、油田地帯の石油を世界市場換算額の平均で充てる事も可とする。

 そして、以前から紛争地域として、また国境問題から再三協議が繰り返されてきた、帝国領ダキアを正式に帝国国土(マジャール州)と認め、ダキア国民を退去させる事。但し、帝国人と婚約・婚姻関係にあるダキア人と家族に対しては例外措置を取るという二点だった。

 

 侵略国に対する降伏条約にしては異常な程に穏当なものであったが、明らかに善意からでなく、すぐにでも降伏して貰って他の戦線に軍を動員したいという本音が、ダキアからも透けて見えるものであった。

 しかし、ダキアとしては帝国の内情を理解しても、足元を見て交渉するのでなく、唯々諾々と呑まざるを得なかった。もうこの国には、抵抗する力など残されていないからだ。

 賠償金とて、本来なら連合国の勝利を当てにして、フランソワ共和国やレガドニア協商連合の降伏後に支払うようにすべきところが、国軍が崩壊したダキアは、ルーシー連邦の侵略を酷く恐れていたために、進んで支払いに応じていた。ダキアは恭順を示す事で帝国と安全保障条約を結び、帝国の庇護下に収まる事で、独立国家としての立場を守ろうとしたのである。

 

 侵略国を守ってやる義理など欠片もないが、帝国はこれをルーシー連邦との交渉の足がかりに出来ると考えたのだろう。何より、賠償金代わりの石油は、戦時下にある帝国にとっても大変魅力的だった。

 帝国は賠償金の上乗せを条件として、帝国領ダキア、ランシルヴァニア地方にてルーシー連邦と会談。ダキア大公国の共同不可侵と安全保障を、帝国・連邦両国が承認するランシルヴァニア条約(◆1)が締結され、それに伴って帝国と連邦の相互不可侵も約された。

 帝国にしてみれば後者こそ本命であり、これで後顧の憂いなく北方と西方に軍を送れるという訳だが、後の歴史を知る者からすれば、こんな条約は紙切れにしか過ぎなかったことは承知のことだろう。

 ルーシー連邦の横紙破りは有名で、当時からしてアルビオン連合王国の三枚舌外交並みに信用の置けない代物だったのだから*1

 

 

     ◇

 

 

 南方戦線は決着が着いた。ダキア方面空軍は、ダキア国軍が想定より遙かに脆弱であると理解し、敵前線・後方を問わず軍需施設を破壊し尽くした一〇日以降、北方・西方に可能な限りの航空戦力を輸送し、私自身も首都包囲の成功を確信した時点で、空軍総司令部へと引き返した。

 私としては、ダキア戦役後は直ちにライン戦線の友軍支援に回りたかったのだが、そこに空軍総司令部が待ったをかけてきたのである。

 

 ダキア戦役での大戦果を讃えられ、大将に進級したフォン・エップ大将は、私を大佐に進級させた上で、空軍総司令部で指揮を執れと言うのだ。

 空軍総司令たるフォン・エップ大将は、空軍の長として一日でも早い元帥就任が求められる為に、何かと理由をつけてでも進級して貰いたいというのは三軍種の一致するところだろうが、一介の将校となれば話は別である。

 年に二度の進級など、陸も海も良い顔をしないから来年まで待つべきだと私は進言したのだが、この戦時下に有能な人間を遊ばせておく理由はないと押し通したらしい。

 私はこの時既に、デグレチャフ少尉がライン戦線に送られていた事を知っていたので、本土に留まらなければならないという現実に、忸怩たる思いを抱えていた。

 帝国軍のラジオ放送では『白銀』が撃墜王(エース・オブ・ザ・エース)となり、敵魔導師の心胆を寒からしめていると、デグレチャフ少尉の活躍に対して惜しみない賛辞を捧げていたが、それでも傷付いた彼女を腕に抱いた身としては、あの日の事が脳裏を過って仕方なかった。

 

「死にたくない」

 

 耳元に、あの日の言葉が残響する。

 日光の乏しいラインの曇天の下、地獄のような激戦区で、デグレチャフ少尉は今日も飛んでいる。それも、精鋭で鳴る共和国軍魔導師を相手にだ。

 出来る事なら、すぐにでも飛んで行きたい。しかし、私は軍人である。軍人である以上、与えられた仕事はこなさなくてはならない。そして、やるからには忠実かつ、徹底的にだ。

 自らの足で駆けつけることが許されないのなら、私は私にできる最善を、デグレチャフ少尉の為に尽くそうと奮起した。

 

 

     ◇ターニャの記録3

 

 

 皆様、本日も曇天のライン戦線で敵魔導師を駆逐し、砲兵を蹂躙し、危険な高射砲陣地は迂回しつつ順当に戦果を重ねております、ターニャ・デグレチャフ少尉であります。

 我が夫はこの時期の私を大層心配しておられたようですが、ええ、全く心配には及びません……などと。冗談でも言える立場にない程に、ラインは連日連夜地獄でありました。

 

 何しろ防衛戦初期とくれば、地上軍も空軍も皆ダキアにかかりきりで御座いましたので、ラインは常に人手不足の兵器不足。

 私に宛がわれた初めての部下は、幼年学校からの引き抜き三名! しかもうち二名は士官候補生志望の癖に使えない上、すぐさま二階級特進致しましたので、小隊長から分隊長に格下げと相成りました。いえ、それは別に構わなかったのですよ? 無能な味方が敵より恐ろしいのは万国共通なのですから。

 

 その点、私の初めての部下であるセレブリャコーフ伍長は大変優秀。

 徴兵組とはとても思えない見事な空戦機動の上、必要とあらば友軍救援の任に自主志願する程の敢闘精神の持ち主でしたので、国家の財源を蚕食する無能な士官候補生共は、セレブリャコーフ伍長の爪の垢を煎じて飲むべきだと私は何度も思ったものであります。

 

 しかし、空軍の支援は欲しい。兎にも角にも爆撃機が欲しい。魔導攻撃機は是非とも私に代わって、忌々しい連合軍魔導師を徹底的に蹂躙して欲しい。

 ラジオでは散々ダキアを叩き、叩き、叩き潰してもう良いだろうというぐらい徹底的に蹂躙したと報じられるのだ。少しぐらい戦力を分けろと、私はラジオを掴んで吠えたくなった。

 

 勿論、私とて初めからこんな事を叫んでいた訳では無い。ラジオでの情報と友軍の話ぐらいでしかダキアの軍備に明るくなかった私は、敵航空兵力と地上軍の総数に度肝を抜かれ、さしものフォン・キッテル参謀中佐と言えども、これは危ういのではないかと、柄にもなく他人の心配をした程だ。

 だが、蓋を開けてみればダキアの奇襲は見通されていて、帝国空軍は一方的な蹂躙劇を展開。我が未来の夫は一日で撃墜王(エース・オブ・ザ・エース)に値するスコアを稼いだばかりか、帝国空軍は味方地上軍到着までに侵攻軍を一方的に蹂躙し、夜間には徹底的な基地爆撃まで行ったと言うではないか。

 

 ダキア戦役の初めの二日間は、私は南東方面の帝国空軍にあらん限りの賛辞を送った。敵軍の奇襲侵攻を予見しつつ、高度な戦略思想によって統制された帝国空軍が、大戦果をもたらしてくれたのだと信じて疑わなかった。

 だが、三日目になると数字がおかしいと気付く。四日目になると、敵軍の対応に疑念を抱く。五日目になると、自分がプロパガンダを聞いているのでは? と疑い出した。

 そして、ひょっとして、と私は思った。この異常過ぎる戦果は、何かおかしい。私は、というより帝国軍は何か勘違いしていたのではないか? と。

 

 

     ◇

 

 

 一〇日後、私の予想が的中していた事が判明した。ダキア陸軍の主力は歩兵で構築された師団で錬度は最低! 航空兵力は全てが旧式で、ダキア五機分が列強軍用機一機の戦果!

 詐欺! 正しく詐欺! 一体どうして私が地獄の奥底も同然の戦場で苦しんでいる間、空軍の連中はスコア稼ぎに注力しているのか!? そんな連中なら帝国陸軍を四個師団ほど送れば問題ないだろう! 空軍は全員こっちにこい!

 ラインは今日も地獄なんだぞ!?  私だって安全圏で出世したいぞ今すぐ代われ!

 

 斯様に醜い私の魂の叫びと同じく、我が上官にして中隊長たるイーレン・シュワルコフ魔導中尉も似たような思いであっただろうが、中尉は私の内心よりは表向き冷静だった。

 私より早く情報を得られるので、シュワルコフ中尉は、既にダキアから航空勢力が輸送されている事を知っていたのが、精神的安定に繋がったのだと思われる。

 とにかく、シュワルコフ中尉から事情を伺った私は安堵した。特に、向こうの戦局が安定したという事は、間違いなくフォン・キッテル参謀中佐が来てくれる筈である。

 

 あの参謀中佐は最前線をこよなく愛し、死後はヴァルハラから戦乙女達がダースを通り越して、地上を埋め尽くさんばかりに迎えにやって来るぐらいの戦争の申し子である。

 一体どうしてこの化物が、参謀徽章を得る必要があったのかと、その仕事ぶりを知るまでは当時の軍人なら誰もが首を傾げたに違いないが、世の中とは非常に理不尽なもので、我が未来の夫はエルマー兄様ほどでないにせよ、凄まじく事務仕事が早い上に、後方勤務を嫌悪している訳ではなかったのである。

 

 ともあれ、私を含めた航空魔導師や地上軍の皆は、フォン・キッテル参謀中佐の到着を心待ちにしていた。しかし、嗚呼、何という無情! フォン・キッテル参謀中佐は大佐に進級した後、本国指導部に勤務するというではないか!

 当然の如く私は激怒した。というより、西方方面軍の全将兵が激怒した。身内である筈の空軍さえもである。

 

「空軍は俺達陸軍を見殺しにする気だ!」

「ダキアでも、陸が戦果報告を疑ったりして揉めたらしいからなぁ。海さんより陸と仲が悪いってのは本当だったらしいな」

「いや。俺は空軍総司令閣下が統帥府じゃなくて、中央参謀本部に出頭させられた腹いせだと思うぞ」

 

 前線将兵の口々から上がる不平不満。これまで表沙汰にならなかった陸空の確執。私だって、それが事実なら空軍指導部の嫌がらせも仕方がないのではないかと思う。

 それに、空軍は北方より優先してラインに航空兵力を送ってくれているのだから、数字の上だって文句は言えない。

 フォン・キッテル参謀大佐を寄越さないのも、個人が戦争を左右できる時代はとうの昔に終わっているのだから、その分航空兵力を送れば事足りるだろうというのも、至極尤も。否定はできない。

 しかし、前線は英雄を欲しているのだ。精神的支柱を欲して止まないのだ。

 

 何より私は自分の命が大事なのだ!

 

 当然、フォン・キッテル参謀大佐が後方に配置されると知った西方方面軍司令官、モーリッツ=ポール・フォン・ハンス元帥の決断は早かった。全ての将兵が激怒したと語った通り、フォン・ハンス元帥も激怒していた一人だったのだ。

 

「キッテル参謀大佐一人で、一個師団の価値があるのだぞ!? この危急存亡の(とき)にこそ必要な戦力であろうが! 大佐だろうが少将だろうが、陸には幾らでも進級を認めてさせてやるし、奴以外の人事なら今後一切陸が口を挟まぬよう掛け合ってやる!

 だから一刻も早く、あの不休の前線狂いを送って来い! どうせ貴様ら、死なれては困ると強引に進級させたのだろうが!」

 

 このフォン・ハンス元帥の台詞は私の夫を語る上で分かりやすく、後年でも余りに有名な発言の一つだろう。一個師団の価値と言うのは私も認める。前線狂いも大いに認める。

 私の夫は最前線程度では満足出来ず、常に激戦区に行きたがり、阿鼻叫喚の戦火を楽しげに闊歩しては、帝国軍の戦争狂すら一歩も二歩も引かせてしまう生粋のプロシャ軍人だ。

 しかし、いざ実物が出撃するのを目の当たりにすれば、こう思わずにはいられない。

 

 これは酷い、と。

 

 

     ◇

 

 

「デグレチャフ少尉殿は以前、砲兵は戦場の女神だと讃えられておりましたが、だとするとあれは何なのでしょうか?」

「破壊神か何かだろう。いいか、セレブリャコーフ伍長。私も撃墜王として化物扱いされている身だがな、本物の化物というのは、ああいうのを言うのだ」

 

 戦友魔導師達と双眼鏡を用いて*2、両主翼にマルタ十字を描いたゾフォルトを観戦する私は、今なら確信を持って言える。

 私は間違いなく人間だ。少なくとも、あんな常識外れの空戦機動を行いながら、魔導師と戦闘機と爆撃機を潰し、弾襖(たまぶすま)を作る高射砲陣地を掻い潜りつつ蹂躙するような、怪物の同類では断じてない。

 世界には、人間というカテゴリから外すべき人外が間違いなく存在する。少なくとも、フォン・キッテル参謀中佐は間違いなくその部類だ。

 

「魔導師のように二つ名を拝命するなら、あれは間違いなく『魔王』だな」

 

 私のジョークを皆笑わなかった。それどころか、天才だなお前という目で見てきた。

 名付け親としては如何なセンスかと思うが、少なくともこの場にそのセンスを否定する者はいなかった。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 ここからは妻に代わり、ニコラウス・フォン・キッテルが再び筆を執らせて頂く。妻の私に対する評価に関しては少しばかり傷ついたが……、まぁこの手の冗談はいつもの事である。

 話は変わるが、妻が先に語った程、当時のライン戦線は終始逼迫した状況下に置かれていた訳ではなかった。この戦線が後の世に語られる程に凄惨さを見せたのは、ダキア敗戦が濃厚となってからである。

 

 それというのも、共和国は帝国侵攻時に総動員こそ発令したものの、当初は真面目に戦争などする気はなかったのだ。

 共和国軍としても共和国国民としても、何故越境侵犯を犯したレガドニア人の為に自分達が血を流さねばならないのかと不満を募らせており、前線での士気は著しく低かった。

 共和国政府としても、この総動員は飽くまでレガドニア協商連合に対するアピールでしかない。彼ら共和国の心算としては、協商連合に降伏や和平交渉を行われては、帝国の国力を削ぐ事が出来なくなる。

 何としてでも帝国の出血を多くしたい共和国は、協商連合に自分達のみならず、連合王国とダキアが連合軍(アライド・フォース)として参戦する旨を伝えつつも、実質的な侵攻はダキアに任せきりにするつもりだったのだ。

 

 帝国がダキアを過大評価していたように、共和国も──そして連合王国も──ダキアを過大評価していた。第一波の侵攻地上軍ですら六〇万という大兵力を擁し、二万以上の航空兵力まで有するダキアを、共和国は帝国の踵を射抜く、必殺の一矢(◆2)と信じて疑わなかったのである。

 だからこそ、共和国は真面目に戦おうとはしなかった。自分達が戦うのは、ダキアが帝国本土に食らいつき、帝国がそちらに兵力を割いて右往左往する間に、一点突破で左右から挟み合流するという計画だったのだ。

 加えて、本格的に侵攻するにも自分達だけでなく、秘密裏に手を組んだ連合王国の派遣軍の到着を待ってから行うつもりだった辺り、口先で戦争をしていたという後世の評価は的を射たものだろう。

 

 そんな訳であるからして、各戦線では基本的に膠着状態が続き、中には『戦争をしている振り』を帝国軍との合意の上で行っていた部隊まであった。

 敵国人同士が互いの顔が確認出来る距離でサッカーに興じ、野原に寝転んでポーカーまで始めていたというのだから、何とも釈然としない話である。

 本国空軍総司令部に戻り、斯様な西方戦線の有様を知った私に、フォン・エップ大将は肩に手を置いてこう言った。

 

「そういう訳だ、大佐。北方の方が、遥かに緊張感ある戦争が続いているぞ?」

 

 私が本国に戻され、進級した上で後方に就けと命じられた理由がこれである。指導部に到着してから、何としてでもライン戦線に勝利をもたらさなくてはと息巻いていただけに、当時は拍子抜けしたものであった。

 当然、読者諸氏は私の真実を聞いて疑問に思い、説明を求める事だろう。

 

「先程まで、お前の奥方が語っていた事は何処までが本当なのだ?」と。

 

 結論から言うと、どちらも真実である。

 如何に共和国軍の士気が劣悪を通り越した最低なものだったとは言え、中にはきっちりと仕事に励む軍人も無論いた。

 特に、若かりし頃プロシャ・フランソワ戦争に出征し、辛酸を舐めさせられた老将軍方*3は鬼気迫る士気で、彼らは同戦争の勇士が賜る緑と青の徽章を佩用し、勝利を祖国に持ち帰るか、しからずんば死を求めて*4進撃の指揮を執った。

 この『緑と青の勇士』と戦後称された老将軍達は、頑迷固陋の共和国陸軍にあって、最も恐ろしい帝国の敵だった。

 フランソワの議会で元陸相が「赤いズボンこそがフランソワ軍なのだ!」と力説するほどに絢爛華美な装いを好む中、この緑と青の勇士は晴天であっても泥色のレインコートの着用を将兵に強制し、赤いケピ帽をいち早く鉄兜に切り替えさせた。

 また、フランソワ陸軍士官学校出の士官が、白い前立て付きの軍帽を被ろうとすればこれを毟り取り、白手袋をはめて死ぬのが、シックな嗜みなのだと信じて疑わなかった伊達男達を罵倒しては、これを取り上げて塹壕に蹴り込んで泥まみれにした。

 ナポレオーネ率いるフランソワ大陸軍(グランダルメ)のように勇壮な戦いに憧れ、大いなる使命感と戦場の感激に浸っていた共和国の若者にとって、この仕打ちは耐え難いものであった半面、華美な装いを捨てる事で若者達は生き長らえ、帝国軍は苦しんだ。

 緑と青の勇士達は、その苛烈な攻撃も然る事ながら、何よりも攻撃精神(エラン)の伝統故に禁句とされた『防御』を率先して行い、引き際と心得れば即時撤退して戦線を整え、他の戦線では連絡将校程度にしか見られなかった参謀の意見具申さえ、徹底して取り入れたというから、如何に彼らが名将であったかが窺える。

 

「フランソワの陸軍総司令官は、地位を脅かそうとする有能を排斥したがる無能だ」

「ライン戦線を越えたなら、そこから先はひと月で終わるだろう」

 

 だが、そう笑った帝国軍が表情を硬くし、神妙な顔つきで、異口同音に言葉を続ける。

 

「緑と青の勇士には敬意を払え。彼らは一人一人が、フランソワ大元帥に匹敵する」

 

 猪武者と、死に装束の軍勢と、カエルばかり食うから飛び跳ねる逃げ足が達者なのだと共和国軍を笑える者は幸運だ。お前達の前には未だ、緑と青の勇士が立っていないのだ。

 世界最強を自負する帝国陸軍の、背筋を凍らす者達が。誰よりも恐るべき、勝利に喰らいつく将帥の権化が、立ちはだかってはいないのだと。

 

 緑と青の勇士が率いる軍勢は、帝国の重厚な防御線を一点集中する事で一時的に突破。

 それに呼応する精強かつ意気軒昂の共和国航空魔導師は、ライン戦線の一部を終始徹底して地獄にした。

 私の妻は、その有り余る才覚と新兵器の性能故に、かくも無慈悲で凄絶な戦場に放り込まれてしまったという訳だ。

 この回想記の執筆中も常々思っていた事だが、本当に運がないな、彼女は。

 

 そして、そんな状況ならば何故熟練の下士官や兵卒でなく、新兵以下の幼年学校生がデグレチャフ少尉の麾下に入ったのかと言われれば、厄介払いの一言に尽きる。

 これは私も戦後に知った事であるのだが、どうにも件の士官候補生志望の二名は、意欲旺盛なるも命令違反と上官への不服従の傾向有り。将校としての資質は皆無と判断されていた。

 しかし、この二名はいずれも帝国貴族出身であり、情実人事がまかり通ってしまう可能性が高かった為、意図して名誉の戦死を遂げさせられたという訳だ。

 セレブリャコーフ伍長に関しては、完全にとばっちりである。彼女は徴兵組の中でも、分けて成績優秀で素行も良い。しかしながら、小隊として前線に送るならばあと一名は必要で、士官候補志望二名の間を取る形で、徴兵組の中から抜擢されたという訳だ。

 

 不運という言葉では足りない程の境遇だが、デグレチャフ少尉と同性である事に加え、セレブリャコーフ伍長の素行と才能からも、捨てるには惜しいと判断して保護してくれるだろうという期待もあったそうだ。

 流石に希望的観測が過ぎる上、新兵以下の兵士など運が悪ければすぐ死ぬのが戦場なのだから、もう少し手心を加えてやれと私は思う。

 尤も、その希望的観測通りにデグレチャフ少尉はセレブリャコーフ伍長を気に入り、後々も副官として戦場を共にしたというから、思わぬところで縁が出来た事はお互いにとっても喜ばしい事ではあったのだろう。

 人の縁というものは、本当に分からないものである。

 

 

     ◇

 

 

 しかし、そんな一部を除いてぬるま湯のようだったライン戦線も、ダキアが徹底的に叩き潰されたと知れば話は変わる。共和国軍も政府も、ダキアが潰れれば次は自分達だと、ダキアという必殺だった筈の一矢が、帝国という()()()()()()()()へし折れてから、ようやく悟る事が出来たらしい。

 加え、増援として当てにしていた連合王国は、自分達がダキアにしたように日和見を決め込み、本当に危うくなるまで動く気配はなかった。

 ここまで来れば、共和国軍も腹を括るしかない。元々軍隊としての錬度は高く、攻撃精神旺盛な彼らであるから、いざ本気で侵攻してくるとなれば、流石の帝国軍も手を焼かされた。西方戦線は途端に全戦線が血と屍で埋め尽くされ、唐突な敵軍の大攻勢に西方方面軍は完全に狼狽してしまっていたのである。

 

 そして、空軍総司令部にも共和国軍の猛攻が伝えられ、私の最前線行きを西方方面軍が希求して止まないと知らされた時、空軍総司令部にもまた動揺が走ったが、これに関しては、私は不謹慎ながらも良い教訓になったと思う。

 

 ダキア戦役での勝ちに浮かれ、私達空軍は他の戦線でも、十分余裕を持って事に当たれると考えてしまっていた。ダキアが潰されれば、間違いなく共和国の目が覚める事ぐらい分かりきっていた筈なのに、勝って兜の緒が緩みきっていたのである。

 如何なる状況でも最善を模索し、最悪に備えよ。ライン戦線の混乱は、私達にそれをはっきりと教えてくれた。

 

 かくして私は本国指導部での頭脳労働から一変。進級を帳消しにされた上で、ライン戦線の最前線へと飛び立つ事になった。

 進級の取り消しについては、元々、年に二度の進級というのはかなり強引な手段を取っていたので、人事局と揉めていた*5こと。私の中佐への進級理由が副官勤務だったというのに、私がその職責を果たせていない事が、かねてより問題視されていた事が原因の一つだ。

 副官職に関してはあくまで軍務の一つに過ぎず、緊急時においては前線勤務を務めるのは当然だと納得させたが、大佐への進級をダキア戦役での功とせず、本国指導部の幕僚とする為、という名目にしたのは失策だった。

 私は指導部の幕僚でなく、直ちに前線に向かうのだから、すぐに進級させる必要はないと人事局は進級撤回を申し付けたのである。

 フォン・エップ大将は苦々しげな顔をして「来年には必ず奴を大佐にさせろ」と人事局に吐き捨てたらしいが、私としては進級速度が速過ぎると感じていたし、前線勤務を止めるつもりも更々なかったので、全く気にも留めなかった。

 

「そういう所が行かんと言っておるのだ!」

 

 フォン・エップ大将としては、出向した魔導将校ばかりが空軍高級将校の席に着く現状を憂慮しており、一刻も早くパイロットとして、前線への理解と知識のある私に上の席を与えたかったらしい。

 その気持ちは確かに嬉しくあるのだが、私はフォン・エップ大将や魔導将校が上に立ってくれて良かったと思っていた。

 彼らは自分達が専門家でないと自覚しているからこそ、新しいものを柔軟に取り入れて下さり、下の者の意見にも細かく目を通し、耳に入れて下さっている。

 帝国軍のみならず他の列強国もそうだが、後方指揮官は前線指揮官を蔑視しがちだというのに、空軍にはまるでそれがないのである。

 本業の者は確かに知識と経験を有するが、自身の成功例や価値観ばかりを縁にしてしまい、固定観念に囚われて組織を駄目にしてしまう可能性がある。

 だから私は、フォン・エップ大将や空軍指導部を心から尊敬し、頼りにしている。無理に自分に席を与えようなどとしなくとも、彼らが上に立って導いて下されば、少なくとも今代の空軍は安泰だし、次代の芽もしっかりと育んで下さる筈だ。

 私は出立前、フォン・エップ大将や幕僚にその本心を告げると、彼らは鼻を掻いて私を見た。

 

「そう煽てるな、ムズ痒い。それにだ、次代の芽というなら貴様がそうなのだ。前線が片付いたらすぐ戻れ。上の人間として覚える事をみっちり叩き込んでやる」

 

 私は答礼と共に「ご指導の日を心待ちにしております」と告げ、最低限の生活必需品を詰めた将校用旅行鞄を手に、輸送機へと乗り込んだ。

 

 


訳註

◆1:この他にもランシルヴァニア条約には秘密条約議定書が締結されていたが、本書では原著で取り上げられなかった(おそらくは原著者が意図的に隠したものと思われる)条約をここで述べる。

   条約内容は、ダキア国土の割譲(侵攻の黙認)を条件として、帝国が共和国・協商連合との戦争継続中は相互不可侵を遵守することと、その間はダキアへの侵攻は行わないこと。

   ダキア割譲時においては油田地帯の譲渡も認めるが、その際には相互不可侵を更新し、帝国がダキア大公国の石油を購入する際は、市場価格の半額まで抑える事が盛り込まれていた。

   しかし、一九二六年、六月二二日のルーシー連邦と帝国による開戦が、この秘密議定書を実質無効化した。

 

◆2:古代神話における半神の英傑、アキレウスの最期に因んだものと思われる。

   アキレウスは赤子の折、母から冥府を流れる川の水に浸され、無敵の存在となったが、母はアキレウスの踵を掴んで水に浸していたため、完全な不死とならず、そこだけが弱点として残った。

 

*1
 現に、ルーシー連邦は相互不可侵条約締結の三年後に帝国に宣戦布告し、ダキアにも侵略戦争を行うのである。

*2
 この頃は既に望遠術式が一般化していたが、魔力波長を探知されないよう、交戦時以外は道具を用いることを推奨されていた。

*3
 フランソワ軍の兵役は六四を定年と定めているが、プロシャ・フランソワ戦争を経験した多くの予備役将校は最前線を自主志願し、ライン戦線に配置されていた。

*4
 実際、アルビオン・フランソワ戦役の趨勢が決し、帝国が名誉ある降伏を求めても、彼ら勇士は最後の一人となるまで戦いを辞さず「屈辱と敗北は一度で良い」と、死を求めてサーベルを抜き、盛大に果てるのである。

 カイザーは彼らの死を惜しみ、グランダルメの老親衛隊の如き最期を遂げた勇士一人一人を丁重に棺に納め、遺体をフランソワ政府に返還した。

*5
 帝国空軍の人事は航空省人事局が行うが、陸・海軍と比して、戦果はともかく新興であった帝国空軍は、他軍種に付け入る隙を与えまいと、進級や叙勲は他軍種以上に入念かつ厳密・厳正な審査を行っていた。




 秘密議定書の内容がゲスい? 他人の土地売買は列強国の基本だからね、仕方ないね。
 そして秘密条約は、もう一点あったりします(こっちは主人公が後々自主的に書きますが)。

 ていうかさー、自国の恥だからって意図的に隠すとか、主人公は主人公としてどうなん? 騎士道精神溢れてるって読者様から評価されとるんやで? なのに隠すとかねーわーマジ主人公失格だわー。
(実際にどんな高潔な軍人さんでも、お国の恥を誤魔化すのは常なのですが。まぁ結局時代が下れば、ばれるから無駄なんですけどね! というのをやりたかっただけの、作者の意地悪)

 さて、後々語られる予定の秘密条約についてですが。
 本作品のあらすじに掲載した地図で、私たちの世界におけるベルギー・オランダ・ルクセンブルクの有るところがあるじゃろ?
 ここ帝国領土になったらさぁ……連合王国とか、メッチャヤバそうじゃなぁい?(ねっとり)

【本日のデグ様の本音:主人公がライン戦線に来て】

 デグ様「いやー、東部戦線でルーデルに会ったソ連兵の気持ちが分かるわー。それはそれとしてメッチャ清々しくて気持ちいい景色だわー。よくも散々苦しめてくれやがったなカエル野郎ども! 出来るだけ酷く死んで魔王様のスコアになれい!」

 もうこの作品のデグ様はギャグキャラですね。どうしてこうなったし……

補足説明

※モーリッツ=ポール・フォン・ハンス西方方面軍司令官は、アニメ版幼女戦記第8話に登場したお方でありますが、アニメの肩章とドッペルリッツェンの襟章を見るに中佐であります。
 しかし、佐官が方面軍司令官というのはちょっと無理がありそうですので、本作品では元帥にさせて頂きました。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【地名】
 ハンガリー→マジャール州


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27 ライン戦線-キッテル討伐隊

※2020/2/20誤字修正。
 びちょびちよさま、ペヤングもぐもぐさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 将校旅行用鞄を提げて空軍基地へと到着した私は、基地の将兵から敬礼でもって迎えられ、基地内は私が到着すると共に、他基地や司令部からの祝電で埋め尽くされた。

 

「大佐殿! 三軍一同、心よりご到着をお待ちしておりました!」

「残念ながら、最前線送りで中佐に戻ってね」

 

 口ではそう言いつつも、私が全く気にしていないのは皆分かっているのだろう。整備員達は笑いを噛み殺しながら「ラインで活躍すれば、すぐ大佐に戻れますよ」と励ましの言葉をかけてくれた。

 滑走路には既に私が指揮する予定の中隊員が整列しており、ここでも私は敬礼で迎えられた。上官に対しては当然の事と思うだろうが、彼らの敬礼はまるで皇族に行うような見事なものであったから、少々面食らってしまったのだ。

 とはいえ、こういった歓待は過去にも何度かあったので、今更でもある。

 

「これが、私の機体かね?」

「はい! 中佐殿の為にご用意させて頂きました!」

 

 落下傘と地図を携えて案内された乗機を前に、冗談だろう? という思いで訊ねたのだが、整備員も中隊員も皆誇らしげなので、私は思っていた事を口に出来なかった。

 

“こんな機体、目立って敵に警戒されてしまうではないか”

 

 私専用だというゾフォルトは、宣伝局が写真集撮影の折に用意した物と同じく、青のマルタ十字を両主翼上下に描き、尾翼には最新の合計撃墜数たる四〇八を記していた。

 流石に五機撃墜の棒状マーク(バルケルン)を尾翼に入れるには無理があったのか、一〇〇の撃墜を示す黄色いタッツェンクロイツが四つ横に並び、その下に五機撃墜を示す黄色と、一機撃墜を示す白の棒状マーク(バルケルン)を入れていた。無駄に手が込んでいる。

 正直に言って、ダキアでのスコアなど額面通り載せられても恥ずかしいだけだった。何しろ末期のダキア空軍は、練習機で出撃していた程なのだ。せめて叙勲規定通り、五分の一にしてくれれば、まだ直視出来たのだが。

 

“……一〇〇機墜として一人前のダキアではなぁ”

 

 弱い者いじめで胸を張る奴が居るとしたら、そいつは余程の馬鹿か恥知らずだろう。

 何に増しても厄介なのは、彼らにとってこれは純粋な善意であり、私への敬意であり、こうする事で敵が畏怖し、味方は鼓舞されると信じて疑ってないという事だ。

 一体何故近年になって、帝国軍の軍服がプルシアンブルーから灰緑色(フェルトグラウ)に置き換わったのか、彼らには胸に手を当てて考えて欲しいところである。

 時代錯誤な青の上衣に、赤いズボンとケピ帽の共和国軍には受けるだろうが、武勲による敬意からでなく、華美な装いで敵に持て囃されても嬉しくないというのが偽らざる本音だった。

 ただ、私のこのような考えは、帝国軍人としての実用思考がそうさせるのであって、プロシャ軍人としては古き良き戦場でそうであったように、己を飾り立てるのは『粋』なものとして考えられてきた。

 現役パイロットや整備士達にもそうした思いは未だ根強いらしく、キラキラとした瞳で私の機体を見つめる目は、いつか自分もこんな機体で空を飛びたいという羨望もあったのかもしれない。

 

「見事な機体だ。感謝する」

 

 本意ではなかったものの、私は将校として彼らの『粋』な計らいを褒め称えた。正直に告げてしまうには、罪悪感で殺されそうになってしまったからだ。

 頼むから、自分達が撃墜王になった時はこんな真似はするなよと私は心中で警告しながら、即応可能な魔導攻撃機を引き連れて飛ぶ事になった。

 

 この時何よりも嬉しかったのは、私の後席に搭乗したのが、初めてゾフォルトで一緒に飛んだ、あのシャノヴスキー少尉だった事だろう。彼はその顔立ちの幼さとリスのような愛らしさをすっかり無くし、精悍な顔立ちと大尉の肩章が栄える、立派な空軍将校になっていたから「お久しぶりです」と挨拶してくれるまで気付けなかった程である。

 

「嬉しいぞ、また飛べる日が来るとは」

「小官も心待ちにしておりました」

 

 以前にあった壁はなく、シャノヴスキー大尉は心から私に信頼を置いてくれているのが、声ではっきりと伝わった。

 小柄で愛嬌のある、皆から『坊や(ぺポー)』と呼ばれ、愛された新品少尉の頃とは違う。私の相棒たるべく磨ききった大尉は、自信と自負に満ち満ちていたのである。

 今日の私は怖いものなしだ。列強の空軍エースや魔導師が束で来ても、決して負ける気はしなかった。

 

 

     ◇

 

 

 そうして私は妻が呆れるように語った通り、ライン戦線を命じられるまま縦横無尽に飛び回り、魔導師だろうと軍用機だろうと片っ端から墜としては、制空権を確保した空から地上兵器や軍用車輌の悉くを破壊して行ったのだが、帰投した直後、地上要員から大きな問題を伝えられた。

 私に送られてきた祝電と一緒に、西方方面軍司令官たるフォン・ハンス元帥からも、到着して早々電話がかかってきたというのだ。

 それを知った私は、何故教えてくれなかったのかと思うと同時、フォン・ハンス元帥に対する非礼に、どう詫びたものかと頭を悩ませたが、交信を受けた連絡将校は「心配ありませんよ」と微笑んだ。

 

「どういう事か?」

 

 私が尋ねると、連絡将校はフォン・ハンス元帥の声真似と身振り手振りの演技をしながら、一部始終を皆の前で披露し始めた。

 

「『ハンスだ。キッテル参謀大……いや、中佐は居るかね? 私からも歓迎の言葉を贈りたいのだが』

 申し訳ございません! 中佐殿はご不在であります!

『そうか……まだ到着しておらんかったか』

 いいえ、既に出撃されました!」

 

 これにはフォン・ハンス元帥も腹が捻れんばかりに大笑いしたとの事で、声真似の上手い連絡将校に私達も揃って笑った。

 

 そして後日、私宛にフォン・ハンス元帥から上物のシャンパンが贈られたので、出撃禁止が継続中の夜、私は「ハンス元帥閣下に乾杯!」とグラスを掲げて皆と分け合った。

 

 

     ◇

 

 

 ライン戦線に赴任して間を置かず、同地は私の名で持ち切りになった。帝国陸軍は私の乗機を見ては指さして、また中佐が飛んでいると笑い合い、敵は私の機体にマーキングを施した整備員達の目論見通り、私をひどく恐れてまともに戦おうとしなくなったのである。

 後者に関しては非常に困ったが、幸いにして一九二三年時点ではゾフォルトの速度はまだ敵の主力戦闘機と互角であったので、有効射程圏内にさえ入っていれば、何とか墜とす事が出来た。勿論これは、貫通術式弾の射程のおかげでもある。

 

 こうした日々の中、フランソワ語で流れる敵のラジオ放送で、私は自分がラインの魔王と呼ばれている事を知った。ただ、この渾名に関しては帝国側のラジオから『フォン・キッテル参謀中佐が帝国魔導師であれば、魔王の二つ名が与えられたであろうと歴戦の魔導師らは語り……』と流れたのを敵が聴いて広めたようで、つまり元凶は未来の妻であったらしい。

 

 真実を知った今となっては妻に物申したいところだが、当時としては『殺し屋』よりは幾分かマシかと、すんなりと受け入れていた。

 私が殺し屋などという、かくも不名誉かつ軍人としての尊厳を著しく損なう異名を敵から賜ったのは、私が逃げる敵さえ執拗に追い回しては撃墜したことから、功名心や殺人欲求故に前線に馳せ参じているに違いないと、まことしやかに敵がささやき始めたからだという。

 前述した通り、そうした行為に及んだことは否定しないし、敵が私の追い打ちを『騎士道に悖る』としたのにも理解はできるが、この時の私は時代が違うだろうと肩を竦めた。

 

 航空機が軍用に用いられず、演算宝珠を手にした魔導師が、戦場に出現し始めた頃であれば彼らの言い分も分かる。

 演算宝珠が開発されて間もない、古き良き時代の魔導師達は、偵察任務ですれ違えば互いに敬礼を交わし合い、戦う術を持ち始めてからも、負けを認めれば地面に降りて相手の勝利を讃えたという。

 しかし、そうした敵味方の間柄にあっても公に友誼を育めた時代は、それを行っていた魔導師が終わらせてしまった。

 

 演算宝珠の量産と普及に伴う、確立された戦闘法。最適化された攻撃術式や術弾の開発。一騎打ちから集団戦となり、地上と同じく空を血の色に染めてからというもの、大空の戦いは地上のそれと同じく、近代的なものに置き換わってしまっており、当然ながら私が陸軍航空隊に所属した時点で、騎士道の舞台は殺戮劇の様相を呈していた。

 如何にして敵を効率よく殲滅するか。これこそが各国共通の主題であったし、まして私は騎兵出身であったから、潰走する敵を追い立て追い散らすことは本能にも等しい。

 

 私の行いは、言われれば確かに非情に映るのだろう。しかし、私には軍人としての責務があり、共和国軍は我が崇高にして美しき祖国の空と大地を蹂躙すべくやってきた侵略者である事実は、揺るがない。

 仮に私が情に絆され、敵のパイロットを逃せば、明日はその敵パイロットが再び私の戦友を殺しに訪れ、祖国の空と大地を血で染め上げることだろう。

 逃げ延びようとすることは、再起を図るということに他ならないのだから、「見逃せ」というのは無理な頼みである。真に慈悲を乞うのであれば、命を惜しむのであれば、それは逃亡でなく、降伏という手段に出るべきではないか。

 誓って言うが、私は逃亡を謀る相手には降伏を呼びかけ続けてきたし、過去にも未来にも、真に慈悲を乞うた相手まで手にかけたことはない。

 

 私は軍人である。軍人である以上、甘きに堕することは許されないが、勤めを果たすと同時に、その職責に伴う多くの制約を心得、遵守してきた。

 国際法に従い、己の良心に従い、私は忠実に義務を果たしてきたという自負がある。

 反面、私を騎士にあるまじき卑劣漢と誹り、殺し屋と罵った敵国が、私に対して取った措置の二枚舌ぶりには、当時本気で憤慨したものである。

 

 一方的な被害を被ったままではいられなかったのだろう。連合軍(アライド・フォース)は広報で、私を殺すか捕虜にするためだけに、大々的な討伐隊を組織したことを高らかに発表したのだ。

 キッテル討伐隊なるこの組織は志願者に国籍を問わず、世界最高のパイロットを撃墜する気概に溢れる現役軍人や、純粋な功名心や賞金目当ての人間が集う、義勇航空隊として組織されたそうだが、何より私が鼻白んだのは、その内容であった。

 私を撃墜した者、捕虜にした者には共和国・連合王国双方より勲章を授けるばかりか、正規軍人には一階級の進級を確約。三〇〇万フランソワ・フランもの賞金の他、数多くの『特典』が与えられるというではないか。

 

「まるで、西部劇の賞金首だな」

 

 古色蒼然たる道徳倫理を持ち出して非難しておきながらこれとは。連合軍(アライド・フォース)の二枚舌には、ほとほと呆れ返る他にない。

 一体どちらが殺し屋なのか分かったものではなかったが、相手がその気ならば良いだろうと、この挑戦を受けて立つことにした。

 私は毎日の如く同じ空域に出撃し、我が身の存在を主張した。それに留まらず、居場所を教えてやる為に偵察飛行隊や戦闘機隊から敢えて何機か逃がしてやり、複座機の後席に同乗するカメラマンに対して、写真映えするようにレンズに写りこんだ時もあった。

 西部劇で観るように、私の顔写真と一緒に『WANTED』の文字が敵の記事を飾ることを期待してのことである。

 

 そうしていると、これまでは私を見れば蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げていた敵に変わって、『討伐隊クラブ』の面々が互いを押しのけるように勇み足で飛び込んできた。

 討伐隊クラブは非常に血気盛んかつ精力的で、私を見るや否や苛烈極まりない機銃掃射を浴びせてきたのだが、私は恐怖など微塵も感じず、腕が鳴るものだという武人らしい高揚感が全身を駆け巡っていた。

 名誉か? 勲功か? 賞金か? 私の命が、彼らが命を賭けるに値するというのなら、是非にもその腕の程を拝見したいと、武人たる私は心も体も熱く滾ったものである。

 

 しかし、血肉沸き踊る戦いを期待して止まなかった私に対し、討伐隊クラブのメンバーは誰も彼もが呆気なく墜ちてしまった。

 これは私と同伴していた僚機の実力も勿論あると思うが、列強国といえども、未だエルマーの機体に追いつけるような戦闘機を、用意出来ていなかったことが最大の理由だろう。

 彼らの乗機は全金属機でこそあったものの、高度や速度がゾフォルトのそれと同程度の機体に過ぎなかったのが、快勝の理由であった。

 討伐隊クラブの中には、勿論エース級や将来撃墜王になれる素質を持っていた者も多く居ただけに、私は敵ながら、さぞ無念だっただろうと彼らに同情の念を寄せた。

 もし彼らが今の私達と同じ機体を得ていたならば、私ですらひやりとしただろう動きを見せられるような、そんな見事な敵も確かにいたのだ。

 技術格差とは、かくも無情なものなのだなと改めて実感したが、だからとて逃がす気は毛頭ない。たとえ殺し屋の誹りを受けようとも、私には戦友の命の方が大事なのだから、情けをかける気にはなれなかった。

 

 未だ戦意を保っている大隊規模の敵を徹底的に蹂躙し、最も高性能な全金属機に乗っていた最後の一人に狙いを定めたが、なんということだろう!

 この一機は私のみならず、僚機の弾襖(たまぶすま)さえ影絵にでもなったかのように掻い潜って、九死に一生を得たのである!

 

「敵ながら見事!」

 

 私は快哉を叫び、僚機には無線で手を出すなと告げた。リービヒ大尉ではないが、一射一殺と行かないまでも、仕留め損ねたのは何時以来だったかと記憶を辿るほど、久方ぶりの出来事だった。

 パイロットとして、強敵と相見えることの出来た幸運と歓喜に胸躍らせつつ、しかし相手は既に単機であるからして、一度はこれまでもそうだったように、フランソワ語で降伏を呼びかけた。が、相手は諦めきれていないのか、それとも機体の不調なのか返答はない。

 オープンチャンネルであるから、こちらの声は届いているだろう。仮に降伏の意を示すなら、速度と高度を落として着陸の態勢を取る筈であるが、それもない以上は、まだ諦めていないのだ。

 この時の私は、空の男としての冥加を噛み締めた。

 

「一対一だ。貴下との決闘を所望する」

 

 オープンチャンネルで告げてから、私は強く操縦桿を握って、湧き立つ闘志と共にこのフランソワ機に食らいついたが、敵機は面白いぐらい間一髪のところで致命傷を避けてしまう。

 敵機が躱すのに精一杯だというのは分かっているし、私には余裕があるというのに、二射目はコクピットでなく尾翼を削ぐに留まり、三射目も主翼の一部が捥げただけだった。

 幼少の頃より狩猟を学び、射撃には一家言あった私は航空機であっても正確に弾道を把握できる特技を有していたが、この相手は後ろに目がついているどころか、死角など存在しないというように躱していく。

 次第、私は自分の瞳から好奇の輝きが失せていく事を自覚した。この相手は狩られるだけの鹿ではない。ここで逃せば、確実に獰猛な虎となる。いいや、既に人食い虎として、多くの戦友を喰らったに違いないことをはっきりと実感した。

 

“悪いが、ここで確実に死んで貰う”

 

 敵機の回避行動を予測しての、確殺足り得る機銃掃射を実行すべく、照準器に敵機を収めると、ライン戦線では爆撃機や地上攻撃にのみ使用していた、爆裂術式弾を発射することとした。

 逃げ場など決して与えはしない。大地に落下するより早く、空中で散華して貰うべく発射ボタンを押しかけたが、止めを刺すには至らなかった。発射直前、国際救難チャンネルで敵機から応答を求める声があったからだ。

 

『撃つな! 降伏する!』

 

 オープンチャンネルの、それもこの回線で発言したという事は、捕虜になることを意味している。最早この敵機は蹌踉(そうろう)と飛行しており、このまま追い回すだけで墜ちかねないほどの死に体だった。

 私はゆっくりと地上に降りるよう指示すると、相手は素直に従った。

 

 そして、地上に降りた私が拳銃を携えてコクピットから出るよう命じると、相手はまず私の足元に士官短剣を投げてきた。

 これ以上ない降伏の証であり、コクピットから降りるときの所作も将校らしい立ち振る舞いであったが、何より驚いたのは、そのパイロットが帝国でも名の通る、共和国の英雄だったことだ。

 

「お初にお目にかかります。中佐殿の勇名は、我が国にも轟いております」

 

 悪名の間違いではないかね? と皮肉を返す気にはなれなかった。

 この精悍な顔立ちの、少壮の共和国軍中尉からは敵国のラジオに流れるような不快さや嫌味はまるでなく、そのような態度を取ってしまえば、自分の品位を著しく損なうだろうと自覚してしまったからだ。

 私は中尉がしたように、帝国軍将校として恥じぬ振る舞いを心がけ、言の葉を舌に乗せることとした。

 

「貴下のように凛々しく、勇敢な将校に存じて頂けたことは光栄だ。この剣はお返ししたい。捕虜となる意思を示された以上、私は帝国軍人として、中尉の名誉を守る義務がある」

 

 だが、中尉は士官短剣を受け取ろうとしなかった。ばかりか、鞘から抜いて頂きたいとも言う。

 

「小官は負けを認めたのです。一介の中尉如きに斯様なお言葉をかけて頂いたことは感謝致しますが、小官も軍人の端くれ。勝者たる中佐殿には、剣を折って頂かねば面目が立ちません」

 

 時代が違う。そう前述した通りの感情を抱いていたことを、私は深く恥じるしかなかった。失われかけた名誉の日々は、(いにしえ)からの習わしは、未だこの中尉の中に根付き、残っているのだ。

 私は何としてでも、かかる名誉に満ちたやり方で、この中尉の尊厳を守らねばならないと意を決した。それは降伏という場にあってさえ、品位が歩を占める中尉に対する、私なりの贖罪であり、最大級の敬意故にだ。

 

「いや、中尉のような高潔な士官から、帯刀の権利を奪うのは偲びない。貴下の降伏が軍人の名誉と礼に則ったものである以上、私と中尉の間に、これ以上の儀式は無用であろう。

 剣を差し出すには及ばない。私は貴下に、誉ある将校として帯剣して頂きたいのだ」

 

 かくて正しきしきたりに従って固辞する私に対し、中尉は困ったような顔をして、シャノヴスキー大尉に水を向けた。

 

「我が国の心無い悪評と違い、中佐殿は非常に奥ゆかしい方であられるようですね。この剣は暫し、大尉殿が預かって頂けませんか?」

 

 作法に則ってシャノヴスキー大尉が士官短剣を受け取ると、中尉は改めてこの場より捕虜となる意を示すべく、官姓名を名乗った。

 

「フランソワ共和国空軍中尉、フィリベール・クローデルであります。名乗り遅れましたこと、平にご容赦を」

 

 




補足説明

※対主人公の討伐隊に関しては、史実の『リヒトホーフェン討伐隊』がモデルです。
 航空戦史シリーズ『撃墜王リヒトホーフェン』に詳しく記載されていますが、マジで主人公と同じく、リヒトホーフェン様を撃墜ないし捕虜にした方にはヴィクトリア勲章や五〇〇〇ポンド(現代換算で数十億円?[十数億じゃなくて、マジでこの本には数十億円って書いてます])の賞金などが貰える事になってたそうです。
 賞金といえばルーデル大佐殿が有名だけど、この人も大概だったんやなって……。

※ちなみに史実のリヒトホーフェン討伐隊は、マンフレートさんじゃなくて、弟のロタールさんが隊長を倒してしまったので、解体の憂き目に遭いましたw
 弟さんやべぇ……

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 ピエール・アンリ・クロステルマン→フィリベール・クローデル



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28 友になった捕虜-図書室での逢瀬

※2020/2/20誤字修正。
 水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 憲兵にクローデル中尉の身柄を引渡した際、私は彼が捕虜となることを選んだ一部始終を説明し、決してクローデル中尉の名誉と尊厳を傷つけぬよう、念を押した上で基地に戻った。

 クローデル中尉といえば帝国でも高名なパイロットで、私も共和国の号外で幾度となく写真を拝見したものである。

 列強の中でも抜きん出た帝国空軍機は、一機の撃墜が列強諸国の三機に等しいとされているが、クローデル中尉は今日までに公式記録で三三機もの帝国軍機(内一機はゾフォルト)を撃墜した、共和国空軍の最多撃墜王であった。

 

 身柄を引き渡した翌日には、私の説明の甲斐あったのか、はたまた帝国が最多撃墜王同士の交友を絵にしたかった為かは定かでないが、クローデル中尉が本国の捕虜収容所に赴く前に、私は中尉と朝食を摂ることを許された。

 

「正直、『討伐隊クラブ』で指揮を執れと言われた時は気が乗りませんでした。到底名誉ある戦いとは言えませんでしたし、()には愛国心こそあっても、無理に危険に飛び込むほど、無謀にもなれませんから」

 

 昨日と違い、柔らかくなった口調で語りつつ肩を竦めながら前菜を口に運ぶクローデル中尉は、ライン戦線初期の、哨戒任務だけの気楽な戦場に戻りたかったと零していた。

 

「意外でしょうが、僕は帝国の人達が思うほど、威風四辺を払う英傑という人格ではないのですよ? むしろ、臆病者と呼んでも差し支えないでしょうね」

「それにしては、昨日は随分と堂に入った軍人ぶりだったが?」

「死なないと分かれば、堂々と振る舞えるものです」

 

 そう言ってクローデル中尉が笑うと、成程と私も釣られて笑った。こうして会話を弾ませれば、敵味方の別や、今が戦時であることさえ忘れてしまいそうになる。

 ましてや私は何度もクローデル中尉を殺そうとしたというのに、この清々しさなものだから、話せば話すほどに自分が恥ずかしくなっていき、それと同じぐらい、会話を重ねるほどクローデル中尉を好きになっていく自分がいたのに気付いた。

 この年若い、朗らかな好青年の態度は私の心をいとも容易く解してしまっていたのだ。

 私は罪悪感に耐え切れなくなって、クローデル中尉を鹿猟の如く追い立て、殺めようとしたことを心から詫びた。しかし、そんな私の謝罪はかえって不興を呼んだようで、中尉はむすっとした顔をした。

 

「中佐殿、これは戦争なのです。僕は死を恐れていますが、同時に多くの帝国将兵を殺めても来ました。互いが公平に命を賭けている以上、殺意を向けられるのは当然のことと覚悟しています。そのような謝罪は、好ましいと感じません」

「すまない、貴官を侮辱するつもりはなかったのだ。ただ、振り返れば、私は勝ちに拘り過ぎていたと思う。殺し屋などと言われるのも、当然のように思えてな」

「ご自身を卑下なさいますな。祖国に尽くし、勝利を希求するは軍人であれば皆同じこと。負けを認めた以上、僕はこの戦争を見届けるしかありませんが、こうしている間も、絶えず祖国の勝利を願っていますよ?」

「そうか……、そうだな。私もまた勝ちたいと思う。年端も行かぬ子供が、銃を執る時代を終わらせたいのだ」

「ご立派です。その思いあらば、やはり中佐殿は古き良き騎士なのでしょう。一個人に過ぎませんが、我が国の心無い中傷をお詫び申し上げると共に、改めて剣をお受け取り下さいますよう、お願い申し上げます」

「謝罪は受け取ろう。しかし、私は貴官を撃墜出来なかった以上、剣を折る事は出来ない。貴官との思い出の品として、一時お預かりする。終戦の後、再会出来たなら、その時に剣はお返ししたい。どちらに勝利の女神が微笑むとしても、終わった後には遺恨なく友誼を結びたいと思うが、貴官は受け入れて下さるかな?」

「光栄です。立場上『どうか息災で』と申すことは出来ませんが、戦争が終わった後には遺恨を持ち越さぬこと。中佐殿がご存命であられたのならば、是非友と呼び合う仲になりたいと思います」

 

 私達は食事の後、力強い握手をして別れた。クローデル中尉とはアルビオン・フランソワ戦役の後、予期せぬ場面で再会するが、それはその時に語りたい。

 

 

     ◇

 

 

 クローデル中尉と別れてからというもの、私には日課が一つ増えた。

 死者を悼む気持ち、強敵を称える気持ちを改めて終生忘れぬよう、敵味方の為の黙祷を捧げることとしたのである。私は軍人である。軍人である以上、敵を殺め、味方の窮地を救い、祖国を勝利に導かねばならぬ。

 だが、敵もまたそれは同じなのだということを、私は忘れまい。たとえ私自身の手で無残な屍の山を築くのだとしても、死者への礼だけは、損なうことは許されないのだから。

 

 

     ◇

 

 

 ライン戦線に参戦して早二ヶ月。月としては一一月を迎えると同時、私は本国に戻るよう指示を受けた。既にしてライン戦線は安定の兆しを見せ、航空戦力も適切な戦力を配備している以上、これ以上私が残る意味はないというのが、空軍指導部の見解だった。

 勿論、前線将兵やフォン・ハンス元帥も引き止める為に尽力してくれたが、流石にこれ以上は無理だろうというのは私も分かっていた。

 私がライン戦線に足を運ぶことが許された理由は、逼迫した状況を打開する為であって、無条件に空を飛ばせる為ではない。空軍総司令部としては、私に将官となる為の経験を一日でも早く積ませたいのだから、戻って来いと言うのも当然であった。

 

「ご帰還なされるのですね、中佐殿」

 

 典型的な帝国人らしい金髪碧眼と長身の、パイピングと襟色を黄橙色に改造した歩兵将校のダブルブレストを着込んだ青年将校は、私に送還命令が下されてから、間を置かず足を運んでくれた。

 彼の名はヘルムート・イェーリングといい、元はその軍服が示す通り歩兵将校であったが、膝の負傷が原因で前線将校を勤めるのが難しくなったこともあって、空軍パイロットへの転籍を決意したという。

 イェーリング少尉が空軍への転籍を決意した時点で、既にして航空学校の倍率は鰻上りである事に加え、空という未知の分野にして、多くの専門知識を要するパイロットの道は相当に険しいものであった。

 しかし、イェーリング少尉は座学と航空基礎訓練で文句のつけようのない成績を叩き出し、航空戦技でも卓越した格闘戦技能を見せ付けては空戦技能章を取得して、悠々と操縦士課程を修了。

 激戦地たるライン戦線に志願し、同地で撃墜王となる事を望んだ野心家でもあったが、私は始めてイェーリング少尉を見たときから、彼が可愛くて堪らなかった。

 

 この時期の若手パイロットの多くがそうであったように、イェーリング少尉もまた、空への憧れ以上に英雄として持て囃されたい、戦功を立てて出世したいという意識を前面に出していたが、私はそれを悪い事や不純だとは思わなかった。

 男として生まれた以上、立身出世を夢見、栄達を求めるのは当然の事であるし、何よりイェーリング少尉の帝室と祖国に対する忠誠は揺るぎないものだと私は確信していたからだ。

 

 だが、そうしたパイロットなど五万と居る中で私がイェーリング少尉を好いたのは、彼が私に取って代わるのだという気概を持っており、それに相応しい、輝くような天分を有していたからである。

 勿論、イェーリング少尉は着任してからというもの、私に直接そのような事を打ち明けた訳ではない。あくまで同階級の将校と、そのような話をしていたというのを人伝に耳にしただけであるが、私は少尉の野心が、果たして何処まで本気なのか気になっていた。

 周囲はイェーリング少尉を、威勢の良い新品少尉程度にしか見ていなかったが、私は彼の闘志に溢れた瞳や、貴族など何するものぞと言わんばかりの我の強さ。何より愛嬌を感じる図太さに対して、自分には持てない魅力を感じていたのである。

 そうした好奇もあって、イェーリング少尉に始めて話しかけた時、彼は他の空軍将校がそうであるように、私に対して最敬礼で出迎えてくれたが、私は礼儀正しい少尉を見たかった訳ではなかったから、少々不満だった。

 当然だが、私は自分が軍機構の中で、無理無茶を言っている事は重々承知している。上官と部下の、ましてや陸軍将校として多少経験があるといっても、殆ど新品少尉に等しい新米パイロットと、最多撃墜王とでは壁が出来て当然なのだ。

 だから私は、部下としてでなく、パイロットとしてのイェーリング少尉を見るために、ある提案をした。

 

「邀撃任務の為、即応戦闘部隊の志願者を募っているのだが、興味はあるかな?」

 

 イェーリング少尉は目に見えて食いついた。戦果を欲したのもあるが、私も一緒に飛ぶ事を約束したからである。

 既にして私は上に、芽のあるパイロットに経験を積ませる為、数日に一度新人パイロットと飛ばせて欲しいと交渉し、許可を勝ち取っていた。

 私はイェーリング少尉に日程を告げて搭乗割(出動メンバー表)に彼の名を加え、当日になれば一緒に飛んだが、評価としてはまずまずと言ったところだというのが、素直な感想だった。

 粘りのある格闘戦や、パイロットらしい負けず嫌いな部分は評価できる一方、功を焦って動きに無理が出ていたのだ。

 私がイェーリング少尉をはじめとした僚機と地上に降り、反省を求めると、少尉も自分の技量の問題点や、危うくなったところを私や他の戦友に助けられた事を振り返り、次はこのようなミスをしないと声を張った。

 実際、イェーリング少尉は経験から学べるタイプの将校であったことに加え、ヴュルガーも実戦の中で見事に乗りこなせるようになっていたから、私が送還を命じられる頃には、十二分にエースとして活躍も出来ていた。

 

 だが、そうしたパイロットとしての実力が私にも、そして周囲からも評価される一方、私はイェーリングが望むほど、出世は出来ないだろうとも考えていた。

 口さがない戦友たちは、イェーリング少尉は短気で気位が高いというし、何より自己の戦功にばかり目が行っていて、部下の統括に関しては能力に疑問の声が出ていたが、私自身、それを誹謗中傷に過ぎないとは、言い切れないところがあった。

 

「少尉。正直に言えば、私は貴官と離れるのが惜しくある」

 

 送還を知って足を運んでくれたイェーリング少尉に、私は素直に感謝を述べた。イェーリング少尉も満更ではなさそうだが、しかし、私の顔を見て、上官として離別を惜しむだけの言葉では終わらないと察したのだろう。

 釣り上がりかけた口を閉じて、静かに次の言葉を待っていた。

 

「少尉、貴官は何になりたい?」

 

 言っている意味が分かりかねたのだろう。或いは、私の質問は含意の広過ぎるものであったが為に、考えあぐねているのかも知れない。

 私は素直な気持ちで、夢を打ち明けるような思いで言って欲しいと頼むと、イェーリング少尉は大人になってから、親に夢を語るような羞恥の感情を覚えつつも、私に本音で語ってくれた。

 

「他の戦友から、聞き及んでいるやも知れませんが、小官は栄達を望んでいます」

 

 自分は英雄として認められたい。一日でも早く撃墜王となり、大部隊を率いる顕職に就き、いずれは将軍を目指すとも言う。

 私は、イェーリング少尉の夢を笑わなかった。その一つ一つを、真摯に受け止めて、ゆっくりと口を開いた。

 

「酷なことを告げるが、現時点での貴官に、高級将校としての適性を見出せない」

 

 イェーリング少尉は、顔を真っ赤にしながらも耐えていた。相手が私だからというのもあるのだろう。これが同階級の相手なら、間違いなく口角泡を飛ばしていた筈だ。

 

「貴官は、常に経験を糧にする。一個人として、前線将校としては、その向きは非常に良く作用している。現に、貴官は直面した問題点に対し、常に勤勉で実直に取り組んできた。兵卒や下士官も、貴官を負けん気の強い兄のように見ている。私も、そうした貴官を誇らしく思う内の一人だ」

 

 だが、それで通用するのは、現場に立ち続ける内だ。進級を重ね、後方に身を置き続ける立場となれば、必ず現場との齟齬が出る。過去の経験則を重視するあまり、発達し、変化していく事象に追いつけなくなっていくだろう。

 私の発言に、思うところはあった筈だ。だが、それでもと目に強い反骨心を宿しているのが分かってしまい、私は何故こんな事を口にしてしまったのだろうと遣る瀬無くなった。

 いいや。分かっている。このままでは、イェーリング少尉が自覚しないままでは、少尉にとっても、少尉が将来持つ部下にとっても、不幸になるからだ。

 だが、別れの際に足を運んでくれた相手に、まして私自身好ましいと感じる相手に、わざわざ嫌われるような事を言ってしまう必要はあっただろうか?

 

 私の危惧は、漠と感じる不安は、的外れなものかも知れない。

 私が剔抉(てっけつ)せずとも、誰かが必ず指摘する。イェーリング少尉自身とて、一人二人ならばいざ知らず、周囲から言われれば自覚するだろう。何しろ、彼にとって最大の教師は、自らの経験なのだから。

 仮に指摘されないままであったとしても、進級して大隊指揮官の席につき、困難を受け止めれば、自ずと意識が変わり、成長してくれるかもしれない。

 それでも口にしたのは、きっと私がイェーリング少尉に、えこ贔屓にも似た感情を持ってしまったからだろう。

 誰かが、いつか何処かでイェーリング少尉の欠点を直してくれる事を。或いは少尉が、自分自身で気付いてくれる筈だと期待するのでなく、直接言葉にして、見つめ直す機会を与えたかったからなのだ。

 彼が、イェーリング少尉の行く末が不安で、目にかけているからこそ、大成して欲しいという思いが出てしまったのだ。

 だから私は、イェーリング少尉により学んで欲しいと、自分が居なくなって、いつか教えてくれる人が居なくなっても、新しいものを取り入れて、少しでも思慮深くなって欲しいと説諭した。

 

「そうすれば、佐官には手が届くだろう。貴官は努力の出来る男で、気骨もある。老い、頑迷になるには早すぎる、溌剌とした若さを振りまく少壮の軍人だ」

「……将軍になれるとは、言って下さらないのですな」

 

 不服であり、不満なのだろう。礼節の中にある反骨の声音は、しかし私には決して不快ではない。そういうところが、果てなく上を目指そうとする心こそを、私は好ましいと思って接したのだから。

 

「将器を形成して欲しいとは思っている。告白するが、私は貴官を好いているのだ」

 

 男同士で気持ち悪い事を言っているという自覚はあるが、イェーリング少尉とて、私が男色家だとは欠片ほども思っていまいから、そこは安心して胸襟を開ける。

 

「光栄であります、中佐殿」

「だが、納得はしていない」

 

 そうだろう? と問う私に、イェーリング少尉も素直に頷いた。

 

「今はお眼鏡に適わずとも、いずれはその域に達してみせます」

 

 実際、イェーリング少尉は諦めなかった。戦後は中佐まで進級したものの、将校としての実務能力は、そこまでだという自覚もあったのだろう。

 四〇代にして軍を退役したイェーリングは、撃墜王としての知名度を活かして地方選挙に出馬し、その後は着々と実績を重ね、叩き上げとして州議会議員‎にまで上り詰めるが、この頃の私にとっての彼は、撃墜王の座を求める少壮の少尉に過ぎない。

 いや、既にしてこの頃から、私に『敵意』を抱けるほど高みに視線を向けていた。

 

「その意気だ。貴官なら、私から『王冠』を奪えるやもしれん」

「奪っても、宜しいので?」

 

 皮肉屋と周囲から見られるように、その薄い唇の一方を吊り上げる。ようやく砕けてくれたかと、私はその、周囲から嫌われる笑みを自分に向けてくれた事に歓喜して釣られるように笑った。

 ただ、イェーリング少尉にとって、私の笑顔は小童の意気込みを含み笑ったように映ったのだろう。思わずむっとした表情を見せたが、私は別れ際の会話だったこともあって、そうした表情の変化が一層愛おしく感じられた。

 

「勘違いしないでくれ。将器こそ未だ成らずとも、パイロットとしての貴官には、私は一目置いている。半月と経たずエースになれたのだ。私の座など、そう時をかけず得られるだろうさ。……私も、いずれは飛べなくなるのだから」

「ご冗談を」

 

 私が墜落する姿など、想像できないとイェーリング少尉は笑う。だが、実際に私は将来撃墜されるし、そうでなくとも、このまま進級していけば、操縦桿を握ることが出来なくなる日も来るだろう。

 

「冗談ならば、良いのだがね。私とて人間だ。亡霊だの魔王だのと言われたところで歳を取るし、病に倒れもするだろう」

 

 どんな人間でも、若いままではいられない。久遠の玉座を占めるのは軍神だけであり、神ならざる人の身は、死という退位か、老いの禅譲を受け入れておくべきなのだ。

 今はまだ壮健であろうとも、いずれその時は来る。なら、目にかけている者に王冠を奪われたいと思うのは当然だろう。

 

「小官は、中佐殿が老躯になっても操縦桿を握る姿が想像出来ます」

「叶うなら、そう在りたいものだ」

 

 少なくとも、この時はそう思っていた。私に限らず、空に焦がれる人間なら、強敵を求めるパイロットなら、誰だとてそう思うものだろう。

 

「不謹慎だが、私は祖国の為に戦争を終わらせたい一方で、戦場で競い合う事に喜びを感じて止まない。イェーリング少尉。貴官もそれは同じだろう?」

「否定しません。小官は自分が俗な男だと自覚しています」

 

 名声を、地位を、金銭を、女性を求めて止まないと、イェーリング少尉は、そう豪語して。

 

「……それら全てを得ても、飛べなくなれば、つまらないと思うのでしょうね」

 

 イェーリング少尉は多趣味な男だ。美術品を好み、模型に手を出し、狩猟や弓を嗜んでいるという。だが、それら全て以上に、空にこそ情熱を注いで止まない馬鹿だと己を笑った。

 

「なら、飛べる内に悔いなく飛ぶといい。余裕を持って、充実した日々だと思えば、貴官のスコアはより伸びるだろう」

 

 そうなれば、あっという間に撃墜王だと私は笑う。

 

「無論ですとも。中佐殿がご不在の分、これからは獲物も多くなる事でしょうしな」

「言うようになったものだ。だが、貴官なら期待に応えてくれると信じているぞ」

「期待以上の活躍を本土にお届けしてみせます」

 

 イェーリング少尉は、この言葉を本物にした。彼は瞬く間に撃墜王の座を掴んだばかりか、友軍の窮地には率先して駆けつけ、銀翼突撃章を受章。

 多くの戦友達は敬意を表し、彼を『鉄人』ヘルムートと讃えることになる。

 

 

     ◇

 

 

「中佐、貴官の叙勲を申請しておく。必ず通すので期待していてくれ」

「ありがとうございます、ハンス元帥閣下」

 

 私はフォン・ハンス元帥に挨拶に伺った後、戦線を発つ前に可能な限りの前線将兵に握手と抱擁をして別れた。集まってくれた者の中には陸軍軍人も多く含まれていたが、どうやら日記を確認する限り、この時私は幼年学校から派遣された、砲兵隊支援観測班の少女とも話していたらしい。

 この時のことは最早定かでないのだが、当時の私には幼年学校生というのは保護欲をくすぐる存在だったのだろう。

 今となっては顔さえ思い出せないが、余程印象に残りでもしない限り容姿を書き留めない私が、エーリャという少女に対しては『溌剌とした赤毛の美少女』『サインや握手を頬を染めながら強請られた』と日記に記載していたから、当時の私はこの少女の事を大層気に入っていたようである。

 

 

     ◇

 

 

 ところがこの文を書いた後日、それはヴィーシャ(セレブリャコーフ女史の愛称)の同期生の名だと妻が教えてくれ、面会の機会まで得るに至った。

 殆ど記憶にない私とは違い、彼女はこの時の事を克明に覚えていたそうで、今も昔も私のファンだと語ってくれた。

 フラウ・エーリャは戦後すぐ結婚し、多くの子をもうけて幸せな家庭を築かれていた。人の縁というものは、本当に馬鹿に出来ないものである。

 

 

     ◇

 

 

 ライン戦線着任から送還まで、私はデグレチャフ少尉と直接出会う事はなく、彼女の安否を確認出来なかった事を惜しんだが、それに関してはすぐに問題ないと知れた。

 なんとデグレチャフ少尉はライン戦線での戦功を高く評価され、中尉進級の後に軍大学校の軍功推薦枠での入校を確約されているというのだ。

 

「シャノヴスキー大尉と、同期生となるのか」

 

 シャノヴスキー大尉もまた、今日までの出撃回数と勤務態度を評価され、軍功推薦枠で入校の権利を得ている身であるから、私は是非二人には仲良くなって貰いたいものだと思いつつも、空軍と陸軍では、余り関わり合う事はないだろうなとも思った。

 私がそうであったように、空軍士官は軍大学での講義以外に、空軍司令部からの課題も熟さなくてはならないから、他人と和気藹々と話すような時間は取れないだろうからだ。

 余談だが、もう何年も会っていないダールゲ少佐(一九二三年、進級)も軍功推薦枠での軍大学校入校を薦められた事があったのだが、彼はこれを辞退してしまったので、この当時も前線指揮官として北方で活躍していた。ダールゲ少佐が軍大学の推薦を蹴ったのは、例によって空に居たいからだった。

 

「軍大学なんかに入ったら、地上勤務漬けになっちまうだろ? できれば前線、そうでなくても教官として、自分はずっと飛んでいたいんだよ。万年大尉でも、別に悔いはないんでね」

 

 この言葉通り、ダールゲ少佐は終生空に生きたのだが、それを今語る事は止めておこう。

 

 ともあれ私は本来の予定通り、本国指導部で歴戦の魔導将校とフォン・エップ大将に、日々己の作戦方針や運用案を説きつつ、時に修正され、時に賛同され、時に叱責されながらもノウハウを得るに至っていた。

 一九二四年には晴れて大佐に進級し、指導部の職務にも慣れた私は、ランチの時間に軍大学校に通っては、図書室の資料庫に足を運んで論文や蔵書を片端から読み耽っていた。

 持ち出し禁止とされるだけあって、やはり図書室の質は世界最高。若手の優秀な論文も次々に入る為、一生通いつめても決して飽きは来ないだろう。私にとっては、天国にも等しい空間である。

 しかしながら、この空間は私だけの物でないのは当然であるからして、私と同様に資料庫に足を運ぶ将校や将官は多かった。

 特に印象に残るのはフォン・ゼートゥーア准将で、流石に小モルトーケ参謀総長がお目にかける方だけあり、常に哲学者のように地図や資料を眺める姿に、私は小モルトーケ参謀総長が、中央参謀本部で地図を眺めていた姿を重ねてしまう程だった。

 ただ、私にとっては彼らの存在は、言っては悪いが厄介でもあった。何しろ私の姿を見るや否や、彼らは事あるごとに空軍の状況や今後の作戦案をこと細かに訊ねられ、私自身の私見も問われたので、貴重な読書の時間が流れてしまうのだ。

 

 だから私は、図書室に足を運ぶなら、人の少ない日を狙う事にした。お偉方も教会に足を運ぶ事が多い、安息日を狙って入室したのだ。出来れば私も教会に足を運び、デグレチャフ中尉の分も祈りを捧げておきたかったが、背に腹はかえられない。

 出来る限り蔵書に目を通しておかなければ、すぐに新しい物が入って追いつかなくなってしまうからだ。

 

 私は我が身の不幸を嘆いたものの、予期せず災い転じて福となった。私が書架の一つを端から端まで読了し、次の書架へ移ろうとした時、最上段の棚に必死に手を伸ばす、デグレチャフ中尉の姿を見て取ったからだ。

 私は背後から無言で本を取り、差し出す。しかしやはりお節介が過ぎたのだろう。デグレチャフ中尉は胡乱げな視線と不快感を醸し出しつつ私に振り返り、相手が私と知るや否や息を呑んで、不敬を詫びるように、きびきびとした敬礼をしてみせた。

 

「失礼を致しました! 大佐殿!」

「いや、非を詫びるべきは、私の方こそだ。士官を子供のように扱ってしまったのだ。謝罪を、受け入れてくれるだろうか?」

「勿論であります!」

 

 答礼と共に本を差し出しつつ謝罪すると、デグレチャフ中尉は元気よく首肯した。その素直さは微笑ましくもあるのだが、やはりここは図書室であるので少し声のトーンを抑えて頂きたくあった。私が人差し指に口を立てると中尉もすぐに察してくれたようで、こくりと可愛らしく首を縦に振ってくれた。

 こうして見ると、とても『白銀』などという勇ましい二つ名で恐れられる魔導将校とは思えない。何処にでもいる、普通の愛らしい少女ではないか。

 

「ありがとう。中尉の勇名は、かねがね伺っていたが、息災で何よりだ」

「小官は、一帝国軍人としての責務を果たしているに過ぎません。この身は、帝国に捧ぐものと誓いを立てておりますれば」

 

 軍人としては、これ以上ない模範解答ではあるのだろう。力に溢れた言葉と瞳。直立不動で胸を張る姿は、デグレチャフ中尉が少女としてでなく、一軍人である事を私に強調し、そのように扱って欲しいと訴えているようにも見える。

 

「そうか……ならば、重ねて非礼を詫びねばならないな。覚えておいでだろうか? 私が、貴官に文を差し上げた事を」

「はい。ですが、私は嬉しくもあったのです。大佐殿のように、戦場という狂気の中にあって尚、人として健常な精神と、温かな心をお持ちの方が居られた事が」

「ありがとう」

 

 私は、その言葉に救われたような気がした。少なくとも、先程の軍人としての範たる言葉よりも、その言葉の方が、ずっと本音に近いとは分かる。私はこれでも、人の裏表というものはそれとなく分かるのだ。

 デグレチャフ中尉は、決して自ら胸を張った時のような、勇ましい女傑ではない。瞳で、言葉で、態度で偽っても、それが嘘だというぐらい私には分かる。

 むしろ、デグレチャフ中尉は戦争が嫌いなのだろう。事前に用意したような言葉と身振り手振りでは、軍隊という組織に慣れきってしまった者は騙せても、私は無理だ。

 だって私は、彼女の偽らざる本音を口にした時の表情を、しっかりと記憶してしまっていたのだから。

 

「中尉、貴官に再会出来て良かったと思う。また、便りを送っても良いだろうか?」

「勿論です。それと、これをお返し致します」

 

 彼女が差し出してきたのは、私が渡したハンカチだ。しかし、私はそれを断った。

 

「いや、それは貴官に持っていてもらえると嬉しい。ツキを呼ぶのでね」

「……ご婦人から、譲り受けた物とお見受け致しましたが?」

 

 ああ、成程。妙に表情に戸惑いがあったのはそういう事かと私は得心した。確かにそれなら、早く返してしまいたいと思うのも当然だろう。

 

「私の姉上から、幼い頃贈って頂いたものでね。私にとっては、お守りだった」

 

 だから、気にしなくて良いと私は言った。少なくとも、これまで私が一度として傷を負ってないのは、ハンカチが文字通り幸運を運んでくれたのかもしれないだろう? とも付け加えて。

 

「勿論、迷惑ならば構わない。私は少々おせっかいが過ぎる質でね。気を悪くしないで欲しいのだが」

「いえ、そういう事でしたら、有り難く頂きます」

 

 ハンカチを丁寧に仕舞うデグレチャフ中尉に、私は頷きつつ時計を横目に見た。どうやら、この逢瀬も終わりらしい。

 

「では、職務があるので失礼するよ。中尉の前途に『幸運』があらん事を祈る」

 

 答礼と共に別れを告げ、私は静かに退室した。一刻も早く、こんな戦争は終わらせたいものだと思いながら。

 




 主人公はエーリャさんの事について、他にも日記に『女優のようなスタイル』『見惚れるような……』とか色々書いてたので、執筆中大慌てで日記を万年筆でぐりぐり塗り潰したようですw
 でもデグ様にはすぐバレました。

 デグ様「おうちょっと日記見せろよ他にもなんか書いてただろこれ」
 主人公「私にもプライバシーっていうのがあるし(震え声)」

補足説明

【エーリャさんついて】
 本来であれば、この作品にエーリャさんは登場しない筈でした。
 ですが、漫画版幼女戦記17巻で情報部の人間として出演しており、デグ様が後に従事する『衝撃と畏怖』作戦を本作でも同様に行う予定の為、ここで彼女の生存を明らかにしておかないと、出番が一切ないので丸焼きになっているのでは? と読者様から疑問に思われかねないので、生存を主張させるために登場させて頂きました。
 ていうか、なんでこんな超絶出来る女スパイが居て、書籍版は全く仕事してないんですかね情報部。
お前らのせいで、デグ様は部下を失ったんやぞ!(憤怒)。

【ヘルムート・イェーリングについて】
 経歴や異名、名前で気付かれた読者様も多いと思われますが、ヘルムート・イェーリング少尉の元ネタは、WW1においては頼れる兄貴分だったリヒトホーフェンサーカス最後の指揮官『鉄人』ゲーリングさんです。
 なんでモルヒネデブ優遇してんの? という読者様も居られるでしょうが、これは完全に作者がミリオタの世界に踏み込むきっかけとなった女性向けライトノベル、コバルト文庫の『天翔けるバカ』が原因です。

 この作品、リヒトホーフェン様も出るし、ドイツ軍人がカッコ良すぎるから困る。どれくらいカッコイイかってーと、作者の二次元の初恋がモルヒネデブになったぐらいヤバイ。
 そんで歴史に興味持ってドイツスキーになったぐらいヤバイ。

 もしナチ嫌いでモルヒネデブ嫌い。活躍させんなって読者が居られましたらこの場をお借りして謝罪させていただきます。
 でもこの作品の彼はWW1の(より正確には『天翔けるバカ』の)イケメン仕様ですので、何卒ご容赦を! この作品のゲーリング様、本当にかっこいいんですマジで!

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 ヘルマン・ゲーリング→ヘルムート・イェーリング


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29 ターニャの記録4-軍大学と大隊編成

※2023/7/6誤字修正。
 稲村 リィンFC会員・No.931506さま、広畝さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 一九二三年、一二月から入校した軍大学校での生活は、私、ターニャ・デグレチャフにとって、正しく我が世の春とでも称すべき時間だった。

 優秀なる我が部下、セレブリャコーフ伍長も実戦経験に裏打ちされた優秀さ故に、シュワルコフ中尉が将校課程に推薦して下さり、後顧の憂いなく軍学校で勉学に勤しむ事を許された私は、日に温かな三食の食事と清潔かつ快適な寝床。そして湯まで使えるという学校生活を、とことん満喫していたのだった。

 

“この上、学費が無償どころか国費で給与まで出るのだから堪らんな”

 

 戦時下故に、在学期間を一年に圧縮されたのが本当に惜しい。聞けば、何処ぞの空の魔王が、空軍総司令部の要請で在学期間を短縮されながらも一定の成果を挙げてしまったが為に、より実践的かつ実務的な内容を積極的に取り組めば、一年でも高級将校を育成出来ると上は考えたらしい。

 我が未来の夫は、本当に余計な真似をしてくれたものである。いや、決して当人の責任でないという事は理解しているし、在学期間の短縮は未来の夫にとっても不服だったらしいので、一切の非はないのであるが。

 

 しかし、在学期間が半減するといっても、悪い事ばかりではないだろうと私は考え直していた。軍大学校卒業後は、間違いなく高級将校としての出世街道が開かれる。

 これを機に私は、自らの人的資本価値を強くアピールし、将来は後方勤務を務めつつ、優雅に事務机で珈琲を嗜むのだと心に決めていた。

 加え、在学中の私は人との繋がりにも大変恵まれた。図書室の資料庫で、中央参謀本部戦務参謀次長を勤めるフォン・ゼートゥーア准将に対して拝謁の栄に浴したばかりか、戦局談義まで行うことが出来たのだから。

 ……尤も。この時の私は少しばかり、というより、明らかに失言に近い発言をしてしまった。

 いや、案そのものは自分としても良いと思うのだが、敢えて自分がその厄介な役回りを演じたいかと問われれば、断じて否だろう。

 私がフォン・ゼートゥーア准将に提案したのは、敵の出血を目的として継戦能力を喪失させるというもので、これまで絶対数の不足から、地上支援に回さざるを得なかった魔導師を攻撃に転じさせると言うものだ。

 航空魔導師はその機動性を活かし、戦場攪乱と突破浸透襲撃によって、敵兵力を損耗させ続ける。自軍の損耗を抑えての勝利という点で見れば、消耗抑制ドクトリンというのが、最も適切な回答だろう。

 そして、フォン・ゼートゥーア准将は私の提案に耳を傾けられた上で、最後にこうお尋ねになった。

 

「規模はどの程度欲しいか?」

 

 私はバカ正直に答えた。兵站の負荷を考慮した最小戦力単位として、大隊が適切だと。

 こうして愚かな私は、優雅な後方勤務とは真逆の道を自ら舗装し、中央参謀本部虎の子の魔導大隊を率いる羽目になることが確約されたのであった。

 口は災いの元とは、よくぞ言ったものである。

 

 

     ◇

 

 

 残酷な未来を知る由もない私は、その後も足繁く図書室に通いつめては知識を蓄え、論文執筆に注力していたのであるが、ここに来て問題が発生した。

 なんと、フォン・キッテル参謀大佐と中央参謀本部の参謀連が、資料庫の奥で熱心に作戦構想を語り合っておられるではないか。これには私のみならず、軍大学の学徒らも大慌てで息を潜め、陰に隠れて視界から外れつつも聞き耳を立てていた。

 確かに防諜面において、軍大学の図書室というのは間違いなく最高の場所ではある。中央参謀本部や空軍総司令部に赴くよりも手早く、地図を広げて協議するにもやりやすい場所ではあるのだろう。

 彼らは北方・西方両面からの敵軍の侵攻経路やら防御拠点への適切な運用やら、攻撃時期などを熱心に、それはもう熱心に語って学徒達を萎縮させた。

 一言でも漏らそうものなら、即刻銃殺されるような機密事項を扱っているのだから当然である。勿論、軍大学の学徒にそのような愚か者が居る筈もないという前提があるのだろうし、たとえ漏らされても、彼らのそれは決定事項というより事前調整に伴って互いの案を持ち寄っているに過ぎないから、幾らでも修正が利くのは分かっているのだが。

 

“頼むから、他所でやってくれまいか”

 

 私だけでなく、学徒の皆もそう思った筈だ。いや、中にはこれが後方の最前線というものかと、熱心に発想や知恵を吸収しようと思っていた者も居たかもしれないが、私にしてみれば他人の意見に感化される前に、自己の中に支柱を立てておくのが先だろうと思う。自ら発想の翼を広げられる者こそが、組織にとっては新しい風を呼ぶ金鵄たり得るのだから。

 

 

     ◇

 

 

 私は予定を変えた。図書室に足を運ぶなら、お偉方も教会においでになることの多い、安息日を狙って入室したのだ。夫婦揃って同じ思考に行き着いてしまう辺り、この頃から近しい何かがあったのかも……いや、全くないな。この頃の私と夫との共通点など、帝国軍人というぐらいだろう。

 お互い、後になれば自分の気持ちに鈍感だったと共通点を自覚したものだが、この頃はまだ、そんな感情はなかったのだし、何より私は前線を楽しむような危険な感性は持ち合わせていない。

 

 ともあれ、私は図書室の静寂を心から喜び、目当ての本を探し、発見した。しかし、手が届かない。やはり今年一一になろうという小娘には、成人である事を前提にした図書室の構造は辛いものがある。私は軍大学校の図書室の備品に、脚立を加える事を心から所望する。

 将来私ぐらいの年頃の将校が、再び軍大学校に入校する日が来るやもしれないではないか。その日の為に、軍大学は少年少女の為の設備を一日でも早く導入し、私に使用させるべきだと考える次第である。まぁ、本書の紙文を割いている年になってさえ、私の軍大学校最年少入校・卒業記録は破られていないのだが。

 

 しかし、不快にも必死につま先立ちになり、懸命に手を伸ばす私を嘲笑うかのように、或いは子供扱いするように背後から目当ての本を取って行く某か。

 

“私とて、一将校にして軍大学校の学徒なのだぞ!”

 

 と。苛立ちを押し殺しつつも振り返れば、一八〇程の長身に一分の隙もなく近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)常勤服(ウランカ)を纏い、首元には目に眩しい二つの最高戦功章をぶら下げた将校……。

 誰あろう、ライン戦線から送還されたと聞いて、真っ先に連合軍(アライド・フォース)がシャンパンを開けたという今をときめくラインの魔王、フォン・キッテル参謀大佐であった。

 階級差のみならず、前線にあって銀翼()()の受勲歴たる将兵でさえ、神の如く崇め奉られる事を加味すれば、その威光が如何程のものであるか読者諸君にも想像は容易い事と思うし、油断もあったとはいえ、その姿を見た瞬間に私が受けた衝撃も察して頂けると思う。

 

 唯でさえ帝国軍人の目を物理的に潰さんばかりの威光と圧力だというのに、ライン戦線の功で左肋に新しく留められた、黄金柏葉剣付白金騎士突撃章が迫力を倍増させている。これ程までの若さと入営年数でありながら、武功で手に入る勲章の殆どを得たのは、私を除けば後にも先にもこの男ぐらいのものだろう。

 

「失礼を致しました! 大佐殿!」

 

 電光石火で怒りの種火を消火し、直立不動で踵を鳴らして最敬礼。軍人として刷り込まれた保身術は、この日も絶好調である。未来の夫にはバレていたようだが。

 

「いや、非を詫びるべきは、私の方こそだ。士官を子供のように扱ってしまったのだ。謝罪を、受け入れてくれるだろうか?」

 

 本を差し出しつつ、謝罪なさる参謀大佐。しかし、その柔らかな物腰以上に驚いたのは、フォン・キッテル参謀大佐から発せられたのが、図書室で参謀連を相手にしていた際の、事務的でありながら敢闘精神溢れる力強いトーンでなく、まるで宮廷人であるかのような、優美な声音であった事だ。

 

“歴史ある帝国貴族らしい典雅な発音。流石は生粋のプロシャ貴族様という訳だ”

 

 どちらが素であるのかと考えれば、間違いなくこちらだろう。私に充てた私信の内容からも、また、エルマー技術少将の兄君に対する評価からも、フォン・キッテル参謀大佐は戦場にさえ身を置かねば、人間としては文句なしの人格者である事を再確認出来たのは美味しい。

 弟御の言う通り、善意と良心に付け込み易い手合いらしいなと、内心邪悪な笑みを深めながら、快く参謀大佐の謝罪を受け入れた。

 

「ありがとう。中尉の勇名は、かねがね伺っていたが、息災で何よりだ」

 

 加え、フォン・キッテル参謀大佐の私に対する心象は最高。憲兵と一度たりとて諍いを起こさず、武功卓越にして一〇歳で軍大学校の門を潜った新星ともなれば、この評価も当然だろう。後はこの評価をより高みに押し上げ、上限値で固定出来れば言う事はない。

 

「小官は、一帝国軍人としての責務を果たしているに過ぎません。この身は、帝国に捧ぐものと誓いを立てておりますれば」

 

 軍人としては、これ以上ない模範解答。銀翼突撃章保持者が語る国家への忠誠心を疑うような奴がいれば、そいつは余程のひねくれ者に違いない。

 

「そうか……ならば、重ねて非礼を詫びねばならないな。覚えておいでだろうか? 私が、貴官に文を差し上げた事を」

 

“しまった!? 失敗した!”

 

 ここに来て痛恨のミス! 相手が常識人だというのであれば、戦争の痛ましさを全面的に訴えつつ、助けて欲しいとそれとなく伝えてしまえば、後方勤務の道が拓けたものを!

 いいや、まだ遅くはない! 幸いにして戦争なんぞ御免被るというのは私の偽らざる本音! 弟御のように嘘を見抜けても、本心までは見通せまい!

 

「はい。ですが、私は嬉しくもあったのです。大佐殿のように、戦場という狂気の中にあって尚、人として健常な精神と、温かな心をお持ちの方が居られた事が」

「ありがとう」

 

 やった! と、私は心中で勝鬨を上げた。見るがいい、この慈愛に満ち満ちたフォン・キッテル参謀大佐の表情を! 一一歳の少女の安危を、心から憂う事の出来る健常な精神を! 軍上層部もこれぐらい私に優しくするべきだ! 最前線でも地獄直行便のラインなんぞに放り込むなど、有り得んだろう常識的に!

 

「中尉、貴官に再会出来て良かったと思う。また、便りを送っても良いだろうか?」

 

 しかも、今後もコネクションを維持できる手段を自ら用意してくれるとは。本人は混じりけなしの善意なのだろうが、やり易くて口元がにやけてしまいそうだ。詐欺師に騙されないか心配だった程だぞ未来の夫よ。

 

「勿論です。それと、これをお返し致します」

 

 私は恭しくハンカチを取り出す。いつか繋がりを保つ為にと所持していた物だったが、今後は私信をやり取りする間柄になった以上、最早愛人か恋人かも分からぬ女から渡されたのだろうハンカチに用はない。

 

「いや、それは貴官に持っていてもらえると嬉しい。ツキを呼ぶのでね」

「……ご婦人から、譲り受けた物とお見受け致しましたが?」

 

 フォン・キッテル参謀大佐からしたら幸運のアイテムかもしれないが、私にとってはただのハンカチである。良いから受け取れ。

 他所の女からの貰い物など、渡されて嬉しいとでも思うのか? 惚気話は他所の男共とするか、宣伝局辺りにネタとして提供すれば良かろうが色男め。

 

「私の姉上から、幼い頃贈って頂いたものでね。私にとっては、お守りだった。これまで私が傷を負わず済んだのは、きっとそれのお陰なのだろう。中尉にも、文字通りの『幸運』を運んでくれることと思う」

 

“あー……、そういう事か”

 

 つまりは、これは家族からの贈り物で、私も家族同然に大切だから持ってくれということだろう。ただ、フォン・キッテル参謀大佐が撃墜されなかったのは絶対にハンカチのお陰ではないという事だけは確信を持って言える。

 この男は、たとえ三〇回ぐらい撃墜されても何食わぬ顔で戻って来れるだろう。

 ……この時はそう思っていたものだが、いざ直面した際には、私は耐えられなかった。私は夫の墜落など、もう二度と知りたいとさえ思わないし、死んでしまうかもしれないなどとは、想像さえしたくない。あんな苦しい思いは、一度きりで十分だ。

 

「勿論、迷惑ならば構わない。私は、少々おせっかいが過ぎる質でね。気を悪くしないで欲しいのだが」

 

 本当におせっかいが過ぎる。というか、少女には少々重いぞこれ。相手が私じゃなかったら勘違いしそうだ。勿論、有り難く利用させて貰うがな。これで一層、フォン・キッテル参謀大佐は私に深い情を抱いてくれることだろう。

 

「では、職務があるので失礼するよ。中尉の前途に『幸運』があらん事を祈る」

 

 うむ。実に予期せぬ幸運であった。今後も私の為に陰ながら尽くしてくれよ大佐殿。小モルトーケ参謀総長閣下と懇意にしていると小耳に挟んだぞ、是非私の名前を出してくれ。

 

 

     ◇

 

 

 その後も私の学校生活は順風満帆。在学生一〇〇名中、上位一二名に送られる一二騎士の一翼に末席ながら加わり、一代限りの貴族として認められる勲爵士(リッター)の称号を授かる事が出来た。つまり私は、参謀将校としての切符を得るに十分な資格を有したという訳だ。

 ただ、夫が楽勝だったという参謀旅行に関しては、一一の私にはとても、そう、とても筆舌に尽くせない程過酷なものだった。将来の帝国を背負う俊英達の、更には軍功推薦者でさえ極限状況下の耐久訓練に目を回し、思考を鈍らせていたのだから、その辛苦は推して知るべしだ。

 あれで身体が鈍るとのたまえる未来の夫は、本当に人間か疑わしいものである。いや、そこを批判してしまうと、小モルトーケ参謀総長にまで飛び火してしまうので、これ以上の発言は差し控えよう。

 

 兎にも角にも無事軍大学校を卒業し、ターニャ・デグレチャフ改め、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフとなった私は中央参謀本部の晩餐室に招かれ、フォン・ゼートゥーア准将ならび人事局のコードル大佐と共に優雅な会食と相成った訳であるが、はっきり言って、ここの食事は不味い。

 元々中央参謀本部の晩餐室は豪華絢爛という有様で、海軍がそれを経費の無駄と批判。陸は陸で大人気なくも、ホテルで戦争に行くな、戦艦の無駄な設備を削減しろと言い出して大喧嘩。

 以来、後方であっても前線の気構えを忘れない為と、アルビオン料理もかくやと言わんばかりの食事を提供しだしたが、実際のところそれは建前で、事実は晩餐室の調度品に予算をつぎ込み過ぎた為、食材費の一部を延々償却費として計上しているというのだから笑えない。

 こんな事を書いて問題では? と思われるかもしれないが、読者諸君は安心して欲しい。今では綺麗さっぱり晩餐室の支払いを完了し、それを機に上から下まで、この話題で皆持ち切りになった。つまりは既に終わった事なのだ。

 夫に対しての本音を散々にぶちまけている手前今更ではあるが、私は戦後早々に退役した身であるし、何より私に関しては何を書いても良いと、夫と出版社から言質を取っているので、遠慮なく書かせて頂く。失敬、これも今更だったな。

 

 

     ◇

 

 

 話が不味い食事と陸軍のよもやま話では、何時まで経っても無駄に紙文を割くばかりなので話を進めよう。

 私がここに呼ばれた理由は、軍大学校卒業後の私の配属先に関してであり、可能な限り配慮するとはフォン・ゼートゥーア准将の言だが、そんなものは建前に過ぎない。私に勧めてきた配属希望書は、要するに私に受け取れという事であって、即ち選択肢など無きに等しいのだ。

 コードル大佐は人事局の人間であり、私の軍大学卒業後に大尉進級をさせたのも大佐である。その横には中央参謀本部のフォン・ゼートゥーア准将が座っているのだから、中央参謀本部の駒となれというのは既定路線なのである。

 私はそれを理解しつつ、極力お二方がご満足頂けるよう忠誠心溢れる軍人らしく対応。これで晴れて、後方勤務の花形かと内心笑顔に花を咲かせつつも、次第に怪しくなる雲行き。

 

「貴官には新編の魔導大隊を任せる」

 

 やはり前線送りか、と私は内心ため息を漏らした。何、ライン戦線で地獄を見た以上、今更である。ただ、大尉が大隊指揮官を務めるというのはやはり無理があったようだ。

 私は大隊を編成する編成官の役を与えられ、この大隊編成の功を以て少佐に取り立てるから、その後に大隊指揮官として働くようにと仰せつかった。

 

 進級理由が、フォン・キッテル参謀大佐のそれより強引である。まかり間違っても、陸は空に文句を言える立場ではないだろうと私は突っ込みたくなった。流石に相手が相手なので、そんなことは絶対に出来ないが、人事考課上問題しかないではないか。

 とはいえ、フォン・ゼートゥーア准将は私に少佐と大隊長の席を約束してくれるというので、出世の道が拓けたと考えれば決して悪いものではない。

 編成に関しても全権が与えられ、大隊兵員も装備も可能な限りは充当。大隊規模も四八名からなる増強大隊ともなれば、上が私にかける期待の程も窺える。

 但し、北方・西方方面軍以外から人材を引き抜くことという制約もあったが、各方面軍とのパイプ確保も考慮すれば悪くない。おまけに指揮系統は中央参謀本部直轄で、駐屯地は既に終戦を迎えた南東方面。正しく至れり尽くせりであった。

 

 私は優雅なる会食を終えると共に礼を述べ、新たに宛てがわれる中央参謀本部編成課の事務室の下見に向かった。

 

 

     ◇

 

 中央参謀本部での会食から一週間後。新編部隊編成用事務室に設置されたデスクで、私はショックのあまり項垂れていた。

 余りに過酷な募集要項故に、志願者が規定人数を達しなかったからではない。むしろ、事務机に(うずたか)く積み上げられた願書こそが問題なのだ。

 

“何故こうなっだのだ!?”

 

 私は事務机を叩きたくなったが、願書が雪崩を起こしてしまうのでそれも出来ない。私のプランでは、出来る限り募集を長引かせ、安全な後方でのんびりと過ごすつもりであったのだ。

 具体的には、三ヶ月は時間を稼げると疑わなかったというのに、現実は真逆。僅か一週間にして、私の事務机には山脈が形成されていた。

 私は改めて、自分が配布した募集要項に間違いがなかったかと見直す。

 

『常に彼を導き、常に彼を見捨てず、常に道なき道を往き、常に屈さず、常に戦場にある。全ては勝利の為に。求む魔導師、至難の戦場、僅かな報酬、剣林弾雨の暗い日々、耐えざる危険、生還の保証なし。生還の暁には名誉と賞賛を得る』

 

 うむ。一字一句間違いない地獄の片道切符。こんな職場を希望する奴は、間違いなく頭がおかしいと断言できる、生粋の戦争狂ぐらいである。

 私だったら絶対に行きたくない。死んでもお断りだと断言する。

 私はこの時の事を振り返り、夫にも同意を求めた。「こんな募集広告を読んで、願書を出すような人はいませんよね?」と。ところがだ。

 

「軍種こそ違うが、あの広告は胸に響いた。宣伝局広報部は、この文を見習うべきだな。これこそが兵士の、愛国者の心を震わせるものだと感じたよ。流石は私の妻だ、人の心の捉え方というものを、実によく理解している」

「そんな風に考えるのは、きっと貴方ぐらいよ?」

 

 私はこめかみに青筋を浮かべながら、努めて穏やかに、そして丁寧な口調で言ってやった。

 やはり人外に意見を求めたのは間違いだった。一体どうして私の夫は普段は優しい常識人だというのに、一度軍人になると頭がおかしくなってしまうのだろう? 或いは当時の軍人は、皆頭が可笑しかったのかもしれない。

 何処かに私と同じ常識人はいないのだろうか?

 

 

     ◇

 

 

 受け入れがたい現実とはいえ、何時までも項垂れている訳には行かない。目の前に願書が山積している以上、私はこの中から厳選に厳選を重ね、相応しい者を大隊員とせねばならないのだ。

 しかし、これは一人で決済できる仕事量でない事もまた事実。私は即座に電話を回した。こういう時にこそ組織の力を借りるのだ。具体的には、副官を寄越して貰うのだ。

 

 かくして直ぐに、副官は到着した。ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ少尉。かつてはライン戦線で私と二人一組(ツーマンセル)を組み、無事魔導士官を拝命した彼女は、上が気を利かせて私の副官に据えたのだ。

 セレブリャコーフ少尉は秘書役としても大変優秀で、書類を見てすぐに憲兵司令部から優秀な人員を借り受けてくれた。もう少しゆっくりしてくれて良いんだぞ?

 大変だろう座って珈琲でも飲みたまえよ、そして少しでも時計の針をゆっくり進めてくれという私の願いも虚しく、実に優秀な副官として活躍してくれた。出来過ぎる部下というのも考えものである。

 しかし、この程度では私は諦めない。志願者の数を利用して、出来る限り厳選するのだ。どうせいつかは編成が完了してしまい、最前線行きが確定ならば、せめて最優秀な人材を揃えて私の為に頑張って貰おう。

 これならば時間をかけても文句は言われない上、将来の私も大助かり間違いなしだ。

 

 

     ◇

 

 

 私の目論見は、別の意味で脆くも崩れた。光学術式で偽装を施して配置した大佐(立体映像)に面接官を勤めさせ、同じく同室に光学術式で隠れている私や、中央参謀本部の面々を発見できれば合格という、前線帰りの魔導師なら半数は確実にクリア出来る課題を、殆どの志望者はクリア出来なかったのである。

 確かに、エレニウム八四式の頃と比べれば、光学術式の精度は格段に上昇したし、変声による会話や録音さえ可能であるが、だとしても酷すぎる。中央参謀本部のお歴々やフォン・ゼートゥーア准将さえ「こいつらは鍛え直しだ」と零された程だ。

 私と中央参謀本部は、誠に遺憾ながら方針転換を余儀なくされた。合格者が足りないならば、芽のある人員を合格水準に達するまで鍛えるしかないだろう、と。

 

 私は最低限の素養ある人員を選抜し、彼らを徹底的にしごき上げた。七二名からなる訓練生から、第一段階で六〇名まで絞り、そこから規定人数の資格を勝ち取れる人格と能力を有する者を選抜。

 私をモルモットにしてくれやがったという貸しと、唯一の成功例として首の皮一枚繋がったという意味で二重の貸しがあったエレニウム工廠から、試作品たる九七式『突撃機動』演算宝珠の先行量産モデルを拝領。

 これを各員に使用させ、高度八〇〇〇という高地連隊さえ根を上げる高さでの空戦機動を行えるかどうかが分水嶺となったが、しかしよくぞまぁ、工廠が丸ごと吹き飛んでフォン・シューゲル主任技師や他の技師連中も無事だったものである。

 

 連中は悪魔に魂を売り渡して生き存えたのだと、私は今日も信じて疑わない。

 

 

     ◇

 

 

 こうして紆余曲折はあったにせよ、私は第二〇三遊撃航空魔導大隊の編成を完了。以降、私は中央大陸の無数の戦場で、彼らと共に東奔西走する事になるのだが、それを語るのは、また次の機会としよう。

 




 デグ様は主人公を利用する気満々のようです。うん、デグ様だもんね、仕方ないね。
 今話の後半に関しては原作通りなので、態々書かなくてもいいかなぁとは思ったのですが、ここと飛ばしちゃうと後々急に魔導大隊とかが出てきて訳が分からなくなりそうなので書かせて頂きました。


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30 北方戦線での方針-新戦場の開拓

※2020/2/13誤字修正。
 フラットラインさま、すずひらさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 ダキア大公国は落ち、西方戦線は安定した。複数国との戦争においては、弱国から叩くのは基本である以上、フランソワ共和国よりもレガドニア協商連合に注力したいというのが、帝国軍の偽らざる本音であろう。しかし、ここに来て帝国軍は、ある問題に直面していた。

 

“アルビオン艦隊が、こうも多くてはな”

 

 今次戦争で直接的な利権を有さない連合王国ではあるが、やはり中央大陸に突出した勢力を誕生させたくないという見立ては正しかったようで、我々に決定打を打たせまいとダキア大公国との同時宣戦布告を行ってからは、嫌がらせ(挑発戦術)に努めていたのだ。

 

「大佐。貴官は論文で、軍港停泊中の艦艇も爆撃機の攻撃目標にしていたが、効果は如何程のものと考えるかね?」

「在学中、海軍工廠に問い合わせましたところ、現時点での戦艦を含む艦艇は、上空からの防御装甲は旧式魔導師の火力を前提としたものであり、他国もそれに準じている為、空爆に耐え得るものではないと想定致します。ですが、アルビオン王立海軍を攻撃するとなれば、彼らとの北洋での全面対決を意味します」

 

 打てば響くというように、私はフォン・エップ大将に返す。

 仮にそうなれば、問題なのは如何にして戦争を終わらせるかだ。我々の航空機は、航続距離においても最高峰の水準にある。ノルデンから連合王国本土までは最短で三八〇キロ。

 コンドルと護衛戦闘機の航続距離ならば問題なく航行可能だが、戦術的にはともかく戦略的に見れば余り意味はない。敵本土軍港や沿岸要塞を攻撃すれば、連合王国に心理的ダメージと一定の損害を与えられるだろうが、その後に続くものがないからだ。

 

 帝国の海軍力は、陸軍国にあって驚嘆すべき事に、アルビオン王立海軍と睨み合いを行える程度には──これは艦船保有数以上に、将兵の卓越した能力故とされる──有力だが、そこまでだ。たとえ帝国海軍の全艦隊を結集させたとしても、()()()()で王立海軍に勝利する事は不可能。

 よしんば奇跡に奇跡が重なって、アルビオン艦隊に帝国海軍が勝利出来たとしても、アルビオン海峡、ドードーバード海峡は言うに及ばず、連合王国本土周辺の北洋海域も機雷の山である。

 揚陸艇の数も足りない以上、地上軍の動員さえおぼつくまい。どう足掻いても、足掛かりが()()()()ない()()では、連合王国本土上陸など不可能だ。

 

「『航空母艦』でも出来れば、話は別なのでしょうが」

「連合王国でも一隻しかないという代物だ。帝国海軍には、三年先でも無理だろう」

 

 魔導師を戦力として艦艇に乗せる発想はあっても、航空機を載せるという発想は近年までなかったものだ。そもそもにして爆撃機が出来るまで、航空機は航空機か魔導師と戦う以外能がないとされてきたのだから、致し方ない事ではあるのだろうが。

 

「つまりは、今の帝国の軍備では、連合王国の本土上陸を果たす事は事実上不可能。仮に戦って勝てたとしても時間を要するとなれば、その間の戦費など想像したくもないな」

 

 フォン・エップ大将の言は至極尤もである。勝っても戦後に負債を抱えるような戦争など、誰だとてやりたくないのは当然で、だからこそ連合王国は、ダキアと共に帝国へ宣戦布告しながらも、()()()()火蓋を切らず協商連合国本土周辺の監視と哨戒にのみ勤めている。

 

『来るのは良いが、諸君らにその準備と覚悟はあるのかね?』 と。

 

 忌々しいがその通り。我々空軍は敵を叩けるが、戦争を終わらせるだけの力はない。おかげで我々は協商連合に決定打を今の今まで与えられず、膠着状態が続いてしまっていた。

 自軍の損害も軽微で、西方にも戦力を回せる余裕がある事は喜ばしいが、だとしても延々と戦争を長引かせたくはない。それで得をするのは、連合王国だけなのだから。

 

“何としてでも、勝ちを拾えないものか”

 

 頭を悩ませつつも、答えが出て来ない。帝国からしてみれば、連合王国との戦争などメリットがないのだから、出来る事ならば彼らを交戦国から除外したい所である。

 白紙和平を前提とした裏取引ぐらいは、既にやっているだろう。それでも延々とアルビオン艦隊の嫌がらせが続いているという事は、こちらの本音を理解しているという事だ。

 

“勝ちたいが、勝たせてくれない。決定的な勝ちの目がないのは歯がゆいな”

 

 いや、待てと私は思い留まった。態々敵本土に上陸して、勝ちに行こうと考えるのは戦争という物を穿ち過ぎてはいないか? 私は決定的勝利を掴む以外での、別の勝利方法を何処かで聞いていなかったか?

 

“心当たりは、ある。エップ閣下の口からだ”

 

『継戦能力を潰す』。『最終的に勝利を掴む』。確か、そんな言葉だった筈だ。

 

「閣下。以前、ゼートゥーア閣下と会食なされたと伺いましたが、その時に興味深い話をされておりませんでしたか?」

 

 そこまで私が口にした時、フォン・エップ大将はニヤリと口元を歪めた。ようやく気付いたのか? と明らかに私の察しの悪さを笑っているのだ。

 

「試しましたな? 閣下」

 

 お人が悪い、と私は思う。しかし、フォン・エップ大将はこれも教育の内だと笑った。

 

「指導部と陸にも話は通してある。作戦もそちらに任せた。貴官にだけは、口止めさせたがな。次はその発想が、自分の頭だけで出るようにしろ」

 

 随分と難しい課題だが、常に新しい方法を探求するのは、流行り廃りの激しい軍隊の世界では、必須の技能である事は間違いない。私が全力を尽くしますと応えると、「その上を行け」とすげなく返された。

 

 

     ◇

 

 

 帝国空軍の方針は固まっていた。空軍主力は協商連合・連合王国双方の哨戒艦艇を可能な限りにおいて空爆。

 空爆の成否を問わず、こちらの攻撃によって本格的な参戦が予想される連合王国側からの海岸上陸を前提とし、レーダー網にて敵上陸地点を予想。水際で敵上陸兵力を帝国地上軍と連携して叩きつつ、あくまで陣地戦防御に徹する。

 その間、空軍の別働隊はノルデン方面の小島を海軍と合同で各個占領。帝国陸軍の為、協商連合への本土侵攻への橋頭堡を築く事が目標である。

 

 今回の私の任務は、レガドニア海軍より危険度の高い、アルビオンからの派遣艦隊を空爆する爆撃機の護衛であり、可能な限り艦乗護衛海兵魔導師を叩きつつ、艦載高角砲と対空機銃を破壊。

 余力があればゾフォルトの空間爆発術式と新規開発された航空魚雷で、護衛艦にも損害を与えるよう命じられた。

 勿論私自身が前線行きを志願したのではあるが、それでもすんなりと事が運んだことには、少々驚いてしまったものである。

 

「爆撃機も魔導攻撃機も、出来得る限り失いたくないのでな。高射砲陣地を苦もなく潰す貴様だ。一定の戦果は稼げるだろうし、生存率も高かろうさ」

 

 流石はフォン・エップ大将である。これ程までに嬉しい信頼はない。

 

「皮肉に決まっておろうが。言っておくが、北方での貴様の出撃はこれ一度きりだ。停泊中の艦艇ならいざ知らず、航行中の艦隊に攻撃というのはリスクが高すぎる」

 

 あくまで我々の目的は、連合王国軍に上陸作戦を敢行させて出血死を図り、協商連合本土への足掛かりを用意する事でしかない。要するに、相手の頭に血を上らせる事が出来れば十分なのだ。

 尤も、その程度で満足出来る私ではなかったし、何事にも建前と言うものはある。

 

「とはいえ、吉報を期待していないと言えば嘘になるがな。試験的な運用だが、成功すれば我々は地上攻撃に加わる、新たな付加価値を得られるだろう」

 

 フォン・エップ大将の中々の野心家ぶりに、私は笑みを深めた。空に大地ときて、ここで海上さえ新たな戦場として開拓出来るとなれば、空軍はその地位を大いに向上させることだろう。

 

「鋭意努力致します。我々の戦場が、天と地だけでない事を陸海軍に証明してご覧に入れます」

 

 踵を鳴らす私に、フォン・エップ大将は鷹揚に頷かれた。

 

     ◇

 

 

 北方戦線へと到着した私は爆撃中隊を護衛すべく、三個魔導攻撃中隊を率いる事と相成った。安全かつ確実な戦果を挙げる為とはいえ、爆撃機もゾフォルトも、一度の作戦でこれだけの数を揃えるのは帝国空軍でも初めての事で、皆浮き足立っていた。

 唯一の懸念事項はゾフォルトの航続距離が爆撃機と比べて短く、海上の敵艦艇を発見できないまま、引き返してしまう結果になりかねなかった事だが、そこは投下式投棄増槽という非常に便利な代物が解決してくれた。

 これまでの戦闘では航続距離を目一杯飛行する事などなかった為、増槽の必要性に疑義を唱える者も多かったが、あのエルマーが何の意味もなく兵器を作る筈もない事は、誰より私がよく理解していた。正しく備えあれば患いなしだ。

 

 私達は艦艇の空爆という、戦史史上初めての冒険に興奮と不安の双方を抱いていたが、そんなものは長くは続かない。自分達の想定よりずっと早く、協商連合に派遣されたアルビオン艦隊を発見してしまったからだ。それも、見るからにピカピカの最新鋭戦艦が旗艦を勤め、世界最大の巡洋戦艦までいる艦隊だ!

 

“大当たりだな!”

 

 敵艦隊の規模も然ることながら、私は自分の記憶と巡洋戦艦を照合し、あれがマイティ・フッドに違いないと確信した。

 列強海軍最高最大の巡洋戦艦、王立海軍が誇る武威の象徴、マイティ・フッド。それが、私の眼下に存在するのだという現実に、恐怖でなく歓喜の声を張り上げたくてやまなかったものである。

 ただ、私の心中の叫びとは反対に「あんな巨大な艦隊をやるのか!?」と思わず叫んだ者も出たが、この驚愕に対して、少壮の戦友達は「当然だ!」と即座に返していた。

 目標を発見した以上、ここで引き返せば敵前逃亡として銃殺に処されることが分かっていたからだろう。どうせ腹を括るなら、強敵と相見える機会を得た日を寿ぐ方が、よほど建設的だというのは私も同意する。

 こういうものは、恐怖した途端に負けが込むものだと心得ていた私は、まだ十分燃料が余っているというのに、増槽を落とすのは勿体ないなぁとケチ臭い事まで考えてしまえる程度には余裕があった。

 

「諸君、あの巡洋戦艦をやるぞ!」

 

 指揮官先頭の精神に従い、私は増槽を切り離すと同時、急降下して航空魚雷を投下すると、三個魔導攻撃中隊も私に続く形で立て続けに投下した。

 とはいえ距離があるので、回避運動を取って避けられるか、マイティ・フッドを囲む巡洋艦や駆逐艦に阻まれるのがオチだろう。

 高角砲や対空機銃を叩く上でも、魔導師を相手にする上でも、単装とは言え航空魚雷を抱えたままでは流石に危険すぎる。

 重りは早めに処理してしまえば良いと、この時はそのように考えていたが、実際に命中した魚雷とその戦果に、私だけでなく魔導攻撃中隊は瞠目した。

 流石というべきか、エルマーとフォン・シューゲル主任技師という大天才二人が共同で──犬猿の仲であった両者が、どのような形で友誼を結んだかは、後に妻から語らせて頂きたくある──手掛けたという航空魚雷は見事に命中後炸裂し、一発の不発弾も出す事なく、各艦を命中と同時に沈没させているのである。

『魚雷発射管には、無能な開発局員を装填しろ』と毒づく潜水艦乗組員の皮肉と怒りは空軍でも語り草となっており、私もまた、如何にエルマーとフォン・シューゲル主任技師の合作と言えど、不発を覚悟しての投下であったから、この結果は予想外に過ぎたものである。

 

 私は火を噴き、血で汚され、舵も利かず沈み行く三隻の巡洋艦を目で追ったが、何より驚愕したのは、たった二発の魚雷だけで、あのマイティ・フッドが沈んでいるという現実だ。

 命じた私自身冗談のつもりであったし、中るなどと微塵も考えていなかった。いや、仮に中ったとしても針の一刺しにも等しい一撃で、峻厳な山のような巡洋戦艦が、沈む筈もないだろうと高を括っていたのである。

 だが、現実にアルビオン王立海軍が誇る力の象徴は傾斜しきっており、黒煙という断末魔を上げて倒れていく。当たり所によっては、戦艦さえ沈むということはカタログスペックから確認していたが、いざ現実に直面した時には、誰も歓声の一つも上げられなかった。

 敵を海の藻屑に変えてみせると意気込んでいながら、新しい戦場を開拓してみせると臨んでおきながら、目の前の光景が、何処までも現実離れしたものに感じてならなかったのであるが、しかし、戦端を開いた側が口を開けて固まるような無様など赦される筈もなく、私達はすぐさま意識を切り替えた。

 

 それは、敵艦隊が案山子のように立ち尽くす無能を晒さず、態勢を立て直してきたからというのもある。

 それにしても流石は海軍国。巡洋戦艦を失いながらも、実に見事な艦隊運動と規模だと惚れ惚れするばかりで、帝国にもあんな海軍があればと思ったものの、直後、帝国海軍に対して申し訳なくなった。

 海軍の予算が拡充されなかったのは、自分達空軍のせいだという事を思い出したからだ。

 私達空軍は、海軍の分まで仕事をせねばならないという気持ちを、忘れてはならないと身を引き締めると共に、次々とフッドの仇を討つべく、空に上がってきた魔導師を墜とす作業を始めた。

 

 私達のゾフォルトは高度こそ敵航空魔導師や最新の帝国魔導師より勝っていたが、速度に関しては本作戦が決行された一九二五年時点では、既に列強各国の技術競争によって鈍重な機体に位置づけられていた。

 エルマーとフォン・シューゲル主任技師の改良があって尚、ゾフォルトの最高速度は二一五ノットに届くかどうか。現時点での航空魔導師の平均が二三〇ノットである事を踏まえれば、開発初期のように快勝出来る存在ではないが、それでも対魔導師戦闘が可能な航空機はゾフォルト以外ない以上、爆撃機の護衛に戦闘機を付ける訳には行かなかった。

 一九二三年時点では、何処の国もゾフォルトと大差なかったというのに、二年後には魔導師でさえこれなのだから、列強の執念は恐ろしいものである。かつては無敗無双のゾフォルトも、今では護衛機がつく事が前提の運用になってしまったのだから。

 

 

     ◇

 

 

 我々は戦訓通り高高度維持を努めつつ、極力安全圏から離れる事なく魔導師を撃墜する事を念頭に置いた。相手にとっては厭らしい連中だと思うだろうが、それはお互い様である。

 光学欺瞞術式というのは本当に厄介で、こそこそと隠れながら撃ってくるものだから、やり辛いと言ったらなかった。

 加え、私は余りの数に段々と面倒臭くなったので、一人でも魔導師を光像照準器で発見したら、その周囲に空間爆発術式弾を使って、纏めて吹き飛ばしてしまえと無線で命じた。

 これには苛立っていた三個中隊も大喜びで、艦艇用に節約せねばという事前の心がけは何処へやら、バカスカと撃っては魔導師を墜としていったが、私は失敗したと思った。

 

 せめて自分は節約しよう、と貫通術式弾で魔導師を墜とし、その間にも出来る限り巡洋艦や駆逐艦にも空間爆発術式弾を浴びせたが、これに関しては結果は上々……と、言えるかは疑問だ。

 当初の目的通り高角砲や対空機銃は潰せているし、甲板の水兵は一人残らず吹き飛ばしたが、艦艇を沈没させるには至らない。空間爆発術式弾の威力は申し分ないが、魔導師のように貫通式を複合させない限り、七・九二ミリ弾では上甲板を貫いての内部爆発を引き起こせなかったのだ。

 

“やはり後方に控える爆撃機の手を借りねばなるまいな”

 

 ゾフォルトのみで潰せるならば、という皮算用にして敵艦を用いた実験は、案の定失敗に終わったが、元よりそれを見越して爆撃機を用意していたのだから、悔しいとは思わない。

 この辺りで読者諸氏は、私達三個中隊が爆撃機からとっとと離れて、魔導師や各艦の相手を始めてしまった事を疑問に思うかもしれない。「爆撃機の護衛はどうしたのだ?」と。

 実際のところ、爆撃機の周囲を囲んで守るより、自分達護衛機から敵を迎え撃って爆撃機の脅威を取り除いた方が、空爆任務遂行上効率が良かったのだ。

 勿論これは私自身の経験則だけでなく、各戦線から送られてきたデータを基にしている。爆撃機の搭乗員も、運用初期の頃は皆不安がったようだが、この当時の頃にもなれば、護衛機の事をすっかり信用してくれていた。

 

 ともあれ、海兵魔導師という脅威の一つが交戦して数分後に去った以上、残すは艦隊のみである。事前の予定通り、私達は急降下しつつ敵の火砲を中心に術式弾を一斉かつ徹底的に叩き込み、少しでも爆撃機の成功率を上げる為に尽力した。

 問題は急降下後の上昇時に無防備になってしまう事だが、そこは事前の調整で順番を決め、上昇時は他の機がこれを極力守るよう時間差を置いて行動した。

 

 予想外だったのは、艦隊対空射撃の密度が高射砲陣地のそれと大差ないばかりか、物によっては弾幕が薄く感じられた事か。魔導師という極小の存在を狙うのだから、もう少し厚く張った方が良いのではないかと敵ながら思ったものの、そんな事を考えられる余裕があったのは私だけだったらしい。

 足の遅い複座式の攻撃機が、対空機銃と高角砲に飛び込む以上、決して油断など許される筈もない。加え、急降下から水平飛行に戻り切るまでの全高度を掩護する事は不可能である以上、全員が無事に済む筈もなかったのだ。

 私はこの空爆作戦で、四機もの僚機を失ってしまった。魔導攻撃機が中央大陸の戦場に登場して以来、一度の交戦では最も多い被撃墜数だった。

 

 ベヒシュタイン少尉、ブーラー曹長、ダレイニー軍曹、ゴス軍曹、ゲンゲラー兵長、ブルーニング伍長、アレ兵長、オドラン上等飛行兵。

 

 この日散った戦友には、初めて会った者もいれば、過去にノルデンやダキアで轡を並べた者もいた。だが、全ての者が勇敢だったという事を、私は胸に刻んでいる。

 撃墜され、火を噴いて燃え上がるその時まで。或いは海へと叩きつけられて粉微塵となるその時まで、彼らは最後まで弾丸を撃ち尽くして、死の間際まで敵に損害を与え続けた。そして中には、死を覚悟した瞬間に、機体ごと艦橋に突っ込んだ者さえ出た。

 脱出しろと、当然私も皆も叫んだ。だが、無線から返ったのは、もう無理だという悲痛な、諦めるような声だった。中にはそれを言わず、家族や恋人の事を最期に漏らした者もいた。皆、被弾で致命傷を負っていたのだ。

 

 私達は戦友の死に怒り冷めやらぬまま果敢に艦隊に挑み、沈まないまでも甲板の上をはげ山にしてやろうと何度も急降下したが、流石にタイムリミットが来てしまった。

 私達と入れ替わった爆撃中隊は、世界に冠たる帝国空軍の名に相応しい、素晴らしい水平爆撃を披露してくれた。この日の為に用意された一トン爆弾を二発搭載した三機の爆撃機は、まず旗艦に一発目を叩き込んだ。

 四万トン級の旗艦は、それだけで大破どころか沈没さえ目に見えていたが、戦友を失った事への怒りからか、はたまたその巨大さ故に一発では不十分だと考えたのか、もう一発を落として見事真っ二つにした。

 

 他の艦艇も次々と撃沈し、海の藻屑となっていったが、ここで終わらせるような私ではない。救命艇で逃げようとする敵兵達にまで手をかけるような無体な真似はしないが、沈んでない艦は別だ。帝国の敵は、一つでも多く水底に消えて貰わなくてはならない。

 何より、失った戦友達に捧ぐ勝利としては、より完全に近いものこそが望ましかった。

 

 私は無線で、まだ空間爆発術式弾を残しているゾフォルトは居るか問うた。

 今回の任務はどのような艦隊に遭遇しても問題ないよう、爆裂術式弾を装填せず、二つの機銃に空間爆発術式を装填するよう指示していたから、十分余力はあるだろうと見積もっていたが、半数以上が帰還の保険分以外は使い切ってしまっていたようである。だが、逆に言えば、まだそれだけ攻撃出来る機体が残っているという事だ。

 

 私は弾丸を残した部下と編隊を組んだ。そして未だに浮いている艦を、一隻ずつ集中して潰してやる事にした。もはや穴だらけで見る影もない艦ばかりだから、皆で纏めて撃てば何発かは内部で爆発してくれるだろうと考えたのだ。

 空爆で余命僅かだった巡洋艦は、これで二隻沈んだ。あの、二〇隻以上は確実にいた艦隊が、今では影も形もない。全てが藻屑と消えたのだ。

 

 そして帰り際、なんと私達は潜水艦まで発見した。勿論、味方ではない。味方潜水艦の航路は、海軍と打ち合わせていたからはっきり分かっているし、何より帝国は旧式潜水艦の殆どを解体して更新している。明らかに敵だった。

 艦隊を沈めてなお、戦友の死に殺気立っていた私達は目につく敵は片端から沈めたいという欲求に駆られ、この潜水艦を更に水底深くにまで沈めた。

 我々はこれ以上ない程の戦果を収めたが、帰投して操縦席を降りた皆の顔に、勝利の笑顔はなかった。

 失った八名の顔が、皆頭から離れなかったのだ。

 




 幼女戦記原作5巻では「北洋海域は磁気を帯びてるから磁気機雷とか無理無理かたつむり!」 状態ですが、この作品では敵も味方もあっちこっちで機雷祭りです!

 何故って? 機雷がない海なんて海じゃねえだろ戦史的に! というのもありますが、一番の理由はアルビオンの浜辺にアシカがごろ寝しながらビーチパラソル開くぐらい余裕ぶっこいて上陸しそうだからです。(機雷があっても楽に勝てないとは言ってない)
 尤も、原作で帝国には存在しなかった航空魚雷出してる時点でヌルゲーには変わりない訳ですが……。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【地名】
 イギリス海峡→アルビオン海峡


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31 逸話多き男-手紙と誕生日

※2022/5/11誤字修正。
 広畝さま、塔ノ窪さま、oki_fさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 北方戦線に最新鋭戦艦を旗艦とした支援艦隊を派遣したチャーブル首相は、一九二五年、六月二三日こそ悪夢の始まりだったと後世に残したという。

 

 しかし、アルビオン連合王国の落日を嘆いた老いし日とは違い、当時のチャーブル首相もアルビオン国民も、自分達の国が斜陽を迎えつつあるのだという事には気付けなかった。

 それも当然だろう。結果的に彼の国を財政破綻という崩壊に導いた帝国さえ、連合王国を日の沈まぬ国として、七つの海を支配した偉業に対して、ある種畏敬を抱いて止まなかったのだから。

 チャーブル首相は、晩年の言葉とは真逆に、支援艦隊が玉砕したという報告を受けた日の事を、国民を前にしてこう語った。

 

「私はその日、受話器を置いた。静かに、しかし勇者達への鎮魂と復讐を胸に誓いながら。アルビオン国民諸君、日の沈まぬ国に生きる国民諸君。連中が、誰に噛み付いたかを教えてやろう! 世界の盟主は、七つの海を支配した我々なのだという事を!」

 

 アルビオン国民は、この鼓舞激励に熱狂した。議事堂の前で、全面戦争を演説する議員達の前で、或いは昼夜を問わず街路を練り歩きながら愛国歌と国王陛下万歳を叫び、自分達こそが世界の覇者なのだと叫び続ける。

 声に奮い立ち、陶酔した民衆は志願兵となり、火に注がれた油のように巨大なうねりを上げて燃え上がって行く。

 我らこそ、神に聖別されし選ばれた民。光輝溢れる王国の向かう所に敵はないのだと、誰もが矛を交えもしない内から、派遣艦隊の敗北という事実を覆い隠すように、高く高く声を張り上げる。

 そうして志願を求める予備役兵や、歳若い青年達に現役武官は最初の命令を口にした。

 

「諸君らはこれから女と酒から別れを告げ、それ以上の、名誉という名の抱擁を受けるだろう! 有志諸君! 共に戦列へ!」

 

 広報を勤める武官の、前もって用意されたこのスローガンが、熱狂の火に更なる油を注ぎ、際限なく燃え広がった。

 盾を手に、剣を振り上げる荒々しき翼獅子(グリフォン)の連合王国旗が世界を席巻し続けるのだと、彼らは無邪気に信じ続けていたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 だが。そうしたアルビオン国民達の狂奔にも等しい活気の中、事態を重く、そして冷静に捉えていたのは他ならぬアルビオン王立海軍と、国民を焚きつけたチャーブル首相自身だった。

 連合王国にとって、北方に派遣した支援艦隊は帝国に対する見せ札に過ぎず、また、レガドニア協商連合へのアピールも含めた、ある種の砲艦外交にも似た牽制目的で派遣を決定したものに過ぎない。

 連合王国はその艦隊で、帝国海軍に痛打を与えてやろうという思いも、協商連合に勝利を直接贈ってやろうという気もなかった。

 協商連合には艦隊を派遣した事で、帝国への宣戦布告という事実を強調し、連合国の一員としての誠実さを訴えつつも、燃料や補給物資は全て彼らに持たせ、自分達は北方海域を哨戒という名目で練り歩くばかり。正しく給料泥棒という言葉でしか言い表せない対応だが、支援艦隊にしてみれば、それでも十分働いていると主張するだろう。

 

 何しろ、海洋国家たる連合王国にとって、王立海軍は欠くべからざる戦力なのだ。彼らは植民地に駐屯軍を派遣ないし、交代する上での護衛となり、その絶大なる武威でもって諸外国からの侵略から守るだけが役割ではない。

 連合王国が支配する、七つの大洋に跨る海上貿易上の安全面からも*1、王立海軍と艦隊はなくてはならないものだった。

 世界最高にして最強の海軍が、万が一にも敗北を喫しては、制海権の問題からも、国家の威信と権益からも、連合王国は世界の盟主たる地位を失いかねないのである。

 

 王立海軍とは、最も高価で高貴な連合王国の剣だった。ましてや、派遣を決定したのは就役直後の最新鋭戦艦と、世界最大の巡洋戦艦。その周囲を囲む多数の巡洋艦と駆逐艦。

 この支援艦隊の武威を前にして、正面から挑めるような度胸を陸軍国たる弱卒の帝国海軍が持つ筈はない。仮に噛み付いてきたとしても、自分達が負ける筈がないのだから、正面から殴り返せば良い。

 支援艦隊は自分達の強さに自信を持ち、帝国海軍の内情も正しく理解していた。

 尤も、そんな無謀な真似を帝国がするとは、連合王国も考えてはいなかった。私が連合王国本土に決して上陸出来ないと諦めていたように、連合王国も帝国が、自分達の本土を寸土と言えども脅かす事は不可能だと分かっていたし、だからこそ派遣艦隊が粉砕されたという事実は、連合王国に激震をもたらした。

 チャーブル首相の弁舌とて、意図的に国民の動揺を抑えるためと、急場を凌ぐ為に兵員をかき集めねばならないという、二重苦故の措置だったに過ぎない。

 当時の連合王国は、間違いなく帝国が本土に踏み込んでくるだろうと危惧しており、これを焦眉の問題として、早急に対策を打つべく議題に掲げた。

 そこが、彼らにとっての誤算の一つ。もはや帝国は、連合王国の本土上陸など考えていなかったということ。二つ目は、最早語るまでもないだろうが、当時最新鋭たる艦隊を滅ぼせるだけの戦力を、海軍でなく空軍が有していたという事だろう。

 

 アルビオン王立海軍は、直ちに生存者からの報告を元に以下の対策を講じた。

 

 一、帝国空軍の大規模空爆編制と索敵能力から、大艦隊での航行は全滅のリスクが伴う為、大規模な艦隊派遣と挑発目的の運用を打ち切る。

 二、今後は物資と人員を小規模の輸送艦と護衛で運搬し、出来得る限り被害縮小に務める。

 三、フランソワ共和国海軍にもこの情報を伝え、最大でも中規模の編制に留めた上で、協商連合国軍港付近での、北方海域の哨戒と帝国海軍の監視に勤めて貰い、可能ならば即座に帝国海軍を叩く。

 四、帝国空軍に関しては、爆撃機及び魔導攻撃機を駆逐すべく、連合王国最新鋭戦闘機『スピットファイア』を輸送し哨戒任務に当たらせる。

 五、王立海軍は帝国に対して最大限の海上封鎖を実施し、海上貿易崩壊と、現存艦隊の温存に努める。

 

 当時としては、正しく大盤振る舞いとしか言いようのない連合王国の対応だが、それだけ帝国軍の戦力を高く評価すると共に、これならば帝国に一矢報いる事が出来ると、自信を持っていた事だろう。

 

 尤も、結果だけを先に語ってしまうと、アルビオン連合王国の計画は失敗に終わってしまった。

 真っ先に躓いたのは五番目の項目で、これに関しては、然したる成果を上げる前に、連合王国は中止せざるを得なくなったのである。

 帝国は原材料を諸外国からの輸入に頼っていたが、当時の帝国は当然連合王国の拿捕を恐れていた為、禁制品*2を、海路から輸入する事を避けていたのである。

 当時帝国が海路から入手していたのは、農業肥料や酪農牛の冬用まぐさといった自由項目品に限られ、最大の商取引相手であった合州国を始め、複数国が度重なる臨検・拿捕に抗議したこと。

 帝国側が──少なくともこの時点では──海路で禁制品の類を輸入していないと明らかにした事で、連合王国は手を引かざるを得なくなったのである、

 

 しかし、海上封鎖を除いた各項目は、手持ちの情報だけならば、我々帝国空軍にも北方戦線にも、かなりの痛手を被らせた事だろう。

 悲しいかな。連合王国は北方支援艦隊全滅後、『不運』が続いてしまったのだ。それこそ、後にチャーブル首相が語った、悪夢の日々が始まったかのように。

 

 

     ◇

 

 

 最新鋭アルビオン艦隊全滅。空軍指導部どころか統帥府さえ驚嘆し、小モルトーケ参謀総長が直々に祝辞の電話をかけて下さった程、上にも下にも衝撃を呼んだ空爆作戦であったが、私の心は一向に晴れなかった。

 フォン・エップ大将は本国に帰還した私に対し、犠牲に見合う以上の戦果だったこと。戦死した戦友達も、帝国の勝利を信じて散った筈だと慰めてくれたが、私の脳裏には、私の失態によって失われた彼ら一人一人の顔が、声が、名前が離れずにいた。

 

“私がいながら、何という様だ”

 

 自分を殺してやりたい気持ちで一杯になったが、しかし、今の私は指導部の人間として、果たすべき事がある。もう二度と、あんな無様な結果は残さない。僚機を墜落させた時点で私は勝者でなく敗者であり、戦友を死なせた大うつけだが、それを次に持ち越すような真似だけは絶対にしない。

 

 私は直ちに、指導部の面々に方針を切り替えるべきだと提案した。大規模空爆は出撃準備に手間がかかりすぎる上、十全な防御を固める艦隊には被害が多く出てしまうし、ゾフォルトの速度では対空兵装の餌食になってしまう。

 私は今後、大規模な空爆は行うべきではなく、輸送艦や哨戒中の小規模な船団のみを、少数の爆撃機と護衛戦闘機で叩くべきだと訴えた。

 奇しくもアルビオン王立海軍が立てていた計画と噛み合ってしまった形だが、私には予知能力といった超常の類を用いる事が出来る筈もないので、恐ろしい偶然の一致と言う他ない。そして私の意見は、自分でも想像した以上にすんなりと通った。既にしてエルマーが、私の案を実行する上で最高の機体を、予定より早く用意してくれていたからだ。

 

 他国がエルマーという天才から戦闘機の理想形を知り、それに追いつくべく猛烈な勢いで技術の階段を駆け上がりながらも、それを嘲笑うかのように、エルマーは彼らの上を飛翔し続けていた。

 二年以内の更新を約束したヴュルガーは、最高速度三七〇ノットという数字で他を圧倒し、中央大戦中盤まで主力戦闘機として各戦線を縦横無尽に飛び回った傑作機だが、エルマーはそれに、新たに三つのモデルを用意した。

 一つ目のモデルは航空カメラを搭載し、偵察機型に改修したE型だが、こちらに関しては従来の偵察機でネックとなっていた速度の確保。単一型式機を複数用途で運用する事で、生産効率を向上させたかったという二点の意図からであって、機体そのものに特筆すべき部分はない。

 特筆すべきは後者二つのモデルで、ヴュルガーは戦闘機としても他の追随を許さぬ傑作ではあったが、それで満足できなかったエルマーは、この機体を戦闘爆撃機という新しい軍用機の一形態に仕立てたのだ。

 主脚と装甲を強化し、翼下と胴体下部に、計一・八トンもの爆弾を搭載する爆弾架を設置したF型と、両翼下に爆弾でなく増槽を懸架(けんか)するG型である。

 当時のエルマーは速度や高度、装甲の問題からコンドルに代わる新型爆撃機や、これまでの常識を覆す新兵器開発を優先していた為、今年の七月にはようやく配備出来る筈だと伝えられた時には、正しく天の助けだと思った。本来なら、来年の春までは待たなくてはならないだろうと諦めていた機体だったからである。

 鈍足なゾフォルトと違い、これなら素早い爆撃を行う事が出来るし、失敗しても速度を武器に体勢を立て直して逃げられる。

 当然私は自分に使わせて欲しい、僚機の敵を討たせてくれと頼み込んだが、フォン・エップ大将は「一度きりの約束だった筈だ」と断った。そして、私が行かずとも問題ないと笑った。

 

「敵艦艇への攻撃は、ダールゲ少佐と麾下の部隊に任せる。貴官は指を咥えて、もっと良い案を出せるよう知恵を絞ることだ」

 

 私は粛々と頷いたが、不満など有ろう筈がなかった。ダキア戦役でもライン戦線でも、そして北方でも、私はダールゲ少佐と直接会う事は叶わなかった。

 それは、ダールゲ少佐が私に次ぐ空軍最高峰の撃墜王であり、一つの戦場に二人も英雄を抱え込むより、別の戦場にいてくれた方が良いという、至極真っ当な理由からだ。

 私はまるで離れ離れになった恋人のような気持ちで、ダールゲ少佐には便りを送り続けたが、その度にダールゲ少佐は私を笑わせようとしたり、撃墜王としての自分の活躍を存分に語って私を安心させてくれたものである。

 出来れば電話で話せれば良かったのだが、私もダールゲ少佐も、互いにひっきり無しに飛ぶ事を理解していたので、直接語り明かす事はなかった。正直に言えば寂しい思いではあったが、その度に私は、少女ではないのだからと何度も自分を励ましていたものである。

 

 私はダールゲ少佐ならば安心だと胸を撫で下ろし、必ずや帝国に勝利の報を届け、私の僚機の仇も討ってくれるに違いないと信頼したが、その戦果は私も、空軍指導部の予想さえも上回るものだった。

 

 

     ◇

 

 

 戦闘爆撃機の配備後、ダールゲ少佐はF型を短距離哨戒以外では用いず、北方戦線での空爆任務の殆どをG型で飛行した。北洋(中央大陸とアルビオン島に囲まれた海域)は帝国軍に発見される可能性が高い為、輸送船団は大洋方面に迂回路を取りつつ、協商連合の軍港に向かうだろうと読んだからだ。

 

 ダールゲ少佐の読みは常にずば抜けていて、レーダーさえ届かない広大な海に、ぽつんと浮かぶ船団を的確に発見しては、ボーナスを見つけたと喜んで爆弾を落としたらしい。

 増槽を翼下に懸架している為、ダールゲ少佐の爆弾は胴体下部に抱えた五〇〇キロ爆弾一発*3だけだったが、少佐は全く問題にしなかった。

 ダールゲ少佐はゾフォルトのそれより遙かに速く、鮮やかな急降下で舞い降ると、的確に命中・沈没させて悠々と凱旋するのであったが、勿論百発百中と行くのは少佐だけで、麾下の編隊に同じ事は無理だ。

 ダールゲ少佐以外の者達は小隊ごとに降下し、命中率を高めた上で爆弾や魚雷を投下する事を前提としていたし、当然敵船の撃沈は共同スコアとなった。後にも先にも、空軍の個人スコアで三桁近い船舶を撃沈したのはダールゲ少佐だけである。

 

 ダールゲ少佐は根っからのギャンブラーで、その件で過去に私や戦友達に迷惑をかけた事も一度や二度ではなかったし、叙勲に伴う特別賞与を全額借金返済に充てたぐらい困った男ではあったのだが、今回の作戦では、そのギャンブラー気質が大いに発揮されたようであった。

 

 私はダールゲ少佐の戦果報告を聞く度に祝電を打ち、手紙でも喜びと賞賛の旨を綴ったが、それに対しての返信は『上は自分達の戦果を、過剰に受け取ってはいないか?』という空軍指導部を案じての言葉だったから、私は一層強く胸打たれた。

 それから指導部に届けられた戦果報告や、状況に間違いが無いと分かると、ダールゲ少佐は胸を撫で下ろす様な文を送ってきた。

 

『ニコ、これは私信だから友人として忠告しておくぞ。どんな時でも、情報は正確でなきゃ駄目だ。負けが込んで誤魔化して、あっちこっちに擦り合わせたって、最後に苦労するのは自分達なんだからな。お前達は自分のようになるんじゃないぞ』

 

 流石はギャンブルで破産一歩手前まで行った男の言葉である。私がダールゲ少佐の為に立て替えてやった借金は、仔細は省くが中央参謀本部付佐官の年収とほぼ同額であっただけに、その重みも分かろうという物であった。

 勿論ダールゲ少佐は私に全額返済してくれたし、借金漬けになった時に戦友から借りた金も全て返済した。戦死した戦友に対しては、きちんと遺族に手紙と一緒に返済金も送っている。

 私は女癖の悪さも、ギャンブル癖と一緒に治ってくれない物かと受け取った手紙を読みつつ苦笑したが、この手紙の内容が至言である事に変わりはない。

 私は私信であるのを良い事に、個人的な会食でフォン・エップ大将にも手紙を読んで頂いた所、返ってきたのは笑い声だった。

 

「全くその通りだ! 私にまで給与の前借を懇願してきた奴は言う事が違うわ!」

「奴め、閣下にまでそのような事を」

 

 私は頭が痛くなる思いだった。私自身に金の無心をして来なくなったから安心していたが、よりにもよってもっと悪い相手ではないか。

 

「当然断ったがな。それは兎も角として、ダールゲ少佐の言わんとする所は、我々とて承知している。これは内密の話だが、過去に陸の若い参謀めが、前線基地の戦果を裏付けも取らずそのまま報告しおってな。全滅したと思った場所を悠々練り歩いて、地獄を見た中隊が出た」

 

 あれは自分にも良い教訓になったよとフォン・エップ大将は笑い、この話は自分が退役した時か、亡くなった後にでも言い触らすと良いと仰られた。そうして今、私はこれを戒めとして本著に書いている。

 

 

     ◇

 

 

 話を北方に戻すが、有効な作戦というものは対策されるもので、連合王国や共和国の船団は、昼間航行を極度に恐れ、夜間航行での物資輸送に切り替えたようだが、これは何の役にも立たなかった。

 ダールゲ少佐の読みが、凄まじいというのも勿論ある。それでも光を漏らさず航行する艦隊を月明かりだけで見つけるのは至難の業だが、そこは空軍が以前から開発に着手していた照明弾*4が、ダールゲ少佐達の助けになった。

 僚機の一つが投下したそれは、パラシュートを開きながらゆっくりと落下し、何分も海上を明るく照らした。加え、これ自体小型であった為に、G型でも四発は確実に胴体下部に懸架出来たので、ダールゲ少佐は多くの僚機にこれを持たせては、自分の勘の赴くままに投下を命じ、敵船団を空爆し続けたのだ。

 

 ダールゲ少佐は『北方の勇者』『船団殺し』と軍事公報のみならずラジオや新聞で持ち上げられ、一時は名声を得たが、すぐに宣伝されなくなった。戦死や戦傷といった、不幸からではない。不品行とまでは言わないものの、余りに自堕落な私生活故に、宣伝局が「奴の記事は書くな」と口を閉じさせたのである。

 本人はその件で私に『折角美女が言い寄ってくる筈だったのに!』と地団駄を踏んでいるのが想像できる文を送ってきたが、普段が普段なのだから自業自得である。

 私はダールゲ少佐に『もう少し自分を見つめ直すように』と少々辛辣な文を送ったが、効き目は全くなかったとここに記載しておく。

 

 

     ◇

 

 

 また、話が脱線した。正直、ダールゲ少佐の逸話と活躍は私でさえ多過ぎると感じるので、これでも十分削っている筈なのだが、何分破天荒な人生を思うがままに送っていた男であったから、こうして有名どころを取り上げるだけでも結構な文量になってしまった。

 

 もうこの際であるので、今回は手紙繋がりで妻の話題も出そうと思う。

 ダールゲ少佐の活躍と私の手紙のやりとりは、主に七月から九月末にかけてのものであったが、八月の半ば、大隊指揮官にして参謀将校となったフォン・デグレチャフ参謀少佐に、私は誕生日プレゼントを贈ろうと考えていた。

 私とフォン・デグレチャフ参謀少佐との私信は、秘密保持の問題もあるが、それ以上に私が軍の話題を出したくないと考えていたので、音楽や芸術、文学といった類や、日常生活にまつわるあれこれなど、実に素朴で平凡な形になっていた。

 その中には誕生日の事も含まれており、私は毎年家族や親しい者にプレゼントを贈るのだが、もし迷惑でなければ贈っても良いだろうかと訊ねると、彼女は是非にと自分の誕生日を教えてくれた。

 

 現金なような気もするが、天使のように愛らしいフォン・デグレチャフ参謀少佐がプレゼントを強請る姿を想像してしまった当時の私は、思わず頬をはにかませてしまったものである。

 幼い娘のいる父親や、年の離れた妹のいる兄とは、きっとこのような気持ちなのだろうなぁと思ったが、すぐに私は無礼が過ぎたことを心中でフォン・デグレチャフ参謀少佐に謝罪した。

 彼女は私の娘でもなければ、当然妹でもない。既にしてフォン・デグレチャフ参謀少佐は一人の、一人前の淑女である。幾ら年の頃が幼いといっても、齢以上に立派なフォン・デグレチャフ参謀少佐にそのような感情を抱くのは、彼女の尊厳を著しく辱めるものである。私は二度と、このような事は思うまいと己を戒めた。

 

 こうして私はフォン・デグレチャフ参謀少佐の誕生日が、九月二四日である事を知り、プレゼントを選別する事にしたのであるが、全くと言って良い程彼女に相応しい物を見繕えなかった。

 何しろドレスも装飾品も興味は無し。娯楽本の類は私以上に詳しい上に、今年に入って刊行された書籍や海外文学さえ読了していた物も多い為、贈った物が既読であっては目も当てられない。

 食料品や珈琲豆という手もあるが、こうした消耗品の類に有り難みは少ないだろうと思ったので却下した。

 

 どうしたものかと悩みに悩み、答えも出せないまま数日が経過。遂に根を上げた私は、男としてはこれ以上ない程情けない話だが、エルマーに相談を持ちかけた。

 あの普段から気遣い上手で、女性への機微にも明るそうなエルマーなら、必ずや期待以上の答えを出してくれるだろうと信じていたのである。

 そして、まかり間違ってもダールゲ少佐に相談しようなどとは思わなかった。意見を求めた矢先に邪推した挙句、私に褥の技術を教授してくるに決まっていると確信していたからだ。

 

 私の要件を耳にしたエルマーは、まず高らかに、これまでの人生で聞いたことがないぐらい大笑いすると、一拍間の後、静かに息を漏らした。

 

「兄上。幾ら何でも、それは男としての甲斐性に欠けますぞ」

 

 ぐうの音も出なかった。だが、自分でもそれを自覚して電話をかけたのだ。最早恥だろうが何だろうが、この際気にしてはいられなかった。

 私の名で「早急に」と頼めば確実に便を届けてくれるだろうが、フォン・デグレチャフ参謀少佐は各戦線を飛び回っている有能かつ多忙な大隊長であったので、余裕を持たせねばすれ違いとなり、誕生日を過ぎての受け渡しとなってしまう可能性もあったから、私は大層焦っていたのだ。

 

「とはいえ、あのデグレチャフ少佐ですからな。女子としての真っ当な価値観など、欠片も持ち合わせてはいないでしょう。いっそ、兄上の名で叙勲申請でも提出しては?」

「エルマー。花も恥じらう年頃の少女に、そのような侮辱は感心せんな」

 

 それに、私の名で叙勲申請なぞ送ったところで、人事局が受け取る筈もない。私の信用は、自分の仕事と私生活以外では皆無だ。戦友へのスコア贈呈が響いた結果とはいえ、この時は今少し自重しておくべきだったと後悔したが、後悔とは先に立たないものだから後悔なのだ。

 

「失礼を致しました。デグレチャフ少佐にも、後ほど失言をお詫び致します」

「そこまでせずとも良い。私の胸に留めておく。まぁ、互いに笑い話に出来る齢にでもなれば、打ち明けるやもしれんがな」

 

 私はエルマーとフォン・デグレチャフ参謀少佐に面識があったなどと一度として聞いていなかったので、この時は内心驚いていたが、一時期フォン・デグレチャフ参謀少佐は総監部の配属になったというのは耳にしていたし、教導隊の推薦もエルマーが太鼓判を押したのが切っ掛けだったのだから、会っていても不思議ではないかと考えた。

 それにしても、あれ程まで情に厚く、人の感情に敏いエルマーにしては、随分と辛辣に過ぎる。

 一体どうして私の弟は、自分よりずっと年下の可憐な少女に、こんなに冷たいのだろうと疑問に思ったが、この時の私は、脳に電流が駆け巡った。邪推とも言う。

 

 つまりこれは、我が弟の心に、遅い春が来たのではないだろうか? これまで異性に恋をしたなどという相談を、私にも姉上にも、勿論両親も相談してこなかったし、今の今までそのような気配など微塵もなかったエルマーである。

 きっとエルマーは、自分に芽生えた感情を理解出来ていないのだろう。そして、思春期の少年がそうであるように、気にかけている異性だからこそ、どう向き合って良いかが分からず、却って心にもない態度を取ってしまったのだ。

 それを考えれば、私は二重の意味で失敗したと思った。弟の想い人の誕生日プレゼントの相談を持ちかけ、あまつさえ弟の手柄を、私が横取りしようというのだ。

 私は自分を恥じた。深く恥じた。そしてエルマーに、短く切りだした。

 

「エルマー、実はお前は、デグレチャフ少佐に恋をしたのではないか?」

「兄上、すぐ病院に行って下さい。いえ、私が直ちに安否を確認しますので、少々お待ちを」

 

 私は受話器を置いて駆けつけようとするエルマーを全力で止めた。一体どうしたというのだと私は思ったが、そもそも的外れな邪推をした私が悪い。エルマーも暫し黙し、私の発言の意図を正確に汲み取ってから、呆れたように返した。

 

「私はこれ以上なく、自分の心に正直な男ですよ。兄上の方こそ、ご自身がお分かりでないと見える」

 

 つまりエルマーは、私の方こそフォン・デグレチャフ参謀少佐に気があるのだろうと言いたいらしい。しかし、エルマーと違い、私は恋というものを一度は明確に経験し、実感している身だ。

 あの、士官候補生時代の焼けるような胸の熱さも、高鳴る鼓動も、私はフォン・デグレチャフ参謀少佐に感じていない以上、恋をしている筈はないのだとこの時は疑わなかった。

 私がフォン・デグレチャフ参謀少佐を思い描き、胸に抱くのは締め付けるような痛みであり、彼女の人生に対する同情と謝罪、そして光ある道を願う心だ。

 これが、こんなものが愛や恋の類である筈がない。これは人としての同情であり、或いは一人の少女が幸福であって欲しいという道徳心であり、自分自身が望む道筋をフォン・デグレチャフ参謀少佐に歩んで欲しいと願うエゴイズムだ。

 こんなものを愛や恋だと宣える者がいるならば、それは何処までも歪みきった自己陶酔主義者だろう。

 

 私の主張に、エルマーは深くため息をついた。私は分かってくれなかったのかと嘆いたが、後から思えばエルマーは私よりも、余程私の心を奥底まで理解していた。

 ともあれ、エルマーは「もう良いです」と言わんばかりに、話を本題に戻してきた。

 

「デグレチャフ少佐にならば、実用品の類が良いでしょう。それも、自身の身を守り、武勲を立てられる物ならば言う事はありません。幸いにして、私が手慰みに開発した新式歩兵銃が御座います。勿論、宝珠との適合も考慮した魔導師専用モデルも有りますが、正式な配備が見送られておりましてね、在庫を抱えたままなのですよ」

「お前の作品を採用しない愚物が、まだ上にいたのか?」

 

 私は帝国の将来を、この時ばかりは本気で案じた。世界で最も素晴らしい軍事発明家たる、私の弟の作品にケチを付けるような奴が、帝国にいた事が嘆かわしくて仕方が無かった。

 

「弾丸の規格が既存のものと異なるので、補給に支障が出ると言われましてね。まぁ、そこは私も理解した上で開発しましたので、中央参謀本部直轄の精鋭魔導大隊の大隊長殿に宣伝して頂きたかったのですよ」

 

 私に良し、兄上に良し、そしてフォン・デグレチャフ参謀少佐に良しだとエルマーは笑った。この抜け目のなさからして、本当にエルマーはフォン・デグレチャフ参謀少佐に恋などしていないのだなと改めて納得した。どうやら私の弟は、意外に強かな面も持ち合わせていたようである。

 

「ところで兄上、文はそちらで(したた)めるとして、ご希望があれば銃に刻印を刻みますよ? 私としては『愛を込めて』を、お薦めします」

「悪ふざけが過ぎるな、弟よ。しかし、刻印か」

 

 こういう時、宣伝局やフォン・デグレチャフ参謀少佐のように、気の利いた字句が出てこないのがもどかしい。結局私は、安直だが銃床にフォン・デグレチャフ参謀少佐のイニシャルと、『幸運を』という言葉を入れて貰うに留めた。

『愛を込めて』を銃に刻むセンスは理解しかねるし、そもそもにしてそういう関係ではないのだから当然である。

 

*1
 当時の連合王国は、国内食糧消費の三分の二を輸入することで賄っていた。また、生活必需品も貨物船から運ばれる外国商品に依存していた為、艦隊が傷を負うなどという事は悪夢以外の何物でもなかった。

*2
 戦時下における国際法の輸出品目は三種に分類され、中立国が商取引を行う際は規制がかけられる。種別は。

 一、軍事目的にのみ使用される絶対禁制品。

 二、軍事目的・非軍事目的に使用される条件付き禁制品。

 三、食料を含む自由項目。

 である。一の絶対禁制品は交戦国であれば自由に鹵獲が。二の条件付き禁制品は届け先が敵国であると証明出来れば、没収が可能である。

*3
 航空魚雷による戦果報告を受けてからも、ダールゲ少佐は徹甲弾(PC)での急降下爆撃を続けていた。

 これは魚雷の不発を危惧してのことではなく、自分の腕ならば確実に命中させられるという技量への自負と、何よりも航空魚雷は大変高価であったことから、ダールゲ少佐はここぞという場面以外で、航空魚雷を使用しなかった。

*4
 これはエルマーやフォン・シューゲル主任技師の作品でなく、航空兵器工廠のものである。




補足説明

【アルビオンの首相について】
 原作のこの頃はまだチャーブルさんは首相じゃないはずだし、原作3巻の共和国本土侵攻後はマールバラ公が海相から首相に任命されるのですが、物語的に登場人物増やしても本筋に絡まないので、フライングさせて頂きました。

【ダールゲの借金について】
 ダールゲ少佐の借金は実はもっと多くて、主人公にしこたま説教されてからは一時期ギャンブルから離れてたけど、主人公と離れ離れになってからギャンブル熱が戻っちゃった模様。嫁の目が離れた途端ダメになる旦那かよ。

【エルマー君が銃を作った本当の理由】
 エルマー君がわざわざ銃を設計したのは「その内兄上がデグ様にクリスマスとか誕生日プレゼント贈るようになる筈だし、絶対相談に来るだろうから用意しとこ」といった理由だった模様。
 でも手慰みというのは本当で、エルマー君からしたら「歩兵銃とか兄上が使わねーんだから別にいらねーし、やる気出ねー」って感じで手を抜いてました。
 本気出してたら、東ドイツのMPi-Kが完成していた模様(作らないとは言ってない)

【郵便物について】
 史実ドイツではスパイ等の問題防止や安全対策のため、郵便物に危険物はNGなのですが(野戦郵便局は事前にNG内容を伝えている)この作品ではその辺結構無視します。
 たとえば総監部からテストだったり、エリート部隊の隊員に個人的に贈呈する分はパス出来たりとか云々といった感じの設定で。
 あとは私信に関しては、チェックする将校に事前に提示してスタンプを押して貰えば、その後は目の前で封蝋すれば封蝋を壊さずに手紙を贈れるといった感じの設定で行きます。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【航空機】
 フォッケウルフFw190G→Jä001-1Gヴュルガー(エンジン部は改修済みなので、実質Fw190Dの魔改造機)
 フォッケウルフFw190E→Jä001-1Eヴュルガー(エンジン部は改修済みなので、実質Fw190Dの魔改造機なのに加えて、190A偵察型の要素も複合済)


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32 下心への用心-ターニャの記録5

※2020/2/14誤字修正。
 フラットラインさま、ご報告ありがとうございます!



 九月二四日。書類上では──というのも私は私生児なので、正確な誕生日が判らない──誕生日として記載されるだけの、孤児院を兼ねていた教会のシスターさえ祝いの言葉をかけるだけだったターニャ・リッター・フォン・デグレチャフの誕生日に、なんと数日早くプレゼントが届いてきた。

 

「随分と大きいな」

 

 これには私ばかりでなく、大隊各員さえ驚いていた。何しろ私信の差出人があのフォン・キッテル参謀大佐であり、しかも早急に送ってくれと頼んだらしいのだから、皆何事かと思うのも当然だろう。

 特に、私とフォン・キッテル参謀大佐が文通をしている事を知らなかった──というより、教える気なんぞ皆無だった。フォン・キッテル参謀大佐の情を引く(利用する)のは、私だけで良いのだ──大隊員らはプレゼントの中身に興味津々だったようだが、セレブリャコーフ少尉などは年頃の少女らしく、頬に手を当てて口元を緩ませていた。

 

「エーリャが知ったら、肩を落とすだろうなぁ。まさか、あのキッテル大佐殿とデグレチャフ少佐殿が」

「それ以上言うなよ、少尉。私と大佐殿との間に、そのような浮ついた感情はない」

 

 思春期特有の少女の夢をぶち壊すのは気が引ける事だが、私は不快感も顕に一刀両断した。この時の、というより、私が未来の夫に対してそういった感情を自覚するまでは、私は一般的な帝国女性のような、良妻賢母的な思想など理解の外にあったし、ましてや異性との恋だの愛だのというものには、全くもって興味も関心も抱けなかった。

 私は出世するのだ。進級がしたいのだ。人生の成功者として、悠々自適な生活を安全圏で送りたいのだ。兎にも角にも、そうした俗物的な欲望に塗れきっており、一般的な女性としての価値観など、エルマー技術中将*1が未来の夫に告げたように皆無であった。

 

 読者諸君は、私が軍高官に言い寄る道は考えなかったのかと思うだろうが、はっきり言って、そんな手は願い下げであった。私は自由気ままに生きたかったし、幾ら金や権力を持って顔も良かろうが、兎に角結婚願望そのものが皆無だったから、自分で全てを掴むのだというハングリー精神で生きて来ていた。

 荒んだ幼年期故に歪に早熟してしまい、そこに軍隊生活と最前線での極限の闘争が、私から少女として持つべき健常な精神を剥ぎ取ってしまっていたのだろう。

 夫と出会えていなければ、どのような人生を歩んでいたかは、自分でも想像に難くないのが恐ろしいところである。なんと可愛くない幼女なのだ、デグレチャフよ。

 

 

     ◇

 

 

 私は皆の前で、プレゼントを開封した。人生初の誕生日プレゼントを見せびらかしたいという、ある意味では年相応の少女らしい思いだったのだが、箱を開けた瞬間、大隊員も野次馬も絶句していた。

 銃だ。何処からどう見ても銃だ。重厚な木箱に収められ、取り扱いに注意しろと厳命を受けていただけに、最高級のシャンパンか何かがダースで入っているのだろうと期待してみれば、ガンオイルに濡れ光り、大鋸屑のベッドに寝かされていた、今の今まで見た事もない形状の銃だった。

 

 これにはセレブリャコーフ少尉も苦笑いし「確かにそういう関係ではなさそうですね」と安堵と落胆の入り混じったような反応を示したが、他の大隊員達とは異なり、私は驚きに目を見張った。

 これは、この銃はシャンパンなんぞより余程素晴らしい! この先何十年、何百年経とうとも、決して傑作という評価が揺らぐ事のない、銃としての一つの完成形。歩兵火力に革新をもたらす、帝国が世界に生み出した全く新しい、しかし数十年後には全世界の歩兵が標準装備する銃だと確信した程だ。

 私は早速、木箱に同封された銃の仕様書を手紙より先に読み込んだ。

 マガジン、術弾、メンテナンス道具一式。全て問題なく揃っている。

 使用弾薬は七・九二×三三ミリクルツ弾。既存の弾丸より短いのは反動を抑える為か、素晴らしい! マガジン装弾数三〇発、短機関銃のように自動装填と連射が可能。更にフルオート、セミオートへの切り替えも可能? 実に素晴らしい!

 有効射程は通常弾で三〇〇メートル! うむ、うむ、完璧な仕事だぞ開発者!

 一体何者なんだこんな銃をこんな時代に生んだ怪物は……なんだ、エルマー技術中将か。驚くに値しないな。もっと悪魔的で人類の理解を超える物を作っているとばかり思っていたが、傑作止まりとは案外平凡である。

(当然私は、手慰みで作った代物だという事を知らなかった。やはりエルマー技術中将は異次元の住人である)

 

 銃の名称は歩兵自動小銃『StG25(二五年式突撃銃(Sturmgewehr 25)の略)』。名称も、まぁ良いとは思うが、やはり革新的というだけで、性能と合致しているから驚きはなかった。それにだ。開発者が異次元の住人と分かれば、粗も探したくなるというもの。

 体が出来上がっている大人には良いかもしれないが、齢一二になろうという小娘には、やはり重いし大き過ぎる。私への贈り物というのなら、その辺りも考えて欲しいものだとケチを付けつつ仕様書を読み進めた。

 仕様書の末には手書きで、エルマー技術中将から『兄上に心から感謝するように』『上手く陸のお偉方に宣伝出来たら増強大隊全員分のStG25と、少佐の体型に合った新型短機関銃を送ってやろう』という、明らかに取引同然の文章が記されていた。

 

 はいはい分かりましたとも。いい空気に水を差してくれたものだと思いつつ、私は口直しにStG25を持ち上げて、うっとりとしながらその機能美に酔い痴れた。私の体型に合わないというだけで、銃そのものの性能には何の問題もない。道具に罪なしというやつだ。

 

“これ一挺で、分隊並みの火力は期待できそうだ”

 

 喜色満面の私に、大隊員達の心は数光年先まで遠のいていた。傍から見れば私とフォン・キッテル参謀大佐は同類で、最前線をこよなく愛する戦争狂であるが故に、普段からこんなやり取りをしていたのだろうと考えていたに違いないが、私は部下の事などとっくの昔に捨て置いていて、StG25に夢中だった。

 ガンオイルに濡れていなければ、頬ずりと口付けを送ってやっても良いと思っていた程で、唯一問題なさそうな銃床にキスしようかと顔を寄せて、すぐに止めた。全力で止めた。

 なんと銃床には私のイニシャルと、例によってハンカチと同じ『幸運を』の言葉が刻印されていたのである。こんな場所に口づけようものならば、セレブリャコーフ少尉の誤解が再燃してしまう。それだけは何としてでも避けたかった。

 が、既にして遅い。先程まで銃に夢中だった戦争狂の上官殿が、突如として正気に戻ったのだから。原因を探り、私のイニシャルを含む刻印に、皆先程とは違う表情を浮かべた。

 

“ああ、糞。なんて事だ”

 

 私はいっそ、銃床にペンキか何かで迷彩塗装でも施してやろうかとも思ったが、流石にそれがエルマー技術中将にバレた日には、本気で恐ろしい目に遭いかねなかったので、自重せざるを得なかった。本当に可愛くないし碌でもないな! この頃の私は!

 

 

     ◇

 

 

 部下の生暖かい視線から逃げるように、私は前線基地の個室に戻って封筒を開けた。軍用便箋でなく私信であるから、当然紙質は最上。フォン・キッテル家の家紋の封蝋が為されたそれを丁寧に開封して手紙を取り出すと、いつもの物と同じインクの文があった。

 手紙には、女性である私に銃などという無骨極まりない代物を送った事への謝罪から始まり、弟御の銃は、大変良い物である筈だから安心して使って欲しいという事。私に怪我はないかと心配する旨などが綴られ、最後にはこうあった。

 

『銃に文字を刻むよう弟に薦められましたが、気の利いた言葉を寄せられませんでした。私はフォン・デグレチャフ参謀少佐が、健やかであって欲しいと常に祈っております。日々前途に幸あるよう願って止みません。ですが、どのような言葉を贈るべきかは、最後まで答えが出ませんでした。

 姉上の言葉を借りてしまった私を、甲斐性のない男と見られても致し方ないとは自覚しております。

 いつかは心から、フォン・デグレチャフ参謀少佐に自分の思いを込めた、祝福の言葉を送りたいと思います。誕生日おめでとう、フロイライン・デグレチャフ』

 

“……これは、まさか、そういう事か?”

 

 私は顔を顰めた。まさかとは思うが、空軍の大英雄様は今年一二になろうというばかりの、年端も行かない幼女がお好みなのだろうか? それを想像して、私は全身に鳥肌が立った。怖気も走ったし身の危険も感じた。

 気持ち悪い冷や汗が背筋に伝う。今の今まで、そういう目で見られていたのだとしたら、私の中での参謀大佐への評価を改めねばならない。

 いや、確かに帝国貴族であれば、生まれながらに結婚相手が決まっているという事さえザラだ。一〇になるかどうかで婚約し、相手の家の事を覚える為に早々に嫁入りして、夫を支える為に日夜義母と家令から教育を受けるというのも、知識としては知っている。

 だが、私は私生児なのだ。勲爵士(リッター)の称号を得てはいても、出世欲が強いというだけで、中身は市井と同じ価値観なのだ。

 親同士の結びつきなどで、若くして結婚することは市井でも珍しくないが、それでも一四、五歳になってからが基本である。私はお巡りさんの代わりに憲兵を呼びたくなった。

 

“いや、しかしだ。仮にそうであったとしても、すぐさま無体な真似に出る筈もないだろうし、今後は適切に距離感を保ち続ければ、関係を維持することも吝かでは……いいや、無理だ! 不可能だ! 有り得ない! 小児性愛者などと仲良く出来るものか!”

 

 我ながら何処までも酷い幼女であるが、この時の私は動転していた。それはもう、盛大にだ。

 

“か、かくなる上は、宣伝局に事実を暴露して権威を失墜させるか!? いや、キッテル大佐は帝国(ライヒ)の英雄。お目溢しぐらい当然あるだろうし、証拠の手紙を持参しても握り潰されるに決まっている。それどころか、最悪「玉の輿だぞ」と背中を押された挙句、英雄同士の熱愛と、ゴシップが溢れ返るに決まっているではないか!?”

 

 こういう時、地位も権力も金もある上位の存在とは厄介である。おまけに私が私信のやり取りをしていた事は、ごく一部とは言え便箋の運送上知っている者もいる。手を切るには余りに遅いし、運のない事に私は勲爵士(リッター)の称号を得た、一代限りの貴族なのだ。

 

 そう、貴族なのである。

 

 ゴシップだの握り潰すなどと考えたが、そもそもにしてお互いに貴族なら全く問題ない。市井であれば犯罪的な組み合せも、貴族社会ならばスタンダードかつ平凡なカップルの出来上がりだ。むしろ、まだ結婚していないのかと急き立てられるに違いない。

 帝国は小児性愛者の貴族に優しすぎると思う。そして幼気な少女に厳しすぎると思う。私の祖国は、幼女が変態の毒牙にかかることを許容する恐ろしい国家だったらしい。泣きたい。

 

 私は自分の未来に絶望した。袋小路となった先に、性犯罪者の魔の手が迫るのだと涙さえ零しかけた。絶望に打ち拉がれた私は、何とかならないものかと右往左往し、そこでようやく、幾度となく繰り返されていたノックに気付けた。

 手紙を読むまで心底鬱陶しいと思っていた、あのセレブリャコーフ少尉がそこに居たのだ。

 

「少尉、助けてくれ!」

 

 私は藁にも縋る思いだった。先程とは一八〇度態度を変えて、手のひらを返すように詰め寄り、手紙を片手に事情を説明すること数分。セレブリャコーフ少尉は困ったような笑顔を浮かべた。

 

「あの、少佐殿? 一先ずこういう時は、正確にお互いの気持ちを確認しておくべきといいますか、少なくとも文面から察するに、純粋に少佐殿を案じておられるだけの可能性もあるのでは?」

 

 第一、キッテル大佐殿の初恋のお相手は、あのヴィクトル・ルイス王太子妃殿下ですよ? というセレブリャコーフ少尉の指摘に、僅かながらだが冷静さを取り戻す事が出来た。しかし、まだ油断は出来ない。

 見目麗しい女性に振られた結果、性癖をこじらせて危ない道に行ってしまった可能性とて大いにあるだろう。ああいう一見紳士で優しそうなエリートほど、影では奥方に暴力を振るったりと、何かしら人に言えない部分を隠している*2ものなのだ。

 

 そこで私は、セレブリャコーフ少尉の案を採用してしまう事にした。もういっそ、ストレートに聞いてしまうのはどうかという事だ。

 私はセレブリャコーフ少尉と共同で文を認め、出来るだけ年頃の少女らしい、愛らしさの中に恥じらいも含んだ文面で『私の事を愛しておいでなのですか?』と、自分でも吐瀉物を撒き散らしたくなるような内容の手紙を送ったのである。

 

 これで相手が交際を申し込むようなら、亡命しよう。祖国だろうがなんだろうが、小児性愛者が付け狙う国なんぞに居られるか!

 これまでの給与を全て貴金属に変えた上で、手始めに森林三州誓約同盟に逃げるのだ! 永世中立国の山々が私を呼んで止まないのだ! 汝、小児性愛者のいない新天地に赴きなさいと!

 

 しかし、私の亡命計画が実行に移される事は無かった。フォン・キッテル参謀大佐は、私をそういう目では見ていないという事をはっきりと、それはもう美麗かつ丁寧な文章で、こちらの気を遣うように慎重に綴ってくれていた。こういうところの気遣いは実に貴族らしいと言える。

 

「……よかった。本当によかった」

 

 安堵から脱力した私は、ズルズルと椅子に身を預けて、だらしない姿勢を部下に晒していた。最早、体面を保つ余裕すら失われていたのである。

 

「しかし、意外です。キッテル大佐殿ほどのお方でしたら、少佐殿のお眼鏡にも適うと思っていたのですが」

 

 理想が高すぎるぞという、部下にして世の一般的な女性からの言外の指摘である。

 客観的な視点に立てば、確かにフォン・キッテル参謀大佐は好物件なのだろう。

 背高く金髪で、美しく印象的な空色の瞳と、中性的な顔立ちの若さに満ちた好青年で、美術彫刻のような堂々たる肉体美もさることながら、名門といって差し支えない出自と、二〇代で大佐まで上り詰めるだけの頭脳と武勲を兼ね備え……と。あまり語ると惚気や旦那自慢のようだから、この辺りで留めておこう。

 いっそのこと狙えば良いのにというのは、成程確かに相手が真っ当であれば尤もなのだがな?

 

「セレブリャコーフ少尉。貴官は顔や家柄や経歴が最高でも、特殊な性癖を持った男に嫁ぎたいか?」

「絶対に嫌です」

 

 つまりはそういう事である。金や身分の為に、妥協する女も世には五万といるだろうが、私は絶対にお断りだ。もしもフォン・キッテル参謀大佐がそんな男だったなら、私は一生涯軽蔑しながら早々に忘れるべく、森林三州誓約同盟に逃げた後、匿名国際銀行口座を作って合州国にでも渡った事だろう。

 自分の将来の夫に対して、ここまで辛辣で名誉を毀損するような奥方も、帝国史上前代未聞だろうが……結果だけ見るなら、私の夫は年端も行かぬ少女に恋心を抱いたのだから、あながち的外れでもないだろう。

 

 まぁ、好いた惚れたは私も同じだが、その感情を自覚するのは先のことである以上、この時の私は安心しきった表情で、これまで通り文通を続ける事とした。

 はじめは唯のご機嫌窺いとコネクションの保持というだけであったし、唯でさえ書類地獄の帝国軍にあって文通など手間ばかりだと思っていたが、やってみればこれが中々に楽しめる。

 フォン・キッテル参謀大佐が面白おかしい、私の目を惹きつける文を用意してくれることもあるが、それでも最前線勤務に勤しむ私にとっては、数少ない息抜きとなっていた。

 

“誕生日の礼として、こちらからも贈り物ぐらいは用意せねばな”

 

 フォン・キッテル参謀大佐の誕生日まで間があるが、何を贈るにしても、段取りは早めの方が良いだろう。麗しの後方勤務に勤しむ参謀大佐と違い、こちらは前線に出ずっぱりなのだから。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 こうして互いに筆を執り、内容を確認し合うと、よくぞまぁここから相思相愛になれたものだと改めて思う。

 本著を通して具体的に描かれる妻の本音は心に刺さるが、小児性愛者だという中傷は、私自身市井の価値観で見るならば、それも致し方ないものと諦めている。

 当時としても、互いに貴族でなければ、決して皆からの祝福は得られず、陰で何かしら言われただろうことは想像に難くないからだ。

 

 ……しかし、私とて心まで鋼のように鍛え切っている訳ではない。

 

 妻からは後の告白の折、初の誕生日プレゼントに対しての返信は部下に任せたもので、交際したいという思いはその時は全くなかったし、身の危険を感じていた事も結婚後に赤裸々に語ってくれていたのでショックは少ないのだが、改めて堂々と綴られると、心と一緒に筆が折れてしまいそうだ。

 

 とはいえ、今の私は妻の愛情を微塵も疑っていないし、当時の手紙も別人のものだろうということは、私も初めから理解した上で返信していたが、この件に関しては、語るべき時に語ろうと思う。

 ……今は。一旦筆を置かせて頂きたい。

 

*1
 一九二五年、八月進級。大将以上の進級は兵科士官に限られる為、エルマー・フォン・キッテルは二四という歴代最年少の若さで、技師としての最高階級に至った。

*2
 勿論私の夫に、そのような粗暴な一面など持ち合わせていないことを、本人の名誉の為に明記しておく。

我が夫は、常日頃から私を赤面させてしまう程の愛情を振りまいて止まない方なのだ。




 このあとデグ様と滅茶苦茶あれこれ(意味深)した。


【本日のデグ様の本音~主人公のロリコン疑惑が浮上して~】
 デグ様「ロリコンはいやだぁっ! ルーデルみたいな奴って時点で気づくべきだったぁぁ!?」

 デグ様は今日も言いたい放題です。今後もずっと言いたい放題です。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【銃器】
 StG44→StG25


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33 揚陸作戦-ターニャの記録6

※2020/2/18誤字修正。
 すずひらさま、オウムの手羽先さま、水上 風月さま、くるまさま、佐藤東沙さま、ご報告ありがとうございます!


 一九二五年、一〇月。北方戦線は快調に戦果を重ね、陸軍への橋頭堡も築く事が出来た。予想外であったのは、アルビオン連合王立軍が大規模な上陸作戦を展開しなかったという事だが、流石に陸軍国(ライヒ)を相手に上陸作戦を行う蛮勇はなかったらしい。

 と、この時は敵の慎重さに感心したが、真実はそうではなかった。連合王国軍は、強襲揚陸艇が圧倒的に不足していたという事が戦後に判明したのである。

 

 ともあれ連合王国からの支援地上軍は帝国本土への上陸を諦め、全て協商連合本土の前線防衛に回し、帝国陸軍の侵攻を水際で食い止める事で、自陣営の損耗を抑えつつこちらの出血を狙ったようだが、相手が勝手に前線基地に張り付いてくれたのは、非常に好都合だった。

 

“『さくらんぼの種』を各基地に安全に運ぶ事が出来ただけでなく、後方をがら空きにしてくれたとあっては、笑いが止まらんな”

 

 さくらんぼの種とは新兵器の機密保持の為に使用された秘匿名称で、現代の巡航ミサイルの祖となったフィーゼル・ファーストが正式な名称である。

 エルマーが戦闘爆撃機よりも重きを置いて開発していた、この世界初のジェットエンジンを搭載した飛行爆弾が、二五〇キロもの最大射程を誇ると知らされた帝国軍の衝撃は凄まじく、直ちにエルマーに大規模量産するよう命じたそうだが、エルマーはこれを取り合わず、最低限の配備に留めるよう指示した。

 地上から発射した際の最大高度が九八〇〇フィートと低く、速度も三二四ノットに留まる事から、魔導師や戦闘機に撃墜される事が目に見えていたのであろう。

 エルマーはフィーゼル・ファーストを、コンドルを始めとした爆撃機に搭載し、高度を維持した状態で安全圏から発射する事が確実だとした上で、弾道ミサイルの祖であるフィーゼル・セカンドの開発に乗り出していた。

 こちらは一二月には配備出来る筈だと八月には連絡があった為、それまで協商連合への本格攻勢を待つべきか、それともフィーゼル・ファーストの性能実験も兼ねて年内に進軍するかで意見が分かれたものの、結局は各軍港と沿岸要塞への攻撃が命令された。

 

 地上基地から次々と発射されたフィーゼル・ファーストは、三分の一こそ撃墜されたか目標を逸れて海上に落下したものの、残る三分の二は協商連合前線の沿岸要塞や軍港に着弾し、協商連合軍と政府首脳陣を阿鼻叫喚の渦に陥れた。

 観測要員として少数の魔導師が爆撃の結果を見届けていたが、それでも全ての前線付近の軍港と要塞を監視するのは、敵の警戒網からも不可能であった為、我々は敵ほど事態が重いものだと受け止めていなかった。

 

 こんなものは開幕の狼煙であり、目晦ましの一つに過ぎない。直接的な制圧でなく、嫌がらせ目的なのだから当然だが、敵にしてみれば堪ったものではなかっただろう。何しろ、列強諸国の最新鋭戦闘機以上の速度で飛行物体が要塞や軍港に突っ込んできたのだ。

 当時、協商連合の沿岸要塞に配属されていた将校達は「帝国空軍が人道に反する特攻部隊を用意したに違いない」と信じて疑わなかったそうだ。フィーゼル・ファーストの形状が飛行機に似ていたのも、誤解を加速させる要因になったのだろう。

 

 同じく報告を受け、フィーゼル・ファーストを有人兵器と勘違いしたアルビオン連合王国と、当時報道の最高権威を気取っていたロンディニウム・タイムズは、フィーゼル・ファーストを『帝国軍の悪魔の兵器』『人命をも戦果と割り切る、非道なる軍事国家』と散々に酷評したが、真実を知る我々は、唯々苦笑いを浮かべるしかなかったものである。

 勿論、彼らもそれが誤解だということは研究と調査の過程ではっきりした。フィーゼル・ファーストの残骸から調べられた構造や、帝国軍人の遺体などが見られない事から、射程と威力、精度の高い砲弾のようなものだと分かったのである。

 私から言わせれば、唯でさえ貴重なパイロットを、そんな馬鹿げた兵器で使い潰すような国があるのならば、是非ともお目にかかりたいものだとこの時は小馬鹿にしたものだが、この話を後年出版社とした際、秋津島では特攻兵器の計画案もあったと聞かされた。

 あの国は一体何を考えて、そのような兵器を生み出そうとしたのだろうか。私には理解できない話である。

 

 ただ、嫌がらせとは言っても、これによって大いに前線は混乱した筈であり、北方方面軍は中央参謀本部が立案した後方地帯への揚陸作戦も、予定通り同日に開始した。

 もしも協商連合・連合王国支援地上軍が、帝国本土への上陸作戦を敢行し、我々の動きを妨げていれば。もしも連合王国や共和国が、従来通りの外交戦略的価値観で、協商連合の後方に自軍の兵を下がらせていたら。

 歴史に『たられば』は禁物だが、我々の戦いは間違いなく長引いただろう。だからこそ、私は先に述べたのだ。彼らは『不運』だったのだと。

 

 

     ◇

 

 

 北方方面空軍は、フィーゼル・ファーストを搭載した爆撃機に乗り込み、協商連合の要衝である為に沿岸要塞に守られた、オース・フィヨルド*1を制圧目標に定めた。

 爆撃中隊の護衛はダールゲ少佐率いる戦闘飛行大隊であり、海上でも帝国海兵魔導師の搭乗する帝国艦隊が、掃海艇で機雷原を掃海しつつ援護するという。

 

 しかし、態々機雷の掃海を待っていたのでは、敵に発見されるリスクが高く、そうなれば足の遅さが悪い意味で折り紙つきのコンドルでは、すぐに狙われてしまうだろうし、飛行爆弾も撃墜される可能性が高くなる。

 その為、空軍は中央参謀本部に魔導コマンド部隊の空挺降下を提案した。空挺部隊に敵の目を引かせ、外側を向く砲台もいち早く潰して貰って、少しでも艦隊と揚陸部隊の負担を減らして貰おうという魂胆である。勿論、足の遅い従来の輸送機や爆撃機は使用しない。

 まだ空軍でさえ爆撃機として正式には配備していない、少数生産に留まっていた新型爆撃機Ka202ハーケルを空挺要員の為に貸し出す事を確約した上でだ。

 

 これは、当初の予定では信頼性こそ高いものの、積載量や速度面からユーおじさん(オンケル・ユー)の後継機として開発・量産を切望されていた中型──当時としては大型と言って差し支えない──輸送機、Tr502アリアンツで空挺降下する予定であったが、こちらの実用化が間に合わなかった為の、苦肉の策でもあった。

 アリアンツは積載量一・五トンを誇る大容量積載機でありながら、最高速度二七〇ノット。実用限界高度は二万六五〇〇フィートで、最大積載時でも一七〇〇キロメートルもの飛行を可能とする傑作機ではあった。

 しかし、各戦線との距離や安定した供給状況から、大容量積載型の長距離輸送機を急ぐ必要があるのかと疑義が相次ぎ、常に開発を後回しにされていたのだ。

 これはいざとなれば、現行爆撃機(コンドル)が輸送機として代替可能だったのも大きい。結局この傑作輸送機が登場し始めたのは、アルビオン・フランソワ戦役の末期となってしまったが、今は実用化されていなかった機体でなく、実際に搭乗して貰った機に話を戻そう。

 

 最高速度三〇七ノット。実用限界高度四万九〇〇〇フィート。爆弾搭載量二八〇〇キロを誇るハーケルは、出来る事ならばこの作戦で大々的に爆撃機として用いたい代物であったが、今回積み込むのは爆弾でなく精鋭魔導師である。

 それも、中央参謀本部直轄の増強魔導大隊……私の未来の妻、フォン・デグレチャフ参謀少佐率いる、世界最強と名高い大隊が乗り込んだのだ。

 私はフォン・デグレチャフ参謀少佐が、先月までライン戦線で三桁以上の撃墜スコア(共同含む)を叩き出していた事を知っていたから、報告を受けた時は「使われているな」と同情の念を寄せた。

 

 昨日は地獄のラインで、今日は北方の重要沿岸要塞の攻略。しかも、誰より早く敵の要塞に空挺降下しつつも、味方から浴びせられる飛行爆弾の存在を知りつつ、敵兵と砲台を潰さなくてはならないのだから、使われる側としては、どれだけ給与と進級を得られてもやってはいられないだろう。

 案の定私の妻は、この時のことを本著で語った。

 

 

     ◇ターニャの記録6

 

 

 気付けば爆撃機に荷物として搭載され、地獄のラインから北方の最重要沿岸要塞に空挺降下しろと言われた日には、幾ら死線を潜り抜けて来た私でも、涙目になる権利ぐらいは有ると思う。

 一体何処の空軍指導部のお偉いさんだ? 成功率を上げる為とはいえ、こんな幼気な少女を地獄にデリバリーするよう要請したのは?

 何? フォン・キッテル参謀大佐? 最精鋭魔導師を送って欲しいと陸に懇願? 成程、それでこちらにお鉢が回ってきたのだな。

 

 貴様、私の味方ではなかったのか!? 私の純情を踏みにじったのか!? 口先だけの関係だったのか!? 謀ったのか大佐ぁ!

 私は激高した。しかし、すぐに元通り冷静になった。自分でも心中の台詞が気持ち悪くて吐きそうだったからだ。

 

 大方、フォン・キッテル参謀大佐は私が来るなどとは全く想像していなかっただろう。何しろ私は今や、『ラインの最終防衛線』とまで称される西方の英雄様である。別になりたくてなった訳ではないが。

 そんな私がラインを離れ、態々一度の任務の為に北方に足を運ぶ羽目になろうなどというのは、間違いなく思考の外というか、常識的にも戦線防衛的にも有り得ないだろうと考えての提案だった筈だ。

 当然後程、私が作戦に参加するなどとは思ってもみなかったという謝罪の手紙が届いた。しかし、謝罪だけで済むならば官憲も法曹も世に要らぬ。誠意は言葉でなく形にして送り給えよ大佐殿。取り敢えず最高級の珈琲豆を、もう二袋は送って貰おうか。

 

 

     ◇

 

 

 後日、何も催促していないのに帝室御用達のダルマイヤーが届いた。分かっているじゃないか大佐殿! 命の値段には安過ぎるがな!

 

 

     ◇

 

 

 目標降下地点への到着と同時、降下する第二〇三航空魔導大隊。各員は既にしてStG25を配備され、その使い心地の良さを大絶賛。これならば連隊だろうとやり合えると豪語する様は、隊長としても何とも心強いものである。ラインでは連隊どころか師団規模と交戦して死にかけただけはあるというものだ。私は二度と御免だが。

 かくいう私の手にも、既に体型に合った新型短機関銃たるMP2A1が握られており、こちらの使い心地は最高だった。

 そしてご丁寧にも、こちらの短機関銃も私のイニシャルと『幸運を』の文字を胴体部にペイントした上で、弟御からの品からだというのに、フォン・キッテル参謀大佐の差出人名で届いてきた。後で確認したところ、体型に合わないようだったので追加で贈った分だから嘘ではないという。当然大隊員には、またしてもあらぬ誤解を受けた。

 

 MP2A1は、威力・射程・精度といった性能面では当然の事ながら自動小銃(StG25)に一歩を譲るが、小型で軽量かつ、従来の高性能ながら複雑化した帝国製短機関銃と異なり、軍用故の生産性と整備性の両面を重視していた。

 

“その上で、競合していた短機関銃より性能が上であってはなぁ”

 

 銃器メーカーは、突如新式短機関銃のコンペに参入したエルマー技術中将の銃を見て、膝から崩れ落ちたという。

 最有力候補とされたMP25はエルマー技術中将の作品と同様生産性に力を入れており、プレス加工とプラスチック部品を採用してコストダウンに力を注いでいたというのに、まるで子供の玩具だと嘲笑するようにエルマー技術中将は力の差を見せつけた。

 喧嘩を売るように同じくプレス加工を採用かつ多用し、重量もMP25を二〇〇グラム近く下回る。

 最小限に止められた部品数故に雨や泥、砂に強く、あらゆる戦場に対応していながら、有効射程はMP25に対して倍近く、発射速度や初速も超えているのだから、他メーカーは泣くしかあるまい。

 当然の如く制式採用されたMP2A1は、二点折り畳みストックという革新的な小型化故にコマンド部隊や戦車兵、航空隊員に優先して配備されることになったが、そろそろ銃でなく任務の話に戻るとしよう。

 

 

     ◇

 

 

 私達は一先ず湾岸部から少々後ろに離れた砲台から優先して潰し、地上配備された部隊とも交戦して手早く片付けた。一体いつ、あのフォン・シューゲル主任技師とは違った意味で危険な、エルマー技術中将が発明した飛行爆弾が飛んでくるか判らない。

 

 というか、私は兵器開発の類は門外漢だから分からないのだが、こういう新型機構を搭載した兵器というのは精度とか色々と欠陥があって、徐々に調整してようやく実用出来るようになる物ではないのか?

 なんで開発してすぐ量産して、しかも運用したその日に成果を出しているのだ? おかしいだろう色々と!

 だから今すぐ飛行爆弾の投下──正確には発射だが爆撃機搭載型の飛行爆弾は時限式で、投下した後にジェット噴射して目標に『刺さる』仕組みの為、ここではこのように記載する──を止めろ!

 なんて無駄に錬度の高い正確無比な爆撃なんだ畜生め! 私の大隊が()()()()()対砲弾訓練を積んでいなかったら確実に損耗が出ていたぞ!

 

“まだ私達大隊が、というか私が居るのだぞ安全圏に逃げさせろ正確な爆撃を止めろぶち殺すぞ空軍の糞共がぁ!”

 

 子女としてこの上なく口汚い保身塗れの最低な罵倒だが、どうして連中に私達の無線が届かないのか。ああ、敵魔導師の干渉術式による妨害(ジャミング)か。しかも帝国空軍は予定時間通りの仕事と来ている。どうやら敵が中々に粘れる連中だったので、一分の誤差が命取りになったらしい。

 我々は後方から砲台を潰していた筈なのだが、空軍の連中は仕事が早過ぎる。もう少し怠ける事を覚えるべきだ。いやまぁ、私も逆の立場なら、時間厳守も出来ない無能共が足を引っ張ってくれるものだと、毒づいたに違いないが。

 しかし、怒りとは理不尽なもので、逆の立場としてなどちっとも考えなかったこの時の私は、興奮した猫のように目元を吊り上げながら声を張り上げていた。

 

「ヴァイス中尉! セレブリャコーフ少尉! 大隊の被害は!?」

「味方に殺されるところでしたが、当中隊の損耗はゼロであります」

「同じく損耗なし、被害ありません!」

 

 次席指揮官(ヴァイス)副官(セレブリャコーフ)の二人は、双方共意気乾坤といったところで、大変頼もしい部下を持ったものだと私は笑みを零した。

 

「よし、とっとと離れるぞ! 空軍の連中には、後でしこたま奢って貰う!」

 

 私と大隊員は絶対に、空軍の財布の中身が空になるまで、慈悲などかけず奢って貰うのだと決意した。後日、我々の大隊宛に大量のシャンパンとクリーム菓子が届けられた。勿論、既に馬鹿みたいな量を酒保で奢って貰った上でである。

 空軍は実に気前が良いな! 爆撃してくれたことは絶対に、死ぬまで根に持つがな!

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 妻には、本当に悪い事をしたと思う。この場を借りて心から、改めて謝罪したいとも思う。しかし、死ぬまで根に持つというからには絶対に忘れてくれないし、許してくれないだろう。

 北方に送られた原因を作った私には、執筆中もこめかみに青筋を浮かばせて微笑んでいたから、当然私も未だに許されていない。それはさておき。

 

 オース・フィヨルドの砲台は散々に破壊され、沿岸部は灰塵となったが、流石にここまでされては連合軍(アライド・フォース)も黙ってはいなかった。作戦は成功だと、帝国海軍と揚陸要員支援の為に現れる予定であった戦闘爆撃中隊と、別基地から出撃する爆撃機に後を任せて引き返そうとするダールゲ少佐達に、大隊規模のスピットファイアが迫ったのである。

 沿岸要塞の戦闘機は離陸前に空挺要員が潰した筈であるので、おそらく応援要請を受けて急行したのであろう。

 当然、最新鋭戦闘機に近づかれてはコンドルなど一巻の終わりであるから、戦闘飛行大隊は早々に打って出て、敵機を全て撃墜する必要があった。

 迎撃の為に転針したダールゲ少佐は、交戦前に態々オープン回線に切り替えて、大胆かつ不遜にもスピットファイアの団体にこう言ったそうだ。

 

「さぁ死のうか。アルビオン紳士諸君」

 

 ダールゲ少佐の活躍は、帝国空軍の撃墜王は私だけではないのだと知らしめるものであり、余りに一方的な蹂躙劇は、少佐もまた空軍の最古参にして英雄の一角なのだということを世界に見せつけるものだった。

 既に帝国内でダールゲ少佐の名は、叙勲の時ぐらいしか新聞でも取り上げられなくなっていたが、他国では『恐るべき敵空軍の撃墜王』『北洋の悪魔』として、無数の船団を水底に沈めた時以上の衝撃でもって迎えられ、中立国たる合州国のニュース雑誌『タイムズ』でも表紙を飾った。

 

 今でもダールゲ少佐が主役となったタイムズ誌は所持しているが、何とも言えない悪人面で表紙を飾る少佐の肖像画は、少佐を知る者であれば噴き出さずにはいられない事請け合いである。

 フォン・エップ大将などは当時表紙を見て「これぐらい威厳のある男だったならば、我々としても嬉しかったのだがなぁ」と笑いを漏らしていた程だったのだから。

 

 

     ◇

 

 

 スピットファイアは全機撃墜、帝国軍の揚陸作戦は見事に完遂。

 我が未来の妻の怒りは筆舌に尽くし難い限りであり、私は何度も手紙で謝罪したが、そこは置いておこう。キリがない。

 ともあれこれにて、帝国軍は協商連合後方の策源地を押さえる事に成功した。チェックメイトの日は、近い。

 

*1
 オース市は鉄道線の要衝である事から、特に重要な地点として敵味方双方に認識されていた。




補足説明

【V1について】
 V1は幼女戦記で人間ロケットになってしまわれたので、少々分かりづらいですが、V1ロケットがこのような名前になってしまいました。自分のセンスのなさが恨めしい。

【アリアンツについて】
 アリアンツはWW2後に登場する独仏合同機C-160さんが元ネタで、ついに戦後機まで出しちゃいましたが、ターボプロップエンジン以外については戦中機みたいなもので、コクピットとかもC-160とは大きく異なります(ぶっちゃけ戦中機のコクピットで、他にも再現できなかった所が多々有る模様)。なので性能は結構落ちてます。

 え? 素直にC-130ハーキュリーズとかいう最強輸送機作っときゃ楽だったろって?
 うん。そうしたかったんだけど、あれアメリカ産だし、西ドイツが運用してないから出さない事にしたんだ(謎のこだわり)

【特攻兵器について】
「特攻とかまじ狂ってんな秋津島」と主人公は語りましたが、WW2ドイツでも爆撃機に体当りしてぶっ潰してやろうぜ! 流石にパイロットは死なせたくねーから直前で脱出させるけど! という作戦(作戦?)が実行されました。攻撃名は『シュツルム・フリーガー』。
 当たり前っちゃ当たり前の結果ですが、体当たり直前の脱出は超危険で、殆どのパイロットがそのままお亡くなりになってしまいました。
 どこの国でも末期的になると似たような思想になるって事なんだろうなぁ……。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【航空機】
 ハインケルHe277→Ka202ハーケル
 C-160トランザール→Tr502アリアンツ
【雑誌】
 TIME→タイムズ
【銃器】
 MP40→MP25
【兵器】
 フィーゼラーFi103(V1ロケット)→フィーゼル・ファースト
 V2ロケット→フィーゼル・セカンド


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34 北方の幕引き-ターニャの記録7

※2020/2/17誤字修正。
 すずひらさま、oki_fさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 オース市は陥落し、帝国陸軍は内陸部への道を確保した。レガドニア協商連合に対し、軍事的な勝利であれば、間違いなく達成し得る状況下にある。

 

「問題は、亡命政府が樹立されかねないということですが」

「言われるまでもないが、そこは我々でなく海と情報部の仕事だな」

 

 協商連合の評議委員達が乗艦して下さるというのならば、幾らでも爆弾と魚雷を贈呈するところである。尤も、そのような愚かな行為を、細心の注意を払って然るべき立場の者達がするとも思えないが。

 

「赤十字か民間船か、或いは潜水艦か」

 

 いずれにしても、碌な事にはならないだろう。自分達こそが正当な国家の代弁者なのだと主張し続ける亡命政府の存在は、自分達が逆の立場に陥れば必要不可欠な存在だと理解出来る反面、敵国にされれば厄介で迷惑極まりない政治団体であるのも、また事実にして真理である。

 

「潜水艦か。前者は警戒しているだろうが、そこは海軍には盲点になるやもしれんな」

 

 だが、フォン・エップ大将の関心は私の何気ない言葉にあったらしい。私としては、浮いている物が発見されるなら、潜れる物で逃げるのも手かという素人考えだったのだが、考えてもみれば、浮かび上がれない可能性のある艦で逃げるというのは、専門家であれば思考の外に置いてしまうのかもしれない。

 どの道フランソワ共和国ともアルビオン連合王国とも戦争状態にあるのだから、是非とも見つけ次第徹底的に沈めて頂きたいものである。

 

 

     ◇

 

 

「話は変わるが、例の兵器について進捗はあったかね?」

「フィーゼル・セカンドであれば、配備の短縮は難しいかと。現状では誘導性能と命中率に難があるようでして、電波信号で目標に誘導出来るようにしたいそうです。

 それに伴い、レーダー網も大規模な範囲拡大を行い、連合王国までの北洋全域を観測出来るようにするとまで言っていました。現在は、エレニウム工廠と共同で改良作業に当たっているそうです」

「頼もしい弟御だ。帝国の技術を二〇年は個人で進めている。彼なしで今日まで来ていたら、戦況がどうなっていたかは想像したくもないな」

「同感です」

 

 もしエルマーがいなければ、帝国の圧倒的技術優位は成り立たなかった。突出した戦力を持たない状態で各戦線は防御に回り膠着し、長引く戦争で徐々に疲弊しながら、病に蝕まれた獅子のように、最後には息を切らして、帝国は身を横たえた事だろう。

 

 だが、そんな戦況以前に、私には弟のいない人生など考えられない。あの可愛い、優しいエルマーが初めから存在しない世界など、何処までも色褪せた空虚なものだ。

 たとえ私が死して、聖なる書に記された約束の地に行く権利を得たとしても、そこにエルマーが、家族が、我が妻がいないのであれば、私は地の底で眠り続ける事を選択するだろう。

 

 

     ◇ターニャの記録7

 

 

 相も変わらず弟御への変わりない愛情を麗しい家族愛と見るべきか、重すぎると捉えるか。読者諸君は私と同じく、後者と捉える事と思う。勿論私も今は亡き義弟を心から家族として愛しているし、夫の思いを正直に言えば嬉しいと思っている。

 それはそれとしても、やはりこうも熱烈な愛情表現が続いてしまえば、正直読者諸君も辟易とするか、苦笑するしかない頃ではないだろうか?

 

 さて、私がこうして筆を執っているのは、勿論夫にオース・フィヨルドの件で苦言を呈する為でなく、先に語られた亡命絡みの問題であるので、話をそちらに移すとしよう。

 第二〇三航空魔導大隊は、オース・フィヨルド攻略の功により一時休暇を与えられた後、帝国軍北洋艦隊司令部から、捜索遊撃命令が下された。要するに、大規模な海上封鎖の一助を担えという事だ。

 

 当然ながら、海兵魔導師でもない我々は、海上での作戦など未経験である。渡された航法図を北洋方面戦域管制図に置き直し、ウルバンコントロールの管制官に繋いで、敵味方問わず展開される北洋艦隊の配置を可能な限り確認。

 エルマー技術中将の新型レーダー網が、空軍より先にノウハウのある魔導管制に回されたのは、不幸中の幸いだった。技術中将は家族第一主義の厄介な御仁だが、見るべき所と有効に使える存在は、きちんと把握しているらしい。

 

 レガドニア艦隊は、既にして帝国軍の空爆と雷撃で虫の息。アルビオン・フランソワ艦隊も空爆を恐れて大規模派遣は出来ずに居る。包囲環を縮小しつつ敵残存艦隊と政府要人の亡命を阻むには帝国海軍でも不足ない筈だが、やはり念には念を入れたいのだろう。

 亡命政府というのは何処までも厄介だ。あいつらの存在を許してしまえば、帝国は延々と戦争を続ける羽目になるし、そんな事になれば嵩んだ戦費で、戦後はハイパーインフレまっしぐらだ。私だって潰せるなら喜んで潰してやる所だが……。

 

「ウルバンコントロール、状況は?」

「艦隊司令部より全艦隊に対し、捕捉撃滅を発令中。先行して、潜水任務群が哨戒網を構築しております」

 

 まずまずだ。水の底から抜けられるというのは最悪だからな。出来ればアルビオン海峡のように、無数の機雷で埋め尽くしてやりたいところでもある。

 

 

     ◇

 

 

 第二〇三航空魔導大隊は近郊の演習滑走路から飛行を開始。我々は敵護衛たる海兵魔導師を含めた索敵撃滅も任務であるが、最優先命令はあくまで偵察任務である。

 雨風が強まり、視界も最悪で体温を奪われる一〇月末の北洋を、延々と飛び続けねばならないのは過酷だった。幾ら防殻が水を弾くといっても、完全防水という訳ではないのだ。

 だが、日が沈みかけ、夜空に切り替わろうとする刹那、私は静寂の広がる海と空で、海中から響く爆発音を確かに耳にした。

 

 音からして遠い。しかし、方角は分かる。幾度となく修羅場を潜り、戦場の砲音からどのメーカーのどの弾種かさえ聞き分けられるようになった耳は、即座に正しい方向に目を向けていた。深照灯の光は、紛れもない敵艦隊のものだった。

 おそらくは帝国潜水艦群が敵艦隊を捕捉し、これを撃沈すべく交戦を始めたのだろう。無論、我々大隊も負けてはいられないし、与えられた仕事はこなさねばならない。

 

「大隊、ブレイク! 突入態勢を取れ!」

 

 私は即座に部下に命じた。高度差を利用し、当時の魔導師としては群を抜く四〇〇ノットで敵旗艦へと突貫した。しかし、やはり敵の海兵魔導師は今日まで生き残っている手練れだけに厄介だ。

 共和国のネームド大隊にも負け劣らぬ錬度で上昇し、即座に迎撃を開始してきた。

 

「ピクシー〇一よりウルバンコントロール! ウィンゲンブルク沖二〇〇にて敵艦隊と交戦中! 戦闘爆撃機ないし、雷撃機の支援を要請する!」

「ウルバンコントロール了解。支援到着まで三〇〇。敵魔導師の排除に注力しつつ、損耗を抑えられたし」

 

 五分とは何とも遅いが、地上基地からではそこが限度だろう。むしろ新型機が来てくれる事を喜ぶべきだ。足の遅い旧式爆撃機や魔導攻撃機では、こうは行かない。

 しかし、手強い。おそらくは協商連合軍でも、最精鋭のコマンド部隊辺りだったのだろう。その動きを見るだけで、この艦隊がどれだけ重要なのか、逆に見て取れるというものだ。

 

「終わるぞ、レガドニアが!」

 

 私は確信を持って吠えた。終わらせる。ダキアに続き、ようやく一つの戦線が、勝利の二文字で閉じられようとしているのだ。だが、それは敵魔導師にとって、決して看過できない言葉だったに違いない。

 

「終わりなどしない、我が祖国は永遠なのだ!」

 

 ああ、高潔なる愛国者よ。お前達ならばそう言うだろう。だが、始められたこちらは堪った物ではないのだよ。不遜にも帝国の国土を土足で汚し、慈悲でもって提案した和平とて幾度となく蹴ったお前達が、存亡の危機に瀕した今になって、祖国の永遠を謳うなどと。

 

「お笑い種だよ」

 

 私は夫のように、敬意を持って敵と戦う事など出来ない。敵の死者に対して、悼む心など持ち合わせてもいない。だって、しょうがないじゃないか。私は死にたくない。戦いたくない。それでも戦わなくてはならないし、殺さないと殺される。

 精一杯なんだよ。自分一人で手一杯で、相手を慮ってやる余裕なんて、持ってないんだよ。

 

 だから今、こうして夫の著作に文を入れる最中、私はこの日の事を後悔している。

 彼にも、愛する家族がいたのだろう。私が息子や娘を腕に抱き、成長を見守ってきたように、彼にも愛する家族が確かにいた。

 その因果はいずれ私の身に降りかかるが、この時の私は、それを知らぬまま彼の誇りを踏み躙った。死地に赴いた父親の、死に逝く最期の戦いを、無慈悲な言葉で切って捨てた。

 もし、私の夫が魔導師として戦ったならば、決してそんな真似はしなかっただろう。誇りを胸に、無念だが安らかな表情で死に逝く彼を、静かに看取った事だろう。

 

 だが、私はそれをしなかった。艦隊の対空砲火のせいで、する暇なんてなかっただろうが、それでも思いぐらいは汲んでも良かった筈だ。だけど、この頃の私は、何処までも自分本位の人間だった。

 部下が被弾し、離脱すると言っても掩護無用の言葉を信じて、振り向きもしないで戦闘を続けたのが何よりの証左だ。敵にも味方にも、私は冷たかった。

 そんな相手を、目の前の敵がどんな目で見ていたかは想像に難くない。だが、私はそれさえ気にしなかった。

 

“怒ったか? まぁ当然だろう。祖国が負けると言われたのだからな”

 

 だからどうした? それで、一体何が変わるのだ? 怒りで力が漲るなら厄介だが、冷静さを欠いた軍人など、御し易く捻り易い。私は口元に弧を描いて、短機関銃を構え持った。

 私の敵は、おそらく合州国か森林三州同盟製の新式を持っていたようだが……。

 

「私の方が、ずっと良い銃だよ」

 

 同じように、イニシャルらしき文字が入った短機関銃が、血を吐いた彼の手から滑り落ちる。絶望の表情で、部下や戦友と共に海中に没した彼を、私は最後まで見届ける事もなく、眼下の旗艦を一瞥した。対潜行動を取らざるを得ない以上、起動速度重視の爆裂式を叩き込めば、魚雷か爆雷の誘爆は見込める。

 私は敵魔導師の排除を完了した大隊員と爆裂式を同時展開して撃ち込んだが、しかし、そう上手くはいかなかった。機関部に損傷は与えたものの、航行には問題なさそうである。

 

「やあピクシー大隊。こちら、ラッキーストライク〇一。お困りなら、空軍の一トン爆弾をプレゼントするが?」

 

 先月から、胴体下部だけで一トン積めるようになったんだという明るい自慢話。夫に確認したが、そんな事を無線でほざく奴は間違いなくダールゲ少佐だろうとの事だ。

 私も彼の数多くの武勇伝を知った今となってはそう思うが、ダールゲ少佐との面識などこの日まで一度として無かっただけに、空軍には自慢がてら機密を無線で暴露するような馬鹿がいたのかと呆れる他なかった。

 

 しかし、この時に限っては僥倖であり最高の朗報だ。敵海兵魔導師を掃討したとは言え、ここで艦隊を完膚なきまでに叩いておかねば、帝国の未来に大いなる影を落とす事となる。

 手柄を目の前で持って行かれるのは少々癪だが、自分達で潰せない相手なのだから、大人しく譲るのは当然だろう。しかし、コールサインが大当たり(ラッキーストライク)とは、何とも縁起の悪い名前である。

 

「ピクシー〇一より、ラッキーストライク〇一へ。是非そのコールサインに相応しい手並みを拝見させて頂きたい」

「おや! フロイラインからの応援とは実にツいている! 正しく大当たりだ! さて、活躍が見たいなら早く離脱するといい。戦友を丸焼きにしたくない」

 

 私も最近味方に爆撃されかけたのだから、二度目は勘弁願いたい。言われるまでもなく大隊と安全圏まで離脱すると、戦闘爆撃大隊(雷装含む)は鮮やかな手並みで対空砲火を掻い潜り、旗艦を含む残存艦隊を、見事撃沈してみせた。

 

“自信過剰な口ぶりも、この腕ならば納得だな”

 

 私は敵艦隊の末路を見届けた後に管制官に報告。長時間の哨戒任務と対艦戦闘で疲弊し、負傷した部下を抱えつつも、損耗を今回も出す事なく、最寄りの基地への帰路に就く事を許された。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 フォン・デグレチャフ参謀少佐と帝国海空軍の活躍により、協商連合残存艦隊を撃沈する事には成功した。しかし、これで終わりにはしないというのが、終わらせようとしないのが、国家存亡をかけた者達の意地であり、往生際の悪さでもある。

 何しろ所属不明の潜水艦が、悠々と潜行をしているという情報を掴んだからだ。当時の戦時国際法による臨検規定は、海上にあっても海中にはない。

 しかし、まかり間違ってもルーシー連邦や合州国の潜水艦が、戦争真っ只中の北洋を通るかと問われれば断じて否だ。間違いなく敵は、ルールの隙間を潜って要人を脱出させている。

 これを見逃す気など、当然私にはなかった。

 

「海軍に海中機雷を徹底的に散布させて下さい」

 

 国籍不明だろうが何であろうが、勝手に引っかかる軍用艦船が悪いのだ。少なくとも、戦時下にある海域なのだから、文句を言われる筋合いは何処にもない。

 

「既にしている。他に案は?」

「魔導師に威嚇射撃を敢行させます。戦時国際法でも、臨検を促す為の威嚇は禁止されておりません。停止命令を無視するならば、船体が轟沈しない威力でことに当たれば宜しいかと。勿論、最終的には沈むか、臨検を受けるかを選んで頂く事になりますが」

「中々指導部としてのやり方が分かってきたじゃないか。だが、それももうやったよ」

 

 もっと脳味噌を絞る事だな、と私は肩を叩かれた。どうやら今回も、私は指導部としては月並みな意見しか出せなかったようである。

 しかし、私の案が平凡で既に使われたものであろうとも、或いは何かしら良い案が浮かんだのだとしても、いつかは北方戦線の幕は降りる。

 包囲環は着実に閉じていく。協商連合の内陸部には、帝国軍が破竹の進軍を続けている。協商連合の軍事基地は、鉄道網は、発電施設は日々空爆に晒されている。

 ダキアがそうであったように、制空権を確保した上で連絡線と補給線を断ち切れば、どんな巨人とて音を立てて崩れ落ちる。ましてや、国力において列強の中で頭一つ()()()協商連合では、帝国軍を阻む事は不可能だった。

 

 協商連合の頼みの綱だったアルビオン・フランソワ派遣地上軍は、正しく勇戦したという他ない。始めはただの政治的駆け引きからの派兵であり、軍人として最低限の義務感しか持たなかった彼らだが、帝国軍の圧倒的兵力差と、勝利の栄光が見えない暗闇の中にあって尚、鉄の規律を保持していたのである。

 後衛を立て、戦線を寸断されて潰走する協商連合軍兵士を纏めながらも、彼らは協商連合が降伏を決断するその時まで常に銃を執り、帝国軍に銃弾を浴びせて後退し、民間人さえ守りながら、首都まで下がり続けたのだ。

 北方方面軍司令官、ウラーグノ元帥は頑強で揺るぎない信念を絶やさず、無辜の民を守り抜きながら、降伏のその時まであらん限り力を尽くした彼らに、敬意と賛辞の言葉を贈った。

 

「我々は真の勇者の姿を見た。強大な敵に臆さず、弱きの為に身を挺する事の出来る、真の勇者を」

 

 ウラーグノ元帥は、捕虜となった彼ら一人一人に握手を求めた。

 

「捕虜となったとしても、決してその名誉に悖る扱いはしない。いつか祖国に帰るとき、諸君らが勇士として胸を張れる帰還を約束しよう」

 

 ウラーグノ元帥は約束を守った。元帥は宣伝局と民間の新聞社に対し、我々の敵が如何に高潔であり、軍人として誇り高かったかを世界に伝えるよう提案したのである。

 本国は難色を示したが、敵を称える将というものがイメージ戦略上有効なのは、秋津島の聖将、楠木希典大将とルーシー帝国軍総司令官、クパーキンとの対談からも明らかだとして受け入れられた。

 ウラーグノ元帥の高潔な本心とは裏腹に、飽くまでも元帥に焦点を当てた記事ばかりが書かれた事に対して、世間から浴びる賞賛とは真逆に、元帥ご自身は自らを恥じ、悔やんでいたという。

 

 だからこそ、というべきか。ウラーグノ元帥は、戦後にも捕虜となった事への嘲笑を自国民から浴びる敵兵士達に対し、国籍を問わない後援団体を設立。人生の最後まで、彼らの名誉回復と社会復帰の為の職業斡旋に努め続けたのである。

 




 はじめて、この作品のデグ様が終始真面目モードになれた!(感涙)

補足説明

【デグ様の短機関銃について】
 デグ様は自分の方が良い銃だったと言ってますが、FN UZI(MP2A1)よりSIG MKMS(原作でデグ様が鹵獲した、糞袋さん自動追尾式の呪いのアイテム)の方が発射速度とか命中精度とかのカタログスペックは上だったりします。
 まぁ、どっちか一つ使えと言われたら、メンテとか携行性や重量で作者的にはUZI一択なのですが。

【アルビオン・フランソワ地上支援軍の撤退行動について】
 協商連合国本土のアルビオン・フランソワ地上支援軍が民間人を避難させつつ後退したのは、彼らを連れとけば敵の空爆とか弱まるだろうという打算あってのもので、軍人としての使命感とかそういうのは大して無かったようです。
 ウラーグノ元帥は泣いていい。

【北方軍司令官に関しての補足事項】
 手持ちの書籍版幼女戦記2巻(初版)では、ウラーグノ氏が北方方面軍司令官と記載(P149)され、ウラーゲリ上級大将が方面軍の軍団長と記載されております。
 が、幼女戦記漫画版ではウラーゲリ上級大将が方面軍の司令官になっています。
 もしかしたら帝国首都のベアリーンがベルンになったように、書籍版でも何刷目かには置き換わっている可能性がありますが、本作品では手持ちの書籍の情報を採用し、ウラーゲリ上級大将の上にウラーグノ司令を置くため、彼を元帥にさせて頂きました。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 乃木希典→楠木希典
 クロパトキン→クパーキン


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35 三国紛争-列強の介入

さぁ皆様、塗り絵のお時間ざます!(hoi的無慈悲タイム)

中央大陸 各国勢力図 1925年11月20日

【挿絵表示】


※2020/2/24誤字修正。
 すずひらさま、水上 風月さま、佐藤東沙さま、オウムの手羽先さま、ご報告ありがとうございます!


 一一月二〇日。私の誕生日より少し早く、レガドニア協商連合は降伏を受け入れた。ダキアと同じく首都を完全包囲されてのものであったが、彼らにはダキア大公国ほどの温情はかけられなかった。

 ロンディニウム条約より更に一歩踏み込んだ、二度と帝国に対して領土侵犯を起こせないようにする為の本土割譲要求*1

 帝国軍の北方戦線での戦費を補填して、尚余り有る賠償金。アルビオン連合王国・フランソワ共和国との同盟破棄と、帝国との不可侵条約の締結。

 

 勿論、これらの降伏条約がダキアのように即時発効出来るかといえば別だ。亡命政府こそ成立していないが、連合王国と共和国が健在である以上、彼らを潰さねば協商連合の心が折れる事はない。

 そうなれば帝国は、協商連合が折れる──共和国・連合王国との終戦──まで、その領土に軍を駐屯するしかなくなるが、国土を占領し続けた結果、ゲリラ活動に勤しまれても迷惑極まりないし、出来る事ならば直ちに兵を引いて西方に全力を注ぎたい。だからこそ、帝国は一計を案じた。いいや、既に案じていた。

 帝国外相は静かに、そして不敵に笑いながら語ったという。

 

「我々を呪い殺すように見ているが、お前達の背中も、美味そうに見られているぞ?」

 

 協商連合は全てを察した。そして、亡命しそこねた国民を守るべく残った評議委員は、勢いよく机を叩いて吠えたという。

 

「取引したのか、ルーシー連邦と!?」

 

 協商連合の驚愕と怒りは当然だろう。あのような血腥い、共産主義などというカルトめいた思想を持つ社会主義国家と組もうなどというのは、それこそ人としての倫理をドブに捨てているようなものだ。

 

 現在のルーシー国民ならび政府におかれては、気分を害される事を承知で述べるが、革命以前からルーシー軍兵士の蛮行は余りに有名であった。

 占領下の町や村での虐殺や強姦、略奪と放火は当たり前であり、その残忍性は中央大陸各国が『悪臭を放っている』と不評を隠さなかった程なのだ。

 連邦になってからもその体制が変わらなかったどころか、一層酷い有様となった事は、他ならぬ協商連合が最もよく、そして()()()知るところであろう。

 とはいえ、国家に真の友はなく、たとえテーブルの下で足を蹴り合う間柄でも、机の上ではにこやかに笑みを浮かべて握手ぐらいは出来るだろう。

 信頼でなく利益のみを追求する間柄にあっても、相互利益が約束されている間ならば、不倶戴天の敵同士であっても、笑い合う時間が持ててしまうのだから。

 

 ダキア大公国相互不可侵の締結時、裏で結ばれた秘密条約はこうだ。

 一、帝国のレガドニア協商連合への防衛戦争勝利後、ルーシー連邦の協商連合侵攻について、ネースナからメオーウまでの進出を帝国は無条件で認める。

 二、ルーシー連邦は帝国に対し、帝国北西部における『三国紛争』への介入とその結果を、内容の如何を問わず承認する。

 

 条件だけで見るならば連邦は濡れ手に粟といった所だが、流石に帝国も悪魔に魂を売る程堕ちてはいない。確かに協商連合は帝国の国土を蹂躙した侵略者であり、長きに渡る戦争のきっかけとなった諸悪の根源ではあるが、無辜の民に罪はないのだ。

 

「犬畜生であろうと、『お座り』と『待て』は覚えられるようでね。我々が『良し』と言うまで待つぐらいは、連中(ルーシー)にも出来る。

 国民の擁護者にして、代弁者たる評議委員諸君。国民と軍を戦争という地獄に突き落とした評議員諸君。度重なる和平交渉を蹴り、国土を戦火で焼いた愚かな評議委員諸君。

 今回は、正しい判断が出来るだろう。我々が意地汚い野犬に『良し』と言う前に、合州国にでも国民を逃すと良い。勿論、可能な限り財産も持たせて」

 

 協商連合国とて、この事態を全く予期していなかった訳ではないだろう。だからこそ、彼らはかつてスオマの地を見捨てたという前科がある。

 自分達協商連合が連邦と相互不可侵を結ぶ為に、ツァーリの統治が揺らいだタイミングで独立し、抑圧からの開放を祝った、あの平和な国家を切り捨てた。そうして、自分達の安全を。相互不可侵を手に入れた筈だった。

 

 国家が自国の利益を最優先にする事も、自らの安全の為に他を犠牲とする事も、決して悪ではない。しかし、それをする以上、他の犠牲の上に安寧を掴んだ以上は、自分達も同様の犠牲を、自国民と共に払う覚悟を有するべきだろう。

 同盟関係にあったスオマを直前に見捨てて梯子を外し、飢えた野犬に食い荒らさせる事で生き存えた時点で、協商連合に帝国を非難する資格はない。

 

 スオマからの難民が、その地でどのような辱めを受け、懸命に戦い散った若者達がどのような最期を遂げたか。スオマ国民の多くの嘆きは、私自身筆を執って語る事さえ憚られるような蛮行であり、協商連合国は、本来ならばその報いを受ける筈だった。

 

 条約などというものは互いに利益が有り、破れば手痛い目に遭うから破らないというだけだ。ツァーリ統治下から特に理由も用意せず、機と見るや敏に動いて横紙を破りつつ支配域を拡大してきたルーシーが。

 ましてや、かつての時代などと比ぶるべくもない、アカなどという野盗の群れと化した今のルーシー連邦が、国軍の崩壊した相手との不可侵を維持する筈がない。

 帝国が連邦を秘密条約という首輪で繋いでおかなければ、彼らは何食わぬ顔で協商連合国に進軍を開始しただろう。

 正しく、慈悲という言葉では足りぬ程の温情だ。

 

「但し、亡命させるのは占領予定にある土地の住人だけに留めて貰う。他の国民まで逃す事は出来ないし、現役・予備役軍人も当然例外*2だ。国民の生活と財産を保証する事こそ国家の務め。諸君が政治屋でなく、政治家として正しく決断してくれる事を祈る」

 

 脅しではない。有線電話は既に会議場に引かれている。もしも評議委員が拘泥するならば、すぐにでも連邦が食らいつく。それを止めるには、帝国外相に『良し』を言わせないよう、満足の行く答えを出すしかないのだ。

 柱時計の振り子が揺れる。外相が針を確認し「正午まで待つ」と最後の慈悲を示した時、評議委員達の心は折れた。降伏文書の調印と、条約の即時発効。それが為されたのは日付と同じ、午前一一時二〇分だった。

 

 

     ◇

 

 

 レガドニア国民は、帝国が事前に手配していた合州国輸送船団に乗船し、脱出した。外洋民間クルーズ船を始めとする脱出船団の費用は、当然協商連合持ちであるが、それでも『時間』という最も貴重な財貨を、帝国がもたらしたのは大きい。

 父親が軍人であったが為に、離れ離れとなる家族には、本当に酷な事をしたと思う。しかし、彼らには賠償金を払う上でも、また、海外から連合王国や共和国の義勇兵にならない為にも、協商連合国内に残って貰わねばならない。

 彼らの敵である私が、こんな事を言うのも烏滸がましい話だが、それでも私は戦争の終わった世界で、離れ離れとなった家族が再び野原でピクニックが出来る日が来る事を、心から望んで止まない。

 いいや、それさえも我々の努力次第だろう。共和国と連合王国との戦争が終わり、帝国に平和が戻れば、離れ離れとなる日々も終わるのだから。

 

 

     ◇

 

 

 読者諸氏は、ここまでの戦いで戦線に疑問を持った点はなかっただろうか? 帝国軍はプラン三一五を瑕疵なく発動させ、各戦線を安定して維持したばかりか、早々にダキアを下し、連邦と不可侵を結んだ時点で、東部兵力を可能な限り北方と西方に注ぎ込む事が出来た。

 だというのに何故、ダキア陥落後の一九二三年から西方が膠着状態にあるのか。それは、今回初めて本著に記した、三国紛争こそが原因だ。

 共和国と帝国の間。帝国北西部に位置する一帯は、アルビオン連合王国本土への渡洋を容易に可ならしむ海岸線を有する広大な土地であり、帝国にとっては連合王国への本土『攻勢』を主眼に置いた軍事地政学上の要地。

 連合王国にとっては本土『防衛』を主眼に置いた軍事地政学上の要地。そして共和国にとっては帝国からの『防衛』と連合王国への『攻勢』両面における軍事地政学上の要地。三国とも、決して他のいずれかの手に渡してはならない、中央大陸の緊要地形であった。

 

 無論、広大な土地である以上そこには国家があり、国民も存在する。帝国と共和国に挟まれ逆三角形となったその土地は、北洋から南へ順に、ネーデル王国、フランデレン王国、そしてレツェブエシ大公国が並ぶ形で存在する。

 三国はそれぞれが永世中立国である事を望みながら、同時に互いの国を征服、併呑しようという領土的野心を有していた。

 

 特にレツェブエシ大公国は、国土・軍備両面で他の二国に対して劣勢な状況に置かれており、ネーデル王国は彼の地への強い征服欲を隠そうとさえしなかったが、何とかレツェブエシ大公国は外交努力によって生存を許されていた。

 三国内での争いに、中央大陸列強の非介入を条約によって認めさせた功績によるものである。レツェブエシ大公国は帝国(ライヒ)・フランソワ共和国・アルビオン連合王国、そしてルーシー帝国(ツァーリ統治時代)から独立の保証と永世中立国家としての体制を認められ、結果、三国紛争と言いながら、実質的には二カ国が延々と泥沼の紛争を近年まで続けていた。

 協商連合の越境侵犯から始まった中央大戦が、それを変えるきっかけとなるまでは。

 

 

     ◇

 

 

 三国の紛争に列強が不介入を認めたのは、どの国家がこの地を得たとしても、得られなかった国にとっては甚大な被害をもたらす要衝であり、だからこそこの土地だけは空白にせざるを得なかったからだ。

 仮に列強の一国がこの地を独占しようとするならば、それこそどのような犠牲を払ってでも、他国はそれを妨害しなくてはならない。そうしなければ、自分達の安全を確保出来ないからだ。

 奪うと言うならば、その時点で全面戦争。それが列強国の野心の歯止めとなり、ギリギリのところで各々が踏み止まる事ができていた。しかし、最早列強が止まる理由は欠片もない。

 ルーシー連邦を除く三国は既に戦争状態に有り、かつてのルーシー帝国自身、この地に関しては不可侵の見届け人として席に加えられたに過ぎない。当然その分の見返りは旧体制の頃に受け取っていたが、いざツァーリの時代に事が起きたとしても、座視する姿勢は崩さなかっただろう。

 この地をどの国家が掴もうが、ルーシーにしてみれば痛くも痒くもない。むしろ、中央大陸が本格的な戦争で疲弊したところを、横合いから殴りたいとさえ思っていた筈だ。

 

 そしてそれは、紛争の当事者たるネーデルやフランデレンも同様である。特にネーデルは、以前から小国家にも関わらず、永世中立国の地位を一人得ていたレツェブエシが腹立たしくてならなかった。

 そこに領土的野心が加われば、真っ先に併呑の二文字がレツェブエシの脳裏に過ぎるのは当然だっただろう。レツェブエシは列強各国に自国保護を求め、帝国は真っ先に、余りにも早くそこに駆け付けた。

 無論、これは偶然でも何でもなく、レツェブエシが他の列強国に救援を求めるより早く、先んじて帝国に保護を求めたからである。ネーデルとフランデレンには既にして共和国・連合王国双方が介入していたという情報を掴んでいたからだ。

 

 但し、帝国が保護に動いたことを知らぬまま、「これで確実にレツェブエシを手中に収められる」とほくそ笑んでいたネーデルはその実捨て駒に過ぎず、共和国・連合王国は、要衝紛争地域の覇者たる地位は、フランデレンに掴ませる気でいた。

 確かにネーデルもフランデレン同様に親共和国・連合王国ではあったが、フランデレンとは違い、野心に見合うだけの能力を有していた事がネーデルの不幸だった。

 傀儡としておくならば、出来る限り小さく、そして扱い易い者が良い。その点フランデレンは能力的には平凡だったが、自分の置かれた立場をしっかりと理解できていた。

 どの道この要衝で覇者の座を得ようと、地政学上列強からの干渉を避けられない。ならばここで絶対服従の姿勢を見せ、自らを取るに足らぬ駒として手元に置いて貰えるならば、少なくとも生存だけは保証される。

 

 共和国も連合王国も、最終的にはフランデレンを中立国にした上で、いざという時に自分達に有利な要求を通そうとしてくるに違いない。それで中堅国としての地位が許されるというのであれば、フランデレンとしても断る理由は全くなかった。

 

 

     ◇

 

 

 対し、レツェブエシの状況はより深刻であった。彼らは自らの置かれた状況と立場を、誰よりも正確に理解していたからだ。

 共和国も連合王国も初めの内はレツェブエシの保護を理由に介入していたため、帝国がこの地を得る事のないよう、要衝を空白地帯のままにしたいのだろうと考えていたが、早々に考えを改めた。

 確かに空白地帯のままにしておく分には問題ないが、元々レツェブエシは親帝国として見られていた国家である*3

 

 加えて言えば、この紛争地域は軍地政学上の要衝。可能ならば空白にしておくより、自陣営に組み込みたいと思うのは当然の欲求であり、そうなれば組むべき相手は弱国よりも、現実的に勝ちの目のある国が良い。

 確かに弱国を勝たせれば感謝はされるだろうし、見返りも大きいのは道理。しかし、紛争地域の三国は何れも列強に抗する国力を有しておらず、たとえ紛争地域の覇者として全域を一国の国土に収めたとしても、精々が中堅国という立場に留まる。

 傀儡国家として利用するにあたりどの国でも問題ないのならば、態々敵国よりの弱国よりも、自陣営寄りの有利な側を推すのは当然だった。

 

 レツェブエシの国力は、他の二国と比して著しく劣る。国土面積にしてネーデルの一一分の一。フランデレンに比しては一六分の一という国土差からも、その力関係が窺い知れることだろう。

 よくぞこの国力差で今日まで生き存えてきたものだと感心する他ないが、列強不介入の功により永世中立国としての地位を得た事からも分かる通り、この国は外交努力によって生存権を確保してきた国家である。

 

 レツェブエシの決断は早かった。彼らは永世中立の地位をも捨て、他の二国よりも先に、全権を委任させた大使を帝国に派遣したのである。

 列強が大規模戦争に突入し、紛争地域に介入する意思を見せた以上、レツェブエシは既に中立国として自らを維持する事は不可能だと悟っていた。

 故に、彼らは今後の取引相手として、帝国をパートナーに選んだ。独立国家としての主権を維持する為ではない。

 たとえ要衝の覇者になろうと、傀儡国家として常に圧力に晒されては意味がない。誇りある独立は確かに甘美な響きだが、その結果、長きに渡って自国民に負担を強いるのは正しい事か?

 独立と言う名よりも、より多くの実という豊穣の未来こそ、真に望ましいものだろうと考えたレツェブエシは、自国民の為に独立国という地位をも捨てる『覚悟』を決めたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 帝国に派遣されたレツェブエシ特命全権大使は、帝国外相を前に淡々と交渉を始めた。

 レツェブエシは帝国の独立保障の為の介入を認め、要衝の覇者として君臨する為に、自分達以外の二つの国家を世界地図から完全に抹消して貰う。

 その見返りとして、覇者となったレツェブエシは、かつての統一戦争で諸邦の王がそうであったように、プロシャ王たる皇帝(カイザー)に『恭順』を示し、『一州』として帝国に加わる用意があるという。

 

 レツェブエシ大公直々の署名と印章が為された書状を帝国外相は二度、三度と言わず確認し、大使にも間違いないのかと改めて問うた。

 勝利が前提とは言え、軍地政学上の要衝にして、七万四〇〇〇キロ平方メートルもの広大な土地を一州として得る事が叶うというのだから、裏の一つは有っても呑む用意は十分にあった。

 

「勿論、魚心あれば水心も御座います。帝国には、全レツェブエシ国民三〇万を、帝国内地に疎開させて貰いたいのです」

 

 それは無理だ、と帝国外相は思わず喉から出かかったものを呑み込む。確かに帝国には大規模鉄道網が存在するが、戦時体制に移行して以来、一つのダイヤの乱れも許されない状況下にある。

 加え、三〇万もの人間全てを鉄道網まで移送するには、それだけで莫大な時間と労力を伴うものだ。

 

「無論、私達も額面通り全員を移送しろとは申しません。我が国で他国の義勇兵として経験を積んだ三〇~四〇代の男手は、自由に各戦線に送って頂いて結構。国軍も当然、帝国の指揮下に入ります。

 我々が欲しいのは、貴方方帝国が我々の為に骨を折ってくださったという証拠と実績なのですよ。でなくば帝国の『一州』になる事を、国民に納得させられないでしょうからな」

 

 全てを救う事など、出来ないという事は大使も承知の上である。その上で、帝国には誠意を尽くせという。

 

「一月でダキアを下す程の戦略を有する貴方方だ。既にして持ち前の準備の良さで、航空機の輸送も終えている事でしょう? 紛争地域は軍地政学上の、紛れもない要衝。ライン戦線以上に、一刻も早く、最優先で人員と物資を送りたい筈。

 あそこを取れば、今次戦争の趨勢は決します。一日でも早く戦争を終わらせ、一ペニヒでも戦費を抑えたい帝国としては尚更に。

 そういえば、我が国は金融業も盛んでしてね。帝国の国債は、幾ら程買い求めれば宜しいですかな? それと、貴方方の前に立つ私も含め、私達の『舌』と、情報を得る『耳目』も付いてきます。勿論、報酬として国民の為に優先して輸送機を飛ばして頂いて貰いますが。

 どうですかな、私としては、大変お買い得だと思いますよ?」

 

 

     ◇

 

 

 帝国は介入を決めた。共和国も連合王国も介入した。既に戦争状態にあるのだから、今更不介入の規定通り黙って見逃すつもりはない。

 だが、他の二国と帝国が異なるのは、ルーシー連邦への根回しを行えていた事だろう。

 ルーシー連邦は人員や物資こそ送らなかったものの、帝国の対応は救援要請に対するものであったと支持を表明。

 対して、ネーデルとフランデレンの領土野心に乗る形で介入した共和国・連合王国の行為を『侵略主義に基づいた邪悪な行い』だと強く非難したが、他国から言わせれば「貴様が言うな」と呆れかえる声明であった事は間違いない。

 

 帝国とて、連邦の声明が当事国に対して役に立つとは微塵も考えていない。問題は、三国紛争への介入が、秋津島や合州国を始めとする第三国の目から見て、どう映るかという一点にある。

 

 今次戦争において、帝国は常に他国から不当な侵略を受け、それに抗する形で防衛戦争を続けてきた。我が祖国は複数国に包囲されながらも、奇跡のような快進撃を遂げた国家であると共に、領土的野心に晒された小国(レツェブエシ)にも率先して手を差し伸べ、侵略主義者の魔の手から救わんとした正義の国家でもある。

 字句として並べ立てれば、何とも陳腐で幼稚な三文劇ではあったが、それでも決して嘘偽りの類でない以上、効果はあった。

 

 特に、判官贔屓の向きが強く、はじめは共和国の軍事顧問を招いておきながら、プロシャ・フランソワ戦争勝利後に帝国の軍事顧問を招いた事からも、勝ち馬に乗りたがる癖のあった秋津島などは、帝国の国債を買い漁り、過去の植民地などにおける領土問題も合議した上で、軍事同盟まで提案してきたほどだ。

 これには海軍力の乏しい帝国としても乗り気であったのだが「中央大陸の問題は、中央大陸で片付けよ」という皇帝(カイザー)の鶴の一声で頓挫をきたした。

 確かに開化期以降、旭日の勢いで発展していた秋津島の海軍力は魅力ではあったが、仮に彼らの手を借りた場合の見返りなどを考えた場合、多くの問題を抱えることは避けられなかったであろうから、皇帝(カイザー)のご憂慮は尤もであった。

 

 合州国に関しては、連合王国の情報操作や工作活動によって、思うような成果は得られなかった。帝国がレツェブエシに対して、いち早い介入の姿勢を見せたのは、両者の間に要衝の覇権を得ようという心算があった為であり、むしろレツェブエシこそが、侵略主義的野心を有する国家だと非難されたのだ*4

 

 こうした結果、一部の有識者を除いて合州国では反帝国の声の方が強かったが、帝国国民も軍も、そして政府さえも、いつかは自分達こそが正しいという事を、分かってくれる筈だと考えていた。

 合州国の帝国系移民は、最大数たるアルビオン系に次する数であり、帝国人の多くは自分達の同胞が、言葉でなく自分達の行動を見る事で、他の者達の目を醒ましてくれると信じていたのだ。

 

 私達は、戦争そのものを望んで行っている訳ではない。協商連合に幾度となく和平交渉を行ったように。レガドニア国民を共産主義者の魔の手から逃すべく、合州国に亡命させたように。

 帝国の誠意と誠実さが、いつか彼らにも伝わる筈だと疑ってはいなかった。

 

 それが、その思いが裏切られるのだということを、知らないままに。

 

*1
 割譲地は帝国領ノルデンと併せ、ダンメルク州として帝国への統合を認めさせられた。

*2
 個人或いは団体が国籍離脱することや、他国軍に志願することは自由である。帝国においても過去にそういった事例が複数存在しており、これを危惧して帝国はレガドニア軍人の国外退去を固く禁じた。

*3
 これはレツェブエシの外交態度によるものではなく、帝国系国民が比率として多かっただけに過ぎない。

*4
 これは国家としての信用が既にして皆無であった、ルーシー連邦が帝国を支持した事も要因となった。合州国国民の中には、帝国が共産主義者と手を結んだという破廉恥な発言を行うものまで出る始末だった。




補足説明

【協商連合国民の避難協力について】
 レガドニア国民の避難は、当然ですが別に善意って訳じゃないです。
 ルーシー連邦に出来るだけ金品とか与えたくないし、後々の世論とか考えるに「ここいらで美談作っておかんと、マジで帝国は『世界の敵』になりかねない」からっていうのがあります。
 あとは合州国に「俺らいい子でしょ? 侵略者にもめっちゃ優しいでしょ?」アピールして、これ以上敵国を増やさないようにしたいという思惑がありました(上手く行くとは言ってない)

【スオマ侵攻時の赤軍と協商連合のやり取り】
 協商連合「スオマは中核州だけ取ったら帰るって言ったじゃないですか嘘つきー!?」
 赤いナポ公「んな約束律儀に守るわけねーじゃんバーカw」

 ~なおスオマ侵攻後~

 赤いナポ公「スオマ侵攻成功させたら粛清リストから外すって言ったじゃないですか嘘つきー!?」
 連邦「んな約束律儀に守るわけねーじゃんバーカw」
 ※まさに「狡兎死して良狗煮られる」。なお煮られる時期が早すぎた模様。

【秋津島と同盟できなかった理由】
 皇帝(カイザー)が秋津島の軍事同盟を蹴ったのは、本人が黄色人種を嫌っていたのが最大の理由だった模様。この作品の皇帝(カイザー)の元ネタは『黄禍』とかいう意味ワカンネー絵画を描いちゃう例のあの人が元ネタだからね、仕方ないね。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【国名】
 スオミ(フィンランド)→スオマ
 オランダ王国→ネーデル王国
 ベルギー王国→フランデレン王国
 ルクセンブルク大公国→レツェブエシ大公国
【地名】
 ウーメオー→メオーウ
 ネスナ→ネースナ


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36 三国介入戦争-新州の誕生

※2020/2/19誤字修正。
 すずひらさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 三国介入戦争。ネーデル王国、フランデレン王国、レツェブエシ大公国間での紛争は、帝国(ライヒ)・フランソワ共和国・アルビオン連合王国の列強三国の介入によってこのような名に置き換わり、一九二三年九月以降、地獄のライン戦線をも上回る戦死者を出した。ネーデルやフランデレン、レツェブエシの軍人達が、戦死者数を跳ね上げたというのも、無論ある。

 だが、この要衝は帝国・連合軍(アライド・フォース)両陣営にとっての天王山。奪われればその時点で趨勢が決する緊要地帯である以上、互いに出し惜しみをしなかったのが最大の要因だろう。

 

 一九二三年時点では共和国と共に植民地軍を動かし、防衛が手薄になる帝国保護領を強奪しようと画策するだけの余裕が見られた連合王国も、直ちに各植民地から軍を派遣し、海岸線から大規模増援を送る事を決定。

 ダキア大公国にも匹敵する規模の、しかし錬度も装備も段違いの軍勢が大地を埋め尽くし、航空魔導師と航空機の絶え間ない爆撃と、砲兵の間隙なき砲弾が両陸軍に降り注いだ。

 

「この地では、五〇〇メートルの進軍さえ偉業となる」

 

 北西部(三国介入戦争)に派遣されたロメール軍団長はそう漏らしつつも、アルビオン・フランソワ派遣地上軍を相手にお家芸の機動戦でもって各個撃破を完遂。

 数多の武勲を重ねたロメール軍団長は、後世においても機動戦の最高権威として、また同時代最高の将の一角として名を馳せたが、彼の活躍に関しては、既にして多くの自伝や伝記が発行されている為、そちらをご参照頂きたい。

 

 

     ◇

 

 

 三国介入戦争にあって、ネーデルは()()()列強国の思惑通り、早々に脱落した。

 フランデレンの攻勢を食い止め、背後の護りを磐石とした上で短期間でレツェブエシを攻略し、帝国介入の余地を無くすという共和国と連合王国の方針にネーデルは乗ったが、既にして帝国の守りは固く、最前線で指揮を執っていたネーデル国王と侵攻司令部は、二カ国の背後からの空爆によって、文字通り跡形もなく吹き飛んだ。

 大混乱に陥ったネーデル国軍の隙を帝国が見逃す筈もなければ、敵の意図を察せない程愚かでもない。

 これからの相手は、フランデレンと背後に控える共和国・連合王国を中心としたものとなるだろうと帝国は迅速に方針を切り替えつつ、二カ国の思惑に乗る形でネーデル国軍を徹底的に蹂躙した。

 

 

     ◇

 

 

 ここまでが、一九二三年の一〇月まで。そしてここからが、地獄の釜が開かれる本当の意味での惨劇の幕開けだった。

 帝国は軍備を整えたフランデレンと、その背後に控える二カ国を相手に、レツェブエシ国軍と共に戦った。始めは弱国の脆弱な軍隊など、ダキア同様敵の弾を消費させるだけだろうと帝国軍は侮っていたが、予想に反して彼らは士気旺盛で、錬度もまずまずだった。

 一九二三年までは比較的安全な後方に下げた自国民がいた事も、彼らの士気を高めるきっかけになったものと思われる。自国民を守るのは自国の軍こそという使命感が、彼らを帝国軍さえ大いに頷かせる程の軍人にさせたのであろう。

 

 しかし、戦意旺盛な彼らや歴戦の帝国兵であっても、この地で足を竦ませない者はいなかった。絶え間ない重砲の炸裂音。機関銃の掃射。対人馬用集束爆弾が驟雨となって降り注ぐ時、敵味方を問わず平野で、山岳で、塹壕で四肢の欠けた死体が折り重なる。

 僅かな時間、砲撃が耳を聾しなくなれば、次に生存者の耳に届くのは死に切れなかった者の絶叫だ。殺してくれと漏らす事もできず、意味も無い叫びと呻きが、耳にへばりついて離れない。

 いっそ、砲撃で鼓膜が破れて音の無い世界が続くか、一思いに死にたいと誰もが恐怖したのは当然の心理だっただろう。

 だというのに、敵も味方も前進を、進軍を止めようとはしない。ヴァルハラにでも送り込まれ、死んでも無限に蘇ることを信じているかのように、彼らはひたすら死に急ぐように進み続けた。

 

 当然、帝国空軍としては友軍の犠牲は最小限に留めねばならない。ラインや北方にも可能な限り増援を送ったが、全てに優先して北西部に航空機を送り、徹底的に制空権を確保しつつ敵地上軍の制圧に務めた。

 一九二四年は、共和国にもスピットファイア程でないにせよ、帝国と戦えるだけの戦闘機が現れ始めた頃である。

 これまで一方的に敵機を駆逐してきた帝国空軍は、初めて大挙して出現した高性能敵機の物々しさに汗を滲ませ、対等な戦いを忘れたが為に墜とされた者も出た。

 なんたる様か! と激怒したのはフォン・エップ大将を始めとする指導部ばかりではない。私とて、これが勝利と技術優勢に驕り、安易無為に月桂冠の上に座り続けた者の末路かと目を覆ったものである。

 しかし、幸いなことに動揺はすぐに静まった。敵が自分達と同じ土俵に立ったというだけで、航空機そのものの優位性は依然こちらに有り、操縦経験も帝国空軍が圧倒的に上なのだから、無闇に恐れる事はないのだ。

 

 帝国空軍は体勢を立て直し、再び戦線を押し込むべく前進を再開したが、空と違い地上では更なる悪夢が続いていた。

 一九二三年に帝国化学者、プリンツ・ファーバー博士が開発した、毒ガスが敵陣地に散布され始めたのだ。

 開発初期の塩素ガスだけでも一定の効果は見込まれたものの、北西部で実戦投入されたホスゲンやマスタードガスは、水分やアンモニアを含んだ布程度では毒性を中和出来ない凶悪極まりないもので、後に化学兵器の効果を目の当たりにした共和国・連合王国が帝国軍以上に化学兵器を開発・使用したことから、地上は本当の意味で地獄になった。

 敵も味方もガスマスクを装着し、毒々しい黄緑色の煙が晴天の中でも大地を覆っていたという。マスタードガスは浸透性が高い上に、当時のガスマスクは余り性能が宜しくなかった事もあって、敵も味方も時間を置いてバタバタと倒れていった。

 マスタードガスは士気低下を狙ったものであるから、どれだけ肺や内臓をやられても死にきれず、解毒処置を受けた兵士たちも、戦後は後遺症に悩まされることになる。

 

 毒ガスの実戦配備報告を受けたエルマーが、フォン・シューゲル主任技師と大急ぎで収納缶と全ゴム製の直結濾過式ガスマスクと、マスタードガス用の化学防護服を作成していなければ、帝国軍の被害は想像を絶するものになっていた事だろう。

 この毒ガスは敵陣地確保や兵器の鹵獲には非常に優秀であった反面、かねてから北西部への配属を希望していた私が、戦場に足を運ぶ事を許されなくなった原因にもなった*1

 

 私だけでなく、ダールゲ少佐やフォン・デグレチャフ参謀少佐麾下の魔導大隊といった虎の子も同様で、毒ガスを完全に無効化出来るようになるか、国際法で使用が禁止されるまでは絶対に北西部に行くなと厳命された。

 エルマーとフォン・シューゲル主任技師の手掛けたガスマスクと化学防護服は確かに有効だったが、地上軍に最優先で配備されていた為、空軍には行き渡らなかったのである。

 航空魔導師に関しても、化学兵器用防護術式の研究が急がれ、フォン・デグレチャフ参謀少佐も『ライン戦線から離れられない状況を喜ぶ日が来ようとは』と、この時の事を手紙で語っていた。

 

 しかし悲しいかな、化学兵器の生産が禁止されたのはこの三国介入戦争以降であり、つまり北西部では、最後の一兵が倒れるまで使用され続けたということを意味している。

 戦場の大地を進む兵士は、空の青さも、曇天の灰色も目に映らない。砲弾が炸裂する度、空には黒々とした油じみた煙が上り、黒煙が毒ガスに混じって魔女が大鍋をかき混ぜたようなマーブル模様の景色が満ちる。

 毒ガスの煙で覆われ続ける大地を進み、敵陣地を奪い人心地付きながらも、ガスが晴れるまでは食事にありつく事も出来なかったという。

 

「戦場に、かつてあった煌きは消えた」

 

 フランソワの老将軍は、この戦場を見て思わず呻いたそうだが、その思いは私にも分かる。我々の目指す勝利とは、こんな名誉も何もない、効率化された死の果てに有るというのか。

 我々の戦いは、確かに殺し合いであったが為に、憎しみも怨嗟もあった。それでも人として残すべき尊厳は、欠片といえどもこれまでの戦いの中には有った筈ではないか。

 

 私は初めての空爆で死んだファメルーン人を初めて目の当たりにした時よりも、より痛烈な衝撃を受けた。爆撃機のそれは、魔導師や砲兵の地上支援を効率化した物であり、友軍支援の為だと割り切る事も出来た。

 しかし、毒によって苦しみ喘ぐ敵味方の姿は、痛々しい姿で野戦病院内に横たわる戦友達の報告は、それを直接目にしていない私でさえ、兵器という物の在り方を問いたくなる代物であった。これも時代の流れと受け入れる他ないのか。人の死を数字と、戦果と割り切りながら進むしかないのか。

 私の苦悶とは裏腹に、総監部は新たな兵器が完成したと空軍に朗報を届けた。航空機から投下する化学爆弾(KC)を完成させたと伝えたのである。

 エルマーの作品ではない。弟に頼らず、効率的な殺戮兵器を作れたことが、総監部にしてみれば何よりも喜ばしかったのだろう。これまでのように噴霧器で撒くよりも、遙かに友軍に安全で効率的に敵を殺傷できる兵器を、総監部は自慢話のように語ってきた。

 既にして陸軍にも、大砲から射出する化学砲弾を配備済みだという。

 当然私は良い顔をしなかったし、フォン・エップ大将も指導部も、無邪気に喜ぶ総監部に上辺だけの対応を行ってお引き取り頂いた。

 

「使わねば、ならんのだろうな」

 

 有効だというのは分かる。連合軍(アライド・フォース)も大規模に有毒ガスを使用しており、現状では国際法にも抵触しない兵器なのだから、使える内に使うべきなのだ。それを陸軍も、政治家も、勝利を望む全てが望んでいる。だが、これは使うべきではない兵器だということも、理解していない者は一人もいなかった。

 

「閣下、私は」

「言うな。貴官は正しい」

 

 私以外の、若手の指導部勤務の将校が己の名誉と良心に従って口を開くも、フォン・エップ大将はそれを止めた。誰だとて、こんな物を使いたくはない。使わず済むならばそれで良いのだ。

 しかし、我々は軍人だ。それが名誉に悖る行いであろうとも、為せと言われれば成さなくてはならない。一日でも、一刻でも早く戦争を終わらせる為にそれが必要だと言うならば……。

 

「閣下、投下命令は私が」

「英雄は英雄らしく振舞っておれ。余計な荷物を背負うのは、老人の仕事なのだよ」

 

 フォン・エップ大将は、二度とそのような提案はするなと私に言った。そして言葉通り、自らの命令で化学爆弾を投下させ、三国介入戦争を勝利に導いた。

 

 

     ◇

 

 

 一九二五年、一一月。フランデレン王国は既にして消滅していた。国土は朽ちた。兵も潰えた。逃げ遅れた民間人は、風に流れた毒ガスで苦しみ倒れた。

 それでも、フランソワ共和国もアルビオン連合王国も、フランデレンを舞台から下ろさない。既にしてネーデルが存在しない以上、フランデレンしか自分達が覇者に据える国は存在しないのだ。

 

「この地を見よ、何もない大地を。無慈悲な空を。お前達は余の民全てを殺した。不遜な野心に駆られた余も、命じて死地に送った。皆で等しく、地獄を作り上げたのだ」

 

 フレンデレン国王は王妃と王太子を亡命させ、官吏らに降伏の使者を出そうとしたが、共和国も連合王国も、頑としてそれを認めなかった。王族は軟禁の上に監視が付き、まるで受刑者の如く扱われたという。

 だからこそ、フランデレン王は最後の抵抗を示した。死という抵抗を。

 

「余はこれより裁かれる。その方らの席は、余が手ずから準備しておこう」

 

 食事を運ぶ監視から銃を奪うと、不敵に笑いながら口に咥え、引き金を引いた。王の遺体は伝統通り、可能な限り清めた上で教会に安置されたそうであるが、それで戦争が終わる訳ではなかったのは、フランデレン国王の誤算だっただろう。

 残された王妃と王太子は連合王国に亡命という形で連行され、軟禁状態に置かれながら、祖国を取り戻す口実にされた。

 王妃と王太子が解放されたのは連合王国の敗戦後、帝国に亡命した官吏が解放を訴えてからであるが、連合王国は当初、妻子は自らの意思で連合王国に亡命したと事実を否認。

 後に帝国がコマンド部隊を率いて精根尽きていた王妃と王太子の救出に成功した後、全世界の記者に共和国・連合王国に受けた軟禁の日々とフランデレン王の死を暴露するまで、北西部は幾度となく王妃と王太子を祭り上げた、偽りの亡命政府が失地回復を訴え続ける事となる。

 

 

     ◇

 

 

 最早この地に、ネーデルもフランデレンも事実上存在しない。官吏達も拘束され、恭順を示さぬ者は敗北主義者として投獄された。

 こんなやり方が正しいなどとは、共和国も連合王国も思っていないだろう。それでも、やらなくてはならない。やらなければ、滅ぼされるのは自分達なのだという恐れが、彼らに止まることを許さなかった。

 

 この地を奪われる事の意味を、共和国・連合王国は誰よりも理解している。だからこそ、どんな非道に手を染めてでも、勝利を希求し続ける。ここは趨勢を決する天王山。悪魔の笑う地上の地獄にして、最後の生き残りを求める蠱毒の壺だ。

 連合王国は本土から直接スピリットファイアと爆撃機を飛ばし、共和国も空と大地から最後の一兵まで使い切る覚悟で戦力を投入した。だが、それでも帝国には勝てない。

 主力戦闘機たるJä001-1ヴュルガーは次々と敵機を墜とし、北方の勝利を目前にした時点で、地上軍にも増援が決定した。エルマーのガスマスクと化学防護服も着実に行き渡っており、彼ら歩兵の手には正式に量産が決定されたStG25が握られている。

 制空権を得た軍がどれ程の優位に立つかは、もはや語るまでもない。地上を埋め尽くしていた敵軍は空と大地から蹂躙され、連合軍(アライド・フォース)は海岸線まで押し込められた後、敢えて輸送艦に乗せて逃がした所を雷撃機群が撃沈した。

 

 そうして、一九二五年の聖誕祭までには、この地の戦いは終わった。南東(ダキア)北方(レガドニア)よりも、そして西方(ライン)すら凌ぐ地獄を作った北西部の戦いは、ようやく幕を閉じたのだ。

 

 

     ◇

 

 

「レツェブエシ大公。汝をネーデル、フランデレン、レツェブエシを統一した新たな州、レランデル州の王と認める。これよりはレランデル王を名乗り、帝国を支える王の一人として、余と共に身命を祖国に捧ぐ事を願う」

 

 一九二五年、一二月二五日。ベルン王宮にて新たなる王の即位式が行われた。

 一九二三年時点にして、レツェブエシ大公を王とする事が既定路線であった帝国は、イルドア王国を通じて教皇庁に交渉を開始。王冠、王笏、王剣、宝珠、印章収納箱を事前にベルンの金細工師ら、一級の職人に作らせていた。

 教皇庁との交渉は困難を極めたものの、そこは皇帝(カイザー)が御自ら教皇猊下に対し、説得に赴いた甲斐あって、一九二五年時点では「三国の統一がなされたならば」という仮定の上で即位を許された*2

 

 新王として即位したレランデル王は、帝国の一員となる栄誉をお与え下さった皇帝(カイザー)への謝意を述べると共に、彼の地で犠牲となった、全ての者への弔意を大々的に示した。

 全ての帝国国民は新たなる州の誕生と新王の即位に快哉を叫びつつも、正午に黙祷を捧げ、レランデルで息絶えた全ての魂が、高き所に逝く事を心から祈った。

 

 我らが皇帝陛下(マインカイザー)は年が明け、有毒ガスの効果が消えた事を入念に確認してからレランデルへと足を運び、亡くなられた二人の王への冥福を祈られた。

 そして、慈悲深き皇帝(カイザー)は二度とこのような凄惨なる争いが起きぬよう、発明国にありながら自ら有毒ガスの禁止を訴えられたのである。

 

 一九二六年、一月。森林三州誓約同盟にて化学兵器・細菌兵器の生産・使用を禁止する国際条約、通称『ジェノヴァ議定書』が定められた。

 条約に批准したのは帝国(ライヒ)、アルビオン連合王国、フランソワ共和国、レガドニア協商連合、ダキア大公国、イルドア王国、イスパニア共同体といった中央大陸の主だった国々であるが、秋津島皇国や合州国、ルーシー連邦は批准しなかった。

 元よりルーシー連邦は、ヴォルムス陸戦条約を始めとする国際条約の類には一切批准せず、帝政時に批准した条約も「ブルジョワ国家であった頃の条約などは、革命後の我々とは無関係である」などと言っていただけに、そこは問題にはしていない。

 だが、帝国と同盟を提案してきた秋津島や、中立を謳う合州国までもが、この戦争の中で生まれた悲劇の産物を言外に使用し、研究する方針を明らかにした事は、複数国には衝撃的ではあった。

 おそらくだが、秋津島は国際法に批准していないルーシー連邦への対策として。合州国は国際法に批准していない途上国にでも使うのだろうと当時は考えられた。

 

 我々帝国はまだ、合州国がどのような本性を持っていたかを悟る事が出来ていなかったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 有毒ガスを開発したプリンツ・ファーバー博士は、軍にとって多大な功績を収めた優秀な研究者であり、数多くの勲功章・名誉章を授与された。博士は化学兵器が人道に悖る物と承知していながらも、自らの兵器が祖国を救うと信じていたのだ。

 その熱意も、意志も、帝国人として帝国に尽くしたいと言う純なる物であった事に疑いの余地はない。

 確かに毒ガスは恐ろしい兵器ではあった。世に生み出すべきでない物だったのかもしれない。しかし、戦争を終わらせようとするファーバー博士の願いと決意まで、どうして否定する事が出来るだろう?

 人を殺してはならないと言うならば、祖国と愛する者を守る為に銃を取る者も、戦地に行く親兄弟の為に、銃後の守りとして工場で弾丸や銃を生み出す婦人達も、皆等しく否定されねばならない。ファーバー博士は祖国を守らんとした一人の愛国者であり、博士自身に、殺戮と苦痛を快楽とするような歪んだ思想は欠片もなかった。

 

 この時代、この戦乱の世界においてファーバー博士を非難する事が出来る者が居るとするならば、意図せず毒ガスの犠牲となった、フランデレンやネーデルの無辜の民だけだろう。彼らは武器を持たなかった。平和に生きる事を望んでいた。争いなどとは無縁の、のどかな生活を続けたかったに違いない。だからこそ、彼らだけは否定出来る。

 

 戦後生まれた者達が、訳知り顔でファーバー博士を非難する事は正しくない。何故なら彼らは、この時代に、戦争を終わらせようという努力をしていないからだ。

 自己陶酔に近い平和運動に勤しむ者達に、ファーバー博士を否定する資格はない。何故なら、彼らは現実を見ていないからだ。人と人との、個人と個人の争いと、国家同士の争いは異なるのだという事を理解出来ていないのだから。

 

 だからこそ、私は何度でも言おう。真に予期せぬ犠牲となった者達だけは博士を『否定』する資格があると。誰にも望まれない『痛み』を与えられた彼らにしか、否定する『資格』はないのだと。

 

 そして、本著を手に取って頂いた読者諸氏は、これだけは知っていて欲しい。ファーバー博士は悪魔ではなく、何処までも善良な個人であり、人間として恥ずべき所など何一つとしてない人物だった。

 だからこそ、ファーバー博士は自らの発明を否定された時、強く苦しみ、悩み続けた。博士には祖国愛があった。たとえ全ての人間から否定されたのだとしても、祖国が永遠である限り、博士は最後まで化学者として誇りを持って生きて行けた筈だった。

 だが、一時と言えど、我が祖国はファーバー博士を突き放してしまった。

 皇帝(カイザー)の慈悲は掛け値なく美しいものであると私は信じているし、ジェノヴァ議定書は、世界に先駆けて平和を訴える素晴らしいものだったと認めている。それは今でも、死ぬ間際でも変わらない。

 しかし、ファーバー博士にとってそれは紛れもない国家からの、唯一の縁からの否定に他ならない。祖国のため。終戦のため。博士は善良であるからこそ、直向きに走り続けていたからこそ、立ち止まらざるを得なかった時には、深い絶望に包まれた筈だ。

 

 ジェノヴァ議定書が定められてすぐ、ファーバー博士は軍を去った。そして博士は、奪われた命への償いとして、多くの偉大な発明を世に残した。

 ボール・カッシュ博士との共同研究によって、一九二七年五月に発表されたファーバー・カッシュ法は窒素肥料の製法確立により、水と石炭と空気からパンを作る方法とまで言われ、全世界の農業法に大革命をもたらした。現在においても、その恩恵に預からぬ国は未開の途上国にさえ存在しないと言われている。

 かつては帝国内にさえ居たファーバー博士を悪魔のように忌み嫌っていた人々は、博士の発明と世界への貢献、そして自らの私財を擲ち、生涯に渡って有毒ガスの深刻な土壌汚染に晒されたレランデル州の復興と、毒ガスの犠牲となった全ての人々に尽くし続けたその姿に、二度と博士を悪魔と呼ぶ事をしなくなった。

 皇帝(カイザー)はファーバー博士の名誉を傷つけてしまった事を終戦後に謝罪し、博士に騎士勲章と物理学・化学・生理学・医学・文学・平和・経済学の何れかにおいて最高の功績を示した個人に贈られる最高国家賞、帝国芸術科学国家賞を直接下賜された。

 

 ファーバー博士は、それらに伴う年金や賞与金さえも平和と復興の為に投じ、自らの財は、妻子や孫たちが慎ましく暮らせる分しか、遺そうとはしなかったという。

 

*1
 当時、ラインや他戦線で有毒ガスは用いられなかった。これはガスの有効性が疑問視されていたのではなく、有効であったが為に北西部に集中して用いられた為である。

 加えて、共和国・連合王国が開発に成功したのは、帝国の有毒ガスの実戦投入から四ヶ月後であり、一日でも早く損耗比を逆転させたいという思惑が有った事も、有毒ガスの使用戦域が限定される要因となった。

*2
 つまり、この時点では厳密にはレツェブエシ大公は王として認められていない。レランデルは帝国が実効支配している段階に過ぎず、教皇猊下も即位式には出席していなかった。

 帝国は教皇猊下から、レツェブエシ大公がレランデル王となるご裁可を得たという事を喧伝する為、また、既成事実を作る為に戴冠式と即位式を行ったのである。

 レツェブエシ大公が名実共にレランデルの王となったのは、共和国・連合王国が降伏した上で、講和条約に調印してからである。




補足説明

【本著の内容と現実に起きた事実との差異について】

 今回のお話ですが、この物語はニコラウス・フォン・キッテルの回想記であります。
 つまり、ファメルーン人の差別の時のように、現実と乖離する部分があるという事ですね。
 今回主人公が意図的についた嘘は、フランデレン国王の死についてです。といっても、これに関しては嘘を吐いていたというより、主人公自身『真実は闇の中』だった、という方が正しいですが……。

 実はこの国王の死は、詳細については誰も何も分かっていません。
 遺体の状況から拳銃自殺したことは確実なのですが、何時、何処で、どのように死んだのか。そして誰が原因を作ったのかは全く分かっていません。
 主人公が本作品内で語ったのは、飽くまでも『帝国に救出された』王妃と王太子の証言を採用し、帝国側の用意されたストーリーと組み合わせつつ、最も現実的でベターな内容に整えていましたが、主人公自身、執筆した時も、その後も納得はしていませんでした。

 共和国・連合王国にしてみれば、何が何でもフランデレン王には死んで欲しくない筈です。監視をつけるなら徹底的に、確実にやっていた筈ですし、王妃や王太子も後年の調査で、別々に監禁されていたことが発覚しました。つまり、二人が王の死を詳細に語れる筈がないのです。

 主人公は帝国こそ黒幕であり、少数精鋭のコマンド部隊や情報部の人間を送り込み、国王を暗殺したのではないかと考えましたが、これも辻褄が合いません。
 もしも帝国が行動を起こすなら、国王だけでなく王妃と王太子も殺害リストに入っている筈であり、完璧な警備の敷かれた王宮に踏み込んで国王を殺せていながら、二人を見逃す理由は何処にもないからです。

 デグ様にも、この件は話しました。元中央参謀本部直轄の魔導大隊指揮官の彼女ならば、真実に繋がる何かを知っていても可笑しくないと考えたからです。
 ですが、デグ様もこの件については全く何も知りませんでした。これはデグ様が機密保持の為に主人公に嘘をついたのではなく、本当に何も知らなかったのです。
 そして、デグ様も帝国の関与を否定しました。デグ様と大隊ならば、こうしたダーティな仕事の話はその規模や錬度からも確実に回ってくる筈ですし、中央参謀本部がこんな重要な案件に絡まない筈がないからです。
 王妃と王太子が国外に脱出した事から考えても、帝国の仕事にしてはお粗末極まりない有様でした。

 後年、主人公は本著を執筆する上で、WTNのアンドリュー特派記者からフランデレン王の死についての情報はないか確認しましたが、逆にアンドリューさんが驚きました。
 何故ならアンドリューさんは逆に、主人公程の地位のある帝国軍人なら、真実を知っている筈だと考えていたからです。

 結局、主人公の存命中に真実は分からず、遥か未来の二〇〇〇年代に入ってさえ、フランデレン王の死は多くの憶測を呼び、無数の著作が出版されました。
『誰がフランデレン王を殺したか』。細部は異なれど、このような本やTV特集は、未だこの世界のありとあらゆる国々で、語り続けられるものとなったのでした。

 ……どうしてこんな面倒くさい設定にしたのかと。書き終えた後で首を傾げるばかりの作者です。多分アナスタシア様関係の本を読んで、歴史に謎があった方が面白いんじゃないか? みたいな軽いノリだったんだと思います。
 こんな意味不明な設定作るぐらいなら、もっと誤字脱字のチェックをしろとあれほど……。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【勲章】
 ドイツ芸術科学国家賞→帝国芸術科学国家賞
【国名】
 ベネルクス→レランデル
【条約】
 ジュネーヴ議定書→ジェノヴァ議定書
【人物名】
 フリッツ・ハーバー→プリンツ・ファーバー
 カール・ボッシュ→ボール・カッシュ
【生産法】
 ハーバー・ボッシュ法→ファーバー・カッシュ法


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37 消えた講和-帝国の報復

※2020/3/15誤字修正。
 あかさたぬさま、ご報告ありがとうございます!


 中央大陸の問題は、中央大陸で片付けよ。

 秋津島との同盟が流れる結果となった皇帝(カイザー)のお言葉は、何も武力で全てを解決せよということではない。皇帝(カイザー)は帝国議会に「これ以上の戦争は無意味である。要衝を得た今、再度和平の道を探って貰いたい」と語り、官吏らは奮起して講和への舵を切った。

 

 相手が侵略国である以上、白紙和平とは断じて行かないが、それでも皇帝(カイザー)の御心であるならば、戦果に対して多少要求を甘くしても戦争終結を望んでいた国民は納得するだろう。軍部としても終わらせる戦争ならば終わらせて、国力の回復に努められるなら言うことはない。

 特に空軍などは、編制も完了しない状態で戦時体制に突入した為、無理くりに各戦線の空軍基地に航空機と人員を送りつつ、臨時編制で部隊を整えるといった強引な手法をとっていた。

 将校が階級に合わぬ規模の部隊を指揮することなど日常茶飯事。任務次第では佐官が小隊を、尉官が大隊を率いて飛び、私も幾度となくその日限りの中隊や小隊を率いて飛んだものである。

 終わらせられるなら早く終わらせて、編制を整えたいというのは偽らざる本音だった。

 

 だが、帝国の講和要求は、最大限の譲歩と相手の疲弊した国力を計算に入れての穏当な物であったにも関わらず、フランソワ共和国もアルビオン連合王国も、これを呑もうとはしなかった。

 どちらも戦死者の数こそ大きいものであったが、全くと言って良い程国土が無傷であること。二年以上になる複数国との戦争から『帝国は攻勢限界に達した』『苦境に立たされたが為に、これ以上戦争を続けたくないという本音から講和条件を甘くしたのだ』と、足元を見るような真似をしたのだ。

 共和国・連合王国にしてみれば、戦争は終わらせたくても終わらせられない。自らの意思で侵略し、敵国に進軍した以上、莫大な戦死者を出しておきながら、何の成果も出せませんでしたでは話にならない。

 ましてや優勢の筈の敵が、ここに来て『弱み』を見せてきたのだから、強気に出たのは当然だった。

 

「我々は屈しない。決して、決して、決してだ! 日の沈まぬ国は永遠だ。我々が屈しない限り、勝利を希求する限りにおいて永遠に続く。神と国王陛下の名の下に、私は断固たる意思で、帝国に勝利することを宣言する!」

 

 火を吹くようなチャーブル首相の演説は、全世界に報じられた。ロンディニウム・タイムズでは、この戦争に身を蝕まれた狂人を、悪しき軍国主義を打倒する自由と正義の宣誓者として報じ、共和国もまたチャーブル首相の熱意に追従するように戦争を継続したのだ。

 

 

     ◇

 

 

 宮中で報告を受けた皇帝(カイザー)は信じ難いと零され、そして大いに嘆かれた。

 

「ユリウス*1よ。余は、国民は平和を望んでおる。何故、彼らにはそれが分からぬのであろう?」

 

 玉座に深く腰掛け、目を覆われたという皇帝(カイザー)の心の傷は、長年仕えてきた小モルトーケ参謀総長には、誰より痛いほど分かるのであろう。ユリウスという愛称で慕われ、お側に侍る小モルトーケ参謀総長は、静かに返された。

 

「陛下。思うがままに行かぬ子供とは、癇癪を起こし暴れるものなのです。こうした子には、躾が必要と存じます」

 

 小モルトーケ参謀総長は、口調こそ穏やかなものであっても、激しい怒りを滲ませていた事は想像に難くない。事実、「陛下の宸襟を悩ます全てを、私が取り除いてご覧に入れます」と胸を叩いて宮中を去った後に、その武勇の相に血管を浮かばせ、中央参謀本部の面々を失禁寸前にまで恐怖させたというのは有名な逸話である。

 

 そして、エルマーの兵器について、私から尋ねるようにと参謀総長より直々に電話がかかってきたときは、余りの声の冷たさに名を言われるまで誰か分からなかった程である。

 当然、皇帝(カイザー)の御心をかくも深く傷つけられたのだという事実を知った時には、私も自己を抑えられる自信がない程に激怒していた。

 それほどまで、血で血を洗う戦を所望するとあらば、望み通りにしてくれようか、と。

 何となれば、今すぐにでも最前線に赴き、敵という敵の血を最後の一滴まで絞り取り、敵兵の骸を積み上げて捧げねばなるまいと考えていた程だ。

 しかし、今の私は空軍指導部の一員であり、与えられた職責を果たさねばならない。私はエルマーに電話をかけ、フィーゼル・セカンドが使用可能かを問うた。

 

「使うだけなら問題なく。しかし兄上、随分と荒れておられるようですが」

「すまない。どうか勘違いしないで欲しいのだが、お前に怒っているのではないのだ。

 我らが皇帝陛下(マインカイザー)の御心を傷つけられた事に、私は怒っているのだ」

「用意した講和の席を、足蹴にされたとあれば当然でしょうな。兄上のお怒りもご尤もです。フィーゼル・セカンドはレランデル海岸線の陸軍基地に移送済みですが、今からでも空軍の管轄に変更致しますか?」

「いや、小モルトーケ参謀総長閣下には花を持たせたい。何より、フィーゼル・セカンドは陸の所管にすると提案した、お前の言葉も取り下げたくないのだ」

 

 エルマーは決して無駄な事はしない。弟が陸軍の所管にしろというからには、それ相応の理由があって然るべきだし、態々個人的な感情でそれを台無しにはしたくなかった。

 

「ありがとうございます。必ずや、兄上にご満足頂ける結果をお届け致します」

「いつも満足しているとも。ありがとう、エルマー。お前が居てくれていることが、心強いよ」

「私も、兄上に喜んで頂ける事が嬉しいのです。ですから、兄上。どうかご無理はなさらないよう。いつも、私は兄上を心配しているのですからね?」

「分かっているとも。お前より、長く生きれるように頑張るさ」

「それは嬉しいですね。私は、兄上の死に顔など見たくありませんから」

 

 穏やかな声で、電話を切る。軍の電話で私語に興じてしまうのは如何なものかと思うが、誰もが気を利かせて、私とエルマーの会話を邪魔しようとしないから、つい話してしまう。長話をしてしまった分は、仕事で穴を埋めるとしよう。

 

 

     ◇

 

 

 レランデル州の海岸線はアルビオン王立空軍による空襲と陸・海の大規模上陸侵攻に備える形で、早急かつ大規模な基地建設が進められていた。

 元あるフランデレンやネーデルの基地を使用する事も考えないではなかったのだが、共和国・連合王国は自軍の脱出時にこれらの基地を徹底的に破壊し尽くして去っていった為、土台程度しか残らなかったのだ。

 結果、一九二五年末には既に敵の存在しなかったレランデルに、フィーゼル・セカンドを実用可能な状態で配備することが出来たのは、年が明けて二ヶ月後の事になった。

 

 その間、アルビオン王立空軍は帝国軍基地の建設を妨害すべく、夜間侵攻用の空挺部隊や爆撃編隊を送り込んできたが、敵が基地爆撃や制圧を達成することは叶わなかった。

 既にして帝国空軍は連合王国首都、ロンディニウムまで索敵可能な高高度レーダー網と、ドードーバード海峡はおろか、連合王国本土海岸線まで確認可能な低高度探知レーダーを設置していた為、敵空軍の強襲は三時間前には帝国空軍には筒抜けの状態だったのだ。

 王立空軍はレランデルの海岸線に到達する前に悉くがドードーバードで散り、その間に帝国陸軍は、着々と連合王国本土攻撃の準備を進めた。

 

 そうして運搬されたフィーゼル・セカンドと、海岸線を防衛する為の陸・空軍基地が整い、遂に発射という段にまで漕ぎ着けたものの、そこから先もまた労苦の連続であった。

 民間施設への攻撃を可能な限りにおいて避けたいという私の希望をエルマーが通してくれた為、万が一にも被害が出ないよう、徹底的に連合王国本土の海岸・沿岸線沿いの基地を調べ上げ、座標を完璧に確認した上での発射となったからだ。

 帝国陸軍としては、戦果そのものよりも連合王国本土に防御不能な攻撃手段があることを見せつけたいという意図が大きく、一日でも早いフィーゼル・セカンドの発射を望んだが、エルマーはこれを一蹴した。

 

「万が一都市部にでも命中してみなさい。このような超兵器、すぐにでも国際法の名の下に使用禁止を迫られますよ?」

 

 何しろ弾道ミサイルなどというものは、中央大戦時において帝国しか保有していなかった最新鋭兵器である。他国では保有どころか構想すらなかった怪物である以上、ここで軍事施設以外に甚大な被害を与えたとあっては、どんな手段を講じてでも生産・開発を封じてくるだろう。

 付け入る隙は与えるなというエルマーの発言は一々尤もで、陸軍高官も政治家達も折れざるを得なかった。特に陸軍としては、折角自分達の手に渡った超高性能兵器が国際法によって奪われるなど耐え難く、エルマーの要求を素直に呑んだが、結果としてみるならば、これは大成功だったと言える。

 フィーゼル・セカンドは、実戦配備されるまでの間にも絶え間なく改良を施されており、開発初期の試作機二発と一九二六年に入っての正規量産型九発では、射程・生産コスト・威力・安定性・命中率等、全てにおいて桁違いの性能差を有する事になったからだ。

 エルマーにしてみれば、試作機は射程と速度、高度こそ及第点だが、それ以外に関しては文字通り失敗作であり、どれだけ時間がかかっても、徹底的な改良を施しておきたかったらしい。

 

 まずもって、フィーゼル・セカンドは非常に高価なのである。試作機のコストは一発でコンドル四機分に相当する額でありながら、ミサイルなので当然使い捨て。液体燃料を使用するので、研究室に近い環境の基地を用意せねばならず、そこで推進剤の充填、整備、設定を必要とした。

 おまけに誘導システムは特定目標を照準出来ず、命中精度は七~一七キロメートルもの開きがあるという、本当に敵国に心理的ダメージを与える以外使い道のない、脅し目的の兵器だった。

 速度こそ遅く撃墜される可能性が高いとはいえ、安価で命中率も高く、爆撃機にも搭載可能なフィーゼル・ファーストの方が、兵器としての価値は遙かに高い。

 口さがない陸軍高官などは、「空軍が運用できない欠陥品を、自分達に押し付けたのだ」と陰で漏らしたらしいが、そんな筈が有るかと私は一喝してやりたくなった。私の弟が、そんな理由で兵器を譲る筈も無いし、欠陥だと言うのなら確実に改良するに決まっている。

 

 当然エルマーは自身で指摘した欠陥を放置する筈も無く、直ちに改良が進められた。

 エタノールと液体酸素を推進剤とする試作機から、量産機はケロシンを燃料に、硝酸を酸化剤にすることで推進剤を常温でも貯蔵できるようにし、タンクの構造等を見直すことで射程を延長。

 発射装置も基地内での設置に依らない、トラクターで牽引する移動式にする為に小型・軽量化を図り、ミサイルは陣地設営から発射まで四時間で完了する事を条件にした。

 この条件はエルマーが自分から提案したもので、開発者自ら過剰な要求を設定するなど前代未聞であったが、それだけの熱意を持って取り組んでいたという事だろう。

 この条件を達成すべく、エルマーは油圧式の操舵装置を空圧式に変更し、付随装置の軽量化にも着手。高価なアルミニウムを多用する試作機から、軽合金での構成に変更する事で一トン以上の軽量化とコスト削減を達成した上、弾頭重量を九五〇キロまで増加して威力の底上げを図った。

 推進剤を供給するターボポンプも設置から発射までの短縮化の為に改良が施され、過酸化水素の不要な燃焼室からのガスで直接駆動する仕組みに切り替える。

 それと共に、命中精度を高めつつコスト削減を図る為の誘導装置の簡略化も並行して進められ、一定高度に達した時点で弾頭を分離。誘導・制御を地上から電波で行う無線制御装置が組み込まれた。

 

 現代の科学者をしても、この発明品は異常なレベルであり、世界中の科学者が団結しても、実用化は一〇年は先だった筈のオーバーテクノロジーだと語ったが、最早総監部どころか帝国軍や政府さえ、そうした技術の異常飛翔に関して、完全に感覚麻痺を起こしてしまっていた。

 兄である私も含め、この時点で帝国はエルマーを何でも実現出来る魔法使いのように捉えてしまっていたのだろう。

 エルマーの発明品にも、その異常な開発速度にも疑問を抱けないまま、弟の死後には誰もが「何故遅々として研究が進まないのか」と、それが他国の常識的な開発速度にも拘らず業を煮やしたというのだから、帝国が何処までエルマーに甘え切っていたかが、分かろうという物である。

 

 

     ◇

 

 

 フィーゼル・セカンドは、試作型が最大射程三二〇キロメートル。

 五分半で三〇万五千フィートもの高度に達したそれは、人類が初めて飛行物体を成層圏に到達させるに至った偉業を達成したが、エルマーは満足などしなかった。

 量産型は最大射程七〇〇キロメートルにして、命中誤差範囲は最大五〇〇メートル。鉄道と牽引式トラクターさえあれば、世界中の何処であろうと運搬・発射可能なこの兵器は、音速の五倍近い速度を叩き出した、世界最速にして最高難易度のテクノロジーが詰め込まれた帝国の、否、エルマーと共同で開発・改良に携わった、フォン・シューゲル主任技師との英知の結晶と称すべきものだった。

 コストが非常に高く、精度にも難がある試作機はエルマーが有無を言わさず解体処分にした上で、全ての目標施設に量産型のフィーゼル・セカンドを発射する事を決定させた。

 

 着弾地点を綿密に設定した上での主目標は、フィーゼル・セカンドの設置地点から五一〇キロもの距離を隔てたデヴォンシャーポート海軍基地に設定されたが、これは帝国軍が連合王国全ての軍事施設を標的に出来るという脅し目的で射程圏内にある軍事施設を選んだに過ぎず、戦略・戦術的な意味合いは皆無だった。

 実際、一つの目標に纏めて撃ち込む方が効率が良くなる筈であるのに、デヴォンシャーポートに二機のフィーゼル・セカンドを発射する事を決定した後は、残る七機を全て別の軍事施設に発射するとした事からも、陸軍が敵の心胆を寒からしめたいという目的だけで動いている事は誰の目にも明らかだった。

 

 こんな無駄遣いをして、エルマーが怒り狂いはしないかと私は気が気ではなかったものの、当のエルマーは涼しげな表情で「一度完成すれば幾らでも造れますから、好きなだけ撃ち込んで下さい」と背中を押す始末だった。

 エルマーは私や家族を喜ばせようとする以外で嘘を吐く事はなかったが、幾らでも造れるという言葉も、決して嘘偽りではなかったらしい。

 試作機より五分の一以下までコストを削減し、大規模な構造の簡略化によって生産性を向上させたフィーゼル・セカンドは、試作機の段階では一月に二〇〇の生産が限度とされたのに対し、量産体制の確立と工場の拡張により、最大で月に四五〇発もの安定生産を可能にしていたのだ。

 

 蛇足になるが、エルマーがフィーゼル・セカンドを陸軍の所轄にした理由は、生産ラインの拡充を図る上で陸軍の無駄を削らせたいという意図があったらしい。

 これまでの陸軍はグルップル社を始めとする民間に大砲や列車砲の開発を委託しており、弾種の規格統一さえ碌になされていなかった。

(だというのにStG25の生産を弾種の違いで渋ったというのだから、陸の予算運用に関しては本当に物申したくなったが)

 

 しかし、このような有効でも高価な兵器を多数保有するのであれば予算の見直しを図る必要があり、当然ながらこれまでのような、潤沢な陸の予算に物を言わせた無駄遣いを無くす必要が出てきた。

 結果、フィーゼル・セカンド保有後は、新兵器の大規模生産を行いながらも保有前と比べて五分の一近いコストのカットを実現したというのだから、笑う他ないだろう。

 情報部などは、コストカットに伴う情報整理の過程で発覚した官吏や軍高官の癒着の多さに激怒し、「身中の虫を粛清させろ!」という過激な意見まで出たが、その件は本著とは関係ないので、筆を置かせて頂く。

 

 とはいえ、流石に資源も予算も無尽蔵にある訳でないという事は陸軍とて分かっている。

 今回の発射は飽くまで景気づけであり、皇帝(カイザー)が望まれた和平を足蹴にした敵国と、不遜な挑戦状を叩きつけたチャーブル首相への報復こそ全てだった。

 

 一九二六年、二月一四日。計九発のフィーゼル・セカンドが連合王国本土の大型軍港と海岸線基地に着弾。マッハ五もの速度で飛翔するミサイルを当時の技術で迎撃する事は帝国でさえ不可能であり、必然、連合王国は大混乱に陥った。

 帝国軍としては、不発弾が生じても確認の術がない事を憂慮していたが、エルマーという天才に抜かりはない。仮に不発弾が敵地に落ちたとしても、超高感度の触発信管が回収しようとする敵兵諸共、ミサイルを爆発させる仕組みだったからだ*2

 

 

     ◇

 

 

 連合王国はこの日を『血のバレンタイン』と後年記した。

 

 甚大な被害を被った連合王国は、帝国がまたしても恐るべき新兵器を開発したのだと察し、速やかにこれを潰すべく動いた。

 これ程までの兵器ならば、発射には相当な設備が必要となる筈であり、レランデルに建設された陸・空軍基地を速やかに制圧・破壊する事でフィーゼル・セカンドの発射を阻止しようと目論んだのだ。

 

 王立海軍は最早損害も構わず、艦隊を北洋・ドードーバード海峡双方から派遣。レランデル海岸線に艦砲射撃による絨毯制圧の後、地上軍の大規模上陸侵攻を計画した制圧作戦を発動したが、規模こそ違うだけで過去の三国介入戦争と何ら変わるところがない以上、帝国は対策済みだった。

 加え、既にして海岸線ではレーダー網が配備され、地の利を得た帝国空軍が哨戒任務に就いていた事もあって、敵の動きはこちらからは丸見えだった。

 

 王立海軍の動きを察知した帝国空軍は、北方から転属したダールゲ少佐らを筆頭とする戦闘爆撃大隊や、Ka202ハーケルを主戦力とした爆撃大隊を出動。

 フィーゼル・セカンドの脅威を目の当たりにした連合王国ならば、確実に動くだろうと予想しての空軍指導部による戦力集中は見事的中した。

 王立海軍はその威信にかけ、既にして保有していた航空母艦ヘルメースと一九二五年末に完成したアーク・ロイヤルを出撃。

 帝国海軍も派遣可能な艦隊を結集させ、海岸線からも海兵魔導師を出撃させた。

 

 後の世に語られる一大海上決戦『オステンデ海戦』の火蓋が切られたのだ。

 

*1
 小モルトーケ参謀総長の愛称。常に思慮深く物事を考え、眉間に皺を寄せていたことから、皇帝(カイザー)は参謀総長を冗談でユリウス(陰鬱な男)と呼び慕っていた。

*2
 実際、フィーゼル・セカンドの不発弾は中央大戦を通して二発だけだったが、何れも敵軍が回収作業を始めた瞬間に自爆し、却って甚大な被害を与えた。




補足説明

【帝国の和平交渉が蹴られた理由】
 帝国の講和要求は賠償金だけで見たら穏当だけど、共和国と連合王国が「二度と侵略できねーようにする」という名目で「レランデルは俺らのもんだから同意しろや」という条約が講和を蹴られた原因の模様。敵からしたら絶対にノゥ! な条件だったようです。

【V2ロケット? について】
※V2ロケットと言いながら、WW2戦後のシュペルとG-1の機能が盛り込まれたトンデモ兵器になったフィーゼル・セカンド=サン。もう世界征服できそう(悪役かな?)

【今回のエルマー君のやべー所】
 エルマー「なんで陸の所轄にしたかって? コストカットとか嘘だから。
      空の所轄にして万が一都市部に命中したら、兄上が悲しむでしょ? ああいう扱いづらそうな兵器は他所に回して、全責任を取って貰えば良いんだよ」

 ※エルマーくんの考えに深い意味とかはなかったようです。
  なお陸の大幅なコストカット成功の裏で、多数の民需産業が大打撃を受けたので、民間人のことを考えると、一概に良かったと言える案件ではなかった模様。
  取り敢えずこの時期での帝国内での失業率がクソヤベー事になった(後々ミサイル工場とかに回されたから、全員が全員首括った訳じゃないけど)

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【基地】
 デヴォンポート海軍基地→デヴォンシャーポート海軍基地
【空母】
 ハーミーズ→ヘルメース
【地名】
 オーストエンデ→オステンデ


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38 オステンデ海戦-ターニャの記録8

※2020/3/8誤字修正。
 水上 風月さま、佐藤東沙さま、びちょびちよさま、オウムの手羽先さま、阿婆擦れsさま、ご報告ありがとうございます!


 オステンデ海戦。それは七つの海を支配したアルビオン連合王国の、ネルスン提督から続く不敗神話に幕を下ろさせた連合王国の「呪わしい瞬間」にして、後世、帝国海軍の名が戦争の神殿に祭り上げられた、世界最大規模の海上決戦だった。

 

 アルビオン王立海軍は戦艦二八隻、巡洋戦艦九隻、航空母艦二隻、装甲巡洋艦九隻、軽巡洋艦二五隻、駆逐艦八〇隻からなる大艦隊。

 対する帝国海軍は戦艦一六隻、巡洋戦艦五隻、前弩級戦艦六隻、軽巡洋艦一〇隻、魚雷艇四〇隻、潜水艦二〇隻と数・質ともに劣勢の状況下にあった。

 しかし、空軍戦力においてはその限りではない。如何に敵が大艦隊を有そうとも、航空機による爆撃が艦艇撃沈を可能とする事は立証済みであり、帝国海軍とて規模こそ小さいが、人材がない訳ではないのだ。

 海軍総司令官にありながら自ら旗艦に座乗し最前線で指揮を執るは、過去二度の海戦に勝利し、常在戦場の異名を持つアーデルベルト・レデラー元帥。

 その旗下には潜水艦隊司令長官として、帝国空軍以上に北洋の敵補給線に深刻な被害をもたらした『灰色狼』ペーニッツ大将を始めとする名将が集っていた。

 

 帝国軍が勝利を達成するには、合流を図るフランソワ共和国海軍に先んじて王立海軍を叩き潰さねばならない、という至難を極めるものだったが、そこはペーニッツ大将の潜水艦隊の面目躍如といった所で、この海戦に踏み込む前に多数の艦艇が潜水艦の餌食となっていた。

 

「フランソワ海軍は捨て置けば良い。我らの敵はアルビオンだ。奴らをここで潰せたならば、陸軍国の海軍など、どうとでも始末できる」

 

 同じ陸軍国の帝国海軍が語るのだから皮肉なものだが、その言葉が正鵠を得ていたのは事実である。現に、この海戦で趨勢が決した後のフランソワ海軍は、帝国空軍の爆撃と潜水艦の奇襲攻撃によって、次々と撃沈されていったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 帝国空軍、王立空軍は共にそれぞれの本土から出撃した。航空母艦がある分、連合王国側が機先を制する事が可能だった筈だが、当時世界最速の爆撃機たるハーケルが、航空母艦を視認すると同時にフィーゼル・ファーストを発射。

 未だ艦載機の発艦準備が整わぬアーク・ロイヤルを中破に追い込み、敵航空機とパイロットにも甚大な被害をもたらした。当然ながら、こんなものは迎撃される可能性の方が遥かに高かったラッキーヒットであったが、この機を逃すまいと上空に意識が向いた瞬間に潜水艦隊と魚雷艇が猛然と魚雷を叩き込み、戦艦を囲む駆逐艦を排除していった。

 幸先の良い出だし。流れに乗らんとする帝国軍。しかし、それを許すほど王立海軍は無能ではない。敵は世界最強の海軍なのだ。

 

 過去の教訓から対空兵装を充実させた王立海軍は爆撃機を集中して狙い続け、何としてでも航空機による撃沈を阻止しようとする傍ら、正確な艦砲射撃が帝国海軍にも襲いかかった。

 本来ならば、この時点で帝国海軍は深刻な打撃を受けた筈だったが、ここでも王立海軍は『不運』に見舞われた。東風が排煙と砲煙をアルビオン艦隊に運んで目を遮った一方、帝国海軍には彼らの姿が、くっきりと浮かんだまま攻撃を続ける事が出来たのだ。

 

 加え、航空母艦だけでなく本土から発進した王立空軍の進路が王立海軍の正確な位置を知らせてくれた為に、レランデルから出撃した帝国空軍だけでなく、帝国海兵魔導師にも、いち早い到着を促す結果になった。

 迅速な帝国空軍・海兵魔導師による敵航空勢力の排除。それに伴う爆撃に始まって、海上戦力が優勢だった筈の王立海軍は徐々にその戦力を減らし、帝国海軍の数的劣勢が同等戦力になった時には、既にして趨勢は決していた。

 

 アルビオン軍の航空戦力が、今まさに潰えてしまったのである。制空権を握った爆撃機と戦闘爆撃機の大部隊が如何に恐ろしく、そして残忍であることか。

 それを幾度となく身に沁みているアルビオン王立海軍の絶望が如何なるものであったかは、空軍指導部で報告を受けていた私にさえ分かる。

 アルビオン艦隊は、それでも戦い続けた。味方艦隊が次々と沈められ、旗艦さえも沈没するだろうという時にあってさえ、彼らは帝国軍の降伏勧告を受け入れようとはしなかったのだ。

 

「王立海軍は最期まで戦い抜く! 帝国軍の兵器が我々の都市に、神聖なる国土に生きる民に降り注ぐ事を、命惜しさに我々が容認すると思うのか!?」

 

 国際救難チャンネルでの降伏勧告に、アルビオン艦隊指揮官、エリコ大将は「国王陛下万歳!」の叫びを最後に通信を切った。

 彼らは指揮官の宣言通り、沈み行く中でも砲を撃ち続けた。誰一人として救命艇で脱出をする事も、ボイラーを止めて降伏する事もしなかった。死の瞬間まで、祖国に尽くし続けたのである。

 

 エリコ大将は死後、アルビオン連合王国最高戦功章たる勝利十字章を追贈され、レデラー元帥もまた『彼の英雄の最期に、同じ海軍軍人として心から敬意を表する』と称えた。

 そして、戦時下にあっては本来有り得ない事であるが、帝国軍は連合王国本土の軍事施設以外を標的にする事はない事も打ち明けた。

 帝国軍の騎士道精神が、エリコ大将への敬意に対して手札を晒したとするならば、エリコ大将の名誉と誇りに満ちた最期にも、確たる意味があったという事なのだろう。

 

 

     ◇

 

 

 だが、これでアルビオン王立海軍が大敗北を喫したのだという事実は不動のものとなった。全世界の新聞でレデラー元帥の輝かしい勝利と帝国空軍の活躍が報じられ、特に帝国空軍などは、世界の空を統べる帝国最強の軍として、世界を震撼させるまでに至った。

 

 王立海軍が海上決戦で大敗北を喫したという事実は、連合王国植民地にも多大な影響を及ぼした。苛烈な植民地支配を続けてきただけに、敵の多かった連合王国の植民地では、沈没した王立海軍の艦名を喜々として塗り潰し、世界中の植民地で立て続けに暴動が発生したのだ。

 

 連合王国の継戦は、絶望的になったと言って良い。直ちにでも帝国と講和し、本国から植民地に軍を派遣して暴動を鎮圧しなければ、植民地経済が破綻するだろう事は目に見えていた。

 けれど。それでも。連合王国は、チャーブル首相は継戦の意思を崩さなかった。失敗も敗北も、全てを『勝利』で塗り潰して挽回する。

 帝国にさえ勝利してしまえば、連合王国に対して反旗を翻すような植民地はいなくなるという主張を続けながら、彼らは自ら崩壊への道を進んでいった。

 

「エリコ大将は、我々に連合王国とは何たるかを教えてくれた! 我ら自由の民! 我ら以外の何者にも支配されじ気高き民! その尊厳を守るべく海へ繰り出し、万里波濤を乗り越える、雄々しき魂を備えているのだと証明したのだ!」

 

 私から言わせれば、当時の彼らは狂していたとしか思えない。或いは悪魔か何かが、帝国を滅ぼそうと躍起になって、彼らを洗脳しながら背中を押していたのではないかとさえ疑う程だった。

 もう勝てはしない。敵う筈がない。私が敵国の軍人だったとしても、ここまでくれば継戦でなく講和の道を模索する。

 血みどろの苦杯は飲み干しきれない量で、意地を通し続けて良い時間は過ぎた。国家生存の分水嶺は、まさにこの時だったと確信を持って告げられる。

 戦略眼を有する軍人でなくとも、少しでも有利な条件で降伏する段階だと分かりきっていた筈だ。

 歴史に『たられば』など意味はない。何故彼らがあれ程まで貪欲に、自分達の祖国が崩壊する事さえ厭わずに戦いに身を投じる事を良しとしたのか。それ程までに、敗北とは呑み込みきれない苦いものだったのか。

 勝利者としての甘露を味わい、貪り続けてきた私には『その時』が来るまで、決して理解する事の出来ないものなのかも知れない。

 だが、彼らが『偉大にして不朽』と信じた過去の栄光にしがみつき、戦うことを、武器を下ろすことを止めないというのであれば、我々もまた、どれほど無慈悲な軍隊だと罵られようとも、最後の一兵まで殺し尽くさねばならない。

 望むと望まざるとに拘らず、戦争とはそういうものなのだから。

 

 

     ◇ターニャの記録8

 

 

 戦争とは一切の足踏みも、一片の躊躇も認められない残忍で残酷なものである。我が夫は帝国貴族として、帝国軍人としての名誉で己の心を固め続けるが故に、自らの死さえも本懐と肯定している。

 だが、私は夫のような、生まれながらの貴族でも軍人でもない。外側だけはらしく繕っていても、中身はあくまでごく普通の人間としての感性で構築された、平凡な人間なのだから当然だろう。

 だからこそ、だからこそ敢えて言おう。

 

“こんなものは狂っている! 狂っているぞドクトル・シューゲル!”

 

 読者諸君。またしても奴だ。敵兵より、死神よりも私を殺したくてたまらないらしい幼女殺しが趣味の変態サイコパスが、またしても私に気違いじみた兵器を送りつけてきたのだ。

 

「如何かねデグレチャフ少佐」

 

 最低かつ最悪なセンスだな、ドクトル。脳みそをポテトマッシャーで潰された後にこねくり回して再形成でもされたのか? と口答えしたくなったが自重する。軍隊で培われた鋼の精神は伊達ではない。出来れば、正直に生きられる人生が欲しいと思うが。

 

 我々第二〇三航空魔導大隊に与えられた任務は、共和国軍司令部に強襲し、機能麻痺を引き起こせというものだ。さすれば敵戦線を崩壊に導き、それに伴う大規模侵攻によって帝国に勝利がもたらされるだろうとの事であったが、敵地後方への強襲など命が幾つあっても足りはしない。

 こういう時こそフィーゼル・セカンドの出番の筈だと読者諸君は思うだろうが、目標地点が正確に分からない上、地下深くに司令部があった場合や、列車などで移動出来る態勢である場合には弾道ミサイルなど役には立たない。

 あれはあくまで要塞やら軍港やら、事前に目標の位置が分かっていて、かつ足が完全に止まっている固定標的にしか効果を発揮し得ないのだ。

 

 かくして私は、大隊を道連れに再びフォン・シューゲル主任技師の玩具にされる道を歩む羽目になった。

 濃密な迎撃網と邀撃戦力に守られているであろう予想地点に到達する為、我々は人間ロケットことV‐1に搭乗する事となったのだ。

 後世の軍事評論家は「V‐1こそ世界初のジェット航空機だ」などと持て囃しているようだが、私はそれを断固否定する。

 我が未来の義弟にしてジェット機の発明者──Tr502アリアンツはターボプロップエンジン搭載機であるので、もし北方戦線時に実用化していれば間違いなく名実共に世界初のジェット航空機だった──たるエルマー兄様に謝罪しろ。こんな物が航空機だと? 私は断じて認めない。

 

 迎撃不能な高度を追尾不能な速度で飛翔し、目標地点に到達? うむ。字句だけならば魅力的だとも。感動すら覚えそうだ。

 搭乗員は魔導師である事が前提。造波抗力の急増やら衝撃波対策やらの空力弾力的問題は、全て魔導師自前の防御膜と防殻で対処しろ? 使い捨ての大型ブースターは加速し続けるが調整は不可?

 万一地上に激突したら即死確定の棺桶に乗れと? くたばれドクトル・シューゲル!

 

 そもそも、これを航空機だなどと語る軍事評論家に言っておく。この馬鹿げた人間ロケットの正式名称は『強行偵察用特殊追加加速装置』でV‐1は当時の秘匿名称だ!

 分かるか! 追加装置だ! オプションだ! 我々魔導師をミサイルの弾頭に縛り付けて発射するのと何も変わらんのだぞ! お前達は人間ロケットに乗って空を飛びたいか!? 私は二度と、二度と御免だ!

 

 一体どうして、私がこんな物に乗せられるのだ。膠着したライン戦線への打開の為? レランデルを確保したのだから正攻法で押し切れと言いたい。連合王国にも海上決戦で勝利したと聞いたぞ。

 なんで勝ち戦が確定した戦争で、私はこんな目にばかり遭わねばならんのだ!

 

「理論値では、マッハ一・五に達する筈だ。有人飛行としては過去最速の栄誉を授かる事になるな」

「それは素晴らしい。ところでドクトル? 小耳に挟んだことですが、ブースターを使い捨てに推力を高める方式は、確かエルマー技術中将が考案していたと記憶していますが?」

「少佐! 流石に口が過ぎるぞ!」

 

 暗に盗作かと口にした私に対し、工廠の技師連中が私の口を縫うぞと言わんばかりの形相で私とフォン・シューゲル主任技師の間に入ったが、知った事ではない。

 そもそもにして、フォン・シューゲル主任技師の専門は魔導工学であって、航空技術の、それも最先端たるロケットは、エレニウム工廠がエルマー技術中将との共同開発に携わるまで、未知の領域だった筈。

 確かにフォン・シューゲル主任技師はある意味天才的な技師ではあるのだろうが、それでもこの発明が独力によるものかと問われれば疑問を抱かざるを得ない。

 フォン・シューゲル主任技師は、私の疑念にあっさりと、それはもう驚く程素直に事実を打ち明けた。

 信仰に目覚めてから、気持ち悪いぐらい表面的に善良になったのが凄まじく腹立たしい。

 

「私は愚かだった。神の愛を知らず、己は天才だと驕り昂ぶり、麗しい兄弟愛ゆえに、身を粉にして働く戦友に、何処までも醜い罵声を浴びせてしまったのだ。

 その日を心から悔いた私は、技術中将の兄君に対する侮辱を誠心誠意謝罪し、今後は祖国の勝利と科学の発展の為、蟠りなく手を取り合う間柄でありたいと伝えた。

 許されるとは、思っていなかった。しかし、エルマー技術中将は私を抱擁し、嘘偽りのない謝罪だったと認めてくれたばかりか、友としての契りまで交わしてくれた。

 私は今、神の愛だけでなく、友との愛にも包まれている! このV‐1は、私とエルマーとの友情の結晶なのだよ、デグレチャフ少佐……!」

 

 本当に信仰に目覚めてから気持ち悪いなドクトル!

 まだ前の方が情け容赦なく事故死に見せかけて頭蓋を吹き飛ばしてやろうと思えるだけ可愛げがあったぞ!

 

 ……しかもだ。この神という名の悪魔に魂を売った変態サイコパスは、本心でそれを語っていたと言うから性質が悪い。

 あの、他人の嘘は自白剤や嘘発見器など用いずとも確実に見破るエルマー技術中将が、口先でなく本当に改心したのだと確信している辺り、本心からの謝罪だったのだろう。

 両者の溝が滞りなく解消されたのは、この頃のエルマー技術中将の中で、私は兄君の清涼剤程度の価値しか*1なかったからであろう。

 

 つまりは、我が未来の義弟の唯一の友人が幼女キラーの変態サイコパスだということである。

 

 未来の義弟よ、頼むから友人は選んでくれと……こうして執筆する最中でも、あれが唯一の友人だったと言う事実に私は涙さえ禁じ得ないが、それはさておき。

 

「ああ、デグレチャフ少佐。エルマー技術中将からだが、魔導攻撃機の改良・増産の為、貴官が所持している九五式の現物を借り受けたいそうだ。

 九五式と九七式のデータは渡してあるのだが、開発者たる私をして、未知の部分が多いのでね。現物があるに越したことはない」

 

 私は正気かと言いたくなった。九五式はスペックこそ高いが、開発者や私をして『何故起動出来ているのか分からない』不確定要素の塊にして、未知の領域にある呪いの品めいた危険物だ。

 幸いにしてメンテナンスの為の分解清掃やら、チューニングに問題ないことは使用者である私が太鼓判を押すが、だとしてもあれ程まで有能な人材が、危険物を扱った為に死亡しましたでは余りに問題だろう。

 

 軍という組織はどんな歯車を失っても問題なく機能するように出来ているのが前提だが、あの歯車は一度失えば二度と手に入らないだろう。帝国どころか世界の損失だったと後年嘆かれることが確実視される歯車なのだぞ!

 

 お前のような天災とは違う、本当の天才なのだぞドクトル!

 

 しかし、既にエルマー技術中将とフォン・シューゲル主任技師との間で取引が成立している以上、私に拒否権はない。

 

 スペックだけなら大層な、しかし呪われた品にも等しいエレニウム九五式を渡すと、フォン・シューゲル主任技師はそれと引き換えに、私専用に改良の施された九七式を──過去の度重なる非人道的実験の謝罪と共に──渡してきた。

 基本性能は従来のそれと同一だが、私の魔力指数を完璧に把握した上で調整が施されているらしく、量産機の九七式より、余程良い数字が出せる筈だとお墨付きを貰った。

 

 もう九五式は手元に戻らなくても良いのではないかと思う。危険物は二度と私の元に届かないよう、厳重に封印して欲しいところだ……と、思っていたのに『調べるべきは全て調べた』と共和国司令部強襲を終えた私に、すぐさま返納されてしまった。

 

 相変わらず仕事が早すぎるだろう、エルマー技術中将。もう少し念入りに調べろと言いたくなったが「出力時の安定性を向上させた」「多重術式も魔力消費を抑えられている筈だ」と言われて、息を深く、それはもう深く吐いた。

 

 出来ればこんな物は使いたくない。使いたくないが、背に腹はかえられぬという言葉もある。たとえ呪われた品であろうと、命あっての物種なのだ。

 ……本当に、本当に使用に関しては抵抗のある代物だが。

 

「ああ、それから」

 

 と、まだ何かあるのか? と返納時に訝しむ私に、とんでもない一言が、エルマー技術中将の口から発せられた。

 

「何やら、脳に多大な影響を与える波長が、限定起動時に発せられていたようなのだが、これまでの使用で変化は無かったのか? 例えば……、意識や記憶が飛ぶ類の」

 

 あまりに危険な上、波長を遮断しても性能には問題ないので、演算宝珠の魔導コーティングを応用して、物理的にシャットアウトしたと言う。

 

“待て……っ! 本当に待て……!?”

 

 私は今まで、そんな危険物を扱っていたのか!? いや、いつ爆発しても可笑しくないとは承知していたが、脳にまで深刻な影響を与える代物だったのかこれは!?

 

 私はもう、決してドクトルを許すまいと心に誓った。そして、今後は全く問題ない筈だというエルマー技術中将に心から感謝した。

 私の事など露程も考えず、ドクトルと仲良くなりやがった事だけは一生根に持ったがな!

 

 

     ◇

 

 

 我が未来の義弟が、悪魔と友誼を結んでしまった事は誠に悔やまれるし、人間ロケットに乗せられるという現実は堪え難いものがあるが、エルマー技術中将が安全確認の為に設計図を入念に調べたという事実は、私だけでなく大隊各員を狂喜させた。

 特に、棺桶にぶち込まれることを悲壮な面持ちで耐えていた私には、これ以上ない朗報である。

 かくして防諜対策を理由に、最低限の操作演習を終えた我々が敵司令部を強襲する『衝撃と畏怖』作戦を敢行することとなったのは三月一五日。

 人間ロケットことV‐1の配備数から大隊全員は投入できず、選抜中隊での敵司令部投入となったが、この作戦の本命は我々ではない。

 我々魔導師の任務は敵司令部を排除し、混乱させる事にあるが、『衝撃と畏怖』作戦は包囲殲滅に向けての第一段階に過ぎない。

 既にして帝国軍は勝利を収めつつあるが、この戦局を打開すべく、共和国・連合王国地上軍はライン戦線南部に大規模兵力を集中投入。

 海上決戦やフィーゼル・セカンドの発射故、北西部に戦力を集中せざるを得ない帝国軍の動きを逆手に取り、そのまま戦線を突き破り本土を目指すという手筈だったようだが、この動きを中央参謀本部は読んでいた。

 中央参謀本部は南部の敵軍に、敢えて押し切られたように振る舞いながら軍を後退。銃砲などの物資まで遺棄したという徹底ぶりからも、この後退が如何に迫真の演技だったかが判ろうというものである。

 

 だが、これこそ中央参謀本部の罠。我々が敵司令部を強襲し、首を刈り取った機に乗じて北部から回転ドアの要領で南部の敵後背に回り込み、挟撃の上で誘引撃滅による包囲を完遂する。

 私達はそれを遂行する為の回転ドアのスイッチに過ぎないが、この任務が包囲殲滅の始まりにして、共和国・連合王国との戦争終結に繋がろうというのだから、否が応にも士気が上がるのは当然だった。

 

 V‐1は敵への回収を防ぐため、着弾と同時に爆発する仕様になっており──これでもまだ、V‐1を航空機などとほざく輩がいるならば乗れと言いたい──我々が落下傘を開いての脱出中、敵司令部付近の弾薬庫に着弾したV‐1は見事に爆散した。

 こんな物に乗せられて飛んでいた我々は、もう勲章とか賞与とか幾ら貰っても割に合うまいが、ともかく無事に敵司令部に到着した我々は、防衛部隊を速やかに殲滅した後、内部に突入。未だ敵は帝国軍がフィーゼル・セカンドを叩き込んだとばかり考えているようで、我々の存在に気付けていないのは僥倖だった。

 加え、司令部というからには中央参謀本部同様、軍の要なのだからさぞ厳重な警備下に置かれているのだろうと思いきや、存外大した事がなかったというのは驚きだった。

 私が戦ってきた緑と青の勇士共が例外なだけで、帝国の参謀は強い権限を有しているが、共和国の参謀は連絡将校も同然の扱いで、前線将帥が攻撃精神(エラン)を主張するばかりの猪だというのは本当だったらしい。

 ……その猪武者に、散々殺されかけた身としては、皮肉なものではあるのだが。

 

“これでは司令部を潰しても、前線に想定したレベルでの混乱が見られるかどうかは疑問だな”

 

 しかし、我々は任務を完遂する以外にない以上、そうした疑問を挟むことは許されない。やるからには徹底的に。そう己を戒めて掃討を続けたが、奥に進む度に違和感を感じていた。幾らなんでも、将校が少なすぎる。

 加えて、司令部らしい書類も物品も皆無だ。

 

“既に投棄された司令部か?”

 

 可能性としては十分有り得る。しかし、弾薬庫には歩哨である憲兵が立っていた。司令部だけを放棄して、弾薬庫は守る? いいや、まさか。

 

「〇五から〇九へ! 弾薬庫から脱出した敵兵はあるか!?」

「ありません! ですが、広域魔力反応に探知有り! 地下壕が存在するものと思われます!」

 

 糞! と私は失点を恥じた。おそらくだが、弾薬庫の下には本命の司令部が有り、そこから通じる抜け道も存在するのだろう。私とセレブリャコーフ少尉はすぐさま弾薬庫に乗り込み、地下に魔力探知を走らせる。

 幸いにして、魔力反応は残っていた。おそらくだが、二発目以降のフィーゼル・セカンドの着弾を警戒して、魔導障壁を地下一杯に張り巡らせているに違いない。

 私は中隊員全員を招集し、ナパーム系燃焼術式を発動。これで魔導師連中はともかく、司令部勤務の将兵は始末出来た筈だ。魔導師の方も、もう二、三発ぶち込んでやれば酸素が消失して窒息死してくれる事だろう。

 ライン戦線で地下壕に篭っていた私に、同じことをした連中に非難される謂れもなければ、躊躇など生まれる筈もなかった。

 私と大隊は運よく難を逃れたが、あの日の地獄は忘れ難い。天井は崩れ、通路は塞がり、火とガスが地下室を満たして、哀れな戦友に塗炭の苦しみと地獄の死を与えたのは、昨日のように思い出せる。

 今この場でその借りを返してくれるぞ共和国軍!

 

「気化燃焼術式三連、発動準備! カウント合わせ、三、二、一、今!」

 

 帝国軍内でも最精鋭大隊の、その中から選抜された中隊全員での燃焼術式だ。どんな魔導師だって黒焦げは確実。いや、全員で纏まって多重魔導障壁を発動しているなら即死はしないだろうが、それでも窒息死は確実だろう。

 私達はそのまま地上でも同様の気化燃焼術式を発動し、後方施設を片端から焼きまくった。後は敵の混乱に乗じて脱出し、森林三州誓約同盟との国境付近の指定区域にて待機する、爆撃機に搭乗して去るだけである*2

 

“これだけやって、包囲殲滅が上手く行きませんでしたでは、割に合わないな”

 

 とはいえ、たとえ期待以上の混乱が無かったとしても、我々は任務を達成したのだ。その分の埋め合わせは、中央参謀本部と前線の将兵がすべきだろう。彼らには、一層奮起して戦争を終わらせる努力をして頂きたいものである。

 

*1
 この当時の価値は、『あの時は不幸だったが、死ななかったのだから問題なし』『次に会った時にでも謝罪しておけば良い』程度に片付けられたのである。

 後々エルマー兄様と和解した私に対しても、エルマー兄様はフォン・シューゲル主任技師に謝罪を求めてくれたが、当然この件に関しては、私は未来の義弟が死ぬまで根に持った。

*2
 森林三州誓約同盟は表向き中立であるが、戦後に発覚したように、帝国を含めた多数の国と裏取引をしていた。今回の任務の脱出経路確保もそのうちの一つで、当時の密約に関してはWTN発行の『中立国の欺瞞』にリストがある為、そちらを参照して頂きたい。




 二〇〇〇年代ぐらいに入ると『フィーゼル・セカンドの発射を阻止せよ!』っていうクッソ熱いテロップと音楽でのアルビオン王国主役の戦争映画とか制作された模様。やっぱり帝国は世界の敵。はっきり分かんだね。

【なんで連合王国は降伏しなかったの?】
 存在X「困るんだよねぇ。降伏とか平和とかさぁ。もっと世界を追い込んで神に縋って貰わなきゃ、信仰ポイントとか色々入らないじゃん?」
 結論。存在Xは悪魔(周知の事実)。

 帝国軍の回転ドア作戦は、原作とは上(北部)でやったか下(南部)でやったかの違いだけです。海岸線のある北部の方が脱出経路が容易なので圧倒的にやりやすいのですが、海上決戦やらミサイル祭りやらのせいで、北部で回転ドアを行う事は出来ませんでした。
(このせいでデグ様は潜水艦で安全に逃げる事が不可能になったようです。まぁ、爆撃機も足は速いし、護衛戦闘機もいるから多少はね?)

 あと「アルビオン本土を爆撃したいでござる! 絶対に爆撃したいでござる!」と小モルトーケ閣下が譲らなかった事も、回転ドア作戦が北部から南部に切り替わった要因になったようです。
 そのミサイル攻撃のせいで海上決戦まで行っちゃったワケですが、何故か帝国が海上決戦で勝利しちゃったから、連合王国の死期がくっそ早くなった模様。
 本当に運がないな連合王国。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【勲章】
 ヴィクトリア十字章→勝利十字章
【人物名】
 ネルソン提督→ネルスン提督
 エーリヒ・レーダー元帥→アーデルベルト・レデラー元帥
 ジョン・ジェリコー大将→エリコ大将


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39 赤黄色作戦-ターニャの記録9

『37 消えた講和-帝国の報復』にて、水上 風月さまより、フィーゼルセカンドの性能面でのご指摘や、詳細なデータを贈って頂いたのみならず、改訂版までご用意していただいた事で、フィーゼルセカンドの設定が、以前のガバガバなものから、非常に素晴らしく美しいものになりました!
 水上 風月さまには、この場をお借りして、厚く御礼申し上げます!
 本当にありがとうございました!
(……というか、作者は何一つとして貢献していない上、読者の皆様からも無償で修正までして頂くような、甘えきった状態という……駄目人間になりそう)

※2020/3/24誤字修正。
 佐藤東沙さま、十蔵さま、すずひらさま、水上 風月さま、zzzzさま、ご報告ありがとうございます!


 敵司令部の首を刈り取る『赤黄色作戦』の第一段階、『衝撃と畏怖』作戦は完遂された。

 今日では『赤黄色作戦』よりも、フォン・デグレチャフ参謀少佐が例に出した、回転ドアという表現が適切である事から、『回転ドア作戦』という俗称の方が馴染み深いと思われる本作戦の第一段階は、フォン・デグレチャフ参謀少佐の予想に反し、連合軍(アライド・フォース)の前線将兵を混乱の坩堝に突き落としていた。

 

 今日の読者諸氏は遅きに失していると笑うか、或いは呆れてしまうかもしれないが、フランソワ共和国・アルビオン連合王国は自分達に後がないのだという事をレランデルの喪失後、痛烈に自覚したのだろう。

 これまでの連合軍(アライド・フォース)は各々の軍が独立して帝国を侵攻していたが、これ以降は統一司令部を設置し、一致団結して事に当たろうとしたのである。

 

 この遅すぎる連携に関しては、連合王国・共和国間の軍人が反目し合っていたという内情から来ていた。

 フランソワ革命による共和制樹立以降、ロンディニウム上流階級達の言う『紳士』の地位にないフランソワ将校が共和国軍の多数派を占めていたことに対して、連合王国は蔑視の視線を共和国軍に向け、彼らを一段下に見ていたのである。

 この思想はアルビオン王国の派遣将校が本土に宛てた文書に散見され、当時の数ある冷笑を綴った文書の中でも、有名な書簡にはこのように記されている。

 

『結局彼らは下層階級さ。フランソワの将軍と関わる際は、彼らがどんな階級の出かを、心得ておかねばならない』

 

 長い歴史の中で敵国同士だったせいもあるのだろうが、曲がりなりにも轡を並べる国に対して、ここまで礼を失し、信頼の念を欠いた態度は敵国人たる私をしても、眉を顰めざるを得なかったものである。

 また、共和国側としても連合王国軍が、中央大陸への派遣軍の犠牲を最小限に留めようと注力していた事に気付き、「背を任せるほどの絆を築けていない」と嘆いていただけに、これで足並みを揃えるのは、互いが窮地に立たされねば難しい問題だったのだろう。

 皮肉な話だが、私達帝国軍が彼らにとって強大すぎる敵だと思い知らされ、取り返しのつかなくなった状況に置かれて、ようやく二国は手を取り合えるようになったらしい。

 

 その新生した連合軍(アライド・フォース)の大攻勢こそが、ライン戦線の南部侵攻であり、連合軍(アライド・フォース)は自軍の連携こそが帝国軍の防衛ラインを突破させたのだと、信じて疑わなかった。それが、帝国軍の『回転ドア』作戦の一環だと気付かずに。

 

 そして、フォン・デグレチャフ参謀少佐の選抜中隊が、その統一司令部を丸焼きにしてしまった。連合軍(アライド・フォース)にしてみれば、それは青天の霹靂にして紛う事なき悪夢であったことだろう。

 連合軍(アライド・フォース)の司令部は、敢えて目立たぬ位置に配置し、歩哨や警備を最低限にすることで重要拠点とは悟らせず、更にはフィーゼル・セカンドを警戒して、専用の司令部壕を誘爆しやすい弾薬庫──これはフィーゼル・セカンドを敢えて誘爆させ、地下にまで被害が到達しないようにする為の策だった──の地下深くに配置するという徹底ぶりだった。

 ここならば安全だ。少なくとも、即座に司令部が崩壊する事は有り得ないし、仮に敵が迫っても脱出の猶予ぐらいはある。

 連合軍(アライド・フォース)の司令部は、常識的な観点から見れば非常に堅実かつ有効だった。彼らにとって最大の誤算だったのは、相手が悪すぎたという事に尽きるだろう。

 

 常識外の速度で新兵器を開発・運用し、数多のエースと歴戦の将帥を揃え、統一し、画一化された高水準の軍隊を備える、悪夢のような軍事国家が相手でなければ、彼らにもまだ逆転の目が僅かとはいえ残されていたのかもしれない。

 だが、彼らの敵は我々(ライヒ)だ。数多の戦場を闊歩し、その成り立ちたるプロシャ王国から今日の帝国に至るまでに、屍山血河を築き上げた究極の戦争機械こそが相手だったのだ。

 帝国陸軍は統帥機構を寸断された連合軍(アライド・フォース)を包囲、殲滅した。フォン・デグレチャフ参謀少佐がそうであったように、森林三州誓約同盟に裏取引で逃げ込もうとした連合軍部隊もいたようだが、そちらの対策を打たないほど帝国陸軍は甘くない。

 完全包囲下で、捕虜以外の全てを文字通り()()させ、国家の背骨を粉砕した正しく戦争芸術として歴史に名を刻む究極の殲滅戦。

 不意を突かれ、右往左往、渦を巻きながら逃げ惑う後尾の兵に歩兵は猛射を浴びせ、重砲の砲撃でガラガラと音を立てて車両が砕け、輓具をつけたまま後ろ足で立ち上がる馬が地面に倒れた兵士を四足で潰す地獄絵図にあって、帝国軍は機械の如く冷徹で、情け容赦など欠片もなかった。

 その徹底ぶりといえば、包囲下に置かれた敵軍中心部に無数の爆撃機がクラスター爆弾を投下したという事実からも、帝国が如何に完全勝利を希求していたかが判ろうというものである。

 

 包囲殲滅成功の報を受けたとき、小モルトーケ参謀総長は、その瞳から大粒の涙を零したという。

 

「シュリー伯……ようやく、貴方の夢が実現致しました」

 

 前参謀総長から練られてきた構想。敵軍の大規模包囲という、カンネー以来の偉業を帝国が実現させたのだという事実を前に、小モルトーケ参謀総長は偉大なる恩師の名を零され、ゆっくりと参謀連に顔を向けた。

 

「ありがとう、諸君。私がここまで来れたのは、諸君らの英知と導きあってのものだ」

「身に余る言葉であります、参謀総長」

「我々としても完全なる勝利と、シュリー伯の夢は達成すべきものでありました」

 

 フォン・ゼートゥーア、フォン・ルーデルドルフ両少将(一九二三年、九月進級)は、参謀連各員を代表して小モルトーケ参謀総長に言の葉を贈り、参謀総長もまた、彼らに再度謝辞を述べた。

 

 

     ◇

 

 

 最早、帝国軍を止めるものはない。膠着し続けた戦線は、『回転ドア』作戦による誘引殲滅を達成した時点で、崩壊の道を免れなくなった。

 ライン戦線は最早、帝国軍の防波堤ではない。敵軍が侵攻不可能な状況にまで出血し、対する帝国陸軍は全軍に大規模攻勢を命令。一直線に共和国首都、パリースィイへと進軍した。

 

「プロシャ・フランソワ戦争の栄光を再び!」「我らこそが首都への一番乗りを果たすのだ!」

 

 帝国陸軍将兵の士気は凄まじく、誰も彼もが歴史に名を刻むのだという気迫と、凱旋の意気高らかに進軍を続けていた。

 私は中央参謀本部がそうであったように、空軍司令部でフォン・エップ大将や指導部の高級将校達と肩を叩き合い、抱きしめ合いながら、祖国の勝利が確約された事に胸弾ませた。

 惜しむらくはオステンデ海戦で戦えなかった事だが、私は司令部の人間としてすべき事をした以上、そして祖国が勝利の栄光を掴む一助を担えた以上、これ以上を望むのは強欲かと肩を竦めた。

 

 既にして本国に帰還したフォン・デグレチャフ参謀少佐は、ライン戦線での数々の武勲と『衝撃と畏怖』作戦成功の功を讃えられ、中佐への進級後、帝国軍統帥より友軍への多大な貢献を表され、柏付銀翼突撃章と黄金柏剣付白金十字を授与された。

 そして、帝国空軍からもオステンデ海戦での多数の敵戦闘機撃墜と、これまでの船団撃沈、爆撃機撃墜の功により、ダールゲ少佐は全帝国軍において二人目の、黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字を叙されたのである。

 

「次は、フュア・メリットを狙う」

 

 ダールゲ少佐は不敵な笑みで記者や宣伝局に語ったそうだが「素行の悪い者を皇帝(カイザー)の拝謁の栄に浴させる訳にはいかんぞ」と、帝国軍統帥に叱責されたという。

 本来ならダールゲ少佐も中佐への進級が認められたのだが、案の定彼は蹴った。中佐にもなれば航空団の司令官を勤めねばならず、そうなればデスクワーク漬けになる事が分かっていたからだ。

 私もまた式典に列席し、ダールゲ少佐を抱きしめながらも、「もう少し真面目になるように」と笑い、フォン・デグレチャフ参謀中佐にも、公の場で初めて声をかけた。

 

「貴官の勇気と、献身に感謝を」

「ありがとうございます」

 

 だが、フォン・デグレチャフ参謀中佐の瞳は、謝辞とは異なり呆れていたようにも見えた。きっと、私が常日頃手紙で表現するような親愛に満ちたものでなく、在り来たりな言葉しか贈らなかった事が詰まらなかったに違いない。

 気心の知れた仲であるなら、ダールゲ少佐のように肩を叩いたり抱きしめても良いし、破顔して讃えるのも良いだろう。

 けれど、フォン・デグレチャフ参謀中佐は陸軍参謀将校であり、それと同時に一人の淑女なのだ。私が軽はずみな発言をして周囲に誤解されでもしたら、彼女の人生を縛ってしまいかねない。

 私は一人の人間として、フォン・デグレチャフ参謀中佐に幸あれと願うが、それをこの場で口にすることが、どのような結果を招くかも承知している。

 私は貴族で、彼女も勲爵士(リッター)とはいえ貴族なのだ。互いに未婚の、それも男の方から淑女に私的な言葉をかける事が、どのような意味を持つかは語るまでもないだろう。

 

 だから私は、名残惜しいが小さな労いで終わらせるしかなかった。

 それをフォン・デグレチャフ参謀中佐が、どう思っているか察しつつも。

 

 

     ◇

 

 

 戦争は終わる。帝国は勝利する。誰もがそれを疑わず、誰もがそれを歓喜する。だが、何故だろう? 何故多くの高級将校らが勝利を確信し浮かれる中、私は指導部で未だ地図を広げている?

 連合王国が、頑なに勝利を望み続けたからか? 意地を貫く連合軍(アライド・フォース)に、何処か背筋に冷たいものを感じたからか?

 既にして帝国軍は、首都防衛線の突破さえ秒読みの段階。パリースィイを目と鼻の先に捉える勝利の目前で、何を憂慮するという事があるのか?

 

“いいや、何かある。確実に何かが”

 

 前線なら利く鼻が、長い指導部勤務のせいで鈍っている。それを自覚したのは、共和国軍国防次官兼陸軍次官、ピエール・ミシェル=ド・ルーゴ少将が本国から全軍への一般通達で共和国海軍の戦闘中止と、移動命令を出したという情報を受けてからだ。

 

“してやられた!”

 

 だん! と私は勢いよく机を叩いた。そして、直ちに中央参謀本部の小モルトーケ参謀総長に電話を繋ぐよう命令した。エルマーが総監部と中央参謀本部を繋いだのと同じく、空軍総司令部と中央参謀本部に外線を敷いてくれたのは天の助けにも等しかった。

 この連絡網故に、空軍総司令部は情報部をも退けて三軍一の情報網を持つ軍とされ、空軍総司令部にいれば不可能はないと称されるまでになったからだ。

 中央参謀本部は機密性の高さ故に通話時間も内容も限られるが、今は一刻の猶予もない。

 

「参謀総長閣下、キッテル参謀大佐であります!」

 

 幸いにして、小モルトーケ参謀総長は中央参謀本部に留まってくれていた。参謀総長は私の鬼気迫る声に対し、「何事か?」と私を落ち着かせるような、ゆったりとした声音で問うてくれる。

 こういう時、自分よりも遥かに偉大で優秀な御仁は頼りとなる。私は息を整え、地図を確認しながら、共和国軍の動きが怪しい事を告げると、小モルトーケ参謀総長は声を落とした。

 

「大佐、それ以上は口にするな。直ちに中央参謀本部に出頭するのだ」

 

 如何に暗号強度が折り紙つきとはいえ、流石に不味いと言いたいのだろう。それは、私とて重々承知の上である。

 

「残念ながら、その猶予はないのです。共和国本国は『終戦』を口にしておりません。加え、ド・ルーゴ少将名義での艦艇集結地点は、我々の手には遠いブレスト軍港です」

「……通信交換手には、切らせずおいてやる。忌憚なく述べたまえ」

 

 一佐官の下らない直感にも拘らず、小モルトーケ参謀総長は逐一耳を傾けて下さり、そのまま私がしているように、従卒に用意させたのであろう地図を、こちらの発言から読み取って目を通して下さった。

 受話器越し故に姿など見える筈もないが、地図を広げる音と言の葉の間隔で、大凡の状況は掴めるものだ。

 

「貴官は、共和国軍の撤収行動と見ている訳だな」

「はい、閣下」

 

 私は小モルトーケ参謀総長に空軍による空爆と、万一間に合わなかった場合に備え、帝国海軍の潜水艦群による撃沈を提案した。敵が逃げの一手を打つならば、間違いなくフィーゼル・セカンドの射程外にして、帝国に渡洋と消耗を強いる南方大陸を拠点とする筈。

 私が共和国軍の立場であっても、間違いなくそれをするだろう。

 

「エップ空軍総司令はどうした? 彼の名ならば、すぐにでも空軍を動かせよう」

「閣下は前線の将兵を労うべく総司令部を発ちましたが、現地には未だ到着しておりません。おそらくは輸送機の中かと。他の将校も、最低限の人員のみです。現状、総司令部に残る中で最高階級は小官になります」

「ビアホールにでも繰り出したか? ああ、全く。赤小屋の参謀連も似たような有様だよ。私の場合は、上が宴に顔を出しては息苦しかろうという理由だがね」

 

 何処もかしこも、勝利を疑っていない。それはそうだろう。ここまでくれば、誰だとて勝ったと思う。現に帝国外相らは、講和条約の内容を詰めている段階なのだ。

 

「しかし、曲がりなりにも停戦が発動している状態だ。空軍総司令官の命で軍を動かしても、官吏も統帥府も黙ってはいまい?」

 

 小モルトーケ参謀総長の忠告はご尤もだ。加え、参謀総長は私に泥を被るなと言いたいのだろう。結果がどうあれ、責任を取らされる事は避けられない。誰でも良いから、生贄を引っ張って来いと言いたいのだ。だが、それでは間に合わない。

 

「小モルトーケ参謀総長。小官は帝国軍人として、祖国の平和と安寧を望んでおります」

 

 例えそれが、私の身に破滅をもたらす物であったとしても。

 

「閣下もまた、同じ志を抱く軍人であると信頼した上で、お頼み申し上げます。どうか、小官の行動によって巻き込まれた者達に、一切の非がない事を閣下に証言して頂きたくあります」

「軍法会議は確実だ。銃殺も有り得る」

 

 取り乱すな。他に手はある筈だ。小モルトーケ参謀総長は、そう言外に訴えて下さっている事は重々承知している。それでも、それでも私は、傷ついた少女(ターニャ・デグレチャフ)に誓ったのだ。

 

「小官は、戦争を終わらせたいのです。閣下、今の帝国に、どれだけの少年兵が存在するかご存知でしょうか? 学校に通い、親と手を繋いで歩いている筈の子らの内、戦地で銃弾を受け、苦しむのは一日に何人居るとお思いでしょうか?」

「それが、貴官の本音か」

 

 高潔だと、小モルトーケ参謀総長は称えて下さった。正直で、誠実な男だともお褒め下さった。だが、こんなものはエゴだ。それは、私が一番自覚している事だ。

 

「閣下。これが最期の頼みとなる事を、小官は覚悟しております。何卒、小官の命で飛ぶ部下と、空軍に寛大なるご処置を」

「相分かった。私はもう、貴官を止めぬ。たとえ貴官が逮捕されるとしても、部下と空軍に類は及ばせん。だが、それは貴官の命が過ちであった場合だ。貴官の選択が正しければ、私は何としてでも貴官の命と名誉を守ろう」

 

 それが、祖国に尽くしてくれた軍人への、自分なりの恩の返し方だと小モルトーケ参謀総長は言の葉を括った。私は謝辞を述べて電話を切り、直ちにブレスト軍港から最も近い空軍基地に電話を繋いだ。稠密なる空軍総司令部の通信網の偉大さを、この日ほど実感したことはない。

 

「キッテル参謀大佐だ。エップ空軍総司令官の副官として、代理で総司令官閣下の命令を通達する。ブレスト軍港にて共和国軍が南方大陸に向け、撤収行動を計画している事を察知した。当基地には全兵力でもって、亡命政府の芽を摘んで貰わねばならん。

 貴官らの任務達成が、帝国の興廃を分かつものと心得よ」

 

 私の下令は、一切の確認も取られないまま受け入れられた。日頃の行いというものが、何処までも大事なのだなという事を確信しつつも、自嘲気味に深々と椅子に腰掛けた。

 フォン・エップ大将は、激怒するだろう。軍の指揮系統を一佐官が乱したばかりか、ずたずたに引き裂いたのだ。そればかりか、空軍総司令官の名を騙って空軍を独断で動かした以上、反逆罪に問われる事は間違いない。

 

“構うものか”

 

 私は戦争を終わらせると誓った。平和を、フォン・デグレチャフ参謀中佐に手向ける時が来た。我が身可愛さで、立てた誓いには背けない。彼女が、延々と続く戦場という地獄に引き攫われてしまうことなど、私には我慢ならなかった。

 

“デグレチャフ中佐。貴女は、私を笑うだろうか? 軍人にあるまじき男だと、罵るだろうか?”

 

 彼女がどんな感情を私に抱こうと、私は一向に構わない。感謝されたい訳でもない。

 これは唯の、エゴイズムなのだから。

 

 

     ◇

 

 

 私は電話での報告を受け取った。ド・ルーゴ少将の脱出計画は、間一髪の所で阻止出来たそうである。目標が分かりやすい分、フィーゼル・ファーストでも狙い撃つことが可能だったのが功を奏した。

 フィーゼル・セカンドが使用できれば、もっと楽だったのになと考えてしまうのは、やはり帝国軍人としての効率思考がそうさせてしまうのだろう。

 何処までも空虚な、伽藍堂めいた実用本位の空軍総司令部。中央参謀本部の食堂のように絢爛でも、海軍のように趣のある作りでもない。

 まるで企業のオフィスめいた、『実務の館』なる参謀本部の肩書き以上に相応しい実用一辺倒のデスクで、私は静かにその時を待っていた。

 

「キッテル大佐殿ですな?」

 

 そして、その時は来た。糊のきいた軍服を一分の隙もなく着こなし、どのような些事も見逃さぬと言わんばかりの憲兵将校が、私の前で慇懃に踵を鳴らした。

 

「大佐殿に逮捕状が出ております。ご同行を」

「ご苦労」

 

 私は両手を差し出す。かけられた手錠の冷たさとは裏腹に、意外にも軽いものなのだな、と他人事のように感じた。

 

 

     ◇

 

 

 軍法会議が開かれるまでの間、私は憲兵司令部への拘留を言い渡された。拘留といっても刑務所のように息苦しくはないし、将校用の個室であったから不自由など何一つとしてない。

 不満があるとすれば、精々が軍服でなく私服を着るよう命じられたのと、本が一冊も置かれていないことぐらいか。勲章や徽章の類も軍服と一緒に没収されたが、どうせ剥奪されるのだからと割り切れる。

 できることならば、キッテル家に迷惑がかからぬよう、気を利かせて拳銃でも引き出しに入れてくれれば楽だったのだが、流石に斯様な選択をしておきながら、自裁して逃げようなどというのは虫の良すぎる話かと一人笑った。

 私の逮捕には、上も下も大騒ぎしていることだろう。フォン・エップ大将にはご迷惑をおかけしたが、それでも私は自分の選択を恥じても、悔いてもいなかった。

 

 もしもド・ルーゴ少将を取り逃がせば、帝国は間違いなく疲弊と継戦の地獄を見た。後の百年に禍根を残すぐらいなら、私個人の命など惜しくはない。

 小モルトーケ参謀総長は私の名誉と命を守ると約束して下さったが、私如きの命の為に参謀総長の輝かしい未来までふいにはできないし、中央参謀本部の面々とて、参謀総長の身を案じればこそ、全力で止めようとするだろう。

 私は、それで良いと思う。全ての責は私一人にあるのだから。

 

 だが、それを許してくれない者が居た。ああ、少し考えれば分かることだったのになぁと、私の元を訪ねてくれたエルマーに目を細める。

 如何な憲兵司令部とて、帝国軍の誰だとて、エルマーを阻む事は出来ないだろう。今の帝国軍は、弟なくして成り立たないところまで来てしまっているのだから。

 

「兄上……!」

 

 エルマーは、私を初めて殴った。私の贈った杖を放り、踏ん張りなど効かない足で、初めて人を殴ったのだと分かる動きで、私の頬を殴ったのだ。

 

「どうして、どうしてこんな真似を……」

 

 エルマーは、私の胸に縋って泣いた。嗚咽を溢し、涙で顔を歪めながら泣き続けた弟を、私は抱きしめて背中を優しく叩いた。

 

「賢いお前なら、分かるだろう?」

「分かります! 兄上の考えなど、私が一番分かりますとも! ですが、それは兄上がしなくてはならない事だったのですか!? 祖国の窮地を、誰かに伝えるのでは駄目だったのですか!?」

「その誰かが、今の私になる。そんな真似を、私が許すと思うか? そんな兄を、お前は誇れるのか?」

 

 狡いと、エルマーは泣いた。その涙を拭ってやりたいと思った。けれど、今の私には姉上のハンカチなどないから、普段使いのもので拭ってやるしかなかった。当然、それに気付けないエルマーではない。

 姉上のハンカチを私が捨てるなどとは、エルマーは微塵にも考えていないだろう。そうなれば、誰に渡したかだが……。

 

「デグレチャフ中佐ですな?」

「ああ。お守りにでもなれば良いと思ってな。彼女には、死んで欲しくなかったのだ」

 

 それさえも、エルマーは知っていたという風に語る。私がフォン・デグレチャフ参謀中佐を死なせたくないが為に、こんな真似をしたのだろうとも責めた。

 

「兄上が亡くなれば、私がどれだけ悲しむか、考えては下さらなかったのですか? 姉上や父上、母上がどれほど癒えぬ傷を負うか、お考えにならなかったのですか?」

「分かっていた。知っていたし、考えた。それでも、私は戦争を終わらせたかったのだ。全ては、お前達の生きる祖国の……」

「嘘です。兄上の心には、デグレチャフ中佐がいます。私や家族と同じほど、彼女が兄上の心に住んでいるのです。どうかもう、嘘はお止め下さい。ご自身の気持ちを、お騙しにならないで下さい」

「……お前は、本当にそう思うのか?」

 

 はい、とエルマーはそれが真実だと瞳で語った。

 

「兄上。私は、兄上がしてしまった事を、なかった事には出来ません。ですが、かつて語った通り、私は兄上を決して死なせはしません。兄上がそのお気持ちを自覚し、デグレチャフ中佐に人を愛する道を教える日まで、私が兄上を守り抜きます」

 

 たとえその相手が、祖国そのものだったとしても。私がフォン・デグレチャフ参謀中佐に、死なせはしないと誓いを立てたように。エルマーもまた、私を守るという誓いを守り続けるという。

 

「どうかご安堵ください。この国で私に逆らえる者など、家族を除けば我らが皇帝陛下(マインカイザー)以外に居られないのですから」

 

 その発言は、少々不敬に過ぎないかと心配になった。幸い、憲兵は気を利かせて離れてくれていたが。

 

 

     ◇ターニャの記録9

 

 

 ド・ルーゴ少将の撤収行動という名の夜逃げが、帝国空軍の手によって潰えたと知らされた時、私は感極まって、我が身を興奮で震わせていた。

 私が何度となくV‐1でのブレスト軍港攻撃を上申し、祖国の危機を救うには今しかないのだと語っても、敵の行動が計画的かつ秩序だったものだと説諭しても、誰もそれを認めたがらなかった。

 基地司令も将校も、皆一様に「終戦交渉をこじらせるだけだ」「反攻勢力を逃す為でなく、逆襲用部隊か防衛線再編の為の措置だろう」と取り合わなかったのである。

 誰も彼もが、ド・ルーゴがネズミのように祖国を捨て、亡命政権を南方大陸に築くなどと夢にも思わなかったのだろう。それどころか、ここで連中に手を出せば、勝利の間際にあってもたらされた、停戦を壊しかねないとさえ信じていたのだ。

 だが、空軍は違った。帝国が世界の全てを手にするか、それとも後の代まで果てしなく続く困窮の道を歩むかの分水嶺を、見事決断し義務を果たしてくれたのだと私は愚かにも、無邪気に歓喜していた。

 

“祖国は、救われた。我々はようやく、戦争を終わらせられる”

 

 私は涙を抑えきれなかった。勝ちに浮かれ、驕った先に地獄への片道切符を手にするような未来は、もう決して来ないと安堵して。

 だが、嗚呼、何故。何故かくも偉大な功績を、誰も理解できないのだ?

 

「キッテル大佐殿が、逮捕された?」

 

 その報を伝えられた私は、何かの間違いだろうと思った。だが、何処で、何度耳にしても答えは変わらない。罪状は何かと問えば、空軍総司令官の不在を良い事に、独断で軍を動かしたのだという。通常であれば、略式裁判の後に銃殺が妥当であろうとも、私と大隊が屯する基地司令官が仰られた。

 

“馬鹿な……ブレストへの攻撃は、間違いなく祖国を救ったのだぞ?”

 

 嘘だと思うならば、現地に足を運んでみるが良い。あの、用意周到に山積されていた軍需物資の残骸を。死んだ将校らの顔ぶれを。逃亡が失敗するまで、一度として『終戦』を口にしなかった共和国政府の惨憺たる現状を、その目に焼き付けてみるがいい!

 独断が罪? 銃殺が妥当? ああ、そうだとも軍規に照らし合わせるならば、何もかも間違っているのはフォン・キッテル参謀大佐だとも!

 

“ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!”

 

 私はこの時、自分が何故これほど怒り狂っているのかが分からなかった。祖国は窮地を脱した。そして、本来自分が負いかねなかった筈の罪を、全て背負ってくれたお人好しが出てくれた。これまでの私ならば、何一つとして損のない結果だと、諸手を挙げて喜んでいた筈なのに。

 

“どうして、どうして私は”

 

 こうして、本国にまで飛んできた? どうして、赤小屋にまで乗り込んだ? フォン・ゼートゥーア少将どころではない、正真正銘の怪物である、参謀総長の前に私は立っている?

 そして、どうしてこんな状況でも、私は心に保身も恐れも抱いていないのだろう?

 小モルトーケ参謀総長は何も言わず、参謀徽章を着けた一佐官に過ぎない私を目にするや否や、執務室へと通してくれた。

 

「エルマー技術中将が、貴官と同じ顔をして踏み込んできた。身内であるが故、当然と思った。次に、エップ空軍総司令が足を運んだ。目をかけていた部下故、当然だと思った。貴官は三人目だが、ああ、ノルデンで救われたのだったな」

 

 忘れていたよと口にしたが、参謀総長が物忘れなど冗談にしても質が悪い。全てご承知の上で、惚けられているのだろう。

 

「では、小官の用向きもお分かりの筈」

「強気だな。柏付きの銀翼なだけの事はある。前線指揮官の声が大きいのも、プロシャ以来の伝統だ。だからこそ言うぞ。もっと声を大きくしたまえ。この私を、情で動かせるぐらいにな」

 

 弱者に用はない。我を貫けぬ小物は去れと言外に告げられる。以前までの私なら、尻尾を丸めて言い繕っていた事だろう。それ以前に、中央参謀本部に踏み込む事さえ躊躇った筈だ。

 だが、今の私は取り繕う真似はしたくなかった。包み隠さず、本音で語りたかった。

 

「我々の祖国は、英雄によって救われたのです」

 

 確かに罪なのだろう。軍という組織にあって、それは決してしてはならない事だったのだろう。けれど。

 

「キッテル大佐殿が為した結果を、参謀将校が理解出来ぬのなら、その者らは飾緒なり徽章なりを国家に返納すべきでしょう。大佐殿の選択は、この戦争を終わらせる唯一の道でした。

 士官学校では候補生の誰もが叩き込まれる一節ですが、参謀総長閣下の時代にはなかったのでしょうか? 『独断専行は将校の義務』でありましょう?」

 

 命令を遵守したが、敗北したと言い逃れるような、無能極まる働き者は銃殺すべきだろう。帝国将校は勝利の為にこそ頭脳を用い、勝利の為にこそ奮起するもの。

 その一点を鑑みるならば、形式に拘泥せず、命をも捨てる覚悟で祖国を救ったフォン・キッテル参謀大佐の果断は、将校として何一つ曇りない筈ではないか。

 

「結果が良かったから、軍規を乱した者を大目に見よと? 『独断専行は将校の義務』とな? 如何にもその通り。前線指揮官の声を耳が痛いほど強めてくれおったが、臨機応変を旨とすべき戦場では、必要不可欠なものであろうとも。

 だが、それもまた与えられた命令があったればこそだ。キッテル大佐は軍の指揮権を蔑ろにし、統帥を麻の如く乱した。大佐を許せば悪しき前例が生み出される。斯様な専横がまかり通る事となれば、軍は規律を失おう。

 英雄とて、否、英雄だからこそ規律は重んじねばならん。軍とは統制あってこそだ。ましてや、士官の逸脱など断じて許されるものではない」

「参謀総長閣下は、帝国の未来を如何にお考えか? 功に報いるに、罰を以て祖国の繁栄があると?」

「だとしたら?」

 

 小モルトーケ参謀総長は笑われていた。それもまた、私を試そうという存念なのだと理解していた。だが、私はもう限界だった。

 

「そのような祖国、忠を尽くす価値などございません!」

 

 私は立ち上がりざまに、首元の黄金柏剣付白金十字を剥いで机に叩きつけた。柏付銀翼突撃章さえ、床に投げ捨てた。

 

「統帥府も中央参謀本部も、空軍指導部も皆無能の集まりです! 前線の将兵は責務を果たした以上、勝利の美酒に酔いしれても良いでしょう!

 ですが、貴方方は終戦の日まで戦争を指導する立場にある! 慢心の上に怠惰と無策を重ね、呷る美酒はさぞ甘美であったことでしょうな!」

 

 お前達が無能だからこそ、有能な者が責を負わねばならなかった! もしもお前達が、常日頃そうであるように優秀で居続けてくれたなら、こんな結果にはならなかったのに!

 

「では、貴官は予測し得たのかね?」

「無論! 大佐殿がしていなければ、小官がブレストを襲うつもりでした! 基地司令にでも問い合わせてみれば宜しい! 小娘が我を失ったように、軍港攻撃を叫んでいたと呆れ返った声で語って下さることでしょう!

 一二の小娘にさえ理解出来た事を、知性と論理の牙城たる中央参謀本部に集う者達が分からぬとは片腹痛い! このような国、たとえ今日勝利出来ても、百年と持たず滅びに瀕する事でしょうな!」

 

 私は肩で息した。心に従うまま、言いたい事の全てを言ってやった。上官への侮辱で営倉送りにされようが銃殺だろうが、後の事など知ったことか。

 

「……よく分かったとも」

 

 そう言って、小モルトーケ参謀総長は席を立った。そして、床に転がる柏付銀翼突撃章を拾い上げ、机に叩きつけた黄金柏剣付白金十字を手で弄ぶ。

 

「貴官は、自分が影で何と呼ばれているか存じておるか?」

 

 ああ、知っているとも。敵の返り血で汚れた『錆銀』。軍人の形をした人形。合理主義が生んだ戦争の申し子……誉れ高き愛国者と、白銀と讃えられる一方で、私への皮肉と、打算と合理性を揶揄したものを口にしながら肩を竦めてみせた。

 

「私も、今日まではそう思っていた。優秀だが、貴官には人の心が欠けておると」

 

 だが、それは間違いだった。人を見る目のない男の失点だったと、小モルトーケ参謀総長は穏やかな瞳で私を見つめた。

 

「貴官もまた、この勲章に相応しい英雄だ。赤小屋に踏み込んだ、他の者らと同じように」

 

 小モルトーケ参謀総長は、手ずから私の首に黄金柏剣付白金十字をかけ直し、左肋に柏付銀翼突撃章を留め直された。

 

「ゆめ、その感情を忘れるな。理性と打算だけでは、将校としては不完全だ」

 

 そう言って、小モルトーケ参謀総長は私の肩に優しく手を置いて下さった。

 

「案ずるな。あの馬鹿者は死なせんし、貴官の発言を咎める気もない。……全く、奴は恵まれた男だよ。これ程まで、己の為に身を擲ってくれる者がいるのだからな」

 

 その言葉が、私は何故か、嬉しくてたまらなくなった。

 




 やっと、デグ様のデレを出せた……。

 そして、デグ様のお怒りシーンの元ネタが、ドイツ空軍のガーランド閣下と、銀英伝のベルゲングリューン閣下だって分かった読者様は私と握手!
 でも、このシーンは後年のデグ様が銀英伝ごっこしたくて、ちょっぴり盛ったのは内緒だ! ガーランド閣下ごっこは当時も本当にやってたけど!

補足説明

【連合王国と共和国の不和について】
 アルビオン将校の書簡のくだりで、「流石に同盟国の将校にこれはないだろw」と読者様は思われたかもしれませんが……これ、史実のエピソードまんまです(ドン引き)
 バーバラ・W・タックマン著『八月の砲声 上』で詳しく書かれておりますが、今回の書簡そのままの書き送りを、イギリス軍のジョン・フレンチ派遣軍司令官が、キッチナー元帥に送っております。
 呉越同舟にも程があんだろ連合軍……w

【デグ様激おこ中の、参謀総長の内心について】
 小モルトーケ参謀総長が、デグ様にめっちゃ寛容だったのは「まぁ、そういう関係なんだろうなぁ」とスゲエ微笑ましい目で見ていたからです。
 主人公が少年兵云々言ってたのも「要はデグ様が大事だったからなんやろ?」みたいに察してました(そして後々、この仮説を基にデグ様を利用しようとします)。

 でも、デグ様の「ブレストの強襲は自分がやるつもりだった」発言には内心ガチでビビってました。「マジかお前。いや、マジっぽいな」みたいな目で見ました。そして優秀だし、将来副官に置きたいとも思いました。要するにご機嫌取りな面が強かったって事です。
 考え直すなら今だぞ参謀総長閣下!

 ちなみにエルマーくんが赤小屋に行った時の参謀総長は、ガチで頭抱えました。こいつが軍を辞めるとか、帝国にとって痛手とか損失ってレベルじゃ無くなるのです。そして本人もそれを自覚してるから「ちょっとでも兄上を傷付けたら、わかるよね?」みたいな恫喝をかましてきました。その後もあちこちで恫喝祭りです。ノンストップです。
 父上はこの話に出てきてませんが「マジで何でもするから銃殺だけは止めて」と統帥府に懇願してたりします。
 愛されてる主人公のせいで、周囲への負担が半端ないことになってる模様。


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40 無罪判決-ターニャの記録10

※2020/2/25誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 一週間と経たず、私は憲兵司令部からの拘留を解かれ、軍衣と勲章も返却された。軍事裁判所への出頭が待っているのだろうとばかり考えていたのだが、どうにも様子がおかしい。

 乗せられた車は護送車でなく、官吏や高級将校が乗る物であったし、着いた先も裁判所でなく統帥府であった。

 

“内々に処理するのだろうか?”

 

 表向きは病気除隊後の病死か、それとも戦死か事故死か。何れにせよ、キッテル家に迷惑のかからない死に方を用意してくれるのであれば、私としても言う事はない。

 

「ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテル参謀大佐。貴官にかけられた罪状は『命令系統の逸脱』『上官への不服従』『停戦命令への抗命』であった。

 統帥府は被告人に対し、略式の軍事裁判を行う事を認められた。否、認められていた」

 

 どういう事か? と私は内心首を傾げたが、居並ぶ面々は事務作業を続けるように、私が口を挟む事を許さないまま淡々と口上を続けた。

 

「これらの罪状は、全て軍内での指揮系統に、一時的な混乱が見られたものと認む」

 

 彼らの言い分はこうである。私は命令系統を逸脱していないし、上官の命令に忠実に従っていた。停戦命令に関しても前線将兵のみの通達であり、後方においてはその限りではなかったと言うのだ。

 私は彼らが何を言っているのか、まるで理解できなかった。頭の上に疑問符を浮かばせながら、何故こんな話になるのかと問いたい気持ちで一杯だった。

 

「中央参謀本部によるブレスト軍港攻撃計画は、最高統帥府と陸相の裁可を得ていたものと、各記録と照らし合わせても矛盾のないものと判断する。

 但し、帝国空軍による打診と調整には、()()()不備が見られたようである。空軍総司令部に勤務中の被告人が、小モルトーケ参謀総長から直接指示を受けた以上、この命令は正当なものであり、疑義を挟む余地などないと判断しても、致し方ない事であろう。

 しかし、前線視察に赴いていたエップ空軍総司令官以下の幕僚らには、危急の案件により処理された計画が周知されていなかったのだ」

 

 ことは一刻を争う事態である以上、かつてない速度で受理された攻撃命令に、伝達速度が追いつかなかったと言いたいらしい。そんな間抜けを帝国軍がするかと言いたくなったが、彼らの中でこれは決定事項なのである。

 

「当裁判を担う統帥府は、貴官が忠実に義務を果たした事をここに認め、罪状は全て棄却された事を通達する。もう下がって宜しい」

 

 

     ◇

 

 

 事実上の無罪を言い渡された私は、無言のまま統帥府を去った。小モルトーケ参謀総長は、本当に私の命と、軍人としての名誉を守って下さったのだ。

 一生をかけても、返せない大恩であることは間違いない。勿論、その影にはエルマーをはじめ、多くの者達が私の為に尽力してくれたのだろうという事も弁えているつもりだ。

 私は真っ先に空軍総司令部へと足を運び、指導部の面々とフォン・エップ大将に謝罪しようとしたが、私の顔を見るや、フォン・エップ大将は鉄拳を見舞ってきた。

 

「貴様は、貴様というやつは……!」

 

 加減や躊躇など全くない。周囲では顔を(しか)めながら、どうしてくれようかと考えていたに違いない高級将校らも、フォン・エップ大将の怒号と制裁に顔を青くし、「本当に死んでしまいます」と大将を羽交い締めにされたほどだ。

 

「大佐! 貴様は軍の命令系統を何と心得ておる!? この私の許可なく軍を動かしたばかりか、空軍全体にどれほどの混乱を招いたか、その鈍い頭でも叩けば分かろう!」

 

 私の顔は青痣まみれであり、馬鈴薯のように歪であったというのは鏡を見るまで分からなかったが、それでもフォン・エップ大将は怒り冷めやらぬ様子であった。

 

「何故、私に電報の一つも発しなかった! 届かぬとしても、それさえあれば内々に処理出来たのだ! 貴様の為にどれだけの人間が動いたと思う!? 空軍は全員だ! 上から下まで、この私から一兵卒まで貴様の助命を嘆願した!

 中央参謀本部からも、小モルトーケ参謀総長が直々に統帥府に電話を入れられたのだぞ! 『白銀』などは直接中央参謀本部に乗り込んでまで、寛大な裁可を願い出てきたと美談まで付けてな!

 挙句に貴様の弟が、軍を退役すると脅してきおったばかりか、ご尊父のエドヴァルド歩兵大将まで統帥府に寛大な処置を願い出たほどだ!

 誰も彼も、貴様の軽挙妄動のせいで動く羽目になったのだ!」

 

 フォン・エップ大将は肩で息をしながら、「一生をかけて皆に借りを返せ」と漏らした。

 

「……だが。貴様の選択が正しかったことも事実だ」

 

 抵抗の種は、南方大陸という土壌に撒かれる前に摘み取られた。パリースィイは占領され、凱旋門を帝国軍がガチョウ足(グースステップ)で行進し、行進曲が共和国首都に満ちている。

 歴史に残る大勝利。プロシャ・フランソワ戦争の時と同じく、我々は再び勝利した。

 一度として『終戦』を口にしようとしなかった共和国政府は、帝国に対して無条件に近い講和条約を結ばざるを得ず、連合王国もまた、敗北という現実を受け入れる他に道はない。

 全ての分水嶺は過ぎた。帝国の勝利は一時のものでなく、長く続いた戦争の道は、ようやく終わりを迎えようとしている。我々の、傷を癒す時が来ていた。

 

「貴様がもたらしたのは『勝利』ではない。それ以上に価値ある『終戦』と『平和』だ。だが、私も他の誰も、それには報いてやらん」

 

 戦勝の進級も、名誉章の授与もない。だが、私は生きている。皆の温情と厚意で、今もこうして軍衣を纏う事を許されている。それ以上を望む事など、一体どうして出来るだろう?

 

「閣下。小官は既にして、身に余る多くを頂いております」

「当然だ。私も与えた一人なのだからな。だからこそ、今後は私の命令には絶対服従して貰う。早速だが命令だ、大佐。溜め込んだ休暇を今日から消費しろ。二週間は総司令部に顔を出すな」

 

 その間に、皆に感謝を述べておけという事だろう。私は敬礼と共に踵を返し、素直に休暇を受け入れた。

 

 

     ◇

 

 

 穏やかな平和が、戦争という血で血を洗う日常を置換する。この日を、この時を、私はずっと願っていた。傷ついたターニャ・デグレチャフ少尉を、この腕に抱いた時から。死にたくないと彼女が漏らしたあの日から。私はずっと、ずっとこの日の為に進んできた。

 一九二六年、四月一日。窓を開ければ、温かな春の陽気と穏やかな風が優しく出迎えるであろう季節に、帝国は戦争を終えるのだ。

 共和国・連合王国は、共に降伏文書に調印した。侵略国である両国には、過去の和平交渉の時とは異なり、相応の金額での賠償金の支払請求に加えて、レランデルを帝国一州と正式に認め、レツェブエシ大公を国王とする事にも同意させた。

 この上で共和国と連合王国には、幾つかの植民地割譲も要求し、更には共和国に対して本土工業地たるカレスまで接収するという苛烈な要求*1を課したが、共和国はそれを呑む以外にはなかった。

 

 共和国という陸軍も、連合王国という海軍も既にして崩壊していたが、『方舟作戦*2』の教訓から、最後の一瞬まで気を抜けない事を学んだ帝国は、両国政府が正式な『終戦』を告げるまで、各軍港と基地にフィーゼル・セカンドを発射し、絶え間ない空爆でもって既に背骨の粉砕された国家の継戦能力を削ぎ尽くしたのだ。

 

 日の沈まぬ国(アルビオン)は、斜陽から落日に至った。

 かつては中央大陸全土を、フランソワ大陸軍(グランダルメ)という影で覆い尽くした共和国は、今や列強という地位さえ保持する事が困難となった。

 

 多くの人は、帝国の所業に思う所があるかも知れない。本当にここまでする必要はあったのか? 何処かで、終わらせることは出来なかったのか? と。だが、本著を手に取って頂いた読者諸氏ならば、我々の戦いを知る諸君ならば、ご理解頂けている事だろう。

 我々は侵略者ではない。我々は幾度となく平和への道を模索し、常に講和を提示し続けてきた。幾度も、本当に幾度も、平和と安寧を求めた結果、戦う道以外になかったのだと。

 

 平和とは黙っていれば。武器を手放せば。声高に訴えれば手に出来るものではない。抗い、立ち向かいながら、自分達が相手より優位に立つことでようやく模索できるものだ。途方もなく困難で、連綿と国民の血を流して手に出来る得難いものなのだ。

 だからこそ、我々はここまで来た。ここまで来なければ、勝ち取らねば手に出来ない物だったからこそ、私達の成果は進み続けたことで結実したのだ。

 

 この平和が、いつまで続くかは分からない。一〇年か、二〇年か。せめて侵略された祖国の傷が癒えるまでは、フォン・デグレチャフ参謀中佐が、穏やかな日々の中で自分の人生に選択肢を設けられるぐらいは、続いて欲しいと思う。

 

 だが、今は未来に思いを馳せるより、現実を見直すべきだろう。

 私は多くに迷惑をかけた。勿論、ひとかたならぬ世話を焼いてくれた戦友一人一人に誠実に謝罪し、感謝も述べた。父上は馬鈴薯のようになった私の顔を更に腫れ上げさせて、フォン・エップ大将と同じように叱責した後に抱きしめてくれた。

 エルマーは私の顔を見て笑いながらも、手当をしますと言って離さなかったし、皆の怒りが冷めた後で、魔導軍医に治して貰って下さいと紹介状まで書いてくれた。

 

 小モルトーケ参謀総長は、ガーゼと包帯で顔面傷痍軍人のような有様となった私の面貌に驚きつつも、当然の報いだと漏らしてから、「平和をありがとう」と抱擁してくれた。

 そして、「これぐらいは良いだろう」と、私に戦勝記念メダルを渡してくれたのだ。

『内に団結、外に果敢』というモットーが刻印された青銅製の戦勝メダルは、本来なら戦勝によって得られる一切を剥奪された私には、相応しからぬ物であったが、これぐらいの感謝はさせてくれと、小モルトーケ参謀総長は譲らなかった。

 

 戦勝に伴って進級したダールゲ中佐──ダールゲは最後まで進級に抵抗したが、結局人事局に押し切られた──や戦友達には直接会えなかったので、各基地に電報や電話で感謝と謝罪を述べたが、皆快く許してくれた。

 

 そして今。私は帝都の高級ホテル(カイザーホーフ)で、フォン・デグレチャフ参謀中佐と──膨れ上がった顔を、魔導軍医に治して貰った上で──優雅なランチに繰り出している。

 中佐は貴族の私でも洗練されていると感じる程のマナーでコース料理に舌鼓を打った後、最高級アラビカ豆を丁寧に挽いた珈琲を楽しみながら、私への文句を延々と、棘のある声音で垂れ流してくれた。

 

「参謀総長閣下に直訴した日には、心臓が止まるかと思いました」

 

 私は小モルトーケ参謀総長から、フォン・デグレチャフ参謀中佐がどれだけ私の為に尽くしてくれたか。その言の葉や猛りを、こと細かに説明されていたので、彼女の語る多くが事実とは異なる事を内心理解しつつも、時に相槌を打ち、時に謝罪しながら、出来る限り彼女の機嫌を取ろうと努めた。

 私はエルマーにあれだけ言われて尚、自分の気持ちに気付けない朴念仁だったから、もしもフォン・デグレチャフ参謀中佐が恋をするようになったら、きっと相手が困った時には、口では文句を言いつつも手を差し伸べてくれる、愛にひたむきな女性になるのだろうな。

 などと考えていたが、今にして思えば、私はもっと早く自分の気持ちに素直になるべきだったと思う。

 

 本当は、誰かをそのように愛するのだろうと思うのでなく、自分がそのように愛して欲しいと心の何処かで思っていたし、フォン・デグレチャフ参謀中佐が我が身を挺してまで私の為に動いてくれたことが、これ以上なく嬉しかったのだから。

 

 

     ◇ターニャの記録10

 

 

 ベルンでも特に新しく、そして最高級のホテルに連れられた私は、招かれるままに上品なランチを摂りつつ、無礼講であるのを良い事に、延々愚痴と嫌味と苦労話を語り続けた。

 当時の私にしてみれば、いざ事が終わって振り返ると、なんでこんな一文の得にもならない事を、身の危険も顧みずしてしまったのかと馬鹿馬鹿しくなり、謝罪と感謝を兼ねた食事に誘われた段になると、その鬱憤を吐き出すように何処までも無遠慮になっていた。

 

 フォン・キッテル参謀大佐は、表向きにこそ『手違いで拘留された』ことになっていたが、それが嘘八百だという事は帝国軍内では上から下まで誰もが知るところで、更には終戦で帰郷した兵士から国民に伝わってしまったが為に、こうして本著に記される程知れ渡ってしまった。

 小モルトーケ参謀総長なども、ここまでくれば時効だろうと、結婚式から間を置かず当時の『美談』とやらを赤裸々に語り、私が辛辣な罵言を放って勲章を叩きつけたという話まで伝わってしまったが、今日でも未だに誤解というか、兎に角事実と異なる脚色が溢れているので、読者諸君にはこの場を借りて言わせて貰う。

 

 フォン・キッテル参謀大佐が銃殺されそうになったと聞いて、私が直接憲兵司令部に乗り込んで、今生の別れとなるだろう大佐に告白しただの。小モルトーケ参謀総長に対して、涙ながらに愛する人の為に縋ったなどというのは嘘っぱちだ。

 全部宣伝局や、後年の出版社連中が面白おかしく書き立てただけだ。

 

 実に呆れ返る話だが、この時の私はまだ自分の心を自覚できておらず、フォン・キッテル参謀大佐に向ける思いは、利用と打算が七割か八割といったところだろうと本気で思っていたのである。

 勿論これは当時の私がそう思い込んでいただけで、既に利用や打算から接するような間柄では決してなかった。

 でなければ、こうも軍の英雄を困らせるような、可愛げのない餓鬼として接する筈も無し。傍目には、自分の感情を自覚も出来ない小娘が、惚れた男に対して年相応の、表情豊かな態度を取っていたようにしか見えなかったことだろう。

 これだから恋愛経験のない小娘は駄目なのだと愚痴を零したくなるが、ともあれ、恋慕の自覚など夫同様に無かったのだから、世の夢見がちな少女らが望むような展開になる筈がなかった。

 夫は自分を朴念仁だと自嘲したが、私とて当時は似たようなものだったのである。

 

 まぁ、だからこそこうして、何食わぬ顔でお互い無邪気に食事を摂り、珈琲の香りを楽しんでいる訳だが。今にしてみれば、もう少しお互いに歩み寄るか、素直に生きておけば良かったのではないかとも思う。

 

 お互いが鈍感なロマンスなど、流行りはしないのだし。この時なら、どちらから告白されても、私達は断らなかった筈なのだから。

 

*1
 これらの要求に関しては、連合王国からの取引があった事は周知の通りである。連合王国は共和国軍残党による亡命政権樹立が失敗したと見るや、即座に降伏に応じる意思を示すと共に、共和国に対する要求を認めさせるよう動いていた。

 その引き換えとして賠償金額の段階的減少と、植民地の中でも蜂起によって手放さざるを得ない領土を事前に帝国に引き渡すことで首の皮を繋いだが、最終的な財政破綻は免れなかった。

*2
 ド・ルーゴ少将が決行した、撤収行動を始めとした亡命計画の作戦名。




 カイザーホーフは実在した高級ホテルだったのですが、43年の空襲で無くなってしまいました。
 そして今は、跡地に在ベルリン北朝鮮大使館が建っています……戻して(´;ω;`)

補足説明

【帝国の鬼畜な降伏条約について】
 共和国に対して、賠償金の支払いに(一部)植民地の放棄、本土割譲とか言う、(ほぼ)逆ヴェルサイユとか、幾ら侵略国相手とはいえ鬼畜過ぎね? と思われる読者様は多いと思います。
 ええ、やった作者もドン引きしております。これでも植民地全部よこせって言って、賠償金も地獄なヴェルサイユより遥かにマシなのですが……マジで容赦ねえなフラカス。
(なおあんだけ賠償金積んでも、フランス的には赤字だった模様。WW1は地獄。はっきり分かんだね)

 作者個人としては、本当ならカレス(カレー)からフランソワ国民を叩き出して、帝国の領地として切り取る代わりに、史実のエルザス・ロートリンゲン同様に反帝国感情の強いアレーヌ・ロイゲン市を返却する(要は交換)という手を打ちたかったのですが……。
(鉄血宰相とかは「エルザス・ロートリンゲンはドイツにとってのアキレウスの踵だから欲しくねえよこんな土地!」とかって言ってたぐらい、政治的に厄介な場所だったりします。
 反面、鉄鉱石の産地だし、フランス側を守勢に追い込めるという旨味の大きい土地でもありましたが)

 この土地、幼女戦記原作・漫画版双方で、鉄道の要衝にして兵站線で必須という、超重要な緊要地域だったので、交換を断念せざるを得ませんでした。  ……多分、後々どっかのタイミングで共和国軍が市民をそそのかして、帝国が武装蜂起した市民を、デグ様の『パルチ皆殺し論文』に従って燃やすんだろうなぁ。
 ごめんよアレーヌ市の皆。多分この作品の世界線でも、将来君達死ぬわ(死刑宣告)

 そしてフランソワ共和国は、フィリップ・ペタンポジションの方が、ちょび髭伍長の如く君臨して、復讐鬼フランスもとい、フランソワを牛耳るのも確実でしょう。
 歴史の正解が分かってても、後の世に遺恨を残さざるを得ないとかきついっす……

 いやまぁ、どんだけフランソワが先鋭化したところで、確実に負けますから、帝国とドンパチは絶対にしないんですけどね。帝国との国力差もそうだけど、今次大戦でガッツリ若年層が消えたので、多分継続戦争終わったフィンランド並みに悲惨な事になりそうです。
 だからその分、アルジェリアとかが地獄になるよ!(苛烈な植民地支配は列強のたしなみ)

 で。反対に戦後の帝国は、最終的に何もかんも力で捻じ伏せる蛮族国家になるよ!
(今と大して変わらない模様)
 こいつら外交官からして諸列強ねじ伏せた戦勝の絵を廊下に飾るぐらいアレだし!
 多分戦勝後は世界の盟主とか警察気取って、私達の世界のジャイアンこと米国ポジに収まるのは確実でしょう! 救いがないことに!

 結論。
 ……政治的な諸々を考えてやっちゃうと、完全無欠でハッピーなルートって無理なんやなって(絶望)

【連合王国は、ド下種外交したのに、なんで財政破綻したん?】

連合王国「連合組んだ相手は売った!(いつものブリカス)
     賠償金も減額する予定だし、これなら何とか耐えられるな!」

帝国「じゃあ、うちがお前らに援助とかする必要ねーよな? フランソワは賠償金貰わんとアカンから、ギリギリのとこでフォローしたるけど、お前らは余裕やろ?」
連合王国「え? 待って? やべー植民地パスしたって言っても、まだピンチなんですけど? 首の皮一枚繋がってるだけだから、ポロっと行きそうなんですけどぉ!?」
帝国「いや、うちも戦時国債とかで苦しいんで。最低限整えたんだから、後はそっちでオナシャス」

 大体こんな感じ。どうあがいてもブリカスは、財政破綻という歴史の宿命から逃れられないようです。


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41 モスコーは燃えているか-ターニャの記録11

 世界がすっきりしてきたかな?
 ……んむ? ちょおっと、右側が目に悪くなぁい? 赤色がくどすぎなぁい?(次の獲物を見る目)

中央大陸 各国勢力図 1926年6月22日
【挿絵表示】

※2020/2/25誤字修正。
 すずひらさま、佐藤東沙さま、MAXIMさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 私も未来の夫も、フランソワ共和国・アルビオン連合王国との戦争の後に続く平和は、少なくとも一〇年は続いてくれるだろうと考えていた。

 帝国は世界の盟主として捉えられていた連合王国を下し、四方を取り囲む中央大陸の仮想敵国にして、列強諸国を各個撃破した事で『覇権国家』たる地位を得た。

 三年近い列強諸国との戦争で疲弊していると言っても、未だ帝国には余力が有り、どのような国であろうと防衛戦争であれば十二分に対応できる。それだけの国力を有していたからこそ、幾つもの戦線を抱えながら勝利する事が出来たのだ。

 

 だからこそ、帝国は理解に苦しんだ事だろうし、ふた月ほどの本国勤務と休暇を満喫した後に、有無を言わさず第二〇三航空魔導大隊と共にオストランドに配属させられ、ルーシー連邦との国境付近で、中央参謀本部からの封緘封筒を開封した私も頭を抱えた。

 東部国境線全域で、ルーシー連邦による大規模侵攻に向けた事前集積が開始されているというのだ。当然、帝国とてこの事態を全く見過ごしていた訳ではない。

 

 私の夫が散々語ってきたように、ルーシー連邦とは油断ならない欺瞞と退廃に満ちた国家だ。信用なき彼の国に、帝国は後背を晒す事だけはせず、ダキア大公国攻略後も常備軍を配置し続けた事からも、警戒の度合いは窺えよう。

 しかし、この情報が正しいとすれば、『何故』という疑問が私にも大隊にも過る。連邦が帝国を蹂躙したいというならば、これまで幾らでも機会はあった。

 ダキアと共に殴る事も可能だったし、北方や西方に攻勢に出た時に、背中を刺すことも出来た。帝国が複数の戦線を抱えていた時こそ、連邦にとって最大の好機であった筈なのだ。

 だが、今はそうした疑念を挟むよりも、情報の正誤を確認する事こそ先決だろう。我々大隊が命じられるまま偵察任務に赴けば、そこには条約上存在してはならない筈の戦車師団が雁首を揃え、列車砲が発射準備を整えていた。

 

“中央参謀本部は、正しかったということか”

 

 未来の夫が拘留された一件では散々に無能扱いしてしまったが、これはもう詫びるしかないなと心中で謝罪した。まぁ、謝罪ならば只だからなという、打算に塗れた誠意の欠片もない、しかも心の中だけの謝罪なのだが。

 

 それはともかく、私達としてはすぐにでも列車砲を破壊したい所であったが、開戦に踏み切っていない以上、自分達から攻撃を仕掛けては防衛戦争が侵略戦争に早変わりしてしまう為に、打って出ることは出来なかった。

 政治的配慮という後の事情を考えるならば致し方ないとは言え、侵略者の蛮行を見過ごすなどというのは、如何に打算と合理性で構築された──と、少なくとも私自身は信じていた──この時期の私であろうとも耐え難いものであった。

 列車砲の発射と同時に、連邦は帝国に宣戦布告。帝国もまた全戦域に攻撃命令を出した事で、開戦の火蓋はここに切られた。

 

 中央大戦という、過去、現在の歴史における最大規模の戦争の後半戦。

 東部戦線(ルーシー戦役)の幕が、今ここに上がってしまったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 可能な限りにおいて、戦車と列車砲を爆裂術式で吹き飛ばすこと数日。東部軍からの支援要請を受けた第二〇三航空魔導大隊の指揮官として、私は暫し熟考した。

 このまま敵野戦砲や列車砲といった地上兵器を潰しつつ、地上軍の増援まで遅滞戦闘に務めるだけでも十分。しかし、未来の夫もそうだが、私もアカが、コミーが大嫌いなのだ。

 無用な搾取、虐殺、経済倫理観の崩壊した、腐敗に満ちた政治体制。人命をゴミ以下と公言するかのような蛮行の数々には、夫でなくても義憤の一つぐらい抱いて当然だろう。

 

 よって、私は連中に対して、徹底的に嫌がらせをしてやろうと考えた。

 

 名目は陽動。目標は敵首都。近年にルーシー連邦が将校の大規模粛清を行った結果、この時期の連邦は魔導師が欠如していたし、航空機も数こそ多いが人材が絶望的と来ていた。

 連中の防空能力が皆無であるという情報は、高級将校ならば誰もが知るところであったのである。

 当然の倫理として、如何に相手がコミーの国だろうと、一般市民を巻き添えにする訳にはいかないが、連中が戦時体制に突入すれば、常に国民皆兵を宣って都市部を空にするのはルーシー帝国時代からの伝統でもあるので問題ない。

 何より、陽動はあくまで陽動。都市を制圧するのではなく、悪趣味極まる政治モニュメントを幾つか破壊するだけでも十分だ。

 

“保身に塗れた赤い貴族(ノーメンクラトゥーラ)共なら、軍事的合理性よりも、自己の安全を全てにおいて優越させるのは火を見るより明らかだからな”

 

 成功すれば、連邦は自軍を後方に下げて都市部に張り付けてくれるだろうし、そうなれば前線の負担は大きく軽減されるだろう。

 

「とはいえ、政治的な配慮という奴を欠かす訳には行かない。独断専行はキッテル大佐殿の二の舞だからな」

 

 大隊員達は一様に笑った。幸いにしてこの時は、私がフォン・キッテル参謀大佐の為に中央参謀本部に乗り込んだ事は大隊各員に知られていなかったので、皆と同じように私も笑ったものである。

 

「仰る通りですな。直ちに照会に取り掛かります」

 

 

     ◇

 

 

 第二〇三航空魔導大隊の要請は、直ちに中央参謀本部の稟議に回され、リスクこそ高いが成算ありとして許可が下りた。

 何時ぞやの方舟作戦への見通しの甘さが学習させたのか、それとも勝ちに驕ることの危うさを理解して気を引き締めてくれているのか、何にせよ良い傾向に変わりない。

 私は喜々として大隊と防空網を飛び越えて連邦首都、モスコーへ到着。連邦人民宮殿なる装飾過多で悪趣味な施設に、同じぐらい目に悪くて悪趣味で巨大な赤い星。無数に並ぶゴテゴテとした銅像達は、皆罪なき人民を殺したことを称えて建てられたに違いない。

 

 共産主義者はセンスも最悪だと確信する一方、私は横目に部下を見た。

 セレブリャコーフ中尉(一九二六年、四月進級)は、ルーシー連邦の革命騒ぎの折に亡命した、共産主義者の抑圧と圧政の被害者なのだ。

 子供の頃の記憶ではあるが、モスコーの地理には明るいと笑顔で語って先導してくれたが、私は鈍感ではあっても、その表情の裏に何があるかを察せないほどの愚物ではない。

 私はセレブリャコーフ中尉に、「連邦人民宮殿の赤い星を破壊しろ」と笑顔で指示。世の男共を骨抜きにしそうな眩しい笑顔と共に、中尉は赤い星を地に落とすより早く爆散させた。

 

「見事! 見事だぞ中尉!」

 

 私は手を叩いて喝采した。常識人で常日頃から内向きかつ常識的な性格故に、ストレスが溜まっているのではないかと心配していたが、この際だから思い切り発散して貰うとしよう。

 部下の精神安定も気遣えるとは、なんて良い上司なのだろうと自画自賛しつつ、私も破壊の限りを尽くす。

 

 秘密警察の機密書類を、徹底的に焼き尽くしましょう! というセレブリャコーフ中尉の並々ならぬ勤労精神には私も大歓喜だ。

 

 労働者の国よ! これこそが清く正しい人民のあるべき姿だとは思わんかね!

 人民よ、諸君らの命を救ったセレブリャコーフ中尉という女神を仰ぎ讃えよ! と叫びながら、私は共産主義モニュメントを遠慮なしに部下と一緒に発破解体中。

 

 勿論勲一等はセレブリャコーフ中尉だ。叙勲申請は通させる。絶対に通す。

 共産主義というカルト思想を強いられた労働者達には、今日からセレブリャコーフ中尉に毎晩祈ることを義務付けさせたい。宗教は阿片だと連中は言うが、大量虐殺の指導者連中に祈る方が私はどうかしていると思う。

 

 何より、見た目からして胡散臭い、人民の血肉で肥え太って臭そうな男共よりも、若い美人に祈る方が精神衛生上にも良いことは間違いない。

 破壊の限りを尽くす私達に唯一不満があるとすれば、クレムリンが大隊全員の重爆裂術式どころか、対拠点貫通攻撃用の徹甲術式弾でも破壊不可能だったという事実である。無能な独裁者ほど保身は一級というが、連中は一級どころかスペシャリストと言って良いだろう。腹立たしい。

 

 このままでは、喜色満面だったセレブリャコーフ中尉の爽やかな笑顔が消えてしまうではないか!? いかん、いかんぞ! 上官として、部下に快適な職場と仕事を提供する事は義務である! 中尉の作業効率が落ちるのは大問題だ!

 私は悩んだ。そして、ふと思い至ったのは、連中がプロパガンダの製作に熱心だと言うことだ。映画撮影所では、案の定反帝国プロパガンダ用の帝国国旗も完備と来た。それ以上に赤旗もたっぷりある。

 

「喜べセレブリャコーフ中尉! 今日から貴官は大女優だ!」

 

 セレブリャコーフ中尉の目が、赤い星などより遥かに美しい綺羅星のように輝いていた。きちんと軍票と支払い証明書を撮影所内に叩きつけるところが、実に真面目な帝国軍人らしい。

 男共の手によって回されるカメラと共に、有り余る美声で帝国国歌を熱唱し、革命記念広場で赤旗をへし折って帝国国旗を翻す!

 セレブリャコーフ中尉はかつてないほど絶好調だ!

 私もファンになりそうだぞ中尉! 愛おしいぞ中尉!

 もっとモスコーを燃やすのだ中尉!

 

「中尉! 貴官は今、最高に輝いているぞ!」

 

 才能溢れる新人女優を被写体にした映画監督とは、おそらくこんな気持ちなのだろう。「中佐殿も是非ご一緒に!」と誘われたので、二人で仲良くデュエットだ。

 嗚呼、麗しきかな戦友愛! なんと赫々たる大戦果!

 これは間違いなく、大隊全員に特別恩賞と勲章がセットでついてくるに違いない!

 

「大隊諸君! 東部方面軍に凱旋だ! 我々は花束とキスで迎えられるぞ!」

 

 

     ◇

 

 

「デグレチャフ中佐。貴様はやりすぎたのだ」

 

 ……え?

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 時計の針を、少々巻き戻そう。

 一九二六年、六月二一日。二二時。帝国はルーシー連邦の奇襲攻撃と同時の宣戦布告を受け、防衛戦争を開始。私もまた空軍指導部でなく、再び一パイロットとして最前線で戦う栄誉を得た。

 無論、これには理由がある。一つは赤軍*1の兵力は雲霞の如きものであり、東部方面全域に展開された赤軍の対応には、全帝国軍が一丸となって当たる必要があったこと。

 

 二つは、既にして連邦がダキアにも同時宣戦布告を行っており、帝国は片割れとは言え、安全保障条約上、彼らを守らねばならなくなった為に一部戦力を割き、ダキア国民と政府を後方に下げる必要が出てきたためだ。

 このような状況に置かれては、如何に過去、二正面、三正面を経験した帝国軍といえども余裕はない。

 使えるものは文字通り全てを使わねばならない状況だからこそ、私は指導部で頭を動かすのではなく、最前線で一機でも多くの軍用機を墜とすか、或いは地上の戦車や砲を片端から潰して貰わねばならなくなったという訳だ。

 

 正直に言えば、私は一年前にアルビオン艦隊に空襲を仕掛けて以来、訓練以外で軍用機に乗る機会がなかったので不安だったのだが、赤色空軍との初戦は錆落としにもならなかった。

 相手から奇襲を仕掛けてきたというのに、赤色空軍の航空機は立ち上がりが遅く、脆弱だったのだ。航空団を率いて飛んだ私は、国境を高高度で飛び越えて野戦飛行場を爆撃した。

 一〇〇〇機以上もの航空機が一瞬で燃え上がり、辛うじて飛び立つ事に成功した戦闘機も、私と指揮下にある戦闘機隊があっさりと撃墜し、悠々と基地に引き返せてしまった。

 初日の交戦は、東部戦線全体で戦闘機が三〇〇以上を撃墜。野戦飛行場の戦果は過剰だろうと当初思われていたが、後に確認したところ、敵機の被害総数は二〇〇〇機を下回る事はないと判明した。

 

“まるでダキアだ”

 

 確かに帝国軍では、連邦指導者が保身の為だけに軍将校の大粛清を敢行したことは察知していたし、実際に物量こそ多いが、質そのものは脆弱だろうという事も理解していたが、ここまで脆いとは思いも寄らなかったのだ。

 空軍は方針を切り替えた。戦闘機隊で制空権を確保した後に、ゾフォルトや戦闘爆撃機を用い、その制圧力でもって、敵野戦軍を叩き潰そうというのである。

 

 これには現場の私も賛同した。現状、我々は大規模な侵攻を開始出来るほどの数的優位を確保していない上、連邦領の奥地に入れば入るほど、インフラ整備がなされてない区域に足を踏み入れなくてはならなくなる。

 連邦からの亡命者と情報部の情報を元に、帝国は敵国のインフラ事情をそれなりに把握していたが、内容は指導部が大いに頭を抱えるものであった。

 何せ、敵地では前進補給路として使用できる道路が限りなく少ない上、モスコーに通じる舗装道路はミースクから伸びる一本のみで、他は良くて砂利道。鉄道のレール規格さえ違うと来ているのだ。

 帝国は鉄道部隊に路線を改軌させるか。それとも馬匹と輸送車両を用いて、行列を作りながら細々と侵攻するか。何れにせよ進軍を行う以上は選択を迫られるが、自分たちの領土に近い位置で戦う内は、その心配に悩まされることはない。

 

 組織的後退を行いつつ、連邦軍をインフラと基地の整っているオストランドに引き込み、多大な出血を強いる事が出来れば、我々はやがて数的優位を確保し得るし、その間には進軍に必要不可欠なハーフトラックの量産も進むだろう。

 ただ、ダキアの油田に関しては手放しで敵に渡してやるには行かない以上、早急な攻略と確保が求められる。

 帝国一国でダキアの安全を確保せねばならない以上、確保した石油は徴発させて貰う事になるだろうが、そこは必要経費として割り切って貰うしかない。私達が倒れれば、ダキアもまた共倒れになってしまうのだから。

 

 

     ◇

 

 

 ルーシー連邦の国土は、唯でさえ広大で縦深防御に事欠かない厄介な土地だが、侵攻を阻む最大の敵といえば、やはり泥と寒さだろう。

 フランソワ大陸軍(グランダルメ)のルーシー遠征時代には、機械化された軍隊など存在しなかったが為に、春から秋の進軍は問題なかったのかもしれないが、高度発達に比例して繊細な兵器を取り扱う我々はそうも行かない。

 春から秋のルーシー連邦は雪解けによる泥濘が続き、トラックや戦車の多くが沈んで使い物にならなくなる。冬になれば泥濘も凍りつくかもしれないが、今度はその寒さ故に兵士は凍え、精密機械たる戦車や戦闘機も、潤滑油まで凍って動かなくなるだろう。

 地形や天候が戦線を阻むのは協商連合も同様であったが、帝国軍はそれ以上の艱難辛苦を、連邦の大地で経験する事は間違いない。

 

 エルマーは予てからルーシー連邦への侵攻然り、防衛然りの問題をフォン・シューゲル主任技師との兵器開発の傍ら私に語ってくれていたから、そこいらの将校より東部の知識と理解は十分にあったし、勿論空軍指導部や中央参謀本部にもエルマーの危惧は伝えている。

 まさか、ここまで早くその知識が活かされる事になるなどとは、私自身夢にも思わなかったが、少なくとも上が無謀な侵攻計画を立てることはないだろうし、私も無理な進軍を続けずとも、ここで出血を広げられるならそれに越した事はないと考えていた。

 雲霞の如き連邦軍と違い、長期の戦争を行ってきた帝国軍にとって、人命とは無為に支払う事の出来ない金貨なのだから。

 

 

     ◇

 

 

 度重なる戦争で鍛え抜かれた古強者達はゾフォルトの為に空をあけ、私を含む魔導攻撃隊は赤軍の戦車や重砲、輸送列車から歩兵師団まで、可能な限り粉砕し続けた。

 だが、戦果を拡大させ、敵の出血を甚大な物にしていく一方で、私はどうにも腑に落ちなかった。一体何故、連邦は今になって帝国に宣戦布告したのだろう? 律儀に帝国が複数戦線を抱えている間だけは、ダキアとの終戦の折に結んだ不可侵条約を守ってやろうと紳士的になっていた訳でもあるまい。

 それ程まで連中が信義に厚いなら、ダキアは今侵攻を受けてはいないし、油田も強奪されてはいない筈だ。

 帝国流の合理的観点で見るならば、連邦は『今』だからこそ、或いは『ここから』なら勝算の見込み有りと考えて動いた筈。

 複数戦線を抱えていた時期の帝国を背中から刺すよりも、今の方が遥かに効果を見込める何らかの手段を持っていたからこそ、連邦は動いたと見るべきだ。

 

“新兵器を発明したか。或いは何処かの国と、内密に軍事同盟を結んだか”

 

 もしくはその両方だろうかと、ゾフォルトで弾薬が尽きるまで地上兵力を駆逐しながら、答えの出ない思案を続けていた。

 

 

     ◇

 

 

 赤軍への絶え間ない攻撃を続ける日々を送る中、私の元に心を湧かせる報せが届いた。フォン・デグレチャフ参謀中佐率いる航空魔導大隊がモスコーを襲撃し、一人も欠ける事なく帰還したばかりか、撮影機材で記録映像と写真まで撮ってきたというのだ。

 一方的な侵略行為に踏み切り、理不尽かつ不遜にも宣戦布告を行った連邦への報復としては、これ以上痛快な事はない。私だけでなく基地の皆が、第二〇三航空魔導大隊の歴史的偉業を絶賛し、熱狂的賛美を唱えて止まなかったものである。

 

 私は直ちに、第二〇三航空魔導大隊の駐屯地に祝電を発すると、すぐに返信が届いた。向こうも向こうで後方要員らと祝勝会をしている事を返電され、感極まった私はその後、是非写真か映写機とフィルムを送って欲しいと本国に要請した。

 私だけでなく、基地の誰もが勲一等と讃えられるべき英雄達の勇姿を目に焼き付けたかったのだが、私と同様の要望はどの前線基地からも上がっており、写真ぐらいしか無理だろうと言われてしまったが、十分だ。

 送られてきた写真は写りが良いし、モデルも最高だった。ルーシー系の中尉と、帝国が誇る『白銀』という女性士官二名がクレムリンで帝国国旗を凛々しく掲げる姿など、正に戦乙女の如き英姿だろう。

 空軍基地の男共は挙って写真の焼き増しを求めており、特にルーシー系の中尉の名前を知りたがって止まなかった。スラリとした長い手足に整った顔立ち、女性の魅力に溢れる肢体というのは、前線の男達には垂涎ものだったのだろう。

 女優のブロマイドと違い、やましい理由ではないと主張して持ち歩けるのも、彼らの中では大きかったのだと思う。

 私は自分に正直な男達に苦笑しつつも、第二〇三航空魔導大隊の活躍を目に出来たことに歓喜し、大隊各員にシャンパンとチョコレートでも贈ろうかと、本日三回目を控える出撃の合間に考えていた。

 兵の質はさて置くとしても、やはり赤軍の数と火力が脅威である事に変わりはない。私は朝から夜まで、弾薬を補充しては幾度も東部に派遣されたグロート大尉(一九二四年、中尉進級の後、一九二六年、四月大尉進級)と飛び続けた。

 グロート大尉は、ダールゲ少佐がレガドニア戦役でゾフォルトから戦闘爆撃機に乗り換えた後も、ゾフォルトの後席手として他のパイロットと組んで活躍し、二〇〇を超える出撃回数を評されて、白金十字を授与された大ベテランであったから、必然的に出撃回数の多くなる私としても、大変に有難かったものである。

 

 なまりも錆も、絶え間ない飛行のおかげで、ようやく綺麗に落ちつつある。やはり最前線には定期的に顔を出しておかねば駄目だと思いながら、暫しキャラバッシュパイプを咥え、パイロットの控え所(ピスト)で撃墜・撃破記録を作成していた。

 私はこの日、この時まで本当に気分が良かった。多くの民草を苦しめる、共産主義者と相対する聖戦に加わる事が出来た誉れを噛み締め、フォン・デグレチャフ参謀中佐の英雄的貢献に、本土の帝国国民同様心から喝采を上げていたのだ。だが。

 

「デグレチャフ中佐が、査問会に?」

 

 何かの間違いだろうと、私はそれを報せてくれた従卒に改めて問うた。だが、答えが変わる事はなかった。

 

「本国政府より疑義が出たのです。デグレチャフ中佐殿の『()()な市街地での軍事作戦』と『独断専行()()()軍事行動』は問題だと」

 

 過剰? じみた? 本国のお役人方は、ふざけているのか?

 フォン・デグレチャフ参謀中佐のモスコー襲撃は、民間施設への攻撃を徹底的に避け、党と軍関係施設のみに止めていたし、中央参謀本部の認可を得た正式なものだ。

 

“ああ、つまり。お役人はこう言いたい訳だ。「よくもこんな()()()を上げてくれたな」「早期講和の芽が潰えてしまったぞ」「責任は原因を作った軍人に取らせるべきだ」と”

 

 私は肩を震わせた。祖国に対し、忠実かつ献身的に義務を果たした、どの軍規に照らし合わせても清廉潔白なる英雄の名誉を、役人の下らぬ面子で汚す事など断じて許せなかった。

 

“何としてでも、査問会議の出席許可を取り付けねば”

 

 フォン・デグレチャフ参謀中佐が命を賭して私を守ってくれたように、次は私が彼女を守る。断じてフォン・デグレチャフ参謀中佐の誇りを、名誉を傷つけさせてなるものかと、私は従卒の制止を振り切って戦地電話の受話器を取り、東部方面中央軍司令官に繋いだ。

 軍の論理において、このような戦友への侮辱は断じて許すべきではない。

 三軍は一丸となってフォン・デグレチャフ参謀中佐の名誉を守るべきであり、私もまた一人の空軍将校として、政府への抗議の表れとして出席をお許し頂きたいと直訴したのだ。

 

「ならん」

 

 だが、司令官は私の直訴を一蹴した。未だ東部戦線は多大な負担を帝国軍に強いており、ダキアに展開中の連邦軍も追い出さねばならない。

 中央参謀本部直轄の虎の子たる、第二〇三航空魔導大隊が指揮官不在となっている現状で、私まで前線を離れて貰っては困るというのだ。

 私は、血が滴り落ちるほど拳を固く握った。何と皮肉なことだろう。最前線を強く望む時ほど私は前線から遠ざかり、後方を望む時ほど、前線に縛られてしまうのだから。

 

 歯を食いしばりつつも、私は思考を止めなかった。

 既にして私は大罪を犯した身であり、軍規に反するような行動は二度と取らぬと誓っている。ならばこそ、許可を得るには合法的手段を用いるしかないのだ。

 

「閣下。陸・空軍の戦功規定には、五〇機ごとの軍用機撃墜。ないしは一定数の地上兵器・戦闘車輌撃破の功に対して、特別休暇と恩給が認められるものと記憶しております」

 

 これまでの私は散々に休暇を拒否してきたが、今回はそれを頂くとする。が、拒否した分を認めて貰えるとは期待していない。

 案の定、遡及は認められなかったが、私は自分の撃墜数と撃破数は正確に把握し、戦闘日誌にもこと細かに記録している。

 東部でも私は自分の撃墜数に拘らず、空戦では勢子となって部下に経験を積ませ、地上支援でも戦友の撃ち漏らしをフォローしていた為に、現時点では個人スコアでの規定数に到達していないが、目標にはあと僅かだ。

 

「本日中には、確実に残り四機の戦闘機を撃墜。ないし五輌の戦車を撃破して参ります」

 

 有無を言わさず電話を切り、私は滑走路へと踵を返した。

 

*1
 共産党政権下の連邦地上軍(陸軍)の別称。一般には陸軍のみを赤軍と呼称し、空・海軍は赤色空軍・赤色海軍と呼称する。




 あったりまえですが、デグ様のモスコー襲撃は超脚色してます。モスコー内部の情報とか、色々と知ってる筈のない事を知っちゃってるので、全部連邦出身のヴィーシャちゃんが濡れ衣を着せられましたw

【後年、出版された本に目を通したヴィーシャ=サン】
 ヴィーシャ「なんで私が喜々としてモスコーを破壊してたことに!? (殆ど)デグレチャフ中佐殿の仕業でしょう!?(やらかさなかったとは言ってない)」
 読了済みの魔導将校「やっべぇー……閣下超やべー……(絶対服従しなきゃ)」

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【地名】
 ミンスク→ミースク


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42 被撃墜-ターニャの記録12

※2020/2/25誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 東部方面軍司令官に大言壮語を吐いた私は、部隊の隊員達に平身低頭で交渉した。

 私が方舟作戦を阻止すべく犯した独断専行の折、フォン・デグレチャフ参謀中佐が、我が身を顧みず名誉を守ってくれたこと。その大恩を返すべく、査問会に出席する為に自分に敵を譲って欲しいと拝み倒したのだ。

 

 当たり前だが、自分が無理を言っていることは百も承知であるし、断られた際の対策も講じている。

 私は万が一、軍法会議に間に合わない場合を考慮して、宮中の伝手を通じて、軍法会議を決定した役人への反訴手続きを行うべく手を打っていたのだ。

 英雄としての権威を笠に着るのは本位ではないが、不当な圧力から戦友を守るためならば、どのような手段であろうと講じ、これを潰す覚悟であったからだ。

 

 しかし、権力を権力で潰し合うのでなく、出来る事ならば、自らの足でフォン・デグレチャフ参謀中佐の元に出向き、支えとなりたかっただけに、この時の私は、我が事以上の気持ちで、隊員達に必死に頭を下げ続けていた。

 隊員達には酒精や煙草、甘味といった嗜好品から現金。或いは禁止されている撃墜スコアでさえ査問会の後は喜んで譲ると言ったが、隊員達はそこまでせずとも良いと笑い、「そういう事情ならば」と快く頷いてくれた。

 

 読者諸氏は、私の実力ならば、ここまでせずとも今日中には戦功規定に到達出来るだろうと笑うかもしれない。

 バスケットボールの得点の如く、スコアを荒稼ぎしているのだからそう思われるのも無理からぬ話だが、しかし、現実はそう甘いものではない。

 帝国軍の戦果認証は列強各国のそれと比しても非常に厳密で──それ故に同時代だけでなく、後世の評価においても正当ないしは過小と賞賛されるのだが──本人以外*1の証言や、ガンカメラによる記録映像の確認、戦闘記録に矛盾がないかを徹底的に精査される。

 戦闘機一機の撃墜だけでも、膨大な書類を処理する必要があるが、書類仕事は私の得意分野で、エルマー程でないにせよ速記と記録の正確さには自信があったから、そこは問題にはならなかった……尤も、だからこそ、私は後方に縛られていたのだが。

 

 とはいえ、実際の撃墜数よりも過小に処理されるのは帝国軍の常。戦果申告後の精査時間を考えれば、今日中にでも規定数の三倍には到達し、書類を上げねばならない*2

 

 そうした点を踏まえれば、喜んで協力すると言ってくれた隊員達の気持ちは嬉しく、私は彼らの手を強く握って感謝を述べたが、隊員達は皆一様に、同じことを私に問うてきた。

 

「大佐殿は『銀翼』と恋仲なのですか?」

 

 私は思わずきょとんと間抜けな顔をした。そして、違うと否定した。

 我が身を顧みず私を守ってくれたフォン・デグレチャフ参謀中佐に、私は恩を返したい一心なのだと説諭したが、どれだけ語れども、彼らの表情は当惑の色を増すか、或いは照れ隠しだろうとニヤつかせるばかりだった。

 今にすれば、私は自分が恥ずかしく思う。誰がどう見ても、私の顔にはフォン・デグレチャフ参謀中佐が気になっていると書いているようなものだったのだから。

 だというのに、当時の私は自分に気付けなかった。これ以上は言っても無駄かとため息を一つ吐くと、冷やかす隊員達に「もう良い」と手を振って、中隊規模で出撃したのである。

 

 

     ◇

 

 

 この時、その日三度目の出撃で私と中隊は敵機に遭遇することができた。とはいえ、通常であれば運悪く、と称すべきだろう。

 ゾフォルトはその足の遅さから、空戦を避け、地上攻撃に専念すべしという軍令が下っていたのだから、管制官から報告を受けた時点で引き返すか迂回すべきだ。

 しかし、私にはそんな事情は関係なかった。速度差が如何程のものかと言わんばかりに敵中隊を全機撃墜し、そのまま地上軍の要請通りに赤軍戦車を徹底的に叩いた。

 流石に数が多い上、帝国地上軍の負担軽減こそが第一であった為に、私は無線で隊員達に連絡を入れて、皆で一斉に急降下して目に付く戦車を撃破した。

 私の撃破数は四輌。ガンカメラは戦車撃破も、先の敵機撃墜を正確に捉えているが、まだ安全圏とは言い難い。地上軍の戦友達は私達に軍帽を振って見送ってくれたが、私はこの時、笑顔で彼らを見る余裕はなく、唯々その内心に怒りを募らせていた。

 

 帝国臣民としてあるまじき事だが、私はこの時、偉大なる祖国の政府に対して、悪感情を抱かずにはいられなかったのである。何にも増して腹立たしいのは、お役人方がルーシー連邦という敵に対して、無知極まりないという事だ。

 連邦は、自分達が国家と人民を導く議会を持つ先進国だと口にして憚らないが、実際には一党独裁の、導くべき人民を恐怖で縛り続ける独裁国家に他ならない。

 

“その独裁者たちが、独裁国家が帝国に宣戦を布告したのだぞ!”

 

 どのような良識を持ち、彼我の実力を正しく理解できている人材が連邦に居たとしても、独裁者が帝国の蹂躙を望み続ける限り、国家は暴力装置たり続ける。であるならば、早期講和など考えるだけ無駄と言うものではないか。

 ましてや聞く耳を持ち、国家を正しく運営できる者たちが、自分達の権力を維持する為に、自分達の懐を豊かにしたいという欲求だけで粛清を絶え間なく続け、最後の一滴まで人民から血を搾り取る筈がない。

 

 連中は口先でこそ人民の代表だと語るが、その実何処までも頑迷であり、自分本位なのだという事を、帝国政府はどうして亡命者達の証言から、彼らから語られた連邦の政策から読み取れないのだろう?

 まさかとは思うが、政府の中にもアカが存在しているのか? 忌まわしき共産主義思想に同調し、協調姿勢を見せ、帝国内部を蝕まんが為に、背後から刺すべく暗躍しているのか?

 詐欺師のように人民の平等を謳いつつ、自らが権力を獲得するために行動した、恥知らずと手を結ぼうとでも考えているのか?

 

“何を、馬鹿なことを”

 

 私は自分を叱責した。そのような悍ましい考えを、国民の代表たる政府に向けるなど恥知らずにも程がある。フォン・デグレチャフ参謀中佐の件は確かに軍人としても、一個人としても許せはしないが、だからとて被害妄想故に、相手を否定するなどと言うのは度し難い過ちだ。

 

“恥を知れ、ニコラウス。貴様のそれは聴く耳を持たぬまま多くを粛清した、唯我に生きる独裁者の価値観と何ら変わりないのだぞ!”

 

 私は片手で強くロザリオを握り、帝国政府に謝罪と懺悔を三度繰り返してから、再び操縦桿を握り締めた。

 今は唯、帝国軍人としての義務を果たす事だけを、フォン・デグレチャフ参謀中佐の元に駆け付ける、唯一の道を掴むことのみを考えるべきだろう。

 そう自らを必死に抑えるが、どれだけ近隣の装甲車や野戦砲を破壊し、纏まった歩兵を蹂躙しても、心は決して澄み渡らない。私の心には未だ、フォン・デグレチャフ参謀中佐に疑義を申し立てた政府に対し、怒りの火が燻っていた。

 どれだけ自分を宥めても、社会主義国家との和解など、考えるだけで悍ましくてならなかった。

 

“我々が勝利を達成すれば、共産主義の、社会主義国家の魔の手から、虐げられ続けた者達を救う事が出来る。帝国政府には、この戦いの意味が分からないのか?”

 

 これまで、どれ程の者達が帝国に、合州国や森林三州誓約同盟に亡命してきた? 一体どれだけの人間が親兄弟や恋人、夫を無残に殺され、引き裂かれ、口に出来ぬ辱めを受けてきたと思うのだ?

 

“早期講和? 停戦? 馬鹿馬鹿しい。有り得ない”

 

 国家が自国を第一とするのは当然だろう。それが政治家としての、国を背負うものとしての立場だというのなら、正しいと認めよう。

 だが、私は政治家でなく帝国軍人だ。祖国の為に戦い、勝利し、死す時も本懐として散ってみせるが、この血に流れ、魂に宿る騎士道を汚し、曇らせる事など出来はしない。

 

“今、正に、中央大陸の覇権を握った我々にしか、悪しき独裁国家を打倒する力を持たない。ならばこそ、その力を虐げられしルーシーの人民に、涙を呑みながら滅ぼされたスオマのような国々の再建の為に。人類の平和と自由の為に用いようという精神はないのか?”

 

 私は奥歯が砕けんばかりに、きつく歯を噛み締めた。帝国政府には政府としての考えがあり、展望があるに違いない。だからこそ、その意に添わぬフォン・デグレチャフ参謀中佐に対して不当な疑義を申し立てたのだから。

 だが、私にはそうした国家の打算以上に、国家の理性以上に重きを置く物がある。

 誇りを捨てる生き方など、騎士道なき精神など耐えられない。たとえ政府の目論見通りに早期講和が達成されるのだとしても、私は停戦のその日、その一分一秒の時まで、涙と血を流してきた連邦の犠牲者の為に戦い抜くだろう。

 

 

     ◇

 

 

 地上支援を完遂した以上、後は帰投するだけである。しかし、管制官が我々に友軍の危機を知らせてきた為、もう一働きすることになった。

 

 別の地上軍が支援要請してきた戦域では、敵砲兵の火力が想定以上の規模であり、高射砲の濃密な対空射撃に手を焼いているというのだ。しかし、私以外の中隊は散々活躍した為に皆弾薬が僅かであり、補給を受ける必要があった。

 弾薬がまだ十二分に残っているのは、無駄弾を極端に嫌う── 一発の弾丸を節約すれば、その分敵を叩けるからだ──私だけ。

 そして、高射砲という相手に対して、中隊員が無事で居られるだけの錬度には足りない*3という事も承知していたから、私は中隊をそのまま帰投させ、単機で高射砲陣地を潰すと管制官に返した。

 当然管制官は止めたが、友軍の危機を見捨ててはおけないと食い下がった。ここで重砲と高射砲を叩けば、帝国地上軍の負担を減らせるだけでなく、戦果申告も確実に受理される筈だと欲をかいたのもある。

 

 管制官は結局根負けし、私は増上慢も甚だしく、赤軍の砲弾など届くものかと目的地に馳せ参じた。

 徐々に雲行きが怪しくなっていたが、私は頓着しなかった。今にして思えば、ここが分水嶺だったのだろう。帰投を進言したグロート大尉に対し、私は「ここまで来て引き返せんよ」と愚かにも耳を貸さなかったのだ。

 平時ならば決して犯さない失態であったし、部下が同じことをしたならば怒号と共に全力で突入中止と転針を叫んだ筈である。力量の過信と、功を焦る新兵のように未熟な心。その両方が私に大きな過ちを犯させたのだ。

 愚かにも敵にしか目の行かない私は、帝国地上軍を苦しめる重砲を遠距離から立て続けに破壊し、次は高射砲と対空機関銃だという段になって、風防に数滴の雫がついたのをようやく見て取った。

 

“暴風雨か!”

 

 高度を維持しているならば問題ないが、よりにもよって急降下中、不運にも横殴りの雨が私の機体を襲ったのである。

 私はありったけの空間爆発術式弾を叩き込み、敵の隙をついて上昇しようとしたが、無理だった。主翼と尾翼双方をやられてしまったのだ。

 何としてでも、グロート大尉だけは脱出させなくてはならない。私の愚かな失態のせいで、大尉のような有能な部下を殺す訳には行かなかった。

 殆ど操作の利かなくなったゾフォルトを、ゆらゆらと揺らしながらも滑空し続けると、鬱蒼とした森が見えた。正確には、森の手前の平地だ。

 

「大尉! 危険だが着陸するぞ!」

 

 グロート大尉はこんな事態になっても、私の腕を信じてくれていた。大尉を死なせたくない。その一心で、私は操縦桿を固く握った。

 

 

     ◇ターニャの記録11

 

 

 その日の私は、今でも覚えているがとんでもなく不機嫌だった。

 モスコー襲撃に対する疑義申し立てによって開催された査問会議が、不当極まるものだというのも、無論ある。

 帝国軍の軍規においても、戦時国際法においても──そもそも連邦はあらゆる国際法に批准していないので、こちらが破っても問題ないのだが── 一切の瑕疵がないのだから、やるだけ時間の無駄でしかない会議に被告人として立たされた事への怒りも、無論ある。

 勿論、私のモスコー襲撃を認可して下さった中央参謀本部は、一丸となって私の名誉を守って下さったし、査問委員長に小モルトーケ参謀総長が充てられている点から言っても、私の名誉は確実に守られるだろう。

 お役人方も皆が皆無能という訳ではないらしく、レランデル州から派遣された官吏などは、本国政府に対して軍との軋轢が増すだけだから止めろと苦言を呈したらしい。……これは逆に言えば、本国政府の人材は軍のそれと比して、惨憺たる有様であると言っているようなものだが。

 

 しかし、右を見ても左を見ても、そして背後を振り返っても、この場にいるべき人物が何処にもいない。

 傍聴席に目を凝らせば、参謀将校や前線から三軍種を代表して集った野戦将校らが野戦従軍章を佩用し、宮中より列席した侍従武官までもが、私の味方だと視線で優しく訴えてくれていた。

 将校らは、傍聴席のお役人方を視線だけで殺せそうな程に強く睨めつけては、検事の発言に一々冷笑を浴びせ、私と弁護側の弁明には大いに頷いて下さったが、私は一向に気が晴れなかった。

 

“どうして、何故貴方がこの場に居られないのだ! 大佐!”

 

 私は拳を固く握り、歯を食いしばって絶叫を耐えていた。私はフォン・キッテル参謀大佐の為に、我が身を顧みず中央参謀本部にまで乗り込んだ。銃殺を覚悟で、小モルトーケ参謀総長を前に直訴までした。

 だというのに、何故フォン・キッテル参謀大佐はここに居られない!? 私の進退よりも、ご自身の武勲がかくも大事か!? 最前線の居心地は、それほどまでに宜しいか!?

 

 裏切られたと、私は感じた。司会役たるフォン・ゼートゥーア中将(一九二六年、四月進級)が私の無罪をお告げになったが、私は無実の罪で敗訴した被告人のように、憤懣やるかたない面持ちで会議場を退室した。

 

 

     ◇

 

 

「くそ、くそ、くそ、くそっ……!」

 

 充てがわれた中央参謀本部の一室で、私はがんがんと壁を殴った。幾度も幾度も、壁をフォン・キッテル参謀大佐に見立てながら、拳から血が出る程強く、込み上げる怒りの全てを吐き出したい一心で殴り続けた。

 

“何が、未来に前途あれか! 何が幸運をか! 口だけならば何とでも言えよう! どれだけ優しい言葉を手紙で綴り、面前で吐き出そうとも、本性は行動に出るという事がはっきりした!”

 

 所詮、フォン・キッテル参謀大佐はご自身の名誉に忠実だっただけに過ぎなかった。私への優しさも、命を救ったことも、全ては帝国貴族としての名誉からに過ぎず、そこに私個人を思う心はなかったのだという事が、この査問会議ではっきりした。

 

“なぜ、私はあのような人間の為に……”

 

 私は力なくうなだれた。もう、人など信じまい。所詮この世とは、合理と打算の上に成り立つものでしかない。

 誰しもが己の欲を、自己利益を優先する存在に過ぎないというのであれば、私は経済学者のように世界と距離を置きながら、俯瞰した目で全てを見よう。

 

“……つまり、()()変わらないじゃあないか”

 

 そうだ。元より私はそういう人間()()()。自己の利益を、生存を、何物にも侵されない自由な日々を望んで止まない人間()()()じゃないか。

 だが、それでも思うのだ。()()変わらないと考えたという事は、今の私は、これまでの私と変わっていたのか? ならば、どう変わったのかと思案しかけたその時、扉をノックする音が響いた。

 

「どうぞ、開いております」

 

 きっとこの時は、気の抜けた声だったのだと思う。

 断りの後に入室したのは、誰あろう小モルトーケ参謀総長だった。参謀総長は傷だらけの拳と、腑抜けた私の表情を見て、嗚呼、と呻かれた。

 

「……その様子では、既に知っていたようだな」

 

 言葉の意味を、理解出来なかった。だが、決して聞いてはならない事だと察した。

 背筋が凍る。歯の根が合わない。目の奥がチカチカして、今にも倒れそうになる。

 私は、首を振ろうとした。言わないで欲しいと。聞きたくはありませんという意思を込めた。だが、小モルトーケ参謀総長には、その意思は伝わらなかった。いいや、伝わっていたのだろう。

 逃げるな。目を逸らすな。一度でもそれをしてしまった人間は、心を壊してしまうのだ。現実と妄想の、境を彷徨う病人になってしまうのだと。その、厳しい相には合わぬ穏やかな瞳は、私が目を逸らす事を許してくれなかった。

 

「中佐、キッテル参謀大佐は」

「っ、ぃ、っ」

 

 私は、声を出そうとした。嘘ですと、何かの間違いですと。知る筈もない正解を心の何処かで知っていたから、そう叫ぼうとした。なのに、なのに声が、喉から……。

 

「大佐は、墜ちたのだ」

「あ、ああ……うあああああああああああああああああああっ…………!」

 

 泣いた。膝をついて、目から溢れるものの意味も分からないまま、わんわんと子犬のように、小娘のように叫び続けた。

 

「それで良い。泣くのだ中佐。涙だけが、痛みを流す。流さねば、永遠に暗闇を彷徨う。居もしない、死者の影を追い続けてしまうのだから」

 

 温かく、大きな腕が私を抱きしめる。私は子供のように、年相応の、父親に縋る娘のように、大声を上げて泣き叫んでいた。

 

*1
 現場に居合わせた地上軍や同航空隊員、魔導師など。

*2
 当時の帝国空軍・航空魔導師の全体統計においては、申告した戦果の内、受理されるのは三分の一から二分の一が大多数。申告書類が手堅いものであっても、受理されるのは三分の二であった。

*3
 私は戦友達に安全に経験を積ませるために、常日頃から、極力経験の浅いパイロットを引き連れて飛ぶこととしていた。




【めっちゃ優しいっすね参謀総長閣下! でもタイミング良すぎないっすか!?】

 小モルトーケ参謀総長「相手が精神的に無防備になったところを、付け込んだファシストって天才だと思う」(って、原作デグ様が一巻で言ってたから、本人で実践したった)

 参謀総長閣下はゼートゥーア閣下の切り札を自分の物にしたかっただけのようです。

※なお、デグ様と小モルトーケの実力差は、銀英伝のラインハルトとリューネブルクぐらい差がある模様……考え直すなら今だぞ参謀総長!(もう遅い)。


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43 ターニャの記録13-クリームヒルト

※2020/2/25誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


「赤小屋は食事も珈琲も酷いものだが、無いよりは良かろう」

 

 泣き崩れた私を椅子に座らせた小モルトーケ参謀総長は、従卒を招く事なく手ずから珈琲まで淹れて下さる。味など今の私には分かりはしないが、珈琲と参謀総長の温かさは嬉しくあった。

 

「……重ね重ねのご厚意、痛み入ります。その、大佐殿は」

 

 恐る恐る、顔色を窺うように切り出した私を、小モルトーケ参謀総長は溜息と共に一瞥された。出来れば自分の口からとて語りたくない。だが、現実を認識して貰わなくてはならないという思いからか、ゆっくりと、決して私が取り乱さないよう気遣いながら語り出された。

 

「正午過ぎ、大佐は地上攻撃の為に、中隊規模で出撃した。攻撃は問題なく成功したそうだが、帰投中、管制官から高射砲陣地破壊の要請が届いた。残弾僅かな中隊を帰して単機で向かい、そのまま帰らなくなった」

 

 後ほど分かった事だが、高射砲陣地付近では局所的な暴風雨が発生したという。

 

「捜索隊は?」

「すぐには、動けなかった。前線基地周辺でも、時間をおいて暴風雨が吹き荒れたのだ。丸一日降り続いた豪雨には、身動きがとれなかったそうだ。

 明朝、大規模な捜索隊が出動したが、連邦軍も確認の為に動いていた。空では虐殺に近いほど帝国空軍が赤色空軍を撃墜して道を空けた。航空魔導師も搜索に駆り出された。三日捜索したが、発見出来なかった。

 モスコー放送が、大佐を撃墜したと流した。無残に燃え尽きた大佐の機体を撮影した伝単(ビラ)が、帝国・連邦軍双方の陣地に空から撒かれた。まだ、大佐は発見されていない」

 

 なら、生きている。逃げている筈だ。私は自分の小指の先よりも小さな希望に縋ろうとしたが、日付を聞けば、それも失せそうになる。撃墜から既に一週間が経過していた。連邦軍も、大規模な包囲環を形成している筈だと言う。

 

「……それでも、大佐殿ならば」

「中佐。査問会議にかけられた手前、面白い話ではなかろうが……貴官はこの戦争をどう見ている? 政府が妄想したような、早期講和が可能だったと思うか?」

 

 強引に、震える私の口を噤ませるように、話題を切り替えてきた。これ以上、フォン・キッテル参謀大佐の話題は出したくないようだった。

 

 私はカップに視線を落とす。黒々としただけの、普段なら香りも何もあったものではないと嚥下するのにも一苦労な珈琲を一口含んで、潤した喉でゆっくりと答えた。

 

「連邦の面子を潰した小官が口にするのもおかしな話ですが、モスコー襲撃がなくとも、彼らは講和には乗らなかったでしょう」

「やはり、連邦には勝ちの目があると?」

 

 ああ、成程と私はカップをテーブルに置いた。小モルトーケ参謀総長は確かに優秀であられる。優秀であるが故に、帝国軍人であられるが故に、合理的な思考に基づかれておられるのだろう。

 複数戦線を抱えていた頃の帝国軍を背中から刺さず、『覇権国家』の誕生を許しながら戦端を開いたのは、相応の理由があって然るべきだと。

『今』ならば、或いは『ここから』なら連邦は『勝利』できる。その確信こそ連邦の原動力であり、帝国と矛を交えるに至った原因であると考えておられるに違いない。

 

 小モルトーケ参謀総長。貴方は優秀すぎた。私に打算と合理性だけの将校は不完全だと仰られながら、自らの思考を帝国軍人らしい打算と合理性で構築してしまっている。

 敵を侮らず、己の力量を過信せず、彼我の実力を正しく把握しながら、それでも尚と思考するのは正しいことでしょう。けれど、それは過ちなのだ。何故なら敵は、連邦はそのような合理的な思考回路で動いている訳ではないのだから。

 

「参謀総長閣下は、こうお考えなのでしょう。連邦は他国と何らかの秘密条約を結ばれている。武器供与・借款・義勇軍の派兵。或いは自国内で独自に新兵器でも開発したのだろうと。仔細は今以って不明でも、打倒する手段を有している筈だと。

 ですが、こう考えては如何ですか? たとえそれら全てが存在し得るとしても、()()()()()()の理由は異なるのではないか、と。

 合理的に見るならば、それら全ての可能性があったとしても、複数戦線を抱えていた状態の帝国を背中から刺す方が、遥かに効率が良かったことでしょう」

 

 圧倒的物量と、広大な領土を武器に連邦が然るべきタイミングで踏み込んでいれば、帝国は決して覇権国家の地位を手に出来なかった。複数戦線を抱えていた状況で膠着状態に持ち込めば、帝国はその国力を疲弊させていく。

 プラン三一五を瑕疵なく発動させ続けても、包囲下に置かれ続ければ補給は落ち込み、兵は削がれてじきに枯渇した事だろう。

 裏口から武器や人員を求めずとも、独自に兵器を開発せずとも良かった。レガドニア協商連合が、ダキア大公国が、フランソワ共和国が、アルビオン連合王国が健在であった、あの悪夢めいた包囲環に主要参戦国として加わるだけで、帝国にどれだけの負担を強いたか。

 万全な状態を維持できず、全力を発揮する事が不可能なあの時の帝国こそ、最も効率的に打倒し得る最大の好機だった。

 

「デグレチャフ中佐。これは総力戦だ。国家の存亡を賭けた、戦争なのだぞ?」

 

 そんな一世一代の、全てを得るか失うかという大博打に、勝算も無く全財産を注ぎ込むなど正気の沙汰ではないと言いたいらしい。

 全く以ってその通り。連中は正気ではない。狂気の只中に生きているのですよ、小モルトーケ参謀総長。

 

“ここが、男と女の違いなのだな”

 

 合理的でいるつもりでも、感情で考えてしまいがちな女と、理屈を重ねてしまう男との違い。だからこそ、すぐ全てが腑に落ちた私と違って、小モルトーケ参謀総長には理解が及ばないのだろう。

 

「彼の国の政治体制を、今一度ご再考下さい。何故、連邦は度重なる粛清を行いましたか? 何故、政策の失敗を党の失敗でなく、党員の失敗として生贄を求め、断罪しましたか? 何故、あれほどまで苛烈な統治を続けねばならなかったのですか?」

 

 反対する勢力を粛清したのは、同じ価値観の人間しか居て欲しくないから。農業政策を始めとする数多くの失敗を個人の責としたのは、自分達の過ちを認めたくないから。

 人民を恐怖で縛るのは、彼らから支持を受けてはいないと認めながら、自分達が殺されたくないと怯えているから。

 

「連邦は本質的に排他的で、被害妄想に満ちているのです。『自分達の考えを共感出来ないのは、奴らが悪い人間だからだ』『正しい自分達が上手く行かないのは、邪魔をした誰かが居たからだ』『自分を否定して、拒絶するのは皆敵なんだ』。ルサンチマンの権化。現実を受け入れられず喚き散らす、女子供のような連中なのですよ」

 

 先程までの私のように、と。そう自分で言って、可笑しくなりそうだった。

 自分が女だなどと、自覚した事はなかった。銃を握り、宝珠を首にかけながら、心までは軍人でなく。ただ己の生存と保身のみを考える、男のような人間なのだと思っていたのに。

 

「連邦は、感情で動いているに過ぎません。何故、帝国の背中を刺さなかったか? 連邦は私達が恐ろしかった。軍隊という強く鋭い剣を握り、敵を切り伏せ追い散らし、追い込み続けた私達が、怖くて怖くて仕方がなかったのです」

 

 怖いから、手が出せなかった。ダキアを、レガドニアを、フランソワを、アルビオンを追い詰めて喉元に突き付けた、軍事力という刃が怖くてたまらなかったから、今まで世界の隅で膝を抱えて震えていた。

 

「だから、列強を見殺しにしながら、今更私達に噛み付いたというのか?」

 

 挑み襲い来る敵を打ち負かし続けた帝国が、敵のいなくなった帝国が。その刃を手に、自分達に斬りかかるだろうと恐れて、被害妄想で機先を制したというのか? と。

 力ない問いは、初めて小モルトーケ参謀総長の手から、その頭脳から物事の理がすり抜けてしまった為なのか。それとも単に、そんな国家が存在するのかという呆れから、茫然自失となってしまった為なのか。

 いずれにせよ、小モルトーケ参謀総長にしてみれば理解の外だったに違いない。だからこそ、私は改めて参謀総長に伝えるのだ。

 

「お分かり頂けたでしょうか? 連邦はその本質故に、我々を殺めねば止まる事は出来ないでしょう。彼らの『被害妄想』に歯止めなどないのです。覇権国家たる我々を下し、世界を自分達の色で染め抜かぬ限り、決して終わらせてはくれないのです」

 

 勝利か敗北かでは終わらない。滅ぼすか。滅ぼされるかだ。

 帝国が共産主義という『インペリアリズムの産物でしかない国家という枠組みを滅ぼし、資本主義の限界から滅び行く人類に、新たなる協同体を築く』のだと宣言して止まない、汚れた約束の地を目指す狂信者の象徴を地上から葬り去るか。

 

 はたまた連邦によって、帝国や、その先に続く自分達を脅かすに足る、全ての国家が滅ぼされるか。或いは支配下に置かれることで、社会主義国家という独善と腐敗と粛清に満ちた地獄が生み出される未来が訪れるか。

 大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、今まさに我々は、世界の命運という両天秤にかけられているのだ。

 

「言うまでもありませんが、我々が敗北すれば、この世界からは王も貴族も、無論、皇帝(カイザー)さえも、ツァーリのような最期を迎える事でしょう。

 連邦の勝利はあらゆる文化、あらゆる伝統、私達の父祖が築き上げてきた美しい全ての営みが、遥か過去から連綿と続いた文明が破壊されることを意味しています」

 

 連邦は自らを共産主義というイデオロギーの信徒と自称し続けるだろうが、内実はパワーポリティカルの権化だ。共産主義の教祖が掲げる新たな協同体を構築するのではなく、国家と文化を破壊した後には、赤い貴族達(ノーメンクラトゥーラ)が永遠に支配と搾取を望み続けるだろう。

 

「私がそれを、容認すると思うかね? 中佐」

 

 そうでしょうとも。小モルトーケ参謀総長。貴方は誇り高いお方だ。真の帝国貴族にして、偉大なる叔父上の跡を継がれた、この地上で最も偉大なる頭脳をお持ちの大英雄。皇帝(カイザー)の覚えめでたき、最も忠勇なる臣なのですから。

 

“参謀総長閣下。貴方は私の言葉に、何一つとして偽りはないと確信されている。その深遠なる頭脳が、私の口から語られる全てを正確に分析された以上、疑う余地は皆無でしょう”

 

 だからこそ、私は小モルトーケ参謀総長が望まれていることを。ここに来られた本命を自ら口にしてみせる。

 

「参謀総長閣下。どうか、私に機会を。獰猛悪辣なる連邦を、この手で討つ機会をお与え頂きたくあります」

「デグレチャフ中佐。貴官は己が見えておらん。いや。ゼートゥーアも、ルーデルドルフも貴官を正しく評価できてはおらなんだ。だが、私は違う」

 

 小モルトーケ参謀総長は仰る。共和国の撤退行動阻止を計画していたと私が仰った時。そして今、連邦という国家の本質を正確に捉えた時。

 私には、他の誰にもないものがあると確信できたという。

 

「士官学校候補生の時点で『戦域機動における兵站』を説いた戦略的視点。あのゼートゥーアを絶賛させた的確な大隊運用計画と、野戦将校としての実績。全てにおいて見事だったとも。私とて唸るほどには。

 だがな。私が何よりも買っているのは、貴官がまるで『未来を知っている』ように淡々と、そして正確に物事の本質を見抜き続けている事だ」

 

“ええ、閣下。私は他人どころか、自分の感情にさえ疎い人間でしたが、どういう訳か分析だけは出来るようなのですよ。ド・ルーゴ少将が逃亡を計った意図も。連邦という国家の体制も。どういう訳か、手に取るように理解出来てしまうのです”

 

 やはり、私は歪んでいる。心というものに鈍感だったから、違う場所に目が行ってしまうのだろうか? 自己愛にだけ生きていたから、他人の生存本能というものに敏感になってしまっていたのだろうか?

 

「私の副官となれ、中佐。貴官の本分は参謀将校だ。政治的配慮の上でモスコーを襲撃し、後方に兵力を割かねばならない事態にまで連邦軍を追い込んだ軍事的才幹は、それを示して余り有る」

 

 大隊指揮官などという器ではない。私には、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフには、より相応しい戦場があると小モルトーケ参謀総長は手を伸ばされた。副官など表向きには小間使いの役だが、参謀総長が私に求めるのは、文字通り片腕としての役なのだ。

 

「恐れるな。この手を取れ。中央参謀本部の本流。その何たるかを学ぶまでもなく、貴官は既にして全てを会得している。陳腐な言葉だが、共に世界を救おうではないか」

「はい、閣下。全ては勝利の為に」

 

 涙の痕もそのままに、私は静かに微笑み、頷いてみせた。小モルトーケ参謀総長。貴方は高潔で、慈悲深く、清廉なお方ではある。だが、貴方は選択してしまった。帝国の勝利という道を、何を犠牲にしてでも達成すると。

 小モルトーケ参謀総長。貴方は気付いておられないのかもしれないが、貴方の心には一つの天秤が存在するのです。片方に、『祖国』を載せた天秤が。

 貴方は、本当にお優しい方なのでしょう。私を慰めて下さったのは、きっと慈愛もあったのでしょう。ですが、私はもう以前の私ではないのです。

 自己愛に満ちて歪んでいた、保身に重きを置くが故に自他の感情に愚鈍であった私は、つい先ほど死んだのです。

 

“閣下。貴方が私を、殺してしまったのですよ?”

 

 私を抱きしめ、慰めたばかりに、私は想いを自覚してしまった。保身に満ちた矮小な人間から、一人の小娘に堕ちてしまった。

 矮小な人間であった私なら、決して小モルトーケ参謀総長の心は見通せなかった。貴方の優しさを心から信じ、敬服しつつも『そういう人間なのだな』と利用する事も考えたでしょう。

 ですが、私はもう女なのです。殿御の嘘など、見通せてしまう生き物なのです。

 初めて中央参謀本部でお会いした時の貴方の視線は、今目の前に映る貴方の視線は、私という軍人を、手元に置きつつ忠誠を誓わせたいという思惑があったことさえ、見えてしまうほどに。

 

“当然だな。私は、軍への忠誠を心の縁にはしていなかった。常に、自分自身が大切だった”

 

 私の能力を認めつつも、小モルトーケ参謀総長は冷静に私を見ていた。勲章を机に叩きつけた時点で、私には軍への忠誠心などないと分かっていたのだろう。

 だから、貴方は私が決して逃げられないようにした。私に自覚のなかった恋慕を気付かせながら、その相手が決して手の届かない場所に居るのだという現実を突きつけた。

 

“私に、復讐をさせたいのでしょう?”

 

 持てる全てを注ぎ込め。軍を、国を愛せない人間なのだとしても、女として一人の男を愛する事ぐらいは出来るだろうと。

 

“はい、閣下。私はその感情を知りました。貴方が気付かせてしまったせいで、こんなにも私は傷ついている”

 

 参謀総長。貴方は平時であれば、こんな真似は絶対にしなかった事でしょう。どれだけ私の能力が確かであっても、心の傷を利用する真似など、絶対に出来はしなかった。

 けれど、今は戦時なのだ。小モルトーケ参謀総長には守るべき祖国があり、忠を尽くす皇帝(カイザー)が存在する。

 家族が、友が、ありとあらゆる己の全てが存在する、かけがえのない『祖国』が。

 

“私の苦しみも、嘆きも、痛みも。全ては『祖国』という天秤の皿には釣り合わない”

 

 それでも。一見残酷に見える在り方でも、小モルトーケ参謀総長には良心がある。私に復讐を願ったのも。片腕になるよう勧めたのも。本当に大切だったものを失った私に、生きる活力を与える為のものだったことも確かでしょう。

 抜け殻となるぐらいなら、死者の影を追うぐらいなら、遥かに良いというのは分かります。ええ、きっと、いずれ私が時間と共に傷を癒して、新しい恋をしてくれればと考えていることも、分かります。

 

“参謀総長として合理的であろうとしても、公人として残酷であろうとしても、決して最後まで、冷徹さを貫けないお方なのですね”

 

 ですが、小モルトーケ参謀総長。私は貴方のように、お優しくはないのです。私はもう、感情のままに生きる女だから。感情の赴くままに、たった一つの望みの為に、私は進み続けましょう。参謀総長の望まれた通り、全てを復讐の火にくべましょう。

 

“私と、閣下ご自身も含めて”

 

 小モルトーケ参謀総長は、連邦というものの本質を知った。そして、断固として滅ぼさねばならないと誓われた。

 

“ですから閣下。貴方には世界を救う勇者となって頂きます。その身を、魂を、持てる全てを燃やしながら、やがて灰になるのだとしても止まることなく、帝国の敵を、キッテル大佐殿の仇を、私と共に討って頂きます”

 

 これから貴方は、祖国と皇帝(カイザー)という二人のお父君の為、勝利を目指して飛翔するのです。

 太陽に近づきすぎたイカロスより高く、激しく飛翔しながらも、墜落の時さえ勝利の一手を打ち続けて完遂するのです。世界を、人類を救済する為に。

 

“そして、私もまた同じ末路を辿りましょう”

 

 偉大なる英雄にして、夫を失ったクリームヒルトのように。周りの全てを巻き込みながら、私の持てる力を、私の人生を、全て復讐に捧げましょう。やがてそれが、私自身の滅びを招くか。はたまた中途で力尽きるのだとしても、私は一向に構わない。

 

“私にはもう、失って惜しいものなど何もないのだから”

 

 さぁ参謀総長。地獄の果てまで進みましょう。貴方は救い、私は滅ぼす為に。

 結果として、何一つとして変わらない明日の為に。

 

 ただひたすらに、我らの敵を殺すのです。

 




【参謀総長閣下は、デグ様を手駒に出来そうだとほくそ笑んでいましたが、現実は……】

 デグ様「私を利用しようだと? 馬鹿め! 貴君が私の人形となるのだよ、参謀総長閣下!
     私の語った連邦は恐ろしかろう? 滅ぼすより他なかろう?
     ならばその英知で、権力で、持てる全てを尽くしてコミーを殺し、共産主義をこの星から根絶するのだ!
     この私の、ターニャ・デグレチャフの意のままになぁ!」

 デグ様の方が一枚どころか遥かに上手だったようです。
 小モルトーケは凡人ではないのです。しかし、『竜に向かって蛇が部下になるよう勧めている』という、凡人より性質が悪い奴だったので、アッサリと手玉に取られてしまいましたw
 この大魔王覚醒ムーブのデグ様が退役してなかったら、たぶん中央参謀本部は伏魔殿から万魔殿になってた。

 さて、流石に旦那の回想記でこんなん書いたら大問題やろとお思いの読者の皆様!
 ご安心ください! 後で旦那がめっちゃフォロー入れますから! 嘘だから信じないでね! って、散々書きますから! なんで自分の回想記でこんな苦労してるんだろうって思いながら、嫁が嘘ついてごめんって謝りますから!
(でもデグ様は絶対書き直さねーから、と満面畜生スマイルでした)


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44 ターニャの記録14-使命と憎悪

※2020/2/27誤字修正。
 すずひらさま、ドン吉さま、佐藤東沙さま、八連装豆鉄砲さま、オウムの手羽先さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 当然だが、私の中央参謀本部勤務と小モルトーケ参謀総長直々の副官任命は、双方とも波紋を呼んだ。

 特に、軍大学在学中に目をかけて下さり、大隊長に抜擢して頂いたフォン・ゼートゥーア中将の怒りは凄まじいものだった。

 フォン・ゼートゥーア中将は階級の差を弁えつつも、その哲学者然とした性格からは想像できない程の怒気を滲ませて、前線将校としての私が帝国軍にとって如何に手放しがたいものか。あらん限りの語彙を用いて力説された。

 中央参謀本部直轄の増強魔導大隊の使い勝手の良さも然ることながら、達成困難な特殊任務を遂行し、あまつさえ戦傷による*1損耗は今日まで皆無という、常識外れの力量と成果を高く評価してくれていたのだ。

 

「参謀総長。ご存知の通り東部戦線には、正面だけで一五〇個師団の赤軍が展開しているのです。このような状況にあって、『政治的配慮』を行う余裕はありません」

 

 上手い言い回しだと私は感服した。フォン・ゼートゥーア中将としては「自分の部下を取り上げてくれるな」と喉から出かかっているに違いないが、それを上官に対して直接口にする訳には行かない。

 だからこそ、査問会議による政治家たちの溜飲を下げる為程度にしか、私を副官職に就かせるメリットはないぞと、暗に意見を述べて私を取り戻したいのだろう。

 尤も、小モルトーケ参謀総長が、ここで折れる筈もないのだが。

 

「ゼートゥーア次長。私がフロックコート*2如きのご機嫌取りの為に、デグレチャフ中佐を手元に置いたと考えたならば心外だ。私が中佐に副官懸章を与えたのは、純粋に彼女を欲したからだ」

 

 これにはフォン・ゼートゥーア中将も、呆けたように口を開けた。よもや堂々と、お前の部下が欲しいから寝取ったのだと言われるとは思わなかったのだろう。

 手続きを踏んでの副官任命である上、上官にして赤小屋の頂点たる小モルトーケ参謀総長に、これ以上の異議申し立ては失脚の恐れさえあった。

 だが、フォン・ゼートゥーア中将もまた折れない。というより、完全に頭に血が昇っておられたのだ。

 普段の中将を知る方であれば、間違いなく顔面蒼白となり、触らぬ神に祟りなしと接触を恐れる程の形相。新兵いびりが大好きな兵舎の鬼軍曹だろうと、今のフォン・ゼートゥーア中将に比べれば、ガキ大将が戯言を抜かしていると鼻で笑えるに違いない。

 

「デグレチャフ中佐……貴官は、この決定に思うところはないのかね?」

 

 私は貴官を買っているつもりだと、参謀次長として最大級の賛辞を舌に乗せつつ『白銀』に後方勤務など相応しくないと言外に述べる。将を射んとする者はまず馬を射よと言うが、射るのではなく首輪をつけて連れ戻そうというのだから質が悪い。

 たとえ前線勤務に戻りたいという意思があったとして、小モルトーケ参謀総長の視線が刺さるこの状況下で、フォン・ゼートゥーア中将に追従出来る佐官がいるならば、是非ともお目にかかりたいものだ。いや……相手が元帥だろうと参謀総長だろうと、前線に焦がれて希望する者なら、一人いたか。

 私は含むように、乾いたように笑った。フォン・ゼートゥーア中将は、私が馬鹿にしたと思うだろうか。それとも、私の真意を見抜かれているだろうか?

 おそらくはきっと、後者なのだろう。私は自分が、どんな表情を作れているか何となくだが分かる。

 

「中佐……?」

 

 なんだ、その顔はと。そんな表情を軍人が、『錆銀』と恐れられた大隊長がするのかと言いたげに、フォン・ゼートゥーア中将は目を見開いていた。

 

「ゼートゥーア閣下。これまで数々のご高配を賜りましたこと、小官は心から感謝しております。ですが、参謀総長閣下の副官となる事は小官が望み、同意した上での拝命であります」

「危機的状況にある前線を承知の上で、貴官程の軍人が自ら志願したというのかね?」

 

 違うだろう。強引な、地位を利用しての引き抜きに決まっているだろうとフォン・ゼートゥーア中将は頭を振った。まるで長年連れ添った恋人を、上司に手篭めにされたような、そんな表情には不謹慎だが笑いを堪えるしかなかった。

 だって、仕方ないだろう? 老齢と称すべき妻子持ちの既婚者二人が、見目も実年齢も幼い少女を両手で掴み合いながら、綱引きのように自分の物にしたがっているのだ。私でなくとも、この状況に置かれた女は、彼らを見てこう思うのではないだろうか?

 

“お可愛い方達ですこと、と”

 

 だが、まぁ。先程も述べた通りどちらも老齢で妻子持ちの既婚者で、挙句私の体だの心だのでなく、軍人としての才幹が目当てだと考えれば、正直辟易もしてくる。何より私は副官の地位には何の不満もありはしないのだから、放っておいて欲しかった。

 

「はい、閣下。小官は参謀総長閣下が望まれるままに勤めを果たし、勝利への道に邁進すべく、全てを擲つと誓っております」

 

 ひどい矛盾だと、フォン・ゼートゥーア中将は嘆かれた。目に見えて肩を落としながら踵を返す、敗残兵のようなその背に、小モルトーケ参謀総長は笑うように言葉を投げた。

 

「ゼートゥーア次長。全ては勝利の為だ」

「真意も、その言葉通りであって欲しいものですな」

 

 臆面もなく忌々しげに吐き捨てながら、フォン・ゼートゥーア中将は執務室を去った。小モルトーケ参謀総長はそれさえ全く意に介さず、無駄な時を過ごしたとばかりに私に向き直った。

 

「中佐が提出した『連邦対外行動の源泉』は見事だった。よくもまぁ、一日二日で連邦というものの政治的性質を見事に書き綴ったものだよ」

「光栄であります、閣下。ですが、あれらは外交畑や専門家を狙ったもの。軍人の興味を引けるとは思えません」

「構わん。既にして他国にも翻訳し、発行するよう指示を出した。有識者らに連邦の本質を知らしめれば、世界はさぞ我々を贔屓してくれることだろう」

 

 昔の私なら、印税が入るだろうかと期待に胸膨らませたに違いない。ああ全く。本当に過去の私という奴は度し難い。

 

「それで? 本命の方はどうかね?」

「参謀連を納得させるのであれば、あと三日は必要です」

 

 一つでも穴のある論文など、中央参謀本部では失笑と嘲弄の的だ。全てにおいて完璧に。私が求める殲滅戦争の為に、入念かつ徹底して全てのコミーを骸に変える為にも、決して妥協は許されない。

 

「貴官であっても、ふた月はかかると見ていた仕事だ。楽に、しかし時間を無為にすることのないよう仕事を勤めたまえ」

 

 言って。小モルトーケ参謀総長は受話器を取り、車を回すよう指示した。本来なら副官たる私の仕事だが、元より私の仕事は勝利の為に最善を尽くすことのみであり、それを求められての副官任命でしかない。

 

「本日はどちらまで?」

「陛下を説得する。我々の目標達成の為には、宰相らも含め全て使わねばならん」

 

 

     ◇

 

 

 宮中の誰もが、皇帝(カイザー)さえも参上した小モルトーケ参謀総長に息を呑み、鬼気迫る表情で語る連邦との殲滅戦争に、蒼白となって総身を震わせた。

 これが他の軍人か、あるいはどれほど高位の貴族であっても、皇帝(カイザー)の宸襟を騒がすなど不敬であろうと退室を言い渡されるところである。

 だが、あの大モルトーケ伯の甥に相応しい、綺羅星の如く輝かしい勝利を帝国にもたらし続けた小モルトーケ参謀総長の言葉は真に迫るものであり、また、普段の彼を知る宮中の全てに、如何に参謀総長が事態を深刻に受け止めているかを伝えるものだった。

 

我らが皇帝陛下(マインカイザー)。そして、この場に集われた皆々様に申し上げます。我々は持ち得る全てを用いて、共産主義(ボルシェビズム)に打ち克たねばなりません。

 帝国の敗北はあらゆる文明の終焉を意味し、連邦の勝利はあらゆる民族と国家を、混乱と破滅の坩堝に投げ入れるものであります。

 皆々様におかれましては、既にして連邦の支配と暴虐については聞き及んでおられましょう。人類の平和と繁栄の為に、そして偉大なる帝室と帝国の永遠を願うならば、我々は共産主義(ボルシェビズム)を絶滅する以外ないのです」

 

 見目こそ勇武の相と、頑健なる巨躯を持つ小モルトーケ参謀総長だが、温厚で物静かという、プロシャ軍人の対極のような内面であったのは宮中の誰もが知る所であった。

 そうした軍人としての粗野がないからこそ、参謀総長は皇帝(カイザー)から厚い寵愛を授かってきたのである。

 それを小モルトーケ参謀総長自身自覚していながらも、不興を買うことを恐れず皇帝(カイザー)に進言し奉るのは、最早我々は早期講和や単純な戦勝などという次元で語るべきでなく、世界の命運を我々が握っているのだと理解させ、鼓舞する事にあったのだろう。

 

「ユリウスよ。余はお前に全幅の信頼をおいておる。お前がそう言うからには、それは正しいのであろう。だが、それは余の臣めらに伝えれば済む話であった筈。何故、余にまで理解を求めた?」

 

 宸襟を騒がせた事を疎んじているのではない。皇帝(カイザー)が仰られた通り、小モルトーケ参謀総長は陛下から最も信頼された臣なのである。このような形で説き伏せずとも、軍の意向や内閣との連携に口を挟もうとはしなかっただろう。

 故に、皇帝(カイザー)は問われたのだ。一体何故と。

 

「陛下。ご承知の通り、連邦はあらゆる国際法に批准しておりません。既にして陛下の赤子は前線で口にするのも憚られる無残な最期を遂げ、避難民の女子供の多くは辱めを受けているのです。彼の国はいずれ、陛下が疎んじた『毒』をも我らに用いましょう。然ればこそ、我らは毒を以て毒を……」

「ならん! そればかりはならんぞユリウス! 其方らは余の赤子! 余の軍隊である! 如何に連邦が悪逆非道、不倶戴天の敵なれども、我らがそれを用いれば、敵と同じ外道となる!」

 

 皇帝(カイザー)は激怒というよりも、愕然とした表情で小モルトーケ参謀総長に声を張り上げたそうである。そんな言葉は、断じてお前の口から聞きたくなかったと。息子の非行を初めて知った親のように、悲しい目をされていたという。

 

「陛下……我が身の非才を恥じるばかりでございますが、東部戦線は非常に苦しい戦いとなるでしょう。連邦の広大な国土は縦深が深く、内奥に進めば進むほど、我が軍の損耗は避け得ぬのです。私が持てる全てを、残る寿命を捧げ尽くしても、勝利への道は困難を極めましょう」

 

 皆、ごくりと息を呑んだ。あの偉大なる小モルトーケ参謀総長が、顔を俯かせて苦しいという。勝てねば、勝利せねば世界の全てが暗黒の時代に突入するだろうと予言しながら、()()()()()()勝てないかもしれないと弱音を吐いたのだ。

 臣下の誰もが、皇帝(カイザー)に不安げな視線を送られた。小モルトーケ参謀総長で勝てなければ、他の誰も無理だと知っている。皇帝(カイザー)もまた、その内の一人なのだ。

 

「ユリウスでさえ、無理だというのか?」

フランソワ大陸軍(グランダルメ)のルーシー遠征を例に挙げるまでもなく、我らの敵は軍でなくルーシーの大地なのです。陛下、軍人としての名誉を汚す事。慈悲深き陛下の御心を傷つけた事を、深くお詫び致します。なれど、全ては勝利の果てにある、人類の平和の為なのです」

 

 皇帝(カイザー)は暫し黙し、やがて目を覆われた。帝国という共産主義への防波堤が崩れれば、間違いなく世界は終わる。自分達の破滅も、決して免れないのは小モルトーケ参謀総長の進言からも察せられた。選択肢は、本当にないのだと理解されてしまったのだ。

 持てる全てを注ぎ込む以外に、帝国に、世界に未来はないのだと。

 

「宰相、森林三州誓約同盟の仲裁裁判所に是非を問え。許可なく非道の一手を用いる事は許さん」

 

 

     ◇

 

 

 かくして森林三州誓約同盟内の戦時国際法を担当する仲裁裁判所に、帝国は何処まで法を遵守すべきかと問うた。

 戦争当事国の片割れが国際法を批准していない場合、たとえ片方が国際法を批准していたとしても、それを順守する必要がないというのは現代においては常識であるが、当時は未だ明文化されていない、暗黙の了解だったのである。

 当事、森林三州誓約同盟は永世中立であったものの、過去に語ったように裏では数多くの国家と取引をしており、帝国が明文化を求めた国際法非加盟国に対する扱いも、制定には牛歩戦術を用いようとしたのであった。

 が。小モルトーケ参謀総長は戦争遂行に対しての妥協を一切しなかった。皇帝(カイザー)への拝謁を済ませる前に宰相と交渉し、レランデル州の官吏を仲裁裁判所に送り込んだのである。

 

「明文化が為されないのであれば従来の慣習に習い、国際法非加盟国への戦時国際法適用は無効と見做すし、当然、将来帝国を違法だと訴えようと、現状違法でない以上は遡及法など認めないし応じない」

 

 レランデル州の官吏はこの要求を第一として一歩も引かず、更には連邦が如何に悪逆であるか中立国を中心に喧伝しつつ、連邦の肩を持つように明文化を避ける森林三州誓約同盟の仲裁裁判所を、中立国にありながらルーシー連邦寄りの立場を取る、不公平極まりない裁判所だと報じさせたのである。

 流石に永世中立としての立場に疑義を挟まれては敵わず、仲裁裁判所は『戦争当事国の一国が国際法に批准していたとしても、敵対国家が国際法非加盟国であった際には、国際法非加盟国に国際法は適用されない』と定めた。

 但し、連邦軍の扱いに関しては条件が定められ、連邦軍は『党の軍隊』であるものの、軍服を纏い、階級章を着用している国家正規の軍隊である為、戦後に連邦軍を『犯罪組織』として裁く事を禁じた。

(尤も、連邦軍の悪逆非道ぶりは枚挙に暇がなく、国際裁判所での証言・証拠など数え切れない状態であったため、この措置は全く役には立たなかったが)

 

 皇帝(カイザー)はひと月と経たず国際法非加盟国の扱いが明文化された事に目を剥きつつも、法で定められた以上、そして祖国の勝利が世界平和に繋がるのならば、と深く息を零しながら、痛心の体でお認めになられたという。

 

 

     ◇

 

 

 小モルトーケ参謀総長が出立されてすぐ、私は参謀総長の執務室へと踏み込んでくるだろう人物を待ち続けた。フォン・ゼートゥーア中将が、この機に乗じて私を口説きに来るとは微塵にも考えていない。私が待っているのは、私を殺しに来るかもしれない人物だ。

 

“エルマー技術中将……貴方は、どんな風に私を見るのでしょうね?”

 

 フォン・キッテル参謀大佐が墜ちたという報は、エルマー技術中将には決して知らせてはならないと徹底的に箝口令を敷き、万一漏れた場合には厳罰に処すと統帥府から直々に通達があったほどだが、それも無理からぬことだろう。

 誰よりも家族を愛し、家族と、心から自分が信じられる者の為にのみ動く大天才。それ以外の全てなど路傍の石にも等しく、神以上に家族を重んじられるあのエルマー技術中将が、もしも兄の墜落を知ればどうなるか。

 

“貴方は、声を上げて叫ばれたそうですね。喉が裂け、声が枯れ、血涙を流しながら、兄君を死に追いやった全てに、呪詛の言葉を吐いたと聞きました”

 

 情報を流したのは、小モルトーケ参謀総長だった。「貴官の兄君は連邦の手によって撃墜されたのだ」と参謀総長は重く語られたが、それが私同様に、復讐を決意させたかったが為なのは明らかだろう。

 フォン・キッテル参謀大佐が墜落した原因が、私の為だということはエルマー技術中将には分かっているし、私ですら、原因を知っている……私の為に、フォン・キッテル参謀大佐は無理をしたのだと。

 それは、東部の将兵だけでなく、参謀連でさえ耳に入っていることだ。誰だって、フォン・キッテル参謀大佐が墜ちる筈がないと考えていた。もし墜ちるなら、その原因を知りたがる。そうして、答えに行きついてしまう。

 

「そこを決して動くな」

「人目があります故、参謀総長閣下の執務室でお待ちしております」

 

 通信室で連絡を受けた私に、エルマー技術中将は怒気を孕んだ嗄声で迫り、私は穏やかな口調で応えた。逃げる事も、隠れる事もしない。たとえエルマー技術中将に無残に殺されるのだとしても、私はそれを受け入れよう。

 エルマー技術中将には、それをする権利がある。私には、それを受ける義務がある。あの方を、フォン・キッテル参謀大佐殿を死なせてしまった行動の源泉は、あの方が私を案じて下さった為だから。

 

“間に合う筈など、無かったというのに”

 

 査問会の報せを受けてから本国に到着するには、明らかに時間など足りはしない。それでもフォン・キッテル参謀大佐は、私の為に何かしたかったのだろう。動かずにはいられないほどに、私を重んじて下さっていたのだろう。

 何時だとて、フォン・キッテル参謀大佐はそうだった。私はエルマー技術中将が来られるまでの間、一つ一つの手紙を、心残りが減るよう黙読する。

『お変わりありませんか?』『デグレチャフ少佐が贈って頂いたマフラーですが』『私は常に』『貴女を』『どうか息災で』『いつの日にも』『私の心には』

 

“嗚呼、何故、私は……”

 

『私の事を愛しておいでなのですか?』

 

 あの文を、偽りの心と他人の言葉で綴ってしまったのだろう? きっと、気付いていた。お気付きになられていた。あれが、あの文が私の言葉では、心ではないという事を見抜かれていた。今、フォン・キッテル参謀大佐の返信を見れば分かる。文字も内容も、まるで大衆の子女を相手にするようなものじゃないか。

 私に送った他の文よりも、筆圧も間隔も違いすぎる。定型句に近いそれは、明らかに思い悩みながら書いたものではなかった。苦笑しながら、悪戯に気付いた相手が、それに合わせてくれたような文じゃないか。

 一体どうして私は、これが本心だなどと思い込み、安堵した? どうして私は、もっと早くこの世にはかけがえのないモノも存在するのだと気付けなかった?

 

“どうして、私は”

 

 もっと早く、自分の想いに気付いて。

 もっと早く、自分の想いを伝えて。

 

“もっと早く、大佐殿に……自分の口から”

 

 ぽたぽたと、雫が落ちる。インクが滲むのは嫌だと慌てて手紙を避けて、軍服の袖で涙を拭う。この灰緑色(フェルトグラウ)槍騎兵服(ウランカ)とて、気に入って仕立てて貰ったものだ。デザインが良い反面、着用は手間だが、それでも他の型の軍服を着たいとも思わなかった。

 

“気付かなかった、だけなのだろうな……”

 

 総監部の食堂で、エルマー技術中将が仰られた忠告を思い出す。彼は私が優秀で合理的だと言った。誰もが、私のようにはなれないとも。

 

“私が、優秀なものか”

 

 他人どころか、自分の感情の愚かさにも気付けない。だから後になって、いつも後悔ばかりする。今の今まで、あの時の忠告を何度も思い返しながらも、何度も前線で苦労をした。

 相手を理解できていないから。相手の心が分からないから。私はずっと、予期しないところで間違え続けていて、けれど決定的な失敗を経験しなかったから、次に活かせば良いと軽んじて……。

 

“その結果が、これだ”

 

 私は間違えた。自分も他人も読み違えた。私もまた感情に踊る愚かな小娘であり、万難を容易く排するだろうと考えたフォン・キッテル参謀大佐も、人間なのだという事を理解出来ていなかった。

 私は、査問会に来て欲しいと望んだ。それが当然の権利だと考えた。けれど、その結果を。フォン・キッテル参謀大佐が私の元に辿り着く為に、どれだけの無理をしてしまうのかを理解出来ていなかった。

 あの方の心が何処にあり、どのような思いで行動するかを、慮る事が出来なかった。

 

“ようやくか”

 

 杖のつく音が響く。激しく、強い感情が、殺意に満たされた意思が直接対面せずとも届いてくる。私は立ち上がり、懐に入れていたフォン・キッテル参謀大佐からのハンカチを机に載せて、その上に手紙を置いた。

 これなら、銃で撃たれても散った血は付かないだろうと考えてのことだ。姉君からのハンカチなら、所持する権利は弟君にこそあるだろう。

 

「お待ちしておりました、技術中将閣下」

 

 私を殺せ。貴方の望むまま。怒りのままに。

 既に種は蒔き終えた。帝国は小モルトーケ参謀総長が勝利の道を切り拓く。私の復讐は、エルマー技術中将が代わりに成してくれる。私より、ずっとずっと上手くやってくれるだろう。けれど。

 

「すまなかった。本当に、すまない」

 

 エルマー技術中将は私を見るや、杖を落として抱きしめてきた。まるで兄君に、家族にするように、嗚咽をこぼして謝罪し続けた。

 

「閣、下……?」

 

 何故、貴方は私に憎悪しない? 何故、私に謝罪などする?

 憤怒の相は、私の顔を見た途端に落ちてしまわれた。恨みも呪詛も発さず、エルマー技術中将は私をあやすように優しくする。辛かったろうと。苦しかったろうと。年の離れた妹に、甘えて良いのだと諭すように。

 

「中佐。私は、嘘が分かる。他人の心が、どうしようもなく分かってしまう」

 

 幼い頃から、いや、自分という物を自覚してからずっと、それを、呪いのように感じ続けていたと零すエルマー技術中将は、当惑する私の目を、じっと見つめて応えた。

 

「愛しているのだろう? 兄上を、心から愛してくれていたのだろう?」

 

 愛……他人の口から、初めて言われた言葉。自分の心に、芽生えていたものを形にしていくもの。それを反芻する度に、私の目からも涙が溢れた。

 

“愛して、愛、愛し……”

 

 ……嗚呼、嗚呼、ああ。

 

「は、い。あいして、いました。ずっと、ずっと気付けませんでしたが、私は、お慕いしていました」

 

 心の奥底では、常にあの方を追っていたのだろう。けれど、それを認めようとはしていなかった。私は狡猾な男のような人間だった。打算と合理性こそが、全てと割り切ってしまうような人間だった。私は可愛くない、何処までも嫌な奴だった。

 

「私の、私のせいです。私が、大佐殿を」

「言うな。私は貴女を責めはしない。貴女を責めさせもしない。貴女は心から愛されている。涙も、後悔も、私への謝罪も、全て本物だと分かる」

 

 だから良い。だから許す。心から自分の家族を愛した者を、一体どうして責められると。エルマー技術中将は同じく涙を流しながらも、私を安堵させようと無理に微笑まれた。

 

「閣下、ですが、私は」

「エルマーだ。敬語も、階級もいらない。兄上が私になさったように、貴女にもそう呼んで欲しい」

 

 貴女は、兄上の妻になってくれる筈だった方なのだからと。

 面映く、羞恥が胸を焼き、けれど涙が溢れてしまう言葉。そんな未来があったなら、どれほど幸福だったことだろう。

 あの方の妻となり、弟君を義弟として慕い、心から愛に満ちた日々を送り、老いて眠れたなら、それはどんなに温かい未来だった事だろう。

 けれど。もう私達にそんな未来はないんだ。どこまでも暗い、果てしない地獄を作ることでしか、何も残せはしないのだ。

 

「エルマー。私は、憎い。自分が、コミーが、連邦が、何もかもが憎い……!」

「私もだ。コミュニストが憎くて、連邦が憎くて、敵を殺したくて、共産主義を滅ぼしたくて堪らない」

 

 エルマー技術中将にとって、人の心が分かってしまうこの人にとって、家族とは唯一、心を凪のようにさせてくれる人達だった。

 温かく、優しく、何処までも穏やかで満たし続けてくれる人達だった。そんな家族を、かけがえのない宝石を砕いた敵を、エルマー技術中将は許せないと口にする。

 私もまた、愛する人を奪った相手を、殺し尽くすのだと叫ぶ。

 

 だから、私達は誓うのだ。血の繋がらない家族として。心から信頼し合える友として。力を持った戦友同士として、全てを滅ぼしてみせると誓う。

 黙示の喇叭を響かせよう。神なき者共の大地に、共産主義の狂信者達に、最終戦争(ハルマゲドン)を届けてやろう。聖なる書の予言よりも先に、我々が全てを滅ぼそう。

 

 神の怒りより恐ろしい、人の憎悪を思い知れ。

 

*1
 この時点までの第二〇三魔導大隊の損耗は、腐ったじゃが芋による食あたりが原因の、傷痍退役者が一名出ただけに止まっていた。

*2
 文官の通称




 なんか参謀総長閣下がちょび髭伍長みたいなことを言い出した件。でもご安心ください! 参謀総長閣下は撤退を許可してくれる、そこそこ優秀なトップです!


※参謀総長閣下の策略は成功し、弟くんにもブースターが入ってしまいました。
 兄上墜落を伝えてデグ様を殺したらどうするつもりだったんだろうと思われる読者もおられる事でしょうが、小モルトーケの奴は、流石にあんだけ兄の為に泣いて復讐誓ってる幼女は殺さねーだろと楽観視してました。結果的に成功しただけですね。
 下手したらチートの一角が消えてましたし、バッドエンド直行です。これだからチートじゃなくて優秀どまりなんだよなぁ、参謀総長。

補足説明

【この世界の国際法上の連邦軍の扱いについて】
 森林三州誓約同盟は連邦軍を正規軍認定したようです。ちっ、やりづれぇ。
 ちなみに史実だと国の承認を受けて軍服も階級章もつけてたSSの皆さんは犯罪組織。だけど同じ党の軍隊で国際法にも加盟してなかった赤軍は正規軍扱い。(ドイツはハーグ条約加盟国)
 ついでに言うとフランスにも政党の保有していた準軍事組織があった模様。
 これらが意味するはすなわち、勝った奴が正義。はっきり分かんだね。



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45 脚色-ターニャの記録15

※2021/2/15誤字修正。
 みえるさま、八連装豆鉄砲さま、佐藤東沙さま、ドン吉さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


「早期決戦? 馬鹿も休み休み言え。連邦との決着には最短でも二年はかかると見るべきだ」「補給線と冬季装備の確保は不可欠だ。鉄道課の要望は幾らでも聞け。ダキア方面での占領地の架設を急がせろ」「宣伝局を蹴り上げろ。市民への戦意高揚は後で手を打つ。東部戦線は帝国の『防衛戦争』であると同時に『イデオロギー戦争』だと全世界に伝えるのだ。民間新聞社にも記事を載せろ。亡命者の義勇軍部隊を組織する」「捕虜はどれだけ多かろうと取れ。ヨセフでなく我々に付くのであれば、戦後は英雄だと伝えろ。無理なら労働力に回す」

 

 矢継ぎ早に繰り出される小モルトーケ参謀総長直々の命令は、中央参謀本部をシュリー伯時代の不夜城に戻した。

 参謀連の誰もがかつてない仕事量に忙殺され、これまで穏やかな性格ゆえに敬慕されていた参謀総長の豹変に絶叫し、「大総長*1に取り憑かれておられる」と恐怖した。

 小モルトーケ参謀総長は繰り出す命令以上に先陣を切って職務を遂行し、一分一秒の無駄とて惜しいと早朝から深夜まで戦争計画を練りつつ書類を決裁しては、各所に電話をかけ続けるという有様だった。

 ルーシー戦役当時の参謀連は、かつてのシュリー伯の姿を重ねずにはいられない参謀総長の姿に、何が起きたのだと瞠目していたが、戦後になれば誰もが、この時のことを思い出しては目を細める事になる。

 

『参謀総長閣下は、ご自身の死期を悟っておられたのだろう。残された時間、その全てを、帝国の勝利と世界平和の為に捧げられたのだ』

 

 参謀連の若手にして秀英。そして後に数多の武功を重ね、枢要なる地位に就かれる事となるフォン・レルゲン参謀大佐(当事)が、自著(『レルゲン回顧録』一九五九年、出版)でこのように回顧した通り、小モルトーケ参謀総長は蝋燭がその最後に一際激しく燃え上がるように、自らの命を燃やしながら終戦の日まで戦い続けるのである。

 

 

     ◇

 

 

 小モルトーケ参謀総長にとって、開戦からの一年は帝国の準備期間だと割り切っていた。瀉血戦術と縦深防御を組み合わせ、攻勢に出る連邦軍の出血拡大を狙いつつも、東部戦線に完全勝利をもたらす為の布石を打ち続けていたのである。

 まず、航空優勢を確保した空軍が空から前線と言わず連邦領と言わず連邦公用語の伝単(ビラ)を撒き、ラジオでも連邦公用語での放送を始めた。

 

『ルーシー連邦の善良なる民よ! 共産党の侵略戦争などに加担する必要はない! 我々帝国は独裁者から諸君を解放する! 我々の呼びかけに応え、我々と共に銃を執る事に応えてくれるならば、必ずや諸君にパンと自由を、命の脅かされる事のない明日を約束しよう!』

 

 皮肉な話だが、旧体制の頃において著しく低かったルーシーの識字率は、共産主義者らのイデオロギー教育によって大幅に改善され、兵卒であっても何十人かに一人は文字を読む事が出来ていた。

 一〇〇人に一人でも良い。彼らの口から他に広まり、語られ、一〇〇〇人に一人でも帝国側についてくれるならば、それだけでも効果はある。

 ルーシー人は母なる祖国の防衛においては死力を尽くすナショナリストだが、侵略戦争などというのは支配者層が私腹を肥やすものに過ぎず、自分達には関係ないという見方が一般的であるのも大きい。ツァーリの時代においても防衛戦争は成功したが、侵略戦争では士気の低さから何度も統治者は手痛い目に遭っている。

 戦争に勝利したとしても得るものはなく、たとえ敗北したとしても関係ないというのであれば、士気は著しく落ちるだろう。

 

 事実、この一手は連邦の支配者から、共産党から掲げるべき『大義』を奪った。

 連邦が「攻め入ったのは帝国の側であり、この戦いはフランソワ大陸軍(グランダルメ)が母なる大地を簒奪しにやってきた『祖国戦争』と同じなのだ」と叫ぶよりも、『第二次祖国戦争』だの『大祖国戦争』だのと銘打つよりも、帝国の方が早かった。

 諸君らが行っているのは防衛戦争ではない。侵略戦争なのだという伝単(ビラ)は長距離爆撃機から連邦の都市にも撒かれ続け、連邦がそれに気付いて敵の策謀だと訴えても、それを信じようとするルーシー人は少なかった。

 最大の危惧であった、モスコー襲撃が早期過ぎる点を突いて「帝国が開戦と同時に首都を襲撃した!」と騒ぐ手を連邦に使われるとどうしようもなかったが、党幹部らが自らの保身に動いてしまったのと、何より攻撃目標を党と軍関係に留め、集中した為に、予期せず相手の立ち上がりを鈍らせることが出来たため、結果として成功に繋がった。

 

 次に、この戦いはイデオロギー戦争であると称したように、帝国が連邦と対決するのは共産主義者の圧政からの解放のためであるとして、世界各国の亡命者や反共勢力に『聖戦』参加を訴えたのである。

 これはすぐに結果が出た。亡命していたスオマ人は若人から老兵まで帝国に結集し、ツァーリ時代の白ルーシー軍将兵は言うに及ばず、フランソワ共和国やアルビオン連合王国からも少なくない親帝国・反共主義者が集ってきた*2

 

 帝国に集った義勇兵は打倒ヨセフ、打倒共産主義(ボルシェビズム)を謳い、十字軍の如き苛烈なる熱狂と士気を維持したまま兵営での養成訓練を受け、東部戦線に配置された。

 ルーシー解放軍、アルビオン自由軍団と国籍に応じて各々の部隊に分けられた彼らであるが、特に勇名を誇ったフランソワ・スオマ両義勇軍は後にその栄誉を讃えられ、フランソワ義勇軍は親衛擲弾兵師団『シャルルマーニュ』、スオマ義勇軍は親衛装甲師団『ヴィーキング』と改名。

 幾人かの将兵は終戦後も帝国に残り、正式な帝国国籍を得て将官にまで上り詰めた*3

 

 これらに加え、帝国は連邦内に激震に近い二つの政治的揺さぶりをかけた。

 

 一つは、今は亡きツァーリの忘れ形見にして唯一生存していた、ルーシー帝国の正統なる帝位継承者、アナスタシア大公女が、当時見習い親衛隊員であったドミトリィ・ザイツェフ士官候補生と共に帝国に亡命していた事を発表した事だろう。

 ツァーリと現帝国皇帝が又従兄弟である関係を縁に、辛くも革命真っ只中のルーシーから脱してベルン宮中に身を潜めていた二人であったが、ルーシーから共産主義者を殲滅する御旗となる事を決意され、王政復古を宣されたのだ。

 アナスタシア大公女はルーシー国民に、帝国勝利の後に王位を継承したとしても、あくまで実権を伴わぬ、国家の『象徴』たる立場に留まること。

 アルビオン連合王国に代表される立憲君主制の政治形態*4を確約すると切々に呼びかけ、アナスタシア大公女が皇帝(カイザー)との連名で発言を宣誓したことで、これが権力を求めての事でなく、未来のツァリーツァとして人民に尽くしたいのだという意思を顕にした。

 社会主義の統治より、帝政の頃が遥かにマシだったと嘆く連邦人民にとってこの効果は大きく、前線では白軍主義に鞍替えする将兵が相次いで現れた。

 王政復古に同調する白軍派は急速に規模を拡大したことで、ルーシー解放軍とは別に、ザイツェフ王室親衛隊長兼帝国軍歩兵大佐*5率いるルーシー狙撃軍団や白衛軍が結成された。

 

 二つ目は、連邦に『分離主義者』と唾棄された、自由と祖国を求めやまない人々に、帝国政府が和解と共存・共栄を訴えた事だろう。

 

『帝国は領土的野心など有してはいません! 占領した都市を、村を、領土を併合する意思は我々は持ち合わせないのです! やがて“赤匪”との戦いに勝利したその暁には、我らはその地を、その地で生きる者の物なのだと保証しましょう!

 もし、貴方方の中に連邦からの独立を求める声があるなら、我らは良き隣人として、その道を寿ぎましょう! 未来のツァリーツァも、既にして貴方方の分離・独立を皇帝(カイザー)と共に承認する用意があるとの声明を、書面に記しておいでです!

 我らの輝かしい勝利の後、“圧政からの解放”の後に、貴方方は真に価値あるものを、望み止まないものを手にする事が出来るでしょう!

 国旗を、国歌を、何者にも犯されてはならないという国土を、子々孫々に続く“祖国”という我が家を、愛する地に築く事が出来るのです!

 温かな家庭を築く権利が、どうして誰かに侵害されねばならないでしょう? 我が家のもとで子を愛し、育む権利を、誰に咎められることでしょう?

 もしそれを否定するものがあるとするならば、それは侵略者であり、暴君に他なりません。私達は未来を望む者達に、強制も強要も致しません。ただ、誤解して欲しくないのです。私達が望む明日は、世界を支配しようと言うインペリアリズムではありません。

 そうした支配を誰より強く望むのが他ならぬ連邦であることは、虐げられ続けた皆様は、既に承知しておいででしょう。

 遠くない明日に、手を携え合える国が生まれてくれることを。

 スオマのように失われた国が、再び穏やかな平和に包まれることを。

 私達が心から望むのは、そうした“圧政からの解放”であり、世界が僅かにでも平和である事なのだと知って頂きたいのです。

 願わくば、どうか帝国が良き隣人として貴方方と手を携えられる日が近づく事を、帝国政府は、そして帝国軍は望みます。我ら偉大なる皇帝(カイザー)が、そうお望みであるように』

 

 この声明は連邦内だけでなく、全世界に対しての発信であり声明でもあった。帝国はかねてから伝統的領土権を主張し続けたオストランドから東にかけての領土は、たとえ勝利したとしてもルーシーと分離・独立派に要求せず、また共産党に代わる将来の新政府も、多民族国家からなる統治の限界を認め、独立を是認すると正式に確約したのだ。

 それも、軍も政府も絶対の忠誠を誓う、皇帝(カイザー)の名を出した上でである。如何にインペリアリズムの権化と、軍国主義と敵対諸国から唾棄されていた帝国だとしても、その名を出してしまった以上撤回はできない。

 

 世界において、最も権威ある皇帝と称された皇帝(カイザー)の名は、たとえ軍においては名誉階級を持つに留まるとしても、未だに重い物だった。

 プロシャ貴族の大多数が未だ軍の枢要を占めているというだけでなく、騎士道精神こそを美徳とする価値観が帝国男性に根付く社会において、皇帝(カイザー)と国家に対して捧げる忠誠宣誓は、神への誓いにも等しい。

 帝国政府の発言力が、連戦連勝の輝かしい栄光を祖国にもたらした軍部のそれより一段劣ることは他国も、連邦内のパルチザンも承知していた。だが、帝国が帝室を全ての頂点としているのも事実であり、その名を出すという事は、錦の御旗を掲げるのと同義だ。

 だからこそ、パルチザンは納得する。独立を望む市民は渇望する。一刻も早く自分達の都市を、土地を、いいや『祖国』を『解放』してくれと。

 自分達の子や孫が、二度と共産主義者に苦しめられない未来を与えてくれと。

 その為には協力など惜しまない。歓呼の声を上げて、帝国軍を迎え入れようと急き立てる。

 当然のことだが、帝国軍にはこれに伴って幾つかの軍令が発布された。占領地での略奪や現地民との諍いは決して許さず、常に現地民に尊敬されるよう振る舞えというのだ。

 

「諸君らは解放者であり、悪を討ち、弱きを救う英雄でなくてはならん。連邦軍のように徴発と称して略奪を行う事も、不遜な振る舞いも厳に慎め。麦一粒とて占領者として奪う者があれば銃殺に処せ。庇い合いも同罪とする」

 

 帝国軍は常に軍規に則り行動するが、それでもこういった命令を小モルトーケ参謀総長直々に喚起せねばならないほど、神経を尖らせねばならないデリケートな問題なのだという事は、命令を受けた前線将兵には嫌と言うほどに分かった。

 多少の不満はあれど命令はすんなり通り、帝国軍人は襟を正し、規律を保って良好な行軍軍紀を心がけたのだ。

 常に隣人に手を差し伸べるべく、将兵らは道行く人々に「困っていることはないか」と声をかけるところから始まり、壊れている塀や柵があれば直し、道が荒れればこれを整備し、村々で家畜の具合が悪くなれば、馬匹の健康管理を務める獣医を送って診察に励んだ。

 

 特に、農村部から徴兵された兵卒などは、東部の何処にいても重宝された。中には娘を嫁に貰って村の一員にならんか、という声までかけられたというのだから、彼らがどれだけ額に汗して帝国の為に、そして現地民の困苦欠乏に貢献したかが分かろうというもの。

 占領地では、まるで絵本の中から現れたように騎士然とした帝国軍人が街を闊歩しては、花を子女から受け取る場面も多く見られた*6と後世の『解放国』で美談として語り継がれているが、こうした地道な努力が裏にあってこそ、帝国と占領地は手を取り合い、和解することが出来たと言えるだろう。

 

 こうした政治・軍事双方の視点を有しながらの計略は小モルトーケ参謀総長の非凡なる才幹を顕著にするものであったが、当人は晩年、それを笑いながら否定された。

 

「私は才の足らぬ人間だった。だからこそ、足りないものを他の人材で埋めようと躍起になっていたに過ぎんよ。ただ、運良く私には一つだけ大きな取り柄があった。

 他人の才幹を、欲するものを、動かすのに必要なものを見抜き、それを把握して運用出来た事だ。私自身は参謀総長としては凡百だったが、これのおかげで叔父上の名に傷を付けずに済んだ」

 

 真実そう思っての言葉だったのか、或いは謙遜に過ぎなかったのか。参謀総長亡き今となっては真意の程は分からないが、しかし、その大きな取り柄だけでも帝国にどれだけの恩恵をもたらしてくださったかは計り知れまい。

 小モルトーケ参謀総長はその言葉通り、他人を正しく動かす事にかけても努力を惜しまなかった。

 

 前線将兵の士気と国民の戦意を高める為、新規に従軍章を制定したのである。

 これまでの従軍章といえば、共通の従軍記章に戦地ないしは交戦国の刻印が為された飾版を綬に装着する形式であったが、ルーシー連邦との決戦が如何に重要であるかを訴える為、東部戦線冬季戦記章を制定。

 苛烈な戦闘が予想される冬季において、戦闘に従事した全将兵を授与対象とした。

 戦役記念章の類とは訳が違う。二級鉄十字同様に第二ボタンへのリボンの佩用を許すという点からもこの記章の重要性が窺い知れるだけでなく、前線将兵らは連邦との戦いがどれだけの意味合いを持つかを改めて深く感じ入るだろう。

 実際、記章の制定と授与が発表されて以来、前線ではこれを手にする事がステイタスとなるだけでなく、銃後を預かる帝国臣民も、記章のデザインと共に掲載される檄文に熱を上げ、連邦との対決が世界の命運を決するのだと改めて拳を握って軍の戦いを支持したのだから、如何にこの記章がイメージ戦略に貢献したかが分かるだろう。

 

 さて。小モルトーケ参謀総長の話ばかりとなってしまったので、そろそろ私の話に戻るとしよう。

 

 

     ◇

 

 

 こうした布石の最序盤より早く、私は共産主義廃絶を迅速かつ確実に遂行する為の前段階として、参謀連の支持を得る為の論文『今次戦争における部隊運用と作戦機動』を完成させた。

 前々から構想は有り、着々と準備を進めてはいたものの階級の壁に加え提出の機会にも恵まれず、肥やしになっていた案を再編纂した物だが、流石に軍大学校時代から練っていた労作を自身の実戦経験で裏打ちしただけあって、臆面もなく自画自賛出来る代物に仕上がった。

 

 単一兵科による部隊編成でなく、諸兵科を統合する事で互いの弱点を補いつつも、管理体制の複雑化を避ける為に必要に応じ流動的に編成するカンプグルッペ・ドクトリンを提言した論文は、確実に参謀連も気に入ることだろう。

 兵力の効率的運用を中核とした統合運用は、損耗を抑えたいフォン・ゼートゥーア中将にも、敵に多大なる損耗を強いたいと考えているフォン・ルーデルドルフ中将(一九二六年、四月進級)にも、そして社会主義国家の完全なる殲滅を求める小モルトーケ参謀総長にも、ご賛同頂けるに違いない。

 私の論文は正式な手続きを踏んで受理され、査読されている段階だが、すぐに試行段階に移り、一年以内には正式に運用される事だろう。

 私は仕事をやり遂げた満足感から、数分程の小休止を満喫すべくフォン・キッテル参謀大佐との私信に目を通す。

 

 大佐殿の顔を忘れない為に。声を忘れない為に。

 敵への憎悪を忘れない為に。復讐を遂げる為に。

 

 数分後、卓上電話が響いた。小休止を終えて、丁度良いと思っていた所だ。

 

「はい。デグレチャフ中佐であります」

 

 おそらくはダキア方面での反攻と油田確保の作戦に関してだろうと、私は粛々と言葉を待ち……。

 

「え……?」

 

 落としかけた受話器を、手放すまいと強く握る。嘘ではないかと。本当に現実なのだろうかと戸惑いながらも、歓喜から涙が込み上げる。

 

「そう、か。ありがとう、エルマー」

 

 私は静かに。震えながら、受話器を置いた。

 

“生きて、おられたのですね”

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 長く妻が紙文を割いたが、読者諸君には私の過去に話を移す前に、妻が語った内容の多くが、事実に反するという事を述べておきたい。

 妻は私を失ったと誤解したことから、ルーシー連邦への復讐を決意し、まるで古典文学のヒロインか鬼女のように、大英雄たる小モルトーケ参謀総長を手玉に取り、その死期さえ早めさせた張本人であるかのように綴ったが、当時の妻にそんな真似が出来る筈がない。

 

 如何に妻が最年少士官学校・軍学校卒業記録を誇る神童といえども、あの小モルトーケ参謀総長を動かせるとは到底思えないし、何より原因を作ってしまった私が言うのは大変心苦しい話であるのだが、当時の妻、フォン・デグレチャフ参謀中佐は殆ど茫然自失に近い有様だったというのは、参謀連では誰もが知る事実である。

 

 伽藍堂のような瞳に幽鬼めいた足取りで赤小屋を歩み、質疑応答の類にも殆ど掠れ切った声で応える程度。書類仕事はこなせていた様であるし、各種業務も凄まじい早さと正確さだったそうだが、それが現実からの逃避めいた行動だったのだろうと、参謀連は顔を伏せて述べられていた。

 食堂での食事も殆ど手をつけず日に日に痩せ、輸液を行いながら職務に取り組み、職務中静かに涙をこぼしたり、深夜に嗚咽が響くというのは毎日の事だった。

 フォン・ルーデルドルフ中将など、入院措置どころか病気退役も必要ではないかと考えていたようで、とてもではないがフォン・ゼートゥーア中将がフォン・デグレチャフ参謀中佐を前線に戻そうとしていたというのは無理がある。

 小モルトーケ参謀総長がフォン・デグレチャフ参謀中佐を副官に任命したのは、中佐が大隊長を続ける事は不可能だと察し、壊れかけた心を、時間をかけて戻す為に手元に置かれたのだろう。

 

 文に目を通した私は妻に対して、流石に演出過剰に過ぎると言ったのだが、妻は頑としてこのまま掲載して欲しいと言って聞かなかった。

 だが、何故妻が意固地になってまで、このような文を載せたがったのかは、大凡であるが察しはつく。

 小モルトーケ参謀総長はご存命の頃、妻を孫娘のように愛して下さり、妻もまた父や祖父という存在を知らなかった為か、大層深く心を寄せていた。

 その妻にしてみれば、ルーシー戦役での己に課せられた使命を遂行する為に、人が変わられたような小モルトーケ参謀総長のお姿を目にして、心を痛めたのだろう。

 小モルトーケ参謀総長が、偉大なる叔父上の後継に相応しき赤小屋の頂点にして、共産主義の脅威から世界に救済をもたらした大英雄と各国から讃えられ続ける一方、ルーシー戦役の苛烈な戦争計画と指示に対しては、非難の声が今も続いている事は周知の事実である。

 

 妻が自らを似合いもしない魔性の女のように書いたのは、小モルトーケ参謀総長への心無い評価が、耳に届く事が耐え難かったという気持ちからだというのは私にも痛い程分かる。しかしながら、本著は虚構でなく回想記である以上、あからさまな嘘をそのままにしておく訳には行かない。

 読者諸氏は、妻の創作に気を悪くされた事と思われる。この場をお借りして、深くお詫び申し上げる。

 そして、どうかご理解頂きたい。妻は自らが吐露したように、早熟であっただけの一人の少女であったことを。クリームヒルトのように、全てを巻き込みながら破滅の道を辿れるような、強くも悲しい女性にはなれなかったのだと。

*1
 前参謀総長、シュリー伯の敬称。

*2
 帝国に敗れた敗戦国人が帝国に与した理由は様々で、無謀な侵略戦争に反対して冷遇・追放に近い措置を受けた者。純粋に共産主義との決戦の意味を理解した上で使命感に駆られた者。戦後の生活の為に帝国国籍を欲した者など、千差万別であった。

*3
 親衛の二文字は帝国内で確たる功績を挙げた部隊に送られる『称号』であり、名目上は帝室が所有権を有する『近衛』とは趣を異にする。

*4
 ルーシー帝国時代にも憲法は存在したが、ツァーリ及び指導者層の権利のみを追求したものであった。

 ここで語る立憲君主制は、旧来のそれと異なる人民の権利保護を確約したものであり、当時は王政復古後に制定予定の憲法条文も公開された。

*5
 ドミトリィ・ザイツェフ親衛士官候補生は、帝国への亡命後はハインツ・トールヴァルトの名で帝国軍人として活躍していた。

 彼は有用な半面、狙撃は卑怯という価値観から浸透していなかった帝国で狙撃手の価値を認めさせ、狙撃兵学校の設立にまで至らしめたほどの優秀な軍人であり、以後はこの狙撃学校の教官を大佐として勤めていた。

 彼の貢献によって、中央大戦が始まる以前から、帝国は狙撃大隊を編制するまでに至っており、ルーシー戦役においてはその素性を明かした事で、既にして壊滅していた親衛隊の隊長職(名目上に過ぎないものだが)をアナスタシア大公女から拝命。

 今日でも知られる『アナスタシアの親衛隊長』として、亡命していたルーシー白軍を纏め上げた。

*6
 この美談ゆえに、ルーシー戦役後に『解放』された各国は、ルーシー戦役を『花の戦争(ブルーメンクリーク)とも称し、少女から花束を受け取る軍人の銅像も建てられた。




 アナスタシア大公女と、お連れした親衛隊長の元ネタは『将国のアルタイル』4巻の読み切りの主人公、ザイツェフ君とアナスタシア皇女そのままです。クロスオーバータグはこの二人のために有ったのです。
 本筋には一切絡まないので、無理に出す理由は何処にもなかったのですが、あの読み切りの二人が、幸せになって欲しかったんや……!(切実)

【後年、旦那が自分の回想記なのに、めっちゃ言い訳する羽目になった件について】

 主人公「嘘はいかんやろ、嘘は」
 デグ様「(散々皇帝(カイザー)のスキャンダル伏せたり、国の都合の悪いところ隠してる人が言う台詞じゃないんだよなぁ。それはともかく)いや嘘は何一つ言ってないから。全部本当だから」
 主人公「はいはいクリームヒルトしたかったんでしょ。ヒロインやりたかったんでしょ。今日からクリームヒルトって呼ぶからね」
 デグ様「お姫様扱いかよ(案外悪くないぞ旦那。頭に『私の』も付けろ)」

 こいつら爆死しねぇかなぁ……。

補足説明

花の戦争(ブルーメンクリーク)の元ネタは、ナチのオーストリア合邦とズデーデン進駐のプロパガンダなのですが、本作品では連邦構成国の『解放』というプロパガンダに使用させて頂きました。
 理由は特にないのですが、どっちもプロパガンダだし、イメージ戦略に使えるなと思いましたので。


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46 帰還の道のり-思いの自覚

※2020/2/29誤字修正。
 八連装豆鉄砲さま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


「大尉! 無事か!」

 

 私は風防をこじ開けて、後席に座るグロート大尉の安否を確かめた。「大丈夫です」と大尉は薄く笑うが、額には脂汗が浮かび、息も深い。私はグロート大尉を座席から引き摺り出す前に周囲を確認し、それからくまなく大尉の身体を調べた。

 金属片が刺さっていたり、被弾したという訳ではない事に安堵した私は、触診を開始した。どうやら左足が折れているようで、私が触ると無理に平静を繕った。

 

「すぐバレることを隠すな」

 

 私は渋い声で言うと、グロート大尉を一旦そのままにして、後席に積まれた護身用のStG25を手に──MP2A1は既に多数配備されていたが、どうせ墜落した先で撃ち合うならと、私は自動小銃を選択していた──連邦の哨兵が彷徨いていないか警戒した。

 

 幸いにして雲の流れが早く、着陸地点にはもう雨は降っていなかったが、ここでも暴風雨は来たようで地面が酷くぬかるんでいた。

 当然ながら、ゾフォルトはもう飛べない。着陸時に車軸がずっぽりと泥濘に埋まり、そのまま地面を滑るように着陸したので、車軸が完全に折れていた。

 

「大尉。ここから基地まで貴官を担いで動く。辛くなれば下ろすから、隠さず言うように」

 

 ゾフォルトは敵に鹵獲されることを防ぐため、規定通り魔導核を暴走させて自爆させる。未だにどの国家も魔導攻撃機を実用化できていないのは、費用対効果の側面も大きいが、墜落間際に後席手が内部機関を完全に崩壊させて来たからだ。

 出来れば政治将校あたりに撃ち殺された兵卒の死体でもあれば、追跡を逃れる為に偽装できたのだが、そう上手くは行かなかった。いや、敵が居ないのは良い事ではあるのだが。

 

「どうか置いて行って下さい。大佐殿一人なら、逃げおおせられます」

「馬鹿を言うな」

 

 グロート大尉は私に無理やり連れてこられた被害者で、私が無茶さえしなければ、大尉がこんな目に遭う事はなかったのだ。元凶たる私が部下を置いておめおめと逃げ出し、生き存えるなど考えられない。

 私は有無を言わさずグロート大尉を引き摺り出して、どうせ派手に吹き飛ぶのだからと操縦桿を折って添え木代わりに大尉の足に宛てがい、巻きつけてから担いだ。

 この時の担ぎ方は今日で言う所のファイヤーマンズキャリーに近いもので、片手が空くので拳銃を握る上では、大変勝手の良いものだった。

 ただ、この時私は初めて、ズキリと胸のあたりに鋭い痛みが走ったのを自覚した。グロート大尉にばれないよう触診して確認すると、どうやら私も肋に罅が入っていたようである。

 

“右が三本、左が二本か”

 

 罅程度なら全く問題ない。折れていれば肺に刺さる可能性もあっただろうが、痛み程度で止まっていては、軍隊ではやって行けない。

 

“ここから基地まで、一〇〇キロはあるか”

 

 地図とコンパスを確認して現在地を割り出す。私一人ならば三日三晩走り続けようとどうという事はないが、敵兵を警戒する以上は迂回路を取る必要があるし、適宜グロート大尉を休ませねばならない。

 私はどれだけ早くとも、基地に辿り着くには四日は見るべきだろうと考え、ポケットに入るだけのの携行糧食や戦闘口糧を詰めてから、StG25の負い紐を首にかけた。

 当然、携行糧食や戦闘口糧、水筒の水は全てグロート大尉の物だ。斯様な事態を招いた傲慢な阿呆は、木に伝う雨水でも舐めておくべきだろう。

 

 

     ◇

 

 

 長靴が沈み込む泥濘を、私はひた走る。一刻も早くグロート大尉を安全な基地に届けねばならないのだから、歩くなど論外である。

 何より、時間を置いて爆発するゾフォルトから一刻も早く遠のき、一秒でも早く自軍の下へと進まねば、連邦軍は我々を殺す為に包囲環を形成するだろう。フュア・メリットやダイヤ付きの白金十字を得た将校など、連中からすればこれ以上ないプロパガンダの材料だ。

 平野部なら二時間あれば楽に四〇キロは進めるが、ここでは半分が限度だった。

 泥濘である事に加え、村落や敵兵が哨戒を配置するだろう位置を避けながらとはいえ、この結果はあんまりだ。

 近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)時代なら「何という様か!」と上官から尻を蹴り上げられた事だろう。山岳部でもあるまいにこの様とは、デスクワークが祟ったのか、随分と足が遅くなったらしい。

 

 我が身の不甲斐なさを恥じつつも、泥濘の少ない場所に一旦グロート大尉を下ろし、フライトスーツのジャケットを脱いで地面に敷いてから、大尉をその上に腰掛けさせた。上半身だけなら、横になっても不快感は少ないだろう。

 ジャケットを脱いだ私は汗だくだった。七月の初旬にフライトスーツを着て延々と走り続けたのだから当然だが、水分が抜けるのも惜しいと汗を舐めた。

 水筒の水に手を出したい衝動に駆られるが、それだけは駄目だ。まだ二四時間も経過していないし、水と食料は全てグロート大尉の物なのだから。

 StG25を携え、グロート大尉に拳銃を握らせてから周囲を警戒。敵兵の姿がないと分かると、私はすぐに大尉の元に戻って、眠るよう命令した。

 

「大佐殿は?」

「私を気にせずとも良い。これは命令だ。体を休ませろ」

 

 物申したげなグロート大尉から拳銃を奪い、私は寝ずの番についた。といっても、定期的に数秒程度は目を閉じて身を休めるようにしていたので、完全に不眠不休という訳ではない。

 私は四時間程経過してからグロート大尉を起こし、泥で強張ったフライトスーツを再び着てから、大尉を担いで走った。

 後はもうこの繰り返しで、一定時間経つか、グロート大尉が自己申告すると下ろして下の世話をし、チョコレートバーやビスケットを食べさせては担いで走り続ける。

 道中では兎が多く目に付いたので、私は何度も銃やナイフを抜きたい衝動に駆られた。幼少の頃より培った狩猟技術もそうだが、射撃の成績は常に一番だった。どんな距離だろうと銃の性能さえ問題なければ射抜ける自信はあったし、どれだけ素早かろうが関係ない。

 けれども、この逃走中に私が銃を抜く事は一度もなかったし、当然ナイフでカエルや兎を捌く事もなかった。

 そうしたことに時間を費やすより、一刻も早くグロート大尉を友軍に送り届けねばならなかったし、何より銃というものは音が響く。それこそ、何処までも遠くにだ。一発の発砲音が軍用犬どころか敵兵の耳に届けば、私達はたちまち袋の鼠となるだろう。

 グロート大尉の分だけなら、生き残る分には三週間は問題ないのだから、無用な欲はかくべきでないと自制した。夜間の警戒中に可食野草があれば摘み、大尉に食べさせていたから、まだある程度余裕もある。

 

「大佐殿は、召し上がられないのですか?」

「実は大尉が寝ている間に、我慢出来ず食べてしまった」

 

 済まないなと詫びたが、下手な嘘なのでグロート大尉にはバレていただろう。当然バレた所で気になどしない。私は上官という立場を使って、問答無用で食事を与えて水も飲ませる。部下の栄養管理も上官の仕事の一つなのだから当然だ。

 部下の忠告に聞く耳を持たなかった馬鹿な大佐は、馬車馬の如く働くべきなのだ。

 

 

     ◇

 

 

 晴れ間が覗き、鬱陶しい快晴が私達を襲ってきた。唯でさえ滝のように汗が流れているというのに、太陽は私には兎も角、グロート大尉にまで優しくない。

 しかし、私は空に希望を見出すことが出来た。帝国空軍機が、私達を捜索してくれている姿がはっきりと目視出来たからだ。

 ただ、ここで助けを請う事は出来ない。地面の泥濘は深刻で、強化された主脚を武器に不整地でも難なく離着陸を可能とするヴュルガーのF・G型であっても、離陸は無理だろうと私は弁えていたからだ。

 彼らが私達を見つけて無理に着陸しないよう、敵にするように息を止めて身を潜めた。戦友達は懸命に私達を捜索してくれたが、やがて後ろ髪を引かれる思いで帰っていった。これで良い。彼らはこの地に着陸せず済んだ。

 私は安堵しつつ、再び広大な大地を駆けた。魔導師も捜索隊に駆り出されたようだが、万一私達の救助や搬送中に空中戦など起きようものなら、希少な魔導師を負傷させてしまうのでこちらも見送った。

 

 私もグロート大尉も安堵したが、同時に友軍の索敵能力も少し不安になってきた。

 

 

     ◇

 

 

 四日目、私とグロート大尉は、余りにも無残な戦友達の姿に愕然とした。

 後退途中、捕虜になったのだろう。銃剣や銃床でずたずたにされた者。執拗に顔面を潰された者。耳や鼻を削がれた者。腸が飛び出したまま失血死したであろう者など、誰一人として蛮行を受けていない者はいなかったが、彼らに共通しているのは、軍服はおろか下着さえ剥かれ、裸の状態で有刺鉄線を巻かれて息絶えていたことだ。

 特に、女性軍人の姿は直視に耐えない。まだ幼さの残る一〇代後半の少女が、敵の辱めは受けまいと銃を咥えて自決したのだろうが、遺体であっても敵兵が彼女を陵辱した事がはっきりと分かった。

 私はグロート大尉に、上着をかけたいので下ろすと告げた。大尉は快く頷くと、腰を下ろした状態のまま十字を切り、私が女性軍人に上着をかけている間、戦友達に鎮魂の聖句を唱え続けていた。

 戦友の遺体で丸々と肥え太った蠅を払いつつ、私は腐敗した遺体の瞼を下ろし、顔を覚えた。出来ることならば、私は彼らの認識票を携えたかったが、それさえも許されなかった。連邦軍は自らの戦果を誇示する為に、私達の戦友から認識票までも奪い去っていたのだ。

 

“蛮族共め……!”

 

 私は歯を食い縛った。奴らには人の心というものがないのか? 戦争である以上、死は避けられないのだとしても、遺された者達に死を伝える権利さえ奪い去ろうというのか?

 便りも届かず、行方もしれないとすれば、家族や親友らは察する事が出来るだろう。けれど、それとは別の問題なのだ。彼らの死を知らず、愛する者たちが日々無事を願って祈り続ける日々は、どんなに残酷なものだろう?

 祖国の為に戦地に赴いた彼らが、かくも無残な姿で置き去られている事を知らずに、戻ってきて欲しいと願い続ける日々は、どれほど苦しいものだろう?

 連邦軍は自分達が逆の立場に置かれたとき、遺された者達に死んだ事を伝えられない事が、どれほど悔いが残るかを考えられないのであろうか?

 

 いや、もう止そう。私は連邦軍に、人として持つべき良心など期待はしていなかった筈だ。今も昔も、彼の国の蛮行は聞き及んでいたではないか。進軍の途次に有って、敵がどのような行為に及ぶかは、理解していた筈ではないか。

 心苦しいが、私は彼らを埋葬する事も、名前を知る事もできない。だから、私は彼らの前で十字を切って誓う。必ずや、この報いを連邦に受けさせる。諸君らの守り抜かんとした祖国を、決して敵の手に渡しはしないと。

 かの邪悪と冷酷の息遣いも荒々しい、悪意の国を討つのだと。

 

     ◇

 

 

 墜落から、一週間が経った。流石にこの頃になると赤軍兵士らの姿も見えたので、私達は如何に身を潜めながら切り抜けるかに注力せねばならなかった。

 流石の私も、一週間となれば睡魔にも襲われる。グロート大尉には一〇分以上は決して寝させるなと念を押して目を閉じた。

 

 私は微睡みの中で、空軍指導部勤務の頃の夢を見た。正確には、指導部勤務時の休暇の夢だ。後方勤務でも休みを欲しなかった私は総司令部から蹴り出され、「軍大学の資料室にも行くな」「映画でも観ておれ」と強引に車に押し込まれたのだ。

 渋々ながらの休暇だが、休んだ分は明日倍働けば良いと意識を切り替え、映画館に入った。軍の記録映画でなく、合州国でも評判だった一昔前の無声映画だ。だが、宣伝局のプロパガンダは帝国の何処にでも付き纏う。

 

「はじめまして! 私が、白銀、ターニャ・デグレチャフです!」

 

 制帽に収まるよう纏められた髪を下ろし、年相応の少女らしいドレスを纏い、愛らしい笑みで彼女は私に、私達鑑賞者に語りかける。広報が彼女に可憐な愛国者を求め、唯々諾々とそれに従って国家を賛美する彼女を私はそれ以上直視出来ず、映画もまだだというのに席を立った。

 

「帝都を散策したい」

 

 運転兵にはそう言って引き上げて貰い、穏やかな街並みを眺めながら歩けば、そこにもターニャ・リッター・フォン・デグレチャフの姿があった。勇ましい姿でポスターに写り、戦意高揚を訴える彼女。『戦地で待つ』と、手を差し伸べる彼女。何処にもかしこにも、栄えある魔導師として、軍人としての彼女が居た。

 

“今は、どうしているだろうか?”

 

 私は何度も、それを思う。一日のうちに、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフという少女を思い浮かべなかった日はなかった。私は便箋とインクを買い求め、その日も手紙を認める。今日の文は、少々返信に困る内容だ。

 

『私の事を愛しておいでなのですか?』

 

 これが彼女の言葉でない事は、すぐ分かった。言い回しも、言葉遣いも、表現も、全てがターニャ・リッター・フォン・デグレチャフのそれでないと私には分かってしまう。

 同僚の女性武官か某かが、それとなく私に恋人が居るか、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフに気があるのか気になって書かせたか。或いは単に、私が気付くかどうか確かめたかったのか。

 どのような意図があるにせよ、彼女の心からの言葉でない以上、私も礼儀作法に則る程度で良いだろうと有り体な言葉で認めた。

 ただ、私はこの時、ふと思った。もし、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフが本当にこの問を投げてきたら。もし、私の心を知りたいと思って文を出したなら。

 

“私の心は、揺れたのだろうか?”

 

 

     ◇

 

 

 グロート大尉は起きた私に「きっかり一〇分ですよ」と言うが、大尉の懐中時計も私の腕時計も針を弄られていたのはすぐ分かった。

 困った部下だと思いつつも、日の高さから正確に時間を割り出す。どうやら一時間も眠ってしまっていたらしい。近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)時代なら、複数人から打擲(ちょうちゃく)された後に厳罰に処されることは間違いない。古プロシャ時代の兵士なら、鞭打ち刑は確実だ。

 

“無様なものだ”

 

 どうやら私は、自分で思う以上に身も心も弱っていたらしい。睡魔に魘されて少女の夢を見るなど、軟弱な男そのものだ。だというのに、私はフォン・デグレチャフ参謀中佐の事ばかり考えてしまう。逃走中は敢えて思い出すまいとしていたというのに、夢に見て、顔がはっきりと思い浮かぶようになってからは、ずっと彼女が気になって仕方なかった。

 査問会議は無事終わったろうか? 不当な発言に傷ついてはいないか? 赴けなかった私を、怒っているだろうか?

 私は不安だった。フォン・デグレチャフ参謀中佐が心配だったことと、自分が嫌われてしまったのではないかという思いから。

 

 そして気付く。私は恐れていたのかと。だから、あんな無謀な真似をして墜落したのかと。だとしたら、嗚呼、なんという喜劇であることか。

 私は間違っていた。エルマーは正しかった。私は、あの幼い少女を、フォン・デグレチャフ参謀中佐を好いていたのだ。

 

“何時からだったのだろう?”

 

 ノルデンの空で抱きしめた時は、本当に必死だった。死なせるものかと我武者羅になって、他の事など考えてはいなかった。病室で眠るデグレチャフ少尉に手紙を置いた時も、私は無事だった事への安堵だけが胸を占めていた。

 だとしたら、一目惚れでないとしたならば、何時だったのだろう? 心の中で、何時彼女は大きくなったのだろう? 日々、健やかであって欲しいと祈り続ける中で? 軍学校で再会した時の逢瀬の合間に? 文通を続け、互いを知り合えるようになってから?

 恋の始まりが何処かは、こうして筆を取る中でも分からない。物語のような劇的な出会いをしたとしても、それは出会いのきっかけであって、恋のきっかけではない。

 ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフと関わり、彼女を想い祈り、再会して言葉を交え、手紙を通して相手を理解出来るようになって……そうした、一つ一つの積み重ねが今の私の心を、彼女で埋めたのだ。

 

 日々健やかであって欲しいと絶えなく祈り続けたのも。その顔を思い出す度に、胸を締め付けられていたのも。全ては恋したからなのだろう。

 何と滑稽極まりない。同情? 一個人の道徳? 私は何処まで、自分を誤魔化せば気が済むのか。なぁ、ニコラウスよ。お前はフォン・デグレチャフ参謀中佐の幸福を、明るい未来を望むと言いながら、彼女がどんな未来を歩むと考えていた?

 フォン・デグレチャフ参謀中佐が家庭を持ち、子を生し、平和を謳歌する日常。それをお前は想像していたか?

 

“いいや。想像していなかった”

 

 そうだ。想像などしていなかった。帝国人の、貴婦人的価値観こそを美徳とする女性像を理解していながら、彼女の未来に幸あれと願い、選択肢ある人生をと祈りながらも、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフが、他の誰かと結ばれる事を、一度として考え望んだか?

 

“認めよう。私は彼女が、誰かと添い遂げる未来を望みはしなかった”

 

 幸あれとは心から願っていただろう。だが選択肢というものを、本当に正しく理解はしていなかった。ニコラウス、お前は偽善者だ。自己陶酔とエゴイズムに満ちた、欲深で罪深い男なのだ。お前がフォン・デグレチャフ参謀中佐に与える選択肢とは、職業という枠組み程度のものであって、平和の先にある人生ではなかった。

 

“私が、恋をしてしまったばかりに”

 

 ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフの人生に、常に自分が関わりたいと願った。手紙を送り親しくなり、日々祈り続けたのは彼女の為でなく自身の為。何処までも身勝手で、自分本位で、どうしようもないほどに醜い男が私だった。

 だが。それを醜いと自覚してなお、私はこの想いを捨てきれない。

 離れるべきだ。遠のくべきだ。彼女の伴侶となるべきは、清い心根を持つ男だ。愛を与え、心を育み、善き道へと導ける男だ。

 愛されたいが為に、愛したいが為に近づいた私は、似つかわしくないのだと弁えて身を引くべきだ。そう理解出来ていながら、私は未だ諦められない。醜くとも、相応しくなくとも、私は自覚してしまったから。恋に落ちていたと気付いてしまったから。

 

“会いたい”

 

 その一心が、疲労に蝕まれた体に活力を灯す。雨露と河で乾きを癒し、時には尿まで含んで耐えるばかりだった身体が、今ではとても軽かった。

 

「大尉、休憩は終わりだ」

 

 私はグロート大尉を担ぎ、ぐんぐんと速度を上げた。肋の痛みなど全く感じず、二人一組(ツーマンセル)の敵哨兵を見出せば背後からブーツナイフで一人目の口を塞ぎつつ腎臓を刺して迅速に処理した後、二人目も大尉のナイフで振り返った瞬間に頚動脈と気道を纏めて貫いて絶命させる。

 私は彼らの背嚢を手早く確認して必要な方を奪い、グロート大尉を担ぎ直すと音もなく消えて進み続けた。欲しくて堪らなかった物資は確保した。これまで通りの生活ならあと一週間は持つが、長居をしてやる義理はない。

 

 私は背嚢から赤軍がおやつ代わりに食しているひまわりの種を取り出して、移動中にグロート大尉に食べさせた。

 厳つい形をした男が、ポリポリと食べる姿を見て、まるでリスのようだと思うぐらいには余裕が出てきたが、大尉は「可愛いな」と笑う私にむくれた。これは私が悪い。

 ひまわりの種も要らないというので、私も墜落から初めて食事にありつける事に内心歓喜した。しかし消化に悪そうであるので、口の中で一粒がクリーム状になるまで噛み潰してから嚥下した。

 但し、全ては食べない。半分はグロート大尉に残す。また私の心の清涼剤の為に、大尉には食べて貰うのだ。しかし実に美味いな。空腹というスパイスあっての物なのだろうが、それにしても中々だ。

 次から自分の戦闘口糧は前線生活で疲労の溜まっている部下達にでも与えて、自分は今後ひまわりの種でも齧っていようかと思うぐらいには気に入っていた。花屋にでも行けば手に入るだろうか?

 

 

     ◇

 

 

 晴天続きの為に泥濘も多少はマシになり、私の移動速度はぐんと上がった。連邦軍の数も進めば進むほどに減っている事からも、帝国軍の勢力圏に近づいているのだということが感じられて、私は一層足早に駆け続けた。

 

「もうすぐだ、きっともうすぐだぞ、大尉!」

 

 ただ元気づけようというだけでなく、声の明るさからも本当なのだろうと気付いたグロート大尉も、その表情を明るくした。

 そうして私は持ち前の視力で、遂に友軍の姿を捉えた。灰緑色(フェルトグラウ)の軍服に、ライン戦線から本格的に行き渡った石炭バケツ(シュタールヘルム)。紛れもない、私達の戦友がそこにいた。

 

「頼む! 大尉を助けてやってくれ!」

 

 そう大声で何度も叫びながら、私は兵士達に駆け寄った。我々は、一三日にも及んだ家路への長い道のりを経て、ようやくゴールに辿り着いた。

 




 次回、告白回です。

補足説明

【デグ様の広報記録について】
 漫画版(コンプエース2019年7月の特典冊子)では、萌えるデグ様がレルゲン様の手によって可能な限り抹消されるという、A級戦犯不可避な事件が発生しましたが、原作でもアニメでも普通に記録がとられておりましたので、この世界線の映画館では大々的に公開され、帝都はデグ様のポスターで満ち満ちております!(ガッツポ)
 これは秋津島人がハッスルして骨董品店やらオークションでポスターを求めますね間違いない!
 多分アレですよ、この世界では運良くデグ様の足が滑らなかったり、偶然レルゲン様が居合わせなかったんだよきっとそう。いやー残念だわーターレル信者には申し訳ないわー(棒)

【ひまわりの種について】
 ひまわりの種が赤軍のおやつだったのは史実です。縄張り意識の強さとか実にハムスターっぽいですね。赤軍は外側も中身もアレな奴らばっかでしたので、全く可愛くありませんが。


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47 入院-告白

※2020/3/2誤字修正。
 すずひらさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 私とグロート大尉を見やった兵士達は本物かと目を丸くして驚いていたが、私がポケットから取り出した簡易身分証明書と、首にぶら下げた認識票を確認すると、すぐさま大尉を担架で運び、私も包帯所に来てくれと言われた。

 

 魔導軍医のおかげでグロート大尉の骨折は半日と経たず完治したが、私に関しては「肋が五本も折れていますよ! これで大尉を担いで走り続けたんですか!?」と、大層驚かれてしまった。

 折れたのは無理に走り続けたからだろうし、私もそれは承知していた。胸の辺りの痛みが急に強くなっていたし、皮下出血もしていたからだ。ただ、折れ方が良かったらしく、骨片を外科医療で取り除く必要はないだろうと言われたのは安堵した。

 

 私の肋も一日と置かず治ったので、すぐに東部方面軍司令官と空軍総司令部に連絡を取ろうとしたのだが、こちらから伝えるので、直ちに本国の病院に行ってくれと軍医は言う。

 確かに本国の病院に行けるなら、フォン・デグレチャフ参謀中佐に会う事が出来る。だが、それはあくまでも私人としての望みであり、個人的な欲求に過ぎない。

 

 祖国は今まさに、共産主義の魔の手に脅かされている。そして戦友達は、今なお傷つきながらも祖国防衛の為に奮迅しているというのに、帝国貴族たる私が義務を放棄して、一人平和な本土で休み続ける訳には行かない。

 何より、私は出来る事ならば自分の口から上官や家族に無事を伝えたかった。家族の皆が、私が死んだと勘違いしていないかと気が気ではなかったし、フォン・エップ上級大将(一九二六年、四月進級)にも自分の口で謝罪がしたかったのだ。

 傷が問題なく癒えたのだから、もう心配はいらないと私は断ったが、軍医は首を横に振ると、従軍看護婦に鏡を持ってこさせた。

 

“これが、私か?”

 

 私は愕然とした。まるで骸骨のように痩せこけた頬と、屍蝋のような肌の男が、鏡に映っていたからだ。グロート大尉が、何度も私を見ては体を気遣ってくれた理由がようやく分かった。帝国軍兵士が、しきりに私の顔を見て確認を取ったのも当たり前の話だった。

 約二週間もの間、ひまわりの種数粒と僅かな水しか摂らず、七〇キロ余りの成人男性を抱え、自動小銃や拳銃などを携えて泥濘地帯を走り抜けたのだから当然だ。私の体重は、二〇キロ以上落ちていた。

 

 確かにこれは拙い。一日でも早く体重を戻して身体を作り直さなくては、飛行勤務には確実に支障をきたしてしまうし、栄養失調で療養生活を強いられかねない。

 私は軍医に、カルテを見せて欲しいと言ったが断られた。栄養失調と脱水、疲労面を考えて、最低でもひと月は休んで欲しいというのだ。

 ひと月など到底耐えられない。いま、赤軍の戦車や大砲がどれだけ戦友達を苦しめているか知らない筈もないだろうと抗議した。しかし、軍医は頑なに首を振り、階級が上の私を睨んだ。

 

「そう思われるのでしたら、何故無謀な飛行をされたのですか?」

 

 私は押し黙るより他になかった。既に私の単独飛行は知れ渡っており、軍医はこれ以上話を続けるなら、療養期間を伸ばすようカルテに書くとまで脅してきた。

 私は後生だから止めて欲しいと頭を下げ、せめて二週間に削ってくれと拝み倒した。パイロットとしての仕事は無理でも、後方勤務なら十分可能な筈だと訴えたが、無理だった。軍医は「心から快復をお祈りしております」と告げ、有無を言わさず私を輸送機に詰めたのである。

 

 グロート大尉も私と同様に休養が必要だと言い渡され、同じく輸送機に乗って帝都の病院まで飛ばされたが、大尉とは途中で別れた。本国でなく、休養陣地内の病院でグロート大尉は療養することになったからだ。

 

 

     ◇

 

 

 帝都に到着した私の側には、ご丁寧に病床看護という名目で軍医が付けられた。早い話が病院を脱走させない為の見張りであり、なんと憲兵まで病室の外に待機するという徹底ぶりだった。

 ご不浄から院内の散歩まで、常に彼らは短機関銃を携えて付いてくる事を義務付けられているそうだが、全ては私の為だと言う。

 

 流石に帝都に戻されてまで、黙って前線に戻ろうとは思わなかったが、既に私の信用は地の底にまで落ちていた。自業自得だ。

 私の墜落を聞いて、受話器を落としたというフォン・エップ上級大将は、帝都の病院に電話を入れると、受話器に耳を当てた私にがなり立ててきた。

 方舟作戦を阻止した時以上の、火を噴くような赫怒と剣幕に、たじたじとなりながら私は謝罪の言葉を延々と述べ続けると、上級大将は上がった息を深呼吸で正しつつ、私が撃墜されてから、どれだけ空軍が阿鼻叫喚の絵図と化したか。何より、ダールゲ中佐を筆頭とした前線パイロットたちが、如何に憤激したかを述べられた。

 

「『俺たちがママを助け出すぞ!』とな。皆口々に叫んでおったぞ」

 

 ママというのは、当時はあまり知られたくなかった私の愛称だ。軍事公報なども題材向きでないとして掲載していなかったから、このあだ名を知っていたのは、私を知る現役武官ぐらいだろう。

 フォン・デグレチャフ参謀中佐が少尉であった頃に配属先を根回ししたことや、彼女との図書館でのやりとりから伺えると思うが、私は非常におせっかいな性質であった。

 

 常日頃から部下の体調を気にかけ、悩みを聞き、時には上官や他軍種からの差別的な誹謗中傷──嘆かわしい限りだが、民族主義が台頭していた当時では、往々にしてあった──から庇っていた反面、訓練では厳しいという言葉を通り越した苛烈な性分であったこと。

 常日頃、軍人として襟を正すよう周囲に徹底させていたことから、私を知る周囲……というよりダールゲが「ニコは教育ママだ」と、広めて今に至ってしまったのである。

 かくして私は、当時の帝国軍がプロパガンダとして大々的に持ち上げた『空の騎兵、フォン・キッテル』でなく『ママ・キッテル』が空軍での──勿論、私に面と向かって口にするような剛毅な者はいなかったが── 一般的な愛称として通っていた。

 

 それはさておき。私の撃墜を知って憤死しかねないほどの憎悪を滾らせたパイロットの中でも、特にダールゲ中佐の怒りは凄まじいものであったらしい。

 ダールゲ中佐は、まるでライン戦線での私のように空と大地を蹂躙したという。

 特に高射砲部隊に関しては一際激しく、情け容赦ない苛烈な地上攻撃でもって殲滅しながら、私の為の救援部隊が一刻も早く活動に移れるよう、空と大地双方の連邦軍を、徹底的に駆逐していたという。

 生涯を通しても、最高の悪友であったダールゲ中佐が見せてくれた友情に感激した反面、無理に出撃した戦友たちには、大変申し訳なくなった。

 要らぬ心配をかけさせてしまったこともそうであるし、私が撃墜されてから今日までの間に、無理な出撃で疲弊した将兵も、当然多くいただろう。

 受話器越しに項垂れる私に、しかしフォン・エップ上級大将は手心を加えず、今後について釘を刺してきた。

 

「反省の色が見えたからとて、それで許されるとは思うな? 次に同じ真似をすれば、貴様が退役するまで飛行勤務を禁じる。

 完全に快復した事を明記された医師の診断書が空軍総司令部に提出されるまで、同じく飛行勤務を禁じるよう指示したから、病院を抜け出そうなどとも考えるなよ?」

 

 そして、私の出撃に関しても、今後は規則を明文化する旨が伝えられた。曰く。

 

 ・出撃から日没までには帰投すること。

 ・小隊以上の規模で飛行すること。

 ・出撃には基地司令官ないし、方面軍司令官の同意を得ること。

 ・夜間飛行を恒久的に禁じる。

 ・管制官の許可なき飛行を禁じる。

 ・僚機にスコアを譲る事を禁じる。

 

 これらに僅かにでも違反した場合は、飛行勤務を生涯禁ずると言うし、今後も私の勤務態度次第では、随時規則が追加されるとの事であった。

 

 私は一先ず、飛行時間と休暇に関する規則が設けられていない事に安堵した。連邦軍によるあれだけの蛮行を見せられていながら、これ以上飛行時間を削られるなど我慢ならない。

 病院に到着してからまだ半日と経っていないが、私は一日でも早く快復してここを去りたかった。

 

 読者諸氏におかれては、私がフォン・デグレチャフ参謀中佐に会いたいと思っていた事は嘘なのかと思われるだろうが、勿論その気持ちに偽りはない。

 肉体が活力を取り戻すまでは、一歩たりとて病院の敷地から出る事を許されない身だからこそ、私は早く快復してフォン・デグレチャフ参謀中佐に謝罪したかったし、友軍の元にも駆けつけたかった。

 特に、フォン・デグレチャフ参謀中佐については敵地から帰還してからというもの、殆ど何も知らされなかった。

 誰に聞いても「査問会議は無事に終わったので問題ありません」「今は中央参謀本部に勤務しております」としか応えてくれず、私は悶々とした時間を過ごすしかない現状が歯痒くてならなかった。

 事実を伝えれば、彼らは私が病院を脱走するとでも考えたのだろう。本当に、嫌になるぐらい正確な分析だ。

 

 これ以外に入院生活で辛かったのは、私から電話をかけることも禁止されたことだ。もし私が自分から電話をかければ、原隊の基地とやり取りして仕事を始めたり、或いは空軍総司令部の下っ端を捕まえて、机仕事に精を出すだろうとフォン・エップ上級大将に読まれていたのである。

 家族への私用電話さえ一切認めないというのだから、その徹底ぶりは本物だった。

 

 私はベッドで、疲れきった胃に配慮した汁のようなマッシュポテトと麦粥を口に運びつつ、病院での一日を振り返る。

 最初の一日は、精密検査を受けるので面会謝絶にすると医師たちに言われたときなどは、エルマーが知らずに飛んで来ないかと不安だったが、どうやら軍には前もって通達が行っていたらしい。

 本来なら空軍からも電話はかけて来ないで欲しかったそうなのだが、フォン・エップ上級大将は直接見舞いに行くような暇はないし、病院を出ないよう釘を刺す為だと言ってかけてきたそうなので、断りきれなかったらしい。

 私は凄まじい剣幕であったフォン・エップ上級大将に心中で再び謝罪したが、同時に上級大将の親心には、深く感激したものである。

 そして、フォン・エップ上級大将が私の元に来られないほど多忙だということは、未だ戦線は予断を許さない状況にあると見るべきだ。

 

 圧倒的航空優勢を帝国が確保していながら、無尽蔵の兵器を送り続ける連邦軍は底なしだ。私は自分が無謀な真似さえしなければ、フォン・エップ上級大将の負担を和らげることが出来たのだろうことを思えば、自分の専恣を恥じるしかなかった。

 一日に五輌。たった五輌の戦車を破壊するだけでも、一三日あれば六五輌の戦果だ。そして鉄道を、大砲を、高射砲を、発電所を、輸送車輌や輜重隊を潰せれば、どれだけ帝国軍の負担を軽減させる事が出来ただろう?

 たった一日、一度の愚かな過ちが、ここまで友軍に負担をかける事になってしまった事実を受け止めると共に、深い後悔に苛まれながら眠りについた。

 

 

     ◇

 

 

 明朝、私に無数の電話がかかり、面会人も押し寄せるだろうという旨が、医師と憲兵達から告げられた。体調が優れないなら断ることも出来るし、逆に優先して欲しい人物が居るならば、名前を記載しておくと言ってくれたので、私は家族とフォン・デグレチャフ参謀中佐を優先して欲しいと告げる。

 家族に関してはいちにもなく頷かれたが、フォン・デグレチャフ参謀中佐に関しては憲兵らに逡巡が見られた。しかし、私がそれについて問い質すより先に平静を装って「そのように取り計らわせて頂きます」と取り付く島もなく踵を返してしまった。

 何かあるのだろうとは前々から考えていたが、私には情報を得る手段がない以上、どうしようもない。

 相手から電話がかかってきた時に、フォン・デグレチャフ参謀中佐について何か知っている事があれば教えて欲しいと訊く事も出来なくはないが、それをすれば間違いなく電話も取り上げられるし、面会も謝絶されるだろうことは目に見えていたからだ。

 

 午前中には個室に電話が引かれると、正午を回った辺りから慌ただしくベルが鳴り響いた。憲兵達が私の為に電話スケジュールを調整してくれているので、短ければ五分、長ければ一五分区切りで絶え間なく私は受話器を取り続けた。

 電話先は帝国官吏や本国の将官であり、皆一日も早く私が前線に復帰してくれる事を心待ちにしていると、温かな言葉をかけて下さった事は本当に嬉しかったものである。

 もし飛行を止めろと言われれば、立ち直れなかった所だ。彼らは最後、私に「何か欲しいものはないか」とも仰って下さったが、私の答えは決まっている。

 

「一日でも早い、退院許可証と飛行許可を欲しております」

 

 皆、「そればかりは無理だ」と苦笑しながら電話を切られた。駄目元での要求だったが、やはり無理だったかと私はため息を漏らした。

 その後も私の元へは、再びフォン・エップ上級大将から連絡が入った。「抜け出してはおらんようだな」と上級大将は安堵されると、私に幾つかの朗報を持ってきてくれた。

 一つは私の経過次第だが、軍務に就かないと確約するなら、早期退院も許可するという。散々に休暇を溜め込んできたのだから、この機会に一日でも多く使ってしまえという事だ。

 もう一つは中央参謀本部からで、現在参謀総長の副官を勤めるフォン・デグレチャフ参謀中佐を、中央参謀本部を代表して見舞いに寄越すというのだ。

 

「参謀総長から伝言だ。貴官が望むなら、フォン・デグレチャフ中佐にも一時休暇を与える用意があるそうだ。新編部隊編成の準備期間を充てる形でな」

 

 それはつまり、フォン・デグレチャフ参謀中佐が編成準備をしているという名目だが、実際には別人に仕事をさせて本人に休みを取らせるという事だろうか?

 

「軍規においては、些か以上に問題では?」

「貴様がそれを言えた口か。ともあれ、私としてもフォン・デグレチャフ中佐には休暇を取らせることを勧めるよ。中央参謀本部には電報を発しても良いが、この件に限っては私にかけても構わん。その方が早いし確実だ。ああ、それから」

 

 そこまで言ってフォン・エップ上級大将は含むように笑った。

 

「エドヴァルド歩兵大将には、きちんと話をしておけ。一六時には電話が来るぞ」

 

 

     ◇

 

 

 昼食と適度な運動を終えれば、午後は見舞い人との面会が待っている。最初に私の元を訪れたのは宣伝局の者達で、彼らは病室に撮影機材を持ち込むと、私と見舞いに来られた帝国宰相との挨拶や握手にシャッターを切り、会話にフィルムを回し始めた。

 帝国宰相は私にどんな状況だったかを尋ねられ、私は逃走劇の内容をあるがまま告げた。

 

「泥濘が特に辛かったものです。泥に足を取られて、二時間で二〇キロしか進めなかったときは本当に焦りました」

「……後席の大尉を、抱えていたと聞いたが?」

「はい。それと、敵に残骸とは言え突撃銃を渡したくありませんでしたので、護身用にと思って首にかけてもいました」

 

 一発も撃たずに済みましたがね、と私が笑うと、帝国宰相も宣伝局の皆も顔を引き攣らせていた。他にも私は自軍機の姿は見えていたが、泥濘に車輪が嵌って動けなくなることや、魔導師の救助は危険が伴うために見送って、彼らから身を隠していた事も正直に告げた。

 

「自分を撃った高射砲部隊に恨みは?」

「敵は軍人としての義務を果たしたに過ぎません。恨みがあるとすれば、無謀な攻撃をした私自身に対してです。小官としては撃墜した彼らを称えるため、祝電を発したくあります。そして、叶うならばもう一度相対したいとも願っています」

 

 既に連邦では、私を撃墜した高射砲部隊に勲章が配られ、モスコーで連邦記者団からのインタビューや撮影まで行われていた。是非とも彼らには、敵である私からも健闘を称えたくあったのだが、帝国宰相は私の言に苦笑して「連中は偽者だよ」と告げた。

 

「貴官を撃墜した連中は、とっくの昔に空軍の地上攻撃で壊滅している筈だ。決して逃げられないよう、付近の輸送網を潰した上でな」

 

 この時の私は半信半疑というより、宰相の言葉の方が疑わしかった。連邦にしてみれば、件の高射砲部隊は何としてでも戦意高揚に利用したい筈であるから、万難を排してでも本国に招聘するだろう。

 何より、如何に帝国が高射砲部隊や輸送列車を叩いたと言っても、あの広漠なオストランドを、しかも防御側として必要に応じ後退している以上、完全な殲滅を証明し得ないことは明らかだ。

 大方、私を撃墜した相手を『叩いた』という事にしなければ、帝国軍の面子に関わるから、そのような筋書きを用意したのだろうと私は捉えていた。

 

 しかし、戦後連邦側の資料を確認すると、宰相の言葉もあながち嘘でなかったことが分かった。高射砲部隊は報復に出た帝国空軍に対し、辛くもオストランドから脱出する事に成功したが、その帰路は帝国軍の地上攻撃を避ける為、列車でなく輸送機に乗り込んだようである。

 そして、不運にも当時珍しかった連邦の輸送機を目にした帝国空軍は、前線視察に来た党高官か、或いは連邦の将軍でも乗っているに違いないと、これに接近し撃墜したそうだ。

 結果。終戦まで連邦も帝国も、互いの主張を通し続け、相手を嘘吐きだと詰り続けたのであるが、今となってはどちらもどちらだなと苦笑するばかりである。

 

 このような事実を知らなかった当時の私であるが、いずれにせよこの高射砲部隊に関しては『終わったこと』だと納得するしかなかった。

 帝国宰相を嘘吐き扱いする訳には行かないし、モスコーに着いたという高射砲部隊も、仮に本当に生存していたのだとしても、敵側の士気の問題から、二度と前線に姿を見せる事は無いだろうと諦めていたからだ。

 

「惜しい物です。今一度、矛を交えたかったのですが」

「敵を称えるのは美徳だが、貴官は連邦に対して、思うところは無いのかね?」

 

 連邦を悪と見做し、喧伝している以上、私の発言は騎士道の権化としては良くとも、戦意高揚には向かないと言外に告げられていた。無論のこと、私は自分を撃墜した高射砲部隊に関しては同じ軍人として賞賛を送るが、断じて敵の蛮行を許している訳ではない。

 

「勿論、敵の悪行を容認することは出来ません。私は逃走中、無残な姿で放置された戦友達を見ました。誰もが身ぐるみを下着一つ余さず剥がされ、有刺鉄線を巻きつけられた挙句暴行され、殺害されていました。

 女性士官も、その中には……彼らは、認識票さえ持ち去っていたのです。名を知ることも、遺体を埋めることも出来ませんでした」

 

 十字を切って冥福を祈ることしかできなかったのが無念だったと語り、その地を奪還した暁には、私自身の手で埋葬したいものだと語った。

 連邦軍の悪逆非道は、私の発言を通じて帝国中に知れ渡る事だろう。理不尽な暴力の前に、尊い命を奪われた前線将兵の最期がどのようなものだったか、どれだけ連中が許されざる行為に及んだかを、私は静かに、しかし怒りを滲ませて語った。

 

「それを見て、貴官はどうしたいかね?」

「最前線を希望します。一刻も早く、友軍と共に祖国を救いたいのです」

 

 帝国軍人らしいなと帝国宰相は笑いつつ、固い握手をして別れた。目元に残る隈からも分刻みの合間を縫っての一席だったと分かるだけに、私は帝国宰相が直々に足を運んで下さった事実に感涙さえしかけたものである。

 宣伝局の皆は満足の行く画が撮れたと足早に去ったが、彼らに関してはそれが仕事なのだから当然だ。一日でも早く、連邦軍の蛮行を世界に広めて貰いたいものである。

 その後も私の元へはリービヒ大尉を始めとした本国勤務の武官や、ベルトゥス皇太子までもがお見えになり、初日だというのにこれでは、今後も休まる暇はないだろうなと内心苦笑したものだった。

 

 

     ◇

 

 

「本日の面会は、これで最後となります」

 

 一五時丁度。そう切り出した憲兵がドアを開けると、そこには私が再会を切望して止まなかった少女がいた。

 初雪のように白い肌。鈍色を帯びた金の髪。色素の薄い、青より蒼に近い瞳は、雫を静かに湛えていた。

 

「デグレ……」

「……っ」

 

 胸の前で、しわくちゃになるぐらい握り締め、押し潰していた軍帽を捨てて、私の首に飛びついて、その腕を回して抱きしめてくる。

 言葉は、何一つとしてない。胸に顔を埋めてぐずぐずと泣き、頬と頬を擦り合わせては、私がそこにいるのだと確かめる様に温もりを分かち合おうとする。

 愛らしく、いじらしく、微笑ましい姿だというのに、私も同じように涙がこぼれた。

 

 嬉しいのだ。彼女が、私をこんなにも想ってくれていたという事実が

 悲しいのだ。彼女を、こんなにも私が傷つけていたのだという事実が。

 

 軍帽に纏める為に、結えられた後ろ髪を優しく撫でる。年頃の少女らしからぬ、乱雑に纏められた髪は、けれど彼女らしいとも思う。

 自分が、彼女に愛されているのだと実感する。そしてそれを、心から恥じるしかなかった。

 

「フロイライン、私は君に謝らなくてはならない」

 

 ふるふると、そんな言葉はいらないと首を振る。査問会議のことも、無謀な攻撃からの墜落も、全てを知った上で、知った事ではないと胸に縋る。

 

「私は、君が思うような人間ではない」

 

 君に幸あれと願いながら、心の奥底では君を求めて止まなかった。幸福な未来を願いながら、君の人生に違う誰かが入り込むことなど、想像さえしていなかった。

 

「私は、欲深な男だった」

 

 常に、欲しいと思ったものを求めていた。空への夢から、貴族としての義務を放棄したように。戦争を終わらせるのだという誓いも、彼女の無事と未来だけを願う建前だった。

 愛おしいから。抱きしめたいから。私が求めて止まないから、私は優しくし続けていただけだった。

 

「私とて、同じです」

 

 だから、こんな言葉も要らないと首を振る。彼女は私に真実を告白した。軍になど入りたくなかったこと。戦争など、人間同士の殺し合いなど大嫌いだったこと。

 そして、私という英雄の立場を利用したがっていたことや、自分の栄達しか心になかったということも、全てを誠心から語ってくれた。

 

「私は、愛など知らなかった。理解しようとも思わなかった。大佐殿に綴った手紙とて、ご機嫌取りです。気持ちを確かめようとした文も、嘘偽りでした」

 

 あれは部下と練り上げた物だ。私が恋していたといえば、近付こうとも思わなかったと言う。愛だの恋だのという関係など、鬱陶しいばかりで仕方ない。自己愛ばかりが先に立つ、可愛くない女だったと彼女は自嘲し続けるから、私は笑って首を振った。

 

「我が身可愛さなら、お相子だ」

 

 私は彼女を求め、彼女は自分の未来を求めた。他人の人生を縛る男に比べれば、他人を利用する女など、可愛らしいものだろう。何より。

 

「あの手紙が、偽物だというぐらい分かっていたとも」

「知って、います」

 

 お互いに気付いていた。偽物の気持ちだったと分かっていたから、こうして思いをぶつけることに迷いがない。あれが、互いの手紙が真実心からのものだったなら、私達は身を引いていた。たとえ想いを自覚しても、自分というものが相手の心にないのなら、それは空虚な一人芝居に過ぎないから。

 けれどそれは違うから。私達はお互いに、まだ想いを伝えていないから。

 そして、こういう事は男の口から告げるべきだ。

 

「フロイライン、私は君に相応しい男ではないと自覚している」

 

 自分本位の男だから、真実の愛を与えられはしないだろう。

 未熟で不出来だから、荒んだ心を清く育めないだろう。

 共に歩んだところで、善き道に導けはしないだろう。

 

「それでも私は、君を愛している。フロイライン・デグレチャフ、どうか私と共に生きて欲しい」

 

 自分本位で、未熟で、良いところなど見つからない男の告白。

 だけど、それを笑って許してくれたのが、私の未来の妻だった。

 

「はい。喜んで」

 

 一緒に、生きましょうと彼女は微笑む。頬を薔薇のように赤く染めて。流れる涙を、安堵から歓喜に変えて。

 

「だけど、大佐殿は幾つも誤解していますよ?」

 

 抱きしめたまま。今更ながらに彼女の頬が痩せ、唇が乾いているのだと気付けた私に、彼女は淡く微笑んだ。

 

「私は、貴方を愛していたと気付けました」

 

 文通を続けたのも、私の為に必死になれたのも、死んだのだと勘違いして、胸が苦しくなったのも。

 

「貴方が、愛を与えてくれたからです。そして私は、自分を知る事が出来ました」

 

 合理と打算だけではない。自分もまた同じように、感情に突き動かされる存在だった。人形でも、世界を俯瞰して見つめる傍観者でもない。

 

「何処にでもいる、恋した女なのです」

 

 手と手が触れ合う。指が絡まる。熱い吐息を孕ませて、彼女は静かに語りかける。

 

「私は今、幸せです。これからも、共に居られるなら。歩めるなら最期の時まで幸せだと信じています」

 

 だから、情けない言葉など吐いてくれるな。私の愛する殿御は、誰より強くて愛しいのだからと。

 

「きっと、私達の人生には善き道が続いています。これだけ多くを与えてくれた大佐殿が、私の手を引いてくれるのですから」

「────」

 

 呑む息は小さく。けれど、私は小さな手を握り返しながら頷いてみせた。

 ここから始まる道行きの中で、決して彼女に後悔だけはさせたりしない。

 悲しいことも、諍いもない人生は無理だろうけれど。終わりの時、振り返った人生に微笑むことぐらいは出来るだろう。

 この人生に、この愛に生きる時間を最期の一時まで、幸せだったと満たされながら眠りに就こう。

 

 二人で、手を繋いで生きながら。

 




 大魔王デグ様がターニャちゃんになったようです。


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48 止まれない者達-ターニャの記録16

※2020/3/4誤字修正。
 水上 風月さま、オウムの手羽先さま、ご報告ありがとうございます!


 私ことターニャ・リッター・フォン・デグレチャフが、中央参謀本部でフォン・キッテル参謀大佐の生存の報を受け取った日まで、時間を巻き戻す。

 我ながら現金だとは思うが、私はこの日からというもの食欲が戻り、日々の軍務にも目に見えて活力が灯っていたのを自覚できていた。

 恋する女には力があるというが、精神論で出せる力など高が知れていると以前までなら鼻で笑っていただろう。だというのに、今の私はそれを馬鹿に出来ないでいた。

 参謀連たちもフォン・キッテル参謀大佐の生存報告を受けており、つまりはそういう事なのだろうと誰もが苦笑するか、或いはこれが本当に『錆銀』なのかという疑いの眼差しを向けてきた。

 中でも若手のエリートたるフォン・レルゲン参謀大佐などは顕著で、信じ難いという目で私を見てきたものである。これまでの自分を見返せば納得できるし気持ちも分かるが、流石に失礼ではなかろうか?

 

 しかし、私の快復を私人としては喜びたいが、公人としては喜べないという立場の方もおられた。誰あろう、小モルトーケ参謀総長だ。

 フォン・キッテル参謀大佐という戦力が失われず済んだ事は喜ばしいし、死に体だった私が精気を取り戻している事自体は悪い話ではない。

 ただ、私の目から憎悪の火と、泥のように濁りきった復讐心が薄らいでいる事に関しては、参謀総長も難色を示さざるを得なかったのだろう。

 たとえフォン・キッテル参謀大佐が生存していたとしても、私自身は、それでコミーに手心を加えてやるつもりはない。

 むしろ、二度とフォン・キッテル参謀大佐が危険に晒される事のないよう、一人残さず共産主義者を殺し尽くしてやるつもりでいたのだが、一つだけ以前と違うところがあった。

 最早、私は自分の命まで復讐の火にくべようという意思がない。共産党に与するコミー共には容赦なく死を運ぶことを誓っていても、友軍や周囲の人間まで巻き込もうと思えるほど、今の私は狂い切れていないのだ。

 

 私の能力なら、小モルトーケ参謀総長のお役に立つ事は能う。だが、能うだけでは駄目なのだ。全てを祖国の為に擲ち、魂の一欠片まで燃やし尽くす狂気があってこそ、初めて参謀総長の片腕たる資格がある。

 つまり、今の私は副官懸章を右肩に着ける資格が無い。お役に立てるという程度なら、参謀連には相応しい人材が山程いる。悔しいが、今の私では小モルトーケ参謀総長の望む殲滅戦争には役立てない。

 復讐を、国家の勝利こそを全てとする将校でなく、個人的幸福を願う女となってしまった以上、私は必ず、何処かで自分に歯止めをかけるだろう。

 私はもう、非道になりきれない。将校としても、女としても、フォン・キッテル参謀大佐に『そんな人間だとは思わなかった』と告げられてしまうことを、そう思われてしまうことを恐れて止まない、弱い存在になってしまったから。

 小モルトーケ参謀総長は、私以上に私の心を、生まれてしまった弱さを理解されているのだろう。精気を取り戻した私を見るや「惜しいな」とため息を零しつつも、参謀総長は私の肩に手を置いて、副官懸章を外すよう命じられた。

 

「明日一五時。中央参謀本部を代表して、キッテル参謀大佐の面会に行って貰う。後の配属は追って知らせるが、最前線でも遺漏のないよう整えておくように」

 

 これまで通りの最前線勤務の前に、短い休暇を楽しめということだろう。赤小屋を代表しての面会というのも、かなり粋な計らいだ。

 私は小モルトーケ参謀総長に抱きついて感謝を述べたくなったが、流石にそれは階級的にも立場的にも不敬であるから、敬礼して礼を述べるに留まった。ただ、この時に見せた私人としての参謀総長の顔は、私は今でも忘れられない。

 小モルトーケ参謀総長は私の背に合わせて屈むと、小さく耳打ちしたのだ。

 

「式の招待状は、私にも出してくれたまえよ?」

 

 私は顔を真っ赤にすると、今度は我慢できずに抱きついた。フォン・ゼートゥーア中将には見られたが、まぁ、微笑ましい少女と老人の思い出の一ページだとでも思って頂きたい。

 

 

     ◇

 

 

 ここから先は更に時系列が前後するが、私の副官職を一時的なものだったという事にして解任してからすぐ、小モルトーケ参謀総長は直々に第二〇三航空魔導大隊を基幹とした新編部隊の編成に動かれた。

 私が提出した『今次戦争における部隊運用と作戦機動』における諸兵科の統合運用を、試験的措置という名目で実施したのである。

 新編される戦闘団は東部戦線で即実戦運用される手筈となっており、この時点で一時的な運用でなく、第二〇三航空魔導大隊のように中央参謀本部直轄部隊として、東部戦線全域で酷使する事を前提としていたのだろう。

 即時編成というものを何処まで突き詰められるかという名目で、参謀総長という立場を利用した人事裁量や装備課と交渉──という名の恫喝を──した時など、傍で耳にしただけでも目を回しかねなかったと当時の人は語る。

 

「班長。私は最大限の努力を装備課に求めた筈だが、報告書には運用予定の戦車がⅣ号G型とあるな? 私の要請と知りながら、サボタージュとはいい度胸だ」

 

 無論、装備課とて必死にやりくりをしている。前線では何処だろうと戦車は奪い合いになっており、新編部隊に回す余裕などないとしどろもどろに応えたが、相手が悪すぎた。

 

「私が全軍の補給を把握していない無能だと言いたいのかね? 直ちに親衛師団用に確保しているⅣ号H型とⅥ号E型を回せ。装甲車のリザーブも忘れるな」

 

 言うだけ言って一方的に切られる電話。相手からすれば悪夢以外の何物でもないが、既にして情け容赦など皆無であり、この程度は序の口に過ぎない。

 

「小モルトーケだ。東部戦線勝利の為、人員を回して貰いたい。そうだ、近衛連隊にだよ。間違いではない。良いかね? 私は皇帝陛下より、人事裁量のみならず『勝利の為に必要な』全ての権利を保証されている。

 帝室保全こそ近衛の務めであろう? この戦いにこそ、彼らの力が必要なのだよ」

 

 かくして近衛連隊において、最も精強でありながら最も実戦から遠いとされた近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊の機甲部隊がほぼ全て引き抜かれたに留まらず、各近衛歩兵連隊からも少なくない人員が抽出された。だというのに、まだ終わらない。

 

「教導隊に繋げ。一個小隊回して貰う」

「参謀総長閣下、それだけはご自重下さい!」

 

 臨時の副官に抜擢されたフォン・レルゲン参謀大佐は、血を吐かんばかりに訴えた。全軍の教育・質的改善を担う後方の要の、その中でも更に貴重な魔導師を小隊で引き抜くなど正気ではない。

 

「帝都防衛などとは訳が違います! 教育を疎かにしては、軍のみならずあらゆる組織は成り立ちません!」

 

 どうかご再考をと迫るが、フォン・レルゲン参謀大佐はまだ甘い。止めるなら、それこそ拳銃自殺する気概で行かねば小モルトーケ参謀総長が止まる筈もないのだ。

 

「デグレチャフ中佐も教導隊出身だろう? 今更四名引き抜いたところでどうという事はないわ。我々は祖国の存亡を賭けておるし、前線志願者は教導隊にも多いと聞く。不足しておる一個中隊全員分を引き抜かんだけ有難いと思え。

 残り二個小隊は再編中の第二親衛師団から引き抜く。リストを急がせろ」

 

 フォン・レルゲン参謀大佐は泡を吹いたそうだが、以前までのそのポジションが論文執筆に務める傍らの私で、今の小モルトーケ参謀総長の副官となった以上避け得ない道だ。習うより慣れろとはよくぞ言ったものである。

 

 こうした無理を続けた結果、恐るべきことに戦闘団編成は六日で完了。結成式を七日目に終了し、部隊配置は三週間後を予定しているという。

 中央参謀本部よりサラマンダーと銘打たれた戦闘団の指揮官は私であり、その運用は小モルトーケ参謀総長……ではなく、フォン・ゼートゥーア中将に一任された。

 

「参謀総長が、使用されるのではないのですか?」

「私は中央参謀本部の棟梁として、全軍を差配する身だぞ? 戦闘団の運用までやっていられんよ。使い易くしてやったのだから、相応の結果を出して貰うぞ」

 

 最後の一言で、フォン・ゼートゥーア中将は小モルトーケ参謀総長が私欲しさに副官につけたのでなく、私と意見を交わした上で、こうなるよう動いていたと勘違いするには十分だった。

 結果だけ見るならば、より大規模かつ実用性の増した部隊を丸々渡したのだからその通りなのだが、真実はお払い箱になった私を最大限有効活用する為の措置だ。フォン・ゼートゥーア中将の感動は、事の裏側を知る私にとって、喜劇以外の何物でもなかった。

 

「中佐は、この事を?」

「はい、閣下。プレゼントは当日まで秘密にするものだ、と」

 

 リップサービスもここに極まれりだ。後に戦闘団のことを聞かされて驚いていたのは私も同じで、当然ながら小モルトーケ参謀総長の本意も承知していたから、私が使えるなら一生手放す気はなかったと真実を伝えることは容易い。

 容易いが、わざわざ中央参謀本部に内部崩壊の種を撒くほど悪趣味ではないし、勝手に誤解してモチベーションを高めて貰えるなら、それはそれで構うまい。

 フォン・ゼートゥーア中将は小モルトーケ参謀総長へのこれまでの非礼を心から謝罪し、親心というものを初めて理解した子供のような純粋な面持ちで精力的に仕事に励まれた。

 

 尤も。フォン・ゼートゥーア中将が精力的に動かれるということは、サラマンダー戦闘団と私も比例するように働かねばならないのだが、共産主義を滅ぼすと誓った以上、私が嫌々前線で戦う事はなくなったし、部下は生粋の戦争狂ばかりなので問題なかった。

 

 むしろ、一日でも早く平和な祖国で式を挙げるために、私はまるでフォン・キッテル参謀大佐のように最前線行きを希望したほどだ。だが、この時の私は知らなかった。帝国の結婚式は、これ以上ないほど大変なのだという事実を。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 中央参謀本部内での妻の動向や、新編部隊の編成やらで時系列が混乱しそうであるが、一先ずは病室での再会まで話を戻そう。

 憲兵らはフォン・デグレチャフ参謀中佐を最後の面会人だといったが、どうやら嘘だったらしい。

 

「随分とお痩せになられましたな」

「お前は少し太ったようだな、エルマー」

 

 良いことだと私は笑う。どうにも昔から小食なので、もう少し食べねば健康に差し障ると何度も言っていたから、今ぐらいが丁度良い。

 

「力をつけることも、必要になりましたのでね。フロイライン・デグレチャフ、席を外さずとも構いませんよ。貴女はもう、家族同然なのですから」

 

 憲兵らを顎で使って運ばせた椅子に腰掛けたエルマーは、ベッドの脇に腰掛けたフォン・デグレチャフ参謀中佐に対し、まるで私や姉上に向けるように微笑んだ。

 

「エルマー、お前は正しかった。私は」

「皆まで言わずとも宜しいですよ。申し訳ない、フロイライン。兄上は少々、いえ、かなり鈍感な男でしてね。嫌わず居て頂けると嬉しいのですが」

「大佐殿を嫌うことなど、有りませんよ」

 

 浮気でもするようなら別ですがね、とフォン・デグレチャフ参謀中佐は微笑む。

 その女性的な仕草には思わずどきりとさせられたが、以前までのエルマーから見れば、考えられない程の距離が近い。いや、純粋に私とフォン・デグレチャフ参謀中佐のやりとりを知って、このような態度を取ったのだとも思えるが。

 

「それは良かった。それから、以前も言いましたが敬語は止して下さい。兄上の……」

「いいえ。私は大佐殿の妻になるのですから、そうなればエルマー氏は私の義弟です。ただ、私は齢が齢ですので、不快でさえなければ、今後はエルマー兄様とお呼びしても?」

「是非!」

 

 義姉となるならば、エルマーを弟と称すのが自然なのだろうが、そこは口にした通り、実年齢故の配慮なのだろう。『兄』となったエルマーの顔は喜色満面だ。

 大方、年の離れた妹が出来た事が嬉しいに違いない。以前に自分の気持ちには正直だと言っていたが、我が弟は本当に正直な男だった。

 そして、やはり私達は兄弟だからだろう。気持ちに正直なところは一緒で、妻になるというフォン・デグレチャフ参謀中佐の発言に対して、私も顔を赤くしながら、エルマーと同じように口元に笑みが出来てしまった。

 

“妻か……”

 

 私は帝国貴族で、しかもキッテル家の長男であっただけに、自由恋愛など考えてもいなかった。だが、両想いとなった以上は、何としてでもフォン・デグレチャフ参謀中佐と添い遂げるつもりだ。

 

「実は、一六時に父上から電話がかかると報せがあった」

「では」

 

 エルマーに大きく頷き、フォン・デグレチャフ参謀中佐の手を握った。私はこれを機に、父上に結婚を前提とした交際を認めて貰う気でいたのだ。

 私は意を決して鳴り響く電話を取り、受話器に耳を当てればまず響いたのは、フォン・エップ上級大将以上のお叱りの言葉だった。

 

 何故あのような無茶をした!? 何故お前は自制というものを覚えられんのだと、おそらくは顔を真っ赤にして怒鳴る父上に、私は申し訳なさからと同時に、隣で笑いを堪えるフォン・デグレチャフ参謀中佐への気恥ずかしさから、項垂れながらも粛々と謝罪するしかなかった。

 

「……それで、改めて問いたいのだが、何故あのような真似をしたのだ?」

 

 私は乱した息を整えた父上に、洗い浚い話した。査問会議の出席のことも、単独飛行のことも、そして、この病室のことも全てだ。

 

「待て、今そこにフロイラインが居るのか……?」

 

 父上は目に見えて狼狽し始めた。正直に答えるべきかどうかは悩んだが、結局父上には居ませんと嘘を吐いた。もしフォン・デグレチャフ参謀中佐が居ると知れば、婚約を認めるか否かは口論になり辛いだろうが、本音を語ってくれる機会が失われるとも考えたからだ。

 反対なら反対と、正直に言って欲しい。その上で、私はフォン・デグレチャフ参謀中佐の魅力を余すところなく語り、婚約に向けての道を正面から切り拓くつもりでいた。

 だが、父上は私の言葉に安堵すると、ゆっくりと微笑するように声をかけた。

 

「安心したよ。未来の義娘にこのような無様を晒したとあっては、面目を失いかねん」

「いま、なんと?」

「認めてやると言っているのだ。エルマーから、お前が『白銀』に自覚のないまま焦がれていると聞いたときは耳を疑ったがな。今の今まで、私が縁談の話を持ち込まなかったことに疑問はなかったのか?」

 

 だとしたら間抜けだよと父上は嘲笑した。私としては、空軍の英雄となって以来、軍にも実家にも無数の縁談が舞い込んできた事を知っていたので、てっきり父上や母上が厳選しているとばかり考えていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。

 

「飛びつきたくなるような縁談は、山程あったがな。エルマーからお前がノルデンでフロイラインを救出したことも。お前とフロイラインが仲睦まじく文通を続けている事も。お前がコンスタンツェのハンカチをお守り代わりにフロイラインに渡したことも、延々聞かされ続けたのだぞ?」

 

 とっくの昔に父上は根負けしていた。私が家庭内で戦争を始めるより早く、同盟を結んでいたエルマーが、私の知らぬ間に勝利を収めていたらしい。

 

「それにだ。お前が負傷したフロイラインの為に後方勤務を用意した事も、査問会に侍従武官を動かした事も耳に入っている。

 ユーディットなど、ようやく息子が相手を見つけたと喜んでおったぞ」

 

 ノルデンでのことや査問会に関しては、流石に教育総監辺りから父上の耳に入っても可笑しくはあるまいと踏んでいたが、よもや、母上までご存知とは思わなかった。

 しかし、宮中に働きかけた以上、横の繋がりの強い貴婦人達ならば、この手の事が漏れるのは、父上のそれより早いのかもしれない。

 特に、世継ぎのことを考えれば、その手の話題には父上よりよほど敏感にもなるだろう。それを考えれば、母上が知っているのも可笑しな話ではない。

 

「さて。フロイラインは兎も角、エルマーはそこに居るだろう? 代わってくれんか?」

 

 勿論です、と受話器を渡せば、エルマーは朗らかな調子で口を開く。

 

「お久しぶりです、父上。ええ、ようやく兄上にも遅い春が来たようでしてね。私? ははっ、ご冗談を。四六時中軟禁されざるを得ない身分である事は父上もご承知でしょう? 総監部で式を挙げて家庭を築くのですか?」

 

 私も私で問題だが、家庭を持たないという意味ではエルマーも十分問題児だろう。姉上は一四で婚約し、一五で幼少の頃より交友のあった官吏子息に嫁がれたが、男兄弟の方はご覧の有様であるから、父上としても胃の痛い話であったに違いない。

 

 前線では英雄で引く手数多な私は、逆に言えばすぐにでも身を固めて貰わなくてはならないというのに相手を作らず、本国勤務のエルマーは私と違って比較的安全だが、帝国内でも代替のない人材であるだけに、暗殺対策として私生活など無い身であるから、妻子を不幸にしたくないという理由で結婚したがらない。

 貴族社会で見れば、ドラ息子より余程始末の悪い兄弟だった。

 

「だが、それも今日までだな」

 

 エルマーから改めて受話器を受け取った私は、そう笑う父上に同意した。

 

「退院の後には、改めてフロイライン・デグレチャフを我が家に招請(しょうせい)したいと思います」

「日取りは早く決めてくれ。お前ももう若くはないのだからな」

 

 耳に痛い言葉と共に電話が切られ、私は横で口を押さえて笑いを殺していたフォン・デグレチャフ参謀中佐に、恥じ入りながらも口を開いた。

 

「そういう事でね。宜しければ、私の退院の後には当家に御足労頂きたい。電話では父上にああ言ったが、勿論無理強いするつもりもない。話が早すぎるというのは当然のことと思うし、私自身、フロイラインの気持ちに委ねたいと思っている」

「喜んでお招きに与りたく存じます。それと、もしよろしければ、なのですが……私人としては、名で呼び合いたく」

 

 いじらしいと私は思った。髪を梳きながら、私は静かに名を紡ぐ。

 

「では、フロイライン・ターニャと。私のことは、ニコと呼んでくれると嬉しい」

 

 姉上や、親しい者がそうするように。ターニャもまたこの日から私をそう呼んでくれた。

 

「ところで、私はフロイラインをどうお呼びすれば宜しいでしょう?」

「エルマー兄様もターニャと呼んで下さい。私だけが、兄様を名で呼んでは変でしょう?」

 

 エルマーは今にも小躍りしそうだった。全く、本当に正直だなぁ、弟よ。

 

 

     ◇

 

 

「ターニャ、貴女を除け者にはしたくないが、兄弟の間でしか出来ない会話というものもあります。暫し、席を立って頂いても?」

「構いません。表向き、私は中央参謀本部の代表。これ以上の長居は流石に咎められますので。エルマー兄様、次にお会いする日まで、どうか息災で」

「ターニャも」

 

 優雅にターニャの右手を取って、エルマーは別れを告げる。こうして見ると、私よりも二人の方が仲睦まじい恋人のようにさえ見えた。

 勿論、エルマーは私とターニャの交際を父上に認めさせてくれた恩人であるし、ターニャを義姉として溺愛しているのだから、嫉妬など起きよう筈もない。情けない話だが、私自身がエルマーと比べて、男としての魅力に欠いている事を自覚してしまったというだけだ。

 

「ニコ様も、どうかご自愛を」

 

 ターニャは抱擁と共に私に右頬に口づけ、そのまま拾い上げた軍帽を深く被り直すと、振り返らず足早に去っていった。私はぽかんと口を開け、頬に手を当てて温もりの残滓と触れた唇の余韻を感じると、どさりとベッドに身を横たえる。

 

「初心ですな、兄上」

「家族以外で、経験などなかったからな」

 

 エルマーの皮肉にも上手く返せない。耳朶まで赤くしながら去ったターニャ同様、私も顔を見られたくないと両手で覆ったが、エルマーはニヤニヤとしながらベッド脇の椅子に腰掛け直して覗き見ている。

 

「こうして兄上を見ているのも楽しいですが、真面目な話に移りましょう。正直、兄上の無謀や墜落には、怒りましたし泣きました。ターニャが居なければ、私は狂していたでしょうね」

 

 この日、私は初めて、エルマーの口からターニャが中央参謀本部でどのような日々を過ごしていたかを知った。身も心もボロボロとなり、生気の失われた人形のように、ただ軍務を続けるばかりだったという彼女を想像し、私は先程とは異なる意味で顔を覆った。

 

“私のせいだ”

 

 私が無為無策の出撃などしなければ。査問会議の場に立ち会えずとも、電話なり電報なりで名誉を守れるよう働きかけることを伝えられていれば、ターニャがかくも痛ましい姿になることはなかった筈だ。

 

「ご自身の行動が、どのような結果をもたらしたかお気付きですね? ターニャが兄上を思い、狂してしまわれたから、私は冷静にならざるを得ませんでした。私の代わりに泣いて、私の代わりに何故無茶をしたのかと叫んで……あんな姿を見れば、私も落ち着かずにはいられませんでした」

 

 だが、ターニャもエルマーも、怒ってはいるのだ。私にも、何よりも連邦にも。

 

「私もターニャも、兄上を奪いかけた連邦を許しません。ターニャは、兄上と添い遂げる為に破滅から踏み留まってくれましたが、私には止まる理由などありません」

 

 誰が何と言おうと殺し尽くす。自分の大切なものを、家族を奪おうとするものを、断じて許しはしないとエルマーは私の手をとって誓う。

 

「私は『全力』を出しましょう。持てる全てを注ぎ込みましょう。兄上を、家族を悲しませたくないと出し惜しんだ全てを、この戦争に用いてやるつもりです」

 

 美しかった碧眼を泥のように濁らせて、殺意だけを爛々と灯しながら、それでもエルマーは愛する私の為に誓う。これは私を悲しませる。非道に染まる弟を軽蔑してくれて良いと言いながら、その動機は純粋な家族愛故だった。

 

「止せ。そんな事をせずとも、私達は勝てる。お前と私でなら、どんな相手にも勝てる筈だろう?」

「勝つ事など当然です。私は兄上も、兄上を愛した義姉も死なせたくないと言っているのです」

 

 だから殺す。全てが手遅れになってしまう前に。今日のような日が、二度と繰り返されないために。

 

「私が……」

 

 飛ばないと、そう誓えば良いのか? 二度と、羽ばたかぬ生涯を歩むとここで口にすれば、エルマーは止まってくれるのか?

 

「いいえ。兄上が何を誓おうと、私の為に全てを擲ってくれたとしても、私は決して止まりません。お忘れですか? フロイラインもまた、前線に立つのですよ?」

 

 戦争を終わらせる為に。平和に満たされた国で添い遂げるために。穏やかな未来を歩む為に、ターニャが今日という地獄を闊歩するという覚悟を決めてしまったから。

 

「だから私は、嘆かれても悲しませても、人殺しの道具を産み落とします。兄上と義姉、どちらもかけがえがないからこそ、私はその覚悟を抱いて進むことが出来るのです」

 

 虐殺者と呪わば呪え。悪魔と叫びたくば天まで声を張り上げろ。有象無象に言われたところで、知った事ではないとエルマーは吐き捨てた。

 

「止まっては、くれないのか?」

「答えは(ナイン)です」

 

 誰に泣きつかれたとしても、否定されたとしても。もうエルマーは止まってくれない。愛の為と口にすれば詩的だが、エルマーの覚悟とは、虐殺者として永遠に歴史に刻み込まれる悪夢の未来だ。

 

「ならば、私が終わらせてやる」

 

 手を握り返し、瞳を真っ直ぐに見つめ返して私は誓う。エルマーが一つの兵器で万軍を焼き払うというのなら、私はそれを完成させるまでもなく、勝利の道を用意しよう。エルマーの名が悪として世界に刻まれるなど許さないし、ターニャも決して死なせはしない。

 

「では、競争ですな。兄上」

「追いかけっこでは、私の全勝だったがな」

「ですが、チェスは私が上でした」

 

 戦争という盤面では、自分が必ず上を行くと息巻くエルマーに、一足先に逃げるだけだと私は笑う。だけど、私の笑いは弟のそれと違って無理に作ったものだった。

 屈託のない笑顔で。家族と家族の生きる世界の為に死力を尽くすと誓うエルマーは、その心のあり方を後世の誰に知られることもないまま、唯歴史に殺戮者と、虐殺者として刻まれることを是としている。

 如何なる道徳律も、良心の呵責も、正義さえ知った事かと投げ捨てる気でいる。

 それを思うと、私の胸はずきずきと痛んだ。決して負けられない。敵に対してだけでなく、エルマーにも。

 

「勝つのは、私だよ」

「兄上はいつも、負けず嫌いでしたからね」

 

 だけど、これは譲れませんよとエルマーは杖を突いて去ってしまう。残された私は、ぼんやりと白い天井を見て漏らした。

 

「そうだよ、お前の兄は負けず嫌いなのだ」

 

 お前に、他愛のない男だと思われたくなかったから。お前のような、誇らしい弟の兄で居たかったから。

 

“駄目な兄なりに、頑張りたかったのだよ”

 




 ドイツの結婚式はマジ大変超大変。ウェディングプランナー居ないから式のスケジュールは夫婦で組むし、ウェディングワルツ踊らないといけないからダンス教室に通ったりもするそうです。
 この作品も当然そんな感じの式です。デグ様頑張れ超頑張れ。

 さて。唯でさえ時間のかかること前提の、東部戦線にタイムリミットが設けられました。
 本気出したエルマー君が世界を焼いちゃう前に、決着つけようとニコ君が頑張ります。
 つまり、主人公も本気出します。これでようやく帝国チート四天王が揃いました。
 デグ様(未来知識:但しIF歴史)、エルマー君(開発チート)、主人公(武力チート)
 そして手段を選ばぬ我らが参謀総長閣下です! え? 四天王じゃなくて三羽烏だろって?
 ……。しゅ、手段を選ばないやり口と、的確な人員配置あるからチートの枠にギリ入れるし(震え声)

 まぁ、ぶっちゃけどんだけブースター入っても、参謀総長は、原作最新刊の覚悟完了したゼートゥーア閣下には負けるんですけどね。
 というか、マジでゼートゥーア閣下が化け物過ぎる……何だこいつ。


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49 退院-ターニャの記録17

※2020/3/3誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、すずひらさま、ご報告ありがとうございます!


 入院中の午前・午後は、最低二時間は運動の為の時間を設けて欲しいと私は頼み、憲兵や医師も同意してくれていたので、その時間だけは自由となる事を許されていたが、それ以外では食事や排泄まで細かく指定されており、常に受話器を取るか、面会を続けねばならない日が一週間絶え間なく続いた。

 

 しかし、それでも夕刻を過ぎれば面会も止まるし、電話も疎らになる。私はその間にも室内で可能なトレーニングを絶え間なく続け、床に水溜りが出来るまで延々と肉体を酷使しては、高カロリー・高栄養食を摂取し続けた。

 医師からは一週間は軽い運動程度に留めるよう言われたが、そういう時、私は笑いながらこう言ったものだ。

 

「体力を残してしまうと、つい病院を抜け出す方法を考えてしまってね」

 

 医師は憲兵らを縋るような瞳で見つめたが、彼らは黙って首を横に振った。私なら絶対にやるだろうという諦観と、地の底にまで落ちた信用が私の言葉を駄目な意味で裏打ちしていた。勿論、私に脱走の意思などない。

 健康的な肉体と体力を取り戻して、真っ当な形で前線復帰したいだけだ。

 

 

     ◇

 

 

「大佐殿。面会に来られておりますが、お会いになりますか?」

 

 入院中、見舞いという名の面会はひっきり無しであったが、私は来るもの拒まずの精神で受け入れてきていた。当然憲兵も私が閉ざす戸などないと知っている筈なのだが、少々歯切れが悪い。出来ることならば、私に断って欲しいという思いが言外に伝わってきた。

 私は憲兵に「誰かね?」と問うと、憲兵は「フランソワ空軍の軍人です」と応えた。

 

 連合軍(アライド・フォース)との戦争を終えたとは言え、敵だった国の軍人である以上は安全管理上許可したくないようだったが、私は自分に会いたいという敵パイロットなど一人しか心当たりはなかったから、憲兵に許可を出したばかりか、破顔しつつ自分から立って相手を出迎えた。

 

「クローデル! 大尉に出世したのだな! いや、実にめでたい!」

 

 大尉の肩章を着け、煌びやかな略綬で胸を飾るかつての敵将校に、私は親愛を込めたフランソワ語で捲し立てた。

 とても殺し合う仲だったとは思えないやりとりに憲兵は目を丸くしたが、私は気にせずフランソワ流の挨拶と、彼の国の慣習に従って両頬に厳かな祝福の接吻をして、椅子にかけるよう促した。

 

「撃墜されたと伺いましたが、ご壮健のようですね」

「見ての通り五体満足だよ。体重は落ちたが、ダイエットのようなものだ」

 

 随分激しいダイエットですね、と肩を竦めながら、クローデル大尉は席に着く。

 アルビオン・フランソワ戦役の終戦後、捕虜交換の後に本国に帰国したクローデル中尉は、そのまま植民地の暴動鎮圧に駆り出され、ブランクを感じさせない飛行で活躍していたというのは、私も耳にしていた。

 

「運が良いのか、悪いのか、僕がここに来れたのは、丁度叙勲が決定して帰国を許されたからです。まさか、大佐殿程の方が墜ちるとは夢にも思いませんでした」

「私も唯の人間だったということだな。いや、重々承知していたつもりだったのだが、驕りというものが出ていたらしい」

 

 勝利は慢心を生む。自分には無縁と思っていたが、そうした思いこそがこのような結果をもたらしたのだと猛省せざるを得ない。

 

「しかし、済まないな、大尉。折角来てくれたというのに、剣が手元にないのだ」

「大佐殿。何度も申し上げた通り、あの剣は貴方のものです。私は大佐殿と友誼を結ぶことを約束致しましたが、剣に関しては納得していませんよ?」

 

 この頑固者めと私は笑うが、クローデル大尉にしてみれば、私の方がよっぽど頑固者だろう。しかしながら、私は彼が剣を持たないなど我慢ならない。

 

「士官には剣が必要なものだ。では、こうしよう。貴官が私に剣を譲ってくれたように、私からも剣を贈らせて頂きたい」

 

 私はそう言って憲兵を手招き、後で代金を支払うので、帝国空軍の士官短剣と長剣を直ちに持ってきて貰いたいと告げたが、この件に関して憲兵は嫌な顔などせず、むしろ嬉々とした表情で迅速に手配してくれた。

 アルビオン人以上に、この手の騎士道精神に満ちた場面というものに帝国人は弱いのだ。

 入室と共に恭しく運ばれた二刀は私からクローデル大尉に渡され、彼は家族と妻子に、これ以上ない土産話が出来たと喜んでくれた。

 そして、帝国流の力強い親愛の握手を私と交わし、これまでとこれからのことを述べた。

 

「祖国の敗北は、無念でした。しかし、未練はございません。自分達は全力で戦い、その上を行かれたのだと納得しております。これからは一日でも早く祖国の力を取り戻し、安寧なる日々がもたらされるよう、微力を尽くしたいと思います」

 

 クローデル大尉は再び植民地で飛ぶのだろう。一刻も早く治安を、治世を回復させ、これ以上フランソワ共和国が疲弊せぬよう、出血を抑える為に戦いに赴く。

 クローデル大尉の戦いは、我々がルーシーで戦うのと同じ程の、困難に見舞われるに違いない。慣れぬ土地は肉体を疲弊させ、国際法などない故に、敵の蛮行が精神をすり減らす。植民地の戦いは何処までも惨く、苦しく苛烈なものだ。

 

「死ぬなよ、大尉。私は貴官が空に上がる姿を見たいし、地に足を付ける姿も見たい」

「大佐殿には、後者だけを見せたくあります。もう二度と戦いたくありません」

 

 正直な男だと私は笑い、ほんの少しだけ残念に思った。彼ほどの男とならもう一度戦いたいと思ってしまうのは、パイロットとしての性だからだ。

 

「どうか、大佐殿も武運長久ならんことをお祈り申し上げます」

「勿論、死ぬ気はないとも。婚約者に泣かれたくない」

 

 クローデル大尉はこれ以上なく目を見開いた。そして、その幸運な女性は何方なのですか? と私に問うてきたので、私は「君も知っているだろう女性だよ」と返した。

 

「ここだけの秘密だが、『白銀』が私の妻になってくれるのだよ」

 

 羨ましいだろう? と、年甲斐もなく惚気る私に、クローデル大尉は何とも言えない表情で肩を竦めてみせた。

 

「お二方の御子息が、我が国を地図から消さぬことを心から祈ります」

 

 失礼な奴め、と私はクローデル大尉の冗談に笑い、お互いに戦いが終わったら、家族ぐるみで付き合おうと肩を叩き合って別れた。

 

 クローデル大尉と私は、終戦後にこの誓いを果たした。私はクローデル一家を屋敷に招いて食事や狩猟、釣りを楽しみ、私もまた家族を連れて、彼の故郷で乗馬やピクニックを楽しんだ。

 ムシュー・クローデルが退役し、最年少下級議員となった今も、彼との交友は続いている。

 

 

     ◇

 

 

 入院生活も五日目にもなると、私の健康状態を日々確認している医師は「ここまで回復の早い患者は初めてだよ」と驚きつつも苦笑いしていた。

 

 私は医師達の適切な対応と手厚い看護のお陰ですよと応えつつ、そろそろ退院しても良いのではないかと説得したが、最低でも一週間は入院して貰うという契約なので、それまでは居て貰わなくては困ると医師は言う。

 契約はフォン・エップ上級大将直々のものなので逆らえない。もしフォン・エップ上級大将か小モルトーケ参謀総長以外なら、全力で医師を説得して退院する為に尽力したところだが、流石の私もこれには大人しくしているしかなかった。

 ただ、医師は一週間きっかりで退院する分には、全く問題ないと太鼓判を押してくれた。

 

「まだ体重は戻っていないが、他は全て問題ないね。二日後には出られるよう、早い内に荷を纏めておくが宜しい」

 

 用意も何も、私には私物を持ち込む時間など皆無であったし、前線基地に置き去りになった私物も、まだ空軍総司令部には届かないだろう。私はターニャへの休暇の件以外で自分から電話をかける事は未だに禁止されているので、各所への連絡は憲兵らが行ってくれた。

 私は病室の受話器から、唯一自分から連絡出来るフォン・エップ上級大将に繋いで貰うと、フォン・エップ上級大将は私の退院について、嫌そうに、それはもう本当に嫌そうな声で「快復おめでとう」と告げられた。

 どうしてお前は大人しく出来ないのだと言いたげだったが、体力が戻った以上、今以上の運動に病院は手狭だったからだという他ない。

 私は頑健な肉体を取り戻す為に、長距離走を行いつつ運動施設を利用したかったが、一々許可を得る為に憲兵らの手を借りて、彼らの仕事量を増やしたくなかったのだ。

 まぁ、そうした思惑とは別に、早く退院してしまいたかったというのも事実だが。

 

「閣下、その、デグレチャフ中佐の件なのですが」

「皆まで言わずとも宜しい。空軍を代表して、祝福の言葉を贈らせて貰うよ。参謀総長から重ねて伝言だ。『二度と中佐を悲しませるな。彼女の亡き父に代わって、貴様を殺しに行く』とさ。一字一句違わず伝えたからな。殺されたくなければ、心に刻み込むように」

 

 フォン・エップ上級大将は大笑いされていた。私も同じく笑い、二度とそのような真似は致しませんと誓った。既にして一女二男の父にして、孫まで居られる小モルトーケ参謀総長だが、やはりターニャが私生児ということもあって、親代わりとなれればという感情が湧いてしまわれたのだろう。

 傍目にも、この二人が本当の祖父と孫であったならと思うような場面も見られていたことから、両者の絆がどれだけ深かったかが窺い知れたものである。

 それはさておき。

 

「閣下は、何時私とデグレチャフ中佐の関係をお調べになられたので?」

「私ではない。野戦郵便局から宣伝局に漏れたのだよ。そして宣伝局から私に事実かと連絡が来た。私は寝耳に水だったがね。貴官の父君にも連絡を寄越したそうだが、あちらはすんなりと認めたそうだ」

 

 エルマーが父上に伝えていたからだな、と私は得心した。しかし、父上が宣伝局相手に認めたということは、宣伝局どころか民間の新聞社にも、確実に情報は流れている筈だ。私の考えを、フォン・エップ上級大将はあっさり認めた。

 

「当然だな。流石に貴族の交際を、当事者の話も抜きに書き立てる無粋は出来んと宣伝局も自粛しておるだけだ。連中、貴官の口から、この話が出るのを手ぐすね引いて待っておるわ」

 

 私は天を仰いだ。出来る事ならば、婚姻までの間は穏やかな交際を続けていきたいと考えていたというのに、宣伝局や新聞社の目を気にしながらの生活を続けねばならないというのか。

 

「諦めろ。『白銀』と最多撃墜王の交際など、軍にも民衆にも垂涎もののネタだ。戦果以外での話題を帝国国民に提供できると考えれば、そう悪い話でもあるまい?」

 

 有名税と思えと言うことだろう。王族でもあるまいに、一貴族と勲爵士持ちの男女交際や婚約が記事になるのは如何なものかと思うし、そんなものが話題作りになるのかと甚だ疑問に感じたが、結果を知る人間としては、世間を大いに賑わせたのだという事実を受け入れるしかない。

 私は肩を落としつつも、ターニャの休暇は何時頃に取れるかお伺いを立てたが、明日には連絡を寄越すとフォン・エップ上級大将は仰られた。父上や家族への電話連絡も、特別に許すという。

 

「大佐。式には必ず呼んでくれたまえよ?」

 

 気の早いことだと思いつつも、フォン・エップ上級大将に勿論ですと笑顔で応えた。

 

 

     ◇

 

 

 翌日の午後、私はフォン・エップ上級大将から、ターニャの休暇は退院日の翌日から五日だと連絡を受けた。精々三日が限度だろうと思っていただけに、私は彼女と長い時間居られることが嬉しくて堪らなかったものである。

 しかし、ただ喜んでいる訳にも行かない。私はターニャに、我が家に来るのはいつ頃が良いかと電報で問い合わせ、四日目にと連絡を受け取ると、それをすぐ父上と実家の母上に報告せねばならなかったし、姉上にも電報を発した。

 

 家族は満場一致で私とターニャの交際を認めてくれたが、私の報告には皆「遅い」と苦言を呈した。特に姉上などは、私が何時までも身を固めないものだから、私が男色に走っているのではないかと、内心不安で一杯だったという。

 軍では戦友同士の絆の深さから、よくその手の冗談が飛び交うが、現実に男色に走る将兵はほぼ皆無だ。同性愛を罪とする宗教観もあって、私はその手の人種に未だ会った事はないし、今後も出会わない事を祈りたい。

 私は異性を愛する、至って健全な嗜好の持ち主ですよと姉上に訴え、姉上もご納得して頂けた。そうして、いよいよ退院という段になると、私は私服を着て医師と憲兵らに礼を述べ、宿舎に一旦戻る。

 そこで最低限の持ち物を確保すると、次に向かうのは帝都の有料運動施設だ。

 

 フォン・エップ上級大将からは、ターニャの休暇が終わるまでは休むよう言いつけられているし、ターニャに会えるのは明日からなので、退院日には特に予定がない。時間を持て余すのを嫌う私は、長らくやってなかった器械体操に打ち込みたくなったのだ。

 器械体操は良い。心身の完全なる調和を生む、芸術的なスポーツだ。私は購入し立ての運動着に着替えて、運動施設まで準備運動がてら二〇キロ程の距離を走り、そのまま時間一杯まで鉄棒と鞍馬を楽しんだ。

 夕刻宿舎に戻ると、私はターニャに『明日お会いしたいのですが、宜しいでしょうか?』と電報を発した。しかし、返事は芳しくなかった。曰く、『準備が整い次第、こちらから連絡致します』との事だ。

 女性の身支度に時間がかかるというのは万国共通であり、いつの世も変わらない真理だとは知っているが、だとしても丸一日以上かかるというのはどういう理由からかと、首を傾げた。

 ただ、どのような理由があるにせよ、淑女に無理強いをするのは好ましいことではないし、堪え性のない男だと幻滅される事だけは避けたかった。私は最前線勤務に臨む以上に胸高まる渇望を抑えながら、ターニャからの連絡を待ち続けた。

 しかし、残念ながら逢引の日は訪れなかった。キッテル家に赴く準備の為に、どうしても時間が欲しいと請われたからである。私は内心落ち込みながらも表には出さず、穏やかな口調の電報を発した。

 

 残りの時間はトレーニングと、ターニャに相応しい装いを選ぶ事に全てを注ぎ込んだ。

 

 

     ◇ターニャの記録17

 

 

 ニコからの電報を受け取ったとき、私は胸の内に喜びがこみ上げるのを自覚しながらも、遂に来てしまったかという思いも感じずにはいられなかった。

 正直に告白するが、私は女として自分を磨くという事をこれまでの人生で一度もしてこなかった。病室で髪を撫でられた時などは思わず口元が綻んだ反面、直後に固く荒い髪に手が触れられているという事に羞恥した程だ。

 もし、セレブリャコーフ中尉が中央参謀本部にいてくれたなら、私は恥も外聞も投げ捨てて副官たる彼女に助言を求めたが、誠に残念ながら、中尉は未だ他の大隊員達と最前線勤務中である。

 しかし、こうした事態を予想していなかった訳ではないので、私はニコとの面会を終えた翌日には、参謀本部勤務の女性軍医に相談を持ちかけた。

 

「病は病でも、恋の病ですのね」

 

 笑顔で指摘されると同時、私は羞恥の余り、拳銃を咥えて自分の延髄を吹き飛ばしたくなった。こんな事の為に軍医にかかる事もそうだが、何にも増して恥ずかしいのだ。しかも、目の前の女医はパーマのかかる艶やかな髪と豊満な体型を併せ持つ、如何にもという美女である。

 同年齢の少女と比較しても運動量と栄養面の釣り合いが取れておらず、発育不全の傾向がある私には、二重の意味で俯かずには居られない相手だった。

 

「大丈夫ですよ、中佐殿。わたくしにお任せ下さい」

 

 ただ、女医にとって私の悩みはこれ以上ない娯楽提供であったらしい。仕事にかこつけて幼い少女を弄れるというのもモチベーションを高める要因になっているのが、当事者であっても分かってしまう。

 耳や頬どころか、首筋まで熱くなってきた私を「可愛いわ」と嘯きつつ結わえた髪を解いた。耳朶にかかる吐息までも艶っぽく、私が異性だったら卒倒するか、思わず抱きついてしまいたくなる程だ。

 

“やはり、ニコもこういう女性の方が好みなのだろうか”

 

 この女医の数万分の一でも、女らしさという物を磨く努力をしていればと後悔したが、自分が異性に恋する日が来るなどとは夢にも思わなかったのだから、致し方ない。スタートは手遅れな程に遅れているが、それでも絶やさず磨けば、いつかは見れる程度になるだろう。

 

 そう己を鼓舞したが、女医は私の髪を取るや否や、信じられないと言わんばかりの悲鳴を上げた。

 

“分かっていた。分かっては、いたのだがなぁ”

 

「中佐殿は、これまでどんな櫛を使っていたの……?」

「配給品の、セルロイド製、です」

 

 プロパガンダとしての記録映像を撮影した時にも、女性武官らと全く同じ問答をした。だが、あの時と違うのは、私が聞く耳を持っていることで、どうして助言をメモに残しておかず、性懲りもなく配給品を使い続けてしまったのかと後悔している所だ。

 

「……髪の長さも、軍の衛生基準通りですのね」

「前線で伸ばせば、手間が増えてしまうと思いまして」

 

『若年従軍者の性別識別のため』という貴族女性の従軍を念頭に置いた規定通りの長さに切り揃えられた髪は、本当に最低限といった長さ。しかもそれを乱雑に束ね、軍帽に押し込んでいたのだから髪質など酷いものだろう。

 女医は私に購入品のリストを纏めた用紙を握らせ、軍務が終わり次第買いに行くよう命じた。階級が上だろうと関係ない。女としての格は女医の方が遥か高みだから、私は新兵の如くキビキビと従うしかなかった。

 

「肌は綺麗ですし、唇も荒れていないのは幸いでしたわ」

 

 記録映像の撮影時にも、そこだけは褒められた点である。尤も、若さにかまけて疎かにしてしまえば、数年後には目も当てられないだろう。肌がヤスリのように荒れた女など、一体何処に需要があるというのか。

 髪に関しては惨憺たる有様だが、そこは少し梳いただけでもサラサラになる程だということなので、今後は入念な手入れを怠らない事を確約し、肌艶も──前線では難しいだろうが、出来得る限りは──維持して行こうと心に誓う。

 女医も熱心に耳を傾ける私に気を良くしてくれたのか、懇切丁寧な手解きの後、また何かあれば相談に乗ると言ってくれたのは有難かった。

 しかし、戦闘団の結成式やら軍務やらで時間の取れなかった私に私物を購入する暇などなく、結局休暇を許可されてから、櫛やら最低限の化粧用品やら香水やらを大急ぎで買い込む羽目になったが、ニコから逢引の誘いを受けて、更に重要な点を忘れていたことに気付く。

 

 私は、女物の服はおろか、私服さえ持ち合わせていなかったのだ。

 

 どうせ私服など背丈が伸びれば着れなくなるのだし、ひらひらとした女物など動き辛くて適わない。軍人である以上、一年通して軍服でも何ら問題ないと開き直った馬鹿のツケが、ここに来て回ってきてしまった。

 私は直ちに被服店に急行した。そして、私に合う服が有るか訊ねたが、どれもこれもが無駄に装飾過多であり、しかも微妙に体型に合わない。

 オーダー品となればかなりの時間を要するため、私は既製品の中から選ぶ事にしたが、しかし、どのような衣装が良いのかが分からない。女としての時間全てが軍務に注ぎ込まれた弊害が、一気に押し寄せて来てしまったというべきだろう。

 私個人としては、この時代の最先端ドレスコードだった、コルセットを使用しない紳士服のデザインを取り入れたマニッシュなスタイルが気に入っていたが、これは社会に出て資本のある女性が着用するものであり、私のような幼女に合うサイズは当然なかったので却下。

 何よりニコは帝国貴族であるから、最先端のモードより古式な物の方が良いだろうと考えた。

(ただ、後になってこの考えが間違いだったと気付く。先駆的な空軍軍服を気に入っていたように、我が未来の夫は新しい物も受け入れられる柔軟な男性だったのだ)

 

 散々悩んだ末、私は装飾こそ少ないが、アルビオンで流行っていたというマーメイドラインのスカートとゆったりとした袖の、アール・ヌーヴォーを指向した曲線的な被服と、草花のあしらわれた小ぶりな帽子を購入する事に決めた。

 帽子を被っていれば、髪を後ろに纏めても違和感が無いと考えたからだ。

 袖や丈は修正が要るが、この程度であればすぐに直せるというので、私は代金を多めに払うので、早急に仕事にかかって欲しいと依頼した。

 これで何とか乗り切ったと安堵したが、女医に最終確認を求めた所、彼女は溜め息を吐かれた。

 

「中佐殿、将校用以外の鞄はお持ちですか?」

 

 持っている訳がない。私は大慌てで買いに行った。こんな小さな鞄に一体何が入ると言うんだと疑問に思ったが、ハンドタオルやティッシュケース、万年筆や手鏡、財布と次々に女医は答えを示したので、私はそれらを詰め込んだ。

 自覚して初めて分かったが、女というものは大変だ。

 

 

     ◇

 

 

 私は何とか、ニコの実家に赴くまでには準備を終える事が出来た。だが、女としての努力をしてこなかった日々は大きなツケとなって戻ってきた。

 

“……逢引には、間に合わなかったな”

 

 ニコはきっと、がっかりしている事だろう。いや、がっかりして欲しいと私は思っているのだ。女として怠惰であった為に、男の期待に応えられなかったというのに、その上で更に男に情愛を求めているのだと自覚して、我が身を恥じた。

 そして決心する。何としてでもこの失敗を取り戻そう、と。

 




 今回登場した女性軍医は、原作でふくよかな、という言葉で片付けられただけですが、漫画版4巻では泣き黒子に豊満なバストと、大人な女性としての魅力を東條チカ先生がふんだんに注ぎ込まれた超絶美人女医さんでございます!
 ウール生地の軍衣越しにあのバストはヤバイ(確信)

補足説明

【フランソワ(フランス)流の挨拶について】
 主人公がクローデル大尉の両頬に接吻したのは、彼が┌(┌^o^)┐ホモォ…な性癖な持ち主でなく、マジでちゃんとした挨拶でございます。
 F・フォーサイス著『ジャッカルの日』では、この習慣を知らなかった暗殺者ジャッカルが、標的であるド・ゴールに弾丸を放つも、ド・ゴールが叙勲時に相手の頬に接吻した為、弾丸を外してしまったというエピソードがあります。
『ジャッカルの日』はカルロス・ザ・ジャッカルのせいで有名な反面マイナスイメージもありますが、名作なのでお勧めですよマジで!

 え? 活字がきつい? そもそも原作は当時のフランス(リアル)を知らないと行けないし、専門用語も多いから苦しい? 
 だったらウィキペディア大先生とグーグル閣下を頼ればいいだろ! と。言いたいところですが……そんな読者様には映画版もあるぞ! あるぞ!(ダイマ)

 ただしブルース・ウィルスが主演のリメイク版、てめーはダメだ(マジレス)。

 読者の皆様は是非73年版をご視聴ください! 間違っても97年版のは観るんじゃあないぞ! アメリカでM2重機関銃改造した変態仕様をぶっぱする方は違うからな! あんなのはジャッカルじゃあないんだ! 振りとかじゃないですからねマジで!
 ※マジで時間を大切にしたい読者様には、73年版の視聴をお勧めします。
  糞だと知って観たい勇者な皆様は、作者と一緒にレイプ目になった後で、原作と73年版を楽しみましょう!

【デグ様の購入した婦人服について】
 デグ様の購入した服は、一九世紀末に登場したアールヌーヴォースタイルというもので、お胸とお尻を突き出して強調するS字ラインシルエット(横から見るとシルエットがS字に見える)が流行していた頃の物であります。
 因みに紳士服要素を取り入れた女性服はWW1以降のアメリカの戦争特需で、女性が社会に出るようになってから一気に流行。この頃の女性は男性のようにタバコを吸ったりするのがステータスとして人気になりました。


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50 貴族の現実-ターニャの記録18

※2020/3/4誤字修正。
 佐藤東沙さま、すずひらさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 私、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフの準備は何とか整った。

 どうにもこうにもコルセットが上手く合わせられず、かといって早朝から女医を呼ぶ訳にも行かないので、何とか着用した後に控えめに、しかし丁寧に化粧を施して姿見の前で確認。

 礼装で式典に臨む以上に入念なチェックの後に「良し」と頷いてハンドバッグを手に宿舎を出たが、まだ幾分か時間があったようで、手配した車は来ていない。

 暫し待つと、背後から声をかけられた。誰あろう、フォン・レルゲン参謀大佐だ。

 

「失礼。ここは中央参謀本部勤務者の宿舎でありますが、ご家族をお待ちで?」

 

 それはひょっとしてジョークで言っているのか? 私は悪戯心と好奇から振り返ってスカートの端を摘み、見様見真似の作法(カーテシー)でフォン・レルゲン参謀大佐に微笑んでみせた。

 

「おはようございます、大佐殿。駅までの迎えを待っている次第です」

「デグレチャフ、中佐か?」

 

 何故固まる。何故顎が外れんばかりに口を開ける。いや、言いたいことは分かるから言わなくていい。この男が上官でさえなければ、ハンドバッグに仕舞い込んだ護身用の演算宝珠を起動して、光学術式を叩き込んでやるところだ。

 肩の星が多くて命拾いしたな、フォン・レルゲン参謀大佐。

 

 

     ◇

 

 

 朝の清々しい空気をぶち壊してくれたフォン・レルゲン参謀大佐に内心毒づきつつ、迎えの車に乗車した。参謀大佐に浮ついた話がないのは、きっと女心というものが判らないからに違いない。

 ただ、私が誰か分からなかった時に、僅かに声が上擦っていたのが気になる。ひょっとしてあの御仁、小さな娘が好みなのだろうか?

 私は心の中でフォン・レルゲン参謀大佐の評価を大幅に下げざるを得なかったが、すぐに忘れようと気持ちを切り替えた。

 眉間に寄った皺を解し、身嗜みを何度も確認して平常心でいられる様に呼吸を整えつつ駅に到着。待ち合わせまで時間はかなり有った筈なのだが、ニコは既に私を待ってくれていた。

 近年流行し始めたばかりのピンチバック・ジャケットに山高帽という出で立ちのニコは、降車する私の手を取りつつ脱帽し、一礼の後に微笑んだ。

 

「とてもお綺麗ですよ、フロイライン」

「ありがとうございます」

 

 いいかフォン・レルゲン参謀大佐、これが淑女の扱い方だ。荒れた髪に軍服姿の小娘がめかし込んだからといって、口を開けて固まるのは減点なのだぞ。と、そこまで思って頭を振った。

 

 これではまるで、私がフォン・レルゲン参謀大佐に気があるようで、参謀大佐に素っ気なくされたから気が立っているかのようではないか。

 確かにフォン・レルゲン参謀大佐は若く、貴公子然とした顔立ちのエリートではあるが、どれだけ眉目秀麗な英邁だろうと、私が愛している男性ではない。

 私は意識を切り替えようと、じっとニコを見つめると、彼は頬を僅かに染めて一等車まで私を導いた。淑女として、また小柄な幼女である私を気遣いながらも、少し手に力が込もったその初心さには、一回り以上歳の離れた小娘ながら、可愛いものだと思ってしまった。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 その姿を見たとき、私は胸の高鳴りをはっきりと自覚した。会えなかった時間。待ち遠しいと思った今日。そうした全てが、ターニャを前にして無意味になった。

 ターニャは綺麗だ。今日という日の為、私や家族の為に目一杯時間をかけてくれたのだという事は、一目見ただけで察せられる。

 何度も櫛を入れて丹念に整えたのだろう髪。長いスカートに足がもつれないよう気を配りつつ、履き慣れぬ靴で、懸命に女性らしい歩幅と歩調を保とうとする足取り。不慣れなりに仕上げた薄化粧。仄かに漂うラベンダーと薔薇の香りはコロンだろう。

 この四日。身支度を整え次第に連絡するという電報を発して以来、自分を磨く努力を続けてくれたのだと嫌でも気づく。その健気さを、これ以上なく愛しく感じる。

 

「とてもお綺麗ですよ、フロイライン」

 

 差し伸べた手は、震えてはいないだろうか? 言葉はきちんと届かせることが出来ただろうか? 男性として恥ずかしくない格好だろうか? その努力に、誠意に見合うだけの物を今日私は用意出来たかは疑わしい。

 服は若過ぎてはいまいか? 動作は浮いてはいないか? 細やかな配慮は絶やしていないつもりだが、淑女との付き合い方など未知の世界だ。この日の私を初心だと妻は回想したが、全くもってその通り。

 私は出会えない四日の中で、何度も謝罪の言葉を考えていた。無謀をして心身を傷つけてしまったこと然り、彼女が流した涙然り。だが、じっと見つめてくる空色の瞳を前に、どうしても上手く喋れなかった。

 一等車に乗り、人心地ついて、ようやく私は笑顔で対面に腰掛けるターニャに深々と詫びた。いや、詫びようとしたというべきだろう。

 ゆっくりと。ターニャは私の頬に両手を添えて、先程以上の花咲く笑顔で微笑みながら。

 

「絶対に、許しません」

 

 凍るような声で、私の心臓を握り潰すように囁いた。

 

「一生分は泣きました。一生分は悲しみました。ですから、もう二度とあんな時間を過ごさせないで下さい」

 

 穏やかな言の葉だというのに、声音に全く容赦がない。魂まで凍えさせるような、ルーシーの大地より冷たい音色で、ターニャは極大の釘を刺す。

 

「約束する。決して違えはしない」

 

 私は、恐れを顔に出さないよう努めた。声の震えも完璧に止めて、心臓の鼓動さえ察されぬよう、狙撃手のように安定させる術を覚えた。女の恐怖に飼い慣らされれば、男は一生鎖に繋がれるという摂理を本能で理解できたからだ。

 ターニャは顔を顰めて、目に見えて不機嫌になった。恐怖で私を縛れないと考えたからだろうが、私自身は内心心臓が止まりかけていた。

 私は心からの謝罪をしたかっただけなのだが、ターニャはそれで私に楽になって欲しくないというのが本音だったのは間違いないし、私を絶対に死なせないようにするには、有無を言わさず押し通すのが確実だというのは分かる。

 だが、無理強いの上で同意したところで、余りに誠意がないというのが私の自論だ。妻となる女性には、私は心からの誓いを立てたいのだ。

 ……誓って言うが、尻に敷かれるのを、嫌がっている訳ではない。

 

 

     ◇

 

 

 汽笛を鳴らし、列車が進む。食堂車で私達は朝食を摂るが、会話は少なく気まずかった。

 

「フロイライン」

 

 何か? と憮然とした表情でこちらを見上げた瞬間、ガタ、と列車が揺れて頬にライ麦パンに塗られたマーマレードがついた。ターニャはそれを拭おうとしたが、それより早く私が頬を拭う。

 

「交際相手を、子供のように扱うのですか?」

「まさか」

 

 そのようなつもりはない。私は淑女としてターニャを愛しているし、淑女として愛おしいと思っている。愛しいから、つい手を伸ばしてしまうだけだ。

 

「フロイラインとは助け合い、譲り合い、支え合う関係で居たいと思う」

 

 ターニャは私の為、小モルトーケ参謀総長に直訴までしてくれた。私の墜落に涙し、悲しんでもくれた。私は彼女に、未だ何も出来ていないから。

 

「フロイライン・ターニャが想ってくれた分を、一つずつ返して行きたい。小さな事でしかなかったとしても、誠意と愛情を積み重ねて行きたいと思う」

「歯の浮くような言葉ですね」

 

 そんな言葉では絆されないと、小さな口を開けてパンを齧る。子リスのような食べ方は可愛らしいが、そんなことを口にすればやはり子供扱いをしていると誤解を招きかねないので、一旦口を噤み、珈琲を一口含んだ。

 ターニャはそっぽを向いているが、先程よりは幾分かは表情が和らいだと信じたい。彼女は食事を終えると、私と同じように珈琲を一口含んでから開口した。

 

「助け合い、譲り合い、支え合う。私ならそこに、本音で語り合う事も加えます。正直に答えて下さい。私はニコ様と添い遂げたくありますが、ニコ様は死なないと本当に誓えますか? 貴族の、軍人の責務として死を許容してはおりませんか?」

 

 私は、静かに考えた。ルーシー連邦との戦争は、かつてない規模になるだろう。多くの命が、前線で潰えてしまうことだろう。私自身、二度と窮地に陥る可能性が無い訳ではない。

 軍人である以上、戦いに身を投じる以上、危険や困難は避け得まい。だが。私は決して死なないとターニャに誓う。

 敵に追い込まれたとしても、安易に自決などしない。墜落するのだとしても、脱出の道を探り続ける。どれほど絶望的な状況になったとしても、生を掴もうとする事は忘れない。

 

「フロイライン。私は、故郷で式を挙げたいと思っている」

 

 平和になった祖国で、愛する者と手を繋ぎ、笑い合いながら生きていく。そんな未来を歩もうとするならば、死は決して許容できない。帝国貴族としての義務を果たし、エルマーに決して汚名を着せる事なく迅速に勝利し、かつ生きる。

 これ以上ないほど高い要求だが、やり遂げるより他にないのだ。

 

「式には出来得る限り、多くを招きたいと思っている。勿論、フロイライン・ターニャの親しい人達も招待したい」

「何を今更」

 

 ターニャはため息混じりに笑った。瞳は先程と違って和らいでいた。

 

「その為に、私はニコ様の実家に招かれたのでしょう?」

 

 皆で笑い、平和になった祖国でその日を迎えようとターニャは笑う。

 

「その通りだ。ああ全く、知恵のない発言をしたと思う。ところで、本音で語り合うというのなら、一つ訊きたいのだが」

 

 何なりと。と応えるターニャに、私は含むように笑った。

 

「私に対して許さぬといった時、尻に敷こうとも考えていなかったかな?」

「ニコ様、私は誰よりも、夫と将来の家族の為を思える妻になりたいと思っております」

 

 未来の妻よ、笑顔は素敵だが本音で語ってくれ。

 それが偽らざる愛というものだと私は思うぞ?

 

 

     ◇

 

 

 北東部の駅に到着すると、私はターニャのスカートが列車の車輪に絡まないよう気を払いながら手を差し伸べて下車した。

 そこからは以前にも故郷に舞い戻った時のように馬車で移動し、道行く人々に手を振ったが、以前と違ってターニャがいるので、皆私の方をまじまじと見たし、特に私のことをよく知る者らは「おめでとうございます!」と大音声で祝福したほどだ。

 

「慕われているのですね」

「我が家は地主貴族(ユンカー)でね。荘園や買い取った直営農地で働く者は多いのだよ」

 

 だから必然的に顔見知りは多くなるし、先祖代々続く領地だけでなく、近隣の貴族とも交友や支援を怠らなかっただけに、北東部でフォン・キッテル家を知らない者はまずいない。

 勿論、交友や支援は親切心だけという話ではなく、いざ自分達が困った時には逆に援助を受けられるよう、相互関係を維持する為でもある。

 

「北東部は土地が痩せていると耳にしておりましたが、そのようには見えませんね」

 

 農民たちの血色が良く、着ている服や使用しているトラクターの型、畜産の飼育数からも羽振りの良さが分かるのだろう。そういうところに目が行くのであれば、ターニャは将校としてだけでなく、この頃から経営者としての目も持っていたのかもしれない。

 実際、ターニャは軍を退役してから、その類稀なる才覚で領地を切り盛りしていくことになるのだ。

 

「曽祖父の代から農地経営が安定しているからね。ただ、ここまで生活水準が上昇したのは母上が運営してからで、それまでは他領の地主貴族(ユンカー)と大差は無かった」

「母君が運営を?」

「当家は軍人家系なのでね。男が皆軍に行く以上、必然的にそうなるのだよ。我が家に限らず、女手で農地を切り盛りする家は少なくない。

 勿論、多くの家は家長が軍を退役するまで信用に足る補佐を付けるし、実家に戻る度に夫が運営方針を定めるのが大半なのだが、我が家は完全に母上に任せきりでね」

 

 結果はご覧の通りだと告げる。母上は代々官吏を勤める家に生まれ、将来我が家に嫁ぐことを定められてからというもの、地主貴族(ユンカー)に必要な知識を蓄えつつ、経営・商学や経済学を学び、他国の農地運営も積極的に学んだ努力家でもある。エルマーや私が本の虫であり、数多くの知識を求めるのも、母上の影響に因る所が大きい。

 

 これ以降も我が家にまつわる話をしていくと、ようやく静かな田舎のひと隅にある我が家が見えてきた。爵位や領地に反してかなり小ぶりだが、家族で住む分には十分過ぎる邸宅だ。

 

「素敵なお邸ですね」

「気に入って頂けたなら幸いだ。フロイラインも将来ここに住む事になる」

 

 私は馬車から鞄を下ろして御者に料金を渡し、礼を述べて門を潜ろうとしたが、すぐさま使用人達が門を開け、整列して出迎えてきた。

 

「ニコラウス様、ご帰宅をお待ちしておりました」

 

 粛々と頭を垂れる(じい)は、全身から生気が満ち満ちており、普段なら交替勤務であるが故に数人しかいない筈の使用人が、一同に揃い両脇を固めている。大方、私が交際相手を招くというので、やる気を出しているのだろう。

 (じい)が私を『ニコおぼっちゃま』と呼ばず済んでくれたのは、気恥ずかしいので感謝したが、やはり恥ずかしくとも(じい)には何時も通りの呼び方で私に接してほしいと感じ、そうしてくれないことに一抹の寂しさも覚えたので、私には複雑な心境だった。

 

 私は目を皿のように丸くするターニャに、普段ならこんな歓待はないのだよと耳打ち、普段通り鞄を持って敷居を跨ごうとすると、使用人の一人が荷物を預かってくれた。

 これも普段とは違う。やれることは自分でやるのが我が家の流儀である。将来軍人となる上でも、なった後でも自ら動く事を忘れない為だ。人任せには決してするな。出来ないのなら見て、聞いて覚えろというのが教育方針である。

 

「まぁ! よくぞフォン・キッテル家に! 我が弟君には勿体無いお相手ね! 私はコンスタンツェ。ニコの姉で、今はフスタートの姓を名乗らせて頂いているわ」

 

 貞淑な貴婦人らしからぬ、快活な声に面食らうターニャだが、それは私も同じだ。あの姉上が、このように明るく弾けるような声を上げるなど、これまでになかった事である。

 

「出来れば私の夫も我が家に招きたかったのですけれど、今は忙しい時期ですから、私だけで寿ぎに参りましたわ。よろしければ、お名前を直接お伺いしても?」

「ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフです。こちらこそ、ニコ様のような方との交際を認めて下さり、心から感謝申し上げます」

「フロイライン・デグレチャフ。そのように畏まらずとも良くてよ。それに、我が弟はどれだけ勲章を貰っていても、もう良い年ですもの。フロイラインのような適齢期の女性なら、もっとお若くて凛々しい殿方が放っておかなかったでしょうに」

「その、フスタート夫人は、私とニコ様の交際には反対なのでしょうか?」

「まさか! ごめんなさい、気を悪くさせるつもりはなかったの。ただ、貴女が本当に若くて綺麗だったから」

 

 私には不釣り合いだ、と姉上は仰りたいのだろう。お気持ちは分かる。私が姉上の立場なら、間違いなく同じ問いをターニャに投げた。なんであれば、縁談を取り計らっても良いと考えるぐらいだ。尤も、私がターニャを手放すなど、絶対にあり得ないことだが。

 

「コンスタンツェ。フロイラインがニコには勿体無いのは分かるけれど、ようやく見つかったお相手を手放すのは感心しないわ。この機を逃しては、キッテル家はおしまいよ?」

「そこまで仰りますか、母上」

 

 苦笑混じりの返事と、背後から杖を突く音がした。来て欲しいと思っていたが、本当に来てくれると思わなかっただけに、私はエルマーをたまらず抱きしめた。

 

「我が弟。私にもエルマーを抱きしめさせて」

 

 姉上も、久方ぶりの再会が喜ばしいのだろう。腕を回してエルマーの両頬に口付けると、エルマーは満面の笑みで姉上に再会の挨拶を済ませる。母上もまた、同じようにエルマーを抱きしめた。ただ、姉上の時と違って、母上はお叱りの言葉を忘れなかったが。

 

「エルマーもニコも、どれだけ母が心配していたか分からないでしょうね。お仕事も結構ですけれど、お相手を探すことも勤めなのですよ?」

 

 私もエルマーも、この件に関しては粛々とお叱りを受けるしかない。対して、女性陣はというとくすくすと笑うばかりだったが。

 

「それにしても、本当に可愛らしいお相手ですこと。さぁフロイライン・デグレチャフ、食堂にいらして。ニコも、父上が首を長くしてお待ちよ」

 

 

     ◇

 

 

 食堂へと招かれた私とターニャだが、先ず以って私は滅多な事では見られない父上の私服姿に驚き、次いで上客が来ない限りは決して袖を通さない絹ブラウスと鹿革の袖なしジャケットを纏い、腰には家伝の短剣まで吊るすという気合の入れように目を剥いた。

 父上はこれ以上ない笑顔でターニャをテーブルに招き、エルマーや姉上、母上が席に着くと、ベルを鳴らして(じい)を呼んだ。

 (じい)も父上に負けず劣らずの気合の入りぶりで、これまで一度しか目にしたことのない儀礼杖を手に床を突くと、それに合わせて白い正装の給仕服を着た使用人達が、声もなく料理や食前酒を運んできた。

 このような生活は、断じて清貧に努めるキッテル家のものではない。私は将来妻となるターニャに、贅沢な暮らしをしているのだなという誤解を与えたくなかったが、父上はそれを見越してか、笑いながら口を開いた。

 

「フロイライン・デグレチャフ。本日は我が家にいらしてくれた事に感謝を。当家に可能な最大級の持て成しを用意したが、逆に言えば、これが我が家の限度とも言える」

 

 それなりの爵位と、それなりの領地。しかし、軍人家系である以上は多くの男児や家長が戦死し、生活が困窮することもあれば、農地経営に失敗してその日暮らしを強いられもする。

 加え、我が家は地元の教会や学校、病院などを援助しているし、直営農地で働く従業員には十分な給与を支払う事も確約しているから、贅沢な生活とは無縁だとも父上は告げられた。

 

「決して市井が思い描くような、貴族の生活は送れまい。既にしてフロイライン・デグレチャフは軍の佐官であるし、勲章に付随する年金も考えれば、我が家に嫁ぐより余程裕福で自適な生活を送れるだろう。もし我が家に嫁ぐなら、フロイラインの財産は後の子らと領民達の為に、そして援助を必要とする貴族達と支え合うためにも使わねばなるまい」

 

 貴族とは生き辛く、不自由で、常に折り目正しく生きる事が求められる。革命以前のフランソワやルーシー貴族に見られたような、贅沢三昧な日々を送るような生活は、少なくともフォン・キッテル家では有り得ない。

 領民を、父祖から受け継いだ土地を守り、他の貴族達とも助け合いながら、祖国の為を思い行動せねばならないのだ。

 

「それでも、ニコラウスの妻となってくれるかね? 今年で二七にもなる、決して若いとは言えない男と、しがらみだらけの家に来たいと、フロイラインは思えるかね?」

 

 無理にとは言わない。これが我が家の嘘偽らざる真実であり、引き返すなら今だという。けれど、真っ直ぐに父上を見つめるターニャの瞳は揺らぎなく、その口元は、柔らかな笑みを湛えていた。

 

「この邸宅を見たとき、決して大きくはない家だと思いました。ですが、温かく重ねた時間を感じさせる家なのだとも思ったのです。使用人の皆も、職務としてだけでなくこの家と家族が好きなのだと分かります。

 道行く人々は、心からニコ様に手を振って、私達を笑顔で祝福してくれました」

 

 誇らしい家だ。温かな家だ。けれど、だからこそとターニャは逆に問う。

 

「私は、フォン・キッテル家に嫁ぎたいと思います。ニコ様と、幸福な家庭を築きたいと今も願って止みません。ですが、本当に私で宜しいのでしょうか?

 勲爵士(リッター)の称号を得ようとも、私は私生児です。父は軍人でありましたが何処にでもいた只人で、母は赤子の私を教会の前に置きました。血の貴賎を問われれば、口篭らずには居られぬ身です」

「フロイライン、それは」

「ターニャ、それは間違いだ」

 

 父上より先に、私は口を開いた。家長の言葉を止めて割り込むなど、決して許されぬ無礼であるが、添い遂げる事に引け目を感じるというのなら、これは私が言わねばならない事だ。

 

「血の古さ濃さを求める者は、確かに帝国にも多い。民族主義などというのは、その先鋒だ。だが、この食堂に列なる歴代の当主たちを見て欲しい。顔立ちだけでも判るだろうが、フランソワ系も、アルビオン系も、イルドアやルーシー系も居る」

 

 父祖の中には、庶子から名を挙げて爵位を得た者の家から、当家に招かれた者も多い。他国からプロシャ軍に仕官し、名乗りを上げて栄達を重ねた者も居る。

 尊き血に庶子を加えるのかと否定する者は有るだろうが、庶子の血など既に幾らでも入っているのが貴族の現実だ。

 

「血など関係ない。貴賎など考えずとも良い。そうしたものでしか己を飾れぬ者達など、捨て置いてしまえ」

 

 やれ純血だの優等種だなどと語り続ける血統主義者など馬鹿馬鹿しい。大陸国家である以上は混血など避けられないし、皇帝(カイザー)にしてから、代々諸国との婚姻で成り立っている。

 血の繋がらないもの、交わらないものなど、一体どうやって証明する? 人として歴史を紡ぐ以上、異なるものと交じり合うのは自然なことではないか。

 

「ターニャ、君は誰より幼いながら士官となり、軍学校を卒業し、今や中佐にまでなった。私などより、遥かに優秀で立派な方だ」

 

 来て欲しいと頼むのはこちらの方。他人より多くを学び、磨き、努力し続けた幼い少女に対し、血の貴賎のみを理由に貴族たる資格が無いと断ずるなら、そんな者は決してターニャに相応しくない。

 

「どうか我が家に。貴女程素敵な女性を、私は他に知りません」

「王太子妃殿下よりも、ですか?」

 

 勿論、と私は頷く。不敬である事は承知だが、私には彼女しかいない。他の誰でもなく、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフを妻にしたいと願っている。

 

「……ニコラウス。家長の私がそれを認めてこそ、意味があったのだがね」

 

 良い所を横から攫いおってと父上はお冠だ。しかし、それを窘めたのはエルマーだった。

 

「答えは同じなのですから、良いではありませんか。何より、二人が良い夫婦となれる事ははっきり致しましたでしょう?」

「家長の前でも惚気たがるバカ息子を目にして微笑めと? 私は付き合わされたフロイラインが不憫だよ。このような男を夫にするなど、苦労も絶えまい」

「女として言わせて頂けるなら、結ばれたい殿御の口から聞かされる方が良いものですよ? 私とて、貴方が私のお父上に」

「ああ、もう良い! 分かったからそれを息子共の前で言ってくれるな!」

 

 コロコロと笑いながら昔日を語ろうとした母上の口を、父上は慌てて塞ぐ。確かに息子の身から見ても、身内の恋話などあまり見聞きして楽しいものではない。

 ただ、それは男としての価値観であったようで、姉上やターニャは別なようだ。

 

「母上、是非二人きりの時にお話をお聞かせ願えませんこと?」

「確かに、私も些か興味が」

「ええ、良くてよ。でもコンスタンツェ、まずはフロイラインとお話をさせてね。当家の一員となる以上は、必要なお話がありますから」

 

 そうねと姉上はすんなり身を引いたが、父上は俯いて片手を額に当てておいでだった。もう良い、分かったから自分の居ない所でそういう話をしてくれと顔に書いてある。

 

「ところで兄上、式は何時挙げられるので?」

「叶うならば、今日にでも教会に声をかけたいのだが、全ては連邦との戦争が終わってからだな。私もフロイライン・ターニャも、いま軍人としての勤めは放棄出来んよ」

 

 俯く父上に変わって今後を問うエルマーに、肩を竦めつつ返した。戦時である事さえ忘れそうな空気だが、戦いは今も続いているのだ。

 

「なに。婚約さえしておれば夫婦とは認められる。さて、女は女の、男には男の話がある。この場は一時解散としよう。エルマー、お前も帰ろうとはするな。後学の為に残るように」

 

 父上は「お幸せに」と静かに去ろうとするエルマーを引き止め、私共々執務室に押し込んだ。

 

 

     ◇

 

 

「ニコラウス、細工職人の当てはあるか? なければムンダーの店に行け。我が家が代々世話になっている指輪専門の店でな。お前に贈った指輪印章もその店の作だ。出来は私の口から語るまでもあるまい?

 ユーディットは私と婚約したとき、いずれ指が入らなくなるからと断ったが、婚約指輪は繋がりを形にする重要な物だ。同じ事を言われても、横に振る首を何としても縦にさせろ。ムンダーの店なら幾らでもサイズ直しが利く。

 結婚衣装や美容師も、世話になっている店があるのでリストを渡しておく。店が気に入らねば他を当たっても良いが、間違いなく気に入るだろうよ。ああ、式の内容は話し合って決めろ。そこは夫婦の仕事だ。使用人や(じい)にも手は貸させんからな」

 

 構想があれば聞いてやるというし、私もそれは考えない訳ではなかったので、戸籍役場での婚姻申請の後の段取りを軽くであるが打ち明け、そこから父上と話を詰めた。

 エルマーは如何にも無縁そうな顔をしていたが、私としても父上としても、弟にも家庭を持って貰いたかったので、頼むから関心を抱いてくれと縋ったものである。

 尤も、私と父上が家庭を持つことの喜びや式を挙げる事の楽しみを語ったのだが、結局役には立たなかった。エルマーは最期まで、家庭を持とうとはしなかったからだ。

 




補足説明

【レルゲン様に対するデグ様の塩対応について】
 レルゲン様に対して、デグ様の当たりがキツくて、アンチっぽくなっちゃったので補足。
 デグ様がレルゲン様に辛辣だったのは、女性としての意識が芽生えちゃって、今まで気にしてなかった、相手から向けられる感情に敏感になっちゃったからです。
 レルゲン様からしたら、お仕事中のやり過ぎデグ様とのギャップがあり過ぎて困惑してただけなのですが、女の子になったデグ様にしてみたら「似合わないのは分かってるけど、デリカシーのない男ね!」みたいな気持ちでした。

 そんでもって、もう完全に心が女の子になっちゃったデグ様は、異性としてレルゲン様を少なからず意識しました。
 レルゲン様は赤小屋のエリートにして、イケメンというハイスペック通り越した男性ですし、駐在武官もやってたので立ち居振る舞いも完璧です。
 女性だったら絶対狙いに行きたくなるタイプですね。世の男にしたら「糞が!」と唾を吐きたくなるタイプですが。
 ええ。一般的な女性に対しての対応をレルゲン様がしてたら、結構クラっと来てましたよ、デグ様。残念ながらレルゲン様は絶対にそういう対応はしませんし、何より既にデグ様は攻略済みなので、NTRターレルルートは皆無でしたが。

 対してデグ様から訴訟も辞さないレベルの中傷を心の中でされたレルゲン様はどうだったかっていうと、めっちゃデグ様にドキドキしました。
 漫画版の特典小冊子で、おめかししたデグ様を「天使が舞い降りたかと思った」とかって言ってましたからね、レルゲン様(帝国貴族の闇は深い。深くない?)

 レルゲン様の心境の変化を語っていくと、職場とか学校とかで、めっちゃお固くて冷たい感じだから、関わりたくねーなーって思ってた女子が、意中の相手に対しては一喜一憂して、休日にはめっちゃ可愛くなることが発覚したからです。
「人間を資源扱いとかねーわー、超ドン引きだわー」ってこれまで苦手意識全開だったレルゲン様でしたが、デグ様が塞ぎ込むようになった辺りから、急に意識が変わります。

「あれ? ひょっとして今までは、役職柄お固かっただけなんじゃね? ていうか普通の女の子じゃね? なんであんな怖がってたんだろう自分?」

 と。中央参謀本部勤務中のデグ様に対して、意識が和らいできたところに私服姿のデート前スタイルでデグ様がスタンバってました。

「誰!? え、デグレチャフ中佐!? マジで!? お前こんなに可愛かったん!?」

 てな感じで、びっくりしてました。
 本作品は基本書籍版準拠なので、漫画版小冊子のように、萌えるデグ様をキャッチしていないし、プロパガンダとか見ても「宣伝局の連中が頑張ったんだろうなー」程度にしか意識していなかっただけに、見た目も作法も女の子で天使なデグ様には、それこそ原作で披露したレベルの変顔にもなろうという物ですw

 そして、ギャップ萌えという奴なのか、レルゲン様は緊張気味に声かけちゃいました。
 声が上擦ってたのはこれが原因。大丈夫かレルゲン様!? NTRターレルルート突入は勘弁だぞレルゲン様!?
 いえ。実際大丈夫ではあるんですけどね。レルゲン様はデグ様にお相手居るって知ってますから。
 ……あれ? レルゲン様を擁護する筈が、レルゲン様のロリコン認定になってね?

【キッテル家の歓待ムードに関して】
 キッテル一家はデグ様超歓待でしたが、キッテル家からしたら、中年になった長男が年頃(貴族主観)で聡明利発な優良物件連れてきたので大歓喜だったようです。
 ゼートゥーア閣下も、デグ様が男だったら自分の孫娘上げてたわ(1巻371P)って言ってたぐらいだからね、当然だね。


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51 ターニャの記録19-家族の権利

※2023/2/2誤字修正。
 蓮菖さま、ドン吉さま、オウムの手羽先さま、oki_fさま、佐藤東沙さま、すずひらさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 ニコに招待された家を見たとき、私はそこにある歴史というものを確かに感じた。事業に成功しただけの成金では、決してこうはいかない。華美でなく、豪奢でもないというのに、内にも外にも画趣香る風雅さに満ちている。

 階段に敷かれた絨毯といい、大理石やフローリングの床も、それなりの屋敷であれば見られる全てが、この邸宅では完璧な調和を生んでいた。

 

“加えて、誰も彼もが善人とあってはなぁ”

 

 使用人も、キッテル夫人やフラウ・コンスタンツェも、皆私とニコの関係を否定しない。誰もが心から、私達を祝福してくれている事が分かる。

 正直に言ってしまえば、この家の一員になっても良いのかとさえ考えた。何より、私は私生児であるから、どれだけ優秀なのだとしても貴族としては快く思われていないのではないかと不安だった。

 

“ニコは私を妻にしたいと言ってくれたが、しかし、当人の意思がどうあろうと、結婚には家長の同意が不可欠だ”

 

 電話では認めると言った。だが、それが本意であるのか、根負けしたというだけなのかでは大きく意味合いが異なる。いざ私生児たる私を前にして、諦めて欲しいと言われる可能性がない訳ではないのだ。

 私は意を決して食堂に入り、ニコの父君と対面した。

 エドヴァルド・フォン・キッテル歩兵大将。二〇代にして軍大学を第五位という席次で卒業し、一二騎士の一翼となりながら、徴兵組の損耗率改善に尽力すべく、高級参謀の道を蹴った変わり種。

 しかしてその実態は軍教育の第一人者であり、『エドヴァルドなくして精兵なし』とまで教育総監に言わしめたばかりか、前線将兵から尊敬を込めて『兵舎の父』と称された養成の鬼でもある。

 

 ニコからお母上の農地経営を耳にして、キッテル家の人間とはそういう者達なのだなと理解した。鳶が鷹を産むという言葉があるが、この家は代々荒鷲の家系なのだろう。

 ニコも、エルマー兄様も、キッテル夫人も、おそらくはフラウ・コンスタンツェも、全てが高水準にありながら、そこに加えて特化した物を持つスペシャリスト。

 そんな家に招かれるだけのものを私は持っているのだろうかと自問し、弱気になるなと己を叱咤した。士官学校でも、軍大学でも私の最年少記録は破られていない。武器になるものなら他にも幾らでも有ろうと考え直し、キッテル家家長(エドヴァルド)を見つめれば、なんと満面の笑みで席を勧められた。

 

 そうして呆気に取られたまま唯々諾々と席に着く私に、家長はキッテル家の実態を赤裸々に告白した。

 貴族としてのしがらみ、生活の重み。口にされたそれらは、暗に私に身を引いてくれと言っていると捉えることも出来るが、そうでないという事がひしひしと伝わる。

 家族となる以上、嘘偽りは語らない。誠意を持って打ち明けた上で、改めて家に来て欲しいと家長直々に声をかけてくれたのだ。

 

 それに対して、私も思い悩んでいた事を晒した。自分が私生児であること。血の貴賎で見るならば歴史や伝統とは程遠い市井の、その中でも更に低い出自だ。

 勲爵士(リッター)として貴族の称号を得ていても、その事実は決して変わらない。フォン・キッテル家に嫁げば、私は重荷となるだろう。それでも尚、受け入れてくれるのかという問いに、家長でなくニコから声がかかった。

 

 血の貴賎など、個の優劣とは関係ない。前例など幾らでもあるのだから、娶る事は問題ないという言葉は、この上なく嬉しかった。だから、思わずにやけそうになる口元を押さえるために、つい意地悪をしたくなった。

 私以上の女は知らぬと語るニコに、初恋の女性と比べさせたくなったのだ。

 

「王太子妃殿下よりも、ですか?」

 

 だが、ニコは私が良いと即答した。ああ全く。どうして臆面もなく、それも家族の前でこんな言葉を言えるのだろうか? 家長など、実にげんなりとした表情で私達を見ているではないか。

 惚気は他所でやれという家長のお言葉は尤もで、私も心底同意する。気恥ずかしさを誤魔化す為にキッテル夫人の言葉に乗り、緩んだ口元がバレてはいないかと不安になりながら、食堂を後にした。

 

 

     ◇

 

 

「フロイライン・デグレチャフ。息子を選んでくれてありがとう。母として、これ以上喜ばしいことはないわ」

 

 食堂を離れ、居間に席を移した私をキッテル夫人は笑顔で抱きしめた。四〇代でありながら、まるで二〇後半なのではないかという程に若々しい夫人は、ゆっくりと私から身を離す。

 

「私の方こそお認め頂いて光栄です。ですが、その。本当に宜しいので?」

「エドヴァルドが認めたのですもの。もう心配いらないわ。でも、そうね。確かに他家からの、心無い言葉が耳に入る事もあるでしょう。息子との縁談を望む家は多かったし、英雄として子女の羨望も集めていたから、嫉妬心から聞くに堪えない嫌味を言われるかも知れない。

 でも、そんな時はこう言っておやりなさい。『私以上に、あの方に相応しい強い女など居やしないわ』と。選ばれなかった女達は、歯軋りしながら悔しがるでしょうね」

 

 同性からの嫉妬は、女にとっての勲章だとキッテル夫人は笑う。こういう(したた)かさがなければ、貴族はやっていけないという事なのだろう。私は自分が女らしい繊細さとは縁遠い人間であることを自覚して、この時初めてそれを感謝した。

 

「早速だけど本題に入りましょうか。ニコから聞いているかもしれないけど、当家は地主貴族(ユンカー)なの。エドヴァルドは現役武官だから私が切り盛りしているけれど、いずれは貴女にも勉強して貰う事になるから、時間がある時にはこれに目を通して」

 

 そう言って渡してきたのは簡潔かつ明快なマニュアルと、目を通しておくべき経営学書のリストだった。将来フォン・キッテル家に嫁ぐ子女の為に、前々から準備していたのだという。

 

「これは飽くまで基礎だし、フロイラインが本格的に経営を始めるのは軍を退役してからでしょうから、それまでは私が気長に教えるわ。それよりも、目先の問題を解決する為に動かなくては」

 

 目先の問題と言われても、私は何の事だか全く分からなかった。当然、キッテル夫人は私の意を汲んで説明する。

 

「フロイラインは、結婚式がどのようなものかご存知かしら?」

「帝国法では、市庁舎の戸籍局で手続きを済ませてから六週間以内に、教会で誓いを立てる物と記憶しております」

「ああ、うん。そうね、ずっと軍にいたのですから、知識に偏りがあるのも当然よね」

 

 そうだろうとは思っていたという諦観からキッテル夫人は溜め息を零され、その後、真面目な顔で私を見つめた。

 

「フロイライン、ワルツは踊れて?」

「士官候補生時代に、最低限の作法は習得しております」

 

 当時は士官として修めるべき教養に、何故このような物があるのかと疑義を呈したかったものであるが、このような形で役立つとは思わなかった。

 尤も、学徒であった頃は身長差から私と踊りたがる者など──数少ない女性士官候補生であっても──多くはなかったし、私自身も一人の方が気楽だと足型練に努めつつ、パントマイムで踊り明かすばかりだったが。

 

「最低限でも十分よ。ニコには女に恥をかかせないよう、徹底的に仕込んだもの。それに、新郎とウェディングワルツを踊ったあとは、壁の花になっても何とかなるから、気負わなくても大丈夫よ。それから、結婚式の計画は夫婦で立てるものだから、今後はニコと相談しておいてね」

 

 私は結婚式というものを甘く見ていた。精々が必要書類を整えて提出し、教会で誓いを立ててから披露宴を開けば良いだろうと見積もり、半日程度で終わるものだと考えていたのである。

 キッテル夫人が語った通り、軍という世界しか知らないことの弊害が、というより女としての無知が詳らかにされていた。

 勿論、キッテル夫人はそんな私に目くじらを立てたり、苦言を呈する事は一切なかった。恥じる私の髪を撫でて「これから一つずつ覚えていきましょうね」と微笑んでくれたのである。そこには、私の人生に対しての同情も過分にあったのだろうと思う。

 

 だた、そのおかげで私はニコと出会えたのだから、私としては不幸というほどでは……いや、フォン・シューゲル主任技師の実験台にされたり、地獄のライン戦線に放り込まれた事は、どう考えても不幸だな。常人なら確実に三桁近い回数で死んでいる。

 取り敢えずフォン・シューゲル主任技師には絶対に招待状など贈らぬと心に誓いつつ──結局奴はエルマー兄様の伝手で来てしまったが──キッテル夫人のレクチャーに傾注した。

 結婚式というものは夫婦が二人で形にする、初めての営みであり形作られる愛なのだと力説するが、正直私には恥ずかしくてならなかった。

 そういう観念的な部分ではなく、実際にどうしたら良いのか教えてくれとせがむ。

 

「そうは言われてもねぇ。あとは用意した進行表に合わせて神父様と調整したり、予行練習をしたりする程度よ?」

 

 教会か。私は人生が人生であっただけに無神論者であったが、今ではどういう訳か如何にも古めかしい聖母様を象ったロザリオなど首にぶら下げ、時折は祈りを捧げているのだから人生というものは分からない。

 私が斯様な心変わりをした理由については、気になる読者もそれとなく察している読者も居られる事だろうが、私の口からは語らずにおこう。そう時間を置かずとも、ニコの手で語られる事なのだから。

 

 

     ◇

 

 

 一時間以上続いた式のレクチャーが終わりを迎え、フラウ・コンスタンツェが居間に入ると、彼女はようやく私やキッテル夫人と話ができると顔を綻ばせた。

 私はキッテル夫人と家長の馴れ初めにはそこまで興味はなかったのだが、一応女として乗っておく。

 

 どうやらキッテル夫人は、私同様にあまり女性としては感心できない、勉学一辺倒の人生であったのだが、二歳の折に「将来の婚約者だよ」と父君に紹介されて以来顔を合わせる事のなかった家長と、一一の誕生日に再会。

 以来、一回り近い歳の差の家長と文通や偶の逢引きで交情を深め、どちらともなく恋に落ちたという。

 

「あの頃のエドヴァルドは、何かと物入りの上に薄給の少尉だったから親同士の婚姻とはいえ、私に苦労させてしまうのではと苦慮していたらしいの。でも、私のお父上にはそんな態度を出さず毅然として言ったわ。

『親同士の縁とは言え、私はユーディットを心から愛しております。彼女の為、帝国軍人として恥じぬ道を行ける者となります。どうか、ご息女を頂けませんか?』とね。

 お父上は笑ったわ。そして言ったの。『もし許さねば?』と。そうしたら、ねぇ、どうしたと思う?」

「あの父上ですから、『認められるだけの結果を示します』と誓ったのでは?」

 

 ああ、確かにそれが納得できると私もフラウ・コンスタンツェに追従したが、キッテル夫人は「まさか」と笑った。

 

「もっと大胆だったわ。『では、攫わせて頂きます』って、私を抱えて去ろうとしたの」

 

“駆け落ちとは大胆だな家長!? 軍人の道より貴族としての責務を学んだ方が良いのではないか!?”

 

「私のお父上は、大慌てで止めたわ。元々認めていたのだから悪戯心程度のものだったし、エドヴァルドも理解した上で私への愛を示したかったのでしょうけれど、あの時はそこまでしてくれるとは思わなかったから、本当に感動したわ」

 

 いや。確かにロマンチシズムには溢れているのかもしれないが、これが息子達には聞かせられない内容なのは分かった。

 度の過ぎた冗談であったとしても、貴族としての義務やら家やら全て投げ出してでも添い遂げようとしたというのは、家長の面目が完全に潰れてしまう話ではないか。

 

「それはまた。それで? 母上はどうなさったの?」

「すぐエドヴァルドのお父上に、ご挨拶に伺ったわ。私の時は何事もなかったから、拍子抜けしてしまったの」

 

 もし断られたら、「添い遂げられないならエドヴァルドに自分を殺して欲しい」と哀願するところだったというだけにアグレッシブな夫婦である。

 

「お気持ちは分かりますわ。私も、夫との婚約が認められぬものだったなら、似たようなことをしていたかもしれませんもの」

「貴女とグレーゴールは、家としても男女としても理想的だったでしょうに。まぁ、そこは私とエドヴァルドも同じだったから、とやかくは言えないけれど」

 

“どれだけ恋に情熱を注いでいるのだキッテル家”

 

 私は胃もたれしかけた恋話に苦笑いが止まらなかったが、話に熱を上げているうちに矛先がこちらにまで向いた。聞かせろと目で訴えているのが分かる。

 

“勘弁してくれ”

 

 恥ずかしいのだ分かってくれと訴えるが、女同士で何を男のような事を言っているのかと追い込まれた。私は仕方なく、ノルデンでの墜落から今日まで、覚えている事を語って行く。

 ノルデンでの墜落という最もドラマチックな場面は生憎と記憶がなく、小モルトーケ参謀総長を前に勲章を叩きつけたり、或いはニコが墜落した時の心情やエルマー兄様との和解。病室でのニコとの再会を語る羽目になった。

 

「愛されているわねぇ、我が弟は。殿方の為に銃殺も覚悟で中央参謀本部に乗り込んで、死んでしまったのだと泣いた相手と奇跡の再会を遂げて告白するだなんて、劇作家でも恥ずかしくて書けないわ」

 

 悪かったな、恥ずかしい人生で! だがな未来の姉上よ! その恥ずかしい女が貴女の未来の義妹なのだぞ! 将来の身内の恥を列挙してくれるんじゃない!

 

「エドヴァルドより、情熱的な愛に生きていたのね」

 

 頼むからやめてくれキッテル夫人。何一つ嘘偽りのない事実だが、事実だからこそ羞恥がこみ上げて仕方がないのだ。一三にもならない小娘だが、それでも若気の至りというものはこういうことを言うのだと感じずにはいられなかった。

 それから、家長を引き合いに出すのもやめて差し上げろ。あの方も昔は若かったのだ。何? 今でも根はあまり変わらない? そうか、愛が重い一族なのだな。また一つキッテル家を理解したよ。したくない部分だったが。

 あと、私が一番情熱的だとか言うな。一番重い女みたいに聞こえるぞ。

 

「それにしても、エルマーは狡いわ。こんな可愛らしい義妹を独占して、一人だけ兄呼ばわりだなんて。ねえフロイライン。私も今日から貴女をターニャと呼ばせて」

 

 そして私をコンスタンツェ姉様と呼んでとせがむフロイラインの要望を、私は快く受け入れた。ニコとの過去を語るよりも、そちらの方がずっと気が楽だったからだ。

 

「他家の縁談をこちらで決めなかったのは正解だったわ。フロイライン・ターニャを差し置いて他の娘と結ばせていたら、私は地獄に落ちるところだったもの」

 

 その点に関してはキッテル夫妻には感謝しかない。自覚はしたが互いに結ばれないなどというメロドラマは、劇や小説なら良い題材だろうが現実には唯の悲劇だ。

 キッテル夫人は礼を述べた私に笑顔で頷くと、柱時計を見て目を瞬かせた。

 

「あら、いけない。そろそろ食堂に戻りましょうか。男達が、女の話は長いと思いながら待ってる頃ね。ああ、そうだ。ねえフロイライン・ターニャ。もし、ニコが婚約指輪を貰って欲しいと言って来たら、貴女はどうするかしら?」

 

 正直、凄く嬉しい。嬉しいが、私の指は女児の指だ。どうせサイズが合わなくなってしまうのだから、結婚式までは我慢すると告げた。

 

「私もエドヴァルドにそう言ったわ。でも、貰っておきなさいな。そういう形が無いと、男は不安になるの」

 

 自分の手から離れてしまうんじゃないか。自分より良い男が、連れ去ってしまうのではないかと、心の底では女々しく考えるのだとキッテル夫人は笑った。

 

「女はとっくに決めてるし、動いたりしないのにね」

 

 

     ◇

 

 

 時刻は一五時を過ぎた辺りだろう。私はキッテル家の皆と茶会を楽しんだ後に別れ、ニコと二人で婚約指輪を注文する為に店に赴く事となった。

 私がサイズが合わなくなるだろうから良いと断ると、男達は顔を見合わせ、キッテル夫人は良い子でしょう? とコロコロと笑った。

 茶会の前にキッテル夫人が「やっぱり一度は断っておいて。私と同じ対応をして、驚く男達が見たいの」と悪戯心故に提案したのだが、エルマー兄様にはバレているだろう。

 

 私としても悪戯半分本音半分だったが、そのどちらも察した上でエルマー兄様はキッテル夫人に「本当に良い子になってくれました」と同意していた。エルマー兄様よ、頼むから以前の私については語ってくれるなよ?

 

「ターニャ、ニコだけじゃなく私からも手紙を送らせてね」

「楽しみにしております。コンスタンツェ姉様」

「姉上、義姉にせがみましたな?」

「あら。我が愛しい次男は、姉から義妹を遠ざけて独占したがるのね?」

「姉上。エルマーの気持ちもお分かりでしょう? 姉上が逆の立場なら、可愛い義妹を甘やかしたがるのでは?」

「そうね、ニコの言う通り、それは否定出来ないわ。でも、ニコもエルマーも私と違って距離が近いのだから、少しは姉に譲ってくれても良い筈でしょう?」

 

 ご尤もですとニコもエルマー兄様も白旗を振った。二人揃って同じような笑顔を見せると、やはり兄弟なのだなと思う。そして、そんな二人に笑顔を向けながらコンスタンツェ姉様は私の両頬に口付けた。

 

「ターニャのウェディングケーキは私が作るわ。だから、絶対に戻ってくるのよ?」

「はい、姉様。必ず戻ります」

「姉上の腕は保証しますよ。今日の食事も菓子も、どの帝国の店より美味だったでしょう?」

 

 なんと。あの一口含んだだけで頬が落ちそうな料理の全てが未来の姉君の手によるものだったとは驚きであるが、エルマー兄様は姉君の主人が不憫だとも肩を竦めた。

 

「姉上の手料理を一度味わっては、どのような美食も粗食と大差ありませんからな。グレーゴール氏も家を空けてから大層お嘆きになったのでは?」

「エルマーの言う通り、夫は家に戻る度に泣き言ばかりだわ。『君の愛と料理に飢えている』とね。市井の妻なら冥利に尽きるのでしょうし、私としても誇らしいけれど、貴族としてはどうなのかしら?」

「良いではないのコンスタンツェ。家を守る女として、働ける場所があるのは幸福なことよ?」

「母の言う通りだぞ、コンスタンツェ。キッテル家は」

「『キッテル家は清貧を旨とし、夫婦は支え合い、家族は愛し合う事を永久の誇りとする』ものでしょう? 勿論、父上の至言を忘れてはおりませんわ。刺繍と手紙、読書と美容にばかり時間を注ぎ込む生活は、私としても御免被りたいものです」

 

 嗜みとしてならば何れも結構だが、女の本分は尽くし支えてこそ。本懐は愛を貫き、子を産み育む事だと胸を張るコンスタンツェ姉様は、これ以上なくお美しかった。こうして筆を執る私も姉様に近付けるよう生きてきたつもりだが、死ぬまで追いつくことはないだろう。

 愛を知るまで女だと自覚しなかった私と、生まれながらに女であることを誇りに生きてきたコンスタンツェ姉様とでは、女としての重みがまるで違うのだから。

 

「分かっておるならば良い。善き妻、善き母として支え愛してやれ。支えることも、愛も無償の奉仕ではない。その分は必ずお前に返る」

 

 そういう男と家でなければ、決して嫁がせはしなかったと家長は微笑んでみせた。

 

“本当に良い家族だ。私には、勿体無い程”

 

 俯いて、帽子を深く被ってしまう。認められているのに、一員になれるというのに、どうしても後ろめたい。場違いだと、思わずにいられない。

 

「何を考えているかは、それとなくだが分かるつもりだ」

 

 目深かに被った帽子をずらして、ニコは皆に顔が見えるようにしてしまった。頼むから、帽子を戻してくれ。今、思わず泣いてしまいそうなんだ。

 

「フロイライン・ターニャ」

 

 家長が涙ぐむ私に膝をつく。とっておきの一張羅が汚れることも気にせず、威厳の中に家族に向けるものと同じ愛情を湛えて、全てを包むような声で囁くのだ。

 

「貴女の半生(ひとみ)に私達がどう映っているかは問わない。貴女にとって、私達が違う世界の住人なのだと感じるのは、貴女の半生を知る者として致し方ないとも思う。

 だが、貴女は決して孤独ではない。温かな家庭の輪には、一歩踏み出せば入れるのだ」

 

 もう家の戸は開いている。私達は待っている。だから、どうか輪の中に手を携えて入ろうと誘われて。恐る恐るだけれど、私は手を伸ばす。

 

「私は、皆を愛します。だから、どうか」

「愛そう。フロイライン・ターニャ、血の繋がらぬわが娘よ」

「愛しますわ。ターニャ、血の繋がらない母ですけれど。貴女は私の娘よ」

「愛してるわ。ターニャ、本当の兄弟姉妹のように」

「愛しておりますよ。ターニャ、貴女は私の義姉なのですから」

 

 そして。私の未来の夫も言う。

 

「愛している。妻として、家族として、生涯貴女を愛して行く」

 

 結婚はまだだけれど。私はこの日、本当の意味での家族を得た。

 孤独を当然のものとして受け入れていた過去。打算と合理の上にでしか自他を測れなかった過去。愛でなく磐石な地位を求め、唯我に生きていた過去に別れを告げる。

 

 私は恋をした。愛を知った。そして今日──家族の温もりを知ったから。

 



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52 指輪と禁煙-番外:不都合な真実

※2020/3/6誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 父上の仰られた店は、市街地の中でも余り目立たぬ位置に有った。白塗りの壁と煉瓦の外装に、二対一組の指輪が描かれただけの飾らぬ看板。内装もまた簡素だが清潔感に溢れていたことから、知る人ぞ知るという空気を醸し出している。

 私はドアを開けつつ帽子を取り、後に続くターニャと揃って店員に挨拶した。店主でないと分かるのは、まだ二〇半ば程の若々しい顔つきと妙に垢抜けぬ物腰から、日の浅さが窺えたからだ。

 

「いらっしゃいませ」

 

 店員は会釈した私に、二度ほど目を瞬かせてから口を開いた。何処かで会っただろうか? という目をしていたが、客として見た顔ではないので、気のせいだと思ったのだろう。

 私の顔は常日頃新聞に載ってはいたが、軍服も勲章も無く、直営農地からも遠ざかれば、知名度としてはこんなものである。

 

「予約もなく来てしまったが、仕事を受けて頂くことは可能だろうか?」

「それは勿論。どのような指輪をご所望で?」

 

 ターニャとは店に来る前から、馬車でどのようなものが良いか話し合っている。とはいえターニャは受け取る側であるから私に任せると言ってくれたので、私は細部を頭の片隅で思案しながら基礎を注文した。

 

「婚約指輪を一組。素材は純銀を。婚約者の物はサイズ直しを前提にして頂けるだろうか?」

「少々かけてお待ち下さい。只今店主を呼んで参ります」

 

 椅子を勧めた店員は一礼と共に去り、数分と経たず戻ってきた。短く赤ひげを揃え、小太りのようでいてその実無駄な肉など一切無い、如何にもマイスターと呼ぶに相応しい貫録の店主は、私の顔を見るなり慌てて礼をした。

 

「フォン・キッテル家の若様でございましたか。お待たせ致しましたご無礼をお許し下さい」

「先触れも寄越さず訪ねたのだ。どうか顔を上げてほしい。しかし、よく分かったな?」

「新聞でお顔を何度も拝見しておりました。何より、若様はお若かった頃のご当主の面影を強く残しておりますれば」

 

 そこまで柔和な笑みで答えて、店主はじろりと店員を睨んだ。非は名乗らなかった私にもあるのだから、そう責めずとも良いと店主を宥めたのだが、そうは参りませんと店主は頭を振った。

 

「若様もフォン・キッテル家も、この地の誇りです。後継ぎがこの様では、店は私の代で(しま)いでしょう」

「そう悲嘆せずとも。父上はこの店ならば間違いないと仰られていた。主人が認めた世継ぎなら、腕は確かなのだろう?」

「婿入りしたばかりの若輩です。若様方の仕事には力不足かと」

 

 私は真摯に婿殿の指輪を見せて欲しいと頼むと、店主は頭を掻きながらも自分と婿殿の作品を持って来るよう、婿殿に告げた。

 見分すれば、確かに店主と婿殿の技芸の差は歴然だった。鍛造は婿殿も負け劣らず見事だったが、店主の作品は彫の形から光の入り方まで計算された、完成された芸術品と言って差し支えなく、店主の後では婿殿の作品は一歩も二歩も劣るだろう。

 だが、婿殿の作品が一段下であるのは、あくまでこの店主と比べての事で、その腕前は帝都の職人にも引けを取らない。ここの店主の腕が良すぎるのだ。

 

「主人。私も婚約者も、まだ男女としては未熟な身だ」

 

 未だ多くを語り合えず、男としても女としても不完全で、互いにそれを理解している。

 

「私達の指には、若く拙い指輪が合うと思う」

 

 指輪と共に時間を重ね、互いに子を育み、父上や母上のように老いた時。磨き続けた指輪を見て思うだろう。今日の、あの青かった日よりも自分は成長できただろうか? と。

 

「……本当に、ご当主そっくりなお方だ」

 

 私の父上も婚約したばかりの母上を連れて店に訪れ、同じ事を若き日の店主に告げたという。青い私達に、青い貴方の指輪を頂きたいのだと。

 

「その時、私はご夫妻に誓いました。誰よりも腕を磨き、私もまた老いた時には、誰もにご満足頂ける作品を、フォン・キッテル家にお届け致しますと」

「ああ、父上から指輪印章を受け取ったとも。素晴らしい作品であったし、だから来たのだ」

「嬉しいお言葉です。ですが、肩の荷が下りたとは申せませんな。若様とご婚約者様の指輪を作るのは、私の悲願でもありましたので」

「それは……」

 

 どうしたものかと思い悩む。ここまで言われた以上は、店主の望みを叶えてやりたいが、店主の作は私の指には余りに美しい。となれば、選択肢は一つしかあるまい。だが、私がこれを口にして、ターニャがどういう反応をするかも分かっているだけに気乗りがしないが。

 

「では、婚約者の指に相応しいものを。私は将来の妻に相応しく在れるよう、婿殿の指輪を頂けまいか?」

「いいえニコ様。ニコ様の指にこそ、マイスターの指輪をはめるべきです」

 

 それ見たことかと私は苦笑する。君が貴方がと譲り合って、平行線で進まなくなるではないか。私は困ったように店主を見ると、彼は苦笑しつつも分かりましたと頷いた。

 

「フロイライン、何故、若様が私の作品を手にすべきだと?」

「マイスター。ご覧の通り、私は心だけでなく体も不完全です。若い指輪と共に成長していくなら、私の方こそ相応しいでしょう。

 何より、ニコ様はフォン・キッテル家の次期当主です。マイスターの指輪に劣らぬ、相応しい貫禄を時と共に備えて頂けると信じております」

 

 私としては美しい指輪を未来の妻にして欲しかったが、店主はターニャの言い分こそ正しいと肩を竦めてしまった。婿殿も、私が店主の指輪をはめるべきだと視線で訴えては逃げ場がない。

 素直に白旗を掲げた私は、店主や婿殿を含めた皆で指輪の細部を詰めることにした。制作は鋳型なら一週間、鍛造なら三週間であり、彫金や刻印を施すなら更に時間が延びるという。

 

「お互い、最前線で顔を合わせず指輪をはめる事になりそうですね」

 

 お互い? と婿殿のみならず店主も首をかしげたが、私がターニャの名と『白銀』の二つ名を明かすと、二人は大層驚いた。

 

「お二方の御子息は、帝国史上最高の軍人になられるでしょうな」

「私達の子の世代には、そう大きな戦争など無くなって欲しいものだがね」

 

 これは私の偽らざる本心だ。群雄割拠の時代とは、すなわち乱世の時代でもある。たとえ私の跡を継ぐ息子が平凡非才であったとしても、その時代が平穏であるのならば、それは願ってもないことだった。

 無論、後の世を平穏ならしめる為の努力はこれからも、この先もしていくつもりだ。

 

「連邦との戦いは、無事終わるでしょうか?」

「終わらせます。私とニコ様で。これ以上、血の流れる時代は続けたくありません」

 

 婿殿の質問は微かに不安の色があったが、ターニャは帝国軍人らしい毅然とした態度と、女としての強さの込もった口調で応えた。そして店主はターニャを見て「お前もこの半分はしっかりして欲しいものだ」と婿殿の頭を叩いた。

 

「ご立派なご夫婦です。お二方の武運長久とご無事を、毎夜主と聖母に祈らせて頂きます」

「感謝する。ムンダー家は、代々キッテル家の指輪を作ってくれているとも伺った。戦後は是非、披露宴に招きたいのだが迷惑だろうか?」

「滅相もございません。参列できる日を心待ちにしております」

 

 

     ◇

 

 

 私とターニャは礼を述べて店を出ると馬車に乗って駅まで向かい、再び一等車に乗り込んだ。既に日は沈みかけており、帝都に着く頃には星空が見えるだろう。

 

“長く付き合わせてしまったな”

 

 ターニャは気遣う私に大丈夫だと微笑んだが、軍務とでは大きく勝手が違う。履き慣れぬ靴で気を配りながら歩き、常に身なりや汗による化粧崩れまで気にしていたのだから、肉体的にはともかく、精神的な疲弊は相当なものだろう。

 今日という日の為に尽くしてくれたターニャの労に報いたい私は、何か願い事があれば聞き届けたいと申し出た。

 

「宜しいのですか?」

 

 勿論だと頷く。身に余る願いは困るが、流石にそこは弁えてくれるものと信頼していた。

 

「では。喫煙を止めて頂きたくあります。巷では吸えば痩せるなどと言われ、女性の喫煙者も多くなりましたが、将校として多くを見る身からすれば、誤りであると判断致します。

 喫煙者は非喫煙者と同等の訓練であっても疲労の度合いが高く、肺にも負荷をかけております。食欲の減衰も、決して良い物とは言えないかと」

 

 一理どころか千理ある言葉だ。軍務に就く以上自己管理は徹底すべきであり、喫煙を止めるべきだと言うターニャの言は正しい。

 何より、私はターニャが煙草の煙が大嫌いだということも知っていた。駅や市街地でも、すれ違いざまにかかる煙や臭いに顔を顰めていたからだ。彼女に限らず、煙の苦手な女性は帝国にも多いし、我が家の女性陣もその例に漏れない。

 父上も、喫煙する折には母上や姉上が臭いや煙が苦手である事を悟って、家に戻る日には喫煙を控えていたし、私も同じく女性の前では決して吸わないようにしていた。

 今日という日も私は全く吸ってはいないし、喫煙の頻度も、他の喫煙者と比べれば雲泥の差であろう。

 紙巻はひと月で一箱持つし、パイプ葉の缶も持て余し気味だった。私が買い込むのは前線では手に入り辛い為と、戦友や捕虜となった負傷兵に与えてやる事が多いからだ。

 

 さて。こう長々と言い訳じみた事を語るのは、頻度こそ少ないといってもやはり私が愛煙家だからだ。前線の乏しい時間と量でたっぷり味わいたいからと肺に入れたりはしていないし、ニコチンやタールが恋しいほどの中毒者でもない。

 それでも純粋に口腔内を満たす煙の味や、葉の香りの楽しみを知ってしまった身としては、紫煙との縁は切り辛い。前線での煙草と酒は、敵兵とでも話の種にもなるから尚更だった。

 男らしく止めると口に出来ない私に業を煮やしたのか、ターニャは対面の座席から立ち上がると、止めると言い切れぬ私に顔を近づけた。瞳は険しく、嘘吐きだと責めているようで、逸らそうとする私の顔を固定するように両頬に手を置いてきた。

 

「どうしても、止めては頂けませんか?」

「……月に一度、パイプを咥えるのは、ご容赦頂けないだろうか?」

 

 女々しい。女々しいぞニコラウスよ。こうして過去を綴っている私でさえ、この時の自分を白眼視せずに居られぬ程に、情けない男の姿があった。そんな様だから、指輪に相応しい貫禄が老いても身につかんのだ。

 ターニャは大きくため息を吐き、肩を落とした。意志の弱い男だと言外に言われている事がありありと伝わり、次の瞬間には、無言で頬に添えた両手に力を込めだした。

 幼い少女の膂力に過ぎないが、私には万力以上の効果があった。

 身じろぎ一つできず、汗を掻く事さえ忘れさせる圧力が、何より私自身感じていた後ろめたさも含めて、完全に雁字搦めになっていたのだ。

 

「フロイラ、」

 

 黙れという視線が刺さった。無言のままじりじりと膝を上り、顔を近づけたと思った瞬間、私は呼吸さえ忘れて目を瞬かせた。

 

「……っ、!?」

 

 はじめ、何をされたのか分からなかった。視界一杯に広がる、目を閉じたのだろうターニャの瞼と、結われた髪から微かに溢れる数本の髪の毛。

 唇に触れる、柔らかく温かな感触を自覚仕掛けた刹那、まるでタイミングを見計らったかのようにターニャは私から離れてしまった。

 余韻は本当に微かなもので、もう一度、今度は自分がその唇を奪ってしまいたいという衝動から手を伸ばすが、ターニャはそれをひらりと躱してみせた。

 

「初めての経験でしたが、口付けの味とは酷いものなのですね」

 

 苦く、渋く、吐息は鼻を噤みたくなってしまう。

 甘さなど欠片もなかったとターニャは顔を顰めて嘆息した。

 

「このようなものなら、二度と賞味する事はないでしょう」

 

 私は二度と、決して喫煙をしないとターニャに固く、真摯に誓った。

 かつてダールゲ中佐は「紫煙という奴は縁を切らせてくれないし、その上金までかかる悪い女だ」と笑いながら語ったが、私は悪い女と縁を切り、ターニャ一筋であろうと決心したのだ。

 

 読者諸氏は、二重の意味で私を軟弱と笑ってくれて良い。ただ、もし本著を手に取っている中に、恋に浮かれている男性が居られるならば質問もしたい。愛する女性の唇と紫煙。生涯一方しか味わえないとしたら、貴方はどちらを取られるだろうか?

 

 


 

     ◆統一歴一九六〇年 キッテル家

 

 

 今頃ニコは禁煙を誓った辺りの内容を、原稿用紙に書き綴っている頃だろう。尻に敷けないなら、飴で飼い慣らせるかと内心ほくそ笑みながらの口付けだったが、いざやる側となると我ながら若いというか、顔に火が点きかねない程火照っていたのだから何とも締まらない。

『恋愛とは二人で愚かになることだ』というフランス作家の名言にもある通り、恋に浮かれていた私達は青く愚かだったということだろう。尤も、青さも若さも老いた今でさえ残っているので、子にも孫にも時折呆れられてはいるが。

 私は当時を回顧しつつ、今は亡きユーディットお義母様が使っていた書斎の椅子に腰掛けて、目を通していた経済学書をパタンと閉じた。幸いにしてこの歳になってさえ近眼や老眼とは無縁だが、目が疲れるのは早くなっているようだ。

 休憩がてら、ニコに原稿を渡した時のことを思い出す。

 

“書斎に入ってこない事からしても、私の書いた原稿は何の違和感も持たれていないようだな”

 

 連邦への復讐を決意し、全てを巻き込んで滅ぼそうとした部分ではない。あれは本当の事しか書いていないのだし、私自身罪の告白としたつもりだったのだが、どうにもニコは火消しに余念がないという訳でなく、信じてくれてもいないようだった。

 まぁ、そちらに関してはどうでも良い。小モルトーケ参謀総長には悪い事をしたと思うが、連邦との戦いは帝国の総力を挙げねば勝ち得なかった戦だった以上、あの決断が間違いだったとも思わない。

 私にとって重要なのは、ニコが私とユーディットお義母様との居間での会話の部分に疑問を持たないかというところだったが、そこは私の恥を前面に出す事で乗り切る事が出来た。

 

“流石に、真実を語る訳にも行かんからなぁ”

 

 あの時の居間での会話は、私が前世の記憶を持っていて、しかも前世では男だったという事実の次には、墓の下まで持っていかねばならない物だ。

 目を閉じて、あの日のことを思い出す。

 語ったところで信じる者はごく僅かだろうが、夫を含めユーディットお義母様を知る者は間違いなく卒倒するだろう日の真実を。

 

 

     ◆

 

 

「フロイライン・デグレチャフ。息子を選んでくれてありがとう。母として、これ以上喜ばしいことはないわ」

 

 柔和な笑みを浮かべつつ抱きしめたキッテル夫人は、その抱擁を解くと共に、じっと私の瞳を見つめる。慈愛や家族愛とは別の、私という一個人を観察する瞳だった。

 

「それにしても、本当に私そっくり」

「お戯れを。私は、キッテル夫人ほどお美しくはありません」

「いいえ。貴女は昔日の私そのものよ。生き写しかとさえ思ったわ」

 

 確かに金の髪や色素の薄い瞳は似ているのかもしれないが、同じところがあるとすればそれぐらいだろう。だというのにキッテル夫人は「同じよ」と改めて私に言う。

 

「貴女は同じ。恋を知ったばかりの、人間らしくなった私とね。嬉しいけれど、惜しくもあるわ。もしも息子と出会う前の貴女に会えていたなら、すぐにでも軍を辞めて貰って、私の野心を叶えて貰っていたでしょうに」

 

 瞳が変わる。ニコへの感情を自覚する以前の、合理と打算に満ちた瞳。死んだような、曇っているような、それでいて成功を願って止まないような、くすんだ瞳を、あのキッテル夫人がしているのだ。

 

「私の生家は、代々官吏の家系だったわ。主には金融行政を取り仕切る類のね。けれど、私は女に生まれてしまった」

 

 初めは、我が身を呪ったものだという。男兄弟の誰より経済というものを解し、誰より貪欲に知識を求め、誰より強い野心を持ちながら、しかし女の身であったが故に栄達を閉ざされたと。

 

「男であったならば、ユーディットは大蔵相だっただろう。父上は呆れながらに語ったけれど、私は不服だった。『その程度に見られているのか』と肩を落としたわ」

 

 昔日のキッテル夫人、ここではフロイライン・ユーディットと称すべきだろう。彼女は女らしさなど微塵も望まず、世界を経済の枠に捉えてみていた。

 

「ねぇ、フロイライン・ターニャ。貴女はこう感じたことはない? どうしてこの世は、こんなに無駄が多いのだろう? 人的資源を無駄に浪費し、コストカットさえ出来ていない。異なる分野であったとしても市場原理に基づき世界を見れば、あらゆる無駄は改善され、やがて淘汰される筈なのに」

「ミクロ経済学の視点から、世界を俯瞰すべきだと?」

 

 一瞬輝いた瞳は、我が意を得てくれた同類に出会えたと実感したことと、純粋な歓喜からだろう。

 だが、それはこの世界では未だ形成段階にある思想であり、学問であり、神を信じぬ私が前世で忠実なる信徒となったシカゴ学派の考えだ。

 

「素晴らしいわ。打てば響くとは正にこの事。貴女がニコを選んでくれて本当に良かった」

 

 頭の中まで糖蜜漬けになっている女など、顔も見たくなかったと吐き捨てる。

 貞淑な女? 実に結構。だが、キッテル夫人が欲しているのは、領地を任せられるだけの才覚を有している、己の眼鏡に適う女だった。

 

「詩が上手かろうが、社交が出来ようが何の値打ちも無いわ。当家に来たいという女達は家柄も財も一級だったけれど、誰も彼も農地を維持するのが手一杯という有様だった。

 エドヴァルドには、難癖をつけて追い払ったわ。貴女とニコの文通をエルマーから聞いて以来、私はずっと貴女を追っていたのよ?」

 

 私の士官学校時代の論文も、筋を頼って手にしていたという。『戦域機動における兵站』は軍事畑の人間の視点とは違う、明らかに経済を中心に考えた経営者の物だったと確信したそうだ。

 

「貴女が何処で知識を得たのか。どうして齢九歳でこんな論文を書けたのかには興味ないわ。どの世界にも異才は現れる。エルマー然り、私然り、この世にはそういう人間が少なからず出てくるもの」

 

“エルマー兄様と合わせて、さりげなく自分を持ち上げたな”

 

 自分は天才だと言いたいのだろうか? だとしたら私とは似ていないだろう。私は自分がそうした類の人間でないということは自覚している。社会という敷かれたレールに順応し、その中で成果を出すことを重視した、そこそこの人間に過ぎない。

 前世でも、そして今も、私は取るに足らぬ世界という市場の歯車の一つに過ぎないのだ。

 

「買い被り過ぎです」

「ええ。麒麟児ではあっても、天才ではないかもしれないわね。だけど、ねぇ? 世にどれだけ無能が蔓延っていると思う? 人的資源としては劣悪な、他の歯車まで傷めてしまうような無駄な部品は特に多いわ。

 貴女はその無駄を、取り除く努力をしている。軍という取り扱う歯車を選べない世界で歯毀れを修復し、一級にまでして円滑に機能させる事がどれだけの労力を必要とするかは理解しているつもりよ?

 貴女は『歯車』でなく、『技師』になれる。世界を回す、優れた『技師』に」

「それがキッテル夫人の、昔日のフロイライン・ユーディットの夢だったのですね」

「そうよ。私は一国の大臣などに収まるつもりはなかった。手始めに帝国、いずれは列強、そして世界。私は市場原理に基づいて、全てを支配したかった」

 

 今日日、創作の悪役でもなければ、決して聞けない台詞だろう。経済からの世界支配。どのような大物だろうとひれ伏さずにいられない、財によるコントロールを望んで止まないというのだから。

 

「何故、ご自分でなさらなかったのですか?」

 

 官吏の椅子に興味がないというのなら、それこそ他に幾らでも手はあった筈だ。父親が才覚を認めていたというのなら、金融の一つでもやらせれば結果はついてきただろうに。だが、その答えは簡単で、昔の私なら馬鹿馬鹿しいと思うものだった。

 

「恋をしたからよ。言ったでしょう? 貴女は昔の私だと」

 

 結婚などという自由を束縛する社会契約など真っ平御免だ。異性との恋愛など考えられない。何もかもが私と同じ考えだったフロイライン・ユーディットは、しかし家長殿に恋してしまった。

 

「捧げたくなったの。尽くしたくなったの。打算と合理で世界を見て、美しく回る無駄のない歯車のような世界を求めていた私が、一人の男に恋したの」

 

 荒れた髪に眼鏡をかけ、瞳の下には隈まで作って、夜通し経済学を学び続けた可愛げのない小娘。女らしさなど投げ捨てていたというフロイライン・ユーディットが、生まれて初めて経験した感情は、全ての価値観をひっくり返してしまった。

 これまで詩作などしたこともなかった。教会にだって行きたくなかった。神よりも市場原理こそを奉じるべきだと豪語して止まなかった不信心者が、意中の相手の為だけに己を変えたのだ。

 

「敬虔な信徒を装って、今では本物になった。女らしさと礼節を身に着けて、どのような宮廷人さえ相手に出来るようになった。こんなものは、本当に欲しい(もの)を得るための手段で、貴女(軍人)流に言えば武器と弾薬を揃えたに過ぎないけれど、甲斐はあったわ。

 私は世界よりも、欲しいものを掴んだのですもの」

 

 女として生きる喜び。恋に傾ける情熱。それを知ってしまってから、野心は遠のく一方だったそうだ。

 

「結婚したいという願いが叶えば、次は子供が欲しくなった。ウェディングドレスに袖を通したのは一三で、貴女とそう変わらない体型だったからエドヴァルドは止めたわ」

 

 それはそうだろう。体が出来ていない状態の出産はリスクが高い。貴族社会でも結婚は早いが、世継ぎを設けるとなれば慎重になり、どれだけ若くとも一四、五歳まで待つ家が大多数だ。

 

 私は待たなかったけれどね、とキッテル夫人は笑うが、あまり想像したい絵面ではない。私と変わらぬ体型をした一三の痩せぎすな少女と、二四になる逞しい男が褥を共にするなど前世で考えれば犯罪的過ぎる光景だ。無言で一一〇番を押したくなる。

 時代が時代で命拾いしたな、我が義父よ。

 

「そうして子供が出来たら、今度は自分の手で育てたくなるの。エルマーの足は本当に悲しかったけれど、それでも立派に育ってくれたのは嬉しかったわ」

 

“立派なファザコンでマザコンでシスコンでブラコンになって、それ以外にはセメントどころか氷河期に近い対応だがな”

 

 一体どういう育ち方をして、エルマー兄様はああなったのかと思ったが、他の姉弟を見るに生まれつきああだったのだろう。尤も、キッテル夫人の本性を知ってからは、血は争えないものだと納得できたが。

 

「子供が育てば、今度はキッテル家の土地と領民を、夫人として守らなくてはならないわ。人的資源を有効に活用して、効率的なシフトを組み立てて環境改善。学者を招いての地質調査から始まって、他国の農業機械や肥料も取り入れたの。機械化で手が空いてからは畜産に回せたから、それなりに稼がせて貰ったわ」

 

 特に合州国は土地の割に人口が少なく、農業関係は機械化が進んでいて助かったという。ニコはキッテル家の農地を、昔は他の地主貴族(ユンカー)と大差なかったと控えめに語ったが、正しくは『成功している他の地主貴族(ユンカー)』と変わらないと称すべきだ。

 確かに農地としてみれば土地は痩せているのかもしれないが、養蜂と畜産は非常に盛んであり、立派な乳牛や軍馬としても重宝されるトラケナー系やサラブレッドがあちこちで草を食んでいるし、農園には多数の鶏と豚が飼育されていた。

 軍人家系の一族だというよりも、有数の地主だと称した方がよほど説得力があるだろう。

 

“あれだけの規模でありながら『それなり』とはな”

 

 夫人一人では限界がある以上、各部門ごとに部下を雇って回しているというが、これはもう立派な一つの企業だろう。少なくとも、中小でなく大企業と称すべき資本は蓄えているに違いない。

 

「とは言っても、キッテル家は代々無駄に財を持ちたがらないから、手元には余り残せないのよね。私としても貨幣は溜め込むより回すべきだとは分かっているから否はないのだけれど、他家にまで無駄な援助を行うのはどうかと思うわ」

 

 貴族同士の助け合いという奴か。確かに軍人家系であり、家長や跡取りが亡くなる可能性を考慮すれば必要な出費とは言え、歯がゆいことに変わりないらしい。

 

「ニコやエルマーが相手を作らない時も、恩返しと称して子女を寄越してきたけど、大半が家同士の関係を強めたいだけ。その癖経営改革も行わないというのだから呆れかえったわ。まぁ、そういう家にはお引き取り願って、代わりに息のかかったコンサルタントを投げておいたけど。これで潰れるようなら、そこまでね」

 

 ただ、キッテル家の繁栄は夫人の功績よりも専門家を雇ったからだと見られた──これは帝国が表向き男女平等を謳いつつも、未だ男性優位の社会だからだ──のは功を奏したらしく、援助する家は減ったそうだ。実際には、助言の元締めは夫人なのだというのに。

 

「ごめんなさいね。愚痴が長くなってしまったけれど、言いたいのはそこではないの。大事なのは、子を育てようと領地を経営しようと、野心が潰えたという訳ではないということよ。一番が二番に、二番が三番にと順位が下がったというだけで、私はまだ諦めきれないの」

「だから、私に夢を叶えろと? 申し訳ありませんが、器ではありません」

「私はある程度動かせる資本を持っていて、為替と株を回して続けているわ。そうね、森林三州誓約同盟の隠し口座に、幾ら入っているか教えて上げましょうか?」

 

 来なさいと招かれるままに近づき、告げられた金額に目玉が飛び出かけた。嘘だろう、と思わず口にしなかった自制心を褒め称えたい。しかも、財の殆どはインフレ対策の為にインゴットや貴金属にして貯蔵しているという。

 

「ニコやエルマーが家の為に使って欲しいと給与の幾らかを毎月納めてくれていたけれど、そちらは息子達の名義で学校や病院、孤児院を併設している教会に寄付したわ。家のお金なら、私の頭が使い物になる限り問題ないもの」

「それだけの資本を持ちながら、私に何をしろと?」

 

 世界を掴みたいというのなら、キッテル夫人だけで十分叶う。現時点でさえロックフェラーやロスチャイルドとだって肩を並べられるだろうに、まだまだ夫人には時間があるのだから。

 

「決まっているでしょう? 無駄を無くすのよ」

 

 惜しまず金を使い、人間を操作しろ。市場原理に基づいて余計なものを淘汰させ、見込みがあれば投資を惜しまず、国家を蝕む白蟻は破産させろと語りだす。

 

「まだ操れる人間も足りないし、投資先も選別の段階だけど、貴女に継がせる頃には機能しているわ」

 

 この力で、キッテル家を守れ。未来永劫、自分達家族の生きる土地を守るついでに、祖国も守ってやれという。

 

「しかし夫人。市場原理に忠実であるべきなら、国家や強大な個人ないし組織が市場に介入するのは、自然淘汰による適者生存を妨げる事になるのでは?」

「そうね。だけど現状、帝国という資本家の投資先が軍ばかりなのは理解しているでしょう? 戦時下ならそれでも良いけれど、戦後を考えるなら、軍需産業に代わる労働者の受け皿は今の内に用意したいのよ。国家の極端な投資をカバーするくらいなら問題ないでしょうし、民需産業の活性化を求めてなら、一定の介入も許されると思わない?

 それに、この国は軍需企業からリベートを受け取っている者や、役人に融通を付けて参入している企業はまだ多いの。エルマーの新型兵器のおかげで改善されたそうだけれど、悪い流れを潰すには、もっと力が必要になる。

 私達の介入は、そうね。殺虫剤を撒くようなものだとでも考えて頂戴な」

 

 その後は教育機関に見られるような、後々確実に国家利益となるが、芽が出るまでに時間のかかる分野を中心に投資していけば良いという。市場に介入するのは必要に応じてか、或いは自分達以外の厄介な介入者を潰すときに限れば良い。

 

「世界を掴むよりはずっと簡単なお仕事よ。貴女にも問題なくこなせるわ。いいえ、こなせるようにして上げる。私の全てを教えてあげるわ」

「キッテル夫人、貴女は、本当に恐ろしい人だ」

「ええ。でも貴女、気付いていて? 私を恐ろしいと言いながら、口元が歪んでいてよ?」

 

 認めよう、私は楽しそうだと思ったと。女として愛に生きるのも良いが、元男として、企業戦士として合理的な市場原理に満たされた世界というのも見てみたい。

 何よりだ。組織にせよ社会にせよ、一見合理的に見えてその実非効率な部分を帝国が抱えているのも純然たる事実。

 無能な官吏や軍高官、法匪といった国家の寄生虫が子や孫の世代までのさばり蔓延るのは耐え難い。根絶は無理だとしても、数を減らせるというのなら、やがて母となる身としては幾らでも飛びつこうじゃないか。

 

「この出会いを生んで下さったニコ様には、心から感謝したいものです」

「こちらこそ、結婚式が待ち遠しいわ」

 

 強い握手と共に、私達は笑顔を見せた……筈だったが、結婚式という言葉の後にキッテル夫人は表情を固くした。最も大事なことを、忘れていたというように。

 

「……ターニャ。貴女、ワルツは踊れて?」

 

 私は首を縦に振った。私も女としては駄目だったが、昔日のキッテル夫人は私以上にダメだったらしい。

 

「私と同じだと思っていたのに……!」

「……キッテル家に泥を塗らず済んだことを、喜んで頂きたいのですが」

 

 第一、今の貴女ならどんなダンスでも踊れるだろうに。

 




※Q:将来の主人公は、指輪にふさわしい貫禄が身につきましたか?
 A:(ベッド以外では)見事に尻に敷かれて頭も上がりません。

補足説明

【キッスの味はタバコの味?】
 主人公とズッキューンしたデグ様のお味の感想ですが、これはタバコを止めさせたかったからのもので、主人公はエチケットとしてきっちり歯磨きとか口臭対策は怠っておりませぬので、誤解のなきようお願いいたします。
 実際のお味は、食堂車で飲んだハーブティーのお味でございまする。

【結婚時のママ上の外見について】
 一三歳のママ上の外見はデグ様以上のボサボサ金髪に、眼鏡をかけたダウナー系低身長やせ型ロリボディ。手を出すには犯罪的すぎませんかねパパ上!?

 なおママ上は嫁入りの後、キッテル家の栄養満点な食生活で、バインバインでムッチムチなアルティメットボディになった模様。
 当然デグ様も戦後にすげえ事になりました。
 アニメでヴィーシャさんから貰った服は、胸が苦しくて腰が余るレベル。ヒップに関しては、書籍版4巻扉絵でロリヤが想像した通りの、プリっとした感じでございますw
 主人公死すべし慈悲はない。


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53 逢引-祈りの理由

※2020/3/7誤字修正。
 すずひらさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフを実家に招いた翌日。最後の休暇を楽しみたいという理由から、なんとターニャの方から逢引を申し出てくれた。

 私としては欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したくなる提案だが、慣れぬ格好を二日も続けさせるのは相当の疲労を強いてしまう。私との逢引が出来なかった事を気に病んでいるのならば、無理をせず疲れを取って欲しいと告げたのだが、ターニャは酷く拗ねた。

 

「ニコ様は前線に赴く前に、婚約者と思い出を作りたくないのですか?」

 

 作りたいに決まっている。愛する女性と過ごしたい男なら、誰だとて同じ事を思うだろう。何より、女性の願いを断るものでないというのも理屈の上では分かるのだ。

 結局私は、ターニャの申し出を受けた。但し、服装は私もターニャも軍服で、逢引は一七時に終えると約束した上でだ。

 

「まるで子供の門限です」

 

 ターニャは口を尖らせたが、私達は婚約していても未婚だという事には変わりない。両想いであったとしても節度は保たねばならないし、公人として軍務に響かせる訳にも行かない。

 私は兵舎の門限とでも思って欲しいと笑いながら言い換え、宥め賺しながら中央参謀本部の宿舎まで送り届けると、抱擁と共に別れた。

 

 

     ◇

 

 

 翌日。私はターニャとの逢引もさる事ながら、ようやく空軍の軍服に袖を通せる事に歓喜した。空軍設立時はネクタイ兵と揶揄された軍服だが、アルビオン軍でもネクタイに開襟の上衣が採用されて以降、徐々にこのデザインも各国で受け入れられ始め、最近では合州国もこのスタイルを採用したという。

 

 帝国では散々に酷評された空軍軍衣のデザイナーが、他国の評価を受けてそのセンスが間違いでなかったと胸を張ったのは当然で、新たにネクタイ着用の戦車兵の制服を発表したが、こちらは違った意味で帝国空軍を激怒させた。

 曰く、戦車服は美しいが空軍軍衣は奇抜と言うだけで滑稽でしかない。何故自分達の時はこのようにデザインできなかったのか等々……兎角自分達の軍服と比べては、戦車兵の軍服を賛美しつつ再びデザイナーを攻撃したのだ。

 同じ開襟にネクタイという上衣でありながら、何故ここまで開きが付いたのか。おそらくだが、デザイナーは帝国空軍の先駆的すぎるデザインから失敗を──というより帝国人の好みを──学んだのだろう。

 戦車内での引っ掛かりを抑えるためにと従来の陸軍軍衣から袖ボタンを廃し、隠しボタンだらけで作業着もどきの簡略化した見た目になった軍服は不評極まりなく、それから一新した戦車服は帝国軍のみならず国民さえ魅了した。

 丈の短い、隠しボタンからなるダブルのパンツァーヤッケは近衛軽騎兵の伝統たる黒を用い、その両襟には同じく近衛軽騎兵の顎なし髑髏を襟章として付された。

 帽子も下士官は舟形略帽を、将校は制帽腰部中心に付された円形章(コカルデ)の周囲に柏葉が取り囲む独特の軍帽を被ったが、こちらは空軍のデザインから先駆的だった翼の生えた円形章(コカルデ)に修正を加えたのだろう。

『新たなる黒騎兵』の異名と共にプロパガンダポスターに描かれた戦車兵は、ネクタイにシャツでなく国内冬季用の官品黒セーターを内に着ていた為に、一層伝統的でありながら機能美を有するスタイルとして見られた。

 この軍服を目にした空軍は歯軋りしながら悔しがり、デザイナーに空軍軍衣の改訂を強く要求したが、デザイナー当人は空軍の軍服を最も洗練されたデザインだと言って譲らなかったそうだ。

 

 かくも身内からは散々な評価の空軍軍衣だが、私は前々から再三語った通り空軍の制服を気に入っており、槍騎兵服(ウランカ)だけでなくいつかはこちらにも袖を通したいものだと常々思っていた。

 折角仕立てた制服を、クローゼットの肥やしにしたくなかったというのもある。

 私は帝国国歌を鼻歌交じりに口ずさみつつ、糊を利かせた白シャツに袖を通し、姿見の前でネクタイを調整してからフュア・メリットとダイヤ付き白金十字を佩用。

 ジャケットに袖を通し、改めて問題ないことを確認した後に礼装ベルトを装着し、空軍将校短剣を吊るして宿舎を出た。否、出ようとした。

 

「キッテル大佐殿が軍服に袖を通されたぞ!」

「憲兵を呼べ! 拘束しろ!」

 

 フォン・エップ上級大将の差金であろう。私を空軍総司令部にも、他の軍施設にも立ち入らせるなと仰せつかっている同僚の動きは帝国軍人らしく迅速かつ合理的。私は短機関銃を突きつけられて立ち所に包囲された。見事だよ、完璧な仕事ぶりには舌打ちを禁じ得ない。貴族に有るまじき品行だが、この時は唾さえ吐き捨てたくなった。

 

「戦友諸君。どうにも誤解があるようなので、説明させて頂きたいのだが、私は仕事をしに行こうというのではない。私は婚約者との逢引に赴きたいだけだ」

「昨日は私服で婚約者を家郷に招かれた筈です。今日に限って、軍服をお召しになる理由はないでしょう」

「大佐殿、槍騎兵服(ウランカ)でなければ誤魔化しが利くとの発想は浅はかでありますな。直ちに自室に戻り、軍服を脱いで頂きたい。その服は、大佐殿の顔は暫く見たくないと仰っておりますぞ?」

 

 流石にそこまで浅はかな阿呆と思われていたのは心外だが、優秀な同僚たちを前に、しばし悩まざるを得なかった。

 正直に答えることは容易いが、それをしてしまえばターニャの女性としての欠点を晒してしまう事になる。気心知れた戦友達とは言え、婚約者の恥を大っぴらにしたいとは思わない。

 

「少尉、先程の冗談は悪くなかったと言っておく。だがな、この服はまだ私の顔を殆ど見たことのない引きこもりだ。何しろ、仕立ててから試着以外で袖を通せなかった程でね。一度ぐらいは着用して帝都を練り歩きたかったのだよ」

 

 仕方なしに肩を竦めつつ、冗談を交えて返した。仮装趣味のようで気が引けたが、軍服というものは見目の美しさが士気に関わる通り、男なら袖を通したくなるものなのである。

 実際、戦車兵の服に焦がれるお前達ならこの気持ちも分かってくれるだろうと期待のまなざしを向けたが、駄目だった。皆私を信じていない。

 

「このような伝統の欠片も見られぬ軍服をですか?」

 

 実に帝国軍人らしい返答である。信じられないという半分の瞳。もう半分は、事実なら私の趣味は悪いぞという批判が混じっていた。

 何故そうまで頑なに空軍軍衣を否定するのかと問われれば、先に語った通り、プロシャ軍からの伝統が一つとして継承されていなかったからだろう。新式の戦車服のように、ネクタイと開襟であっても伝統さえ取り入れていれば帝国人にも受け入れられる。

 しかし、何一つ先人から受け継ぐ物のない空軍の制服は、彼らのような保守的な層には耐え難いのだろう。常に洗練された戦装束を求める帝国人特有の制服信仰もそれを後押し、一層彼らを頑固にさせていた。

 

 彼らに言わせれば空軍軍衣はただ新しいだけで、先人への敬意が無いと言うのだ。

 もう制定されて何年も経つのだし、青年将校達などはすんなりと受け入れている者も多いのだから、私が好んでいても不思議ではないではないかと口を尖らせたが、誰も信じなかった。いや、信じたくなかったのだろう。

 普段からして槍騎兵服(ウランカ)を纏い、プロシャ軍人らしい力強くも落ち着いた発語を心がける私が空軍の制服を着たいなどというのは、彼らにしてみれば家では真面目な我が子が、学校では素行不良だったと知らされた時のようなものなのだ。

 そのような格好で恥ずかしくないのか? 人に見られているという事を弁えているのか? まるで教育者が駄目な教え子を叱るように、或いは親が放蕩息子を諭すように見てくるのだから、私には堪ったものではなかった。

 

 諸君らも式典で袖を通すだろうと言えば、嫌々に決まっているでしょうとすげなく返される。そうした問答を何度か続ける内、結局私は軍服を取り上げられた。

 かくして待ち合わせ時間の一〇分前にも姿を見せぬ私に、何事かあったに違いないとターニャが中央参謀本部の宿舎に戻って直接電話をかけるまで、私の誤解は続くこととなる。

 

 

     ◇

 

 

「それならばそうと仰って下されば良かったでしょうに」

「婚約者の恥を晒したくなかったのでな」

 

 次からは少しぐらい信用してくれと同僚に肩を竦めつつ、改めて空軍の制服に袖を通そうとしたが、宿舎にいた者達は皆止めた。

 

「大佐殿。軍服とは言え、逢引であれば相応しい装いというものが有りましょう」

 

 槍騎兵礼装(ウランカ)の方に袖を通せ。もう誰も軍務だとは誤解しないから、そちらを着てくれと懇願された。これ以上ターニャを待たせる訳にも行かない為、渋々ながらに槍騎兵礼装(ウランカ)に袖を通し、やはりこちらの方がしっくり来ると皆に頷かれた。

 私は皆の前でターニャに槍騎兵服(ウランカ)と空軍軍衣のどちらが良かったかと訊ねたが、珍しい制服姿を見たかったという好奇を除けば、やはり槍騎兵服(ウランカ)の方がしっくり来ると言うので、同僚達は「分かっておいでですな」とターニャを褒め称えた。対して同僚達は私に辛辣で「それ見たことか」と言わんばかりだった。

 どうやら私の味方は、ここには居ないらしい。

 

 

     ◇

 

 

 既にして時刻は正午となっていた為、私とターニャはカフェで昼食を摂る事にした。

 未だ制服の事に納得の行っていない私は、シュニッツェル(カツレツ)を切り分けつつそんなに変だろうかと改めてターニャに問うと、別に変という訳ではないとターニャは苦笑した。

 

「他国でも開襟の制服は広まっておりますし、その内帝国陸軍でも常勤服として採用されるやもしれませんよ?」

 

 ターニャの予言は終戦後本物になったが、伝統的な陸軍の制服が開襟になる事を想像すると、私はどうにも違和感を禁じ得なかったものである。空軍軍衣を頑なに拒む同僚達も、おそらくはこんな気持ちを拡大させているのだろう。

 そう考えれば彼らの気持ちも少しは分かり、洒落者であるよりも、もう少し落ち着いた装いを選択すべきだったかと昨日の私服を思い返したが、やはり年若い淑女と並ぶのならば、相方がドレスでもない限り、礼装とステッキは外すべきだろうという結論に至った。

 

 しかし、逢引だと言うのに軍服の話題を続けるのも如何なものか。華のない会話だと自嘲し、婚約者には楽しくもあるまいと、私は話題を切り替えようとして口を開いたが、ターニャは軍の繋がりから私の乗機を会話の種にしてきた。

 

「そういえば、ニコ様は乗機に撃墜数やマルタ十字を描いておりましたが、随分と控えめですね」

 

 あれを控えめと言うのか。派手だろう。誰がどう見ても華美に過ぎるだろうと喉から出かかったが、昨今では黒いチューリップやシャークヘッドのノーズアートを施すパイロットが出てきているので、私の機体は然程特徴のない物になってしまっていた。

 私自身としては目立たない方が良いと思うのだが、整備士達は大変不服そうで「新しいデザインを考えては?」とまで言われたものである。そういう時の私は「これが定着しているのだから良い」と返していた。

 しかし、これはあくまで雑談だ。試しに、ターニャはどんな機体が私に似合うと思うだろうかと問うと、彼女は晴れやかな顔で言った。

 

「いっそ真っ赤に塗っては如何です? マルタ十字は白塗りにしてしまえば、実に良く映えるかと」

 

 往来であったが為に呵々大笑を自制し、溢れそうになる笑いを噛み殺したが、あの合理性の権化とまで言われたフォン・デグレチャフ参謀中佐から、まさかこのような意見が出ようとは!

 赤! そう、鮮やかな赤! ターニャの口から出た余りに『粋』な提案にはプロシャ人なら笑わずにいられまい!

 

「君の父祖は、間違いなく生粋のプロシャ軍人だよ! プロシャ人の私が保証するとも!」

 

 戦場に在って身を飾り、勝利か死の何れかを求めるプロシャ魂を、ここまで感じさせようとは! ああ全く、彼女が私の妻になってくれる事はこれ以上ない喜びだ!

 

 ……とはいえ。

 

「フロイライン・ターニャ、その案は決して空軍に言ってはいけない。いや、誰の耳にも入れないようにして欲しい」

 

 私は捩れた腹筋を戻し、真顔になって要求した。もしこんな案を知れば、整備員と他のパイロットは一丸となって、私の機体を鮮やかな赤にしてくれる事だろう。

 真夜中だろうと目立ち、雪化粧の広がる冬のルーシーでは自殺願望でもあるのかと正気を疑う、赤い棺桶に乗せられてしまうこと請け合いだ。

 力及ばず斃れ果てる事は軍人ならば覚悟すべきだろうが、派手な棺桶が理由で死にたくはない。まして、私に婚約者を遺して逝く気は毛頭ないのだ。

 私の説明を受けたターニャは大いに頷くと、絶対に他言しないと誓ってくれたので胸を撫で下ろしたが、この約束は無意味になった。

 将来、あれ程華美な機体に乗る事を拒んだ私が、自分から機を赤に染めて飛ぶ事になるからだ。

 

 

     ◇

 

 

 昼食を終えれば午睡というのが一般的な帝国人の過ごし方だが、私もターニャも時間は有限であるし、眠くもないので帝都を散策した。

 帝国最大の都市にして世界有数の観光地だと言うのに、自国民である筈の私もターニャも仕事ばかりで碌に回った事がなかったから、私達にとっては酷く新鮮なものに映った。

 初代皇帝(カイザー)への追悼と功績を讃える為に建設された皇帝(カイザー)記念教会の夢のような壮麗さと荘厳さに圧倒され、小動物園では世界中の動物たちを観察し、無数の名作で満ち溢れる博物館島では、歴史情緒ある品々や絵画を鑑賞した。

 流石に全てをじっくりと堪能する事は不可能だったが、それでも私達にとってこの一日は生涯忘れ得ぬ思い出となり、戦後も休暇さえ有れば二人で回りきれなかった箇所を歩いて、この日のことを思い出したものである。

 

「戦時とは思えない時間でしたね」

「そうだな。二人揃ってサインを強請られねば、私も忘れてしまいそうだった」

 

 何しろ最多撃墜王と『白銀』の組み合わせだ。観光や休暇を楽しむ者達は軍服姿の私達に驚き、撮影か何かあるのだろうと距離を取っていたが、私達が純粋に逢引を楽しんでいるのだと知るや、皆祝福の声をかけるか、サインや握手を求めてきた。

 自分達の時間がなくなってしまうので全員の期待には応えられなかったが、それでも出来得る限りの要望には応えられたと思う。

 

「おしゃまな子女に、私が結婚したかったのに! と言われた時は困りましたがね」

 

 自分より年下の少女に嫉妬されるとは思わなかったとターニャは肩を竦めたが、私としてもあれは困った。淑女として扱い窘めても食い下がるし、かといってすぱりと断れば泣き出される。

 

「ご両親が連れ帰ってくれねば、今頃どうなっていたことやら」

「根負けしていたかもしれませんね」

 

 それだけはないと苦笑するターニャにはっきり告げる。私が愛しているのはターニャ・リッター・フォン・デグレチャフであり、彼女以外を妻にしたいとは思わない。

 

「私が、若くして亡くなったとしても? 戦死したとしてもですか?」

 

 縁起でもない事を口にする。確かにそうなれば、世継ぎの為に婚姻を迫られることもあるだろうが、そうなれば親族から養子を迎え入れれば良い。

 

「君以外を女性として愛する気はない」

 

 たとえこの先、どのような女性に巡り合おうとも。死が二人を分かとうと、永久の愛を誓い続ける。聖なる書にもある通り、愛とは滅びぬものなのだから。

 

「冥利に尽きるとはいえ、面映ゆいものです」

 

 じき、定めた刻限が来る。茜に染まる空より、赤らむターニャの頬に右手で触れ、左の手をとって、私はターニャに思いを告げる。

 

「覚えていないと思うが、ノルデンで君の手を取った時、君は神を否定された」

「正直、記憶にございません。ですが、確かに私は信心深いとは口が裂けても言えませんね」

 

 私を恥じますか? とターニャは問う。まさか。と私は一笑した。

 

「あの頃の君にとって、この世の全てに愛を感じられない世界だったと思う。だからこそ、私は君を愛で満たし続けたい」

 

 信仰より、希望より、愛こそが偉大だと聖なる書には記される。

 それは完全なるもの。忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、利を求めず、苛立たず、恨まず、不義でなく真実を喜ぶもの。

 全てを忍び、信じ、耐えるもの。この世で最も大いなるもの。

 主のように、全てを愛することは人の身の私には遠いだろう。だが、ターニャを愛し続けることは出来る。

 限りある命。限りある人生をターニャと満たそう。彼女に信仰が芽生えぬのだとしても、私はそれを否定しない。異なる宗教が世に満ちているように、高邁なる理想が一つでないように、人は自由な意思を持てる。

 それを否定して良いのは、その意思が他を苦しめてしまう時だけだ。

 信心を抱いて欲しいとは言わない。私に同調して欲しいのでもない。これは、私の決意表明だ。

 

「もう、満たされていますよ」

 

 握りしめた手を、小さな両手で包みながら、ターニャは自分の胸に持っていく。淑女の胸元に触れるのを躊躇って咄嗟に腕を引こうとしたが、ターニャは首を振って抵抗せぬよう言外に告げた。服の内、伝わる小さく硬い感触は、認識票ではなかった。

 軍学校時代から、ターニャがよく教会に顔を出していたことは知っている。安息日には、膝をついて祈っていたという話も仄聞していた。

 だが、私は彼女がどうして祈るようになったかを、この日まで知ることはなかった。

 

「笑ってください。私は貴方を利用していたと思いながら、同時に貴方に祈りました」

 

 始めは短く無事を。次には前より長くなり、聖句を覚えだしたのは、通って何度目だったかは定かではないという。

 

「私は、自分の気持ちに鈍かった。いえ、他人に対しても同じ事でしたが」

 

 病室で告白した通り、愛を知り変わった少女。ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフは、その変化の一幕を静かに明かす。

 

「ですが。今ならば、祈る意味が分かるのです」

 

 自分より巨大で、力ある見えざる者にひれ伏し、無為に崇める為ではない。或いは、自分自身が唐突に、天からの恵みや幸運で救われたいというのでもない。

 他者を愛し、慈しむ。どうかどうか、愛しいと感じる者達に祝福が。明日の安寧がありますようにと、天に縋るのでなく自分の想いを込めるのだ。

 私達人の子は、既に主の手を離れている。知恵の果実を齧り、楽園を離れた時点で、親を離れて自立の道を歩んでいる。だから、私達は天に坐す方に世に生を受けた事を、その手を離しながらも、見守られている事を感謝するだけで良い。

 主が全ての人に手を貸し、全てを満たしてくれるというなら、確かに地上は楽園であろう。嘆きも悲劇も苦痛もなく、凪のような穏やかな日々が続くだろう。

 しかし。あやされる幼子のように全てを与えられ続けるなら、私達の生には一体何の意味があるだろう?

 善行も、愛も、主は人の手に委ねられた。それを為す喜びを確かに与えて下さったからこそ、この世は不完全であっても、連綿と悲劇や争いが続こうと、確かに美しいものがある。

 

“今の、私の目の前にも”

 

「明日から離れてしまうとしても、私は祈り続けます。ニコ様を、家族を。祖国の安寧を、私は祈り続けます」

 

 それがターニャの信仰ならば、私はそれを尊重しよう。祈りと願いの形など千差万別。他者と異なる形であったとしても、それが人を傷つけないならば、確かな信仰の形である事は揺るぎない。

 

「私も、何時も君を思い祈る。これまでも、そうであったように満たされているという君に、それ以上の未来を届けようと思う」

 

 響く鐘の音と共に、愛を誓い合う未来を。手を繋ぎ、明日に進める未来を贈ろう。

 全てを伝えずとも、私の意思をターニャは理解していた。恥じらいながらも笑顔を浮かべ、胸元に置いた手を離して温もりを忘れぬようにと抱きついてきた。

 

「暫しの別れですが、悲しくはありません」

「私もだ。寂しくはあるがね」

 

 信じている。私はターニャを。ターニャは私を。必ず生きて、再会すると信じているから。離れがたくとも、決して悲しいとは思わない。

 

「ですが、一つだけ不安があります」

 

 なんだろうか? 胸裏に過る不安が有るなら、吐き出して欲しいと私は告げて。

 

「浮気だけは、ならさぬように」

 

 私は大笑し、強く強く抱きしめた。

 

「言っただろう? 君以外、女性として愛さないと」

「英雄、色を好むという言葉もございましょう?」

「要らんよ。少なくとも、私には一人で十分だ」

 

 安心したと微笑んで、ターニャはゆっくりと抱擁を解く。数歩を離れ、間隔を開ければ彼女は踵を鳴らして軍人の顔となっていた。

 

「ご武運を、大佐殿」

 

 軍帽を脱ぎ、束ねた髪を解いての礼法は、後方でさえそうお目にかかれるようなものでなく。一見すれば杓子定規とも取れるそれは、別れを惜しむ彼女なりの儀式なのだろう。閲兵式に臨む士官のようなターニャの敬礼に、私もまた作法通りの答礼で返すこととした。

 

「貴官もな、デグレチャフ中佐。互い、ヴァルハラには大いに遅参させて頂くとしよう」

 

 諧謔混じりの笑みをこぼし、私達は軍人としての明日を歩む。

 先に待つ、最大の戦いに赴く為に。

 




【主人公の機体について】

 デグ様「赤く塗らないんですか?(リヒトホーフェン的な意味で)」
 主人公「めっちゃ分かってんなこいつ!?(プロシャ魂的な意味で)」

【デグ様の祈りを受けて】

 存在X「なんか毒とか殺意電波が無くなってピュアな祈りが届くのに信仰パゥワーにならないんですけど!? どういう事なんこれ!?」
 デグ様「神の愛とか、敵味方関係なく皆平等に愛せって誰も愛してない無関心と同じ。つまりは矛盾の塊だからでしょうな。やはりビジネスモデルに構造的欠陥が見られるのでは?(分かってて祈ってた奴)」
 主人公「敵に敬意を抱く事はあっても愛まではキツイ。終戦後に和解しても、その時点では愛すべき隣人であって敵じゃないし」

 聖書的に言えば愛する人を愛したからって普通のこと。あんたらが普段嫌ってる徴税人だって同じことやってんだから徳にはなんねーよ? もっと敵とか憎いやつも愛しなさい。幼子のように見て感じなさい。差別なき平等こそジャスティスって理屈だからね。
 一般人にはハードル高いっすマジで。

※ただし、この理屈で信仰パワーにならないのは、この作品だけのオリ設定です。
 原作的には世界が戦争塗れで、皆神様に祈りまくってるから信仰パワー爆上がりでメシウマとか抜かしてやがるし、Web版だとクソ袋さんみたいなのでもOKな点から言っても、かなり緩そうです。ていうかマジタチ悪いな存在X!

補足説明

【戦車兵の制服デザインについて】
 戦車兵の制服は国家鷲章がないだけでWW2ドイツのパンツァーヤッケまんまです。

【デグ様、本当はどんな理由で祈ってたんですか?】
 当然「存在Xブチ殺すべし慈悲はない」です。
 だってのに意中のお相手の前では息をするように嘘を吐くデグ様。
 主人公はまんまと引っかかりましたが、ガチ告白という本音も入ってたので見抜くのは無理だったようです。あと、胸元にお手々当ててるので冷静な判断が出来てなかったのも騙された要因。どんだけピュアで初心だよ主人公もう二七やぞ。

 実際にデグ様が主人公の為に祈るようになったのは、デグ様が参謀総長相手にガーランド閣下ごっこやってからです。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【建物】
 カイザーヴィルヘルム記念教会→皇帝(カイザー)記念教会


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54 協商連合へ-冬将軍の寝返り

※2022/11/28誤字修正。
 ひだりみぎさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 ターニャとの逢引から二日後、退院から一週間が経過したことで、ようやく私は軍務に就くことを許され、空軍総司令部勤務を言い渡された。被撃墜から既にしてひと月近く経過しており、私はその間の戦線の状況や各軍の方針等を知らされたが、何よりも驚いたのは損耗比だ。

 

「事実なのか?」

「ええ。正しく大戦果としか言いようがありません。参謀総長閣下は長期戦を唱えておりましたが、ルーシーに侵攻するより先に敵兵が底をつくやもしれませんな」

 

 一:一七。それが帝国とルーシー連邦の損耗比であり、誇張でも何でもないという。私は帝国軍が化学兵器を使ったか。或いは敵に異常事態が発生したのかと思ったが、化学兵器の類は国際社会からの非難対策として、敵が使用するまで待つとの事であったし、敵軍の動きに変化はなかったそうだ。

 複数戦線を抱えておらず、かつ泥濘に阻まれない十全な環境で機動戦を展開出来ていること。制空権の完全確立から、帝国軍の対地攻撃を阻むものが敵の対空地上兵器しかなかったとは言え、オストランドの戦いは戦史史上に残される大勝利の一つと言って良い。

 古プロシャ大王のロスバッハの戦いに迫らんとする赫々たる勝利は全軍の士気を高め、敵を挫くにはこれ以上ないものだろう。

 オストランドはこの後の東部戦線を支えた綺羅星の如く輝く軍人たちがその足がかりとして勇名を馳せるか、或いは既にして英雄たる威光を放っている軍人たちが敵から畏怖を、味方から崇敬を集め、勲章と異名を授かる場でもあった。

 ロメール将軍の『東地の狐(オステンフクス)』などは、その最たるものだろう。

 

 ただ、熱に浮かれながら報告する参謀大尉に、私は釘を刺すことを忘れない。

 

「兜の緒を緩めてくれるなよ? 連邦領は侵攻すればするほど、扇状に土地を広げる虎穴だ。戦線の拡大が避けられない以上、長期戦を見越されている参謀総長閣下は慧眼だよ」

 

 加え、連邦領は様々な湖沼が横たわり、森林が大部分を占める天然の悪路ときている。高度に機械化された帝国軍にとって、これ以上の妨害路は存在しない上、国境築城地帯の『ヨセフライン』も存在する以上、我々は否が応でも持久戦を強いられることだろう。

 

 私の言に、分かっておりますと参謀大尉は苦笑交じりに頷いた。今年の方針としては私が前線を離れた時と変わらず、敵の出血を狙いつつ冬将軍の到来と同時に攻勢が弱まるであろう敵軍を押し返し、本国仕様冬季装備での侵攻可能な戦域まで進出。

 その地点までの補給網を確立させた上で、来年に向けての侵攻準備を整える予定だ。

 

「ダキア方面はどうなっている?」

「協商連合で使用した手と、同じものを使うようです」

「オース・フィヨルドでやったあれか」

 

 前線に敵を釘付けにしつつ、後方を襲撃。兵站を破壊した上での包囲殲滅が北方戦線での主目的であったが、今回は違う。ダキア方面における最優先事項は油田の奪還であり、敵から資源を奪いつつこちらが確保することにある。

 

「本作戦にはターボプロップに換装したKa202-1ハーケルを使用します。師団規模の魔導師達が、さぞ良い仕事をしてくれることでしょう」

「あのジェットエンジンか」

 

 私はアリアンツに搭載されている新型エンジンを想像してほくそ笑んだ。エルマーの開発した輸送機は、本体よりエンジンこそが本命であったらしく、その目的は既存機の換装だった。

 レシプロでは不可能な高馬力を実現するジェットエンジンは、単純な燃費では航空燃料よりかさむものの高オクタン価である必要がなく、他のジェットエンジンと比べればターボプロップは遥かに低燃費で、二機搭載型でも従来の四機搭載機と同等の水準で航行可能。

 航続距離も従来のそれとは桁違いに伸び、速度も六五~九七ノットも上昇するのだから、正しく良いこと尽くめである。

 いっそのこと戦闘機も換装をという意見は、換装スペックを見た誰もから出されたが、流石にそこまでは無理だった。

 ターボプロップエンジンは確かに優秀だが、短時間での推力変化がエンジンに負荷をかける為現実的でなく、戦闘機や急降下が前提の攻撃機は、従来通りレシプロエンジンが効率的だとエルマーは言ってきたのだ。

 また、ターボプロップはエンジンとプロペラ双方の音が大きいことから偵察機にも使用出来ない。このエンジンが効力を発揮するのは、爆撃機と輸送機のみということになるが、それでも十分な性能だ。

 

「護衛機は、やはりあれを使うのか?」

 

 数は揃っているのかと問う私に、参謀大尉は「最低限ですが」と首肯した。

 ターボプロップは確かに夢のようなエンジンだが、その高出力故、護衛機が追いつけないという逆転現象が生じてしまった。

 Ka202-1ハーケルは、この時代にあって『最速爆撃機(シュネルストボンバー)』という名誉ある尊称を賜ったが、それが悪い方向に出てしまったのである。

この問題はターボプロップの開発段階からエルマーは理解していたようで、並行してヴュルガーに変わる新型戦闘機、Jä002タンクを開発していたのだ。

 

 最高速度は実に四〇五ノット。世界最速のレシプロ機として後年語られたこの機体は、同時に世界最強のレシプロ機とも持て囃されたが、それは一九二七年以降の改修型だ。

 この段階のタンクは出力増加装置やエンジンに難があり、高高度なら安定するが、中・低高度ではヴュルガーに軍配が上がるため、あくまで護衛機としての活動が前提であり、その名が示す『空の戦車』には、現時点では遠かった。

 しかし、本分たる護衛機としては問題なく「ならば安心だ」と私は胸をなで下ろした。

 

「ところで、私はオストランドとダキアのどちらに向かうか決定しているかね?」

 

 出来ればオストランドで暴れたいのだがという本音は伏せつつ、それとなく尋ねてみたが、参謀大尉は私の本音を見透かしたようにため息を吐き、どちらでもないと首を振った。

 

「大佐殿は、協商連合に派遣される予定となっております」

「冗談が下手だな。大尉」

 

 もう終戦を迎えたところに用などあるまい。一輌でも多くの戦闘車輌と、一機でも多くの航空機を撃墜しなければならないという現状にあって、何故そのようなところに行かねばならぬのかと鼻白んだが、これは必要なことなのだという。

 

「我が軍が外国人義勇兵を募集している事はご承知のことと思われますが、現状、最も志願者が多いのはスオマ人です」

「成程。理解した」

 

 したくはなかったがな、と内心息を吐く。スオマの独立回復と国家主権復活の為、帝国が力となるという事を証明したいのだろう。

 スオマの復活は我々にとっても叶えてやりたいと思うし、何よりも人間を動かしたければ、モデルケースを用意して実益を示すのが確実なのである。

 一国でも併合ないし傀儡化された国家が独立したと知れば、連邦共産党に不満を持つパルチザンは、次々と帝国に付いてくれる事だろう。

 そのための最短ルートを考えるなら、成程、レガドニア協商連合から渡る方が早いといえば早い。問題は、その協商連合との交渉だ。

 

「通行に留まらず進駐するとなれば、協商連合は良い顔をしないだろうな」

 

 それどころか、我々に対してゲリラ活動を展開してくることも十分あり得る。帝国が倒れれば次に喰われるのは自分達なのだと冷静に判断出来るレガドニア人は居るだろうが、そうした合理的判断よりも、自分達を負かした敵国が再びやってくるという事そのものに忌避感と拒否反応を抱く者達も多い筈だ。

 

「背中から刺されるぐらいなら、撃墜される方がマシだな」

「縁起でもないことを仰らないで下さい。それに大佐殿、そう悲観したものでもありませんよ? 協商連合は我々に借りがあるでしょう?」

「住民を避難させた事かね? あれは私達の道義の問題だ。連邦と取引した事も事実である以上、恩にはならんよ」

「確かに。ですが、我々の取引がなければ勝手に連邦が攻めてきたという事を理解するだけの頭を協商連合政府は持っています。我々が倒れれば、終わるという事も」

 

 進駐許可は既に得ている。加え、食料や銃器、冬季装備といった軍需品も賄うというのだ。

 

「気持ちが悪いな。条件は賠償金の削減か? それとも国土か?」

「両方です。名目上購入ということで、援助物資の分は賠償金から差し引いて頂きたいと。その上で、連邦に奪われた土地も取り戻して欲しいそうです」

 

 高過ぎる。論外だ。そう言いたいところであるが、帝国軍は冬季戦のノウハウや物資が不足しているのも事実。借りれる手は、猫の手だろうと欲しい。

 

「軍需物資は余剰品だろう? 食料とて、まともに食えるかも分からん。割引は利くのかね?」

「交渉は抜かりなく。余剰品に関しては、ほぼ原価での買取ですよ。ですが、食料やライセンス生産品に関しては賠償金支払いの為に活用したいと言ってきました」

 

 戦争特需というやつか。こちらとしてはどのような形であれ、経済が回って賠償金の支払いが滞らないようにしてくれるなら、言うことはないが……。

 

「念の為、将校の食事は安全対策を徹底させてくれ。銃器も点検を忘れるなと陸軍に伝えて欲しい」

「各軍も重々承知しております。それから、協商連合国から更に提案が。冬季戦に精通した将校は、どれだけの価値がありますか? と売り込みが入っております」

「本当に精通しているなら、助かるがね」

 

 優秀な人間と、誇り高い人間は先の戦争で多くを失っているだろう。余り期待すべきでないと承知しているが、最低限の知識と経験はあって欲しいものである。

 何より、志願しているスオマ人にも士官経験者はいる筈なのだから、それほどの値は帝国も付けまい。

 

「協商連合軍の将校とやらが、促成教育の新品少尉の集まりでないことを祈るとしよう」

 

 

     ◇

 

 

 しかし、私の予想に反して協商連合から派遣された将校は下士官上がりの現場のベテラン達であり、彼らは極寒地獄たる冬季戦が如何に過酷で厄介か。どれだけの準備が必要で、私達が冬というものにいかに無知であったかを教授した。

 

「温暖な気候で温々とされている帝国人にゃ、あの冷たさは分かりませんよ。鉄鋲の長靴なんぞ履いとるのが良い証拠です。熱が全部逃げちまいますよ。

 それから、長靴がぴったりのサイズなのも頂けませんな。ワンサイズ大きいのを履けばその分布を巻けますし、底に新聞紙を詰めとけば凍傷にもなりづらいです。ガチガチに足が凍っちまったら、切り落とすしかありませんぜ?」

 

 少尉の階級章をつけた四〇代ほどの男は、こうして笑いながら次々と帝国軍の問題を指摘したという。

 この少尉は優秀な反面軍規違反も多く、また右手の人差し指と右目を失ったが為に前線を離されて予備役に回され、そのまま終戦を迎えたが、何の因果か経験を買われて進級し、こうして帝国に『売り飛ばされた』と笑っていたそうだ。

 

「私からすりゃ、馬鹿やって当然のように死にかけた祖国にゃ同情なんざ出来ませんが、それでも祖国は祖国ですんでね。身内は連邦に土地を取られて合州国に逃げてますし、仕送り分の給料が貰えるってんなら、文句はありゃしません」

 

 この少尉は好例であったのだろうと読者諸氏は思われるかもしれないが、そんな事はない。協商連合は取引相手としては誠実であったようで、彼らは確かに帝国の利と、兵士の生存率向上に寄与してくれた。

 私達が協商連合に求めていた、アドバイザーとしての役目をしっかりと果たしてくれたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 一九二六年は、帝国軍にとっても私にとっても準備の年となった。

 レガドニア協商連合に出向した私は、来年春に行われる予定の協商連合との軍事同盟締結と、それに伴う協商連合による連邦への宣戦布告の準備に際しての仲介役となっていた。

 この時点での協商連合は表向き中立国であり、軍需物資の購入も表向き糧食や被服といった武器以外に留めているとしていたが、これは決して嘘ではない。

 

 帝国には武器弾薬の類は本当に送られていないし、購入もしていない。あくまでライセンス生産という形で、自国内で製造した武器や部品を協商連合軍に配備していたからだ。

 協商連合から派遣された軍人も全て義勇兵として登録され、協商連合軍の軍籍からは削除済みである。こうしたルールの間隙を縫って進むのは卑怯と思われるだろうが、戦争というものは基本的にそうなってしまうものなのだ。

 

 私は空軍の代表として派遣されたが、同じく陸や海からも同様に将校が派遣され、帝国軍と協商連合軍との連携を協議した。

 帝国軍との戦争で死に体となっていただけあって、到底協商連合軍は戦力として望み得る規模ではなかったが、それでも訓練を受けた兵は兵であるし、海軍に関しては辛うじて艦艇も残っている。

 北洋を越え、レガドニア海や北極圏から海軍の艦砲支援による地上軍の援護時期を話し合う海軍。

 帝国陸軍派遣と動員時期の調整と、防衛戦線の構築を協議する陸軍。

 そして私達空軍は、レガドニア空軍基地への航空機移送と地上支援を話し合ったものである。

 

 我々が死ねば道連れになるのだから、協商連合三軍も必死であるし、我々とて敗北すれば全てを失う以上は真剣にもなる。

 私は空軍総司令部とこまめに連絡を取りつつ、レガドニア空軍の育成にも力を注いだ。協商連合に来るまでに帝国軍の軍服を脱いで私服となった私は、現地で協商連合軍の階級章を与えられ、偽名を名乗って顧問としても活動する事になったのだ。

 当然一朝一夕で技量が上がる筈もなし。来年の春まで育成出来ると言っても、短期間である以上限度はある。

 私の他にも空軍から教官として出向した者は数名居たし、航空魔導師も帝国から軍事顧問が派遣され、協商連合の未熟な新兵をしごいて使い物になるようにしていた。

 

 早々に撃墜されぬよう、一先ずは生存率を上げることに念頭を置こう。そう考えた私は、過去にそうだったように敬礼からしてなってない連中を兵営に突っ込んで心身共にしごき上げ、そこから戦闘機に乗せて更にしごき上げ、座学で惰眠を貪ろうとする愚か者共を蹴り起こす。方位測定や航法さえ著しく錬度の低い雑魚共を、兎角一日でも長く生き残れるよう鍛え抜いた。

 厳しいとは言うなかれ。若りし頃の教官時代に比べれば、今の私など可愛く優しいもので、東方(オリエント)で言う菩薩とやらにさえ近しいと信じて疑わない。

 

 派遣された帝国空軍教官や現地士官は顔を青くしていたが、教え子の体力は全員把握しているし、休息は十分に取らせている。肉体と精神は最善に。しかして一日の終わりには全てを出し切って死に体にさせてこそ磨かれるものなのである。

 勿論、私自身の練磨も決して怠らない。しごき上げる立場にある以上、その苦痛は顧問兼教官たる私も共有すべきであり、新兵でもないのだから彼ら以上に肉体を酷使して知識を蓄え、かつ駐在武官としての責務も果たしてこそ職務を全うしていると胸を張れる。

 

 よって、派遣された帝国空軍教官達にも容赦はしない。彼らにも長く生きて貰い、次代を育てて貰わねばならない以上、また、皆の模範にもなって貰う為にも将校の勤めを果たして貰うのだ。

 今から汗を流せば、実戦で流れる血は確実に減るのだから。

 

 

     ◇

 

 

 斯様な日々を過ごす私であったが、当然東部戦線とダキア大公国の動向にも注意を払っていた。

 ダキアは九月には石油工業地帯を制圧、奪還し、南東方面に展開された連邦軍主力をお家芸の機動戦と包囲殲滅で各個撃破。

 一〇月初旬にはダキアから連邦軍が事実上駆逐されたものの、すぐさま態勢を立て直して侵攻してくるだろうと戦線整理を徹底していたが、双方にとって予期せぬ事態が起きた。

 

 一〇月二〇日。例年より早い降雪が連邦の大地を覆ったのである。

 本来帝国にとって最大の敵となる筈だった冬将軍までもが、我々の側に寝返ったのだ。

 

「母なる大地にまで見捨てられるとはな。共産党の連中、いよいよ暴虐のツケが回ってきたらしい」

 

 小モルトーケ参謀総長は異常気象に皮肉たっぷりの意地悪い笑みを浮かべ、この機を逃す手はないと増援が滞っているダキア方面連邦軍を徹底排除して、ダキアの大地をダキア人に取り戻してみせた。

 オストランドでも同様に冬将軍によって連邦の補給・輸送路が崩壊した結果、兵站が麻痺した侵攻軍は攻勢限界に達し、多数の部隊が白旗を掲げて降服した。

 

「最後の一兵まで戦え!」

 

 そう頻りに叫んでは降伏を進言した連邦軍将校を撃ち殺した政治将校も、最後には自殺するか、或いは連邦軍兵士達に拘束されて帝国軍に突き出される事となる。

 まだ始まったばかりの戦い。始まりの年は、我々にとって侵攻を受けた不運の年であると共に、天運に満ちた幸運の年ともなった。

 




補足説明

【ロスバッハの地名がそのままな件について】
 ロスバッハは同志カルロゼン先生がシナリオを手がけた、『銃魔のレザネーション』にも、もじらず登場したので、そのままで行かせて頂きました。
 アニメのカンネーの戦いとか、原作の方舟作戦の『ブレスト』軍港とか『ポチョムキン』部隊とかもそのままでしたし。全部は変えなくてもいいかなと思った次第。

【主人公のレガドニア製品に対しての不信について】
 主人公のレガドニア製品に対しての不信は、我々の世界でも朝鮮戦争で日本が缶詰に石詰めたのを米軍に送ってたりした結果、日本製品の不信に繋がったりもしたので戦勝国側としては割かしベターな反応だったりします。
 そりゃあ、負かした国が戦後すぐに協力しますって言われたら……ねぇ?(史実日本を見つつ)

【授業の時間に居眠りしかけてた協商連合軍人について】
 主人公とか言う鬼教官の座学で寝るとか命知らずかよと思われるでしょうが、実際のところは、ストレスで意識が朦朧としていただけで、サボタージュではなかったりします。
 現代軍であれば、こうした軍人は一旦廊下に出して、座らせてリラックスさせた後にブドウ糖(チューブのジェルタイプ)なんかを摂取させて落ち着かせるのですが、主人公の時代からしたら、唯のサボりにしか見られませんでした(地獄かよ)。
 デグ様なら、どんなに訓練で過酷でも、アニメの雪山でやったように現代式蘇生術とかしてくれるのですが、主人公は(当たり前ですが)そういう知識がないので、唯々スパルタという……。
 やっぱり同じスパルタでも、幼女に足蹴にされるほうがずっと良いよね!
 ていうか、デグ様ってこの時代の訓練だと無茶はしても道理を弁えてくれるから十分天使なんだよなぁ……。

【赤軍政治将校の督戦に関して】
 史実で政治将校さんが後ろで銃ぶっぱなしたり戦車で狙ったりするのは、戦局が悪化してからなのですが、本作品では終始帝国側が優勢なのと、連邦軍が侵攻側ということで、兵の士気が低く脱走が目立っているので、開戦初期から政治将校が背後に居るという設定であります。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【航空機】
 フォッケウルフTa152→Jä002タンク
【防衛線】
 スターリンライン→ヨセフライン


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55 余計な仕事-捕虜の保護

※2020/3/8誤字修正。
 佐藤東沙さま、バレッタさま、ご報告ありがとうございます!


 冬将軍の到来と、それに伴う立て続けの戦勝はしかし、私にとっても、帝国にとっても悩みの種となった。

 

“賛嘆する他ない戦果だが、一体何処にこれだけの捕虜を食わせる食料があるというのか”

 

 私は大包囲戦の結果、一〇〇万以上もの捕虜を得たという報告を聞いて、本国の人間のように頭を抱えた。

 収容所は捕虜で溢れ返る。帝国中の刑務所に詰めても到底足りず、かといって、降伏した相手に投降の権利を与え、捕虜としたのは帝国軍である以上、責任というものは何処までも付き纏う。たとえそれが国際法の外にある軍隊相手であっても、諸外国の目がある以上は当然だ。

 収容所から溢れた捕虜達については、鉄条網で囲った柵の内側に野戦用のテントを立て、当座を凌いで貰う他ないが、いずれは屋根のある場所で寝かさねばならない。

 

 今後の捕虜の扱いに関しては、義勇軍に加わる者は一定の教育を受けて前線に回されるだろう。線路敷設や工場での単純労働。激戦地故に人的資本に多大な被害を被ったレランデル州やダキア復興の労働者も必要となる。

 しかし、人手は欲しくとも割り振りだけで相当な労力を要するし、その間の食料だけでも帝国を圧迫するには十分だ。捕虜と共に付いてきた軍需物資は確かにありがたいが、それを差し引いても歓迎出来ない事態である事は間違いなかった。

 

 いっそのこと徹底抗戦でもしてくれた方が楽だったと誰もが思いつつも、我々は蛮族ではない以上、文明人としてヴォルムス陸戦条約に基づき対応せねばならない。

 そんな中、「いっそ、彼らに国籍を与えてやってはどうか」という案が政府高官から提示された。

 当然反発は激しく、誰も彼も「帝国人になどできるものか」「民族主義者共が黙ってはいまい」と反駁したが、案を提示した高官は笑いながらこう述べたと言う。

 

「字句通りに受け取らずとも良いでしょう? 私は、表向きそうして欲しいというだけに過ぎません」

 

 そして、国籍は帝国ではなく協商連合を与えれば良いとも言った。人口の割に食料は豊富であるし、労働者も欲しい協商連合にとって、理屈の上では打って付けとも言える。

 問題は、帝国人以上に憎まれている連邦軍を、レガドニア人が受け入れるかどうかだが、所詮案は案に過ぎない。断られればそれまでで、その分はレランデル州の復興支援にでも従事して貰えば良いと高官は笑った。

 提示者からして、おそらくは通るまいという駄目元での意見具申であったにも関わらず、帝国は協商連合に提案し、彼らはそれを受け入れた。

 表向きは労働者不足による要員の確保の為、亡命した国民に戻ってきて欲しいと告知を出し、それに呼応して本土に足を運んだルーシー系レガドニア人という設定だ。

 

 正直、非常に苦しい設定とは思うのだが、現実に何人かのレガドニア人は戻ってきたし、民間船に乗って私服で訪れてしまえば、それが捕虜かどうかは誰の目からも判別は不可能だ。

 こうして一一月から一二月にかけ、捕虜の多くは協商連合軍の捕虜収容所に回されて──国籍というのは、ものの例えなのだから当然だ──労役に就く事で衣食住の権利を得た。

 素行優良な者は稼働率の低い民間工場にも回され、生活水準も向上したが、これは他の捕虜に対してのモデルケースを示すためだ。

 真面目に働けば対価も大きいというのは当然の理屈で、然るべき労働は当然報われねばならない。

 勤務態度次第では嗜好品が手に入るというだけでも、モチベーションの向上に繋がるのだから悪い事ではないだろう。

 暖かいストーブがあり、寒さに凍えもしなければ、一日一掴みの乾燥トウモロコシと水だけの従軍生活とは雲泥の差と言って良い環境にありつけた捕虜たちは、多くが捕虜であり続けることを望み、熱心に労働に励む事になる。

 

 

     ◇

 

 

「社会主義国より社会主義的な労働生活に捕虜が勤しんでいるというのは、皮肉だな」

 

 虜囚の方が良い環境というのは笑えん話だと息を吐く私に、シャノヴスキー参謀少佐も同感ですと応えた。シャノヴスキー参謀少佐は私が協商連合に派遣されてすぐ副官として寄越され、その階級に相応しい仕事ぶりを発揮してくれたので、私としても大変重宝していた。

 

「それで? 何やら顔色が悪いが、厄介事でもあったか?」

「正直、ご報告した結果、大佐殿の逆鱗に触れる事を覚悟しております」

「貴官に責がある訳ではないのだろう? 訓練中のレガドニア空軍に問題が起きたのか? それとも、捕虜の脱走や現地民とのトラブルか?」

 

 前者ならば直ちに然るべき対応を取るし、後者もまた然りだ。

 私は憎き赤軍であったとしても、投降し捕虜となった以上は憎悪より軍規を優先する。

 

 被撃墜からの逃走中、戦友達の惨たらしい死を目の当たりにした私にしてみれば、他の戦友達同様に蟠りはあるし、敵の蛮行や理不尽を許している訳でもない。全てを水に流すには、連邦軍は余りに残忍に過ぎた。

 しかし、個人としての好悪がどうあろうとも、報復行為は許されない。これは最高統帥府の決定であり、全軍に徹底させていることだ。敵の降伏を受け入れたのであれば、その時点で彼ら捕虜と私達の戦争は終わっている。

 我々は帝国軍人として、どのような感情を抱いていたとしても、捕虜には慈悲と赦しの心を持って接しなければならないのだ。

 そのように心がけていたから、私は捕虜を虐待などしないし、自分がして欲しい事を捕虜にするよう徹底していたが、恩を仇で返すとなれば罰も当然用意する。

 従うべきが帝国軍規にある以上、捕虜の行動如何によっては銃殺も視野に入れねばならないが、その予想は外れらしい。

 

「参謀少佐の顔つきを見るに、どれも違うようだ。本国から悪い報せでも届いたか?」

「はい。大変悪い報せであります」

 

 シャノヴスキー参謀少佐は慎重に、地雷を撤去するように応えた。

 

「政治将校の保護を、キッテル大佐殿に一任したいと」

「困ったな。全く要領が掴めん。シャノヴスキー少佐、何故本国の収容所でなく協商連合国の、それも私の下に捕虜を寄越すのかね? それに、捕虜に政治将校が加わる程度では悪い報せでもなかろう?」

 

 確かに私のルーシー語は現地人と変わらぬ程堪能であるし、発音や語句も旧体制派の宮廷人のそれである。しかし、言語に堪能であるのは幾らでも帝国に居るし、ルーシー系も多い。

 目の前のシャノヴスキー参謀少佐とて、連邦から亡命してきた元ルーシー人なのだから。

 

「ああ。もしや私は唯の口実という事か? シャノヴスキー少佐の縁者か何かであったとか?」

 

 それならば得心が行くと私は手を打った。上官を利用するのは頂けないが、知己の者や縁者に捕虜生活を送らせたくないというのは人情として分かる。

 政治将校が身内というのも、有り得ない話ではない。党への忠誠を示すことで、親族や自身の身を守る必要があったか、何かしらの事情を抱えていても何ら不思議ではないのだ。

 実際、投降した捕虜には共産党員も多く居たそうだが、大多数の志願理由が『党員でなければ家族に戦死報告が届かない』という世知辛いものだったという報告も受けている。

 

 大方、ここなら私が顔を利かせて本国より良い生活をさせてやれるとシャノヴスキー参謀少佐が考えたのだろうと私は思ったが、それも違うらしい。

 

「私の縁者に、政治将校になるような不届き者は居りませんよ。党の犬(チェキスト)に縁者を殺された経験ならありますがね」

 

 後から逃げてきた親族から聞いたことで、連中には憎悪しかないと吐き捨てたシャノヴスキー参謀少佐に、悪かったと私は謝罪した。

 

「なら、もう私にはお手上げだ。勿体ぶらず、理由を教えてくれないだろうか?」

「大佐殿。件の政治将校は、女性士官であります」

「それが、一任という名目の保護理由かね?」

 

 確かに男女同権を謳う我が国と合州国を除けば、連邦の他に女性が武官を務める国はない。である以上、当然女性専用の捕虜収容所など帝国を含め世界のどの国家にも存在しないが、だとしても収容所には将校待遇の個室はあるのだから問題にはならないだろう。

 政治将校を憎む捕虜達の、暴行や陵辱を防ぐ方法は幾らでもある筈だ。

 

「大佐殿。大佐殿は男性であり、軍の英雄でもあります。その、ですので……」

 

 それで察せぬ程私も阿呆ではない。阿呆ではないが、許し難かった。いや、このような事をしでかした者が度し難かったと言っても良い。

 要するに、何処の誰とも知れぬ愚か者が、私のご機嫌取りの為に女性を充てがったと、そういう事なのだ。

 

「誰が決定したか、直ちに調べ上げろ。銃殺に処す。政治将校は責任を持って本国に護送するが、二度とこのような過ちを犯さぬよう徹底させるぞ」

 

 何たる侮辱、何たる恥であろう事か! 軍人たるべき義務観念以前の、騎士道の精神を尊び、手弱女を守るという帝国男児としての最低限の倫理すら持てぬ輩が我が軍にいようとは、嘆かわしい限りである!

 私はこのような帝国軍人の精神に違背した人間を断固として許す気になれず、この手で撃ち殺してくれると嚇怒の気炎を上げた。

 

「その、今回の捕虜の移送につきましては、空軍総司令官閣下直々に連絡を受けておりまして」

 

 私は即座に卓上電話を回した。当然繋がれたのは空軍総司令部である。

 

「キッテル参謀大佐だ。エップ空軍総司令閣下に繋いでくれ。直ちにだ。最優先で確認しておきたいことがある」

 

 みしみしと音を立てる程に受話器を握り、息を整えて待った。一分と経たぬ間に、フォン・エップ上級大将は出られた。

 

「私だ。言いたい事は分かっているが、貴官のそれは早とちりだと告げておく。その上で、冷静になって私の話を聞き給え」

「はい、閣下」

 

 神妙に頷きながら、私はフォン・エップ上級大将の説明に傾注した。上級大将が仰るには、政治将校というものは連邦軍将兵に恐れられつつも憎悪されており、ましてや女性士官ともなれば、どのような目に遭うかは想像に難くなかったという。

 

「貴官の下に送られた捕虜は、下衆な政治将校と異なり、非常に真っ当な部類だったと原隊将校は証言していた。私も報告を受けたが、驚いたよ。原隊には降伏するよう指示した上で、当人は自裁しようとしたというのだからな」

 

 私も耳にして、連邦のプロパガンダ映画か何かかと疑った。

 私がこれまで報告を受けた連邦軍捕虜の証言によれば、政治将校というのは度し難く、どれだけ無謀であろうと降伏は許可せず、決して部隊を後退させぬよう背後から味方部隊を機銃掃射したりと、やりたい放題の連中として知らされていたからだ。

 そうではない真っ当な政治将校ならば、安全の為には原隊と同じ収容所に入れるべきなのだろうが、蜂起防止の為にも部隊は解散させた上で散らす必要がある。

 

 当然、見知らぬ捕虜達と同じ収容所に件の政治将校が入れば、当人がどれだけ高潔であろうと、政治将校という役職故に被害に遭うだろう。

 ルーシー帝国での革命騒ぎの折、まともな貴族も貴族であったが為に処刑されたように。或いは歌手や劇作家などが『労働者的でない職業』という理由で処刑されたようにだ。

 

「しかしながら、収容所なり刑務所なり、個室に拘禁すれば解決する事です。何故私の下に?」

「恥ずかしい限りだが、収容所はモラルが宜しくないのだよ。私も実情を知って愕然としたがね。刑務所でも、服役中の囚人女性に対して環境改善を出汁に何かと迫る看守もいれば、性的暴行が行われるケースも多い。女性看守に任せても、買収されればそれまでだ。公人としても私人としても、知ってしまった以上見て見ぬ振りは出来まい?」

 

 紛うことなき帝国の恥部だが、同時代の他国の収容所や刑務所でも似たような有様ではあった。

 特に、終戦後の帝国軍女性武官が、共和国や連合王国に投降した直後や捕虜時代に辱めを受けたと裁判に出るケースが多かったのは、被害者女性の多くが立証困難*1とされて泣き寝入りした事も含め、今日でもご存じの者は多い事と思う(◆1)

 邪な男共の欲望のはけ口にされ、癒えぬ傷を負った女性の姿を知る身としては、フォン・エップ上級大将の言い分には、反駁し辛いものがあった。とはいえ、だ。

 

「捕虜への措置としては、如何なものかと疑義を呈せざるを得ません。収容所が問題だと言うのであれば、本国の精神病棟に拘禁しては駄目なのですか?」

「現状、女性捕虜は真っ当な政治将校と一人だが、知っての通り連邦軍にも女性武官は存在する。後々女性捕虜全員を精神病棟に送る訳には行かんし、捕虜ごとに監視を置くのは非効率だ。悪しき前例は作りたくない」

 

 そうした事情から、止む無く収容所以外で面倒を見れる場所を探したそうである。そして、捕虜を扱う上でも異性を扱う上でも、私以上に信用の置ける者を推薦出来なかったと言うのだ。

 誰に任せるか──押し付けるともいう──と問われれば、婚約したてで素行優良な私は適任だったらしい。

 

「来年の春までには、多少なりとも収容所の環境と質は改善させるし、その頃には個室も空きが出てくるだろう。それまでは、今回のようなケースの捕虜はそちらで預かって貰いたい」

「閣下。抗命と受け取られる事を承知で申し上げますが、捕虜の取り扱いに関しましては、原則として協商連合政府に然るべき対応を一任しております。帝国ですらそうであったのですから、彼らも女性捕虜の扱いに関しては信用出来ないかと」

 

 何しろ連邦への恐怖と憎悪が、骨髄どころか魂にまで浸み込んでいる協商連合だ。捕虜が虐待されていないか定期的に確認している有様だと言うのに、女性の政治将校がやってきたと知られれば、目も当てられなくなる事は間違いない。

 

「だから貴官に一任するのだ。表向き、政治将校から情報を得るために、そちらに捕虜を送ると言っているがな。英雄に情婦が宛がわれていると思って貰えれば、事は楽だろう?」

 

 政治将校に関しては心から同情するし、騎士道精神の面から見ても婦女への暴行など許し難い。しかしだ。

 

「私の品位と名誉が著しく、回復不可能なまでに毀損される事が前提でありますがね」

 

 末代まで名声を笠に、女を手籠めにした外道として語り継がれるなど御免被りたい。が、我が身可愛さに女性を見捨てるなどというのは、より耐え難い事でもある。

 シャツを着替えるように信念を変えて、一体どうして婚約者に顔向け出来よう?

 結局私は酸っぱいリンゴを齧り(気の進まないことをするという意味)、自分の名を溝に捨てる事も覚悟した上で受け入れた。

 フォン・エップ上級大将は宣伝局や他の高官達にも事情を説明し、決して私の名誉を傷付ける事はしないと誓ってくれたし、協商連合にも政治将校を送還した時点で真実を伝えると言ったが、私はとっくに諦めていた。

 戦後には、いや、戦中でも何処からか情報が漏れて、ゴシップだらけになるだろう。キッテル家の耳に入れば、姉上とエルマーは見下げ果てたと縁切りを申し立て、母上は卒倒し、父上は私に自裁を命じられるに違いない。

 錆の一つも出ぬ清い身でありながら、説諭に東奔西走する羽目になる未来が瞼に浮かび、唯々深く息を吐いた。

 

「そこまで悲観せずとも良かろう。こう言っては何だが、貴官は潔癖に過ぎる。慰安所を前線に用意した共和国や、連合王国と比べれば可愛いものだぞ?」

 

 誰も見向きもせんし、話題にも上げんよとフォン・エップ上級大将は気を和らげようとしてきた。正直に言えば、捕虜の引取りに関しては私の選択なのだから恥じず受け入れるつもりである。

 だが、ターニャにだけは誤解されたくない。一信徒として、結婚前に清い身でないというのは浮気以上に最低な裏切りに他ならない事であり、事実無根の冤罪で破局などというのは全くもって笑えない未来だったからだ。

 

「捕虜が到着するまでにデグレチャフ中佐に手紙を出しますが、閣下からも一筆添えて頂けませんか?」

「構わんが、言い訳と思われるやも知れんぞ?」

 

 黙って墓の下まで持っていくのが賢いと思うがね。とフォン・エップ上級大将は語るが、私は不誠実で居たくないのだ。

 ああ全く。貧乏くじというのはこういうことを言うのだろう。

 

“遊んでいる暇など、ないのだがな”

 


訳註

◆1:今日では過去のアルビオン・フランソワを筆頭とした、連合軍における帝国人女性捕虜に対する性的虐待については精査されており、国際裁判所は連合国に対し、被害者と家族に賠償を課している。

   連合各国政府はこの件に関して長らく戦勝国(帝国)側による悪質な工作活動として否定してきたが、一九八六年に焼却破棄を免れた書類が発見された事で、連合軍による組織的な性的暴行──より正確には、前線将兵による性的暴行の黙認──が明るみになった。

 

*1
 立証困難とされた理由は、環境改善の為に自ら慰安所に行った者が僅かながら居たこと。戦後に売春行為を行った事が露呈しない為に、書面に取引を残さなかった事などから、何処までが合意の上であったのか分からなかった為だった。

 余談だが、後年の従軍経験者の証言によれば、最後まで慰安所行きを避けた女性捕虜とそうでない捕虜は、明らかに栄養状態が異なっていたという事から、性行為を拒絶した女性に対する嫌がらせはあったようである。




 後年の帝国人&秋津島読者「ぜってー浮気したの長々と誤魔化してるだけだろこれwww」

 誰だってこう思う。私だってこう思う。いやー浮気すんなって言われて一年も経たずに浮気とかねーわードン引きだわー。
 ※注:本当に主人公は手を出してません。デグ様一筋です。

補足説明

【各国の女性武官の登用について】
 漫画版幼女戦記では、女性で軍人になれるのは帝国と合州国(但し、合州国に関しては16巻でごく少数の士官が後方要員として存在するか、魔導師として扱われる程度)とされていましたが。
 書籍版ではアンソン・スーがメアリーに、魔導師としての適正があるかっらと言って、魔導師にならなくちゃ行けない訳じゃないと語っていたそうなので、こちらは漫画版のみの設定だと思われます。

 今回、本作品では漫画版の設定を起用いたしましたが、その理由はまぁ、聡明で紳士な読者ならばご想像できます通り、戦地で薄い本展開(R18G表記もあるよ!)不可避だからであります!
 子供から大人まで楽しく拝読できるよう、原作4巻扉絵に モ ザ イ ク まで用意するほど丁寧なお仕事をされている以上、本作品でも健全な、そう、KENZENな展開を心がけるべく、敢えて漫画版の設定を持ち込ませて頂きました!
 いやー良かったわー薄い本的犠牲者が世界規模で減ったわー
 なお、犠牲となった帝国人女性は多い模様。やっぱフラカス(共和国)とブリカス(連合王国)は糞だな!
(ちなドイツこと帝国もやってることは大概の模様。『八月の砲声 上』で詳しく書かれてるベルギー人への略奪殺害祭りとか草も生えないレベル)

 それはそうと、誰か原作4巻のモザイクを除去する方法はご存知ありませんかね?(切望)


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56 人民の敵-真面目な捕虜

※2020/3/10誤字修正。
 水上 風月さま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 遊んでいる暇などない。

 

 そう私が歯噛みしているのは、戦況故ではない。

 現状、帝国軍は異常気象からなる一〇月二〇日の降雪以降、快調に反攻を開始し、オストランド国境を越えて冬季戦で兵站が麻痺しないギリギリのラインで防衛戦を構築することで、春季に向けての開進準備を整えている。

 全てが思惑通りに進んでいる事態に国民も軍も沸き立ってこそいるが、私は気が気でなかった。

 

“エルマーは私に全力を出すと言った”

 

 しかし、現状エルマーにその兆候はない。少し先のところまで語るが、準備期間に徹するという軍の方針に唯々諾々と従い続けたエルマーは、春季までの間、準備の名目に相応しい仕事を発揮してみせていた。

 アリアンツ量産や既存輸送・爆撃機のターボプロップエンジン換装は当然として、泥濘という東部戦線最大の敵を克服すべく、滑走路を必要としない『回転翼機』なる新系統の航空機を開発したが、エルマー当人はこれを今まで後回しにしていたのは、人生最大のミスだと語った。

 

「どのような地であろうと救援を望む将兵を救う手段の確立を後回しにした事は、悔恨の極みです」

 

 私が被撃墜から基地までの逃走劇の中で、救助部隊の離着陸の問題から、彼らに見つからないよう行動した事を言っているのだろう。

 以前にも語ったと思うが、エルマーは開発した段階で即実用可能な兵器にのみ注力していた。滑走路を必要としない反面、離着陸を始めとする操作にパイロットの訓練時間を割かねばならない回転翼機の開発は、アルビオン・フランソワ戦役時では構想だけで全く手をつけなかったのである。

 

 エルマーはこれを恥じて、戦果拡大でなく第一に将兵の損耗を避ける事を念頭に置くようになり、唯一無二の親友たるフォン・シューゲル主任技師と二人三脚で兵器開発に勤しむようになっていた。

 また、訓練用回転翼機を制作した後も、将兵の損耗を抑える事には余念がないようで、現行の自動小銃では整備性に難があり、冬季戦では銃が使い物にならず兵に損耗を強いる事になるからと、まだ一年しか経たないというのに新型主力自動小銃、StG26をフォン・シューゲル主任技師と共同開発してみせた。

 

 MP2A1同様、可能な限り部品数を削減して生産性向上に努めた本銃は、極寒の寒冷地はおろか泥や砂に埋めても潤滑油が切れようとも問題なく稼働・発射出来るよう、内部をクロムメッキで保護する事で腐食・摩耗率を低下させ、従来の主力小銃と異なり、部品ごとの隙間を空ける構成に仕上げていた。

 設計そのものも堅牢ながら簡素化を徹底しており、生産技術に乏しい中小国でも生産可能という利点を持っていながら、有効射程は八〇〇メートルと突撃銃を倍以上引き離し、重量は七〇〇グラムも軽減されていたが、何より歩兵や魔導師から喜ばれたのは、着剣が可能だったことだという。

 但し、その高過ぎる生産性と単純な構造から、連邦は言うに及ばず他国でデッドコピーが大量生産されることは開発段階から危惧されていた。そこで帝国は、多少生産効率を落としてでも、極力デッドコピーを遅らせる対策を施すよう初期段階で要求。

 エルマーとフォン・シューゲル主任技師はこれを見越し、要求段階で条件をクリアする案を即提出した。帝国が他国と比してプレス加工技術が成熟している事を利用し、機関部にプレス加工を用いる事で対応。強度に難の出る部分はリベット接合とリブを追加する事で要求を達成した。

 改良型のStG26Mは射程こそ六〇〇と低下したものの、重量は突撃銃と比して一・三キロ減。コストも切削加工を多用する試作型から更に低下した。

 

 帝国軍はStG26Mを主力小銃として制式採用後、突撃銃からの更新・量産を即時実行するよう命令。ターニャ麾下のサラマンダー戦闘団といったエリート部隊に優先的に配備されたが、その異常とも言える生産性の高さ故、採用から一年でどの前線でも目に付くという状態だった。

 後年、StG26Mは世界最高の自動小銃にして最も人を殺めた銃と言われたが、傑作と称すべき武器や兵器など、これまで山のように作ってきたエルマーだ。今更この程度で驚くには値しない。

 

 私が政治将校の保護を任されたのは一二月初旬。この時点でのエルマーは、ヘリパイロットが将来使い物になるだろう日に備え、フォン・シューゲル主任技師と救助・輸送ヘリの図面を引いていた段階だったが、この静けさや私に対して安心感を抱かせようとするかのような仕事ぶりは、逆に危機感を募らせるには十分だった。

 おそらくだが、頭の中で何かしらの絵図面を引きながら、淡々とこなせるだけの仕事をしているのだろう。

 それを理解していながら前線にも赴けず、粛々と自らの職務をこなしつつ、目の届く範囲で捕虜に虐待が行われていないかを、本国から派遣された憲兵達と抜き打ちで確認する毎日。

 更にはここにきて、政治将校の保護まで一任されるともなれば、苛立ちも募ろうというものだ。

 

 後方勤務に関しては、春季までの我慢だと受け入れる事も出来る。レガドニア空軍の育成と連携も、必要不可欠なものと割り切れもする。

 しかし、捕虜の取り扱いに関しては空軍の、私の仕事ではない。敵とはいえ捕虜である以上は守るのが義務といっても、その時間を勝利に貢献する為に使えたならと、私は歯痒くて仕方が無かった。

 

“陸や海も、少しは手伝って欲しいのだがな”

 

 どちらからも自分の仕事で首が回らないと泣き付かれ、結局私が自分の仕事を手早く片付けてから、余計な仕事を請け負う羽目になるというのは笑えない。

 明らかに、あいつは仕事が早いからと押し付けられていることは明白だったが、誰かがしなくてはならないという事も理解出来ていただけに断れないと来ていた。

 

「大佐殿。件の政治将校が到着致しました」

「ああ。すぐ行く」

 

 そしてまた一つ。余計な仕事を抱え込んだ。

 

 

     ◇

 

 

 冷めている。諦めている。自らの境遇を理解していながら、同時に心までは渡すまいと殻に閉じ込もって頑なにあろうとする女。

 それが、私の下に送られた政治将校から受ける印象だった。

 

 保護してやれというのも頷ける。美しい碧眼に白磁の肌。帝国なら士官学校を卒業し、任官して間もない頃の若く瑞々しい女性など、下卑た男共からすれば垂涎の的だろう。

 

“リリーヤ・イヴァノヴァ・タネーチカ。下級政治委員にして連邦軍中尉”

 

 この手の兼任は帝国軍にも見られる。たとえば、一部憲兵や情報部勤務者が、警察階級と軍の階級を保持しているようにだ。

 事前情報を脳内で復唱しつつ、どう切り出したものかと一考。相手の表情は固く、その視線は敵意と形容する他にない。二〇代にして大佐というのは、私を知らずとも貴族故の階級と誤解を受けるには十分で、二重の意味で嫌われても致し方ない立場にある。

 しかしだ。相手が私を嫌っているからといって、私が相手を遠ざけるようでは話にならない。私は内心大きく息を吐き、努めて親愛なる隣人を迎え入れるよう優しく語りかけた。

 

「失礼。ここに来るまでに、捕虜として()()()()()対応があったのだろうか?」

 

 だとすれば、心からお詫び申し上げると謝意を表した。政治将校に旧体制派のイントネーションは不快だろうが、こういう話し方でしか連邦公用語を扱えない以上、そこは致し方ないものと割り切って貰うしかない。

 

「……これから、()()()()()対応を受けるものと覚悟しております」

 

 私が、その()()()()()対応をすると考えているのだろう。誰がそのような不潔に及ぶものかと否定したい所だが、初対面の、ましてや敵国の将校を信用しろと言うのは酷であるし、私も逆の立場であれば、口にしないまでも同じ事を考えたに違いない。

 私は後ろに組んだ両手を下ろし、タネーチカ政治委員に左の薬指を見せつけた。

 

「八月に婚約してね。正式な夫婦となるまでは清い身でいるつもりだ。何より、軍人としても不実を働きたくはない。貴官とは、誠実に向き合いたいと思っている」

 

 どうか誤解しないで欲しいと訴える。タネーチカ政治委員が到着するまでに婚約指輪が届いたのは、これ以上ない幸運だった。私はムンダー氏の仕事ぶりに心の底から感謝しつつ、椅子に座ったままの彼女に問う。

 

「私も座って良いかな?」

「……ええ」

 

 ありがとうと私は律儀に礼を述べて対面に座る。机を間に挟んでいるとは言え距離は近いが、私はタネーチカ政治委員に触れようという気はない。この個室の外には当然憲兵が待機しているが、二名とも本国から寄越して貰った女性だ。

 女性憲兵には今後、配膳等生活に必要な事を担って貰うつもりだと事務的に、しかし気持ちを和らげられるようタネーチカ政治委員に説明する。

 

「敵同士である以上、誤解や行き違いはあると思う。私も連邦軍や共産党に対し、政府や軍のプロパガンダで聞くに耐えない誹謗中傷や悪行を語られているが、全てがそうでないという事ぐらいは理解しているつもりだ」

 

 軍人として、祖国の為と銃を執るのは互いに同じであり、殺し殺されの間柄にはある。しかし、それが国家同士の争いである以上、私人として憎み合う関係にない以上は、相互理解の感情まで捨ててはいないと説諭した。

 

「私のことは、何処まで知っているかな? 決して罰しはしないので、歯に衣着せず語ってくれ」

「ニコラウス・フォン・キッテル大佐。我が祖国、人民最大の敵。インペリアリズムの先鋒。他にも、語彙豊かに悪名が響いております」

 

 手厳しいなと肩を竦める。私自身はインペリアリストなどでは断じてない。祖国の盾となり、必要によっては剣となることを誇りに思っていても、他民族や国家に対し、支配と服従を強要しようという思想はないとはっきり告げる。

 その上で、私自身もまた政治将校とは如何なる者かを帝国側の視点で説明した。

 

「怒らないで欲しいが、帝国では政治将校とはこういう者だと吹き込まれた。軍将兵を恐怖と権威で縛り、秘密警察と肩を組んで機銃と砲弾で人民の背を押す、血も涙もない邪悪な党の尖兵だとね」

 

 それは違う。出任せだ。そう視線で訴えるタネーチカ政治委員に「分かっている」と頷いて続けた。

 

「貴官の勇気ある行動を知って、どれだけ自分が偏見に囚われていたか痛感したものだ。立場は違えど、軍人としても私人としても心から敬意を送りたいのだが、やはり貴族では駄目だろうか?」

 

 タネーチカ政治委員に対して敬意を示すのは、上辺だけでない本心からの思いだ。

 政治将校や秘密警察という者に対しては、帝国からではなく連邦軍捕虜の口から散々に悪名を語られているため、弁解の余地など欠片もないと切り捨てられるが、タネーチカ政治委員個人に対してならば、例外として扱える。

 

「キッテル大佐。貴方個人は、おそらく善良なのでしょう。生まれ育った国を思い、隣人を愛し、敵に手を差し伸べられる人間なのでしょうね」

 

 それを、同じ一個人として信じたいとは思うが、やはり駄目だとタネーチカ政治委員は首を振った。

 

「貴方は貴族です。たとえどれだけ貴方個人が善良であろうと、搾取する地位にあり続ける以上、抑圧から人民を解放すると誓っている私には、その敬意を受け取る訳には行きません」

「地位、か。しかし、人は生まれなど選べんだろう? そして、生まれた場に応じて果たすべき義務を負うものだ」

「搾取は義務ですか? 血の貴賤を全てに、支配する地位に在り続ける事は役目を果たしたと胸を張れることでしょうか?」

 

 いいやと私は首を振る。そして、同時に感銘を受けたと彼女を称えた。

 

「確かに貴族というものに、そのような輩が居る事は事実だ。革命以前のフランソワ共和国やルーシー帝国では、多くが贅を極める事しかなかった。帝国にも、いや、どの国々であろうと、特権という名の格差と、為政者の抑圧がある事は否定しない。だが、私もキッテル家も、決して民からの搾取など望んではいない。むしろ、それを憎んでいるとさえ言っていい」

 

 尤も、それはあくまで貴族としての理屈であって、共産主義の理屈には合わない。

 連邦が神聖視して止まぬ科学的社会主義の創始者、カール・マルカスの理論によれば、資本家とはその性質上、雇用者からの搾取で成り立っているという。

 

 雇用者が自ら生産し、それを販売する事で一〇の利益を得られるのだとしても、資本家が雇用者を働かせ、自分の取り分を得た時点で、雇用者の利益は三にも二にもなる。

 その取り分がどれだけ不当な物であったとしても、資本を持たず、雇われる事でしか生計を立てられない雇用者は唯々諾々と従う他にない。

 しかし、これは資本家が悪だからではない。資本家はその性質上、搾取を続ける事でしか成り立たない存在であり、やがては限界に達した雇用者らによって革命が起き、資本家階級は淘汰される運命にあるというのだ。

 貴族という既得権益を持つ『資本家階級』と、『雇用者』という立場に留まる領民。地主貴族(ユンカー)という立場にあるキッテル家ならば、正しく支配者と農奴の図式だとタネーチカ政治委員は語る事だろう。

 

 資本家階級たる地主貴族(ユンカー)は生産者からの利益で成り立っている以上、共産主義者の論理で言えば寄生虫と称される立場にある。しかし、地主貴族(ユンカー)の多くが生産者から得た利益を適切に還元する為に努力していることも事実なのだ。

 土地を農民に明け渡し分配すれば、農民は私達に渡してきた取り分を、自分達の懐に収めることは出来るだろう。しかし、現実はそう甘くない。

 生産者に土地を分配しても小規模になるばかりで資本を蓄えられず、土地の改良や農機具の購入はおぼつかず、却って飢えさせてしまうからだ。

 ルーシー連邦が農業改革によって地主から土地を巻き上げ、労働者に分配した結果は正しくこのパターンだったと言える。

 

 何より、資本家階級はそれに応じた役割というものも持っている。リスクマネジメントや市場調査などはその代表であり、経営者としての責任を果たさなければどの分野であろうと衰退と破綻を免れない以上、彼らもまた労働者なのである。

 だが、それを語って溝を深めようとは思わない。立場故に認められないというのならば、それも致し方ないことだ。

 歩み寄るには、互いの間にある深く広い谷のような溝に橋をかけるしかないが、それが一朝一夕で出来る事だとは私も考えてはいない。

 私は椅子から立ち上がると、腰掛けた際机の上に置いた軍帽を被る。

 

「搾取を望まず憎むと言っても、受け入れて貰えるとは思ってはいない。口だけならば何とでも言えることだからな」

 

 それでも語る事は出来る。口があり、言葉が通じる以上は互いに論じ合うことはできるのだ。

 

「要望があれば、担当の憲兵に申し出てくれ。受理されるかはともかく、耳は貸してくれるだろう。それと、今後も定期的に話をすることになるが、こればかりは上からの指示でね。気を悪くしないで欲しいとは言えないし、納得もしなくて良い」

「私は軍階級を持っていますが、聞き出せる情報などありませんよ」

 

 知っていると私は笑う。政治将校から得られるものなど、党のテーゼや監視の仕方ぐらいのもの。正規の連邦軍将校ですら、軍部粛清からの強制収容所(ラーゲリ)送りが祟って碌な情報が得られない始末なのだから。

 

「何を話すか、何を聴くかまでは指示されてはいないのでね。小休止にでもさせて貰うさ」

「命令を歪曲してのサボタージュとは、労働者の道に反する行いですね」

 

 私は大いに笑った。相手は大真面目なのか、それとも冗談なのか。出来れば後者であって欲しいと思いながら、「また明日」とその場を後にした。

 




【今回の主人公のアレなところ】

 主人公「私はインペリアリストではない! 他民族への一方的な支配や服従など……ファメルーン? あれは保護であって支配ではないぞ?」(真顔)

 どっからどうみても、征服者側の特権階級なんだよなぁ……。
 これは人民の敵ですわ(呆れ)

補足説明

【帝国軍の新型自動小銃について】
 StG26Mの元ネタはAKM47さんの東ドイツ版MPi-KM(中期型)です。但し本作のStG26MはMPi-KM(中期型)の使用弾薬を補給の問題から7.92×33ミリ弾に変換しています。
 当然ながらこんなキチ銃をエルマーが作ったのはデグ様の為で、軍の損耗とか全く気にしてません。ヘリも兄上が撃墜された時の保険です。
 戦争そのものは「どうせ自分が凄いの作って勝つからどうでもいいや」って思ってます。

【主人公の語った資本家と生産者の関係について】
 主人公の語った資本家と生産者の関係はマルクスさんの『賃労働と資本』に詳しく書かれています。資本論とかいう哲学用語とか宗教用語満載でクッソややこしい本より断然分かりやすくて読みやすいので、おすすめです。
 でも、共産主義に嵌まるのだけは止めとこう! 共産趣味者が一番理想的ですからマジで!

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【銃器】
 MPi-KM(中期型)→StG26M(但し使用弾薬を7.92×33ミリ弾に変換した改造品)
【人物名】
 カール・マルクス→カール・マルカス




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57 学術的対話-麻薬中毒者への対応

※2020/3/11誤字修正。
 佐藤東沙さま、すずひらさま、 水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 また明日との言葉通り、私はタネーチカ政治委員の収容されている施設に足を運んだ。捕虜収容所ではなく軍宿舎の一室であり、見張りこそつくものの将校用の個室である為、待遇はかなりのものと言って良い。

 とはいえ余剰スペースも余り無い一人部屋であるから、私とタネーチカ政治委員が語らい合うのは事務室である。

 私は昨日と同様、極力穏やかな口調である事を心がけつつ、将校鞄から一冊の本を取り出した。共産党の聖書と言っても差し支えない『資本論』の原著だ。

 

「帝国では、焚書にされているとばかり思っていました」

「経済を学ぶ以上、避けては通れない書物を?」

 

 本を焼く者は、やがて人を焼くようになるものだと、何処で聞いたかも定かでない言葉を口にして席に着く。

 エンゲルの『共産主義者宣言』*1のように、労働者の団結を促す啓蒙書とは異なり、こちらは資本社会のメカニズムを分析し、読者に開陳する為のものである。

 だからこそ古プロシャ時代にマルカスから国籍を剥奪した帝国でも手に入るし、何よりも、共産主義に反駁するには共産主義を知らねば始まらないという理屈から、帝国は経済学者に反共産主義の論文を書かせる為に図書館や大学でも置かれている。

 ……その弊害として、一部の学徒に共産主義に傾倒した者が出たのも事実だが。

 

 私は辞典か全集のように分厚い資本論を机上に置き、著者自身が難解だと認めた一章を開いて、タネーチカ政治委員に指で示した。

 

「以前から目を通していたのだが、やはり独学では間違いも出てくると思ってね。そちらのアカデミーでは、研究され尽くしている分野だろう?」

「……何が、狙いなので?」

 

 私は吹き出した。狙いもなにも、見ての通りではないかと。

 

「聞き出せるものなどないと貴官は言ったがね。私にしてみれば、聞くべき事は山程ある。貴官は共産主義の専門家で、私は素人なのだから」

 

 我々は奇妙な関係だ。相手を否定し、憎み合うよう言われていながら、相手を知ろうとしていないのだから。

 

「帝国将校というのは、知りたがりなのだよ。分からないことを分からないままにしたくない」

 

 独自解釈では駄目だ。読む事と学ぶ事は違う。それは両親や家庭教師から幾度となく指摘されたことであり、本当は資本論とて何度も読破しては母上から学ばされたのだが、それを口にする気はない。

 捕虜と監督という立場よりも、教師と生徒の方が歩み寄るには良いだろうと判断してのことだ。

 

「政治将校は、軍将兵にイデオロギー教育を前線でも行っているとも伺った。教えるのは得意だろう?」

 

 頭を下げるように頼み込む。軍の階級ゆえに敬語は使えないし、捕虜に対して余りに謙るのは宜しくないので、ここまでが限度だが、相手もそれぐらいは理解しているだろう。

 ため息を一つ溢し、タネーチカ政治委員は微かに口元を緩めて開く。

 

「捕虜と言えど、連邦に不利益となる情報を開示する事は出来ませんが、我々から学びたいというのであれば、無下には出来ませんね」

 

 ましてや、自分は虜囚の身ですからと自嘲するタネーチカ政治委員に、私は無理強いした事を謝罪した。

 

「すまない。そして、これから宜しく頼む。ああ、今後は先生とお呼びすべきかな?」

「それは結構ですわ。学術的対話とでも考えておきますので」

 

 苦笑しつつ、タネーチカ政治委員は教鞭を執った。

 

 

     ◇

 

 

 以降、私は従順かつ勤勉な生徒として熱心に共産主義を学んだ訳であるが、読者諸氏にしてみれば、如何に歩み寄る為といっても、過剰に過ぎる関わりではないかと思われたことだろう。私とてそう思う。

 

 では、どうしてここまでするのかと問われれば、私は共産主義という奴が好きではないし、共産主義者も大嫌いだからだ。

 しかし、困ったことにタネーチカ政治委員は善人だった。それも『これ以上ない程の』と頭に付く類の。ああいう理想主義者は、正直見ていて心苦しい。限りなく当人は善性でありながら、高邁な理想を宿していながら、道筋だけを間違えてしまっているのである。

 

 共産主義というのは、私からすればカルト宗教のそれだ。

 支配者層の腐敗から人民が団結し、既存国家を崩壊させ、新たな共同体を作る。

 そのプロセスを彼らの教祖(マルカス)は資本論で打ち立てたが、これは決して正しくない。いや、支配者層の腐敗から革命というプロセス自体は、フランソワ王国やルーシー連邦で実行された以上、一定の理があることは証明されている。

 問題なのは、共産主義者はこのプロセスを唯一視してしまって居ることだ。彼らにとって『国家とはやがて崩壊するもの』であり、『やがては倒さねばならない古い頸木』なのだとしか考えていないのだ。

 

 この思想が、単に経済学の一つであるだけならば良かった。資本家と生産者に見られる搾取の関係を論理的に説明するのも、国家の崩壊を語るのも良い。

 しかし、彼らの教祖(マルカス)は経済学者の枠には留まらなかった。古プロシャ王国で革命を起こして追放され、その後も連合王国に亡命しながら、暴力革命による遂行を肯定してしまった。

 

 マルカスは、暴力革命に及んだ時点で学者であることを止めた。

 学問の世界から抜け出し、政治の世界に飛び込んだ。

 世界を俯瞰し、世界の仕組みを読み解くことで改善するのではなく、自らの思想を証明するために、暴力で世界に干渉してしまった。

 国家とはやがて自然的に朽ちるものではなく、機械的に人の手で壊すものなのだと後世の人間に伝えてしまった。

 教祖(マルカス)当人がどういう思惑だったにせよ、それが今の現実だ。ルーシー帝国で現実に起こった革命は、決して自然な仕組みとは言えない。

 確かに革命は秒読みだったのかもしれない。人民の不満は天に木霊し、地を埋め尽くさんばかりだったのかもしれない。

 しかし、革命を指導した者たちは人民の為でなく、自らのイデオロギーに従って行動した。革命を達成した後もイデオロギー故に行動し、イデオロギー故に失敗した。

 農地改革の失敗などはその典型で、経営におけるノウハウもなければ、経営学を熟知するでもなく、ただ富裕層から土地を奪えば、後は全て農民が解決すると楽観視した。

 

 浅薄極まりない行動。理想論のみで空転し続ける国家。革命直後のルーシー連邦が混乱の極みに達し、無数の餓死者が出たというのも当然だ。

 共産主義者は教祖(マルカス)の教えに従い行動したが、教祖の教えには『国家とは滅び行くもの。社会主義国家とは共産主義に至る過程に過ぎない』としか触れられていなかったのだから。

 

 国家の運営とは、それを可能とするだけの専門知識を蓄えた人材を成熟させ、先人達が蓄積したノウハウを学び取り、そこから試行錯誤しながら一歩ずつ進めねばならない険しい道のりだ。

 国民を富ませる為に生涯を費やして学び続けたとしても、決して上手く行く保証はない。だというのに共産主義者は、国家という組織を何処までも軽んじた。

 一つの企業から社員全てを追い出し、素人が運営すれば誰だとて倒産は必至だと理解できる筈なのに、共産主義者は国家という巨大企業の運営が、何処まで過酷なものか全く理解出来ていなかった。

 

 共産主義者に言わせれば、国家は企業ではないと主張するだろう。正しくその通り。企業より遥かに難しく、そして最も過酷な選択を強いる組織こそ国家なのだ。

 一つの失敗。一つの損失は国民の血で支払われる。人が動かす以上失敗は避けられないが、失敗の果てに何が生じるのかを、痛ましい現実という物を、共産主義者は何処まで理解できているだろう?

 

 その答えは、現実にこそ表れる。相次ぐ亡命者が、共産党への不満が、彼らの口々に語られる怨嗟と悲鳴が、これ以上ない程真実を暴き立てて行く。

 私が共産主義を、カルトと否定する理由はそれだ。

 真っ当な宗教団体は、信じてもそれが他人を束縛しない。信じる者を教義で縛る事はあったとしても、それは信じる当人の問題に過ぎないのだから。

 けれど、カルトとは自分が信じる物の為に他人を束縛し、害するものだ。自分達こそが正しく、それ以外は間違っていると『決めつける』ものだ。

 

 経済学として共産主義を語るだけならば、実現さえされなければ、それはまだ学問で居ることが確かに出来た。

 そういう考え方もあるのだろう。幾つか間違いはあったとしても、そこから発展し、突き詰めることも出来るだろう。

 学問とは理論に間違いがあっても問題ではない。先人の理論を間違いだと証明する事で新しい理論が生み出され、世界は発展していくのだから。

 

 しかし。それが政治介入になった時点で、もう駄目だ。

 行動の道は示された。『実行』する事で、『達成』するものだと伝えてしまった。

 共産主義は『学問』から『政治思想』に置き換わった。

 

『汝の道を行き、しかして後は人の語るに任せよ』

 

 共産主義者は、資本論の序文にある意味忠実であったのだろう。

 どれだけ否定されても、どれだけ悲劇を重ねても「いいやまだだ、きっと上手く行く筈だ」と、それを信じる者たちは行動し続ける。

 たとえ失敗を見せつけても「それは前の連中がやり方を間違えたからだ」「自分達は上手くやる」と言って聞きはしないだろう。

 他人をはねのけ、自らを正当化し、そして信じるものを絶対視してしまう。

 マルカスは宗教を阿片と否定したが、共産主義者こそ阿片を齧り、阿片を素晴らしいとばら撒き続ける中毒者だ。

 自分に都合の良い夢を見せ、他人を殺すか壊すしかない連中だと、そう告げたところで意味はない。

 鏡に映る醜悪な姿を見せつけたところで、既に阿片に脳を侵された彼らは、自分を正しく認識してはいないだろう。

 理想の革命家。人民を地上の楽園という約束の地に導く者だと、信じて疑おうともしない。現実に飢餓が満ち、夥しい血が流れても、それを直視できない狂った存在こそ共産主義者なのだから。

 

 だが。タネーチカ政治委員にはまだ救いがある。彼女は理想に燃えているだけであり、行き着く先に何が待つのかが見えていないだけだ。

 

“そう。見えていないのだ”

 

 見ていないのではなく、見えていない。皆が正しい理想を宿し、正しく行動するなら実現出来る。共産主義者的に言うならば、紐帯的行動とでも称すべきか。あらゆる民族が国家の垣根を越え、目標に向けて邁進する。

 実に高邁な理想だとも。だが、その理想は間違った理論の上にある。土台が腐っている以上、決して理想郷には至れない。

 全ての人類を幸福の内に統治する機構など、格差なき世界など宗教の中だけのものなのに。

 

「憐れな女ですね。その理想を証明するために、どれだけの人間が犠牲となったかも知らずに」

 

“嫌っているな”

 

 いや、嫌う事こそ当然なのだ。如何にタネーチカ政治委員個人が純であれ、党の犬(チェキスト)に身内を殺されたシャノヴスキー参謀少佐にしてみれば、歩み寄ろうとする私は裏切り行為を働いているといっても良い。

 それを口にしないのは、曲がりなりにも私が上官であることと、私の意図を知っているからだ。

 

「じき、その理想の限界が見える頃合だ」

 

 私は資本論を学び終え、マルカスとエンゲルの著作に手を出しては疑問を伝え、教授される。そうして次は共産党の初代最高指導者、ウリヤノフの論文や著作の内容をタネーチカ政治委員から口頭で説明され、それを事細かに書き留めた。

 私は、帝国将校でありながら共産主義にかぶれてしまったと知らぬ者は思うだろう程に熱心な信徒になっていたが、それが偽りの信仰だという事は、女性憲兵らもシャノヴスキー参謀少佐も理解している。

 私が共産主義を否定していることは、本著で再三に述べ続けてきた。私と共産主義は永遠の敵であり、そこに和解の道はない。

 

 彼らが学問の世界に留まらず世界に侵食し、侵攻し、人々に悲劇をもたらす存在であり続ける以上、私は共産主義を滅ぼさねばならない。

 タネーチカ政治委員が、一個人として敬意を抱くに値する存在であることは否定しない。だが、彼女が紛れもない共産主義者である以上は私にとっては敵であり、滅ぼすしかない。言い換えれば、敵でさえなくなれば滅ぼす必要もないのだ。

 私は、タネーチカ政治委員を共産主義者でなくすつもりなのである。

 

 私は共産主義者を麻薬中毒者と例えたが、麻薬中毒者に麻薬を止めさせるにはどうすれば良いだろうか?

 麻薬を取り上げ、麻薬がもたらす害を丁寧に否定することだろうか? いいや、それでは駄目だ。中毒者から急に取り上げたところで禁断症状に陥るし、何よりタネーチカ政治委員は自分が中毒者である事への自覚もない。

 共産主義という麻薬を、不治の病と診断された『世界』という患者に有効な特効薬だと、本気で信じて疑わないのだから。

 

 だから、私はまず、微量の麻薬を与え続けることにした。資本論然り、共産主義者宣言然り、或いは党のテーゼ然りだ。

 熱心な麻薬の布教者に対して、私は興味があるように、そして麻薬に無知である事を装いながら麻薬の説明を受け、私自身も服用し続けた。

 私自身には麻薬の耐性ができている以上、依存にも中毒にもなりはしない。だが、タネーチカ政治委員はそれを知らない。初めは私に猜疑の眼差しを向けつつ麻薬を渡してきた彼女も、今の私が喜んで麻薬を服用する人種になったと疑ってはいないのだ。

 

 そして、信用を勝ち得てきた段階で、私は徐々に麻薬の量を減らしていった。共産党への、或いは共産主義そのものへの疑問を合間に提示したのである。

 手放しで教えを請う段階は終わったと証明し、勤勉な共産主義者だと太鼓判を押され、互いに対等な位置で対話が可能だと思わせた時点で、私は一歩踏み込んだ。

 

 共産党の中央集権的性質で、何処まで末端を監督できるか? 地方分権と比べての、メリットとデメリットは?

 純粋な計画経済は消費者の需要を適切に把握し得るか? 需給関係からの価値評価は何処まで適切に処理し得るか? 技術革新は起こり得るか?

 

 こうした疑問は、一方的にタネーチカ政治委員から教えを請うのではなく、協議という形をとった。私自身もまた共産主義者という形をとり、共産主義の枠組みの中で解決策を模索していく事にしたのである。

 当然これは大真面目なようでふざけてもいる。私自身は共産主義の矛盾も問題も熟知しており、答えも理解しているのだ。

 

 私的利潤を資本主義的格差をもたらすものとして否定し、全てを国有化する事で管理する社会主義の中央集権的機構は、すなわち巨大な官僚制度の温床であり、国家という一組織で全てを把握するのは、複雑化した近代社会では不可能であるということ。

 

 計画経済は国民全ての需要を把握するだけで莫大なコストを要し、人口の増減や個人のニーズの変化に臨機応変に対応し得るものではないということ。

 

 突き詰めてしまえば、社会主義とは非効率かつ停滞を避けられない構造なのである。

 党が人民全ての要求に応えるには、役人を増やすしかない。役人を増やせばコストは膨大となり、国家は活動するだけで疲弊していく。市場経済であれば需要と供給から判断できる事さえ、巨大な官僚制度を構築しなければ達成できない。

 

 そして人間にとって、どのような時代、どのような国家、どのような組織であろうと犯罪者が発生してしまう事からも察せられる通り、内部腐敗という問題は避けて通れない課題である。それに対し、共産党が何処まで対応出来たかと問うたならば、歴史が証明している通りだ。

 右も左も上から下まで贈賄に満ち、誰もがそれを受け入れている。市場経済という相互の信頼があって成り立つ社会とは異なり、国家の一存で全てが決定されるのだから、国家の役人に金を渡して取り入れば、その時点で生産ラインは確立される。

 市場経済における『淘汰』が存在しない社会とはすなわち、発展なき堕落に満ちた衰退社会に他ならない。

 

 だから、共産主義者は行き詰まる。知れば知るほど、経済というものに造詣を深めれば深めただけ、現実的な答えから遠ざかる。

 人民の紐帯的行動だの、理想的指導者による変革指示だのといった、精神的な逃げ道を模索しようとする。

 

“だが、私は逃がしてやるつもりなどない”

 

 現実に苦しみ、のたうち回り、そうして身体に溜まった毒を吐き出して貰わねばならない。悩むのも結構。戸惑うのも結構。だが、思考の停止だけは許さない。

 私も目一杯悩む()()はしよう。答えの明確な問いに、間違った公式で解く努力は見せてやろう。だが、最後に出される結論だけは変わらない。

 

 もう無理だ。この理論は破綻している。()()道を模索するしかない。

 

 その真実を、最後に提示するのだから。

 

 

     ◇

 

 

「残念だ。タネーチカ政治委員」

 

 科学的社会主義は、科学的に否定されたと私は受け入れた()()をした。

 信じてみようと麻薬を手にし、熱心な中毒者となった筈の私は、その勤勉さ故に麻薬は特効薬になり得ないという事実に至ってしまったと。

 

「…………」

 

 黙して俯くタネーチカ政治委員は、慰み者にされると危惧していた初めの頃以上に沈んでいた。半生を費やして信奉し、いつか手を届かせるのだと邁進し続けた理想が毒にしかならないのだと自覚した瞬間、その心は何処までも澱んでいた。

 私は退室すると、憲兵らに「自殺だけはさせるな」と告げてその場を去った。

 一人残されたタネーチカ政治委員は、小さくインターナショナルを口ずさんでいたという。

 

*1
『共産党宣言』と同様の書物。ルーシー連邦は共産党の正当性を主張する為に、初版のタイトルを広めた。




 共産主義者絶対殺すマンによる共産主義者精神破壊法。
 ていうか、浮気すんなと言われておきながら教師と生徒プレイに興じるあたり、この主人公は浮気性の糞野郎ですね(確信)

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 エンゲルス→エンゲル


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58 思想の否定-最早同志に非ず

※2023/10/12誤字修正。
 夜市よいさま、すずひらさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


「これで、共産主義者の芽が一つ潰えた訳ですな」

 

 清々したと語るシャノヴスキー参謀少佐だが、その顔色は余りよろしいものではない。これから先、タネーチカ政治委員がどうなるかを、簡潔に述べてやったからだ。

 

 このままでは自殺するか。それとも殻に閉じ込もるかだろうと。

 

 勿論、そうならない為に行動することは出来るし、するつもりでいた。私の敵は共産主義であって、タネーチカ政治委員個人ではないのだから。だが、私はそれを口にしない。

 共産主義を否定し、共産主義者を憎悪し続けるシャノヴスキー参謀少佐に、私は静かに問うた。

 

「そうやって憎まねば、直視も出来んか?」

 

 最も近しい部下と、不和になる事を承知で私は告げる。全くもって素直ではない。初めて参謀少佐がタネーチカ政治委員を見た時、息を呑んでしまったのを見過ごす私ではないのだ。

 なんとも若く青いもので、私もルイス王太子妃を目にした時は同じようなものだったからすぐに察せられたものである。

 ただ、私の時は身分の壁だったが、シャノヴスキー参謀少佐のそれは敵味方の壁であり、身内の仇でもある。

 一目見て、芽生えた思いを自覚してしまえば、それは党の犬(チェキスト)に殺められた身内への、亡命を選択した両親への裏切りだと察して、それを意識しないよう努めているのだろう。

 シャノヴスキー参謀少佐は初めの一度以降、タネーチカ政治委員と面会しなくなった。護衛としてならば憲兵がいる。私が彼女を共産主義から()()させるのに、自分は必要ないだろうと参謀少佐は軍務をこなしてきたが、それが意識してしまった女性から遠ざかりたいが為のものだという事ぐらいは理解できるのだ。

 

 シャノヴスキー参謀少佐は黙していた。私に対しての怒りと、内心渦巻く共産主義者と党への憎悪。そして僅かに揺れた瞳は、真意を突かれた事に対しての動揺もあったのだと思う。

 私はシャノヴスキー参謀少佐に、今日からタネーチカ政治委員の面会に参加するよう命じた。軍務に関わりのない事ではあったが、上官への忠誠はプロシャ以来の伝統である為に余程の事態でなければ拒否し得ないのだ。

 

 ……このように語れば、読者諸氏におかれては、幾度となく休暇命令を無視している私は、上官への不服従に熱心な不良軍人だなと指をさして指摘されると思うが、その点は次のように反論できる。

 私のそれは、全て『軍に対する自発的奉仕活動』という名目で軍務に就いている事にしていたので、厳密には不服従ではないのだと。

 とはいえ、これが言葉遊びに近いことは認める。認めたところで改める気はないが。

 

 

     ◇

 

 

「今日は、少佐もおいでですのね」

 

 憮然とした表情のまま軍宿舎の事務室に踏み込んだシャノヴスキー参謀少佐を見て、タネーチカ政治委員は穏やかな、しかし何処か乾いた口調で言った。

 私はタネーチカ政治委員に、今日から軍務が多くなり、面会の時間が取れなくなるだろうこと。代わりにシャノヴスキー参謀少佐が業務を引き継ぐこと。参謀少佐は模範的帝国軍人であり、捕虜を虐待する類の者でないことを説明すると、タネーチカ政治委員は素直に頷いた。

 

 共産主義を学び、理解を深めた結末は無残な形に行き着いたが、その間に積み上げた信頼関係は無駄ではなかったということだろう。

 とはいえ、私としては無残な結末に行き着くことを承知での歩み寄りであったので、タネーチカ政治委員の信頼に対して後ろめたさもあったのだが。

 

「よろしくお願いします、少佐」

 

 柔らかな物腰で挨拶するタネーチカ政治委員は、僅かに私を見た。シャノヴスキー参謀少佐は私のように、共産主義というものに対して関心を抱いているのか。心を開いても良い人間であるのかを問いたいのだろうが、私は違うと小さく頭を振った。

 

「以前にもご挨拶申し上げたが、フート・シャノヴスキー少佐だ。大佐殿に代わり、不定期で業務を代行する事となった。大佐殿と同様、私との会話は全て記録に残され本国に提出される。私も貴官の境遇には同情するが、職務上必要以上に情はかけられない事を理解してくれ」

 

 読者諸氏に説明させて頂くと、提出書類に関しては、私は一切誤魔化していない。私は政治委員に、共産主義から脱却させる為の措置であり実験だと明記した上で、全ての記録を提出している。本来この手の記録は書記官が別室に控えて担当するのだが、私は自分で作成していたのだ。

 

「それから注意しておく。大佐殿はお優しい方であったので、訂正を求めなかったのだろうが、捕虜であっても軍階級に応じた礼節は存在する。今後、上位の階級には敬称を付けるように」

「はい、少佐殿」

 

 宜しいとシャノヴスキー参謀少佐は頷く。私とシャノヴスキー参謀少佐は、今日のところは顔合わせのみということでこの場を後にした。

 

 

     ◇

 

 

 この後の二人のやりとりは、提出された記録と本人達からの証言を基にした物であるので、事実と異なる部分も見られると思うが、真実は当人達の中だけにあるものであるので、そこはご了承頂きたい。

 

 私の代行を務めると告げた日から、シャノヴスキー参謀少佐は足繁くタネーチカ政治委員の元に通いつめた。

 下心があった訳ではないだろう。シャノヴスキー参謀少佐は常日頃から公人としても私人としても鑑のような好青年であったし、自分の心根に気付かないようにしていた。おそらくは、職業意識という面を強めることで、職務に精を出せば気も紛れると考えたに違いない。

 

 タネーチカ政治委員によれば、面会時のシャノヴスキー参謀少佐の態度は実に淡々としたもので、そこに私人としての顔は見えなかったという。

 ただ、時折チリチリと肌を焼くような、熱を帯びているのに底冷えするような感情が垣間見えた時が有り、それが殺意というものなのだとは少し間を置いてから気付いたそうだ。

 一日が過ぎ、二日が過ぎ、そうして三日目になるとタネーチカ政治委員は自ら切り出した。

 

「連邦が、憎いのですか? 私達は、受け入れることは出来ない存在ですか?」

 

 発せられたのは、歩み寄りからの思いだった。私がタネーチカ政治委員に時間をかけて信頼を勝ち得たように、タネーチカ政治委員も例え心を閉じた相手だろうと対話からの和解が見えるのではないかとこの時は考えたそうだ。

 とはいえ、後になってみれば、これは純粋な歩み寄りとは程遠いものだったと、後年のタネーチカ政治委員は私に自嘲しつつ回想した。自らの主義思想の否定という結末に辿り付き、論理からの打開の道が閉ざされた結果、別の道を模索していたのだという。

 

 あくまでも事務的に。与えられた勤めを全うするように共産党の指針や情報を、或いは政治将校というものの行動原理を聞き出そうとするばかりのシャノヴスキー参謀少佐は、共産主義を否定することも、党を侮辱することも決してしなかった。

 

 いっそ、こっぴどく否定してくれれば楽だった。そうすれば、人民の為と反駁できる。

 ルーシーは飢えていた。支配者は搾取するばかりで、憲法さえ真面に作りはしなかった。立ち上がるしかなかったのだと、たとえ結末が無残でも始まりは正しかったのだと否定できたのに。

 だというのに、シャノヴスキー参謀少佐は仕事をこなすばかりだった。憎悪はある筈だ。それぐらいタネーチカ政治委員にも分かる。

 だが、けれど。シャノヴスキー参謀少佐は、本当に将校として清廉潔白な人物だった。私心を表に出さず、個人の感情がどうあろうと、それを職務に持ち込まないだけの職業倫理を堅持していたのだ。

 

 だから、タネーチカ政治委員は怒らせたくなったという。感情を吐き出して欲しい。ぶつけて欲しい。そうすれば、崩れかけたものを積み上げられる。帝国の支配。覇権国家の隣に見える敗戦国の絶望。特権階級と人民の間にある格差社会。

 論理からでない、精神の支柱を維持できる機会を欲しての言葉に、シャノヴスキー参謀少佐はペンを置いた。

 

「憎いとも。誰よりも、何よりも憎いとも」

 

 解放者を謳いながら搾取し、指導者を謳いながら身内を殺めたお前達を、私は終生許さない。そう打ち明けるのは、貧しくも愛しい我が家を離れねばならなかった貧農の倅。

 知己を、縁者を頼りに遠く離れた帝国に辿り着くまで、艱難辛苦の道のりを歩み、今や軍大学を卒業して佐官とまでなった勤勉なる男から告げられた真実に、タネーチカ政治委員は何も言えなかった。

 始まりは高潔だった? いいやまさか。始まりからして共産主義者(おまえたち)は歪んでいたよと、他でもない被害者の口から克明に語られる。

 帝国のプロパガンダでもない。実際に連邦領に入ったこともない人間が、亡命者からの伝聞で知ったように口を利くのでもない。

 フート・シャノヴスキー参謀少佐は、彼の一家は、親類縁者は被害者だ。

 自分達が何をした? ただ日々を懸命に、慎ましく生きていく事が共産主義者(おまえたち)の倫理から外れる罪深い行いだったのか?

 タネーチカ政治委員の最後の縁。最後の拠り所。最後の希望を粉微塵に砕かれた。

 そして、シャノヴスキー参謀少佐は余計なことまで口にした。

 

「何故大佐殿が共産主義に理解を示したように()()()と思う? お前達の主義思想が、観念的な世界にしかないものだと伝える為だよ」

 

 夢を見て他人に迷惑などかけるな。自分達の目的達成に無辜の民を巻き込むな。

 シャノヴスキー参謀少佐の言いたいことは分かる。私自身、そうした意図があったからこそここまで持ってきた。

 だが、その答えは告げるべきでなかった。それは押し付けられたものでなく、タネーチカ政治委員本人が自覚し、結論に至ったと()()させてこそ意味あるものだった。

 そう結論が出るよう、誘導されたと考えた時点で……。

 

「成程、全ては仕組まれていた事だったと」

 

 こうなる事は、目に見えていた。タネーチカ政治委員は活力を取り戻した。全ては帝国将校の陰謀であり、共産主義の芽を摘みたいが為に、袋小路に陥らせただけだと夢想する。

 

「そうやって、逃げ続けるのだろう?」

 

 目の前で被害者が語っても。自分自身では前途ある未来を想像できなくても。

 

「ずっと、思想に耽溺しながら人を殺し続ける」

 

 逃げ道が出来たら、安易にそれに寄りかかる。どれだけ厚顔で無知蒙昧なのかと吐き捨てて、この手で殺してやれたなら、どんなに楽かとシャノヴスキー参謀少佐は嘆いた。

 

「だが、私は帝国軍将校だ」

 

 将校として、軍規には忠実でなければならない。如何な過去があろうとも、私情を理由にして暴行を加えることも、暴行を()()()()ことも許されない。

 

「何故貴官だけに、このような優遇が許されていると思う? 政治将校というものはな。とことん連邦軍に憎まれているからだ」

 

 一日収容所に置けば、その日から暴行と強姦のフルコースが用意されることだろう。開戦と同時に党員になることを志願した者たちであっても、内に滾る憎悪は決して消えはしない。彼らは自己利益の為に党員になったのであって、党も党の犬(チェキスト)も好きではないのだ。

 

「今からでも収容所に連れて行っても良い。監視の陰で、どのような目に遭うかは想像出来るだろう」

 

 脅しではない。それ程までに政治将校に対する、連邦軍の怒りは深い。帝国軍のプロパガンダをタネーチカ政治委員は悪質なデマと考えていたのかもしれないが、それ以上のことがオストランドでは行われていたのだから。

 だが、私の同調が欺瞞だと知った時点で、そのような不都合な真実にタネーチカ政治委員が聞く耳を持つ筈がない。

 

「私は政治将校として、正しく行動してきました。他の将校もまた、党に忠誠を誓った以上、そうあれかしと行動している筈です」

 

 本来なら、政治将校が何を行い、連邦軍がどのような行為に走ったかは、タネーチカ政治委員がこちらを信頼してから打ち明ける筈だった。

 狂信的イデオロギーというフィルターを取り除き、真実をその目に焼き付けることで、初めて政治将校としての地位を手放そうという一歩を用意出来た筈だった。

 

 だというのに、全ては水泡に帰してしまった。私も共産主義への同調が嘘偽りであったことを語る用意はあったが、それはタネーチカ政治委員が共産主義という麻薬と縁を切ってからの予定であって、この時点ではまだ早すぎる。

 再び麻薬に手を伸ばしたタネーチカ政治委員を、一体どうやって、シャノヴスキー参謀少佐は改心させる気だったのか。後で知らされた報告に、当時も耳を傾けたものである。

 

「ならば、貴官と共にあった将校に尋ねると良い」

 

 

     ◇

 

 

 後日。前線の頃と違い、血色の良くなった砲兵中隊の指揮官にして、自らが指導──正確には監視だが──を任されていたコチェグラ砲兵中尉は、タネーチカ政治委員の顔を見て笑顔を浮かべた。

 そして、タネーチカ政治委員の体調や様子に問題ないと知るや、コチェグラ砲兵中尉は要求を聞き入れてくれた帝国軍に感謝を述べて席に着いた。

 

「同志中尉。私の為とは言え、そこまで帝国軍に媚びずとも良いのですよ?」

 

 帝国は軍規に反しないと公言してはばからず、それをプロパガンダとして国内外に示している。血の匂いは外にバレる以上、タネーチカ政治委員はたとえ自分が死ぬとしても、それがやがて帝国の非道を世界に伝える一助になる筈だと説いた。

 シャノヴスキー参謀少佐が傍にいながら、そのような発言が出来た豪胆さには目を剥かずにいられないものだが、麻薬に再び手を出した以上、怖いものが無くなっていたのかもしれない。とはいえ、だ。

 

「政治委員殿」

 

 頭に同志という言葉を付けなかったこと、他の何よりも互いの絆を、紐帯的信頼を表明する単語が苦楽を共にした筈のコチェグラ砲兵中尉から取り除かれたことは、タネーチカ政治委員に少なからぬ衝撃を加えた。

 

「どうか、党への忠誠を捨てては頂けませんか?」

「なにを」

 

 馬鹿なことを、とタネーチカ政治委員は激怒しかけ、すぐさま、はっとしたようにシャノヴスキー参謀少佐に視線を向けた。何を吹き込んだ。どのような手を使った。そう問いたげな視線に、参謀少佐は笑いもせず頭を振った。

 

「政治委員殿、これは私の偽らざる本心です。我々の行いは、唯の侵略でした。ルーシー帝国時代の支配域拡大と、何ら変わらぬものです。このような戦争に祖国の血を流す意味を私は見出せません」

「同志中尉。貴官は敵に惑わされているだけです。我々の行いは侵略ではありません。それは帝国の工作行為です。我々は帝国に攻め入られたのですよ? 祖国がインペリアリズムの脅威に晒されていると、私は何度も党の説明を原隊の皆に語って聞かせた筈です」

 

 実際、ルーシー連邦ではそういう事になっていた。侵略戦争では士気低下が著しいが為に方針を転換して、『帝国が侵略行動を目論んでおり、それに対抗する為の先制攻撃だった』と説明を続けていた。しかしだ。

 

「それを真に受けていた兵は、一人として居りませんでしたよ?」

 

 誰もが黙し、死んだ魚のような瞳で淡々と、馬耳東風とばかりに流していた。まともな軍事計画も立てず、党のプロパガンダ教育を延々垂れ流す政治将校らに呆れつつも、それでも話を聞くだけで半日が終わるならと、皆サボタージュの時間だとばかりに呆けていたそうだ。

 

「政治委員殿は、中途から中隊に派遣されたので知る由もなかったでしょうが、私もまた奇襲に参加した一人なのです」

 

 帝国軍は連邦軍侵攻の情報を掴み、兵を配置していたが、あくまで防衛目的であった。だからこそ、コチェグラ砲兵中尉は今も生きて捕虜になることを許されている。

 

「帝国軍が本気で侵攻する気であったのなら、私はとっくに骸を晒していたでしょう。ダキアも一時的にさえ手にすることは叶わず、国境で防御を固められていた筈です」

 

 連邦軍によるスオマ侵攻の大成功以降、軍部が地位を固める事を良しとせず、共産党は軍部の大粛清を敢行した。スオマ侵攻の勲一等にして『赤いナポレオーネ』とまで称された連邦の英雄は処刑され、その他の有力な将校たちも皆強制収容所(ラーゲリ)へと送られた。

 結果、連邦軍は数こそ多くとも現状は張子の虎であり、帝国軍の反撃によって当然の如く甚大な被害を被った。

 

「初回で一撃を加えられた時点で、おかしいとは思わなかったのですか? 帝国軍は、私達の侵攻を知っていました。防衛戦争という大義名分を得る為に、始まりの砲火を我々に撃たせたのです」

 

 正直、自分は嫌だった。列強各国に囲まれながらそれらを斬り伏せ打ち倒し、覇権国家の地位を手にした軍事国家と一対一で矛を交えるなど正気ではないと、コチェグラ砲兵中尉は吐露し出した。

 

「それは帝国の誘いです。先鋒はそれに気付けなかっただけです。協商連合を見なさい、同志中尉」

 

 軍隊とは事前の計画なしに、自由に動けはしないもの。レガドニア協商連合の越境から始まる反撃に、複数戦線での瑕疵無き防御と反攻。まるで全て初めから敵の出方を知り、その上で殴ったようにしか見えない勝利の数々こそ、訝しむべきだとタネーチカ政治委員は反論した。

 

「帝国軍は大規模侵攻を計画していた()()()。でなければ、あんな勝利は有り得ない」

 

 これはタネーチカ政治委員の間違いでもあり、同時に正しくもある。

 帝国軍は大規模侵攻など計画していなかった。帝国空軍の編制状況を見れば分かる通り、何もかもが非常事態の連続で、だからこそ協商連合との開戦時も、防御を固めつつ戦線を整えて戦うしかなかった。

 ややもすれば終戦は成らず、じりじりと追い込まれて摩耗し、未だ複数戦線の脅威に晒されている状況下でルーシー連邦と矛を交えていたとしても、何ら不思議はなかったろう。

 しかし、帝国は勝利した。時に作戦が、時に運が、そして次々と投入される新兵器が戦況を打開し、困難を克服し、遂には覇権国家の地位さえ手にしてしまった。

 

 戦後、歴史家の多くは帝国の勝利を当然の帰結とは見なかった。

 最高統帥会議に集う主要な文官は勝利こそ希求し、財政負担を鑑みつつ戦費を捻出し続けたが、肝心の国家戦略を築かず軍部に投げ、軍部もまた各戦線の勝利を最優先としつつも、文官と同じく統一した指導理念を中央大戦開戦時点では有していなかったのである。

 

 黄金期を象徴する人材。流動的情勢の中での天運。それらが噛み合い、最終的に戦争遂行に対する威権を有した小モルトーケ参謀総長が、帝室と軍、そして政府を終戦までその勢威でもって牽引したことで挙国一致し、『最終的な勝利』に帝国は到達した。

 損耗比や戦果といった数字の上でこそ大勝利と呼んで差し支えなかったものの、それらは薄氷の上を渡り切った結果でしかなかったとは、後世における全ての有識者が意見を一致させるところである。

 

 こんな勝利、陰謀なくして手に出来るものかと吠えるタネーチカ政治委員は正しい。だが、こと防御に関してだけは例外だ。

 

「政治委員殿。帝国は四方を仮想敵国に囲まれた国ですぞ。隙を生じさせることは、亡国の道を辿る事と同義です。軍事国家たる彼らがそのような愚を犯したならば、我々が殴りかかるまでもなく、滅び消えていたでしょう」

「同志中尉! 貴方は一体どちらの味方なのですか!?」

 

 問わずとも。聞かれずとも分かるだろうに、タネーチカ政治委員は激高した。答えを知れば、追い込まれるのは自分だと分かっていながら、問わずには居られなかったのだろうが。

 

「私は『祖国』の味方です。そして、出来る事ならば同胞たるタネーチカ中尉にも、その一員となって頂きたい」

 

 横から卓上に載せられるのは、義勇軍への志願書の束。そこには既にコチェグラ砲兵中尉の、そして捕虜となった彼の原隊員全員の名が連なっていた。

 

「党を、裏切るのですか……?」

「私は軍人です。祖国の為ならば幾度でも死地に赴き、命を擲ちましょう。政治委員殿を前にして口にする事は憚られますが、敢えて言いましょう。共産党など、共産主義など糞くらえだ」

 

 タネーチカ政治委員が派遣されるまで、コチェグラ砲兵中尉は幾度となく地獄を見てきた。敵の手によって作られる地獄でなく、党の犬(チェキスト)によって作られる真の地獄を。

 

「戦友は何の罪もないのに、粛清されました。多くの友人も餌食になりました。そうならないよう、私は党員になって模範的に尽くしてきましたがね」

 

 しかし。去っていった友たちの顔は覚えている。そして、何の力にもなれず、息を殺し続けた自分がどうしようもなく情けなくなったともコチェグラ砲兵中尉は自嘲した。

 

「政治委員殿には、何度も助けられました。本来なら、攻勢の失敗は政治将校からの銃弾で贖われる筈だったのですからな」

 

 だから、今もこうして誘っている。捕虜として寛大な措置を帝国軍に訴え、今もまた戦後を見据えて、仲間になろうと声をかけている。

 

「政治委員殿の誠実さは、地獄に()使()を見た気分でしたよ」

 

 もはや、党への面従腹背を隠す気もないのだろう。宗教を否定する立ち位置だった元党員は党員章も階級章も既になく、ポケットから出したロザリオを首にかけて笑い出す。

 

「政治委員殿。重ねて申し上げます。貴女は善き人だ。私は幾度となく宗教を否定する貴女にも神のご加護をと祈っておりました。

 貴女は神を否定し、救わねばならない人民から食料を取り立てる党とは違う。隣人を愛し、思いやり、差別のない世界を上辺だけでなく心から願える方でした」

 

 きっと、死後は神の国に行ける。タネーチカ政治委員自身がそれを否定していても、その善き行いと祈りは、宗教の道に通じるものなのだとコチェグラ砲兵中尉は訴えた。

 

「お黙りなさい。中尉」

 

 タネーチカ政治委員は、しかしそれを否定する。爛々と燃える瞳は憤怒であり、また決別の表明でもあった。同志とは呼ばぬことこそを、最大級の表明として。

 

「随分と、ふくよかになられた事ですね。一体、幾ら帝国から貢いで頂きましたか?」

「はっ! 農家から散々巻き上げては村々を餓死させた党の犬(チェキスト)にそれを言われようとは!」

 

 そして、コチェグラ砲兵中尉もまた救いの手を伸ばす事を止めた。タネーチカ政治委員には恩も、義理もある。しかし、それはこれまでの間に十分返済した筈だ。それでも尚このような言葉を返されるようでは、もはや救いなどないと諦めた。

 

「アカデミーでの食事は随分と量の多かった事でしょう。人民が血を絞りながら、口に運べなかった食事をその腹に収めて美貌を保っていたのですからな」

 

 立ち上がり様に椅子を蹴り、もう二度とお会いすることはないだろうと切って捨てた。

 

「シャノヴスキー少佐殿。今日までのタネーチカ政治委員殿の優遇措置を受け入れて下さり、感謝致します。しかし、帝国も懐に余裕は御座いますまい。彼女は既に他の将兵と比して、格別の高配に与っております。

 人民の見本たるタネーチカ政治委員には、そろそろ格差のない生活を体験して頂いても宜しいかと」

「コチェグラ中尉。それを決めるのは帝国軍であり、我が上官たる大佐殿である。貴官は捕虜の扱いなど気にせず、祖国解放の一助を担い給え」

「はっ。過ぎたことを申し上げました」

 

 敬礼と共に憲兵に連れられて去るコチェグラ砲兵中尉。その背を、裏切り者とばかりに睨みながらも、しかしタネーチカ政治委員は目に見えて覇気を失っていた。

 自らの思想は否定された。党の始まりも、行いも、祖国の戦いも、全て敵と味方の双方から否定されてしまった。

 

 残るものは、何もなかった。

 



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59 敵との恋-別の道

※2020/3/13誤字修正。
 すずひらさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!



 白く清潔な一室は重い空気に満ちていた。コチェグラ砲兵中尉との離別から、俯いて歯を食い縛るタネーチカ政治委員の対面に、シャノヴスキー参謀少佐は座り込んだ。

 

「これが現実だ。コチェグラ中尉の言った通り、貴官を特別扱いすることは、人道的には兎も角、捕虜にしては過ぎた厚遇だということは事実であると留意してくれ」

「なら、収容所に送ればよろしいでしょう」

 

 自分の希望が必要だというのなら、そうしよう。例えそれで本当に連邦軍に暴行と陵辱を受けるのだとしても、それが政治将校の犯した罪故というのならと、投げやりにタネーチカ政治委員は漏らした。

 

「繰言だが、私は帝国将校だ。捕虜の私刑などという、軍規に悖る行為は認められん」

 

 タネーチカ政治委員は、呆れたような吐息を漏らした。

 

「散々苦しませて、絶望させて、死なせてもくれないのですね」

 

 何故、こんな事をするのか? 憎いのだろう。本当に、殺してしまいたいぐらい憎いのだろう。その憎しみは本物で、その怒りは正しくて、けれど軍規に反するから、それが出来ないのだろう。嗚呼、ならばと。そこから先、タネーチカ政治委員が取った行動は追い込まれた人間らしいものだった。

 勢いよく飛びかかり、首を両手で締めようとした。手錠さえかけず、常日頃からこの一室では自由に過ごさせていたのだから当然だ。だが、音を立てても憲兵は部屋に踏み込まず、シャノヴスキー参謀少佐は瞬時にタネーチカ政治委員を拘束してみせた。

 

「気は、晴れたか?」

 

 机に抑え付け、拳銃を後頭部に押し付けながら、シャノヴスキー参謀少佐は問う。引き金に指をかけ、何時でも発砲できる状態ではあったそうだが、一連の動作は当人の意思でなく、身に染み付いた無意識からのものだったそうだ。

 

「殺しても、軍規には反さない筈です」

 

 楽にしてくれという哀訴。復讐を遂げろという挑発。そのいずれにも、シャノヴスキー参謀少佐は靡かなかった。

 

「私は、帝国軍将校だ」

 

 怒りはある。恨みはある。しかし名誉も持っている。その名に反する行いは出来ないと、そう述べて、ゆっくりと銃口を後頭部から離した。

 震えた手が、見えないように。泣きそうになっている自分の顔が見えないように、背後に回りながら拘束を続けた。

 

「タネーチカ政治委員。貴官は、何故共産主義に拘泥する?」

 

 それさえ。その一つさえ諦めてくれたなら、憎悪を抱き続けずに済んだのに。過去と、敵とタネーチカ政治委員を分けることが出来たのにと、口にはしなかったがシャノヴスキー参謀少佐は心中で嗚咽していた。

 

「他に、道があるのですか?」

 

 飢えた人民を。格差の広がり、特権の支配する世界を、肯定しながら生き続けろと?

 そう問いたげなタネーチカ政治委員に、シャノヴスキー参謀少佐は吼えた。

 

「あるだろう。幾らでも、どんな道だってあった筈だ!」

 

 人民を救いたいのなら、格差が憎いなら、革命家(テロリスト)の思想に傾倒する必要などない。共産主義は間違いだ。その道の果ては断崖で、五里霧中の夢を彷徨った挙句に落下死の未来しかもたらさない。

 

「国境なき思想。人民全てが兄弟姉妹として、一つに纏まる理想郷……人間は、そんなに綺麗なものではないだろう?」

 

 家に鍵をかけるのは、他人が物を盗ると考えるからだ。

 銀行に金を預けるのは、奪われないようにするためだ。

 

「人が上に立てば、腐敗する者は出る。導く立場の者とて、それは変わらない」

 

 暴虐。腐敗。国家の停滞。失敗を続けながらも過ちと認めず、それを続けてしまうのなら、それは人民にとっての害でしかない。

 

「だが、貴官は多くを学んだ。そして、学んだ事が過ちだと気付けた」

 

 ならば、それを活かすべきなのだ。共産主義を、宗教でも政治思想でもなく、再び学問の世界に戻してしまえば良い。間違えていた学説を否定し、その上で、新しい道を模索することは出来る筈なのだ。

 

「たとえば、これから先は筆を取れば良い。世界を変えたいのなら、血を流さずとも出来る事はある筈だ」

 

 経済学を改めて学びながら、格差の問題を世界に訴えることも出来るだろう。

 

「行動せずにいられないのなら、教職の資格でも取れば良い」

 

 貧しい者、身寄りのない者の為に孤児院で教鞭を執ることも出来るだろう。

 他にも、他にも、シャノヴスキー参謀少佐は血を流さず、腐敗も蔓延らぬ『健全な』道を語ってみせた。

 

「そうする間にも、支配階級は肥え太ります」

 

 競争は失業者を生む。企業の専横は、多くを飢えさせてしまう。

 

「それは、社会主義国家でも同じだ」

 

 競争もないままに特権階級がのさばり、支配者の専横はいつまでも続く。自由競争故に格差の付いて回る資本主義社会と比べても、誰もが飢え続ける思想の方が正しいとは決して言えない。

 

「一足飛びで、世界を変える手段などないんだ」

 

 改革とは地道に、懸命に進んで、ようやく一歩前に進めたと思えば、もう当事者は老いている。だから次に、その次にと託し続け、そうやって牛歩の如くゆっくりと進み続けるしかない。

 

「……分かっては、気付いてはいました。それでも私は、目に見える人を救いたかった」

 

 今は無理でも、未来ならと、先に託す者達は言う。けれど、その今の犠牲を許容できない程高潔だったからこそ、タネーチカ政治委員は共産主義に縋るしかなかったのだろう。己の義務に、政治委員としての使命に背理することに耐えられなかったのだ。けれど。

 

「悲嘆は十分しただろう。そろそろ、前を向く頃合だ」

 

 拘束を解き、機会は与えるとシャノヴスキー参謀少佐は告げた。

 

 

     ◇

 

 

 この後のシャノヴスキー参謀少佐は、当時帝国軍で一部の軍人にのみ適用される通信教育制度を、タネーチカ政治委員にも受けさせて欲しいと私に頼み込んできた。

 この制度は長きに渡る保護領や係争地での小規模紛争や、中央大戦による徴兵故に早期に学位を取得したくともに叶わない者、或いは不名誉除隊以外の理由で除隊した後、取得資格を活かして国家に貢献する事を望む退役軍人に対する措置だったが、幾つかの条件がついて回る。

 

 まず、この制度を利用する上で帝国にどのようなメリットがあるかを提示すること。前線に試験官を送ったり、論文等を配達したりといった諸々のコストを希望者でなく国家が負担する形式である為──これは徴兵義務に対する報酬の一環という面がある──綿密に精査される。

 二つ目は、通信教育制度を受けるだけの素地があるかの試験があり、これは原隊指揮官が書類を寄越して貰い、憲兵の監視下で受けさせるだけなので楽な部類である。

 しかし、最後の条件が問題だ。

 

「要項はしっかりと確認したまえ。通信教育による学位取得は、『帝国国籍』を持つ『現役将兵』に限られるのだぞ?」

 

 現役将兵という部分は義勇兵になれば通る。しかし、帝国国籍に関しては難しい。

 独身のまま取得しようとするならば、義勇軍参加後に帝国軍籍を正式に取得し、義勇軍参加から計五年の入営年数を経験。更にその間の税金を納めることで、初めて帝国国籍を獲得出来る規定となっていた。

 

「貴官がタネーチカ政治委員と結婚でもすると言うのなら、すぐにでも手に入るだろうがね」

 

 敵の捕虜と、数ヶ月会っただけの佐官が結婚など上が認めるかどうか。何より受理されたとしても、手続きで相当に時間を食ってしまう。

 

「私や貴官も、何時までもレガドニアに居座る訳にはいかん。結婚が受理される頃には、前線に配置される可能性もある。いや、その可能性が高いのだぞ?」

 

 こうして説明を続けるのは、シャノヴスキー参謀少佐にタネーチカ政治委員を忘れろと意地悪を言っているのではない。私としても、参謀少佐の気持ちを知った上で任せたのだから意思を貫いて欲しいところだが、選択肢を説明するのも上官としての義務だからだ。

 

「政治将校には伝えてあります。私には相手などおりませんし、形だけの結婚で構わないと考えております」

「共産主義者には、憎悪しかないと言ってはいなかったか?」

 

 この問いに関しては意地悪だ。シャノヴスキー参謀少佐はバツが悪そうな顔をして「主義者でなく、戦友となっても良いというのであれば無下には出来ません」と小さく語った。

 

 シャノヴスキー参謀少佐の意思は固いようだが、タネーチカ政治委員当人の意思はどうなのか。私は参謀少佐を強引に連れてタネーチカ政治委員の元へ赴き、本当に本人の意思なのかと問うたが、彼女も満更ではないらしい。

 

「結婚など社会契約でしょう。帝国法では離婚も認められておりますし、義勇兵も適性によって任地が変わると伺っております」

 

 自分は後方勤務に回されるだろうと語ったタネーチカ政治委員の自己分析は正しく、彼女は後に運転技術を買われて、輜重科へと回されることになる。

 但し、正式に職務を任されたのは任官から半年後であり、それまでは他の捕虜と同様に敵味方を問わず戦死者の埋葬作業に従事させられた。

 そこでタネーチカ少尉は、連邦軍の帝国軍人に対する残虐行為を目の当たりにし、党との決別を決意することになるのだが、それは後の動機であって、今の動機ではない。

 

 コチェグラ砲兵中尉の勧誘には靡かなかったというタネーチカ政治委員が、一体どうして急に方針を変えたのだろうかと、当時の私はそれとなく訊ねてみた。

 

「人民のため。その思想は、今もあります。ですが、共産主義に具体案を見出せない以上、私は人民の為に別の道を模索せねばなりません」

 

 祖国と同志に背を向けろというだけなら首を縦に振る事は出来ないが、支配階級の専横を少しでも改善する一助になる為の道が用意されるなら、取捨選択の余地はあるという。

 

「尤も、大佐殿に対しては、思うところもありますが」

「正直でなかったことは謝罪するが、共産主義が碌でもないものだという意見は曲げられん。私は貴族だが、人民が飢え、支配者以外の全てが苦しむ政治思想など認められんよ」

 

 恨めしげに語るタネーチカ政治委員に、私は歯に衣着せず本音を打ち明けた。彼女一個人に恨みはないが、国家を破綻させる主義思想が、帝国を席巻する事は認められないとも付け加えて。

 

「当人の意思に問題ないのであれば、これで失礼するよ、タネーチカ『元』政治委員。偽装結婚に関しては言いたい事もあるが、そこは個人の道徳と当人同士での問題だ。私個人としては、これ以上口は挟めん」

 

 出来れば両想いとなって、シャノヴスキー参謀少佐にとっての本物の花嫁になって欲しかったのだがなぁと、この日の私は内心で肩を竦めた。

 

     ◇

 

 

 しかし、私の落胆とは裏腹に、いざ結婚という段になれば二人は本物の恋仲になっていた。

 初めは共産主義の脅威を取り除く為に、私もシャノヴスキー参謀少佐も骨を折っていたのだろうとしか考えていなかったタネーチカ政治委員改め、ルーシー解放軍少尉に任官したタネーチカ少尉だが、流石に義理で動くにはシャノヴスキー参謀少佐の積極性は説明がつかないと気付いたようだ。

 

『何故、憎い私にここまでしたのですか?』

 

 敵だったタネーチカ少尉が手紙で問えば、シャノヴスキー参謀少佐は手紙で本心を打ち明けた。敵であり、縁者の敵であり、共産主義の尖兵であると分かっていながら心奪われてしまったこと。意識しないよう、意図的に冷たい人間に見せていたこと。

 形だけの関係でも繋ぎ留めたかったことなど、赤裸々な告白をしたそうだが、生憎他人の私信に目を通す訳にも行かない上、野戦郵便局の検閲官も一人一人の手紙の内容まで覚えている筈もないので、何処までが本当かは分からない。

 確かなのは、二人は何処かのタイミングで本当の夫婦となる事を決意し、戦火の続く日に別々の地で結婚したということだ。

 

 彼らの結婚が受理されたのは一九二七年の六月であり、奇しくも帝国と連邦の開戦という忌まわしい月であったが、シャノヴスキー参謀少佐は満面の笑顔で、分厚い黄色の封筒を私に見せてきた。

 帝国が両者の結婚を認める公用書簡であり、これさえあれば遠隔結婚が認められるのである。私と空軍将兵は分列行進でシャノヴスキー参謀少佐の結婚を祝い、従軍司祭は即席の説教壇で、シャノヴスキー参謀少佐とタネーチカ少尉を夫婦とする事を認めた。

 

 私と戦友達は司祭様の厳かな説法の後に和気藹々と祝福し、出来得る限り豪勢な食事を摂って祝ったものである。私からも個人的にシャノヴスキー参謀少佐にコニャックを渡し、心から結婚を喜んだ。

 

 

     ◇

 

 

 だが、こうして一つの恋が将来成就することを知らない私は、一通の便箋を協商連合勤務の折に受け取って顔を青くした。

 自分の人生でも、一、二を争うであろう窮地に私は追いやられているのである。

 

 ……私は、婚約者から浮気を疑われていた。

 



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60 ターニャの記録20-サラマンダー戦闘団

※2020/3/14誤字修正。
 ドン吉さま、佐藤東沙さま、すずひらさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 私こと、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフがどのような人間であるかと問われれば、本著に目を通す以前の経歴や発言でしか私という人間を知る機会の無かった読者諸君は、ルーシー戦役での、より正確には、後年の帝国軍最強戦闘団の呼び声が高かったサラマンダー戦闘団指揮官としての顔を想像する事だろう。

 

 結成式を終えた戦闘団は基幹たる第二〇三航空魔導大隊と合流し、団員は後の英傑たる経歴に相応しい初陣を見事ダキアで飾ってくれたが、始めのうちは誰もが新編団員を帝室の飾りという色眼鏡で見ていた事は否めなかった。

 規則正しく揃った足並み。打てば響く言動。折り目正しく着こなされた軍服は、正しく玩具箱の兵隊という揶揄そのものであり、私とて彼らの誰もがその瞳に獣を飼っている事に気付けなかった。

 

「かの白金十字大隊と轡を並べられるとは、光栄の至りであります」

 

 教本通りに踵を鳴らして敬礼する戦車兵服を纏う大尉は、元は第二近衛歩兵連隊所属だ。帝室警護と帝都の防衛に就く戦車長としての訓練以外では、アスファルトや石畳でガチョウ行進(グースステップ)と敬礼を繰り返す、煌びやかなお仕着せが如何にも似合いそうな金髪碧眼の青年将校だった。

 この大尉に限らず、実戦経験が圧倒的に不足している近衛将兵が何処までの物かと値踏みしつつ、私は大尉の賛辞に佐官としての礼で以って返した。

 

「何。皆、否応なくラインの砲弾で鍛えられたものでね。どのような凡夫であろうと、生き残れば古強者だ」

 

 差し障りの無い謙遜は、嘘と真実が半々といったところ。私が中央参謀本部直轄の大隊を新編するに当たって、精鋭たるべく厳選を重ねて鍛え上げた人員は、初期の頃から十二分に魔導師としての勤めを果たすに足る面々だったが、やはり実戦経験には乏しく、初めの頃は難儀したものである。

 それが今となっては大尉が口にした通り、中隊長全員が全帝国軍人の憧れの的である白金十字を首にぶら下げている始末だ。

 

 セレブリャコーフ大尉に至っては、モスコー襲撃の勲一等──私の査問会議後、大隊員は全員任務達成の正当な評価を得た──と出撃回数を評価され、剣付白金十字を。

 ヴァイス少佐──私の大隊不在中、指揮権を移譲せねばならなかった為、前倒しでの進級となった──などは剣付白金十字に加えて、ライン戦線で銀翼突撃章まで受章しているのだ。

 大隊発足からこちら、中隊長も含めた幾人かは戦力過多と各部隊からの強い希望故、その都度引き抜かれてきたが、それでも比較的新顔のグランツ中尉でさえ、ライン戦線では魔力に一切依存することなく粛々とシャベルで敵魔導師を沈黙させては戦果を重ね、白兵特級突撃章と一級鉄十字勲章を受章した、筋金入りの戦争犬である。

 吠えず、音を立てず、首筋に噛み付いて息の根を止める猟犬の妙をかくも心得ているグランツ中尉には、ヴァイス少佐も見事なものだと太鼓判を押すほどだ。私は内心引いたが。

 

 

     ◇

 

 

 基幹の大隊員は初となる諸兵科連合という事で、各兵科を任されている将校との意思疎通に余念がない。近衛からの人員はこの点、気位の高さから馬が合わないのではないかと一抹の不安を抱いていたが、それは杞憂に終わった。

 彼ら近衛にとってはどの部隊の出身かではなく、軍歴と勲功、すなわち当人の有為無為こそが唯一の評価基準だった。実戦経験に乏しい近衛出身者は、自分達と比して現場の大ベテランたる第二〇三航空魔導大隊に噛みつくような不届きは全くなく、現場を知らない将校特有の、理屈倒れで知恵の無い質問も口にしない。

 かといってそれは、萎縮や思考放棄でもないのだ。各兵科の責任者はその都度大隊員が、そして我々の上位者たる軍指導部が何を求めているのかを常に熟考して発言し、戦略的視点という俯瞰視座を持って高次の質問を私に投げてくるので、私も大隊中隊長らも良い意味で気の抜けない同僚と部下を持つことが出来た幸運に心から感謝した。

 帝国軍内での近衛は、冷笑的で居丈高だという風聞をよく耳にしてきたものだが、それが無能共のやっかみに過ぎなかったと、この時の私や大隊は深く痛感したものである。

 

 ただ、何事にも例外と言うものはある。例えばそれは、教導隊から出向してきた将校だが、これは当人に問題があるという訳でなく、純粋に立場から気まずいというのが一部大隊員の本音だった。

 特に、当大隊の中でも勲功抜群のヴァイス少佐が表情を引き攣らせる様など、中々拝めるものでもない。

 

「ヴァイス少佐殿。先に敬礼を捧ぐ立場となりましたこと、一教官として感激の極みであります」

「リービヒ教官殿の、ご指導があればこそです」

 

 教導隊から引き抜かれるとなれば、こういう事もあるだろう。尻に殻の付いたヒヨッコ時代。時には怒号を以って、時には慈愛を持って接して下さった教官殿が、部下として回されるなど、やり辛いと言ったらない。

 教官の側からすれば純粋に教え子の成長を喜び、祝福しているのだが、今後はその教官を部下として扱わなくてはならないとなれば、ヴァイス少佐の胃の痛みもよく分かる。

 たが、軍隊というのは部下も上司も選べないのだから、受け容れていくしかない。幸いにしてリービヒ大尉といえば、撃墜王(エース・オブ・ザ・エース)までリーチをかけながら教官に就いたという、二つ名持ちの大ベテランだ。

 個の実力としても将校としても、これ以上ない戦力となってくれるだろう。勿論、教導隊のアグレッサー部隊として活躍していた他の下士官らも含めて。

 

 

     ◇

 

 

 個の実力としても将校としても、新編魔導師達はこれ以上ない戦力となってくれた。それも、リービヒ大尉ら教導組だけでなく、派遣された全員がだ。

 サラマンダー戦闘団の初陣は、ダキア大公国に進軍する連邦軍を最前線に釘付けにする為に戦果を重ねるか、或いは遅滞戦闘に努める事を命じられたが、いずれも一切の瑕疵なく任務は遂行され、あろう事か損耗はゼロ。軽傷者すら一桁と言う有様で、誰もがこの戦闘を栄光の賛歌として感激に浸っていた。

 

“いつから私はプロパガンダ映画の撮影会場に迷い込んだのだ?”

 

 新編魔導師らは実に手に馴染むとStG26Mを絶賛しつつ、未熟な連邦軍魔導師の悉くを撃墜し。戦場音楽を奏でるべき砲兵は初弾で敵部隊に壊滅的打撃を与えつつ、機敏かつ規則正しい砲音が耳をろうして閃光を走らせ。

 突撃歩兵は臆することなく敵陣地を奪って、勇躍銃剣とシャベルをかざし、死体累々の山をなす始末。

 そして、冒頭で私に口を利いた戦車長たる大尉はと言えばだ。

 

「指揮官殿。当作戦決行前に要望がございます。我々戦車部隊に、行進間射撃をお許し下さい」

「大尉。戦車と突撃砲の行進間射撃は、陸軍司令部より禁止されている筈だ」

 

 だが、大尉は譲らなかった。もし我々の隊に一輌でも外す者がいれば、手持ちの嗜好品を第二〇三航空魔導大隊全員に振る舞うとまで豪語したのだ。

 

「覆水は盆に返らず、吐いた唾は飲めん。それを理解しているのかね?」

 

 懲罰も覚悟すべきだ。訓練でどれだけの成績を出そうと、実戦では違う。私は大尉の提案を耳にしたとき、そして、こうして暗に止めている時、大尉の評価を下げざるを得なかった。

 やはり我が強い。エリート特有の、自分なら上手く行く。他の連中よりやれるという過信が表面化したのだろうと疑わなかった。

 私の制止を受けて尚、戦車長たる大尉も、そして近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)第一連隊から引き抜かれた戦車中隊全員も自信満々に首肯する様など、ブリーフィングに集った魔導中隊長全員が呆れたほどだ。

 

「……良いだろう。但し、一発でも外したなら、その時点で行進間射撃は停止だ。金輪際、無為無策に弾薬を浪費する事は禁じる」

 

 そして。認められたことに随喜する大尉に、いっそ賭けにしては? と笑ったのは、諸兵科の代表達だ。

 

「何発目に外すかか?」

「全弾命中かどうかです」

 

 賭けにならんと漏らす私を含めた第二〇三航空魔導大隊員に対して、何と他兵科の近衛連中は全員戦車中隊に全額ベットした。

 仲間意識からだろうか? 何にせよ、馬鹿な奴らだと基幹たる第二〇三魔導大隊の中隊長らはこの賭けに乗り……結果、盛大に破産した。

 

 

     ◇

 

 

 戦車一輌辺りの撃破数は平均五輌。対戦車砲三門。うち行進間射撃は多くとも三発だったが、戦車中隊は見事に砲弾を敵戦車の側面や、正面装甲でも脆弱な砲塔下部の隙間にねじ込んでみせた。

 ただ、観測班兼見張りの魔導師によれば、行進間射撃の豪胆さとは裏腹に、戦車中隊は何処までも強かな連中だったという。

 地形を利用した潜伏。傾斜地を下り垂直になった敵戦車への前面射撃。敵戦車の配置を盾にした位置取り。勝利の方程式を確立した上でしか動こうとせず、撃てば必中で、しかも錬度は帝国内でも最高峰と来ていた。

 帝国近衛槍騎兵(ライヒス・ガルデ・ウラーネン)第一連隊からやってきた機甲屋どもならば、その余りに有名な訓練の凄まじさから出来てもおかしくはない芸当であったが、よもや近衛から引き抜かれた機甲屋を含む全員が揃いも揃って化け物だったなどと、一体誰が予想しただろう。

 

「騙された!」

 

 第二〇三航空魔導大隊の中隊長達は地団駄を踏んだが、戦車中隊は何のことですか? と言わんばかりである。

 

「何も全弾行進間射撃を行うとは、一言も言っておりませんが?」

 

 戦車中隊の言い分は尤もだ。第一、行進間射撃は全車輌が行って、しかも外していないのだから文句の付け所は何処にもない。

 当大隊でも生粋のギャンブラーにして、数多の戦友を破産に追い込んだセレブリャコーフ大尉が後々取り戻さなければ、我が魔導大隊は当面嗜好品の類全てを巻き上げられていただろう。

 

 余談だが、セレブリャコーフ大尉は恋を知った私の目から見ると、はっきり言って魔性の女だ。

 色気より食い気とばかりに前線ではブーイングの嵐であるKパン(K-Brot)*1すら美味そうに頬張っていたことから、大隊内ではまだお子様。女としてより預かっている近所の子供ぐらいの感覚だったようだが、戦闘団に規模が拡大してから男共の見方が変わった。

 

 戦闘団の連中、とにかく声をかけるかける。それも行儀作法に則り、美辞麗句を尽くして紳士的に対応するものだから始末が悪い。

 セレブリャコーフ大尉も満更ではないようだったが、結局彼女は軒並み断った。そして、他所様の対応で大隊員達も、遅まきながらようやく彼女の魅力に気付いたのである。

 

 何しろ、伍長として私の下に配属された時は慎ましやかな肉付きだったというのに、今では日々を重ねるごとに女性特有の起伏を良い意味で育たせているルーシー系の美女だ。

 大隊の連中、よくもまぁ今の今まで手の一つも出さなかったものだと感心したものだったが、女としての魅力に気付いていなかった男達は眼球を交換すべきだろう。

 しかも、相手がそういう目で自分を見ていることに気付いた途端、狙いを絞るセレブリャコーフ大尉の狡猾さときたら……。

 

「これで、グランツ中尉は破産確実ですね!」

 

 朗らかに声を弾ませて、下着の最後の一枚まで毟り取る程情け容赦なくグランツ中尉を破産させたセレブリャコーフ大尉だが、彼女を擁護するなら、これはグランツ中尉の馬鹿が悪い。

 セレブリャコーフ大尉とは絶対にカードをしたくないと常日頃口にしていながら、負けたら一晩付き合っても良いと艶っぽい声を出されて盛大に爆死したのだ。

 グランツ中尉曰く、これは遠回しなお誘いなのでは? と。わざと負けてくれる事を期待して釣られたそうだが、ひょっとして男というのは下半身でしか考えられない生き物なのだろうか?

 いや、流石にこれは自分の婚約者を始め、全世界の男性を否定するような発言であるので、素直に謝罪させて欲しい。

 

 ともあれ、ハニートラップの類にこうまであっさりとかかる様では、グランツのアホに高級将校としての適性はないと見るべきだ。

 完全に突っ伏し、慈悲を求める乞食か捨てられた子犬のように情けない負け犬となったグランツ中尉。そして、そんな憐れな馬鹿にセレブリャコーフ大尉はといえばだ。

 

「一生分は、グランツ中尉から取り立てられます。それが嫌なら一生私と居て貰いますけど、どっちが良いですか?」

 

 この時のグランツ中尉は聞き違えたかと顔を上げ、次いでニコニコと笑いながらも頬を染めるセレブリャコーフ大尉を見て、耳朶まで赤く染めて狼狽したそうだ。

 なんともまぁ青いものだと、二人が恋仲になった経緯を酒の席──とはいえ私は未成年なので、飲酒も喫煙も決してしないが──で耳にした私は思ったものである。

 まぁ、青さ若さで言えば、私など到底他人に言えたようなものでもないのだが。

 

 

     ◇

 

 

 余談が少々長くなり過ぎたようだ。

 

 さて。初陣を赫々たる大戦果で飾ったサラマンダー戦闘団だが、蜜月は長く続かない。

 名目上、戦闘団の試験運用という体で組み込まれた近衛将兵はこの初陣での戦果を機として、他の師団が引き抜きにかかったのである。

 フォン・ゼートゥーア中将は当然として、小モルトーケ参謀総長も引き抜きには良い顔はすまいと私は考えていたのだが、両者ともあっさりと私から近衛将兵を取り上げてしまった。

 

 どうやら中央参謀本部では初めから織り込み済みだったらしく、近衛を前線へ随時投入する為に戦闘団に組み込んでいたらしい。

 私としては、これ以上ない部下を早々に手放すのは本意ではなかったが、そも戦闘団とは臨時編制を前提とした部隊である。

 有用な戦力というものは一部隊に収斂するより、分散させたほう良いというのも当然の話で、エリートのみで構成された部隊などというのは、それこそ末期戦にでもならない限りは行うべきでないというのも分かる。

 非常に、本当に非常に口惜しいが、私は後の世にまで輝かしき戦場の星として語り継がれる英傑たちと、ダキアで轡を並べることができた幸運に感謝することにしようと敬礼を交換し、同じ東部で、けれど別の部隊で戦う事になる近衛を見送った。

 

「大尉、壮健でな」

「デグレチャフ中佐殿も」

 

 朗らかで力強く、世の女たちを骨抜きにしそうな程の笑みで、戦車長たる大尉は別れた。さて、一旦話を区切り、ここで、この大尉の正体を打ち明けよう。

 公式撃破数。戦車一五七輌、対戦車砲一五〇門。東部戦線のみで世界最高峰の戦車王の一員に加わり、戦後は戦車学校教官として次代の英雄を育んだ機甲戦の第一人者。

 サラマンダー戦闘団を離れた後、帝国最優にして最強の親衛師団『大ライヒ(GroßReich)』にて無数の武功を打ち立て、戦場の星となった大英雄。

 彼の名は、ミヒェル・ヴェックマン。

 

 人は彼を、戦車殺しと呼んだ。

 

*1
 じゃが芋を混入した戦時パン。栄養価こそ高いが不味く、前線では兎角不評だった。




『ようじょしぇんき』でKパンむしゃむしゃ食べてるヴィーシャちゃんも可愛いけど、原作5巻の扉絵でグランツ中尉をからかうヴィーシャさんも素敵だから両方やってみました。後悔とかあるはずない。
 ところで、読者の皆様はグランツ×ヴィーシャとヴァイス×グランツはどっちがお好みでしょうか? 書籍版の文章だけだと、前者より後者の方が多そうで困る。
 作者は勿論後……いや、どっちでも行けるわ(悪食)

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 ミハエル・ヴィットマン→ミヒェル・ヴェックマン


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61 ターニャの記録21-花言葉は真実の愛

※2020/3/16誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 言うまでもないことであるが、本著はニコラウス・アウグスト・フォン・キッテルの回想記であって、私、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフという幼女の戦記ものではない。

 だというのに何故私の場面に移ったかと問われれば、まぁ、夫から文を引き継いだ時点で察せられる通り、私が浮気を疑ったからである。

 

 ことの始まりは野戦郵便局がニコと、そして私自身は全く面識のない、フォン・エップ上級大将からの便りを届けに来たところからだ。

 この時私は未来の夫にして婚約者の手紙でなく、先にフォン・エップ上級大将の手紙を、恐る恐るの体で開けた。

 今でも鮮明に思い出せることだが、この時の私は手が震えていたし、視線も揺れていた。部下の誰もが家族や恋人からの手紙で喜ぶ中、私は便箋を開けることに怯えていた。

 いっそ、恐怖で金縛りにでもなってしまえば良いのに、手を止めることができなかったのである。

 不予であろうと、士官たるものは泰然自若に努め、表情と感情を切り離さねばならないと、そう常日頃から心得ていても、私には平静を装うことさえ出来なかった。

 

 きっと、この手紙には重要な、けれど知りたくない事が書かれているのだろう。

 

 でなければ、空軍総司令官からの個人的な便箋など有り得ない。

 特に、軍内で機密に触れる内容を黒塗りにするため、便箋を検閲官が開封して再度封印し、開封した日付を記載するのが通常規定である中、例外措置として検閲をせずに済む特別封筒での郵送というのが、一層私を不安にさせた。

 英雄の負傷、ないし死亡は士気に著しい影響を与える為、政府や軍が公表するまでは他言無用が原則。唯一の例外が特別封筒での身内への通達であるから、私は目尻に雫が溜まるのを堪えつつ、ゆっくりと封を開けて文に目を通し……呆れとも安堵ともつかない、溜息を漏らした。

 

 便りの内容が、ニコが女性捕虜を保護・監視下に置かざるを得なくなったこと、当人の意思でないことを擁護する内容であったからで、拍子抜けと言う以外に表現出来ないものだったからだ。

 

“大方、女性捕虜を押し付けられた事を、邪推した周囲が触れ回った噂で知るより先に、誤解を防いでおきたかったのだろうな”

 

 それほどまでの危惧を抱くほど、私が未来の夫に信を置いてないと思われたならショックだが、まぁ、あのニコの事だ。嫌われたくないが為にフォン・エップ上級大将のお手を煩わせてしまうほど、私の心を離したくなかったのだと思えば、可愛い殿御だと笑う事もできる。

 そして私は、もう一通のニコからの手紙の封を開けた。もし、特別封筒が戦死したニコの手紙と同時に届いたか、或いはニコの遺書だったというのなら立ち直れなかったが、そうでないのなら気を楽にして目を通せる。

 手紙には自分は浮気などしないし、不誠実な行為を捕虜にするつもりはない。何より婚前交渉など罪深い行為だから等々……兎に角婚約者に信じて欲しい一心で、狼狽しながら筆を執ったのであろうことが分かる、何とも可愛げのある恋人のそれだった。

 

 

     ◇

 

 

 そう……初めのうちは、こんな風に微笑ましく考えていたのである。しかしだ。人間、どれだけ相手の誠実さを知っていたとしても不安という感情は拭いきれない。

 時間が経てば経つほど、私の中の不安の種が育ってしまう。女としての魅力に欠いていることを自覚している身としては、どうしても心穏やかではあれなかったのだ。

 齢相応どころか、それ以上に幼い顔つき。発育は悪く、肋の浮いた薄い胸に肉付きのない華奢な手足。小児性愛者などという、身の毛もよだつ特殊かつ異常な性癖の持ち主には垂涎ものかもしれないが、そうでなければ誰がこんな幼女を好くだろう?

 姿見の前にいざ立ったとすれば、そこには乱れた髪と、血色の悪さから、吸血鬼を連想するような小さな子供が映るのだろう。仮に齢を重ねたところで、この発育具合では魅力的な女性には縁遠いだろうなと、この時は深く落胆の吐息を吐いたものである。

 

「中佐殿、如何されましたか? 何やら物憂げなご様子ですが」

 

 何とも気の利く副官だが、ウール地の分厚い軍服の上からでも分かる凹凸と、野戦将校らしい短めの髪にも、女らしい気配りが見える姿を前にしては、同性としては一層気が沈んでしまう。私は少しばかり乾いた口調で、上官としてでなく女として本音を漏らした。

 

「いや。セレブリャコーフ大尉が、羨ましいと感じてしまってな」

 

 こんな言葉で、真意を察せられる筈もあるまい。いや、むしろ要領を得ないからこそ深く追及して、相談に乗って欲しいという思惑もあったのだが、セレブリャコーフ大尉は気遣うように微笑んでくれた。

 

「中佐殿は、お綺麗になられましたよ」

「……っ」

 

 気恥ずかしさとも、喜びともつかない感情に声が詰まる。私か、或いはセレブリャコーフ大尉が男であったなら、思わず恋心の一つでも抱いてしまったかもしれない。

 

「世辞は良い。私は、セレブリャコーフ大尉のようにはなれんよ」

 

 思わずそっぽを向いてしまったが、そういうところがですよ、と言わんばかりの視線だ。私は分が悪いと察して白旗を上げた。

 

「ああ、糞。すまんな、大尉。少し相談に乗って欲しい」

 

 将校のそれでない、齢相応の少女らしい吐露。手紙を受け取ってからというもの、気が気ではなかったという不安を包み隠さず打ち明けた。

 

「既に噂は耳にしていると思うが、私はキッテル大佐殿と婚約した」

 

 以前に小児性愛者扱いした挙句、興味など無いと突っぱねた相手で、相手もそういう気持ちは無いと断ったと言うのにだ。傍目に見ればどういう心変わりだと思われるだろうが、そこは私もニコも、共に自分の気持ちに無自覚な朴念仁だったという事だ。

 

「あの方を疑いたくはない。誠実な方だと存じている。だが、な。自分以外の、きっと、美しいのであろう女性が傍にいるというのを知ってしまうと、どうしても不安になるのだ」

 

 知ったことでないと思いつつも上官であるが故に付き合ってくれているのだろうと思い見やれば、逆にセレブリャコーフ大尉は傾聴してくれていた。

 

「それで、中佐殿はどうなさりたいのでしょうか!?」

「い、いや。どうするも何も、大佐殿の所在は掴めんのだ。直に顔を見て言葉の一つでも交わせるなら別だが、手紙では真意など知りようもなかろう?」

 

 食い気味に問われて、私は気圧されるように説明したが、これに関しては嘘だ。軍内での機密等に関する事項は、全て検閲官が黒インクで塗り潰される為に通常は読み取れないが、それなり以上の数の文通をこなしてきた私とニコである。塗り潰された字幅から、内容は大凡に把握できるし行間も読める。

 何よりも、私達は敢えて検閲官に塗り潰されるポイントを押さえて書きたい内容を書き、伝えたい内容を送る術を心得ていたから何の問題もなかった。

 なので、居場所を知ろうと思えば可能であるし、何処でどのような会話を行ったかなど根掘り葉掘り聞き出せもするのだが、何とも意気地のない話で、私にその勇気が無かったのだ。いっそ女らしく感情を剥き出しに出来たならば、どれほど楽だろうとも思う。

 しかし、自分が女なのだと自覚した今でさえ、長年の軍隊生活がどうしても男のそれのような、何処かで一線を超えられない壁というものを作ってしまっているのだ。

 

「いいえ! いいえ中佐殿! こういう時こそ押すべきです! しっかりと相手の真意を確かめる為に思いをぶつけては如何でしょうか!?」

 

 心なしかセレブリャコーフ大尉が楽しそうに見えるのは、きっと気のせいだろう。彼女は出来る副官なのだ。他人の、ましてや上官の恋路を肴にするような趣味は持っていまい。

 私はたじろぎつつも小さく頷き、一筆認めることにした。

 

 

     ◇

 

 

 返信はない。が。代わりに野戦郵便局から小包が届いた。開けるまでもなくそれがムンダー氏の婿殿が手がけた婚約指輪だと分かっているが、私は人生最高のサプライズプレゼントを受け取るように、わくわくしながら小箱を開けた。

 表面は何の飾り気もない幅広の純銀指輪だが、裏面には細緻な彫刻と文字が刻まれており、その内容は、互いが受け取るまで秘密という事にしていた。

 私がニコに宛てた指輪は、おそらく当人が今後語る事と思われるので、ここでは私の指輪を語るに留めよう。

 私の指輪の裏に刻まれているのはマーガレットで、その花弁の中にピンクの文字が小さく、まるで絵の一部のように違和感なく収められていることから花色が彫刻でも分かる。

 斜体文字のメッセージは『貴女だけに贈る花』で、その横には私のイニシャルが刻んであった。

 

“私だけに、か”

 

 試しにはめた指輪は流石にぴったりのサイズだったが、戦場で傷が付くのは嫌なので、今後は認識票の紐に通すことになるだろう。

 今ぐらいはという気持ちで薬指に収まる指輪だが、一度身につけると外すのが惜しくなってしまう。

 

「ふふっ」

 

 嗚呼、全く以てどうかしていた。花言葉など詳しくなかったが、それでも込められた思いぐらいは汲み取れる。私はニコを愛していて、ニコも私を愛すると誓ったのだ。

 ならば一途に信を置けば良い。ただそれだけの簡単な事だったのにと、今更ながらにセレブリャコーフ大尉に押されて手紙を認めたことも、重い吐息を漏らし続けた日々も馬鹿らしく思えた。

 

「ご機嫌だな、中佐殿」

「あの笑顔を、自分達にも分け与えて頂けたらなぁ」

 

 何やら外野がやかましいが、今回ぐらいは見逃してやる。それにだ。以前と比べれば、そう、以前の振る舞いを考えれば、私は随分丸くなったと自覚している。ただ、丸きり変える訳に行かないのは、偏に部下の命を思えばこそなのだ。

 

 以前の私は常に効用最大化と自己幸福追求を第一にしていた数理と利益の権化だったが、言い換えれば常に損耗の最小化と、戦果の最大化を考えていたのである。

 経験は最良の教師にして最大の武器だ。その経験を自分と部下に積ませる上で人的資源の浪費は最大級の愚行であり、私は自分の大隊を任されてからこれまで、隷下の人員を戦死させたことは無い。

 確かに実利第一の厳しい訓練と統率を課し、即戦力を求めてしまう即物的傾向があった事は否めないが、それだとて軍隊という部下も上司も選べない職場に順応すれば、自分の手で育てる他ないという実情からだ。

 振り返れば、私人としては血も涙もない碌でなしと称されるだろうとは自覚している。だが、公人として、組織人としての自分は間違ってないとも言い切れる。

 

 だからこそ、人間性に問題があるのだと過去を自覚しても、私は厳格なボスを続けねばならない。基幹たる大隊魔導師にも戦闘団の面々にも悪いとは思うが、これも全ては彼らの為。そして共産主義打倒の為に、今日も厳しく砲火と銃声轟く地獄を潜り抜けて貰わねばなるまい。

 

 何よりだ。男が出来た為に、私が腑抜けたなどと思われるのも我慢ならない。戦闘団を率いる為に大隊と合流してからというもの、連中、陰で妙に私が色っぽくなっただの、変われば変わるものだなどと、兎に角余計な事を囁き始め出したのだ。

 そりゃあ、私は軍生活が人生の大半を占める幼女である。小さな家畜と同居して(ノミやシラミにかじられ)、泥に塗れる塹壕生活が長いのだから、女らしさなど身に着きようがない。それに比べれば、短い期間とはいえ、今は女らしくしようと努力しているのだから、以前までとは雲泥の差ではあるのかもしれない。

 

 だとしても。だとしてもだ。大隊員の連中、妙に視線が緩いと言うか上官への畏敬というものが欠けてきている気がする。

 私人としてならば餓鬼扱いしようが、色気づいた小娘として見ようが自由だ。いっそ、子を産むには貧相な肉付きだと小馬鹿にしても良い。しかし、軍内での上下関係というものは常にして厳格たるべきであり、欠片にでも反抗心など抱かれては困るのだ。不服従は私にとっても、彼らにとっても最悪の結果をもたらすだろう。

 気の緩みは死を意味する。ラインから地獄を渡り歩いた精強なる大隊が、下らぬ馴れ合いが理由で無駄死になど断じて許されない。

 今次大戦の最古参たる彼らは、十分以上に祖国に尽くしたのだ。どのような人生を戦後歩むにせよ、その労苦に見合うものを得る権利がある。

 

 だからこそ、今一度ヒエラルキーというものを徹底することで、勤勉な猟犬に戻って貰うのだ! さあキリキリ働け下僕ども! 死んだコミーだけが良いコミーなのだ!

 

 

     ◇

 

 

「さて、戦友諸君。今日は戦車に乗って出陣だ。ああ、乗ると言っても窮屈な車内ではない。見晴らしの良い外で、新鮮な空気を存分に堪能しようじゃないか」

 

 俗に言うタンクデサント。連邦では随伴する歩兵の生存時間が二週間という狂気の沙汰。敵戦車にくっつく歩兵ごと吹き飛ばされる連邦兵達を、幾度となく目の当たりにしてきた──というより率先して蹂躙した──大隊員たちは顔を引き攣らせたが、指揮官先頭ともなれば拒否権などあろう筈もない。

 リービヒ大尉などは嬉々として戦車にしがみついていたが、あれは例外としておくべきだ。私の婚約者が魂の友というだけあって、流石の戦狂いぶりである。未来の夫よ、友人は選べ。選んだ結果がこれだというのなら、私は婚約者として複雑だぞ。

 

 しかし。脅し半分実験半分のつもりだったが、やってみると視界も開けていて、いち早く敵を発見できる上、敵影確認の為にハッチを開けた戦車長を狙撃手のスコアにされる事もない。

 流石に敵戦車砲や野戦砲を受ければ魔導師とてひとたまりもないが、それは直撃すればの話。敵砲弾を受け止めるのでなく、傾斜装甲のように砲弾を防御膜で逸らすように用いてやれば良いし、それが出来ない魔導師は私を含めて我が大隊には存在しない。

 何が言いたいかと言えばだ。

 

「悪くない! どころか、実に良いぞタンクデサント!」

 

 空を飛ばないので楽な上、魔導反応を敵に探知もされないときた! 馬鹿な狙撃兵が時たま我々を歩兵と勘違いして鉛弾をぶち込んでくるが、居場所を自ら晒してくれた狙撃兵をこちらが遠慮なく狩らせて貰う。

 楽に勝って効果は絶大。これほど愉快で楽しい仕事があろう筈もない!

 

「これは是非とも効果大なりと上奏せねばなるまい」

 

 悪魔の如く口元を歪める私に、やはり中佐殿はおっかないと部下らは顔を青くしていたが、それで良い。上官などというものは、怖がられるぐらいで丁度良いのだ。

 

 

     ◇

 

 

 タンクデサントは一定以上の効果を上げ、帝国軍も正式に採用した。今後は輸送・救護任務に就く回転翼機にも魔導師を搭乗させ、同様に護衛兼対地攻撃支援にも回るそうである。

 古プロシャ時代、プロシャ大王が大嫌いな女帝は、大嫌いな大王の真似をして自軍を強化したという話があるが、私もそれに倣うとしよう。コミー発案のタンクデサントで、コミーを徹底的に、そして愉快に駆逐してくれるわ!

 

「……中佐殿が、戦場の空気を吸われて元に戻られてしまった」

「頼りにはなる。なるのだがなぁ……」

「はっはっは! 悪いな戦友諸君! この戦争が終わるまでは、酷い上官の下で働き続けて貰うぞ!」

「……終わるまでは?」

 

 ち。勘が良い上に耳も良いな、セレブリャコーフ大尉。

 

「耳を寄せろ、大尉。ここだけの話、私は連邦との終戦後は退役する予定なのだよ」

 

 所謂寿退社という奴だと笑う私に、セレブリャコーフ大尉は信じられないとばかりに顎を落とした。

 

「ちゅ、中佐殿がでありますか?」

 

 驚くのも無理からぬ話だろう。自慢ではないが、私は軍大学で一二騎士の一員ともなった参謀将校にして、勲功著しい歴戦の野戦将校だ。戦勝後の待遇を考えれば、二〇代で将官の道は確実に開ける。今後の活躍次第では、一〇代でという事も十分有り得るだろう。

 だが。私は最早栄達に興味はない。それよりも愛する者の家郷で、温かな家庭を築きたいという思いの方が強いのだ。

 

「まぁ、軍が私にかけた『教育費』という奴を考えれば、すぐには難しいだろうがな」

 

 だが、士官学校や軍大学での『教育費』に対して、相応以上の貢献は軍にしてきたと自負している。それでも反対は必至であろうし、退役が受理されるには時間を要するだろう。

 

「それまでの間には、貴官やヴァイス少佐が私の代わりになり得る程度には育ててやるさ」

「出来ればグランツ中尉にお願いします。私も女ですので、家庭を持ちたくあります」

「奴をか? 前線指揮官ならまだしも、参謀将校が勤まる手合いではないぞ?」

 

 確かに性能は良いし磨けば光るが、何処か抜けているのだ。副官としてならば太鼓判を押せるセレブリャコーフ大尉か、或いはヴァイス少佐ならば軍大学への推薦状を与えられるが、グランツ中尉ではまだその域には達していない。

 戦争犬としては一級でも、野心は無いし上昇志向にも欠けている。過酷な塹壕生活も、「トランプと話し相手さえ居れば世はこともなし」と宣える図太さは前線ならば頼もしいが、何分配慮という奴が足りていないのだ。

 

「セレブリャコーフ大尉。グランツ中尉を一人前にしたいというのなら、まずは奴に将校の自覚と意欲を持たせ給え。猟犬としてどれだけ立派でも、頭の使い方が偏っている人間に参謀将校は無理だ」

 

 お任せ下さいと美しい敬礼で意を示すセレブリャコーフ大尉。大方飴と鞭を用いるのだろう。私もニコで経験したが、男というのは存外単純な思考回路なので、この配分さえ間違えなければ良い方向に誘導できる。

 女とは業深い生き物だと二人で笑いつつ、しかし職務中に私語ばかりでは頂けまいと、私は部下たちを鼓舞すべく大声を上げた。

 

「諸君! 地獄を作る事は称揚するが、天に旅立つことは私が許さん! 我々は死した勇者としてでなく、生者として英雄となり、凱旋するのだ! その為に私は諸君らに最善を尽くすと誓おうじゃないか!」

 

 反応は千差万別。意気込みを新たにする者、やはり以前よりは丸くなったと感じる者、相も変わらず私が幼女の皮を被った軍人だと恐々とする者。

 彼らを見渡しながら、私は再び前を見る。この忌々しい戦いを、一日でも早く終わらせる為に。

 




 女帝マリア・テレジアさんは、フリードリヒ大王の軍の真似をして自軍を強化しました。
 がっ……駄目! 大王の方が強かった! というオチが見事についています。
 ていうかドイツって昔から不死鳥すぎる。なんであんなにボコられて最終的には生きながらえるんだよこいつら……



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62 愛の表明-ターニャの記録22

※2020/3/16誤字修正。
 すずひらさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 ターニャが私を信じてくれているという事実を知らないまま、彼女の心に疑心と不信が芽生えてしまった事を手紙から読み取った私は、執務室で思わず頭を掻き毟り、苦悶の呻きを肺腑から漏らしたくなった。

 丸一日訓練に打ち込もうがびくともしない五体の全身から汗が噴き出し、手紙を持つ手が石のように固くなっていた。

 もし、ここにターニャが居て、自らに魅力がないのだと勘違いしていた事を知っていたら、今すぐにでも抱きしめて、語彙の限り魅力を語ってみせただろう。

 もし、ここにターニャが居て、指輪を手に私を信じていると微笑んでいた事を知っていたら、私は歓喜の涙を流して手を取り、まるで式の日であるかのように永遠の愛を誓っていただろう。

 

 だが、ここに。このレガドニア協商連合にターニャの姿はなく、この時の私に彼女が何を考えているのかを知る術はなかった。いっそ、捕虜であるタネーチカ政治委員とのやり取りを事細かに手紙に書き留めて潔白を証明しようかとも考えたが、すぐに止めた。

 共産主義への共感など演技に過ぎないとしても、女性捕虜と談笑などというのは字面にするには最悪だ。第一、他所の女と和気藹々と喋っている様を見せつけられて、喜ぶ恋人が何処にいるというのか。三行半を付けられたとて、文句など一言も言えはすまい。

 

 墓の下まで持っていけ。フォン・エップ上級大将の呟きを、あの時は悪魔の囁きだと一蹴したものだが、今にして思えばそれも選択肢としては……いや、無い。有り得ない。

 人の口に戸は立てられぬ。男女のそれなど、何処からともなく確実に漏れるだろう。ましてや最愛の婚約者を相手に鉄面皮で頬かむりを決め込めるほど、私は器用でもなければ不誠実でもいられない。

 結婚後の何処かで自供して、そこから冷えた夫婦生活が幕開けたに違いないことを考えれば、決して間違いだとは思えない。

 

“だが、どうすべきだろうか?”

 

 日付を見るに、ある程度の時間が経ってから綴ったのだろう。つまり、それまでは信を置いていたが、次第に不安ないし不信の芽が出たと見るべきだ。

 タネーチカ政治委員との会話は、報告書類として提示する以外の一切を秘匿していたが、言い換えれば、婚約者に対して説明を怠っていたという不実でもある。

 かといって、仔細を話せば機密漏洩。八方塞がりとはこのことで、どうにか状況を打破せねばなるまいと唸り続ける。

 最も確実なのは、女性捕虜に気があるのは私でなくシャノヴスキー参謀少佐だと伝えること。そして二人は結婚する予定なのだと伝える事だろう。

 尤も、これを説明するには経緯も併せて語らねばならない。いきなり部下と敵国の捕虜が恋に落ちたと言われても納得など出来ないだろうが、そこはこれまでのやり取り通り、行間を読んで貰う事に期待するしかない。

 

 私は不安に駆られながら手紙を認め、その日からというもの、返信が届くまで不眠と胃痛に悩まされ続けた。

 

 

     ◇ターニャの記録22

 

 

 春季攻勢までひと月と半という頃になって返信を受け取った私、ターニャは、ニコには悪いことをしたものだと思いつつも、顔は喜色満面の笑みで便箋を開いていた。

 

『親愛なるターニャ。

 私が如何様な言葉を貴女に綴ったとしても、意味を成さないとは承知しています。

 それでも私は貴女への愛を証明するため、貴女以外の女性が、この瞳に映りはしないのだと述べずにはいられません。

 女性捕虜の保護という私の行いは、一個人として、公人としては善良であろうとも、婚約者に対しては不誠実なものであったと理解しています。

 貴女ならば分かってくれるだろうと、その深謀と聡明さに甘えてしまった事を恥じてもいます。

 お伝えしていませんでしたが、私は一葉の、貴女の写真を持っております。私たちの交際を知った中央参謀本部が、気を利かせて私に贈ったものです。

 色鮮やかな写真に写る貴女は大変に可憐で、物言わぬと承知していながら、私は幾度も絵姿の貴女に語り掛けたいという思いを抱いてしまい、その度に、思いの丈を直接お伝えするのだと、言葉を呑み込んでおります。

 貴女と直接触れ合い、語らえる時には、私は貴女の瞳を捉え、誠実に身の潔白と愛を表し、無垢な心を傷つけてしまった事を、心の全てを込めて、謝罪するとここに誓います。

 貴女のその花の茎のような身を抱きしめ、口付けることが出来たならば、私はどれほど幸福なことでしょう? 今は遠く、冷たい北風が運ぶこの地では、貴女の温もりが切に恋しく思います。

 再会の日には、どうかその花弁のように美しく、淑やかな唇に、私の唇を重ねることをお許し下さい。この世のどんな言葉よりも雄弁に、愛を表明したいのです。

 それが今叶わない以上、私は夜には貴女を夢見、朝日と共に響く小鳥の囀りのように、貴女の声が近くあるもののように感じながら、無聊の慰めを続けましょう。

 最愛の人の前途が、幸多からんこと。戦場の天と地ではなく、温かな祖国で再会出来る日を一日千秋の思いで私は待っています』

 

 読んでいるこちらの方が赤面しそうな内容なだけに、私は最後まで目を通しきれずに便箋に文を入れ直した。もう一枚残っているが、流石にそちらまで目を通し切れる自信がない。

 周囲の視線が痛い。兎に角痛いのだ。私の顔は耳朶まで染まっていて、それが誰にも分かるものだから、一層に羞恥が込み上げてたまらなくなる。

 

「そのご様子ですと、杞憂だったのですね!」

 

 安堵致しましたとセレブリャコーフ大尉は満面の笑みである。こいつ、他人の恋路を楽しんでいやがるとここに来て副官の真意を悟ったが、まぁ、この手の問題に関しては世話になりっぱなしであるのも事実。

 それに、今後この手の問題が発生した場合でも、唯一相談できる間柄であるだけに、おいそれと邪険には扱えない。

 

「セレブリャコーフ大尉。貴官は食い意地を張りすぎだ」

 

 Kパンすら美味そうに頬張る上、恋話まで齧り付こうというのだから悪食も此処に極まれりだ。深く、大きく溜息を。しかし、同時にこうも感じて止まない。

 多少歳が離れているとは言え、今生、同性と恋の話で盛り上がるような、年頃めいた行為などした事がなかったなと。

 

「口外しないと誓えるなら、読ませてやる」

「宜しいのですか!?」

 

 実に良い食いつきぶりだな。いや、年頃の子女ならばこういうものに興味があるのは知識としては理解できるのだが。

 一先ずは一枚目だけを渡してやり、私は未読の二枚目に目を通す。

 

『追伸。臨時として私の副官を務めるシャノヴスキー参謀少佐が、めでたくも婚約の運びとなりましたので、この場をお借りしてご報告申し上げます。

 かの参謀少佐は公人として大変優秀かつ模範的な将校であると同時、一個人としても善良かつ誠実な男性であり、私人としても、私の良き友であります。

 女性の出自と戦時下たる事情故、二人の間には多くの困難が続くでしょうが、私は二人の門出を心から祝福すると共に、その前途に幸多からんことを祈っています。

 ターニャには面識などないと承知していますが、どうか婚約者の友というよしみ故、参謀少佐の婚約者たる女性共々、幸福をお祈りくださいますよう、お願い申し上げます』

 

“……ああ。そういう”

 

 手紙の内容で大凡察することが出来たが、何ともドラマ溢れる展開である。下手をせずとも上官たるニコは苦心しつつ骨を折る形になっただろうが、私としては僅かな憂いや胸のつかえもこれで消し飛んだ。

 

「セレブリャコーフ大尉、どうやら大佐殿の副官が婚約したそうだ」

 

 こっちはお前の期待する内容ではなさそうだなと笑うが、セレブリャコーフ大尉はキャーキャーと声を上げて手紙を読み耽っている。

 餌を与えすぎたと察しても後悔先に立たず。暫し間を置いて、ようやくキラキラとした瞳と、にやけて緩み切った口元を抑えきれないまま手紙を返してきた。

 

「満足したようで何よりだよ」

「中佐殿、今後も是非相談がありましたら」

 

 分かった分かったとあしらう。どうしてこう女という奴は、他人の色恋が好きなのだろう? いや、女の身であるはずの私が異常だとは承知しているのだが、こればかりは未だにさっぱり分からない。

 

「ああ。その時は手を借りるよ、ヴィーシャ」

「中佐殿、今」

「公人としては問題だが、友人としてならば問題なかろう?」

 

 嫌なら止めるがね、と愛称で呼称した私に、セレブリャコーフ大尉はいいえ、いいえ! と首を振った。

 

「なんでしたら、私人としてはお姉ちゃんでも大丈夫です! そして存分に頼って下さい!」

「調子に乗るな、たわけ」

 

 私が姉と呼ぶのは、コンスタンツェ姉様だけだ。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 破局という最悪の事態は回避し得た。それをターニャからの手紙で察し、安堵の吐息を吐くと同時に、私は愁眉を開いていた。

 この時の心境は、銃殺を免れた兵士か。はたまた絞首台に上がる寸前に、無罪放免を言い渡された囚人のそれに近いだろう。

 いずれにせよ、私は潔白を受け入れて貰えた。逼塞(ひっそく)は打破されたと考えて良い。

 

 すなわち。今後は憂いなく戦争の準備に取り組めるという事だ。

 

 捕虜の保護などという空軍の職責を逸脱する仕事を押し付けられたが、ようやく私は自分の仕事に十全な時間と意識を割ける。

 なればこそ、ここから先の仕事は実に捗った。元より職務に手を抜く事など有り得ないが、それでも気の持ちようというものはモチベーションを大いに改善し、ひいては作業効率もこれ以上なく押し上げてくれる。

 対価としてはレガドニア空軍の血液交じりの汗と、そして悲鳴すら上げる事の叶わない渇き切った喉を捧げることになったが、それが後のエースを生む秘訣と信じて疑わない私は徹底的に仕込みを続けつつ、航空部品をダンメルク州から陸路で輸送して貰う。

 レガドニア空軍の軍用機は劣悪という程ではないものの、列強国内では一歩劣る上、軍用機の恐竜的進化に追いつけていなかった。早期に敗戦した国家であり、賠償金等の制約があった以上、軍事技術の停滞は致し方ない反面、これで圧倒的物量を誇る連邦を迎え撃とうというのは無謀に過ぎる。

 

 そもそもの話、協商連合方面から侵攻することは、デメリットの方が多いのだ。

 唯でさえ広漠な連邦領を正面から相手取るだけでも厄介だというのに、兵力を二分せねばならないなど冗談ではない。

 冷酷な将校として意見すれば、いっそ協商連合を戦力と見做さず、協商連合領に敵を誘引し、協商連合の国土を戦場にして殲滅を図るのが最適解だろう。

 

 だが、私人としては、スオマ奪還という亡国者の悲願を果たしてやりたい思いもあったし、何より、如何に勲功を重ねようが、空軍では高級将校の不足から将官級の権限を与えられる大佐の肩章を着けようが、所詮私は軍機構における歯車の一つであって頭ではない。

 ド・ルーゴ少将の方舟作戦のような例外を除き、為せと命じられれば、かくあれかしと与えられた職責の中で結果を出すしかない。

 

“そして、その為の策もある”

 

 どれだけの敵野戦軍を駆逐したところで、工業基盤が十全であるならば、連邦は物量で押し続ける事が可能であり、ならばこちらは、その策源地と工場を徹底的に潰してやれば良い。

 未だ敵航空機は、こちらの最新鋭爆撃機を追尾できる技術を確立し得ていない。やるからには、連邦がこちらの技術に追いついていない早期に潰す事が望ましい。

 とはいえ、如何に連邦が国際法の外にあるといっても、現時点では都市部に無警告爆撃を行おうという程ではない。国際世論というものは可能な限りにおいて味方につけておきたいし、こちらがルールを守って戦う紳士だと相手が侮れば、後々はそこに付け込めるからだ。

 

 東部戦線では、爆撃機が出撃可能な気温になった時点で伝単が撒かれる予定であり、着々と準備が進められている。

 勿論、事前警告がある以上は奇襲になりえず、爆撃に対する相応の抵抗も覚悟すべきだが、間違いなく彼我の性能差からやり遂げられるという確信はあったし、何よりもこちらにはフィーゼル・セカンドがある。

 伝単を撒いた先に向かうのは、決して爆撃機だけではない。正確な座標を知るために第一手は航空機に譲るが、そこから先は徹底的にミサイルを注いでやれば良い。

 

 何より補給網の構築が容易な北方(レガドニア方面)は、東部戦線と比較して、従来通り地上軍の火力優勢と空軍の対地支援ドクトリン……ライン戦線で散々にやった手がそのまま使えるのも大きい。

 

“問題は、爆撃の成功如何ではなく、次の冬季までに何処まで進軍出来るかだ”

 

 私は敵を侮る気はない。経験は平等に技術と戦い方を教授する以上、時間は連邦軍を成長させてしまうし、何より連邦軍の学習意欲には目を見張るものがある。

 スオマで散々に狙撃兵に苦しめられた連邦がいち早く狙撃部隊を配備し、狙撃兵学校まで開設したのは、その勤勉さを十分過ぎる程に物語っていた。

 必要とあらば取り入れるその姿勢がある限り、こちらも常に積極に努めねばならないだろう。複数戦線にかまけたくないのであれば、今年中にはスオマを解放して戦線を整えられるようにすべきだが、目標通りに動けるのは創作や遊戯の中だけだ。

 

“功は焦るべきでない。損耗は最小に。これを鉄則としなければ、物量差という悪夢が待ち構えているのだから”

 

 

     ◇

 

 

 一九二七年、二月。帝国軍が着々と反攻準備を推し進める中、連邦軍は先んじて動きを見せた。雪解けには今少し早いが、連邦軍にとっては勝手知ったる母なる大地だけあって、行動は早く装備も十全。

 その上、協商連合の動きを察知して帝国の時と同様、宣戦布告もせず侵攻を開始してくるのだから始末が悪い。

 協商連合が帝国に拠って立つ大義名分を与えられたとは言え、奇襲が出来なくなってしまったのは痛手だった。

 

“とはいえ、やる事は変わらんがな”

 

 上空から敵戦車の砲塔部分を吹き飛ばす。帝国空軍や魔導師は分厚い装甲を引き裂くことから、敵戦闘車輌の破壊を缶切りと称したが、私は早々に『缶切り職人』という新しい渾名をレガドニア空軍から与えられ、後にこれは、対戦車撃破に精通した空軍や魔導師に贈られる一般的な尊称にもなった。

 

 久方ぶりの空に気を良くしている私だが、唯一残念なことがあるとすれば、私の後ろにシャノヴスキー参謀少佐の姿はなく、私はゾフォルトに乗ってはいないという事だ。

 今回私が搭乗しているのは魔導攻撃機でなく、従来の戦闘爆撃機にして傑作機たるJä001-1Fヴュルガーを、更に対地攻撃に特化させたJä001-2Fだ。

 硬芯徹甲弾を装填した三センチカノン砲を両翼に四門備えた機体は、速度こそ多少落ちたがゾフォルトとは比較にならず高速で、威力も申し分無い。

 ただ、欲を言えば空力ブレーキが欲しかったと思う。あれさえあれば垂直降下が可能であるし、何よりこの機体は急降下より緩降下に向いた設計である為に、慣れるまでに時間がかかったが、そこは攻勢に向けて入念に準備をしてきた為、出撃時点までには間に合った。

 それに、速度以外では無敵であるかのように語ってきたゾフォルトにも、その実多くの問題があったのも事実である。

 

 まず以って挙げるべきは、そのコストだ。魔導師が装備する演算宝珠一つでさえ、希少金属を多用する為に主力戦闘機や戦車以上に高額だというのに、ゾフォルトは消費魔力を軽減する為に、演算宝珠に換算すれば四機分。航空機で言えば、中型爆撃機一機にもなる高級機材を組み込んでいる。

 全体の戦果で見るならば爆撃機を製造する方が遥かに良い上、パイロットも二名分のコストを投入しなくてはならないし、複座式故に部品数は多く、整備性にも難がある。

 それでもエルマーは希少金属を極力削減出来るよう日々改良していたし、その技術はフォン・シューゲル主任技師と共有することで、演算宝珠をはじめ、各種魔導機器にも活かされている事を考えれば、決して無駄ではないのだろう。

 だが、戦車や演算宝珠の製造ラインに響かせてまで、旧式化しているゾフォルトの生産を続ける必要が果たしてあるのかという疑問の声は前々から上がっていた。

 シャノヴスキー参謀少佐が軍大学に入校し、他の後席手も後方勤務のノウハウを日夜叩き込まれているのも、やがて魔導攻撃機という分野が消失した際に備える為のものなのだ。

 

 そして、ゾフォルトの最大の武器である攻撃性能という面に関しても、魔導に頼る必要性は失われつつあった。ロケット技術の加速的進化は恐ろしいもので、航空機搭載型の小型ロケット弾もライン戦線中盤には完成し、配備まで済んでいたのだ。

 オルカンと称されるこのロケット弾は主翼下左右にレール上に配備され、一斉射と同時に円形弾幕が展開される仕組みである。

 命中精度・速度は共に良好で、ロケットの一、二発でも命中すれば爆撃機さえ撃墜可能という高威力は大変に魅力的だった。

 現に、オルカンが実戦投入されてからというもの、ライン戦線でのフランソワ・アルビオン空軍の爆撃機は徹底的に駆逐され、帝国軍が一方的に敵地上軍を蹂躙する結果になった。

 帝国軍が数年に渡り列強各国と戦争をしながら、未だ東部戦線で十全に力を奮えているのは、空からの蹂躙劇が一方的なものであった為に、損耗を限りなく抑えられたという結果があったからでもある。

 

 今、こうして対地攻撃を仕掛けている私の機体の両翼にも対戦車用八センチロケット弾たる『パンツァーブリッツ』が装備されており、連邦軍が新規開発したのであろう重戦車を爆砕していた。

 この威力ならば、魔導攻撃機とも遜色ない。弾数にこそ不満はあるし地上への制圧力も欠けるが、コストを考えるならば致し方ないと割り切るべきだ。

 爆裂術式で地上を一掃出来ないのは歯がゆいが、それでも地上にカノン砲を掃射すれば相応の戦果はあるし、機関銃座や野戦砲を優先して排除すれば、味方地上軍はかなりの楽が出来る。

 何より、今戦いに必要なのは間違いなく数だ。高価な一点物よりも、航空機の足りていない協商連合には一機でも多くの戦力を欲して止まない。私がどれだけの戦果を上げようとも、所詮それは個の力であり、戦争そのものを左右出来る程ではないのだから。

 

 尤も、そんな泣き言より、今はすべき事をすべき時だ。協商連合に押し寄せた戦闘機を、同じく戦闘機で狩り尽くし、その後は爆撃機が大地と赤軍を混ぜたフレッシュミートを拵え、それを見届けた後は戦闘爆撃機で一輌でも多くの戦車や装甲車、或いは砲を潰して行く。

 前線勤務においては、常に同じ作業の繰り返し。今も昔も、航空機に乗ればやる事は変わらないなと思いつつ、しかしこれまでの戦場とは、明らかに違う点があった。

 

“終わりが見えないな”

 

 戦線は押している。戦局は安定している。だというのに、敵兵も物資も無尽蔵に湧いてくる。連邦の兵士は畑から採れるという言葉を本当に信じてしまいそうなほどだ。

 間違いなく我々は敵の工業地域を、策源地を爆撃した。だというのに、敵は決して尽きはしない。それを、時の流れと共に空恐ろしく感じたが、事実を知れば当然のことだった。

 我々は、一国を相手にしていると考えていた。

 敵は、共産主義者だけだと信じていた。

 それが間違いだったと分かるのは、遠くない日のことだった。

 




【主人公のラブレターを、秋津島のヲタが再翻訳してみた】

『ターニャたぁぁんっ!
 拙者、ターニャたんに浮気とか疑われたくなかったので色々ごまかしてしまいましたが、ターニャたん一筋でござるぅぅ!
 ターニャたんの萌え萌えブロマイドは、片時も手放さずに常時(*´Д`)ハァハァ中でござるよフヒッ!
 二四時間三六五日片時も手放さず気はないですよ婚約者として当然のたしなみでコポォ!
 オゥフ! でもぉ! 写真だと匂いとか嗅げないしホンっと辛いので、今度お会いする時には存分にハグしてクンカクンカするご許可をお許し下さりたい所存!
 そのプリッとしたやわらかーい唇の感触と、甘い幼女的ミルクな香りを、存分に味わいたいのでござるよおっと失敬! 欲望が出てしまい申した!
 朝も晩もアレな最中も、ずっとターニャたんの妄想で一〇年は戦えるぐらいは頑張っておりますブヒw
 それでは、名残惜しいですがお別れアデュー!』

 こ  れ  は  ひ  ど  い。


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63 合州国の対応-毒を以て毒を制す

※2020/3/17誤字修正。
 すずひらさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!



 合州国と聞けば、読者諸氏は何を思い浮かべるだろう?

 大凡は本著を執筆する私にも察せられるが、少なくとも当時の我々には、今日の人々が思い描くようなマイナスのイメージなどなく、周辺諸国は嫉妬と羨望の入り混じった視線を向けざるを得ないほどの、それこそ楽園のように捉えていた。

 肥沃な大地と豊富な資源に溢れた国土。機械化によって成された大規模農業国であると同時に、自由な経済競争によって育まれた世界最大規模の工業国。

 国土面積と比して人口は少なく、多くの移民がそこを新天地と見做している。

 大凡、字句の上ではこれ以上ないほどに恵まれた国家。だが、彼の国もまた資本主義経済に拠って立つ国家である以上、不景気というものも存在し、その流れ如何によっては恐慌という悲劇も発生し得る。

 

 一九二三年、六月。今や歴史の教科書においては必ず紙文を割かざるを得ない中央大戦の勃発は、合州国に戦争特需をもたらした。

 中立国である以上、軍需物資やその枠に入る高オクタン価の石油燃料といった資源を売る事は出来ないが、逆に言えば規制項目にさえ無ければどんな物でも販売出来る。

 被服や食料などというのはその典型で、農業大国にして工業大国たる合州国は、多くの保存食や衣類を列強各国に売り出した。

 帝国もまた買い手の一人であり、イルドアという限りなく同盟に近い中立国から糧食や医療品を購入しつつ、合州国からも国交の一環として商取引相手となっていたのは周知の通りであるし、ここまでなら何の問題もない。だが、偶発的な好景気を生んだ時点で合州国は良しとすべきであった。

 

 現にイルドアは戦争特需を一過性のものと割り切って、大規模な市場拡大はしなかった。引き時を弁えていたと言っても良い。

 対して、合州国は欲をかいた。

 第三国を経由し、戦時国際法の網を掻い潜る形で、秘密裏に帝国の敵対国に武器供与を続けていたのである。

 

 血を流す文明の利器が生んだ富は、食料や被服とは比べ物にならない恩恵を合州国にもたらした。表沙汰にならないよう、ライセンス生産という形での、自国内配備を名目に生産した兵器を発明国に売りつけた挙句、製造番号も帳簿以外に残らないと来たのだから、疑問に思っても証拠にはならない。

 アルビオン・フランソワ戦役時、帝国軍がフランソワ共和国の工業施設と策源地を国際法に則りつつも周到に空爆していながら、継戦能力に決定的打撃を与えきれていない事からも、何かしらのトリックがあることは予想していた。

 予想していながらも、帝国はそれをものともせず勝利したが故に追求しなかった。

 

 問題は、その後。その富に味を占め過ぎた合州国が、過剰なまでに軍需工場を建設してしまった事だ。彼らの見立てであれば戦争はあと二年。短くとも一年は続き、勝利を希求する列強各国は莫大な借款を抱えてでも、賠償金を得て帳尻を合わせる為に武器を欲しがるだろうと踏んでいたのだ。

 しかし、戦争は終わった。帝国に敗れてしまったが為に国力が著しく低下し、植民地蜂起が各地で発生した敗戦国らとしても兵器は欲しい。欲しいが、他所様から買い付けるだけの余裕は既にない。終戦を期に第三国を経由せず堂々と買い付けられる立場になっても、戦時国債と賠償金の二重苦に喘いでいるのだから当然だ。

 あるものでやりくりし、治安維持と支配力回復に努めねばならないのは連合王国・共和国共に変わらず。不足分は已む無く購入するとしても、以前ほどの売り上げは決して見込めまい。

 

 合州国からすれば、たまったものではなかっただろう。戦争を長引かせる為に後払いを許容したばかりか、莫大な戦時国債を購入してまで肩入れしてきた複数列強が、如何に軍事大国とは言え、複数戦線を抱えていた一国に、これ程まで早く敗北を喫するなど夢想だにしていなかったのだ。

 彼ら合州国もまた、中央大陸のパワーバランスに配慮していた。帝国が一強となり、覇権国家となることを安全保障上にも、外交序列上にも恐れるのは、勢力均衡策故に共和国と同盟を結んだ、連合王国に限った話ではなかったのだ。

 一国と複数国。数の上では火を見るより明らかだった勝敗。たとえ逆転劇が発生するとしても、赤字になることはないと予想していた。

 だからこそ、合州国は帝国でなくその敵国に肩入れし、多くの融資を行ってきたというのに、それらは不渡り手形も同然の結果となっている。

 

 現実とは非情なものだ。誰もが思い通りに世を渡れるならこれ程楽な事もないが、そんな事が起こり得る筈もない。戦勝国たる帝国とて、中央大戦など予想もしなければ望んでもいなかったし、もう戦争などこりごりだと思っていた矢先にルーシー連邦との一大戦争だ。

 戦後、多くの国が我が国の勝利を羨んだが、我々のような当時の帝国人からしてみれば、いい迷惑だったと言わざるを得ない。

 

 だが、莫大な負債と不良在庫を抱える羽目になった合州国にとって、連邦の侵攻による戦争継続は、次の取引先という顧客を与えてくれる天の助けに等しかったのだろう。

 たとえそれが、主義主張を真っ向から対立させる社会主義国家だったとしても。必要性という一言は、両者の垣根を容易く飛び越えてしまえるものだった。

 

 被服や糧食、医療品といった非戦闘物資は直接。兵器類に関しては従来通り第三国を経由しての取引を行う事で、合州国は連邦に対して、在庫処分とばかりの安値で売り込んだ。

 連邦にしてみても、帝国の脅威を前にしてはイデオロギーをかなぐり捨ててでも、勝利を得ようとするには十分な授業料を払っている。

 ここで帝国に勝てねば、反共主義者たちが挙って自分達を処刑台に引き摺る事を重々理解していたのだろう。

 過剰生産故に不良在庫と化していた合州国製造の各国兵器を買い叩き、更には合州国が他国に()()()()()のだと主張する、合衆国製の最新兵器まで買い漁った。

 

 かくして帝国の勝利は、未だ遠い位置にある。数多の敵野戦軍を殲滅し、工業施設と策源地を破壊し、物資を鹵獲しながらも、無尽蔵の如き兵力を前に戦争継続を強いられていた。

 

 

     ◇

 

 

“本国の兵器より、敵の兵器の方が多く目につく日が来るとはな”

 

 敵味方問わず同じ兵器を用いて殺し合う日が来るとは、開戦劈頭では夢にも思わなかった光景である。確かに、本国(ライヒ)から鉄道と空輸で輸送される兵器が届くまでは手元にある物で凌ぎ切らねばならないし、経費の削減にもなるのだから言う事はない。

 中央参謀本部も落ち穂拾い(鹵獲の隠語)を奨励している程で、陸軍と違い兵器を直接奪う機会の少ない空軍もまた、その恩恵に与っていた。

 

「連中、良い物を食ってますね」

「『死んだロバ』とはえらい違いだ」

 

 糧食としてイルドアから輸入した牛缶をけなしつつ帝国空軍が口にするのは、合州国産のスパムである。確かに食べ比べれば品質の差は歴然で、こんな物に金を払っているのかと前線将兵から不満が噴出するのも当然だった。

 美食の国からの輸入品という事もあって期待値が高かったのも、反発の声が大きくなった要因だろう。

 鹵獲品の缶詰にありつく将兵らを傍目に苦笑しつつ、私は有り余っている死んだロバ肉を咀嚼する。周囲は将校の、ましてや撃墜王が食う物ではないと止めたが、私が平らげた分スパムが諸君らに回ると言えば、皆すぐに手のひらを返した。

 断っておくならば、私はゲテモノ食いではない。本音を口にすれば、美味い物の方が良いに決まっている。だが、食事という物が如何に士気に影響するかは散々に経験しているだけに、戦友将兵にはモチベーション維持の為、食事という楽しみを噛み締めて貰いたいのだ。

 

「大佐殿は、よくそんな物を口に出来ますね」

 

 貴族の舌には合わないと思われますが、と気を回してくれる尉官には涙が出そうだが、私は軍人だ。栄養価とカロリーさえ維持できるなら問題ないと割り切っている。それよりもこの戦時下で飛べない方が我慢ならないし、肉体を頑健に保つ為には不味かろうが何だろうが量を摂取する必要が有ったので文句はない。

 芋虫だろうが蛙だろうが、蛋白源を摂取できるなら喜んで摂ろう。

 

「食事よりも、空の方が重要なのでね」

 

 こう言えば誰もが納得する。呆れ交じりに笑いつつ皆で空き缶を片付けるが、私は軽口の裏で、暗澹たる思いを抱えていた。念の為述べておくと、食の不味さからではない。

 

 我が方は制空権を維持し続けた。二月から六月にかけて快勝を重ね、既にしてスオマの地に歩兵の軍靴が片足とはいえ踏み込んでいた。

 錬度も幾多の戦線を潜り抜けて来た帝国空軍は言うに及ばず、レガドニア空軍の面々も、速成でありながら予想以上に動けている。

 赤色空軍が旧式機混じりの雑多な編成であることに加え、パイロットの錬度も列強各国より一歩も二歩も劣っている影響が大きいとはいえ、誇るべき戦果だろう。

 五〇機撃墜の撃墜王(エース・オブ・ザ・エース)の称号など、東部戦線では既に形骸化して久しいもの。ダキアではないが、一〇〇機撃墜がここでの一人前の証となっていた。

 

“だが、敵は着実に学習している”

 

 やはり時間と経験は最良の教師だ。敵は密集編隊から帝国産の散開戦闘編隊に切り替え、敵機の連携も去年の鴨撃ちの有様だった頃とは雲泥の差であった。

 教条主義的価値観が、軍事合理性に覆されていると言う現実は、空軍に限らず帝国軍全てが憂慮すべき事態と言える。

 今はまだ良い。まだ制空権を確立し得ている。だが、今後広漠な戦線を抱え続ければ? 密度の薄い戦線と陣地で、質的優位を数で覆されれば?

 合州国製の機体もまた、戦時という必要が求める状況から、日進月歩の域にある。ヴュルガーの機体性能と拡張性は他国の技術者を瞠目させるに足りる物だが、決して一方的な蹂躙劇を展開し得るものではない。

 

 物量差という悪夢は、決して楽観を許してくれない。連邦の工業施設を、策源地を見事爆撃し、その継戦能力に痛手を被らせたのは確かだろう。

 赤軍車輌の中に、農業トラクターにボイラー鉄板を装甲板代わりに取り付けた急造戦車を発見した時など、帝国軍の誰もが笑いつつ自軍の勝利を確信したものだ。

 

「敵は末期軍の様相を呈している」「今年中にはモスコーも落ちるだろう」

 

 地上軍将兵らはこぞって浮かれはしゃいだそうだが、それも戦闘車両から小火器まで、合州国やかつての敵国で目にした兵器群を抱えた敵兵が殺到するまでの、束の間の喜劇に過ぎなかった。

 追いつかれると言う焦燥感。順調な進軍でありながら、未だ決定的な失敗を喫していない状況にありながら、私はそれを感じずにいられなかったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 合州国の武器供与を、帝国は当然非難した。中立国にあるまじき拝金主義や共産主義への同調など、ましてや亡命者が多く暮らす以上は、合州国内の民意も許容すまいと、私も含めた多くの帝国人は考えていた。

 民意と自由を謳う国ならば、独裁と悪政が蔓延る連邦に与するなど有り得ないと、歯止めがかかる筈だと期待もしていた。

 

 だが、期待の結果は無残だった。合州国は証拠はないと言う一点張りで、あまつさえ物資が欲しければ連邦同様に購入すれば良いと開き直ったのである。

 民意にしても、恐慌から首を吊らざるを得なくなるよりも、主義主張に反してでも生活の糧を得たいという思いが勝ったが、それを否定する権利は私にない。

 高邁な理想に死ねるのは、当事者となってからなのだ。合州国にしてみれば戦争など対岸の火事であり、明日の生活を蔑ろにしてまで、ましてや遠い異国の為に餓えるなど決して許容できないだろう。

 ヒューマニズムの精神は『自分達の懐が痛まない限りにおいて』という前提が付くのは大多数の人間の本音だろうし、それを醜いとは思わない。

 立場が違えば。私が彼らと同じ明日の見えない労働者なのだとしたら、養うべき家族が居たならば、良心の呵責に苛まれながらも職務に従事しただろう。

 世界の裏側の悲劇より、自身の失業の恐怖のほうが、重く苦しい問題なのだという事は、一個人として理解できる事である。

 

 だからこそ、私は合州国人を憎まない。不義だと罵るつもりもない。勝手に期待しただけなのだから、落胆こそすれどもそれは自分の身勝手な思いだと受け入れる。

 合州国の言動にしても、自国の保護と恐慌を避ける為の、止むを得ないものだと理解も出来る。再三語ってきたが、自国を第一に考え、自国民を保護する事は決して悪ではない。

 まして、これまで多くの亡命者や難民を受け入れてきたという実績のある合州国だ。彼の国が移民に対し、不当な差別や迫害を──有色人種に対する悪質かつ不道徳な措置を除けば──声高には行っていない以上、また、彼ら移民を養う場を与えている以上は、多少の不義理には目を瞑るべきなのだろう。

 だが。それとて限度という物もある。許されざる一線というものは、確実に存在するが故に。

 

 

     ◇

 

 

“不愉快な記事だな”

 

 心中で毒づきつつ、合州国の新聞を畳む。世論確認の為に取り寄せたものだったが、こうまで神経を逆なでするとは思わなかった。

 曰く、帝国の抗議は我が合州国の品位を貶める物である。彼の国は連邦との戦争を望んでいたが為に動いていただのという陰謀論までもが湧き立つ始末。

 勿論、これらの記事は連邦に渡った、連邦に都合の良い赤色シンパの従軍記者団のものだとは新聞社のスタンスから理解しているし、世論の中でも一部に過ぎないとは理解している。

 後年、私にインタビューしてきたWTN(World Today's News)社のアンドリュー氏は、赤色シンパのベテランに混じった右も左も分からぬ若手として連邦への取材を許可されたが、周囲の同僚にも政治将校と憲兵団に抑えられた情報にも、通信監督官の検閲にも辟易せざるを得なかったと当時を赤裸々に語ったほどだ。

 アンドリュー氏曰く、当時の連邦内で良かった探しをするならば、贈賄だらけの環境であったことだけだという。

 紅茶やサンドイッチ、アルコールまで振舞われたばかりか──従軍記者の食事といえば前線兵士と同様のものである為、通常では有り得ない厚遇だ──記事の内容如何では性的嗜好に見合う女性まで宛てがわれたというのだから、そこまでしたのかと私は絶句したものである。

 

 尤も、アンドリュー氏に限ってはそうした環境よりプロとしての意識が勝ったらしく、また、赤色シンパの同業者とも馴染めず、本社に申し入れて人員を交代して貰ったそうだ。

 その後アンドリュー氏は反対に帝国側の従軍記者となり、中立国らしい公平な──勿論その中には、帝国側が不利となる内容も含まれていた──スタンスで記事を書き綴った。

 帝国軍の勇壮さや、反合州国への憤りといった意気盛んな見出しを毎朝のように掲げる本国の記事に胃もたれしていた私にとって、WTNの──より正確にはアンドリュー氏の──正しい情報と公正な視点は実に購買意欲を掻き立てられたものであっただけに、戦中、戦後と愛読を続け、今ではすっかり彼のファンになってしまったものだが、この辺りで合州国の話題に戻ろう。

 

 私にとって何より腹立たしいのは新聞記事そのものよりも、赤色シンパの記事に当の合州国政府が良い顔をしているというところだ。

 

武器貸与法(レンドリース)か”

 

 合州国内で決議されつつあるという悪法。供与でなく貸与であるのだから、戦時国際法には抵触しないだろうという悪辣極まりない主張には、どれだけ温厚な帝国人であろうと、口角泡を飛ばして呪詛の言葉を撒き散らすには十分過ぎるものだった。

 現にライヒ中央報道を筆頭とした本国の新聞では、これは最早合州国と連邦との相互援助条約そのものであり、中立国とは見做せないという声を散々に上げていたし、流石に他の中立国も非難の声を上げている。

 そもそもにして協商連合との開戦からこちら、帝国は一方的な侵攻を受け続けている被害国なのだから当然だろう。被害国でなく、加害国に一方的な肩入れというのは第三者からすれば白眼視して然るべき対応だ。

 

 イスパニア共同体やトルクメーン諸公国、秋津島皇国といった他の中立国は一様に合州国を拝金主義の徒と弾劾して憚らず、合州国国内でも流石にやり過ぎだと自国民から声が上がっている。

 モンロー主義者などは特に抗議の声が強いと訊くが、やはり過度な期待はできないと私は諦めていた。合州国は民意の国というが、民意が国家理性に反し、全体の利益を脅かしてしまう事を認める訳には行かないだろうからだ。

 個人の道徳では悪徳であっても、国家の道徳では善良な選択という物は往々にしてあるもので、生存戦略だというのなら否定し得ない部分ではある。

 しかしだ。上記でも語った通り、何事にも一線と言うものはある。

 

“化学兵器は、やり過ぎだろう”

 

 報告を受けた時は間違いではないのかと驚愕したが、結果は黒だ。弾頭の残骸。使用されたであろう砲を鹵獲した結果からも、合州国は間違いなく化学兵器を供与していた。

 

“何故、こんな物を敵に送ったのだ”

 

 敵が使わなければ、こちらとて使わずにいられた。皇帝(カイザー)が慈悲を以って戦争の悪夢を払おうと心血を注がれた、私自身、決して再び世に出て欲しくなかった戦争の狂気が、再び戦場に満ちてしまう。いいや、今まさに、満たされようとしている。

 

「大佐殿、配備完了しました」

「ご苦労」

 

 心を無にし、私も部下も何処までも事務的に対応する。誰だとて、こんな兵器を再び見たくなかった筈だ。帝国人の良しとすべき、騎士道精神から外れる兵器など使いたくはなかった筈だ。だが、最早歯止めはかけられない。

 

 これまでのマスタード弾とて、相当に恐ろしい物ではあった。しかし、今回使用されるのは帝国軍指示の下、敵が一度でも使用してきた際の報復措置として極秘裏に開発を命じた新型である。

 大多数の化学者がジェノヴァ議定書の制限を受けてからも、非批准国が使用してきた際の対抗措置として研究を続けており──条約制限上、連邦との戦争以前は生産していない──サリンやタブンといった複数の毒ガスが連邦との開戦時点で既に誕生していた。

 それらは用途ごとにフィーゼル・ファーストやセカンドの弾頭に搭載され、特に制圧作戦においては甚大な被害が予想される為に、連邦が毒ガスを使用するまで後に回していた要塞や、濃密な陣地線に投入される。

 特に、私の心を暗澹たるものにさせたのは、エルマーが開発した最新の、言い換えれば最悪といっても過言でない化学兵器を用いねばならないということだ。

 

“本当に、使わなくてはならないのか?”

 

 あの優しい弟が、毒ガスの開発に携わったなどと世に遺される事を耐え難く感じると共に、私はこれを使わなくてはならない事態に追い込んだ連邦と合州国への憎悪に呻きたくなった。

『VX』。秘匿呼称たるVシリーズの中でも、特に悪名高い兵器として、またエルマーという科学者が、如何に恐るべき存在かを後世に伝える始まりとなってしまった戦争の怪物。

 科学安定性の高さからサリンより使い勝手が良い上に残留性まで高く、経皮吸収する為にガスマスクだけでは防ぎ切れない。その癖水でなく化学洗浄でなければ落とせないと来ているのだから、悪辣という言葉では到底足りない代物だ。

 

 私は、エルマーを守り切れなかった。互いが毒を以て殺し合うよりも早く、戦争を終わらせる事が出来なかった。弟の名が、悪名として歴史に刻まれてしまうことを止められなかったのだ。

 

“なんと頼りなく、なんと非力な兄であることか”

 

 だが、現実に打ち拉がれる事も、このまま腐る事も許されない。現実を、結果を変えられないのであれば、私は自分が出来ることをしなくてはならない。

 今、私の戦闘爆撃機にはこのVXが懸架されており、私は嚮導機として始まりの一撃を加えることになっている。

 これは偶然でなく、志願したからだ。エルマー一人を悪魔と呼ばせはしない。開発したという悪名を背負うのであれば、私は初めて使用した人間として、同じく悪名を轟かせるつもりだった。

 市街地でなく陣地線への投下とは言え、部隊の士気は最悪だった。しかし、私や部下がやらずとも、戦友の誰かがやることである。

 私は部下を率いて飛び、そしてエルマーと共に、十字架を背負う選択をした。

 かつてのレランデルがそうであったように、地上では地獄を絵画にしたようだったと防護服を纏って突入した地上軍は述べたという。

 



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64 スオマの解放-ターニャの記録23

※2022/5/20誤字修正。
 広畝さま、佐藤東沙さま、すずひらさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!



 VXの登場は、後の世において、エルマーが黒死病の如く恐れられた始まりに過ぎなかった。

 

 一九二七年、五月に発表されたファーバー・カッシュ法は人類の保護に貢献するものだったが、エルマーはこの生産法を確認するや否や「これを用いれば硝石を大量生産出来る」と軍部に進言。

『水と空気からパンを生み出す』人類の英知は『空気から火薬を生み出す』という戦時においては絶大な、しかし発明者が決して望まなかった方法を確立されてしまった。

 

 私としても、こればかりはエルマーの進言に苦言を呈したくなった。しかし、嫌われても構わないというのは、こういう事だったのだろう。

 善良なる他者の発明さえ、それが勝利の道となるなら躊躇しない。全てを理解し、覚悟した上での発言や研究だというのならば、私には何を言う資格もない。

 エルマーに地獄の釜を開かせたのは、他ならぬ私だ。罪があるというのなら、それは私に対してなのだ。エルマー自身が後年何度もそれを否定したとしても、私はその罪から逃げる気はない。

 

 東部戦線で、或いは北方地域(レガドニア方面)で、連邦軍将兵は抗し得る手段を持たないまま苦悶の死を遂げた。

 唯一救いがあるとすれば、戦意を削ぐ為に遅効性にし、意図的に長く苦しめるよう設計されたマスタードと違い、VXは即効・即死する劇物であった為、苦痛に苛まれ続ける事はないということだが、それが敵にとって救いとなる筈もないのは、語るまでもない。

 

 エルマーは自らが発明した化学兵器のみならず、既存の化学・細菌兵器全ての解毒剤と防護服を準備しての投入であったから、敵が毒ガスを用いたとしても問題はなく、また、我々の新型化学兵器を使用されたとしても、対策済みの我々に対して劇的な効果は得られない*1だろう。

 情け容赦のない、憎むべき敵に対してさえ良心の呵責に苛まれそうな殺傷性は、しかしながら帝国軍に対しては多大な貢献をもたらした。

 一方的なまでの化学兵器の投入は帝国軍の損耗を激減させたばかりか、レランデルでの初期がそうであったように、無傷の兵器を大量に確保し得たのだ。

 無論のこと、先に語った通りVXの残留性は高く、化学洗浄を要する為に鹵獲兵器の使用には手間取るが、それを差し引いてもVXには抗い難い、悪魔の誘惑めいた魅力があった。

 

 鹵獲した兵器群は義勇軍将兵のみならず、連邦からの独立を求める諸勢力──帝国呼称は自治評議会。連邦側の呼称は分離主義者──にも、多くの兵器が行き渡った。

 何よりにも増して大きいのは、我々の進軍速度を飛躍的に向上させた事だろう。

 フィーゼル・セカンドの他を隔絶した射程と、VXの組み合わせは悪夢そのものであり、赤軍に対しての虐殺に等しい蹂躙と、制空権の完全掌握という二つの要素が、我々に破竹の突破力をもたらした。

 空軍にとってもその恩恵は大きく、地上支援の効率化が進んだ分、海上に戦力を多く割り振れるようになっていたのだ。

 帝国海軍による洋上からの攻撃や輸送を阻むべく乗り出していた赤色海軍に対し、航空魚雷や爆弾を懸架した戦闘爆撃機は協商連合や連合王国の時同様、執拗な攻撃を繰り返しては撃沈していったのである。

 

 そうして赤色海軍の被害が大きくなれば次に狙うのは輸送船だが、こちらは足を止めての拿捕である。輸送船は合州国のものでなく、あくまで第三国から連邦が買い付けた物であるだけに、当然帝国軍は接収できる。

 仮に武器貸与(レンドリース)によって貸し付けただけだと主張しても、戦争当事国の立場からすれば敵に渡る前に鹵獲しただけだ。賠償に関しては連邦に請求してくれと突っぱねれば良い上、戦時国際法の観点からすれば、絶対禁制品に分類される物品を輸出した時点で、帝国には鹵獲する権利がある。

 勿論、名目上は供与でなく貸与であり、合州国は法の抜け道を使用していると信じていたからこそ、後に抗議してきた。

 帝国が鹵獲を合法化するには、毒ガス使用の裁可を求めた時と同様に、森林三州誓約同盟の国際裁判所の裁定を求める必要があったが、帝国は敢えてそれをせず、沈黙を貫いた。

 当時は最早、どの国家も合州国に肩入れなどしていなかったし、森林三州誓約同盟とて、流石に肩を持つには合州国はやり過ぎていたという認識があったのだろう。

 ここで森林三州誓約同盟が合州国に肩入れなどした日には、それこそ永世中立の立場を失いかねない以上は、帝国の鹵獲も、合州国の抗議も見て見ぬ振りをする以外なかったし、それを理解していたからこそ、帝国は裁可を得る手間をかけず動いたのだ。

 

 勿論、これは既にして合州国が事実上の敵対国になってしまったからこそ出来る手段であって、中立国に同じことをすれば宣戦布告に等しいが、武器貸与(レンドリース)などという悪法を通した相手が悪いという以外に持ち合わせる言葉はなかった。

 

 

     ◇

 

 

「本日もご活躍でしたな。来年には将官の席も開けるのでは?」

 

 そう言って淹れ立ての珈琲を振舞ってくれた基地の整備員に礼を述べ、私は一口含む。ターニャも珈琲を好んでいるが、今頃彼女は何処で何をしているだろうか? と、そんな惚気じみたことを思いながら、湯気立つ珈琲の香りを楽しんだ。

 仕事終わりの一杯というものは格別だが、この日は一四回という一日当たりでは過去最高の出撃回数だっただけに、一層美味く感じたものである。

 

「進級には、戦闘爆撃隊の総監職も付いてくるがね」

 

 北方地域が片付き次第──スオマ復権が叶い次第ともいう──空軍は本格的に私を事務机に縛り付ける気のようである。私としてもデスクワークが嫌いな訳ではないし、平時ならば大人しく椅子に座ったことだろう。

 だが、今は戦時だ。ターニャは今も東部で戦い、エルマーは莫大な予算と人員を組んで貰いながら、フォン・シューゲル主任技師と今次大戦を終わらせる為の兵器開発に尽力しているとも耳にした。

 そうした状況下にあって、一人だけ戦争の枠から抜けるような真似はしたくない。勿論、総監に就いたからといって完全に前線から離れる訳ではないが──視察と称して前線で飛ぶ事が出来るからだ──飛行時間を削られるのは確実であった為に、本国から伝えられた『朗報』は何とも二の足を踏む内容であった。

 

“とはいえ、拒否権も無いのだが”

 

 なまじ事務仕事が早いのと、北方地域での調整を首尾よくこなしただけに、上は私なら勤まると太鼓判を押して来ている。おそらくだが、仮に北方地域での戦闘が長引いたとしても、年明けには本国に戻るよう指示を受けるだろう。

 帝国と戦友の為にも、それまでには何としてもスオマを開放し、東部と合流出来るだけの素地を用意したいところである。

 

“しかし、戦闘爆撃の総監とはな”

 

 魔導攻撃機でないのは、ゾフォルトの生産数が他と比べて著しく低いのもあるが、それ以上に魔導攻撃機という分野が、潮時になりつつあるからだろう。

 一九二〇年からこちら、ゾフォルト以外の魔導攻撃機は帝国内でも、また他国でも誕生する事はなかった。

 この時期の私は知る由もなかったが、他国でも魔導攻撃機の研究は進めていたが、実用化に関しては早期に匙を投げていたそうだ。

 機体や人材育成のコストもそうだが、術式起動のタイミングが非常にシビアかつ調整しづらく、最悪弾倉内の暴発さえ頻発していたのが決定打だったそうである。

 設計も開発も、エルマーだからこそ可能だったに過ぎず、仮に成功させても高コスト故に他の兵器製造にまで影響をきたす。

 軍用機に関しては口出し無用とエルマーが念押ししていながら、総監部高官が一様にゾフォルトの後継機開発を諦めるよう進言するのも理解できる話だった。

 

 シャノヴスキー参謀少佐も、私が戦闘爆撃機に搭乗して以降は後方勤務であるし、魔導師の相手は既にして同じ魔導師の専売特許になりつつある。

 戦争の流行り廃りは残酷だ。騎兵が戦場から消えたように、ゾフォルトの生産が終了するのも、魔導攻撃機が廃れるのも近しい未来なのかもしれない。

 この時こそそう考えていたが、しかし、私の予想は裏切られた。

 

 連邦軍が、新型の演算宝珠を投入してきたからである。

 

 

     ◇ターニャの記録23

 

 

 一九二七年、九月。私ことターニャ・リッター・フォン・デグレチャフとサラマンダー戦闘団は信じ難い連絡を管制官から受けた。

 敵魔導小隊が、こともあろうに帝国軍魔導中隊を撃墜したばかりか、そのまま歩兵部隊を一方的に蹂躙しているというのだ。

 逆ではないのかと誰もが問い返したくなったが、合州国製の新型演算宝珠を用いているという可能性もある。

 私は魔導師の中からこれはという者を中隊規模で選抜し、敵を確認すべく現地に赴いたところ、誤報ではないのかと鼻白んだ。

 一見すれば高度も低く低速で、しかも術弾は調整が出来ていないのか、それとも使用者の錬度が極端に低いのかは定かではないが、命中精度も低く数撃って中てるという方式だった。

 こんな相手、我々ならば赤子の手を捻るようなものだと光学系狙撃術式を展開。命中と同時に敵魔導師の撃墜を確信したものの、防殻どころか防御膜さえ健在だった。

 

「成程、防御にリソースの全てを注ぎ込んでいる訳か」

 

 試しに放った長距離砲撃用の爆裂式でさえ飛行に問題なし。帝国軍でも最精鋭たる我々の攻撃でこれなのだから、並の魔導師の火力では歯が立つまいし、ましてや歩兵部隊の装備では豆鉄砲だ。この連中を墜としたいのなら、最低でも高射砲を持ってこなければ話になるまい。

 

「正攻法は、こちらの機動力を活かして釣瓶打ちか?」

「いいえ中佐殿。もう一つ存在します」

 

 そう言って笑うのは『魔弾』の二つ名を持つネームドにして、既にして三桁の撃墜記録を誇る撃墜王(エース・オブ・ザ・エース)として畏敬を集めるリービヒ大尉。

 他の面々がStG26Mを使用する中、一人ボルトアクション式の小銃を好んで用い、超遠距離から一方的に撃墜する、サラマンダー戦闘団きっての狙撃手にして缶切り職人でもある大尉ならば、確かにそれも可能かもしれないが。

 

「やれるか? 私とて、九七式では複数射でなければ厳しい相手だぞ?」

「やれねば、二つ名を返上致します」

 

 言いつつ、光学系収束式を発現。歌劇『魔弾の射手』の一節を口ずさみながら発射された弾丸は、敵魔導小隊の一人を射抜き、そのまま誘導式を込めているのか、威力を落とすことなく残る三名の頭蓋を吹き飛ばして全滅させてみせた。

 

「見事なものだ。が、リービヒ大尉以外には真似できそうにないな」

「いえ、ヴァイス少佐殿なら、いずれこの域に達するものと信じております」

 

 いつかは出来るだろう? 出来ると言え。出来ねば出来るまで鍛えてやると目で訴えるリービヒ大尉だが、これはパワーハラスメントという奴に当たるのではないかと私は思う。

 

 ともあれ、私達は敵の遺骸から演算宝珠を鹵獲し、戦闘記録を本国に提出した。

 連邦が新規開発したT3476型演算宝珠は、工作精度こそ低いものの希少金属の使用を極限まで抑えた大量生産可能なモデルであり、使用者の錬度が低くとも運用可能という、正しく数的優位という武器を活かす連邦ならではの代物だった。

 

 列強国ネームドに匹敵する魔導障壁。これに抗するにはそれ以上の火力で破る他ないが、帝国最精鋭たるサラマンダー戦闘団でさえ、原則として光学収束式で削る事が前提なのだから、相当に苦労するだろうと予想されたものである。

 

 しかし、何事にも相性というものはある。随伴歩兵のない戦車が対戦車兵の地雷や集束手榴弾の前に一方的に破壊されるように、全てにおいて万能な兵器などというものは往々にして存在しないし、作ったとしても器用貧乏になるのがオチなのだ。

 

 T3476に抗し得る兵器。それこそが、ニコが退場を予想したゾフォルトだった。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 高コストを始めとする諸問題から、日陰に移りながら消え行くと思われていたゾフォルトは、T3476型演算宝珠の登場によって再び日の目を見た。

 Jä001-2Fヴュルガー同様に魔導師では運搬不可能な三センチカノン砲に換装し、硬芯徹甲仕様の術弾を装填。

 誘導弾等他の術式は一切組み込まず、貫通術式のみを盛り込んだゾフォルトは、再び魔導師殺しとしての本懐を遂げたのである。

 敵魔導師は速度が遅く、高度も低ければ命中精度も低いという有様で、正しくゾフォルトの鴨になってくれと言わんばかりの性能だった。

 ゾフォルトに対抗すべく、従来の演算宝珠を装備した魔導師がT3476型装備の魔導師の援護につく事もあったが、そうなれば帝国軍魔導師が遠距離から駆逐した後にゾフォルトに潰して貰えば良いというだけである。

 

 結果。苦戦を強いられるばかりか、進軍速度にも影響を与えると思われた敵の新型演算宝珠はゾフォルトのスコアにされたが、これは互いの兵器が噛み合ってしまったが為のもので、ゾフォルトがなければ、相当の被害が帝国に出た事は想像に難くない。

 

 そして、ゾフォルトの立場を継ぐ後継機も、七年の時を経てようやく形になった。

 但し、全くの新型ではなく、最新爆撃機の護衛として開発されたJä002タンクの複座式練習機を魔導攻撃機として改造したものである。

 エルマーはゾフォルトを開発してからというもの、常に魔導攻撃機の後継機を開発すべく日夜取り組んでいたそうであるが、終ぞ新規での開発は行わなかった。

 私が以前語ったように、コストや性能に見合う物を、魔導に頼らずとも実現し得てしまう領域に現代の──というよりエルマーと、フォン・シューゲル主任技師の──技術が踏み込んでしまったからである。

 

 本来ならば魔導攻撃機を諦め、従来の軍用機とは全く異なるものを開発したかったそうだが、長期化する戦争の中で全く新しい兵器を開発する事は、既存の生産ラインを捨てることを意味している。

 それをするぐらいならば、部品の互換性と共通性を保った既存機から後継機を用意する方が手早い。魔導攻撃機の原型として使用したJä002タンクも、ヴュルガーの発展機として有りものを有効活用する上で誕生した機体であるから、如何にエルマーが帝国の財政を鑑み、生産効率を重視していたかが判ろうというものだ。

 

 ゾフォルトの後継にして最後の魔導攻撃機。そしてヴュルガーの派生機としても最後のものとなるJä002-1Sタンク*2は従来の魔導攻撃機のように、複数の術式弾を搭載していない。

 

 Jä002-1Sタンクは装甲と主脚を強化した上で戦闘爆撃にも対応し、三センチカノン砲一門と二センチ機関砲を四門装備しているが、これらに術弾は装填されず、通常弾のみの配備を前提としていた。

 Jä002-1Sタンクの術弾は、弾薬ではなく小型ロケット弾に誘導式のみを組み込んだ代物であり、これまでの数を撃って当てる無誘導型でなく、後席手がミサイルを手動誘導することで、確実に目標に命中させる方式を採用したのである。

 

 これは後のジェット戦闘機の標準装備となった誘導ミサイルの走りで、当時の技術基盤では実用に難のあった赤外線式や光波式が実用可能に至るまでの、繋ぎとも言えるものだった。

 当然ながら、術弾に込められた術式を起動させるだけでなく、その後の誘導まで自力でなさなければならない分、後席手の魔力消費と負担は大きなものになるが、これまでの研究成果から魔力消費をゾフォルトのそれ以下に抑える事には成功しているし、全弾撃ち尽くさずとも目標さえ撃破すれば帰投しても良い。

 その速度も相まって一撃離脱が前提の、敵にしてみればこれ以上ないほどに厄介極まりないJä002-1Sタンクは、オペラハウス指示の下、赤色空軍の爆撃機を一方的に墜とし続け、更には持ち前の精密誘導で移動中の輸送列車にも被害を与え続けた。

 

 

     ◇

 

 

 快進撃を重ねた帝国軍はスオマに雪崩込むと、勢いもそのままに各都市を解放し、遂にはこの地に駐在する連邦軍を駆逐するか、或いは連邦領にまで追いやることに成功。

 一九二七年一一月二六日は、スオマ人が後世まで語り継ぐ解放記念日となった。スオマ人義勇軍将兵は事実上の祖国奪還と開放を叫び、帝国軍将兵と歓喜の涙を流しながら抱き合った。

 化学兵器の類は忌むべきものだが、同時にそれがこうした悲願達成を早め、結実させたのもまた事実である。勿論、だからといって化学・細菌兵器の存在そのものが正当化される訳ではないし、エルマーのVXが世に出る切っ掛けを生んだ合州国に対しての怒りも尽きはしないのだが。

 

「これで、諸君らが遮二無二戦う理由もなくなったな」

 

 ルーシー戦役でも北方方面軍司令官を勤めたウラーグノ元帥は、そう合流した亡命政府議員に微笑んだが、議員もスオマ人将兵も、それを下手な冗談だと笑って否定した。

 

「私達には、まだ取り戻せていないものがあります」

 

 それは勝利だ。祖国の真の開放を歌うなら、それは自分達に侵攻し、祖国を汚した敵を討ち滅ぼしてからだという。

 

「我々は、帝国と共に進みます。これは、祖国再興を望んだ、全てのスオマ人の結論です」

 

 

     ◇

 

 

 一方、こうした祖国解放に歓喜するスオマ人に対し、僅かな例外たるスオマ人も存在した。

 連邦のスオマ侵攻時、スオマをルーシー革命時のどさくさに紛れて武力で政権を樹立させたクーデター国家だと主張して憚らず、連邦と共産党に対して協力関係を築いたスオマ社会民主党議長、オット・シークネンは連邦のスオマ侵攻後に傀儡となっていたが、スオマ人義勇軍と帝国軍による祖国奪還が止められないと見るや、亡命に乗り出した。

 しかし、シークネンや彼と主義主張を同じくした共産主義者らは連邦への亡命と支援を求め出たものの、それが叶うことはなかった。

 シークネン達は共産党から白衛主義者の残党とインペリアリストを打破できなかった非革命精神の持ち主であると無能の烙印を押され、全員が強制収容所(ラーゲリ)へと送られた後、()()()死亡したという。

 

 

     ◇

 

 

 一二月。スオマ開放後も戦争は続き、厳しい冬を皆で乗り切ろうと悪戦苦闘したものだ。

 整備員は「回転翼機様々だ」と、後方から粗漏なく交換部品が届く度に歓喜した。

 我々飛行要員も一丸となって彼ら地上要員と協力し合い、身も凍る寒気の中で何時でも飛べるよう最善を尽くしていたが、何も辛いことばかりではない。

 スオマ人義勇軍将兵や、現地のスオマ人は冬季戦に移行した為に小康状態が続いているのを利用して、北方各所の帝国軍を労ってくれていたからだ。

 

 私達空軍の元にも訪れてくれたスオマ人義勇兵らが、感謝の言葉と共にクリスマスプレゼントだと称してコーヒーやチョコレート、ジンやジャムを持ち寄ってくれた日の事は、忘れがたい思い出だ。

 私達は諸手を挙げてスオマ人達を歓迎し、お返しにワインやブランデーの類を振るまい、ささやかな宴を開いたものである。

 スオマ語は世界でも屈指の難易度だと言われるが、私も含めた幾人かの将校は、現地人には多少の違和感こそあっても会話出来るし歌も歌える。

 私たちは歌える者達でスオマ民謡を肩組み歌唄い、彼らも返礼にと帝国国歌を高らか歌えば、これなら問題ないと他の帝国軍将兵も揃って歌った。

 

 今でこそ心の友として、また戦友としての愛を公言して憚らない私達だが、空軍の面々は始め、彼ら義勇軍の姿を見た時には、殺してやらんばかりの殺意の眼差しを宿していたといえば、読者諸氏はどう思うだろうか?

 それも。本当に下らない理由でだ。

 

 

     ◇

 

 

 東部戦線で初めて空軍と義勇軍が顔を合わせたとき、帝国空軍は彼らを見やると同時に歯ぎしりし、血涙を流さんばかりに睨んだという。

 民族主義者特有の外国人差別か何かかと、その様を見た野戦憲兵は空軍を咎めつつも宥めたが、そうではないと年嵩の空軍将校は言った。

 

「我々は、その制服が妬ましいのだ!」

 

 帝国空軍史上、後世にまで残ってしまった余りにも残念な迷言である。

 だが。彼らの気持ちも私には分かる。灰緑色(フェルトグラウ)の折襟軍服に、プロシャ時代から引き継がれた由緒正しき髑髏の帽章。機能美を保ちつつも洗練された軍服は、私でさえ一目見て着用したいという欲求が湧いてきた程だし、現に制服のデザインが優秀だった為に、他国のみならず徴兵を終えた帝国人さえ、義勇軍に参加したいと志願が殺到したほどだ。

 空軍のみならず、陸軍からも制服を更新する際はあれと近しいデザインにしてくれと要望が出た程なのだから、当時人がどれだけあの制服を求めて止まなかったかは、読者諸氏にも想像に易い事だろう。

 

 流石に戦時下で被服を全面改訂する訳にも行かず、かといって士気にも関わる。そこで帝国軍は『親衛』の称号を与えられた師団に限り、義勇軍の制服を着用する権利を与えた。

 外国人義勇軍は出身国や部隊に応じて右襟に異なったデザインの襟章──左襟には階級を示す襟章が付く──や袖章、盾章を加えられたが、帝国軍の親衛師団は新たに専用の袖章と、右襟に親衛部隊(Schutzstaffel)の頭文字を取りSSのルーン文字の入った襟章を与えられる事になった。

 

 帝国軍の各軍は親衛の称号を得んとする為、引いては制服を得る為に猛烈な勢いで戦ったというから、制服が与える士気や影響の絶大さが見て取れる。

 

 そしてここいらで、オチを用意しよう。帝国軍において親衛称号が与えられるのは陸軍のみであり、空・海軍は対象ではない。

 即ち空軍将兵の士気低下は甚だしく、その分は空軍が独自の栄典を創設することで対応したが、栄典よりも制服が欲しい空軍将兵には大して効果が無かったということをここに記載しておく。

 

 その結果、制服の存在を知りながらも手に出来ない空軍将兵の積もり積もった感情が、義勇軍と顔を合わせた瞬間に爆発し、後世にまで残る迷言が誕生したことは、世界に冠たる帝国空軍の中でも、最も恥ずべき歴史だったと言わざるを得なかった。

 

 

      ◇

 

 

 とまぁ、かくも残念な話だが、蟠りは時間が解決してくれた(というより空軍が諦めたのと、義勇軍らが怒るより呆れただけだが)。

 今となればこうして義勇軍と互いに酒を酌み交わし、来年はモスコーで戦勝パレードだと笑い合うが、そこまで上手くは行かないだろう。

 ナポレオーネもモスコーを取ったが、最終的には退却した。首都機能を別都市に移して奥に引き篭る程度の頭は連邦軍にもあるだろうし、現段階で戦後の労働人口に影響を与える規模の損害を出していても、独裁体制である以上、兵力はまだ捻出できてしまう。

 

 何より、モスコーから奥のインフラは一層絶望的で、重戦車が通るには相当の時間を要するだろう。考えれば考えるほど頭が痛くなるが、更に厄介なのが合州国だ。

 他の中立国の弾劾から合州国企業株の不買運動は各国で広がり、国債購入も響いている。武器供与や武器貸与(レンドリース)を行使しても、徐々に国家経済が軋む音が聞こえ出した彼の国は、更に悪辣な手段を取った。

 

 民間軍事会社(PMC)の設立。国家でなく企業による軍事サービスの提供であり、早い話が傭兵業だ。直接的な兵力や物資だけでなく、軍事顧問なども金額次第で如何様にでも提供するという企業は、挙って連邦と契約を結んだ。

 PMC社員は正規軍人でない為に国際法の庇護下になく、非常にリスキーではあるものの給金は良いという事と入社条件の敷居の低さから、食い詰め者や人種差別故に定職に就けない有色人種らにとっては救いの糸だった。

 PMC社員となった者達は主義主張や己の心情とは無関係に武器を取り、こうして中央大陸で我々と矛を交えている。但し、死亡者に給金は支払われず、特に有色人種は地雷除去等の危険任務にばかり駆り出された挙句、四肢が吹き飛んでも治療を受けられず死亡するというから、給金以外は最底辺という他ない。

 

 それでも例外というものはあって、退役士官等一定のキャリアを有している者や魔力量を持つ航空魔導師の有資格者は、同社内でも特別社員として優遇措置が設けられている。

 特別社員は独自の制服を着用し、合州国や他列強と同等の訓練を受けてから『出荷』されるが、はっきり言えば彼らの大半が合州国か、或いは他国の現役武官だ。

 これまでの戦闘でも幾人かのPMC特別社員が捕虜として捕らえられたが、帝国情報部が経歴を洗ったところ、表向き病気除隊という形で退役後、PMCに『入社』した形になっていた。

 連邦と帝国の戦争を長引かせ、帝国を疲弊させつつ連邦から利益を巻き上げる。忌々しいが効果はある上、特別社員の中には過去の敗戦から反帝国故に入社した玄人も多いため、規模こそ小さくとも、連邦軍より厄介な連中だ。

 

 何より、押されている連邦も、ただ手を拱いている訳でなかった。帝国が義勇軍を設立し、反共十字軍という御旗を掲げたように、連邦もまた赤色義勇軍という多国籍軍の設立に乗り出したのである。

 実際、赤色シンパは世界各国に存在する。彼らはテロリズムの行使や危険思想から自国内での立場は低く、皆こぞって連邦に集結した。

 それも、合州国の民間船に乗ってである。当然、帝国海軍は幾度となく臨検を行ったが、義勇軍に正式に加わるまでは民間人であり、武器の類も現地で受け取るのだから、観光や仕事だと言われれば拘束できない。

 そうしていざ連邦領に入れば、制服と武器を支給されて我々と殺し合うのだから堪ったものではなかった*3

 

 長々と語ったものの、何が言いたいかと問われれば、我々はまだ戦い続けねばならないという事である。

 

「キッテル大佐殿が、モスコーの空を飛ぶ日も近そうですな!」

 

 そう砕けた調子で笑うスオマ人中尉に「だと良いのだがね」と珈琲を注がれつつ応える。他は無礼講とばかりに酒精を入れているが、私は常に飛べるよう飛行を禁止されている夜間以外では酒をやらなかった。

 

「私としては、まずはウリヤノフグラードを落としたいところだな」

 

 折角スオマが解放されたのだから、東部の北方軍集団と挟み撃ちにするのが一番だ。陸軍内では無理にウリヤノフグラードを占領せずとも、包囲して干上がらせれば良いという意見もあるが、あの都市を野放しにすれば戦車や火砲、弾薬を連邦軍に供給し続ける。

 冬季までに各都市の工業施設だけは、最新鋭爆撃機の速度と航続距離を利用して叩けるだけ叩いていたが、都市部とは完全に制圧するまでは何度だろうと持ち直すものであるから油断ならない。

 

 尤も、挟み撃ちという部分には問題もある。我々はスオマを解放するほどの大躍進を遂げていたものの、肝心要の東部は中央軍集団がようやくスヴォレンスクを落としたばかりで、我々との合流には未だ時間を要するのだ。

 これは何も、東部が手を拱く事態に陥っているという訳でなく、補給線の確保を最優先にしている事や、独立を求める諸勢力と協力体制を維持するため、市街地への化学兵器を使用せず、反共産系パルチザンと共同で都市を攻略したが為である。

 

 その甲斐あってというべきか、時間こそかけたものの各都市は帝国の『解放』を喜び、友好関係を築けているし、今後も補給拠点としては大いに期待出来そうだという。

 多少の無理をすれば、確かにモスコーを落とすだけならば来年の春には叶うだろう。尤も、私としては無理にモスコーを落とそうとして逆包囲をかけられるなど御免被りたい上、ナポレーネの時がそうであったように、入城した都市に焦土戦術などされては堪ったものではないので、多少時間をかけてでも着実に継戦能力を削ぐ道を選択したい。

 しかし、スオマ人中尉の関心は、そうした部分とは別のところにあったようである。

 

「ウリヤノフグラード! 良いですな! 次はスオマが奴らの都市を奪うというのも一興です!」

「それは戦後の交渉次第だな」

 

 帝国はルーシーに対してオストランド以東の領土要求をしない事を誓っているし、賠償金も最低限だが、これは連邦打倒後に復権予定のルーシー帝国が、諸勢力の分離独立を認めた上でも国家を維持し得るラインを保つ為だ。

 加え、連邦の首都はモスコーだが、ルーシー帝国時代の首都はサンクトピチルブールクであり、現在のウリヤノフグラードでもある。

 未来のツァリーツァや旧体制派がそれを飲むかと問われれば、まぁ無理だろう。それよりはスオマを売ったレガドニア協商連合に対して、彼らが失地回復を望んだ際に幾つかの領土を要求する方が遥かに良い筈だし、亡命していたスオマ人議員もそのように動く筈だ。

 スオマ人中尉も分かっていたのか冗談半分だったようで、話題を変えてきた。

 

「遅ればせながら、キッテル大佐殿の進級決定と叙勲をお祝い申し上げます」

 

 ありがとうと、静かに笑いながらチョコレートを一つ齧る。彼らがここに来てくれた理由の一つが、年明けには北方地域を離れねばならない私に祝いの言葉をかける為だったと知った時には、思わず彼らを抱きしめたくなったものだ。

 

「出来れば、戦争が終わるまでは前線に残りたかったがね」

 

 それは無理だと、スオマ人中尉のみならず誰もが苦笑しだした。

 スオマ解放に至るまで、私は兎に角暴れに暴れていた。地上ではひたすらに支援の名目で火点潰しと戦車撃破に努め、海上では海軍と連携してウィレム海海戦にも参加した。

 海戦に関しては潜水艦の活躍と帝国海軍の練達な手腕もあり、空軍に大した見せ場もなく終わったが、それでもブークモール海では船団に対して一定の戦果を挙げる事が出来た。

 

 ダールゲ中佐などは『自分が唯一目立てる機会を奪うなんて!』と冗談交じりの手紙を送ってきたが、中佐は私が一隻沈める間には五隻沈める海上の覇者だ。

 東海(オストゼー)でも『船団殺し』の名声は絶大で、赤色海軍にしてみれば、ダールゲ中佐は私以上に殺しても殺し足りない存在だったことだろう。

 ダールゲ中佐は爆撃と同様に空戦の腕前も凄まじく、東部に専念して貰うべく戦闘航空団の指揮官に任命されてからは、赤色海軍が胸を撫で下ろした事は間違いない。

 

 今のダールゲ中佐は、それこそ私から最多撃墜王の座を奪おうとしているのではないかと勘ぐる程の追い上げを見せていたが、私に本国に戻れというのも、北方地域は片付いて戦線も安定しているという理由ばかりでなく、ダールゲ中佐の活躍が、私を後方に置けるだけの余裕を作っているからだろう。

 そう考えると、私は逆にダールゲ中佐に恨み言の手紙でも送ってやろうかと考えたが、止めた。相手と同じネタに走るのも芸がないし、冗談とは言え恨み言を親友に漏らしたくはない。毎年のそれと同じく、クリスマスプレゼントとカードを贈るのに留めよう。

 

 

     ◇

 

 

 一九二八年、一月。本国に一時帰還した私は正式に少将進級を伝えられ、突撃章の中でも最高位の黄金柏葉剣ダイヤモンド付白金騎士突撃章を授与された。

 

「貴官は十二分に尽くした。今後は後進を育て、活かす道を歩み給え」

 

 授与式の際に帝国軍統帥が述べた言葉は、要するに私は今後地上勤務に専念しろという念押しだった。私としても、今この瞬間に戦争が終わったのならば、それを受け入れる事も吝かではなかったが、そうでない以上答えは決まっている。

 

「祖国が窮地にある限りは、私に空を離れるという選択肢はございません」

 

 どうしてもというのならば勲章も進級も要らないと申し出た私に対して、統帥は良かろうと飛ぶ事を認めてはくれた。

 

「但し、飽く迄も階級に相応しい職務を全うし給えよ?」

 

 随分と太く長い釘だと思いつつ、授与式の後は命じられるがまま、大人しく戦闘爆撃機隊総監という新職務に精を出した。

 幕僚を纏め上げるのも、各種の事務手続きも非常に煩雑かつ膨大なものだったが、そこは自慢の体力と事務能力でやり遂げた。どの道冬季では前線でも耐え忍ぶ他ないのだという諦めもあったので、未練も不満もあっても、駄々をこねようとは思わない。

 

“尉官の頃であったなら、意地でも操縦席に齧り付いただろうにな”

 

 だが、今の私が成すべき事はパイロットであることでも、戦果を重ねることでもなく、一刻も早く連邦に勝利することだ。ターニャを死なせず、エルマーがこれ以上の悪名を広められる日が来ないよう、全力で職務に取り組むことだ。

 前線でも後方でも、自分の能力が活かせるならば居場所には拘泥すべきでないと、総監職に就いたばかりの時は意気込みを新たにしたものである。

 

 そう。あの日までは。

 

*1
 反面、連邦軍は毒ガス攻撃によって多大な被害を蒙った。

 連邦は合州国から化学兵器を購入し、独自研究もしていたが、未だ人命軽視の観が根強く、対ガス装備は行き渡っていなかったのである。

*2
 Jä002-1はエンジン部と出力増加装置の不具合を修正し、低・中高度飛行時の性能低下を克服した交代機。世界最高の称号を得たレシプロ機と言えば、Jä002でなくこれに当たる。

*3
 PMC社員も同様の手段で輸送されており、彼らの言い分は現地での契約が完了しない限りフリーであり、到着までは兵士ではないと拘束を拒絶していた。




以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 オットー・クーシネン→オット・シークネン
【地名】
 スモレンスク→スヴォレンスク
 ノルウェー海→ブークモール海
 バレンツ海→ウィレム海


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65 安らかな死-宣戦布告

※2020/3/19誤字修正。
 すずひらさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!



 その一報を電話で受けた時、私は受話器を取り落とした。誤報だろうと。そうでなくとも、私の時がそうだったように生存の可能性はあるはずだと。そう思いながらも、受話器から漏れ聞こえる声を確かめるべく、拾い上げて耳に当てる勇気を振り絞るには、相当の時間を要した。

 

「本当なのか?」

 

 ダールゲ・クニックマン中佐の戦死。威力偵察からの敵機遭遇と、そこからの撃墜。

 あの英雄が、ファメルーンの勇士にして空軍でも私以上の、文字通りの最古参たる無二の親友がこんなにも唐突に死んだのだと知らされた私には、それが現実のものとは到底思えなかった。

 

「モスコー放送では、クニックマン中佐殿を撃墜した男を大々的に喧伝しております」

 

 それはそうだろう。船団殺しを始めとする数々の異名を敵味方双方から賜った、世界最高峰の空軍パイロットを討ち取ったとあれば、どの国だろうと鳴り物入りで喧伝し、祭り上げるに違いない。

 私は魂が抜け落ちたように椅子に沈み込んだ。血の気の失せ切った顔を引きつらせつつ、ゆっくりと報告者に問うた。

 

「何者なのだ? 彼を、ダールゲ中佐を墜としたのは?」

 

 からからに渇ききった喉から絞り出すような声で問えば、そこから先は早かった。電話越しに伝えられた情報を呑み込み、最後に礼を述べて受話器を置くと、私はダールゲ中佐を墜とした相手を徹底的に調べるよう命じていた。

 連邦軍が敵味方問わず撒き散らした伝単(ビラ)を掻き集め、連邦や合州国内の赤色シンパが手がけた新聞を取り寄せ、そして敵のラジオを耳にする。

 

“本当に、死んだのだな”

 

 新聞や伝単(ビラ)にはダールゲ中佐を撃墜したパイロット、イヴァレフ・シェスドゥープ親衛少佐の英姿が飾られ、親衛少佐は自らの手で英雄を倒したのだと示すように、機体から取り外したのだろうダールゲ中佐の愛機の尾翼と一緒に写っていた。

 ギャンブラー気質な、そして空の男らしいダールゲ中佐は強敵との出会いを求めている事を公言して憚らず、一時時の人になった際やダイヤ付きの白金十字を授与された時などは、メディアに「自分を墜とせば勲章はそいつの物だ」と声高に語っていた。

 だというのに、ダールゲ中佐を撃墜したというシェスドゥープ親衛少佐は、中佐の勲章でなく尾翼と写るばかりだったので、私は首を傾げていたものである。

 

 普通、最前線では高位勲章など佩用したがらない物だが、ダールゲ中佐は出撃時にも構わず全身を勲章で固めて飛んでいた。有言実行とはこのことで、本当に敵に勲章を与える気でいたのである。

 それをシェスドゥープ親衛少佐が知らない筈がない。なにせ、その尾翼にも堂々と白金十字を描き『自分を墜とす勇者に与える』と自らの手で筆を入れていたのだ。

 印刷こそ荒くとも文字は読める。尾翼は広報用の偽物でなく、正真正銘ダールゲ中佐の文字だった。

 

“だというのに、何故?”

 

 ここまで来て敢えて語るまでもないことだが、私は連邦軍が好きではなかった。単純に主義主張の面もあるが、それ以上に彼らが行ってきた数々の蛮行故にだ。

 ダールゲ中佐の遺体は、多くの戦友たち同様に辱められたのだろう。蟻のように撃墜された機体や肉塊と果ててしまった遺体に群がり、勲章を引き千切るだけに飽きたらず換金できる物は根こそぎ奪い去り、最後には遺体の写真を撮りながら嘲り笑っているに違いないと、そう思えば私の心には、憎悪の火が猛り狂って止まなかったものである。

 

 だが、私はそれを後に深く恥じ、認識を改めざるを得なかった。ダールゲ中佐の遺体が、帝国に返還されたと知らされた為である。

 私は職務を投げ出して、真実か否かを確かめるべく搬送された遺体の元に飛んだ。()()()である合州国仲介の下、合州国大使館を経由して帝国首都ベルンに運ばれた遺体は無残なものだったが、最低限の防腐処理が施されており、勲章の類も破損していたが、粉砕されたのであろう物を除けば余さず持ち主に返されていた。

 

 合州国大使曰く、確かに私の想像通り、遺体から破損した勲章や宝石類そのものを強奪しようと群がった赤軍兵士は居たらしい。しかし、ダールゲ中佐を撃墜したシェスドゥープ親衛少佐は中佐の機体の傍に着陸すると、略奪者を殴打して勲章を取り返したのだという。

 それを知った私は、親友の仇に深い感銘を受けた。遺体の返還を求めた訳ではない。共産党とて、美談として祭り上げるまでは相当に悶着しただろう。

 だが、それでも私が心の中で蔑み、憎んだ仇は手を尽くしてくれたのだ。それは帝国貴族でさえ模範とすべき、誠実さと高潔なる精神を体現するものだった。

 非道で、唾棄すべきばかりの敵ではない。真に尊敬する空の騎士は、敵にも確かに存在したのだ。

 

 

     ◇

 

 

 華々しい、しかし誰も歓声を上げることのない式典。英雄の死を悼む為に催された国葬に、私もまた空軍礼装を纏い参列していた。あれ程まで着たい着たいと思っていた空軍の軍衣だというのに、この日ばかりは嬉しくない。

 参列した三軍の将兵や官吏らと、ベルン・フィルハーモニー管弦楽団の葬送行進曲を耳にしながら固い足取りと表情で墓地に着く。

 白い棺の上には花束と国旗。その中には出来る限り手を打って復元された親友の遺体があるが、勲章は一切身に着けていないし、クッションに飾られて運ばれてもいない。

 私が、ダールゲ中佐の遺志を忠実に守るべきだと主張したからだ。

 

 無論、反発はあった。誉れある帝国の勲章を、敵の手に委ねるなど許されはしないと。だが、私は真っ向から反論した。

 ダールゲ中佐を破ったのは高潔な軍人であって、忌むべき卑劣漢や野盗ではない。我々にとっての仇とは言え、誠意ある人間だったからこそ私達はダールゲ少将と『再会』出来た。それを思えばこそ、故人の思いを汲むに相応しい相手だからこそ、ダールゲ少将の約束は果たされねばならない。

 これは紛れもなく、勝者たる戦士が得るべき権利なのだから。

 

 私の熱意に押されてか、はたまた諦めからか、最終的に皆は折れた。二階級特進を遂げたダールゲ少将の勲章類は死後追贈された物も含めて額に納め、遺体がそうであったように()()()たる合州国を経由して、シェスドゥープ親衛少佐に渡す事が約束された。

 

“これで、良いのだよな? ダールゲ少将。それが、お前の望みだったものな”

 

 白い棺に黒い土がかけられる。棺の中で眠る、特進した親友の顔は穏やかで、悔いなど何一つとしてないのだと、一目見た時から分かっていた。

 ダールゲ少将は確かに本懐を遂げた。彼は空に生き、空で戦い、誇り高く空で死んだ。

 誰もが彼の死を前に復讐を誓う中、私にはもう憎悪の火は灯らない。胸にあるのは仇たる敵への敬意であり、戦友にして生涯最高の親友との別れの場を用意してくれたことへの、確かな感謝の思いだった。

 胸のロザリオを握り締め、静かに黙祷を捧ぐ私に、フォン・エップ上級大将は声をかけられた。

 

「魔導師と操縦士という立場の違いこそあるが、同じ空の男として貴様の気持ちは分かるつもりだ」

 

 何のことかと首を傾げかけたが、一拍の間を置けば、フォン・エップ上級大将が言わんとしていることに気付けた。

 

「戻る気なのだろう?」

 

 無二の、最も親しい友人の仇を討ちたいのだろうと。自らの手で、それを為したい筈だという問い。だが、私にそんな気はなかった。

 断っておくが、臆病風に吹かれた訳ではないし、あのダールゲ少将を討ち取った敵を撃墜するには、私か、私に比肩するパイロットでなければなるまいとも考えてはいた。

 

 読者諸氏は、ダールゲ・クニックマンを私より一段下に見ているかもしれない。リービヒ大尉が彼に土をつけた事や、私との戦果比較や常日頃のやりとりから、そう思わせてしまうことは無理からぬ話だっただろうが、人とは常に成長するものである。

 私が空軍総司令部に長らく勤務する間、ダールゲ・クニックマンは常に最前線の空を飛び続け、ダイヤ付きの白金十字を得たばかりか、私に先んじてダイヤ付き突撃章までも取得した、戦場の星そのものだ。

 

 私とダールゲ少将は戦力過多を避ける為に轡を並べる事は叶わず、運良く一緒になれたのはアルビオン・フランソワ戦役の終戦から東部開戦までの二ヶ月の、しかも一度きりの訓練だけだったが、その時のダールゲの飛行は私をして圧倒されたものであり、模擬戦を行えば、三度に一度は確実に撃墜判定を下されていただろう。

 そのダールゲ少将が威力偵察時に搭乗していたのは、現帝国空軍戦闘機でも最高のJä002-1タンクであり、戦闘爆撃機ではない。

 私もそうだが、ダールゲ少将自身、地上支援でなく空の戦いを本領とする空戦の名手であり、その点から見ても決して不利を強いられた訳ではないのである。

 むしろ、連邦製にせよ合州国製にせよ、帝国のそれより一段劣る戦闘機であのダールゲ少将を相手に勝利したシェスドゥープ親衛少佐は、正しく新星と称すに相応しい存在だ。

 

 仇というだけでなく、同じ空の男として好敵手と相見えたいのだろうという思い……フォン・エップ上級大将がそれを汲んで下さったのは、私個人としては感涙に足るものであった事は否定し得ない。

 しかし、私にはシェスドゥープ親衛少佐個人への思い以上に、危惧していることがあった。私やダールゲ少将に比肩するパイロットが敵に現れたとき、この押されたままの戦局を打開し得る、唯一の手を敵が用意するだろうと確信していたからだ。

 

 その危惧とは、赤色空軍による本土爆撃……それも、軍の生命線たる水素化合(合成石油)工場区域への無警告(奇襲)爆撃である。

 機械化された高度な近代化軍である帝国軍は、ダキアからの油田に頼る以前から機械化部隊を維持するため、石油の大部分を合成石油の精製によって賄い続けてきた。

 非産油国にして四方を仮想敵国に囲まれた状況下故に、発達せざるを得ない技術であったが、それ故に日産にして七万二〇〇〇バレルという生産量を、質を維持した上で賄い続ける生命線だった。

 精製施設の半数は、空爆による破壊を憂慮して地下に建築している。が、言い換えれば残りの半数は地上にあるのだ。

 一度でも空襲による被害を被れば、間違いなく広漠なルーシーへの進軍は不可能となる。何より、帝国は連邦以上に()()()()

 

 足かけ四年……帝国が戦争に費やした期間は、それだけの戦費と人員を炉にくべ続けた。帝国軍はダキアに、協商連合に、共和国に、連合王国に、そして連邦に対してさえ、常に小規模な失敗こそあったものの、大規模かつ壊滅的被害を被ることは一度としてなかった。

 だが、もし一度。たった一度でも失敗してしまったならば、今の位置には決して立てなかっただろう。

 我々の継戦能力は、失敗をして来なかったからこそ維持してこれたのであり、言い換えれば、一度の失敗が我々の進軍に歯止めをかけることを意味している。

 敗戦国からの賠償金は、遅滞なく確保できている。軍需工場も稼働出来ている。帝国本土は、未だ安寧と繁栄を謳歌し続けている。

 だが、その全ては国家という機構が瑕疵なく動き、精緻にして膨大な歯車が欠けることなく、或いは欠けたとしても即時交換と補充が可能だからこそ維持し得ているに過ぎない。

 ここで大打撃を被れば? 主力燃料と言う、近代化軍の血液の大部分が消失してしまえば? これまで一度として被害の無かった本土が焼かれた際の、国民に与える心理的影響は?

 

 開戦時に東部に派遣される以前、私は自身の危惧を最大の懸念事項としてフォン・エップ上級大将にお伝えしていた。シェスドゥープ親衛少佐のような個人の力量を当てにせずとも、雲霞の如き物量さえあれば、敵空軍の工業地爆撃は成功の見込みがあると踏んでいたし、フォン・エップ上級大将も私の危惧には大いに頷かれて本土防空を固めていた。

 その甲斐あってか、はたまた敵にそれだけの手を打てる算段がつかなかったのは定かではないが、帝国本土への大規模爆撃は未だ実行されず、帝国本土防空部隊は、徐々にその規模を縮小して前線に送られ続けていた。

 

“フォン・エップ上級大将は、既に私の危惧を杞憂と考えられておいでなのだろうか? いや、或いは私の権限内で出来る限りの手を打たせた後、万全を尽くした後で送り込もうという腹積もりなのやも知れぬ”

 

 私の考えの正解は後者だった。少将になったとは言え、戦闘機総監ならまだしも、戦闘爆撃の総監職では戦闘機隊を防空に回す権限など殆どない。

 それならば最低限の引継ぎを済ませて、一日でも早くシェスドゥープ親衛少佐や、他のエース級を墜としてくれといったところだったのだろう。

 それでも私自身としては個の武勇よりも、将官としての勤めを為す方が全体の利となると考えていた。しかし、フォン・エップ上級大将の思いを汲まねばならないだろうという思いが逡巡を生み、結局は相手に委ねるような言葉を発してしまった。

 

「……戻ることを、許されるならば」

「意外だな。是が非でもと言うものと思っていたが」

 

 だから、もう準備はしていたという。短過ぎる期間だったが、私は戦闘爆撃機総監を解任される予定だというし、次の居場所も用意するつもりだとフォン・エップ上級大将は告げられた。

 

「航空軍団の一つに席を空けさせた。表向きは参謀長職だが、それは副官に任せれば良い」

 

 戦闘機だろうが魔導攻撃機だろうが好きに乗れ。部下も自由に寄越してやるという。

 

「私が死ねば、士気に関わるのでは?」

 

 フォン・エップ上級大将ではないが、意外だったと言わざるを得ない。私が仇討ちという血気に逸ることを危惧されて、今後の飛行任務を禁止される事さえ考慮していたが、そうした疑問を呈すれば、フォン・エップ上級大将は今更だなというように、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「士気を語るならば、英雄を失ったばかりだ。貴様と並び立つ『空の双璧』の片割れがな」

 

 だからこそ、私に帝国空軍の威信を取り戻せという。

 

「私としては、殺し屋に仕事を依頼するようで気乗りはしなかった。貴様の腕も信じているが、頭に血を昇らせて墜ちた時のことが、記憶に新しかったのもある」

 

 だが、今の私は昇る血など持ち合わせていない。怒りも復讐も、親友の無念そうな、けれど自らの死や敗れた事への不満などないあの死に顔を見ては、沸き立つ筈もない。それを承知しているからこそ、フォン・エップ上級大将は行けと背中を押しているのだろう。

 

「行ってこい。行って、我々こそが空の支配者だと。帝国空軍こそが、唯一無二の空の無敵艦隊(ルフトアルマーダ)なのだと教えてやれ」

「勝利をお約束します。吉報をお待ち下さいませ、将軍」

 

 

     ◇

 

 

 私の戦闘爆撃機総監職の解任と、第Ⅰ航空軍団配属を任じられたのは、ダールゲ少将の戦死からすぐのこと。宣伝局は私の東部戦線復帰を親友の仇討ちと信じて疑わず、是非ラジオで仇たるシェスドゥープ親衛少佐に宣戦布告をとまで言われたが、しかし、先に語った通り私に復讐の意思はない。

 ただ、私が空に上がらねば、シェスドゥープ親衛少佐と相対した戦友達は確実に命を落とすだろう。そればかりか、シェスドゥープ親衛少佐を野放しにすれば今後我が軍は確実に甚大な被害を被るだろう事も、同じ一操縦士として嫌という程に理解できていた。

 

 聡明なる読者諸氏は、こう疑問に思われるだろう。如何に敵が類稀なる力量を持つパイロットとは言え、敵首都を目前に控えた現状、将官が総監職を辞してまで、赴く程の理由には弱い筈だと。

 たとえ件の親衛少佐が世界最高峰の実力を有そうと、所詮は一機。帝国空軍の防衛隊を崩して突破するには、弾薬も燃料も決して足りない。

 開戦劈頭の物量ならばまだしも、現状の連邦軍は摩耗し切っている。赤色空軍内で、唯一帝国空軍の脅威足り得る親衛連隊と合州国産の航空機をありったけかき集めたところで、帝国本土への空爆など成功の見込みは薄すぎる筈だと。

 

 その疑問は尤もで、工業地爆撃を行うだけの余力は、既に帝国空軍が徹底的に潰している。しかし、だからこそ、と言わねばならない。追い詰められているからこそ、赤色空軍は背水の陣で臨まざるを得ないのだと私は確信していた。そして、一本の絹糸のように細い成功の可能性であっても、英雄という存在が、それを後押しするだろうと。

 

 件の親衛少佐を知らぬ読者諸氏には、この一パイロットの存在が本当にそれほどまでの影響を与えられるものかと疑問視することであろう。或いは、歴史を知る読者諸氏には、私がこの時点でそれを本当に確信していたのかと疑義を唱えるかも知れない。

 前者に関しては歴史がそれを証明している。そして、後者に関してはこう答えよう。

 

 私が敵ならば、同じ事をした、と。

 

 現時点でのルーシー連邦において、本土空爆が唯一残された逆転の目である以上、如何なる犠牲を払ってでもそれをするだろうと私は確信し、フォン・エップ上級大将らもその危険性を理解していたが為に、私を送り出しつつ、更に幾人もの撃墜王を招集してくれていた。

 

 そして私は、ルーシー連邦が逆転の目としてシェスドゥープ親衛少佐を用いるより早く、彼を撃墜する為に自らを釣り餌にすることにした。

 ラジオや新聞、伝単ばかりでなく、今日まで伝え聞き、そしてかき集めた情報から、人となりを知ったシェスドゥープ親衛少佐が食いついてくれるだろうと期待して、連邦公用語で敵勢力向けの声明を収録して貰う。

 

「『本懐を遂げられたダールゲ・クニックマン少将に代わり、勝者たるイヴァレフ・ニヴォートヴィチ・シェスドゥープ親衛少佐に心より敬意を表す。

 ルーシーの空の下、赤の翼で貴官を待つ。輝かしき人民の英雄が、相見えるその日まで壮健たらんことを祈る。

 帝国空軍、ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテル少将』」

 

 収録を終えた私は、東部の整備員に専用の機体を用意してもらうよう願い出た。収録時の発言通りの、鮮やかな赤い機体。戦後は私の代名詞となり、連邦からも真紅の悪魔機(クラースヌィ・ジヤヴォール)と恐れられた機体は、この時を境に登場したのである*1

 シェスドゥープ親衛少佐は帝国人のように名誉を重んじるばかりでなく、英雄との一騎打ちを望んで止まなかったとは情報を得ていたから、何かしらの反応はあるだろうと構えていたものだが、私の音声がラジオで流れてからの返答は余りに早かった。

 

「『シェスドゥープ親衛少佐だ。本来ならばそちらがされたように、言葉を合わせるべきであり、上位の階級者には敬意を表すべきなのだろうが、人民の敵たる貴族に対し、党と祖国の剣と盾たる私が下手に出る訳には行かん。

 だが、特進を遂げられたダールゲ・クニックマン将軍は、私にとって誇るべき好敵手であり、その敢闘は筆舌に尽くし難いものであった。

 たとえ唾棄すべきインペリアリズムと民族主義の先鋒たる帝国軍人であったとしても、その雄姿は、同じ操縦士として認めざるを得なかった──敬意に足ると。

 キッテル将軍もまた、クニックマン将軍同様に一操縦士として敬意に足る男であり、その挑戦が最上の栄誉であることも同じ空の住人として心得ているつもりだ。

 貴方に倣い、私もまた白い翼で空に上がることにしよう』」

 

 連邦の思想においては忌むべき貴族の、それも数多の同胞らの血を吸った男に対し、可能な限りの礼を込めてくれた返答に、私の胸は強く、深く打たれた。

 因果なものだ。一体どうして、このような高潔な軍人が、私の敵として立ちはだかってしまったのだろう? どうして、私の親友を殺めてしまう立場になってしまったのだろう?

 もしも、シェスドゥープ親衛少佐が私やダールゲ少将と同じ帝国軍人だったなら、私たちは生涯の友として肩を叩き合い、笑い合いながら酒を酌み交わし、永遠の友情を誓い合えただろうに。

 

“だというのに”

 

 同時に、私はシェスドゥープ親衛少佐が敵であったことにも幸運を感じていた。それはきっと、戦死したダールゲ少将も同じ気持ちだっただろう。

 急発展していく技術と、それに伴う兵器の進化。高速化する空戦からは格闘戦が機会を失い、旋回性能より飛行速度を武器に一撃を加える、効率主義*2に置換しつつある。

 魔導式とはいえ誘導ロケットまで出現した以上、航空機は個人が練磨した技術以上に、より機械性能が勝敗を分けるようになっていくだろう。

 

 剣と鎧の騎士の時代が、銃に置換されたように。騎兵が機関銃と鉄条網に敗れたように。私やダールゲ少将の戦い方も、やがてはより洗練された兵器に取って代わり、駆逐されていくに違いない。

 騎士道を貫く戦いは、私の父上の代で果ててしまったと諦めていた。大地は機関銃どころか化学兵器までもが席巻し、空さえ磨き上げた技術でなくレーダーや誘導兵器で満たされつつある以上、自分達もまた戦争の流行り廃りに呑まれ、置き去られるのだろうという諦観で満ちていた。

 

 だが、そうした中にあって私達空軍将兵が、戦闘機乗りが求めて止まない好敵手が現れてくれた事は、望外の幸運に他ならない。

 だからこそ、この強敵と相まみえるという至上の栄誉を味わえたからこそ、ダールゲ少将は安らかに眠ったのだと思うし、後にシェスドゥープ親衛少佐と戦う事になる多くも、戦死や敗北を受け入れた。

 悔しかったと。無念だったと言いながらも、何処かで英雄と戦えた事を戦士の冥加として噛み締めたのだ。

 

“待っていたまえ、シェスドゥープ親衛少佐”

 

 私は将校鞄を手に、将官用の特別列車に乗り込む。護衛も従兵も、佐官の時とは比にならない厚遇だったが、私には彼らよりも戦うべき相手の方が重要だった。

 

“シェスドゥープ親衛少佐。貴官を尊敬しよう。相まみえる時を楽しみにしよう。親友に名誉ある死を与え、尊厳を守ってくれたことに感謝もしよう”

 

 だが、敵である以上、戦友を殺める立場である以上、私は親衛少佐を殺さねばならない。一分一秒でも早く、空を我々の手に取り戻す。空に流れる戦友たちの血を、一滴でも少なくするために。帝国に災禍が降りかかるその前に。

 

“貴官は、私の手で墜とす”

 

*1
 後年には、私が中央大戦初期から赤い機体に搭乗していたと思われているが、それは誤解だ。

*2
 とはいえ、高速で飛翔する航空機を完全制御下に置きつつ攻撃する事は、格闘戦以上に優れた技量をパイロットに要求するのだが。




 ついにラスボスの登場。(敵が)エースコンバットの主役をやっちゃうようです。
 末期戦的なポジションからの大逆転劇はエスコンの約束だからね、仕方ないね。
 てかこれ完全に主人公の方が中ボス倒した後に登場するラスボスポジやんけ。

※蛇足ですが、機体を白に塗ってる人は実際にいました。但しソ連でなくWW1ドイツです。
 その人物こそ、WW2ではモルヒネデブと蔑まれたものの、WW1においては頼れる兄貴分だったリヒトホーフェンサーカス指揮官『鉄人』ゲーリング!
 ぶっちゃけフランスのペタンもそうだけど、WW1知ってるかどうかで評価変わる人物って多いですよね。

 そしてさらに蛇足ですが、機体を赤に塗った方はWW2にも居ます。但しドイツじゃなくてソ連。
 そのお方はポクルイシュキン親衛大佐で、鈴木五郎著『撃墜王列伝』によると、乗機を赤く塗って『ポクルイシュキン此処にあり』と誇示したり、ドイツ軍の周波数に合わせて「ポクルイシュキンが向かったから気をつけな」と挑発したりしたそうな。



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66 逆転の可能性-ターニャの記録24

※2020/3/22誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 ニコから東部復帰を知らせる旨の便りが届いたのは、前線で流れるラジオの特別放送を耳にしてからすぐだった。

 帝国軍では中隊ごとにラジオが配備されており、軍の公式発表や演説といった戦意高揚、速報性故の情報確認のみならず、流行歌や娯楽番組の類も流される。

 私や戦闘団の面々もラジオの時間となればスイッチを入れ、荒んだ前線生活にささやかな文明の潤いを求めたものだが、今回ばかりは度肝を抜かれた。

 スオマ解放と北方攻略の功で少将進級と叙勲を言い渡された筈の婚約者が、三月には東部に舞い戻るばかりか、親友の仇に対して挑戦状まで叩きつけたのだ。

 

 敵対勢力向けの放送から抜き出したニコの声明は、私も含めた連邦公用語を嗜む士官らの耳に響き、放送が終わると同時、瞬く間に戦闘団に広まったが、おそらく各軍も似たようなものだろう。

 戦闘団の面々は帝国貴族らしい名乗り上げに対する賞賛や、ニコの『粋』な機体がどのようなものか拝みたいものだという好奇。或いは戦線を共にしては自分たちの獲物が減るから来ないで欲しい、という豪胆なものまで様々だったが、どのような感想であれ、それが前線・後方を問わず将兵の話題作りになったことは間違いない。

 誰も彼もガヤガヤと語らう中、私は仏頂面で筆を走らせていた。

 

“ニコ! あの大馬鹿が!”

 

 私の査問会の時がそうだったように、頭に血が昇っているのだろうと信じて疑わなかった私は、あらん限りの言葉で婚約者を罵った。

 時代錯誤で黴臭い騎士道精神と軍事ロマンチズムに酔ったナルシストだの、将官の立場を忘れた前線馬鹿だのと、兎に角見るに堪えない文章のオンパレードだったが、何より馬鹿だと思ったのは、散々私に念押ししてまで口を塞がせた派手なカラーリングを、ここに来て乗機に使用すると宣った事だ。

 英雄願望持ちの新星の餌には、確かに好都合だというのは分かる。だが、どのような英傑であろうとも何百と戦えばいつかは倒れるもので、狙われる可能性というものは極力減らすべきなのだ。

 手紙を読み返し、悪い意味で持ち得る限りの言葉を尽くした便箋を野戦郵便局に渡そうとしたのと同じタイミングで、ニコからの便箋が飛び込んできた。

 

 どうせ私に対して、あれやこれやと言い訳じみたことを書き連ねているに違いないから、知った事かと自分の便箋を渡しても良かったが、結局私は自分の文を引っ込めてニコからの手紙の封を開けた。

 ……決して、キロ単位で送られてきた珈琲豆に釣られた訳ではない。そしてヴィーシャ、相伴に与りたいのは理解するが、私の分も丁寧に淹れたまえ。私の怒りを鎮められるだけの、味と量を準備するのだ。

 

 

     ◇

 

 

 手紙の内容は、案の定言い訳じみた説明から始まっていた。

 ニコは仇討から事を起こした訳でない事や、最前線に戻る事は軍の命令である以上覆らないこと。釣り餌とはいえ敵の目を態々引くような機体で飛ぶのは、自殺願望を疑われて然るべきだと理解もしているとのことだが、分かった上でやっているなら一層性質が悪い。

 目を通せば通すほど眉間に皺が寄っているのを自覚しつつ、ようやく許容できる内容の文にまで到達できた。

 私の大反対を予想していてか、初めからそのつもりだったのか。おそらく両方だろうが、ニコは自分の行動に幾つかの条件をつけ、遵守すると私に約束した。

 

 その条件とは、前線復帰したのだと喧伝するために赤い機体に乗って飛ぶが、それは始めの数回の任務だけで、その後は一日一度の出撃に留めること。

 噂が広まるのに十分だと判断すれば、その後はシェスドゥープ親衛少佐がニコの作戦空域を飛ぶ事が確認できるまでは、赤い機体には乗らないというものだ。

 ニコの目的はシェスドゥープ親衛少佐を墜とし、軍と戦友の被害を減らす事であって、それ以外に派手な機体に乗る理由はないのだから当然だろう。もしも四六時中派手な機体で飛ぶようなら、親衛少佐の前に私がニコを撃墜してやるところだ。

 

“尤も、たかが一将校をここまで買う理由は理解出来ないが”

 

 ニコは復讐でも仇討ちでもなく、純粋に敵を国家と戦友の脅威として捉えているようだが、私に言わせれば一個人で出来る範囲など高が知れたものだ。ニコや故クニックマン少将の活躍は味方であっても驚嘆に値するし、敵に回れば恐ろしいことは間違いない。

 しかし、所詮個人は個人なのだ。如何に英雄といえども、個の直接的な戦果が戦局を覆す要因には足り得ない。

 まして、こんな荒唐無稽な戦法を取れる奴がいるものかと、手紙に書かれたニコの危惧は馬鹿にさえしたもので、だからこそ検閲官も苦笑しつつ黒塗りにはしなかったに違いない。

 

 開戦劈頭の赤色空軍ならいざ知らず、十全な防御線の張られた空域を突破し、濃密な対空防御を構築した水素化合(合成石油)工場区域を重点的に爆撃するなど、親衛連隊以外全ての赤色空軍が瓦解している現状では、実行など到底不可能だ。

 

“あり得るとすれば、本当に最悪に最悪が重なって、その上で敵がニコ以上の実力を有していた場合、万一の確率で起こり得るぐらいか”

 

 私はニコの危惧を杞憂と断じていた。既に帝国軍はウリヤノフグラードの攻略準備を整え、モスコー方面からこれを包囲しようとする連邦軍を、迎撃するどころか逆包囲して崩壊させつつある。

 勿論、私とてこのままコミーが終わってくれるなどとは楽観視していない。

 既に連邦はモスコーから何処かの都市に首都機能を移している事だろうし、如何に我が方が優勢と言えど、現状の侵攻領域では帝国軍に連邦の都市機能の移転を止める手立てがない以上、戦争はまだ続く。

 

“だが、もはや帝国の勝ちが覆ることはない”

 

 この時の私は愚かにも自軍の優勢が、否、勝利が盤石のものと信じて疑わず、敵を軽んじた。かつて方舟作戦を予見し、全力で残党狩りを進言した私が、愚かにも無能と罵ったかつての中央参謀本部や上官らと同じ過ちを犯していたのだ。

 尤も、弁明しておくならば、方舟作戦のそれは兆候が見られたのに対し、今回は敵に全く動きがなかったのが大きい。

 後ろ向きな視点に立てば、石油精製施設の空爆による生命線の破壊ほど、背筋を凍らせるものもない。敢えて見ないようにしてきた全てを、最悪の可能性と言う言葉の下に考えれば、それは言い知れぬ不安が過るのも致し方ないだろう。

 しかし、それでも私はニコのそれを杞憂と断じ、想像が飛躍しすぎていると苦笑したのだ。何故ならば。

 

“敵の戦力では、不可能だからな”

 

 壊滅間際まで追い込まれた赤色空軍では、薄氷どころか、剃刀の上を歩き渡るようなものだろうと、私はため息と同時に手紙を投げた。

 こんな妄想じみた問題を危惧したが為に、前線に戻って命を張るなど、馬鹿の所業としか言いようがない。

 

“釣り合わない費用対効果。失うには大きい損失だと、以前の私ならそう考えただろうな”

 

 いいや、未だにそう感じている。特に後者は、合理の塊だった過去の私以上に。

 

“あの大馬鹿には「お前無しで生きれない」ぐらい言わねば、きっと止まらんのだろうな”

 

 私は罵詈雑言で満たされた手紙をぐしゃぐしゃに丸めて捨て、新しい用紙に思いを綴る。一服して冷えた頭だ。罵詈雑言より、ずっと効く内容にしてやろう。あの手の責任感が強い男には、泣き落しが一番有効なのだ。

 お願いだから生きて欲しいと。無茶な事だけはしないで欲しいと泣訴し、そして婚約者を失う痛みを二度と私に与えないで……待てヴィーシャ。

 捨てた手紙を拾って読むんじゃあない。何? ではこちらを見せろ?

 駄目に決まっておろうが拾った方で我慢しろ。泣き落しの文面といえど、見られるには私の羞恥心が持たん。だから横から覗き込むなというに!

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 東部に到着した私だが、早速というべきか、或いは当然というべきか。野戦郵便局から私宛だと、到着早々に婚約者からの便りを手渡された。

 差出人は確認するまでもない。私はどのような叱責を受けるのだろうかと、親に叱られるのを待つ子供のように戦々恐々としながら封を開けたが、目を通した感想としては、いっそあらん限りの罵詈雑言で満たしてくれた方が、まだ良かったと思う。

 自分が死ねば、いや、負傷するだけでも、私の婚約者は泣くだろう。常日頃は佐官としての格式を保ち、泰然と振る舞うフォン・デグレチャフ中佐が年相応のターニャになる姿は、笑顔ならば愛おしく感じられたとしても、痛みからの涙は耐え難い。

 

“それでも。だとしてもだ”

 

 傲慢なのだろうが、私はシェスドゥープ親衛少佐を墜とせるのは自分だけだと確信していた。シェスドゥープ親衛少佐の活躍は目覚ましく、帝国空軍内ではまるでダールゲ少将が敵に回ったようだと心胆を寒からしめているほどである。

 実際、これまで個人単位での撃墜は有っても、航空優勢を脅かされたことの無かった常勝不敗の帝国空軍が、たった一人の敵機を前に部隊単位で敗北を喫していた。

 そして、奪われた空をどのように有効活用すべきかは、帝国軍が教師として徹底的に連邦軍に叩き込んでいる。

 有能な敵を模倣するのは当然で、帝国陸軍は驟雨の如きクラスター爆弾の洗礼を受けた。

 ラインの砲火からこの手の攻撃に耐性が付いている古参でさえ、空爆に対しては経験が浅いが、それも当然だろう。

 帝国軍にとって空爆とは自分達がする側であり、される側に回る機会など、レランデルの地を踏んだ者か、余程運のない最前線の部隊ぐらいしかいなかったのだ。

 高射砲部隊は爆撃機に果敢に立ち向かい、これを防いだ猛者も出たが、やはり被害は免れない。連邦軍にしてみればようやく反撃の目が出てきたといったところで、しかも余りに遅きに失したと呻いているだろうが、我々帝国軍にしてみれば自分達をここまで追い詰めた初めての強敵だ。

 幸いにして帝国陸軍は空軍から空爆の対策と訓練を入念に叩き込まれている上、シェスドゥープ親衛少佐さえ現れなければ空そのものが奪われることもないので、被害状況はひっ迫するほどではない。

 だが、全体の数はともかくとして、陸の前線将兵のみならず、空の前線将兵に与えた影響は深刻なものだった。

 いや、実際の所、陸より空の影響が遥かに大きい。基地然り滑走路然り、自分達が攻撃地点とする事はあっても、攻撃を受ける事は皆無だった。

 前線に立つ以上は危惧すべき問題であり、日夜訓練を欠かしていないとはいえ、それでも現場の経験と訓練ではあまりに勝手が違う。

 

 空にさえ上がれれば。そう思いながら無念に散った戦友を見、側に居ながら機体も滑走路も無い為に飛べないパイロット達は、皆一様に憎悪と不満を募らせている。

 ダールゲ少将の死から間を置かず、いいや、それを機にして自分達こそが支配する場であった空に、赤い星の翼が悠々と翻るというのは、誇り高き帝国空軍には耐え難かったのだろう。

 どの部隊にも、シェスドゥープ親衛少佐を発見しても交戦するなと命じていながら、エース級どころか撃墜王(エース・オブ・ザ・エース)らも、挙って親衛少佐に挑もうとしている。

 戦闘機乗りとしての誇りと、帝国騎士としての信念がそうさせるのか。私としてもその気持ちは痛いほど分かるが、彼らには他にやるべきことがある。

 具体的には、本土防空の任に回って貰わなくてはならない。

 既にターニャが語った通り、私は敵が我々の水素化合工場を、工業都市を叩くと確信していた。たとえどれだけ無謀だとしても、それ以外に帝国の侵攻を阻む手立ては残されていないからだ。

 出来るならばそうなる前にシェスドゥープ親衛少佐を撃墜したいもので、私は鮮やかな赤のJä002-1に搭乗しては、久方ぶりに純粋な戦闘機乗りとして空戦を行ない、その乗機を敵味方に見せつけた。

 陽光を浴びて空に煌めく赤い星を一つ残らず地に墜としては、シェスドゥープ親衛少佐が現れる日を待ち望んでいたが、彼は私の前に全く姿を見せず、ウリヤノフグラードを落とす段になっても、終ぞ現れはしなかった。

 全てが終わった後で知ったが、共産党指導部はシェスドゥープ親衛少佐に対し、私との対決を控えるよう厳重に釘を刺し、彼は早々にして南部資源地帯の防衛に回されていたのである。

 シェスドゥープ親衛少佐が私の挑戦に乗ったのは本人の意思で、戦いたいと意気込んでもいた。しかし、共産党や連邦軍にしてみれば派手な機体を晒す私の位置さえ確認出来ればよく、挑戦状など破り捨ててしまえば良いと判断した訳だ。

 

 私がシェスドゥープ親衛少佐の居場所を知ったのは、彼の乗機と同じく白い機体を駆る『鉄人』イェーリングとの対決を耳にしてからだ。

 

 元々連邦南部諸都市の攻略と資源地帯奪取は目標までの縦深や兵力の負担から、帝国軍内でも消極的だったが、フォン・ルーデルドルフ中将(参謀次長)の強い意向により決定したものである。

 とはいえ、小モルトーケ参謀総長にしてみても少々博打に過ぎると苦言を呈していたようで、「そこまで自信があるならば」とフォン・ルーデルドルフ中将を『調整担当』という肩書きだけの役職で東部に送りだした。机上の空論でないことを、自らの手腕で証明しろというのである。

 当然、頭を冷えさせるにしてもやり過ぎではないか? と同期にして中央参謀本部の英邁たるフォン・ゼートゥーア中将(参謀次長)は反対したが、これに対して、小モルトーケ参謀総長は冷ややかに返した。

 

「奴は後方で頭が固くなっているのだ。前線で柔軟さを取り戻して貰う。奴が凱旋将軍として帰還すれば、次は貴様だ」

 

 脅しではない。既にしてターニャから副官職を継いだ筈のフォン・レルゲン大佐も最前線の泥濘に沈められ、東部流の洗礼と現場の艱難辛苦を味わわされた。

 そうして才覚を見出された後のフォン・レルゲン大佐は、指揮官として強制的に戦闘団を運用させられている。

 レルゲン戦闘団と言えば、今日ではターニャのサラマンダー戦闘団に次いで戦史に登場する戦闘団の顔であるし、フォン・レルゲン大佐は終戦間際には才幹一つで准将に進級し、連隊長にまでのし上がるのだが、そんな未来の栄光を知る由もない当時の大佐は、戦闘団の運用に四苦八苦したものだと戦後回想している*1

 フォン・ルーデルドルフ、フォン・ゼートゥーア両中将も「意に添わぬ人間は戦死しろ」と言外に告げられたと疑わなかったらしい。

 三名は漏れなく遺書を書いてから東部に来たというから──別段遺書を認める事は前線であれば日常なのだが──その時の面持ちは嫌でも分かる。

 しかしながら、彼ら三名は漏れなく生還し、フォン・ルーデルドルフ、フォン・ゼートゥーア両中将は大将進級後に中央参謀本部に戻った。

 しかも、フォン・ルーデルドルフ、フォン・ゼートゥーア大将などは、どちらも後方に戻ってから「仮設司令部で戦争のことだけを考えられた日々の、なんと甘美であったことか」と再度の前線勤務を希望したというのだから、小モルトーケ参謀総長の人事は英断だったという他ない。

 フォン・レルゲン大佐もまた、後方に戻ろうと思えば戻れたにも拘らず、前線に残ることを選択したのだから。

 

 

     ◇

 

 

 さて、この辺りで話を戻すが、フォン・ルーデルドルフ中将は南部で辣腕を振るい、南部方面軍を遅滞なく進攻させていたが、流石に個の武威が自分達の侵攻に歯止めを掛けられるとは夢にも思わなかった事だろう。

 無論のこと、帝国空軍はその威信と矜持と、何よりも己の名誉にかけて赤色空軍の空爆阻止に心血を注いでいる。オルカンを装備した戦闘攻撃機は真っ先に爆撃機を狙い、戦闘機隊もこれを支援すべく率先して敵戦闘機に喰らいついているが、攻撃機であれ爆撃機であれ、航空優勢を自軍が確保していない限りは万全ではない。

 戦闘機が戦闘機を墜とし、魔導師が魔導師を墜とす事で(そら)(から)にしてからでなければ、攻撃機や爆撃機は真価を発揮し得ないのだ。

 シェスドゥープ親衛少佐と親衛連隊はその点よく心得たもので、先陣を切って地上支援機の為に空を()けようとする帝国軍戦闘機を先んじて撃墜するし、逆に赤色空軍の地上支援機を掩護する側になっても、そこは変わらない。

 優先順位を正しく把握し、帝国に手痛い一撃を与えるべく注力している。

 

 シェスドゥープ親衛少佐に対し、誰より真っ先に挑み、果敢に戦ったのは先に語ったイェーリング大尉だが、これは彼が戦友愛の強い皆が頼る兄貴分だったばかりでなく、後に本人が語ったところによると、シェスドゥープ親衛少佐の乗機が気に入らなかったそうだ。

 

「奴は俺の真似をしやがった!」

 

 私が乗機を赤く染めると宣言した後、真っ先に誰より目立つ純白に機体を塗装して、私の帰還を待っていたと同僚らに誇っていた矢先に、シェスドゥープ親衛少佐が大々的に白の機体に乗ると言っては立つ瀬が無かったのだろう。

 二つと同じ色は空に要らぬ。世の戦闘機乗りたちの例に漏れず、負けん気の強いイェーリング大尉はその撃墜記録に相応しい見事な空戦機動(マニューバ)と、粘り強い格闘戦で喰らい付いたそうだが、最後にはエンジンをやられて脱出せざるを得なかった。

 

「俺はまだ負けていない! 死んでいないのだからな!」

 

 捜索隊に保護された際、イェーリング大尉はそう叫んだそうだが、彼は運が良かった。シェスドゥープ親衛少佐は兎も角、赤色イデオロギーに凝り固まった親衛連隊や他の赤色空軍は、撃墜したパイロットが脱出しようとパラシュートを開いた後でも撃ち殺しているし、中には地面に降りた後、自らも地上に降りて絞殺したという話も多くあったからだ。

 無論のこと、それはパイロットとしては最低限尊重すべき部分であって恩義と思えと言う訳には行かないが、一部始終を耳にした私としては、少しは命を大事にして貰いたかったものである。

 そして、イェーリング大尉をはじめ、帝国空軍でも多くの撃墜王がシェスドゥープ親衛少佐に挑んだものの、その全てを親衛少佐は打ち負かし続けた。

 航空機の黎明期、陸軍航空隊時代からの生き字引であった『空軍戦術の父』、ベルク大尉。帝国空軍撃墜数、第四位『壊し屋』キップ中尉などは、親衛少佐と相対し戦死したことからも、読者の中にも知る方が居られるのではないだろうか?

 世界に名だたる空戦の名手にして、最高峰の実力たる撃墜王たちを、しかも一対一でなく部隊単位を相手取りながらこれを討ち取り、勝利の勲章を掴み続けたシェスドゥープ親衛少佐。

 帝国空軍にとっての忌まわしき怨敵でありながら、同時に彼と戦い敗れた者は再戦を望み、高きところに旅立った者たちは、安らかな死に顔を晒していたことから、当時の我々にとって、彼は告死の天使のようだと語られていた。

 彼の手にかからず、運よく逃げおおせた者は、きっとその時ではなかったのだと囁かれたものである。

 当時の私は伝え聞くばかりで実感などなかったものだが、後に相見えたとき、その言葉に嘘偽りなどなかったと思い知らされることとなる。

 

 ただ、こうして名の知れた帝国軍パイロットが撃墜されたり、帝国地上軍が被害を被る一方で、やはり連邦軍全体としては焼け石に水と言ったところであったのも事実だ。

 シェスドゥープ親衛少佐がその勇名を内外に轟かせ、連邦軍最高の栄誉たる英雄称号を複数回受章する一方、彼の現れない戦域ではこれまで同様に連邦軍は劣勢を強いられ続けている。

 敗戦まで秒読みとまでは行かないものの、既にしてその莫大な人的資源を武器にし続けてきた連邦軍にも、底が見え始めて来ていたのだ。

 二〇代の若年層は、開戦劈頭と比して目に見えて削減された。独立を求める構成国の相次ぐ離脱、パルチザン活動の激化。或いは帝国と連邦の勝敗を悟ったが故に選択し、連邦の背中を刺す勢力まで現れ始めた。

 帝国軍のモスコー攻略も着々と進み、合州国製の兵器やPMCの人員さえ、損切を考慮して目減りしつつある。

 だからこそだろう。私の危惧は、いよいよ現実のものになった。東部に残る事を希望したエース級を空軍総司令部の将官らが有無を言わさず本国に戻し、再三陸軍から無駄だ止めろと叩かれつつも、各人が伝手を頼りに最低限の高射砲部隊や空軍地上員を内地に送った成果が、ここに来て役に立ってしまった。

 

 打てる手を尽くした我々に問題があったとするならば、それは一つ。

 敵が我々以上に上手だったというだけだ。

 

*1
 とはいえ、最前線での活躍と水を得た魚の如き動きを鑑みれば、謙遜と捉えるのが妥当だろう。後年出版されたレルゲン回顧録の中でも、彼はルーシー戦役の日々で、我が妻との背中合わせの日々を、楽しげに語っていたのだから。




 ドイツ軍が中隊ごとにラジオを配備したのはWW2からなのでフライングです。兵器とか一部戦後に突入してるので今更感全開ですが。

 他に前線の娯楽として有名なのは、楽団が演奏してくれたりした事でしょうか。こういう戦闘以外の当時の事を知ると、結構面白いと思います。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 オズヴァルド・ベルケ大尉→ベルク大尉。
 オットー・キッテル中尉→キップ中尉。



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67 帝国本土空襲-最悪の結果

※2020/3/23誤字修正。
 oki_fさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 空襲警報と避難勧告。帝国本土において、その二つの音を、非常時の訓練や義務として以外で耳にした帝国国民は皆無だった。万一に備えて用意されていた防空壕に、訓練通りに規律正しく逃げ込めた地区は皆無であったと言う。

 本国市民に於いては、従軍経験者以外が初めて目にした、上空を飛行する敵軍用機を見上げては、それが現実の物とは思えなかったと生存者は一様に回顧し、当時は誰もが我が目を疑ったそうである。

 戦時国際法に連邦が加盟していない以上、無警告での爆撃は想定して然るべきであったし、帝国国民も常日頃よりラジオや新聞で敵の悪行を聞き及び、脳に刻み込んでいた。いや、知り過ぎていた為にパニックになったのだろう。

 夜空を焦がす夥しい火と、サーチライトに照らされた禍々しい赤星は、巨大な爆撃機の影は、悪魔の羽音のような轟音と共に現れた死と破壊の使者は、帝国国民を狂乱の渦に陥れるのに、十分過ぎるものだったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 赤色空軍が帝国本土を踏むべく行動を開始したのは、深夜となってからだった。当然、夜間戦闘に関しては帝国に一日の長が有った。帝都防空を担う夜間飛行隊は常に一定以上の錬度を有しており、その実力も経験も、最前線から規程期間での交代を課されている為に十分だった。

 だが、私もそうだが夜間飛行隊はレーダーという鷹の目と、オペラハウスという昼夜なき案内役に、空の地図と伝令を頼り過ぎていたのだろう。

 

『デュッペル』。我々はそう呼称し、敵はミラーと呼称した今日におけるチャフ──当時はアルミ箔を貼り付けた紙を細切れにしたものを用いてレーダーを撹乱した──によるレーダー妨害は、列強各国が我々の索敵能力の秘密を解してから最優先で取り組み続けた分野の一つでもある。

 列強各国にとって惜しむらくは、それを開発し終えるより早く敗北を喫したことか。

 帝国側にしてみれば、まだ見ぬレーダー妨害に対抗すべく日進月歩で改良を進めて来たものの、全くレーダーが役に立たないという事態は初めてだった。

 地上局の無線情報は矛盾した感知(機影)情報に右往左往し、夜間戦闘隊も自機に搭載されたレーダーと無線手を頼りに急行するも、そこには敵影など影も形もなく、夜間戦闘隊は独り相撲に興じるばかりだったのである。

 

 無論の事、そうした事態に備えて航空機から照明弾を投下、ないしは地上から打ち上げ、目視での戦闘を熟せるだけの錬度は訓練で維持していたが、帝国国民の避難同様に、訓練と実戦の違いを夜間飛行隊もまた味わう事となる。

 

 合州国が誇る傑作爆撃機『空の要塞』は確かに硬いが、オルカンさえ浴びせれば撃墜できた。問題は、常日頃から闇夜を味方につけ、暗い側で戦う事に、夜間戦闘隊が慣れきってしまっていたこと。

 そして、オルカンの射程に敵爆撃機群(ボマー・ストリーム)が入るより早く、赤色空軍が帝国軍夜間戦闘隊と攻撃機を刈り取ってしまえるだけの実力を有していた事だった。

 帝国空軍のエース級や撃墜王は、大多数が昼間戦闘を主任務として活躍している。中には夜間戦闘の経験者が居ない訳では無いが、夜には夜の戦い方というものが有り、夜間戦闘隊のエース級と昼間戦闘の撃墜王では、前者に軍配が上がってしまう。

 東部戦線に限らず、態々夜闇に隠れずとも空を支配しつづけた帝国空軍の戦力から、夜間戦闘隊は常に防御か、大音量での敵軍の安眠妨害や攪乱行為にばかり使われて来たこともあって、真っ向勝負に慣れていないのもあった。

 しかし、何より恐るべきは赤色空軍親衛連隊が、帝国空軍の梟──夜間戦闘員の尊称──を翻弄し得るだけの腕を備えていた事だろう。

 

 その中にはシェスドゥープ親衛中佐(一九二八年、三月進級)の姿もあった*1が、彼以外の連隊員もそれに比肩する者ばかりだったと生存者が語った事から、爆撃隊も戦闘隊も最高の人員を揃えたのは間違いない。

 だが、対する帝国空軍夜間戦闘隊も、決して無力でも非力でもない事を彼らに教授した。攻撃機は墜落の間際になろうと操縦桿を離さず、オルカンを空の要塞に叩き込んでから墜落し、夜間戦闘隊も最期の瞬間、墜落の直前まで攻撃機を掩護し続けたのである。

 中には、一矢報いることなく終わるぐらいならばと、脱出でなく体当たりを選び、自機諸共道連れにした者さえ出たというから、夜間戦闘隊の覚悟と祖国防衛に対する義務感が、如何に苛烈なものであったかを物語っている。

 

 親衛連隊の戦闘機も爆撃機も、攻撃目標たる水素化合工場到達までには満身創痍となっていたが、もしその場に私が居たならば、という仮定は無意味だろう。

 如何なる状況であったとしても私の夜間飛行は禁じられていたことから、訓練でさえ夜間戦闘機に乗る事は終ぞ許可されなかった。

 仮に私が直接工業地の防衛に就いていたとしても、勝手の違う機体で慣れぬ夜空を飛行して、シェスドゥープ親衛中佐に敵う見込みはなかっただろう。彼我の実力を語るには少々早いが、これだけは確信して言える事である。

 

 

     ◇

 

 

『空の要塞』を送り届けた赤色空軍の戦闘機群は、爆撃機群の投弾を見届けるより早く隊列を保って帰還した。生き残った爆撃隊もそれを気に留めず投下を続けたというから、片道切符でしかないという事は織り込み済みだったのだろう。

 爆撃機を撃墜すべく到着した増援はその目的こそ果たしたものの、工業地は決して軽くない傷を負わされたが、一番大きかったのは、これまで無傷だった内地から多数の死者・重傷者を出したことだ。

 燃え盛る工場。炎が空気の渦を作って都市を呑み込み、灰の雨を降らせ、最後には瓦礫となった都市。自分たちには無縁だと信じていた塗炭の苦しみを味わわされた住民は、敵への憤怒より先に帝国空軍と防空隊を詰ったが、軍はそれを甘んじて受け入れた。

 老若男女を問わず、愛しい我が家や家族が炭化したことを嘆く市民。工業都市は遺体で溢れ、生存者を纏め支えとならねばならない警官や赤十字の尼僧さえ絶句して顔を強張らせていたというその惨害全てが、力及ばなかった自分達の責だと承知していたからだ。

 

 その上で、我々はこのような災禍をもたらした元凶を見過ごす訳には行かなかった。離脱した親衛連隊には何としてもこの罪を贖わせねばならないと、各隊は血眼になって親衛連隊を捜索し、追い詰める事に成功したのだった。

 

 

     ◇

 

 

 シェスドゥープ親衛中佐を始めとする戦闘機隊がその帰路にて帝国空軍に発見され、奮戦するも撃墜されたと私が連絡を受けたのは、親衛連隊による工業地夜間爆撃の報を受けてから、夜明けの日を見るまでの数時間の間だった。

 

 親衛連隊の捜索は東部を含めた夜間戦闘隊と、撃墜王らが率いる腕利きの部隊が血眼になって行ったが、連邦最高パイロットの初撃墜の栄誉は夜間戦闘隊と、帝国空軍最年少大尉にして撃墜王、ヨーヘン・マリエール大尉率いる第五二戦闘航空団第四中隊が手にするに至った。

 

 常に機体番号を黄色で記す事から『黄の12』の異名を持つマリエール大尉は、その男優顔負けの美貌と相反し、どのような角度や位置からでも射撃できるよう、常日頃からアクロバットな飛行を好む血気盛んなファイターだった。

 私は東部でも内地の訓練でもマリエール大尉と飛んだ事はなかったが、その勇名と美貌から、帝国では広告塔として持て囃されており、私も何度となく空軍誌やラジオで大尉の活躍を見聞きしたものである。

 聞くところに依れば、夜間戦闘隊の誰もが既に被弾していたシェスドゥープ親衛中佐の機に弾丸を届かせられない中、マリエール大尉だけは親衛中佐に喰らい付き、半ば相打ちに近い形で──シェスドゥープ親衛中佐はエンジン部に、マリエール大尉は尾翼を削り取られた──決着が着いたのだという。

 この時の詳細においては、後に本人の口から私に語られたため、その折に述べさせて頂く。

 

 親衛連隊撃墜の報せを受けるまでの私はフライトジャケットを纏い、日の出と共に捜索に加わる筈であったから、一足遅くなってしまった事を心中で僅かに悔みながらも、夜間戦闘隊とマリエール大尉、そして大尉率いる中隊に快哉を叫んだ。

 

「閣下ならば、悔しがるものと思いましたが」

 

 パイロットの一人がそう苦笑したが、悔しさを語るならば、敵がこのような手段を講じてくる事を予想していながら、防ぎ切ることが出来なかった事に尽きる。

 将官としては失格だと零しつつも、最大の懸念事項が去った事を今は噛み締めるべきだろうと……余りにも楽観的な思考をした自分を、今となっては殴り殺したくなる。

 

 だが、起きてしまった事は変えられない。回顧の度、私はこの工業地の空襲を未然に防げていたならばと、被害の多寡でなく、それを引き金として起こる事態を憂慮出来ていたならばと思いながら、この時の事を悔やむのだ。

 

 

     ◇

 

 

 帝国工業地の被害は、全体で見るならば決して大きなものではなかったが、それが軍の開進に及ぼす影響は、今後の事態を危惧するには十分過ぎる物だった。

 総量から見れば数パーセント分の、一割にも満たぬ石油供給の減少が帝国軍を機能不全に追い込む。

 ウリヤノフグラードは既に落ちた。モスコーも包囲下に置かれた。だが、南部資源地帯は失陥こそさせたものの、連邦軍の破壊によって使い物になるまでに相当の時間を要してしまう。帝国軍は万一に備えての備蓄を用意しているし、モスコーを陥落させ、戦線を整えるまでには十分な猶予を保持している。

 何より、連邦軍がこのような手段を講じることは、これが最初で最後だということも、帝国軍は正しく彼我の戦力から判断出来ていたし、敵も自軍の状況がどのようにあるのかは、再確認するまでもない。

 

 だからこそ、ここで連邦が取った行動は帝国一国のみを対象とするには最適解だったと言えよう。連邦は帝国に対し、講和の用意があるとようやく切り出したのである。

 分離独立を掲げる構成国独立を承認すると共に、ルーシー帝国再興を容認し、アルハーンからアーストラにかけて(Aライン)をその領土と認める。

 また、帝国(ライヒ)・ルーシー帝国双方に対して賠償金支払いの用意があることも提示表明した。

 長年の戦争に疲弊し、ここにきて本土爆撃まで行われた帝国にしてみれば、この和平案は十分受諾に足るだろう。

 国家維持と安寧のみを追求するならば、連邦の提案は確かに正しい。勝敗の天秤は既に戻らない位置まで傾いているといっても、モスコー以東の大地はこれまで以上に険しい、インフラという言葉が辞書に記載されていない悪路なのだ。

 ここに至るまで、どれだけの戦車が砲火を交えることなく故障して足を止め、輸送車が立ち往生して開進に苦心したかを思えば。

 どれだけの人命が極寒と泥濘に沈んだかを回顧すれば。

 そして、それ以上の苦難の道が待ち構えているだろうことを考えれば、悪夢にも等しい未来はどのような凡愚でも想像に難くあるまい。

 進みたくても進めない。それでも進もうとするならば、帝国は莫大な金銭と人命を擲たねばならなくなってしまう。

 戦略眼を有する人間ならば、過去にどれほどの遺恨があろうとも、この和平交渉を受諾した上で、自分たちは勝利したのだと祖国と世界に凱歌を響かせるべきなのだ。

 

 ……ただ、それを行うには帝国国民も、何よりもここまで付いてきた義勇軍や自治評議会らも連邦の暴虐を知り過ぎてしまったし、味わい尽くしてしまった。

 連邦の和平交渉は、自分達への不可侵を絶対条件としており、国際裁判への出頭も拒絶している。敗戦国として悄然と苦い味を噛み締める用意はあるが、命ばかりは差し出せない。

 それが共産党の回答であり、主張であり、党に苦しめられた全ての者は、それをふざけるなと蹴りつけた。虐げられた者、愛する者を失った者たちにしてみれば、損得で解決できる域は過ぎている。

 帝国一国だけならば、まだ抑え込めたかもしれない。しかし、轡を並べた者たちの多くが望むのは連邦の、共産党への復讐であり、共産主義を掲げる社会主義国家を容認することからして受け入れ難かったのだ。

 一切の感情を排し、合理的決断を下すこと。帝国軍に限らず、良識ある軍将校ならばそれは弁えねばならないのだろう。だが、それは言葉にするには容易くとも、実際に我が身をとどまらせるには、余りに酷だったのだ。

 

 今日に至るまで部下を、戦友を理不尽な苦痛の元に失うまで、仄聞するにとどまっていた私でさえ、忸怩たる思いを抑え、将官として職責故に感情の暴発を抑えねばならないからこそ、この時も、そして今でさえこうして文を綴り、戦争を終えるべきだと、べきだったと認めることが出来ているに過ぎない。

 

 ……いや、これは嘘だ。

 

 結局私が思い止まれているのは、終戦すればエルマーがこれ以上世界から恐れられるような兵器を創造せずに済み、またそれらを用いなくてよくなるだろうという安堵感や、ターニャが戦死しないで済むだろうという保身が勝っていたに過ぎない。

 私は自分が、自分の親しい者が勝利より上に来てしまったからこそ、こんな風に考えることが出来てしまったのだ。人としては何処までも利己的で、軍人としても合理性という装飾の内側に不誠実さを隠した、恥ずべき思いだった。

 

 だが、これまで耐え忍んできた者たちは、雌伏の時として耐え難きを耐え続けてきた者たちには、どうか?

 帝国義勇軍将兵全員と、連邦構成国からの協力者、そして本土の民意を叫ぶマスメディアに、戦友、部下、上官を失った帝国将兵の大多数に至るまで、全てが共産党と党指導者らへの慈悲なき鉄槌を叫んだのだ。

 フランソワ革命の、暴徒と化した民衆のように熱狂的で、誰もが目を血走らせて嬉々としながら地獄の窯を開くその光景を、私は生涯忘れないだろう。

 私とは違い、常に透徹した視線を維持されるフォン・エップ上級大将でさえ、あの時は民意という波に押されていたと戦後溢されたほどなのだ。

 

 そして、戦争遂行に限り全権を委任され、絶対的地位を確立された小モルトーケ参謀総長は。この事態において唯一、鶴の一声で全てを押さえ込むことが出来たであろう参謀総長は、その生涯において、唯一と言って良い疵を輝かしい経歴に遺されてしまわれた。

 

 敵地攻略の功で大将位を与えられ、本国に帰還したフォン・ゼートゥーアならび、フォン・ルーデルドルフ両大将の、慎重派と行動派と揶揄された両人が私人としてのように肩を組み、これ以上の開進は無謀だと断固反対したといえば、如何にこれ以上の我が軍の侵攻が、攻勢限界という枷にかけられていたか推察できよう。

 戦線を整えるところまでは出来る。後は賠償金を限界まで引き上げるなりして、国としての体制が維持できないまで締め上げれば事足りる。無条件とまではいかずとも、それに近い形での降伏を連邦は呑む筈だ。

 こうした意見具申、否、泣訴に近い進言を前に、小モルトーケ参謀総長は静かに零された。

 

「ゼートゥーア参謀次長のみならばいざ知らず、ルーデルドルフ参謀次長までもか」

 

 前線に送った甲斐があったよ、と、まるで我が子の成長を喜ぶように小モルトーケ参謀総長は微笑まれたという。

 抗命による銃殺さえ覚悟しての直訴であっただけに、フォン・ゼートゥーア、フォン・ルーデルドルフ両大将は、戸惑いがちに顔を見合わせられたそうだ。

 

「では、講和を?」

「現状の手段においては、それが正解なのであろうな」

 

 帝国が止まるといえば、如何に周囲が騒ごうと意味はない。独立を望む周囲が、ルーシー帝国再興を願う者達がどれだけ反発しようと、その願いは叶っているのだから、これ以上手を貸す義理はないと言われればそれまでだ。

 帝国に肩入れした全てが一致団結したとしても、帝国抜きに戦い抜くには数も質も、何より武器が足りていないのだから。

 

 打つ手なしだよと上がる白旗。後一歩、目の前の巨人が譲るといえば、その地位に就くことが可能なフォン・ゼートゥーア、フォン・ルーデルドルフ両大将は、初めてこの英雄に参ったを言わせたと、無邪気にはしゃがれ……。

 

「ならばこそ、新しい手段で奴らを灰にしてくれるわ」

 

 偉大にして光り輝く英雄が、倒し得ぬ怪物に変わられたと称された、歴史の瞬間を目にしてしまった。

 小モルトーケ参謀総長は受話器を取ると、技術将校の最高位にして、後の総監部長の地位を確約されていた我が弟、エルマー・フォン・キッテルに、こう問われた。

 

「貴官が、莫大な人員と予算を注ぎ込んだ兵器はいつ使える?」

()()であろうと。世界の、()()位置であろうとも。参謀総長」

 

 もし、その場に私がいたならば、たとえ小モルトーケ参謀総長であろうとも電話をむしり取り、エルマーに直訴しただろう。

 私だけでなく、如何なる軍高官であっても最高機密とされ、予算を組まれた事さえ知らなかったパンドラの箱。フォン・ゼートゥーア、フォン・ルーデルドルフ両大将さえ知らなかった、史上最悪にして唯一の使用例として歴史に刻まれた兵器を、今ここで使うと小モルトーケ参謀総長は告げられたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 世界初にして、誰もが二度と使われぬことを今日まで祈り続ける大陸間弾道『核』ミサイル(秘匿名称:VPu)。

 プルトニウムという過早爆発の可能性が高い物質ゆえ、戦後他の多くがウランによる劣化核を、それも──帝国の情報保全もあったとは言え──数十年の時間差を置いてしか完成させ得なかった悪魔の、いや、神の御技にさえ等しい兵器。

 それを、モスコーから都市機能を移転したサービシェフに発射するのだと決定したとき、実行の即時停止を誰もが求めた。

 

「終わらせられるのです! 参謀総長の一声あらば、それだけで終止符は打てるのですぞ!?」

「そして、社会主義国家という体制が維持される。いや、講和など連中にとっては時間稼ぎだ。今頃は移転した都市で荷を纏め、亡命準備を進めているだろうよ」

 

 真に共産主義と身命を供にする殊勝な人間など、一体何人残っている? そうした人間ほど理想の名の下に殉教し、聖人の如く祀られている。後に残っているのは、カルトに染まった若者を死なせた、拝金主義と自己保身に塗れた老害だけだ。

 

「だとしても、敵都市には市民がいます。我々の悪名は、歴史に刻まれますぞ」

 

 これまでの帝国は間違い無く被害者であり、公正な目で見れば正義の味方とさえ称すべき立場にあった。それを、その輝かしい歴史を、全てドブに捨ててまで行うだけの価値が、何処にあるというのか?

 

「悪しき体制を自己保身で残し、摘み取れた芽を枯らさず、後の世代に託すのかね? ああ、確かに我々は勝利で終わらせられるとも。ルーシー帝国を始め、各国が独立した段階で緩衝地帯となってくれる以上、帝国本土に累が及ぶ前に再び殲滅も出来るだろう。

 だが、ね。聞きたまえよ諸君。私は敵を逃してやる気はない。不遜にも聖なる祖国の土地を穢し、皇帝陛下のお命さえ危ぶませる共産主義などという悪逆の徒は、文字通り世界から消えて貰う。何、どうせ連中は国際法に批准などしておらん。

 我々は世界のどの法に当てはめても無罪だよ。国際法だの国際裁判だのは気にするな」

 

 数万の市民さえ、後の争いの種を思えば必要最小限な犠牲だと。まして、ここにきて独立もせず、我々に協力もせず残っている市民など、たとえ敵でなかったとしても救うに値しないだろうと切って捨てられる。

 

 実際、残酷なようであって正しかった。Aライン以東のルーシー人に独立の兆しはあったが、サービシェフは親共産主義者や党高官の家族が大多数を占めていた。

 そして、事前に提示された核ミサイルの性能は、都市ばかりでなく要塞や平原、海上の敵を一掃するにも十分過ぎるものであり、無理な開進など行わずとも、一瞬で雌雄を決するには十分だった。

 

「講和の用意がある事は匂わせておけ。兵は下げて戦線を整え、陥落させたモスコーの防衛に割かせたまえ。後はそうだな……出来る限り敵を纏めて貰えると、より助かる。ミサイルは四発しかないのでね」

 

 こうして、ルーシーの大地に核の火が放たれた。

 

*1
 夜間出撃であるために純白の機体には搭乗していなかったが、指揮官機のスピナーキャップを中心とした機首が白に塗られていた事や、墜落した機に描かれていた撃墜数から、シェスドゥープ親衛中佐が出撃していた事は間違いないとされている。




 黄の12のマリエール大尉は、黄の14こと『アフリカの星』マルセイユ様そのままです。数字は一つずらして13でも良かったのですが、エスコンに黄色の13さんがいるので止めました。

 核兵器に関しては感想欄で預言者様が多く居られましたが、まぁ、やらなきゃあ嘘ですよね。こんな玩具を使わない選択肢なんてありませぬ(戦略ゲープレイヤー並感)

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 ハンス・ヨアヒム・マルセイユ→ヨーヘン・マリエール
【地名】
 アルハンゲリスク→アルハーン
 アストラハン→アーハン
 クイビシェフ(サマーラ)→サービシェフ



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68 核の火-最後の戦いへ

※2020/3/23誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 燎原の火という言葉がある。防ぎようのない激しい火のことだと、ここで記すような意味はまるでない言葉だ。

 だが、それを直接でないとしても結果として見て、知ることになった私は、その言葉を頭の中に思い浮かべながら、空虚な瞳で()()()()なる写真を眺めるしかなかった。

 灰燼と化した都市を、為す術なく吹き飛ばされた敵軍を、或いは無慈悲な炎に包まれ、炭化した市民を、私はぼんやりと眺めていた。

 

 清々したと口にする者。党幹部をこの手で殺してやりたかったと漏らす者。裁判にかけたかったと悔しがる者。誰もがこの破壊に対して、良心が苛まれる以上に、敵に対して行われた破壊を、連邦への()にして()()としてしか見ていなかった。

 私もきっと、エルマーが核兵器を作り出したのだと知らなければ、犠牲となった市民に懺悔しつつも、心の何処かで喜んでいたことだろう。

 

 戦争は終わりだ。連邦内にはまだ生き残っている党員もいるだろうし、連邦軍にも無条件降伏を勧め、乗り出す者も出ているだろう。

 現に、運良く生き残ったゲオルギウス・ジャウコフ連邦軍参謀総長は地下壕の司令部に身を置いていた為に難を逃れ、正式に降伏文書に調印。

 無条件降伏を認め、生き残った党幹部を帝国に差し出した*1

 

「戦争は終わりだ!」「我々の完全勝利だ!」「悪しき共産主義は遂に滅んだ!」

 

 そう無邪気に叫べたなら、私はどれだけ良かっただろう。

 帝国は勝利した。祖国は安寧の時を得た。もはや、核を手にした我々を脅かす国家など、この地上には存在し得ない。

 勿論、帝国に世界を焼き尽くす意思などない。だが、世界は帝国を恐れ、恐怖するだろう。或いはスオマやルーシー帝国のように、戦後正式に軍事同盟という名の傘下に加わり、立ち位置を明確にするだろう。

 

 少なくとも、表立って帝国と鉾を交えたがる国など、もはやこの世界の何処にも存在しない。かつて帝国と戦った敗戦国らは挙って長期的な不可侵を提案するか、或いは戦後、核を化学兵器同様禁ずる為の動きを見せた。

 勿論、帝国は反発したし、今日に至るまで核兵器は廃絶に至っていない。帝国は核の製造を秘匿したが、保有に関しては後の同盟国に認め、気前よくバラ撒いたのである。

 核という傘。核という同盟。たった一発で戦局が塗り変わる悪夢の火を前に刃向かえる国家はなく、現在の我々は正義の味方でなく、暴力に拠って立つ国家と一部では見られている。

 

 それらが帝国の庇護下に入れなかった事へのやっかみや、或いは純粋な恐怖としてのものだとは理解しているつもりだ。

 合州国などはその代表で、核ミサイル使用直後には国民は恐慌状態に陥り、「直ちにPMCを引き払え」「武器貸与法(レンドリース)も取り消せ」と議事堂に無数の群衆が押し寄せたし、議会も経済恐慌への()()()としてこれらを通した議員たちの首を挿げ替えた。

 その上で、合州国に事前に亡命した党高官らを、掌を返すように帝国に差し出したのだから、彼らがどれだけ必死だったかは想像に容易い。

 自分たちが世論を通じ、核兵器廃絶の為の準備時間を稼げるなら、他の全てがどうなろうと知ったことではないということだ。

 

 だが、核を恐れ、核を禁じる動きを見せても、それを行うまでには遅く、仮に叶ったとしても、経済大国としての合州国は洛陽の時を免れなかった。

 武器貸与もPMCも、焼け石に水であるばかりか、東部戦線中期の時点で損切りを迫られていた。

 国債は自国民さえ購入せず、兵器は連邦に届かず逆に帝国の手に渡り、PMCも死亡率の高さという血の匂いは誤魔化しきれない。

 戦後は財政破綻こそ免れたものの、長らく合州国は恐慌に苦しみ続ける事になる。

 

 

     ◇

 

 

 少し先の未来を、いや、今となっては戦後という過去を語ったが、事態を核の使用と、その後の報告まで巻き戻そう。

 

“私の戦いは、一体何だったのだろうか?”

 

 祖国は勝利した。婚約者は生きている。それだけでも、十分だと言えるのかもしれない。私自身もまた、結果として生き存えているのだから。

 だが、エルマーの名は永久に破壊者として歴史に刻まれるだろう。敬愛する小モルトーケ参謀総長も、共産主義廃絶という大義達成と同時に、拭いきれぬ汚点を残されてしまった。

 

 私は、私が愛し、尊敬する者達が、手を汚す前に終わらせることが出来なかった。

 この一点を見れば、私は紛れもない敗者だろう。敗残兵とさえ言って良い。

 いつかこんなことになるかも知れないと、誰よりもエルマーの優秀さを理解していながら、こうなる前に終わらせる事は出来なかった。

 

 己の無力さに打ち拉がれ、無念に歯を噛み締めることも、拳を叩きつけることさえできないまま、虚脱感だけが全身を蝕む。

 物語ならば、何もかもが主人公の思い通りに行く展開もあるのだろう。どれだけの苦難があっても、最後には大団円で締め括られることもあるのだろう。

 だが、私は今を、この時代を生きるちっぽけな人間に過ぎない。

 どれだけ嫌な現実だろうと、それを受け入れて生きていくしかないのだ。

 

 だから、気持ちを切り替えようとした。切り替えようと努力して、戦友たちと肩を叩き、無理に笑い合い、祖国への帰還を待ち遠しいと語らい合った。

 けれど、そんな中にあって、一つの音が私の、帝国軍の耳に飛び込んだ。

 周波数の割り込み。帝国の中に紛れる音。それは、力ない私のそれ以上に悲壮な、末期の声だった。

 

『赤色空軍親衛連隊中佐、シェスドゥープだ。私を撃墜した人物に賛辞を述べると共に、この放送が、どうか栄えある帝国空軍に届いていることを願う』

 

 歓声が静まり返る。誰もが、この言葉を遺言と理解したのだ。敵への野次や嘲りの言葉はなく、我々は誇りある軍人として、シェスドゥープ親衛中佐の言葉を待った。

 

『もはや我が軍は壊滅状態にあり、我々に勝利はないだろう。だが、我々の祖国はルーシー帝国でなく、ルーシー連邦なのだ。諸君らにとって唾棄すべき敵であろうと、我々は赤い旗を国旗と仰ぎ、赤い星を人民を導く一等星として見上げてきた』

 

 たとえ生きていたとしても、祖国の土を踏むことが出来たのだとしても、この戦いが終わってしまえば、そこは祖国であって祖国でないと、シェスドゥープ親衛中佐は吐露した。

 

『私の生存は、諸君らにとって面白からぬことと思う。だからこそ、私は死に場所を同志と求める。キッテル少将閣下。閣下との戦いを避けた身でありながら、勝手なことを述べているとは承知している。

 だが、私を止める者は最早ない。一切の虚偽や、騙し討ちの意思はない。

 どうか、三日後の正午、モスコーの空で決闘を。

 たとえ閣下が現れず、殺されるとしても恨みはしない。私と、残る四人の同志は潔く空で死のう』

 

 

     ◇

 

 

 通信の直後、私は三日までに当空軍基地に到着し、私と共に出撃したい者は居るかを各基地に問い合わせた。いや、問い合わせるまでもなく、各基地から撃墜王らが、私に同伴させて欲しいと基地司令官に嘆願しているという。

 まこと異例なことであるが、空軍総司令部も、まるで中世の槍試合を見たがるように、私に行けと命じた。

 物語の主人公とて、ここまで出来過ぎな展開は用意されないだろう。だが、帝国軍は理解したのだ。これを逃せば騎士道に準じる戦いは、以後の歴史には行われないだろうということを。

 私の滞在する基地には、空軍のみならず陸軍からも絶え間なく電報が飛び込んでいた。

 正々堂々たる一戦を、丁々発止の空戦を受けるか否か。もし受けるなら、邪魔立てはしないと。

 

 私の答えは決まっていた。

 

 そして、私の元に集った戦闘機乗りから四名しか選べないのかと、到着した面々の顔ぶれに度肝を抜かれたものである。

 はっきり言って、この戦いに軍事的な意味など欠片もない。消え行く祖国に殉じる者たちは死を望みながらも、決死で戦いを望むという矛盾した、しかし誰より強く恐ろしい強敵だ。

 終戦を待っていれば輝かしい栄光が付いてくるというのに、態々死地に飛び込むなど馬鹿としか言いようがない。

 だというのに、この空に魅入られ、敵を称える素晴らしき馬鹿共は私についてきたいといって聞かなかった。

 若輩から老練まで、誰を指名したとしても、黄金剣付白金十字が五機編隊の通常軍装(ディーンストアンツーク)となるだろう。

 私は悩みに悩み、意思と闘志を発散させる彼らの中から、四名を選抜した。選ばれた者は感謝の言葉や敬礼、或いは熱狂によって沸き立ち、選ばれなかった者は無念そうに肩を落としつつも、私と選抜者に固い握手をして別れた。

 中には、地上から私達の戦いを見守ると言い出す者も出た。

 

 ここで、私と共に撃墜王部隊(フェアバント・デア・エクスペルテン)の一員として来るべき戦いに臨んでくれた、四名の勇士を紹介したい。

 私とライン戦線を共にし、今や皆から兄貴分として信頼される『鉄人』ヘルムート・イェーリング大尉。

 イェーリング大尉の親友にして、偵察飛行隊から鞍替えの後は卓抜なる戦功を収めた『囚人*2』ブルーム・レルツァー大尉。

 自身も仲間も生還させる事を信念として貫き続けた、帝国空軍唯一の女性撃墜王『黒いチューリップ*3』エーリカ・ハルトマン大尉。

 そして、シェスドゥープ親衛中佐を撃墜した『黄の12』ヨーヘン・マリエール大尉だ。

 

 彼らは信頼のおける武勇を示し続けた最高の勇士たちであり、誰も文句のつけようがない顔ぶれだった。僅かな嫉妬や羨望と共に、戦友は私の同伴者らに声をかけ続けたが、マリエール大尉は私に一歩進み出ると、その端正な美貌とは裏腹な崩した口調に、真摯な思いを舌に乗せて私に告げた。

 

「閣下。私はシェスドゥープ親衛中佐と相打ったと思われていますが、現実には異なります。親衛中佐は、私を殺す事も出来たのです」

 

 あの日、マリエール大尉の乗機はエンジントラブルで思うように動けていなかった。そして、シェスドゥープ親衛中佐も、それを理解していたという。

 

「ですが、親衛中佐は私が脱出しようとした際、敢えて尾翼を撃ちました。私が、脱出時に尾翼と激突するのを防ぐためです」

 

 弾丸が敵機のエンジンに命中したこと自体を、運だったと言うつもりはない。しかし、たとえ一緒に墜ちたとしても、片方は生存し、片方は死んでいただろうとマリエール大尉は語った。それが、どちらがどちらかは語るまでもない。

 

「願わくば、万全の状態で決着を着けたいものでした」

「なら、私が墜とされた際は、貴官がシェスドゥープ親衛中佐と戦うと良い」

 

 はい、とマリエール大尉は頷く。しかし、それに残る三名が待ったをかけた。

 

「いえ、小官にやらせて下さい。以前は不覚を取りましたが、次こそは必ず」

「イェーリング、私も空の騎士として、戦いたいという思いはあるのだがね」

「いやいや、レルツァー大尉。ここは公平に行きましょう。自分が相手にする機を一番早く墜とした者が権利者にして頂けませんか?」

「ハルトマン大尉、貴官にはヨセフグラードの白薔薇というライバルがいたと記憶しているが? 雌雄を決する相手は他にいるだろう?」

 

 俺が私がと言い合う様は、死地に赴く人間とは思えない。これだから空に魅せられた者は始末が悪い。私も含めて、どうやら撃墜王には命知らずしかいないようだ。

 

 

     ◇

 

 

 選抜は完了した以上、我々が後にすべきことは何もない。逢引のそれのように、時間を厳守して目的地に到着すればいい。

 ただ、やはり戦いそのものは伊達と酔狂でしかない以上、誰もが大真面目にふざけていた。イェーリング大尉は自らが被弾した部分に赤い鉄十字(アイザーネスクロイツ)を描いて、よく狙えと見せつけているし、マリエール大尉も過去に削り取られた尾翼部分を黄色に塗り潰していた。

 既にこれ以上ないほど各々の機体は際立っているというに、更に装飾を施そうというのだから、私は苦笑したものである。

 

「しかし、閣下。こう派手では統一感というものがありませんね」

「そうだな、これではまるでサーカス団だ」

 

 ハルトマン大尉の無邪気な発言に同意すれば、それは良いとレルツァー大尉が笑った。

 

「サーカス団には共通のシンボルが必要ですな。提案なのですが、宜しければマルタ十字を尾翼に描く栄誉を頂いても?」

「好きにしたまえ。但し、死化粧にはならぬようにな」

 

 もう怒る気にもなれない私は、微笑を浮かべつつ撃墜王や整備員に投げた。空の騎士として最後の戦いとなるなら、戦化粧にとやかく言うのは野暮だろう。

 歓声と共に意気揚々と尾翼にマルタ十字を描き始めた彼ら。元より部隊として逸脱した編成であった我々に、マルタ・サーカスの名が後年与えられたきっかけである。

 たった五機。空軍のあらゆる編成や管轄形態に反した我々が、ただ一つの戦場で名乗ることを許された隊名が、尾翼のマルタ十字と共に形作られるのを横目に、私は赤い乗機を撫でた。

 

“ようやく、この機に相応しい相手が来るな”

 

 

     ◇

 

 

 決闘の日がやって来た。当基地のみならず、本土からやってきた老練なる地上要員達は我々の機体を最高の状態に整え、「全て良好です(アレス・クラー)!」と太鼓判を押してくれる。

 そして、いよいよ出撃という時に、私は整列する四名の勇士に、そして彼らを見守る聴衆を前にして滑走路にて訓示を行う運びとなった。

 

 私は敗者だ。誰がどう言おうと、それは変わらないし変えられない。そして、シェスドゥープ親衛中佐も、同じような思いだろう。私の心の痛みや無力感など、シェスドゥープ親衛中佐のそれに比べれば、痛痒にさえ値しないのだと弁えてはいる。

 私に出来るのは、死地に飛び込む彼らに、最高の桧舞台を用意する以外ない。それこそが、最高の手向けだと信じていた。

 いいや、信じたいのだ。敗者同士、傷を舐め合いたいのだろう。そのような情けない思いで決闘を受けたことを、そして傑物たる撃墜王らを巻き込んでしまった事を恥じつつ、意識を切り替えようと顔を上げた。

 私の翳りに気付いてしまった撃墜王たちに、それを察せられることのないように。彼らに、胸を張って戦いに臨んで貰う為に口を開く。

 

「諸君。我々は死に逝く者を相手にする。私は連邦に、社会主義国家と共産主義に憎悪を抱いていたことを否定しない。共産主義は、我らの奉じる諸王と皇帝(カイザー)を否定し、聖なる祖国を蝕まんとする存在であるからだ」

 

 だが、と。私は将として、彼らを率いるものとして、背を伸ばして声を張る。

 

「我々が相対するのは、如何なる主義思想を持とうとも一切の怯懦なく、死地に赴く誇り高い英雄だという事実は揺るぎない。

 そして諸君らもまた、敵が本懐と感じるに足る勇士だと認めるが故に選んだのだ。

 帝国の父祖から高貴なる魂と高潔なる血を受け継ぎ、聖なる大地に育まれた諸君! 私は諸君の誰もが生還し、凱歌に包まれながら、祖国の地を踏みしめると確信している!

 戦場を前にしながら諸君らの目は光に満ち、その五体と半身たる乗機でもって勇気を示さんとしているからだ!

 私もまた、諸君らを率いる者として卑怯者にはなるまいと誓おう! 万策尽きるその時まで操縦桿を握り締め、勝利がもたらす歓喜の門を、この手で皆と開かせよう!

 忠勇烈士たる諸君! 空の騎士たる諸君は、この戦いに何を求める!?」

 

「我らが祖国(ライヒ)に、不朽の逸話が刻まれんことを!」

皇帝(カイザー)に、無欠の勝利が報として届かんことを!」

「我らと敵の行く末に、栄光の輝きがあらんことを!」

「人民の英雄らが、誉れある死を賜らんことを!」

 

 イェーリング大尉が、レルツァー大尉が、ハルトマン大尉が、そして、マリエール大尉が、天に轟かんばかりに叫ぶ。その締め括りとして、私は最後に声を張り上げた。

 

皇帝陛下万歳(ハイルカイザーディ)!」

「「「「皇帝陛下万歳(ハイルカイザーディ)!」」」」

 

*1
 同じ軍人として名誉のため明示するが、ジャウコフ参謀総長は売国奴の類ではない。彼は党との折り合いは悪かったものの、軍人として政治に我関せずを貫いており、帝国軍にも名将として名を轟かせていた。

 ジャウコフ参謀総長が党員を差し出したのは、ルーシーの大地と、これ以上民を破壊の火に巻き込みたくないが為の決断だった。

*2
 縞模様の機体が敵味方に囚人服を連想させたことに由来する。

*3
 異名の由来は乗機に施されたチューリップのノーズアートから。




 パンツ一枚で空飛んでる女性が居る? はい、ネタ枠兼、スターリングラードの白薔薇さんの相手にして貰うためだけに入れさせて頂きました。これにてクロスオーバータグさんのお仕事は終了です。
 ホントはアフリカの星さんもエスコンの黄色の13にしようかと思ってたのですが、彼はジェット戦闘機乗りなので諦めました。
 多分黄の12の息子さんが……いや、エルドアはイタリアだから無理だわ。

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【人物名】
 ゲオルギー・ジューコフ→ゲオルギウス・ジャウコフ
 ブルーノ・レールツァー→ブルーム・レルツァー


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69 戦場の正と負-ターニャの記録25

※2020/3/23誤字修正。
 ヒョロヒョロさま、oki_fさま、佐藤東沙さま、すずひらさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 モスコーの空、私と列機は死地に集う者達を見た。敵五機編隊は未だ遠く、小さな点にしか見えないほどだが、その一糸乱れぬ鏃型の編隊は私達への礼なのだろう。

 群れ為す翼は陽光に反射され、その美しい輝きに思わず私は目を細める。

 鏃の先端。傷一つない純白の機体は連邦製(ラタ)でなく、合州国の最新鋭にして、最高のレシプロ機たるムスタングだった。連邦最高のエースたちには惜しみなく優秀な機体を与えられていたが、シェスドゥープ親衛中佐を始め、他の面々もその例に漏れず、全員がムスタングに搭乗していた。

 帝国機を研究し、莫大な労力を払い完成させ、しかし余りにも遅すぎた登場となったその機体は、我々にとって未知に等しい相手だったが、それを恐れた者は私たちの中に一人として存在しない。

 強敵との出会い、戦の誉れ。大空の歴史に己の名が刻まれる事を望んで止まない空の騎士達にとって、強敵との出会いは本懐そのものであった。

 

「『良い選択です。計画経済式のボロに乗って来られては、張り合いがありません』」

「『過剰な自信は危険だぞ、イェーリング』」

「『それぐらいが丁度良いかと。ヨセフグラードの白薔薇は二番機ですね、動きで分かります。私の相手は分かりましたので、他はご自由に』」

「『ハルトマン大尉は実に目敏い。私は右端を頂くとしよう。では、閣下。ご武運を』」

 

「諸君らもな。主と聖母のご加護を!」

 

 敵の散開に合わせ、こちらもまた散って行く。純白の機体が、有効射程ギリギリから曳光弾を飛ばしてきたが、それ以上に私の目を引いたのは、敵機より更に後方に放たれた高射砲の砲撃だ。

 航空機には低いが、魔導師には最適の高度。シェスドゥープ親衛中佐ら同様、見事な編隊で飛行する赤軍親衛魔導師達は私達に目もくれずにモスコーの襲撃を始め、帝国軍は赤軍魔導師らを通すまいとそれを阻む。

 

“尋常の立合いだった筈なのだがな”

 

 だが、私に他の戦場を気にするだけの猶予はない。それを許してくれるほど、シェスドゥープ親衛中佐は甘くも、侮って良い相手でもないからだ。

 尾を喰らい合う蛇のように絡み合い、雲を引きながら、私はシェスドゥープ親衛中佐と高く、果てのない空を飛んだ。

 

 

     ◇ターニャの記録25

 

 

 我が婚約者は、空と戦いに取り憑かれている。何処までも無邪気に、子供のように。

 だが、私にとって空も戦いも、どちらも忌み嫌うものだった。

 一体どうして、殺し合いを楽しめるのだろう? そこに、誇りだの美学だのを見出すことができるのだろう?

 ワインに水を注ぎ足す(熱を冷ます)のは気が引けるが、私にはどうしても、戦いを好きになることができなかった。

 戦争は残酷だ。理不尽で不条理だ。私はそれを、婚約者と同じモスコーの空で味わった。

 モスコーを占領下に置き、そのまま占領地防衛の任に就いた帝国高射砲部隊の苛烈な砲火を掻い潜りながら突貫する、死兵となった魔導師達を見る事で。

 

 ある者は高射砲でバラバラに吹き飛び、ある者は私同様に出撃した戦闘団魔導師の手で仕留められながらも、敵魔導師は遮二無二突き進んでくる。その最先鋒の少女は、私を見るや否や、殺意のこもる銃口を向けてきた。

 

「殺してやる! お父様の仇!」

 

 赤軍魔導師ではない。明らかに北方の、レガドニア人の容姿だと私には分かった。そして、そう叫んだ少女──とはいえ、私より年上だが──はPMCの制服を纏い、イニシャルの刻印された短機関銃を手に、二つの演算宝珠を首にぶら下げていた。

 協商連合製の、今や旧型の演算宝珠。その中に収められているのはきっと戦闘記録か何かで、その手に握られた短機関銃を、魔導刃で鍔迫り合い、凝視する段になって、ようやく得心した。

 

“ああ、あの時のか”

 

 私が殺した協商連合の大佐。これぐらいの娘は当然いるだろうと思える年嵩で、きっと海に落ちたのを拾われたが、助からなかったのだろう。

 

「私が、殺した男の子供」

「そうよ……肺に血が入って溺れて、苦しみながら逝ったわ。私の声も届かなかった。手を握っても、分かってくれなかった」

 

 だから、仇を討ちに来たのだ。合州国に亡命し、軍人となり、PMCの魔導師となって、私の前に現れるのを望んでいた。

 少女の復讐は正当な権利だった。かつての、自分以外に大事なもののなかった頃の私なら、戦争に私心の殺し合いを、それも軍人だった人間の死を、親といえど復讐に持ち込むなど頭がどうかしていると吐き捨てたことだろう。

 殺し殺されの世界。戦争など外交の一環に過ぎぬと切り捨てられる、歴史の一幕。だが、どのような形であろうと、そこで大切な者が、愛していた者が失われたならば決して許せはしない。理屈など人の持つ感情の前には無力であり、その感情が燃料となって、時として世界さえ動かす。

 ニコが死んだと錯覚し、狂乱し、共産主義を根絶すべく、小モルトーケ参謀総長の背を押した私のように。愛する兄の、家族の為に核兵器を産み落とした、エルマー兄様のように。

 

「やっと、ここまで来た……帝国の犬! お前の目の前まで!」

 

 私を仇だという少女は、強い。少女に同伴した親衛魔導師は、我が戦闘団の魔導師らに倒されていた。破れかぶれの、上空で戦うシェスドゥープ親衛中佐らのように、死ぬ為にモスコーにやってきたのだと分かる連中だった。

 だが、この少女は違う。死ぬ為でなく、殺す為だけに来た。その魔力量は桁違いで、ヴィーシャやヴァイス少佐でも止められない。

 苦もなく多重発現される()爆裂術式。大隊時代からの、百戦錬磨の基幹魔導師を四名も屠り、他の部下さえ戦線離脱を余儀なくされるほどの深手を負わせて、指揮官たる私の元まで食い込んで来る。

 抗魔導術式弾の掃射さえ弾く防御膜に加え、超長距離光学狙撃術式にさえ等しい貫通術式弾を駆使する少女は、正しく怪物の名に相応しい力量だった。

 

「中佐、殿。今そちらに……!」

「来るなヴィーシャ! 他もだ! 私以外は殺されるぞ!」

 

 自己保身に塗れきっていた私が、戦友の安否のみを考えて叫ぶ。ああ、人とは変わるものだ。そして、何となくだが婚約者の気持ちが分かった。

 自分でなければ止められない。自分でなければ倒せない。

 シェスドゥープ親衛中佐とやらは、今の私がこの少女に対して思うような、本能的な危機を否応なく感じてしまえる相手だったのだろう。

 囲んで袋にしてしまえるような、そんな生易しい次元でない。物語の住人のような、理不尽極まりない恐るべき敵。

 その強さを骨身に染みて感じ、その憎悪が正当なものだと承知していながら、けれど、私とて死んではやれない。

 

「仕方なかった! 殺しに来ていたのだぞ! 戦争だ! 殺すしかないだろう!?」

 

 だから武器をおけ。話し合おう。嗚呼、全くなんと馬鹿で愚かな発言だろうか? 昔の私なら、口より先に引き金を動かせと叱咤したに違いない。相手だって、私の言葉など耳にも入れたくない筈だ。

 

「なら、戦争なのだから、死ね!」

 

 ああ、少女は正しい。軍人として正しい発言で、個人としては正しい憎悪だ。けれど。

 

「それは、出来ない」

 

 だって、私は幸せになりたいんだ。他人を殺しても、不幸のどん底に陥れたのだとしても、私だって人間だ。人間として、生きていたいんだよ。

 

「だから、すまない」

 

 私は少女を殺す。異国の地で。復讐心を縁にここまで来た、まだあどけなさの残る、十代の少女を。

 銃剣が深々と胸を裂いて、肋を砕いて、肺を潰して、心臓を貫いた。

 

「あ、っ、ごぷ」

 

 血を吐きながら、少女は術式を起動する。自爆だろう。この手の相手は、過去に幾度となく出くわした。

 

「本当に、済まなかった」

 

 こつんと、私は抱きついてきた少女のこめかみに銃口を添える。

 引き金は軽い。事切れた少女は、糸の切れた人形のように大地に身を投げ出した。

 私は大地に降りる。感傷だが、少女の名前を知りたかった。だが、少女は何も持っていなかった。PMCの人間だからだろうか? それとも、私を殺した後は自決するつもりだったからなのだろうか?

 協商連合の演算宝珠も、中身のない空っぽ。合州国製のそれも、自爆の間際であったからか融解していた。

 少女の名前を、私は今も知らない。協商連合軍の大佐たる父親筋から当たってもみたが、当時の協商連合は末期戦の様相を呈しており、情報保全から各種書類を焼却していたという事であったし、何より、私が殺した少女の父親が居たのは、亡命政権樹立の為の秘密作戦であったから、元より記録など残りようがなかったそうだ。

 父親の着けていた大佐の肩章さえ、本物かどうかは疑わしいと後年になって帝国情報部から告げられた。

 

 夫の著作でこのような内容を書いたのは、この手にかけた親子を知りたいが為で、夫もそれを了承してくれた。

 許されないとしても、恨まれ続けるのだとしても、私はこの少女の名前を知りたい。遺体は祖国の土で眠るのが、協商連合の習わしと知って送ろうとしたが、共産主義者に与した人間であると拒絶された為、私が個人的に埋葬するしかなかった。

 

 私は静かに十字を切り、鎮魂の言葉を唱えてから、力なくその場に座り込む。見上げれば、まだ空では戦いが続いていた。

 

「本当に、嫌いだ」

 

 私はずっと、ずっとそれを叫び続ける。戦後、元軍人として不朽の栄光や戦果を語るのでなく、戦争がもたらす負の面を訴えると、この時に誓った。

 

「戦争なんて……、大嫌いだ!」

 

 この、モスコーで叫んだように。

 

 

     ◇ニコラウスの回想記

 

 

 虫の知らせというものは、本当にあるらしい。私は空で、婚約者の声が聞こえた気がしたのだ。誇張や脚色の類ではない。私は確かに、ターニャの声が聞こえた気がしたと、日記に書いていたのだから。

 だが、私はモスコーにターニャが居たことなど知らなかった。サラマンダー戦闘団は、核攻撃時には後方に下がっており、そのまま本国に帰還したのだろうと考えていたからだが、現実には親衛中佐らと同じく、モスコーを墓場にしたがる連邦軍の攻勢に備え、防衛の任に就いていたと知ったのは後のことだ。

 

 不思議なものだった。地上にいる時は、空が恋しくなるというのに、空に上がれば、愛する者が恋しくなるのだから。

 しかし、そんな感傷に浸れるほど、私の相手は悠長な構えを許してはくれなかった。

 正確な射撃、太陽を背にしたがる最適解な機動。そうした基本的な部分以上に、シェスドゥープ親衛中佐には戦闘機乗りとして天賦の才があるのだろう。

 示し合わせたような曲技飛行。互いが背後を取るために急旋回を繰り返し、鋏の開閉運動のようになる。私も親衛中佐も、どちらも本気だった。本気であるが故に、傍目にはきっとおかしな飛行に映っただろう。

 地上から私達を見ていた戦友らは、デモンストレーションか、本当に空中サーカスをしているのではないかと思えていたそうだから。

 ただ、やっている私達は真剣そのものだ。汗が冷え切り、操縦桿を持つ手が震える。背後を取られるというプレッシャーが、私に久しく感じさせなかった、死という根源的な恐怖を抱かせる。

 太古から、人という種が羨望してきた果てのない世界。何処までも澄み渡り、遮るもののないはずの世界が、この時の私には狭くて仕方がなかった。

 動きが読まれる。制限される。地を翔ける獣が、猛禽の爪に掴まれるのを恐れるような、その影が自分の空を呑み込むのではないかと錯覚するような恐怖。

 それを振り払うように、私は一層固く操縦桿を握りこむ。

 もつれ合うその一瞬。私はこれ以上ないタイミングで乗機を旋回させて捻り込んだ。

 取ったか? 否、そう感じた瞬間に、シェスドゥープ親衛中佐は()()()

 

“まさか……”

 

 そのまさかだ。我が偉大なる恩師にして巨匠の芸術。

 最早敵味方を問わず、数多のパイロットがその御技を習得していたが、私が目にした多くが、芸術の域に達せぬ贋作止まりであったマルクル中佐の反転(イメール・ターン)

 

 それを見様見真似でなく、真に()()にするのに、どれだけの時間と経験を私は重ねねばならなかったか。

 これは、この技は唯の空戦機動(マニューバ)の一つという訳ではない。マルクル中佐の芸術は必殺でなければならず、それ以外は全て模写に過ぎぬと、私もダールゲ少将も意見を一致させていた。

 だが、これは、このマルクル中佐の反転(イメール・ターン)は!

 

“本物だ。正真正銘、マルクル中佐殿と寸分違わぬ、撃墜王をも殺せるほどの!”

 

 かつて、マルクル中佐殿からこの芸術という洗礼を受けたとき、私は撃墜という敗北を受け入れた。そして、今まさに私は実戦で、あの時受けなかった弾丸を受けようとしている。

 

“だが、私もあの頃の私ではないぞ!”

 

 未だシェスドゥープ親衛中佐は、反転(ターン)を完成させていない。上昇から下降へ。機首が下を向き、驟雨の如く弾丸が赤い機体に注がれる前に、私は桿を切った。

 上から下に向かう相手に対し、私は上に機体を捻った。急激な変化。過剰な負荷がかかり、機体に嫌な音が響くが知ったことではなかった。

 シェスドゥープ親衛中佐の機首が下がりきれば、私は確実に絶命する。この反転(ターン)を、見様見真似のそれでなく、真に扱いきれる敵に遭遇した際の対策を、使うことはないだろうがと思いながらも、頭の中で練り続けてきた。だが、私は今、それが無駄でなかったということを主と聖母に感謝した。

 シェスドゥープ親衛中佐の火ぶすまは私を貫かず、私と親衛中佐は上下で向かい合い、対向しながら互いの顔を確かに見た。私も彼も、互いが驚愕で引き攣っていたに違いない。

 至近距離での交叉。ゾッとするような鈍い音。激突するのではないかという位置にあって、私達は上と下に別れ、自然と距離が離れる形になってしまう。

 戦闘機同士の超高速での交叉は、触発せずとも過流を生み、互いの機体を荒波に揉まれる小舟のように揺り動かしていた。

 正直、どちらもこの一瞬に死を覚悟しただろう。弾が飛んできていた分、私の方が恐怖は上だったかもしれない。だが、私はまだ生きている、シェスドゥープ親衛中佐も、また同じくだ。

 

「は、はは!」

 

 私は笑いを堪えきれなかった。シェスドゥープ親衛中佐は、強い。

 

“ダールゲ少将より、マルクル中佐殿より、そして……、この私よりも!”

 

 これまで、対等と思える相手は居た。航空隊時代ではアントン中尉が。教官時代にはリービヒ大尉が。そして、今日という日まではダールゲ少将が。

 だが、真に見上げ、挑むなどマルクル中佐殿以来だった。血湧き肉躍り、魂が燃焼する瞬間! 私は過去、魔導師から空の王冠を簒奪したと語られたが、その王冠は何時まで私の手にある!?

 今! 目の前に! 新たな簒奪者が現れた! 生涯において最高の、我が人生で望み焦がれていた好敵手に私の心は震え続けていた!

 

 妻は戦後、戦争とは悲惨だと、残酷で見るのも嫌だと言い続けていた。私もそれを認めよう。戦争とは、理不尽に命を奪われる場所だ。誇りや尊厳、愛国心などで包み込まねば、到底呑み下せない劇物だ。

 だが、それでも私はどうしようもない馬鹿なのだ。命を落とすやもしれない瞬間にあってさえ、強敵を望まずにいられない! 自らが墜とされるとしても、一片の恨みさえ抱かず死ねてしまう!

 ダールゲ少将のように、マルクル中佐のように、そして、シェスドゥープ親衛中佐と相対した、全てのパイロット達のように! 本懐だと納得して、笑って死んでしまえるだろう!

 

“私こそ感謝するぞ、シェスドゥープ親衛中佐!”

 

 桧舞台を与えられたのは、私だった。敗者として惨めに終わり、無力に苛まれて終戦を迎えるばかりだった私に、再び貴方は活力を与えてくれた!

 大空での、誇りある戦いを用意してくれた!

 

“嗚呼、だが……”

 

 飛行手袋の下。指輪の感触が、死を上回ってしまうような興奮を冷たく冷やす。

 

『この心は、常にお側に』

 

 銀の翼の彫刻と共に、刻まれた想いが、私の心を空から大地に縛ってしまう。

 私は、シェスドゥープ親衛中佐と違って死ねはしない。死ぬことだけは、断じて出来ない。私には生きる意味がある。目的が、未来がある。愛しい女性を、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフを妻としたい!

 

「だから」

 

 機銃を擬せる。興奮に血液が沸騰しそうな中にあって、照準を捉える私の瞳は、何処までも冷淡で冷血だった。

 一八〇度のターン。マルクル中佐の芸術とは微妙に違う、対魔導師用の射線変換。航空機対航空機が主流となった現代では、余りお目にかかれない技法だろう。

 距離を取るべく離れた筈の私は、敵の尾翼を捉えていた。

 

さようならだ(アウフヴィーダーゼーエン)

 

 だが、やはり物語のようには行かない。創作物のような台詞を漏らしておきながら、必中を予見した私の弾丸は、シェスドゥープ親衛中佐の軽やかな横滑りで躱されたばかりか、親衛中佐はそのまま減速して、私を前に押し出し、背後を取ろうとしてきたのだ。

 

“やる!”

 

 弾を外すなどクローデル大尉を相手にした時以来で、あの時だってクローデル大尉は致命傷を避けただけで被弾はした。私が撃墜王の座に至った特技。射撃に対しての自負は、長く伸びきっていた鼻と共に、目の前の天才に無残にへし折られてしまった。

 

「くくっ」

 

 吊り上がる口元を抑えきれない。外したという不覚以上に、死力を尽くす事の、自分の全てを搾り出しても、尚届かないという相手が居ることの、なんと爽快であることか!

 聖句ではないが、私は今、幼子のように見、幼子のように感じている! この敵が、殺し合う相手が、たまらなく愛しくて仕方ない!

 私は勢いよく敵機に突っ込んだ。もっと戦おう! もっともっと、私は至らない人間なのだと感じさせてくれ!

 試してみたい技があるんだ! 上手い操作のコツを掴みたいんだ!

 

“ダールゲ少将、マルクル中佐殿。ファメルーン時代の頃に、新米少尉だった時に戻ったようだといえば、貴方達は笑うだろうか?”

 

「悔しいな。親衛中佐……敵になって欲しくなかった」

 

 私は心から、味方なら友情を育めた筈だと、そう思う。そして、同時に。

 

「心から、敵になれて良かったとも思えてしまう」

 

 生涯、最高の好敵手に出会えたことに感謝もしていた。もし、許されるのならば、私はこの親衛中佐に生きて欲しいと願った。それをするには難しい相手だが、私ならやれるかもしれない。エンジンに弾丸を叩き込み、脱出させることもと、そう考えて、頭を振った。

 それは侮辱だ。実情はどうあろうとも、シェスドゥープ親衛中佐は人民の国に生き、人民の国で死にたいと願った。このモスコーの、既に帝国軍がひしめいていても、降伏するまでは自分たちの首都たる地の空で。

 ()()()()人としてでなく、()()人としての終わりを望んだのだから。

 

「今度こそ、本当にさようならだ」

 

 私の宗教に、生まれ変わりはない。シェスドゥープ親衛中佐は、そもそも宗教を信じていない。私達は、これが最初で最後の出会いと戦いになる。

 二度と味わえない興奮、歓喜、死の恐怖。そうしたものが、発射ボタンを押す一瞬で脳を駆け巡る。だが、私の指は躊躇しない。

 何かを考えるより先に、私は名誉の死をシェスドゥープ親衛中佐に与えていた。

 

 

     ◇

 

 

「各機、ダメージレポート」

「『二番機、イェーリング。被弾二、飛行に問題なし』」

「『三番機、レルツァー。被弾一、飛行に問題なし』」

「『四番機、ハルトマン。被弾無、飛行に問題なし』」

「『五番機、マリエール。被弾無、飛行に問題なし』」

 

 皆、無事だった。誰一人として欠ける事なく、我々は空の王冠を守り抜き、帝国空軍こそを、世界に冠たる空の無敵艦隊(ルフトアルマーダ)と証明したのだ。

 

「地上に知らせてやれ、編隊を整えるぞ」

 

 

     ◇

 

 

 五機の編隊が、空を翔る。親衛連隊が我々に見せたそれにも引けを取らぬ動きで、私達はモスコーの空を旋回した。

 カーブを描くとき、外側を飛んだマリエール大尉の機が飛行機雲を引き、地上では割れんばかりの歓声が響いたという。

 本来なら救難等に用いるオープンチャンネルを開いて、私は歌を、帝国国歌を口ずさむ。どの世界の歌よりも力強いと信じて疑わない、我らの祖国の歌に合わせて、皆高らかに歌ったが、私は皆が熱唱したその瞬間に合わせて、小さく連邦のインターナショナルを隠れるように口ずさんだ。

 空で死んだ好敵手らに、聖句は意味を成さない。ならば、その代わりに彼らの奉じた思想の歌を、ほんの僅かに口ずさみ、静かに敬礼した。

 

 私達は勝利した。けれど、この空で死んだ彼らは、惨めな敗者では決してない。

 彼らは本懐を遂げた。不朽の名と輝ける戦いを歴史のページに綴り、平等を気高く叫び息絶えた彼らは、戦場に輝く星として、永久(とこしえ)に皆の胸に刻まれるのだから。

 

 私は祈る。願わくば、彼らの理想の通り──少しでも格差のない社会が、不当な差別のない、子供達が実り豊かな日々を過ごす時代が来ますように。

 彼らの理想が、正しい形で報われる世界でありますように、と。

 

 



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70 終戦と結果-各国のその後

※2020/3/24誤字修正。
 佐藤東沙さま、すずひらさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 一九二八年、八月一日。共産党指導者に代わり、ゲオルギウス・ジャウコフ連邦軍参謀総長はウリヤノフグラードに置かれた帝国軍司令部にて、降伏文書に調印。

 調印式は戦争継続を訴える残存共産党員を拘束してのものであり、無効と見做すことも可能であったが、事実上の無条件降伏であるが故に、それに反発する者は存在しなかった。

 中央大戦と後の世界史に記された世界最大の大戦は、ようやく終わりを迎えた。

 帝国は長年の戦争によって失われた人命を。ルーシー連邦の元構成国や、その支配に喘いできた国民らは亡くなった者達を悼みながらも、戦争の幕引きを隣り合うもの達と分かち合い、噛み締めた。

 

 私やターニャのその後を語る前に、終戦に伴っての諸々を記すとしよう。既にして歴史を知る読者諸氏には退屈なものと思うし、読み飛ばして頂いても一向に構わない。これはあくまで、当時を生きた私が、一つの節目として書き記したいだけに過ぎないのだから。

 

 

     ◇

 

 

 ルーシー連邦は降伏文書調印後、全構成国の連邦離脱の表明と共に解体。スオマ共和国を始めとする全構成国が独立し、主権を回復した結果、ルーシーは王国となった。アナスタシア大公女は女王(ツァリーツァ)としての地位につかれたが、復権後は公約に従い、立憲君主制国家として議会を設け、貴族院と庶民院に分かれるアルビオンと同様の方式を取った。

 人民にパンと自由を、そして、何よりも尊厳と権利が保証される時代を目指すと告げたアナスタシア女王は、その言葉を今も守り通している。

 貴族や為政者が富を貪るのでも、貧富の格差が広がるのでもない社会が、今の王国には満たされている。

 

 次に、かつての連邦構成国に移ろう。スオマをはじめとした元構成国は連邦に対して恨みを抱いていたが、ルーシーが帝国であった頃にもその圧政から同様の不満は抱いていた*1

 元構成国は独立後、帝国に対して同盟を結び、友好国として手を取り合おうと持ちかけたが、その裏にはルーシー王国が勢力を盛り返し、軍事的支配に自分達が脅かされることを防ぐだけでなく、ルーシー王国を孤立させる事での疲弊を狙うという、過去の恨みを晴らす思惑もあったのだろう。

 無論のこと、帝国はその思惑を察した上で、過去の復讐には手を貸せないことを明示した。

 同盟も、友好国としての経済発展や各国の自立促進も大いに認める。しかし、帝国はこの中央大戦で中立国たるイルドアを除けば、仲間が存在しなかったことを憂慮していた。

 中央大戦の勝利が、決して磐石のものでなかったこと。仮想敵国に囲まれ続けた過去から、より強固な軍事同盟国を帝国が求めるのは、当然の帰結であろう。

 その枠には是非、構成国が独立しても広漠な土地を有し、豊富な資源から戦後は工業国としての地位を築くことは間違いないルーシー王国も加えたかったのである。

 帝国はルーシー王国と元構成国に対して、相互不可侵を解かない限りにおいては有効な同盟を提案。何れかの国がそれを破った時点で、安全保障を名目に、その国を他国と共同で侵攻する保障条約を提案した。

 呉越同舟は諍いも多いが、国家に永遠の友も敵もない上、今の帝国が離れるより複数国のまとめ役としていて貰う方が良いと元構成国は判断したのだろう。

 ルーシー王国と元構成国からなるこの巨大軍事同盟は東方同盟と称され、その盟主の座についた帝国は、今日も同盟国の父にして庇護者となり、各国の調停と緊密な関係の維持に努めている。同盟国の平和と、相互発展のために。

 

 

     ◇

 

 

 同盟国から目を離し、かつて帝国と戦った敗戦国にも視点を当てよう。

 中央大戦の引き金となりながら、最終的には帝国と同盟を結び、名目上は戦勝国となったレガドニア協商連合は、同盟時の要求通り領土を回復したが、それは完全なものではなかった。

 自分たちを犠牲にして一時の安寧を得たことを、スオマは忘れていなかったからだ。

 既にしてスオマは中核州を始め、国土を完全に独立時まで回復した時点で和解したが、それはあくまでルーシーに対してのものであって、協商連合に対しては別である。また、帝国としても協商連合とは一時の同盟に過ぎず、敵としての期間も長ければ然程友好国となってもメリットのないレガドニアより、スオマに肩入れするのも当然と言えた。

 

 双方の領土主張に関しては当然紛糾したが、最終的に折れたのは協商連合だった。領土上の妥協は許されないのが政治というものだし、帝国はこれ以上戦いたくもない。しかし、核という恐怖は存在し、東方同盟にはその核を同盟外の国家が侵攻してきた際には貸与することも同盟に盛り込んでいる。

 そうした部分を鑑みれば、妥協できるラインまでは差し出すのも無理からぬ話であったのだろう。なにせ、帝国は核を複数発連邦に使用しており、総数がどれほどのものであるのかは、東方同盟の各国でさえ把握してはいなかったのだから。

 協商連合は終戦から──減額されてきたとは言え──長い時間をかけ、賠償金を完済。現在では同盟国とまでは行かないものの、経済友好国として手を取り合えるまでの位置には立っている。

 ダキア大公国に関しても、産油国である時点で賠償金の問題は克服できた。また、軍事後進国であることを戦後自覚してからは各国と積極的に合同訓練を開催し、改革に取り組んでいるものの、近年では過度な軍拡から国民の不満が高まっており、一部縮小することで経済面のバランスを取ろうと苦心している。

 

 対して、フランソワ共和国やアルビオン連合王国の未来は明るいものではなかった。二国とも、敗戦後は植民地の独立蜂起鎮圧に忙殺され、賠償金の二重苦もあって、火の車となったからだ。

 フランソワはギリギリで持ち堪えたが、アルビオンに関しては駄目だった*2。日の沈まぬ国は落陽を迎え、財政破綻の後に植民地の半数以上を放棄せざるを得なかったのである。

 彼らを因果応報と見るか、時代の流れゆえの苦難と見るかは、今日でも意見は分かれる。だが、連邦のように国家そのものが消失していない以上、彼らにも立ち上がる機会はあるだろう。無論、再び敵となるならば容赦はできないが。

 

 

     ◇

 

 

 他国の話題の最後は、中立国で括るとしよう。

 尤も、中央大戦当時における中立国の中で、真に中立国として動いていた列強といえば、イスパニア共同体や秋津島皇国ぐらいのものだった。

 イルドア王国の存在は帝国にとっては有難かったが、第三者の視点から見れば、帝国とは秘密同盟に近い物資援助を行っていたし*3、合州国のそれは語るまでもないだろう。

 ただ、イルドアに関しては戦争特需故に成功し、一度も国土を脅かされることのなかった、幸運で幸福な国であったことは間違いない。

 対して合州国は、前述の通り恐慌を免れず、ばかりか終戦に伴っての余剰兵器はフランソワやアルビオンの植民地鎮圧を名目として売り込んだものの、二束三文に買い叩かれて終わった。

 転んでも只では起きまいとしたものの、舌の回り具合ではまだまだだったらしい。

 中立国でありながら武器貸与と派兵を外貨獲得の為に行った点からも、他国への心象は最悪であり、結果として長らく経済は冷え込み、困窮の時代は終戦後も長期に渡って続く事となった。

 

 森林三州誓約同盟に関しては、ここでなく次に記述する終戦後の国際裁判の段で語るとしよう。

 

 

     ◇

 

 

 連邦との終戦後、無条件降伏同然のそれを受け入れた連邦軍は、文書に調印したジャウコフ参謀総長を始め、主だった将兵は全員国際裁判を受けることとなった。

 ただ、裁判を何処で行うかは大いに揉めた。こうした事態においては森林三州誓約同盟の国際裁判所で行うのが慣例だったのだが、暗黙の了解として各国が行っていた裏取引を、合州国が拘束した共産党員らが挙って暴露したのである。

 当然森林三州誓約同盟は否定したが、死なば諸共ということなのか、共産党員は亡命時の交渉に用いる筈だったのだろう、機密書類をメディアにまで撒いてしまった。

 合州国にしてみれば、失態以外の何物でもない。なにせ、核という脅威を目の当たりにし、自分達に決して矛先が向かぬよう、帝国の顔色を窺って共産党員を拘束した筈が、帝国にとっての不利な裏取引まで共産党員らが暴露してしまったのだから。

 

 しかし、起きてしまった事実は変えようがない。結果として森林三州誓約同盟の国際裁判所は有名無実化し、かの国の信用は回復不可能なまでに暴落。今日のように裁判時には第三国に中立国の裁判官が集結する形がとられるようになったが、その初となる舞台はイスパニア共同体が担う事となった。

 このイスパニア裁判において、共産党書記長にして人類史上最悪の暴君たるヨセフを筆頭に、内務人民委員のロリヤなど、連邦指導者層が行った数々の非人道的措置は世界に知れ渡ることとなったが、これらはあくまで戦争犯罪でなく、内政の不始末ということになった*4

 また、彼らが連邦軍に帝国軍将兵やオストランドの民衆に対する略奪や捕虜の虐待および虐殺を奨励した、という紛れもない証拠がありながら、それらは現地の政治委員の独断という扱いにもなった。

 戦時中、連邦のモスコー放送で絶え間なく流れた音声は裁判所でも流され、現在でも裁判の記録映像から確認できるが、この場を借りて一部を抜粋することをご了承願いたい。

 この放送こそ、彼ら共産党指導者が如何なる存在であったかを、これ以上ないほどに表すものであるが故に。

 

『同志ヨセフの命令に従い、帝国女の誇りを暴力で破れ! 女共を正当な獲物とせよ!』

『殺せ! 殺せ! 今生まれてくる帝国人にも、これから生まれてくる帝国人にも、無実の者は一人としていないのだ!』

 

 音声を耳にした裁判官も、傍聴席の全員から陪審員に至るまで、全てが聴くに堪えないと顔を顰めた音声は、間違いなく連邦が流したものでありながら、それが党指導者層の確たる命令であったかについては、立証の出来ないものと流された。

 内側に流れた血でなく、外側に流された悪意は戦時犯罪に問われて然るべきだと、裁かれるべきだと誰もが怒号を上げながらも、ヨセフらは勝ち誇ったように裁判所を後にしたのである。

 本裁判において、彼らは飽く迄も歴史に悪名が刻まれるのみに留まったのだ。

 

 しかし、それが幸となった訳ではない。

 

 既に連邦でなくなったルーシーに強制送還された彼らは、ルーシー国内の裁判において、『不当な暴力によるクーデター政権を樹立し、私欲の赴くまま国家を荒廃させた重罪人』として、終身刑に処されたのである。

 かつては自分たちがスオマの地を奪うために正当化した文言を流用したのは、ルーシー王国の痛烈な皮肉であった。

 狂い叫ぶヨセフらは、イスパニアのときと違い、引き摺られながら裁判所を後にすると、自分達がしてきたように残らずシルドベリアに送られ、そのまま生きて出ることはなかった。党の指導者たちは、犯した罪の報いを確かに受けたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 対して、連邦軍将兵に関しては、捕虜への虐殺や略奪を指示した者こそ全員絞首台に上がり、兵卒でさえ厳格に処されたが、逆に言えば不当な判決を下された者はなかった。

 これは温情でなく、連邦の無理な徴兵で若年層を失ったルーシー国内には、無駄な人員の損失は避けたいという実情的な問題があったからだろう。

 有罪となった将校も数年後には減刑され、中にはルーシー王国軍の一員となる者もあった。

 

 一方で、帝国軍将兵に対しても、同様に厳格な裁判が開かれた。

 化学兵器の使用や、無警告での都市への核攻撃および開発に関しては国際法適用外の国家との戦争であったために、小モルトーケ参謀総長やエルマーを筆頭とした殆どが不起訴に終わったが、一方で義勇軍将兵の中には、連邦軍捕虜に対しての報復的虐待を行った者達が少なからずおり、特に元構成国の兵で編成された部隊ほど顕著であった。

 捕虜虐待を戒め、道徳統一を堅持するよう努めてきた帝国軍でさえ、そうした事例は各所で見られたことが明らかになったのである。彼らにはその罪に応じた実刑が下され、裁かれたが、これこそがこの裁判が公平であったことの証明になったと私は信じている。

 我々は、不平を戦勝国の立場から押し通すことも、不実を庇い立てることもしなかったのだから。

 

 

     ◇

 

 

 そして、最後に語るのはやはり我が祖国、帝国についてだろう。

 覇権国家として勝利を収め、内外にその力を示した我が国だが、その内実は決して完全無欠のものとは言い難かった。

 戦死した遺族への恩給。破壊された工業地の再建。賠償金が支払われるとは言え、嵩んだ戦費の負担が黒字に変わるまでにはそれなりの時を要してしまうばかりか、東方の同盟国たちの庇護者としては、彼らにも恵みをもたらさなくてはならない。

 あれだけの敵と戦い、薄氷の勝利を重ねながら、終わってみれば拡大した国土を含めても、釣り合いが取れていたかは疑わしいとは戦後回想したターニャの談で、私もそれには同意する。

 

「それでも、戦争は終わる」

 

 終戦の直前。本国に帰還した私は、噛み締めるようにそれを口にした。

 モスコーの空に色取り取りの翼が翻り、歓声が天まで響いたあの対決の後、基地に帰投した私と列機を、楽団の演奏する帝国愛国歌『勝利の栄冠を輝く君に』が出迎えた。

 空に上がっていた私達に帽を振っていた戦友達は、乗機を降りる私達に対して軍帽を被り直して厳かに敬礼し、続いて響く万雷の歓声が私達の全身を熱く抱擁した。

 戦友達の計らいに私達は感謝したが、天を突き抜けるほどの歓喜で満たされたのは、ここからだ。なんと我々は皇帝(カイザー)から、『勇士諸君の完全勝利を欣快(きんかい)とする』との電報を賜ったのである。

 誰もが歓喜に咽び泣いた。胸打つ感動に声を上げたい思いで一杯だったというのに、喉につかえて感情を吐き出せず、唯々沸き立つ思いに、胸が熱く苦しくなるばかりだった。

 しかし、そのような感動と興奮は、間を置かずに冷めてしまう。私も他の撃墜王達も、用が終わったのだから戻って来いとの命令電報を突きつけられたからだ。

 これにはマルタ・サーカスの面々のみならず、同基地の者達も不平不満を公然と漏らしたが、元より軍務から逸脱した戦闘だったのだ。私は皆をなだめ、固い握手と抱擁を交わして、一人一人に別れを告げた。

 私もまた直ちに本国に戻り、将官としての勤めを果たさねばならないのだ。

 

「また、共に飛べる日を願っております」

 

 マルタ・サーカスの皆が、私にこの言葉を述べてくれた。私もまた、彼らと飛べる日が来るのならば、どのような形であっても飛びたいものだと思い、「私もその日が来ることを願う」と微笑みながら別れた。

 各々の基地に飛び立つ彼らは、その離陸の様だけで紛れもない空の勇士であったのだと私に実感させてくれた。彼らと共に飛べたことが何よりの誇りとなり、将来生まれてくる子らに語り明かすに足る思い出になるだろうと、この時は感慨に耽りながらも、去っていく彼らに敬礼を続けたものである。

 

 

     ◇

 

 

 名ばかりの第Ⅰ航空軍団参謀長としての職を正式に辞して帰国の途についた私は、戦闘爆撃総監職への復職を求められたが、これは固辞した。そう何度も頭を挿げ替えられるような(かなえ)の軽い職責ではないし、後任として職務を引き継いだフォン・ツァーナイゼン少将は十二分に職務を遂行し得ると太鼓判を押せる人物だったからだ。

 ただ、総監職に就かない場合は戦闘団司令官に置くしかないとのことで、私を現場に出したくない空軍総司令部は難儀した*5

 総司令部は何としても私を事務机に縛り付けたかったようで、ならばと現職の戦闘総監を大将に進級させた後に空軍参謀総長に任命し、強引にその後釜に私を据えてしまったのだ。

 終戦を間近に控えている以上、私は飛ぶことに固執してはいなかったのだが、上は私を全く信用しなかったのである。

 

「もう一生分は飛んだのだ。これからは見上げるぐらいにしておけ」

 

 私に終戦の報が届いたとき、執務室に来るよう命じられたエップ上級大将は、そう言って私の中将進級と、自身が元帥府に招かれる立場になったことを告げられた。

 

「心よりお祝い申し上げます、元帥大将*6

 

 戦勝の無礼講とばかり、総司令部各所で喧騒のような歓声が轟く中で申し上げた私に、止せ止せと、エップ上級大将は笑いながら立ち上がって肩を叩いた。

 

「まだ元帥杖どころか、肩章も渡されておらん身だからな。貴様もこれまでとは違う意味で忙しくなるぞ?」

 

 一度のみとは言え、国土を焼かれた帝国には、朗報というものが必要だった。

 祖国は勝利を高らかに歌い、大戦で生還した多くの将兵は、来たる七日間に渡って続く戦勝式典で、英雄として持て囃される事になるだろう。

 それに先駆け、連邦から解放され、独立した元構成国らが挙って東部で功績を挙げた将兵に勲章を授与するとのことで、私や元帥号の授与を待つエップ上級大将も、その枠には漏れなかった。

 私やエップ上級大将をはじめとする、先の大戦で活躍した空軍将官や撃墜王らは直ちに迎賓館に招かれ、正式に独立した各国から祝辞と共に勲章の勲記を賜ったのである。

 正式に勲章が渡されるのは帝国の戦勝式典にあってであり、私達空軍は独立した大使に招かれた第一号という訳だ。

 三軍が一堂に会していれば、ターニャと再会出来たのだがなぁ、と内心惚気けと落胆の双方を覚えつつも、厳格な面持ちを保って両の手に抱えきれないほどの勲記を拝受した。

 一つ一つが革製の、美術性の高い美しいケースに収められていたが、これらは特に勲功著しい軍人にのみ手渡すもので、全員には行き渡らないとのことだった。

 勲記を受け取った者の中には、当然の如くマルタ・サーカスの面々が全員出席しており、私は彼らとの早い再会を喜んだ。

 

 そうして略式の授与式を終えた後に、私とマルタ・サーカスの面々はエップ上級大将と共に、観兵式典の打ち合わせも迎賓館の一室で行うことと相成った。

 

「見世物にするようで悪いが、諸君らには是非とも戦勝式典の開幕たる観兵式で、展示飛行を行って貰いたいのだ」

 

 私もマルタ・サーカスの一同も快く引き受けた。皆、もう一度私と飛べると喜んでくれたのは本当に嬉しかったものであるし、私自身、祖国の歴史に偉大な瞬間がもたらされる日に飛ぶことを、名誉と信じて疑わなかったからだ。

 唯一残念だったのは、我々の展示飛行は空軍の凱旋時に務めねばならず、私達は帝都を練り歩く戦友たちとは合流出来ないばかりか、観兵式そのものにも立ち会えないということだが、これも職務である。

 何より、今後は地上勤務のみを命じられてしまうかもしれない事を思えば、私にとってこれが最後の飛行となるかもしれない。

 心残りの無いよう、一パイロットとして、誰もが目を見張る最高の飛行をしよう。そう気持ちを切り替えて、私は鷹揚に頷いた。

 

*1
 それが為に、戦時下でも構成国人とルーシー人で義勇軍を別個に編成しなくてはならなかった点からも、この問題の根の深さが窺える。

*2
 これは植民地内での暴動が激化する事で、賠償金の支払いが達成困難になる事を危惧した帝国が、フランソワ共和国に軍事的援助を行ったのに対し、アルビオン連合王国に関しては、賠償金の段階的減額故に、手を貸すまでもないと帝国側が判断したのが原因だ。

*3
 イルドア王国は高オクタン価の石油を、一般車両に使用するという名目で帝国に売却していた。当時の戦時国際法においては合法だったが、限りなく黒に近いグレーであったことは著者も認めるところである。

*4
 この教訓から、イスパニア裁判の後に『人道に対する罪(国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為)』

『平和に対する罪(侵略戦争または国際条約・協定・保障に違反する戦争の計画・準備・開始及び遂行、もしくはこれらの行為を達成する為の共同計画や謀議に参画した行為)』が制定された。

*5
 私の階級であれば、空軍士官学校の校長になることも可能だったが、こちらは名誉職の意味合いが強く、年齢的にも不適当とされた。

*6
 帝国軍において元帥の階級は戦時にのみ与えられ、平時に元帥杖を賜った場合は『元帥位を得たる上級大将(元帥大将)』と称す。

 通常、平時の元帥叙任は退役時に限られるが、中央大戦戦勝時には特例として、陸海空三軍種から、特に功のあった上級大将が元帥位を賜った。



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71 戦勝-観兵と叙勲

※2020/3/26誤字修正。
 ギフラーさま、佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!



 迎賓館で両の手から溢れそうなほどの勲記を授かった後、私は来る日に備えた。祖国に帰還した将兵から選抜された者達は、帝都で華々しい凱旋を飾り、これを以て戦勝式典の開幕とされる。

 この手の戦勝パレードは、フランソワ・アルビオン戦役の終わりにもフランソワ共和国の首都パリースィイで執り行われたように、敗戦国から抵抗意識を挫き、勝利を国家の内外に喧伝するものであるが、大規模な戦勝パレードを行うには、今のモスコーは不適格であろうとされた。

 

 帝国軍にとっても予想の範囲内であったが、連邦軍は首都から都市機能を移転させる際、市街地の主だった施設を破壊し尽くしていたのである。また、首都市民も強制的に退去させられていたこともあって、帝国軍が占領した時には荒れ放題であったことも、これに拍車をかけた。

 結果、モスコーでの戦勝パレードは降伏文書調印から一夜明けて、残留する帝国軍と義勇軍将兵とが、記録映像に残す為の簡易なパレードを行うに止め、連邦という抑圧者からの解放を祝う大々的な式典は、今年に限っては*1帝都ベルンにて開催されることと相成ったのである。

 

 私は急ぎ仕立て屋に駆け出し、近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)の礼装──流石にここで空軍の制服を着たいなどと言うつもりはない──に急ぎ真新しい黄金の肩章を縫い付けて貰い、宮中内でのスケジュールや参列時の位置など、細かな打ち合わせと戦後にかかる将官としての業務の双方に忙殺されながら、式典の日を迎えるに至った。

 

 式典開催を告げる観兵式にあって、歴史情緒溢れる帝都の建物の壁には戦時下のモットーやスローガンの飾り文字が貼られていた。

 街路は群集ですし詰めとなり、窓という窓からは人々が顔を覗かせて旗とハンカチを振る。バルコニーには年若い子女やご婦人方が、夫や若い兵士達を熱っぽく見つめてキスを投げ、屋根でさえ見物客が埋め尽くした。

 宮廷前の広間には各州から集った顕職が居並んでいたが、立場ある彼らであってさえ戦勝の高揚を隠しきれず、赤らんだ顔を歓喜に緩ませかけ、しかしそれを「職務なのだから」と直そうと必死だった。

 誰もが今か今かと待つ中、高らかに帝国国歌が軍楽隊によって奏じられ、将兵を送り出す祝砲によって、厳かに開催の合図を告げられた。

 帝国軍全体の軍政事項並びに指揮を司る陸相が屈強で毛並みの良い軍馬の手綱を握り、全ての軍種、兵科から集った一万を超す帝国軍ならび義勇軍将兵に挨拶しつつプロシャ王宮広間まで進み、皇帝(カイザー)と各州諸王の名代たる皇・王太子。

 そして参列する連邦の元構成国たる東方諸国代表と、ルーシー王国女王として正式に即位した、アナスタシア大公女の名代たるドミトリィ・ザイツェフ親衛隊長に戦勝の報を諳んじる。

 

 皇帝(カイザー)の名代たるベルトゥス皇太子はそれを受け、厳粛に頷かれた後に中央大戦にて戦死した全ての将兵と、連邦という抑圧者の手によって奪われた無数の命に哀悼の意を表され、祖国の地を守り抜いた帝国軍将兵と国民に、また、祖国の独立と解放を成した義勇軍将兵への惜しみ無い賛辞を述べられた。

 広間に集えなかった市民には、各所に立つ奏上官より同時刻に朗々とベルトゥス皇太子のお言葉を読み上げることで伝える。

 これの終わりを以て、各軍種が連隊旗をはじめとする軍旗を手に帝都を練り歩いた後、儀仗大隊の旗手が帝国と、ルーシー王国を始めとする東方諸国の国旗を宮廷まで搬入するのであるが、今回、その最先鋒に立つのは近衛でも儀仗兵でもなく、第二〇三航空魔導大隊の生存者達であった。

 

 私とシェスドゥープ親衛中佐の決戦と同時に決行された赤軍親衛魔導隊とPMC部隊の襲撃によるモスコー襲撃において、妻の回想の通り第二〇三航空魔導大隊は迎撃にあたり、中央大戦の最古参たる四名の尊い犠牲を払いながらも、地上軍らと協力して果敢にこれを撃退した。その彼らが、ルーシー戦役の開戦劈頭、記録映像の収録のため接収した、あの帝国国旗を帝室に献上すべく歩を進めていたのである。

 

 この旗は今も帝都の博物館に収蔵され、ベルンに訪れた誰もが目にする事ができるが、決して生地も色も──連邦がプロパガンダ用に誂えたものなので当然だが──質の良いものではない。

 それでも、ターニャから陸相の手に委ねられたこの旗を、ベルトゥス皇太子は歴史ある連隊旗の如く厳かに受け取り、その端に口付けて第二〇三航空魔導大隊の勇士一人一人を祝福した。

 そして、サラマンダー戦闘団指揮官にして基幹たる第二〇三航空魔導大隊大隊長たるターニャは、大隊を代表して皇・王太子ならび各国代表らに謝意を表し、亡くなった四名の隊員を始め、大戦で失われた死者への弔辞をここに示したのである。

 

 私とマルタ・サーカスの四名は、その瞬間に立ち会う事は叶わなかったが、この観兵式がこの時代を生きる国民のみならず、後の時代まで永久に残る偉大なものであると確信し、であるが故に、最高の飛行を披露しようと意気込んだ。

 モスコー上空でマルタ・サーカスの皆と飛んだあの鮮やかな赤の機体に乗って、遥か高みから帝都を微かに一望すれば、既に陸軍の行進が宮廷まで辿り着いていた。

 ススキの穂のように立つ、色鮮やかな連隊旗。足音は耳に届かずとも、規則正しい踵の音が響く様を想像できるほどに整った行進。

 石畳の左右から歓声を送る市民の手には、大なり小なりの帝国国旗だけでなく、独立を果たした元構成国や、新たに制定されたルーシー王国の国旗も握られており、それらが相まった鮮やかな斑模様が飛び込んでくるが、それに目を奪われ続ける訳に行かなかった。

 

 我々は、最後尾を進む空軍の英傑たちを空から祝福すべく、地上の行進に負けぬ最高の飛行を成し遂げ、展示飛行の後続たる爆撃隊は空から色鮮やかな紙吹雪を撒いて、空軍のみならず、三軍種全ての将兵と義勇軍を祝福した。

 空軍将兵は我々の飛行に対し、観兵式にあっても全員が制帽を取り、ステップを崩すことなく帽振れ帽で応えてくれた。

 共に凱旋できなかった心残りなど、これで皆失せてしまった。私たちは場所こそ違えど、心は一つである事を再認したのだから。

 

 

     ◇

 

 

 観兵式を終えた二日目には、フォン・エップ上級大将を始めとする中央大戦での勲功著しい上級大将への元帥位叙任式と、各位叙勲式が宮中にて執り行われる事になっており、私も参列と叙勲の栄に与ることとなった。

 過去に類を見ない大戦を乗り切り、長きに渡った戦争にようやく終止符が打たれたことは、皇帝(カイザー)にとってもこの上ない喜びであられたのであろう。

 本来なら帝国軍統帥が授与する帝国軍の最高戦功章たるダイヤ付きの白金十字を、元帥位叙任式の後、今次大戦の後に授与される予定であった将兵に、皇帝(カイザー)が御自らの手で下賜することを王宮が下達したのである。

 戦勝による記念もあってか、ダイヤ付きの白金十字には僅かに手の届かない将兵も繰り上げての受章であるが、それでも新規獲得者は、三軍種合わせて一〇名。私と亡くなったダールゲを含めても一二名しか受章者が存在しない事を思えば、価値が下がることは決してないだろう。

 

 受章予定の面々は帝国の新聞社が挙って顔写真と共に掲載し、戦勝の号外と共に帝国中に撒かれたが、その中にはマルタ・サーカスの四名ばかりでなく、サラマンダー戦闘団指揮官にして、魔導師内においては最多撃墜王として記録を打ち立てた我が婚約者、ターニャの名も記載されていた。

 当然、式典では再会出来る筈で、年甲斐もなく飛んで喜びたいものであったが、此度の叙勲式に関しては私も他人事ではない。

 小モルトーケ参謀総長が偉大なる叔父上に続いて、二人目となるフュア・メリット大十字星章を拝受するに合わせて、既にしてフュア・メリットを拝受した私には、上級将校にしか許されぬフュア・メリットの付加章たる、柏葉を与えられる運びとなっていたからだ。

 

 

     ◇

 

 

 待ち侘びた元帥位叙任式。私をはじめとする全ての空軍将兵が焦がれた、フォン・エップ上級大将が元帥杖を手にするその瞬間。我々にとって、初の仰ぎ見るべき元帥がお生まれになるその歴史的瞬間を前に、皇帝(カイザー)は厳かに口を開かれた。

 

「空の伝説を帝国にもたらした、偉大なる将をここに帥とする。フォン・エップ。誠、大儀であった」

「勝利を陛下に献上できましたことは、この上なき喜びであります」

 

 恰幅の良い肩を震わせ、涙を湛えながら元帥杖を拝受したフォン・エップ元帥大将は、それを持ち上げて空軍の偉功を示した。割れんばかりの拍手が万の言葉より雄弁な喝采を響かせ、誰もがフォン・エップ元帥大将を祝福したのである。

 そして、他の上級大将一人一人に労いと祝辞をかけられた後、皇帝(カイザー)は次なる英雄達の功を称え、報いるべく招いた。

 ダイヤ付きの白金十字を既に手にしている私や、ルーシー戦役の中でそれを手にしたオステンデ海戦の英雄たるレデラー元帥ならび、此度の式典で元帥大将となられたペーニッツ元帥大将を始め、新たにこの最高戦功章を得る八名の英雄は、ルーシー王国の名代たるザイツェフ親衛隊長や東方諸国の大使から数々の外国勲章を与えられ、全身を眩しいばかりに輝かせていたが、むしろここからが本番だった。

 本来、騎士勲章を拝受する者にしか許されぬ騎士の間を開放し、かのアルビオン伝説たる円卓になぞらえて、私とダールゲを含めた一二名を騎士としたのである。

 

「卿らの勇気、献身、忠義……何れもが、帝国在るまで永遠たる逸話となるであろう。汝ら一同を勲爵士(リッター)に叙すると共に、帝国軍最高の戦功章と、青鷲の勲章を授ける。卿ら皆、騎士としての振る舞いを終生忘れるでないぞ」

 

 跪く全員の頬を厳かに打ち、その首に黄金柏剣ダイヤモンド付白金十字を。左胸ないし、肋や首に各々の階級に応じた功の青鷲勲章が佩され、永遠の安息についたダールゲにも、死後追贈として青鷲勲章と勲爵士(リッター)の称号が贈られた。

 中将たる私は星章を賜り、その勲章の重みと期待に恥じぬ生き様を歩まねばならぬと気を引き締めさせたが、これで終わりはしなかった。

 

「リッター・フォン・デグレチャフ参謀中佐。我が前へ」

「……はっ!」

 

 予定になかった故、僅かに戸惑ったのが見て取れる。戦勝後、多くが一階級の進級を受けた中、一人中佐の肩章のままであるターニャは、やや固くも軍人として泰然とした歩みで前に進み出た。

 

「既にして貴官は、勲爵士の称号を得た身である。その功に報いるに、余は貴官にこれを授けよう。その二つ名に相応しき、輝ける『銀翼』を」

 

 燦然と輝く、ダイヤの散りばめられた柏付き銀翼突撃章が肋に留まる。今日、ターニャ・リッター・フォン・デグレチャフ以外、誰も手にする事を許されていない、守護天使の如くに多くの戦友たちを救った証。

 生涯、否、末代まで語り継がれる確かな誇りの形だった。

 

 

     ◇

 

 

 私と小モルトーケ参謀総長の番に移るより早く、宮中に招かれた人物に移ろう。

 帝国化学者、プリンツ・ファーバー博士は前にも述べた通り、騎士勲章と帝国芸術科学国家賞を下賜され、その名誉はここに回復された。

 そして、フォン・シューゲル主任技師もまたファーバー博士と同じく、帝国への絶大なる貢献故に騎士勲章と帝国芸術科学国家賞を下賜されたが、戦時下における最大の功労者たる筈の、エルマーの姿はここにない。

 我が最愛の弟は国家賞の授与を固辞していたのだ。

 

「私は、破壊のみをもたらしました。たとえそれが、帝国の繁栄と帝室の安寧を導き、愛する家族を守るものであったとしてもです。

 私はいつか、必ずやこの罪を贖うことを確約致します。壊し、殺めた以上のものを帝国にもたらし、世界に貢献することを誓います。栄えある賞は、全てを成し遂げた後に頂きたくあります」

 

 国家賞をこのように固辞したエルマーに対して、フォン・シューゲル主任技師もまた同じく固辞するつもりであった。

 しかし、エルマーはフォン・シューゲル主任技師の手掛けた魔導医療は戦時のみならず、傷痍軍人たちの未来に光明をもたらした偉大な発明であり、戦争の道具ばかりに注力した己とは違うと、国家賞を受け取るよう説諭したのだ。

 

 フォン・シューゲル主任技師は賞を受け取った後、エルマーの言葉と贖いを一日でも早く完遂すべく、二人三脚で動き続けた。

 エルマーが技術中将の職を辞した後、多くの大規模な国家プロジェクトをフォン・シューゲル主任技師と立ち上げたのである。破壊の核をエネルギーとして活用する原子力発電。手足さえも復元するに至った魔導医療。世界初の人工衛星と有人ロケットの開発。

 人類を月にさえ送ったその偉業は、今日でも世界中の人々の知るところであるだろう。

 

 軍としては、暗殺の問題も含めて決して手放せる人材ではなかったが、そこはエルマーも理解していたのだろう。

 先に語った国家プロジェクトも、専門の研究機関を設立し、軍の意向に沿う分野に関しても限定的にではあるが、続けることを契約しての退役であったのだ。

 大規模な予算と人員を投じた核を除き、兵器開発の分野においては、フォン・シューゲル主任技師を除けば人の手を借りようとしなかったエルマーは、これを期に軍用機を始めとする兵器開発から離れた企業が戻ることを期待し、企業に限定的な『助言』を与えるのと同時に、帝国の科学者たちにも置き土産を忘れなかった。

 

「これは私が今を生きている人々と、後世に残す『宿題』です。これらの紙面や情報には、即時有効活用可能なものから、現在の技術では不可能な、しかし科学の発展と共に可能なものも存在します。

 中には、我々が先んじて開発しなければ、他国に先を越されてしまうものもあるでしょう。破壊に用いるのも、或いは違うやり方を見つけるのも貴方方次第ですが、決して損はしないでしょうね」

 

『エルマーの宿題』。弟の死後にそう名付けられたこの情報を纏める作業は生前から進められていたが、未だに全てを解き明かすどころか、纏め上げることさえ現在に至るまで完遂できていない。

 エルマーの研究論文たる『宿題』は、エルマー自身がこれまで手がけたように膨大だが簡潔な、所謂『文字だけの説明書』ではなく、『達成できるかは分からない』書かれている内容の先という、完成形が見通せない代物だった。

 その中で拾い上げられた物もあれば、後一歩のところで特許(パテント)を他国に奪われたものもある。

 

 エルマー・フォン・キッテルは今日も、その逸話も含めて世界中から注目される人物であり、中には弟を専門とした研究家もいるという。

 核という、人に破壊と豊穣の世界を与えるエネルギーの革新者。プロメテウスの火を授けた科学の神。或いは、単なる破壊者だったという者もいる。

 だが、ここまで本著を読んで頂いた読者諸氏にとっては、弟は卓越した科学者であっても、決して未知の、人ならざるモノでも、崇めるような存在でもないことは、承知して頂けると思う。

 エルマーは何処までも人間だった。家族を愛し、それ故に行動し、持てる全ての能力を注ぎ込んだだけの、人としては欠点のある、心優しい人間だったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 ファーバー博士と、フォン・シューゲル主任技師は騎士の間を去った。

 これをもって国家賞の授与式は終わったが、次は私と小モルトーケ参謀総長の番である。国家賞授与式の合間にお色直しを挟み、さしたる時間もかけぬ内、私は再び騎士の間に踏み入った。

 叙勲式はその内容によって参列する人物が変わるため、これ以前に勲章を授与された者が、この場にいるとは限らない。

 

 エルマーに関しては私の弟であるので、父上や母上同様参列することもできたが、国家賞を固辞した手前、この場に並ぶのは不心得だろうと丁重に断っていた。

 初めてフュア・メリットを拝受した時と同様に、居並ぶ官吏や将軍の煌びやかさに目眩がしかけたが、今となれば私もまた将官である以上、あの時のような無様は晒せない。

 まして、参列者の中にはマルタ・サーカス一同やターニャまでいるとなれば尚更だ。

 だが、ここでも私は不測の事態に戸惑い、ターニャのそれ以上に狼狽した。私を待つ皇帝(カイザー)の傍らには、ヴィクトル・ルイス イルドア王太子妃が、若りし頃に新聞で見た、名誉連隊長としての装いで立たれていたからだ。

 

「近くに」

 

 凛とした、鈴の鳴るような声に導かれる。私は一層に居住いを正し、前に出ると同時に踵を鳴らし、礼を取った後に頭を垂れた。

 

「どのような名声や顕職を得ても、あの頃と全く変わりませんのね。キッテル将軍」

「王太子妃殿下は、よりお美しくなられました」

 

 お上手、とかつて私が、不敬にもお慕いしてしまったルイス王太子妃は、あの頃に見た笑顔のような微笑みを浮かべられ、私の胸にイルドア王国の軍事勲章を授けて下さった。

 

「私は、愛する夫と幸せになりました。貴方も、あの可愛らしい淑女を幸せになさい」

 

 言いつつ、僅かにターニャに視線を投げられた後、「貴方もまた幸せになるように」と告げられて、ルイス王太子妃は私から離れた。これ以上はないだろうお言葉を殿下から賜ることの出来た私は、感涙を抑えながらも僅かにターニャを見やる。

 しんと静まる広間であったし、顔を見れば間違いなく聞こえていたと分かった。貴女を必ず幸せにする。私は視線でそう僅かに伝えてから、このサプライズに感謝し、そして皇帝(カイザー)のお言葉を待った。

 

「跪くがよい」

 

 言われるがまま、言の葉に籠もる皇帝(カイザー)の玉音に、私の頭が理解するより早く体と魂がそれに従った。

 肩に乗るキッテル家の宝剣。以前と変わらぬ流れだが、宝剣に付された土地の数は、何とも長く膨大なものだった。一生に一つ、多くとも三つもあれば、それは後の代にとって輝かしい逸話として語り継がれるというのに、私の戦いによって付された土地は、刀身を埋め尽くさんばかりだった。

 

「キッテル家には、新たな剣を下賜せねばなるまいな」

 

 朗らかに皇帝(カイザー)は笑われた後、肩に乗せた剣を鞘に収めると、雷鳴の如くに声を張り上げた。

 

「エドヴァルド・フォン・キッテル歩兵大将!」

「はっ! 御前に!」

 

 万感の思いで、参列していた父上が歩を進める。鞘に収めた宝剣を右手に持ち、ずい、と前に出された皇帝(カイザー)は、それを取るよう父上に示された。

 

「良き子を持ち、育んだ。兵士の父、エドヴァルド。勇者を余の代に与えたばかりでない。余の赤子を世界に恥じぬ精兵に鍛え抜いたこと、感謝するぞ」

「過分なるお言葉を賜りましたこと、終生の誇りと致します。陛下」

 

 滂沱の涙に濡れる父上の、その肩に手を置けたならと。そうしたいと思い悩んだが、父上は私がそれをするより早く身を引き、私に場を譲られてしまった。

 

「次代のフォン・キッテルよ。新たなる剣を汝に下賜する。余が隠れ、時代が変わるとも、その忠勤が変わらず続くこと、勝手ながら期待しても良いか?」

「永久に変わらず。偉大なる祖国ある限り、キッテル家は末代まで帝室と帝国に忠を尽くします」

 

 

     ◇

 

 

 フュア・メリットの柏葉を賜った私は、この後に現れる小モルトーケ参謀総長に道を開けた。帝国の頭脳にして至高の英雄。比類なき偉功に満ち満ちた御仁が、今まさに門の前から現れた事を衛兵が告げられ、視線を向けた瞬間、誰もがその人物に対して、別人ではないのかと我が目を疑った。

 老いなど微塵も感じさせなかった巨躯は、古くなった果実のように萎み、威風堂々たる足取りは余りに慎ましやかで、短いながらに整っていた美髯は白んでいた。

 勇武の相たるその瞳には未だ輝きが宿っているが、肉の厚かった頬はこけて目は落ち窪み、肌さえ灰色に変わってしまわれている。

 実年齢で言えば、これが自然な姿だろうとは誰もが承知するところではあった。だが、それでもこの急激な老け込みようには、私を含めた全員が瞠目せざるを得なかった。

 誰もがお側に駆け寄り、手を差し伸べたくなる。かつて中央参謀本部を肩で風切った、あの英傑を誰もが知るところであった故に、その悲痛さは絶大であった。

 

「ユリウス……、誰ぞ、手を貸してやれ!」

 

 厳粛な場にあって、最も早く気遣い、取り乱されたのは皇帝(カイザー)その人であったが、小モルトーケ参謀総長は駆け寄られた者たちに手を振って制す。

 貴族として厳かで、同時に柔らかな調子でありながら、その手と視線には有無を言わせぬ雰囲気を滲ませている。

 その動作に立ち止まらざるを得なかった者の中には、泣きそうな顔で立ちすくむ、私の婚約者の姿もあった。

 

“終戦から、体調を崩されていたとは聞き及んでいたが”

 

 小モルトーケ参謀総長本人の言として「肩の荷が降りたことで気が緩みすぎたのだろう」と伝え聞いていた。面会は来るまでもないと謝絶され、医師も何も言わなかったが、叙勲式には参加出来ると伺っていた。

 だが、それらは全て虚勢だったのだ。戦時にあっては昼夜を問わず赤小屋に留まり、東部のありとあらゆる戦局に目を光らせ、日夜全軍が瑕疵なく行動できるよう策を練り続けてきたというのは参謀連の誰もが知るところであり、同時に全ての参謀連が、窶れ老いる様を士気に関わるとして口止めされていたと自白したのは、全てが白日の下に晒されてからだった。

 

 小モルトーケ参謀総長は杖が必要だろうと思える足取りでありながら、皇帝(カイザー)の前にあっては無様を晒すまいと背筋を伸ばし、身が萎んで大きくなってしまった軍服を揺らしながら、自らの足で皇帝(カイザー)の前まで進み出た。

 老いれども、痛めども、この身は未だ皇帝(カイザー)の騎士にして宿将なのだと。我が身は未だ倒れぬのだという意を示すことで、皇帝(カイザー)にご安堵頂くために。

 

「済まなかった。余は、お前に甘え尽くしていた」

「良いのです。良いのです、陛下。私めは、本懐を果たしたのです」

「ユリウス。これを受け取ってくれ。お前の功には、叔父君と同じ勲章であっても、余にはなお足りぬと思う。だが、これ以上のものを今はやれぬのだ」

「陛下。お気持ちは嬉しくありますが、それを受け取ることは、私にはできませぬ」

 

 何を言うか。そう怒りでなく、涙ながらに。己を、帝国を支えてくれた忠臣に皇帝(カイザー)は漏らすが、小モルトーケ参謀総長の返答は変わらなかった。

 

「私は、陛下と帝国の名を辱めました。勝利を希求するがあまり、陛下が禁じられた兵器を用い、ばかりかそれ以上の破壊を嬉々として戦争に用いたのです。私は、叔父上のようにはなれませんでした。騎士道の精神に、恥じる行いをしたのです」

「それでも、余は知っている。ユリウス、お前の行動は帝国の為だった。そこに、一切の私欲は無かった。お前は、常日頃から余を困らせた。余がシュリー伯の後継者になれと言った時も無理だとごねた。自分には出来ないと泣きそうな顔をした。

 だが、ユリウスはいつも最後には余の期待に応えてくれた。このような姿になってまで、お前は」

「それが、私の勤めなれば。ああ、ですが、一つだけお許しを。どうか、暇を。先の短い私の代わりは、既に決めております故」

「許す! 如何様な願いでも許そうとも! 長きの忠勤、大儀であった! 療養の後には、余とかつてのように共乗りに出ようぞ!」

「はい、必ず」

 

 崩折れ、腕に抱かれた小モルトーケ参謀総長は、嗄れ切った声でそう誓われる。私はこの時、皇帝(カイザー)と参謀総長のやりとりを見て、ふと古い絵画を連想した。

『伯爵元帥の死』と表されたその絵画は、古プロシャ時代、戦死された伯爵元帥を担架の傍らにて大王が看取られた、七年戦争の一幕を描いたものであり、古き良き帝国軍人が、皆口を揃えてはこれぞ軍人としての本懐だと述べるものだった。

 だが、実際に涙に濡れる皇帝(カイザー)を、そして精根尽き果てた参謀総長を前にした私達にとって、後世に美談とされる一幕の当事者となったことへの喜びなど、誰も微塵にも感じなかっただろう。

 

 現代を生きる心無い者は、これを演出だろうと言う者もいる。しかし、この情景を目の当たりにしたならば、決してそのような言葉は出せない筈だ。

 忠誠故に、身を痛めてもこの場にやってきた小モルトーケ参謀総長を、涙を流される皇帝(カイザー)を。お二人の一語一語が、心を絞ってのものだったと、信じぬ者はどこにもなかったのだから。

 

*1
 中央大戦戦勝式典は、ルーシー王国を中心とした東部各国の復興以降、モスコーにて五年に一度開催されることが通例となった。




『伯爵元帥の死』なる絵画の元ネタは『Death of Field Marshal Schwerin』。
 七年戦争のプラハで倒れたシュヴェリーン元帥の傍らに、フリードリヒ大王が寄り添ってる絵です。ヒンデンブルク大統領もこの絵を飾って「こういう死に方が望ましかった」と仰られたそうです(マンシュタイン元帥自伝より)

以下、名前・地名等の元ネタ
【史実→本作】
【勲章】
 赤鷲勲章→青鷲勲章



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72 ターニャの記録26-幸福の権利

※2020/3/26誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 元帥位叙任式と各位叙勲式に一区切りがついたが、ここで少しばかり時を戻し、私ことターニャ・リッター・フォン・デグレチャフについて語ることをお許し願いたい。

 降伏文書調印に伴う終戦の後、帰国を許された私は、麾下の戦闘団が式典までの間特別休暇を言い渡された中にあって、羽を伸ばすことを許されなかったのである。

 無論のこと、佐官の、それも戦闘団指揮官ともなれば、終戦を迎えたと言ってもすべきことは多い。そこに授与式典の諸々もあれば、休暇などあったところで名目上の仕事漬けになるだろうことも理解はしていたが……。

 

“私とて、癒されたい時もあるのだがな”

 

 来る日も来る日も、ライン以上の地獄の真っ只中を突き進んできたし、心に傷も負った。少しぐらいの休みを貰ってもバチは当たるまい。

 

“まぁ、それもあと少しの辛抱だが”

 

 自分が退役することは、正式に婚約してから軍には伝えていた。当然反発はあったし、各種手続きから後任の任命、引き継ぎ等やることは多い。どれだけ短くとも二年は首輪を付けられるだろうとは予想しているが。

 

「考え直す気は、ないのかね?」

 

 今ならば連隊長の席も空いている。いっそ中央参謀本部で正式に勤務するという手もある等と、フォン・ゼートゥーア大将は声をかけて下さったし、フォン・ルーデルドルフ大将ばかりでなく、前線で苦楽を共にしたフォン・レルゲン准将までもが、私を必要だと仰って下さったが、生憎と答えは変わらない。

 

「閣下。自分が軍に志願した、士官であることは心得ております。私にかけて下さった期待と、これまで受けた教育という恩義も、無論忘れてはおりません。ですが、私はそれらに報いるだけの貢献をしてきたとも、同時に自負しております」

 

 要はいい加減解放してくれと言いたいのである。流石に核まで持った帝国に堂々と喧嘩を売る馬鹿はいないだろうが、それでも魔導師というものは、火消しだの極秘任務に駆り出すには格好のポジションなのだ。

 軍に残ると言ったが最後。後方勤務でのデスクワークなどすぐに帳消しとなって地獄に放り込まれるに決まっているし、そうでなくとも、私は既に栄達に興味を失ってしまったから、答えなど変えようが無かった。

 

「何より、私の婚約者はいい年です。いい加減、落ち着いて貰わねばなりますまい」

「それは、そうなのだろうがな」

 

 そこで言い淀む辺り、所属の違う中央参謀本部といえども、ニコの性根は実によく心得ておられる。我が夫は何故こうまで信用がないのかと再三嘆いてきたが、全て身から出た錆だ。

 

「しかしだな。こういった物言いは宜しからぬと承知しているが、キッテル将軍は結婚を機に変わるような男なのかね?」

「変えさせます」

 

 ぴしゃりと言って、話を区切る。

 私とてニコにもう今後は将官としての仕事に専念すると目の前で言われても、一年も持たない癖にと内心ため息を漏らしたに違いない。だが、私はあの飛行機バカの轡を握る術を既に心得ている。

 

“ニコが泣き落しに弱いのは既にして経験済みだからな。あの手の男を拘束したいのなら、子供を作って『貴方だけの人生じゃないのよ』とでも言えば、ころりと態度を変えてくれるだろう。恒久的に”

 

 斯様に全く婚約者を信用せず、内心地面に縛り付ける計画を練っていたのだが、その予想は良い意味で裏切られた。

 戦後、ニコは将官としての勤めを忠実に、そしてこれ以上ない手腕と実績でもって果たし、今もなお現役将官として職責を果たしている。

 エルマー兄様程でないにせよ、その机仕事の有能ぶりには彼を知らぬ誰もが驚いたというのは有名な話で、エップ元帥大将も後年「フォン・キッテルは平時型の将でこそ最良の人材だ」と漏らしておられたが、その言に誤りのないことは私が保証する。

 優秀でなければ、この齢で将官になどなれる筈もないのだから当然だが、それでも空を飛びたいなどと駄々を捏ねることもなく今日までやってきているというのは、妻となった私としても信じ難かったものである。

 そして、これまで何度となく「飛ぶ気はないのですか?」と私や同僚が問う度、ニコはこう笑って返している。

 

「私はもう、見上げるに留めるさ。愛する妻子を置いてはしゃげる程、無責任ではいられんよ」

 

 個人的には嬉しいが、人前で口にするのは恥ずかしいので止めて欲しかった。

 

 

     ◇

 

 

 その後も軍への残留を望んだ者達の度重なるアプローチを躱し、私は何とか言質を取って、退役の権利を勝ち取った。

 

 おかしい。婚約時点で退役は決定事項であった筈なのに、何故戦後に苦労しているのだ? 終戦したのだから軍縮は必然であり、ハンモックナンバーが一つ空くことを考えれば、むしろ大手を振って私の退役を認めても良い筈だ。

 などと。らしくもない現実逃避は止そう。唯でさえ希少な魔導師の、それも柏付き銀翼持ちの軍大卒など、私が逆の立場なら意地でも手放すものか。

 軍の声掛けは正当な能力評価を得ているという点で嬉しくもあったが、私はキッテル家の一員として夫を支え、将来キッテル夫人と共に領地を切り盛りする為にも、貴族としての最低限の知識と礼法を一日でも早く身につけなくてはならない。

 軍務の片手間や付け焼刃のそれでは、未来の夫や家に恥をかかせてしまう。勿論、ニコやキッテル家の家族は、武門故に私が暫くは軍に残るとしても嫌な顔はすまい。むしろ、応援さえしてくれるだろう。

 ただ、それは甘えというものであるし、何より一日でも早く世継ぎは必要だろう。長男の年齢が年齢なのだから。

 

“勿論、軍には悪いという思いもあったがな”

 

 左肋に輝く、ダイヤモンド柏付き銀翼突撃章に僅かに視線をやる。自分と同じく軍大学において、一二騎士の席次を持つ勲爵士らが大鉄十字や鉄十字星章を賜った中、一人このような勲章を与えられてしまった時の居心地の悪さといったらない。

 軍はこれを知っていて、私を止めようとしたのだろう。その上で広告塔を始め、どのような役割であっても、私が軍に残りさえすればそれだけでも価値があると見込んだのは確実だ。

 

 予備役でも良いから残ってくれ。気が変わったのなら何時でも来いと請われた際のことを思い出し、それぐらいならと今更になって──勲章を貰ったこともあって──気持ちがぐらつきかけたが、私は自分が産んだ子は自分で育てたいという思いもある。

 貴族家庭に限らず、現役の婦人武官ならば子息を乳母に任せることも可能であるし──養育費の一環として国から優遇措置を受けられる──家庭教師も幼い頃から付けるものだろう。

 しかし、キッテル家は代々母が手ずから我が子を育てるものだと手紙で伝えられている以上、感情と義務は一致している。

 予備役勤務といえど、将来産む我が子から離れてしまう時間を考えれば、やはり退役の意思は変えるべきでないだろう。愛情をかけたからといって、必ず出来息子や娘となる訳でないが、愛情もなく育った子が良い大人になる確率は低いものだ。

 

 私のように、捻くれて拗らせた可愛げのない子供になっては目も当てられない。

 

“ニコは、私の選択に何と言うだろうな?”

 

 ちら、と。私は登城したことで、ようやく再会できた婚約者を見る。

 登城したニコの面持ちは厳粛な武人であり、同時に私に声をかけている時ともまた違う、柔らかなイントネーションの中に軍人特有の固さを含ませていた。

 

“使い分けているな”

 

 それは、私と再会できた時点で実感させられたことだ。瞳は喜色に輝きながらも、その表情や仕草は自制を貫いたものであり、私としてもここは笑うのでなく、合わせねばならないということを意識させられた。

 面と向かい、声をかけることも許されないまま進む行事。階級差も相まって、ニコと私は婚約していることが軍事公報や新聞で公にまでなっていながら、それらしい扱いなど一時も味わえず、最後の授与式まで来てしまった。

 

 婚約者の歩む先には、その実年齢より遥かにお若く、お美しいルイス王太子妃。そのご尊顔を拝したニコが、戸惑い故に視線を揺らがせたのを私は見逃さなかった。

 

「近くに」

 

 鈴の響くような、美しい音色。貴顕の持つ美とはこれ程までのものなのかと、実際この目で見て思い知り、知らず私は礼装のストレートズボンの端をぎゅう、と握り締めていた。

 

“恋に落ちるのも、無理からぬことだな”

 

 私が一番だと言ってくれた。愛していると伝えてくれた。だが、女として己とルイス王太子妃を比ぶれば、路傍の石と宝石だと自覚せざるを得ず、婚約者の晴れの席だというのに、私はこの場から逃げ出したくなった。嗚呼、けれど。

 

「貴方も、あの可愛らしい淑女を幸せになさい」

 

 ルイス王太子妃の視線が、僅かに私に向けられた。きっと、先程までの私の感情を見抜かれておいでだったのだろう。

 紅潮する自分の顔を自覚した直後、ニコが私を真摯な瞳で一瞥する。

 

“ああ、分かったとも。だから今は私をこれ以上見るな”

 

 言いたいことは伝わった。もう十分だと私は自分から視線を外して、ニコの叙勲を見届けた。

 

 

     ◇

 

 

 そうして、最後に現れたのは共に共産主義者を打ち砕くと、滅ぼすのだと誓いを立てた、小モルトーケ参謀総長。

 私はあの方の覚悟を、全てを擲たんとする意志の炎を見誤っていた訳ではない。その背を押してしまった以上、不退転の決意を抱かせてしまった以上、このようなお姿になられてしまう事も、十二分に認識出来ていた筈だ。

 小モルトーケ参謀総長は、貴族だ。祖国と帝室の為ならば、我が身の破滅など厭いはしないと。それを承知で断崖の先まで駆けさせたのは、他ならぬ私ではないか。

 だというのに、いざ全てを終えた今になって、私は後悔に胸が締め付けられる。自分以外の人間の痛みを、こうまで感じるようになってしまったこと。それは紛れもない弱さで、同時に人間らしい感情で……そうしたものを知ってしまったのは、与えてくれたのは、婚約者だけでなく、小モルトーケ参謀総長の存在もあったからだ。

 たとえそのきっかけが、私を利用するためのものであったとしても。その一方で、小モルトーケ参謀総長は私を人間にしてくれた。一人の女だったのだと自覚させてくれた。今、こうしてニコと将来添い遂げる間柄になれたのは、間違いなく参謀総長あってのものだ。

 

“だが、私は一人で勝手に幸福になった”

 

 私とて、戦い抜いた。幾度となく敵陣に切り込み、或いは死守し、何時何時(いつなんどき)であろうとも友軍の危機あらばこれを救い、勝利と共産主義の根絶に心血を注いできたとは自負している。

 

“けれどそれは、幸福な明日が前提だった”

 

 私は卑怯だ。他人の魂を、それも、大恩人の命を火にくべておきながら、一人陽の当たる明日を、最大の功労者がもたらした未来を歩もうとしている。

 その罪の重さに押し殺されそうになって、顔を伏せかけた瞬間、広間に声が響き渡った。

 

「誰ぞ、手を貸してやれ!」

 

皇帝(カイザー)の言葉に、矢のように飛び出した。

 

“閣下!”

 

 だが、嗚呼、だが。小モルトーケ参謀総長は私を制す。そして、小さく唇を動かして、私に伝える。

 

 気に病むな。

 

 その一言と視線が、私の体を固まらせる。まだ己には、やるべきことがあるのだと。そう瞳に活力の火を灯し続ける小モルトーケ参謀総長を、私は見守ることしか許されなかった。

 忠誠、誇り、伝統……それらを骨子として歩み、辿り着かれた小モルトーケ参謀総長と、その人生を労われる皇帝(カイザー)

 私には、物語の中の一幕に思えるような、隔絶した世界の出来事。荘厳なオペラのような光景は、けれど唯々痛い時間だった。

 参列する軍人ばかりでない。キッテル夫人を始め、貴婦人らにとっても、この光景は余りに衝撃であり、同時に尊く感じられる一時なのだろう。

 だが、私には辛い。貴顕のように、胸打つ感動の場面を欠片にでも感じられたならば、この苦しみの麻酔となったのかもしれないが、私にはそれが異なる世界に見えてしまって、どうしても直視しきれなかった。

 満足気な小モルトーケ参謀総長も、参謀総長の快復を願う皇帝(カイザー)も。私には余りに痛いから、堪らず視線をニコに移した。

 婚約者の目には、この光景がどう映っているだろう? 誇りか、名誉か、或いは帝室の、祖国の歴史に刻まれる場面の一員となれたことへの感動だろうか?

 いいや、どれも違う。痛く、苦しいのだ。

 貴族として生まれ、騎士道を是とする古き良き軍人たれと育まれた武門の嫡男であったとしても、この光景は耐え難いのだと私は見て知ってしまった。

 どれだけの栄光で誤魔化そうと、未来の名画となる瞬間であろうとも、今そこに生きる者にとって、これは紛れもない『痛み』なのだ。

 そうして、最も近しい人物を観察した後となれば、参列した者達への、先程までの『偏見』も取り払われる。

 彼らもまた、痛みを共有しているのだ。輝かしいまでの栄光を、祖国にもたらした英雄。その功績に値する恩恵は、しかし全てを手にすることは決してできない。

 

 黄金の時代、黄金の帝国(ライヒ)。最良の時代への門を開いた立役者。

 そして……私と世界にとっての大恩人は、死の間際まで戦い抜かれた。

 立てた誓い。己が口にした全てを、決して反故にはしなかったのだ。

 

 

     ◇

 

 

 宮中での式典の後、私には葛藤が生まれた。

 本当にこれで良いのか? 幸せになることは許されるのか?

 モスコーで手にかけた少女の顔が、そして小モルトーケ参謀総長の悲愴な姿が私自身に、そう問いかけずにいられなくなる。

 女としての幸福を得るため。最愛の人と家族になるため、この平和を迎えるために進んできたというのに、一度振り返れば、そこには自分が為してしまった罪ばかりが見えてしまう。

 

 前さえ向けば、そこには確かに約束された栄光がある。胸に散りばめられた無数の輝き。愛する者と、温かな家族との幸福な日々。それはきっと、余人ならば誰もが羨む人生なのだろう。私の人生の前半期は紛れもなく不幸だったが、それを差し引いたところで、ここから続く道はそれ以上のもので舗装されている。

 だからこそ。大きすぎる幸福だからこそ、私は躊躇してしまう。認識票と一緒に通すのでなく、左手に填めた婚約指輪に、どうしても違和感を覚えてしまうように。

 

「探したぞ、デグレチャフ中佐」

「レルゲン閣下」

 

 金の階級章と赤い将官用の襟章に、黄金剣付白金十字を首から下げたフォン・レルゲン少将は、中央参謀本部宿舎でなく、中央参謀本部にて一人書類を片付ける私にそう声かけてきた。

 

「ご進級、おめでとうございます」

「貴官あっての生還だ。前線では、幾度となく救われた」

 

 感謝すると笑みを浮かべられるフォン・レルゲン少将は、ルーシー戦役で随分と変わられた。以前は何処となく、私の功利主義に対しての反感や戦争機械めいた態度に警戒心を抱かれていたようだったが、前線で同じく泥に塗れた為か、相当に態度を軟化されていた。

 

「お互い様であります。閣下の戦闘団なくしては、当戦闘団も相応の被害を免れなかったことでしょう」

「そうだな。だが、互いを称え合うのもここまでとしよう。参謀総長がお呼びだ。執務室まで参り給え」

 

 

     ◇

 

 

「デグレチャフ参謀中佐、レルゲン少将、入ります」

 

 ノックと共に執務室に入れば、そこには叙勲式同様、軍装に身を包まれた小モルトーケ参謀総長の姿がある。病院に戻る前、最後に一度だけ、ここに寄らせて欲しいと運転手に願い出たそうだ。

 

「レルゲン将軍。従卒の真似をさせた事を詫びさせてくれ。余り、特別扱いを知られるのは宜しくなくてな」

「滅相もありません。では、私はこれにて」

 

 踵を打ち鳴らして退室するフォン・レルゲン少将に対して、私は前に進み出る。一体何用なのであろうか? もしや、軍に残るよう説得するために呼ばれたのだろうか?

 だとすれば、私に断る選択肢などない。小モルトーケ参謀総長が、私に祖国に尽くせと命じられたならば、唯々諾々と従うだろう。私には、それを退けるだけの胆力など最早残されてないのだから。

 

「しおらしい顔だ。惚れた男のために、私に直訴しに来た女傑とは思えんな」

 

 呵々と、叙勲式での弱々しい姿などおくびにも出さず、不敵に笑みをこぼすその姿が、一層私を俯かせる。張りも、活力も失われてしまわれた声。細りきった体躯。間近で見れば見るほどに、その姿が御労しく痛ましいから。

 

「……言った筈だぞ。気に病むなと」

「ですが!」

「私がこうなったは、貴官の責とでもいうのかね? 毒を盛られた覚えはないぞ? 不味い食事は三食続いたがね」

 

 やはり赤小屋の食堂は最悪だと、続けて冗談を仰られる。

 

「ふむ。これもイマイチだったか。どうにも冗談は苦手だ。真面目な話をしようか。繰り言だが、私がこうなったのは私の勤め故だ。軍人としての本懐を奪われるのは、本意ではないのだよ」

 

 敵を滅ぼすと誓った。帝国(ライヒ)に黄金の時代をもたらさんともした。帝室の永遠を賭けて戦った。その全てを果たした以上、後悔などないのだと笑って、小モルトーケ参謀総長は咳き込まれた。

 

「閣下!」

「ああ、良い。そう老いぼれのように扱ってくれるな。いや、曾孫程の歳の者に労られるのは、幸福なことなのだろうがな」

 

 荒くなる吐息。喋るのも辛いだろうに、小モルトーケ参謀総長は笑顔を崩さず、お側に寄った私を見つめる。

 

「何度でも言うぞ。気に病むな。貴官は……いや、貴様は幸福であらねばならん」

 

 英雄が勝利の果てに苦しみ、無念の内に倒れるのは神話の世界だけで良い。現実を生きる人間は、その労苦に報いられるべきだと仰られる。

 

「軍に残りたくないのなら、残らねば良い。人並みの幸福が欲しいなら、手にすれば良い。その権利を奪える者など存在せぬし、奪おうとする者は切って捨てれば良い。何よりだ」

 

 そこで、一層深い笑みを私に作られて。

 

「まだ、式の招待状を貰っておらんでな」

 

 死ぬにはまだ早いと、小モルトーケ参謀総長は言う。私は前の時より強く、けれど優しく参謀総長を抱きしめて誓い、願った。

 

「必ず、お送り致します。ですから、どうかその日まで」

「ああ。必ず参るとも。その日まで、壮健で居てやるとも」

 

 約束すると。そう小モルトーケ参謀総長は、私の頭を本当の曾孫にするように撫でられた。

 

 

     ◇

 

 

「少々疲れた。やはり、歳には勝てんな。すまんが、電話をかけさせてくれ」

 

 私がと受話器を取ろうとしたが、小モルトーケ参謀総長は先んじて受話器を取り、医師らが車椅子を運んできた。

 

「閣下、何卒ご自愛下さい」

「言われるまでもない。まだ、陛下と遠乗りもしておらんのだぞ?」

 

 笑いながら車椅子を押され、残された私は、扉の外で待機されていたフォン・レルゲン少将に声をかけられる。

 

「盗み聞くつもりはなかったが」

「構いません。フォン・レルゲン少将には、お手間を取らせました」

 

 入室の時以上に顔を俯かせた私は、きっと泣きそうな顔になっていたと思う。そのような私を気遣ってか、フォン・レルゲン少将は頬をかきながら私に告げた。

 

「私も、近々結婚する予定だ」

「それは……おめでとうございます」

 

 初耳である。確かにニコ同様良い年であったが、浮ついた話も女性の影もないだけに、正直意外であった。

 

「何だその顔は? と、言いたいところだが言わんとするところは分かる。話はあったのだが、開戦で流れてな」

 

 晴れて家庭を持てるというものだとフォン・レルゲン少将は肩を竦めた。ただ、当初の相手は他家に嫁がれてしまった為、一から探す羽目になったそうだが。

 

「お相手は、幸運なことです。閣下ならば円満な家庭を築けましょう」

「貴官も、そう在れることを祈る。ああ、これは社交辞令ではないぞ?」

 

 式の招待状は送る。だから私からも送れと投げるように言って、フォン・レルゲン少将は息を吐いた。

 

「中佐。確かにあの戦争は最悪だった。いや、戦争に良いものなどないのだろうがな。後ろを向いて得るものなどあるまい?」

 

 殺し合い、憎み合うのが戦争だ。そんなものを体験したからとて、当事者になったからとて、それが原因で不幸を背負うのは違うだろうと。

 

「我々は勝てたのだ。素直に恩恵を受け取れば良い」

「まるで、昔の小官のような事を言うのですね?」

「ああ、そうだな。長く現場を経験した身の感想だが、以前の貴官の方が軍人として正しかったのだろう」

 

 私も、随分とすれた男になったものだと。中央参謀本部で染み一つない軍装を纏っていたエリート将校だった方は、泥と雪に塗れ、気疲れだけでない何かを帯びた目で戦場から帰還した。

 この戦争で変わらなかった者など、きっと誰一人としていなかったのだろう。

 

「小官は、変われて良かったと心底感じております」

「私もそう思う。東部でもそうだったが、今の貴官には好感が持てる。何というべきか、ここで貴官を遠目に見るばかりでは『噛み合わなかった』が、前線では違った。貴官は、求めるより先に『応えてくれる』存在だった」

 

 その気など欠片もないのだろうが、まるで告白のようなことを言ってくれる。ああ、件のお相手も、こういった感じに落としたのだろうか?

 罪作りな殿方だと肩を竦めた私に、調子が戻ったことへの安堵半分。悪戯めいた視線への不快感半分といった表情を向けてくる。

 

「何だ、その顔は? いや、良い。どうせ碌でもないことだろう。

 ではな、中佐。誰にとっても人生は一度だ。悔いのない道を選ぶがいい」

「ありがとうございます、閣下」

 

 踵を返すフォン・レルゲン少将を、敬礼と共に見送る。少将の仰ることは尤もだ。どのような人生だろうと、理解の及ばないような運命に巻き込まれたとしても、『どうしてこうなった』などと振り返るような人生は正直御免被りたい。

 

 ……まぁ、嫁ぎ先と相手を考えれば『どうしてこうなった』が付き纏う人生なのだろうが。人生の終わりに笑えるのならば、それもまた思い出として受け入れられるだろう。

 



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73 黄金のライヒ-夜明けの時代

※2020/3/27誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 初日には観兵。翌日には叙任・叙勲と立て続けの式典だったが、ここからは参加者や主催の移動、招待会の準備の為、日を分けて招待会が取り成される。

 四日目の招待会は、帝国各州の諸王が自州の出身たる軍人や、官吏を宮廷や荘園に招いての地域ごとの祭事が。

 最終日たる七日目には、観兵式のような三軍種全体の行進と異なり、戦勝式典の幕引きとして軍功著しい将兵や、中央大戦で指揮官として従軍した皇・王子並び皇・王女らの祝賀行進の儀が行われる予定である。

 私は北東部の片田舎といえどプロシャ出身であり、ターニャもまたベルンの教会に引き取られた私生児たる身の上であるからして、同じくプロシャ王宮の招待会に参加する。

 つまり、移動等の手間がないのに加えて、軍も招待会の合間程度は羽を伸ばす時間を与えてくれた為、一日は晴れて自由の身となった。

 そうなれば私の行く先など決まっているようなもので、中央参謀本部宿舎に電話を入れ、使い慣れた将校鞄でなく、私用の書類鞄を手に赴いた。

 

「このような日まで仕事を?」

 

 身分証を提示した私は衛兵に訊ねられたが、今は軍装でなくスーツに山高帽である。いや、仕事といえば、人生で特に重要な手続きの準備ではあるのだが。

 

「ああ、何。フロイラインをフラウと呼んで頂く為の手続きでね」

 

 ここまで惚気れば問うた相手も察するもので、祝福の言葉を送って私をターニャの元まで案内してくれた。

 私はこの時、ターニャの葛藤や小モルトーケ参謀総長との会話など知る由もなかったが、それでも妙に気を張っていて、けれど何処か肩の荷を下ろしたようなターニャの表情に、知らず何かあったかを問うた。

 既にして従卒の役を買って出てくれた衛兵は空気を読んで足早に去ってくれており、ターニャはこれまで胸に抱えていたものを吐き出してくれた。

 幸福となる権利に対する逡巡。自らの正義や義務の為、他の正義を退けねばならない軍人としての責務は、確かに勝者たる立場になった後にも、人生の重しとなるのは判る。

 尤も、だからとて婚約者が幸福を手放すことを、良しとするような私ではない。

 

「ターニャ。貴女が嫌だと言おうと、私は貴女を幸福にする」

 

 人生に背負い難い重みがあるなら、少しでも多くをこちらが背負うし、その分持ちたくないという幸福を強引に受け取らせる。身勝手なと叫ばれたとて、私はそれを止める気は更々なかった。

 

「それとも、私は相応しくないと思っておいでかな? レルゲン将軍の方が、私より殿御として魅力的だろうか?」

 

 努めて冗談だと分かるよう軽く振舞ってみせたものの、前半はともかく、後半は私の心に不安があってのものだった。話を聞くに、ターニャとフォン・レルゲン少将は東部では幾度となく互いを支え、助け合い、友誼を結んだ戦友だったという。

 フォン・レルゲン少将を語るターニャの口調は軽やかで、正直私は、ターニャが幸福の権利云々を打ち明けた以上に、そちらの方が心の不安の割合を占めていた。

 小さい男だと、読者諸氏は笑ってくれて良い。私には、ターニャが他の男のところに行ってしまうのが、それほど恐ろしかったのだ。

 

 ルーシー戦役から式典の日まで会うことの出来なかったターニャは、今年で一五。すらりと手足を伸ばし、大人びた顔つきは以前にも増して女性らしい美しさを帯びていた。貴族のみならず、市井の子女としても適齢期であるだけに、私には焦りもあったのだと思う。

 フォン・レルゲン少将とは然程の面識はなかったが、貴公子然とした理知的な外貌といい、上品な物腰といい、記憶から思い返せば返すほど、同性としても非の打ちどころのない御仁であり、その英明ぶりは、私としても舌を巻かざるを得ないものだった。

 

 フォン・レルゲン少将は、中尉までは他の将校同様現場勤務をこなしていたが、軍大学を卒業して連合王国の駐在武官を勤めた後は、帝国軍人にとっての最高のステイタスである赤いラインの入ったズボン*1を履いて栄達を重ね、前線に立てば、戦闘団を率いて輝かしい勲功に満たされる。

 

『参謀将校は無名なれ』。後に小モルトーケ参謀総長の後釜に座ることとなるフォン・ゼートゥーア上級大将は、小モルトーケ前参謀総長の権風に歯止めをかけるべく、これを徹底させたが、大戦前までのフォン・レルゲン少将は、正にこの言葉に相応しい御仁だったのだろう。

 ルーシー戦役の剣林弾雨を進むまでの、参謀将校としてのフォン・レルゲン少将は爪を隠し続けた猛禽であり、堅実に実務をこなす縁の下の人物であったのだ。

 天に二物も三物も与えられた傑物と己を比ぶれば、果たしてどちらが相応しいか。そうした不安が、鎌首をもたげて大きくなってくる。

 

 勿論、既にしてターニャが私と婚約していることは周知のことであるし、フォン・レルゲン少将とて、敢えて揉め事となるような対象を生涯のパートナーに選ぼうとは思わないだろうということは、冷静に考えれば分かることだ。

 だが、もし。もしもフォン・レルゲン少将にその気が有ったとしたら?

 恋愛である以上、そして家同士の付き合いでもない以上、そこにあるのは純粋な当人の意思である。

 仮にターニャの心が私から離れているのなら、何としてでも彼女を振り向かせようと躍起になったに違いないが、それでも私よりフォン・レルゲン少将を選ばれたのならば、諦めの悪い私だから、きっとフォン・レルゲン少将に手袋を投げつけた(決闘を挑んだ)かもしれない程度には、婚約者の心の傾き加減に敏感だった。

 頼むから違うと、そのような気はないという思いを口にして欲しいと、私は心の内で乞うていた。それだけに、告げられた言葉には雷を受けたような衝撃が走ったものである。

 

「そうですね。確かに、レルゲン閣下は素敵な方でありました」

 

 私は全身を石のように強張らせた直後、視線を右往左往させて狼狽えるばかりだった。

 今、こうして筆を執って回顧する段になれば、自分が妻に遊ばれていたのだと否応なく理解できるし、面白い程に動揺するものだから、きっとターニャにしてみれば見ていて楽しかったのだろう。

 ……私からすれば、この世の終わりのような気持ちで、堪ったものではなかったが。

 

「冗談ですよ!」

 

 笑いを堪えるのに耐えかねたのか、ターニャは顔を強張らせた私を大笑いした。心臓に悪いどころではない。深刻な不安に駆られていた私は、安堵から深々と息を吐いて、九死に一生を得たような心地で肘掛け椅子に深く身を沈めた。

 

「脅かさないでくれ。貴女の心が離れるなど、私には堪え難い」

「私も、ニコ様から女性捕虜の件を手紙で伺ったときは、そのような思いでしたよ?」

 

 ああ、成程。確かに逆の立場なら相当に堪える。私個人としては誠意のつもりで送った手紙であっても、待つ側であれば気が気ではあるまい。

 尤も、隠し立てしたところで確実に露見していたであろうから、過去に戻ってやり直したいなどとは露とも思わないが。

 

「申し訳なかった。謝罪を受け入れて貰えるだろうか?」

「言葉とは、違う形でお願い致します」

 

 一体どうすれば良いのだろうか? まかり間違っても、金銭や物品などという俗な願いでないことぐらいは、ターニャの目を見れば分かる。

 なら、他に差し出せるものはあるかと問われれば、今の私には一つしかあるまい。

 

「私の、残る人生の全てを捧げさせて欲しい」

 

 鞄から婚姻届を取り出す。帝国法において婚姻手続きに関する書類は発行から半年以内のものでなければならない為、戦時下では事前に準備が出来なかったが、終戦と共に私は故郷の役場に書類を郵送して貰えるようかけ合っていたので、こうして今日ターニャに手渡すことが出来た。

 既にして私の欄は全て記入しており、あとはターニャが書いた後に、彼女の出生証明を始めとする各種書類を取り寄せ、改めて役場に二人で届け出てから受付で手続きを済ませれば、法の上では晴れて夫婦となる。

 私はきっと喜んでくれるだろうと満面の笑みを浮かべていたが、ターニャは気まずげに呟く。

 

「……その、大変喜ばしい内容ではあるのですが」

「……すまない」

 

 想像していたものと違ったのだろう。私もまた気まずさから、咳払いをして謝した。遅まきながら、ターニャの為の行動の筈が、自分の願望が出てしまっていたと気付けたからだ。自分の行いを客観的に振り返れば、身勝手な上に重い男だった。

 

「い、いえ。夫婦となることに否はありませんし、嬉しくもあります。ただ、それより先にすべき事があるのではありませんか?」

 

 すべき事と問われ、私は僅かに考する。告白は既にしているし、口付けも済ませた身だ。まかり間違っても婚前交渉など相手も私も求めていないし、既成事実を作らねばならない間柄でもない。いや、フォン・レルゲン少将がターニャを射止めたいという動きがあったならば、たとえ信徒の法に逆らってでも彼女を押し倒したやも知れないが。

 そこまで考えて、私は自分が忘れていることに気付けた。いや、本心から言えば、私はターニャと再会した瞬間に、それをしたいと思っていた。

 しかし、東部から戻って再会したのは式典のさ中であり、当然ながらそのような行為に及べる空気でなかったから、自重せざるを得なかったのだ。

 

「捕虜の件で送った便りの通り、貴女に謝罪させて欲しい。私は聡明な貴女に甘え、貴女の心を乱した。捕虜といえど、いや、拒否権のない女人を側に置くなど恥ずべき行いだった」

「謝罪を受け入れます。捕虜の件に関しては、決して不義を働いた訳ではないのでしょう?」

 

 そうなら絶対に許さないと、視線だけで百は殺められそうな圧を感じたものの、私は一人の男として不義も不実も働いてはいない。それだけはターニャに心から誓えるものだ。

 

「ならば構いません。ニコ様が未だ清い身で、誠実であられるなら、これ以上は申しません」

「ありがとう。抱きしめても良いだろうか?」

「勿論です。ずっと、待っていたのですよ?」

 

 細い、一輪の茎のような腰に手を回す。手折れぬよう繊細に。けれど、確かに熱を持って捕らえ、離すまいと静かに見つめる。

 

「ターニャ、貴女を愛している。私は余人を女性として愛することは決してしない。たとえ、死が二人を分かつとしても」

「信じます。私も、ニコ様以外の殿御を愛することは生涯致しません」

 

 左の手で以前より柔らかくなったと思う髪を梳き、そのまま林檎のように赤らんだターニャの頬に触れて一撫ですると、そのままおとがいに指を運ぶ。

 ぴくっ、と。微かに強ばらせた表情と、そこから先を想像して潤んだ瞳。年頃らしい愛くるしい仕草に、私も思わず胸が高鳴るのを感じつつ薄紅色の唇に運んだ。

 柔らかな感触。近づかねば分からない程に仄かな甘い香り。時間にすれば短いが、その余韻を確かに感じながら、私は唇を離した。

 

 

     ◇

 

 

 手持ちの書類には瑕疵なく記入できたものの、身元の証明等細かな手続きには時間がかかるため、その間は地元での結婚式の打ち合わせなどに時間を注ぎ込むこととなる。

 とはいえ、既に戦時中に幾度となく式に向けてのやりとりは行っているし、衣装に関しても仕立て屋には連絡している。

 あとはターニャを連れて採寸と細かな注文を決め、幾つかの業者にも準備の連絡を日取りに合わせて行えば良いと考えていたのだが、四日目の招待会の最中、これらの計画が潰されかねない事態が発生した。

 宣伝局の面々が、私とターニャの結婚式を記事にしたいので、出席させて欲しいと申し出てきたのである。

 

 勿論、帝国人にとって結婚式とは──皇・王族のように大々的に喧伝するものを除けば──身内や親しい間柄の者で執り行われる場であるし、新郎新婦が自分たちの手で作る思い出であるから、費用だの何だのといった負担を肩代わりされたところで嬉しいものではない。むしろ不愉快でさえあったので、はじめは丁重に断った。

 しかし、相手も中々に質が悪いもので、一向に折れてくれない。招待会の席であった為に怒鳴りつける訳にも行かず、私もターニャも辟易したが、最終的には撮影と、後日のコメントだけは許した。

 話題作りというのは分かるが、式の報道などというものは俳優の世界に限って頂きたいものである。

 折角の王宮内での招待会であり、穏やかな空気の漂う空間だったというのに台無しではないか。そう思いつつ私はワインを口に含んでいたが、結婚式という話題が出た途端、あちこちで是非招待状を送って欲しいという声がかかってきた。

 勿論、私は親しい間柄に限らず、今日まで少なからず面識のあった方々には招待状を送り、出欠の確認を取ってから相応の場を用意するつもりではあったが、それにしてもなんとも数の多いものだったと覚えている。

 お声かけ下さった中には近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)時代に大変な恩義を受けた、あのベルトゥス皇太子さえおられたから私は面食らったものであるし、軍務を除けば決して声などかけようのない貴顕の方々も詰め寄ってくるものだから、私もターニャも心休まる時間が全くなかった。

 

 功労ある軍人を労わる王宮の祭事にあって、献身に努めてくれたターニャに気疲れなど起こさず、気持ちよく身体を伸ばして欲しかった私は一旦彼女から離れて貰い、彼らには可能な限り便宜を図ることを確約して納得して頂いた。

 ただ、実生活において清貧を尊ぶキッテル家の結婚式であるから、そう派手なものは期待しないで欲しいということを念押ししたが、それでも招待客の規模を考えれば、かなりの割合で計画を練り直さなければならなかったのは語るまでもないことだろう。

 

 

     ◇

 

 

 王宮での招待会は絢爛華麗の粋を尽くしたものであり、目も眩む場ではあったが、ここに来て美酒美食を語るのも如何なものかと思うし、新たに人生で長く付き合うこととなるような相手との出会いもなかったため、省略させて頂きたくある。

 

 王宮内での招待会から七日目の祝賀行進の儀までの間は、各州から再度参加者が集まるための準備期間であるため、私とターニャは再び自由な時間を得た。

 この三日は互いの今後について話したり、或いは純粋に婚約者らしい逢引を楽しんだものだが、彼女が軍を正式に退役すると告白したことには、私も少なからぬ衝撃を受けたものである。

 戦時下でも手紙の中でターニャの意思を知ってはいたものの、正直なところ半信半疑であったし、特に、私やキッテル家のためにも良妻賢母として家庭を守りたいとはっきり伝えてくれたことは、感涙と同時に当惑もした。

 あれほどまでの戦いをくぐり抜け、ようやく栄達の道を本格的に邁進できるという段になっての退役だ。大規模かつ長期の戦争を終えた帝国は、今後軍縮を余儀なくされるとしても、間違いなくターニャは将官の座を掴めたであろう。

 もしやすれば、私やキッテル家がターニャの人生を縛ってしまったのではないか?

 軍という場所が、彼女の出自ゆえの、社会的制約の中での選択であったのと同様に、私との婚約が彼女自身を縛ってしまったのではないかと訊ねずいられなかったが、彼女はそれを笑って否定した。

 

「いいえ。私はようやく、自分で選べましたよ?」

 

 一日でも早く結婚し、私を支え、子を生し、育てたいというターニャの決心。その発露の一つ一つが私の胸を満たして止まず、だからこそ私は、生涯の全てを、この献身的な少女に相応しい男性であるために努めたいと一層愛を深めた。

 この時ほど、遠くない結婚式が待ち遠しいと感じたことはなかったものである。

 

 

     ◇

 

 

 式典最終日たる祝賀行進においては、私は凱旋用のオープンカーに乗っての参加となった。初日の観兵式で空から見た時も熱気が伝わる程だったが、こうしていざ渦中の人となれば、その割れんばかりの歓声が全身に叩きつけられ、熱に飲まれそうなほどだった。

 

 近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)の礼装に、まるで鎧を纏っているかのように重みある勲章を佩する私は、当時の、そして本著を出版するまでの間は帝国騎士を体現する人物と見られており、こうして読者諸氏に偽らざる己の姿を見せるまでは、余人にとっての私は物静かだが愛国心に溢れる貴族らしい貴族であったろうし、そうあるべく努めてもいたから、気圧されていることなど決して表には出せなかった。

 微笑を湛えて泰然と立ち、時に敬礼を、時に優雅に一礼しつつ、帝国臣民やこの場に集まられた義勇軍将兵の家族らに手を振り応える。

 そして、初日で分列行進を行う兵士らがそうしたように、私もまた車が停まり、自らの足で石畳を踏めば、道すがら少年少女から渡される帝国国旗を巻かれた花束を受け取っては名前を聞き、感謝の言葉を述べて別れた。

 そうして壇上に上がれば、陸軍はサラマンダー戦闘団の筆頭たる第二〇三航空魔導大隊や大ライヒ(GroßReich)師団から始まり、海・空もまたUボート隊や航空団から階級を問わず選りすぐられた面々が立ち、各々がここに集う全ての者から万雷の拍手と祝福を受けた。

 三軍種の英雄が一堂に会する中、この式典の締め括りとして、プロシャ州首相を兼任する帝国宰相がスピーチを行った。

 

「我々は、未曽有の侵略と数多の困難を、八月一日に乗り越えることが出来ました。それは、ここに集う英雄たちの、そして祖国から離れた地で命を落とした勇者たちの魂が成し得た、帝国史上に類を見ない、輝かしい勝利の歴史の一ページとなるでしょう。

 無論のこと、それは将兵のみの手で果たされたものではありません。全ての帝国国民が、我々の戦いが正しいものだと賛同してくれた他国が、そして、不当な圧政に立ち上がり、独立を掴まんとした一人一人を支える銃後の声が、活動家の支援があってこそ、今日という日に至れたのだと信じています。

 皆さん、ようやく戦いが終わりました。我々は勝利したのです。長い時間と、命を犠牲にして掴んだこの勝利を輝かしいものと、最良の時代だと言う者もいます。

 ですが、我々の時代はここから始まるのです。流された血に、失われた命に見合う輝かしい時代を、侵略に立ち向かい続けた夜明けたるこの先を、共に歩みましょう。

 世界に冠たる、黄金のライヒ。黄金の時代を切り拓きましょう。

 母は子を、妻は夫を戦いで喪うのでなく、子供の成長を見守り、支えるべき家族のために仕事から戻る夫を抱きしめ、次の世代に託せるような、幸福な世界を実現して行きましょう。

 そして、時代を託した勇者たちと平和に感謝し、短い祈りを捧げましょう。

 この場に集われた英雄たちと共に」

 

 厳かな黙祷。この場に集う者一人一人が、各々の想いを胸に今日という日を感じ、振り返り祈りを捧げる。それは、私もまた例外でない。

 マルクル中佐に。ダールゲ少将に。ファメルーンから今日まで出会い、いと高き所に旅立った全ての戦友に。シェスドゥープ親衛中佐をはじめ、偉大なる敵であった全ての将兵に。

 犠牲となった無辜の民に。今日という日まで耐え忍んできた、銃後の鑑たる方々に。

 私もまた、感謝と哀悼の意を捧げたのだった。

 

*1
 参謀本部付きとなった将校は、赤線の入ったズボンを着用する規定。




中央大陸 各国勢力図 1928年【帝国戦勝後】
【挿絵表示】


 成し遂げたぜ(黄金のライヒルート)


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74 結婚式-人生最良の儀式

※2020/6/10誤字修正。
 佐藤東沙さま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 戦勝式典が終わり、一つの時代にようやく区切りはついた。

 戦乱と艱難を乗り切り、戦後という新たな時代を生きる多くと同じように、私もまた一つの契約を結ぶことで、次の時代を歩むとしよう。

 

「ようやく、この日が来ましたね」

「ああ。幸せだと感じている」

 

 故郷の戸籍局で笑い合い、指輪を交換する。手続きの事であるから互いに正装ではなかったが、それでも私たちにとってお互いの姿は何処までも眩しく、愛しいものに思えてならなかった。

 

「おめでとう、ご両人」

 

 婚姻手続きを終えれば、寿ぎつつ父上が肩を叩かれる。手続き後の初日は近親者のみの集まりであるから本当に慎ましいもので、シャンパンを振る舞い、乾杯と記念撮影を行うに留めたものの、母上や姉上はターニャを常に持ち上げて止まなかった。

 皆、軍を辞してまで私を支える道を選んでくれたターニャに、涙さえ流すほど感謝したのだ。

 

「ニコには勿体無いお嫁さんね」

「本当。我が弟も、よくこんな子を捕まえられたものだわ!」

 

 そこは私とて弁えている。ターニャのような女性に出会えたことは、私の人生の中でもこれ以上ないほどの幸運だったし、結婚まで果たせたのだから、私は誰よりも幸福な男なのだろう。

 

「エルマー、お前も一緒に祝ってくれないか?」

「宜しいのですか? 私は、家の恥です」

 

 壁の花となるばかりのエルマーは、そう言って辞そうとするが、父上は強引に肩を掴んで正面から見据えた。

 

「エルマー、お前の作った兵器は確かに多くを壊した。だがな、お前がそれ以上のものを作ると誓いを立てたことを、信じぬ者はこの場には居らん。忘れるな? ここにいる皆、お前を愛しているのだ」

 

 静かに泣くエルマーに、皆穏やかな目で笑う。そして、記念撮影の段となると、私はエルマーを強引に腕を掴んで写真の枠に入れた。ターニャもまた「昔の私の方が、ずっと恥ですよ」と笑い、エルマーと腕組んで写真を撮った。

 

 

     ◇

 

 

 そうして手続きと身内の集まりを終えれば、次に待つのは本格的な結婚式である。

 私とターニャは式の前夜、帝国での伝統的な慣習である皿割り(◆1)を行いながら、次の日が待ち遠しいと笑い合ったものだが、いざ当日ともなると、私もターニャも緊張から身を固めていたもので、召し替えの最中も同じようにそわそわとしていたと、後になって色直しを手伝ってくれた姉上やエルマーから笑って聞かされた。

 

 私もターニャも、軍装でなくタキシードとウェディングドレスを纏っての挙式である。

 ターニャははじめ、軍装でも構わないと言っていたが、晴れの日にまで武骨な軍装というのは如何なものかと思うし、家族はエルマーを含む皆がターニャのドレス姿を見たがっていたから、私は強引に彼女を仕立て屋まで連れていき、本人や店の主人の意見を聞きつつドレスを注文した。

 帝国の挙式では、花嫁は髪を飾り付けるものだが、当日のターニャは、敢えて髪を慎ましく結い上げていた。一人前になった淑女は、そうするのが古き良き習わしだからだ。

 齢よりずっと落ち着いた飾り気のないウェディングドレスと髪型だが、それを似合わないと口にする者は何処にもない。

 

 ターニャから副官にして親友だと紹介されたセレブリャコーフ少佐(一九二八年、八月進級)もターニャの姿に目を奪われていたし、ターニャを軍事公報や新聞などでしか知る機会のなかった空軍将兵らも、その容姿にため息など漏らしていたほどだが、それも長くは続かない。

 何しろ、衰弱された身を押してまで、招待客としてお越し下さった小モルトーケ参謀総長が、私生児であるターニャの父親代わりに、隣に立ちバージンロードを歩かれていたからだ。

 父上などはターニャの義父として歩く権利もあろうと息巻いていたから、この唐突な、そして飛び切りの申し出に肩を落としつつも、嬉しげなターニャの顔を見ては引き下がるしかなかった。

 小モルトーケ夫人も招待客として参列なさっており、挨拶がてら、私と父上に対してバージンロードの件を前もって謝罪して下さった。

 

「主人がご無理を申してしまいましたね。どうかお許し下さい。あの人、あの愛らしい花嫁が、幸せになるところを見たがっておりましたの」

 

 まるで、本当の娘のようにターニャを思っていたという。既にして曾孫さえ居られる小モルトーケ御夫妻だが、夫のそれは娘を送り出した時と、同じほどの祝福ぶりだと夫人は語られる。

 

「多分、長くないからなのでしょうね」

 

 思い出を多く作りたいのだろうと。小モルトーケ夫人がやせ細った夫の姿と、そこから先、送る日々を見守る中で出した答えを耳にして父上は静かに頷き、私は応えた。

 

「この式が、御夫妻の良き思い出になれば幸いです」

「なりますとも。けれど、私達以上に、お婿様が花嫁と楽しんで下さいましね? 真の主役は、新郎新婦なのですから」

 

 

     ◇

 

 

 身廊を真っ直ぐに進むと、聖母像を後ろに控える司祭が私達に問う。

 私は、善き夫として在れるか? ターニャは、善き妻として在れるか?

 私達は跪き、誓い、戸籍局でしたように指輪を交換して、口付けを交わした。

 厳粛な場であるから歓声など上がりようもなかったが、それでも空気が高揚しているのを、私もターニャも感じ取っていた。

 恥じらいを隠し、腕を組んで礼拝堂から出れば、吹雪のようなライス(◆2)が空から撒かれている。魔導大隊の面々が、軍務でもないのに演算宝珠を起動したのだが、それを咎める者は何処にもない。

 昼間だというのに空には高らかにフォン・シューゲル主任技師が手ずから作成した花火を打ち上げ、私達のことを心から祝ってくれた。

 ターニャは「招待もしていないのに」と漏らしたが、私が招待状を書いたと白状した。

 ターニャに対する非人道的実験の数々は本人から聞いていたし、「奴だけは絶対に許さない」とも言われたが、主任技師はエルマーの唯一の親友であるし、何より謝罪の機会が欲しいとも前々からエルマーに乞われていたから、こっそりと送ったと告げると、思い切り深くターニャはため息を吐いて、私を許した。

 

「晴れの席ですから、今日ばかりは目をつむります……ですが、これまでのことは絶対に許しません」

「構わないとも、私のしたことを思えば当然だ。だが、祝福ぐらいはさせてくれたまえ! おめでとうご両人! 主もフラウ・ターニャの姿には驚かれておいでだが、お二方の愛が真実にして永遠だとも確信しておられる! 天使たちも輪になって讃美歌を響かせているぞ!」

「ドクトルー……一度エルマー兄様に、脳と眼球の検査を依頼した方がいいのでは?」

 

 と、ぞんざいに扱うターニャに代わり、私はエルマーの親友にして、多くの傷痍軍人が戦後には失った手足や、異常をきたした精神さえ取り戻して復帰できた偉大な発明家に、本心から礼を述べる。

 花嫁の件は私も許せはしないが、それでも多くの帝国人が、そして今日では世界中の人々がフォン・シューゲル主任技師のおかげで救われたのは、紛れもない事実なのだから。

 

 そうして道を進めば、招待した将兵が分列行進の後に剣のアーチを作り、その中を潜って純白のリボンを付けた馬車に向かうと、なんと御者を務めるのはベルトゥス皇太子ではないか!

 

「殿下、そのような……!」

 

 私は膝をついて諫言しようとしたが、ベルトゥス皇太子は「私では不足だというのかね?」と面白くない顔を──冗談だとは承知しているが──されてしまった為、私は委縮しながら折れざるを得なかった。

 ターニャも私ほどではないが緊張の面持ちであったし、既にして会場に招かれていた貴顕の面々なども、御者の正装に身を包んで新郎新婦を運ばれたベルトゥス皇太子の姿に、目を丸くして息を呑んでいた。

 

「有名人にあやかろうとする者共の、面白い顔が見れたな?」

 

 お前も溜飲が少しは下がったかね? とベルトゥス皇太子は私に笑いかけるが、彼らより私の方が顔を青くしてしまっていた。

 披露宴会場に着くまで、市井の人々が新郎新婦たる私達に手を振り、祝福してくれたが、私もターニャも引き攣った顔でぎこちなく手を振っていたから、皆首を傾げていたものである。

 知己たる近衛槍騎兵(ガルデ・ウラーネン)の面々も「なんと贅沢な送迎ではないか!」「うらやましい事よ」と笑ったが、では逆の立場となりたいかと真顔で問えば、誰もが丁重に断った。

 ベルトゥス皇太子も「遊びが過ぎたな」と笑い、更衣室でお召し替えを済まされた後に列席されたため、私は新郎として招待客に挨拶の辞を執り行い、披露宴を開始した。

 本来ならば慎ましやかな披露宴となるはずだったが、貴顕の招待客らは気を利かせ、祝儀と別に酒精や料理を持ち込んだばかりか楽団まで引き連れており、随分と華美な饗宴となってしまったのは、今でも覚えている。

 

 披露宴の幕開けに相応しい、耳に心地よいウェディングワルツが流れれば、私はターニャの手を取って、確と抱き合って回ってみせた。本格的なダンスは士官学校以来だとターニャは謙遜していたが、作法も間合いの取り方も完璧なもので、相当に研鑽を積んだものだとは、手に取るように分かった。

 

「軽やかなものだな」

「ワルツ以外は未だ拙いものですが、他も、いずれ完璧に仕上げて御覧に入れます」

 

 この言葉に嘘はない。今の妻であれば、どんなダンスでも完璧以上にこなせるのだ。

 

 

     ◇

 

 

 新郎新婦が初めにウェディングワルツを披露すれば、次は各々が踊り明かす。妻子がいる場合は招待客が連れ立つもので、私は貴顕の子女や女性武官らと踊りつつ、招待客への挨拶も合間に挟んでいたが、その中にはフォン・レルゲン少将の姿もあった。

 勿論、ターニャがフォン・レルゲン少将を招待したい旨を伝えてきたときは快く受け入れたし、彼が婚約者も同伴させるだろうと告げた際には大変素晴らしいと喜んだ。現金なものだが、恋敵になりえない以上、無理に遠ざける理由はないからだ。

 

 しかしだ。やはりこの男、私の花嫁に気が有ったのではなかろうか?

 

 そう訝しんでしまうほど、フォン・レルゲン少将が婚約者として同伴させてきた少女には、私もターニャもじとりとした視線を向けざるを得なかった。

 

「ハンナ・フォン・ゼートゥーアでございます。フォン・キッテルご夫妻のお招きに与りましたこと、心から感謝申し上げますわ」

 

 スカートを持ち上げて優雅にお辞儀する人形のような少女は、鈍色の金髪に色素の薄い瞳。白磁の肌と、ターニャの持ち得る要素を詰め込んだような少女であったし、彼女の年の頃は九程と、どう見ても私の花嫁よりも若かった。

 

「フォン・ゼートゥーアということは、参謀次長閣下の?」

「左様でございますわ、奥方様。私は末孫に当たりますの。御爺様もお伺いしたかったそうなのですけれど、お役目柄どうしても伺えず、私が代理の立場も兼ねて出席致しましたの」

 

 ハンナという名も、フォン・ゼートゥーア大将のファーストネームであるハンスから取ったものであるとの事だ。私とターニャがフォン・レルゲン少将との馴れ初めを伺えば、フロイライン・ゼートゥーアは花開くような笑顔で答えた。

 

「御爺様から、相応しいお相手だと告げられての出会いでしたが、エーリッヒ様は本当にご立派な紳士でございましたわ」

 

 育ちの良さや気品が滲み出る少女である。年齢にしたところで、貴族であれば別段珍しい組み合わせでもない。

 私を前にすらすらと淀みなく応える少女は、確かに将来フォン・レルゲン少将に相応しい妻として在れるだろう。だが、如何せんその見目故に邪推せざるを得ない私は、このターニャに似た少女から少しばかり婚約者を借り受けたい旨を申し出た。

 

「フロイライン・ゼートゥーア。少々、レルゲン将軍と話しても?」

「勿論ですわ。私も、奥方様と歓談しても宜しいでしょうか?」

 

 私もターニャも、快くフロイライン・ゼートゥーアに頷いた。私は短くターニャに目配せし、ターニャも頷く。フォン・レルゲン少将を問い質す為だ。

 フォン・レルゲン少将も私の胸中を察してか、特に抵抗する素振りもなく、遠巻きにあってから口を開いた。

 

「キッテル将軍の言わんとしている事は察しております。ですが、世には偶然というものもあるものです」

「そうだな。ところで、煙草は如何かな? 私はもう喫わないと花嫁に誓っていてね」

 

 シガレットケースを開け、招待客用に持参した紙巻を勧めるが、フォン・レルゲン少将はそれを断った。婚約者が口にしないまでも苦手だと察して以来、きっぱりと絶ったそうだ。そうしたところもかと、私はターニャとフロイライン・ゼートゥーアとの共通点に、眉間に皺を寄せずにいられなかった。

 

「腹を割ろう。私の花嫁に酷似しているからという理由だけで、斯様に健気な少女を婚約者にしたのかね?」

 

 女性を代替品として見るようなら、それは他人の婚約者に懸想する以上に破廉恥な行為である。であるならば、今すぐにでも決闘を申し付けることも辞さないが、まさかとフォン・レルゲン少将は肩を竦めた。

 

「本音を申し上げれば、奥方に惹かれていたのは否定しません。ですが、あれを妻にしたいと思ったのは、ハンナが私を愛していると理解したからです」

 

 ターニャとは東部で共に背を預け、砂を噛み、泥を啜った仲である。

 軍という世界の中で、駐在武官となって以降は前線を離れて久しい後方勤務故に初めはターニャの功利主義や独断専行ぶりの理解に苦しめられたこともあったが、長く砲火で鍛え直されれば、そうした価値観も一変するには十分であったそうだ。

 

「いや、これらはデグレチャフ中佐に理解を得てからのことでしたな。実際のところは、キッテル将軍が行方知れずとなってからの、人並みなデグレチャフ中佐を知ってからです」

 

 錆銀としてでない、少女としてのターニャを見た。戦争が、社会が生んだ悪魔のような存在でなく、彼女もまた只の少女だったのだと思い知ったという。

 

「ですから、そのような少女だと知ったからこそ、和解出来ましたし魅力も覚えました。ですがそれは、私以外の男性がいたからこその変化であり、その男性がいたからこそ感じられた愛おしさでもありました」

 

 だからこそ、初めから隣に立とうなどと思わなかった。幸せになろうとするターニャを見て、波乱の時代にあった中でも、人並みの恋ぐらいはしようと思う程度だったという。

 

「縁談の相手は家にも、私の将来にも理想的でありました。ですが、ハンナが私を愛せないのであれば、私は首を縦には振らなかったでしょう」

 

 だから、これは本当に偶然だったとフォン・レルゲン少将は静かに微笑を浮かべた。

 

「貴方方のような、心からの恋というものを、ハンナとしてみたいと思ったのです」

「そうか。謝罪させて欲しい。正直、将軍を見誤っていた。いや、違うな。実を言えば将軍に嫉妬し、警戒していたのだ。婚約者の心を、奪いかねない男だとな」

「キッテル将軍に危機感を抱かせられるほどの男として見られたことを、喜ぶとしましょう」

 

 私が差し出したグラスを少将は受け取り、互いに静かに掲げる。蟠りなどなく、これからは仲良くなれそうだと、私は素直に感じた。

 しかし。これで終われば良かった話だったのだが、最後に要らぬオチが付いた。

 

「まぁ。ハンナの見目が好ましかったのは否定しませんが」

「……冗談を聞いたことにしておこう」

 

 冗談を言う顔立ちには見えなかったが、他人は見かけによらぬともいう。私とて、外と中は大いに違うのだから、フォン・レルゲン少将とて同じようなものなのだろう。

 

 

     ◇

 

 

 一方、ターニャはターニャで、フロイライン・ゼートゥーアに振り回されたという。私とターニャの、余人が語るような恋が本当であったのかや、フォン・レルゲン少将が前線でどれだけ勇ましかったかを知りたかったようで、自分達の事は極力事実を、フォン・レルゲン少将の勇姿には少々の脚色を加えて語ったそうである。

 フロイライン・ゼートゥーアは、私とフォン・レルゲン少将の話を終えたと察すれば、婚約者の元に足早に、しかしながら淑女としての礼を崩さぬ足取りで向かってきた。

 当然ながら、どのような話であったかを聞くような真似はしない。将来の夫を立てる術を、この齢にして既に心得ていたのは非常に感心したものである。

 

「将軍閣下。宜しければ、一曲踊って頂けませんか?」

「喜んで」

 

 私は礼節に則って手を取り、フロイライン・ゼートゥーアの歩調に合わせゆっくりと回る。身長差こそあるが、そこは婚約時のターニャを想定していたので問題にならないし、相手に合わせるのは得意な方であるだから、私は全く苦にならなかった。

 ターニャもフォン・レルゲン少将と踊っており、こちらもペースを少将が合わせている為か、随分と余裕がみられるようだ。フォン・レルゲン少将の心内を訊かねば気を揉んだに違いないが、今となってはそうした感情などなく、ただ楽しむ為のダンスに打ち込めた。

 

「大変お上手ですよ、フロイライン」

「ありがとうございます。次は是非、私がフラウとなるときに踊って下さいませ」

 

 勿論ですと私は別れる。そして次に私が躍るのは、ターニャの副官だというセレブリャコーフ少佐だ。

 

「申し訳ありません。自分は戦時下での即席の士官教育ですので、ダンスの心得は然程」

「何を言う。私の練習相手として、戦闘団司令部で踊っていただろう?」

 

 人並みには踊れる筈だとターニャは意地悪気に笑い、セレブリャコーフ少佐は「自分は男役でした」と泣きそうな顔になるが、相手が素人でも私は問題ない。

 流石にフロイライン・ゼートゥーアほどの体格差があるようなら難しいが、成熟した女性であればどうとでもなる。

 

「ご安心を、フロイライン・セレブリャコーフ。私に身を委ねて」

「は、はい」

 

 微かに赤らんだセレブリャコーフ少佐の肩甲骨に手を当て、ぐっ、と私は深く沈める。彼女は、いまの自分がどういった動きをしているのかは理解出来ていないだろうが、傍目に見る分には、しっかりと踊れている筈だ。

 相手が素人であればあるほど、リードが強い自己主張と地力を持って臨めば自然と動きを重ねられる。

 バランスを崩した瞬間に背を仰け反らせる演出を。体勢が崩れる瞬間にターンをつないで切り返し、より躍動感のあるステップに。

 男性側が完全に主導権を握る形での一方的なものであるから、私自身はこの踊り方を好まない。とはいえ、相手に恥をかかせない為には必須の技能でもあると口を酸っぱくした母上から仕込まれていたので、仕方なしに覚えていたものだが、芸は身を助けるとは、よくぞ言ったものである。

 

「なんだつまらん。転ぶかと思ったのだが。ああ、それとあまり人の夫にデレデレとしてくれるな? グランツ大尉(一九二八年、八月進級)が妬くぞ?」

「あんまりですよ、中佐殿。それにグランツ大尉は、そこまで機微の分かる男性でもありませんよ? 先程など、ヴァイス中佐殿(一九二八年、八月進級)とダンスに見向きもせずにお酒ばっかり呷っていましたし。キッテル閣下の何万分の一でも、男として磨いて頂きたいものです」

「そうは見えんがな?」

 

 言いつつターニャが視線を誘導すれば、そこには確かに居住まいを正してこちらに歩む好青年の姿がある。少しばかり緊張で表情を固くしているが、瞳にはしっかりと熱が入っていた。

 

「セレブリャコーフ少佐殿。是非、小官とも踊って頂けませんか?」

「は、はい。その、喜んで」

 

 戸惑いがちな手を取られると、セレブリャコーフ少佐は見せつけるように中央で踊らされる。対抗意識からか、初めはグランツ大尉の力強い動きが目立ったが、セレブリャコーフ少佐のステップで察して、緩やかで踊りやすいものに切り替えはじめた。

 

「相手を想える、良いダンスだ」

 

 素直に感嘆の言葉が漏れる。技術面で言えば、決して士官候補生が教養として教わる範囲を出るものではない。しかし、そうした面とは別の、良き男女として交流としてみるならば、両名のそれは満点を付けるべきものだった。

 

 

     ◇

 

 

 招待客らとひとしきり踊った後は、本格的な午餐である。立食形式をとっているので、並べられた後は自由に取り分けて構わないのだが、招待客は皆、料理を取り分ける前にフォークでグラスを鳴らし始めた。新郎新婦のキスを強請っているのだ。

 私は彼らの期待に応えるべく、情熱的にターニャの腰をかき抱き、瞳を細めて唇を奪った。グラスを鳴らしたことの意味が分からなかったターニャは目を丸くして身を強張らせたが、そういうことかと納得してからは私に身を委ね、陶酔した瞳で名残惜し気に唇を離した。

 一五と思えぬ色香と、少女らしい赤らんだ顔には、私だけでなく衆人も当てられたが、流石に新郎が羞恥で顔を染めるばかりではいられない。

 耳朶の熱を自覚しつつも、私は平静を装いつつ招待客に料理を楽しんで貰いたいとの旨を伝え、談笑と料理を楽しむこととした。

 

 

     ◇

 

 

 一般に帝国の披露宴は深夜か、でなくば明け方まで続く。私と花嫁の披露宴も例に漏れず日付の変わる零時まで行われ、招待客皆と食事に舌鼓を打ち、酒精を楽しみ、輪になり踊り明かして満喫したところで、花嫁は招待客皆に最後の挨拶と共に一礼し、別れの品として靴下止めを配った。

 これは我々の時代でも非常に古いしきたりで、今では靴下止めを夫婦のイニシャルを入れた記念品に置き換えていたが、私達は古き良き慣習そのままの品を用意した。

 年若い招待客は皆、貴族らしい品だと笑い、年配の招待客はこうした伝統が子々孫々に受け継がれることは、誇らしいものだと鷹揚に頷かれた。

 そうして各々を見送ったところで、ようやくお開きとなったが、この後の夫婦の営みまで語るのは、流石に憚られるのでご容赦願いたい。

 

 ただ、一つだけ面白い話があるので、これを書いて私と花嫁の結婚式の話を締めよう。

 睡魔に襲われ、舟を漕ぐターニャは未成年であるから酒精(◆3)など口にしていないのだが、場の空気に当てられてか酔うように私に身を預け、ベッドまで運んでほしいと披露宴から解放された後に強請ってきた。

 私はそんな花嫁を愛しく思い、抱きかかえてキッテル家の寝室に運んだのだが、途端に大量の目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、花嫁は気を荒くした猫のように髪の毛を逆立たせて飛び起きた。

 

「誰の悪戯だ!?」

 

 いい雰囲気が台無しではないかと憤慨し、よもや第二〇三航空魔導大隊の連中が、持ち前の潜入技能を用いて悪質な嫌がらせを行ったのかと訝しんだようだが、そうではないと私は笑った。

 これはどの家庭でも見られる、新郎新婦の初夜を邪魔するという伝統的な嫌がらせで、やったのは使用人たちだと説明すると、花嫁は愕然とした表情を浮かべ、次いで激高した。

 

「消えてしまえ! こんなムードもへったくれもない伝統!」

 

 これには私も大笑いしながら同意し、ターニャと一緒に楽しく時計を一つ一つ止めた。壊しても良いのだが、花嫁の手に触れながら一つ一つ一緒に止める作業をしたかったのである。惚気だが、手が重なる度にこちらを窺うターニャは、何とも愛らしいものだった。


訳註

◆1:帝国における一般的な婚前の魔除けの儀式。

   皿の割れる音は魔を払うとされるだけでなく、割った皿を新郎新婦が片付けることで、夫婦が二人三脚で困難を解決するという意味を込めている。

 

◆2:ライスシャワーは中央大陸で古くから伝わる結婚儀式。

   花嫁の子宝祈願や家内安全など、繁栄と豊穣を願って行われる。

 

◆3:当時の帝国は一般に一二歳から成人と同等の扱いを受ける──犯罪行為への責任追及等も含む──が、飲酒・喫煙は公的に成人と見做される一六歳以上としていた。

   現在の帝国法においては一六で飲酒を、喫煙は一八から認められる。

 




 明日で遂に最終回!

 ・エピローグ!
 ・訳者(アンドリュー)あとがき!
 ・邦訳あとがきの三本立てだよ!
 
 いやー豪華豪華……なんてことはなく、一番長いアンドリューのあとがきでも八千文字行かないから、実質一・五話か、長い時の一話分ぐらいです(土下座)

 長いようで短かった投稿期間ですが、こんなニッチな内容の作品をご愛読くださいました読者の皆様に、この場をお借りして感謝のお言葉を!
 皆様、本当にありがとうございました! また明日お会いしましょう!

 追伸:キャラクター・物語等の質問がございましたら、感想欄にお気軽にどうぞ!
    とはいえ、物語の部分以外では作っていない設定も多いので、即興で捏造したり、素直に考えておりませんでしたごめんなさいする可能性もありますが、答えられる範囲では答えていこうと思います!

 あと、これ聞くのは正直怖いのですが、この作品、後半になると評価とか全然だったので、ひょっとして読者様にはつまらない展開だったでしょうか……?(震え)
 ここが悪かったよ、と言うのがありましたら、声を聞かせて下さい。
 何時になるか分からない次回作のクロスオーバー(ヒロアカ×シルヴァリオ・サーガorネギま!×装甲悪鬼村正)に活かそうと思います。
 とりあえずエルマーが便利過ぎたのは確実ですね……。



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75 おわりに

 今日までご愛読、ありがとうございました!
 明日は19時くらいに活動報告で、いつ日の目を見るか分からない、次回作の主人公のお話&イラスト公開でもしてみようと思います。


 結婚から一年と二ヶ月後、妻は正式に退役した。

 後任をはじめとする各種業務の引き継ぎや、その役職ゆえに最低でも二年は伸びるだろうと私を含む誰もが考えていたが、流石に身重の女性をこれ以上軍に留めても置けなかったようである。

 尤も、妻自身は退役する上で必要となる業務を半年の内に片付けていたそうであるので、軍も相当に粘った方だろう。

 断っておくが、私は妻が早々に子を生すのは反対だった。妻への愛がない訳でも、将来の子供を愛せないという訳でもない。純粋に、体の出来ていない妻が懐妊することに対して、不安があったからだ。

 貴族社会は市井より早婚だが、世継ぎをもうける事には非常に慎重だ。たとえ帝国が医学においても世界最高峰であったとしても、流産が原因で母子共々不幸に見舞われることは可能性として大いにあったから、私はせめて二年は待った方が良いと、結婚式の夜に話し合ったものである。

 

 だが、妻の意思は固かった。彼女は常々「立派な子を産んでみせます」と言って聞かず、私が根負けしたが、妻は懐妊した後も精力的に働き、葡萄のように丸く立派な赤子を私の腕に抱かせてくれた。

 その後も妻は長男アルトゥールに続き、長女ヒルデガルドと次男フリッツをもうけたが、長男は軍人でなく音楽家となり、キッテル家は次男フリッツが継ぐ事となった。

 

 妻と私は、終始円満だったかと問われればそうではない。軍人としては非才な反面、音楽家としての才気に溢れてしまったアルトゥールの進路に関しては大いに紛糾し、一年は互いに顔を合わせなかった──というより、私が実家から追い出された──し、ヒルデガルドの嫁入りでも揉めた(これに関しては、私に非はないと信じたい)。

 

 しかし、どのような不和があっても最後には子供達の仲裁や、自分達が非を認め合うことで和解出来たし、互いに子供の将来や、親としての立場故に言わねばならないことは、真剣に家族を想い、愛する以上、避けて通れなかったと私は信じている。

 それは、妻も同じ気持ちであった。

 

 こうして筆を執り、かつての日々を回顧すれば、目に浮かぶ思い出には波乱も、穏やかなるものもあったが、悲しい思い出や別れもまた、呼び起こされる。

 

 

     ◇

 

 

 例えば、臨終の間際、私と妻を呼んだ小モルトーケ参謀総長に対し、妻は涙ながらに縋りついたこと。ぐちゃぐちゃになった顔の妻の髪を撫で、家族一人一人に言葉をかけ、その手に皇帝(カイザー)の接吻を受けた後、安らかな寝顔で息を引き取られた小モルトーケ参謀総長に、誰より大声で泣いた妻を、私は鮮明に覚えている。

 

 

     ◇

 

 

 例えば、時間の流れと共に、必然たる別れをもたらした私の父上や母上との別離。思い残すことなどないと父上は仰り、母上は私と妻にキッテル家の未来を託されたこと。

 

 

     ◇

 

 

 例えば、五五という若さで、世を去ったエルマーのこと。

 

「兄上。もし、もしも魂というものがあるのならば、それは何処へ行くのでしょうね? 消えるのでしょうか? 残るのでしょうか? 違う何かに変わるのでしょうか?

 私は今から、その答えに出会います。そして、それが良くないものであるのなら、私はそれを克服するために、兄上や姉上を、義姉とその子らを決して不幸にさせぬ為に、赴きたいと思います」

 

 科学者でありながら、最後には魂について語ったエルマーの言葉は、今も私の胸に残る。永遠の安息。その間際にあってさえ、我が弟は私と家族の為に働くと言いながら、眠りについてくれたのだ。

 

 

     ◇

 

 

 出会いも別れも、人生では必然だ。どれだけ悲しくとも死に至らぬ存在はなく、人である以上はそれを受け入れねばならない。

 終わりがあるからこそ、子に、孫に、次の時代に託しながら、私達は生きて死ぬ。

 時代とは、世界とはそうして紡がれる。

 

 老いた私はもう、操縦桿を握ることはない。

 この果てのない空を飛ぶのは若者達であり、私は空の王冠を彼らに託し、玉座から身を引いた。

 今は夢物語だが、きっと将来、人はエルマーの造ったシャトルのように大掛かりなものでなく、宇宙を気ままに飛ぶ日が来るのかもしれない。

 子供達が片足で大地を蹴れば、翼を持っているように、気ままに空を翔ける時代が来るのかもしれない。

 それを私が目にすることはないだろうが、けれどいつか、そんな日が訪れるかもしれないと、期待することぐらいは許されるだろう。

 後に託す者として、今、こうして老いていく身として、私は新たな時代を作る人々に激励を贈ることで、この回想記を閉じたいと思う。

 

「若者達よ。胸を張って生きなさい。

 地面に俯くのではなく、影を落とすのでなく、空を見上げられる大人になりなさい。

 父祖が貴方達に託したように、誇れる未来を子供達に託しなさい。

 小さなことでも、大きなことでも、次がより良いものとなれるよう選びなさい。

 そうすれば、終わりの時に、誇れる旅立ちを迎えられるのですから」

 

 この回想記を、ここまで読んで下さった皆様に感謝を。

 願わくば、皆様の人生がより良いものでありますように。

 

 

統一歴一九六一年 九月二日

ニコラウス・アウグスト・フォン・キッテル



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訳者あとがき

※2020/6/30誤字修正。
 佐藤東沙さま、Kimkoさま、ちはやしふうさま、サトウカエデさま、稲村 FC会員・No.931506さま、ノノノーンさま、水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 一九六二年、一二月に本書が帝国で発刊され、多くの読者がその内容に驚かされ、賛否を巻き起こしたのは記憶に新しい。

 帝国内では本書の著者であるキッテル元帥大将*1の回想記でありながら、その奥方にしてサラマンダー戦闘団指揮官たるキッテル夫人の半生をも記録したものであるが、私も含めて、読者はとても両者が同時代の人間とは思えないほど、乖離した思想や人生観の持ち主であったことに驚いた。

 これまで騎士道の権化として、多くの軍事書籍や新聞で描かれたキッテル元帥大将の感情豊かな内面や、『白銀』と讃えられたキッテル夫人の波乱万丈ぶりや喜怒哀楽など、良い意味でも悪い意味でも私達を驚かせた。

 特に、キッテル夫人の余りに赤裸々な文は帝国でも問題となったようで、一時期は紙文から省かれ、注釈をつけての販売となったことも、本書を手に取られた方の幾名かはご存知のことと思う。

(尤も、それ自体は読者からの抗議で、すぐさま完全な形に戻されたが)

 

 ともあれ、本書の訳を私が担当することとなったのは非常に幸運であり期待に応えたいという意気込みもあったが、それらをここで語るよりも、訳を担当することになったことで機会を得た、キッテル夫妻との対談について語る方が読者にとっては有意義であると思う。

 

 本書に描かれたキッテル家の描写に偽りはなく、私は荘園で働き、領地に生きる方々の暮らしが豊かなものである一方、キッテル家の屋敷が実に小さく、しかし品良く落ち着いたものであったことに深い感銘を受けた。

 これまで取材を行ってきたどの帝国貴族であっても、大抵はそれなりの絵画や陶器といった美術品が飾られていたものであったが、キッテル家に関しては父祖の武具や旗が目立たぬ位置に、しかし入念に手入れされた状態で置かれている程度であった。

 

 私を招いた家令は本書に登場した『爺』でなく、御子息に当たる初老の男性であったが、彼からは面白い話を聞くことができた。

 『爺』は若かりし頃に兵卒としてプロシャ・フランソワ戦争に従軍し、ユーディット・フォン・キッテル氏の祖父君と戦場を駆けたことがあったという。

 そして、その祖父君の名こそアウグストであり、キッテル元帥大将のアウグストなる名は、その祖父から受け継いだものであったそうなのだ。

 

 こうした小話を合間に挟み、居間に迎えられた私の目に飛び込んだのは、実にたおやかで若々しく、それでいて女性として見事なプロポーションのご婦人であったが、誰あろうその人こそラインの悪魔として恐れられ、またダイヤモンド柏付き銀翼突撃章を時の皇帝(カイザー)から唯一下賜されたキッテル夫人である。

 少女時代のキッテル夫人しか写真で目にする機会に恵まれなかった一部の読者は、このように魅惑的な肢体のご婦人が、あのモノクロ写真や記録映像の痩せぎすな少女であったとは、きっと夢にも思わないだろう。

 

 私は過去、幾度かWTN通信社の特派記者としてキッテル元帥大将と対談してきたが、夫人と直に接するのは今回が初めてのことだった。

 キッテル夫人は年相応に柔和な、しかしこうして目にすると二〇代後半としか思えない美貌で私に椅子を勧めると、「主人が参るまで、お寛ぎになって下さいましね」と優しく応対してくれた。

 もし私と夫人が独身であったなら、私は夫人を口説いていたかもしれない。

 アルビオン出身の私に配慮してか、差し出された紅茶を口に含みつつも、年甲斐もなく夫人の容姿と気品に目が離せなくなってしまっていたから、間を置かずキッテル元帥大将が足を運んでくれたのは幸いだった。

 

 流石にキッテル元帥大将を前に、変な気を起こす気にはなれないからだ。

 キッテル元帥大将は夫人と比して、顔立ちは相応に老いていたが、それでもあくまで夫人と比べてのこと。

 私はキッテル元帥大将と同時代、同年代の退役軍人を多く取材してきたが、その殆どが老紳士と呼ぶに相応しい老いであったというのに、元帥大将は老将軍と称することがこれほど不適切な人物も居ないだろうと思えてならない。

 階級を知らず、現役武官だとだけ聞けば四十路辺りの、第一線を離れて数年が経過した佐官だと言われても信じただろう。私も年齢で言えば元帥大将より若いが、肉体年齢で言えば到底足元にも及ばないので、つい本筋に関係ないことを訊ねてしまった。

 

「若さの秘訣? そうだね。未だに新兵に混じって基礎訓練をしているのと、幾つかの馬術競技にも出ているね。身体は資本だから、動ける内には動くようにしているのだよ」

 

 帝国の新兵訓練は大変に過酷で、常日頃からスポーツで磨き上げた瑞々しい若者たちでさえ揃って音を上げるそうだが、キッテル元帥大将は「まだまだ若い者には負けんよ」と、笑って話した。

 そして、対談にあたって答えられる限りを話すと約束してくださったので、私は本書に描かれた時代でなく、描かれていない部分について問うことにした。

 例えば、ご長男であるミスター・アルトゥールが音楽家となったことに関してだ。するとキッテル元帥大将は、非常に困った顔をして、反対にキッテル夫人はコロコロと笑いだした。

 

「ミスター・アンドリューには語るまでもないことと思うが、キッテル家は代々武門の家系だからね。嫡子が音楽家を志すと知れば、家長としては反対せざるを得なかったものだよ」

 

 アルトゥール・フォン・キッテルといえば、今でこそ世界最高の指揮者としてベルン・フィルで指揮棒を振り、音の神殿で王侯貴族さえ惜しみない万雷の拍手をもたらす音楽家としてその名を轟かせているが、幼少期には幼年学校でも上級学校でもなく、音楽学校の門戸を叩かせるとキッテル夫人が言って聞かなかった時には、大層頭を痛めたという。

 

「確かに私自身、帝国近衛槍騎兵(ライヒス・ガルデ・ウラーネン)の道を捨ててパイロットになった手前、決して進路について声高に非難できる立場にはないと承知していたとも。

 だが、曲がりなりにも武門の嫡子が、幼年学校さえ出ず音楽家の道を行くなどというのは論外だった。しかも妻は、徴兵さえ一年志願兵として『社会勉強』に赴くだけで良い、後は音楽の道を邁進させるとまで言い出したから、私としても立場上声を上げざるを得なくなってね」

 

 ただ、ミスター・アルトゥール自身は長男として、嫡子として自分の立場は弁えていたそうだ。上級学校には入学するし、徴兵も他の地主貴族の温室育ちがするような一年志願兵などという特権を用いる気もない。

 帝国人として任期を全うした上で、できるならば音楽大学の門を叩きたい。

 それが許されず、軍人として一生を終えろと私が言うのであれば、ミスター・アルトゥールはそれに従うとキッテル元帥大将に言ってくれていたそうだ。しかし、それに反駁したのがキッテル夫人である。

 

「アルトゥールに将校としての才はありませんでしたからね。よしんばなれたとしても窓際に追いやられて、万年尉官で終わるのが関の山だったでしょう」

「それは否定しない。正直、兵卒としてならば信頼されても、将校には不向きな倅だった」

 

 これはキッテル夫妻だけでなく、後にインタビューしたミスター・アルトゥールを受け持った原隊指揮官らも意見を同じくしていた。

 ミスター・アルトゥールは与えられた命令には忠実かつ実直に従い、何事にも精力的に取り組むし、応用力や想像力も豊かであるが、反面極度に責任感が強く、部下の負担を軽減しようと抱え込む悪癖があり、他人に相談を持ち込めず一人で仕舞い込んでしまいがちなこと。

 危険な命令を下すことを極端に恐れることが表面化すると、彼を任された下士官や将校は、両親が兵卒より上は無理だと判を押したのは謙遜でなく、これが理由だったと納得していた。

 

 しかしながら、ミスター・アルトゥールはエルマー博士のように病で軍人の道を閉ざされた訳でもない。一時といえど、本人に軍人となる意思もある。だというのに、キッテル家の男児が他の道に進むというのは、家長として認める訳には行かなかったそうだ。

 しかし、キッテル夫人にとっては我が子の人生が何より大事だったという。

 

「私がどういった幼少期を送ってきたかは、語るまでも無いでしょう? 私のように、選べない人生を歩ませたくありませんでした。

 何より息子には音楽の才があり、本心ではその道で大成したいという思いもありました。母として我が子の将来を慮り、応援したいと思うことは不思議なことですか?」

 

 母は強しというが、正しくキッテル夫人はその言葉通りの女性となっていた。本来なら夫として誇らしく思うべきことだが、キッテル家の父としては決して容認することは出来ず、エドヴァルド・フォン・キッテル氏がキッテル元帥大将を叱責したように、父と母の間に挟まれたミスター・アルトゥールを、思い切り殴った。

 そして、かつてエドヴァルド氏がキッテル元帥大将に言った程ではないが、ミスター・アルトゥールを怒鳴りつけたそうである。

 

「進学は自由にせよ。軍人としての道も、歩みたくなければ構わん。しかし、帝国人たりたくば勤めだけは果たせ! そして、これだけは言っておく! たとえ道半ばで挫折したとしても、泣き言など聞かぬからな! ……とまあ、そんな塩梅だ。

 顔も見たくないと、そう言わねばならない私に対して、妻はアルトゥールを庇って私を睨めつけたよ。正直、あの時は私の方が泣きたくなった」

「貴方の立場は理解していましたし、必要なことだとも存じていました。けれど、母としては我が子にあのように手を上げる夫を、許せはしませんでした」

「喧嘩別れの言葉は『この石頭! 自分だって若い頃は空ばかり見ていた放蕩者でしょうに!』だったかな?」

「『こんな方だとは思いませんでした!』とも言いましたわね。それと『子供の将来よりも家の体面の方がお大事ですか?』や『栄達がお大事なら、家でなく司令部で暮らすといいわ』とも言いました。他にも色々と叫んでいましたけれど、すぐに思い出せるのはそれぐらいです」

「……すまない、泣きたくなったので席を外していいかな?」

 

 みるみる煤けていくキッテル元帥大将に、私は涙を禁じ得なかった。

 息子を家から叩き出すような口ぶりだったが、実際にはキッテル元帥大将が家から追い出され、休暇中も空軍総司令部の宿舎で過ごしながら、軍務に逃げていたそうだ。

 私も家庭を持っている手前、キッテル元帥大将には親近感が湧いて止まないが続きを促す。

 

「あの頃の私は立場柄頭も下げられず、仕事に逃げていてね。傷心の私にヒルデが電話を入れてくれたのは、本当に嬉しかったよ」

 

 ミセス・ヒルデガルドはミスター・アルトゥールとは一歳差であるが、当時から齢以上に大人びており、背も長男より高かったので、兄妹でなく姉弟と間違えられることも多かったそうだ。

 

「しかしながら、私としてはアルトゥール以上に、この愛娘の方が心配だった。長女だというのに大変に好奇心旺盛かつ男勝りで、『将来は母上以上の軍人となる』『父上のような騎士とでなくば、子などもうけたくない』と言って止まなかったのだ。

 おまけに海洋小説に憧れを抱いて、海軍将校になりたいとまで言いだしたお転婆だったからなぁ」

 

 どうして長男と長女の性別が入れ替わらなかったのだろうかと、心から悔やんでならない。親の贔屓目もあるのだろうが、容姿ならば妻に負け劣らず良いところを受け継いでいるのだから、女らしくなってくれと願ってやまなかったと、涙ながらにキッテル元帥大将が語り始めた。

 軍人としての威厳や威圧感など、もはや欠片も垣間見えない。私の目には、子育てに悩む平凡な父親の姿がそこにあった。

 

「ヒルデには、私の方が困りましたわね。あの子、貴方のような男性が好みでしたもの」

 

 世に言うファザーコンプレックスであったそうだ。ようやくお相手を見つけたと言い出せば相手は年配の佐官で、何処となく元帥大将の面影を感じさせる人物であったから、一層頭を抱えたそうである。

 

「士官候補生時代には、教官の将校に岡惚れしたと言い出してなぁ。しかも、相手は四十路ときた」

「私としては、父親に迫るようになるぐらいなら、年配でも認めさせますわ」

「限度がある! まだヒルデは一二だったのだぞ! それを! それをなぁ……!」

 

 キッテル元帥大将は泣き始めた。最近は涙脆くなっているそうだが、余りに不憫だった。とはいえ、お相手に関しては誠実かつ真面目であったし、家柄や将来に問題もないのに独身という好物件であったから、認めざるを得なかったそうである。

 嗚咽を漏らし始めたキッテル元帥大将に代わり、夫人が私に話し出す。

 

「ヒルデはアルトゥールの進路の件で喧嘩別れした私達を仲裁してくれましたし、良い子ではあったのです。ですけど、問題も多く起こして……ミスター・アンドリューもあの子の武勇伝はご存知でしょう?」

 

 私は苦笑いしつつ頷いた。帝国のホーンブロワーこと、アドミラル・キッテルの逸話は有名だ。保護領では輸送船を荒らす海賊相手にサーベルで大立ち回り。

 母譲りの魔導適性で敵船・敵艦に乗り込んでは制圧し、艦長の剣を奪って降伏させるなど、とにかく特派記者として、記事のネタに事欠かない女傑だった。

 

「そこに行くと、フリッツは本当に真っ当に育ってくれたわ」

 

 確かに上記の二名と比して、フリッツ・フォン・キッテルに関しては逸話らしい逸話がない。ミスター・アルトゥール然り、ミセス・ヒルデガルド然り、何かしら話題となるし、当人が有名人の両親との過去を語る一方で、ミスター・フリッツはまだ二四歳という若輩であることもあって、記事にするような内容などないのだから当然だろう。

 強いて挙げるならば、その優秀な頭脳ゆえに少尉任官から一年で進級してすぐ軍大学の門を叩き、主席で十二騎士の座に至ったということぐらいか。本書を推敲している現在は、アルビオンで駐在武官の任に就かれている。

 

「しかし、ミスター・フリッツはご兄妹と随分と齢が離れておいでですね?」

 

 私としては話のネタになるのがそれぐらいしかなかったが故の切り出しだったが、キッテル元帥大将はそれ以上聞いてくれるなと視線で訴えてきた。しかし、奥方たるキッテル夫人は笑いながら応えた。

 

「アルトゥールの件で仲直りしてすぐだったかしらね? 私が『家のことが心配なら相応しい子供ぐらい何人でも産んで上げるわ』って言ってあげたの。そうしたらこの人、すぐに私を押し倒したわ。『君の温もりが恋しかっ』」

「それ以上は本当に勘弁してくれ!」

 

 そして、頼むから対談らしい真面目な話をさせて欲しいとキッテル元帥大将は懇願する。

 しかしながら、私は既にWTNの記者として幾度もキッテル元帥大将と対談を重ねており、その手の話題は出尽くした後でもあったから、どちらかといえばこうした話題の方が好ましくもあった。

 

「ならば、妻に聞きたいことはないのかね? ああ、真面目な話だぞ?」

 

 分かっていますと頷いて居住いを正して向き直った。あの中央大戦で、何を感じたか。何を思い今日を生きてきたかを、私はまずキッテル夫人に問うた。

 

「私にとって、あの戦争は、いえ、他の戦争でもそうですが、答えなど変わりようがありません」

 

 戦争など、大嫌いだ。出来ることならば、子供にも軍人になどなって欲しくはなかったという。

 

「ミスター・アンドリューには面白くない話でしょうが、私は帝国が勝てたからとて喜ぶことはできません。あの戦争で私は多くを犠牲にし、その上に立ちました。結果として私は多くを得、私生児からキッテル夫人として人生を成功させました。

 誤解しないで頂きたいのですが、私は身勝手な平和主義者のように軍隊を否定はしませんよ? 国を守る手段は必要ですし、戦いを余儀なくされる場面も多くあるでしょう。

 ですが。せずに済むのであれば、戦争などしない方が良い筈です。我が子や夫を失い、血を流し、国を疲弊させてしまうばかりの争いが続くなど、私にしてみれば冗談ではありません。

 ミスター・アンドリュー。貴方は、夫の本を読んだのでしょう? あの、モスコーで私に復讐しようとした、女の子のことも存じておいででしょう?

 戦争は被害者を生み続けます。そして、加害者も同様に生み続けるのです。互いが自分を正しいと信じ、相手を悪だと罵りながら、殺し殺されを繰り返すのです。

 私の夫やクローデル議員、シェスドゥープ親衛中佐のように名誉を重んじ、憎むことなく争い、本懐を遂げるような対決など、本来有り得ざるものでしょう?」

 

 だから憎む。だから否定する。たとえ白銀と称えられようと、キッテル夫人にとって、戦争とは忌むべきものでしかないのだ。

 

「私は心から、あのような戦争が最後であって欲しいと願い、望みます。軍人は玩具の兵隊でいるか、ヒルデのように、犯罪者から国民の生活を守る存在でいて欲しいと思います。恒久的な平和など有り得ないとしても、平和な時代が長く続く事を祈っています」

 

 そして、その言葉をキッテル元帥大将も肯定する。

 

「妻の言ではないが、英雄の時代など、本来忌むべきものだ。国を守る備えとして、私達は必要なのだろう。国土を、国民を護る為、軍事力という剣は常に研がれていなければならない。しかし、その剣は壁に掛かり、鞘に収められたままであった方が良いのだ。

 ミスター・アンドリューが、ここに訪れるまでに目にしたであろう、当家の武具のように」

 

 他人の目を引かせ、それが使われた過去を偲ぶか、或いは好奇に胸躍らせる程度で良い。戦いにどのような感情を起こすかは個人の自由だが、若者が争いの当事者になることは、決して望んでないという。

 今を生きている、平和活動家を自称する多くの言よりも、二人の言葉は私に深く刻まれた。それは、あの戦いの当事者だったからというだけが理由ではない。

 子を持つ親として、後を託す人間として戦いを嫌いながらも、同時に争いを覚悟していたからだろう。

 人同士が分かり合えないことを知り、争い憎み合うことを理解し、それでもと願いながら、一人は軍服を脱いで母となり、一人は空を飛ばず剣を磨いた。

 それぞれが己の立場からの務めを果たし、次に繋いでいるからこそ、私は感銘を受けたのだろう。

 

 軍事という分野で記事を書き、糧を得る私がこのような事を言う資格はないのかもしれないが、平和とは本来、誰もが願って止まないものなのだと思う。

 だが、願わくば私達のような人間の記事が現代の争いでなく、使われぬ兵器を書いて余人に娯楽を与え、戦いに明け暮れた昔日を回顧しながら、読者が思い思いに耽る程度の、平穏が満ちる日々が後に続くことを願っている。

 この夫妻が英雄でなく、仲睦まじいご両人として読者の心に残ってくれたなら、それはこれ以上ない幸福である。

 

 一九六五年 七月 対談を終えて。

WTN通信社 アンドリュー

 

*1
 一九六四年、退役時に元帥号を取得。同年、プロシャ国王兼第四代帝国皇帝ベルトゥスより名誉連隊長(第一騎兵連隊)の終身名誉称号を賜る。

 元帥位は終身制であるため、現役武官として今尚公務に就かれている。



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邦訳あとがき

※2020/3/30誤字修正。
 水上 風月さま、ご報告ありがとうございます!


 一九六八年の夏、キッテル夫妻が秋津島に来朝したことは、読者の中にも知る人は多いだろう。

 当時の二人はあくまで私的な観光での来朝であったのに加え、秋津島では軍事関係の記者や、或いは軍人以外では知る人は少なかったから、それが露見して国賓待遇で出迎えられるまでは、秋津島語が堪能な有り触れた外国人観光客であったと、観光名所の店や街で見かけた多くが語った。

 特にキッテル夫人の秋津島語は非常に見事で、今の私達が当時の放送を耳にしても驚くであろうし、キッテル元帥大将もまた、カタコトでこそあったが堪能なものであった。

 私は当時、この夫妻のインタビューをニュースで観ていたが、未だに二人の秋津島に対する理解や知識量には驚かされたことを覚えている。

 

 キッテル夫人は秋津島の食事で何が好みであったかを問われれば「納豆や味噌汁、味付き海苔を巻いた白米が美味しかった」と仰られた時などは、この人は秋津島のハーフだろうか? と首を傾げたものであるし、「和食が美味しく、この国に居着きたくなった」と嬉々として仰られた時などは、大変誇らしくなったものである。

 キッテル元帥大将も秋津島には並々ならぬ興味があったようだが「妻が店員に勧められるまま白米に生卵を乗せたときは、涙ながらに止めたよ」と実に外国人らしい反応を見せたりと、本当に二人のインタビューは記憶に残るものが多かったと、今にして思う限りである。

 

 本書の中で、キッテル元帥大将の秋津島への警戒心や、或いは疑問視する意見が散見されたが、それが本意でなかったことは、後の彼の発言や対応を知る者にとっては疑問の余地のないことと思う。

 当時の帝国においては、時の皇帝(カイザー)、ウィルヘルム二世が黄禍思想に染まっていたこともあって、おいそれと反駁出来る立場にはなかったであろうし、ましてや帝国の騎士にしてプロシャ軍人として皇帝(カイザー)に忠誠を誓う身の上である以上、キッテル元帥大将にすれば、このように書き記す意外になかったと思う。

 現に、皇帝(カイザー)の崩御後はその死を悼みつつも、ベルトゥス皇太子が即位するや否や秋津島との軍事同盟を強く提言し、東方同盟の一員に加えるよう便宜を図ったことからも、それは疑いないものであろう。

 

 当時のインタビューにおいても『秋津島に対してどのような感情をお持ちですか?』と記者が訪ねた際には「勤勉かつ模範的な国民だと思う」「外国人に対して視線を感じるが、慣れていないのだろう」「きちんと列を並んで順番を待っている姿や、ゴミが路端に見られない点から言っても、国民性が窺える」などと、好意的な意見が多かった。

 反面、軍事に関しては「杓子定規に過ぎる嫌いが多く見られる」「参謀の権限が強すぎるのではないだろうか?」などと、かなり手厳しい発言をしたものだが、この辺りはやはり夫妻とも高次元の戦略眼を有しているだけあったのか、後年に皇軍が改革に乗り出す上で必要な全てを押さえていたのは、軍事コラムを綴る私をしても舌を巻かざるを得ないものだった。

 

 さて。本書では斯様に感情豊かで、そして多くの体験談を赤裸々に綴ってきたキッテル夫妻であるが、ここでは些か趣向を変え、語られていないキッテル元帥大将の側面を語ることとしたい。

 たとえば、幼少期の頃は非常にやんちゃなガキ大将で、常に一番である事にこだわり、それが為にあらゆる分野で努力を惜しまなかったそうであるが、これらは後に両親に危惧され、性格を矯正されたそうである。

 また、上級学校時代にベルンの街角で子女から声をかけられた時などは、女性に慣れていなかったのか目に見えて狼狽し、微笑まれれば赤面してしまい、足早に去ってしまったという非常に初心な少年だったそうである。

 

 そうした微笑ましく見える部分も、魅力といえばそうであるのだが、一方で、パイロット時代のキッテル元帥大将には影のある一面も見られた。

 敵国にとっての撃墜王キッテルに対して、相対した多くの空軍パイロットが語るのは、「彼と出会ったならば、死を覚悟せねばならない」というその恐怖であったそうである。

 

 他のエースたちが敬意を集め、戦場で殺し合いながらも再会を望んだのに対して、撃墜王キッテルに関しては、唯々恐怖の対象だったという。

 それは、常にエンジンや主翼でなく、正確無比にコクピットを射抜く鷹の目や、逃げる相手さえ容赦なく追い立て撃墜する無慈悲さからきた恐怖なのだろう。

 ライン戦線での連合軍(アライド・フォース)が、撃墜王キッテルに対して莫大な懸賞金をかけ討伐隊まで組織したのは、当時人の恐怖感を如実に伝える好例でもある。

 

 また、捕虜に対しては一切の暴行や粗略な扱いを許さず、紳士的な対応に務めた反面、脱走者に対しては決して許さず、捕らえられる間際、命乞いをした兵士さえ射殺したという冷淡な部分も見られたが、当人はこれを次のように肯定している。

 

「私は降伏する者には慈悲をもって礼に則り、厚く遇する。しかし、逃げる以上は再び帝国と相対することをその時点で決している者であるから、私は彼らを敵と見做さねばならない。騎士道に慈悲はあれど、甘さはないのだ」

 

 これを残酷と取るか否かは判断の分かれるところであるが、少なくとも当人の中のルールにも、当時の捕虜法(ヴォルムス陸戦条約)にも問題のないものであった以上、公的に咎めることは不可能であるし、それを弁えての発言だったのだろう。

 或いは敢えてこうした発言を残すことで、捕虜の脱走を防ぐことも視野に入れていたのかもしれないが、当人は必要以上に多くを語ることはなかったので、真意は闇の中である。

 

 尤も、本書が発刊されるまでキッテル元帥大将は軍の広告塔としてでしか多くを語らず、常にプロパガンダ放送や新聞、軍事公報でしか知る機会のない偶像的な人物であったから、そうなったのも致し方ないことだったのかもしれない。

 本書が帝国において多くの反響を呼んだのは、キッテル元帥大将や夫人が、ありのままの感情を綴ったことに起因する。

 誰もが銀幕の登場人物を見るようにキッテル夫妻を見ており、思い思いに理想像を当てはめていたというのは、インタビューを受けたアルトゥール氏の言であり、彼は次のように語った。

 

「私にとっての両親は、帝国のどの家庭にも見られる良き父、良き母でした。父は子供の頃の私を叱責しましたが、愛していたことは子供ながらに分かっていました」

 

 アルトゥール氏は音楽大学で指揮者を志す段になって、宛名のない相手から指揮棒を郵送されていたという。また、親の脛など齧るものかと息巻いてこそいたが、生活が困窮すると、何処からともなく足長おじさんが日雇い仕事を斡旋してくれたというから、父親としてはやはり可愛い我が子を陰ながら見守っていたということだろう。

 

「ですが、世の多くは、私の両親を決してそのようには見ませんでした。父は伝説の撃墜王で、母は帝国の守護天使。その息子である私が音楽家になろうというのですから、周囲の目は冷ややかなものでしたよ」

 

 キッテル元帥大将が特別扱いを許さなかったのも、徴兵忌避者への嫌がらせを憂慮してのものだったのだと、後になって親心を深く理解したという。

 そして、そんな親としてのキッテル夫妻は決して軍人としての自分は語らなかったそうだ。

 

「私も含め、妹も弟も有名人の両親から話をせがんだものですが、どちらも答えてはくれませんでした。ですが、こうして本を手に取った今は、その意味が分かります」

 

 余人が想像する英雄は、子供たちの前では、ただの親で居たかったのだと。夫妻が世を去ったあとで、そうアルトゥール氏はしみじみと語られた。

 

 キッテル夫妻が世を去ったのは、一九八八年の末である。

 生誕祭の日、曾孫達を微笑み抱き上げ、家族皆と笑いながら一日を楽しんだ後、夜更けに二人でベッドに入り、そのまま眠るように息を引き取った。

 穏やかな表情で、手を繋いで微笑みながら永遠の安息を迎えた二人の写真は、インターネットの普及した今となっては、誰もが目にできる。

 幸福で、満足げで、仲睦まじい老夫婦は、かねてからの遺言通り故郷の墓地に葬られたが、一つだけ遺言に反したことがあった。

 

『隣り合うように、葬って欲しい』

 

 夫婦どちらもが、そう日頃から漏らしていたが、アルトゥール氏をはじめ、家族の誰もがそれを実行できなかったそうだ。

 

「あの手を、離す事など出来ませんよ」

 

 夫婦は手を繋いだまま、特注の一つの棺に納められた。死でさえも、二人を分かつ事は出来なかったのだ。

 帝国北東部では、今も多くの帝国人が、二人の墓に花を捧げている。私もまた本書の訳を手がけることとなったとき、帝国に赴き献花したが、その墓碑銘を記すことで、あとがきを終えたい。

 

『訪れてくれた方に感謝を。貴方達の人生が、多くの幸せで満ちますように』

『願わくば、訪れた方の時代が、平和なものでありますように』

 

 私は今、平和な時代を謳歌している。後年、本書を手に取られた読者もまた、平和な時代を歩んでいることを望む。

 

 

 統一歴二〇〇一年 八月一日

岩本三郎

 



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