カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》 (山中 一)
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第一章 雷神来襲編
一話


「こんなことにならないように生きてきたんだけどな」

 

 呟く少年の姿はどこか異様だった。

 アジア系の顔立ちに、それなりに引き締まった身体。顔立ちは比較的整っている。十人に二、三人はかっこいいかも、と思うくらいだろう。問題はその衣服だ。着古しているというのとは違う、無理矢理引き裂かれたかのようにボロボロだ。それに反して、身体のほうには傷一つない。乱暴されたのであれば、身体のほうが傷ついていなければおかしいではないか。

 では、少年の服はなぜ引き裂かれているのか。

 周囲をみれば多少の推測はたてられるだろう。

 むき出しになった岩盤、砕け散った建造物、倒れ用を為さない石柱、どれも数時間前までは神々しいまでに美しく輝く遺産として、管理されていたものだ。

 それが、今や爆撃に晒されたかのように無残な姿を晒している。その中心に横たわっていたのがこの少年だ。

 少年はここで何を見たのか。状況を見れば、歴史遺産の崩壊に巻き込まれたのは間違いない。では、なぜ彼は無事なのか。

 世の科学者を集めても、決して解けない難問の解は、この少年だけが知っている。

 少年の名は草薙護堂。

 日本の高校に通う高校生。

 いろいろあって、彼はこの日、カンピオーネとなった。

 

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 

 草薙護堂は、ごく一般的な家庭に生まれた。

 父は蒸発、母は女王、祖父は誑しと内側を覗けばぶっとんだ家庭環境だが、虐待があるわけでもなく、育児放棄があるわけでもなく、家族仲が悪いというわけでもない。

 しかし、護堂には悩みがあった。それも生まれたその瞬間から。

 そう、護堂には母の腹から出たそのときから自我があったのだ。しかもその瞬間にはまだ、それ以前の記憶――――即ち、前世の――――があった。

 護堂と名を呼ばれたその瞬間に、もしや、という予感があり、妹が静花である段階で諦めた。

 ここは『カンピオーネ』の世界だと。自分は草薙護堂になったのだと。

 それは、かつての自分が愛読していたライトノベルの世界。なぜ、この世界にやってきたのかまったくわからない護堂は、ひたすらに身の振り方を考えるしかなかった。

 この世界は、その他多くのファンタジー小説と同様に、魔術があり、神様が出てきて大暴れする。一般人と呼ばれる全人口の大半を占める人間はそのことに気づかず、安寧とした生活を送れるが、裏社会に出れば、魔術、騎士が跋扈し、指先一つで国を滅ぼすまつろわぬ神などというチートな存在が出現する危険地帯だ。

 しかも自分は草薙護堂。

 カンピオーネの主人公。

 神様と戦う可能性は、決してゼロではない。

 そして、この護堂には、そうなったときに生き残れる自信がまったくなかった。

 このまま行けば、カンピオーネとして神様と戦うことになるかもしれない。

 死ぬかもしれない、死ぬのは嫌だ。だから、決めた。

 見た目は、普通の世界なのだ。だったら原作に関わらないように生きていこう、と。

 

 

 以降の護堂の生活は、質実剛健素直実直と表現していいだろう。

 

 

 なにせ前世の記憶があるのだ。

 当然他の子供と異なる思考をするし、学力面では他者は相手にならない。それでいてほかの子供にあわせる気もなかったので、中学時代はぶっちぎりの学年一位。生徒会長まで務めるまでになってしまった。部活は野球部ではなくサッカー部に入った。ちなみに部長で都の代表にもなった。

 別に目だっていけないわけではない。ようは、訳の分からない連中に関わらなければいいだけの話。であれば将来のことを考えて多くの実績を積み重ねることこそが肝要だった。なんだかんだで上に立つのが楽しかったということもある。

 めざせ、一流企業。もしくは国家公務員。

 社会的地位の保証された一般職に就きたいと、努力を怠ることはなかった。

 順風満帆、この上ない完璧な人生を送った結果、卒業後の進路は進学校で有名な私立城楠学院高等部だった。

 

「なんで、だ……」

 

 進路が決まった瞬間の護堂はこう漏らした。

 高偏差の学校に悠々と進学を決めたのだ。普通は喜び勇み新たな生活に心を弾ませるところだろう。

 しかし護堂は見るからに狼狽し、最後には肩を落とした。

 

 

(ここにだけは行きたくなかった……!)

 

 妹が通っている手前口に出すことはないが、心の叫びはいかほどのものだったであろうか。

 なにせこの学校は『原作で護堂が通っていた学校』なのだ。

 原作から離れようとするならば、選択肢に入れることなどありえない。が、困ったことにこの学校は進学校で、護堂は成績優秀。そして、妹も中等部に在籍と三拍子そろっていた。第一志望を公立の、幼馴染の徳永明日香と同じ高校にして、いざ、私立は?となったとき、必然的に選ばざるを得ないのだった。選ばないというのは、明らかに不自然だからだ。

 内心の葛藤を押し殺して、受験し、見事に合格だった。

 そして運命の悪戯か、第一志望の公立校は、受験日に事故にあって受験できず、母がそのまま私立に手続きを強制的にしてしまったものだから、護堂のこれまでの計画は実に危険水域にまで達してしまったのだった。

 

 

「ま、そのほうがあんたのためになるわよ」

 

 と、残念そうに幼馴染は呟いていたのは、記憶に新しい。

 しかたないと、護堂は頭を切り替えた。

 同じ学校に行くことになったからといって、必ずしもカンピオーネになるわけではない。

 関わらなければいいのだ。原作と。普通の高校生活を楽しむさ、と護堂は入学に向け、学校から出された春休みの課題に取り組むことにした。 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 原作に関わらない、ということを非常に甘く見ていたということを今まさに護堂は痛感していた。

 三月上旬。中学を卒業した護堂は春休みだ。

 目の前には二人の老人が酒を酌み交わしていた。

 一人はおなじみの草薙一郎。護堂の祖父で、原作同様女誑しで有名だ。もう一人はその古い友人で都内の私立大学で教鞭を振るっている高松先生。

 ああ、知っている。この展開を護堂は知っていた。 

 

「待て待て、あの女とは二度と会わないって千代さんと約束しただろう!」

 

「約束? あれはたしか空港までは見送りに行かないとかじゃなかったかな?」

 

 他者はそうは思わないだろうが、これは護堂の人生を一変させる会話だ。

 また、有意義な情報もある。

 この会話は原作時系列において最も初期のものなのだ。ゆえにそれ以前の情報はまったくなかった護堂にとって、この会話の有無によって護堂という個人ではなく、世界全体の流れを知ることができたのだ。

 

  

(……今のところは原作通りに事が進んでいるってことかよ)

 

 護堂自身は城楠学院への進学を決め、目の前にはプロメテウス秘笈を巡る老人達の口論が展開されている。護堂がどれほど努力しようとも、結局進路一つ変更できなかったのだ。世界規模の事象の流れに干渉できるはずもなかったのだろう。

 

(だけど、ここでイタリアに行くことがなければ、俺は神様に出会うこともなく、間違ってもカンピオーネになることもない。そしてアテナも来ないから東京が闇に沈むことはない……)

 

 少なくとも、一巻の内容くらいなら、なんとかなりそうだ。

 万里谷祐理は完全に赤の他人なのだから、ヴォバンから助ける義理もなくなる。というかできない。見捨てることになるのは、多少良心は痛むが、それは不要の感傷だろう。

 

 

(結局、ここでイタリアに行くのか、行かないのかということが将来を別つことになるわけだ)

 

 よくよく考えれば、これまでの努力など、このイベントを乗り切った後に必要なスキルを身につけるためのものだった。

 原作に関わらないというのであれば、このイベントにこそ、関わらなければよいのだ。

 

  

(茶菓子は出したし、もう退席していいだろう)

 

 と思って腰を浮かせた瞬間に、高松先生がこちらを向いた。

 いやな予感がしたのはそのときだった。

 おいまて、ヤメロ。

 

「頼む、君からも何か言ってやってくれないか。護堂君!」

 

「え゛、いや、俺は……」

 

「このままでは一郎さんは、千代さんとの約束を平然と破って海外に行ってしまう!それは止めないといけないんだ!」

 

 えらく真剣は表情で、高松先生は護堂に詰め寄った。

 高松先生は実直な人間だ。亡き護堂の祖母のためにここまで言ってしまえる人間を護堂は他に知らない。

 そして、その内容も、護堂の家庭に関わる問題なのだ。決して無関係とはいえないというところがあった。

 

「確かに、高松先生のおっしゃるとおりです」

 

 だから護堂は高松先生を援護せざるを得なかった。流れが危ういところに向かっていることも確かだが、草薙家長男として家風を乱すわけにはいかないし、『最近お爺さんに似てきたねえ』などと言われてしまうのも論外だ。これ以上、祖父の浮名を流すわけにはいかない。

 

「その石版みたいなものは壊れにくそうだし、郵送でいいんじゃないのか?何もじいちゃんが届ける理由はないと思う」

 

「いや、とても貴重なものみたいだからね。手渡しするべきだと思うんだよ。僕も伊達に民俗学を教えていたわけじゃないんだ。こういった貴重品を郵送するのは学者として気が引ける」

 

「む……う」

 

 こじ付けがましく聞こえるが、残念ながら護堂には言い返す術がなかった。そもそも、旅行すること自体止める資格があるわけでもない。草薙一郎は曲がりなりにも老後を楽しく過ごさんとする一老人なのだから。

 

 

「だけどじいちゃんが行けば、ばあちゃんとの約束を破ることになるって言うじゃないか。それは孫として認められない。これは、家の問題でもあるんだ」

 

 なぜか、そこで高松先生と一郎はほう、と感心したような息を吐く。

 そして、視線を交わした。

 長い付き合いの親友同士だからできる無言の意思疎通。

 まずい、と護堂の直感が告げていた。

 

「じゃあ、護堂に聞くけど、郵送と僕が手渡しする以外の代案があるかい?」

 

「それは、ないけど」

 

「そうか、だったらこうしよう。これは護堂に預けるよ。僕の代わりにルクレチアに届けてくれ」

 

「ちょ……」

 

「それがいい。護堂くんもずいぶんと頼もしくなってくれたみたいだしね。海外の一人旅もいいものだよ」

 

「待……俺の話を聞いてくれ」

 

「じゃあ、よろしく」

 

 といって、話をたたもうとする二人。

 彼らからして見れば、ただ祖母との約束をどうするのかという一点のみが焦点だったわけで、護堂がイタリアに行った挙句、金髪騎士に剣で脅され、正真正銘の神様相手に命がけでドンパチし、魔王にまでなってしまうかもしれないという可能性を予見しているわけでない。

 

 

「だ、だったら、俺のほうからも頼みがある!! イタリアに行く前に、他の国も見てみたい!! ユーロ圏のどっかでいいからお勧めの場所を教えて!!」

 

 最早イタリアに行くことは回避できそうにない。

 だから、最後の手段。

 時期を遅らせることを選択した。

 ほうっておけばウルスラグナとメルカルトがぶつかり合って消える。もしくはそれに類する状態になるだろう。とにかく、この二柱の神が通り過ぎてからサルデーニャに行こうと考えたのだ。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 結局海を渡った護堂だったが、概ね目的は達したといっていい。 

 ヨーロッパ各国を電車の旅で巡ることになった護堂はその途中でイタリアで発生した異常気象の情報をネットで知り、歓喜した。

 メルカルトの嵐だ。

 これが過ぎ去った後で、悠々とサルデーニャに上陸すればいいと、護堂はイタリアの北部に入ったところでほくそ笑んでいた。

 

 

「ここ、いいかな?」

 

「え、はいどうぞ」

 

 金色の髪の少女が発した言葉が日本語だったことに驚いたが、心ここにあらずの護堂はまったく気にしなかった。

 いま、護堂の脳内は順風満帆の一般人生活への妄想に突入していたからだ。

 これが、普段の、とりわけ神や魔術といった非常識を意識しまくっている護堂であれば、気づいたかもしれない。そこまでいかなくても、注意はしていただろう。

 この窓を優雅に眺めている少女が、放つ、ある種の神気に。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 そして、冒頭に戻る。

 全てが終わって、護堂は慄然とした。

 

 

「やってしまった……」

 

 手元にはプロメテウス秘笈。すでに力を失ってただの石版と化していた。

 使い方は原作の通りだった。

 電車でご一緒した少女が神様モドキだとはまったく思いもしなかった。

 正体を現したところで、護堂は秘笈の力を行使した。せざるを得なかった。魔術師に知り合いなんていなかったし、神様が暴れればどんな事態を招くか、それはネットで見た大嵐で一目瞭然だろう。

 知識ではなく、現実の脅威としてそれを認識していたから、抵抗するしかないと意を決することができた。

 少なくとも、対処することのできる道具を持っていながら逃げることはできない。逃亡を護堂の良心が咎めたのだ。

 だからできる限りのことはしよう。

 石版を使えば相手の権能を盗むことはできるし、そうすれば戦力はガタ落ちだ。あとは、駆けつけてきた魔術師が何とかするだろう。と思っている間に、あれよあれよと事態が深刻化し、気がついたときには、倒していた。

 消えていく少女の優美な微笑が瞼から離れない。

 それは、今後戦いに明け暮れることになる護堂への手向けの笑顔だったのか。

 頭を抱えながら、このままではいろいろとまずい。仕方がないからルクレチアのところに行って日本に帰ろう、とサルデーニャに向かうことにしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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二話

 草薙静花。小柄な身体に気の強そうな目つきの少女だ。快活な印象に反して、部活動は茶道部。彼女の好みは和。ベッドよりも布団派である。

 聡明な彼女は、物心付いたときから自分の家庭が人と違うことを漠然と感じ取っていた。

 一緒に暮らすのは祖父と兄で両親はほとんど家に帰ってこない。

 父は家を飛び出してしまったし、まれに帰ってくる母親は、嫌いではないが、母としての仕事はほとんどしていない上におそろしく女王様。数多くの男に貢がせているという怪物だった。

 そんな家庭に育ったから、同世代以上に感性は鋭くなる。

 これではダメだ、という向上心が芽生えるのだ。

 大人びた性格は、幼い集団の中では浮いてしまう。

 教師や大人からの評判はよかったが、同世代からは一目置かれすぎて意思疎通に齟齬を生じるようになった。 

 異質は排除。

 それが、日本の風土であるのなら、静花は格好の的だろう。

 出る杭は打たれるともいう。

 彼女にとっての不幸は、兄の護堂がそういった状況におかれたときもうまく立ち回ったのに対して、彼女自身は多少しっかりしているだけの子どもに過ぎなかったということだ。

 学校で友人間のトラブルを家族に伝えることができずに悩みに悩んでいたとき、救いの手を差し伸べてくれたのは護堂だった。

 護堂は静花の様子がおかしくなったことに素早く気づき、手を回し、また静花を励ました。

 今、静花がしっかりものの姉御肌として多くの信頼を集めるに至ったのも、護堂の影響が非常に大きい。

 兄は、静花にとって、尊敬すべき人物だった。

「……」

「なんだ?」

 朝食のトーストを齧っている護堂は、妹から投げかけられる視線に困惑した。

「お兄ちゃん、なんでサッカーやめたの?」

「また、それか。いろいろ考えることがあったんだ。いろいろな」

 静花は追及しなかった。

 護堂の答えに納得したわけではない。事実、顔には納得できない、とはっきり書いてある。が、同時に視線は困惑の色を湛え、疑惑と整理できていない複数の感情を映している。

 イタリアから帰ってきた後、静花は護堂の雰囲気の変化をいち早く感じ取った。

 伊達に兄を追いかけていない。

 それまでの、どこか硬い、肩肘はった雰囲気から、一皮向けた開放感を漂わせていたことに新鮮さを感じたものだ。

 何があったんだろう、と当然思うことだろう。

 高校に入学してから、まさかの帰宅部。

 怪我をしたわけではない。

 サッカー部の体験入部にもいって、先輩方と交流し、模擬試合で得点も取っていたはず。

 であれば、サッカー最前線のイタリアで才能の差に失望、などということではあるまい。

 ならば勉学か、といえばそれもありえない。

 入学早々行われた学力確認テストでは、中等部あがりの、つまりより先を勉強している生徒を押しやってトップだ。

 つまり、よくある勉強についていけない、ということでもない。

 可能性として最後に上がったのは友人関係のこじれ。

 ここまでくるとイタリアは完全に関係なくなるが、護堂の変化がイタリア旅行後だったとしても、それがサッカー引退につながったという証拠もない。別物と考えるのなら、友人関係が最も怪しい。

 ところが、それもあっというまに覆された。

 草薙護堂の友人関係はいたって良好。

 クラスの中心というわけではないが、それでも一目置かれる存在として認知されているというのだ。 

 実のところ、護堂を見る眼は多い。

 同じ中学の出身者だけではなく、静花の周囲にも、当然その兄である護堂と面識のある娘もいる。

 そういった娘が、時折護堂を見に行っているらしい。

 曰く、今までよりも話しやすくなった。

 これは、親友その一の唯の言。

 護堂ファンの一員であり、人見知りの激しい彼女をして、そう言わしめるのだから護堂が人間関係で困っているということはないと言いきれる。

 護堂は外見は悪くない。とはいえ、誰もが振り向く、というほどではなく、いいかもと思う程度だ。実のところ、モテモテの祖父一郎もそうなのだが、草薙一族の本質は外面ではなく、内面にある。それを思えば、護堂は一族最大の傑物である祖父すらも凌駕するポテンシャルがある、と静花は妹目線ではあるが、そのように評価していた。

 第一、サッカーを止めておきながら、依然としてファンがいるというのはこれいかに。

 護堂のサッカー関係者から、あいつを引き戻してくれ、と頼まれたことも一度や二度ではない。そのつど、自分でも理由が分からない、と断りを入れるのが虚しかった。

 静花の不安、不満はわりと幅広い。

 結局、この日の朝も静花は護堂の変化の理由を察することができないまま登校することになったのだった。

「ありがとな」

「な、なに?」

 学校に行く途中、不意に兄から感謝され、戸惑った。

「心配してくれてただろ」

「分かってたなら、サッカー辞めた理由とか、イタリアで何があったのかとか教えてくれてもいいんじゃない?」

 少し強めに、静花は言った。

 言って、しまったとも思った。 

 詮索してはいけないことだったのではないか、と。

 だが、護堂はからからと笑った。

「理由か。うん、結構簡単なことだよ」

「簡単?」

「ああ。結局、人間行き着くところには行くもんだなって思ったんだよ。イタリア行きがきっかけではあったけど、行かなくてもいつかはそうなったんだろうとも思う。割り切ったってことだな」

「それは、諦めたってこと?サッカーを」

「視野が広がったってことだ。それまで分からなかったことが分かった。見えなかったものが見えた。感じられなかったことが感じられた。サッカーを止めたのは、あくまでも俺がそう決めたからだ。諦めとは違うんじゃないかな」

「よくわかんない」

「いつか分かるさ。おまえも、おまえなりに考える時がくる。そのときに、自分なりにちゃんと決断するようにしろ」

 護堂はこれまで、運命に逆らう、というよりも逃れるために努力してきた。逃避のための努力だった。しかし、イタリアでカンピオーネとなったことで、十五年に渡る努力が水泡と帰し、魔王の称号を得てしまった。

 考え方、視点、あらゆるものががらりと変わった。

 これまでのような努力を続ける意味もなくなった。

 それが、今回の護堂の変化の正体。

 ある種の燃え尽き症候群であり、そこから立ち直って、今生きている中で何ができるのか、というこれまでの後ろ向きな努力から、一転して真の意味での自己の向上を図ることができるようになった。

 静花の感じた、開放感、とはこれのことだった。が、それを静花に説明してはならない。結果として、このような感性的な言い回しにならざるを得なかった。

 静花は、

「ん」

 とだけ答え、護堂の言葉に反対するでも、賛成を示すこともなかった。

 護堂が言った内容は静花にはよく分からないことだった。むしろ、分からせないようにしているとも思えたが、ただ、護堂が決して後ろ向きな理由で高校生活を送っているわけではないことははっきりした。

 それが嬉しくて、同時に、少し大人びた兄を寂しく思った。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 カンピオーネの権能は、とてつもなく感覚的だ。

 理論なんてあったものではない。

 細かいことを考えるよりは感じたままに使え、というのが、権能の使い方だ。当然取扱説明書なんてものは存在しないし、全て我流で扱わなければならない。

 権能の中には、使用条件があるものも存在する。

 もし、護堂が原作通りにウルスラグナを倒していたら、極めて多彩な使用条件に四苦八苦することとなっただろう。

 が、倒した神の違いからそうはならなかった。 

 護堂が手に入れた力は非常に汎用性に優れたものだった。

 自由自在、風のように気ままに、暴君のように激しく、清流のように緩やかに。

 自由度の高さは権能の中でも指折りだろう。

 その代わり、どのように使うのか、光るも腐るも護堂のアイデア一つにかかっているという点では厄介だろう。

「草薙、何してんだ?次体育だぜ」

「ああ、ボーとしてた。すまん、すぐに行く」

 いけない、いけない。と、護堂は手早く服を着替えて、友人たちの下へ向かう。

 高木、名波、反町の三人組みは、くせが強いながらも面白い連中で、一緒にいる機会が多い。

 馬鹿なことを全力でやる、というのが、護堂の見立てであり、事実、彼らは集団で騒動を起こしてくれる。

 日々の生活に、これといった不満はない。

 あれほど忌諱していた城楠学院での生活は、思ったよりも快適で、楽しかった。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □ 

 

 

 

 

 歳を重ねるごとに、時間の流れを速く感じる現象をジャネーの法則と呼ぶらしい。

 心理学的にも証明されていることだというが、護堂は一日一日を楽しく過ごしているぶんだけ、体感時間がより短くなっているのかもしれない。

 瞬く間に六時間目が修了し、教科書をカバンに詰め込んで教室を出た。

 彼女なんていないけれども、十分すぎるほどの充実感を味わっている。

 今から明日の学校が楽しみなくらいだ。

 これも、いろんな重圧から逃れた影響なのだろう。

 教室棟の人気はすぐに少なくなる。

 駄弁る学生は散見されるが、多くは都心に繰り出していったり、部活に向かったりするために、いなくなってしまうのだ。

 運動系の部活は、体育館やグラウンドと相場が決まっているし、文科系も教室棟にはいない。

「暇だ……」

 そう、暇である。

 サッカーに明け暮れていた日々が懐かしい。

 原作護堂が言うように、この身体はすでに戦うという一点において異常すぎるほどに特化している。

 集中力、反射神経など、スポーツに必要な能力が常時完璧以上に引き出せてしまうのだ。

 自分はズルをしている、という引け目があるのだから、引退するには十分すぎるほどの理由になる。

 もちろん、その辺りはすでに割り切ってある。

 今、胸中にあるのは、ただの懐かしさであり、決して後悔ではない。 

 なんとなく、廊下をぶらぶらと歩いていると、ガチャガチャという物音が聞こえてきた。

(あれって……)

 目前の角を曲がってきたのは、茶色みがかった髪の女の子で、大きな段ボール箱を両手で支えて悪戦苦闘していた。

(万里谷祐理か……)

 入学早々、話題に上った人物であり、護堂もその姿を遠目から確認したことはある。直接の面識はまだない。護堂のことをカンピオーネだと知っているのは、未だにルクレチア・ゾラとエリカ・ブランデッリだけだった。

 ふらふら、ふらふら、と揺れながら、そろそろと歩いている。

 前が見えているのかどうかも怪しい。

 と、護堂が見ているその前で、ついにバランスを崩して段ボール箱をひっくり返してしまった。

「ああッ!?」

 派手な音が響き、中身が飛び出る。

 茶碗や湯のみ、匙、ビニールに包まれたままの茶葉たち。その他用途の分からない金属製品などが転がり出る。

 護堂の足元に転がってきたのも、その一つだった。

(織部焼、のレプリカか。まあ、高校の茶道部だし、こんなものだろうな)

 幸い、中身は割れるようなものではなかったようだ。

 入っていた茶碗なども、軽い音からして割れ物ではない。

 しかし、すべてをダンボールに詰め込んで運ぶとなると体力を使う。祐理に、そんな力はないはずだ。

「手伝うよ」

「え?」

 あせあせ、と落ちた物品を拾い集めているところに声をかけた。祐理は、護堂に気づいていなかったのだろう。驚いていた。

「し、しかし……」

「これ、また一人で全部持っていけるのか?落としちまうんじゃないのか?」

「それは……」

 祐理にもこの荷物を運ぶ自信はなかったのだろう。口ごもった。

 それでも、面識のない人間に荷物を運ばせる、ということに抵抗感があるのか、頼むとは言わない。原作通りの生真面目な性格だなと護堂は苦笑した。

「な、何を笑っているのですか?」

「いや、真面目だなと思ってさ」

「はあ……」

「で、これはどこにもって行けばいい?」

 と、言って、さっさとダンボールを持ち上げた。確かに、少し重い。だが、持てないというほどではない。

「え、でも」

「早く言って。さすがに疲れる」

「あ、はい。それでは、茶道部の部室にお願いします」

「はいよ」

「すみません」

「いいよ。どうせ暇を持て余していたんだ。運動不足だったしね。ちょうどいい運動さ」

 近くで見て、なるほど、確かに周囲が騒ぐだけのことはあると護堂は思った。

 気品というものが感じられる女の子というのは、そうそうお目にかかることができない。それで成績優秀、公家出身となれば、俗世に生きる凡俗な男衆にとっては高嶺の花に間違いない。

 実のところ魔術業界でも媛巫女なる特殊な階級にあり、その能力は世界最高峰という超人だ。

 城楠にいるのが不思議でしょうがない。もしかしたら、この学院は魔術に関連する施設なのかもしれない、と勝手に想像を膨らませる。

 そうこうしている間に茶道部の部室に到着した。

(遠すぎんだろ)

 と、護堂は内心思っていた。

 無理もない。茶室があるのは、『和室棟』である。

 城楠学院の敷地はとてつもなく広い。

 高等部と中等部の間には林があり、池まである憩いの場。庭園風の造りだ。昼休みともなればここで駆け回る生徒も多いし、放課後にはアベックの密会場所になっていたりもする。

 文科系の部活もこの辺りに居を構えていて、和室棟もここにある。外観は長屋に分類される。

 ドアを開けて、中に入る。といってもその先にさらに廊下が続く。

 目的の十二畳ほどの茶室にたどり着き、ダンボールを抱えて中に入った。

 中にいたのは五人の茶道部員。女の子だけだった。皆一様にこちらを向いて固まっている。

「え?」

 一人、驚きの声を上げたのは、静花だった。

「なにしてんの、お兄ちゃん」

「見て分からないか妹よ。荷物運びだ」

「いや、分かるけど……」

 静花が聞きたいのは、なぜ、祐理の荷物を護堂が運んでいたのかということなのだが。

「静花さんのお兄さんなんですか?」

「言ってなかったっけ?草薙護堂といいます。家の妹がお世話になってます」

「万里谷祐理です。こちらこそ、静花さんには助けられてばかりで」

 本当に今さらな自己紹介だった。

「じゃあ、そろそろ帰るから」

「あ、少しお休みになりませんか。お飲み物もお出しします」

 律儀な祐理を、いいよいいよ、と制止した。

「さっさと退散しないと妹が怖い」

 と肩をすくめて見せた。

「何でよ!!」

 静花が叫ぶが、聞き流す。この辺りのあしらい方は心得ていた。

「じゃあ、また」

「はい、今日は本当にありがとうございました」

 祐理が礼をいい、護堂はそのまま茶室を立ち去った。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 万里谷家は学校の生徒たちが噂しているように公家の家柄だ。

 といっても祐理がそれを誇ったことは一度もない。それは万里谷家が公家としては低い位置にいることと、現時点でも両親が特別高貴な職種についているわけではないということ、友人が正真正銘の高貴な家柄ということもあって自分の出自を特別なものという認識がなかったことによるものだ。

 彼女の家庭は、もとがどうあれ一般的な中堅層であり、多少呪術と縁もあるものの、特に強力な呪術者を輩出したわけでもない。

 未だに海外の呪術者などとも親交があるが、かといって万里谷家が優秀な呪術の家ということではないのだ。

 祐理自身も、本来であれば、呪術の存在を知るというだけの、それ以外はごく普通の少女として一生を終えるはずだった。

 祐理が世界最高峰の精神感応能力を持って生まれていなければ。

 この一点があったために、祐理の人生は大きく変わることとなる。

 媛巫女の資質。

 はるか神代から続く高貴な血に受け継がれる特異な能力。神祖を祖とする一部の家系にのみ発現し、その力を日本政府は代々守り育ててきた。

 媛巫女は、その能力の希少性、そして血によって大いに尊崇を集める役職なのだった。

 その力ゆえに、彼女の人生には大きな波乱もあったのだが、最近はとくに何か大きな問題が生じることもなく、いたって平和に日々を過ごしていた。

「はあ……」

 そんな万里谷祐理の最近の悩み。

 その渦中にいるのは草薙護堂だった。

「結局、お礼をしそびれてしまいました……」

 口先だけで礼を言ったくらいでは祐理の中では礼をしたということにはならないのか、というとそうではない。過度な謝意は相手を不快にさせるだけということをきちんと自覚しているし、護堂のほうももう気にはしていないだろう。

 そもそも、男性に免疫のない祐理は普通に話すだけでも苦手意識から硬い応対になってしまうのだから、このようにもう一度なんとか会話の機会はないものかと考えること自体が希。

 静花の兄というポジションが警戒心を大いに引き下げているのは事実。

 しっかりもので頼りになる後輩の兄ということは、自分自身との間接的な接点だ。

 人間という生き物は、ほんの僅かな縁でも自分と関わりがあれば親近感を抱いてしまえるように、祐理が他の男子と護堂の位置を別に捉えているのも、これによるところが大きい。

 というように、決して護堂に悪感情を抱いていない祐理ではあるが、未だに護堂との会話を成立させてはいなかった。護堂と話をしてみようとするときに限って、彼の周囲に人がいるということもあって結局進展はない。自分が護堂にお礼を言って、多少会話をするということのために、他人との会話を断ち切ってまで乗り込んでいく度胸は、さすがにない。

 そもそも、男子と話をするということに頭を悩ませるという事自体が、万里谷祐理史上初のことなのだが、当の本人にはその自覚はまったくなかった。

(どうすれば……)

 と、悶々とする日々を送っている。

 と、そんなときに、

「あ……」

 と祐理は声を漏らした。

 髪を梳いていた櫛が唐突に折れてしまったのだ。流れるようなさらさらとした髪には櫛を折るような抵抗はない。自然、胸に去来するのは漠然とした不安感だった。

 何かあるのではないか、と思いながら身支度を整えた祐理は、部屋の外に出る。

 そこは神社だった。

 名は七雄神社。歴史は古いが、有名というわけではない。しかし、歴史の裏側に存在する者たちにとっては比較的重要な意味合いをもつ場所でもある。

 白衣に緋袴という出で立ちで、拝殿に向かう。

 媛巫女としての職務を遂行するためである。祐理のような特別な役職に就く少女は絶対数が少ないながらも確かに存在する。

 年齢が考慮されてはいるが、その能力を利用するために幼いころからの組織への奉仕が義務付けられているのである。

「やあ、媛巫女。お初にお目にかかります。少しお話をさせていただけますか」

 ぶしつけな声をかけたのは、よれたスーツを着た男性だった。

 祐理を媛巫女と呼ぶのは、呪術に関する職務に携わる者だけだ。この男もそうなのだろう。これまで、何度も仕事の依頼を受け、能力を使ってきた彼女には、また自分の力を必要とする案件が発生したのかと、ごく自然に受け止めていた。

 ただ、聞きもしていないその職務内容に、言葉にできない不安を感じ取ってしまっているということが、これまでとの違いだった。




実のところ現在進行形で実習中。本当は書いている余裕なんてないんだけれども、途中までは書いていたしということで投稿。次は結構後になりそうです。まあ、レポートにPC使うんで、このサイトを見ることはしますが、投稿はしないと。


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三話

 甘粕冬馬が歳若い敏腕上司からその任を仰せつかったのは、祐理の下を訪れる前日の深夜になってからのことだった。

 元来人使いの荒い上司に、この日も曰くつきの呪具の調査を任され、疲労困憊としたところでのことだったのだが、上司の口調がいつになく真剣だったことから、ただ事ではないと即座に察したのだった。

 冬馬は、日頃の立ち居振る舞いこそ真面目とはいいがたいものがあるが、その実力は同僚から一目置かれるほどのものがある。それは呪術の腕前だけでなく、空気を読んで行動するといったような大人としての基本的な対人スキルの他、事務能力などもあり、それらを総括して上司の右腕として走り回る日々を送っている。

 よって、突然の呼び出しが、決して朗報ではないことを口調だけで悟り、進路を自宅から職場へ切り替えることにも躊躇いがなかった。

 口ではぶつくさといいつつ、冬馬は職務に忠実だったのだ。

「やあ、甘粕さん。こんな時間にすまないね」

 職場に着いたとき、気さくに冬馬を出迎えたのは、美少年、にも見える男装の麗人だった。

「馨さん、そう言うのなら規定の時間内に用事を済ませて欲しいですね」

「そうも言っていられない事態になってしまったから、甘粕さんを呼んだんだけどね」

「それは?」

「単刀直入に言うと、この国にカンピオーネが生まれた可能性がある」

「は?」

 その瞬間、冬馬の脳は一瞬停止した。

 この男らしくない、素の表情で、問い返してしまった。

「まさか、そんな嘘でしょう。カンピオーネになるには『まつろわぬ神』を殺さねばならないのですよ。ここ一月、『まつろわぬ神』の降臨はイタリアのサルデーニャ島付近の情報しかありませんよ」

「そして、そのサルデーニャ島の『まつろわぬ神』、ウルスラグナとメルカルトの戦闘は、ウルスラグナの敗北で幕を閉じた。生き残ったメルカルトも大きなダメージを受け、そこにやってきた七人目と戦い消滅ということみたいだね。イタリアの名門、《赤銅黒十字》の大騎士であるエリカ・ブランデッリの証言があるよ」

 冬馬は、上司には失礼ながらも、デマに踊らされているようにしか見えなかった。しかし、そんな冬馬を他所に、馨は続ける。

「今のところは状況証拠と、そのエリカ・ブランデッリとルクレチア・ゾラの二人からの報告しかないんだ。七人目のカンピオーネは日本人だということを証言しているだけで、確証は向こうもとっていない。半信半疑だけれども、地を極めた魔女と大騎士の言だ。無碍にはできない。当然、僕たちも、ね」

「なるほど。それで、状況証拠というのは?」

「航空写真でよければ見るかい?なかなか派手に暴れたみたいだよ」

 馨は茶褐色の封筒から、A4プリントを取り出した。

 そこには、数枚の航空写真とそこに写されているものに対する考察が記されていた。

「場所はサン・クイーリコ・ドルチャですか。建物の倒壊に、道も寸断されていますね。地震でも来たのでしょうか」

 サン・クイーリコ・ドルチャ。

 イタリアのトスカーナ州シエナ県に属するコムーネ(自治体の最小単位)の一つであり、ヴァル・ドルチャを構成する一要素でもある。人口は二千五百と少ない。

 ヨーロッパという石造りの文化は数世紀といわず、中世以前の建造物も原型をとどめ、今でも利用されている。サン・クイーリコ・ドルチャもその例に漏れない、のだが、この写真に写る町並みは、無残なものだった。

「残念ながら、そのときイタリアを襲っていたのは大嵐さ。地震ではないよ」

「嵐のほうにばかり目を向けていたら、懐に入り込まれたと」

「そんなところじゃないかな。もっとも、この街からは呪力は検出されていないんだ。だから、向こうも、僕たちのお偉いさんも確信が持てない。神にしかできないような破壊を呪力なし、災害なしでどうやって起こす?」

「隠匿的な能力」

「近いね。どちらかと言えば、すり抜けるとか、逸らされるという感覚に近い、というのが現地調査をした魔術師の感想だそうだ」

「呪的探査の網を抜けるわけですか。とすると」

 冬馬の視線がレポートから馨に移る。

「そう、この神を倒したとされる日本人の少年にもそうした力がある可能性がある。並の呪術者では気づけないかもしれないね。実際、ルクレチア・ゾラでさえ、意識しなければ分からなかったそうだし」

「最上級の霊視能力が必要ということですか。となると、彼女以外にいませんね」

「そういうことになるね。それに、何の偶然か、彼女と少年は同じ学院だ」

「ほう、それはなかなか萌えるシチュエーションですねえ」

 

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 祐理の下を訪れた冬馬は、最低限の情報を開示することで、事態の説明をした。このとき冬馬が説明したのは、祐理の力でなければカンピオーネであるかどうかがわからないということと、祐理がすでにかのカンピオーネとの面識があることなどを掻い摘んだものだった。

 冬馬としても、自分よりもはるかに年下の少女にこのような役回りをさせてしまうのは良心の疼くところではあったが、日本の今後にも直結する問題である以上、心を鬼にすることも致し方ないと割り切っている。

「それで、その方はどのようなお名前なのでしょう」

 祐理は、カンピオーネが存在するかもしれない、と聞かされた時点で激しく動揺していたが、このときには落ち着きを取り戻してした。

 彼女にとって、引き受けないという選択肢はない。

 媛巫女の義務以前に、カンピオーネの恐ろしさを我が身で知り、そして、恐怖の中でも自らの執るべき行動をとることのできる強い精神力の持ち主だからだ。

 同じ学院に通うとされるカンピオーネの存在に恐怖を感じても、だからといって怖気づくことはなかったのだ。

 冬馬は、事前に祐理の性格なども調べた上で訪れていたが、予想以上の強かさに感心していた。

「その少年の名前ですが、草薙護堂というようです」

「え……?」

 祐理は思わず冬馬の顔を凝視した。

 いったい何を言っているのだろう、というような表情だ。

「おや、どうされました?」

「いえ、すみません。聞き間違いかと思いますが、草薙護堂とおっしゃいましたか?」

「ええ、そう申しました」

「そんな。そのようなことが……」

 祐理は、冬馬から護堂の名を聞いても信じることができなかった。 

 祐理にとってのカンピオーネとは、暴虐の化身であり、想像を絶する恐怖の伝道者だ。困っている自分に手を差し伸べた少年とは似ても似つかない。

「もしかして、すでに面識がおありになる?」

「はい。数日前に一度、荷物運びを手伝っていただきました。しかし、そのときは、あの方から神の気配など感じませんでしたよ。何かの間違いではないのですか?」

 祐理としては、間違いであってほしいという願いを込めた確認だった。

「それは、私に言われてもなんとも。あなたに確認していただきたいことですから。ちなみに、我々としては間違いであってほしいというスタンスですよ」

「はい」

「まあ、カンピオーネでなかったのならそれでいいじゃないですか。そのときは、お茶にでも誘って、デートとでもしゃれ込めば」

「いきなり、何を仰っているのですか!」

 ぴしゃり、と祐理は冬馬の言葉を遮った。

 若干顔が赤くなっているのは、怒りよりも羞恥が強いからか。

 冬馬としては、祐理が草薙護堂を調べてくれればそれでいい。とにもかくにも、祐理が引き受けてくれる以上は、この神社にいても意味はなく、このほか重要な任務も多数引き受けている多忙の身。これ以上の雑談は時間的にも厳しいので、この頃合で切り上げることにした。

「では、朗報をお待ちしております」

 そう言って冬馬は、そそくさと神社を去った。

 残された祐理は、ただただ溜息をつくばかり。

 もっとも、七人目と目される少年は、奇しくも面識のある草薙護堂。ほんの僅かな時間しか会話をしていないながらも、人柄は祐理のトラウマであるヴォバン公爵とはまったく異なるものだった。

 その点、まったく相手を知らない状態で会うよりも精神的な負担は幾分か軽かった。

 草薙護堂と面会すると決めた祐理の行動は早かった。

 まず、草薙家に連絡を入れる。

 相手の連絡先は、静花が部活動の後輩だから知っている。あの静花の兄が魔王などとは信じられないが、もともと、会話する機会を欲していたのだからそれが向こうから転がってきたと思うことにした。

 次に、共に七雄神社で働く巫女や神職の人たちに挨拶を済ませ、電話で呪術界の友人に連絡を入れた。

 剣使いの親友は電波の届かないところにいるようで連絡がつかなかったのが残念だが、とにかく、七雄神社に関しては、自分に万が一のことがあったときのための引継ぎ資料の作成など、遅くまで仕事をこなした。神社の同僚も、連絡をとった友人もまるで死地に赴く友人を送り出すかのような言葉で祐理に挨拶した。

 家に戻ってから、家族は目じりに涙を溜め、本当にこれが最後かもしれないと家族写真まで撮る念の入れようだった。

 祐理の両親からすれば、魔王からの圧力によって娘を儀式に差し出さざるを得なかった過去があり、内心の不安と葛藤はいかほどのものだっただろうか。

 もしかしたら、稀有な能力を与えて産んでしまったことを後悔しているかもしれない。

 祐理はそんな両親とまだ小さい妹に感謝して、床に就いた。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 金曜の放課後、護堂は指定された神社へと足を向けていた。

 昨日の夜に万里谷祐理から連絡を受けたからだった。原作どおり、静花からの詰問を受けたが、すでに護堂が祐理と知り合いであることは静花も承知していたし、祐理の律儀な性格もあったので、先日の礼でもしたいのではないかとお茶を濁して回避した。いずれこの電話が来ることは予期できることだった。よって、脳内シミュレーションを行っていたから、静花を言いくるめることは容易かったのだ。

 祐理と自分はあのときにあったきりで、その際に後でお礼をすると言われた。向こうは、それを本気で実行しようとしているのではないか、ということを話せば、祐理の性格を知る静花は、しぶしぶながらに引き下がるしかない。ポイントは、真実だけで構成することにある。

(ついに日本の呪術者との会合か)

 断る理由も無い。

 カンピオーネになった段階で、呪術者とのつながりは欲しいと思っていた。

 神と戦うには、それ相応の準備が必要だ。それは護堂ひとりでは補いきれないものであり、他のカンピオーネも結社を率いたりしているのは、単に、そうした手足が欲しいからだ。

 もっとも、護堂は結社を率いるほどの部下はいらない。気になったことを相談できる友人程度でよく、祐理が仲間になってくれるのであれば、むしろ望むところなのだ。

 長すぎる石段に悪態をつきながら上っていくと、待ち合わせの場である七雄神社に到着する。

「お待ちしておりました、草薙護堂さま。突然お呼びたてして、申し訳ありません」

 予想の通り、祐理が出迎えてくれた。

 エセ巫女の集う初詣くらいにしか神社を訪れない護堂にとって、本物の巫女と接するのはこれが初めてと言えるだろう。それ以外は悪友たちが口々に言っている二次元のそれくらいだ。

「ひさしぶり、かな」

「はい、その節はお助けいただきましてありがとうございました」

 祐理は、丁寧な所作で頭を下げた。

 妹との育ちの違いは歴然だな、と護堂は苦笑する。

 静花だって丁寧語くらいは使える。が、ここまで淑やかに行使することはできないだろう。育ちのよさは、意識しない言動に表れるものなのだ。

 祐理の様子を見てみると、どうにも複雑そうな表情だ。気になる事があるのに、それがなんなのか分からない。断言できないもどかしさを感じている。

「それにしても、人気がないね。本当に万里谷一人か」

「他の方は所用で出払っておりまして、今はわたし一人になります」

「そうか。それで、俺を呼び出した理由ってのは、学校の用事?それとも仕事のほう?」

「それは……」

 祐理は一瞬口をつぐんだ。

 祐理の力を以ってしても、護堂がカンピオーネである、と断言できなかったのだ。普通、この時点で護堂を一般人と判断し、学校の礼を述べただろうが、さすがに祐理は洋の東西を跨って名を馳せる霊視術者である。護堂の内に眠る巨大な力の片鱗を感じ、判断がつかなくなってしまったのだ。一般人というほどに、呪力が少ないわけではないが、カンピオーネというには多くない。その奇妙な力の正体を探ろうとして、しかし捉えられない。

 精神感応の触手が護堂の力を尽く捉え損ねるのだ。

「……申し訳ありませんが、お尋ねしたいことがあります」

 しかたがない。腹をくくった祐理は、直接聞くことにした。もし、関係がなかったとしても、それは自分たちを安心させるだけ。

「カンピオーネという言葉に聞き覚えはありますか?」

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 護堂が倒した『まつろわぬ神』は、メッセンジャーとしての側面を強く持っている。

 いわゆる神の啓示というものを与える存在である。それを倒して手に入れた権能は、呪的感覚から逃れることができるという付属効果を持っていた。エリカやルクレチアと初めてあったとき、彼女たちほどの実力者が護堂の力を感じ取れなかったのも、この力のおかげであり、祐理ですら見抜くことができないということを以前の邂逅で証明した。 

「カンピオーネ、ね」

 尋ねられた護堂は、言葉を呑み込むようにもう一度同じことを口にする。

 祐理の視線は、今まで以上の真剣さを帯びている。

 どうやら、カンピオーネであるかどうかを確かめるつもりで呼び出した祐理ですら見抜けないようだ。精神感応、霊視に対する護堂の相性はとてもいい。なにせ、護堂のほうから積極的に相手の第六感に干渉しているのだから、干渉されている側からは、護堂の力を見ることができないのだ。ある意味で、コンピュータのハッキングに似ているところがある。

 相手のレーダーを押さえてしまえば、ステルスを使うまでもなく、こちらの姿は捉えられなくなる。

 それと同じことを、護堂はしているのだ。

 とはいえ、護堂は、祐理にカンピオーネであることを隠すつもりはなかった。

 今後、神との戦闘はおそらく不可避であろうから、その際にサポートしてくれる存在が必要なのだ。そして、護堂と魔術結社との窓口の役目は、間違いなくこの万里谷祐理だ。

 正体を明かすことに、否やのあるはずもない。

「それって、俺みたいな、神様を殺した人間を指す言葉らしいな」

 ひく、と祐理が悲鳴を押し殺したような声を漏らした。

「では、本当に『まつろわぬ神』を弑逆なさったのですか……?」

「ああ、この前イタリアに行ったときにな」

「で、ですが、あなたからはカンピオーネの力を感じません。それはいったい……」

「それは、俺の権能がそういうものだからな。俺が倒した相手は神の言葉を人々に伝えるメッセンジャーだ。多くの場合は幻視や幻聴として現れる啓示は、第六感に干渉する力になる、とルクレチアさんから聞いた」

 当初は無意識に使っていた力だったために、ルクレチア・ゾラに指摘されるまでまったく気がつかなかった。もしも、ルクレチアに会わなかったら、今でもこの力を制御できていなかっただろう。

「では、あなたが弑逆されたのは、どのような神なのでしょう?」

 恐る恐る祐理は尋ねた。

「俺が倒したのはガブリエルだ」

「ガ、ガブリエル……それは、あの天使のガブリエルでしょうか」

「そうだと思う。本人がそう言ってたしなあ。まあ、イタリアだし、天使が出てもおかしくないだろ」

「そうかもしれませんが、ガブリエルとは」

 ガブリエルは、アブラハムの宗教に登場する偉大な天使の一人である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の全てにおいて重要な役目を担っており、その多くは神の言葉を伝えることであった。

 代表的な逸話は、聖母マリアの前に現れてイエスの誕生を伝えた『受胎告知』。旧約聖書『ダニエルの書』では預言者ダニエルの前に現れ雄羊と格闘する幻視の意味を教え、イスラム教では、ジブリールという名で登場してムハンマドに『クルアーン』を与えている。イエスの誕生に先立って洗礼者ヨハネの誕生を告げ、ユダヤ王にロデの迫害が迫っていることをヨセフに警告し、エジプトへ逃れるように促したのもこのガブリエルである。まさにお告げの天使。

 そんなガブリエルだが、キリスト教の中では少々異質な立ち位置にいる。

 天使は須らく男性である、というのが基本の世界観の中で、ガブリエルだけは、女性的な特徴を多くもっているからだ。

 例えば、聖ヒエロニムスによれば、聖母マリアの前にガブリエルが現れたとき、当初は男性だと思って恐れ慄いたマリアだったが、同性だとわかり緊張を解いたという話がある。また、その手に処女の象徴である百合の花を持って描かれ、聖母マリア、ジャンヌ・ダルクといった処女との関わりや月を司る特性などがあり、ラ・トゥールの名画『聖ヨセフの夢』では女性として描かれている。聖書の中での明言こそないが、ユダヤ教時代から女性であるということを暗黙の了解としていた節があるのだ。また、月は古代において豊穣の象徴であり、大地母神に結びつくモチーフになると同時に、キリスト教における邪悪の象徴だ。

 死の天使であるサマエルが月の秘密を人間に教えて堕天使となった話もあり、同じく月を象徴としていながら高位の天使であるガブリエルの異質さははっきりとしている。

 ちなみに厳格なイスラム教ではガブリエルも男性である。イスラム教のガブリエルは、キリスト教やユダヤ教と違い、ミカエルを抑えて天使の最高位に位置しているから、女性であるわけにはいかないのだろう。

 キリスト教徒でなくとも、その偉大な名前を知らないものはいない。

 殊に、呪術者は、神話や宗教に深く関わるために、三大宗教の内二つで高い位に就くガブリエルの名はそれだけでも衝撃だった。

「そのお力で、あなたは何をなさるおつもりですか?」

「いや、何をと言われても、とくに決めてないけど。神様が来たら戦うしかないかなって思ってるくらいか。俺はほら、カンピオーネって肩書きがなければただの高校生なんだし、多分、万里谷と大して変わらないんじゃないか」

「変わらないって、そんな」

 祐理からすれば、カンピオーネは天上の存在だ。

 そんな人物が、自分と変わらないと普通に言ってくることに、多少呆れてしまった。その気になれば街一つを軽々と消してしまえる存在なのに、護堂はそれを感じさせない。能力ということではなく、人柄という点で。

「別にいいだろ。俺の夢は国家公務員なんだ。安定して堅実な仕事がいいんだよ。カンピオーネなんてなるつもりなかったんだって……」

「ふふっ」

 それを聞いて、祐理はこの日初めて笑顔を見せた。

 気づけば、昨日から続く緊張もすっかり解けていた。

「何かおかしなことでも言ったか?」

「いえ、申し訳ありません。カンピオーネたる御身が国家公務員になりたいと仰ったことが意外で」

 確かに、国家公務員とは国家に奉仕する従僕である。反骨の相しかでていないようなカンピオーネには究極的に相性が悪いだろう。

 この組み合わせはないな、というのは護堂も実は心の中で思っていたことだったりするのだった。

 

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 近年世界規模で不安定な気象状況が続いている。

 ありえない季節に雪が降り、ありえないほどに高温の地域が出たと思えば、突発的な豪雨によって洪水が発生することもあった。

 日本では、主にゲリラ豪雨なる呼称がすでに一般化していて、変化する気象に慣れ始めた頃合だろう。

 とはいえ、まだ肌寒い四月は、ゲリラ豪雨とも縁がない。本来ならば。

 今、急速に発達した雨雲が、奈良の町を襲っていた。

 数時間前までの穏やかな天候は瞬く間に漆黒の闇へと変わり、雷を伴う激しい雨によって川という川が増水し、決壊目前というところまできてしまっていたのだ。

 その雲はまさに突然現れた。

 観測衛星から送られてくる情報を分析しても、一流の科学者が頭を捻る奇怪な登場。

 その雲は、少しずつ進路を東へ向ける。

 強大な呪力を撒き散らし、東の都である東京を目指して。

 

 

 

 

 

 



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四話

 七雄神社での祐理との邂逅で、護堂は日本の魔術師とのつながりを確保した。

 これを機に、魔術師たちと関わっていく事になるだろう。その覚悟はしていたし、むしろカンピオーネになった以上は逃れられない運命だと諦観もしていた。極力戦いたくはないというのが本音だが、もしもまつろわぬ神が降臨したら、どれほどの被害が出るのか予想できない。おまけに対処できるのは護堂だけとなれば、戦うしか選択肢はないだろう。護堂は、目の前で神に蹂躙される人を横目に安全圏にいることができるほど図太い性格をしているわけではないし、同胞の中では正義感の強いほうだという自負を持っていた。

 王になったからには、どのような王であるのかということを意識すべきで、やさしい王さまを目指すのも悪くはないかな、と思っていたりする。

 文京区根津にある元書店兼自宅に向かう護堂。

 ゴルゴネイオンを持っていないのだから、アテナが東京を襲うことはない。サルデーニャでは、サルバトーレとばったり会うことだけは避けようと、メルカルト戦後疲れた身体に鞭打って帰国したのだ。結果、サルバトーレとの面識はなく、決闘もしていないので、剣士殿は無傷でイタリアにいる。おそらく、アテナと戦うのはサルバトーレになるのではないだろうか。

 家路の途中、見知った顔を見つけたので声をかけた。

「明日香、久しぶりだな」

「ご、護堂!?」

 徳永明日香は護堂の幼馴染だ。同じ商店街に居を構え、幼稚園から中学までの腐れ縁。『運がよければ』同じ高校にも通っていたかもしれない。

 それほどの腐れ縁なのだから話しかけない理由も無い。

「こんな時間にどうした?バイトじゃないのか?」

「あー、なんか今日は休みだって。注文してた食材が一部届かなくなっちゃって。川の増水でトラックが動かなくなったみたい」

「最近多いからな、そういうの」

 今このときも、日本のどこかで突然の大嵐が発生しているかもしれない。

「前から思ってたんだけど、明日香の髪型ってツインテールでいいのか?」

「なによ、突然」

「いや、この前友達が『どこまでをツインテールとするのか』って熱い議論をしてたからさ」

 三バカトリオが結成されたのはまさにこのときだった。

 激しすぎる激闘の末に、互いの力量を認め合った三人は、手と手を取り合い男の友情を確かめ合ったのだった。

 と、そんな経緯までは話さないものの、そんなことがあったと話をしたら、案の定呆れたという反応を見せる。実に正しい。クラスの女子もそうだった。

「一応ツインテールに分類されると思うけど。詳しく言うならツーサイドアップなんだけど、ツインテールの派生ってことでいいんじゃない?」

「そんなんでいいのか」

 護堂の隣を歩く明日香は、しきりに毛先を弄っている。落ち着きがない。緊張しているようにも見える。

「なにかおかしい、かな」

 明日香は不安げに尋ねてきた。

 彼女の髪型は、耳の上の髪をまとめ、残りを後ろに垂らすというものだ。外見は、ツインテールとは別物なのだが、二箇所を留めているという類似点から同一のカテゴリーにいれられているのだろうか。

「似合ってるし、いいんじゃないか」

「そ、そう……」

 なんと言うことのない言葉。それこそ友人から言われ続けて慣れてしまっているような言葉ながらも、それが護堂から出たとなれば、明日香の心情も大きく変わる。

 照れているのか、少し足を速くした。

 その背中を追いかけるように、護堂も歩を速くする。

 

 

 

 そのとき、風が吹いた。

 

 

 

 思わず声を漏らすほどの突風だった。

 家々の窓ガラスがガタガタと音を立て、ゴミ箱が倒れて缶が金属音を響かせる。ビルの合間、家の狭間を通り抜け、異様な唸り声を発している。

 駆け抜ける風は、あらゆるものを舞い上げる。

 落ち葉、ごみ、そして明日香のスカート。

「きゃあ!!」

 とっさに前を押さえることは間に合ったようだ。彼女らしからぬ可愛らしい悲鳴だったが、それに突っ込みを入れるほど護堂は命知らずではない。

 草薙護堂は魔王である以前に高校一年生の健全な男子生徒だ。これまで、諸々の事情で恋愛面にはとんと興味を示す余裕がなかったのだが、だからと言って無関心というわけではない。

 精神が肉体に引っ張られているのか、それとも精神年齢が三十後半くらいでまだまだ老成には程遠いのか、年頃の少年と同等程度には興味があることは事実だ。

 スカートという名のベールの下に広がる純白の園。

 日夜隠され続ける鉄壁の守りがかくも鮮やかに取り払われ、その内実が露になる機会がそうあるだろうか。

 数限りなく広がり、散在する細く脆い運命の糸を手繰り寄せる絶対の強運の持ち主にして、エピメテウスの落とし子。

 風の落し物は、草薙護堂だからこそ手にした楽園への入場券だった。

 そのとき、明日香は前を押さえるために前傾姿勢になっていた。舞い上がるスカートを素早く押さえた反射神経はさすがのもの。常日頃から注意を払っていることの証左であろう。だが、明日香といえども後ろまでは守るに至らなかった。後方およそ三メートル、護堂の視界にちょうど入り込むくらいまで、禁断のベールは上がってしまい、彼女の体勢は結果的に守るべきものを強調することにつながってしまった。

 倫理的に見てはならないと分かっていても、突然のことに対応できる人間は少ない。どんな人間であってもそこに目を移すことは必然であり、本能なのだ。理性が押さえる前に、視線はそこを向く。 

 広がる光景は、護堂の予想をいい意味で裏切るものだった。

 白ではない。それは黒の世界だった。両端は紐で結ばれ、華美に寄らない華柄の刺繍が入っていた。黒とは想定外もいいところ。与えた衝撃力は凄まじい。右ストレートの構えを見せながらの左フック。幼馴染はいつのまにやらアダルティな領域に入っていたらしい。

 なるほど、世間には下着には興味がないという者も多いだろう。かくいう護堂もその類だ。明日香の下着を見たからといってその考えが変わるわけでもない。だが、破壊力の変動の激しい兵器であることは理解した。洗濯物や婦人服売り場に行けば、下着などいつでも見ることができる。しかし、所詮それは表面的なものに過ぎないのだ。そこにあるのはなんの躍動も情熱もないただの布切れである。そんなものにいったいどんな感動があろうか。彼らが真価を発揮するのは、人馬一体となったまさにそのときである。

 明日香の白い肌を夕日が染め、黒の下着が全体の印象を引き締めている。

 ほんの数瞬の出来事ながら、護堂に与えた衝撃は大きい。

「み、見た?」

 恐る恐るといった様子で振り向いた明日香の顔は火が吹くのではないかというほどに真っ赤に染まっていた。

「すまん」

 嘘が通じる場面ではなかった。

「あんたは……目、目を背けるとかそういう配慮はないわけ!?」

「無茶言うな!突然のことなんだぞ!」

「開き直ってんじゃないわよ!このむっつりスケベ!」

 明日香の拳が襲い掛かってきた。

 体重の乗ったいいパンチだ。普通、ここは護堂が甘んじて殴られるべきところだろう、が、護堂はひらり、とかわしてみせた。

 理由は簡単。今の護堂を殴るということが明日香の身体を傷つけるからだ。

 鋼を上回る硬度を護堂の骨格は持っている。華奢な少女が殴りつければ、骨折の可能性すらある。

 そんな事情を知らない明日香はなんとしてでも護堂を殴り倒そうと躍起になった。

 年甲斐もない追いかけっこは、突然の大雨に打たれるまで続いた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

「はー、なんなのよもう……」

 

 明日香は真っ黒な空を眺めて悪態をついた。

 ついさっきまえの鮮やかな夕焼けは見る影もなく、激しい風と、視界を塞ぐほどの大雨に空を走る稲妻。あまりにも急な天気の変化に、道行く人は皆戸惑い、駆け抜けていく。

 二人は、近くの雑貨屋の軒下に雨宿りをしていた。

 すでに、道が川になるのではないかというほどの水量だ。

 ハンカチで水気を取ろうにも、そのハンカチが水を吸ってしまっている。

「家までいっきに行くしかないんじゃないか」

「それだと、教科書とか濡れちゃうのよね」

「……止みそうにないぞ」

 激しすぎる土砂降り。

 この中を走れば家についたころには着衣水泳を行ったかのようになっていることだろう。

 荷物もびしょびしょになってしまう。

 だが、護堂の心配はそこにはない。

 明日香にそうと見せないようにしながら、権能の触手を伸ばしている。

 超感覚。

 実は雨雲が東京の空を覆ったころから、身体のコンディションがいい。戦闘態勢に入っている。即ち。

(まつろわぬ神が来ている。嵐にまつわる力か……?)

 メルカルトがこれに似た現象を引き起こしていたことを思い出す。

 アテナが来ないからといって油断していた。

 護堂にとって未知の神格が降臨したようだ。

(雲の中、か)

 見上げる雲の奥深く。力の発生源がそこにいる。

 巨大な雷が奔った。

 最早爆発かと思われるほどの閃光と爆音に、明日香が隣で身を縮めた。

「ちょっとやばくない?」

「確かに、やばいな」

 雲に浮き上がった影を護堂は見逃さなかった。

 長い胴体を持つそれは竜のように見えた。

 《蛇》に属する神格の可能性がある。

 護堂の危機感は一層強まった。

 というのも、日光には、《蛇》に反応して現れる猿がいる。極めて強力な《鋼》の神格であり、それが現れると、今度は中国から怪物が飛んでくることになる。

 東京を舞台にした怪獣大決戦が行われることになりかねない。

 どうしようかと思ったそのときだった。

「草薙さん!」

 目の前に止まった車の助手席の窓が開き、中から祐理が顔を出した。運転席にいるのは、おそらく甘粕冬馬だろう。

「え、護堂。誰?」

「高校の友達だ」 

 戸惑う明日香にそう答え、護堂は祐理と奥にいる冬馬に話しかけた。

「この車、乗せてもらってもいいか?」

「はい、もとよりそのつもりでした。そちらの方もご一緒にどうぞ」

 護堂と明日香は、祐理の誘いを受け、車に乗り込んだ。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

「改めまして甘粕冬馬と申します。王よ」

 ハンドルを握る冬馬が護堂に自己紹介をした。

 明日香を家に送り届けた直後のことだった。

 明日香には、神社でバイトをしている友達と、神社の関係者ということで説明をしておいた。疑わしげな視線を投げかけてきたが、否定できる要素もなかったので、言葉を呑み込んだようだった。

「草薙護堂です。はじめまして」

 簡潔に挨拶を済ませた。

 今は挨拶よりも大切なものがある。

「この嵐は、まつろわぬ神によるものということでいいんですか?」

「ええ、おかげでこの辺り一帯の交通網は大打撃を被ってますよ。あと二、三時間で多摩川辺りは氾濫の危険があります」

 事は一刻を争う。

 川の氾濫が残す爪痕は大きい。早急な対策が必要だった。

「相手の情報はないんですか?」

「現在調査中です。分かっていることは降臨したのが奈良県であるということ。後は見てのとおり……嵐にまつわる力の持ち主としか」

 つまり、ほとんど分かっていない、ということらしい。

 奈良県で現れたのなら日本に関わる神格なのだろうが。

「俺の見たところだと《蛇》のように見えましたけど」

「なるほど、確かにありえそうな話です。古来、水に関わる神格は竜とつながりがありますし、それらは農耕神に行き着くのです。八岐大蛇など、もともとは田の神か川の神かといったところですし」

「わたしも、竜の類ではないかと思っておりましたが、御名となると……」

 祐理の霊視もまだ効果を発揮していないらしい。

「相手の正体が分からないなら、こっちから飛び込むしかないですよね。適当なところで降ろしてください」

「そんな簡単に。相手はまつろわぬ神なのですよ!正体すらつかめていないのに、無謀すぎます!」

 祐理が後ろを振り向くや否や叫ぶように言った。

 神の猛威を今まさに体感しているからこそ、それに挑むという無謀さを諌めている。

「そうは言ってもどうにもならないだろ。幸い、この手の相手とは先月戦ったばかりだ。雲の中から引きずり出してやるよ」 

「そんな、無茶を」

「何か分かったら念じてくれ。万里谷一人なら、感覚をつなげて念話ができるから」

「……はい」

 コンビニの駐車場に車を停めて、護堂は外に出た。

 吹き付ける風に乗って雨粒が散弾のように叩きつけられている。

「それでは、御武運を」

「ああ、敵の情報、よろしくな」

 それだけを言って、護堂は空を見あげた。

 『縮』

 とだけ唱えた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護堂は空にあった。

 地上とは比べ物にならない風を受けて、それでもそこに立っている。高度一千メートルの上空は、手を伸ばせば厚い雲に届いてしまいそうだ。

「っ!?」

 稲光が走り、護堂の身体のすぐ側を抜けていく。

 護堂を狙った雷撃であることは確かだ。

「めんどうだな、ほんとに」

 連続で落ちてくる雷を宙を走るようにして避けていく。

 カンピオーネとなって上昇した野生の勘に加え、ガブリエルの権能を上乗せしての予想回避は、雷撃のような高速の攻撃を避けるのに大いに役に立つ。

 とはいえ、全てを避けられるほど甘い攻撃ではない。 

 青白い、巨大な雷が護堂を目掛けて落ちてくる。

 これは避けられない。 

『曲がれ!』

 その瞬間、護堂の正面の空間が俄かに歪み、ねじくれた。

 雷は標的を捉える前に、あらぬ方向へ逸れていく。

 ガブリエルの権能を攻撃的に使用したとき、護堂は言葉と意思によって万象に干渉するようになる。

 啓示の天使の役目は神の言葉を伝えること。それはアドバイスのときもあるが、多くは従わなければ神の敵になる、もしくは死に直結する絶対的な命令である。

 護堂は、この力を以って万象に干渉することができるのだ。

 言葉を届けなければ、効力は発揮されない。

 周囲の空間ならばいいものの、雲の中に潜む敵まで影響下に入れるのは難しいだろう。

 だから、そこまではなんとしてでも辿りつかなければならない。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「くっそ……!」

 幾度目かの接近を遮られて護堂は舌打ちをする。

 制服の端が焦げ臭い。雷撃をかすってしまったのだ。

 本来、飛行するような権能ではないのだから、空にいるだけでも気を使っているのだ。足場を硬めなければ、真っ逆さまに落ちてしまう。

 敵の居場所まで後僅かでありながら、近づけば近づくほどに、雷撃の数、精度ともに上昇している。

 当然と言えばそれまでだが、これらの攻撃を避けながら雷雲に到達するのは至難の業だった。

(やっぱり、避けてるだけだとだめだな。神との戦いなんだから、もっとリスクを冒すべきだ)

 護堂はそう考えた。

 決めてしまえば躊躇はしない。

 回避ではなく、防御に全力を投入することで、敵の攻撃はしのぐ。

 最短距離を、一気に駆け抜けることで、懐に飛び込む。

『縮!!』

 ぐにゃり、と空間が捩れる。

 護堂はその空間内に足を踏み入れる、外の景色が飛ぶように通り過ぎていく。一歩進むごとに、その数倍の距離を移動している。

 神速ではない。

 神速は、A地点からB地点までの移動時間を操る力。護堂のこれは、A地点からB地点までの移動距離を短縮する業である。俗に言う縮地法だ。

 やはり、あわせてきた。

 正面に迫る雷撃は、正確に護堂を狙っている。

 青白い雷光に包み込まれる身体。もとより避けるつもりなどないのだから当然だ。この一瞬のために、全力で防御する。 

 体内の呪力を高め、全霊を込めて『散れ!』と命じた。

 ぶつかり合う雷撃と言霊。 

 夜空に響き渡る雷鳴が大地を揺らす。

 激突は、一瞬のことだった。

 閃光の後、勢いのままに飛び出してきたのは護堂だった。制服は焼け焦げ、火傷を負いはしたが、大事には至っていない。

 雷雲を相手にして特攻を仕掛けるという暴挙は、並の人間の思考ではない。機械で身を守っても、台風に遭遇すれば八つ裂きにされる危険性はある。まして、生身で最も危険な雷雲の中へ飛び込むということは、命をドブに捨てるようなもの。話にならない。それを、護堂は実践した。

 防御に使ってしまった呪力を取り戻す時間すら惜しい。雲の中には敵の意思がそこかしこに存在している。どこから雷撃が襲い掛かってきてもおかしくはないという状況下、護堂はほくそ笑んでいた。

 敵の意思がここにあるのなら、護堂の言霊は確実に相手に届くはずだ。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり!」

 聖句を唱え、呪力を極限まで高めた。

 視界がゼロに近い漆黒の暴風の中、意識を張り巡らせて、最も効果的に言霊を叩き込める箇所を捜す。

 相手に言葉を届ける。ただそれだけのこと。

『払え』

 大きな力が湧きあがり、護堂の言霊と拮抗するのが分かる。抵抗しているのだ。そうは行かない。ここまで来て押し切られるわけには行かない。

『命ず。雲よ、消えろ!!』

 その瞬間、猛烈な呪力が迸り、内側から雷雲を押し広げていった。

 奇妙な光景だ。

 空を覆う厚い雲の中に一点だけ、何もない、星が見えるほどに何もない空間が現れたのだから。それは、見る見る広がっていき、雲を追い払っていく。

 空に残されたのは、護堂と、雷雲を運んできた張本人だけだった。

「うわ……」

 思わず、声を漏らした。

 護堂と同じ高度にいたそれは、人の姿をしていた。ただし、その外見は人間とは呼べない。真っ黒な女性のシルエット。それでいてボロボロだ。肉が削げ、内臓も露出しているように見える。身体が朽ちているのだ。その身体を複数の蛇が取り巻いている。

『草薙さん!聞こえますか?』

 護堂の脳裏に、祐理の声が響いた。第六感に働きかける啓示の力で祐理と霊的回線を繋いだのだった。

『ああ、ばっちりだ。今ちょうど敵の姿を確認したところなんだけど』

『はい。わたしのほうにも託宣が降りてまいりました。草薙さん。戦うべき相手を間違えないでください。あなたの敵は、その女神ではなく……』

『くっ付いてる蛇のほうか?』

『はい』

 確かに、先ほどから特に護堂に敵意を向けてくるのは朽ちた女神ではなく、その身体にまとわりつく八体の蛇神のほうだ。

『その女神は、あくまでも蛇神をまとめるための要素に過ぎません。彼らが必要だから呼んだだけの同盟神の影のようなものと考えてください』

『なるほど。それで、この面倒な蛇の名前は?』

『その神の名は火雷大神。黄泉の女王の子にして、黄泉の軍勢を従える八柱の雷神です!』

   




メインヒロインではなく、ちょっと外れたキャラのほうがかわいいと思えることが多々あるのです。ISで言うところの相川さんとか、ネギまのベアトリクスとか。それはまあ置いておくとして、原作で某舎弟が妹のパシリになりそうな空気が・・・


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五話

 日が没してずいぶんと経つ。

 季節はずれの大嵐に見舞われた東京都は、電車をはじめとする公共交通機関の麻痺、一部停電などによって広範囲にわたって混乱の渦中にあった。

 文京区根津。

 ここにある商店街に草薙家は根を下ろしている。

 祖母の代まで経営していた古本屋兼自宅。決して大きいとはいえない家。古く年季は入っているが、それでも何度かのリフォームによって生活するにはまったく困らない。

 今、自宅にいるのは草薙静花一人だけだった。

 カタカタと窓が揺れている。

 外を吹き渡るのは台風にも等しい暴風。幸いにして文京区は停電の範囲から外れているために電気はつくしテレビも見れた。

 今画面には真っ二つに折れた電柱をバックに記者が懸命なリポートをしているところが映し出されている。

 原稿が飛ばされそうになっているし、傘はすでに役立たずだ。

 ただ、この嵐の猛威だけは伝わってくる。

 静花は時計を見る。

 短針は九を指している。

「……」

 静花は表情を変えないまま、電話に視線を移し、次に手元の携帯の画面を見た。意味もなく受信メールを開く。友人からの着信が数件。しかし、そこに求めているものはない。静花の目の前にはすっかり冷めてしまった夕食がラップに包まれておいてあった。

 外出する祖父に変わり、静花が作ったものだ。自分の分はもう食べてしまった。

「もう……連絡くらい入れてよね」

 呟く静花が視線を移す先、テレビ中で、記者の持っていた傘がついに吹き飛ばされていった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 万里谷祐理はその尋常ならざる戦いに息を呑んでいた。 

 はるか上空で行われている魔術戦。いや、それを魔術戦と呼んでいいものかどうか。

 稲妻が走り、炎が舞う。その中を、見知った顔が駆け抜けていく。祐理の精神感応は、護堂の干渉によって今までにないほどに研ぎ澄まされていた。ゆえに、本来は遠見の魔術を使って初めて見えるような距離の戦いが、彼女の脳裏にはありありと見て取れるのだ。

 それはまさに神話の再現。

 猛烈な嵐と眩い雷撃。乱舞する炎。これだけの力を操る存在に対するのは、たった一人の人間なのだ。

 強大な天使からその権能を簒奪した七人目の魔王。しかし、人柄は温厚で、良識がある。祐理の持つカンピオーネ像から程遠い、普通の男子だった。

「草薙さん……」

 意識せず、胸に手を添えた。

 祐理は不安を隠すことができないでいた。

 敵は恐ろしく強い。もはや祐理たち人類の理解が及ばないほどに。

 そんな相手と戦う護堂に祐理はなにも手を貸すことができない。

 神とカンピオーネの戦いにあって人間は無力だ。

 ただ、祈るしかない。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 護堂はビルの屋上に着地していた。

 傷を分類すると、火傷が目立つ。しかし、最も重篤な傷はどれかと言われれば上半身に刻まれた一筋の太刀傷だろう。

 左手で傷を押さえる。その下から赤い鮮血が滲み出している。

 思いのほか傷は深いらしい。武芸の心得のない護堂は、自らの体の損傷具合を感覚で把握することはできない。この傷が骨に達しているのか、もしくはさらに深いところまでいってしまったのか、まったくわからないのだ。

(なんて、でたらめな身体だ。これだけ喰らってまだ動けるのか)

 普通なら、悶え苦しんでいるはずの重傷も、カンピオーネの肉体にはさほどのものでもないのだろうか。

 とは言っても、死ぬときには死ぬ。このままではジリ貧であり、出血もいつ収まるものかわからない。護堂には治癒の魔術に心得はないのだ。

 護堂は目前の敵をにらみつける。いつの間にか同じ高度にまで下がってきていた。

 腐敗した肉体を持つ女神。

 名はイザナミ。別名を黄泉津大神といい、その名の示すとおり黄泉の国の主宰神だ。美しい女神としてこの世に生まれ、イザナギの妻として日本列島を生み出し、また多くの神々を誕生させた神産みの神。その最期は自らが産み落としたカグツチによって焼かれ死を得、黄泉の国へ渡ってしまうというものだ。

 嘆き悲しんだイザナギは怒りに任せてカグツチを切り殺し、その死体と剣から多くの神が生まれ出でる。その後、亡き妻を捜しに黄泉の国へと渡っていくという話がある。

 細部は古事記と日本書紀で異なるが、概ねは同じといえるだろう。

 ここで重要なのは、イザナギがイザナミを探しに黄泉の国へ行くということだ。

 分類すれば異郷訪問譚にあたる神話であり、驚くほど世界中に似た神話が存在する。

 古くはシュメールのイナンナの冥界下り。また有名どころはギリシャ神話のオルフェウスの話。これはイザナギと同じく妻を捜して冥界に入るもので、妻の姿を見ることが禁忌となっていたり、最後は妻と別れることになったりと細部が似通っている。また、ポリネシアのマウリ族には妻を地下の世界から連れ出す話があり、メネラシアには妻が夫を地下の世界から救出する神話が存在する。

 これらの話がどの程度日本神話に影響を与えたのかは定かではない。しかし、これ以外にもスサノオと八岐大蛇に見られるペルセウス・アンドロメダ型神話やニニギとコノハナノサクヤビメ、イワナガヒメに見られるバナナ型神話など、諸外国と同系統の逸話は数多く、国外の影響の下で形成された可能性は非常に高い。

 首尾よくイザナミと再会したイザナギは妻の変わり果てた姿に驚く。

 そこには美しかったイザナミの姿はなく、朽ち果て蛆の湧いた見るに堪えない姿になっていたのだ。

 八柱の雷神が生まれるのはそのときである。

 朽ちたイザナミの肉体から発生した雷神は、イザナミの命を受けて黄泉の軍勢を従える蛇となる。

 死の神となった地母神と雷神の関係は、即ち嵐による負の側面を示す。

 雨の恵みをもたらすと同時に、木々をなぎ倒し、田畑を荒らす大風を運ぶ嵐。雷は雨雲を呼ぶために、嵐との結びつきも強くなるのだ。

「地母神は死神になるってルールでもあるのかよ」

 毒づく護堂は襲いくる雷撃をすんでのところでかわした。

 手足がしびれる。雷撃の影響ではない。恐らくは斬撃を受けたときに呪詛を注がれていたのだ。

 日本最古の怨霊神イザナミが人類にもたらした死の呪い。日に千人の命を奪う呪詛。それが護堂の中に入り込んでいる。 

 不死性の能力を持たない護堂にとってはなかなかまずい展開だ。不幸中の幸いなのは、イザナミがあくまでも影であるということか。そのおかげかまつろわぬ神の呪詛に比べればまだ弱い。本気になれば解くこともできそうだが--------------それを、雷神が許さない。

 炎が叩きつけられる。

 火雷大神は八柱の雷神の総称にして統括された神格。またの名を八雷神。

 胸の蛇は、火雷神。雷から生まれる火災の象徴だ。

 超直感のおかげでしのげる。神の攻撃を先読みし、放たれる前にかわす。コンクリートが粉砕され、融解。下の階が丸見えになってしまった。

 祐理のおかげで相手の蛇の能力もわかった。それぞれの部位にいる蛇ごとに能力は別物。だから、攻撃を読むことも簡単にできる。

 腹の黒雷神から、漆黒の闇が吐き出された。

「うわっ」

 瞬く間に闇に包まれる屋上。一寸先すら見通せない。

(直感がつかえない!?)

 護堂は驚いた。

 闇に包まれたとたん、まるで目隠しをされたかのように感覚が消えてしまった。

 雷雲によって太陽光が隠される様を神格化した蛇。

 黒い雲は、心眼すらも曇らせる闇を作り出すのだ。

「だったら、『払え』」

 風もなく、闇が吹き散らされた。蘇る直感に従って護堂はその場に伏せる。伏せた護堂の真上を、眼に見えない何かが通り過ぎていった。恐ろしく速い。

 右足の伏雷神。能力は神速。雷雲に潜み、雷光を走らせる姿の象徴だ。

 神速を相手にするには超直感がなければだめだ。とすると、その直感を打ち消す黒雷神を先に倒さねばならない。

『拉げ!!』

 護堂は呪力を込めて叫んだ。

 狙うはもちろん腹の黒雷神だ。

 指向性を持たせ、確実に効果を発揮するため、右手を黒雷に向けて握る。空間が圧搾され、黒雷の身体がゆがむ。だが、さすがにまつろわぬ神。これだけでは、押しつぶせないか。

 だが、今までで最も距離が近い。ゆえに言霊の力も最大限に発揮できている。

「この……!」

 ギシギシと歪む空間の中で、蛇は蛇体を傷つけながらも堪えている。いや、傷ついた側から治癒しているのだ。

「ありかよ……」

 不死性の能力。 

 蛇の特性である。

 古来雷は蛇と結び付けられることが多い。空を走る稲妻が蛇に見えるということもあるだろうし、大陸からの雷神信仰などと合わさって竜と習合したこともあるのだろう。

 脱皮を繰り返す蛇は洋の東西を問わず永遠不変の象徴となったのだ。

(この不死を司る蛇は……若雷か!)

 八つの蛇のうち、未だに戦闘に参加していない蛇は二つ。

 祐理によれば、左手の若雷神は、雷雨の後の豊かな土壌を指し示す、らしい。

 左手の蛇を先に倒さないことには、他の蛇を倒すこともままならない。

 ふと、イザナミの右手に目をやった。

 さっきまでそこにいた蛇がいない。胴体はあるが長い蛇体の頭がないのだ。コンクリートの地面に突き刺さっている。

 奇妙な光景だった。

 突き立つ蛇体は、コンクリートを壊す様子はなく、まるで溶け込んでいるかのように滑らかに侵入を果たしていた。

 ただ、その異様な光景が護堂にとってプラスに働くはずもない。敵が何かを仕掛けているのは明瞭である。わけもわからず、勘に任せて真横に飛ぶ。その判断は正しかった。

 一瞬前まで護堂がいた場所。その真下のコンクリートの中から一柱の蛇神が飛び出してきたのだから。

 土雷神。

 雷は、地面に戻るという信仰から生まれた雷神だった。

 地中を自在に泳ぐのが、この蛇の力なのだろう。

 そして、雷鳴が轟いた。

 とてつもない破壊音。

 もはや何十トンもの火薬に同時に火をつけたとも思える爆音は、破滅的な衝撃波を生み出した。

 しかも指向性がある。余計なものを破壊することなく、真っ直ぐに護堂を襲う。

『弾け』

 それにわずかばかり先んじた護堂は言霊を飛ばした。

 ぶつかり合う言霊と雷鳴。不可視の力の激突によってさらにビルの屋上は原形をとどめないほどに破壊されつくした。

 衝撃波を放ったのは、イザナミの左足に巻きついている雷神だった。

 左足の鳴雷神は雷鳴の化身。必然的にその攻撃手段は雷鳴による無色の衝撃波だった。

(やっかいな!)

 ビルからビルへ、護堂は跳んだ。

 十数メートル以上もある距離。しかも地上百五十メートルはある高層ビルの屋上からだ。普段の護堂であれば恐ろしくてこんな真似はしなかっただろうが、奇妙なことにいざ戦いとなるとまったく恐怖を感じない。怖気づくという観念が麻痺してしまったかのように、大胆になれる。

 自分の能力を最大限に発揮するにはどうすればいいのかを、勘が教えてくれるのだ。

「うおっ!?」

 着地した護堂を狙って、炎が襲い掛かってきた。避けた側から融解していくコンクリート。灼熱の炎によって蒸発した結果か、鼻を突く異臭が漂ってくる。それも、この嵐の中ではあっという間に流されてしまうが。

 そのとき、護堂の直感が警鐘を鳴らした。危険すぎる何かを感じて、護堂は飛びのいた。その瞬間を狙っていたかのように、青白い閃光が走り抜けていった。一見してそれは鞭のようにも蛇のようにも見えた。

 正体は、この日二度目の斬撃だった。

 一度目は護堂に重傷を負わせ、その太刀傷は、未だにじくじくと出血を強いている。そしてこの二度目は護堂を斬りつけることはなく、変わりに護堂がいるビルの角をばっさりと切り落としていた。

 轟音を立てて落ちていく断片。その断面は、包丁を入れた豆腐のように滑らかだった。

 咲雷神は、雷によってあらゆるものが引き裂かれる姿を現したものだ。

 雷が剣と関わりを持つのはここから来ているのだろう。実際、日本において、雷神にして武神のタケミカヅチは剣神でもあり、カグツチを斬り殺した天之尾羽張から滴る血が岩について生まれたとされる。

 剣と鍛冶の神から生まれた雷神がタケミカヅチなのだ。

 雷の持つ、鋭い刃物のようなイメージが、強大な殺傷能力を与えている。

 護堂は、またさらに跳ぶ。もちろん、背後にまつろわぬ神が追ってくることを感じながらだ。

 強大な呪力の塊が、敵意も露に追跡してくる。

 正面から攻撃しても防がれるのであれば、搦め手を使う。護堂は引きつけて引きつけて、突然振り返った。このとき、すでに、盛大に呪力を練り上げていた。

『弾け!』

 護堂を追いかける女神のシルエットが、見えない壁にぶち当たり、跳ね飛ばされた。そのまま、錐揉みして落ちていく。

 だが、倒したわけではない。若雷神をどうにかしなければ、勝利はないのだ。

 護堂は屋上から、飛び降りた。もちろん狙いは女神のシルエット。天空から地上に引きずりおろすことには成功した。足場を確認して戦うよりもずっと戦いやすい環境になったのだ。

「第二ラウンドの開始だ!『拉げ!』」

 空間圧殺。護堂にとっては、これが唯一にして最大の攻撃手段だ。

 捻じ曲がる世界。その力場に対抗して、雷鳴が轟く。

 ------------『曲がれ』『落ちろ』『拉げ』『撓め』『砕けろ』

 護堂は、断続的に言霊を飛ばす。

 力と力の鬩ぎあいとなった。

 護堂は徹底的に言霊を飛ばして敵を圧倒する物量作戦をとり、相対する火雷大神も強力な攻撃を連続で放ち続ける。

 しかし、神速の伏雷神も黒雲の黒雷神も、地中を潜る土雷も動かない。

 その理由、護堂はもう理解していた。

(この八雷神は個別に行動することができない。だから、こちらから攻め立てれば、攻撃を相殺することに力を使わざるを得ない。守りながら攻めることはできないはずだ!)

 それはほぼ確信として護堂の中にあった。

 これまでの戦い、確かに八種類もの攻撃を使い分けてくる火雷大神は脅威だったし守りに徹さなければならなかった。それでも、その時間が、敵の特徴を教えてくれたのだ。

 これまで、同時に能力を発動させたことは一度もない。

 それが、攻略の糸口だ。

 神速の雷神、地中からの不意打ち、不可視の雷鳴、直感を打ち消す黒雲、そして雷撃と炎、鋭い斬撃。これらが揃ってなお、護堂を攻め落とす事ができなかったのは、すべてが単発だったからだ。もしもこれが同時に放たれていたのなら、言霊という性質上、防ぎきることは不可能だったに違いない。

 『拉げ』『砕け』『曲がれ』『捩れろ』『穿て』『弾け』・・・

 多種多様な干渉ができるという点で、この言霊の力は圧倒的だ。

 連続での使用も可能で、物量戦で負けはない。 

 ついに、イザナミの身体に亀裂が生じた。度重なる攻めについに影たる神霊が悲鳴をあげたのだ。毒々しい呪力が漏れ出すのを感じることができる。しかも、その傷がふさがらない。若雷神の力が作用していないのだ。

 今、火雷大神は、雷と炎と斬撃と雷鳴を総動員し、交互に放つことで言霊を打ち消している。ゆえに、若雷神が再生の力を使う間がないのである。

 間断なく力を使い続けるということは、護堂の身体にも大きな負担を強いる。ただでさえ、多大なダメージをすでに負っているこの状況は、決して護堂有利にことが運んでいないことの証左でもある。単純な攻撃能力は火雷大神のほうが上なのだから、言霊を越えて相手の力が一部護堂にも届いてしまっている。

(痛い、けど……ここで引けない!!)

 敵の底は知れた。

 後は、自分がどれほど相手に手を伸ばせるのか。

 リスクを恐れて一体何ができるだろうか。戦いの場だからこそ、ハイリスクを狙うべきだ。

 アスファルトの大地が砕け、電柱は折れ曲がり、信号機が根元から倒れているという悲惨な状況となっても、護堂と火雷大神の削りあいは両者一歩も引くことなく続いている。

 力を使い続ける中で、護堂の心労もピークに達していた。同時に脳を突き刺すような痛みが襲う。

「ぐっう……」

 思わずうめいてしまう。幻視や幻聴を介してメッセージを送る天使の力。やはり負担は脳にいくものなのか。

 その一瞬を雷神たちが見逃すはずもない。一際強大な呪力が頭部------大雷神に集中した。

 彼らの司令塔にして、最大の神格とも言うべき存在。

 能力は、強大無比な雷撃を放つこと。

 蛇の口に収束した雷光が、青白く輝き、閃光となって放たれる。その力は岩をも砕き、熱は鉄を蒸発させるだろう。

(来た!!)

 その一撃、護堂が予測できなかったはずはない。

 隙を見せれば、必ず強力な攻撃を仕掛けてくる。そういう確信があった。膠着状態を抜け出すためには、相手が隙を作ることを待ち、その隙に付け込んで打倒するのが最もスマートな方法であり、わずかな隙にも嬉々として攻め込んでくるだろうと見ていた。

 案の定、大雷神の雷撃が放たれた。

 事前に準備していた護堂にとって避けることは難しくない。頭痛は厄介だが、まだできる。

 雷撃が放たれた瞬間には、護堂はそこにはいなかった。

 空間圧縮によって雷撃の範囲外に出ていたからだ。今、敵は自らの雷光に目がくらんでいる。これこそ、護堂が狙っていた千載一遇の好機。

 確実に敵を屠るため、鋭く鋭利なイメージを言霊に乗せて、裂帛の気合と共に叫んだ。

『穿て!!』

 護堂は空中に投げ出される形になりながらも、受身を取ろうとしなかった。そのようなことをしていたら、最大の好機を見逃してしまうことになるからだ。

 イメージしていたのは、眼に見えない槍か杭だろうか。

 標的となった蛇の頭部はナニカに刺し貫かれ、破裂して鮮血を振り撒いた。

 シュロオオオオオオオオ!!

 悲鳴か慟哭か、蛇が叫び声をあげていた。

 頭部を失った若雷神の身体はのた打ち回り、やがて、動かなくなった。

 だが、油断はならない。

 何せ相手は《蛇》の神格。頭すらも再生させかねないのだから。

 護堂はさらに力を振り絞って起き上がった。

 残り七体の蛇は、今までよりも苛烈に攻撃を仕掛けてくることは明白だったから。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 戦いはさらに激化していた。

 戦いの趨勢は五分と五分。いや、わずかに護堂が押している。護堂の身体は複数の太刀傷に、数十箇所にもなる大小さまざまな火傷など、まさに満身創痍。常人であれば生命活動を停止しても不思議ではない。しかし、それでも護堂の肉体は戦うことを止めはしなかったし、精神の高揚も収まるところを知らない。むしろ、戦いがギリギリのところに近づけば近づくほどに、護堂のモチベーションは格段に上昇している。

 護堂は我が事ながら、そんな非常識に呆れ、感謝もしていた。そうでなければ、戦い続けることなどできはしないだろう。

 閃く閃光。素早く走り、切り裂くもの。護堂は右手を突き出して、叫ぶ。

『爆ぜろ!』

 呪力が迸り、言葉に乗って蛇に届く。

 空中で、刃となった蛇が停止した。護堂の言霊からの干渉を遮断しようとしているのだろう。その蛇体はボロボロに崩れかけていて、治る気配はない。若雷神を失い、再生能力を極端に低下させた証拠である。

 その様子は、さらに護堂を勇気付けた。

『命ず、爆ぜろ!』

 声に出し、思い切り蛇を殴った。この戦いで、言霊を口にするだけでなく、ある程度の動作を加えることで、威力を上げられることがわかった。おそらくは、より明確なイメージを相手に伝えることができるからなのだろう。

 その一撃で、ついに咲雷神も沈黙した。

「残りは三つか……このペースで一気に片付けてやる」

 護堂のにらみつける先、女神の肉体もすでに半壊している。もともと崩れかけていた身体ではあるが、今は片腕をなくし、足をも失い、宙に浮いている状態となっている。蛇を失った箇所から砂になっていったのだ。

「いくぞ」

 空間を圧縮。

 護堂と火雷大神との距離は一瞬にしてゼロに近づいた。

 今までにないほどの大圧縮。半透明のトンネルを、護堂は踏み越える。その速度は、客観的に見れば時速数百キロは出ていただろう。一足で女神の目前に足を踏み入れる護堂は、右の拳に力を集中する。言霊を叩き付けるイメージだ。女神に巻きつく蛇は、予想を上回る移動速度に瞠目し、咄嗟に反撃をする。権能を使うことに関しては、カンピオーネに劣るはずがない。呼吸するに等しい感覚で大雷神が雷撃を放つ。

『穿て!!』

 鋭く突き出した右腕が、強烈な雷撃に吸い込まれてぶつかり合う。

 焼けるような激痛と全身を苛む痺れに意識を飛ばしてしまいそうになりながら、護堂は歯を食いしばった。

 正真正銘最後の一撃をもって、蛇をすべて、まとめて打ち倒す。そのために、使える力はすべて使う。

 開いた左手。そこに活路を見出す。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり!」

 聖句を唱え、呪力を底上げした。後はカンピオーネの耐久力と呪力に対する抵抗力に託すのみ。

 右手で雷撃を抑えながら、左手を伸ばす。

 眩すぎる閃光で視界はない、しかし、勘が誰よりも鋭い護堂にこの程度のことはなんでもないのだ。

 ガシ、と手づかみするのは蛇の首。大雷神の首だった。

『砕け!』

 左手の中で、生暖かい液体が迸った感触。同時に、雷撃を強かに浴び、ふらふらと後退する。

(まだだ!!)

 聖句のおかげか、それとも大雷神が消滅して雷撃が一瞬だったからか、護堂は倒れない。

 大地を踏みしめ、残る二体の蛇、土雷神と鳴雷神に向かって叫ぶ。

「これで最後だ!『拉げ!!』」

 瞬間、空間が軋み、光が曲がって景色が揺れた。護堂は、両腕を突き出して蛇をゆがみの中心に捉える。 今の火雷大神は、まさに死に体だ。八柱のうちの六柱を打ち倒され、呪力も底をつきつつある。

 言ってみれば、身体の七十五パーセントを失っているに等しいのだから、抵抗する力を搾り出すのも限界がある。

 まず、悲鳴をあげたのは鳴雷神だった。

 これまでの戦闘で、護堂の攻撃を最も多く受けた蛇の一つだけに、身体もボロボロになっている。この圧搾に耐えることができず、潰れてしまった。

 次に、二柱に分けていた力が土雷神に集中したことで単純に負荷が倍増した。

 軋みあがる空間の中で、最後の蛇体は断末魔の叫びを上げることなく、血しぶきとなって消えていった。   

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 女神イザナミの肉体が砂となって消えたことを確認して、護堂はその場に座り込んだ。

 肉体面の限界が訪れたのだ。

 今の攻撃で勝負がつかなければ、敗れていたのは護堂だったかもしれない。それくらいにギリギリの戦いだった。

「……マイナーな神格のくせして、とんでもないやつだった」

 そのとき、ずしん、と護堂は背中に重みを感じた。錯覚とも思えるほどにわずかな時間の重圧は、身体の内側に溶け込むようにして消えた。

 新たな権能がその身に宿ったのだ。

 護堂はそのまま、空を見上げるように仰向けに寝転がった。

 火雷大神が消滅したことで、雲が晴れ、星が見えていた。

 空に輝く星明りのように明るい気分ではいられない。なんだかんだで、相当物を破壊してしまった。物損に関しては、ほぼ全額火雷大神の責任なのだが、それでも関わりあいになったことで、護堂の気分は大いに沈降していた。

 それにしても、眠い。

 このまま睡魔に身を任せてしまいたい。

 破壊しつくされた道路のど真ん中で眠りにつくなどという非常識は、護堂としても回避したいところなのだが、如何せん体が動かない。

 妹にも示しがつかないが、ここはもう認めてもらいたい。

「草薙さん!しっかりしてください!」

 久しぶりとも思える祐理の声が聞こえてきた。

「ああ、万里谷か。アドバイスありがとな。おかげで勝てた」

「そんなことを言っている場合ですか!なんという無茶を……!」

 戦いが終わった後、冬馬に連れられてここまで来た祐理が見たものは、大の字になって倒れている護堂だった。 

 あわてて護堂に駆け寄った祐理は、その身体に刻み付けられた凄まじい戦いの痕跡に息を呑み、戦慄した。

 最後に雷撃を受け止めた右腕など、すでに炭化の一歩手前だ。

 常人であれば、およそ助かる傷ではなかった。

「草薙さん!今、治癒を……!?」

 治癒の呪法は、東西問わず存在する呪術の基本中の基本であり、骨折であろうとも三十分もあれば完全に快復させてしまう。RPGのように一瞬とはいかないが、それでも世の医者が見れば失神するほどの効能はあった。

 相手がカンピオーネでなければの話だが。

「治癒が、効かない……!?そんな!?」

 強大な呪力を身に宿すカンピオーネは善悪を問わず魔術的な干渉を無効化してしまう。カンピオーネが魔王と恐れられるゆえんだ。

 眠りについた護堂だが、その顔色は悪い。

 これだけの怪我を放置しておけば、いかにカンピオーネといっても死んでしまうのでは?

 最悪の展開だ。それだけはなんとしても防がねばならない。

「あ、甘粕さん!治癒が効かないのです!いったいどうすればよいかご存知ありませんか!?」

「カンピオーネは外界からの魔術の一切を遮断してしまいますからねえ。既存の方法で治癒をかけることはできません……ただ一つの例外を除いてはですが」

「例外?それは?」

「魔術の経口摂取ですね。ようはキスです」

「キ……」

 祐理の顔が一気に赤くなった。

 年頃の娘なのだ。しかたない。

「それでは私はここのへんで」

 そう言って去っていこうとする冬馬を祐理は制止する。

「ど、どこへ行こうというのですか!?」

「私なりに気を使ったんですが。見ていて欲しいというのなら別に構いませんが?人工呼吸のようなものですし」

「け、結構です!!」

 冬馬は今度こそ去っていった。 

 誰もいなくなった瓦礫の中で、祐理が意を決するのはほんの少し後のことだった。



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第二章 委員会内訌編
六話


 四月も終わりに近い。高校に入学しておよそ一月が経ち、新入生も緊張から解放され、新生活にもほどほどに慣れてきたころだ。

 散り始めた桜を眺めつつ、護堂は学校へ向かう。まだ肌寒い風が吹くけれども、日差しは日増しに暖かくなり、ここ最近は陽光も穏やかで過ごしやすい一日が続いている。

 結局、東京の天気が大幅に崩れたのは火雷大神の襲来が最後だった。まるで、あの雷神が数か月分の天候不順をまとめて持ってきたかのように、あの戦い以降の東京は、驚くほどに晴天が続いていた。

「復旧も結構進んできたなあ」

 護堂は少し前まで電柱がへし折れていた道路を眺めて感慨深そうに呟いた。

 今はかつての災害の爪痕など一切が消滅し、それ以前の風景に戻っていた。日本の技術力の高さを物語っている。

「江東区とかはまだまだみたいだけどね。あのスッパリ切れてるビルなんて何があったのって感じだよね」

「ああ、あれなあ……」

 静花の言うビルとは、すなわち雷神の斬撃によって角を切り落とされてしまった哀れな商社のことであろう。ニュースなどには報道されていないことだが、ビルの屋上が切り取られているなどということを大衆の目から隠すのは容易ではなく、瞬く間に世間の注目を浴びることになってしまったのだった。

 正史編纂委員会がこの件を隠蔽するのに、一体どれだけの時間と手間がかかることになるのだろうか。

 まつろわぬ神との戦いで、望まぬ破壊が生じてしまうことは、もうしようがないのかもしれない。

 およそ半月前の戦いを思い起こして、申し訳なさで心が一杯になったとき、横に並んで歩いていた静花が尋ねてきた。

「ねえ、お兄ちゃん。今日ってほらおじいちゃんが夜いないでしょ。夕ご飯わたしが当番なんだけど、何かリクエストある?」

「リクエスト、か」

 護堂は呟いて考える。

 ここでなんでもいい、と答えるのはマナー違反なのだろう。正直、我が身に置き換えてもいい気分はしない。とはいえ、これといって食に興味があるわけでもないのだから、パッと思い付きを言うことにした。

「カレー」

「はい適当」

 決め付けられ、う、と護堂は呻いた。

「お兄ちゃんってホント食べ物にこだわりがないよね。あるものならなんでもいい、みたいな」

 静花の兄への評価は実に的確だった。護堂を誰よりも近くで見てきた人物だけに、その嗜好を知り尽くしている。

「いいか、静花。今日の俺はカレーが食べたい気分なんだ。まっさきにカレーが思いついたのはきっとそういうことだ」

「きっとって何よ」

「さあ」

 護堂は、適当にぼかして静花をあしらった。

 不服そうな妹であるが、こうした会話は比較的多く、今に始まったことではない。すっかり慣れてしまったから嫌悪の念など抱きようがない。

「じゃあ、今夜はカレー、と。そしたら明日もカレーになっちゃうけど?」

「いいんじゃないか。それで」

「決定だね。それじゃ、今日の放課後にでも買い物に……」

 護堂を見ていた静花は、そこまで言って、視線を前に向けた。そして、複雑そうな表情に変わる。その表情の意味に、護堂は気づけない。

 静花が視界に捉えたのは万里谷祐理だった。

「おはようございます。万里谷先輩」

「あ、おはようございます静花さん。……草薙さん」

「おはよう。万里谷」

 祐理と通学路で出会うのは実のところこれが初めてだった。

 彼女の実家の位置はわからない。当然だ、遊びにお邪魔するような間柄でもないのだから。ただ、神社に向かうのに電車を必要とすることに比べ、こうして朝歩いているところに出くわすことを考えれば、神社と違い、家は、この近辺にあるのだろうという予測は立った。

 ただ、それだけだ。

「く、草薙さん。わたし、今日は部室の備品を確認しないといけないので、お先に失礼します!」

 祐理は、護堂と視線を合わせると、真っ赤になって俯き、早口でまくし立てるようにそう言うとそそくさと去ってしまった。

「おーい……」

 呼び止めようという気持ちは護堂の声からは感じられない。

 なぜか、まつろわぬ神との戦い以来、祐理とは疎遠になってしまっていた。

 学校では、クラスが違うためにこれといって接点はないのだが、廊下などですれ違うときなど、周囲からはそれとわからないだろうが、明らかに避けられている、ような気がする。

「お兄ちゃん――――!」

「う……!」

 刺すような鋭利な視線が隣から襲い掛かってきた。

 その声は番犬が侵入者を威嚇する時の唸り声にも似て凶悪だ。

「どうした、静花」

「どうした?」

 一瞬にして、静花は笑顔になった。ただし、あふれ出る怒気はまったく衰えるところを知らない。

「今のは何!?お兄ちゃん、万里谷先輩にいったい何したっての!?」

「ひ、人聞きの悪いこと言うもんじゃない。何もしてねえよ」

「ウソ。じゃあなんで万里谷先輩があんな風になってるの!?」

「いや、だから知らないって」

 それは、事実だ。

 祐理との接触は、初めて会った荷物運びの時と、七雄神社での一件、そして、まつろわぬ火雷大神との決戦の直前だけだ。終わってから、倒れた護堂の下に来てくれたような気もしないでもないが、その辺りの記憶は非常に曖昧だった。

 実のところ、そのとき。護堂が意識を手放したその際に治癒の呪法を施した事が根底にあるのだが、意識がない護堂にそれを自覚せよというほうが無理な相談であろう。

 結果、護堂はまったく理解ができないまま、祐理だけが一方的に意識するという状況が成立してしまったわけだ。

「じゃあ、なにか。まさか、おじいちゃんの悪癖がついに発現したってこと。今になって……?いや、昔から怪しいなとは思ってたけど。でも、まさか万理谷先輩なんて」

 戦慄にも似た表情で、静花がぶつぶつと呟き始める。

 やれやれ、と護堂は歩を進めることにした。

 どうにも静花は兄とその他女性との関わりを邪推する癖がある。

 原作静花は少々ブラコンの気質があった。それはわかっているが、実際に静花の兄という立場になってみると、まさかな、という思いが強い。

 それは、静花の兄として、十四年の月日を生きてきたから思えることで、他人からはどうかわからないけれども、原作護堂と自分は別物なのだから、細かい人間関係も変わって当然だ。

 今を生きる護堂は、これといって妹に家族サービスをしてきたわけではないし、女性相手に好かれることをしてきたわけでもない。自分の人生に手一杯の人間だったのだから、好かれる要素もない。その証拠に告白された経験はゼロ。三バカにも嫉妬の視線を向けられることなく五月を目前としているのだから。

 護堂は何気なく視線を背後に向けた。

 特に意味はないが、そうしなければならないような気がしたのだ。

「お兄ちゃん?」

「いや、なんでもない」

 気のせいか。

 確認のため、春の日差しが窓に反射するビル群をなんとなく眺め、再び歩き出した。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 同時刻。文京区のとあるマンションの一室には不可思議な光景があった。

 人影は二つ。どこかの制服を着込んだ黒いショートボブの少女とスーツ姿の男が、窓の両側の壁に背を預けて冷や汗をかいていた。

 マンションは二十階建てで、四年前に完成したばかりだった。この近辺は住宅が多く、このような大きなマンションは比較的少ないのだから、やはり目立つ。 

 その十三階に陣取る歳の離れた男と少女の関係はいったいどのようなものなのか。

「まさか、気づかれたりしてないよね。叔父さん」

「どうでしょう。少なくとも私には自信ないですねえ……」

 叔父さん、と呼ばれた男は、本当に自信なさそうに笑った。いつもこの調子で真意を測らせないのは、間違いなく職業病だ。その性質を彼女は幼いころからよく知っていた。

 その男。甘粕冬馬は、窓を挟んで反対にいる少女に問いかける。

「あなたは、どうなんです。バレたと思ったから隠れたのでは?」 

「どうかな。向こうがこっちを認識しているかどうかっていうのなら、大丈夫だと思うよ。でも、後一瞬遅れてたら、アウトだったかな」

 少女は、その手に握られている無骨な双眼鏡を無造作にベッドに放り投げる。

 重量が相当あるのだろう。重みでベッドが軋んだ。

「一応精密機械なんですから、慎重に扱ってくださいよ。術で守っているからって扱いが雑だと作った人が泣くことになりますから」

「いいじゃん。もしこの程度で壊れたんなら、とてもじゃないけど不採用でしょ。実戦はもっとシビアな環境なんだから。そうだね、もしも壊れたら、そのときは技術開発室の人に文句の一つも入れないといけないね」

 そのまま、身を投げ出すようにベッドにダイブする。

 双眼鏡が勢いで跳ねて、音を立てて床に落ちる。

 ベッドに沈む姪を冬馬は、やれやれといったようすで眺めていた。

「てか、あれが七人目の魔王なんだ。なんていうのかな。意外と普通?」

「ええ、普通ですね。表向きは。ただ、あれで正真正銘のカンピオーネです。ただの男子高校生だと思って軽々しく扱えない存在ですよ。それは、火雷大神との戦いを見れば一目瞭然でしょう。――――晶さん」

 晶と呼ばれた少女は、仰向けに寝そべったまま首肯した。

 実のところ、草薙護堂と火雷大神との戦闘は、密かに記録されていた。一応、日本のカンピオーネの観測史上初の戦いであり、正体不明の権能を堂々と使用しているのだから、日本の呪術管理を生業とする正史編纂委員会が映像記録を撮っていないはずがなかった。

 後々、トップが検証を繰り返し、様々な推論を並べていくことになる。

 彼女も、その映像を閲覧する機会を与えられたのだった。

 壮絶な、人類のものとは思えない戦いぶりは、映像に見るだけでも背筋を震わせた。

「まあ、それは十分理解してるつもり」

 その映像を思い出して、厳粛な表情をする。

 映像記録を閲覧することが許されるのは、基本的にトップの人間や『四家』と称される呪術界の重鎮たち。たとえ『媛』とよばれる階級にあってもよほどのことがなければ開示はされない。

 それを見る機会が得られたのは、単に任務が魔王がらみだったからだ。

「普通の神経なら、あんな戦いができる人間? に喧嘩を吹っかけようとは思わないよ。言われなくてもわかるって」

 多くの呪術者たちは、あの映像記録を見て、戦慄し、同時に喜びもしただろう。

 カンピオーネという存在を有する国は、言ってみれば核保有国のような影響力を得るに等しい。おまけに、諸外国のように、精神性からして人でなしというのではなく、あくまでも常識の範囲内にいる少年なのだ。これに目をつけないはずがなかった。

 間近でみるその戦闘能力に、多くの呪術者が驚嘆していた。もっとも、晶が畏れたのは権能ではない。カンピオーネと常人との隔絶した違い。それを彼女は精神性に見ていた。

(あのまつろわぬ神に相対して、まったく尻込みするそぶりすら見せなかったなんて……!)

 戦士として、様々な戦闘スキルをその身に叩き込んできた彼女だからこそ、その戦いの異質さが理解できた。

 神との戦いは超自然との戦い。戦争だ。それに単身戦いを挑むという常軌を逸した精神こそが恐ろしい。

 あの戦いの後、水面下で様々な思惑が交錯していた。

「それがわからない人も、世の中にいるってことですね」

「たとえ炭火であっても油を注げば一気に燃え上がるってのに、もう……」

「それをさせないようにするのが、あなたのお勤めです。対人戦闘最強の巫女たるあなたのね」

 日本呪術界とて、決して一枚岩ではない。

 むしろ、その歴史的背景からいって大きく分けても二つの呪術的性格をもっているのは想像に難くない。

「神憑りの巫女を除けば、ね。たく、武士が過ぎたことをグチグチと引きずるなってのに。おかげでこっちは命がけだよ。守る土地もないのに一所懸命に働かないといけないって割に合わないよね」

「一応、あなたも私も武士系ですが」

「叔父さんは忍者じゃん」

「それ、パチモノっぽくていやなんですがね」

 忍者と言われることを冬馬はなぜか嫌っていた。それをわかってあえて晶は忍者と呼ぶ。もともと、甘粕家は武家に仕えた忍びの家系だという。父方とはいえ、その血を引き継ぐ晶は、だがしかし、叔父とは違って忍者という言葉に好感を抱いていた。

 叔父が嫌そうにしているところが琴線に触れていたのかもしれない。

 彼女は、今の今まで忍者と呼ぶことを変えたことはなかった。

「まあ、いいでしょう。それでは、最終ミーティングと行きますか。今回の護衛任務が成功するようにね」 



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七話

「転校生?この時期にか?」

「うん」

 それは夕食の準備をしているときのことだ。

 静花が護堂のリクエストどおりにカレーの鍋をかき回しているところでの会話だった。

 キッチンに立つ静花は制服の上からエプロンを着ていて、勝気な視線を向けてくる。護堂のクラスにいる一部?の人間はそれだけで鼻血を出して卒倒するであろう光景なのだが、生憎と護堂は見慣れているためにそれほどのダメージは来ない。だけども、かわいいなとは思っていたりする。

「ほんとは新学期のはじめに来る予定だったんだけど、家庭の事情で遅くなったんだって」

「へえ。男子?それとも女子か」

「女子。どっちかっていったらかわいい系かな。高橋晶さん」

 どうやら、その転校生は高橋晶という名前らしい。聞いてもいないのにドンドン情報が流れてくる。

 女子は噂が好きなようだが、妹も負けず劣らずらしい。さすがに奇妙な時期の転校生がかわいい女子だったことで、静花は饒舌になっていたようだ。

「なんか名前の印象だとスポーツ万能って感じがするな。俺の一方的なイメージだと」

 (アキラ)という言い方は悪いが男でも通じる音がそういうことを想起させた。が、妹の反応は鈍い。

「どうかな。体育があったわけじゃないけど、でも体格は小柄なほうだったし、寧ろ文型って印象が強いかな。わたし」

 静花は、小皿にカレーを取ると味見をする。

「うん。美味しい」

 どうやら、納得のいく出来だったらしい。

 護堂もそうだが、静花の舌も相当肥えている。それは、幼いころからの母や祖父や親戚たちとの破天荒な付き合いによるものであり、ある意味での英才教育の賜物だ。それでいて、静花は料理をする際には結構こだわるので、ただの市販のカレーでも一味違うものに仕上がったりもする。

 いい妹だな、と護堂は感じ入っているのだが、それを口に出すことはなかった。

「あ。晶ちゃんね、明日家に来るからよろしく」

「はいはい」

 護堂は特に何も考えることなく、空返事をした。

 

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 草薙静花。十四歳。楠南学院中等部三年生で当人はまったく知らないが、一つ年上の兄は世界最強クラスの怪物である。

 そんな彼女の、本人すら知らないプロフィールを片手に晶はイスに腰掛けた。開け放たれた窓からは涼やかな春の風が吹き込んでくる。

 GWの前日に、彼女は楠南学院中等部三年二組に転入した。表向きは、家庭の事情。その実体は、正史編纂委員会からの指示によるものだ。

 一仕事終えたあとの休息は、ジンワリと身体の末端に血流を行き渡らせる。

「相変わらず、容赦がないね。君は」

「何を言ってるんですか馨さん。ずいぶんと加減したんですよ」

 出入り口にたたずむ凛々しき媛巫女。沙耶宮馨は高校三年生でありながらも東京分室の室長という肩書きを持つ。男装の麗人で、女性を口説くのが趣味という変り種だ。

 今回の任務に就くにあたって、晶は馨の指揮下に入った。いわば馨は直属の上司に当たるというわけだ。

「本気でやったら殺してしまいます」

 可愛らしい外見からは想像もできない一言が放たれた。

 それだけで、室温がガクッと引き下げられたかのようだ。馨も表情を引き締めた。それほどのものなのだ。高橋晶は。

 吹き込む風に煽られた髪が揺れ、その下に隠れた戦いの跡をさらけ出す。白い肌に、赤黒い斑点が無造作に散りばめられていた。

 血だ。

 闇を思わせる漆黒の冷めた瞳が足元を射抜く。

 六人の男女が倒れ臥していた。

 その四肢からは、血が流れてはいたが、胸が上下しているところから生きていることがわかる。

「…すこしやりすぎたかな?」

「いや、構わないよ。アメリカでも警官が相手を射殺することはよくあることだし、相手が犯罪を犯し、尚且つ凶悪であれば必要悪として認められる」

「ここは日本だからそれはおかしいんだけど。ま、いっか。魔術業界は一般社会から切り離されているものだしね」

 晶はこの部屋の中で六人もの魔術師と対峙して、これを撃滅してみせた。それも、大いに手加減をして、命を奪わないように細心の注意を払ってのことだ。

 それは、もはや戦いですらなかった。

 戦う前から、勝敗は決していたといっても過言ではない。

 忍びの術と、巫女の呪力、そして体術に剣術、槍術、その他火器類など、中学生が身につけるには過剰な技術と知識を持ち合わせ、それはただひたすらに他者を打ち倒すことに特化した才能だった。

「それ、使う必要があったのかい?」

 馨は晶を指差す。正確には、その右腕。

「近接で殴り合うのはこっちも痛い思いをするかもしれないという点で合理的じゃないですから。使える技術は使うものです」

 晶の手には、黒い鉄の塊。

 拳銃が握られている。もちろん、日本国内での使用はご法度。銃刀法違反であるのだが、彼女のような一部例外も存在しているのだ。

「わざわざ手足を狙いましたし、使う弾も開発室の9パラを使いましたよ。当たったと同時に止血するっていう制圧用」

「確かそれって銃創がすぐに治癒を始めるから使い物にならないって文句言ってた奴かな?」

「はい。改良できたんですよね。みんな根性を見せてくれました」

 治癒術を封入した弾丸による銃撃によって殺傷性を著しく低下させたものだ。以前は、せっかく傷をつけても、すぐに完治してしまうほどに回復力の高い代物だったのだが、涙ぐましい努力と研究の結果、止血と消毒、生体維持に効果を留めることに成功したのだった。 

 銃口から放たれた弾丸は、敵の皮膚に当たると同時に術式を展開、治癒を始める。よって貫通しても問題がない。

 和洋ともに、銃器を用いた呪術の研究は遅れ気味だ。それは、人類史において刀剣が占める時代が圧倒的に長かったということで、魔術もまた刀剣との相性が格段によくなってしまったことが要因の一つだ。銃が戦場を席巻して一世紀と少し。魔術と近代兵器が融合するには短すぎる時間だ。

「古い人たちはこれが理解できないんですよね」

 また、上の無理解ということも非常に大きな障害だった。

 歴史と伝統を重んじるということは、どこの世界の魔術にも言えることで、それが技術革新を遅らせていることにもつながっている。

 ここ二十年の日本の科学技術の発展は極めて急速だ。

 戦前や高度経済成長期を生きた老人たちと、技術大国となってから生まれた若手との間にジェネレーションギャップが生じるのも仕方のないことだった。

 捕獲した六人を縛り上げて護送車にたたきこんでから、晶は馨の運転する車に乗り込んで帰路に就く。

 世界はすでに暗闇に没し、家々の明かりが点々と続いている。

「それで、学校はどうだったのかな?」

「楽しかったです。静花さんもいい人でした」

 晶は直属の上司の隣、助手席に座っている。車高の低いオープンカーを我が物顔で乗りこなす十八歳は日本中を探しても彼女くらいのものなのではないか。しかも、これが決まっている。風に流れる髪も、ハンドル捌きも標識を確認する視線運びも至極自然な様子でいて人目をひきつける。かっこいいのだ。

「彼女は言ってみれば僕たちと魔王様との関係を維持するために必要な人材だ。くれぐれも危険に晒さないようにしておくれよ」

「はい。呪術に関係のない一般人を巻き込むわけにはいきませんからね」

「それは当然だけどね。彼女に手を出したのが曲がりなりにも正史編纂委員会の人間だってことになったら目も当てられない。カンピオーネと敵対して勝算があるわけないんだからね」

「ないからこそ、そういうことをしようとしているんでしょうか」

「ほとんど自棄になってるような気もするんだけどね。とにかくカンピオーネを怒らせてその矛先を委員会に向けようって魂胆だよ」

 魔王カンピオーネ。草薙護堂がいくら男子高校生であるといっても、そこに秘められた圧倒的な戦闘能力は、一国の魔術機関を相手に壊滅させることが出来るほどに強い。

 しかも、厄介なことに呪術が効かないという体質に加え、恐るべき直感と生命力をもっている。とても武力で対抗できるはずもない。

 その恐るべき直感を、今朝方体験したばかりだった。

 あのマンションの一室で叔父とカンピオーネを眺めていたとき、一キロもの距離を隔てて向こうはこちらの視線を感じ取った。

 あの直前、晶の心中にあったのは対物ライフルを呪術で強化してここから狙えば勝てるのでは、というちょっとした好奇心だった。

 彼女には、対物ライフルの心得もある。一キロ先の獲物を撃つくらいのことはできる。そのほんのわずかな害意が、カンピオーネに察知されていたというのなら、彼らはまさしく化物である。

 なんという非常識。どこから狙おうにも勘一つで探り当てられてしまうのなら、彼らに奇襲は通じない。スナイパーなど何の役にも立たない。理不尽の塊だ。

「ま、彼らからすれば現状の委員会の組織運営そのものが気に入らないんだろうね」

「よくわからないです。そういうの」

 本をただせば晶もまた、現在敵対している一勢力と同じ集団に属していた。

 彼らの目的が過激になっていったのは、何を隠そうカンピオーネの国内誕生の報がもたらされたときだった。それまでの鬱屈していた生活からの解放を、新たな支配者に託し、旧勢力を効率よく一掃しようと画策し始めたのだ。

 草薙静花及び、一郎を害することによって。

「これから、どうするんだい?」

「叔父さんが敵の本拠地の洗い出しを行っているのだから、掃討戦までそう時間はかからないでしょうし、とりあえず明日、草薙護堂さんにお会いして事情の説明をしようかと思います」

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 毎年、四月の終わりから五月の第一週あたりまで、大型連休とも呼ばれる至高の休日、即ちゴールデンウィークがやってくる。

 学生にとっては、新学年に上がって一月でゴールデンウィークに突入するため、ここまでの一ヶ月をどのように過ごしたかで、この期間の生活が大きく変わるというものだ。

 友人をたくさん作れた者は、充実した休みになるだろう。一方で新学期で躓いた者は、非常に残念な休みになってしまう。

 幸いなことに草薙静花は、前者である。

 友人は多く、また、迎合する付き合い方ではなく、人に頼られる生き方をしているのが特徴だろう。

 だから、護堂は、昨日やってきたばかりという転入生が我が家にやってきても、さほど驚くことはなかった。

 仲良くなるのが早すぎる気がしなくもないが、それは、母親の血を色濃く受け継いでいる静花のこと、友人を作ることにかけては右に出る者はいない。

「おじゃまします」

 インターホンが鳴り、静花が迎えに出る。

 玄関に入ったところで挨拶したのだろう。決して大きくはないのに、不思議と耳に残る声だ。

「じゃあ、お兄ちゃん。わたしたち部屋にいるからね」

「おお」

 チラリ、と見えた黒髪の少女が転入生なのだろう。

 顔立ちは整っていて、確かにキレイ系よりもかわいい系に分類されるだろう。化粧っけはなく、本気で着飾ればアイドルとしても通用しそうなのだけれども、そういったことをしていないからなんとなく地味な印象を受けるという感じだ。

 にもかかわらず、匂い立つ色香を感じる。惹きつけられるような、眼に見えない魅力。

 彼女を視界に入れた途端、護堂の内から湧き起こったのは不可思議な感覚だった。

 暖かい太陽の恵み。

 吹き渡る穏やかな風に乗り、小波の音にも聞こえるさざめきは、黄金色に実った豊穣の証。 

 豊かな実り、母なる大地の慈愛。

「どしたの?」

 茫洋としていた護堂を現実に引き戻したのは静花の声だった。

「なんでもない」

「そ」

 そういって、静花は友人を引き連れて自室に向かっていった。

 護堂はその背中を見送って、奇妙にざわつく心に疑問を持っていた。

 今の、少女になにかを感じている。具体的にはわからないが、彼女から漏れ出していたのは紛れもない呪力だった。

 直感が告げているこの気配は、大地と豊穣にまつわる力だった。

「なにもんだ?」

 と呟きはしたが、それ以上の追及をすることはなかった。

 気になりはするが、害意は感じなかった。護堂は非常に野生的感性の持ち主なので、敵意や害意があればなんとなくわかる。

 護堂は、冷蔵庫から麦茶を取り出して、コップに注ぎ、一気に飲み干した。

 しかし、ガブリエルの勘にまで引っかかるほど明確で、濃い大地の気を内包する人間などいるのだろうか。

 その道の権威ではない護堂には、いくら考えても詮無いことだが。

 委員会の隠し玉であろうか。

 コップを置いたそのとき、虚空から現れた桃色の手紙。

 差出人の名は高橋晶となっていた。




晶の言葉遣いは身内とその他を区別しているから少し違うのです。
この章は一応委員会の内輪もめといいますか、成立過程みたいなのを勝手に想像してそこから生じる歪みを簡単に出していこうかというところですかね


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八話

 時刻は夜の十一時。高校生とはいえ、真面目に生活しているものであれば外出を憚る時間帯だ。

 そして護堂はおよそ非行とは無縁の生活を送ってきたし、これからもそうありたいと思っている。が、現実はなかなかどうして思うようにならない。

 中学を卒業するまでは、まったく普通の生活だった。それがたったの二月で、全国の不良を掻き集めても歯が立たないような大騒動を引き起こしてしまっているのはどうしたことだろうか。

 戦いになるのは仕方がないと割り切った上で、被害を抑えようと考えたのにもかかわらず、大きな災害に襲われたに等しい被害がでてしまっている。

 護堂が暮らす根津にも、主戦場ほどではないにしろ多少の被害があった。窓ガラスが割れた家などが、今でも散見される。

 そんな傷跡を眺めながら、護堂が向かうのは近所の公園だった。

 高橋晶という妹の同級生からの呼び出しである。

 妹の友人からの呼び出し。しかも深夜というシチュエーションは、学友に見咎められでもしたらいったい何を言われるか。-------------想像できるだけたちが悪い。

 しかしながら、護堂が普通の男子が舞い上がるこの状況にあって、冷静であったのは、相手の目的が青春物とは意を異にするものだとわかっているからだった。

(さて、鬼が出るか蛇が出るか)

 

 

 

 

「お久しぶりです。草薙さん」

 公園に着いたとき、真っ先に目に留まった人物がそのまま挨拶をし、しかも見覚えがあったので護堂は少々意表を突かれた。

「甘粕さん?これは、意外でした」

 護堂を出迎えたのは、冬馬だった。

 以前会ったときと同じ、黒のスーツ姿だ。

「こんな時間にお呼びして申し訳ありません。ただ、できるだけ早くお伝えしないといけないことがありまして」

「はあ……それで、俺を呼び出したのは実は甘粕さんだったってことですか?」

「ああ、いえ。私はあくまでも付き人だと思ってくれればいいでしょう。あの娘は、今、月光浴の真っ最中なんですよ。あと少しで終わるはずなんで、それまで待っていただけませんか?」

「それは構いませんよ。それにしても、月光浴って、またロマンチックなことを。儀式かなんかですか?」

 見上げる空には真円を描き出す月が鎮座していた。夜でありながらも闇が深くないのは、この月のおかげだった。

「そうです。あの娘も祐理さんと同じ媛巫女の一員なんですが、その中でも特殊な立ち位置にいまして」

「大地に関わりのある力に月って言ったら地母神みたいですね」

 護堂が感じたところを述べると、冬馬は驚いたように目を見張った。

「なぜ、それを?」

「晶さん、でしたっけ。今日見かけたときに大地の力を感じたので」

「驚きました。確か魔術を嗜んだことは一度もないのですよね。カンピオーネの力なんでしょうか」

「さあ、どうでしょう。勘任せですけど」

 護堂は苦笑した。

 カンピオーネになった途端、呪力を肌で感じることができるようになったのは事実だ。だが、それの種類まで判別できるようになったのは、経験からくるものだろう。

「おわったよ、叔父さん」

 そこに晶がやって来た。

 その姿からは、精気に満ち満ちているような印象を受ける。

 その晶が、護堂を見て、深々と頭を下げた。

「今朝は、お会いしておきながら満足なご挨拶もせず、誠に申し訳ありませんでした。改めてご挨拶申し上げます。私は」

「待て待て、畏まりすぎだ!もっと砕けていいって!」

 護堂は、前世持ち。その時の生活が、どのようなものだったかは十五年もこっちで暮らしてきたので大分薄れているが、このような丁寧で畏まった挨拶を中学生にさせたことは一度もないはずだ。

 これは、あまりにも外聞が悪い。

「ということです晶さん。普通に先輩後輩の関係でいいと王は仰せです」

「わ、わかりました。では、おそれながら。草薙先輩とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、そのほうがいい。これからはそうしてくれ」

 おずおずと尋ねてきた後輩に極力明るく返答する。何もしていないのに、年下の女の子におそれられる自分にへこたれそうになる護堂だった。 

 そこで、冬馬が半歩前に出た。

「さて、ではそろそろ話をもどしましょう。晶さん。自己紹介の続きを」

「はい」

 冬馬に促された晶が自己紹介の続きを始める。

「楠南学院中等部三年高橋晶です。今は正史編纂委員会の東京分室に所属してます。基本的な任務は戦闘が主ですが、今回は草薙静花さんの護衛を任されています」

「今なんていった?」

 聞き逃してはならない言葉を聴いて、護堂は双眸を細めた。

 それが、威嚇のように捉えられてしまったのか、晶は顔色を失う。

「単刀直入にいいますと、あなたのご家族を狙っている輩がいます。それも、かなりの数です」

「な!?」

 冬馬が説明を加え、今度こそ、護堂は言葉を失った。

 カンピオーネの親族に手を出そうという愚か者が、かなりの数いるということがまず驚くべきことだった。この世界の常識ではありえないことだ。

「そのために、この娘を側に置いたのです。ご想像の通り、この娘は大地の力と誰よりも深い関わりがあります。先祖返りのようなもので、その力と生来の才能をあわせて---------本当に残念ながら、とてつもない戦闘能力をもっています。単体での戦闘力は、媛巫女でも最上位にいるくらいです。彼女を護衛に付け、私たちは、敵を探り殲滅します」

 媛巫女最強。この少女がそれほどの力を有していることには、さすがの護堂も気づかなかった。原作にでてきた清秋院恵那とどちらが上になるのか、気になるところではある。

「殲滅って、殺すんですか?」

「場合によりますね。私たちも今のところは、命を奪わないように心がけています。ですが、それこそ映画に出てくるような戦いがありますしね。完全とはいえないでしょう」

 実のところ、敵の命を奪わないのは、護堂の性格を慮ってのことでもある。殺してしまうと有益な情報が得られないという捜査上の問題よりも、そちらのほうがずっと大きいのだ。

「じいちゃんは?今、日本にいないんですが?」

 護堂は心配そうな声色で尋ねた。

 草薙一郎のフットワークは、同年代の一般男性に比べ、驚くほどに軽い。なんと、ゴールデンウィークに先駆けてインドネシアに旅行していたのだ。

 彼のことだ、ただの旅行ではないのだろうが、そちらに手は回してもらえるのだろうか。

「それでしたら問題ありません。向こうにも腕利きを送り込んであります。現地の魔術師とも連携協力ができていますのでご安心ください」

 冬馬の表情はいつもと変わらない軽薄な笑みだが、それがこの場においては余裕を感じさせてくれる。

 当面、静花と祖父の安全は確保されているということだろう。油断はならないが、かといって悪戯に不安視する必要もないといったところだろうか。

 いざとなれば、護堂自身が戦いに赴くという選択肢もありえる。

「じゃあ、俺たちに手出ししようってのはどういう連中なんですか?かなり無謀な気もしますけど」

「そうですねえ。まあ、大雑把に言えば、侍の末裔が中心になってるんですよねえ」

「はあ?なんで、また」

 護堂は自分のこれまでの行いを即座に思い返す。

 原作護堂にくらべ、破壊活動は小規模、真面目に日々を過ごしてきた。少なくとも、侍たちに恨みを買うようなことは、ないはずだった。

 とすれば、護堂本人への恨みではなく、委員会内の争いということになるだろう。

「それを説明するには、日本の呪術界について説明する必要がありますが……」

「お願いします」

「はい」

 そして、冬馬の解説が始まった。

 

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 日本の呪術業界は政治的に大きく分けると二つに分類される。一つは正史編纂委員会に属する呪術者、つまり『官』に属する公務員であり、もう一つは『民』に属する在野の術者たち。この分類も、平安の時代から存在し呪術界を形作ってきたが、今はまた別の視点から分類する必要がある。

 呪術の形体で分けるならば、日本式の呪術は『公家』と『武家』に分かれることになる。

 日本の呪術は神道、仏教、陰陽道など日本で育まれた思想と大陸の思想を融合した独自のものだが、それを扱う者の身分や目的によって、改変が繰り返されてきたという背景がある。

 儀式や形式を重んじ、媛巫女を多数擁する『公家』と即座に術を構成する必要のある戦闘特化の術を好む『武家』では当然、その呪術の扱いに違いが生じるのである。

 特に、鎌倉以来、朝廷から独立しはじめた『武家』の術式は、大本となる『公家』の術とはまた違うものとなるのも至極当然のことだろう。

「今、正史編纂委員会を含め、日本の呪術界を牽引しているのはどういう氏族かご存知でしょうか?」

 冬馬の問いに、護堂はどう答えたものか悩んだ。

 知識としては知っている。しかし、それは前世での知識であり、それをここで披露してもよいのかどうか見当がつかなかったからだ。無難に、知りませんと答えることにした。

 護堂の答えを聞いた冬馬は頷いた

「今、日本の呪術界は、『四家』と呼ばれる古くから朝廷に仕えた一族が勢力争いをしているところなんです。それが、正史編纂委員会のオーナーでもあるわけです」

「ああ、それで侍ってことですか」

「はい。とはいえ今の正史編纂委員会は民主主義の組織ですから、武士系だからといって差別はないんですがね。やはり、気に入らない人はいるわけですね」

 曰く、『武家』と『公家』の対立構造は、明治維新から始まるのだそうだ。

 幕府を倒した後、朝廷は東京に本拠を移し、それによって朝廷に仕えた魔術師たちも東京にやってきた。そこにいた旧来の、幕府お抱えの魔術師たちは、権益を侵された挙句に追放となったという苦い歴史がある。

 現在、関東を守る媛巫女も、その大部分は旧華族の家柄。それも、『公家』の出自だ。それは、媛巫女を宮中で管理しようとしていたのだから仕方のないことかもしれない。

 しかし、政治的に見れば、別の見方もできる。

 関東は古より武士の力の強い土地。江戸時代は言うに及ばず、平将門、鎌倉幕府、後北条氏に至るまで、中央と距離を置く勢力は多数存在したわけだし、彼らは彼らで呪術の管理を行っていたのだ。媛巫女を重要な土地の守りとして配置するということは、そうした武士による呪術の管理の歴史に幕を閉じる象徴的意味合いもあったはずだ。

 おまけに拙速とも言える急激な西洋化とそれに伴う合理化によって『民』の魔術師として生きるのも難しくなった。政府が非合理的として、表立っての呪術を批判したからだ。未だに正史編纂委員会の業務の大半が呪術の秘匿にあるのも、世界的な流れであると同時に、そうした影響を受けているからである。

「明治維新で多くの士族は呪術者としての立場を失いました。正史編纂委員会も、当時は士族の術者を冷遇したこともあったようですし、鬱憤が溜まっていたのでしょう。カンピオーネの国内誕生が呼び水になって、彼らの子孫たちの中から急進派とも呼べる勢力が生まれてしまったのです」

「ようは、いつまでも昔のことを引きずる連中がわがままを言っているんです」

 非常にキツイ言い回しで晶が要約した。

「実際そうです。もうこうした対立構造は戦前から指摘され、改善の努力は為されてきました。明治新政府だって西南戦争でいたずらに士族の反感をかうのはまずいってことに気がついたわけですし、それ以降は扱いが軟化していったんです」

「ようは、武士の魂が忘れられないって人たちが未だに呪術界を占拠している『公家』系統に対して反乱を起こそうとしているということかな」

「そうです」

 晶が頷いた。

 しかし、厄介なことになったと護堂は思う。表の士族の反感はおそらく西南戦争で一気に噴出し、鎮圧と共に失せていった。この戦いが政府に従えない侍たちを一掃する膿みだしになったのだが、呪術の世界では、それに何とか対処しようと画策した結果として、大規模な戦いが起こることはなかった。そうした態度へ向かったのは、攻撃能力の高い呪術者を多く失う可能性があり、諸外国との外交において不利益極まりないという政治的判断も含まれていたからだ。

 しかし、この対処は、見たくないものにとりあえず蓋をしただけだったので、その下に燻る火は消えることがなかった。護堂の存在は、そこに油を注ぐことになったに違いない。

 張り詰めた緊張が一気に崩れ、暴走を止めることができなくなったのだ。

「しかし、不幸中の幸い。この前の『まつろわぬ神』とあなたとの戦いで、これは無理だ!と離反者が相次ぎましてね、おかげで敵の戦力はがた落ち。いやはやさすが魔王様なだけのことはあります」

「残っているのは、命は惜しくないっていう人たち。やっぱり、こういう人はかなり厄介で、文字通り死兵になって襲ってくるんで対処に困りますよね」

 聞くところによると、残る敵勢力は百人ほどで、もともと委員会の関係者だったために顔も名前も実力もすべて明らかになっているらしい。

「わたしたちは、この問題はゴールデンウィークのうちには解決したいと思っています。ですので、先輩にはその期間中、静花さんが一人で外出することのないように目を光らせていて欲しいんです」

「なかなか難しい注文だな」

「大丈夫です。静花さんのことですから、先輩にここにいろって言われたらなんだかんだで言うこと聞くと思いますよ。まだ会って二日ですけど、なんとなくわかります」

 この評価を静花が聞いたら顔を真っ赤にして怒り出しそうである。

 しかし、静花をゴールデンウィーク中に目の届くところにおくというのは、一体どうすればいいのだろう。

 護堂は手を組んで悩んだ。

「はい、先輩。一応用意はしておきました」

「これって、チケット?」

「千葉にある某遊園地も上野動物園もご要望とあれば貸切にだってできます。ご一考を」

「そんなことまでしなくてもいい!だけど、うん、これは使わせてもらおうかな」

 護堂はとりあえずチケットをいくつか受け取ることにした。

 




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九話

 ゴールデンウィークに入ってから、兄の様子が妙だ。

 静花の疑惑の目が向く先には、テレビのリモコンを弄っている兄の姿があった。大型連休というのに、外出する様子もなく、日がな一日家でごろごろする構えなのだろうか。

 いや、そもそも兄はフットワークの軽いほうではない。

 祖父や父があのような人物なので、それを側で見ていたものは俄かには信じられないかもしれないが、兄は遊びまわるという事を知らない……はずだ。

 サッカー部に所属していた中学時代も、外に遊びに出るということはあまりしていなかった。部活の仕様上休みがほとんどないということもあったのだが、数少ない休みの日に、外に出るくらいなら家で大人しくしているという性格だった(とはいえ、いざ出かけると決めたら地の果てにも行ってしまうのだが)。

 そういうことなので、このゴールデンウィークも家にいる護堂自体は不思議でもなんでもない。

「今は帰宅部だし……」

 むしろ、高校デビューを帰宅部で飾った今、時間には余裕がありまくっているはず。

 外出の兆しがないことを一体どのように捉えればよいのか、静花は悩んでいた。

「友達がいない、とか?ううん。そんなはずはないし」

 護堂の高校生活は概ね順調。それは、四月の調査で明らかになったことだった。草薙家は誰とでも仲良くなる事ができる体質の一族だけに、心配するだけムダだと割り切る他ない。

 むむむ……

 静花の視線が険しくなる。

「怪しい」

 理由など何もなかった。 

 ただ、漠然とそう思ったのだ。

 いつもと同じようでいて、なんとなく、雰囲気が違う。

 生まれたときから一緒の兄だからといって、細かい感情の機微を捉えられるとは思っていない。護堂は、なぜか同年代に比べてずっと老成してるようだし、いつも自分と兄を比較して頑張ろうという思いになる。それくらいに差を感じているのだから、兄のことをなんでもわかるなどという傲慢さは持てないのだが、やはり家族。時にこうして勘が冴えることもある。

「んー?」

 視線を感じ取ったのか、護堂が振り向いた。

「なんだ? 人を親の敵みたいな目で見て」

「そんな風に見えるのなら、それはお兄ちゃんに後ろめたいことがあるからじゃないかな」

「じゃあ、そうは見えない。静花はいつも通りだ」

 平然と護堂はそう返答した。

「それに、もしも仮に、あの人たちに敵がいるんならそれこそ見てみたいよ」

「違いない」

 護堂は妹の見事な切り返しに苦笑した。

 確かに、何かと騒動を起こす両親ながらも、敵が現れる話は聞かない。破天荒もここまでくるとカリスマ性に変わるのだろうか。あの人ならば仕方がない、と割り切った上で、惹かれる要素となるのだろう。

 第一、敵対して勝てるとも思えない。

「そうそう、静花。明日暇か?」

「何?突然」

「いや、実は友達からこんなんもらってな」

 胡乱そうな静花にチケットを見せた。言わずもがな、晶が支給したものである。バリエーションはいくつかあって博物館や美術館、遊園地に動物園とおよそ行けないところはない。

「一緒に行くか?」

「えー!ど、どうしちゃったの?何か変なもの食べた!?」

「心外だ。別になにもおかしくはないだろう。ただ妹とたまの休日を過ごしてみるのもいいかと思っただけで」

「へ、へー。まあ、どうしてもっていうなら、行ってもいいけどー」

 静花が「まるで興味はないよ、でも護堂が言うのだからしかたなく」というような言い回しをしているところが、静花の可愛らしいところだろう、と兄貴目線から静花を評価する。

 護堂も当然ながらこれまでずっと静花と暮らしてきたのだ。これくらいの感情の変化は簡単にわかる。

 これは、興味アリアリである、と。

「どうしても」

「即答!?」

「ああ、もともとそのつもりで誘ってるんだからな」

 なんの含みなく言う護堂にさすがの静花もたじろいだ。

(何かおかしいとは思ったけど、やっぱり何かおかしい!)

 だが、普段こうした家族サービスをしていなかった代償か、静花の不確定な疑念をますます深くしていくことになった。

(こんな積極的なお兄ちゃんはおかしい!誰かに入れ知恵されたに違いない!……女か!)

 静花の思考は、草薙家の男である兄の異変を女に結びつける。護堂としては、とんでもない疑いを持たれることになったわけだが、あながち間違いでもないのは、静花の感性の鋭さの為すところか。

「わかった、行く。どうせなら、それ、全部行こう」

「……体力の続く限りってことでいいかな」

 妙なスイッチを入れてしまったかな、と護堂は少々後悔した。もう少し、言葉に気をつけるべきだったかもしれないと。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 翌日、草薙兄妹の朝は慌ただしかった。

 妙に早く起きた静花にたたき起こされ、時間に余裕があると思っていたら、静花が着ていく服があーでもないこーでもないと護堂からすれば無駄なこだわりを発揮して、気がついてみれば出発予定時間ギリギリという有様だった。

 その様子を少し離れたところから眺めるのは、晶たちだった。

 重々しい双眼鏡を片手に草薙兄妹を観察している。

「あらら、静花ちゃんてば楽しそう」

 結局、彼らが最初に選んだのは日本有数の遊園地だった。

 ゴールデンウィークのはじめだ。人込みは、夏休みよりもむしろ多いかもしれない。

 広大な敷地、数多くのアトラクションを有しながら、訪れる人があまりに多いので、待ち時間が長く一日かかってもすべてを回りつくすのは難しい。

「どうも、あれですねえ。人のデートを覗き見するようで気が進みませんね」

「何言ってんの?一番楽しそうにしてるじゃないの、叔父さん……ちょっと楽しみすぎてない?」

「そんなことありませんよ」

 ニコニコしながら双眼鏡を手にする冬馬は、マスコットの仮面を片手にポップコーンを入れたバスケットを首から提げている。

「こういう任務は、いかに場に溶け込むかがミソなんです。なので、遊園地に来たのなら、そこそこ楽しまないと浮いてしまうじゃないですか」

「妙に正論っぽく聞こえる。でも、ぜんぜん信用できないのはなんでだろう」

「お?」

 冬馬が身を乗り出した。 

 何事かと晶も双眼鏡を構える。 

 護堂が囲まれていた。女性の集団だ。どうやら護堂が女性たちに道を尋ねられたようだが、そこからどういうわけか話が弾んでにこやかに会話をしているという状況。

「いったいどうしたら赤の他人と、しかもこの状況であんな親しそうな会話が成立するんだろ」

「草薙さんは、というか彼の一族を洗うと女性関係で面白い逸話が多いですからね。彼にもその血が受け継がれているんでしょうね。いやあ、羨ましいですねえ」

 羨ましい、といいながらも、冬馬の顔は満面の笑み。

 これから、どんな騒動を巻き起こしてくれるのか楽しみでしょうがないのだ。

「まったく、それで静花ちゃんも気が気でないんだね。お兄ちゃん大好きなのはなんとなく分かってたけどさ」

 双眼鏡の奥、ちょうど今、静花の冷徹な目が護堂に向けられているところだった。

 護堂もその視線に気づいているのだろう。顔を引きつらせながら女性たちをあしらっている。

 たっぷり五分。見ず知らずの女性からのアプローチを受けた護堂は、機嫌を崩した静花にいろいろと話しかけながら、次のアトラクションを目指した。

 

 

 

 そろそろ、お昼にする時間か。そう思い、腕時計に目を向けると、十二時半。ちょうどいい時間帯だ。朝から歩き詰めで、静花も、それなりに疲れてきているようだし、このあたりで休息を取ったほうがいいだろう。

 幸いにして、ここは広さや客数に見合うだけのレストランや屋台を備えてくれていた。

 食べるものを選ばなければ、昼食にありつくことは可能だ。

「やっぱり、高い」

「こういうところはそういうもんでしょ」

 静花は、特に感慨もなさそうにホットドッグを口に運んでいる。

 ちなみに、この日の出費は護堂の財布から捻出される。覚悟してはいたが、それなりの額が消えていく事になる。移動にだって金はかかったのだし、極力出費は避けたい。しかし、だからといって昼食代をケチるのは兄として以前に、男としてのプライドが許さなかった。

 痛かったのは、こういった施設内の飲食物は基本的に外よりも多少高額だということか。

 まあ、護堂の通帳には、親族間でのギャンブルで稼いだ大量の金が眠っている。

 妹におごる程度大したことではない。

 護堂は、自分の分のホットドッグを齧る。コンビニで売っているものよりも大きい上に味付けも濃い。ケチャップが多いようだった。

 食事をすませたあとは、またアトラクション巡りをすることになる。

 大小さまざまなアトラクションは、数多く、一つ乗るにも時間がかかる。歩いて回るうちに気づけば夜になっていた。

「今日はどうだった?」

 ベンチに腰掛けて、静花に尋ねた。

「楽しかったよ。珍しくお兄ちゃんも気がきいたところがあったしね」

「はいはい、どうせ普段はうだつの上がらない兄貴だよ」

「そこまで言ってないよ!」

 慌てた静花は取り繕うように言った。

 静花のびっくりしている様子は、どことなく猫やうさぎのような小動物を思わせる。護堂としては、猫が一番似合っているような気がする。

 道の人通りが多くなってきた。

 このベンチがあるのは園内の中心にある円形の広場の端っこだ。その真ん中を囲むようにして多くの人が集まり、壁となっている。

 静花は、そこで、あ、と声を出した。

「なんだ?」

「忘れてた。カーニバル!」

 叫ぶ静花と、よくわかっていない護堂。二人が見つめる前で、それが始まった。

 暗闇の中に映し出されるネオンの光。

 光り輝く装飾を満遍なく施したフロート車の上には、マスコットの着ぐるみたちが観衆に手を振っている。

 それは、星空が行進しているかのように見事だった。

「キレー」

 パレードをうっとりと眺める静花に、護堂はこの日の全てが報われたような気がした。

 身体は疲れているし、金は飛んだ。しかし、それを差し引いても得られるものは大きかったと素直に感じることができた。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 四月の上旬から噴出し始めた現正史編纂委員会への不満は、その規模こそ非常に小さいものであったが、それが引き起こすであろう災厄を前にしては、人員の実力や人数など、まったく問題にならない。

 ただ一人でも成功させてしまえば、委員会のみならず、日本国全土を揺るがす事にもなりかねないからだ。

 たしかに、草薙護堂を観察した結果は、性格は一般的な男子高校生よりも落ち着きのある、人格者だそうだし、強大な力を率先して振るおうともしていない。

 だから、もしも不慮の事故で敵対しても予想しているほどにひどい事にはならないのではないか、という楽観論も少なくはなかった。 

 普通、カンピオーネというだけで手を出す事もおこがましい存在。欧州であれば、カンピオーネの性格の如何に囚われず臣従するもの。だが、日本国においては、そうも行かない事情があった。 

 まず、日本が誕生してからこれまで、カンピオーネに触れる機会がまったくなかったということが大きい。江戸時代を通して鎖国。海外とのつながりはここ百五十年というところ。カンピオーネの大暴れや、その怒りに触れて消滅する都市という逸話は、知っていても、その目で見たことも、肌で感じたこともない彼らには、実感が湧かないのも無理はない。

 簡単に言えば、甘く見る人間も多かったのだ。

 驚いたのは上層部だ。

 せっかく日本に誕生したカンピオーネと接触を図ろうかというときに、まさか敵対させられる事になる可能性が浮上するとは思っていなかった。

 しかも、相手は呪術を知らないカンピオーネ。わずかであっても委員会に敵意を持つ勢力との接触を阻まなければならない。

 そこは、正史編纂委員会も『四家』も一致した見解を示していた。

 かくして、反乱分子の一斉摘発は電撃的に行われることとなった。

 正史編纂委員会は、この一斉摘発に、数多くの術者を動員。

 呪術の粋を結集して、追い詰め追い詰めていった。

 おまけに、四月中旬の『まつろわぬ神』の襲来で、カンピオーネの力を目の当たりにした敵勢力は、一気に士気を挫かれた。

 すくなくとも関東に依拠する勢力は、この段階で大部分が掃討されていたのだった。

 主戦力となったのは東京分室の職員と『四家』のメンバー。

 ここを中心に、全国各地に散らばる分室との連携を取り、敵の情報を共有し、叩く。

 もはや神憑り的とも言える作戦を立案、実行、成功させたのは、新進気鋭の媛、沙耶宮馨だった。

 その、冴えわたる指揮官振りには、近くで見ていた甘粕冬馬も慄然とせざるを得なかった。

 

 

 

 

「ええ、はい。そのように……」

 深夜を回り、日比谷公園を訪れた冬馬は、携帯電話を使っていた。

 周囲には誰もいない。会話を聞かれることを恐れたためだろうか。

「近く、本格的な大攻勢が行われるようです。そのときは、草薙護堂も伴うと」

 広い敷地内で、不自然なほどか細い声で会話を続ける冬馬。

 この声色は淡々としていて、これまで見聞きしていたことを羅列している。これは、報告だ。

 最後に、

「ええ、関東はもうダメですね。さすがに、沙耶宮家の跡継ぎは厄介です。例の場所に戦力を結集しましょう。これ以上、士道を損なうような事があってはなりません」

 深刻さに震える声で意思を伝えた後、冬馬は通話を終えた。

「評価してもらえるのはありがたいね。できることなら、そのまま続きを聞きたいところだ」

 背後からの声に、冬馬は振り返った。

 素早く胸元に手を伸ばす。忍ばせておいた投擲用の武器を引き抜くためだ。

 いつの間にかそこにいたのは、馨と晶だった。

「馨さん。こんなところでいったい何をしているんです?」

 冬馬は、最大限に警戒しながら、馨を睨みつける。普段の友好的で掴み所のない表情とは大違いだ。

「らしくないよ、甘粕さん。いつものあなたなら、こんな場面でも用心深く、かつ慎重に、全力で誤魔化そうとしたはずだ」

 対照的に馨は余裕の笑みを浮かべている。

 まるで、自分の悪戯が大成功した子どものような稚気も感じさせる。

「そろそろ観念すべきだね。服部重蔵。歳寄りは楽隠居して悠々自適に余生を過ごせばいいものを」

 服部重蔵と呼ばれた冬馬は、たじろぐように一歩後退した。

 馨の言葉が正しいのであれば、この冬馬は、服部重蔵という名の老人ということになる。しかし、顔立ちも声も、その雰囲気すらも甘粕冬馬である。

 完璧とも言える変装を、どのようにして見破ったのか。

「いつから、気づいていた?」

 驚愕を顔に浮かべたまま、重蔵は、尋ねた。その名でわかるとおり、彼の家系は伝説的忍びの一族だ。その一族の特殊な変装術は、並大抵のことでは見破る事ができないはずなのに。

「初めからさ。君が甘粕さんの姿をしたその瞬間からわかっていたことだよ」

「バカな!貴様がどれほど有能な媛巫女であろうとも、そのように簡単に見破れるはずがない!」

「だから、見破った訳ではないよ。わかっていた、と言っただろう。僕が甘粕さんに命じた最初の仕事はね、君たちに捕まれというものだったんだよ」

 それを聞いて、さすがの重蔵も顔を青くした。

「甘粕さんの立ち位置くらい、君たちも知っているだろう。彼は僕の右腕として活躍する忍びであり、今作戦においても、情報を運んでくる重要な役目を持っている。彼に変装して潜り込むことがどれほど君たちに利することになるか。案の定、君たちは服部重蔵を甘粕さんに変装させた」

 変装において右に出る者のいない服部家に、最も重要な部分を任せる、というのは、自然な流れであり、馨は敵に服部家の縁者がいると聞いた段階から、あえて変装したらそれとわかるような作戦を立てた。何の策もなく誰かに変装されるよりはずっといいからだ。

「おまけに、君たちの変装術は対象が生きていなければできない。甘粕さんが斬首されるようなこともないだろうと踏んでいたよ。まあ、賭けだったから、二階級特進ということもあったかもしれないけどね」

 本人が聞いたらなんというだろう。間違いなく文句をつけることを言ってのけた馨。人使いの荒さでは右に出る者はいないだろう。

「さて、漫画よろしく謎解きをしたわけだし、そろそろいいだろう。お縄についてもらうよ」

「そう簡単に……」

 そのとき、乾いた音が園内に響いた。

 どう、と倒れ臥す重蔵の手足からは、赤黒い血が溢れ出ていた。

 重蔵が抵抗しようとしたその瞬間、手品のように拳銃を引き抜いた晶が引き金を引いたのだ。

 馨の耳ですら銃声は一つにしか聞こえなかった。

 しかし、

(四連射か、相変わらずなんて早撃ち)

 戦慄するほどに美しい銃撃だった。

 正確に射抜かれた両手足の出血はすでに止まっている。制圧用の呪装弾を使ったのだ。

 倒れた重蔵に、馨は歩み寄っていく。敵に近づくには、ひどく無警戒だ。

 倒れてなお、冬馬の顔をした重蔵は戦意衰えぬ視線を馨に投げかけた。

「まだだ。まだ我々が屈した事にはならない! まだ、終わらぬよ!」

 地響きのような野太い声は、この人物の本来の声だった。

 そんな往生際の悪い老人に、馨は哀れみとも見える視線を送る。

「いえ、もう終わりだよ。あなたたちの言う、例の場所。すでに特定できているんだ。京都府の上品蓮台寺近辺なんだろう?」

「ッ……!?」

 馨には、重蔵が息を呑むのがわかった。どうやら、この情報に間違いはなさそうだ。あえて、この場で尋ねたのは、心理的に優位にある今ならば、敵も隠し通す事はできないだろうと判断してのこと。

 結果、重大な情報の裏づけが取れた。

「なぜ、それを……」

「なんてことはないよ。甘粕さんは優秀なエージェントだったということさ」

 重蔵に電撃が走った。

「まさか……!?」

「これが正しい忍びの使い方だよ。先達たるあなたには、もはや分かりきったことかもしれないけれどね」

 このとき、重蔵は、完全なる敗北を喫したのだった。 

 

 

 

 

 



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十話

 大陸から移動してきた気圧の谷が通過するにあたって、日本列島の天気は概ね荒れ模様だった。

 まるでノックをしているかのように窓を叩く大粒の雨は、前日の夜から依然として止む気配を見せず、海をひっくり返しているのではないかと思わせるほどに、この土砂降りは丸一日続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 舞台となるのは、京都市北区の上品蓮台寺。その歴史はきわめて古く、聖徳太子によって創建されたとも、宇多法皇から灌頂を受けた寛空が創建したとも伝えられる。いずれにせよ、千年以上の歴史を有する寺院なのである。

 当然、歴史がある寺だけに、著名人に関わる伝承や墓などもあって、ここには、寄木造技法の完成者である定朝の墓や、境内北側の真言院には源頼光の蜘蛛退治にまつわる頼光塚がある。

 敷地も非常に大きく、三十人余りの人間を収容するには十分すぎる伽藍を有している。

 その上品蓮台寺が、突如として結界に覆われたのは、丑三つ時をわずかにすぎたころだった。

 呪力の高まりを感じたときには、すでにこの近辺は正史編纂委員会によって囲まれていたのだ。ことここに至り、指揮を任されていた杉正和は手遅れを悟った。

 夜陰と嵐に紛れての不意を突く夜襲。ここを拠点にしている事を知られているなどとは夢にも思っていなかった正和等は、大いに狼狽した。

 辛うじて、仕掛けてあった緊急時の守護結界と罠によって多少の時間が稼げているものの、突破されるのも時間の問題である。

 運よく、メンバーは書院に集まり今後の活動を協議していたところであったから、即座に協議の内容を変更し襲い来る敵への対処に専念することができた。

「ここは、結界を張り篭城に徹すべし」

 そのような意見もあった。が、それは即座に却下された。篭城とは、援軍を見込んで行うべき作戦だ。彼ら反・主流派には、後援者もいなければ、これ以上の戦力もない。

 ここにいる三十余名こそが、全国に散っていた同士たちの生き残りなのだ。

(関東圏での支部を潰された段階で、詰んでいたか)

 敵ながら天晴れという他ない。

 この場所を最後の決戦のための集合地点と定めたのは、つい最近の事。甘粕冬馬に扮した忍びとの連絡にとって決定したものだ。

 それがこうも容易く露見してしまうとは。

(はじめから、委員会側の手の平の上だったということだな)

 正和は、努めて冷静に、敗北を理解した。

 思えば、この組織自体が、あまりに急造の代物。綿密な計画のひとつも立てず、カンピオーネとなった高校生を利用し日本呪術界を独占する公家社会を瓦解させるという一点のみに焦点を当てた組織であり、誕生から未だに一月しか経っていない。明確な指揮系統も存在せず、ただ、現状に不満を抱く旧士族や下級公家勢力の、それも今の時代の流れに対応できない古い考えの持ち主ばかりであり、組織だって対処する事のできる正史編纂委員会に正面きっての戦闘ができるはずもないのだ。

 正和は自らの半生を振り返る。

 いったい、いつの頃から道を踏み誤ったのだろう。

 実のところ、この反乱分子が生まれる下地となるグループは、正史編纂委員会の中に以前から存在していた。

 それは、力による革新を目指すのではなく、言ってみれば政治サークルや研究サークルのようなもので、日夜呪術や、現体制をよりよい方向に変えることができるのかを議論する場であった。

 正和自身も、今のままではならないという義憤に駆られ、そうしたサークルに足を運び、情熱を燃やした時期もあった。

 それが、いつのころからか不満を吐き出すだけの不毛な地へと変わり、気がついてみれば、カンピオーネの親族に危害を加え、そこから生じる魔王の怒りという力によって現委員会の構造を根元から打倒しようなどという思想にまで発展していったのは、どういうことなのか。

 当初の作戦では、カンピオーネの親族を拉致し、それによってカンピオーネに恭順を要請する。当然、彼らはそのような要求には屈する事はないだろう。反抗するはずだ。その力の向かう先を、正史編纂委員会のトップを独占する一族の方向に上手く誘導する手はずとなっていた。

 二百人という人手を秘密裏にそろえる事ができたのは、委員会に対する不満がそれだけあったということなのだろう。 

 それだけの人間がいれば、妹か祖父、どちらかでも接触して拉致することは可能だったはず。

 だが、その作戦とも呼べない稚拙な計画は、瞬く間に委員会の知るところとなり、こうして、寺院に身を隠す事になってしまったのである。

 いまさら後悔してもしかたがない。議論している時間もないのであれば、指揮を任されている自分が命令を下さねばならない。

「皆に問う。今我々がしなければならない事は何だ?」

 時代がかった言い回しに正和自身、苦笑する。

「私たちは、委員会の現状に不満を持ち、これを改革せんと立ち上がったのだ。これまで多くの勇士を失い、今も苦境に立たされているが……」

 そこで、一端言葉を切って、全体を見回す。

 たっぷり、余裕を持たせて、紡ぐ。

「まだ、終わったわけではない。今は、生き恥を晒してでも、奴等の手を逃れ、志を絶やさぬことが我々の未来のためになろう」

 前途有望な彼らをこんな所に導いてしまったのは、自分の責任でもある。打って出ると主張し、血気に逸る若者達を正和はなだめ、叱り、諭した。

 こんな、無謀な策に付き合わせたことを悔いながら、彼らがいかにすれば生き残れるのかを考える。

「杉さん。脱出するにしても、いったいどうするおつもりで?ここはすでに包囲されています。敵陣突破以外の方策となりますと」

「この寺には、例の壷を持ち込んでいる。それを発動させる」

 それを聞いた同士たちは皆一様に顔を見合わせ、どよめきが小波のように広がっていった。

「しかし、それは……」

「ああ、本来は委員会の本部で発動させるはずだったものだ。しかし、よかろう。ここで我等が全滅し、再起を計ることすらもできないよりは、ここで手札を切るのも悪くはない……敵方の混乱に乗じてバラバラに逃げる」

 その時、寺院を轟音が揺らした。

 守護の結界が突破されたのだ。委員会の呪術者たちが大挙してなだれ込んできていた。

「壷の発動まで多少時間がかかる!それまでは、なんとしてでも持ちこたえろ!いいな!」

 最後の指示とともに、正和は急ぎその部屋から離れた。

 同志達も、一所にいるのは危険と判断し、緊急時の持ち場へと逃れる。

 呪文や剣戟が風音に紛れて聞こえてくる。その中を、一目散に突っ切って、正和は本堂の奥にたどり着いた。そこに鎮座していたのは、高さ一メートルになろうかという黒い壷だった。

 正面に立っただけで、身震いがする。

 巨大な呪力を秘めた魔の壷である。これだけの力を制御する事など、不可能であるということはわかっていたし、そもそも、制御するための力ではない。

 これは、呪力を用いた爆弾だ。

 発動したら最後、内包する呪力は荒れ狂うまま辺り一帯を吹き渡っていく。

 この寺院は、それで跡形もなく吹き飛ぶだろう。

 しかし、幸いここには結界が張ってある。周囲の人々与える影響は、軽減されるはずである。

「とんだ悪役だな」

 自分達が逃げ切るために、こんなものまで使おうというのだから、すでに大義はないに等しい。

 惰性でここまでやってしまったことに、再び苦笑する。

 そうしている間にも、正和は術を展開する。

 厳重に施された封印を解除にかかったのだった。

 

 

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 

 馨が入手した情報をもとに、対策班を京都に集結させるのにそう時間はかからなかった。

 作戦本部が据えられたのは比叡山延暦寺だ。

 あえて、ここまで現場と距離をとったのは、敵に強襲を悟らせないようにするためだ。

 最新の科学機器さえあれば、この程度の距離で指揮が執れないなどということはなくなる。

 洛中を眺める絶景も、いまは漆黒の闇に呑まれ嵐の中に浮かぶ魔都のように沈黙している。

 作戦の指揮を任されているのは他でもない沙耶宮馨であり、その補佐に京都分室の室長がついている。 

 全国レベルの一斉捜査を行うに当たって、指揮系統を東京分室に集中したためである。つまり、馨は、この件に関しては、各分室の室長を統制する権限を有するのである。

 馨の顔をノートパソコンの青白い光が照らす。

 画面に映っているの突入班のリアルタイムの映像だ。

 そこには、嵐に黒いレインコートを羽のようにはためかせる、無数の人影が映し出されていた。

 まるで烏の群れ。

 どことなく、不吉さを漂わせる集団は、正史編纂委員会の中でも特に戦闘能力の高い人員を揃えた戦闘班とも言うべき組織だった。

 漆黒のレインコートにすっぽりと全身を覆った集団。レインコートに下には警察の機動隊が装備するものと同系統の防具によってしっかりと固められた身体がある。

 後方に情報戦を得意とする媛巫女が座り指揮を執り、実戦を担当する多くは、皮肉な事に『武士系』の術者が多かった。

 正史編纂委員会は、呪術専門の統率機関だ。そこには、表向きの法では裁けない相手を捕縛し、独自の裁判にかける警察権や司法権を有する、呪術師相手にのみ、極めて強い権益を発揮する組織だった。

 もっとも、それは強権的なものではなく、日本呪術における連合盟主のような立ち位置にいるのが現状であるが。

「現場の状況はどうかな。晶さん?」

『特に異常はないですね。寺を覆う結界が思ったよりも強力ですが……十分もすれば解けるでしょう』

 ヘッドセットから聞こえる報告に馨は頷いた。

 相手には投降の勧告を繰り返し行っているものの、応答はない。完全に無視されている。一戦交える覚悟でいることは明白だった。

 現場の指揮を担当する高橋晶は、朝のうちに京都入りしていた。

 本物の冬馬に静花の護衛を任せ、最後の決戦に臨むためだ。

『結界のせいで中の様子までははっきりとはつかめません。そちらから覗けますか?』

「見えてはいるけれどね。特に行動を起こしている様子はないよ。建物の中に隠れているんだろうね」

 比叡山から、遠く敵地を俯瞰する馨は、そう言った。 

 衛星や、魔術によって、真上から捉えることができている。敵は、一挙手一投足に至るまでを常に監視されているのだ。

「この雨のおかげで、一般市民も外には出ないだろう。念のために防音結界も張ったのだし、多少やりすぎても問題にはならないよ」

 上空で稲光が走った。

 戦闘によって音が発生しても、雷鳴がかき消してくれるだろう。

 戦うには都合の良い夜だった。

『……結界が解けました。これから、突入します』

「武運を祈るよ。これが終わったら、しばらくは休暇でも構わないよ」

『了解』

 それきり、通信は途絶えた。

 画面の中で、黒服が踊る。

 戦いの火蓋は切られた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 上品蓮台寺を強襲、内部にいる敵勢力を一斉検挙する。この作戦が立案されてから、実行に移されるまで、一日と六時間。たったそれだけの時間で、指揮官である馨が用意した戦力は、五百強。

 もっとも、それがすべて実戦部隊というわけではない。

 戦いに投入されるのは、百人ほど。そのうち実際に突入するのは五十ほどであり、のこりは後詰として後方に配置される。

 現場は市街地であり、大人数の強襲作戦には向いていない上、文化遺産が眠る古き寺は、彼ら正史編纂委員会にとっても重要な物件なので、迂闊な力攻めが難しいという問題を孕んでいた。

 そのために、馨は、後方支援を充実させた。

 媛巫女も動員したし、敵勢力が交渉に乗ったときのために心理学に精通するものも呼んだ。当然、周囲に危険が及ぶ可能性を考慮し、国土交通省や、京都府警にも協力を要請する必要もあった。

 指揮官の有能さは、緊急事態にどのように対応することができるのか、という事で決まる。

 この事件が、馨が諸々の手続きをこの短期間で済ませてしまう力の持ち主であることを示し、早くも次期正史編纂委員会の頂点に入ることを周囲に確信させることなったのだった。

 

 

 吹き付ける雨粒に白く澄んだ頬をさらして、晶は結界のなくなった山門を見据えた。

 フードを被る事もなく、ただ、風と雨に晒しているのは、思うところあってのことか。

 彼女だけでなく、その場にいる全員が、レインコートをまるでマントのように羽織る形で着こなしていた。腕の通っていない袖が、風にたなびいてバタバタと音を立てている。

 レインコートに下は、機動隊の装備を流用した防護服だが、色を黒で統一することで差別化を図っている。 防弾服は、呪的処理の結果、対物、対魔術双方に効果を発揮するようになった。レインコートは外部からの魔術干渉を軽減し、靴も戦闘靴2型という自衛隊で採用されている半長靴で、より実戦的だ。この春十五の誕生日を迎えたばかりの少女が着るには聊か以上にゴテゴテとしていて、服に着られているような気さえする。

 晶は、確実に敵を包囲し、素早く戦闘を終えるため、馨の許可を得て班を二つに分けた。

 一つは、晶とともに正面から突入する。千本通に面した山門から堂々と正面突破をする。その一方で、住宅地に面する背後の墓場方面からも侵入し、敵を一網打尽とするのだ。

「ふう……」

 晶は、心を落ち着けるように息を吐き出した。

 戦う前は、気持ちが昂ぶりやすい。怖気づくよりもずっといいのだろうが、それでも気持ちが先走って失敗してしまう事がままあるのだ。反省はしているのだが、こればかりは気性なのでどうにもならない。

 晶たち媛巫女を蛇に連なる者と呼ぶ輩もいる。彼女たちの祖先が、神祖であることに起因する呼び名だ。媛巫女の特殊な能力も、すべてここに原因があり、晶はその中でも極めて稀有で強力な力を持って生まれた。

 神祖は古の地母神が零落した存在だ。地母神が有する生と死の連環を、その血の中に宿している。

 晶は、自分がその死の部分を色濃く受け継いでしまったのではないかと思っている。先祖帰りとまで呼ばれる高い能力が、戦闘によって最も高く発揮されるからだ。

 肌に染み入る雨が気持ちいい。火照った血潮を冷ますにはこれくらいがちょうどいい。

「行きます」

 晶が率いる部隊は、その一言とともに山門を開き、突入を開始した。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 予想していた事ではあったが、敵方の抵抗は凄まじいものだった。

 潜伏している人数自体も三十数人と比較的多いものであったし、なによりも厄介だったのは呪術によるトラップだった。

 幻覚を発生させるものから、爆発や雷撃など攻撃的なものまで、とにかくそこかしこに仕掛けられていて、短い参道を抜けるだけでも、大変な苦労を伴った。

 もともと、寺というのは、城砦の代わりにもなる場所だけに、攻めるのは困難なところではある。さらに呪術戦ともなれば、突入に成功してからのほうが大きな危険の伴う場合が多い。

 参道を抜けると、T字路になっている。正面にはお堂があり、左右に道が伸びていて、左に行けば宝泉院、右に行けば真言院という建物が立っている。

 そこまでたどり着いた瞬間に、晶は強く、石畳の道を踏み付けた。硬い靴底に踏みつけられた石畳から、鈍い音が響く。瞬間、晶の身体が数倍に膨れ上がったかのような錯覚を周囲の仲間は感じた。 

 晶が内包する膨大な呪力が吹き出したのだ。

 呪力による攻撃は呪力による干渉で相殺できる。 

 晶の尋常ならざる呪力は、左右から飛来した雷の矢を押し返し、辺りに仕掛けられていた呪的トラップを沈黙させた。

 その光景に瞠目した二人の術者は、晶が一瞬にしてホルスターから引き抜いていた拳銃によって両足を撃たれて動けなくなった。

「確保!」

「はい!」

 後方からやってきた味方が、捕縛しに向かう。

 その間にも晶は、油断なく周囲を見回した。

 ここはもう敵の領地であり、要塞。どこから相手が湧き出してくるかわかったものではない。

 敵地の中、いつ現れるともわからない敵を思い、自然と感覚が鋭敏になる。風に紛れる自分の息遣いすらも、手に取るように感じられるし、鼓動が早くなっているのは、程よい緊張感のおかげだ。

 ある程度、この場の占拠に成功したならば、確保した敵を引取りに来てもらう必要がある。それまでは、彼らを一所にまとめ、監視をおき、その周囲の安全圏を徐々に広げていくようにする。

 お堂を挟んで反対側。墓場のほうからも喊声が聞こえてくる。あちらも、戦いが始まったようだ。

「ここには十人を残します。残りは左右に散開し、敵を各個撃破。わたしには二人ついてきてください。正面の本堂を捜索します」

「はい!」

「馨さん。聞こえていますか?」

『感度は良好だよ。何か問題でもあったかい?』

 ヘッドセットから馨の落ち着いた声が聞こえてくる。

 戦闘が始まったからと言って、彼女が慌てるような自体は何も起こってはいないということだろう。

「特に何も。後詰の部隊を動かす準備をお願いします」

『その辺りは抜かりないよ。すでに向かわせている』

 晶たちが突入した事で、トラップの類は解除されたり発動したりしてもう使い物にならなくなっている。予備兵力を安全に投入できるようになったという事だ。

 晶は、馨と二、三会話を交わし、通話をきる。

 左右に部隊が散開したのを確認し、自身は正面に建つ本堂に歩み寄る。

 その時、真横、それもかなりの至近距離から呪力が沸き立つのを感じ、あらゆる思考を捨てて反射的な防御と回避を行った。

 晶の鍛えられ、さらに呪術で強化された瞬発力が、命を救った。

「ッ!?」

 閃く白刃が晶の鼻先を通り過ぎていった。

 甲高い金属音は、地面に落ちた銃口から出たものだ。

 刀によって二挺の銃は無残にも両断され、使い物にならなくなっていた。ここに至るまで接近を感じさせなかった。姿を隠す呪術である隠形法によるものだ。

 年の頃は三十~四十といったところか。細身な体つきで、髪は雨にぬれて頬に張り付いている。Tシャツにジーンズというラフな格好ながらも、日本刀を構えるその姿はまさに侍だった。

 おまけに、呪術の腕だけではなく、剣の腕も一流の域に達しているらしい。

 右足を前にした摺り足が、一瞬にして晶との間合いをゼロにする。

「晶さん!」

 部下たちから悲鳴の声が上がる。

 金属製の銃身を切り落とした事からもこの刀が恐ろしい切れ味を持っていることは容易に察しがつく。

 一秒後の晶の死は、誰の目から見ても明らかだった。

 鉄色の刃が、上段から襲い掛かった。

 それに対し、晶は両手の銃を手放した。楯にもならなければ、武器にもならないからだ。

「御手杵!」

 晶が叫ぶと同時に、両手に現れたのは長い棒だ。その柄で、必殺の一刀を受け止めていた。

 鉄すら断ち切る刀を受け止めた棒、ではなく、大槍は、晶の呪力を吸ってその力を大いに高めている。

「ハッ!」

 裂帛の気合とともに、槍を一閃。その一撃は、鍔迫り合っていた男を吹き飛ばし、豪風を起こして雨粒を消し飛ばすほどだった。

 散りかけていた桜の花弁が、嵐の夜空に舞い上がった。

「ぐぬうッ!」

 相手の男は、浮き上がった身体のバランスを必死にとって、転倒を免れた。それでも、十メートルは押し戻されただろうか。

 少女の筋力ではない。

 晶の得物は、大きな槍だ。全長は三メートルほど。重量は十五キロに近く、軽々と振り回せる代物ではない。

 まるで剣を先に取り付けたかのような長い刃は、槍の全長の三分の一に達する。

 晶の真の相棒。その名は御手杵。

「その顔、見覚えがある……たしか十四代目山田浅右衛門。間違いないでしょう?」

 晶は片手で重量級の槍を軽々と回している。

 相手の踏み込みを牽制するためだ。

 晶の問いに、浅右衛門は眉を顰めた。

「小娘が、年上の人間を呼び捨てにするとは礼儀がなってないな」

「これは、失礼しました。確かに礼を失していました」

 振り回す槍を下段に構え、抜かりなく敵を観察する。

 正眼の構えを取る浅右衛門は、付け入る隙がまったくない。余計な力は一切入っておらず、自然体で刀を構えている。

 軽口のように聞こえるかもしれないが、この会話の間にも、晶は攻め入る隙を探し、敵を倒すために様々なシミュレーションを行っていた。

 とはいえ、さすがに今代の山田浅右衛門を称するだけのことはあり、なかなか動く事ができないでいる。

 集中力を最大にまで高め、相手の動きを仔細に見る。筋肉のわずかな反応ですら、見逃したら命に関わるからである。

 ジリジリと、肌を焼くような緊張の中。晶は、最初の一歩を踏み出した。ギラリと光る、刃に向けて。




一応国家公務員なんだから、それなりの装備は支給されんじゃないかと。機動隊とかの装備に身を包んだ女の子が可愛いとおもったという事もありますが、ちゃんと身は守らないとね。


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十一話

 山田浅右衛門とは、江戸時代から続く山田家当主が名乗る、屋号のようなものだ。一個人の名ではなく、これまでに十四人の浅右衛門が存在してきた。

 別名を人斬り浅右衛門。

 彼らの家は、江戸時代における幕府直属の死刑執行人の家系だ。斬首刑において、剣でもって罪人を斬る。太平の時代にあって、人を斬るということを専門に行っていた家であり、そのために、当主は剣の達人しかなる事ができなかった。

 この家は、武家としては珍しい、血縁を重んじない家柄で、実子が当主を継いだことはこれまでに二例、場合によっては一例とも言われる。山田家の当主は、多くの弟子の中から剣術に秀でたものを選んで跡継ぎとしていたのだ。

 また、驚くべき事に、山田家は幕府から知行を得ていなかった。

 つまり、身分は牢人。にもかかわらず、江戸時代を通して、極めて潤沢な資金力をもっており、その財政力は三万石から四万石の大名に比するともされた。

 収入の多くは、人間の死体をレンタルすることで得ていたようだ。

 当時の日本では、刀の切れ味を試すには人間を斬るのが一番であるという考え方が一般的に存在していて、そのため、多くの死体に触れる山田家は、この死体を貸し出し、時には、自らが刀を振るっていたという。

 歴代当主は、多くの死に触れて、その死によって金を稼いだ。彼らは、自らの糧となった死者を無碍にすることなく、死者の供養に多額の金を惜しみなく使った。

 だからだろうか。いつのまにか、山田家も呪術に関わりを持つようになったのは。

 

 

 

 

 晶と浅右衛門の戦いは依然として拮抗していた。

 長いリーチをもつ晶が、浅右衛門の踏み込みを警戒して守勢に回った事で、互いに攻め手を見つけられないまま小手調べに終始する事となっていた。

 そこにあるのは、槍と刀とを鍔迫り合わせるという、百年以上も前に廃れた、前時代的な闘争だ。

 銃火器の登場と共に、戦争の主導権を取って代わられた過去の戦闘である。

 その原因は、単純に火力の問題だろう。

 晶の持論でもあるように、殺しあうとなれば相手の手の届かないところから、自らの武器で敵を圧倒するほうがいいに決まっている。刀剣を持って戦うとなれば、自らが切り込んだそのときには、同時に相手の間合いに踏み込む事になるのだから、生と死は、必要以上に隣り合わせる事になる。

 銃火器であれば、刀剣ほどに技量が求められるわけでもないし、距離をとっての戦いが主流になれば、近づかねばならない刀剣類が姿を消していくのも当然のことだろう。

 だが、果たしてその判断は正しいのだろか。

 刀槍の類をもって、銃火器に匹敵する破壊を撒き散らせるとしたら、そのことを多くの人たちが認識していたとしたら、現代の戦争もその様相を違えていたかもしてない。

 そう、思わせるほどに、二人の戦いは激しいものだった。

(噂どおり、なかなかの手前。媛巫女最強は伊達ではない、か)

 十数度目となる踏み込みを、穂先で制され、後退した浅右衛門は晶の堅実な守りに攻めあぐね、また、その技量に感嘆していた。

 敵とはいえ、武芸を志す者。評価すべきところはきちんと評価している。

 竿状武具の最大の利点である攻撃範囲の広さ。これを正しく認識し、リーチの優位を最大限に生かした戦法で浅右衛門は常に牽制を受けている。

 彼の武器が刀である以上、晶への接近は不可欠だ。しかし、その接近が許されないとあっては、攻撃したくてもできるはずもない。

 浅右衛門を苦しめているのは、単なる武器の差だけではない。

 晶の並外れた怪力。そして、それを中心とした身体能力の高さにあった。

 長大な槍の基本的な使い方は刺突と遠心力を一杯に使った打撃と斬撃にある。が、致命的な欠点として、連続攻撃には不向きであり、攻撃に出たその瞬間が最大の隙となってしまうというものもある。

 浅右衛門は、刀を槍の穂先に一当てする。

 それだけで、槍は大きく横にぶれた。長大な武器であればあるほど、梃子の原理が働いて手元にかかる負担が大きくなる。槍先が流れる一瞬に、得意の摺り足で距離を詰める。 

 刀を振り上げる必要はなく、ただ突きを放てばよい。

「ぐ……!」

 太い柄が真横から浅右衛門を叩き、押し投げる。再び、両者の距離は遠のいた。

 異常な速さでの切り返し。遠心力を使わずにこれだけの怪力を発揮する細腕。

 おかげでたとえ穂先を潜り抜けても、殺傷範囲まで接近する事が出来ないでいたのだ。

 攻め手と守り手が入れ替わる。

 晶は、突きを断続的に放つ。弾かれ、かわされるが、浅右衛門が踏み込もうとするときには、すでに引き戻され、次の刺突に備えて刃をぎらつかせている。

 また、ときには足払いを仕掛けたり、斬り上げたりと戦法を変化させながら、浅右衛門を圧倒する、ようにみせている。

 しかし、実態は、晶も浅右衛門の技量の高さに驚き、常に死を感じていた。

 晶は、槍を真ん中よりも少し後ろで持っている。 

 実際のリーチは二メートル後半と言ったところ。相手の刀の長さはおよそ九十センチほどで、腕の長さを加味すれば百九十センチが攻撃範囲になる。ということは、槍の内側に一メートルの接近を許せば、その時点で、極めて危険な状態になるということでもある。

 しかも、敵の狙いは、こちらの攻撃後の隙を突くカウンター。踏み込まれてから回避するのは、難しいのだ。

 一メートルをいかに死守するか、それが晶の対浅右衛門戦略の基礎である。

「これほどの剣の腕前をお持ちでありながら、敵方につかれるとは。本当に残念でなりません」

 それは、晶の心からの賛辞と無念の言葉であった。

 浅右衛門は、表情をこれといって変えることはなく、刀を構えたまま、

「それは俺の意見だ。とはいえ、この時世に、刃を合わせる相手がいてくれたことには感謝しなければならないがな。いかに剣の腕が優れていても、戦う相手がいなければ無意味だ。そういう意味では、お前と敵対できた事はうれしい誤算だった。レプリカとはいえ、天下三名槍の一つを目の当たりにすることもできたのだしな」

 と、浅右衛門にしては饒舌に晶を賞した。

 浅右衛門の目は、晶の大槍――――御手杵に向けられている。

 天下三名槍と呼ばれた御手杵は、戦国時代の武将・結城秀康の槍として有名だ。

 その四メートル近い長さに、二十二キロになる重量は振り回せるものではなく、槍の穂先は三角柱になっていて突き刺すための槍だったようだ。 

 秀康の後は、五男直基の前橋・川越松平家に受け継がれた。

 オリジナルの御手杵は、第二次大戦中に松平家の所蔵庫が焼夷弾を受けて焼失してしまったのだが、この槍はどのような関係性があるのか。

 晶は、浅右衛門の視線を受ける御手杵を手の中で回しながら、微笑みを浮かべる。晶にとってもこの槍は自慢の逸品なのだ。

 おまけに、ただのレプリカというわけでもない。

「この槍は、松平邸の焼け跡から見つかった御手杵の残骸を回収し、再利用したものです。たしかに、史料的価値は喪失しましたが、その鋼のもつ呪的意味合いはむしろ強くなったのですよ」

 炎の中から蘇った鋼。

 神話における英雄のモチーフの一つでもある。オリジナルの御手杵とは形状からして異なる新生御手杵であるが、その魂は確かにそこに息づいている。

 失われた名槍の魂を継ぐ武具を前にして、浅右衛門は、俄然闘志を燃やした。

「なるほど。有名無実、というわけでもなかったか。それは、ますます剣戟を交えてみたくなるというものだが……俺にもすることがある。口惜しいが、決着を早めねばならないな。お互い、呪術を扱う身。卑怯とは言うまい」

 静かな口調とは裏腹に、愚直なまでに真っ直ぐに振り下ろされた上段斬りは、閃電のようだった。

 咄嗟に晶は半歩引き、上体を逸らした。眼に見えない呪力の刃。風の斬撃が彼女の胸を掠め、ボディアーマーに亀裂を生じさせた。

 恐ろしい切れ味だ。晶は戦慄した。

「避けるか。さすがだ」

 浅右衛門は、再び刀を振るう。

 飛びのく晶が、一瞬前までいた石畳が、斬り裂かれた。

 風の刃は眼に見えないぶん、回避しにくい。幸い、呪術である以上、呪力を用いねばならず、刀の軌跡にそって斬撃が飛ぶこともわかっているため、攻撃を見てから避けるのではなく、相手の動きや呪力から先読みして避ければ、何とかなる。

 晶は、呪力を高め、槍に力を注ぐ。

「えい!」

 槍で風刃の側面を叩き、弾き消す。

 膂力よりも、素早さを重視して身体能力を底上げし、喰らいつく。

()

 風刃に対処しながら、竜を支配する水の神である水天の種字を唱えた。

 変化は劇的なものだった。

 まず、雨が止んだ。

 より正確には、晶と浅右衛門の周囲にだけ、雨粒か消滅しているのだ。次いで、濡れた地面が乾燥し、水溜りが消滅する。晶の衣服も、浅右衛門の衣服も瞬く間に乾燥する。

(なんのつもりだ?)

 浅右衛門は心中で首をかしげた。

 戦いの最中に雨よけをする意図がわからなかったのだ。

 あるいは、雨で足元が覚束なくなる事を気にしてのことだろうか。それとも、浅右衛門を倒すための呪術なのだろうか。 

 浅右衛門には、そうした細かい呪術の機微を察する力はない。

 その才覚のほとんどを剣と斬撃の呪術に費やしたがゆえに。

 よって、晶がどのような手段で攻撃を加えてきても、それらを切り払って勝利する以外の選択を取れるはずもない。

(来るなら来い。すべて、斬り伏せてやろう……!)

 同時に、晶の刺突が、勢いを増した。風刃を出させないためなのか、身体よりも、刀を狙っているような筋だ。

 呪術合戦は、再び前時代的闘争へと舞い戻る。 

 以前のような、ある種の小手調べ的な刀槍の応酬ではなく、晶はここで押し切り、討ち果たすために持ち前の武技を駆使して浅右衛門に挑んでいる。

 一撃一撃が重く速い。

 浅右衛門は、卓越した心眼を用いて、その尽くを刀で弾き、逸らし、かわしていく。

 槍に押されて、浅右衛門は後退する。そこを、晶は鋭い一突きで追い討ちにかかった。

 唸りを上げる刃が浅右衛門に迫る中、彼は、薄くほくそ笑んでいた。

(ここだ!)

 浅右衛門は轟然と地を蹴った。

 後退から前進へ、一挙動で全体重を移動させた。足腰を徹底して鍛え上げ、絶妙な体バランスを手にいれた武芸者ならではの反転。

 半歩遠くを狙った晶は、腕が伸びきり、身体も前傾姿勢となっている。

 これでは、槍をふるって打撃を与えることも、素早く引き戻す事もできない。

 攻めにこだわりすぎたがゆえに、浅右衛門の誘いに乗ってしまったのだ。

 向かってくる槍を潜り抜け、高速の一歩を踏み込む。

 柄を握り、必殺の一刀を浴びせようとして、浅右衛門は目をむいた。

「な……!?」

 避けたはずの槍が、目前に迫っていたのだ。

 ――――――――やられた。

 浅右衛門は、己の失策をさとった。

 罠に嵌めたつもりでいて、その実、誘い込まれていたのは浅右衛門のほうだったのだ。

 御手杵が晶の手元に現れた時と同じ、転送の魔術。

 剣や槍などの武器を呼び出す程度のことしかできないが、持ち歩く必要がないために多くの術者から重宝される基本魔術。

 突きを放ち、大きな隙を作ったまさにその瞬間、晶は槍を転送した。

 突き出した左手は手ぶらになり、槍の後ろを支えていた右腕に穂の根元が来るようにしたことで、踏み込んでくる浅右衛門を迎撃するのだ。

 左半身を前にしていた晶だったが、この瞬間に右足を大きく踏み出した。勢いにしたがって、右手の槍が突き出される。

「くお……!!」

 もはやなりふり構っていられない。

 浅右衛門は身体を投げ出すように捻った。このまま、衝突してしまえば、護身の術とて切り裂かれる。避けるしかない。

 そのとき、一流の剣士ならではの動体視力が、槍の穂先を湿らせる水を捉えていた。

 浅右衛門の脳内がスパークする。

 晶の呪術の意味を、初めて理解したのだ。

 消失した水。

 いまだに、この辺りの地面は乾き、空からは雨粒の一滴すらも落ちてこない。天候は、雷雨でありながらだ。ということは、あの時の晶の術は現在も発動し続けており、空から降り続ける大量の雨水を消している事になる。

 消すだけならばまだいい。

 問題は、消えた水の行方。蒸発したのか、他のところに転送されているのか、それともここだけを避けているのか-------------そのどれでもない。降り注ぐ雨水も、地面に染みこんだ水もすべて、最初からここにあったのだ。

「オン・バロダヤ・ソワカ!」

 水天の真言とともに、呪力がはじける。

 封印された水気が、解放の歓喜に打ち震えた。

 穂先から滴る水滴は、一瞬にしてあふれ出し、渦を巻いて瀑布となった。

 激流の巨大槍。

 呪力による防壁も、紙切れのように吹き飛ばし、爆発的な勢いと巨大質量によって、浅右衛門は跳ね飛ばされた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 戦闘開始から三十分。

 当初は頑強に抵抗していた反・主流派の魔術師たちであるが、装備や実力の違いから徐々に圧倒され、すでに壊滅しかけているという状態だった。

 それでも、彼らは最後の一兵になるまで抵抗を続けるという意気込みで結界を張って部屋に篭城したり、打って出たりと、戦いは予断を許さない状況が続いている。

「なんで、ここまでの抵抗ができるの?」

 晶は、槍を肩にかけて、つぶやいた。

 多くの術者は降伏を良しとせずに戦いに臨んでいる。武士らしく名誉ある死でもしようというのだろうか。

 しかし、彼らの抵抗する姿を見ていると、不思議と生を諦めている様子もない。

 玉砕覚悟ではないということか。

 一矢報いるという悲劇的な闘争ではなく、なにかしらの希望を抱いての戦い。

 そこまで考えて、ぞくり、と晶の背筋を氷塊が滑り落ちた。

 はじけるように顔を上げ、大声で指示を出す。

「手の空いている人はどれくらいいる!?」

「すぐに動けるとなると、十人ほどですが」

 十人。少なすぎる。部下からの報告に、晶は歯軋りした。

 絶対になにかを見落としているはず。彼女はそのように確信していた。

「なら、その全員を建物の内部に突入させてください!彼ら、何かしでかすつもりです!見落としがないように、隠し扉や隠し部屋とか、もう一度、徹底的に探してください」

「全員ですか?しかし……」

「すぐにお願いします!!」

「は、はい!」

 晶の剣幕に押されて、部下は指示を飛ばした。

 手が空いているとはいっても、彼らには彼らの仕事があり、多少なら他とも兼務できるという程度だったのだが、部隊長に指示されては反論もできない。

 本来の職務に未練を残しながらも、指示通りに動き出す。

 その瞬間だった。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

「ッ……」

 いつの間に倒れていたのだろう。うつ伏せになった晶は震える腕でなんとか身体を起こした。頭を強く打ったのだろうか、思考が安定しない。ぼうっとしてしまう。

 地面に座り込んで、ゆっくりと辺りを見回した。いまだに心ここにあらずといった様子で、その光景に理解が追いついていなかった。

「うっく……」

 腹部に鈍い痛みを感じて、顔をしかめた。 

 痛みのおかげで、思考がクリアになった。

(わたしは……たしか、相手がなにか仕組んでいるんじゃないかと……これは、いったい)

 凄惨な光景だった。

 本堂の半分が無残に消し飛んでいる。

 ぼうっとした頭が覚醒し、徐々に、記憶が蘇ってくる。

 晶が敵に何かよからぬ思惑があると考え、部下達に突入を指示したとき、突如として、本堂が爆発したのだ。強大な呪力が吹き荒れ、多くの魔術師達を巻き込んでいった。ちょうど本堂に立ち入ろうとした晶も爆発に巻き込まれたのだった。

 爆心地周辺には突然の爆風に晒された委員会関係者や敵の魔術師が地面に倒れ、うめいている。

 それでも、被害は委員会側のほうが多いように見える。

 もしや、これが狙いだったのだろうか。はじめから爆発が起きるとわかっていたのなら、それから身を守る準備ができていてもおかしくはない。

「晶さん!ご無事ですか!?」

 駆け寄ってくる部下も、額から血を流していた。血止めくらいはすればいいものを。晶は、立ち上がって無事をアピールする。

 部下はほっと一安心といった様子だったが、すぐに表情を引き締めた。

「馨さんから通信が入っています」

「わかりました。傷の手当を早くしてください」

 そう言うと通信機を受け取った。

 晶のものは、今の爆発で破壊されてしまったようだ。

『よかった。無事だったか。晶さん』

「まあ、なんとか。何が起こったんです?」

『おそらくだけど、膨大な呪力を一気に解放したんだと思う。炎を撒き散らしてないだろう。熱を伴わず、衝撃波だけでこれだけの被害だよ』

「事前に探知できなかったんですか?そちらの媛巫女にはなにも?」

 晶の疑問も最もだ。

 馨は、敵を監視するために最新科学の結晶だけでなく、媛巫女まで動員していた。大規模な呪術を行使しようものならすぐに察知できたはずである。

『すまない。こちらはまったく察知できなかった。ずいぶんと周到に隠されていたみたいだ』

「まさに隠し玉ってことですか。しかし、これだけでは」

『たしかに意表は突かれたけど、すぐに体勢の立て直しはできる。この混乱に紛れるつもりだったのかもしれないけど、そうするのなら寺院を根こそぎ吹き飛ばすくらいはしないといけなかったね』

 そう。委員会側には後詰の部隊も控えている上に、戦線は寺院全体に広がっていた。本堂を吹き飛ばす程度で、包囲を抜けられるほどの混乱は作り出せないのだ。

「ただの自爆?」

『結果としてはそれに近いね。負傷者を搬送しつつ、残りを掃討してくれ。君はまだ戦えるかい?』

「はい、問題なく」

 もともと、打たれ強いのが自慢の一つだ。全力で呪術戦をしていたために、防御も普段以上になっていた。ダメージは無視できるレベルと言えるだろう。

 大きな破壊によって混乱しかけた指揮系統も、馨の力で復旧してきている。 

 敵に逃亡の猶予を与えるわけにはいかないと、動ける術者は捕縛に向かっている。

 晶も立ち上がって、御手杵を一振りする。

 地下の奥深くから、間欠泉のごとく膨大な呪力が吹き出してきたのは、まさにこの瞬間だった。

 大地を引き裂く轟音と振動に、晶は溜まらず槍を地面に突き刺して支えとした。

 比叡山で戦況を見守っていた馨たちが背筋を凍らせる。

 先の爆発とは比べ物にならない呪力が吹き出して、渦巻いている。

 正和たちにしても、これは想定外の想定外だった。

 本来、彼が語ったように、壷から解き放たれた呪力は寺院をまとめて吹き飛ばすだけの力があった。正史編纂委員会の前衛を行動不能に陥れるだけの破壊は撒き散らせるはずだったのだ。

 ところが、蓋を開けてみたら、呪力の爆発は本堂を吹き飛ばす程度の威力にしかなっておらず、至近距離で爆風を受けた正和がいまだに息をしているところからも、威力不足は明確だった。

 死を覚悟しての行動だったにもかかわらず、この体たらくかと、自嘲するしかない。

 もっとも、正史編纂委員会を混乱に陥れるというのなら、壷が予定通りに作動しなかったほうがよかったのかもしれない。

 壷の呪力は呼び水となった。

 この地に眠る化物を呼び覚まし、この世に復活させることとなったのだ。

 境内の北。真言院のほど近くに巨大な椋の木が存在する。

 その根元から、怪異は発生した。

 『源頼光朝臣塚』と書かれた塚の奥深く、胎動する呪力が形を得るのに、そう時間はかからなかった。

 まず、黒々とした長く硬質な足が地面から突き出してきた。八本の足の先は鋭い爪が付いていて、真言院を破壊し確りと地面を掴んで胴体を引き出した。

 禍々しい力の塊が、地面のそこから顔を出す。

 その身体の構成は、複数の生物が合成しているという点では、ギリシャで言うところのキマイラにあたるだろう。

 足は蜘蛛、胴体は虎、頭は般若のように憎悪を吐き出す鬼の面。二本の猛牛を思わせる角を持っている。

 正史編纂委員会も、この事件を引き起こした反・主流派の術者も一様に、その異形を前にして呆然とした。

「……土蜘蛛だ」

 平安の時代。京を混乱に陥れた伝説の怪物が、再び現世に蘇った。

 

 

 

 

 

 京都から少し離れた兵庫県川西市。

 土蜘蛛の出現と同時刻、この都市にも、強大な呪力が渦巻いていた。

 神獣やまつろわぬ神が降臨した際、周囲に思わぬ影響をもたらす事は、呪術に関わる者ならば誰もがよく知るところだ。彼らはその権能や伝説に従いごく当たり前のように周囲の環境すらも変化させてしまうのだ。 

 神が降臨するということは、そこには何かしらの縁があるということ。

 縁さえあれば、神は降臨し得るのだ。

「ふむ。いったい何の因果が某を呼び出したのか……」

 長身の男は、時代錯誤な大鎧を着込んでいた。星兜に野太刀を佩いた威風堂々たる武者姿は、見るものを例外なく圧倒し、臣従を叫ばせるだろう。

 鎧武者は、しばし黙考したあと、不意に北の方角を見た。

「京よりなんとも怪しげな気配が立ち上っておる。なるほど。今再び京を守護せよという神仏のお導きか。実に小気味良い。久々に腕がなるというものだ!」

 カッカと大将した鎧武者は、馬を呼び出した。

 これも見事な汗馬で、彼と共に戦場を駆け抜けた友であろう。

 鎧の重みを感じさせない身のこなしで鞍に跨ると、手綱を手にとった。

「いざ。戦のときぞ!」

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 夜も深まり、雨が窓を叩く音だけが聞こえる中、護堂は布団の上に寝転がっているだけで、眠ってはいなかった。

 この日の深夜から、正史編纂委員会の攻撃が始められるということは、護堂も聞いていた。連絡をよこしたのは、晶で、彼女自身も作戦の実行部隊に配属されているのだとも言っていた。

 静花と同じか、もしかしたらもっと小さい少女だ。ファンタジックな力を使える以上は、見た目と実力は比例しないし、体重差すらも問題にならないのだろうが、心配は心配だ。

 無事終わったなら、連絡を入れるようにと約束を取り付けた。

 犯行グループを取り押さえるだけならば、そう時間もかからないだろう。

 そのように考えていたのだが、一向に携帯が鳴ることなく、さらに夜が深まっていく。

 自分達に関わる戦いなのに、自分の知らないところで展開されていることに、時間とともに苛立ちが募っていく。

 護堂は自分でも驚くくらいに好戦的な性格をしているらしい。

 カンピオーネはそういうものか、と思う反面、そうじゃないはずだと自制しようという気持ちもある。

 しかし、家族のこととなると、その自制心も押さえ難い。 

(こっちから電話をかけてみようか)

 邪魔になる可能性をわかった上でそんなことが頭を過ぎったとき、携帯が鳴った。

 来た。

「晶さんか!?」

 通話ボタンをかつてないほどに素早く押した。

 晶の携帯番号だったのだが、それは晶の声ではなかった。

『夜分遅く、申し訳ありません。王よ。わたしは、正史編纂委員会の沙耶宮馨という者です』

 護堂は眉を顰めた。 

 沙耶宮馨といえば、原作でも正史編纂委員会の重要ポストに就いていて護堂を主君として仰ごうとしていた人物だ。

 まだ、この段階では、護堂との面識はない。

「沙耶宮、馨さん……それ、晶さんの携帯ですよね」

『はい。高橋からは、任務の終了とともに王に連絡を入れることになっていると聞いていましたので。この時間でも連絡がつくと考えました。ご迷惑でしたか?』

「いえ、そんなことは。それよりも晶さんは大丈夫なんですか?」

 晶の携帯を他人が使っている、ということは晶が現在通話できない状況にあるということも考えられる。

 戦いの情勢よりも晶を真っ先に心配する辺り、他のカンピオーネとはやはり違う。

 馨も、今の会話でそのことを確信しただろう。

『高橋は今のところは大丈夫です』

「今のところって……なにかまずいことにでもなっているんですか?」

 馨の声に不穏な響きを読み取って、護堂は身を硬くした。

『そうですね。非常にまずい事態になりました』

 護堂は馨の説明を聞くと同時に家を飛び出した。

 戦場に突如出現した神獣。『土蜘蛛草子』や『平家物語』に登場する伝説の魔物である土蜘蛛が現れたのだという。

 現場は住宅地に近く、委員会の魔術師達も疲弊している。それでも、誰かが抑えなければならない、ということで、晶を筆頭とする数人の魔術師達がこの土蜘蛛と交戦しているのだ。

 神獣は、まつろわぬ神ほどではないにしても、その力は自然界の生き物をはるかに凌駕している。

 人間の魔術師が単体で挑んでも勝ち目はない。

 馨は、護堂に迎えを行かせたと言っていたが、断った。

 東京から京都では遠すぎる。新幹線も動いていないし、この嵐では航空機も飛べはしない。委員会が用意できる足は車しかないが、それでは一体何時間かかることか。

 傘も差さずに外に出た護堂は、雨に打たれながらも確信する。

 新たなる権能。火雷大神から簒奪した権能が、今なら使うことができる。

 星明りも通さない黒く重い雲と日本中に降り注ぐ雨。自然の水がそこかしこに存在する。発動条件は満たされていた。

「雷雲に潜みし、疾くかける稲妻よ。集い来たりて我が足となれ!」

 聖句を唱えると、護堂の身体が青白く発光した。パリパリと、身体の表面がスパークしている。

 火雷大神は、八雷神とも呼ばれ、八柱の雷神の集合体だった。

 護堂が得た権能は、そんな雷神に纏わる力。

 伏雷神の神速を今度は護堂が使用する。

 目指す京都まで、雲間を縫って一気に移動するのだ。

 神速ならば、京都まで時間はかからない。晶が土蜘蛛に倒される前に救援に駆けつけることができるだろう。

 護堂は、地を蹴り。雷となった。 

 



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十二話

「く……化物!」

 晶は、大きく跳び退りながら毒づいた。

 真横を土蜘蛛の巨体が突っ切っていく。恐ろしい速度だ。蜘蛛の機敏さが、十メートル近い巨体となっても失われていないのだ。

 木々はなぎ倒され、地面が捲れ上がっている。惨憺たる破壊痕だ。

 戦いの舞台は、上品蓮台寺から、二百メートルほどのところにある船岡山公園に移っていた。土蜘蛛が現れたとき、周囲を囲む住宅をどのように守ればよいか、ということがまず先にあった。

 これが、人里離れた山の中などであれば、監視をつけながらもすぐに戦う必要もなく、装備も人員も揃えて万全の体制で挑むこともできただろうに。ここは京都市の真中である。なんの対処もしなければ、どれほどの被害が出るものかわからない。

 だから、真っ先に戦いやすい場所へ誘導できたのは大きかった。

 土蜘蛛が現れた真言院から、千本通を渡ればすぐに小学校がある。当然、深夜だから無人だ。晶たちは、土蜘蛛の注意をひきつけながら道路を渡り、小学校の敷地に呼び込んだ。さらに、その奥。グラウンドを抜け、船岡西通という小さな通りの渡ると船岡山公園に入る。

 そこは、上品蓮台寺よりも数倍の敷地面積を持つ公園で、鬱蒼と木々が茂っていて、まるで森だ。

 うまく公園に誘い込んだ事で、周囲への被害は可能な限り押さえられた。

 後は、如何にしてこの怪物を始末するかだが。

「攻撃が効かないんじゃどうにもならないって……!」

 晶は、土蜘蛛の側面に銃撃を叩き込む。XM109ペイロード。バレットM82シリーズの対物ライフルの中で、最も大型の口径を持つ銃である。25x59Bmm NATO弾。原型のバレットM82が、12.7x99mm NATO弾を使用するところからみても、その弾丸の威力のほどがわかるだろう。

 大口径の対物ライフルであるXM109ペイロードは、銃身が通常よりも短く、初速が従来の半分という欠点もあるが、使用する弾丸が強力なために、飛距離は変わらず、威力は上昇している。

 晶は、この最新鋭の対物ライフルを委員会経由で入手し、技術開発室に持ち込んで呪術戦で使用できるようにカスタマイズしている。

 銃身長の短いこの銃は、木々に囲まれていてもとり回しが効くし、十五キロという重さも、呪術を扱う人間にとってはたいした重さではない。

 銃口から放たれた砲弾が、土蜘蛛の脇腹に突き刺さる。虎柄の胴体にめり込んだ弾丸は、込められている術と化学薬品とで盛大に火を噴いた。

 バレットシリーズは二キロ離れた人間を狙撃して真っ二つにしたという伝説を持つ魔銃だ。その至近距離からの銃撃は、戦車の装甲に隠れていたとしても安心できない威力がある。

 しかし、物理世界に縛られた物品ならば、いかようにも料理できる対物ライフルも、魔力の塊である神獣には相性が悪い。

 まつろわぬ神であれば特殊な呪術以外は如何なる手段を持ってしても傷つかない身体を持っている。剣で斬りつけようが、銃で撃とうが動じない。神獣は、まつろわぬ神には劣り、人間の魔術や兵器も効果を期待できるものの、だからといって効果的というわけではない。

 あくまでも傷つけることができる程度。科学薬品による発火など効果はないに等しく、晶の銃撃も、そこに術が込められているから足止め程度の効果を発揮しているに過ぎない。

 神獣を倒すには、大人数で大魔術を行使するくらいしかない。もしくは、超一流の術者による対神格魔術。そして、カンピオーネ。

 土蜘蛛は、晶から受けた攻撃を物ともせず、眼光を光らせている。 

 ゴアアアアアアアア!

 鬼の口が裂け、咆哮する。

 そして、晶に向けて突撃する。木々が引き裂かれ、なぎ倒れていく。

「このッ」

 再び砲撃。

 火を噴く弾丸は、土蜘蛛の足、それも関節部分に直撃して爆発する。バランスを崩した土蜘蛛は、つんのめって地面に腹部をこすりつける。

 地割れのような轟音が響く。

 晶は、その間に離脱。猿飛の術で身軽さを増し、大きく後退する。

 銃弾は効かないわけではない。ただ、ダメージが微々たるものだから数がいる。

 晶は、動き回り、土蜘蛛を翻弄するようにする。

 もっとも威力を発揮する御手杵による接近戦は封印だ。

 倒せるかどうかもわからない敵であり、爪は岩を切り裂き、突進は木々を薙ぎ払う威力。とても近接戦を挑める相手ではない。挑むのであれば、相応の準備を必要とするだろう。

 それに、今は、時間を稼ぐ事が何よりも大事だ。

 晶が勝負にでないのも、馨がこうしている間に、なにかしらの策を立ててくれるだろうということを期待してのことだった。

 やはり、蜘蛛の足だけあって、関節部分は構造的な弱所であるようだ。

 装甲と装甲の間の部分は、柔らかくなければ曲がらない。人間の鎧がそうであるように、硬質な外殻を持つ生物でも、間接部分は守りが薄いのも道理であろう。

 晶は、さらに二発、それぞれ別の足に打ち込んだ。

「これで、どの程度のダメージになるのか」

 土蜘蛛は、機能不全を起こした三つの足をわなわなと震わせて、晶に憎悪の目を向ける。

 あの怪物の思考力がどれほどのものか晶にはわからない。もしかしたら人間並みの頭脳を持っているのかもしれない。少なくとも、敵に復讐しようというだけの『分別』を持つ事は明らかだった。

 晶は手早くマガジンを交換。

 土蜘蛛に銃口を向ける。

 すると、土蜘蛛が大きな口を開いた。顎が外れているのではないかと思わせるほどに大きく開かれた口の中には、ワニを思わせる鋭い乱杭歯が並んでる。

 バハアアアアア!

 その喉奥から、真っ白な糸が吐き出されたのだ。

「キャッ!」

 遠距離攻撃はできないものと思っていた晶は完全に不意を打たれた。

 よろめきながらも糸を辛うじてかわすと、すかさず銃撃。

 放たれた銃弾は、土蜘蛛と晶の中間地点で炸裂し、紅蓮の花を咲かせた。

 糸による追撃を避けるために、晶が念じたのだ。糸を焼ききっても安心できるものではない。土蜘蛛の八本の足が再びうごめき、そして、その巨体を砲弾のように弾く。

 驚異的な速度。まるでロケットのような加速で迫る土蜘蛛に、晶は反射的に引き金を引いた。その時、銃口は、晶のすぐ脇に向いていて、地面に放たれた榴弾は、爆発するとともに晶の身体を真横に吹き飛ばした。

 結果として、より殺傷性の高い土蜘蛛の体当たりを回避することができた。

 晶を仕留めそこなった土蜘蛛は、そのまま直進し、百メートルほどの距離を使って停止した。

「うああああ……うぐぅ!」

 守護の術でも限界はある。まさか自分で考案した弾丸を自分に使うことになるとは夢にも思っていなかった晶は、その爆風を受けた右腕を押さえ苦悶の表情を浮かべる。

 神獣を相手にすることも考慮して、火力の高い弾丸を製作した。

 仕込んでいる術はただの火の魔術ではなく、高位の神仏の加護を頼みとした高い威力の呪術であり、晶はその力を我が身をもって実感することになってしまった。

「はっはっは……」

 治癒術をかけても体力までは回復しないし、呪力もずいぶんと消耗している。

 晶は、右手の状態を確認する。

 表面には火傷に裂傷、内部は骨折が三箇所はありそうだ。完治までは三十分はかかるだろう。それまでは、右手は戦力に数えられない。

 おまけに、ライフルは拉げて使えない。

 敵はほぼ無傷。増援を整えるのはもう少し時間がかかるか。

「御手杵」

 左手に、相棒を呼び寄せた。

 片手で扱うには、長すぎてバランスが取りづらい。

「倒せるかわからないけど。行動不能程度には陥らせて見せる!」

 晶は、様々な条件を考えて、ここで賭けに出ることにした。

 土蜘蛛を相手に、接近戦を選ぶのは危険すぎる。一方で、時間を稼ぐ戦い方も、今の消耗を考えれば長く続けられない。

 一撃。自分の今出せる最大の攻撃でもって、土蜘蛛に大打撃を与える。

 土蜘蛛が反転し、晶のほうを向いた。

 晶は、呪力を高めて槍に注ぎ込む。

 大地と月の魔力。彼女だけの、純粋で高質の呪力は、すべて母なる大地から汲み上げたもの。つまり、人一人で賄える魔力よりも多くの魔力を、高い質のままで行使することができるのだ。

 晶の魔力を吸った御手杵が、月色に光り輝く。

 晶は、御手杵を掲げ、逆手に持って、呪文を唱える。

「南無八幡大菩薩!!」

 それは、源氏の氏神にして、弓の神。皇室においては天照に次ぐ位階を与えられた皇祖神の御名。

 遠距離攻撃、及び破魔に多大なる恩恵を与えてくれる神仏の加護を宿し、豪槍が一直線に土蜘蛛を襲う。

 土蜘蛛は回避もままならず、槍の一撃を受けた。

 衝撃が奔り、一条の閃光と化した槍は、土蜘蛛の頸部に突き立ち、なおも勢いを失わない。

 まるで、槍そのものが土蜘蛛を討ち果たそうとしているかのごとく、その巨体を押し戻し、呪力を爆発させて星のように輝いた。

 土蜘蛛のいた場所は粉塵に覆われその様子を窺うことはできない。

 全力の一撃は、確かに土蜘蛛に一矢報いる事ができた。その穂先はあの硬い身体に突き立ち、大きなダメージを与えたはずだ。

 晶は、疲労困憊。顔色も力を使いすぎて青白くなっている。

「う……」

 突如襲い掛かってきた嘔吐感にたまらず膝を突く。

 全身を蛇が這いずり回っているかのような寒気を感じ、前後左右も分からないほどに頭が揺れる。

(しまった……土蜘蛛は、厄病の……)

 平家物語には、源頼光を瘧(マラリア)で苦しめた逸話が残っている。

 毒素を振り撒く事くらい、土蜘蛛にとってはなんの苦にもならない。

 立ち込める臭気。澱んだ泥と水に臭いこそが、土蜘蛛の毒だったのだ。知らず知らずのうちに、晶はこの毒を体内に取り込んでいた。今までなんともなかったのは、呪力を全身に行き渡らせていたからであり、投槍の術によって呪力を大きく減じた晶には、これに抵抗する力がなかった。

「うう……」

 全身を襲う気だるさに、晶は為す術なく倒れるしかなかった。

 指一本も動かす気にならない。動かない。

 おまけに、粉塵が晴れたその場所に、土蜘蛛はまだ立っている。身体のどこかに機能不全はおきているのかもしれない。それでも、神獣の回復力や打たれ強さを考えれば、安心できるものではない。

 晶には、もうにらみつけるほどの力もなかったが、悪あがきにそちらに視線を向ける。

 土蜘蛛が黒々とした足で地面を踏みつける。

 大きな身体が持ち上がり、牙の間から唾液が零れ落ちる。

 倒れて動けない獲物にも、土蜘蛛は容赦するという事がないらしい。

 八つの足で地を蹴って、晶に襲い掛かった。

 そして、死ぬ、ということを呆然としたまま考えて、目を瞑った。

 一秒、二秒、三秒……

 時間が過ぎる中で、晶はいつまでたっても自らに死が訪れない事に疑問を抱いた。

 土蜘蛛の速度であれば、一秒あれば踏み潰し噛み砕けるはず。しかし、いつまでたってもそれがこない。

 もしかしたら、すでに死んでいて感じなかっただけなのかもしれないが、それにしてもなんの衝撃もないのはどういうことなんだろうか。

 おそるおそる、目を開いた。

 最初に見えたのは相変わらずの黒い雲。そして、宙を漂う雨粒たち。まるで時間が止まったようだ。

「なんだ、起きてたのか」

 すぐ近くから、落ち着いた声が聞こえてきた。聞き覚えがあるその声の主は、晶の眼前にいた。

「草薙先輩?」

 青白く帯電しているが、それは紛れもなく護堂だった。

 晶は、自分が抱きかかえられている事に気づいて、頬を赤らめた。

 なんだかんだいっても、男性との接触の経験はほとんどなかったからだ。

 気がつけば、晶は公園の端にある広場まで移動していた。護堂に運ばれたようだ。

 神速で消えた晶を狙っていた土蜘蛛は、今頃、目標を見失ってさまよい歩いているに違いない。

 晶には何が起こったのか、まったく把握できてない。ただ、護堂に助けられたという事だけが理解できる事である。

「顔色が悪いな……毒か」

「ッ……!」

 覗き込んでくる護堂に反射的に身を引きながら、晶はコクリと頷いた。

 医学の知識のない護堂の目から見ても、晶の体調が悪いことは一目でわかった。第六感が、その身のうちに潜み悪さをしている毒の魔力を喝破していた。

 護堂は、晶の額に手を伸ばした。

「な、なにを?」

「動かないで」

 護堂に言われて、晶は身動きを止めた。というよりもむしろ、固まっていた。

「ん……」

 護堂がなにか呪文を唱えると、その掌から呪力が晶に流れ込んできた。

 土蜘蛛の力とは正反対の、清浄な呪力。

 晶は体内に入り込んだ毒が、抵抗も許されないままに消滅していくのを感じた。おまけに、力が戻る。体力も、呪力も、集中力すらもかつてないほどに溢れてきたのだ。

「成功か。いや、初めて使うものだからうまくいくかわからなかったんだけどな」

「今のは、治癒の権能……それも蛇ですね。たぶん、若雷の」

 晶は、今の呪力の正体に心当たりがあった。

 護堂がこの春にたおした雷神の一柱に、豊穣の象徴にして再生の権能を持つ個体がいたからだ。

 とすると、晶を救った高速移動にも大体の見当がつく。

 森を破壊し、ついに土蜘蛛が護堂たちの前に姿を現した。

「もう少し遠くに逃げられればよかったんだけどな。ごめん、神速には慣れてなくて、あれ以上は続けられなかったんだ」

「そんな。謝らないでください。先輩が来なかったら、わたし死んでたんですから」

 東京から京都までの道のりは、遠い。

 その距離を生まれて初めての神速で駆け抜ける。護堂の想像以上に、負担が大きかった。

(原作みたいな、行動不能にならなかったのは幸いだったな)

 ちょっと重い車酔いのような感覚だろうか。

 慣れればもっと時間をかけられるだろう。

 おまけに、護堂には、原作から得た神速の特性が頭の中に入っている。なんの因果か、黒王子と同じ雷の神速。負担を減らす、雷化をイメージし、うまくいったときにはしめたとも思ったが。

(多用は止めておいたほうがよさそうだな)

 土蜘蛛が、突進を開始した。

 晶を散々苦しめた、暴走列車のような突撃だ。

「く……!」

 晶が護堂の前に躍り出た。楯になろうとでもいうのだろうか。神速は続けられないという発言から、護堂には高速戦闘が行えないと考えたのだろうか。

 しかし、護堂はカンピオーネで相手は神獣だ。そもそもの格が違う。

 護堂は、土蜘蛛を見ても、特に脅威とは感じなかったし、土蜘蛛の最大威力の攻撃であろう突進にもまったく動じる事がなかった。

 我ながら、慣れとは恐ろしい、とあきれ返る思いだった。

 こんなときに、新しい力を試してみようと考えるほどに護堂は冷静だったのだ。

 側にいた晶を抱き寄せる。晶は、「せ、先輩!?」と声を上げるが、護堂の耳には届いていなかった。

「土に生きる雷の蛇よ。暗き大地の中で踊れ」

 聖句を唱えた瞬間に、土蜘蛛が、護堂たちのいるところを猛スピードで通過していった。

 土蜘蛛が過ぎ去ったところには、何も残っていない。護堂も晶もそこにはいなくなっていたのだ。

 跳ね飛ばされたわけではない。なぜなら、二人は、土蜘蛛と位置を入れ替えてその場にいたのだから。

「今のは、なんですか?」

「地面を自在に移動できるみたいだ。これ多分、壁抜けとかもできそうだな」

 土蜘蛛のタックルを、護堂は地面に潜る事で回避したということだ。穴を掘るのではなく、溶け込むような感覚で地中を動き回る事ができる。

 おまけに、雷化しているようで速度も神速に引けをとらない。

 雷が土に吸収される様子を具現化したということだろう。

 土雷神らしい権能だ。

「空中戦以外はこれ使えばいいんじゃないか?」

 護堂は呟いた。使い勝手の悪い伏雷神の神速よりも地面に足をつけていればいい土雷神はほぼいつでも発動できるからだ。

 護堂は土蜘蛛に止めを刺すべく、呪力を練り上げる。

 そのときだった。

「横槍御免!神殺しの少年よ!」

 恐ろしい力の篭った声が空から落ちてきた。

 第六感が警告を発した。土蜘蛛など、ものの内にも入らない巨大な呪力の塊だ。護堂や晶はもとより、土蜘蛛ですらその声の主を見上げていた。

 大きな馬に乗った大鎧の武者が驚くほどの速さで空を駆けてくる。いや、跳んでいる。跨っている馬がとてつもない大ジャンプをしたのだろう。

 着地と同時に、あふれ出る呪力と威圧感が、公園中に風となって吹き荒れる。

「某を呼ぶ不吉の声。やはり土蜘蛛であったか」

 鎧武者は土蜘蛛を懐かしそうに眺め、スラリと太刀を抜き放った。

 それに反応した土蜘蛛が、脇目も振らずに鎧武者に特攻する。鬼気迫る様相は、土蜘蛛と鎧武者の力関係を如実に現していた。

「ふん!」

 鼻を鳴らして、馬上から一閃。

 晶には信じられなかった。あれほど、苦戦し、猛威を撒き散らした土蜘蛛が、ただの一太刀で両断されたのだから。一刀両断された土蜘蛛の亡骸は、石となり砕けて消滅した。

 この世ならぬものの最後は、ひどく呆気ないものだ。

 護堂は、晶を背に庇い、鎧武者をにらみつけた。

「あんたは」

「む?神殺しは礼儀を知らぬ御仁と見える。お主も戦人ならば、それ相応の礼節を身につけるべきであろうが……まあよいか。お主の戦いに水を差したのも事実。ここは某から名乗るとしよう」

 鎧武者は、大きく息を吸うと、驚くほどの大音声で名乗りを上げた。

「遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ!我こそは鎮守府将軍源満仲が長子、源左馬権頭頼光なるぞ!此度は京での兵乱を平らげ、安寧を齎すべく摂津国からこの地へ参った!神殺しよ、いざ、組まん!」



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十三話

(まつろわぬ神。それも、源頼光公……!)

 豪快な名乗りには呪力が篭っていたのか、目前でたたきつけられた晶は総身が震えて仕方がなかった。

 その威風堂々たる立ち姿を目にするだけで、頭の天辺から冷や水を浴びせられたかのように寒気が走り抜け、身体中から力が抜けていくような気さえする。

 神の姿を目にしたことすらも不敬であると、全身が忠告し、心が悲鳴をあげていたのだ。

 魔術に関わる人間は、幼いころから神の脅威を叩き込まれて育つために、まつろわぬ神の支配力には抗し難いという報告もある。

 まして、相手は源頼光というではないか。

 名門の武家に生まれた人間であれば、まさかその名を知らぬとは言うまい。

 源頼光は、平安中期の生まれだ。当時は摂関政治の全盛期であり、彼も藤原道長に仕えて頭角を現た。

 主君道長の繁栄に支えられ、彼自身の身代も大きくなり、『朝家の守護』とまで称されるようになった。清和源氏発展の礎を築きあげた人物であり、彼の子孫は摂津国多田を本拠地として摂津源氏と呼ばれるようになる。

 また、頼光の子孫からは、武田信玄に仕えた馬場信春や、本能寺の変で有名な明智光秀が現れるし、彼の弟の源頼信の子孫は後、源頼朝や足利尊氏を輩出し、武家の棟梁となっていく。

 つまり、源頼光は、多くの武士、それも名門であればあるほどに無視できない人物であり、そこから派生した化物退治の伝説が魔術界に進出した多くの武家から尊崇を集めるようになっているのだ。

 魔術を納め、武芸を嗜む晶にとっては心の師とも呼べる存在であり、祖霊でもある。

 武器を向けられるはずもない。

 睨まれただけで、心臓も呼吸も止まってしまいそうだ。

 喉が干上がるかのような錯覚を覚えて、荒く息を吐いた。しかし、吸えない。溺れかけた魚のように、口をパクパクとさせながら酸素を求めた。

 汗が噴出して、頭が揺れる。

 せっかく護堂が、整えてくれた体調も、まつろわぬ神の登場で一気に崩れてしまった。

 無理もないだろう。晶にとっては、初めての神との遭遇だ。

 その存在は、ただそこにいるというだけで周囲に影響を及ぼすのだから、晶の身体が変調をきたしてもおかしくはないのだ。

 そもそも、武士の名乗り自体が、相手を威圧して士気を挫くことを目的としていた側面もあったのだから、それをはるかに上回る神の名乗りは、ある種の精神攻撃に似た力を発揮することになったのだった。

『大丈夫』

 ズン、と胸の奥に響く言葉だった。

 空気の振動によって届くのではなく、本当の意味で胸の奥に染み入ってくるような、暖かくて、力強い声が、晶の心を満たしていた恐怖を取り払った。

「かはっ!はっはっ……!」

 咳こみ倒れそうになる晶の肩を護堂が支えた。

 頼光を見つめたまま、身体が青白く発光する。

「む!」

 頼光が馬首を護堂に向けたとき、すでに二人の姿は消えていた。

 

 

 護堂の伏雷神の神速は、近くに自然の水が一定量なければ発動できないらしい。

 その水量や距離などは、まだ理解していないが、雨天であれば、条件を気にすることなく使用できるので、今の護堂の戦闘は雨天時がもっとも力を発揮できることになるだろう。

「先輩……すみませんでした」

 神速で大きく距離をとった後の晶はしょんぼりとしていた。

 為す術なく敵の術中に嵌ってしまった事と、護堂の世話になってしまったことを悔いているのだ。

「べつにいいよ。相手が神様なんだから仕方がないだろ」

 護堂はそう言って、晶の槍を渡した。

 戦線を離脱するときに、ついでに回収していたのだ。

 転送の魔術ならば、すぐに手元に呼び戻せるのだろうが、目に入った以上無視もできないと拾ってきたのだ。

「ありがとうございます」

 槍を受け取って、晶はお礼を言った。

 その晶の身体に異常がないことを確認して、護堂は頷いて言った。

「後のことは、俺がやる」

 槍を渡した護堂は、そう言って晶に背を向けた。

 晶には、護堂が積極的に戦うと言い出すことが意外に思えた。

 妹の静花を心配するいいお兄さんで温厚な人。それが、これまで接してきた護堂の印象だった。

 もちろん、なんの面識もないころには、その力を恐れていたし、ゴールデンウィーク直前に監視していたことがばれかけた時は九死に一生を得たとも思ったものだが、実際にその人柄に触れてみると、神を殺すという人知の及ばない偉業を為しえた人にはとても思えなかった。

 これが、カンピオーネ。闘争の化身。神を殺し、その力を簒奪せしめた魔王の在り方なのだ。

「先輩……!」

 護堂の袖を掴んで、晶が呼び止めた。

「……頼光公は、武士の中で最も高名な化物退治の専門家です……おそらく、破魔の呪術も使ってくるはずです」

 刀剣の類だけが、頼光の力ではないということ。決して、油断をしないでほしいと晶は伝えたかった。

 護堂の身体がスパークする。飛び散った火花が風に消えていく。

「ありがとう。晶さん」

「あ、晶でいいです」

 なぜ、そんなことを言ったのか、晶自身よくわかっていなかった。咄嗟に口をついて出た言葉がこれだった。

「え?」

「先輩のほうが、年上ですし……その、なんていうのか……」

 自分でもわからないことを口にするのは難しい。晶は、場違いなことを言ってしまったことの恥ずかしさから俯いた。

 媛巫女最強と呼ばれていても、こうした表情の一つ一つは、普通の少女とかわりない。

 そんな晶の頭を護堂はワシャワシャと撫でた。

 妹に接するような感覚で、頭がちょうどいい位置にあったからだ。

「わっ」

 と、驚く晶に護堂は微笑みかけた。

「じゃあ、晶だな。今度からそう呼ぶよ」

「はい」

「それじゃ、さっさと倒してくる」

「はい」

 直後、バシ、と紙を裂くような音が聞こえ、護堂は姿を消した。

 嵐の中、残された晶は護堂が向かった船岡山公園のほうを見た。

「……御武運を」

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

「やっと戻ってきたか、神殺しよ。待ちかねたぞ。さて、某は名乗りを上げたぞ。次はお主の番だ」

 頼光は、雨も嵐も気にせず、ずっとその場にいた。

 どういうわけか、護堂が戻ってくると思ってのことらしい。 

「草薙護堂。生憎と誇れるような出自じゃない」

 むしろ、一族の歴史を振り返ると、世間様には言えないような伝説ばかり。高らかと宣言するようなことは、遠慮願いたいところだ。

「では、互いに名乗りを上げたところで、戦としよう。この時代、武勲を証明してくれる友もいなければ、忠義すべき主もないのでは戦い甲斐もないと思っていたが、フフフ……よもや神殺しと業を競うことができようとはな」

「言っとくけど、俺はアンタと競うつもりなんかこれっぽっちもないからな!」

 護堂は大声で言い返すが、頼光は聞く耳を持たない。

 頼光は、納めていた刀を再び抜いた。鋼の冷たい輝きが、不気味だ。

「いざ、参る!ハア!」

 手綱を叩き、馬は嘶いて筋肉を大きく膨らませ、大地を蹴り付ける。

 主従は、爆発的加速で護堂にせまった。騎馬は、大鎧を身につけた男を背負っているとは思わせない身軽で力強い走りで護堂に接近した。

 対する護堂は、神速を五十パーセントに制限して発動。顕身もせず、人の肉体を保持したまま神速の領域へ入る。

 ---------------見える!

 神速は、移動時間を操る力だ。発動すれば、体感時間に比べて、外部を流れる時間は異常なまでに遅くなる。

 空から降り注ぐ雨粒すらも、はっきりと視認できる今、神馬の加速も十分に余裕を持って回避することができた。

「小出しにしていけば、負担は減るのか」

 護堂は体調を気遣いながら呟いた。

 感覚的には、全力疾走とランニングの違いくらいはありそうだ。おまけに、神速を加減すれば、速すぎて身体のコントロールができないということにはならない。

「ほう……拙いながらも見事な体捌き。これは、思っていたよりもずっと苦戦しそうではないか!よいよい!なればこそ、勝利に価値が生まれるというものだ!」

 刀をかわされた頼光は、上機嫌に笑っている。

 戦う事が楽しくて仕方がないのだろう。そのように生き、そのように死んだ武士なのだから、神になっても根元の部分は変わらないのか。

 馬首を護堂に向け、再び猛然と走り出す。

「次はかわせぬぞ!お覚悟あれ!」

 確かに、速い上に、鋭い。先ほどの一撃は、小手調べのようなものだったのだろうか。

 護堂は真横に跳んで刀を避ける。

「うわっ!?」

 声を発したのは、切っ先が身体を捉える寸前だったからだ。

 袖に切れ込みが入ったのだから、かなり危なかったと言えるだろう。あと、もう僅かでも避けるのが遅ければ、腕を落とされていたかもしれなかった。

 余裕を持って避けたはずなのだが……。

 護堂の頬を雨とは違う、冷たい汗が伝う。

「むう……僅かに目測を誤ったか?いや、お主の動きが某の予想を超えていたというところだな。よし、次は討ってくれる」

 頼光は、刀をふるって水気を飛ばした。刀身についていた水滴は払い落とされ、剣圧が地面を割った。

 引き裂かれる大地が断末魔の叫びを上げる中、頼光は手綱を握り締める。

「ゆくぞ!」

 神馬が疾走を開始する。

 護堂との距離が凄まじい勢いで縮まり、ギラリと輝く刃の殺傷圏内に至る。

 だが、頼光の斬撃は、三度目の正直とはならない。神馬が護堂を蹄にかけ、刀が振り下ろされるよりも前に、護堂の姿が目前で消えうせたからだ。

 目を見開く頼光を真下から雷撃が貫いた。

 護堂は、土雷神で土中に逃れ、神馬の足元から再出現、即座に伏雷神を発動し、雷へと肉体を変化させたのだ。

 雷となった護堂のタックルは、そのまま強力な雷撃となる。

「ぬうう!見事なり!してやられたぞ!」

 雷撃を強かに浴びても、頼光は堪えた様子なく護堂の奮闘ぶりを讃えている。

 強敵から賞賛を受けた護堂は、それに関してとくに思うことなく、着地。即座に雷化して頼光に向かう。

 護堂の持ちうる最高速度。

 通常の雷と同じだけの速度が出ているのであれば、秒速二百五十キロはでているはずだ。

 ほんの数十メートルの距離等、物の数ではない。

 引き伸ばされる時間の中で、護堂は、呪力を高めて飛び込んでいく。

 動きが異常に緩慢になった頼光が、それでもわかるほどに明確な笑みを浮かべる。

「その動きは、すでに見せてもらったぞ!」

 頼光の声は、ひどくゆっくりと、低くなって聞こえた。

 音楽プレーヤーをスロー再生したときに、このような声がスピーカーから聞こえてくるだろう。

 頼光は疾風の如き鋭い突きを放った。

 渦を巻く呪力。鈍く光る切っ先が護堂に向かって寸分違わず突き入れられる。

 カクカクとした、コマ送りの映像を見せられているようだ。

 頭ではわかっていたが、実際に目で見ると違うものだ、と護堂は思った。

(だけど、これなら!)

 心眼によって護堂の神速を見切った頼光であるが、それでも速度で勝っているというわけではない。護堂を追いかけるように切っ先が微調整されているのがわかるが、問題はない。避けることは可能だし、何よりも今の護堂は雷となっているのだ。雷を斬る事はできない。

 刀をすり抜けて頼光の身体を焼く。

 突撃を敢行する。

 護堂の命を救ったのは、第一の権能と戦いによって極限まで研ぎ澄まされた直感だった。

「ぐ、くう……!」

 神速を解いた護堂は、バランスを崩して地面を転がった。

 すぐに起き上がる護堂だが、驚愕と痛みで顔をゆがませている。

 二の腕から肩にかけて、ばっさりと切られていた。

「なかなかどうしてしぶといではないか!今のを避けるとは思っていなかったぞ!」

「そりゃどうも。俺は斬られるとは思ってなかったよ」

 護堂は、頼光に言葉を返しながら、頭を働かせた。

 雷を斬る刀。

 とっさに雷切の名が浮かんだが、それは頼光の刀ではない。もっと後の時代のものだ。

 そもそも、頼光に、雷神殺しの伝説はない。ということは、雷に対する優位性のある技ではないのだろう。

「破魔の術法かな」

 護堂は雷化の弱点を思い出した。

 アレクサンドルの雷化は、人間でも、破れるくらいに脆い代物だったはずだ。おそらくは、護堂の雷化も同じ弱点を持っている。

 しかも、相手は、破魔の術に関しても造詣が深いらしい。

 相性は悪いといえるだろう。

「ふはは!よくわかっているではないか!某は、数多くの物の怪を討伐し、魔を討つ力を得たのだ。おまけにこの童子切安綱は酒天童子の首を落とした刀!」

 頼光は、大太刀の切っ先を護堂に向けた。

「お主の呪など、紙切れに等しい」

 刃を一振り。強大な呪力が練りこまれた風刃が護堂に襲い掛かる。

 護堂は再び雷をまとって空中へ逃れた。

 相手がいくら破魔の力を持っていたとしても、攻撃を避けるには神速を使うのがもっとも確実でリスクが少ないという事は変わりない。

「空に逃れても無駄だぞ!」

 頼綱は童子切を鞘に納めたかとおもうと、いつの間にやら弓矢を構えていた。

「弓馬の道こそが武士の道。いざ、翔けよ!雷上動!」

 放たれた矢が大気をねじ切って空を翔けていく。

 ピイィィィィィ……

 矢の先端。鏃の辺りから、甲高い、金切り声のような音が四方に広がっていく。

「鏑矢?……うわっ!?」

 護堂は突然襲われた浮遊感に瞠目した。

 落ちている。

 青白い光が消え、肉体が戻る。雷化が解けてしまったのだ。

 頼光が射放ったのは、破魔の鏑矢だった。

 上空百メートル付近で、護堂は物理学の世界に戻ってしまった。重力に引かれ、風に髪を煽られながら、地上が迫る。この高さから落ちれば、いかにカンピオーネといえどもただではすまないだろう。

『弾け』

 護堂は、大気を弾いて勢いを殺し、空中に踏みとどまった。

 そこに、さらに追い討ちとばかりに矢が飛来する。

『砕け!』

 呪力を込めた言葉が、矢にまとわりつく。

 内側から砕けて消える矢を見て、頼光は、ほう、と感心したように息を吐いた。

「卦体な技を使う。それもお主の権能か」

「さあ、どうかな」

 嘯く護堂は、地上に軽々と着地を果たした。

 頼光は、弓手の弓を握り締め、護堂に狙いを定める。引き絞られた弦が、きりきりと音を出している。

 文殊菩薩の化身から頼光が授かったという伝説の弓。

 子々孫々に伝えられ、頼政の時代に、宮中に現れた鵺を射落としたという伝説を創り上げた。

 そして、鵺は雷獣と同一視される。

 頼光自身には雷に対抗する性質がなくても、武器にはあったということか。おまけに、こちらの神速は、魔術破りにひどく弱い。

 護堂は呪力を高め、戦いに集中する。

 矢が放たれる。

 その時にはもう、護堂は射線から外れたところにいた。肩を矢が掠める中、護堂は視線を頼光からはずさない。

「ぬ?」

 一矢、二矢と繰り返し矢を放つが、やはり当たらない。

 紙一重で、護堂は回避する。

「なんと、矢を放つ瞬間にはすでに避けている……!たいした戦術眼だ!ならば、これはどうだ!?」

 頼光が番えた矢は、同時に三本。

 それが、ライフルのような速度で護堂に襲い掛かる。

『弾け!』

 空中で、護堂の言霊と矢がぶつかり合い、あらぬ方向へそれていった。

 弦が連続で鳴る。

 まるで弦楽器を奏でているかのように、リズミカルに、霊妙な音で響く。

 一方で、弓から放たれるのは殺意の嵐だ。

 大地を抉り、敵対する者を黄泉の国へ送り届ける破魔の矢。

 護堂は直感を駆使して軌道を予測し、放たれる前に射線から逃れ、逃げ切れないとわかればすぐに言霊によって防御する。

 このままでは、千日手だ。勝負はつかないどころか、削り合いとなれば、鎧で守っている上に神様である相手に比べて、こちらが圧倒的に不利。

 攻撃能力の高い権能で相手を倒してしまいたい。

 護堂はどうすれば、頼光を倒せるか、シミュレートする。

『弾け!』

 護堂は、頼光の弓に向かって言霊を投げかけた。

 強制力を持った命令が、頼光の弓を揺さぶった。

 狙いがぶれる。

 その瞬間を、狙う。

 身体が青白く発光する。神速に突入した証だ。 

 すでに、見切られた雷速ながら、この日数度目になる突撃を行う。

 完全に肉体はほつれ、雷に返還されている。 

「見切ったと言った!何度も同じ手を喰らわぬぞ!」

 頼光は冷静に抜刀。

 護堂に向かって、振り下ろす。

 見事な技の冴え。太刀筋はキレイに、護堂を両断する軌跡を描いている。

『曲がれ!』

 この一瞬を狙っていた。

 護堂は、目前の空間に干渉。空間がグニャリと曲がる。刀の軌道をかわすように、変化した空間に飛び込んだ護堂は、真っ直ぐに進んでいながら、外から見れば急に進路を変えたように見えただろう。

 童子切を避け、懐に飛び込んだ護堂は神速を解除した。

「鋭く、速き雷よ!我が敵を切り刻み、罪障を払え!」

 聖句を口にすると同時に、公園の中にある木の一本が縦に断裂した。雷の直撃を受けて避けたかのようだ。

「ぬう!」

 頼光が返した刀が、護堂の脇腹に切り込んでくる。激しすぎる激痛に苦悶の表情を浮かべながら、刀が身体を両断する前に、力を発動する。

 護堂の腕から、雷撃が放たれた。真横に一文字の、まるで斧や剣を横なぎに払ったかのような閃光。

 熱と電流、そしてそれ以上に、殺傷力の高い切断力によって頼光は両断された。

 触れたものを切り裂く雷。

 咲雷神の力だった。

 頼光の上半身は、後ろに倒れ、馬から転げ落ちた。護堂を切り裂こうとしていた刀も、右腕を根元から斬りおとされたためにその役目を果たす事ができず、脇腹に突き立ったままになっていた。

「ぐああ!」

 地面に落ちた護堂は、童子切が刺さったままだったので、激しくうめいた。

 血塗れた手で、刀を引き抜く。血が、噴出して大量に流れ出た。

 頼光は、仰向けに横たわりながら、そんな護堂に声をかけた。

「見事……実に見事であった!我が血肉を喰らい、さらなる強者となるがよい!」

 痛みにうめく護堂をあざ笑うかのように、頼光は豪快に笑って光の粉となった。

 



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十四話

 あくる日、草薙護堂はまつろわぬ神との戦いに勝るとも劣らない脅威に晒されていた。

「で?」

「いや、急に友達がお母さんが体調を崩して入院したから猫の面倒を見てくれないかって……」

「どう考えてもそれ嘘でしょ」

 戦いを終えた後、護堂は太刀傷が深く眠るように気を失った。

 若雷神の力のおかげで死に至る事もなく、目覚めてみれば実に快調な身体状況だったのだが、そこからがまずかった。気が付いてみれば、なんと朝になっていたのだ。そしてこの日はゴールデンウィーク明けの最初の登校日だ。朝から家にいないことを静花は大いに不審がることだろう。そう思って慌てて東京にとんぼ返りしたのがつい先ほど。雨が上がっていなかった事が幸いして雷速で帰宅し、いかにもランニングに行っていましたという風を装って自室に向かったその瞬間を待ち構えていた静花に捕まったのだった。

「お兄ちゃん。高校に入ってからなんか変わったよね。前はすごい真面目でどこに出しても恥ずかしくない人だったのに」

「まるで今の俺は世間様に顔向けできない放蕩息子のようじゃないか」

「真面目な人は、深夜に家を抜け出して友達と遊び呆けたりしないでしょ!」

「それはごもっともで」

 護堂としては妹の友人の危機を救いに行ったのであって、決してやましいことがあったわけではないのだが、人に言えない秘密という点ではやましい事よりもより根が深いだけに真実を言うわけにもいかない。言ったところで信じてくれるはずもない上に関わらせないということが何よりも重要なのだ。ここは甘んじて妹の追及に付き合うほうが賢明だろう。

 勝気な妹は、少々お節介焼きな一面があり、面倒見の良いところが周囲から好評なのだが兄に対してはそれが非常に顕著に現れる。

「まあ、そこまで心配してくれなくても俺は大丈夫だって。よからぬ繋がりがあるわけでもないしね」

「し、心配なんてしてない。ただ、最近ちょっと緩んでるんじゃないかと思っただけ!」

「それを心配してると言うんだけど」

 むきになって否定する妹にたじろぎながら、護堂は言った。

「とにかく!どこの誰のところに行ってたのか知らないけど、今後はこういうことのないようにね!草薙家の男子が朝帰りってだけでもご近所じゃ評判なんだからね!」

「確かに、それはまずいな……わかったよ。今後は注意することにする」

 草薙家の評判については護堂も頭を悩ませているところなのだ。特に祖父の件で。それが自分に飛び火してくるのは本当に困る事なので、これに関しては静花の意見を呑むしかない。

 ちらり、と時計に目を向けると学校に行くのにちょうどいい時間帯。これ幸いに話を切って家を出ることにした。

「あれ?」

 護堂は家を出た直後、大切なものがなくなっているのに気が付いた。

「どうしたの?」

「いや、携帯がなくて……」

 この春に買ったばかりの携帯を紛失していたのだ。いつもポケットに入っていたそれがなくなっている。

 携帯のアドレス帳に登録されている名前の数が友達の数だというのなら、護堂の友達は非常に少ないことになるだろう。それこそクラスで会話を交わす人間に限られる。それは、護堂が携帯を持ち出したのが高校にはいってからだということが大きい。とはいえ、よからぬ人に拾われてしまってはそこから情報が抜き出されて、その僅かの友人にも迷惑がかかるかもしれない。

「これは交番に届け出ないといけないかもしれないなぁ……」

 おそらく、携帯が落ちているのは京都。そう簡単に見つからないだろう。

「ちょっと先に行っててくれ。まずは携帯を停止しないといけないから」

「え、うん。わかった」

 家に戻ろうとしたそのときだった。

「草薙先輩!おはようございます!」

 まるで見計らったようなタイミングで晶が走ってきた。

「晶ちゃん?」

「静花ちゃん。おはよう!」

 京都からどのようにして帰ってきたのか。晶たちには新幹線以上に便利な移動手段があるのだろうか。晶はまるで、昨夜の戦闘がなかったかのように普通の女子中学生の格好で現れた。

「晶。あれ?まだいたの?」

 護堂は静花に聞こえないくらいの小さい声で疑問を投げかけた。

 投げかけられた晶のほうはガーン、という衝撃を受けたかのような表情で、

「せ、先輩、ヒドイっ!」

「いや、だって静花の護衛のために来たって言ってたじゃないか」

「そうですけど、一日しか登校してないのにもう転校ってさすがに不自然ですよ!て言いますか、それってものすごい寂しいじゃないですか!」

 そういえば、と護堂は晶がゴールデンウィークの前日に転校してきたことを思い出した。一応私立校であるわけだし、そう簡単に転入出はできないのだろう。

「ああ、それと……」

 晶は、思い出したようにカバンを弄ると、銀色の四角い物体を取り出した。

「先輩、これ忘れ物です」

 手の平にちょこんと乗っていたのは紛失したと思っていた護堂のスマートフォンだった。

「ああ、ありがとう。ちょうど探してたところだったんだ。助かったよ」

「いえ、本当はあの後すぐにお渡しできればよかったのですが、先輩すぐに帰ってしまいましたから」

 護堂はスマートフォンを受け取ろうと手を伸ばす。その手を横合いから第三者の手が鷲掴みにした。

「う!?」

 護堂はその存在をすっかり失念していた事を後悔した。恐る恐る振り向いた先には、笑顔を浮かべた静花。だが、その額にピキピキと血管が浮き出そうになっているところを見ると、そうとうボルテージが上がっているようだ。晶も失言に今さらながら気が付いたのか顔を青くしていた。

「お兄ちゃん……なんで晶ちゃんがお兄ちゃんのスマホを持っているのかな?」

「えーと、だな」

 冷や汗を流しながら必死になって言い訳を探す。が、出てくるはずもない。

 静花はぐるり、と首を回して晶のほうを向いた。晶はひ、と竦みあがった。

「晶ちゃん。その携帯はどこで拾ったのかな?なんでお兄ちゃんのだって知ってたのかな?そもそもあの後ってなんのこと?」

 静花は矢継ぎ早に質問を投げかけた。そもそも、晶が兄とどのような関係なのか。いつ「晶」「先輩」などと親しげに呼び合える仲になったのか。少なくとも静花の記憶の中でには護堂と晶の接点は、晶が家に遊びに来たあの日以外にない。

「えぅ……そ、それは、なんと言うか」

 案の定か。晶は答えに窮した。

「お兄ちゃんが夜に会ってたのって晶ちゃん?」

「は、はい……あ、いえ、決してそういうことではなく……ご、ごめんなさい」

「へえ。何を謝っているのか教えてもらいたいなあ?」

「うう……」

 教えられるはずがないのだ。しかし、誤解を招いている事も事実。このまま放置しておくにはあまりに危険だ。晶は助けを請うように視線を護堂に向けた。

 その視線を追うように、静花も護堂に視線を戻した。

 その二つの視線に対して護堂は、

「まあ、学校に行きながら話そうか」

 と、お茶を濁すような対応しか取れなかった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 午前中の授業が終わって昼休みがやって来た。楠南学院では、中等も高等も昼休みの間に各々が好きな場所で昼食を摂ることになっている。給食という文化がないのだ。よって、多くは弁当を持ち込んでいるか、そうでない狼たちは、昼休み開始のチャイムと同時に購買へ走り出し、激しく相争う事になるのだ。

 万里谷祐理はそうした喧騒の中、自らのクラスを後にした。

 彼女は弁当派だ。足は購買には向かわない。

 緊張しているのか、表情は硬く、唇も引き結ばれている。

 それもこれも、甘粕冬馬が余計な事をいろいろと言ったからであるが、祐理はそういったことの責任を人に押し付ける性格ではないし、彼女自身も実のところ強く断ったり否定したりするつもりはまったくなかった。 曰く、草薙護堂と仲良くしてくれ。

 端的に言うなればそういう内容だった。

 理由はわからなくもない。ここ数日、一歩間違えば護堂と正史編纂委員会の仲が決裂してしまいかねない状況が続いていたのだ。祐理はその際、武蔵野を守護する役割をもつがゆえに戦地に赴く事はなかったが、七雄神社で静花の近辺を守るために活動していた。

 カンピオーネとの仲たがいは、下手をすればそのまま組織の壊滅に直結する。可能性が僅かでもあるのなら排除しておきたいし、意思疎通はより緊密にしておきたいところだ。祐理は護堂と同じ学校に通い、妹とも知り合いという縁から護堂がカンピオーネであることを確かめたこともある。つまり、彼女は委員会と護堂を繋ぐパイプなのだ。

 そこで、甘粕から渡されたのが虎の子、携帯電話。これで、護堂とアドレスや電話番号を交換しろという事であり、いつでも護堂と連絡が取れるようにしておくことが重要なことなのだと力説された。

 祐理は言われるがままに携帯を受け取って、今ここにいる。

 開け放たれた教室のドアから室内を簡単に覗き込む。が、そこには護堂の姿はなかった。もしかしたら教室で食事を摂らない人だったのかもしれない。

「あの、すみません」

 ちょうど、教室から出てきた男子学生に声をかけてみることにした。

「はい、て、万理谷さん!?な、なんでしょう!?」

 その学生はなぜか非常に声を上ずらせていた。間が悪かったのだろうか。教室内のほかの学生たちも、気のせいかこちらを意識しているように思える。

「突然すみません。こちらのクラスの草薙護堂さんに用があったのですが、どちらにいらっしゃるかご存知ありませんか?」

「なんだ護堂か……あいつならさっき中等部の妹さんとその友達に呼び出されて屋上に行ったみたいですけど、護堂にいったいどんな用が?」

 ――――また草薙か。

 ――――しかも万理谷さんなんて、そんなばかな……!

 ――――草薙……ニクイ。

「み、みなさん、どうかされたのでしょうか?」

 声に出さずともあふれ出てくる負の思念。感性の人一倍鋭い祐理には、それらを察知する事など造作もない。もちろん、読心術の類はできないのだが、それが自分の発言に深く関わっている事は理解できた。

「ふ……ご心配なく」

 なぜか、目の前の男子学生が清清しさすら感じさせる言葉回しで言う。

「我々はただ、ただただ共通の敵を前にして心を一致させただけですので。我等がクラス、否、我等が母校に巣食う悪鬼羅刹にも悖るあの男を打ち砕くために!!」

 意気丈高にそうのたまう男子生徒に、祐理は、はあ、という事しかできなかった。

 なにか、余計な事をしてしまった感が否めないし、もしかしたら護堂に迷惑をかけることになってしまったかもしれないと、反省しつつ、祐理は屋上に向かう事にした。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護堂は静花と晶をともなって屋上にやって来ていた。

 昼休みが始まってすぐ、静花に連れられた晶が護堂のクラスに現れた。目的は大体察しがついたが、また静花もしつこいとため息をついたものだ。

 あまり出入り口を塞ぐように会話をするのも目立つ。なにせ中等部の女子が二人、高等部にいるのだ。それだけでもずいぶんと人目をひきつける。そういうこともあって護堂は屋上で昼食を獲りつつ話すことにしようと提案したのだ。

 昨今、安全上の理由から、屋上が学生に解放されている学校も少なくなってきた。そうした時代の潮流に逆らうように、この学校は屋上が全面的に学生に解放されているので、昼休みには多くの学生が昼食を摂ったり、遊んだりしている。

 その一角を陣取って、護堂は弁当を広げた。

「……というのが一連の事件の顛末ということかな……な?」

「はい、概ねそんな感じだったかと……あはは」

 静花が耳を傾ける中、なんとか言葉を紡ぎ――――傍目からはわざとらしさが充満してはいるが――――なんとか言い訳を完成させた。そこにはガブリエルの権能を駆使し、事前に念話でミーティングを行うという周到さで用意するという念入りな努力が背景にあったおかげで、護堂と晶の言いわけはそれなりのものとなっていた。

「ふーん」

 卵焼きを飲み込んだ静花はじとー、と二人をねめつける。

 護堂と晶は二人そろって身を固めた。

「まあ、もうそれはいいんだけどさ。いつのまに打ち合わせしたんだか」

 最後のほうはもごもごとしていて聞き取れなかったが、静花なりにこれ以上こじれさせるのは無意味と判断したのだろうと護堂はほっと息をついた。

「ところで、晶ちゃんとお兄ちゃんって付き合ってたりしないよね?」

 いきなり、静花はそんなことを尋ねてきた。

「は?」

「はい!?」

 護堂と晶は二人で素っ頓狂な声を上げた。

「そ、そんなことないよ!先輩とはただ仲良くさせてもらっているだけで、そんないかがわしい間柄じゃなくて」

「そうだよねえ、まさか会って数日の後輩に手を出すとか、まさかしないよねえ」

「当然だろ。なんて事を疑ってるんだお前。第一、そんな噂がたったら晶のほうが迷惑するじゃないか」

「迷惑、ねえ……」

 静花の疑いを真っ向から否定した二人だったが、片割れの晶のほうはやや残念そうな表情を浮かべている。これには、静花も確信を抱かざるを得ない。確かに、この二人は付き合っているわけではない。だが、だからといってまったく関係がないというわけでもないようだ。今後の動き次第で、どう転ぶか。草薙家の宿業とも言えるとある現象が、兄の代でも芽吹き始めたらしい。静花は一層危機感を強くした。

 祐理が出入り口のドアを開けて入ってきたのは、ちょうどそんなときだった。

「万理谷さん? って、どうしたんですか携帯なんて!?」

 祐理は、静花と護堂を発見すると、迷うことなく歩み寄ってきた。

 彼女は静花の所属する茶道部の所属だ。だから、静花は、ここでも部活関係で来たのだろうと思ったのだが、祐理の手に握られている携帯電話を見て色をなくすほどに驚いた。

「なに驚いてるんだ静花。イマドキ携帯くらい誰でも持つだろ」

 さも当然のことを口する護堂。その護堂の疑問に答えたのは晶だった。

「万理谷先輩は携帯を持たない主義で有名なんですよ」

「あ、晶さん。わたしは別に主義を唱えていたわけではなかったのですが……」

 晶の言い回しに祐理が慌てて否定に入る。

 祐理としては、必要性をこれまで感じなかったことと、機械類が大の苦手ということの二つの理由から携帯を持たなかっただけであり、今回のように、理由があれば持つ事だってある。しかし、周囲は、携帯電話を持つ事がイマドキの当たり前であることもあって祐理を古き良き時代の大和撫子という噂の一要素として捉えていたのだった。

「え、知り合いなんですか?」

「はい。もうずいぶんと昔ですが、お会いしたことがあります。あれは、出雲大社に行ったときでしたね」

「万理谷先輩には、よくしていただきました。いろいろとご迷惑をおかけして……」

 静花は祐理と晶の意外な繋がりに驚いていた。

 その一方で、護堂もまた不思議な繋がりがあったものだと感心する。

「それで、万理谷はなんでここに? 静花に用事があったんじゃないのか?」

「あ、いえ。静花さんではなく、草薙さんに用があるんです」

「俺?」

「はい。草薙さんの携帯電話のメールアドレスがわからなかったもので。もしよろしければ教えていただけないでしょうか?」

 ごふっと隣の静花が咽た。 

「ちょ、ま、万理谷さん。一体どうしてこんな兄に!?」

「それは……その、詳しくは申し上げられないのですが、草薙さんに連絡を差し上げないとならないこともあると思いますので」

 こんな兄、という静花の言い方に軽くショックを受けながら、護堂も祐理を擁護する。

「別にいいだろう静花。そんなことまで根掘り葉掘り聞き出さなくたって」

「静花ちゃん。お兄さんのことになると血相を変えますから」

「ち、ちがっ」

 護堂に続いて晶が、雪辱を晴らさんばかりに確信を突く一言を投げかけた。静花は顔色を一気に紅く変化させて反論しようとする。

 そこに、

「そうなんですか。静花さんは、草薙さんのことをとても大切に思っているんですね」

 と、にこやかに祐理が言ったことが止めとなった。

「そんなことないもん! わたし、先に帰る!」

 静花はそう言うと、弁当を片付けて屋上から出て行ってしまった。

「お、怒らせてしまいましたか?」

「いいえ、あれは照れ隠しだと思いますよ」

 人の良い祐理はオロオロとしている。

 しかし、護堂としては、まさかこんな展開になるとは思ってもいなかった。この静花の行き場のない怒りは、おそらく、帰宅後の護堂に襲い掛かってくることと思われる。

 それを晶もわかっているのだろう。意味ありげな視線を向けてくる。

「先輩。がんばってください」

「……」

 後輩の無責任さに呆れつつ、護堂は弁当を平らげたのだった。

 




新学期が始まったり、D.C.3始めたり、学祭があったり、D.C.3のデータが飛んだり、鍋の中の料理酒で酔ったりといろいろありましたが、なんとか投稿できました。というかお椀一杯の中に入っている料理酒で顔が真っ赤になるとかってどうなんだ?と自分の酒の弱さに呆れてしまいました。


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第三章 狼公来日編
十五話


 祐理とのアドレス交換が発生した。何れは来ることが分かっていたことなだけに、今さらの驚きはない。むしろ、自分の知識の外にある事態が頻発していながら、それでも原作通りのイベントが発生していることで、忙しさが五割り増しくらいになっているような感じもあり、来るべき戦いに向けて、暗鬱とした気持ちをいかに前向きにしていくかということが課題であった。

「ヴォバン侯爵、か」

 放課後、帰宅途上にある護堂は、ポツリと呟いた。

 戦いたくないランキングぶっちぎりのナンバーワンであるところのバルカン半島の魔王様である。こちらのアドバンテージと言えば、相手の権能と性格を知っているということだけ。しかも、権能に関しては明かされていない物が多く、それ以外の力を使ってきた場合、護堂自身で対応しないといけなくなる。原作においても天を割き、地を割るような権能ばかりといわれていただけに、東京で暴れられるとどれほどの被害になるか。東京タワーひとつで済むのだろうか。下手を打てば、神様以上に大きな災害を発生させかねない。

 ヴォバン侯爵の狙いは万里谷祐理の強力な巫力。

 四年前にヨーロッパ中の巫女を招聘して執り行った『まつろわぬ神』招来の儀式を再び行うためだ。かの儀式では数多くの巫女が再起不能にまで陥れられ、祐理も九死に一生を得る形で日本に戻ってきたと記憶している。以来、彼女にとってカンピオーネという存在そのものが恐怖の対象になってしまったのだ。無理もないことだと思う。

 祐理とは、まだあまり会話をしていない。

 クラスが違うし性別も違う。校内であったときに、時折言葉を交わす程度だ。わざわざ隣のクラスにまで行って学内一位の人気者相手に話しかけるわけにもいかないだろうし、話すこともないからだ。

 それを考えれば、この日の昼休みに祐理とアドレスを交換したことが周囲からどのように見られるか、あの時まったく考えていなかったことが痛い。教室に帰ったとき、男子衆から、問答無用の襲撃を受け、祐理との関係を逐一詮索された。ほぼ、肉体に頼り切った尋問に、護堂もそれなりに全力で応じ、結局は昼休みが終わるまで騒いでいたのだ。祐理は、護堂の居場所をクラスの人間に尋ねてから屋上に来たらしい。男子とかかわりを持たない祐理が、いきなり護堂の居場所を尋ねてくるというのだから、よからぬ詮索を受けるのもしかたのないことだろう。何があるというわけでもないのだが、痛くもない腹を探られるのはいい気持ちではない。

 祐理が原作同様お人よしの頑張りやだということくらいわかっているし、その人格面でも尊敬すべき人だと思うが、細かいところには気がつかないのか、自分に対する周囲の視線には鈍感なようだ。呪術が関わるととてつもない勘を発揮する祐理だが、どことなく浮世離れしているのは巫女だからだろうか。

 巫女が大好きと公言して憚らない友人が、特に必死の形相で迫ってきたなと、ふと昼休みの騒動を思い出した。

 護堂は商店街の通りに入り、最初の店の軒下にある自動販売機にコインを投入した。 

 缶ジュースを購入してポケットに押し込む。なんとなく、甘いものを口にしたい気分だった。左右に軒を連ねる商店街も、今改めてみるとシャッターが多くなったように思う。小さい頃は、この通りいっぱいに店が立ち並んでいたと記憶している。下町風情が漂う根津。それは同時に街の活気が徐々に失われていっているということだ。

 それでも、街の人たちは人情味に溢れて暖かい。 

 護堂と幼いころからの顔見知りのおばさんとすれ違った。祖父と昔何かあったらしい花屋のおばさんは、懐かしげに護堂を眺めた。なにを言われるのかは大体の想像がついた。案の定、祖父に似てきたということを言われた。そういうことを言われるたびに、不思議な思いに囚われる。祖父の昔の写真を見たこともあるが、護堂と似ているとは思わない。目鼻立ちははっきりとしていたし、柔和な表情は今と変わらない。護堂はもっと仏頂面でいることが多いはずだ。

 正義感を振りかざすタイプではないと思っているが、かといって身近な人が災厄に巻き込まれるとわかっていて放置することができるほどに外道でもない。これは、極一般的な観念であり、それを迷わず実行するところが草薙護堂の特徴の最たるところだろう。

 護堂は携帯電話を取り出した。最近流行のスマートフォン。日本での普及率は高性能な携帯が多いせいかまだ二十パーセントほどだが、シンガポールでは六十パーセントを越えるなど、世界的に広がりつつある。余計な機能があまりにも多いために、護堂自身、まだスマートフォンを使いこなせているわけではなかった。

「さて、ほんと、どうするかね」

 呟きながら、電話をかけた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 東京都内のとあるホテルの廊下を銀色の髪が跳ねた。

 妖精にも思える端整な顔立ちながら、可愛らしいというよりも凛々しい表情で突き進んでいく。

 見た目からして豪奢なホテルだ。かつては貴族の邸宅として建造され、敷地面積数万平方メートルの中には美しい自然が、それも日本風に管理された庭園として存在していた。池、花、木、どれもイタリアで生まれ育ったリリアナ・クラニチャールにとっては初めて見る光景だった。

 リリアナに訪れたい国はどこか、と尋ねれば、まっさきに日本を挙げるだろう。彼女は幼いころから日本という国の文化が好きだったからだ。サムライ、ハラキリ、スシ、ゲイシャ、ニンジャ、に代表される日本カルチャーのみならず、情緒溢れる伝統建築、工芸といったものまで知識として納めていた。

 だから、彼女自身日本の、それも高級ホテルが所有する真の日本庭園を間近で見ることができるという事に胸を高鳴らせていたりもしたのだが、それも最初のうちだけ。

 決して、それが、日本の文化にじかに触れたことによる失望ということではない。リリアナには、今、早急に行わなければならない課題があるのだ。これは旅行ではない。彼女が所属するのはイタリア・ミラノの魔術結社《青銅黒十字》。イタリア国内はおろか、世界にその名を知られる魔術結社の一つであり、彼女は名門クラニチャール家の跡取りだ。祖父は《青銅黒十字》の総裁である。そんな名家の跡取り娘であるリリアナには、祖父から重大な、それでいて衝撃的な命を受けて日本に降り立った。 

 廊下を歩くリリアナの前に、奇妙なものが立ちふさがった。

 黒いパンツにまぶしい白のワイシャツ。間違いなく、それはこのホテルで採用されている制服だ。リリアナも、彼女の連れと共に、このホテルを訪れたときにその衣服を見ていた。昨日の今日でそれが変わるわけもない。だが、それにしては奇妙といわざるを得ない。

 まず第一に、その服を着ているのは人ではなかった。

 真っ白な柱。高さは、一メートル八十といったところで、廊下の真ん中に堂々と立っていた。伝統と格式あるホテルが、このような物体を廊下に放置するだろうか。

 百歩譲って、これが芸術品だったとしても、このようなところになんの表示もせずにおいておくわけがない。通行の邪魔になるだけでなく、視覚的にも不気味なそれが、和洋どちらの様式に従おうとも放置しておくことのできない異物であるのは間違いない。

 リリアナは、その柱を見て顔を青くした。

 それがなんなのか、すぐに理解できたからだ。

 それは塩。

 塩の塊だ。

 すぐにリリアナは、走り出した。

 最初の塩柱を皮切りにして、リリアナの視界に衣服を纏った塩柱が次々と飛び込んでくる。

(少し目を離した隙にこんな……!)

 強く歯噛みをしながら駆け抜けた先は、このホテルでも最高級のスイートルームだった。

 リリアナは荒げた息を特殊な呼吸法で整えると、部屋の中へ入っていった。

 

 

 

 □ ■ □ ■ 

 

 

 

「候、これはいったいどういうことでしょうか?」

 部屋に入るなり、リリアナは尋ねた。もちろん、跪き、騎士の礼をとることも忘れない。少しでも彼に不快な思いをさせてしまったのなら、その時点でリリアナの命は尽きる事になるのだから。

「クラニチャールか。遅かったではないか」

 そこにいるのは一人の老人だった。

 だが、ただの耄碌し、余生を過ごすだけの老人とは趣を異にしている。

 身なりはしっかりとしていて、銀色の髪を綺麗に撫でつけ、髭も剃られている。落ち窪んだ眼窩に彼特有のエメラルド色の瞳が妖しく光る。

 三百年を生きる最強最古のカンピオーネ。

 欧州の魔術師が、三世紀に渡って畏れ、敬い続ける魔王の中の魔王。

 サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。

 かつて簒奪した位階と領地にちなんで、ヴォバン侯爵と呼ばれるバルカンの怪物だった。

「そうか、廊下のものたちを見たのかね。あまりに退屈だったものでな……なに、ただの暇つぶしだよ。わたしは、戦いが好きだクラニチャール。闘争の他にも、ゲーム、狩りくらいか、わたしの餓えを満たせるのは。だが、それの次くらいには横暴も好んでいる。時たま、こうして力を使ってみたくなることもあるのだ」

 許せ、と悪びれもせずにヴォバンは言った。

 許すも何も、カンピオーネの意向にリリアナが逆らう事ができるはずもない。

 ヴォバンが持つ権能の一つ。『ソドムの瞳』。ケルトの魔神バロールから簒奪したとされる生物を塩に変える魔眼だ。彼は、それをただの気まぐれでホテルの従業員たちに使ったのだ。許される行為ではない。リリアナたち欧州の騎士たちは、本来魔術を悪事に使用する事を防ぎ、市井の民を守る事を本懐とする。が、カンピオーネ相手にそれを非難することなどできるはずがない。

 リリアナは、黙然とした態度を崩さず、騎士の礼を続けた。

 それが、彼女にできる精一杯の抗議だった。

 そのリリアナの態度にヴォバンは怒るどころか、むしろ気をよくしたように笑った。

「ふ、そうでなければな。わたしは犬が嫌いでね、飼い主に尻尾を振るだけの畜生など視界に入れる価値もないと思っている。だからこそ、君のその態度はむしろ好ましい。君を供としたのは正解だった。君でなければ今頃は、ここの従業員と同じことになっていたかもしれん」

「……光栄です。候」

 軽妙に話すヴォバンとは正反対の固く、畏まった調子でリリアナは言った。

 いつ勘気を被るとも知れぬ人物に仕えるのは非常に神経を使う。リリアナは、かの日本の第六天魔王に仕えた家臣たちのことをふと、思い返していた。

 日本の戦国時代に彗星の如く現われ、消えていった最も有名な戦国大名も、恐ろしく優秀かつ短気、残酷だったという。その怒りに触れれば、譜代の臣であろうとも容赦なく斬られたと聞いている。いまのリリアナはまさにそんな魔王に近習しているのだ。

「それで、クラニチャール。例の少女は見つかったかね?」

 ヴォバンはグラスにワインを注ぎながら、リリアナに尋ねた。

「いえ、申し訳ありません。まだでございます」

 ヴォバンがわざわざこの地までやってきたのは例の少女―――――万里谷祐理を連れ去るためだ。

 ヴォバンは、祐理が持つ類まれな巫力を用いて、『まつろわぬ神』招来の大呪術を執り行おうとしているのだ。カンピオーネの相手をできるのは、同格の存在、つまりカンピオーネか『まつろわぬ神』だけである。生来闘争を好むヴォバンは、いつ出現するかわからない『まつろわぬ神』を自らの望む時と場所に呼び寄せて戦おうとしている。もちろん、彼はその時にどれだけの犠牲が出るのかまったく気にしていない。

 リリアナは四年前に祐理と出会っている。

 四年前にヴォバンが行った『まつろわぬ神』招来の大呪術に、幼いリリアナと祐理はともに参加していた。そのときのことが思い出される。向こうは自分のことを覚えていないかもしれない。言葉を交わしたわけでもないからだ。だが、リリアナは覚えている。誰もが尻込みするなかで、彼女が一番最初にヴォバンの下に行く事を承知したのだから。

 戦う術を持たず、故郷から遠く離れたあの土地で、騎士として叙勲されたばかりのリリアナを差し置いて真っ先に死地へと乗り込んでいった少女。

 高潔な精神の持ち主であるリリアナが、祐理になんの感情も抱かないわけがない。

 どうあがいても、万里谷祐理がこの老人に囚われてしまうのは変わらない。それでも、リリアナは祐理の居場所を報告しなかった。

 組織としても、リリアナ本人にとっても、この案件を早く終わらせる事こそが肝要であるにもかかわらず、リリアナは祐理のことをひたすら隠している。

「まあ、いい」

 ヴォバンは、グラスを傾けて中の液体をすべて飲み干した。

 エメラルド色の瞳が、獰猛な輝きを放つ。

「クラニチャール……面白い客人が来たようだぞ。我が騎士たちが総出で迎撃に出ている」

「は?それは……いったい」

 まったくの事で理解が追いつかないリリアナは、不覚にも引き締めていた表情を緩めてしまった。だが、そのことにヴォバンは気づく様子もない。彼はただ一点。入り口のドアだけをにらみつけている。

 気がおかしくなるような静寂が部屋を支配した。

 洞窟の奥深くに単身入り込んでしまったかのような孤独感と、目の前に広がった怪物の口を目の当たりにしているかのような恐怖が身体を冒している。これは、ヴォバンの戦意だ。

 次に彼女の耳に届いたのは剣戟の音。鉄と鉄が擦れあい、金属音を立てているのだ。これは、リリアナも聞きなれた甲冑を着て動き回る音だ。

 リリアナは、頬を汗が伝うのを感じた。

 ヴォバンの言う客人と、襲撃者が同一であるのは間違いない。

 問題は、それがどこの誰、ということだろう。

 三百年を生きるカンピオーネの力は他の追随を許さない。経験、能力どれも、現存するカンピオーネの中でも最強なのだ。さらに、彼の権能『死せる従僕の檻』は、ヴォバンが殺害した人間の魂をこの世に縛りつけ、彼の下僕ゾンビとしてしまう。今、外を走り回っているのもそのゾンビたちだ。その力を知るものが、どうしてヴォバンに逆らえようか。誰しも死にたくはないし、死んでからあのような姿にされたくはない。

 そんな、ヴォバンに唯一戦いを挑めそうな人物。

 日本において、そんな存在は一人しかいない。

 ノックもなく、ドアが開いた。

 顔だけならば、リリアナでも知っている。《青銅黒十字》が配下に命じて写真を入手させていたからだ。写真で見た顔が、そのままそこに立っていた。

 はたして、リリアナの予想は的を射た。

 ヴォバンが壮絶な笑みを浮かべる。

「君はいったい誰なのかね?」

 ヴォバンが親しげに声をかけた。その裏に、訪れるであろう闘争への期待が込められている。問いを投げかけられた侵入者は、臆することなく、答えた。

「草薙護堂。あなたの同類だ」



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十六話

 その日は全国的に雲ひとつない快晴で、朝のニュース番組では、どの局もお天気日和という見方を示していた。天気図や、雲の動きを上空から見ても、雨はおろか、太陽光を遮るような雲が東京に流れこむ可能性は皆無と言っていい。祐理のクラスでも体育はグラウンドで行われたし、彼女は昼食も屋上で摂った。あの時、見晴らしのよい屋上から青空に覆われた都内を見た。見渡す限りの青空は、天の高さを祐理に思わせた。

 変化は唐突だった。

「あら?」

 放課後、校外に出た祐理は不思議そうに空を見上げた。

 あれほど、透き通っていた空が、気がつけば重苦しく黒々とした雲に覆われていた。今にも墜ちてきそうな雲の天上は、波うち、うごめき、雷鳴を打ち鳴らし始めた。次第に風が強くなり、ポツポツと雨が降り始めてきた。

 一体どこから雲が流れこんできたのだろうか。

 雨の気配などまったくなかったために、傘の用意もしていない。見た感じでは、とてつもない土砂降りが、一分もしないうちに襲い掛かってくるだろう。

 祐理は、息を深く吐き出した。

 雨に濡れて帰ることになるのは、憂鬱以外の何物でもない。

 とりあえず、屋根のあるところで雨宿りでもしてみようか。

 どう見ても数時間は雨が続く。雨宿りは、安直な時間稼ぎでしかないとわかっているのだが、雨に打たれることの勇気が出てこない。

 初夏とはいえ、雨はまだ冷たい。風邪を引くことにならないといいが。

 しかたなく祐理は学校にもどった。生徒玄関に入ったところで、本格的に降り始めてしまった。校門近くに植えられているイチョウの木が、風に大きく揺さぶられ、撓った。

「万里谷先輩……」

 聞き覚えのある声に呼ばれて、祐理は振り返った。

「晶さん? どうしたん、ですか……?」

 祐理は、晶の様子が普段と違うことにすぐに気がついた。

 初めて会ったのは今から五年ほど前のこと。巫女の修行をしていたときのことだ。一つ年下の彼女は、祐理に遅れて修行を始め、その図抜けた才能を遺憾なく発揮して周囲を驚かせていた。その一方で、常に明るく、可愛らしい彼女は、才能を鼻にかけることなく、多くの人から好かれていた。まるで春のような少女だと思ったものだ。

「先輩……すみませんが、いっしょに来てください。委員会の仕事です」

 重々しい口調で、晶はそう言った。

 人の気持ちの機微には疎いと思っている祐理にしても、晶が何か大きな感情を押し隠しているように思えた。悲壮、不安、憤り、といった感情の綯い交ぜになったような複雑な心象が、水底から気泡が浮かび上がるように表情に浮かんでは消える。

「はあ、委員会の……それは、どのような」

「とにかく! 急ぎのようなので、叔父さんに車も用意してもらいました。今すぐ行きます!」

 有無を言わせぬ迫力で、祐理の手をとる晶は、そのまま雨の中まで引っ張っていく。

 事情がまったくわからないまま、祐理は晶に従って外に出ざるを得なかった。

 雨と風が顔を強く打ちつける中、目を細めた祐理の前に、一台の車が停車した。黒いミニバンのドアが開き、中から呼びかけられた。

「万里谷さん、晶さん、早く乗ってください」

 言われるがままに、車に乗り込む。シートベルトの確認もせずに、ドアが閉められ、進みだす。

 ハンドルを握るのは冬馬だった。

 車は、雨風を切って東進する。静まった車内には、エンジンの音と、窓を叩く雨、そしてワイパーの音だけが聞こえていた。祐理の隣に座る晶は、窓の外を憂鬱そうに眺めているだけで、言葉を発しない。嫌な緊張感が、漂っているのだ。

「甘粕さん? これはいったいどういうことですか? 委員会のお仕事と聞きましたが、それは?」

 たまらず、祐理は尋ねた。

 ろくな説明もないままに車に乗せられ、どこに行くのかもわからないままに景色が後方に飛んで行く。せめて、目的くらい話してくれてもいいものだろう。

 それに、この状況は明らかに異常事態の発生を告げている。

「申し訳ありませんね、万里谷さん。私としても、何から話せばよいものか」

 冬馬は言い出しにくそうにしながら苦笑いを浮かべ、そして重い口を開いた。

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

「私の同類? すると、君がこの国に誕生したという新しい王か。思っていたよりもずいぶんと若いな……いや、思えば私が王となったのも君と同じくらいの頃だったか」

 ヴォバンは乗り込んできた護堂に動じることなく泰然とした様子で立っていた。

 護堂が同じ王であるとわかった後も、その態度はまったく変わることはない。それも仕方のないことだろう。三世紀に渡って王を務めてきたヴォバンからすれば、王となって三ヶ月ほどの護堂など、同じ肩書きであったとしても、その地力には天と地ほどの差があるのだから。

 彼からすれば、護堂というカンピオーネに噛み付かれたことなど、野良犬に吼えられた程度でしかない。

 護堂もそれをわかっているから絶対に油断などしないように、すでに心身ともに戦闘態勢を整えている。『まつろわぬ神』ではないから、戦うための身体の変化は生じない。それでも、負けたら死ぬ、という厳然たる事実が、護堂の集中力を極限まで高めていた。

 護堂は、ヴォバンを見据えた。

 整えられた銀髪に、皺一つない衣服。真っ直ぐな背。知的な表情。なるほど、これだけを見れば大学で教鞭をとっているといわれても不思議ではない。彼には、そんな風格がある。ヴォバンの傍らには、護堂が突入してから一言も話していない少女が控えている。

 リリアナ・クラニチャールだ。原作キャラクターとの邂逅に思うところがないわけではない護堂だが、生憎と目の前の敵から目を離すわけにもいかない。今度話す機会があったら話でもしてみようという程度で割り切った。

「それで、君は何をしに来たのかな? ずいぶんと乱暴な訪問だったが」

「あなたの目的を阻止しに来たんです。娯楽に餓えて女の子を拉致しようなんて、見過ごせる話じゃないですから」

 護堂の台詞に、ヴォバンが顔が真剣みを帯び、隣のリリアナが目を見開いた。

「ほう……驚いたな、なぜ私の目的を知っていたのかね。このことは外部に漏らさないようにしていたはずなのだが」

 やはりそうか、と護堂は心中で頷いた。

 かつての失策から、ヴォバンは秘密裏に事を進めてきたのだろう。万が一にも、サルバトーレのような不埒者が現れて儀式を台無しにしてしまわないようにだ。

 それをあっさりと指摘した事で、ヴォバンの警戒心を高める事になったのだ。これで、彼の興味の対象が祐理から護堂に移ってくれれば御の字だが。

「クラニチャール」

 ヴォバンが短く、はっきりと名を呼んだ。

「はっ」

「君は今すぐに巫女を探しに行け。私はここでこの少年の相手をすることにした」

「承知しました、候」

 リリアナは一瞬護堂に視線を向けると、二人の王に背を向けて窓から外に飛び出していった。

 部屋の中には護堂とヴォバンの二人だけが残る事になった。

「さて、君は他の王に知り合いはいるかな?」

「いや、直接会うのはあなたが初めてになる」

「そうか、ならば私が直接教えておく事になるか。覚えておくといい、我々には生涯の敵と見定めて戦い抜くか、不可侵の同盟を結ぶ以外にないということをな。君は、それでもこのヴォバンを相手に戦うというのかね? そうなれば、君はこのヴォバンの生涯の敵として人生をおくることになる。いや、明日の朝日を拝む事もできないかもしれない。それでも、私に挑むかね?」

 ヴォバンのエメラルド色の瞳が光を強くする。リリアナの開け放った窓からより強くなった風が吹き込んできた。ヴォバンの気持ちが昂ぶっているのだ。

 負けじと、護堂は宣言した。

「当然だ。俺はあんたと戦うためにここに来た。耄碌したジジイに、若い力ってヤツを見せてやるよ」

「フハハハハ! よく言った小僧! 貴様の若い力とやらを見せてもらおうじゃないか!」

 ヴォバンの雰囲気が変わった。

 それまでの好々爺然とした対応から、偉大で凶悪な肉食獣のように牙をむく。

「だが、ただ戦うだけではつまらん。貴様にハンデをくれてやろう」

「ハンデ?」

「そのとおり、このままでは私が勝つことは明らかだ。それでは面白みがない。これはゲームだ。ゲームには敗北のスリルがなくてはならない。そうだろう?」

 口角を上げたヴォバンの口に、鋭い牙が見える。

 命がけの戦いを、ゲームと称する精神性。圧倒的な強者の自信がそこにはあった。

「どんだけ自信家なんだよ、あんたは……」

 護堂がそう呟くのも仕方ないことだろう。とはいえ、ヴォバンとの間には、確かな実力の断絶というものがある。所持している権能の数、生き、戦いぬいた年数、どれをとってもヴォバンのほうが護堂を圧倒している。対カンピオーネ戦においても、護堂がこれが初戦なのに対して、彼は『知恵の王』なるカンピオーネとの激しい戦いを繰り広げたという話があるとおり、その道のプロだ。

「まあ、いいさ。あんたの好きなようにすれば。勝つのは俺だしな」

「くく、その減らず口もすぐに叩けなくなる。ルールは簡単だ。夜明けまでに私は貴様を殺す。夜明けまで生き残れば貴様の勝ちだ」

「俺が勝てばあんたはこの国を出ていくんだろうな?」

 護堂の確認に、ヴォバンは頷いた。

「ああ、無論だ。もっとも、そのような事は起こりえないだろうがね。私はただ殺し、巫女を手に入れるだけのことだ……さあ、始めるとしようか」

 ヴォバンが右手を掲げる。ステージで舞う俳優のように優美なしぐさ。その中に、明確な殺意を宿して。

 ヴォバンの手に引き寄せられるように、風が生まれた。部屋の中をぐるぐると渦を巻いた風が、花瓶を叩き割り、机をひっくり返し、壁に飾られた絵を剥ぎ取った。不可視の風ながら、護堂はそれを知覚する事ができていた。呪力によって束ねられた風は、自然界の風と違って意識を集中すれば感覚的に捉える事ができるのだ。だから、護堂はその力の強大さに戦慄する。

 ヴォバンの掌中に集まる風の力は小型の台風にも匹敵するのではないか。

 凝縮された空気の塊が、屈折率を狂わせて視認できるまでになる。野球ボール大の球体にまで押さえ込まれたそれは、風の爆弾と言ってもいいだろう。

「まずは小手調べからだ。簡単には死んでくれるなよ」

 ヴォバンが指揮をするように手を下ろす。

 それを合図に、小規模な台風のような風の奔流が、護堂に向かって放たれた。

 



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十七話

 抜けるような快晴が一転して、天空は今や圧迫感すらも覚える黒い雲に覆われ、激しい雷雨を伴う大風が東京を襲っていた。

「しっかし、また嵐か……」

 現存最古のカンピオーネのヴォバンは、感情が昂ぶると嵐を呼び込む性質らしい。元来が戦好きで、それ以外にまったく興味を示さない人物だけに、退屈を持て余しては戦いを求めて各地をさまよう危険人物である。 日本に現れたのも、『まつろわぬ神』を招来する儀式を行うために、万里谷祐理を連れ帰ることを目的としていた。護堂の持つ原作知識という特典のおかげで、先手を打つことはできた。嵐が呼び込まれたところを見ると、ヴォバンはずいぶんと喜んでくれているようだ。 

 

 おおおおおおおおおんんん--------------…………

 

 遠く木霊する音が耳朶を打ち、空気を震わせている。

 風の音だ。

 猛獣の唸り声に聞き間違うほどに低い音が、様々な角度から反響してくる。

 ヴォバンの昂ぶる心情を代弁するかのように、木々を揺らし、ビルの間を駆け巡り、重低音のオーケストラを創り上げる。

 どうにも、カンピオーネになってから嵐の夜にしか戦っていないような気がしてならない。波乱万丈を地で行く人生ではあるが、こんな演出はしてくれなくていいのに、と信じてもいない神様に悪態をつく。

 勢いよく敵の滞在するホテルに飛び込んだはいいが、敵の力は未知数。喧嘩だけ売って、護堂は一端外に逃れていた。リリアナが出て行った窓が都合よく開いていたので、そこから飛び出したのだ。今は、そのホテルの屋上まで雷化して移動し、ヴォバンが現れるのを待っているところだ。

 護道の知識にあるヴォバンの権能は五つ。

 まずは無数の狼を召喚し、自身もまた三十メートル級の巨狼へと変身するヴォバンの第一の権能にして最も信頼を寄せるアポロンの力。これは太陽の力を無力化するという特性も併せ持つが、護堂には太陽神の力がないのでここは原作ほど気にかける必要はない。

 次にオシリスの権能。これ自体の脅威はさほどでもない。攻撃能力はそう高くはなく、殺されたあとでゾンビにさせられるという最悪のエンドを迎えるということが問題だが、召喚されるゾンビはカンピオーネと互角に戦える人材はいないはずだ。元になった人間の力をそのまま使う上に、死して思考力が衰えているのだから当然だろう。

 三つ目に『ソドムの瞳』とも称されるバロールから奪ったと噂される生物を塩に変える邪眼の権能だ。

 噂が真実だとすればバロールは見た者を殺害する強力な邪視の力を持つ神で、ケルト神話の神格だ。よってユダヤ教のソドムとは無縁の神なのだが、権能が『塩化』であることからこの名がついたのだろう。『バロールの目』とでも言ってくれればわかりやすいものを。

 この邪視についても、カンピオーネの抵抗力で耐えられる代物だと思う。よほど消耗していなければ何とかなるはずだ。

 朝鮮系の神から奪った『疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)』が今発動している嵐の権能だ。風に雷にと操れる範囲が広いだけに、護堂の持つ雷神の権能よりも攻撃性能は高い。要注意だ。

 最後に正体不明の不死性の力。

 灰から蘇るところをみるとフェニックスか何かだろう。

 圧倒的に相手は経験が上。よって、護堂に対してもかなり油断している。新参者の護堂が勝つにはそこに付け入るしかない。

「出て来い。一発でかいのを見舞ってやる」

 開戦ののろしを雷撃で上げる。

 ヴォバン個人の防御力は高くはない。不意をつく一撃をもってまずはダメージを与える。

 しかし、風雨にされされながら眼下の玄関口を眺めてみてもヴォバンが歩み出てくる様子はない。護堂が跳びだした窓から現れることもない。

 まだ建物の中にいるのだろうか。

「!」

 護堂の第六感が、この世にありえない危険を知らせてきた。

 理性が働くよりも前に、護堂は生存本能に従って言霊を飛ばした。

『弾け』

 それは背後から襲い掛かってきた。

 身の丈はあろうかという狼の牙が、護堂のすぐ目の前で静止した。

 つい先日、『強制言語』と邦訳された護堂の力によって、狼は突進を阻まれ、見えない壁に激突、潰れて無残な姿を晒した。

「貴様はどうやら魔女の探知能力をすり抜ける力を有しているようだな。我が自慢の配下に調べさせても、一向に足取りがつかめなかったぞ」

 悠々と、屋上のドアから現れたヴォバンが得意げに言った。

 魔女に策敵する類の力があることは知っていた。幸い、護堂の『強制言語』には第六感に干渉する力があり、それによって魔術的な策敵から逃れることができたのだ。それを使い、ヴォバンの不意をつこうと思っていたのだが、狼を使って探す方向にシフトしたらしい。

「階段をわざわざ上がって来るなんてな。歳考えようぜ、爺さん」

「減らず口を言う。若さに任せた行動は重要なことだが、時に命取りになるということを学ぶべきだな」

 ギラリ、と邪眼が怪しく光る。

 護堂は体内の呪力を活性化させて、塩化の呪いを弾いた。外部からの魔術的干渉は、カンピオーネには効果がない。

「貴様の行動にはいくつか不審な点がある」

 ヴォバンは歩みを止めて、護堂に語りかけた。

 その周囲から、威圧するように狼の群れが湧き出してくる。身の丈が成人男性よりも大きい怪物だ。それが十頭も集まれば、屋上はそれだけで手狭になる。

「私の目的をどのようにして知ることができたのか。この問いに対する答えをまだ受け取っていないぞ」

 そういわれても、原作知識としかいいようがない。そして、そのようなことを答えられるはずもない。

「ふむ。答えぬか。まあ、いいだろう。カンピオーネの魂を縛ったときにその権能まで残るかわからないが、記憶は残せるだろう。貴様をくびり殺したあとでゆっくりと調べればすむ話だ」

「悪趣味が過ぎるぞ、爺さん。俺はあんたに隷属するつもりは一切ないからな。痛い目を見るのはそっちのほうだ」

「ハハハ! 威勢がいいな! よかろう……まずはその口を開けぬようにしてやろう! 行け、我が狼たちよ!」

 主の合図を受けて、一斉に狼たちが護堂に挑みかかってくる。

 僅かしかない距離だ。一瞬にして牙の射程に入ってしまう。

 護堂はここで神速に入った。雷化はしない。六十パーセントほどに出力を押さえることで、普段よりもより身軽に、高速で移動できる上に、速すぎてコントロールを誤る危険性も減る。これまでの戦いと知識を織り合わせて体得した神速の使い方だ。

 襲い掛かる狼の巨体が、スローモーションに見える。

 神速は速度を上げるというよりも、時間制御に近い能力だ。加速に入れば世界がその分だけ遅くなる。ただでさえ動体視力などがカンピオーネになって高まっている中での神速だ。大抵の攻撃は避けることができる。 最初に挑みかかってきた狼の横をすり抜け、振り下ろされた爪を避け、間を縫うようにして一気に反対側まで走り抜けた。

「狼の戦闘能力は大したことはないな。大騎士でも倒せるレベルか」

 所詮この狼たちは十字軍を相手にするために生まれた大軍殲滅形態だ。その真価は巨体へと変貌した際の圧倒的な破壊力にある。

 狼たちをやり過ごした護堂は、曲線を描くように走り続け、ヴォバンに迫る。

「ぬ……」

 ポケットから取り出したのは晶から貰った護身用の小刀だ。切れ味を高める程度の簡単な術がかけているが、それ以外は何の変哲もない刃渡り五センチほどの小さな懐剣。高速移動中とはいえ、速度を制限しているからこそ、ヒット・アンド・アウェイができる。ヴォバンは典型的な後衛型のカンピオーネ。強力な砲撃と、物量で相手を圧倒するタイプだ。近接戦を挑めば速度に勝るこちらに分がある。

「はあ!」

 横をすり抜けるようにして振るった刃の一閃は、惜しくもヴォバンの袖を掠めるに終わった。今の護堂の速度であれば目で追えるということと、カンピオーネの中でも突出した獣の勘を持っているということが、ヴォバンに回避を許した原因だ。

「神速を上手くコントロールしているわけか。なるほどな。器用なものだ!」

「余裕ぶっこいていると、痛い目を見るって言っただろ! 観察している時間なんかやらないぞ!」

 初撃で終わると思っていたほど、護堂は甘くない。速度の緩急をつけて最小限のターンをするとすぐにヴォバンへ向けて疾駆する。

 馬かと見まごうほどの巨躯を持つ灰色狼たちは、狭い屋上では数を召喚することはできず、また、その巨体ゆえに小回りが利かない。近接戦を仕掛けているうちは、狼による攻撃は緩まらざるを得ないはずだ。

「甘いのは貴様だぞ、小僧!」

 対するヴォバンとて歴戦のカンピオーネ。戦闘経験では護堂の百倍を優に越え、潜り抜けてきた修羅場は語りつくせないほどにある。この程度は若輩物の浅知恵としか思えないのだろうか。

 ヴォバンの影からぬらり、と真っ白な顔の青年が現れ出でる。

 騎士甲冑に身を包み、両刃のロングソードをだらりと下げている。唯一割れた兜からその顔が判別できた。

 死相を浮かべた青年は、その表情をまったく変えることなく、的確な突きを護堂に向かって放ってきた。

「うおッ!」

 敵の狙いは眉間。護堂の進路上に鋭く光る銀の煌きが滑り込む。

「八十パーセント!!」

 視界がさらにゆっくりと流れる。体感時間が延長され、相対的に移動速度が加速する。小刀をロングソードの刃に沿わせて上方にずらし、その下を潜り抜けるようにして避けた。

 危険はそれで去ったわけではない。

 護堂を囲むようにして現れたのは屈強な六人の騎士たち。

 服装も人種も国籍もバラバラで、ただ唯一ヴォバンに殺害されたという事実だけが共通する死人たちが計七人。

「くく、何れも我が配下の者たちの中でも特に優れた腕の持ち主だ。その小賢しい足であろうとも打ち破れよう」

 得意げに嘲笑するヴォバンは、さしずめ剣闘士の試合を観劇するローマ市民か。

「手下に戦わせて自分は高みの見物かよ!」

 人間であろうとも、超一流の剣士は神の速度を見切ることができるらしい。護堂の知っている名前ではパオロ・ブランデッリが挙げられる。六体の神獣を相手にたった一人で戦い終ぞこれに破れることのなかったイタリア随一の魔法剣士。彼に比する剣豪が、七人。

 護堂がただの人間であれば、この時点でもう自らの人生の終幕を見ることだろう。

 が、護堂はカンピオーネなのだ。

 いくら相手が人間界最高クラスの剣士であろうとも、それが人間レベルという時点で敵にはならない。厄介なのは物量に持ってこられるときだけなのだが、屋上ではそれもできない。数の不利はこのフィールドで戦う上ではある程度ひっくり返せる。

 まだまだ、負ける気はしない。

 実際に刃を向けられて高まる緊張感が、護堂の戦意を向上させているのだった。




明けましておめでとうございます。この一ヶ月、さすがに師走と忙しくしていまして、なかなかほぼ更新できず、申し訳ありませんでした。
まだ、課題が終わらない(泣)


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十八話

 リリアナ・クラニチャールにとって、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバンは最古にして最強のカンピオーネであり、同時に最も恐ろしい魔物である。

 カンピオーネは人類では決して勝てないとされる『まつろわぬ神』を討ち果たし、その権能を簒奪することによって強大無比な力を手に入れた人間のことだ。性格は往々にして尊大。荒事を好み、世界をかき乱すことにおいて右に出る者はいない。それは、魔術世界のおける半ば常識となっているし、特にカンピオーネの密集する欧州の魔術師たちにとって、彼らを王と仰ぎ、膝を屈して臣下の礼をとるのは、彼らの威光によって自分たちが成り上がるということよりもむしろ、カンピオーネの逆鱗に触れることを何よりも畏れるからである。

 それはもはや神と同じ次元での扱いと言えるだろう。

 忠誠を誓い、その怒りに触れないようにつつましく生きている限りは概ね安全。しかし、その攻撃に晒されてしまえば、神話の退廃都市のごとき運命が待っていることはわかりきっている。それゆえに、リリアナたち純粋な魔術師というものは、生まれたその瞬間から神とカンピオーネの恐ろしさをその骨の髄まで教え込まれている、今回の万里谷祐理の捜索と身柄の確保という騎士道精神からひどく逸脱した行いですらも、一度命じられてしまえば従わざるを得ないのだ。

 リリアナは嵐に沈んだ東京の夜を走る。高層ビルが立ち並ぶその都市は、都市計画を疑わずにはいられないほどに煩雑で雑多なコンクリート・ジャングルで、お国柄というものを一切感じることができない。日本の文化を愛好する親日家として、日本の首都の中に、日本らしさを感じることができないということを寂しく思いながら、日本人は他文化との共存を苦手としていることに思い至り、これも一つのお国柄かと、やや落胆した気持ちになった。

 リリアナは大きく地面を蹴った。それはちょうど体操の選手がマットの上で勢いをつけてジャンプする様子に似ていた。リリアナのイタリア人にしては小柄な身体は、百メートルはあろうかというビルの頂という、常識で考えられないほどの高さまで一気に飛び上がった。

 リリアナはしばしば妖精に例えられる可憐な容姿の持ち主であるが、その動きは清楚で無邪気な妖精というよりも、鋭い動きで獲物を狙う猛禽類のハントに近かった。

 女性魔術師の中でも極少数の人間にしか備わらない『魔女』の才能をリリアナは持っている。

 欧州の魔女たちは魔術を研鑽すると同時進行で、この魔女の才能を高める修練をする。

 空を飛ぶのも、この魔女たちの専売特許なのである。

 リリアナはこれを『飛翔術』と呼ぶ。

 人間の使う術の中では最高速度を出すことのできる反面、事前に目的地を定めておく必要があり、直線移動しかできないという制約がある。長距離を移動するときは、常に迎撃される可能性を考慮しておかなければならないし、それがあるために、こうして近くのビルとビルを飛び回るという移動方法をとっているのだ。

「またか、ちまちまと鬱陶しい!」

 ぼやくリリアナは、自身の愛刀を振るう。空中で三回金属音がなり、そのたびに火花が散っては風に吹き散らされていった。

 手裏剣による奇襲攻撃に晒されたのは四度目になる。何者かが、自分に攻撃を仕掛けているのは明白であり、それはこの国の魔術組織『正史編纂委員会』の一員が関わっていることは自明の理である。ヴォバンやリリアナの滞在先が草薙護堂に筒抜けになっていたことも彼らがリークしたと考えられる。

 万里谷祐理をリリアナには渡さないという委員会の姿勢は十分に理解した。ヴォバンという魔物を相手にそう啖呵を切った心意気はさすがだと思う。だが、しかし、過去に同じ選択をして消滅した組織が両の手の指で数えられないほどである。だから、欧州魔女のリリアナは、その選択を好ましいと思っても、実行はできない。実行できない以上は、戦うしかない。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 祐理を乗せて走っていた冬馬の車は、このとき都道首都高速3号線谷町ジャンクションの近くで停車していた。護堂がヴォバンに挑みかかるよりも前に、交通規制を敷くことができたので、車は一台も走っていない。

 本来であれば、停車している余裕などないのだが、リリアナが追いかけてきていることがわかったために、その迎撃のために、車外へ出ていたのだ。『飛翔術』の速度は自動車よりも速い。敵の足を止めなければ、何れ追いつかれてしまう。

「いやー、さすがに《青銅黒十字》の若きエース、リリアナ・クラニチャールですねえ。私如きの式では太刀打ちできませんか」

「叔父さんは隠密が主だからね。元々戦闘には向いてないし。後はわたしがやるよ」

「やれやれ、どうやらナイトは私には荷が重かったようですねえ。一度はやって見たいと思うものですが、やはり、慣れないことはするべきではないですね」

 若干疲れた様子の冬馬の隣で、晶は巨大なライフルを肩に担いでいた。土蜘蛛を相手にしたときに破損した大口径対物ライフルを修理したものだ。金属の塊であり、刀剣のような美術的外観は当然ながらない。ただただ、遠くの敵を始末するためにのみ存在している兵器であるから、緻密に計算されつくされたフォルムは、数学的には美しいのかもしれないが、常人からすれば、餓えたライオンの牙の如く、恐怖を死を連想させるだけの代物である。

「それ、通用しますかね?」

 冬馬はライフルを指差して尋ねた。

「わからないよ。牽制にしかならないかもしれないけど、牽制できるだけでも十分。だって、無理に勝つ必要はないんだし」

 対人戦で使用することは国際法的にも問題のある兵器だが、それが通用しない可能性もあるということが、リリアナ・クラニチャールへの二人の評価だった。

「あの、晶さん……」

「万里谷先輩は叔父さんと一緒にここを離れてください。叔父さん、こう見えて逃げることに関しては一流なんですよ」

「で、ですが」

「とにかく! あなたは今すぐにでも移動を再開すべきです! 侯爵の狼や騎士たちが追いかけてきたらとても逃げられないんです! それがまだ来ていないということは草薙先輩が侯爵と互角に戦っているということなんですよ! せっかく先輩が作ってくれた時間を無駄にしないでください!」

 晶は祐理の反論を封殺するように叫んだ。祐理は絶句して息を詰まらせた。

「な、なぜですか……なぜ、あの人はそんな危険を冒したのですか……?」

 祐理にとって、ヴォバン侯爵は恐怖の象徴である。四年前に地獄を見たその日から、表面上の平静を保ちつつも、常に心のどこかが魔王への恐怖に震えていた。エメラルド色の瞳も、知的そうな身のこなしも、撫でつけられた銀髪も、どれも鮮明に思い出すことができてしまう。よい印象など何一つない。あの時の祐理は餓えた狼の前に投げ出された子羊でしかなく、今の祐理もまた、狼に狙われるだけの獲物に過ぎなかった。

 その祐理を助け出そうと、奮闘する少年がいる。何度聞いても、それを信じることができないでいた。

「そんなこと、わたしが知る訳ないじゃないですか」

 晶は、震える祐理を突き放つように言い放った。

 冬馬は再び運転席に戻り、ハンドルに手をかけている。しかし、晶が戻る気配はなかった。

「それが知りたければ、明日にでも本人に聞いてください」

「晶さん」

「わたしなら大丈夫です。先輩から預かっているものもありますし、まず負けませんよ。今は自分の心配をしてください。それで、余裕があったら、先輩の心配をしてあげてください」

 雨は一層激しくなる。晶は祐理に笑ってみせたが、降り注ぐ雨粒が笑顔にノイズを走らせていた。晶は、運転席に目をやって、

「叔父さん、行って!」

「わかりました。どうかご無事で、晶さん!」

 冬馬はアクセルペダルを踏み込み、晶を残して車体は動き出す。

「あ……!」

 と、祐理は何かを言いかけたが、轟音とも思える雨音にかき消され、それ以上は晶の耳には届かなかった。

 晶の見つめる前で、黒いミニバンはどんどんと小さくなっていく。紅い尾灯の光が見えなくなったところで、晶は呟いた。

「なんでって、そんなの。あなたを守るために決まっているじゃないですか……」 

  

 

 

 

 □

 

 

 

 

 護堂とヴォバンの戦闘が始まってからそれなりの時間が経過した。戦いの期限は夜明けまでだとヴォバンは指定していたが、はたして東京の夜明けは何時ごろになるのであろうか。四時か、五時か、六時か。いずれにせよ、まだ、あと三時間以上の時間が必要になる。そして、厄介なことに、人一人縊り殺すのに三時間も必要ない。

 護堂が騎士の包囲網を雷化して潜り抜けたとき、ヴォバンは興味深そうに目を細めた。

「アレクサンドルと同じ雷化の権能。それが貴様の神速の正体だったわけだな。どこぞの雷神より簒奪したわけか」

 ヴォバンは口角を吊り上げて笑う。

「だが、その類の権能は魔術破りに弱い。人間の魔女でも簡単に破れてしまうほどにな。私を前にして多用しなかったのはなかなか聡明な判断だったぞ」

 そう。雷に変化したとき、護堂は物理的な攻撃を受け流しかつ神速に突入するという極めて凶悪な状態になることができるという反面で、神速状態を外部からの干渉で容易く解除されてしまうという弱点も抱えることになる。しかし、雷にならずに神速を多用すれば、心身への負担が大きくなり戦闘どころではなくなる。速度を調整していたのは手の内を見せないようにするためというよりは、デメリットを晒さないようにするためでもある。

 ヴォバンは配下に魔女を多数抱えている。もしも護堂が天高く飛び立てば、ヴォバンの命を受けた魔女たちが、一斉に雷化を解除しようとしてくる。そうなれば、護堂はギリシャのイカロスと同じ運命を辿ることになるだろう。

 しかし、雷化への対策をされたところで、護堂は痛くもなんともない。神速は二種類あって、もう一方を使えば容易に逃げられるからだ。

 護堂は、騎士達の攻撃を危なげなく躱したが、それによってヴォバンとの距離が開けてしまい、舌打ちした。近接戦を挑もうという作戦が通用しなかったことへの苛立ちからだったが、

「カンピオーネの戦いに作戦もクソもないか。結局最後は力押しになるんだしな」

 と、気持ちを切り替える。

「よっと……!」

 斬りかかってくる騎士の攻撃を再び神速で避ける。心眼を心得ているので、カクカクとした動きで追いすがってくるが、わかっていればやりようがあるというもの。結局のところ速さではこちらが上である。相手の動きを見極められる最小限の出力から入り、動くところで加速すれば、敵の武器は護堂の動きに対応できない。すれ違いざまに背中に触れて電流を流し込む。殺傷能力で言えば非常に低いものの、基本スペックが人間素体であるので十分効果があった。

 最後の一人を倒したとき、護堂の身体に強烈な衝撃が襲い掛かった。

「うがッ!?」

 全身を同時に叩かれるというのは実際のところ初めてのことだった。

 どんな攻撃が来たのかまったくわからなかったが、眼に見えない壁のようなものが勢いよくぶつかってきたということが感覚的につかめた。

 ヴォバンの権能の中で、それを可能とするのは、間違いなく、『疾風怒濤』である。

 護堂はコンクリートにたたきつけられる前に神速を発動する。神速は時間制御の権能だ。移動時間を操るということは、速く動くだけでなく、その移動時間を遅くするということも可能なので、落下速度を遅くし、体勢を整えて着地した。

「風か。見えないのは辛いな。ちくしょうめ」

 おまけに、ヴォバンの配下は不死の軍勢だ。いざとなれば、彼らを巻き込んだところで痛くもかゆくもない。思っていた以上に、『死せる従僕の檻』は厄介な権能だったようだ。これは認識を改めなければならない。それ自体の攻撃力だけでなく、それを他の権能と組み合わせたときの厄介さを考えなければならない。それがカンピオーネ戦だ。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり!」

 ガブリエルの聖句を唱えて呪力を高める。次に襲い掛かってきた鉄板の如き風の壁には、吹き飛ばされずに耐えることができた。さすがカンピオーネの身体だと、護堂は自分の身体を誉めてやりたくなった。

「ほう。まだなって時間がたたないと聞いていたが、呪力を受け流す術をもう覚えているのか。面白い!」

「あんたに面白がられても嬉しくないんだよ!」

 護堂は右手を突き出した。

『弾け!』

 言霊の力がヴォバンの身体を弾き飛ばす。

「ぬ! ふふ! 甘いぞ、小僧!!」

 が、ヴォバンは倒れなかった。それどころか、護堂がたたきつけた呪力の割には効果が薄い。護堂がヴォバンの風をやり過ごしたように、ヴォバンも護堂の言霊を呪力で弾いたのだ。

「言霊による強制干渉か。種類としては呪いに近いな。珍しい力だ! が、汎用性が広いだけ、攻撃能力は高くないようだな!」

「そこまでわかんのか。知的ぶってるって言うけど、実際相当な知識量だよな」

 三百年の歴史は伊達ではないということか。護堂は改めてこの老人の手強さを思い知った。

 しかしこの戦には負けるわけにはいかない。

 護堂は闘志を漲らせ、脳裏に浮かぶ聖句を唱えた。

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ!」

 



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十九話

 リリアナには魔女ゆえに極めて鋭い直感力が備わっていた。これは万里谷祐理などの媛巫女も有する力で、その多くはアストラル界(日本では幽界と呼ばれる)にアクセスして様々な情報を入手する魔女術の一種であり、霊視と呼ばれる力だ。これは魔女や巫女と呼ばれる一部の呪術者に先天的に現れる力であり、純粋に生まれ持っての才能によってその力の強度は変わってくるし、大多数の魔女たちは、自分の意図によってこの力をコントロールするということはできない。成功率も低く、大人数が一箇所に集まって精神を集中してやっと霊視を成功させるという程度。確率的に言えば成功率十パーセントがいいところで、リリアナもそれよりは高い数値を出せるものの、お世辞にもよいとは言えない。世界最高峰の霊視能力者である祐理ですら六十パーセントほどというのだから、この術の難易度の高さが伺える。

 しかし、魔女の直観力というものは、侮りがたいのもまた事実。アストラル界との交信はできなくても、感応的な魔術においてその力を大いに発揮することができることに加え、根拠もない勘によって危機を脱する事も不可能ではない。

 その賜物であろうか。

 ビルとビルを飛び移りながら、祐理を追うリリアナは、あるビルの屋上に立ったときに不意に襲ってくる危機を察し、その場に伏せた。ほぼ同時に、背後にあった貯水槽が爆発した。攻撃には呪術的な要素はまるでなく、よってリリアナにはこれを事前に察することは困難を極めたはずであるが、結果として、その不可視の攻撃はリリアナを捉えることができず、ビルの貯水槽を破裂させるに留まったのであった。

 その攻撃の威力にリリアナの背筋は震えた。

 金属でできた貯水槽はちょっとやそっとの衝撃では穴が開くこともない。分厚い金属の筒であるそれを簡単に貫いた攻撃は、大口径の銃弾である。貯水槽に開いた大穴を見れば、すぐにわかる。これまでの術を使った妨害とは違い、銃器による射殺も考慮に入れ、本気でこちらと相対しようとしているのだ。

 一撃だけでも、直撃したら死ぬ。

 貯水槽に与えたダメージから推し量るに、あれは狙撃銃の範疇に留まる代物ではないはずだ。恐らくは対物ライフルに属する、人体ではなく戦車などの装甲車を相手に使用する類の銃器のはず。その射程距離は二千メートルを越え、剣を主体として戦うリリアナは劣勢に立たざるを得ない。銃器の発達によって刀剣の時代は幕を下ろした。相手の攻撃の届かないところから一方的に攻撃する手段を人類が確立したからである。呪術の業界では未だに刀剣が主流であるが、それは呪術が現代兵器よりも優れているという証拠にはならない。その一方で、銃器が呪術を圧倒するということでもない。ようは使い方次第ということである。

 リリアナは全身の隅から隅まで徹底的に防護の術で固め、飛び起きて駆け出した。

「ッ……!」

 二十歩ほど進んだところで、首のすぐ後ろを弾丸が擦過していくのが感じられた。熱を持ってひりつく首筋に顔をゆがませながら、今度は聴覚を強化する。

 風の中に、確かに発砲音を捉えることができた。

 方角は北東。また、銃弾の角度から自分がいる場所よりも僅かに低いところから狙撃していることが分かった。

 高所にいないということは、ビル群を縫うように移動すれば狙撃の危険性が一気に減るということだ。上から狙われたのであれば、堪ったものではないのだが、角度のついた低所からの攻撃であれば隠れるところなどいくらでもある。

 ただ、これは魔術戦だ。重武装である対物ライフルであっても、それを抱えて軽々と跳躍して移動することも難しくはない。

 ということは、結局姿を隠しながら移動したところで、自分が敵に狙撃される危険性は排除しきれないということであり、このままいたちごっこを続けていても目標の万里谷祐理には逃げられたままになってしまうということである。

 では、戦闘を避けて祐理を追うべきなのか。

 それは無理な相談である。

 敵はこちらの目標が祐理であることをすでに知ってしまっている。リリアナはどうあっても祐理の下に行かなければならないのだから、そこに網を張って待ち伏せることも可能なのだ。

 戦闘は避けることができない。

 それであれば、正面から堂々と進み、稚拙な罠も含めて切り倒す。しかる後、ヴォバン侯爵からのオーダーに応えるのがスマートな解法であろう。

「ああ、そうだ。騎士たる者。敵に背中をさらすような戦いはできんしな!」

 リリアナはビルを飛び降りた。

 落下する途中で飛翔術をかけて、空中を横滑りするように移動する。ジェット機にも比する速度で、東京のビル群を縫って飛び、着地と同時に走る。数歩走って、再び飛翔術。銃弾がリリアナの頬を掠めるが、防護の術がこれを封殺した。

 狙撃というのはとても高い技量を求められる。音速に倍する速度で弾丸を射出したとしても、千メートル先の標的を捉えるのに二秒以上はかかる。それは、弾丸の小さな攻撃範囲から逃れるには十分な時間的余裕といえよう。だから、狙撃の第一条件としては敵に悟られないことなのである。リリアナを一撃でしとめられなかった時点で、狙撃の成功率は著しく低下した。リリアナが普通の人間であれば、その後の射撃で事を終えられたかもしれないが、リリアナは優秀な魔女だ。狙撃があるとわかればそれに対抗する術を使えるし、飛翔術を細かく使ってジグザグに移動すれば、それで狙撃は通用しなくなる。

 とは言っても、リリアナが完全に優位に立ったかというとそうではない。コンピューター制御されている現代兵器を除くが、およそ手動で扱われる兵器という物は、対象が近づけば近づくほどに精度を増すものである。リリアナが敵と事を構えるには、狙撃手に接近する必要がある。だからこうして敵への接近を試みているが、それは同時に、自分が敵のテリトリーへ深く入り込むということでもある。飛び移る場所、隠れる物陰、移動速度、そういった諸々の要素の中で僅かでも判断を誤れば、その時点で、銃弾が身体を直撃しかねない。まさに綱渡りをしている状況なのである。

 敵の位置は大まかな予想がついている。

 ここまで近づけば術を使って一発である。

 リリアナは頭を伏せ、弾丸が一瞬前まで頭のあった場所を過ぎ去っていく。

 一気に距離を詰めるならば今だ。リリアナは呪力を循環させ、勝負に打って出た。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 結果として、リリアナの渾身の飛翔は天秤を大きく動かすことに成功したようだ。

 急激な加速によって狙撃手の照準が大いに狂ったこともあるだろうし、それ以前の段階で、リリアナが十分に距離を詰めていたことも大きい。

 敵に撃ち落されることもなく、リリアナは都道首都高速3号線に降り立つことができたのだ。

 リリアナの前には一人の少女。自分と同じか、もしかしたら年下かもしれないくらいの少女だった。学校の指定服の上から黒いコートをマントのように羽織っていて、コートについているフードを被っているために、髪型などはよくわからなかった。その華奢な腕には一挺の大型狙撃銃が握られていたが、リリアナは一目で、武道に関しても、この少女は『できる』と感じ取った。

「まさか同じ年頃だとは思わなかった。一応名を聞かせてもらおうか?」

 リリアナは相手に配慮して日本語で話しかけた。

 少女のほうは警戒心を隠すことなくリリアナを見つめ、答えた。

「質問に質問で返すようで悪いのですが、人に名を尋ねるときは、まず自分から名乗るものではありませんか?」

 しっかりとした声でそう返されると、リリアナはムッとするよりも先に得心がいってしまい毒気を抜かれる形となった。

「確かにその通りだったな。わたしはリリアナ・クラニチャール。《青銅黒十字》の大騎士だ。もうすでにわかっていることと思うが、ヴォバン侯爵の命で万里谷祐理の身柄を確保しに来た」

「わたしは高橋晶です。正史編纂委員会の所属です。万里谷祐理を守ることが、わたしに与えられた任務ですので、あなたの要求に応えることはできませんね」

 祐理を捕らえにここまでやって来たリリアナと祐理を守るためにここに残った晶。互いの目的は百八十度正反対で、ぶつかり合うことに疑いの余地はない。

「ここでわたしに万里谷祐理を渡せば、事は穏便に解決するはずだ。東京の治安を考えても、それが懸命な判断であるはずだぞ」

「バカなことを言わないでください。そんなことができる訳ないでしょう」

「じきに侯爵が猟犬を放たれるだろう。そうなればこの都市が灰燼に帰することも考えられる。無益な殺生をわたしは好まない」

 リリアナは本気で言っている。草薙護堂の情報は一応仕入れてはいるが、カンピオーネになったのはこの春のことだ。一方のヴォバンは三世紀も前。権能の数も、経験も護堂とヴォバンは比べるべくもない。そして、ヴォバンにとってこの東京は大した価値のある都市ではない。邪魔と思えば、無造作に、それでいて圧倒的な力で壊滅させることだろう。

「草薙先輩が負けるとでも?」

「言うに及ばず、だな。彼我の実力差もわからない王では、侯爵には勝てない」

「……それでさっさと万里谷先輩を確保しておこうと? 護衛がいるとわかっていて一人でですか?」

「それも言うに及ばず、だな。押して通るのみだ!」

 リリアナは魔剣イル・マエストロを振るう。刀身についた雫が払われ、白銀に光る。

「ちょっとカチンと来た! 絶対に倒してやる!」

 晶は声を荒げるとXM109ペイロードを放り投げた。長砲身の対物ライフルは接近を許した時点で無用の長物だ。代わりに短機関銃のH&K MP5が現れる。口径9mm。装弾数32発。フルオート射撃の精度を追及した高性能な短機関銃であり、その性能は『拳銃弾を使うには過剰性能』とまで言われたほどである。日本でもSAT等で採用されていて、晶の所持しているこれも、もちろんそういった公的機関からの横流し品である。

 晶が銃口をリリアナに向ける。

 リリアナは回避行動をとらなかった。千メートル以上の距離を、対物ライフルに狙われ続けながら駆け抜けたリリアナにとって、それ以下の威力の銃など怖くもなんとも無い。呪術で十分に防げる程度でしかないのだ。

 だから、正面から斬りかかる。

「そんなモノ、今さらわたしに効くものか!」

 サーベル状のイル・マエストロが敵に届くまでの距離はおよそ二十メートル。一瞬で詰めるには遠い。晶が引き金を引くほうが速い。

 銃口が火花を散らす。マズルフラッシュが、リリアナの網膜を焦がし、9mmパラベラムの嵐が襲い掛かる。

 目を見開くのは晶。フルオートを浴びせかけられながら、リリアナは止まらない。やわらかい少女の肉など簡単に引き裂き、骨を砕く銃弾が、見えない壁に阻まれて、あらぬ方向に弾かれる。

 清朝末期、義和団が用いたことでその術は脚光を浴びた。弓矢、銃。そういった射撃系の攻撃はこの護身術を前にして無意味。十数分前には晶の放つ対物ライフルすらも防ぎきった見えない鎧なのだ。

 だが、晶もその程度はわかりきっていたことだった。ただ、銃弾の中を突っ切ってくるという行動に瞠目しただけで、それ以上でもそれ以下でもない。

「お言葉を返します。そんな古臭い護身の術が今さら効くとでも?」

 晶は『南無八幡大菩薩』を唱える。

 遠距離攻撃において、多大な恩恵を与えてくれる『弓の神』。銃弾はこのとき、呪力を帯びた魔弾となった。

「な、く……!」

 リリアナは両腕をクロスさせ頭部をガードする。全身に叩きつけられる銃弾はリリアナの身体を傷つけることこそ叶わなかったが、弾き返されることもなくなった。リリアナの術と晶の術が互いに互いを無力化しようと鬩ぎあっているからだ。

 高速で射出される銃弾の運動エネルギーがそのままリリアナの身体を襲う。それは、金属バットで殴り続けられるにも等しい猛攻であり、彼女の足を止めるには十分な攻撃力を持っていた。

 晶はリリアナの足を止めたところで、大きく後方へ跳躍した。空中で素早くマガジンを交換し、着地と同時に射撃する。マガジンの交換には一秒とかからなかったものの、リリアナが態勢を立て直すには十分だった。

 射線を逃れるように真横へ飛び、武器をイル・マエストロを地面に叩きつける。

 武具というよりも、鉄琴を奏でたかのような霊妙な音が響く。

「あ、くそ!」

 そして晶が毒づく。銃弾はリリアナを捉えることなく、まったく別の方向に飛んでいった。

 晶は自分のこめかみを片手で叩く。表情は不快感を隠そうともしていない。

「音を使った幻術。聞いていたとおり面倒な」

 リリアナとの戦闘は予想されたことではあった。そのため、彼女の情報をできる限り取り寄せたのだ。その中に、主要武装とされるイル・マエストロの『魔曲』の特性があった。

 この武器が製造されたのはずいぶんと昔のことだ。幾度も戦功を重ね、名のある騎士の間を渡り歩いていく間に、イル・マエストロ自体にも付加価値がついた。今では認められた有望な騎士でしか帯びることが許されないほどの逸品である。が、そうした経緯から情報は簡単に入手できてしまう。対策を練ることも可能。よって、イル・マエストロを帯びる騎士には、常に新しい魔曲を奏でることが要求されるのである。

 晶は体内の呪力を高め、幻術を解除した。

 晶の呪力は同世代随一。媛巫女の中での、極めて異質な突然変異体とも言うべき晶は、大地の力を借りるということまで可能なのだ。地力で負けはない。

 晶は距離をとりながら銃撃を重ねる。

「チッ……この広い道路ではこちらが不利か。だが、射はそちらの専売特許ではないぞ」

 イル・マエストロの魔曲を三重に奏でる。呪力の減衰、視覚に干渉、平衡感覚の喪失。悪質な呪詛を飛ばし、晶を苦しめる。

 銃撃の止むその瞬間に、青い弓を呼ぶ。

 晶はすぐに正気を取り戻したが、このとき、すでにリリアナの準備はできていた。

「くらえ!」

 四本の矢が、一斉に晶を襲う。レインコートを翻し、これを回避する晶だったが、次の瞬間にその表情は驚愕に変わる。

「つ、追尾性能!?」

 四本の矢はそれぞれが宙を舞う鳥のように晶に襲い掛かったのだ。これにはさすがの晶もたまらない。回避に専念せざるを得なかった。

 飛来する矢はまるで意識のある魚か鳥のようだ。それぞれがタイミングを見計らって襲い掛かってくる。

 幾度も攻撃を仕掛けてくる矢。攻守は反転し、晶は守りに回った。だが、意思を持って襲い掛かってくる矢を避け続けることは困難な作業だ。

 ついには追いつかれ、足首を刺し貫かれた。

「痛ッ!」

 矢の威力は足を貫くのみならず、その下のアスファルトに突き刺さるほどだった。晶はその場に縫いとめられた。そして、その背中に残りの三本が突き立つ。

 その瞬間、リリアナは飛びのいた。

 そこに、無数の銃弾が空中から降り注いだ。空中にいるのは、まぎれもなく晶。それも無傷だ。

「なるほど。身代わりか」

「空蝉の術って言って欲しいですね!」

 リリアナの放った矢は、今、レインコートのみを貫いて地に落ちていた。しかも、コートが石のように固まって、矢の動きを封じ込んでいた。なるほど、以前読んだ漫画のような技である。

「ニンジャのようだな!」

「忍者ね。今は忍って言ったほうがいいみたいですよ!」

 戦いは膠着状態に陥った。

 リリアナは矢を番えようとすれば、晶の銃撃によってこれを阻止され、剣に訴えようとしても接近を許されない。晶のほうも、間断なく銃撃するものの、リリアナに致命的なダメージを与えるには及ばず、牽制にしかならなかった。

 リリアナが矢を呼び出す。晶がさせまいと銃火を発する。矢を射るときはどうあっても両手がふさがる。また、正しい姿勢をとらなければ弦を引くこともままならなず、正確性にも劣る。自動追尾機能があるので正確性は削るにしても、構えを取った時点で機動力は大きく削がれることになる。

「これは呪術の矢だ。構えなくても、いいのさ!」

 ダーツを思わせる動きで、リリアナは矢を投擲した。

「そんな、反則!?」

 きっちり自動追尾機能も働いているようだ。

「それだけで終わらせないぞ!」

 さらに、リリアナは魔曲を奏でる。幻惑が邪魔をして、晶は矢の迎撃が上手くできない。

 まずい。

 そう判断すると、晶の行動は早い。アスファルトを蹴って、一気に飛んだ。

「何!?」

 リリアナも驚いた。

 晶は、軽々と塀を飛び越えてリリアナの視界から消えたのだ。

「しまった!」

 慌てて、塀に走りより、下を見ると、晶はすでに着地していて、あろうことかリリアナに背を向けて走り去っている。肩には対物ライフルを担いでいた。

 再び距離をとり、狙撃を行おうというのか。それはリリアナにとって好ましいものではない。祐理を追うためにはどうあっても後顧の憂いを排しておかなければならない。相手が魔弾を使うことができるとわかった今、あの対物ライフルは一層のリリアナに危険性を感じさせる代物となっていたからだ。

 決して無視できない脅威であるからこそ、リリアナは晶を追わねばならない。完全に足止めをくらっていることを自覚していても、そうしなければ自分が倒されてしまうからだ。

「ええい、面倒な!」

 そして、リリアナは晶を追う。

 



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二十話

 

 

 速度においてリリアナは他の追随を許さない。

 背中を向けた相手を追うことなど造作もない事であるし、なによりも時折反転しては銃撃してくるために、その距離は縮まる一方だった。

「日本は銃規制の厳しい国と聞いていたが、そうでもないのか?」

 都市部で銃を乱射する少女に対して、彼女の上司は一体どう思っているのだろうか。

 ふと、そんなことを思ったリリアナだったが、それの疑問を棚上げして加速する。晶が振り向きざまに引き金を引いた。リリアナはほくそ笑み、思念を飛ばす。

「きゃ……」

 晶が小さな悲鳴と共に銃を落とした。

 黒々とした金属塊に、木の棒が突き立っていた。リリアナの矢。追尾性能を持つ矢が晶を真上から襲い、その銃を射落としたのだ。

「チェックメイトだ! 高橋晶!」

 振り下ろされるイル・マエストロ。それを晶はXM109ペイロードを楯にして防ぐ。呪力によって強度強化をしているおかげで両断の憂き目にはあわなかったものの、最近こんな扱いばかりなことに、心の中で謝罪する。

 晶は、銃を真横にスイングした。

 一メートル以上ある鉄の塊であるXM109ペイロードの重量は15.10キログラムに達する。晶の強化された筋力で振り回せば立派な金棒であり、凶器だ。人間の頭蓋程度は簡単に割ることができる。

 リリアナはこれを姿勢を低くすることで潜り抜け、晶の腹を蹴飛ばした。

「く、ああ」

 リリアナも身体能力を向上させていたのだろう。小柄な晶は簡単に大きく跳ね飛ばされ、背後の住宅のガラスを割って中に消えた。

 木造の古めかしい家だが、よく見れば、この近辺は大通りから少し入り込んだ場所で、住宅街になっているようだ。幸いなことに、目の前の民家は人気のない、空き家のようでリリアナはほっとした。

 終始晶を圧倒したリリアナには疲労の色はない。この程度の仕合であれば、これまでに何度も行ってきている。なによりも彼女の幼馴染のような実力者がいるのだ。リリアナは自分の実力に自信を持ちながらも慢心はしていない。

 リリアナはしばらく晶が出てくるところを待っていたが、中から出てくる様子はまったくなく、不信感を抱いた。

「おかしい。まさか!」

 窓に駆け寄って中をのぞくと、案の定、そこは蛻の殻。飛び散った窓ガラスの破片と、乱雑に置かれたダンボールやほこりにまみれたテーブルなどがあるのみで晶の姿はなかった。

「おのれ、また逃げるか。騎士の風上にも置けないヤツめ!」

 もちろん、晶は騎士などではないが、リリアナには魔術と武術の双方を極めて一流の認識があり、それらは総じて騎士である。よって魔術の世界にいるリリアナの基本的な思考は騎士道のそれになる。このときはついついそれが口をついて出たのだ。

 リリアナは憤りのままに、廃屋に入った。

 部屋の中は見た目どおりの乱雑さで、荒れ果てていて、もう何年も住人がいないことを物語っていた。

 電気もつかない漆黒の世界も術を扱う超常の人間たちには効果なく、昼間のような行動を可能としている。

 晶の行方は何処か、術を使いながら家の中を探そうと躍起になったとき、乱暴に踏みつけた足元のベニヤ板が炸裂した。

「うわッ!」

 銃弾が真下からリリアナの右足を襲ったのだ。術で守られていたものの、足払いをかけられた格好になったリリアナは尻餅をついた。

「くそ、つまらないトラップを」

 悪態をつくリリアナはトラップの正体を見た。 

 ベニヤ板の真下には釘が上を向くようにすえられていた。その釘の上にさらに薬莢が乗っている。リリアナがベニヤ板を踏むと、その下の銃弾が釘を撃鉄代わりとして発射される仕組み。足を狙った簡易地雷となるだろうか。

 もちろん、この対物ライフルにも耐えるリリアナの防御は、今さらこの程度の銃撃で破られるものではない。

 だが、そこでリリアナは表情を固めた。ベニヤ板の四隅にはよく見なければわからないほどに細い鋼線が繋がっていたからだ。

 すでにその鋼線は役目を終えて地面に力なく落ちているが、それが何を意味するかわからないリリアナではない。

「まさか、この家、初めから!?」

 リリアナは蒼然として叫んだ。

 簡単な罠とはいえ、これほど短時間で仕掛けられる罠ではない。戦いが始まるよりも前に準備されていたと考える他ない。すると、相手のこれまでの行動は、リリアナをこの場所まで引き寄せることだったと考えられる。

 晶は逃げていたわけではないのだ。あえて、リリアナに追い詰められる演技をしていた。だから、リリアナが防げる程度の魔弾しか使わなかった。すべてはリリアナを足止めし、時間を稼ぐ、その上で勝負を決めるため。もしかしたら、リリアナの生真面目で騎士道精神に溢れる精神性を把握した上で、逃げに徹していたのかもしれない。意外にも激情家のリリアナはまんまとおびき出される形となったわけだ。

 そして、これまでとは比較にならないほどの轟音とともに、紅蓮と黒煙がリリアナを包み込んだ。 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 晶はリリアナと入れ替わりで通りに姿を現した。

 簡易的な罠ではあったが、誘導が上手くいったことで、効果を発揮してくれた。

 部屋の中に仕込んであった爆弾は、周囲の民家への配慮から威力を限定せざるを得ないものであり、また、リリアナを殺害したところで、この戦いに勝利できるものではないということから、構想したときよりも弱い威力となっていた。

 それでも、至近距離からの爆発を受け、火炎と煙に巻かれれば、大騎士といえどもどうなるかわからない。おそらくは大丈夫だとは思うが、これで死んでしまったなら、すこし後味が悪い。

 そう思っていたが、黒煙を吹き上げる窓からリリアナが外に出てきたことで憂いも消えた。

 煤に汚れているし、衣服もところどころ破れている。しかし、概ね元気と言っていい状態だった。

「いや、まさか驚きました。これでもその程度の怪我で済んでいるなんて」

「驚いたのはこちらのほうだ。まさか住宅街で爆弾を使ってくるとはな」

 イル・マエストロを抜かりなく構えるリリアナには、今度こそ、何の慢心も油断もなかった。

「この家屋は初めから用意していたものだな?」

「ええ、まあ、そうですね。お気づきのとおり、時間稼ぎが主となる戦闘ですしね。わたしが倒されては元も子もないので、直接戦闘は避けようとしたんですが、尽く破ってくれますね」

 遠距離攻撃、罠、これらはすべてリリアナの攻撃範囲外からの攻撃を狙ったもの。これは戦闘の基本ではあるが、リリアナとしては刃を交えた戦闘にこそ誇りを感じるので、認めがたい。

「高橋晶。おまえは何かしらの武芸を身につけているはずだな。身のこなしでわかるぞ。銃などではなく、そちらで勝負してはどうだ?」

「確かに、それも魅力的な提案ですね。でも、その前にこちらからも提案があります。あなたをさっさと無力化できればよかったのですが、そういうわけにもいかないので」

 晶は言った。

「ヴォバン侯爵を離れて、こちら側につきませんか?」

「は? 今さらだな。それは承服しかねるぞ」

「でも、あなたの性格からして、好き好んで侯爵に付き従っているわけではないのでしょう。幸いこちらには草薙先輩というカンピオーネもいます。鞍替えするなら今ですよ」

 もともと、この戦いはリリアナの側に大義名分がない戦いである。それに関してリリアナも思うところはあるし、圧倒的強者であるヴォバンに友人を救うために乗り込んでいくという心意気にも感銘は受ける。つくとしたら、当然護堂のほうであるべきだが、今さら遅い。

「草薙護堂に勝ち目はない。わたしは沈む船には乗らないんだ」

「先輩は勝ちますよ。絶対」

「その意見には根拠がない」

「どうしてもダメですか?」

「どうしても、だ。わたしと戦いたくなければ退けばいい。万里谷祐理を引き渡せばそれで終わりだ」

 晶は首を振ってそれを拒否した。

「それはできません。万里谷先輩のことは草薙先輩から任されているんです。わたしはもう、あの人の足を引っ張りたくはない」

「だったら、問答の余地はない。ここで決着をつけるしかない」

「そうですね。わたしも、秘密兵器を出すしかないみたいです」

 晶の手には、銃ではなく、茶色い封筒が握られていた。

 秘密兵器という呼称から、リリアナは警戒を強め、数歩後ろに下がって呪力を高めた。

「草薙先輩から預かったものです。あなたとの交渉が決裂したら読めと言われています」

 晶は封筒の開けて中から紙を取り出した。折りたたまれているそれを広げると、A4の紙に活字で文字が書かれていた。

「王からのメッセージ、だとでも?」

「さあ?」

 怪訝そうな顔は晶も同じ。今初めて開いたからだ。リリアナは、これを護堂からのメッセージだと思ったのか、不審そうな顔をしながらも斬りかかってはこなかった。律儀な性格は敵の王の言葉にもきちんと耳を傾けさせるほどだった。

「読みます。『寝室にある机の引き出し、上から二番目』……?」

「-----------------!?」

 暗号めいた文言に晶は眉を顰めた。そしてリリアナは喉を干上がらせた。

「『あんな冷たい人のことなんか大嫌い。でも、この胸の高鳴りは何? もしかして、これが恋』。なんでしょうか、これは。恋愛小説? なんで、こんなもの……」

 晶は、いよいよ護堂に手渡されたこれが、何かの手違いで別物になってしまったのではないかと疑って、リリアナに視線を向けた。

 もしかしたら、リリアナにはこの怪文書の謎がわかるかもしれないと思ってのことだ。

 しかし、当のリリアナは視線をさまよわせ、おどおどとした様子。明らかに挙動不審に陥っていた。

「リリアナさん?」

「な、なんだ?」

「どうしました?」

「なんでも、ない!」

 なんでもなくはない。よくわからないが、晶は先を読み進めた。晶が読むたびに、リリアナは何かしらの反応を示した。「うッ!」とか「ぐはッ!」とかそのたびに胸を刺し貫かれているかのような苦悶の声を上げている。

 ついに晶は理解した。

「そうか、これは草薙さんの言霊が封入されているんですね! 内容はよくわからない三文小説ですけど、きっと重大な呪術的意味合いがある!」

「三文!?」

 リリアナは晶の評価にひどくショックを受けた。

 実のところこれは、リリアナが趣味で執筆している小説であった。彼女の少女趣味な思考が、妄想があふれ出した末に生まれたものなのである。それを護堂は知っていたし、原作にない部分もエリカ経由で入手していたのだ。

「『やめて、放して! わたし、あなたのことなんか大ッ嫌い!』『ふっ、だったらなんで俺のところに来た?』」

「ぐあああああ! 止めろ、それ以上は-------------!」

 リリアナは頭を抱えて懇願するが、晶はなおも朗々と謳い上げる。セリフにはきちんと感情を込めるあたり、リリアナの心を深く抉っていた。

「『わかっている。お前は俺のことを』」

「うわあああああ! もういっそのこと殺せ! 殺してくれ-------------!」

 リリアナは近くの電柱にガンガンと頭をぶつけて叫んだ。

「そ、そこまでですか?」

 リリアナの変貌振りに晶も冷や汗を流した。

 言葉による強制力。護堂の第一の権能である。まさか文字を介して作用するとは。しかもあの大騎士がこれほどの醜態を見せるほど。なんて恐ろしい力だろうか。晶の解釈はこうなっていた。そして、この文面がリリアナにとって、精神的に好ましくない情報であるということもまた、事実。

「あの、リリアナさん。これ以上の戦闘は無意味であると思います。寝返ってくれとまでは言いませんから、手を引いてくれませんか?」

 どうせ護堂が勝てば祐理を確保する意味はなくなるし、最悪の展開でヴォバンが勝っても、彼自身で探すこともできる。リリアナがこれ以上戦う必要はない。

「だ、だめだ。今からその手紙を奪い、この世から消し去ってやることもできるんだ!」

「でも、これ最後のほうに、『もしも、こちらの要求が通らなければこれと同じ文面がエリカ・ブランデッリに郵送される』ってなってますよ。草薙先輩、エリカ・ブランデッリと面識あるみたいですし、嘘ではないかと」

 この瞬間、リリアナは膝から崩れ落ちた。

 



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二十一話

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ!」

 聖句を唱えると、全身を呪力が駆け巡るのがわかった。

 超能力やら魔法やらには関わらないと思って生きてきたし、実はそんなモノは存在しなかった、という結末を期待していた時期もあった。しかし、蓋を開けてみればカンピオーネになり、ヴォバン侯爵と雌雄を決しようとこうして戦ってしまっている。

(今はそんなこと、どうでもいい。この男を打倒することに集中しろ!)

 自分の現状に呆れそうになる心を諌めて、護堂はヴォバンと向かいあう。

 エメラルド色の瞳は依然として余裕の体を崩してはいなかったが、それでも、こちらが聖句を唱えたことで警戒の色を滲ませていた。

「別の権能を使ったか。では、見せてもらおう」

 指揮者のように、ヴォバンは右手を挙げた。付き従う騎士たちが具現化し、剣を引き抜く。

 ヴォバンの騎士は、出現と同時に護堂を取り囲み、切っ先を揃えて突きかかってきた。仮に味方にあたっても復活するから問題ない。こうした無謀な攻め方ができるということもこの権能の厄介に特徴だ。

「もう、遅い」

 護堂が呟いたその瞬間に、護堂の身体は幾十もの刀剣に刺し貫かれた。

「む!?」

 ヴォバンが、その手ごたえのなさをいぶかしみ、騎士を退かせようと指示を出した。

 長年の実戦経験が、その危険性を感知したのか。

 しかし、護堂が呟いたとおり、時すでに遅し。すでにヴォバンは術中に嵌ってしまっていたのだ。護堂を貫いたはずに騎士たちは、カタカタと震えて動きが緩慢になっている。

「自業自得だな。爺さん」

 全身を串刺しにされた護堂は、平然と話し始めた。

 その身体に突き立つ剣は二桁に上り、痛みを感じる前に死んでいてもおかしくはないほどの重傷であろうに、その声色には痛みを感じている様子すらない。

「小僧。貴様、小賢しい手を……!」

 低く、しわがれた声を搾り出すヴォバンは、今一度、騎士に戻るように伝えた。

 しかし、騎士たちは動かない。むしろ、ヴォバンの指示に反抗しているようにも見え、ヴォバンは目をむいた。

「ムダだ。爺さん。あんた、よっぽどひどいことを繰り返したみたいだからな。誰からも好かれてないじゃないか。だから------------」

 護堂が笑った。

「こんなに簡単に反逆を許すんだ」

 その瞬間、護堂が溶け崩れた。

 どろりと人としての輪郭を失い、色も失い、雨水で満たされた屋上の床に落ちて同化したのだ。後に残されたのはヴォバンと死相の現れた騎士たち。

 一瞬の静寂が流れ、そしてヴォバンが、驚愕の表情を浮かべて、飛びのいた。

 一人の騎士がヴォバンに向かって斬りかかったのだ。

 これまでにヴォバンの支配に抵抗できた亡霊は一人として確認されていないし、事実そうである。

 カンピオーネの権能にしても、『まつろわぬ神』の権能にしても、人間の力で打ち破ることは困難を極める上に、その力によって具現化したものは、カンピオーネや『まつろわぬ神』にとって自らの身体の一部に等しい。

 たとえば、神獣を召喚したとしても、その神獣から背かれるということは基本的にない。

 だから、ヴォバン侯爵の力の一部である騎士の亡霊が、どれほどにヴォバンを恨んでいようとも叛旗を翻すことは絶対に不可能なのである。

 しかし、その不可能を可能にするのが権能だ。

 理不尽にも殺害され、その魂に鎖をつけられた亡者たち。

 護堂の権能は、この鎖を緩め、ヴォバンの強制力を低下させた。完全ではないものの、騎士たちは自己の意思で身体を動かせるようになったということだ。また、ヴォバンの視覚にも干渉しているのか護堂の姿を隠すこともできている。

「小僧!」

「言ったろ。自業自得だってな!」

 どこからともなく護堂の声が響く。ヴォバンは周囲を見回すが、姿を捉えることができないでいる。

 そうしている間にも反意を示す騎士は増え続けている。『死せる従僕の檻』が弱まっているからだ。このままにしておけば魂の拘束を抜けだしてしまう者もいるかもしれない。

 ヴォバンは呪力を高めた。

 攻撃的な権能ではなく、呪詛のようなものだ。それであれば、カンピオーネの呪力で弾き返すことは可能。

 ヴォバンに斬りかかろうとしていた騎士が動きを止めた。再び痙攣したように震えだす。ヴォバンの命令に意志の力で抗おうとしているのだ。

 ヴォバンの瞳が、ぼんやりと掠れているが、護堂の姿を捉えた。

「他者の権能を弱める権能か! 厄介な力を持っているじゃあないか!」

 魂の拘束と強制力を弱められて、反逆されたことに憤りを隠せないようだ。

「そうだな。権能を弱めるだけ。大した効果じゃないだろ。それでも、あんたが騎士に恨まれていたおかげで、彼らは自分の意思で反抗してくれたんだ」

 護堂としても、この展開は予想外ではあった。

 上手くいけば騎士たちの動きを封じられるだろうとは思っていたが、まさか味方についてくれるとは思っていなかったのだ。

 源頼光から簒奪した権能は、破魔の力。

 敵の呪力を低下させ、権能を狂わせる《鋼》の権能だ。

 ヴォバンの強制力を緩めることはできても、その支配権を奪うところまでは行かない。普通であれば威力が弱体化したり、神獣の制御ができなくなったりと混乱させる程度の権能。それでも、今回はヴォバンの権能が『魂を拘束し、隷属させる』という特殊なものだったことが功を奏した。

 彼らは通常の神獣とは違いヴォバンに心までも支配されているわけではない。よって、生前死後につもりに積もった恨み辛みを晴らすために、ヴォバンの支配力に抗い、反抗するようになったのだ。

「狼が好きなんだろ? 鼻利かせてみたらどうだ?」

 護堂が挑発するように語り掛ける。

 ヴォバンは騎士たちを無理矢理消滅させて、護堂の言に眉を顰めた。

「なに?」

 ヴォバンは、そういわれて初めて嗅覚を刺激するものがあることに気がついた。

 戦いの熱に浮かされて、臭いにまで気が回っていなかったのか。いや、ヴォバンが狼を駆使し、自らもまた狼へと変身する以上は嗅覚も人並み以上に優れているはず。それでいてなぜ、気がつかなかったのだろうか。

 心地のよい、芳醇な香りが薄らと屋上に充満している。

「これは、酒か!?」

「ご名答!」

 護堂が叫ぶと同時に、屋上の雨水が沸騰した。

 それは錯覚だったかもしれない。しかし、力を解放した護堂から見ても、そのように見えてしまった。それくらいに、劇的な変化だった。

 ヴォバンが呼び込んだ嵐によって東京都内は激しい雷雨に襲われている。今も川の水位は上昇しているし、風を遮る物のない高層建築の屋上は早い段階から水浸しになっていた。

 そこに、護堂は権能の神酒を混ぜ込んでいたのだ。

 低濃度の神酒は少しずつヴォバンの感覚を侵していた。嗅覚が慣れてしまったものだから、神酒の発動に気づくのが遅れた。

 そして今や、酒は霧となって屋上を満たしている。

「攻撃的な力じゃないけど、面倒だろ? これであんたの騎士は封じた。狼だって言うこと聞くかわからないぞ!」

 源頼光の伝説に『神便鬼毒酒』という小道具が現れる。

 かの有名な酒呑童子を打ち倒した際に、鬼たちを酔わせた神酒である。

 住吉・八幡・熊野、三社の神が頼光とその郎党に与えたもので、大酒のみの酒呑童子を酔い潰した上に、鬼にとって劇薬に、人間にとっては良薬になるという不思議な効力を持った酒である。この力を活用して頼光は鬼の首を獲ることに成功したのだ。

 源頼光は源氏の武将のなかでも特に怪物退治で有名な武将である。

 土蜘蛛や酒天童子など、日本を代表する怪物たちを討ち取っていることから、その武威の高さは伺える。しかし、実際のところどうであろうか。彼の生きた時代は、摂関政治の最盛期。藤原道長の時代である。頼光も道長の権威を背景にしてその権力基盤を築き上げた貴族的な人間だったようだ。

 そんな彼になぜ、怪物退治の伝説が付属するようになったのか。

 後の時代は源氏によって切り開かれたものであるから、それに伴って脚色されたことも大きいだろう。

 物語に出てくる鬼とは大江山に住み着く悪鬼であり、朝廷に服属しない『まつろわぬ者』である。また、頼光が討伐した土蜘蛛は、古来大和朝廷に反抗する山城国の原住民のことだったとされる。

 これらを討伐したのは頼光。それを指示したのは朝廷であるが、それはつまり道長だ。

 華やかな宮廷文化の裏に、仄暗い陰謀が見え隠れする。

 この物語で注目すべきは大江山である。

 この山には、実は酒天童子の伝説以外にも二つの鬼伝説が残っている。

 崇神天皇の弟の彦坐王が土蜘蛛陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話と聖徳太子の弟の麻呂子親王が英胡、軽足、土熊を討ったという話だ。

 酒天童子伝説はこれらをベースにしていた可能性がある。

 古代、多くの帰化人は高度な金属精錬技術により大江山で金工に従事していたとされ、これに目を付けた都の人々は兵を派遣、富を奪い彼らを支配下に置いた。こうした話を基にして現在の鬼伝説が形作られていったのである。

 また、酒天童子は八岐大蛇と関わりの深い神格でもある。

 日本最古にして最強の魔物である八岐大蛇は日本を代表する《蛇》の神格だ。

 この神の神話的役割は英雄神に討伐されること。ペルセウス・アンドロメダ型神話の類型であるが、八岐大蛇は製鉄を表す神だという説がある。

 出雲の製鉄民をヤマトの勢力が服属させた神話であると。

 その八岐大蛇の息子が酒天童子であるという伝説があり、彼は、酒で酔ったところを攻撃されるという父と同じ最期を遂げることになるのである。

 何れにせよ、源頼光は政敵を葬り去る『まつろわす者』であり、『王権の守護者』として描かれているし、神話的役割はまさしくスサノオと同じ英雄神だ。《蛇》と縁の深い鬼を討伐することで《鋼》の力を得ることも不思議ではない。

 屋上を覆う酒の霧は、物理的に視覚を覆い、呼気から体内に入り込むことでヴォバンの身体を汚染し、同時に護堂の心身を癒す。

 霧の領域は、ドーム状に広がり、それを吹き散らそうとする風に抗うかのように揺らめきながら今やホテルの上層部を包み込むまでになった。

「お得意の狼による物量戦ももう使えない。朝まで待つ必要もない! このゲームはここで終わりだよ!」

 護堂は声を張り上げてヴォバンに勝利の宣言をする。対するヴォバンは犬歯を見せるほどに口角を上げ、笑った。

「あまり私を……甘く見ないことだ! この程度の力で、我が狼を封じることなどできぬ!」

 ヴォバンの身体から、呪力が洪水の如くあふれ出し、変形を始める。

「望みどおり見せてやろう。これが、我が狼の真の力だ!」

 銀色の体毛が伸び、足も腕も身体も膨れ上がる。エメラルド色の瞳はそのままに、口と鼻がせり出して乱杭歯が露となる。数秒とかからず人の姿は失われ、十メートルを越える巨体は、まさしく狼のそれ。

「オオオオオオオオオオオオ!!」

 立ち上がり、霧から頭を出した巨狼が咆哮を挙げた。

 長き眠りから解放された歓喜の咆哮にして敵対者を葬り去るという破滅の宣言。

 ビリビリとした空気の振動が、護堂の身体を叩いた。

「ハハハハ! 小賢しい霧に身を隠したところでムダだ。圧倒的な力で持って、貴様を叩き潰してくれる!」

 確かに、肉体を強化する権能を持たない護堂にとって、物理的な攻撃というのは天敵である。カンピオーネの身体となって、ちょっとした交通事故程度なら問題なく活動できるほどに頑丈でも、対『まつろわぬ神』及び、対カンピオーネ戦となればそれが最低限の守りにしかならない。ましてや、このような体重数十トンはあろうかという怪獣の一撃を喰らえば、さすがに即死しかねない。

「せっかくの変身ショーを見せてもらって悪いんだけどさ、怪獣ってのはヒーローに倒されるのが神話時代からの基本だろうが。図体ばかりでかくなったからってそれが何になるってんだ!?」

「その減らず口もここまでだ。楽しい戦いだったぞ、小僧。後は我が亡者の一員として、自らの愚かしさを呪い続けるがいい」

 ヴォバンが大音声を放ち、護堂目掛けて拳を振り下ろした。

 霧に隠れている護堂のことを視認しているということではないが、それでも大体の場所に当たりをつけてしまえばその巨体だ。十分に薙ぎ払える。

 しかも、厄介なことに、護堂を襲うヴォバンの爪は確実に護堂を捉える軌道で降りてくる。

 ここで護堂は黒雷神の聖句を唱える。

「天を覆う漆黒の雷雲よ。光を絶ち、星を喰らい、地上に恵みと暗闇をもたらせ!」

 にわかに護堂の身体が闇に呑み込まれる。

 雷雲が天を覆いつくし、太陽も星も消え去る嵐の空を体現した黒き雷神は、同時に大地に潤いを与える豊穣の神。黒雷神の権能は、護身の力。特に天空に座す光の神に抗う力を与えてくれる。

 護堂の身体を覆う黒い外殻が、ヴォバンの爪を受け止めた。コンクリートはおろか鉄骨すら易々と切り裂いてしまう巨大な爪をがっちりとガードしたのだ。

 さらに、護堂の守りは攻勢に移る。

 護堂を包む卵の殻は、雷雲が姿を変えた物だ。つまり、

「ガアッ!?」

 青白い発光。

 黒雲に潜む電気エネルギーが爪を伝ってヴォバンに流れたのだ。

 ヴォバンの動きが止まったところを見計らって、護堂は神速をオンにする。実体をほどき、雷速で空中に逃れた。ヴォバンの身長をあっさりと飛び越え、はるかな高みで俯瞰する。

「十メートル台か。思ってたよりも神酒が効いてたみたいだな」

 あの狼への変身は三十メートルにはなったはずだ。十メートル台はその半分ほどのサイズ。それでも、あの巨体を前にするとプレッシャーがとてつもないものになったが。

「まだ、権能を隠し持っていたか!」

「手札は多いほうがいいだろ? 『砕け』!」

 護堂は言霊を飛ばした。

 ガブリエルから奪い取った強制する力。

 コンクリートの床が護堂にしたがって砕け散る。

「な、にィ!?」

 足場を失ったヴォバンは仰向けになって、背中からホテルの屋上に倒れこんだ。

 如何に、日本の建築技術が高くても、倒れこんできた数十トンの重さのある物体を支えることは困難だ。まして今床は護堂によって破壊されている。必然的に下の階へ、下の階へとフロアを砕いて落ちていく。

「ぬおおおおおおおおお!!」

 叫ぶヴォバンが両手両足を広げて壁や床を掴み、落下を抑えようとする。しかし、彼の爪はあまりに鋭く、軽々とホテルの壁を切り裂いてしまう。彼の足はあまりにたくましく、ホテルの壁を蹴り砕いてしまう。

 ヴォバンの身体を支えるのに、このホテルはあまりにも脆すぎた。

 護堂は雷化して、ヴォバンの剥き出しの腹部に降り立った。銀毛を鷲掴みにして、振り落とされないようにする。

「自分の足場くらい自分で確認しやがれ! 俺が何のためにわざわざ屋上で戦ったと思ってんだよ?」

 狼となったヴォバンの顔に、明確にそれとわかる理解の色が浮かんだ。

「貴様、はじめから!?」

「有名すぎるってのも考え物だな、爺さん!」

 この戦いのルール上、護堂は朝まで逃げ回ってもよかった。ただし、その場合はヴォバンに祐理を捜索する余裕を与え、かつ東京の住宅地で戦わなければならないということにもなりかねない。当然、犠牲者が出る恐れがある。

 超高層ビルであるこのホテルの屋上であれば、周囲を巻き込む不安もない。

 また、限られた足場であるために、ヴォバンは得意の物量を活かしきれなかった。もっとも、それだけであれば、別の場所で戦うこともできた。それでも、あえて護堂はこの場所選んだ。その最大の理由は、ヴォバンの権能の中で最も有名であり、彼が特に信頼する狼化に対抗するのに適していたからだ。巨狼の体重を支えることのできない建造物の上であり、このホテルの中にはもう誰もいない。皮肉なことに、ヴォバンが先んじてホテルの従業員たちを皆殺しにしていたおかげで、護堂は何の躊躇も無くこのホテルを破壊できた。

 崩れた足場。倒れる巨体。今、ヴォバンは完全に無防備となっている。

「鋭く、速き雷よ! 我が敵を切り刻み、罪障を払え!」

 凄まじい轟音が響いた。ヴォバンによる建物の破壊ではない。もっと、根本的な部分から、このホテルは破壊されたのだ。

 背の高い物体を犠牲にして発動する咲雷神の力。落雷によって万物が破断する様を神格化した一撃は、まさに雷撃の斧か刀のような一閃でもって、ヴォバンの巨体を袈裟斬りにした。 

 



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二十二話

 それは老朽化したビルを爆破解体したときの映像によく似ていた。

 ビルを発破するときは、精緻に計算された角度でビルを倒すようにダイナマイトを柱に仕掛けるもので、熟練した技師であれば破片が外に飛ばないよう、爆破された建物が内側へ崩壊していくように仕向けることも可能だ。

 ヴォバンが滞在し、それによって人気のなくなってしまったビルは、その威容が嘘であったかのようにあっさりと消滅した。六十階を数えたフロアが一挙に地面に吸い込まれる様は圧巻の一言であり、怪獣映画にでも出てきそうなこのシチュエーションは、今まさに現実のものとして起こった出来事だ。

「ビルが倒れるところなんか、生で始めて見たんじゃないか?」

 ホテルの駐車場に出現した護堂は、空に立ち上っていく粉塵を眺めて感慨深そうに呟いた。

 ホテルの敷地面積は大きく、この破壊の影響も周囲の人々には出ていないだろう。事前に避難勧告も出させたので人的被害は皆無のはずだ。

 残る問題は、やはりヴォバンの再生力。

 原作通りにいくのなら、彼には灰から蘇る不死性の権能があったはずだ。斬り裂かれ、倒壊したホテルの下敷きになろうとも、それで倒せる相手とも思えなかった。

「なるほど、大した知略だ。敵に勝つためにあらゆる物を利用する。貴様も王の端くれということか」

 予想の通り、砂塵が舞い、人の形を取った。

 品のいい老紳士の姿が護堂の前に現れた。

「なかなかよい暇つぶしになったぞ、小僧。そして誇るがいい。このヴォバンを追い詰めた者はそういないのだからな」

 上空では雷雲が渦を巻いている。東京中に広がった雲が、この一点に集中しつつあるのだろうか。

 雷を使ってくるのか、それとも原作でも登場していない未知の力か。

 護堂は身構えながら、自分の手札を確認する。

 ガブリエル、源頼光、火雷大神の八つの力の合計十の能力が護堂にはある。そのうち、未だに切っていないのは大雷神、鳴雷神、火雷神、土雷神、若雷神の五つのカード。神酒の権能は警戒されているだろうし、ガブリエルはいなされてしまっている。攻撃力の高い咲雷神はすでに使ってしまった。使えないわけではないが切断力はかなり衰えている。

 日の出まであと少し。ここで踏ん張らないでどうすると、護堂は自分を奮い立たせた。

「ずいぶんと疲れているみたいじゃないか。そんなことで第二ラウンドが戦えるのか?」

 神酒の影響からか、再生するのにそれなりの呪力を使ったようだ。それでも、ヴォバンは鼻を鳴らして言う。

「問題なかろう。この三百と余年の月日を生きてきたのだ。この程度どうということはない。貴様のほうこそ、息が上がっているようだぞ? そろそろ限界が近いのではないか?」

 ヴォバンが深呼吸でもするように両手を広げた。

 風が流れを変えてヴォバンに集い、次の瞬間には小規模な竜巻へと変じていた。

「細切れになってみるか?」

「誰が! 『逸れろ』!!」

 護堂を襲う竜巻は、ギリギリのところで進路を変えていった。

 そこに、空から雷が落ちてくる。

 直感を頼りに身体を投げ出した護堂の背中を掠めて地面に穴を穿つ。その威力たるやそれまでの雷撃とは比較にならない。

「くはッ! ぐ……神速をッ!」

 雷速に飛び込み、世界を遅延させる。速度と時間は互いに関係し合うものだ。神速の権能は移動時間を短縮することで相対的に移動速度を桁外れなまでに上昇させるが、その逆もまた成立する。光の速度に近づくほどに、時間の流れは遅くなるというのは相対性理論に予言されることである。

 神速に突入することで時間を操る護堂は雷を避けることもできた。そもそも、神速の最高速度は雷速だ。空から落ちてくる雷をかわすことは不可能なことではない。

 行く手を竜巻が阻むことで、それも難しくなってくるが。

「くそ、ここまで来て面倒な!」

「フハハハハ! 例の霧でも出してみるかね? もっとも、次は根こそぎ吹き飛ばして見せるがね!」

 雷使いという点でヴォバンは護堂の先達に当たる。それも、護堂のように制限つきながら多彩な能力を持つタイプとは違い、ヴォバンは完全なるパワーファイター。細かい操作も可能だが、その真価は破壊力に集約される。力技を苦手とする護堂にとって正面から戦うことは避けたいタイプなのだ。

 飛びまわる護堂を狙い打つ雷撃が地面を蒸発させ、その熱気は繰り出される竜巻によって瞬時に吹き散らされる。護堂も負けじと倒壊したホテルの残骸を言霊で動かし、ヴォバンに叩きつける。

「この程度」 

 ヴォバンからすれば、権能はおろか呪力も纏わない攻撃など脅威でもなんでもない。

 風の一撫でで砕け散り、ついでにその他の建材もまとめて吹き飛ばす。

 その粉々になった建材の合間を縫って、護堂がヴォバンに踊りかかった。天から落ちる雷撃も全てを薙ぎ払う暴風も至近距離で使うには規模が大きい。そして神速であれば速度で勝る。晶から渡された小刀。ヴォバンのような怪物に挑むにはあまりに小さな刃物を握り、神速で迫る。

「斬り裂くものよ。我が刃を依り代とし、今再び現れよ!」

 連続では使えない咲雷神の雷刃の力を、今一度集中する。弱まってしまった権能の殺傷性を維持するために、小刀の刃に力を注ぐ。

 頭に響く鈍痛は二重の権能行使によるものか。それでも戦闘に差し支えるほどではない。

 加えて、雷は刃物と密接な関わりを持つ属性でもある。

 タケミカヅチのように、切り裂くという特性から、刀剣の神へと昇華される例もあるのだから、咲雷神の力を刃物に込められない道理はない。

 紫電を発する刀を勢いのままに突き出す。飛びのくヴォバンのコートを浅くかすめるが、今度は雷化して急転換する。実体がないからこそできる荒業にヴォバンも対応が遅れる。雷化を解き、再び肉薄する護堂。ヴォバンを庇うように護堂の進路に騎士が出現し、護堂の雷刀はこの騎士の胸を貫いた。放電が騎士の肉体を焼き、膨大なジュール熱がその身体を焼き尽くして灰にする。それでも、ヴォバンにはあと一歩届かない。

「退け、小僧!」

 暴風が鉄塊のような硬度となって護堂を叩き、身体を跳ね上げる。宙を泳ぐ足をばたつかせつつ体勢を整えた護堂は返す刀で雷刀を投げた。

『縮!』

 護堂が叫び、ヴォバンが目をむいた。

 投擲された小刀は、ヴォバンが何かしらの対応をするよりも早く彼の肩に突き立っていたのだ。ヴォバンの目には、刀が突然加速したように見えただろう。空間が圧縮されたのだ。激しい電流がヴォバンの身体を襲う。突き立つ痛みが麻痺するほどの電撃。にもかかわらず、ヴォバンは不敵に笑う。血肉湧き踊る戦闘狂の顔。あまりに強すぎるがゆえに敵手すらも見つけられなかった魔王が、心を躍らせている。

 

 刻限は近い。

 都が誇る巨大ホテルを破壊し、直下型大地震が襲い来たかのような惨状を創り上げた王と王の戦いも終末の時を迎えようとしている。

 東の空が燃え立つかのごとく光を放ち始めた。黒雲の果てに紫色に染まる空が見える。ヴォバンが指定した夜明けが訪れようとしている。

「しぶといな。小僧。そろそろ夜も明ける。ここまで私を楽しませてくれるとは思ってもいなかった。これが、最後だ。我が雷撃を集中し、渾身の一撃を持って引導を渡してくれる!」

 ヴォバンがありったけの呪力を一撃のために注ぎ込むのがわかる。これまで戦い続けたからか、そういうことにも感覚が働くようになっていた。収束した雷雲が、膨れ上がってヴォバンの指示を今か今かと待っている。

「しぶといのはどっちだよ。もう狼じゃなくてゴキブリの神様にでもなっちまえ」

 護堂もまた、呪力を練る。充電はもう十分だろう。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ。大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 ヴォバンが雷雲を爆発させるのと、護堂の聖句が完成するのはほぼ同時であった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 護堂の視界は真っ白に染まった。それだけでなく、音が消え、身体の感覚までがショートしたかのように失われた。自分が今立っているのか、倒れているのかそれすらもわからなかった。

 ただただ浮遊感だけがあり、凪いだ大海原に一人浮かんでいるような気分だった。

 しかし、それもほんの一時のことに過ぎなかった。

 浮遊感は急速な浮上感へと変化する。意識の覚醒は実際の時間にして僅か一分と言ったところだ。あまりにも強い疲労からか眠りこけてしまいそうになったが、敵がまだそこにいるという一点が、護堂を半ば強制的に現実へ帰還させていた。戦うための肉体が、休むことを許さなかったのだ。

 世界が色を取り戻した。

 最初に飛び込んできたのは黒だった。

 鼻を突く刺激臭はアスファルトが焼け焦げ、蒸発したからだろう。護堂は駐車場だった場所にうつ伏せで倒れていたのだった。顔や腕に多大な火傷があるはずだが、痛覚が麻痺しているのか、このくらいの傷はカンピオーネにとっては痛みすら感じないのか、護堂はこのとき、火傷の痛みを一切感じていなかった。

(ヴォバンは……どこだ)

 両手に力を入れて身体を起こそうとする。極度の疲労によってガタガタと震えて上手くいかないが、なんとか上半身を起こし、僅かに開いたスペースに片膝を差し込んで支えとする。一見するとクラウチングスタートのようだ。

「まだ生きておるのか。悪運の強い男め……」

 しわがれた声が護堂に投げかけられた。

「爺さん……!」

 ヴォバンも生きていたらしい。護堂から離れて十メートルほどのところに立っていた。

「はは、それ、あんたに言われたくないな」

 護堂はこれまで以上に力を込めてゆっくりと立ち上がった。足も手と同様にガタガタとしている。長距離走を駆け抜けたかのように息も絶え絶えで、折れかけた小枝のように風にそよぐだけで吹き飛んでしまいそうなほどに弱弱しい。それでも、護堂は闘志を漲らせて二本の足でしっかりと地面を踏みつけた。なけなしの呪力で若雷神の力を使い傷を癒す。もはや虚勢とも取れる行為だが、ヴォバンに上から目線でいられるのは癪に障った。

「あんたもずいぶんと消耗してんじゃないか。もう再生系統は使えないのか?」

 立ち上がって、少し高い目線のヴォバンを正面からにらみつけた。先ほどから、奇妙な感覚を覚えていたのだが、今、その理由に思い至った。風がやんでいるのだ。雨も降っていない。精神的なプレッシャーも大きかった雷雲の塊も綺麗さっぱり東京の空から消え去っていた。ヴォバンに、風雨雷霆を操るだけの力が失われたのだろうか。

 それでも、ヴォバンは余裕の体を崩してはいない。消耗はしているのだろう。それはここ数十年なかったほどの消耗であるはずだ。それでも、それを感じさせないあたり、歴戦の兵の風格を持っていると言っていい。

「くだらぬ挑発だ。ならば、望みどおりに第三ラウンド……」

 と、ヴォバンが犬歯をむき出しにしたまさにその瞬間、太平洋の水平線から太陽が顔を覗かせた。紫だつ雲が長く尾を引いて、空が瞬く間に明るくなっていく。

 夜を払う曙光は、そのまま魔王たちの夜に終わりを告げる鐘となる。ヴォバンは一瞬だけその明るさに目を細め、つば吐くように舌打ちをした。

「……刻限か。忌々しいことだがな。この戦、貴様の勝利のようだ」

 ヴォバンは護堂をにらみ付ける。

「久方ぶりに面白い戦いだった。我が無聊の日々を多少なりとも癒す糧となったことは評価に値する。次に見えるときは、その首を確実に狩り取ってやろう。それまでに、私が死力を尽くして狩るにふさわしいひとかどの戦士となっておくのだな!」

 ヴォバンは破壊されつくしたホテル跡を眺め、

「ふん。クラニチャールもそちらに付いたようだな。戦の最中に私の部下にまで手を出すとは抜け目のない男だ。まあいい、代わりはいくらでもいるからな」

 どのようにしてそれを知りえたのかは護堂にはわからなかった。もしかしたら部下の造反を察知するような力もあるのかもしれない。配下の魔女に探させていたのかもしれない。真相は闇の中だ。何れにせよ、護堂の企図したとおりに事が運び、最後はギリギリであったものの、概ね予定の範囲内で被害を抑えることには成功したようだ。

 リリアナにしても、ヴォバンにとっては生きた部下か死んだ部下かの違いでしかなく、その離反にもそれほど執着することではないようだ。大騎士が一人裏切ったからといってヴォバンに害をなすことができるはずも無く、そのような小さなことでいちいち腹を立てるのは王の嗜みではないという余裕が感じられた。

 そして、ヴォバンは去っていった。

 破壊するだけ破壊して、その後のことは一切関係なくあっさりと消える様は、彼の愛する嵐によく似ていた。

「ふう。なんとか生きて終われたかー。」

 護堂は足を引きずるようにして熱を持った駐車場を出た。

 あまり遠くには歩いていけそうも無かったので、ホテルの破片と思しきコンクリート塊に背中を預けるようにして倒れこんだ。

「先輩。先輩! こんなところに!」

 一息ついたところで晶がやってきた。怪我をしている様子はなく、見た感じ元気だったので安心した。そう告げると、

「何を馬鹿なこと言ってんですか!? ヴォバン侯爵のところに攻め込むなんて無茶をして……どれだけ心配したと思っているんですか!? 万里谷先輩なんか失神しそうになってたんですからね!」

 と、ものすごい剣幕で怒られてしまった。

「そうか。ごめん。心配かけたな」

「いえ。ほんとに、無事でよかったです。あの侯爵に勝ってしまうなんて……」

 晶は安堵して力が抜けたのか、その場にしゃがみこんだ。

「そうだ。万里谷はどうしている?」

「万里谷先輩もこっちに向かってきてます。お叱りは覚悟したほうがいいかもしれないですね」

「お叱りって……勘弁してくれ。結構怖いんだろ?」

「ええ。なかなかですよ」

 かつて晶も経験したことがあるのか、そこには自信を持って応えた。祐理が聞いたら、それはそれで怒り出しそうな会話である。

 ともあれ、自分を心配しての叱咤は甘んじて受けるべきだろう。祐理は自己を犠牲にしてでも他者に手を差し伸べることのできる娘だ。そして他者を犠牲にして自分が助かることを厭う性格でもある。今回の護堂の行動はおそらく祐理に琴線に触れることになる。

 願わくば、ほどほどにして欲しいものだ。

「リリアナさんは?」

 ヴォバンが離反したこと呟いていたが、念のために晶に確認する。

「先輩のおかげでこちらについてくれました。今は侯爵に離反した旨を告げに行きました」

「大丈夫なのか?」

「わかりませんが、一言あるのが最低限の礼儀だと」

「堅物め」

 それが原因で殺されるようなことにならなければいいが。最後の段階でリリアナへの興味は完全に失っていたらしいし、おそらくは大丈夫だとは思うが。

「まあ、いいか。当面は大丈夫そうだしな。疲れたから俺は休ませてもらうよ」

 朝日を拝んでから、護堂は眠りに落ちて行った。夜を通して戦い続けたことによる疲労はピークを迎えていたのだろう。すぐに静かな寝息を立て始めた。

「はい。お疲れ様でした、草薙先輩」

 その髪を晶はそっと撫でて呟いた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

「予想外の展開になったのう」

 そこは薄暗い部屋の中だった。六畳ほどの広さで、壁際にベッドがあり、本棚には漫画が詰まっている。据え置かれたテレビにはコードが伸びてそれはテレビゲームの本体につながっていた。机の上や枕元には漫画や小説が積み上げられていて、壁には有名アーティストのポスターが張ってある。生活観の漂う極普通の部屋で、年齢層から十代から二十代の部屋と思われる。室内が暗いのは、明け方であるということと、カーテンが閉め切られているためである。

 しかし、そんな若々しい内装の部屋に響いた声はまったくその部屋の様子に似つかわしくない鈍くかすれた声だった。

「予想通りよ」

 その声に反駁する声があった。

 こちらは若い女の声だ。どちらかと言うなれば、こちらがこの部屋の主であろう。

「大陸のカンピオーネを見れて嬉しい? 用が終わったんだったら早くこの部屋から出てって」

 女の声は厳しい。好意的な思いなど欠片も感じさせない口調は、敵意の有無を隠そうともしていない。

 その敵意の矛先は、紛れも無くしわがれた声の主に向けられていた。声でわかる。それは老人だ。口ひげを蓄えた小柄な老人が部屋の隅に立っていたのだ。異常なまでに、存在感が薄い。それにも関わらず、一旦彼を認識してしまうと、底の見えない井戸を覗き込んだかのような根源的な恐怖を抱いてしまう。

「ほほ……これはこれは。怖いではないか。そうカリカリするでない。我が娘よ」

「------------だれがッ!」

 女は牙を剥かんばかりにいらだった表情を見せる。

 老人は堪える様子もない。

 暖簾に腕押しというかのように、女のいらだちに何も感じていないようだ。

「わしがここに来たのはの。主の意思を聞きに来たのじゃよ。魔王の戦いを観戦したのは余興じゃ余興」

「……」

 護堂とヴォバンの戦いを余興とするこの老人の底知れなさは異常だ。彼女も警戒感をあらわにしてにらみつけた。もっとも、それで相手をどうこう出来るわけではないのだが。

「主はいつまで経っても進歩がない。まるで普通人のようではないか」

「それの何が悪いってんのよ。普通にご飯を食べて、普通に学校に行って、普通に寝る。これのどこがおかしいの?」

 老人はそれを聞いて、カカカと笑う。

「可笑しいとも。せっかく繋ぎとめた命じゃぞ? やり直しの聞かぬ人生を、再度回すことができたのじゃぞ? それでなぜ普通人の生活を繰り返す? 主は特別なのに、なぜあえて普通を選ぶ?」

「なぜって。これが楽しいからに決まってるじゃないの。前世ではできなかったことよ」

「つまらんのぅ。己を型にはめた人生で満足とは。他の者は中々弾けているというのに」

 女は意に反さないとばかりにベッドに腰掛けて反論する。

「それで破滅した人間が何人いると思ってるの? ほぼ全部でしょうが! 大体、あんたが裏でそそのかしてたくせに」

「それは言いがかりじゃ。わしは観察していただけじゃぞ。あやつらが勝手に問題を起こして自滅したのよ。もちろん、それもまた面白いのじゃがの。いまや我が娘も主一人じゃ。それなりに期待しておるのじゃよ」

 笑いながら、老人は長い口ひげを梳いた。

「期待ですって。あんたは結局、護堂にしか興味がないでしょうが!」

 女は手近な文庫本を手に取ると、思い切り老人に向けて投げた。放物線を描いて老人の頭に吸い込まれた本は、あろうことか、その頭部をすり抜けて背後の壁に当たって床に落ちた。

 老人の姿はそこになく、代わりに白い紙切れだけが落ちていた。

「ホホホ……あやつの忘れ形見ゆえに注視しておったのよ。当然であろう。主もかの羅刹の君には感謝しておくべきじゃぞ。彼奴なしに主を形作る術はなかったゆえな」

「さっさと失せなさいよ」

 女は長い髪を振り乱して立ち上がると、床に落ちているヒトガタの紙をにらみ付けた。やおら青白い炎を発し、紙は一瞬にして燃え尽きてしまった。それと同時に、老人の声も聞こえなくなり、部屋には朝の清清しい静けさだけが残された。老人が発する不穏な気配ははじめから無かったかのようだ。しばらく緊張に身を硬くしていた彼女も、老人が去ったと判断して力を抜いた。

「はあ……学校休も」

 勝気な印象を受けるつり眼がちな瞳は憂いに曇っている。長い髪を止めるための髪留めを一端は手に取ったものの、夜通しカンピオーネの戦いを観戦したことと老人のプレッシャーとで疲労が溜まっていたために、机の上に戻してベッドに入ることを決めた。

 掛け布団をかける前、カーテンの隙間から入り込んだ朝日が、机の上に飾られた写真立てを照らした。

 まだ、彼女が幼いころの写真だ。

 写真には彼女と一緒に、同じ年頃の少年と、少し年下のつり眼が特徴的な女の子が一緒に写っていた。



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二十三話

 護堂が目を覚ましたとき、目に飛び込んできたのは眩い日差しだった。

 軽く首を左右に動かして、状況を確認すると、どうやらここは病院であるらしい。真上にはまっさらな天井があり、左手に薄いカーテンに覆われた窓がある。ベッドは部屋に護堂のものしかなく、一人部屋という贅沢をさせてもらっているようだ。この部屋は調度品自体がとても少なく、ベッドの他には花瓶と二段程度の本棚しか置かれていなかった。清掃が行き届いている上に、普段から人が使っていないためか、生活感はないに等しく、気味が悪いくらいに無機質な部屋だ。

 花瓶に生けられた花々はそんな無機質さにあって、ぐっと護堂の目を引いた。

 白い紙に点を打てば、自然とその点に焦点が合うように、色のない病室の中では、その花々はより一層美しく見えた。

「いよっと……」

 護堂は身体を起こした。時計を確認すると時刻は正午を回り、ヴォバン侯爵との戦いからおよそ六時間から七時間が経過した模様だ。

 もともと、若雷神の力で傷を癒していたこともあり、カンピオーネの回復力があれば僅かな睡眠でも十分に体力、気力を取り戻すことは可能だ。野生すら上回るその生命力を持つ護堂にしては、必要以上の睡眠時間だった。身体の状態を確認しても、いたって健康。護堂が関知する範囲での問題は特に無いようだ。

 体調面での心配はなくなった。残る心配事と言えば、ヴォバン侯爵との戦いとそれによる被害が一体どのようになっているのかということだ。

 思い返せば頭を抱えたくなることばかり。なんといっても、ホテルを倒壊させたという大惨事を引き起こしたということ。しかも、意図的に。それはテロリズムに等しい蛮行である。しかし、ヴォバンと戦うのであれば手段を選んでいる余裕などない。それは冷静に彼我の実力差を分析して得られる厳然たる結果だった。

 試しにテレビをつけてみると、ちょうどお昼のニュースを放送しているところで、今、まさにホテルの倒壊現場が映し出されていた。

「うわーお……」

 と、護堂はその破壊痕に絶句した。

 広大な敷地をもつ東京都を代表するホテル。豪華絢爛な摩天楼は、見る影も無く、ただのコンクリートと鉄筋の塊という瓦礫の山と化していた。隣接する駐車場も爆撃にあったかのような凄惨な状況で、アスファルトは捲れ上がり、焼け焦げ、蒸発しているところすらある。

 極めて強大なエネルギーが、集中的に、かつ無秩序に放出されたことを意味している。

 一応、テロの疑いアリとして捜査する方針だというが、物理的にありえない壊れ方をしているのだから調べたところで何もわかることはないだろう。

 この破壊の一端を自分が担ったと思うと、やはり思うところはある。正史編纂委員会が何かしらの働きかけをするのだろうが、一般社会から情報は隠せても、魔術社会には出回ることになろう。

 草薙護堂がヴォバン侯爵と戦って勝利したと同時に、ホテルを倒壊させることも辞さない魔王として認知されてしまった可能性は否定できない。

 正直に言うと、護堂は自分自身のことがよく分からなくなっていた。

 前世でおそらくは二十数年。そして今世で十六年。都合三十余年にわたって生きてきたにも関わらず、自分の精神がどういった構造になっているのか、判断がつかない。

 前世のことは置いておこう。もはや関係ない。しかし、それを引きずったままこの世に生れ落ちた以上は、人並み以上に精神性において大人であるはずだ。この年の春までは、護堂は確かにカンピオーネにはなりたくなかった。確かに、美少女たちとキャッキャウフフには興味がないわけでもないが、命を懸けるには小さな理由である。カンピオーネになるということは、神と殺し合いをすることなのだから、そこまでして特権階級になりたいと思わなかったし、むしろ、そうなることで戦いに明け暮れる日々を過ごすことになる、ということが嫌だった。

 しかし、思い返せば負けず嫌いな一面はあった。勝負事において負けるということが嫌で、努力を積み重ねた歴史があった。勉強でもサッカーでも、護堂は頂点を目指していた。もしかしたら、それは、前兆だったのかもしれない。カンピオーネとなった今でも、勝利へのこだわりは変わっていないらしく、手段を選ぶことに躊躇が無かった。

 ヴォバンと戦うことになった時、いろいろと言い訳を並べ立てはしたものの、結局自分から乗り込んで行った。話し合うことすらしなかったのは、原作を知っているからだが、それでも普通の感性であれば、まず会話から入ろうとするのではないだろうか。ホテルを使うという思い付きをしたときも、その後の被害を理解していながらその策をあっさりととった。それは、ホテルにもう従業員がいないことや、広い駐車場などの無人のスペースがあったからという理由もあるが、それでも実行に移したときの行動力は自分のこととは思えない豪胆さだった。

 自らの行いを振り返ってみると、確かに、カンピオーネとしての性質は生まれ持ってあったのかもしれないという結論に行き着いてしまう。

 ということは、自分がこのような運命を辿ったのは、偶然でもなんでもなく、ただ決められた宿命だったのかもしれない。

「お、お兄ちゃん!?」

 と、やや上ずった声。

 いつの間にか開いたドアから妹の静花が顔を覗かせていた。

「静花? 学校は?」

 護堂も我ながらのんきなことを、と尋ねてから思った。静花は学校を休んでまで自分を見舞いに来てくれたのだろう。

 案の定、静花は目を吊り上げて怒った。

「なに馬鹿なこと言ってんの! お兄ちゃんが病院に運ばれたって、今朝方連絡があってここに来てみたら、ずっと寝たまま起きないで。すごく心配したんだからね! 学校なんか行く訳ないでしょ!」

 と、ベッドの側までずんずんと近寄りながらまくし立てた。そのあまりの剣幕に、覚悟していた護堂も圧倒され、

「お、おう。すまなかったな」

 と返答するのが精一杯の有様だった。

 静花はベッドの脇においてあるイスに腰をかけると、力が抜けたように顔を下に向けた。

「でも、本当によかった……お兄ちゃんが無事で。身体、もうなんともないの? お医者さんは、特に異常はないって言ってたんだけど?」

「ああ、なんともないよ。心配かけたな。ごめん」

 護堂は静花の頭を撫でて謝った。

「ん。じゃあ、許してあげる。でも、無理はしないでね」

 静花は嬉しそうに笑った。護堂もつられて笑った。

 自分の精神年齢を加味すれば、静花は娘とも呼べるほどに歳が離れている。そのためか、幼いころから厚かましく世話を焼いてしまったものだが、いい娘に育ってよかったと安心した気持ちになった。心から人のことを心配できる静花なら、これから先、苦しいことがあったとしても、きちんと乗り越えていけることだろう。

 今回は、こうして生きながらえたが、次はどうなるかわからない。あっさりと死んでしまうこともあるだろう。そうなると、静花のことが気にかかるが、彼女は強い。きっと大丈夫だ。そう思えた。

 

 

 やがて日が暮れて夜になると、新たに客が訪れた。

 最初の客は万里谷祐理だった。制服ではなく、私服だった。正史編纂委員会に呼び出されたために、学校に行けなかったからだという。彼女はごねる静花を説き伏せて帰らせた後にやってくると、すぐに頭を下げた。

 真っ先に自分が見舞いに駆けつけなければならなかったのに、それができなかったことを謝罪したのだ。

 護堂は、原作でいうところの般若の笑みが来るかと身構えていたのだが、いきなり謝罪されたことに呆気にとられた。

 ヴォバン侯爵が祐理を狙っていたこと、祐理を守るために、護堂が戦いに赴いたことを祐理は逃亡中の車の中で聞いた。はじめは驚き信じられない思いだったが東京中の暗雲が意志を持つかのようにうごめき、雷鳴に呪力の猛りを感じてからはひたすらに護堂の無事を祈り続けた。これが、リリアナが羨望すらよせる万里谷祐理の万里谷祐理たるところか。自分のことよりも、他人のことを第一に心配し、必要とあれば自己犠牲もいとわない。そこに美学を持っているのではなく、義務感があるわけでもない。ただ、それが必要な状況に陥れば、黙して足を踏み出すことができる。彼女は歴戦の勇者ではない。もちろん恐怖がある。それでも、その恐怖で足を止めることがないという点で、彼女もまた、常識の埒外にある人間だった。

 そのため、かつての『まつろわぬ神』の招来の儀においても率先してヴォバンの下へと向かった。自分が強すぎる力を持って生まれたことを後悔するでもなく、ただ消費されるだけだとしても、それを受け入れることができてしまうだけの精神力を身につけていた。

「どうして、あのような無茶をされたのですか?」

 と祐理は尋ねた。

「無茶? それは、ヴォバンと戦ったことか?」

 護堂が尋ね返すと、祐理は頷いた。

「そんなに無茶、だったかな? 割といけると思ったんだけど」

 護堂は頤に手を当てて、おどけて見せた。祐理は信じられないとばかりに目を見開いて声を張り上げた。

「無茶に決まってます! ヴォバン侯爵がどのようなお人か、ご存知だったはずです! 天を裂き、地を砕く……暴虐の化身のような人です。平然と人の命を奪い去るのですよ。カンピオーネとしての歴史も段違いじゃないですか!」

「でも勝っただろ。まあ、痛みわけみたいなところはあるけど、あの勝負は俺の勝ちだぞ?」

「それは結果論です」

 祐理の声は弱弱しくなった。確かに結果論だ。明確な勝算があったわけではない。護堂も考えうる限りの手は尽くしたが、それでもそれが決定打になるわけではなかった。結局、最後は力押しになったし、カンピオーネや『まつろわぬ神』の領域に入ってしまうと、自然と策略が通じなくなる場面が多くなってくる。

 おまけに、護堂はあの戦いを『勝負』と言った。スポーツの試合程度にしか考えていないのではないかと思えるほどに簡単に言ったのだ。しかし、それはあの戦闘の跡地を見ればわかることだが、あれは『勝負』などという生半可な言葉で表してよいものではない。あの戦いは、命を懸けた殺し合いであり、その規模は戦争に匹敵する。現存するカンピオーネは感性からして常人とは異なっているというが、護堂も多分にその傾向を有しているということだろう。

 それが殺し合いである以上は、命を失う可能性もある。

「一歩間違えば、あなたは死んでいました」

「だろうな」

「だろうなって--------ッ!」

 平然と答えた護堂に、祐理はカチンときたらしい。

「あ、あなたは一体、何を考えているのですか!? まさか、自分が死んでもかまわないとでも思っているのですか!?」

 と問い詰める祐理に、それはない、と答える護堂。

「俺は死にたいなんて思ってないよ。せっかく生まれてきたんだし、人生を謳歌したいと思ってる。それに、命の危険は少ないほどいいに決まっているじゃないか。俺は伊達や酔狂で命を懸けることはないよ」

「それならばどうして侯爵と戦ったりしたんですか? わたし、聞きましたよ。あなたからあのホテルに乗り込んでいったと」

 護堂は頷いてそれを認めた。そして、笑顔をみせながら両手を広げて、

「今回はほら、俺が戦うしかない状況だっただろ?」

「そんなことはありません。他にも穏便な解決策があったはずです」

 祐理は首を振ってそれを否定した。

 しかし、護堂からすれば、それは現実的な方策ではない。穏便な解決策がないから護堂は乗り込んでいったのだ。そもそも、ヴォバンが話し合いに応じるはずもないし、祐理の言うようなことは不可能だ。

 だから、

「いや、無理だろ」

 と、護堂は言った。ヴォバンの企みを挫くことが狙いである以上はヴォバンと敵対するしかないからだ。しかし、祐理は再び首を振った。

「無理ではありません。わたしが侯爵のところに行けばそれで済みました。あなたが命をかける必要もありませんでしたし、あのホテルが倒壊することもありませんでした」

「はあ?」

 護堂は気の抜けたような声を漏らした。そして、納得もした。話がかみ合わなかった根本的な要因が見えたからだ。

 護堂が戦った目的は、祐理をヴォバンに渡さないこと。そのために命を懸けることも辞さなかった。祐理を渡すなどという考えははじめからなかったのだ。一方の祐理は護堂の身を案じていた。天秤にかければ護堂の命よりも自分の命のほうが軽いと考えている。どちらも、他者のために自分の命を懸けるという点が一致している。価値観が似ているのだろう。しかし、その結果が、まったく真逆の結論に至ってしまうとは、それはそれで、面白いことだと護堂は思う。

 護堂は祐理を、祐理は護堂を守ろうと考えたわけだ。

 なるほど、それでは意見が纏まるはずもない。

「だけど、まあ、それは受け入れられることじゃないしなあ……」

「なぜですか? それが最も被害を小さくすることのできる手段だったはずです。大局に立てば、それが最良のはずですよ」

 祐理の考え方はつまり、大をとって小を斬り捨てるということだ。驚くべきはこの小が祐理本人であることだろう。表情を変えず、当たり前のように、そういうことを言ったのだ。

「伊達や酔狂で命を懸けることはないのでしょう? それなら――――――――」

「万里谷を助けたいと思ったのは、絶対に伊達や酔狂なんかじゃない!」

「ッ?」

 護堂は強く言い放ち、祐理の言葉を遮った。

 決して大きい声ではなかったものの、祐理に言い募ろうという意思を挫かせるには十分な威があった。

「目の前に困っている人がいたら手を差し伸べるだろ? 理屈じゃないって。ましてやそれが友だちなら、十分に命を懸けるに値することじゃないか。俺にはそのための力があったんだから」

「それは、そうかもしれませんが」

「万里谷は自分のことを軽く考えすぎてるんじゃないか? 君の命は君が思っているほど安くはないはずだ」

 護堂は祐理と価値観が似ていると感じはしたが、それはまったく同じというわけではないらしい。護堂はまず自分の命をムダに投げ出すまねはしない。自分の命が大切だからだ。人のために命を懸けることもあるが、それでも、自分が死ぬことを了承した上で行動することはない。祐理は違う。彼女は自分が死ぬことを含めて命を懸けてしまえるのだ。それはとてつもなく、危うい精神構造と言えた。

 護堂は本気で祐理の身を案じていたのだ。それは祐理にも伝わった。真正面から身を案じられて、祐理はさすがに返す言葉を失った。もともと、護堂がこうしてベッドの上にいるのも、祐理の力を巡る戦いの結果だ。

 祐理は自分の力が人とは違うことを幼いときから感じていたし、その強大な力が特別なものだということを大人たちから教わってもいた。使い方から使うべき場面まで巫女の修行をする中で学んだ。力ある者の義務として幼少のころから正史編纂委員会で職務に励み、そしてヴォバンにまで目をつけられた。力を持って生まれたがゆえの苦悩と言ってしまえばそれまでだが、そこには祐理個人の意思を無視したものが多々あり、甘んじてそれを受け入れることに慣れてしまうのも無理ないことだ。

 幼いころからの教育と経験が、そうさせてしまったのだ。

 おそらく、周囲の大人たちにそんな意図はなかったはずだ。彼等、もしくは彼女等は祐理を愛し、守ろうともしただろう。組織のしがらみはあれども、正史編纂委員会は小さな子どもに自己犠牲を強いるほど非人道的な組織ではない。政府主導の機関であることを考えればむしろ、他国の魔術組織よりも、人命を重んじているはずである。

 ただ、相手が悪かった。

 万里谷祐理という少女は、人一倍他者を思いやり、人一倍努力家で、人一倍大人の期待に応えようとする良い子だったのだ。

 それが、極めて模範的であっために、誰もが見逃してきた理想的な歪みを祐理は内包しつつ成長した。人のために力を使うという当たり前の精神を自然な形で拡大解釈してしまっていることを誰も思いつくことはなかったのだ。なによりも、周囲の大人たちは、人の命を大切にすることを教えても、自分の命を大切にすることは教えなかった。

 祐理は自分の能力、延いては命が消耗品であることを受け入れてしまったということは、誰にも予測のつかないものだっただろうし、誰も気づかなかった歪みだったわけだ。

 非常識なまでに常識的だった彼女の行動の裏側にあるのは、そんな小さなすれ違いによるものだった。

 そういう観点で言えば、力を度外視して祐理個人を重んじた護堂の行動は、彼女の心を揺さぶるには十分だった。様々な政争を目の当たりにしてきた祐理でも、命を懸けて助けてくれた人など皆無だったからだ。

 なんということはない。護堂からすれば友人の身を案じただけの行動だったのだろうし、誰かが同じような状況になれば、護堂はすぐにその誰かを助けに向かうだろう。

 祐理の心に去来するのは言葉にできないくらいに雑多な感情の切れ端ばかり。言語化することはおろか、それがどのような思いなのかさえ明確ではなく、祐理の心は混沌の渦に陥っていた。不安なのか、恐怖なのか、怒りなのか、喜びなのか、悲しみなのか、安堵なのか、自分の気持ちに靄がかかって理解できず、胸がつまって涙で視界が霞んでいく。唇も震えて声も出ない。祐理の心は強靭だ。ヴォバンに攫われたあの時ですら涙は流さなかった。恐怖は涙するに値しない。立ち向かうだけの強さがあるからだ。しかし、そんな祐理が今、涙を流していた。当人すら、その理由に思い当たらず、なぜ、こんなにも胸が苦しいのかわからなかった。

 これではダメだと、祐理はなんとか言葉を口にしようとする。何を話せばいいのかわからず、嗚咽に変わるだけ。  

 やっとの思いで、たったの一言だけ、

「………………ありがとう、ございました」

 とだけ、言うことができた。

 それを言った瞬間に、祐理の入り組んだ気持ちがストンと落ち着きを見た。 

 この病室を訪れるとき、いったい何から話をするべきか煩悶としていた。命を懸ける行いやホテルの倒壊に対しては憤りがあった。ヴォバンと戦い倒れたことには不安があった。何のためにあれほどの戦いをしたのか、ということに疑問もあった。

 しかし、そんなモノは結局のところどうでもいいことだったのだ。

 祐理が最も口にしたかったこと。何よりもまず護堂に伝えたかったことは、『ありがとう』の一言だったのだから。



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二十四話

 リリアナが護堂の部屋を訪れたのは誰もいなくなった深夜のことだった。

 事前に連絡はあったので、護堂も快く迎え入れた。彼女の人払いの結界によって医師も看護師もやってくることはない。夜の病室に美少女と二人きりという状況は、護堂の精神に少なからぬ負担を強いているのだが、そういうことはおくびにも出さないようにする。

「夜分遅くに申し訳ありません。日のあるうちは一般の来客もあるかと思いまして。快復なさったようで何よりです」

 リリアナの言うとおり、昼間は忙しかった。静花はもとより、同級生も大挙して押し寄せてきたのだから驚いたものだ。

「草薙護堂様は非常に人望がおありなのですね」

「人望って。あいつ等勝手に押しかけて騒いで勝手に帰って行っただけだぞ? あと様つけるのは止めてくれ」

 騒いでいたのは主に三バカども。結局連中も原作と大して変わっていなかった。なんだかんだで仲良くやっているわけだし、ああした一般人と付き合っている時間は、護堂も一般人として振舞える。気軽で良いのだ。

 隣に直立するリリアナに、護堂は腰掛けるように言った。言ったのだが、拒否されてしまった。曰く、王の隣に座るわけにはいかないのだとか。硬い表情としぐさで、彼女が緊張していることがわかって、生真面目な性格を肌で感じる形となった。

 こういうときは、無理矢理押し切る。リリアナとここで今生の別れというのならそのままでもいいが、恐らくはそうではあるまい。原作通りに行くか行かないかはわからないが、それでも、彼女とのつながりは今後のためになるはずである。なにせイタリアを代表する魔術結社の総帥の血族なのだから。

「とにかく座って欲しいんだけど。立たせたまま話すこともないだろ?」

「そういうわけにも行きません。王と同席するのは騎士としてできませんから」

「だからその王っていうのは止めて欲しいんだ。俺は別に王権を振りかざしたりしないし、歳、いくつだっけ。十五? 十六?」

「わたしは今年で十六になりますが……」

「それなら同い年だ。同い年の女の子を直立不動にして会話なんてできるか? 俺はできないね。だから座って」

 有無を言わせず、護堂は畳み掛けた。ちゃっかりと歳を確認する。原作通りに同い年だった。

 リリアナは、ギクシャクとした動作で護堂のとなりにおいてあったイスに座った。そこまで言われて断ることはできなかったのだ。

 リリアナは一息ついて、

「強引ですね」

 と言った。

 しかし、言葉とは裏腹に、表情は緩んでいた。幾度か会話を交わす中で緊張が解れたのだろう。

「そういえば、晶から聞いたんだけど侯爵のところに手切れを言いに行ったんだよな? 大丈夫だったか?」

「はい。侯爵は好きにすればいいと投げやりな感じでしたから。敗北したことでわたし一人に意識を向けることがなくなったのでしょうか」 

 裏切り者は手打ちにするのが基本であるが、ヴォバンにとってはリリアナは重要性のある人物ではなかった。また、ヴォバンは盲従するタイプよりも反骨心の強い人物を好むし、敗北した直後に小娘一人を殺したところで、恥の上塗りに思えたのかもしれない。

 ともあれ、リリアナの離反で《青銅黒十字》が害されるということはなさそうだ。

 そうなっても、イタリアでヴォバン対サルバトーレの大戦が始まるだけだろうが。

 護堂は気になっていたリリアナの身の振りようがいいところに落ち着いているのを確認すると、手を組んだ。

「それで、リリアナさん。確認したいこと、というのは?」

 リリアナが投函の魔術で送ってきた手紙には、確認したいことがある、とあった。人目を避けたのは、それもあってのことだろう。

 思い当たる節がないわけでもないが。

「いや、あのですね」 

 リリアナは、恥らうように目線を右往左往させる。

 硬い印象の少女だが、そういう仕草をすると一転して乙女という言葉が似合う少女になる。なるほど、確かに妖精だ、と護堂は思った。

「その、高橋晶に持たせていたという、アレについてお聞きしたいなと、思いまして……」

「アレ? ああ、アレなァ」

 護堂は生返事をした。アレというのは、もちろんリリアナの黒歴史のことである。リリアナは自分の妄想(主に俺様的な男に言い寄られる女の子という構図の恋愛小説)を人知れず(と思っている)執筆するのが趣味であり、それを恥ずかしいとひた隠しにしている。原作においてはエリカがリリアナに仕えるメイドを買収して入手して、それを脅しの手段としているが、一足早く護堂がその手を使った。結果はヴォバンからの離反という形で現れた。効果は抜群だ。

「アレが、どうしたんだ?」

「どうした。いや、どうもしませんが……」

「じゃあ、いいじゃないか」

「よ、よくありません! アレは……!」

 リリアナは面白いくらいに食いついてくる。護堂は内心で謝りながらも楽しんでいる自分がいた。謝罪三割、楽しさ七割くらいの比率で。

 顔を紅くするリリアナに護堂は言う。

「アレは、恋愛小説に見えたけどな。俺には」

「…………はい」

「君が書いたんだろ」

「…………はい」

「人に知られるのがそんなに恥ずかしいの?」

「…………はい」

 確認するごとに消沈していくリリアナ。テンションのジェットコースターは上がり下がりを繰り返し、今は底辺を走行中だ。

「なるほどね。それじゃあ、誰にも言わないほうがいいか」

 そう呟くとリリアナはガバッと顔を上げて

「ほ、本当ですか!?」

 と期待を込めた顔つきで言った。

「ああ。誰にも言わない。約束しよう」

「あの、エリカ・ブランデッリにも」

「もちろん。彼女には特に気をつけることにするよ」

 調子に乗って言ってしまった。ミスったと表情をしかめるが、リリアナは気づかなかったようだ。

 ごめん、エリカはもう知っているんだ、とは言えない。もっとも、護堂が教えたわけではないし、あの小説も大部分はエリカから融通してもらったものだ。それを言ってしまうとリリアナは悶死してしまうかもしれないので言えないのだ。

「高橋晶のあの封筒は」

「あとで晶に言って処分してもらうよ」

 護堂は、表情を取り繕って約束した。これは確実に守らないとな、と護堂の良心が誓った。面白がってリリアナをからかってみたものの、そろそろ良心が鎌首を擡げ始めてきた。

「それと、もう一つ確認したいことがあります」

「ん?」

 リリアナは真剣なまなざしで、

「どうやってわたしの秘密の趣味を暴いたのですか?」

 護堂は押し黙った。

 それを聞かれると痛い。言い訳をするにはどうするべきか? それも、考える時間はたっぷりあったので大丈夫だ。

「俺の第一の権能は知っている?」

「はい。ガブリエルを倒して簒奪された『強制言語』の力。確か、あらゆるものにたいして言葉で行動を強制する力だとか」

 リリアナは護堂の権能をそう評した。それはそのままグリニッジ賢人議会の『強制言語』に対する認識だろう。それを確認できたのも収穫だ。本質は伝心にあるわけで、なにも言霊がすべてではない。

「まあ、そうだな。もっとも、この権能の影響か超低確率で人の思念が飛び込んでくることもあるんだ。俺の言語って相手の魂に働きかけるものだし」

 無論嘘。ただし後半は事実なので、まるっきり嘘というわけでもない。リリアナは顔を青くしていた。彼女は、今の護堂の言葉を聞いて、自分の思考が筒抜けだったと思ってしまったことだろう。

「あの、そ、それでは」

「君の趣味を覗き見してしまったことは本当に申し訳なく思う。ただ、わかってほしいのは、決して意図してやったことじゃないってことなんだ。今回は侯爵との戦いがあったから仕方なく使わせてもらったけど、あれも偶発的な事故が重なって起こったようなものなんだよ。使える物は使わないと侯爵には勝てないだろ? 君を確実に足止めすることで、後方の憂いを取り去る必要があったんだ」

 護堂は頭を下げて謝った。リリアナの知識も別に覗き見したわけでなく初めからあったもので、それを戦場で利用したのも、どうしても勝たねばならない状況下ではしかたのないことだった。晶が負けるとは思わないが、もしも、何もしないで負けてしまったら後悔してもしきれない。

 リリアナもまあ、そういうことなら、としぶしぶ納得した。侯爵戦を持ち出され、そうする必要があったと力説されたことで納得させられた形になる。

 護堂はこれ以上の追及を避けようと話を変える。

「でも、まあ、目を通したけど、結構面白かったよ。あの小説」

「え、そうですか?」

 リリアナは心なしか表情を変えて、嬉しそうにした。

「うん。女性向けの恋愛小説というのはあまり読まないけど、楽しめた」

「ありがとうございます」

 自分の書いた小説を面白いと言われたのがうれしかったのか少し顔を紅くしながらはにかむ。

「気になるのは、あれって場面と場面につながりがないことが多いよね? 読者的には飛び飛びじゃなくて過程があったほうがよかったかな」

「はい、そうですね。ただ、あれは、その……わたしが書きたい場面を殴り書きしただけですので。そもそも誰かに読んでもらうことを想定していませんでしたし」

「ふうん。なるほどね。だから短編にも満たない感じになってたわけか」

「そういうことになります」

 なるほど、と護堂は頷く。

「ところで、アレは話が続くのかな?」

 リリアナはきょとんとして、一応、と答えた。

 殴り書きであれ、それなりに構成はしていたということだろう。そう思ったのは、話の登場人物の設定がやけに作りこまれていたからだった。どんな人物なのか、家庭、性格、能力などがちゃんと形作られていた。それだけしていながらただの殴り書きで終えているのはそれが単にリリアナの妄想の産物だからだろう。それは、もったいないと思えた。

「もし、リリアナさんさえよければ続編を読ませてもらいたいな」

「え゛…………」

 リリアナは凍りついたように固まった。そして、

「はあッ!?」

 ズザッと身を引き、素っ頓狂な声を上げてアタフタとしながら、両手を振った。

「ム、ムリです! そんなこと! 突然何を言い出すのかと思えば!」

「そんなに驚くことか? 俺はただ、先が気になるなと思っただけで、他意はないんだ。気に障ったのなら謝るよ」

「気には障りませんが、そんな風に期待していただくような物でもありませんし」

「そんなに卑下することもないと思うけどな。面白かったという事実はあるわけだし、面白い話の先が気になるのは読者として当然の心理じゃないか」

「それは、確かにその通りです。しかし……」

「まあ、気が向いたらでいいよ。ムリはしないに限るしな」

「はあ」

 護堂の意図がつかめず、生返事を返すリリアナ。

 小説の話をすることに関して吹っ切れたのか、普通に話が進むようになった。

 それから、しばらく護堂はリリアナの小説についての感想を語り、リリアナはいちいち頷いてはそれに対する意見を述べたりしていた。

 護堂も本を読むタイプの人間だ。それは実家が元々古書店で、生まれながらにして大量の本に囲まれていたから、自然に本を読むようになっていった。ジャンルは小説から新書まで様々。一応カンピオーネになってからは神話や民俗学の本にも手を出していた。祖父の一郎がその手のスペシャリストとあって、かなりマニアックなレベルで本が取り揃えられていたのだ。

 意外にも本に関する会話は弾み、小一時間は語っただろうか、護堂は、読書家の友人はいるものの、話が合うかというと別になる。運の悪いことに、護堂の友人には同じ本を読む人は少なく、さらに意見が合うことも多くはなかった。

 読書家の友人はいるものの、話が合うかというと別になる。運の悪いことに、護堂の友人には同じ本を読む人は少なく、さらに意見が合うことも多くはなかった。

 驚いたのは、リリアナが日本の本も手にしていたことだ。日本語が堪能なのは呪術によるものもあるが、それ以上にリリアナが日本贔屓の親日家だということが大きく、仕事での来日でなければゆっくりと観光して回りたいとまで言っていた。

「それでは、わたしはこれで。こんなに長居してしまいまして申し訳ありません」

「いや、いいよ。いつもこの時間はまだ起きてるしね。どうせ眠れやしない」

 リリアナはこの部屋を訪れたときよりも、ずっとやわらかい表情で微笑んだ。月光のように涼やかな笑みに思わず目を奪われる。

「そう言っていただけると助かります。しかし、戦士には休息も必要です。差し出がましいことですが、お身体は大切になさってください」

「ああ、そうだな。心配してくれてありがとう」

 リリアナは立ち上がり、あ、と何かを思い出したかのような声を漏らした。

「どうした?」

「あ、いえ、先ほどの話なのですが……」

「先ほど?」

 護堂は首を捻る。いろいろと話してきたからピンと来るものがなかったのだ。

「その、わたしの小説の続きのことです。いつ、と断言できませんけど、もしも書くことがあればその時は、笑わないで読んでいただけますか?」

 もじもじとしながらそう言ったリリアナは、この日一番恥ずかしそうにしていた。

 護堂は、これを受け入れることにする。断る理由はもとよりない。

「もちろん。楽しみに待ってるよ」

「は、はい!」

 なんとも嬉しそうに笑って、リリアナは去って行った。

 

 

 

 リリアナが去って行った後、静寂に包まれながら護堂はベッドに寝転んだ。

 開きかけたカーテンの隙間から差し込む月光が顔を照らす。綺麗な真円を描く月の夜。銀色の騎士と語らうにはふさわしい夜だと思う。

 ともあれ、リリアナとの関係は、思いのほかうまくいった。狙ってしたわけではないが、話の流れから彼女の著作を定期的に読むこともできるようになったし、それは《青銅黒十字》とのパイプができたということでもある。結社側としては、リリアナがカンピオーネを裏切ったという行為に対して思うところはあるだろう。ヴォバンの報復に戦々恐々としているかもしれない。護堂との間に何かしらのつながりがあれば、リリアナの立場が悪くなることもあるまい。

 護堂からしても、リリアナからしても悪い話ではない。

 一応言い訳しておくならば、別にリリアナをからかうために小説が読みたいなどと言ったわけではないのだ。

 



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第四章 鉄竜遭遇編 ~ただのカカシですな~
二十五話


 深夜。草木も眠る静けさの中で晶はベッドの上に寝転びながら月を眺めていた。

 彼女の能力の一つに月光から大地の力を取り入れるというものがある。月と大地は地母の象徴であり晶たち媛巫女は神祖--------地母神の零落した存在の末裔に当たる。多くは霊視や神降ろしというシャーマニズム的な能力に長けているのだが、晶は違う。地母神は慈愛の女神であると同時に死に纏わる力を持つ。大地と共存していた時代、死は身近にあったからだ。晶の持つ媛巫女としての力は、この死の側面。つまり戦闘的な女神の側面を具現したものだった。

 そのせいか、晶は戦いを好む。武術も呪術も好きだ。武器も好きで、実際に彼女は銃器の呪術への応用を研究してもいる。

 対人戦闘最強という肩書きを得たのは、そうした自己の性質を突き詰めていった結果に過ぎない。

 東京都文京区にある二十階建ての高層マンションの十三階が晶の今の棲家だ。四月の終わりから五月の初めに日本呪術業界を震撼させた最大規模の反乱事件の際に、敵勢力の目標とされていた草薙静花を護衛する目的で派遣されてきたのがこのマンションに住む理由だった。ここからなら草薙護堂の住む家が目視で確認できる。任務に最善を尽くすために陣取るのであれば、ベストな選択だ。

 任務自体は簡単なものでありながら、ランクにしてSSSランク相当の超危険度の任務だった。理由は簡単で、日本のカンピオーネである護堂の逆鱗に触れる可能性が高かったからだ。当時は、正史編纂委員会も護堂の性格などを明確に把握していたわけではなく、新たに手に入れた『火雷大神』の権能も不明のまま護衛をしなければならないという状況は、護堂の性格を知っている者ならなんともないことでも、そうでない者からしたら天地が逆転してしまいそうなほどの不安感があっただろう。触らぬ神に祟りなし。しかし、触れねばならないという状況を前にして、関係者は祈るような気持ちで任に当たっていた。

 思い返せば無駄な心配ばかりしていたと思う。

 護堂は噂に聞くような傍若無人な魔王のイメージとはかけ離れた人物だったからだ。

 第一印象は普通のお兄さん。妹思いで友だち思いで、魔王の名を冠するほどの破壊的なイメージは一切なく、包み込むような暖かさを感じた。委員会側の不安は、まったく意味のないものだったのだ。

 知り合ってからまだ二ヶ月。しかし、その二ヶ月の間に、護堂は二度の激戦を潜り抜けた。その渦中には晶も参加していて、一度目はまったく役に立てずに悔しい思いをした。むしろ足を引っ張り、命を救われもした。対人戦闘最強を謳いながら、足がすくんで動けなかったことは、恥ですらあった。高橋家は武士の家柄。幼少より武士道を叩き込まれてきたのだ。敵を前に怖気づくなどあってはならない失態だった。

 二度目のヴォバン戦では、うって変わってただ一人で奮戦した。当初から、胸のうちにもやもやとしたものがあったが、それを差し置いて戦い、リリアナ・クラニチャールを自軍に寝返らせるという戦果をもたらすことができた。

 それだけの結果を出した晶は、月明かりの下、掛け布団を抱きしめて顔をうずめていた。

「えへへー。誉められちゃったー!」

 布団に押し付けてなおもくぐもった声は隠し切れない。

 『まつろわぬ神』に怖気づき、護堂の足を引っ張ったことが恥。だから努力しよう。というのが当初の考えだったのに、六月の終わりになってみれば、護堂の役に立てなかったことが恥。だから、護堂の役に立とうという方向に当人も気づかぬうちに変わっていたのだ。 

 この日、入院中の護堂を見舞ったとき、晶は護堂から誉めてもらった。リリアナを寝返らせたことや危険な役目を果たしてくれたことについて感謝された。それがたまらなく嬉しくて、家に帰って来てからも終始破顔したままだった。

 どれくらい嬉しかったかというと、今にも自転車で都内を爆走して回り、富士山を駆け上って朝日に向かって愛槍を投擲し、岩肌を転げて下山しても収まらない程度には多幸感に溢れている。今なら泳いで太平洋を横断し、琵琶湖の水を飲み干すことすらも不可能ではない、気がする。

『今回はありがとう。本当に危ない役回りだったのに、引き受けてくれて。晶のおかげで後ろを気にすることなく戦えたよ』

 と言ってもらえた。それはつまり、背中を守ったということに他ならず、武士道を行くものとして名誉極まりないものだった。

 この日の会話はもうこれくらいしか覚えていない。自分が思っていた以上に舞い上がってしまったものだから、それを悟られないように隠すので精一杯だった。必死で理性を働かせた結果、誰もいない家に帰ってくるなり精神が暴走気味になってしまったようだ。脳内では護堂の言葉が壊れたテープレコーダーのようにリピートされている。

「~~~~~~~!」

 もはや抱きつきからプロレスの域にまで達したホールドで布団がねじれる。まるで、綿(ないぞう)を搾り出そうというかのごとき光景。無意識のうちに溢れる呪力が腕力を強化していた。制御できていないのか、制御するという発想がすでにないのか。ここまでくると布団一枚が圧搾されるだけで済むのはむしろ幸運だ。

「先輩。先輩ー。えへへー。ふああー」

 奇声を発してベッドの上を転げまわり、足をばたつかせる。平素の彼女を知る者ならば度肝を抜かれることだろう。脳の回路がおかしくなっているのだろうか。ドーパミンもエンドルフィンも堰を切ったようにあふれ出しているに違いない。覚せい剤はドーパミンを過剰分泌させるという。エンドルフィンはモルヒネに似た作用がある。それが大量分泌となればどうなるか。心臓はドキドキと早鐘を打っているし、血圧も高まっている。もっとも、これに関しては理由が無きにしも非ず。なにせこの日は月が真円を描く夜。地母の血が月の中で一番昂ぶる時間帯なのだから。おまけに晶の先祖がえりに等しい強力で純度の高い血は、主に戦闘方面に特化している。興奮作用は他の媛巫女とは比較にならない。

「もう、もう、眠れないじゃないですかー! 先輩のせいでー!」

 身を挺して守ってもらっていた祐理に嫉妬心があったとか、力及ばず足を引っ張ったとか、いろいろとあったが、もはやどうでもいい。背中を守った。役に立った。誉められた。プラス方向で思考が固まっていたのだからマイナス部分は東京湾にでも沈めればよい。

 思いついたようにむくりと起き上がった晶は布団を抱いたまま胡坐をかく。抱きしめた布団に顎を乗せつつ、薄暗い部屋の片隅にかかる掛け軸を見た。そのときは、のぼせた頭も冷静さを取り戻す。

 『一志懸命』

 と楷書で書かれたそれは高橋家の家訓。

 元々は『一所懸命』だった四文字熟語。それは武士の在り方を表す語だ。自分の領地を守るために武装化したのが武士の始まり。そしてそれが今の『一生懸命』につながっていく。とはいえ、一所懸命の武士の在り方は江戸時代の到来とともに廃れていった。土地のためではなく、幕府のために命をかけることが武士道とされたから。明治維新後は天皇やお国のため。戦後は個人主義に走る社会の中で、お国のためにという考え方すらも否定的に見られてしまう。その中で高橋家が見出したのが己の志に命を懸けるということだった。個人主義と武士道の融和を図ったのだろう。

 比較的奔放な家庭の中でただ一つ守られてきたこの言葉。自分は一体なにに命を懸けるべきか。それを問いながら生きてきたのが晶の人生だった。

「武士としての志……女としての志……」

 晶は呟きながらまたベッドに倒れこむ。

「武士……侍……忠義……侍る……先輩の、隣に、侍る? ~~~~~~~~!」

 それができたらどれほど心が浮き立つか。きっと今の比ではあるまい。悶死するかもしれない。侍るといってもそれは武士としてか、それとも女としてか、それすらも今の晶には定かではない。恋慕と尊敬が入り混じり、収拾がつかない状況に陥っている。

「えっふふぅー。先輩が主君かァー。いいな。ご主人様だー」

 世界に名を馳せる魔王の臣となる。魅力的だ。相手が護堂ならばなおさらだ。

「ご主人様。ご主人様ァ。あふう、なんか背徳的。はあ、はあ」

 晶の暴走は止まるところを知らない。ブレーキの壊れた機関車のようにただ加速していくだけだ。これほどまでに絶好調の晴れ晴れとした気分はいまだかつてなかったろう。最高にハイになっている。フルムーン・ハイ。

 そして、無意味にベッドを転がりまわって悶絶した結果、自分の位置すら覚束なかったらしく、あろうことか端からすべり落ちて背中を強打してしまった。同時に、ベッドの隣においてあった小さな本棚に頭をぶつける。

「うぐ……!」

 息が詰まる。何が起こったのか一瞬わからず思考がクリアに。そして、目を開けたとき、視界に入ったのは-----------今まさに晶の顔面目掛けて落ちてくる地球儀だった。

「あうッ!?」

 眠れぬ夜が終わりを告げた瞬間だ。星の火花を幻視して、布団を抱きしめていた両腕が力なく床に落ちた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

「おまえ、本当に顔色悪いぞ。大丈夫か?」

 護堂が晶に会ったとき、真っ先に口にしたのがそれだった。

 退院した直後の病院の前。出迎えたのは静花と晶だった。晶がここにいることを静花は不思議がったようだが、護堂の言うとおり、体調不良を隠し切れない様子で、早く帰って寝ろ、と言いたくなるほどに具合が悪そうだった。診察を受けに来たのだろうと納得した。

「いえ、大丈夫です。ちょっと予想外に反動が強く……すみません。こんな目出度い日に」

 それは、どんよりとした雲が晶の頭上に立ち込めて、雨を降らせているようだった。

 テンションがとてつもなく低い。

「反動? 反動ってなんの?」

 家路を行きながら、護堂は後ろを歩く晶に尋ねた。

「月に一回来るんです……それが、昨日強すぎたというか」

 ぼそっと呟いた晶の言葉を理解するのに少々の時間を要した。そして、護堂は身を引いて、静花は目をまん丸に広げて驚き、

「ちょッ! 晶ちゃん、何言って……お兄ちゃん!」

「すまん! 今のは全面的に俺が悪い!」

 静花に叱りつけられた護堂が慌てて頭を下げる。晶は晶で自分の失言に気づいたのか、顔を紅くして口元を手で押さえた。

「い、いえ、お二人が考えていることとはたぶん違いましてですね! その、生まれ持っての物と言いますか……説明しづらいんですけど」

「うん。いいよいいよ、デリケートな問題だもんね」

「ありがとう。静花ちゃん」

 と静花は晶の背中を摩り、護堂はいたたまれなくなって早足になった。

 

 事情が事情だけに、この日も護堂は学校を休んだ。余り休みすぎるのも問題ではあるのだが、どこから漏れ出たのか草薙護堂が路上で倒れていた、などという話が広まっていたために、早々の退院ができなかったからだ。そのあたりは委員会側が何かしらの情報操作を行ったらしい。晶や祐理も、事件の関係者として後始末に奔走することになり、この一週間ほど、学校に通えない日々が続いた。晶に関しては、この日は完全にグロッキー状態になっていたために、仕方ないと誰もが納得することだろう。

「あれ? これはいったい」

 家もすぐそこというところまで来たとき、近くの公園からお囃子の音が聞こえてきた。見れば、いくつかで店が立ち並んでいて、まだ準備中ではあるが、小規模な祭が開催されるようだ。お囃子は機材のテストとして流されていた。

 ここは、地域の住民生活に密着した公園だ。そこそこの広さはあって、平日でも夕方になれば小学生がボールを蹴って遊ぶ姿を見ることができる。ブランコが一基にシーソーが二基あって、間抜けな顔をしたパンダとライオンのスプリング遊具があるだけの公園だが、昔から地元住民からは愛されてきた。護堂も小さいころはよくつれて来られたものだし、ここでよく幼馴染の明日香と遊んだことを思い出した。

「そうか、明日から町内会の祭だったな」

「明日なんですか?」

「ああ」

 と護堂は頷いて、

「もうすぐ七夕だろ? うちの町内会は毎年七夕前にここで出店をだすんだ」

「そうなんですか」

「じゃあさ、晶ちゃん。もしも明日体調がよかったらこのお祭りに行ってみない?」

 興味深そうに準備の様子を眺めている晶を静花が誘った。

「いいの?」

「もちろん。晶ちゃんの具合だけがネックだよ。早く帰って寝ないと」

「うん、そうだね。そうする」

 その後すぐに晶は別の道を行き、自宅のあるマンションに向かった。

 護堂と静花は晶を見送ると、並んで家に帰った。

 

 

 翌日の夜。午後八時を回ったころ、護堂と静花は晶と待ち合わせて公園に向かった。とくに浴衣などは着ていない。こんな小さな町内会の祭に着て行けば逆に浮いてしまう。普通に私服で済ませた。そろそろ本格的な夏が始まろうという季節ではあるが、蒸し暑くなるのはこれからのこと。今はまだ、時折肌寒い風が吹くこともあり、春物の薄手の長袖がちょうどよい気候だった。

 ついてみると、物寂しい感じだった公園は、オレンジ色の照明を吊り上げた紐で天を覆われ暖かい光に包まれていて、人で溢れ、老若男女様々な年代の層が訪れていた。

 狭い公園の中によくこれほどの人が入るものだと感心しながら歩を進める。途中で何人かと接触してしまいそうになりながらなんとかたこ焼きとオレンジジュースだけを確保して人込みから離れる。

 公園の中で出店が開かれているのは入り口付近で、奥のところは薄暗いままだ。ある程度楽しんだ人や一服入れたい人などは、ここにやってきて自由に過ごしている。

 ちょうど空いていたベンチに腰掛けてガヤガヤとしている出店あたりを眺める。ちらほらと見たことのある顔が見えるのは、地元の小さな祭だからだ。商店街のおばさんたちも顔を出していた。

「先輩、お疲れですか?」

 人込みを抜け出してきた晶がやってきた。護堂は腰を浮かせてベンチに座るスペースを作り、晶はそこに座った。

「静花は一緒じゃないのか?」

「あー、どうやら小学校のときのお友だちに捕まってしまったらしく。引きずられていきましたね」

「そうか。それはすまないな。アイツの方から誘ったっていうのに」

 活発な静花以上に活発な友人がそういえばいたな、と思い返しながら晶に謝った。

「いえ、そんなことはないですよ。すごく楽しかったです。わたし、あまりこういうところに顔を出したことがなかったので」

「そうなのか」

「はい。祭祀が絡むものはありますけど。ここは御神輿もでないみたいですし、神様とは無縁のお祭なんですね」

「神様、か。たぶんそうだろうな。もともとは、地域の叔父さんたちが七夕前に飲み明かしたところから始まったっていうし。もうずいぶんと前のことだけど」

「それが、ここまでになったんですか。すごいんですね」

 晶は手に持っていたジュースの缶に唇をつけた。舐める程度なのは、会話を余計に途切れさせないようにするためだ。

「祭っていうと、やっぱりもともとは神様関係なんだろうけどな。今ではどこもこんな感じだろ。信仰心よりもエンターテイメントに重きを置いている」

「ですね」

「やっぱり、呪術者としては納得いかないとかあるのか?」

 晶は首を振って否定した。

「これはこれで楽しいですし、否定することはないです。ただ、日本の祭の観念は『まつろわぬ神』を考える上で結構大切なところがありますし、わたしたちは見直していく必要があると思います」

「それはどういうことだ?」

「『まつろわぬ神』は超自然的災害を神話の形に閉じ込めたものが、その神話から抜け出して形を得たもの、というのが一応の定義ではあります。でも、これは一定の説明をするためのものであって絶対ではないということを頭に入れておいてください」

 護堂がこれまで聞いた説明から、人間では理解も対処もできない力を、人間でもなんとかできそうな、せめて原理だけでも理解できる程度に落とし込んだものという認識にしていた。晶の説明も、この認識からはみ出すものではなかった。護堂は先を促す。

「漢字よりも以前から『まつる』という言葉があって、そこにいくつもの漢字を用途ごとに設定していきました」

 晶は、どこからかペンと紙を持ち出して字を書き始めた。

 『祭』『祀』『奉』『政』『纏』の五つの字が書かれていた。どれも『マツ』ると読む字だ。

 晶は一つ一つの漢字をペン先で指し示しながら、説明を加えていく。

 『祭』という字は、漢字の本来の意味としては『葬儀』であり、日本でも『慰霊』という意味合いを持っていた。例えば、古神道の先祖崇拝が仏教と神仏習合して生まれたお盆は、先祖崇拝の祭である。

 『祀』は、神・尊に祈ったり、時に儀式そのものを指す漢字であり、神社神道の本質はまさにここにある。

 さらに古くは『かんなぎ』といい、霊や命、物が『荒ぶる神』にならないようにと願うものだった。巫女のことを『かんなぎ』と言うのはここから来ている。

 『奉』は、『たてまつる』とも読み、目上の人に対する謙譲の意を示す言葉だ。目上というのは天皇であり、公家であり、さらにその上の神々のことである。

 これは元来、猟師や漁師が、獲物の一部を神に『奉げる』行為であった。今も地鎮祭などで御米を撒いたりするのはこの名残だという。ちなみに『まつろわぬ神』の『不順ぬ』も初めはこの『奉』が原義だ。税金や供物を中央に『奉』げない勢力が『不順』ぬとされたからだ。

 『政』は、文字通り政治のことだ。古代の日本は祭政一致の原則に基づいた政治が行われていた。『まつる』という行為は神と関わりを持つということであり、関わりを持つことができる人間、つまり強大な呪力の持ち主が祭主を務め、同時に政治を取り仕切った。

 『纏』という字。これは裁縫で言う『まつり縫い』の『纏る』だ。『~~にまつわる』という形でも使う。漢字の意味は、『まとわりつく』ということ。

「どの字も本来は同じ意味合いで使っていたものが、時代とともに用途が細かくなって分化したと考えるべきでしょうね」

「なるほどね」

「日本の古代の世界で神を『マツ』るということは極めて重要な意味を持ちます。なぜならば神を『マツ』る呪術者はそれだけで武力以上の力と権威を手にすることができたからです」

「武力以上の?」

 これまで、農耕民や製鉄民が武力によって討伐されて鬼へと変わった話は聞いたが、これでは逆な気もする。そう護堂が質問すると、晶は笑んで。

「じゃあ、卑弥呼は武力で国を治めましたか?」

 と問い返してきた。

 ぐうの音も出ない。卑弥呼は鬼道、即ち呪術を使って国を治めていたとされる。彼女亡き後は男の王が後を継いだが国内が治まらず、卑弥呼に縁のある台与が継いで治まったという。卑弥呼はシャーマン。巫女。つまりは『かんなぎ』だった。荒ぶる神々を押さえる力があった、あるいはあると思われていたということだろう。

「他にも面白い話はいろいろとあります。例えば神武東征では、東征軍は畿内での戦いで尽く負けているんです。武力による正面きっての戦いではまったく勝てなかったわけです。そしたら神様から八咫烏が遣わされて熊野国から大和国まで導かれてあっさり勝ってしまいます。長髄彦との戦いでは、やっぱり苦戦しましたけどどこからかやってきた金鵄に助けられて大勝利。それに天皇の仕事の多くは神々を祀ることですよね」

「なるほどね。純粋に武力だけで勝ったわけでなく、当時は武力以上に神の加護を必要としていたわけか」

 晶は頷いた。

「しかし、都合がよすぎるな。神武東征って」

「神話ですからね。ただ、この八咫烏も厄介でして、怨霊神ととる人もいるんですよね」

「なんでだ? 吉兆の鳥だろう?」

「熊野三山では烏はミサキ神と考えられています。『ミサキ』自体は神の先鋒。つまりは案内人を指す言葉で、ミサキ神は神様の遣いの総称です。ただ、同時にミサキというのは死霊のことなんですよ。知ってますか、七人ミサキ」

 護堂もその名を聞いたことはあった。舟を襲う妖怪で、四国中国地方の民間伝承に現れる。溺死した人の怨霊が正体らしい。

「八咫烏も当然ミサキ神。この烏が現れたのは熊野で、神武天皇を先導したのだから間違いないです」

 熊野とは和歌山県南部と三重県に跨る地域だ。古来より聖地として名高く、その歴史を評価されて熊野古道は世界遺産となった。

「はあ、それが怨霊とどう関わりがあるんだ?」

「兵力に劣る軍隊が敵に勝利するためには謀略を使う以外にありません。スサノオが八岐大蛇を倒したときにお酒を使ったように、何かしらの搦め手が必要です。東征軍がとったのは敵を背後から強襲するという手でしょう。もっとも、敵が強すぎて大阪からの上陸を断念せざるを得なかったということもありますが」

 護堂は晶の言葉に耳を傾ける。非常に興味深い内容だと思えたからだ。

「このとき上陸したのが熊野なわけですね。ここで不思議なことが一つ。戦争するほどの大軍で熊野に押し入って、その後の進軍が上手く行きますか? ということなんですよ。それは地形を考えればわかることですが」

「熊野って言ったら和歌山のあそこか。山岳地帯、だよね」

 晶はこくり、と頷いた。

「そうです。しかも古代のですよ。そもそも『熊野』って言葉の由来を紀伊続風土記に見ると鬱蒼たる森林に覆い隠されているためだっていいますしね」

 ここで使われている漢字は『隈』。『隅にコモル』ということだ。これは同時に死霊が籠もる土地とも取れるらしい。

 『熊野は隈にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱なるを以て名づく』

 これが原文。だからこそ、霊地、聖地となりうるのだろうか。

「何が言いたいかっていうとですね。見ず知らずの山岳地帯を行軍なんてムリなんですよ。道だってないんですから。それが、東征を成功させるほどの大進撃につながったとなると、地理に明るい案内人が必要になるわけで」

 そこまで言われて、さすがの護堂も得心がいった。カーナビはおろか、地図すらない土地で、熊野三千六百峰とまで呼ばれる山々が連なるのだ。しかも、明らかに敵地。そこにあるのは『地元民しか知らない道』だけなのだろう。とするとだ。

「搦め手ってのは裏切り者のことか、もしくは地元民をそのまま使ったか。どちらにしても熊野の山々を知り尽くしている人たちに道案内をさせたのか!」

 そして、それが八咫烏怨霊説における八咫烏の正体だったのだ。

「そのとおりです。八咫烏はその後、遣いとなって弟磯城を降参させる活躍をしますが、それは顔見知りなのか同郷なのかということでしょう。使者の役割をしたわけです。そして八咫烏の活躍はそこまでです。いざ長髄彦との決戦となると現れるのはなぜか金鵄になっています。それゆえに同一視もされるのですが、これはつまり、八咫烏の必要性の喪失ではないかと思われます」

「山を越えたし後は決戦。裏切り者はもう必要なしってことか。背中を刺されちゃどうにもならないしな」

 そして裏切り者の末路は往々にして悲惨である。怨霊になるには十分な要素と言えるだろう。

「だけど、それを幸運の鳥として祀ったのは?」

「御霊神ですよ。菅原道真や崇徳院がそうであるように恨みを残して死んでいった人たちの祟りを避ける有効な手段は神様にすることです。それは未だに出雲が残っているように御霊という言葉はなくとも魂が人に仇をなすという観念は古代からあって、そしてそれすらも味方にしてしまう方法を古代人は知っていたわけです」

 護堂は頭を働かせる。仮にも民俗学の教授を祖父とし、幼いころからフィールドワークに駆り出されてきた身だ。その手の話は比較的好きな領域。これまでの話を頭の中でまとめつつ、既有知識に関連付ける。

 そもそも、先祖崇拝もその系統に当たる。そしてそれは縄文時代の屈葬を見ればわかるように、とてつもなく古い時代から存在していた信仰だっただろうし、祭祀は荒ぶる神を鎮めるための物だ。

「あ……」 

 護堂は呟き、

「話が戻った」

 と言った。

 晶は満足げに目を細めた。

「気付いてくれてよかったです」

 晶は缶ジュースを口に含んで喉を潤すと、また語りだした。

「御霊神の作り方は簡単です。死んで災いを為す神。『荒ぶる神』を『マツ』るんですよ」

「神となることで人々を害することがなくなる」

「怨霊が仕出かすことは大体決まっています。飢饉や疫病、落雷です。当時の人々からしたら超自然的現象ってわけです。例えば菅原道真であれば、清涼殿に雷を落として多くの朝廷関係者の命を奪いましたが、これは逆です。落雷という超自然現象が起こったから、それを菅原道真のものとして扱ったんです。そのほうが、納得できますからね。怨霊のせいだって。そして、菅原道真は結果として『マツ』り上げられて御霊となって雷神になったんです」

「それって『まつろわぬ神』を神話に閉じ込めたって話と同じ」

「はい、そうです。そこから抜け出してきたのが『まつろわぬ神』なんです。菅原道真という殻を被った雷の超自然現象。殻を被ったがゆえに、その力を振るう範囲は神話をベースに制限される。無秩序でない分マシということです」

「なんかすごいな……」

 その話を聞いて、少し興奮してきた護堂だった。

 これまでの疑問の一部が氷解したような気がしたからだ。

「もうお分かりかと思いますが、神を『マツ』るという行為は超自然現象を押さえつけるという行為でもあります。例えば『(コレ)』は『まとわりつく』という意味ですが、それはつまり『まとわりつかせる』ということ。身動きを封じて押さえ込んでしまうと取れます。神を『マツ』るということはつまり、『神』を封じるということなんです。それは、『まつろわせる』ということです」

 なるほど、と護堂は納得した。

「それが『祭』と『まつろわぬ神』の関係性ってことか」

「はい」

「いや、面白い話だった。なるほどなー。それにしても、まさかこの祭からこんなに話が広がるとは思わなかった」

「あ、それはそうですね。ふふ、わたしもそう思います」

 笑った晶は立ち上がって背伸びをした。いつの間にか手に持っていた缶は空になっている。

「あ、静花ちゃんも解放されたみたいですね。たくさん話して喉も渇きましたし、わたし、向こうに行ってきますね」

 そう言って晶は駆け出し、出店近くでこちらの様子を伺っていた静花と合流した。

 護堂は自分なりに知識を組み合わせてこの日の会話の内容を整理する。その中で、ふと、

「そういえば天照大神って『マツ』る神だったなあ」

 ということに思い至った。

 太陽の女神天照大神。武力で敵を圧倒するような描写はないものの、スサノオを相手に武装するところはある。また、彼女が天の岩戸に隠れると日食が生じて困ってしまったという話がある。その後に開かれたのは神々の祭だった。天照大神をおびき出すための祭。それは天照大神を『まつろわせる』ための祭なのではないだろうか。そして、それと同時にこの女神は巫女であり、神々を『マツ』る役割を持つ。卑弥呼と同一視されることもあるというのは、わからなくもない。

 護堂はなんとなく、空を見上げる。

 神話の時代の神々の話。それが日本の建国神話ともつながりがあり、さらに遡っていくことができるのだということがわかった。カンピオーネとしての戦いが、これからも続いていく。それは、連綿と受け継がれてきた民族の歴史との戦いなのだ、と意味もなく感傷に浸ってしまったのだった。

 



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二十六話

 七月も中ごろとなり、日差しが日に日に強くなっていく今日この頃。東京は幸いにして早くに梅雨があけて、気持ちのよい真っ青な空が天上を覆っていた。

 昨年までの護堂であれば、こんな日は外に出てボールでも蹴っていたであろうが、高校一年生となった今の護堂の生活は一年前と比べて大きく変わってしまっていた。その変化は、まるで蝶の蛹から蝉が生まれたかのようなレベルでかけ離れているもので、かつては忌諱して止まないものだったのだが、実際にカンピオーネという存在になってしまい、死線を潜り抜けていると、これが自分の人生なんだと諦めにも似た悟りの心境に至ってしまうのだった。なにせ、まだ三ヶ月だ。三ヶ月で『まつろわぬ神』との戦闘は四回。ヴォバン侯爵も含めて五回。恐るべき頻度と言えよう。侯爵のところに行かない分が護堂のところに流れ込んできているのではないかと思わされるほどに数が多い。もっとも、カンピオーネという存在は台風のめのようなもので、どこに行っても争いには巻き込まれるらしい。

(ヴォバンが暇とか言ってたのは、たぶん、自分と戦う価値がないと判断したものを勘定に入れなかったからだな)

 などと、護堂は思っていたりもした。

 今の護堂の生活は歩いていれば神様に出会う。そんな状態に陥っているといっても過言ではない。こんな頻度で戦っているのに、ヴォバンのところに神様が行かないだなんて不公平もはなはだしい。護堂は避けられない戦には腹をくくって飛び込みはすれども自分から望んで向かっていくことなどしたことがないし、するつもりもない。平和にというのはもはや無理な相談なのかもしれないが、それでも、戦いのない日々を過ごすことの大切さは身に染みて理解したところだった。

 問題は、今の生活も悪くないと思っている自分がいることだろう。

 きっと命を懸けた戦いの中にスリルを感じてしまっているのだ。ギャンブルにはまる人は、大当たりを出すことよりも、ギャンブルをするという行為によって生じるリスクと破滅へのスリルに取り憑かれるという。もしも、バトルジャンキーになってしまっているのだとすれば、早々に矯正が必要になるのではないだろうか。

 今、護堂は学校の屋上へ続く階段を上っているところだった。踊場まで来てドアを開ける。途端、熱せられた外気と、それを打ち消す程よい風が頬をなでた。遮られることのない太陽光が降り注ぐ屋上は、常にも増して温められていて、反対側には揺らめく陽炎が見えていた。

 天気がよくても気温が高すぎて屋上にはほとんど人がいなかった。

「あ、お兄ちゃん。こっち」

 明るい声で護堂を呼ぶ静花は、手招きをしている。すでにフェンスのすぐ近くに陣取っていた静花。静花を囲むように、晶と祐理も弁当を広げて座っていた。

 護堂は苦笑しながら妹たちの下へ向かう。

「なにも、こんなに暑い中で喰わなくてもいいと思うんだけどな」

 気温は今朝の報道によれば二十五度ほどにはなるという。今まさにもっとも東京が熱を持っている時間帯になろうというのに外に出るとは。

「弁当も傷んでしまうじゃないか」

「だから、すぐに食べないとだめじゃん」

 と静花。早く座れと床を叩いている。促されるままに隣に座った。

 多いときは週に三日はこの面々で集まっている。静花がいるために話すことは日常会話の域に留まっているが、時折神話や歴史、民俗学の話に飛び込んでしまうこともある。護堂に関しては一郎のこともあるので、不自然ではないにせよ、晶や祐理がそういった話についてくることができ、さらには晶に至ってはこの中でもっとも民俗学に精通しているのではないかと思わせる発言も多く、事情を知らない静花は目を丸くしていた。

「暑いぞ」

「文句言わないの。中等部が高等部に来れるのなんてここくらいしかないんだから」

「たしかにその通りだけど、わざわざ来なくても……」

 先を言いそうになって護堂は口をつぐんだ。来なくてもいい、というのはさすがに礼を失する発言だと思ったのだ。護堂自身も、この昼食を嫌がっているというわけではない。ただ、クーラーの効いた室内から出るのが億劫だったという極めて現代的な不満以外はまったくない。

「まあ、めんどくさいお話はそれくらいにして、先輩もお弁当を食べないと時間が過ぎてしまいますよ」

 晶が卵焼きを箸で掴みながら言った。

「む。その通りだな。じゃあ、お言葉に甘えて」

 護堂は弁当の蓋を開けた。何の変哲もない、ごく普通の中身だ。ソーセージやミートボールが目立つが緑が少ないという点で、少々偏りがあるだろうが、男の弁当は見た目よりもカロリーだ。気にはしない。

 食事をしながらも、なんとなく周囲が気になってしまうのは、自分の周りにいるのが美少女ばかりだからだ。晶も祐理も校内トップクラスの顔立ちをしているし、静花だって負けてはいない。これは身内びいきではなく、厳然たる事実だ。そんな女生徒の輪の中に、男が一人。溶け込めるはずもなく、当然、様々な噂が飛んでいたりするわけだ。いちいち否定して回るのも面倒なくらいで、精神的に来るものがあるのだが、彼女達はいったいどのように思っているのだろうか。

 この構図、どう見ても学内トップの女生徒たちを独り占めしている男の図にしかならず、身の危険を感じ続ける日々を送っていることに、彼女達は気づいてくれることはないだろう。

「ん?」

 と、不意に護堂は第六感を刺激するなにかを感じて首を捻った。

 あまりにも微弱で、敵意もなかったために無意識かで放置していたものを意識したのだろう。

 それは、明確な呪力だった。

「どうしました? 草薙さん」

 祐理が尋ねてくる。

「いや、どうというわけではないけど」

 護堂は箸を止めて顔を上げる。祐理と目が合い、彼女は照れなのか、ばつ悪そうに目をそらした。

 視線を右にずらして晶を見る。箸の先を咥えたままの状態で、小首を傾げている。

 件の呪力の発生源はどうやらこの二人らしい。しかし、なんのために使っているのかがよくわからない。護堂は呪術に関しては下の下だ。知識は皆無に等しく、そのうち学んでみるつもりではあるけれども、まだ何も手を出していない状態だった。ゆえに、二人の呪術が何に使われているのかということを解析する力はない。

 一体何をしているのだろうと、思いながら、隣の静花を見やる。

「はッ」

 そして、護堂は息を呑む。違いがあった。静花と自分。晶と祐理。このグループの明確な違い。

「晶も万里谷も汗、かいてないんだな」

 呟く声に二人は肩を震わせた。

 静花は怪訝そうにしていたが、護堂の呟きを聞いて、驚いていた。

「本当だ。汗かいてない。こんなに暑いのに!」

 静花が、晶の首筋に手を伸ばして確認している。見た目で汗をかいていないのではなく、本当に汗をかいていないのだ。気温二十五度オーバー。熱せられた屋上で、太陽に炙られ続けて二十数分というこのときにだ。

「まあ、ね。わたし、なぜか汗をかきにくい体質みたいなんだよねー」

 と、晶は頬を引きつらせて言い訳をする。

 静花は、不思議な体質だと思っただろうが、それ以上を追及する術を持たず、興味も持たず、あっさりと引き下がった。

 護堂はジト目で二人を見て、

『呪術で体感温度を下げているんじゃないか?』

 と念を送った。

 祐理も晶も、視線をそらす。大当たりのようだ。この暑さの中で平然としていられるからくりがわかった。

「あ、ははー」

「すいません」

 小声で謝ってくる祐理。

『別に責めているわけじゃないけど、どうせなら俺にもかけてくれればよかったのに』

 涼しくなる手段があれば使うのが人間。術で涼しくなるのであれば、クーラー以上にお手軽で経済的ではないか。俺だって暑いんだ、という護堂の主張はしかし、あっさりとダメだしを受けた。

『ムリですよ』

 晶は、護堂の念話に念話で返す。静花に悟られない水面下での会話。

『なんでだ? 他人にはかけられないとか?』

『そういうわけじゃないんですけど』

 と、一端言葉を切って、逡巡し、

『だって、先輩はカンピオーネじゃないですか』

 と、その理由を実にわかりやすく、端的に説明してくれた。

 通常の呪術はカンピオーネには通じない。その身中に宿す規格外の呪力によって、強制的に打ち消されてしまうからだ。そんな基本的なルールを、護堂は失念していた。唯一の例外は、経口摂取による呪術行使だが、まさか、キスで熱を冷ましてくれ、などと要求できるはずもない。

『空間にかけることもできますけど、それだと静花さんが違和感を覚えてしまいますし』

 とは、祐理の言だ。

 呪術に極力関わらせないという方針で静花に接しているために、余計な干渉はしないようにしていたのだ。

『じゃあ、しょうがないか……』

 やや、不服そうに護堂は会話を打ち切って食事を続ける。

 少し塩気の濃い焼き鮭を飲み込んだ護堂は、晶に話しかけた。

「そういえば、今日は話があるんじゃなかったか? すっかり忘れていたけど」

「あ、はい、そうです。けっこう大事なお話、というかお願いが」

 と、そこまで言って晶は口を噤んだ。言いにくそうに、視線を泳がせている。その挙動不審ぶりは、酸欠の鯉のようだ。

「はあ」

 と静花はため息をついた。そして、

「晶ちゃんね、お兄ちゃんに勉強を見てもらいたいんだって」

 言いよどむ晶の代わりに静花が代弁した。晶は傍目から見てもわかるくらいに赤面した。

「し、静花ちゃん……」

 晶がすがり付くように静花の腕を取る。しかし、静花は意に介さず、

「で、どうする。お兄ちゃん次第だけど」

 と、尋ねてくる。

 呪術系の話かもしれないと思っていた護堂は肩透かしを食らったような気持ちになり、とりあえず箸を置いた。

「まあ、教えるくらいどうってことないけど。もうすぐ期末だしな。そのためにか?」

 晶はコクコクと頷く。

「先輩は、すごく勉強が得意だと伺ったものですから……すみません。高等部もテスト前なのに」

「こっちは、中等部とは微妙に日程がずれているし、問題ないと思う。教科は」

「数学です。その、文系科目は得意なんですけど、理数は……理科はもう暗記と割り切るにしても、数学が全然できません」

「全然、か。それは大変だな」

 晶の意外な一面を知って、護堂は驚いた。その内心の驚きを表には出さず、快く引き受けることにした。何度も世話になっている後輩のために一肌脱ぐくらいはできないと、という心境だった。

 

 

 

 昼休みも終わりに近づき、護堂と祐理は教室に向かう。

 やはり、じろじろと視線を感じる。祐理も不快、とまではいかないものの、違和感を感じているようだ。一緒に戻ることをやめればいいのだろうが、一緒に弁当を広げ、昼休みを過ごしていながら、教室に帰るときだけ別というのも可笑しな話だ。

 あの後、晶と二、三話してわかったことは、彼女の数学に対する苦手意識はかなりのものだということだ。いや、そもそも、晶は勉強そのものを苦手としている。呪術は好きだし、昔から自然としていたことだから、それに付随する言語分野、歴史分野に触れ続けて今に至るのであって、だからといって学校の勉強に対して学習意欲があるかと言えばそうではないらしい。

「晶さんが勉強嫌いだったなんて、わたし、知りませんでした」

「そうだな。俺もはじめて聞いたからな。それに、晶はこの学校に学力で入ったわけじゃなくて、任務で潜入した形だろう。中高一貫だと進度も他と違うだろうし、苦労するよな」

「確かに、そうですね。そこまで思い至りませんでした」

 話ている間に教室についた。護堂と祐理の教室は隣。よって、ここで別れることになる。

「それではまた」

「ああ、じゃあ」

 と護堂は軽く手を上げて教室のドアを開け、中へ入っていった。

 中に入って、目前に護堂の行く手を阻む壁が立ちふさがった。それは背後に夜叉を背負うかのごとき形相でたたずむ三人の肉壁であった。

「来るとは思っていたよ」

 護堂は言った。

 男たちは、互いに視線を交わし、頷き、口を開く。

「ブルジョワジーの貴様と、今さら問答する余地なし」

「我々は立ち上がり、轟然と革命へと突き進む決意をしたのだ」

「今こそ、恋愛社会主義を樹立するべきときぞ!」

 彼らの名は、高木、名波、反町。女性をこよなく愛し、押さえ切れぬリビドーと格闘するという男子高校生の鏡とも言うべき人物だった。

「いいぞ。相手してやる。覚悟はできてたからな」

 護堂もまた、彼らの行動は読めていた。何れこういう行動に出るだろうと。よって、この展開に呆れることはあろうとも、驚き動転することなどありえない。草薙護堂は、避けられない戦いには立ち向かうという習性の持ち主なのだから。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 静花や祐理を交えた厳然公平な審議の結果、勉強は晶の家で行うことになった。

 もちろんこれには初めから反論が出た。女の子の部屋に男があがりこむのはよくない。しかも、晶は一人暮らしで、いざというときに身を守ってくれる人がいないというのが理由だった。この意見が出たときは、護堂もムッとしたものだが、客観的に言って、非の打ち所がない意見であるのもまた事実だった。女の子の一人暮らしに男が介入すべきではない。それは、女の子側だけでなく男のほうを守る意味もある。根も葉もない噂が流れることもありえるし、そうなった場合、不利な立場におかれるのは往々にして男のほうである。しかし、だからと言って草薙家を使うわけにもいかない。勉強するならば、晶と護堂は同室になることは自明の理。静花の部屋で勉強するとなれば、集中力に乱れが生じる。静花自身の勉強も捗らず、互いに足を引っ張り合う形になりかねないのだ。

 また、図書館などでの勉強は自習ならばいいが、教えるとなれば声が漏れる。周囲に気にする人も多いという意見で早々に却下になっていた。

 『強制言語』であれば、この問題をあっさりと克服できるのだが、静花の意見であるために否定できないのだった。

 そういう経緯の果てに晶の部屋で勉強会が行われることになったのだった。

 晶としても、これは想定外。勉強を教えてもらいたいとは言ったものの、まさか護堂を家に上げることになるとは思わなかったのだ。降って湧いたこの事態に、晶は自宅に戻るなり、全力で掃除を行い、洗濯物を片付け、どうにもならないものは洗濯機に放り込んで蓋をした。

 片付けが終わるとすぐに勉強道具を取りに向かう。数学のワークと教科書、そしてノートだ。それをダイニングのテーブルの上に並べる。自室にある勉強机では行わない。そこは寝室であり、プライベートルーム。護堂には断固として見せるわけにはいかない聖域なのだから。

 そうこうしている間に護堂がやってきた。部屋の中に可笑しな物がないか、自分の容姿に可笑しな点はないかと気にしながら迎え入れ、お茶を出す。

「すみません。わざわざご足労おかけして」

「全然、全然。家からも近いしね」

 と護堂は笑って許してくれた。ほっと、胸を撫で下ろす。

 一つ失敗したと思ったことと言えば、自分の服が制服のままだったということだろうか。護堂は服を着替えて来た。

 ブラウンのチノパンにカットソーを組み合わせたラフな服装は飾らない護堂の性格をそのまま現したかのように自然体だった。

「さっそく始めようか」

「あ、はい」

 晶はノートを広げ、問題に取り掛かった。

 期末試験の範囲は二次関数の分野を主として出題される。基本的な変化の割合を求めるところはできていたものの、文章題になると途端にシャーペンが動かなくなる。思考もストップする。頭が真っ白になって、文字を読んでいるのに理解できていないということに頭の片隅で気づきながらもどうにもならない。こういうときに、護堂が手を差し伸べるのだが、

(うわー、先輩が近い。うう、どうしよう。臭いとか大丈夫だよね)

 教えるためには、当然、それなりに近い距離にならねばならない。二人同時に問題集を覗き込むので、一歩間違えばキスもできてしまう距離になる。表情のみならず、睫毛の一本一本から、目鼻立ち、唇までが鮮明に見て取れる。晶の視線は、どうしてもそちらを向いてしまう。

(い、いけない。集中、集中。せっかく先輩が教えてくれているのに、こんなんじゃだめだ)

 気づくたびに自分を叱咤して問題に取り組むも、嫌いな数学と好意を持っている相手では比べるまでもなく後者に引きづられてしまうもので、ちらちらと盗み見ては慌てて視線を戻すということを繰り返していた。

 普段家の中では何をしているのだろう、とか、どんなシャンプーを使っているのだろう、とか、何時ごろに眠っているのだろうとか、そんなどうでもいいことばかりが気になってしまうのだった。

「晶、聞いているか?」

 と、晶の様子を怪訝に思った護堂が尋ねた。

 晶は飛び上がりそうになりながら大丈夫です、と答えた。

 冷水をかけられたかのように冷や汗が背筋を伝い、覚醒した頭で再び数式に向かう。数問をなんとか解いたとき、晶のシャーペンがまた止まった。

「先輩、ここ、意味がわかりません」

 問題文を親の仇であるかのようにシャーペンでつつきながら言った。

「ああ、なるほどね」

 護堂は納得した様子でそう言った。晶は、初めからこの問題で躓くことを予見されていたような気がしてムッとした。問題には立方体が描かれていた。

「…………秒速一センチで動く点Pの他に点Qがあるんですけど……こいつらは一体何がしたいんですか?」

 確かに、点Pが移動する辺AFの反対側の辺CG上に点Qが存在していた。二次関数なのだから当然ではある。

 一次関数のときに点Pにはしてやられた記憶のある晶は、動点Pが大嫌いだった。存在意義がわからない。なんなのだ、この点Pは。なぜ、動く。ジッとしていろと憎憎しげにペン先でつつきまわしたあの点が仲間を引き連れて帰ってきたのだ。悪夢の再来としか思えない。こいつらが立ちふさがる限り、テストで笑うことはできない。

「しかも、頂点A,Cを動点と結んでできる図形の面積って。動くんですけど、PとQが! 反対方向に! 面積なんかでるわけないじゃないですか。底辺は? 高さは? いったいどこなんですか!? なんでじっとしててくれないんですか! 何秒後の面積を出せばいいんですか!」

 問題文に食って掛かる晶を落ち着かせ、護堂は一つ一つ教え始めた。式の立て方から、面積の出し方までを繰り返し説き、晶が理解してくれるまで、何時間も付き合うことになったのだった。

 

 

 



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二十七話

 霊脈という考え方は和洋中何処でも存在する普遍的な呪術理論だ。世界を絶えず流れる力があり、それらによって自然や人々の生活、運命すらも変質するという強大な星の息吹。日本でも近年運気を上げる方法として風水が注目を集めているが、これもその霊脈の力にあやかろうとする思いがその根底ある。

 大自然の力を敬い、自らの生活の支えとしようという気持ちは古代人と現代人でそれほど変わるものではないということか。

 とはいえ、自然界の猛威を肌で感じていたのは、紛れもなく古代人たち。

 彼らにとって、勝手気ままに移り変わる天候は、時に命も財産も奪いつくし国を傾けるほどだった。その詳細な理論も定かでない時代。彼らはその現象を神の御業と崇め奉り、畏れ敬い、そして、祭り上げた。

 その方法は様々であるが、もっぱらそれは祭祀という形をとり、古神道においては完全なる自然崇拝。奇怪な形状の岩や木であったり、時には山や島を丸々神体として祀ったが、後に技術のめざましい進歩と社会情勢の変化が加わって、わかりやすい崇拝方法----------神社が建てられるようになった。

「さてさて、どこかの……」

 草木も眠る丑三つ時。

 シンと静まり返った夜は、意味もなく厭世観を感じさせる神秘性を持つ。黄昏時と対を成す、あの世とこの世の狭間が最も薄くなる時間帯。暗闇の中を一人の翁がゆっくりと歩を進めている。

「ほうほう、なるほどなるほど。そういう構成か。やりおるの」

 木々に覆われた中に小さな祠が立っていた。古い、今にも朽ち果てそうなその祠は、その実、日本でも特に高い霊格を持つ伊勢神宮の只中なのだ。はるか古代から、日本の歴史とともに存在する伊勢神宮は、皇室とも深いつながりを持ち、その名を知らぬ者のいない一大霊地と呼んで差し支えなく、もしも仮にその名を知らぬとあれば、絶対に無知の誹りは免れない。

 伊勢神宮の正式な名称は『神宮』だ。古くは伊勢太神宮(いせのおおかみのみや)とも呼ばれ、皇大神宮と豊受大神宮の二つの正宮を中心に別宮、摂社、末社、所管社等の総計百二十五の社の総称なのだ。 

 単に神宮とだけ呼ばれるのは、ここが国内でも最高の霊格と歴史を持つがゆえ。天照大神を祀り、天皇と最も深い縁を持つこの神宮だからこそ。

 今でこそ、観光地の一つと認識されるこの神宮も、その裏では呪術界の重要拠点のひとつであり、一般人の入ることのできない場所は数多くある。当然ながら、科学的手法と呪術的手法の両方を用いた厳重極まりない防御が四六時中行われているのである。

 さて、ではこんなにも夜の深い時間帯に、呪術的重要拠点に忍び込める者がいるだろうか。

 いるはずがない。古代からこの地を守る結界の他、何十にも施された守護は並みの術者では決して破ることはできず、警護の呪術者もいる状況で忍び込むことなどできるはずがないのだ。

 だとするならば、この翁はどれほどの技量の持ち主なのであろう。少なくとも当代最高峰で納まる器ではあるまい。なにせ、彼がこの場に現れてから今の今まで、誰一人としてこの異常に気づいていないのだから。

 結界を解除したわけではない。すり抜けた。構成を完璧に理解して、針の穴を通すほどに繊細な術を最小限に使用して誰にも悟られることなく入り込んで見せたのだ。

 神宮を守る術者たちは責めを負うべきではない。

 この手並みを見れば、彼我の実力ははっきりとしている。

 こと呪術において、この翁は常識の埒外にある。たとえ神宮を守る選りすぐりといえども、勝負になるかどうか。

 翁の表情には日本最高峰の霊地に侵入したという罪悪感はなく、終始笑顔。どこまで行っても稚気に溢れた笑顔ながらも、怖気の走る気味の悪さがあった。

 翁は枯れ枝のようにか細い指で祠に手を伸ばした。 

 結界に触れる感触は一瞬。異常を異常として認識できず、異物を排除する機構はまったく働かない。

 易々と祠に達した指は、ただその表面を撫でただけ。表面上は、なにも変化は見られない。この翁がそれだけで済ませているとは思えず、内面がどのように変化したのか推し量ることは難しい。

「さてさて、仕込みは上々」

 にたりと笑う翁は、特に急ぐでもなく悠々と道を引き返していく。疲労もなければ達成感もない。翁にとっては手慰み程度の遊戯に過ぎず、彼が欲しいのはただ結果だけ。それを楽しむためだけに、存在しているといっても過言ではないのだ。

「ほっほ。急がねば見つかってしまうのう」

 楽しそうに呟く翁は言葉の割にはずいぶんとゆっくり歩いている。呪術者との遭遇も、それはそれでよいと思っているのだろう。

 この神宮の術者が束になってかかってきたところで、相手にもならないことを翁自身が理解している。ただ、呪術をぶつけ合う感触はなんともいえない幸福感を与えてくれるものである。そうなっては己の目的を喝破される恐れもあるのだが、だからこそ惹きつけられる。

 自分の企みに気づいた上で挑んでくる者がいるとしたら、その実力如何を問わず全力で相手をするに値すると。

 淡い期待を持ちながら、結局誰にも会うことなく、翁は去っていった。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

「かかし?」

「はい。かかしです」

 テスト期間が終了し、夏休みも間近となった土曜日のことだった。

 高橋家のリビングでイスに腰掛けた護堂は、真正面に座る冬馬に呼び出されてここにいた。

 テスト期間中の初期段階において、晶に勉強を教えるために通った部屋なので、もう見慣れていた。特徴を挙げるとすれば神棚に、学校から返却されたテストが捧げられているところだろうか。チラリと見える数学七十六点。過去最高得点だそうだ。動点Pの問題は壊滅したらしいが、基本問題で挽回していたので、よかったとのこと。

 この部屋で冬馬と顔を合わせて、今さらながらに晶と冬馬が親族であることを思い出した。

 護堂の隣に晶が、冬馬の隣に祐理が座り、資料に目を通していた。現在日本呪術の最前線にいるのは、間違いなくこの部屋に集まった四人である。

 カンピオーネ草薙護堂。霊視能力系媛巫女万里谷祐理。戦闘特化型媛巫女高橋晶。正史編纂委員会東京分室所属甘粕冬馬。

 各分野においてトップクラスの実力者達。特に護堂に関しては、時間さえかければ単体で国をひっくり返すこともできなくはない。

 その護堂は、要領がつかめないという困惑した表情で冬馬を見た。

「かかしってあのかかしですか?」

「ええ、そのかかしで間違ってないと思いますよ。田畑に立てる一本足に笠を被った鳥威しの一種ですね。ちなみに漢字はこう書きます」

 冬馬はボールペンで資料の端の余白に『案山子』と書き込んだ。

 冬馬の字は丸みが強く行書体のように各線がつながるクセがついている。早く書くには適しているだろうが、おせじにも上手いとはいえなかった。 

 祐理が冬馬の字を見つめつつ、

「その案山子が一体どうしたというんですか?」

 と尋ねた。

 冬馬は、苦笑いを浮かべて、

「最近の通り魔事件はご存知ですか?」

 と言った。

「通り魔事件」

 護堂は首を捻って記憶を穿り返し、昨夜のニュース番組を思い出す。

 そういえば最近人が斬りつけられる通り魔事件が多発しているという報道があった。おそらく週明けの火曜日の終業式にでも注意勧告がなされるだろう。ちなみに月曜日は海の日で休日だ。

「あれが何か? もしかして呪術師の仕業とかですか?」

「そうと決まったわけではありません。しかし、呪力が介在していることは確かで、我々としては神獣の類がどこかに居座っているのではないかと警戒を強めているのですよ」

「人斬りの神獣ですか。でも、命に関わるような重傷ではないのですよね?」

 祐理の問いに冬馬は頷く。

「ええ、そうです。一番の重傷で手首を斬った女子中学生がいるだけで、そこまでの重傷者はいません。もしも顕現した神獣がいたとしても、それほど強力ではないと見ています」

 しかしながら事件は事件。神獣が本気で暴れたときにはカンピオーネの助けを必要とするかもしれないということで、確認をしたかったのだ。

「それで、案山子がどうつながるんです? 叔父さん」

 晶が麦茶で唇をぬらす。

「それがですね。被害者のほぼ全員が、案山子に斬られたと証言していましてね。これに関しては暗示で忘れてもらいましたが……」

「案山子、ですか」

 案山子が人を斬る。確かに、それは怪異だ。現代に蘇った妖怪伝説のようではないか。

「いや、そもそもどうやって案山子で人を斬るんです? 一本足で腕も動かないじゃないですか」

「うーん。そのあたりはなんとも。呪術者が被害者であったならまだ何とかなったかもしれませんが、一般の人にそういうことを尋ねてもわかりませんよ。斬られた時点でパニックを引き起こしますからね」

 斬りつけてきた相手が何者なのかすら、当初はわからなかったらしい。カウンセリングを繰り返す中で、そういう情報が零れ落ちてきた。それを組み合わせて捜査をしているのが現状なのだ。

「それで、どの程度絞り込めているんです?」

 護堂は尋ねるも、冬馬は苦々しげな表情で首を振る。

 進展はない。そういうことのようだ。

「そこで、我々としては、まずは祐理さんに協力していただきたいのです」

「万里谷の霊視力で相手の尻尾を掴むということですか」

「はい、そうです」

 そして、冬馬は祐理に視線を向け、頼み込んだ。

 元々責任感が人一倍強く、使命に従順な媛巫女は、聊かの逡巡を見せずに頷いた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 車に揺られること二時間と少し。やってきたのは茨城県小美玉市。視界は開け、田園風景が広がっている。 耳障りな甲高いエンジン音。ジェット戦闘機が頭上を過ぎ去っていく。

「おお。F-15J」

 晶がため息を漏らす。銃器に精通する彼女は、当然の流れとして戦闘機の判別ができる。

 無論、現代日本男児の護堂もまた、戦闘機には興味がないわけではない。戦車も戦闘機も本屋で雑誌を立ち読みする程度には興味がある。

「百里に戻るのかな」

「たぶんそうだと思います。関東でアフターバーナーを搭載する機体を運用できるのは百里飛行場だけですから」

 茨城県小美玉市にある飛行場は航空自衛隊と民間の航空会社が共用している。民間での呼称は茨城空港。ここは離島を除くと関東圏で唯一戦闘機を運用することのできる飛行場であり、そのために首都防空の要と呼ばれる。ちなみに埼玉県の入間基地は地域との協定から戦闘機を運用することができない。関東での有事の際は、ここに司令部を置く第七航空団が対処することになる。

 護堂は大きく背伸びをする。長時間の車での移動で背骨と筋肉が固まってしまっていた。

「さあ、みなさん。準備はよろしいでしょうか。それでは、現場へ行きましょう」

「なんか遠足みたいですね」

「たしかにな。陽気もいいし」

「お二人とも、もう少し気を引き締めてください……」

 冬馬が言う現場は、車を止めた場所から歩いて五分ほどのところにあった。

 何もない、ただ一本の農道で、両側には青々とした稲が日差しを反射している。

 前後を見ても、民家は遠く、東京で暮らしていた護堂にとってはやはり珍しい景色で、新鮮な気持ちになる。思えば、これほどに人気のない場所というのも、東京にはそうあるものではない。自分とは関わりのない土地であるのに、物寂しい郷愁の念が沸き起こってくるのは、その身体に農耕民族の血が流れているからか。

「こんなところで事件が起こったんですか」

「はい。ここが最新の事件現場です」

 冬馬が人差し指で指し示す。ガードレールがどうかしたのか、と訪ねる護堂に冬馬は、

「昨夜の夜九時過ぎです。農業を営む六十代の男性があのあたりで斬りつけられました。昨日は風と雨が強かったので、田んぼの様子を見に来ていたところだったとのことです」

「あそこですか」

 祐理が、その場所まで歩いていく。

 長閑な農地のすぐ側で、通り魔事件が起こるとは世も末だなと思いながら護堂はついていく。耳に心地よい用水路の流水の音で、心なしか和やかな気持ちになる。

「どうですか。万里谷先輩」

 晶がガードレールに手を付いて、田んぼの中をのぞきこみながら尋ねた。

 祐理はしばし目を瞑って精神を集中させていたが、

「すみません。確かに呪力の残滓は感じるのですが……」

 と申し訳なさそうに謝った。

「もう少し、情報があれば絞り込めるかもしれませんが」

「ふーむ。情報ですか……今あるものと言えば、これくらいしか」

 そう言って、冬馬が取り出したのはスマートフォンだ。それを手早く操作して、表示させたのは日本地図。

 マップ機能。太平洋沿いに点々と赤いマーカーが示されている。

「これは?」

「通り魔事件の現場の位置情報です。ご覧の通り、時系列順に見ていくと三重県から始まって静岡、山梨、千葉、埼玉、そしてここです。現場はどこも農地の付近に限定されています」

「農地付近。そして案山子ですか」

 祐理は考え込むように頤に手を当てる。

 優美な仕草に目を奪われそうになり、護堂は視線をそらす。

「そういえば、先輩。『強制言語』は第六感の強化ができたのでは?」

 水路を眺め、落ち葉を蹴落として水に流していた晶が言った。護堂は、あ、と口を開き、

「その手があったか」

 と言った。

 祐理に向き直り、提案する。

「じゃあ、万里谷の第六感を強化して見ようと思うけど、いいか?」

「はい。大丈夫です」

 第六感に干渉するのは以前も行ったこと。祐理もその力を思い返し、すぐに同意した。

「それじゃ、始めるか」

 護堂は聖句を唱えてガブリエルの権能を行使する。

 『強制言語』とグリニッジ賢人議会に命名されたこの権能は、言葉によってあらゆるものを支配する言霊の権能と一般に認識されている。が、しかし、その本質はそこにはない。護堂の倒したガブリエルはメッセンジャー。天使の中でも、特に第六感を介した『お告げ』を得意とする。それは神の言葉であり、絶対的な強制力を持つ。護堂の権能も、第六感を強め、他者との意思伝達をし、また第三者の超感覚に干渉することを主とし、その延長線上に言霊があるのだ。

 護堂の呪力が祐理に流れ、著しくその霊視能力を高めていく。

 祐理は精神を統一するために目を瞑ったまま、ひたすらに無を貫く。そこにある呪力の痕跡と脳内に入れた事件の情報。それらを呼び水として、幽界に接続する。とめどなく流れるジャンク情報の中から、確かな情報を手繰り寄せるために。

 五秒が経ち、十秒がたち、二十秒が経とうとしたとき、祐理の脳裏に映像が飛び込んできた。

 風と雨。吹き荒れる豪風の中に佇む社。雷が鳴り響き、人々は慌てふためいている。

 しかし、それも長くは続かない。やがて嵐はさり、雨水は大地を潤していく。秋になって稲穂はたわわに実り、人々は豊作を感謝する。

 間違いなく、これは神に類する者。このイメージは神代の、彼らが自由闊達に外を巡っていた頃の様子。つまりは、この呪力を残した者の神力の正体。

(もう少し。まだ、足りない)

 祐理の直感が、まだ、何かあると感じてた。斬りつけるという行為に結びつかない。雨を降らせるでもなく、風を起こすでもなく、斬りつけるという行為に、農業とは別の意味合いを見出すべきなのではないか。それともそれも含めて農業と関わりがあるということだろうか。

 しかし、それは邪念だ。まだ、と情報を希求する心は、精神統一がなっていない証拠。霊視はあくまでも受動的な力であるべきだ。心は無であり空でなければならない。どれほど甕が大きくとも、すでに水で溢れていれば新たな水は注げない。巫女の修練の基礎にして最大の難所は空の心を作ることにある。

(あ……)

 と思ったときには、イメージには霞みがかかって掴みようがなくなってしまっていた。

 ただ、最後の一瞬だけ垣間見えた物。それは、

(火?)

 ほんの僅か見えた赤。それを最後に、祐理の意識は現世へと戻っていった。

 

 

「すみません……」

 と祐理は謝った。あと一歩を逃した己の欲に対しての叱責でもある。

 護堂はそれを笑って許す。祐理でできなければ誰にもできはしない。彼女は世界最高の霊視能力者なのだから。自分にできないことで、人をせめても仕方がない。

「それに最低限の情報は得たわけだしな」

「農耕神。嵐にも関わる神格ですかね。農地で案山子ですからね。そうなるでしょうが、それにしても火ですか」

 冬馬は無精ひげを撫でるようにして思案する。神話について勉強中の浅学の徒である護堂にはその辺りはよくわからない。

「なあ、晶。なんで案山子?」

 と、隣の晶に聞いてみた。

 晶は、

「案山子も一応は神様ですから」

 と答え、

「田んぼの神様の依代です。山の神の化身でもあります。そして、一日中世界を見続けているところから知恵の神にもなります。久延毘古が有名どころですね」

 久延毘古。

 大国主の国づくりに登場する神で、大国主の下に海の向こうからやって来た小さな神の名を大国主が尋ねる場面でのこと。大国主が名を尋ねても小さな神は答えず、誰もこの神の名を知らなかった。そこでヒキガエルの多邇具久が「この世界のことなら何でも知っている久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので、大国主は久延毘古に小さな神の名を尋ねることとした。久延毘古は歩くことができなかったので、大国主は自ら久延毘古の下を訪れて名を尋ねると、「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた。

 久延毘古とは『崩え彦』。つまり、身体の崩れた男の意味で、風雨に晒された案山子のことである。

「でも、久延毘古は嵐の力は持ちそうにないな」

「はい。むしろ守ってくれそうですよね」

 そして、晶は表情を変える。険しい目つき。微笑ましい会話の直後とは思えないほどに急激に変化する様子は二重人格を疑われかねない。一方の護堂はそんな晶を一瞥もせず、ぐるりを周りを見回す。晶とは対照的に冷めた目でソレを見る。

「やれやれ、守ってくれそうってわけでもないみたいだな」

「みたいですね。殺気がムンムンですよ」

 四人の周囲を案山子が取り囲んでいたのだ。一体どこから現れたのか皆目見当がつかないが、呪術世界では珍しいことではなく、今さら驚くようなこともない。

「甘粕さん。万里谷を」

「了解しました。お気をつけて」

 冬馬が短剣をどこからか取り出した。同時に晶も御手杵を呼ぶ。長さ三メートル、重量十五キログラムという槍は、およそ女子中学生が持ち運べる武器ではない。それを、片手で軽々と操るのが晶の真の戦い方だ。

「今日はいきなり槍なんだな」

「まあ、銃弾を田んぼにばら撒くわけにもいきませんから」

 鉛は農業の敵ですから、と晶は言う。

 戦闘能力のない祐理を背で庇い、護堂と晶は反対方向の敵を見据える。

 案山子はいたって普通の材質でできているようだ。木製で、頭には笠を被っている。最も、十字型に組まれた腕の先には鋭利な刃物が取り付けられていたが。

「いやー。なかなかユーモアセンスに溢れた案山子ですねえ」

「甘粕さん。どうか、気を抜かないでください」

 冬馬の軽口を祐理が諌める。とはいえ、冬馬の言は間違っていない。まるで小学生か中学生の悪戯のように悪趣味だ。

「来ます」

 晶がそう言った瞬間に、案山子たちが動いた。一本足でどう動くのかと思っていたところ、身体を軋ませてまげ、ばねのように跳躍したのだ。何体か田んぼの泥に足が埋まってもがいている個体もあるが、どちらにせよ驚くべきことであろう。

 まず晶は大槍を豪快に一振り。空気をねじ切るような快音が鳴り、その柄で打たれた案山子は無残にも粉々となる。勢いのまま、回転。案山子の腹部を蹴り砕き、槍で突き、斬り裂いていく。めまぐるしく切り替わる体勢と技。『まつろわぬ神』、神獣、魔術師との数多くの実戦の中で培われた戦闘技巧は鮮やかに舞いながらも野獣のように貪欲に敵を貪りつくす。足技は旋風であり、槍は台風であった。

「む?」

 晶が首を捻る。そこを回転する刃がすり抜けていく。案山子は自分自身の身体を回転させながら対象を斬りつけているのだ。しかも、風を纏っている。これは、

「なるほど、カマイタチ。薄い風の刃か。やっぱり風に纏わる力の持ち主みたいね!」

 晶の頬に赤いラインが走るが、気にするそぶりを見せず、返す刀で粉砕する。滴る血を拭うと、すでにそこには傷がなくなっていた。

 圧倒的な力で敵を蹂躙した晶であったが、反対側の案山子を担当していた護堂はそれを上回る。この案山子たちは神獣にも劣る低劣な使い魔。カンピオーネである護堂にとっては炉端の石に等しく、敵とするには値しない。案山子の振るう刃は護堂の骨を傷つけることはできないし、カマイタチは無効化される。彼らが何千と集まったところで、護堂を倒すことは不可能だ。

『砕け』

 ごみを払うかのように、右手を振るった護堂。その腕に指揮されるかのように、二十いた案山子の軍団は消滅した。宙を高く舞う残骸が田んぼに落ちて水音を立てる。

 まさに、野分で破壊されつくした集落の如く、動き回って人を襲う案山子の怪異は、一撃でただの木材へと成り果てたのだ。

 仕事をしたという感慨も浮かばないまま、後ろを見ると、晶たちの戦闘も終局へ向かっている。

 これが、敵の全力か、それとも小手調べか。

 一瞬後者であればいいと思った護堂は頭を振って気持ちを落ち着かせる。

 戦いなど百害あって一利なし。命の危険に飛び込むのは蛮行であり愚かしい行為なのだ。

 結局、二分とかからず、案山子は全滅してしまった。

 

 



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二十八話

 案山子は世界中で使用される鳥威しの一種で、誰もが知るとおり、鳥害を防ぎ田畑を守ることを目的として設置されるものだ。基本の一本足の人に似せた人形を田畑の脇に立てておくもので、バリエーションも多い。

 日本においてもその歴史は古く、古事記に現れることからわかるとおり、奈良以前にはすでに普及していたと考えられる。

 古語では『嗅がし』といい、獣肉などを火で焼き焦がしたものを棒に刺して田畑に立てかけたもののことで、これが現代の案山子につながったとされる。

 案山子は食害から田畑を守るものとして田の神、豊穣の神、山の神として崇拝されることになったという。

 

 

 土曜の案山子退治から数日が経ち、学校はついに夏休みを迎えた。

 これから一月。学生は自由を謳歌する。特に高校一年生などは、学校生活でよほどの失敗がない限りはパラダイスを堪能できるに違いない。なにせ、受験まで二年あり、課題の量も大したことはない。計画的に課題をこなしさえすれば、なんの負担もなく夏を遊び倒せるのだから。

 とはいえ、カンピオーネに夏季休業があるはずもない。

 夏になって自由時間が多くなったからといっても、目前に屹立する問題を解決しないことには大手を振って夏を迎え入れるわけにもいかないのだ。

 ということで、高橋家に集まるいつものメンバー。

 部屋の中はひんやりと冷えていて、快適だ。

「ああー、涼しい」

 護堂はT-シャツの胸元をパタパタとして冷気を体表に送り込む。

 どうやらこの部屋、呪術で気温を操作できるためにエアコンを入れていないらしい。呪術の燃料である呪力は体内と自然界の双方に存在している天然の力で、万物の生命力と言うべきものなのだが、これは石油や石炭のような消費エネルギーと違い、生命が存在する限り発生し続けるという永久機関的なエネルギーでもある。

 この呪力が強いか弱いかで、生命としての存在能力に差異が現れるという研究結果もあるのだとか。

 つまり、神様と同等の生命力を誇るカンピオーネはまさに人外。生命という範疇から逸脱した存在だということになるだろう。

「草薙さん。お茶です」

「ありがとう。万里谷」

 護堂は祐理から麦茶の入ったグラスを受け取った。

 茶色い水溶液の上に浮かぶ氷が揺れて音を出し、清涼感をかきたてる。音だけでも、涼しくなれそうな気がする。

 閉め切られた部屋の中。窓際にぶら下がった風鈴は、微動だにせず、氷に役目を奪われたことに不服を唱えている。

 いつも同じメンバーで顔を合わせるからだろうか。座る場所も毎回同じところになっている。無意識のうちに、そのように規定してしまった。

 護堂の正面には冬馬、隣に晶、そして晶の正面に祐理が腰掛けている。晶のデニムのショートパンツにアクリルブルーのタンクトップという出で立ちは、活動的な印象を強く与えてくる。対面する祐理は白いワンピースと淑やかな令嬢を思わせる服装で無難にまとめていた。性質は正反対ではあるが、どちらもその容姿を辱めることのない、すっきりとした服だ。

「さてさて、問題はこの案山子をどう解釈すべきかなんですねえ」

 皆が席に着いたことを確認した冬馬は、平常運転の軽薄な笑みを浮かべつつ写真を並べていた。

「これって……」

 祐理が目を丸くして驚いた。

 そこに写っていたのは紛れもなく、先の土曜日の案山子との戦闘の様子だった。

 なんと冬馬は祐理を案山子から守りながらも写真にこれを収めていたのだ。さすがは現代の忍といったところか。情報収集能力は抜きん出ているし、抜け目もない。

「見た感じは普通の案山子なんですよね」

「先輩。普通の案山子は刃物なんて持ってませんよ」

「動いている案山子はもう案山子とは呼べませんね。呪術的には」

 案山子は動的な存在ではなく、だからこそ知恵の神たりえる。常に世界を眺めていることが万象を見知っているという信仰につながったのだ。つまり、佇んでいることこそが、彼らの真髄なのだ。すると、刃物を持って移動している時点でそれは案山子としての本義に反する行いといえよう。

 万里谷の指摘に冬馬も頷いた。

「これをただの案山子ととるのは確かに早計でしょうね。嵐の呪力を感じ取った祐理さんの霊視と戦闘中のカマイタチ。間違いなく風を操ることのできる存在が関わっているのですよ」

「案山子には嵐を司る力は……」

「ありません」

 きっぱりと言い切った冬馬は、今度は大きな封筒を取り出した。

 中から取り出したのは地図だった。

「あ、これって」

「以前、スマートフォンでお見せした地図の最新版です。印刷してきました」

 そして、広げたその地図には、太平洋沿いに赤い点が記されていた。その数十二個。

「これがすべて事件現場ですか」

 護堂が尋ねると、冬馬は頷いた。

「なんてこった」

 いつの間にか十二件もの通り魔事件が発生していたということに、護堂は嘆息した。

 冬馬は点の一つである、和歌山県を指差した。

「ここの日付をご覧ください」

 各点の上にはボールペンで発生日時が書き込まれていた。

「五月十六日? かなり前なんですね」

「はい。実は立て続けに起こったのは今月に入ってからなので、世間が関連付けて騒ぐのはその期間中のものだけなのですが、実のところ案山子によって傷つけられたという話は今年の五月が最初なんです」

 そのころは、源頼光を倒した少し後だ。反乱が終息したからといっても気が抜けるわけがなく、様々な後始末があった。正史編纂委員会もドタバタとしていた時期で、細かい調査に乗り出せなかったという事情があったのだ。

「だとすると、ずいぶんと活気づいてきた感じがしますね」

 晶が頬を掻きながら所感を述べた。

「二ヶ月の間、じっくりと力を蓄えた、というところでしょうか。事件の多くは和歌山、三重に集中しているんですね。出所は間違いなくここなんですよ」

 ここ、といってもそれは大雑把に和歌山県、三重県近辺ということだ。

 点は六月の中ごろまで、この二つの県の中に納まっている。関東方面に動き出したのは六月の終わり。

「うえ、この日って」

 護堂が静岡県の事件日を見て、うめいた。

 晶と祐理も、それを見て驚いている。 

 それは、東京都を激しい大嵐が襲った日だ。暴風と雷雨が東京都全域で暴れ狂い、東京二十三区内は特に大きな被害を受けた。また、ホテルの爆破倒壊という前代未聞の大事件が、全国のお茶の間を騒がせたときでもある。

 無論、それは一般市民の目から見たもので、護堂たちにとってはさらに強い思い出となり、未だにはっきりと思い出すことができる。

「侯爵と戦った日じゃないか」

 護堂は顔を手で覆って天を仰いだ。

 この『敵』がなぜ、わざわざ東京を目指したのか、その理由が分かったような気がしたからだ。

「これを嵐の神格と見ましょう。そうすると、より強大な力を持つヴォバン侯爵の嵐に惹きつけられたという予測がつきます」

「不完全なのでしょう。それでなぜ?」

「戦うためでなく、嵐の力を身近で感じることで、失ったものを取り戻そうとしたのではないでしょうかねぇ」

 不完全な零落した神たち。もしくは神格の一側面を削り取られてしまった神。これが力を取り戻すには己の本性に立ち返らなければならない。この見ず知らずの神はそのきっかけとして、嵐を求めたのか。

「嵐がこの神格の本性か一側面かは判断がつきませんが、動きを見る限りはずいぶんと力を取り戻しつつあるみたいですよね」

 晶は指で赤をなぞる。 

 点は東京に近づくにつれて密度を増し、東京都を迂回する形で茨城県に入った。

「これは……」

「案山子が事件を起こしていることは終始一貫しています。東京には手ごろな案山子がなかったんでしょうか」

「こんな露骨な形で農耕神に避けられたら、東京の農業に未来が見えないんだけど……」

 しかし、この動きと出現場所を見る限りでは、そうとしか思えない動きをしている。

 案山子は田の神の依代だという。

 この神の農業神としての側面を表に出力するための装置、ということなのだろうか。

「今はまだ完全に顕現していないのかもしれません。案山子を介してしか地上に干渉できないとかそんなんじゃないでしょうか」

「それであんな中途半端な案山子が大量生産されたってのか?」

 晶はグラスを手に取りながら、頷いた。

「神獣としての顕現もできていなくて、力だけが漂泊している状態」

「それだと、俺のほうから手を出すことはできないな。せめて本体がいてくれないと……」

「それでも、この状況を見ると、近いうちに降臨なさると思いますよ。ヴォバン侯爵の嵐の権能の影響を受けていらっしゃるかもしれませんし」

 祐理が不安そうに瞳を曇らせる。

 祐理は呪力から敵の実像まで後一歩というところまで近づいた。その祐理が言うのだから、それは間違いないことなのだろう。嵐と農耕の神。少なくとも、その力を持つ者であることは確かだ。

 護堂もその時に向けて、覚悟を決めておこうと思った。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 やはり『敵』の居所は事件現場付近と考えられる。相手が不完全であれば、それだけ振るう力も弱くなる。力の使用者から遠く離れれば離れるほどに、呪力の消耗は大きくなるはずで、つまり、遠隔操作はされていないということがいえる。すると最後の事件現場である茨城県小美玉市にこそ、敵の本体ないし意識が存在しているということだろう。

 以上の推論から、護堂たちは同地を再訪していた。

 重傷者こそいないものの、傷つけられた人がいて、その事件を解決できる力があるのだから、それを使わなければならないという義務感が護堂にはあった。とはいっても、今の段階で護堂ができることは少ない。目の前に敵がいてくれれば、戦えばいい。それはわかりやすい解決方法だ。しかし、現実問題として、敵は不完全であり、未だに実体がない可能性もある。こそこそと隠れ潜んでいるところからしても『まつろわぬ神』となっていることはない。配下の使い魔も神獣にすら及ばぬという体たらく。

 もしかしたら、カンピオーネの出番はないかもしれない。

 しかし、以前訪れたとき、雑魚とはいえ護堂たちに立ち向かってきたのは明確なる事実であるし、まかり間違って晶たちの手に負えない敵が現れる可能性がゼロではない。神が出るか出ないかという瀬戸際にいるのだから、心配だ。

 そのために、護堂も調査に同行しているのだが、手持ち無沙汰であることに変わりはなく、ただ、以前と変わらない青々とした田を眺めているだけで終わってしまいそうだった。

「休日の遠征を田んぼを眺めて終わるとは」

 結局何も起こらなかったかとため息を吐く。

「だから言ったじゃないですか。先輩は敵が出てきてからの社長出勤で全然いいですよって」

「いや、地道な作業にも興味はある! ムダではなかったはず!」

 といって正当化するも、祐理の霊視に付き合うくらいしか手伝えなかったという事実と、炎天下に長時間晒されたストレスは如何ともしがたい。日が沈みかけていながら、未だに冷えない空気は、どんよりと濁り、滞留する熱気が重圧すらも感じさせている。

 西の空に日が沈み、物の影が伸びていく。東から夜の帳が降り始め、黒と青と赤のグラデーションと飛行機雲が空をキャンパスに絵を描く。

 黄昏時。

 『たそがれ』という言葉の由来は暗くなって人の顔がわからなくなることから、『あなたは誰ですか?』と尋ねなければならなくなることからだ。誰と彼でたそがれ。そこから、この世ならぬ者たちが異界から現れ出でる時間帯ともされるようになった。誰かもわからない者がやってくる。ゆえに、黄昏時の別名を『逢魔時』、すなわち『大禍時』とした。

 あの世とこの世の境目がもっとも薄くなる時間。

 だからこそ、それは現れた。

「おい、あれ……」

 護堂が最初に気がついた。

 あかね色の空を背後に、ポツリと佇む案山子の姿を。逆行になっていてそのシルエットは黒く塗りつぶされているが、そこからは明確な視線を感じ取ることができる。

「普通の案山子、ではないですね」

「はい。間違いなく、あの案山子です」

 祐理もピンと来るものがあったのか、そう断言した。

 見ている間に、田の中から次々と起き上がるようにして案山子が現れる。

「やっぱりカンピオーネが動くところに事件アリ、でしょうか」

「失礼なことを言うなよ晶。まるで俺がこいつらを呼んだみたいじゃないか」

 それではどこぞの少年探偵並に運がないではないか。

 護堂は憤然としながら前だけを見つめる。

 護堂の身体は今でも戦闘態勢にはならない。『まつろわぬ神』ではないということか。しかし、あの案山子たち、以前よりも厚みを増しているように見えた。存在としての厚みのことだ。それはつまり、あれらを操っている存在の力が強くなっているということに他ならない。

「なるほど、ちょっと厄介かもしれないな。みんな気をつけて」

 夏の熱い風が、稲を揺らす。両陣営に刹那の緊張が流れる。筑波山の稜線に、太陽が消えるまさにその時、事態は動く。

 仕掛けたのは案山子。

 一息で二十メートルの距離を跳ぶ。高度、速度、ともに以前の比ではない。

「まずはわたしが様子を見ます!」

 晶が一歩前に出て、これを迎え撃った。三メートルの大槍で、この案山子に突きを放つ。

「ッ……」

 晶の刺突は岩を砕き、大木を貫通するほどの一撃。かつての案山子であれば、この一撃で勝敗を決していた。だがしかし、この日の案山子は一味違った。空中で槍の一撃を受け、跳ね返されたものの、破壊されることはなく、立ち上がった。

 さらに三体の案山子が襲い掛かる。

「固くなってる……」

 案山子の防御力はもはや木製のそれではない。日が暮れたことで気づくのが遅れたが、彼らの身体を作っているのは紛れもなく金属。それも、晶の槍を弾き返すほどの強度を持たせた代物である。

 しかし、敵の防御力が増したからといって、即座に劣勢になるほど晶の積み上げたモノは安くない。一撃で倒せなかったからなんだというのだ、二度三度攻撃を重ねればそれでいいではないか。

 晶の攻撃はなおも苛烈さを増す。一息三連の突きを放ち、その隙を狙った案山子には強烈な足蹴りが待っている。強化された蹴りの威力は小型の爆弾に匹敵する衝撃力を有し、上段から振り下ろす槍の運動エネルギーはとても鉄くずに受け止められるものではない。

 戦いは晶の優勢のままで推移する。足元には砕かれて意味を成さなくなった鉄くずたち。飛びかかる案山子に晶はこのジャンクを蹴り上げてたたきつけた。かつての同胞の無残な亡骸を全身に受けて胴体が折れ曲がった。

 案山子の数は見る見るうちに激減する。ただ立ち向かっては返り討ちにあう流れ作業のような状態になったときに訪れた変化に気づいたのは、戦闘を観察していた護堂たち。

 破壊された案山子たちが、白熱し始めたのだ。熱を発して陽炎を作り、薄暗い夜道にランタンのような明かりとなる。

「晶! 一旦下がれ!」

 晶も足元の灼熱を感じ、危険を察知したのだろう。素直に従い、護堂の隣まで引いた。

 真っ赤に燃える案山子。それは、怒りで顔を赤くしているようにも見えた。

 着ていた服や、頭を作る布が燃えて灰になり、その身体が露となる。全身は金属の塊だった。ただの案山子と違うのは、骨格になっていたこと。肋骨と背骨の構造は人体のそれに酷似していた。

「気持ち悪い」

 と晶がこぼす。

 たしかに、一本足という部分以外は人間の骨格を模しているのだ。悪趣味というよりない。

 熱気が伝わってくるほどに熱くなった鉄の末路は決まっている。

 白く、赤くなった最後には、ドロリと形を崩して溶解するものだ。金属であるのだから、その最後は変えようがない。

 しかし、溶けた鉄がそれで死ぬわけではない。そこから、再び新たな形を得て蘇るのだ。

 変化は瞬く間に起きる。頭を崩し、腕を崩し、足を崩した案山子は液体となり、新たな形を作り出す。

 長く伸びあがり、先端は鋭く尖った形状。合計十本の槍となる。その長さは三メートル。形状は、まさしく御手杵そのもの。

 さすがに、これには開いた口がふさがらない。

「まさか、晶の槍を模倣したのか?」

 護堂がそう漏らした。

「もしかして、槍を受けたのは、この槍を調べるため?」

 晶も呆然とした様子だ。無意識のうちに槍を握る力が強くなる。

 思い返せば、この戦いで案山子と戦ったのは晶だけだった。それは、護堂たちがあえて引き、案山子との戦闘を観察しようという狙いがあった。それでも、案山子が向かっていったのが晶だけだったということに、疑問を抱かなかったのは無用心が過ぎた。観察していたのは、護堂たちだけではなかったのだ。

 複製された御手杵を案山子が手に取った。

 その腕には関節が生まれていて、もはや案山子のそれではなく、ロボットのアームのようだ。

「農耕神のくせに鉄文明の象徴を手に取るってのはどうなんだよ」

 今度は護堂が前に出た。

 これ以上の何も起きないうちに片付けてしまおうと考えたのだ。

 案山子たちが槍を構えた。突撃体勢をとる。護堂はそれを正面から見据えて、

『拉げ』

 呪力を纏った言霊が、案山子の身体に纏わりつき、破壊していく。

 わずかばかりの抵抗があったものの、それでもカンピオーネの呪力にはさすがに抗しきれない。甲高い金属音を立てて捻じ切れ、押しつぶされていく。

 後に残ったのは、やはり鉄くずと化した案山子の残骸だけだった。

 護堂は砕き割った案山子の残骸を見下ろす。

「目かな」

 顔があった部分。胴体を砕かれ地に落ちたそれを見てそう口にした。

 その顔には、確かに大きな瞳が焼印のように描き出されていた。



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二十九話

 護堂たちは、茨城県に宿をとることにした。

 案山子のトランスフォームはそれなりに衝撃を与えるものであり、敵が強大化していることを示すものでもあったからだ。

 いつでも敵に対応できるように現地にいる、という判断を下した。

 家に連絡をいれ、中学時代の友人宅に泊まっていることにした。電話に出たのが祖父だったことも幸いして、話はすぐにまとまった。

 もしも、電話に出たのが静花だったら、いったいどんなことを言われるか。おそらく、頭から信じてくれることはないだろう。そうすると、さらに嘘を重ねていく必要があるので、罪悪感も一層駆り立てられてしまうことだろう。

 本当に、理解ある草薙一郎でよかった。

 宿泊費は正史編纂委員会側の負担になるようだ。

 『まつろわぬ神』の行動調査のための経費が落ちる。そもそも、カンピオーネを同行させているのだから、それ相応の金銭は動かせるのだ。

 泊まったのは図々しくもそれなりのホテル。

 エントランスから見事な装飾で飾られ、大理石の柱など一流の仕事であることが分かる。

 冬馬などは、このホテルを貸切にしようとまでしていたが、それはさすがに止めた。

 部屋は和室で、四人部屋なのだが、護堂と冬馬、女性二人で三つの部屋を取った。

 護堂としても、こんな部屋を一人で使うのは気が引けたのだが、冬馬が、カンピオーネである自分に気を遣ってしまうのなら、別部屋でいいという風に考えた。

「草薙さん。とりあえずはお風呂にいかれてはどうでしょう?」

 部屋に着くなり冬馬が護堂にそう言ってきた。

 当たり前のことだが、ここには大浴場がついている。炎天下にいたために汗もかいたし、風呂には行きたいと思っていたところだ。護堂は二の句もなく承諾した。

「甘粕さんは?」

「わたしは、これから資料を作成しないといけませんので、あとでいただくことにしますよ。お気になさらず、ゆっくりしてください」

「そうですか。じゃあ、そうさせてもらいます」

 護堂はそう言うと、バスローブとタオルを持って風呂に向かう。

 冬馬のことは気にしないでおこうと思う。

 なにせ、もともと部屋も違うし大人で仕事持ち。ここにいるのも彼の仕事であるから、敵が来たら戦えばいい護堂とは違ってやることも多いのだろう。

 そして、護堂が出て行くと、冬馬はカバンから紙の束を取り出した。

 分厚いそれは、数百枚にもなる履歴書だった。

「やれやれ、これに目を通せってのも、結構しんどい作業ですよねえ……」

 と、ぼやいて、冬馬はページを捲る。

 しばらく読んでいるところで、ドアがノックされた。

「叔父さん。ちょっと、いい?」

「晶さん。いいですよ」

「おじゃまします」

 ドアを開けて晶と祐理が入ってきた。

 二人は媛巫女である。

 呪術に縁深い、正真正銘の巫女。

 だからだろうか、この二人が和室にいると、妙に雰囲気が雅やかに感じられてしまう。

「おや? 祐理さんもご一緒?」

「はい、申し訳ありません。今日の事件のことを、早いうちに相談しておいたほうがいいと思いまして、伺いました」

 やたら丁寧な言葉を使うのは、彼女のクセのようなものだ。もともとは公家の家柄で、魔術とも昔から関わっていた。

 万里谷家は強力な巫力を持つ女児を産む家系だった。

 祐理も例に漏れず、巫女としての高い資質を持って生まれ、その役目をしっかりと果たしている。

「ごめんなさい。今、仕事中だった?」

「ええ、ですが問題ないですよ。あなた方にも関係のあるものですし」

「?」

 首を捻る晶が、冬馬の近くまでやってきた。

 隣に座り、資料を覗き込む。

「何、コレ?」

 履歴書の束を見たところで、何のことかさっぱり分からないのも無理はない。

 そこに書いてあるのは仕事の内容とは関係なく、ただの個人情報だからだ。

 晶は、それ以上を見るのは止めにして、目を逸らす。

 何のための履歴書かはわからないものの、個人情報であることに間違いはない。ジロジロと見ていては、申し訳ない。

 正史編纂委員会を信じて、提出されたもの。その信頼を裏切るわけにもいかないのだ。

 晶の呟きを自身への問いと思ったのか、冬馬は答える。

「草薙護堂氏の愛人候補というヤツですかね」

「へ?」

 晶が逸らした視線を即座に冬馬に戻す。

「え?」

 祐理がお茶を準備しようとした手を止めて固まる。

「お、叔父さん。今、なんか凄いこと言ったよね? 聞き違いじゃない、かな、と」

「聞き違いじゃないですよ。これは、草薙さんの愛人候補として全国から集められた美女たちの資料ですよ」

「な-------------!?」

 晶は絶句。開いた口がふさがらないといった様子で、資料のほうを見る。

 確かに、美女、美少女の写真ばかり。

 日本にこれだけの容貌の持ち主がこんなにもたくさんいたのだということにも驚いたが、この数の女性たちが護堂一人のために用意されているということにも驚いた。

「どうしてそのようなことを!?」

「いや、祐理さん。これ、私の発案じゃないので、そんなに詰め寄られても困るんですけどね。まあ、理由としては簡単で、カンピオーネとのつながりを確かなものにしたいということですよ。草薙さんが年頃の男だというのが幸いなことでして、性格も他の魔王方と違って、比較的常識人ですから、こういう意見が出るのも無理ないことですよ」

「無理ないことって、そんな」

「そうだよ。先輩にそんな破廉恥な関係は必要ないよ!」

 さらに至近距離で声を張る晶に冬馬は顔をしかめて手で静止する。

「まあまあ、落ち着いてくださいって。別に強要するものではありませんし、最後に選ぶのは草薙さんですからね」

「それは、そうだけど……」

 納得できないけど、言い返せない。

 押し黙った晶は座りなおす。

「強要するものではないとおっしゃいましたけど、それではこの方たちは?」

「ああ、それは当然立候補ですよ」

「立候補!? こんなにたくさんの方が、ですか?」

「驚くようなことではないでしょう。相手はカンピオーネ。しかも、一般常識が通じる相手ですし、顔も悪くないとくれば、立候補くらいしますよね」

「そんな……」

 祐理も押し黙った。

 痛い沈黙が、部屋を包んだ。

 冬馬の言っていることが間違いだとは思えなかった。

 もちろん、人の意思を無視したものは反対だ。しかし、立候補者に対していちいち文句を言う権利は祐理にも晶にもない。それは、個人の自由。そして、護堂が誰と恋仲になろうとも、二人には干渉することはできないのだ。

「まあ、手っ取り早く、お二人が草薙さんのところに行ってくれれば解決する話なんですけどね」

 その一言は、ある種の爆弾と言っても差し支えない。

 晶は伏していた顔を勢いよく上げた。

 祐理は冬馬が何を言っているのか理解するのに、多少の時間を要し、そして、顔を真っ赤に染め上げた。

 どちらも、明言はしないものの、護堂に少なからぬ好意を持つ者同士。インパクトは大きかった。

 しかし、冬馬の言葉を手放しで喜ぶほど身持ちは軽くない。

「ど、どうして、そういう話に?」

「何か不思議なことがありますか? 晶さん。あなたは草薙さんによからぬ女性が近づいて欲しくない。それであれば、あなたが近くにいる他ないじゃないですか。幸いお二人は媛巫女。分不相応ということはありません」

「な---------------!」

「じょ、冗談もほどほどにしてください! 甘粕さん!」

「はあ、まあ、無理強いはしませんけどね」

 そう言うと、冬馬は履歴書を再びカバンに戻した。

 彼女たちがいる所では仕事にならないと思ったのだろう。

 膨大な数の書類に目を通すのは時間のかかる作業であり、同時に集中力も必須要件だからだ。

「でも、頭に入れておいてくださいね。あなた方が思っている以上に、周囲は動いているということを」

 冬馬とて、二人の恋心を否定することはありえないし、もしもこの二人が護堂とくっつくならば、それがベストだと、個人的には思っている。

 媛巫女は、極めて特殊な血筋だ。神代から続く神祖の血を後世にきちんと残すのも彼女たちの仕事の一つである。

 だから、現代でも、媛巫女の婚姻には正史編纂委員会が口を出すこともありうる。特に晶と祐理は家柄としては上級ではなく、それなのに上等な血の持ち主。清秋院クラスになれば委員会を無視した行動もできるが、彼女たちは家の後ろ盾がない。通常の恋愛で結婚できるかどうか怪しいものだ。

 その観点からも、護堂の庇護下に入るのは悪い話ではない。

 彼女たちの想いと、委員会側の意向を両立させることができるのは、ここくらいしか残っていないのだから、多少背中を押すくらいはしてあげないといけないな、とは思ったりもしていたのだ。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 護堂は風呂を堪能しつくした後、浴衣に着替えて浴場を出た。

 もともと、着替えなどないのだから、この格好になるのは仕方のないことだ。

 とりあえず、冬馬の部屋の隣にある自分の部屋に入る。

 電気をつけて、荷物を置き、団扇で身体を冷やす。

「いや、これは棚から牡丹餅ってやつだな」

 そう言いながら、窓の外を見る。

 ホテルの窓から見える町並みは、光の点を大地に灯し、まるで夜空。

「おっと、とりあえず甘粕さんのところに顔を出さないといけないな」

 思い立った護堂は、部屋を出て隣のドアの前へ。

 ノックをすると、すぐに返事が返ってきた。

「失礼します」

 ドアを開けて中に入る。

 すると、部屋の中には祐理と晶もいて、こちらに視線を向けていた。

「あれ、二人ともいたのか」

 なんでもないように護堂は言って、部屋の奥に進む。

「あ、あの、先輩。その、格好は?」

「風呂上りだからだ」

「み、見ればわかりますけど」

「なんか変か?」

 護堂はなぜか顔を赤くする晶に不安になった。

 着方が違うのか、それともまた別の意味合いか。まさか、似合わないなんてことはないだろうな、と。

「いえいえいえ! なにも、なにもおかしなところはないですよ!」

「本当か?」

「はい。もちろんです!」

「そうか、ならいいんだけど」

 何か釈然としないものを感じながら、護堂は座った。

「あの、草薙さん。コレをどうぞ」

 そこに、祐理が湯のみを持ってきてくれた。

「冷たいお茶です。お風呂上りと伺ったので、そちらのほうがいいかと」

「ああ、ありがとう。万里谷」

 護堂は湯のみを受け取り、半分ほど飲んで、座卓に置いた。

 自然、皆が座卓に集まり真剣な顔つきなる。

「さて、頃合もいいですし。はじめますかね」

 冬馬がカバンから資料を取り出した。

 一瞬だけ祐理と晶が肩を震わせたが、それが別物だとわかり胸を撫で下ろしていた。

「簡単にですが、今までにわかったことを纏めてみたものです。それを見つつ話していきましょうか」

「はい」

 配られたA4の資料。

 わかったことは少なく断片的。それでも、敵の動向や性質はかなり押さえ込んだと言えるだろう。

「まず、第一に農耕神としての側面を有すること。これが前提です。案山子を使い魔としたことと、農地にしか出現しなかったこと、そして祐理さんの霊視を総合し、それは揺ぎ無いものとなりました」

 冬馬の説明に、護堂たちは頷いた。

 それをまずは共通理解としてこれまでやってきたからだ。

「確か、ほかにも『暴風』とか『火』とかもアリなんですよね。これは?」

 と、護堂が質問する。

 まあ、暴風は確かに農耕と関わりのある神格かもしれないが、火はどうにも納得がいかなかった。

「うーん、まず『暴風』ですけど、これは『嵐』と読み替えたほうがいいですね。嵐というのは大量の雨と雷をもたらしますから、農耕民にとっては災厄と同時に恵みなんですよ」

 晶が、冬馬に先んじて答える。

 それはいいが、雷もそうなのか?

「だって、雷は稲の妻と書いて『稲妻(イナヅマ)』ですよ。古代人にとって稲の伴侶は雷なんです。まあ、本当は稲の夫と書くんですけどね」

「それは、なんで?」

「雷が落ちた田んぼの収穫量は増えるものです。それは科学的にも証明されていますよ」

 それに答えるのは冬馬だった。

「雷はですね、大気中の窒素を酸化させるんですね。そしてそれが雨に溶けて地上に降り注ぎ、土壌に固着されるんです。窒素固定ですね」

「ああ、なるほど」

 護堂は納得した。窒素は植物の生育には欠かせない元素の一つだったと記憶している。そして、同時に、古代人の知恵と観察眼に感心した。

「それでは、この『火』のほうが問題ですね」

「そうですね。農耕と火の関係ですからね。わたしは、初め迦具土神を思い浮かべたんですけどね」

 と、晶は言った。

 カグツチというと、日本を代表する火の神だ。

 漫画などにも、その名はよく引用され、非常にポピュラーな神格と言えるだろう。

「確かに、火と言えばカグツチだな。でも、その言い回しは違うってことか?」

「はい、だってカグツチには農耕との関わりがそう強くありませんから。こじ付けはできますけど、暴風はムリです」

「まあ、そうだな」

 火の神ではある。しかし、それでは嵐を呼ぶことはできない。

 『まつろわぬ神』にしても、神獣にしても、神話をベースにするために、その権能は神話に縛られる。

 ゆえに、カグツチは嵐を呼ぶことはできない。

「でも」

 と、祐理が口を開く。

「カグツチというのは近いかもしれません。あの『火』は確かに、そのような神性を感じました。そう、文化的な『火』……」

「文化的な『火』?」

 護堂は首をかしげる。 

 しかし、思い返してみれば『火』とは文化の象徴でもある。プロメテウスの神話がまさにそのままあてはまる。

「でも、カグツチは文化的な『火』なのか? どちらかというと溶岩とかを思い浮かべるんだけど」

 と、護堂が言うと祐理は、

「はい、そのとおりです」

 と、言った。

「カグツチは記紀神話において神産みで現れる神です。母はイザナミで、父はイザナギですね。このとき、かの神は母を焼き殺してしまい、激情に駆られたイザナギはカグツチを斬り殺してしまいます。その際にカグツチの血から八柱の神が生まれ、死体からも八柱の神が生まれます」

 それが、神産みの神話。 

 護堂でも知っている、記紀神話でも特に有名なところだ。

 この後、死んだイザナミを連れ戻すべくイザナギは黄泉の国へ旅立つのだ。異界訪問譚の一つ。

「カグツチは荒れ狂う自然の『火』。即ちマグマの化身です。大地のイザナミから生まれる火であり、彼の血から生まれる神々も、自然に類するモノばかりです」

 そして、祐理が神名を挙げていく。

 十拳剣の先端からの血が岩石に落ちて生成された神々は、順番に石折神(イワサクノカミ)根折神(ネサクノカミ)石筒之男神(イワツツノヲノカミ)

 十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生成された神々は、甕速日神(ミカハヤヒノカミ)樋速日神(ヒハヤヒノカミ)、そして、あの有名な建御雷神(タケミカヅチノカミ)

 十拳剣の柄からの血より生成された神々は、闇淤加美神(クラオカミノカミ)闇御津羽神(クラミツハノカミ)

 これらが生成された後、その死体からは、八柱の山の神が誕生している。

「最初に生まれた三柱は岩の神です。固まった溶岩や降り注ぐ火山弾の化身ととれます。次に生まれたミカハヤノカミは火の神です。カグツチから生まれた火と考えると火災でしょうか。そして、タケミカヅチは雷ですね。火山は噴火するとき、雷が生じます。最後の二柱は竜神です。つまりは水の神であり、嵐の神。彼らは皆、自然災害の化身なのです」

 しかし、と祐理は続ける。

「その根幹である、カグツチ。マグマの神で噴火の神たるカグツチをなぜ、斬り殺せたのか? そこに文明の『火』を見出すことができるんです」

 祐理はさらに解説を進める。

「カグツチに文明を見る際は、そこから生まれる神々も文明的な側面を持ちます」

 例えば、岩の神三柱が第一に生まれた。

 そのうちの最後、イワツツノオノカミは、剣を鍛える槌を表す。

 次に生まれるミカハヤヒノカミは、火の神であると同時に剣の神だ。そして雷神タケミカヅチもまた、剣の神。灼熱に燃える鉄剣と、雷の如く万物を切り裂く剣の神なのだ。

 そして次に現れるのは水の神。

 クラオカミノカミのオカミは竜の古語で、闇という字は谷間を示す。

 剣は水で冷やされることで完成するから、この神も必要な神だった。

 木がなくては火は生まれない。ゆえに山の神も生まれなければならないのだろう。

 

 カグツチの殺害は、人々が火を制したことを意味しているのではないだろうか。

 人間の手に負えない『自然界の火』から、自由に取り扱える『文明の火』へと落ちたことを表している。

 この神産みの神話は世界の文明化を意味する神話である。

 ギリシャ神話では、火はプロメテウスによって授けられた。

 それによって、人間は火による安全と文明を手に入れたのだ。

 だがしかし、人間は火の恩恵だけを受け続けるわけではなかった。

 それを知った主神ゼウスは激怒して、人間にパンドラを差し向けるからだ。このパンドラは、後に世界中に災厄を撒き散らす元凶となる。

 つまり、文明の火には恵みと災厄の二面性があるということだ。

 そこにあるのは、おそらく戦争だ。

 縄文時代から弥生時代に入ると、戦争が勃発する。

 それは、集落が生まれ、稲作が生まれ、武器を作る技術がうまれたことで、貧富と身分が生まれたからだ。 

 成熟した文明だからこそ、戦争という災厄を引き起こす。

 

 神産みでも、それは見受けられる。

 なぜなら、カグツチによってイザナミは焼き殺されてしまうからだ。

 イザナミの死は人類への災厄を象徴するものだ。

 この後のイザナギの黄泉の国訪問の最後。黄泉の王となったイザナミは、人類に対して、一日に千人を殺す呪詛をかけるのだから。

 最後に生まれるのが山の神なのは、山に祖先の霊は帰るという縄文以来の信仰が残っていたからなのかもしれない。

 つまり、山=黄泉である。

 ともあれ、カグツチが純粋に自然の火を表す神であったなら、斬り殺されるなどということがあるはずがないのだ。

 ギリシャのテュポーンのように、封印されるのが関の山。

 殺されるということは、そこに人類の手が届いたということだ。

「その証拠に、カグツチは火の神であり、鍛冶の神なんですよ」

 と、締めくくった。

「なるほど。それで、カグツチが文化の火なわけか」

 火が持つ二面性。破壊と再生の神話は、文化の火の特徴の一つなのだろう。

「さらに付け加えるとしたら」

 冬馬が、にこやかな表情で、

「カグツチがイザナミのどこから生まれ、どこを焼いたのかを考えるとわかりやすいですよ」

「あの、甘粕さん」

 祐理がそれを止めようとするように、呼びかける。

 しかし、冬馬は気にすることなく続けた。

「カグツチが焼いたのは、イザナミの陰部。つまりはホトです」

「な、なるほど」

 ストレートに言い切った冬馬に、晶は非難の視線を向け、祐理は顔を赤くした。

 もしかしたら、さっきの説明の時は、あえて避けて通ろうとしていたのかもしれない。

「重要なことですよ。このホトですが、古事記では蕃登(このように)書かれます。ですが、もう知っているとおり、イザナミはこのホトを焼かれてしまいます。このことから、この漢字は火の処と書いて火処(ホト)と読む場合も生まれました」

 冬馬は資料の紙の端に漢字を書きながら説明してくれた。

「そしてこれはそのまま、たたら製鉄に行き着きます」

「たたら製鉄に?」

「はい。なぜなら、たたら製鉄において、溶けた鉄が出てくるところを火処と呼ぶからですよ。だから、カグツチは文化的な火の象徴であり、製鉄の神なのです」

 護堂はそれを聞いて、祐理には悪いが、それが一番わかりやすい説明だと思った。

 しかし、話が逸れている。

 この問題は、文化的な火が関わるけれども、カグツチは関係ないというところからスタートしたはずだ。

「しかし、文化の行き着く場所は製鉄に違いありません。特に剣は製鉄文化の最終到達地点ですよね」

「剣を作るのは、他の祭祀の道具を作るよりも難しいからです」

 と、晶と祐理が言う。

「つまり、万里谷先輩が見たのは純粋な文化の火。つまりは製鉄神の火ということでしょう」

「あ、そういう繋がりか」

 製鉄神の火。

 確かに、それならば、文化の火と取っても間違いない。

 護堂は紙に出てきた属性を書き連ねていく。

 『嵐』『農耕』『製鉄』

 これらを兼ねそろえた神格ということになろう。

 製鉄神だからこそ、あの案山子は刃物を扱ったということか。

「うん。もう大体絞り込めましたね」

「はい。そこにあの案山子を加えれば答えがでます」

「なぜ? まだ、コレだけしか出てないのに」

 護堂が尋ねると、だから案山子が大切なのだと返答された。

 返答した後で、晶が、

「でも、それだと迂回しすぎかな」

 と、呟く。

「あのですね、先輩。実はあの案山子なんですけど、あれ、ただの案山子じゃないんですよ」

 それは知っている。

「そうじゃなくて、あれを単なる案山子と捉えることが間違いなんですよ」

「案山子じゃないってのか?」

 護堂は、二度の案山子との戦闘を思い出す。しかし、間違いなく、あれは案山子だったと思う。

「案山子としての面は、農耕神としての面です。ですが、今日戦ったあれは農耕神ではなく製鉄神としての面を押し出していましたね」

「うん。晶の槍を模倣していたし、鉄を溶かして槍を作っていたからな」

「そして、先輩も見たと思いますけど、あの案山子たちの顔」

 顔、と言われて、また、思い出す。

 黒っぽい色合いは金属だったから。

 ほかに特徴があったといえば、

「目玉か?」

「はい、一つ目です。一つ目の一本足」 

 一つ目の一本足。そう言われると、思い当たるのは唯一つ。

「それじゃあ、あいつ等はイッポンダタラだってのか?」

 イッポンダタラ。

 それは、一つ目と一本足の妖怪で、知名度も非常に高い。妖怪を代表する存在の一つだ。

 出現場所は、主に和歌山県の近隣とされている。

 そういえば、今回の怪現象は、三重県から発生していた。地理的には和歌山県と非常に近い。

「そうです。イッポンダタラ。ダタラはタタラ。たたら製鉄のことじゃないですか。一説によれば、踏鞴師は片目を瞑って火を見ていたっていいます。これが片目の製鉄神の由来です」

 片目の製鉄神と聞いて思い出されるのは、ギリシャ神話のサイクロプスだ。

 彼は片目の製鉄神であり、神話において重要な役割を持つ。

 しかし、片目と製鉄を世界共通と見るのは危ない。

 片目の神は世界中に散見され、製鉄と無縁の神のほうが多いのだから。

 ともあれだ。製鉄は鉄製農具の普及にも一役買う。

 製鉄神と農耕神の融合だ。

「案山子であり、イッポンダタラであるあれらを使い魔とするのは、農耕神であり製鉄神である証拠。この国には片目の製鉄神は一柱しかいません。イッポンダタラはその神の零落した姿です。片目の竜と習合したその神の名は---------------天目一箇神。竜としての名を一目連といいます」



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三十話

「風が出てきたな」

 護堂は隣の晶に話しかけた。

「そうですね。気をつけてください」

 護堂の言うとおり、風が強い。

 空を見れば、雲が目に見えて早く動いている。

 青い稲は大きく揺さぶられている。

 その風の動きは蛇のように不規則に思えてならない。意思が介在していると感じさせるほどに、不気味な軌道を描いている。

「先輩。一目連は武神ではありませんが。天目一箇神との習合でその能力を多様化させているかもしれません。油断だけは絶対にしないで……」

「ああ。ありがとう、晶」

 槍を出して戦いに備えている晶だが、相手が『まつろわぬ神』なので、戦力としてはかなり低くなってしまう。下手をすれば護堂の足を引っ張りかねない。

 カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いには、人間は基本的に不干渉でなければならない。できることがほとんどない上に、護堂の様に周りを気遣うタイプには重荷になってしまうからだ。

 だから、晶がすべきことは、護堂が戦いやすい環境を整えること。

 結界を張って周囲から戦闘区域を隔絶して極力安全を確保し、そして神獣の類が現れたらこれに対処する。

 それを自分の役目と割り切ってここにいた。

「草薙さん」

「万里谷。どうした?」

 近くに駐車していた冬馬の車から降りてきた祐理が声をかけた。

「呪力に動きがありました。もうすぐ、ここに現れるかと思われます」

 ずっと精神を集中してきた祐理が捉える敵の気配は、南南西から護堂のいるこの田園地帯を目指しているという。

 風が急に強まったのも、それが原因だろう。

 案山子が出てこない。それは、もう依代として使用する必要がないということだろうか。

「あの、草薙さん」

 と、祐理が控えめに名前を呼ぶ。

 護堂は祐理のほうを向いた。

「晶さんも仰っていましたが、決してムリだけはしないでください」

 祐理も、わかっていることだ。カンピオーネの戦いに死力を尽くさない戦いなど存在しないということを。

 まだ、三ヶ月ほどと少ないが、それでも護堂の戦いぶりを見てきた彼女は理解している。

 無理無茶無謀の果てに初めて勝利があるのが、この戦いなのだと。

 しかし、それでも、理性で分かっていたとしても、感情は別物だ。

 自ら望んでカンピオーネになれる人間はいない。

 護堂も偶発的にカンピオーネになってしまったのだろう。そのあたりの詳しいことはまだ知らない。それでも、それ以前にはただの学生として過ごしていた護堂が、命がけの戦いに身を投じなければならない運命に陥ったということが、どれほど彼の人生を狂わせることになったのか、祐理には想像もつかないのだ。

「うん、まあ、善処はするよ」

 二人から無償の心配をされて護堂は、そのように答えにくそうにするだけだった。

 無理はしないと誓えるはずがなく、二人を前に嘘をつけるほど器用でもない。

 くだらないことかもしれない。でも、護堂は根っからのお人よしで、信頼する人間には気休めでも嘘がつけない人間だった。

 その返答を護堂らしいと受け取ったのか、二人はクスクスと可笑しそうに笑う。

「ああ、来たか」

 そして、空を見上げ、護堂が呟いた。

 僅かに顔を覗かせていた月が完全に雲に覆い隠された。

 身体中から戦意の高揚を感じる。

 筋肉が程よく弛緩し、緊張は解きほぐれ、血流は増大する。カンピオーネが『まつろわぬ神』に出会ったとき、彼らの身体は戦うためのソレに強制的に移行する。

 後天的に手に入れた神様レーダーが反応する以上、この上空にいるのはまちがいなく『まつろわぬ神』である。

「二人とも、後ろは任せるけど、いいかな?」

 控えめに、護堂は尋ねる。

 自分の発言の強制力を自覚しているから、命令的な口調にしないように気を使っているのだろう。

 そんな護堂に祐理も晶も力強く頷いた。

「大丈夫ですよ。ご心配には及びません」

「この槍に誓います!」

 護堂は二人の返答を聞いて安心した。

 祐理と晶。どちらも頼れる仲間なのだ。重大なこの場面で、信頼しないはずがない。

「じゃあ、任せる」

 端的にそれだけを言った。

 それ以上の言葉は必要と感じなかった。

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 護堂自身が敵の存在を感じ取っているように、相手側も護堂の存在を感じ取っているはずだ。

 上空にあれほどの力の塊を作っておいて、まったく気がつかないというほど知覚能力に劣るはずがない。

 月が隠れてしまい、周囲は真っ暗闇の中。

 しかし、カンピオーネはフクロウのように夜目が利く。

 この程度の暗がりで躓くことはない。

 護堂は、農道を一人で歩きながら上空を注視する。

 雲の流れが変わった。

 通常は一定方向に流れる雲が、奇怪なことに渦巻状の模様を作っている。それはカタツムリの殻の模様にも見えたし、銀河のようにも見えた。

「フフ、フハハハハハハハハ! ガァハハハハハハハ!」

 遥か上の雲間から地面に叩きつけるかのように大音量の笑い声。

 何がそこまで面白いのか、『まつろわぬ神』は抱腹絶倒しているようだった。

「なんだ?」

 無論、護堂にはその理由に思い当たる節はない。

 ただ、困惑して姿の見えない敵がいるであろう場所を眺めているだけだった。

 すると、今度は。

「んん? そこにいるのは神殺しではないか! 珍しい! 見たところこの国の少年に見えるぞ! なるほど、ついに日ノ本にも現れたか!」

「今認識したのかよ! 遅すぎんぞ!」

 と、護堂は叫び返した。

「ハハハハ! 仕方あるまい。お主が小さすぎるのだ!」

「嘘つくなよな。俺がお前を感じているのと同じで、お前も俺を感じていたはずだぞ! 一目連!」

「一目連。うむ、その通り! よくぞ我が名を当ててみせた! 天目一箇神、天之麻比止都禰命とも人は言う!」

 ビリビリと響き渡る轟音は、ライブスタジオで聞くヘビメタのようだ。これだけでも、十分に人を殺せるのではないかと思えるほどに、この神の声は凄まじくでかい。

「取り戻したのだ! 我が神名をな! 長かったぞ。時間を忘れるほどにな。己が誰であるのかすら定かでないままに幾星霜の時を漂泊し、請われるがままに雨を呼ぶ……だが、それもこの日まで! まずは、我が力を利用した愚かなる人間共に神の恐ろしさを思い知らせてくれよう!」

 なるほど、と護堂は頷いた。

 この神がいきなり大笑いをしていた理由がわかった。

 失っていた真の名と性を取り戻し、『まつろわぬ神』として降臨することができたことがよほど嬉しかったらしい。

 一目連の話を聞く限り、その原型となる力自体はずいぶん前からこの国を漂っていたらしい。おそらくは過去の雨乞いの儀式などで呼ばれた力の残滓かなにかだろう。一目連が関わる儀式だったのかもしれない。一目連は雨乞いなどでの信仰を集めるからだ。

 それが、長い時間をかけて、まつろわぬ一目連として降臨した。

 その力が核になったのか、それとも一目連という神格を呼ぶ呼び水になったのかは分からないが、火雷大神やヴォバンの嵐と雷を受けて、まつろわぬ性に目覚めたのかもしれない。

「ちなみに聞くけど、思い知らせるとは具体的にはどんな感じで?」

「決まっておろう。我は雨を呼び風を呼ぶ嵐の神ぞ? あそこにある程よい湖を多少増水させてやるだけよ」

「おいおいおい! 霞ヶ浦を溢れさせるってのか!? 冗談じゃすまないぞ!!」

 護堂はさすがに青くなって叫んだ。

 ここからそう遠くないところに霞ヶ浦という湖がある。

 平野部にある湖のためか面積は広大で日本第二位を誇り、なんと茨城県の面積の三十五パーセントを占めるほどだ。

 それが溢れかえればどうなるか。

 辺り一帯は水に沈む。平野部ゆえに水の引きも悪いだろう。水質もかなり悪く、栄養過多。COD、リン、窒素などが多量に含まれ茶色く濁っているところもある。

 周りに広がる田畑は使い物にならなくなる。

 伝染病を併発する可能性もある。

「はあ、マジか……」

 本当に勘弁してくれといいたい。

 戦うのはもう、仕方がないと割り切るにしても、どうして見ず知らずの人の生活を背負わなければならないのか。

 プレッシャーが大きすぎる。

「とりあえず、お前を倒さないといけないな」

「ハハ、今さらだな。我等と君たちとは、遥か古より戦うのが定めだろうに!」

「勝手に決めんなっつの……」

 護堂は嘆息し、

「おい、さっさと出て来い! 相手してやるよ!」

 声を張って叫んだ。

「…………フアハハハハハハハ! よかろう。その意気やよし! この一目連が押しつぶしてくれよう!」

 カッ! と突然の雷光が空を覆う。

 一瞬、まぶしさに目を細め、次の瞬間に驚きで眼を広げる護堂。

 無理もない。

 護堂が見上げる空には、海蛇のように空を泳ぐ巨大な蛇体が横たわっていたのだから。

 目測では全長六十から七十メートルはありそうだ。

 ただの蛇ではなく、前足と離れたところに後ろ足がついているところを見ると竜のくくりに入るものだとわかる。

 一目連は片目の竜神。それゆえに天目一箇神と習合するに至ったわけで、一目連の相が強いのだから竜神で出てくることも分かるのだが、スケールが想像以上だった。

「嘘だろ!? 完全に怪獣じゃねえか!?」

 思わず叫ぶ。

 それほどの威容だったからだ。

「どうした! 我が姿に臆したか!」

「冗談! 叩き落してやる!」

 そして、護堂と一目連の戦いが始まった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 一目連は片目の潰れた竜であり、天候を司るとされる神だ。

 その信仰は伊勢湾近辺が最も盛んであり、三重県にある多度大社の別宮の名は一目連神社である。

 愛知県から三重県、和歌山県等では一目連が神社を出て暴れると暴風が起きるともされている。一目連神社の社殿には扉がないが、これは、この神が神威を発揮するために自由に出入りできるようにするためだともいう。

 そして、重要なのは、一目連神社の祭神は天目一箇神であるということだ。

 風雨の神と製鉄の神。元々は別物の神でありながらも習合したのは、単に両者が片目の神だということではないだろう。

 製鉄は農業と縁が深い。

 鉄製農具の普及は深耕を可能とし、穀物の生産量を著しく上昇させたことは言うまでもなく、また、製鉄業を行う際には強い風が必要だ。古い時代には人力で風を起こすことができず、自然の暴風を利用していた。

 これが、風とたたらの関係性である。

 たたら場は大量の木材と砂鉄を確保する必要性から、人里はなれた山奥に作られることが多く、その中に独自のコミュニティーを形成していた。彼らは生活に必要な取引など以外とは外界との交流はほとんどなく、周囲の農民たちからも区別されたという。

 どれだけ特殊な環境化にあるか、某ジブリ映画を見てもらえれば分かるかと思う。

 コミュニティーの外からやってくる者は鬼である。

 西洋においても、教会で洗礼を受けていない人間は村に住むことを許されず山に住み、そしてそれが妖精として語り継がれたように、外界のたたら場の人間も妖怪になりうる資質をもっている。

 イッポンダタラのような妖怪もこうした背景を伴っている可能性がある。

 そうした隔絶したコミュニティーであっても、農閑期になれば農民たちは出稼ぎにたたら場を訪れた。

 少ないながらも、秋と冬の間だけは、交流があったのだ。

 天目一箇神と農耕民の融合を示す神話が『播磨国風土記』に記されている。

 ここでは、託賀郡の条に天目一命の名で天目一箇神は登場する。

 土地の女神、道主日女命が父のわからない子を産んだが、子に盟酒をつぐ相手を諸神から選ばせたところ、天目一命についだことから天目一命が子の父であるとわかったというものだ。

 道主日女命=農耕民族。天目一命=製鉄民族であり、この神話は農耕民族と製鉄民族の融合を示すものだと考えられる。

 これらのことから、一目連と天目一箇神が習合されていったのだ。

 

「そら、いくぞ神殺し!」

 わざわざそう宣言して、一目連は鎌首を擡げ、急降下してくる。 

 ただそれだけで、轟ととてつもない風の音。それはもはや衝撃波だった。

 巨大な口が開く。

 口の中はおぞましい乱杭歯がずらりと並んでいた。やはり蛇ではなく竜なんだと、護堂は妙な納得をする。

「ヤバッ」

 思いのほか、その急降下は早かった。

 まさに蛇の捕食を思わせる素早さ。しかも巨体のために速度がよく分からないという厄介さ。

 護堂はとっさに土雷神を発動し、土中に逃れる。

 落雷が土に還ることを神格化したこの雷速で、土の中を神速状態で移動する。

 次に顔を出したとき、護堂が一瞬前までいた場所が大きく抉り取られていて衝撃を受けた。

 一目連の蛇体が通過しただけで、農地はとてつもない破壊に晒された。

「化物め! 人の迷惑を考えろ。ちくしょう!」

 避けると農地が壊滅する。とはいえ、これほどの質量の体当たりを受けて無事でいられるはずがない。

 生憎と護堂には神と接近戦を演じられるような頑丈さも、筋力もない。

 素早く動き回って手数で攻めるタイプ。一目連と殴り合えるのはヴォバン侯爵か羅濠教主くらいのものだ。

「ネズミのように素早いな、少年!」

「蛇にネズミのようとか言われても嬉かないわ!」

 ただの獲物じゃねえか、と内心文句を付け足す。

 一目連は上空で方向を転換する。再び、地上の護堂を狙う。

「さあ、次はどうかな!?」

「二度はさせねえ!」

 愚直に突っ込んでくる一目連に合わせて呪力を練り上げる。

『弾け!!』

 渾身の一撃を見舞う。

 言霊なだけに距離が近いほど、その効果は高くなるようだ。

 これほどの大質量を弾き飛ばすためには、それだけの呪力と集中力が必要だった。本当に危険を感じるギリギリまで蛇体を引きつけて言霊をたたきつけた。

 イメージは砲撃。

 目視を許さない音速の一撃が一目連の顎下に炸裂した。

「ぬ、お!?」

 頭を上に跳ね上げて、一目連は勢いのまま真上に昇っていく。

 腹部が地面を掠め、側面が護堂の二の腕に触れた。

「痛ッ……」

 シャツが削れ、鮮血が迸る。

 ただ、触れただけで、肉が削り取られたかのようだ。

 すれ違いざまに見た一目連の身体は、鋼色。逆棘状の鱗がびっしりと全身を覆っていた。

 ああいうモノを学校でも見たことがある。

 美術で勾玉を作ったときだ。

 金鑢。間違いなく、あの身体は金鑢でできている。しかもその鑢はダイヤモンドはおろか山すらも削り取るほどの代物なのだ。

「一撃喰らえばお陀仏。マジですり身か」

 …………笑えねえ。

 天目一箇神の製鉄神としての側面が鋼の身体というわけか。

 とはいえ、あれほどの巨体にちまちまと言霊をぶつけてもどれほどの効力を得られるか。

 頑丈な表皮。膨大な呪力。呪術への対抗力を考えれば、その内面までダメージを通せるか怪しいもの。

 改めて自分の攻撃力のなさに歯噛みする。

 攻撃能力が高く、あの鋼の鱗に対向できそうな権能。

 決め手が少ない以上はカードを切るタイミングが重要なのだが、ここで使わなければいつ使う。

「我は焼き尽くす者。破滅と破壊と豊穣を約束する者なり。全てを灰に。それは新たなる門出の証なり!」

 体内を巡る呪力が加速する。 

 さしずめ蒸気機関に石炭をくべるが如く。心臓が脈動し、送り出される血液は総じてガソリンとなる。

「ほう、なにかする気だな! ならば我も友を呼ぼう! 雨よ、風よ、雷よ! 我と共に来たれ!」

 とたん、風が猛り、雷鳴が響きわたり、雨が降り注いできた。

 土砂降りというほかない。あまりの豪雨に視界を確保するのも難しいというほど。シャワーのほうがまだ優しい。

 しかもそれは、護堂にとってはかなり厄介なものだった。

「今雨を呼ぶとか……クソッ」

 せっかく練り上げた呪力が四散していくのを感じた。

 雨に打たれ、燃え上がっていたエンジンが急速に冷やされている。

 土砂降りの中では火の手は上がらない。

「む、どうした? なぜ、権能を使わない?」

 うねる蛇体から、疑問の声が響き渡る。

 護堂は舌打ちするだけでそれを無視した。

 使いたくても使えなくなったからだ。

 とはいえ、これだけ周囲に水があれば、伏雷神が使用できる。

「雷雲に潜みし、疾くかける稲妻よ。集い来たりて我が足となれ!」

 護堂の全身が発光し、火花を散らす。

 神速の状態へと移行したのだ。

 さらに、護堂は雷に顕身して虚空を雷速で移動する。

 護堂が持つ空中戦用の権能は、この伏雷神の神速と、ガブリエルの言霊による空間干渉の二つだ。

 自由自在に空を移動でき、神速であるので、雷速は言霊よりも遥かに優れていると言える。

「むう、それは神の足か!? 厄介なものを!!」

 護堂はあっさりと蛇体の背に飛び移った。

 あまりに身体が巨大すぎて、神速で飛びまわる護堂に対処できなかったのだ。

 人とハエの戦いによく似ている。

 自分の周りを飛びまわるハエを煩わしいと思っても、それを叩き落すのは至難の業だ。

「でかいのが仇になったな!」

「たわけが。その程度で我の背後を取ったと思うな!」

 一目連が加速していく。

 危うく振り落とされそうになりながら、護堂は背中にしがみつく。

「コイツ、乱暴な!」

 一目連はドリルのように横回転を繰り返す。さすがに背中にしがみついてもいられず、落下してしまう護堂は、目の前で大きく開かれた口を見た。

「あ、っぶねえ!?」

 閉じ合わされる口に僅かに先んじた雷速で、辛うじて回避することができた。

『砕け!』

 すれ違いざまに、言霊をたたきつける。

 金鑢の鱗が砕けてバラバラと崩れた。

 だが、内側まで攻撃が届いているわけではない。鎧に罅が入ったからといっても肉体にまで届けなければ倒すことなどできはしない。

 雷となって護堂は飛ぶ。

 護堂が空を駆けるたびに、閃電が弾け、光の線がその軌跡を追う。

 巨大な怪物に挑みかかる人型の戦士。

 それはあまりにも無謀な挑戦だ。

 護堂の攻撃は幾度繰り返しても決定打にはならず、対して相手の攻撃は一撃当たればそれだけで致死させるに足る威力を秘める。

 単純に質量と体積の問題だ。

 一目連はあまりに大きく、あまりに重い。

 カンピオーネの呪術への抵抗力を考えても、下手に風や雷を操るよりも、体当たりをして物理的に押しつぶしたほうが確実に相手を倒せるのだ。

 そのために、一目連の攻撃は単調な体当たりと噛み付き攻撃がほとんどだった。

 雷速の護堂を追おうにもその巨体ゆえに小回りが利かず、必殺を逃してばかりいる。

 護堂は避けると同時に言霊と発し、回避し、また言霊を叩きつけるを繰り返し、地道に敵の装甲を削り取っている。

 もっとも、その護堂の身体もずいぶんと疲弊している。

 断続的な神速の使用と一目連の体当たりの余波による裂傷が護堂を少しずついたぶっていた。

「千日手だな。これは……」

「ちょこまかと気ぜわしいヤツめ!」

 護堂は再び背中に飛び乗った。 

 言霊を連続して放ち、同じ箇所を徹底的に削りまくる。

 鱗は砕け、血飛沫が雨を赤く染める。

 砕けた鱗がカッターの刃のように風に乗って護堂の身体を掠めて切り傷を与えていく。

「調子に乗るなよ! 神殺し!」

 一目連が身体を捻り、そして、叫ぶ。

 護堂は直感にしたがって顔を逸らし、半身になった。

「ぐ、ふ!?」

 だが、間に合わなかった。

 護堂は驚愕に目をむいた。

 一瞬の空白とその後の脳を焼く激痛が攻撃を受けたことを物語っていた。

 腹部と右肩を左の太ももに、鉄杭のような鋭利な刃物が突き刺さっている。じわり、と血が滲んで服をぬらし、滴る赤が鋼の身体を汚しては雨に流されていく。

「ガハッ。く、な、にを……」

 吐血しながら、倒れこむように後ろへのけぞる。

 逆棘状の鱗が鋭い刃物となって伸び上がり、護堂を貫いていたのだ。

 さらに追い討ちをかける鱗の刃が、体勢を崩した護堂を狙って次々と逆立っていく。

 鋼色の稲が植えられているようにも見える光景だった。

 これには堪らず護堂は背中から飛び降りた。

 逆流する血を吐き出して、真っ逆さまに落ちる護堂。

 上空四百メートル地点。東京タワーよりも高いのだ。地面に叩きつけられれば、死ぬことは間違いない。

 いかにカンピオーネが頑丈であっても、これはさすがに死ぬ。

 しかも三箇所に穴が開いている状態。

 カンピオーネでなければ即死していただろう。

「油断したな。神殺しよ! その肉を喰らい、我が糧としよう!」

 落下する護堂を一目連が追う。

 蛇が獲物を狙うのとまったく同じ動きで、その何倍も速く、豪快な動きで牙をむく。

 交錯する刹那。護堂は雷へとその身を変えて、一目連の死角に回り込んだ。片目が潰れているがゆえに、そちら側への対処はどうしても遅くなるのだ。

『砕け!』

 頭部の右側に放たれた言霊は、空間すらもゆがめて一目連の顔に炸裂した。

 大きく進路を逸らされた蛇体は、血を撒き散らして墜落する。

 バランスを崩されたことで、体勢を維持できなくなったのだろう。

 これで倒せたと思うのは気が早い。『まつろわぬ神』の頑丈さは異常なのだ。おまけに全身が鎧で守られているような相手だ。これはリング上で滑っただけ。K.O.には程遠い。

 その一目連は地面に激突する寸前に鎌首を擡げてこれを回避、さらに身をくねらせて上に向かうと、護堂に向かって口を開いた。

「さすがに一筋縄ではいかないな! ならば、こういう趣向はどうだ?」

 蛇体から、強力な風が押し寄せる。

 見えない自然の風と違い、呪術の風は呪力を内包するがゆえによく視える。 

 第六感の研ぎ澄まされた護堂には、猛烈な勢いで壁が迫っているようにも視えたのだ。

「く……うわッ!?」

 呪力を高めてこの風に対抗しようとしたその時、急に雷の身体が実体に戻ってしまった。

 術破りの風だったのだ。

 しまったと、思いながら慌てて言霊を紡ぎ、落下する身体を押し上げた。

 そんな護堂の一連の行動は、一目連にとっては格好の隙となる。

「バハア!!」

 勢いよく、口の中から飛び出してきたのは鉄杭だった。

 一本一本が人間大の大きさの鉄杭が、数百本。それが護堂のみならず、その周囲全体を巻き込むように放射状に射出されたのだ。

 ミサイルのような速度と威力で放たれた散弾銃。

 狙いなど端からないのだ。

 護堂がいる場所を含め、まとめて吹き飛ばすためのもの。

 一瞬速く危険に気づいたものの、雷速は間に合わない。

「天を覆う漆黒の雷雲よ。光を絶ち、星を喰らい、地上に恵みと暗闇をもたらせ!」

 頭で判断するよりも速く、護堂は聖句を唱え、黒雲の中に消えた。




やっと三十の大台に突入しました!
ここまでやってまだ原作二巻までしか進んでないとか……

以下余談
別のカンピssの舞台を新潟に設定したので、せっかくだからと方言を調べていて出てきた語
【ばふらんかぜofばふらかぜ】
 性○為をした後で裸のまま寝て引いた風邪。
 布団をばっさばっさするところから来たとも。

 新潟……
 なぜそんな限定された用法を?
 他の地域にもあるっぽいです。
 方言萌えそうだ、ぜ!

 西住殿--------------! 熊本弁……熊本弁をお願いしま-----------すッ!! 


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三十一話

 豪雨が降り注ぎ、雷鳴が木霊する。

 およそ四百メートル上空で激突する護堂と一目連の戦いは、直接的な影響の出ないはずの地上にまで及んでいた。

 大きく抉り取られた田は十数反を越え、農道は鉄杭に飾られている。朝を向かえた時の農家の嘆きを想像することは難しくない。

 護堂も初めのうちはそういうことを考えて戦っていた。

 しかし、やはり『まつろわぬ神』は強大な敵だった。少なくとも、周囲の被害を考えているうちは倒すことはおろか、戦いにすらならない。

 だから、護堂はそこを割り切った。

 申し訳ないが、ここで一目連を倒しきれずに霞ヶ浦を溢れさせることに比べれば、被害は少ないはずだから、壊されるのも仕方がない、と。

 もちろん、農家の側からすれば、そんなことは理由にならず、被害なんて出さずに倒せと思うだろうが、無理なものは無理だったのだ。もしもそんなことを言う人がいるのなら、護堂は戦いを放棄するだろう。

 誰かのために命を張ることのできるお人よしではあるけれど、人から強制されて戦うつもりはないし、自分の戦いに文句を言われる筋合いもないからだ。

 護堂が他の王と異なり、一般人と同じような思考をすると思われているのは、偏に意志を貫くべき場面に遭遇していないからということ。

 地面を叩く雨の音をドラムロールとするならば、吹き荒れる風は重低音のコントラバス。

 響きを忘れた演奏の中に、ギチギチとした不協和音が紛れ込む。

 言うまでもなく、鋼の鱗が軋む音だ。

 視界は最悪で、音で状況を捉えることも容易ではない。

 晶たちですら、辛うじて戦いの趨勢を見ることができているという状況下において、呪術に関わりを持たない者がこの饗宴を垣間見たところで、その細部はぼやけて霞んでしまう。

 チカチカ、と暗闇に光る雷光は護堂が駆け抜けた名残。

 その光が晶たちの目に届く頃には、護堂はまた別の場所へ移動している。

 目で捉えることのできない超高速移動。

 一目連の巨体は戦艦を思わせるほどに圧倒的外観を有し、それに比べれば護堂は大海の荒波に翻弄される小船のようだ。

 それを見る限りでは、とても護堂に勝ち目はない。

 小船にどれだけ多くの武器弾薬を積み込もうとも、戦艦を倒すには至らない。

「--------------大丈夫」

 雨に打たれながら、晶は一人呟いた。

 戦闘用の黒いレインコートが風に踊る。有事の際にはすぐに飛んでいけるよう、冬馬の車には乗っていない。

 その少し離れたところに停まる冬馬の車には冬馬と祐理が乗車していた。

 冬馬はいざというときの足であり、祐理は敵の策敵に力を注ぐ。まかり間違って神獣が現れたとき、真っ先に彼女の知覚がこれを発見する。

 各々が、護堂に任された任を全うせんとしているのだ。

 カンピオーネは超越者だ。

 どれほどの逆境にあろうとも、必ずや活路を見出して勝利する。

 そこに理由などない。

 理由があれば超越者などにはなりえない。

 傍目から見て、絶望的な戦力差や相性の悪さがあったとしても、草薙護堂は勝利する。

 それが、机上の論理であり常識。だが、不安もある。護堂の勝利を確信しきれない自分がいる。

 言ってみればそれは晶の願いであり、独り言は、口に出すことで不安をかき消そうとする代償行為でもあったのだ。

 槍を握る手に力が篭る。

 雨に濡れる指先の冷たさも忘れるくらいに固く柄を握り、空を見上げる。

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 喉奥で生成され、ギロチンのような顎から繰り出された鉄杭の攻撃は、膜状攻撃ではなく、波状攻撃だった。

 砲身を出鱈目につけたガトリングガンを何十も用意して一斉射を加えたかのような攻撃は、回避という考えが決して及ばない超広範囲をカバーし、護堂を襲った。

 ソレを阻むのは黒い雷雲。

 雷という事象を八つに分かち、それぞれの特性に合わせて手札を切るのが火雷大神の権能だ。

 黒い雲は、そのまま雷雲を表し、同時に太陽や月を覆い隠された世界そのものだ。

 雲であり闇である。

 元来地下の国で悪鬼を従える雷神の力だからか、そこには一点の光も見出せない。

 凝縮した闇の表面を走る雷光すらも、闇色に輝いて見えるのだ。

 護堂を守る闇色の楯は、一目連の鉄杭の雨を完璧に防ぎきった。

 鋼と鋼が打ち合う音が断続的に鳴り響き、護堂の逃げ道を封じていたその他の鉄杭は勢いよく大地に突き刺さって被害を増大させた。

 舞い上がる粉塵は雨に打たれて固まって、風に流れてあさっての方角へ。

 掘り返された地面には各所にクレーターが生じ、雨水と破壊された用水路からの水が流入してため池を作っていた。

「また、防いで見せるか! 見事なり、小さき者よ! それでこそ我が敵手。我が刃を振るうにふさわしき敵!」

 護堂の楯に、一目連が体当たりをする。

 全身の鱗は逆立ち鑢から剣山へと変じている。

 その状態で、ドリル状に回転しているのだから、これはもう削岩機と同じようなものだろう。

 垂直に大地に突き立てば、一気に三十メートルは穴が掘れる。

「いい加減にしろよ! やりたい放題やりやがって!」

 黒雷神の楯を霧散させ、闇から顔を出した護堂は叫んだ。

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ!」

 そして、呪力を放出する。

 源頼光から簒奪した『神便鬼毒酒』の権能。

 ヴォバン侯爵の権能を混乱させ、戦いを有利に運んだ権能弱体と酔いによる知覚妨害の権能だ。

 護堂の周りを酒の芳醇な香りが満たし、水塊となった酒が、いくつものコロニーを形成した。

「引導を渡してやるぞ、一目連!」

「ハハ! 飛びまわるだけで芸のないヤツと思っていたが、まだ何か隠し持っているようだな。おもしろい!」

 神酒は護堂の意思に従って動く。

 一目連の進路に沿うように並び、その突撃を遮るように壁となる。

 さらに神酒はその量を増やしていく。

 プールを五つは満水にできるほどの量の神酒が、壁とは別に展開する。

 三本の柱となった神酒は渦を巻いて、蛇のように一目連の蛇体に巻きついていく。

 元来は攻撃に使える権能ではない。

 これは偏に質量を使った圧殺に他ならず、一目連の身体と力、この二つと比較するなら、その質量自体がたいしたものではなかった。

「フフフッ、なんだ、そのひ弱な力は! そんなモノでこの我を縛るつもりか? 舐められたものだな!!」

 一目連は余裕を崩さない。

 当然だ。

 七十メートル近い肉体と、鋼の鎧に身を包み、その質量は数千トンになろう。

 単純な質量勝負では酒と鋼では話にならないのも道理だ。

 ただ、一目連は身体をスピンする。

 それだけで、豪風を巻き起こし、身体中の鱗が無差別に大気を巻き込んで乱流をつくりだす。

 ただの一回転で、神酒の触手は削り取られて散らされた。

 一目連は大笑し、

「この我を縛るのに、風雨を司り鋼の身体を持つ我に、このような攻撃。フン、たかだか水では話にならん!」

 叫ぶだけでも大気が震える。

 余裕の体で振り払った一目連は、そのまま神酒の壁を突き崩す。

 所詮は液体の塊。

 鋼の突進にはなす術もなく。

 そして、またさらに四散した神酒の雫は、一目連の全身に纏わりついていた。

 じわりじわりとその鋼の内側に侵入している神酒は、一目連にとっては警戒すべきものではなかった。

 ゆえに、その無粋な干渉を見逃してしまう。

「まだまだ!」

 神酒をさらに呼び出した。

 そこなしの酒地獄。

 呪力さえ尽きなければ、護堂はいくらでも神酒を量産できるのだ。

 今度は纏めて一つの柱にする。

 より密度を高め、いかにも『武器』に見せて叩き込む。

 高速回転する螺旋槍。

 元が液体であったことなど、もはや意味を成さない。たとえそれが水であったとしても、必要な速度と鋭さを持たせれば十分に岩盤を砕くだけの威力を出すことはできる。

 科学をもってしてそれなのだ。

 神酒を自在に操る権能で、それ以上の破壊力をだすことくらい容易にできる。 

 敵は武神ではないものの、戦いを好むタイプの神であり、真っ向勝負を得意としている。

 とはいえ、相手の土俵で戦う必要もない。体格面での不利を考えれば策を弄するのも戦の習い。

『砕け!』

 交錯の中で砕けた外皮は、確かな手応えを護堂にもたらした。

 効いている。

「く、威力を上げた---------いや、これはまさか」

 そして、自らの身体が知らず汚染されていることに今さらながらに気がついたのか、重厚な声で唸る。

 雨を強めて身体を清めようとしているのか。 

 一目連が標的である護堂から目を逸らしたその瞬間に、護堂は雷光となって雨雲の中へ飛び込んだ。

 それは風雨を操る一目連が呼び出した雷雲であり、それは敵の広げた口の中に進んで身を投げるのと同じ行為だった。

 が、しかし。

 敵との相性を加味するに、一撃大きい攻撃を与えなければいつまで経ってもこの戦いは終わらない。

 打って出るべきところではリスクを度外視した暴挙も神との戦いでは必要だ。

 そしてギャンブルには滅法強いのが草薙護堂であり、神酒の力で一目連の権能を弱めているのだから、これは勝利の確定したイカサマギャンブルだった。

 テーブルについたその時点で、勝利は確定していた。

『払え!』 

 高めに高めた呪力を解放する。 

 四方八方に力が流れ、雷雲そのものに命令を下す。

 この場から立ち去れという強制命令によって、護堂を中心にして雲が押し広げられていく。

 波紋が水面を行くように、退けられた雨雲は、さらに他の雲を追いやって遠くに行けば行くほどに分厚くなりながらも、ほんの僅かの時間だけ、この一帯に晴れ間を作り出した。

 雲が失せ、雨が失われた。

 ソレはつまり、護堂の神速が消えるということだ。

 雨が止んでも、大気中には多分に湿気が残されている。すぐに神速が解除されるわけではないが、それでは困る(・・・・・・)

「むう、いったい何のつもりだ!?」

 得心がいかないという一目連は、自由落下する護堂を片目でにらみつける。

 ただ地球に引かれるままに落下する護堂を一目連は攻撃しなかった。

 護堂がなぜわざわざ雨雲を払ったのか、なぜ、神速を解いたのか。そうした一連の謎が脳裏を過ぎったからだ。

「南無八幡大菩薩!」

 はるか下方で、呪力が唸る。

 風を切った銀の閃光が下から上へ駆け抜けていく。

 弓矢の神である八幡菩薩の加護を得て放たれた槍は、ちょうど護堂の正面で失速した。

 一瞬の滞空を見逃すことなく手にとって、護堂は空を踏みつける。

「いくぞ、一目連!!」

「よかろう。何を企んでいようと打ち砕くのみ!」

 護堂が正面から戦うことよりも、手数と戦術、隙を見つけての一撃に特化していることは一目連も承知していた。だから、そんな護堂が神具でもないただの槍を持って向かってくることがそもそもの不自然であった。が、しかし、一目連には一目連の戦い方がある。強靭な肉体は、如何なる姦計をも打ち砕き、カンピオーネを破砕する。その確信があった。ゆえに、ここで勝負を受けて立つのは油断でもなんでもない。己のもっとも得意とする分野での決戦なのだ。これで負けるのであれば、他の何で挑もうとも負ける。それだけだ。

 護堂が翔ける。

 神速を失いながらも、言霊によって空間及び風に干渉し神速に勝るとも劣らない速度で走り抜ける。

 神速が迅雷であるならば、それはまさに疾風。

 護堂もまた、一目連の性格を理解していた。槍を持ち、正面から向き合えば自ずと受けてたつだろうと。  以前戦った案山子(イッポンダタラ)はわざわざ晶の御手杵をまねて見せた。まるで自分のほうが優れた槍を持つことができると示さんばかりの行動だった。

 愚直にして頑固。己の武器を試さずにはいられず、挑戦には背を向けられない職人気質。

 巨体が真っ直ぐに護堂に向かう。

 あの身体が動く、ただそれだけで大気は細切れにされ、その身体を乱流が覆う。

 それは全身にカマイタチを纏っているのと同じことだった。

 掠めるだけで肉を削り取られる。

『弾け!!』

 それを身を持って知る護堂は、まずその突進を受け止める。

『弾け!!』

 二段構えの言霊の壁。

 鼻面に向かう不可視の強制命令は、こともあろうにあっさりと突破を許す。だが、効果がなかったわけではない。一目連の速度を緩めることはできた。

「は-------は、ふッ!」

 上がった息を整えて、僅かのタイミングを図る。

 神速でない以上は、かわすタイミングがずれた時点で敗北だ。

 遅すぎれば粉みじんにされ、速すぎては対応される。

 双方が距離を縮めながら考えていることは同じ。

 

 ----------------草薙護堂が仕掛けるとすればイツだ?

 

 一目連が護堂を凝視する。

 護堂も一目連を凝視する。

 彼我の距離は二十メートルを切り、護堂は終に、

『縮!』

 可能とする限り最大の空間圧縮を行って、高速移動に突入した。

 圧縮空間に飛び込んで、世界はゴムのように伸びる。

 一目連の斜め上方。蛇でいうなら鼓膜のあるあたりを狙って加速する。

 この局面に及んで、護堂の力は衰えるどころかむしろ強くなっていた。

 血液は呪力となって血管を駆け巡り、脳が沸騰しているのではないかというくらいに熱くなっている。

 心臓は二倍くらいに膨らんでいると感じられるし、鼓動は平時の何倍にも加速している。

「痛ッ----------------!」

 声にならぬ声が喉から漏れる。

 刺すような痛みが襲い掛かってきたのだ。

 右腕が熱い。脇腹もだ。足もやられた。鮮血と削り取られた肉が舞い落ちる。

 空間圧縮による移動は相対的に見て高速。しかし、あくまでも空間を縮めているに過ぎず、その領域内にいれば護堂の移動速度と対象の移動速度は同速になる。

 また、圧縮空間に飛び込んだとき、護堂からみても相手が加速しているように見えてしまう。

 当然である。

 空間を縮めるということは、それだけ移動先(あいて)が自分に近づいてきているということなのだから。

 言ってみれば、これは超音速戦闘機同士のドッグファイトと同じなのだ

 相手が見えた次の瞬間には、すでにすれ違っている。

 時間を操り、相手の動きがスローになる神速とはまったく異なり、これは単純明快なまでにただ加速するだけなのだった。

「く、くう----------------」

 だからこそ、このようにカウンターが決まってしまうことも可能性としてはある。

 護堂が現れるであろう場所。通り過ぎるであろう場所に設置物を置いていくこともできる。圧縮空間に入った時点でそれも護堂が反応できる程度の速度になるが、それでも突然物体が現れたように見えてしまう。

 今回は、すれ違いざまを狙った護堂に対して、一目連は全身の鱗を一気に逆立てて応戦した。

 加速するまさにその瞬間、蛇体の鱗は剣と化したのだ。ウニかハリネズミか、いや、細長い胴体に大量の毛とくれば毛虫が近いか。

 直感にしたがって避けたものの、かわしきるには速度が速すぎた。

 切っ先に引っ掛かり、もんどりうってバランスを崩したのだ。

「こんのォ。だからどうした!」

 こればかりは本当に賭けだった。

『穿て』

 穿孔の言霊を乗せ、右手を突き出した。

 神酒で切れ味、強度が落ちていたことも助けてくれた。

 剣山を砕き、その皮膚を貫いて、護堂の腕は肉の温かさを感じたのだ。

「グゥ!」

 歯を食いしばり、落下を阻止する。右手一本で体重を支えるのは至難の業だったが、言霊で素早く足場を作って難を逃れた。

 一目連の血液が、腕を伝って護堂の服を染めていく。気味が悪いくらいに生温かい。

 一目連が痛みにうめく、その間に、左手に握る晶の槍に呪力を流す。

 一瞬にして、術は完成した。

 護堂の力ではなく、晶が用意した式に燃料をくべただけなのだ。それであれば呪術の心得のない護堂でもできる。

 淡く光る御手杵。

 護堂は急速に喉の渇きを覚えた。

 それが始まり。

 眼に見えない変化が進んでいる。

 槍は大気中の水分を吸い上げているのだ。

 五月に使用した雨避けの呪と同じ系統の呪術。水を司る神の加護を込めた槍は、その刃先に多量の水分を吸収してしまう。

 一目連の雨で上昇した湿度が平均を大きく下回るまでに低下する。

 水分がなければ神速は使えない。だが、それはデメリットだけではないのだ。

「我は焼き尽くす者。破滅と破壊と豊穣を約束する者なり----------------」

 護堂は聖句を唱える。

 射出は突きこんだこの右手から。

 熱した鉄でできているかのように熱を持つ右手には、強大な呪力が篭められていた。

「ぬ、う!」

 危機を察して身を捻る一目連。だが、それはあまりにも遅すぎた。

「全てを灰に。それは新たなる門出の証なり!」

 そして、聖句は完成する。

 もはや、灼熱にもなる右手の熱は、それを引鉄に解き放たれた。

「ウグアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 一目連の大絶叫が響き渡る。 

 この戦いが始まってから、一度として苦痛の叫びを上げたことのない竜蛇が空中でのた打ち回っている。

 それは一瞬の出来事。

 聖句の完成とともに護堂の右手は強烈な火炎を吹き上げた。

 神聖にして邪悪な破滅の炎だ。

 数少ない雷撃を伴わない力であり、大雷神に並ぶ大火力攻撃。

 それは落雷によって生じる大火災の神格化。落雷による火災。その多くは森や山であったろう。山火事は土砂降りの中では生じにくく、乾燥しているほどに発生しやすい。この権能の条件は雨を初めとする大気中の水分濃度が一定以下にならなければならないというもの。神速の伏雷神とは対極に位置しているといえよう。

 体内を焼かれ、それに留まらず炎は一目連を包み込み、紅蓮の火柱と変えた。

 この炎は山火事と同義。一度火がついたら早々消えることはない。

 鋼の鱗も、灼熱に晒されて融解している。神酒による防御力の低下が大きく響いているのだ。しかも、内側からも炎が襲い掛かっている。

「鋼の弱点は超高温の熱だったな。効果抜群ってとこだ」

 この神格を《鋼》と受け取ってよいものか。一説によれば天叢雲剣を打った神とも伝えられているし、農耕から水との関わりもあるが、やはり《鋼》には乏しいか。

 それでも、身体が金属製であることに変わりなく、紅蓮に包まれてはひとたまりもない。

 空中でもう一度うごめいてから、一目連は力なく落下した。

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 あまりに体重がありすぎる巨体なので、そのまま落下させては震度ゼロの地震が起きてしまう。

 護堂は呪力に鞭打って言霊を発し、その落下速度を低下させた。 

 それでも、ズウウゥン、とゴジラが横倒しになった時とまったく同じ音でその巨獣は倒れこんだ。

 周囲が農村地帯でよかった。これが都市部であれば一区画がまるまる消滅していただろう。

 その護堂の勝利に晶と祐理は手を叩いて喜んだ。

 地面に横たわる竜の身体はシュウシュウと煙を放ち、肉が焼け焦げたにおいと、鉄が溶けたにおいが混ざり合った悪臭が立ち込めている。

 遺骸は火炎に覆われたために損傷が激しく、半分が焼けてなくなっているという有様だった。火雷神の火力の凄まじさを如実に表現している。

 地に膝をつく護堂はまさに満身創痍。動くにも支えが必要そうだ。

 大蛇を打ち倒す英雄の凱旋を祝福しようと晶は駆け出した。

 支えがいるなら自分がなればいい。

 不安で張り裂けそうだった胸は、その反動からかまた別の方向で脈打っていた。

 一秒でも速く、あの場所に駆け寄りたい。

 その晶の手を後ろから祐理が掴んだ。

「いけません、晶さん!」

 切迫した空気に、肩透かしを食らった晶は文句を言うことができずに立ち止まった。

 なにがそんなにいけないのか。

 祐理が言うのだから相応の理由があるはずで、その理由はすぐに明らかになった。

 鉄と鉄を打ち合う音と、鉄骨が捻じ曲がり砕ける音。

「ッ!」

 音源は言わずもがな、蛇体だった。死した『まつろわぬ神』は九割方この世から消えてなくなるのが常である。

 一部竜骨として残ることもあるがそれはまれだ。

 そういう原則に従えば、あれほど大きな竜骨が残るはずもなく、呪力もかすかながら存在する。それはつまり、アレは、まだ生きているということになる。

「草薙さん。後ろです!」

 祐理が、力いっぱいに叫んだ。

 平時の彼女ならばこのように声を張ることもないだろうが、今は火急の時。努めて冷静に判断した結果がこれだった。

「先輩!」

 晶が悲鳴のような声を出す。

 死力を尽くした戦いだった。護堂の呪力も見るからに目減りしていて、体力も限界に近い。その状態で戦えるのか。

 護堂は、祐理と晶のほうを向き、手で制止してからゆっくりと立ち上がった。

 護堂の目はいまだ戦意に燃え、敵の復活を待っている。

 鉄を打つ音が静寂の中に響く。

 赤く燃え立つ蛇体の熱が引いていく。黒く変わる鉄の身体。熱を帯びる赤は一点に追いやられ、その部分だけが盛り上がった。

 ギチギチと、盛り上がる溶鉄は、吹きガラスでつくる工芸品を思わせる。

「なんて、生命力……」

 晶は唖然として、その様子を見つめた。

 そして、慄然とする。『まつろわぬ神』のその執念に。

「くく、してやられたぞ。まさか、我が身を砕くのではなく、溶かしにくるとはな」

 溶解した鉄の塊は発声器官などないにも関わらずに言葉を発している。

 灼熱の溶鉄は、地面に落ちると土を焼きながらその形を変えていく。縦に伸び上がり、下の部分は二つに分かれ、二股となったら今度は先端が三つに分かれた。それぞれが頭と腕を創り上げる。

「身体を再構成したですって?」

「そんな出鱈目が!」

 祐理と晶が息を呑む。

 護堂もその規格外さには憤りを通りこしてあきれ果てた。

「くく、驚くことはあるまい。我は蛇にして製鉄神。皮を脱ぎ捨て命を回す蛇と火炎の中から生まれ変わる鉄の力を持っているのだ。とはいえ、今回は失うものが多すぎた。あそこまで我が自慢の身体をくず鉄に変えられてしまえば完全な新生も難しい……神殺し、貴様との決着を後回しにして傷を癒そうとも考えたが」

 そして細部の形状が定まっていく。

 その姿は鎧武者であった。

 鉄兜を被り、鬼のような面をつけ、無骨な赤糸縅の甲冑がガシャンと音を立てた。

「それではつまらぬ。これほどの戦。また次回も行えるかどうかわからぬ。ゆえに、我は決めたのだ。今ここで全霊を傾けた力で持って貴様を屠ってくれようと。たとえ、我が大いなる蛇身からこのような小さき姿になろうともな!」

 小さき姿。その言葉に自らを卑下する響きは一切ない。

 むしろ、それを誇りに思っている。

 なぜならば、あの鎧兜は一目連。いや、ここはもはや天目一箇神と言ったほうがいいだろうが、製鉄の力を最大限にまで高め、生存本能と闘争本能に従って創り上げた芸術的逸品であり、自分自身を宿す本体でもあったのだから。

 戦うための武具を作ることが、製鉄の神の宿業だ。鎧も兜も彼の手にかかれば最高の状態で誕生しよう。それを、最高の敵を相手に振るえるならば尚一層よいではないか。

「さあ、今こそ決着をつけようではないか。我が全霊を込めて打ち出したこの剣で貴様を討ち取ってくれようぞ!」

 サラリ、と抜き放った大太刀は刃渡り実に一メートル三十はありそうだ。あまりに長大な日本刀ながらも、背の高い鎧武者が握るにはふさわしい造詣だ。

 驚くべきはその呪力。

 あれは下手をすれば神具を越えうる代物だ。

 なにせ、あの鎧兜と同じく鋼の蛇体から取り出された鋼を使用して創り上げたものなのだ。文字通り身を削ってまで打ち出した刃は、神の分身ともいえた。

「そうかよ。だったら迷わず冥土に行きやがれ!」

 護堂は足に力を込めて地面を踏みしめて、言霊を放つ。

「ぬうん!」

 空間を捻じ切る言霊の干渉を受けて一歩後退した天目一箇神。

 が、下から上への切り上げで、あっさりとその力場を斬り捨ててしまった。

「なんて厄介な!」

 護堂は天目一箇神と距離をとろうとバックステップを踏む。 

 『まつろわぬ神』の強さはその自我の強さに比例するというが、それならばこの神の生命力はいかほどのものか。

 しかもあの刀は《蛇》であり《鋼》の特質を持つもの。

 《蛇》から生まれた《鋼》の剣。それはまさに天叢雲剣のモチーフだ。

 天目一箇神は一部の伝承では天叢雲剣の製作者だ。ゆえに、彼には《鋼》の剣を生み出す力があるのだろう。

「フフフ。我が剣の切れ味はどうだ?」

 刀を構える鎧武者は得意げになって笑う。

「ああ、そうだ。神殺し。貴様の名は何というのだ? ここまで殺し合っておきながら相手の名も知らぬのでは武名の一つも上げられぬ」

 そんなものを上げさせるわけにもいかないが、護堂はあえてその問いに答えた。

 会話が長引けば、護堂の体力が快復する時間を稼ぐことができると踏んだ。

「草薙、護堂。草薙、草薙だと? クク、グアハハハハハァ! おもしろい。偶然にしても出来すぎているな! よもや我に立ちはだかる強敵が草薙の姓を持つとは! 傑作ではないか!」

 と、一頻り笑った後で、

「ますます手が抜けぬ。草薙の名を持つ者に不名誉な死を与えるわけにも行かぬからな」

「冗談きついな。死ぬのはあんたのほうだ」

「クク、さすがに益荒男。あらぶる神殺しよ」

 鉄がこすれる音がする。

 鎧武者が切っ先を護堂に向けたのだ。

 天目一箇神の敵意は壁のように重厚で、しかしその手に握られた刀からは針のように鋭い殺気が漏れ出ている。

「では、行くぞ!」

 天目一箇神が駆け出した。

 護堂はその場から動かず、聖句を唱える。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ。大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 朗々と一切の迷いなく紡がれるそれは、大雷神の聖句。火雷大神の化身の中で、最大の破壊力を持つ化身だった。

 この時、護堂の腕は砲身だった。

 突き出す右手は赤く血に汚れていたが、主砲を放つには何の問題もない。

「ぬ!」

 天目一箇神は警戒しても対処できない。

 目を覆う青い閃光が駆け抜ける。

 収束し、荒れ狂う雷撃の光線。

 放たれる衝撃に、護堂すらも吹き飛ばされそうになる。のけぞる身体を必死に押さえ、照準を絶対に逸らさず雷撃を続ける。

 なぜならば、天目一箇神は依然として立っているからだ。

 地面を蒸発させる光の奔流に晒されてなお、鎧武者は倒れない。

「オオオオオオオオオオオ!!」

 護堂が咆哮する。

 右手首を左手で押させ、反動を押さえつける。

「ヌアアアアアアアアアア!!」

 天目一箇神も己の愛刀にして自分自身を楯にこれを防ぐ。

 表情のない鬼面の奥で、にわかに天目一箇神が笑うのを護堂は感じた。

 すでに大地は焼き払われている。膨大な熱量は射線上のあらゆるものを焼き尽くし、蒸発させる。

 だが、あの武者だけが倒れない。

 ただ天目一箇神が異常なタフネスを持つというだけでは説明ができない。

 これは、護堂にとっては運の悪いことに相性がよくなかったのだ。

 護堂の振るう火雷大神は雷神であり蛇神だ。一方あの刀は日本最大級の神剣にしてレガリア。最凶の魔竜から生まれた天叢雲剣とルーツを同じくする《鋼》の無銘剣。

 さらには東洋呪術でいえば木気の雷は金気の鉄に相克される運命にあり、鉄は電気をよく通す。

 どの視点からみても、相性は最悪だった。

 とはいえ、熱量は尋常ではなく、相性が悪くとも、呪力で押し切ることもできる。肉体の大半を失い緊急回避的に生み出した鎧と刀だ。あれがかの神が精魂込めて作ったものだろうと、護堂が押し切られる道理はない。

 

 閃光は細くなり、やがて消えた。

 後に残ったのは煙る大地と二本の足で立つ二つの人影だけだった。

 あまりに鮮烈な輝きゆえに、晶たちは視力の快復に手間取った。

「耐えた、か」

 護堂は呟き敵をにらむ。

 そう、全霊を込めて打ち出したと嘯いた刀と鎧は、ついに雷光から持ち主を守り抜いたのだ。

 その五体の一部は崩れかけ、白熱し凄惨な状態に陥ってはいたものの、この神は戦うことをやめないだろう。

「いざ……決着を」

 天目一箇神が駆け出した。

 速くはなかった。がたがたの鎧を揺らし、愚直に突き進んでくる姿は、何故か胸に来るものがある。

 その在り方に敬意すら表したくなるほどに、ただ愚直。

 だから、護堂も正面から戦わなくては後味が悪くなってしまうだろう。

 あえて言霊は使わなかった。

 ガブリエルの『強制言語』は、自分の第六感を高めることにのみ使用する。

 あの真っ直ぐな突進を止めるべきは、唯一つ。

「いざ、いざ、いざ!」

 彼我の距離は僅かに十歩ほど。

 一息で詰めるには遠すぎる。

「鋭く、速き雷よ! 我が敵を切り刻み、罪障を払え!」

 付近に生き残っていた送電線の鉄塔が袈裟切りにされた。

 咲雷神の化身は、生贄として背の高い建物を両断する。ヴォバン侯爵のときはホテルを犠牲にしていた。

 護堂は晶の槍に咲雷神の雷撃を込めた。

 ヴォバン侯爵と戦ったときの感触から、刃物に力を込める方法を生み出したのだ。これで、リーチを稼ぎ、切れ味の鋭い神槍として扱える。

「オオオ!」

 天目一箇神が踏み込み、剣を振るう。上段から篭手、突きと断続的に繰り出される剣技を、護堂は繰り出されるよりも前の段階から避けていた。

 直感が冴え渡る。

 腕の動き、足運び、視線、殺気、空気の流れ、それらの情報から次の行動を先読みする。研ぎ澄まされた第六感は一秒後を予測する未来予知の領域にまで到達する。

 自分でも驚くほどに、相手の動きが見える。敵が武神ではないからか。それとも弱りきっているからか。

「もうボロボロじゃないか。そんなになってまで、なんで戦う?」

 つい、聞いてしまった。彼が戦う理由など、分かりきっていることなのに。

「目の前には自らを地に落とした神殺しがいて、振るうべき刀がある。そのことに疑問を差し挟む余地などない!」

 楽しそうだ。

 武具を振るい続けることを楽しんでいる。

 自分の作った武器がどこまで通用するのかを精一杯ここで試そうというのだ。

 無論、試された瞬間に護堂は死ぬことになるだろう。

 身体にガタが来ていることは戦いを止める理由にはならない。『まつろわぬ神』が戦いを止めた時は、それは『まつろわぬ神』として死んだ時である。

「ゆえに、我は今、かつてなく最高の状態なのだ!」

 横薙ぎの一閃を護堂は飛びのいてかわした。咄嗟に楯にした御手杵の柄が、わずかも持ちこたえることができずに両断された。

「うわッ」

 晶にどやされる。

 護堂はうめき、宙を舞う穂先を見た。

「フッ」

 振りかぶる大太刀と槍の穂先が視界で踊る。

 この瞬間の閃きはまさに雷光。瞼の奥で光る一筋の輝きだ。

 あらゆる思考を凌駕して、身体が動いた。

 極限まで研ぎ澄まされた集中力は、擬似的に剣速を遅くした。太刀筋まではっきりと読みとれる。

 護堂は銀の一閃を、一歩だけ前に出てかわした。

「----------------ッ」

 天目一箇神の驚愕が空気を通して伝わってくる。

 刀を返して切りつけてくる前に、護堂は兜の頭を掴んでまるで鉄棒の上に上るように身体を持ち上げ、勢いままに地面を蹴った。

 視線は一点に固定されている。

 すなわち穂先。

 手を伸ばし、綺麗に切れた柄を掴む。

 短剣のようになった槍には、それでも咲雷神の権能が籠もっている。

「オオオオオオオオオ!」

 護堂は着地を捨てる。

 切り上げてくる腕を蹴り、前のめりに倒れこむように天目一箇神の頭上を転がって乗り越える。

 そして、落下する中で、がら空きとなった背後から、その首に刃をつきたてた。

「咲雷神!!」

 解き放つ雷撃。

 閃電は他の追随を許さない矛であり、剣。

 喉を刺し貫かれた天目一箇神の身体の中を、膨大な電流が流れ、焼きつくし、そして、雷撃の刃がその大鎧を両断した。



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三十二話

 戦いは終わった。

 背後から首を貫かれ、電撃に焼かれた大鎧は、しかし、倒れることなく二本の足で立っていた。

 が、しかしそれもこのときまで。

 『まつろわぬ神』としての矜持からか倒れ伏すことはなかった彼だが、その命は燃え尽き灰となり、すでにこの世に留まることすら難しい。

「ふむ……」

 呪力は尽き、ひざ下はすでにうっすらと消えてきているというときに、それでも鎧は声をだした。

「草薙護堂か。なるほど、実に、よき敵手であった……」

 それを最期に、まつろわぬ一目連はこの世界から消滅した。

 

 一目連が消え去り、己の中にずしんと重みが加わったのを確認して、護堂はその場にしゃがみこんだ。

 周囲を見回すと農地はほぼ壊滅状態で、用水路も壊れて水が溢れている。復旧には一年近い時間を要することだろう。

 神の呪力が失われたからか地面に打ち込まれた鉄杭も消滅してしまい、いったい何が原因でこれほどの破壊が生じたのか分からないという状況だった。

「これはまた、ひどいな……」

 見るからに今期の収穫は見送らざるを得ないという、農家の方々が阿鼻叫喚に陥るであろうことは明確で、護堂にはどうしてやることもできない。

 霞ヶ浦を決壊させなかっただけでも上々とすべきだろうか。

 ツツガムシ病とかも考えられるし、水害というのは二次災害もかなり大きいものだ。

 何れにせよ、ここの農地は一目連の出現と同時に崩壊する運命にあったというこということだ。

 護堂は腹に手を当てる。

「ふさがってるか」

 若雷神の再生能力が傷を塞いでいた。

 見た感じでは細かい裂傷も見る見るふさがっていく。ただでさえ一晩寝れば回復するというこの肉体に、治癒能力まで加わってはちょっとやそっとでは死ぬこともないだろう。

「草薙さん!」

 祐理が護堂の下に駆けてくるのが見えた。その後ろに晶が着いてきている。

 ガタガタになり、水分を多分に含んだ湿地帯である。

 護堂も、体力の消耗からへたり込んでいるが、その身体は泥にまみれてしまっている。

 そんな足場の悪い場所を走ってくるものだから、晶はともかくとして、運動能力の低い祐理は当然ながら足を取られてしまう。

「あ……!」

「お、おい。危ない」

 間一髪のところで、護堂は身を起こして祐理を受け止めた。

 軽い少女の身体ではあるが、今の護堂には支えることができず、また泥につかる。

 それでも、祐理の身体が泥に汚れることはなかった。膝下くらいだ、汚れているのは。

「ふう……危なかったな。大丈夫か万里谷」

 肩を抱きながら祐理に問う。

 男女を分けて考えることが是か否かは判断の分かれるところではあるけれど、それでも祐理が泥に汚れるということが是であるとは思えず、男なら手を伸ばして当然というものだ。

「あ、すみません。草薙さん」

 護堂は祐理の肩を支える。視線が至近距離で交差して初めて祐理は、密着していたことに気がついた。慌てて身を引き、立ち上がる。

「うお、と。乱暴だな」

「す、すみません。驚いてしまって……」

 その二人の様子を何やってんだかといった風な晶が眺めていた。

「ラブコメはその辺でいいんじゃないですか、お二人とも」

「ラブコメって言うなよな」

 護堂はとんだ誤解もあったものだと嘆息した。

 祐理のほうはラブコメという単語が彼女の単語帳に載っていないのか首を傾げるばかり。若者言葉を苦手とするにもほどがあるのではなかろうか。

「とにかく、怪我の治療とかいろいろありますから、こんなところにいつまでもいてはいけませんよ」

 晶は護堂の手をとった。

「立てますか?」

「ああ、大丈夫だ」

 護堂が晶に引っ張り上げられるように立ち上がる。

 足に力を入れてみると、これが思っていたよりもしっかりと立つことができて内心驚いた。

 本当は少しふらつくかと思っていた分、肩透かしを食らったような気持ちだった。

「て、おい……」

 護堂なにか言う前に、晶は身体を寄せてきた。

 手は肩に回し、自らの身体を支えとして、護堂が倒れないようにしようとしているのだ。

「そんなことしてもらわなくても大丈夫だって」

「いいえ、ダメです。さっきまで座り込んでいた人が言っても説得力がないですよ」

 護堂としては、本当に歩けるまでになっているし、頭一つ以上も小さい女の子に支えてもらうのは気が引けることだった。

「汚れるぞ……」

「もうずいぶんと汚れましたから、今さらですよ」

 と、聞く耳を持とうとしない。

 強情なヤツ、と護堂も観念し晶の好きにさせることにした。

「万里谷先輩そっちもお願いします。バランスが取れませんので」

「はい。わかりました」

 祐理も、反対側に回り込み、護堂に寄り添うようにして支える。

 右と左に当代きっての美少女を侍らせる様は、いったいどこのハーレム王だといわれそうな中で、護堂は視線を左右に向けることもできずただ前を見るだけだった。

 

 半径二百メートル圏内は深く掘り返されているために、舗装されていて尚且つ無事な道路までたどり着くだけでも一苦労だった。

 たどり着いたそこも農道であることには変わりない。

 幅は三メートルあるかないかという程度だが、車もこの時間は通らないということもあって、護堂は再び倒れこんだ。

「ちょ……草薙先輩! ダメですよ。まだ」

「ちょっとだけ休憩する。さすがに疲れたって」

 足もドロドロで気味が悪く、服は血と泥で汚れ、肌も微小な砂塵で覆われている。髪もこびりついた泥が固まって白くなっている。

 ここまで泥にまみれたのは中学時代の部活の試合以来、一年ぶりのことだ。

 早いところホテルに帰り、泥を落として着替えたい。

 とはいえ、戦闘が終わって一息ついたためか疲労感もかなり強く押し寄せてきている。

 こんなところで眠ってはいけないのだろうが、少しだけ休ませて欲しい。

「草薙さん。お身体のほうは大丈夫ですか? こんなに服もボロボロになっていて」

「それは大丈夫だよ。若雷神で治癒しているから。何度か腹に穴が開いたけど、それもふさがってるし」

「お腹に穴!? な、なぜそれで笑っていられるんです?」

「いや、それは、治ったし」

「治ったからいいという問題ではありません!」

 それは悲鳴のような声だった。

「一歩間違えば死んでいたかもしれないんですよ。それで平然としてるなんてどうかしています! というか、お腹に穴が開いていたら普通の人なら死んでいたんですからね! いくら治癒力が優れていたとしても、繰り返していけば必ず取り返しのつかないことになってしまいますよ!」

 一息でそのようにまくし立てた祐理の剣幕に、護堂は二の句が告げずに頷いた。頷いたが、あえて反論する。

「だけど……『まつろわぬ神』との戦いってのは、手の抜けるものではないし、怪我だってするんだ」

「結果的に怪我をしてしまうのと、怪我をすることを前提とするのとでは大きく違うではありませんか。わたしだって、カンピオーネがどれほど無茶な方たちか身に沁みてよくわかっていますし、あなたがどれほど無理を繰り返してきているかも存じています。そうしなければならないということも、わかっているんです。でも……それでも、怪我をして欲しくはないんです」

 祐理の言葉は不思議なほどに心に響いた。

 それは、それまでの叱りつけるような口調から一転して懇々と諭すような調子になったためか。心底心配をかけてしまっているということを実感させるものだった。

「すまなかった。気をつける」

 そこまで心配をかけてしまっては、それしか言うことができない。

 怪我をしてしまうのと、怪我を前提にすることは違う。それは当たり前のことでありながら、護堂の中から薄れていた感覚でもあった。

 普通の人間は進んで怪我をしようと思わない。もちろん護堂もそうだが、心のどこかでは怪我をすることを受け入れた上で戦いに臨んでいる自分がいた。

 『まつろわぬ神』との戦いを怪我程度ですますことができるのは御の字であると、生きていればいいのだと、そう考えてしまっていたのだ。

 なるほど、確かにそれは重大な勘違いだった。

 怪我をしてしまうことはあっても、怪我をして当然などということは絶対にないのだから。

 怪我というのはしないに越したことはないのだ。

 治るから大丈夫だとか、戦いだから仕方がないとかそういう次元の話ではなく、血を流し、痛みを感じるその意味をきちんと認識しなければならないのだと、目の前の少女は伝えてくれたのだ。

「ふう、先輩が無茶苦茶をするのは慣れっこですけどね。いつものことながら見ているこっちは気が気じゃないんです。……とりあえず、砂を落とさないといけないですね」

 晶は、どこからとってきたのか濡れタオルを持っていた。

「それ、どこから?」

「これですか? タオルは転移で、あと水はあそこの水道が生きていたのでお借りしました」

 そこから十メートルほどのところにある水道を指差す。

 水を撒くのに使うのだろうか、ホースも取り付けられていた。

 これだけの破壊の中でも生きているとはさすが日本の水道はレベルが高い。

「ということですので、拭きます」

「いや、待て。さすがにそれくらいは自分でできる!」

 砂を落とさなければいつまで経ってもざらざらとした不快感は消えないし、ホテルに戻ることもできないので、ここで落としていくことに否はない。しかし、そんなことまで彼女たちにしてもらうわけにはいかないのだ。偏に自尊心の問題だ。

「でも、先輩の疲弊は大変なものですし、こんなに血を……流して、るんですよ」

 晶が言うのは護堂の服のこと。白かったそれは、いまや赤黒く変色し、色が着いていないところなどどこにも存在していなかった。

 一目連の血は彼の消滅と共に消えた。つまり、このボロボロになり、もはや布屑で纏っている程度のシャツを染めているのは護堂の流した血だということだ。

 若雷神で傷はふさがった。しかし、もしも治癒能力がなければ、今ごろは上半身がズタズタに引き裂かれた状態になっていたということは容易に想像がついてしまう。

「ッ……」

 護堂はチクリとした痛みを二の腕に感じた。

 晶がその部位を握っていたのだが、あまりに強くしたためか、爪を立ててしまっていたのだ。

「お、おい。晶……お前、顔色悪いぞ?」

「……え、あ、何がです?」

「本当に大丈夫か? ずっと雨に打たれてたんだろ。俺は頑丈だけど、お前はそうも行かないし、身体を冷やしすぎたか?」

 カンピオーネは戦うための肉体をしている上に、『まつろわぬ神』と戦うときにはコンディションが最高になる。なので、こと戦闘前後に関していえば風邪などありえない。しかし、一少女である晶には神力に触れ続けることも雨の中に待機し続けることも非常に大きな負担となるのではないか。

「大丈夫です。すみません、ぼうっとしてました」

「そうか。ならいいんだけど」

 なぜか気を張っているような晶に拭いてもらうわけにもいかないし、泥がついているのは彼女たちも同じこと。男がいちいち丁寧にタオルでふき取ると思ってもらってはこの先同じことがあったときに困る。

 ということで、護堂は

「水道があるんなら、そこで十分だ」 

 と、立ち上がって水道に向かって歩き出した。

 都合のいいことにホースまでついているのだ。どうせ雨でずぶ濡れの今、水で思い切り洗い流したほうがスムーズであろう。

「ん?」

 蛇口に手をかけたとき、何か奇妙な感覚を首元に感じて振り返った。

 が、そこには何もない。

 祐理と晶がいて、破壊されつくした田が広がっているだけだった。

「なんだ……?」

 気のせいか、と気を取り直して護堂は蛇口を捻った。

 気味の悪い感覚だった。おそらくあれは第六感に作用したナニカだ。ザラザラとした固い布が首筋を這っているかのような感じだった。

 言うなれば、そう、それは蛇。

 しかし、それも一瞬のこと。

 それから何も起こらなかったこともあり、護堂はすぐにその感覚を忘れた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 イタリアはナポリの地下空間に、それはあった。

 日の光など刺しようのない地下深く。

 開けた部屋の真ん中に黒々とした円柱が立っていた。

「へえ、これがさっき言ってたヘライオンか」

 円柱を見つめる人影は三つ。

 銀色のポニーテールを揺らす青い騎士は、《青銅黒十字》の大騎士リリアナ・クラニチャールだ。

「これをギリシャの地で発見し、この地に運んだのは今から数百年前のナポリの魔女たちなのです」

 説明をするのはディアナ。普段はこのナポリで古書店を経営する女性だが、その正体は《青銅黒十字》のナポリ支部でリーダーを務める優秀な魔女である。

 その証拠となるかどうかは疑問だが、彼女の見た目は非常に若い。リリアナが出会ってから実に九年の月日が経っているが、いまだに顔かたちに変化はない。若干肌艶が落ちてきているような気はしないでもなかったが、リリアナはここに来る途中でもその手の話でずいぶんとからかわれてきたので二度と蒸し返すようなことはないだろう。

 優秀な魔女は外見年齢を若く保つことができるということだけ押さえておけばよい。

「問題は、このヘライオンが今年の春ごろから呪力を蓄え始めたということなのです。これまではわたしたちが隠遁の魔術を編んで隠してきましたが------------」

 それも限界を迎えつつあるということだ。

 ヘライオンとはそのまま『ヘラのしるし』のことであり、同時に『ヘラの神域』を意味する。

 最も著名なものはサモス島のヘラの神殿で、紀元前八世紀から存在している。

 ヘラはギリシャ神話最大の地母神でありその名は貴婦人を意味する。

 ギリシャ先住民が崇めた大地の女神であり、その地に侵入したギリシャ人によってゼウスの正妻の地位を与えられたという。

「なるほどねえ。このままだと、どうなるのかな?」

「近く、溜め込んだ呪力が爆発することになる可能性もあります。そうなってはこのナポリの地脈にも多大な影響が出ることになるでしょう」

「ふーん……ゴルゴネイオンみたいなものだね。あの時はアテナが出てきたけど、今回はヘラでも出てきてくれるのかな」

「それは、わかりませんが。今、我々にできることはほとんどないのが現状でして、卿のお知恵を拝借したいということなのです。えと、よろしいでしょうか、サルバトーレ卿」

 ディアナの説明が聞こえているのかいないのか、サルバトーレと呼ばれた金髪の青年はヘライオンをじっくりと見て回っている。

 暗闇の中、足音だけが響いている。

 彼こそが六人目のカンピオーネ、剣の王たるサルバトーレ・ドニだ。鋼の如き肉体と、万物を両断する魔剣の権能を持ち、四年前にヴォバン侯爵のたくらみを挫いた張本人である。

「ん? 大丈夫、聞いている聞いてる。でも、どうしようか。ゴルゴネイオンのときみたいにポケットに入れて持ち歩くわけにも行かないしね。うーん。竜とか神とか出てきてくれるっていうから来たっていうのに、柱のお守なんか退屈じゃないか」

 などと言いながら、剣を抜く。

「卿! いったい何をなさるおつもりですか!?」

 リリアナが堪らず叫ぶが、サルバトーレはまったく意に介さない。

「言っただろ? 何も起こらないと面白くないんだ。だから、ちょっとだけ斬ってみようと思ってね」

「き、斬る!? ヘライオンをですか!?」

 お茶目にウィンクしているサルバトーレだが、その剣には信じられないくらいの呪力が宿り始めている。

 思えば、この男はアテナの完全体と戦いたいからといって、守るべきゴルゴネイオンをあっさりと渡してしまったという前科もあった。できるなら頼りたくはなかったのだが、自国のカンピオーネを差し置いて他の王を頼るわけにもいかない。

 斬る。この男は斬るといったら例外なく斬る男だ。たとえナポリが歴史から姿を消そうとも剣を止めることはない。そういう男だ。

「ま…」

 もはや息もできないくらいに濃密な呪力の中、喘ぐように出す声も、相手に届くほどにはならない。

 が、しかし。

「え……?」

 その呪力が一瞬にして霧散した。

 何が起こったのか、サルバトーレは剣を降ろして鞘にしまいこんでいたのだ。

「サルバトーレ卿? いったい……」

「うん。気が変わったよ。どうせ放っておいても何か起こるんだ。なら放っておいてもいいよね」

「え、いや。決して放っておいていいというわけではありませんが……」

 斬られなかったのは僥倖だが、放って置かれるのも決してよいことではない。

 とは言っても呪術の知識のないサルバトーレに頼ったのがミスだったのかもしれない。

「とりあえず僕はバカンスに戻るとするよ。せっかくだからちょっと遠くに行くのもいいかもしれないね」

 などと言いながら、サルバトーレは階段を上がっていく。

「ちょ、ちょっと卿! お待ちください。何故ですか! バカンスっていったいどちらに……卿!」

 リリアナの叫びをその背に受けて、サルバトーレは一切振り返ることなく去っていってしまった。

 それから二時間後、彼の腹心たる騎士になんとか連絡をつけたものの、その騎士ですらサルバトーレの居場所はわからなかった。

 完全にお手上げの状態のまま、リリアナは呆然と立ち尽くした。



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第五章 イタリア旅行編
三十三話


 肩に食い込むリュックの肩紐が痛い。

 重量は一キロと少し。それほど重いというわけではないし、カンピオーネとなったことによる恩恵で骨格が異常に頑強になっているために、この程度の重みでどうにかなるはずもないのだが、それでも、乗り継ぎを含めて都合十五時間も飛行機に乗った疲労は、感じるはずのない痛みをこの双肩に与えているように思えた。

 ここは東京ではない。

 辺りを見回しても、黒い髪というのは、非常に少なく、金髪であったり、赤毛であったりがウロウロとしていて、それだけでもうすでに、異国情緒が漂っているというもの。

 東京から空を渡ってやってきたこの碧落の地。

 国はイタリア、都市はナポリ。

 空港を出れば、曇り一つ内真っ青な青天井が一面に広がっている。

「長い」

 長時間のフライトに慣れている護堂とはいえ、さすがに文句の一つも言いたくなる。

 今期二度目となるイタリア旅行は、最高の晴天に恵まれながらも、護堂の心象風景はまさしく曇天であった。心が荒めば自然と悪態をつくようにもなる。

 そんな護堂の内心をまったく知らない相方二人は、海外旅行を満喫する気満々といった様子で和気藹々と喋っている。

 祐理に晶。

 つい数日前に共に『まつろわぬ神』の討伐を行った仲間たちだ。

 未成熟ながらも最高ランクの霊視の資質を持つ万里谷祐理に、日本の若手呪術者トップを走る戦士である高橋晶。ここに草薙護堂という『魔王』が加わって、穏当なイタリア観光などできるだろうか。そも、ここは『剣の王』と呼ばれるカンピオーネのサルバトーレ・ドニが地盤を持つ国であり、そこに他国のカンピオーネが入り込むということは、それだけでも緊張状態を引き起こしてしまう。

 サルバトーレは戦うことしか考えていない純粋無垢の戦闘狂で、彼と戦うことができるのは、『まつろわぬ神』か同族たるカンピオーネしかない。

 となれば、イタリア国内で人類の常識を超えた死闘が繰り広げられる可能性が非常に高いということは火を見るよりも明らかであり、大小さまざまあるイタリアの魔術結社はそれぞれが目を光らせるのも当然といえた。

 このターミナルにやってきたときから、人ならぬ視線を感じていた。誰よりも第六感が発達した護堂だからこそ気づくことのできるそれは、呪術によるものだという確信があったし、そんな確信を持てるほどにマイナス成長してしまった自分に呆れるしかなかった。

「二人とも、俺たちがここに来た目的を忘れるなよ」

 護堂は正面の二人に声をかける。

「大丈夫ですよ」

「はーい。おっけーです」

 落ち着いた様子の祐理はいい。彼女は海外旅行の経験も多く、英語も堪能だ。ナポリ語ができなくとも、それだけで何とかなる。

 問題は晶のほうか。なにせ、海外旅行の経験が皆無で、外国語もできるとは言いがたいらしい。『千の言語』という言霊の秘儀があるので、大丈夫かと思っているが、それでも習得には時間を要する。護堂でも二日はかかる外国語の習得に、慣れていない晶はもう少しかかってしまうのではないかと疑っているのだ。

 もっとも、言葉自体は大した問題ではない。

 危惧すべきは、ちょっと浮かれているということで、初の海外旅行でテンションが上がり気味になっているということだ。

「ヤレヤレだ……」

 護堂は、周囲を見回した。

 視界に飛び込んでくるのは、常では見れないラテン系の人々。日本人の団体と思われるツアー客も見えた。イタリアでも有数の観光地であるこのナポリの、しかも空港の中ということで、アジア人の護堂たちに集まる視線は多くない。

 護堂は腕時計を見る。

 時差を考えて調整しなおした時計は午前の九時を指していた。

「そろそろ時間だ。待ち合わせの場所に行くぞ」

 護堂は、二人にそう言って歩き出した。スーツケースがガラガラと後をついてくる。ずっしりとした重みを腕に感じながら、護堂は指定された場所まで向かう。

 これから先の騒乱を覚悟してのことだった。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 ナポリ空港ターミナル1の一階には世界中の料理を楽しむことのできるレストランがある。

 待ち合わせの場所は、そのレストランの奥まった席だった。

 人込みを掻き分けていくと、席にはすでに彼女がいた。

「ようこそ、お越しくださいました。草薙護堂様」

 青と黒の衣装に身を包む、銀色の騎士。

 リリアナ・クラニチャールがそこにいた。

「こんにちは。様付けは止めてくれっていったじゃないか、リリアナさん」

 流暢な日本語で挨拶してくれたリリアナに、護堂を手を上げて答えた。

 

 事の発端は、四日前のこと。

 リリアナから護堂の下にメールが届いたのだ。

 そこには、ナポリの中にあるヘライオンという神具が呪力を蓄えていることやサルバトーレ・ドニに依頼したもののそのサルバトーレが失踪してしまったこと。もはや一刻の猶予もなく、《青銅黒十字》では手に負えないということが書かれていた。

 日本の王である草薙護堂にぜひともナポリに来てもらい、このヘライオンの対策に手を貸してもらえないだろうかということが懇願とも呼べるほどに悲痛な文章となって現れていた。

 世界中の魔術結社には正史編纂委員会が護堂の傘下に納まっているという認識があるのだろう。

 この日のうちに外交ルートを通して、同じ内容の交渉が《青銅黒十字》から正史編纂委員会に送られていた。

 つまり、ここに護堂がいるのは、依頼をされて、それを引き受けたからだ。観光ではなく仕事としてナポリを訪れたということである。

 まつろわぬ一目連を討伐してから日も浅いというそんなときに、この依頼。初め、祐理も晶も断るものとばかり思っていたのだか、そこはカンピオーネ草薙護堂。なんとあっさりと引き受けてしまい、周囲を唖然とさせたものだ。

 護堂が引き受けた理由は、偏に良心の呵責があったからだ。

 無視することは容易い。しかし、それで何か起こってしまったときに、自分は自分を許せるのだろうかということだ。

 ここでペルセウスが出てくることは覚悟するしかない。

 サルバトーレの魂胆もなんとなく分かっている。

 何れにせよ乗り越えなければならぬ壁である。自分の知識にある範疇に押さえられるならばそれのほうがありがたい。日本に乗り込まれても困る。

 

「は、はあ。しかし、それではどのようにして呼べばよいのでしょう?」

 イスに座った護堂に、様付け禁止を言い渡されたリリアナは小首をかしげて問うてきた。

「それは、好きなようにすればいいよ」

「そういわれましても。…………」

 口ごもって数秒。リリアナは、顔を上げて

「それでは草薙護堂殿------」

「尚のことおかしい! なんだ、殿って。いや、好きなようにって言った俺が悪かったのか」

 真面目な顔をして何を言ってるんだ、と護堂。

 何かおかしかったか、とリリアナ。 

 両者の間には、日本という国の文化に対する理解という点で何かよからぬ隔たりがあるようだ。

 殿などという敬称の使い方が間違っている。少なくとも、現代日本では、基本的に話し言葉で使うものではない。

「とにかく殿はダメだな。そうか、敬称をつけなければいいのか。とにかく、もっとこう……フレンドリーな呼び方があるだろう?」

「フ、フレンドリー? しかし、草薙護堂さ、いや、ど、いえ。……カンピオーネでいらっしゃるわけですし」

 呼び方がはっきりとしないままに、名前を呼ぼうとしたからか、リリアナは混乱したかのような口調になっていた。

「そうか。そこまで気にすることでもないと思うけど……」

 と、隣と斜め前を見る。

 祐理と晶が席について、こちらの様子を伺っていた。

「先輩はもう少し気にするべきだと思います」

 というは、晶の意見。一方の祐理は、

「草薙さんは、今のままでいいと思いますよ」

 とのこと。

 正反対の意見が出たところで、リリアナに向き直る。

「じゃあ、あれだ。さんにしよう。さん付けでいいよ」

 それは投げやりな意見だった。とはいえ、護堂といても様や、殿に比べればずっとましで、祐理もそのように呼んでくれているのだから違和感もない。

「それでは、草薙護堂さんと」

「長い。名前だけでいい」

「は、はい。護堂さん」

 リリアナは若干はにかみながら護堂の名を呼んだ。護堂はその響きがこそばゆく感じられて居住まいを正して心を落ち着けた。

 護堂はオーダーしたアイスコーヒーを口に運ぶ。

 思いがけない論争で、喉が渇いた。この店内も乾燥しているように思え、冷房が効きすぎているのか少し寒かった。

 ガラス窓の外には燦燦と照りつけるラテンの太陽があり、ラフな格好をした若者たちが通り過ぎていく。

「それでは、本題に入らせていただきます」

 リリアナが背筋を伸ばして、そう言った。

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 ナポリ空港を出た護堂たちは、リリアナの用意したタクシーに乗って移動した。

 目的地は、真っ直ぐヘライオンのある地下神殿だ。

 『ナポリを見て死ね』と言われるように、この古都は非常に美しい風光明媚な景観で知られるイタリア屈指の観光地だ。

 青い空に、紺碧のナポリ湾。そして、石造りの町並みに卵城など日本とは根本的に異なる造形の都市であるから、日本人旅行者にも人気が高い。

 ----------------ということは、あくまでも旅行者側の視点だったということが分かったのが今回のイタリア訪問だった。

「なんか、ラクガキも多いですね」

 晶ががっかりしたように呟いた。

 少し路地に入れば放置されたラクガキが目に入る。

 ゴミも道端に投げ捨てられているところもあった。

「外から見る分にはいいのだがな。中に入ってしまえば、すりは多くて治安は悪く、ゴミの処理場が足りなくて衛生環境に難がある。人口過密も問題だな。住み心地はよくないだろうな」

 リリアナがナポリの抱える負の側面をあっけらかんと暴露してしまった。

「そんな状況なんですか」

「ああ。付け加えるならば未だにカモッラの影響も強いな。まあ、これは南イタリアの文化みたいなものだが」

「カモッラはゴミ処理に関与しているという話を聞いたことがあるんだけど、それは事実なのか?」

 以前にシチリア島を訪れたことのある護堂は、マフィアの存在を聞いてもこれといった驚きはない。いわゆるコーサ・ノストラという連中があそこには根を張っている。

 ここ、ナポリはカモッラの本拠地として有名だ。

 護堂の問いに、リリアナは首肯した。

「事実です。つい最近も、ゴミ処理場の建設に反対したカモッラたちのボイコットによってゴミ処理が大きく滞り、街にゴミが溢れる事態になってしまいました」

「そこまで、か」 

 日本では考えられないほどに、反社会組織の影響力は強いらしい。

 呆れるべきか憤るべきかわからないが、それで政治が機能しているのか不安にはなる。

「まあ、日本にもいろいろあるしな」

「ゴクドウというヤツですね。知っていますよ。映画で見ましたから」

「映画のそれとどこまで一緒なのかわからないけど、そういうのは日本にもあるんだな、と今実感した」

 普段気にも留めていないことだったが、外国の実状を目の当たりにして、翻って自国を見た。

「地下組織というところは、委員会もそうか」

「草薙さん。正史編纂委員会は政府の組織ですよ。表に出ていないだけで、地下組織というわけではないと思いますけど」

 と、適当なことを言った護堂を祐理が嗜める。

「組織の内容が外部から見えないってところは、委員会のほうが上なんじゃないですか」

 今度は、晶が気の抜けた声でそういった。

 結局のところ、それぞれが思うままに喋るだけで、結論を求めているわけではなかった。

 女子会の典型的な例といおうか、明確な答えを出そうという男に比べ、女性はとりあえず喋りたいという方向で行くことが多いらしく、気がつけば護堂をそっちのけで三人の女の子が喋り続けているという状況が生まれてしまっていた。

 唯一の男子である護堂は、なんとなく居心地の悪さを感じ、とりあえず到着まで睡眠に逃げることにした。

 

 

 夢の中に逃避していたから、それからどれくらいの時間が経ったか定かではない。

 眠りにつくのも唐突で時計すら確認していなかったから、確認のしようがない。ただ、車のゆれが心地よかったこともあり、それは乳母車で子守唄を聞いているような錯覚をもたらすほどには快適だった。

 

 

 渋滞に巻き込まれたおかげで予定よりも三十分もの時間をオーバーしてしまっていたが、一行は無事目的地に到着することができた。

 途中を妨害するものも特になく、神具という話題さえなければ申し分ないイタリア旅行だっただろうに、と護堂は心中で毒づいた。

 到着したのはナポリ湾に面するサンタ・ルチア地区の一画。卵城やサンタ・ルチア港を擁するナポリ最大の観光名所のひとつである。

「ここがサンタ・ルチアですか! すごい綺麗な海!」

 晶が感極まって声を張った。夏真っ盛りのサンタ・ルチア港は太陽光を受けて燦然と輝いている。その光を眼光に映す晶は、今にも走り出しそうなようすで波止場から身を乗り出している。

「サンタ・ルチアか。確か、そんな童謡があったな」

 護堂は中学生のときに音楽の授業で歌った曲を思い返し、口笛を吹いた。

 挿絵は、まさにこのサンタ・ルチア港の写真だったように思う。

「それはナポリ民謡(カンツォーネ・ナポリターナ)ですね。世界的にも有名だと聞いていますが、日本でも歌われるのですか?」

「そうだね。学校の教材として使うことがあったんだよ。なんとなく記憶に残ってたんだ」

「そうなんですか。サンタ・ルチアを世に送り出したのは、テオドロ・コットラウという人です。もともとあった曲を編曲して自社から出版したんですね。彼が生きた時代は第一次リソルジメントの時期だったこともあって、この歌はナポリ語の歌にイタリア語の歌詞が付けられた初めての作品となったのです」

「リソルジメント。統一運動だったっけ」

 十九世紀のイタリアが勃興したイタリアを統一しようという運動のことだったと記憶している。それ以前のイタリアは数世紀にわたって分裂した状態にあり、統一された政治基盤というものが存在しなかった。フランス帝国直轄地、イタリア王国、サルデーニャ王国、シチリア王国、ナポリ王国といった具合にだ。国家そのものが分裂しているというところは、日本の戦国時代よりも不遇の時代だっただろう。

 もっとも、それは現代人の護堂には推し量ることはできないことだが。

「では、そろそろ行きましょうか」

「そうだな。万里谷、晶。行くってさ」

 護堂はそうして大海に背を向けた。

 これから向かうべき場所は、太陽が降り注ぐ大海原などではない。

 光の差さない、地下深くに眠る古の儀式場だ。

 リリアナの案内でたどり着いたのは小さな古着屋だった。店主に微笑みかけるリリアナに、笑みを返す女店主。間違いなく、魔女の類だと、護堂は直感した。

 店の奥には、むき出しになった四角い穴が開いていた。

 石造りの階段が遥か闇の奥にまで続いていて、その全容をここから把握することは困難を越えて不可能だ。

「地下通路だ。憧れはあったけどね、実際に見るとそこはかとない迫力があるな」

 穴の奥からは、まるで呼吸しているかのような風が吹き上がってくる。地下にまで空気を送るために、ここ以外にも穴が外部へ続いているところがあるのだろう。地下にありながら、空気はこもっておらず、むしろ流動している。

 暗闇の中を懐中電灯も持たずに進んでいく。

 闇を見通す視力は、呪術の基本的なものであり、カンピオーネにはオプションとしてくっ付いてくる技能でもある。躓くこともなければ、道を見失うこともない。壁に描かれた蛇やた牛やらといったモチーフまでクッキリと見て取れた。

多頭蛇(ヒュドラ)に竜、鳥、獅子。地母神の象徴ばかりですね」

「魔女の叡智を守り、伝えるための地下神殿だからな。魔女が崇めるのは、地母神だろう」

 祐理とリリアナが小声で話している。

 静謐な空間だからか、それも反響してはっきりと聞こえている。

 この二人は、かつて顔を合わせていたことがある。ヴォバン侯爵に拉致された四年前だ。祐理はそうと知らなかったが、リリアナは覚えていたようで、共通の思い出(それがよいものであれ、悪いものであれ)をもっていると親睦は急速に深まるもので、リリアナと祐理は今ではすっかり打ち解けていた。

 

 そうこうしないうちに階段は終わりを告げる。

 かつん……

 と、壁と天井を反響する足音。

 階段の先は開けた洞窟のようで、暗闇の正体が呪力なのではないかというくらいに圧迫感がある。

 部屋の中央に据え置かれた黒曜石の柱には、確かに膨大な呪力が蓄えられている。

「これが」

「はい、これが、ヘライオン。古の地母神の印です」

 部屋を訪れた誰もが息を呑んでいた。

 一目でわかるその異常性。 

 これは、一種の爆弾だ。溜め込まれた力自体は無害なものだ。このナポリを流れる地脈が少しずつこの柱に蓄えられただけなのだから。だが、どれほどの良薬であろうとも、度が過ぎれば身体を壊す毒になるように、このヘライオンに蓄えられ、圧縮された呪力はナポリという母体にとってはがん細胞に等しく、文字踊り爆弾となってこの地下に潜伏しているのだ。

「知識の上では知っていたんだけどな」

 護堂はポツリと漏らした。

 実際に目の当たりにしてしまうと、その尋常の外にある状況に身体が強張らざるを得ない。

「これをどうにかするってのは、俺には無理っぽい」

 そもそも、呪術の知識が皆無の護堂にできることは究極的には後始末だ。このヘライオンが暴発したときに現れるであろう二次災害に対処することしかできない。それもサルバトーレさえいれば護堂がイタリアにまでやってこなくてもよかったのだが、いないものはしかたがない。

「なあ、万里谷、晶。これ、なんとかする方法って思いつくか?」

 護堂は、ヘライオンの表面を撫で摩りながら後ろの二人に問いかけた。

 しかし、やはり二人とも首を横に振るばかり。欧州の魔女たちがどうやっても解決できなかった問題を今やってきたばかりの若い呪術者が解決できるわけもない。

「もう、これ海に捨てるしかないんじゃない? 言霊で、一気にふっとばせば海まで一直線だし」

「じょ、冗談を。そんなことをしては、このヘライオンがどのような暴走を始めるか分かったものではありません」

「うん。まあ、もちろん冗談なんだけど」

 打つ手なしか。ナポリが吹き飛ぶのを待っていることしか護堂にできることはなさそうだ。

 護堂はなすすべがないと闇色の天を仰ぐ。

 吸い込まれそうな黒。

 刻一刻と高まっていく呪力の坩堝。

 息を吸うだけで体内に異物が混入しているのではないかと思えるほどに濃密。まるで蜂蜜の海を泳いでいるかのように大気が重い。

『弾け!』

 規則正しい渦の中に現れた不純物。

 それが、明確な戦意を持って自分に向かってくるのを感じ、かねてよりの不安と第六感、そして予想通りの展開ということも相まって素早く呪力を練り上げて言霊の弾丸を放つ。

「うわお!」

 ひょうきんな声で、それは大きく後退した。

 ザリッ、と地面をこする音が反響した。

「な!?」

 一瞬遅れて、リリアナが驚愕に目を見開く。

 晶と祐理は、何が起こったのか理解が追いつかないという様子でその一部始終を見た。

 それは完全に彼女たちの予想の範疇外の出来事だったからだ。

 誰が思うだろうか。日本から呼び寄せたカンピオーネに斬りかかる存在がいようとは。それも、厳重に秘匿された《青銅黒十字》の秘密の地下神殿の中でだ。

 明らかな自殺行為。通常の呪術者であれば今の言霊で全身を引き裂かれて真っ赤なオブジェとなっていたところだった。

 それを受け流すことができる人物。

 カンピオーネに斬りかかる愚行を平然とこなす脅威の胆力。

 《青銅黒十字》の秘密の地下神殿を知っている。

 その条件に合致するのはイタリア国内にただ一人。

「サルバトーレ卿! あなたが、なぜ!?」

 リリアナが終に叫んだ。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護堂に背後から斬りかかった青年は、屈託のない笑顔を浮かべていた。

 金色の髪に青い瞳、鍛え抜かれた肉体をアロハシャツの下から惜しみなく見せ付けている。

 下は半ズボンで、靴ではなくこともあろうにビーチサンダルというラフな格好は、真夏の海を全力で楽しもうという脱力しきった若者の格好そのもので、フレンドリーな雰囲気は心の壁をあっさりと飛び越えてしまえそうだ。

 ----------------右手に両刃の剣を持っていなければ。

 

「サルバトーレ・ドニ」

「うん。そして君は草薙護堂だね。はじめまして」

 にこやかに、十年来の友人に挨拶するかのように上げた手にしたがって剣が持ち上げられた。

 光の届かないこの洞穴で、剣が淡い銀色に輝いて見えるのは、それがサルバトーレの呪力の残滓だからだろうか。

 護堂はそんなサルバトーレを黙って見つめる。

「んー? 思ってたよりも無口だね。僕と同じカンピオーネなんだから、ここは一つ決闘だ! ってならないかな?」

「ならないな。俺はいきなり斬りかかってきた相手とおしゃべりなんてできないね」

「そうか。まあ、それはいいんだ。僕はただ、君と戦いたいだけなんだし」

 サルバトーレはだらりと剣を下げて一歩近づいた。

「お、お待ちください。サルバトーレ卿!」

 リリアナが、サルバトーレに呼びかけた。

 サルバトーレは、リリアナに視線を向けると

「また会ったね、リリアナ・クラニチャール君。言いたいことは分からなくもないんだけど、今はこっちのほうが大事なんだ。悪いけど、また後で聞こうじゃないか」

 人の名前をまともに覚えないサルバトーレがリリアナのフルネームを呼んだということが、すでにしてこの男が戦闘状態に突入しているということを示していた。

「ふふ、完全に不意打ちだったつもりなんだけど、避けるだけじゃなくて迎撃してくるなんてね。もしかして僕のことに気がついていたのかな?」

「はあ、なんというのか。そろそろ来る頃かなとは思ってた。ヘライオンを斬らないで失踪するなんてサルバトーレ・ドニに纏わる噂からみえる人物像とかけ離れた行為に思えたしな。自分がいなくなれば、俺あたりに声がかかるんじゃないか、とか考えたんだろ」

「へえ……つまり、それを知ったうえでここに来たんだ。それって僕と戦ってもいいって考えていることにならないかい?」

 二人の話を聞いて、リリアナたちは顔を青くする。

 特にリリアナが受けた衝撃はかなり大きかった。なにせ、サルバトーレはリリアナと護堂に未だにつながりがあることを知っていたのかもしれない。リリアナがヴォバンから日本の王に寝返ったことは比較的多くの術者が知っていることであったし、当然サルバトーレの耳にも届いていたからだ。なにせ、リリアナが組織から責任を追及されなかったのはサルバトーレが働きかけたからだ。リリアナを理由にしてヴォバンがイタリアに乗り込んできたのなら、そのときこそ四年前の決着をつけてやろうという意気込みと期待を込めてのものだった。

 そのときは、ヴォバンがリリアナに興味を失っていたことで肩透かしを食らった形になったが、同時にヴォバンを退けたという日本の王との繋がりを察知したのだろう。

 サルバトーレはリリアナに助けを求められれば護堂がイタリアに乗り込んでくるだろうと予想して、護堂は、ヘライオンを前にしてサルバトーレが失踪するなどということは不自然だと警戒し、そして、両者の予想したとおりにこうして邂逅した。

 お互いがお互いとの出会いを予期していた。それが望んだものかそうでないかは別として、意識していたというのなら、この出会いは必然だ。

 二人の魔王の間に流れる沈黙は引き絞られた弓の弦のようだ。

 僅かな接触で取り返しのつかない結末へ突入していくことだろう。

「じゃ、いくよ!」

 サルバトーレがゆるゆると踏み込んでくる。

 予想よりも遅い。が、危機感はきわめて大きい。思考よりも一歩早く大きく後退した護堂の腹部を掠めるように剣先が通過した。

「危ねえな!」

 実物を見るとその恐ろしいまでに冴える剣捌きに驚嘆するしかない。

 自然体の動きに、早いと思わせない歩法。遠近感すらも崩されているような錯覚。

 サルバトーレはますます笑みを深くした。

「さすがはカンピオーネだね。普通は今ので斬り伏せているところなんだけど、よく避けるね! 初めに斬りかかったときからまさかとは思っていたけど、勘がものすごい冴えているみたいだ」

「コイツッ」

 勘が冴えているのはそっちのほうだと毒づきたくなる。たかだか二度の攻撃で、こちらの第六感の強化に勘付いた。それを言霊の権能を結びつけるかどうかは重要ではなく、能力を詳らかにされることに危機感を抱く。

「こんなところで、戦えるか」

 斬りかかるサルバトーレの剣を護堂が悉くかわしていく。

 ときに言霊を放ってサルバトーレにダメージを与えようとするも、さすがに防御自慢のカンピオーネ相手では効きが悪い。

 こんな地下深くで炎を放つわけにも行かない。酸素が一気に燃焼してカンピオーネはいいとしてもリリアナや祐理、晶のような人間では一たまりもない。《鋼》の弱点である炎も、ここでは使うべきでない。

 逃げる。それに限る。

 打撃力のない護堂ではサルバトーレの防御を抜くのは至難の業だ。少なくとも、もっと広い、人気のない場所で戦わなければならない。

「なかなか、本気にならないね」

 じゃあ、こうしようとサルバトーレは剣を真上に翳す。

「僕は僕に斬れないものの存在を許さない」

 それは聖句。

 トゥアハ・デ・ダナーンの軍神ヌアダから奪い取った何でも切り裂く剣という単純にして最強の攻撃を繰り出すためのもの。

 右腕が真鍮でできているかのようにのっぺりとした銀色に覆われる。

「ッ!」

 護堂に素早く繰り出される突き。カンピオーネの頑丈さは完全に無視される。この剣を前にして護堂の身体など紙屑同然なのだ。

 ゆえに、防ぐことは考えない。

『弾け!』

 渾身の呪力をサルバトーレの右腕に叩き込む。

 剣に働きかけるのでは、言霊ごと切り裂かれる。だから、ここは腕に干渉して剣を逸らす。

 はたして、護堂は賭けに勝利した。

 サルバトーレの腕は言霊に抵抗はしたが、それでも強制力に従わされてあらぬ方向に向かう

「お?」

「あ!?」

 瞬間、世界が凍りついたかのように停止した。

 護堂もリリアナも祐理も晶も、サルバトーレですらその一点を見ていた。

 銀色の剣が突き立つヘライオンを。

 そして、竜の咆哮を思わせるほどの大音響で、呪力が爆発した。

「きゃああああああ!」

 女の子のうちの誰かが悲鳴をあげた。

 あまりにも眩い光で、目を開けていられない。呪力は重力に反発するように上へ駆け上がり、天井を砕いて空へ飛び出していく。その上にあったであろう家や道路を吹き飛ばして。

「わあ、これはしまったなあ!」

「くっそう、結局こうなるのか!」

 降り注ぐ岩塊を見て、護堂は叫ぶよりほかになかった。

 



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三十四話

「やってくれたな、アイツめ……」

 緑色の閃光が空高くのぼっていくのを護堂は路上から見ていた。

 サルバトーレが銀の腕で振るった魔剣が斬り捨てたヘライオンは、膨大な呪力を放出した。溜め込まれていた大地の呪力は、天井を打ち抜いてそのまま天まで駆け抜けていったのだった。

 貴重な地下神殿は岩盤の崩落とともに失われた。護堂は、降り注ぐ岩塊から自身と仲間を守るために、すばやく土雷神を発動して土中を雷速で移動したのだ。三人を連れて地上に出るのも、実際には一秒にも満たない時間でしかなく、気がつけば地上にいたというのがリリアナたちの感想だった。

「怪我がないから一先ずはよしとしようか」

 護堂は三人の様子を確認すると、腰に手を当てて逸らした。背骨が音を立てる。

 呪力の柱は次第に細くなっていき、やがて消えた。

 道行く人々は、一体何が起こったのかと足を止めて、その光景に見入っていた。

 初めは爆弾が爆発したのではないかと大騒ぎだったのに、それが不可思議な光景であっても、直接自分に害がないと分かると、一転して野次馬に代わる。

「あとは、あれをどうやって始末するのか、ということだな」

 緑色の光は、完全に消えたわけではなかった。

 あれは呼び水のようなもので、膨大な呪力はナポリの精気が凝り固まったものだ。それが解き放たれれば、ナポリの地脈に還っていくのが道理である。とはいえ、風呂の栓を抜いたからといって湯が一瞬にして下水道に流れていくわけではないように、限界にまで溜め込まれた呪力は自然が再吸収するには容量過多であり、地脈に還るには時間がかかる。余剰呪力は空高くたゆたい、互いにひきつけあって、この世に留まるために最も効率のよい姿を象る。

 大地の精が姿を得るのであれば、それは竜であるのが望ましい。

「二次災害の発生だな。神獣が出てきたみたいだ」

「あああ、そんな、このままではナポリが……」

 悲痛な面持ちのリリアナが呆然と空を見ている。

 ゆったりと羽を羽ばたかせて空を舞うドラゴンがいる。緑色の表皮は、吹き上がった呪力と同じ色合いで、爪も牙も野性味溢れる雄雄しさを感じさせる。

「ドラゴン。やっぱり、日本に現れるのとは形状が違いますね。そんなところまでお国柄が出るんでしょうか?」

「面白いこというな、晶。つまり、召喚される場所によって形状が変わるってことか」

「こういう事態はとても珍しいんですけど。『まつろわぬ神』が地上の神話を核にして降臨するならば、神獣も人々の思想の影響は当然受けますし。あれが竜なのも、竜が大地と深い結びつきを持っているからですからね」

「ふうん……」

 竜は、人々の視線を一身に受けても平然とナポリの上空を飛んでいる。

 あの竜にどれほどの知性があるのかわからないものの、もしかしたら母に等しいナポリに愛着があるのかもしれない。先ほどから鳶のように輪を描いて飛んでいるだけで、街に攻撃を仕掛けてくる気配はない。

「あの、草薙さん。サルバトーレ卿はどうされましたか?」

 隣にいた祐理が思い出したかのように尋ねてきた。

「いや、分からないけど、多分元気にしているだろ。瓦礫に潰された程度で死ぬ男じゃないからな」

 サルバトーレ・ドニの持つ『鋼の加護(マン・オブ・スチール)』は文字通り肉体の強度を鋼のそれに変える。あらゆる攻撃を無効化する鉄壁は、例えるならば移動要塞といったところだろうか。何れにせよ権能を用いた攻撃にすら耐えるサルバトーレがただの崩落で命を落とすはずがない。

「サルバトーレ卿なら、あそこにいらっしゃいますけど?」

「何?」

 晶が指差すのは五百メートルほど離れた波止場。

 白い石の上に、陽気な金髪が剣を抜いて立っていた。

 護堂に気づいた様子はない。それよりも、彼の視線は上空にいる竜に向けられている。

 ----------------竜を殺すつもりだ。

 真っ先に勘付いたのはリリアナだった。

「ま、まずい! あの竜は迂闊に殺してはいけない!」

 神獣にもいくつか種類がある。大別するならば、神やカンピオーネが操る権能として召喚された神獣と、自然発生した神獣だ。前者は戦い、敵を屠るためのものであるから、戦闘能力が高い。一方後者は偶発的な発生なので戦闘特化とは言いがたい。倒しやすいのは言うまでもなく、こちらのほうだ。

 今回現れた竜は、ナポリの大地が産み落とした神獣である。

 討伐するには呪術師数十人がかりで数日かかるくらいに強いものの、カンピオーネにかかれば一撃で終わる命だ。

「あ、あれはナポリの精気が固まってできたもの。それを迂闊に討ってしまえば、この街が終わってしまうかもしれない」

「終わる?」

「ああ、終わる。土地が枯れるんだ。木々が枯れて海から魚がいなくなる。そんな状態に陥る可能性がある」

 震える声で語るリリアナには、都市としての命脈を絶たれたナポリの姿が見えているのかもしれない。

「そりゃ、困るな」

「こ、困るどころの話ではありません!」

 興味なさそうに言う護堂にリリアナは食って掛かった。現地人と外国人の差異であり、呪術師とそうでない者の危機感の違いだった。

 そうしている間にも、サルバトーレは呪力を高めている。上空の竜も自分に武器を向ける敵の存在に勘付いたようで、その動きに変化を生じさせている。

 あのまま戦えば竜の敗北は必至。しかたない、と護堂は土雷神を使おうと呪力を練ったとき、

「あ……」

 先制攻撃は竜のほうだった。そして、こともあろうに、それで戦いは終わった。

 跡に残されたのは粟立つ海だけ。

 竜に気をとられていたサルバトーレは、竜が起こした大波によって攫われてナポリから消えてしまったのだ。

「アイツ、アホだろ……」

 思わず護堂は声に出してしまった。

「サルバトーレ卿は呪術戦闘のセンスが著しく欠けていらっしゃいますから……」

「たしか、呪力を溜め込めない体質で、術が一切使えないのだとか。カンピオーネになられた今は違うと思いますけど」

「その通りだ、万里谷祐理。カンピオーネとなり、莫大な呪力を手にされはしたが、剣一筋の生き方は変わっていない。あの方は、呪術による搦め手を力技で斬り伏せるタイプだ」

「ああ、だから、とりあえず攻撃は受けてみるまで察知できないってことか」

 呪術で生み出された大波であれば無効化もできたかもしれないが、今回は元々あった自然の波を大波にしただけのもの。カンピオーネの呪術に対する耐性も効果を発揮することはない。

 サルバトーレは海に消えた。

 とすると、残る問題は竜----------------ではなく、飛来する白い彗星のほうだろう。

 突如現れた白い光は、一秒にも満たない接触でその首を深々と抉ってしまった。

 鮮血を噴出して苦悶の咆哮を上げる竜。

「な!?」

 驚かなかったのは、この展開を知っている護堂だけだった。

 その護堂も直接あの動きを見たときから表情を硬くしている。

「あ、あれは、まさか!?」

「神様の類だろうな。力が漲ってくるから間違いない」

 カンピオーネ特有の『まつろわぬ神』が付近にいるときに体調が最高になる特異体質。それが、あの光が神のものであることを告げていた。

 『まつろわぬ神』が現れたとあっては、カンピオーネである草薙護堂が出て行くしかない。

 しかし、護堂は行動しない。上空で竜が切り刻まれている様子を観察しているだけだ。

「あの、先輩?」

「なんだ、晶」

「いや、神様が目の前にいるのに、向かっていかないのも珍しいなあと思って……」

「お前は俺をどこぞの戦闘狂と同一視してんか!?」

 サルバトーレと同じような扱いは遠慮したい。

「ああう、ごめんなさい。でもこのままだとナポリの竜が死んでしまいます、と思ったり……」

「そりゃ、分かっているけどさ」

 分かっているが、迂闊には動けない。

 なぜならば、ここにはペルセウス以外にももう一柱の神が現れる予定なのだから。

 すなわち、まつろわぬアテナ。

 原作において特に重要な位置付けをされる女神だ。

 本来は原作一巻のボスであり、その後も幾度となく護堂と敵対したり共闘したりと関わっていく女神なのだ。

 今の段階では春休みにサルバトーレと戦わなかったことからゴルゴネイオンフラグが立たず、アテナはここイタリアの地でサルバトーレと戦い、引き分けたと聞いている。

 死んでいないのであれば、ここに現れる可能性も高い。

 なにせ、逆縁が大好きで、竜を苛めているヤツに敵対する性質なのだから。

 とりあえず、アテナには来てもらわないと困る。

 あの竜を正しく始末できるのは、アテナ以外にいない。

 だというのに、

「来ねえ……」

 いつまで経ってもアテナが来なかった。

 これは、もう原作と違う流れになっているのだろうか。

 護堂は内心で焦り始めていた。上空の戦闘は、ペルセウス優勢。いや、もうここまで来たらあれがペルセウスかどうかも怪しいところ。とにかく、竜はひたすらその身を削られる一方で満足な反撃すらもできないでいる。

 竜がアテナに吸収されずに斬り殺されてしまえば、ナポリは終わる。

 ギリ、と奥歯を噛み締める護堂。まったくもって予定通りにことが運ばない。

 白い彗星が竜の腹部とぶつかり、爆ぜた---------------ように見えた。 

 今の一撃がよほど効いたのか、竜はそのまま落下していく。

 為すすべなく、地響きを立てて埠頭に落ちた。

 力なく横たわる竜に、最期の一刀を浴びせかけようと急降下する光。

「ああ、もう!」

 地団太を踏むような、そんな憤りを持って、護堂は雷になった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 ナポリから東へおよそ九キロメートルのところにその巨体は鎮座していた。

 遥か古代からその威容を人々に見せ付けてきた火山の名をヴェスヴィオ火山という。

 その中腹、普段人間が立ち入ることのない場所に、白い衣服に身を包んだ青年が立っている。

 もちろん、人間などではない。姿形こそ、人のそれと酷似しているが、根本的に人間とは異なる存在だ。人の紡ぎだす物語を核として生まれ出でる彼らを呪術者たちは『まつろわぬ神』と呼ぶ。

 人類の物語がなくては生まれることがないにもかかわらず、人類では決して手の届かない高みにいる英雄豪傑にして神なのである。

 この精悍な顔立ちの青年もまた、神話か物語に語られる神、もしくは英傑であるのだろう。

「ほう、これはまた興味深い」

 彼の視力は常人のものを遥かに上回る。弓の名手でもあるから当然のこと。海と人が築いた街を見ることができた。その街から立ち上る水と大地の呪力の柱。まるでこのヴェスヴィオ火山の噴火のように荒々しく、雲にまで届かんとしている様は、圧巻の一言に尽きる。

「ふむ。水と大地の呪力、となると次はあれか」

 彼は無造作に己の神力を解き放った。《鋼》の性質を持つ彼の呪力に、大地の呪力が反応し、形を作る。

 長い胴体に強靭な四肢。コウモリの如き翼を生やす神話の生物。

 竜である。

 人々を恐怖のどん底に突き落とし、災厄を撒き散らす悪であり、己のような英雄によって討伐されるべき存在。

「ふふふ。そうこなくては面白くない」

 戦の神にして英雄。大地の精の討伐者である自分の相手を努めるには最適だ。

 とりあえず、敵がいればいい。乗り越える試練の数だけ生きがいも増えるというものだ。

 後は、救い出すべき乙女がいれば文句ないのだが、それは高望みが過ぎよう。

「ああ、名乗りを決めておかねばならぬな。複数の名を持つというのも面倒でいかん。もっとも、名の数だけ名誉があるということでもあるが。……ふむ、よし決めたぞ」

 そして青年は戦いに赴く戦士の笑みを浮かべて光となった。

 向かう先は人間達がナポリと呼ぶ大都市。

 その上空を飛ぶ悪竜を討ち果たし、意気揚々と凱旋するために。

 

 

 戦闘は実にあっけない。

 まずは出会い頭に一太刀を浴びせかけた。

 竜は愚直な直線攻撃にすら対応できず、首を斬られた。

 腕、胴体、翼と瞬く間に傷だらけになってしまう竜。戦闘開始からそう時間も経たずに終わりが見えてくる。

 もとよりこの身は竜殺しの英雄。竜退治は宿命のようなものとはいえ、こうもあっけないとそれはそれで戦い甲斐がない。

 神獣としてではなく、『まつろわぬ神』として顕現した竜であれば---------------例えば、ヘラクレスの宿敵ヒュドラであったり、ジークフリートの大敵ファブニールなどがそうだ。彼らほどの強敵であれば、これほどあっさりと勝敗を決することもないだろうが。

 心の海に浮かび上がる落胆の念を、まあよいかとあっさり斬り捨てた。

「英雄たる者、瑣事にこだわっては度量が知れよう。あの竜が我が敵にそぐわないのであれば、新たな敵を探すのみ!」

 とりあえず、竜を屠る。その後のことはそれから決める。

 まつろわぬ身だ。世界を漂泊し、異国の神々や当代の神殺しと剣を交えるのも一興である。むしろ、それこそ自分がなすべきことではないか。

 そう心に決めたからには、迷いはない。

 埠頭に落ちた竜を一刀両断すべく、剣を掲げて急降下する。

 白い彗星へと変じた彼に、竜は抵抗もできずに頸を落とされる。それ以外の未来があるとするならば、それは、この竜を上回る敵手が妨害に出る他にない。

「ぬ!?」

 彼がそれに気づき、加えて対応することができたのは類まれなる戦闘センスによるものだ。

 竜を目掛けて落ちる自分の身体に向かって、飛んでくる何か。それが、己を害するだけの力があると本能で察して、迎撃を行ったのだ。

 音速を上回る速度での飛行にもかかわらず、身を捻って右手の剛剣を振るう。

「ぬう、あ!」

 気炎を吐いて振るった剣が、中空で火花を散らした。

「これは、槍か」

 弾き返した乱入者は、鋼色に輝く無骨な一本の槍だ。

 力を失い、海に落ちていく途中で霧散した。その力は、権能と見ていいだろう。

 眼下に見える傷ついた竜。その竜をまるで庇うように立つ少年を見て、力が湧きあがってくるのを感じる。

 ここに来て、ツキが巡ってきた。

 あれは、我等《鋼》の仇敵に他ならない。

 乗り越えるべき壁である。

 であれば、正面から挑んで然るべき。

「何ゆえにその竜を庇うのだ、神殺しの少年よ?」

 とりあえずは、湧き出た疑問を問いかけた。

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 なるほど、外見はペルセウスだな。

 護堂は空から現れた白い青年を見てとりあえず安堵した。これで、ペルセウス以外の神格が現れていたらそれはそれで困ったことになったからだ。

「何ゆえにその竜を庇うのだ、神殺しの少年よ?」

 現れた神の問いかけは純粋な興味から来たもののようだ。

「何ゆえって。この竜を倒されたら困る人がいる。それだけだ」

「なるほど。ただそれだけの理由で、この私の獲物を奪うつもりかね」

「あんたも人の生活を守る英雄なんだろ? そのあたり考えようぜ」

「ふむ。確かに私は民草を苦しめる悪竜を屠り英雄となった身。ゆえにこそ、その竜を討つことは私が私であるために必要なことなのだよ。まあ、許せ、少年」

 民を守るために竜を討ったわけではない。竜を討った結果として民を守った。前提からしてこの男は常識の範疇にいなかったということか。その思考はサルバトーレのそれに似ている。

 もしかしたら、神代の神殺しだったんじゃないか、と意味のないことを考えてしまう護堂。

「チィ……そうかよ」

 もともと言葉でどうにかなる相手とも思っていない。彼らにとって人間の生活など、己の武勲よりも価値が下だ。気にする筈もなかった。

 だとすれば、戦うしかない。

「一つ聞かせろ。竜殺しの英雄。あんたの名前はペルセウスでいいか?」

 すると、ペルセウスは一瞬だけ眼を大きく開いて、笑みを膨らませた。

「驚いたな、いかにして我が名を知りえたんだ。少年よ。それも君の権能かね? ますます持って興味深いな」

「力ずくで聞いてみればいい。あんたにできるならな」

「では、そうしよう」

 ペルセウスが豪刀を構えた。

 刃渡り一メートルはあろうかという分厚く反りの入った剣だ。

 神速の踏み込みをどう受け止めるか。そこを思案していたとき、一つ、この場にそぐわない可憐な声が割り込んできた。

「まあ、待て。そこで戦ってはこの子を巻き込んでしまうだろう」

 いつ現れたのか、そこには十代前半と思しい少女がいた。

 月を溶かしこんだかのような銀色の髪。

 夜闇を凝縮したかのような黒い瞳。

 なぜか、ニット帽を被っている、見間違えようのないその容貌。

 まつろわぬアテナ。

 文字でしか語られなかった女王としての貫禄というものを、護堂は全身で受け止めていた。

 間違いなく、この神は強い。理屈を抜きにしてそう感じることができた。

 やってきたアテナは胡乱げにペルセウスと護堂を眺めると、徐に護堂の側、より正確にはその背後に横たわる竜の下に歩み寄った。

「英雄ともあろう者が、たかだか神獣を甚振って得意がるとは嘆かわしいことよな」

 アテナは傷つき、瀕死の重傷を負った竜を見下ろして、慈愛の表情を浮かべた。

 そして、母が子にそうするようにその頭を撫で、なにやら呟くと、竜はその身を解いて呪力へと戻り、アテナに吸収されていった。 

 一先ず、竜の死によるナポリの滅亡は回避された形になり、護堂はほっと息を吐いた。

 それでも、厄介な問題が一つ片付いただけだ。気を緩めるわけにはいかない。

 竜を取り込んだアテナが次に視線を向けたのは護堂だった。

「この国にいたのは忌々しい剣使いの神殺しのはず。……あなたは何者だ? 異国の神殺しがなぜここにいる?」

「それは、なんででしょうね」

 サルバトーレが流されたり、アテナが来るのがもう少し早ければ表舞台に上がる必要性はまったくなかったのだ。強いて言うならアイツとオマエのせいである。

 そんな答えとも呼べない曖昧模糊とした返答に、女神は対して気分を害された様子も見せなかった。

「ふむ。どういう経緯かは知らぬが、我が子をあなたが死守しようとしていたことはわかった。そこだけは礼を言おう」

 雰囲気としては、護堂に好意的。少なくともペルセウスよりもいい。とはいえ、相手は神様だ。神殺しの護堂とは根本的に相容れないだろう。このアテナが今、護堂とペルセウスのどちらを相手にするかでこの戦局は大きく変わる。

「さて、古の蛇の女王に当代の神殺し。ふふ、これは本当に面白くなってきましたな」

「妾をアテナと知り、なお、微笑むか。それであれば、あなたの真名も予想がつくが」

「ふ、かつてメドゥサと呼ばれた御身には忘れがたい名でありましょうな。いかがでしょう、ここで神代の恥辱を雪ぐというのは?」

 人好きのする笑みを浮かべてペルセウスはアテナを誘う。

 メドゥサとしての相を持つアテナにとって、彼は天敵に等しい存在なのだ。

 奇妙なことに、メドゥサ退治でペルセウスの最大の庇護者がアテナだっということもあり、この二柱は神代のころから続く逆縁の担い手として互いを認識していることだろう。

 しめた、と護堂は心の中でほくそ笑む。

 ここでこの二人が戦ってくれるのならば御の字である。自分は悠々とナポリに帰還して、後は神様同士の戦いを観戦しつつ、被害が街に及ばないように気をつけるだけでいい。

 そう考えていたところで、アテナが口を開く。

「……なるほど、確かに、それも一興。だが、ここにいる神殺しに不意を打たれんとも限らぬ。安い挑発には乗らぬよ」

「ほう、では如何様に?」

「まずはあなた達で決着をつけるとよい。このアテナ。英傑の戦いを邪魔だてするような振る舞いはせぬ」

 ここに来て、事あるごとに英雄に手を貸してきた女神の相が出現してしまった。

「ま、まてよ。話の流れがおかしくはないか? あんたたちは宿敵同士なんだろ? なんでこっちに回ってくる」

「何を言う。宿敵というのなら、真っ先に君が挙がるではないか」

「その通りだ、異国の神殺しよ。古来より《鋼》の軍勢と魔王どもは殺しあってきた仲だ。その縁は神代まで遡っても消えはせぬ」

 知ってた。でも、それはペルセウスの台詞だったような気がする。

「なによりも、先に手を出したのは君だろう?」

「ぐぅ……」

 そこを突かれると。どうやっても言い逃れができない。確かに、竜を殺そうとしたペルセウスに槍を投げつけたのは他ならぬ護堂である。真に不本意ながら開戦の火蓋を開いたのは、この中で最も戦いたくないと思っていた護堂だったわけである。

 今なら山本五十六の気持ちが分からなくもない。

「俺のほうにはこれ以上戦う理由がないんだけど」

「理由ならばあるではないか。ここに私がいて、そこに君がいる。それ以上の理由はあるまい」

「そんな山があるから登るみたいに殺し合いを語るんじゃねえ!」

 あまりの言い草に護堂はつっこんだ。

 ペルセウスだけでも強敵だというのに、アテナまでいる。しかもこの空気は味方になってくれそうにいない。

 弱った。アテナフラグがないだけで、ここまで戦局が変わってくるか。基本的に一対一。ただし、状況次第では二対一もありえる。

「ペルセウスのほうはやる気満々って感じだけど、まさかアテナまで加わって挟み撃ちなんてことはしないだろうな?」

「無論だ少年。そのような手段はとらんよ」

「とはいえ、勝った後に連続して神様と戦うのは気骨が折れるんだけどな」

 護堂の言葉に、ペルセウスは不快そうに顔をゆがめた。

「今から勝利後の心配をするとはな。聊かこの私を甘く見ていないかね」

「まさか。でも、神様二柱が敵側にいると思っただけで、圧迫感はあるね。俺はあんたと違って小心者なんだよ。なし崩し的に死闘を演じることはできそうにないんだ」

「ならば、どうする?」

「時間が要るな。せめて二日。いきなり決闘というのは面白みがない。俺のほうも準備ができていないんでね。ここで戦うのは二日後の夜にしよう」

 それだけの提案ではまだ、弱い。

 この二柱が戦いの神であることを利用する。

「この国にはもう一人の神殺しがいる。そこの女神様とも因縁のあるヤツだ」

 この言葉に、成り行きを見守っていたアテナも眉尻を動かした。

 戦を生業とする英雄も明らかに興味を示す。

「ほう。……続けたまえ」

「なんということはない。そっちに神様が二人いるのなら、こっちに神殺しが二人いてもいいだろう? そうすれば、文句なしの一対一ができる。言い訳無用のガチンコ勝負だ」

「ふむ……」

 頤に指を当てて思案するペルセウス。

「まあ、あんたたちが弱った神殺しに勝って武勲だと言い張れるのなら話は別だけどな。特に後から戦おうとするアテナは----------------」

「そこまでにせよ、神殺し。よもや、あなたはこの戦神たる妾を卑怯な振る舞いで勝利を盗むハゲタカの如き者と同列だとでも言うつもりか?」

 そこまで言うつもりはなかったのだが、アテナにはそのように聞こえたらしい。気位が高すぎやしないだろうか。

「そこまで言うのであれば、あなたの要求を呑もうではないか。ここにあの剣士を連れてくるのであれば、以前の借りも返せるというものだ」

「そういうことであれば、私も一端引いておこう。……少年、なかなかに見事な策謀だな!」

 アテナの判断に従うペルセウス。

 笑いかけるペルセウスの目は、逃げるなよ、と言外の圧力をかけてくる。

 逃げてもいいけど、格好がつかないから逃げられないかな。

「ああ、やってやるよ……」

 人ならざる手法で消えていく、二柱を見送って、護堂は呟いた。

 二日後の夜。ここにサルバトーレをつれてくる。そのためのプランを練らなければならない。

 まず、漂流しているサルバトーレを引き上げることから始めないといけないことを思い出し、ため息を吐いた。



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三十五話

「まあ、そういうことで決闘は二日後になった」

「何がそういうことなんですか!?」

 皆が皆、一斉に叫んだ。

 あわやナポリを舞台にしてのカンピオーネ対『まつろわぬ神』の戦闘が勃発しそうになったというところで、二柱の神が何故か撤退した。

 それでよかったと一息ついたところで、無事帰ってきた護堂がそんなことを言うのだから、半ば反射的にツッコんでしまったのは無理もないことだ。

「さすがは、先輩ですね。旅先では必ず厄介ごとに関わる」

「そういう星の下に生まれてしまったのでしょうか。カンピオーネになられたからなのか、それともこういう方だからカンピオーネになったのか……」

 呆れたと言わんばかりの表情で、晶と祐理が護堂を見ている。

 今回の件は半ば覚悟していたこととはいえ、この展開は不本意なものなのだ。だから、護堂もそんなふうに言われるのは心外だった。

「別にそこまで言わなくてもいいじゃないか。俺だって、好き好んで首を突っ込んでいるわけじゃないし」

 やや拗ねたような言い回しをすると、晶は失笑した。また、護堂は眉根を寄せる。どこか、おかしなところがあっただろうか。

「とりあえず、宿に戻ってから対策を練りましょう……」

 その様子を眺めていたリリアナはため息をついてそう言った。

 

 それから歩いて三十分ほどかかるところにあるホテルに向かった。本来の予定であれば車で移動していたところなのだが、一連の騒動でただでさえヒドイ渋滞が、さらに悪化してしまったために、歩いたほうが早かったのだ。

 日本から持ってきた荷物はすでに部屋に運び込まれていた。

 祐理と晶、そして護堂はそれぞれがワンルームを与えられていた。東京のビジネスホテルとは比べ物にならないくらいの豪華な作りの部屋だった。赤いカーペットに金色のシャンデリアがついた部屋は、明らかに学生が寝泊りする部屋ではなく、逆に落ち着かなかった。

 護堂の部屋は六階にあった。ベランダには小さな白いテーブルとイスが置かれていて、そこからはナポリの街が一望できた。

 部屋に入ってからすぐに護堂はシャワーを浴びて身体の汚れを落とした。

 夏のイタリアは下手をすれば日本よりも気温が高い。

 地下神殿は冷えていて快適だったが、外は十分も歩けばそれだけで汗を流しているということになる。

 今、リリアナの仲間たちは、竜の出現という大騒動を隠蔽するためにナポリ中を飛び回っているという。原作と違って日が昇っているころに現れたために、目撃者が非常に多く、記憶消去はほぼ不可能だという。よって、彼らは、あくまでも旅行会社が企画した出し物だったということにすることで竜の存在を実状を暈し、光の柱と崩落した道路に関してはガス爆発として片をつけた。

 かなり無理のある説明ではあるが、それに関して文句をつける人間には個別に対応すれば言いだけのことだ。不特定多数の大衆は、自分に危害が加わらなければこの程度の問題は気にも留めない。忘れられて消え去るだけだ。

 シャワールームから出ると、窓の外は薄暗くなっていた。時計の針は六時半を指している。照明が室内は淡いオレンジ色に染めていた。

「草薙さん。お時間は大丈夫ですか?」

 ドアがノックされ、外からは祐理の声が聞こえた。

 携帯電話でメールの確認をしていた護堂は大丈夫だ、と返事をした。

「そろそろ、お食事の時間ですので、五階までいらしてくださいとのことです」

「夕食は、五階だったっけ。……わかった、今行くよ。ありがとう、万里谷」

 護堂は髪が乾いていることを確認してから部屋の外に出た。そして鍵を閉め、五階のレストランに向かった。

 

 

 夜景を楽しむことのできるレストランは、護堂たちの貸切状態だった。そのことに驚かなくなったことに驚いたのは他ならぬ護堂である。

 テーブルは円形で、一つにつき二人が向かい合う形で座ることになった。護堂の正面にはリリアナが座った。祐理と晶は不服そうにしながらも、隣のテーブルに座った。

「先輩。それってワインですか?」

「ああ、そうだぞ」

 護堂のグラスに注がれている赤ワインを見て、晶が尋ねてきた。

「飲めるんですか?」

「破天荒な一家に育ったおかげでな。人並み以上にアルコールは得意なんだ。静花もいける口だぞ」

「静花ちゃんもですか」

「アイツは、ウィスキーをそのまま平気で一瓶開けるからな。将来はかなりの怪物になるだろうな」

 現中学三年生の恐るべき臓器に戦慄したのはいつのことだったか。

 日本における飲酒年齢は二十歳だ。ばれればかなり危ういものだが、イタリアでは十六から酒が飲める。護堂はイタリアにいる限りにおいては飲酒ができるのだ。

 晶は興味深そうに眺めていたものの、結局は水だけで過ごすことになった。まだ十五歳ということも精神的な枷になったのだろう。

 港から上がる新鮮な魚介類とパスタに舌鼓を打った後、本格的に今後の話を始めた。

 『まつろわぬ神』に対処できるのはカンピオーネだけ。ゆえに、高位の呪術者が何人援護に集まろうと、それは足手まといを増やすことにしかならない。よって、この場にいるのは、護堂とともに日本からやってきた祐理と晶、そして、このナポリに呼び寄せたリリアナだけだった。

 とはいえ、結局のところ、護堂が戦うというところは決して変わることはなく、護堂の権能が原作のように相手の能力や経歴を詳らかにする必要性のないものであるから、会話の内容もそれほど深いものにはならない。

 目下のところ、最大の問題は、サルバトーレがどこに流されたのか分からないということだった。

 護堂が敵側に出した条件はただ一つ。二日後にサルバトーレとともにあの波止場までやってくるから、そこで決着をつけようというもの。それによって、とりあえず状況を整理し、心の準備をする時間を作ることができた。あとは、市民や観光客の安全を確保するだけの時間が足りるかどうかだが。

「それに関しては我々が何とかいたします。不幸中の幸いか、例のガス漏れ騒ぎで、このあたりは騒然としましたから、そこから誘導すれば戦闘区域から遠ざけることはできるかと思います」

 リリアナが胸を張ってそういってくれたので、護堂も心置きなく戦うことができる。

 戦う場所を波止場にしたのは、極力家や文化遺産を破壊しないようにするためだった。ペルセウスが文句をつけてくるかもしれないが、神様の都合を人間が聞いてやる必要もない。

 なんとかして、サルバトーレを見つけだし、交渉のテーブルに着かせる。

「サルバトーレのヤツがどこにいるか分からないと、こっちは一人で戦うことになりかねないっていうことでもあるから、明後日の夜までになんとしてでもアイツを見つけ出しておかないと」

「しかし、この広い海洋上でどのようにしてあの方を見つけましょうか? あれから音沙汰もないのですよね?」

 と、祐理。

 リリアナは頷いて、

「ああ。しかもあの方の『鋼の加護』は肉体の性質まで鋼に変えてしまう。呼吸の必要がない上にその重さで海底に沈むことも考えられる」

「え゛、さすがにそれはないんじゃないですか? そんな油虫みたいな生命力……いや、あり、うる?」

「晶。俺を見て納得するとはどういう了見だ?」

「あうぅ。ごめんなさい。別に先輩が油虫というわけではなく……」

「晶さん。草薙さんの生命力は《蛇》の力が大きいのですから、どちらかと言えば蛇でしょう」

「ははは、言うなあ、万里谷。万里谷の中では俺は蛇か!」

「あ、いえ、そういうことではなく。すみません。言葉を誤りました」

 申し訳なさそう恐縮する二人と、つっこみを入れる護堂を傍から見ていると、王と臣下というよりももっとフラットな関係性に見える。先の晶の発言もそうだが、普通、間違っても王をゴキブリには例えない。陰で言うことはあっても真正面からは絶対にいえないことだ。それがここではまかり通っている。そのことを興味深そうにリリアナは眺めていた。

 ごほん、とリリアナは空咳をした。いつまでじゃれているんだという非難が僅かばかり籠もった空咳に三人は現実に帰って押し黙った。

 半眼でジロリと見渡した後、リリアナが口を開く。

「さて、それでは始めましょ----------------」

 と、リリアナがやっと喋り始めようとしたときだった。

「あら、やっぱりここにいたの」

 リリアナから見て背後。レストランの入り口にいるはずのない第三者が立っていたのだ。 

 護堂は、あ、と声を漏らし、リリアナは目を見開いて唖然としている。

 蜂蜜を溶かし込んだかのような黄金の髪と透き通っているかのようなシミ一つない肌。年齢ゆえに幼さは残るものの、大人のモデルと比較しても遜色ない美貌だ。すでに少女から女性へと変貌しつつあり、客に媚を売る可愛らしさとは無縁。知性と自信に溢れる赤と黒の騎士。

「エリカ・ブランデッリ。……あなたがなぜここにいるッ!」

 彼女の名はエリカ・ブランデッリ。

 リリアナの所属する《青銅黒十字》のライバル組織である《赤銅黒十字》に所属し、大騎士の位階とイタリア人騎士筆頭たる『紅き悪魔』の称号を得ている天才騎士だ。

 このホテルは《青銅黒十字》の系列である。だから、リリアナとしては、ライバルであるエリカが平然とここにいることに悪党に聖域を踏み荒らされた神官のような気分で叫ばざるを得なかった。

「リリィ。人がいないのをいいことにそんな風に大声を上げてはいけないわ。淑女として恥ずかしいわよ」

 リリアナの抗議の声をそよ風とも思っていないのか、まったく余裕を崩さずに鷹揚に受け流したエリカは、そのまま護堂たちの座るテーブルにまで歩み寄り、こともあろうに護堂の隣に腰掛けた。イスをどこかから取り出していたことに、今の今まで気がつかなかったのはさすがの手際である。

「相変わらずわたしの探知に引っかからないんだもの。このわたしが足で探す男はあなたくらいのものよ」

 エリカが隣に来たとき、仄かないい香りが漂ってきた。嫌味にならない程度の香水も、淑女の嗜みだといわんばかりだが、その香りも、エリカという少女を引き立てるものでしかなかった。

「ど、どういうつもりだ!?」

「どういうつもりって、座っただけじゃない、リリィ。あなた、まさかこのわたしを立ったまま放置するつもり?」

「そういうことではなく、なぜエリカが平然と護堂さんの隣に座っているのかということだ!」

 リリアナがテーブルを叩き、エリカに指を突きつけた。

 エリカは怪訝そうな表情を浮かべる。

「あまり魔術師が指を人に向けるものじゃないわ。品がない上に妙な勘違いをされてしまうこともあるもの」

 エリカの指摘を受けて、とりあえずリリアナは手を下ろした。人を指差すのは礼儀が悪いといわれることだが、それだけでなく西洋には指差しで人を呪うガンドという呪術がある。呪術を心得ているからこそ、指を向けられるのは不愉快を通り越して警戒してしまうのだ。たとえ相手が幼馴染であろうとも、任務によっては剣を交える仲なのだから。

「それで、あなたがわざわざここに来た目的は何だ」

「何って、それはもちろん護堂に会いに来たのよ。ほかになにがあるって言うの?」

 エリカは物怖じすることなく、即答した。

 表に知られていないことではあるが、護堂はエリカと今でも交流がある。頻度はリリアナほどではないが、情報の交換なども行っている。それを表ざたにしないのは、今回のリリアナのような騒動に巻き込まれる恐れがあるからだった。サルバトーレに目をつけられれば、どうなるか分かったものではない。それをエリカは親友の苦労を眺めて再確認したのだった。

「ここはナポリ。別に《青銅黒十字》だけが、この街に根を張っているわけじゃない。わたしたち《赤銅黒十字》だって支部を置いているわ。今回、護堂がこの街に来たのなら、面識のあるわたしが派遣されるのは火を見るより明らかでしょう?」

 正論だ、とリリアナも認めざるを得ない。

 そも、海外のカンピオーネを招きいれたのは《青銅黒十字》であるが、その影響を被るのは下手をすればイタリア全土である。草薙護堂の人となりは極東の日本での活動以外は確認されておらず、また、彼の傘下におさまっているという正史編纂委員会が意外なほどに曲者だったということで情報が流布していないのだった。

 だから、他のカンピオーネと違い比較的温厚であることは知られていても、それがどの程度のものか判断がつかないのだ。触らぬ神に祟りなし。多くの結社は護堂を監視するにとどめて直接的な接触は《青銅黒十字》に任せきりにしていた。

「ふふ、様々な結社の方々が遠巻きに窺っておられるけど、よからぬ魂胆が見え隠れしているわ。例えば、ここで護堂が暴れだせば、その責任を『青銅黒十字』に押し付けることもできる、とかね」

「暴れたりしねえし。失礼な奴等だな」

 グラスを傾けながら、護堂は顔をしかめた。いまだ顔が赤くなっていないところを見ると、体質的にも相当アルコールに強いことが分かる。

「そ、そんなことはどうでもいいですけど、あなたは先輩の何なんですか!? さっきから気安く呼び捨てにしてますけど、この方がどのような人か分かっているんですか!?」

 堪らず晶が詰め寄る。それでもエリカは堂々としていて、一分の隙もない。むしろ、詰め寄った晶を妹の我侭を笑顔で許す姉のような面持ちで見つめている。

「たしか、あなたは高橋晶さんだったかしら?」

「え、はい。……そうですけど」

 名前を知られていたことで、晶は勢いをそがれてしまった。

「なぜ護堂を呼び捨てにしているかと言うと、それは、以前会ったときに彼がそれを許したからよ。ほら、護堂って、あまり人に謙られるのが好きじゃないでしょう。王に最もよい接し方をするのも、彼らと関わる上での基本なのよ」

 敬意を示しすぎて不快感を与えては本末転倒だとも付け加えた。

 西洋人らしく、エリカは晶の目を見て話す。しかし、日本人たる晶は目を合わせることが苦手で、おまけに眼前には自信に溢れる超絶美人。気圧されてしまうのも無理はなく、たじろいでしまった。

「で、でも……」

「ところで、あなたこそ護堂の何かしら? わざわざイタリアまで付いてくるところを見ると、愛人だったりする?」

「あ、愛人!?」

 瞬間、護堂はワインを吹きそうになった。晶は素っ頓狂な声を出して真っ赤になり、激しく首を振って否定した。

「あらそう。じゃあ、そちらの方がそうなのかしらね。護堂もそういう関係の方がいるのならちゃんと教えてくれればいいのに」

 そちら、というのは祐理のことだった。

 不穏な空気を憂いながら見守っていたところに流れ弾が飛んできて祐理は跳ね上がりそうになった。

「ち、違います。わたしと草薙さんはそのようなふしだらな関係ではありません!」

 はちきれんばかりに脈動する心臓を押さえて、祐理は強く否定した。それでも、否定したときに心の内の隅っこに自分でもよくわからない重い感情が湧き出でてきたことに気づかなかった。

 エリカは、祐理を見て何を思ったのか、それ以上は祐理に何かを言うことはなかった。

「そう、ということはまだ護堂には恋人も愛人もいないということなのね。それはよかったわ。わたしたちの関係を変に疑われてしまっては、後々面倒になってしまうものね」

 と護堂を流し目で見ながら、あえて『関係』のところを強調するところが、エリカの性格を如実に表している。

「せ、先輩。関係って、どんな……?」

「草薙さん。これはどういうことですか?」

 すっかりエリカに気圧された晶は弱弱しく、祐理は笑みを浮かべて尋ねてくる。

「はあ、エリカ。あまり、からかわないでやってくれ。二人とも本気にしてしまっているだろ?」

「おかしいわね。わたしは別に嘘をついているわけではないのだけれど」

「言い方次第では誤った意味で相手に伝わってしまうことくらい理解しているだろうが」

 エリカは政治的な方面に非常に強い。騎士というよりも秘書官という性格が強いのだ。その彼女だから、話術はお手の物で、真実しか言っていないにも関わらずに、相手にまったく違う意図として伝えることすらも可能としている。言葉だけでなく、その使い方、強調、雰囲気なども簡単に支配できてしまうのだ。

「ま、心配しなくても大丈夫よ。わたしと護堂は言ってみればビジネスパートナーみたいなものよ。深入りするつもりはないわ」

 と、エリカはあっさりとそう言った。

 エリカの名は祐理も晶も聞いたことがある。なにせ、草薙護堂というカンピオーネの存在を賢人議会に最初に報告した人物だ。つまりは、護堂と最初に接点をもった呪術関係者ということになる。そういう意味では、祐理も晶も新参であり、エリカの言を真実とするならば、小まめに連絡を取り合っていたということでもあった。

 そこは、祐理も晶もなんとなく、気に入らなかった。

「それで、結局あなたは何をしに来たんだ? 護堂さんに挨拶がしたいだけならもういいだろう。わたしたちはペルセウスとアテナという二柱の神への対策で忙しいんだ」

 と、リリアナが言うと、エリカはワイングラスに赤い液体を注ぎながら、

「もちろん、わたしも世間話に来たわけじゃないわ。ナポリの危機はイタリア全土の危機でしょう? ただでさえ不景気が続いているというのに、最大級の観光地が廃墟になるのは困りものよね。わたしはね、他の結社の小心者とは違う。騎士としての誇りがあるわ。この危機を見て見ぬ振りはできないの」

 これで半年前のエリカであれば、ペルセウスに単身挑んでいたかもしれない。あの時のエリカはまだ『まつろわぬ神』の脅威を知識としてしか知らず、無謀だったからだ。

「つまりは、協力の申し出か?」

「そうね。ただし、《青銅黒十字》との協力ではなく草薙護堂への協力よ。そのほうがあなたもいいでしょ、リリィ」

「ふん。別にわたしには、あなたの協力は必要ないからな」

 《青銅黒十字》だけでも十分解決できるという意気込みを感じさせる答えだった。もちろん、エリカもそれを予期していたのだろう。あくまでも笑みを崩さない。そもそも、エリカの交渉相手はリリアナではなく護堂だ。リリアナがどのような答えをしようとも、護堂が頷けばそれで決着する。ゆえに、ここでのリリアナの答えにはさほど重要性はない。

「それで、協力というけど、それはつまりなにかしらの有益な情報があるということか?」

 護堂はエリカに尋ね、エリカは頷いた。

 優雅にワイングラスに口をつけ、僅かに唇をぬらす。

「もちろんよ。そうでなければ、ここには来ていないわ」

「それは心強いな。それで、それはどんな情報なんだ?」

 エリカは太陽のように見えて蠱惑的な笑顔を見せる。

「サルバトーレ卿の現状とかは今一番知りたいことじゃないかしら?」

「……知っているのか?」

「ええ。さっき、うちの魔術師が知らせてくれたわ。さて、この情報の価値はどれくらいかしらね」

「むう……」

 エリカの情報を受け取ることで、護堂が得られる利益は大きい。とはいえ、エリカが言うように護堂と彼女との関係はビジネスライクであるから、こちらにも支払い能力がなくてはならない。問題は、この情報への対価をどうするのか、ということだが、

「エリカ、貴様、護堂さんに情報を売りつける気か!?」

 リリアナが抗議する。エリカはそんなリリアナに今度は視線を向ける

「ふふ、冗談よ。特別サービス価格で、今回はタダでこの情報をあげるわ。ナポリの危機だもの。それに、以前の借りもあるしね」

 メルカルトとの戦いで、エリカが命を落としそうになっていたときに、助けたのは護堂だった。ヴォバン侯爵との戦いで、リリアナのノートをコピーして送ったのも、そのときのことで借りがあったからだ。

 エリカも、ただそれだけで命の恩が返せるとは思っていないし、カンピオーネとの関係で重要なのは、敵対しないでいてもらえるかということだ。エリカが護堂と良好な関係を維持している限り、《赤銅黒十字》には陰から護堂の権威に守られる。強いて言うならば、それが対価だった。

「それじゃあ、サルバトーレは---------------」

「無事よ。何時間か海をさまよってサルデーニャのあたりでマグロ漁をしていた漁船の網に引っかかっていたところを捜索中の使い魔が見つけたの」

「網……」

「目茶苦茶だな、本当に」

 護堂は背もたれに体重をかけて天井に目をやった。サルバトーレのしぶとさには分かっていてもため息がでる。

「それで、護堂。あなたは、サルバトーレ卿を見つけてどうしたかったの? なにか、よからぬ策をめぐらせていたみたいだけれど?」

 エリカが護堂の顔を覗きこむように見つめてくる。その目は義務感などに突き動かされた騎士の目ではなく、純粋に面白いことに噛ませろという意思を伝えてくる。

 エリカがここにいるのは僥倖だ。彼女の交渉力と胆力は同世代はおろか、ベテラン騎士であっても真似できないほどのものだ。これからサルバトーレと交渉しようというときに現れてくれたことは感謝すべきかもしれない。

 そう思って、護堂はエリカに計画の全貌を明かすことにした。



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三十六話

 日は沈もうとしている。

 ペルセウスとアテナを相手に条件を提示したあの時から早くも二日が経ち、約束の時間が迫ってきていた。

 表通りだというのに、人気は少ない。《青銅黒十字》が手を回して、人払いをかけたからだ。呪術的なものではなく、ガス爆発事件を理由に避難勧告を出させたのだ。メディアにも報道規制がかけられているはずだ。

 今、斑に人が見えているのは、呪術関係者か、避難を拒否した人だけだ。

「最低限の人払いはできましたが、完全とは言いがたいです」

「いいさ。これだけやってくれれば、心置きなく戦える。リリアナさん、ありがとう」

「礼には及びません。わたしは騎士として当然のことをしたまでですから」

 護堂の隣をリリアナは硬い表情で歩いている。後ろをついてくる祐理や晶も緊張感を漂わせている。

 決戦が近い。

 二日前から、この戦いだけを考えてきた。

 『まつろわぬ神』が目の前にいるわけではないのに、不思議と身体の調子がいい。護堂の戦意の高まりが、身体の調子を整えているのだ。

 そして、おそらくは、目の前にいるあの男もそうなのだろう。

「やあ、護堂。二日ぶりだね!」

 陽気に微笑むサルバトーレ・ドニ。『剣の王』。当代最強の剣士であり、イタリアのカンピオーネだ。

 今回の事件の発端ともなった男だけに、サルバトーレ以外の面々は、警戒心を抱きながらここにいた。

「ずいぶんとテンションが高いんだな。あれだけのことをしでかしたんだから、まずは謝るのが筋じゃねえのかよ?」

「なんで? そのおかげで神様が出てきたんだから、後は戦うだけなんでしょ。ほら、問題なんて、まったくないじゃん。それに、君のほうこそずいぶんとやる気に見えるよ」

「一緒にしないでもらいたいな」

 不快という感情が存在しないのではないかというくらいに笑っているサルバトーレとは対称的に、護堂は渋い顔をしている。

 今回の戦い、何から何まで苦肉の策ばかりだ。

「それで、ここに来たってことは条件は飲んでもらえたのか?」

 護堂は尋ねた。

 エリカを使いとして、護堂はサルバトーレに連絡を取った。ただ一回だけ。それ以上は関わらないように、こちら側の用件は全部突きつけた。

「うん。まったく問題ないね。僕は戦えればそれでいいからさ、神様と戦えて、君とも戦えるって言うのなら文句はないよ」

「俺は、できれば遠慮したいけどね」

 サルバトーレに出した条件の一つに、護堂自身がサルバトーレと決闘するというものがあった。今回のように不意を打って突然、なし崩し的に戦うよりも、こちらから場所を指定して戦う決闘という形式をとったほうが後々楽になると踏んだのだ。

「じゃあ、短い期間だけど、よろしく」

「こちらこそ」

 そして、護堂とサルバトーレは握手を交わした。

 

 

 

 この日は風が強い。

 日の出ているうちは漣程度であった海も、来るべき戦いの予兆を感じているのかその波を大きくしていた。

 空を流れる雲は、一時たりとも月を隠すことができずに流れていく。

 波止場のコンクリートを踏みしめながら、護堂とサルバトーレは一言も発することなく潮風に身体を晒していた。

 ジリ、と肌を焼くような緊張感。細胞の一つ一つが粟立つような感覚は、『まつろわぬ神』の出現と共に全身に広がり身体を強制的に戦士へと変える。

 今まさに、護堂とサルバトーレの肉体に起こった変化はそれだった。

「約束どおりやってきたな神殺しの少年よ!」

 眩い太陽を思わせる粒子が眼前に現れたのは、ちょうど深夜零時になった時だった。

 光の粉は人型となって、ペルセウスという神を形作る。

 威風堂々たる様は、まさに英雄にふさわしい。快活にして剛直。それでいて稚気を感じさせる笑み。純粋無垢の戦士の顔で、護堂とサルバトーレの前に姿を現したのだ。

「すると、君があのアテナに一太刀を与えたという神殺しだな」

「そうだね。ペルセウス。……僕でも知ってる有名な英雄と戦える機会を逃すわけにもいかないからね」

 うむ、とペルセウスは頷いた。

 戦うことに異存があるはずもない。サルバトーレは自分と同じ戦士の素質を持って生まれ、その生き方を貫き通しているに違いない。それはペルセウスの好むところだ。

 ペルセウスとしては、アテナも含め各個と戦いたいとも思うのだが、こういう趣旨の戦いは珍しい。一度くらいは、経験しておくのもいいだろう。

「相変わらず、戦うことしか考えられぬ愚者よな。サルバトーレ・ドニ」

「お、アテナだ。久しぶりだね。もうあの時の傷は癒えたのかな?」

「舐めるな、と以前言ったはずだがな。あの程度の傷でどうにかなる妾ではないわ」

 いつの間にやってきたのか、目を細めてサルバトーレをにらむアテナは、以前の遺恨があるということで、戦意も高い。ペルセウスとは正反対の闇色の輝きをまとう肢体には力が漲っている。察するに、この中で一番戦う理由を持たないのは、他ならぬ護堂なのではないだろうか。

 だが、目前に二柱もの『まつろわぬ神』がいて、奮い立たなければカンピオーネなどとは呼ばれない。

 不本意ながらも、護堂は内心で猛っていた。

 死ぬかもしれない? 街が壊れるかもしれない? 人に迷惑がかかるかもしれない? それは分かる。分かるけれども、だからといって拳を止める理由にはなり得なかった。

 カンピオーネの仕事は、究極的にはただ一つ。『まつろわぬ神』を討伐することだけなのだから。

 護堂とサルバトーレは並んで敵を見る。

 大海原を背にしたペルセウスと、卵城を背にしたアテナ。神殺しを中心にして九十度の扇形で挟んでいる。

 殺気はなく、ただただ戦意だけが渦巻いている。

 神を殺し、その権能を簒奪した究極の愚か者は、人類最強の戦士。対するは、遥か神代で蛇妖メドゥサを討ち果たし、大海獣から生贄のアンドロメダを救い出した蛇殺しの英雄と、生と死、そして知恵と戦いを司るオリュンポスが誇る最強の戦女神。

 眼に見えない重圧が、ドーム状に拡散していく。

 ただ一柱の『まつろわぬ神』と行き会っただけでも、人間の精神は耐えられない。それが二柱。さらに、神殺しが二人。常人がこの場にいたならば、この緊張感だけで正気を失い、命を落としていただろう。

「よい頃合だ。そろそろ、戦を始めようではないか」

 ペルセウスが豪刀を呼び出した。

 分厚く、反りの入った武具は、まさに怪物殺しの武器にふさわしいといえた。

「ふふん。剣使いか、いいね。それじゃあ、先手は----------------」

「俺が貰う」

 サルバトーレに先んじて、護堂がペルセウスに向かって駆け出した。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いに、人間は基本的に介入することができない。それは、比べることすらもおこがましいほどの戦闘能力の差があるからだ。

 カンピオーネも『まつろわぬ神』も、その戦闘力は一国の軍隊を上回る。『まつろわぬ神』に関して言えば、そもそも物理攻撃が通じないという破格の防御力がある。そんな敵を相手に戦うカンピオーネもまた、破格の存在だ。よって、人間の呪術者ができることは、最低限のお膳立てである。

 巻きこまれては命はない。

 一旦ことが始まった後は、ただその背中を見守ることだけしかできないのだ。

 理解はできても歯がゆいことである。

「……凄い」

 三百メートル先で行われる『大戦』を見ている晶は、その程度の月並みな感想しか出てこなかった。そもそも、思考が働かない。それほどの死闘であり、だからこそ、惹きつけられた。

 二柱の神は互いに別個に神殺しを攻撃している。それは当然だろう。ペルセウスとアテナ。ギリシャ神話だけでみれば友好関係にあるこの二柱も、その根底は征服する者と征服された者である。互いに外来の神であり、勝者と敗者に別たれたときから、この二柱に協力という概念は存在しなくなった。

 一方の神殺しのほうだが、これが存外に上手く連携が取れている。そこは意外なところだったがそのおかげか危なげなく戦いを進めることができている。

「それにしても、護堂がたったの四ヶ月ほどで、ここまでになるとは思ってなかったわ」

 エリカが戦況を眺めながら呟いた。護堂がメルカルトと戦ったのは、僅かに四ヶ月前のことだ。そのときは、権能を一つしか持っていなかった護堂が、すでにして先達の王と肩を並べるまでになっているのは驚くべきことだろう。成長速度は、歴代のカンピオーネでも一、二を争うかもしれない。

 ペルセウスは光を纏って高速で移動している。交錯の最中に剣を振るっているのだろうが、武芸を修めた晶やエリカ、リリアナの目を持ってしても、光の軌跡を追うことしかできず、詳細は分からない。その高速移動を護堂は直感で、サルバトーレは目で捉えて迎撃する。護堂とサルバトーレの周囲に滞空するのは十の楯と同数の槍だ。その一つ一つが神を殺める力を持つ呪力の塊であることが遠くはなれたこの場所からでも感じ取れる。

 一目連から奪い取った能力は、鍛冶と製鉄の権能だったわけだ。そのすべてに嫌な気配---------------《鋼》を感じて、晶は総身が粟立つのを感じた。

 《蛇》であった一目連だが、彼と習合した天目一箇神は原初の製鉄神。《鋼》の代表格である天叢雲剣を打ったとも伝えられるだけに、生み出される武具には《鋼》の性質が宿るらしい。

 そもそも、《鋼》は《蛇》から生まれるもの。なぜならば、《鋼》の軍神は《蛇》を討つことで英雄への階段を登り始める。その際に《蛇》が本来持つべき力の一部を継承することもあるという。

 アテナが無数の矢を放ち、護堂の楯をひきつけている隙をついて踊りかかったペルセウスとサルバトーレが激突した。

 速度と力で勝るペルセウスと技で勝るサルバトーレだが、ここではペルセウスに軍配が上がった。

 ガツン、と鉄と鉄をぶつけ合う音が響き、サルバトーレがたたらを踏んだ。ペルセウスの豪刀が彼の首を斬りつけたのだ。

「あれが、サルバトーレ卿の『鋼の加護(マン・オブ・スチール)』。実際に目で見てみると、桁外れの防御力だということが分かります」

「ああ。ジークフリートから簒奪した無敵の身体だ。ただの斬撃では小揺るぎもしない」

 晶の呟きにリリアナが返した。

 サルバトーレの肉体はルーン文字の輝きに覆われ、ペルセウスの攻撃を無力化していた。とにかく硬い。それが彼の不死性の能力の正体だった。逆に攻撃を仕掛けたペルセウスのほうがバランスを崩していた。サルバトーレは硬いだけでなく、その重量も鉄塊並みになっているのだ。勢いよくぶつかったペルセウスが体勢を崩すのも無理のない話だ。そして、その隙を、見逃す護堂ではない。素早く三つの穂先をペルセウスに向けて、放った。閃電を思わせる槍は、その槍を上回る速度で飛びのいたペルセウスの足元を穿ち、コンクリートに半ばまで埋まっていた。

「なんでしょうか。草薙さん……」

 祐理は、胸に手を当てて息が詰まっているように苦しげだ。そんな祐理が訝しげに目を細めた。サルバトーレと背中合わせに戦っている護堂の顔がその場から見えた。三百メートルくらい、呪術者の前では大した距離ではない。

「笑っていますか?」

 護堂は戦いの最中にあって笑っているようにも見えた。懸命に歯を食いしばり、敵の攻撃に耐えているのはわかるが、それでも、どこかに戦いを楽しんでいるかのような空気を感じたのだ。

「さすがの護堂もカンピオーネに毒されてきたってところかしら。いえ、そもそも、そういう気質がなければカンピオーネにはならないものね。今の状態が、一番自然な姿なのかもしれないわ」

 エリカの呟きは誰に聞こえるものでもなかった。

 呪力と呪力の鬩ぎあい。武具と武具の打ち合う音。それがひたすら続いていく。この世界にはそれ以外の要素が存在しないかのように、神話を再現するこの戦争は、終幕を予感させることなく続いていく。最期の最期まで減速することなく走り続ける暴走列車のように、神と魔王の逢瀬は、唐突に始まり、唐突に終わる。

 闘争を燃料に、闘争を生み出し続けるスパイラル。美しいサンタ・ルチアの波止場も、いまや血で血を洗う戦場と化し、隣接する道路も、逸れた矢や刀剣でクレーターを作り出している。

 だが、これでもまだ前哨戦に過ぎない。今はまだ小手調べの段階だ。ここから、戦闘は果てしなく加速していく。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 ペルセウスは驚嘆していた。

 敵の技量や胆力にではない。このような二対二という、およそ『まつろわぬ神』とカンピオーネの関係を推し量ればありえない組み合わせでの戦いが成立していることにだ。

 しかも、自分が背を預けている、とまではいかないまでも共通の敵を前に武器を携えたのはこともあろうにあの女神アテナである。これで燃えなければ男ではない。

「ハハハ、まずは感謝するぞ神殺しの少年よ。このような戦は神代にもなかった。この場を提供してくれたこと、ありがたく思うぞ!」

 生粋の戦人にとっては、武勲を挙げることこそが人生の目的であり、それをオリュンポスの神々に示してこそ存在意義が認められるというものだ。女神の目前で女神にいっぱい食わせたカンピオーネの首兜を取れるのであれば文句のつけようがない。

 剣を振るい、矢を放つ。敵よりも速く大地を駆け抜け、その首に刃をつきたてる。そうして何合打ち合っただろう。

 この身に怪我は一つとしてなく、敵にも目立った外傷はない。己の攻撃が、悉く受け流され、受け止められている。神代の世ではありえない光景だった。おまけにあの剣士の剣は、あらゆるものを切り裂く剣であり、あの身体はあらゆる攻撃を弾き返す無双の肉体ときた。肉を切らせて骨を断つ、という戦法はまったく役に立たない。もっとも、そのような手に出なければならぬほどに追い詰められているわけでもない。この生と死を綱渡りしている感覚は、紛れもなくメドゥサを討伐したあの戦いのもの。久しく感じることのなかった死の実感に、ペルセウスは武者震いを隠せなかった。

 そして、一つはっきりしていることは、目前の二人が名実ともに、このペルセウスの乗り越えるべき試練だということだ。

 二本目の剣の切っ先をサルバトーレに斬り落とされて、ペルセウスは後退する。それ以上踏み込んでは、己の半身と別れを告げることになってしまう。

 アテナが護堂を弓矢で狙撃する。その数は三。戦神たるアテナに扱えない武具はなく、弓術においても超一流だ。狙いすました矢は、護堂の操る楯と楯の間をすり抜けた。

「う、と」

 護堂は近くにいたサルバトーレのアロハシャツの襟首を掴むと、

「すまん」

 全力で引っ張った。

 サルバトーレは権能のせいで異常なほどに重量があるので動かせない。護堂が自分の身体をサルバトーレのほうに引き寄せて、その後ろに隠れる形となる。

「イタタ!」

 アテナの矢のうち、一本は地面に突き刺さり、二本は護堂の身代わりとなったサルバトーレの身体に当たった。無論、『鋼の加護』によって、その矢は無効化されて地に落ちる。サルバトーレ自身には傷一つつかない。

「楯にするなんてヒドイじゃないか、護堂!」

「悪い、咄嗟のことで……」

 護堂が謝ろうとしたその瞬間だった。

 サルバトーレが護堂に視線を向けた隙を突いて、ペルセウスが鋭い踏み込みをした。対応できるのは護堂だけだ。反射的に護堂が言霊を投げかける。

『弾け!』

 放たれた呪力は壁のようにペルセウスの前に広がって、その身体を強制的に十メートルほど後退させた。

 攻めあぐねるペルセウスは、しかし、苛立ちとは無縁の清清しい表情で笑っている。

「すばらしい。この世に降臨して最初の敵が、これほどの勇士であったことを喜ばしく思うぞ!」

 敵が打倒するに足るものならば、全力で戦わねば非礼に当たる。

「私も最高の状態で君たちに当たらねばならないな。ふふ、私が数多ある名の中から何ゆえペルセウスを名乗ったのか、その理由をとくとご覧あれ!」

 ペルセウスは凶悪な笑みを浮かべて大きく後退した。その距離は二十メートル。神速でも使わなければ一足で踏み越えることはできない距離。

「む?」

 アテナですら、ペルセウスの呪力の高まりを警戒して距離をとった。

「なんか来るぞ!」

「みたいだねッ!」

 焦りを浮かべる護堂と楽しげに笑うサルバトーレ。

 その二人を目掛けて―――――――――――――――雷撃を纏った白い巨星が襲い掛かった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

  

 その一撃は小惑星の衝突を想起させた。

 それほどの破壊と熱量を、ペルセウスが放った攻撃は持っていたのだ。

「おお、さすがはギリシャの英雄だ。そうこなくっちゃ面白くない」

「のんきだな、おい。あれ見ろよ。道路が消し飛んでやがる。直撃はさすがのお前でもやばいんじゃないか?」

「どうだろう。多分大丈夫なんじゃないかな。だめな気がしないからいけると思うけど?」

「頼むから、試しに受けてみようとか思わないでくれよ……」

 サルバトーレの頑丈さは知っているからいいとして、護堂はアレを受けて無事でいられるとは思っていない。

 鼻を突く異臭はまるで毒ガスだ。焼け焦げたアスファルトや木々から出ているのだろう。風があるというのに漂ってくるほどの量が大気にばら撒かれてしまったのか。今、目の前に広がるのは瓦礫と土。白い港はたった一撃で大きく抉り取られ、地形すらも変わってしまった。大地に刻まれた溝は横に三メートル、長さ三十メートル、深さ一メートルといったところか。爆弾でもこれほどの被害は出せないだろう。

 ペルセウスが必殺を放つ僅か零コンマ一秒前に、護堂はサルバトーレの首を掴んで土雷神を発動した。とにかく避けなければならないという危機感に突き動かされてのことだった。結果として、二人は難を逃れた。

 そして、護堂は空を見上げる。

 月を背景に、力強く雷を踏みつける白い馬。その背には主であるペルセウスを乗せ、天使を思わせる一対の翼を羽ばたかせている。一歩前に出るごとに雷鳴が轟き、閃電が奔る。

「ペガサスか。ペルセウスだからな」

 ペガサスは世界中でその名が知られる天馬だ。

 ギリシャ神話ではペルセウスとベレロポーンの二人の英雄の武功を支え、天に昇ってゼウスの雷を運ぶ役割を担っているとされる。

 ギリシャ神話は様々な国の神を取り入れて成立した神話だ。

 主神であるゼウスはインド系、アテナは北アフリカ、ペルセウスはペルシャを起源とする。このペガサスも多分にもれず異国の神であった。

 当然、明確な出生は古すぎてわからない。だが、一つの説を挙げるとすれば、ルウィ語からやってきたというものがある。

 紀元前一千年前後、アナトリア半島西部にはルウィ人の王国であるアルツァワ王国が存在していた。絶頂期は紀元前一千五百年ごろとされる。

 アルツァワ王国は紀元前一千三百年ごろ、ヒッタイトの大王ムルシリ二世によって滅ぼされ、四つに分割される。このムルシリ二世は、カデシュでラムセス二世と戦ったムワタリの父であり、疫病や反乱に悩まされながらもオリエントにおけるヒッタイトの最盛期をつくった英雄である。

 ルウィ語は、そのアルツァワ王国で話されていた言葉である。

 アルツァワ王国で信仰されていた神の中に、天候を司るタルフントという神がいた。この神は、雷を意味する『ピハサシ』という形容詞をつけて信仰され、時にはヒッタイトでも信仰されるほど強い影響力をもっていた。また、暴風神の戦車を引くのは、ルウィにおいては馬である。これらのことから、『ピハサシ』がギリシャ神話に取り入れられて『ペガサス』に変わるというのは、説得力のある説だ。

 ルウィ人はギリシャに度々攻撃を行っていたようだし、トロイからはルウィ語の痕跡が見つかっている。

 トロイと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、ギリシャ神話で最も有名な戦争であるトロイア戦争だろう。

 考古学的には、紀元前一千二百五十年ごろにトロイで大規模な戦いがあったことがわかっている。この時期、トロイ近隣はヒッタイトの属国で、そのヒッタイトはアルツァワ王国を滅ぼした国だ。そして、トロイア戦争があったとされる時期は、アルツァワ王国が歴史から消えておよそ五十年後のことだ。ルウィ語がトロイで発見されるのもおかしな話ではない。

 ルウィ語は、母国が滅んでも死ぬことがなく、紀元前七世紀までは使用されていたらしい。その時代まで来れば、最初にトロイア戦争を描いた『イリアス』も生まれている。

 そうした栄枯盛衰の中で、生き残った国がギリシャであるから、ルウィの神々がギリシャの神と集合しても不思議ではない。

 

 とにかく、厄介なのは空を駆けるという特性と、強力な雷を纏う突撃だ。

 ペルセウスにはこちらの攻撃は届かない。そして、敵は自由にこちらを狙い打つことができる。

「上手く避けたな神殺し!」

 ペガサスを駆る英雄ペルセウス。それが、彼の本来の姿か。伝承をなぞれば、それ以外に多くの武具を隠し持っている可能性は高い。

 未だにメドゥサの首を刎ねた鎌剣を持ち出していないところも怪しい。

「さて、どうする。サルバトーレ」

 上空を疾走するペルセウスと、地に足をつけて死の鎌を構えているアテナの両方を相手にするのは、難しい。意識しなければならない領域が広すぎるのだ。空と地に同時に気を払うのは大きな隙を生みかねない。

「獲物を分け合おう。僕はペルセウスをやる。アテナとはこのまえ戦ったしね」

「それがベストか。空の敵と戦えるのか?」

 護堂の気がかりといえばそこだ。空戦能力のないサルバトーレが、天空を疾走するペガサスとその主に対抗する手段を有するかどうか。

「当然。僕の剣を舐めないでもらいたいね」

 だが、サルバトーレはそんな護堂の心配を一笑に付した。

 敵が空の果てだろうが、地の底だろうが、斬り捨てる。それがサルバトーレ・ドニだといわんばかりの自信を持って、そう言った。

「じゃあ、それでいい。ここから先は個別の戦いだな」

「そうだね。なかなか、楽しかったよ。連携っていうのも、面白いものだね」

「だな」

 お互いが微笑みあった。

 護堂にとって意外だったのは、誰かと一緒に戦うということが、とても楽しく思えたということだ。

 これまでは単独での戦いが主で、晶たちもいてくれたが、対等に死線を潜るという場面はなかった。この戦いは、護堂がカンピオーネになって初めての共同戦線であり、それゆえに新鮮さを感じたのだった。

「そうと決まれば、早いところ片付けてしまおう。護堂との戦いもあることだし、疲労回復は早く帰って寝るに限る」

「概ね賛成だ。つまらないところでくたばるなよ」

「護堂こそ」

 そうして、二人は背を向けた。

 サルバトーレは銀色に輝く腕と剣を彗星とも思える天馬に向け、護堂は十の切っ先を大地の女神に突きつけた。

 空と地で二柱の神が笑う。

 彼らもこの戦いに愉悦を感じていたのだろうか。

 第一ラウンドはここで終幕。

 戦いの流れは、カンピオーネにも『まつろわぬ神』にも傾くことなく変化した。

 第二ラウンドからは一対一の真っ向勝負が繰り広げられることになる。



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三十七話

 白い彗星は大気を焼き払い、衝撃波を撒き散らしながら空に光の筋を刻み付けている。

 天馬を駆るのはギリシャ神話の大英雄ペルセウス。かの有名なヘラクレスの祖先でもある男だ。

 竜殺しの英雄の代名詞とされる彼は、生粋の戦士である。型を繰り返して学ぶ武芸ではなく、実戦の中で培った戦闘経験と勘を頼りにする武を好む。

 剣術のみならず弓術にも長けた彼だが、いかに芸達者であろうとも、敵対する剣士を射抜くことはできなかった。

 流星を思わせるほどの矢を上空から射掛けることすでに二桁。その悉くが、サルバトーレの身体のどこかに当たっているはずだが、傷ひとつ与えることができていないという現実に、ペルセウスは笑みを深くした。

「やはり、直接私の剣で斬り伏せる以外に、あの身体を砕く術はなさそうだな!」

 空を翔るペガサスに、呪力と鞭を入れる。

 ペガサスは、加速を続け、ついにはジェット戦闘機に匹敵するほどの速度となった。

 しかし、威力と速度を併せ持つこの攻撃でも、サルバトーレをしとめ切れない。なぜなら、あまりに深く踏み込んでしまうと、あの剣に容易く斬り伏せられてしまうからだ。そのために、ペルセウスの必殺は威力を殺さざるを得なかった。

 サルバトーレは戦闘開始から一歩も動くことなく、ペルセウスを待ち構えている。三次元的に高速移動するペルセウスをサルバトーレが捉えることは至難の業だ。しかしそれは、前述の理由から、サルバトーレを不利にするものではない。彼の防御は鉄壁であり、如何なる攻撃を受けようとも無傷でいられる。そして、その攻撃は一撃必殺を誇る無双の剣。剣の間合いに踏み込んでくれば一刀の下に切り裂くことだろう。

 ゆえに、ペルセウスは攻めあぐねている。

 彼の間合いと、サルバトーレの間合いは被っている。その上で、必殺という観点から見ればサルバトーレが勝っている。ペルセウスは速度で圧倒し、僅かな隙を作ったうえで、そこに全力を叩き込まなければならないのだが、その隙が見つからない。

「大したものだ」

 ペルセウスはペガサスの熱で焼け爛れた大地に佇む剣士を、称賛した。これまで、攻め込みながらもあの剣を潜り抜けることができず、仕方なしに剣の腹を叩くことで斬撃を避けていた。ペルセウスは、攻撃に出ていながらも最後の最後で防御に回らなければならないことを歯がゆく思っている。

 だが、それと同時に自分をここまで追い込んでいる敵手の存在を心から喜んでもいたのだ。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

「ヤツめ存外苦戦していると見える」

 アテナは、光の筋としか見えないペルセウスの動きを具に観察し、そう評した。

 サルバトーレ・ドニ。ペルセウス。どちらも因縁浅からぬ相手だ。可能であれば、二人纏めて己の手で殺しておきたいところだ。

「---------------ッ」

 アテナは身をかがめた。その頭上を、鉛色の刃が通り抜けていく。

「ふ、気の抜ける相手ではなかったな」

 アテナは美貌に微笑みを湛えて敵を見る。闇よりも深い闇を、さらに凝縮して結晶にしたかのような美しくも妖しい瞳で。

 

 波止場はすでに原型を失っていた。

 突き刺さる無数の刃は、すべて獲物を捕らえそこなったがためにうち捨てられたものだ。

 護堂の新たなる権能は、金属製の道具を自在に生み出すものだった。汎用性が広いのは彼らしく、その攻撃能力の高さも注目に値するだろう。

 とはいえ、この権能はあくまでも武器を生み出す、というだけのものだ。生み出される武器は《鋼》の性質をもち、神の扱う武具に等しいだけの格を有するものだが、如何せん、それを担う護堂が素人だ。どれほど、よく切れる剣を創ろうが、振るう人間が素人では、本来の力の一割も発揮できはしない。

 そこで、護堂がとった戦法は単純に創った武器を投擲するというものだった。

 両刃の剣を六挺生成し、射出する。装飾まで気にまわす余裕がないのか、柄と刃だけの簡素なつくりだが、そこに宿されている呪力は膨大だ。一挺だけでも一流の呪術者が張った結界を難なく斬り裂いてしまえるだろう。

 音速を超えて放たれた六つの刃のうちの五つをアテナは軽やかな身のこなしで避けた。まるで、放たれるよりも前から、どこに攻撃が来るのかを予測していたような動きだ。それでも、最後の一挺、護堂が意図的にタイミングをはずして放った剣は、絶対に外れないコースを辿ってアテナの眼前に迫っていた。

 交差は一瞬。

 響き渡るのは肉を切り裂き骨を砕く醜悪な音ではなく、鋼と鋼を打ち合う金属音だ。

 火花が咲いて、アテナの顔を照らし出す。

「ふふ」

 闇色の鎌を構えたアテナが妖艶に笑う。幼い顔立ちなのに、どことなく年上にも思えてしまう不思議な容貌。それはおそらく、地母神が持つ、三相一体の性質のためだろう。紀元前七千年のアナトリアから続く、地母神が持つ三つの相は、満ちて欠ける月の相であり、生と死を繰り返す生命の循環を示している。地母神が月と結びつくのは、三相一体の思想と月が結びついたためだ。

 最古の例は少女-母-老婆の相。処女から始まり、子を産む母となり、そして知恵を蓄える老婆へと変化する。

 ギリシャにおいては処女ヘーベー、母親ヘラ、老婆ヘカテーがそれにあたり、また、アテナ-メティス-メドゥサも三相一体の女神として挙げられている。

 今垣間見えたのは、メティスかメドゥサか。少女の顔とは思えなかった。

「《鋼》の武具を生み出す権能。たしかに厄介だが、あなた自身にそれを使いこなす技量がないのだな。なんとも粗雑な使い方をする」

「あいにくと、武芸はからっきしでな。火器登場以前の旧態依然とした戦いはできそうにないね」

 あっさりと認めた護堂は、剣を新たに五挺生み出して滞空させる。

 神剣と呼ぶにふさわしい威圧感を帯びているが、アテナほどの女神がたかだか五つの神剣に狙われたからといって怖気づくはずがない。

 あくまでも余裕の体で、これを見ていた。

 《鋼》はアテナにとっては天敵に等しいが、それを使うカンピオーネのほうが未熟では恐れる必要がない。問題は、このカンピオーネの素性が読み取れないことか。奇怪なことだが、知恵の女神として、敵の権能を目の当たりにしていながら、その正体が掴めない。なにか、素性を隠す権能を使っているのか。何れにしても、権能の数は一つ二つではないだろう。

「己の弱所を簡単にさらすとはな。戦士としては甚だ未熟か。だが、それでも油断するなと妾の戦神としての勘が訴えている。……ふふふ、面白い敵だ」

 サルバトーレのように、権能と技量を重ね合わせた戦士とは違う。あのカンピオーネの戦いは権能に頼り切ったものでしかないのだが、敵の隠れた実力が、霧か霞にでも覆われているようで読み取れず、警戒しなければならない。その警戒心が、アテナの戦いを消極的なものにさせていた。

 普段であれば難なく敵の正体を看破するこの瞳が、この知恵が、敵の正体を見抜けない。そのために、明確な攻略法が思い当たらない。

 ----------------面白い。

 声ならぬ声でアテナは言う。

 彼女は理知的で気高い戦士である。同じ戦神でも守護神としての側面を強く持つから、アレースのようにただ血と肉を撒き散らす下品な戦は願い下げだ。アテナが欲するのは知恵と力を出し切った戦争であり、決闘。力にのみ頼った殺戮ではない。

 敵に素性を誤魔化す頭があるのなら、こちらはそれを暴きたてよう。知恵を絞った戦いのほうが、ただぶつかり合うよりも性に合っている。

「ひとつ、聞いておこう。あなたの名はなんだ?」

「名前? 俺のか?」

 問い返す護堂に、女神は、ああ、と頷いた。

「これから倒す敵の名を知っておかなければなるまい。あなただけが妾の名を知っているというのも気分が悪い」

 護堂は、そういうアテナの提案の裏に、なにか戦略が隠れていないかを疑った。押し黙り、頭を動かすこと数秒。結局、特になにも思いつかなかったから、問われるままに名乗った。

「草薙護堂だ」

「草薙護堂。耳慣れぬ名だ。やはり異邦人。雲流るる東の果てを思わせるな」

 謳うように呟くアテナは、一瞬だけどこか遠いところを見ているようだった。だが、それも護堂が見逃してしまうほどの僅かな時間のことだ。

 鎌を構えるアテナからは、護堂の首を獲るという意思しか伺えない。

「では、いくぞ。妾が武具の使い方というものを教授してくれる」

 吐息のようなささめきに、必殺の意思をのせ、アテナは駆け出した。

 

 小さな身体から火山の噴火を思わせるほどに強烈な呪力が噴出した。

 

 あまりの苛烈さに、地面には蜘蛛の巣状の罅が入り、踏み込みに耐えられなかった地面が砕け散った。

「正面から、来るか!」

 護堂は待機していた剣に命令を出す。

 あの女神を止めろ、と。

 そして、剣は忠実に主の指示を履行する。夜闇を切り裂く五つの閃光は、音速を超えて女神に殺到する。

 だが、所詮は五つの脅威。数多くの戦場を駆け抜けたアテナにとってはありふれた攻撃でしかない。

「ふん!」

 顔を逸らすことで一撃を避け、掬い上げる鎌で三つを落とした。身体を半回転させることで残りの二挺をやり過ごす。目標を捕らえられなかった剣は、遥か後方に突き立ち、地面を抉った。

「その首を貰うぞ、草薙護堂!」

 そして、女神の爆発的な加速は、護堂の予想の上を行き----------------十メートルの距離が、一瞬にして詰められていた。

「ッ!」

 思考に先んじた土雷神の権能が、護堂の命を繋ぎとめた。

 横薙ぎの刃は空を切り、目を見開くアテナの背後に現れた護堂が剣を振りかぶる。

 たとえ護堂が、剣の素人であろうとも、振り下ろすだけならば簡単にできる。

 獲った!

 そう思ってしまったからか、

「甘い!」

 本当に甘く入った剣はアテナをしとめるには至らず、彼女の大鎌に受け止められて、

「ぐ……!」

 同時に、身を捻ったアテナのかかとは、護堂の脇腹にめり込んでいた。

「かはッ!」

 恐ろしいまでの怪力だ。シチリア島を投げ飛ばした伝説は伊達ではない。大の男が、ただの回し蹴りで十メートルは跳ね飛ばされた。

 息が止まり、視界に星が飛んだ。

 ヤバイ、という感じがすれば大体当たる。護堂の危機察知能力は同朋よりも上なのだ。よって、今、まさにその首を刈ろうとする鎌を見ることなく避けることができた。

「む?」

 いぶかしみながらも手を止めようとはしないアテナの斬撃を、バックステップで護堂はかわした。

「その《鋼》を攻略してみせよう」

 アテナはそう宣言し、鎌を護堂に振り下ろした。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 護堂の正面に現れたのは円形の楯。アテナの矢を防いできた《鋼》の防壁だ。その防御力は古の城壁に匹敵するほどだ。

「う、わ」

 護堂は慌てて、後退する。

 鎌の切っ先と触れた楯が、まるでバターを切るかのように両断されたのだ。

 アテナが笑い、護堂が訳が分からず目を見開いた。

 だが、アテナが止まらないのであれば、護堂は防御するしかない。なぜか楯はダメだった。けれど、剣はどうだと、二挺の剣を創った。

 アテナが鎌を振るうよりも早く生成を終えた護堂は、柄を掴んで刃の部分をクロスした。

 十字を描く刃の重なり合う部分で、闇の鎌を受け止めた。

「重い----------------ッ!」

 手首が折れそうな衝撃に、護堂は奥歯を噛み締めた。

 だが、受け止めることはできた。

 楯が切り裂かれたのは、生成過程で集中力がたりなかったためだろうか。少しほっとした瞬間に、視界の黒が増殖した。

「なんだァ!?」

 鎌との接点から闇が溢れていた。

 闇が広がるにつれて、鎌の刃がズルズルと護堂の刃に斬り込んでいる。

『弾け!』

「ぐむ!?」

 言霊を至近距離で受けたアテナが後方に飛ばされる。そのおかげでなんとか剣を斬り落とされずに済んだが、これはいったいどういうことか。

 手持ちの剣を見て、護堂はその正体を知った。

「錆び付いてる。クソ、そういうことか」

 二挺の剣は、どちらも錆びに覆われていた。特に鎌と触れ合っていた部分は腐敗が進んでボロボロだ。これでは女神の鎌を防げるはずがなかった。

「何も驚くことはないだろう。妾は冥府の女王だぞ? 万物に等しく死を与える神が、剣を朽ちさせることができぬとでも? それこそ、短慮の極みだぞ」

 頬肉を吊り上げて、アテナは笑う。

「あなたの権能も、今ので視えた。ガブリエルだな。妾の神殿を奪い取った忌々しき宗教に現れる天使。バビロニアに起源を持つ、神の言葉を伝える者!」

 言霊をその身に受けたからか、アテナの超越した知覚力が護堂の権能を詳らかにしてしまった。

「妾の霊視を邪魔立てしていたのもこの権能だな。ガブリエルの言葉は、第六感に働きかけるものだからな。正体さえ掴んでしまえば、こちらのものだ。あなたの力、すべて表に引きずりだしてやろう」

 アテナは凶悪に微笑んだ。敵の正体を知っているのか知らないのかでは、戦いに対する備えがまったく異なる。アテナは護堂の能力の尽くを見極め、対策をとるだろう。敵を知り、己を知ることが、戦いの基本であるならば、アテナは今まさに、勝利の地盤を磐石にしようとしているのだ。

「ウルスラグナにばれたわけじゃねえし、アテナに正体を知られたからといって困ることはない」

 そう呟いて、護堂は心を落ち着かせる。

 相手がウルスラグナであれば、かなり致命的な情報漏洩でも、アテナには言霊の剣のような相手の正体を知っているからこそ発動する権能があるわけではない。アテナの権能は石を操り、闇を呼び、死を与えること。どれも手持ちの権能で防げるものだ。だから、焦る必要はない。

 今、護堂に求められているのは、集中力だ。ジェットエンジンの音すら気にならないくらい集中をしなくては、剣は脆くなる。

 アテナが飛ぶように走る。足元の悪さなど、気にも留めない。ささくれ立った地面は、彼女の疾走を止めるほどの障害にはならないのだ。

 護堂はそれを待ち構えるように立っている。

 余計な思考は必要ない。今、為すべきことに全力を傾ける。心の中からわき出でてくる情報に逆らわない。

 水減し、積沸かし、下鍛え、積沸かし、上鍛え---------------そういった単語が湧き出てくる。

 闇に打ち勝つためには、それ相応の武器でなくてはならない。呪力をただ単純に込めるだけでなく、武器として優れたものでなければ、アテナの鎌に対抗できない。

 幸いにして、この権能は日本が誇る鍛冶製鉄神から簒奪したものだ。武器に関しては超一級品の知識がある。限界まで、情報を引き出して、なぞる。権能となったからには、自分の力だ。できないことはない。

 一目連が最後の最後で生み出した、精魂を込めたというあの刀を再現するのだ。

「オオオオオオオオ!」

 喉を引き裂く気合を発し、ただ一振りの刀を創る。

 呪力が光の粒子となって腕の中に集まり、太刀となる。反りの入った刃は三日月を思わせた。

「む、ほう?」

 アテナが感心するのも無理はない。アテナの神力を凝縮した死の鎌は、護堂の生み出す如何なる守りも朽ちさせて殺すはずのもの。それが、ただ一振りの刀に受け止められれば、戦神たるアテナは感心せずにはいられない。

「ふふ、なるほど。東の国の製鉄神か! 面白い権能だな!」

「そう言ってもらえると、嬉しいね。これで、あんたの鎌も攻略したってことかな?」

 護堂の刃はアテナの鎌と鍔迫り合いをしていながらも、その神力に侵食されることなく持ちこたえている。精密に作り上げれば、より完成度の高い武器を作ることができるということの証左となった。

「得意になるなよ草薙護堂。あなたに剣を振るう技術がなければ、その武具とて宝の持ち腐れだ!」

 アテナは鍔迫り合いのまま、一歩足を踏み出した。

 それだけで、地面が砕けた。地母神としての力なのか、彼女の力はまさに怪力。護堂が力で太刀打ちできるものではなく、たたらを踏んで、後退させられる。

「う、く、この!」

 アテナの攻撃はどれも必殺だった。強く、速く、的確に護堂を殺しに来る。鎌を構成するのはアテナが生み出した闇であり死の呪詛で、かすり傷でも体内に毒が入り込む仕様になっている。護堂のとるべき手段はかわすか刀で受け止めるかだった。

 反撃の隙はない。もとより近接戦闘の技術では天と地ほども差があるのだから、護堂から攻撃に踏み切れば、そのときこそ護堂の首は胴体と別れをつげることになるだろう。

 では、技術に圧倒的な差があれば、カンピオーネを討ち果たすことができるのだろうか、という疑問も湧き出てくるだろう。彼らの肉体は人間よりも頑丈だが、大騎士以上の位階を持つ者であれば、その防御を斬り裂いてしまえる切れ味を剣に与えることもできるのだから、技術さえあれば、彼らの首を落とすこともできるのではないだろうか。

 だが、それは大きな誤りであることは、長い呪術の歴史の中で培われた経験則として欧州呪術集団の中に刻み込まれている。

 カンピオーネは常識の埒外の存在である。それは、単に権能が強大で挑んだところで意味がないとかそういう次元の話ではないのだ。戦いにおいて、単純な技術の差はカンピオーネを死に至らしめるものではない。もしも、技術云々でカンピオーネを討ち果たせるのであれば、魔王などと呼ばれることはありえないのだ。

 とてつもなく不利な状況下に置かれ、絶えず攻め込まれていながらも、護堂はいまだに五体満足の状態で立っている。

 頭一つ飛びぬけた危機察知能力と目と反射神経を活用し、アテナの攻撃をいなし続けてきたのだ。護堂の直感は瞬間的な未来予知にも等しい。アテナが攻撃してくるまえに回避行動に移ることができていた。

 アテナの攻撃は苛烈を極めた。

 ガブリエルの『強制言語』を第六感の強化に回し、ひたすらに刀で防ぐことでなんとか均衡を保っているが、逆に言えば、それ以外の手段に出られないのだ。土雷神で撤退しようにも、発動の瞬間に斬られる、という確信があった。

 十五合を打ち合うと、刀が僅かに刃毀れした。

 三十合に達したときには、内側に曲がり始めた。

 刀に呪力を流し込んで死に抗いながらも、着実に汚染は広がっているのか。護堂が刀の基本的な使い方を習得していればこんなことにはならなかっただろう。日本刀は正面から相手の武器を受け止める類の武具ではないのだ。闇雲に振り回したところで、刀の寿命を短くするだけだ。

「よい武器を創ったものだが、それもここまでのようだな!」

 アテナにも確信めいたものがあったのだろう。振り下ろす鎌はその重量と斬撃力で、終に護堂の刀を半ばから真っ二つにしてしまった。

 打ち上げられた切っ先が、月光を反射して光っている。

「終わりだ! 草薙護堂!」

 アテナが、戦いの終わりを宣言する。事実、アテナの鎌が護堂を斬れば、それで護堂の命は終わりを迎える。

 迫り来る凶刃を前にして、護堂がとった行動は、回避ではなく攻撃だった。

『弾け』

 アテナまでの距離は僅かに一メートル五十センチ。言葉という性質上、対象との距離が近いほど効果が増していく言霊の権能だが、アテナはさほど気にしなかった。

 これは外部から襲い掛かる呪詛のようなもので、そうとわかってしまえば対処することは難しくない。『まつろわぬ神』は呪術的外圧には滅法強い存在だ。言霊が身体に襲い掛かろうと、その言霊ごと護堂を斬り殺してしまえばいいのだ。

 そして、鎌を振り上げた右肩に、予想外の痛みを受けて、アテナの身体は大きくのけぞった。

 

「く、これは……」

 アテナは初め、何が起こったのかわからないという表情で右肩を見た。

 肩から流れる血は、白いシャツに大きなシミを作っている。

「咄嗟にこのような真似をしてくれるとは。つくづく神殺しは生き汚い」

 アテナは、この戦いが始まってから笑みを浮かべ続けていたが、ここに来てその笑みをさらに深くした。

 それは、自分に傷を与えた敵に対する賞賛の笑みだ。この敵が、ただ自分の力に屈して頭を差し出す雑兵でなくてよかったと、この敵を打倒することは己の武威を示すことになるのだという確信を得た今、笑わずにはいられなかった。

「まさか、妾が斬りおとした切っ先を飛ばしてくるとはな」

 アテナの肩に刺さっているのは護堂の刀。それも、つい今しがたアテナによって破壊された刀の上半分だった。

 護堂の言霊が干渉したのは、アテナの身体ではなく、空中に打ち上げられた刃だったのだ。この刃自体が《鋼》の属性を帯びた神具である。アテナの身体に傷をつけることは造作もないことで、護堂を獲ったと油断したアテナの至近距離から、弾丸を思わせる速度で放たれれば防ぐことなどできはしない。

 護堂はこの隙をついて土雷神で距離をとった。三十メートルは離れたか。

「今、ここで俺をしとめなかったことは失策だったな! アテナ!」

 再出現と同時に、護堂は宙に手を翳す。

 それにあわせて、頭上に煌びやかな武装が展開される。その数は実に三十挺。剣であり、槍であり、矛であるそれらは、全てが《鋼》であり、アテナを打倒するだけの威力を秘めている。

「なに!?」

 アテナは驚愕に目を見開いた。

 身体を貫く殺気は、目前の神殺しが掲げる武器からだけではない。気がつけばアテナを取り囲むようにして、刃が整然と並んでいたのだ。

 それらは戦いが始まってから、護堂が創っては撃ち出した剣の群れ。敵を仕留めきれずに打ち捨てられていたはずの武器は、護堂の指示にあわせて息を吹き返したのだ。

「喰らえアテナ! これはすべて、お前を斬り裂くための剣だ!」

 号令一下、刃がアテナを襲う。

 その肉と骨をズタズタに引き裂き、原型をとどめないほどに破壊しつくすために。

 砂塵を巻き上げ、瓦礫を吹き飛ばし、呪力が爆発した。あまりの破壊力のために、周囲には突風が吹き荒れ、遠く離れた家の窓を叩き割った。

「なんだ、これ」

 だが、それほどの攻撃を叩き込んでおきながら、護堂は勝利したという気分にはなれなかった。アテナの呪力は今でも健在で、それどころか強くなっているような気さえする。

 そして、吹き上がる砂塵と瓦礫は、内側から膨らむ圧力で、弾き飛ばされた。まるで爆弾が爆発したかのような衝撃に、護堂は腕を交差して視界を守った。

 消し飛ばされた粉塵から現れたアテナを、護堂は見た。

 

 

 

 その攻撃は、アテナにとっても予想外のものだった。

 考えなしにひたすら射出していたように見えた刀剣の使い方は、敵の権能が無尽蔵に武器を生成できるということから考えればベストであるが、剣そのものの使い方としてはいまいちだ。

 おまけに外れればそれまでで、射出されてしまえば方向転換することもできないのだから、避けることは簡単だった。当たればまずいが、当たらない方法はいくらでもあった。

 そうして、敵が無駄撃ちして、つもり積もった剣の群れ。なんの意味もないと捨て置いたそれが、ここに来て一斉に切っ先を向けてくるとは思いもしなかった。

 アテナはわずかばかりの忘我を己に許し、そして、喜悦をあらわにした。

 してやられた、ということに、アテナは満足していた。相手は戦術家だ。サルバトーレ・ドニとは異なる戦いをする。ただ愚直に力をぶつけ合うよりも、ずっと好ましい。

「さすがに、これを受ければ妾も危ういか」

 目測だけでも六十を超える《鋼》の刃。危ういを超えて、肉片一つ残さず消滅するだろう。だが、今のアテナにはその運命は訪れない。

 降り注ぐ剣群を前に、アテナは呪力を高めて力を振るう。

「さあ、アイギスよ。妾の声に応え、その真の力を振るうがよい! ギリシャ最高の楯は、最強の矛でもあるのだということを示せ!」 

 視界が歪む。

 音が消える。

 アテナの呪力に犯された風が渦巻き、圧縮され、小柄な少女を包み込んだ。

 アイギス。

 アテナが持つ、最強の楯の名である。それが、その名の通り、あらゆる災厄を弾く楯であるのなら、たかだか六十程度の刃を押し返せないはずがないのだ。

 敵が敷いたこの罠を、アテナの風が駆逐した。

「クハハハハ! 草薙護堂よ。認めよう。あなたは妾の手で殺すべき神殺しである!」

 護堂がそうしたように、アテナも宙に手を翳す。

 もはや、風はアテナの思いのままだ。一先ず、邪魔な粉塵と瓦礫を吹き飛ばす。

 アテナは、視界を塞ぐあらゆるものを一息で取り払い、仇敵をにらみつける。

「興が乗ったぞ。今より、我が最強の武具たる、このアイギスの本来の力を見せてくれよう」

 アテナが手を振り下ろすのと、護堂に雷撃が襲い掛かるのは、ほぼ同時だった。



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三十八話

 アイギス、と聞いて思い浮かべるのはメドゥサの首を埋め込んだアテナの楯だろう。一般的にはそのように理解されているし、護堂もそう思っていた。

 この楯は、持ち主に対するあらゆる害悪を寄せ付けない守りの力があるとされている。ギリシャの神々が持つ楯の中で、最も権威があり、最も硬い守りであり、最も実績を重ねた楯である。

 その最大の特徴は、攻撃こそ最大の防御である、という諺を体現する石化能力である。

 アイギスが最も活躍するのは、ペルセウスのメドゥサ退治だ。

 この話の中でアイギスは、諸説あるものの、アテナからペルセウスに貸し与えられる。

 その目を見たあらゆる者を石に変えるメドゥサを倒すためには、メドゥサの目を見ないで首を落とすしかない。

 ペルセウスは、そのときに、磨きぬかれた楯を鏡のように使って、直接メドゥサを見ることなく接近したとも、それ以外の方法を用いたとも言われているが、結果として、ペルセウスはメドゥサを無事、討伐する。

 戦いの後、ペルセウスは、討ち取ったメドゥサの首を楯の中央に据えることで、彼女が持つ石化の邪眼を有効活用した最強の楯を生み出した。

 帰路、ペルセウスは、この楯を使うことで海の獣を倒してアンドロメダを救出する偉業を成し遂げた。楯はその後、アテナに返されたという。

 

 

 アテナはアイギスを呼んだ。それはつまり、彼女がギリシャの戦神としての相を最大限に発揮しているということだ。メドゥサでもなければメティスでもない、純粋にアテナという神格の能力で護堂を倒そうとしている。

 最強の楯。防御だけでなく攻撃にも転化することができる凶悪性は、数多ある防具の中でも異彩を放っている。

 だが、これはどういうことだ。

 護堂は自らの知識と、現実に起きている現象のギャップに頭を悩ませていた。

 一メートルほど離れた地面が焼け焦げている。そこは、少し前まで護堂が立っていたところだ。地面を焼いたのは、アテナが振り下ろした手に従って落ちてきた雷撃だった。威力はセーブされていたのだろう。護堂や他の雷神が操るものよりも弱く、石を焦がす程度のものだったが、問題はそこではない。

「アイギスを呼んだんじゃねえのか?」

 あれほどまでにアイギスの力を見せる、と言っておきながらも、なぜか石化が始まらない。それどころか雷撃などという、およそアテナらしからぬ攻撃に出た。これは一体どういうことなのか。

「どうした? 解せぬ、という顔だな」

 アテナは、自らの頤に片手をやって、余裕の笑みで護堂を見ている。

 護堂が頭を悩ませている様子が楽しいようだ。

 護堂はそのアテナに三挺の槍を投げつけた。

 勢いよく放たれた切っ先は、アテナの身体を貫く前に、見えない壁に弾かれてあらぬほうに飛んでいく。

「ダメか」

「アイギス、と言ったぞ。知らぬわけではあるまい。妾の持つ、最強の楯を」

「そら、知ってるけどね」

 アテナと戦う可能性は、カンピオーネになったその瞬間から想定していたことだった。調べていないわけがないし、多少、神話に興味を持っていれば、小学生でもアイギスくらいは知っているだろう。

「俺の知っているアイギスとはちょっと違うみたいなんだよな」

 楯、というよりも壁である。

 それも目に見えないのだ。巻き上げられている砂塵が時計回りに回転していることや、呪力の流れなどから考えて、常時展開されている結界のようなものだろう。それが、時計回りに回っていて、護堂の攻撃を弾き飛ばしているのだ。

 自分に関わりのない権能を振るうことは許されない。それが、神様のルールだ。あの雷や壁にも、からくりがあるはずだ。

 それが分かれば、もしかしたら突破口になるかもしれない。そうでなくても、謎が解けるだけで、精神的な落ち着きを得ることができる。

「立場が逆転したか」

 先ほどまでアテナは、護堂の能力を読み取れなかったために、迂闊に攻め込めなかった。ところが、今はアテナの力が分からないために、護堂は様々な思案を強いられてしまっている。

「分からなければ、力押しで行くしかないけど」

 念のために槍と楯を構えておく。アテナはそれまでとうって変わって無手であるが、護堂が斬りかかったところで防がれてしまうから、特に護堂に利することはない。

 護堂の知るアテナの権能は、石化の目、石で巨大な蛇を作る、死の呪詛を操り鎌の形状に変える、知恵の女神として、様々な情報を自在に得ることができる、そして強靭な生命力。このくらいだ。それが、なぜ、雷に結びつくのか。不可視の壁は百歩譲って認められる。あれがアイギスなのだと主張されれば、その防御力ゆえに納得せざるを得ない。だが、雷は?

 迷いを抱えながらも、護堂は攻撃を繰り返す。

 明確な突破法がないのなら、力技に訴えるしかない。無敵を誇る楯であろうと、それを上回る攻撃力ならば突破できるはずなのだ。

「無駄だ、草薙護堂! 今の妾に、その程度の攻撃は通用せぬ!」

 剣群が一薙ぎで払われてしまった。雷が矢のように放たれて、全身に火傷を生み出していく。

 全方位からの一斉攻撃を防がれた時点で、あの防御に一分の隙もないことくらいはわかっている。だとすれば、必要なのは物量ではない。あれは、戦車や戦艦などという分類ではなく、要塞の域に達している。要塞攻略は物量に任せた攻撃だけでは成功しない。

 とはいえ、あの要塞を攻略するには一体どうすればいいのか、見当もつかないのだが。

 

 

 二人の神殺しと二柱の神の戦いは、予想していた通りに周囲を破壊していた。

 護堂が二日の期限を取り付けたおかげで、周囲の住人や観光客を避難させることができていたが、そうでなければ死者が出ないとも限らない。それほどの、被害が出ているのだ。

 波止場は見る影もなく、戦場はじわじわと移動して、海沿いにある幅広の道路にクレーターを作り、海に面する広場を粉砕していた。

 それほどの戦いをしていながら、誰一人として致命的なダメージを負っていない。

 晶と祐理は、アテナの呪力が膨れ上がるのと同時に護堂が目に見えて苦戦し始めたことに、内心の焦りが隠し切れない。エリカは、戦況をどのように捉えているのか分からないまでも、楽観的に捉えているようで落ち着いている。リリアナは、この戦いの当事者のような存在だ。カンピオーネを心配すると共に、街の今後を憂えていた。

 彼女達は、戦いに巻き込まれないように場所を移動していた。今は、とある建物の屋上に陣取っている。地上三階の建物だから、海辺で行われている戦いを高所から俯瞰するのも容易だ。

「サルバトーレ卿は互角、護堂はやや不利ってところかしらね」

 ここ三十分、サルバトーレとペルセウスの戦いは、超高速で動くペルセウスと、それを待ち構えるサルバトーレという構図で固定されていた。どちらかが失態をしでかすか、画期的な何かをしない限りは膠着した戦いは動きそうもない。

 一方の護堂とアテナだが、こちらは護堂が押されている。アテナが敷いた守りはサルバトーレの肉体に匹敵する防御力があると思われ、護堂の攻撃が尽く弾き返されてしまっているのだ。

「護堂の剣はどれも一級品。簡単に防げるものではないはずなんだけれど……」

 エリカは初め、護堂が剣を創り出したその瞬間に、あの剣の内包する呪力に圧倒された。その切っ先がこちらを向いただけで、死を自覚してしまえる代物だとわかったからだ。だが、その権能によって何度も何度も攻撃されながら、アテナは微動だにせずにそれを受け止めている。渦を巻く呪力の壁が、アテナの秘策だったのか。

「せ、先輩!」

 晶が口を押さえた。護堂が十メートル近く跳ね飛ばされたからだ。アテナは動かず、ただ逃げ回る護堂に攻撃を加えているだけだ。雷と目に見えない打撃攻撃が、立て続けに護堂を襲っている。

 攻守に優れた楯--------------アイギス。

 おそらく、その正体は風だろう。アイギスとはもともと、嵐に関わる言葉だ。

 それに護堂が気づいているか。気づいたとして、それを攻略に役立てられるのか。

「せめて、アイギスの正体だけでも伝えられればいいのだけれど」

 そうすれば、護堂なりに攻略法を見つけるかもしれない。カンピオーネの勝利への執念がそうさせるはずだ。

 だが、こちら側から護堂に情報を伝える手段はない。呪術で伝えようにも、カンピオーネの体質が、これを弾いてしまうからだ。

 祐理もおそらく気づいている。エリカは護堂と行動を共にする祐理と晶のことくらいは調べていた。とくに祐理に関しては情報が多かった。ヴォバン侯爵に連れ去られた巫女の中で無事だったことは、それだけ高い巫力を持っているからで、必然的に名前も売れる。

 欧州でも知られる霊視力を持つ彼女を前にして、これだけの呪力をばら撒いていれば、その正体を隠し通せるはずがない。

 さて、どうしたものか。エリカがそう思っているその時、祐理の下に護堂から念話が入ったのだった。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 ペルセウスが光の尾を引いて空を走る。跨るペガサスが翼を羽ばたかせるたびに突風が生じ、その蹄が何もない空間を踏むごとに雷が四方に広がっていく。

 ペルセウスは、地上で剣を構える強敵を、空からにらみつける。

 厄介な防御力、厄介な攻撃力。

 サルバトーレ・ドニの能力に派手さはない。それこそ、一撃で街を滅ぼしてしまえるような広域をターゲットにした殲滅的な攻撃は使えない。遠距離攻撃の手段も持たないようだ。それは、ここ三十分以上も対空戦をしていながら、一度も向こうから攻撃してこないことから判断できる。サルバトーレはこちらから近づかなければ、攻撃することができないのだ。

 本来であれば、敵の攻撃の届かないところから弓矢によって射殺してしまえばいいのだが、今回はその手が使えない。

 なにせ、相手は鋼の肉体を有している。少なくとも、ただの矢ではあの肉体を貫けない。

 だが、絶望的な状況というわけではない。

 こちらの攻撃は通じないが、相手の攻撃も届かない。それだけを見れば、五分五分の戦いだ。

 後は、敵の攻撃をすり抜けて、守りを突破するだけ。

「多少、芸はないが、力に訴えてみるとするか!」

 ペルセウスはペガサスを加速させた。

 速度に比例するように、雷が強くなる。

 確かに、サルバトーレの守りは鉄壁だ。硬くて重い、彼の身体はあらゆる攻撃から身を守ることだろう。とはいえ、それは絶対ではない。言い換えれば、彼の守りとは硬いだけなのだ。特定の攻撃以外は無効化するといった類ではないため、理論上はどんな攻撃でも彼には届く。ペルセウスが持つ手段の中で、アレを突破する最良の方法は、防御力を上回る攻撃力だ。

 目にも止まらぬ速度で、空を駆け抜ける。方向転換を繰り返し、サルバトーレを翻弄しつつ、必殺の機を狙う。

 三度の衝突の末、終によろけたサルバトーレに対して、ここが好機とペガサスを駆る。

 距離が瞬く間に詰められていく。

 もはや地面と接しているのではないかというくらいに低く飛び、ペルセウスは剣を構えた。

「何!?」

 サルバトーレは自分に向かってくるペルセウスに剣を投げた。

 さすがに驚いたペルセウスは、攻撃を断念して回避に移った。手を離れて尚、あの剣に触れてはならないと持ち前の勘が警鐘を鳴らしている。身体を傾けるようにして、馬首を真横へ向ける。

 剣士が剣を手放すとは何事か。

 ペルセウスはいぶかしみ、そして、すぐにその答えを目の当たりにした。

「く、そんなことが!?」

 サルバトーレの剣が、水銀のような何かで覆われていく。それは、すべてサルバトーレの呪力である。彼の権能は、文字通り何でも斬り裂く剣。だが、その強大さとは裏腹に、剣で斬りつけなければ効果がないという当たり前の弱点を有していた。通常の剣で戦うのであれば、その射程は一メートルと少しという極めて短いものになってしまうのだ。それでは、『まつろわぬ神』には対処できない。今回のように空を飛ぶ敵もいれば、巨大な肉体を持つものもいるのだから。

 では、どうするのがよいのか。

 ない頭を必死になって絞り、いくつかの戦いを経てたどり着いた答えがこれだった。

 --------------空にいる敵に届くくらい、巨大な敵を斬り殺せるくらいにでかい剣を振るえばいい。

 変化は一瞬で、それこそ瞬く間もないほどだった。

 肥大化した剣は、回避に出たペルセウスを呑み込まんばかりのものだった。権能を掌握したカンピオーネは、その権能の概念が及ぶ範囲内で、ある程度形体を調整できるのだ。

 護堂やアレクサンドル・ガスコインが神速を使うときに雷の肉体になるのもこの一種である。

 逃れられない。

 そう判断したペルセウスは、ペガサスから身を投じた。

 それが功を奏した。間一髪のところで、ペルセウスは両断されずに済んだ。受身を取りながらも地面を転がるペルセウスは、この戦いが始まって初めて泥をつけられた格好になる。

 ペガサスは、もうだめだ。胴から斬り裂かれ、命を落としていた。

「まさかな。虚を突くつもりでいたのだが、逆に虚を突かれてしまうとは。このような手札があるとは思いもしなかったよ」

「伊達に神様と戦ってないからね。それで、ペガサスをなくしたあなたはどう戦う?」

 再び剣を手に取ったサルバトーレが尋ねてくる。

 どう戦う? 愚問である。この手に剣が握られているのであれば、これを振るう。弓であれば弦を引く。ただそれだけだ。

「これで互いに地に足が着いたわけか。だが、侮るなよ神殺し。ペガサスは蛇妖メドゥサを討った後に手にしたものだ。ペガサスなければ戦えぬ、などと思ってもらっては困るな」

 確かに、機動力は失った。空という優位性も消えた。しかし、所詮はその程度である。手札が多少失われたくらいで、ペルセウスが敗北する道理はない。

 確かな自信と、それを裏付ける実力が、ペルセウスには備わっている。

 東方の太陽神にルーツを持つ英雄が、この程度の困難を乗り越えられないはずがないのだ。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

「考えてみれば、当たり前のことだったな」

 地面に片膝をつく護堂は、息も絶え絶えといった様子だ。

 肺は破裂しそうなくらいで、息をするたびにズキズキと痛んでいる。そもそも、自分は息をしているのかどうかすら感じられない。吸った息はきちんと吐き出せているのかわからないし、肺がきちんと機能しているのかも怪しい。それくらい、苦しかった。

 破壊された路上には、石やアスファルトの欠片が散在し、アテナの呼んだ突風に吹き飛ばされるたびに身体に傷が増えていった。

 その傷を、護堂はあえて残しておいた。治そうと思えば、若雷神の化身でいくらでも治せるが、そうなれば、アテナはより護堂にとって致命的な攻撃に出ないとも限らなかったからだ。

 擦り傷や切り傷、火傷。負傷は多いが、どれも致命傷ではない。骨折が何度かあったが、それくらいだ。若雷神で治したのは。

「存外、しぶといヤツだ。いい加減、諦めたらどうだ。あなたが何をしようとも、妾のアイギスを破ることはできないのだ」

「勝手に決めないで欲しいな。俺はあんたには負けないし、そのアイギスだって攻略してやるよ」

 護堂は、アテナとの戦闘の最中に、祐理と念話を繋いだ。

 アイギスの正体を確かめるためだ。

 祐理は、アイギスがどうして風を操り雷を呼ぶのか、そのことについて詳細に教えてくれた。

 なるほど、と納得はしたが、護堂自身が呟いたとおり、それはアイギスの出自を考えれば真っ当な回答だった。

「あんたが今操っているアイギスは、女神アテナのアイギスではない。どちらかといえば、あなたを征服し、まつろわせた力だ。そうだろう?」

 アテナが眉を吊り上げる。端整な顔に、不快の感情が宿る。

「気づいたか。まあ、そうだろうな。風と雷を支配する神格はギリシャの地にただ一柱だけ。我が忌むべき父、ゼウスのみだ」

 天空神ゼウスは日本でも著名なギリシャの最高神である。その起源は古代インドの天空神で、インド・ヨーロッパ語族全域で崇拝される神がギリシャに根付いたものだ。インドではディヤウス、ローマではユピテル、北欧神話ではテュールとなる。

 そのゼウスとアテナの関係は親子である。しかし、アテナが忌むべき、などと言うように、その関係は決して良好なものではないのだろう。

 アテナの母にして同体を為す知恵の女神、メティスはゼウスの子を身ごもりながらも、その子の誕生を恐れたゼウスによって呑み込まれてしまうからだ。

 もしも、メティスから生まれた子が男子であったなら、ゼウスの王権をその子に奪われるだろう、という予言をゼウスが信じたからである。

 このとき、メティスは、ゼウスにまつろわされ、その権能である知恵を奪われた。

 しかし、メティスの腹の子--------------アテナは、ゼウスの頭部に移って生きながらえていた。あまりの痛みにゼウスはへーパイトスに頭を割らせ、中から甲冑に身を包んだアテナが誕生したという。

 

 自分自身であり母であるメティスをまつろわせ、力を簒奪したゼウスの力をアテナが使う。ずいぶんと滑稽な話である。

「アイギスは、もともとゼウスの防具。アテナのもつアイギスはゼウスがあなたに譲り渡したものだ」

 護堂の攻撃を防いでいる不可視の壁は、小型の台風のようなもの。アテナの神力ではなくゼウスの神力なのだ。

 メルカルトのときもそうだった。神々は時として、自分の権能だけでなく、伝説上他の神から譲り受けた武器などがあれば、それを通してその神の力を限定的に振るうことができるのだ。

「あなたは元々ポリスの守護神だ。だから、あなたの持つ武器が剣や弓でなく、楯になったのも頷ける。そして、その楯にメドゥサの首が据えられたのもそのためだ。メドゥサの意味は『守る者』。つまりはお守りになる」

 メドゥサはゴルゴンとも呼ばれる。

 古代ギリシャの美術では大抵の人物は横向きで描かれるが、ゴルゴンは、すべて正面を向いている。これは、邪視を確実に機能させるためだと思われる。こうした『お守りとしての恐ろしい顔』はギリシャだけでなく、メソポタミアのフンババであったり、日本の鬼瓦にも見られる。そして、その信仰の原型は、紀元前六千年のセスクロ文化にまで遡れるとされる。

 ということは、ゴルゴン単体で守り神と崇められる風潮が、ギリシャ神話以前からあったということであり、アテナの楯に組み込まれたからゴルゴンが外敵を排除する機能を持ったのではなく、ゴルゴンに守護の力があったからこそ、同じ守護神であるアテナと習合したということだろう。

 また、ゴルゴンの首が描かれたお守りのことをゴルゴネイオンと呼ぶ。

 これは、紀元前五世紀ころになると、戦争の影響からか、グロテスクさよりも力強さが強調される。ゴルゴンが蛇と結びついたのはこのころであり、イッソスの戦いに臨むアレキサンダー大王の鎧に描かれているように、戦士からの崇拝を受けていたようだ。

 これらのことを総合すると、まず、ゴルゴネイオンを身につけるという呪術的風習があり、それゆえに、守護神アテナと結びついた。そして、ゴルゴンの首と結びついたアテナ像などから、ペルセウスのメドゥサ退治の物語が産み落とされたということだろう。

 なにせ、本来ゴルゴンは首だけの怪物だ。ペルセウスがメドゥサの首を獲ったということは、メドゥサに身体があるということで、それはつまり、ペルセウスの逸話がアテナとゴルゴンの結びつきよりも後の時代に作られたということを示している。

「守護神二柱分の防御力だ。そりゃ強いよな。おまけに、そこにゼウスを持ってきて最強の矛にまでする。ちょっと卑怯すぎなんじゃねえか?」

「己の力を最大限に利用する。なにも卑怯なことではない」

 雷と暴風が護堂に襲い掛かり、護堂は、これを言霊と楯でしのいだ。

 ゼウスの防具であるアイギスは、本来は嵐に関わるものだ。これは、ギリシャの古典文学特有の表現である添え辞に現れている。

 例えば、ゼウスの添え辞は、いくつかあり、『いや高く雷鳴鳴らす』『稲妻擲つ方』『叢雲なす』『アイギス有する』などである。これらを見ると、当然、アイギスが天候に関わるものだという推測がなされる。ちなみに、アテナには『瞳輝く』という添え辞があるが、アイギスは使用されない。

 加えて、アイスキュロスの作品『供養する女たち』には、『空にかかった燃える光が迫り来る』とか、『吹き荒ぶ怒りを、アイギスの怒りを教えてくれる』といった表現がある。『空にかかった燃える光』とはまさに稲妻であり、『アイギスの怒り』とは嵐であろう。

「俺の仲間が教えてくれたんだけどな。ゼウス自体が、ゴルゴンと結びつくらしいじゃないか。イリアスでは、ゴルゴンの頭が『ゼウスの奇兆』という風に言い換えられてるってな」

 そして、ゼウスはアイギスを通してゴルゴンと関わりを持つ。

 アイギスに石化の魔力を与えるゴルゴン、つまりメドゥサの首から生まれたペガサスがゼウスの雷を運ぶ役割を得るのも納得のいく話だ。

 アイギスを介して、アテナ、ゼウス、メドゥサが天候で結びつく。

 これが、アテナのアイギスが、嵐を操っているからくりの正体だ。

「それが」

 唸るようにして、アテナが口を開いた。

「それが、分かったからといって、どうだというのだ? あなたの攻撃は妾には通らない。それは絶対だ!」

 暴風はより強く吹き渡り、雷はより過激に降り注ぐ。

 アテナを守る風の渦は、彼女を中心として半径五メートル。そこよりも内側はアテナにとって絶対の安全圏だ。

 風の渦の厚さは見たところ三メートルはあるか。彼女が一歩踏み出すごとに、その分だけ壁が前進し、その分だけ地面が削り取られた。

 ドーム状のアイギスは、つねにアテナを中心に置こうとしているのだ。

 防御力はアイギスの名にふさわしく、護堂の攻撃を四方八方から受けてびくともしない。

「言ってろ、アテナ。あんたの最強の守りとやらを、俺が全部引っぺがしてやる」

 呪力を高め、護堂が反撃に移る。

 正体は知れた。天候を操る力とは戦いなれている。極端な話、あれには風と雷以外に使い道はなく、アテナはゼウスではないから、細かい使い分けはできない。

 つまり、敵にはこれ以上の隠しだまはない。

 槍を片手に、護堂はアテナを睨み付けた。



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三十九話

 ----------------まつろわぬアテナか。

 

 護堂は、目前で佇む少女の名を心の中で口にした。

 

 ----------------正直、甘く見てたな。

 

 彼我の実力は、互角。戦闘の才能においてはアテナがリードしているが、カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いを分けるのは最後の最後まで諦めない根性だと、護堂は考えている。とはいえ、権能と権能をぶつけ合ったときに相性というものが発生するのもまた、事実だ。例えば、ヴォバンが使用する狼の権能は、あまり知られていないが太陽神系統の権能には高い耐性を有し、場合によっては呑み込んでしまう。ペルセウスであれば、その神話の成立からウルスラグナの権能を封じることができる。また、《蛇》の性質を持つ神は《鋼》の性質を持つ神に対して相性が悪いというのは有名な話だ。

 もっとも、それは所詮、相性である。ただ、それのみで勝敗が決まるというわけではない。

 事実、今現在、護堂が滞空させる十挺の剣は、すべて《鋼》の性質を帯びた神剣である。相性を考えるのであれば、《蛇》のアテナに対して優位に立てるはずだ。それが、尽く防がれてしまっているのだから、相性は絶対的なものではないのだろう。振るう権能、戦い方で、戦局はいくらでも変わる。

 

 ----------------一撃与えられれば、こっちのものだけど。

 

 護堂の神剣が一斉に空を切る。

 その威力は、ロケットランチャーの一撃を思わせるほどなのだが、

 

 ----------------その一撃が、遠い。

 

 アテナは、微動だにせず、ただ護堂をにらむだけだ。台風のように回る風が刃という刃を叩き落していく。

 護堂はアテナを中心にして、円を描くように走る。

 そうしなければ、アテナの攻撃を受けることになるからだ。

 放つ攻撃はどれも必殺を期したもので、だがしかし、少女のあの白い肌に僅かの赤を作ることすらできずに虚空に消えている。

 生み出した刃は三桁を超えている。

 弾かれた刃も三桁を超えた。

 ここまで結果が出ない作業を繰り返すのも珍しい、と護堂は思う。

 数十メートル先に標的がいて、姿を堂々と見せている。そうでありながら、繰り返す試みはすべて打ち破られている。物理的な距離の数百倍もの距離が、護堂とアテナの間には横たわっているようで、ただ、徒に徒労感だけが蓄積されている。

『来い!』

 神剣がアイギスの前面と衝突した瞬間を見計らった言霊を、アテナの後方に飛ばした。

 そこにあるのは、無数の瓦礫の山。すべて、護堂とアテナとの戦いによって破壊された道路であり、波止場の成れの果てだ。

 やはり、アテナは意識を向けない。

 自身の身体よりもずっと大きい岩塊が、背後から襲い掛かっているというのに----------------それに気づいているというのに、あえて無視をする。

 岩塊が、自分にはまったくの無害であると、確信しているのだ。

「チートめ!」

 護堂は舌打ちをする。

 ギリシャ神話のアイギスは攻撃的な楯で有名だが、今、アテナが使用しているアイギスの楯まつろわぬアテナver. も多分にもれず攻撃的だ。

 雷を操る遠距離攻撃に加えて、あの見えない壁も強力な鑢のような機能を持っているようで、触れた瓦礫が粉々だ。

「ふん、なんだ。大層な口を利いて、この程度か。草薙護堂!」

「うるせえ、全方位完全防御とか反則にもほどがあるってんだ。アテナのくせにゼウスの力使いやがって。これだから『まつろわぬ神』は節操がない!」

「負け犬はよく吼えるというがな。あなたにはそのような情けない姿は見せて欲しくないな!」

 雷鳴が轟く。

 瓦礫が舞う。

 死の風が吹く。

 アテナは攻防一体の楯を操って護堂を追い込んでいく。

 攻めはより苛烈さを増し、足場はさらに破壊されて、護堂の機動力は徐々に奪われていく。

 アテナは、圧縮された台風の中心にいるようなものなのに、なぜか、声がはっきりと護堂に届いている。

 それが、呪術の妙というものなのか、巨大狼となったヴォバンが、人語を話していた時も奇妙な感覚がしたものだが。

 アテナのいるところだけ、地面が平にならされている。それは、アイギスの猛烈な風によって、凹凸が削り取られてしまったからだ。数百年、数千年の月日をかけて為されるはずの風化現象を、早送りで見させられているようだ。

 アテナが歩けば、歩いた分だけ、さらに削られる。つまり、アイギスの直径は常に一定である、ということがいえる。それをアテナが自分で調節できるのかどうかわからないが、アイギスには、形状をドーム型に維持する性質があるように思えた。

 それはおそらく、そういう必要性に迫られてのことだろう。

 半球状にして、その中央にアテナを置く。そうすれば、アテナから壁までの距離は常に一定である。コントロールしやすく、呪力も無駄に消費しないはず。単純に、回転を維持するだけでいいのだから。

「たしかに、防御力は一級品だな。こっちの攻撃が全然通らん。……まあ、仕方ないか。なにせ、ゼウスの権能だしな。アテナのそれより、防御力があって当たり前か」

「まるで、妾のアイギスがゼウスのそれに劣ると言いたげだな。不快だぞ、草薙護堂」

「ふん。事実じゃないか。そのアイギスについての謎解きは終わったぞ。結局、あんたは父ちゃんに泣きついて防具を貸してもらっているだけのお嬢ちゃんってわけだ」

「愚弄するか。草薙護堂。いや、わかっているぞ、最早あなたは我がアイギスを突破する手段を持たないのだろう? ゆえに、妾を挑発している。違うか?」

 アテナは、護堂の浅はかな考えを嘲弄する。

 戦いの最中でありながら、笑みを浮かべる。それ自体は、彼女らの戦いにはよくあることだ。如何せん、戦闘狂の嫌いのある面々が多いのが『まつろわぬ神』であり、カンピオーネである。戦いに愉悦を感じる者、戦いこそ、己の生きる場所と定める者、ほかにも様々だ。戦神のアテナもその例に漏れない。彼女自身、開戦当初から、頻繁に笑みを浮かべていた。

 だが、今浮かべている笑みは、それまでの笑みとは聊かニュアンスが違う。

 強いて言うなら憐憫や侮蔑。上位にいる者が、下位を見下したときに見せる表情だ。

 しかし、それも無理からぬことだろう。

 なにせ、護堂の攻撃は一向にアテナに届くことがない。アテナはただ立っているだけで、護堂の攻撃を弾き返すことができ、ただそれと意識するだけで、護堂を攻撃することができるのだから。

 それは、もうすでに戦いの体を為してはいない。

 すでに運命は定まっているも同然。草薙護堂に勝利が訪れることはなく、アテナが地に伏すこともない。

 鉄壁という言葉すらも生ぬるい防壁に囲まれた中で、護堂が跳びはね、雷撃をかわしている様を眺めているのは、モニターを通して戦争を見ているのと近い。どう転んだところで自身に危害が加わることがないというのなら、緊迫感すらも失われてしまう。

 草薙護堂。なかなかの敵手と見定めた。死力を尽くして戦うべき相手だとも感じた。それでも、己の最大の守りを突破する力は持たなかった。

 これはすでに消化試合だ。護堂がしぶとく抵抗しているが、それも時間の問題だろう。カンピオーネの呪力がいかに膨大であろうとも、無限ではないのだ。その他多くのカンピオーネがそうであったように、戦場で力尽き、倒れ、死ぬに違いない。そして、護堂が倒れる戦場こそが、この場所なのだ。

 引導を渡すのは、まつろわぬアテナ。

 ギリシャ最強の戦神だ。

「精精抗うがいい。あなたの首兜でもって、妾の武勲を飾って見せよう」

 アテナには余裕がある。

 呪力が全身に満ち満ちていて、敵を圧倒するに足るだけの力を無尽蔵に引き出すことができると思えるくらいにコンディションがいい。

 今、アテナは機嫌がいい。二対二という変則的な戦闘もなかなかよかった。これから先もしようとは思わないまでも、刺激としては上々だった。目前の敵は、まだ未熟なところがあるが、それでも自分にアイギスという奥の手を出させるほどの敵手だった。

 戦いを己の存在意義とするアテナにとっては、力ある者こそが自分の欲求を満たすことのできる唯一の存在。

 だとすれば、草薙護堂は実に惜しい。

 あと一歩。このアイギスを揺るがす何かを持っていればいいが、そうでなければここで終わるだけだ。

「仕舞いか」

 幾十の雷に打たれ、護堂の身体は満身創痍。

 もはや立ち上がることも難しいだろう。

 今、うつぶせに倒れている護堂は、とても戦える状態ではなかった。

 息をすることにすら体力を使うという有様で、腕にも、足にも力はない。ただ意識を保つだけで精一杯なのではないか。

 であれば、後はもう首を落とすだけ。

 あれがただの人間であれば、放っておいても死ぬだろうが、カンピオーネは別だ。息があるうちは死なない。一晩あれば、再戦が望めるだけの力を取り戻すことができるかもしれなかった。

「あえて見逃し、成長を見るのも一興だが。……あなたには他の神殺しと協力する知恵がある。それは、厄介極まりない。ここで、後々の禍根を断つ」

 アテナは手を振り上げる。

 アイギスが揺らめき、帯電し、雷を呼ぶ。

 アテナの雷は、自然界ではありえない結合をして一点に集まり、まるで物質であるかのように振舞った。

 現れたのは一筋の稲光であり、槍だった。

「ゼウスのそれに比べると、聊か貧相ではあるが、疲弊したあなたを討つには十分であろう」 

 アテナの細い人差し指が護堂を示す。

 それが照準だ。

 弾丸は、雷光の速度で、空を飛ぶ。一秒に満たない時間で、敵の首を吹き飛ばすことだろう。

 だから、その確信を覆されたとき、アテナは目を見開いて驚いた。

「何ッ!?」

 雷の槍が護堂の首を断つまさにその直前、不可視の壁に阻まれたかのように槍は空中で停止していた。

「ガブリエルか---------------ッ!」

 アテナは奥歯をギリ、と噛んだ。

 護堂の権能の中で、目に見えない力といえばガブリエルの言霊の力だ。

 その力が、アテナの槍を防いでいた。

「それほどまでの力を隠していたか! だが、それも持つまい! その小賢しい楯、すぐにでも突破して見せようぞ!」

 アテナは咆哮し、槍に呪力を注ぎ込む。

 槍が呪力を爆発させ、大気が振動する。

 受け止められたはずの槍が、言霊を無視して突き進もうとしているのだ。

「ここが狙い目だ」

「貴様」

 護堂がゆっくりと立ち上がる。その目は目前に迫る槍ではなく、アテナを見据えている。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ---------------」

 それは、火雷大神の八つの化身の中で最大の破壊力を持つ大雷神の聖句だ。日に一度だけ使うことのできる大火力の雷撃。

 一度解き放たれれば射線上のあらゆる物を薙ぎ払い蒸発させる、雷撃の光線を放つ力である。

「ぬ、勝負に出る気か」

 アテナは護堂の呪力が高まるのを感じ、この聖句が、彼の奥の手であることを察した。

 護堂の腕が帯電している。

 雷のエネルギーを、腕に収束しているのだ。

「雷撃の権能か。だが、それで妾のアイギスを突破できるか」

 アテナは護堂には届かない声で言う。それは、護堂ではなく、自分へ問いかけるものだった。護堂の腕に収束している力は無視できないが、アイギスを破るだけの破壊力を秘めているのか否か。

 知恵の女神として、そして戦神としての観察眼が、光る。

 あの力は純粋に破壊を撒き散らすものだ。それも単純に雷を一点に集中して撃ち出すというものだ。護堂が攻撃に移るよりも前に、アテナはそのことに気がついた。

「その力では、アイギスは破れない!」

 そして、アテナは宣言する。

 これは同時に、アイギスの防御力を高める聖句でもあった。

 加速する暴風の渦。あまりに圧縮された空気の壁が光を屈折させてアテナの姿を歪ませる。

「これ、は!」

 護堂の下に、アテナの驚愕の声が届いた。

 護堂の首を落とすために放った雷の槍がほつれている。

 アテナが、意識を槍からアイギスに移したその瞬間に、護堂が雷の矛の支配権を奪い取ろうとしていたのだ。

「俺の権能は雷を操る物だ。武器に頼って雷を操るあんたよりも、こっちのほうが相性がいい。ゼウスの雷、貰っていくぞ!」 

「貴様、端からそのつもりであったか! 本当に小賢しい男よな!」

 アテナは歓喜を以って、護堂の策を賞する。

 謀られたというのに、なぜか恨めない。してやられた悔しさに、見事やってくれたと褒め称えたい気持ちが勝ったのだ。

 雷の矛を構成する膨大な雷を、護堂はアテナから奪い取って掌握した。大雷神のエネルギーに上乗せする。

「く……」

 だが、それは護堂にとっても極めて大きな負担になる行いだった。

 原作で、ヴォバンから雷の支配権を奪い合う描写があったから試してみたが、まさかここまで身体に負担が来るとは思わなかった。

 おまけに雷矛の呪力を吸収し膨れ上がった大雷神の力はとてつもない暴れ馬だった。

 意識して押さえつけていなければ、あらぬ方向に暴発してしまいそうである。自分の身体の中に、これほどのエネルギーがあるという経験がこれまでにあっただろうか。

 銃口に、ミサイルを無理矢理詰め込んだかのようなちぐはぐで危険な感覚。

 それほどの危険を冒さなければ、アテナには勝てない。それが分かっているのだから、護堂に迷いはない。

 僅かの躊躇もなく、聖句を完成させた。

「----------------大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」 

 護堂の咆哮は、爆発的に膨張した空気の音にかき消された。

 激しい熱があり、光がある。それらは常人を瞬く間に消し去るほどのものだが、幸いなことに使用者には優しい設定になっているらしい。護堂は自分の攻撃で焼き払われることはないし、目を潰すこともない。ただ、今回の雷撃は以前にも増して威力が高かった。

 敵の雷撃を奪い取って燃料にしたからだろう。

 僅かの手ブレも許されないというのに、意識しなければどこを攻撃しているのか分からないほどに手が動きそうだ。

 護堂は攻撃の手を緩めない。緩められない。アテナもアイギスも健在だからだ。

 猛烈な電撃に、アイギスが抵抗しているのがよくわかる。

 それでも、護堂にはアイギスを削っている確かな実感がある。

「クゥ……まさか、これほどとは」

 搾り出すように、アテナは唸った。 

 その言葉通り、護堂の大雷神の力はアテナの予想を大きく上回る出力を誇っていた。

 アテナは呪力をアイギスに注いだ。そうしなければ、とても持ちそうになかった。

「グ、ク……」

 歯を食いしばり、アテナは地を踏みしめた。 

 アイギスによってならされた地面に、小さな足跡が深く刻み付けられた。

 圧倒的な攻撃力と圧倒的な防御力のぶつかり合い。互いに不条理を体現する矛と楯。それは、それぞれを繰る者が倒れなければ終わらない。ここまで来れば、我慢比べだ。そして、天秤は大きくアテナに傾いている。

 護堂はアテナが生み出した雷撃を吸収して威力を大幅に上げたが、それにしても大きな負担があったはず。ただでさえアテナの攻撃によって傷ついた身体だ。もはや呪力も限界を迎えているだろう。

 一方のアテナは呪力こそ消耗しているが、身体には傷がほとんどない。終始この戦いはアテナの優勢で進んでいたのだから当然だ。

「ふ、最後の最後まで楽しませてくれる。草薙護堂」

 静かに、万感の思いを込めて、

「だが、やはり届かん。あなたの力では、妾には届かんのだ!」

 勝利を謳う。

 だが、それは致命的な油断にもつながった。 

 勝負は最後まで分からないという人間であれば基本的な概念が、勝利を当然とするアテナには薄かった。

 何事も諦めず、最後まで力を振り絞り、大どんでん返しを生み出すのが人間だ。まして、相手はカンピオーネである。人間ですらできることが、カンピオーネにできないはずがない。

「別に、これでアイギスを破ろうとは思ってないしな!」

「何? 貴様、それは一体-----------------」

「要塞攻略の基本は内側から! 『起きろ!!』」

 護堂がここに来て『強制言語』を放つ。僅か一言。アイギスの中にいるアテナには、それは届かない。あらゆる罪障を防ぐ楯は、言霊すらも通さないのだ。では、護堂の言霊は一体何に干渉したのか。

 その呪力の行き先はアテナではなく、地面。

「--------------ッ!」

 アテナは護堂の目的に気がついた。が、それでも、対処することができなかった。今、僅かでも迎撃に力を裂けば、アイギスが突破されてしまうからだ。

 腹部に激痛が走る。右の太ももと、左肩からも鮮血が飛び散り、地面を濡らした。

「な、がふッ」

 口から多量の血。

 地面の下から突き出た槍が、アテナを貫いていた。

「これ、は」

「土雷神で地中を移動したときに、中に仕込んでおいたんだよ! あんたのアイギスはドーム型。全方位を防御するには適した形だろうが、一点だけ穴があったな。足跡がついたことからも、地面には守りがない(・・・・・・・・)ってことはわかるぜ! まあ、モトネタは楯だったりマントだったりするみたいだけど、どっちにしても地面を守ることはできねえよな!」

「おのれ、初めからこのつもりで」

 アテナはここに来て焦りを感じていた。

 アテナを貫いた槍は《鋼》の力を帯びている。彼女にとっては天敵の力だ。蛇の生命力が、うまく機能しないのだ。

「ふ、ふふ」

 血塗れの顔で、アテナは凶悪に微笑んだ。

「見事、見事だ草薙護堂! 罠を駆使し、アイギスを破ろうとは! 裏をかかれるなど何年振りか!」

 アイギスの守りがほころび始めた。

 天秤は大きく護堂のほうへ傾いている。

 護堂の消耗はあくまでも体力と呪力。だが、アテナは今の一瞬で生命力を持っていかれた。呪力が急速に衰えていく。アイギスを維持するのも限界だった。

「この戦、貴様の勝ちだ。草薙護堂。だが、忘れるな。あなたに安息の日々が訪れることはない。いつか、必ず我が雪辱を晴らしてくれる!」

 そして、ギリシャ最強の楯は崩壊した。

 青い閃光はアイギスを貫通し、アテナを呑み込み、直線道路に五十メートルに渡って巨大な断層を作り上げた。地面は融解して赤くなり、刺激臭を放っている。

「終わった、か」

 呪力の大半がそこをつき、体力もない。

 護堂はその場に座り込んだ。

 周囲の惨状を見回すと、だいたい自分のせいだと分かってしまう。

「アテナは、逃げたのか?」

 権能が増えたわけではない。だが、どこを探してもアテナの気配はなかった。

 サルバトーレと共闘したから権能が増えなかったのか。だが、最後はタイマンだった。とすれば、アテナはギリギリで回避して、撤退したと考えるべきだろう。

 原作と同じ流れは、もう期待できない。しかし、何かとストーリーに絡んでくるキャラだけに、ここで退場しないでいてもらいたいというのが、率直な願いだった。

「いやー、君も派手だねえ」

 背後から、サルバトーレが陽気な口調で声をかけてきた。

「どうやら、アテナは取り逃がしちゃったみたいだね」

「なぜ、それを?」

「以前、僕が戦ったの知ってるだろ? あのときもそうだったんだけど、あの女神様はとにかく生命力が強い。しかも撤退も上手い。君の攻撃で完全にダメになる前に、フクロウの羽で撤退したよ」

 どうやら、サルバトーレは一足先に戦いを終えて観戦していたようだ。

「でも、気がつかなかったぞ?」

「闇を操るんだよ。アテナは。それで、僕たちの感覚を狂わせてくる。逃げに徹した彼女を追いかけるのは至難の業だね」

 原作ではランスロットを相手に使った心眼すらも曇らせる闇の権能か。知らぬ間に第六感を封じられていたようだ。

「それで、そっちはどうなんだよ?」

「ん、こっちかい。それが、こっちも取り逃がしちゃったんだよね。刺したことは刺したんだけど、殺しきる前に光の粒になったんだ。あれはあれで反則だよね」

 それを聞いて、護堂はほっとした。ペルセウスを倒したときにサルバトーレが何を得てしまうかわからないが、とにかく、これから戦う相手に権能を増やして欲しくはなかった。

 おそらく、ペルセウスは太陽の力で脱出したのだろう。サルバトーレが刺したというからには、その傷は、一日二日で回復できる傷ではないはずだ。

 とりあえずの脅威が去ってくれて、また命拾いしたと、息を吐いた護堂だった。 

 

 




文体診断ロゴーンなるものをやってみた。
三十九話では、小林多喜二が91.6だった。
なんかおもしろいなって思ったけど、小林多喜二って読んだことないですね。


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四十話

 まつろわぬアテナとの戦いは終わった。

 後に残されたのは破壊されつくした波止場と道路だけだ。

 石造りの歴史ある町並みが無事だったことが不幸中の幸いだった。ここにまで被害が及んでいたら、再建にどれほどの時間がかかることになっただろう。今の段階であれば、ちょっとした自然災害に遭遇した感じで復旧に取り組める。

 もっとも、一夜にして波止場と隣接する道路を引き裂き、砕くような自然災害など、そうあるものではない。それこそヴェスヴィオ火山が噴火でもしない限り地面が裂ける、という被害が出るはずがなかった。

 街の住人は、事前にガス爆発の可能性があると偽って避難させていたから、カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いを目撃した者はいないはずだ。当面の問題は、戦いによって生じた被害をどのように誤魔化すか、ということであり、そのことに地元の呪術関係者及び行政関係者は頭を悩ませていた。

 少なくとも、一両日以内には発表しなければならない。

 避難生活が長引いていながら、なんの発表もなければ住民の反感を買うだけであり、治安がいいとはいえないこの街で、市民の反感を買うのは、いろいろと厄介なことを引き起こしかねないのだ。

「いやはや、凄まじいな。これは」

 一人の呪術師が波止場の惨状を見て呟いた。

 彼は、《青銅黒十字》の構成員の一人で、今回の戦闘の後片付けに追われている。

 二人の王と『まつろわぬ神』が二対二の協同戦線を敷いて戦った、というのはここ数百年の歴史を紐解いても現れることのない珍事と言っていい。カンピオーネも『まつろわぬ神』も、単体で街を滅ぼすことのできる怪物である。それが二人と二柱も集い一大決戦を行ったのだ。言ってみればそれは、ナポリの街中で世界大戦が勃発するようなものだった。一歩間違えばナポリだけでなく、その周囲の都市も纏めて消えるかもしれなかった。そうでなくても、ナポリは人口が百万人を突破する人口密集地だ。流れ弾が街中に落ちるだけでもどれほどの被害になるか分かったものではない。

「それを考えれば、この程度の被害で済んだのは幸いだったのか?」

「そうですね。魔王の戦いで修復可能な被害で済んだのは本当に幸いです。人的被害がゼロなのも奇跡のようなものですよ」

 誰に言ったわけでもない呟きなのだが、いつの間にか同僚に聞かれていたようだ。

 聞かれて恥ずかしい台詞を言っていたわけではないので、落ち着いて会話をつなげた。

「でかいのは二箇所のクレーターだけか」

「そうですね。ペガサスの体当たりで抉れた地面と、日本のカンピオーネの雷撃で蒸発した地面の二つは、修復に時間がかかりそうですね。とりあえず、道路の復旧に力を入れさせていますし、呪術でなんとかなりはしますから、朝までにテロを装うくらいはできそうですが」

「そうか」

 呪術は超自然的な現象を意図的に引き起こすことができるが、万能ではない。所詮人の手で扱う技術に過ぎず、使い手次第で威力が変わるということもあって万人向けではない。今回は、護堂が事前に戦闘の日取りを決めておいたことで、イタリア南部から腕利きが集まって事後処理に当たることができていたのだが、それでも一夜にして原型をとどめることなく破壊されてしまった波止場は、彼らの呪術を以ってしても一朝一夕には復元することができない。

 深い穴を埋めるために、土を生み出す呪術を使ったとしても、その土は呪術の土。力を失えば消滅するものでしかない。よって、道路の穴を塞ぐには実存する土を運ぶ必要がある。

 砕かれた波止場や岸壁はなんとかなりそうだ。石の形を整えてやればごまかしは効きそうだ。

「運がよかったのは周囲に一般の人目がないことだな」

「はい。日本のカンピオーネ。……草薙護堂、でしたか。彼が事前に避難させるよう指示を出してくれたおかげでしょう」

「ああ、魔王の指示でなければ《青銅黒十字(われわれ)》に他勢力が協力してくれたかどうか。連中はうちの失点を狙っていただろうからな」

 これもイタリアが抱える問題の一つといえるだろう。

 イタリアには伝統ある魔術結社が複数存在し勢力を争っている。このナポリでも、いくつかの勢力が根を張っていて、時に協力し、時に敵対しながら今に至る。

 《青銅黒十字》はイタリアの名門中の名門。中小レベルの魔術結社では正面から太刀打ちは難しく、《青銅黒十字》の自滅を待っているというのが彼らの現状だった。

 今回の事件の一端を担ったのが《青銅黒十字》だから、あのまま手を拱いていれば、カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いを誘発し、ナポリを危険に晒したという悪評がついてしまったかもしれないし、敵対勢力はそのことを大きく喧伝したことだろう。

 そこまで護堂が分かっていたかどうかは、今、ここにいる呪術師には分からないが、結果的に多くの人命とともに結社を助けてもらった形になる。 

 この一件で、《青銅黒十字》は、国内で問題が起こったときに、事件解決に貢献してくれるカンピオーネとの連絡手段を持っているということが内外に知られることになった。サルバトーレが積極的に統治を行わないからこそ可能な戦略であるが、この事実によって、《青銅黒十字》は、二人のカンピオーネに協力を仰ぐことができるのだ、と周囲は受け取るだろう。

 これは、イタリア国内での結社の価値を大いに高める絶好の機会だ。

「しかし、今回のことといい、日本のカンピオーネは卿に比べて人がいいというのは本当みたいですね」

「なぜ、そう思う?」

「そりゃ、わざわざリリアナ様の要請を受けてイタリアに来たり、『まつろわぬ神』と戦うときに、避難勧告を出したり、人道的じゃないですか」

 確かに、同僚の言うとおりだ。

 カンピオーネは傍若無人である、というのは呪術業界では有名な話だ。特に欧州にはヴォバン侯爵という生粋のカンピオーネが巣食っていて三百年に渡って恐怖政治を行っているのだから悪いイメージの定着は仕方がないし、カンピオーネは怪物であり、性格が破綻しているのは往々にして的を射ている。

 人を振り回してばかりのサルバトーレ・ドニは、物的な破壊を行わないとはいえ、多くの事件を平然と引き起こしてきたし、今回、ペルセウスが降臨したのもサルバトーレが原因だった。護堂は理不尽にも巻き込まれながら、解決に全力を尽くしてくれたのだから、世にも珍しい人道的なカンピオーネという風に見られても不思議ではないだろうが。

「お前、この辺り見てみろ」 

 彼は、同僚にそういった。

 彼らの周囲には砕け散った瓦礫が散乱している。

 融解した石や、塹壕のように地面が抉れている場所もある。

「破壊された土地のおよそ七割が、その『人道的なカンピオーネ』にやられたんだぞ」

「た、たしかにそうですね」

「話が分かる、ということと、戦いで辺りを巻き込まないということは別だ。王は王。彼らは人の皮の中に野獣を飼っている。下手を打てば首を噛み砕かれるぞ」

「き、気をつけます」

 そう同僚に忠告する彼自身、護堂がこれほどの破壊を生み出したことが信じられないでいた。というのも、彼は、戦いが始まる前に、護堂の姿を見たことがあったのだ。

「いたって普通の少年に見えたんだけどな……」

 やはり、カンピオーネは見かけで判断することはできない。

 サルバトーレやヴォバンのような戦闘一点に思考が固まっているのであれば、仕える側も多少は楽だ。行動が予測できる分、どうすれば機嫌を損ねないか配慮ができる。だが、下手に知恵が回ると、危険度は増す。

 アレクサンドル・ガスコインのように政治的な攻撃をされると対処に困る。護堂の政治能力はまだ未知数だが、性格は戦闘一直線のサルバトーレやヴォバンではなく、むしろアレクサンドルに近いように思われた。

 まだまだ成長の見込みがある。それも戦闘面ではなく政治面で。それは、草薙護堂が、極めて危険なカンピオーネであると判断するのに十分な情報だった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 戦いが終わって、護堂はすぐにホテルに戻った。

 体力も呪力も底を尽き、あらゆる面で限界を迎えていたが、どうしてもそのままベッドに倒れ込む気になれず、まずシャワーで汗と汚れを落とした。

 服を脱ぐことすらも億劫に思えるというのに、自分でもよくやるなと感心したほどだった。

 バスローブに身を包み、ベッドに倒れこんだときには、すでに午前四時を回っていた。

 身体の怪我はすでに癒えていたので、体力が回復すれば全快といえる状態になっている。今回は、若雷神を使わなければならないほどの重傷を負わなかった。つまり、呪術的な回復手段を一切とることなく数時間で傷を癒してしまったのだ。そこまで治りが早いと、見ている間にも傷が小さくなっていくのが分かってしまう。傷の治り方が、目で分かるというのも奇妙なことだと思う。

 今、護堂がすべきことはサルバトーレとの戦いに向けて英気を養うことだ。

 そのためにはまず、睡眠をとることが必要不可欠である。高校に入ってすっかり夜型の人間になってしまった護堂も、この日は疲労からか、あっさりと眠りに落ちていった。

 

 

 

 太陽が中天にやってきたころ、ドアがノックされた。

「先輩、おきてますか? 昼食の時間なんですけど?」

 ドアの外にいるのは晶だ。

 戦いが終わった後、晶は晶で、忙しくしていた。祐理がその霊視力を買われて現地の呪術者と協同でペルセウスやアテナの気配が近くにないか探していたために、日本への連絡などの事務作業を一手に引き受けることになったからだ。

 今現在、晶の上司は馨になっている。

 馨は晶にとって歳が三つしか離れていない、兄(姉ではなく)のような存在なので、上司に連絡するといってもそれほど緊張することもなかったが、現地の状況などを伝えたり、《青銅黒十字》との窓口になったりと、意外に煩雑な仕事に追われてしまったのだ。

 電話で大まかな連絡をいれ、追加で情報が入ってきたときに再度連絡を取る。幾度かそれを繰り返して一段落したのは空が白み始めた頃だった。

 つまり、晶の睡眠時間は、護堂よりも少ない。それで、こうして護堂を昼食に呼びに来ているのは、生来の生真面目さがそうさせているのだ。

 三度、ドアをノックした晶だが、中から反応がないので首をかしげた。

「まだ、お休みなんでしょうか。昨日激戦だったから疲れているのでしょうけど」

 晶は言葉を切って、考え込んだ。

 護堂がホテルに帰ってきたのは午前三時頃だったはずだ。晶も一緒だったから間違いない。今はすでに正午を回っているから、単純に睡眠時間は足りている。が、『まつろわぬ神』との戦いを終えて、護堂は肉体的にも精神的にも限界まで磨り減った状態だった。

 ノックをして、声をかけても反応がないということは、眠っている可能性が高い。

 そうであればそっとしておくべきだろうが、もし、仮に疲労がピークに達して倒れていたりしたらと思うと、この場を迂闊に去るわけにもいかないような気がしてしまう。

「どうしよう……」

 ドアに鍵がかかっていれば、部屋の前でドアをノックして声をかけ続けるしかないのだが、ドアには鍵がかかっていなかったから部屋の中に入って様子を見るという選択肢が生まれてしまったのだ。

 晶は常識的女子中学生として、人の部屋に勝手に入ってはいけないということが念頭にあるのだが、それと同時に護堂の消耗を考えると、中で倒れている可能性もなくはない、という考えがせめぎあっている。

 ドアノブには手がかかっている。

 鍵がかかっているかどうかを確認するために触れたのだから当然で、このまま手を引けばドアが開くことになる。

 晶は、その状態でたっぷり五分考え抜いた後、恐る恐るドアを開いた。

「お、おじゃましまーす……先輩、ご飯ですよー」

 声は、必要以上に小さかった。

 護堂に聞かせるためではなく、あくまでも昼食の時間になったことを知らせるために入ったのだと、自分を納得させるためのものだったからだ。

 部屋の中は真夏のナポリとは思えないくらいに涼しい。

 空調がきちんと効いているのだ。部屋の主は、冷房をつけたまま寝るという贅沢をしていたようだ。

「まあ、王様ですし」

 と、晶は呟いた。

 護堂はカンピオーネ。何人たりとも犯すことのできない、至高の存在なのだ。冷房程度に小言をいうわけにはいかないし、なによりも晶自身が、この日、冷房をつけたまま寝ているという背景があった。《青銅黒十字》が全額負担する旅行だったので、ちょっとした贅沢をしたまでである。

 欲を言えば、護堂にはもっと王らしく振舞って欲しい。今回の件も、護堂は友人を助けに行く感覚で海を渡ったんだろうが、彼の存在はすでにして政治の関心を引く。今のままでは、誰彼かまわず力を振るうだろうし、組織同士の板ばさみになるかもしれない。王としての明確な意思表示、線引きが欲しかった。 

 上にとっては、《青銅黒十字》という海外の組織を見返りも要求せずに助けに行ったこと自体が不安材料だ。護堂の人柄が知れると同時に、それは、正史編纂委員会の重要性を著しく低下させることにつながるから。

 そうなってくると、護堂を繋ぎとめるための策を上層部は打ってくることになる。

 すなわち、『愛人計画』である。

「別に、わたしの知ったことではないですけど。……王として、きちんとした生活をしてくれれば、いろいろな問題を未然に防げるんですよね」

 すべては護堂の意思一つで決まること。彼が方向性を定めてくれれば、正史編纂委員会も揺れずに済む。とはいえ、護堂がお人よしで小市民的性格の持ち主だということは、この四ヶ月ほどの付き合いの中で十分知ることができた。

 彼は、よほどのことがなければ自分の力を誇示しようとはしないだろう。

 王でありながら、王として得られる権益に興味を持たない、いや、意識して切り離そうとしているようにも見える。

 他のカンピオーネとは一線を画す思考。しかし、同時に、力を振るうべき場所では全力で力を振るっている。ひどくアンバランスだ。この状況は、人間の側からすれば歓迎すべきことだろう。護堂はボランティアに近い形で、命を懸けている。得るものは精神的な充足感だけで、物質的に満たされているわけではない。様々な便宜を図ってもらえる立場であるのに、それを護堂が拒否するからだ。今回だって、イタリアへの移動から、ホテルの滞在費までが《青銅黒十字》の負担だということに、申し訳なさそうにしていた。それはきっと、護堂にとっては、リリアナという友人を手助けにきたという感覚だからで、組織を相手にした仕事という感覚ではなかったからなのかもしれない。自分が助けたいから来た、それなのにお金まで出してもらうなんて、とか思っているに違いない。

 それは、甘い。そんなことでは、簡単に利用されてしまう。利用されるということは、他のカンピオーネよりも護堂の価値が下がるということだ。

 厄介なのは、王としての護堂は欠点が多いが、その欠点が人としての美点になるということだった。

 だから、晶は諫言すべきかどうか、迷い続けている。それに、諫言するということは、正史編纂委員会の方針に反する行動を取るということでもある。

 暑い廊下から中に入ったからだろうか。冷房の効いた室内は、鳥肌が立つくらいに寒いと感じた。 

 構造は、晶が寝泊りしている部屋と同じで、入り口から入ると、左手にシャワールームがあり、そこを抜けるとベッドルームに行き当たる。

 そこは、窓から差し込む光で、白く染まっていた。

 窓の外には、青いナポリ湾が広がり、海は、太陽光を反射して燦然と輝いている。

 白い舟が海と空の境目を泳いでいる。

 つい数時間前に死闘が繰り広げられたなどと、誰が思うだろうか。

 戦いの痕跡は、この部屋からは見えない。そのおかげで、見渡す限り長閑な風景が広がっている。

「あ……」

 シングルベッドで横になっている護堂を晶は見つけた。

 呼吸は安定して静かだ。よほど深い眠りの中にいると見える。

 晶は、何度か声をかけながら肩をゆすってみたが、目を覚まさなかった。

 ずいぶんと肉体的な疲労が溜まっていたんだと、晶は思った。そして、このまま起こさないでおくほうがいいだろうとも思った。

 サルバトーレ・ドニとの戦いを控えている今、心身ともに最良のコンディションに整えておかなければならない。

 晶は効きすぎた冷房を止めて、すえつけられた扇風機を動かし、ガラス戸をあけた。一日中冷房の効いた部屋にいると自律神経に悪影響を与えるからだ。

 白いベランダは熱せられた鉄板みたいに熱くなっていたが、吹き込んでくる風が、清涼感を感じさせた。多少熱を持っていても、自然の風のほうがいい、と晶は思う。

 それから、晶はベッドの側にある木製のイスに腰掛けた。考えがあってのことではない。このまま部屋を出て行くのは惜しいと感じただけだった。

 室内には静けさが満ちていて、まるでお堂の中にいるようだった。そのくせ、聖域のような冷たさはなく、むしろ家庭的な温かさが溢れている。風に煽られる半透明なカーテンが立てる小さな音だけが、この世界には存在していた。

 あまりに静かすぎて、呼吸すらも忘れてしまいそうだ。

 晶は、眠る護堂をじっと眺めた。

 護堂のことを仔細に観察するのは初めてかもしれない。

 いつもは、護堂の周囲には人がいる。けれど、今は二人きりで、しかも護堂は眠っているのだ。今ならば、手を伸ばせば触れることができる。そう思うだけで、心臓が高鳴った。

「少しだけなら……」

 おずおずと晶は手を伸ばし、護堂の頬をつついた。カンピオーネになると、普通の人間よりも頑丈な肉体になるのだと護堂は以前言っていた。しかし、こうしてじかに触れてみると、普通の人間と変わりないように思える。

 指先に感じる温もりも、やわらかさも、自分のそれと大差ない。

「はあ……」

 緊張して息を止めていたことに気がつき、肺に溜まった空気を吐き出した。吐息は熱く、気管は焼けそうだ。

 いつの間にか、心音が異様に高まっていた。

 全身の筋肉が緊張しているのが分かる。呼吸も乱れていた。

「ん、く」

 生唾を飲み込んだ晶は、護堂の頬を摩った。

 護堂の体温を感じて、晶の背筋がぞわぞわと震えた。

 男子の部屋に無断で侵入し、相手が寝ているところにいたずらをしている。客観的に見れば、今の晶はそういうことをしている。

 なんだか、とてもよくないことをしているような気がしてしまう。禁止されると、逆にその禁を破りたくなるという心理をカリギュラ効果という。神話的モチーフでいうと見るなのタブー。晶は今、まさにその精神状態に陥っていた。

「隙だらけなのはよくないですよ」

 枕元に顔をうずめた晶が、護堂の耳元で囁いた。

 そして、晶は熱に浮かされた病人のように、ゆっくりと護堂の隣に身体を滑り込ませた。

 

 

 

 廊下を歩くのは日本人にしては明るい色の髪をもった少女。白いワンピースを着ていて、それが当人の大人しいイメージをより強くしている。

 万里谷祐理。

 若干十五歳にして世界に名を知られた霊視能力者である。

 この日も、その力を買われて夜通し《青銅黒十字》に協力してまつろわぬアテナやまつろわぬペルセウスの気配を追っていた。

 その、類まれなる霊視能力は、時折本人でも理解できない『ひっかかり』として現れることがある。

 危機感ほどではないが、なにかよからぬことが起こっているような気がする。

「晶さんも戻って来ないといいますし」

 晶は仕事のあった祐理よりも先に、護堂とともにレストランに入っていたはずだった。はずだったというのは晶も護堂もレストランに現れなかったということだ。

 晶は護堂を呼びに部屋まで行き、それからたっぷり一時間音信不通となっている。

 もっと早く探しに行ければよかったのだが、祐理も忙しかった。

「何かあったのでしょうか?」

 『まつろわぬ神』やカンピオーネの気配があれば、それとなく分かるはず。事件が起こっている様子はないし、護堂と晶がなぜレストランに現れないのか分からないでいた。

「あら?」

 祐理は護堂の部屋の前まで来て、ドアが半開きになっていることに気がついた。

 なぜかドアが閉まる前にドアガードが閉じたことが原因らしい。

 内側から強い呪力を感じる。数は二つ。護堂と晶のものだろう。以前はガブリエルの権能で捉えることのできなかった護堂の気配だが、彼が気を許したからか、今では祐理にも視えるようになっていた。

「草薙さん、晶さん。どうしてレストランにいらっしゃらないのですか?」

 と、彼女にしては大きめの声で中に呼びかけてみる。

 数秒まっても応答がないので、祐理は、眉根を寄せて不審そうにした。

 中に人がいるのは確実だ。

「失礼します」

 申し訳ないと思いながら、祐理は部屋の中へ足を踏み入れた。

 

 

 

「な、な、何をしているんですか、あなた達はーーーーーーーーーーーー!!」

 

 

 

 護堂の腕を抱いて寝ている晶を見つけて、祐理は、柄にもなく全力で怒鳴り声を上げた。



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四十一話

「何かありましたか?」 

 夕食の席で、リリアナは護堂に尋ねた。

 というのも、リリアナ以外の三人の雰囲気がおかしいと思われたからだ。会話や視線に、不自然なぎこちなさがある。これはいったいどういうことだろう、と。

「いや、なんでもない。気にしないでくれ」

 と、護堂はフォークでサーモンのムニエルを突きながら言う。

「そうですか」

 護堂がそう言うのなら、リリアナにはそれ以上踏み込む理由がない。他者の内面にまで踏み込むのは、騎士にあるまじき行いだ。まして、護堂は立場上は目上の人物だ。いかに、その人柄が温厚であっても、そのことに甘えて不敬な行為に走るわけにはいかない。

 リリアナは俯きがちの晶を盗み見た。リリアナの視線には気づかないのか、晶は、祐理や護堂のほうをそれとなく見ている。眼を合わせないようにしているのは、どうにも羞恥心から来ているようだ。

 一体何が起こったのだろう、と好奇心が刺激された。

 リリアナの視点から見る限り、どう考えても高橋晶は草薙護堂に好意を抱いている。そして、万里谷祐理もまた然り。そして晶は今、祐理と護堂をいつも以上に意識している。そういえば、昼食時に晶は一時間ほど護堂の部屋を訪れたっきり音信不通になっていたと聞いた。そこで、何かあったに違いない。

 そう、例えば、晶が護堂の部屋を訪れたときに。

『せ、先輩。何をするんですか?』

『何を? ふふ、わかっているだろう? それとも、わからないふりをしているのか?』

 護堂に抱きかかえられた晶は、そのままベッドに押し倒される。

『イタリアにまで付いてきて、無防備に男の部屋に入る。襲うなと言うほうが無理がある。それに、お前も期待してたんだろう』

『ち、ちがッ。わたし、別にそんなんじゃ……』

『嫌なら抵抗してもいい。本気で嫌がる女の子に手を出すのは趣味じゃないからな。そのときは、もうお前に手を出さないと約束しよう』

『そ、そんなこと言っても』

 晶は逡巡してしまう。もう手を出さないということは、今を逃せば、胸に秘める恋慕の情を告げることができないということではないか。その一瞬の停滞を肯定と受け取った護堂は、晶の唇を強引に――――――いや、待て。

 リリアナはそこで一旦自制する。

 それでは祐理と晶の様子の説明がつかない。晶は明らかに祐理の機嫌を伺っている。とすると、晶の側に非がある可能性が高い。

 そう考えると、展開としてはこうなるのではないか。

『せーんぱい』

『うお!?』

 晶が護堂の背中に抱きついた。護堂の部屋だから、人目をはばかる必要もない。

『どうしたんだ、晶』

『なんでしょう。慣れないイタリア生活で、やすらぎが欲しくなったのかもしれません』

 人のいい護堂は、晶を叱ることもしない。だが、晶はここで、護堂を力いっぱいベッドに押し倒し、馬乗りになる。そして、頬を胸元によせて、囁きかけるのだ。

『ねえ、先輩』

『な、なんだ?』

『ふふ、知っていますか。今、万里谷先輩も《青銅黒十字》の方々も出払っているんですよ。それに、このホテルは貸切。今なら、誰の邪魔も入りませんよ』

 そして、晶が護堂のシャツに手をかけたところで、祐理が乱入してくる。

『晶さん! いったい誰の許しを得てそのような不埒な行為に及んでいるのですか!?』

 祐理の剣幕と、不埒な行為に及ぼうとしたという事実から、晶は祐理に主導権を奪われてしまうのだ。

 これだッ!

 リリアナの目が輝いた。

 試行開始から結論に至るまで、僅か二秒弱。リリアナの妄想力を以ってすれば台詞つきシチュエーションを二秒の間に二パターン用意するのも造作ないことだ。

 少々自分の好みとは逆方向であるが、今重要なのは己の作品ではなく、護堂と二人の少女の関係だ。

 それに、たまには別の方向性を模索するのもありだ。一回別道に逸れた後で、またいつもの----------------男性が主導権を握ってしまうストーリー展開を見直すことも重要だと思う。ここのところ、趣味の小説執筆で煮詰まり、展開がマンネリになってきたところだったので、これはいい刺激になる。

「リリアナさん。どうかした?」

「え? あ、ああ、なんでもないです」

 リリアナは、妄想にふけっていたことを察知されたのかと思い、赤面した。

 リリアナの妄想時間は二、三秒と非常に短かったので、気づくことなど不可能に近く、護堂も、リリアナが晶を眺めていることを不審に思っただけで妄想云々に気づいたわけではなかった。しかし、リリアナには妄想をしていたという自覚があるため、羞恥心を刺激される結果となったのだ。

 

 

 

「それで、確認したいんだけど、サルバトーレとの決闘に選んだ場所は人気がないんだよね?」

 護堂の問いに、リリアナは大きく頷いた。自信満々といった様子だ。

「はい。ご指示の下で用意させていただいた場所は、クラニチャール家の別荘が建つところ。いわば我が家の私有地なのです。ですから、カンピオーネのお二人が戦っても、誰かの迷惑になることはありません」

「そう、か。それはありがたいけど。別荘なんだよな。それ、壊れても大丈夫か?」

「問題ありません。ここ数年は一度も使っていませんでしたから。それに、カンピオーネの決闘の場を提供し、その証人になることができるというのは名誉なことです」

 リリアナを決闘の証人にするのは、《青銅黒十字》の立場を思ってのことだ。今回の一件で、《青銅黒十字》は護堂に深入りしすぎた嫌いがある。イタリア国内に根を張る組織として、サルバトーレとの関係も重要なため、あくまでも中立なのだということを表すべく証人の立場をとった。

 予定としては、護堂の介添え役を晶が、サルバトーレの介添え役をアンドレア・リベラがすることになっている。

 一応、騎士の流儀にできるだけあわせてみた。これは、酔狂でやっているのではなく、ナポリで決闘しようなどと言い出されないように、相手を乗せる方便だ。

 エリカが、事前にアンドレアと図ってくれたおかげで、サルバトーレはあっさりとこの案を受諾した。今は、このナポリのどこかで、ペルセウスとの戦いの時の消耗を回復しつつ、剣を研いでいることだろう。

 怪我らしい怪我がなかったから、もしかすると護堂よりも早く戦える状態に復したかも知れなかった。

 サルバトーレを倒すのは非常に難しい。どれほど楽観的に考えても、簡単に勝てる相手ではないということが分かってしまう。かといって逃げたり、適当に誤魔化したりして素通りできるほどバカな相手でもない。それが厄介だ。あの男は、こと戦闘に関しては天性の勘がある。それは、カンピオーネ全般に言えることでもあるが、現存するカンピオーネの中でも純粋無垢な戦士はサルバトーレだけだし、その点からしても事戦いで誤魔化しの通じる相手ではないと思えた。

 サルバトーレの権能は、『斬り裂く銀の腕(シルバー・アーム・ザ・リッパー)』と『鋼の加護(マン・オブ・スチール)』の二つに注意していればいい。後二つ権能を持っているはずだが、そのうち一つは周囲の文明を中世レベルにまで引き下げるもので、戦闘には関わりがない。強いて言えば晶の得意とする銃火器が封じられる程度だ。もう一つは彼の隠し玉と思われるが、誰も正体を知らないので警戒のしようがない。

 今、護堂のすべきことは、サルバトーレが戦闘で頼みとする二つの権能について思索することだけであり、それ以外のことは余分な思考だと感じられた。

 草薙護堂はサルバトーレとの戦いを忌諱していない。むしろ楽しみですらある。おそらく敵もそうだろう。サルバトーレとの戦いは、護堂が自分から言い出したものだ。そのため、これまでの戦いのように、巻き込まれて、仕方なく(と、護堂は思っている)関わった戦闘ではなく、自らの意思で戦いに赴くという意識が強かった。

「それじゃ、俺は部屋に戻る。今からでも明日に備えないと」

「そうですね。それがいいと思います。戦士たる者、体調管理も怠ってはなりませんからね」

 リリアナがそう言うと、護堂はおやすみ、と言ってレストランを後にした。

 

 残された少女たちは、護堂を見送ってから互いに顔を見合わせた。

「なんか、ピリピリしてましたね。先輩」

「ええ、どうにも気を張っているような。それでいて、自然体ですし」

「それはそうだ。彼は生まれながらにして戦士なのだから、戦の前に精神を集中するのは当然だ」

「つまり、今の先輩は、すでに心が戦場にあるということですね。珍しい」

 護堂のこれまでの戦いには、必ずと言ってよいほどに、背負っているものがあった。それは、時に人命であり、時に建造物であり、時に信頼や良心のような他者との関わりで生じる精神活動であったりした。もちろん、それは十分に戦う理由になるのだが、カンピオーネの本能は、人よりも獣に近いと表現されるのだ。そのありかたを追求するのであれば、戦う理由を他者に依存する時点で、足枷をつけているようなものだと晶には思えていた。

「先輩は自分から戦うことを決めた。舞台となるガルダ湖の周囲に人気はないから、存分に力を振るえると内心で喜んでいるのかもしれないですね」

「ふーむ。男性はやはり自分の力を最大限に発揮できる環境を求めるのだろうか?」

 呟くリリアナは、自分の唇を人差し指で触れるようにしている。独り言ではあるが、同時に他者に意見を求めるような言い回しだった。

「男性だからとか、そういうのは関係ないのではないでしょうか? 最近は、女性もキャリア志向が強い人も多いと聞きますし」

「ようは、社会とか、育ってきた環境の問題では? ただ、カンピオーネになると、そこらの常識に当てはめるのはダメでしょうけど」

「うん、確かにそうだな。生まれ育った環境でカンピオーネになるなど、ありえないわけだしな。それでいて、彼らの精神性には似通ったところがある。まるで、魂というか本質というか、それくらい深いところでつながっているかのようだ。カンピオーネになるには、肉体面よりも魂、精神面に因るところが大きいのだろうな」

「魂、だとすると、カンピオーネになるかならないかは、生まれる前から決まっているのかもしれないですね。まあ、魂というのがあるかどうかは別として」

 そして、晶はグラスを傾けて水を飲んだ。 

 ホテルが用意したミネラルウォーターだ。水道水はとても飲めたものではない。イタリアの水は硬水で、日本の水とは違いすぎる。イタリアに来た初日に、シャワーの水がゴワゴワしていると感じられた。水道水も硬いと思えるほどで、ポットで湯を沸かしたら底にカルシウムが沈殿していた。それは、家で花火をしたときの、燃え残ったろうそくの跡を思い出させた。そんな具合で、水道水を飲料水として利用することは無理だった。

 もっとも、世界で一番やわらかいミネラルウォーターを産出するのもイタリアなのだが。

 イタリアで初めて硬水を口にして、苦手意識を持ってしまったから、晶は、水を買う時に必ず軟水を買うようにしていた。

 今、晶たちが口にしているのも、軟水だった。

 晶は、冷たい氷水が、胃に届き、身体に吸い込まれるのを感じる。

「でも、まあ、これでやっと先輩は王として戦うことに目覚めたわけですから、いいことですね」

 晶は、戦う護堂を肯定する。

 晶には晶の、理想像がある。無論、それを護堂に押し付けることは絶対にないが、今の護堂の状態は、彼女が求めるものに近い。闘争を是としつつも、己の持ちうる力を理性的に振るう王。一度事があれば、死力を尽くして敵を撃滅する魔王。強い自己を持ち、それを貫く姿は、晶の中で理想化されている。

「戦うことがいいなんて、そんなことはないはずです。戦うということは傷つくということですよ」

 と、反論するのは祐理だった。晶を咎めるような視線を投げかけている。

「それでも、わたしは先輩に戦える人であってほしい。だって、カンピオーネは自然と騒乱に巻き込まれる性質なんだって、この数ヶ月で実感しましたから」

 たとえ、護堂が戦いから逃げたとしても、また別のところで別の争いに巻き込まれるだろう。多くのカンピオーネがそうであるように、護堂はこれからも、否応なく戦い続けることになる。それなら、背を向けるよりも、ドンと構えて待ち受けるほうがいい、というのが晶の考え方だった。そうすれば、事件の早期解決を図れる上に、被害も小さくできる。護堂が戦わないということは、即ち、意思のある自然災害(・・・・・・・・・)をその辺に放置するということなのだから。

「いいえ、わたしの言っていることはそうではなく、自ら戦いを引き起こすようになって欲しくないということです。草薙さんは、誰かのために力を使える人です。それが、彼の美点ではありませんか」

 と、祐理は言う。ヴォバン侯爵に二度も狙われた彼女は、カンピオーネの気まぐれに巻き込まれる不運を知っている。

「それは分かりますけど、今のままでは、誰かに利用される可能性を増やしてしまいます。そうなると、なし崩し的に騒乱に巻き込まれてしまう。今回のように、本当は無関係のいざこざにも首を突っ込んでしまいますよ」

 それを聞いて、リリアナは、少し申し訳なさそうにしていたが、晶はあくまでも祐理を見ていたので気づかなかった。

「それに、すべてにおいて善行を積むのは無理な話ですし、カンピオーネにそれを求めてはいけないと思います。彼らの義務は、『まつろわぬ神』から人類を守ること。それすらも、わたしたちが期待する程度の効力しか持たないルールです。カンピオーネが、自分から神々と戦ってくれるから成立するだけの、薄っぺらな口約束に過ぎません。だいたい、ヴォバン侯爵が日本に来たときは、先輩が素早く、能動的に動いたことで、万里谷先輩は助かったんですよ」

「それは、そうですけど」

「枷がなく、心のままにのびのびと力を振るう環境にあるほうが、カンピオーネは強いんです。自制心の強い草薙先輩は、きっと、今までの戦いで真価を発揮できていなかった。フラストレーションも溜まっていたかもしれない。それが、今の先輩の状態につながっているのではないでしょうか」

 口を開こうとする祐理に、反論の隙を与えないほど早口だった。

「それでは、晶さんは草薙さんにもっと戦えと仰るのですか? 彼は、戦うたびに傷を負い、血を流すんですよ。それでもいいのですか?」

 対する祐理は、落ち着いて、諭すような口調だった。まるで、我侭を言う子供に向き合う母のようだ。

「む。……それは、あの、そういうことではないですけど」

 晶はじっと見据えられて、はなじろんだ。確かに、進んで戦うべき、という意見は、傷を負うことを自明の理とするものだ。だから、彼の身体を心配するのなら、戦わないで欲しいと願うのは当たり前のことなのだが、それと同時に、祐理に対する反発心が晶の心の中で鎌首を擡げた。

 祐理はあくまでも、護堂を一人の人間の立場で考えている。しかし、護堂はカンピオーネという特殊な立ち位置にいる。人間から片足を踏み出した彼を、普通の人間と同じポジションにくくりつけるのが嫌だった。カンピオーネなのに、平穏の中に身を置いていいのか。それは護堂を惰弱にしてしまうのではないか。サルバトーレと共闘したときの様子や今の護堂の様子から、戦闘こそが、護堂の真価を発揮する機会なのだとしか思えなかった。

 

 ――――そうでなければいけない。

 

 晶が食って掛かろうとした時、リリアナがストップをかけた。

「そこまでだ、二人とも。ヒートアップしすぎだぞ」

 あ、と二人は同時にリリアナを見た。

 そして、赤面した。互いに、人前で我を忘れて大きな声を出して議論してしまったことを今さらながらに理解した。それが、恥ずかしく思えたから、二人同時に押し黙り、俯いてしまう。

「まったく、二人そろってらしくない。人の生き方を当人のいないところで議論するほど不毛なことはないぞ」

 人を妄想のネタにした人物の言うことではないが、それはそれ、これはこれだ。

「それに、あなた達がなんと言おうとも、最終的には護堂さんが決めることだし、彼もカンピオーネなのだ。基本的にはわが道を行くだろう。必要とあらばガードレールを破壊してでも目的地に進むのがカンピオーネだ。それを、横から矯正しようとしたところで、不可能だと思うぞ、わたしは」

「わたしたちが何をしようとも、草薙さんは変わらない、と?」

「根っこの部分は変わらないだろうな。彼はアドバイスを受け入れる度量のある方だから、その場その場では人の意見を取り入れるだろうが、最終的に行き着く場所は同じだろう」

 歴史上、最も長くカンピオーネと付き合ってきた欧州魔女の台詞には、説得力があった。リリアナが語るのは、護堂本人だけでなく、カンピオーネという枠組み全体の傾向で、個々の違いを無視した意見だったが、実際に護堂にも見られる気質だった。

「とにかくだ、その話は日本に帰ってからいくらでもすればいい。ここですることでもないんじゃないか?」

 そう言われてしまうと、それ以上話を続けることもできない。祐理も晶も、共に後ろめたさを感じていたし、何よりも憂慮すべきは翌日に行われる護堂の戦いだ。それを差し置いて、自分たちで護堂の今後を語るなど、不毛を通り越して失礼ですらあった。

「さて、主人も部屋に戻ってしまったことだし、我々もここでお開きにしたほうがいいな」

「そうですね。万里谷先輩、すみませんでした」

「いえ、こちらこそ、熱くなってしまって」

 イスを引いて、立ち上がりながら晶は祐理に謝った。祐理も、言いすぎたと感じていたので、同じように謝る。

 それから、三人は一緒にレストランを出て、エレベータの前で別れた。祐理と晶は自室へ戻り、リリアナは《青銅黒十字》の会合に出席するためにホテルを出る。リリアナは、明日の決闘を取り仕切る重要な役目を担っているのだ。時間厳守ができるほどの生真面目なイタリア人だから、人一倍仕事にも真面目に打ち込む。その姿勢は、『まるで日本人のようだ』と言われるほどだ。

 廊下を歩きながらリリアナは、傍観していた祐理と晶の口論を思い出す。

 それは、どちらかに非があるわけではなかった。むしろ、どちらも正しいからこその対立だった。

 ただ、互いの立脚点が違ったからこそ生じた矛盾。共に護堂を心配していながらも、正反対の意見にたどり着いたのは、それだけ草薙護堂に多彩な顔があるからだろうか。

 祐理は、一人の人間としての護堂を、晶は、一人の戦士としての護堂を見ていたのだ。そして、それぞれの視点から護堂のためにと思って意見を述べた。

 護堂が他のカンピオーネと違う印象をリリアナに与えたのは、彼の思考が人間的だったからだ。サルバトーレのような戦士としての顔を前面に押し出した魔王や、ヴォバンのように暴君そのものの魔王。アレクサンドルのような怪盗じみた戦略家もいるが、どれも明確なスタンスを持っている。だから、周囲の魔術師もそれに合わせて対応することができるのだ。サルバトーレであれば、戦う場所を用意しておけば直接的な害はない。ヴォバンはなかなか対応が難しい。だが、彼は、暴君ではあるが、王としての在り方を常に意識している。だから、王である彼を崇め、臣従し、その逆鱗に触れないようにすれば、一先ずは大丈夫というのが、三百年間の経験則だ。アレクサンドルは特殊な人格をしているが、彼独自に定めたルールがあるらしい。組織の運営にも余念がなく、暴力で解決するよりも、外交で済ませることを好む。プリンセス・アリスが外交で対処することができるのは、アレクサンドルのそうした気質によるものだ。

 また、ロサンゼルスのジョン・プルートー・スミスは、正体不明ながらも、その目的は街の平和を守り、邪術師たちを取り除くことだ。最も分かりやすい行動基準である。

 そうした先達を見ると、護堂の在り方は多面的だ。ヴォバンに対しては自ら進んで戦いを挑み、なりふり構わずこれを退けた。かといって、戦いを引き起こすようなことは決してせず、今回も未然に防ごうとイタリアを訪れている。戦闘狂ではないのは確かだが、戦うべきところでは戦うということだろう。問題は、その戦うべきところとそうでないところがどこで線引きされているのかだ。その辺りの見極めがむずかしい。他のカンピオーネのような、単純さや自分ルールが見出せない。傍目から見れば、戦う理由をその場の思いつきで定めているようだ。

 彼の性格を考えると、カンピオーネや『まつろわぬ神』の戦い以外の戦闘にも、武力介入する可能性がある。多くの呪術結社は、それを恐れているのだ。彼が、人間的な性格の持ち主だということは、すでに知れ渡っている。助けを請えば手を差し伸べてくれる人だということもだ。だが、同時にそれは、人間の些細な戦いにも手を出してくるかもしれないということでもある。他のカンピオーネであれば、放置するような小規模な戦いにさえ、手助けの名目で飛び込んでくる恐れがあるのだ。

 実際のところは、彼なりのルールがあるのかもしれないが、それが未だにはっきりしていないから、誰もが戦々恐々とすることになる。カンピオーネになってまだ四ヶ月ほどだから、情報そのものが少ないのだ。

 強大な力を持つ人間が振るう善意は、それだけで凶器になりうるということか。

 多面的な思考は人間らしいもので、性格も好意を覚える善良さだ。とはいえ、まず第一に何を優先すべきかを推し量らなければならない立場からすれば、その多面的な思考は、非常に厄介なものでしかない。護堂が王としての自覚を持って、意思を明確にしてくれれば、それに則った動きもできる。しかし、それも、いつになることやら。

 しばらくは彼に周囲の者たちは、振り回されることになるかもしれないとリリアナは思った。



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四十二話

 決闘場となるガルダ湖までは、ナポリからかなり距離がある。ナポリは南イタリアの都市で、ガルダ湖は北イタリアにある。つまり、長靴状をした国土の端から端までを、護堂たちは移動しなければならないのだ。 

 護堂は、記憶にある原作に従ってガルダ湖を決闘場に選んだのだが、正直に言えば地理を理解していなかった。失敗したと思った。ここまで移動が面倒になるのなら、近くの湖を探せばよかったし、いっそのこともう一度サンタ・ルチアを戦場にしたほうが早かったとも思った。とはいえ、ナポリに出されていた避難命令はすでに解除されていて、多くの住人や観光客が戻り始めている。こんな時に、再び避難命令や外出禁止令が出されれば、ナポリ市民も行政に不信感を抱くだろう。この決闘は、『まつろわぬ神』の突発的襲来ではない。戦う場所を指定できるのだから、人の迷惑にならない場所を選ぶくらいはしなければならないと、護堂のカンピオーネにしては大きい良心が訴えかけていた。

 困ったことに、護堂の中に芽生え始めた戦士としての本能が生み出す緊張感が、この良心と敵対関係にあるらしく、同じ作戦をとるのなら、ナポリの海でもいいじゃないか。周りのことはいいから早く戦おう、と訴えかけている。そうした気持ちが燻っていることに気がついて、愕然としながら、護堂はガルダ湖を目指した。

 堅実な移動手段として、列車を利用する。ナポリからミラノまでユーロスターイタリアで向かう。乗り心地はとてもよかった。また、最高時速二百五十キロから三百キロというのも伊達ではない。冷房の効いた車内から、覗く景色が飛ぶように過ぎ去っていく。

 これが、ただの旅行であれば、ゆっくりとした列車に乗って外の景色を楽しんでいたのだろうが、生憎と、今の護堂にはそんな精神的余裕はなく、張り詰めた緊張感で身体がはじけてしまいそうだった。

 ミラノから、電車を乗り換える。降りるのは、デゼンツァーノ・デル・ガルダ。イタリア共和国ロンバルディア州ブレシア県。ガルダ湖の南西に位置し、ミラノやヴェネツィアからの電車が停まる。そのため、ガルダ湖を訪れる観光客がもっとも多く降車する街だ。

「ようこそ、いらっしゃいました。草薙護堂様」

 駅前に現れたのは、壮年の男性だった。ラテン系らしい、ほりの深い顔立ちをしている。スーツを着ているというのに、筋肉質な身体を隠しきれていないほど、ガタイが大きい。整えられた顎鬚がダンディズムを感じさせる。

「私は、《青銅黒十字》の者です。ここから先は、私がご案内します。どうぞ、こちらへ」

 その騎士が誘導したところには、一台の車が停車していた。目的地となるクラニチャール家の別荘地には、この車で向かうということだ。

 そこから、およそ四十分。

 風光明媚な景勝地として有名なガルダ湖だ。そこを臨む別荘地なのだから、景色は一級品である。

 祐理も晶も、魚燐のような形に日光を乱反射する湖面と、明るい緑色に囲まれた景色に魂を抜かれたようになっていた。

 日本の湖は、奥ゆかしさがあり、主張がないという印象を護堂は持っている。このガルダ湖は、まさに正反対。鮮烈な輝きを惜しげもなく解き放っている。なるほど、確かに、これは一見の価値がある。

「ついに来ましたね」

「ああ」

 祐理は、護堂を心配そうに見つめている。護堂の全身からにじみ出る戦意を、彼女は肌で感じている。もちろん、晶もそうだ。戦場に来て、一層高まった護堂の戦意に当てられて、祐理も晶も唾を飲んだ。身体中の筋肉が固まってしまい、喉も渇いていた。

 見れば、少し離れたところに人影がある。

 サルバトーレ・ドニと、アンドレア・リベラ。そして、リリアナ・クラニチャールだ。彼らは、護堂よりも一足早くこの地を訪れていたようだ。

 サルバトーレが護堂を見つけて笑いかけてきた。すでに剣を抜いている。両刃の豪剣を、手を振るのと同じように振り回し、隣にいたアンドレアが慌てて飛びのいた。

「いきなり剣を振るんじゃない、バカ!」

 ものすごい大声で、アンドレアがサルバトーレを叱りつけた。事情を知らずに今のやり取りを見てしまった者は、震え上がるだろう。世界中のどこに、カンピオーネを叱りつける者がいるだろうか、と。

 だが、アンドレアは、サルバトーレがカンピオーネになる以前からの友人で、その縁もあってサポート役を務めているのだ。互いに信頼関係が結ばれているからこそ、気の置けないやり取りができるのだ。また、実直な性格から、サルバトーレの権威を利用することなく、影に徹していることも、アンドレアの評価を高めている一因となっている。

 そんな微笑ましい会話の応酬も、特に護堂は気に留めなかった。

 黙然として、湖畔を歩く。サルバトーレが目の前にいる今、肉体的にも精神的にも戦闘状態に突入していたからだ。『まつろわぬ神』ではないので、自動的に身体のスイッチが切り替わることはない。それでも、今、護堂のコンディションは非常にいい。おそらく、炎のように湧き上がる戦意が、カンピオーネの本能を突き動かしているのだ。

「やあ、護堂。本当に来てくれるとは思ってなかったよ」

「もしも、俺がここに来なかったらどうするつもりだった?」

「ん? そうだねェ。例えば、イタリア中の空港を押さえて出国させない、とかもあっただろうし、僕が日本に行くこともあっただろうね」

「はあ、やっぱりな」

 サルバトーレは何の気なしに言ってのけるし、実行するだろう。何万人もの人々の生活にそれが直結するかも考えずに指示を出す。そして、結果として、多くの人々に影響を与えたとしても、何も感じないだろう。

 護堂は、分かっていたとはいえ、それでも、ため息をついてしまった。

 護堂がリリアナに視線を送る。リリアナは、頷いて、コホン、と空咳をした。

「では、役者もそろったところで、決闘をはじめます。よろしいですか? 立会人は、《青銅黒十字》所属、大騎士リリアナ・クラニチャールが務めさせていただきます。お二方の介添え役は、サルバトーレ卿は、アンドレア卿。護堂さんは、高橋晶でよろしいですか?」

 リリアナは、形式ばった確認をする。護堂とサルバトーレは、同時に頷いた。

「それでは、決闘の開始は二分後。我がクラニチャール家の屋敷の大時計が奏でる正午の鐘を以って、開始の合図とします」

 そう言うと、リリアナはアンドレアとともに、離れて祐理と晶がいるところまで退避した。

 カンピオーネの戦いは、騎士の決闘のように行儀のいいものではない。辺り一帯が危険区域となる。それなりに距離をとらなければならないし、気休めであっても防御の魔術は使用しなければならない。

「ふふ、僕は今、猛烈に感動している! 背中を預けて戦ったトモと、こうして剣を交えることができるなんて!」

「そのトモってのは、まさか『強敵と書いてトモと読む』じゃないだろうな?」

「おお、まさにその通り! さすが日本人、分かっているじゃないか! あの言葉は、真理だと思うよ。真の友情は、剣を通して培われるものなのさ」

「そうかい。お前がそう思うのならそうなんだろうさ。お前の中ではな」

 それも聞いたことがあるなあ、などといいながら、サルバトーレは剣を握り直した。

 護堂も神槍を呼ぶ。武器としての性能は、ただの剣であるサルバトーレのそれよりも、数百倍の格があるのが護堂の槍だ。しかし、サルバトーレの権能は、ただの剣を神すら切り裂く魔剣へと変貌させる。『斬り裂く銀の腕(シルバー・アーム・ザ・リッパー)』を前にして、護堂の権能が打ち合えるか否か。

 太陽が中天に輝き、湖面を渡る熱い風が髪をなで上げる。炎天下でここまで緊張したのは、昨年出場したサッカーの大会以来のことだ。

 視界の端で、別荘の塔につけられた時計の針が重なった。

 教会の鐘を思わせる、重厚な音が響き渡った。

「始まりの合図だ。さあ、行くよ、護堂!」

「ガルダ湖に沈めてやるから覚悟しろよ、サルバトーレ・ドニ!」

 二人同時に一歩前に踏み出し、それぞれの武器を振るった。

 護堂の槍は、全長三メートル。穂の部分だけで一メートルはある。それは、槍と言うよりも、巨人用の剣のようだ。その柄の部分を、サルバトーレは打ち払う。

「ただ一振りであらゆる敵を貫く剣よ。すべての命を刈り取るため、輝きを宿せ!」

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 サルバトーレの右腕が銀色に輝き、呪力が高まった。軍神ヌアダから簒奪した強力無比な切断の権能が、剣に宿る。対抗する護堂も一目連の聖句で呪力を漲らせる。

「ッ――――――――!」

 護堂の予想どおり、サルバトーレの剣は、ただの一振りで槍を断ち切った。護堂は、剣の間合いに入り込まないようにバックステップを踏む。サルバトーレは、追撃をしなかった。この時、護堂の頭上には、すでに十挺の剣が滞空していたからだ。

「行け!」

 号令の下、凶器が空を切る。

 一つ一つの刃が、コンクリートをバターのように斬り裂けるほどの切れ味をもっている。それが、十もそろえば、石造りの城壁すら、崩壊の憂き目にあうことだろう。

 だが、敵対するのは、城壁よりも硬く、重い、《鋼》の肉体を持つ男。殺到する凶刃を、その身に受けて尚微笑みを崩すことはない。

 サルバトーレは三挺の剣を斬りおとし、七挺の剣を身体の何処かに受けたが、よろめくだけで傷を負うことはなかった。

「剣の使い方としては、下の下なんだけどね、それは!」

 護堂はサルバトーレに向き合い、現状を確認する。

 刃渡り一メートル。腕の長さを加味しても、攻撃の範囲は二メートルあるかどうか。遠距離攻撃手段を持っていることは確かだが、それも剣を変化させたり、呪力の流れから予測をつけられるものと推測する。

 彼我の距離は十メートル。剣の攻撃範囲の外であり、こちらの攻撃範囲内である。近づかせなければ、勝機は十分にある。

 護堂の頭上には、黄金の剣が並ぶ。その威圧感は、常人を発狂させるほどのものがある。込められた神力は、上級魔術師が集団で念を込めて何ヶ月かかるかというレベルだ。

「ふ……」

 サルバトーレは、剣群に狙われながらも平静なまま、呼気を出す。肺にたまった空気を抜いて、身体中の筋肉を弛緩させた。油断しているわけではない。リラックスし、余分な力を抜くことで、如何なる状況にも瞬時に対応できるようにしているのだ。これは、護堂も選手時代に行っていたことだ。

 剣士であるサルバトーレは、十メートルの距離を詰めて剣を振るわなければならない。一方の護堂は数百メートル離れていようとも攻撃することができる。戦闘において、距離は非常に大きい意味を持つ。剣が戦争から駆逐され、火砲が台頭したのも、偏にこの殺傷能力を維持できる距離が長いほうが有利だからだ。今、護堂が展開した剣は、形状こそ剣だが、その用途は砲弾である。剣と砲弾では、後者が圧倒的優位に立てる。

 しかし、それは、単なる常識であり、世の中にはその常識が通用しない規格外も存在する。

 カンピオーネは、須らくこの規格外に相当する。

 射手が規格外ならば、剣士は常識外。

 サルバトーレは、上体をほとんど動かすことなく距離を詰める。相手が常人であれば、サルバトーレの接近に気づくこともできなかったかもしれない。武芸の心得のない護堂も、これを目で捉えるのは困難だった。

「く――――――目茶苦茶な」

 サルバトーレの動きに合わせて剣を落とすことができたのは、直観力が冴え渡ったからだ。特に危機感には非常に敏感で、理性に先んじた回避ができる。それはカンピオーネにオプションとしてついてくるものであるが、護堂はガブリエルから簒奪した『強制言語』の能力で第六感を強化している。ゆえに、通常のカンピオーネよりもずっと危険には敏感でいられた。

「避けた上に、カウンターなんてね! 人間かい?」

「剣を斬りおとすヤツに言われたかないね!」

 十や二十では、この守りを突破するのは不可能だ。単純に防御力が並外れている上に、サルバトーレの剣は、投擲したこちらの剣まで斬ってしまう。

「戦は数だ!」

 呪力を練り上げる護堂は、脳裏に剣を思い浮かべる。とにかく刃があればいい、細かいデザインは破棄する。生成に至る過程を省略し、もっとも簡単な手段で刃のみを出現させる。

「おお!?」

 距離をとる護堂と入れ替わるように、出現した刃の群れは、二桁では収まらない。デザインはおろか、柄もなければ鍔もなく、文字通り同じ形をした刃だけが宙に浮かんでいる。

 大きさも形も剣とは呼べまい。どちらかと言えば、クナイのようだ。

 いかに、サルバトーレが優れた剣士であっても、手にする武器は剣一振りだ。百を超える刃が同時に襲い掛かってきて、切り払えるはずがない。サルバトーレは、降り注ぐ刃の雨霰を全身に受けることになる。

「来い、護堂!」

 無数。数えることを放棄してしまうほど大量の銀閃が、大気に刻まれた。速度は音を超え、威力はミサイルを上回る。

 そんな破壊の雨の中を、サルバトーレは一歩一歩大地を踏みしめて進んでくる。それは、彼の頑丈さを知っていても、震え上がる光景だった。人体から火花が出ている。肉を裂く音は一切せず、鉄と鉄を打ち合わせる音が響いている。サルバトーレは傷を負わない。『鋼の加護(マン・オブ・スチール)』がある限り、如何なる攻撃も防ぎきってしまう。アテナのアイギスと同じ、移動要塞として使用する権能だった。

 普通の精神であれば、刃に囲まれただけで、腰を抜かすだろうに、この男は、嬉々として飛び込んでいる。護堂は刀鍛冶になった気分だ。サルバトーレという剣を、護堂が打っているかのようではないか。

 だが、護堂の有する権能は、刀剣の生成だけではない。一撃必殺と呼べる権能はなくとも、使い勝手のよい能力を有機的に利用して勝利を目指すのが護堂の戦い方だ。

『砕け!』

 言霊を飛ばす。サルバトーレには通じない。だから、狙いはサルバトーレではなく、その足元だ。

「うわ!?」

 サルバトーレの足元が言霊によって砕けた。破壊は小さく、足首が埋まる程度の穴でしかないが、彼がバランスを崩すには十分だった。襲い掛かる弾丸に押されて体勢をさらに崩す。待機させていた刃を撃ちつくした。

「くらえ!」

 が、攻撃を止めはしない。

 護堂の呪力は、サルバトーレの真上で形を得た。

 巨大なギロチン。あるいは、ハンマー。その両方を無理矢理くっつけた奇怪な鉄塊が出現した。その大きさ、刃渡り十メートル。高さ五メートル。重さ、五十トン。

「ちょ――――――――」

 轟音とともに、地面が陥没した。サルバトーレはもちろん、その足場が完全に崩れ落ちた。五十トンもの重量が、刃を下に向けて落ちるのだ。地響きは、祐理たちの下にまで届いた。

『回れ』

 護堂の攻撃はそれだけに留まらない。繰り返すが、護堂は己の権能を有機的に織り交ぜて結果を導くタイプのカンピオーネだ。一回だけで済ませはしない。

 言霊が鉄塊に干渉し、ドリル回転を始めた。

 見るからに掘削機。それも、権能で作られた代物だ。人間に使うにはオーバーキルだ。それでも、護堂が躊躇なくこの戦法に踏み切ったのは、これでもサルバトーレは死なないだろうと、確信していたからだ。

 ガリゴリと、ひっかくような音がする。砕かれた岩は砂となって、周囲に弾かれ、積みあがる。だが、それもすぐに止まってしまった。回転はしているが、掘り進めないのだ。

 ゴッ、と、不可視の力が爆発した。護堂は、吹き上がる呪力に銀の色を幻視した。

 次の瞬間、掘削機は唐竹割りにされ、滑らかな断面を太陽に見せつけていた。

「いや、ほんと、無茶苦茶するな、君も。こんな容赦ない攻撃をされたのは久しぶりだ」

 サルバトーレは、ダメージを負った様子もなく、粉塵の中から悠々と歩いて姿を現した。その様は、南国の島にバカンスに来た資産家のバカ息子のようだ。少なくとも、大型ミキサーで撹拌されたことに対して、負の感情を抱いてはいないようだった。

「無傷かよ。信じられないな」

「無傷? いやいや、さすがにね。ほら、背中をちょっと擦り剥いちゃったよ。擦り傷ってヒリヒリするし、シャワーが染みるから嫌なんだよねー」

「ほとんど無傷だろうが! 大体、ジークフリートから奪った権能で背中も大丈夫って反則じゃねえか?」

「んー? そうかな。僕は、彼の不死身の肉体って側面を貰っただけだからね。背中が弱点なのはジークフリートであって僕じゃないし」

 権能は、神が持ってた力の一部を奪い取るものであって、神に成り代わるものではない。この辺りは、カンピオーネ化のシステムの思わぬ利点だと言えよう。

「僕もやられてばかりは面白くない。攻めさせてもらうよ!」

 サルバトーレは、珍しく剣を上段に構え、振り下ろした。一連の行動が、陽炎のようにぼやけて見えるほど、速い。

 切先から飛び出したのは、銀色の呪力の刃。遠くにいる敵を斬り、刃の長さを上回る太い物体を両断する斬撃だ。

 物理攻撃ではないと言っても、何でも切り裂くという悪質さは健在だ。体内の呪力で軽減できるだろうが、受けてやるつもりもない。しかし、不意を突かれたために、回避が遅れた。迫る刃を前に、護堂は迎撃を選択した。

『弾け!』

 言霊を斬撃の腹部分に集中して叩き付けた。『強制言語』は掌握したといってもいい。細かい力加減や精密な狙いも、以前に比べてずっと上手くできるようになった。

「痛ぅ――――――!」

 軌道を逸らされた銀刃は、護堂の二の腕を切り裂いて明後日の方角へ飛んでいった。触れた場所が、薄く斬れてしまった。剃刀で斬られたかのようだった。

「大したもんだね。確かに、僕の権能が剣で斬るというものである以上は、腹の部分は切断力を持たない。一瞬で判断を下せるなんてびっくりだ」

「お褒めに預かり光栄、と言っておこうか」

 ニヒルに笑んでみせる護堂は、その裏で冷や汗を流していた。サルバトーレの剣は、予想以上の切れ味だ。直撃を貰えば、即死かもしれない。

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ」

 聖句を呟く。静かに、心を落ち着ける。源頼光の権能。それは、破魔の神酒を作り出すこと。

 護堂の周囲に酒の雫が生まれ、見る見るうちに大きなうねりとなった。芳醇な香りをばら撒きながら、一本の水流となって、サルバトーレに襲い掛かった。

「お、と」

 サルバトーレは慌てず、これを両断。モーセが海を割ったように、神酒の流れはサルバトーレを避けるように二本に分かれた。

「水かい? そんなんじゃ、僕は倒せないよ!」

「それはどうかな。権能を舐めんな!」

 切り裂かれた酒は、細かく分かれて蛇の姿を象った。生み出された酒の重量は、先ほどサルバトーレを押しつぶした鉄塊に匹敵する。攻撃用の権能でなくとも、こうして使えば十分攻撃力を持つことになる。が、鉄塊で貫けない防御を液体で貫けるはずがない。そういう、常識から、サルバトーレは油断したし、そうすることが、端から護堂の狙いであった。

 サルバトーレは自分の防御力に絶対の自信を持っている。それは、護堂の攻撃を見せ付けるように受け止めてきたことからも分かる。かつてのサルバトーレであれば、回避していた攻撃でも、今の彼は受け止める。『鋼の加護』にサルバトーレは頼りきりで避けることをしなくなったということだ。

 それでも、さすがに図抜けた戦士。神酒の危険性を感じているのか、受け止めるよりも、見事な剣技と権能が付与する切断力で、切り払うことを優先している。おかげで、神酒に溺れさせることができない。しかも、『鋼の加護』は呼吸をする必要がなくなるという能力がついている。鉄は息をしない、ということらしいが、そのおかげで蒸気を吸入させるという手段がとれない。カンピオーネは呪力に対する抵抗力が強いから、できるだけ体内から攻めるべきなのだが、今のところは表面を濡らすだけにとどまっている。

 時間をかければ、サルバトーレに神酒の効力を勘付かれてしまう。

 サルバトーレの剣技は見惚れるほどに美しい。柔よく剛を制すと言うが、柔の剣と剛の肉体を持つ彼の強さには、背筋が震える思いだ。

 三百六十度を針状に変化した神酒に覆われながら、サルバトーレは最小の動きで、無駄なくこれを避け、斬り捨てている。

「それでも、避けきれているわけではないな」

 手ごたえはある。サルバトーレの身体は神酒に侵されはじめている。飛沫や蒸気が、肌に、服に、そして剣についている。十分とはいえないまでも、敵の権能を弱体化させることはできているはずだ。

 護堂は攻め手を変え、神酒の竜巻を作り出す。念じてすぐに、撒き散らされた神酒は反応した。巨大な蛇体を思わせるうねり。大質量で、剣士を押しつぶさんと襲い掛かった。

 斬り裂かれても、形を変えて襲えば済む。だから、余計な策を弄することなく、そのまま叩き付けた。予想外だったのは、サルバトーレが剣を手放したことだ。

「え、な!?」

 サルバトーレは迎撃を放棄した。その代わりに、神酒の主である護堂に狙いをつけた。ダーツのように、剣が護堂目掛けて投げられた。

『弾け!』

 呪力を剣に叩き付ける。狙うは刃のない、腹の部分だ。刃がなければ、斬り裂くことはできない。ところが、護堂の言霊が作用する直前に、剣は形を変えた。どろり、と銀白色の液体に崩れたかと思えば、また、同じ形に戻る。大きさも、形状も一切の変化がない。ただし、刃の位置が九十度ずれていた。それまでは、腹を地面に向けていた剣が、刃の部分を地面に向けるようになっている。つまり、腹のあったところに、刃が来ているということ。護堂の言霊が、刃に触れて両断された。

「う、く、あがああああああ!」

 脇腹の激痛は、とても我慢できるものではなかった。

 噛み殺しきれない唸りは、喉を壊しかねないほどだ。ただ、突き刺されただけでない。剣に込められたサルバトーレの呪力が体内で荒れ狂い、臓器をズタズタにしようとしているのだ。

 しかし、同時に、剣を投擲したことで神酒を避ける術を失ったサルバトーレは、轟音を立てて落ちる瀑布に押し包まれていった。



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四十三話

 決闘は物々しい雰囲気に始まり、十数分で急転直下の展開を見せた。

 圧倒的な防御力を誇るサルバトーレ・ドニに対して、護堂は対処不能なほどの物量で攻め込んだ。旅順を攻略せんとした旧日本軍のように、とにかく数で押し、要塞内部に攻め入ろうとした。

 結果として、護堂の攻撃は尽く跳ね返されてしまい、脇腹に重傷を負ってしまうことになった。

 しかし、現状、護堂が劣勢に立たされているかというとそうではない。

 腹に穴が開いた程度で戦意を失うようでは、カンピオーネなどになっていない。痛みを堪えて剣を引き抜いた。乱暴な抜き方だったからか、さらに傷口の組織が傷ついて血が噴出して衣服を赤く染めた。

 サルバトーレの剣は恐ろしい切れ味で、護堂の身体を何の抵抗もなく刺し貫いていた。だが、切れ味が鋭いということは、それだけ傷口は綺麗だということでもあり、穴を塞ぐよりも、ずっと治癒は早く済むと思われたのだが、

「くそ、治らねえ」

 護堂は、顔をしかめた。痛みと、忌々しさから、表情に出てしまった。

 若雷神を使用しているのに、なかなか傷が塞がらないのだ。

「さすがに、《鋼》か」

 《蛇》の属性をもつ若雷神とは相性が悪いようで、体内に残ったサルバトーレの呪力が、回復しようとする護堂に抵抗しているのだ。呪力を高めて、この剣の呪力を外に吐き出し、若雷神をフルパワーで利用するほうがいいかもしれない。

「やれやれ、びしょ濡れだよ。どうしてくれるんだい、護堂」

 と、神酒に呑まれたサルバトーレが立ち上がってのんきに話しかけてきた。神酒から受けたダメージはほとんどない。しかし、内面はどうか。手応えはあった。今、サルバトーレの権能は弱体化しているはずだ。

「クリーニング代を請求してもいいかな?」

「却下だ。なんで俺があんたの服に金を出さなきゃならないんだ」

「君が汚したんだぞ! お気に入りだったのに、このアロハ!」

 サルバトーレは自分が羽織る群青色のアロハシャツの裾を摘んで見せる。なぜか、その下には何も着ておらず、鍛え抜かれて割れた腹筋があられもない姿を晒している。

「知らん! んなこと言ったら、こっちなんて血だぞ、血!」

 負けず、護堂は赤黒く変色したシャツを指差す。洗えば落ちるサルバトーレの服についた汚れと違い、こちらのシャツは廃棄処分するしかない。安物ではあるが、買いなおせば、少なからず金が出て行ってしまう。それが気に入らなかった。

「じゃあ、この勝負で負けたほうが金を出すってことで!」

「いいぞ、泣くほどふんだくってやる」 

 護堂はどうとでも動けるように半身になり、腰を落とした。重心を安定させることによって、突然の事態にも素早く反応できるようにだ。サルバトーレが、走り出した。これが、予想以上に早い。足腰もかなり鍛えられているのだろう。無手がどこまでできるのか、護堂にはさっぱりであるが、『鋼の加護』は身体を頑丈にすると同時に重量も増やす。今のサルバトーレの身体がいったい何キロあるかわからないが、このままぶつかると、自動車との正面衝突くらいの衝撃を受けてしまう気がする。だから、警戒しながら剣を作ろうとしていたのだが、さすがに足元からの奇襲には驚いた。

「剣よ、輝きを示せ!」

 護堂のすぐ傍に転がる血濡れの剣が、銀色に光り、刀身が爆発した。より正確に言えば、刀身から、呪力の爆風が放たれた。

「う、わ!?」

 権能が生み出した爆発は、攻撃範囲こそ小さなものだったが、そこに込められた呪力は並みの呪術者では掌握することすら困難な密度。無論、護堂にとって、それは致命となりうるものではなかったが、それでも身体にいくつかの裂傷と火傷を負わされた。

 その隙に、サルバトーレは剣を拾い上げた。すれ違い様に横薙ぎの一振り。

『縮』

 咄嗟に空間を縮めて背後にとんだ。一息で十メートルの距離をとる。サルバトーレには、護堂が背後の空間に吸い込まれたかのように見えただろう。

「変わった移動方法だ。君はアレクみたいな神速が使えると聞いていたけど、他にも移動術があるんだね」

 便利で羨ましい、とサルバトーレは手にした剣を肩に担いで笑った。そして、再び無の構えをとる。巨大な怪物から、人間大の戦士まで、ありとあらゆる敵と戦い続けた結果たどり着いた、完成形とも言うべき構えなき構え。また、これからの人生の中で、さらに発展させていくであろう、彼の変幻自在の剣術の根幹を成す姿だ。しかし、サルバトーレの纏う雰囲気は、街を歩き回っているときと大して変わらない。

「常在戦場ね。そりゃ強いわ」

 常に戦場に在り。彼にとって、戦場も日常生活も大して変わりがない。なぜならば、サルバトーレは剣を振るうことに生涯を懸けた男だからだ。食事も睡眠も可能な限り削り、人知を超越した狂気とも思える修練の果てに神を殺した鬼才。そんな男だから、心は常に戦いを求め、日常でも戦場と同じ心持を維持できるのだ。

 護堂は脇腹に当てていた手を離した。

 手の平はべっとりと赤く染まっていたが、傷口からの出血は止まっている。若雷神がやっと作用してくれたのだ。完全にふさがったわけではないが、血が止まれば問題ない。

 護堂は無数の剣を呼び出し、一斉に射出した。

 

 

 砲弾となった無数の神剣は、大気を捻じ切り、地面を掘削する。炸裂する呪力は、自然界の飽和量を超え、一時的とはいえ、周囲を呪術的特異点へと変えかねないほどだ。舞い上がる土ぼこり。生物のように踊る火花。黄金にも見える神剣は、ただ一振りの銀の閃光によって斬りおとされる。その攻防を、正しく認識できているのは、護堂とサルバトーレの二人だけ。離れて見守る者たちの目には、剣が残した軌跡しか映らない。攻撃も防御も、どちらも神業。技の派手さでは護堂が上回り、美しさではサルバトーレに分があった。

 肌を焼く夏の日差しも、頬をなでる柔らかい風も、もはや意識の端にも上らない。護堂の意識はサルバトーレを討ち果たすことに集中していたし、サルバトーレの意識も護堂を斬り捨てることを第一義としていた。

 権能と権能がぶつかり合う。そのたびに放出される膨大な呪力は、後方に控える祐理や晶のような呪術に関わってきた者たちを慄然とさせるほどだ。もしも呪力を目で捉えることができたなら、荒れ狂う大海原に乗り出したかのような気分を味わったことだろう。

 

 

 第二ラウンドが始まってから、数分の内に、護堂の放つ刃の数は百五十に達した。様子見も手加減も一切なく、全力で剣を創っては射出した。弾幕と呼んで差し支えなく、逃げ場など寸分たりとも与えない。容赦なく、苛烈に攻撃を加え続けた。休むことなく、護堂は次の剣を生み出し、それと同時に、滞空させていた剣を投じる。生成と射撃は同時に行われ、弾丸の数は減ることがない。逆に言うなれば、それは、サルバトーレがいまだに健在だということでもある。

 護堂は、燃え上がる心と思考を切り離す。努めて冷静に、現状を確認する。彼我の距離が、十五メートルほどになり、リーチでの優位性を確保しているのは確かだ。だが、それは多少の油断で突き崩される程度の脆い城でしかない。事実、護堂は脇腹に手痛い反撃を受けている。手数で勝っていながら、受けたダメージは明らかに、こちらのほうが多い。まだ、熱を持つ傷口が、護堂に冷静になれと告げている。護堂は氷のようなまなざしで、突き進んでくるサルバトーレを睨み付けた。

 対するサルバトーレは、この戦いが予想以上に血肉を沸き立たせてくれることに驚きながら、そのような演出をしてくれた護堂に感謝していた。

 呪力を蓄えられない体質に生まれ、騎士としては生涯大成することがないとされたサルバトーレだが、狂信的な修行の果てに神を殺し、最強の剣士として世界に名を馳せた。それは、剣士としての最高到達地点に足を踏み入れたということでもある。他の誰であろうと、サルバトーレに敵う剣士は存在しないと証明されたようなもの。しかし、それは同時にサルバトーレのモチベーションにも影響を与えかねないものだった。剣を振るうべき敵がいなくなってしまったのだ。剣の申し子にとって、これは由々しき事態と言えた。彼よりも様々な技巧に精通し、イタリアの騎士たちから畏怖と敬意と尊敬を一身に集める師ですら脅威とも思えなくなってしまった自分に愕然としたことを覚えている。師からのアドバイスを受けて神やカンピオーネを相手とし、人間には見向きもしないのは、人間では話にならないと、人の努力や才能に半ば失望しているからだった。

 ガツン、と額に刃が当たった。『鋼の加護』によって防御力の他、重量まで増加している今、吹き飛ばされることはない。

「へへ」

 サルバトーレは、額から口の端まで零れ落ちた赤い雫を舐めて笑った。

 ジークフリートを殺めてから久しく感じることのなかった痛み。流すことを忘れていた血が、アロハシャツに滲んでいる。

 サルバトーレ・ドニが傷を負っている。

 一番驚いていたのは、彼をずっと傍で見守ってきたアンドレアだろう。顔色を変えて息を呑んでいる。

 もしかしたら、サルバトーレに万が一のことがあるかもしれないと、危機感を覚えている。

 だが、当事者には危機感はまるでない。死ぬかもしれないとは思っても、死ぬとは微塵も思っていない。だから、平然としているし、笑っていられる。サルバトーレであれば、死ぬ間際まで笑っているかもしれないが。

「完璧だよ、護堂。君は、僕を傷つけることができるんだね」

 胸に迫る喜悦を、隠すことなく表情に出す。

 『鋼の加護』を突破することができるのか否かで、サルバトーレは戦いを評価する。どれほど強力な敵であろうとも、守りを突破してくれなければ、その戦いは、ただの消化試合にしかならない。傷を負わないということは、死なないということであり、戦いに臨む上で重要視している命を懸けた緊張感というものが失われてしまう。ギリギリの駆け引きこそが、戦いの醍醐味だというのに。

 だからこそ、サルバトーレの中で、護堂の評価は鰻上りだ。

 傷を負わせられるということは、倒せるということ。サルバトーレは護堂を自分に匹敵する好敵手と見定めた。

 サルバトーレは回避行動をとり始める。剣で斬り落とせるものは斬り、そうでないものはタイミングを見計らって避ける。神速を見切る目を持つサルバトーレならば、押し寄せる剣と剣の間の僅かな隙間を見出すことも容易だ。

 おそらくは先ほど受けた神酒の権能が、自分の権能を弱体化させているのだろう。剣の切れ味は落ちているし、敵の剣を尽く弾き返していた身体は、血を流している。

 傷は浅く、命を絶つには至らない。それでも、ジクジクとした痛みが脳内で警鐘を鳴らしている。今までのように正面から受け止めては、何れ貫かれる。

 切先から、呪力を飛ばし、纏めて数本を弾き返す。軌道を変えられた剣は、近くの剣とぶつかった。ビリヤードのように連鎖的に剣同士が衝突する。

「そう簡単にはいかないか」

 護堂は、鬼気迫るサルバトーレの戦い振りを見て、嘆息する。

 傷を負おうが、負うまいが、彼が前進してくることに変わりない。

 護堂は位置を変えるために走り出した。射撃で牽制しながら、サルバトーレとの距離が変わらないように回り込む。

 位置関係は、サルバトーレを挟んでガルダ湖と護堂が向かい合う形だ。

 剣群の間を縫って、呪力の斬撃が襲い掛かってきたのを半身になって避けつつ、

「我は焼き尽くす者。破滅と破壊と豊穣を約束する者なり。全てを灰に。それは新たなる門出の証なり」

 灼熱の炎を放つ、火雷神の化身の聖句を唱える。

 途端に、熱を持つ身体。呪力が体内で、燃え滾り、噴出しようとしているのだ。

 解き放たれる炎は、サルバトーレに集中する。

 紅蓮の怒涛が、サルバトーレに一直線に向かう。

「なんだって!?」

 炎の権能を持っていることを知らなかったサルバトーレは度肝を抜かれた。咄嗟に呪力を練り上げ、『鋼の加護』を強化。護堂の神酒に侵されて出力が出ないが、そこを根性でどうにかする。

 膨大な熱で膨張した空気が、瞬時に四方へ流れ、轟音とともに、木々を揺らす。火炎の奔流は、サルバトーレを焼くだけに留まらず、その背後のガルダ湖の表面を蒸発させた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 蒸発した湖水が、白い霧となって、戦場を覆う。

 服が水を吸って重くなるが、季節が夏ということもあって、不快感はない。

 護堂は険しい視線で正面を見つめる。視線の先には、サルバトーレが立っている。一目連を焼き払った火雷神ですら、サルバトーレを倒しきれなかった。神酒で防御力を削いでいたのにも関わらずだ。防御系の権能に、カンピオーネが持つ呪力への耐性を加えれば、不可能ではないかもしれないが、実際に目の当たりにすると、化物と呼ばれるのも納得できる。あの熱量に耐えたのだ。核爆弾にも耐えかねない。

「ハハハ、まさかだね。確かに、《鋼》には鉄をも溶かす高温が有効だ。だけどね、剣は熱から再生する! 僕の剣は、この程度の炎では滅びないのさ!」

「こじ付けがましい理由を大声で言うな!」

 要するに、根性しだいでどうにでもなるということなのだろう。笑えない話である。

「そろそろ、決着をつけるぞ。サルバトーレ!」

「望むところだ、友よ!」

「友って、言うな!」

 護堂は、槍を片手に走り出した。進路は、前。つまり、サルバトーレに向かってだ。サルバトーレは、眉根を寄せる。護堂の戦い方は、明らかに何かを狙っている。なにか、策があるのか。あったとして、それはなにか。突きこまれる槍を前に、サルバトーレは思考を放棄した。どんな作戦であろうとも、正面から打ち破ってしまえばそれでいい。

「それ!」

 サルバトーレの剣が、護堂の槍の穂先を斬り飛ばした。

「我は轟く者。恐れ、敬い、我が到来の調べを聴け」

 サルバトーレの鼻先に、護堂の呪力が叩きつけられた。

 唱えた聖句は、火雷大神の八つの化身の一つ。鳴雷神の聖句だ。

 強烈な振動と、轟音。爆弾が至近距離で爆発したかのような音に、サルバトーレは瞠目した。目には見えなかったが、明確な攻撃だった。しかも、その一瞬で、目の前にいたはずの護堂が掻き消えていた。

「ッ!」

 背後に気配を感じて、剣を横薙ぎに振るう。

 サルバトーレの剣は、霧を切り裂くだけで護堂を捉えることはできなかった。

 鳴雷神の化身が持つ力は、轟音による振動で破砕するものであるが、それに付随して、敵の集中力を乱すというものがある。強制的に乱された集中力は、そう時間を置くことなく回復するが、僅かな時間でも心眼を失うことになるのだから、希代の剣士でも隙を作ってしまう。

「獲ったぞ、サルバトーレ!」

 護堂がサルバトーレの銀色の腕を掴んだ。

「ッ――――――いつの間に」

「オオオオオオオオオオオ――――――ラァッ!」 

 気合の咆哮を発し、護堂は全身に力を込めて、サルバトーレを持ち上げる。

「な、そんなバカなァァ――――――!?」 

 そして、思いっきり投げ飛ばした。重量が数百キロにまでなっているサルバトーレを投げ飛ばすには怪力の権能を使うくらいしかないのだが、護堂にはそんなものはない。その代わり、所持している物の重量が、羽のように軽くなる神速の権能がある。 

 護堂は、サルバトーレの心眼を鳴雷神で乱した直後、伏雷神を発動して雷速となったのだ。予定通り、周囲は霧に囲まれている。霧を雨の代用とし、大気中の水分量を増やした。それによって神速の使用条件を満たしたのだ。

「うわあああァァァ」

 ガルダ湖のど真ん中目掛けて投げ飛ばされたサルバトーレは為す術なく宙に放り出された。

「まだだぞ!」

 湖に落下していくサルバトーレ目掛けて、護堂は呪力を叩き付けた。空中で形を得た呪力は、鎖であり、巨大な分銅であった。

「ちょ、ちょっとそれはない!」

 抗議の声を上げようとしたサルバトーレの足や胴に容赦なく鎖分銅は巻きつき、そのまま湖水へ落下。巨大な水柱が立った。

 総重量で一トンは超えるだろう。当然、『鋼の加護』を解除したところで浮かび上がることはできない。

 鎖を切断するしかないが、それはさせない。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ、大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 大盤振る舞いだ。出し惜しみはしない。沈み行くサルバトーレに向けて、大雷神を発動した。水中の敵にどこまで雷撃が届くか分からなかったが、呪力による雷撃は、多少ガルダ湖の水を伝わったものの、大半がサルバトーレに届いてくれた。

 できるだけ、電撃が水中で分散しないように制御しながらなので、『鋼の加護』を貫くことはできないだろうし、これは、倒すためにしているのではなく『鋼の加護』を使わせるためにしている攻撃だ。威力は低くてもかまわないのだ。

 眼に見えない敵の位置は、彼に巻きついた分銅が教えてくれる。あれは護堂の権能で生み出した物だ。その位置くらい見えていなくても特定できる。

 

 およそ三百メートル下の湖底に分銅が落ちるまで、情け容赦なく攻撃し続けた。

 

 

 湖底に落ちたサルバトーレは、剣で鎖を斬ると、やれやれ、と首を振った。視界は真っ暗。日の光の届かない湖底だから当然だ。それでも、眼が見えないわけではない。カンピオーネには暗闇を見通す透視力がある。問題はない。身体のほうも、ずいぶんと痛めつけられたが、戦闘に支障をきたすほどではない。ダメージは大きいが、動けないわけではない。身体が動くのなら、戦える。『鋼の加護』のおかげで窒息とも無縁でいられる。水に沈めたくらいで勝った気になってもらっては困るというものだ。

 このような戦いは、滅多にできるものではない。今からでも、岸に戻り、続きをしなくては。

 そう思い、湖面へ向かって泳ごうとした時だった。

「?」

 湖底を蹴った足が、なぜか湖底から離れず、浮き上がれなかった。

 なにかが足に絡み付いていると感じ、下を見て、目を見開いた。

 泥の中から、手が伸びていて、サルバトーレの足を鷲掴みにしていたのだ。それが、護堂の手だと分かったときには、地中に引きずり込まれていた。

 土雷神。

 地中を雷速で移動する力であり、護堂が掴んだ物も一緒に動くことができる。これを応用すれば、地中に引きずり込んで、放置し、生き埋めにするという過激な戦法をとることも可能だった。

 倒せないなら、戦えないようにすればいい。護堂は狙い通りに、サルバトーレを戦闘不能の状態に陥れたのだった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 ずぶ濡れの状態で、護堂は湖水から顔を出した。

 サルバトーレの足を掴んだときは、神速状態ではないので、単純に湖底に沈んでいるのと同じ状態だったからだ。泥を湖水で落としたので、目立った汚れはないが、服を着たまま濡れるというのは、決して気持ちのいいことではない。

「とりあえずは、終わりかな」

 ちょっと残念な気もしてしまうが、楽しい時間はすぐに終わってしまうものだ。

 次の機会があったとしても、今後数ヶ月は先の話になるだろう。

「草薙さん! お身体のほうは大丈夫ですか?」

 岸に上がり、寝転がって身体を休めつつ、太陽光で濡れた服を乾かしているといつのまにか祐理が近づいてきていた。

「ああ、大丈夫だ。心配してくれてありがとな」

「いいえ。そんな」

「先輩。タオル、タオルをどうぞ!」

 そこに、慌てたように割って入った晶が、半ば強引にタオルを渡した。

「あ、ありがとう。晶」

 新品同然のタオルはふかふかとしていて、気持ちがよく、程よい眠気を誘った。

「失礼します。草薙様。ひとつよろしいでしょうか?」

「はい。アンドレアさん、でしたね」

 アンドレアは精悍な顔を厳しくしていた。

「サルバトーレのことなら大丈夫だと思いますよ。ガルダ湖の底のさらに下、地下二十メートルにまで沈みましたけど、権能の特性上、死ぬことはないでしょうから」

「そうですか。それを聞いて安心しました。それでは、私は王を引き上げねばなりませんので、これにて失礼します」

 あまり、早くしてほしくないなと思いながら、護堂は頷いた。

 立ち去るアンドレアの背中を見送って、護堂は立ち上がった。

「すぐに立って大丈夫なんですか?」

「大怪我をしたわけじゃないし、疲れがあるだけだ。動く分には問題ないよ。ところで」

 と、護堂は言葉を切り、リリアナと視線をかわす。リリアナは頷いて、

「この勝負は、護堂さんの勝利です」

 その答えに、満足した護堂は、そのまま車に向かった。サルバトーレが引き上げられたら、第三ラウンドを始めかねない。勝ったということにして、勝負を終わらせ、とっとと退散しようと考えたのだ。今の護堂は、サルバトーレ戦でずいぶんと消耗した。持ちうる限りの力を使って戦った。つまり、これ以上、戦う余力は残っていない。半日でいいから休息を取る必要があった。

「それでは、車を用意しますので、少々お待ちを」

 護堂の意思を汲んだリリアナが、指示を出す。護堂たちは、勝者でありながら、逃げるようにそそくさとその場を後にした。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 夏の観光シーズン、駅前から人気がなくなることはない。ガルダ湖近辺の店は今が書入れ時と大いに盛り上がっている。

 それでも、東京駅のあの混雑を知っている護堂たちにとっては、この程度は混んでいるとは言えない。自分のペースで歩けるだけで空いていると思える都会人だ。ここから、ローマへ向かい、航空機でサルデーニャを目指す。

「これから、サルデーニャですか。あのルクレチア・ゾラ。地を極めたとも言われる偉大なお方に会えるなんて!」

 やや興奮気味に晶は言った。意外にも、ルクレチアファンだったのか。呪術の世界で非常に有名な人だから、そういう反応もあって当然か。

「ま、あの人には晶の期待を裏切らないでいて欲しいな」

 と、護堂は晶に聞こえないように呟いた。

 ルクレチアが、実は目を覆いたくなるほど、自堕落な生活を送っていることを知ったときの反応も気になるところだ。

 ホームで電車が来るのを待つ間、そんな取りとめのない会話を続けた。戦いが終わり、数日間続いた緊張状態から抜けだしたからだろうか。

 と、そのときだった。

「なん――――――」

 だ、とは続かなかった。

 人込みを掻き分けて、護堂の目前に現れたのは真っ黒なローブで全身を覆う何かだった。背丈は晶よりも高いくらいで、フードを被っているので上から顔を見ることはできない。

「あの神殺しとの戦いでずいぶんと、消耗しているようね。ま、あたしには好都合だわ」

 フルートを思わせる綺麗なソプラノ。女の子の声だ。奇妙な出で立ちにも、周囲の人はまったく気にかけない。

「兄さんの仇を討たせて貰うわ」

 危機感で沸騰する頭が、咄嗟に晶と祐理を突き飛ばした。回避よりも、仲間の安全をとったのは護堂らしいと言えるが、それが仇となった。呪力を大幅に失い、戦闘態勢にも入れなかった。肉体的にも多大な疲労を抱え、判断力は衰えている。そんな状態での不意打ちを避けることができるはずもなく、

「う、がはッ」

 ドン、という衝撃が胸を突く。

 ローブの裾から突き出された白い手は、易々と護堂の心臓を抉り出していた。

 



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四十四話

 痛みはなかった。ただ、寒く、そして眠い。

 それが、激痛を脳が遮断した結果なのか、それとも、もう痛みを感じる必要がなくなってしまったのか、霞む頭では判断がつかない。ただ漠然と、死というものを感じていた。

 身体から命が流れ落ちている。この世に生を受けてからずっと感じ続けてきた鼓動が失われた。身体から音が消えるというのが、これほど寂しいものだとは思わなかった。気が狂いそうなほどの無。でも、それが不思議と懐かしい。きっと、それは前世の記憶。かつて、別世界で生き、そして死んだ時の思い出だ。

 ああ、なるほど。

 死んでおきながら別人に生まれ変わるってのは、反則技だ。まともな死に方はできないんだろうな。

 なんとなく、昔から意識の端にそんな思いがあった。

 だからこそ、人一倍普通であることを意識していたのだろう。

 思えば、カンピオーネになる前から、ルール違反を積み上げてきたような人生だった。ただ、生きているだけでも反則。それが、カンピオーネになったのだとしたら、この世の法則からどれだけ外れた存在だったのだろう。自分のような存在がまかり通るなら、世も末だな、と自嘲せずにはいられない。

 倒れた身体を誰かが抱きとめてくれている。祐理か、晶か。おそらくは祐理だろう。自分の身体は、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。倒れた方向には彼女がいたと思う。

 視界は暗く、外界の様子は判然としない。

「こふッ」

 不随意に咳き込んだ。それもひどく弱い。肺に溜まった酸素と血が一気に外に出た。左の肺は潰れているから、呼吸そのものができないし、血液を送り出す心臓も身体の外。血は流れ出るだけで脳には届かないし、死ぬことは避けられないようだ。

「草薙さん! 草薙さん! 逝ってはいけません。草薙さん!」

 すがるような声で、祐理が呼びかけてくれている。その声に、応答するだけの気力が、すでにない。

「ああ、ああ、そんな。……あなたはカンピオーネなのですよ。草薙さん……ヴォバン侯爵にも、サルバトーレ卿にも勝ったあなたが、こんなところで倒れてどうするのですか」

 言葉に詰まりながら、祐理が言う。か細い声は、闇に落ちそうになる意識を辛うじて食い止めてくれていた。

「死なないで。お願いです。お願いします。死なないでください。わたし、まだ、あなたに伝えていないことがたくさんあるんです。だから――――――生きてください!」

 祐理らしくない。それは、子どもの我侭のようで、どうしようもない無茶だった。そんな無理を押し通すような娘ではなかったはずだけど、と思いながら、それを言わせたのが自分だというのが、嬉しかった。それほどまでに心配してもらえているということ。目が見えないのが惜しい。祐理ほどの美少女が、体温を感じられるほど近くにいて、自分の名を呼んでくれているというのに、その様子が見られないなんてもったいない。護堂とて男だ。異性に興味関心くらいある。しかし、よりにもよって死の間際にそんなことを考えるとは、余裕があるのか業が深いのか。とりあえず、男の性は一度や二度の死で浄化される代物ではないようだ。

 それでも、消えかけていた意志に火がともるには十分だった。着火材としてはやや不純だったが、心残りはそれだけではない。晶のこともあるし、日本に残してきた静花のこともある。異国の地で、兄が殺害されたと知ったら、静花はどうするだろう。兄離れのできていない妹だ。少なからぬショックを受けることだろう。

 なによりも、心臓を抉り出してくれた敵のことが気にかかる。あれは、放置していい相手ではない。このまま自分が死んだら、晶や祐理が狙われるかもしれない。絶対にそれは避けなければならないのだ。

 死ねない。そう思えるだけで、活力が湧き上がる。死に瀕して理性が薄れ、生物としての本能が浮上してくる。命を繋ぐために、持ちうる全てを利用する。

 なけなしの呪力を振り絞り、若雷神の化身を発動した。心臓と肺を優先して修復する。サルバトーレ戦で呪力を失ったことが大きな痛手となった。臓器を丸々ひとつ作り直すには呪力も時間も消費する。再生する前にこちらの命が尽きてしまうことは明白だった。

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

「え?」

 それは、自分の声だったのか、それとも他の誰かのものなのか。意味のない、ただの音が無意識に喉から漏れ出たのだろう。

 赤が舞う。桜の花吹雪のようで美しく、目を奪われた。鉄錆のようなツンとした匂いが立ち込めて、頭がおかしくなりそうだった。

 ああ、きっとこれは夢だ。夏の暑さにやられて白昼夢を見ているに違いない。

 仰向けに倒れた護堂は、全身が弛緩して動く気配は一向にない。

 膝枕をするように祐理がその身体を受け止めている。彼女は必死になって護堂に呼びかけている。

「は、あ――――――は、あ―――――――」

 息継ぎを忘れて泳ぎ続けた後のように、晶は空気を求めて喘いだ。

 周りにいた多くの人が、一瞬静まり返り、そして悲鳴をあげて逃げ惑う。その中で、晶はただ呆然と立ち尽くしていた。

 祐理のように、護堂に呼びかけることもできず、目の前で起こったことを否定することで精一杯だった。そうしなければ、自分がどうにかなってしまいそうで恐ろしかった。

「終わってみれば、呆気ないものね」

 呆れを含んだ声色で、影が言う。

 女性、なのだろう。護堂と同じくらい、血の気の失せた今の晶の頭ではそれくらいしかわからない。

 ローブの袖から出ている白い腕は、今や真っ赤な血でべっとりと染まっている。護堂から引きずり出した心臓は、ビクン、と脈打って中に留まっていた最後の血液を送り出した。職務に忠実に、ポンプとしての役割を果たそうと。それでも、その血液は千切れた血管から外に出て、アスファルトを汚すだけだ。

 それを見て、心拍数が急上昇した。

 足りなくなった血をなんとか脳に送り出そうとしている。吐き気はするし、耳鳴りはするし目の前は真っ白になる。ふらふらとして、今にも膝から崩れ落ちそうだ。

「あ」

 声は出なかった。歌を忘れた小鳥のように、口を開くだけ。

「あ――――――」

 今度は出た。声帯が震え、その刺激が声を取り戻させた。

「あああああああああああああああああああああああああッ!!」

 晶は、呪力を爆発させた。

 轟、と熱力学に存在しない不可視のエネルギーが大気を押し広げる。呪力を宿した突風が、ホームを駆け抜けていく。

 遠巻きに様子を窺っていた一般人は、事ここに至り、危険を察知して逃げ出した。懸命な判断だ。晶には、佇む黒いローブ姿の女しか目に入っていないのだから。

「晶さん。今は!」

 祐理が何か叫んでいるが、聞こえなかった。

 御手杵を呼び出し、警告も無しに突きかかる。カンピオーネに手を出し、その心臓を抉り出した正体不明の敵。しかも、自分も祐理も気づかないほどの隠形の使い手。呪術者としての格は相手のほうが上なのは間違いない。

 だからどうした。

 そんなことは、武器を振るわない理由には程遠い。

「うわあああああああああああああああああああああああッ!」

 感情の爆発は、あらゆる本能を凌駕しつくし、思考を簡略化してしまう。敵の戦力を一切考慮に入れず、突き出した穂先は、虚しく虚空を突いた。

「主の仇討ちってわけ? ふん。たかだか木偶人形風情が、このあたしに敵うもんです――――――!?」

 黒いローブは、そこで言葉を切って飛びのいた。一息で晶の十歩分は後退した。跳躍の魔術を使ったのだろうか。術の発動に気づけないほど、精工な術式だ。まさか、自前の筋力ということはあるまい。

 距離をとった敵は、自らの手の甲を眺める。

「その槍《鋼》か! 厄介な槍をもっているわね」

 憎悪を込めた唸り声で、晶に殺気を飛ばした。

 晶の手にある槍は、一目連との戦いの折に折れたものを作り直したものだ。この際、穂先を護堂の権能で用意した《鋼》に付け替えたのだった。

 敵の手には晶の槍に付けられた傷があり、人間を下に見る彼女にとっては度し難い屈辱だった。

 その発言と雰囲気から、人ではないことは確かだ。だとすれば、神祖か、それとも零落した『まつろわぬ神』か。

 どうでもいい、と晶は切って捨てた。

敵が何者であるか、そんなことは一切関係がない。ただ、一つ。護堂を殺めたという事実があるだけだ。

「殺したな」

 感情が、限界点を超えた。

「先輩を殺したな!」

 恨み、憎しみ、悲しみ、怨嗟、敵意、復讐心、ありとあらゆる感情は、負の一点で混じりあい、地獄のように混沌とした黒い殺意へと昇華する。

 コロス、コロス、コロス。湧き出る殺意は止めどなく、怒髪天を突く勢いで敵に踊りかかる。

 ひたすら敵の息の根を止めるためだけに槍を振るう。轟、轟、と槍が振るわれるたびに大気は悲鳴をあげる。掠めたアスファルトは裂け、烈風で看板が吹き飛んだ。カンピオーネの戦いに比べれば規模こそ小さいながらも、人知を超えた戦いなのは言うまでもない。

「おっどろいた。まさかここまでやるなんてね!!」

 晶が大嵐であれば、ローブ姿の敵は大海で風に揉まれる小船のようだ。

 槍撃の合間を、風を読んでいるかのように潜り抜けている。楽しげな声は遠くから聞こえてくるようで、詳しく聞こうと集中すればするほど本質から離れていく気がする。敵は身元を隠していたいのだろう。そういう呪術を使っているに違いない。

「そのローブを剥ぎ取って、全部衆目に晒してやる!」

「あんた、今、凄い顔してるわよ。血が見たくって仕方ないって顔」

 ローブの奥で、敵があざ笑っている。直後、その表情が、固まったのを晶は感じた。

「チィ!」

 ローブが両腕をクロスした。そこに、鉛玉が撃ち込まれていく。壁という壁に反響する銃声。槍で追いきれないと見るや、H&K MP5へと武装を変えたのだ。至近距離からの弾幕は尽くローブに牙を突きたてた。弾丸には、対呪術師用に術を施してある。マガジン内に装填されていた三十二発の9mmパラベラムを撃ち尽くしてから、再び槍と入れ替え、間髪入れずに敵の胸を突く。

 怒涛の連撃に、敵の余裕も崩れた。銃撃に晒されて怪我をしないのは恐るべきことだが、さすがに、《鋼》の神槍に突かれては一溜まりもないのだろう。決して槍を受け止めようとはしなかった。

 裏拳で、槍の柄を叩き、軌道を逸らす。

「あんまり調子に乗らないことね。小娘!」

 槍が生み出す豪風を、ローブの魔女は、あっさりと踏み越える。

 壁とも思える槍の高速連撃であっても、引き戻す際には僅かなタイムロスが生じるものだ。すべての長柄武器に共通する弱点。長いリーチを誇る代わりに、その内側に踏み込まれてしまうと大きな隙を生み出してしまうのだ。

 無論、それだけで晶の槍捌きから逃れられるわけではない。彼女は若くして媛巫女最強と呼ばれるまでになった戦闘の鬼才。達人の域にまで上り詰めた技量に、呪術によるブースト、さらに彼女固有の能力である地母の力が上乗せされるのだ。一刺の威力は砲弾に勝るとも劣らず、その筋力ゆえに引き戻しの隙も最小限に抑えられる。なによりも、内側に踏み込まれても、横薙ぎに槍を振るって柄で敵を叩くこともできる。晶の力なら、大の大人を弾き飛ばすこともできよう。だからこその槍。長柄の武器を敢えて選び、鍛錬を重ねてきたのは、彼女の能力と実に相性がよかったからだ。

 それを物ともせずに、乗り越えてくる敵がいるとすれば、単純に、晶以上の技量を持っているということだろう。

「あ、が!」

 一撃。

 晶の胸を突き飛ばす。それだけで身体が宙を舞った。

 視界が回転し、息が止まる。

「かふッ!」

 呼吸を再開したのは、地面に背中を打ち付けてからだった。身体の内側から押し出された空気が口から漏れ出て、息苦しさから、大きく息を吸って吐くことを繰り返した。

「ふん。木偶人形が。分を弁えて舐めた真似をしないことね」

 頭を打って、少しは冷静さを取り戻したのか。晶は、敵と会話する余裕が出てきた。

「あなたは、何者ですか。なんで、先輩を」

「殺したのかって? 敵だからに決まっているでしょ。加えて言うならあたしがあたしであるために、必要なことだったとも言えるケド」

 そう言うと、敵は護堂の心臓を愛おしそうに撫でて、口元に運んだ。

「な!?」

 晶は、目を疑った。

 ぐちゃ、くちゃ、と粘つく音が耳を打つ。こともあろうに、目前の魔女は、護堂の心臓が採れたてのりんごであるかのようにかぶりついたのだ。

 たったの三口で、赤黒い塊を飲み込んだ彼女は、恍惚とした口調で、

「うーん、やっぱり本物の戦士は濃さが違うわ」

 と呟いた。よほど気に入ったのか、手についた血も舐め取っている。

「あなたは、なんてことを―――――――」

 なんとか立ち上がった晶は、その猟奇的な光景に絶句した。

「言ったでしょ。必要なんだって。戦士の臓器が、血が、あたしの心を滾らせる。失った物を取り戻すために、あたしはこうしなければならないの。まあ、でも、それはあんたも同じでしょ?」

「な、ふざけたことを言わないでください! 誰が、そんなことを!」

「ん? 自分の獲物を取られて逆上したわけじゃないんだ。へえ。……ねえ、それならどうしてそんな風に物欲しそうな顔してるの?」

「なんのこと、です」

 晶は、ギリ、と奥歯を噛み締めた。

「別にいいんじゃないの。木偶人形でも望むままに動き欲望を満たす程度は許されると思うケド?」

 楽しそうに、ローブが笑う。今までとは違う意味で、晶の心臓は早鐘を打っていた。何を言っているのか、分からない。分からないけれど、これ以上口を開かせてはいけないと、本能が警鐘を鳴らしていた。高橋晶が、高橋晶でいるために、敵の口を封じねばならない。半ば衝動に突き動かされるように繰り出した槍は、やはり敵には届かない。

「そこまで濃い《蛇》の血を宿しているのだから、血液に惹かれるのも無理はないわ。太古の地母神たちは生と死の連環を司っていたのだからね。恥らうことなんて何もない。本能に身を任せ、求めるままに喰らいなさい。そういう風に、その身体はできているんだから。試しに、あの神殺しの血でも舐めてみる? 新しい世界が見えるかもしれないわよ」

「ッ!」

 下がろうとする晶よりも速く踏み込んだ敵影が、手を伸ばす。ガードしようとする晶だが、敵の狙いは足払いだった。バランスを崩したところで、再び手が伸びる。今度は為す術なく、喉を押さえられ、押し倒された。晶の開いた口に、強引に指がねじ込まれ、背中を地面に打ち付けた衝撃で槍が手を離れて転がっていった。魔女の指先には、護堂の血液が付着しているようだ。咽るような鉄錆の味が、口内に広がった。

「んんぐう!」

「はいはーい。大人しくしなさーい」

「んーんー!」

「ふふふ、ほら、あの神殺しの味よ。しっかり味わいなさい」

 万力のような力で押さえつけられている。その上、このような醜態を晒してしまった。護堂の仇に、いいように弄ばれていることが悔しくて堪らず、しかし、現状を変えられないことに無力感を抱いた。情けなさで胸が苦しくなり涙が溢れた。

「アハハ! なに、泣いてんの? そんなに嬉しかった?」

 それすらも、相手にとっては遊戯の一環なのか。明確な嗜虐を露に、晶を嬲る。

「面白い玩具だわ。あの神殺しの趣向なのかしら? まあ、いいわ。ちょっと、内側を書き換えて、あたしのペットにしてあげ――――――ッ!?」

 晶の口から、勢いよく指が引き抜かれた。赤が混じった唾液が糸を引く。それが、自分のものなのか、敵のものなのかは分からない。晶は口の中を切っているし、

「ゲホッゴホッ」

「この――――――噛んでんじゃないわよ、木偶人形が!」

 玩具と呼び蔑んでいた晶に噛まれたことが、よほど気に障ったのか。ローブで身を隠した敵は、金切り声を上げて叫び、咳き込む晶を罵る。

「あー、もう。最悪。たかだか使い魔風情に噛まれるなんて。恥だわ」

 そう言いながら、事も無げに、ガツン、と晶の頭を殴った。

「う、ああ」

「今さら謝ったって許さないわよ。……徹底的に調教して、二度と逆らえなくしてあげるわ!」

 感情に任せて拳を振るう。ヒステリーを起こしているかのようだ。護堂を仕留めたときの用意周到さは鳴りを潜めて、欲求をむき出しにしている。とても不安定な精神構造をしているのか、それとも、護堂の心臓を飲み込んだことで、彼女が本来持つ『性』が表に浮き上がってきたのか。『まつろわぬ神』というには人に干渉しすぎる。だが、ただの呪術者というには強すぎる。その力は、神獣に匹敵するのではないか。

「あが、かは」

 身体を思い切り蹴り上げられて、晶は地面を跳ねた。脳震盪を起こしてしまったのか、視界が揺れてしまっている。うつ伏せに倒れたまま、荒れた呼吸を整えようと酸素を求めて喘いだ。

「痛みが快楽に変わるくらい優しく躾けてあげるわ。手足を摩り下ろされて悦に浸る変態に教育し直してから、街中に吊るしてあげる。人形にはふさわしい末路よね」

 狂ったように笑いながら、歩み寄ってくる敵影を、晶は霞む目で睨み付ける。

 距離が縮まるにつれて、相手の威圧が高まっていく。恐ろしい力を感じる。あのローブの内側に、いったいどれほどの呪力を内包しているのだろうか。

「今は大人しく、寝てなさい!」

 晶のすぐ傍にまでやってきた魔女が、足を上げた。晶を踏みつけるつもりなのだろう。だが、晶は、それを甘んじて受け入れるつもりは毛頭なかった。じっと地に伏して敵が明らかな隙を生むその時を見計らっていたのだ。

「御手杵。来て!」

「なに?」

 晶が叫び、敵はキョトンとして動きを止めた。まさか、相手に反撃する力が残っているとは思わなかったのだろう。

 晶の呼びかけに応えた大槍が、跳ね上がる。穂先を魔女の背中に向けて宙を飛んだ。

 人の扱う武器ではあるが、その穂先はカンピオーネが権能で生み出した《鋼》で形作られている。圧倒的な力を見せ付けてきたこのローブ姿の敵も、この槍だけは危険視していたのだ。

「く、こんなので、あたしが倒せるか!」

 虚を突かれながらも、反転し、迎撃に出る。足を下ろしてから飛びのくのでは遅いと判断したのだ。振り上げていなかった軸足を半回転させ、槍と向かい合うように体勢を変えた。必然的に晶に背を向けることになる。敵に背後を見せるのは、戦において悪手でしかないが、この魔女は晶を敵とも思っていない。だから、警戒心もなく背中を見せた。

 晶は、跳ね起きた。うつ伏せになっていたから、立ち上がるのも容易だった。痛む身体をおして駆使するのは、転移の術。

「ッ!?」

 魔女の顔は見えないが、息を呑んだことは理解できた。

 それもそうだろう。目の前に迫っていた凶器が忽然と姿を消せば、誰だって、目を見開くほど驚くに決まっている。

 気にかかるのは、消えた槍の行方。背後で、大量の風が、呪力とともに収束するのを確かに感じた。

「木偶人形、貴様!」

 振り向いたときには、すでに晶は槍を突き出していた。

 穂先に風が纏わりつく。渦巻く烈風。白銀の刃を取り巻く、無数のカマイタチが、一点に集中する。

 突き出される槍は、ローブのど真ん中に吸い込まれ、惜しげもなく、風を解き放った。

वा(バー)!」

 晶が口にするのは風天の種字。吹き荒れる風が、ローブを切り刻む。

「ああああああああああ!!」

 悲鳴をあげる魔女。受けた攻撃の衝撃に耐え切れず、大きく後方に吹き飛んだ。地面を転がる姿は、少し前の晶と同じようだ。

「はあ――――――はあ――――――」

 息は荒く、心臓は破裂寸前だ。晶は、それでも敵を見据えて槍を構えた。

「この、よくも。木偶人形のくせに」

「人のことを木偶人形木偶人形うるさいんですよ。わたしには高橋晶という立派な名前があります」

「は、はは。まさか、あんた。嘘でしょ、くく、あはは! 滑稽ね。本当に、滑稽だわ! そんなことだからあんたは木偶なのよ!」

 突然、腹を抱えて笑い出した魔女に、晶は不快そうに眉根を寄せた。

「どういう意味ですか?」

「さあ、どうだろうねえ。あんたが、あたしのペットになるって言うのなら教えてあげても―――――――」

 と、言葉を切った瞬間、その場に流星が降り注いだ。黄金の閃光は、派手に呪力を爆発させ、ローブを切り裂き、駅のホームを粉々に砕き割った。

「あ」

 晶が声を漏らした。見紛うことなどありえない。これは、まさしく護堂の権能だ。

 振り返る。

 視線の先に、護堂が立っていた。

 貫かれた胸から下は、鮮やかな赤に染まっている。しかし、その瞳は依然として力強い。

「そっか、若雷神」 

 なぜ、失念していたのか。護堂には死の淵からでも蘇ることのできる、奇跡のような回復力があるではないか。

 ストン、と晶は膝から崩れ落ちた。緊張から一気に解き放たれて腰が抜けたのだ。

「心臓抉られて復活するなんて、やっぱり神殺しは化物だわ」

 魔女は生きていた。纏うローブは形を失い、影か煙のようにその身を包んでいる。あのローブですら呪術で生み出したものだったのだ。

「あんたはなんだ? 神祖か? 兄の仇ってのは、どういうことだ?」

「さあ、どういうことでしょうね。答える義理はないわね」

「そうか。じゃあ、死んどけ」

 冷厳な口調で、護堂は槍を投げた。晶の使う槍と同じ形状なのに、その力は別格といってよい。さすがに、心臓を抉り出されたことは、温厚を自負する彼をして敵対象の抹殺を最優先させる事柄だった。

 一条の閃光と化した槍が、着弾。爆発する。

「さすがに神殺しと正面から戦う愚は犯さない。縁があればまた会いましょう。異国の神殺しと巫女、そして愚かな道化! 願わくば、あなた達の旅路に騒乱と不幸があらんことを!」

 不吉な文言を残して、黒いローブは霞と消えた。

 

 

「ありがとう、晶」

 へたり込む晶の隣に、護堂がやってきた。

「お礼なんて言わないでください。わたし、何もできなかったんですから」

 声がか細いのは、自らの無力を嘆いているからだ。そんな晶の頬を護堂は軽くつねった。

「ひたいです、せんひゃい」

「そんな顔すんな。お前のおかげで、回復する時間が稼げたんだ。晶がいなかったらどうなってたかわからん。とりあえず、今は胸を張ってくれ」

 護堂は晶の頬から手を離して、その手を頭に軽くおいた。

「先輩」

 晶は胸に迫る様々な思いで喉を詰まらせた。 

「う、うぅ―――――――」

 そして、泣いた。ついに、感情の処理能力が限界を迎えた。護堂が生きていたことで、安堵したから、抑えきれなくなったからだ。

 晶は、この時、実に数年分もの涙を流した。




さて、そろそろ春休み課題をしようか。
明日から頑張る暦二週目。さすがにヤバイ。


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四十五話

 サルデーニャ島は、イタリア半島の西方に位置し、周辺の島々とあわせてサルデーニャ自治州を構成している。この島は、地中海ではシチリア島に次いで二番目に大きな島である。

「やっと、やっとたどり着いたぞ。サルデーニャ!」

 うおおお、と護堂は意味もなく気炎を上げる。

 イタリアを訪れてからこの地に来るまで、紆余曲折がありすぎて、数十年もの月日が流れたかのようだ。二柱の神と死闘を演じ、剣の王には腹を貫かれ、挙句の果てに心臓を見ず知らずの少女? に引きずり出されて喰われた。これが、ここ数日の間に発生したイベントだ。

 泥を被り血にまみれた夏休み。

 これが、日常になりつつあることに愕然とするしかない。カンピオーネになって、まだ三分の一年。たったそれだけの期間で、いったい何度死に掛けたことか。これまでは運よく乗り越えてきたけれども、この先もこれが続くのであれば、人生長くないかもしれない、などと真剣に将来を不安視していたりする護堂だった。

 そんな護堂にとって、なんの用事(戦闘)も予定されていないサルデーニャ島訪問は、正真正銘のバカンスに他ならない。戦い続きで、消耗した心身を癒すのに、最適だ。

「この前来た時は言葉が分からなくて苦労したけど、カンピオーネになった今、そんな心配もない。全力でこの休みを謳歌するぞ!」

 護堂はカンピオーネであり、殺し殺される立場にあるが、それでも男子高校生という肩書きを忘れていない。

 夏休みは遊んでしかるべきだと考えているし、遊べない夏休みなど、夏休みではないと思っている。よって、護堂の夏休みは、今日、この日から始まると言っても過言でない。

 もちろん、転生者だから、精神的にも、もういい歳だ。しかし、大人だろうが子どもだろうが、長期休暇を楽しむことに変わりはない。

「盛り上がってますね、先輩」

「ゆっくり休めるのは、久しぶりですからね」

 空に向かって拳を振り上げる護堂を、後ろから眺める祐理と晶。

 その頬は、汗の雫に濡れている。時に四十度を上回る真夏のサルデーニャは、ヒートアイランド現象にも慣れ親しんだ東京人にしても耐え難い暑さだ。景観は、まさに南国。光る海、青い空、降り注ぐ太陽光に灼熱の風。石造りの古い街と、新興のコンクリートの町並みが、見事に合致してまったく新しい景観を生み出している。

 取り壊れている古いアパートを眺めていた晶が、看板に目を向けた。

「カリアリは、大規模な再開発の真っ只中みたいですね」

「ああ。そのうち、このカリアリ港も閉鎖されると聞いた」

 閉鎖されたカリアリ港の機能は、新たに作られる新カリアリ港に移されることになっている。

 その都市計画を後押ししていたのは、この春に起きた、原因不明の災害だった。

 いくつもの建物が倒壊し、死者も出た事件は、世界的な関心を誘った。もっとも、その背後にある真実を知るのは、極限られた世界の中にいる者だけだ。

「先輩も関わっているってことですか?」

「俺が戦ったのは、サルデーニャじゃない。シチリアだ。ここを荒らしたのはウルスラグナとメルカルトであって俺は無関係だ」

 もともとあった都市計画。そこに、ウルスラグナとメルカルトの争いが加わって、アパートの建築や都市の整備が急務になったのだ。

「プロジェクトの責任者はこれ幸いと開発に着手したんでしょうね」

「表向きは建物の老朽化が原因だとしているのもあるからなあ。まあ、上手いことやったって感じか」

「老朽化物件は、こんな風に崩れますよ、と宣伝してますからね」

 晶は、少し前に見たテレビコマーシャルを思い出してそう言った。コマーシャルを利用して住民の理解を得ようとしているのだ。『まつろわぬ神』によって生じた被害を、都合よく利用するのは、実に強かなやり方だ。

「それで、これからどのように行動するのでしょう?」

 祐理が、汗をタオルで拭きながら尋ねた。白いワンピースと麦藁帽が、彼女が持つ和の雰囲気によく映えている。旅行用の赤いスーツケースと、小さな桃色のポーチが、彼女の手荷物だ。

「そうだな。とりあえず、ホテルに向かうのは確定だな。あとはどうするか」

 護堂は頭を掻きながら虚空に視線を向けた。

「やっぱり、心臓を抜かれたのが痛かったな。おかげで日程がずれた」

「あの、今の『痛い』はスケジュール上の問題を言っているんですか?」

「そうだけど?」

「いえ、なんでもないです。ただ、草薙さんの異常性を再認識しただけです」

 呆れたのか、諦めたのか、祐理はため息交じりにそんなことを言う。心臓のことは、護堂の中では一応の決着を見ているらしい。彼の行動を見ると、心臓は、これといった問題もなく回復したようだ。

「異常性って、そこまで言うのか?」

 などと、護堂は反駁しようとするが、自分の身体がどれほど強靭で、常識はずれなのか、ここ数日の行動を閲しても否定できる要素のほうが少なかったので、声は自然と小さくなった。

 そもそも、心臓を抜き取られて復活した男が、反論する術を持つはずがないのだ。

「とりあえず、歩きましょう」

 晶は、自分の麦藁帽を首の後ろに引っ掛けて、快活な雰囲気を出している。深緑色のタンクトップにデニムのショートパンツは、普段の彼女に比べればやや露出度が高い。それでも、すれ違うイタリア人女性の多くが似たような服装だったので、取り立てておかしいわけではない。ラテンの国のファッションに比べたら、これでも露出は控えめだ。

 いつまでも、港を眺めているだけというわけにもいかない。

 とにかく、荷物をホテルに預けなければならない。

 草薙護堂一向は、歩いて十分ほどのところにある、港近くのホテルに向かって歩き出した。

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 港から東に海沿いを歩く。通りの名はクリストーフォロ・コロンボ通り。

 最も、海沿いの大通りだ。ブロッコリーのような形の大きな街路樹が道の真ん中に植えられている。カリアリは大きな都市だ。交通量もとても多い。さすがはサルデーニャ自治州の州都だ。

「わたし、サルデーニャってもっとこう、田舎っぽいところだと勝手に思ってました」

「田舎だぞ。カリアリが発展してるってだけ。一歩街の外に出たら田園が広がっているからな」

 それを田舎と称していいのか、わからないが、大きな都市はこのカリアリくらいしかない。そういう意味で他の地域は田舎だ。事実、ルクレチアの暮らしているオリエーナは人口が一万人に満たないこじんまりとした街だったし、他の地域も似たようなものだ。

「まあ、都市だからいいってわけでもない。路面が熱を持つから気温も高い。海が見えるから、マシに思えるけどな」

 潮風を全身で感じながら、護堂はそう言った。

「あれ、そういえば万里谷も晶も体感温度を下げる術が使えるんじゃなかったか?」

 護堂は、以前、学校の屋上で昼食を摂ったときに祐理と晶がそんな術を使っていたことを、ふと思い出した。

 晶は、頷いて、

「使えますよ。でも、屋外で使うとなんとなく夏っぽくなくて嫌なんですよね」

「わたしも、そう思います。あまり、多用するのは身体にもよくありませんし」

 祐理も、晶も今は術を使っていない。そのため、護堂と同じように汗をかいている。

「学校で使ってたじゃないか」

「学校は人がいっぱいいますし、身だしなみに気を使うんですよ」

「はあ、そういうことなのか」

 屁理屈のようにも聞こえたが、女子と男子の意識には確かな違いがある。近年は男子も汗の臭いを気にかけたりもしているが、それでも女子には劣る。こういう意識の違いに下手なつっこみを入れるのは、不必要な反感を買うだけだというのは、男子暦前世込みで三十数年になる護堂はよく知っていた。

 

 ――――――もうおっさんじゃないか。

 

 厳然たるその事実に、護堂はギョッとした。いや、身体は十六だから、まだセーフなはず、と自分に言い聞かせる。 

「どうしました?」

 僅かにフリーズした思考。その隙間に祐理が入り込む。

「あ、いや。なんでもない。少し、ぼうっとしてた」

「そうですか。気温も高いですし、水分もきちんと摂らないとダメですよ」

「熱中症とかじゃないから大丈夫だ。俺よりも、万里谷とか晶のほうが気をつけないとダメだろ」

 カンピオーネは頑丈だ。水分不足がどの程度コンディションに影響するか試したことがないが、一般人や呪術師と同じではないだろう。いざとなれば、大気中から水分を集めてでも、水を確保しようとするはずだ。この身体は、そのような作りになっている。

「心配してくださるのはありがたいのですが、草薙さんは、大量の血を流されたばかり。体調管理はきちんとしていないと――――――きゃッ!?」

 祐理が、小さな悲鳴を上げてよろめいた。

 背後から来た、金髪の男性がハンドルを握る自転車が、追い抜き様に祐理に引っかかったのだ。

「危ねえな! あのヤロウ!」

 祐理を受け止めた護堂は乱暴な口調で罵倒した。自転車は少しだけバランスを崩して地に足をつけたが、こちらに謝罪をすることなく走り去ろうとしている。

「万里谷、大丈夫だったか?」

「はい、なんとか。引っかかっただけですから」

 祐理は、笑みを浮かべて無事を知らせてくれた。自転車は利便性の裏に危険性を内包した道具だ。勢いよくぶつかれば、人の骨程度簡単に折ることもできる。祐理の身体は、平均的な女子高生のスペックしかもたない。晶であれば、受身を取るなり、なんなりできるのだが、祐理にはそんな芸当など、できるはずがない。

「あれ? 万里谷先輩。ポーチ……」

「え?」

 晶に言われた祐理は、ふと、手元を見る。

 そこには、あるはずのものがなかった。

 財布やパスポート、身分証明書などの旅行必需品の尽くが入った桃色のポーチがなくなっていたのだ。

「えと……」

 祐理は、不思議そうに、何もない手の平を眺め、

「ひ、ひやああああ!?」

 叫んだ。

 

「まさか、さっきの自転車か!!」

「ひったくり!! なんて最低なヤツ!!」

 護堂と晶は一斉に振り返る。

 祐理にぶつかった自転車は、すでに三十メートルは離れていた。

「その自転車、ひったくりです!!」

 晶が大きな声で叫ぶ。もちろん、イタリア語を使ってだ。呪術師は、幼いころから特別な方法で言語感覚を養う。他国の言葉であっても、一般人に比べて習得は早い。

「問題ない。すぐに捕まえる」

 護堂は走り出すことはない。その代わり、呪力を高めていく。

「狙った相手が悪かったな。ひったくり!」

 そして、地中を雷速で移動する土雷神の化身を使おうとした、そのときだった。

「あんたが、犯人か、このコソドロがァ!!」

 遠くからでもはっきりと聞き取れるほどの大きな怒声が護堂たちの耳朶を叩いた。

 さらに、それと同時に、逃走する自転車の真横から飛び込むように現れた少女が、華麗なとび蹴りを窃盗犯に喰らわせたのだ。

 自転車に乗っていた金髪の男は、もんどりうって倒れ、自転車は派手に横転した。

 倒れた自転車の籠から、祐理のポーチが路上に投げ出され、それによってあの男が犯人だということが確定した。

「うわ、痛そう」

 晶は、口元に手をやって、犯人に同情した。

 それほどまでに、自転車の倒れ方は凄まじかったのだ。窃盗犯の男は、未だに立ち上がれず、うめき声を上げている。かなり、打ち所が悪かったようだ。

「まあ、いい気味だと言えば、それまでなんだけどな」

 少女に足蹴にされて自転車から転げ落ち、腰を強打して動けなくなったところを通行人に写メを取られる。いっそ哀れにも思えてならなかった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

「ありがとうございます。助かりました」

「気にしないで。アイツ、この辺りでスリを繰り返してた常習犯なんだ。あたしの友だちも財布、盗られちゃってね」

 祐理のポーチを取り返してくれた少女は、そう言って笑った。言葉は、なんと日本語である。

 絹糸を紡ぎ、星を織り込んだかのように綺麗な銀髪を肩口で切りそろえているが、不思議なことに、その髪は見る角度によっては、澄み切った空色にも見えた。黒曜石色の瞳は、正面から見ると吸い込まれてしまいそうだ。群青色のチューブトップにショートパンツ姿で、快活な印象は、どことなく晶に通じるものがある。足元はヒールの高いレディースサンダルを履いているが、それでも祐理よりも少し高いくらいなので、身長は低めだ。

 晶も、文句なしの美少女であるが、目の前の少女は、通常のそれとは一線を画す完成度だ。まるで、美しくあるように定められているかのごとき容貌。外見だけではない。ただ、彼女がそこにいるだけで自然と周囲の視線が引き寄せられる暖かい雰囲気を醸し出している。そんな、魅力溢れる少女だった。

 その少女が、祐理の顔を覗きこむようにして、言った。

「でも、あなた呪術師でしょ? あっさり、スリに引っかかっちゃダメじゃない」

 あっさりと、『呪術師』という単語が出てきたことに、護堂たちは驚いた。

「え? えと、もしかして、あなたも?」

「ま、そんなとこ。生まれはシチリア。ここには、二ヶ月前に来たんだ。まあ、呪術師って言っても、あたしは人様に自慢できるような腕前じゃないんだけどね。家業のおまけみたいな感じだから、本当に基本を齧っただけ。あ、そうそう、あたしのことはエンナって呼んでよ」

 人好きのする笑みを浮かべて名乗った少女に、祐理は毒気を抜かれたようになった。

「はい、そういうことでしたらエンナさんと。その、よろしく、お願いします。わたしは、万里谷祐理と申します。それと、こちらの方が、カンピオーネの草薙護堂さん。そして、わたしの学校の後輩の高橋晶さんです」

 祐理が自己紹介と護堂、晶の紹介をする。

「カンピオーネ!? え、本当に!?」

 しかし、エンナは最後まで話を聞いていなかった。一瞬だけ固まった後、目を大きく見開いて叫んだ。それから、慌てて口を両手で塞ぎ、周囲を見回してから、

「ほ、本物?」

 と、尋ねてきた。

「ああ。正真正銘のカンピオーネだ」

 護堂は首肯して、自身がカンピオーネであることを認めた。

 思えば、これまでは、護堂がカンピオーネだということを相手が知った状態で出会うことが多かった。護堂がカンピオーネだと、知られないうちに出会った祐理でさえ、そうとわかった途端、恭しい態度を取ろうとしたものだ。敬われるのは、慣れていない。軽度の不快感すら抱く。だから、こんな風に、自分のことを知らない人と出くわすのも新鮮だと感じた。

 エンナは、おろおろとしながら、

「え、えーと、こういうときはどういう対応をすればいいんだったっけ……あ、そうか。とりあえず、握手とサインを頼めばいいのか。そういうわけでお願いします」

「え?」

 なにやらずいぶんと慌てている様子のエンナは、勝手に自己完結すると、右手を差し出してきた。

 護堂も、まさかこのような対応をとられるとは思っていなかったので、虚を突かれてしまった。まじまじと、差し出された右手を見て、それから握手に応じた。

「じゃあ、サインもついでに」

 どこからか、色紙を取り出したエンナは、護堂の前にそれを差し出した。ご丁寧に、サインペンまで用意している。

 頬肉を引きつらせた護堂は、サインペンを手に取った。

 だが、そこでやっと流れに追いついてきた晶が割って入る。

「ま、まってください! 何やってるんですか? 握手にサインって、先輩は芸能人ですか!?」

「え、でもカンピオーネって呪術界の有名人でしょ?」

 エンナの表情を見る限り、冗談で言っているわけではなさそうだ。どうやら、このエンナという呪術師は、カンピオーネという存在がどのようなものなのか、正しい知識を持っていないようだ。

「確かに有名人ですけど、一番重要なところを根本的に間違っています!」

「マジ?」

「超マジです!」

 両目に『真・剣』の二文字を浮かべて、晶は迫った。

「まず、カンピオーネの方々は、そんじょそこらの芸能人やら有名人やらとは訳が違います。あなただって神殺しの異名くらい知っていますよね?」

「そりゃ、もちろん」

 エンナは、自信満々に頷いた。答えが返ってくるのに、一秒とかからなかった。何も考えずに、反射で肯定しているのではないだろうかと思わせるほどの即答だった。

「じゃあ、なんでそんな風にいきなり軽く接してるんですか!!」

 あっさり、肯定したエンナに、噛み付くように晶が吼えた。カンピオーネは、呪術世界では王とまで呼び称えられる存在だ。その人となりを知っている祐理や晶ならばともかくとして、初対面で軽々しく接してよいものではない。晶には、護堂に強い王として振る舞って欲しいという願いがある。だから、このように、敬意の欠片も感じない接し方を、呪術師にされるのは、気に入らない。

「いや、まあまあ、晶。いいじゃないか、別に」

 しかし、これといって思うところのない護堂は、鷹揚な態度で、これを認め、晶に自制を促した。

「先輩、しかしですね。相手が先輩だからいいものの、もしも、これがヴォバン侯爵とかだったらどうしますか? この人、会って三秒で塩の塊になること間違いありませんよ!」

「それは、極端な例だろう……」

 尻すぼみになってしまうのは、護堂も否定しきれないからだ。

 極端な例とは言うものの、ヴォバンは数十人のホテルマンたちを塩の柱に変えるという暴挙を気まぐれで引き起こした人物だ。万が一にも、彼女がヴォバンを相手にして護堂に取ったのと同じ対応をすれば、十代半ばで、その人生に幕を引くことになるに違いない。

「でも、クサナギ=サンからは、噂に聞くカンピオーネのような傍若無人っぷりは感じないけど?」

 おお、いい事を言う。と、護堂は、エンナの評価を嬉しく思った。面と向かって、このような高評価を得たのは初めてだ。護堂とて人の子。誉められて嬉しくないはずがない。

 しかし、そんな護堂の様子に、ムッとするのは、晶だった。

「いいえ、それは勘違いです。先輩だって、カンピオーネ。暴れるときは暴れま――――――」

「おい、コラ」

 護堂は晶の脳天に手刀を落とした。

「あう」

 小さく声を漏らして、晶は、言葉を切った。

「ううー。痛いじゃないですか、先輩」

「お前、せっかくの高評価を貶めるようなことを言うんじゃない」

 言いながら、護堂は、晶の左の頬を軽くつねった。

「ごめんなひゃい。先輩」

「ん」

 護堂は、晶の頬から手を離した。晶は、護堂につねられて少しだけ赤くなった頬を、揉み解した。

 二人の様子をエンナは興味深そうに眺めている。

「へえー。あなたたち、ずいぶんと仲いいみたい。付き合ってんの?」

「ほあ!? な、なんで、そうなるんですか!?」

 晶は、顔を羞恥で赤くすることになった。

「そりゃあ、今のを見てたらそう思うでしょ? ねえ?」

 エンナは、祐理に同意を求めた。

「え、ええ。確かに、今のお二人の行動は、他の方に勘違いをさせてしまうのも仕方がないと思います」

 祐理から同意を得ることができて、エンナは満足げに頷いた。そして、くわ、と目を見開いて、護堂と晶を指差した。

「聖書にだって『客観的に自分をみれねーのか、バーカ』と書いてある!」 

 モトネタを知らない護堂は、聖書とはなんなのかと唖然とし、晶はボソッと、

「ジョジョリアン……」

 と呟いた。

「第八部と思わせて、エイリアンの仲間っぽく呼ぶのは止めて」

 エンナはそう言いながらも、嬉しそうに頬を緩ませている。

「と、まあ、それは置いといて。あなた達、これからどうするの?」

「これから? そうだな。これから、荷物をホテルに置くことまでは確定しているんだけど、そこから先は、まだ未定ってところだな」

「じゃあ、暇ってこと?」

 護堂は頷いた。

「それなら、カルチェットしようよ。カルチェット」

「カルチェット?」

 祐理と晶が首をかしげた。聞き覚えのない言葉だったからだ。

「フットサルのことだろ? イタリアにはプロリーグもあるって聞くぞ」

「そうそう。クサナギ=サンの言うとおり。フットサルフットサル。そっちじゃ、こう言うのが一般的だったか」

 エンナは、斜め前を指差した。車道を挟んで赤茶けた建物が立ち並び、そのさらに向こうには海がある。

「あそこに、フットサルコートがあるの。あたし、これから友だちとフットサルをするから、もし時間があるのなら、一緒にどうかな、と思って」

「やる」

 護堂は即答した。

 考えるまでもないことだ。草薙護堂の青春は、勉学とサッカーに費やされたのだから。彼にとって、サッカーはスポーツの代名詞。意味もなく野球部をライバル視していたあのころが懐かしい。

「お、もしかして経験者とか?」

「去年までな」

「そりゃ、心強い。面白くなりそう。アキラ=サンとマリヤは?」

「わたしは、サッカーできないんで、見てます」

「わたしも、運動はちょっと……」

 祐理と晶は、そう言って断った。未経験で、見ず知らずの人、それもサッカーを日頃からしていると思われる人とするのは勇気のいることだ。祐理に関して言えば、そもそも運動のセンスが致命的に欠けている。彼女にとって運動音痴は、コンプレックスになっている。

「そう、残念。でも、ま、ギャラリーがいてくれたほうが盛り上がると思えばいいかな。それじゃ、案内するね」

 エンナは護堂の手をとって、歩き出した。

「は?」

「え?」

 置いてけぼりを食った祐理と晶が、非難がましい視線を向ける。

 しかし、エンナは、まったく意に介さない。護堂を引っ張ったまま、ずんずんと歩を進めていった。

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

「なんなんだ、アイツは」

 護堂はついついそんなことを口にする。

 彼が辿り着いたのは、人工芝の屋外フットサルコートだった。すでに、人数は集まっていて、屈強な男が六人、背の高い女が二人。そこにエンナと護堂を合わせて十人となる。

「おう、エンナ。遅かったじゃねえか」

 リフティングをしていた男が、話しかけてきた。

「ひったくりと格闘してたの。ダイナミック・エントリーを叩き込んでやったわ!」

「おおう、そりゃイカシテルぜ! で、そこのアジア人は誰だ?」

「彼、クサナギ=サンっていうの。旅行者よ。そこで知り合って、誘ってみたの」

「ほう、なるほど。そりゃ、好都合だ。エンリコの野郎がまだ来てねえからな。代わりがいてくれるのは助かる。これで、ちょうど、五対五の試合ができる」

 もともと、小柄なエンナは、護堂よりも背の高い男たちや、百七十センチはあろうかというラテン美女たちに囲まれると、姿が見えなくなってしまう。人を隠すなら人の中、という言葉を否応なく思い浮かべてしまう。

 その後、赤いゼッケンと青いゼッケンの二チームに分かれて試合をする運びとなった。エンナとは、チームが分かれた。

「クサナギ=サンっていったか。フットサルの経験はあるのか?」

 クセのある赤毛を短く刈り上げたジャンは同じチームだ。護堂の一つ上で、地元の学校に通う学生だ。

「半年くらい前まではサッカーをしていた。訳あって辞めたけどね」

「そうか」

 と、だけ、ジャンは言った。もしかしたら、何か訳アリで、サッカーを辞めたと思われたかもしれない。

「別に怪我とかしたわけじゃないぞ」

「なんだ、そうなのか。気ィ遣って損したぜ」

 ジャンは、からからと屈託なく笑う。誰とでも仲良くなれる気質は、日本人が思い描くラテン系のイメージに完全に合致する。

「ところで、あのエンナって何者なんだ? 聞いた話だと、二ヶ月前にここに来たみたいだけど」

 護堂は、ポジションに向かいながら、ジャンに尋ねた。

「なんだ、お前、エンナに興味があるのか?」

「変に受け止めないでくれ。ただ、気になっただけだ。ひったくりにダイナミック・エントリーを叩き込む美少女なんて、滅多にお目にかかれないしな」

「ははは、まあ、確かに、そんなことすんのはエンナくらいのもんだな」

 ジャンは、その光景を思い浮かべたのか、思いっきり笑っている。普段の彼女が、どれほど破天荒に振舞っているのか、ということが窺える。

「エンナなあ。アイツ、二ヶ月くらい前にふらっと来てな、この辺に住み着いたのよ。学校に行ってるわけじゃないみたいだから、詳しいことは知らん。ただ、人当たりがいいだろ? お前みたいに、出会い頭にいきなりアイツに誘われて、以降、常連になった連中ばっかさ。ここにいるのは」

「外見に釣られたってことはないのか」

「ああ、まあ、それもある。なんせ、超美人だろ? 少女のように愛らしく、それでいて男を知っているかのような妖艶さを併せ持つ。俺は、初めてあったとき、ウェヌスがこの世に降臨したのかと思ったくらいだ」

 確かに、エンナの容貌は、女性が持つ美しさや可愛らしさという概念の結晶のようなものだ。エリカやリリアナも、イタリア人の中では飛びぬけて美しいが、エンナは彼女たち二人をして太刀打ちしがたい魅力がある。

 ウェヌス、という表現も、あながち否定しがたいものがある。

「まあ、あれだ。アイツが敵チームになったからには、覚悟を決めなきゃならん」

「ん。どういうことだ?」

「そりゃ、あれだ。ウェヌスじゃねえ。どっちかっていうと、アイツはミネルウァだな」

 ミネルウァ。つまりは、アテナ。美の女神たるウェヌスではなく、戦の女神であるアテナを例に出したということは、彼女の実力は相当なものなのだろう。

「なるほど、心しておく」

 つい先日、そのアテナ(本物)と激闘を繰り広げた護堂は、アテナと称されるエンナの実力に俄然、興味を抱いた。

 

 

 

 そして、護堂は思い知ることになる。

 圧倒的な才能の差。吹き抜ける旋風の如き銀糸が、フィールドを所狭しと駆け巡る。

 ボールは足に吸い付いている。味方へのパスは針の糸を通すかのようで、一度としてパスミスをすることがない。そのドリブルは、まさに変幻自在。時に雷のように鮮烈に、時に絹糸のようにやわらかい。

「大道芸か」

 そう、言いたくなるくらいに、飛びぬけた技量だ。

「ロナウジーニョみたいなことをしやがる」

 エンナは、ボールを自由に扱っている。エンナが右へ行けば、ボールも右に、左へ行けばボールも左へ向かう。身体とボールは常に一緒に動き、片時も離れることがない。友だちなんてものではない。もはや、ボールは、彼女の肉体の一部になっている。

「行くよ、クサナギ=サン」

 三人をごぼう抜きした、エンナは、最終ラインの護堂を目掛けてドリブルを始める。護堂は、チームの最後の砦である。ここで、護堂が抜かれてしまえば、後はキーパーとの一対一。その時点で、得点されたも同然の状態となる。

「やらせるかよ!」

 そのため、絶対に護堂は抜かれるわけにはいかないのだ。

 護堂は腰を落とし、重心を安定させ、ボールの動きを注視する。

 彼女のドリブルは速い。あっという間に目の前に迫る。

 シュートコースは、護堂が身体で塞いでいる。ディフェンスの基本だ。これによって、エンナは左右のどちらかに、ボールを動かさなければならない。パスの選択肢はない。敵の他の選手は、彼女の高速ドリブルについてきていない。エンナは一人、突出して右サイドを駆け上がっていく。

 驚くべきは、大の男を上回るほどの運動を、ヒールの高いレディースサンダルでこなしていることである。

 

 あまりにも実力差のある相手だ。それをどうにかするには、確かな隙を突くしかない。狙うとすれば、彼女がボールに足を触れた直後。その一瞬は、ボールが身体から離れる上に、次の動きをするには、一歩を踏み出さなければならない。人体の構造上、この時ばかりは、無防備になる。

 その一瞬を見逃さないように、しっかりと見た。そして、彼我の距離が三メートルほどになったとき、エンナは、右足のアウトサイドで、ボールに触れた。

「ここだ!」 

 護堂はすぐに対応した。

 エンナは右にボールを動かした。護堂から見れば、左側を抜けて行こうというのである。だから、すばやく左足を出してボールを弾く。

「え?」

 しかし、次の瞬間、エンナが飛び出したのは護堂から見て右側だった。予想を完全に裏切られる形で、護堂は抜き去られた。

 ボールも彼女とともに右を抜けていく。

 護堂は内心で舌打ちをする。今のは、鮮やかなフェイントだった。

 ボールはエンナのアウトサイドで、押し出された。そこに護堂は反応したのだが、その直後、ボールを押し出したエンナの右足は、地に着くことなくボールの右側に回り込み、インサイドで反対方向に切り返したのだ。

 エラシコ。

 ポルトガル語で輪ゴムを意味する、高等テクニックだ。

 エンナは、内側に切り返したボールを、その流れのまま、左足のアウトサイドで押し出す。こうすることで、実質二歩で、護堂を抜き去ったことになる。

 重心移動、ボール運び、フェイントを仕掛けるタイミング。どれも、文句のつけようがないほど、完璧だった。

 が、護堂とて、経験者としての意地がある。加えて、彼はカンピオーネ。勝負事で発揮する集中力や粘り強さは、尋常のものではない。

「なんのおおおお!!」

 吼える護堂はなりふり構わず、エンナを追う。シュートを撃たれる前に追いつき、コースを塞ぎ、かわされては喰らいつく。ディフェンスの鑑であった。

 

 

 

 そして、試合は終わった。

 何度か、チームのメンバーを入れ替えて計八試合を行った。

 いつの間にか日が暮れている。コートはナイター用の照明に照らされている。

 火照った身体は、大量の汗を噴出して、なんとか熱を放出しようとしている。

「お疲れ様でした。草薙さん」

 祐理が、冷たいミネラルウォーターが注がれたカップを渡してくれた。

「ああ、ありがとう」

 護堂は、それを一気に飲んだ。身体の内側に、冷たい水が溶け込み、一体化するのを感じた。護堂の身体は、乾燥した砂漠の砂かと思うくらい貪欲に、水を欲した。

「いや、やるね。クサナギ=サン」

 タオルを首にかけたエンナが、やってきた。運動の直後で、白い肌が、桜色に染まっている。

「そっちこそ、ずいぶんと上手いんだな。サッカー」

「ははは、勝負事は昔から得意でさ。負けず嫌いって言うか」

「相当練習したって事か」 

 とにかく、負けるのが嫌だから練習するタイプか。そういう人は、プロのスポーツ選手でも多い。彼女は、持って生まれた才能を、努力で磨き上げてきたのだろう。

「じゃあな、エンナ」

「また試合しましょう」

 集まったエンナの友人たちが、帰っていく。

「あたしたちも帰らないと。ここ、もうすぐ空けなくちゃいけないし」

「そうか、じゃあ、とりあえず外に出るか」

 エンナが言うには、そろそろ借りている時間が過ぎてしまうとのことだ。それを超えると延滞料を払わなければならない。護堂たちは、このままホテルに向かえばいいので、帰宅の準備をする必要もない。着の身着のままで、コートを後にする。

「今日は、楽しかったわ。クサナギ=サン」

「こっちこそ、いい息抜きになったよ。ありがとうな。時間もちょうどいいし、夕食、一緒にどうだ?」

 時刻は、八時を回ったところだ。運動後ということで、ほどよい空腹を感じている。

「デートのお誘い? 見かけによらず、積極的なんだ」

「違うよ。せっかく、知り合ったのに、ここでバイバイってのも、つまらないだろ」

「ふうん、そういう手口なの」

 と、エンナはクスクスと笑ってから、そう呟いて訳知り顔をする。

「いや、残念だけど、あたしは帰るわ。これから用事もあるし、それに、馬に蹴られるような愚は犯さない」

 エンナは、護堂の後ろに視線を向ける。

 そこには、三白眼で、護堂を睨む、幽鬼の如き人影が二つ。黙して語らず。ただ、視線で非難の意思を伝えていた。

「それと、これは忠告と思って聞いて」

 エンナは、それまでの明るい表情から、神妙な顔つきに変わる。

「なんだ、改まって」

「いや。カンピオーネだから大丈夫だと思うけど、実は最近物騒でさ。特に男性は、夜間の外出を控えた方がいいよ」

「なんだ、それ。どういうことだ?」

「猟奇殺人」

 エンナは、不穏な単語を口にする。それだけで、真夏の暑さが、吹き飛んだかのような気がした。

「猟奇殺人?」

「そう。被害者はみんな、男性。十代後半から三十代前半まで。シチリアと、サルデーニャで頻発している、男狙いの連続殺人よ。遺体は、原形もとどめないくらいに破壊されつくしたものが多いらしいんだけど、特徴的なのがね、必ず一つ、臓器がなくなってるってこと」

「臓器が、ない?」

 エンナは、首肯する。

「検視結果が全部公表されてるわけじゃないけどね」

 彼女は何を思ったのか、海の方を向く。建物に邪魔されて、海そのものは見えない。しかし、潮騒は確かに、耳に届いている。

 いったい、何に思いを馳せているのだろうか。

「あなたが噂どおりのカンピオーネなら、臓器を抜かれるようなヘマもしないんでしょうけど、一応報告ね」

「お、おう。そうだな」

 カンピオーネであるが、心臓を抜かれた男には、本当に胸に来る台詞だった。

「じゃあ、また、縁があったら会いましょう」

 そして、淡い笑みを浮かべたエンナは、夜の街に消えていった。

 



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四十六話

 ルクレチア・ゾラの住まいは、サルデーニャの内陸部。オリエーナという風光明媚な街だ。街の周囲は田畑に囲まれていて、上空から見れば田畑の海に、オリエーナという小島が浮かんでいるかのようになる。

 とはいえ、それほど田舎というわけではない。確かに、背の高いビルはないし、若者が集う歓楽街もない。しかし、寂れているというわけでもなく、日本にも普通にありそうな、郊外の住宅街だった。

 強いて違いを挙げるなら、どの家も外壁が真っ白なのと、屋根が赤茶色に統一されているということくらいか。

 もちろん、小さな路地などに入れば、日本とはまったく趣きの異なる石の街が広がるが、今護堂たちのいるところからは、そういった異国情緒は感じられなかった。異国慣れしたからだろうか。

 すぐ近くに、大きな岩山が見えるのは、日本の都市部ではあまりない光景だろうが、ここはそれも相まって落ち着きと風情を持った静かな街並みを形成しているのだ。

 さわさわと、街路樹が風にそよぎ、木漏れ日が揺れる。

 気温は高いが湿度は低い。適度な風もあるおかげか、不快さを感じるほど体感温度が高いわけではない。

 護堂は一行の先頭を歩いていた。

 ルクレチアの家には春休みに一度、訪れている。あの時は、道に迷い、大変な思いをしたが、今回はそのような目に逢うこともない。

 人通りの少ない通りを歩く。

 人口が一万人に満たない小さな街だからか、あまり人と出くわすこともなかった。

「あまり、人がいないんですね」

「みんな冷房が効いた部屋から出たくないんだろうな」

 街並みを眺めている晶に護堂が答えた。

「近くに、娯楽施設でもあれば別なんだろうけど、それもないからな」

 バスでこの街を訪れてから三十分ほど経っている。

 汗もかいてきたし、そろそろ足も疲れてくる頃合だ。祐理など、先ほどから歩くことに集中して会話に入ってこない。体力に難があるために、すでに疲労困憊といった様子だ。

「万里谷。もうじき着くから、それまでがんばれるか?」

「はい、大丈夫です。草薙さん」

 健気に頷く祐理だが、息が上がっているのは隠しきれない。麦藁帽子の影に隠れた顔には、玉のような汗が滲んでいる。

 いざとなれば、どこか休める場所を探し、水分を補給する時間を設けないといけないな、と護堂は考えた。体力のある護堂や晶ならばまだしも、祐理は体力に自信がないことをコンプレックスにしているくらいなのだから。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 ルクレチアの家は街外れの森の中にある。

 年代物らしい雰囲気の石造りの小さな家で、庭もあるようだが、手入れはまったくされておらず、雑草が元気よく天に向かって背を伸ばしている。

 春に来たときよりも、ずっとひどい状況になっている。

 傍から見れば、ただの荒れ家であり、人が住んでいるなど思いもしないだろう。それほど、この家は生活感がなく、虚無的な雰囲気を漂わせている。

 ただし、家の中から漏れ出る呪力までは完全に消しきれない。

 カンピオーネに成り立ての頃は、そんなことにも気がつかなかった護堂だが、この濃密極まりない数ヶ月の間に、大きな成長を遂げたのだ。

 まさか、呪力などという、ファンタジーの力を知覚して、自然に受け入れてしまえるまでになるとは思わなかった。

「ここですか?」

「ああ、ここだ」

「いかにも、魔女の家、と言った感じですね」

 晶が身を乗り出すようにしているのは、早くルクレチアに会いたいと思っているからだろう。晶は、どうにも高位の魔女であるルクレチアに憧れを抱いている節がある。

 護堂がインターホンらしきボタンに手を伸ばしたとき、ギイィ……と軋む音とともにドアが開いた。

「ようこそ、少年。と、その友人たち。そろそろ来るころだと思っていた」

 ドアが開いた先にいたのは、背の高い妙齢のラテン系美女だった。

 すらりとした長い手足に、くびれた腰。圧倒的とも思える胸のボリューム。文句の付け所のない完璧なプロポーションは、護堂の背後に立っていた少女二人を打ちのめすには十分な威力を持っていた。

 ルクレチアは、祐理と晶のほうに視線を向ける。

「君たちとは初めてだな。わたしがルクレチア・ゾラだ」

 祐理と晶は、悲鳴にも似た驚愕の叫びを上げた。

 

 

「やれやれ、あそこまで驚かれるとは心外だ」

 だらしなくソファーに寝そべる家主は、祐理と晶にそう言った。

 イスに腰掛ける二人は、恐縮したように縮こまっている。

 それも無理からぬ話で、祐理も晶も護堂からルクレチアについての詳しい話を聞いていなかったのだ。特に容姿に関しては、『護堂の祖父と同年代』という護堂から得た情報と、凄腕の魔女という既有知識が合わさって勝手に老女の姿を想像していたのだ。

「まあ、わざとわたしのことを伝えていなかった少年にも非があるのだろうがな」

「わざとじゃないですよ。単に忘れていただけです」

 護堂はしれっと、ルクレチアの視線を受け流した。

 呪力が至純の域に達した魔女は、己の若さを保ち続けることができるという。イタリアはイギリスに並んで西洋魔術の本場とも言うべき国だが、そのイタリアにあって二十代の容姿を維持し続けることのできる老魔女が何人いるか。魔女の資質そのものが先天的な才能に由来するものであり、それはさらに血統にも関わる重大なもの。個々人の努力ではどうにもならない先天的な素質に左右される。

 魔女の才を持つ者の絶対数が非常に少ない上に、極めることも難しいとなれば、ルクレチアがどれほどの才覚を有する魔女なのかわかるというものだ。

「それで、そろそろ、君たちのことを教えてもらいたい。一応、少年からは愛人を二人連れてくると聞いているが」

「ふぇ!?」

「愛!?」

「言ってないです、そんなこと! 万里谷、晶。信じるなよ、この人は面白ければあることないこと平然と言う人だ!」

 びっくりするなあ、と護堂は一瞬で上がった血圧を下げるために深呼吸をした。

 今のは、皮肉を軽く受け流されたことに対する意趣返しのつもりなのだろうが、心臓に悪い。祐理も晶も大切な仲間ではあるが、そこから踏み込んだ関係になったことは一度としてない。原作と違い、護堂は未だにキスもしていないのだ――――と、本人は思っている。

「ふむ、少年よ。王たる者がそう取り乱すものではない。冗談で言ったつもりが、うっかり真実を掘り起こしてしまったのではないかと疑ってしまうではないか。いや、すまない。わたしにも失言というものはあるのだ。せめて失言を失言だと思わせないように配慮してくれてもいいのではないか?」

「だから、そんな事実はないと言っているんですがね!」

 突飛な上に自由人。

 己の道をひたすら行くルクレチアは、護堂がカンピオーネであることなど歯牙にもかけない。

 彼女にとって、護堂はかつて憎からず思っていた友人の孫であり、自身にとっても孫の世代だ。転生者として、同年代の二倍は生きている護堂でも、ルクレチアはそれよりも年上なのだ。人生経験においても劣っている上に、小市民的な護堂は年上をきちんと敬うし、祖父の友人に敬意は表す。そして、ルクレチアもそんな護堂の性格を知り尽くしているからこそ、あえて(・・・)このような態度で接しているのだ。

 つまり、二人の関係は、護堂の無意識下の要求を、ルクレチアが意識的に読み取って構築されたベストなものなのである。 

 もっとも、その主張を免罪符にして護堂をからかおうという意思もルクレチアには少なからず存在しているので、最適解というわけではなかったりするが、護堂は現状をこれといって不快に思っているわけではなかった。

「話を戻そう。彼女たちが何者なのかということを語って聞かせて欲しい」

 話を逸らしたのは誰だ、と思いながら護堂が祐理と晶を紹介した。

 祐理と晶と共に、これまで潜り抜けてきた修羅場の数々も、この機会に話して聞かせた。

 ルクレチアは、その一つ一つに興味を持ち、耳を傾けた。

 彼女は、護堂の話を理解し、その優秀な頭脳で護堂がどう話すべきかと思案しているところ的確な意見で言葉を引き出し、時に冷やかしを加え、時に独自の見解を述べた。

 

 

 

 ルクレチア・ゾラは『地』を極めたと称される魔女で、護堂の祖父と同年代でありながら、二十代の若々しい外見を保持している。

 若さの保持は、呪力が至純の域に達した魔女の特権だという。

 護堂と知己のある者では、ほかにヴォバン侯爵などがそれに当たる。彼は魔女ではないが、カンピオーネとしての極めて強大な呪力をその身に宿している。

 外見は老いて見える。が、ヴォバン侯爵は三世紀に渡り君臨する魔王だ。人よりも老化速度が遅いことがわかる。

 また、まだ面識がないが、中国の廬山に居を構える羅濠教主は、ルクレチアと同じく二十代の美貌を維持する老カンピオーネだ。その齢は二百年を超えるとされる。

 不老。

 それは、科学技術の分野では未だに人跡未踏の領域だが、呪術の世界では驚くほどのことでもないらしい。

 もっとも、ルクレチアの本分は、別に不老の術というわけではない。若さを保つのは強い呪力があれば誰にでも可能な術だ。それが一流の魔女の証ともされるし、ルクレチアの場合は容貌が非常に優れているのでそちらに意識を取られがちになるが、彼女は高位の魔女なのだ。その本質は呪術にあり、真に価値があるのは、長き研究の積み重ねによって蓄積された膨大な知識のほうだ。

「しかし、少年も災難だったな。心臓を抉り出された上に食われるなど、大抵の人間は未経験の領域だ」

 話を聞き終わった後のルクレチアの感想はそんなものだった。

 イタリアに来てから、さまざまなことがあった。

 アテナとペルセウスを相手に、サルバトーレとコンビを組んで戦ったことに始まり、そのサルバトーレと命を懸けた殺し合い。一段落したかと思った矢先に心臓を抉り取られて食われるという大事件に遭遇する。

 思い返すだけでもなぜ、この場所に立っていられるのか不思議になるくらいの壮絶な日々だった。

「普通の人間は死にますからね。そりゃ、経験がなくて当たり前です」

「だが、少年は生きているではないか。ふふ、少し見ない間に、ずいぶんと魔王らしくなったものだな」

「そうですね」

 否定しようのない現実だ。

 心臓を抉られたからには死んでいなければおかしいわけで、それでも生きているのであれば、それは人間というカテゴリーから逸脱しているということになる。

「なに。世の中にはクマムシなどという生物もいる。生命力が強いことは誇るべきだろう」

「今の発言のどこに誇れる要素がありますか?」

 以前、どこかのだれかにゴキブリと比較されたことがあったが、今度はクマムシか。

 宇宙空間で直接太陽光線を浴びて、それでも復活するという生物としてどこか間違っている生物と同列に扱われるのも、嫌だ。

 嘆息する護堂は、特に声を荒げることもなく冷静に指摘した。

「なんだ、つまらん。以前の少年のほうがおもしろかった。男子三日会わざれば刮目して見よというが、劣化してはどうしようもないな」

「いつまでも子どもではないということでしょう。半年も経てば、慣れますし、ルクレチアさんに会うとなった時点で、いろいろな覚悟をしてきているんですよ」

「ほう、大人になったと? 女を知らぬチェリーボーイだろう?」

「よけいなお世話です! それに、十五、六で経験があったら、それこそ問題でしょうが!」

「一郎は、十五の時には、すでに経験していたようだが」

「うおおお……身内にいたぁ」

 忘れていた事実を思い起こし、護堂は頭を抱えそうになった。

 そう。護堂の祖父は、希代の女誑しとして武名を馳せていたのだった。

「そもそも、少年の家系は女性関係に奔放な家系だと聞く。わたしとしても、君にそういう傾向があるのではないかと期待しているのだ」

「そんなこと、期待しないでください」

 これから、数日の間。このように弄られ続けるのかと思うと、両肩に重い荷物が圧し掛かっているかのような気持ちになった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 ルクレチアの傍にいるのは、なにかと疲れる。 

 女性だらけということもある。今さらではあるが、ルクレチアのように、それを面白がる人間と同じ家に暮らすとなれば、精神的な疲労を感じてしまう。

 護堂は、散歩と称してその場から撤退した。

「いわゆる《蛇》というのは、まつろわされ、零落させられた女神たちに与えられる属性(・・)のことだ」

 護堂が外出している間、ルクレチアは二人の巫女を相手に講義を行っていた。

 どのような流れでそうなったのかは定かではない。夕食の最中に、呪術に関する質問が晶からルクレチアに投げかけられたのがきっかけだったのかもしれない。

 祐理と晶にとって、ルクレチアは偉大なる先達だ。膨大な知識を蓄え、また、それらを覚えているだけでなく、得た知識を正しく我が物として、より深く考察する頭脳を持つ。

 カンピオーネと共に行動する二人には、必然的に一定水準以上の呪術の知識と技能が求められている。

 そのため、日頃から呪術の研究や鍛錬を行わなければならず、そうなってくると独学でやっていくには厳しい。そんな状況だから、祐理も晶もルクレチアから得られるものはどんどん吸収してしまおうと、いつも以上の集中力で食い入るように話を聞いていた。

 それに、世界的に有名な魔女に教えを請うなどという贅沢は、そうそうできることではない。

 祐理や晶でなくても、呪術に関わり、ルクレチア・ゾラの名を知る者ならば、彼女に教えを請いたいと思うのは自然な流れだろう。

「そう、あくまでも属性だ。同じく、《鋼》も属性に過ぎない。数ある神話類型の中のペルセウス・アンドロメダ型神話に相当する武神と女神の間に成立する関係を言い表したものだな。だから、武神イコール《鋼》ではないし、竜イコール《蛇》でもない。そもそも、討伐されるのは竜ではなく単なる怪物だ。それが変わったのはキリスト教の影響が大きいな。キリスト教では竜は、邪悪な存在として扱われているからな。そこから討伐される怪物たちは竜として描かれるようになったのだ。まあ、断言するには至らないが、中世以降のヨーロッパでは顕著な流れだろうな」

「でも、日本にもアンドロメダ型神話はありますよ」

 晶の疑問に、ルクレチアは頷いた。

 キリスト教の影響をそれほど受けることのなかった日本にもアンドロメダ型神話があるということが、この話をややこしくする最たるものだ。

「スサノオと八岐大蛇が代表例だな。神話は民族や国家の歴史を反映するというが、あの神話を作った者はなかなか苦労したようだな。ああ、そんなことはいいか」

 自分で広げようとした風呂敷を畳みなおし、ルクレチアは話を続ける。

「わたしはかつて日本に留学していた時期があってな、アーサー王伝説に関係して日本の神話も調べたことがある。記紀神話は大陸の影響が多分にあるな。イザナミとイザナギの創世神話は儒教的だ。ニニギノミコトがコノハナノサクヤヒメを娶る際の話は、バナナ型神話に属するし、アマテラスは、少し捻ってあるが太陽の船型神話とでも言おうか、その類の話に当てはまるのだろうな」

「バナナ型神話は、確か、神から石とバナナの二者択一の問いを投げかけられた人間が、食べられるバナナを選んだことで寿命のある生物になってしまったという話ですよね」

「うむ、その通りだ晶嬢。ここでは、石が不老不死を、バナナが脆く腐りやすい生身の肉体を指し示しているわけだ。旧約聖書における知恵の樹と生命の樹の説話もそうだな」

「ニニギのところはなぜバナナ型なのですか?」

「あれは、コノハナノサクヤヒメとイワナガヒメがそれぞれバナナと石に対応し、コノハナノサクヤヒメは天皇家の繁栄を、イワナガヒメは天孫の不死性を表している。だが、それに気づかなかったニニギは結局、見目麗しい妹のコノハナノサクヤヒメだけを妻とし、イワナガヒメを送り返してしまったから、天孫は寿命を得てしまったという話だ」

「それでは太陽の船型神話というのはどういうことなのでしょう?」

 今度は、祐理がルクレチアに質問した。

「太陽の船型神話というのは、あくまでもわたしや一部の研究者が仮で呼んでいるだけだから、聞き覚えがないからといって恥じることはないぞ。これはな、西に沈んだ太陽が、東の空から昇る理由を古代人なりに考えて生まれた神話でね、代表例はエジプトのラーだ」

「太陽の船というのは、確かラーの乗り物だったかと。ピラミッドのすぐ近くから、それらしきものが発見されたとテレビで放送していましたが」

「ああ、それもある。ラーは日の出、日中、日没後で姿の変わる神でな、夜は雄羊の姿で船に乗り、死の世界を旅するとされている。そのときにラーが乗る船がいわゆる太陽の船。夜の間に東へ向かう、隠れた太陽の動きを表しているのだ。他にも、ギリシャのヘリオスなども日没後は黄金の杯に乗って海洋を東へ渡るというし、太陽神は、東から昇って西に沈む、太陽の運動を現す伝説を持つ場合が多い。そういえば、北欧神話のソールもそうだったな」

「でも、アマテラスは太陽の運行にはほとんど関わりがありません。どちらかというと、光の神としての側面が強いような気もします。天岩戸の話くらいではないでしょうか、太陽らしい話は……。とすると、太陽の船には当てはまらないのでは?」

 晶が言うように、アマテラスには太陽神らしい話はあまりない。太陽神としてよりも、皇祖神としての活躍のほうが目立っているようにも思われる。

 天岩戸伝説は、そんなアマテラスの神話の中で数少ない、アマテラスが太陽と関わりがあることを示すものだ。

「天岩戸。スサノオを恐れたアマテラスが、ヒッキーになったために世界が闇に覆われた話だったな。あれは、日没というよりも嵐に覆われた天。もしくは日食を表していると考えたほうがいいだろうな。原因はスサノオなわけだし。この神話によって、アマテラスはスサノオを追放するだけの力を得る。神々の中の頂点に君臨することを確かめるための儀式にも思えるな。まあ、それはいいとして、太陽の船との関わりだな。アマテラスは、君が指摘してくれたように、太陽神でありながら、太陽の運行を表す話はない。なぜなら、アマテラスは沈まぬ太陽(・・・・・)だからだ」

「沈まぬ太陽?」

「自然崇拝の日本人が、そのような不自然な神格を生み出したことも興味深いが、まあ、これは単純に、皇祖神でもあるアマテラスが、沈むのはまずいということだろうな。太陽は永遠に輝くもの。沈むなんてことは絶対にない。なぜなら、太陽が沈むということは、夜――――すなわち死の世界が現れるからだ。ラーが夜に旅をするのは死の世界だとさっき言ったな。夜は死に通じる時間帯だ。当時の政治家としては、アマテラスがそこに関わるのはなんとしても避けたかった。実際、アマテラスは巧妙に死から遠ざけられている。夜の神である月読とは、永遠に顔を合わせることはなく、その誕生には黄泉の王であるイザナミは関わらない。三貴神は父親の禊から生まれるのだからな。まあ、そんな風に試行錯誤して生まれたアマテラスは、決して沈まない太陽。日中の一瞬を切り取った、特異な太陽になったわけだ」

 祐理と晶が聞き上手だったことと、ビールが入ったことも手伝って、ルクレチアはいつも以上に饒舌だ。

「とはいえ、太陽の船型神話が日本にないわけではない。福岡県にある珍敷塚古墳の壁画には太陽と共にゴンドラ型の船が描かれている。この船は、記紀神話のアメノトリフネとの関わりを指摘されている」

 その古墳が作られたのは六世紀の終わりごろ。記紀神話が編纂されるよりも百年以上も前のことだ。それはつまり、記紀神話以前の世界、つまり縄文由来の神話の中では、太陽と船が密接な関係を結んでいたことになる。

「アメノトリフネ。つまり、トリノイワクスフネノカミですね。神産みのところで、イザナミとイザナギの間に生まれた、世界を渡る鳥の神にして船の神。そうしますと、この神と太陽神の関係が気になりますね」

 祐理に対し、ルクレチアは微笑んだ。

「ここまで来れば、さほど悩むことはあるまい。アメノトリフネは神話の中で様々な役割を演じるが、この神が最初に行ったことはなんだったか、知っているか?」

 そして、ルクレチアは、祐理と晶に問いを投げかけた。

 祐理と晶は、少しひるんだようにしたが、即座に頷いた。

 続いて晶が、ルクレチアの質問に答える。

「神産みのところで、ヒルコを流すことですね」

 そこは、日本の媛巫女。記紀神話の概要くらいは頭の中に入っている。驚くべきは、異国の神話にまで考察を巡らせる、ルクレチア・ゾラの知識量だ。

「ヒルコは、古事記では、イザナギとイザナミの間に最初に生まれた子。日本書紀では、必ずしも最初ではありませんが、古事記同様、身体に問題を抱えていて、流されてしまうことは共通していますね」

 祐理が、晶の答えに補足を加える。

「つまり、ヒルコとアメノトリフネが、それぞれ太陽と船の関係で結ばれているということでしょうか?」

「そうだ。ヒルコとはつまり、日の子だ。この話では、アマテラスはオオヒルメという名で現れる。ヒルメは日の女と書く。アマテラスが女性太陽神なら、ヒルコはこれと対を成す男性太陽神となるだろう。そして、アマテラスが日中に輝く太陽を象徴すると同時に、ヒルコは日没後の、海に沈む太陽の役割を与えられた。皇祖神としての太陽神には必要のない、船で旅をするという役割を押し付けられた――――古代の太陽神ということだな」

 ヒルコが流されるというのは、太陽が船に乗って旅をする神話類型に合致していて、さらにアマテラスを頂点とする日本神話において、それ以前の太陽神を追放するという意味合いを持たせているのだ。

 ヒルコが、アマテラスたちよりも前に生まれるのは、『二神の最初の子どもが出来損ない』という神話類型に当てはめた結果だろう。

 もっとも、日本書紀には複数のバージョンが存在するし、古代のアマテラスが男神だとする説もある。しかし、ここで重要なのは、政治上の都合で成立した日本書紀で、古い太陽神が流されているということだ。

 ヒルコの正体は、明確な文書として残っているわけではない。

 日本の古代を記した文字資料が、極めて少ないからだ。当時の習俗を知るためには、記紀神話や風土記などから推測するしかない。

「さて、そんなわけでアマテラスは《鋼》の英雄神すらも追放する名実共に最強の太陽となるわけだが、このアマテラスが本来は蛇神であるとする意見もある」

 そこで、一旦言葉を切って、

「《鋼》を追放するだけの力を有する蛇。これでアマテラスが《蛇》の属性をもっていたら、アンドロメダ型神話が成り立たないわけだ。少なくとも、すべての蛇、竜が《蛇》の属性を持つわけではないということは頭に入れておいていいだろうな」

 ルクレチアは、話疲れて喉が渇いたのか、ジョッキに並々とビールを注ぎ、一気に飲み干した。

 《鋼》と《蛇》の属性は、討伐する神と討伐される神という関係が成立して初めて与えられるものだ。そのため、そういった神話なり伝承なりがなければ《鋼》の属性も《蛇》の属性も持つことはない。

「日本では、八岐大蛇伝説がアンドロメダ型の代表と言ったが、逆に言えば、それくらいしか主だったアンドロメダ型神話がないということでもある。ヤマトタケルも似た神話を持つが、これも記紀神話だ。記紀の外に、竜退治を求めるのは、難しい。見つけようとすれば、それこそ、民間伝承レベルにまで下がることになる」

「まあ、日本には神話と呼べるものは記紀と風土記くらいしかありませんし……」

 晶の言うとおり、日本神話は、ギリシャ神話のように物語としての発展がなかった。それは、民族・宗教としてのあり方が、記紀神話成立以降もほとんど変わらなかったからかもしれない。天皇家に関わる神話を、勝手に解釈して文学化することは、当時の日本人には考えられなかったことだろう。

「キリスト教で竜が悪となったのは、聖書の神の敵対者が竜の姿で現れるからだ。そこから、竜と悪魔は同一視され、特に中世以降、竜は悪の代名詞にまでなった。一方日本では、竜神信仰が未だに残っているくらいだ。竜は悪ではなく、水の守護獣と認識されることが多いな。蛇口という言葉があるくらいだしな。討伐される役目は竜ではなく、別の存在に置き換えられた」

「鬼、ですね」

「そう、鬼だ。もしくは妖怪。零落した神々の成れの果てとする説もあるな。まあ、とにかく、日本では強い、悪いの代名詞は鬼だ。よって、伝説の中で退治されるのも鬼になる。少年が倒した源頼光が《鋼》の軍神なのは、酒天童子が、討伐される《蛇》の属性を持っていたからだ」

 護堂の得ている権能は、現在四つ。

 ガブリエルから簒奪した『強制言語(ロゴス)

 火雷大神から簒奪した『(エイト・アス)(ペクツ・オブ)(・サンダーボルト)

 源頼光から簒奪した『神便鬼毒酒(フォッグ・オブ・ザ・インタクシケイション)

 一目連から簒奪した『武具生成(アームズ・ワークス)

 賢人議会の会員のみが見ることのできるウェブページには、カンピオーネたちの情報が掲載されている。

 ルクレチアも、暇なときにはここに目を通し、護堂の情報を取得していた。

「そういえば、少年は《蛇》の権能も持っていたな。火雷大神から簒奪した権能。まあ、あれが《蛇》かどうかは議論する必要があるだろうが、驚異的な生命力があるそうだな」

「蛇神から奪った力ですから。日本には、今でも蛇信仰はありますし」

 白蛇は縁起がいい、とか言う話はよく聞く。

 晶が言いたいのはそういうことだった。

「ふむ。聞いた話では、少年は心臓を抉り出されて瀕死の重傷だった。……サルバトーレ卿との戦いの直後で疲労困憊、呪力も心もとないという状況だ。果たして、そんな状態から即座に復帰することができるのか」

 よく分からないと、首を捻る晶の隣で、ビク、と震えたのは、祐理だ。

 人生経験が豊富かつ、人をからかうことが大好きという困った魔女は、その僅かな身じろぎが自論を裏付けるに足る証拠になると察した。

「やはり、治癒を施したか。そうだな、一方が敵と戦っている最中、自分だけが何もしないわけにはいくまい。かといってできることといえば、怪我を癒すことくらい……」

「ル、ルクレチアさん! あの、その話は」

 祐理が顔を赤くして、止めに入る。状況を理解していない晶には、何がなんだか分からない。なんとなく、胸騒ぎがして、ルクレチアに説明を求めた。

「ルクレチアさん。今のはいったいどういうことでしょうか?」

「ん? 少年が心臓を抜かれた時のことだ。君は正体不明の敵と戦っていただろう?」

「え、はい。そうです。負けちゃいましたけど……」

「うむ。その時に、万里谷嬢が何をしていたかと言うと、少年に治癒魔術をかけていたのだよ。ちゃっかりな」 

「はあ……あれ、でも、カンピオーネには呪術が効かない。ま、まさか!」

 晶が勢いよく立ち上がった。イスが後ろに倒れるのも気にかけない。思い当たったのは、彼女にとっては最悪のシナリオ。だが、しかし考え付くのはそれしかない。

 頬を赤く染めて言葉を失っている祐理を見れば、確信せざるを得ない。

「ま、万里谷先輩。草薙先輩に、キキ、キ、キスしましたね!」

 呪力を弾くカンピオーネに術をかける方法。

 広く知られているものとしては、経口摂取がある。つまり、口付けである。

「あれは、そういうふしだらなものではありません! た、単なる人工呼吸のようなものです!」

「そ、それでもキスはキスだし!」

「応急処置だから、ノーカウントです!」

 祐理は腕でバッテンを作って必死に否定しようとする。

 祐理からすれば、緊急事態だったのだから仕方がない。カンピオーネに呪力を渡し、治癒を促進するためにはああするしかなかった。晶もそれは分かっているが、キスをしたという事実が気に入らない。偏に感情の問題だ。

 かみ合うはずのない平行線の論議に、水を差すのはルクレチアだ。

「話は簡単だ。そんなに羨ましいのなら、君もしてしまえばいい」

 二人はほぼ同時に固まって、

「す、するって……!」

「キスをすればいい、と言っているのだ」

「な、なんでそんな話に。できる訳ないじゃないですか!」

「いいだろうキスくらい。こっちじゃ初めて会った相手でもするぞ、挨拶で」

「それ、日本じゃ犯罪ですよ」

「カンピオーネなら、犯罪ではない。向こうをその気にさせてしまえば公然猥褻だろうが猥褻物陳列罪だろうが合法だ。況やキスをや」

「なんてこと言ってんですか!? というか、況やの前と後の次元が違いすぎますけど!?」

「いや、そんなことはないぞ」

「キスと猥褻物陳列罪を同列扱いですか!?」

 あまりの言いように、晶の言葉も荒くなる。

 冷静沈着で、落ち着いた大人の女性。そんなイメージを抱いていたというのに、それが、一挙に瓦解してしまった。

 ルクレチアと晶の言葉の応酬で、祐理はすっかり蚊帳の外だ。そのことに、ほっとしつつ飛び火しないように心から願った。

 そして、その時、玄関から物音がしたので、そちらを振り向いた。

 少しして、ドアが開き、護堂が入ってきた。

「ただいま戻りましたー。……なんの騒ぎだ?」

「あ、いえ。お気になさらず」

 と、祐理が取り繕おうとしたところで、

「ほら、帰ってきた! お帰りのちゅーから始めよう!」

「だから、そういうこと言うの止めてくださいよ!」

 ルクレチアが、キース、キースと連呼。晶は、そのコールを必死に止めようとしている。これは、まさに合コンのノリだ。ルクレチアの足元には、ビールの空き缶がいくつも転がっている。

「ルクレチアさん、もしかして目茶苦茶酔ってる?」

「あ、そういえば、お話されている間に、ずいぶんと飲まれていたような……」

 夢中になって話を聞いていたから、そこまで気にしていなかった。どこかで止めていれば、この惨状はなかったかもしれないのに。

「わかった。君がそこまで言うのなら、仕方がない。わたしが一つ、手本を見せてやろう」

「は? ちょ、ちょっと、何を言って……先輩逃げてーーーー!!」

 ルクレチアが衣服に手をかけ、危険を察知した晶がそれを阻止しようと飛びかかり、護堂はわけも分からないままに、自室へ戻ることを促され、祐理はどのように事態を収拾すべきか頭を悩ませた。

 

 




どうも、お久しぶりです。
一月以上ぶりになりますか。間を開けてしまって申し訳ありませんでした。私、実は教育学部の人間でして、もうすぐ、あの時期に突入するということで準備のために忙しくしておりました。ゼミの発表とかもありましたし。とりあえず六月終わるまで、気が抜けない状態が続いておりますので、これから先も不定期になります。始めるまでにもう一度くらい更新したい。

ちなみに、このssのラストは決まってますので、そこまではちゃんと持っていくつもりです。


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四十七話

 草薙護堂は、いわゆる転生者だ。それも、この世界の魂が別の肉体で生まれたのではなく、別世界から入り込んできたイレギュラーだ。

 この世に生まれたその瞬間に自我が蘇り、名づけられた時に、愛読したライトノベルの世界だと気がついた。

 当初は戸惑いもあったが、護堂自身に何ができるわけでもなく、天から降ってきた第二の生を甘受しつつ、後々の身の振り方について頭を悩ませる少年時代を過ごし、予定調和的にカンピオーネへと生まれ変わった。

 いまだに誰にも、その事実を口にしたことはないし、これから先も口外することはない。理由は簡単で、そんな与太話を信じてくれる人間など、いるはずがないからだ。

 夢と現実の区別のつかない子どもであれば、周囲の人間は微笑ましく思ってくれるだろうが、さすがに、高校一年生にもなって、自分は前世の記憶がある、などと言ったものなら、白い目で見られた挙句精神病患者扱いされて病院送り――――とまではいかないものの、重度の中二病発症者として、認知されかねない。それは、精神年齢四十を超えた人間にとって、屈辱以外の何物でもない。大人な護堂は、自分を客観的に見ることができる冷静さを持っているのだ。

 そんな草薙護堂の長年の疑問。

 この世界に生まれ落ちて十六年。問いを持ち続けながら、解答の糸口すらも見出せない超難問がある。

 

 『なぜ、この世に生まれてきたのか』

 

 ということである。

 人間が生きるうえで、直面する、生きる意義を問うものでありながら、生涯をかけても解答を得られるかどうかわからない究極の命題。

 人としての存在意義(レゾンデートル)の確立と、自我の生成及び維持に必要不可欠な要素である。

 普通の人々であれば、それほど意識することもなく日常を過ごすだろう。思春期などは、この問題に絡めて精神的に不安定になる者もいるが、そこを乗り越えて、人間は大きく成長する。とはいえ、護堂にとって、生まれた意義を問うという行為は、決して通過儀礼的な物ではない。前世の記憶がある。普通ではありえない、転生という経験をしてしまったからこそ、その転生に意味がなければならないという思いを抱いてしまう。いや、むしろそれは願望に近い。意味があって欲しいという願いだ。ただの偶然で生まれ変わるなど、悪い冗談だ。たとえそれが、己の生きる意味でなくてもいい。とにかく、転生という事象に対する、一定の答えが欲しい。

 とはいっても、一介の学生である護堂にそんなことを追究するだけの能力も力もない。そもそも、そのような形而上の思想を追いかけてそれなりの結果を出したところで、倫理の教科書に出てくるような思想家の仲間入りを果たすだけだ。

 転生さえしなければ、ただひたすらに考えるだけで済んだかもしれないが、実際に我が身で体験してしまうと、転生が実在する現象だと認識してしまう。転生があるかないかを問う倫理学的、宗教学的思想の領域を外れて、転生そのものの原因を追究する自然科学的思考の領域に突入している。そして、もしも原因がわかったら、今度は実践も可能かという話になる。

 なぜ、草薙護堂として、この世に生まれたのかという問いがもつ二つの側面が、護堂の頭を悩ませる。

 一つは、存在意義の確立のための倫理学的側面。

 もう一つは、転生が現実的に起こりうるものなのかという科学的知見を求める側面。

 両者ともに、解答を得ることは困難を極める。

 そもそも、『魂』なるものがこの世に存在するのかどうかすらも分からないのだ。下手をすれば、草薙護堂のもつ前世の知識そのものが、まったくのまやかしなのかもしれない。そうなると、もはやアイデンティティーの崩壊にまで直結しかねない重大事になってしまう。

 だが、しかし。不幸中の幸いというべきか、怪我の功名というべきか。護堂は、カンピオーネとなったことで、一つの確信を得るに至った。

 それは、少なくとも、この世界の中には『魂』(・・・・・・・・・)という概念が存在するということだ(・・・・・・・・・・・・・・・)

 それは、ヴォバンの権能が、他者の魂を拘束し、使役する権能だったことや、死と再生の神の存在。呪術という異質な技術体系などから想像できた。特に、ヴォバンの権能『死せる従僕の檻』は、ゾンビに他者の意識をコピーしているわけではなく、完全に魂を使役していたことは、護堂に魂という形而上の存在を確信させるのにはうってつけだった。

 それに、原作では沙耶宮家には、先代当主の幽霊が出現していた。この世界の、魔術業界ではある程度幽霊が認識されている。

 そして、護堂はこうも思う。

 ヴォバンのように魂を支配する権能があるのなら、死んだ人間を別人として生まれ変わらせる権能も存在するのではないか?

 ありえない話ではない。

 死んだ後に蘇る権能だってある。原作の護堂がそうだった。

 死ぬことと消滅することは同義ではなく、肉体の死の後にも、意思総体としての魂は残ると考えれば、それに干渉する権能を用いれば、生まれ変わりという現象を引き起こすことは可能なのではないだろうか。

「なるほど、生まれ変わりか……」

 その夜、護堂はルクレチアとともに、外に出ていた。祐理と晶が就寝したころを見計らってのことだ。

 ルクレチアの夜風にそよぐ亜麻色の髪が、月光を吸って輝いているようにも見えた。

 真夏の夜は、文字通りの熱帯夜。風は生ぬるく、絶えず身体を火照らせるが、月が出ているためか、視覚的な涼しさを感じることができた。

「少年が呪術の世界を生きる上で定めた課題というところか」

「そんな大それたものではないですけど、気になるので」

「いいや。大それたことだと思うがね。少年自身、そう思っているからこそ、わざわざ我が家を訪ねてきたわけだし、あの二人にも聞かれないように夜中を狙ったわけだからな」

 護堂がルクレチアの家を訪れたのは、彼女が護堂の知る中で最も呪術に精通している魔女だからだ。それに信用もできる。祖父、草薙一郎が呪術者と知らず友誼を結んだ相手なのだから、人格的にも問題はない。

「雷となって移動する権能といい、呪術への探究心があることといい、少年は黒王子を彷彿させるな」

 黒王子とは、アレクサンドル・ガスコインというイギリスに本拠を置くカンピオーネのことを指す。

 まだ、護堂との面識はないが、今の流れでいけば、後々関わらざるを得ない相手となるだろう。

「生まれ変わりが現実に存在するか否か……ありえなくはない、という答え方しかできないな。少年にとっては不服かしれんが」

「いえ、そんなことは。でも、魂が存在するのは確かなんですよね」

「魂か。それを、どのように捉えるかで、答えも変わってくる。世の中には幽体分離という魔術もある。自らの意思総体を宿した呪力の身体を構成する術だ。少年が、以前戦ったヴォバン侯爵は魂を隷属させる権能の持ち主。幽霊なるものが、実際に確認されている。なるほど、確かにそう考えれば形而上の物と思いがちな魂も、存在することになるかもしれないな。それが、観測できるかどうかはわからないが、机上においてはあると言うことができる」

 ちなみに、ここで言う幽霊と魂は、イコールではない。

「まるでダークマターですね」

 自分で口にして、しっくりきた。魂とは、そういうものだと。

「周囲の観測結果から存在することは確かだが、それそのものは捉えられないもの……ダークマターという喩えは的を射ているな」

 ルクレチアも、ダークマターという表現を気に入ってくれたようだ。

「魂があるのなら、生まれ変わりという現象が起こるのも必然と言えるか。だが、そうなるとあの世という概念も存在してもおかしくない。ふふ、触れてはならぬ領域に手を出しそうで恐ろしいな、この命題は」

 と、ルクレチアは一人呟いてから、

「本当に偶然、極低確率で通常の魂の流れ――――いわゆるあの世への旅路から外れた魂が、この世で新たな生を受け、且つ生前の記憶、人格を保有する。生まれ変わりが発生するとすれば、それ以外にはないな。少なくとも、人為的に転生を成功させたという話は聞かないな」

「そうですか」

「なに、そう気を落とすこともない。そも、学問を究めるには時間がかかるものだ。形而上の物を捉えようとするのなら尚のこと。幸いなことに、少年はカンピオーネだ。人間の呪術や科学ではどうにもならない命題も、権能を用いれば何とかなるかもしれないぞ。それに、『まつろわぬ神』という規格外もいる」

 『まつろわぬ神』

 神話の世界から抜け出してきた、正真正銘の神々たち。

 神話にしろ、宗教にしろ、死後の世界を語る話は多い。つまり、『まつろわぬ神』は、魂に対して、人間以上に詳しいと考えられる。

 死後の魂を裁く閻魔大王のような神格もある。そういう魂に関わる神ならば、もしかしたら人間の転生を可能とするかもしれない。

 異世界の魂にまで、この世界の権能が干渉するのかどうかという問題は残るが、これはこれで一つの解答例だ。

 そして、同時に、もしも人間を転生させる権能が存在するのなら、自分以外にも転生を経験している人がいるかもしれない。

 そう思えるだけでも、成果としては上々だった。

「結局、少年の求めた答えになっていないだろうが」

 ルクレチアは、そう独りごちた。

「そんなことは、ないですよ」

「嘘はいかんな。この程度の答えくらい、少年も導き出していただろう? そもそも、少年は初めからわたしから得られるものには期待していなかったように見えたしな」

「なぜ?」

「理由はない。そんな気がしただけだ。さしずめ、自分の推論が正しいかどうかを確認したかっただけなのだろう? 自分の考えを他者の意見で裏付けたいという気持ち、分からなくもない」

 図星を突かれて、護堂は何も言い返せなかった。

 確かに、『まつろわぬ神』や権能に答えを求めていた。呪術で転生を実現できないのなら、神々やカンピオーネが振るう力くらいのものでなければならないという結論に達するのは当然のことだ。

「すいません」

「別に謝るようなことでもあるまい。それに、わたしも少年にいろいろと聞きたいことがあったしな」

「俺に?」

 護堂は首をかしげる。

 ルクレチアに語れることは、それほど多くない。

 カンピオーネになってからのことは、すでに話し終えている。祖父の近況も報告済みだ。改まって尋ねられることに思い至るものがない。

「いったい、なんでしょうか」

 護堂は、何を聞かれるのかと、警戒しながら尋ねた。

「そう身構えなくてもいいじゃないか」

 声には、僅かに呆れの色。風にたなびく長い髪を片手で押さえながら、ルクレチアは言う。

「大したことではない、少年が連れてきたあの二人の少女の片割れ。高橋晶のことだ」

「晶が、どうしたんです?」

「あの娘が何者なのか、気になってな。只者ではあるまい。媛巫女とやらの一群の中でもかなり異質な存在なのだろう?」

「異質、みたいですね。俺も詳しいことは知りませんけど。先祖返りで、戦いに特化した身体だということくらいですか」

「先祖返り? 神祖の血を色濃く受け継いでいるということか? 奇妙な話だ」

 何が奇妙なのか、護堂には見当もつかない。が、ルクレチアは思うところがあるのか秀麗な顔を曇らせている。

「プリンセス・アリスを知っているか?」

 護堂は、頷いて、

「名前だけなら。面識はないです」

 世界的に名の知られた、魔術世界の姫。

 賢人議会の前議長にして特別顧問の肩書きを持つ、最高位の巫女だ。

「彼女のような方を先祖返りというのだ。神祖の血は、人間には重すぎる。強い力が、身体を蝕んでいくことになる」

「でも、晶はそんなことにはなってないですよ。むしろ、身体は同世代よりも強い。大地の呪力も扱えますし」

 晶は、月と大地から呪力を吸収し我が物とする。

「そんな芸当を生身で行うのは、彼女くらいのものだ。そもそも、媛巫女としての方向性が違いすぎるだろう。あの二人は」

 ルクレチアは、祐理と晶を比較しているのだ。

 祐理は、正統派の媛巫女といえる。強い霊視力に、精神感応力。一方の晶は、霊視力を持たず、呪力は身体能力の底上げや回復力との相性がいい。

「少なくとも、巫女と呼ばれる特異な血筋に、ああいうのが生まれるとは思えないな」

 ルクレチアは、晶の力を先祖返りや突然変異とは別物と捉えている。

「それは、いったい。でも、晶は実際にそういう力があるわけですし」

「可能性があるとすれば、元になった神祖が別物。例えば、一般的な媛巫女が霊視力を持った神祖、晶嬢は血に餓えた争いを好む神祖を祖としている、とかな」

 ルクレチアの推論には、大きな欠点がある。

 それは、単純に、祖を血に餓えた神祖とすれば、晶以外にも同じ能力者がいるはずなのだ。だが、晶の力は極めて稀有なもの。それも、正史編纂委員会から、先祖返りと呼ばれるほどだ。だとすれば、彼女は、通常の媛巫女の家系に生まれ落ちた突然変異的な巫女ということになるのではないだろうか。

「さすがに、わたしでは細かいことまではわからない。媛巫女に関しても、かつて日本に留学したときに学んだ程度だ。とはいえ、君の女だろう。きちんと考えておいたほうがいいぞ」

「別に俺の女じゃないですよ」

「だが、共にいる時間は長いのだ。気にかけるのも主の仕事だぞ。万里谷祐理も、高橋晶も、力が強いことに変わりはない。いつ体調を崩すとも限らんのだ」

「わかってますよ。重々承知してます」

 強すぎる力は諸刃の剣だ。使い方を誤れば、たちどころに自分たちに害を為す。

 カンピオーネならばまだいいが、祐理も晶も人間だ。それに、呪術師といっても十五、六の少女。命を張るには若すぎるのだから。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 太陽が沈んでからずいぶんと時間が経った。

 空には冷たい光を放つ月が、雲間を泳いでいる。

 のっぺりとした夏の夜は、息をするだけでも重みを感じる。肌に纏わりつく闇が、否応なく不快感を増幅させる。

 街は死んだかのように静まり返っている。

 ここ最近、イタリア南部、シチリア、サルデーニャを巻き込んでの連続殺人事件が尾を引いている。

 繁華街は人が多く、夜遊びをするカップルなどで溢れているが、少し外れてしまえば漆黒の闇が広がるばかりだ。狭い路地は両脇を固める石壁が圧迫感を強めている。

 こんなところは早く通り抜けて、家に帰って一杯やりたい。

 ジャンは、普段と同じ帰り道が、常とは違う重々しさを持っているような気がして歩を早めた。

 十七になったばかりの少年だが、ワインの味を知っているイタリア人。寝る前のワインが格別なのだと父から教わり、クセになっている。

 不安感を消すために、しきりにワインを思い浮かべて家路を急ぐ。

 友人宅で遊んでいる間に、とっぷりと日が暮れてしまった上に、そのまま泊まるのも家庭の事情でできなかったために、夜中に出歩く羽目になってしまったのだ。

「こんなことなら、早く帰ればよかったぜ」

 夜闇を恐れるのは人の性だが、それを口にするのは男らしくない。

 最近恋を知ったばかりの彼は、相手が見ていなくても男らしさを意識するようになったのだ。

 恐怖感と意地がぶつかり合って、移動速度は早足程度。走るのはかっこ悪いが、早く家に帰りたいから歩いたりはしない。

 そして、路地を曲がったところで、足を止めた。

 その先にはカフェ(バール)がある。

 観光客を狙ったものではないので、それほど大きいものではないが、昼間にはそれなりに人が入る店だ。ジャンも近所ということもあって、度々訪れている。

 不審なのは、ドアが開け放たれていて、中から光が漏れていること。そして、こんな時間に人がいるということだ。

 この店の店主はここに居住しているわけではない。営業時間は主に昼間で、夜は早々に店じまいしてしまうのだ。

「なんだぁ。珍しく夜から仕込みか?」

 声を出せば、不安も和らいだ。店からもれ出る人口の明かりが、ぬくもりを届けてくれる。

 ほっとして、歩き始めた。

 自宅まで、歩いても五分とかからない。気を急かしていた不安を忘れて、ジャンはバールを横切ろうとした。

 そして、バールの中を盗み見たジャンは、あまりのことに言葉を失い立ち尽くした。

 

 真っ白だったはずの床は、赤いペンキが塗りたくられていた。

 趣味の悪い、真っ赤な装飾は、壁や天井、あるいはテーブルやイスにまで及び、鉄の臭いが店内を満たしていた。

 

 それが、人間の流した血であると、理解するだけ思考が回らないのも無理はない。

 一介の学生にすぎないジャンは、大量の血液など見たことがない。巷で殺人事件が起きていることは知っていても、まさか自分が関わるなどということは思いもしない。

 多くの人間は、事件に巻き込まれた誰かに同情はしても、それが自らの身に降りかかるとは微塵も思わない。 個人がどこで消費されようとも、街の総体への影響はなく、ゆえに同情だけを向けられて忘れられる。この事件も、あと数年もすれば過去の出来事になり、この場で誰が死のうとも、関心を払われることはなくなるだろう。

 それが、社会に影響を与えるほどの有名人でなければ、誰が死んでも同じこと。

「あれ、ジャン?」

 世界の果にも似た血の海の中で、銀色の少女が佇んでいる。

「こんな時間に出歩くなんて、無用心にもほどがあるわ。臓器切抜き事件が多発してますよーって、知ってるでしょ?」

 テーブルに腰掛ける彼女は、昼休みに世間話をするかのような口調で語りかけてくる。玩具のように弄んでいるのは、鈍色の光を放つ無骨なサバイバルナイフ。

 その異常性。非現実的光景が、ジャンの思考に蓋をする。

 全身を血で真っ赤に染めて、微笑む彼女の名は、エンナ。姓は知らない。ジャンのフットサル仲間であり、恋焦がれる思い人でもあった。

 エンナはテーブルから床に降りて、歩み寄ってくる。

「なんで、お前が、こんなことを?」

 辛うじて搾り出した言葉に、エンナは足を止めて首をかしげる。

「んー? 気まぐれ、かな。あたしってそういう存在なのよね。まあ、後は、探し物を見つけた爽快感に任せてしまったところもあるケド」

「さ、探し物……?」

「そ、探し物。大事な人の弓をね。ずっと探してたの。あたしの物になるはずだった弓」

 手の中でクルリをナイフを回すエンナ。とても、扱いなれていることが一目で分かる。

「初めから大人しく弓を渡していればよかったのに、バカなヤツ。金銀も、不老不死も、あたし達との生活だって全部くれてやったのに……それなのに、このあたしを子ども扱いして!」

 その誰かを思い出したのか、エンナは、苛立ちのままに地団太を踏む。

 問答はここまで。

 これ以上、ジャンと話すことは無い。

 エンナは会話を切り上げ、ナイフを振り上げた。

「人間に紛れ込むには重宝したわ、ありがとう。そして、さよなら。ジャン」

 人命を虫けらと同列に捉える少女には、この場でジャンの命を絶つことに躊躇する理由がない。

「ま、運がなかったってことで」

 一閃。

 頚動脈を切り裂かれたジャンは力なく床に崩れ落ちた。

 




現実逃避やー!
とある授業----一君、実習一週遅いでしょ、班を代表してレポート書いて。
またある授業----実習終わるの遅いのか。じゃあ、しょうがない。レポートは実習行く前に終わらせといて。
ゼミ----実習四日後が君の発表担当だけど、がんばって。→俺・資料が見つかりません。教授・大学にないわコレ。探しとくねー→日本中の図書館を検索したけど、一つしか見つからなかったわーwww。取り寄せたから使ってー(返り点も注釈もない漢文の書物)。
とどめ----実習後最初の授業でピアノの実技テストしまーす。
楽譜ヨメヌ(;´д`)トホホ…

な、感じだったので逃避的に書き上げてしまった。
今回は、核心を掠めるような内容、及びあの娘の正体現るという話でした。
個人的に最萌女神ですね、はい。
それと、前回さりげに護堂の権能の英名がでましたが、あんな感じでいいでしょうか?

最後に




ニッポン☆(・ω・ノノ゙☆(・ω・ノノ゙ ニッポン☆(・ω・ノノ゙☆(・ω・ノノ゙ ニッポン☆(・ω・ノノ゙☆(・ω・ノノ゙


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四十八話

 陽気で明るく人懐っこい。そんなイメージを違えることのないサルデーニャ島の人々はしかし、この日ばかりは沈うつな雰囲気に呑まれざるを得なかった。

 サルデーニャ島最大の都市カリアリの路地裏にあるカフェ(バール)で起こった大量殺人事件は、センセーショナルなニュースとして島中を、そしてイタリア中を駆け巡った。

 朝からテレビのワイドショーを賑わせるのは、事件現場を取り囲む警察の様子と、恐怖に慄く周辺住民の姿だった。

 そして、ショックを受けているのは、地元住民だけではなかった。

「先輩、この人って……」

 テレビ画面に映されたのは、昨日の殺人事件の犠牲者達の名前。その中に、覚えのある名前を見つけて、晶は息を呑んだ。

 殺人。

 規模の大小はその時々で違うものの、こういった事件がワイドショーを騒がせるのは、世界的にも治安のよい日本でもよくあることだ。遠い異国の話と方をつければそれまでだが、今回ばかりは護堂も他人事というわけにはいかない事情があった。

「間違いなく、一緒にフットサルをしたあの人だ……」

 この島に渡ってきたその日に親しくなり、ともにフットサルを楽しんだメンバーの一人が、殺されたという。状況からして、事件に巻き込まれたのだろう。多くの遺体が、損傷が激しい無残なものだったのに対して、彼の遺体は首を切られただけだったとも伝えられている。

 殺害方法の違いから、ジャンは巻き込まれた不運な犠牲者という扱いで、その年齢もあって悲劇性を帯びた報道がされていた。

 信じがたい、という気持ちは強い。

 付き合いはほんの数時間。しかし、それでもともに楽しい時間を共有した友であることは間違いない。その命が、将来が、こんなにもあっさりと失われてしまったことが信じられない。

 だが、同時に、冷静にその事実を受け止めている自分もいた。

 この時、護堂の思考を占めていたのは、事件の犯人は誰なのかということ。

 イタリア南部を騒がせている連続殺人事件の犯人と同一だとするならば、護堂だけでなく、祐理や晶にまで危害が及ぶ可能性がある。

 すでに、敵は一時的にとはいえ、護堂を死の淵まで追い込んでいるのだから。

「この事件の犯人は、草薙さんを襲った方と同じなのでしょうか?」

 祐理が、不安そうに言った。

「違う、とはさすがに言えないだろうな……問題は、手口が異なるってことだけど」

 これまでの事件では、遺体から臓器が摘出されていた。護堂を襲った相手も、護堂から心臓を抜き取って、喰らうという猟奇的な行動をとっていた。

 相手は、非常に高位の呪術師。もしくは、神祖か『まつろわぬ神』のなりそこないだ。あれだけの常軌を逸した行動をするからには、そこに呪術的意味合いがあると考えるのが当然といえる。

 しかし、今回は、違う。

 犠牲者は、二十三名にもなるが、その中の誰一人として臓器を抜き取られた痕跡はないという。その代わり、ジャンを除くすべての遺体は、徹底的に破壊されつくしているらしい。

「行動の変化が意味するもの、か」

「順当に考えれば、臓器を抜き取る必要が無くなった、ということでしょうけど」

 それが妥当か。

 晶の言うことが、最も理に適っている。そして、恐らくは、それが正しい。

 とすると、問題はその理由。

 なぜ、臓器を抜き取る必要がなくなったのか。

 そして、なぜ、大量殺人を行ったのか。

 臓器を喰らうという行為に呪術的な意味合いを求めるのなら、大量殺人にも何かしらの意味があるはずだ。

「段階を踏んでいる、という感じはあるけど」

「臓器を喰らうという行為から、発展しての殺人ですか」

 もしも、この大量殺人にも呪術的な意味合いがあるのなら、この先も多くの人が殺される可能性がある。

「いくか、カリアリに」

 護堂は、滞在日程を繰り上げて、カリアリに戻ると決めた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 事件現場となったのは、本当に静かな裏路地だ。周りを、建物の石壁に囲まれた細い道は、昼でも薄暗く、太陽光を乳白色の淡い影に変換している。

 事件現場となったバールの周囲は通行規制がかけられ、店の入り口は、黄色いテープで立ち入りを制限されていた。

「人払いってやつか」

 店の周囲は、不自然なほど人気がない。

 たゆたう呪力は、人の認識に作用して、この場に近寄らせないようにする人払いの一種だった。

 この事件の解決には、すでに呪術師たちが動いていた。

 なぜなら、今回の犠牲者二十三名中、ジャンを除く二十二名が、呪術師だったのだ。

「ここで、取引をしていたわけですか」

 事件から一夜を明かした店の中は、ペンキを塗りたくったかのような血の痕がいまだに生生しく残っていた。

 赤黒く、血臭漂う店内をぐるりと一望し、護堂が確認をとった。

「はい」

 と一言。

 背後にいる黒服の青年は、シチリア島の魔術結社《パノルモス》の一員だ。この事件を受けて、サルデーニャに派遣された。

「相手はそれを狙ってきたってことですか」

「我々の同朋が電話で救援を要請した際の会話から察すると、そういうことのようです」

 淡々とした口調で、青年は語る。

「いったい何を、取引していたんです?」

「神具ですよ。とくに呪力を宿しているわけではないので、今は美術品程度の価値しかありませんから」

 神具と聞くと、あまり良い思い出のない護堂は眉を顰めてしまう。

 護堂がカンピオーネとなった事件にも、このイタリアで巻き込まれた騒乱にも、神具が関わっている。

「危険はないはずだったと?」

「はい。少なくとも、神具そのものには」

 まさか、その神具を狙ってくる輩がいるとは思っていなかったのだろう。なにより、二十二名の呪術師が一堂に会しているところを強襲するなど、普通は考えないことだ。

「相手に心当たりはありませんか?」

 尋ねられた青年は、首を横に振るばかりだ。

 《パノルモス》はれっきとしたシチリアマフィアだ。敵の心当たりがありすぎて、見当がつかないということもあるだろう。が、今回ばかりは、本当に誰が何の目的で行ったのかまったくわからないのだそうだ。

「ただ……」

「ただ?」

「相手のことを、銀髪の女と。電話はそこで途切れてしまい、後のことは分からないままとなりました」

「銀髪の、女」

 脳裏に浮かぶのは、一人の少女の姿。

 鮮烈なまでに印象的な、銀髪の少女。

「エンナか」

 ぽつり、と護堂は呟いた。

 そんな気はしていたのだ。だから、驚かなかった。むしろ、納得したというほうが正しい。

「分かりました。それで、その神具は奪われたのですか?」

「いいえ。この場はあくまでも交渉の場。実物はここではなく、《パノルモス》の本部に封印処理をした上で安置してあります」

「なるほど、それは……まずいのでは?」

「はい」

 《パノルモス》の本部は、シチリア島のパレルモにある。護堂も対メルカルト戦において、訪れたことがあった。

「敵が、何者であれ、二十二名の呪術師を一方的に葬るほどの実力者。狙いが神具だとすれば、本部が強襲される可能性もあります。しかし、敵の正体が不明だからこそ、迂闊に神具を手放すわけにもいかないのが現状でした」

「上は現状維持を選んだわけですか」

 神具は基本的に破壊不可能。不滅不朽とも形容される物理的、呪術的干渉を受けず、時間の経過にすら影響されない永遠不変の神の遺物である。危険だからといって破壊することはできない。サルバトーレのように、切り裂いた例もあるが、あれは不滅不朽の概念をもたなかったのか、あるいはサルバトーレが異常だったのか、何れにせよ、カンピオーネだからできた芸当であり、一呪術師に神具の破壊は不可能だ。

「わかりました。協力、ありがとうございました」

 現場担当の呪術師は、護堂に一礼して去っていった。

 組織の末端にいる人間が、カンピオーネと親しくしすぎれば、背中が危うい。彼もマフィアの一員なので、そのことは肝に銘じてあったのだ。

「やれやれ、相変わらずの扱いだな」

 苦笑しつつ、店内を一巡してきた祐理と晶に視線を向けた。

「万里谷、視えたな?」

 護堂は、断定から会話に入った。

 祐理の表情は固く、顔色は悪い。凄惨な事件現場に女子高生が足を踏み入れるというだけでも異常なことだ。祐理は精神的に同世代と比べ物にならないくらいに強いが、それでも血というものに対する忌諱感は当然ある。しかし、祐理を動かすのは、自分よりも他人を重んじる精神であり、この場に流れた血がさらなる惨劇の呼び水となるのであれば、目を背けることなどできはしない。

「はい、草薙さん」

 祐理は、力強く、頷いた。

「相手は、エンナで間違いないか」

 祐理と晶は、一瞬だけ目を丸くして、それから再び頷いた。

「そうか」

 一時は親交を深めた相手と戦うのは、気が進まない。向こうがどう思っているかはわからないが、それでも、護堂は戦うのを避けたかった。

 しかし、現実は甘くはない。

 護堂が望もうが、望むまいが、エンナの行いを見過ごすことはできないという点は、動かしようのないことだ。エンナがこれから殺人を犯さないようにするためには、もはや戦うしかないということも分かってしまっていた。

「わかった。話は道すがら聞くよ。もう、ここには用は無い」

「次は、どちらに行くのですか?」

「パレルモ。シチリア島の魔術結社《パノルモス》の本拠地だ」

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 『死』は常に彼女とともに存在した。

 数ある神々の中でももっとも残忍で、もっとも力強い女神として崇拝された女神。横暴でわがままで、宴会の最中に衝動的に兵士を部屋に押し込め、皆殺しにして悦に浸ったこともある。

 命を奪うことに、罪悪感を抱くはずがない。

 戦争と狩りの女神たる者が、相手を殺すことに躊躇するべきではないのだし、そういった思考そのものが存在しなかった。

 

 ――――あの時までは

 

 罪の無い者が命を落とし、古の約束に従い、世界は七年の旱魃に襲われた。

 手の平から零れ落ちる命を前に、慟哭するしかなかった。

 欲した物は、自らの手に渡ることなく、永遠に失われた。

 何もかもが、彼女にとっての不運。

 生まれて初めての挫折と後悔は、未だに彼女の胸を仄暗い炎となって苛んでいる。

 

 知らず、早足になっていた。

 鼓動が高鳴り、身体は軽く羽のようだ。

 シチリアは、彼女にとって特に縁深い土地だ。

 この春、彼女の兄が『まつろわぬ神』となり、草薙護堂と火花を散らした地。

 彼女の望みは唯一つ。失われたモノを取り戻し、かつての悔恨を雪ぐことだけである。

 目の前には、漆黒の門。

 門の向こうには庭園が広がり、左右対称の洋館が小山のように聳えている。

 目的の物品は、あの洋館の中にある。

 多くの血と肉を喰らい、力を取り戻しつつある彼女は、それが容易に理解できた。

「待ってて……今、行くから」

 口角を吊り上げて、彼女は門を押し開けた。

 固く閉ざされていたはずの門の鍵は、いとも簡単に開いた。まるで彼女こそがこの洋館の主であるかのように門は、彼女を迎え入れる。

 そして、再び殺戮が始まった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 サルデーニャからシチリアまでは、飛行機でおよそ一時間かかる。

 たいした時間ではないが、それでも、今の護堂からすれば大きなタイムロスになる。

 公共交通機関は使わない。護道は、土雷神の化身と伏雷神の化身を使い、シチリアまで向かうことにした。

 土雷神は土中を神速で移動する化身であり、伏雷神は、湿気の多さを条件に神速で移動する権能だ。どちらも神速であるが、その条件は限定的である。とはいえ、移動するだけならば、何の問題もない。問題はしばらく晴天続きのサルデーニャでどのようにして伏雷神を使用するかだが、水分量が多ければ使えるというところから、海中を移動するという方法で伏雷神を行使した。

 ずいぶんと無茶な方法だったが、うまくいった。

 根性のおかげか、それとも権能の掌握が進んでいるのか。何れにせよ、多少は無茶な使い方ができるようになったということらしい。

 飛行機で一時間の道のりを、ほんの一秒以下に短縮した護堂は、パレルモの港に現れた。実に、四ヵ月半ぶりのパレルモ港である。まさか、このような形で再び足を踏み入れることになろうとは、思いもよらなかった。

 パレルモは、シチリア王国の首都として栄えた良港を擁する都市だ。現在でもシチリア自治州の州都として機能している。

「うまくいきましたね、先輩」

「ああ。伏雷神の新しい使い方ってところだな」

 長距離を神速で移動したのは、ゴールデンウィークのときに、東京から京都までを飛んでいったあの時以来のことになる。

 護堂と晶が佇んでいるのは、真っ白な港の駐車場である。

「ここまで来たからには、突っ込むしかないぞ。いいんだな?」

「もちろんです。誰が来ようと、後れを取ることはありません」

 事ここに至っては、戦うしかない。戦場に足を踏み入れる以上は、祐理をつれてくるわけにもいかない。祐理は不承不承ながらも、サルデーニャに残ることを了承してくれた。 

 晶は、この場にいない祐理の分も存分に働こうと、意気込んでいるのだ。

「ッ……」

 少し離れた高台で、呪力が渦を巻いている。

 『まつろわぬ神』たちと戦う日々を送ってきた護堂には、すぐにこの力が大地に結びつく力だということに思い至った。

「一足遅かったか! 急ぐぞ!」

 護堂は晶の手をとって、土雷神の化身を発動する。

 自らの身体を雷へと変化させ、呪力の発生源へと急いだ。

 洋館の中は、悲惨な状態だった。

 庭の中央にある噴水は、今や真っ赤に染まっている。ぷかぷかと浮かんでいるのは、人の身体の一部分に違いない。万力で引き千切られたかのような死体が、そこかしこに転がっている。

 入口のドアは押し破られ、洋館全体を守護していたであろう結界は、完全に破壊されて消滅している。

「晶、大丈夫か?」

「はい……大丈夫です」

 大丈夫なわけがない。だが、晶は気丈にも、そう言って引きつった笑みを見せる。偏に、護堂の足を引っ張らないようにするためだ。

 それでも、手の平が汗ばんで、鼓動が早くなり、血の気が引くのを晶は感じていた。

 護堂は、エントランスに入ると、真っ先に、血の海の中に横たわる男性の下へ向かった。片膝をついて、生死を確認する。

「クソ、やっぱりダメか」

 洋館の中も、庭に負けず劣らず、ひどい有様だ。

 ほんの少し前までは、花瓶、絵画、彫刻といった決して安くはない美術品の数々が、博物館のように並べられていたエントランスは、影も形もない。

 十人余りの死体が無造作に投げ出され、多くの貴重な美術品が失われた。

 それを惜しんでいる場合ではない。

 屋敷の中は、静かで争う物音も聞こえない。それはつまり、この屋敷の中での戦闘が終結したことを意味している。

 全滅か、逃亡か。

 後者であれば、まだ救いようがある。被った打撃は大きいが、サルデーニャにも有志がいる。組織を再編する必要はあっても、瓦解することはない。

「まあ、《パノルモス》の心配をしても仕方ないか」

 護堂は、右手に肉厚の刀を召喚する。中華刀の形状を模したそれは、分厚く、幅広の刀身で、楯としても機能するようにしているのだ。

 晶も、両手に拳銃を召喚して、四方を警戒している。

 狭い屋敷の中では、取り回しの利く拳銃が効果的だからだ。

「先輩、相手の……エンナさんの居場所は、わかりますか?」

 問われた護堂は、瞼を閉じあわせて、少しだけ黙考する。

 感覚の網を張り巡らせる。

 超直感。感覚に干渉する『強制言語』の権能は、呪力を探ることに応用できる。

「地下だ。この真下。きっとどこかに階段か何かがあるはずだ」

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 果たして、護堂の読みは的を射ていた。

 一階の通路の途中、不自然に開いた大穴から、下方へ続く階段がのぞいていた。

 おそらく、普段は大きな絵画で蓋をして、隠している階段なのだろう。入口には、引き裂かれた絵画が無残な姿で転がっていた。

 

 オオオオオオオンン……

 

 怪物の唸り声を思わせる風が、真下から吹き上がってくる。

 らせん状の階段は、明かり一つ無く、真っ暗で、まるで異形の魔物が口をあけて待っているかのようだった。

 一歩歩くごとに、足音が反響していく。

 どこまでも響く音は、闇の中に吸い込まれて消えていく。

 後は、それをひたすら繰り返すだけ。護堂も晶も、もはや何も言わなかった。

 どれだけ歩いただろうか。暗闇はどこまでも続き、終わりなどないかのように思えた。それでも、終わりはやってくる。眼下に、ボウ、とした青白い光を認めたとき、晶などは思わず安堵の表情を浮かべたものだ。

 階段の先は、大広間だ。古い聖堂を思わせるそこは、おそらく祭壇として扱われていたのだろう。

 壁面はすべてが大理石。部屋の中央は円形の池で、くるぶしが浸かるくらいの浅さに維持されていた。そのさらに中央にひとつの祭壇が設置されていた。

 青白く輝く祭壇に、すがりつくようにして、彼女はいた。

「来たの。早かったね、クサナギ=サン」

 透き通った声が、大理石に反響する。

 美しい顔をそのままに、エンナから漏れ出る力が、その質を大きく変えていた。

「エンナ、と呼んでいいのか、それとも、『まつろわぬアナト』と呼んだほうがいいか?」

「そう、マリヤね。あたしの来歴を視ることができるのは彼女くらいのものだから……」

 アナト。

 カナン神話に登場する、古き地母神で、バアルの妹、もしくは配偶者と考えられている女神だ。

 司るのは、主に戦争と狩り。その性格は残虐で、傲岸不遜。衝動的に兵士を殺して、うっとりとすることもあれば、神々の盟主たるエルに対して、『願いを聞いてくれないのなら、その頭を叩き割って立派な髭を血に染めてやる』と脅したほどだ。兄バアルが宿敵モートに敗れた際には、バアルの肉を喰らい、血を啜り、モートに復讐の戦いを挑んでこれを倒した挙句に、モートの死体を八つ裂きにして箕でふるい、これを焼いて臼で挽き、畑にばら撒いたという。兄のバアルは、三月に護堂が倒したメルカルトの本地となる神だ。エンナが『兄の仇』と言ったのは、そこに起因するのだろう。

 その行動から分かるとおり、アナトは非常に古い神格で、元となった女神は、遊牧民に信仰されたバアルがカナンやウガリッドにやってくるよりも前から信仰されていた。紀元前二千年からヘレニズムくらいまで、オリエントで信仰を集め、その神格は、シュメールのイナンナやアッカドのイシュタルとほぼ同一と見られている。また、その名で分かるとおり、ギリシャのアテナとも神格の一部を共有している。

 シチリアをはじめとする地中海一帯は、古代の世界において商業の中心的役割を担ってきた。エジプトやギリシャ、ローマ、シリアなど、独自の文化を持つ国々の間に位置するこのシチリア島は、まさに文明が激突する島なのだ。

 この地中海沿岸で崇拝された原初の地母神に、オリエントから伝わった女神や北アフリカの女神が組み合わさって生まれたのがアナト。ギリシャのアテナも、本来は都市国家の守護神だったものが、北アフリカやギリシャに侵入してきた異民族の影響を受けて誕生した可能性がある。何れにせよ、この地域の神々は似たような名を持ち、同じような成立過程を経て、独自の神話を持つに至ったのであり、言い方を変えれば、姉妹のような関係になるのだ。

 祐理の霊視した通り、彼女はアナトの神格で間違いないようだ。銀色の髪も、幼さを残しながらも絶世の美少女と呼べる顔立ちなのも、どことなくアテナを髣髴させる。

「ふ、ふふ。でも残念ね。あたしは、まだ『まつろわぬ神』になってない……性を取り戻していないから」

 なぜか、とても憔悴した顔で、うつろに笑っている。力なく祭壇に背を預け、足を投げ出して座る様は、まるで、病人だ。

「なら、エンナと呼ばせてもらう」

「そうね。それがいいわ」

「なぜ、偽名を名乗ったんだ? エンナは神としての名を覚えてはいたんだろう?」

「そのほうが動きやすいから。知ってる? あたしみたいな神としての性を失った神格は、自分の神話を再現することで、『まつろわぬ神』に戻ることができる……失った性を取り戻せるの……」

「それで、人を殺して回っていたってのか? 臓器を抜き取るのも、ジャンを……あんな風に、たくさんの人を殺すのも、神になるためだったってのか?」

「そうよ」 

 毅然とした声で、エンナは言う。

「あたしにとって、神に立ち返ることが何よりも重要だった。エンナって名前は、なんの捻りもなくあたしの別名から取っただけ。ちょうど、同じ名前の都市もあったから、そこ出身だと勘違いしてくれる人もいたっけ」

「アト・エンナ。確か、そういう名前でも呼ばれていたな」

「ええ、単純でしょ?」

「ああ、本当に」

 気づいてみれば、あまりにも簡単で、隠そうという意思すらも感じられない。だが、まさか目の前にいるのが、カナンの女神だなどと疑う人間はいない。呪術師ならばまだしも、エンナが相手にしてきたのは、呪術の存在すら知らない一般人ばかりだ。もはや、一般には、聖書の中に出てくる悪魔としてしか名前の残らないエンナのことなど、誰も気づかない。

「それで、その手に持っているのが、エンナの欲しがっていたモノってわけか」

 エンナが大事そうに抱えているのは、今にも朽ち果てそうな黒い木の棒だ。だが、それが持つ一種の神秘性は、それがこの世の物品ではないことを如実に物語っている。

「そう。これは、アクハトの弓。鍛冶の神が創り、あたしに届けるはずだった弓……永遠に失われた、彼の弓」

「天の弓ってやつか。それを、エンナはずっと探していた」

 女神アナトと王子アクハトの物語。

 今回の事件は、そこに端を発するものだった。

「本来なら、これは、あたしが持つべき弓だった。だけど、ちょっとした手違いからアクハトのものになってしまった……それ自体は仕方のないこと。あたしは弓を取り戻すために、アクハトのところに行った」

 少しずつ、アナトは自らの来歴を語り始めた。

 アクハトを訪ねたアナトは、初めに金銀財宝と弓を交換しようと提案した。ところが、アクハトは相手が女神アナトであることすらも信じなかった。欲深い、ただの少女だと思ったのだ。アクハトは、アナトに対して、弓が欲しければレバノンに行って自分でつくればいい。もしも本当に女神なら、鍛冶の神に頼んで作ってもらえばいいとアナトの要求を拒否。もちろん、アナトも黙ってはいない。負けず嫌いなアナトは、今度はアクハトに永遠の命とバアルの食卓に同席する権利を与えようとする。それを、またしてもアクハトは固辞する。人間は何れ死ぬもので、アナトの言っていることは子どもに語って聞かせるような夢物語だと一蹴したのだ。挙句、アナトのことを『若いご婦人』と呼んで子ども扱いだ。これにはアナトもカチンときた。

「それで、あたしは言ってやったのよ。『あんたが、あたしを若いご婦人と呼ぶのなら、あたしはあんたを見目良い王子様と呼んでやってもいい。けれど、いつかその見目良い王子様があたしの足元にひれ伏す時がくるでしょうね!』ってね。それで、あたしはアクハトを処罰するために父上のところに帰ったのだけど、父上が軟弱者で、頼りにならない。『その髭を赤く染めてやろうか!』って言ったらあっさりと折れてくれたけどね」

 楽しそうに昔語りをするエンナ。その表情は心なしかほころんでいる。

 それにしても、この女神、言動が目茶苦茶である。ツンデレなのかヤンデレなのか分からないが、現代のライトノベルのヒロインを思わせる言動が随所に見られる。

「そして、アナトはアクハトを殺すために動き回ったわけだ」

「そう。殺し屋のヤプタンってのを雇った。それから、アクハトのところにもう一度行って、彼を狩りに誘った」

 その時のアナトの台詞は、『あなたがあたしの兄になってくれたら、一緒に狩りに行けるわね』である。なぜ、アナトがいきなりアクハトの妹になろうとしたのか謎であるし、アクハトがあっさりこれを了承したのも謎である。そんなに妹がいいのか、などと思ってはいけないはずだ。

 ともあれ、アクハトは身の危険に気づくことなく出かけてしまった。

 一方のアナトは、ヤプタンの計画したアクハト殺しの方法を聞いている間に、胸騒ぎを感じ、不意にアクハトへの恋心を自覚してしまう。まさか、思い人を殺すわけにもいかない。アナトは急遽、作戦を変更し、アクハトを気絶させて弓だけを奪うということにした。アナトにとっては、すべてが万全だったのだろう。アクハトを殺さず、弓を手に入れることができるのだから。だが、ここで、致命的な認識の違いがアナトとヤプタンとの間にあった。

 アナトの指示は、『アクハトの息を止めること』だった。これは、つまり気絶させろ、ということだ。が、しかし、初めから殺す気満々で、そのために雇われたヤプタンは、この指示を『アクハトの息の根を止めること』と解釈した。

 あまりにも致命的な認識の差は、そのまま悲劇となってアクハトを、そしてアナトを襲った。

「そうして、アクハトは死んだ」

 護堂の呟きに、エンナはゆっくりと頷いた。

「アクハトの死は、呪いとなって大地に広がった。世界は七年もの間、満足に雨の降らない死の世界になった。古い神々の契約の通り、無実の者の死が世界に呪いを振り撒いたの」

「アクハトの仇は、姉が討ったんだったな」

 アクハトには仇討ちをしてくれる男の兄弟がいなかった。だから、代わりにアクハトの姉パグハトがヤプタンを殺し、アクハトの仇を討った。

「弓は……」

「失われた。ヤプタンが、海に落としてしまったから。これが、その弓。こんなもののために、あたしはアクハトを殺した!」

 訥々と語っていたところで、言いようのない怒りの念が湧き起こってきたエンナは、感情をあらわにして叫んだ。

「あなたは、後悔しているんですね」

 晶の呟きは、広間に木霊した。

「……そうよ。だから、あたしは『まつろわぬ神』になろうとした。今のままでは、アクハトを蘇らせることはできない。ケド、アナトは死を司る女神。神性を取り戻せば、きっとアクハトを取り戻せると、そう思ってた」

 そのために、アクハトと縁のある弓の神具を捜し求め、自らは来るべき日のためにアナトの神話をなぞった殺戮を繰り返した。すべてはアクハトを蘇らせ、かつての無念を晴らすためだ。

「だけど、それは……」

 晶が、途中まで言いかけて、口を噤んだ。神話にはまだ疎い護堂も、エンナの口ぶりからその先を察するくらいの機微はある。

「そう。『まつろわぬアナト』ではアクハトを蘇らせることはできない。他の誰かならば、まだしも、アクハトは決して蘇らせることができない。それが、神としてのアナトの限界だから」

 その事実に彼女は思い至って。だからこそ、このような生気の抜けた表情をしているのだ。自らの行為が、思いが、何もかもが徒労に終わった。手元には、かつて執着した弓があるが、エンナにとってそれは自らの罪を自覚させるだけの物品でしかない。エンナはただ、アクハトを蘇らせたかっただけだ。弓は、そのための触媒でしかない。

 アナトではアクハトを蘇らせることはできない。

 それは、アナトとアクハトの神話の最後がすでに失われて久しいからだ。

 アナトはアクハトを失い、慟哭の涙を流すが、それ以降神話に登場することはない。その後の物語は、アクハトの仇討ちをパグハトが行ったところで途切れているのだ。おそらく、アクハトは蘇ったのだろうといわれているが、神話に残っていない以上は、『まつろわぬ神』には関係がない。『まつろわぬ神』は神話を基にして構成される。つまり、神話が変わってしまったり、失われてしまったりした場合、その『まつろわぬ神』は別物になってしまうのだ。古代のアナトがアクハトを蘇らせていたとしても、現代にその神話が伝わっていなければ、アナトにはアクハトを蘇らせることはできない。なまじ、神話にアクハトを失って涙する姿が記されているだけに、アナトにできることは、アクハトの死に対して涙するだけとなってしまう。仮にアクハトが『まつろわぬ神』となっても、アナトは、アクハトの敵対者になってしまうだろう。神話において、アナトはアクハトを殺したという結果しか残っていないからだ。

 『まつろわぬ神』の限界。

 神話から抜け出してきた彼らの権能は、彼ら自身の神話によって制限されることになるのだ。

「なんて……」

 かわいそうに。

 晶は、エンナに同情を禁じえなかった。

 後一歩で、すべての望みが叶う。そう信じてここまでやってきたというのに、その先に待っていたのが、絶対に望みは叶わないという、神ですら覆せない残酷な現実だった。

 エンナが奪ってきた数多くの命すら、この時点で無駄になった。

「それで、そんなにも中途半端なのか。『まつろわぬ神』になろうとしている身体を、無理矢理押さえつけているのか!?」

 『まつろわぬ神』になる条件は、ここに来た時点ですべて満たしていたはずだ。それなのに、未だにエンナのまま、ここにいることに、そして、ひどく衰弱していることに疑問を持っていたのだが、その疑問が一気に氷解した。

「なんだ、気づいているの……く、ふふ……『まつろわぬ神』になったら、本当にすべてが台無しになってしまうからね。あなた、が、ここに来てくれたのは、僥倖だったのかも」

 護堂も晶も理解した。

 『まつろわぬ神』として顕現するとなれば、きっと、今のエンナはいなくなる。エンナとして抱いた思いも、希望も、絶望も、何もかもが変転する。エンナは人ではなかったが、人とわかりあう精神を持っていた。変化していく過程でそれが、『まつろわぬ神』としての性に引かれていったことは否めないが、エンナがエンナとして抱いた思いは、実に人間的な感情だ。今や、エンナに残されたものは、その思いだけと言っても過言ではない。

 エンナは思いを守るために、必死になって自分を変質させようとする力に抗っているのだ。

「…………望みは?」

 護堂は重い口を開いた。

「このまま、殺して」

 答えは予想していた通りのものだった。

 エンナは、エンナのまま、この世を去ろうとすると、彼女の様子から察することができたのだ。けれど、それは納得できない。エンナには、償うべき罪が多すぎる。

「それで、いったい誰が救われるってんだ。お前が殺してきた多くの人たちは、いったいどうなる。あの人たちの思いとか、ジャンなんて、一緒にフットサルした仲なんだろうが」

「そうね。本当に、みんな運が無かった……」

「運って。運で片付ける気かよ。殺された人たちがそれで納得する訳ないだろうが!」

 殺された人間の気持ちを推し量るだけ無駄だと、頭では分かっている。だが、感情は納得しないし、運で人死が許容されるという考え方も真っ平ゴメンだった。

「だとしたら、どうするの? どっちにしても、あたしには時間、が、ない……あと少しで、あたしはあたしでなくなる。神になったあたしは、もっとたくさんの人を殺して回るわ。無秩序に、無差別にね」

 それが、『まつろわぬアナト』だと。殺すことが、アナトらしい行動なのだと、エンナは言う。

 護堂の主義主張はどうあれ、今、自分を殺しておかなければ、無関係な人たちが命を奪われる。それは、護堂にとって、最悪の事態だ。

「先輩……」

 晶が、護堂の袖を摘んだ。

 もう、終わらせてあげて、と晶の瞳が語りかけてきた。

「クソったれが!」

 珍しく、汚い言葉で罵った。

 エンナのことか、それともこうする以外の選択肢を持たない自分に対してか。

「納得いかねえよ。ちくしょう。そんな風に命を粗末に扱いやがって!」

 中華刀を片手に、護堂はエンナの下に行く。

 祭壇に青白く照らされたエンナは、はかない蛍のように淡い輝きを身に纏っていて、触れたら崩れそうなガラスを思わせた。

「手間、かけさせるわね」

 護堂は、中華刀を振り上げた。それは、無慈悲なギロチンである。命を以って、命に対する罪を贖わせるための、凶器。

「……あの世で、アイツに謝れ」

「そうね。それくらいは、しておかないと……」

 そう言って、エンナは目を瞑った。

 それを合図に、護堂は凶器を振り下ろした。

 肉を断ち、骨を砕き、噴出す暖かい鮮血が護堂を真紅に染め上げた。それも束の間、かつてエンナだったそれは、瞬く間に風化していく。柔らかい肉も、熱いくらいの血潮も、珊瑚のような輝く砂となっていく。

 なんだこれは。

 結局、後に残ったのは、物言わぬ神具と砂だけだ。

 そこに命があったことすら感じさせない、実に無機的な世界だ。

 こんなことのために、多くの血が流れたのか。たった一人の少女の、恋物語の結末は、誰も救われず、何も報われず、ただ失われた痛みだけを残すものだった。

「納得できるか、こんな終わり方……」

 苛立ちとともに、中華刀を地面に叩き付けた。

 ガラスのような音を立てて、凶器は砕け散る。

 エンナの命を絶った凶器すら、この世には残らない。いったい、彼女はなんのために、この世に生まれてきたのだろうか。なぜ、このような終わり方しかできなかったのだろうか。

 悔しくて仕方がない。護堂は、相手の命を奪うことでしか、事態を収拾することができなかった。あまりに無力。あまりに無意味。神を殺す力があったところで、何一つ救うことができなかった。護堂がしたことといえば、ただ殺しただけ。

 後味が悪い。あまりに、気分の悪い、一日だった。




実習から帰って参りました。
最後のほうとかほぼ徹夜でござった。なのに、うまくいかなくて何年かぶりに泣いてしまった。
まあ、そんなことは置いておいて。
実習が驚くほどの金食い虫だったということがねえ。
なんだかんだで二万近くかかってしまった。先月の収入が七千円で、今月の労働時間が二百六十分だというのに……もともと週一のシフトだったのに、実習で二回休んだから。
金がない!


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第六章 神刀騒動編
四十九話


 暗闇があった。

 音も光も存在しない正真正銘の闇。

 湿った土と鼻を突く腐臭。

 闇の中をうごめく何か。

「ホッ……」

 笑った。

 暗闇に、ボウ、と光が灯る。ろうそくの弱弱しい光は、その空間にあって、尚一層不安を煽る妖しさを醸し出している。

 揺れる光に照らされて小さな人影が浮かび上がる。

 老人だ。

 長い口ひげに隠れた歪な唇は、楽しげに三日月形となっている。

「ホホ、ずいぶんと熟れてきておるようじゃな。重畳重畳」

 ろうそくを置いた文机は、無造作に地面に置かれている。老人は、蓆を地面に引いて、その上に胡坐をかいて座っていた。

 文机の上には、長方形に切りそろえられたいくつかの和紙があり、滑らかな筆跡でなにやら文字が書かれている。大きく形を崩してあるので、現代人では満足に読むことはできないだろう。が、しかし、この和紙が、いわゆるお札の類であることは、なんとなく察することができるはずだ。

 老人は、その札を手にとって立ち上がり、そろりそろりと歩きだした。部屋の奥には、祭壇が設置されている。神棚を大きくしたようなその祭壇の左右には榊を立てた榊立てがあり、灯明を配置し、前方には注連縄まである。神棚というよりも、小型の神社か祠と言ったほうがいいかもしれない。

 本来、神棚にしても神社にしても祠にしても、神々を祀る神聖な場所である。そこには清らかさが求められるし、清浄な空気が支配しているべき場所だ。しかし、ここはどうだ。空気は湿気を帯び、土は一年中水を吸ってグズグズになっている。そのせいか暗闇はのっぺりとしてまるで生物の口の中にいるようではないか。なによりも、本来ならば神鏡を配するべき神棚の中央には、いかにも曰くありげな壷が置かれている。古い壷には何枚もの呪符が貼り付けられていて、禍々しさは他の追随を許さない。

 老人は、その壷に張られている呪符を一枚剥がすと、そこに新しい呪符を貼り付けている。その作業を何度か繰り返す。

「貴様のそれは、悪趣味だ」

 野太い声だ。老人のそれとは別物である。

「なんじゃ、人の趣味にけちをつけるものではないぞ」

 老人は、振り返る。しかし、そこには誰もいない。ただ、ゆらゆらと空気が揺らいでいる。何かがいる。

「ふん、呪師のすることはわからん。チマチマと面倒であろうが」

「コレコレ、お主。自分の状態を分かっていっておるのか? 未だに顕現できぬ脆弱な身で何を言うか」

 また、ゆらり、と空気が揺れる。陽炎のようなそれは、姿形こそ安定しないが、その揺らぎの変化から、憤りの念を抱いていることがわかる。

「それもこれも、貴様があの小僧との術合戦に敗れたのが原因だ。半神祖とはいえ、人に敗れるとは信じがたい失態ぞ。この俺がこのような姿で流浪する羽目になったのも、神性を失った貴様に引きずられたからだ」

「仕方なかろう。お主はわしの従属神というヤツなのだからな」

 老人は、不可視の声を相手に、親しげな口を利く。姿が見えないことなど、この老人にはたいした問題ではないのだ。

 再び、空気が不自然に揺らぐ。

「千年だ。俺は、千年待ったぞ」

「千年待ったのなら、あとほんの数ヶ月くらいあっという間であろう。迂闊に動けば、彼奴らが勘付く。今はまだ、神殺しと出会うには早いしの。せめて日光をどうにかするまでは、雌伏せい」

「神殺し。結局俺たちの敵となるはヤツか」

「おう、当然よ。それこそ、千年前から分かっておったことであろう。わしらを打倒するために、あの小僧はあらゆる手練手管を使うとな。わし等に対抗するためならば、神殺しくらい用意するじゃろう。くく、いよいよ楽しみになってきたのう」

 老人は、しわがれた声で笑いだす。暗い闇の中に、響いては消える、カラカラとした笑い声。

 その笑い声をかき消すように、

「巫女は?」

「順調じゃ。なんじゃお主、まさかそれを確認するためだけに出てきたのか?」

「俺たちの復活には、必要なのだろう?」

「おう、そうじゃ。そのために用意した」

「せいぜい、目を離さないようにしておくんだな」

 この会話を最後に、空気の不自然な揺らぎは消滅した。

 しばらく、動きを止めていた老人は、ほ、とため息をついた。

「寝たか。ふむ、まあよかろう。今は、まだ時期尚早ゆえな」

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護堂も暮らす、東京都文京区。いろいろと見所はあるが、真っ先に名が挙がるところの一つに湯島天満宮がある。別名は湯島天神。創建は雄略二年と伝わっている。雄略天皇といえば、かの有名な倭の五王の一人にして、稲荷山古墳出土の鉄剣に記された「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」その人とされる。つまり、湯島天満宮は、日本の歴史の最初期から存在する非常に古い神社なのである。

 そんな湯島の路地裏にひっそりと建つ小さな神社。

 地元の人しか知らないようなこの神社は、近所の子どもたちの遊び場くらいにしか認識されていないだろう。

 時刻は朝の五時。

 しかも、外は台風の真っ只中とあって大荒れの天気模様である。

 気の早い近所のご老体も、この日ばかりは散歩に訪れない。

 風でガタガタと震える拝殿の中に、なぜか制服姿の少女が居座っている。

「王さまには、今日あたり会いにいくよ。うん、大丈夫だって。上手くやれるよ、きっと」

 しっとりとした黒髪は腰まで届くロングヘアーだ。おまけに、整った顔立ちに、スレンダーな体つきは、テレビの中で歌って踊るアイドルたちと比べても遜色ない。十人が十人、美少女と彼女を褒め称えるだろう。

 名を清秋院恵那。

 高橋晶と並んで戦闘特化の媛巫女とされ、本来の力を使えば、文字通り最強クラスの使い手になる。正史編纂委員会及び、その背後にいるご老公たちの懐刀たる少女である。

「なに? 男の誑かし方? そんなのおじいちゃまに教えてもらったって意味ないよ。どうせ、時代遅れなんだからさ」

 恵那は携帯電話で誰かと会話をしている。

 片手で床においてある包みを器用に開く。

 中から出てきたのは、大きな一振りの刀だった。刃渡り三尺三寸五分。黒漆の鞘に納められた、頼もしい相棒である。

「祐理だっているんだし、恵那が行っても、あんまり意味ないんじゃないかな? 別に自信が無いって訳じゃないけどさー」

 風雨はさらにひどくなる。

 外を盗み見ると、まるで滝のような雨だ。

「あ、それと、祐理の他にも、なんか変わったのがいるけど、あれはいいの? ん? 今はほっとけ? そう、ならいいんだけどさ。うん。じゃあ、また連絡するよ」

 人里に下りてきたのは、久しぶりだ。

 カンピオーネ、草薙護堂。

 荒事には慣れているとはいえ、今回の仕事は少々毛色が違う。強いて言うなれば女の戦い。武力を使わないとなると、なかなか難しいと思うし、経験もないが。まあ、なんとかなるだろう。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 野分の候とは九月の時候の挨拶だったはずだ。

 野分は即ち台風のことだ。夏休みがあけて間もなく、日本列島が台風に襲われるシーズンに突入したということで、この日の朝までは大荒れの天気だった。

 ところが、それも昼ごろには過ぎ去って、今はもう快晴。台風一過とはよく言ったもので、夏の気配を色濃く残す、透き通った青色が、空一面に広がっている。

 もっとも、今の護堂はそれを見ることはできないわけだが。

「なるほど、結局こうなるわけか」

 護堂がいるのは、体育用具室。現在は、五時間目の体育で、男子は先生の都合で自習。女子は晴れ渡った空の下で、プールに興じている。

 だが、男衆に関して言えば、まったく自習などしていない。それは、ここにいる護堂がマットで簀巻き状態にされた挙句、室温三十五度を超えるかと思しき体育用具室に放置されていることからも分かるだろう。

 繰り返すが、現在、男子は自習。女子はプールである。

 これで、燃え上がらない男はいるだろうか、いや、いない。

 主として三バカが一、名波の発案と、真夏のうだるような暑さに触発された彼らにとって、今のプールはまさに天国(ハライソ)。太陽よりも熱く燃える五、六組男子一同のリビドーは、このとき、まさに絶頂を極め、ブレーキの外れた列車の如き力強さで以ってただ一点を目指して進みだしたのである。

 もちろん、すべての男子が彼らに従ったわけではない。草食男子をアピールする者、興味はあるが、実行する勇気の無い者、彼女がいるから無理という者。様々いた。それらは全体から見れば非常に少ないながらも、大多数が熱狂する中で、冷静に物事を見る力のある人物たちだったと言えるだろう。

 無論、それは熱きリビドーを迸らせる大多数にとって看過することのできない反逆者である。もしも、これを見逃せば後々厄介なことになりかねない。男たちには、この行為が内包する大いなるリスク――――女子から白い目で見られるという危険性を孕んでいることを自覚し、覚悟していた。が、それはそれ。とにかく漏れる口は少ないほうがいい。なによりも彼らもまた(どうほう)である。今、何を信じ、何を為すべきか、真摯に説けばきっと理解してくれるだろう。名波はこのとき、まさに歴史と伝統ある宗教の創始者の如き威厳と神秘性を帯び、その語り口は、偉大なる預言者を思わせた。一人また一人と感化され、彼らの信じる天国へと突き進むようになるのに、それほど時間はかからなかった。たとえそれが、禁じられた世界への第一歩だったとしても、歩みを止める理由にはならないのだ。

 そのような中にあって、名波たちが端から敵視していた男が一人いる。

 草薙護堂。その人である。

 現在学園の女子の中で、最も人気のある万里谷祐理との関係が噂されている護堂は、ただそれだけで、全校の男子を敵に回していると言っても過言ではない。普段は目に見えて排斥されることはないのだが、こういった局地的災害というべきか、いきなりスイッチが入るような場面にあっては、真っ先に攻撃対象になってしまう。

 まして、最近は可愛らしい後輩を連れ歩いているという噂が広がっている。

 哀れなる男たちを一致団結させるには、十分すぎる内容であった。

 結果、護堂は抵抗もむなしく体育用具室に監禁されることになってしまったわけだ。

「やれやれ、だ。まったく」

 護堂は簀巻きになって放置されても、落ち着いていた。伊達に修羅場を潜っていはいない。本来なら、男子生徒如きに捕らえられることもないのだが、ノリというのは恐ろしい。捕らえる側は、その時の勢いに任せていたが、実は、捕らえられる側もそういう役割を演じる形で、この祭に乗っかっていた。その結果が、今の簀巻き状態なのだ。

「ほんと、みんな若いね」

 若者のパワーには驚かされてばかりだ、とこんな時に限って年長者らしい感性を発揮する。

 精神年齢は四十を超えているのだ。致し方ないとはいえ、若干枯れている雰囲気を漂わせている。

『開け』

 バツン。

 ひとりでにマットを縛っていた紐がほどけ、勢いよくマットは元の形へ戻る。

 解放された護堂は、立ち上がって首をゴキゴキと鳴らし、背伸びをする。ストレッチで程よく筋と筋肉をほぐし、身体の調子を確認する。

 問題なし。

 とはいえ、蒸し暑い体育用具室に監禁されていたために、大量の汗を流している。これは、もしも護堂でなければ、本当に命が危なかったかもしれない。マットを用途外に使って命を落とした例もある。

 一刻も早く外の空気を吸おうと、護堂は、扉に手をかけた。

「あいつら、本当に鍵かけてやがる」

 呆れ混じりの声色で呟いて、

『開け』

 呪力を軽く叩き付けた。

 万物に命令する権能でもある『強制言語』を以ってすれば、開錠程度造作もない。そして、これは権能の細かい制御ができるくらいに掌握したということでもある。

 権能に強い弱いは、語れないが、掌握しているかしていないかの違いは大きい。

 鍵は簡単に開いた。

 重い扉を開き、外に出る。外といっても、体育館だが。それでも、体育用具室の劣悪な環境に比べればずっとマシだ。まず、空気が違う。暑いには暑いが、少なくとも汗とカビの臭いは充満していないし、澱みもない。

 護堂は、深呼吸して辺りを窺った。

 授業中にもかかわらず、体育館にはほとんど人がいなかった。日和見していた一部の生徒が、ステージに腰掛けて駄弁っているだけだ。

「あれ、草薙どうした? 出てこれたんか?」

「あいつ等、鍵かけてなかったっけ?」

 扉を開けた音で、護堂に気がついた日和見組が近寄ってきて、話しかけてきた。

「お前等なあ、いたんなら助けろよ……」

「まあ、草薙なら大丈夫じゃね、って」

「信じてた。信じてたぞ、ちゃんと抜け出してくると」

「そうそう、これは、俺たちなりの信頼だ」

 口々にそう言う日和見組。まったく信用ならない。結局のところ、彼らは護堂の敵でもなければ味方でもなく、名波たちの敵でもなければ味方でもない。いわゆる大衆であり、第三者なのだ。だから、積極的に護堂を助けようとしなかった。他人事として扱っただけなのだった。

 薄情な友人たちに背を向けて、護堂は体育館を出る。

「おい、どこいくんだー?」

「結局プールか-?」

 背中に投げかけられる声に、「教室ー」と投げやりに返答した。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 あくまでも自習なのだから体育館にいなければならない。しかし、体育の授業が完全に崩壊したあの空間にいたところで何も得るものはないし、下手をすれば教師に目をつけられかねない。幸い、護堂には体育用具室に閉じ込められていたという大義名分があるので、それを使えば、保健室で休んでいたとか、体調不良で抜け出したとかいう言い訳がなりたつ。名波たちのおかげで、護堂は合法的に体育館から抜け出すことができたのだ。

 その功に免じて、名波たちの横暴には目を瞑ってやろう。

 もっとも、目を瞑るのは、護堂を監禁したことだけであって、プールを覗く事を見逃そうと思っているわけではない。

 水着くらいいくらでも見ていいとは思う。護堂はそれほど、女子の水着に興味があるわけではないし、スクール水着を見ても、これといって萌えるようなこともない。そもそも、水着は人に見られてもいいように設計されているわけだし、それを見たからといってなにがあるというわけではないはずだ。とはいえ、劣情に起因した覗きをされるのは、女子にとってこの上なく不快な事であろう。リビドーをどれだけ昇華させたところで、アガペーに至ることはありえないのだ。

 五、六組の男衆が忍び込んだのは、木造の旧校舎に違いない。原作でそうだったとか言う前に、こっそりとプールを覗けるのは、そこくらいしかないからだ。

 授業時間ということもあって、廊下を歩いていても、教師に見咎められることはなかった。

 散歩気分で悠々と渡り廊下まで歩を進め、換気のために開け放たれた窓から顔を外に出した。

 十年近く使われていない旧校舎の入口は、封鎖されているはずだ。しかし、今、その封は完全に破られているようだ。間違いなく、男子たちが侵入している。

「その行動力、神様よりも不思議だよ」

 彼らがしていることは、一歩間違えば犯罪だ。

 まず、器物破損。住居侵入はすでに成立し得る。学校だから大目に見てもらえるだろうが、大目玉は避けられない。

 教師にばれるまでに逃げ帰ればよし。そうでなければ、ドンマイということで。

 軽いジャブで驚かせてやろうと、護堂は呪力を少量練り上げて、

『砕け』

 旧校舎に向けて命令を発した。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 その時、名波たちは絶頂期にあったと言っても過言ではない。

 多感な思春期にあって、共通の目的のために協力し合って行動するというのは、不思議なくらい精神を昂ぶらせるものだ。連帯感とも言える感情は、時として物事の善悪を超越した正義を行動に移させることになる。

 赤信号、一緒に渡れば、怖くない。というような感覚だろうか。とにかく、その時、旧校舎に侵入した男子たちは、いつも以上にハイになっていたのは確かだ。

「ばれたら、どうする?」

 誰かが言った。

「心配すんな。その時は、みんな一緒に怒られればいい」

「俺たちは、友……いや、同じ目標に向かって歩む、同志じゃないか」

 名波と高木がそう答えた。

 感銘を受けた男たちが口々に賛意を示す。心を打つ共感の波は、湖面を伝わる波紋のように男たちに伝染する。

 そこにあるのは、一つの共同体だった。

 学級の垣根を越えて、女子の水着を拝むというただそれだけのために、心を一つにした集団だ。

 目的や動機の不純さを除けば、その団結心は学校が目指しているものの完成形と言えるだろう。皮肉なことに、学校側が不純とする行為こそが、彼らを真に団結させる要素だったのだ。

 心を一つに、そろそろと階段を上がっていく。

 輝く太陽。抜けるような青い空。ダイヤモンドを思わせる水飛沫。まさに楽園。今、熱帯雨林のように蒸し暑く、夏休みの武道場のように男くさい中にあって皆が等しく描く心象風景。

 常夏の楽園は、すぐそこに広がっている!

「行くぞ、高木」

「おう」

「準備はいいか、反町」

「モーマンタイ。いつでもいけるさ」

 そして名波は、ぐるりと視線をめぐらせる。

 共に汗を流した仲間の顔がそこにはあった。

 怨敵を封じ、夢に向かって邁進してきた最高の友である。今、彼らは夢の扉に手をかけている。その実感があるのだろう。皆、暑苦しさの中に清清しさを感じさせる笑みを浮かべ、偉大なる指導者の最後の言葉を待っている。

「みんな、よくここまでついてきてくれた。苦しいこと、辛いこと、暑いこと、むさくるしいこと、この上なかったろう。ここに来るまでにも、我々には多くの危険が待ち受けていた。教師に見つかることはまだ序の口。もし、まかり間違って二組の南方さんにでもこの状態を察知されてしまえば、我々は終わりだ。明日からおぞましき妄想のネタにされてしまうこと間違いない。草薙の二の舞だけは避けねばならない。だが、それもここまでだ。見ろ。我々はついに辿り着いたぞ! ありとあらゆる危険を覚悟し、あえて冒したのは、すべてあの扉の向こうに至るため! 劣悪な世界において、耐え忍んできた我々は、ついに楽園への最後の一歩を踏み出そうとしている!」

 情熱的に、拳を振り上げ、名波は言葉を切った。

 ごくり、と誰かが唾を飲む。

「もう、耐える必要はない」

 慈愛を込めた表情で、名波は言う。

「俺の役目は終わった。さあ、みんな。己の信念にしたがって、為すべきことを成せ!!」

 

 

『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! 名波、万歳!!』

 

 男たちが、歓喜の声を上げた。

 そして、怒涛となって駆け出した。

 木製の床が軋む。年月でくすんだ窓ガラスがビリビリと振動する。

 その勢い、まさに天を突くが如し。

「名波」

 自らを追い越して、目的地となる旧美術室に突撃する男子たちを万感の思いを込めた瞳で見守る名波に、高木が声をかけた。

「ああ」

 それだけで、すべてを理解した。

「行こう」

 その隣の反町も、大きく、しっかりと頷いた。

『俺たちの天国(ハライソ)へ!!』

 ダッ、と三人は同時に走り出した。

 立ちふさがるものは、すでになく。邪魔をするものなど何もない。

 だが、弁えていたか、男子たちよ。夢とは、やがては須らく醒めて消えるのが道理だと。

「な!?」

「床がー!?」

「ひいい!?」

「なんじゃこりゃー!?」

「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃぁ」

 愚者たちの叫び声は、それを上回る轟音の前にかき消された。

 床が抜け、ガラスが砕けた。拉げるように、校舎は崩れていく。

 それは、あまりにも突然の出来事で、回避する手段は無に等しい。

 倒壊した校舎は、中に忍び込んでいた五、六組の男子たちを一人残さず呑み込んで、数十年の歴史に幕を閉じたのだった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 その光景に、多くの人々が呆然となった。

 まるで、爆撃の後のような景色。砕け散った校舎。そして、その中でうめき声をあげている男子たち。これは、なかなか、お目にかかることはできない。 

「マジか……」

 呆然としているのは、護堂も同じだった。

 特に護堂は、あの中に五、六組の男子たちが入り込んでいることを知っていたから、校舎が崩れたことよりも、そこに知り合いが巻き込まれたことに愕然としていた。

「俺、まだ何もしてないし……」

 そう、護堂は、何もしていなかった。校舎が崩壊したのは、護堂が言霊で脅しをかける直前だったのだ。原作ではエリカが、あの校舎を粉みじんに吹き飛ばしていたが、今、そのエリカはこの国にいない。護堂は手を出していないし、祐理が校舎を吹き飛ばすとは思えない。

「あいつ等、本当に運がねえんだな……」

 つまり、あの校舎が崩壊したのは、誰のせいでもなく、ただの偶然なのだろう。強いて言うなれば、すでに限界を迎えて久しい木造校舎に、勢いよく何十人もの男が侵入して暴れた結果とも取れるので、自業自得ということになるだろうか。

「おーい。大丈夫かー?」

 崩れ落ちた校舎跡。

 蠢き、もがく亡者のような男子たち。

「く、草薙ィ。なぜ、貴様がここにいる」 

「お、俺たち。いったい、どうしちまったんだ? 水着ウハウハのはずが、最初に見るのが草薙だなんて」

「俺はいい。俺はいいから、ハードディスクの中の妹たちを……くは」

「反町ィィィィーッ!!」

「余裕あんな、お前たち」

 このような時でも、リビドーを忘れない。それが三バカクオリティなのだ。その情熱だけは、素直に賞賛できる。

「いつまで挟まってんだよ」

 護堂は、瓦礫の隙間に挟まっている名波を引っ張り出した。

「ぐう、なぜ助ける? 俺たちは、お前を閉じ込めたのだぞ?」

「いや、この状況下で見捨てるって選択肢はありえないだろ」

「お、お前ってヤツは……!」

 感極まった名波は、目尻に涙を溜める。

「なんだ、どっか痛てえのか? 言ってくれねえと、わかんねえぞ」

「すまねえ、草薙。胸がな、胸が痛えんだ」

「なんだって? そりゃ、まずいんじゃねえの? 救急車が来たらまっ先に乗せてもらえ」

 引きずり出した名波を、瓦礫の外に連れ出して、横たえた。

「ああ、他のみんなは……」

「今、先生たちも来たし、大丈夫だろ。なんだかんだで、みんな運がいい」

「そうか、そりゃ、よかった」

 集まってきた教師たち。学校の窓という窓から顔を出す生徒たち。プールのほうからも幾人かこちらを覗き見ている女子がいる。

「草薙! これはいったいどういうことだ?」

 護堂は教師の一人から説明を求められた。この状況下で、一人だけ無傷で立っている護堂が事情を知っているものと思ったのだろう。

 面倒なことになりそうだ。

 護堂は嘆息しながら、教師の下へ向かった。

 

 

 

 

 そして、護堂のあずかり知らぬところで面倒事は進行していた。

 校舎の崩壊によって、授業が滞り、警察や消防なども駆けつけて大騒動となった後のこと。さすがに放課後ともなれば、騒ぎも沈静化する。

「キタキタキタキタキターーーーーーーーー!! ビビッと来ましたよーーーーーーーーー!!」

 鼻血を出しながら、叫び声を上げる一人の娘がそこにいた。

 文化系の部室が集まる部活棟の一画。ドアの上に張り出されたプレートには文芸部とある。

「キタって何が」

「もちろん、インスピレィションに決まってます!」

 黒い髪を短く揃えた彼女こそ、学園中の男子から畏れられる腐った魔物、南方朱里その人である。

 以前からその恐るべき発想と、嗜好は知られていた。万物は攻めか受けかで分けられているという奇怪な発想。壁と画鋲があれば、極めてストイックでプリミティブな愛を表現できるほどの豊かな妄想力は、若干十五歳にして廃人の域だ。

 その恐るべき妄想から産み落とされた産物が、一月ほど前にちょっとした騒動を引き起こしていたこともあり、一躍有名人に。つけられたあだ名は『ご腐人』。

「それって、アレ。いつもの感じ?」

「消しゴムと鉛筆ネタは、さすがに高度すぎてダメだって言われたじゃん」

「ん? ハサミと紙で、『ここを切っちゃうぞー。ん? ここかあ? ふふふ』ってのを、考えてなかったっけ」

「ちっがーう! そうじゃない。そうじゃないんだ。それはね。あくまでも妥協。妥協に過ぎないの。この前の一件で学内でのBL製作を禁止されたからしかたなくやっただけ! だけど、来るべき裏・文化祭に向けて、わたしが取り組むのはそうじゃない!」

 文芸部員たちに対し、朱里は演説でもするかのように腕を振り上げる。

「えー、でも禁止されてるんでしょ」

「ふん、禁止されているのは、学内での活動。即ち、外でなら、問題ない」

「つまり、趣味の範疇で、書くと?」

 朱里は頷いた。

「本気?」

「もちろん。夏の続きが、わたしの背中を押している」

 キャッと、部員たちが頬を赤らめて口元に手を当てた。

「アレの、続きを書くんですか?」

「な、なら、挿絵はわたしが担当します!」

「わ、わたしも、関わりたいです」

 急に、部室内が色めきたった。

 空気が、腐ったばら色に染め上げられる。

 部長と思しき人物が、静かに、朱里に問うた。

「それで、君の言うインスピレーションの内容から聞こうか」

 

 

「もちろん、草薙君と名波君をモデルに、極めて健全でまったく新しい愛の形を表現するのよ!」

 

 そう、リビドーは決して、男子だけのものではないのだ。



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五十話

 雷鳴が轟き、風が音を立てて吹き荒れる。

 空は光を失い、視界を遮る雨のカーテン。身体を打つ雨粒は、身体に刺すような痛みを与える。川の水位は上がり続け、このままではすぐに溢れてしまう。端整込めて育てた稲も、生まれ育った村も、すべて流されてしまうだろう。

 彼女は、それを見ていることしかできない。

 彼女は、祀る者。

 その仕事は、神々に祈りを捧げ、救いを待つことだ。それ以外にはないし、それ以外にできることもない。おまけに、今の彼女は、人の形をしていない。とある旅人の術によって櫛に姿を変えているからだ。

 

 だから、ただ無力感に苛まれながらも、見守るしかないのだ。

 

 黄金色に輝く両刃の剣を携えた、男の後姿。

 勝ち目など、万に一つもありはしない。相対するのは、天を突くかのような巨大な身体を有する、八首の魔竜。

 男は、ただ一人、魔竜に挑む。策を弄し、剣を振るい、人一人易々と呑み込む魔物を相手に果敢に挑む。

 渦巻く殺気。

 呪力は世界の飽和量を超えて、撒き散らされている。

 風雨は一層強くなる。

 遮られる視界。その奥で、轟き渡る大音声は、どちらの声か。 

 

 やがて風雨も収まり、血に濡れた男は神々しい神剣を掲げて凱旋する。

 

 かくして、魔竜は討伐された。

 村を襲う脅威は去り、平和な世が訪れた。

 激しい風雨に晒された田畑は、荒れ果て、川の氾濫は村に大きな被害をもたらした。しかし、村人たちには笑顔があった。

 村を救った男とともに、なけなしの食料で宴を開き、大いに飲み、食った。

 壊れた田畑は、また耕せばいい。川の氾濫も、皆で力を合わせれば抑えることができるだろう。

 今は八年に渡った恐怖から解放されたことを素直に喜び、噛み締めよう。

 そして、英雄となった男は、死すべき定めにあった彼女を妻として迎え入れ、国家の礎を築き上げたのだった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 残暑厳しい季節とはいえ、私立校の城楠学園の教室は暑さとは無縁だ。最近は、公立校にすらエアコンが設置されているご時世に、私立校にエアコンが無いなどということがあろうか、いやない。私立校は生徒を確保しなければ、経営できない。公立校や、他の私立校とは別のプラスαを持たなければやっていけない。部活専用の建物があるなど、城楠学園の設備は整っていることで有名だ。学習環境を整えることなど、当たり前のように行っている。

 とはいえ、快適な生活環境というのは、堕落を招く一因にもなりえる。暑い日に、冷房の効いた部屋にいれば、その心地よさからついうとうとしてしまうこともあるだろう――――

「……橋」

 遠く響く、雷の残響。 

「高橋!」

 それは次第に存在感を増して、

「高橋晶! 起きんか、たわけッ!」

 ついに、炸裂した。

「は、はい!」

 落雷に撃たれたに等しい衝撃を受け、晶はイスを跳ね飛ばさんばかりの勢いで起立した。その際、身体に染み付いた体育会系礼儀作法に則り、自衛隊も真っ青な見事な気をつけの姿勢をとる。

 すぐ隣には、いつの間にかやって来ていた数学教師二十九歳(女)独身の姿があった。

 もの凄い形相で、晶のことを睨んでいる。

 全身の体温が、一気に下がったような気がした。それは、きっと、冷房の所為ではないのだろう。その一方で、クラス中の視線を浴びて、顔だけは火照ったように赤くなった。

 午後一番の授業は、大嫌いな数学で、晶は気づかぬうちに夢の世界へ旅立っていたようだ。

「なあ、高橋。このわたしの授業でおねんねたあ……いい度胸じゃねえか。んん?」

「あ、いえ。それほどでも……えへへ、おぶッ」

 アイアンクローがクリティカルヒットした。

 親指と中指が、こめかみに対して垂直に突き立っている。

 ギリギリギリギリ……

 尋常ならざる力だ。頭蓋骨が砕けてしまいそうだ。

「わたしの授業など、受けるまでもない、ということか?」

「ま、まさか、そんなことないです」

 握力七十キロ。剣道部顧問の力は伊達ではない。視界は手の平に覆われているが、この教師の表情は手に取るようにわかる。晶の小柄な身体が、宙に浮く。柔道部の男子生徒を片手で持ち上げたという噂のある女傑だ。体重が四十○キロの晶を持ち上げることなど、造作もない。

「高橋ィ。エスカレーターだからって気ィ抜け過ぎじゃねえのか。高等部には、留年って制度があってなァ。わたしは、お前の数学がホントに心配なんだがなァ。ええ?」

「あ、赤点は取らないつもりですが」

「前回は、なかなか良かったからなァ。自信になって、よかったじゃねえか。それで、今やってるところは、理解できてんのか?」

「…………………………………………」

 晶は黙秘権を行使した。

「なーるほどなァ。お前のやる気は、よーーく分かったぞ。今から、高校進学後を見越して、補習の予習と行くかァ?」

「ほ、補習の予習とか、別にしなくれも、ヒギィッ!?」

 脳内で、妙な音がした。

 具体的には、硬い木材に罅が入ったような音だったように思えた。 

 もはや、頭に血がめぐっていないのか、痛みに慣れてしまったのか、こめかみを襲う痛みはない。しかし、その圧迫感は、晶を苦しめるには十分すぎる。 

 チャイムが鳴らなければ、晶は立ったまま気絶していたかもしれない。

「チッ……放課後、ちっと職員室こいや」

「……はい」

 打ちひしがれた表情で、晶は着席した。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 放課後、ずうぅん、と明らかに沈み込んだ晶にかける言葉を静花は探して諦めた。言っては悪いが、自業自得だ。今、あの数学教師は婚期を逃さんと焦っている真っ只中。教師とはいえ、私立校の教師は公務員ではないから生活が安定していないし、その割には収入も少ないしで、将来への不安も多々あるのだろう。おまけに部活動は労働時間に入らないから時給換算がひどいことになる。ということで、生活を安定させたいという焦りもあるらしい。なんにせよ、晶は運がなかった。居眠りが悪いことに否やはないが、あそこまでキレられたのは、きっと教師の虫の居所が悪かったからだろう。

 夕暮れの太陽に目を細め、帰路に就く。

 長く伸びる三つの影は、それぞれ祐理、晶、静花の三人分だ。

「ん。そういえば、授業中に言われてた補習の予習って、どうなったの?」

「それはさすがにやってる時間ないってことで、追加プリントになりました」

 その追加プリントですら、晶にとっては強敵になる。

 晶の成績は総合的に見れば、悪いわけではない。中の上には入っている。しかし、典型的な文系脳なためか、理系は尽く平均以下。理科はまだ暗記科目の側面が強いためなんとかなるにしても、計算主体の数学は鬼門でしかない。

「晶さんが居眠りなんて、もしかして体調が優れないとか」

「そんなことはないですよ。ただ、クーラーが快適だったといいますか」

 晶はバツが悪そうに、頬をかいた。

「居眠りはクセになりますから、意識して授業に集中するようにしないといけませんよ」

「そうですよね。そうなんですけど」

 すでに、クセになりつつあるとは言えない。今回、運悪く見つかってしまったが、実のところ晶は、二日に一回は居眠りしている。座席の位置や、諸々の幸運が重なって、今まで見つからなかっただけだったりするのだ。

「それで、そのプリントは大丈夫なんですか?」

「えーと、実はあまり大丈夫じゃなかったりします。因数分解から今やってるところまで、網羅的に出題されてて、問題数がかなり多くなっているんです」

「そうなんですか。分からないところがあったら聞いてくださいね。相談に乗れると思いますから」

「ありがとうございます! 万里谷先輩の助けがあれば、百人力ですよ!」

 祐理は護堂に及ばずとも、学年トップクラスの成績保持者だ。中学生の数学程度問題にならない。地獄に仏とはこのことだ。

 真っ暗な洞窟に、微かに差し込んだ一条の光。藁にもすがる思いの晶は、祐理の申し出を笑顔で受け入れた。

「ふーん、晶さんは勉強が苦手なタイプなんだー。恵那と同じだね」

 会話に集中していて、少女の接近には一切気がつかなかった。いや、そうでなかったとしても、気づけたかどうか。

 気配を消す呪術は何種類もある。代表的なのは、隠形法という密教系の呪術で、摩利支天の隠形印を結ぶことで、姿を隠す。

 しかし、彼女は、違う。呪術を一切用いることなく、すぐ背後にまで近づいていたのだ。慌てて振り返り、視界に収めて初めてその存在に気がついた。まるで、自然と一体になっているかのような雰囲気。野性味のある笑顔を見せながら、その空気は清浄そのものだ。

「え、恵那さん? どうして、ここに」

 声を発したのは、祐理だった。

「恵那? すると、あなたが、清秋院恵那さんですか?」

「うん、そうだよ。高橋晶さん」

 清秋院恵那。

 その名は広く日本中に知れ渡っている。

 その武芸、呪術の腕前は、同年代でも最高位にある。単純な力比べでは晶が勝つ。しかし、なりふり構わない正真正銘の戦いであれば、恵那に軍配が上がるだろう。彼女の『相棒』は、晶にとって相性が悪い相手だ。

「どうして、わたしのことを?」

 直接の面識はなかったはずだ。いぶかしむと同時に、嫌な予感がする。晶のことを噂か何かで聞いたのならまだしも、もしも意図して調べていたとしたら、その目的は自ずと察することができる。

「草薙さんについて調べるとしたら、その身近な人のことも調べるでしょ。特に、晶さんは有名だしね」

「ッ……」

「そんなに警戒しないでよ。別に晶さんとトラブるつもりはないからさ。とりあえず、みんなで一緒にお嫁入りするわけだし、挨拶だけはしとこうと思っただけ」

「は?」

 恵那の発言に、三人が三人ともぽかんと口を開けた。

 何を言っているのか分からない。その様子がありありと表情に浮かんでいた。

「お、お嫁入りって、恵那さん。結婚なさるんですか?」

 祐理がおずおずと尋ねた。

「うん。恵那も十六になったし、法律的にも問題ないでしょ。ああ、でも晶さんはまだ十五だっけ」

「ま、待ってください。話の展開が唐突すぎます! いきなり来て何を言ってるんですか!」

 自分が勘定に入っていることに驚いて、晶が言い返す。

「え、何って、これからみんなで一緒に草薙さんのところにお嫁入りするって話をしてるんだよ。決めておくこととか、やっぱりあるだろうし」 

 祐理と晶は、度肝を抜かれて言葉に詰まった。代わりに、会話に入ってきたのは、これまで一言も発さなかった静花だ。

「ちょっと、待ってください! あなた、何を言ってるんですか!? お兄ちゃんのところに、お嫁入り!? ちゃんと説明してください!」

「草薙静花さんだったっけ。これから、よろしくね」

「はあ、よろしく……って、違う! お兄ちゃんとどういう関係なのか、とかその辺りを詳しく聞かせてもらわないと」

「妹として、容認できない? ふむ、困ったね。関係といっても、面識があるわけじゃないしなー」

 恵那は頭をかきながら、呟いた。

 恵那の呟きは、すぐ目の前にいた静花の耳にも届いている。その言を信じるなら、護堂と恵那は未だに顔も合わせたことがない赤の他人のはず。つまり、護堂は恵那に何もしていないし、この話そのものを知らないはずだ。それは、安心できる情報ではあるが、同時に、見ず知らずの他人が結婚を考えるほどの何かが護堂にあるということでもある。顔か、人間的魅力か、能力か、はたまたその他静花の想像もできないところに惚れ込んだのか分からないが、言えることは一つ。

 惚れ込んだ相手と面識のないままに、結婚を持ち出す辺り、この女は、かなりヤバイヤツだ。

 恵那と目が合った。

「ありゃ、もしかして変なヤツとか思われちゃったかな?」

「いえ、そんなことはないですよ」

 そして、静花は内心で焦りを覚えた。

 僅かな表情の変化から、静花の感情を読み取ったというのか。

 ただおかしな考え方をする人間ではない。野生的な勘なのか、それとも人間観察が非常に上手いのか、的確に相手の心情を読み量る力は驚異的だ。この清秋院恵那という少女は、静花が今まで出会ったことのない人種と考えるべきだろう。

「まあ、でも最悪、恵那はお嫁入りしなくてもいいんだ」

「?」

 前言を撤回する発言に、首をかしげる静花。

「ようするに、他の人が草薙さんの正妻に納まったとしても、恵那のことをお妾さんとして囲ってくれれば問題ないわけで」

「大有りですよ!」

 静花だけでなく、晶や祐理までも声を揃えて言った。しかし、恵那は意に介した様子はない。これまでの会話から察するに、恵那は図太いわけではない。むしろ、かなり他人を観察するタイプの人間だ。その上で、自由奔放に振舞っている。それができるだけ深く、相手の領域に入り込むことができるということだ。祐理も、晶も、最も警戒しているはずの静花でさえ、するりと内側にまで踏み込まれ、そのペースに乗せられている。

 ゴーイングマイウェイは、確かに驚異的だが、それ以上に、それを実現させてしまう話術が驚異的だ。

「とにかく、お兄ちゃんに会ったことがないって言うのなら、そんな話をわたしたちにしても意味がないと思います」

 静花は、これまで受動的になっていた分を取り返そうと、意見を述べる。

 恵那は、にこやかな表情のまま頷いた。

「そうだよねー。うん、恵那もさ、本当は草薙さんに会おうと思って、ここで待ってたんだけど、先に三人が纏まって来たから挨拶しておこうと思ったんだ」

 屈託のない笑顔だ。おそらく、この人は裏表のない性格なんだろうな、と静花は思った。

「それに、祐理も晶さんも、これから先、草薙さんとどういう関係になるか決めかねてるみたいだし、それが確認できただけでもいいかな」

 う、と気圧されたように後ずさるのは祐理と晶だった。

「敵情視察ですか。強かなんですね」

 静花が非難がましい視線を向ける。恵那の目的は、護堂の身近な人間に自分の存在を知らせること。それによって祐理と晶がどのような反応を示すか探ろうとしていたのだ。兄のいないところで、兄のことを語ること自体が、静花として、好ましいものではなかったので、剣呑な雰囲気を隠し切れない。

「敵でもないよ。草薙さんを独占しようっていうのなら、ライバルになる。でも、恵那はさっき言ったとおり独占欲とかないしね。これから草薙さんとお近づきになる上で、他の女の子の出方は気になるでしょ」

 ようするに、祐理や晶に独占欲があったり、すでに恋仲に発展していた場合の身の振り方を考えるために、直接話す必要があったということだ。

 ついでに、妹の静花とも顔合わせを成功させている。これで、静花と仲良くできれば如才ないと言えるかもしれないが、恵那は意図してこのタイミングを狙ってきた。それは、祐理、晶、静花がいて、護堂がいないという条件が、膠着状態にある現状を変えることにつながるかもしれないと踏んだからだ。

 恵那の目的は、究極的には護堂をこの国に結びつけること。 

 武力や法でカンピオーネを縛るのは不可能だ。カンピオーネとの友好関係を築くことこそ、唯一の道である。そのための最も確実で手っ取り早い手段が、女を宛がうというものだった。

 もちろん、恵那の一族――――清秋院家は、日本の呪術界においても極めて特殊な立ち位置にある。『四家』の中でも、背後に『ご老公』という組織を持つのは今のところこの清秋院家だ。

 名門中の名門。正史編纂委員会の意向というよりも、清秋院家としての思惑によって動いている。清秋院家は、正史編纂委員会よりも、一族のほうにカンピオーネを結び付けようとしているのだ。

 

 

 清秋院恵那は、静花の会ったことのないタイプの人間だ。驚くほど、正直であっけらかんとしている。おまけに強かで抜け目がない。

 護堂のことを密かに慕い、静花を通して近づこうとした人間は何人かいたが、真っ直ぐ嫁入り宣言をしていく相手は初めてだった。 

 この人苦手だ。

 あっさりと人の内側に入り込んでくる恵那に、静花は苦手意識を持った。

「ま、とりあえず、今日のところはこれくらいで。今後は、恵那もパーティーに加わるかもしれないってことを知っててくれればいいよ」

 恵那は、挑発的な視線を祐理と晶に向ける。

 突然で強引な展開に、二の句が告げない二人は何も言えず、当事者ではない静花は、何を言っているのか理解できない。

 三人が固まっているのを見て、立ち去ろうとした直後、恵那は、それまでの余裕そうな表情を豹変させて振り返った。

 校舎のある方角を見て、好戦的な笑みに変わる。

「驚いたなあ。まさか、勘付かれたなんて」

 呟く恵那は、三人に向き直り、

「じゃ、また会おうね!」

 猛然と駆け出した。その速度たるや、城楠学園陸上部が誇る短距離走のエースですら追いつけないと思わせるほどのものだ。

 後に残された三人は、なんとも言えない表情で視線を交わして立ち尽くすだけだった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 祐理と晶が護堂に友愛以上の感情を抱いていることは、手に取るように分かった。恵那の独特の嗅覚がなくとも、丸分かりだ。あの二人に、恋愛事で駆け引きする器用さはない。

 その二人とブラコン気味の妹一人に、恵那は護堂のところに嫁入りすると宣言した。 

 これはある意味での宣戦布告だ。

 目的は膠着した状況を打破するための発破と、恵那自身が怖気づかないようにするための景気付け。

 嫁入りなどと口にしたはいいが、恵那には男性経験など皆無。同年代との会話すらほとんどしたことのない箱入り娘なのだ。そんな自分の経験不足を気概で乗り切るために、敢えて恵那は背水の陣を敷いた。相手となる草薙護堂のことも報告書と映像記録、それから僅か数日余りの観察でしか知らない。祐理が好意を向ける相手だから信用できる。逆に言えば、今のところそれくらいしか判断基準がないのだ。

 しかし、今、新たに分かったことがある。

 どうやら、草薙護堂は、恵那の想像以上に『できる』男らしい。

 戦闘に関する実力は、恵那が同世代で一番だ。武芸も呪術もずば抜けている。それに加えて降臨術。日本では恵那しか使えない神の御霊を憑依させる驚異の呪術がある。降臨術を使用した状態の恵那なら、神獣とも正面から戦えるのだ。 

 だが、護堂の力はそれ以上。カンピオーネとの直接の面識がない恵那は想像することしかできなかったが、やはり、怪物的な力の持ち主なのは間違いない。

 恵那は持ち前の脚力で、歩道を駆ける。

 胸の高鳴りは、疲労によるものだけではない。

 対等以上の相手との出会いを、恵那は期待している。

 一歩を踏み出す時間がもどかしい。早く、現場へ向かいたい。逸る心が、身体を前へ押していく。

 日が暮れ始めたグラウンドには、既に人影はなくなっていた。本来ここを使っている運動部は、先日の旧校舎崩壊事件の煽りを受けて帰宅時間が早められている。

 誰もいないグラウンドを突っ切っていく。

 太陽は既に没し、明かりは人口の光に切り替わった。

 闇に包まれた世界も、呪術の鬼才たる恵那には問題にならない。

 迷うことなく、その場に辿り着く。

 相手もこちらに気づいたようだ。真っ直ぐ、恵那のことを見つめている。

 五メートルほどの距離を隔てて、両者は向かい合った。

「お初にお目にかかります、草薙護堂さま。わたしは清秋院恵那と申します。縁あってあなたのお傍に――――」

「そういうのは、止そう。清秋院さん。畏まった話は苦手なんだ。君もだろ?」

 護堂は恵那の口上を遮った上で、そう言った。

 話の腰を折られた恵那は、一瞬だけぽかんとしたが、それから人好きのする笑みを浮かべた。

「断定から入るあたり、王さまは恵那のことを知ってたのかな?」

 口調を戻して、護堂に問う。礼儀作法を叩き込まれた恵那だから、護堂の出方次第では大和撫子を演じることも不可能ではないのだ。それは、自由人の恵那にとっては苦痛以外の何物でもないが、それでも演じきる自信はあった。しかし、それも杞憂に終わり、内心ほっとした。そして、ここまでは想定の範囲内。護堂が畏まられるのを嫌う性格だということくらい、すでに常識なのだから。

「そうだな。話の端に上がることはあったよ。なにせ、君は万理谷と幼馴染で、呪術の世界じゃ有名人なんだろ? その気になれば調べられる」

「個人情報の扱いとか、厳しい時代のはずなんだけどねー」

「お互い様だろ。清秋院さんも、ずいぶんと俺のことを嗅ぎまわっていたじゃないか」

「まあ、それは仕方ないよ。草薙さん、有名人だもん。あと、恵那のことは呼び捨てでいいよ」

 護堂への意趣返しか、恵那は同じような返答をした。

 それから、恵那は護堂の背後に視線を向ける。そこにある校舎の壁には、恵那が刻んだ目に見えない刻印がある。恵那の血と天叢雲剣の金気を混ぜ合わせた仕掛けだ。祐理にならまだしも、呪術の心得のない護堂に気づかれるとは。

「リサーチ不足だったな。俺の直感は、時に万理谷以上らしい」

「みたいだね。それで、王さまはどうするの?」

「どうもしないよ」

 そう言うと思っていた。

「それなら、どうして恵那を呼んだの? わざわざ、この術式に干渉してまで、恵那を呼んだ理由は何?」

 恵那がこの場に駆けつけた理由は、護堂が壁に仕掛けた術式に呪力で干渉したからだった。見つからないと高を括っていただけに、それは衝撃的だった上に、いつでも壊せるのに敢えて壊さないという手加減をしていた。恵那に、自分の存在を誇示しているかのようだったのだ。それを、恵那は誘われていると直感した。

「いや、俺の周りをちょろちょろとされるのは、気に入らんことだからな。釘を刺しておこうと思ったんだよ。あんまり、俺の生活に干渉すんなってことを清秋院のばあ様に伝えといてくれ」

「……ふうん。ばあちゃんのことまでお見通しか。それなら、恵那がここに来た理由も察してる?」

 一拍の間を取って、護堂は答えた。

「俺はまだ、結婚する気はないよ。清秋院たちの権勢争いに関わるつもりもな。俺が言いたいのは、その程度のことだ。これから先は、そっちの番だぞ」

 恵那は全身に鳥肌が立ったかと思った。

 嫁入りの件は、カンピオーネという立場の特異性や、これまでの経験、多少政治的な方向に頭を働かせれば予想できることだろう。

 しかし、今の発言。

 それは、恵那がやろうとしていることを読み取っているからこその言葉だ。

 自然と、笑みが深くなる。

「ふふ、やっぱりすごいね、カンピオーネってのは! それは、王さまの力? それとも、神様を殺しちゃう人は皆もっているのかな?」

 手玉に取られている感じがするが、不快ではない。こちらの事前の準備はほとんど役に立たなかったようだ。

「ちはやぶる宇治の渡の棹取りに、けむ人し我がもこに来む――――」

 厳かな声で謳う恵那。

 呪にあわせて、校舎の八箇所に仕込まれた呪術が起動する。

「恵那の仕事は、ここまで。向こうに行ったら、おじいちゃまによろしくね。王さま!」

 護堂の足元には夜よりも暗い暗黒の影が生まれていた。

 その闇が、底なし沼のように護堂を呑み込んでいる。カンピオーネすらも呑み込む奇怪な呪術。これは、人の成せる業ではない。

 闇に呑まれた護堂を見送ってから、恵那は一息ついた。

「本当に、驚かされっぱなしだったよ。うん、規格外ってああいう人のことを言うんだね。ね、晶さん」

 恵那は、後ろに立つ晶に同意を求めた。

「……先輩に、何をしたんですか?」

 静かな声には、確かな怒りが含まれていた。

 離れたところで、護堂と恵那の様子を盗み見ていた晶は、護堂が闇に呑まれるのを見て、血相を変えて駆け寄ってきたのだ。

 すでに槍まで取り出して、返答次第では恵那と戦うことも辞さない覚悟を示している。

「まあ、そう怒らないでよ。これ、同意の上のことだしさ」

「同意?」

「そ、同意。別に危ないこともないと思うし、敵意はないから安心してよ」

 晶の殺気にも鷹揚に対応する。

「そう、ですか」

 いぶかしみながらも、構えを解いた。

「それで、先輩はどこにいるんです?」

「さあ?」

「さあってことはないでしょう。あなたが施した呪術なんですから」

「いやー、それが分からないんだよね。王さまを持っていったのは、おじいちゃまでさ。恵那は門を作っただけなんだ。その先は、まあ、幽界のどこかなんだろうけど」

「なんて、適当な……」

 幽界に人を一人送っておいて所在不明とは、呆れて物が言えない。

「まあ、待ってればそのうち帰ってくるよ。おじいちゃまの用事が済み次第帰してくれるはず」

 悪びれもせずに、手をパタパタと振る。

「それでさ、晶さん。晶さんって結構強いよね。手合わせしない?」

「は? いや、何を突然……」

「『まつろわぬ神』との戦いに何度も同伴し、王さまの権能で創った槍を下賜されてる。神槍の使い手。一度戦ってみたかったんだよね」

「だからって、いきなりそんな」

「ん? 理由がいる? じゃあ、そうだな。恵那も王さまの仲間になるわけだし、どっちが上か気になるでしょ?」

 これまでは、後方支援を祐理が、武力面を晶が補佐する形で安定したチーム編成を行っていた。祐理と晶では互いに得意とする分野が異なっていたために、ぶつかり合うこともなかった。しかし、恵那が本当に護堂と行動を共にするというのなら、晶とは武力面での競争相手となる。

 おまけに、護堂と結婚するなどという妄言を包み隠さず宣言した相手だ。晶にも思うところは多々ある。自然と槍を握る手に力が入る。

「ふふ、やる気になったみたいだね。それじゃ、恵那も相棒を紹介するとしようかな」

 恵那は、背中に背負った竹刀袋から、素早く剣を取り出した。

 ただ、それだけで、晶は圧倒されそうになった。自分の手にあるものと同等かそれ以上の神秘。晶が持つ槍は、人間の晶が使うために調整された槍だ。しかし、恵那の持つそれは、人が扱える代物ではない。

「それが、噂に聞く天叢雲剣」

 《鋼》の属性を持つ日本最強の神剣。

 神々しい黒い刀身の直刀を、恵那は構える。

 晶も、それに合わせて槍を構えなおした。

 武器としての性能は、槍のほうが優れている。リーチと威力の双方で、槍は剣を上回る。だが、小回りは剣のほうが上。ましてこれは呪術戦でもある。武器の形状による不利は、持ち前の呪術で容易に覆る。

 手合わせなので、それほど本気を出す必要はない。だが、互いに武術、呪術の両方で敵なしと言われる実力者同士だ。同等の相手とは滅多にめぐり合えない境遇なので、心のどこかでこの戦いを望んでいる。

 恵那は、神剣に力を込める。まずは小手調べから。そう思って、一歩を踏み出そうとした、まさにその時だった。

「え?」

 恵那は予想以上に強まった降臨術の効果に唖然とする間もなく、圧倒的な御霊の力に意識を持っていかれた。




ピアノの実技、いろんな意味で終わった。
俺「ジャーン」
先生「違う。ファラじゃないラドだ」
 楽譜を見る。意味が分からない。
俺「わからないんですけど」
先生「わからなくない」
 えー……そんな返し方あります?
 結局、なんどか見直したら、五線譜の第一線が印刷ミスで消えていたという。そのことに気づかず練習したから、全部の音がずれていましたよ。
 とりあえず、テストは一段落。


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五十一話

 晶はただ驚愕に息を呑んでいた。

 目前にいる少女――――清秋院恵那の突然の変貌。

 恵那の呪力が急速に減衰し、その代わりに神剣から神力が吹き込まれていく。

 今なら分かる。恵那の身体は、もはや彼女のものではない。天叢雲剣の御霊に呑み込まれている。恵那の人格は精神世界の奥深くにうずもれていき、肉体は剣を振るうだけの機械となった。

 しかし、なぜだ。

 晶は自問するも、答えは出ない。

 腕試しの仕合をすると持ちかけてきたのは向こうだ。あくまでもこれは仕合であり、本気の殺し合いではない。恵那もそれを了解しているはずだ。いきなり、降臨術など持ち出すのは、常軌を逸している。

 さては、扱い方を誤ったか。

 可能性がないわけではない。

 天叢雲剣はそれ自体が神具であり、本物のスサノオが携えたもののはず。言うなれば神の分身であり、それ自体も神性を持っている。並の人間では扱うことができない代物だ。恵那も山奥で修行をして、俗世の穢れを祓うことでやっと降臨術を成功させているのだ。何かの手違いで、コントロールを誤った場合、強すぎる神の力に身体を乗っ取られることもあるに違いない。

 面倒なことになった。

 晶は内心舌打ちする。

 今の恵那の力は、神獣に匹敵する。本来、晶単独で挑むべき相手ではない。が、しかし、

「周囲には民家があり、応援はすぐには無理か。もうやるしかないわけだ」

 幸いなのは、ここが夜間の学校だということだ。

 グラウンドは人気がない上に、人目もなく、広い。戦うにはもってこいの環境だ。

 護堂から与えられた神槍の穂先を恵那に向ける。

 黒い瞳に明確な戦意を宿し、晶は、その一歩を踏み出した。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 どことも知れぬ山の中に護堂はいた。

 闇に呑み込まれて視界が真っ暗になった直後、この場にいた。

 緑と土の匂いが濃い。

 風が強く、雨も降っている。

 そういえば、原作でもそういう描写はあった。どうせなら、雨具でも持ってくればよかった。少しだけ護堂は後悔した。現世は夏日とはいっても、ここは山奥で、しかも渓流のほとりだ。気温は当然ながら低く、雨と風が加わって体温は奪われる一方だ。それにも関わらず、どことなくこの光景に懐かしさを覚えるのは、日本人らしい反応だと喜べばよいのだろうか。

 周囲に広がる森も、原生林といった風情だ。

 人の手の入っていない森は、それだけで神秘性を帯びる。

 なかなか見ることのない乱雑な植生。出鱈目に生えているのに、不思議と調和の取れた世界観。自然というのは、それだけで完成している物なのだろう。

「う……予想以上にきつかったな」

 護堂はうめいた。

 幽界渡りが想像以上に身体に負担をかけてきたのだ。

 激しい頭痛と吐き気。

 それは、もう何十年も体験していなかった二日酔いを思い出させるものだった。

 護堂の勝手な偏見だが、外傷よりも内臓の不調のほうが辛い。下痢などは最悪だ。カンピオーネになって身体が丈夫になったので、そのような症状とも無縁だろうと思っていたが、幽界は別物だった。

 三分ほど蹲っていたら、状況が改善されたので、立ち上がる。

 すぐ傍を流れる渓流は、すっかり濁っていて濁流となっている。

 

 ――――確か、この渓流に沿って移動すればいいんだったな。

 

 護堂は記憶と勘を頼りに歩き出した。

 体調は万全ではないが、スサノオに会えば身体が勝手に不調を治してくれるはずだ。神様を特効薬扱いするのは不敬かもしれないが、利用できるものは何でも利用するのがカンピオーネなのだと割り切る。

 この先にいるのは、日本神話最強の武神。速須佐之男命。さすがに、緊張する。

 上流へ向かうこと数分で、小さな掘立柱の小屋を見つけた。

 そこから、漏れ出る神気はまさしく神のもの。

「おう、来たか。草薙護堂。呼び出しちまって悪かったな」

 小屋の中にいたのは、身の丈百八十センチはあろうかという大柄の男だった。

 古めかしい囲炉裏の傍に胡坐をかいて座っている。粗末な着物を一枚着ているだけなので、鍛え抜かれた肉体がはっきりと視認できる。

「あなたが、清秋院の後見人……スサノオノミコト」

「は、オレのことはもう知ってるみてえだな。自己紹介の必要はねえか」

「必要ないといえばないけどな。呼び方は、おじいちゃまでいいのか?」

 護堂のいかにもな問いに、スサノオは気分悪そうな表情をした。

「そのふざけた呼び方はアイツだけで十分だ。御老公でもじじいでもかまわねえが、それだけはやめろ」

「そうか。じゃあ、御老公と呼ばせてもらおうか」

 護堂にとっても、その呼び方がしっくり来た。相手を神名で呼ぶと、どうしても心が昂ぶってしまう。敵ではないと分かっていても、身体はすでに戦闘態勢に入っている。

「まあ、座れや」

 促されて、護堂は腰を下ろした。

 スサノオとの邂逅が、護堂の宿命に関わる重大事であるなど、このときは考えてもいなかった。 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 それは猛烈な台風であり、大嵐だった。

 不可視のはずの風が、猛烈な神気に当てられて輝いている。

 

 晶は疾風の如き速度で踏み込み、刺突を放つ。鉄骨すらも易々と貫く神槍は、しかしそれを上回る暴風によって弾き返された。

 もう幾度攻め立てたことだろう。

 この身に馴染んだ技という技を駆使し、術という術を披露して、いまだ届かない。恵那の意識は完全に沈み込み、身体は晶の攻撃に反応しているだけ。しかし、その機械的な迎撃が、あまりに的確だった。神剣の加護なのだろうか。これが、恵那の積み上げた武芸だとは思いたくない。

「まだまだ!」

 諦めない。

 相手が神獣クラスの力の持ち主だというのは、諦める理由にはなり得ない。

 半年前であれば、戦意を喪失していたかもしれない。だが、今は違う。護堂とともに、『まつろわぬ神』の脅威を肌で感じた経験は、良くも悪くも晶を神威に慣れさせていた。今なら、源頼光を前にしても膝を屈することはない。まして、相手は人間だ。だったら、やりようはある。

 晶は自らを鼓舞して前に進み出る。

 呪を呟き、呪力を活性化。心臓が一際高く拍動し、全身を巡る血流が身体の隅々にまで呪力を送り届ける。身体の内側から骨格、筋肉組織、神経伝達速度に至るまで徹底的に強化。持ち前の膂力を可能な限り上昇させる。

「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ!」

 毘沙門天の真言を唱えて振り上げる神槍。

 穂先に集中した呪力は、淡い光を放ち、

「せええい!」

 大気を切り裂く呪力の刃と化す。

「ッ!?」

 恵那の能面のような無表情が初めて変化した。

 防衛本能によるものか、僅かに歪んだ表情は、恵那の守りが破られたことを意味している。

 風の守りを突破した晶の神槍が、内包する呪力を爆発させる。呪力の刃は霧散し、激しい衝撃波を撒き散らした。至近距離で爆発を受けた恵那は、堪えられずに跳ね飛ばされる。

 宙高く舞う恵那の身体。

 並みの呪術師であれば、これで勝敗は決したも同然だ。が、しかし、今の恵那はスサノオの劣化コピーと言っても過言ではない規格外の存在。呪術の一撃程度で倒れる道理はない。恵那は、空中で体勢を整え、天叢雲剣を振るった。

 この攻撃を晶が避けることができたのは、油断なく恵那を注視していたからだ。

 不可視の斬撃は、晶が一瞬前までいた場所に着弾し、地面を切り裂いていた。

 晶は、冷や汗を拭って槍を構えなおす。

 恵那は悠々と着地する。目だったダメージはない。

 やはり、強い。だが、この戦い、絶対に負けるわけにはいかない。

 恵那が、神剣を振るう度に、風が刃となって襲い掛かる。

 練りこまれた呪力は恐ろしく高密度。だが、そのおかげで迎撃も容易い。風の不可視という特性が、活かしきれていない。呪力を感じとることで、対応ができる。

 晶は襲い来る刃を跳んで避け、槍で打ち払った。

 火天の種字を唱えて神槍を炎で覆う。風刃が金気を宿しているのを逆手にとって、相克関係にある火気で迎え撃っているのだ。

 だが、相手は余裕、こちらはギリギリ。

 このままでは千日手だ。

 右手で槍を振るいながら、左手にH&K MP5を構える。

 銃火が吼える。9mmパラベラム弾が、問答無用と言わんばかりに恵那に襲い掛かる。

 視認することすら不可能な鉛の弾幕を、恵那は神剣の一振りで薙ぎ払った。吹き荒れる風は渦を巻き、大気が軋みを上げる。

 嵐の神の力は伊達ではない。近代兵器は物ともしないか。

 引き金を引くが、弾が出ない。32発すべてを撃ちつくしたようだ。ただの銃弾では牽制にしかならない。特殊な魔弾を使っても、あの神秘には打ち勝てまい。やはり、神剣と同格のこの槍でなければ、恵那には届かない。

 再び呪力を槍に込めようとしたとき、すぐ目の前に恵那が踏み込んでいて、晶は思わず忘我した。

 それが、致命的な隙となった。

 晶の持つ槍は、リーチの長さが最大の武器だ。そして、その形状から懐に入られた時点で無力化されるという欠点を併せ持つ。

 吐息がかかるほどの距離に詰め寄られた時点で、晶の敗北は確定した。

 振り上げから、振り抜きまでの一連の動作を、目で追うことができなかった。

 神剣の鋭利な刃が、晶の身体を一刀の下に両断した。左の肩から右の脇腹まで、バターのように何の抵抗もなく神剣は通り抜ける。

 ずれる身体。

 流れ出る血。

 恵那は勝利の余韻を味わう様子もなく、淡々と倒れ行く晶を見つめる。

 

 

 

 二つに分かれた晶の身体が、一瞬にして膨張し、破裂、恵那の顔に赤い液体をぶちまけた。

 

 

 

 視界が真っ赤に覆われて、恵那はたたらを踏んだ。

 しかし、恵那は目が見えずとも戦える。すぐとなりに迫る呪力に反応して神剣を振るう。機械化された動きは、神槍の神気を記憶しており、その刃が襲い掛かってくれば反射で対応できる。

 鉄を打ち鳴らす甲高い音。

 だが、あまりに手応えがない。

 打ち払った神槍には、まったく力が籠もっていなかった。たやすく弾き飛ばせる程度でしかない。

 なぜならば、神槍はただそこにあっただけで、晶の手元にはなかったからだ。

 それが意味するところは――――

 恵那は防衛本能に従って、振り返る。返す刀で神剣を振るい、

「遅い!」

 それに先んじて、反対側から踏み込んだ晶の渾身の右ストレートが、恵那の頬を捉えた。

 

 

 どうにかうまくいったか。

 晶は、仰臥する恵那を見てほっと一息ついた。

 わざわざH&K MP5で弾幕を作ったのは、一瞬でも恵那の注意を自身から逸らすためだ。恵那が銃弾の雨を振り払ったその隙に、晶は身代わりとなる人形と入れ替わっていた。叔父が正真正銘の忍ということもあり、忍術にも精通する晶ならではの技術だった。

 それにしても、今、この状況を正史編纂委員会の上役たちが見たらどう思うだろうか。神憑りで暴走した恵那を単独で地に伏せさせることがどれほど困難なことか。

 それは、ただ一人で神獣を相手に勝利したに等しい奇跡だ。

『なるほど、まさか巫女たる貴様が己に仇為すとはな』

 先ほどまでの無邪気さは鳴りを潜め、機械的な声で恵那が言葉を発した。

『だが、それも仕方ないことか。紛い物には相応しき行いだ』

 ギクシャクとした動きで、恵那は起き上がった。表情はなく、瞳だけは戦意でぎらついている。

「……紛い物」

 晶は、その言葉を咀嚼するように繰り返す。

 イタリアで、アナトにも同じようなことを言われた。

 自分の中の他の媛巫女とは異なる力のことを言っているのだろうか。

「それは、どういう意味ですか」

 聞いてはならない。聞いてしまっては、後戻りできなくなる。脳裏を掠める警鐘を無視して、晶は問いかけた。

『答える義理はない。神を祀るべき巫女にも関わらず、神殺しに現を抜かす、愚か者にはな』

「別に、現を抜かしているわけでは……」

 緊迫する状況下にありながら、ついつい照れてしまった。

 だが、すぐに気を取り直す。

 恵那は完全に神剣に意識を乗っ取られている。あの身体からは天叢雲剣の神力しか感じ取れない。人の身体に、それほどの力を封入すれば、どれほどの負担がかかるか。危険なのは、晶だけではない。

『己に勝つつもりか。つくづく愚か。身の程を弁えよ、紛い物の巫女』

 不吉な風が、晶の身体に纏わりついた。

『ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし、今は吾が名の惜しけくもなし』

 それが、天叢雲剣がこの戦いで唱えた最初の聖句だった。

 何が来るかと、油断なく構えた晶の膝から力が抜け落ちた。

「な、うあ……」

 膝をつき、槍で上体を支える。

 身体中を倦怠感が襲う。呪力が根こそぎ奪い取られたのだ。

 戦慄が、晶の背筋を駆け巡る。

「まさか、こんな力が」

 呼吸もまともにできないほど、一気に衰弱する。

 嵐を司る権能に気をとられて、こちらの力に意識を払っていなかった。

 スサノオは、太陽すらも隠すトリックスターにして、数多の敵を打ち払ってきた軍神。彼の刀である天叢雲剣はまつろわす刀(・・・・・・)だ。 

 敵を無理矢理にでも屈服させ、その力を我が物とする力。

「ぐ、あううッ……」

 おまけに、頭が割れんばかりに痛い。

 天叢雲剣の神力をその身に受けた途端、尋常ならざる頭痛に襲われた。頭の中を引っ掻き回されているかのような激痛が晶を責めさいなむ。

 目の前がチカチカと光る。

 

 八つに分かれた竜の首。

 荒ぶる武神。

 雷鳴が轟き、風雨は山を穿ち、川をかき回す。

 

 見たことのない光景が、次々に浮かんでは消えていく。

 高橋晶の歴史が、別物に置き換えられる――――そんな気がして、総身が震える。訳の分からない、恐ろしい何かが、自分の内側からにじみ出ている。

「あああああああ!」

 晶はついに倒れこんだ。

『貴様では己には勝てぬ。これは、神代から続く、絶対の理だ』

 地に伏した晶の傍らに立つ恵那が、神剣を晶に突きつけた。 

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 スサノオ。

 言わずと知れた日本神話最大の軍神。

 最も有名なのは、ヤマタノオロチ退治の伝説だろう。生贄にされるというクシナダヒメを救うために、八首の蛇の怪物に単身挑み、これを撃破。その尾を切り裂いて、天叢雲剣を得たという。典型的なアンドロメダ型神話だ。

 ゆえに、《鋼》の属性を持つ神でもある。

 しかし、スサノオという神は、極めて多様な顔を持つ神だ。それは、その神格の成立過程で数多の神々を取り込んだからである。元々は出雲の土地神。アマテラスと異なり、古事記成立以前から在野で信仰を集めた武神であり、大和の神ではない(・・・・・・・・)

 スサノオは、オオクニヌシやスクナビコナと同じく、在野で厚い信仰を集めたからこそ、記紀神話において神話の書き換えが行われた神なのだ。

 スサノオの神話は『国譲り』の布石となる物語だ。その神話の中でのスサノオの行動は、あまりにも矛盾が大きい。

 例えば、『うけい神話』

 『うけい』とは、『そうならば、こうなる。そうでないならば、こうなる』ということをあらかじめ宣言しておき、そのどちらが起こるのか、ということによって吉凶を占うものだ。神話の中でスサノオはアマテラスとこのうけいで勝負をしている。

 スサノオが根の国に追放になる際、アマテラスに挨拶をしてから高天原を去ろうとするが、アマテラスはスサノオが高天原を奪おうとしているのではないかと疑う。この疑いを解くためにうけいを行うのだ。

 古事記と日本書紀で筋書きが多少異なるが、当然このうけいはスサノオの勝利となる。スサノオには高天原を奪うつもりなど毛頭無いのだから当然だ。

 それで、終わるのなら話は早いがそうならないのが神話の面白いところだ。

 スサノオはその後、田の畦を破壊し、糞を撒き散らすといった、破壊行為に出るのだ。『高天原に害意がない』ことを『証明』したはずのスサノオの行動がこれだ。

 この時のスサノオの行いを古事記では『勝ちさび』と表現する。

 『勝ちさび』は、古事記だけの言葉で、ここで言う『さび』は、鉄が『錆び』るの『錆び』と同じで、『それらしくなる』という意味だ。つまり、『勝ちさび』とは、『勝者らしい行動をする』ということになる。

 神話の神は、その権能にあわせた行動をするのだ。それはある意味で機械と同じである。月の神は月の領分から出ることはなく、太陽の神は太陽に関わる行動しか起こさない。

 スサノオはうけいに勝って、勝者らしい行動として、高天原で暴れまわった。つまり、高天原と敵対する(・・・・・・・・)ことが、スサノオにとっては正しい行動(・・・・・)だったということだ。

 スサノオが高天原を去る原因となったのは、父イザナギの海原を治めよという命を拒否したことにある。しかし、なぜ、スサノオは父の命令を拒否したのか。アマテラスは天を治め、ツクヨミは月の世界を治める。どちらも、あっさりとこれを受け入れている。それは、二神にとってそれぞれ、天と月は治めるべき領土だったからだ。しかし、スサノオは拒否した。そして、海原ではなく、母のいる『根之堅洲国』へ行きたいと泣き叫ぶのだ。

 マザコンだから泣き喚くのとは訳が違う。スサノオが海原を治めることを拒否したのは、海が彼の領域ではないからだ。スサノオは本来根の国の神だ。だから、『根之堅洲国』へ行きたいと泣き叫ぶのだ。

 『堅洲』とは『片隅』の意味だ。

 スサノオは記紀神話以前の世界を背負った神であり、そのスサノオが高天原から去ることは、根の国を片隅にまで追放することを示している。

 

 

 記紀神話は、かなり中央集権的な要素が強い。

 在野の神話をまとめたというよりも、都合よく書き換えたものだ。

 だからこそ、矛盾やおかしなところが出てきてしまう。

 前世で護堂は倫理の授業の中で、折口信夫の『マレビト信仰』に触れた。

 祖霊崇拝の一つで、山に祖霊が宿り、その霊は定期的に人々の下へやってくる。お盆などの元になった思想のことだ。

 護堂が不思議に感じたのは、記紀神話で描かれる『黄泉国』は地底の国だが、日本古来の『あの世』が山となっている点だ。

 これは、つまり、元々日本人の世界観はあの世とこの世が平行に存在する水平方向の世界観だったということを示しているのだ。沖縄には海の向こうに理想郷『ニライカナイ』があると信じられている。それと同じだ。『ヨミ』は『ヨモ』が鈍ったもので、『山』を意味する語だ。一方、記紀神話の世界観は高天原――葦原()国――黄泉国の垂直な世界観となり、それ以前の世界観を否定している。

 あの世を意味する漢字に中国思想の『黄泉(コウセン)』を取り入れたのも、中国的な国家経営を意識しているように思える。

 スサノオの事跡は書き換えられた。

 根の国の追放によって、古い水平的世界観から、近代的で中央集権的な――――皇祖神が座す高天原を頂点とする世界観へ移り変わった。

 それが、スサノオの記紀神話での役割だったのだ。

 

 

 

 目の前に座る武神から漂う力は、なるほど一国の英雄神に相応しい。

 複雑怪奇な成立過程のために、様々な要素を取り込んでいるので、権能の幅も広い。おまけに、天叢雲剣が持つ相手の力を奪い模倣する力。

 戦って負けるとは思わないが、本当に面倒くさい相手だ。ペルセウスやアテナのように、愚直な武神というわけでもないだろう。必要とあれば、卑怯な手を使うことだって考えられる。なにせ、記紀神話の英雄の基本戦略はだまし討ちなのだから。

 酒を飲ませて泥酔したところを打ち倒したヤマタノオロチ退治のみならず、ヤマトタケルや神武天皇の伝説においても、正面からの戦闘よりも不意打ちだまし討ちが横行しているくらいだ。

 敵対関係にないことが、せめてもの救いだろうか。

 それとも、すでにスサノオの術中に嵌っているということはないか。

 警戒心は緩めず、しかし身体の力は抜いて正面からスサノオと向き合った。

「いい目をしてやがる。オレが何か良からぬことをしようとしたら、即座に斬ることも辞さねえつもりだな」

 護堂がスサノオを観察していたのと同様に、スサノオも護堂を観察していた。

 若かりし頃のスサノオは、わがままながらも義侠心に溢れた英雄神。年老いた後は若者に嫌がらせをする老獪で、哀れな老人。その性格は多様にして千差万別。状況次第で様々な姿と性質を併せ持つ。

 スサノオは頭も切れる。

 護堂が抱く覚悟くらい、簡単に感じ取れる。

「まあ、そう不安がるな。オレたちは本当にオメエと戦うつもりはねえからな」

 お猪口に酒を注ぎながら、スサノオは言う。

「『オレたち』ね。他にも仲間がいるように聞こえるな」

「耳ざといじゃねえか」

 スサノオは、喉を鳴らしてくぐもった笑いを漏らした。

「腹の探りあいはその程度でよいのではございませんかな」

 突然現れた第三の声に護堂は振り返る。

 小屋の片隅に座す、干からびた僧衣のミイラが話している。

 削げ落ちた頬に落ち窪んだ眼孔。なるほど、これは文字通りの即身成仏だ。

 知ってはいたが、実物を見ると衝撃を受ける。正直に言って、見ていて楽しいものではない。

「わざわざこのお方をお呼びしたのは、世間話に興じるためではありますまい。そろそろ本題に入られるべきではないですかな」

 やはりこのミイラ、なかなかの反骨精神の持ち主らしい。スサノオの前でも物怖じしないのは、付き合いが長いからなのか、それとも元々そのような性格だからか。おそらくは、後者なのだろうな、と護堂は思う。

「そのとおりです。これから話すことは、とても重要なのですから、あまり喧嘩腰で向き合うのはよくありません」

 僧侶の反対側に、これまた突然現れた十二単の女性が、鈴のような声で言う。

 彫りの深い顔立ちに、肌理の細かい象牙色の肌。亜麻色の髪とガラス細工を思わせる玻璃の瞳。日本人離れした容貌だ。

 神祖を祖とする高位の媛。

「別に喧嘩腰でもなかったろ。なあ?」

「まあ、確かにそうと言えばそうだけど……」

 だからといって、友好的だったかと言えば、そうではなかったはず。

 しかし、スサノオはまったく意に介さない様子で、酒を呷る。

「俺に話があるから呼んだんだろう? いったい、何の話があるんだ?」

「そうだな。大事なことが二つある。が、その前に、おめえに聞きてえことがある」

 スサノオは、お猪口を置き、眼光も鋭く護堂を見つめる。

「前世の記憶があるってのは、どんな気分なんだ?」

 護道は、スサノオの言葉に絶句する。

 これまでの二度の人生の中で、これほどの衝撃を受けたことはなかった。

 知っている。

 護堂がこれまでひた隠しにしてきた秘密を、この元『まつろわぬ神』は知っているのだ。これは、ブラフではない。スサノオは確信を持って護堂に問いを投げかけている。

 これまでの護堂の行動から、推測することができるはずがない。

 前世の記憶があるかないかなど、頭の中を覗く以外に術がない。そして、今のところ、護堂はそのような術を受けた記憶はない。

 可能性があるとすれば、初めから護堂が転生者だと知っていたということだ。

 護堂自身でも分からない、転生の秘密。

「あんたら、いったい何を知っている?」

 震える声で、そう尋ねるのが精一杯だった。



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五十二話

 神々しい嵐がグラウンドを覆っていた。

 天叢雲剣の力は、日本最強の護国の剣に相応しいものだった。

 しかし、そんな由緒ある神剣の力も、敵に回せば恐ろしい魔物と大差ない。

 触らぬ神に祟りなしとも言う。

 聖か邪かは、属性の問題でしかない。それが如何なるものであろうとも、敵対者にとっては脅威以外の何物でもないのだから。

 そして、脅威というくくりで見れば、天叢雲剣は、間違いなく最大級の脅威となるだろう。少なくとも、人の戦いにおいて、これほどの力を発揮しうる呪物は存在しない。

 敵対する者同士の実力が拮抗していた場合、勝敗を分けるのはその手に握られている道具の性能の差だ。

 晶にとって不運なことに、天叢雲剣は日本最強の呪物だった。その刃は、人の手による作ではなく、神々によって鍛えられたもの。元来、人間が振るうべき代物ではなく、しかるべき使い手――――本来の所有者たる『神』の下にあるべき刀である。

 しかし、それは晶にとって不運ではあったが、最悪ではなかった。

 晶の手には神剣に匹敵する神槍がある。

 さらに、その神槍を生み出す権能は、一目連の中の天目一箇神が持つ製鉄の力。この神は、一説には天叢雲剣を打ったともされる製鉄神だ。

 つまり、晶の神槍と恵那の神剣は、兄弟とも呼ぶべき立場にある。

 

 晶は自らの身体に生じた異変の原因を探る余裕もなく、力任せに転がった。

 局所的に生じた乱気流が、地面を切り裂き、晶の身体を浮き上がらせるも、槍を地面に刺して辛うじて堪える。

 形勢は不利。武具ではなく、使い手の相性があまりにも悪い。《鋼》としての在り方を前面に押し出してくる天叢雲剣は、《蛇》に近い性質を持つ晶の天敵だ。相手が恵那であれば、人間同士いい戦いになるのだろうが、今は、恵那の身体を神の御霊が乗っ取っているような状態だ。言うなれば、神の使い、神獣、ミサキ、そういったレベルの相手に、単身挑むのは無謀に過ぎるというもの。

「負けるかッ」

 だからといって、負けるわけにはいかない。

 晶にも意地がある。

 脳裏を掠める不可思議な光景は、一先ず無視する。

 晶は、膝をついた状態で槍を振り上げた。穂先が天叢雲剣を弾き、蛇のような火花が散る。

『ぬ……』

「わたしを、あまり舐めるな」

 喉奥から声を絞り出し、槍を振るう。

『まだ、槍を振るう力があるか』

 天叢雲剣は、声色を変えずに呟いた。

 《鋼》の神剣たる天叢雲剣にとって、ただの人間はわざわざ刃を振るうほどの相手ではない。まして、《蛇》に近いのならなおさらだ。路傍の石も同然の存在だ。しかも、今の晶は神気を受けて満身創痍。呪力も根こそぎ奪い取られて満足に術を使うことすらもできない。

 斬るのは容易。

 柔らかい女の身など、僅かの抵抗もなく両断できよう。

 恵那の身体を操って、自身の切先を晶に向けた。

『む……?』

 異変は些細なこと。

 しかし、首を捻るには十分だった。

『なぜ、立ち上がることができる』

 天叢雲剣は不思議でならない。

 晶が、膝に手を付きながらもゆっくりと立ち上がったことが。

 晶は、もう戦えない。体力も気力も呪力も何もかも枯渇しているはずだ。戦闘に必要な力は、すべて奪い取ったのだから。

 だがしかし、晶は立ち上がった。二本の足でしっかりと大地を踏みしめて、凛とした視線を向けてくる。

 さすがに、疲弊の色は隠せないが、戦意は衰えるどころか、むしろ増しているようにも思える。

「やあ!」

 晶が、気合とともに、槍を振り上げた。グラウンドの表面を切り裂く風刃が、穂先から放たれる。

『どういうことだ。……なぜ、呪力が』

 風刃をかわしてから、天叢雲剣は晶を観察した。

 呪力を奪い取られて満身創痍だったはずの晶は、今、確かに呪術を行使した。

 それは、本来ならば寿命を削るに等しい行為のはず。なりふり構わないといえば、聞こえはいいが、それが実際にできるかというとそうではない。しかも、晶はそのような火事場の馬鹿力で呪術を発動させたわけではない。

 見るからに、呪力が回復している。

『からくりがあるか』

 天叢雲剣は、刀身に呪力を纏わせて、それを晶に向かって解き放った。

 少し前まで晶を追い詰めていた、呪力を奪う魔風を送り込んだのだ。

 いかに晶が呪力を回復させたとしても、また奪えばいいだけの話。呪力の回復にからくりがあるのなら、見極めることもできよう。

 再び魔風に曝された晶は、今度は膝をつくことなく槍を一閃。

「だから、舐めるなと言った!」

 天叢雲剣の魔風を、斬り払った。

 

 

 晶が呪力を取り戻した理由は、彼女の特異能力にある。

 他の媛巫女が持たない、晶だけの力。この国で最も大地と深い関係にある晶は、大地から力を吸い上げることができるのだ。大地と縁のある月が出ていれば、その効果は相乗されるが、今はないものねだりをしている場合ではない。

 できるだけ早く、大地の加護を得る。それによって、神剣に奪われた呪力を回復したのだ。

「お互いダウンが一回ずつ。仕切りなおして第三ラウンドといきますか」

 槍を大きく回して相手を威圧し、上段の構え。

 晶は柄でもなく軽薄な笑みを浮かべて挑発する。

『図に乗るな。借り物の武具の加護を受けたと見えるが、その程度で己と互角に戦えるなど、思いあがりも甚だしい』

 そう、晶単独では、天叢雲剣が持つ搾取の力には太刀打ちできない。

 《鋼》とは、元来地母神をまつろわせ、大地の力を搾取する者のことだ。大地の加護を得て、その力を貸与される晶とは、在り方が正反対だ。

 そして、天叢雲剣が持つ強制力は、晶の膨大な呪力を一瞬にして枯渇させるほどのものだ。呪力を回復したそばからその呪力を奪われたのでは、ただのいたちごっこになってしまう。そして、そうなってしまっても晶には勝機はない。

 なんとかして、天叢雲剣の力を抑える必要があった。

 そこで、強力な《鋼》に対抗するために、晶もまた《鋼》を用いた。

 護堂に与えられた神槍は、《鋼》の力を持つ、天叢雲剣の兄弟にあたる槍。天叢雲剣の簒奪能力を打ち破る唯一の可能性だ。

 僅かな可能性だった。

 成功の確率はあまりに低く、ぶっつけ本番で心もとなかったが、晶自身でも驚くほどうまくいった。

 天叢雲剣の厄介な簒奪能力は封じた。しかし、だからといって楽観視できる状況でもない。

 晶の攻撃も、その多くが恵那の身体に届かないのだ。互いに決め手を封じられたまま、より一層、剣戟は激しさを増していく。

 もはや語り合う言葉もなく、ただひたすらに刃を交わす。その身に染み付いた武芸の真髄を、余すところなく発揮し、知りうる限りの呪術を遍く動員して、ただ目前の敵を打倒するために心血を注ぐ。

 闇の中、鉄と鉄を打ち合う音だけが、虚しく響いていた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 小さな掘っ立て柱の小屋は、凡そ現代人が足を踏み入れるような場所ではなかった。

 一つの家族が、辛うじて寝起きできるかという小さな空間は、家というよりも物置のような狭さで、尚且つそのど真ん中に筋骨隆々の大男が鎮座しているとあっては、息苦しさは数倍にも跳ね上がる。

 とはいえ、今現在この場にいる者が感じる息苦しさは、そんな環境的要因とはまたことなる次元からくるものだ。

 目に見えない重圧が、僅か数畳の空間に渦巻いている。

 元『まつろわぬ神』にして、日本最強の軍神スサノオと、カンピオーネ草薙護堂の邂逅。

 常人ならば、この場にいるだけで呼吸を乱し、気を失うことだろう。

 まるで、風船に許容量を超えた空気を送り込んでいるかのようだ。立ち込める『気』が、この小屋の屋根を吹き飛ばすのではないか。そのような錯覚すらしてしまう状況が生まれていた。

「あんたらは、いったい何を知っているんだ?」

 再度、護堂は尋ねた。

 護堂自身、前世の記憶を引き継いだまま、新たな生を受けたことに納得したわけではない。誰にも理解してもらえないという孤独。相談することすらも困難な状況で、一人出生の秘密を抱えたまま、悩みながら今まで生きてきた。

 だから、護堂に前世の記憶があることなど、誰も知らないはずだ。

「その反応から察するに、どうやらアタリみたいだな。……オメエが神殺しになったとき、まさかとは思ったが、あいつめ、本当にやり遂げやがったぜ」

 スサノオが、凄みのある笑みを浮かべて護堂ではない誰かを賞賛する。

「だから、どういうことなんだって聞いてんだよ!」

 この問題に関しては、護堂も冷静ではいられない。今にも剣を解き放たんという勢いで膝立ちになる。

「羅刹の君よ。どうか、落ち着いてください。わたくしたちに、あなたさまを害そうというつもりはございません。先ほど申し上げたとおり、これからあなたさまと現世に関わる重大事についてお話しするために、無理を押してお呼び申し上げたのです」

 落ち着いた声色で、諭すように言われて護堂は押し黙った。

 高圧的に接したところで、相手はスサノオ。脅しに屈するような精神はしていない。玻璃の媛が言うとおり、ここは落ち着いて話を聞いたほうが建設的だ。

 護堂は深呼吸して気持ちを落ち着かせてから、その場に胡坐をかいて座った。

「それで、あんたはなんで俺の前世の記憶なんかに興味がある? この国の未来には関係がないだろ?」

「確かにな。オメエの前世の記憶そのものには、なんの意味もねえ。だがな……」

 そこで、スサノオは言葉を切り、身を乗り出すようにして、

「前世の記憶があるってこと、それそのものはオレたちにとって大きな意味がある」

 そう断言した。

「須佐の御老公は千年もの月日を待っておられたのです。あなたのような存在が、この地に誕生されるのを」

 ミイラが口を開いた。しわがれた声の中に、愉悦が浮かんでいるような気がする。

「千年? そんな昔から、どうして。いや、待て、千年」

 護堂は、しばし悩んだ。千年という言葉。そこには、極めて厄介な意味合いが含まれていたような気がする。

 そして、思い出した。

「たしか、最後だか最強だかっていう《鋼》が眠りについたのが千年前だったな」 

 なぜ、今まで忘れていたのか。

 この世界の中で、最大の謎であり、すべてのカンピオーネを殲滅する権能を持つ正真正銘のラスボスとも言うべき存在が、この国に眠っているはずではないか。

 護堂は、原作知識を可能な限り思い出そうと頭を回転させた。さすがに、十六年も昔の話なので、細部はぼやけてしまっているが、このスサノオとの対話は原作において、護堂が最強の《鋼》に対抗できるか否かを見定めるための場だったはずだ。

 スサノオは、護堂の呟く声を聞いて、眉根を寄せる。

「なんだ、あのガキのことを知ってんのか?」

「噂だけは……追いかけてる人だって少なくないだろ」

「ああ、あの南蛮の魔女か」

 スサノオはルクレチアのことを知ってるようだ。ルクレチアは、戦後間もなく日本の大学に留学していたというから、そのときにマークしたのだろうか。

「だが、今はあのガキのことは置いておく」

「なんだって。置いておく? 封じられてんのか眠ってんのか知らないけど、あれはかなりの脅威なんじゃないのか?」

 護堂は、自分の知っている知識を暈しながら、スサノオに詰め寄った。スサノオは、前世の記憶そのものには意味がないと言っていたし、護堂が眠っている《鋼》について知っていることに驚いている。だから、スサノオは、護堂が転生者だと知っているだけで、護堂の知識に関しては何も知らないはずだ。

 その上で、今のスサノオの台詞。

 原作通りならば、スサノオたちにとってあの《鋼》は目の上の瘤であり、地上を混乱させる可能性があるとして常に注意を払ってきた存在だった。それを置いておくというのは、それ以上の何かがあるということではないか。

「あのガキのことを多少なりとも知ってるのなら、わかるだろ。アイツはいつ目覚めるか分からねえ。気ィつけて損はねえが、だからといって、目の前にあるモノをほったらかしにするわけにもいかねえだろ」

「ようするに、今まさに現世には脅威が迫っているということですな」

 ミイラがスサノオの言葉に付け足した。

「『まつろわぬ神』か」

「まだ、違うな。だが、戻りつつあるのは確かだ」

「つまり、神性を失って零落した『まつろわぬ神』が、日本のどこかを彷徨っている。ソイツは、力を取り戻しつつあって、復活すると厄介な相手」

「そういうこった」

 スサノオは、お猪口に酒を流し込み、一口で呷った。話している間にも何度か酒を口にしている。酔いは、一向に回る様子がない。

「それで、どうして俺に前世の記憶があるかって聞いてきたんだ?」

「それも、地上をほっつき歩いているジジイに関わることだ。そう焦るんじゃねえ。一から話してやるからよ」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 草薙護堂の消失と清秋院恵那の暴走の一報は、大変な驚きをもって正史編纂委員会東京分室に迎えられた。

 日本の歴史上、神殺しを成し遂げた人物は護堂以外にいない。護堂が正式にカンピオーネと断定されてからは、この東京分室を中心として『まつろわぬ神』及びカンピオーネ草薙護堂への対応を行っていた。

 現在、東京分室内における護堂の人物評は、概ね好意的だ。

 圧倒的な戦闘能力を有しながらもその人柄は一般的な高校生男子の域を出ない。もちろん、『まつろわぬ神』との戦闘時などは例外としても日常的に周囲を混沌の渦に巻き込む諸外国のカンピオーネに比べればずっと接しやすいと言える。

 ヴォバン侯爵が恐怖によって祀り上げられる神様だとすれば、護堂はお祭りのときに御神輿に乗っているより身近な神様のようなもので、後者の方が気兼ねすることなく接することができるのは言うまでもない。

 おまけに格は、どちらも同じ。

 正史編纂委員会としては、今後も護堂とうまくやっていきたいという方向で今まで進めてきた。

 晶が神槍の所持を認められたのは、一歩前進していると受け取ってもいいだろう。護堂としては、組織ではなくあくまでも晶個人に対して与えたつもりだが、それは晶を擁する正史編纂委員会としても都合がいい。

 加えて、護堂の成長速度は尋常ではない。

 カンピオーネになってからまだ半年ほど。それでも、得た権能はすでに四つもある。先達のサルバトーレ・ドニに並ぶ数字だ。

 実力も申し分ない。

 その護堂が、突如消失した。

 それと時を同じくして、最強の媛巫女である清秋院恵那が暴走した。今は、晶の奮闘で抑えているが、それもいつまで持つか。

「大地の呪力を限界まで引き出してやっと互角か。相変わらず凄まじいね、恵那は」

 いや、ここはその恵那と対等に渡り合っている晶を褒め称えるべきか。

 馨はグラウンドの中央で斬り結ぶ二人の少女を眺めている。

 戦況は拮抗している。

 だからこそ、迂闊に助けに入るわけにはいかない。

 晶と恵那の戦いは、ピンと張った細い糸で綱渡りをしているようなものだ。下手に手を出せば、晶の奮闘は瓦解する。

 東京分室の室長としても、この事態は見過ごせない。本来ならば、一部署の長なので執務室を離れるわけにはいかないのだが、今回ばかりはそうも言っていられなかった。

 圧倒的な人手不足。

 仮に恵那がグラウンドから市街地へ出てしまうようなことがあれば、それを阻止しなければならない。しかし、晶ですら押されるような相手に対応するとなれば、並みの呪術師では話にならない。必然、武芸呪術の双方で上位にいる馨の力が求められてくる。

 もちろん、馨の戦闘能力は恵那にも晶にも劣る。それでも、呪術師としては優秀で媛巫女の中では恵那と晶に次ぐ実力者だ。冬馬と連携すれば、恵那の足止め程度は狙える。

 一番は複数人で囲んで押さえ込むことだが、数で圧倒するには時間が足りない。

 晶がもっと時間を稼いでくれれば、恵那を押さえるだけの人員が用意できるはずなのだが、間に合わなければ、馨が身体を張るしかないのだ。

 唯一、恵那を確実に止められる護堂はスサノオによって拉致された。

 それは、祐理の霊視が明らかにしている。

「王が不在の間に、こんなはた迷惑なことをしでかすとはね」

 ――――私見ですが、これは恵那さんの意思ではないと思います。恵那さんが奔放な方とはいえ、神剣の力を暴走させればどうなるか、分からない方ではありません。

 祐理と連絡を取り合ったときに、彼女はそう言っていた。

 それに関しては、馨も同意見だ。恵那とは長い付き合いだ。その気性も実力も、間近で見聞する時間はいくらでもあった。だからこそ、安易な暴走は不思議でならない。そうならないように、厳しい鍛錬を積んできたのだから。

 清秋院恵那は、普段の言動こそ軽いものの、呪術に対する責任感は人一倍強い娘なのだ。

「コントロールを誤った。いや、そんなヘマはしないはずだ。……まあ、暴走の原因は後々考えるとして、これから何をすべきかが大事だ」

 一先ずは、グラウンドに結界を敷き、衆目を誤魔化す。増援を待ち、いざとなれば自分と冬馬が晶の救出と恵那の捕縛を試みる。

 当面、現世で行えるのはこれくらいだ。

「後は、祐理。君次第だ」

 馨が背後の巫女に話しかける。

「はい」

 祐理が静かに返事をした。

 その表情には一切の気負いがなく、波紋すら立たない凪いだ泉を思わせる透明感があった。

 晶が恵那を追いかけた後、祐理は嫌な予感がしてその後を追った。運動能力が低いため、晶からはあっという間に引き離されてしまい、この場に着いたときにはすでに恵那と晶は戦い始めていた。

 何が起こったのかは、霊視が働いたおかげで掴むことができた。

 護堂は幽界に向かい、恵那は暴走している。そして、晶は暴走した恵那と戦っているところだった。

 以前の祐理ならば、なりふり構わず戦場に赴き、恵那を説得しようとしただろう。だが、『まつろわぬ神』と護堂の戦いを目の当たりにした祐理は、自分の力では戦闘そのものを止めることができないのを知っている。戦えない人間が、戦場に出たところで、お荷物になるだけだ。

 だから、祐理はグラウンドには姿を見せず、自分ができる範囲で行動を起こした。

 祐理に戦う力は求められていない。

 だからこそ、それ以外の選択肢を選ぶことができるのだ。

 この場は、校舎のすぐ近く。護堂が闇に呑まれた場所だ。恵那が刻み込んだ術式は、未だに力を失うことなく胎動している。

 術式が刻まれた校舎の壁のすぐ前に、小さな祭壇と複数の薬草や呪物が用意されている。

 日本の呪術では扱わないような霊薬の数々は、どれもが極めて希少なもの。簡単に用意できるものではない。

「これから、幽界への道を開き、草薙さんをお迎えに上がります」

 祭壇の前に座った祐理が、しかるべき手順に則って道具を並べていく。西洋風の呪物の配置。薬草が西洋のものならば、呪物もまた西洋のものだ。

 初めて行う幽界渡りの術。

 しかし、不思議と失敗するとは思わなかった。もともと、媛巫女は生まれたときから幽界と繋がっているようなもので、祐理はその中でも特別つながりが深い。手順を踏めば、確実に幽界へ向かうことができるはずだ。

 祐理の傍らに立つ冬馬は、いつものやる気のないスタイルを維持しつつ、恵那と晶の戦いから祐理と馨を守るために気を張っている。

 いつ何時、恵那を操る天叢雲剣が標的をこちらに向けるか分からないという状況でも、飄々としていられるというのは、ある意味で頼りがいがある。

 そんな冬馬も、祐理がすでに万事準備を整えていたことには驚きを隠せなかった。

「そのような薬草、いったいどこで手に入れたのです?」

 冬馬は、それが気になった。

 祐理が持つ呪物も薬草も彼女個人で用意できるものではない。正史編纂委員会は、日本最大の呪術組織だが、それでもこの薬草なり呪物なりはすぐに取り寄せることはできない。

 どれほど品揃えのいい商人に掛け合ったところで無駄だ。幽界渡りなど、よほどの事情がなければ行わない上に、ランクEの難易度を誇る術だ。使用者がそもそもいないのでは商品として揃える意味もない。

 真っ当な方法では、手に入れることは不可能な道具の数々。

 道具がなければ、幽界へいくことは出来ない。だからこそ万事休すのはずだったのだが、蓋を開けてみれば祐理は必要な道具をすべて揃え、幽界渡りを実行しようとしているではないか。

「草薙さんにご一緒するうちに、交友関係が広がったのです。今ではメールのやり取りもありますよ」

 機械音痴の祐理だが、一応メールは使用する。最近、意識して使うようにしているのだ。

「その方に連絡を取って、融通していただきました」

 祭壇に呪具を並べながら、祐理は答えた。

 だが、それにしても準備が早すぎる。

 祐理の言が正しければ、祐理のメール友だちとやらは、この極めて希少な薬草や呪物の一式をものの数十分で揃えた上で祐理に送り届けてきたことになる。

 連絡を受けてから用意したのでは当然間に合わない。祐理が連絡をする前から、そういった物品を手元に置いていたということになる。 

 日本国内ではない。

 そんなものを平然と手元に置いているようなら、正史編纂委員会が押収しているはずだ。正史編纂委員会は西洋系の魔術を規制しているのだ。

 だから、日本の呪術師ではないだろう。

 おまけに、その友人はかなりの資金力がある。そうでなければ、高価な霊薬を揃えることはできない。

 そして、何よりその使い方を教授するだけの魔女術の知識を有する者。

 祐理の知り合いの中に、その条件に合致するのは一人だけだ。

「なるほど。クラニチャール家ですか」

「はい」

 祐理は首肯した。

 クラニチャール家の令嬢、リリアナ・クラニチャールと祐理は浅からぬ因縁がある。祐理本人は覚えていなかったが、ヴォバンにつれ去られた四年前にも顔を合わせている。仲が深まったのは、この夏にイタリアへ行ったときだった。

「リリアナさんに、幽界渡りの方法と必要な物品の工面をお願いしました。道具は投函の術で手元に送っていただいて、方法は電話でお聞きしたのです」

「はあ、なるほど……」

 確かに、クラニチャール家の歴史は古く、現当主はイタリアを代表する魔術結社《青銅黒十字》の代表を務めている。おまけに、リリアナは生粋の魔女だという。幽界渡りに必要な道具を常備していても不思議ではない。

 それに、護堂とも付き合いがある。この夏、護堂たちをイタリアへ招待したのは、他でもないリリアナだ。それに、リリアナたちは、この夏の一件に関して護堂に迷惑をかけたという負い目がある。責任感の強いリリアナは、護堂の危機とあらば二の句なく助けてくれるだろう。負い目を利用するようで心苦しいのだが、祐理は、もしものときはそういった方向から交渉するつもりでもいた。結果として予想以上にすんなりと事が運んでくれたので、祐理が抱く罪悪感は僅かで済んだ。

「一応言っておきますが、呪術で使用するような物品の取引は禁じられてますよ」

「存じております。それが何か」

「……いえ、なんでもありません」

 祐理は黙々と作業を進める。

 冷厳とした口調は、冬馬に一切の反論を許さなかった。

 罪ではあるが、必要とあらば躊躇する道理がない。そう言っているようにも聞こえた。

 それに、護堂に関することであれば、違法行為も合法化する。祐理を責めることはできない。とはいえ、真面目で融通の利かないところがあった祐理が、合法化しているとはいえ独断で密輸を行ったというのはちょっとした驚きだった。

 もしかしたら、祐理が一番護堂の影響を受けているのではないだろうか。

 冬馬は、そう思わずにはいられなかった。

「馨さん、甘粕さん。申し訳ありませんが、わたしが不在の間、この儀式場をお守りください」

 祐理が持つ巫女の資質は、西洋では魔女の資質と同義のものだ。しかし、鍛え方が異なるために、祐理には魔女術は使えない。

 だから、本来ならば道具を揃えたところで幽界に渡ることなどできないのだ。

 しかし今、恵那が紡いだ呪がそのままの形で校舎の壁に刻み込まれている。道は初めから示されているのだ。祐理は、幽界と現世を隔てる門の鍵を開けるだけでいい。

 よって、魔女術の真似事でも十分に効果が期待できる。

 精神を統一し、余分な感情の一切を消し去り、無我となる。己を『空』にするのは、恵那の専売特許ではない。

 深く深く沈みこむ意識を、一点に集中し、針の先よりも小さな穴に糸を通すような繊細さで術式を構築。直感に触れた『道』の痕跡を見失わないように追いかけて掴み取り、渾身の力を込めて門をこじ開ける。

 かちり、と何かがかみ合うような感覚。

 この世ならぬ異界の気配に総身が震える。

 かくして道は開かれた。

 壁に浮かび上がる夜よりも暗い、黒々とした闇はちょうど人一人分の大きさだ。

 そして、門が開いたそのときには、祐理の身体は現世から消失していた。

 

 

 このとき、祐理の瞳がガラス細工のような輝きを放ったことには、祐理自身すらも気づかなかった。

 

 




「黒子のバスケが一週間で一番面白い番組」 by my mother

 なぜか父と母がそろってリアルタイムで見てる……そして父、全巻大人買い(スラムダンク)

 なぜ?


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五十三話

「今から千年ほど昔の話だ」

 そう前置きして、スサノオは話し始めた。

「あの時代は、呪術の最盛期って感じでな。平安京を中心に、今とは比べられねえくらいの実力ある呪術師どもがわんさかいたもんだ」

 ちょうど、スサノオが隠居して間もない頃だったという。

 平安時代中期。

 藤原家の摂関政治が興隆していたまさにその時で、時代の覇者は藤原道長である。

 現代では、すっかり日陰者となってしまった呪術も、この時代は日向の者であった。いや、日陰者を表で使わねばならないほどに、闇が濃かったというべきかもしれない。

 何れにせよ、呪術は日常の中に存在し、それを当然のものとして人々は生きていた。

「そんな時代よ。人間どもは目に見ねえモノを信じ、恐れていた。時の帝でさえな。呪術師として、それなりに力があれば、権力者に取り入るのも容易だったんじゃねえかと思うが。そんなところに、一柱の『まつろわぬ神』が異国(とつくに)から渡ってきたのさ」

 珍しいことではない。

 『まつろわぬ神』は、地上のことなどどうとも思っていない。

 好きなように暴れ、好きなように旅をする。気の向くまま流浪するのだから、異国の神が日本を訪れたとしても不思議ではない。

「そのジジイの奇妙なところは、見込みある人間の呪術師を弟子に取ったところだ。何が目的だったかは、分からねえが、播磨のあたりを中心にちょっとした呪術結社を作りやがった」

「『まつろわぬ神』が、そんなことを?」

「呪術の神だ。こと呪術において、右に出るもんはいねえ。問題はこっからでな、ソイツはよりにもよって、京に手ェ出しやがった」

 当時の天皇も摂家も恐れ慄き、神仏に祈りを捧げて身の安全を祈願した。

 もちろん、相手は本物の神である。人間の祈祷程度が効力を上げるはずもない。

 積極的に人間社会に関与しようとする神。

「それで、ソイツはどうなったんだ?」

「当然、討伐隊が編制されるわな。初めは武士どもが、次に陰陽寮の呪術師どもが。それでも尽くが返り討ちだ。中には裏切って向こうに付いたのもいた」

 相手が進んで手を出そうというのなら、討伐する以外に生き残る術はない。京を守るため、『まつろわぬ神』に挑むという暴挙。

「まっとうな呪術師では話にならねえことは、数度の討伐戦で明らかだ。名誉も何も関係なく、なりふり構わず倒さなきゃならねえ状況に陥った。そこで、当代最高峰の呪術師や武士が選ばれた。その筆頭が、陰陽師安部晴明だ」

「安倍、晴明……」

 護堂はごくり、と生唾を呑んだ。

 あまりにも有名な、陰陽師の名。

 現代でも、漫画やドラマ、映画と様々な媒体で主人公として描かれる、平安時代を代表する英雄ではないか。

「まさか、そんな大物が出張るってのか……」

「ほかにもいるぜ。源頼光、渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光、源頼信、平維衡、平致頼、藤原保昌……」

 スサノオが挙げる名は、どれもこれも現代ならば『まつろわぬ神』となって降臨してもおかしくない武辺者たちだ。源頼光など、実際にゴールデンウィーク中に降臨している。

「オールスターかよ……」

「ま、このほとんどが道長の側近なんだがな」

「確かに……」 

 道長固有の軍事力。尋常ではない。さすが、天下人だ。

「んで、俺たちもこいつらに手を貸した。晴明には天叢雲剣を貸してやったしな」

「貸したのか」

「アイツ、半分は神祖だからな。呪の力が強いのはそのせいだ。恵那みてえなことが普通にできた」

「そういえば、母親はキツネだって。神祖だったのか」

 伝説が真実だというのは、胸躍る展開だ。しかし、それにしても安倍晴明が天叢雲剣を振るうか。きっと、恵那以上に強力な存在になったことだろう。

 おまけに、仲間には退魔刀の最右翼童子切安綱を持つ源頼光に、雷神の子ともされる坂田金時、一条戻り橋の鬼退治で有名な渡辺綱などなど、化物退治のスペシャリストたち。

「なんで初めから出さなかったんだ」

「出し渋ったのさ。討伐に行かせたら、身辺を守ってくれる輩がいねえじゃねえか」

 どうやら、道長はへたれだったらしい。

「そんで、いろんなもんの威信をかけた討伐隊が、敵の軍団と正面衝突さ。場所は大江山。鬼が住むとされた土地だ。相手は『まつろわぬ神』だから、まっとうなやり方じゃ勝機はねえ。俺も天叢雲剣を通して権能使ったりして後押ししなけりゃならなかった。しんどかったぜ、あれは」

 幽界から現世に干渉するのは、神の力を以てしても難しい。

 今回、護堂を連れ去ることができたのは、恵那が天叢雲剣を使って術式を刻み込んだからだ。史上最高峰の陰陽師の手にある天叢雲剣なら、幽界のスサノオの力を存分に引き出せるかもしれないが、難しいものは難しいのだろう。

「それで、戦いには勝ったんだな」

「奇跡的にな。苦戦に苦戦を重ねたが、こっちだって用意周到に準備をしていたわけだ。第一、相手は本気で戦っていなかったからな。晴明と術比べをしているつもりでやってたんだよ」

 『まつろわぬ神』は人間を相手に本気で戦わない。

 そこにつけ込んだのだ。

 敵の『まつろわぬ神』は、安倍晴明と試合でもしているつもりだったのだろう。もしかしたら、胸を貸す思いもあったのかもしれない。負けるとは微塵も思わなかったはずだ。それが、大きな隙となった。

「まあ、倒したわけじゃねえ。天と大地の精を利用した大呪法で、神性をそぎ落としてやっただけだ。人間にできるのは、それが限界さ」

「それだけでも、相当のモノだと思うけどな」

 『まつろわぬ神』とて、そんな術を易々と食らったりはしないはずだ。それは、幾度となく相対してきた護堂だからこそ断言できる。つまり、人の身でそこまで追い込んだということだ。相手が油断しており、かつスサノオのバックアップがあったからなせたことだが、それでも尋常のことではない。

「『まつろわぬ神』の神性をそぎ落とすか。そんなことができるなんてな」

「オレがいろいろと動いてやったからできたことだ。そうでなければ成功するはずがねえだろ」

 護堂は頷いて、賛意を示す。

 人間だけでは、『まつろわぬ神』には届かない。そして、御老公たちは、日光に孫悟空を封じているという実績がある。

「で、それからどうなったんだ?」

「どうもこうもねえよ。相手は身体を無くしてどこぞへ消えた。それで終ェだ」

「……おいおい、俺の転生についてはどうなったんだよ。その話をするんじゃねえのかよ」

「それはこれからだ。いちいち喚くな。終わったっつっても、根本は解決しちゃいねえ」

 そう、今の話が真実だとするのなら、神性を剥奪された『まつろわぬ神』が今も、日本のどこかにいるということである。

 そして、それがスサノオたちの危惧する『ジジイ』なのであろう。

「ソイツがじきに復活するってことか」

「おう。そういうこった」

 進んで人の世に関わろうとする『まつろわぬ神』。それが、現代に蘇ろうとしているのだという。

 護堂はさすがに慄然としてしまった。

「とはいえ、それは千年前から分かっていたことだ。神性を剥奪したとはいえ、ヤツは死んじゃいねえ。いつか、力を取り戻すだろうとはな」

「分かってて、それでどうした」

「『まつろわぬ神』に対抗するには、神殺ししかねえ。オレたちは、この千年の間にヤツに対抗できる神殺しを待ってたんだよ」

 神殺し。

 それが意味するところは、つまり。

「俺の転生に、あんたたちが関わってたってのか?」

「主導したのは晴明だがな。泰山府君の法って知ってっか?」

 それは肯定したに等しい回答だった。

 泰山府君の法といえば、安倍晴明が使用したとされる命に関する呪術だ。

「そんな、バカなことが……」

「本来なら、不可能だが、国全体から力を集めて蓄えれば転生の大秘法を発動させることはできる。それに反魂自体は難しい呪術ではないしな」

 スサノオは嘯き、ミイラが、

「それは間違っておりますな。反魂は本当に難しい呪でございます。少なくとも、人の身ではそうそうに扱えませぬ」

 そう反論した。

「だけど、仮にそれが事実だったとしても、生まれ変わったヤツが神殺しを成し遂げるとは限らないはずだ!」

「もちろんだ。オレたちも半信半疑だったよ。だが、オメエ、神殺ししたじゃねえか」

「ぐ……ッ」

「この大秘法に必要なのは膨大な呪力だ。それこそ『まつろわぬ神』に匹敵するな。そうでなければ、こんな奇跡が起こせるか。そして、その呪力の大部分は、神殺しを成し遂げる可能性のある魂を選別することに使われる。転生させること自体は、それほどでもないが、こっちが難しかった。とにかく、オレにはそういう力がねえからな。晴明をはじめ、星を読める連中が、なんやかんやするしかなかったわけだ」

 だから、スサノオ自身は、この呪法にはほとんど関わりがなかったらしい。ただ、星や大地の精を使うのに手助けはしたらしい。

「この大秘法は、基本的にあのジジイに対抗する力を持つ者を生み出すための物だ。相手が『まつろわぬ神』だから、それに対応して生まれてくるヤツは神殺しになる」

「そういうもんかよ」

「そういうもんだ」

「だけど、それほどの呪力をどうやって集めたんだ?」

 自分はそのジジイとやらを倒すために呼ばれた存在だという。まさか、生前読んでいた小説の世界で生じた力が、死後の自分の魂にまで干渉するとは思わなかったが、反論を構成するだけの材料がない。死後の世界は、もしかしたらすべてが同じ場所に繋がっているのかもしれないなどと、思わずにはいられなかった。

 そして、護堂は問いを続ける。

 納得したわけではない。しかし、スサノオの言っていることが事実なら、護堂は今のところ、スサノオたちの予定通りの行動をしていたことになる。

 神様には関わらないと決めておきながらも予定調和だというかのごとく神殺しを為してしまったのも、そういう星の下に生まれているからだというのか。

 すべてが、生まれる前から決まっていて、だからこそこの世に生を受けたと?

 転生したからには、何かしら自分の人生に意味を見出そうとは思っていた。それを求めてもいた。しかし、それを他者に規定されるのは、不愉快でしかない。

 しかし、納得できなくても、それが事実なら納得せねばならないだろう。

 わがままな子どもではない。自分に都合が悪くても、そこで拗ねては話が前に進まないというものだ。

 だから、問う。

 少しでも、納得がいくように。

「大呪法に用いる呪力か。それはな、畿内の大魔法陣を使ったのさ」

「大魔法陣?」

「おうよ」

 それから、スサノオは玻璃の媛に目配せをする。

 玻璃の媛は、スサノオの合図を受けて術を使った。

「ご覧ください、羅刹の君よ」

 空中に映し出されたのは、見慣れた畿内の地図であった。

 ただし、そこには大きな星が書き込まれている。

 ただの星ではない。

 一筆書きで描かれるそれは、五芒星(セーマン)と呼ばれる魔法陣。安倍晴明が好んで使ったものだ。

「ッ……」

 思わず、息を呑んだ。

「このセーマンは、外宮豊受大神社、伊吹山、伊弉諾神宮、熊野本宮大社、伊勢内宮の五つの霊地を結んだもので、一つの辺が、およそ百七十キロになる巨大なものです。そして、外宮豊受大神社と伊吹山を結ぶ線は、そのまま富士と出雲を結ぶ線に重なります。元々は、出雲から畿内を守るための魔法陣なのですが、此度の大秘法のために、流用いたしました」

 おまけに、セーマンの中心には奈良があり、その真上には京都がある。どちらも都がおかれた都市で、中心線上に位置しているのは、偶然というにはできすぎていた。

「わたくしたちは、このセーマンを以て千年の時を費やし、阿頼耶の可能性に賭けた――――そして、あなたさまがお生まれになったのです。あの翁を打倒しうる、唯一の存在として」

 希代の大陰陽師と幽界の御老公たちが、千年という月日の先にある危機的状況に対処するためだけに、心血を注いだ結果、今護堂はここにいる。

「正直、実感が湧かないな。そんなことを言われても」

 護堂に反論する術はない。

 様々な思いが、胸に去来するが、言葉にすることができなかった。

「申し訳ありません」

 玻璃の媛が淑やかな所作で頭を下げた。

「な、何を謝っているんです?」

「わたくしたちの都合で、あなたさまを巻き込んでしまいました。羅刹の君の運命を背負わせたのは、他でもないわたくしたちです。恨まれても仕方がありません」

「そんな……」

 護堂は言葉に詰まった。

 恨む?

 それは、大きな勘違いだ。

「頭を上げてください。俺は、別にあなた方を恨んじゃいない」

 そう、恨めるものではない。

 皆が皆、全力でやった結果ではないか。守りたいものがあって、それを守るために死力を尽くしたのだ。

 そして、その期待を背負って生まれたのが、護堂だったというだけの話だ。

 納得できないところは多々あるし、不快を感じる部分もある。しかし、それ以上にありがたいと思えるのだ。

「むしろ、感謝しなければならないと思っています。あなた方のおかげで、俺はこの世に生まれてこれた。あのままでは死んでいたのは確かなんですから、恨むなんて以ての外でしょう」

 それだけは、確実に言える。

 この世界に生まれたからこそ、出会えた仲間がいる。

 スサノオたちは、戦い続ける運命を護堂に背負わせたかもしれない。

 しかし、それは護堂がこの世に生まれ変わるための対価のようなものではないだろうか。 

 転生という、あってはならない現象を体験したのだ。それくらいのペナルティーは甘んじて受け入れるべきだ。  

「あー、この国の敵を排除するためとかってのは、よく分かんないですし、正直荷が重いんですけどね」

 護堂は頭の裏をかいた。

 そして、スサノオたちを見回して、

「まあ、ソイツが出てきたら――――あなた方に言われるまでもなく俺が戦いますよ」

 どう考えても俺以外に戦えないし、と護堂は内心で加えた。

 

 

 

「ハッ」

 護堂の決意を聞き、スサノオが笑った。

 嘲笑ではない。

 呆れ紛れではあるが、決して相手を見下す笑みではなかった。

「殊勝なことを言うじゃねえか。コイツは逸材だったんじゃねえか?」

「なるほど。さすが晴明様がお選びになった相手というわけですな」

 玻璃の媛は、そんな二人をねめつけて、護堂に問う。

「よろしいのですか? わたくしたちは確かに、あなたさまがお生まれになる手助けをいたしました。しかし、それは、あなたさまの人生を規定するものではありません。戦わないという選択肢も、あるのですよ?」

「そうでしょうね。でも、結局戦うことになると思いますよ。実際、俺はカンピオーネになってしまった。それって、そういう星の下に生まれているってことですから。避けられる戦いに、首を突っ込むヤツはバカですが、避けてはいけない戦いから逃げるのは、ただの臆病者です。戦わなきゃいけないのなら、俺は戦います」

 この国には、大切な仲間がいて、大事な家族がいる。それに害を為そうというのなら、黙ってはいられない。

 これまでもそうだった。

 結局護堂は、巻き込まれ体質ではあるが、最終的には自分で戦うことを選んでいる。誰に強制されたものではないのだ。

 これは、草薙護堂が決めたことだ。

「なるほどな。そういう男だからこそ、選ばれたのかもな」

 スサノオは、訳知り顔で呟いた。

「最後だ。相手の『まつろわぬ神』だがなオレたちも神の領域にいるんでな、名を教えてやるわけにもいかねえ。めんどくせえ縛りだが、悪ィな。だが、ジジイを確実に縛るために、名を摩り替えておいた」

「名を?」

「本来の力を発揮するのを、遅らせるためにな」

「ということは、神話を作り変えたわけだ」

 『まつろわぬ神』は、神話を核に構成されるが、その神話が失われるとその神の名を失う。新たな名を得るか、名無しの神として流浪するかは様々だが。

「まあな。もっとも、呪で縛るためのものだ。その辺の神が名をなくすのとは訳が違う」

「だろうな。それで、その別名くらいは教えてもらえるのか?」

「おうよ。ソイツに刷り込んだ名は、『蘆屋道満』。安倍晴明に敗れた陰陽師として、現代まで語り継がせてきた」

 蘆屋道満。

 安倍晴明のライバルとして語られる陰陽師だ。

 実在するか否かは護堂には分からないが、今のスサノオの言によれば、晴明に敗北した呪術師の名を与えることで、その『ジジイ』本来の神格を抑えているということになるだろう。

 そして、近々その封が破れる。

「まあ、千年だ。持ったほうだろ。それじゃあ、これでオレの話は終わりだ。悪かったな、無理に呼んじまってよ」

 スサノオがまったく悪びれた様子なく謝る。

「羅刹の君。お戻りになるのでしたら、お急ぎください。これは、あなたさまの側女たちの様子でございます」

 浮かんでいた地図が消え、現世の映像に切り替わった。

「はあ?」

 声はスサノオ。

 映像に映っていたのは、夜闇に明滅する火花と、武具を打ち鳴らす恵那と晶であった。

「なんでこいつら戦ってんだよ!」

 護堂が叫び、

「天叢雲剣のヤツめ、暴走してやがる。どうしたんだァ」

 スサノオが自分の髭を撫で付けている。

 どうやら、これはスサノオたちにとっても慮外の出来事のようだ。

「それにしても、神憑りした巫女と渡り合うとは、なかなかできる娘ですな」

「あの武威、頼光を思い出すぜ」

「おまえら観戦してんじゃねえよ! なんとかしなきゃまずいだろ!」

 護堂は叫ぶが、スサノオたちは、慌てる様子がない。

 なんとかって言ってもなぁーとやる気がない。

「羅刹の君よ。ご安心ください。あなたさまの側女の一人が、もうすぐ幽界に参ります。その者の下に行けば、すぐにでもあの現世に戻ることができましょう」

 側女?

 一瞬、聞き慣れなさすぎて誰のことを言っているのかわからなかったが、それが祐理のことだと思い至った。

「そうか、万里谷か」

「かの巫女が現れるのは、あなたさまが現れたその場所でございます。あなたさまのご人徳を以て、巫女たちをお救いください」

「ありがとうございます!」

 護堂は礼を言うや否や、外に飛び出して行った。

 このすぐ後、現れた祐理と合流した護堂は、幽界から去り現世へ舞い戻った。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 裂帛の気合が、晶の喉をついて溢れ出す。

 神槍が鞭のように撓り、恵那の神剣と衝突する。

 振り下ろす一撃が、刺突に比する速度。

 遠心力を用いた打撃こそが、槍の本来の攻撃方法だ。

 足の裏から大地の呪力を吸い上げて、全身に循環させているおかげで、敵の身体能力についていくことができている。

 しかし、

「ぐ、く」

 奥歯を噛み締め、せり上がるモノを堪える。

 様々な部位が悲鳴をあげている。

 人が扱うには重過ぎる呪力を使い続けることに対して、肉体が悲鳴をあげ始めている。

 もしかしたら、すでに限界かもしれない。

 もはや、自分の限界がどこなのかすらもわからない。

 だが、止まらない。止まれない。それは、そこまで死力を振り絞りながら、敵が一向に倒れないからだ。

 晶の技は無謬にして華麗。一方の恵那は、人形染みた直線的な動きで捌いていく。晶が恵那と対等に渡り合えているのは、槍と刀のリーチの差に助けられているところも大きい。

「この……」

 それでも、徐々に押されている。

 相手の速度は緩むことなく、それどころか加速しているようでもある。

 晶は身体中が傷んでいて、全身から痛みを感じている。

 恵那もきっとそうだろう。しかし、恵那の身体を操る神剣には、それは小さな障害でしかない。動けばいい天叢雲剣と常に痛みを感じ続ける晶では、俄然、晶が不利である。

『ぬん!』

 豪風を湛えた一刀が、晶の神槍の柄を強く叩いた。

「ああああッ!」

 とてつもない衝撃は、腕を伝って全身を叩き、晶の身体を宙に舞い上げた。

 視界が回る。

 手足がどこを向いているのかも把握できず、ただ為す術なく踊る人形のよう。

「あ……」

 視界の端に映る輝きは、神槍のそれ。いつの間にか手を離れ、あらぬ方向へ飛ばされている。それも無理のないことだ。なにせ、もう握力がない。

 神槍を失ったことで、天叢雲剣の簒奪能力を防げなくなった。

 全身から、急速に力が失われていく。

 これは死んだな、と他人事のように思えた。

 この高さから落ちて生きていられるはずがない。呪力がなくなってしまったために、術で身を守ることができないのだ。

 空に舞い上がった身体は、一度昇りきってしまえば、後は重力に任せて落ちていくだけだ。

『緩め』

 その晶の身体を、慣れ親しんだ呪力が包み込む。

 落ちるだけだった身体が、見えない力に支えられて浮いた。そして、ゆっくりと地上に降りる。

「間に合った。よかった」

 護堂が晶を受け止めた。

「先輩?」

「晶、大丈夫だったか? ずいぶんと面倒なことになってるみたいだけど」

 状況がつかめなかった晶は、しばし固まって、それから自分の状況を理解してさらに固まった。

 護堂の問いが耳に入らない程度には、混乱していた。

 今、晶は俗に言うお姫様抱っこをされている。そのことに、理解が追いつかなかったのだ。

 耳まで赤くなり、彫像のように固まった晶を心配した護堂は、確かめるように問いを繰り返した。

「おい、晶。どうした? どこか、傷むところでも?」

「あ、あ、大丈夫です! 全然、全然、イッ!?」

 大丈夫なわけがない。全身を酷使したのだ。敵から受けたダメージというよりは、自分の力に身体が耐えられなかったために負ったものが多いが、筋肉の損傷から関節の炎症などが身体中で起きている。

 慌てて否定しようとして、ジタバタと身体を動かしたために、鋭い痛みが晶を襲ったのだ。

「大丈夫じゃないみたいだな。まったく、無理ばかりして」

 護堂は晶を地面に降ろし、若雷神の化身を使った。

 護堂だけでなく、他者の怪我を癒すことも可能なのだ。

 晶に使うのは、土蜘蛛の一件以来となる。

「これで、いいな」

「ありがとうございます……」

「いや、悪かったな」

「何が、ですか?」

「もっと早く戻ってこれればよかったんだけどな」

 しゃがみこむ晶の頭に手を乗せて労った。

「よくがんばってくれたな。後は、俺がやる。すぐに終らせるから、休んでいてくれ」 

「……はい」

 頬を綻ばせて、晶は頷いた。

 

 

 

『邪魔立てするか、神殺し』

 憎憎しげな声で天叢雲剣が言う。

 神剣の切先を、目の前に進み出た護堂の心臓へ向け、呪力の風を吹き荒れさせる。

「当たり前だ。ついさっき、守れるもんは守るってあんたの主に宣言してきたところだ。いきなり反故にするわけにはいかねえよ」

 神剣を突きつけられていながら、護堂は落ち着いていた。

 理由は二つ。 

 自分の出生の秘密が明らかになったことで、これまでの悩みから解放されたこと。ウジウジと悩む性質でもないが、頭の端には引っかかっていた。喉に刺さった魚の小骨のようなもので、それが消えたことで心が軽くなっていた。

 そして、実戦的な理由。

 今の天叢雲剣に脅威を感じないのだ。

 あれはあくまでも神剣であり、神の使い程度のモノでしかない。

「おまえは俺の敵じゃないよ」

『ぬかせ、神殺し』

 恵那の身体が一直線に護堂に向かって走る。

 地面と水平に跳んでいるかのような、驚異的な移動。

 晶を追い詰めた、重い斬撃が護堂の脳天を目掛けて振り下ろされる。

「遅いよ」

 鉄を打ち鳴らす、乾いた音が響く。

 護堂が生み出したのは、歪な形をした槍だ。先端が二股に分かれていて、その間に天叢雲剣が挟まっている。

 槍の穂先を十手にしたようなものだ。

「清秋院の身体にも大分負担がかかっているみたいだな。動きがぎこちない上に遅い」

『ぬう』

 天叢雲剣が、呻く。護堂は、『弾け』と言霊を恵那の手首に叩きつけ、同時に槍を捻る。

 言霊と梃子の原理に攻め立てられた恵那の手首は、もはや天叢雲剣を握ることはできない。神剣は恵那の手を離れて弾き飛ばされ、くるくると回転してからグラウンドの固い地面に突き立った。

 天叢雲剣と切り離された恵那は、糸の切れた人形のようにぐったりとして崩れ落ちた。

 地に倒れ伏した恵那の傍に膝をつき、様子を確認する。

 医療の知識のない護堂では細かいところまでは分からないが、息があるから一先ずはよしとした。怪我がひどければ若雷神の化身を使えばいい。怪我の度合いが一定以上であれば何度でも使えるのが、若雷神の利点である。

「草薙さん! まだです!」 

 離れたところから見守っていた祐理が叫ぶ。

 まだ、神剣の戦意は衰えていない。

 原作と同じ展開だ。

 敵の戦意を示すかのごとく、風雨は強くなる一方である。

 護堂は肺の中の空気を入れ替えて、頭をクリアにする。

 目の前で、形態を変化させていく天叢雲剣を観察する。刀の形状から、自立行動ができる人間型へ。大きさは二十メートルほどで、頭の部分はなく四肢は刀身となっている。

 なるほど、こういう風に変化するのか。

 護堂は興味深く、その光景を見守った。

「来るか」

 護堂に向かって天叢雲剣が走った。奇怪な動きでありながらも、速い。

 その動きに先んじて、護堂は聖句を紡ぐ。

「雷雲に潜みし、疾くかける稲妻よ。集い来たりて我が足となれ!」

 護堂は、恵那を抱えて加速する。

 天叢雲剣が雨を降らせているおかげで、神速を存分に使用できる。 

 身体を雷にすることなく、人の身のままで高速移動。祐理の隣に恵那を横たえた。

 突然現れた護堂に目を丸くする祐理に、恵那を任せて再び神速へ突入する。

「やっぱり、神速を捉えることはできないみたいだな」

 天叢雲剣に心眼の類はない。

 神速を解除し、地面に足を付ける。敵との距離は、二十メートルほどだ。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 護堂は一目連の聖句を唱える。

 護堂に気づいた天叢雲剣が、猛然と地を蹴った。

 今度こそ、護堂の身体を両断しようと刃の右手を振りかざす。

 だが、遅い。

 その動きは、人間から見れば対処できぬほどに速いのだろうが、数多くの『まつろわぬ神』と死闘を繰り返した護堂からすればあまりにも遅かった。

 光が奔り、巨人の胸に直撃した。

 それは一挺の見事な槍。

 衝撃で、天叢雲剣は吹き飛ばされた。

「同じ武器でも、カンピオーネが使うのと神の使いとして暴れまわるのとでは格が違うか」

 それを確認してから、護堂は、起き上がろうともがく天叢雲剣に向けて百を超える宝剣宝槍の類を叩き付けた。



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第七章 魔王交友編
五十四話


 もしも、原作通りの展開があるとするならば、そろそろ羅濠教主が攻め込んでくる時期だと思われる。

 これまで、ずいぶんと護堂の知る話と異なる展開が多かったが、概ね原作プラスαという形でこの半年は進んでいる。羅濠教主と孫悟空のイベントだけ存在しないという都合のいい話はないだろう。

 そこで、護堂は悩んでいた。

 羅濠教主が来て、戦うことになったとしよう。それはいい。孫悟空も仕方がない。だが、もしも孫悟空が万里谷ひかりの身体を乗っ取った状態になったら、どう戦えばいいのだろうか。

 原作のように知恵の剣があるわけではない護堂は、ひかりの身体を傷つけずに孫悟空を切り裂くなどという器用な真似はできない。

 では、どうするか。

 一番確実なのは、孫悟空が復活しないようにすることだ。

 しかし、そうなると羅濠教主を打倒しなければならなくなる。それも一度ならず、羅濠教主が生きている限りずっとである。

 孫悟空を殺すのを目当てに日本に来る羅濠教主をそのつど追い返すことができるのか。一度や二度は可能だろう。しかし、それが三度四度と続いたら? おそらくどこかで護堂は死ぬ。

 では次善の策として、羅濠教主と孫悟空を勝手に相食ませる。

 実はこれが一番いいのではないかと思える。

 ようするに、孫悟空の封印さえ解いてしまえば、ひかりが身体を乗っ取られることもないのである。

 いろいろ考えたが、護堂としてはひかりの身体が無事ならば後はどうとでもなりそうだという結論に落ち着いた。

 護堂は自室のベッドに仰向けに寝転び、自分の右腕を見た。

 そこには、新たな力が宿っている。

 天叢雲剣である。

 スサノオの相棒であり、清秋院恵那が振るった豪刀だが、護堂に散々に打ちのめされた結果、今では護堂の右腕に宿っていたのだった。

 おそらく、こいつの力を借りることになるのだろうな。

 そう思いながら、護堂は眠りに就いた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 日本の呪術界を取り仕切る『四家』の一、九法塚家の役目は、日光東照宮の敷地内にひっそりと立つ秘密の社、西天宮を管理することである。より正確に言えば、この西天宮に封じられたまつろわぬ《鋼》の神威を借りることで、日本を《蛇》の神格から守ることである。

 しかし、その役目を果たすためには、『禍祓い』という特殊な力をもった媛巫女が必要だ。

 その力は極めて希少なもので、すでに百年の間西天宮の媛巫女は空位の状態が続いている。

「で、それをどうにかするために声をかけてきたということか」

 七雄神社で万里谷祐理とその妹・万里谷ひかりと対面した護堂は予想していた通り、ひかりの進路の問題についての相談を受けていた。

 原作同様、ひかりが祐理の携帯を無断借用して嘘メールを送ってきたので覚悟はしていた。

 ひかりは、祐理の妹ながら天真爛漫を絵に描いたような少女だった。

 小学校六年生。

 背伸びをした感じのある子が多い中で、ひかりは歳相応の無邪気さで護堂を出迎えた。それを好意的に受け止めつつ、ひかりのイタズラを詫びる祐理を落ち着かせた。

「九法塚家については分かった。でも、結局のところ君次第なんだと思うよ。君が嫌だというのなら、行く必要はないし」

 護堂は、公園のベンチに座っているひかりに言った。

 とはいえ、ひかりは真面目な性格で、きっと断りきれないだろうと思う。

「うーん、でもそれだと幹彦さんが困ることに……」

「でも、聞くところによると、ずっと向こうにいなければならないわけでもない気がするんだよな。お役目のない日はこっちにいて、お役目のある日は向こうに行く。ちょっと面倒か」

 ひかりに期待される役割は、斉天大聖孫悟空の只ザル状態を相手に、追いかけっこや毛づくろいをして遊ぶことだったはずだ。

 もちろん、日本に竜の類が現れた際には、小太刀――――斬竜刀に禍祓いの霊力を込めて結界を開き、孫悟空を解き放つ役割を持つが、護堂が生きている間は、護堂が竜の相手をするので孫悟空が出てくることはないはずだ。

「まあ、それについても九法塚の人と話を詰めていくしかないわけだけど」

 護堂が『ダメ、絶対』と言えばこの件は方がつく。しかし、孫悟空の問題は近いうちに必ず表面化する。羅濠教主が日本に来た時点で、西天宮は消し飛ぶのだし、九法塚の次期当主には悪いが、すでにそういう方向に運命が進んでいっているのである。

 もしも護堂がここでひかりを引き止めて、絶対に日光にはいかせないと言ったら、どうなるか。

 まず、間違いなく東京を舞台に羅濠教主と護堂の戦いが勃発する。

 相手は、人類七十億の命 < 地球と考えている羅濠教主である。東京都庁を拳で叩き割っても悪びれもしないに違いない。

 日光の山奥ならば、被害は最小限で済む。

 だから、結局ひかりは日光に行ったほうがいい。しかし、それはあくまでも護堂が理性的に考えてひかりの都合や気持ちを無視してのこと。感情面ではひかりを巻き込みたくはないという気持ちが強い。

 まったく、ままならないものだ。

 やはり、孫悟空を復活させた後、羅濠教主が因縁を晴らす。それが一番分かりやすく効率的な解決方法のはずだ。

 しかし、それはそれで問題が残る。

 羅濠教主に侮られるというのは、ほかのカンピオーネに侮られるよりもまずいことだと思われる。なぜならば、あのカンピオーネは旧時代的な思考の持ち主だ。日本の王は情けないと思われた瞬間に国交断絶は疎か同族にも関わらず情けない、我が手で掣肘してくれましょう、とか言い出しかねない。

 結局は八方ふさがりの状況なのである。

 それであれば、初めから戦うことを前提として行動したほうがいい。

 とりあえず、護堂は、折りよく現れた九法塚家の若頭に条件つきでひかりの日光行きを認め、その際に自分が同行するということを確約させた。

 

 

 

 

 

 

 護堂が、万里谷ひかりに呼び出されたまさにその時、高橋晶は人生最悪の経験を味わった。

 およそ、すべての女性が――――よほど特別な性癖でももたない限り――――忌み嫌い、不快感を露にするだろう。

 電車の中での『痴漢』である。

 晶もまた、知識では知っていたわけだが、実際に自分が被害にあうとは思っても見なかった。

 見ず知らずの他人に、触れられるというのは、不快以外の何物でもない。

 おまけに相手は複数人。いわゆる集団痴漢というもので、サークル状に取り囲まれているという状況。電車の中に、無防備で乗り込んできた晶は格好の獲物だったわけである。

 だがしかし、彼らにとっての不運は、一見無防備に見えても、晶を相手に痴漢行為を働くのは、女性警察官を相手に痴漢を行うよりもずっとハードルが高いということを知らなかったことだ。

 武術に堪能な晶は、ゼロ距離に近づかれた状態でも相手の骨を砕くだけの打撃を与えることができる。

 俗に言う寸勁という打撃技術であるが、動転した晶はこうした打撃技術を使うことなく、敵を始末した。極めて原始的で、有効的な痴漢撃退法。

 自分の尻を弄る相手の指を咄嗟にへし折ったのである。

 また、胸に迫る指に対しては、この直前に別れた女性呪術師に渡された正史編纂委員会が開発した痴漢撃退用呪物『痴漢バスターMkⅡセカンド』が撃退した。

 その後は晶の独擅場である。

 痴漢集団は、文字通り、猛然と踊りかかる晶の鬼の如き反撃によってあえなく撃滅されるに至った。

 

 このような流れで、犯行グループを即刻警察にたたき出した晶だが、痴漢されたという事実が変わるわけではない。

 痴漢バスターMKⅡセカンドはポケットに忍ばせておける優秀な痴漢撃退装置ではあるが、撃退という性質上痴漢を予防する効果は皆無だ。この小さな武器は、自分に触れ且つ不快感を与える他人に対して攻撃を加えるものであるが、当然触れられた時点で痴漢は成立する。

 身の毛もよだつ不快感に晶は堪らず草薙家を頼った。

 自宅に一人いるのは我慢できなかった。両親不在の今、次に頼れるとなれば草薙家以外にないのだ。

 そうして、訪れた草薙家には、静花しかいなかった。

 晶にとっては幸いだったかもしれない。

 静花は、晶から一部始終を聞き出し憤るとともに、同じ女性だからこそ深いところまで共感してくれた。

 その上で、不快感を忘れられない晶に対して、静花が与えた助言は、さすがの晶も唖然とした。

 静花曰く、「お母さんが言ってたんだけど、気持ち悪いのは、もっと強い刺激で消し去ればいいんだって」と。

「あの、静花ちゃん。これはどういうこと」

 晶は気づけば、イスに手を突いて四つんばい状態になっていた。 

「気持ち悪い思い出を痛みで消してしまおうという試み」

「い、痛みって!?」

「お母さんが言ってた。そういうのは、叩いて直せばいいって」

 静花の目は本気だ。すでに、手を構えている。

「直すの字が違う気がするよ。ねえ、まって、そんなロシア式修理法が」

「じゃあ、行くよ。歯食いしばってー」

 パアン。

「ひゃあん」

「ちょ、ちょっと、変な声出さないでよ」

「静花ちゃんこそ、どうせするならもっと優しくしてよ」

「わかった。じゃあ、もう少し加減して」

「えう、まだするの」

 そうして、二度三度と戯れているうちに、第三者が部屋の中に入ってきたのだった。

 

 

 万里谷姉妹と別れ、帰宅した護堂を待っていたのは、衝撃的な光景だった。

 リビングの扉を開くと、そこには二人の少女――――静花と晶がいた。

 それだけならば問題はない。もともと、この二人は同級生で、仲がいい。時折一緒に遊びに出かけることもあるくらいだ。二人とも、昨今珍しい、真面目な性格で、人の悪口は言わないし、本当によくできた娘だと思う。

 しかし、その二人が、お尻ペンペンに興じているとなると、少々護堂の評価も変わってしまう。

 それでも、自慢の妹だと思うし、自慢の友人だと言えることは変わらない。

 たとえそれが、アブノーマルで倒錯的な関係に溺れていたとしてもだ。きっと波長が合ったのだろう。もともと、そういう気質を内包していたのだ。静花は天然女王様の才能があると分かっていたようなものだ。それが、ここに来て開花したのだろう。いつか、こういう日が来るのではないかと危惧を抱いていたことももはや懐かしい。母親の気質を、正しく受け継いだ彼女なら、こうなっても仕方がない。

 だからこそ、がんばって祝福してやろうとは思った。

「お兄ちゃん!?」

「先輩!?」

 一方の静花と晶だが、二人とも、部屋に入ってきた護堂の顔を見るなり動きを止めて固まっていた。

 晶は、イスに手を付いてやや前傾姿勢をとり、静花は晶の腰のあたりに手を当てているという少しばかり奇妙な体勢について、護堂はあえて触れなかった。触れないままに、二人を手で制した。何ゆえに女子中学生がお尻ぺんぺんに興じているのか、など聞いても詮無いことである。

「いや、悪い。その、いきなりだったな。次からはノックするよ。家に入るときは、インターホンも押して返事を待つ。……その、悪かった。知らなかったんだよ」

 後ずさりつつ、護堂はリビングを辞した。

 今のは見なかったことにしよう。そういえば、最近は走りこみもしてなかったし、久しぶりに走ってみるかと玄関に向かい、後ろから走ってきた二人に組み付かれた。

 そのまま、強引に引き戻される。

「お兄ちゃん、何か凄い勘違いをしてるでしょ!」

「誤解です誤解なんです!」

「皆まで言わなくても分かってる。うん、まあ、あれだ。最近はそういうのも、比較的寛容になってきてるし、二人が成人するころには、日本の法律もきっと変わって」

「だから違うっていってんでしょ」

 言い切る前に、静花のチョップが、護堂の脳天に当たった。

 無論、痛みを感じたのは護堂ではなく、静花だった。

「痛~」

 涙目になって手首を押さえている静花は、憎憎しげに護堂をにらみつけた。

「なんなのその石頭は!」

「なんで俺は怒られてるんだよ」

 護堂は静花と晶に肩を押さえつけられ、その場に座らせられている。

 とにかく、話を聞けということらしい。静花は、護堂の正面に座った。

「あのね、わたしたちは別にやましいことをしていたわけじゃないの。ただ、晶ちゃんがお尻を叩いて欲しいって言うから」

「ちょっと、それじゃ説明不足だから!」

 と、晶は食って掛かるように静花に言い、ほとんど泣きそうな顔で一部始終を話した。

 痴漢にあったこと、その不快感を払拭するために、より強い刺激、すなわち痛みによる上書きを試みたことを上澄み部分であるが説明した。

 とかく痴漢というのが重い話題であり、護堂も図らずして聞き出す形になってしまいいたたまれない気持ちになった。

 これで犯人が逃走中ということであれば、護堂は容赦なく正史編纂委員会に通達してエージェントたちを街に解き放っていたことだろうが、晶が殲滅したことで憤りの行き場を失った。

 ということで、その話題には触れず、何事もなかったかのように振舞った。

「ただいまー」

 護堂は、リビングに戻り、たった今帰ってきたかのように振る舞うことで、すべてをなかったことにしたのだ。

 

 そして、日が暮れて、祖父が外出先から帰ってきた。

 草薙一郎は、さすがに女性の扱いに長けた人物。草薙家を辞そうとした晶に何かを感じたのか、夕食を共にすることを提案した。

 さすがに、一家の団欒を邪魔するわけにはいかないと固辞する晶を、護堂と静花が説き伏せて、夕食に晶が参加することになったのだった。

 そして、その夕食は一郎の手製である。

 彼の手腕はなかなかのもので、繊細な味付けは日頃から夕食を用意することのある草薙兄妹でもまだ真似できないレベルである。そして、それは真似できていない、ということを理解できるだけこの兄妹の舌が肥えていることを意味する。

 それで、結局手持ち無沙汰になったので、静花と晶は最近流行のテレビゲームに精を出している。その後ろで、護堂はぼけーと眺めているだけになった。

「なんだ、こりゃ」

 本でも読もうかと、視線を巡らせて考えていたとき、床に黒いターンクリップのようなものを見つけたのだ。

 誰が出したのだろう、と護堂は重い腰を上げて、そのクリップを拾い上げようとしたとき、

「おおう、危ねッ」

 そのクリップから呪力が立ち上り、独りでに護堂の指を挟もうとしたのだ。慌てて、手を引いて事なきを得たが、避けていなければバッチンと噛み合わさったクリップに指を挟まれていたことだろう。

「これ、晶のヤツだな」

「あ、すいません! 落としたみたいで」

 何が起こったのかすぐに察した晶が、護堂のところまで駆け寄ってきた。ちょうど、ゲームは晶がリタイアして静花はNPC相手に激しい戦いを繰り広げているところだった。

「なんだ、この悪意あるトラップは?」

「これ、痴漢撃退用の呪具なんです。すいません、先輩の呪力に当てられて暴走したらしくて」

 ポケットに再びしまいこむ晶は申し訳なさそうに謝った。

 痴漢撃退用の呪具に反応されるというのは、それが事故だとしてもショックである。

「痴漢撃退用?」

「はい。痴漢バスターMkⅡセカンドです」

「それ、MkⅢじゃだめだったのか?」

 Ⅱとセカンドで被ってるじゃないかと、問うと、晶は、

「Ⅱ型2号って感じで。これ、MkⅡの改良型なんです。もともとのヤツは開発担当の女性呪術師の怨念が反映されて凄いことになったみたいで生産中止になったんです」

「凄いことってなんだよ。そして、その女性呪術師に何があった」

「なんでも、クリップ型ではあったのですが、イタチザメの歯をモデルにした鉄製の歯が付いてたらしいです」

「殺傷性の武器になってんじゃねえか。公務員がそんなん作っちゃダメだろ」

 と思ったが、目の前の少女ですら対物ライフルを街中で撃つような組織である。痴漢バスターMkⅡセカンドが、痴漢の指を食いちぎらずにへし折る程度に力を抑えているのも良心的と言えるのではないか。

「何、晶ちゃんのご両親って公務員なの?」

 そこに、対戦を終えた静花がやってきた。

「ううん。叔父さんが公務員かな。なんか、会うたびによれよれになってる感じだけど」

「へえー、堅実。家はそういうのとは無縁だからねえ」

 静花が意味ありげに護堂に視線を送る。

「まあ、確かにそうだな」

 護堂も、両親に公務員など務まるはずがないと思っているし、天地が逆転してもそんな職に就くことはありえないと考えた。

 中二病を患っているかのような父は、海外を放浪しているし、母は男からの貢物だけで生計を立てられるほどである。どうしてこの二人が出会い結婚に至ったのか、転生の秘密が明かされた今、草薙家に残された最大の謎は、これである。

「まあ、そうだな。この家中で公務員になれるとしたらやっぱり俺くらいのもんだろうな」

 護堂は冗談めかして言うのだが、静花も晶もなに言ってんだ、という視線を投げかけてくる。

「何か?」

「いや、お兄ちゃんに公務員は無理だと思うよ。去年までならまだ信じられたけど、今年のお兄ちゃんは無理そう。ねえ、晶ちゃん」

「え……そんなこと、ないと思うよ。先輩、頭いいし」

「目が泳いでるぞ、晶」

 わかっていたさ。将来の夢、国家公務員がすでに過去のものになりつつあるということくらいは。今や護堂は魔王で、事あるごとに命をかけた戦いに身を投じなければならない運命である。安定した職業はおろか、安定した生活すらも難しいとあってはとても公務員など務まるはずがない。

「はあ……」

「あ、落ち込んだ」

「先輩、大丈夫です。少なくとも、先輩は就活の必要がないですし」

 遠まわしな人外発言に、護堂はまた落ち込んだ。




今回は、苦戦。結局原作と同じ流れになりそうな感じなんですね。そうしないとどう考えても不都合が生じる。
そんな感じでいろんなものに逃避的にまったく関係ないもの書いてたり、集中講義に出てたりしてまして、こんなに間が開きました。

フェイト/アポクリファの二巻を読んで気になったこと。
赤のセイバーと黒のアサシンを比較して、身長、スリーサイズともに赤のセイバーのほうが大きいのに、体重は黒のアサシンのほうが三キロ重い。
月霊髄液がメイドゴーレム化。


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五十五話

 栃木県日光市。

 関東圏でも古くから霊的権威を持つ土地として知られ、現在では日光東照宮を代表する観光名所として有名だ。

 日光東照宮と言えば、徳川家康を祭神として祀ることで護国の神とする呪術装置であるが、一般的には観光地として数多のガイドブックに名が上げられている解放された霊場である。

 常から数多くの人が集まり、その賑わいは日本中の神社の中でもトップクラスだろう。しかし、この日は神社関係者以外ほとんど人影がなく、閑散としていた。

 十月の三連休の初日にも関わらず、観光客がいないというのは、もはや奇跡を通り越して異常である。

「ふうむ。まさか、あの神殺しめ、勘付いておるのかの」

 その老人は、陽明門を見上げつつ、呟いた。

 ギリシャのトーガか、中国の仙人を思わせる一枚布の衣服に、上端が丸く削られた棍棒にも似た杖を突いている。

「邪魔にならねばよいがの。前回は百年前。今度こそ、あの《鋼》を退治してもらわねばな」

 この地で起こる戦いを予感し、蘆屋道満はほくそ笑む。にやりと笑うと、ひょうきんな顔が一気におどろおどろしい不気味なものに変わる。

「まあ、邪魔があればこそ、面白くもなるというもの。ふむ、困ったのう」

 風が吹き、雲が流れて一瞬だけ日が翳った。次に太陽が陽明門を照らしたときには、道満はその姿を消していた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 万里谷姉妹と、日光行きを決めてから、当日までは一週間ほどの時間があった。そのため、護堂も最低限の準備をすることができたのだった。

 護堂はスマートフォンで電話をかけた。

「もしもし、沙耶宮さん」

『はい、どうも草薙さん。例の件ですか?』

「ええ、突然無理を言ってしまって、すみません。進捗状況を確認させてもらいたくて」

『そうですね。僕もお電話を差し上げたいなと思っていたので、ちょうどよかったですね』

 電話口から聞こえる明朗とした声の主は、沙耶宮馨。護堂よりも二つ年上の高校三年生でありながらも、すでに正史編纂委員会東京分室長を務めるエリート呪術師である。家柄は日本を代表する『四家』であり、『彼女』本人の実力も相当なモノがある。恵那ほどではないにしても、荒事をこなせる媛巫女でもあるのだ。

 そして、馨の持つ最大の武器は、その頭脳。

 政治手腕は、すでに外交官に比するレベルという図抜けた才覚を有する。

 力で物事を解決するしかない護堂とは逆に、言葉によって物事を動かすことができる。そしてその力を最大限に駆使すれば、多少の無理難題も可能とする実力がある。

『草薙さんに言われたとおりに、日光東照宮を三連休の間立ち入り禁止にしました。多少の混乱はありますが、なに、すぐに鎮めて見せますよ』

「ありがとうございます」

『それと、もう一つ。草薙さんの指示通り、この一月の間に海外からやってきた呪術関係者の足取りを追っているところですが、中国から来た陸鷹化という少年だけ消息不明です。追跡していた呪術師が、何者かに襲撃されてしまいまして、行方を追うことができなくなりました』

 護堂は、その報告を聞いて眉根を寄せた。

 陸鷹化と言えば、羅濠教主の直弟子に当たる人物。日光東照宮を中心とした戦いの準備に奔走しているのだろう。

『陸鷹化のことはご存知ですか?』

「中国のカンピオーネのお気に入りだとか……」

『はい。もしや、草薙さんは羅濠教主が日本にやってくるかもしれないとお考えですか?』

「そうですね。そうならないといいんですけど。とにかく、日光の西天宮は百年ぶりに開くことになります。何があるか分からないので、一般の人が近づかないようにお願いします」

 これは、単に『まつろわぬ神』が暴れたときに一般人が巻き込まれないようにするだけでなく、孫悟空の猿化の呪術によって変化させられないようにするためのものでもある。

『了解しました、王よ』

 そうして、護堂は電話を切った。

 さて、これからが正念場だ。戦う覚悟は、できている。なるようにしかならないのなら、戦うことに異存はない。ようするに、勝てばいいのだ。

「やってやるさ」

 目下のところ、最大級の試練であることに間違いはなく、護堂の精神も当人の自覚なく昂ぶってきていた。護堂の原作知識と直感が迫り来る戦いの気配を嗅ぎ取っているのだ。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 開いたサイドウィンドウから吹き込む風が、護堂の顔を叩く。

 定員七名のミニバンは、護堂以下いつものメンバー、祐理、晶に加えて祐理の妹・万里谷ひかりと護堂の口添えで謹慎を解かれた清秋院恵那を乗せて東北自動車道を走っていた。ハンドルを握るのは、甘粕冬馬。正真正銘の忍であり、東京分室長沙耶宮馨の右腕として活躍する晶の叔父であった。

「いやー、あのときは本当にごめんねー。なんでかよくわかんないんだけど刀が言うこと聞かなくてさ」

 恵那と晶の再会は、恵那がいつも通りの能天気さを発揮することで始まった。

 晶は、僅かばかり怪訝な表情を浮かべたが、それ以上は過ぎたこととして流していた。また、喧嘩にならないだろうかと心配していただけに、ほっとする護堂だった。

 座席は、護堂を一番後ろに配し、その隣に恵那。中央の席に祐理、ひかり。助手席に晶という配置だ。この配置に関して、一悶着あったものの、護堂を上座に座らせることは確定として、問題はその隣ということになった。祐理とひかりは姉妹ということで真ん中の席が決定し、助手席と護堂の隣を振り分けるじゃんけんで、すべてを決した。

「お兄さまは、日光東照宮には行ったことがあるんですか?」

 前方の席から護堂を振り返ったひかりが、そう尋ねてきた。

 護堂は、少し考えてから答えた。

「そういえば、日光って初めてかもしれないな」

 日光について考えることは多かったが、実際に足を運んだことはなかった。それは、あの土地が、護堂にとって忌諱すべき土地だったからだ。

「ひかりは、行ったことあるのか?」

「はい。媛巫女の修行で何度か。それでも、西天宮にはこれが初めてなんです。でも、お姉ちゃんたちは、何度か西天宮にも行っているはずですよ」

「そうなのか?」

 護堂は左と前の媛巫女に尋ねた。

「はい、わたしは媛巫女になる前に一度だけですが。西天宮の本殿までで、祠には入りませんでしたが」

 祐理が答え、

「恵那はもうちょっと多いかな」

 恵那が続けた。そして、その答えを受けた晶が言う。

「わたしは初めてですよ。日光」

「初めてなんだアッキー」

「そう呼ばれたのも初めてです……」

 助手席から恨みがましそうに恵那を睨む晶。よほど、じゃんけんで負けたことが堪えている様子だ。

「それじゃ、アッキーお姉さまは」

「こらひかり、先輩に対してそんな呼び方をしたらいけません」

「えと、晶お姉さまは、どんなところで修行したんですか?」

 ひかりが、目の前のヘッドレストを掴みながら尋ねた。

「そうだね。ほとんどが出雲大社かな。あそこは、西の最大級の霊場。(こっち)で言うと、それこそ日光東照宮や伊勢神宮に匹敵する神聖な土地。わたしは、西の媛巫女候補だったから、そういうところで修行したんだ」

「なんだ、晶って西日本の人なのか?」

 晶の出身に関して、聞いたことがなかったので、護堂は驚いた。答えてくれたのは、ハンドルを握る冬馬だ。

「晶さんの母親は鹿児島の家なんですね。高橋家は、歴史を辿れば筑後高橋家に当たりまして、血筋は高橋紹運に始まります」

「高橋紹運だって!? 超有名人じゃないですか!?」

「いや、結構マイナー武将だと思いますけど」

「そんなことないって、戦国シミュレーションゲームで大友氏から始めると、立花道雪と並んで主戦力になる」

 高橋紹運と言えば、なによりもその死に際が有名だ。押し寄せる島津軍に対して一歩も退かず、撤退も降伏もせず、最後まで戦いぬいた猛将。史実における高橋紹運の系統は、息子二人が立花に改姓したところで絶えたのだが、その後の歴史の流れの中でいつしか高橋に名を戻し、呪術の道に走った一派がいたようだ。

「王さま、歴史ゲーやるんだ……野望?」

「野望」

「野望かー。面白いよね」

「おう、あれは嵌るな」

「ちなみに恵那の家系は千年の歴史があるよ」

「そりゃ、平安時代から続いていたらそうなるよな」

 家系自慢で清秋院に勝てるとしたら、平安時代の貴族階級出身者以外にいないだろう。それも、上流階級に限定される。だからこその『四家』だ。

「万里谷家には自慢できるところないね。ね、お姉ちゃん」

「まあ、家は取り立てて話すことのない下級貴族だから」

 などと、姉妹がひそひそと話をしている。

 なんだ、この会話。草薙家の出番ここまでで一度もなし。下級といっても貴族の時点で自慢できるということを万里谷姉妹は知るべきではないだろうか。

 実際学校では、旧華族の家柄というだけで、ワンランク上の扱いを受けているのだ。祐理は。当人に自覚はないが、現実として箔がつくものである。

 それに比べて、草薙家など、由緒正しい一庶民でしかないのだ。しかも、特筆すべきは無類の色好みという悪名のみ。血筋で言えば最下層である。

「血筋、なんていえばいろんな方がいるのが我等呪術師です。江戸時代に関東圏で全盛を誇った所謂武士派の呪術師のトップは、あの明智光秀の子孫が務めていたんですよ」

 冬馬が、血筋話に、呪術業界の裏事情を重ねた。

「なんでですか?」

「そりゃあ、明智光秀イコール南光坊天海だからですよ。その説、一般にも流布してますよね?」

「あの話実話なんですか!?」

 この日一番の驚愕だった。

「ええ、事実です。そして、これから行く日光もまた、その天海と縁深い場所となります。なにせ、天海こそが、家康に与える神号を『東照大権現』とした張本人です。彼がいなければ、家康の遺体は日光に埋葬されることもなかったでしょうし、日光東照宮もなかったでしょうね」

 などと、つらつらと話をしているうちに、一行を乗せたミニバンは日光山の麓にまでやって来た。

 冬馬は、ミニバンを駐車場に停めると、一足先に西天宮に行く用事があると言い残して消えた。その手並みは、まったく無駄のない術式を、瞬時に発動させたすばらしいものだった。

 冬馬を欠いた一行は、そのまま表参道を行く。

 普段なら、多くの旅行者でごったがえすはずの観光地も、この日は閑散としていた。

 それもこれも、護堂が無茶な要求をしたからである。

「こんなに空いている日光を見たことがありません」

 とは、祐理の言。

 事実、人は疎らどころか、人気そのものがなかった。

「廃仏毀釈のころは、ずいぶんと寂れてたって聞くけどね、東照宮。こんな感じだったのかな」

「いや、それにしても人がいなさすぎですよ清秋院さん。先輩の要求が、ここまで完璧な形で。さすがです」

「これ、お兄さまが命令したんですか!? すごいですね!!」

 ひかりが手を叩いて憧憬の眼差しをよこしてくる。決して真似して欲しくないし、護堂としては、そこは命令ではなく、お願いと表現して欲しかった。

「いやいや、王さまのお願いって、結局命令と同じだよー」

「そんなことはない、と言いたい」

 カンピオーネと呪術師の関係は基本的に上意下達であるが、護堂は、まだそのような立場になったという実感がない。自覚はしているが実感する場面があまりないのだ。

「せっかくの観光地も、これじゃあ回る意味がないね。王さまと回れると思ったんだけどなあ」

 と、恵那が露骨に護堂の顔を覗きこんだ。

 瞬間、護堂は身を引いた。

 バッチン!

 護堂と恵那の間で、弾けるような音がした。

 それから何かが地面に落ちた。

 クリップのようなもの。それはまさしく『痴漢バスターMkⅡセカンド』。晶が所持する痴漢撃退グッズであった。

「すみません。暴走しました」

 そう言うと、晶は護堂と恵那の間に落ちたクリップ型のそれを拾い上げてポケットにしまった。

「そんな簡単に暴走するようなものを持ち歩くな!」

「痴漢がいつ出るとも限りませんから」

 晶は、これからも持ち歩く気でいるらしい。

 晶が一度痴漢に遭遇した事実がある手前、防犯グッズを持ち歩くなと執拗に言うわけにもいかない。

「ところで、これから真っ直ぐに西天宮に行くんですか?」

 晶が護堂に尋ねた。

「どっかに寄ってくとこあるか?」

 護堂は他のメンバーに尋ねた。祐理が辺りを見回して答える。

「どこの商店も今日は休業されているようですし、このまま向かうほうがいいと思いますよ」

「確かに、店まで閉めてしまうと、暇つぶしもできないな。それは、考えてなかった」

 護堂が撒いた種であるから護堂が悪いわけで、誰にも文句は言えないのだ。人がいなければ商売はできない。なによりも、正史編纂委員会の人間は、護堂の指示通り、この辺り一帯を一時立ち入り禁止にしていたために、商店も例外なく立ち入り禁止となったのだ。

 特に、行くところもないので、そのまま進むことに決めた。道を知るのは祐理なので、祐理を先頭にして進む。

 日光東照宮は、言わずと知れた徳川家康を祀る霊廟である。ここに神君『東照大権現』として家康を祀ることで、その霊的権威を護国の要としたのである。

 五重塔を横目に石段を登り、鳥居をくぐる。その先は陽明門だが、その途中で祐理は、地味な建物に向かった。

「ここが神厩舎。東照宮の中で、最も神君と縁が深い場所になります」

「噂の見ざる言わざる聞かざるの場所ですか」

 晶が、目を輝かせて欄間の部分を見つめている。

 目を塞いだ猿、耳を塞いだ猿、口を塞いだ猿、空を見上げる猿など、計十数匹の猿が彫りこまれている。

 精巧な彫り物だ。かなり緻密な作業によって、この芸術品は支えられていることがわかる。

「どうして、ここに?」

「実は、この先に人払いの結界に守られた道があるんです。その先が、西天宮になります」

 祐理が指差すところには、横道が確かにある。呪力がたゆたっているのも見て取れる。この半年で、ずいぶんと護堂も成長した。呪力を認識するだけでなく、術の効力もなんとなく分かってしまう程度には呪術に慣れていた。

「それじゃ、わたしたちはこれで」

「そだねー。西天宮に部外者が入るわけには行かないし、東照宮を見てくるよ」

 恵那と晶は、護堂が呼んだわけだが、九法塚側からは確かに部外者である。呪術の世界に身を置いてきた恵那と晶は、西天宮の重要性を承知しているので、そこに部外者が踏み入ることを僭越と判断したのだ。

「ああ、終わったらすぐ戻ってくる。それと、周囲には気を配ってくれ」

「何かあるかもしれないから、ですか」

「ああ」

「わかりました」

 護堂の忠告に、晶が頷き、恵那が笑顔で返答する。

「じゃあ、またね」

 それから恵那が晶の手を引いて走っていった。晶のほうがどうかは分からないが、恵那はずいぶんと晶を気に入ったようだ。

「恵那さんに伍する武芸の持ち主は晶さんくらいのものですからね。同年代では」

「なるほど、そういうことか」

 対等に戦える相手を見つけて嬉しかったのか。なんにせよ、悪感情を抱いていないというのはいいことだ。

「それではわたしたちも、向かいましょう」

 祐理は札を取り出した。

 人払いの結界の中を正しい道のりで西天宮に辿り着くための物だという。

 護堂とひかりは、祐理の後について神厩舎の後ろの林の中へ分け入っていった。

 それから十数分の後、妙に開けた場所に辿り着いた。目の前には古びた神社が建っている。

「お待ちしておりました、みなさま」

 出迎えてくれたのは、神職の装束を身に纏う九法塚の若頭だ。

 その後ろに、冬馬が控えている。目礼しただけで、無言を貫いている。

「我等が九法塚の社に『王』をお迎えできるとは、光栄の至りです。まもなく、祠の戸を開き、神君と対面する準備が整います。もう少々お待ちくださいませ」

 幹彦が恭しく言上するのを聞きながら、護堂の意識は別のところにあった。

 見たところ、この青年はまったく問題ない。しかし、原作通りであれば、すでにアーシェラの操り人形になっていたはずだ。

 海外の流れも概ね原作通り、神祖アーシェラとロサンゼルスのカンピオーネの戦いの情報は、ある程度ではあるがこちらに流れてきている。今さら、アーシェラが関わっていないと考えるほうが無理がある。

 油断せず、相手を観察しつつ、受け答えをする。

 きっと、どこかに羅濠教主も潜んでいるはずである。

 とはいえ、今は刺激しないほうがいい。頭の片隅にとどめる程度にしておくしかない。

 

 

 

 神君との対面に備えて、ひかりは巫女装束に着替えることになった。今、ひかりは幹彦の案内で社務所に向かっている。祐理は、その付き添いだ。

 あの二人が戻ってくるまでの間、特にすることがないので、冬馬となんの益もない話をするだけで時間を潰していた。

 祐理が戻ってきたのは、二十分ほどしてからだった。

「ああ、万里谷。早かったんだな。……ひかりは、まだか」

 戻ってきたのは、祐理だけで、ひかりはまだ来ていない。

「はい、ひかりは今、幹彦さんと話をしています。草薙さん。猿猴神君さまの下に、わたしも連れて行ってください」

「万里谷も?」

「はい。なんだか、嫌な予感がするんです。それで……」

「だったら、万里谷は、ここに残ってくれたほうがいい。甘粕さんもいるしな」

 祐理の予感は大体当たる。ただの第六感も無視するわけにはいかない。羅濠教主の気配か、それとも九法塚青年の様子からか、祐理はすでにこの件が、一筋縄でいかないことを理由を抜きにして感じ取っている。

「向こうに行って何かあったら、まず全力でこっちに戻ってくる。ひかりを連れてな。だから、そう心配しなくてもいい」

「しかし……」

 なおも心配する祐理に、護堂は、心配ないとあえて軽い様子で繰り返した。

 むしろ、祐理を向こうに連れて行くと少々まずいことになる。

 守らなければならない相手が一人なのか二人なのかで、負担は大きく変わる。

 祐理も、姉としての責任感から同行を申し出たのだが、有事の際に直接的に身を守る手段に乏しい以上、認めるわけにはいかないのだ。

 それは、本人もよく分かっているはずだ。

「お待たせしました。みなさん!」

 そこに、ひかりがトタトタと駆け足でやってきた。

 手には小太刀を抱えている。

「あ、それが鍵になるんだな」

「はい、そうです。『弼馬温』の結界を、この刀と禍祓いの力で斬り開くのが、わたしのお仕事みたいです。それから、向こうの猿猴神君さまにお仕えするのは、それほど難しいことじゃないんですって」

 ひかりが、緊張の色を滲ませながら、早口に説明した。これから『まつろわぬ神』に会うというので、不安も大きいのだろう。

「それでは、これから祠に案内いたします。どうぞ、こちらへ」

 九法塚青年を先頭に、護堂たちは境内を歩く。

 田舎道にありそうな小さな祠があった。大きくもなければ、小さくもない。古びた祠。しかし、その格子戸の隙間からのぞくのは、一寸先も見通せない真正の闇であった。深い深い井戸の奥底に広がっているような、黒々とした闇が閉じ込められているかのようだ。

 すぐ傍には桃の木が植えられている。祠と桃の木を囲むように四方を注連縄が張ってある。

「桃は、破魔の植物です。古代中国でも日本でも、桃に対する信仰は存在します」

「ああ、それで、ここにあるんだな」

 桃には古くから特別な力があるとされた。中国では桃源郷という言葉があるように仙人に関わる伝説が多く残され、不老長寿の果実とされた。日本では、鬼を祓う力があるとされ、イザナミの命令でイザナギを追いかけた黄泉の国の悪鬼羅刹たちは、桃によって追い払われている。

 オオカムヅミと古事記では神名が与えられるほどである。

「桃太郎も、桃から生まれて鬼退治するしな」

「はい」

 護堂と祐理は、声を潜めつつそんな話をしていた。

 

 

 ひかりが、注連縄に触れる。ただそれだけで、注連縄が地面に落ちた。呪力が霧散するのを感じ、弼馬温の結界が開いたのが分かった。

「これで、中に入れるわけか」

「はい」

 ひかりが頷いて、格子戸に近づいていく。

「それじゃ、開きます」

 緊張したまま、ひかりは祠の格子戸を開け放った。

「うわあ、本当に真っ暗」

 ひかりは、暗闇に圧倒されたようだった。

 無理もない。人間は本質的に闇を畏れる生物だ。まして、都会育ちの小学生だ。今時、田舎でもなかなか見ない漆黒の闇を前に躊躇するのは、むしろ自然だ。

「俺が先に行くよ。ひかりは、後ろをついてくればいい」

「はい、お兄さま」

 そして、護堂はひかりと一緒に、暗闇の中へ進んで行った。

 カンピオーネになって以来、久しく感じることのない闇だ。この世界は、どうやらカンピオーネの目をもってしても見通せない特別な暗闇らしい。

「あの、お兄さま」

 ひかりが、背後から声をかけてきた。

「ん。どうした」

 護堂が立ち止まって振り返る。闇が濃すぎるために、どこにひかりがいるのか分からない。しかも、止まったことで、ひかりのほうが護堂にぶつかってしまった。

「あ、ごめんなさい」

「いや、いい。これは、本当に手を繋いだほうがいいな」

 もしも、仮にこの暗闇の中で道が分岐していたら大変なことになる。そんなことは万に一つもないだろうが、断言できるほど、この空間に詳しいわけではない。

「は、はい。お願いします」

 ひかりの小さな手を握り、護堂は暗闇を進み続ける。

 あまりに闇が濃く、時間の感覚すらも曖昧になる中でひたすら歩み続けるのは、精神的に辛いものがある。

 しかし、無限に続く道というわけでもない。歩いているうちに、光が差し込む四角い出口に行き着いた。

「ここまでは、問題ないか」

 護堂は、無事辿り着くことができてほっと一息つきつつも、背後に意識を向ける。羅濠教主の気配は、まだない。いや、もしかしたら気配を消しているのかもしれない。何分情報がない上に、公式チートな魔王である。護道の直感を平然とすり抜けてくることもあるかもしれない。

 護堂は周囲を見回す。

 燦燦と太陽が降り注ぐ屋外だ。離れたところには唐風の宮殿を思わせる建物が建っている。そして、目の前には簡素な馬小屋。

「お兄さま。お猿さんがいますよ!」

 ひかりが、馬小屋の中を指差した。

 干草の上に、八十センチほどの金色の猿が寝そべっている。 

「おまえが、猿猴神君か」

 護堂に問われた猿が、のっそりと起き上がった。

 そして、不敵な笑みを浮かべて頷く。

「いかにも。まあ、本当はもっといかした名前があるのだがな。そっちは封じられておるのよ」

 孫悟空の名を封じ、別の名を与える。

 護堂がスサノオたちから聞いた、蘆屋道満の話と酷似している。『まつろわぬ神』を封じるという性質も似通っているので、もしかしたら、この畢生の大呪法とやらは、蘆屋道満を封じた術式を基にしているのかもしれない。

「それにしても、久しぶりに客人が来たと思ったら、まさか神殺しまで一緒とは! この国にもついに神を殺める不埒者が現れたか!」

「まあ、あんたからしたら不埒者だろうけどさ。怨敵を前にして楽しそうだな、ずいぶんと」

「うむ。何せ、百年ぶりの客人でな。聊か昂ぶっておる」

 そう言った猿猴神君は、護堂ではなくひかりを観察している。

「ふむ。今代の巫女さんはまだ幼女であるか。むむぅ、今後に期待かの」

 などと呟いているのを護堂は耳ざとく聞き咎めた。

「なあ、ひかり。どうも人畜無害そうだし、この役目、放棄してもいいんじゃないか? むしろ、おまえのほうに危害が加わりそうだ」

「え、でもそういうわけにもいきませんよ」

「これこれ、神殺し。人の楽しみを平然と奪おうとするでない」

 おまえ、猿だろうが、というツッコミは無粋と思い、心の中にしまいこんだ。

「とりあえず、用事を済まそう。この娘が、お前の新しい巫女になる予定なんだが、百年も空位だったから何をしたらいいのかよく分からないらしい。教えてやってくれ」

「なんじゃ、そんなことか。よかろう」

 猿猴神君は再びごろりと寝そべり、気だるそうにしながら説明を始めた。

 巫女として奉仕するといっても、実はこの猿と一緒に遊べばいいだけである。毛づくろいから鬼ごっこ、ボードゲームなども現代ではアリかもしれない。とにかく、猿猴神君の暇つぶしに付き合う程度のゆるい仕事だ。

 それが普段すべきこと。

 言わずもがな、この猿猴神君は、今でこそ無害な猿だが、その本質は竜を撃ち殺すために使役される《鋼》の神である。

 日本に《蛇》の神格が現れたとき、それを素早く討伐するために存在しているのであり、この猿に奉仕する媛巫女の最も重要な仕事は、この神の手綱を握ることなのだ。

 無防備にひかりと話している猿。まったくの隙だらけである。『まつろわぬ神』としての性を封じられているのだから、当然と言えば当然なのだが、それはつまり、戦闘能力が自我の強さに比例するという神と神殺しの性質からすれば、非常に貧弱ということでもある。

 つまり、今の猿猴神君なら、容易に殺せる。

「ほう、やるかね?」

 猿猴神君は護堂から僅かに漏れでた戦意に気づいたようだ。

「中国の魔王があんたと戦いたがっているらしいけど、ここであんたを殺せば面倒事も一気に解決するんだよな」

 多少教主の恨みを買うだろうが、羅濠教主とは戦わなければならないのだし、すべての決着をこの場でつければ日光東照宮が吹き飛ぶこともない。

「なるほど、初めからそういうつもりでこの場に来たということですか」

 護堂がいよいよ呪力を練ろうとしたとき、それを遮るように聞こえてきたのは雅楽のような美しい女人の声だった。

「ッ!」

 いつの間にか、本当に美しい漢服の女性が立っていた。

 いつからそこにいたのか、まったく分からなかった。方術の天才にして武林の至尊たる羅刹女は、気配の消し方も一流だったのか。

 姿は疎か、気配も感じなかったために遅れているのかと早合点した。

 いくら羅濠教主が方術の天才であろうとも、直感に優れた護堂がその存在を捉えられないはずがないと。

 結果としては、判断を誤った。

「あなたが羅濠教主、ですか?」

「いかにも」

 鷹揚に頷く羅濠教主は、鈴のような声で語りかけて来る。

「倭国の神殺し。たしか草薙王といいましたね。わたくしの計画を見破り、先手を打つとは大したものです。しかし、そこの英雄神はわたくしが掣肘するべき者。あなたに討たせるわけにはいきません」

「たしかに、あなたが討つべき神かもしれない。けど、あなたはアイツを外に出して戦うつもりなのでしょう?」

「無論です。そうでなければ、意味がありません」

 知ってはいたが、改めて話をすると、どうもこちらの言うことを聞くつもりがないように思える。羅濠教主の中で結論は決まっているために、他者の話を聞く必要がないということなのだろう。本当に面倒な相手だ。腕力至上主義とはよく言ったものだ。羅濠教主を相手に、言葉は意味を為さない。

 なによりも、土足で踏み入られておきながら、それを見逃すとあっては、草薙護堂の名折れである。

 だとすれば、やはり――――身体に力を込めた瞬間、羅濠教主は優艶な微笑みを浮かべた。

「なるほど、鷹児の言が予言になろうとは。たまにはあの子も正しいことを言います。――――どうしても、わたくしの邪魔をするというのであれば、あなたを我が障害と認識し、打ち砕くのみ。武林の至尊と仕合うことを誇りに思いなさい」

 次の瞬間、羅濠教主の縦拳が、護堂の胸元で炸裂した。

 目には何も映らず、何かが爆発したかのような轟音は後から聞こえてきた。それが、護堂の胸を拳が打った音なのか、それとも信じがたい速度で護堂に詰め寄った羅濠教主が、その踏み込み足で地面を強かに踏みしめた音なのか判然とせず、護堂は何が起こったのかわからないまま勢いよく宙を舞った。



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五十六話

 護堂たちと別れた二人――――恵那と晶は、人気のない東照宮を見て回り、また、その周囲を気ままに散策していた。

 あれから二時間と経っていないが、そろそろ飽きてきた。人がいないため観光するには面白みにかける。

 しかし、彼女たちはただの観光客ではない。

 二人そろって、十代では間違いなく最高最強の呪術師であり、日光東照宮といえば、霊地としては東日本最大級。日本の霊的中枢の一つ、富士山の鬼門に位置するこの建物は、四百年の長きに渡って日本を守護し続けてきたのだ。

 たとえ、歴史の中でその呪術的意味合いが、信仰心が、一般からは薄れてしまったとしても、呪術師の中で廃れたわけではない。

 徳川家康を神君として祀り、護国の守護神としての神格を与える呪術装置。

 それが日光東照宮の隠された意味。

 その壁に、屋根に、梁に、床に、この場を特異点とする霊的守護が刷り込まれている。

 よって、最初の一時間はそれについて話しているだけでよかった。しかし、あまりに高度な術式は、それを読み解く側への負担も当然大きい。もともと、観光気分で訪れた二人は、それほど深いところまで討議することもなく、『こんな術式がありますよー』という程度で流していた。その結果、護堂たちが戻ってくる前に、あらかた回りつくしてしまい、今は二荒山神社に続く石段に腰を下ろして徒然に会話を交わしている。

「しっかし、こんなにまで用心する必要あるのかなー?」

 恵那はぐー、と背筋を伸ばして空を仰いだ。

「用心とは?」

「日光山付近を空にするってこと。王さまがそこまでするなんて珍しいじゃん。今までの報告からだと、人を動かすのが嫌いだってことくらいわかるし」

「何か、気になることがあったんでしょう。陸家の御曹司のこととかあるじゃないですか」

「やっぱり、それだよね。羅濠教主、だったかな」

 中国のカンピオーネ。魔術結社『五嶽聖教』の頂点に君臨するが、滅多に人前に姿を現さないために、その容姿、能力、性別すらも不明。バルカン半島のヴォバン侯爵、アレクサンドリアのアイーシャ夫人と並ぶ古参の魔王である。

「順当に考えれば、羅濠教主が日本で何かしでかそうとしていて、先輩はそれを警戒しているということなんでしょう。まあ、でもここに来るとは限りませんけど」

 羅濠教主の直弟子、陸鷹化は、日本に入ってからその足取りを完璧に隠蔽している。それが、翻って何かを狙っていると思える所以であるが、その目的地がわからない以上は、用心のしようがない、はずなのだ。

「とすると、王さまの用心は結局《鋼》の神さまってことか」

「遺伝子レベルで敵対してますからね」

 晶は、足元に落ちていた木の枝を、踏みつけて足の裏で転がす。暇を持て余した休日の午後、隣には、先日本気で殺しあった先輩媛巫女。日光に行こうと護堂に誘われたときは、嬉しさいっぱいで飛び跳ねそうになったのだが、蓋を開けてみればこの状況。気落ちする。

「ところでさ、アッキー」

「はい?」

 恵那を見れば、なにやら意味ありげな笑みを浮かべてこちらを見ている。これは、よくない笑みだ。晶は確信した。

「アッキーは王さまの愛人候補でしょ。実際のところどこまでいってんの?」

「はあ!? いや、突然何をッ!?」

 身構えていたが故に、逆に過大な反応をしてしまった。

「いやあ、突然でもないよ。夏休み前には、もう出てた計画じゃん。知ってるでしょ」

 晶は、言葉をなくして押し黙った。

 護堂に愛人を宛がって、日本に括りつけよう。そうした不埒な計画を聞かされたのは、護堂がまつろわぬ一目連と戦う直前だった。

 あれから二月半。その後の音沙汰は一切なく、気になってはいたがあえて聞こうともしなかった。計画が立ち消えになったのかもと、半ば期待していたのだが。

「恵那が最初に言ったこと、覚えてる? 祐理とアッキーと三人で王さまのところにお嫁入りするって」

 もちろん、覚えている。

 あれほど鮮烈な出会いはそうあるものではない。

「本気、なんですか?」

「もちろん!」

 恐る恐る尋ねると、底抜けに明るい返答を受けた。

「あの、どうしてそこまではっきりと言えるんですか?」

「さあ? 恵那にもよくわかんない。けど、なんとなく、この人とは馬が合いそうって思ったんだよねー。恵那の勘は大体当たるし」

「勘って、それで将来の伴侶を決めるんですか、清秋院さんは」

「まあ、ねえ。勘は大事だと思うけどなー。だって、そもそも恵那の立場上、政略結婚とか普通にさせられそうだし。だったら、気が合う相手を選びたいじゃん」

 清秋院家ほどにもなれば、政治的な意味合いも結婚に持たせる必要がある。名家とはそういうものだ。呪術世界ではいまだに血族が影響力を持つが故に、婚姻というのは、出世にも保身にも重要な要素である。それに、媛巫女という存在自体がある程度管理下に置かれている。自由恋愛が奨励される立場ではないのだ。

 そんな中で、気に入った相手に嫁げるのなら、それに越したことはない。恵那が言っているのはそういうことだった。

「だから気になるんだ。祐理とアッキーが王さまとどこまで行ってるのか」

 晶の目を覗き込む恵那の黒い瞳が、空恐ろしく感じられた。ふざけているようでいて、大いに真面目に語っている。

 尋ねられた晶は、明確な解を持っていないために、満足に答えることはできなかった。

「わたしは、別に……」

「ふうん。アッキーはまだか。じゃあ、祐理は?」

「……キスはしたみたいです」

 晶は、視線を落とし、呟くように言った。

「ああ、その話は聞いたっけ。本当のところは人工呼吸みたいなもんだけど、それでも二回しているからねー」

 晶は、耳を疑った。

「え……二回?」

「あれ、知らない? 祐理ってば、春先の火雷大神のときにも気を失った王さまに治癒をかけてるんだよ。甘粕さんから聞いたんだけど、アッキーは知らなかった?」

「初耳です」

 春先の事件については、晶も聞き及んでいる。護堂が現在主力として使っている『八雷神』の権能を簒奪した戦いは、カンピオーネの恐ろしさを正しく正史編纂委員会に知らしめた。それを理解できなかった連中が、その後大きな事件を引き起こしたわけだが、すべてはその春先の事件に端を発する。

 とにかく、祐理は、力を使い果たして倒れている護堂に治癒を施した。カンピオーネに術をかけるには、経口摂取――――キスが最も早く、効果的だ。それが一回目。そして、二度目はイタリアで零落したアナトに心臓を抜き取られたときである。怒りに身を任せていた晶は、その様子を見たわけではないが、その後ルクレチアの家を訪れた際に、発覚し、ちょっとした騒動となった。

 だが、それは二回とも人工呼吸のようなものだ。祐理自身もそう言っていたではないか。彼女が、そういう場面に出くわして、そういう行動に出たというだけのことだ。自分だって、そういう場面に遭遇すれば、きっと同じように行動したはずだ、と思ってから、晶は頭を抱えた。

 護堂がヴォバンを追い払ったあのときが、まさにそういう状況だった、と。

 疲労から眠りについた護堂が病院に運ばれるまでずっと晶は寄り添っていたのだから。

「あぁぁ……」

 逃した魚は大きかった。いや、別にキスがしたいとかそういうわけではないと自分に言い聞かせて落ち着こうとする。そんな晶を見て、

「つまり、一番進んでいるのは祐理か」

 恵那がそう結論付ける。目下、最大のライバルは祐理であると。とはいえ、肝心の護堂自身がそのことを知らないでいるというのは大きい。事実上、祐理が優位性を保っているということにはならない。

「んじゃあ、目標はまずキスからだねー。帰ってきたらお願いしてみる?」

「んぐ!? な、ええ!? そんな突拍子もないことをなんで平然と提案できるんですか!?」

「いや、冗談冗談。さすがに唐突すぎるからねェ」

 顔を真っ赤にする晶と、大して顔色を変えない恵那。実に対照的な二人である。

「でさ、実際のところキスってどんな感じだと思う? やっぱり気持ちいいのかな?」

「し、知りませんよそんなこと」

 キスなんてしたことがないし、そんな状況にも陥っていない。唯一の機会を棒に振っていた事実に気づき、意気消沈した人間に尋ねられても困る。

「じゃあ、やっぱり祐理に聞くしかないかな」

「止めておいた方がいいんじゃないですか。万里谷先輩も怒りますよ」

「でも、アッキーも興味あるでしょ?」

 恵那に問われて、晶は言葉につかえた。目が泳ぐ。その僅かな隙を、野生的嗅覚の持ち主である恵那が見落とすはずがない。

「あ、想像した。やっぱり、興味津々だねー」

「あ、い、いや、ない。ないですから。なんですか、その『皆まで言わなくても分かってる』みたいな笑顔は!?」

 うんうん、と頷く恵那に、晶は食って掛かった。

 そうしたやり取りを繰り返している彼女たちは、いたって普通の女の子に見える。しかし、片や神の御霊を身体に降ろし、一時的に神使に比する力を得る媛巫女であり、片や、大地から呪力を吸い上げて肉体の限界を考えなければ無尽蔵の呪力を扱える媛巫女だ。武芸においても当代最強を争う二人。背後から誰かがやってきたとあれば、すぐに反応できる。

 まして、今、この場に彼女たち以外に人がいるはずがないのだから。

「もしや、陸鷹化さんですか?」

 相手は二人組み。二荒山神社のほうからやって来た。アジア系の顔立ちの少年と、ゲルマン系の顔立ちをした少女の組み合わせだ。そのうち一人には、見覚えがあった。護堂が気にかけていた海外からの来訪者だ。

「ええ、そうですよ。初めまして、清秋院の姐さんに高橋晶」

 さすがに、日本で事を起こすに及んで相手は護堂の近辺を調査済みのようだ。日本国内にだって正史編纂委員会の手が届かない『裏』は存在する。

 例えば、とある中華街。

 ここには、華僑系の呪術師が独自の文化体系を築き上げている。その出自から、『五嶽聖教』に近づく者も多い。

「なんでわたしは呼び捨てなんですか」

「そりゃ、同じ生まれ年の女にまで敬称はつけられないからねエ」

「なるほど。そりゃ、わたしだって同学年の人に『姐さん』なんてつけられたくないですよ」

 警戒しつつ、相手の出方を探る。両者ともに、すぐさま戦闘に突入するという愚を犯すほど単純ではなかった。

 いや、一人だけ。鷹化の隣に立つ容貌可憐な少女が、肉食獣のような凶悪な笑みを浮かべて恵那と晶を見ていた。

「なあ、陸鷹化。この二人、邪魔にならぬうちに始末してもよいのではないか?」

 対する鷹化は、はあ、とため息をついて乗り気でないというように肩を竦めた。

「姐さんがロサンゼルスでしくじったのは、喧嘩っ早いのに加えて、その相手を見くびる性格のせいだと思うよ。荒事で解決しなくてもよさそうなら、まず会話するべきだと思うけどね」

 鷹化は、恵那と晶を見る。

 アーシェラの言葉に触発されて、すでに臨戦態勢に入ってしまっている。さすがに、危機察知能力は高い。アーシェラの正体まで理解している訳ではなさそうだが、それでも危険性は察知している。

 武器は、日本刀と槍。どちらも大業物といってもよく、日本刀も厄介な呪力を帯びているがそれ以上に、あの槍。神が振るうべき神具級の逸品など、人間の戦いに持つ込むのは反則だ。ぶつかって負けるとは思わないが、武装面では不利。武器に妙な能力がないとも限らず、この場で戦闘に突入するのは、聊か問題が大きすぎる。自分は問題ないのだ。問題があるとすれば、それは隣に立つアーシェラのほうだ。

「姐さんには、これからやってもらうことがある。下手に怪我を負わせて儀式に影響したら、今度こそ僕は死ぬ」

 誰にも悟られないくらいの小声で呟く鷹化の顔には、ある種の焦燥が見えた。

 羅濠教主を説得して日本に呼び寄せたときにも、三度ほど気絶させられたのだ。百年の因縁に決着をつけるための大一番に水を差したということになれば、首が飛ぶ程度では収まらない。

 ゆえに、万が一にもアーシェラが怪我を負うようなことがあってはいけないのだ。

「お互いに、一先ず落ち着こうよ。もう察しがついてると思うけど、今頃、あの祠の中で王さまの首脳会談が始まっているはずだしね。僕らがあれこれするのは、その結果が出てからでもいいんじゃない?」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 カンピオーネ、あるいは『まつろわぬ神』は、体内の呪力があまりに強大で高密度なために外界からの呪術攻撃を無力化する特性がある。それは、鉄壁に豆腐を投げつけても砕けるのは豆腐のほうであるのと同じことで、単純に固さが違うのである。よって、相手を傷つけるためには、その鉄壁を砕くほどの威力がある砲弾(じゅじゅつ)を叩き込まねばならない。逆に言えば、それだけの呪力を用意することができれば、カンピオーネでなくとも呪術でカンピオーネや『まつろわぬ神』に傷をつけることは可能だ。ただ、それほどの呪力を人間が扱うのは、理論上不可能なだけで、方法論としては存在しうる。

 カンピオーネを傷つける方法は、大きく分けて二つ。

 一つ目は、呪術抵抗力を上回る強大な呪力による攻撃を加えること。そして、二つ目は、単純な物理攻撃である。

 

 怪力の権能に、神憑った武術を披露する羅濠教主は、まさにカンピオーネキラーとでも言うべき存在だ。

 無防備な状態で、その拳を喰らえば、それだけで骨が砕け、内臓が破裂し死に至る。トラックとの正面衝突でも生き延びるカンピオーネの骨格でも、羅濠教主の拳は重すぎる。

「む?」

 思いのほかあっけなく吹き飛ばされた護堂であったが、それを見ても羅濠教主は表情を固くし不可解だとばかりに護堂を視線で追う。

 その拳は一度振るえば屍山血河を作り出す。今回は、魔王の先達としての気風を示すべく、多少の加減をしてやったのだが、拳を通じて羅濠教主が感じ取ったのは、人間を殴った際の柔らかさではなかった。

 墜落する護堂。

 しかし、落下しつつも、その目はしっかりと羅濠教主を見据えている。殴ったはずの腹部からは、正体不明な黒い霧が集中している。

 それを見て、羅濠教主は妖艶な笑みを深くする。

「なるほど。若いとはいえ魔王の一人。そこまで容易く倒れるはずもありませんね」

 羅濠教主が拳を振るうべきは、真の英傑であるべき。そして、少なくとも倭国の王にはその資質があると見た。

 加減したとはいえ、羅濠教主の拳を耐えたのは偶然でもなんでもない。それが、彼の実力なのだ。

「久方ぶりの倭国。英雄神を討伐することだけが楽しみかと思っていましたが……これは、いい意味で見込みがはずれましたね。そこの巫女よ、斉天大聖の封を解く儀式に入りなさい」

 羅濠教主に指示されて、ひかりは糸で操られるマリオネットのように舞う。口上を述べ、斬竜刀に霊力を込める。

 羅濠教主は拳法のみならず方術においても最上位に位置する才色兼備の魔王である。齢十二のひかりが、その言葉に抵抗できるはずがない。

 ひかりが解呪の儀式に入ったことを見た、羅濠教主は地を蹴って空に舞い上がる。

 草薙護堂を追いかけて、仙女のように悠々と。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 本気で死んだかと思った。

 護堂は気づいたときには上空に舞い上げられていたのだ。あれが噂に聞く無拍子とかいうものか。

 だが、死んでいない。幸いなことにダメージは皆無。運がよかったのか、生き汚かったのか、脳よりも先に身体が防御に転じていたらしい。

 黒雷神が局地的に発生中。

 胸元から腹部にかけて、漆黒の闇が覆っていた。

 上空からの着地は幾度となく経験してきたもの。今度も難なく着地して、追ってきた羅濠教主と向かい合う。

「ひかりとは引き離せたか。だけど、儀式は遂行中。これはもう仕方ないか」

 いろいろと思案してきたが、事ここに至っては孫悟空の復活も容認しよう。もともと、その可能性を加味して計画していたのだ。日光山周辺から一般人を退去させてあるし、最悪の事態は防げるはずだ。

「この羅濠の一撃を見事防いで見せたこと。誉めてあげましょう。我が不肖の弟子すらも、いまだ為し得ぬ難事。若いとはいえさすがに魔王の名を冠すだけのことはあります」

「それはどうも。お褒めに与り光栄です」

 言葉だけは謙りながら、決して腰を低くすることはない。護堂は魔王としての経験においては圧倒的に不利であるが、そんな戦いなど今までいくらでもしてきた。なにせ、護堂は現代で最も若いカンピオーネだ。経験で勝てる相手は一人もいない。

 だから、策を弄し、根性を振り絞る。

 愚直なまでに必死になることで、万に一つの勝機すらも引き寄せるのだ。

「ほう、よい目をします。如何にしてわたくしを打倒するか、思案していますね」

 羅濠教主は、護堂の高まる戦意を好意的に受け止めた。

 拳を交えた分だけ相手を理解することができる、というような週刊漫画雑誌に出てきそうなフレーズを本気で言い出しかねない人物だ。

 目線はあくまでも上から。護堂が若いカンピオーネということもあって、羅濠教主には余裕が感じられる。

「戦わなきゃならないなら、勝つために全力を尽くすのが俺のやり方だ。あなたが動けなくなるまできっちり戦い抜いてやるさ」

「不遜な物言いですが、許しましょう。草薙王。あなたはまだまだ未熟ですが、それも仕方のないこと。この羅濠が手ずから教導してあげましょう」

 羅濠教主はそう宣誓し、次の瞬間には護堂の目前に舞い降りてきた(・・・・・・・)

 速いということをまったく感じさせない身体運び。武芸の絶技とも言うべき神業だ。繰り出される拳は、岩をも砕く一撃にして、銃弾を上回る超高速。まともに受ければ即死もあり得るそれを、護堂は首を捻って紙一重でかわす。

 何が襲い掛かってくるのか、護堂自身にも見えていない。見えていないのだが、何か危険なものが放たれたということは分かる。勘に任せた回避だが、カンピオーネの強力な直感能力に『強制言語』の精神干渉を駆使すれば、カンピオーネの優れた勘を瞬間的な未来予知にまで昇華させることができるのだ。

『縮』

 肩口を掠めた手刀にバランスを崩しながらも、言霊を唱える。背後の空間を圧縮し、後方へ跳ぶ。

「ぐッ……!」

 前触れなく急加速した護堂の動きに、羅濠教主の蹴りが辛うじて追いついた。下から上へ蹴り上げる一撃は護堂の顎に擦過傷を作った。

 護堂が用いた権能が、黒雷神の化身でないこともあって、羅濠教主は攻勢の手を一時休めた。

「ほう、面妖な権能を持っていますね。先ほどの黒い影といい、攻撃一辺倒ではなく、状況に応じての使い分けができるわけですか」

 興味深そうに、護堂のことを観察する羅濠教主は、王者の余裕を崩さない。現状、護堂から攻撃に出たことは一度もなく、常に回避行動を取り続けるだけである。これまでの様子から、護堂には、近接戦闘の心得はなく、近づけば羅濠教主側が圧倒的優位に立てることがわかる。

 だが、羅濠教主が持つ護堂の情報は、これくらいのものだ。下の者からの報告に細かく目を通すような女性ではない。護堂がどのような権能を持っていようと、自分の武が敗れるはずがない。そういう自信に溢れているからだ。

 一方の護堂は今の攻防で、彼我の実力差を痛いほど実感させられた。

 強い。半端なく強い。テレビで見る格闘技の世界チャンピオンが、まるで子どもに思える。

 羅濠教主の持つ権能は、護堂が知る限り四つ。

 そのうち主戦力となっているのは、阿吽一対の仁王から簒奪した怪力の権能である『大力金剛神功』とガーヤトリーから簒奪した詩を衝撃波へ変換する権能である『竜吟虎嘯大法』の二つである。

 この二つの権能を用いて、羅濠教主は遠・近・中のすべてのレンジで戦うことができるのである。 

 だが、やはり警戒すべきは彼女の拳の範囲内にいることであり、羅濠教主も決定打を放つためには得意の縮地法を使うなりして近づこうとするだろう。

 二十メートルほども距離を取った今でも、油断をすればすぐに接近を許すことになる。

 安心はできないが、それでも拳の範囲外に逃れたことは護堂に反撃の機会を与えた。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 一目連の聖句を唱えて呪力を発する。それにあわせるかのように、羅濠教主が踏み込んでくる。

 大地が振動した。羅濠教主が、雷鳴の如く踏み鳴らした震脚が、蜘蛛の巣状の亀裂を大地に走らせる。冗談染みた力が、その右の拳に集中しているのが分かった。

「ハッ!」

 美しい声色で放たれた拳は、護堂と羅濠教主との間に出現した円形の楯に遮られた。

 拳を止められて、羅濠教主の眉尻が上がる。

 その直後に、護堂の頭上に五本の神槍が切先を羅濠教主に向けたまま現れた。

 護堂は、バックステップで羅濠教主から距離をとりながら、入れ替わるように五本の槍を無造作に射出する。

 その一挺一挺が、人間を消し飛ばすのに十分な威力を誇る正真正銘の神槍である。本来であれば、直撃せずとも余波だけで、敵を倒すことすらも可能だろう。

 槍の刃が地面を抉り、呪力を爆散させる。

 閃光が迸り、爆風が護堂の身体をさらに後ろへ追いやった。

 だが、護堂の表情は晴れない。むしろ、危機感がさらに募っているようですらある。それもそのはずだ。そもそも、今の五本の槍は、決して地面を狙ったものではなかったし、爆発するようなものでもなかったからだ。

「見事です、草薙王」

 羅濠教主は健在。粉塵が晴れた後に残ったのは、無傷の乙女と、へし折られた五本の槍だけ。砕かれた槍は、その内側から呪力を発散して散ったのだ。

「この羅濠に土ぼこりをつけるのは並大抵のことではありません。サルバトーレ某といい、雷速の捻くれ者といい、この十年の間に、三人もの猛者がこの難行に成功するとは――――覇道の先達として嬉しく思います」

 羅濠教主は、いつの間にか衣服を着替えていた。仙女が着るような漢服ではなく、白いチャイナドレスだ。おそらくは動きやすさを追究したのだろうが、それはつまり相手もやる気になって来ているということである。

 護堂はさらに十挺の剣を羅濠教主に向けて放った。

 それぞれの角度を微妙に変えて、逃げ道を塞ぐように扇形を描かせる。音速をはるかに超えた刃は、大気に黄金の軌跡を残して疾駆する。

 さらに、着弾を確認するよりも前に、すでに護堂は次弾を装填済みだ。もとより、たかが十挺の刀剣で倒せる相手だとは思っていない。その武芸を目の当たりにした今、自慢の武具も色あせて見える。それでも羅濠教主が回避するか迎撃したところを続けざまに狙えば効果はあるはずだ。

 だが、それでもまだ、護堂の考えは甘かったと言わざるを得ない。

 目を疑ったのは羅濠教主の体捌き。

 流水の如く滑らかな挙動で半身となった羅濠教主は、刀剣の隙間を縫うように横滑りしつつも半回転。次の瞬間には、伸ばした腕に絡めとられるように、両刃の剣の柄が手の平に収まっていた。さらに地を蹴り、身体を横回転させながら、掴み取った剣で襲い来る刃を斬り飛ばし、華麗な足技で蹴り落とした。すべて、一瞬の内に行われた奇跡の技である。あのアテナやサルバトーレですら、この剣を前にしてこれほど美しく立ち回ることは出来なかった。

 これが、羅濠教主。

 二世紀に渡って武の頂点に君臨し続ける人類最強の格闘家の絶技である。

「怪物かよ!」

 言うまでもないことだが、言わなければやっていられなかった。

 射出する剣群がひどく頼りない。放たれた十の軌跡を、羅濠教主は明らかに見切っている。その上で、最小の動きで迎撃に出る。護堂から奪った剣を回転させるように投擲。柄と刃の部分で二挺を落とし、さらに落とされた剣が別の剣にぶつかってその方向を変える。羅濠教主に、刃が届かない。

 護堂は今度は、槍を作り出す。

『縮』

 空間を縮めて羅濠教主の前へ躍り出る。拳が届かず、穂先が届くまさに紙一重の距離。

 突き出す槍は、速いとも遅いともいえないレベルだ。それも当然のことで、護堂は生まれてこの方真っ当な武術など嗜んだことすらないのだから。

「刺突が甘い!」

 羅濠教主から叱咤が飛び、護堂の槍は穂先の付け根から鷲掴みにされた。

 ギシ、と互いに動きを止めた。護堂は、一切身体を動かせず、羅濠教主は護堂の槍を片手で押さえ込んでいる。

「あなたの動きを見れば素人であることは明白。武林の至尊たるわたくしに、そのような甘い槍が届くことはありません。出直しなさい!」

 とてつもない怪力が、護堂の身体を引き寄せた。

 掴まれた槍が、羅濠教主の怪力で引っ張られたのだ。

「シッ!」

 鋭い呼気とともに、目前に迫る掌底。

 喰らえば一撃の下に護堂の脳を破壊できる凄まじい威力を誇る。

 しかし、いかに強大な威力を誇ろうとも、その攻撃が当たらなければ意味がないのもまた事実である。

 羅濠教主の強大無比な掌底は、護堂を捉えることなく虚空を切った、

「む?」

 いぶかしみながらも、勘任せに背後へ蹴りを放つ。

 反射神経であるとか、動体視力であるとか、そういった生物としての機能を無視した尋常ならざる勘は、カンピオーネだからこそであるが、武を極め、二世紀もの経験を積み重ねた本物の強さを持つ羅濠教主のそれは、権能で直感を強化している護堂に勝るとも劣らない。

 ガゴン、と固い何かが陥没する音が響く。ついで、

「ぐがッ!」

 と、苦悶の声を漏らす護堂を確認する。

 蹴り飛ばされた護堂は、二十メートルは吹き飛んだか。槍で防いだためにダメージはそれほどでもない。

 羅濠教主は、笑みをますます深くした。

 なぜなら、立ち上がる護堂が持つ穂先には、確かに赤い雫が付着していたからだ。

「わたくしに傷をつけましたか。実に見事です。甘い刺突で油断を誘い、わたくしが攻勢に出たところで背後へ転移する。ここが幽界であることを逆手に取った、すばらしい策です。この十年でわたくしに土埃をつけた者はいましたが、武にて傷を負わせた者は皆無。草薙王、あなたが骨のある勇士であることを嬉しく思います」

 護堂は羅濠教主の評価が高じるにつれて危機感を増していった。

 羅濠教主がやる気になればなるほど、形勢は不利に傾いていくからだ。

 さすがに、今ので討ち取れるとは思っていなかったが、肩口を掠める程度の浅手に終わるとは、すこしショックが大きい。

 幽界では、イメージ次第で呪術を用いなくても転移が可能となる。

 もちろん、そのためには精神を研ぎ澄ます必要があり、咄嗟に使用することは困難を極めるが、目標地点が視認できる上に、初めから狙っていたのであれば、成功率は格段に上がる。羅濠教主の隙を突くために、決死の策として転移を戦法に取り込んだのだが、結局は薄皮一枚斬り裂くだけだった。

「完全に不意を打っても、反撃されるか。なんとかして動きを止めないと触れもしねえ」

 護堂と羅濠教主。互いに、疲労の色はなく、手の内も曝していない状態。しかし、戦局は一進一退とはいえない状況だ。護堂が大技に出ないのは、羅濠教主に正面から使っても防がれる公算が高いからであるが、羅濠教主が本気を出さないのは、あくまでも自分の実力に自信を持っているからである。

 状況だけを見れば、互角であっても、その内実は護堂が徐々に追い込まれているのだ。

 護堂はちらり、と背後を見る。

 ひかりは、呆然とした様子で立ち尽くしている。儀式はすでに終わっているのか、ひかりが動く気配はない。

「ひかりを幽界から出してやらないといけないか」

 今回は失敗が多かったが、祐理との約束くらいはしっかりと履行しなければならない。

 そのためには、なんとしても羅濠教主から逃れなくてはならないが、このままではそれもままならない。

 逃亡に使うのは、神速の化身、土雷神。それを羅濠教主の目を盗んで発動させるタイミングを見計らう。

 そんな護堂の企てを、羅濠教主は感じ取ったのか悠然としつつも拳を構える。

「なにやら胡乱な考えを持っているようですが、戦において集中力を欠くのは首を投げ出すのと同じ。あなたは魔王となって日が浅いゆえ、実感がないのでしょうが、それではこの羅濠を打倒することは叶いません」

 轟、と魔風が吹いた。

 これまでは無風状態だった幽界の中に、風が生まれている。

「我が権能『大力金剛神功』はすでに見せました。これから見せるのは、『竜吟虎嘯大法』。これら二つの絶技を以ってわたくしは武林の至尊となったのです」

 風が羅濠教主の呪力に合わせて蠢いている。

 風を操る権能。より正確には、詩を衝撃波へ変換して敵を屠る権能だったと記憶している。

「去年は戦う、桑乾源。今年は戦う、葱河の道に」

 詩が始まった。

 吟じれば吟じるほど、風の威力は上昇していく。

 原作ではウルスラグナの化身の中でも最強クラスの打撃力を持つ『猪』の突進を食い止め、弾き返すほどの力があった。

 羅濠教主が発する衝撃波は、台風を遥かに上回る威力となるのだ。

「古来唯だ見る、白骨黄沙の田。秦家城を築きて胡に備へし處」

 護堂は、手に持っている槍を地面に突き刺し、さらに数挺を柵状に突き立てて風避けを作った。それでも、足を持って行かれそうになる。しっかりと踏ん張り、槍を握っていなければ、バランスを取ることも難しい

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ!」

 権能には権能で対抗する。

 源頼光の聖句を唱えて、破魔の神酒を生成する。

 護堂は神酒を霧状に展開。羅濠教主の風を打ち消そうとする。神酒の権能弱体能力が効いたのか、護堂の下に届く魔風はずいぶんと弱まった。

 だが、詩吟は止まらない。

「乃ち知る、兵は是れ凶器。聖人は已むを得ずして之れを用うるを!」

 そして、ついに詩が完成する。

 収束する魔風は、神罰の鉄槌と化して、護堂を襲う。

 たかが霧では、この暴力を止めることはできない。圧倒的スケールで振るわれた不可視の豪腕は、真っ白な霧の世界に大きな風穴を開け、消し飛ばした。

 

 

「消えた? あの霧に紛れて転移したということですか。しかし、この空間内には見当たらず。ふむ……」

 霧が消えた後に、護堂の姿がないことを見てとって、羅濠教主は頤に手を当てて思考する。

 たとえ神速の権能を使ったとしても、羅濠教主は目視で捉えることが可能だ。しかし、霧から飛び出た気配はなかった。

 転移した可能性が大きいが、この空間は特殊な術で閉じられている。ゆえに、この空間から外に出ることはできないはずなのだが、探査の術を使っても反応がない。それに転移したというのであれば、それとなく分かるはずだ。

 羅濠教主は敵を見失ったことを不可思議に思いながら、厩舎のほうを見た。

「巫女もいない。なるほど、端からそういう算段でしたか」

 それから、ふむ、と息をつく。

 あの霧はやはり撤退のための目くらましだったのだろう。方法は分からないが、あの霧の中から自分の目に止まらぬ手段で移動し、禍祓いの巫女を連れて逃げたということだ。

「ふふ、本当に大したものです。三十六計逃げるに如かず。されども、このわたくしを相手に逃げ果せるのは至難の業。かの神の復活には今しばらく時間がかかる様子ですし、一足先に現世に戻り、雌雄を決するのも一興ですか」




羅濠教主が吟じているのは李白の『戦城南』。書き下しが間違ってるとかの指摘はなしでお願いします。原作に合わせているので。


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五十七話

 幼いころから、祐理の勘はよく当たる。具体的に何が起きるのかという未来予知レベルのものではなく、なんとなく嫌な感じがするという程度のものではあるが、それは、何かしら自分や周囲に影響する範囲で現実のものとなる。そして、『嫌な感じ』という感覚からもわかる通り、祐理の勘は、大方不運な事故、事件といった負の側面に対して発揮される。それとは逆になにか良いことがありそうという場合はほとんどあてずっぽうになってしまう。

 そして、今、祠の前で護堂とひかりの帰還を待つ祐理には、漠然ながら『嫌な感じ』が心の中に広がっていた。

 それは、まるで薄めた墨液を白い半紙に滴らせているかのようにじわりじわりと彼女の心に滲んでいく。

 なにか、なにか本当にとてつもなくよからぬことが進行しているのではないだろうか。

 曖昧模糊とした不安ほど、落ち着かないものはない。

 祐理にしても、自分の感覚に確証があるわけでもなく、ただ経験則としてまずいということがわかるだけであり、明確な言葉にも感覚にもならないとなれば、人に説明することすらも憚られる。

 しかし、繰り返すように祐理の勘はよく当たる。それが、『よくない』ことであれば特に。

 ごとり、という物音。

 振り向いた先には、九法塚青年が倒れていた。

「み、幹彦さん!?」

 祐理が声をあげ、その声に反応して少し離れたところにいた冬馬も事態を把握する。

 祐理よりも速く九法塚青年に駆け寄った冬馬は、即座に彼の状態を確認する。首筋に手を当てて脈を取る。

「気を失っているだけのようですね。いや、しかしこれは……」

 祐理もそこに駆けつけた。

 そして、媛巫女の類希なる勘が、その原因を見抜く。

「この方に、なにかしらの呪術がかけられている痕跡があります。おそらく、精神に干渉する類のものです!」

「洗脳ですか。しかし、なぜ。彼を洗脳して得られるものなど、それほど多くはないでしょうに」

 冬馬は頤に手を当てて、考える。

 九法塚幹彦という青年は、武道も呪術もこなすエリートにして日本呪術界の頂点を争う『四家』を構成する家の次期当主となる人物だ。

 九法塚青年の能力を鑑みると、並大抵の術者では術中に陥れることは不可能なはずである。

 極めて高位の呪術師が、これに関わっていることは間違いない。では、その目的は?

 金品を狙うのであれば、もっと無難な相手がいくらでもいる。それこそ、呪術に関わりのない資産家を狙ったほうがずっと安全で確実だ。

 地位か。

 それも現状では考えづらい。

 そういったものを洗脳で得られるとは思えない。

「草薙さんたちが、祠に入ること。これが狙いなんでしょうかねェ」

 タイミング的にもそれ以外は考えられない。

 護堂とひかりが祠に入った後に、九法塚青年の役割を終えたとして洗脳を打ち切ったのであれば納得のいく話だ。

「長時間に渡る洗脳が、脳に相当な負荷をかけていたようですね」

 冬馬は、そう言いながら手早く応急処置をする。治癒の術は苦手とは言わないが得意でもない。それに洗脳という特殊な呪術のため、迂闊に手を出すこともできない。

「まあ、あとは馨さんたちの指示待ちですかね」

 相手の狙いが何かはわからないが、カンピオーネである護堂がいてもなお手を出してきたことから察するに、極めて厄介な相手だということが予想できる。

 やり口は『まつろわぬ神』というよりも人間的だ。それでいてカンピオーネに手を出せるとなると、もうそれはカンピオーネ以外にはありえない。

 そして、この祠に封じられている『まつろわぬ神』の出自を考えると接点のあるカンピオーネは一人だけ。

 陸家の御曹司が日本に入っていることからも、ほぼ黒だ。

 そして、その予想を確信に変える出来事が起こる。

 莫大な水と大地の呪力が炸裂した。

 場所は、少し離れた二荒山神社の方角だ。

「あれはッ」

 祐理が目をむいて驚いた。

 空に、巨大な蛇が浮かんでいた。その巨体を蛇と呼称していいものか。もはやそれは竜と呼ぶべき超生命である。

「レヴィアタン……そんな、まつろわぬレヴィアタンなんて!」

 祐理の声が、悲鳴にも似た色を帯びる。

 祐理の霊視が、強大な呪力を受けて竜の真名を読み解いた。

「ほう、レヴィアタンですか。しかし、妙ですね。レヴィアタンと言えば、ロサンゼルスのカンピオーネに討伐された個体のはずですが」

 しかし、これでこの事件を企てた者の狙いは明らかになった。

 《蛇》の神格と禍祓いの霊力を持つ巫女をそろえることで、神君を蘇らせようとしているのだ。

「だとすると、今頃祠の中で草薙さんが戦っていらっしゃるのでしょうかね」

 冬馬の呟きに、祐理は身をこわばらせた。

 もしも、そうであったなら、祐理はまた自分の都合で護堂を戦闘に巻き込んだことになる。

 護堂には、怪我をせず、無理をしないでいてほしい。それこそ無理な相談だと、この半年で実感してしまったことだが、それでもそう思わずにはいられない。

 しかし、今回の一件で護堂がまた命を懸けなくてはならなくなったというのなら、それは祐理の責任でもある。

 彼女はそう思っていた。

「それでは、私は彼を麓まで連れて行かなければなりません。この結界に覆われた西天宮では、救急車はおろかレスキュー隊すらも入り込めませんから。祐理さんも……」

「いえ、わたしはここで草薙さんとひかりの帰りを待ちます」

 今、冬馬と共に下山してしまえば、護堂と連絡を取れる者がいなくなる。この『まつろわぬ神』クラスの怪物が現れた以上は、護堂でなければ対処できないのだから。

「わかりました。ですが、祐理さん。くれぐれも無理はなさらないように。草薙さんならば問題はないでしょうが、あなたに武の心得はないのですから」

 その冬馬の言葉に、祐理は頷いた。もとよりそのつもりだ。自分にできることは限られている。その分別を間違うと、即座に足手まといになることもだ。

 祐理の返答を聞くや、冬馬は九法塚青年を担いで、跳んだ。一回の跳躍で杉の巨木を飛び越えんとするほどである。

 『猿飛』と呼ばれる跳躍術の一つだ。

 冬馬を見送った祐理は一人、ため息をつく。一人になると不安は大きくなるもので、護堂が祠の中で戦いに巻き込まれているとなると、それはもうどうしようもないくらいに肥大化する。

 身を案じることしかできない。

 そうしていた時、祠の閉ざされていた扉が開き、中から人影が現れた。

 護堂と護堂に抱えられたひかりである。

「草薙さん!」

「万里谷か。すまん、説明は後で。かなりまずいことになってる」

「はい、承知しております」

 どうやら、冬馬の呟きの通り、護堂は祠の中で戦ってきたのだ。

 見たところ、重傷を負った様子はなく、平時と同じように振舞っているが、所々服が破れ、傷を負っているのがわかった。

 しかし、無事戻ってきてくれたことに、とにかく安堵した。

 それから、護堂に抱えられているひかりがぐったりとしていることに気がついた。

「ひかり、どうしたの?」

 護堂に抱えられているひかりは、祐理の問いかけに反応しない。

「すまん。羅濠教主の術にかけられたんだ。若雷神の化身使ってなんとか術自体は取り除いたけど、まだ意識が戻らない」

 護堂はひかりを抱えたまま、祐理と並び早足で移動する。状況は切迫している。今にも羅濠教主が追ってくる可能性もあるのだ。いや、むしろその可能性のほうが高い。そして、羅濠教主が、祐理やひかりの安否を気遣ってくれる可能性は万に一つもない。残念ながらかの女傑は、自分が認めた人間以外は虫と同列にしか扱わないのである。

「甘粕さんは?」

「倒れられた九法塚さんを介抱するため、先に下山されました」

 祐理は、この場であったことを手早く報告してくれた。九法塚青年が倒れたこと、上空に浮かぶ竜の正体がレヴィアタンであることなどだ。それは、護堂の知識にあることであったが、万全と言いがたいことでもあるので、祐理の口から報告されたことでより脅威の度合いを明確化することができた。

「とにかく、万里谷。今は、この場を離れてくれ」

「羅濠教主が現れるからですか?」

「ああ。どうなるかわからんが、決着はつけなくちゃならないと思う」

 決然とした態度で護堂はそう言った。

 羅濠教主の出方次第というところもあるが、護堂の中ですでに羅濠教主との再戦は決定事項になっていた。

 そして、一度羅濠教主との戦いが始まれば、祐理を気遣っている余裕がなくなる。それは、先の戦いですでに実感していた。

「一旦、麓まで降りてくれ。清秋院と晶も一緒に。羅濠教主だけで終わらない。神君も出てくるはずだ。その時のために、沙耶宮さんと連絡を取り合ってくれ」

 この場にいて、祐理にできることはない。

 もともと戦闘能力でいえば、同年代の呪術師と同じかそれよりも低いレベルでしかない。カンピオーネ同士の戦いに手を出すことはおろか、同じ戦場にいることすらもできない脆弱な身である。

 祐理は、それがなによりも悔しかった。

 いや、本当にそうだろうか。

 確かに、祐理は戦うことのできない身。即戦力とは言い難い。だが、祐理には類希なる霊視力がある。これまでも、護堂に幾度も道を示してきた霊視力。それを、この戦場で使うことはできないのだろうか。

 そう思ったと同時に、できる、という確信が湧いた。

 祐理の霊視は、幽界に漂う情報を読み取る技法だ。そして、護堂もまた、ある意味では幽界にアクセスする力を持っている。一つはカンピオーネが生来備えている直感。そして、それを後押しするガブリエルの権能『強制言語』。この二つを併用することで、護堂はより正確な直感を実現しているのだ。

 そこに祐理の霊視能力を上乗せしたら。

 かつて、護堂の『強制言語』が、祐理の直感を強化したことがあった。万象に命令を下す言霊の権能の本質は、相手の精神に干渉することなのである。

 ならば、その逆もまた然り。祐理が護堂の『強制言語』を補佐することもできるはずである。

 今、祐理が護堂にできる最大の支援はそれである。

 できるかどうかと聞かれれば、間違いなくできる。

 あとは、祐理が一歩を踏み出すか否かである。

「草薙さん!」

 祐理は、意を決して護堂の名を呼んだ。

「あの……わたし、草薙さんの助けになりたいんです」

「助けって」

 そう言われて、護堂は言葉に詰まった。助けになりたいと言われても、具体的に何をしたらいいのか見当も付かなかったからだ。

「羅濠教主との戦いに少しでもお役に立てるように……その、草薙さんの『強制言語』を精神感応で強化したいのです」

 権能の強化。

 それは言葉で言えば簡単だが、早々できるものではない。そもそも、権能は人の手に届かないからこそ権能なのだ。

 しかし、祐理の精神感応をバイパスすることで、護堂の直感が並々ならぬものになることは事実である。

 ここは、正確には、護堂の勘と祐理の勘をリンクさせ、『強制言語』が持つ精神干渉能力とその力の源たる幽界へのアクセスを効率化するということである。

「だけど、それは……」 

 しかし、それはつまり祐理が護堂に術をかけるということである。

 カンピオーネには外界からの呪術はその意図と目的に関わらず無効化する力がある。

 その無効化能力を破る数少ない手段にして、今彼らが執れるのは唯一つだ。だからこそ、護堂も逡巡した。

「そのことについては、存じております。キ、キ、キスが必要だということは」

 どもりながらも、祐理は真っ直ぐに護堂を見つめてそう言った。

 羞恥に染まった表情に、確かな覚悟を見て取って、護堂は押し黙った。

 護堂の身を心配し、最大限の手助けをしようとしている。それを、無碍にしていいものか。また、護堂が理を以って断ろうにも、そのための理由がない。キスという手段は考え物だが、得られる恩恵は非常に大きい。それこそ、見えなかった羅濠教主の拳を視認することも可能だろう。

「本当に、すまん。万里谷」

「はい、わたしは大丈夫ですから」

 そう言って、ゆっくりと確かめるように口付けを交わした。 

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 アーシェラと鷹化に対面した恵那と晶は、この二人の目的を図りかねて様子見に徹するより他になかった。

 まず、単体戦力としても神祖であるアーシェラの戦闘能力は、外見からは想像もできないが非常に高い。なにせ、ロサンゼルスに拠点を置くカンピオーネ、ジョン・プルートー・スミスと長年に渡って戦い続けてきたのだ。惜しくも、最後の戦いで敗れ去ってしまったものの、人ならざる力の使い手であることに変わりはなく、呪術師としては恵那よりも上である。そして、その傍らに佇む少年、陸鷹化は中国のカンピオーネである羅濠教主の直弟子であり、近接戦においてはまさに無類の強さを誇る。

 つまり、この組み合わせは呪術と拳法の達人がタッグを組んだ悪質極まりないものとなる。

 近接戦、呪術戦のどちらにも優位性を見出せない恵那と晶は、自身の力を恃みにしての戦闘行為に踏み切るわけにはいかなかったのだ。

 しかし、その僅かな均衡も、アーシェラの変身によって突き崩された。

 巨大な蛇体となったアーシェラは、もはやアーシェラにあらず。

 彼女は、神祖から『まつろわぬ神』に匹敵する怪物へと姿を変えた。

 こうなってしまっては、恵那にも晶にも手の施しようがない。

 彼女たちは、こうして撤退を選択した。

 護堂に言い含められていた通りに、まずは非常の際には、冬馬と祐理の二人と合流し、上からの判断を仰ぐ。

 それぞれが単独で行動したために、事態が悪い方向に進まないとも限らない。

 まして、今の恵那と晶には、あの二人の目的まで察することができなかったのだから。

 こうして、二荒山神社から退いた二人は、即座に護堂たちと別れた場所までやって来た。そこから先は、結界に守護されていて、許可がなければ入れない。

 レヴィアタンの出現は、西天宮からでも視認できるはずであり、向こうからも二人と連絡を取ろうとするだろう。

 恵那と晶が 結界の出入り口にまでやってきたとき、それと時を同じくしてひかりを背負った祐理が現れた。

「あ、万里谷先輩! ひかりちゃん! よかった無事でしたか!」

 晶が駆け寄って、二人の安否が確認できたことを喜んだ。

「先輩は?」

「草薙さんは西天宮に残られました。羅濠教主との一騎打ちをされるとのことです」

「羅濠教主と一騎打ち。……そんな!?」

 晶が悲鳴にも似た声を出す。

 羅濠教主は、ヴォバンと並ぶ現存最古のカンピオーネである。そんな魔物と一騎打ちなど、命がいくつあっても足りないというものだ。

 もちろん、それはあくまでも常識の範疇での話で、晶が主と仰ぐ護堂には通じない。しかしだ。それでも、数字の上では不利なままなのである。

「カンピオーネの戦いは、数字じゃ計れないからね」

 恵那がにこやかに、それでいて不安げな表情で西天宮の方を見ている。

「草薙さんなら、きっと大丈夫です。それよりも今は、速やかに下山しましょう。麓には冬馬さんがいるはずです」

「ちょ、万里谷先輩!? あの、草薙先輩は!?」

「草薙さんから頼まれたのです。皆さんと合流した後、すぐに山を降りろと。おそらく、この山全体が戦場になる可能性も考えておられるのです」

「なるほどねー。恵那たちがどこにいるかわかんないんじゃ、全力の出しようがないし、わかっていたとしても近くにいたら同じく邪魔。最終決戦に突入しちゃってたら出番もないかー」

 恵那は残念そうに両手を頭の後ろに回し、晶は悔しそうに俯いた。

 空にはまつろわぬレヴィアタンが蠢き、西天宮からは羅濠教主が現れる。死にかけのレヴィアタンならばまだしも羅濠教主を相手に立ち回れると思うほど、晶は自惚れ家ではない。

「わかりました。下山して叔父さんに合流ですね」

 そう言って、晶は祐理に近づく。

「ひかりちゃんはわたしが運びます。万里谷先輩は、力仕事苦手ですよね」

「あ、はい。ありがとうございます」

 そして、晶はひかりを背中に担ぐ。

「それと、晶さん。草薙さんが、晶さんの力を貸していただくことになるかもしれないと仰っていましたので、心の準備をお願いします」

「わ、わたしの力が必要ってことですか!?」

「そのような場面が来るかもしれないと仰っていました。」

「わかりました。そういうことなら、がんばります」

 晶は浮かなかった表情を明るくして、頷いた。

 それから、四人は纏まって日光東照宮の長い参道を下っていった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 護堂は羅濠教主の出現を、日陰になっている桃の木の下に座って待った。

 西日が差す日光は、人気がないことも相まって穏やかな時間が流れていた。嵐の前の静けさとわかりきっているが、休息を取るには十分だった。

 護堂の手にはすでに槍が生成されており、戦意は十分に高まっていた。

 一度目は、護堂がひかりの安全を考慮して戦略的撤退を選んだ。そして、これから仕切り直しといくわけだ。

 カンピオーネなればこそ、戦場における集中力は尋常ならざるものになる。

 草薙護堂が真価を発揮するのは、どれほど否定しようとも戦場以外ないのである。

「来たか」

 護堂は羅濠教主の気配を感じて立ち上がった。

 睨み付ける祠の扉が勢いよく開け放たれ、漢服を纏った麗人が舞い出てくる。

「草薙王。まさか、わたくしが祠より出るのを待ち構えていたわけですか」

 羅濠教主は、護堂の前に降り立つと、玲瓏な声でそう言った。

「どの道、あなたとは決着をつけなくちゃいけないと思ってな。ここは、一応俺が生まれ育った国だ。好き勝手にされて黙ってるわけにはいかない」

 槍の石突を地面に叩き付けると、石畳に蜘蛛の巣状のひび割れが走った。

 四方に護堂の呪力が散り、羅濠教主の髪を揺らす。

「ほう……なるほど、この羅濠に傷を付けるのみならず、打倒を目指すと。そういうことですね」

「もちろんだ。あなたは、ここで倒さなければならない。今後の俺のためにもな」

「その意気や良し! いと高く、険しい壁を乗り越えんと死力を尽くす。やはり、快男児はこうでなければなりません! あなたの心意気は実に見事です!」

 護堂の戦意に触発されて、羅濠教主は華が咲いたような笑みを浮かべた。ヴォバン侯爵のような獰猛さではなく、あくまでも一個の武人としてこの戦いに誇りを持って臨む。羅濠教主は護堂が自分にとって本当の意味で倒すべき相手になったことが嬉しくてたまらないといった様子だ。

「それでは、見せてあげましょう。あなたが乗り越えるべき壁の一端を!」

 轟。

 陣風が護堂の身体を打ち据えた。

 自然界ではありえない高密度の風が、護堂一人のために振るわれたのだ。

 だが、護堂は倒れない。それどころか身体が浮き上がりもしなかった。

「ふふ、やはり戦いなれていますね。距離を隔てての攻撃は、わたくしたちには効果が薄いもの。よって、短兵白打こそが戦の真髄と知りなさい」

 言うや否や、羅濠教主はものの一歩で護堂を自身の拳の圏内に捉えた。

 グッと握りこまれる右の豪腕。

 踏み込む右足。

 衝撃力が足から腰を通じて肩へ流れ、全身の絶妙な捻りが加わって爆発的に威力を増加させ、最強の一撃となって拳に集約される。

 そのすべての力が『大力金剛神功』によって神を殺める領域にまで引き上げられているのだ。

 一撃喰らえば即死もあり得る。

 羅濠教主が口にした通り、カンピオーネの戦いは近接戦での物理攻撃が基本である。そして、羅濠教主は、七人いるカンピオーネの中で最も物理攻撃に秀でている。その能力は、文字通りカンピオーネキラーと言っても過言ではない。

 羅濠教主が放つ渾身の一撃は、護堂の頭蓋を砕きその生命活動を一瞬にして停止させる――――はずだった。

「む?」

 羅濠教主の縦拳を顔を逸らしてかわした護堂は、右半身を突き出す形になっている羅濠教主の右側へと身体を回転させながら移動する。その勢いのまま、上から下へ、槍を思い切り振り下ろす。

 長柄の武器の特徴にして最大の利点はそのリーチの長さにある。

 人間の武器の歴史は、如何にして敵の攻撃の届かないところから敵の命を奪うかということを突き詰めてきたものである。

 射出武器にはさすがに劣るものの、近接戦において槍を上回るリーチを持つ武器はほとんどなく、近接戦闘時には極めて大きな脅威になる武器である。

 では、長柄武器の最も正しい使い方はなにか。

 刺突だと思う者もいるだろう。刃を素早く敵の心臓に突き立てれば、それで戦闘は終了するのだから。

 しかし、槍が最も使われていた時代、胸は厚い鉄の鎧で守られていて、よほどの怪力でなければ貫くことはできなかった。

 また、突き技には力が伴わず、急所に当てなければ必殺にならない。

 つまり、槍による刺突は、基本的に愚策。護堂のような素人では簡単に避けられてしまう上、隙を生じることになるだけだ。

 槍を最強の武器たらしめるのは、その長大な柄を最大限に利用することで発生する遠心力を用いた振り下ろしによる打撃である。

 常人が使っても、穂先の重量も加算されて、その威力は骨を切断するほどであったという。

 振り下ろされる槍が、神槍であったのなら、打撃点に加わるダメージはもはや通常の槍とは比べ物にならない。

「ハッ!」 

 しかし、護堂の槍が常識外のものであるのなら、羅濠教主の功夫もまた常道にはない。

 なんと、羅濠教主は突き出した右腕の肘を直角に曲げ、瞬時に拳を天に向けたのだ。

 神槍と拳が激突し、衝撃波は四方の木々を激しく揺らした。

 羅濠教主の怪力が、護堂の槍を正面から受け止めたのだろうか。

 いや、違う。羅濠教主の足元の地面が割れた。驚くべきことだが、羅濠教主は力に力で対抗したのではなく、打撃点から力を地面に逃がしたのだ。

『縮!』

「シッ!」

 羅濠教主の反撃に先んじて言霊が空間を圧縮し、護堂を後方へ逃がす。羅濠教主の攻撃は空を切るのみで終わった。

 空間圧縮による緊急回避は、身体の動きとは異なる方向への移動を可能とする。初見での対処は難しく、二度目であっても対応しきれない。

 しかし、そこは羅濠教主。初めて見た技ならばまだしも、二度目となればほぼ完璧に対応する。この移動の方法がどうあれ、所詮は移動法に過ぎないのである。

 逃すまいと詰め寄る羅濠教主は、さすがの速度だ。瞬く間に護堂の目の前に迫り、拳を繰り出し、蹴りを放つ。一連の行動に切れ目がなく、流れるような連続攻撃に、護堂は舌を巻いた。

 護堂の頬がざっくりと切れて血が滴った。

 羅濠教主の十数発に渡る連撃を、ただそれだけの負傷でかわして見せたのだ。

 一撃ならば、偶然と割り切ろう。二撃目もかわせるかもしれない。しかし、ここまで攻撃をかわされては認めざるを得ない。

 草薙護堂は、羅濠教主の攻撃を見切るだけの眼を持っている。

「本当にすばらしい。わが拳をこれほどまで見切るとは」

 優雅とも思える挙措で護堂と向かい合う羅濠教主には、まだまだ余裕がある。対する護堂も、体力、精神力ともに充溢している。

 これまでの攻防は、小手調べだと言わんばかりに、羅濠教主を睨みつける。

 祐理のおかげで、羅濠教主の攻撃を見ることができる。確かに、護堂はあの恐ろしい拳を見切ることができるのだ。

 護堂と羅濠教主はおよそ二十メートルの距離を挟んで対峙する。

「ならば、わたくしもそれ相応の力を見せねばなりませんね」

 羅濠教主の呪力がそうとわかるほど上昇する。

 何か、大技を繰り出そうとしているのだ。

「させるか――――我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ」

 早口で一目連の聖句を唱えると、製鉄神の力が無数の刃となって具現化する。柄はない。羅濠教主ならば、飛来する刀剣の柄を掴んで己が物とすることも可能だからだ。重さはないが、その代わり切先の鋭さに力を集中した。

 瞬間的に生成した刃は実に三十。

 それが、同時に放たれる。

 点ではなく、面による弾幕。

 もはや避けようのない死の嵐を前に、羅濠教主はそれでも微笑む。妖艶な笑みは、これしきのことでは傷すら負わないということを如実に示すものでもあった。

 風切り音も高らかに、柔らかそうな肢体へ向かう刃の前に、突如として浮かび上がるのは黄金の闘士。

 その身体は、筋骨隆々にして金城鉄壁。峨峨たる要塞にして絶対の城壁に等しい。

 その名は、金剛力士。

 仁王とも呼ばれる阿吽一対の仏尊である。

 砲弾の如き刃の数々も、鍛え抜かれた岩のような筋肉を前にすれば紙を丸めた弾と同じ。

 その尽くが弾き返される。

「くそ、出してきたか!」

「さあ、我が武芸の真髄をその身に刻みなさい、草薙王!」

 それまでの羅濠教主の動きをそのままに、金剛力士が大きな一歩を踏み出した。身体が大きい分だけ、その一歩も大きくなる。

 しかし、その動きの素早さは、護堂の予想を裏切って余りある。

「う、おおおおおおおおおおおおお!!」

 護堂が金剛力士の拳を避けることができたのは、偏に直感のおかげである。

 危険を察知したのは、金剛力士が動き出す直前。コンマ一秒の判断だった。全力で身体を真横に投げ出す、死に物狂いの回避行動。それでも、一瞬遅れていれば終わっていた。

「うがああッ!」

 護堂は腹に飛んできた石の塊を受けて、跳ね飛ばされた。

 護堂をしとめ損ねた金堂力士の拳は、地面にめり込み、大きく陥没させていた。地盤沈下を引き起こしても不思議ではない威力。攻撃を受けた石畳は、もはや原形も残さず消し飛んでいた。

「漫画みてえなことをッ」

 倒れていては格好の獲物。痛む腹部を押さえながらも立ち上がる。

「仁王を脅威と見て受けるのではなく回避を選んだこと。なかなか見事な判断です。しかし、このわたくしから眼を離すのはいただけませんね」

「ッ!!」

 反射的に楯を張る。

 頑強な《鋼》の楯を五枚重ねて勘任せに展開する。

「あ、っぶねえ」

 楯はなんとか羅濠教主の貫手を防いでくれた。

 恐ろしいことに、五枚のうち四枚まで貫通されている。

『弾け!』

 言霊を羅濠教主に向けて放つ。

 だが、そこに割り込んできた巨漢が、拳一つで護堂の呪力を叩き潰す。

 まずは、あの金剛力士をなんとかしなければ、羅濠教主に攻撃が届かない。あれは圧倒的な力で相手をねじ伏せる純粋なパワーファイターだが、その分だけ身体は頑強にできている。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり!」

 ガブリエルの聖句で直感を強化する。遠くで祐理が呼応するのを感じ取る。途端に、世界が開けたような錯覚を覚えた。

 大気中を漂う呪力の僅かな乱れが見える。木々の息吹を感じる。この世ならぬどこかから世界を俯瞰する全能感。

「ハアッ!」

 金剛力士の踏み込みが、遅くなったようにも見える。

 振りぬかれる巨大な拳を最小限の動きでかわす。左肩を掠めるが、気に止めない。

「鋭く、速き雷よ! 我が敵を切り刻み、罪障を払え!」

 そして、護堂は咲雷神の化身を使う。周囲にある高い物体を生贄にすることで、相手を両断する雷の刃を解き放つのだ。

 護堂は今、金剛力士の懐深くにいる。巨体が祟って近づかれすぎると効果的な攻撃が難しい。ましてや、今は護堂に殴打をかわされた直後である。

 ここは、護堂にとって一番の安全圏であると同時に射程圏なのだ。

 護堂は金剛力士の腹部をなぞるように右手を真横一文字に振りぬいた。

 紫電が奔り、次いで雷光が煌く。遅れて莫大な雷鳴が轟いた。

「なんと!?」

 羅濠教主が驚愕に目をむいた。

 羅濠教主自慢の金剛力士が、上半身と下半身で分断されて打ち倒されたのだ。

「仁王の攻撃を読み、かわすと同時に返す刀で両断する。柔よく剛を制す。止めどなく流れる水の如き振る舞い。なかなかどうして、楽しませてくれるではありませんか」

 羅濠教主は、口の端から滴る血を親指で拭った。金剛力士が受けたダメージが影響しているのだ。

「過大評価も甚だしいんだけどな」

 護堂が羅濠教主の攻撃を捌くたびに、彼女の中で護堂の評価が鰻上りな気がする。

「幽界でわたくしの拳を受け止めた雷雲の権能と同じ類。異なる雷神から得たようにも思えませんし……。なるほど、複数の側面を持つ雷神を討ち果たして得た権能というわけですか。あなたはわたくしのように剛の拳を極め、柔の技で敵を屠るのではなく、複数の選択肢をあらかじめ用意しておいて状況に合わせて自ら取捨選択することで戦況を優位に運ぶ戦い方をするのですね。昨今の魔王の中では英吉利(えげれす)国のひねくれ者が近いでしょうか」

 アレクサンドル・ガスコインのことを言っているのだろう。確かに、力攻めに固執しないところは似ているかもしれないが、護堂はアレクサンドルほど、戦略家ではない。その場その場で手を変えるだけである。

「それ、もう一発!」

 逆手に構えた神槍に、護堂は残りの咲雷神の力を注ぎ込む。

 雷光を宿した神槍を力の限り投擲する。

「それは甘い」

 金剛力士像。あるいは仁王。彼らは阿吽一対で存在する神格。狛犬やシーサーと同じく左右にいることで一柱の神となる。

 ならば、ただ一柱を倒したところで、もう一柱いるのは必然だ。

 雷撃の槍は、羅濠教主の前に出現した仁王の腹部に突き立った。貫通するが、持ち前の怪力が柄を掴み、それ以上の侵攻を阻む。

 だが、それでいい。

 右腕に雷撃の力を集中する。

 拳で弾ける紫電が、渦を巻いて解き放たれる。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ、大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 『八雷神』の権能が持つ八つの化身の中で、火雷神と並んで最高威力をたたき出す、必殺の化身。

 大雷神の力である。

 青白い閃光が、一直線に羅濠教主に向かって迸る。

 大気は瞬間的に膨張して、轟音を撒き散らす。

「一力降十会、一力圧十技!」

 羅濠教主も聖句を唱える。

 強大無比な雷撃を前に、金剛力士が猛然と前に進み出る。

 そして、二つの権能が真っ向からぶつかり合った。

 




何故遅れたか。
別の作品に逃避していたこともある。
集中講義に出てたこともある。
しかし、かの場面が、書けなかった。これが大きい。
書いてイラッとした。羞恥もあった。

この拳を、リア充に、シュウウウウウ!!

長くなったので分割します。羅濠戦は、もう少しだけ続きます。次回はついにあの人登場!!


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五十八話

 膨大極まりない呪力の奔流を背中に感じ、晶は日光山を振り返った。

 そして、山の中腹あたりから天に昇る雷撃を見て、晶は護堂が大雷神の化身を使用したのだとすぐに察した。

 それは、護堂が持つ攻撃手段の中でも最強の一角に位置する化身だ。

 これまでの戦いでも、幾度も護堂の窮地を救ってきた切り札である。

 それを、ここで切ったということは、羅濠教主との戦いが終盤戦に突入していたということである。

 威力絶大なる大雷神の化身は、射線上のあらゆる物体を消滅させる。上級魔術師は言うに及ばず、戦車で身を守ったとしても結果は同じだ。

 それだけの威力を誇る大雷神の化身だが、それでも、晶には気にかかることがある。

 それは、これまで大雷神の化身は戦いの重要な局面に使用され、劣勢を覆し、敵に大きなダメージを与えてきた。しかし、今までの戦いを閲してみると、大雷神が必殺となった場面はない。一目連、アテナ、サルバトーレと強敵たちと戦いを繰り広げてきた護堂は、いつでも複数の手札を効率的に切ることで事態を打開してきた。

 高い威力を誇る大雷神であっても、『まつろわぬ神』やカンピオーネとの戦いにおいては必殺たりえない。

 おまけに、相手はあのヴォバン侯爵と長年に渡って覇を競ってきた羅濠教主である。

 ヴォバン侯爵と言えば、護堂が唯一勝ちきれなかった相手であり、そのヴォバン侯爵と同等以上の相手というだけで、苦戦は免れないことがわかる。

 大雷神を使用したとして、勝負に決着がついたと思うのは早計であろう。

 

 山を降りた晶たちは、一足早く下山していた冬馬と合流した後、彼の車に乗って予約していたホテルまで移動した。

 ホテルの部屋からは、日光山が見える。護堂の戦いを見守り、その影響が周囲に及ばないかどうかを見るにはうってつけの場所だった。

 それでも、護堂が戦っているのは、鬱蒼とした木々に囲まれ、さらに結界で守護される西天宮。簡単には、その様子を探ることはできない。

 護堂の戦いの趨勢は掴めないが、呪力が時折爆発し、それと同時に土煙が上がるのは見て取れる。

「万里谷先輩、大丈夫ですか?」

 晶は、ベッドに横たわる祐理に問いかけた。

 祐理は下山した直後から、身体の不調を訴えていた。また、ひかりの意識も戻らないので、ホテルへの移動は急務でもあったのだ。

 問いかけられた祐理は、瞑っていた目を開き、頷いた。

 何かしらの術を使っていることがわかるので、祐理の体調不良がそこに起因するのは理解できる。問題は、それが何なのかということなのだが、体調不良の最中にある祐理には問いづらい。

 自らが使う術の代償として、身体に負荷がかかっている。祐理ほどの術者が、そのことを覚悟していなかったはずない。よって、祐理が倒れたのは、半ば彼女の意思によるものだろう。

 そうすると、祐理がそこまでして使用しなければならない術とは何か。

 十中八九、護堂のために何かをしているのだろう。

 戦うこと、露払いしかできない晶には、祐理の霊視のような、本当に護堂が必要としているサポートは行えない。

 祐理にできることが自分にはできない。

 それは、あまりにも情けなく、どうしようもないくらいに晶を苛立たせた。

 ともあれ、今、晶にできることはない。晶の仕事は、これからなのだ。護堂の指示を待つ。タイミングは、祐理に伝えられるというから、『強制言語』を念話に応用するのだろう。

 晶は、再び窓の外に視線を戻す。

 日光山の木々が一部分だけ大きく揺れている。

 あの下で、護堂は今も死力を尽くして戦っているのだ。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 護堂の放つ青い閃光は、一点に収束した雷撃である。その速度は音速などはるかに超え、目で追うことなど不可能である。

 遠目から見て、その軌跡を目で追うことは可能だろう。しかし、自分に向かってくる雷に反応するというのは、少なくとも人間の反応速度ではありえない。そもそも、人間の行動自体が、脳と神経を行き来する電気信号に支えられているのだから、同じ電気という時点で、その速度に反応できるはずがない。

 それにもかかわらず、羅濠教主はものの見事に防いで見せた。

 金剛力士の黄金の身体が透けていき、やがて、黄金色の輝きを撒き散らして大気に溶けた。

 羅濠教主は、金剛力士の肉体を代償に、大雷神を防いだのだ。

「わたくしの化身を二体も屠りますか。若き王よ。あなたには、本当に驚かされます」

 優美な微笑は変わらぬまま。

「わたくしも、覇道の先達として、あなたの気概に応えるだけの戦をせねばなりませんね」

 羅濠教主は、地を蹴って護堂に迫る。

 その動きは、華麗にして雄大。風のように自然に、護堂との距離を詰める。

『穿て!』

 応戦する護堂は、最も発動の速い権能を放つ。

 空間が歪み、羅濠教主を縫い付ける。軋む空間は、そこを通る光すらも歪める。当然、その場だけ蜃気楼か陽炎のように揺らめくことになるが、その揺らめきを、羅濠教主は拳一つで打ち砕く。

「ッ……!」

 拳を放つ、という動作をしていながら、羅濠教主の速度は落ちることがない。

 もちろん、そんなことは護堂も予測していた。ただ、予想外だったのは、羅濠教主がさらに加速したことだ。

 詰め寄られると同時に繰り出される殴打と足蹴を紙一重で回避し続け、打ち込まれる縦拳が頭蓋を砕く直前に、土雷神の化身で難を逃れた。

「ほう、まだ力を隠していましたか」

 地中を雷速で移動する特性上、この化身は護堂の持つ権能の中で回避に最も優れている。

 移動先が目視されないので、追いかけられることもない。

「今のところは順調か。羅濠の攻撃は、かわせる」

 相手に聞こえないように、そう嘯く。自らを鼓舞し、恐れを打ち払う。

「いくぞ、晶……」

 思念を飛ばし、祐理を介して晶に術の発動を要請する。

 護堂はポケットから、小刀を取り出した。かつて、晶からもらった護身刀。刃渡り五センチほどと、非常に小さく、柄の長さを含めても十センチほどと、女性が隠し武器とすることを前提に作られた、包丁よりも小さい玩具のような刀である。

 しかし、この刃には、いくつもの術を込めることができるように調整が施されている。

 今刻み込まれているのは、水天の種字。祐理が書き込み、護堂の呪力で胎動するそれが、遠方より見守る晶の力に後押しされて呪術として成立する。

 刀を媒介にした、呪術の遠隔発動である。

 護堂は今でも呪術を修めていない。

 いつかは使えるようになっておいたほうがいいと思いながらも、本格的な呪術の修行は後回しにしている。よって、こういったサポートは、味方に頼むしかないのが現状だった。

「霧?」

 羅濠教主が訝しげに眉根を寄せる。

 護堂が地面に放り出した小刀は大気中の水分を操り、一時的に西天宮の周囲を真っ白な霧で覆ったのだ。

「力で勝てねえなら、速度で勝つまでだ!」

 護堂が発動させたのは、伏雷神の化身。

 大気中の水分濃度が高い場合にのみ使用可能になる神速の化身だ。

 護堂は身体中から紫電を発しながら、羅濠教主に突貫する。

 この世のすべてが遅滞する世界においては、あの羅濠教主の動きすらも鈍重に見える。

 まして、今の護堂は祐理の後押しを受けて直感が瞬間的な未来予知レベルにまで昇華しているのだ。羅濠教主の拳も、こうなっては掠りもしない。

「ほう、大した速度ですね。あなたの権能には、そのようなモノも含まれているのですか。中々に芸が細かい」

 感心したような羅濠教主の声は、あまりに速すぎる時の中では、どこか遠くから聞こえてくるようだった。

 護堂の顔面に、カクカクとした奇妙な動きで羅濠教主の裏拳が迫る。

「グッ」

 護堂は無理矢理身体を捻ってこれを回避する。

「今のが、心眼ってヤツか。人間相手だと、初めてだな」

「武を極めたわたくしに、ただ速いだけの挙動など何の意味もありません」

 そう言いながら放たれる絶技の数々。神速についてくるだけならばまだわかる。だが、神速を以ってしても回避に専念せざるを得ないというのは、理解の範疇外だ。確かに、羅濠教主なら不思議ではないと思うが、それでも、実際に目の前でされると驚嘆してしまう。

 『まつろわぬ神』以上に、この女性は不条理な存在だったのだ。

 護堂は、相手を見て、感じて拳を潜り抜ける。隙を見て踏み込もうにも、膝が、蹴りが、護堂の踏み込みを阻止している。

 そうだからといって、距離を取ってどうにかなるかというと、そうではない。最大火力の大雷神の化身はすでに使用済み。同じく破壊に特化した火雷神の化身は、伏雷神の化身と併用ができない。切断能力という高い殺傷力を持つ咲雷神の化身も、金剛力士を相手に使ってしまった。

 『強制言語』は決定打に欠け、『武具生成』は、散々使っていながら羅濠教主に生成した武具が逆に強奪される始末。

 これらのことを鑑みても、遠距離からの攻撃は、すでに手詰まりと言ってよい。

 今、護堂にできること。それは、唯一護堂が羅濠教主に勝る速度という武器を以って、惑乱し、かき回し、なんとか隙を生み出して一撃を入れることなのだ。

 護堂は、雷化せずに最高速度で走り続ける。

「ッ……」

 一歩踏み出すごとに、脳が悲鳴をあげる。神速の副作用とでも言うべきか。肉体を保持したままでは身体に負担が大きいのである。おまけに、常時『強制言語』と併用している状態でもある。脳の酷使という点では今までにない速度で疲労が蓄積されていっている。

 護堂の狙いは一つ。原作と同じく、緩急をつけた動きで羅濠教主の懐に入り一撃を入れることである。

「オオッ!」

 羅濠教主が信じられない速度での上段蹴りを放った直後、護堂は、一気に彼女の懐に入り込む。

 無論、羅濠教主には、その動きが見えている。神速の先を読み、放たれる豪拳。羅濠教主の白い拳が動いた瞬間、護堂は減速した。羅濠教主の目から見て、護堂の動きはとてつもなく奇妙に映ったことだろう。最高速度から、体勢も足運びも変えずに速度が変わるというのは、少なくとも武芸では再現不可能だ。

 狙い通りに、目測を誤った羅濠教主の拳が護堂の眼前を通過していく。

 

 ――――ここだ。

 

 護堂は再度、最大加速した。

 瞬間的に、一歩を踏み出し、拳を握り、羅濠教主に目掛けて突撃する。

 すでに、彼我の距離は数十センチ。身体を傾けるだけで、相手に届く。

 それが、この日、護堂が見せた最大の隙となることも知らず。

 

 

「む?」

 踏み込まれた羅濠教主は、護堂の再加速を目で追いながら表情を険しくした。

 護堂の動きに、違和感を覚えたからである。

 それまでの動きは、極めて野生的で本能的であった。護堂が武に恵まれていないのは一目見て明らかだったが、それでも羅濠教主の攻撃をかわし続けてきたのは、その勘と目によるところが大きい。

 やはり超越者同士の戦いとなれば、既存の武芸のみで優劣を競うことは不可能。ならば、自らが持ちうる技術、精神、あらゆるものを動員しなければならないのは道理である。

 羅濠教主は経験も実力も護堂に勝る。それは、誰が見ても明らかで、厳然たる事実である。

 羅濠教主から見て、技術も実力も劣る護堂が自らに喰らいつき、死力を尽くしているということが微笑ましくて仕方なかったのだが、今、この一瞬でそんな高揚感は消え去った。

 この動き方は、明らかに今までのそれではない。

 加速と減速を使い分けた緩急は見事。しかし、その目が語る。これは、草薙護堂の戦い方ではないと。

 小手先の技術で倒せるほど、羅濠教主は甘くない。

 何よりも羅濠教主が許せなかったのは、自らの戦い方を放棄し、安易な手法に身を任せる護堂の惰弱さであった。

「他人の技を決闘に持ち込むとは真に愚か! 出直しなさい!」 

 そして、一喝とともに羅濠教主の足は地面を離れ、護堂の無防備な胴体を薙ぎ払ったのだった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 再び立ち上がるには、あまりにも重い一撃だった。

 必勝を期した突撃。しかし、それは同時に護堂の甘さにも繋がったのだ。勝利を目前にしての油断。羅濠教主という格上を相手に、それは一瞬であろうとも致命的であった。

 指先一つ動かない。

 痛覚がダメになっているのか、自分の身体の損傷具合もわからない。

 目も見えなくなり、暗闇の中に落ちていく意識を必死に繋ぎとめようとするのだが、もはや自分に意識があるのかどうかもわからなくなっていた。

 

「あれ?」

 そして、気がつくと護堂は見知らぬ場所にいた。

 何もない、空虚さだけが漂う空間だった。

 色は灰色。空も大地も灰色一色に塗り固められていて、地平線の彼方まで何一つとして変化がない。

「ゴドー、やっはろー!」

 やけにハイテンションな挨拶が背後から投げかけられた。

「?」

 振り返ってみると、そこでは、ツインテールの童女がにこやかに手を振っていた。

 歳の頃は十四ほどだろうか。静花と同じか、それ以下にも見える。

「あ、ひっどーい。反応が超薄い」

「ああ、いえ。すみません。突然のことで混乱してました。お久しぶりですパンドラさん」

 パンドラ。

 人類に災厄と一撮みの希望を与えた魔女。

 『まつろわぬ神』ではなく、正真正銘の女神である。

 パンドラは、カンピオーネの庇護者であり、生みの親とも言うべき女神で、第二の母を自称する。そのためか、七人いるカンピオーネに『お義母さん』と呼んで欲しいと訴えているのだが、誰一人としてその願いに答える者はいなかったりする。

「それで、俺はどうしてこんなところにいるんでしょうか?」

「ん? そりゃ、わたしが連れてきたからだよ。こう見えて、れっきとした女神だからね、わたし。こうでもしないと出てこれないのよねー。ゴドーってば、なかなか死んでくれないもんだから、再会にも時間がかかっちゃった」

「死んでって、俺はまだ死んでませんよ」

 パンドラの言い回しに憤慨する護堂だったが、一抹の不安はあった。羅濠教主の蹴りの直撃を食らったのだ。即死でも不思議ではない。

 だが、その不安は、パンドラが打ち消してくれた。

「そうね。ゴドーはまだ、死んでない。あなたの身体は、現世で修復の真っ最中よ。内臓の半分がとろとろの液化状態だけど、しぶといね!《蛇》の力、取っておいてよかったでしょ」

「そうですね。そうか、その状態でも死んでないのか」

 ありがたいことだが、内臓が液化という表現が誇張でないとすれば、草薙護堂は完全に化物である。死に際して若雷神の権能を全力で稼動させたわけだが、功を奏したことになる。

「で、なんで俺をここに呼んだんですか?」

「なんか冷たくない? あなたがカンピオーネになったとき以来の久々の親子水入らずだっていうのに」

「そうはいっても、俺、これから羅濠教主を倒さなくちゃいけないんで」

「勝てるの? 今のゴドーに」

 パンドラの視線が護堂に突き刺さった。

 鋭くも暖かい。本気で、護堂の身を案じていることがわかる。

「もうわかってると思うけど、最後の戦い方だと、羅濠ちゃんには勝てないわよ」

「わかってますよ」

「それならいいんだけど。カンピオーネの戦いって、本能に任せたほうがずっと力が出せるの。知識に縛られちゃダメよ。人の技は人の技。見よう見まねで使っても意味がないでしょ。ゴドーはミトリゲイコができるほど器用じゃないんだし、自分の戦い方をしないと」

「そうですね。バカをしました。次は、全力でぶつかっていきますよ」

「うむ。それなら良し。まあ、羅濠ちゃんもわたしの娘だから、どっちを応援ってわけにもいかないんだけど、そこはほら、経験の差を考慮ってことで」

 パンドラから見て護堂は末っ子だから、まだ甘やかそうと思えるのだろうか。

 パンドラのお節介は、記憶には残らないものの、心の片隅に刻み込まれる。何かの拍子に閃きを与えてくれるものでもあるのだ。

「最後に、一ついいですか?」

「ん? なあに?」

「俺が人の技を真似したこと、なんでわかったんですか?」

 護堂がそう尋ねると、パンドラはイタズラっぽく舌を出して笑った。

「お義母さんは、なんでも知ってるの」

 

 

 目が醒めたとき、護堂の頭はいつにも増して冴え渡っていた。

 理由はわからない。若雷神の化身が身体を癒すと同時に、疲れをも吹き飛ばしたのだろうか。

 身体は動く。

 戦意も充溢している。

 それだけで、十分に戦える。

 羅濠教主は、護堂に背を向けて西天宮から立ち去るところだった。殺害した相手には興味がないとでもいうように。

 霧は、まだ消えきっていない。使おうと思えば、伏雷神の化身が使える。

「やってやる」

 護堂は、もはや慣れ親しんだ一目連の権能で数十の刃を生成すると、瞬時に射出した。

 羅濠教主が驚愕の表情で振り向き、不意打ちに対応する。いくつかの刃が、漢服を掠めて鮮血が舞った。

 そして羅濠教主が飛来する刃を砕き、かわし、逸らしているうちに、護堂は身体を跳ね上げた。

 迸る紫電。

 伏雷神の化身を発動すると同時に意識が加速。

 肉体は、すでに限界に達しつつある。走り始めが遅い。神速に入りきるのに、僅かばかりの遅延。意識に身体が付いていかない。

 羅濠教主が、刃を捌ききった。

 護堂と羅濠教主。互いの視線が交差する。

「オオオオオッ!!」

 護堂が殴りかかる。羅濠教主は、神速に達する護堂の突進は、かわし、身体の位置を入れ替える。

 ほぼ、同時に反転する。神速のおかげか、一歩分だけ護堂が速い。羅濠教主の手刀が空を切り裂いて護堂に迫る。脳天を割る軌道。それを可能とする怪力。頭を砕かれては今度こそ死ぬ。

 

 

 ――――ダメか

 

 ――――問題ない、行け

 

 頭の片隅に、響く声。誰か、などと問う間はない。

 護堂は迫り来る手刀を前にして、さらに一歩を踏み込んだ。

 そして、空気が爆ぜた。

 

「なんですって!?」

 ここに来て、羅濠教主は目を見開いて驚いた。

 護堂と羅濠教主。

 二人は、吐息がかかるほどの距離で動きを止めていた。

 しかし、それはこれまでの戦いの経過を見てもわかるとおりありえないことである。護堂には至近距離で羅濠教主の攻撃を受け止める手段はほぼ皆無であり、黒雷神の化身や楯で防ぐことはできるが護堂の身体は吹き飛ばされるはずである。

 だから、護堂が羅濠教主の手刀を片手で受け止めているというのは、絶対にありえないはずである。

「ぐ、ぎ……!」

 護堂は苦悶の声を漏らして両足で地面を踏みしめる。

 羅濠教主の怪力が、今にも護堂を押しつぶそうとしているのである。

 だが、倒れない。

 護堂は、羅濠教主と同等の怪力で、彼女の腕力に抗っている。

 護堂の右腕に宿る相棒の能力が、ここに来て決定的な好機を生んだ。

 天叢雲剣が持つ、権能を吸収し護堂の肉体に還元する力。この力によって羅濠教主の『大力金剛神功』を模倣したのである。

「これで、逃がさない」

 羅濠教主の手をしっかりと握り締め、護堂はにやりと笑った。餓えた狼か獅子のような、野性味溢れる笑みである。

「散々殴ってくれたお礼だ。歯ァ食いしばれ!」

 護堂は空いた手の五指を握りこみ、もう片方の手で羅濠教主の腕を思い切り引いた。

「く……ッ!」

 羅濠教主は抵抗しようとしているが、もう遅い。

 こうなることがわかっていた護堂と完全に虚を突かれた羅濠教主とでは出だしがすでに違う。羅濠教主には思考の空白があり、護堂の肉体は未だに神速の領域にある。常ならば対応できていたはずの羅濠教主も、このときだけは後手に回った。

「オオオオオオオオオオオオラアアアアアアアアアッッ!!」

 今までに、これほどの力で人を殴ったことはない。

 踏みしめる地面は、護堂の力に負けて砕け散った。

 それでも、そこから得られる力は莫大に過ぎた。

 無我夢中のままに、目の前に佇む敵へ向け、全身の力を込めた拳を突き出した。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 戦いの趨勢が決したと判断したのは祐理だった。

 結果としては護堂の勝利。ただし、護堂自身も手痛い怪我を負っていて、満足に動ける状況ではない。祐理は、護堂の権能の一部をサポートしていたために、身体に多大な負荷がかかった。そこで、自分はその場から動けないことを悟り、晶と恵那に護堂を迎えにいくように頼んだのである。

 言われなくとも、と意気込んで参道を駆け上り、西天宮に向かう二人。

 西天宮を守護する結界は、二人のカンピオーネの戦いによって消し飛んでいる。数百年の歴史ある結界が、跡形もなく消し飛ぶというのは、衝撃的なことだが、カンピオーネに慣れてしまった晶にはむしろ、消し飛ばないほうがおかしいというように思えた。

 そうして飛ぶように石段を登りきった先には、例の如く破壊されつくした西天宮があった。

「晶に清秋院か。二人とも、大丈夫だったみたいだな」

 そういう護堂は、二人の顔を見て安堵したようだったが、恵那と晶のほうは安堵する以前に心配した。護堂は、辛うじて残った燈篭を背にして地面に座っているのだが、完全に脱力しきっている。

「王さま!」

「先輩!」

 二人は、駆け寄って、すぐ傍に膝をついた。

「おい、慌てすぎだって。別に大したことはないから」

「大したことないわけないじゃないですか。どうせ、怪我だって若雷神で治したから見当たらないだけですよね?」

 心配そうにする晶に顔を覗きこまれて、護堂は目を背けた。

「まあ、そういうところはある」

 それに、今回は心臓をアナトに抉られたときと同じくらいに重傷だった。

 それも戦闘中であり肉体の修復に大半の呪力が費やされたのは事実である。今は、ほとんど体力も気力も失われている状態だ。

「王さま、羅濠教主はどうしたの」

「あそこだ。陸鷹化が起こそうとしているだろ」

 と言われてみれば、地面に倒れた羅濠教主に陸鷹化が話しかけている。

「怪力の権能で思いっきり殴ったんだけどな」

 羅濠教主は気絶で済んでいるらしい。

 それは羅濠教主が地に足を付けている状況にあれば、大抵の衝撃を逃がすことができるのに加え、護堂が『殴る』という行為に慣れていなかったからでもある。

 羅濠教主のように、全身を上手く使って力を拳に伝達する方法を知っていれば違っただろうが、残念なことに護堂は殴り合いの喧嘩すらもしたことがない。腕の力だけで殴れば、当然ダメージは少なくなる。それが、羅濠教主の命を救った要因だ。

 恵那と晶が護堂を気遣っている間に、羅濠教主も目を覚ましたようだ。

 一瞬だけ、自分がなぜ倒れているのかわからないという表情をしていたが、すぐに護堂の強烈な一撃を受けたことを思い出したようだ。

「このわたくしが、王となって一年と経たない若者に土を付けられることになろうとは、思いませんでした。草薙王」

 ダメージは如何ほどのものなのか。羅濠教主の足取りは倒れる前と変わらず優美だ。

「此度の戦。あなたの実力を甘く見たわたくしに落ち度があります。敵を前にして意識を失うなど、首を差し出すに等しい行為。この羅濠、勝利を盗み取るような真似はいたしません」

 そして、羅濠教主は、護堂の前で宣言する。

「草薙王。あなたに勝利を預けます」

 羅濠教主が自ら、敗北を認めたのだった。

 

 それと時を同じくして、空に浮かぶ蛇体が大きくのたうった。

 砕け散った祠の隙間。空間の亀裂から閃光が奔り、レヴィアタンの頭を穿つ。

「はっはー! 戻ってきたぞ、皆の者よく聞けぃ! 我こそは斉天大聖孫悟空さまであるぞーッ!」

 それは、金毛の猿である。

 しかし、ただの猿ではないことは一目瞭然。言葉を操る程度はまだ序の口。空を飛び、莫大極まりない呪力を無尽蔵に放出するのは、この世のものではありえない。

 『それ』は、軽快に空を駆け抜け、レヴィアタンの身体を鋭い爪で切り裂き、強靭な顎で噛み千切る。もともと死にかけていたレヴィアタンは、為す術なく地に落ちて、消滅した。

 レヴィアタンが健在だったことから、原作と違って初めから猿の姿で降臨できたということか。

 大蛇を始末した孫悟空は、軽々と木々を飛び越えて、潰れた西天宮の屋根だった場所に降り立った。

 そして、その金色の瞳で護堂と羅濠教主を見下ろした。

「ほう、ずいぶんと疲れておるの。おまけに社が消し飛んでおる。さては、外でも戦っていたな。物好きどもめ」

「ついに蘇ったのですね、美猴王」

 羅濠教主の問いかけに、孫悟空は大きく満足げに頷いた。

「うむ。百余年ぶりの現世だが、ずいぶんと様変わりしておる様子。くくく、これは遊び甲斐がありそうじゃ」

 そして、疲弊しきった神殺しを睨む。

「いずれにしても、我にとってお主らは邪魔じゃ。ちと消えてもらうぞ」

 孫悟空が何かしらの聖句を唱え、呪力が護堂たちを包み込む。

「ッ……! これは!」 

 護堂たちの足元が石化していく。それだけに止まらず、木々もまた時を止めて灰色に変わる。さらに、足が石に呑み込まれていく。信じがたい光景だ。

「わたくしたちを封印するつもりですか!」

「邪魔といったろう? 我がかつて閉じ込められた石山巌窟の法を以ってして封と為す!」

 護堂はすでに足首が埋まりつつある。

 さらにまずいのは、恵那と晶まで巻き込まれているということだ。

「く……清秋院、晶。脱出を!」

「ごめん、王さま。ちょっと無理っぽい」

「先輩……」

 呼び掛けも虚しく、恵那と晶は腰まで埋まっている。カンピオーネほど呪術に耐性がないために、呑み込まれる速度が速いのだ。

「くっそ……」

 このまま呑み込まれてしまえば、孫悟空を止める者がいなくなる。それだけは阻止しなければならない。

『弾け』

 ありったけの呪力を掻き集めて、発した言霊は、羅濠教主の身体を浮かび上がらせた。

 弾き飛ばされる羅濠教主の身体は、孫悟空の封印術の効果範囲外にまで飛ばされた。

「な……草薙王!?」

「あなたはソイツと決着つけんだろ? とりあえず、こっちはこっちでやっとくから、ケリつけといてくれよ」

 目一杯強がって、先に沈んだ仲間の下へ護堂は落ちていった。

 




さーて、今週の私は

① 俺の成績がこんなに悪いわけがない 
② やはり俺の秋期実習は間違っている。
③ 僕は単位が少ない 

 の三本でした。

 ネクストゴドーズヒント
 『密室』
 


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五十九話

「く……わたくしとしたことが」

 羅濠教主は、歯噛みした。

 魔王になって一年と経たない若者と侮る気持ちがあったのではないか。護堂に敗れたというのは、己に未熟さがあったということである。とはいえ、武を志す者の頂点に君臨すると自負し、事実その通りである羅濠教主は、敗北を受け入れられないほど狭量ではない。護堂の実力は、武に関して言えば、未熟極まりないが、それでも魔王として相対するならば、油断ならぬものだった。敗戦の原因は、相手の実力を甘く見た羅濠教主自身にある。

 問題は、その後に襲い掛かってきた斉天大聖の呪術に羅濠教主を庇った護堂が囚われたことである。

 護堂に敗れた挙句、さらに救われたとあっては、羅濠教主が悔しさに顔を歪ませるのも無理のない話である。

「一人は取り逃がしたか。思い通りにはいかんのう」

 斉天大聖は、石化した木の上から、羅濠教主を睥睨する。

「だが、今のお主は大分呪力を消耗しておる。あの小僧めにずいぶんと手を焼かされたようじゃの。今ならば、容易に決着をつけられそうじゃが」

「そう思うのであれば、向かってくるといいでしょう。ですが、言っておきます。この羅濠。これしきの消耗であなたに遅れを取ることはありえません」

 毅然とした態度でそう言い放つ羅濠教主。

 虚勢ではない。

 羅濠教主は、本気で斉天大聖と戦えると思っているのだ。

 護堂を相手にしていた時は、護堂の実力を試すかのように振舞っていた。それが敗北に繋がったという事実はあるが、今回は、それが功を奏していた。

 つまり、羅濠教主の状態は、万全ではなくとも致命的なまでの消耗ではないのである。

 護堂に助けられた不明を恥じ、斉天大聖を討ち果たして護堂を救うことこそ己が役割と戦意を高めている。

「手負いの虎をこそ、恐れるべき。狩るにしても、今のお主は危険すぎるの」

 斉天大聖のほうは、戦意が十分とは言いがたい。中華最高峰の軍神ではあるが、同時に行楽を愛するなどの複数の側面を持つこの猿神は、だからこそ戦いに余計なプライドを持ち込まない。彼なりの矜持はあるが、生粋の《鋼》とは思考回路が異なるのだ。

「それに、復活したとはいえ、今の我には万全を期すためにせねばならんこともあるしの。君子危うきに近寄らず。お主の相手はまた後じゃ」

「逃げるのですか?」

「逃げるのではない。万全を整えるだけじゃ。とはいえ、お主をただ休ませるわけにもいくまいて」

 にやりと好戦的な笑みを浮かべると、斉天大聖は、大音声で叫んだ。

「さあ、出でよ我が王国の民たちよ! しばしそこの神殺しの相手をせい!」

 そして、現れ出でるのは、見上げんばかりの巨猿たち。十を超える魔性の猿が、よだれを垂れ流しながら羅濠教主に牙を剥いている。

「配下を呼びましたか。この程度では、わたくしの相手は務まりませんよ」

「なに、多少の時間を稼いでくれればよいのじゃ。そう、我が行方をくらます程度の時間をの」

 斉天大聖がそう言い終わる頃には、すでに二体の巨猿が腹部に大穴を開けて仰向けに倒れ、呪力の粉となって消えるところだった。

 しかし、それでも巨猿の数は多く、一体一体が雑魚ではない。

 羅濠教主からすれば、有象無象の一種であるが、それでも拳を振るい蹴りを放つその僅かな時間があれば、斉天大聖が姿を消すのに十分だった。

 百年前から再戦を望んでいた相手が消え去ったのを視界の端で捉えながら、巨猿の顎を蹴り砕く。

「鷹児!」

「はッ!」

 巨猿に囲まれているのは、鷹化も同じ。それにも関わらず、鷹化は師に対して、片膝をつき、右の拳を左の手の平に押し当てる。抱拳礼である。

「ここはわたくしに任せ、おまえは至急草薙王の巫女の下へ向かい、現状を包み隠さず報告しなさい」

 羅濠教主はさらにもう一体を衝撃波で粉微塵にする。

 武侠の王たる羅濠教主に、一対多の戦闘程度で優位に立つことなどできるはずがない。

 彼女は全身が武器のようなもの。暴力の台風である。徒党を組んで攻略するには、力の規模が違いすぎるのである。

 羅濠教主は巨猿どもを駆逐していく。

 そのあまりに圧倒的な姿を背にし、鷹化は軽快な足取りで山を下った。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「なるほど、それはまずいことになりましたね」

 鷹化からの報告を受け取り、冬馬は顔をしかめた。その傍らにいる馨も同様だ。羅濠教主現るの報を受け、現地入りした馨は、斉天大聖の復活を確認したことで、正史編纂委員会所属の呪術師の中から腕利きだけを集めて、周辺の警戒に当たらせた。

「斉天大聖孫悟空か。イタズラ好きの神様が現世に解き放たれたとなると、まずいことになりそうだね」

「不幸中の幸いは、かの神格が未だに本調子ではないということでしょうか」

 詳細は不明ながら、斉天大聖は羅濠教主に対して、『万全を期す』ためと称して彼女との戦闘を避けた。それはつまり、斉天大聖は、まだ完全には力を取り戻していないということでもある。

「僕としては、あんな化物をどうやって何百年も封印し続けていたのかが気になるんだけどな」

「それはさすがに企業秘密さ」

「わかってるよ。僕だって、本気で聞きたいわけじゃない」

 むしろ、聞き出してしまったなら、羅濠教主になにを言われるかわかったものではない。今の羅濠教主は護堂に借りがあるのだ。その護堂の配下に対して、羅濠教主の配下である鷹化が無礼を働くわけにはいかない。

「さて、それで羅濠教主はこれからどうなさるおつもりでしょうかね」

「そりゃ、斉天大聖と戦うだろうさ。もちろん、そっちの魔王様の救出にも手を貸すだろうね」

「おや、そうなんですか?」

「師父は貸し借りにはうるさいんだ。まして、自分に借りがあるのなら、なんとしてでも返そうとする。ハチャメチャな人だけど、そのあたりは誰よりも信用できる」

 羅濠教主の人柄を知り尽くしている鷹化が言うのなら、これは間違いないだろう。

 それに、一般的な常識からかけ離れた行動、判断をするのがカンピオーネであるが、往々にして自分の敷いたルールは厳格に守るという傾向があることも認められている。

 例えば、護堂がヴォバン侯爵と戦った際に、ヴォバンは自分の定めたルールが守れなかったことを理由に撤退した。羅濠教主はヴォバン侯爵と同じく古い時代のカンピオーネ。似通った性質でも不思議ではない。

「それでは、羅濠教主は、我々と協同戦線を張ってくださると?」

 そう尋ねた馨に、鷹化は首を振った。

「いや、それはないだろうね。あの師父のことだから、自分の力でなんとかしようとするよ。それに、もしかしたら、そっちのカンピオーネのほうが自力で脱出するかもしれないしね」

「草薙さんが自分で脱出できるとお考えで?」

 冬馬が問う。斉天大聖がかけた石化の封印は、大陸系の呪術ではあるが、その系譜は日本の陰陽道などにも流れている。日本の呪術は独自に発展してきたものであるが、神道を除いてその源流は中国にある。斉天大聖が使用した呪術のことを、冬馬が理解できないはずがなかった。そして、理解できるが故に、あの呪術がとてつもない代物であると実感できた。

 そして、それは羅濠教主の下で過ごしてきた陸鷹化も同じである。方術(中国系呪術の総称)よりも、拳法に卓越した才を有する鷹化だが、師が師だけに、方術も齧っている。

 その鷹化が可能だと言い切った。

「その根拠は?」

「そりゃ、あの方たちは僕らの想像の範疇外の存在だからねェ。正直、あの程度でどうにかなるのであれば、人類最強なんて称号はなかったと思うよ。もちろん、一緒に取り込まれた二人はどうかわからないけどね」

 護堂が生き残るのは、確実。しかし、恵那と晶の命まではわからない。鷹化の見立ては非常に現実的であると同時に、残酷なものであった。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 石の檻に閉じ込められるという失態を演じた護堂たちは、光の差さない闇の底に囚われたままになっている。

 漆黒の闇の中であっても、カンピオーネの透視能力があるので、行動に支障はない。闇を見透かす術を二人の媛巫女も持っているので、そちらも不都合はない。

 無明の世界。感覚に従うならば、ここは幽界と同じような場所だ。表の世界と物理的に繋がっているわけではない。力任せに術を破壊することも可能だろうが、それには全力を振り絞らなければならないだろう。

「二人とも、大丈夫か?」

 声は、岩壁に当たって反響する。

 空間の大きさは四畳一間程度。

 一人でも狭さを感じるのに、それが三人ともなれば、相当だ。足を伸ばすわけにはいかず、三人とも石壁を背にして座るしかない。

「恵那たちは大丈夫だけど、王さまのほうはどうなの? 羅濠教主と戦ってかなり疲弊しているはずだよね?」

「そりゃな。大丈夫とは言えないけど」

 怪我自体はすでに完治している。問題は呪力がすっからかんだということだ。羅濠教主を石の封印から弾き出したので打ち止めだ。

「休息がいるってこと?」

「少し休めば呪力は戻るから、そうしたら、ここを全力で破壊ってこともできるだろうけどな」

「はいはい、じゃあ提案! 恵那の膝貸してあげるから王さま寝ていいよ!」

 と、手を上げて言う恵那に、晶が食ってかかる。

「なんでそんなことになるんですか!」

「ん? この狭い上に地面は固い中で王さまを休ませるにはこれがベストな選択だと思うけど」

「だったら、清秋院さんじゃなくてもいいわけで、その、わたしでも……」

「え、じゃあ、二人でする?」

「どうやってですか!?」

 膝枕は二人でできるものなのだろうか。恵那の頭の中にどのような画が浮かんでいるのか甚だ不思議でならなかった。

 そして、そんな会話を間近で聞かされた護堂は、一人、とてつもない居心地の悪さを感じていた。

「ねえねえ、王さまはどっちがいい。どっちの太ももがいいかという話で」

「お、俺を巻き込むなよ」

 恵那に話を振られた護堂は、驚いて言葉に詰まった。ついつい、二人の足に目が行ってしまうのは、哀しい男の性である。

「先輩……」

 そっと目を逸らしたとき、晶に呼びかけられた。

「ち、違うぞ。俺は何も見ていない」

「そうじゃなくて! 何を見ていたのか気になりますけど、そうじゃなくて! なんか、息がしづらいような気がして」

「何?」

 浮ついた空気が、一気に引き締まった。

 考えてみれば、ここは、完全な密室である。閉ざされた空間では、当然呼吸に必要な酸素の量も限られてくる。外に道が通じていないというのなら、三人が利用できる空気は、正真正銘、今、目に映るこの岩壁に囲まれた領域にあるものだけになる。

「まずいな……」

 護堂はまだ、余裕がある。息が苦しいとも思わないので気がつきもしなかった。しかし、さすがに鍛え方の違う二人の媛巫女は察したようだ。

「あの猿が俺たちに空気を与えてくれるわけがないか」

「このままじゃ、酸欠になって死んじゃうねー」

「緊張感がないな、清秋院」

 恵那の言っていることは自明の理であるが、笑顔で言うことではない。

 護堂一人であれば、なんとか乗り越えることができるはずだ。若雷神の力があるので、うまく使えば冬眠状態となって呪力の回復に専念することができるだろう。しかし、そんな芸当がただ特殊な力があるだけの少女たちにできるわけがない。

「うーん、息止めてられるのも、五分くらいが限度だし。アッキーは?」

「わたしも、それくらいが限界です」

「五分ってすごいな」

 二人の肺活量が護堂以上だということがわかった。

 しかし、それがわかったところで解決する問題ではない。斉天大聖がかけた封印術を外の呪術師たちが破ってくれる可能性は、低い。羅濠教主がなんとかしてくれるかもしれないが、恵那や晶が窒息するまでの間に助けてくれるかというと難しいと言わざるを得ない。

「力技に訴えるしかないのか」

 現状、それ以外に脱出する手段がない。

 しかし、大雷神や咲雷神の化身はすでに使用済み。火雷神の化身は少女たちの身を危険に晒す。『強制言語』と『武具生成』。このどちらかで事態を解決しなければならない。

 だが、そのための呪力がない。

 手詰まりなのだ。権能を使うにしても、その燃料となる呪力がなくては意味がない。

 二人を見捨てれば、護堂は助かる。しかし、そんなことを容認できるはずがない。為らぬことを為らぬままに為すのがカンピオーネだ。

「王さまに呪力があれば、この状況を何とかできる?」

 恵那の問いかけに、護堂は頷いた。

「ああ、これくらい、なんとでもなる」

 方法も考えてある。ただ、それを実現するためには呪力が必要で、その呪力の回復には時間を要するというだけだ。

「だったら、恵那の呪力をあげる。好きに使っていいよ」

「清秋院?」

 恵那は、護堂が二の句を継ぐ前に、自分の唇で護堂の唇を塞いだ。

「あ――――!」

 晶が短い悲鳴をあげたときには、もう恵那は護堂に身体を預けるようにして倒れこんでいた。

 恵那の呪力が、唇を通して護堂に流れ込んでいるのがわかる。

「ねえ、王さま。王さまの中で、天叢雲剣が怒ってるよ……もっと、自分を使えって」

 キスをしながら、護堂の内に宿る神剣と意思疎通したのか。もともと、天叢雲剣は恵那の相棒。互いの呪力は、恵那の手元を離れた今でも感じることができるし、その意思を汲み取ることもできるのだ。

 恵那は、護堂を求め続ける。護堂が持つ無尽蔵のキャパシティーを満たすには、彼女の呪力を根こそぎ与えるくらいの覚悟は必要だ。そうなれば、もう恵那を守るものはなにもない。護堂が失敗すれば、低酸素状態の中で、恵那は静かに命の火を消すことになるだろう。恵那は、護堂に自分の命運のすべてを託すつもりでいるのだ。

 それが今打てる手で最良の手段だということは、晶にも理解できる。

 だが、目の前で、護堂と恵那がキスしているということに関しては、状況も理由も関係なく認めたくなかった。

 護堂を想ってきた時間は、恵那に比べてずっと長い。晶からすれば、恵那はぽっと出の新参者でしかない。それなのに、なぜ、今キスをしているのが自分ではなく恵那なのか。

 しだいにむかっ腹が立ってきた。

 護堂に呪力を分け与えるくらいの仕事は自分にもできる。それに――――今、しなければ、きっともう先はない。

「先輩。……恵那さんばかりにさせるのは、ダメですよ。わたしだって、先輩の役に立てるんです」

「晶……!」

 恵那は、晶に譲るように唇を離し、晶は吸い寄せられるように、護堂にキスをした。

「天叢雲剣を活性化させるのなら、わたしの呪力のほうが相性がいいはずです」

 《蛇》に最も近い媛巫女。それが、晶の媛巫女としての特性である。大地と月から高純度の呪力を吸収し、己が力とする。そして、その力は、翻ってみれば《鋼》の神格を滾らせる《蛇》の特性でもあるのだ。

 だから、晶は《鋼》の天叢雲剣に力を与えるには最適な人材といえたし、そう自分に言い聞かせることで、より積極的に護堂を求めることもできた。

 護堂に粗方の呪力を分け与えた後、晶は顔を真っ赤に染めて護堂の胸に顔をうずめた。

「わ、わたし、なんてこと……」

 雰囲気に流されたこともあったし、危機的状況だったこともあったが、勢いとはいえ、このような形でキスしてしまうとは想定外だったのだ。恥ずかしくて、まともに護堂を直視できなかった。

「あー、なんか本当にすまん」

 気力を吹き返した護堂は、そんな晶にかける言葉が思いつかず、密着している晶の髪をすくようにして撫でるくらいしかできなかった。

「別に王さまが気にすることないよ。恵那たちが進んでやったことだしさ」

「そうはいうけど」

「もしも、気にしてくれるんなら、恵那たちのお嫁入りの話を前向きに考えてよ」

 紅潮した顔で、恵那は柔和な笑みを浮かべている。これが冗談か本心かは別にして、このような状況下でもこうして軽口が出てくるというのは、ありがたいことだ。必要以上の気負いがなくて済む。

「清秋院、おまえは結構な悪女だな」

「ひどいなあ、これでも、頑張ってるのに」

「わかってるよ」

 さて、呪力も戻ったところで、そろそろこの牢獄から脱出しなければならない。今では、護堂でもわかるくらいに空気が薄くなっている。おそらく、数千メートル級の山の頂上程度には薄まっているはずだ。後数分もすれば、人が生きていける濃度を下回るのは確実だった。

 護堂は立ち上がり、上を見上げる。

「それじゃ、一気に出るぞ。二人とも、俺に掴まっててくれ」

 護堂は右手を天に突き出して、呪力を練り上げる。二人から分け与えられた呪力は十分とは言いがたいが、それでも護堂の基礎能力を高めるだけのものになった。僅かでも力を取り戻せば、後は護堂自身の気力の問題となる。

「我が前に敵はなし。我が道を阻むもの、皆尽く消え失せよ。之、魔を断つ一斬なり」

 護堂は、脳裏に浮かび上がってくるままに聖句を唱える。

 清らかで、芳醇な香りが石牢の中に満ちる。

 これは、源頼光から簒奪した神酒の権能。しかし、いつものそれとは様相を異にしている。

 通常は、霧状か液状で召喚される神酒が、今は護堂の右手を包むようにして渦を巻き、鋭い光を放っている。

 破魔の神酒の権能と、まつろわす神剣の特性を融合させた一斬は、あらゆる呪力を打ち消す呪術破りの権能となる。

 

 ――――斬ッ

 

 振り下ろす一刀は、瞬時に巨大化し、深々と石の天井に突き刺さり、道を切り開く。

 両断された石牢は、呪力を断たれたことで力を失い土に還る。

 崩れ行く石牢。

 護堂は完全に石牢の術が解けてなくなる前に、恵那と晶をしっかりと掴んで、土雷神の化身を行使した。

 

 

 

 

 



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六十話

 護堂が地上に戻って来たのは、ちょうど羅濠教主が巨猿を討伐し終えた直後であった。

 斉天大聖の石化の術が解けて、周囲の景観も元の緑溢れる日光山に戻った。

 羅濠教主は、戻ってきた護堂と従者二人を見て、愕然とした表情を見せた。

「草薙王。如何にして斉天大聖の術を破り、舞い戻ったのです?」

「それは、術破りの権能があるので、それを使って」

「なんと、あなたは術にも通じる力の持ち主なのですね」

 権能は努力して手に入れるものではないので、方術にも優れた才能を持っている羅濠教主に誉められるのは気後れを感じてしまう。

 そして、護堂は羅濠教主の後ろに視線を向けた。

 羅濠教主を中心に、放射状に更地が広がっている。林立していた木々は木っ端微塵に砕け散っており、残っているのは残骸だけだ。石化状態だったために、かなり細かく砕かれてしまったようだ。

 これは、おそらく羅濠教主が斉天大聖と小競り合いをした結果生まれたものなのだろう。

「羅濠さん。斉天大聖のヤツは?」

 そう尋ねると、羅濠教主は苦虫を噛み潰したかのような表情になった。

「不覚にも取り逃がしました。かの神が呼び出した手勢はすべて屠りましたが、さすがは音に聞こえし美猴王、容易く尻尾を掴ませてはくれません」

 羅濠教主が言ったことを総合すると、斉天大聖の部下と一悶着あった隙に斉天大聖本人を取り逃がしてしまった。そして、斉天大聖の行方はいまだに掴めていない、ということか。

「叶うことならば今すぐにでも追い詰めて掣肘してしまいたいところですが、わたくしも消耗しています。先ほどまでの斉天大聖ならばまだしも、時を置いて本性に返った斉天大聖を相手にするのは難しい。わたくしも暫し体を休める必要がありますね」

 そう呟くと、羅濠教主は、護堂を眺める。

「その様子では、あなたも力を使い果たしている様子。互いに今は雌伏の時というわけですね」

 羅濠教主は護堂ほどではないにしても本調子とは言いがたい状態だ。復活間もない斉天大聖ならばともかく、完全に力を取り戻した斉天大聖を相手にするには、自身もまた万全でなければならないとわかっている。百年前に、直に見た斉天大聖の武芸は、羅濠教主の背筋を震わせるほどだったのだから。

「わたくしは、来るべき戦に備えて一所で身体を休めます。あなたも今の内に英気を養っておきなさい。わたくしに貸しを作ったまま死ぬようなことがないようになさい。いいですね」

「わかりました。ですが、斉天大聖がこちらに向かってきた際は、倒してしまうことになりますが、構いませんね?」

 負ける気はさらさらないので、羅濠教主の悲願とも言える決闘に水を差す可能性がある。

「そのときは仕方がありません。それも天運と思い割り切りましょう」

 今の羅濠教主は、妙に物分りがいい様な気がする。

 護堂に敗れたことで、護堂を対等な相手と認めたのであろうか。

 羅濠教主はそれでも上から目線であることは変わらないまま、護堂たちと別れてどこかへ消えてしまった。彼女にとって都合のいい場所で、疲れを癒すのだろう。それがどこかはわからないが、少なくとも、真っ当な旅館などではない。

「どこでお休みになられるんでしょうね」

「さあな……どっかの岩山とかじゃねえか」

 晶の疑問に、護堂は、おざなりに答えた。

 羅濠教主がホテルに宿泊する光景は想像できないし、現代社会に適応できない彼女のことだから、この近辺の山の中に草庵でも作っていそうだ。

「とりあえず、下山しよう」

 心身に疲れが溜まっているのは、もはや隠しようがない。羅濠教主が言うとおり、休息が必要なのだ。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 斉天大聖が羅濠教主の下から去ったのは、彼が語ったとおり羅濠教主が手負いの獅子となる可能性が否定できなかったこともあるが、より深刻な彼自身の問題が解決していないというのが大きい。この問題をどうにかしなければ、神殺しの魔王どもと正面から戦うのは危険すぎた。

「竜が消えてしまったから、調子が出ん。とっととこの『弼馬温』を破らねばならんの」

 男体山の山頂で、斉天大聖は忌々しげに呟いた。

 数百年前に自らの油断が招いた失策で、この地に封じられた苦い思い出が蘇る。

 《蛇》討伐のために使役される屈辱もあったが、そんな細かいことはもはやどうでもいい。

 外に出ることに成功したのであれば、後は自由気ままに遊ぶだけである。しかし、今の斉天大聖には、その自由がない。

 斉天大聖は、《蛇》の神の降臨に対処するために外に出た。

 つまり、正規の手段で現世に出てきたわけだが、そうなってくると、『弼馬温』の呪力は今でも健在ということになる。つまり《蛇》を討伐し終えた後は、再びあの社の中に戻らなくてはならないのである。

 それではつまらない。

 今回は、羅濠教主というイレギュラーが介入したおかげか、力は充溢している。《蛇》も死にかけだったために、力をそれほど消耗しなかった。数百年の間に、自身を縛る大秘法の弱所も見出した。

 その手に握るのは倶利伽羅剣。

 斉天大聖と同じ《鋼》の神である不動明王の法具である。

「ふん、後は義弟たちが駆けつけてくればすべて解決じゃ」

 男体山は火山である。《鋼》の斉天大聖にとってはもっとも相性のいい土地と言えた。この地ならば、十分に力を蓄えることができる。

 そして、今回は神殺しが二人も揃っているおかげか、義弟を喚ぶこともできた。彼らの協力を得れば、『弼馬温』を破るのみならず、あの忌々しい顕聖二郎真君を象った霊体を討ち果たすこともできるだろう。

『なむからたんおう、たらやーやー』

 そして、斉天大聖は、一心不乱に念仏を唱え始めた。

 より強い力を自身に宿すために、そして、来るべき戦いで、神殺しの魔王を打倒するために。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

  

 護堂は、ホテルのレストランから日光山を眺めていた。

 事態が事態なので、優雅な会食とはいかなかった。祐理とひかりは、身体に疲労が残っており、食が進まないといった様子だったのが、心配だった。聞けば祐理は護堂と精神を繋いだことから激しく消耗したという。それも半日近く身体を休ませなければならないくらいにだ。

 今は、普通に振舞っているものの、疲れているのがわかる。

「万里谷、先に部屋に戻ってもいいんだぞ」

 そう護堂が声をかけたが、祐理は首を横に振ってやんわりと拒否した。

「今は、火急の時。わたしも媛巫女として、黙って見ているわけにはいきません。できる限りのお手伝いはさせていただきたいのです」

 責任感に溢れた物言いには、護堂を頷かせる迫力があった。

「だけど、ひかりは寝なさい」

「えー! そんな! わたしも、お兄さまのお役に立ちたいです!」

 祐理の隣にいたひかりは、不平を漏らした。だが、これには護堂も譲らなかった。

「もう十時過ぎてるんだぞ。小学生は寝る時間だ。それに、体調も本調子じゃないんだ。今は無理をするところじゃない」

「でも……」

「ひかりには後で禍祓いの力を使ってもらわなくちゃいけないかもしれない。そのときに力が使えないとなったら困るから、きちんと休んでくれ」

 駄々っ子に言い聞かせるように護堂はひかりに言った。

 禍祓いは、今ではひかりしか使えない希少な霊力だ。いざ、必要となったときにひかりが本調子でなければ困ったことになる。

「うー、わかりました」

 ひかりも、祐理と同じく責任感の強い娘で、小学生にしては物分りもよく、気が回る。護堂の言っていることを正しく理解していた。

 不承不承ながらに頷いたひかりの頭を、護堂は撫でた。

「それじゃ、お兄さま、お姉ちゃん、お休みなさい」

 そう言って、ひかりは、宛がわれた部屋へ向かった。

「おや、草薙さん。ひかりはどうしました?」

 そこに馨がやってきた。恵那と晶を引き連れている。

「ひかりなら、ちょうど今寝室に戻しましたよ。小学生にとってはもう遅いので」

「なるほど、そういうことですか」

 馨はくすりと笑い、円卓の上に深緑色のボトルを置いた。

「これは?」

「ご覧の通り、ただのワインですよ。せっかくなので、持ってきました」

「へえ……沙耶宮さん、たしかまだ未成年」

「細かいことはいいんですよ」

「よくないですよ、馨さん」

 ウィンクしてボトルを開けようとする馨を嗜めるように祐理が注意をした。

 とはいえ、見たところ飲酒に否定的なのは祐理だけのようだ。恵那はすでに飲む気でいるし、晶は興味津々といった様子でボトルを眺めている。

「ま、これから賓客もいらっしゃるのでね。挨拶代わりのお酒がなければ会食にならないでしょう」

「賓客?」

「ええ、甘粕さんが偶然お会いしたらしいのです。もうじき、こちらにいらっしゃいますよ」

 このタイミングで現れるのは、誰か、護堂は記憶を掘り返して推測する。

 この場に連れて来てもよいと思わせるくらいの相手だというのなら、アニー・チャールトンかプリンセス・アリスのどちらかだろうか。

 二十分ほど待ってから、冬馬がレストランに現れた。

 その後ろから現れたのは、赤毛のショートヘアーに理知的な眼鏡をかけた女性と、プラチナブロンドの髪を持つ品のある女性の二人。

 そして、馨が二人と挨拶を交わし、護堂に向き直った。

「紹介します、こちら、賢人議会のアリス・ルイーズ・オブ・ナヴァールさんとロサンゼルスからいらしたアニー・チャールトンさんです」

 まさかの二人同時登場だった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「単刀直入に言うと、わたしはロスのチャンピオンに依頼されてこの地に来たの。アーシェラの生死を確認するためにね」

 自己紹介が済んだ後、アニーはそう言って周囲を驚かせた。表情を変えなかったのは、すでに事情を知っていた冬馬、馨、アリス、と元から知っていた護堂だけだった。

「ロスのチャンピオン。すると、あなたはジョン・プルートー・スミスさまの部下なのですか?」

 晶の問いに、アニーは小さく首を振った。

「部下ではなく、協力者と呼んで欲しいわ。自らの王国を築き、人々を従わせるのは彼のスタイルではないの」

 知的な物言いは、できる女という印象を抱かせた。祐理や恵那、晶にはない雰囲気の女性だ。

 そして、そこに陸鷹化が加わった。

 思いがけず、大所帯となってしまったことに驚きながらも、頼もしい面々だと素直に認める。

「日本、中国、アメリカの最大呪術結社の方々がお集まりになると聞いて、イギリスを代表する賢人議会の人間としても一枚噛ませていただきたいと思いまして」

 とは、アリスの言。しかし、それは彼女が来日した目的ではないはずだ。それは追々確認するとして、今は斉天大聖についてだ。

「斉天大聖さまは、男体山の頂上に陣取り、力を蓄えていらっしゃいます。周囲には結界が敷かれていて、踏み入った人間は強制的に猿に姿を変えられています」

 アリスがそう言うと、途端に護堂たちに緊張が走った。

「すでに調査に向かった正史編纂委員会の術者と、一般人数名が猿に姿を変えられてしまいました。ニホンザルから、ゴリラまで、『猿』に該当するのならなんでもアリといった感じでしたね」

 馨の報告に、焦ったように晶が尋ねる。

「それで、元に戻せるんですか?」

「可能性がないわけではないけれど、確実に戻せるとは言えないわ」

 それに答えたのはアニーだ。

「知っている人もいると思うけど、スミスはかつてロスの自然公園に顕現した月と狩猟の女神アルテミスと戦ったわ。女神そのものはスミスによって討ち果たされたけれど、女神の顕現に際して動物に変身させられた人々は、元に戻らなかった……今回も、その可能性があることは否定できないわ」

 レストランに沈黙の帳が下りる。

 その可能性を、考えなかったわけではない。この場に集うのは、呪術に深く関わってきた者たち。護堂以外の全員が、ロサンゼルスで発生したアルテミスとジョン・プルートー・スミスの戦いを知っていた。

「いや、元には戻せる」

 そんな中で、護堂は明確な確信を持って告げた。

「何か、方法があるの。ゴドー」

「ええ。猿に姿を変えられた人を元に戻す方法は二通りあります。一つは、ひかりの――――特別な力を持っている媛巫女に協力してもらうこと。もう一つは、俺の術破りの権能を使うことです」

「ゴドー。あなたには、神がかけた呪詛を取り除く力があるということなのね?」

「はい。そして、斉天大聖の術に効果があることは、昼間の戦いで証明済みです」

 石牢を破った破魔の剣ならば、傷を付けることなく猿化の呪いを解くことができるはずだ。すでに最初の自己紹介で護堂の正体を知らされていたアニーは、必要以上に驚くことなく、淡々とその事実を受け入れた。

「それなら、問題の一つは解決ですね。後はもう、斉天大聖さまを打破するだけなのでは?」

「ええ、そうです。それで、羅濠教主の動きが気になるんだけど」

 アリスに対して、護堂は頷き、鷹化に視線を向ける。

「師父はきっかけさえあれば、いつでも動けますよ。ただ、あの人は見栄っ張りなので、ここぞという時に格好よく出てこようとすると思いますよ」

「きっかけ作りは俺任せか。あの人が動かないのなら、俺が猿野郎をつついてやるしかないわけだ」

 それならそれでいい。

 斉天大聖には、煮え湯を飲まされているわけだし、再封印できないのであれば、討伐して後顧の憂いをなくすだけだ。

 それに、人任せにするというのは、なんとなく格好が付かない。

「ですが、一つ気にかかることがあります」

「アリスさん。気にかかることというのは?」

「斉天大聖さまですが、どうやら同盟神を召喚したようです。おそらくは、猪八戒さまに沙悟浄さまでしょう。もしも、この三柱と同時に戦うことになれば、草薙さんも苦戦を強いられることになるのでは?」

「まあ、それに関してはなんとでもなりますよ」

 幸いにして、この地には三人のカンピオーネ。おそらくどこかにもう一人潜んでいるだろうが、それは戦力には数えない。単純な数は互角なのだ。アニーの正体がジョン・プルートー・スミスであることを知っているのは、おそらく護堂だけだろう。目の前の令嬢がどこまで、事情に精通しているかまったく読めないのが恐ろしいが。

「明日にでも、男体山に乗り込みますか。策を弄して優位に立てる相手ではないし、さっさと行くのが吉でしょう」

 護堂のあっけらかんとした様子には、さすがに皆が唖然とした。

「先輩って、もともとこういう方でしたっけ?」

「ずいぶんと戦いに前向きになられたようですけど」

「王さま、さっすが。迷いない!」

 背後の少女たちの言葉は適当に聞き流す。

「では、とりあえず僕たちは現状維持でいきますか。斉天大聖の力が及ぶ範囲はすでに割れてますし、その近辺の立ち入りを新たに規制しましょう」

 馨が派遣した呪術師が猿になったあたりのことを言っているのだろう。もしかしたら、彼らのことを有意義な犠牲と割り切っているかもしれない。

「なら、そういう方向でやりましょうか」

 方針は決まった。日が昇り、護堂の仕度が整い次第、敵地に乗り込んでいくことになりそうだ。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 会談が終わった後、護堂はアリスと鷹化に話があると言って、レストランに残ってもらった。

「それで、話というのはなんでしょうか。草薙さま」

 鷹化とアリス、二人は何を問われるのか想像もできていないだろう。

「うん、ちょっと気になったことがあってな。今回の騒動で羅濠教主はアーシェラという神祖を生贄に使ったけれど、そのアーシェラを羅濠教主はどこから手に入れたんだ?」

 アーシェラはもともとロサンゼルスの邪術師たちの組織『蝿の王』の総裁だったという。そして、スミスに敗れて消滅したはずだった。

「ロサンゼルスで敗退したアーシェラが都合よく《蛇》を探している羅濠教主の下に転がり込んでくるとは思えない。羅濠教主は滅多に表に出ない人だというし、弱っていても神祖であるアーシェラがただの人間に捕獲されるはずがない。だとすると、かなり高位の術者がアーシェラを君たちと引き合わせたのではないかと考えたんだ」

 護堂の話を聞いた鷹化は感服したとばかりに頷いた。

「驚きました。まさに、草薙さまの仰るとおりです。アーシェラの姐さんを師父に引き合わせたのは、西洋の神祖です。名は、なんと言いましたかね……」

「グィネヴィアですね。アーサー王の傍仕えを自認する、最強の《鋼》の探索者」

 アリスが、鷹化の疑問に答える形で続けた。

「やはり、そうですか」

 グィネヴィアが暗躍しているのは、これで明確になった。蘆屋道満がどこにいるのかもわからないのに、グィネヴィアまで出てくるのは、厄介と言わざるを得ない。

「それで、アリスさん。グィネヴィアは、今日本に来ていますね?」

「……おそらくは。わたしもお姿を拝見したわけではありませんので、はっきりとは言えませんが」

「しかし、あなたは、今回の騒動にグィネヴィアの影を見たから日本に来た」

「ええ」

 アリスは、頷いた。

「それでは草薙さまは、そのグィネヴィアという神祖の存在を確認するために僕たちをここに呼んだわけですか?」

「ああ、すまないな。夜も遅いのに」

「それにしても、よくそこまでわかりましたね。羅濠教主と神祖のつながりまでは推察できても、その神祖とわたしとの関わりまではご存知なかったはず」

 アリスはそう疑問を口にする。しかし、そうでもないのだ。護堂には原作知識もあるが、アリスとグィネヴィアの繋がりは、それ以外からでも情報を得ることができた。

「俺は、この夏にルクレチアさんのところに宿泊しましたから。あの人が一時、《鋼》を探求する旅を神祖と一緒にしていたことは知っていますし、その神祖とあなたが知己だということも、聞きましたから」

「ああ、なるほど」

「まあ、正確には、アレクサンドル・ガスコインのことを尋ねたときにあなたの名前も出てきたのですが。……それで、今回《鋼》を蘇らせる事件を起こした神祖がいるという可能性に思い至ったとき、そのグィネヴィアのことを思い出したのです」

 アーシェラを確保し、羅濠教主に引き合わせることができる存在。それでいて、《鋼》の復活を望む者。それは、今現在護堂の持つ情報の中ではグィネヴィアしかいないのである。

 だが、羅濠教主との激闘から、知識だけに頼る危険性を嫌というほど学んだので、念には念を、関係者二人に確認をしたのである。

「とすると、フットワークが軽くて有名なカンピオーネも、どこかで見ているかもしれませんね」

 そう言うと、アリスはにこやかに破顔した。

「そうですね。ええ、きっとそうです」

 




二日連続投稿は遡ってみても三月までない。本当に久しぶりです。


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六十一話

 決戦を前にすると気持ちが昂ぶる。

 明日、斉天大聖と雌雄を決することになる。

 護堂は心を落ち着けるために、ホテルの屋上まで上り、眠気が訪れるまで精神統一を行っていた。

 まだ、木々が色づいていないとはいえ、十月の半ばである。大気には秋の気配が色濃くなってきていて、涼やかな風が護堂の身体を冷やす。

 昂ぶる気持ちを鎮めるには、これくらいがちょうどいい。

 玲瓏な光を降らせる月。

 世界は黒と青に染め上げられている。

「昂ぶる精神に冷徹なる思考を併せ持つ。命を懸けた死合を前に、それができる者のなんと少ないことでしょう」

 月琴を思わせる声音が、どこからか響いてきた。

 振り返ると、そこにいたのは、やはり羅濠教主。

「身体はもう大丈夫なので?」

「無論です。元より大した怪我でもありませんでした。呪力さえ戻れば、いつでも万全の態勢で戦に臨めたのです」

 護堂から受けたダメージは、本当に些細なものだったようだ。防御系の権能を持っているのかどうかわからないが、あのときは使用していなかったはず。ということは、純粋な体技と根性で、護堂の攻撃に耐えたということになる。

「ところで、斉天大聖が同盟神を召喚した話は知っていますか?」

「ええ、当然です。かの神も、わたくしたちとの戦いに備えて着々と力を取り戻しているようですね。それで、草薙王。あなたは、斉天大聖と戦えますか?」

「もちろんです。ここは、俺の国だ。神様が暴れているのを無視するわけにはいきません。それが斉天大聖のような人に害を与えるヤツなら尚のことです」

「…………ふむ、たしかに、ここはあなたの国。夷狄討伐は王の責務。ならば、あなたが斉天大聖と戦うのは自明の理。しかし、斉天大聖の討伐は、わたくしの悲願でもあります。さて、どうしたものか」

 口元に指を当てて、悩む羅濠教主。

 以前の護堂であれば、戦いたいのならば、戦えばいいとでも言っただろう。しかし、今回ばかりはそうもいかない。

 取り逃がせば、人間社会に多大な被害が生じる。物的被害ならば、まだいいが、人的被害となると無視できない。

「それなら、一緒に戦うってのもありますよ」

「ほう、共に戦うですか」

「もちろん、そうなれば、向こうも義兄弟を連れてくることになるでしょうけど……」

「問題ありません。なるほど、それは面白い趣向だと思います。この二百年の間に、他の魔王と共に戦うということは終ぞありませんでした」

 サルバトーレと同じような反応をする。武を尊ぶからなのか、単に暴れまわるのではなく、そこに様々な戦い方を求めようとする。

「しかし、向こうが義兄弟の契りを交わしているにもかかわらず、こちらが単なる同盟ではいけません。兄弟の繋がりは、万の有象無象に勝るもの。草薙王。以降わたくしを姉と思い、孝を尽くしなさい。わたくしも、あなたを弟と思い、十分な庇護を授けましょう」

「あの、そんなに簡単に義姉弟の契りを交わしていいんでしょうか?」

「あなたはこの羅濠を幾度も出し抜き、あまつさえ斉天大聖の封印術から救い出して見せました。これは、容易くできる偉業ではありません。あなたを我が義弟とするのに、なんの不都合がありましょうか」

「そういうものですか……」

 もうすでに、護堂が義弟になることは決定事項なようだ。

 原作と同じ流れになったことは、おそらく護堂にとって悪いことではない。ここで、羅濠教主との友好関係が築けたことは、むしろ僥倖だ。

「それじゃあ、よろしくお願いします」

 護堂はこうして、羅濠教主の義弟となったのであった。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 思わぬところで義姉を得た護堂は、翌朝、清清しい秋晴れの下で男体山を見上げていた。

 中禅寺湖の畔に車を停め、そこから一気に敵の城砦を攻略する。相手のほうも、すでに護堂たちの動きを知っているのだろう。視線を感じる。それでも、仕掛けてこないのは、かかって来いという挑発に他ならない。

『万里谷。これから戦いになるけど、身体は大丈夫か?』

 護堂は念話で、祐理に状態を尋ねた。

 今朝方、祐理は羅濠教主戦のときと同じく、護堂に精神感応の術をかけた。二日連続の使用は、当然ながら祐理の身体を激しく傷めつける行為なのだが、これから先、全員が命をかけるに至って、自分が何もしないわけにはいかないと、進んで申し出てきたのだった。

『はい。今回はプリンセスがわたしを助けてくださいます。昨日に比べれば、負担はずっと少ないはずです』

『そうか。だけど、無理はするなよ』

 祐理とアリスは、ホテルに残り、戦いの趨勢を見守ることになっている。この二人は巫女であって戦士ではない。戦う術は元よりない。そして、冬馬や馨もホテルに残った。祐理やアリスを守るためでもあるが、馨たちは、対策チームの司令塔である。警察や国土交通省、農林水産省、日光市などなど、協力を仰がなくてはならない組織は多い。

 結果、この場に集ったのは、護堂、晶、恵那、鷹化、アニーの五人だけ。羅濠教主は、美味しいところにやって来るつもりだろう。先鋒は護堂に任せるとか言っていたから間違いない。

「それじゃ、行くか」

 皆が緊張した面持ちで、山を見上げる。土雷神の化身で一気に登って行くか。そう考えなかったわけではないが、手の内はできる限り隠しておきたい。特に土雷神の化身は、最も撤退に使える化身だ。迂闊に見せて対処されては、まずいことになる。

「先輩、来ます!」

 晶が、険しい視線を山に向けて叫んだ。

 呪力が沸騰しているようだ。傍目から見れば何もおかしなところのない男体山だが、呪力に関わる者が見れば、まるで火山が噴火したかのように、呪力が吹き上がっているのがわかるだろう。

「小手調べに神獣か。だけど、そんなんじゃ止められないぞ、斉天大聖!」

 護堂は一目連の聖句を唱える。

 瞬時に生成されたのは、数百挺はあろうかといる槍の穂先。朝日を浴びて、妖しく光っている。

 精神を統一し、感覚の触手を伸ばす。

 祐理とアリスの助けを受けて、護堂の空間認識能力は山を覆うほどになっているのだ。

 指揮をするかのように、振り上げた右手を、護堂は男体山へ向ける。

 瞬間、無数の閃光と化した刃が、男体山に向かって降り注いだ。

 蕭蕭と降る雨のように、大気を裂き、着弾と同時に轟然と爆発する。

 羅濠教主に相対した巨猿と同種の神獣たちは、先手を打たれて軍勢の大多数を失った。

 生き残ったのは運がよかっただけであったり、手傷を負っても動けるモノだけである。

「それでは、草薙護堂。一番槍はいただく!」

 護堂は槍を片手に、宣言する。他のカンピオーネたちに対する宣誓である。

 山上から転がり落ちるようにして、飛びかかってくる巨猿を、言霊で駆逐しつつ攻め登っていく。

「出てきやがれ、斉天大聖。はた迷惑なおまえを、駆除しに来たぞ!」

 真横から腕を伸ばしてきた巨猿の首に穂先を刺して、護堂は空高くへ向けて叫んだ。

「ハッ。誰かと思えば、お主か。我の封を破ったのは見事じゃが、図に乗るなよ、神殺し風情が」

 黄金の毛並みを持ち、京劇風の衣装に身を包む斉天大聖・孫悟空が、黄金色の棒――――如意金箍棒をくるりと回して護堂の前に立ちはだかった。

 見てくれは奇特な猿だが、その肉体は鉄壁にして、紫電の如く敏捷。油断すれば、一撃で頭蓋を割られることになろう。

「猿に言われたくはないな。俺の国で、勝手気ままに暴れてんじゃねえ」

「俺の国、のう。天地神明の理に逆らい、好き勝手にしておるのは、お主ら人間のほうじゃろうに。うむ、我等神に牙を剥く、お主のような者がいるから小人はつまらぬ希望を抱くのじゃな。であれば、話は早い。お主の首を取り、人間どもの愚かな希望を打ち砕いて見せよう!」

 にやりと斉天大聖は酷薄な笑顔を浮かべる。

「花果山水簾洞の主、斉天大聖・孫悟空推参也! 名を名乗れ、倭国の神殺し!」

「草薙護堂。倭国じゃなくて日本だ。時代遅れだぞ!」

 護堂は、穂先を斉天大聖の喉笛に向け、斉天大聖は上段に如意金箍棒を掲げる。

 互いの戦意が喰らい合い、大気を歪めんとする。

 一触即発の空気は、限界まで軋み、そして、些細なきっかけで激発する。

 

 高まる緊張に、先に音を上げたのは護堂でも斉天大聖でもなく、運悪く近くにいた小鳥だった。

 神獣と護堂が演じた前哨戦を、乗り切った小鳥も、ついに逃げ出した。

 そして、その羽音が、護堂と斉天大聖を同時に前方へ押し出した。

「オオオオオオオオオラアアアア!!」

「ヌウウウウウウウウオオオオオ!!」

 槍と棒。二つの武器が、膨大な呪力を伴って激突した。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 恵那も晶も斉天大聖と戦っている護堂の助けに入ることはできない。

 それは、あくまでも彼女たちがただの人間だからだ。そこには、明確にして歴然たる実力差が存在する。

 普段ならば、『まつろわぬ神』と護堂が戦い始めた時点で見守るだけになってしまうのだが、今回は、彼女たちにもしなければならない仕事がある。

「よし、来るよアッキー!」

「こっちはもう準備万端ですよ!」

 刀と槍。

 それぞれの分野で当代最高峰の使い手が、刃の向きを揃えて立つ。

「やれやれ、本当はこんな仕事はしたくないんですがねェ。ま、でも僕だけサボったら後で師父に殺されるだろうし、やるだけやりますか」

 パン、と手の平に拳を打ち付けて鷹化が呟く。

「ゴドーはすでに始めたようね。こっちも、彼に恥じない戦いをしなければならないわ」

 その後ろで、アニーが拳銃を握って怜悧な視線を山に向ける。

 木々が震え、音を立てて倒れていく。

 一瞬だけ広がる、不気味なまでの静寂。

 

 

 オオオオオオオオオオオオオッ!!

 

 そして、大音声で巨猿が叫ぶ。

「ここから先には行かせないよ。清秋院恵那、一太刀馳走仕る」

 恵那が巨猿に向かって駆け出す。風のように速い。そして紫電を纏っている。まさに疾風迅雷。スサノオの神力の数万分の一に満たない程度であるが、彼女は日本を代表する嵐神の神力を行使できるのだ。

 巨猿の丸太のような腕を掻い潜り、足首を刀で薙ぐ。

 バランスを崩した巨猿が、身を捻って恵那を襲おうとしたとき、

「南無八幡大菩薩」

 さながらミサイルのようだった。

 厳かな呪文とともに、放たれた大呪力。その中核を為すのは晶が振るう神槍。

 神なる槍の投撃は、巨猿が無防備に曝していた首に深々と突き立ち、重さ数トンはあろうかという巨体を吹き飛ばした。

「まずは一匹」

 手元に神槍を呼び戻し、晶は呟いた。

 彼女たちの役目は、戦場を離れた神獣たちが、人里に向かわないようにすることである。

「凄まじい力ね」

 アニーは、日本が誇る媛巫女たちの戦闘能力を高く評価した。もしも、彼女が何かしらの組織の長であったなら、迷わず勧誘し、しかるべきポストを与えただろう。そうでなくとも、盟友としてロサンゼルスに呼んだかもしれない。 

 これほどの逸材は、残念ながらアメリカにはいない。

 アメリカの呪術文化はその成立過程からして、真っ当な実力者が育ちにくい状況にあるのだ。

 それをどうにかするために、スミスは戦いの日々を送っているのだが。

「たった一匹ではないわよね」

 仲間が倒れたことを察したのか、続々と巨猿が現れてくる。

 どれも、護堂の攻撃を受けた個体ばかりで、身体のあちらこちらに傷を負っているが、それでも神獣と人間とでは圧倒的に前者のほうが強い。

 恵那の神憑りも身体に負担が大きい技能だ。優位に立てる時間はそう多くないと思っていい。

 恵那は疾風のように動き回って巨猿の手足の筋を斬り裂く。晶は正面から堂々と首や胴体を槍で突く。持っている武器が神槍なため、他のメンバーよりも神獣に与えられるダメージが大きいのだ。主に息の根を止めるために晶は動いている。

 翻弄するのは、鷹化の役割だ。

 蝶のように舞い、蜂のように刺す。

 鮮やかな技の数々で、巨猿たちを手玉に取る。

 そして、アニーの銃弾も特別製だ。神獣を相手にするとわかったときから、ロサンゼルスの本部から転移させた銃弾は、人間に使うには過剰な威力を持った呪いの弾丸だ。神獣たちの目や鼻、口をこれで正確に撃ち抜いていく。

「セイッ」

 目玉を弾丸で潰された巨猿の首を、恵那が落とした。

「清秋院さん。その刀って、もしかして」

「そ、童子切。相棒が王さまに取られちゃったからね。その代わり」

 童子切安綱。

 日本が誇る最高の武器である日本刀の中でも、特に傑作の呼び声高い国宝である。千年の歴史を積み重ね、刀自体もある種の信仰を集める名刀である。それは、もはやただの刀ではなく、妖怪退治の霊力を帯びた霊刀と化しているのだ。

「後で、ゆっくり見せてください」

「いいよ。減るもんじゃないしね」

 青黒い鮮血が、二人の衣装を汚していく。

 

 

 軽口を叩き合っているのは余裕の表れ――――ではない。

 初めの内こそ余裕があったが、手負いとはいえ相手は神獣なのだ。一匹倒すだけでも命がけ。それが数体まとめてとなると、無謀の領域になる。

 恵那たちは次第に劣勢になっていく。

 晶の投撃や恵那の神力は、確かに敵に対して致命的な傷を負わせることができる。だが、如何せん数が多い。

 乱戦に持ち込まれれば、連携も取りづらくなり、加速度的に劣勢に陥っていくだろう。

「一旦、バラけたほうがいいかもしれないねェ」

 鷹化が提案した。

 後戻りできなくなる前に撤退するのは、戦の基本。ここで無理をする必要はない。

「そうね。あなたたちは、神獣たちを撒くことはできそう?」

「大丈夫です!」

「問題ないよ!」

 晶と恵那が答えた。

 そして、恵那が風刃を一閃する。

 神獣たちの足首を刈るように放たれた不可視の刃は、巨猿たちの足を止め、恵那たちの逃走を助けた。

「これから、どうします?」

「どっちにしても、お猿さんたちを放っておくわけにはいかないし、ヒットアンドアウェイで行くしかないんじゃない?」

 恵那と晶は、木立をすり抜けて走る。

 鷹化やアニーもそれぞれ山中に逃げ込んだようだ。

 山の中ならば、巨猿たちは好きなように動けない。機動力で圧倒できるという算段だった。

「追ってきたのがいますね」

「こっちには二匹か。一匹ずつ相手をしよう」

 

 

 他のメンバーと同じく山中に逃れたアニーは、木々がなぎ倒されて開けた場所に立っていた。

 彼女を、三匹の巨猿が取り囲んでいる。

 筋骨隆々。ゴリラを思わせる骨格は、人間がどう足掻いたところで素手で勝つことはできない。

 だが、そんな状況下にあっても、アニーは平然としていた。

「分散したのは、好都合だったわね」

 アニーは、じろりと神獣たちを睨みつける。

 アニーの鋭い視線を受けて、神獣たちが後ずさる。

「……誕生、死亡。そして、無限」

 気圧された神獣を見据えながら、アニーは、静かに言霊を唱える。

 凛々しい女性に代わって現れるのは、黒い衣装と、昆虫の複眼を思わせるバイザーという奇抜な衣装に身を包む漆黒の怪人。手に持つのは、神を屠る魔銃である。

「そして、君たちにとっては不運だった。もしも、あの場に止まり続けていたのなら、もう少しだけ生き長らえることができただろうに」

 ロサンゼルスのカンピオーネ。ジョン・プルートー・スミスが今、ここに現れた。

「一番槍はかの少年に奪われてしまったが、構うまい」

 一瞬で、三匹の巨猿は殲滅された。

 討ち果たされた巨猿たちには、何が起こったのかすらわからなかっただろう。

「何と言ってもヒーローは遅れて現れるものだからな」

 時間にルーズで自己演出過多のキザな貴公子。

 それが、アニーの第二の性格(スミス)が標榜するスタイルなのだ。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

「人と神が互いの命を貪り喰らいあう。神と魔王の宿命。さながらこの世は修羅道じゃな」

 そして、護堂たちの戦いを尻目に、怖気のする笑みを満面に湛えて翁が笑う。

 呪法を使って戦場を俯瞰し、観戦する。

 神殺しと斉天大聖はほぼ互角。膠着状態に陥っている。神速を駆使する斉天大聖に、護堂は苦戦を強いられているようだが、決定打は一つも貰っていない。

 何か狙いがあるのだろうか。

 そして、人間たちのほうは、劣勢極まりないというべきか。

 他の神殺しが混じっていたのは驚いたが、それは今の翁にとっては好都合である。何せ、計画を達成するためには、どうあっても斉天大聖を始末してもらわなければならないのだから。

「ふうむ。だが、まずいのう……」

 男体山の各場所で、粉塵があがり、呪力が爆発している。

「姫が力を増しているのは喜ばしいが、このようなところで死なれても困る。少々手出しさせてもらおうかの」

 そして、翁はよれた呪符を取り出して息を吹きかけた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 恵那が、吹き飛ばされた。

 ついに神憑りが解けてしまったのだ。

 神憑りはあまりにも身体にかかる負担が大きい。そのため、使用は厳しく制限されている。今回は、無茶をしすぎた。

「清秋院さん! ぐ……!」

 晶もまた、限界が近い。

 神憑りが解けてしまった恵那を抱えて戦場を離脱するのは、難しい。かといって、見捨てられるかと言えば、そうではない。

 人倫に悖る行いだ。

 そして、何よりも護堂に軽蔑される。

 それは何としてでも避けなければならない。

 神を敵に回すより、護堂に嫌われることのほうが、何倍も恐ろしいのだ。

「この、邪魔!」

 突き込む槍が、巨猿の胸板に突き立った。

 青黒い血が傷口から止めどなく流れる。しかし、巨猿は止まらなかった。槍に貫かれたまま、腕を振るう。

「ああああ!」

 晶も跳ね飛ばされた。それでも、槍を手放さなかったために、巨猿は身体の内側をかき回されて絶命する。

 だが、それまでだ。

 晶は勢いよく杉の大木に叩きつけられた。その衝撃は凄まじく肺腑の底から呼気が押し出された。

 激しく咳き込む。

 この場にいる巨猿は残り一匹。

 身体中から血を流しているが、それでも少女二人を握りつぶす程度の力は持っている。

「くそ、このォ!」

 尻餅をついたまま振るう槍は力なく、巨猿の毛皮を貫くには至らない。

 巨猿は、拳を握り無造作に振り下ろす。ただ、それだけで晶は肉片と化してしまうだろう。

 万事休す。

 もはやどうにもならない死の気配に、心が屈しかけたとき、不意に現れたのは、黒い濁流だった。

「な、え?」

 瞠目する晶を尻目に、それらは周囲を覆っていく。

 晶が背負う杉の大木を避けるようにして、黒い波が神獣を押し流していく。

 いや、これは波ではない。

 よく見れば、それは無数の鬼である。

 まるで日本画の中から抜け出てきたかのような黒い輪郭線に縁取られた鬼たちが、神獣に纏わり付き、牙と爪と武器を突き立てている。

 ガリ、

 ガリ、

 ガリ、

 と、肉と骨を喰らう音が妙にはっきりと聞こえてくる。

「これって……」

 すべてが終わった後には何も残らなかった。

 あれほど圧倒的な存在感を持っていた神獣が、跡形もなく喰い尽くされてしまったのだ。

 恐ろしい光景だった。

 突然現れた鬼たちは、おそらくは誰かの式神か何かだろう。神獣を喰い尽くした後で、鬼たちは初めからそこにいなかったかのように雲散霧消した。

 しかし、神獣を喰らうほど強力な式神など聞いたことがない。

 晶は、しばらくその場から動けなかった。

 そのあまりに不可解な光景に頭が付いていかなかったからだ。

 迂闊に動けば、自分があの鬼たちの餌食にされるのではないかと思わせられた。

 それほどまでに、あの式神は圧倒的だった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 護堂と斉天大聖の戦いは地上戦から空中戦に移り変わる。

 斉天大聖の攻撃を受け止め切れなかった護堂が、空に楯ごと打ち上げられたからだ。

「チィ、まずい」

 斉天大聖は、サルバトーレと同じく鋼の肉体を有する。その上、神速持ちだ。正直、今まで戦ったすべての神々とカンピオーネの中で一番戦いにくい相手だった。

 空は、斉天大聖の独擅場。

 かの有名な觔斗雲に乗り、神速のままあらゆる角度から襲い掛かってくる。

 護堂は斉天大聖を、無数の武具で囲い込むように攻撃するが、軽々とかわされてしまう。

「くく、草薙の。この孫さまの速度によく喰らいつくの」

「まだまだ、遅いっての」

「言うの。ほれ、これはどうじゃ?」

「危ねッ」

 頭部を掠める一撃を辛うじて避けた。

 だが、そこにさらに追撃がくる。

「そら、喰らえい!」

 上段からの振り下ろし。

 鋼の肉体を持つ斉天大聖は、わざわざ胴体を守る必要がない。

 護堂は、二挺の槍で、如意金箍棒を防いだ。

「く……!」

 しかし、勢いまでは殺せない。

 そのまま、中禅寺湖の湖面に叩き付けられる。

 大きな水飛沫。

 水中から、護堂は斉天大聖を睨みつける。

 舐めるなよ、と。

 護堂の手には、細い鉄線が握られていた。

 呪力を鉄線に流し込む。

 一瞬にして、細い鉄線は、極太の鎖に姿を変えた。そして、その鎖は湖面のはるか上空。斉天大聖の腕に巻きついていた。

「何と!?」

 突然現れた鎖に驚愕し、そしてとてつもない力で湖に引きずり込まれる。

「如意棒で叩いたときか! 小賢しい手を使いよるわ!」

 護堂を湖中に叩き落したときに、鉄線を巻きつけられていたのだ。それが、鎖に変化した。

 水中に引きずり込まれたからといって、斉天大聖の戦闘能力が弱まることはない。

 だから、落ち着いていられる。

 鎖の先は、巨大な分銅に繋がっていた。なるほど、これで我が身を引きずり込んだのか。

 斉天大聖は、手刀で鎖を断ち切ると、宿敵を探して視線を彷徨わせた。

「あだッ!?」

 そして、強烈な一撃を額に受けて目を白黒させた。

「な、何じゃと!?」

 槍を持つ護堂が浮かんでいる。

 その姿を視認した直後、掻き消える。

 肩口に衝撃を受けてバランスを崩す。鋼の肉体は小揺るぎもしない。

「なるほど、お主も縮地の力を持っておったか。これで、速さは五分と五分。面白くなってきたわ!」

 斉天大聖は唸るように笑い、護堂に向かって神速で突撃する。

 水中なのに、普通にしゃべっていることに呆れながら護堂は応戦する。

 護堂が使っているのは伏雷神の化身。

 大気中の水分濃度が高くないと発動できない条件付きの神速である。が、ここは水の中。有り余るほどの水があるので、神速を発動する条件を満たしているのだ。

 おまけに神速は移動時間を短縮する能力だ。よってどれだけ速く動いていても水の抵抗は大して変わらない上、それが行動を阻害することもない。

 そして、斉天大聖は大きな勘違いをしている。

 速さが互角になったからといって、その他の部分で互角とは限らない。

「うぬう……」

 斉天大聖は呻いた。

 神速で果敢に打ち込んでも、一撃も入らないどころか、反撃を受けてしまうからだ。

 攻撃が読まれている。それも、こちらが攻撃に移る直前に、すでに相手は回避と反撃に移っている。

 速度が同じならば、出足が速いほうが勝つのは道理である。祐理の協力を得て強化された勘は、斉天大聖の動きを完全に見切っていた。

 とはいえ、軍神である斉天大聖にとって、この程度は問題にならない。護堂の武芸がおざなりなのは見ればわかる。攻め立てていけば守りきれずにぼろが出る。

 攻めて攻めて攻めまくる。

 斉天大聖が勝利するには、それが一番確実な方法だ。

 だが、この段階でまだ、斉天大聖は護堂の力を過小評価していた。

 神速で水中を動き回る。

 護堂は斉天大聖を目掛けて無数の刀剣を放ち続ける。無論、これまでと同じように避け続ければ問題ない。鋼の身体もある。脅威にはならない。たとえ、動きを見切られて、逃れた先に刃が待っていようとも、肉体の防御力が見事に弾き返してしまうだろう。

 ピリリ、とした痛みを感じて斉天大聖は飛び退いた。

「まさか、我の身体を傷つけたのか」

 信じがたいことに、斉天大聖の胸元から血が滲み出していた。その他にも裂傷がいくつかある。小さな傷で、命はおろか戦闘にも支障がない程度だが、鋼の守りが突破されているという事実は、斉天大聖を驚嘆させた。

 しかし、なぜだ。

 護堂の攻撃が今までと変わった様子はない。それなのに、鉄壁の守りが崩されかかっているのはどうしたことだ。

 護堂が手に持っている槍を投げつけてきた。

 神速が付与されている。

「ぬ、ぐ……!」

 かわそうと思ったところで、神速の槍が斉天大聖の腹に直撃した。

 防御力のみならず、速度まで低下している。

「そうか。草薙の。お主、なにか盛ったな」

 護堂の力が上昇したのではない。斉天大聖の力が弱体化しているのだ。原因は、湖水。この水の中に護堂が何かを仕掛けたのだ。

「そうとわかれば、いつまでもこの湖にはいられん。とっとと出るに越したことはない」

 護堂が、即座に斉天大聖の前に槍衾を展開する。

 やはり、湖の中から出したくはないようだ。

「水生木。ハァ!」

 渦巻く湖水が雷に変わり、護堂の槍衾を散らしてしまう。

 さらに、無数の分身を用意して、護堂の目を欺いた。こうした小手先の技は、イタズラ好きの性格から非常に得意だった。

 

 

 無事、湖の上に出た斉天大聖は、護堂に盛られた毒の所為で重い身体に活を入れようと呪力を練り上げる。

 ついでに、手についた湖水をペロっと舐めてみる。

「……これは、神酒!」

 なるほど、おそらくは敵をまつろわせるために用意された伝承を持つのだろう。芳醇な香りと豊かな甘味が格別だ。毒でなければ、なおよかったのだが。

 バチ、という音とともに、護堂が岸辺に現れた。

 若干顔色が悪いのは、権能を同時平行で使用したことからくる疲労の所為だろう。

「くく、やってくれたの。草薙の。ここまで、孫さまを手間取らせるとは。だが、わかるぞ。お主、水中でなければ縮地の類は使えんのじゃろう」

 護堂にとって、速度で劣るのは致命的な弱点になるはずだ。

 指摘された護堂は平然としている。

 ここでけりをつけると腹を決めているのだ。今さらジタバタしても仕方がない。それに、斉天大聖は神酒の力で速度も防御力も落ちている。持続時間はそれほど長くはないだろうが、それまでに決める自信はあった。

 それに、護堂はあくまでも一番槍。

 この戦いは、決して一人で挑んだものではない。

 一条の閃光が、青空を切り裂いて飛翔する。

「おおっと!」

 斉天大聖は大きく飛び退いてかわす。

 黒いローブのカンピオーネ、ジョン・プルートー・スミスが放つ、銃弾。月に六発しか使えない代わりに強大な破壊力を有する『アルテミスの矢』である。

 斉天大聖は神速に突入して銃弾の追撃から逃れようとする。しかし、速度が出ない。神酒によって弱められた速度では、完全な神速に突入している魔弾から逃げ切れない。

「ええい、面倒な。これでどうじゃ!」

 斉天大聖の身体から放たれたのは、強烈な雷撃。

 これをスミスの魔弾にぶつけることで相殺したのだ。

 神速から、通常の速度に戻ってきた斉天大聖は、忌々しげに呟く。

「あの羅刹女ではないのう。まさか、三人目が隠れておったとは!」

「隠れる? それは違うな。己が役割を果たすため、あえて舞台袖で出番を待っていただけさ。役者はそれぞれの役割に応じてステージに上がるもの。そして、ここに私が現れたこと。それは即ち、この舞台がクライマックスに近づいているということの証左に他ならない」

 芝居がかった口調は、本当にあのアニーなのだろうかと疑いたくなるほどだ。

「ふん、言うの。だが、その大言。我が義弟たちを前にしても吐けるか」

 斉天大聖の力が、爆発的に上昇した。

 今までの比ではない。

 これが、魔王殲滅の権能の一端か。

「北海より出でよ、我が賢弟・猪剛鬣。西域より出でよ、我が賢弟・深沙神!」

 懐より取り出した二つの木彫りの像を、高く放り投げる。

「魔を討ち、鬼を裂き、羅刹を屠る剣神の宿星よ。我に怨敵征伐の利剣を授けよ!」

 二つの像が一気に膨れ上がり、肉質を得る。

 先に顕現したのは、猪顔の巨漢。登場と同時に十五メートルほどの巨体となる。三面六臂の武神である。そして、次に青黒い肌と逆立つ赤い髪の鬼神。水竜に跨り斉天大聖を守るように飛んでいる。

「今度こそ長めの出番を期待しておるでござるよ。兄者」

「二人の神殺し。なるほど、よき敵手と見受けました。……大兄、何なりとお申し付けを」

 西遊記の主要登場人物たち。

 敵ではあるが、護堂はドラマや漫画で見知った英雄たちの集合に、興奮を隠しきれないでいた。

「猪八戒に沙悟浄。いや、まつろわされる以前の神格だから、猪剛鬣と深沙神か。仏教や道教にベースを持つ鬼神。ロスにいたのでは、なかなかお目にかかれないな」

「まだ、三対二なわけだけど、大丈夫か?」

「何、問題ない。この程度の窮地、いくらでも乗り越えてきたさ。数的劣勢。ちょうどいい見せ場じゃないか」

「確かに、燃える展開ではあるんだろうけどな。だけど、せっかくの大一番だ。ド派手に決めるんなら、魔王は三人いたほうがいい」

「ふむ、なるほど……」

 バイザーの奥に理解の色が見えたとき、護堂たちの周囲を取り囲んだのは季節はずれの梅の花。華麗な旋風の中に、白磁の如き肌が浮かび上がる。明眸皓歯。彼女を前にすれば花すらも恥じらい下を向く。

「実に見事な一番槍でした。羅濠の義弟に恥じぬ戦いをしてみせましたね」

 朗らかに微笑む、羅濠教主。

 ここに、役者は揃った。

 いまだかつて類を見ない、カンピオーネと『まつろわぬ神』の三対三の頂上決戦の火蓋が、切って落とされた。




マントルの下にガメラの王国とか書き込む先生嫌いじゃない。サウザー遺伝子みたいに実在するのかと一瞬思ってしまうくらいに自然に書き込むあたりさすがやで。
ついでに参考図書にらんま混ぜていたり、授業紹介プリントのおまけ欄、知っておくべき偉人紹介の中に田中角栄に並んで高橋留美子が入ってたりするけど、ほんとに嫌いじゃない。

ちなみに神酒は《鋼》の権能ということもあるし、《蛇》殺しに使われているため、《鋼》よりも《蛇》に対して使ったほうが効果的。なんせ酒好きの酒天童子が泥酔するくらいだから。


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六十二話

 カンピオーネや『まつろわぬ神』は数的不利になると相手を打倒するために、力が湧いてくる。理屈を抜きにして、そういうことになっているらしい。

 しかし、護堂は一応真っ当な思考をする人間だ。少なくとも、周囲とそう変わりはないと思っている。だから、面子を揃えられるときにあえて少数で戦いに臨むような酔狂な真似はしない。

 きちんと数を揃えて、精神的にも状況的にも不利にならないように準備する。

 夏のイタリアのときと同じく、護堂は再び、他のカンピオーネと同盟を結んだのだ。

「よもや神殺しが手を結ぶとはの。くく、長生きしてみるものじゃ!」

「……あなたは、少々長く生き過ぎたようです。この場で、その命脈を絶つこととします」

 羅濠教主が、前に踏み出した。

 ゆらりと立ち上るのは、黄金の陽炎。

 明確に顕現していないが、これは金剛力士の権能だ。

「中華を代表する義兄弟にも引けを取らぬ、姉弟の絆を見せ付けるときです。草薙王」

「そうですね。あ、でも、ここにもう一人参加者がいるわけで……」

 スミスのことを完全に視界に入れていなかった羅濠教主に、護堂は事実を口にした。

 だが、それは羅濠教主にとって気に入らないことだったのか、剣呑な眼差しを向けられてしまった。

「おまえは、わたくしたちの初めての共同作業にこのような得体の知れない男を混ぜるつもりですか? 愚昧な!」

 やはり、こう言うか。

 原作でもそうだったが、羅濠教主はどこまで行ってもプライドが無駄に高い。心の中で嘆息しつつ、護堂は言葉を続けた。

「負けたときの言い訳をするために、少数で挑んでいる、なんていう謗りは免れたいじゃないですか」

「言い訳?」

「寡兵を以って多勢に相対するのは、確かに格好がいいかもしれないですけど、ここは真剣勝負の場ですから、敵にも礼があってしかるべきなのではないかと。意図して手を抜くのは、それは無礼ってもんです」

「なるほど、確かに一理ありますね。いいでしょう、その進言を受け入れます。ここは、武の正道を以って斉天大聖を打倒しましょう」

 羅濠教主は頷いてから、スミスに向き直った。

「察するに、あなたが亜米利加の王ですね。我が姓は羅、名は翠蓮、字は濠。これより我が陣中に加わることを許します。わたくしとともに戦いなさい」

「ご丁寧にどうも。ジョン・プルートー・スミス。微力を尽くしましょう」

 スミスは上から目線の共闘宣言に、さほど不快感を見せず、無難に応じた。

 顔が見えないから、なんとも言い難いが、おそらくは割り切っているのだと思われる。

「くくく、さてさて……では、それがしから相手を選ばせていただこう。鄙にも稀な嫦娥の如き神殺しよ。それがしの相手は、お主こそが相応しい」

 下卑た視線を羅濠教主に向けながら、猪剛鬣はにやりと笑う。それが、羅濠教主には甚だ不快でならない。

「孫悟空の側近にして、北極紫微大帝に仕えた武神。広く民の信仰を集めた神格でありながら、このような卑賤の身に墜ちるとは……恥を知りなさい」 

 羅濠教主はそもそも、日本に自国の英雄神が捕らえられていることを恥と思い討伐に来たのである。自国の英雄神の一柱が、助平な姿を曝していたら、それは真っ先に殲滅対象にするだろう。

 黄金の拳が、向かってくる猪剛鬣を殴り飛ばした。

 『大力金剛神功』は、怪力の権能。

 護堂を追い詰めた羅濠教主のメインウェポンであり、必殺の権能なのだ。

「ふむ、教主がそちらに向かったか。すると、順当に行けば私の相手はあちらの鬼神になるのだろうな」

 バイザーで隠れた顔を、スミスが深沙神に向けた。

 水の竜に跨る鬼神は、水を使役する水神なのだ。

「さすがは『まつろわぬ神』。姿形で判断はできないか。力技でくるタイプだと思ったが、そうではないらしい」

 深沙神は地上にいる護堂とスミスをあざ笑うかのように竜に跨り空を舞う。

 四海竜王を率いたこともある水の神。日本では河童の印象が強いが、いずれにせよ、水と縁深い神なのだ。地上にいたのでは、空の相手に対して不利である。

 こちらからの攻撃は届かず、相手から一方的に攻撃を受け続けることになるからだ。行動の自由度も、三次元的に動ける空のほうが高い。

 だが、その程度で敗北を喫するようではカンピオーネは名乗れない。

 スミスが纏う黒いコートが大きく膨れ上がる。

「空は君だけの舞台ではないぞ。さあ、私の変化の秘奥をご覧に入れよう。付いて来られるかな?」

 仮面の下でほくそ笑み、スミスは嘯いた。

 スミスが持つテスカトリポカの権能は、『贄』を捧げることで五つの姿に変身する『超変身』。今回は地震を引き起こす代わりに黒き魔鳥に変身した。翼を広げれば十メートル近くになる巨体だ。呪力の風に乗って、黒き魔鳥は高々と舞い上がる。

「身共も甘く見られたものですね。その驕り、御自身の命で贖うことになりますよ」

 水竜が大口を広げて、スミスを追う。

 秋の青空を舞台に怪獣の大決戦が繰り広げられる。

 羅濠教主とスミス。二人のカンピオーネが二柱の神と激しく相食む中にあって、護堂と斉天大聖はいまだに立ち位置を変えていなかった。

「結局はお主か。草薙の」

「いいじゃねえか。ちょうどいいところに落ち着いたと思うぞ。俺は」

 羅濠教主にしろ、スミスにしろ、部外者なのだ。この騒動の原因は羅濠教主ではあるが、それはもうどうでもいいことである。重要なのは、ここが日本であり、斉天大聖を数百年に渡って封印していたのが日本の呪術組織だったということである。

「ペットの手綱が切れた以上は、そいつが引き起こす事件は飼い主の責任だからな」

「は、よう言うわ。お主を殲滅した後は、我が人間に鎖をつける番じゃ。手始めに、お主の巫女たちから手篭めにしてやろうかの――――とおッ」

 甲高い金属音。

 護堂が閃電の如き速度で槍を射出し、斉天大聖が如意金箍棒で弾いたのである。

「そう怒るな。悪いようにはせんよ」

「猿が調子に乗るんじゃない」

 斉天大聖の軽口を聞いて、護堂の胸に湧き上がったのは純然たる怒りの念だった。

 頭は冷静なままに、燃えるような怒りは無数の剣となる。その刃は黄金に輝き、分不相応な発言をした愚者を始末せんと殺意の切先を向ける。

「ふふん、いい目をするようになったの。やはり、戦士はそうでなければ。荒ぶる魂こそが、我らの戦いを彩るのよ」

 

 

 剣が空気の壁を突破して斉天大聖に襲い掛かる。

 数えることすら無謀とも思える剣の群れは、人間には視認するのも困難な速度で獲物に喰らい付かんとする。

 雷鳴の如き地響きと、視界を覆うほどの粉塵。

 突き立つ剣に掘り起こされた地面は、一瞬前の落ち着いた景観を想起させることは、もはやない。

 雨霰と降り注ぐ剣の間を縫うように、斉天大聖が翔ける。

 これが有象無象の輩であれば、切先を向けられただけで戦意を失ってもおかしくはない。しかし、護堂と相対するのは中華が誇る大英雄、斉天大聖・孫悟空である。この程度は逆境とも思わない。鋼の肉体はあらゆる刃を弾き返し、敵を打ち砕くだろう。生来の俊敏性は、数多の敵を翻弄してきた斉天大聖最大の武器でもある。

「チィ、攻めきれんの」

 だが、その斉天大聖が、苛立たしげに呟いた。

 護堂が湖水に混ぜ込んだ神酒によって、斉天大聖の権能は弱体化している。致命的ではないが、身体は重いし、防御力も低下している。

 思い通りに動けないのは、なかなかストレスが溜まるものだ。

 武器と武器が火花を散らし、呪力が爆散する。

 護堂は戦闘開始から一歩も動かず刃を撃ち続け、斉天大聖は機敏にこれをかわしながら円を描くように護堂に迫る。

「我は鉄を打つ者。我が武具をもって万の軍をまつろわせよ!」

 護堂が呪力を高めて、生み出したのは網だ。魚でも捕るように、斉天大聖を包み込んだ。

「おおう、面妖なことを!」

 神速には僅かに届かない。それでも相当な速度だが、祐理の協力を得た護堂は、斉天大聖の動きに合わせて攻撃することができるのだ。

 網は見事に斉天大聖の身体を包み込み、絡まって身動きを封じた。

「くたばれ!」

 殺到する無数の刃。

 今の斉天大聖の身体では、完全に防ぎ切ることはできまい。ならば、避けるしかないが、動こうにも動けない。

「甘いわ、草薙の。我は、呪法の神でもあるのじゃぞ!」 

 言い放つや、斉天大聖は自らの身体を小さく変化させた。網の目よりも小さな身体になったことで容易に脱出してしまう。

「くそッ!」

 劣勢になったのは護堂だ。

 今の一撃で、勝負を決めようとしていたために、滞空させていた剣群のうちの半数以上を一気に解き放ってしまったのだ。

 これまで、攻撃と防御を同時に行ってきたのだが、これで守りの手数が減った。

 攻撃すればするほど、守りが減る。しかし、攻撃しなければ、一瞬にして攻め込まれてしまう。新たな武具を生成しようにも、時間が足りない。

「ハッハーッ。隙ありじゃ!」

 斉天大聖が、如意金箍棒を回転させながら突き進んでくる。弾幕が薄くなったことで、回避から攻撃に転換したのだ。

 鋭い突きが、護堂の肩を掠めた。

「つ、あ……」

 嫌な音がした。おそらく、鎖骨辺りが砕けたのだろう。戦闘中だからか、痛みはそれほどでもない。行動に支障が出るのなら、若雷神で治癒する必要があるが。――――むしろ今は、斉天大聖が接近してきたこの時を攻撃に活かすべきだ。

「天叢雲剣ッ。力を貸せッ!」

 護堂は斉天大聖とのすれ違い様に前に出る。

 地面を力強く踏む。

「神威よ轟け。万象を打ち震わせる調べとなれ!」

 

 

 キンッ――――

 

 斉天大聖の人間以上の聴覚が、不愉快な高音に苛まれたとき。

 護堂を中心とした半径五メートルほどの世界が消し飛んだ。

 大地も、木々も何もかもが、瞬時に粉塵になってしまう。

「ぬううッ!」

 斉天大聖も無傷ではない。

 危険を感じて飛び退いたが、完全に避けきれたわけではなかった。右腕に無数の裂傷が生じ、血が流れ出ている。

「奇妙な技をッ!」

 斉天大聖は護堂に踊りかかる。フェイントを駆使し、速さと技で翻弄する。一瞬先が読めていても、護堂は、付いて行くのがやっとである。

 

 

 キン

 

 

 キン

 

 キン

 

 甲高い音が、斉天大聖の耳朶を打つ。

 護堂が足を動かし、腕を振るい、息をする。あらゆる物音が、指向性を持って斉天大聖を責め苛む。

 そう、これは超音波。対象を高速で振動させることで粉砕する力。天叢雲剣と鳴雷神が合わさって生まれたフォノンメーザーである。

「熱っつうッ!」

 ゆえに、超音波を受け続けた斉天大聖の表皮は激しく熱せられる。そして、振動は鋼の肉体を通り抜け、その内部に達するのだ。

 慌てて距離を取る斉天大聖。

「ええい、キンキンとうるさい技じゃ。これでも喰らえ」

 斉天大聖は地面を思い切り打ち砕き、跳ね上がった岩塊を護堂に向けて投げ飛ばす。

 護堂は、向かってくる岩塊に、超音波を叩き付けて粉砕した。

「それ、そこじゃ!」

 粉塵を潜り抜けて、斉天大聖が飛び込んできた。

「う、と」

 仰け反って突きをかわす。

 神速の突きから、鞭のような横薙ぎへ。切り返しが非常に上手い。護堂はそれを槍で受け止める。

「重ッ……」

 怪力の権能を持たない護堂では、当然それを受け止めることなどできなかった。跳ね飛ばされて地面を転がる。

 《鋼》の弱点は鉄をも溶かす超高温。振動攻撃は確かに斉天大聖にダメージを与えているが、致命傷を与えるには攻撃力が不足している。

 とはいえ、臓器に直接打撃を与えたようなもの。動きは確実に鈍っている。

 斉天大聖の身体には、確かにダメージの蓄積がある。

「ッ……」

 腕が痺れるように痛い。

 護堂のほうも、身体が悲鳴を上げている。

 しかし、神速に近い速度で動き回る敵を相手に、若雷神の化身で回復している余裕がないというのが現状だ。

 回復している傍から、殴られたのでは堪らない。

「まだ、いけるか?」

 右腕の相棒に、護堂は問いかける。

 天叢雲剣にはまだ踏ん張って欲しい。敵の権能を吸収して、利用するよりも、護堂の権能を取り込んで融合するほうが天叢雲剣にとって負担が大きいのだ。すでに、二日間で二度、権能の融合を行っている。おまけに、つい一分ほど前まで鳴雷神の化身と融合させていたのだ。

 護堂の問いに、右手に宿る天叢雲剣は、戦の高揚とともに是と返してきた。

 さすがは最源流の《鋼》に列なる剣。こと戦に限って言えばとことんまで貪欲である。

「じゃあ、いくぞ」

 天叢雲剣に力を集中し、聖句を唱える。

「燃え立つ炉に鉄をくべよ。剣となりて敵を討て。地獄の門は今開く。我は、煌々たる火を以って万象を包まん!」

「ごちゃごちゃと何を言っておるか! 草薙の!」

 斉天大聖がジグザグに飛び跳ねながら護堂に迫る。突き出すのは必殺の如意金箍棒。護堂の両腕が黒く染まる。それは、まるで灼熱の劫火を背後に背負った男の影を思わせた。

 斉天大聖の攻撃に合わせて、護堂が拳を繰り出した。

 殴りかかっても当たらないことは百も承知。突き出された如意金箍棒の進路上に置くように、握り締めた拳を前に出す。

 伝説に彩られた大英雄の武具。

 一撃喰らえば即死もあり得る強烈なものだ。護堂には肉体を硬質化する権能はない。つまり、本来ならば斉天大聖の攻撃を生身で迎撃するなど狂気の沙汰なのだ。

 護堂の拳と斉天大聖の如意金箍棒が激突する。

 紅蓮の花が大気に咲いた。

「んなァ!?」

 驚愕の声を上げたのは斉天大聖。

 護堂が横薙ぎに拳を振るうが、これを身を捻って回避した。

「草薙の。お主、我の秘蔵の武具をよくも……」

 斉天大聖が、ギリギリと歯を食いしばる。苛立ちを隠すことができていない。護堂の身体を破壊しつくすはずの如意金箍棒は、その半ばから完全に消失している。先端は奇妙な形に変形し、赤々と熱を放っている。

 そして、護堂の足元には血よりも赤い、紅蓮の液体が地面を焼いている。

 護堂の拳に触れた瞬間に、如意金箍棒は融解してしまったのだ。

 護堂は斉天大聖の恨み言には付き合わず、前進する。振り上げるのは、炎と黒煙を纏った大型の槌。

「おおッ!」

 斉天大聖が、大槌を如意金箍棒で受け止める。接触点から徐々に赤みが広がっていき、ずぶずぶと大槌がめり込んでいく。

「な、なんという熱!」

 飛び退こうとする斉天大聖の横っ腹に大槌を叩き込んだ。

 ズブリ、と大槌がめり込んだ。

「うおあああちゃあッ!」

 斉天大聖の腹部が赤く焼けただれる。

 《鋼》の神格が弱点とするのは、鉄をも溶かす超高温。

 天叢雲剣と火雷神のコラボレーションは、製鉄の力。鉄を溶かし、打ち、整える。灼熱の打撃である。

 炎の大槌の扱いは、相棒に任せ、護堂は『強制言語』に集中する。斉天大聖の動きの先を読み、攻撃を加えていく。

 如意金箍棒を叩いて、逆棘状に改造する。当然、棘は持ち主のほうに向かって伸びる。

「ぬ、ぐぬうッ」

 自分の武器によって、斉天大聖は傷ついた。

 その隙に、護堂は足元に落ちていた剣を、ゴルフボールのように打つ。燃える弾丸が、斉天大聖に向かって飛んでいく。

 もちろん、それで撃ち抜けるほど、斉天大聖は甘くない。当然のように跳んで避ける。だが、燃える鋼は、空中で形を変えて膜状に広がった。溶けた鉄に包まれる斉天大聖。網ではないので、小さくなって逃れることもできない。

「あっちゃあああ!」

 液状の鉄が、斉天大聖の身体に纏わり付く。

「こ、こりゃ、堪らん! 二弟、三弟。合力せい! 三相一体となって、神殺しどもを一掃するんじゃ!」

 赤い繭の中から聞こえたその言葉に、護堂は慌てて第二撃を放つ。地面を叩いて融解した大地の津波で斉天大聖を押し流そうとしたのだ。だが、赤い津波を妨げるように、岩盤が盛り上がる。斉天大聖の呪術で、地面が隆起したのだ。目視しなくても外の様子がわかる。千里眼の能力か。

 そうしている間に、斉天大聖の呪力が爆発的に上昇する。そして、斉天大聖の呼び声に応えた二神が現れ、それぞれが、適した姿に変身する。

 猪剛鬣は巨大な大猪に、深沙神は東洋竜となって斉天大聖を守る。

「くそッ。これだけ強まると、神酒の効能も破られているかな」

 斉天大聖の力を弱めていた神酒の権能も、さすがにここまで強大化した相手には効き難い。新たに飲ませるなりすれば、話は別だが、そんな隙はないだろう。

「ふむ、あれが斉天大聖の真の力ということか。ギリシャの女神たちに見られる三相一体。なぜ、彼にも同じような性質があるのか、気になるところだ」

「姿形すら畜生に成り果てましたか。つくづく浅ましい限りです」

 スミスと羅濠教主が、それぞれの敵を追って護堂の下にやってきた。

「二人とも、余裕そうだな……」

 スミスも羅濠教主も、ほとんど怪我をしていない。互角以上の戦いを演じていた証である。

「無論です。斉天大聖ならばまだしも、あのような従属神程度の輩に遅れを取る羅濠ではありません。草薙王。まさか、あなたは、このわたくしを愚弄するのですか?」

「あ、いや。そんなつもりじゃなかったんですけど。先達の強さを再認識しただけです」

「ふむ。ならばいいでしょう。これよりは、戦場を同じくします。義弟よ。義姉の力をしかとその目に刻むのですよ」

 柔らかな視線を向けて、そう羅濠教主は護堂に言った。

 敵は三柱。羅濠教主一人に戦わせるわけにはいかない。それに斉天大聖は、護堂の敵なのだ。これは譲れない。

 斉天大聖は、大猪に見合う体格にまで身体を肥大化させている。素早さが損なわれないギリギリの大きさで、カンピオーネたちを速度と力で薙ぎ払おうとしているのだ。

「それ、いくぞ。神殺しども!」

 猛烈な突進。野生の猪の突進は、人間を殺害するほど強力だが、それが従属神クラスで、しかも巨体となると、体当たりの威力はジェット機の衝突に比肩しうるものになるだろう。

 ケルトの雄、ディルムッド・オディナを殺したのは猪であったし、ギリシャ神話にはカリュドンで大暴れした猪の話がある。そして、原作で大活躍のウルスラグナの猪の化身と、猪に纏わる伝説は世界各地に存在する。

 突進力は、極めて高い。おまけに、斉天大聖は猪剛鬣に騎乗している。斉天大聖を構成する数多の神話群の中でも、彼に剣神としての側面を与えたのは遊牧民族のスキタイである。大地に突き立つ剣のモチーフは、洋の東西に広がり、大きな影響を与えた。

 斉天大聖の騎乗は、彼が取り込んだモチーフを窺わせる。

「それッ!」

 いつの間にか、斉天大聖の手には、如意金箍棒。神力で作り直したか、新たに呼び出したかしたのだろう。

 護堂は大猪とのすれ違い様に放たれた打撃を、大槌で打ち返した。

「ぐ、う……」

 が、今回の如意金箍棒は一味違う。赤くなったが、融解はしていない。斉天大聖の呪力が上昇したことで、武器の神力も上昇したと考えるべきだろう。

 このまま受けては、身体が持たない。護堂は斉天大聖の力を流すように半回転してから、地面を転がった。

 そこに、羅濠教主の金剛力士が現れる。大猪の突進を、正面から迎え撃った。阿吽一対の大怪力が、大猪の力を見事に受け止める。斉天大聖は、慣性を無視せず、前に飛び、金剛力士を飛び越えて無数の毛を針としてばら撒いた。

「ええい!」

 護堂が地面を大槌で叩く。沸騰した大地が盛り上がって三人の神殺しを針の散弾から守り抜く。

 針の雨が止んだところで、スミスが黒き魔鳥に変身する。力技が苦手なスミスは、空中から斉天大聖を翻弄しようとしているのだ。だが、その進路を阻む者がいる。竜と化した深沙神だ。魔鳥の飛翔速度に勝るとも劣らない速度で、空を翔ける。

 スミスはこれまでに全六発中五発の『アルテミスの矢』を使っている。深沙神の復活は想定外のことであり、これまでの戦いから手の内をほぼ知られていると言っていい。

 スミスが飛び上がったとき、斉天大聖は金剛力士の背後を取っていた。得意の棒術で数え切れないほどの打撃を金剛力士に叩き込む。そうすると、大猪を抑えておけない。猪剛鬣は首を振って金剛力士を振り払うと、力強い後ろ足で大きく跳んだ。狙いは上空のスミスだ。

「させるかッ!」

 護堂が駆け寄り、大槌で大猪の後ろ足を打つ。肉を焼き、血が沸騰して吹き出した。

「アアッッチチチッ」

 空から悲鳴が降ってきた。

 止められなかったが、跳躍のコースは大きくずれた。スミスは竜を振り切って地上に降下。斉天大聖は、一直線に羅濠教主に挑みかかり、神速の攻防を見せる。

「ほう、この孫さまと武で張り合うか。やるではないか、同郷の神殺し」

「あなたほどの英傑からの賛美、ありがたく受け取りましょう」

 もはや目で追うことすらもできない棒と拳の攻防。リーチの長さでは羅濠教主が不利だが、彼女の立ち回りはそれを感じさせない。

 一瞬で、数合。目で追っているうちに数百合を打ち合った。斉天大聖の動きは、護堂と戦っていたときよりもずっと鋭くなっている。

 攻防の中で、ついに羅濠教主の肩を斉天大聖の如意金箍棒が捉えた。バランスを崩した羅濠教主の頭蓋を叩き割らんと、一撃が迫る。

「ハアッ!」

 斉天大聖を真横から裸体の巨人が殴り飛ばした。二対の金剛力士は猪剛鬣が跳んだことで、自由に動けるようになっていたのだ。

 上空で、激しい爆発が起こり、黒い怪人が再び地上に舞い降りてくる。

 三人のカンピオーネが自然と一列に並んだ。

「ふう、やれやれ、苦戦させてくれる」

「ギブアップか?」

「まさか。ちょうど盛り上がってきたところだ。我々の勝利を飾るのに、これほど都合のいい展開もあるまい」

 ダメージを受けていないということはないだろう。それでも無様に地に伏すことをよしとするわけがない。カンピオーネとは、総じてそのような生物だ。

 斉天大聖、猪剛鬣、深沙神。三柱の神が、再び護堂たちと向かい合う。

「あんた、噂によると炎の攻撃があるそうだな?」

「ん? ああ、あるが」

「そいつで、決めよう。俺と義姉さんであいつ等を止める」

 護堂は、そう言うと、羅濠教主の様子を窺った。

 案の定、共闘には不服といった表情である。

「三対三で戦おうって、最初に言ったじゃないですか。相手が義兄弟で共闘するのなら、こっちも仲間で共闘するのがベストですよ」

「む、仕方ありませんね。スミスとやら。確実に斉天大聖たちの息の根を止めるのですよ」

「大船に乗ったつもりでいてもらおう。私はできないことをできるとは言わない主義でね」

 黒いコートを翻し、ロサンゼルスの怪人は再度魔鳥へ変身する。空へは行かず、低空を滑空するように飛ぶ。反応したのは、当然、深沙神。これまでと違うスミスの動きをいぶかしみながらも鎌首を擡げてスミスを追う。

「ぬを!?」

 その鼻先を、黄金の刃が通り抜けていく。

 護堂の槍だ。

「ぐ、く……」

 権能の複数同時行使。想像以上に頭に響く。吐き気も凄まじい。祐理に向かう負担も、極めて大きなものになるだろう。

『草薙さん。……わたしなら、大丈夫です。お気になさらず、斉天大聖さまを』

 脳裏に響く、祐理の声。

 その声に後押しされ、護堂は三挺の槍を生成する。

 射出するのか、と三柱が身構えたとき、弾丸のような速度で駆け出したのは羅濠教主。黄金の金剛力士を従えて、三神に突貫する。その背に向けて、護堂は槍を放つ。羅濠教主を迎え撃とうとする三柱の前に着弾し、土煙を上げた。

「見事な武器ですね。草薙王」

 その槍を掴んだのは、羅濠教主と二対の金剛力士。

「むう!!」

 斉天大聖が目を剥いた。

 神業とも思える槍術が、斉天大聖の身体を強かに打ったのだ。さらに、金剛力士たちが、それぞれ猪剛鬣、深沙神と相対する。

 羅濠教主は、たった一人で、三柱の神を押さえ込もうとしているのだ。

 しかし、二世紀に渡って武林の頂点に君臨し続けてきた彼女の武芸は、斉天大聖と互角に打ち合えるほどだ。その手には護堂が渡した槍があり、斉天大聖の武器とリーチで劣ることはない。

 槍は、中国において最強とされる武器。羅濠教主が最も好む武器である。

 繰り出される絶技の数々。

 三柱の神々は、その場に釘付けにならざるを得ない。斉天大聖は、まだ互角。しかし、その義弟たちはそうもいかない。大猪と化した猪剛鬣は、槍を避けられるほどの機動力がなくなった。突進できれば、巨体を活かせるのだが、金剛力士はそれをさせない。深沙神も同じ。もともと筋力で戦うタイプではない彼にとって、羅濠教主の金剛力士に接近戦を許した時点で劣勢になるのは否めない。

 

 羅濠教主が敵を足止めしている間に、護堂は、足元に転がっている刃を叩く。護堂が今まで散々射出してきた一目連の刃たちだ。叩かれた刃は真っ赤に融解して、斉天大聖に灼熱の触手を伸ばす。羅濠教主が大きく後方に跳躍し、入れ替わりに超高熱の液体が斉天大聖たちに襲い掛かった。

 熱が熱を伝え、数百からなる刃がすべて融解する。さらに護堂は、地面を叩き、木々を叩き、岩を叩いた。大槌に触れられたものは、すべて燃え、溶け、形を失い作り変えられる。地面は沸騰し、溶けた鋼の刃と同化、溶岩の池を形成する。

「うおおおお、こいつは!」

「こ、これはまずいでござるぞ、兄者!」

「落ち着きなさいませ、大兄、二兄!」

 慌てているが、もう遅い。

 溶岩は大猪の身体を絡めとり、竜に纏わりつく。動きを封じるだけでなく、溶岩の中に溶かし込もうとしている。まるで、食虫植物のようだ。引きずり込んだ獲物を、消化しているかのような光景。

「厄介なことを!」

 地面が底なし沼ならば、空に逃げてしまえばいい。

 斉天大聖は、赤い触手を潜り抜け、大空へ自由を求めた。だが、この動きに真っ先に反応した者がいた。

 黄金の金剛力士である。

 羅濠教主と同等の武芸を誇る彼らは、溶岩の池に槍を突き刺し、その石突の上に立つことで巻き込まれるのを防いでいた。恐るべき武芸であるが、この金剛力士が、小さな足場から斉天大聖に跳躍する。

「ぬうあ!」

 怪力の化身である金剛力士の攻撃を、そうではない斉天大聖が正面から受け止められるはずがない。

 真上からの手刀の一撃を、辛うじて如意金箍棒で防ぐが、そのまま溶岩の中へ叩き落された。

「ぐあああああ!!」

 護堂の神力が溶岩を動かし、斉天大聖を逃さない。

 そして、この一瞬のために控えていた黒き魔鳥が、颯爽と現れる。

「滅びのために、我が大業を数え上げよう。我は終末を呼ぶ夜の斧。世界終結の幕を下ろす、黄泉よりの使者!」 

 黒き魔鳥の身体がほつれる。

 己の身体を焼き、敵を滅ぼす殲滅の炎。実体がないために、この状態のスミスを攻撃することは難しく、触れれば黒き炎に焼き尽くされる。

 地獄の溶鉱炉の中に、災厄の炎が投じられた。

 《鋼》を溶かす、大火力。

 さすがの斉天大聖も、この炎には勝てなかった。

 断末魔の叫びを上げて、融解した大地の中へ沈んで行ったのだった。



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六十三話

 斉天大聖が滅び、日光での戦いには終止符が打たれた。

 護堂とスミスの炎が作り出した地獄のような炎は、信じられないほど速やかに鎮火し、今は秋のさわやかな涼風が戦場を吹き抜けている。

「うむ。長年の懸念であった斉天大聖を討伐できて爽快な気分です」

「被害も景観程度で済んだか。『まつろわぬ神』が暴れたにしては、比較的少ない被害だ」

 羅濠教主とスミスはこのように言って、斉天大聖討伐を好意的に評価した。結果として誰も権能を得ることがなかったので、この件で得をしたのは斉天大聖と戦いたかった羅濠教主だけだろう。スミスに関しては、なし崩し的に関わってしまっただけの部外者なのだ。

「もともと関係のない事件に協力させてしまって、すまなかったな」

「何、気にすることはないさ。今回の件はイレギュラーだったとはいえ、斉天大聖の復活に、私が取り逃がしたアーシェラが利用されたことは事実だ。この時点で、私が関わっても不思議ではないだろう」

「そういうものか?」

「ようするに、私は私で、己の獲物を狙ったに過ぎない。たまたま君と相手が重なってしまったがね」

「ふうん。けど、神殺しまで手伝ってもらったわけだし、借りができたようにも思うんだよな」

「そうだな。君がもしも私に借りを感じているのであれば、ちょうどいい。いつの日か君をロスに招待させてもらおう。君が持つ、魔術破りの力を必要としている人が大勢いるのでね」

 スミスが言っているのは、アルテミスの呪力で獣に変えられてしまった人々のことだろう。

 斉天大聖殺しを手伝ってもらったことへの礼に、ロスで人助けをしてくれないか、という誘いだった。

「そんなことでいいなら、やるぞ。だけど、俺がロスに行っていいのか。自分でいうのもアレだけど、これでもカンピオーネの端くれだぞ?」

「問題ない。この一件を見ても、君は日光から人払いをするなど被害を最小限に抑える事前準備ができる男だ。ロスに招待するのに、差し障りがあるとは思えない」

 確かに、戦いに備えて市民の安全を守ろうと行動するカンピオーネはそれほど多くない。護堂とスミスがその筆頭なので、そういった点に関しては価値観が似通っているのだろう。

 思わぬところで、盟友を得た護堂は、自然な動作で差し出された右手を握り返した。

「さて、役者は舞台から去る頃合だ。麗しの教主殿も、お健やかに過ごされよ。また見える日が来るかはわかりませんが、あなたと矛を交えたくはないものです」

 そう言ってスミスは羅濠教主とも握手を交わした。

 握手という文化に、中国の山奥に二百年ほど閉じこもっていた羅濠教主は抵抗があったのか、胡乱げな視線を向けたが、知識としてそれが挨拶だということを知っていたようで、護堂が直前にやっていたこともあり、それに倣ってスミスの手を握り返したのだ。

 そして、スミスは手を離すや変身を始める。黒き魔鳥となって、空高く舞い上がっていった。徒歩で帰るという選択肢はなかったようだ。その去り方も、彼のスタイルを貫いた結果なのだろう。

「では、義弟よ。義弟であるあなたを残して去るのは忍びないのですが、仕方がありません。姉は廬山に帰ります。次に見えるまで、しっかりと精進を重ね、我が義弟として恥じない男になるのですよ」

「なんというか。本当に世話になりました。義姉さん」

 多少皮肉を込めて、護堂は言った。今回の一件は、すべて羅濠教主に起因する事件なのだ。皮肉の一つも言いたくなるところだ。しかし、困ったことに、羅濠教主を憎く思えないのもまた事実。きっと、護堂は好意を向けてくる相手には甘いのだ。たとえ殺しあった相手でも、それを引きずることなく接する。それが、護堂の美徳といえた。

「義弟よ。あなたは、わたくしに打ち勝ち、斉天大聖の封印から救うといういまだかつてない偉業を成し遂げました。先ほど、スミスとやらと貸し借りの話をしていましたが、わたくしにはあなたに返さなくてはならない借りがあります。もしも、これから先、あなたが義姉の力を必要としたならば、何なりと申し出なさい。地の果てにでも駆けつけ、合力しましょう」

 そして、羅濠教主は花びらを撒き散らしながら消えていった。

 二人の王が、日光を離れ、護堂は一息ついた。

 戦場は荒れ果てながらも、整備をすればなんとかなりそうだ。もともと人が立ち入るような場所ではないし、スミスが漏らしていたように、被害は自然破壊だけで済み、被害額という観点ではほとんどゼロに近い数字が出るだろう。

「清秋院たちは、大丈夫だろうか」

 祐理が念話をしてくれたので、全員の無事は確認できているのだが、それでも直接会うまでは安心できないでいた。

 そこで、戦友たちも去ったことだし、護堂は、早急に仲間の下に帰ることにした。

 

 

「我が師と義兄弟の契りを結ばれたようで、弟子陸鷹化。師叔にお祝い申し上げます」

 護堂が車を停めていた中禅寺湖の畔に戻ってくると、真っ先に鷹化が抱拳礼で恭しい口上を述べた。

 師叔は師父の弟弟子に対する呼び方だったか。護堂は別に羅濠教主の師父に弟子入りしたわけではないので、師叔の呼び方は不適当だ。そのような旨を告げると、鷹化はなるほどと頷いて、

「では、叔父貴と呼ばせていただきます」

「ん、まあなんでもいいけど、やっぱり、それヤクザっぽいな」

「無頼漢をまとめる師父はヤクザの大親分みたいなもんですからね。師父と義兄弟の契りを交わされたからには、目上に当たりますし、滅多な呼び方はできないんですよ」

 羅濠教主が義兄弟の契りを交わすことなど、今までなかったことだ。それだけ、護堂のことを気に入っているということであり、そんな護堂に無礼を働いたとなれば、鷹化は明日の朝日を拝めなくなるかもしれない。古い時代の考え方をする羅濠教主の教えは、挨拶から体育会系を上回る厳しさなのだろう。

「君も大変だな」

「まあ、慣れてしまえばどうということはありませんよ。それでは、僕はこれで失礼いたします」

 最後に一礼して、鷹化は翔け去った。さながら一陣の風のように、あっという間に姿が見えなくなる。

「車に乗っていきゃいいのに」

 アニーの姿もない。スミスとして別れを告げたことで良しとしたのだろうか。

「先輩。お身体のほうは大丈夫ですか?」

「ん、ああ。思ったよりも大丈夫だった。スミスや羅濠さんに助けられたからかな」

「それは、よかったですね。羅濠教主がいいお義姉さんで」

 淡々とした晶の口調に、護堂は若干の違和感を覚えた。

「あの、晶さん……?」

 ぷい、と目を逸らした晶の隣から、恵那が呆れ混じりの表情で口を開いた。

「なんというか、あれだねー。さすが、王さまとしか言いようがないよ」

「清秋院。そりゃ、どういうことだよ」

「羅濠教主にまで取り入っちゃうんだから、そういうことにもなるよ。神殺しならぬ女殺し」

「そんなことを言うの、本当に止めてくれるか!?」

「とりあえず、そのあたりの話は、ホテルに戻ってからしましょう。万里谷先輩も含めて」

「本当に、やましいことはないからな!」

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

「わたしも驚きました。もちろん、羅濠教主が草薙さんを義弟と呼んだこともそうですが、何よりも草薙さんが、それを普通に受け入れていらっしゃることにです」

 ホテルに戻った晶と恵那は、真っ先に祐理の部屋に向かった。本当は、羅濠教主の件を護堂に問い詰めたいところだったが、帰ってきた護堂にひかりが駆け寄り、身体の状態を尋ね、戦勝を祝ったことで問い詰められる雰囲気ではなくなってしまった。ここで、年上の恵那と晶が護堂と羅濠教主の関係を問うことは、ひかりに比べて女性として劣る、というような評価がされても仕方がないからだ。

 そのため、とりあえず事情を知っているかもしれない祐理の下に集結する運びとなった。ひかりは護堂のところにいるし、小学生抜きに話をすべきだ。そう判断した。

 祐理が護堂に精神感応を施したのは、戦略上仕方がないと、その場は割り切った。そして、精神感応のおかげで、護堂の行動は祐理にも視える。羅濠教主が護堂を如何にして義弟としたのか、その一部始終を祐理が視ているかもしれないのだ。護堂に聞けないのなら、護堂の行動を視ていた祐理に聞けばいい。そう思ったのだが、結果は芳しくなかった。

「万里谷先輩がわからないとなると、先輩が羅濠教主と仲良くなったのは、このホテルにいた昨日の夜の間ってことになりますケド。このホテル、一応結界で守られてましたよね?」

「そうは言っても、人間の結界だからねー。あの人なら、簡単に侵入できそうだよ」

 恵那がそう言うと、残る二人は沈うつな表情を浮かべた。

 羅濠教主なら、ありえることだからだ。

 羅濠教主は護堂に敗北した。自らに土を付けた護堂に興味を抱いても不思議ではないように思える。そして、護堂以外に悟られることなくホテルに現れ、そこで何かしらのやり取りがあった末に、義姉弟の契りを結んだ。この流れならば、筋が通る。

「ん、でも、『わたくしよりも強い男を婿に迎える』とか言い出さなかっただけよかったんじゃない?」

「それは、確かに」

 羅濠教主が護堂のことを気に入っているのは、間違いない。少年漫画にありがちな思考回路をしていることも、彼女の言動の端々に見受けられた。鷹化から聞いた話も、それを裏付けるものだった。だから、護堂を婿に、という流れも否定しきれない可能性の一つだった。

 羅濠教主が、愛人関係を許すかどうかわからないが、許さないのであれば、恵那は護堂の女にはなれない。祐理や晶もそうだ。よって、羅濠教主が護堂に異性として興味を抱くのかに関しては危機感を覚えてしまうのだ。

「義姉弟で収まったのはよかったかもしれません。ヴォバン侯爵やサルバトーレ卿のように、出会った途端に戦端が開きかねない関係性よりはずっといいですから」

 祐理の言葉に、恵那と晶は頷いた。

 羅濠教主の拠点は中国。日本の護堂とは隣り合っている。航空機の発達で世界中どこにでも行けるので、距離自体はそれほど問題になりにくいが、それでも目と鼻の先にいる相手との関係性が険悪なのはいただけない。

「ま、それでもさすが王さまって感じだけどね」

「まったくです。まさか、同格のカンピオーネにまで手を出すなんて、戦慄すら覚えます」

 へらへらとした口調の恵那と腕組みしてむすっとしている晶。

「しかし、英雄色を好むとも言いますし、王者の気風なのかもしれませんし」

 と、言うのは祐理だった。困ったような表情をしつつも、泰然としている。

「へえ、祐理がそういうことに肯定的なの珍しいね」

「いえ、別に肯定的というわけではありませんけど」

「万里谷先輩は、四回もキスしてますから、余裕があるんですよ、きっと」

「あ、晶さん! どうして、そんなことになるんです!?」

 晶がジト目で告げた言葉に、祐理は真っ赤になった。

「いや、でも祐理のキスだって、王さまに意識がない状態でしたのが二回だから、カウントできるのは二回だよ。恵那たちとの差は一回だけ」

「ちょっとまってください、恵那さん。一回って……それではお二人とも?」

「封印術にかかったときにね。王さまに呪力を渡すのにしたんだ」

 恵那が照れながら答えた。晶も顔を紅くして頷いた。二人の告白を聞き、祐理は今度こそ愁情とした表情を見せた。

「そうだ。キスといえばアッキーに聞きたかったことがあるんだけどさ」

 恵那が手の平を握った拳で叩くという古典的な表現で、閃いたという仕草をする。

「はい? なんでしょうか?」

 恵那は、晶の傍に近寄って声を殺して囁いた。

「ここだけの話、舌を使うのってどうだった?」

「な、ななあわあ」

 言葉にならない悲鳴を上げて、晶は恵那から距離を置いた。

「な、なんでそんな話を」

「だって、恵那はそこまでしなかったし。最初だったから、緊張しちゃって。それで、アッキーの感想を今後に活かそうと。どうだった?」

「お、覚えてないです!」

「嘘だあ」

「嘘じゃないです。酸欠で朦朧としてました! 清秋院さんだって、そうですよ。夢を見てたんです!」

「五分は潜水できる恵那に酸欠とかないし」

「暗闇の中で見間違うことだってあります!」

「透視術は使ってたよ? 大体あの至近距離で見間違えたりしない」

 なんとか、恵那の追及から逃れようとする晶は、助けを請うように祐理を見た。

「その、晶さん。あまり破廉恥なのはよくないかと」

 だが、祐理は晶の言い分には耳を貸さず、恵那の言い分を鵜呑みにしているらしい。

 結局、晶は誰も味方がいないまま、恵那から追及され続ける羽目になったのだった。

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 どことも知れぬ、暗闇の奥。

 土壁に囲まれた洞穴のような場所。祭壇に置かれた二つのろうそくが、妖しい光を放っていた。 

 小さな祭壇を前に、翁は座っている。

 翁は、かつては神だった。もともとは外来の神であり、およそ千年前にこの国に降臨した。しかし、呪術を駆使して自由気ままに振舞ううちに、幽界の神々の加護を受けた人間の呪術師によって『まつろわぬ神』の座を追われ、蘆屋道満という名を上書きされることで神性を封じられてしまったのだった。

「それも、今しばらくの辛抱じゃ」

 道満は、トン、と地面を枯れ枝のような指で叩く。

 すると、空間が捻れ、暗闇が延長した。そして、祭壇の後ろにさらに一回り大きな部屋が出来上がった。

 真っ暗な部屋に、道満はゆるゆると歩を進める。

 そして、部屋の奥の壁を見上げてほくそ笑む。

 道満が手を叩くと、部屋の四隅から火の手が上がった。小さな焚き火程度の炎だが、暗闇を払うには十分だった。

「それを連れてくる意味があったのか?」

 ゆらりとした陽炎が立ち上り、道満に声をかけた。実体化できていない。幽霊のような状態。いまだ神霊の域を脱していないながらも、太く固い印象を受ける男の声は、十分に力強い。

「無論じゃ」

 道満は『それ』の白い頬を撫でた。

 『それ』は、部屋の壁に下半身と腕を埋め込まれた裸体の少女だった。顔は力なく下を向き、美しい金色の髪は血と泥に塗れたままになっている。道満が触れてもピクリともしない。

「ほとんど死んでいるではないか」

「構わぬよ。力が使えればそれでいいのじゃ」

 それから、道満は印を結んで呪力を練った。

「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」

 薬師如来の小咒。薬師とは即ち医者のこと。

 少女を取り込んでいた土壁から木の根が伸びてきて、少女の身体に絡まるや、その皮膚の中に潜り込む。

 苦しげな吐息を漏らす少女は、それ以降再び反応を示さなくなった。

「何をした?」

「大地の精をこやつの体内で循環させておるのじゃ。仮にも地母神に連なる者じゃからな。これで、少なくとも一年は持つじゃろう」

「なるほどな。それで、使えるのか。それは」

「うむ。むしろ死に際して力が極限まで高まるかも知れぬぞ。瀕死は極限まで幽界に近づく状態ゆえな。それにしても、神祖が手に入ったのは僥倖じゃった。本来、使う予定だったあの巫女が神殺しの側仕えになってしもうたからの。最悪の場合、危険を冒さねばならぬかと危惧しておったが、これで、当面は彼奴との衝突を避けることができそうじゃ」

「使えるのならば、それでいい。……ところで、俺の神剣はどうするつもりだ」

 道満は、不快そうに顔を歪めた。

「儀式には用意できそうもないの。多少格が下がるが、別物で代用するか。まあ、姫だけでも十分じゃがの」

「ふん。忌々しい神殺しめ。俺が復調した暁には、最源流の《鋼》として、彼奴を切り刻んでくれる」

「今しばらく待て。星はまだ揃っておらん。南蛮の神祖のこともある。姫の回収もしばらく先じゃ。お主は、まだ寝ておれ。いざ本番となってから力が振るえぬのでは話にならぬぞ」

 道満がそう言うと、陽炎は不承不承といった様子で揺らめき、消えた。

「では、その命。今度はわし等のために使ってもらうぞ。アーシェラとやら」

 道満は愉快そうに顔を歪めると、再び空間を閉じた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 日本は四季の国と名高く、情緒的な国民性からか、季節を表現する言葉が多い。

 出典は漢籍だが、

 『天高く馬肥ゆる秋』

 などは、秋のすばらしい季節を言い表した言葉として、しばしば耳にする。

 しかし、この言葉の本来の意味は、決して秋を好ましいものとして捉えたものではなかった。

 

 『秋に到れば、馬肥ゆ。変必ずや起こらん』

              漢書、趙充国伝

 

 秋になれば、馬が肥え太る。何かしらの事変が必ず起きることだろう。

 事変とは何か。それは、戦争である。

 秋は収穫期であり、収穫物を狙って異民族が攻め込んでくるから防備をしっかりとしなければならないということである。

 現在の意味となったのは、中国北方の異民族、匈奴が滅び、一時的にせよ異民族の影響が弱まってからだという。

 

 

 

 護堂が見上げる空は突き抜けるように高く、澄みきった青さが眩しい。

 街路樹も色づき始めていて、空気も心なしか涼しさを増している。広告はハロウィンからクリスマスへと切り替わりつつあり、季節の移ろいを感じさせてくれる。

 過ごしやすい気候の心地よさに胸が浮き立つようではあるが、果たして、この『天高く馬肥ゆる秋』が、護堂に幸と不幸のどちらをもたらしてくれるのだろうか。

 この半年で騒乱に慣れてしまった護堂は、たとえ、『まつろわぬ神』が攻め込んできても、もうグチグチと言わず、粛々と討伐に乗り出す覚悟だが、中華最強の武神、斉天大聖を討ち果たしてからそれほど時が経っていないので、しばらくはゆっくりと休みたいと思っている。

 やはり、日常という冷却期間は必要なのだ。

 そして、戦いの傷も癒え、護堂は真っ当な高校生としての日々に戻ってきた。

 カンピオーネという肩書き以外にも、草薙護堂には私立城楠学院高等部一年五組に通う高校生という肩書きがある。

 最近は、漫画やアニメの登場人物のように、学生らしからぬ行動を取らなければならない場合がしばしばあるので、日常生活は、ある種の清涼剤として、護堂のメンタルバランスを整える一助となっている。

「何してんの、あんた」

 つっけんどんな言葉が真上から投げかけられて、護堂は閉じていた目を開いた。

「なんだ、明日香か。来てたのかよ」

 机から身を乗り出すようにして見下ろしてくる幼馴染に、護堂は対抗するようにつっけんどんな答えを返した。

「なんだとは言ってくれるじゃない。サボりを他の人に見咎められる前に注意してあげたのに」

「サボりじゃねえよ。うちのクラスには仕事らしい仕事はねえから寝てたんだよ……」

 護堂は頭を掻きながら立ち上がった。尻に付いたチョーク粉を叩いて払い、首を鳴らした。

「というか、なんで教室で寝てんのよ。せっかくの文化祭だってのに」

 明日香は、寝起きの護堂に呆れ顔でそう尋ねた。

 この日は、城楠学院の文化祭二日目だ。大学部の影響を受けた文化祭は、他校のそれに比べて出店のレパートリーが豊富で、参加人数も多く、東京都内の高校にしては広い敷地面積を目一杯に利用して執り行われる。そんな盛り上がりを見せる学内において、護堂のクラスは寂れていた。

 明日香は、人っ子一人おらず、ドアまで閉まっている教室内を見渡してため息をつく。

「郷土史のレポート展示なんて、文化祭でするものなの? 中学の文化祭のほうがまだ集客できそうよね」

「人を集める気ないからな、このクラスは。一番引っ張っていきそうな連中は軒並みクラスじゃなくて、別のところで忙しいし」

 三バカとして名高い連中は、学内にメイド喫茶を展開している。護堂が三バカの執拗な要求――――静花や祐理、晶にメイド服を着せたいというものを諦めさせるために、鷹化に協力を要請したのだ。香港陸家は日本でメイド喫茶を出店し、そこを日本国内の本拠とするつもりでいたために、あっさりと引き受けてもらえたのだ。

「見ての通り、わざわざ休憩室でもない、店でもない、そんなところに足を運ぶ物好きはいねえ。午前中に興味本位に人が来たくらいで、今は覗かれもしない」

「ドアを締め切ってたら、入りにくいわよ。人が来ないのは、経営方法に難があるからじゃないの」

「だったら、企画の段階から見直す必要があるわな。あと、人員整理も。やる気のないヤツが多すぎてな」

「あんたもじゃない」

「俺は教室にいるだけマシだろう。当番の連中は、勝手に出て行ったきり戻ってこないんだからな」

「で、あんたはここでぼっち生活なのね」

「ぼっちじゃねえっての……」

 護堂は、単にすることがなくて寝ていただけ。誘いもいくつかあったが、それを蹴ってここにいるのだ。人だらけでゴミゴミしているところに出るのが、億劫だったからだ。

「あんたのことだから噂の彼女と一緒にいるのかと思ってたけど」

「誰だよ、そりゃ」

「んー。何人か引っ掛けてるらしいじゃない。澤さんが言ってたわよ」

「澤? ああ、隣の。なんで、明日香が澤さんと知り合いなんだよ」

 原作では、確か明日香と澤は同じバイト先だったはずだ。だが、それを確認したわけではなく、迂闊に口に出すわけにもいかないので、尋ねたのである。

「わたし、澤さんとは同じバイト先なのよ。宮間さんも一緒。二人とも隣のクラスみたいね」

「じゃあ、そっちに行けばいいんじゃね? 郷土史なんぞ見てないで」

 護堂の言葉に、明日香は表情を曇らせた。

「ばか」

 一言呟いてから、

「あの二人は、今仕事中よ。喫茶店、かなり繁盛してるみたい」

「万里谷のクラスだからな」

 祐理が学内で人気なのは、もはや常識だ。彼女目当ての客だけでも、相当数いるだろう。

 明日香も頷いて、同意した。

「あの巫女さん、確かに美人だものね。護堂はやっぱりああいうのが好み? それとも、年下?」

「なんだよ、その限定的なチョイスは」

 祐理は巫女だし、年下も晶がいる。やけに護堂の身近な面々を髣髴とさせる問いだ。

「というか、明日香。万里谷のこと知ってんの?」

「え、ああ。まあ、伝聞? ほら、澤さんとかからさ」

「ああ、話は聞いてたのか」

 祐理は、容姿と性格と学力が揃った高嶺の花と認識されている。女子から妬みを買う真似もしないので、学内に敵はいない。そして、そんな祐理と同じクラスの澤や宮間が、噂をしないはずがなく、明日香の耳に入るのも、無理もない話だと思われる。

 しかし、妙に焦っているのが気にかかるが、そんなことを気にしても仕方がないので、護堂はその話題をさっさと棚上げした。

「てことは、明日香もぼっちじゃねえか」

「ぼっちじゃないわ! もともと午前中だけの約束だったの! 本当は、帰る予定だったけど、せっかくだからここに顔出してやったんだっての!」

「じゃあ、おまえ、これから暇なの?」

「まあ、そうね」

 明日香の答えを聞いた護堂は、ふうん、と言ってから、

「じゃ、一緒に回るか?」

「え?」

 明日香は意表を突かれたとばかりに言葉に詰まった。

「な、なんで急にそうなるのよ」

「は? いや、今はそういう流れだっただろ」

「でも、いきなり言われても困るというか……」

 オドオドとし始めた明日香は、ひどく困惑しているらしい。

「まあ、行かないなら行かないでいいけどさ」

「待ちなさいよ。誰も行かないなんて言ってないでしょ!」

「どっちだよ」

 珍しくはっきりしない明日香に、今度は護堂がため息をついたのだった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 結局、明日香は護堂と行動を共にすることとなった。

 暇と公言していたのだから、そこに予定を組み込まれても、断る理由がないのだ。もちろん、嫌なら嫌と言えばいいし、明日香ははっきりとそのように言うが、護堂から文化祭を一緒に回ろうと誘われては、否とは言えない。別に、そこに力関係があるわけではないが、護堂の存在は明日香にとって非常に重要なのだ。それにはあらゆる理由があって、明日香自身まとめて説明することなどできないが、あえて言うならば『好き』なのである。そして、噂になっている万里谷祐理や高橋晶ではなく、自分が護堂と一緒に過ごせるということに、内心で優越感に似た喜びを感じていた。

「それじゃ、まずは6組から行くか」

「なんでよ」

 護堂の意見は、真っ先に否定した。

「隣なんだから、いいじゃないか」

「噂の彼女がいるところに、あんたと一緒に顔出せるわけないでしょ! 澤さんとかだっているのよ!」

「つまり、知り合いに会いたくないってことか……」

「ジロジロと見られたくもないわね」

 護堂が異性に好かれるということくらい、承知している。顔立ちは悪くないし、成績はダントツだ。運動神経だっていい。性格的に表に出て引っ張っていくということがあまりなかったので、知名度が高いわけではなかったが、彼と触れ合って不快な思いを抱く女子はほとんどいなかったと、明日香はかつてを振り返る。

 今までは特定の女子と一緒にいることはあまりなかった。強いて言えば明日香自身がそこに当てはまるが、彼女も自覚している通り、ただの幼馴染で話しやすいというだけだ。

 だが、高校の護堂には、祐理や晶といった特定の女子がいる。その内実まで詳しくはないが、周囲が噂をする程度には、頻繁に会っているのである。

 つまり、護堂は普段から人の噂に上るくらいには注目されている。

 その護堂が、他校の女子を連れているとなれば、その女子にまで好奇の視線が向けられるのは自明の理。

 よって、明日香は最低でも一年生のクラスには顔を出したくないのだ。

「かといって、誰も知り合いがいない所に行ってもなあ。文化祭ってのは、知り合いがやってる店に顔出すのも楽しみの一つだろ」 

 と言って、護堂は悩んだ。そして、パンフレットを広げて、学内の地図を眺める。どこかにいいところはないかと探しているのだ。

「あ、そうか。だったら、共通の知り合いなら明日香が顔を出してもおかしくないのか」

「共通の知り合い?」

 明日香は、首を傾げて護堂に問い返した。

 

「ふーん。それで、うちに来たわけ」

 護堂と明日香が訪れたのは、中等部三年の教室。静花のクラスだった。出し物は、焼き蕎麦で、昼を過ぎた時間帯なので、ほとんど品数も少なくなっていた。売れ残りを阻止するために、五十円引きセールをしているところだった。

 店番をしていた静花から、焼き蕎麦のパックを受け取った護堂は、明日香に話しかけた。

「中等部って、初めて来たけど、高等部の奴等も結構顔出してるんだな」

「懐かしの校舎だからじゃない? 高校から入ったあんたは実感ないでしょうけど」

「なるほど、確かに俺も中学校の校舎に入る機会があったら浮かれるかもしれないな」

 護堂は明日香とともに公立の中学校に通っていた。そのため、あの校舎に足を踏み入れることは、おそらくは、もうない。あるとすれば、十年近く後、保護者という立場になっている場合くらいだろう。

「あれ、先輩。来てくれてたんですか?」

 焼き蕎麦を買い、静花と話をして、これからどこに行こうかと相談していたところに、小柄な少女が現れた。

「おう、晶」

「こんにちは。先輩。と、あなたは……」

「コイツは昔馴染みの明日香だ」

 明日香が名乗るよりも前に、護堂が簡潔に教えた。『昔馴染み』もしくは『幼馴染』。それが、明日香と護堂の関係性を正しく伝える言葉だ。草薙護堂の幼馴染は徳永明日香だ。それ以外の回答はなく、その肩書きは、明日香だけのものだ。

 明日香だけに許された特権なのだ。

「よろしく、晶さん」

「あ、えと、はい。よろしくお願いします」

 そして、その特権は、時として非常に強力な武器となる。明日香と護堂の関係は、静花よりも長い。事実上母親の次に長く付き合っている異性が明日香なのだ。それゆえに、幼馴染という言葉を聞いた晶は、僅かではあっても戸惑わずにはいられないし、警戒せざるをえないだろう。

「あなた、時々商店街を歩いているわよね。家、あそこの近くなの?」

「はい。うちのマンションから、あの商店街まで、歩いて五分くらいです」

「ふうん、なるほどねえ」

 明日香は、意味深長な視線を護堂に向けた。

「なんだよ、明日香。晶の家のことなんてどうでもいいだろう?」

「いや、割りとどうでもよくはないけどね」

 明日香は、晶のことを知っていた。可愛らしい顔立ちをした少女だ。人目を引くのは当たり前だ。基本的に若い世代が多くない商店街だけに、晶は非常に目立つ。まして、その隣には時折護堂の姿がある。草薙一郎の孫がついに、とおばさんたちの話題になることも多々ある。知らぬは当人たちばかりだ。

「まあ、晶ちゃんは、あたしと一緒に学校に行っているのであって、お兄ちゃんはおまけなわけだけど。ね?」

 そこに、静花がやってきて、会話に加わった。

「え、ああ、うん。そうそう」

 晶は、うんうん、と頷いて静花の意見を肯定する。とはいえ、今の流れだと、一緒に学校に行くことと、おまけということのどちらを肯定したのかわからない。頷くだけだった晶は、失言したようなものだ。

「おまけって言い方はねえだろう。つーか、店抜けていいのかよ、静花」

「販促よ。販促。ほら」

 そう言って、静花が掲げるのはダンボール製の看板だ。白い紙を貼り付けて、マジックで焼き蕎麦値下げ中と書かれている。

「ふうん、販促ね」

 看板を持ってウロウロするだけ。働いていると見せかけて遊ぶことができるので、とても楽な仕事である。

「あ、そうだ。明日香ちゃん。今度、あたしのパソコン診てもらっていい? 最近調子が悪いんだ」

「そうなの? まあ、診るくらいはいつでもできるし、時間もかからないからいいわよ」

「ありがとう! 最近、重いんだよね。立ち上がりも遅いし、何が悪いのかわからないの」

 静花の頼み事を明日香は二つ返事で受け入れた。昔から、明日香は静花と仲がいい。思い返しても喧嘩をした記憶は一度もない。互いに勝気ではきはきしているところがあり、それでいて人の意見を容れるだけの精神性をしているから、気が合うのだ。歳も一つしか違わないのであれば、先輩と後輩というよりも、対等な友だちといった関係になる。

 明日香から見て静花は幼馴染の妹であると同時に、静花自身が幼馴染なのだ。

「明日香さんは、パソコンが得意なんですか?」

 晶が、明日香に尋ねた。

「うん。人並み以上には扱えるわ。こう見えてプログラマー目指して勉強中なの」

 明日香は、昔からプログラミングに甚く熱心だった。そのためか、理系の科目は軒並み平均をはるかに超える成績を誇っていたのだ。

 明日香は昔から頭がよかったし、護堂に並んで成績上位者だった。どちらも中学レベルの勉強はやり尽くし、カンスト状態だったのだ。

「プログラマー目指してっていうか、今すぐプロになってもおかしくないんじゃないのか」

 護堂は幼馴染なだけに、明日香がどれほどプログラミングに打ち込んでいるかを知っている。そして、その実力のほども。

「とりあえず、IT企業でキー叩かせてもらってる。バイトだけどね」

「すごいんですね。明日香さん」

「プログラミングって相性大事だと思うの。わたしは結構上手く嵌ってくれた感じ。それに、わたしにはこれくらいしかないし。いや、ほかにもできることはあるけど、そっちはねえ……」

 明日香は、物憂げな表情となって、言葉を濁した。

 

 

 

 後夜祭がある護堂は、一緒に帰ることができなかった。少し残念に思いながら一人、明日香は帰路を行く。

 橙色の空が、徐々に群青に変わっていく。赤と青が混じりあい、次第に黒へと変じていく。黄昏時。呪術の世界では幽界と現世との境が最も薄くなり、霊視術や降臨術の成功率が最も高まる時間帯とされている。それと同時に、この世ならぬものたちが色めき立つ時間帯でもあり、古来より黄昏時と丑三つ時は、百鬼夜行の時間として恐れられた。

 木枯らしが吹き、路上のゴミと枯葉を攫っていく。

 まだ、落ち葉の季節には遠いものの、秋の色味が強くなってた今日この頃。朝夕の冷え込みは、次の季節の到来を思わせた。

 あと、二ヶ月もすればクリスマス。昨年は、受験を目前に控えていたからまともに祝うことすらできなかった。

「さて、今年はどうしようかな」

 ハロウィンが過ぎれば、世の中はクリスマスに向けて本格的に動き出す。

 高校一年生の冬をどのように過ごすのか、今から頭を悩ませている。それは、決して不快なことではない。以前の彼女が死の直前まで求め続け、終ぞ手に入らなかった自由。今、それを謳歌しているのだ。悩みは多く、不安もある。しかし、それが生を実感させてくれる。だから、不快ではない。

 明日香は、公園の前で立ち止まって気分を害したとでも言わんばかりの表情になった。

「人がいい気分でいるときに顔を出すなんて。本当に空気が読めないジジイだわ」

 明日香が吐き捨てるように毒づく。

「相変わらず失礼な娘じゃ。そして、主は何も変わらぬ。かの神殺しはさらに力を身につけ、厄介な猿が消えたことでわしの計画も加速しておる。そんな中で、主が何も変わっておらぬ。それが、主が欲した普通かの」

 小さな公園の中央に、茫洋とした人影が現れた。それは、すぐに厚みを増し、一人の老人となる。蘆屋道満。千年前に都を騒がせた『まつろわぬ神』の成れの果てであった。

「あんたら怪物どもと同じ尺度で測らないでもらいたいわね」

「主が神殺しを為した魔王の傍にいるのも何かの縁、とは思わんのかの」

「思わないわね」

 口では否定するものの、実際は、そう思わなかったこともない。

 道満自身が邪悪の権化のような人物だったこともあり、そんな神未満呪術師以上の怪物に造られたと知られては、護堂との関係が悪化するかもしれない。そう考えると、真実を告げる気にはなれなかった。何よりも、護堂が転生者だということを知ったのは、つい最近。護堂がカンピオーネになってからだ。

 明日香は、かつて道満の術によってこの世に生れ落ちた転生者の最後の一人だ。道満が実験的に行った転生の秘術の被検体。道満が呪術を行う際に、護堂を転生させた安倍晴明の大呪法の術式を模したために、病死した一般人の魂が徳永明日香として新生することになったのだ。

 もう十六年も前の出来事である。

 道満は、生み出した明日香たちには、特に興味を持っていない。時折、ふらっと現れては何かしらの悪魔の囁きを残すだけだ。多くの同朋たちは、その囁きによって滅んだ。明日香のように、一般人として細々と過ごすという選択を拒否したからだ。

「あんたに関わると碌なことにならない」

「ずいぶんと嫌われたものじゃな。まあよい。主が神殺しとどのように接しようとも、わしにとっては関わりのない話じゃしの」

「自分のことを告げ口されるとは思ってないわけね」

「思っていないわけではないが、告げ口されたところで痛む腹はないからの。何せ、主は儀式の目的は知っておっても、それがいつ、どこで、どのように行われるか知らぬのじゃからな」

 確かに、その通りだ。護堂に警戒を促すことはできるかもしれないが、それでは何の意味もない。道満の言う儀式が何かすら知らない身としては、護堂に有益な情報を与えることができないのだ。

 だが、それに何が必要かくらいは知っている。以前、道満が呟いていたからだ。しかし、それを護堂に伝えることはできない。伝えてしまえば、護堂と明日香の関係はただの幼馴染ではいられないだろう。下手をすれば敵視されるかもしれない。今の、ぬるま湯のような心地よい関係が終わってしまうのが怖い。そう、明日香は、変化を恐れているのだ。

「で、あんたはいったい何をしに来たの?」

「我が敵手の観察じゃよ。ついでに、娘の前に顔を出しておこうと思っての。わしがまつろわぬ身になれば、主のことなど忘却の彼方じゃろうからの」

「むしろそっちのほうがありがたいわ」

「ほほ、何にせよ、精精思いのまま生きるのじゃな。かの神殺しの命も今年限り。わしが神性を取り戻した暁には、彼奴を真っ先に縊り殺すでな」

 そう言い残して、道満は消えた。

「はあ、本当に、どうしよう」

 いつまでも、このままではいられない。それはわかっている。護堂が神殺しを成し遂げたときから、変化は始まっていたのだ。ただ、明日香がそれを拒否していただけ、見て見ぬ振りを続けただけで、世界は刻一刻と回り続けている。変わらぬものは何一つとして存在しない。それは、明日香も同様である。

「つまり、そろそろ選ばなくちゃいけないわけか……」

 これから先、明日香が護堂とどうあるべきなのか。道満とどう関わるのか。どちらに味方をして、どちらに敵対するか。答えはすでに出ている。できる限り手を回した。あとは、本人に打ち明けるだけ。しかし、そこに至るまでの一歩が遠い。

「あいつが何を考えているのかわからないと、動きようがないのよね」

 道満は明日香の自由意志を認めている。しかし、それが自分にとって不都合なこととなったら、手の平を返してくるに違いない。そうなっては、家族にまで迷惑がかかる。だから迂闊には動けず、動くとしても道満に気づかれないようにコソコソとするしかない。明日香は、道満を警戒するあまり、自縄自縛状態となっているのだ。

 これから、何をすべきか。それがわからず、明日香は苛立たしげに小石を蹴飛ばした。




一体いつから明日香がモブキャラだと錯覚していた?


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第八章 紅海竜編
六十四話


アポクリファの三巻早く欲しい。
ザ・サードとムシウタの新刊はいつ出るんですかねえ……


 街を吹きぬける風には、刺すような冷たさが混じり、日を追うごとに冬が近づいていることを感じさせる。

 文化祭が終わって、大きな学校行事はすべて終了した。これから先は、クリスマスへ向けて個々人がイベントを作っていくことになる。

 白い雪が舞い、イルミネーションに照らされた街並み。その下を歩くカップルたち。近くそうした光景が彼女のテリトリーにも入り込んでくるだろう。

 伏見まどかは自他共に認めるオタクである。

 外見は至って普通。昔から眼鏡をかけていて、運動は苦手。クラスでも、アニメ好きが知れ渡っている。隠しているわけではないので問題なし。そして、今日も今日とて秋葉巡り。池袋は対象外。彼女は『萌え』に関して、自らの琴線に触れるのであれば三次元でもいける口だが、やはり基本は二次元。萌えこそが重要で、性別やカップリングは後回しというのがまどかのスタンスである。

 リア充どもの存在は気に入らないが、クリスマスになればゲーム業界も活気付く。

 セールなども行われるだろうし、両親からお小遣いももらえる。子どもの頃のように手放しにお祝いはできないが、それでも彼女なりに楽しめるイベントのはずだ。あと一月と少し。それまで、平々凡々とした日常を過ごしていくのだろう。

 なんといっても、伏見まどかは何のとりえもない一般ピープルなのだから。

 

 

 

 

 

 そう思っていた時期もありました。

 

 

「いったい、なんなの。これは」

 まどかは呆然と立ち尽くしていた。

 秋葉原で新発売のラノベを買い、うきうきしていた矢先の出来事だった。

 帰宅して自室に戻り、いざ読書というところで、カバンから取り出した袋に水が溜まっているのに気がついた。

 慌てて中から本を取り出すと、時すでに遅し。ぐっしょりと濡れて、水滴を滴らせている。ここまでになると乾かしてもごわごわになってしまう。

 返品に応じてもらえるだろうか。濡らしてしまったのは完全にまどかの落ち度だ。だが、カバンの中には飲料水の類はなく、雨も降っていない。なぜ、カバンの中がずぶ濡れなのか皆目見当がつかないが、濡らしてしまった事実は変えようがない。納得できないが、結果としてこれは自損ということになるのだろう。

 とすると、返品できるとは思えなかった。第一、レシートは不要だと思って捨ててしまっている。いずれにしても我慢して読むか、買い換えるかしかない。

「はあ……」

 ついてない。

 腑に落ちないところは多々あるが、その日のうちは運がなかったと思って諦めた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 ここ数日、流れ込んだ強烈な寒気の影響で真冬並みの気温を記録していた日本列島だったが、この日は全国的にさわやかな秋晴れが広がり、天気予報を見ても、昼間の気温は平年並みか、それ以上になるということだった。

 雲ひとつない快晴など、何日ぶりだろうか。

 放射冷却の影響で、この日の朝の気温は低い。これから上昇するにしても、朝が寒いのは辛いことだ。

 寒さのためか、いつもよりも早く目が醒めた護堂は、学校に行くまでの時間を潰すために、ジャージに着替えてランニングをすることにした。

 あまり走りこみをするタイプではない護堂だが、時折こうして走りたくなることがある。

 この半年間、局所的に命がけの運動をしてきただけに、十キロ二十キロ走ったところで体力的に余裕を残せそうなくらいになった。よって、体力作りのための運動というのは、あまり意味がない。陸上部で、本気になってマラソンに取り組むくらいでなければ、護堂にとっての激しい運動というレベルには至らない。

 気休め程度のランニング。

 しかし、それでも気分転換などには重宝する。

 適度な運動は心身を整える効果がある。

 外に出ると、まだ顔を出したばかりの太陽が放つ光が網膜を焼く。肌寒い朝の風がジャージの内側に入り込み、思わず身震いする。 

 護堂は、運動部だったころを懐かしみながら人気のない道を走る。

 通り抜ける商店街は、いまだに暁を覚えず、聞こえるのは鳥の鳴き声だけだ。

 吐く息が白い。

 よく見れば、道の端に落ち葉が積もっている。

 本格的な冬の到来が近くなってきたのだ。

 濃密に過ぎて、瞬く間に過ぎ去った一年だった。

 今年も残り一月と少し。それまでに、あと何回戦場に出ることになるのだろうか。

 一年前には、カンピオーネになりたくはないと如何にして原作から乖離させるか悩んでいた自分が懐かしい。今となっては、カンピオーネになったことも悪くないと思える程度には順応してしまった。落ち着くべきところに落ち着いたのだろうという感じ。スサノオとの会談で、初めからこうなる運命だったと知らされて、妙に納得したのも、現状にしっくりきていたからだろう。

 護堂はランニングの最後に根津神社を訪れた。

 大きな神社だ。境内は広く、落ち着いた佇まい。静謐な空気が流れていて、この神社の中は外部から時間が切り離されているような錯覚すらも覚える。

 吹く風が秋色の梢を揺らす。

 息を整えながら、護堂は参道を歩いた。

 根津神社の祭神は確か、スサノオだったと記憶している。

 千九百年の歴史があるという由緒ある神社で、幼い頃は明日香とよくここを訪れて遊んでいた。

 それにしても、最も身近な神社がよりにもよってスサノオを祀っているとは。何かしらの縁を感じてしまう。

 メランコリックな感情を抱きながら、ゆるゆると歩いていると、ある木の下に見覚えのある人影を目に留めた。

 彼女も、護堂に気がついて、驚いたように目を見開いた。

「晶?」

「え、先輩?」

 そこにいたのは晶だった。

 晶もジャージを着ている。白いジャージだが、袖と下は黒で、赤のラインが入っている。ショートヘアと相まって、如何にも運動している女の子という雰囲気を醸し出している。

「おはようございます。こんな、朝早くにどうされたんですか?」

 駆け足で近寄ってきた晶の明朗な挨拶が、護堂がこの日聞く最初の他人の声だった。慣れ親しんだ声ながら、新鮮に感じるのは、やはり早朝の空気のおかげだろうか。

「俺は、早く目が覚めたから走ってみようと思っただけ。晶も走ってたのか?」

「はい。毎日ではないですけど、週に二、三回は走ってるんです。なんと言っても朝は空気が澄んでますから」

「そうだな。俺も、朝に走るのは久しぶりだけど、やっぱり気持ちがいいもんだな」

「はい。それに、先輩と違ってわたしの場合、ちゃんと身体を動かしていないと鈍ってしまうんです。清秋院さんは日頃から野山を駆け回っているようですし、負けていられません」

 清秋院恵那は刀を主要武装として戦う媛巫女。霊視に関する才はないようだが、それ以上に稀有な神憑りという能力を持っている。晶とは似て非なる近接戦闘特化型の媛巫女の登場は、晶に対抗意識を燃やさせていたようだ。一時は、本気で命のやり取りになった二人だが、斉天大聖の一件の後にずいぶんと意気投合したようで、現在は切磋琢磨する間柄となっている。

「まあ、清秋院はランニングって柄じゃないよな」

 恵那のことを思い返しながら、護堂は呟いた。

 なんといっても、恵那は野生児だ。血筋としては千年続く正真正銘のお嬢様だが、彼女の育った環境は苛酷を極める。携帯の電波すらまともに届かない山奥で何日もサバイバル、ということすらも平然とこなしてみせるくらいになるには、かなりの苦労があったと思われる。

 晶は護堂の呟きを聞いて頷きながらも、非難がましい視線を送ってくる。

「そんなこと言って、清秋院さんに聞かれたら怒られますよ」

「そうか?」

「あの人、あれで繊細ですから」

 繊細――――凡そ清秋院恵那という少女とは無縁そうな言葉だった。

「俄かには信じ難い」

「もう、ダメですよ。そういうこと言ったら。女子を相手にするなら、誰であっても丁重に扱わないと、思わぬところで傷つけてしまいますよ」

「う、うむ。気をつける」

 注意されてしまった。しかも、言われたことが正論なので、非を認めて口ごもるしかない。これが、祖父の一郎であれば見事に切り抜ける、もしくはそもそもこういった注意を受けなかっただろう。一郎の武勇伝を知るだけに、見習いたいとは思わないが。

 そんな護堂を見て、晶は、呆れたようにため息をついた。

「先輩、きちんとしているようで、ところどころ隙がありますね」

「要するにダメってことか……」

「いえ、そこまでは。あ、でも、いいとは言い難いかも」

 首を捻る晶の中には、どうやら護堂に対する複雑な思いがあるらしい。高い評価は受けられそうになく、護堂は落胆した。

「ちなみに何がよくなかった?」

「えっと、そうですね。うーん」

 晶はしばらく言い難そうにした後で、

「その、何人かの女子とキスしてるとことか」

「ぐ……」

 胸を抉る指摘だった。

 護堂は日光での一件で、なし崩し的に祐理、恵那、晶の三名とキスしている。

 気にかからないということはなかった。しかし、どうその話題に対応するべきか判じかねたまま、結局一月経ってしまったのだった。

「その……すまなかった」

 とりあえず、護堂にできるのは謝ることだけだった。

「え、いや。それは、もういいんです。緊急事態でしたし、ああするのが一番の方法でしたから。ただ……」

 晶は、言葉を尻すぼみにしながら俯いた。

「その、したからには、もう少し意識してくれても、いいんじゃないかと……」

「え……」

 護堂は自分の耳を疑った。

 晶は護堂と目を合わせることなく、地面に視線を落とし、両手の指を絡ませている。

 晶にしては珍しい、しおらしい態度に護堂は動揺した。

 ここまで走ってきたこととは別で、紅くなっているのがわかるために、余計ドギマギさせられる。

 なんと言えばいいかわからないまま、言葉に詰まる。 

 晶は何も言わず、護堂も突然のことに対応できずに無言。

 次に口を開いたのは、晶だった。

 唇を噛み締めたような表情で、真っ赤な顔を上げ、そして一歩踏み出した。

「わたし! ……好きでもない人とは緊急事態であってもキスしませんからッ!」

 叫ぶように言った晶は、その直後に固まった。

 それから、慌てて数歩下がる。

「あ、あの。今のは……」

 晶は見るからに狼狽している。両手は行き着く先を知らず、わけのわからないジェスチャーを繰り返し、言葉は先に続かない。

「あ、晶」

「ッ」

 護堂が声をかけると、晶はさらに一歩退いて、泣きそうな顔を両手で隠す。

「ご、ごめんなさい。その、今朝のところは、もう帰りますから。帰りますので、すみません、失礼しますッ」

「あ、おい!」

 呼びかけるも、晶は持ち前の身体能力を十全に発揮して、脱兎の如く駆け出してしまっていた。

 瞬く間に参道から姿を消し、気配が遠のいていく。

 そして、護堂はその後を追いかけることができず、暫しの間、その場に立ち尽くした。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 抜けるような秋晴れが窓の外に広がっている。

 気持ちのよい快晴だ。しかし、天気がどれほどよくても、心の中まで晴れ晴れとするわけではない。

 伏見まどかは憂鬱な気持ちでこの日を迎えていた。

 理由は、最近頻発する水難。

 手を洗おうとすれば、蛇口から水が噴き出し、自室の天井からは雨漏り。挙句の果てには、水気が一切ないにも関わらず、カバンの中が水浸しになっているということもあるくらいだ。

 不自然なまでの水難。

 初めはそんなこともあるかと適当に流していたまどかだったが、さすがに連日連夜何かしらの水に関するトラブルに見舞われては、さすがにグロッキーだ。

 ありえないとわかっていても、呪われているのでは、と不安になってしまうのも仕方がない。

「そんなことないよー」

「まどか考えすぎー」

 このように、頼りにならない友人たちはケラケラと笑ってまともに取り合ってくれない。

 当然と言えば当然か。まどか自身、これが他人事であれば冗談だと思っただろう。

「でも、本当なんだってー。絶対あの壷が原因だって。だって、あれが家に来てからだよ」

 異変の原因に心当たりがないわけではない。

 父親が買ってきた壷。なんでも紅海に関わる貴重な品だそうで、非常に大切にしている。異変が始まったのは、その壷が家にやってきたときからだ。

 結局、友だちにそんなことを言っても何の解決にもならないことはわかっている。単なる愚痴でしかないし、あまり言い募って変な娘のレッテルを貼られたくもない。昨今オタクも市民権を得てきているとはいえ、難しい環境にあるのは変わらない。

 だから、おどけて冗談めかす。あくまでも、日常の中の不思議話ということにして、お茶を濁すのだ。

 しかし、それで一件が解決するわけではなく、まどかは憂鬱になりながら一人、廊下に出た。

「あの、ちょっとよろしいですか?」

 そんなまどかに話しかけてくれる人がいた。

「え、万里谷さん?」

 さらさらのストレートロングがまぶしい。

 同じクラスに属していながら、会話をした記憶がない。なんといっても万里谷祐理は学園のアイドル。高嶺の花にして、現存する数少ない大和撫子。一笑千金の美人であり、科挙圧巻の才媛だ。所詮アニメや漫画知識で四文字熟語を覚える程度の日陰者とはレベルというか次元が違う。自分がどこにでもエンカウントするザコキャラなら、祐理は洞窟の奥底に眠る伝説級である。レア度が違う。そして、萌え度が違う。そんな祐理に話しかけられて戸惑わないはずもなく、まどかはどうしたものかと、次の言葉を待った。

「突然、すみません。先ほどのお話が気になったので。今から、どこかに向かわれますか?」

「いやいや、なんとなく外に出てみただけで。それで、さっきの話って」

「はい。壷がどうとか」

「壷って、さっきの水難の話?」

「はい」

 祐理は頷いた。そして、まどかは驚いた。まさか、祐理が自分のくだらないオカルト話に興味を持って話しかけてくれるとは。それが嬉しくもあり、奇妙でもあった。

 

 

「なるほど、そういうことですか」

 できるだけ真剣味を出さないように、砕けた口調で経緯を説明したのだが、祐理は事の外真剣な表情をしている。

「お父さんが海外から持ってきたんだけどね。なんでも、向こうの神様に関わる由緒ある壷だってさんざん自慢されたんだ。でも、その壷が来てから、変なところが濡れてたりしてさー」

 などと話していると、ますます祐理の顔が強張っていく。憂いの陰が浮かぶ秀麗な表情には、異性のまどかもドキッとする。そもそも、祐理はまどかが認める三次元萌えの対象であるから、話ができるだけでも壷様様だ。

「そういえば、万里谷さんって巫女さんのアルバイトしてたよね。なんかあったら安くお祓いしてもらえないかなー、なんちゃって」

 祐理が巫女のアルバイトをしているのは有名だ。それが、彼女の魅力をさらに押し上げている要素でもある。美人、性格良し、頭いいの三拍子に加え旧華族、巫女というずば抜けた属性を持っている。お嬢様と言っても過言ではないのだ。

「そうですね。あまり、放置していてよい感じはしませんし。でも、ただのお祓いでどうにかなるほど、簡単な事例ではないかもしれません」

 しかし、まどかの軽はずみな言葉に対する祐理の答えは、意外と深刻だった。

「え?」

 

 

 そして、やってきたのは屋上。

 初めは隣のクラスに行った。しかし、そこには目的の人物がおらず、ここにいないのならと向かった先が屋上だった。

 昼休みの屋上は、快晴ながらも人気は疎らだ。気温が低く、風があるためだろう。

 ドアを開けると、目の前に目的の人物はいた。どうやら、屋上から屋内に戻ろうとしたところだったらしい。

「草薙さん。やっぱりここにいらっしゃいましたね」

 相手の名は草薙護堂。

 最近話題の男子生徒だ。

「万里谷、に、そちらは……確か万里谷と同じクラスの」

「伏見まどかさんです。実は、まどかさんの件で草薙さんに相談したいことがありまして。今、お時間はよろしいですか?」

「ああ、さっきまで静花がいたんだけどな。なんでも委員会の仕事とかでさっさと帰っちまってな。今は暇しているとこ」

「そうですか。それは、よかったです」

 祐理は、花が咲くような笑みを浮かべて護堂と話している。

 草薙護堂。

 隣のクラスに在籍する男子生徒。顔立ちは中の上から上の中。学力は非常に高く、運動神経抜群。特に英語はネイティブ並でいけるらしい。中学時代から非常に異性にモテるらしいが、実際に付き合ったという話はない。しかし、この半年で、学園のアイドルである祐理に、中等部のかわいい娘を引っ掛け、さらに学外の女子と出歩いているところが目撃されるなど、浮名を流している危険人物。それが、伏見まどかの護堂に対する認識である。

 複数の女性と関わりがあるという時点で、大抵の女子は敬遠する。

 もちろん、そういった男性のほうがいいというのもいるが、それは少数派だ。

 しかし、護堂は浮名を流している割に否定的な意見を聞くことはない。男子からの嫉妬ややっかみはあるみたいだが、それも表立ってのものはない。相手が祐理ということもあるのだろうし、女性関係を除けば高物件なのも確か。人格的にも、女性関係を除けば問題ないらしい。そして、その女性関係自体も、現状は噂レベルに止まっている。祐理に対して不義理を働いたとなれば、学園中が敵になるだろうが。もちろん、そのような場合にはまどかは真っ先に立ち上がり、悪の権化を殲滅する覚悟である。だが、今のところは祐理にも護堂にも取り立てて悪い噂は聞こえてこない。付き合っているにしても健全なお付き合いの範疇を出ていないと思われる。

 と、勝手な人物論を頭の中に描きながら護堂を睨みつけるまどか。その視線に護堂はたじろぎながらも、祐理に説明を求めた。

「こちらのまどかさんが、怪異に困っているということで、ご相談しようと思いまして」

「怪異? だけど、それって普通甘粕さんたちのところを通さないか? 俺は、門外漢だぞ」

「はい。ですが、今回は正史編纂委員会よりもまず草薙さんにお話すべきだと感じたのです」

「万里谷がそう言うってことは、神様関係ってことか」

 なにやらわけのわからない会話をしている二人に、まどかは置いてけぼりを食った気分だった。しかし、護堂が『神様』という言葉を発したところで、まどかはハッとした。自分の壷が神様に関するものだということは祐理にしか言ってない。それなのに、護堂が言い当ててきたということは、本当にこういった問題に対しての知識があるのかもしれない、と。

「神が関わっているかどうかまでは。しかし、悪霊や怨霊の類ではないと思います」

「なるほどね……えーと、伏見さんだっけ。とりあえず、ここではなんとも言えないし、放課後にでもその壷ってのを見せてもらえるかな」

「あ、はい。見るくらいなら」

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 放課後、護堂と祐理はまどかの家の前までやってきた。

 祐理は晶にも声をかけようとしたのだが、どうにも今日は学校を欠席しているとのことで、遠慮することにした。

 結果、護堂と祐理は二人で問題の調査に当たることになった。

「ああ、なるほど。これは、確かに」

「ずいぶんと、重々しい空気ですね」

 まどかの家を見るなり、護堂と祐理は口を揃えて言った。

「あの、何が?」

 まどかには、祐理が言う重々しい空気などはわからない。まどかからすれば、二人がおかしなことを言っているようにしか思えないのだ。

「どう視る、万里谷。俺にはここに呪力が流れ込んでるってことしかわからないんだけど」

「この土地そのものが、ちょっとした霊地になっているみたいですね。怪異が生じる地盤そのものは元々あったみたいです」

 祐理の視立てでは、まどかの家が建つ土地自体が、一種の霊地になっており、そこに呪具の類が持ち込まれたことで、怪異が発生したのだという。

「それで、それが件の壷ってことか」

 まどかが家の中から持ち出してきた壷を見た護堂が尋ねた。

 赤茶けた陶器の壷だ。デザインは何もなく、手に持てる程度の円柱状で、同じ材質の蓋がしてある。

「うん。でも、本当にこれただの壷だよ。お父さんは、ああ言ってたけど、あのお父さんに手が出せるのなんてそう高いものじゃないし」

「値段とかは俺、よくわかんないけど、……うん、原因は間違いなくソレだと思う」

「なんで、そう言い切れるの?」

「そう聞かれると説明しにくいけど、勘っていうか慣れ?」

「慣れって……」

 祐理が頼りにできると言っていたから連れてきたが、適当なことを言っているようでまったく頼りにならない。まどかは呆れてため息をついた。

 

 カタリ、

 

 と、壷の蓋が揺れたのはそのときだった。

「ん?」

 まどかは、手元が揺れたのを不思議に思い、

「いけない! その壷を放してください!」

 焦った祐理が叫んだ。

 そして、その瞬間、壷の蓋が勢いよく弾けとび、中から大量の水が噴き出してきた。

「きゃあ!!」

 まどかは堪らず尻餅をついた。

 そして、空を見上げて唖然とした。

「な、何これ」

 空には一匹の竜がいた。巨大な蛇のような身体に一対の翼を広げた姿は、まどかが愛好するゲームに出てくるボスを想起させる。

 その怪物が、大きな口を開いた。

 竜がファンタジーなら、その力もまたファンタジーだ。水から産まれた竜は、やはり攻撃にも水を使うらしい。口から猛烈な勢いで巨大な水塊を吐き出した。

 

 ――――終わった。

 

 まどかは、本気でそう思った。

『散れ』

 魂を揺さぶる力強い何か。

 頭に響く声。

 まどかを圧殺するはずだった水塊は、空中で破裂して消滅した。

「東京のど真ん中で、迷惑なヤツだ」

 護堂が、竜とまどかの間に立つ。

「神獣って感じもしないな。けど、『まつろわぬ神』でもない。なんかよくわからんが、騒ぎになる前に片付けさせてもらうぞ」

 なんだか嬉しそうだ。

 それが、槍を構えた護堂を見たまどかの感想だった。

 




実習終わりました。代表として、いろいろと挨拶する機会があったり仕事があったり面倒でしたが、最後のお別れ会で子どものほうが泣いてくれて感動しました。
純真ゆえかどうしたらいいものかという場面も多々ありました。
以下その例
①担当クラスでブームの「ワニごっこ」なる遊び。
要するに鬼ごっこ。逃亡しようとするワニ役を飼育係役が捕縛(ガッツリホールド)するゲーム。
暗黙の了解でワニは男児、飼育係は女児が担当するらしい。

②「うちのクラスって女子のほうが強いんだ。だから、可愛い系の男子にミ○ーちゃんの耳つけたりして遊んでる」
「遊ばれてるー(隣の男児)」
 嬉しそうにするな

③「先生って小さい子好きなのー?(純真)」

「まったく小学生は最高だぜ」←問題発言
「いや、そうでもない」←問題発言
 無言←問題行動
 そもそもそんなことを考える時点で魂が汚れている、ということを自覚させられた瞬間だった。


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六十五話

 ああ、どうしよう。

 晶はベッドの上で布団に包まりながら、ひたすら念仏のように同じことを考えていた。

 その日は朝から快晴で、日課とまではいかないものの、習慣となっていたランニングには最適な日和だった。朝の澄み切った空気、眩い朝日、そして冬を目前にした冷たい空気。それらが合わさって、さわやかな一日の始まりを予感させたのだ。

 おまけに、神社では護堂にばったりと出くわした。

 護堂もランニングをしていたらしい。

 なんという偶然。

 自分と同じく、朝にランニングをする。ただの偶然だろう。しかし、護堂との共通点が――――たとえ、その日限りの偶然でも――――存在したことが嬉しかった。

 だから、精神的にもハイになっていたのかもしれない。

 まさか、あのようなところで、唐突に告白まがいのことをしてしまうなんて。言った瞬間に、天から地に落ちたような気分になった。それまでの多幸感が地平線の彼方に吹き飛び、ただ胸中には焦燥感だけがむくむくと膨れ上がった。

 やってしまった、と思った。

 口が滑ったのだ。言わなくてもいいようなこと。気づかなくてもいいようなこと。先延ばしにしていればいいようなことを、自分から口に出してしまった。

 勇気だとかではなく、何も考えていなかったのだ。だから、それは決して誉められるようなことではなく、朝の自分を呪うばかりなのであった。

「はあ……」

 一際大きなため息をついて、晶は天井を見上げた。

 何もかもどうでもいいと、投げ出してしまえたら楽なのに、とてもそのようなことはできなくて、結局想いを形にする努力すらも放棄して、今までの距離感を維持したいと思っている。

 誰かが動けば崩れる程度の、危うい均衡の上に成り立っているものだと分かっていても、居心地のよいところからは動きたくないのだ。

 鬱々とした晶が、顔を枕にうずめたとき、枕元に放り投げていたスマートフォンが振動した。

「んあ?」

 晶はもそもそとスマートフォンを取り、画面を見た。

 電話の相手は甘粕冬馬となっていた。

「こんにちは、叔父さん」

「ええ、こんにちは、晶さん。早速で申し訳ないのですが、今、どちらにいます?」

「家ですけど?」

「そうですか。それはよかった。窓から学校の方を見てください」

「学校?」

 要領を得ない説明に晶は首を捻るが、冬馬が何の益体もない電話をするはずもない。晶はベッドから出てリビングに向かった。リビングからバルコニーに出て、外を眺めた。

「な、なんですか、アレは?」

 晶の目に飛び込んできたのは、巨大な竜が悠々と宙を舞っている姿だった。

 晶の家から現場まで、それなりに距離があるため、小さく見えるが、それでも周囲の建物と比較しても二十メートル以上はありそうだった。

「ティアマトーの眷属、というのが祐理さんの見立てですがね。神獣以上、『まつろわぬ神』未満と言ったところらしいですよ」

「そうなんですか……」

 祐理の霊視結果が冬馬の下に届いているということは、祐理はすでに現場近くにいるということだろう。すると、必然的に護堂が同行していることになる。

 胸の内に、ムッと不快感が湧き上がった。

 晶が竜の様子を眺めていると、地上からオレンジ色の閃光が打ち上げられた。

 竜の身体を掠めた弾丸は、それだけで竜の巨体を揺るがす威力を持っていた。

 晶の動体視力を以てしても捉えきれない弾速。護堂の権能による攻撃だろう。

「それで、晶さんにも現場に向かっていただきたいのですが、今すぐに出られますか?」

 このまま晶が現場に向かっても、結局敵を倒すのは護堂である。晶にできることはそれほど多くはない。しかし、僅かでも手助けになることができるのであれば、それでかまわない。

「わかりました。すぐに向かいます」

 晶は、呪術で戦闘用の衣服に着替えると、すぐに部屋を飛び出して行った。

 

 

 

 ■

 

 

 

「ひ、ひゃあああ!」

 まどかは地面に伏せて悲鳴を上げていた。

 腰が抜けて、まともに立つこともできない。立てたところで、どこに逃げていいのかもわからない。そもそも、なぜ、ファンタジーの中にしかいないような怪物に自分が狙われているのかもわからないし、隣のクラスの草薙護堂が槍を振り回して竜の吐く塩水の塊(ファンタジー風に言うと水属性のドラゴンブレス)を蹴散らしているのかもわからない。

「落ち着いてください、まどかさん」

 祐理は、まどかの傍に膝をつき、その背に手を当ててやさしく声をかけた。

 深みのある落ち着いた声音は、まどかの混乱した頭に染み込む妙薬であった。

「あ、ま、万里谷さん……」

「大丈夫です。草薙さんの後ろにいてください」

 祐理も、護堂と同じく不思議な力の持ち主のようだが、竜と戦う力はないらしい。

「万里谷さん。本物の巫女さんだったんだ……」

 緊急事態でありながら、まどかの口から出たのはその程度の感想だった。

 混乱が極まった直後に、急速に思考能力を回復したために、現状を正しく認識できていないだけなのだが、

「え、はい。そうですよ」

 祐理は、生真面目にも、そう返答した。

「君たち余裕だな」

 護堂は後ろの二人の危機感のない会話に呆れながら、豪槍を振るう。

 穂先に絡みつく呪力の乱気流が、陽炎を生み出して炸裂する。護堂の槍は、竜が吐き出す水塊の膨大極まりない運動エネルギーをあっけなく打ち砕く。

 戦闘開始から、すでに五分弱。

 それはつまり、巨大な竜が空に舞い上がってから五分もの時間が流れたことを意味している。

 東京は人口密集地域。その住宅街に、巨大な竜が現れたとあっては、大騒ぎは免れない。こんなときのために正史編纂委員会が動き回ってくれているらしいが、それでもあの巨体は、高層ビルからでも見えてしまうだけに、対策は急ピッチで進められながら、遅々として進んでいないのが現状だ。

 一刻も早く倒さなければ面倒なことになるのは間違いない。

 しかし、それが分かっていても護堂は本気になることができない。

 理由は、二つ。

 一つ目は、ここが住宅地だということ。

 この場での戦闘が周囲に出す被害を考えると、迂闊な攻撃はできない。生憎と護堂は周囲への被害を考えて戦うタイプなのだ。

 二つ目は、背後の二人のことだ。

 祐理は最低限の自衛手段を持っているからまだしも、まどかは完全無欠な一般人。今も、祐理のおかげで持ち直したものの、動揺は隠せていない。

 おまけに、どうやらあの竜の目的は護堂ではなくまどかのようだ。

 理由までは思い至らないが、怪異がまどかの周辺で発生していたことと関係があるのだろう。

 敵がまどかを狙い続けている以上は、まどかを庇いながら戦わなくてはならない。護堂が防戦一方なのは、それが大きく関わっている。

「くそ、面倒くさいな。いっそもっと高いとこにいてくれれば、気兼ねなく撃ち落せたものを」

 二階建ての家の屋根くらいの高さに滞空しているせいで、すこしでもこちらの攻撃が外れれば、どこかの誰かが建てた夢のマイホームに槍が突き立つことになる。

『弾け』

 言霊の弾丸が、竜の下顎を跳ね上げた。

 続けて、槍を投擲。閃光となった神槍を、竜は間一髪でかわして見せた。

 護堂は飛んでいった槍をすぐさま破棄する。その隙に、竜は再び水塊を吐き出そうと口内に呪力を溜める。

「南無八幡大菩薩!」

 今にも水塊を吐き出さんとする竜の首に、砲弾の如き速度で一本の槍が突き刺さる。

 槍は激しく大気を震わせ、竜の頭を大きく揺さぶった。さすがに護堂の権能を用いて創った槍だけに、威力は絶大。人間が放った一撃ではあるが、竜に対して十二分にダメージを与えている。

「遅くなりました。先輩方!」

 転送の術で槍を手元に戻し、晶が護堂の傍に駆け寄った。

「晶さん!」

「万里谷先輩。大丈夫ですか!?」

「はい、わたしは問題ありません。わたしよりも、彼女のほうを」

 晶は、万里谷の隣で縮こまっている見知らぬ少女に目を向けた。

「詳しいお話は後にしましょう。あの竜の狙いはまどかさんです」

 祐理は早口で晶に何に気をつけるべきかを伝えた。なぜ、このような事態になっているのか気になるところではあるが、祐理の言うとおり、話は後にするべきだろう。

 おそらく、この少女は祐理の知り合いで、あの竜の出現に関わっている。だから、竜に狙われているし、護堂が竜の出現と同時に戦うことができたのだろう。とはいえ、当の本人は狙われている自覚がないようで、「え、わたしィ!?」などと、素っ頓狂な奇声を上げている。

「晶」

「はい」

 緊急事態で気が引き締まっているおかげか、普通に返事をすることができた。そのことに安堵しながら、晶は護堂の次の言葉を待つ。

「その人を連れて安全なところまで離れてくれ」

 端的な指示。

「わかりました」

 晶は、二の句なく従う。まどかの隣に膝をつき、手に持っていた槍を消す。

「失礼します」

「え、ちょっと何?」 

 未だに何がどうなっているのか分かっていないまどかを置いておいて、晶はまどかをお姫様抱っこする。

「口を開けると、舌を噛むかもしれないので気をつけてくださいね!」

「え? あ、ちょ……」

 晶は、呪力で全身を強化して、思いっきり地面を蹴った。

「ぎゃああああああああああ!?」

 その跳躍力は一息に家を一軒飛び越せるほど。急加速と急上昇に、まどかは晶の忠告も忘れて全力で叫び声を上げた。

「万里谷は巻き込まれないように、そこでジッとしててくれ」

「はい」

 祐理も護堂に言われたとおりにした。戦場の真っ只中でも表情を変えることなく泰然としている様は実に堂に入っている。

「案の定か……」

 竜は護堂を気にしつつも、まどかが気になって仕方がないといった様子だ。

 護堂に背を向けることへの危機感と、まどかを追いたい欲求がせめぎ合っているのだろう。

 護堂は滞空させていた槍を射出する。対する竜は水塊を吐き出してこれを迎撃。だが、精彩に欠ける攻撃だ。まどかを気にするあまり、護堂への対応が疎かになっている。

「まどかさんは、あの竜にとっては母親のような存在なのかもしれません。ティアマトは大いなる地母神。だから、もっとも身近な女性であるまどかさんを気にしているのでしょう」

「母親を求める子どもか。それを聞くと討伐しにくいな……」

 護堂の攻撃が止んだところで、竜は身体をくねらせて頭を晶とまどかに向けた。

 大きな翼を羽ばたかせ、竜は空に舞い上がった。家々の屋根を駆け抜け、飛び越える晶でも、空を飛ぶ竜から逃れるのは至難の業だ。

「逃がさないぞ」

 そんな雑な逃走を護堂が認めるはずがない。

 鎖を生み出し、竜の羽の根元に絡み付けると、

『縮』

 空間を縮めて竜の下に向かう。

 竜は向かってくる護堂に気づいたが、もう遅い。

 一瞬の油断が命取りになる戦場において、本能を優先してまどかを追った竜と、常に隙を探していた護堂。

 その一点が、戦いの結末を別つ要因となる。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ、大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 解き放たれる雷撃。

 至近距離からの絶大無比な雷の力が、竜の身体を貫き、蒸発させる。

 砕け散った肉片も、その大部分が雷撃によって焼き払われている。

 地上に落下する前にすべて呪力に還元されることだろう。

『縮』

 言霊を発し、地上との距離を零にして着地する。

 うまいこと、竜が上昇してくれたおかげで、落下物による被害を抑えることができた。

 神獣以上とはいえ、所詮は『まつろわぬ神』にも届かない脆弱な存在でしかない。護堂の権能の中でも最大級の威力を持つ大雷神の化身を受けて無事でいることなどできるはずがないのだ。

 護堂は竜の身体が消滅するのを見届けると、改めて視線を空に向けた。より正確に言えば、護堂の真横に建つ家の屋根の上にだ。

「さっきから、俺を見てるのは誰だ?」 

 いつ頃からか感じていた視線。その主が、すぐ近くに迫っていることを察して、護堂は問いかけた。ひりつくような沈黙を挟んで、屋根の上に立ち上がったのは、小さな人影である。

「ホ、ホホ。さすがは、神を殺めた男。隠形には自信があったんじゃがのう」 

 老人だ。

 しわがれた声に、小柄な身体つきは今にも倒れそうである。しかし、その身から放たれる呪力は並の呪術師とは比べ物にならない。もちろん、それはカンピオーネである護堂の足元にも及ばない程度であるが、それでも、この老人が油断ならない怪人であることを裏付けるには十分だ。

「ふむ」

 老人は、空を見上げる。そこにある何かを見つめているように視線を彷徨わせ、長く伸びた口髭を五指で梳く。

「綺麗さっぱり打ち砕かれたようじゃの。あれだけの《蛇》の気、多少は持ち帰ることができると思っておったが」

 呟いて、護堂を見る。皺だらけの顔に浮かぶ、不気味な笑顔が空恐ろしい。

「なるほど。直に見ると凄まじいの。主の権能は」

「あんたは、誰だ?」

 なおも護堂は問う。

 だが、答えを聞かずともわかっている。この老人は、油断ならぬ怪物であり、その正体は――――

「わしは、蘆屋道満。今はそのように名乗っておる」

 護堂は瞬時に剣を生成した。

 言葉を交わしている暇はない。この老人が、スサノオの言う蘆屋道満であるのは明白だ。『まつろわぬ神』に戻る前に、叩くのがベストだ。

 このとき、護堂がまったく予期していなかった場所から、膨大な呪力が発生した。

「な……ッ!」

「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」

 護堂は驚愕に目を見開き、それを見た。

 身の丈三メートルはあろうかという巨漢だ。肉体は黒く、赤と金の鎧で胸と腰周り、そして両肩を守っているが、それ以外は岩石を思わせる筋肉を露出させている。

 特徴的なのは、なによりもその頭部。

 その部分だけは人ではなく、牛であった。

 牛頭人身の神。

 大地と深く結びついた《鋼》の軍神。

 その巨腕が、護堂の頭を目掛けて大きな戟を振り下ろす。

「ぐ、おおおおおッ」

 とてつもないエネルギーだった。振り下ろされた戟は、護堂を十挺の剣ごと弾き飛ばし、アスファルトを吹き飛ばして四方の民家に甚大な被害を与えた。

 護堂は地面を転がりながらも、回る視界で状況を把握する。左手で地面を叩き、上体を跳ね上げて吹き飛ぶ勢いを利用して立ち上がった。

「ほう、やはり戦い慣れておるの」

 道満は、軍神に視線を向ける。

「それに、こちらも不完全であったか」

 カンピオーネに不意打ちを仕掛け、十数メートルも吹き飛ばすという偉業を成し遂げた軍神は、道満が漏らしたように『まつろわぬ神』という段階にはないようだ。

 肉体はすでに透けている。その上、護堂に攻撃を仕掛けた際に、一撃を受けて右腕が半ばから断ち切られている。

「よいよい、今日は善き物を見た。此度はこれで幕としよう」

 待て、という頃には、すでに道満の姿はそこにはなかった。大規模な破壊を撒き散らした軍神も、霞のように消えてしまい、後には護堂と破壊痕だけが残された。 

 護堂は頭を掻いて、苛立ち紛れに小石を蹴飛ばした。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「すごい。竜が一撃で……」

 晶に抱きかかえられたまどかは、当初こそわけのわからない状況に混乱し、喚き散らしていたが、ある程度時間が経つと、自分が置かれた状況を認識するだけの余裕を得ることができていた。

 そして、思考が正常になると浮かび上がってくるのが『この人たちは何者なのだろう』という今さらな疑問である。

 それを、晶に尋ねることができたのは、晶側にも竜が護堂によって蹴散らされたことでゆとりができたからだ。

 晶は、まどかを路上に降ろした。

 護堂によって竜が殲滅されたので、これ以上の逃避行は意味がないからだ。

「わたしは、呪術師ってやつです」

「呪術師?」

「魔法使いみたいなものです。まあ、炎とかを出すよりは、槍を振り回したり銃撃したりするほうが得意なんですけどね」

 晶は、まどかの質問に、簡単な答えを返してくれた。

 ファンタジーが現実になった。そのことに多少感動はしたけれど、本物の竜に命を狙われていたという実感もまた、同時に湧き起こったため、まどかは身震いしてしまった。

 竜が現実にいて、魔法がこの世界には存在する。

「それなら、草薙君は?」

「先輩ですか。あの人は、そうですね。一番わかりやすく説明するのなら、王さまってところでしょうか」

「王さま……」

 晶や祐理のような、特別な人間のさらに上に君臨する人。それが、草薙護堂。

 晶の言葉の意味が理解できないわけではない。なにせ、今目の前で、護堂が青白い光線を放って竜を吹き飛ばしたのだから。

 あれは、おそらく既存の兵器を上回る威力があっただろう。それを、一個人で振るえるとなれば、護堂の存在価値はどれほどのものになるのだろうか。

 まどかは晶と祐理しか知らないが、もしかしたら呪術師という存在はそう珍しいものではないのかもしれない。小説でよくある、正体を隠して裏から世の中を守っているということもあるだろう。今回のような事件が起きたときに、彼らは人知れず戦っているのだろう。

 だが、護堂は別だ。

 『王さま』という表現からも読み取れるように、護堂の力は呪術師の中でも抜きん出て強い。それこそ、まとめてかかっても意味がないくらいにだ。

 それゆえに、護堂は王なのだ。

 唯一無二の、最強の存在として、呪術師から尊崇の念を一身に受けているに違いない。

「詳しい説明は省きますけど、概ねそういう理解でいいですよ」

 晶も、そんなまどかの理解を否定しなかった。

「冷静になってみると、すごいことに巻き込まれちゃったな」

「そうですね。一生に一度あれば奇跡というレベルかもしれませんね。竜に襲われるのは」

 当然だ。

 竜に襲われるなど、そう頻繁にあっては堪ったものではない。一狩り行くほどの力すらないまどかでは、あっけなくエサになって終わる。

「あなたはどうなの?」

 まどかは、晶に尋ねた。

 常日頃から呪術に触れている晶は、こういったことには慣れているのだろうかと思ったからだ。

「まあ、そうですね。今年は、いろいろとありました」

「そう。いろいろあったんだ……」 

 そのいろいろが気になって仕方がないのだが、これ以上踏み込むと大変なことになりそうなので止めた。

「それがいいと思いますよ。関わらなくてもいい業界に関わるのは、身の破滅に繋がりますので」

「こ、怖いこと言わないでよ」

 明日にでもエージェントが来て、記憶を消されたりしないだろうか。

 まどかは、黒服に囲まれる自分を想像してぞっとした。

「うち、そんなひどい組織じゃないですから。大丈夫でしょう。たぶん」

「たぶんって!? 断言して! 大丈夫だって! お願いだから!」

「そう言われても、処分を決めるのは上司なんで……」

「じゃ、じゃあ草薙君は!? 草薙君、王さまなんでしょ!?」

「まあ、そうですね。それが無難な解決策だと思います」

 護堂なら、まどかを無碍に扱うようなことは許さないだろう。

 護堂は、呪術の秘匿を意識しているが、それでも絶対に守らなければならないとまでは思っていない。まどかの事情を優先して、馨に掛け合ってくれるはずだ。

「とりあえず、先輩と合流しましょう」

 晶は、まどかの今後のためにも、早めに護堂のところに戻ろうと思い、まどかをつれて、道を引き返した。




ジャドドバゲゲデビダゾ、ザザレスンジョ!
ゾンドグビバガギダダバギザダダ。ザガ、パダギパボシボゲダゾ!


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六十六話

 見た目の強壮さに比べて、竜は非常にあっけなく散った。

 もともと、それほど高位の存在ではなかったこともあって、カンピオーネである護堂にとっては脅威とはいえないレベルの相手だった。

 問題は、その後だ。

 蘆屋道満と名乗る老人と、その老人に従う正体不明の牛頭人身の怪物。

 護堂の宿敵とも呼べる存在だけに、道満が去った後も、護堂の気持ちは晴れない。

 敵は動き出している。

 これまでは、まったく情報を得ることができなかった相手だ。それが、カンピオーネである護堂の前に姿を見せたということは、『まつろわぬ神』への回帰が秒読みに入ったのではないか。

「どう思う、万里谷」

 まどかの家からの帰り道、護堂は祐理に尋ねた。

 祐理は、護堂の言いつけを守り、まどかの家の前から動かなかったおかげで、道満の襲撃に巻き込まれずに済んだ。周囲は吹き飛んだアスファルトや、衝撃で割れた窓ガラスなどが散乱している状況だったのだが、祐理がいた場所は奇跡的に被害がなかったのである。

「蘆屋道満を名乗るご老人が、如何なる素性なのかにもよるかと思いますが、一度神性を失われた以上、そう簡単に復活できるとは思えません。何かしらの大規模な儀式を執り行うと見て間違いないのではないでしょうか」

「儀式か。まあ、順当に考えれば、竜を使うつもりだったんだろうケド……」

「はい。そうでなければ、わざわざ危険を冒して草薙さんの前に姿を見せる必要はありませんから」

 護堂は道満の飄々とした様子を思い返す。

 あれは、危険と安全を天秤に乗せて遊ぶタイプだ、と結論する。

 興味本位で危険に手を出して、火傷をする典型例のような性格に違いない。

 だが、それゆえに、何をしでかすかわからない。今回だって、護堂の前に姿を見せる必要はなかった。祐理の言うのは尤もなことであるが、それに加えて竜が殲滅された時点で撤退してもよかったはずだ。それなのに、護堂の前に姿を見せた。

 目的があるのか、ないのか。その辺りが判然としない。だからこそ、不安が払拭できないのである。

「わたしの方からも、馨さんたちに連絡を取ってみます。馨さんたちとしても、道満様の件は懸念材料ですから、調査により一層力を入れてくれるかと思います」

「ああ、そうだな。よろしく頼むよ」

「はい」

 祐理は笑顔を浮かべて頷いた。

 道満がこれから先、どのように動くのか、意識しておく必要がある。護堂一人では限界があるが、幸いにして心強い味方がいる。彼らの協力を得て、調査を重ねる。今は、それくらいしかできない。

「竜が倒れた直後に蘆屋道満。先輩は、本当に騒動に愛されているようですね」

「嬉しくないなあ、それ」

 晶はやれやれといった様子で祐理と護堂を挟んで反対側を歩いている。

「ところで、後始末はどうするんだろうか。沙耶宮さんとかから聞いていないか?」

 護堂は、気になっていたことを二人に尋ねた。

 短時間とはいえ、竜が東京都の上空に現れたのだ。目撃者は、不特定多数という形で表現せざるを得ないほどにたくさんいるに違いない。

「ぶっちゃけてしまえば、放っておいても問題にはならないんですけどね」

「なんでだよ」

「だって、誰も信じないじゃないですか。東京に竜が出たなんて。たとえ撮影されていたとしても、CGで言い逃れできるのが現代のいいところですよね」

「確かに、そうなんだけどさ」

 それを言ったらいけないような気がする。

 晶の言うことは、何一つ矛盾のない説明なのだが、どうしても納得できないのは働けという気持ちからだろうか。

「まあ、放っておいても、というのはさすがに言いすぎだと思いますけど。一応、催眠系の術が得意な術者がカウンセリングという名目で病院に入っているはずですし、テレビなどには制限がかかっていると思いますよ」

「最低限の対応はしているってことか」

 それでもダメな場合は夢でも見ていたんじゃないの? という形で言い逃れるわけだ。

「それなら、伏見さんは?」

「特に、この件を言いふらさなければ何も」

「そうか」

 その辺りの釘は、誰かが刺すだろう。護堂の知ったところではない、というと無責任かもしれないが、正史編纂委員会の活動に口を挟むのは彼らの邪魔でしかないはずだ。

 それに、護堂が何も言わなくても、まどかに対して寛大な措置がなされたのだから放置して構うまいと思えた。

 実際のところ、正史編纂委員会が対象とするのは、この事件を積極的に言いふらそうという者たちであり、それ以外には特に干渉することはない。晶が言ったとおり、竜が現れたことを信じる人間がいない上に証拠もないからだ。

「それでは、わたしはこれで。草薙さん、晶さん。今日は、ご迷惑をおかけしました」

 祐理の家と護堂、晶の家はそこそこ離れている。そのため、最後まで一緒に帰るというわけにはいかない。

 この日の事件は、ある意味で祐理が発端となったものだ。それに関しての謝罪であった。

「いやいや、気にしなくてもいいって。大したことなかったしな」

「はい。そうですよ。万里谷先輩。わたしなんて、そんなに仕事してませんし」

 これが、護堂と晶の偽らざる本音だ。

 『まつろわぬ神』との戦いに慣れたためか、竜程度では脅威とも思えない、というのが護堂の感想。そして、晶は、まどかを連れて逃走しただけだったので、働いたという実感もなかった。

「それじゃ、またな」

「はい。……失礼します」

 祐理は、再度一礼してから、踵を返して自宅へ向かった。

 そして、護堂と晶もまた自宅を目指して歩を進める。

 それから、しばらくの間、二人の口数は少なかった。互いに、朝の出来事が脳裏に焼きついているためで、それを意識していることが感じられてしまったからだ。

 竜の出現という一大事があったために、棚上げしていた告白未遂だったが、竜の討伐が終わり、祐理と別れて二人きりになったことで改めて意識するようになってしまった。

 護堂は晶の表情を盗み見る。

 俯き加減で歩く晶は、顔をほんのりと紅くしている。

 頬の紅潮は、何も夕日のためだけではあるまい。

「あのさ、晶」

 と、護堂は語りかけてみるが、

「あ、は、ひゃい!」

 と、このように緊張しているのが丸分かりである。

 静花から度々鈍いという評価を得ている護堂も、さすがに晶が自分に好意を寄せていることに気づいていたし、だからこそ、このように緊張されてしまうと、護堂からどう話しかければいいのかわからないのだ。

 前世も含めれば、実に晶の二倍近い人生を歩んできた護堂であるが、その人生はすべて学生。大人の世界に足を踏み入れたことはなく、そういった意味ではまだ子どもだ。おまけに、この世界に生を受けてからは、恋愛事は後回しにしてきたため、十六年間浮いた話はない。

 もちろん、場数を踏んだからどうなる、というわけではないのが、この手の話の厄介なところなのだが。

 護堂は、なんとも気まずい雰囲気の中で、どうしたものかと思案していた。

 そうしているうちに、商店街が見えてくる。このまま、何も話をせずに別れてしまえば、この件は有耶無耶のまま風化する、そんな気がする。だが、それでいいのか。晶の気持ちを知り、中途半端ながらも告白までされて無視するのは、さすがに良心に反する。

 都合よく、公園が見えてきたところで、護堂は晶に話しかけた。

「なあ、晶。ちょっと、そこで話さないか?」

「え、うえ?」

 奇妙な声を発した後、晶は公園に視線を移し、それから護堂を見て、コクン、と頷いた。

 

 

 

 □ ■ □ □

 

 

 

 護堂と晶は、並んで公園のベンチに腰をかけていた。 

 秋の夕暮れは、見た目にも美しい黄金色で、高天の雲は赤紫色の尾を引いて流れている。

 冷たい風は夜の気配を帯びていて、吹くたびに地面を掃き清めていく。

「そういえば、ここ、先輩と初めてお話した場所ですね」

 晶が、周りを見回しながら、そう言った。

「ああ、そうか。確かにそうだったな」

 晶に言われるまで、護堂はそのことに思い至らなかったが、ここは、この年の四月に護堂が晶に呼び出された所である。

 呼び出されたのは夜中で、晶は静花や一郎に迫る危険を護堂に説明する場をこの公園に設けたのである。

 あれから、かなり長い時間が経ったような気がする。振り返ってみれば、一年も経っていない。ほんの最近の話である。しかし、これまでの半年が、あまりにも濃厚だったからか「まだ一年しか経ってないのか」という心境だ。

「……なあ、今朝のことなんだけどさ」

 しばらく、会話が途切れてから、護堂は思い切って切り出した。

 慎重に言葉を選ぼうとして、どのように話せばいいのかわからず、仕方がないので思ったことをそのまま伝えることにしたのだ。

「もしも、勘違いだったら笑ってくれ。その、俺のこと好きか?」

 我ながら滑稽なことを聞いているなと呆れながら問う。そして、問われたほうは、一瞬だけ身体をビクつかせてから、小さく頷いた。

「あ、わ、わたし、その、すみません」

「なんで謝るんだよ」

「だって、今朝、変なこと言っちゃって。それで、先輩を悩ませちゃって」

「別にいいんだよ。そんなことは」

 晶は、膝の上で指を組み替えていて、落ち着いていないことが見て取れた。

 こんな状況で、冷静に話ができるはずがない。話し手である護堂ですら、心臓が締め上げられるような緊張に襲われているのだ。

「……結論から言えば、付き合うってことはできない」

「そう、ですか」

 晶は、唇を噛んで俯き、ギュッと、膝の上で拳を固める。

「ただ、それは晶のことが嫌いってことじゃなくて…………これは、俺の問題なんだ」

 極力、正直に話をしよう。そう決めて、護堂は言葉を紡ぐ。

「俺は、カンピオーネだ。これまで、何度も死にかけてきたし、これからもそうなると思う。そんな中で、誰かと付き合うとかってのは、正直考えられない」

 それが、偽らざる護堂の本音だった。

 いつ死ぬかわからない中で、誰かに自分の命を背負わせていいのだろうか。あのサルバトーレ・ドニですら、側近に無理矢理やらされたとはいえ遺言書を書いている。護堂が生きているのは、そういう世界だ。

「身勝手ですね。先輩は」

 護堂の答えを聞いた晶は、脱力したように言葉を吐き出した。

「今の、ちゃんとした答えになってないと思います」

「そうだな。すまない」

「いえ」

 晶は、首を振った。

「今のわたしは、たぶん先輩の言葉では納得できないと思いますから」

「そうか」

「はい」

 そして、晶は深呼吸をしてから話し始めた。

「でも、これは先輩が気にすることではありませんよ。誰だって、好きな人からの答えは、最高の結果であって欲しいものですから。……自分が望まない結果だったら、どれだけ正論を並べられても納得できませんよね」

 理性ではなく、感情が認めないから、どれだけ相手が言葉を尽くしたところで意味がない。晶も、護堂が懸命に言葉を選んで、本心を語ってくれていることを察していたし、感謝もしていた。しかし、それとは別の部分で、護堂の答えを認められない自分がいる。

「だから、……これは、わたしの問題なんです」

 感情のコントロールは、媛巫女にとって必須とも呼べる技能だ。心を研ぎ澄まし、無我の境地に至ることこそが、媛巫女には求められる。霊視の才能がない晶であっても、それは同じ。だが、こと護堂のことに関しては、どうあっても乱される。正負双方の感情が、入り混じる。それが、辛くもあり、心地よくもあった。

「でも、まあ、不思議とほっとしたところもあるんです」

「?」

「だって、万里谷先輩とか清秋院さんとかもいますから。わたしが先輩を独占、ってわけにもいきませんし」

 祐理のことも恵那のことも、大切に思っているから、彼女たちとの関係を壊しかねない事態は避けたかった。それが、たとえ護堂との関係を停滞させることになっても、みんなが一緒にいられたら、それが一番かもしれないと。

 その考え方は、結局のところ消極策であって、祐理や恵那を相手に勝負をする勇気がないことを示すものでもあったが、それなりの説得力があった。だから、こうした「言いわけ」を思いついた晶には、それが正答であるようにも感じられたのだった。

「先輩はカンピオーネですから、その辺りはもっと自由でいいと思いますよ」

「自由って。それこそ無責任じゃないか」

「カンピオーネですから、責任なんて考えなくていいんですよ。そんなものは、周りに押し付けてしまえば。そのために、正史編纂委員会(わたしたち)がいるんですから」

「そういうもんか」

 責任云々は、これまでにも何度か言及があった。しかし、心情面での抵抗もあり、ヴォバン侯爵やサルバトーレがしているようにはいかないのだった。

 護堂は無鉄砲な生き方をしている自覚はあるが、それは、行き当たりばったりな生き方ではないと思っている。だから、当然、自分の行動による結果はある程度考慮に入れて行動するし、そのあたりは常識の範疇に収まっていると思っている。

 それが、護堂なりの王道なのだろうが、実際どこまで達成できているかは疑問符が付くところだ。

 無論、意識しているのとしていないのとでは、大きく異なってくるのは言うまでもないので、結果はともかくとして護堂の存在は人類にとって良心的であろう。

 護堂のそうしたところは、晶も好ましく思っている。

 晶は、立ち上がって、数歩歩いた。

 腕を組んで頭上に掲げ、背伸びをする。

「先輩」

 晶は、振り返って護堂を見た。沈み行く太陽を背に、真っ直ぐに護堂を見つめる。

「ん?」

「今日のお返事。はっきりとしたのが、欲しいです。あなたの傍にいてもいいのか、悪いのか。すぐにとは言いません。先輩の事情も、理解してますから。だから、いつか、……いつか、ちゃんと聞かせてくれますか?」

 懇願するような、切実な気持ちが声色に表れていた。

 そんな言葉を投げかけられて、正面から受け止めなければ男ではない。ただでさえ、中途半端な回答しかできなかったのだから、誤魔化しは、絶対にできない。

「わかった」

 護堂ははっきりとした口調で、晶の頼みを聞き入れた。

「俺の覚悟ができたら、そのときは、今日の答えをはっきりとした形で伝えるから」

 護堂の答えを聞いた晶は、固かった表情をやっと綻ばせた。

 その背に背負った赤い夕日と相まって、その笑顔はとても魅力的に見えた。

「ありがとうございます、先輩」

 呟いて、おもむろに護堂に近寄る。

 護堂の正面、手が届くところに立った晶は、笑みを妖艶なものに変え、囁く。

「今の約束、絶対に忘れないでくださいね」

 そう言って、前屈みになって、護堂の両頬に両手の平を添えた。

 そして、

「ん……」

 護堂が何かと思ったときには、すでに晶は護堂の唇を奪っていた。

 ぐっ、と晶は護堂に自分の唇を押し付ける。

 しばらく、時が止まったように二人とも動かなかった。

「これなら約束、忘れないですよね」

 唇を離した晶は、護堂の瞳を覗き込むようにして、そう確認をした。

 否と答えられるはずがない。突然のことに混乱しつつ、護堂は頷いて認めた。

 晶は、クスクスと笑って護堂から離れた。

「それじゃ、先輩。また、明日。わたし、がんばりますからね!」

 そう言うや否や、晶は元気よく走り去って行った。

 去って行った晶を見送った護堂は、ため息をついた。緊張から解放され、思考がクリアになるにつれ、人間関係が大きく動いてしまったことを実感する。

 答えを待ってくれた晶のためにも、しっかりと考えなければならないと思った。

 

 だが、「しっかりと考える時間」そのものが、そもそも存在しないのだということを、このときの護堂は知る由もなかった。




戦国恋姫がエロいと思って買ったらエロくなかったので那珂ちゃんのファンやめます。
つか、戦国物にするんなら、鬼とか出さずに戦国して欲しかった。

まあ、それは別として、今回、ついに晶が行動を開始しました。
正直、この手の作品で告白ってのは鬼門じゃないかと思いながら、でも敢えてといった感じで。
晶は、もともと原作に無いをコンセプトにしたキャラなので……原作はなぜかロングヘアばっかりなので髪を短くしてみたり、銃火器や槍を持たせてみたり、後輩にしてみたり、そんな感じなので、性格も原作には無い、等身大の女子中高生をイメージしつつ護堂にあわせる感じに。

最初に考えたときには、隠れMだったり、イメージアニマルがシェパードだったりしたけれど、前者は消滅状態、後者はしばいぬ子さん状態になっているような気がしないでもない。

そんな裏設定は置いといて、晶が時々感情に従った行動をするのにも理由があったり。その辺りは本編で取り上げる予定で。
クリスマスは免許センターで過ごしたよ。


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第九章 剣神死闘編
六十七話


 『神殺し』

 プロフィールの中に、この言葉を書き込めるのは、世界に七人だけである。

 そのうちの一人である草薙護堂は、『神殺し』であるが、同時に『男子高校生』という肩書きを持つ。むしろ、本来はこちらのほうが本業なのだが、残念なことに世の中はそのように見てくれない。もちろん、この『世の中』というのは、彼の真実を知っている者たちで作られた業界に限る。

 とはいえ、世界を震撼させる肩書きが猛威を振るうのは、基本的に『まつろわぬ神』が降臨してきたときだけである。現存するほぼすべての『神殺し』たちは、戦うことにのみ力を注ぎ、それ以外は基本的に常人と変わらず過ごしている。時代錯誤な生活を送る者もいるが、神殺し――――カンピオーネの興味関心は基本的に『まつろわぬ神』と戦うことに集約されているからであり、それが金銭や宝物や政治に向かうことはほとんどない。

 そのおかげで表向き、世の中は平穏を保つことができているのである。

 草薙護堂も、その例に漏れず、特に政治に関わるつもりはない。自分が一言で国家戦略を変え得る発言力を有していながら、それを使おうとは思っていない。その部分に関しては、庶民的な性格である。

 権力を手に入れたら人が変わるような人間は、カンピオーネにはなれない。

 確たる自我を、自然体で表すような、そんな人間でなければ、神を殺すことなどできないからだ。

 基本的に我が強いのが特徴のカンピオーネである。

 協調性、という言葉を、母親の胎内に忘れてきたような連中ばかりだ、というのが自分だけは例外的に協調性のあるカンピオーネだと自負しているこの男――――アレクサンドル・ガスコインの魔王観である。

「ふん、食えない男だ」

 アレクサンドルは、護堂についての報告書をテーブルの上に投げ捨てるように置いて呟いた。

「食えない? それは、どういうこと?」

 対面している少女はセシリア・チャン。華僑系の呪術師で、アレクサンドルの配下である。区分としては『道士』ということになろうか。かつて、アレクサンドルに助けられた恩から、彼の下で主に東方方面の情報を集めている。

「この男、カンピオーネになってから半年ほどで、四人のカンピオーネと顔を合わせている。その中で、共闘関係にないのは狼翁だけだ」

「イタリアではサルバトーレ卿とコンビを組み、日光では羅濠教主とジョン・プルートー・スミス様。確かに、それはそうね。でも、それはおかしなこと?」

「十分におかしい。カンピオーネたちが、共闘するなど、今までにほとんどなかったことだ。特に、あの筋肉至上主義が他人と共闘するなど、尋常ではない」

 まして、そのときの敵は羅濠教主が百年もの間敵視していた斉天大聖孫悟空だ。アレクサンドルは、日光での戦いの始終を盗み見ていたから、羅濠教主がどれほどあの猿神に執着していたかは知っている。

「それなら、協調性はあるってことでいいんじゃない?」

「……俄かには信じがたいがな」

 不承不承ながら、アレクサンドルは認めた。少なくとも、調査結果ではそう判断せざるを得ない。また、一般の学校に通い続けているという点も、考察材料にはなる。

「だが、裏を返せば、この男は他人を利用することを知っているとも取れる。サルバトーレに対しては、我が身を差し出す契約で、日光のときには何があったか分からんが、何れにせよこの男の都合のいいほうに流れが向いていたのは事実だ」

「自分が不利な状況なのはどちらも同じ。だとすれば、協力してことに当たるのは当たり前のこと」

「違うな」

 セシリアの言葉に、アレクサンドルは眉を顰めながら否定した。

「カンピオーネという連中は、そんな状態だからこそ、一人でどうにかしようとするものだ。サルバトーレが数的不利に陥ったとして、自分から誰かに協力を仰ぐと思うか?」

 セシリアは、アレクサンドルの例を頭の中でイメージし、それからどうしてもそれが不可解な行動にしか見えないことに気付いた。

 サルバトーレ・ドニが人を頼る。ありえない、としか思えなかった。

「そういうこと」

 セシリアはそこで納得し、アレクサンドルにこれからの計画を尋ねた。

 アレクサンドルはイギリスを中心に活動するフランス系カンピオーネ。しかし、レミエルから簒奪した『電光石火(ブラックライトニング)』によって、世界各地を自由自在に飛び回ることで、世界規模の活動領域を有している。ヴォバン侯爵はフットワークが軽いことで有名だが、アレクサンドルには遠く及ばない。

 そして、そのアレクサンドルが当面の活動拠点と定めたのが、日本のとある中華街なのである。

 そこは、日本の呪術組織の手が届かないアウトローが犇く場所。アレクサンドルが主宰する《王立工廠》の日本支部も、そこに密かに居を構えている。

「当面は様子見だな」

「草薙護堂とコンタクトを取るつもりはない?」

「ああ。迂闊に接触して戦闘になれば、ヤツに気取られる。それでは、計画が水泡に帰すことになる」

 アレクサンドルが警戒しているのは、草薙護堂がカンピオーネだからだ。

 いかに、護堂がこの半年で、大半のカンピオーネたちと交流し、共闘関係を持ったといっても、それでアレクサンドルと共闘してくれる保証はない。かつて、理性的だと思ったスミスと殺し合いを演じた経験が、アレクサンドルを消極的にさせていた。

 だが、何れはコンタクトを取る必要はある。

 グィネヴィアが事を起こすのは間違いなく日本。あの神祖が、日光の事件に関わっていることは明らかであり、その後も日本に度々現れていることを確認している。手を出さないのは、その背後にいる護衛の存在があるからだ。

 アレクサンドルとグィネヴィアとの縁はあまりにも深い。

 今さら無視して先に進める相手ではなく、そろそろこの腐れ縁に終止符を打っておかなければ今後の活動に支障が出る。

 そのために、より確実に、逃げる余地すらない状況に追い込んだ上で、その生命を摘み取らなくてはならない。

 そのための障害となり得る存在こそが、草薙護堂。

 この男がどのように動くのか。それ次第で、状況は流動的に移り変わるのである。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 ――――――――后弟橘媛、太刀を抱きて海に入り給ふ。其の太刀の流れし先は陸にあらず、海にもあらざる処にて、浮島といふなり。――――――――

 

 

 それは、如何なる書物にも載っていない民間伝承の一節。

 伝承とは、語り継がれるものだ。誰かが創作しただけでは、伝承にならない。長い年月をかけて遍く人々に行き渡らなければならない。そういう意味では、これは伝承とは言えない。何せ、この一節が登場するのは千葉県のとあるアマチュア郷土研究者が自費出版した本だけだ。では、これは真作に程遠い偽作に過ぎないのだろうか。ただの一研究者の妄言として放置できるのだろうか。答えは、否である。これが、ただの偽作であれば、どれほどよかっただろうか。これがただの妄言で済めば、千年の長きに渡って正史編纂委員会とその前身となる組織が抹消に動くことはない。そう、これは極めて真作に近い、この国の呪術世界の中枢に鎮座する『御老公』たちが、なんとしても消し去りたいと思うほどの、『脅威』に繋がるキーワード。

 消せども消せども、何か見えない力が作用しているかのように同じような話が湧き上がってくるのだ。

 結局、記憶消去と、焚書で対処することで、いたちごっこを繰り返している。

 

「弟橘媛というと、まず真っ先に倭建命との繋がりを考えるところでしょうけど」

 風はなく、静かな小波の音が耳に心地よい。

 場所は千葉県木更津市内にある、とある海岸。祐理は、冬馬に連れられて静かな砂浜にやってきた。連れ合いには護堂と晶、そして恵那。この面々が揃うのは、日光での一戦以来となる。

 眉目秀麗な少女たちが居並ぶ様は、人の目を引いて余りあるが、幸いなことに、この海岸は千年もの間秘匿され続けた秘境の地。立ち入ることが許されるのは、特定の役職に就く者だけである。

「上総に阿波。この辺りは弟橘媛と倭建命との縁が深い土地ですしね」

 ガンガンガン、と無粋な音が響く。晶が見守る先では、ショベルカーが海岸の砂を掘り返している。その周囲には呪術師が集められていて、一心に呪文を唱えている。

 千年間、荒らされることのなかった砂浜が、無残にも破壊される様子に祐理が表情を曇らせた。それは、自然破壊に対する憂慮か、それとも、これほどまでに厳重に守られた遺物に対する不安か。

 晶はなんでもない様子で眺めていて、恵那は目を輝かせている。彼女の場合は、山篭りの日々のため、こうして都会らしい光景を見るだけでも新鮮に思えるのかもしれない。

 ぼんやりと眺めているのは護堂だ。呼ばれたはいいが、問題の物が出てきていないので、手持ち無沙汰にしている。護堂は冬馬に尋ねた。

「解呪を進めながらの発掘作業ですか」

「ええ。何せ千年前の呪術師が施した結界を基本にした防御術式が仕込まれています。そして、その結界の中には、攻撃的なものも含まれているのですよ」

 無理矢理壊そうとすれば、当然ながらこちらに手痛い被害が出る。

 段階的に設置された結界を突破するには、解呪と掘削を繰り返すしかないというわけだ。

「手間がかかりますね」

「それはもちろん。そうでなければ、守れませんからね」

「言われてみれば、確かに」

 冬馬の返答に護堂は苦笑した。手間がかかるからこそ、結界の意味がある。解呪が予定時間を超えている件に関しては、むしろ歴代の術者たちを褒め称えるべきところだろう。

「それでは、暇つぶしに今回の一件のあらましから説明しましょうかね」

「そうですね。お願いします」

 暇を持て余していたのは事実だ。海が近いが冬が近いこの季節に泳ぐ者はいない。概要程度は、車の中で聞いたが、詳しい話はなかったので、ちょうどいい。

「今回我々が動いたのは、まず地元の郷土史を研究されている先生が発端でしてね。先に紹介したあの一節は、その方の本の中に取り上げられている民間伝承の一つなのです。問題は、この伝承でして、『太刀の伝説』は我々が千年前から闇に葬ってきたものなのですよ。それこそ、記されている本を焼き払い、媛巫女を動員して記憶消去をかけるなどしてです」

「でも、消し切れない?」

「ええ」

 冬馬は頷いた。

「記されている書物はなく、口伝も存在しない。それにも関わらず、どこからか現れては広まろうとするんです」

「広まろうとする、なんて、まるで伝説自体に意志があるみたいですね」

「そう思えるほどに、しぶといのですよ、これは」

 冬馬が困ったものです、と肩をすくめるのも分かる。自然発生的に現れる伝承をひたすら消していく。それは、真実終わりが見えない作業なのだ。

 通常、こうした文化は一度消えてしまえばそれまでだ。復活することはありえない。伝えるモノがなければ、伝わらない。そして、人間は伝わらないモノを知ることはできないからだ。文字のない時代の歴史は、遺物から類推するしかない。遺物や遺構が発見できなければ、たとえそこにかつて人がいたとしても、それが分からず、結果としていなかったということになってしまう。それが歴史であり現実であり、あるべき姿だ。

 しかし、これは違う。

 人の意志、文化によらず現れる。それは、それそのものが意志を持っているに等しい。

 何かしらの霊威がそこにはある。

「その正体は未だに不明。御老公も千年間だんまりを決め込んでいます」

 日本呪術界の中枢にある正史編纂委員会ですら、事の真実を知らないまま命じられたことを淡々を続けているだけなのだ。いい加減、これは何なのか教えて欲しいところだった。

「もっとも、弟橘媛の部分はそう重要ではないようです」

「というと?」

「これまで、様々なパターンが看取されましたが、中には弟橘媛が省略されていたり、倭建命が出てこなかったりします」

 それを聞いた祐理が、

「すると、弟橘媛や倭建命ではなく、太刀の行方のほうがポイントということでしょうか」

「鋭い。さすがです」

 冬馬は頷いた。

「この伝承のキーとなるのは、太刀が流れ着く先が浮島だということです。海底ではなく、陸でもない。つまりは異界です」

「海の底の異界であれば、竜宮がありますね」

 浦島太郎で有名な竜宮城。あの昔話は、異界訪問譚の一種であり、その原形は日本書紀にまで遡る。

「太刀と海との関わりと言えば、天叢雲剣と安徳天皇の話もありますよ。安徳天皇が八岐大蛇の生まれ変わりで、太刀を取り戻しに現世に生まれたというヤツです。ここでは、安徳天皇が帰るのは竜宮になっていますねェ」

「そうなんですか」

「『平家物語』とか『愚管抄』なんかにある記述です」

 どちらも、日本史の教科書に出てくる書名だ。意外な出典に、護堂は興味を深めた。今はあまり関わりがないので置いておくとして、これが終わったら確認してみようと思ったのだ。

「異界に眠る太刀。ルクレチアさんが研究なさっていた『最後の王』、アーサー王伝説と関わりがあるのでしょうか」

 祐理が護堂に視線を向けてくる。

「ない、とは言えないだろうな。あの人のフィールドワークの話、もっと聞いておけば絞り込めたかもしれないけど。まあ、関わりがあったとしても、今はどうにもならない」

 目覚めなければ万々歳。何れにせよ、今、この作業を見ているグィネヴィアが、自分から出てきてくれるのを待たねば始まらない。

 晶と恵那が意味ありげにこちらを見る。護堂は、首を振る。こちらから手は出さない。相手は神祖。その後ろにはランスロットという無双の大英雄がいる。迂闊に踏み込めば、即死に足を突っ込むことになる。

 グィネヴィアを始末するには、ランスロットと引き離さねばならない。

 ランスロットのことも含めて、ルクレチアから情報を引き出していた。イタリアの『地』を極めた魔女であるルクレチアは、神話学の大家でもある。グィネヴィアとも一時期行動を共にしていた。

 そして護堂はこの穴から出てくる遺物が、グィネヴィアの関心を集めていることを知っている。仲間たちとも情報を共有している。グィネヴィアが日光の事件の主犯だという事実があるので、警戒レベルは初めから高い。

 魔女が得意とする視線を飛ばす術で、海岸を睥睨しているのが分かる。媛巫女たちが気付いているのだ。直感に優れた護堂が気付かぬはずがない。

 しかし、こちらの警戒心に気付いたのか、それとも別の理由か。魔女の目は、フッと消えてなくなった。

「去られたようです」

 精神感応に優れる祐理が、視線が消えたことを告げた。

「さすがにカンピオーネがいるところに攻め込むわけにはいきませんか」

 冬馬も緊張を解いて、ハンカチで汗を拭った。夏でもないのに、汗をかいてしまった。護堂や恵那、晶のような(つわもの)の気に当てられたからだ。祐理が泰然としているのは、『まつろわぬ神』でなければどうにかなるという考えが、経験に裏打ちされているからだろう。実に頼もしい限りだ。

「お、見てください、草薙さん。発掘成功です」

 冬馬が指を指す。発掘現場のすぐ傍にはブルーシートが置かれている。その上に運ばれたのは、小さな棒状の何かだった。

「それでは行きましょう」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「これが、天之逆鉾」

 日本神話に登場する伝説上の矛だ。それは、獲物を獲るために使われるのではなく、国土創造に使用された創生の矛なのである。

 伊邪那岐と伊邪那美が、その矛を用いて混沌とした大地をかき混ぜたことで、日本国が生まれた。これは、創世神話に関わるアーティファクトだ。

「ふうん。鉛筆くらいの大きさなんだな」

 見た目は美しい木製の棒。飴色で、陽光に煌いている。天之逆鉾は、『日本書紀』での別名を天之瓊矛といい、「瓊」の字は玉を意味するという。なるほど、この美しさであれば、玉に匹敵する価値があると言われても頷ける。

「これをどう視る、万里谷」

「そうですね。まだ、霊視が降りていませんので、はっきりとしたことは言えませんが、大地と巌の気を感じます。伊邪那岐命と伊邪那美命に比すべき力と視受けます」

「やっぱり創世系の神具ってことか。それっと」

 護堂は手の中で弄んでいた天之逆鉾を、唐突に砂に埋没していたコンクリートブロックに叩き付けた。

 さらに両刃の剣を創造して柄を両手で握り、思いっきり振り下ろした。

「く、草薙さん!? 突然、何をなさるんですか!?」

「さっすが王さま。やることが派手だね!!」

「先輩。言ってからにしてください!!」

 三者三様の声が上がる。順に驚き、賞賛、文句である。が、護堂はどれにも取り合わず、すまんすまんとやり過ごす。

「んー。やっぱり壊れないか」

 護堂の剣は、コンクリートブロックをきれいに両断していたが、問題の神具には傷一つ付けることができなかった。両断されたコンクリートブロックの残骸と剣の間に挟まる形で、天之逆鉾は先と変わらぬ美しさでその存在感を誇示している。

「これは、不滅不朽の神具。神の叡智の結晶です。人の手では傷つかず、年月で変化せず、神の力を以てしても失われないものです」

「うん。まあ、そうなんだろうけど、壊せれば今後の憂いもなくなるかなって思ったんだよね。ほら、サルバトーレがヘライオンを斬ったみたいにさ」

「あのときは、それで竜が出たんですけど」

「そうです。もしも、ナポリと同じことになれば、今度こそ土地の精が枯れかねません!」

「あー、そういえばそうだったね」

 すっかり失念していた護堂は、誤魔化すように頭を掻いた。

「まあ、あれだ。とりあえず、コイツをどう扱うかってことを議論しよう」

 護堂は、この神具の使い方を知っている。薄らとではあるが、記憶に残っているので問題はない。はっきり言えばこれそのものが脅威になることはないと思う。何せ、地面を撹拌し、島を作ったり沈めたりする力だ。脅威の度合いで言えば、アテナのゴルゴネイオンのほうが格段に上だろう。

「はい、パス」

「え、ちょッ」

 誰かが制止の声を出し、護堂が天之逆鉾を放る。それをキャッチしたのは恵那だった。

「草薙さん。神具をそんな乱暴に扱ってはいけません!」

「大丈夫だろ。不滅不朽なんだから、頑丈さは証明済みだ」

 護堂の剣でも傷一つ付かない神具。当然、投げられた程度でダメージを受けるはずがない。

 少女三人は、手元で神具を眺め、外見や能力についてああでもない、こうでもないと話している。

 そうしている間に、護堂は冬馬に向かって話をする。

「あれは、俺が持っていたほうがいいんですか?」

「そうですね。そうしていただけると助かります。厳重な結界を解いたからには、それ以上の保管場所に入れておかなければなりませんので。現状、草薙さん以上の保管場所は考えられません」

「そうですか。それじゃ、どうしようか。筆箱かなんかに入れるか」

 大きさが鉛筆くらいということでちょうどいい。神具をそのような場所に入れておくのが妥当かどうかは別として。

「う、きゃッ」

 小さな悲鳴。三人のほうを見ると、なんと、天之逆鉾が一メートルほどの長さになっていた。

「は?」

 護堂は思わず首を捻り、晶たちはどうしようと慌てている。

「すみません、先輩。触ってたら大きくなりました!」

「いやいや、大きくなったって、おかしいだろ。何がどうした!?」

「理由は分かんないけど、アッキーに反応したんだと思うよ。大きくなったのは、アッキーが触ったときだったし」

「わたしの所為ですか!?」

「まあまあ、とりあえず俺が持つよ」

 そう言って、護堂は晶から天之逆鉾を受け取った。途端、力が抜けたように収縮して、元の鉛筆大にまで縮んでしまった。

「なんだったのでしょう」

 祐理が不思議そうに天之逆鉾を眺めた。晶はほっと一息つき、恵那はつまらなそうにした。

 天之逆鉾が本来の姿に立ち返った要因。それは紛れもなく晶にあった。この神具は、大地と水に深く関わる地母神に反応する。原作では、アレクサンドルが女媧が降臨した地で採取された竜骨を利用していた。しかし、それがなぜ晶に反応したのか、というと分からない。そのまま考えれば、晶が極めて祖に近い存在だからという認識になるのだが、それでも人間の枠を出ているわけではない。そんな晶が、たとえ強力な大地の加護を得ていたとしても発動できるものなのか。

「考えても仕方がないか」

 護堂はそこで思考を打ち切り、天之逆鉾をズボンのポケットに押し込んだ。

「実はさ、その神具についておじいちゃまに連絡したんだけど、うんともすんとも言わないんだよねー」

「ここまで来て知らぬ存ぜぬを決め込む気なんだろうな」

 千年間保守し続けてきた秘密だ。秘匿という消極的な保護ではなく、カンピオーネに手渡すという積極的な保護策に移行したとしても、彼らにすれば状況の変化とは言えないのだろうか。

 護堂が幽界の御老公たちに思いを馳せていたそのとき、恵那が不意に佩いていた太刀の鯉口を切った。柄に右手を添える。晶は拳銃を呼び出す。恵那を前線に配置して自身は後方から援護する形を取るつもりだ。

「白い、女神。いえ、それとはまた別の何かが向かってきます」

「なるほど、お客さんが動きましたか」

 冬馬のポケットに入っていた携帯が振動している。連絡が入っているのだろう。

 そして、祐理が見つめていた空間に、忽然と少女が現れた。

 喪服を思わせる黒いドレス。ブロンドの髪。そして、女神とも人ともつかない奇妙な気配。イタリアで会ったエンナと似た気配だ。

「神祖か」

「はい。お初にお目にかかります。草薙護堂様」

 見た目の幼さに似つかわしくない、玲瓏とした声だ。

「神殺したる御身に、直々に名乗る非礼をお許しくださいませ。我が名はグィネヴィアと申します。御身のお耳に入れたき儀がございますゆえ、罷りこしました」

 なるほど、確かに美しい少女だ。そして、謙っていながら、どこか尊大さを窺わせる口調。謀略の臭いがプンプンとする。

「名前は、ルクレチアさんから聞いたことがある。それで、俺になんのようだ?」

 警戒心を露にして、問う。おまえを信用していないということを表す。

「この国に、女神アテナが入っております」

 護堂は特に驚くそぶりを見せなかった。来るだろうとは思っていたからだ。原作ほどにアテナとのつながりがあるわけではないが、それでも因縁はあった。イタリアで、彼女を撃退したのは護堂だ。絡まれる可能性は否定できない。

「アテナが? ふうん、理由は」

 しかし、護堂は知っていたことを隠し、話を続けた。

「このグィネヴィアの命、が目的でございます」

「アテナの怒りを買ったか。それで、俺を楯にしようって魂胆なわけか」

「とんでもございません。そのような非礼、グィネヴィアにどうしてできましょうか。確かに、かの女神は我が命を狙っております。しかし、それは叶わぬ願い。アテナより逃れる方法をグィネヴィアは持っておりますので。ですが、グィネヴィアに届かぬと知った女神は、その矛先を最も身近な御身に向けることになりましょう」

「なぜ、そう言い切れる? あなたを追い続けるかもしれない」

「それは不可能でございます」

 グィネヴィアは妖艶に微笑んだ。アテナに自分は殺せない、という確信がある。

「かの女神はじきに命を落とします。大地母神の命を吸う、聖杯の力によって」

「残り幾許もない命を、あの女神ならば戦いに費やす。で、因縁のある俺が標的第一号になるだろう、ということでいいのかな」

「はい。その通りでございます」

 護堂の理解が早かったことが意外だったのか、少々驚きの表情を浮かべたグィネヴィア。

「よし、だったら前置きはいい。さっさと本題に入ろう。あんたの目的はコイツ、それでいいな」

 護堂はポケットから取り出した天之逆鉾をグィネヴィアに見せる。何日も前から、この海岸を監視していたという謎の術者。それが、グィネヴィアと見て間違いない。

「ええ、そうですわ。グィネヴィアはその天之逆鉾を頂きたいのです。無論、ただでとは申しません。代わりに、アテナを討ち果たすための策を用意しております」

「それが本当であれば、興味深いけどな。策の一つか二つで、あのアテナが倒れるとは思えないな。はっきり言って、信用ならんぞ。その提案は」

 成功するか否か分からないものに投資するのは愚かなことだ。それも女神相手の策は、常識的に考えて失敗するに決まっている。

 グィネヴィアが何をしたいのか知っているとしても、素直に頷くわけにはいかない。

「用心深いのですね。ですが、ご心配には及びません。我が策は確実にあなた様に勝利をもたらすことでしょう」

「ずいぶんな自信だな」

 そこまで勝利を確信できるのであれば、自分ですればいいものを。

 ランスロットを動かしたくないわけだ。護堂とアテナが相食んだところを狙う腹だろう。

 護堂は冬馬に天之逆鉾を投げ渡した。魔術を自在に操るグィネヴィアに懐を気にして相対するのは不利だと思えた。倒すだけなら可能だろう。しかし、盗み出す手がないとも限らない。

「前言を撤回しましょう。ずいぶんと、無用心でいらっしゃるのですね」

 護堂が冬馬に天之逆鉾を投げ渡した直後、グィネヴィアが目の前に進み出た。瞬間移動ほどではないが、意識を逸らした間隙を突いてきた。

 そして、キスをする。

 聖杯についての知識が流れ込んでくる。アテナの腹中に封印され、少しずつその命を削っている聖杯。それを起動させるキーワードが、脳に染み込んでくる。神祖や『まつろわぬ神』が使う、最上位の教授の術だ。

「それでは、失礼いたしますわ。草薙護堂様。何卒、アテナをお討ちくださいませ」

 そう言って、グィネヴィアは姿を消した。

「王さま。今のって、教授?」

「似たようなものだろうけど、次元が違うんだろうな。魔術を教えることもできるみたいだ」

 護堂の中には、グィネヴィアが与えた、ある種の儀式の方法が残っている。そして、これは消えることがない。知識だけでなく、魔術の使い方すらも相手に伝える秘術なのだ。

「それにしても草薙さん。出会ったばかりのグィネヴィア様にまで唇を許すなんて。あの方の仰るとおり無用心ではありませんか?」

 ちょっと怒ったような祐理の口調。

「いや、今回はアテナを倒す策があるって言ってたじゃないか」

「しかし、別の術をかけられる可能性もあります。お気をつけください」

 経口摂取が唯一カンピオーネに術をかける手段だ。アテナを倒す策、と見せかけて別の呪いの類だったらどうするのか、と祐理は言いたいのだ。

「あー、確かにその通りだな。うん、悪かった」

 正論なので、言い返せない。そして、半ば表情の抜け落ちた顔で護堂を見つめてくる晶は、怖いので直視しないようにする。

「さて、私はアテナ対策に行きますかね」

 そんな場の空気から逃げ出すように冬馬は海岸を去ろうとする。

「甘粕さん。どこ行くんですか!?」

「修羅場は見てる分には楽しいんですがね、同じ空間にいるのは辛いんですよ。ということで、一旦離れさせていただきますね」

 頼りにならない大人は、早々に車のほうに向かっていった。携帯を取り出して連絡を取り始めたので、呼び止めることもできない。

 にやにやとした恵那、心配しつつも怒っている祐理、そして無言の晶という組み合わせは、なかなかに堪えるものだった。




明けましておめでとうございます。2014年です。今年の夏でカンピオーネのアニメから二年が経つと思うと、時の流れの早さを感じますね。


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六十八話

 グィネヴィアとの顔合わせを終えた護堂たちは、アテナの襲来に備えて東京に戻ってきていた。今のところ、『まつろわぬ神』に関する情報は入ってきていない。

 そこで、いつでも動けるように、護堂たちは正史編纂委員会の総本部とも言うべきビルで待機することにした。新宿にあるこのビルのオーナーは沙耶宮家。つまり、ビルは馨の所有物件である。

 そのビルの応接間に護堂たちは通されている。

 大きなガラス壁を覗けば、百メートル以上下を車が走っている。白い室内は小奇麗で、ほとんど物が置かれていない。ガラステーブルを挟んで向かい合った黒いソファーがあり、隅には観葉植物が置いてある。

「ところで、草薙さん。これから、どうされるんですか?」

 護堂がぼんやりと窓の外を眺めているとき、祐理が尋ねてきた。

「アテナが本当にいるのか、分からないから、なんとも言えないな。もしも、アテナが見つかったのなら、こっちから攻めることになると思う」

 アテナを東京都心に踏み込ませるわけにはいかない。

 あの闇の権能は、高度に文明化された都市にとっては致命的な大打撃を与える力だ。決して破壊を齎すものではないが、それ以上に厄介な経済的打撃を与えるには十分すぎるものである。

 さらには医療機関にまで影響が及べば、人命に関わる。交通機関は軒並みダウンし、自家用車すらも使えない。無論、救急車や消防車といった緊急車両も使えなくなる。不幸中の幸いは、アテナの力の下では、火事も起こらないということくらいか。

 とはいえ、アテナがすでに都内に入ってしまっていたら攻め込むのは悪手であり、護堂が身体を張ってアテナを海岸などにおびき寄せるしかないのだが。

「神様なのに、何一つ人類に恩恵を齎さないってのも、どうかと思うけどな」

 護堂は呟いた。

 しかし、それも無理のないことだろう。大多数の神が、神代から中世にかけて生み出されたのだ。その権能の方向性が現代人の価値観に合わないのは当然だ。まして、『まつろわぬ神』ならば、なおさらだ。彼らは、人間から見て、歪んだ方向にしか権能を振るわない。ゆえに、彼らの存在は自然災害に比されるのであろう。

「万里谷、霊視とかは来てないか?」

「申し訳ありません。今は、なんとも」

「そうか。まあ、意図して霊視ができるものじゃないって言うし、仕方がないさ」

 霊視は、自分の好きなように振るえる能力ではない。この力は、ある種の神託である。幽界と無意識の領域を繋げることで、あちら側の情報を読み取っているのだ。しかし、向こう側への道が開かれるのは何かしらのきっかけによるもので、祐理から能動的に働きかけることはできない。できたとしても、それは尋常ならざる負担を彼女の身体にかけることになろう。

「ところでさ、王さま。アテナって、実際どんな神様なの?」

 ソファーに腰掛け、お茶を飲んでいた恵那が護堂に尋ねてきた。

「そうか、清秋院はアテナを見たことがなかったな」

 アテナはイタリアで護堂が死闘を演じた『まつろわぬ神』。イタリア旅行の後で知己を得た恵那は、当然、アテナについて、神話と報告書の中でしか知らないのである。

「どんな、と聞かれてどう答えればいいのかわからないけど、我が強いって感じだな。孫悟空の正反対というか、一直線って感じだな」

 ギリシャ神話のアテナは複数の神格が混ざり合って生まれた神だ。元々は、ポリスの守護神。そこに、北アフリカ近辺から入ってきた地母神崇拝が加わり、大地に根ざした冥府の神となった。アテナという名は、北アフリカに起源を持つといい、地中海沿岸に広く浸透し、複数の神話に現地の言葉で現れるのだ。

 そういう意味では、複数の神話や伝承が取り込まれた斉天大聖と似た成立過程を経ているわけだ。文化や知恵を司るなど、様々な権能を併せ持つ点も、斉天大聖と似通っている。しかし、アテナの性格は愚直なまでの戦闘一直線。戦闘以外に楽しみを見出していた斉天大聖とは、まったく異なっている。

「あの神祖から貰ったのは、聖杯の知識。それがなんでアテナに使えるんですか?」

 晶は、アテナが強大な神である、とじかに見て知っていた。終始護堂を圧倒したあの戦闘力。最後には護堂の奇策で敗れたものの、取り返しの付かない事態になる前に撤退している。勝利したことのある相手とはいえ、二度目も勝てるとは限らない。護堂が勝てたのは、隙をついた奇策であって、相手の実力を上回ったとは言い難い。基本的にカンピオーネと同格か格上なのが『まつろわぬ神』なので、護堂の勝利は絶対的なものではない。

「あのアテナを倒しうるほどの力なんでしょうか」

 だからこそ、グィネヴィアの言は疑わしい。

 強大無比、不死性までもったあの女神を降すほどの神具があるのだろうか。

「聖杯ってのは、地母神と繋がることで、その命を吸い上げる能力があるみたいだ」

 グィネヴィアに与えられた知識を掘り起こして、晶に説明する。

「地母神の生命力を、プールして純粋な呪力として運用する。そのための器ってとこだな。だから、地母神にとっては天敵ともなる。今は、アテナが体内に取り込んで、活動を抑えているみたいだけど、それでもじわじわと命を吸い上げているらしい」

「なるほど。すると、先輩が教わった術というのは、押さえ込まれた聖杯の活動を再開させるためのものですか」

「理解が早いな。そういうことになる」

 護堂は頷いた。まさしく、晶の言うとおりだったからだ。

「しかし、それではなぜ、グィネヴィア様はご自身でなさらないのでしょうか?」

「アテナに命を狙われているからな。危険は冒せないってわけだろ」

「草薙さんを利用して、アテナを討ち果たそうという目的は分かりました。しかし、それでは天之逆鉾を欲した理由が分かりません……」

 祐理が、考え込むように表情を曇らせた。

「ところで、先輩。アテナを倒した後、神祖に神具を渡すんですか?」

「渡すわけないだろ」

 晶の問いに、護堂は即答した。

「あれー。でも、王さま。知識を渡す代わりに神具をって話じゃなかったの?」

 恵那が首を傾げる。

 確かに、グィネヴィアはそのようなことを言っていたはずだ。が、護堂は首を振る。

「俺は渡すって言ってないから」

 向こうが勝手に知識を置いていっただけ。そういう認識だった。

「うわー。悪人だー」

「きちんと契約内容を詰めないヤツが悪い」

 たとえ経口摂取で約束を履行させる呪詛を流し込んだとしても、その気になれば害意ある呪力を弾くことができる。何よりも、若雷神の化身があるので、そういった強制力は一切通用しない。護堂を相手に交渉するなら、最後まで抜かりない契約を結ぶようにするべきなのだ。それでも、護堂が約束を破らない保証はないが、護堂の性格上それなりの筋は通す。だから、グィネヴィアは、呪術で強制するのではなく口頭での契約を持ちかけたところまではよかったのだが、最後で護堂が約束する前に知識を与えてしまうという過ちを犯した。最後の最後で詰めが甘かったのだ。

 よって、護堂は神具を渡さなかったとしても、良心が痛むこともない。

 つらつらと話をしていると、ドアがノックされた。返事をすると、ドアが開いた。現れたのは、冬馬だった。

「失礼します。草薙さん」

「甘粕さん。アテナの情報は入りましたか?」

「いえ、まだ。そこで、時間を潰しも兼ねて、以前頼まれていた資料をお届けに上がった次第です」

「資料?」

 冬馬の手には、青いファイルがある。

「蘆屋道満に関する調査報告の一部です」

「道満の!?」

 護堂は、飛び上がらんばかりの勢いで、冬馬に駆け寄り、ファイルを受け取った。

「それでは、私はこれで。また、何か情報が入りましたら連絡に来ますので」

「はい。ありがとうございます」

 護堂は礼を言い、冬馬は一礼して退出した。

 ファイルを受け取った護堂は、すぐにソファーに歩み寄り、腰をかけた。ガラステーブルにファイルを置いて、開いた。

「蘆屋道満とされる人物に関する調査報告書……」

 媛巫女三人も、興味を引かれてファイルを覗き込んだ。

 まず、資料には蘆屋道満の外見的特徴や推測される能力が書いてあった。

 これは、それほど重要ではない。直接相対した護堂は相手の外見を知っているし、呪術を扱うことは簡単に予想できる。そこに牛頭人身の神獣を使役するということは重視すべき点として加えるべきだろう。

「蘆屋道満が関与したと思われる事件……」

 正体不明の呪術師による事件の資料が、その次に上がっていた。それも、江戸時代の事件から書かれているので、それなりの厚さになっている。神獣を呼び出していたり、犯罪者に力を貸していたり、神社を襲撃したりと、昔から事件を引き起こしていたらしい。

「めんどくさいお爺さんなんですね」

 晶がポツリと漏らした。

「ここに書いてあるのが、全部道満がしたことではないんだろう?」

「そうですね。道満様がしたと思われる未解決の事件を挙げているだけのようです。詳細も書かれていませんし」

「千年も隠れてきた相手だからねー。資料の体裁を整えるだけの情報がないってこともあるんだと思うよ」

 正史編纂委員会とその前身に当たる組織が、謎の老人とトラブルを抱えていた事実が認められただけでも収穫だ。

 資料には、古いものでは戦国時代に京の陰陽師との間に諍いを起こしており、元禄期には活発に活動していたことも記されている。

 そして、ここ半世紀に渡っての活動記録。

 全国各地の寺社仏閣を中心に、広く活動している。

「中国地方が多いみたいだな」

 それでも、よく見ると事件現場は、中国地方に多く見られた。

「委員会では、道満様が中国地方を中心に活動されていると考えて捜査に当たっているようですよ」

「ふうん……」

 護堂は事件名とその概要が書かれているページに目を通す。

 京都八幡山神獣召喚事件に伊勢内宮神域侵犯事件。直近では出雲媛巫女集団失踪事件。五年ほど前の大事件だ。

 護堂は、媛巫女が身近ということもあって興味を引かれ、その項に目を通した。

 事件のあらましは、こうだ。五年前の正月。出雲大社とその近隣の社寺に奉仕する媛巫女とその見習いたちが、突如として姿を消した。行方不明者は三十五人に上り、西の霊地を管理する媛巫女の消失は地脈を不安定にするなどの一時的な混乱を引き起こした。

 正史編纂委員会は、大規模な捜索隊を組織し、捜索活動に当たった。媛巫女は神祖の血を継ぐ特殊な存在。その存在は国家機密に当たり、外国へ連れ去れてた場合被るダメージは計り知れない。

 そういった事情もあって、出雲を中心に捜査が行われた結果、三十五人中三十人が無事、保護された。発見された地域が異なっており、なぜそこに移動したのか、自分たちがどのような状況に置かれているのかなど、まったく理解できていない様子で、彼女たちは狐に包まれたようだったと捜索に当たった呪術者の証言が残されている。

 五名はそのまま発見されず、行方不明のまま現在に至る。

 三十五人が一斉に消えたことから強力な呪術師による犯行と判断されたものの、目ぼしい犯人像は浮かんでくることはなかった。

「なるほど、それがここにきて現れた蘆屋道満によるものかもしれないという予測か」

「大きな事件で、話題にもなったんだけど、解決しなかったんだよ。あの蘆屋道満の仕業なら、仕方がないかもしれないね」

 恵那が、そんなことを言う。

 明確な証拠はない。しかし、そのようなことを可能にするのは人間業では不可能だ。よって、それが可能となる人外の呪術師ということで道満の犯行ではないかと疑われているわけだ。

 それから、護堂はページを捲る。

 そこには捜索対象となった三十五人の媛巫女たちの写真と名前が掲載されていた。

 曾我みのり。蘇峰美琴。多井中昴。高遠光。高橋晶。高殿由紀子……

「ん?」

 思わず、護堂は二度見した。

 だが、それで記載内容が変わるはずもない。

「おい、晶。名前が載ってるじゃないか!」

「ああ、はい。わたし、これの被害者です」

「いや、被害者ですって……なんで今まで言わなかったんだよ」

 あっさりとした口調に護堂は驚いた自分が馬鹿みたいに思えて、冷静になった。

「だって、蘆屋道満が関わってるって聞いてませんでしたし。わたしたちの間では、神隠しに会ったんだってことで決着させましたから……」

 晶はそこまで大きな事件だと思っていなかったという。当事者である彼女は、そのときのことを何一つ覚えておらず、気が付いたら一週間が経過しており、かつ知らない場所にいて、突然、正史編纂委員会の呪術師に保護されたというのだ。

「まあ、わたしとしてはお正月が無くなっていい迷惑って感じでした」

「それで、何とも無かったのか?」

「はい。健康診断とか受けましたけど、何も見つかっていません。ほかの娘もそうですよ。何があったか、分かってないんです」

「そうなのか。まあ、何にせよ、無事だったのならいいんだけど」

 この件は、その手段から目的に至るまでが不明であり、犯人は目星がついているものの、推論の域を出ておらず、迷宮入りとなった。このファイルにある資料のすべてが未解決で放置されているものなのである。

 それだけ、蘆屋道満の実力があるということなのだろう。

「敵がいながら、はっきりとその正体も潜伏先も目的も分からないというのは、気味が悪いな」

 護堂はファイルを閉じて、テーブルの上に置いた。

 窓から西日が差し込んでくる。

 日が暮れ始めた。

 なんとなく、外を眺めてみる。ビル群の窓ガラスに反射する太陽光が眩しい。

 陽光の逆方向。東の空から、群青色が押し寄せてくる。ゆっくりと沈む夕日を眺めているとき、不意に身体に変化が訪れた。

「ッ……!」

「草薙さん!」

 護堂の身体に闘志が漲り、祐理が色を失って叫んだ。

 そして、ビルを守る結界をあっさりと貫いて、応接間に闇色の羽が押し寄せた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

「久しいな。草薙護堂」

 ガラス壁を粉微塵に砕き、応接間に侵入したのは、ニット帽を被った少女。帽子に隠れた髪は銀色で、艶やかにも関わらず、なぜか蛇を想像してしまう。そして、吸い込まれそうな闇色の瞳は、なぜか猛禽を思わせる。

「登場が派手すぎんぞ、アテナ」

 無残にも破壊され、飛び散った窓ガラスの破片が室内に散乱しており足の踏み場もないといった状況だ。護堂はアテナを視界に入れながらも、三人の仲間の安否を確認する。

 幸いなことに、その時にはすでに、恵那と晶が祐理を守りながら部屋の隅にまで移動していた。アテナの突入に、祐理は声を出すことしかできなかったのだが、恵那と晶は言葉よりも先に身体が動いたと見える。さすがの反応速度である。

「用件を聞こうか」

「愚昧な。女神たる妾が神殺したるあなたの前にいる。その意味が分からぬほど耄碌してはいるまい」

 ジリ、と肌を焼くような戦意がアテナから溢れている。

 静かな闘志を漲らせ、彼女は護堂の前に現れたのだ。

「グィネヴィアから聞いたぞ。あんた、聖杯に命を吸われてるんだってな」

 アテナが、眉尻を上げた。表情こそ変わらないものの、不快感を覚えているのは確かなようだ。

「ふん。あの忌々しい婢女と接触したか」

「あんたを倒してくれってさ。こっちとしちゃいい迷惑だ。戦うつもりなんてないってのに」

「妾と戦うつもりはないと?」

「ねえよ。それに理由もない。大体、自分の故郷で戦争なんてしたくないだろ」

「なるほど、一理ある。確かに、己が国を荒らされるのは心外よ」

 そして、アテナは薄らと笑む。

「なればこそ、理由を作るのは容易ということだ」

「ッ……」

 アテナの小さな身体から、強大な呪力が吹き出してきた。大地と闇の権能。それだけに留まらず、一瞬にして辺りは闇に包まれた。室内の電灯が消える。続いてビル全体が停電し、外部にまで影響は広がっていく。

「お、まえッ」

「汚らしい光を消しただけだ。何を怒る? 人のあるべき姿に戻しただけよ。だが、それでも、あなたが戦うには十分な理由らしい」

 アテナは得意げに笑う。

 そんなアテナと対峙し、護堂は憤りながらも冷静に頭を働かせていた。

 アテナはとにかく護堂と戦いたい。しかし、護堂は東京で戦うことには否定的だ。本来の手はずでは正史編纂委員会がアテナを発見、然る後護堂がアテナの討伐に向かうという予定だった。都心での戦いを避け、被害が最小限に抑えられるような地勢での戦いにするようにしていたのだ。

 しかし、蓋を開けてみれば、アテナが逸早く護堂を見つけ、奇襲を仕掛けてきた。護堂は、知らぬ間にアテナの侵入を許していたのだ。

 そして、事ここに至っては戦わなければならない。

 アテナの闇は人命には影響しないが、人口の光をかき消す効果がある。停電のみならず、ガスを使って暖を取ることもできない。自動車も動かず、医療機関では手術もできない。文明に依拠した人間にとって、光を奪われることは生活そのものの崩壊に直結しかねない大問題だ。

 早急にアテナを排除する必要がある。だが、アテナをそのまま倒してしまうのも、好ましくない。

「仕方がないから、戦ってやる。けど、ここは人が多すぎる。お互い、こんなところじゃ満足に戦えないだろう」

「ほう、なれば如何とする」

「決まってるだろ。場所を変えるんだよ。わざわざここまで来てもらって悪いけどな」

 護堂の身体に紫電が弾ける。

「追いつけるものなら、追いついてみろ」

 そして、護堂は室内から姿を消した。

 後に残されたのはアテナだけ。護堂の傍に侍っていた媛巫女たちの姿もない。いつの間にか室内から退去していたらしい。その程度の瑣末事にアテナが意識を向けることはないので、気にもならない。

「ふむ」

 一人残されたアテナは、漆黒の瞳に炎を宿らせる。

「追いつけるものなら、な。よかろう。その挑戦を受けようではないか」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「アテナが草薙様と接触しました」

 グィネヴィアはアテナと護堂を遠方から監視していた。間違っても、『まつろわぬ神』とカンピオーネの戦いに巻き込まれないようにするためだ。いざとなれば、自身の守護者が身を挺して守ってくれるはずだが、それはグィネヴィアの切り札を曝すことになってしまう。そして、切り札というだけあって、そう乱発できるものでもない。

『ここまでは、思惑通りというわけだな』

 どこからともなく、声が聞こえてきた。凛とした声色は、涼やかで落ち着いている。男とも女とも付かない中性的な声だ。

 グィネヴィアの守護者であり、最源流の《鋼》の一柱。ランスロット・デュ・ラックだ。

「アテナの性格では、かつて煮え湯を飲まされた草薙様との再戦を望むものと思いましたので」

『煮え湯、といえば剣の王もそうではないか』

 グィネヴィアとランスロットは、護堂とサルバトーレが起こした事件を知っている。

 カンピオーネと『まつろわぬ神』が二対二で決闘をしたという話は、呪術業界を大いに賑わせていた。情報を得るのは、それほど難しい作業ではなかった。

 もちろん、それ以前のサルバトーレとアテナの関係も含めて情報を得ている。

 そうした事前の情報収集の結果と照らし合わせて、アテナは護堂に挑むだろうと予測していた。ゆえに、グィネヴィアは首を振ってランスロットの意見を否定する。

「イタリアでの決闘の折、アテナはアイギスを草薙様に破られています。アイギスはアテナの代名詞。絶対防御の楯ですから、それを打ち破られた草薙様との決着を望むと考えるのが自然。しかも、ここは日本。草薙様に背を向けるようなことをあの女神ができるとは思えません」

『なるほど。そこまで考えていたか』

「叔父様も一緒に考えてくだされば、グィネヴィアの労力も減るのですが」

『それは無理な話だな。余は《鋼》。ただの一騎にて戦場を駆け抜ける一振りの剣ゆえにな』

 戦うことこそ《鋼》の誉れ。

 軍略も、戦術も戦に必要不可欠ながらそれは軍師の仕事であって剣の仕事ではない。己はただ敵を切り捨てるのみ。それこそが存在意義なのだ。だからこそ、余計な思考はしない。できない。する意義を感じない。ランスロットはそのように生まれつき、そのように生きることしかできない不器用な騎士なのだ。

 グィネヴィアも長い付き合いなので、その気性を知り尽くしていたが、未だに悩まされることが多い。

『アテナが移動を始めたな』

 グィネヴィアは、ランスロットの声を聞いて視線をアテナに向けた。無数のふくろうを飛ばして、移動している。

「草薙様が戦場を変えられたようですね」

 アテナはグィネヴィアに気付いているのか気付いていないのか、まったくこちらに頓着せず、去って行く。おそらくはその先に護堂がいるのだろう。

「しばらくは様子見に徹します。叔父様。もしかしたら、叔父様に頼らなくてはならないこともあるかもしれません」

『承知した。ふふふ。ギリシャの戦女神に、若き神殺し。相手にとって不足はない』

 ランスロットは好戦的な笑みを兜の下に作る。グィネヴィアは、護堂が首尾よくアテナを倒してくれることを願いつつ、魔女の目を操った。



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六十九話

 土雷神の化身の利点は神速ではなく、地中を移動するという性質上、心眼でも見切られないということだ。それは近接戦では相手の不意をうつことになり、逃亡では移動先を隠すことにもなる。

 が、さすがに知恵の女神であるアテナから完全に逃れるのは難しい。無論、それは護堂が隠れるつもりがないからでもあるが、全力で隠れたとしても隠れきれるかどうか。ガブリエルの精神感応が、アテナに通じれば、なんとか隠れられるだろうが。

 そんなことを考えるのは、神速で移動してきたのに、目の前にすでに女神が立っているからだ。

「さすが。お早いお着きで」

 護堂が皮肉げにそう言うと、アテナは周囲を見渡してため息をつく。

「ここがあなたの選んだ戦場か。なんとも貧相な森よな」

 ここは浜離宮恩賜庭園。

 東京湾のすぐ傍に位置する有名な景勝地だ。

 この庭園は、江戸時代甲府藩主の徳川綱重がこの地を拝領した際に、海を埋め立てて別邸を建てたことに始まる。

 そのため、この庭園内の木々には樹齢百年を優に超えるものもあり、足を踏み入れれば日頃の生活では久しく嗅ぐことのない土の匂いが漂っている。

 見所でもある庭園内の池には海水が取り込まれている。

 護堂とアテナが向かい合うのは、この池の畔にある広場だ。

「人間どもはしばしばこのような小賢しい真似をするが、この島の民は別してそうだ。闇を払い、大地を石で覆い隠して形を変える。まったく不可解だ。命あるもの、闇を恐れるが故に生を謳歌する。命の営みを無碍にするに等しい蛮行よ」

 闇の女神にして大地の女王であるアテナにとって、現代日本人は神に唾する害悪であるようだ。自然を破壊するという点に関しては、困ったことに人間側も危機感を抱き始めている今日この頃。極端に言えば、アテナの言は、日本人の内的危機感をピンポイントで射抜いている。

「生憎と、文明人は軽々しく光を捨てることはできないんだよ。自然の中で暮らしたいのなら、白神山地にでも行けばいい。あそこは、太古の自然が残っているからな」

 葉を散らした木々に囲まれて、護堂とアテナは向かい合う。

 冷たい風が、木々をすり抜け護堂とアテナを叩いた。

 しかし、外気の寒さは、もはや気にならない。互いに、戦いに際して気持ちが昂ぶっているのだ。心身は既に戦闘に都合のいい状態になっていて、凍えて動けないなどということはない。

「では、行くぞ、草薙護堂」

「来いよ。相手してやる」

 アテナは闇色の鎌を、護堂は槍を手に持って、同時に呪力を爆発させた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 グィネヴィアは遠隔地の映像をリアルタイムで見る魔女の目という呪術を使って護堂とアテナの戦いを眺めていた。

 グィネヴィアにとってアテナは死神であるが、そのアテナと敵対している護堂が救世主かと言うとそうではない。

 彼女はアテナ以上にカンピオーネを嫌っている。しかし、憎んでいるわけではない。いっそ憐れだとも思っている。なにせ、彼らは強大無比な力を持ち、不遜にも神々に挑戦し続ける愚か者。その末路は、往々にして決まっている。戦場での討ち死にだ。どれほど強いカンピオーネであっても、それこそ世界各国の戦神を集めても勝てないような魔王であっても、結局はグィネヴィアが敬愛する『最後の王』によって殲滅される運命にあるのだ。

 ならば、憎んだところでなんになろうか。

 そのような愚かで実りのない生き方しかできない人間を憐れむことはあっても、わざわざ憎むことはない。そして、そんな生き方を、彼女は嫌っているのだ。

 グィネヴィアの視界に映る戦いは、とてつもなく激しい。

 達人と達人の戦いは一瞬で決着するか、膠着状態になるかの二通りと言われることもあるが、カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いにそれは当てはまらない。彼らの戦いは、基本的に膠着状態から始まる。

 それは、カンピオーネが尋常ならざる生き汚さの持ち主であることと、『まつろわぬ神』が常軌を逸した権能の持ち主であることが重なった結果だ。

 いかに強大な『まつろわぬ神』と雖も、必ず勝機を見つけ出すともされるカンピオーネを一瞬で倒すのは不可能に近い。

 カンピオーネの異常なまでの執念に、これまで何度煮え湯を飲まされてきたことか。

 思い出されるのは、アレクサンドル・ガスコイン。

 彼に足を掬われたことは一度や二度ではない。

『なかなかの接戦ではないか』

 グィネヴィアはランスロットも戦いを見ることができるように、水に自分が見ているものを投影する術を使っていた。

 銀の水盤に並々と注がれた水は、今や小さなスクリーンと化していた。

「ええ、本当に。命を削り取られていながら、よくあそこまで戦えます。さすが、ギリシャ最強の戦女神」

 映像の中で、アテナは、白銀の衣装に身を包み、白銀と黄金に彩られた楯を持った姿で護堂と激闘を繰り広げている。

 闇の女神としてではなく、今回はギリシャの戦女神としての側面を大いに表に出しているらしい。

『下手に策を弄するより、正面から戦いを挑む。実にアテナらしいではないか』

「そして、その結果草薙様は劣勢。もともと武芸は修めておられぬとのことですし、近接戦を苦手とするのかもしれません」

『では、そろそろか』

「ええ、そろそろ、草薙様は呪句を口になさるでしょう。それが、グィネヴィアの狙いだとお気づきにもならず」

 護堂に伝えた聖杯の情報。その目的は、聖杯を起動させることにある。護堂がグィネヴィアの教えたとおりに呪句を口にすれば、それだけでアテナに押さえ込まれた聖杯は起動し、急速にアテナの命を吸い上げるはずだ。そこに隙が生まれる。

「聖杯がアテナの拘束から逃れた瞬間に、エクスカリバーと聖杯を繋ぎます。グィネヴィアにかかれば造作もないこと」

 グィネヴィアは微笑みながら戦いの趨勢を見守る。

 その顔に浮かび上がるのは勝者の笑み。

「まさに竜虎相搏つ。どちらが勝利されてもグィネヴィアを利するのみ……女神も魔王も戦うことしか考えない愚かな方なのです」

 カンピオーネの性質は嫌というほど知っている。あの獣のようなしぶとさを持つ、人の皮を被った怪物たちは、勝利のために手段を選んだりはしない。

 どれだけ理性的に振舞ったところで本質的には野獣であり、隙を見せた相手の喉下にはすぐに喰らいつくし、敵を倒すのに都合のよい道具があれば、容赦なく利用する。たとえ草薙護堂がグィネヴィアが与えた知識を不審に思っていたとしても、アテナのを倒すのに有用だと思えば使わないわけにはいかない。それが、カンピオーネという生物の愚かな性質なのだ。

 グィネヴィアは、見た目以上の長きに渡って世界を放浪してきた魔術の女王。

 カンピオーネの性質は、熟知している。

 アテナと護堂は絶えず攻撃を繰り返している。互いに決定打を与えることができないままに時が過ぎ、整えられた庭園だけが徐々にその形を失うばかり。

 グィネヴィアは、アテナと護堂が距離を取って様子見に入ったところを見計らって声を飛ばした。

「さあ、今です草薙様。どうぞ、アテナをお討ちあそばしませ」

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 グィネヴィアからの声が届いた。

 音によって意志を伝える通常の意思疎通方法ではない。念話だ。頭に直接語りかけてくるようなもので、突然の干渉に護堂は眉を顰めた。

 アテナの中に眠る聖杯を動かす起動術式。

 確かに、護堂はそれを持っている。使おうと思えばいつでも使うことができる。

 だが、それを使うことによる弊害も同時に理解している。

 もしも、ここで護堂がグィネヴィアの策に乗って聖杯を起こしてしまえば、その時点で聖杯の支配権はグィネヴィアに移ってしまい、エクスカリバーを使用可能にしてしまう。いや、このままではどうあってもエクスカリバーの相手をしなければならない。アテナがどうなろうとも、聖杯を破壊できない以上は魔王殲滅の権能が振るわれる可能性は常に存在する。

 だから、それに関しては割り切るしかない。

『いかがされたのです。草薙様。アテナを討つ、好機でございます!』

 グィネヴィアが催促してくる。

 彼女にとっては、アテナは自分を狙う敵。手負いで、聖杯によってもはや命尽きる寸前ではあっても、侮れない相手だ。護堂を使ってその敵を倒せるのであれば、こんな好機はない。

 つまり、今、この状況下で呪句を唱えることは、護堂の行動がすべてグィネヴィアの手の平の上だったということになる。

 いろいろと考えたが、結局、いいように扱われるのは嫌だという感情論が勝ってしまった。負けず嫌いの護堂はグィネヴィアのようなお高く止まったキャラクターの天狗鼻を折ってやろうと思っても、利用されようとは思わない。

 護堂もカンピオーネの一員である。確かに、グィネヴィアの言うとおり、如何なる手段を用いても敵を打倒するのがカンピオーネではあるが、気に入らないものは、とことん気に入らないというのもまたカンピオーネなのだ。

 感情論で動く。それが、彼らの共通項であるのなら、護堂が反感を覚えるという時点で、まともな交渉事はできないのだと知るべきだった。

 それに、グィネヴィアを利用しているのは、護堂も同じだ。

 なぜ、わざと隙を作ってまで、グィネヴィアから聖杯の知識を得たのか。

 いくぞ、相棒。

 護堂は右手に宿る《鋼》に心の中で声をかける。

「我が前に敵はなし。我が道を阻むもの、皆尽く消え失せよ。之、魔を断つ一斬なり」

 アテナに向かって走る。

 芳醇な香りが世界を満たす。

 破魔の神酒が、護堂の右手に集い渦を為す。

「む? 変わった手管だな。草薙護堂!」

 アテナが目を細め、護堂の力に歓喜する。アテナは、護堂が天叢雲剣を得ていることを知らないのだ。仇敵の成長を、まるで自身の事のように喜んでいる。

「闇よ来たれ。我が敵にその牙を突き立てよ!」

 アテナは闇色の刃を鞭のように振るう。接近戦を挑んでくる護堂に対して、九本の刃が蛇のように襲い掛かる。

 だが、護堂は止まらない。もとより、アテナの権能による攻撃は意味を成さない。

 護堂は右手を一閃する。

 渦巻く神酒が剃刀のように伸び、アテナの闇を駆逐する。

「何ッ!?」

 アテナが目を見開いて驚き、その間にも護堂は接近する。

「くッ……!」

 アテナはバックステップで距離を取ろうとするが、全力で走る護堂のほうが速い。

 アテナを射程に収めて、護堂は最後の聖句を口にする。

「然れども、我が敵は魔に非ず。一斬にて、古き盟約の鎖を断たん!」

 護堂の目に映るのはアテナの中で眠る聖杯。

 そして、聖杯とアテナを繋ぐ聖なる糸。グィネヴィアの知識とガブリエルの『強制言語』を活用し、アテナと聖杯を繋ぐ力を視た。

「セイヤアアアアアア!」

 気合一発。

 振り下ろした破魔の一斬はアテナの身体を袈裟切りにした。

 

 

 時が止まったような気がした。

 アテナは驚愕に目を見開き、護堂は剣を振り下ろした体勢のままアテナを睨みつける。

 アテナの身体には傷一つない。

「な、こ、これは!?」

 アテナは自分の身体に傷がないことを不思議に思い、続いて異変に気付いた。

 アテナの小さな身体が、黄金色に輝く。

 目が眩むほどの眩い光は、膨大な呪力そのものだ。

「な、ぬうああああああッ」

 急激な変化にアテナの身体が弾かれるように飛んだ。そして、アテナの反対方向に、黄金色の甕が飛び出す。

 莫大な呪力の塊だ。

 まさしく、この神具こそが、伝説に謳われる究極の逸品。名高き聖杯(グラアル)のオリジナルに相違ない。

 ゴロゴロと転がる聖杯の淵を護堂は掴んで、立たせた。大きさは護堂の腰あたりまでになるか。黄金の地肌に青い紋様を浮かべた神具は、見ただけで魂を虜にしてしまうような妖しい美しさが漂っている。

 なによりもその呪力。

 『まつろわぬ神』数柱分の呪力量に匹敵するほどの呪力が、この聖杯には蓄積されている。

「改めてみると、とんでもない代物だな……」

 呟いて、護堂は、頭をかいた。

 首尾よくアテナから聖杯を分離させたが、これをどうしようかと。

「まさか、初めからこれが狙いか。草薙護堂」

 弾き飛ばされたアテナが、護堂の傍にやって来ていた。

「まあ、な。グィネヴィアから聖杯を起動させる呪文を教わったんだが、それを利用してあなたと聖杯との繋がりを斬った。俺の力に、魔術破りの権能があったからな」

 アテナは忌々しそうに顔を歪めた。

「何ゆえに妾を助けた」

「あなたを助けたのは結果に過ぎないんだけどな。俺は、とにかくグィネヴィアの好きにさせたくなかっただけだ。あなたの命が聖杯に取り込まれると、後々面倒になるだろ?」

 エクスカリバーとか、『最後の王』とか、その辺りがより強大になるのは目に見えている。アテナ一柱でも、信じられないくらいの呪力量なのだ。それをエネルギー源とするエクスカリバーに対処するのに、まず燃料の供給をストップするべきなのだ。それでも、聖杯に蓄積された呪力量が相当のものなので、焼け石に水かもしれないが、無駄にはならないだろう。

「あなたは、どこまで知っている?」

 アテナの声音には、多少の驚愕が混じっていた。

「どこまでって?」

「あの婢女についてだ」

「大昔の女神様が零落した神祖の生まれ変わりで、『最後の王』ってのを探す旅の真っ最中。そして、この国にソイツが眠ってることを掴んで慌てているところってくらいか」

「なるほど、相手の素状はほぼ把握済みか。小気味良いな。あの婢女め、あなたを利用したつもりでいて、その実、利用されていたと知ったらなんとするだろうか」

 アテナは楽しそうに頬を緩ませた。

「あなたも、なかなか成長したと見える。甘さはあるが、敵すらも利用する抜け目のなさは、さすがに神殺しか」 

「そんな大層なこと言われてもな。俺は、結局、あのままあなたを倒していたら、聖杯があなたの呪力を吸い上げる手助けをするだけになっちまう。それが嫌だっただけだ」

 護堂がそう言うと、アテナは機嫌を悪くしたようにあからさまにむっとした。

「ほう、あなたは妾を倒せると言ったか。大した自信ではないか」

 護堂はアテナに対して言葉を選ぶべきだったと後悔した。好戦的で武に自信を持つこの女神を相手に今の発言は、謙遜ではなく挑発になってしまうだろう。

「忌々しいが、形はどうあれ、妾はあなたに命を救われたことになるか。神殺しでありながら、その甘さはいつの日かあなたを滅ぼすことになろうよ」

「今まさに俺を滅ぼそうとしていた女神様に言われたくない」

「だが、これで憂いはなくなったわけだ。これで、何者にも憚ることなく全力で雌雄を決することができるというものだ」

「おいおい、まさか、続きをやるってんじゃないだろうな!?」

「無論だ。妾との戦は、あなたにとって、あの婢女を出し抜いた褒美となろう」

「なるかッ! さっさと闇を払って東京から出て行けッ!」

 アテナは、先ほどまでとはうって変わって清清しい笑みを浮かべて闇色の鎌を用意した。まさか、戦いが褒美などと言い出すとは思っていなかった護堂は、慌てて剣を生成して、周囲に待機させた。

 更なる異変が起こったのは、そのときである。

「ッ!?」

「なッ!?」

 護堂とアテナが同時に空を見上げる。

 漆黒の闇の空に、輝く雷光。響き渡るのは太鼓のような雷鳴。

「やはり来たか、ランスロット・デュ・ラック!」

 アテナは鬼のような形相で空を見つめ、護堂もまた、来るべきときが来たと、覚悟を新たにした。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 グィネヴィアは焦っていた。

 予想に反していつまで経っても護堂が呪句を唱えなかったからだ。

 聖杯が起動しなければ、エクスカリバーと結びつけることができない。

 とはいえ、それ自体に問題はないのだ。護堂が聖杯を起動しなくても、聖杯が破壊されることはない。不滅不朽の神具は『まつろわぬ神』ですら破壊することはできないのだから。

 ゆえに、グィネヴィアはただ待つだけで勝者となれる。

 聖杯は、アテナが死した後に回収すればいい。

 しかし、グィネヴィアとしては、この場で確実にアテナを始末し、その命を吸収した上で護堂を排除したい。何よりも自分が立てた計画が、覆されるのが、とにかく不快でたまらない。

 若干苛立っていたときに、護堂の手によって聖杯とアテナとの繋がりが断ち切られてしまった。

「そんなッ」

 グィネヴィアは悲鳴のような声を上げた。

 それはありえないことだった。

 聖杯に囚われた地母神は、どうあっても命を捧げる宿命にあるというのに、その前提が覆されてしまった。

 恐らくは聖杯ではなく、聖杯とアテナとの繋がりを切断したのだろう。

「まさか、グィネヴィアと聖杯との繋がりまで……ッ」

 グィネヴィアは歯軋りする。

 想定外の事態だった。グィネヴィアは聖杯が世界のどこにあってもその状態を感知することができる。それは、彼女の元となった女神が、聖杯の創造主であるからであり、生まれながらにして聖杯と繋がっているのである。その彼女が、聖杯との繋がりを感じない。

 聖杯はどうなった。アテナはどうなった。

「叔父様!」

 グィネヴィアの呼びかけに応えたのは一人の騎士。プレートアーマーに身を包む『まつろわぬ神』は、その顔も兜に隠れて見ることができない。

 彼こそが、ランスロット・デュ・ラック。湖の騎士とも呼ばれる、最源流の《鋼》の一柱なのだ。

「うむ。なにやら、問題が起こったようだな。愛し子よ」

「はい。至急アテナと草薙様の下へ向かってください。聖杯を回収しなければなりません」

「ふむ。しかし、愛し子よ。そなたであれば、すぐに聖杯を回収できるのではないか?」

 グィネヴィアは聖杯の継承者だ。どこにあろうと手元に呼び寄せることは可能である。少なくとも、以前までは。

「草薙様の権能によって、グィネヴィアと聖杯との縁が断たれてしまいました。再び繋げるのには、多少の時間を要します」

「なるほど。では、その時間を稼げばよいのだな」

「はい、お願いいたします。叔父様」

 グィネヴィアに頼まれたランスロットは、快活に笑った。

「何、神と神殺しを相手に武勇を示す。それこそ、騎士の誉れというものだ。そのように頼まずとも、喜び勇んで戦場に向かおうとも!」

「それでは、よろしくお願いします」

「我が武勇、とくとご覧に入れよう!」

 言うや否や、白銀の騎士は、神馬に跨り勢いよく空に駆け上る。

 雷雲を運び、雷と共に敵地を目指す。

 その勇ましい姿を見送って、グィネヴィアは背後を振り返る。

「さて、もう隠れん坊はいいのではなくて。顔を見せてちょうだい」

 グィネヴィアの前に現れたのは、黒い長髪の少女。

 名は清秋院恵那。しかし、グィネヴィアには、その少女の固有名詞はどうでもいい。

「草薙様にお仕えしている巫女ですね。ええ、あなたのことは存じております。神々の降臨を賜る巫女よ」

 恵那の登場に、グィネヴィアはまったく動じない。

 それもそのはず、神祖であるグィネヴィアにとっては、稀代の媛巫女である恵那であっても良くできた後輩程度の感覚でしかない。

 神憑りですら、グィネヴィアからすれば恐れるほどの技能ではない。

 聖杯はランスロットに任せたので、万に一つも間違いはない。だからこそ、余裕を持って恵那と対峙する。

「魔女の王たるグィネヴィアの前路を塞ぐは愚行の極み。まさか、邪魔をするような真似はしませんでしょうね?」

「残念ながら、そういうわけにもいかないんだよねー。あんまりおいたが過ぎると、ひどい目に会うってことを、あなたは知るべきだよ」

 恵那は大太刀を召喚する。

 童子切安綱。 

 かつての相棒ほどではないものの、霊験ある霊刀だ。特に、魔性のモノを斬るのにはうってつけ。数多の信仰と呪術による処理を受けて、その刀身は鋼を上回る硬度と柔軟性を持つに至った。

「愚かな娘。その僭越の代価を、あなたは命で支払うこととなるでしょうに」

 グィネヴィアが、大仰に手を挙げる。

 恵那が刀を振りかざして突進する。神風を纏った恵那の突進は、並の呪術師の守りでは防げるものではなく、展開された結界を尽く、紙切れの如く切り裂いてしまう。

 恵那はグィネヴィアが張った簡易な結界を突き破って肉薄する。

「まあ」

 それでもグィネヴィアは余裕を崩さない。

 小手調べ程度を突破したからどうだというのか。人差し指で虚空をなぞる。それだけで、呪術が完成する。

「多少は楽しめそうね」

 発生したのは水の怒涛。

 空間をつなげて大量の海水を呼び出したのだ。

 恵那は、風で押し寄せる水を吹き散らすものの、進撃は食い止められた。

「まだまだ、この程度ではないのでしょう。さあ、あなたの力を見せて御覧なさい」

 グィネヴィアは、恵那を導くように、手を広げる。

 恵那はその余裕が気に入らなかったが、単純な実力差ゆえに仕方がないと割り切った。

 戦いは、始まったばかり。何よりも、格上相手に一人で戦うほど、恵那は考えなしではないのだから。

 

 

 

「清秋院さん。もう少しがんばってくださいね」

 恵那とグィネヴィアの戦いは、とあるビルの屋上で行われていた。護堂とアテナが戦う浜離宮恩賜庭園までは一キロほどで、目視でも戦場がある程度見える位置にある。グィネヴィアとランスロットは、特に隠れるということをしていなかったために、探すのは容易だった。呪術を使わなくても、監視カメラにしっかりと映っていたのだ。

 もしも、呪術で探していたならば、グィネヴィアに悟られていただろう。

 科学の力は、こうした場面で有効なのだ。

 晶は、グィネヴィアと恵那が死闘を繰り広げるビルから、さらに一キロほど離れたビルの一室にいた。

 東京は高層建築だらけだ。目標を目視で捉えるのであれば、より高い建物に上ればいい。

「微風が、北北東から……」

 晶は環境を確認しつつ、大口径の対物ライフルを構えた。

 XM109ペイロード。25mmという規格外の銃弾は、決して生身の人間に使用するものではない。

 狙うは、グィネヴィアが大きな隙を作り出した瞬間。

 極力察知されないように、呪術を用いず、ただ己の技量のみで、相手を撃ち抜く。

 呼吸を整えて、晶は引き金に指をかけた。



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七十話

 恵那が一対一の戦いで劣勢に陥る機会はそう多くはない。

 神霊の力を借り受ける禁忌の呪法を体得しているという時点で、凡百の呪術師をはるかに圧倒するスペックを持っているのだ。同じ能力者が西洋に於いては、ここ数世紀に渡って一人として現れていないというレベルの逸材。そして、武術に於いても天性の才能を持っている。呪術、武術双方で、清秋院恵那を上回る者など、片手で数えられる程度ではないか。

 そんな恵那でも、今回は相手が悪かった。

 何せ、魔女王グィネヴィアだ。

 恵那たち媛巫女が有する特異能力も、元を辿ればグィネヴィアの同族である神祖である。

 ならば、本家本元であるグィネヴィアの能力が恵那に劣ることなどありえない。

 分かっていたことだった。

 グィネヴィアには及ばないということを覚悟して、この場にやってきたのだ。肉体に《鋼》の神気を降ろし、常人では捉えることすらもできない疾風となって翔けたところで、グィネヴィアは対応する。武芸を修めていないグィネヴィアでも、呪術に関しては規格外だ。魔女の王というだけあって、その呪術は質、種類ともに圧巻の一言だ。

 おまけに、

「神獣は反則過ぎるなッ」

 大きく飛び退いた恵那。一足遅れて、恵那がいた場所を巨大な触腕が叩いた。ズズン、と響く音。一撃で、床面が砕かれた。

「こんなところで、大暴れか」

「ふふ、アテナのおかげで人目は気になりませんので、多少派手にしても問題はないでしょう」

 グィネヴィアが召喚したのは、巨大なイカ。クラーケンとも呼ばれる海の怪物だ。

「水と大地がグィネヴィアに味方してくれますの。この程度は昔取った杵柄というものです」

 グィネヴィアは得意げに語る。

 そして、恵那はグィネヴィアの実力を過小評価していたことを思い知る。

 神獣を召喚するだけでなく、完全に使役している。上位の呪術師を何十人も集めて対処しなければならない怪物を、手足のように操っている。

 グィネヴィアが上位の存在だと理解していたが、まさかこれほどとは思っていなかった。

 八本の足と二本の触腕が、恵那を攻め立てる。それなりの広さがあるビルの屋上でも、クラーケンを相手にするには手狭に過ぎた。

「この、面倒だなッ!」

 恵那が振るった刃が、クラーケンの足の一本を斬りつけた。接触した瞬間に、轟、と風が吹き、足は半ばから断ち切られた。

 《鋼》の風を纏った刃。水と大地の化身にとっては天敵と言えるだろう。

「さすがね。けれど、いつまで持つかしら」

 グィネヴィアは泰然とした表情で、恵那に微笑みかける。

 その態度に、命のやり取りをしているという感覚は見られない。

 グィネヴィアにとって、恵那を縊り殺すのは、児戯にも等しい行為なのである。

 感覚としては、子どもが興味本位にアリの巣を穿り返すようなもの。そこに殺生という概念はなく、命を奪うという実感もない。ゆえに罪悪感は生じず、当たり前のものとして相手を殺害するのである。

 しかし、その対象となった恵那からすれば堪ったものではない。

 圧倒的な実力差を前に、神に祈るという逃避的な行動を取るわけにも行かず、ただただ愚直に抗い続けるのみだ。刀を一振りするごとに削り取られる精神力。積み重なった疲労は、フルマラソンを全力で走りきるのと同じくらいになるだろう。

 神の力を借り受けるというのは、それだけ身体にかかる負担が大きいのだ。

 だが、それほどまでに死力を尽くしていながら、未だに一太刀も与えていない。

 恵那は、刀を振るいながらも歯噛みする。

「スカハサの槍よ。グィネヴィアの敵を貫いて」

 ザア、と闇が凝縮する。

 一挺の槍を、グィネヴィアは投じた。槍投げの体を為していない、ただ放り投げただけの槍が、恐ろしい速度で恵那に迫る。おまけに空中で三十に分裂する。

「セエエエエイ!」

 恵那は、風を呼び込む。

 吹き荒れる暴風が、恵那を取り巻き竜巻状に回転する。グィネヴィアの槍も、クラーケンの足も、この竜巻に触れた途端に表面から削り取られて、あらぬ方向に弾かれる。

「あら、大層な守りね」

 グィネヴィアは賞賛するように手を叩き、恵那に微笑を向ける。

「ですが、もう限界のよう。さすがに、神気を呼び込みすぎましたね。あなたの身体は、すでに戦える状態ではありませんよ」

「さすがに気付くかー。まあ、当たり前か」

 恵那は苦笑しながらも刀を構える。

 身体中の骨や関節、筋肉が悲鳴を上げている。頭も茫洋として集中力に欠ける。今の状態を維持することができるのは、持って一、二分といったところか。

 ならば――――

「突っ込むだけ突っ込む!」

 宣言するや否や、恵那の周囲の空間が捻れ、爆発した。

 膨大な風が瞬間的に圧縮された後、ジェット噴射のように後方に放出された結果である。

 吹き荒れる烈風は、床面を蹴散らし、恵那の身体を弾丸のように射出する。

 全身に護身の術をかけ、神気を帯びた恵那は、音速に近い高速機動にも耐えることができる。身体が大きく、機敏な動きができないクラーケンは、急激な加速についていくことができない。恵那は、自分を捉えようと蠢く足と触腕をすり抜けて、ついにクラーケンの本体に体当たりをした。

 爆発的な衝撃が屋上を駆け抜ける。

 猛烈な体当たりを食らったクラーケンは、恵那を受け止めきれずに大きく身体をぐらつかせた。

「なッ……!」

 グィネヴィアは驚愕に目を見開く。

 クラーケンの胴体に突き立つ刃。恵那は、そこに風の神力を一気に注ぎ込んだ。

 如何に強大な神獣と雖も、身体の内側からスサノオの風に斬り刻まれては一たまりもないだろう。

「イヤアアアアアアッ!」

 ボゴン、と刀が突き立った箇所が膨らみ、内側から風と体液が噴出し、恵那を弾き飛ばした。

 しかし、体内に存分に風の刃を残してきた。今も、クラーケンはのた打ち回り、グィネヴィアの制御を受け付けない。

「なんて非常識な娘なの! この子を身体の内側から壊そうとするなんて!」

 グィネヴィアは慌てて、クラーケンの手綱を握ろうとする。どうにかして暴走を止めねばならない。現状、クラーケンはグィネヴィアを巻き込んでしまう可能性があり、恵那を相手にするのに足手まといになる可能性がある。

 そして、グィネヴィアの注意が恵那から逸れたそのとき、彼女の白魚のような美しい手が真っ赤に弾けた。

「あ……」

 グィネヴィアは何が起こったのかわからず、忘我する。

「ギ、イガアアアアアアッ」

 そして、理解した瞬間に、激痛に苛まれて膝をついた。

「が、くう。いったい――――ッ」

 悪寒を感じて、身体を捻る。

 突き飛ばされたような衝撃を肩に感じ、僅かに遅れて痛みが走る。

「う、ああああ!」

 何も感じなかった。これは、呪術によるものではない。

 銃撃だ。

 忌々しい現代火器による狙撃。右手の手首から先は辛うじて繋がっているが、動かすことはできない。右肩には貫通射創。常人よりも頑丈な身体のおかげで肩を吹き飛ばされずに済んだものの、真っ赤な血が絶えず流れ出ている様は美しくも痛々しい。

「あの娘ね。出来損ないの紛い物……人間のからくり兵器に頼る不届き者」

 烈火の如き形相で、狙撃手が潜伏するビルを睨む。グィネヴィアがその気になれば、潜伏など意味を成さない。

 赤い光。それが、マズルフラッシュだと認識するよりも速く、グィネヴィアは防御術式を展開する。

「そう何度も、いい様にはさせませんよ!」

 宙に浮かび上がったルーン文字。音よりも速い弾丸が、グィネヴィアの目前で停止する。しかし、グィネヴィアはすぐに冷や汗をかくことになる。

 停止した弾丸に、なにやら呪文が書き込まれていたからだ。

 矢に破魔の言葉を書き込むことはよくある。だが、まさか弾丸に同じような処理を施していようとは。

 弾丸は、赤く発光したかと思うと、激しい炎と煙を吐き出して炸裂した。

「きゃあッ」

 弾丸を受け止めた停止の術は、あくまでも移動する物体を止めるものでしかない。爆発を防ぐものではないのだ。

 小さな手榴弾程度の小規模な爆発でも至近距離から受ければ相応のダメージになる。常人以上に頑丈な神祖でも、不意を打たれた状態で防ぎ得るものではない。

 グィネヴィアは衝撃を受けて、地面に転がった。

「こ、の!」

 動く左手を宙に走らせて、水刃を放つ。敵の居所は掴んだ。離れていようとも術を届けることはできる。

「恵那を忘れてもらっちゃ困るな」

「うッ……!」

 恵那が、そこに斬り込んだ。弱りきった身体に鞭を打って、グィネヴィアに刀を振り下ろす。

 ザク、と刃が斬り落としたのは割り込んで来たクラーケンの触腕だった。

「ああ、もう。まだ動けるのかッ」

 恵那はバックステップを踏んでクラーケンから遠ざかりながらグィネヴィアに風刃を放つ。

 クラーケンが大きな身体で、これを防ぐ。恵那が力を振り絞っているように、クラーケンも主を守ろうと、なけなしの力を振り絞っている。我が身を楯に主を守ろうという気概を感じる。

「凍てつく炎よ、地の底より来なさい」

 グィネヴィアが呪術を行使する。青い炎が、恵那に向かって押し寄せる。燃えているのに、熱くない。氷のように冷たい炎は、命を凍結する地獄の炎だ。

「うわ、ヤバッ」

 恵那が慌てて避けようとするが、足場が悪すぎる上に、範囲が広い。屋上全体を呑み込まんとする炎の津波に逃げ場などあるわけがない。唯一後方の床面に空いた穴があるが、そこまでが遠い。呪力も神力も限界が近く、床面を抜くほどの威力を瞬時に出すことはできない。

 しかし、恵那はこんなときでも冷静だった。

『恵那さん。伏せてください!』

 脳裏に響く声。慣れ親しんだ祐理の声だ。

 晶とは別のビルから、祐理は戦闘を監視していたのだ。グィネヴィアに悟られないよう、呪術ではなく携帯電話で晶と連絡を取りながら、情報をやり取りしていた。

 すべてはタイミングを計るため。

 恵那の下に向かう晶に恵那の状況を逐一報告するのが祐理の役目だったのだ。

 その祐理が、精神感応で恵那に連絡をよこしてきたということは、そうするべき状況だということだ。恵那は頼れる友人の言葉に素直に従って前方に身を投げた。

「南無八幡大菩薩!」

 そして、崩れ落ちた床面。その穴から飛び出てきた晶が神槍を投撃する。

 地獄の青い炎を吹き散らし、グィネヴィアに向かう神槍。それは、破魔と狙撃の力を宿し、圧倒的な破壊力で射線上のすべてを破壊し尽くす砲弾だ。

 晶が持つあらゆる攻撃手段の中で、最大級の威力を誇る神槍の投撃。

 この一撃に、晶は可能な限りの呪力を込めていた。

 その一撃は、直撃すればグィネヴィアですら葬り去ることができるほどのものだ。ゆえに、グィネヴィアは呪力を総動員して最高の防御――――つまり、クラーケンという楯を使う。

 クラーケンが身体で槍を受け止めた。呪力が炸裂して、激しい光を放つ。

 クラーケンは神槍を受けてその体躯の半分を吹き飛ばされ、海水に還りながら夜の東京の闇に溶けていく。だが、己の犠牲で主を守りきることができたのだ。さぞ、誇らしい思いを抱いていることだろう。

「清秋院さん。大丈夫ですか」

 晶は伏せていた恵那の安否を確認する。

「うん。大丈夫。ちょっと力が入んないだけ」

「それ、結構まずいですよ」

「あははー。ごめんね。恵那はちょっと休憩するわ。後はよろしく」

 危機感のない笑顔で、晶に後事を託した恵那。晶は神槍を手元に戻してグィネヴィアと向かいあう。

「大分、早かったですわね」

「おかげでずいぶんと息が上がりました」

 晶は深呼吸して肺の中の空気を入れ替えた。この場に逸早く駆けつけるために、ビルの屋上から屋上に飛び移るという離れ業をしていた。一つ間違えば地面に落下するという危険な賭けを、持ち前の運動神経と集中力で成し遂げたのだ。

「なるほど。そういうことですか……」

 クラーケンを仕留められて、守りを失ったグィネヴィアは、晶を睨みつけて呟いた。

 グィネヴィアは怒りに顔を歪めていながらも、美しさは微塵も失われていなかった。黒いドレスは、彼女の血で赤黒く変色した部分もある。しかし、撃ち抜かれた右手首と右肩の傷は、すでに治癒していた。

「驚きました。そんなに早く治癒ができるんですね」

「元は《蛇》の末席に連なる女神ですもの。治癒などは得意分野。あなたも、本来はそうなのですよ」

 晶はついつい聞き返す。

「どういうことです?」

「ふふ、それはご自身でお考えになることです。ですが、あなたは様々な過ちの上に立つ存在。たとえ、真実を知ったとしても、立ち返ることは叶わぬでしょう」

「何が……」

 晶は、グィネヴィアの言葉の意味を図りかねて当惑した。

 しかし、グィネヴィアはそれ以上を語ることはなかった。

「口惜しいことですが、さすがのグィネヴィアも消耗しています。あなたと戦えば万が一があるかもしれませんので、ここで失礼します」

 いい終えたときには、すでにグィネヴィアは白い光に包まれて、空に駆け上がっていた。

「あ、しまった」

 グィネヴィアとの問答に気を取られていた晶は、槍を構えるも遅く、グィネヴィアを取り逃がすことになってしまった。

 やってしまった、と項垂れる。

「すみません、清秋院さん。逃げられました」

「いやー、いいんじゃない。空飛ばれたらどうにもなんないって」

 恵那は身体を起こしてケラケラと笑う。

 討伐できる絶好の機会だったのに、失敗してしまった。恵那が命を削ってまでお膳立てをしてくれたのに、活かせなかったことが申し訳なかった。

「とにかく、恵那たちにできることは全力でやったわけだし、後は王さまだよ」

「はい」

 晶は気を取り直して護堂の戦いに意識を向けることにした。

 しかし、グィネヴィアの言葉が、どうしても頭から離れなかった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 ランスロット・デュ・ラック

 アーサー王伝説に語られる伝説上の騎士。

 十二世紀後半にフランスで活躍した吟遊詩人クレチアン・ド・トロワの『ランスロまたは荷車の騎士』を初出とする。

 《鋼》の神格であるが、《鋼》らしき記述が少なく、その神としての出自も謎のまま。

 アーサー王伝説に登場する初期の円卓の騎士たちは、ケルト系やピクト系の神話や伝説を源流としていることが分かっている。しかし、このランスロットはそういった背景がまったく分かっていない。ある時期に突然名前が挙がり、そして今では主流となったアーサー王伝説の要諦を為す騎士にまでなった。そういう謎多き神格なのである。

 白き神馬に跨る騎士が、悠々と空を舞う。

「アテナよ。貴女の生が尽きぬうちに久闊を叙せて、よろこばしく思う。そして神殺し・草薙護堂よ。卿とは初めてとなるが故に、名乗ることとしよう。余はランスロット。ランスロット・デュ・ラック。湖の騎士と人は呼ぶ」

 快活で涼やかな声で、清清しく名乗った白銀の騎士。

 堂々たる名乗りではあるが、護堂にとって無視できない敵だ。警戒心を緩めることなく、睨みつける。

「こんなところに出てきていったい何の用だ?」

「さしずめ、聖杯を回収しようというのだろう。あの婢女に強請られてな」

 アテナが嫌悪感を露にして吐き捨てるように言った。

 よほどランスロットとグィネヴィアのことが気に食わないらしい。

「まあ、確かに一杯食わされた相手だしな」

 アテナの様子に護堂がそんな呟きを漏らすと、アテナは不機嫌そうに護堂を睨む。それを、護堂はあえて黙殺して、ランスロットに問う。

「で、ランスロットか。アテナはこう言ってるが、あんたはどうなんだ。アテナの言ってるとおりか?」

「うむ。概ねその通りだ。確かに、余は麗しの乙女の願いを叶えるため、聖杯を回収しに参った。卿らを相食ませ、共倒れを狙うは、武人の風上にも置けぬ所業。なれども、余は剣と槍をかの乙女に捧げた身。敢えて謝罪はするまい」

 語りながら神馬は地面に降りてくる。

 アテナの闇の中にあって、なお燦然と輝く白銀の鎧がまぶしい。

「ふん」

 アテナは、ランスロットの口上を鼻で笑った。

「誑かされるがままに己の武を振るう。それこそ愚かよ。如何な名剣と雖も使い手次第では枝にも劣るものぞ。あなたがそれを知らぬはずもないだろうに」

「如何なる使い手であれ、勝利を捧げるのが剣の役目。余を振るうのが愛し子であれば、愛し子に勝利を齎すために奮戦するのみ。ふふ、これに関しては見解の相違というものか」

 ランスロットは、掲げていた槍の穂先をアテナに向ける。白き神馬が高らかに嘶き、前足で地面を掘り返す。

 主の高揚を、感じ取っているのだろうか。

 戦に生きる軍神は、己の生き方に僅かばかりの罪悪感も見せない。あるがままに振舞うこと。それだけが、己の存在理由であり、それ以外は瑣末事に過ぎない。その果てに力尽き、戦場の露と消えても本望、というのがランスロットの死生観なのだ。

 《鋼》は、その存在自体が剣のメタファーとされる神の分類。最源流の一柱となれば、戦うという一点に特化した思考回路を持っていてもおかしくはない。

「ふむ、やはり神槍は動かぬか。聖杯との縁が完全に絶たれている。見事な手並みだ、神殺しの少年。この神槍をこのような形で止めるなど、この千年、終ぞなかったことだ」

 ランスロットは、槍を手放し、変わりに逆棘状のランスを召喚する。

 どうやら、護堂の破魔の一太刀は、聖杯と神槍との繋がりすらも絶ったらしい。警戒していたエクスカリバーが使用できないのであれば、危険性は大きく低下する。

「ソレが使えぬとすれば、どうする?」

「知れたこと。聖杯を取り戻す役目に変わりなし。貴女が邪魔立てするのであれば、せっかくの拾った命を捨てることとなろう。無論、卿も」

「言ってくれるな」

 護堂はせっかく聖杯を分離したのだから、わざわざグィネヴィアに渡す必要はないと判断し、ランスロットの前に立ちはだかることを決める。

「二度も後れを取ると思うなよ、軍神。その大言壮語は高くつくぞ」

 アテナとしても、ランスロットを見逃す道理はない。もはや、聖杯との縁が切れた以上は、十全の実力を発揮できる。かつての雪辱を、今ここで晴らす好機である。

「草薙護堂。あなたとの決着は持ち越しだ。まず、妾はあやつを討つ」

「いや、俺にもランスロットを倒しておく理由があるし、手は出させてもらうぞ」

 敵は強大だ。まして、《蛇》のアテナと《鋼》のランスロットは相性が悪い。もちろん、そのようなものは状況次第でいくらでも覆すことができるのだろうが、それでもランスロットの強大さは、対面するだけで十分すぎるほどに伝わってくる。

 数で勝るうちに倒しておきたい相手だ。

「どういうつもりだ、草薙護堂」

「ここまでされて黙ってられるか。この国で好き勝手させるわけにはいかないんだよ」

 これから先のことも視野に入れて、護堂は言った。

 ランスロットとグィネヴィアを放置することは、『最後の王』に近づけることでもある。それは、まずい。

 アテナはため息をついた。

「まあ、あなたの言うことにも一理あるか。仕方ない。くれぐれも足手まといにはなるな」

「さっきまで内側から命吸われて、死に掛けてたヤツに言われるのは釈然としないな……」

 アテナの高飛車な言い回しに、護堂は頭をかいて呟く。

「ふふふ、ギリシャの女神と極東の神殺し。なるほど、確かに珍しい組み合わせだ」

 ランスロットは笑いながら、鷹揚に事実を受け止める。

 もとより二人まとめて相手にする覚悟だった。アテナを謀り、護堂を陥れようとしたのは共にグィネヴィアであるが、彼女の剣を自負するランスロットは、彼女が背負うべき罪障も含めて己が蹴散らす対象と認識している。

 ならば、数的不利は至極当然。

 恨みに思われるだけのことをしてきたのだから。

「二人同時で構わぬ。このランスロット。剣に誓って逃げはすまい。いざ、お相手いたそう」

「よく言った、ランスロット・デュ・ラック!」

 アテナは、歓喜にも似た笑みで軍神に対峙する。

 さすがにギリシャの戦女神。アテナとは、一度戦ったから分かる。アテナは武人というわけではないが、戦争の専門家であり、己の武勇を示す機会を見逃さない。今、アーサー王伝説に名を残す最高の騎士を相手にして、心が燃え立っているのだ。

 首尾よく共闘まで持ち込めた。エクスカリバーも封じることができている。後は、純粋に力を比べるだけ。単純明快な殺し合いだ。

 護堂もまた、ランスロットという強敵を前にして怖気づくことなく戦意を高揚させている。

 アテナとの戦いで負った傷も、このにらみ合いの間に粗方治癒している。

 即製のコンビではあるが、まさしく最強のコンビだ。

「それじゃ、行くか」

 槍を肩に担いで、ランスロットと向かい合う。傍らの女神が小さく頷いた。

 これから始まるのは、イタリアでの闘争に比する一大決戦。

 臆することなく、護堂は最初の一歩を踏み出して行った。

 




遂に七十話に突入しました。また、ランキングの累計で七位(2014年1月19日現在)に入っていました。数ある作品の中で、この順位に入れたこと、これも、皆様の応援のおかげです。これからも、鋭意執筆に取り組んで行きたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。


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七十一話

 ランスロットという神は、良くも悪くも一直線だ。《鋼》というカテゴリーに属する神々の中でも、特にその性に忠実な神と言ってもいいだろう。

 斉天大聖のように、様々な民族の神話や伝承を織り交ぜて誕生した神ではない。

 だから、非常に分かりやすい性格をしている。

 彼は騎士。曲がった戦いは絶対にしない。正面から戦うことを信条とし、奇策を用いた戦いは好まない。そのため、対峙する護堂とアテナは、罠の警戒などをする必要は無く、一先ずは目前の敵に注意することができた。

 とはいえ、如何に相手が愚直な騎士で搦め手を好まない性格と雖も、楽に勝てる相手ではない。むしろ、一五〇〇年もの長き年月を、誰にも討伐されることなく生き抜いてきたことからも分かるとおり、彼は尋常ならざる力の持ち主である。

 また、かつてはブリテンにて最強の《鋼》に随従し、多くの神殺したちと死闘を繰り広げた対神殺しのスペシャリストとも言うべき経歴の持ち主でもある。

 アテナという世界最大級の守護神を味方にしていても、それだけで優位に事を運べるわけではない。

 ランスロットは乗馬したままアテナと交戦する。

 武器は自分が跨っている神馬と逆棘状の馬上槍。斬り付けるのではなく、勢いに任せて突き殺すタイプの武器である。

 ランスロットは、巧みに馬を操ってアテナに接近すると、目にも止まらぬ刺突の連撃を放つ。

 一息のうちにどれくらいの刺突が放たれたのか。

 槍がアテナを捉え損ねて地面を抉るたびに、呪力が弾ける。

 土埃が舞い上がり、四方に土砂が飛び、破砕音は、大分遅れて護堂の耳に届いた。

 一瞬にして、広場の整備された地面を畑のように掘り返したランスロットは、当然ながらそれで満足することなくアテナ(えもの)を狙う。

 基本は馬の脚力で接近しての刺突。

 単純であり、その外見から十分に想像できる戦い方だが、威力、速度がともに想像の範疇を凌駕していた。

 それを初見で難なくかわして見せたアテナはさすが戦女神の中の戦女神だと感服する。

 ランスロットとアテナの戦いは、文字通り斬り合いだった。

 ランスロットは馬上槍、アテナは身の丈ほどの大鎌。両者共にリーチは一メートルから二メートル。攻撃範囲が被っているのだから、どちらか一方に有利ということはない。

 ランスロットは攻撃の速さも重さも図抜けている上に、全身を覆うプレートアーマーが死角のない鉄壁の防御を実現している。一方のアテナであるが、こちらは防御力に不安がある。なにせ、見た目は小柄な少女に過ぎない。纏った鎧は確かに頑強ではあるが全身を覆うものではなく胸元と脛当、そして籠手だけである。それ以外の箇所は、薄い布を纏っているか、白い肌を露出させているかという軽装だ。とはいえ、アテナがランスロットに劣っているということにはならない。アテナの鎌には死の呪詛が込められており、地母神としての高い不死性はランスロットの単純な力攻めで覆すのは難しいというレベルのものだ。物理攻撃でアテナを倒そうとするならば、それこそ全身を破壊し尽くすか頭を潰すくらいの攻撃でなければならない。知恵の女神でもあるアテナがそのような攻撃を許すことはなく、ランスロットの神速の連撃は、尽く見切られて虚空を突くに止まっている。

「冥府の吐息よ、軍神に死を届けよ」

 アテナの鎌が、さらに内包する闇を強くする。

「さすがに、それを受けるわけにはいかんな」

 ランスロットは鎧で受け止めるという選択肢を除外し、神馬ごと飛び退いた。アテナの鎌に触れた地面や木々が、腐臭を発して崩れていく。

「《鋼》を力で砕くのは少々面倒。だが、こうすれば話は別だ。あなたもそうなのだな」

 以前、護堂の剣を腐らせたときのように、アテナは単純な頑丈さでは防げない攻撃を繰り出したのだ。あれに対抗するには、防御力のほかに、呪詛に抵抗する呪力や能力が必要になる。

「不死は《()》等も得意とするところであるがな……」

 生命力の象徴である不死を持つ《蛇》に対して、戦場における不死の体現者としての《鋼》。同じ不死ではあるが、その性質は異なるのだろう。

「如何なる戦士も、死という結末を避けることはできぬ。覚悟せよ、ランスロット・デュ・ラック!」

「なるほど、確かに。我等にも死はあろう。しかし、だからこそ面白いのだ。この世のどこかに、余に死を与える猛者がいるのではないかと放浪すること、実に一五〇〇年。未だにこの命に届いた者はいない。果たして貴女にできるものかな?」

 ランスロットの動きが変わった。神馬を操り、細かいステップを踏んでアテナと戦っていたときとは異なる動き。より直線的な、高速移動。

 アテナの鎌を、槍で突き、勢いのままに弾く。アテナは体勢を崩し、踏鞴を踏む。ランスロットは、一息でアテナから距離を取り、反転して再び駆け出した。

「俺を忘れんなよ」

 機を見て護堂が介入する。

 ランスロットとアテナがハイレベルな近接戦闘を行っていたときは、さすがに手が出せず観戦に徹していたのだが、距離が開けば攻撃することができる。

 槍を十挺待機させ、ランスロットに掃射する。

「ぬうッ!」

 鋭利な刃は、見事な槍捌きに阻まれた。

「この程度じゃダメか」

「ハハハ、まだまだ詰めが甘いな!」

 ランスロットは哄笑し、右手で馬上槍をぐるりと回して肩に担ぐ。

「人のことは言えぬな、軍神!」

 ランスロットの意識が護堂に向かっている間に、アテナは素早く距離を詰めていた。

 飛び掛り、鎌を振り下ろす。

 神速にすら反応するランスロットが、真正面から挑みかかってくるアテナに対応できないはずがない。馬上槍に呪力を込めて、アテナの呪詛に抗する力を与えて、迎え撃つ。

『弾け!』

 そこに、護堂が言霊を放つ。

 狙うはランスロットの右腕。叩き付けた言霊が、ランスロットの右腕をあらぬ方向に弾く。

「何ッ」

 結果、アテナの鎌が防御が崩れたランスロットの胸に突き立った。

「ぬ、うおあッ!」

 ランスロットの咆哮。神馬が嘶き、棹立ちになる。アテナは振り回され、鎌の刃がすっぽ抜けると、そのまま宙に放り出された。

 アテナは猫のように空中で体勢を整えると、地面に難なく着地する。

「草薙護堂。あなたは手数で攻めよ! 彼奴を走らせてはならぬ」

「なるほど、確かに!」

 ランスロットの特技は全力疾走からの突撃戦法。その体当たりは、アテナの守りを突き崩すほどの威力があり、さながら隕石の衝突のようでもあるという。 

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 一目連の聖句を唱えて剣群を創り出す。

 一つ一つは簡素な刃で、装飾性は欠片も無い。しかし、それでいい。今はとにかく速度と量で圧倒せねばならない。

「なるほど、これは厄介! だがッ!」

 護堂が降らせる刃の雨に、ランスロットは正面から突っ込んだ。

 行動を制約しようという面制圧を試みた護堂は、予想に反した結果に衝撃を受けた。

 ランスロットの鎧は、想像以上に頑強だった。また、神馬と一体になった突撃は、燃える呪力を身に纏っての体当たりだ。鎧の上から、呪力がコーティングしているので、刃のほうが蹴散らされるという始末だ。

 それでも、

「ぐ、く」

 ランスロットは無傷というわけではなかった。

 いくつかの刃が、白き呪力の壁を突破し、彼の鎧を傷つけた。さらにそのうちのいくつかはランスロット自身にも届いたようだった。高速で突っ込んでくるのだから、単純に受け止めるよりも受ける衝撃は大きいのだ。

「はあッ!」

 剣群を突破したランスロットを待っていたのは、アテナ。黒い鎌が、神馬の足を薙ぐように襲い掛かった。

 ランスロットが駆る神馬は、並ではなかった。アテナの攻撃を、強靭な脚力で地を蹴り、宙へ逃れることでかわしたのだ。

「逃がすか!」

 護堂は鎖分銅を投じた。

 幾重にも重なる鎖の膜は、蜘蛛の巣のようにランスロットの行く手を遮る。

「これは手の込んだことを! しかし、この程度で余を捉えられると思われては困るな!」

 ランスロットが蜘蛛の巣の中央に馬上槍の穂先をピタリと向ける。

 白き閃光が迸った。

 続いて耳を劈く雷名が響き渡る。

 雷撃だ。なぜかランスロットは雷を眷属としているのだった。馬に乗って大地を翔ける遊牧民族たちの中では雷は馬を象徴することがあるという。ギリシャ神話に取り込まれたルウィ人の雷神ピハサシがゼウスの雷を運ぶ天馬となったように。

 ランスロットは、まさに雷のように空を翔ける。

「草薙護堂。あなたは空を飛べるか?」

「雨が降ってれば問題ないんだけどな。今でもできないわけじゃないけど、あれには追いつけない」

 護堂の飛行手段は伏雷神の化身と『強制言語』による空間制御の二つ。前者は雨や高湿度のときにしか使えず、後者はいつでも使えるが、柔軟性に欠ける。

「なるほど、ならば空を妾に任せてもらおう!」

 アテナの背からフクロウの翼が生える。

 フクロウはアテナの聖鳥。同朋にして配下である。

「天空の鳥王でもある妾の羽ばたきを見るがいい、軍神!」

 そして、壮大な空中戦が始まった。

 アテナは音速に僅かに届かない程度の速度で空を舞い、ランスロットは、音速を軽々と突破する超高速で夜空を切り裂いた。

 単純な速度ではランスロットが勝っている。だが、空中戦を優位に運んでいるのはアテナのほうだった。

 もとより、戦闘機の空中格闘戦(ドッグファイト)ではない。ただ速いだけでは、勝利を得ることは難しい。

「アテナは小回りが利くけどランスロットはそうじゃない、か」

 護堂は、二神の戦いを見て、そう分析する。

 アテナの飛翔はまさに鳥。空中で自在に方向を変え、ランスロットを矢で狙撃している。一方のランスロットは、地上と変わらずひたすら直進するだけだ。速度は尋常ではないが、真っ直ぐにしか進めないのなら脅威にはならない。

 だが、アテナの攻撃はなかなかランスロットには届かない。届いても、弾かれる。アテナ優位に進みながらも、膠着状態に陥っていた。

 空中を自在に飛び回られると、護堂には攻撃手段がなくなってしまう。遠距離攻撃は可能だが、誘導性はなく、当てられるかわからない。間違ってもアテナに当ててしまうわけには行かないのだから、慎重にならざるを得ない。

 だが、それは射撃に限った話だ。

 狙いも何もなく、ただ相手に直接干渉できる権能が護堂にはある。

 草薙護堂第一の権能『強制言語』。ガブリエルより簒奪した、万象に働きかける精神干渉能力である。

 

 

 アテナが呼び寄せた闇とフクロウを蹴散らし、ランスロットは疾走する。

 夜を斬り裂く白銀の鎧姿。あまりのまぶしさに、仔細は見ても分からず、ただ白き恒星が光の軌跡を残して飛び回っていることしか理解できない。

 それだけの速度を出しながら、未だにアテナを仕留めることができていない。さすがに戦神にして知恵の神。ランスロットの動きは、ランスロットが動き出す前から予測されているようだ。進路上に矢が放たれたことは一度や二度ではなく、鎧を着ていなければ致命傷を受けていたことは想像に難くない。

「やはり、戦はいい。女人のために剣を振るうのも悪くは無いが、血肉が踊るこの感覚こそが、健全なる騎士の道というものだ」

 雷を引きつれ、アテナのフクロウを消し炭にし、ランスロットは走る。人馬一体の攻撃は、『まつろわぬ神』の中でも随一の威力を誇るだろう。

 戦争を司るアテナに対して、ランスロットは戦闘を司ると言える。一対一の戦いは、最前線で戦う騎士の独擅場だ。多少の不利はあるが、それで追い込まれているわけではない。

 アテナとの幾度目かの交錯の直後、右肘に違和感を覚えた。

 その直後、突然万力で締め上げたかのような強烈な力が肘にかかる。

「何ッ! これはッ!」

 あらぬ方向に捻じ曲がっていく肘に、あらん限りの力を込める。

 しかし、それは、アテナを前にして致命的な隙になったといえよう。不意を突くのは誇りに反する行為かもしれないが、戦場に於いては隙を作るほうが悪いのである。

「冥府の吐息よ。我が鏃に宿れ」

 光を吸収するかのような、黒曜石の鏃。

 それは死の呪詛の塊でもある。触れれば、冥府の毒が全身を侵して死に至らしめる。

 アテナは死の呪詛を込めた矢を三矢番えて、放った。ランスロットの頭と胸、そして騎馬を狙った。そのどれもが必殺。掠ることすら許されない。だが、ランスロットは右肘を空間に固定されている。しかも、その拘束は僅かでも気を緩めれば、即座に腕を食いちぎる悪辣な物だ。

 矢を避けねば死ぬ。しかし、肘を固定された状態では満足に回避行動が取れない。

 ランスロットの決断は早かった。

「オオオオオオオオッ!」

 ベキゴキ、と鉄が砕ける音がした。

 ランスロットは騎乗している愛馬ごと身を捻ったのだ。結果、アテナの矢をかわすことはできたものの、右腕の肘から先は使い物にならなくなるまでに破壊された。

 肘を犠牲にして必殺を避ける。その判断は合理的だが、極限の状況で素早くその判断を下すとは、やはり只者ではない。勝利への執念を感じさせる一幕であった。

「これで、右手は封じた!」

「ああ、実に見事だ。草薙護堂!」

 右手が使えなくなったことは、騎士であるランスロットにとっては大きな痛手だ。まず、あの逆棘状の馬上槍を取り落とした。拾うにせよ、新たな武具を呼ぶにせよ、左手一本で扱わなければならない。これは、右利きのランスロットにしてみれば、不利な状況であろう。

「してやられたぞ。その権能は知っていたが、まさか、これほどの威力を出そうとはなッ! いや、君たち神殺しはいつの時代も余の予想を超えてくる。それを失念していたことこそが余の失態か!」

 右腕を痛々しくぶら下げているにもかかわらず、軽快に話すランスロットには、片腕の不利を不安視する様子はない。

「ふむ、こちらの腕で槍を持つことはないのだがな。こうなってしまっては致し方あるまい」

 ランスロットは、左手に馬上槍を持つ。いつのまに拾っていたのか。転送の呪術に近いものを使ったのか、神はどこからでも自分の武器を呼び出せるようだし、深いことは考えなくともいいのだろうが。

「はあああッ」

 アテナが、ランスロットに斬りかかる。

 漆黒の刃は、白銀の馬上槍に弾かれて火花を散らす。

「武器を持たぬ者に斬りかかるとは、礼がなっていませんな」

「戦場で武具を取り落とすことこそ恥と知るがいい。首を刎ねられても文句は言えまい」

「なるほど、それは確かに一理ありますな」

 ランスロットは左手一本でよく凌ぐ。さすがは、騎士の神。

 とはいえ、さすがに旗色が悪くなっている。片腕のハンデに加えて、護堂が言霊と槍の遠距離攻撃でアテナを支援しているからだ。

「その言霊の権能、なかなか厄介。事あるごとに余の邪魔をする」

 憎らしげにランスロットが護堂に言う。

 それも当然だろう。ランスロットが行動しようとすると、その行動を阻害するように言霊を飛ばしてくるのだ。込められている呪力自体がそれほどでもないため、弾くことは容易だが、ワンテンポ行動が遅れる。すると、その間隙を縫ってアテナが矢を放ち、鎌を振るう。護堂のしていることは、非常に細々とした嫌がらせレベルであるが、それがとてつもなく厄介なものとなっていた。

 ランスロットが馬上槍を振るって護堂の言霊を散らす。それと同時に胸をそらし、アテナの矢を避ける。

「このままでは一騎駆けもできぬか」

 ランスロットが好むのは、一撃離脱戦法。思うままに駆け抜け、敵を討ち果たすことが信条だ。ちまちまと技を競い合うのは性に合わない。

 それに、ランスロットは完全な『まつろわぬ神』ではない。

 今の状態でも、重荷を背負っているような倦怠感が襲っている。

 グィネヴィアを守るために、自身に施された守護は、ランスロットが、『まつろわぬ神』へ変化することを防ぎ、それによって本能ではなく、理性によって行動することができるようにしていたのだ。

 その代償として、ランスロットは十全の力を発揮することができない。

 一撃離脱戦法は、長時間の戦闘に耐えられない身体の都合を考えても最適な戦い方なのだ。

 しかも、ランスロットはすでに右腕を失っている。呪力も大分失った今、無駄に時間をかけていては敗北の色が濃厚になっていくだけだ。

 時間は、ランスロットに微笑まない。

「ならば、多少強引に事を運ぶしかないようだな!」

 アテナが距離を詰めようとしたところで、ランスロットの姿が消えた。

 アテナは目を見開く。護堂は、舌打ちをした。気温が低下していく。見る見るうちに公園内に霧が立ち込めてきた。

「霧。湖の乙女の加護か」

 霧に紛れて身を守る守護の術。ランスロットの湖との関わりを具現化した力だ。この状態では、斬撃はもちろん、雷も炎も効果がない。実体がないものには、ダメージを与えることができないからだ。

『払え』

 しかし、言霊は別だ。

 万象への命令は霧にも通じる。

 火雷大神やメルカルトとの戦いでも、雷雲を晴らすのに使用した。霧程度が払えない道理はない。

 護堂を中心に、球状に霧が押し広げられていく。ただの一言で、ランスロットの護身の術は効果を失ったのだ。

「あやつめ、雲に逃れおった」

 雷雲の中で、眷属である雷を従えて力を蓄えているのだ。

 おそらくは一度に決着をつけるために。

「迂闊に動くな草薙護堂。今、空に向かえば迎撃されるぞ」

「分かってるよ。何も好き好んで敵のテリトリーに入らないって」

 空に向かうには、言霊を使うしかない。ランスロットの一撃、一騎駆けの威力の凄まじさは知っている。まともに喰らえば跡形も無く消し飛ばされるだろう。アテナが警戒しているのも、それだ。であれば、今は防御を如何に固めるかを考えるべきだろう。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 ランスロットは雷雲の中を、愛馬と共に駆けている。

 相変わらず全身には倦怠感が重たい鎖のように絡みついているが、それに反して心は燃えたつ炎のように熱く、勇んでいる。

 雷を受けて身体に鞭を打ち、呪力を集中するのだ。

 本調子には程遠い。利き腕は使い物にならず、必殺の一騎駆けに身体が悲鳴をあげることも重々承知。

 だが、全力を振り絞っての戦いでなければ、面白みが無い。

 これまで、数多の敵と戦ってきたランスロットだが、女神と神殺しが協力し合うところに遭遇することになるとは思っていなかった。それも、ギリシャ最大の守護神アテナと、新進気鋭にして高い成長率をたたき出している若き神殺しだ。実に面白い組み合わせではないか。

 ランスロットは、目を地上に向ける。

 強大な気が二つ。

 中空にアテナ、地上に草薙護堂。

 どちらも、ランスロットの一騎駆けに備えているに違いない。特にアテナは、一度その身に受けているだけに、生半可な攻撃ではその守りを突破することは叶うまい。

「この戦いをこれ以上堪能すれば、余はまつろわぬ身へと立ち返ることになるかもしれぬ。何れにせよ潮時ではあるのだろうな」

 ランスロットは、全身に雷を浴びる。ランスロットの身体に触れた雷は、すべて白銀の鎧に吸収されていく。

 ランスロットはすぐに神速に至ることができるわけではない。大量の雷を吸収しなければならないという制約があるのだ。

 そして、その制約を解除するのに十分な雷をその身に蓄えた。後は、下方に向けて一気に放出するだけだ。

「さあ、いざ行こうぞ」

 愛馬に声をかけ、横腹を蹴る。

 アテナを蹴散らし、護堂を押しつぶす。そうと決めて、ランスロットは雷雲を飛び出した。白銀に輝く、雷光となって。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 途方も無い呪力が雷雲の中で弾けるのを、護堂は感じた。あれほどの高みにいながら、はっきりとその力の程が理解できる。

 そして、ランスロットが雷雲を貫いて天下るのを見た。

 それはさながら白き恒星。そしてその突進は、隕石の落下のようであった。上空から降り注ぐ呪力が深海にいるかのような圧迫感を護堂に与えている。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ、大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 その中でも、護堂は冷静に大雷神の聖句を唱えた。

 どこから敵が来るのかも、どこを狙っているのかも、護堂には分かりきっていた。もちろん、アテナもそうだろう。互いの位置関係からすれば、真っ先にアテナを仕留め、その後で護堂を倒そうとすることは十分に予想できることである。

 つまり、ランスロットはアテナに向かって落ちてくる。

 『強制言語』の直感力もあり、狙いをつけるのは容易であった。

 白き隕石に、青白い雷撃が喰らいついた。

 大雷神の雷撃は、まるで対空砲。単純な威力では護堂の手札の中でも最大級。イタリアでは紆余曲折あったものの、アテナの最大の守りを突破した一撃だ。

 真っ白な天蓋を支える青い柱。

 遠くから見れば、そのようにも見えるだろう。

 事実、護堂の感覚はそれに近いものがあった。

 ランスロットが手負いとはとても思えない。大雷神の化身に拮抗し、さらにジリジリと降下しているのだ。勢いを殺すことには成功したが、ランスロットを押し返すには至っていない。

 重圧が凄まじい。

 目に見えない圧力が、空から護堂を圧迫している。

 しかし、今、護堂は一人で戦っているわけではない。護堂がランスロットの突撃を辛うじて受け止めている間に、アテナは自由に身動きが取れるのである。

「我が半身たるゴルゴンよ。妾を助けよ!」

 ランスロットには接近できない。周囲は呪力と雷の乱流で、護堂の大雷神の雷撃も方々に散っているからだ。

 よって、ここでアテナが選んだのは呪詛。

 アテナを構成する三神の一つメデューサの石化の権能である。

 瞳輝くアテナ。

 ギリシャ古典文学に謳われたとおりに、彼女の瞳が淡い輝きを宿す。

 その瞬間、ランスロットの馬が石になった。左足も、続けて石化する。ランスロットは、すぐに呪詛に抵抗すべく呪力を練り上げるが、それによって強大無比であった突撃の威力が目減りした。

 そこを護堂は見逃さない。

 ランスロットは満身創痍。これ以上突撃の威力が強まることは無い。

「ウオラアアアアッ!」 

 だが、護堂は未だに気力を十分に残している。

 気合の咆哮と共に、呪力を砲身(みぎて)に込める。

 一際強く輝く青い閃光が、白き恒星を呑み込んでいく。

 そして、目が眩むほどの爆発が夜空を明るく染め上げた。大地に響もす爆音が、護堂とアテナを強かに打ち据える。

 白き恒星は、消滅した。

 護堂とアテナの連携が、万夫不当の騎士の必殺を打ち破ったのだ。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「あの一撃を打ち破るとは、大したものだな」 

 アテナが護堂の隣に舞い降りてきた。心なしか、その表情には微笑を湛えているようにも見える。

「あなたが、石化の呪いを当ててくれたおかげだ。そうでなければ押し切られてたと思う」

「ふむ、まあ、確かにそのような一面もあろう。忌々しき《鋼》のランスロット。あやつは我が手で討ち果たさねばならぬと思っていたが、このような仕儀となったのも天地の定めか」

 呆れたような、安堵したようなそんな色を帯びた呟きだった。

 ランスロットは、アテナにとっては天敵中の天敵。聖杯のことも含めて戦うにはあまりにもリスクが大きい相手だった。

 そして護堂からしても、魔王殺しの神剣を使うという時点で天敵なのである。今回の戦いは、まさに敵の敵は味方という状態を生み出していたのだ。

「ああ、実に見事であった」

 弛緩した空気が一気に凍りついた。

 護堂とアテナは驚愕に目を剥いて声がした方向を見た。

 そこにいたのは、ランスロットだ。

 大木に左手を付いて、なんとか身体を支えているという状況ではあったが、それでも倒れることなく立っている。

 左足は石化している。愛馬も失い、右手は半ばから砕かれた。しかし、それでもなおこの騎士は戦いを止めようとはしていないのだ。

「ほう、あの一撃を凌いだか。さすがだな軍神。だが、その身体では妾たちに勝利することは叶わぬぞ」

 アテナは聖杯に命を削られてはいたが、大地から呪力を吸い上げるなどして着々と力を回復している。聖杯との縁が切れたことで回復能力が万全に機能している。そして、護堂は消耗こそしているが、目立った怪我はない。近接戦闘の大部分をアテナが受け持ってくれていたおかげだ。

 こちらは体力と呪力だけが削られた状態。しかし、ランスロットはそれに加えて数の不利と身体的なハンデを抱えている。

 カンピオーネに対して数的不利を覆す能力をもつ『まつろわぬ神』であっても、相手がカンピオーネと『まつろわぬ神』のタッグであった場合は能力が機能しない。一対二という戦力差は、純然として存在している。

 護堂としても、ランスロットが、如何に武勇に秀でていたところで、この状況を覆せるとは思っていない。常識的に考えれば、ランスロットは撤退を選ぶべきなのだ。しかし、それを選ぶことなく、無防備な姿を曝している。それは何故だ。どう考えても、優劣をひっくり返せる要素はないはずなのに。

「あッ」

 護堂は焦燥に駆られて、後ろを振り返った。

 ――――聖杯が、ない。

「やられた、クソッ」

 護堂とアテナがランスロットにかかりきりになっている間にグィネヴィアが回収したに違いない。聖杯との縁を結びなおすのには十分な時間を与えてしまったということか。

 恵那や晶はどうなったのか。それを考える間すらも与えられなかった。

「気付いたようだが、もう遅いぞ。ふふふ、卿の雷撃は目も覚めるようなすばらしい一撃であった。余もまた秘儀の一つくらいは見せねば締りが悪かろう」

 ランスロットの左手に、燦然と輝く一振りの槍。

 聖槍にして聖剣。

 魔王殲滅の英雄が振るうべき究極の一振り。

 それは、星をも斬り裂くと称される、絶対斬撃を具現するものである。

「軍神、貴様!」

 アテナが牙を剥くように吼えた。 

 もはや問答は無用と、ランスロットは槍の切先を護堂とアテナに向ける。明確に狙う必要はない。その槍の一撃は、文字通り世界を斬り裂く救世の光なのだから。

「今こそ大地を斬り裂くとき。我が主の神剣よ。今再び余に力を分け与え給え!」

 

 



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七十二話

 草薙護堂がカンピオーネとなったのは、この年の春のことである。それから、まだ一年と経っていないので、自動車の運転免許で言えば未だに若葉マークを取り付けているということになるだろう。

 経験値も他のカンピオーネに比べればまだまだ少ない。

 常識的に考えれば、半人前以下の見習いとされても可笑しくはない状況ながら、その戦歴を見れば一流も顔負けの猛者となる。

 そもそもの経験値が意味を成さない『まつろわぬ神』は置いておくとしても、三世紀を生きるヴォバン侯爵や、彼と同じく最古のカンピオーネである羅濠教主と戦い打ち勝ったのは、単なる偶然ではない。

 どれほどの年数を積み重ね、鍛錬に明け暮れようとも、カンピオーネはそれらを意志で凌駕する。権能の数も経験も勝利を手に入れるための道具に過ぎず、歴戦の魔王であっても、絶対の勝利はありえない。

 つまり護堂は新人でありながらも、先達と対等に渡り合うだけの下地を初めから持っていたということになる。

 数世紀もの戦闘経験を覆す胆力と、カンピオーネとしての動物的直感。そして、第一の権能の恩恵である超直感が加われば、大抵の危機に対して迅速な行動を起こすことができる。まして、それが【知識】に該当する事柄ならばなおさらだ。

 

 護堂は、ランスロットが持つ聖剣の危険性を知識として知っている。

 だからこそ、そのエネルギー源である聖杯をアテナから切り離し、さらに聖杯の使い手であるグィネヴィアとの繋がりも断ち切った。その時点で、ランスロットはランスロットの力でしか護堂たちと対峙できず、アテナを味方に引き入れたことで二対一の状況を作り出すことに成功した。

 『まつろわぬ神』はカンピオーネに対して数的不利を覆す力を持つものだが、今回、この戦場にいるカンピオーネは護堂一人。ランスロットの能力は強化されず、数的不利を覆すことはできなかった。また、ランスロット自身も『真なる神』でも『まつろわぬ神』でもない中途半端な存在として顕現しているデメリットとして能力値が低くなっている。こうした事情もあって、護堂はランスロットの奥の手を打ち破り、アテナと共にその首兜を挙げる一歩手前まで行くことができたのだ。

 ここまでは、すべて予定通りだった。

 ほぼ、護堂が描いた絵図の通りに事態が推移したわけで、『まつろわぬ神』を相手にしてそこまで計画通りに事を進められたというのは、【知識】があったとはいえ奇跡に近い。

 

 百聞は一見に如かず、という言葉があるが、まさしくその通りだと護堂は思った。

 ランスロットが魔王殺しの聖剣の力を使った瞬間、護堂はこれまでになく死を感じた。生き残るために、全力で回避行動を取り、奇跡的に生き延びることができた。

 獲物を捕らえ損ねた白き極光は、浜離宮恩賜庭園に巨大なクレーターを生じさせていた。

 驚嘆すべきは、爆発も衝撃も無かったことだ。 

 大地を抉る一撃でありながら、実に静かであった。

 文字通り、ランスロットの聖剣は、攻撃範囲にあるすべてを消滅させたのだ。

 それは、まさしく浄化の光。

 爆発の熱と衝撃で破壊するのではなく、ただ消し去る。どう表現すればよいか分からなかったが、強いて言えば分解に近いかもしれない。

「こんなん食らったら一溜まりもないぞ……」

 氷のような汗が、護堂の背筋を滑り落ちて行った。

 威力が威力だ。カンピオーネの抵抗力で防げるものではないだろう。なにより、あの光はカンピオーネを殺すことに特化した権能だ。基本的な戦略は、回避に徹することだろう。

「今の一撃を生き延びたか。さすがにしぶといな草薙護堂」

「そう簡単に死んでたまるか。そっちは……」

 護堂は、そこで初めてアテナを見た。

 そして、目を見開いた。

 アテナは護堂のすぐ傍に倒れていた。気丈にも、上体を起こしていたが、左腕を失っている。

「食らったのか!」

「掠めただけよ。この程度、大した問題ではない」

「腕がなくなってるじゃねえか。馬鹿言ってんじゃねえ!」

 思わず、護堂は叫んだ。味方が負傷して戦力が落ちるとかそういうことを考えていたわけではなく、ただただアテナを案じてのことだった。敵に対しては容赦のない護堂でも、味方として戦っているのであれば、気を回す。

「妾のことを気にしている余裕はないぞ。次が来る」

「ええいッ。面倒だなッ!」 

 アテナの言うとおり、ランスロットは再び切先を天に振り上げている。

 護堂はアテナを抱えて土雷神の化身を発動した。この化身は地中を移動するために、心眼では捉えられないという利点がある。ランスロットが神速を見切る目を持っているのは確実なので、逃げようとするなら土雷神が最も相応しい化身だろう。

 とにかく、距離を取らねばならない。

 あの権能は、本気でまずい代物だった。攻撃範囲、威力共に尋常のものではない。浜離宮恩賜庭園の面積では、数回振るわれただけで壊滅することだろう。

 

 

 

 

 神速の権能は、戦場を変えるのも逃亡するのも自由自在で実に便利だ。

 雷の速さで移動すれば、数秒で東京都から出ることも可能だ。問題は、どこに陣を構えるかだが、人気のない土地を東京近辺で探すのは容易ではない。

 結局は、海に面した地から候補地を探すこととなった。

「山の向こうが明るくなったな……」

 護堂は東京方面の空を見る。アテナの神力が消えたことで、闇が消滅し人工の光が戻ったのだ。しかし、護堂たちがいるこの場所は、深夜の暗闇を正しく残している。闇を見通す透視能力がなければ一寸先も見えないことだろう。

 護堂が身を潜めるのに選んだのは、奥多摩の山奥だ。詳しい地名は分からない。人がいないという条件に合致するのは、山奥だろうという考えから我武者羅にこの地に飛び込んできたのである。大体の位置としては、山梨県との県境に当たるだろうか。どこかの山の頂上に腰を落ち着けている。

 人の手の入っていない、神聖な山の空気は、都会のそれと大きく異なっている。

 この壮大な自然は、なるほど畏怖を抱かせるに相応しい風格を持っている。

「まさか、またあなたに情けをかけられるとはな」

 ここに到着した時点で、アテナはひどく衰弱していた。

 今や身体を起こすことすらもできない状況だ。

 周りは木々に囲まれ、地面は湿っている。さすがに、少女の姿をしたアテナをそのまま横たえるのは、良心が痛むので、いろいろ考えた結果、護堂が膝枕をする形になっていた。

「別に情けをかけたわけじゃない。一緒に戦った仲間を見捨てたら寝覚めが悪いだろう」

「仲間だと? 卦体なことを言う。あなたは神殺しで妾は『まつろわぬ神』だぞ?」

「それがどうしたってんだよ。大体、カンピオーネ同士が仲間ってこともないし、神様同士が仲間ってこともないだろ。俺は他のカンピオーネと共闘したこともあれば、戦ったこともある。あなただって、ペルセウスと組んだし、今はランスロットと敵対している。だったら、神様とか神殺しとか、そんなことで分ける意味がないんじゃないか? 少なくとも、俺は同じ敵に一緒に挑んだヤツは仲間だと思ってるぞ」

「なるほどな……やはり、あなたは他の神殺しと少し違うところがあるようだな。いや、己の信ずるところを神にまで強要しようとするところは神殺しならではか」

 嫌な言い回しをするな、と護堂は苦笑した。

 何にせよ、弱りきったアテナでは凄んだところで脅威は感じない。ただの人間が相手であれば、この状態でも傅かせることは可能だろうが、カンピオーネには通じない。

「それで、回復しそうか?」

 護堂は尋ねた。

 アテナは戦力として数えておきたい。ランスロットがこちらに現れるまでに、回復して欲しい。

「いや、それは不可能だな」

 だが、そんな護堂の期待をアテナは自ら裏切った。

「どういうことだ?」

「あなたも察しが悪いな。あの聖杯が、敵の手中に落ちた時点で気付いても良かったのだがな。あの婢女め。再び妾と聖杯を繋ぎおった。妾の神力は、今、聖杯に削り取られているのだよ」

「な、何でそれを早く言わないんだよ!?」

 護堂は叫んだ。

 地母神を殺し、その呪力を根こそぎ奪い取る聖杯から逃れる方法は、アテナにはない。唯一、護堂の破魔の剣がそれを可能とするが、今は使い物にならない。

 護堂自身の権能を天叢雲剣に吸収させるのは、大きな負担になるのだ。連続使用は控えねばならない。斉天大聖のときに天叢雲剣にかかった負担は、しばらくの間、剣が使えなくなるほどのものだった。せめて、後一日は置いておきたいところである。

 無理をさせれば、今後の戦いに響く。しかし、ここでアテナを見捨てるわけには行かない。

 護堂の葛藤を読み取ったのか、アテナは笑みを浮かべた。

「蒙昧な。立てぬ兵は捨て置くのが、戦の道理。屍は踏み越えてゆくものぞ」

「まだ、死んでないだろう。縁起の悪いことを言うな」

「事実から目を背けるでない。妾は聖杯によって死に臨んでおる。それは否定できぬ。それに、二度も三度もあなたに借りを作るのは妾の矜持に反する」

 聖杯からの解放とこの逃亡で、二度、アテナは護堂に救われている。これ以上、護堂に情けをかけられるのは不愉快だというのだろう。

「だったら、このまま聖杯に食い潰されていいってのかよ」

「いい訳があるか。慮外者め。あの婢女と軍神には、相応の報いを与えねばならぬ」

 そう言って、アテナはゆっくりと上体を起こした。片腕を失いながら、それが彼女の美しさを損なうことに繋がらない。むしろ、その不完全性が、逆説的に完全性を齎しているかのような錯覚すらも覚える。

 アテナは、護堂の首に片腕を回し、身体を引きずりながら持ち上げようとする。

 護堂は、そんなアテナの腰に手を添えて、身体を支えてやる。

「今の妾には、軍神を打倒する力はもはや残っておらぬ。かといって聖杯に力をくれてやるのも癪に障る。あなたに妾の力を与えることで、意趣返しとすることとした。心して受け取るがいい」

 そして、アテナは護堂と唇を重ねた。

 護堂の中に、アテナの力が入り込んでくる。

 これは、権能なのだろうか。

「あの軍神の剣を破る術とあなたを庇護し、その前途を祝福(じゅそ)する力を授ける……ん……妾の名代として、軍神を討ち果たすのだ」

 ささめきながら、アテナは護堂の唇を求めた。

 自分の身体を呪力に変換し、護堂に流し込む。文字通り、命を分け与える所業である。己のすべてを捧げる行為に没頭する。互いに舌を絡め合い、唾液を啜る。アテナの小さな舌は蛇のように蠢き、護堂の口内を嬲るが、護堂も負けじと反撃する。それは、相手を屈服させんとする、ある種の闘争であった。口の端から唾液が溢れ出て、顎まで線を引く。

 アテナは、唇を離し、微笑んだ。

「妾の中の聖杯が、あの軍神を呼び寄せたようだ。そう時を置かずに現れるであろう」

 アテナの身体が透けていく。黄金色の呪力の粉を風に乗せ、その存在を薄めていく。

 それでも、アテナは笑顔だった。

「ふふふ。かような仕儀となったが、これはこれで面白い。未だかつて、アテナの加護を受けた神殺しはおらぬからな。妾が加護するに値する戦士として勇名を馳せるがいい」

 アテナは、その言葉を最後に世界から消えた。

「ああ、やってやるよ。やってやるさ」

 護堂は逝ったアテナに宣言するように呟いた。

 巨大な存在感を有していたアテナが消えたことで、世界はその分だけ広がったように思えた。

「このような仕儀になるとは思わなかった、か。それはこっちの台詞だっての」

 女神アテナとの付き合いは、それほど深いわけではない。

 触れ合った時間は、全部合わせても一日に届かないだろうし、その半分を敵として過ごしていた。それでも、ランスロットという強敵を前にして矛を揃えて戦ったからには仲間だと思えたし、その仲間の死に対して何も思わないわけにはいかなかった。

 護堂はキッと北の空を見る。

 白銀に輝く流れ星が、夜空を切り裂いて飛んでいるのが良く見えた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

「アテナは逝ったか」

 聞くまでもないことだろう。

 ランスロットは、グィネヴィアからアテナが消滅したことを伝えられていたはずである。聖杯を管理するグィネヴィアには、聖杯と繋がったアテナの死は手に取るように分かるからだ。

「ああ。自分の名代としてあんたを倒せってさ」

「ほう、それは恐ろしいな」

 恐怖した様子などない。

 ただ、護堂の会話に合わせているだけだ。

「あんた、なんで俺を追ってきた?」

 護堂は尋ねた。

 聖杯の回収はすでに終わっており、アテナは死を待つのみ。ランスロットは深手を負い、連戦に耐えられる身体ではないはずだ。合理的に考えるのであれば、ここで撤退し、体勢を立て直すべきだろう。

「ふ、今さらそれを余に尋ねるか」

「いや、忘れてくれ」

 満身創痍。跨る馬も、限界に近い。動けるのが奇跡と言えるだろう。それなのにわざわざ護堂を追ってきた。《鋼》の性がより強くなっている。中途半端な神から、『まつろわぬ神』へ、変貌しようとしているのだ。

 だからこそ、護堂に逃げられたままにしておけなかったのだ。ランスロットは、戦いを求める心のままに、護堂に勝負を挑むつもりでいる。

「実を言うと、卿との戦いを愛し子は快く思っていないのだ。だがな、せっかくの聖剣をただの一振りだけで終いにしてしまうのも心苦しい。勝敗を明確にせねば、必勝の剣の威光も霞むだろう」

 護堂と聖剣のどちらが強いのか。それをはっきりさせたい。強弱を明確化し、曖昧なまま勝負を終えたくないというのが、この軍神のポリシーということだろう。

「故に、余は卿に一撃をくれてやろうと思うのだ。この一撃を卿が凌げば、余は身を引き、次ぎの機会を待とう。余に主の剣を使いこなす力がなかったというだけのことだからな」

 ランスロットは、白銀の刃を振りかざす。

 槍の神に合わせて聖剣の刃を槍の穂先としたものだが、威力も効果もオリジナルと寸分と違わない。さすがに、最強の《鋼》に随従しただけのことはある。

 他人の権能を、《鋼》という共通項だけで再現するのはさすがにやり過ぎな気もするが、現実に起きている事実は如何ともし難い。

「いいぜ」

 護堂はランスロットの挑戦を受ける。

「あんたに次があればな」

「む」

 ランスロットに正面から対峙する護堂は、夜の闇のような漆黒の刀身を持つ太刀を構えた。

 天地を斬り裂くランスロットの剣に対し、護堂の剣は天地開闢。始まりの闇を表すもの。アテナが神剣を解析し、己の知恵と命で再現した創世の剣だ。

 地母神が命を賭して生み出した権能。その在り方は、聖杯にも酷似している。

「アテナが残した一撃だ。覚悟しやがれ!」

「女神から加護を賜ったか。やはり、卿は侮れんな!」

 心底愉快そうに、ランスロットは笑う。

 強敵と認識されたのだろうか。護堂にはどうでもいいことだった。

 護堂とランスロットは、同時に剣の力を解放した。

 護堂の太刀からは、漆黒の闇が巨大な球となって現れた。局所的なブラックホールを生み出し、万物を吸収しようとする。その闇に、ランスロットの白が喰らいかかる。膨大な白のエネルギーが、護堂の黒を塗りつぶそうとする。

「ぐ、く、なろッ」

 護堂はありったけの呪力を剣に込める。

 ランスロットの力に負けないように、全力で力を振り絞った。

『何をしておる、草薙護堂。力の使い方が雑だぞ』

 脳裏に、有り得ない声が響いた。

 なんと、アテナの声なのだ。さすがに護堂は驚いた。

「な、どういうッ?」

『細かいことは後にせよ。今は、目の前のこと集中するのだ』

 アテナにそう言われたときには、護堂の身体は数メートルほども押し下げられていた。ランスロット自身の呪力は枯渇していても、聖杯のバックアップがあるために聖剣の力は衰えることを知らない。

 このままでは押し負ける。

 そのとき、脳裏に聖句が浮かんだ。

「瞳輝く女神の祝福よ。我を勝利に導き給え」

 言葉にした瞬間に、身体に力が溢れてきた。

 大地に接する両足から、呪力が流れ込んできているのだ。

『ヘラクレス、ベレロポーン、ペルセウス、オデュッセウスにアキレウス……妾は戦う者を守護し、英雄へと導く神。あなたに勝利への道筋を示そうぞ』

 アテナから得た権能を使ったときから、身体中の怪我が消えてなくなった。信じられないほどに集中力が増しており、身体の内側から力が湧き出てくる。護堂はかつてないほどに絶好調だった。

『力を分散してはならぬ。剣は剣として使え。研ぎ澄まされた刃のように、斬り裂くのだ』

 護堂は頷いて、重力球に呪力を注ぐ。

 重力球は、太刀の姿に形を変えた。四方八方に伸ばしていた重力の手がなくなったことで、山から削り取られ、宙を彷徨っていた無数の瓦礫が地面に落ちた。刃の部分だけに重力を集中する。

「なんだと、これは!?」

 ランスロットが驚愕する。

 魔王殲滅の光が、左右に分かれてあらぬ方向に向かっていく。その中央を、斬り裂いて進む漆黒の刃。

「いっけエエエエエエ!!」

 そして、護堂はついに巨大な刃を振り下ろした。

 大地が裂け、刃に触れたところは容赦なく闇に吸い込まれていく。白き極光は、消滅し、世界は再び闇に閉ざされた。

 後に残されたのは、三角柱を横に倒したような形の異様な断層だけである。

「なんと、恐ろしい剣よ。今の余では分が悪いか」

「しぶといな。倒したかと思ったんだけどよ」

「うむ、余も身を翻すのが僅かでも遅れれば死んでいただろう。ふふふ、あの捻くれ者を相手にしていては味わうことの出来ない胸躍る一撃であった。さて、余は見ての通り満身創痍。卿もまた限界が近いようだ。無念であるが、決着はまたの機会に譲るしかないようだな」

 そう言うとランスロットの姿が薄れていった。身体を霧に変え、世界に溶けて消える。

「器用なヤツだ」

 ランスロットが消え、奥多摩の山奥に取り残された護堂。一番近い人里までどれくらいあるのだろうか。切り立った山に、縦横無尽に蔓延った木々と雑草。秋とはいえ、歩きにくさに変わりはない。とはいえ、帰宅手段に関しては心配する必要はない。権能を使えばすぐに帰ることができる。それに、迎えに来てもらうよりも、神速で移動したほうが早い。

 そう思って、土雷神の化身を使おうとしたそのときだった。

 全身が鉄になってしまったかのように重い。倦怠感が押し寄せてきて、崩れ落ちるように倒れた。

「な、んだ?」

 柔らかい落ち葉の上にうつ伏せになりながら、護堂は呻いた。

『無理が祟ったのだ。妾の加護を、後先考えずに使うからそうなる』

「最初に言え……」

『教授するのはケイローンの役目よ。妾は道を示すのみ。進むのはあなた自身よ』

「ほんとに人任せかよ」

『妾もしばし眠ろう。そろそろ権能の効果が消える頃合だ』

 それ以来、アテナの声はぱったりと聞こえなくなった。

 アテナの加護。新たな権能と言えばいいのか。今までの権能とは毛色が違う特殊なもののようだ。ともあれ、敵は撃退した。今は休息が必要だ。

 護堂は睡魔に任せて、深い眠りに就いた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 グィネヴィアの機嫌はよろしくなかった。

 ランスロットが、必要もないのにカンピオーネを追いかけて行った挙句、敗北に近い引き分けという結果に終わったからだ。

 アテナが死に、聖杯が手元に戻ってきた時点で深追いする必要はまったくなかった。

 ランスロットが《鋼》の軍神である、と長い付き合いだから重々理解しているが、それでも戦いを求めてさすらう性に振り回されるのは良い気分ではない。特に、捜し求めた主が眠るであろう極東の島国では、細心の注意を払った行動が必要となるのだから、ランスロットには万全の状態を維持してもらいたいのだ。

 重傷と言っても過言ではない身体で、カンピオーネと雌雄を決しようとするなど、正気の沙汰ではない。

「ははは、まあ、そう言うな。愛し子よ」

 グィネヴィアが多少強く物を言ったところで、この軍神は意に介さない。

 それに、グィネヴィアもランスロットにお願いすることはできるが、命令することはできない。そもそも、神祖と軍神では明らかに軍神のほうが格上だ。それを、ランスロットの善意から『まつろわぬ神』でも『真なる神』でもない中途半端な状態にしてグィネヴィアを守る術をかけさせてもらっているのだ。

 その術も、そろそろ効き目がなくなってきた頃合だ。かけなおすことはできず、あと数ヶ月もすれば、ランスロットは『まつろわぬ神』となるだろう。そうなれば、この関係も終わりだ。護堂の他、アレクサンドルまで敵に回したグィネヴィアは、単体で身を守る術がない。だからこそ、確実性を求めているのだ。一度主が舞い戻れば、護堂もアレクサンドルも物の数にも入らない。魔王殺しの《鋼》がこの世に顕現するか否かが、グィネヴィアの今後を左右する。

「しかしな、愛し子よ」

「なんでしょう?」

「いや、そなたも苦戦を強いられたようではないか。草薙護堂の配下はそれほどのものであったか?」

 グィネヴィアは、問われて沈黙する。

 神祖たるグィネヴィアにとっては、自分たちの遠い末に当たる媛巫女に後れを取ったことが恥辱以外の何物でもない。それを指摘されたので、言葉を失ったのだ。

「少し油断しただけです」

 プイ、と他所を向く。

 次に戦えば、問題なく勝利できる。確かに、神憑りの巫女は予想以上に強力だった。呪力を用いない銃火器を使われたことも想定外。だが、そのどちらも次に戦えば対処は可能なものでしかない。

「そなたが気にかけていたあの巫女はどうであった?」

「あの娘ですか。そうですね――――憐れな娘です。あの様子を見るに、己のことを何も知らないのでしょう。グィネヴィアは、あの娘を直に見て、理解しました。あれは、この世にあってはならない者です」

「ふむ。それほどか」

「はい。あれは、我ら《蛇》を愚弄する存在。あの娘に罪はなくとも、その在り方には眉を顰めますわ」

 グィネヴィアは憐憫と不満が入り混じった複雑な心境を吐露し、

「ええ、本当に。あそこまで色濃い反魂香。誰の仕業かわかりませんけれど、あれは、間違いなく神の領域を侵す大罪ですわ」

 そう吐き捨てた。



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七十三話

 人跡未踏の奥多摩の山中に、大断層を形成する。

 ランスロットの戦いの結果は、この上ない自然破壊というものであった。

 色濃い自然が残る山々を深く傷つけたことは、聊か問題がある。しかし、同規模の破壊が都内で起こっていたらと考えると、この程度の被害で済んでよかったとするべきだろうか。

 『まつろわぬ神』がその気になれば、都市の一つや二つは軽く破壊できる。

 そこまでの力を振るう機会がないというだけで、およそすべての神格にこうした危険性があるのだ。無論、同様の力を持つカンピオーネも、人類からすれば大いなる災厄を引き起こす可能性があるという時点で神々と変わらない。

 カンピオーネが持つ力は強大極まりないもので、人間では彼らをコントロールすることはできない。しかし、その一方で、彼らを頼らなければならない場面も多々ある。

 自分ではどうにもならないモノにすがるとき、それは隷属に近い力関係となる。

 決して対等にはならない。己の命運を明け渡す覚悟が問われるのである。

 正史編纂委員会の次期総裁の座が確約されている沙耶宮馨は、だからこそ頭を悩ませていた。

 東京都在住の草薙護堂は、世界に七人しかいないカンピオーネの一人だ。

 まだカンピオーネになってから半年と少ししか経っていない新参者ながら、歴戦の猛者たちと共闘しあるいは打ち倒してきた。権能の数も確認されているだけで四つ。ランスロット戦で、さらに新たな力を得た可能性もある。

 すると、四年前にカンピオーネになったサルバトーレ・ドニよりも権能の数では上回ってしまう。

 尋常ならざる成長速度だ。もちろん、運もあるのだろうし、カンピオーネからすれば権能の数は重要ではないというが、ただの人である馨には、権能の数や効果で実力を推察するしかない。

「さて、どうしたものか」

 彼女にしては珍しく、長時間黙考を続けている。

 大抵の問題に関しては、即断即決ができるほどに優秀な馨ですら、この問題を早々に決断することができない。リスクがあまりにも大きいからだ。組織を思うなら、熟考に熟考を重ねるべきなのだが――――組織とかどうでもいいからなあ――――という思いも内心には存在する。

 馨が悩んでいるのは、護堂との関係についてだ。

 今までは、付かず離れずの距離を維持しつつ、護堂との私的な友人を介して組織が関わっているという状況であったし、その友人が後々さらに深い関係になってくれれば、正史編纂委員会は護堂の下に就くことなく、その力を借りることができると踏んでいた。虎の意を借る狐ではないが、非常に都合の良い関係を維持していたのだ。

 それも、そろそろ見直さねばならない時期にある。

 護堂は十二分に力を付けた。

 以前までの護堂であれば、成長の度合いを測るという目的で距離を取ることもできたが、世界的にも名を知られた今、うかうかしていては他の勢力に先を越される可能性が出てきている。

 幸い、護堂と近しい人物――――リリアナ・クラニチャールやエリカ・ブランデッリのような他国籍の呪術師など――――は、既に他のカンピオーネの影響下にあり、今すぐ護堂に鞍替えすることは考えられないが、他の勢力が出てくること自体は否定できない。

 ゴールデンウィークの一件で組織の中の膿はほぼ出し切ったが、建て直しには時間が必要である。そして、その解れが、日本国内にある正史編纂委員会に属さない呪術師たちの活動を活発化させていることにも繋がっている。

 近日中に判断するべきだ。

 正史編纂委員会が、護堂の下に就くのか、それとも距離を取るのか。

 どちらにしてもリスクはある。特に前者は、老人たちが不快感を示すに違いない。彼らは、血統と歴史を重んじる。カンピオーネであっても、トップに据えるのは感情的になってしまうことだろう。

 

 ――――まあ、そうなったらそうなったで、また膿を出せばいいか。

 

 不穏なことは口に出さない。

 壁に耳あり障子に目あり。どこで誰に聞かれているか分からないから。

 馨は、努めて普段通りの表情を作り、職場の廊下を歩いていく。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 ランスロット戦を終えた護堂は、都内の病院で目を覚ました。

 真っ白な病室は、ヴォバン侯爵と戦ったとき以来なので久しぶりだ。消毒液の独特な匂いが、清潔感と非日常を感じさせる。

 護堂は、身体を起こした。

 自分の身体に目立った外傷がないことを確認し、時計に目を向ける。

 時刻は、午前十一時。

 昼前か。そう思ったとき、腹の虫が鳴った。

 激しい戦いの後で、エネルギーが不足しているのだ。ただでさえ朝を抜いているのだ。身体の治癒が済んでも、これでは体調を万全のものとすることはできない。

 まだ敵が生きていて、自分は病院送りだ。

 そうなってもなお、自分の身体は誰に憚ることなく食事を要求している。生物として当たり前と言えば当たり前だが、緊張感に欠けるのはどうしたものか。

 護堂は苦笑しつつ、再び枕に頭を預けた。

 

  

 護堂が退院したのは、その半日後のことである。

 日は既に没しつつある。

 丸一日連絡がなかった上に、病院に運び込まれたことについて、静花は心配しつつ怒り心頭と言った具合だった。

 根津の自宅まで、一時間ほど掛かってしまうが、その時間内にうまく静花を説得する言葉を思いつくことはないだろうと半ば諦め、護堂は病院を後にした。

 

 

 今、護堂が抱えている問題は三つ。

 第一に、宿敵とも言える蘆屋道満。

 判明しているのは容姿のみ。目的も能力も詳しいことは分かっていないながらも、存在は確実という厄介な神様もどき。

 第二に、ランスロットとグィネヴィア。

 最強の《鋼》の復活はなんとしても阻止したい。日本で暴れている時点で護堂は倒すべき相手と認識しているが、アレクサンドル・ガスコインの動向もあるため未だ予断を許さない状況だ。

 そして、第三に――――

「いい加減、ちゃんと説明してよ!」

 妹・草薙静花への対応である。

「昨日の夜にどこにいて、どうして病院に運び込まれたのか」

 帰宅して、落ち着いたところに静花がやってきて言ったのだ。

 護堂の部屋のベッドに腰掛け、足を組んで睨んでくる。

 もともとつり眼がちの勝気な少女なので、似合っているのだが、小柄でまだまだ幼いところがあるので、威圧感は皆無だ。

 だが、護堂が言葉に詰まるのは、なんといっても説明できない事態に遭遇していたからである。

 護堂がどう説明したらいいものか、と悩んでいるところに祖父が顔を出した。

「おや、まだやっていたのかい?」

 ひょうきんな祖父は、護堂のことを心配しつつも放任してくれている。

 護堂が『まつろわぬ神』との戦いをし続けていられるのも、祖父が護堂に深く干渉しないようにしてくれているからである。

「ほら、静花。護堂も困っているだろう。そのくらいにしてあげなさい」

「でも、病院に行くまでに何があったのかも言えないなんておかしいよ。せめて、それくらい言ってくれてもいいじゃない」

「そう言わないの。誰しも人に言えないことはあるからね。僕だって、護堂くらいの頃は無茶したものさ」

「お爺ちゃんと一緒にしちゃダメ! お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだからね!」

 ハッハッハ、と笑う一郎に静花は食って掛かる。

 祖父の武勇伝は、護堂とはまた別の意味で凄まじい。

 後ろから刺されなかったのが不思議というくらいである。

 最近は、護堂も人のことが言えなくなってきた嫌いはあるが、それでも十人近い女性と恋を語らった祖父には及ばない。

「護堂の事情はどうあれ、帰ってきたんだからいいじゃないか。深い詮索はナンセンスだよ」

 一郎は、護堂について問い詰めることはしないようだ。

 静花は納得していないという空気を発していたが、この家の最高権力者がこう言ってしまっては振り上げた拳を引っ込めざるを得ない。

「むうう……ちょっと、まあ、今日のところはこのくらいで見逃してあげる。けどね、これが続くようなら絶対に聞き出すからね!」

「ああ、分かった。覚悟しておくよ」

 護堂の返答を聞いたのかそうでないのか、静花はさっさと踵を返して部屋から出て行った。

「助かったよ、爺ちゃん」

「気にすることはないよ、護堂。ああ、今後は家族に心配をかけないようにね」

 保護者として、しっかりと釘を刺す。

 放任しつつ、見守るというのが彼のスタンス。本当に悪い道に進んでいるのなら、全力でそれを阻むだろう。草薙一郎とはそういう男である。

 護堂の人生経験をすべて合わせても、彼には及ばないのだ。

 一郎からの絶対的な信頼を感じる。だからこそ、護堂もそれにはできるだけ応えたい。

 護堂が頷いたのを見て、一郎は部屋を去って行った。

 今後、カンピオーネとしての活動を続けるに当たり、家族との関係もどうあるかが問われてくるのだ。できれば表面化する前に何とかしたいところだが、それも不可能に近い。

 悩んでも仕方がないか、と護堂は考えるのを止めた。

 答えが出ない問題に、悩みすぎるのは馬鹿らしい。護堂は思考を切り替えて、ベッドに寝そべったのだった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 ランスロットとの戦いが一応の終結を見た翌々日。

 正史編纂委員会に所属する媛巫女として、公務員のような立場にいる晶でも、中学校に通う生徒であることは、同年代の少年少女たちと変わりない。

 仕事や修行のない日は、学校に通い授業に出るのは当たり前のことであり、余程の事情がない限りは欠席は認められない。

 誰が認めないのかというと、組織の上層部にいる者たちだ。

 それは近代化の流れの中で、少女たちの一般教養が必要不可欠になってきたという社会的な意味合いもあり、旧時代的な思想のままでは若年層からの突き上げが厳しいという極めて情けない事情でもあった。

 しかし、それは媛巫女や呪術師たちの中でも平均的なレベルの者たちに限られる話である。

 常に特殊な鍛錬を積んでいなければならない清秋院恵那のような媛巫女は、その限りではない。

 そして、高橋晶という少女は、これといって特殊な鍛錬をする必要はなく、さらにいえば霊視といった、極一般的な媛巫女たちが生まれ持って有する力を持たない点で落ちこぼれである。

 その代わりに、大地との霊的繋がりが異様に強いという身体的特徴があるおかげで媛巫女としての活動が許されているのだが、その力に対して有効な鍛錬法が確立していないため、修行は晶が独学で行うような状態だ。よって、修行によって学校に通えないという言い訳が通用せず、後ろ盾もないため、晶は平日は学校に通うという日々を送っている。

 学校が嫌いというわけではないが、勉強が得意ではない上に、呪術業界で必要な知識も身に付けなければならない晶にはそれなりの負担となっているようにも思われる。

 

 日が暮れつつある。

 冬が近づいてきたこの季節。夜闇が押し寄せてくる時間は日増しに早まっている。

 所用を終えた晶は放課後の教室に戻ってきた。扉を開けようとしたとき、中から聞き慣れた少女の声が聞こえてきた。

 草薙静花。

 晶の親友といっても過言ではない少女。

 真面目で気が強く、それでいて高い協調性を持ち、サバサバとしていて話しやすい。グループ化しやすい女子生徒の中で、彼女はどこの派閥にも属さず、グループ間の調整役のような役目をクラス内で担っている。

 それ故に、静花は本人の知らぬ間にクラスカーストのトップに位置づけられている。

 静花を敵に回すことは、自分の仲間以外のすべてを敵に回すことに繋がるからである。

 もっとも、クラスが打算で連携しているわけではなく、感覚的にそう理解しているだけで、グループ同士の仲が悪いというわけではない。

 もしも、グループ間の仲が悪ければ、このクラスはそれこそ地獄のような様相を呈することだろう。

 明るく、顔立ちも良い彼女は、男子からも密かな人気がある。

 

 晶は扉の前で立ち止まり、教室内の様子を窺った。

 すぐに中に入らなかったのは、静花と一緒に男子生徒がいたからである。

 申し訳ないとは思いながらも、晶は興味の赴くままに教室内に意識を向ける。

 だが、それも長くは続かなかった。

 どうやら、晶がこの場にきた時点で、佳境を通り過ぎていたらしい。

 静花と男子生徒の会話はすでに途切れており、なんともいえない雰囲気が漂っていた。そして、その男子生徒は自分のカバンを肩に掛け、晶がいる扉まで歩いてくる。

「うわ、ヤバッ」

 晶は、慌てて掃除用具を入れるロッカーの影に身を隠した。

 教室から出てきた男子生徒は、晶が隠れるロッカーとは逆方向に去って行った。

 男子生徒が廊下を曲がったところで、晶はロッカーの影から出て教室に入った。

「あれ、晶ちゃん。先生の用事、終わったんだ」

「うん。まあ、話を聞いただけだからね。陸上部に入らないかって」

 晶の身体能力は呪力を使わなくても平均を大きく上回っている。短距離走では学年二位。長距離走ともなると男子学生のタイムを含めてダントツの一位である。

「体育の成績良いからねー」

 異様とも思えるそのタイムに、疑問の声を発する教員もいた。しかし、それも体育での晶の動きを見れば、真実であると認めざるをえず、その晶が帰宅部に属していることがもったいないという話になったわけだ。

 学校側としては、より高い能力を持つ選手を育成することで知名度を高めたいという思い以上に、生徒の才能を正しく発揮できる環境を整えたいという善意からの申し出である。しかし、大会であるとか運動であるとか、その程度のことに興味はない晶にしてみればまったく迷惑な勧誘でしかない。

 晶を誘った陸上部の顧問も、けんもほろろ、取り付く島もないという晶にこの日の勧誘を諦めてしまった。

「中三の秋に誘われてもね」

「うち、中高一貫だから。今から入っても、高校も持ち上がりで続けられるじゃん」

 静花がそう言うと、晶はなるほど、と頷いた。

 一般の中学校であれば、この時期から部活動などありえない。大会は終わっていて、それこそ全国大会に残っているような強豪チーム以外の三年生は引退している。だが、中高一貫校であれば、むしろ三年後期は高校生への過渡期となり、四月からの本格的な高校デビューに向けた独自のカリキュラムを組んだ練習ができるというわけである。

「で、断っちゃったんだ」

「陸上、興味ないし」

 それに、忙しい。

 忙しいと思っていると、実際にはそうでなくても忙しく思えてしまうものだが、ランスロットの行動次第では、即座に動かなくてはならないのだから気が急くのも仕方がない。

 もちろん、静花はそんな晶の事情は知らない。だから、ただもったいないな、と思うだけである。

「断るといえば、静花ちゃんこそ、さっきのは告白じゃないの?」 

「ちょ、見てたの!?」

「最後だけ。ほんのちょっと。ちなみに何を話してたのかは聞こえなかった、というか話し終わってからしか見てない」

「見られてるってだけでも恥ずかしいんだって!」

 静花は、西日でもそれと分かるくらいに顔を赤くして呻いた。

「ふぅん。まあ、その気持ちは分かるけど」

 とは言いつつも、晶の顔はにやけている。

「で、受けたの?」

「聞くの!?」

「そりゃそうだよ」

「気持ち分かるって言ったのに」

「それはそれ」

 同情はするが、興味に任せる気持ちは抑えない。

 晶もまた、一女子中学生として、友人の恋バナに食い付いたのだ。

 静花はため息をつき、

「断ったよ。恋愛、興味ないもん」

 先ほどの晶と同じような回答だった。

「えー」

「『断るといえば』でこの話に入ったのになんで残念そうにするのか」

「それはそれ」

 どうにもならない女の性か。

 実際に付き合っていたらどういう反応をすればいいのか。晶には彼氏持ちの友人がいないので、その話をどう発展させるべきか分からない。

 それに、恋愛に興味がないという静花のスタンスと、今の晶のスタンスは正反対だ。興味があるからこそ、静花の件にも食い付いたのである。

「もう、下校時刻になるし帰るよ」

 静花はさっさと荷物をまとめて教室を後にしようとする。

「あ、ちょっと待って」

 晶は、自分の机からカバンをひったくるようにして静花の後を追った。

 

 

 

 晶の家は、草薙家に近い高層マンションにある。

 草薙家を学校と挟む位置にあるので、登下校はほぼ静花と一緒になる。

 すっかりと日が暮れて、人工の光でうっすらと白くなった夜闇を眺めて歩く。

 商店街も、買い物客が少なくなってきた。家々の明かりが道を照らす。店のシャッターを閉める老婆がいて、歩道に積もった落ち葉を掃く男性がいる。

 それぞれが、その日の仕事を切り上げて家に戻っていくのを眺めていると、それだけで日常を感じることができる。

 当たり前の光景。

 しかし、『まつろわぬ神』の襲来などで、いとも容易く壊れてしまうものでもある。

「どうしたの?」

 と、静花は問う。

「なんでもない」

 と、晶は答えた。

 晶はふと、立ち止まった。そこにあるのは、小さな公園。商店街の空いたスペースに申し訳程度に用意した砂場しかないようなこじんまりとしたものである。

「ああ、そういえば」

 通り過ぎてしまったが、晶にとっていろいろな思いを巡らせる場所も公園である。唐突に、小さな公園を見て思い出してしまった。

「公園、がどうかしたの?」

「ん。えっと、ここに来る前に、大きめの公園があったよね?」

「うん? あったけど。それがどうかしたの?」

「いや、大したことじゃないんだけど。……この前あそこで先輩に告ったんだよねー」

 結果としてはダメだったものの、それでも一歩前進したようなものだった。護堂の考えを知ることができ、自分の想いを伝えることもできた。失敗の原因は相手の都合によるもので、相手に意中の女性がいるわけでもなければ、自分を嫌っているというわけでもない。それが分かっただけでも、収穫はあった。少なくとも、まだまだチャンスはいくらでもあるのだ。

 そのように自分を奮い立たせている晶であり、この宣言もある意味では己の気持ちを明確にしていくための儀式である。

 殊に静花に告げるのは、静花がブラコンであると理解した上での行動である。

「………は?」

 そして、衝撃の事実を告げられた静花はそこで放心状態となった。

 晶が自分の兄に対して非常に懐いていることは承知していたし、それが単なる先輩後輩の仲から来るものではないことも察していた。

 友人が自分の兄に告白したことをどう受け入れていいのか分からなかった静花は、そこで思考をストップすることとなったのだ。

「こ、こここ告った。告ったって、告白したの!?」

「うん」

「ど、どうして!? だって、あのお兄ちゃんだよ!?」

「いや、あのって」

「ちょっと見てくれがよくて勉強できて運動もできて面倒見がいいってだけのあのお兄ちゃんだよ!?」

「あとそこに優しくて強いも入れたほうがいいかもね」

 それだけ揃っていれば、文句を付けるところもない気がする。静花の護堂評があながち間違いじゃないということは、晶でも知っている。その点に関しては、中等部の女子でも話題に挙がるからである。つまり、これは身内贔屓ではないということだ。

 本当に厄介。

 現状では祐理と恵那が晶の乗り越えるべき壁であるが、潜在的な人気から考えるに、不特定多数がここに加わってくるのは必至である。

 カンピオーネという肩書きだけでも、全国各地から立候補者がいるのだ。優良物件の中でも最高峰であろう。

 もちろん、晶が惹かれているのは、そのような肩書きや能力ではない。

 詳しく説明しろと言われても、不可能だ。助けられたこともあるし、戦っている姿を見たこともある。しかし、それがすべてではない。護堂と触れ合い、言葉を交わす中で、自然と彼の存在が心に入ってきたのであり、『なぜ、好きなのか』とか『どこが好きなのか』と言った質問をされても、言葉にできるものではなかった。

 なんとなく、というのが、一番しっくりくる言い回しなのだが、そう言ってしまうと軽い女のようで嫌だ。

 そもそも、微妙で繊細な心の機微は言葉にできるものではない。

 だから、全体の空気感に惹かれるという答えは、的を射ているように思う。それは、総括的であり、曖昧模糊とした掴みどころのないもの。だからこそ、自分でも把握できず、持て余した気持ちに振り回されるのだ。

 ゆえにこそ、晶は思う。

 言葉にできる好意は紛い物だと。

「まあ、結局ダメだったんだけどね」

「え……そ、そうなの」

「うん。でも、誰か好きな人がいるってわけでもなくて、単に先輩が恋愛について考えられないってだけみたい……ああ、兄妹で似たような恋愛観だね」

 からからと笑う晶に、静花はおずおずと尋ねる。

「それで、晶ちゃんはこれからどうするの?」

「そうだね。たぶん、これまで通りなんじゃないかな。チャンスはあるし、芽が出ないってわけじゃないはずだから」

 晶は自分が護堂にとって最も身近な異性の一人であると自覚している。嫌われていなければ、十二分に機会はある。

「前向きだね」

「まあ、後ろ向いてても仕方ないから」

 晶はそう言ってはにかむ。

「ということでお兄さんをください」

「え、やだよ」

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「えッ、ここは友だちを応援するとかそういう場面じゃないの? 友だちだよね?」

「それはそれ」

「そんなブーメランいらないからッ」

 



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七十四話

 アレクサンドル・ガスコイン。

 コーンウォールで育った彼は、カンピオーネとなる前から魔術を齧っていた。決して育ちがいいというわけではなく、その魔術知識も、手品の代用になる程度でしかなかった。

 彼に魔術を教えたのは、アマチュアオカルト研究家の父である。

 研究にのめりこむあまり、母は父を見限り家を出て行った。

 そういった複雑な家庭事情が、屈折した人格を形成した、という評価はアレクサンドルの機嫌を損ねるだけだろう。彼は、その日々に退屈していても、否定的に振り返ることはないのだから。

 アレクサンドルが神殺しを成功させたのは十六歳のときだ。

 瀕死の父が残した暗号を巡る冒険。古の修道士が、カンピオーネを生み出すために設計し、作りそこなった迷宮。数多の罠を潜り抜け、最奥部で待ち構えていた堕天使レミエルを討ち果たしたことで、彼は歴史の裏に名を刻みつけた。

 カンピオーネとなって以降、欧州を中心にあらゆるトラブルを引き起こし、巻き込まれてきた。

 その原因となっているのが、興味本位に事件に首を突っ込む腰の軽さと、知的好奇心を満たすために手段を選ばない強引さである。

 弱き者、市井の一般人を相手にするときは、相応の対価を支払ったりもするが、対象となるのが魔術関係者の所有物であったりしたときには、神速の権能を以てアイテムを強奪していくというネズミ小僧のような所業を繰り返している。

 そんなアレクサンドルの研究テーマは、現在凡そ定まっている。

 『魔導の聖杯(グラアル)』の秘密を解き明かすこと。

 奇しくもそれは、父が生涯を賭けて追い求めた研究テーマと同一のものだった。

 

 そして、アレクサンドルは少なくとも父以上に真実に近づいている。そういう確信があった。何せ、本物の聖杯をこの目で見ているのだ。その所有者とは聖杯のみならず、その他様々な場面で熾烈な戦いを繰り広げてきた。

 アレクサンドルの部下や知り合いの中には、その戦いの中で命を失った者も少なくない。

 聖杯の謎を解き明かすこと、そして長年の因縁にけりをつけること。この内、後者を優先的に片付けるべきであるとアレクサンドルは考えている。

 神祖グィネヴィアが聖杯を抱え込んでいる以上は、彼女をどうにかしなくては聖杯の謎は解き明かせない。

 仲間の仇を取る、というような高尚で酔狂なことを言うつもりはないが、そろそろ決着の時を迎えてもおかしくないまでに、互いの関係は悪化している。

 拠点と定めたのは日本の中華街にあるマンションの一室で、イスに座ったアレクサンドルは手の中で鉛筆大の棒を玩ぶ。

 日本のとある海岸に封印されていた国生みの伝説を持つ神具である。

 天之逆鉾と呼ばれる物で、その伝説は海洋民族系の伝説の特徴を多分に含んでいる。

 日本のカンピオーネがランスロットと戦っている間に、管理を委託されていた凄腕の呪術師から盗んできた物で、要するに盗品である。

 

 神具の使用には様々な条件が必要だ。

 場合によっては、使用者が使いこなせず死んでしまうこともある。しかし、カンピオーネであるアレクサンドルはただの人間よりも神具からのフィードバックには強い。さらに、この神具は人間であっても条件さえ整えれば使用可能という良心的な代物である。

「奇妙と言えば奇妙だがな……」

 神具の使用条件は《蛇》の神格を有すること。

 アレクサンドルはその使用条件を満たすために、わざわざロサンゼルスに渡り、天使の骸や竜骨と呼ばれ信仰を集める神の亡骸を入手したのだ。

 地母神の亡骸は、その神が持っていた水と大地の神気を帯びている。

 これに、天之逆鉾が反応して一メートル台の棹状に変わるのだ。こうして初めて使えるようになるのだが、

「あの娘、一体何者だ?」

 地母神の神気でなければ反応しないはずの天之逆鉾が、人間の少女に反応したのをアレクサンドルは盗み見ていた。

 性別は関係ない。それは、その場にいた他の少女たちも触れていたから分かる。アレクサンドルが行った実験でも、竜骨にしか反応を示していない。

「つまり、あの娘が竜骨の類を所持していたというのが妥当な推測なのだろうがな」

 日本の呪術組織の中でも権威を有する媛巫女という一団。いや、肩書きか。その役回りはシャーマンであり、腐れ縁の女性と同じ神祖を祖とする血筋の少女たちである。

 そして、カンピオーネの傍にいるのだから、それなりの物品を所持していても不思議ではない。

 しばらく黙考して、

「まあ、あの娘が神祖だ、などというよりは説得力のある推論だな」

 興味深い事例ではあるが、今はそれどころではない。

 グィネヴィアを叩き潰し、後顧の憂いなく聖杯を探求する。そのために、策を練っている真っ最中である。余計な思索をするべきではない。

 何れにせよ、ネックとなるのは草薙護堂の存在か。

 できることなら接触は控えたいところだが、日本(このくに)で事を起こすのであれば、自ずとぶつかることになるだろう。

 護堂の行動を精査すれば、どれほど易々と面倒事に首を突っ込む性質か分かってしまう。

「気が乗らんが、一言言っておくべきだろうな」

 アテナとまで共闘してみせた胡散臭い協調性に期待して、アレクサンドルはイスから立ち上がった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 万里谷祐理は、日本はおろか世界レベルで高い資質を持つ巫女の一人である。

 一般的に霊視の的中率は十パーセントほどという世界で、彼女は六十パーセント近い的中率を誇っている。儀式を行わなくとも、精神を研ぎ澄まし、神気に触れれば、神々の情報を幽界から引き出すことが可能となるのだ。その力で、草薙護堂の戦闘を陰ながらサポートしてきたというのは、今や呪術業界の誰もが知るところである。

 護堂の名が注目を集めるごとに、その周辺人物への注目度も高まっていく。

 祐理は本人の知らぬ間に、呪術業界の時の人となっていたのである。

 とはいえ、祐理はそういった周囲の視線には基本的に無頓着である。彼女にとっては、当たり前のことを当たり前に積み上げてきただけのことであり、それがどれほど重要であるのかということを理解していない。いや、理解はしているが、それが評価されることだとは思っていない、というほうが正しいか。

 なにせ、万里谷祐理という少女は、あまりに我欲に乏しいのだ。

 自分ではなく相手を立てるという点に特化したような性格は、とにかく自分への評価を相手へのそれと同一視してしまう。

 自分が注目されたとしても、それは護堂や晶の活躍あってこそで、自分の価値が高まっているとは夢にも思わない。

 それは、祐理が周囲との摩擦をそれほど経験していないことも大きい。

 優れた容姿、高い能力、媛巫女を輩出する旧華族の家柄と、祐理が生まれながらに持っているものだけでも大抵の相手は尻込みするだろう。さらに、非の打ち所のない真面目で大人しい性格は、他者と争う原因そのものを打ち消してしまう。

 祐理に突っかかることは自分の負けを認めるようなものなので、多少意地の悪い女子でも彼女だけは敵に回したりはしないのだ。

 これだけを並べ立てると、まるで祐理が箱入のお嬢様のように思えるが、そのような深窓の令嬢では持ち得ない強い芯を彼女は持っている。

 ヴォバン侯爵に誘拐されたのは、若干十一歳の頃である。

 小学校の高学年くらいか。その年代の少女が、死を自覚して他者を思いやる行動を取った。それは、祐理の天性の才能と言っても過言ではない。

 祐理は、自分よりも相手を優先する気質である。

 それは生命の危機という極限の状況であっても変わらず彼女の根幹にあり続けた。

 

 祐理は自室のベッドに腰掛けてため息をついた。

 すぐに我に返り、はしたないと自分を戒める。

 ここ最近、こうしてため息をついては反省する機会が増えた。人と一緒にいるときなどは、そうでもないのだが、こうして一人になると自然とため息が出てしまう。

 向かいの壁際に置いてある姿見に映る自分の顔は、薄らと憂いを帯びているように見える。他人事のようにそう感じたのは、既に思考が纏まっていないからだろうか。

「どうかしたの、お姉ちゃん」

「ひやッ!?」

 祐理は飛び上がらんばかりに驚いた。

「な、ひかり!? いつの間に!?」

「ノックしたのに返事がないから寝てるのかなと思って」

「だからって勝手に入っちゃダメでしょう」

 祐理は悪戯をした妹に諭すような口調で語りかける。とはいえ、ひかりの呼びかけに気付かなかったのだから非は祐理にもある。

「あはは、ごめーん」

 両手を合わせて、ペロっと舌を出す。まるで誠意の感じられない謝罪だ。またしても祐理はため息をつきそうになった。

「それで、何を一人で黄昏れてたの?」

「別に黄昏れてはいないのだけど……」

 できれば誤用である『黄昏れる』ではなく『物思いに耽る』という言い方にして欲しい、という言葉を祐理は呑み込んだ。あまり、細かく指摘するのもよくはないだろう。

「んんー、うっそだー。最近、ちょくちょくため息ついているく・せ・に」

 妙なリズムに乗せて、ひかりは祐理に人差し指を突きつけた。行儀が悪い。ニヤニヤとしているひかりの表情によくないものを感じた祐理は、のけぞるように身を引いた。

「み、見てたの?」

「気付かれてないと思ってたの? お母さんも知っているよ。お父さんくらいじゃないのかな、知らないの」

 男の人だからねー、などと父のことを言うひかり。

「まあ、お母さんはしばらく様子見って感じだけどね。あんまりウジウジしていると何か言ってくるかもしれないけど」

 ウジウジ? 祐理は脳裏に「?」マークを浮かべながら、家族に心配をかけたことを申し訳なく思っていた。

「それで、お姉ちゃん。お兄さまとはどうなったの?」

「は?」

 祐理は、思わず硬直した。

 ひかりが言う「お兄さま」とは、草薙護堂のことだ。

 斉天大聖と戦ったときから、ひかりは護堂とはほとんど会っていない。懐いていたこともあるし、何よりもカンピオーネであるから、彼の近況を知りたいと思うのは不思議ではないが、どうなったとは――――。

「どう、というと?」

 質問の意味が理解できず、祐理は問い返した。

「そりゃ、デートとかさ、キスとかだよ」

「なぁ!?」

 祐理は自分の頬が急速に赤くなっていくのが手に取るように分かってしまった。

「そ、そういうはしたないことを軽々に言ってはいけません」

「またまたー。お姉ちゃんってば、今さら。日光のときにだってしたんでしょ。恵那姉さまが言ってたよ」

「あ、そ、それは止むに止まれぬ事情があったから……それに、そんなことを聞いてどうするの?」

「その言い方はちょっとずるいと思うけど」

 と、ひかりは困ったように頬をかく。

 言外にあなたには関係ないでしょ、と言われたようなものだからだ。

「お姉ちゃんがお兄さまに侍るようになれば、家も関わらずにはいられなくなるって理由じゃダメなの」

 結構切実だと思うけどな、といかにもな理由を告げる。

 実際のところ、祐理が護堂と関係を持つことで万里谷家の家勢は目に見えてというほどではないものの上昇傾向にある。大人の事情というものが横たわっているのであるが、ひかりはそこまで考えて言っているわけではなかった。ただ、真面目な姉には一見もっともらしい理由を述べたほうが、「ただ気になったから」、といったような感情的な理由よりも効果的だと経験から知っていただけである。

「侍るだなんて、わたしと草薙さんはそんなんじゃ……」

「恵那姉さまや晶姉さまもいるし。ねえ、お姉ちゃん」

 ぐぬ、と祐理は言葉に詰まる。

 それが答え、とひかりは笑みを深くした。

 姉のことが大好きなひかりだ。その姉がいわゆる「恋の病」を患っているのは、一目で分かった。未だ小学生の身であるが、姉と似て情緒面での発達は早いようだ。さらに言えば、物怖じしない分だけ姉以上に行動が速く、物事の機微に聡い。

 だが、如何せん子どもでもある。

 姉を応援する<からかうとなってしまうのも仕方ないことではあるのだろう。祐理にとっては甚だ迷惑ではあるが、真面目で融通の利かない姉を知る妹が起こした出来心である。

「と、とにかく、こういう話はひかりにはまだ早すぎるわ。この話はここでお終い」

「えー、まだ何も聞いてないのにー」

「わ、わたしはこれから出掛けるから。準備するから出ていって」

 畳み掛ける祐理に、抗しきれずひかりは不服そうな顔をしながら部屋を出て行った。

 

 

 ――――疲れた。

 ひかりはまるで小さな台風のようで、祐理は吹き飛ばされないように踏ん張るしかなかった。好奇心旺盛な妹が出て行ってから、室内がシン、と静まり返ったようになったのがいい証拠である。

 しかしながら、小学生の妹に内心の悩みを突かれたのは衝撃的ではあった。それを知ってからかおうとしてくる心根には感心しないが、祐理が抱いているのは、まさにひかりの言ったとおりの悩みである。

 草薙護堂。

 祐理がプライベートで関わる唯一の異性。祐理が意識する、ただ一人の男性の名。

 カンピオーネ――――祐理にとっては恐怖の代名詞であったそれが、今ではまったく意味合いを変えてしまっている。

 祐理は桜色の形の良い唇を指でなぞる。

 確かに、キスをした。

 祐理が言ったとおり、止むに止まれぬ事情があったことは否めない。しかし、唇を重ねた事実に変わりはない。

 思い出すだけで、心臓がはちきれんばかりに脈を打つ。

 そして、ひかりが指摘したように、護堂の周囲には晶や恵那といった彼への好意を隠そうともしない少女たちがいる。

 もしも、護堂が誰か一人を選ぶようなことがあったら、そこに自分の席はあるのだろうか。

 確実にあると言い切れる自信はない。むしろ、晶や恵那のほうが選ばれる確率は高いのではないか。

 そう思うと、胸が苦しくなる。

 自分と他人を比べたことのない祐理にとって、それは初めての感情だった。

 人に比べて、自分は劣っているのではないか。

 祐理自身が持つ、小さなコンプレックスが、異様に目に付くようになる。運動ができないことや、髪が茶色みがかっていることすらも、マイナス要因になるのではないかと思うと恐ろしい。

 唐突に不安と焦燥に駆られることがある。

 要するに、これは嫉妬なのだろう。

 理解しているが故に、自己嫌悪に陥る。

 はしたない、いやらしい、不健全。

 恵那のように、明け透けになれない。

 晶のように、無邪気になれない。

 思い悩んで、さらに内向きになる。

 この日、何度目かのため息をつく。

 このままではいけない、とにかく外に出よう。ひかりに言ったとおりにしなければ、また後で何か言われてしまうに違いない。

 手早く身支度を整えて、祐理は自宅を後にした。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 

 

 護堂は散策がてら上野駅までやって来ていた。

 静花の誕生日が近いこともあり、プレゼントを買わなくてはと思い立ったこともある。

 原作でも静花の誕生日プレゼントを買っていた。

 あそこでは明日香が一緒にいて、ランスロットに呪縛されることとなっていたが、その点を護堂は弁えていた。

 アレクサンドルと戦う理由がない以上、ランスロットの策に乗る必要はない。

 そして、ランスロットはどうあれ、静花の機嫌を取っておかなくては、今後の家庭内での地位が危うくなるという切実な事情が護堂にはあるのだ。

 プレゼントを渡さないという選択肢は存在しない。

 ついでに、手作りのバースデーカードなどは護堂の芸術センスの欠如以前に、実用主義の静花の気質を思えば当然に除外される。やはり、既製品に活路を求めるしかない。

 子どもっぽくなく、日常的に使え、そして中学生活のみならず高校、大学での使用にも耐えうるデザインの何か。

 中学三年生ともなると、自意識がかなり強くなってくる頃であり、他人との違いをとりわけ意識する年代と言える。

 そういった静花の精神性を考慮しなければならず、選択を誤ればプリプリと怒らせてしまうのは火を見るよりも明らかである。

「ううーむ……どうしたものか」

 頭の中で幾通りかの候補を挙げてみるものの、なかなかこれというものがない。

 商店街なりデパートなりをうろついていれば、そのうちこれはというものに出会えるだろうと期待して上野駅まで来たわけだ。

 ちょっと距離があるが、新宿まで出張ってみるのもいいかもしれない。

「あん?」

 道行く人を眺めていると、そこに見知った顔を見つけた。

 近づいていって声をかける。

「珍しいな、万里谷。こんなところで」

「ひゃうッ」

 祐理は小さな悲鳴を上げて振り向いた。

「あ、く、草薙さん。なぜ、ここに」

「ちょっと買い物に。近くで一番大きい駅がここだからな」

 場合によっては、上野から電車で出かけることも考えていた矢先である。

「なんかあったのか?」

「え、いえ。特には……」

 祐理は髪を触ったり、視線を彷徨わせたりと落ち着きがない。

 常とは異なる反応をいぶかしんで尋ねたのだが、本人が何もないというのであれば、踏み込むまい。

「ああ、そうだ。万里谷に聞きたいことがあるんだけど、いいか?」

「聞きたいこと、ですか? ええ、わたしが答えられることでしたら」

「そうか。よかった。実は静花の誕生日が近くてな。何か実用的なものを贈ろうかと思ってさ」

「あら、そうなのですか。静花さんの誕生日プレゼントを」

「ああ。それで、どんなものを贈ればいいのか分からなくてさ。もう中三だし、子どもっぽいものは嫌だろうケド、かといってちゃらちゃらしたものはらしくないし」

「それで、実用的なものにしようと思われたのですね」

 護堂は頷いた。

「ええ、それがいいと思います。普段から使う物であれば、ただ場所を取るということもありませんし」

「そうだよな。だとすると、カバンとかかな。いや、冬も近いしマフラーとかって手もあるか」

 キーワードとしては、実用的であり、子どもっぽくなく、それでいて学生らしい落ち着いたもの。その中から静花の嗜好を十六年の人生経験から思い返し、合致するプレゼントを選ぶ。

 そもそも静花は何が好きなのだろうか。

 それが、思いつかない。中々に難解なミッションになりそうだ。

「あの、草薙さん」

 悩んでいたところで、祐理がおずおずを話しかけてきた。

「もし、よろしければ、わたしもご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」

「え、でも」

「静花さんには、いつもお世話になっていますし、わたしからも何か差し上げたいと思いまして」

 静花のほうが世話になっているようにも思うが、こういうことに気を使うのも祐理らしい。

「そうだな。万里谷さえよければ。ついでに相談に乗ってくれると助かる」

「はい。それは、もちろんです」

 祐理は花が咲くような、朗らかな笑みを浮かべた。

 

 とかく、女性の買い物は長いという。

 護堂もそのようなイメージがあったのだが、幸いなことに祐理に関してはそういったことは当てはまらないようだった。

 もっとも、彼女がショーウィンドウやらブティックやらをいくつも梯子するのは想像できないことで、半年ほどの交友関係ではあるが、祐理にそういった物欲がないことはよく分かっていた。

 必要以上の買い物はしないというのは、男としては楽でいい。

 静花へのプレゼントとして選んだのは、桃色のマフラーだった。

 季節物としては妥当な線だろう。

 ただマフラーを買うだけでは味気ないので、護堂と祐理は一緒に遅めの昼食を摂り、デパートをぐるりと一周して回った。

 それだけでも、二時間はかかった。

「今日は付き合ってもらってすまなかったな」

「いえ、楽しかったですし。静花さん、喜んでくださるといいですね」

「ああ、そうだな」

 日が暮れないうちに、護堂と祐理は引き上げることにした。

 護堂は家が近いので問題はないにしても、祐理の家は、ここから多少離れている。呪術を使うことができるので、実はちょっとした暴漢くらいは一人で倒すのも不可能ではないが、だからといって万全というわけではない。暗くならないうちに家に帰るようにして欲しいというのは、護堂がそれだけ祐理を心配しているからである。

「そうだ、万里谷。今日のお礼」

 護堂は小さな包みを祐理に渡した。

「え、いいんですか。いただいても」

「ああ、わざわざ付き合ってくれたわけだしね」

「あ、ありがとうございます。あの、開けてみても?」

 護堂が頷いたのを見て、祐理は包みを開けた。

 袋から出てきたのは、小さな熊のキーホルダーだった。

「それ、携帯ストラップ。確か、付けてなかったろ」

「はい、……可愛い。ありがとうございます。さっそく、付けて……あら」

 祐理はストラップを付けようと携帯を探し、

「あ、今日持って出るのを忘れてしまいました」

「持ち歩かなかったら『携帯』じゃないじゃないか」

 護堂はからからと笑った。

 祐理は、ストラップを袋に戻し、カバンの中に入れた。

 それから、二人で少しの間話をしてから別れた。

 護堂の手には、妹へのプレゼントを入れた紙袋がある。後は、これを静花に気付かれないように部屋に持ち帰るだけで今日のミッションは達成される。

 夕暮れの冷たい風を感じながら、護堂は家を目指した。

 上野公園を横目に通りを歩き、商店街へ。

 あと少しで家に帰るというところで、護堂は呼び止められた。

「あ、いたいた。護堂、どこ行ってたのよ」

「なんだ、明日香か。何してんだ」

 幼馴染の徳永明日香だった。

 彼女の家はすし屋を経営している。なかなか評判の良い店で、商店街の中でも繁盛しているほうだ。確か、グルメ雑誌にも取り上げられていたはずである。

「あんたを待ってたのよ。あ、勘違いしないでよね。待ってたのはあたしじゃないから」

「ん?」

「お客さんが来てるの。あんたを待ってるって。外国の背の高い男の人」

 外国人。しかも護堂の知り合いとなると、真っ先に思い至るのはサルバトーレ・ドニだが。

「その人、もしかして黒髪か?」

 あえて、それは選択肢から外した。

 今、この状況下で最も護堂と接触するであろう人物。それはサルバトーレではなく、

「あ、そうそう。やっぱり知り合いだったんだ。今、うちの店で待っててもらってるから、すぐに来なさい」

 明日香はそう言って、護堂を連れて行こうとする。

「いや、その必要はない」

 その明日香を背後に立った長身の男が制止した。

 すっきりとした顔立ちの男である。褐色の肌がより引き締まった印象を与える。髪もきちんと整っており、身だしなみに関して言えば、文句の付け所がない。

 だが、その視線は実に挑戦的だ。まるで、こちらを値踏みするかのようではないか。

「わざわざ自己紹介をする必要はあるか?」

 その男、アレクサンドル・ガスコインは、無愛想な表情で護堂に言った。



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七十五話

 アレクサンドル・ガスコインは、おそらく最も詳しい情報が世界に流布しているカンピオーネであろう。権能の数だけでなく、その内訳、発動条件などが、賢人議会のホームページに掲載されている。

 これは、賢人議会の政敵として長年に渡って対立してきたことによるものだ。

 最も付き合いの長いブロンドの魔女は、霊視能力を持っているわけで、隠そうにも隠しきれるものではない。

 アレクサンドルの手の内は、もはや曝されているも同然なのである。

 しかも、それは賢人議会の存在意義に当てはまっている上にプリンセス・アリスの個人的な意趣返しの意味合いも含まれているという。

 これによって彼には隠し玉と呼べるものがなくなり、いつ、どのように手札を切っていくのかという戦略を立てる必要性が生じたのであった。

 もっとも、それ自体はアレクサンドルが普段からしていることなので殊更に困惑するはずもない。

 迷宮の権能は一度使うと月単位のインターバルが必要だし、神速の権能は魔術破りに弱い、使役する神獣も万能ではあるが顔を見られてはならないという条件がある。さらに切り札である復讐の女神は召喚に時間が掛かる上、敵を彼女たちの目前で暴れさせなければならないという始末。

 これからグィネヴィアとランスロットを罠に陥れるため迷宮の権能を使用する関係上、護堂の相手をしている余裕はない。

 可能な限り、彼との戦闘は避けるべきであろう。

「あんた、天之逆鉾で何するつもりだ?」

 寒空の下、とっぷりと日が暮れて辺りは夜闇に覆われている。

 商店街は人口の明かりによって道々が照らされている。もう少しすれば店じまいの時間となる。

 少なくなった人の波をすり抜けて、護堂とアレクサンドルは歩いていた。

「連中をおびき寄せるための罠を創る。少なくとも、貴様にも多少の恩恵があるだろう」

「連中? ああ、グィネヴィアのことか」

 アレクサンドルは頷いた。

 世界各国を放浪するアレクサンドルの目的は聖杯とアーサー王伝説。聖杯の持ち主であり「アーサー王伝説」の元凶であるグィネヴィアとは激突する機会も多かった。

 因縁を断つために、都合のいい環境が東京には存在する。

「『最後の王』を知っているか」

 唐突に、アレクサンドルは護堂に尋ねた。

「グィネヴィアが追いかけている魔王殲滅の《鋼》だろう。東京近辺に潜んでいるらしいけどな」

「ほう、そこまで知っていたか。どうやら、貴様の後ろにはそれなりの知恵者が潜んでいるらしいな」

 正史編纂委員会。そして、その背後にいるという御老公なるブレーン。詳しい情報は、調べ切れていないが、御老公たちが、『最後の王』の復活を阻止しようとしていることは分かっている。

 そうでなければ、正史編纂委員会が太刀の伝説を抹消しようとするはずがない。

 アレクサンドルは、すでに太刀の伝説が『最後の王』と関連していることを掴んでいた。

「それならば分かるだろう。この地は連中にとって最終到達地点だ。東京近辺に『最後の王』が潜んでいる限り、グィネヴィアが日本から出て行くことはない」

「それで、あんたは俺に何が言いたいんだ。グィネヴィアを倒すのを手伝えってか?」

「いや。貴様が出てくる必要はない。あれは、俺の獲物だ。グィネヴィアが死ぬまで、大人しく様子を窺っていてもらおう」

 これまでグィネヴィアに呑まされてきた煮え湯の量を思えば、ぽっと出のカンピオーネに横取りされるのは許せない。たとえ、それが現地のカンピオーネであろうとも、主導権は自分が握らなくてはならないのだ。

 当然、ここまで強気な物言いをする必要はない。

 護堂に協力を要請すれば事足りる。しかし、アレクサンドルという男には、頭を下げてお願いするという観念が存在しない。

 護堂がカチンと来たような表情を見せたときには、この場での戦闘も仕方がないと呪力を練り上げもした。

「まったく、アレク。あなたという人は。そんな言い方じゃ、余計な戦いになるのも仕方ない」

 一触即発の空気を崩したのは、護堂の知らない少女である。

「セシリア。なぜ、ここにいる?」

「あなたが言わなくてもいいようなことを言って、無駄な戦闘になるのではないかと危惧したから。この辺りは日本のカンピオーネの住居があるというし、探索の術を使えばすぐに居場所は見つけられる」

 そうか、とアレクサンドルはそれ以上を口にしなかった。

「初めまして。わたしは、セシリア・チャン。アレクの組織の人間よ」

「あ、ああ。よろしく」

 突然現れたセシリアに、不機嫌だった護堂は意表を突かれた。そのためか、頭に昇った血が、引いてくれた。

 セシリア・チャン。そういえば、原作にも登場していたようにも思うが、主要人物でないので忘れていた。

「ロスのカンピオーネともうまくいかなかった時点で、交渉は他人に任せるべきだった。一歩間違えば、かなり危険なことになっていたのを理解してる?」

「ふん。以前も言ったが、カンピオーネとの関わりに気を遣うほうが馬鹿馬鹿しい。決裂するときは決裂するし、纏まるときはあっさりと纏まる。そういうものだと言ったろう」

「でも、今回は一世一代の大仕事よ。より確実な方法を選択しても良かった。あなたが動くのは、下の者が失敗してからでも遅くはない」

 アレクサンドルは、拙速を尊ぶ。その性格が災いして、失敗することが多いのに、反省するつもりは一切ない。なぜなら、自分が悪いと思っていないからだ。

 しかし、今回はグィネヴィアを確実に追い詰めるために、どうあっても護堂との争いを避けなくてはならないという条件がある。

「分かった。ならば、おまえに任せておく。急がば回れとも言うしな」

 バチ、と紫電が弾けたかと思うと、アレクサンドルの姿は掻き消えてしまった。

 セシリアはため息をつくと、護堂に向き直った。

「わたしたちのボスが言葉を誤ったようで」

「いや。いいんだけど、結局アイツは何をしに来たんだ?」

「それは、わたしから説明する」

 そして、セシリアは簡単にアレクサンドルの策を護堂に伝えた。原作通り、東京湾に擬似アヴァロンを創り出し、グィネヴィアを殲滅しようというものだった。

「あなたは、東京への被害を気にしているかもしれないけど、戦場が海上になるから、それほど大きな被害は出ないはずよ」

「なるほど。まあ、確かにそうだな」

 それに、あの海域には原作で護堂が利用した無人島がある。ランスロットの攻撃力を思えば、アレクサンドルの策は実行してもらったほうが断然いい。

「グィネヴィアたちはあなたにとっても無視できない相手。アレクが言っていたけれど、ここでグィネヴィアを倒さなければ、また何度でも日本で事を起こす」

「そうだろうな。アイツの目的が日本なんだもんな」

 より正確には、グィネヴィアの目的は日本に眠るという『最後の王』である。

「グィネヴィアを排除するために、ロスのカンピオーネも消極的な協力を認めたわ」

「そう。というか、それは竜骨の貸与のことだろう」

 なぜ、それを。とセシリアは口に出しそうになるが、表情にも出さないようにして言葉を呑み込んだ。

 ジョン・プルートー・スミスは、神祖アーシェラに苦しめられてきた過去があるだけに、その神祖の中でも特に活発に活動しているグィネヴィアを危険視している。それが、今回の消極的協力に繋がったのだが。アレクサンドルの背後に、スミスもいると思わせれば、交渉を上手く進められると思ったのだが、まさかアレクサンドルのロサンゼルスでの行動が知られている? そうでなければ、なぜ「竜骨」という単語を出した。

「アレクサンドルの狙いはグィネヴィアか」

「ええ、そうよ」

「なら、ランスロットの相手は俺ってことでいいな。より確実に始末するにはそれしかないだろう。俺も、この機会に敵を始末しておかないと後々困るからな」

 アレクサンドルはランスロットにはそれほど執心していない。この作戦も、彼から聞かされている限りはランスロットの生死は重視していない。であれば、護堂がランスロットの足を止めてくれるのであれば、アレクサンドルは、グィネヴィアの討伐に注力することができる。

「分かった。アレクに伝えておく」

 セシリアは護堂の要望を認め、アレクサンドルに伝えることを約束した。

「ところで、君は俺にあまり謙らないんだな。初めて会う人は、大抵大仰な美辞麗句を並べるか、ビビるかするんだけど」

「それは、普段からアレクにこういう言葉遣いをしてるし。それに、あなたはアレクに似ているところがある。あまり、傅かれるのが得意じゃないんでしょ」

「アイツに似ているかどうかに関しては思うところがあるな。まあ、後半はその通りだけどさ。もしも、俺がそれに怒ってたらどうするつもりだったんだ?」

「その時は、アレクとあなたが戦うことになっていたと思う」

 セシリアは冗談とも本気とも付かない台詞でその話を終わらせた。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 セシリア・チャンが緩衝材になったおかげで、護堂はアレクサンドルと戦わなくて済んだ。おそらく、あのままではどこかで破綻していただろう。なんとなく、護堂はそう思った。

 そして、セシリアと話をしてからちょうど一週間後の午後。冬馬から護堂の携帯に連絡が入った。

「甘粕さん。どうしました?」

『草薙さん。今、お時間よろしいでしょうか? 例の件が動き出しましたよ』

「本当ですか?」

 例の件、というのはアレクサンドルの作戦のことである。

 セシリアから聞いたことを、護堂は冬馬に伝えていた。東京湾に奇岩島が現れたときには、すぐに連絡して欲しいということも含めて頼んである。

『事前に分かっていたおかげですね。地元の漁師たちにも手を回すことができました。それに、海上保安庁などには通達が行っているはずですよ。船が必要なら、すぐに出せます』

「ありがとうございます。ただ、船は使えないと思いますよ。ミノスの権能がありますから、たぶん近づけません」

 迷宮の権能は、結界のようなものである。内側に踏み込むものを迷わせ、弾き返す。力技で吹き飛ばすにも、生半可な攻撃は通じない。城一つ消し飛ばすつもりでなければならないだろう。

「俺たちは、グィネヴィアが動くまで様子見です。俺が動くのは、アレクサンドルがグィネヴィアとランスロットを引き離してからで十分でしょう」

『ちなみに、それはいつ頃になると思われますか?』

「どうでしょう。グィネヴィアが現れないことにはなんとも言えません。そのグィネヴィアも、迷宮を突破するのに時間がかかるでしょうから、今は監視に留めていても問題はないのではないでしょうか?」

『なるほど。確かに、そうですね。それでは、そのようにしましょう。グィネヴィアが現れたときには、また連絡を差し上げます』

「はい、よろしくお願いします」

 冬馬との通話はそこで切れた。

 

  

 アヴァロンが東京湾沖に現れてから数日は、どの勢力も動きを見せず、さしずめ凪いだ大洋のように静かな時間が過ぎていた。

 アレクサンドル側と護堂側は、互いに干渉しあわないように距離を取る方針を貫いているために争うこともなく、グィネヴィア側は如何にしてあの迷宮を突破するのか、という点に頭を悩ませている。

 こうした状況でできることといえば、可能な限りの準備を整えることなのだが、そもそも護堂が整えるべきものは、今回はあまりない。冬馬は船を用意すると言ってくれたのだが、そもそも神速が使える護堂には必要がない。

「気楽なもんだ」

 毎日、海を監視している海上保安庁や正史編纂委員会と異なり、護堂は普通に日々を送っている。

 当事者でありながら、悠々としているのはするべきことがまだないからであるが、カンピオーネになったばかりの頃に比べて、ずいぶんと肝が太くなったようだ。

 慣れというのは、恐ろしいものだ。

 学校の帰り道、大型書店によった護堂はそこで漫画を立ち読みして、夕食までの時間を潰した。

 書店を出たときには、すでに日が暮れていた。長い時間、書店にいたわけではない。日照時間の減少は、季節の移り変わりを感じさせてくれる。

 さっさと家に帰ろう。そう思ったところで、ポケットが振動した。

「ん……携帯に感有りってか」

 メールだった。しかも、相手は清秋院恵那。

「珍しいこともあるもんだ」

 護堂の仲間たちの中で、まともに携帯を使いこなしているのは晶だけだ。祐理は携帯の使い方がそもそもよく分かっていないし、恵那は電波が通じないところにいることが多い。さらに、本人も充電を満足にしていないというように、現代機器の扱いには疎い面がある。

 その恵那からのメールは、それだけで護堂の興味を引くに足るものである。

 道の端によって、護堂はメールの内容に目を通した。

 まず、書き出しに「拝啓」と「時候の挨拶」がある時点で、何かが致命的に間違っているように思う。

「要するに、すぐに会いたいってことか」

 護堂は、手早く文字を打ち込んで返信する。もちろん、答えはオーケーである。具体的な話は会ってからするので、恵那の目的は分からない。けれども、このタイミングでわざわざ会うのだから、何か呪術的なことなのだろうと思う。

 そうして、護堂は恵那との待ち合わせ場所である七雄神社へ向かったのだった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 七雄神社に着く前に、護堂は静花に連絡を入れた。案の定、静花の機嫌を損ねてしまったものの、クラスの皆と夕食を摂ると言ったので、それほど反発はなかった。

 小さな罪悪感を抱きながら、護堂は長い石段を登る。

 小高い丘の天辺に向かう、この小さな道は、立ち枯れた木々を左右に侍らせ、寂寞の中にひっそりと浮かんでいる。

 針のような枝の群れ。その向こうに見える色とりどりの光が護堂の足元を照らしている。星の光が届かない濁った東京の空。夜を払うのは、やはり人造の光だけだった。

 石段を昇りきった護堂を待っていたのは、巫女服を着た恵那だった。他に人の気配がないところから、彼女が指示を出していたことは明白だ。

「わざわざ人払いまでしたのか」

「うん。せっかく王さまと二人きりになれるチャンスなんだから、精一杯利用しない手はないでしょ」

 そう言って、恵那ははにかんだ。

 

 舞台は社務所に移る。

 知る人ぞ知る、という程度の七雄神社の境内は丘の上にあることもあって、それほど大きいものではない。関東を守る媛巫女が常駐するのだから、霊地としては中々のものなのだが、重要な神事さえ行えればいいというのか、その機能に神社以上のものはない。

 時間が過ぎるごとに下がっていく気温。

 話をするにも、暖を取る必要があった。

「やっぱり、暖かい飲み物は落ち着くね」

 社務所の一室で、護堂は恵那と向かい合う。室内は、程よく暖まっている。恵那が事前に暖房を付けてくれたからだろう。

 恵那が両手の平で包み込むように持つ湯のみからは、白い湯気が立ち上っている。

「王さま、おかわりはいる?」

「いや、いいよ。あまり、一気に飲むようなものじゃないだろ、これ」

 冷たいものならば別だが。

 年季の入ったガスストーブは、上に薬缶を乗せられるタイプ。家庭用ではあまり見なくなった形。確か、小学校の低学年くらいまでは教室にあった。

「懐かしい形だな」

「そう? 恵那はよく使うよ。このタイプ」

「そうなのか。昔は、教室でも使ってたんだけどな。俺の高校じゃ、温風が出るヤツだから」

「あ、アレでしょ。上の蓋のところに水滴落として遊んだりしたでしょ」

「やった、やった。終いには鉛筆の削りカスを焦がし始めるヤツもいたりしてな」

「あー、いたね。恵那のところにもいたよ。先生に怒られてたなー」

 一歩間違えれば火事だから。

 けれど、子どもにとってはそんなあるかどうかも分からない危険は考慮に入れない。物が燃えることは危険だと、知っていながらも、その危険が自分たちと関わりがあるとは思っていない。そんなものだ。子どもというのは。それを、大人に怒られたり、失敗したりして学んでいく。危険に関わらない方法。危険から身を守る方法。危険を知る方法。

「だとしたら、俺は学んでいないということかな」

 進んで危険に飛び込んでいくのは、純粋なのか馬鹿なのか。

 もともと持つ気質なのか、カンピオーネだからなのか。そもそも、この世に生れ落ちたからなのか。スサノオの言葉から察するに、どうやら魂レベルで危険を冒すタイプの人間なようだ。

「それで、清秋院は俺になんの用なんだ?」

 一頻り話をした後で、護堂は恵那に尋ねた。 

「王さまはさ、恵那がどうして王さまのところに来たのか知ってたよね」

「…………まあ、一応はな。常識的に考えれば、馬鹿なことを、って言いたくなるけど」

「王さまには常識、通用しないけどね」

「いや、俺じゃなくて、清秋院家のことだろう」

 ――――確かに、カンピオーネには常識なんて木っ端みたいなものだけど。

 護堂は、普段の生活だけは努めて常識の範疇にいるようにしているのだ。

「ふふ……そうそう、うちも普通の家庭からしたら結構違ってるよね。妾もオーケーってあまりないみたいだよね」

「『あまり』は正当な評価じゃないだろ。常識的におかしい」

 清秋院家の家主は、外に何人も女を作っているらしい。しかも公然と。元より前時代的な日本呪術界だ。その頂点にいる一族が、近代的な家庭であるはずもない。

「で、娘である清秋院に妙な指示を出してきたわけだ」

「うん。王さまと子どもを作りなさいって」

 やや恥らいながら恵那がそう言った。

 分かっていたことだが、魅力的な少女の口からそのような言葉を聞くと、ドキリとしてしまう。

「まあ、それも王さまが手出し無用って言い出しちゃったからね。今は、様子見状態だよ」

「そういえば、そんなことも言ったな。初めて会ったときに」

「うん」

 恵那は楚々とした仕草で湯のみを置く。それだけの行動が、とても奥ゆかしく見える。野生児と大和撫子が、渾然一体となった不思議な少女だ。

「それで、今日はね。王さまにお願いがあったんだ」

「お願い」

「うん。本当は、夜伽でもって思ったんだけどね。さすがに、今の状況でそこまでは求めないよ。天叢雲剣を、恵那に貸して欲しいんだ」

「天叢雲剣を……?」

 護堂は、右手を見た。そこに宿っている、より正確には護堂の精神に溶け込み、右手を媒介にこの世に力を現す神剣。スサノオから歴代の太刀の巫女に貸与され、そして今代の太刀の巫女である恵那の暴走をきっかけに完全に所有権が護堂に移った。

「この前の戦いで、恵那は童子切安綱で戦った。日光のときもそう。けれどね、やっぱりそれだけじゃ足りないんだよ。神憑りを使っても、安定して神獣と戦えるわけじゃない。でも、天叢雲剣が一緒なら、もっと上手くやれるはずなんだ」

 至って真剣な表情で、恵那は言った。

「アッキーには槍を上げたんでしょ。霊刀じゃ、神剣神槍には勝てないよ。恵那は、もっと王さまの役に立ちたい」

「今でも十分、役に立ってる」

「これからのことを考えれば、今のままだと不十分だよ。天叢雲剣なら、ただの神剣以上に相性がいいし。お願い、王さま」

 恵那が頭を下げてくる。

 さすがに、護堂もそれ以上何か言うことはできない。ここまでしてくれる相手を無碍にするのは、人として問題があるだろう。

「分かったから。頭を上げてくれ」

 女の子に頭を下げさせるヤツがあるか、と己を叱咤する。

「それで、俺はどうしたらいい」

 わざわざ護堂を呼んだからには、護堂がいなければならない理由があるだろう。

 尋ねられた恵那は、倒れこむようにゆっくりと護堂に枝垂れかかった。

「お、おい」

「王さま。動かないで」

 囁くように、恵那は言った。

「天叢雲剣と恵那を同調させるの。そうすれば、恵那は天叢雲剣の分身を手元に呼び出せるようになるから」

 つまり、自身を天叢雲剣の眷属のようなものにするのである。神剣は剣である以上、使い手がいなければならないが、一個の自我を持つ神でもある。それが厄介なところなのだ。ともあれ、恵那は儀式を経ることで、天叢雲剣から神気を受け取ることができるようになるのだ。

「王さまは、恵那とイメージを重ねるようにして」

 そして、恵那はゆっくりと護堂に口付ける。

 初めは触れ合う程度に、それからより深く結びつく。

 カンピオーネとイメージを共有するには、経口摂取で呪術をかけるしかない。分かりきっていることであり、だからこそ恵那は人払いまでしたのだ。

 今、この空間は紛れもなく護堂と恵那の二人だけの世界だ。

 邪魔をされるだけでなく、誰かが踏み入ってくるのも嫌だった。

 僅かなずれを少しずつ調整して、護堂と恵那はイメージを形にする。

 雷鳴轟く嵐の夜と、焼け付くような炎の熱を脳裏に描く。それらが、一振りの剣を創り出し、二人で柄に手を添える。

 そして、息を合わせて鞘から抜き放った。

 瞬間、恵那は溢れ出る呪力と、燃える炎の奔流を肌に感じた。包み込まれるような、暖かい炎であった。

 

 

 朝の日差しが窓から差し込んでくる。

 護堂は瞼に掛かる太陽光に朝の訪れを感じ、ゆっくりと目を開けた。

 まぶしい。

 瞑っていた目に、涼やかな日差しは強烈に響く。

 上体を起こし、目を擦る。

 背中が痛いのは、固い床で寝たからか。畳の上とはいえ、一晩をここで過ごしたのであれば、当然の結末だ。

 ストーブは未だに運転中。火力低めで室内の温度を一定に保ってくれている。上に乗った薬缶からは、辛うじて湯気が吹いている。中のお湯は残り僅かとなっているのだろう。

 とりあえず、ストーブを止めよう。

 そう思って、護堂は立ち上がろうと手を付いた。

 むに、と柔らかな手応えに、護堂は固まった。

「清秋院……!」

 護堂の隣で心地よさそうに眠る恵那。巫女服が乱れているのは、昨夜の情事を思い起こさせる名残だ。彼女の豊かな双子山に思いっきり触れてしまったのだから、目も一気に覚めることとなる。

「んんー。王さま、早いねぇ……」

 護堂の呼びかけか、それとも触れてしまったことからか。恵那は目を覚まして伸びをする。

「早い、か?」

「まだ、六時ちょっとだよ。日も出てきたばかり。学校行くにしても、狩猟採集するにしても、もうちょっと日が昇ってからでしょ」

「狩猟採集とか、普通やらねえから」

 縄文人か、おまえは。

「弥生人でも稲作やってるからねえ」

「弥生時代といっても、中国じゃ三国志の時代だからな。むしろ、日本が遅かっただけで」

 一体何の話をしているのか。

 護堂の目はすっかり覚めてしまった。

「王さま、今日学校でしょ。ここから行く?」

「いや、教科書が家だ。一回帰らないとだな」

 結局、夜を社務所で過ごしてしまった。制服のままであるし、今から家に帰れば、風呂に入る時間も取れるだろう。

「なんか、愛人宅から逃げるように帰る間男みたいだね」

「言うと思ったけど、嫌な表現だな!」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「アレクサンドル様と草薙様は不戦の約をされたようです」

 東京都を一望する高層ビルの屋上に、グィネヴィアはいた。はるかな高みに身を曝していながら、髪は微動だにしていない。吹き渡る風は、彼女に触れるのを恥じ入るかのように避けていく。

「ほう、それは真か」

 ランスロット・デュ・ラック。槍の神。護堂から受けた傷は、ほぼ快癒した。失った腕も、時を置いて再生している。

 不死性を持つ《鋼》の神だ。まして、戦いを本分をする彼が、怪我程度で行動不能になるはずがない。治癒も当然ながら、その性質通りの速度を有している。

「巷の術者どもが口々に申しておりましたわ。アヴァロンが浮かんでから早五日。草薙様に動きがないところを見ると、強ちただの噂ということもないでしょう」

 グィネヴィアは呪術師というカテゴリーの中では最高の技量を持つ。人ではなく神でもない、そして魔女の庇護者にして王。そして、彼女自身もまた魔女。そんな彼女は情報を集めるのにわざわざ足を使うことはない。風の囀りに耳を傾け、鳩の言葉に相槌を打つ。それだけで、知りたいことは大抵知ることができる。

「如何する。事ここに至っては、かの神殺しに取り入ることもできまい」

「はい」

 とグィネヴィアは頷いた。

「可能ならば、アレクサンドル様と相食ませたかったところですが」

 幼いながらも女を感じさせる妖艶な面貌を曇らせる。

 並みの男であれば、この表情を見ただけで、彼女の心にたゆたう雲を取り除いてやりたいと願うだろう。

「もはやそれも叶わぬ」

 アレクサンドルが、すでに護堂と手を結んでいるのであれば、グィネヴィアとランスロットは二人のカンピオーネを相手にしなければならなくなる。

「だが、それもまた一興よ。二人を蹴散らせばよいのであろう。余がすべきことに変わりはない」

 ランスロットは猛る心に任せて言葉を紡ぐ。

 戦こそが、彼の故郷。心の在るべき場所なのだ。

 グィネヴィアは思案する。

 普段の彼女であれば、不利な状況にあっては無理をせずに撤退を選ぶ。アテナやアレクサンドルから逃げ続けたようにだ。

 今回も逃げればいい。

 否、それではだめだ。

 前身となる神祖から数えて数百年の月日を『最後の王』の探索に費やしてきたのだ。そのゴールが、今目の前にある。迷宮の権能で鍵をかけられ、おそらくはグィネヴィアにとって致命的な罠が仕掛けられている奇岩島。求めて止まない理想郷は、目の前にありながら遥か遠く。

「そうですね、叔父様」

 グィネヴィアは意を決したように瞳に強い意志を宿す。

「この数百年の流浪の旅を終わりにすべき頃合のようです」

「では」

「はい。アヴァロンに向かいます。叔父様の守護も、今日この時まで」

「うむ、賭けに出るのだな。よかろう。それでは、最後の奉公といこうではないか!」

 ランスロットの身体に力が漲ってくる。

 白き地母神が彼にかけた呪い。不完全な神霊として、グィネヴィアの傍に仕える術を解いたのである。これで、ランスロットは十二分に力を振るうことができるようになる。

 その代わり、戦いが終われば次ぎの戦いを求めて世界を放浪することになるだろう。グィネヴィアのことを頭の片隅に置くこともなく、《鋼》の性に従って冒険の旅に出るのだ。

 よって、これがグィネヴィアにとって最後の戦いとなる。

 敗れれば、再起の可能性はない。

 身を守る楯も剣もなくなり、丸裸も同然となったグィネヴィアには、生き残ったとしても身を守る術がなくなる。アレクサンドルや護堂の追撃から逃れることはできないだろう。

 ここが正念場なのだ。

 グィネヴィアは屋上から宙空に身を躍らせる。

 固いアスファルトに叩き付けられる無様な姿はない。蝶のように優雅に、燕のように速く空を飛ぶ。海を目指し、そして瞬く間に海岸線に到達し、

「今こそ船出のとき。グィネヴィアをあの方の下に連れて行って!」

 懇願とも取れる言葉は、正しく呪術であった。

 海水が持ち上がり、透明な水が黒く染まる。瀑布のように下り落ちる海水の中から現れたのは、一隻の帆船であった。

 その甲板に、ランスロットと共に着地して、船を動かす。

 呪術で操る船なので、人手はいらない。

 幽霊船のような不気味さで、軍艦のような威容の帆船は動き出す。

 激しい戦いを覚悟して、グィネヴィアはキッと目的地を見つめ続けた。

 




各ヒロインを取り上げた日常回でした。
イメージ的に正妻ポジは祐理って感じがする。原作でもそういう扱いですが。ダメなものはダメというので、押しに弱いけどあげまんというイメージ。
恵那は、本人の主張もあって都合のいい女。最後の最後で受動的になりそう。
晶は、従順かつ相手を全肯定するタイプなので、相手によっては「真面目だったのに、長期休業明けたら部活にも学校にも顔を出さなくなる」事件が起きるタイプ。
明日香は、特筆することのない共働きの普通の家庭を築きそう。公務員タイプ。
上記は筆者の勝手なイメージです。
静花は小悪魔で確定。


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七十六話

 ――――命拾いした。

 明日香は、自室のベッドにうつ伏せになって脱力していた。

 アレクサンドルの顔と名前は、明日香も知っている。これでも、蘆屋道満から最低限の呪術の知識をインプットされている身である。カンピオーネに関することは常識の範囲内で知識がある。

 だからこそ、明日香はアレクサンドルに自分が呪術に関わりがある人間だと気付かれないか不安で仕方なかったのだ。

 アレクサンドルと護堂は比較的合理的という点で似通っている。本能を優先する行動をしているのに、その直前では、様々な可能性を考慮している。行き当たりばったりに見えて、その実、何かしらの根拠を以て行動するタイプと言えよう。

 そして、その二人の最大の違いは、呪術が使えるか否かという点である。

 護堂は呪術が使えない。その知識がないから、明日香が油断して呪術の気配を垂れ流してしまったとしても、不審には思うかもしれないが、それ以上を追及することはない。勘違いで済ませることができる。だが、アレクサンドルは別だ。呪術に見識を持つ彼は、こちらが油断すれば呪術の気配を感じ取ってしまうだろう。

 それが杞憂であったとしても、不安にならざるを得ないのは、彼女が自分の出生に負い目を感じているからだ。

 生きているのだから、幸運だ。

 その幸運を噛み締めて、普通に生きていればいい。

 護堂がカンピオーネになるまでは、それだけで十分だった。

 

 けれど、自分の作り手が、護堂の宿敵である蘆屋道満であるからには、ただ傍観しているだけでいいのかと常に考えてしまう。

 

 告げることは簡単なのだ。

 告げた後、どうなってしまうのかが分からない。

 だから、恐ろしい。

「それもこれも、あんたの所為だわ」

 うつ伏せのまま、顔を横に向ける。

 視線の先で、影が蠢き、俄かに一人の老人となった。

「言い掛かりも甚だしいの。告げる告げないは主の一存じゃろう」

 蘆屋道満。

 その名はかの有名な大陰陽師・安倍晴明のライバルとして一般に知られている。彼もまた一流の陰陽師であったとされている。この神もどきは、蘆屋道満の名に恥じない呪術の才を持っている。

 実際のところ、蘆屋道満という名は、彼の神格を縛るために与えられた『敗者の証』であり、それを打破し、『まつろわぬ神』へ返り咲くとなれば、必然的に本来の名を取り戻すのだろう。

「で、あたしに何の用?」

「最後の確認に来たのよ。主、わしと共に来ぬか? 深遠なる呪の道を示してしんぜるぞ」

「はあ? 今さら何言ってんのよ。あたしは、あんたの仲間じゃないんだから余計な関わりを持つな」

「確かにの……主はわしの仲間ではない。娘じゃ」

「減らず口を言わないで」

「娘に邪険にされるのも、堪えるものじゃ。まあ、よい。主はこの十六年、十分に働いてくれた。草薙護堂が泰山府君祭で蘇った晴明の忘れ形見と睨んだときからずっとの」

「何……?」

 十分に、働いた? 

 草薙護堂が、晴明の忘れ形見と睨んだときからずっと……?

「どういう、ことよ。あんた、まさかあたしを使って」

「自身最大の敵を監視するのは当然の策じゃろう。わしが完全に力を取り戻すまでは、迂闊に手を出せば痛い目を見るかもしれぬ。なにせ、晴明と幽界の神々が出生に関わっておるのじゃから。そこで、わしは、呪術を介さずにその動向に注意を払うことにしたのよ」

「それが、あたしがここにいた理由」

「ふぇふぇ、安心せい。すべてを見ていたわけではないぞ。ヤツが何かしら呪術に関わりを持てばすぐに分かるようにしていただけのこと。将来的に危険になるかもしれないというだけで、わしが衆目に姿を曝すは愚かな判断よ。わしには、それ以上に手をかけることがあったのでな」

 道満が、明日香を作った。正確には、明日香の母が身篭った子に、明日香の魂を定着させたというべきか。

 『まつろわぬ神』ではない道満に完全な死者蘇生は不可能だ。

 明日香の魂は、生きている素体から抜いた上で転生させる必要があった。そういう意味では、明日香は道満に殺された上に別人として生まれ変わらせられたということになる。

「ああ、そういえば。あんた、『まつろわぬ神』に戻ろうとしてるんだったわね。どう、準備。進んでる?」

「うむ。この国から《鋼》が消えてくれれば、よし。後は星と姫じゃな。星は時がなんとかしよう。姫は、すっかり熟しておる。そろそろ収穫せんとの」

「姫、ね。確か、高橋晶だったわね。あんたが姫って言ってるの。あの娘、何者?」

 護堂の傍に突然現れた媛巫女の少女。

 尋常ならざる力の持ち主であるが、それが道満の計画にどのように関わっているのだろうか。

 

「おう。あれはの」

 

 愉しそうに。

 

 心底、愉快だと言わんばかりに。

 

 ゾッとするほど、落ち窪んだ眼窩は愉悦に染まり。

 

 道満は口元を歪める。

 

 

 

 

 

「わしが儀式のためだけに用意した蛇巫じゃよ」

 

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 グィネヴィアが現れた直後、正史編纂委員会は即座に護堂に連絡を入れた。

 周辺を航行する船舶は、そもそも存在しない。

 海上は神々が戦う上で最高のフィールドと化している。

 どれだけ権能を使ったところで、陸上に被害は出ない。

 少なくとも、多くの関係者はそのように楽観視していた。神々やカンピオーネの権能が途方もないものだということは、世情に疎かった日本呪術界も、この半年ほどで痛いほど理解できている。

 とはいえ、海の上で生じた戦いが日光や茨城での戦いに比べて事後処理が楽なのは言うまでもないことで、その点に関しては、よい戦場を選んでくれたとアレクサンドルに感謝しそうになるほどである。

 連絡を受け取った護堂は、とにもかくにも海岸へ急行した。

 神速を使えば一瞬のことである。

 海上での戦いであり、敵は使い魔を呼び出すこともない。今回は頼れる媛巫女の出番はないと考えるべきか。

「まあ、俺はあくまでも遊撃隊。先鋒はアレクサンドルだ」

 グィネヴィアとランスロットを引き離すまでは、この策の首謀者である黒王子ことアレクサンドル・ガスコインの仕事である。

 彼の権能はとにかく罠として用いることに特化している。

 今、勢い勇んで護堂が海へ繰り出せば、彼の罠に嵌ってしまう可能性もある。

 護堂が手を出すのは、もう少し後。

 戦いが佳境に突入してからであろう。

 他人の戦いを見物するのも、いい経験になるだろう。

 百聞は一見に如かずとも言う。

 今回はアレクサンドルと戦わなくて済んだが、これからどうなるか分からないのだ。その戦い方、権能、そういったことを、できるだけ見ておくのも悪くはない。

「先輩! 準備できましたよー!」

 砂浜から晶が護堂を呼ぶ。

 祐理と恵那、冬馬もいて、円を描くように並び、中心に視線を落としている。

 護堂もその輪に加わる。

「へえ、確かにこれは便利だ」

 そして、思わず慨嘆する。

 砂浜には、直径一メートルほどの円形のくぼみが作られている。その中は、海水によって満たされていて、水面はここではないどこかを映し出している。

「魔女が使う術です。遠見の術を、水を介して他者に見せるんですね」

「万里谷先輩が、習得されたというので、せっかくだから使っていただきました」

 冬馬の説明に、晶が補足する。

「万里谷が、魔女術?」

 およそ、魔女という印象とはかけ離れた祐理に、違和感を禁じえないのだが。

「巫女と魔女は、もともと祖を同じくするものです。欧州と日本で呼び名と役割が異なるだけですので、その気になれば術を習得することは不可能ではありません。尤も、我々としては、魔女術よりも巫女としての力の研鑽に励んでいただきたいのですが、祐理さんほどになると、簡単な魔女術であれば片手間で習得できるようで」

「甘粕さん。片手間ではありませんよ。きちんと師を仰いで学んでいるのですから」

 冬馬を、祐理が嗜める。

 自分が学んでいることを、簡単なものとして欲しくないのだろう。

「師?」

 護堂は疑問を投げかけた。祐理に魔女の師がいるとは初耳だ。

「リリアナさんです」

「なるほど。そういえば、個人的な繋がりがあるんだったな」

 護堂はリリアナと祐理の関係を思い出した。

 護堂が出会うよりも前に、二人は顔を合わせていた。四年前にヴォバン侯爵が集めた巫女と魔女の一員だったのだ。

 夏前にヴォバン侯爵が攻め込んできたとき、二人は再会し、そして夏休みにイタリアで行動を共にした。

 それ以降、意気投合し、個人的な交友を続けている。

 その過程で魔女術を学んでしまうとは、祐理も進化を続けているということだろうか。

 映し出される映像は、非常に鮮明である。

 グィネヴィアは帆船の甲板で険しい表情をしている。

「アレクサンドル様の権能でアヴァロンには近づけないみたいですね。どうするつもりでしょうか」

 晶が言うとおり、迷宮の権能は神祖や『まつろわぬ神』であろうと容易く突破できるものではない。おそらく、迷宮をどうにかするには、権能破りのような概念による干渉でなければならないだろう。

「そんな……!」

「そりゃ、チートだなあ」

 グィネヴィアの行為に、護堂を除く四人は唖然とした。

 帆船の前方に現れたのは、巨大な牛。その威容は神獣と呼ぶにはあまりに強大。

「『まつろわぬ神』の擬似召喚か。オリジナルには程遠いようだけど、ミノスの権能にミノスをぶつけようって腹だな」

 護堂は何が起こっているのか説明した。

 オリジナルに劣るミノスでは、完璧に迷宮を突破することはできない。しかし、ランスロットには狂奔の権能がある。一時的に、力、感情を暴走させ、能力を強化するものである。

 それを使えば、ただの一度だけ、偽りのミノスは本物のミノスを上回る力を発揮する。

「ここまで来たら、そろそろ俺も出ないといけないか」

 護堂の眺める銀盤の中で、グィネヴィアとランスロットは見事、迷宮の権能を突破していた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 罠というのは段階的に発動させるべきだ。

 その罠も、相手の命を奪うようなものではない。

 ミノスの権能も、それが破られると同時に発動するように仕掛けておいたベヘモットの吸引の権能も、あくまでもグィネヴィアとランスロットを分断するためのものである。

 ランスロットは、ただでさえ強大な敵だ。それが、今は聖杯のバックアップを受けてエクスカリバーという世界最高峰の知名度を持つ武器を携えている。さらに彼が守護するグィネヴィアは一度だけ『まつろわぬ神』に匹敵する『竜』に変化することができる。

 一人で二柱の神を相手にするようなものである。賢明なアレクサンドルがそのような手間をかけるはずがない。

 各個撃破が望ましい。

 その面では草薙護堂にランスロットを押し付けることができたのは僥倖であった。

 ミノスの権能は後一ヶ月は使えないし、奥の手の復讐の権能もグィネヴィアに使えばしばらくは打ち止めだ。神速を見切るランスロットに神速を駆使して勝負を挑むのも馬鹿らしい。

 アレクサンドルはグィネヴィアの命に固執しているが、ランスロットは後でどうとでもできると考えている。

 厄介なエクスカリバーもグィネヴィアの補助がなくては満足に振るえまい。

 第一目標は、グィネヴィア。

 ランスロットは余力があればという程度でいい。

 グィネヴィアを倒すために選んだ戦場は、富津市に属する無人島、第二海堡。明治時代に、東京を外国から守るために建造された要塞の一つであり、今は海上保安庁に管理されながら灯台と消防演習場として機能している。

「来たか」

 アレクサンドルは空を見つめる。

 見つめる先に黒い点が浮かんでおり、それが徐々に近づいてくる。

 巨大な、怪物である。

 下半身が蛇、上半身が人間の女性という姿。

 アレクサンドルが召喚する従僕だ。

 『無貌の女王(クイーン・ザ・フェイスレス)』と名付けられた、メリュジーヌから簒奪した権能である。

 顔を見られてはならないという条件があるものの、水中戦から空中戦までこなすことができる上に、サイズまで自由自在と万能性に富む権能である。

 従僕の腕に抱きかかえられているグィネヴィアを見て、アレクサンドルはほくそ笑む。

 ランスロットは今頃、ベヘモットの重力に囚われて身動きが取れないはず。

 この隙に、グィネヴィアを始末する。

「待ち侘びたぞ、グィネヴィア」

「く……そういう割には、ずいぶんと手荒な歓迎ですわね」

 海岸に降ろされたグィネヴィアは、忌々しそうに顔を歪めた。

「仕方あるまい。今さら貴様を丁寧に扱ってやろうなどと誰が思う? 魔女の王だからといって、負債が消えてなくなることはない」

 アレクサンドルの目的が聖杯伝説である以上は、グィネヴィアと激突するのは至極当然である。これまで、幾度も幾度も、グィネヴィアに計画を引っ掻き回されて、さすがに腹に据えかねている。

 こうして向かい合っているだけで、グィネヴィアとの抗争が脳裏に蘇る。

「貴様のおかげで死を得た知己も多い。貴様の命一つでそれらのツケが返済できるわけではないが、貴様が差し出せるのはそれくらいのものだろう。ああ、そういえば壊れかけの身体をさらに壊した女もいたか。せっかくだ。纏めて取り立ててやることにしよう」

「そのためにアヴァロンを浮上させたのですか!」

「貴様をおびき出すには最高のエサだろう。逃げられるものなら逃げても構わんぞ。その場合、アヴァロンには二度と辿り着けんがな。どうする。別のアプローチを探るか?」

「く……」

 グィネヴィアは歯噛みする。

 ランスロットと引き離されたグィネヴィアは丸裸も同然。この状況でアレクサンドルと戦って勝てるはずがない。

 かといって、逃亡が可能かと言えばそうでもない。

 相手は神出鬼没の魔王。

 その第一の権能は、神速である。

 まずもって神祖では神速から逃げ切ることはできない。

 さあ、どうする。

 アレクサンドルの目の前で、可憐な少女の身体が急速に膨張する。

「なるほど、やはりそうくるか」

 神祖の奥の手。

 彼女たちは、竜神となることで、一時的に『まつろわぬ神』に匹敵する力を得る。

 ただし、その代償として残りの寿命のすべてを失ってしまう。

 グィネヴィアは賭けに出たのだ。

 アレクサンドルをここで倒し、残りの僅かな時間で『最後の王』を復活させようと。

 

 憐れだな。

 

 アレクサンドルは思う。

 たとえ、ここで彼を倒せたところで、辿り着けるのは偽りのアヴァロン。

 グィネヴィアの悲痛な覚悟は、文字通り徒労でしかない。

「貴様との因縁もここまでだな。死に花を咲かせてやる!」

「アレクサンドル様。お覚悟!」

 紫電を纏うアレクサンドルに、竜蛇となったグィネヴィアが踊りかかった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 ランスロットを拘束している見えない魔の手。

 重力という名の、誰もが普段気づかず接している自然界の不可視の力。

 それも、数百倍、数千倍のものとなれば、『まつろわぬ神』すらも捕らえる檻となる。

 ランスロットが不覚を取ったのは、ミノスの権能を突破したその瞬間を狙われたからである。

 今、ランスロットの真下に広がる海は黒々とした球体を孕んでいる。

 まるで、ブラックホール。

 小さな星は、自らを形作らんとするかのように万物を引き寄せ、取り込んでしまう。

 この権能の対処法は、まず重力の影響下に入らないことである。

 一度囚われたら、抜け出すことは難しい。

「実に見事、と言わざるをえんか」

 ランスロットは兜の下で笑みを作る。

 さすがに、仇敵の一人。姦計を弄するやり口は、彼の好みではないものの、してやられたという爽快感が、不快感に勝っている。

「友よ、力を振り絞るのだ。この楔、一息に断ち切ろうぞ!」

 ランスロットは愛馬の横腹を蹴って、叱咤する。

 一騎駆け。

 白き流星となって万軍を蹴散らすのは彼の秘儀。それなりに消耗してしまうし、この後に控えている戦いに万全で望めなくなるという懸念もあるが――――気にすることではない。

 《鋼》はくよくよと悩んだりはしない。

 即断即決。

 拙速を尊ぶのが剣の性だ。

「運命の島へ、行くぞ! 小癪な罠など、踏み潰すのだ!」

 愛馬の背で、ランスロットは身を伏せる。

 人馬一体となったその瞬間、ランスロットは白き光に包まれた。

 雷光を振り撒き、呪力が炸裂する。

 引力を断ち切って、ランスロットはついに自由を得た。

 そのまま、直進し、数キロの距離を一気に駆け抜けた。

 アレクサンドルが引き上げたという奇岩島。

 その真ん中に、陽光を反射する剣を見た。

「なるほど、そういうことか」

 着地してその剣を見ると、まさしくこれは主の骸である。彼が振るうエクスカリバーも、これと同じ骸から打ち直したものだ。

 だが、真に主がいるのなら、この剣の周囲から《鋼》の気配がなくてはならない。

 あの戦いを憂えているような、錆にも似た神気がどこからも感じない。

 つまり、この剣は――――

「アレクサンドル・ガスコインが用意したものか」

 主は復活と休眠を繰り返すたびに、その場に剣の骸を残す。

 おそらくこの剣は、アレクサンドルが世界中を飛び回っている間に見つけた、主の名残なのだろう。

 近くで、竜蛇の断末魔が聞こえた。

 かつて、幾度となく屠ってきた相手だ。聞き違うことはない。

「愛し子も志半ばで敗れたか」

 もはやこれまで。

 旧主を偲ぶ旅も、ここで打ち止めだ。

 グィネヴィアが倒れた以上、ランスロットに主を探す術はない。

 これから何をするべきだろう。

 まつろわぬ性に任せて流浪するのも悪くない。グィネヴィアの仇討ちをするということもあるが、どうにも心が躍らない。

 アレクサンドルとの戦いは、おそらくランスロットが望むような魂が振るえるぶつかり合いにはならないだろう。

 今までの、あの神殺しの戦い方を考えれば容易に予想できる。

「ならば――――ならば、余が選ぶのはこの道以外にあるまい!」

 己の一騎駆けを正面から打ち破って見せた神殺し。草薙護堂。アテナすらも誑しこむ伊達男振りに加えて、知恵が回り、そして正面からの戦闘もこなしてみせる。

 まずは、あの神殺しとの縁を頼み、今後のランスロットの神としての在り様を考えようではないか。

「では、戦おうではないか。草薙護堂よ!」

 ランスロットは聖槍の切先を掲げる。

 宣言するのは、奇岩島で彼を待ち構えていた神殺し。

 そして、静かに戦いの火蓋が切られたのだった。



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七十七話

 護堂とランスロットは、十メートルの距離を挟んで対峙している。

 護堂は決して目立つことのない普通の私服。ジーンズにパーカーという出で立ちで、とても命のやり取りをしようとしているとは思えない。少なくとも、外見からは。

 対するランスロットは普段通りの戦支度。西洋甲冑は曇りなく、太陽光を反射している。跨る愛馬も、一流の騎士が乗るに相応しい筋骨隆々でありながら、無駄をそぎ落とした、すらりとした巨躯である。

 右手に持つエクスカリバーが、神々しくも妖しく光る。

「この前、大分痛めつけたと思ったんだけど、腕も足も再生するんだな」

 護堂は、エクスカリバーに意識を向けつつ、何食わぬ顔で話しかけた。

「うむ」

 ランスロットは、敵と話をするのを否とは言わない。

 《鋼》の軍神であるランスロットにとって、戦いが存在意義であり、強者こそが友である。討ち果たすべき敵であろうと――――討ち果たすべき敵であるからこそ、一時の友誼を楽しむのだ。

 酔狂ではあるが、これが戦いに生きる神の性である。

「余は《鋼》の軍神。アテナのような《蛇》が生命力からくる不死性を持つのであれば、余は戦場における不死性を体現するのだ。数日もあれば、あの程度の怪我は問題なく完治する」

「目茶苦茶だな。それは」

「ふふ、卿こそ不死の権能を持っているというではないか。人のことは言えぬよ」

 護堂は眉を顰める。

 若雷神の化身を知られている。

 グィネヴィアが情報を渡したか。それとも、どこかで見られていたか。

「では、問答はこれくらいにしよう。まだ、語るべきことがあるのであれば、剣にて語ろう」

「そんな器用な真似、できるかよ」

 言うや否や、ランスロットが騎馬を走らせる。十メートルなど、一息で詰められる。対する護堂は、軍神を相手に近接戦を挑むほど驕っていない。

 騎馬の疾走には、槍衾で対処するのが古来からの作法だろう。

 生成した槍を、穂先を揃えて一纏めにする。

 それはまさに槍の壁。

 突如出現した刃の群れに、突進する騎馬は勢いのまま突っ込むしかない。

 自分の突進力で串刺しになる。そんな未来を幻視した軍神の判断は早かった。

「エクスカリバーよ。殲滅の光をここに!」

 己の槍を槍衾の中心に向ける。

 放たれた白き閃光は、射線上のすべてを薙ぎ払う。それは神槍を纏めた槍衾でも変わらぬ道理である。

 ただの一撃で槍衾に大穴を穿ったランスロットは危なげなく死の壁を突破する。

「ぬッ」

 その先に、いるはずの護堂がいない。

 どこに、と思考するよりも先に身体が動いた。エクスカリバーを振るう。柄と穂先で火花が生じる。地面に落ちたのは、二つの黄金の鎌。

『弾け!』

 続けて言霊が、エクスカリバーに叩きつけられた。

 万象に働きかける強制力、だとグィネヴィアに聞いた。

 自分の腕をへし折った権能だ。二度も三度もいいようにされるわけがない。

 ランスロットは呪力をエクスカリバーに注ぎ込む。白銀に発光する穂先が、護堂の干渉を断ち切る。

「お返しだ!」

 薙ぎ払う一撃は大地に断層を形成する。

 音もなく、エクスカリバーは世界を断つ。

 一撃を食らえば、即死は確実。

 楯を何枚重ねたところで、受け止められるものではない。

 故に、護堂が取るべきは回避のみだ。

 護堂はランスロットとの距離を一定に保っている。それは、エクスカリバーを確実に回避できる距離を維持しているということである。

 土雷神の化身を使い、辛うじて成功する程度の危ういものだが、希望はある。

 エクスカリバーはそもそもランスロットの権能ではない。グィネヴィアと聖杯のサポートがなければ十全に機能しないはずだ。

 そのグィネヴィアも、アレクサンドルに倒されたらしい。

 ならば、エクスカリバーの使用には大幅な回数制限がかけられているはずである。

 無駄撃ちさせれば、何れ聖杯の呪力が尽きるに違いない。それに、偽りのミノスを出したことで、聖杯は呪力を大分消費しているはず。

 すべては推測に過ぎないが、かなりの確度で事実だろう。

「逃げてばかりでは、楽しめぬではないか。どれ、ならば余のほうから攻め立ててみせようか」

 白銀の鎧が弾ける。

 露になるのは、蜂蜜色の短い髪を持つ、見目麗しい女性。艶めかしい肢体に豊満な胸。どこをとっても完璧な美女である。

 重厚な甲冑に代わって身体を守るのは、鎖帷子。面貌のない兜はその美貌を隠しはしない。

 ランスロットとしての名は、先代のグィネヴィアが世間に広めたものでしかない。彼女は女性でありながら《鋼》という稀有な存在。すでに神話と名を失った流浪の神で、軍神アーレスと縁深いアマゾネスの系譜に位置するとされている。

 それがランスロットの正体。

 そして、彼女が自らの姿を曝すとき、彼女の周りには数百からなる騎馬の軍勢が集っている。

「自分の鎧で騎士団を創るか。こうして見ると、本当に数の暴力だな」

「ふふ、なかなか壮観であろう。我が配下は」

「言ってろ」

 護堂は大きく距離を取った。近くにいては、敵の軍勢に呑み込まれてしまうから仕方がない。神速で回避だ。

 十分に距離を取ってから、護堂は一目連の聖句を唱える。

 生成するのは、数百はあろうかという剣。

 性能は雑の極みだが、とにかく数を揃えて撃ちまくることにしたのだ。

「卿も乙なことをするな!」

 笑いながら、ランスロットは配下と共に前進する。

 大地を響もす騎士団の行軍。蹄が地面を抉り、甲冑が間断なく金属音を放っている。

 それはもはや白銀の大津波だ。

「織田信長って知ってるか?」

 護堂は静かに呟いた。

 相手に問いを投げかけたのではない。ただ、言っただけ。脳裏に描くのは、あまりにも有名な合戦シーン。

「本当に、こんな感じだったかもな!」

 護堂は右手を挙げた。

 ランスロットは、反射的にその手の先を目で追う。上空に浮遊する、数え切れない星々。落ちてくるのであれば、好きにするがいい。と、ランスロットは余裕を見せる。乗り越えられぬほどではないと。しかし、次の瞬間、彼女は瞠目する。

 自信を持って召喚した騎馬軍団。

 その先頭が崩れた。

 馬は倒れ、騎士は宙に投げ出される。

 それはあたかも、テトラポットにぶつかる冬の荒波のように、粉々に打ち砕かれて霧散する。

「なんと!」

 右手はフェイク。

 護堂が号令をかけたのは、空ではなく地面。

 土雷神は地中を移動する権能。地下に罠を仕掛けることも可能なのだ。そして、大地を駆ける騎馬兵は突如として突き出してきた馬防柵に衝突して、その行軍を妨げられた。

 護堂の前に三重の柵。

 杭のように、逆棘状に刃を突き出し、ランスロットの軍勢の勢いを殺してしまった。

 騎兵の長所は速度と重量。それらを最大限に活用した突撃は旧時代の戦争において最大級の破壊力を持っていた。

 しかし、騎兵は動きを止められた瞬間に、著しく弱体化するものである。

 小回りが利かず、自慢の速度が活かせなくなる状況は、彼らにとって死を意味する。

 狙い澄ましたように、空から降り注ぐ星の群れ。

 黄金、白銀、赤に青。様々に輝く、剣の大群は次々とランスロットの配下を刺し貫いていく。

 幸いだったのは、この剣がそれほど頑丈ではなかったことか。

 とにかく数を用意したために、質にまで拘りきれていない。結果、鎧でも辛うじて防ぐことができていた。

 それでも、一騎、また一騎と数を減らしていく。

 ランスロットは如何したものかと思案する。

 空に逃れることはできない。剣は空を覆い尽くさんばかりの勢いで増殖と落下を繰り返している。彼女の真上は、もはや剣の雲に覆われているようなものだ。

「この一撃のために、ずいぶんと時間をかけたものだな」

 おそらく、ランスロットと戦う前から、護堂は剣群を用意していたに違いない。空からの一騎駆けを警戒してのものか。まさか、騎士団に対処するためということはあるまいが。

「なるほど、確かに卿は強敵だ! すばらしい! 心が躍るぞ!」

 ああ、なればこそ、堂々と彼に比肩せねばならない。

「さあ、進め! 馬防柵など乗り越えよ! 聊かなりとも恐れる必要なし!」

 ランスロットの配下は、俄然勢いを取り戻した。

 速度ということではなく、士気ということである。戦は士気。ランスロットに呪力を注ぎ込まれた騎馬兵は、傷つくことも構わず馬防柵を乗り越え、踏み潰し、打ち砕く。砕かれた兵は、ランスロットが己の武具で補充する。

 矢筒と矢が騎士となり、次いで兜が騎士となる。

「戦力の逐次投入は、愚策だって有名だろうに!」

 目の前でバタバタと倒れていく騎士たち。

 しかし、屍を踏み越えて、次の騎士が押しかける。

 三つの防波堤のうち、すでに二つが打ち砕かれた。想像以上に、敵の防御力が高い。空の剣群では、足止め程度にしかならないというのか。

 近づかれる前に、一気に数を減らしてしまうのが最善だ。

 護堂は呪力を高め、聖句を口にする。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ、大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 大雷神の化身で、薙ぎ払う。

「おお、その力は先日の!」 

 青き雷撃が、自慢の配下たちを呑み込んでいく。ランスロットは、これが護堂の最大の攻撃だと知っているが故に、まずは防御を固める。

 下した号令は、雷よりも速く騎士たちに伝わった。

 最前列が雷撃に呑み込まれたとき、ランスロットの前にはずらりと並ぶ白銀の壁が完成していた。降り注ぐ刃をその身に受けながら、世界最速の組み体操。見事な連携で積み上げられた甲冑の山が、雷撃を受け止めた。

 無論、護堂の最大の一撃はそう易々と防げるものではない。

 瞬く間に白銀の騎士は灼熱に炙られ融解していく。

 だが、それでも僅かな時間を稼ぐことはできた。

 その隙にランスロットはエクスカリバーを構え、甲冑を貫いた閃光に向けて白銀の光を一当てする。

「ふ……卿の雷撃、すばらしい威力だな。余の配下がここまで削り取られるとは」

 大雷神の化身を上手く打ち消したランスロットは、その後に残された惨状を見て笑みを深くする。

 エクスカリバーはあとどれくらい使えるだろうか。

 正面の騎士たちは全滅。残りは左右に展開していた計五十騎と、己の残りの武具から得られる分だけ。すべて足しても百には届くまい。

「あんたはもう、丸裸も同然だな」

「ふふふ、事実ではあるが女人に使う言葉ではないな」

 エクスカリバーを当てさえすれば、勝利は確実。こちらには必殺の武器があり、向こうにもまだいくつかの隠し玉がある。

 今はまだ前哨戦に過ぎない。

 だが、その前哨戦で、ここまで消耗してしまうとは。 

 愉快だ。愉快で仕方がない。戦いとはかくも甘美で情熱的だったか。久しく忘れていた興奮を、今、ランスロットは感じている。

「行くぞ、神殺しの少年よ! 雌雄を決しようではないか!」

 声高らかに、蒼穹の空に宣言する。

 それは言霊だ。

 剣群が消え、透き通った青空にたちまち雷雲が立ち込める。

 落雷が、ランスロットを打った。

 爆音が、周囲に放射状に広がる。

「力を出し惜しみはせぬ。卿を、ここで討ち果たすために、余は全力を尽くそう」

 護堂は、ランスロットの言葉に先んじて、可能な限りの楯を前面に展開した。

『縮』

 空間を圧縮して、真横に跳ぶ。

 一息で二十メートルは移動できたか。勘が冴えているのはいつものことだが、それでもギリギリだった。

 一瞬、判断が遅かったら。

 もしくは、一メートル、短く跳んでいたら。

 護堂は、消し炭になっていたことだろう。

 

 ランスロットがしたのは、ただ駆け抜けただけ。

 神速で、雷光を身に纏っての突進は、護堂の楯を紙屑も同然に蹴散らして大地に疾走の跡を刻み込んだ。

 威力に関しては、まあ、こんなものだろうと納得する。

 この程度の破壊は、どんな神様でもできるだろう。護堂も可能だ。何より、ランスロットの突進の威力は、以前の戦いで十分理解できている。

 だが、それでも。

 それでも、この加速力(・・・)は異常だ。

 何の予備動作もなしに、瞬間的に神速に突入する。それが、どれほど厄介か。普通、神速は速すぎるためにいくつかの制約を受ける。

 その代表例が、速すぎるために、格闘戦が難しくなるということである。

 それは戦闘機の格闘戦にも良く似ている。

 相手が視認できたときには、すでにすれ違っている、というように。

 だから、神速は細かい制御が難しい。

 しかし、直進するだけならば何の問題もない。

 しかも、ランスロットは斉天大聖と異なり、徐々に加速するタイプではないらしい。

 瞬間的に最高速度に突入できる、護堂と同じタイプの神速使い。それでいて、体当たりが基本的な戦い方というのは、反則と言っても差し支えない。

「神速での体当たりって、普通に走ってるのと大して威力は変わらないってのに……」

 護堂は呟く。

 神速は移動時間を短縮することで、相対的に速度を速めている。だから、単なる加速と異なり、空気抵抗を受けることなく移動できるという利点がある。 

 その反面、速ければ速いほど、衝突の威力が上がるという当たり前の法則は適応されない。

 もしもそれが適応されるのなら、神速使いは移動した瞬間に、空気の壁にぶつかって粉々になってしまうだろう。

 だが、騎馬による重量級の突撃が、神速で行われた場合。目で追うこともできない騎馬突撃となる。

 騎馬の突撃はただでさえ強力なのだ。

 本来、歩兵が相手にするべきではない。

「エクスカリバーに、これに、本当にあんたは目茶苦茶なヤツだな」

「誉めても槍しか出んぞ」

 目の前に迫る槍の穂先を護堂は半身を引いてかわした。

 遠距離ではエクスカリバーに狙い打たれる。

 中距離では神速の突進があって危険。

 近距離は並外れた武芸を披露してくる。

 さて、どの距離で戦うのがベストか。

「瞳輝く女神の祝福よ。我を勝利に導き給え」

 大地の力をその身に宿す。

 アテナから与えられた権能は、瞬く間に護堂の身体を絶好調なものにする。

『やっと軍神と決着をつける頃合か。待ち侘びたぞ』

 アテナの声が脳裏に響く。

 この権能を使うのは二度目。この声の正体も、大体理解できている。

(あんた、アテナじゃないんだな)

『無論。妾はアテナの人格を模した導き手よ。あなたたち人間風に言えば、なびげーしょん・しすてむというヤツだな。数多の英雄豪傑を勝利に導いてきた、女神アテナの権能の具現よ』

(なるほどね。だったら、ランスロットを倒すための道を示してくれよ!)

 護堂は右手に天叢雲剣を召喚する。

 刃は、あらゆる色の存在を許さない漆黒。

『この権能を使う以上、時間はかけていられぬぞ。あなたの身体にかかる負荷は極めて大きい。《鋼》を合力させるのだ』

 脳裏に響く、アテナの声。

「その剣は、黒き星を生み出したあの《鋼》だな。卿も切り札を出してきたか」

 ランスロットは愛馬を巧みに操って、護堂の目前に迫る。

「とはいえ、この距離ではあの破壊力の剣は振るえまい。卿が苦手とする近接戦で首を挙げさせてもらうぞ」

 一息で、突き出されたのは五連撃。それが、まるで同時に放たれたかのように思えた。

 護堂の勘が危険性を脳に訴える前に、身体が動いた。

 護堂は軍神も驚くほど見事な体捌きで、この槍撃をかわしたのだ。

「何?」

 ランスロットは、いぶかしみながら護堂と向かい合う。

 そして、さらに槍を繰り出す。

 振り下ろし、突き、払い。フェイントを織り交ぜながら、技を尽くし、護堂を討ち果たそうとする。しかし、護堂はこれを軽々と避け、太刀で払いのける。

 受け止めることはせず、穂先が身体に向かないよう喰らいつく。

 その動きは、素人のものとは思えない。

 そう、まるでこれは――――

「アテナの権能。なるほど、そのような力であったか!」

「それだけじゃねえよ!」

 護堂は力強く踏み込み、ランスロットに斬りかかる。もちろん、これを防ぐのは難しくない。簡単に弾いて仕切りなおしだ。

 身体が勝手に動く。

 あのランスロットを相手に接近戦をすることができるとは。

 それにしても、恐ろしいのはこれが護堂の実力ではないということだ。

「まるで、身体が技を知ってるみたいだな」

『当然だ』

 と、語りかけてくるのは、アテナではなかった。

(おまえ、もしかして天叢雲剣か)

『然り。巫女とより深く同調したことで、(オレ)も意思を表すことができるようになったのだ』

『《鋼》。無駄口を叩く時間はないぞ。ヤツが来る。左からの振り下ろしぞ』

『言われずともだ。王よ、己と同調するのだ』

 すると、ランスロットの槍を勝手に跳ね上がった右手の太刀が弾いた。

 アテナの権能は、あくまでも道を示すだけ。しかし、天叢雲剣は《鋼》として数多の戦闘経験があり、アテナの示す道に従って、最適な身体運びを実現してくれるのである。

 護堂が消費するのは体力のみ。

 頭の中で口喧嘩が繰り広げられることによる精神的疲労を除けば、文句の付け所がない。これほど万能の近接戦用の権能は他にないだろう。

『エクスカリバーを潰さねば話にならぬ。例の破魔の太刀を当てるぞ』

『己を使うとなれば、身体は王自らで操らねばならぬ。気を引き締めるのだ』

「ああ、分かったよ」

 斬り合って、すでに三十合。

 護堂は防戦一方ながらも、ランスロットの苛烈な攻めを捌ききっている。

 しかし、身体が徐々に重くなっているのを感じる。アテナの権能のフィードバックが始まったのだ。

 思っていたよりも、持続時間が短い。

 少しまずいか。

『前、来るぞ!』

 アテナの警告。

 エクスカリバーの穂先が護堂の心臓をピタリと狙っている。

 護堂は右足で地面を蹴り、身体を捻って左に回転する。同時に、エクスカリバーが光を放つ。空中で仰向けになった護堂の直上十数センチを殲滅の光が駆け抜ける。

「あっぶねえッ」

「ハハッ。良く避けた! が、そんな風に寝ていては、馬蹄にかけられるのも仕方ないのではないかな?」

 見れば、地面に仰向けになる形の護堂に巨大な蹄が迫っている。

 鋼の蹄は、地面を大きく陥没させる。でたらめな威力。

「おっと。さすがだ」

 ランスロットは、上を取った護堂の斬撃を、白い穂先で受け止める。

 土雷神の化身で地面を移動して回避していたのだ。地中にいたのは一瞬。すぐに飛び出して斬りかかった。

「出し惜しみはせぬ、と言ったぞ」

 ひらり、と地面に降りた護堂にランスロットは妖艶な笑みと共に槍を向け――――。

 キラリ、と光る白銀に、先んじて漆黒の刃がその穂先を跳ね上げる。

 空に打ち上げられる閃光。

『後ろに跳べ!』

 アテナの声が、身体を後方に導く。

 地面が揺れたのはまさにその時であった。

 ランスロットの愛馬が、強靭な前足で護堂に襲い掛かっていたのだ。仕損じた前足は、再び地面を蹴り穿った。

 

 ――――しまった、距離が。

 

 接近戦だからこそ、容易にエクスカリバーをかわすことができた。

 放射状に広がる攻撃は、射手の近くにいたほうが攻撃面積が狭まる。その上、撃たせないように攻撃を畳み掛けることもできた。しかし、僅かに距離が開いてしまった。すでに、敵はこちらに狙いを定めている。

「ならッ」

 呪力を刀身に注ぎ込む。

 護堂も同じ。出し惜しみはしない。

「さあ、星を断ち切る破滅の光を見よ!」

「黒き星よ。一掃しろ!」

 それは、先の戦いの再現であった。

 白き星と黒き星。

 二つが互いの中間地点でぶつかり合う。

 直線を撃ち抜くエクスカリバーに対し、天地開闢の剣は重力球。以前は、これを刃状に加工したものだが、生憎、それだけの出力を出すには時間がない。

 そこで、護堂は黒き重力球の制御を放棄した。

 白と黒のぶつかり合いが世界にばら撒くモノクロの光に紛れ、護堂は土雷神の化身を行使する。

 他の神速との違いは、地中を移動するので、心眼でも見切れないことだ。

 エクスカリバーが、天地開闢の剣を貫いたその時、護堂はランスロットの真横に再出現を果たしていた。

「な、んと!」

 ランスロットは驚愕しつつも、手綱を操り護堂から逃れようとする。

 すばらしい反応速度だ。不意を突かれ、防御が不可能と悟ったのだ。反射的に身を守ろうとする身体に理性の力で強引に回避行動を取らせる。

 しかし、狙いはランスロットではない。

 あくまでも、エクスカリバー。

 彼女を仕留めようとは思っていない。

「我が前に敵はなし。我が道を阻むもの、皆尽く消え失せよ。之、魔を断つ一斬なり」

 破魔の力を一刀に凝縮した一撃。

 これを以て、ランスロットとエクスカリバーの霊的繋がりを断ち切るのだ。

 この一振りを、回避する術はランスロットにはなかった。

 

 

 バチ、と火花が生じ、ランスロットの手からエクスカリバーが弾け飛んだ。

 これで、最も危惧すべき武具は失われた。

 護堂有利かと言えばそうではない。 

 呼吸が苦しくなってきた。

 アテナの権能の副作用が、身体を蝕んでいる。

 残り数分か。

 勘ではあるが、タイムリミットはそれくらいだと思えた。

「エクスカリバーを封じるために、アテナの剣を犠牲にしたか。大した判断だ。やはり卿はすばらしい」

 切り札を囮に相手の切り札を封じる。そうそう選べる選択肢ではない。

 護堂にはまだ、奥の手が残されているからこその判断でもあるのだが。

「今の卿を、我が配下で攻め立てても潰せぬか。であれば、残る力を振り絞り、一度で叩き潰すべきだな」

 ランスロットが指を鳴らすと、彼女の配下とその残骸が光の粉となって消えた。直後、ランスロットは甲冑に身を包んだ姿となった。ただし、美しい顔は表に出したままだ。初めに着ていた甲冑に比べると、幾分か防御力には劣るタイプか。

 護堂に殲滅され、跡形もなく消し飛んだ分を再生するには、時が必要なのだろう。

「霧……」

 ランスロットの姿が、発生した濃霧に消える。

『払え』

 これも、前回の焼き回しだ。 

 霧の権能など、護堂の言霊でいくらでも払いのけることができる。

 ただし、これは身を隠すためのものではない。

 すでに敵の神気は上空の雷雲に消えている。

 逃げたわけではない。 

 雷雲が秘める雷のエネルギーを己のものとして、白き恒星の体当たりを行う腹だ。

 威力だけならエクスカリバーに匹敵する、ランスロット唯一にして最大の秘儀。

『たいみんぐは妾が計る。あなたと《鋼》は迎撃の用意だ』

『王よ。夷狄まつろわす剣の真価を見せ付けるときぞ!』

 アテナと天叢雲剣のサポートを受け、護堂は剣を構える。

 残る呪力をすべてこの一刀に託す。

 敵も残る力をすべて費やしてくるだろう。

 正真正銘、これが最後の撃ち合いとなる。

 心臓の拍動が、はっきりと分かるくらいに集中できている。

 これならいけるだろう。

 大地を踏みしめ、剣に呪力を注ぎ続ける。

 漆黒の刀身が、薄らと光を放ち――――――――そして、白銀に輝いたとき。

『来るぞ!』

 雷鳴とともに、白き光が落ちてきた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 すばらしい戦いだった。

 雷雲の中でランスロットは胸を高鳴らせながら神馬を走らせる。

 雷に打たれ、その都度呪力が高まっていく。

 ランスロットの欲求は、十二分に満たされたと言えるだろう。これほどまでに強い敵には、なかなか巡り合えるものではない。

 できることならば、もっと長く楽しみたい。

 まるで逢瀬を楽しむ男女のような思いで護堂との戦いを振り返る。

 しかし、そのような感傷に浸ることは、ランスロットの主義に反する。

 残念だが、ここまでだ。

 空の下では、護堂がランスロットの攻撃に備えて抜かりなく何かの準備をしている。

 罠。関係ない。今のランスロットの全力には多少の姦計で対処することなど不可能だ。

「さあ、行くぞ。余の一撃、手向けと受け取れ!」

 ランスロットは、愛馬を鞭打ち雷光と化した。

 遂に解き放たれたランスロットの一撃は、瞬きの間に護堂ごと擬似アヴァロンを消し飛ばすだろう。

 その威力は、アテナと戦ったときの比ではない。

 『まつろわぬ神』として放つ、最大の一騎駆けは実に千年ぶり。自身としても最高の威力が出せていると確信する。

 天下る雷光を、アテナの啓示と冴え渡る直感で予測した護堂は天に掲げる神剣を解放する。

 白銀に輝くその剣は、先ほどまでランスロットが振るっていた光と同一のものを宿している。

 ランスロットと打ち合う中で、権能を複製したのである。敵の切り札を、己のものとして利用する。まさに、まつろわす神剣の面目躍如である。

 空から落ちてくる重圧は、もはや常人が耐え得るものではない。

 直撃を受ければ、為す術なく死ぬと理解できる。だが、それでも負けるつもりはない。

 振り下ろす一刀は、ただの一撃のみ許された神世の一撃。

 ランスロットの莫大な呪力が、肌を焼き、身体を押し潰そうとする。神速。それは、あまりに速く、苛烈。このままでは、護堂は死ぬしかない。

 それでも、護堂は冷静に前を見る。

「エクス――――」

 ランスロットの槍が護堂を貫くのに先んじて、輝く刃は振り下ろされる。

「カリバー!!」 

 解き放たれるのは、星を斬り裂く《鋼》の刃。

 ――――――白銀に輝く彗星が、白き恒星を包み込む。

 目を焼くような、激しい光の激突は護堂とランスロットの世界を真っ白に染め上げる。

 目を剥いたのはランスロット。

 まさか――――まさか、このような反撃があろうとは。

 激突は一瞬。

 世界は変わらず白く染まっている。

 だが、その身に感じる灼熱はランスロットに敗北を認めさせるには十分である。

 この灼熱こそが、追い求めていたものに相違ない。

 激烈なる戦いの果てに、剣折れ、矢尽き、楯が砕けたその場こそ、己の死に場所と定めていた。

「ああ、これこそまさに――――」

 そこから先は、言葉にならなかった。

 《鋼》の性に生き、《鋼》の性に死ぬ。

 思い残すことなど何もない。

 視界に次いで、思考も白く染まる。

 肌を焼く灼熱が、思いのほか心地よい。

 ランスロットは、薄らと微笑み、慣れ親しんだ灼熱に身を任せた。

 




次章予告。
ランスロットの死によって、邪魔者が消えた道満が動き出す。
そして、晶の秘密が明らかに!

最終章突入


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最終章 
七十八話


 降り注ぐ豪雨の壁は視界を妨げ、体温を奪っていく。

 

 篠突く雨の奥に、天を突くかと思うほどの巨大な影が聳えている。

 山――――ではない。

 蠢く何か。

 生物だ。

 擡げた頭の先には雲が。

 裂けた口からは大気を震わす怒号。

 あれに人並みの感情があるのなら、間違いなく怒り狂っていると断言できる。

 振るわれる尾は山を砕き、川を堰き止め氾濫させる。

 ただそこにあるだけで、あらゆる生物はその怪物の膝下に侍ることを余儀なくされる。

 ああ、勝てない。

 このような魔物には勝負を挑むだけ無駄なのだ。

 逆らえば最期、苦しむ間もなく殺される。

 あの怪物の巨体を見れば、軽く小突かれただけで人間を轢殺するに足る力を出すことは容易に想像できる。

 逆らってはならない。

 逆鱗に触れてはならない。

 あれは、人の手に余る怪物なのだから。

 

 では、今あの怪物が怒号を上げているのはどういうことだ。

 山は砕け、川は溢れている。にもかかわらず、あの怪物は怒りを静める気配すらない。

 怒りを向ける対象が、しぶとく生き長らえているからだ。

 やがて、幾度目かの咆哮を発した後、ぱったりと世界の音は失われた。

 激しく降り注いだ雨も、吹き荒れた風も、今では嘘のように消え去った。

 失われた命と救われた命があり、その立役者は五体満足で帰ってきた。

 

 怪物を恐れることなく立ち向かった英雄の名はスサノオ。

 救われた姫の名はクシナダビメ。

 討ち取られた怪物の名はヤマタノオロチ。

 

 遥かな太古。

 この世界が神の国であったときの、物語である。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 ランスロットは確かに倒した。

 それだけの攻撃を直撃させたし、討ち果たした手応えもあった。

 しかし、権能が手に入らなかった。

 原作でもランスロットの権能は簒奪できていないので、権能を得るには正面撃破以外の何かしらの条件があるのかもしれない。

 少なくとも、今回の戦いに於いて護堂は権能を得るだけの戦いぶりを見せたと思っている。

 それでも権能が得られなかったのだから、カンピオーネのシステムには護堂の知らない規則が存在するのだろう。

 それ自体は原作通りなので、それほど心を悩ませることではない。

 ただ、ランスロットを倒した時点で、護堂はネタ切れ――――つまり、『原作知識』が底を突いた。

 ヴォバン侯爵への先手必勝にリリアナの買収、羅濠教主への対策などなど、事前の知識を活かして災難を軽減してきた場面は多々あった。

 そういった、優位性が失われ、護堂は正真正銘裸一貫でこの世界と相対しなければならなくなったのだ。

 今までは知っているという安心感があった。しかし、これからはそれは通じない。

「まあ、でもよく考えたら別に必要ってわけでもないのか」

 そもそも、始まりからして原作とは別の道を行ったのだ。今さら、知らない敵、知らない展開があったところで驚くに値しない。

 よって、深く考える必要はない。

「今までだってやってこれたわけだし、これからもなんとかなるだろ」

 非常に楽天的な考えで、護堂はそれ以上の思考を放棄した。

 

 

 十二月三日。

 この日は、草薙家にとって重要な祝日である。

 護堂の妹である草薙静花の誕生日だからだ。

 すでに、妹にだけは過保護な父から、どこの国のものとも分からぬけったいな誕生日プレゼントが宅配で届いている。

 もちろん、それを見て静花が引いたのは言うまでもない。

 

 ともあれ、この日の昼間は、護堂は静花と共に新宿を歩き回った。

 もともとそういう約束をしていたからで、特に予定もなく、神様の襲来もなく、本当に何事もなく夜を迎えたのだった。

 草薙家は十二月に入ったその日のうちに炬燵を用意した。

 洒落たレストランで外食、ということも考えたのだが、それはクリスマス辺りに取っておいて、ここは出前を取って、みんなで飲み食いしようということにした。

 参加者は、静花と護堂の共通の知り合い。つまりは、祐理と晶、明日香である。祖父はなんと海外に出てしまって不在だ。

 護堂から静花への誕生日プレゼントは、折を見て渡すつもりである。

「静花ちゃんに渡す誕生日プレゼント、先輩選んでたんですね」

 エプロンを着けてキッチンに立つ晶は、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出した護堂に言った。居間で祐理と談笑している静花には聞こえないように小声だ。

「まあ、ランスロットと戦う前には準備してたんだよ」

「そうなんですか」

 キッチンには、おいしそうな匂いが立ち込めている。

 鍋で煮込まれている中華スープが匂いの発生源だ。

 今日のメインは中華料理。その多くは、陸鷹化が経営する店に注文したものである。

 しかも、金は取らないとのこと。

 そのことに関しては、カンピオーネである護堂への配慮もあるが、それ以上に母国のカンピオーネへの対策という面が強いのだろう。

「陸さん、大変そうですからね」

 鷹化の事情を知る者の一人である晶は憐れみの感情を向ける。

 同じカンピオーネの下に就く者同士でありながら、主の違いでその境遇は大きく異なっている。

 鷹化自身が羅濠教主を嫌っているわけではないのだが、その虐待を通り越した一方通行な師弟愛には辟易しているのだろうと、推測を立てる。

「先輩、こっちはもう完成でいいと思います」

「お、そうか。悪いな、火、見てもらって」

「いえいえ、そんな。なんだってお手伝いしますよ」

 お玉で鍋をかき回しながら、晶は笑みを浮かべる。

「ちょっと、お二人さん。いいところ悪いんだけどさ、出来たんなら持ってきてくれない?」

 そこに、明日香がやってきた。

 勝気な静花によく似た双眸の少女だ。護堂と静花の幼馴染であり、近所に暮らす彼女は、当たり前のように、この誕生会に招待されていた。

「え、あ、すみません。徳永さん」

「おーい、明日香。後輩を威圧すんなよな」

「してないわよ。失礼ね」

 そう言いながらも、ジト目で晶を見ているのだが。

 

 その一方で、居間のほうでも着々と準備が進められていた。

 祐理が届けられた料理の数々を並べていく。今日の主役である静花は、中華料理のラインナップを見て唖然とする。

 とにかく、輝いて見える。

 一流のシェフが腕を振るったとしか思えない飾り付け。品目も多く、とても一度に炬燵に乗せられるものではなかった。

「まずは、静花さんの好きな物からいきましょう」

 そう言う祐理の提案で、静花は食べる順番を決めていく。

 本物のフカヒレを贅沢に使った物もあれば、ふわふわほかほかの芙蓉蟹、エビチリに八宝菜、その他名前が分からない料理が所狭しと並んでいる。

 自然、お腹が鳴ってしまう。

「スープ持ってきました! なんと、フカヒレ入りです!」

 晶がお盆に載せて人数分のお椀を持ってくる。

 その後ろから護堂と明日香が麦茶に紙コップ、取り皿を持って現れた。

 それを配って、準備完了だ。

「護堂、音頭」

 明日香に言われて、護堂が乾杯の音頭を取った。

 飲み会ではなく、あくまでも静花の誕生日パーティーということで。

 

 

 

「どうしてこうなった」

 護堂は頭を抱えて唸った。

 パーティーは大いに盛り上がった。

 料理を食べ、ジュースを飲み、そしてプレゼントを渡した。静花は感動のあまりに涙を流し――――たりはしなかったものの、嬉しそうに笑ったのである。

 問題があったとすればその後のことだろう。

「お兄ちゃん、聞いてりゅ!?」

 ダン、と静花が床に叩き付けたのは一升瓶。すでに空である。

 顔を真っ赤にしているのは、羞恥でも熱でもなく、アルコールが原因だ。

「聞いてる、聞いてる。とりあえず、それを置きなさい」

「聞いてない、聞いてないもんッ」

「駄々を捏ねない」

 幼少期に戻ったような感じだ。

 静花から一升瓶を取り上げて、隣の部屋に転がす。

 そこには、空になった瓶や缶が無造作に投げ捨てられていた。この大半を空けたのが、静花であった。

「大体、お兄ちゃんはいつもいつもいつもいつもいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃしていもうとのこともかんがえなさいよぉ」

「分かった分かった。ほら、チューハイはダメだって。麦茶にしなさい」

 護堂が紙コップに麦茶を注ぎ、静花に渡そうとするも、受け取りは拒否される。

「静花ちゃん、水」

 横から晶が静花に紙コップを渡した。

 それを、静花は胡乱げな表情で見た後、目を輝かせて一気飲みした。

「ぷはーッ! 酒! 飲まずにはいられない!」

「それ酒かよッ」

 透明だったから、てっきり水かと思ったら、日本酒ではないか。

 晶は酒盛りと化して真っ先に静花に轟沈させられていた。もそもそと再活動を始めたときには、復活してくれたものと思ったのに、蓋を開けてみたらこれだった。

 この酒は、母が置いていったものだった。

 静花が実はウォッカを一瓶飲み干しても平然としていられると知っている彼女は、せっかくのパーティーなのだからと大量の酒を買い込んでいたのだ。

 途中で静花がそれを思い出し、せっかくだからと飲み始めたのがすべての始まりだった。

「ねえねえ先輩。コルク抜き持ってません?」

 晶は背中から護堂に抱きついて、ワインの瓶を振る。

「悪いな。持ってない」

「むー? ちゃんと飲んでますかー?」

「飲んでるよ。たぶん、おまえよりは飲んでる」

「赤くないです?」

「酔わない体質だからだ」

 カンピオーネにアルコールが効くかと。

 今の護堂ならばテキーラをがぶ飲みしようとも顔が赤くなることもないだろう。だから、余計にこの惨状を正しく理解できてしまうのだ。

「んんー」

 恥じらいも何もなく晶は護堂に頬ずりする。

 座っている護堂に負ぶさる形で、全身を密着させているのだ。

「先輩の背中、あったかいですぅ」

「晶ちゃん、くっつきすぎッ。はーなーれーてー」

「嫌」

「――――――――――――――――――――――――――――――――――」

 言葉にならない悲鳴のようなものを上げて静花は晶に踊りかかろうとし、その間にいる護堂に突っ込んだ。

「うごッ」

 晶と静花に挟まれて、内臓が大きく揺れる。

「お、おまえ等、いい加減にしろよ」

「お兄ちゃん。あたし、ここがいい。ここで寝る」

 静花が胡坐をかく護堂の膝の辺りを叩いて主張する。

「おう、そうか。だったら早く寝てくれ」

「えー、寝ちゃうんですかー」

「おまえもさっさと寝てくれ。頼むから」

 耳元で不平を言う晶の頭を護堂は乱暴に撫で付けた。

 ふへへー、と蕩けた笑みで晶は護堂の背中に顔を埋める。

「あのですねー先輩。実は、今日はですねー。満月なんれすよー」

「ん……そういえば、そうだったな」

「げつれいはひめみこにわじゅうようなようそでわないれすか」

「そうだったか。その話、晶だけだったような。でも、周りもそうなのかな」

「せんぱいいっしょにねましょーよぅ」

「話を変えすぎだ!」

 ゴロゴロと背中で甘え続ける晶を引き離そうにも引き離せず、護堂は嘆息した。

 

 

「やれやれ、母猫に甘える子猫みたいね、その娘」

 背中に引っ付く晶を指差して、明日香が言った。

 すでに晶は眠りに落ちている。護堂の膝は静花が枕にしており、どうにも動けない状況である。

「ああ、万里谷を任せちまって悪かったな」

「別に気にしないで。あたしじゃこの二人の相手はできなかったわよ」

 静花にウォッカを盛られた祐理は早々に倒れてしまっていた。一度口を付けたからには、最後まで飲み干さなくてはならないと思ったのだろう。大分無理をしたらしい。今は明日香が隣の部屋に運び、長座布団の上で休ませている。

「初心者にウォッカは下手したら死ぬわよ」

「まさか、全部飲もうとするとは思わなかった」

 飲まなくていいとは言ったのだが、アルコールの恐ろしさを知らなかった祐理は、一口目でそれがダメなものだと悟りつつ、二口目で一気に呷ってしまった。

 ダメなら一息にと意を決したのだろうが、それで終わりだった。

 最悪の場合は若雷神の化身で治癒するべきだが、幸い、そこまでの大事ではなかった。

「明日香。おまえは、飲んでないんだな」

「当然でしょ。あんたと静花ちゃんの異常っぷりは知ってるんだから、お酒が出てきた時点で身の危険は感じたわよ」

「リスクマネジメントしっかりしてんな。おかげで助かったけどさ」

「で、高橋さん。いつまでくっつけてる気よ」

「とりあえず、今引き離したいところなんだけど、静花がここにいるから迂闊に動けない。手伝ってくれ」

「はあ? ああ、なるほど」

 晶を引き離そうとすれば、静花を落とすことになりかねない。

 そこで、明日香は座布団を持ってきて、静花の頭の下に差し入れ、その隙に護堂は自由を得た。

「とりあえず、この二人は静花のベッドに運べばいいか」

「そうね。そうするべきよね。万理谷さんはどうする?」

「あー、座布団じゃまずいよな。よし、母さんの布団でも持ってくれば大丈夫か。この前クリーニング出したばっかだし」

「じゃあ、それでいいわね。それじゃ、この二人から運びますか」

 静花と晶を、静花の部屋に運び込み、祐理を母親の布団に寝かせたことで、ほっと一息ついた。

 後は、ごちゃごちゃになってしまった部屋の片付けだ。

 空き瓶と空き缶を分別して大きな袋に入れる。

「それにしても、静花ちゃんがあそこまで酔うの、珍しいじゃない」

「そうだな。中学生とは思えない酒豪だからなあ。あいつは。まあ、最初に度数の高いヤツをガブガブ飲んでたからな。いつも以上に回るのが早かったんだろう」

 少しずつ、舐める程度に飲むのならまだしも、海賊を思わせるがぶ飲みであった。

 あの段階で、止めておくべきだった。

 草薙家のいつもの感覚で、放置してしまったのが仇となった。

「あの二人、すごくお酒に弱いみたいね。明日、大丈夫かしら」

「そうだな。二日酔いにならないといいけど」

 明日が休みでよかった。

 真面目な祐理や晶が、二日酔いで登校できなくなるなど、護堂の監督責任が問われても仕方がない。

 少なくとも、護堂の良心が問う。

 静花はたぶん大丈夫だ。アルコールの分解能力は護堂に次いで高い。明日の朝には完全にアルコールを分解していることだろう。

「残りの料理はどうしたらいい?」

「そうだな。おすそ分けって感じでみんなに持って帰ってもらおうと思うけど。こんなに余っても、食べきれないし」

「へえーそうなの。草薙家なら、あっさりと消化できそうなものだけど」

「明日香。おまえは家にどんなイメージ持ってんだよ」

「何、言って欲しい?」

「いや、結構です」

 ゴミを入れた袋の口を縛り、玄関まで持っていく。

 料理は、小分けにしてタッパーに入れ、冷蔵庫にしまう。

 片付けが済むと、散らかり放題で足の踏み場もないような部屋が、すっかり元通りになった。

「すまなかったな、明日香。片付けまで手伝ってもらって」

「気にしないで。この状態を放置するなんてできないもの」

 落ち着いたので、炬燵に入る。

 実は、まだ眠るほど遅い時間ではないのだ。

 と、そこまで考えて、

「しまった、万理谷の家に連絡を入れなきゃいけないのか」

 晶は一人暮らしだが、祐理は家族と暮らしている。その暮らしぶりは一般的な中流家庭で、当然娘が帰ってこなかったら心配するだろう。

「番号、知ってる?」

「ああ、とりあえずはな。電話したことないんだけどな。あれ、これは俺が電話をかけていいのか?」

「あ、確かに男の家に泊まるってのはまずいわね。いいわ、じゃああたしが電話してあげる。万理谷さんは、家に泊まったことにすればいいわ」

「まじか。助かる」

 明日香の申し出をありがたく受け、護堂は事情の説明を明日香に任せた。

 こういうとき、明日香の物怖じしない性格は心強い。即断即決で、初めての相手とも話をする。姉御肌で、下級生などからよく慕われていた。おそらく、今でもそうなのだろう。

「はい、終わったわ」

「お、ありがとう。助かったよ」

「ちょっと、感謝足りないんじゃない? 人の家に泊まるって、その人の親にちゃんと説明するの大変なんだから」

「ああ、そうだな。今度何か奢るよ」

「その言葉、忘れないでよ」

 それから、二人は炬燵に入った。

 手元には紙コップといくつかの菓子類。

 騒がしさが収まって、一段落ついたと言わんばかりだ。

「明日香は、これからどうする? 泊まってくか?」

 護堂は尋ねた。

 すると、明日香は眉根を寄せて、ため息をつく。

「あのね、女の子に泊まってくかとか平然と聞くな」

「あ、そうだな。悪かった」

「まあ、そうね。酔った女の子がいる家に男が一人。危ないし、あたしが監視してあげてもいいわよ」

「別に監視とかはいらないけど、泊まるんなら布団を持ってこないとな。確か、押入れにあったはずだ」

「あっさり流すな」

 明日香は力なく言うが、護堂の耳には届かない。

 結局、このまま護堂と眠る女子たちを放置するわけにもいかないので、明日香も泊まることになったのだった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 そこは真っ白な部屋だった。

 壁も天井もベッドもすべてが白。清潔感に溢れたその部屋は、行き渡る管理の結果外部との繋がりの大半が遮断されていた。

 その部屋には一つのベッドがあり、そのベッドには一人の少女が横たわっている。

 やせ細った少女で、一見して状態がよくないことが分かる。

 少女がこの部屋に連れて来られてから、二年が経とうとしている。

 元気で快活だったかつての姿はすでになく、学校のことも思い出せなくなってきた。それだけの時間を、様々な苦痛と共に過ごしてきたのだ。

 代わり映えしない毎日。窓の外の景色も見飽きてしまった。毎日毎日同じ枠から眺め続けるのであれば、そこに動きがあったとしても、絵画と変わらない。

 少女を責め苛むのは、白血病という病気。

 血液の癌などとよく呼ばれている、それだ。

 弱りきった身体に引きずられるように、精神(こころ)も弱っていた。生きることではなく、死ぬことを考えるようになったのは、いつの頃からか。

 死神の気配を薄らと感じ始めたとき、彼女の胸に去来したのは恐怖ではなく安堵であった。やっと楽になれると。生きる希望を持たない彼女は、理不尽な世界に対する恨みすら抱かなかったのだ。

 だが、余命が残り数日となったある晩、ソレが現れた。

「よき魂を持っておるようじゃ」

 誰だろう。

 眠りに落ちていた彼女は、ありえない声に起こされた。

 動かすのも億劫な身体だ。視線だけで声の主を探す。

 いた。

 ソレは、彼女のすぐ隣に立っていた。

 老人だ。暗闇よりも尚暗い、影が固まったような姿であるが、そう感じた。

「新たな身体、欲しくはないか」

 老人は、そのようなことを言ってきた。

 健康な身体で、まったく新しい人生を送ってみたくはないか、と。

 悪魔の囁きにも似たその問いは、死を欲していた彼女を強く揺さぶった。

 健康な身体なら、こんな苦しい思いをする必要はない。

 好きなだけ、遊ぶことができる。好きなだけ、運動することができる。好きなだけ、食べることができる。この病室に入れられてからできなかったことが、なんでもできるようになる。 

 本来はありえないことだ。だが、ありえないとすれば、この老人がこの場にいること自体がありえない。死に瀕した自分の妄想か。それとも、気を利かせた死神が、この身を憐れんでくれたのだろうか。

 老人の問いかけは、生きることを諦めた少女に僅かな希望を抱かせた。

 そして、希望を抱いてしまったが最後、死はなによりも恐ろしいものに思えてしまった。

「そうか。死にとうないか。そうか、そうか。よいぞ。ならば、主はこれからわしの娘じゃ」

 悪魔との契約。

 それでも構わなかった。生きることができるなら、他のことはどうでもよかった。

 そうして、彼女は死に、新たに徳永明日香として生まれ変わった。

 

 

 護堂との違いは、この道を選んだ自負があること。

 あれ以外の選択肢がなかった上に、老人の正体も知らなかったとはいえ、何をしてでも生まれ変わりたいという願いは明日香のものだ。

 だから、明日香は自分の選択には後悔をしていないし、後悔するつもりもない。

 ただ、護堂にそれを隠しているということが辛いだけだ。

「なんだ、どうした。悩み事か?」

 炬燵を挟んで反対側にいる護堂は明日香の表情から何かを察したらしい。

「別になんでもないわよ」

「ふうん。まあ、なんかよく分からんけど、溜め込むのはよくないぞ」

「そうね。ありがと」

 護堂に心配してもらえるのは、嬉しい。同時に、抱くのは罪悪感。九割以上の確率で、道満は明日香を見限っている。

 もはや、明日香に用はなく、気が向いたら彼女の様子を見てみる程度でしかない。だから、護堂に打ち明けても、道満に知られることはない。

 けれど、明らかに格上の道満が、明日香の身体に何かしらの術を施していないとも限らない。

 明日香が裏切った瞬間に、何かよからぬことが起きるかもしれない。 

 だから、迂闊に口にすることができない。自分と、道満の関係を。

 いや。

 それは詭弁だ。

 自分はただ、恐ろしいだけだ。

 護堂との関係が終わってしまうのが。

 護堂の敵になるかもしれない。

 それが、恐ろしいのだ。

「なあ、ほんとにどうかしたか?」

 護堂は、明日香の顔を覗きこむように身を乗り出す。

 普段は鈍いくせに、こういうところでは妙に鋭いのだ。

「ねえ……もしも、友だちがあんたの敵だったらさ。あんたは、どうする」

「はあ? なんだそれ。漫画にでも出てきたか?」

「そういうわけじゃないんだけどさ。ほら、いろいろあるじゃん。利害が一致しなかったりとかしてさ、敵味方に分かれたりしたら、どうするって」

 護堂は頭に「?」を浮かべている。

「学校で、そんなことがあったのか?」

「あー。まあ、そんなとこ」

「ふうん。そうだな。いや、そもそも利害が一致しないだけで敵味方っておかしくないか。友だちだろ。敵とか言ってるとダメだろ」

「ん。ああ、まあ、そうだね。なんか、違うな。えーと。そう、あんたが目の敵にしているヤツがいたとして、そいつの手下に自分の友だちがいたら、どうする? それでさ、その友だちが、進んで敵に協力したくないって思ってたりしたら」

「つまり、脅されてやってたり、何かしらの事情があってその敵に就いてる場合か。そうだな、それなら、その友だちは敵じゃないんじゃないか。漫画とかでもよくあるだろ。敵から仲間になる感じのヤツ」

「じゃあ、あんたはそういうヤツでも仲間にするの?」

「そもそも、敵じゃないだろ。今の条件だと」

 その答えを聞いて、明日香はテーブルに突っ伏した。

 どうも、明日香の不安は筋違いらしい。護堂の敵は、あくまでも彼と周囲を害そうとする輩であって、いやいや従っている配下には大分甘い。

 それだけでも、明日香の心が多少軽くなった。我ながら、単純だと思いながら。

「いや、あんたも結構単純ね」

「失礼な」

 むすっとした表情の護堂は、チョコレートを口に放り込んでテレビに視線を移した。

 この話はこれで終わり。

 護堂は、おそらく明日香を敵視しない。

 それが分かっただけでも、よかった。

「ん……?」

 炬燵の中に入れた手に、何かが当たった。

 取り出してみると、それはクリップのような物体だった。

「あ、それ。確か晶のだ」

 護堂がクリップのような物を見て言った。

 痴漢バスターMKⅡセカンド。

 以前、晶が痴漢を受けたときに、これを撃退した正史編纂委員会開発の痴漢撃退用の呪物である。

「そうなの。困るわね。ちゃんと持っててもらわないと、なくなったら大変じゃない」

 明日香は、それをテーブルの上に置いた。

「本当に、持ち歩いてもらわないと困るのよね」

 ――――そうでなければ、渡した意味がないではないか。

 

 

 

 




蒼銀のフラグメンツに出てくるライダーの宝具がwikiに乗っていましたけど、ライダーが活躍するのってコンプティーク何月号でしょうか? という情報提供を求む。



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七十九話

 カタカタと軽快な音がする。

 綺麗に整頓された室内は、暖かみのある生活感がある。

 部屋の片隅に置いてあるデスクトップ型のパソコンに向かい合い、キーを叩いているのは明日香だった。

 この十年、両親が心配するほどプログラミングにのめり込んだのは、それが楽しいからということもあるが、呪術の世界から自分の身を遠ざけるためという理由もあった。

 呪術の世界は閉鎖的だ。

 基本的に一般人の介入を嫌い、情報の漏洩を避けるべく呪術師たちは行動している。

 その結果が、ある種の血統主義に繋がっている。外部から人材が流入することを拒否したことが、四家を頂点とする構造から抜け出せない結果に繋がっているのではないか。

 完全に外様の明日香が呪術の世界に踏み込んでもいいことはなく、普通の世界で生きていこうと考えるのは特に不思議なことではない。

 むしろ、彼女と同類の道満による転生体。ようするに兄弟姉妹に当たる連中が、呪術を不用意に使って自滅したことを見れば、あの世界に入ろうとは思わない。

 そのような中で、呪術と正反対の技術体系として、明日香が選んだのがプログラミングという学問だったのだ。

 道満は情報の漏洩を嫌うが、その一方で明日香を自由にさせている。

 明日香の口から道満の情報が漏れるとは思っていないのか。そういうことはないだろう。月に一度あるかないかの頻度で、この部屋を訪れるからには、それなりに注意はしているはずなのだ。

 もしかしたら、明日香が道満のことを口にした瞬間に何かの呪術が発動する、ということも否定できない。

 護堂に協力できないのは、そういった理由もあったのである。

 だが、呪術にも盲点は存在する。

 歴史に名を残した大陰陽師であろうとも、防ぐことのできないものが今の世にはある。

「頼むわよ……」

 明日香は、画面を注視する。 

 短い文面(メール)

 これを送れば、後戻りはできなくなる。

 けれど、もう決めた。

 明日香は、護堂に就く。

 ふう、と緊張を緩和するように息を吐き、送信をクリックした。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 十二月も半ばになり、クリスマスを目前に控えて浮ついた空気が流れ始めた頃。

 正史編纂委員会の上層部――――護堂と関わりを持つ一部の人間だけは、沈鬱な表情で会議室に集っていた。

 僅か、十数人が入れば満室となる程度の小さな部屋は、少数で行うプロジェクトや極一部の人間だけで情報を共有する必要がある場合などに使用される。

 この場に集っているのは、正史編纂委員会東京分室長の沙耶宮馨とその右腕である甘粕冬馬。そして、高橋晶に万里谷祐理、清秋院恵那といった媛巫女たち。最後に、カンピオーネである草薙護堂を入れた六人である。

 事の切っ掛けは、先日護堂のスマートフォンに届いたメールである。

「しかし、どういうことでしょうね。蘆屋道満の目的が晶さんというのは」

 冬馬にとって、晶は姪にあたる。晶の実家が九州にあり、冬馬は東京で活動しているために、頻繁に会うこともなかったが、春先に晶がこちらに転属になってからは頻りに顔を合わせている。

 その晶が、突然道満に狙われているという情報が入ったのだ。

 詳しい情報は何もなかった。ただ、晶が道満の計画に必要不可欠な存在であるということだけが簡潔に記されていた。

「このメールそのものが贋物ということはないのでしょうか?」 

 晶にとっても、これは青天の霹靂である。

 嘘だろう、という思いが先行して、実感が掴めていないという状況だ。

「それはどうか分からない。けれど、その真偽はともかく、このメールの送り主は、少なからずこの問題の深い部分に関わっているはずさ。蘆屋道満と草薙さんの関わりは、僕らを含めても極一部の人間しか知らない機密情報だからね。このメールが僕らのところに来たのならまだしも、草薙さんに直接送られてきたというのは、大きいね」

 蘆屋道満について、正史編纂委員会が追いかけているのは、今さらのことだ。情報提供を求め、注意喚起をするために、すでにこの名は広く喧伝している。

 しかし、そこにカンピオーネが関わっていると知るのは、本当に護堂の周囲の人間に限られるのだ。

 馨の意見を踏まえて恵那が言う。

「何かしらの理由で、王さまとのことを知ったって可能性は?」

「あったとしても、匿名で情報を寄越す理由にはならないし、僕たちに伝えるのが普通だろう?」

 現状、このメールの差出人は、蘆屋道満及び草薙護堂双方の事情をある程度知っている人物と考えるのが妥当である。

 そして、メールの内容が真実であれば、彼ないし彼女は道満を裏切り護堂に就くつもりである。名前を伏せているのは、道満に悟られたときの危険性を考えれば納得できる。

「ところで、メールは相手のアドレスが分かるものなのではないのですか?」

「それが問題なんだ祐理。これなんだけどね、海外のサーバーを経由している上に、妙なプロテクトがかかっているみたいだ。おそらく、呪術関係なのだけど、正直、電子面での呪術の発展は遅れに遅れている。世界レベルでね。差出人を特定するのは、ちょっと難しいかな」

「そうなのですか」

 呪術は古来から存在している技術体系である。そこには、先人の知恵と信仰が多分に含まれており、積み上げられてきた歴史と伝統は、必然的に保守的な土壌を作り上げた。馨が組織改革に苦労している原因もここにあり、新たな術式や体系が、ここ数世紀の間に誕生していないのもこうした背景があるからである。

 そして、それはもちろん、コンピュータ関連でも顕著に見られる。

 パソコンを介した呪術は、世界的に見ても研究が進んでいる分野ではないのだ。

 在野の術者なのは間違いないとしても、相当な知識の保有者である。

「晶さんは、狙われる心当たりがあるかい」

「そんなことを言われても……わたしは、蘆屋道満とほとんど関わりがありませんから。あの事件以外で」

 あの事件というのは、出雲大社で起こった媛巫女の集団失踪事件のことだ。多くの媛巫女が行方不明となり、数日後に前後不覚の状態で発見されるという不可思議な事件は、現在では蘆屋道満が主犯格と目されている。

「そのときに、目を付けられる何かがあったわけだな」

「このメールの内容が真実であれば、ですね」

 護堂は資料に印刷されたメールの文面に視線を落とした。

 簡素な文字の並びだ。

 『蘆屋道満の計画に高橋晶は必須。保護を求む』

 ただそれだけで、それ以上のことは何もなかった。

 ただ、晶が特別な媛巫女だというのは、もはやこの面々の中では常識であり、その力が狙われる原因と考える他ない。

「まあ、僕たちとしては、このメールの真偽に関わらず晶さんの護衛は就けなければならないのですよね」

「護衛といっても、相手が相手だし、それなり以上の使い手じゃなきゃダメだよねー」

「もちろん。だから、しばらく恵那に晶さんの護衛に就いてもらおうと思ってるんだ」

 恵那はぽかんとした後、なるほどと納得して頷いた。

「蘆屋道満を相手にするには、君と晶さんの二人組か草薙さんくらいしか敵う人材がいないからね。幸い、草薙さんの家は、すぐ近くだし、戦力を根津に集中することで抑止力にもなるはずだ」

「あ、じゃあ。恵那さんはしばらく家で暮らすことになるんですね」

「そういうことになるかな」

 こうして、神剣使いと神槍使いが同居することになった。

 

 

 晶と恵那が、晶の家に着いたとき、時刻は午後の六時を回っていた。

 外はすでに暗く、吐く息は白い。

 すれ違う隣人に、軽く会釈をして鍵を開けて中へ入る。

 この日は、何かと気疲れしたので、夕食は楽をしようとピザを注文した。

 意外と、恵那がよく食べる。

 十代女子が食べる量を軽く平らげ、さらに菓子類に手を伸ばしている。

「そういえば、アッキーは普段の夕食は何を食べてるの?」

「普段は、そうですね。まあ、野菜中心に、お魚とか焼いたり」

「料理してるの?」

「はい。外食はお金かかりますし、家に居るほうが楽なので」

 料理をする手間を省くために外食するのか、外に出る手間を省くために料理をするのか。晶は後者を選択するタイプであった。資金の問題もあり、宅配は滅多に利用しない。

「はあー。偉い偉い」

「子ども扱いしないでくださいよ。ところで、清秋院さんは普段どうしてるんですか?」

「ん。恵那はそうだなー、状況にもよるけど」

 恵那は少し考えて、

「家にいるときは料理しないかな。清秋院家専属の料理人が作る和食がメイン」

「せ、専属、ですか。さすが、日本最大最古の名門……レベルが違う」

「あはは、でも恵那は家にいることってあんまないしね。大抵山だし。そうなると、山菜とか川魚を狙うかな。熊とか猪とかだと、それだけで何日も過ごせるから、出てくれるとありがたいね」

「普通、熊に会いたいとか思いませんけど」

 あまりの落差に絶句する。

 家にあっては豪華な食事を不自由なく食すことができるのに、その修行の性質から山で超一級のサバイバルをしなければならないとは。

「蛇とかも食べるんですか?」

「蝮はね。青大将とかは、あんま美味しくない。あとね、イモリっているじゃん。イモリ。あれ、テトロドトキシンあるみたいだね。食べたけど」

「食べちゃだめですよ!」

 晶はマイペースに語る恵那に度肝を抜かる。

 イモリを食べようと思ったことはない。まして、それがテトロドトキシン、すなわちフグ毒を含んでいるのなら、絶対に口にしてはならない。経口摂取で青酸カリの八五〇倍の毒性があるのだ。

「うちでは食べませんよ。イモリ」

「そりゃ、普通に暮らしてイモリなんか食べないよ」

 変なこと言うな、と恵那は笑いながら煎餅の欠片を口に放り込んだ。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 ろうそくの仄かな灯りだけが、闇に浮かぶ。

 前後左右はおろか上下すらも確かでない空間は、濃縮した呪力に満ち満ちていた。

 ただの人間がこの場にくれば、間違いなく中毒を起こす。呪力は生命力の源であるが、何事も限度というものはあるのだ。

 この空間で行動できるのは、それこそ高位の呪術師か、『まつろわぬ神』、カンピオーネくらいのものだろう。

「道満。俺の剣はどこだ!」

 響き渡る大音響。

 野太い声の主は、巨大に過ぎる、岩のような男であった。――――頭部が牛であることを除けば、だが。

「ほう。剣のことより、主の力の方が今は重要じゃろうに、騒がしいことじゃ。……して、力は戻ったか?」

「おうよ。最源流の《鋼》の一柱として、《蛇》も魔王も尽く殲滅してくれよう! そのために、まず剣だ。剣を寄越せ、道満!」

 ズン、とその大男が一歩踏み出すだけで、空間が軋む。

「慌てるな。どの道、顕現できるようになったとはいえ、まともに魔王とぶつかっては敗北必至。まずは、真の意味で性を取り戻さねばならぬ。主もわしもの。それまでは、剣はほれ、あそこに」

 ぼんやりと闇に浮かぶ道満が、ある一点を指差した。

 空間が、伸びる。

 闇の奥に、さらに闇が広がったような錯覚に囚われる。

 それは、道満が組み上げた儀式場であった。

 奥の壁には、裸体の神祖アーシェラが埋め込まれている。

 辛うじて息があるのは、以前に道満が施した処置のためだ。

 そして、その部屋の中心には魔法陣が描かれており、中心に一振りの鉄剣が突き立ててあった。

 両刃の剣で、一見して日本刀が普及する以前の、古代の剣だと分かる。

 その剣に、大地の呪力が吸い上げられている。

「おお、間違いない。あれこそ、まさに……!」

「そう。かの大戦にて失われし、正真正銘の神剣。王権の象徴じゃ」

「ハハハハハハッ。そうかそうか。ついに見つけたか!」

 呵呵大笑し、大男は神剣に歩み寄る。 

 そして、その柄に手をかけて、紫電とともに大男の手は弾かれた。

「ぬ……!」

「フォフォ。主がそれを抜くのは今しばらく先よ。まだ、討つべきものも、捧げるべき者もおらぬではないか」

 道満を睨む牛頭の軍神。しかし、その眼力にも道満は揺るがない。もとより、この神格は道満がいて初めて成り立つもの。従属神を恐れることなどありえない。

「明日香が裏切ったようじゃ」

 道満が唐突に言った。

「あん? 明日香。おお、あの娘か」

「どうやら、姫の周囲に呪術師どもを固めているようじゃて。太刀の巫女までおる」

「そのような者ども、一思いに捻り潰せばよかろう。今さら、俺たちのことが知られたとして何になる?」

 軍神はそう言って、腕を組む。

 軍神の自信満々な言葉に、道満は大笑いする。

「何ともならぬな。今の主ならば、太刀の巫女を相手取って戦えよう。問題は、魔王の動向じゃが、引き離してしまえばこちらのものじゃ」

「裏切り者はどうする。処分するか?」

「捨て置けばよかろう。どの道、あの娘には、あれ以上にできることなどありはせぬ。どちらに就くのかはっきりさせるために、あえて情報を渡してやったわけだしの」

 道満は杖を突きながら、魔法陣に向かって歩く。

「じきに星が揃う。それまでに、蛇巫を連れ戻すのじゃ」

 道満は、太刀の前に立った。

 ぼんやりと太刀は光を放っている。

「京の守りを突き崩し、以て天下の大乱と為す」

 杖で太刀を小突く。

 瞬間、暗闇を駆逐する閃光が迸った。

 膨大な呪力が、地脈を伝って遠く離れた地に流れていく。

 

 

 

 

 外宮豊受大神社の直下で、地震が発生した。予兆はなく、しばらくは立っていられないほど大地が揺れた。にもかかわらず、神社から数キロも離れれば地震などなかったかのように人々は生活している。超局地的な地震に、地元住民は首を捻った。

 伊吹山は、突如として大きな土砂崩れを起こした。それ以前に雨が降ったのは、二週間ほど前になる。原因は不明。

 伊弉諾神宮。周囲の木々が一斉に枯れた。落葉樹のみならず、松や杉などの常緑樹も、葉を赤く染め朽ちてしまった。

 熊野本宮大社は、伊弉諾神宮と同じく木々の枯死が発生した。見る見る内に植物という植物が枯れたという。また、鳥や狸といった野生動物が大量死した。細菌かウィルスか、しばらくの間、周辺住民は眠れない夜を過ごすことになる。

 伊勢内宮。敷地内に多数の落雷が発生。大規模な火災を引き起こした。ご神体の避難はできたものの、宮司に怪我人が出た。

 

 そして、これと時を同じくして京都近隣に神獣と見られる怪生物が多数発生したとの情報が、正史編纂委員会に寄せられた。

 出現した神獣の群れは、出雲と富士山を繋ぐ大霊脈に沿って北上。不幸中の幸いか、一般人への被害は軽微であるが、神獣たちは脇目も振らずに突き進んでいる。

 そして、この数時間後。神獣たちは、正史編纂委員会の精鋭たちや自衛隊及びカンピオーネと東富士演習場にて激突することとなる。



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八十話

 護堂にメールが届いてから数日の間は、特に波風が立つこともなく平穏な日々が続いていた。

 その間、正史編纂委員会が晶の暮らすマンションに職員を送り込んだり、結界を敷設したりと物々しく動いていたが、それも一般には認識されないものであり、護堂の目から見てもこれといった変化があるわけではなかった。

「何か、奇妙な胸騒ぎがするのです」

 あるとき、祐理がこのように呟いた。

 それは、晶の家に恵那が下宿することになったあの会議の帰りのことである。

 媛巫女史上最高峰の霊視能力を有する祐理の勘は、とにかく当たる。それは、元々霊視という能力が幽界から情報を齎す能力であることと不可分ではないだろう。

 無意識の領域で幽界と繋がりやすいのが媛巫女である。第六感という形で、幽界から情報を引き出すのであるから、理由のない不安が大事の前兆だという可能性は否定できないのだ。

 これまでにも、幾度かそういうことはあった。特に、『まつろわぬ神』や呪術が関わるものに於いて、祐理の霊視はほぼ的中する。外すということはまずありえない。

 何かが起こるかもしない。

 そんな漠然とした、予想とも予測でもない、単なる予感が、あらゆる確率論を無視して真実に到達するのが祐理の勘である。

 おまけに、彼女の勘ないし霊視は、その根拠となる情報に触れることで想起されるように降りてくる。

 例えば、『まつろわぬ神』の来歴や正体に関してはその神の神気を浴びることで、霊視を得る確率を上げることができるし、そこまでではなくとも、問題の根幹に関わる情報を得ることでそこから結び目を解くように脳裏に情報が浮かび上がってくるという。

 今回、祐理が不安を覚えたのは、晶が狙われているという情報からである。

 それが、どれほど曖昧模糊としたものであっても、晶が関わっていることには疑いを挟む余地はない。

 護堂も今まで以上に晶を気にかける必要がある。

 如何に恵那が傍にいて、その他の呪術師たちが張り込んでいるとはいえ、相手は伝説の陰陽師の名を冠した謎の『まつろわぬ神』もどき。その力が戻ってきているというのなら、当然に並の呪術師では相手にならない。その上、相手には牛頭人身の軍神が従属神として控えている。出会いさえすれば始末もできるだろう。しかし、いつ、どこから攻めてくるか分からない相手に注意し続けるのは、それだけで精神力を消耗するものだ。

 晶も、自分が狙われているかもしれないということで、顔には出さないものの、憔悴しているはずである。

「俺も、気を付けないといけないか」

 晶が暮らすマンションを見上げる。

 彼女が暮らしている部屋は、護堂の家がある方に面している。ここからならば、ベランダを見ることができる。

 呪術に慣れてきた護堂は、結界を視ることができるまでになっていた。それがどのような効果があるのかまでは、知識がないため分からないが、道満に対処するためのものだということは分かる。

 どことなく、肌がひりつくような感覚を、護堂は感じ続けている。

 それは、試合に臨む前の緊張感に酷似していた。

 大きな戦いが近づいている。

 そんな気がするのだ。

 

 

 地脈が大幅に乱れたのは、その数日後のことである。

 地脈というのは、要するにその土地の呪力の流れのことである。目に見えない呪力の川で、それは常に一定の流れを作って循環している。

 霊地は、その地脈が流れ込む土地のことである。地脈が川なら、霊地は湖ということになろうか。古来、そういった霊地は人々から信仰を集め、崇拝されてきた。縄文時代から続く自然信仰に根ざした宗教観の日本人には、とりわけ顕著な傾向であり、古い神社は概ね、この霊地の上に建てられている。

 その霊地の中で、突出して重要な地を挙げろと言われれば、大半の呪術師は以下の五つを挙げるだろう。

 

 外宮豊受大神社

 伊吹山

 伊弉諾神宮

 熊野本宮大社

 伊勢内宮

 

 

 これらを挙げる呪術師が多いのは、この霊地が一般に知られるパワースポットであったり、神話的歴史的に著名であったりするからということでなく、五つの霊地同士が結びつくことで、強大な護国の結界を構成するからである。

 それぞれが、正五角形の頂点となり、五芒星(セーマン)を描き出す。その規模は、一辺が百七十キロにもなる広大なものだ。

 俗に、畿内の大魔法陣などとも呼ばれる、大結界。

 それは、出雲から畿内を守るために描かれた超古代の人工霊地を用いた大呪術なのだ。

 千五百年もの長きに渡り、京を守護していたその結界が、何者かによって打ち破られた。

 ――――結界に封じこめられていたモノたちが目を覚ます。

 ――――乱れた霊地は、それだけで悪しきモノを呼び寄せ、作り出す。

 護堂がナポリで体験したときは、それが竜の姿で現れた。

 今回は、ナポリの比ではない。

 大いに乱れた地脈は、さながら氾濫した河川のように無差別に大量の呪力を畿内一帯にばら撒いている。

 人工的に地脈の流れを変えて作られた霊地は、乱されたことで本来の役割を果たせなくなってしまった。護国の結界は崩壊した。

 代わりに産み落とされたのは、無数の『鬼』。

 かつて、京を闊歩したという伝説の魔物たちが、現代に蘇った。

 百鬼夜行。

 ただし、その規模は結界が働いていた平安時代とは桁違いだ。

 全国から吸い上げられた地脈の呪力を顕現に用いた結果が、まさに無数。膨れ上がった鬼の群れは、より高い格の霊地を目指して突き進む。

 呪力から生まれた彼らにとって、潤沢な呪力の塊である霊地はご馳走だから。

 そして、畿内の魔法陣に接続するとある地脈に彼らは目を付けた。

 出雲から呪力を吸い上げ、富士山で大地に還元する。

 その一本の地脈に、彼らは乗った。

 目指すは富士山。

 日本最大の霊峰は、無数の鬼たちにとって喰らい尽くすべき獲物であった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「何がどうなっている!?」

 叫んだのは正史編纂委員会滋賀分室に属する呪術師の男だ。

 応じる者はいない。

 その声はその場にいるすべての人間の言葉を代弁したものであり、答えを知る者など誰もいなかったからだ。

 琵琶湖に面した事務所は、主として出雲――富士山間を流れる人工地脈の管理と監視を任務とする。

 出雲――富士山間を流れる地脈は、日本を縦断する巨大地脈であり、同時に世界最大級の人工的に流れを固定化した地脈である。

 この国の呪術界の真に恐るべきところは、国家規模で地脈の流れを変えることで、都合のよい呪的環境を作り上げたことである。

 巨大地脈はその要であり、畿内の大結界がその一辺をこの地脈と接しているのも、呪力を循環させる必要があったからである。

 背後に背負う伊吹山が崩落した。

 滋賀県を担当区域とする滋賀分室の呪術師は、それがただの自然現象ではなく、畿内の大結界が崩されたことで生じた災害だと理解できていた。

 大きな地脈のうねりが、呪術師たちを襲う。

 自然界に溢れる呪力の量は、その土地の豊かさに直結するものだ。地脈が枯れれば、その土地は生命力を失ったも同然になる。そして、その逆に、あまりに呪力が多すぎる土地もまた生命に悪影響を及ぼす。

 過ぎたるは及ばざるが如し、ともいう。

 とりわけ、呪力に敏感な呪術師は受ける影響が大きい。

 まるで、海の底にいるかのような圧迫感があったかと思うと、次には空の上から落下しているのではないというような浮遊感に襲われる。

 そのため、呪力を正確にコントロールできない若手を中心にして、前後不覚に陥る者が大勢いた。

 この状態では、一般人にも多大な被害が出ているに違いない。

「これは、まずい」

 滋賀分室を預かる室長は、今年で三十五歳になる腕利きの呪術師である。西洋の基準に照らし合わせれば大騎士クラスにはなるだろう。

 その彼が、顔を青くしながら状況を把握したところによると、大量の怪物が出現し巨大地脈に沿って移動しているという。

 すでに、比叡山を通過。滋賀県内でも、発生した魔物たちが、続々と合流している。

 そもそも、京の鬼門を守るはずの比叡山が軽々と魔物を通している時点で異常事態だ。

 現在、滋賀分室で掻き集められる戦力では、到底無数の魔物に立ち向かうことはできない。

 地脈が乱れたままでは、さらなる百鬼夜行を誘発しかねないという状況。おそらくは、他の五芒星の頂点でも同じような被害が出ているはずだ。つまり、他の府県からの増援は見込めない。もちろん、可能であったとしても、到底間に合わないだろうが。

 今、彼に与えられた選択肢は四つ。

 一つ目は、魔物の群れに滋賀分室だけで立ち向かうこと。

 そのときは、この場にいる全員が敵の腹の中に収まることになるだろう。

 二つ目は、退避して敵の通過を確認した後、全力で霊地の修復に当たること。

 消極的な戦闘行為。ただし、伊吹山だけを修復したとしても、他の頂点が修復されなければ地脈は乱れたままである。

 三つ目は、退避した後、後方の『東』の各都道府県の勢力と協力して迎撃すること。

 これは、積極的な戦闘行為となる。ただし、後方の都道府県の協力がすばやく成立しなければ話にならない。戦力を一点に集中しなければ、とても敵わない物量なのだ。

 最後に、撤退も攻撃も行わないという選択肢。身を潜めつつ、一般人の安全を第一に監視を行うというもの。

 敵が襲来するまでの時間は、残り僅か。

 各市町村の呪術師たちからの報告では、魔物たちは一般人に危害を加えていないとのことで、ほっとする。ただし、それは彼らにとって一般人を襲ってもそれほど腹が膨れないからであり、最高のご馳走を食い散らかした後、魔物たちがどのように行動するかは、分かったものではない。

「くそ。このままでは、押し潰されるか。地脈沿いの全支部に通達しろ! 一般人の安全確保を最優先とし、こちら側から手出しすることは禁止する! 魔物の行動を逐一チェックし、すばやく情報を上げるように!」

 結局のところは、神頼みでしかないが、まともに戦える戦力を持っていないのだからしかたがない。

 これは、滋賀分室が弱いということではなく、全国各地の分室に言えることである。東京のように、面積が小さい上に、人口密度が高い都市では、必然的に呪術師の人口密度も高くなる。こういった災害にも対処しやすくなるが、そうではない地域では、呪術師の配置も要所に集中して他が手薄になるなど、人手不足が顕著になっている。

 今回、迅速な対応ができないのも、慢性的な人手不足に加えて、広範囲に渡る被害と敵側の圧倒的な物量が重なったために、滋賀分室の許容量を容易く上回ってしまったからである。

 他支部からの応援は期待できない。

 自分たちの現有戦力で被害を最小限にするよう努力しければならなかった。

 窓から見える西の空。夜闇が刻々と色濃くなっていく。澱んだ瘴気を撒き散らして、それは暗雲を纏って吹き渡った。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護国の結界が崩壊し、乱れた地脈の影響で大量の魔物が出現したという報は、時を置かずして全国に伝えられた。

 現場は混乱の極みにあり、正確な情報は中々齎されなかったが、それでも魔物の軍勢が一路富士山に向かっていることは続報からすぐに読み取れた。

 刻々と変化する情勢に、真っ先に対応したのは、正史編纂委員会の中でも腕利きが揃い、『まつろわぬ神』出現に対しても対応を取り続けた東京分室であり、それに続いてかつて『まつろわぬ神』の襲来を受けた京都分室と茨城分室が続いた。

 京都分室は出雲地方と並び『西』の重要地点であり、それだけ多くの腕利きが配属されていた。そういった事情と千年以上に渡って京を守護してきた歴史を有するが故に、他の分室以上に魔物への対応が迅速であった。また、京都分室は、非常時に於いて、『西』の盟主として周囲の分室に命令を下す権限を有し、彼らは、即座に被害を確認した後、各『西』所属の分室へ援軍の要請を行った。魔物を駆逐する役目は『東』に任せ、『西』は早急に結界の復旧と地脈の安定化を図る。

 自らの不始末を押し付けるようで悪いが、現状ではこれ以外に術はない。

 五箇所の基点に呪術師を派遣。さらに、比叡山や高野山といった強力な霊地の守護を強めることで、一時的にせよ荒れる地脈への楔とする。

「頼むぞ、沙耶宮」

 京都分室長は、少なからず面識のある有能な同僚に向け、半ば縋る思いで呟いた。

 

 蘆屋道満の動向を注視していた東京分室は、それでも想像を絶する攻撃に対しても、落ち着いて対応していた。

 火雷大神の襲来に始まり、ヴォバン侯爵、一目連、アテナ、ランスロットと洋の東西を問わず様々な『まつろわぬ神』とカンピオーネの襲来を受けてきた都市である。世界最大規模の人口密集地でもあり、人々の呪術に対する理解――――信仰とも言い換えられるが――――が薄いために、情報統制や隠蔽の困難さは他の都市を大きく上回る。

 そのような中で築き上げたシステムは、全国的な大混乱に際しても遺憾なく発揮された。

「魔物の群れが巨大地脈に乗って移動か。間違いなく、狙いは富士山だろうね」

 各地から寄せられる情報から馨は即座にそう断じた。その上で、

「狙いが分かっているのなら、話は早い。早急に迎え撃つ準備だ。東富士演習場があったね。あそこなら一般人に被害は出ない。山梨分室と静岡分室に繋いでくれ。敵を東富士演習場に追い込む」

 馨が出す矢継ぎ早な指示に、職員は素早く対応した。

 また、同時に『東』に属する呪術師たちに援軍の要請をする。

 移動時間を加味して関東圏を中心に、実力のある呪術師たちを動員する。

「甘粕さん」

「はい」

「自衛隊にも要請を。魔獣程度なら実弾でも効果があるはず」

「了解しました。富士駐屯地の方々はまず前線ですかねえ」

「国家の危機だからね。まあ、仕方ない」

 実際に、最前線に立って戦うのは呪術師である。自衛隊には、遠距離からの援護射撃を重点的にしてもらうつもりでいる。

 長距離攻撃は、呪術よりも火器の方が優れている場合が多い。

「問題は、これが蘆屋道満によるものかどうか、だけど」

「間違いはないのでは?」

「十中八九ね。だとすると、狙いは晶さんの可能性が高い……草薙さんにどのように連絡するか」

 今の段階で、魔物の群れに最も効果的に対処するには、護堂の協力を仰ぐしかない。

 しかし、それでは東京が手薄になる。

 道満の狙いが晶であれば、護堂が東京を離れるのはまずい。しかし、その一方であのメール自体が贋物である場合、護堂を戦わずして戦場から遠ざける効果を発揮する。

 道満の真意が分からないため、どちらの可能性にも考慮する価値が生まれてしまう。

「とにかく、晶さんは外出しないようにしてもらおう。恵那には最大限の注意を払うよう僕から連絡を入れる」

「それでは、私は早速、防衛省に問い合わせます」

 冬馬は慌しい足取りで部屋を後にする。

 電話の音が絶えず鳴り響く中、馨もまた戦いの準備を進めていた。

 

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 深夜、護堂は跳ね起きた。

 寝汗が酷く、動悸が激しい。

 それは、彼もまた遠くはなれた地で生じた大規模な地脈の乱れを感じ取っているからであるが、このときの護堂にはそれが何なのか分からなかった。

 ただ、何かよからぬことがどこかで発生しているような気がしてならない。

「何だ、これは」

 それは、漠然とした確信。

 矛盾を内包した感覚は、かつてないほどに護堂の心に不安を広げている。

 スマートフォンに着信が入ったのは、そのときだ。

「もしもし」

『僕です。草薙さん。申し訳ありません、このような深夜に』

 電話の相手は馨だった。

「何かありましたね?」

 この動悸に馨の電話。非常識な時間帯に連絡を入れたということは、そうせざるを得ないと判断したからだろう。

『はい。簡潔に説明しますと、近畿で発生した大規模な地脈変動によって無数の魔物が出現しました。現在その魔物たちは、日本最大の霊地である富士山を目指して侵攻中です』

「な……ッ!」

 あまりのことに絶句する。

『地脈の乱れから、大量の魔物が現れる。俗に言う百鬼夜行という状態です。ただし、その規模は史上最大級。とても、一分室で対処できるものではないので、連合という形で東富士演習場に引きずり込み、迎撃します』

「できるんですか、そんなことが?」

『かなり苦しい戦いになることは間違いありません。神獣が一体でも紛れていれば、さらにまずいでしょう』

「じゃあ、俺も」

『はい、お願いできますか? 正直、神獣が紛れているとなると、僕たちには抑えるくらいしかできないのです。二体以上いれば、間違いなく前線は崩壊してしまう』

 神獣に対抗するには、カンピオーネか最高位の呪術師が然るべき武装を整え、チームで対応する必要がある。しかし、今の正史編纂委員会には、そのようなチームを編成する余裕はないのである。

『晶さんには、外出を控えてもらうよう通達を出しました。恵那も警戒に当たらせていますし、その他、媛巫女や呪術師をマンション内に配置しました。守りは万全です』

「分かりました。東富士演習場ですね。すぐに行って、すぐに帰ってきます」

 この事件が道満のものである以上は、その先に狙いがあるのは明白。しかし、今護堂が動かなければ、多くの人命が危険に晒される。

『本当にありがとうございます。お迎えは?』

「土雷神で行きますから、大丈夫です。場所も、たぶん大丈夫です。東富士演習場は、以前行ったことがありますから」

 幼い頃の記憶を手繰り寄せる。大まかには富士山の静岡側だ。

『演習場では、すでに静岡分室の室長が指揮を執っておられます。詳しい場所に関しては、じきに魔物との交戦が始まりますので分かるかと思います』

「分かりました。それでは失礼します」

 そう言って、護堂は電話を切る。

 すぐに布団を払い除け、手早く着替える。

 そして、土雷神の化身を発動した。

 

 

 護堂が東富士演習場に向かってから数分後。

 東京分室を指揮する沙耶宮馨が、自分の執務室でスマートフォンを持ったまま倒れているのが発見された。

 命に別状はないものの、呪術がかけられていた痕跡があり、正史編纂委員会直属の病院に運び込まれることとなった。

 

 

 



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八十一話

 東富士演習場。

 富士山の東麓に位置する自衛隊の演習場である。

 非常に広大で、本州の演習場では最大である。

 無数の魔物を迎え撃つ、という判断が下されてから、ここは物々しい空気に包まれていた。

 陸上自衛隊の中で、呪術の隠蔽に一役買った部隊、つまり正史編纂委員会と裏で繋がりを持っていた部隊を中心に迅速に配備が進んだ。

 また、正史編纂委員会の山梨分室、静岡分室を中核とする混成部隊が組まれ、迎撃用の呪的な罠を仕掛けている。

 敵の進軍速度が滋賀分室や岐阜分室の努力によって遅れていることから、多少は時間をかけることができていた。

 愛知県、神奈川県、埼玉県などから呪術師を召集する時間をかせぐことができたのは大きかった。

 それでも、時間が足りない。

 深夜に、無理をして新幹線やヘリコプターなどを動かしたものの、数え切れないほどの魔物を相手にするには人手不足も甚だしい。

 そのため、正面からぶつかる前に、敵を弱らせる必要があった。

 そのための罠である。

 攻撃範囲の広い対空ミサイルなどですでに迎撃が為されている。

 戦果はそこそこ。

 もともと呪力で構成される魔物には、物理攻撃の効きはよくない。

 付け焼刃ではあるが、発射前にミサイルを呪術で強化しているおかげで威力の水増しができている。それが、予想以上の効果を発揮してくれているのが幸いだった。

「だが、市街地上空の敵にミサイルを撃つのは、さすがに気が咎めるな」

 静岡分室に勤めて二十年。ついには室長にまで昇り詰めた男の名は、伊藤修二といった。呪術の腕よりも、実務能力を買われての出世であるが、それを後ろめたく思ったことはない。

 こういった非常時に迅速果敢な判断が下せることが、組織の長として重要な資質であり、そういった視点から見れば、確かにこの男は一分室を任せるに値する能力を有している。

「敵、演習場に侵入を確認。十分ほどで、結界外縁部に到達します!」

「分かった。ずいぶんと動きが鈍っているな。滋賀と岐阜は上手くやったらしい。うちも、後れを取るわけにはいかんぞ。ここが踏ん張りどころだ! 対魔・対物結界を展開だ!」

 修二は声を張り上げる。

 一瞬、視界がブレる。

 広域を守護する結界が演習場を包み込んだのだ。これを一つ用意するのにも、多大な手間がかかった。後方にいるべき、戦闘力の低い呪術師たちも動員した結果である。

「これで、演習場の中の出来事は外に漏れない! 陸自さん方に総攻撃をお願いしろ!」

 部下に怒鳴りつけるように命令を飛ばす。

 その数十秒後。空を斬り裂くオレンジ色の光がいくつも舞い、遠くで遠雷の如き爆音を響かせる。

 数キロから数十キロの射程を持つミサイル攻撃や砲撃が、雲を思わせる魔物の群れに突き刺さり炸裂する。五重に張られた結界の突破に苦労する魔物は、そこで足止めされ、撃ち落されていく。

「悪夢のような光景だな」

「まったくです。このような光景は一生に一度拝めればいいほうですかな」

「できれば、拝みたくなかったものだが」

 副室長と軽口を交わしつつも、戦況を冷静に見極めようとする。

 敵一体一体の戦闘力は、それほど高くないようだ。

 おそらく、中堅以上の呪術師であれば、殊更苦戦することもない程度。しかし、如何せん数が多い。自衛隊からの間断ない射撃を受けて、依然として雲が晴れることはない。

 撃ち落した次から敵が出てくるからだ。

「我々の射程に入ったら、一斉に攻撃する」

 呪術師が控えているのは、五つある結界の外から三つ目。 

 そこにやってくるまでは、自衛隊からの攻撃に任せることになっている。

 

 

 二つ目の結界が突破されるまでにかかった時間は、およそ十分。

 格の低い魔物でも数が多ければそれだけ強力な群れとなる。指揮官など必要ない。ただ、数で押し、数で呑み込むだけで決着がつく。

 最前線で戦況を見守る呪術師たちは、ついに目前となった戦いに対して心胆を震え上がらせていた。

「何体いるんだよ……」

 もはや絶望するしかない。

 敵はあまりに数が多く、それは無数が一つに凝り固まった雲のようであった。

 漆黒の雲が、鎌首を上げて雪崩となって押し寄せてくる。

 堪らず、誰かが叫び声を上げた。

 その魔物の群れを押し返したのは三つ目の結界。

 とりわけ強靭に術式を組み上げた結界であり、触れるだけで相手を浄化する破魔の性質を付与している。弱い魔物であれば、触れるだけで消え去る代物である。 

 押し返されたところに、砲撃が集中する。

 大気を震わす大音響。爆発と煙が、魔物の群れを削っていく。

「よ、よし。自衛隊に遅れるな」

「押し返すぞ」

「気持ちを合わせろ」

 僅かでも自らが優位に立っていると思えれば、それだけで人間は勇気を振り絞ることができるものである。

 自衛隊からの遠距離砲撃が派手なので、より強く実感することができていた。

「ノウボバ・ギャバテイ・タレイロキャ・ハラチビシシュダヤ・ボウダヤ・バギャバテイ――――」

 三百人の呪術師が、精神を統一して仏頂尊勝陀羅尼を唱える。

 これは、浄除一切悪道仏頂尊勝陀羅尼とも呼ばれ、あらゆる罪障を打ち払う霊験ある陀羅尼だ。特に、百鬼夜行を退けることに関しては、他の追随を許さない。

 湧き立つ清浄な呪力が、白い光となって暗雲を照らす。

 聖なる光に打ちのめされた鬼たちは、堪らず逃げ惑い、喚き、悲鳴をあげる。

 そこに降り注ぐ砲弾の雨。

 浄化され、弱った鬼は次々と撃ち砕かれた。

「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン・ウンタラタ・カンマン」

 仏頂尊勝陀羅尼を唱える一団の背後で、さらに三百人の呪術師が一心に不動明王の火界呪を唱える。

 炎の濁流が、魔物の群れに襲い掛かり、焼き払う。

 仏頂尊勝陀羅尼、火界呪。共に、魔物退治の代表格である。それを合計六百人の呪術師が精神を統一した状態で唱えれば、並の魔物では太刀打ちできない。

 紅蓮の炎が渦を巻き、灼熱の風が暗雲を焼き払う。

 大火炎の中心で、魔物たちは叫び声を上げて逃げ惑い、焼き尽くされる。

 それはさながら焦熱地獄のようだ。

 徐々に、魔物の勢いに陰りが見えてきた。

 依然として数は多いものの、それだけである。結界で動きを封じ、安全圏から強大な呪術で攻撃していれば、何れ敵は瓦解する。

 呪術師たちは、ただ一心に真言を唱え続ける。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 戦況はこちらが優位に立って進めている。

 前線の様子を観察しながら、静岡分室長の伊藤修二は口元を僅かに緩めた。

 戦闘が始まるまでは、どのような展開になるか分からなかったものの、概ね作戦通りに事が進んでいる。

「陸自の弾幕も予想以上に効いているな」

「はい。しかし、弾切れも間近です。陸自にはここで引いてもらうべきではないでしょうか?」

 副室長の進言を聞いて、修二は考え込んだ。

 砲弾は一発で数百万から数千万もの値段になる。撃てばそれを使い捨てることになるので、できるだけ使いたくないというのが陸自の本音であり、それは公務員である彼にも理解できる。

 おまけに、うまく呪術が嵌ってくれたのでそちらに注力した方が高い効果を出せるようにも思われる。

 なんといっても、呪術は使う分にはタダだ。

 費用対効果という面では、呪術に軍配が上がる。

 陸上自衛隊の砲撃が、相手に与える打撃は効果を挙げているが、それはあくまでもこちらの準備が整うまでの時間稼ぎに過ぎない。

 ならば、ここで陸上自衛隊には後方に下がってもらい、新たに呪術師の一団を増援として送り込むべきだろう。

 時間が稼げたことで、余剰戦力がある。

 今も続々と戦場に集ってくれている、各地からの増援がいるのだ。

 もちろん、そのすべてをここに集中することはできない。

 周辺住民の安全確保に、三割近くを割いているし、残り三つの結界を維持することにも、少なくない人員を配している。

 破られた結界を維持していた呪術師を集め、増援によって生まれた余剰戦力を遊撃隊として組織する。

 送り込めるのは、ざっと四百か。

 今までは正面からの呪術攻撃だったが遊撃隊を二百人ずつに分け、左右から挟ませる。

 これで、敵を一塊にして呪術を効率よく作用させることができるはずだ。

 作戦は順調に推移していた。

 修二は遊撃隊として選抜した四百人に出撃を命じた。

 

 

 現在、魔物の群れと交戦している部隊を本隊とすれば、右翼と左翼に展開した部隊は確かに遊撃隊となろう。

 右翼の部隊に配属されている呪術師の一人は、愛知分室からの出向である。

 彼は現場の人であり、基本的に愛知県内の事件を担当する。よって、よほどのことがなければ、県外の呪術師と顔を合わせる機会などない。こうして、他県の指揮下に入って呪術戦を行うのは、春に起こった内訌以来のことである。

 本来、こうした戦いは利害調整などがあり綿密な準備の下で遂行されるはずだが、近畿全域を巻き込む災害の直後、数時間の内に迎撃に持ち込んだ上層部の動きは見事という他ない。

「オン・シュリマリ・ママリ・マリシュシュリ・ソワカ」

 穢れを喰らうという烏枢沙摩明王の真言を、一斉に唱える。

 魔物の群れの側面を、排他的障壁で叩く。

 左翼の部隊もまた、同様の術を使う。

 これで、魔物は逃げ場を失った。左右に展開された光の壁が魔物の逃げ場を塞いでいるのだ。

 本隊の術式が尚一層力強くなる。

 この機を逃さず、一気呵成に攻め立てようと呪力を高めたのだ。

 三方向からの破魔の檻が魔物たちを追い込んでいく。

 このまま押し込んでいけば、じきに討伐は完了する。

 誰もが、そう思ったときだった。

 大小様々な魔物の群れの、その中心から、一際巨大な呪力が迸った。

 放射された呪力が結界を強かに打つ。

 そして、

 

 ガツッ

 

 と、出現した巨大な爪が、結界を八つ裂きにしていた。

「な……!?」

 唖然として、それを見る。

 それは、爪の化物だった。

 漆黒の前足。鋭い爪は、不釣合いなほどに巨大で、鉞が食い込んでいるかのようだ。

 真っ黒な身体は、不定形に蠢き、常に形が変わる。辛うじて安定しているのは四肢のみで、胴体は蛇かナメクジのようにうねっている。

 同族を巻き込むことをなんとも思っていないのか。その巨体は結界の切れ目に身体を押し付け、無理矢理に押し通ろうとする。

 みしみしと、結界が軋み、亀裂が広がっていく。

「いかん! 右翼と左翼は結界の補修に切り替えろ!」

 現場指揮官の声が飛ぶ。

 さらに、火界呪と仏頂尊勝陀羅尼を集中して、何とか押し返そうとする。

「ヒョオオオオオッ」

 激しい咆哮。

 耳を劈くとはまさにこのこと。

 鼓膜が、あまりの激しい音に悲鳴をあげる。

 雑音を煮溶かして、濃縮したような声だ。聞くだけで不快な気持ちになる。

「まずい、こいつ。……神獣だ!」

 内包する呪力。生物としての格。そういった諸々の要素が、魔物たちとは一線を画す存在だ。

「無数の魔物が融合して神獣の格を得たのか」

「あ、あああ。鵺だ。鵺が出たぞ!」

 呪術師が口々に叫ぶ。

 恐怖が伝染し、呪術の精度が落ちる。

 神獣は、まともに戦って勝てる相手ではない。最高位の呪術師が、部隊単位で然るべき準備を整えて挑む相手だ。対して、今回は実力はそれなり以上を揃えているが、準備は万端とは言い難く、呪術師同士の結束力も低い。ただの寄せ集め。烏合の衆である。

 吹けば散る、とはこのことで、鵺の出現で部隊の統制は一気に瓦解した。

「落ち着け。まだヤツは結界を破りきれていない。今なら、まだ押し返せる!」

 指揮官が吼える。

 しかし、その声を遮るように、新たな神獣が目を覚ます。

「二体目!?」

「奥にもいるぞ!?」

「神獣クラスが、一体何体出て来るんだよ!?」

 信じがたいモノを見た。 

 結界に喰らいつく神獣・鵺の後ろから、続々と新たな神獣が生まれてきたのである。

 それは悪夢と区別がつかない光景。

 本物の鬼、鳥の姿をした何か、巨大な蟲。その他様々。目視で確認できるだけでも、ざっと十は超える。

 とても、人間でどうにかできる相手ではない。

 絶望が、胸を埋め尽くす。

 結界が、遂に存在の重みに耐えかねて崩れ落ちる。砕けるのではなく、大きく湾曲した後、ゴムが切れるようにあっさりと弾けて消えた。

 その衝撃で、隊列が大いに乱れた。当然、辛うじて維持されていた呪術が完全に機能を麻痺させた。

 精神を統一することで、無数の魔物を寄せ付けない強固な呪術としていたのだ。それが神獣の出現により、恐怖と恐慌で人心が乱れ、呪術として成立しなくなってしまった。故に、これは当然の結果であり、

「て、撤退だ! 結界まで、何としてでも逃げるんだ!」

 這う這うの体で逃げるしかない。

 倒れる誰かに気を向けることもできず、ただ次の結界に向けて真っ直ぐ走る。それ以外に、助かる術はない。

 だが、人が出せる速度など、高が知れている。

 相手は巨大な四足獣。

 狙い済ました相手に一歩で近づき、反撃の暇すら与えず一口で喰らってしまうだろう。

 恐怖する呪術師の反応に気をよくしたのか、鵺は猿にも似た顔で笑った、ように見えた。

「ヒョオオオオオオオオオン!」

 一鳴きして、後ろ足を撓ませる。長く強靭な爪で大地をしっかりと掴んで、跳躍した。

 物理法則を無視した異様な跳躍で、逃げる呪術師を追う。

 そして、その最後列に爪をかけようとしたとき、空から降り注ぐ光の雨に撃たれて、鵺は血と呪力を撒き散らして吹き飛んだ。

「時間がないんだ。手早く済ませて帰らせてもらうぞ」

 どこからか現れた少年は、神獣と魔物の群れに臆することなく立ちはだかる。

 彼を取り囲むのは、黄金に輝く剣の群れ。

 闇を受け止め、打ち払うかのごとく燦然と輝く神剣が、その切先を揃えて敵に殺到した。



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八十二話

 近畿を中心とした地脈の異変は、東京にも少なからず影響を及ぼしていた。

 日本を縦断する巨大地脈が大幅に乱れたのだ。そこに接続している地脈はもとより、そうではない地脈にも影響は出る。

 東京も、出雲――――富士山間の地脈に接続する大小複数の地脈があるため、呪力の流れが変則的になっている。

 今の段階では数日程度で収まる乱れでしかなく、農作物などへの影響は低いと見られている。しかし、無数の魔物が解き放たれ、富士山の地脈を食い荒らしてしまった場合、そこから日本各地の地脈の枯渇といった問題が発生する可能性は否定できない。

 東京は、江戸時代初期に南光坊天海が敷いた結界に補修と強化を加えて呪的な防御を施しているため、被害を最小限に抑えられるはずだが、影響が皆無とは考えにくい。

 よって、東京に暮らす媛巫女たちを動員して地脈の安定化を図ることが必要とされた。

 腕利きの呪術師たちは、東京を守るのに必要な最低限の人員を除いて東富士演習場に出向してしまっている。

 明確な人手不足の中で、十代から二十代の若者に東京守護の重責を任せるしかなくなってしまったのは、情けない話であろう。

 普段から、関東一帯の媛巫女は霊地の守護を任されている。

 役職そのものが変わるわけではない。

 しかし、何ということのない日常の中で奉職することと、目の前の危機に立ち向かうことでは、同じ職務内容でも重要性が大きく異なる。

 一歩間違えば、自分たちの命も失われるかもしれない。

 慣れていない媛巫女たちが、そのような不安に苛まれることも不思議ではなく、むしろ当然のことといえた。

 だが、各地の霊地に配された媛巫女たちの中で、取り乱すことなく淡々と奉職する者もいる。

 例えば、万里谷祐理と万里谷ひかり。

 祐理はカンピオーネの側仕えとしてすでに公に認知されている。その能力の高さも一目置かれる媛巫女であるが、胆力も並ではなかった。

 もともと、命の危機に際しても、自分よりも他人を重んじる気質の少女であり、ヴォバン侯爵に誘拐された事件でもその傾向は顕著に現れていた。そうした土壌が先にあり、ここ一年ほどを護堂と共に過ごしてきた彼女は必然的に危険に慣れることとなったのだ。

 それは、祐理が危険だと思う閾値が上がっていることであり、生物として身を守るという点からすれば誉められたことではないかもしれない。

 しかし、人として一身を賭して物事に当たる際には、取り乱すことのない冷静な人格を形成することになる。 

 そして、祐理の妹のひかりもまた、落ち着き払った様子で職務に当たっていた。

 『まつろわぬ神』やカンピオーネの猛威を肌で感じたことのある彼女にとって、今の状況はまだ不安がるほどではない。

 いざというときには、護堂が助けてくれると漠然と思っていることもあり、それほど現状を危惧していなかった。

 こうした、一部の冷静な対応が、小波のように広がり、彼女たちが配属されている霊地に関してはスムーズに職務が遂行された。

 祐理とひかりがいるのは、七雄神社。

 関東一円を守護する霊地のうちの一つであり、祐理が媛巫女として奉職する神社である。

 今回は、非常時のため、引退した元媛巫女も含めて十人ほどで霊地の維持管理に当たっている。

「お姉ちゃん。とりあえず、陣は完成したよ」

「ありがとう、ひかり。それじゃ、先生のところに戻っていいわ」

「うん。お姉ちゃんは?」

「わたしは結界に解れがないかもう一度視てくるわ。十分もかからないから、先に社務所に戻って」

「はい。お姉ちゃん、早くね」

 ひかりは、社務所に向かってかけていく。

 十二月も半ば。巫女服で外にいるのは、寒くて仕方がない。

 普段は、呪術で体感温度を調整しているが、今はそれができない。繊細な儀式をしているので、その周囲で呪術を使用するのは好ましくないからである。

 緊急事態のため、僅かなミスも許されない。

 用心が過剰になっているところは否めないが、それだけ現状が切羽詰っているのだろう。

 それに、

「晶さん……」

 晶のことが気になる。

 狙われていると聞いた。

 その理由までは分からない。

「大丈夫、ですよね」

 見晴らしのよい高台とはいえ、晶の暮らすマンションまでは距離がある。高層建築物に遮られているので、見ることはできない。

 見えないことがより一層の不安を煽り立てた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 晶はマンションの自室から東京の夜景を眺めていた。

 夜も深まり、多くの家々から光が消えているものの、不夜城の如き東京の空は夜闇を物ともしない人工の光で照らされている。

 晶が暮らしている地域は、住宅街だが、遠くに見えるオフィス街にはまだ無数の明かりが綺羅星のように輝いて見える。

 あの光の下にいる人たちは、今日本を襲っている未曾有の災害についてまったく知らない。

 晶たち呪術師が陰ながら守っている人々である。

 彼らは、何も知らずに平穏な日常を過ごしている。

 叶うことならば、このまま何事もなく終わって欲しい。

「アッキー、お茶沸いたんじゃない?」

 リビングから、恵那の声が聞こえた。

 そして、甲高い音が聞こえてくる。それは、薬缶からのメッセージ。

 キッチンに向かい、火を止める。

「どうして、音がする前に分かるんですか?」

「恵那は耳がいいからねー」

 沸騰しかけの音を聞いたということか。

「だとしても異常ですよ。それは」

 晶は恵那を見る。

 恵那は山でサバイバルをして生活する、名門のお嬢様である。非常に矛盾した肩書きのように思えるが事実である。

 性格も、一所にジッとしているのをよしとしないもので、フットワークは軽く、快活で、好奇心旺盛。猫のような人だ、と晶は思っていた。

 その恵那は、今ヘッドフォンを装着して音楽鑑賞中である。

 サバイバルともお嬢様とも吊り合わないスタイルであるが、恵那にかかれば現代の女子高生らしいカジュアルな服装の一部となる。これが祐理であれば、似合うかどうかの前に目を疑ったことだろう。同じお嬢様であっても、恵那の方が垢抜けている印象はある。それの所為だろうか。

「ヘッドフォンつけてどうやって音を聞くんですか」

 晶の耳にも聞こえるくらいの大音量で、音楽を流しているというのに。

 恵那の耳のよさは異常だ。

 自分にとって、必要な音だけ拾うというような離れ業もできるのではないかと思えるくらいに。

「はあー……」

 まったく緊張感のない様子の恵那を見ていると、肩肘を張っている自分が馬鹿みたいに思える。

 そもそも、晶はある意味でこの事件の当事者である。

 そうでなければ、今頃は護堂と共に東富士演習場で敵の軍勢と相見えていたはずだ。

 家にいるよりも、護堂と一緒にいるほうがいい。

 視界にでも入っていてくれるだけで、安心できる。

 けれど、今は護堂が東京にいない。馨によれば、敵が強大なため、護堂にも協力を要請したのだという。護堂が東京を離れている間、特に気を引き締めているようにと命令された。

 敵は地脈を見出し、数多くの魔物を野に解き放った。

 おそらく、制御しているわけではない。蘆屋道満の狙いが、本当に晶なら、あの魔物も地脈変動も制御する必要がないのである。なぜなら、それらは正史編纂委員会を混乱させるためのものであり、草薙護堂を晶から引き離すための策ということになるからだ。

 そして、護堂でなければ、魔物の群れには対処できないだろう。

 もしも、その中に神獣が紛れていたら、正史編纂委員会の呪術師では対処できない領域となる。

 東富士演習場。

 東京から、かなりの距離がある。

 護堂ならば、神速が使えるのであっという間だが、それ以外の人間では軽々と行って帰ってこれる距離ではない。

 これで、あっさりと東京の守りは薄くなってしまった。

 護堂がいないと思うだけで、とても心細くなる。

 ため息の一つや二つ、ついてしまうのも仕方がないだろう。

 晶は何気なくガラス戸に近づき、再び夜景を見ようとした。夜は室内からの光が反射するので、近づいて自分の影を作らないとなかなか外が見えないのだ。

 部屋の中が反射してガラスに映る。

 見慣れた自分の顔。そして、その肩口に映り込む髭の長い老人の顔。

「アッキーしゃがんで!」

 目を丸くする間もなく響いた恵那の声が、晶を正気に戻した。言われるままにフローリングの床にしゃがむ。

 頭の上を何かが通り過ぎたのが、空気の流れで分かった。

「あぶないあぶない。隠形術には自信があったのじゃがのう」

 恵那の斬撃をひょいとかわして距離を取った老人が、意地悪く笑った。

「あなたが、蘆屋道満ですか」

 立ち上がり、道満を睨みつける晶の手には、すでに神槍が握られている。

「如何にも。蘆屋道満はこのわしのことに相違ない」

 恵那の手にも神剣があり、晶の手には神槍がある。どちらも、並の呪術程度はバターのように切り裂ける代物だ。その使い手も当代最高峰である。

 だが、そんな二人を相手にして、道満はまったく意に介す様子がない。

「天叢雲剣。王さまに連絡して。蘆屋道満が出たって」

 恵那が神剣に語りかける。

 恵那は、天叢雲剣を通じて護堂に意思を伝えることができるのだ。これが、恵那が晶の護衛についた理由でもあった。

 しかし、恵那は驚愕に目を見開いた。

「繋がんない!? なんで!?」

 天叢雲剣と護堂との念話が、遮断されているのだ。このままでは、こちらの様子が護堂に伝わらない。

「無駄じゃ。すでに、主たちは我が術中よ。念話を遮るくらい、造作もないことよ。しかし、神剣を介して羅刹の君に危急を知らせようとはの。念には念をと、いろいろ仕込んだ甲斐があったわ」

「く……ッ」

 苦虫を噛み潰したような表情で、恵那は道満を睨みつけた。

 事ここに至っては、恵那と晶で切り抜けるしかない。

「妙だね」

 恵那が言う。

「このマンションには結界が張ってあったはずだよ。いくらあなたが稀代の陰陽師でも、こんなに堂々と入ってこれるとは思えないんだけど」

 晶を守るため、マンションには何重もの結界が敷かれている。

 それは、相手が蘆屋道満であると分かった上で用意したものであり、だからこそ道満であっても簡単に突破できるはずがないのだ。

 それにも関わらず、道満はあらゆる守りをすり抜けて晶の背後にまで迫った。

 破られたわけではない。 

 結界が、道満に対して作動しなかった結果だ。

 道満は、刃を突きつけられていながら余裕の笑みを浮かべている。

「そも、あの結界には、わしをどうこうすることなどできぬよ。初めから、そのようになっておる」

 道満は、恵那の問いに答えた。

「正史編纂委員会など、わしの手にかかれば実にあっさり落ちる程度の組織よ。例えば、ここに派遣されている呪術師どもに暗示をかけてやれば、わしの侵入を防ぐ手立てはないじゃろ」

「ッ……! いったい、いつからそんな!?」

「皐月ごろかの」

 皐月。五月だ。晶が、東京にやってきたころ。そのときには、すでに道満は東京分室に入り込んでいた。少なくとも、道満の言葉を信じるのであれば、そういうことになる。

「じゃあ、馨さんや叔父さん……甘粕さんにも暗示をかけてたってこと?」

「まあの。わしやわしにとって都合の悪い情報は、視界に入らぬようにしておいただけじゃがな。あまり強い術は、逆に勘付かれてしまう原因になるからの」

 東京分室は、道満に関する調査を一任されていた。

 その東京分室が、すでに道満の影響下であったのだから、情報が錯綜したり、不明なままであったりしたのは至極当然のことだった。

「下の人ならまだしも、上層部の人たちに軽々と術をかけられるものかな? とても、信じられないんだけど」

 恵那は、馨や冬馬がやられたという話はとても信じられなかった。

 二人の実力は折紙つきだ。馨は事務的能力の高さが際立っているため、あまり知られていないが、媛巫女としての能力の他、文武両方の才能を持つ才女である。また、冬馬は直接的な戦闘能力は低いものの、忍の術のエキスパートであり、工作活動には優れた力を発揮する。特に冬馬に関しては、本気を出せばカンピオーネや神祖から隠れ果せるだけの実力があるくらいだ。

 だから、道満であっても簡単には攻め落とせないはずだ。

 恵那の問いに、道満は大いに笑った。

「よき質問じゃ。答えて進ぜよう。いやいや、わしも誰かに話しとうてなぁ。あれは、なかなか、上手くいったと思っておるよ。如何にして侵入し、如何にして姫を潜り込ませるか。思案のしどころじゃったわけじゃが、焚き付けた阿呆どもが、予想以上に大きな仕事をしてくれたのでな」

 焚き付けた。

 誰かに、何かしらの行動を起こさせたということ。

 道満が東京分室に入り込んだのが五月だとすると。

「まさか、あれは……!」

「ふぉふぉ、都合よく武士の末裔どもが不満を持っておったからの。ちょいと、煽ってやったまでじゃ。おかげで、実に大きな隙ができたわ」

「あなたって人はッ」

 晶が、険しい表情で道満を睨みつける。

 正史編纂委員会を揺るがした内訌は、その後長く混乱の尾を引いた。人手不足に拍車がかかり、組織の再編に大きな手間と大量の時間を費やしたのである。

 戦いの中で命を失った者も少なくない。

「では、そろそろ時間も押しておることじゃ。遊びの時間は終わりじゃ。姫」

 トン、と道満は杖で床を叩いた。

 呪力が吹き出し、部屋に渦を巻く。

「舐めないでよね!」

 その呪力の渦を、恵那が斬り飛ばした。

 霧散する呪力に、道満がひゅ、と声を漏らした。驚いているらしい。

「やあッ!」

 恵那は、ただの一歩で、道満を刃の圏内に収める。

 神剣を振り下ろそうとしたとき、恵那の視界を呪符が遮った。

 紙を斬り裂く手応え。道満は後ろに下がって、回避していた。

 さらに、呪符の壁が、恵那に倒れこんでくる。

「オン・アギャナウェイ・ソワカ」

 聞き取れないほどの速さで唱えられた火天呪が、恵那を押し包もうとする呪符に火をつける。

 音もなく、ただ炎だけが膨れ上がった。

 閃光が奔り、恵那は部屋の反対側まで吹き飛ばされた。

「あっつーッ!」

「清秋院さん!」

「大丈夫。このくらいなんてことないよ!」

 天叢雲剣が恵那の身を守ったのだ。

 風が、彼女の身体を薄く取り巻いている。

「太刀の巫女。やはり、厄介よな」

 道満は指の間に呪符を挟み、念を込めて投じた。

「吹き飛ばして!」

 矢のように迫る呪符に、恵那の風が襲い掛かる。

 風刃が、呪符を引き裂き、打ち払った。バラバラにされた呪符は、風に舞ってあらぬ方へ飛ばされる。

「オン・キリキリ――――」

 道満は、散った呪符を意に介さず、印を結ぶ。

 この呪文は、不動金縛り。

「ヤバイ、逃げるよアッキー」

「え、ちょッ!」

 恵那は天叢雲剣を振りかぶると、床に突き立てた。

 風と雷が生じ、床が抜ける。

 どれほど優秀な建造物でも、神剣の一撃に耐えられる構造にはなっていない。

 道満がドアへの道を塞いでいたので、これ以外に逃亡する方法がなかった。

「目茶苦茶しますね。ホント」

「下の部屋には人が住んでないからね。非常事態のときは壁も床も抜いていいって言われてたし」

 瓦礫に巻き込まれないように恵那と晶は術を使って身を守り、すばやく立ち上がってドアから廊下に出た。

 階段を飛び降りるようにして降っていく。

「それにしても、道満。アッキーのこと姫って呼んでたね。どういうこと?」

「知りませんよ。そんなこと。わたしが聞きたいくらいです!」

 媛巫女とはニュアンスが違うようにも思えたその響き。

 もちろん、道満に狙われる理由すらも心当たりのない晶には、あの老人の考えなど分かるはずもない。

 全力で走る。

 人型に切り取られた紙が、群れを為して恵那と晶を追いかけている。

 さすがに、空を飛んでいるだけに速い。

「とにかく、外に出ましょう。非常口から、下に」

 もはや、ドアノブを捻る時間すらも惜しい。

 ドアを蹴破って、踊場に出る。

「来るよ!」

「飛びます!」

 言って、恵那と晶は柵を乗り越えて夜の虚空に身を投げた。

 現在、地上八階。

 真っ当な人間なら、この高さから落ちて無傷で生還することはありえない。しかし、この二人は、武芸と呪術に長じている。自らの体重や落下速度を操り、完璧なまでの受身を取ることで、着地を成功させる。

 恵那と晶を捕らえ損ねた式神の群れは、宙空で鳶のように輪を描く。

 そして、一枚一枚が、肉付きのよい鬼へと変じ、地上に落ちてくる。

「ダメ、このままじゃ住宅街にも」

「バカ言わない。アッキーが捕まったら話にならないんだから、とにかく逃げる! 今は逃げの一手だよ!」

 囲まれたら終わりだ。晶の尻を叩くように、恵那が言う。

「逃がさんよ。姫はもとよりこちら側じゃ。あるべきところに帰るのが筋じゃろう」

 道満が道を塞ぐように立っている。

 もはや問答の余地はないと、恵那が道満に突っ込む。一歩遅れて、晶が続く。相手は呪文を唱え、呪符を投じる戦闘スタイル。よって、その暇を与えずに攻めるべきだと判断したのだ。

 その二人の前に、二体の鬼が立ち塞がる。

 二メートルを超える巨躯である。

「どいて!」

「邪魔!」

 天叢雲剣と神槍が、すれ違い様に鬼の首を落とす。無駄のない動きは、鬼に僅かの抵抗も許さなかった。倒された鬼は、呪力でできた肉体を消滅させ、呪符だけがその場に残った。

「ほう。さすがに、神剣と神槍の相手は式程度では無理か」

 道満は感心と落胆を綯い交ぜにした表情を浮かべ、それからにやりと笑う。

「牛頭よ。主の出番じゃ」

 そのとき、突如発生した呪力の豪風は、恵那と晶を纏めて吹き飛ばしてあまりあるものだった。真横から襲い掛かった一撃に、恵那は身体を強かに打たれ、晶はその煽りを受けて地面を転がった。

「かはッ。ぐ、う」

 恵那が天叢雲剣を支えに膝をつく。

 咄嗟に跳んで威力を殺したものの、綺麗に横腹に貰ってしまった。痛みよりも、衝撃の強さが先行してくらくらする。

「梃子摺っておるなあ、道満」

「なかなかの手練であろう。牛頭よ。肩慣らしにはちょうどよかろう。暫し、相手をせい」

 道満の隣に現れた巨漢を見て、恵那は目を見開いた。

 晶もまた、驚愕に息を呑む。

 牛の頭をした筋骨隆々な男性。胸当てや籠手などの最低限の武装を身につけているものの、彼にとってそれは装飾品以外の何物でもなく、ただ鍛え抜かれた肉体こそが、武器であり防具であった。

「牛頭、……牛頭天王。あなた、いったい何者?」

 牛頭天王は、日本の代表的な《鋼》の神格だ。

 中国の蚩尤、ギリシャのミノスといった牛頭人身の神に共通する、大地と関わりの深い《鋼》であり、スサノオと習合する嵐と疫病の神である。

「あのジジイとは長い付き合いでな。スサノオの巫女。事が終わるまで、俺が相手をしよう」

「く……」

 恵那は天叢雲剣を構えて神気を呼び込む。

 とはいえ、相手は『まつろわぬ神』ほどではないにしても、神獣を上回る存在だ。おまけに、恵那に加護を与えるスサノオと似通った神性を持つために、相性が頗る悪い。

「清秋院さん!」

「アッキー、逃げて!」

「逃がさぬよ。姫」

 ズウ、と夜闇から滲み出るように、水墨画を思わせる鬼が湧き出てくる。

「く、このッ」

 神槍を振るい、鬼を打ち払う晶。次から次へと、雪崩のように襲い掛かってくるのだから、有象無象と雖も厄介だ。

 呪術を使い、神槍を振るい、活路を探す。

 だが、見つからない。

 恵那が、牛頭天王の攻撃を受けきれずに宙を舞った。

 神気を呼び込み、一時的に神獣を上回る戦闘能力を持つことのできる恵那であっても、防戦が手一杯。

 牛頭天王を配下に置く、蘆屋道満。いや、蘆屋道満ではない。様々な伝説を持つ大陰陽師であっても、牛頭天王との関わりはない。

 だとしたら、この神は――――

 目の前に迫る、狼の口。

 神槍の柄に、子鬼がしがみ付いた。

「あ……」

 狼の狙いは首。殺しはしないだろうが、五体満足で確保するとも言っていない。

 やられたと、思った。

「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン!」

 炎が、晶を包み込む。

 熱風は晶を傷つけることなく、周囲の式神だけを燃やし尽くした。

「走って!」

 恵那ではない。もっと、勝気な印象の声だ。それも、最近聞いたような声。その声の主に手を引かれ、晶は引きずられるように走った。

「ま、待ってください。あなたは」

「無駄口叩かないで。今、護堂にメールしたから!」

「え、先輩に」

 走りながら、相手の後姿を見る。

 腰まで伸びた長い髪。左右の一部を、髪留めで止めている。

 見覚えがあった。 

 つい最近、そう。それは、静花の誕生会で、

「あ、な。まさか、徳永さん!? なんで、あなたが」

「…………後で、ちゃんと説明するから」

 明日香は、晶の方を振り返ることなく、険しい声で答えた。

 晶もまた、混乱していた。

 明日香は護堂と静花の幼馴染であるが、呪術に関わりのない一般人だったはずだ。正史編纂委員会のリストにも載っていない。護堂の関係者は、リストアップされそれなりの調査がされているのに、誰も呪術関係者だとは気付かなかった。

「もしかして、あなたがあのメールの差出人」

「まあ、そうね」

 認めた。

 晶も、確認はしたものの、すでに確信はしていた。今の状況から考えて、明日香以外にメールの送り手はありえないからだ。

「じゃあ、蘆屋道満とどういう関係なんですか?」

 晶の声にも険が混じる。

 明日香が道満の関係者だとすれば、敵側の陣営である。晶を救おうとしてくれたことから、寝返る気だとは想像もできるが、それでも真正直に信じるわけにもいかない。

「何、わしの娘じゃよ」

 答えは空から。

「ッ」

 返礼とばかりに降り注ぐ、刃の雨。

「ハアッ!」

 晶の神槍が風を巻き起こし、一薙ぎで打ち払う。

「今、信じ難いことを聞きましたが。娘? え?」

「ちょっとした実験での。ま、その行き着く先が主なのじゃがな」

 再び、晶の前を塞ぐように立った道満は、暗い双眸で晶を見つめた。

 道満の言葉に、晶は眉を顰め、明日香はハッと息を呑んだ。

「信じらんない! あんた、殺したのね!」

「何を言うか。きちんと、生きておるじゃろ。言葉には気を付けよ」

 道満と明日香のみが、その意味を理解できた。

 二人の間にある、何かしらの共通理解が明日香の反感を誘った。それが、どういうわけか晶にも関係するらしい。

「とにかく、護堂が来るまで逃げ延びるのよ。いいわね」

「は、はい!」

 明日香は帝釈天印を結び、

「ノウマク・サマンダボダナン・インダラヤ・ソワカ!」

 与えられた知識を動員して、術を放つ。

 帝釈天の真言で術式を完成させ、突き出した右手がスパークする。

 紫電が奔る。

 雷撃は高い攻撃力に加えて、極めて速い。人の目では追うことのできない速度で空間を走り、対象を焼き払う。

 その特性上、見てから避けることはまず不可能。

 よって、道満は明日香の術に先んじて呪文を詠唱。

「くわばら、くわばら」

 雷撃は、道満の目前で左右に分かれてあらぬ方向へ飛んで行く。

「雷除け……!」

「まだまだ術の使い方が粗いの。呪術から離れて暮らすからじゃ。それ」

 道満の足元から影が湧く。

 式神の群れが前進する。晶が明日香を庇うように前に出る。その後ろでは、明日香がカバンからノートを取り出していた。そして、それを式神の群れに投げつける。

 ノートには、尊勝仏頂陀羅尼が書き込まれていた。

 文字が呪力を帯び、式神の群れは悲鳴を上げて二人を避ける。

「ふぉふぉふぉ。なるほど、師輔の真似か。よき趣向じゃ」

 楽しげに、道満は笑う。

「南無八幡大菩薩!」

 モーセが海を割ったように、式神の群れは道満までの道を作った。そこに、晶が神槍を投じた。

 爆発的な呪力を宿し、ミサイルを思わせる速度で神槍が道満を襲う。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」

 道満は目にも止まらぬ早業で空中に格子状の線を引く。

 光の線が、そのまま障壁となった。

 晶の神槍が、その障壁に衝突する。

「おおう。なかなかどうして、強いの」

 道満は伏せるように頭を下げ、障壁を貫いた槍が肩口を掠めて飛んでいく。

 カンピオーネの権能で創られた槍だ。晶では本来の力を引き出せないものの、それでも即製の障壁を貫けないことはない。

「やれやれ、時間もそうかけてはおれぬ。主に呪術の知識を与えたのは間違いだったかの」

 明日香を見る道満の目は、それでも不快の感情がない。まるで、自分の仕事の出来を鑑賞しているかのようだ。

 道満を仕留め損ねた晶は、手元に神槍を召喚する。

「それに、娘の不始末も親の責任じゃろうしの」

「誰が親よ。ふざけないで!」

 明日香が剣印を結ぶ。

 先ほど投じたノートが風に因らず開き、内部に書き込まれた呪術を発動する。

 ノートが、明日香にとっての呪具。素早く、術を使うための触媒なのだ。

 しかし、そこに文字が書き込まれているということは、発動前からどのような術なのかが分かってしまうということである。

 道満は飛んでくる攻撃を的確に「返し」ていく。

「そら、次じゃ。オン・マリシエイ・ソワカ」

 道満が呪符を投じる。

 空中で、三枚の呪符が刃物に変化した。クナイのような形をした刃を、晶が神槍で叩き落す。攻め込もうにも、式神が壁となって進路を塞ぐ。明日香の百鬼夜行除けの尊勝仏頂陀羅尼の結界が、辛うじて二人の居場所を作っている。

 明日香も、懸命に術を放つが、やはり分厚い式神の壁を突破できない。

 護堂が来るまで、どれくらいの時間がかかるか。

 焦りが募っていく。

「早く来なさいよ、バカ」

 小さく毒づく。

 慣れない呪術戦に、明日香の心労はピークに達していた。

 ほぼ初めての経験。まともに呪術の勉強をしていない明日香がなんとか呪術戦を演じることができるのは、道満が手心を加えていることと、道満が明日香に刷り込んだ呪術の知識によるものである。つまり、道満のサポートによって道満と戦っているという滑稽な茶番でしかない。

 それでも、護堂が帰ってくるまでの時間さえ稼げれば問題ないのだ。

「では、そろそろ終いじゃ。金気は水気を生ず」

 道満が印を結ぶ。

 どのような術が来るか、道満の動向を注視していた晶と明日香は完全に虚を突かれた。

 呪力が湧き立ったのは、二人の足元だった。

 道満の呪符が変じた三つの刃。

 その刃が破裂し、水滴に変わった。五行相生の理に従って、金気から水気に転じたのだ。その水気を晶の脇腹に張り付いていた呪符が吸う。

「な、何これ。いつの間に!?」

 晶が悲鳴のような声を上げる。

 それは、道満が刃へ変じた三枚の呪符を投じたとき、隠形術をかけて投じた四枚目だった。刃に気を取られた晶は、呪術で巧みに隠蔽された四枚目の呪符には気付かなかったのだ。

 水を吸った呪符は凄まじい勢いで蔓草に変わり、晶の身体を締め上げて拘束する。

「うぐ、くはッ」

 倒れ込む晶を支えようとした明日香の顔に向かって、蔓草から切り離された葉が張り付く。

 払い除けた瞬間、葉は凄まじい炎の塊となった。

「きゃああッ!?」

 衝撃が全身をくまなく叩き、明日香は吹き飛ばされた。地面に叩きつけられ、そのまま昏倒する。

 水気から木気を生み出し、木気から火気を生み出す。五行相生は、陰陽師たる道満にとって児戯に等しい基本的な術式である。

 とはいえ、それをここまでの精度で行うとなると、やはり並の呪術師では歯が立たないのも道理であろう。

「この、放し……むぐッ」

 叫ぼうとした晶の口を、蔓草が塞ぐ。噛み切ろうにもゴムのように固く、柔軟性がある奇怪な蔓草は晶の抵抗にもビクともしない。

「おお、道満。捕らえたか」

 ズンズンと歩み寄ってくるのは牛頭天王。 

 身体のあちらこちらに裂傷や切り傷があるものの、健在だ。

「太刀の巫女はどうであった?」

「まあまあだな。やはり、人では俺の敵にはならぬ」

 首を鳴らし、如何にも一汗かいたというような仕草をする牛頭天王は、縛り上げられた晶を見下ろす。

「ふぐ、むぐぐ。むー!」

 猿轡をされた状態でも、晶は懸命に抵抗しようとしている。

 その姿をあざ笑うかのように、牛頭天王は鼻を鳴らした。

「騒がしい。何とかならんか」

「ふうむ。余計な術をかけると儀式に障るからのう。やるとすれば、こうかの」

 道満が印を結ぶ。

 晶を拘束していた蔓草が一斉に蠢き、メキメキと晶を締め上げた。

「ふぎゅう、うむぐぅぅぅ!」

 声にならない悲鳴を上げて、晶は悶絶する。やがて、小さく震えながら動かなくなった。

 術をかけるのではなく、物理的に刺激を与えて黙らせたのだ。

「儀式のときまで未通女(をとめ)であればよい。骨は肉によう馴染んだことじゃし、身体が無事ならば十分じゃ。騒ぐのが煩わしいのであれば、傷つけぬよう調教するがよい。もっとも、五年前に最期まで散々に嬲ったからの。そういうことには慣れておるかもしれぬぞ」

「俺は加減できぬし、犯せんのなら興味はない」

 牛頭天王は言い捨てて、晶を大きな手で鷲掴みにして肩に担いだ。

 ぐったりとした晶は、意識はあるものの抵抗する様子はない。

「戻るぞ」

「せっかちなヤツじゃ。まあ、仕方ないかのう。魔王に来られてはすべてが水の泡じゃ」

 道満は、印を結ぶ。

 摩利支天印は、隠形術の基本だ。

「では、戻ろうかの。――――クシナダヒメよ」

 夜陰に溶け込むように、牛頭天王と道満は姿を消した。

 残されたのは、打ち倒された少女が二人だけ。

 すべては道満の思うままに進んでいた。



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八十三話

 神獣と百鬼夜行を殲滅して東京に戻ってきた護堂を待っていたのは、病院に担ぎ込まれた恵那と明日香、そして晶が連れ去られたという事実であった。

 それを聞いたときの憤りとやるせなさは筆舌に尽くしがたいものがあった。

 原形を残さぬほどに破壊された晶の部屋。

 呪術師で、蘆屋道満の関係者だった明日香。

 何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。

 晶がどこに連れ去られたのか。なぜ、晶が連れ去られなければならなかったのか。蘆屋道満とは何者なのか。

 まったく情報がなく、全国の分室は地脈の乱れを修復するのに手一杯で道満の捜索までは手が回せない。

 それだけが、護堂に知らされたことだった。

 迂闊に東京を離れたことがまずかった。

 晶を大事に思うなら、東富士演習場を見捨ててでも東京に残るべきだった。取捨選択を誤ったが故に、大事なものを奪われた。

 なんと不甲斐ないことか。

 苛立ちは、埃のように心の中に積もっていく。

 思考が凝り固まり、雁字搦めになったようだ。冷静さを欠いている。頭では分かっている。

「草薙さん。少し、いいですか?」

 その護堂に話しかけてきたのは馨だ。蘆屋道満の襲撃を受けて昏倒していたところを発見され、病院に運ばれたが、意識を取り戻して早々に職場に復帰したのだという。

「沙耶宮さん。身体は大丈夫なんですか?」

「はい。むしろ、蘆屋道満にかけられていた暗示が解けたおかげで、とてもすっきりした感じですね」

「暗示、ですか」

「……はい。恥ずかしながら、呪術師として相手は一枚も二枚も上手でした。それに関する説明をしたいと思いますので、お時間を頂けますか? 明日香さんからもいろいろと聞きたいことがありますが、それは彼女が目覚めてからにして、今は、現在分かっていることを含めて確認をしたいことがたくさんありますので」

「分かりました。どこに、行きましょうか?」

「ご案内します。こちらへ」

 正史編纂委員会が管理する病院の一室。

 小さな会議室であり、普段は医師や看護師が利用する部屋だ。

 部屋の中には、冬馬もいた。

 飄々としていた彼には似合わない沈鬱な表情だ。 

 そして、その隣には祐理が立っている。七雄神社から急遽呼び出されたのである。

「草薙さん」

「万里谷は、無事だったか」

「はい。わたしもひかりも、怪我一つなく」

 祐理は、唇を噛んだ。

 恵那と明日香が傷つき、晶が攫われた状況で、自分は戦ってすらいない。それが、たまらなく悔しい。

「そうか、よかった」

 ただ、護堂はそんな祐理の内心を理解しながらも、無事だったことを喜んだ。

 自分も一緒に傷つけばよかったなどというのは、ただの欺瞞である。祐理は自分にできることを目一杯やったのだ。責められる道理はない。

「それで、沙耶宮さん。蘆屋道満についての話というのは?」

「はい。どうぞ、お掛けになってください」

 馨に促されて護堂はイスに座る。祐理も同じく、座ることになった。

「何から説明したものか、僕たちも混乱していて、多少前後することもあると思いますが、まず聞いてください」

 そう言って、馨は現在分かった蘆屋道満の情報を語りだした。

「蘆屋道満は、かなり早い段階から、この東京分室に入り込んでいたようです。意識を取り戻した恵那が、直接聞いたところによると、どうやら今年の五月ごろには僕たちは彼の術中にあったようです」

「は、え、五月?」

「はい。道満は、この東京分室全体に、軽度の暗示をかけていたのです。自分に関する情報を、認識できなくなるという、認識阻害の一種です。この術のために、僕たちは蘆屋道満に関するあらゆる情報を無視してしまっていました」

 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。

 五月と言えば、正史編纂委員会が護堂と本格的に接触した時期である。それ以前は祐理を通しての関わりしかなかった。

「じゃあ、ゴールデンウィークのときにはもう?」

 馨は、ゆっくりと首を縦に振った。

「ご存知だと思いますが、あのときの僕たちは非常に守りが薄かった。甘粕さんは潜入調査で敵地に潜っていましたし、僕は甘粕さんに変装した敵を手元に置いていました。泳がせていた面もあるとはいえ、東京分室内ですら、そういった状況だったのです。僕と甘粕さんは事実上、切り離されていましたし、それぞれの職員が互いに暗示を受けても気付かない土壌はできていました」

 人の出入りが激しく、激務が連続していた時期は、敵にとって非常に侵入しやすい環境を作っていた。それが、蘆屋道満という稀代の陰陽師であれば、侵入を防ぐのは事実上不可能といっていい。

「ということは、そのときには道満様は晶さんを狙っていたということでしょうか?」

 祐理が馨に質問する。

「どうでしょうか。むしろ、晶さんを潜り込ませることが、道満の目的だったのかもしれません」

 奇妙な言い方をする。

 馨の言葉遣いに引っかかりを覚えて、護堂が口を開いた。

「晶を潜り込ませるため、というのはどういうことですか?」

 まるで、晶も道満の側の人間だったかのような言い方ではないか。

「それに関しても僕たちは暗示をかけられていたようです」

 馨は視線を冬馬に向ける。

 冬馬は、A4の紙の束を護堂の前に置いた。

「これは?」

「晶さんに関する資料です。彼女は媛巫女なので、パーソナルデータはきちんと保管してあるんです。それを見てもらえれば分かるかと思いますが」

 護堂は言われて資料に視線を落とす。

 束の一番上にある紙は、晶が出雲大社で修行を始めるときに作った資料ということで、顔写真は十歳前後の幼いころのものである。

 短い黒髪は今と変わらない。晶の面影が確かにある。 

 さらに、護堂は資料を読んでいく。

 本籍地は鹿児島。確か、晶の母親が鹿児島の人間だったはず。

 血液型はAB。これは、初めて知った。

 身長、体重。五年前の情報だ。もはや意味がない。

 特記事項。霊視、神憑り。

「霊視に、神憑り?」

 晶の能力は、月と大地から加護を得ることだったはずだ。それを、神憑りの一種と見なすこともできるだろうが、今までに一度も霊視ができるという話になったことはなかった。

「どういうことでしょうか。晶さんは、霊視の力はなかったような」

 祐理も、記憶と異なる記載に首を傾げている。

「これが、本来の晶さんの力です」

「本来の?」

「はい。晶さんは、媛巫女としては中の中から中の上といった程度の資質しかない、至って平凡な能力しか持たない娘でした。もちろん、神憑りは希少な力で、現代では他に恵那さんしか使い手がいないのでその分評価は高まりますが、それでも、あの娘が受け入れられる神気は恵那さんの十分の一以下で、満足に使えるものではありませんでした」

 冬馬が馨の言葉を受けて説明した。

 晶の叔父である彼は、会う機会こそ少ないものの、幼い頃の晶を知っている。その能力がどの程度なのかも、一流の呪術師である冬馬にはだいたい察することができた。

「正直、あの娘には上位層に食い込むだけの力はありませんでした。万里谷さんのように、公家の一員として守られてきた血統ではなく、武家の、しかも一度は離散し没落した高橋家の血筋ですし、私の方も忍です。血筋を守ることで能力を維持してきた媛巫女としては、それだけでも下の下になってしまうのです」

「血筋を守る、か」

「はい。媛巫女の力は、血によって受け継がれるのです。千年間、僕たちは婚姻にまで干渉して媛巫女の血に宿る霊能を保持してきました」

 媛巫女が家柄を超えて崇拝される理由。それが、血に宿る神祖の力である。それが発現した者は、どのような家柄であれ、高貴な身分として丁重に扱われる。

 もちろん、正史編纂委員会とその前身に当たる組織が千年に渡って管理してきたために、その力を有するのは、公家出身者が大多数を占める。しかし、その管理も常に完璧にできていたわけではない。公に呪術が使用されてきた平安時代ならばまだしも、その権威が衰えた後世ではそうもいかない。高橋家のように、武家でありながら媛巫女の力を取り入れることもあったし、さらにその家が没落して、野に下ることもあった。

 少なからず、媛巫女の血も散っているのだ。

「ですが、どれほど薄まろうとも、霊能そのものが変化することはありえません。源流が同じである以上、発現する力も強弱こそあれ方向性が変わることはないんです」

「えと、でも晶は霊視ではなく、また別の力を使っていましたが?」

「はい。それが、まずおかしい点ですね。さらに言えば、一度発現した能力が、途中で変わることもありえません。血に依存する霊能ですから、後天的に変化はしないのです。ですが、その資料にあるように、五年前の晶さんと現在の晶さんでは能力がまったく異なっています」

 馨は、淡々と事実を並べていく。彼女にも思うところはあるだろうに。

 冷静に資料を読み取り、情報を分析した結果を、馨を口に出した。

「――――つまり、資料にある晶さんと攫われた晶さんは、別人ということになるんです」

 

 

「別人、ですか」

 祐理は信じられないといったように呆然とする。護堂も、同じ心境だ。

「何かの、間違いということはないんですか?」

「現在あるデータを見る限り、否定できる要素はありません」

 馨は首を振る。

「でも、おかしくないですか? 晶は甘粕さんのことを叔父さんだと言っていましたし、甘粕さんも姪だと」

「はい。そうです。そういうことになっていました(・・・・・・・・・・・・・・)

 冬馬は、苦々しそうな表情をしている。

「僕たちは、彼女が本物の高橋晶だと思っていました。それは、蘆屋道満にそのように刷り込まれたからだと思われます。彼女が攫われたときに、それらの術が解けたのでしょう。甘粕さんは、珍しく動揺していましたよ」

「恥ずかしながら。……ええ、それでですね、あの晶さんが、東京分室にやってきたのは、ゴールデンウィークの直前です。その前の所属は出雲となっていますが、調べたところ、あの娘の記録は一切存在しませんでした」

 冬馬はあの晶が姪ではないと気付いた直後に、晶の足取りを調べ直したのだという。だが、一切の情報はなかった。

「存在しない?」

「はい。まっさらです。過去一年間、出雲から東京に誰かが派遣されたという記録もなければ、転属になった記録もありません。さらには、高橋晶という名の呪術師の名は出雲にはありませんでした」

「どういうことですか?」

「それは私には何とも」

 冬馬にとっても、それは衝撃以外の何物でもなかっただろう。

 自分の家族として接してきた相手が、いったいどこの誰なのかも分からないというのだから。

「どうして、そんなことになったんだ。道満が、わざわざそんなことをしたってことか」

「でも、それでしたら晶さんを無理に連れ出す必要はないのではないでしょうか。晶さんご自身も、蘆屋道満様とは関わりがないと仰っていましたし」

「重要なのは、あの娘がどう思っていたかではないんだよ、祐理。記憶を弄ることができれば、その辺りはどうとでもなるはずだ。僕たちが彼女を『高橋晶』だと思っていたように、あの娘も自分のことを『高橋晶』だと思っていたということも考えられる。どうして、僕たちの下に送り込んできたのかは分からないけど、それが儀式とやらに必要だったんだろう。そう、大切なのは、道満が何をするかだ」

 晶を使って、道満は何かしら大掛かりな儀式を執り行おうとしているらしい。

 その晶を、天敵でもあるカンピオーネの傍に置いたのはどういった意図からか分からない。それが、儀式に関わりのあることだと分かるくらいだ。

「晶が、甘粕さんの姪の晶とは別人だということは、絶対なんでしょうか。それこそ記憶を弄られてそう思い込まされているだけかもしれない」

 護堂の質問には多分に願望が含まれていた。

「その可能性も否定できません。晶さんの捜索を撹乱するために、道満が僕たちに術をかけた可能性があると。しかし、いくら蘆屋道満といえども、呪術を介さないデータを改変することはできないはずです。このデータがある以上、これは動かぬ事実と考えるべきかと思います。さらに、甘粕さんの姪の高橋晶ですが、彼女は、五年前の失踪事件以降、未だに行方が分かっていません。失踪届けも出たままになっています。ですから、そもそも甘粕さんの姪を名乗る高橋晶が平然と東京にいること自体がおかしいのです。僕たちは、そのことに気付きませんでした」

 悔しいのだろう。馨は唇を噛み締める。組織運営や工作には類希な才能を持つのだ。まんまと出し抜かれたことがプライドを傷つけても不思議ではない。それに、護堂が東京を離れる際にその背を押したのは馨からの電話であった。しかし、実際は馨はそのような電話をかけた記憶がない。あの時点で、馨は道満に操られていたのだ。

 とても単純な方法で、護堂は東京から引き離されてしまった。どこからどこまでが道満によるもので、どこからどこまでが馨自らの判断だったのか。今にして思えば、自信が持てないことが多すぎる。

 今年の五月以前の記録を持たない高橋晶と、五年前から消息不明の高橋晶。

 この二人の関係は、いったいどのようなものなのか。

「晶が何者か、ということは今のところはっきりとしたことが分かってないわけですね」

「そうですね。残念ながら」

「なら次は、晶を助ける方法を考えましょう。どっちにしても俺にとっては晶はアイツの方ですし、連れ戻さないことには、道満のことも分からない」

 晶が本物か贋者かは、正直どうでもよい。いずれにしても、護堂の傍にいて、護堂を好きだと言ってくれたのは、攫われた晶である。

 ならば、助け出さねばならない。細かいことは、後回しだ。

「そうですね。ですが、道満がどこに潜んでいるのか分かりません。全国各地が混乱しているために、捜索に割ける人員も大幅に減っています」

「……ッ」

 道満がどこに行ったのか分からなければ、動きたくても動けない。

 せめて、明日香が目覚めてくれれば。

 若雷神の化身は、傷を癒せても、無理矢理意識を覚醒させることはできないのだ。それでも、明日香はもともと重傷ではなかったので、疲労が回復すればいつでも目覚められるだろうとのことだが。

 苛立ちに奥歯を噛み締めた。

 ちょうど、そのときドアがノックされた。

「失礼します」

 看護師の女性だ。

「徳永さんの意識が戻りました」

 護堂はイスを跳ね飛ばす勢いで立ち上がった。

 馨と目配せする。

 すぐに向かうべきだという共通理解を得て、護堂は明日香の病室へ向かった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 土と水の匂い。

 真っ暗な闇の中で、晶は目を覚ました。

「ぐ、く」

 動こうとして、自分が縛られてることを理解した。両手首が粗い縄で一纏めにされている。如何なる素材でできているのか、晶が全力で引き千切ろうとしても、ミシミシと音を出す程度でびくともしない。さらには、手首の縄は、天井にまで続いていて、晶を一定の空間に固定している。

 ここは、地下牢のようだ。

 窓もなければ、舗装されているわけでもない。

 壁も地面もむき出しの土で、ところどころに固い石が顔を覗かせている。

 暗がりが、ボウ、と明るくなった。

 ろうそくの火であろうか。明るすぎない、優しい光はしかし、晶に見たくもないものを直視させることとなった。

「ひぅ」

 小さく悲鳴を上げた。

 牢の中には、人の骨が転がっていたのだ。一体ではない。頭蓋骨を数えれば、見える範囲に五人の骸があるのが分かる。皆、巫女服を着ている。

「目が覚めたかの」

 音もなく、蘆屋道満がやってきた。抜け落ちたかのような、窪んだ眼が晶を無感動に見つめている。

「蘆屋、道満。……わたしを、どうする気」

「気丈じゃな。よいよい、なかなかによいぞ。贄とするには、それくらいの覇気がなければな。じゃが、あまり暴れてくれるな。せっかく、わしが端整込めて作った身体なのじゃ。傷つけられては困るの」

「どういう、こと。作った?」

 声が震えている。

 違う。

 反響しているからだ。

 恐れてはいない。恐ろしくもない。

 自分に、言い聞かせる。

「おう、そうじゃ」

 道満が杖を突き出した。

 真っ直ぐに、晶の胸の真ん中を突く。

「ぐ……!」

 そのまま、ぐりぐりと捻じ込むように杖の先を押し付ける。

「い、痛いッ、く……!」

「ふぉふぉ、まだまだ、この程度で壊れる主ではあるまい。犬のように繋がれることも、身体を弄くられることも、主にとっては慣れ親しんだものではないか。ん?」

 苦悶に歪む晶の顔を覗きこむようにして、道満はにやりと笑っている。

 たまらなく、不愉快だ。

「だれが、そんなことに、ッぅ……」

 晶の反論を、道満は楽しんでいるようだ。

 しばらく晶の反応を楽しんで十分満足したのか、道満はやっと杖を下ろした。

 晶は荒く息を吐いて、乱れた呼吸を整える。痛覚を抑えるために、呼吸に意識を集中する。

「はあ、はあ……ぐ、くぅ。……こんなことして、ただで済むと思ってるの? 先輩を敵に回して、……先輩が、来てくれたら、あなたなんか……!」

 相手が『まつろわぬ神』に近い存在であっても、カンピオーネの敵ではないのだ。護堂が駆けつけてくれば、道満は撤退するか死ぬかの二択を選ぶしかない。

 なのに、なぜこの呪術師は余裕でいられるのだ。

「なるほど。確かに、わしはあの魔王には勝てぬ。彼奴が来ればわしは敗北するしかない。しかし、来るかのう。わざわざ主を救いに」

「何が、言いたい」

「人ではない主を、あの魔王は救うのか? 人でも神でもない、わしがクシナダヒメの竜骨より作りし紛い物の肉体と、汚れに汚れた小娘の魂を、救うほどの物好きか?」

 道満が、杖を晶の鼻先に突きつけた。

「何も知らぬよな。わしが、忘れさせてやったからのう。まさか、自分が生まれて半年ほどの小娘だということにすら気付いておらぬじゃろ、ええ?」

「は、何を言って……?」

 脳に叩きつけられるような、わけの分からない情報は、晶の思考力を奪ってしまった。

 道満の言っていることが、何一つ理解できない。

 生まれて半年?

 忘れたとは、何を?

 疑問は次々と生じてくるが、口にしてはならないと直感する。

 冷や汗が止まらない。

 喉が渇く。

「今言うたじゃろ。その身体は、わしがクシナダヒメの竜骨を触媒にして編み上げた人形じゃと。主を選んだのは、主が神気を受け入れることができる魂を持っておったからじゃ」

 人形。

 今までにも、何度か言われた言葉。

 木偶とも呼ばれた。

 それを、ただの悪態だと思っていた。

 血の気が引いていくのがよく分かった。

「あ、あ……あ」

 蘆屋道満。

 この姿、この声、この臭い。以前、どこかで見て、感じたことがある。記憶が、疼く。

「危険を承知で魔王の傍に置いたのは、神々の神気を吸って骨と肉を霊的に癒着させるためじゃ。主が竜骨から力を吸えば吸うほど、身体は神祖に近づいていく。高橋晶よ。主は実によい膠であったわ」

 震えが止まらない。

 カチカチと、音が聞こえる。

 それが、恐ろしさから歯の根が合わなくなったのだと、理解するだけの思考力は既にない。

「ひ、ひあッ」

 道満が枯れ枝のような指で晶の頬に触れる。痺れるような恐怖が、身体中に広がっていく。

「忘れたままでは可哀想じゃ。よしよし、思い出させてやろう。主の魂をその身体に合わせるために調整してやった、この五年間をの」

 逃げなければ。

 自分にとって、最悪の何かが迫っている。

 身体を捻り、縄を切ろうと抵抗する。必死にもがく。

「や、めて」

 本能が叫んでいる。

「嫌だッ」

 道満は、晶の懇願を笑みと共に聞き流す。

 呪力を練り上げ、呪文を囁き、晶の額に手を翳した。 

 晶の脳に、道満の呪力が染み込んでくる。

「ダメ、ダメダメダメェ、いやあああああッ」

 

 

 

「さすがに、刺激が強かったかのう」

 道満は相変わらずの下卑た笑みで、晶を見下ろしている。

 泥と涙で汚れた晶は、ひくひくと小刻みな痙攣を繰り返し、荒く息を吐いている。五年分の苦痛と絶望と快楽に蹂躙された晶は、息も絶え絶えといった状況であり、目の前に立つ道満の言動に意識を割く余裕もない。そもそも、意識があるのかないのかすらも分からない。

「あ……ひあ、あ、あぁ、あ、うあ……」

 道満が杖で突いても反応を返さない。

 うわ言のようになにやら呟いているが、それも言葉の体を為していない。

「外での生活はよほど幸福だったのであろうな。よいことじゃ。その分だけ、絶望も深くなる」

 死んでいないのだから、放って置けばその内に回復するだろう。

 身体は十分に熟している。

 もはや、骨と肉を繋ぐ精神の役割は終わったといっていいだろう。

 心が壊れていても、肉体が生きていればいいのだ。

 絶望を受け止めたクシナダヒメの霊力を有する身体。

 神話をなぞるには、最高の触媒である。

「牛頭」

「いるぞ」

 牛頭天王が、道満の傍に実体化する。

「これから蛇を呼ぶぞ。存分に斬るがよい」




まだR-15


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八十四話

 蘆屋道満は、大災害を発生させ、高橋晶を誘拐するという事件を立て続けに起こしていながら未だにその行方を眩ましたままである。

 理由としては、まず道満が現代の呪術師では歯が立たないほどの強力な呪術師であるということ。

 道満の情報を収集し、分析する職務を一手に引き受けていた東京分室が、その実、道満の情報を隠蔽する方向に動いてしまっていたこと。

 そして、近畿を中心に発生した地脈の異変によって道満の捜索に割ける人員が大幅に制限されていることなどが挙げられる。

 特に東京分室の職員にかけられていたという道満の暗示が非常に厄介で、どの程度の術が、どれくらいの範囲にかけられていたのかを特定しなければ、今後の業務に支障が出るのは間違いない。そして、その調査及び検査にも多額の費用と、多くの時間を消費することになる。

 祐理を始めとする媛巫女も検査対象になる。

 道満の暗示が、霊視のような媛巫女の能力にも干渉している可能性があるからだ。

 実際、限定的に霊視を封じる術は存在する。

 霊視は呪術関係の調査や危機管理に於いて伝家の宝刀となる能力だ。それに干渉する術をかけられていたとすると、それも今後の業務に障る。

 こういった問題が山積みとなっているために、蘆屋道満の捜索は芳しい成果を挙げていない。

 そもそも、まだ攫われてから一日と経っていないのだ。それで足取りが掴めるとは思えなかった。

 

 しかし、唯一、徳永明日香だけはこの現状を変え得る可能性を秘めていた。

 

 彼女は、蘆屋道満の関係者であり、護堂の側に寝返った人間だからだ。

 晶を守るために戦い、敗れたものの、有益な情報を握っていると考えられる。状況証拠から、晶が狙われているという情報の提供者と同一人物とも見なされているため、明日香が持っている情報次第では今すぐにでも道満を追うことができるのだ。

 護堂は、逸る気持ちを抑えきれず、明日香の病室に向かう。

 歩調は速く、息も上がっている。

 期待と不安が、緊張を身体に強いている。

 病室の前で一呼吸し、ノック。

「そうだ。明日香と二人で話をさせてくれませんか?」

 一緒に来た馨や冬馬、祐理に、護堂はそう言った。

 聴取することもたくさんあるだろう。けれど、今は明日香と余人を交えずにきちんと話をしておきたかった。

 どうぞ、と馨は許可してくれた。三人は、外で待ってくれる。

「明日香、俺だ」

 端的に、扉越しに声をかける。

「護堂。……うん、入って」

 許可を得て、室内に入る。

 消毒液の匂いと白く清潔感に溢れた部屋。

 ベッドは一つだけで、明日香は上半身を起こして待っていた。

「よう。調子はどうだ?」

「大丈夫。もともと、そんなひどい怪我はしてなかったから」

 病衣を着た明日香は、髪を解いている。当然だが、新鮮に思えた。

「久しぶりに見たな。その髪型」

「そうだっけ。でも、そうかも。外では髪留め使ってたから」

 いつ頃から明日香は髪留めを使い始めたのだったか。校則に髪型が定められた頃、中学の頃か。

 長年つるんできた相手だ。ここ半年、学校が分かれたことで会う頻度こそ減ったものの、それでも付き合いは相変わらずあった。

 それでも、こうして面と向かって改まった話をすることは、これまでなかったように思う。

「ごめん」

「ん?」

「道満のこととか……いろいろ。あたし、あんたを騙してた。晶ちゃんも、助けられなくて……あたし、もっと早く……」

 目尻に涙を溜めて、明日香は謝罪の言葉を口にする。

 初めて見る、弱弱しい姿。

「何、言ってんだよ。明日香が謝ることなんて、何もない。悪いのは、道満だ。それに、俺も」

「なんで、護堂が悪いのよ」

「判断を誤った。東京から離れるべきじゃなかったんだ。晶が狙われていると分かっていたなら尚のこと、傍にいるべきだった」

 晶と恵那の実力、馨の能力、マンションに張られた結界や派遣された職員など、簡単には突破できない構造になっていたはずだった。その大半が、最初から機能しなかったなどということは想像もできなかった。何かあっても、神速ならばすぐに戻れると過信していたこともあった。

 道満の力を甘く見た、護堂の失策だった。

「護堂。あたしはね、一度死んでるの」

「は? おまえ、いきなり何言ってんだ?」

「いいから聞いて。あたしは、徳永明日香として生まれる前、別人として生きてたわ。でも、死んだ。十六年前にね。こうして、今生きているのは、道満が魂を移し変えたから」

 護堂は、心臓を貫かれたような衝撃を受けた。

 唐突すぎて、いまいち何を言っているのか理解できない。

 明日香が、転生者だという。

 それを、真っ正直に受け入れるのは、無理があった。

「どういうことだよ」

「道満は、安倍晴明を意識してる。当然だけど。それで、泰山府君祭に目を付けた。魂を操る呪術よ。――――あんただって、知っているでしょ」

 それは、問いではない。断言。つまり、護堂が転生者だと、知っている。

「知ってたのか」

「道満から聞いたわ。その可能性があるとだけだけどね。ずいぶん、昔に」

「そう、か」

 護堂は力が抜けたように、イスに座り込んだ。

 生まれ変わりという問題は、中々デリケートだ。誰かに言っても、信じてもらえるものでもない。だから、今まで誰にも言ってこなかった。それにもかかわらず、これほど身近な人間が知っていたとは。

「秘密なんて、そうそう守れるものでもないか」

「大丈夫。あたし、あんたのことは人に言わないから」

「そうか。そりゃ、ありがたい」

「あたしだって、頭がおかしい女なんて言われたくないしね」

 少しずつ、以前のように会話が進むようになってきた。

 お互いに、相手の様子を探るような会話ではなく、自然なリズムで言葉を交わす。

 最大の秘密を打ち明けあい、それが互いに共通するものだったということが、より親近感を増す結果に繋がった。

「護堂。晶ちゃんもあたしと同じなの。転生してるのよ、あの娘」

「……なんだって?」

「道満はあたしのことを実験だと言ったわ。そして、その先に晶ちゃんがいるとも言ってた。だから、きっとそういうことなんだと思う。高橋晶って媛巫女の魂を、あの身体に移したってことじゃないかな」

「それ、本当か。甘粕さんの姪の晶と、俺たちが知っている晶が同じだってことだよな?」

「甘粕さんの姪御さんは、あたし知らないけど。……甘粕さんって、あの忍者の人だよね。共通の思い出があるなら、たぶん同じだってことになるんじゃないかな。個人の記憶は操れるかもしれないけど、複数の人が共有している過去の思い出を、矛盾なく設定するのって手間だし、状況から考えても、同一人物と考えたほうがいいでしょうね」

「そうか」

 よかった、と思った。

 晶が誰であれ、助けることに変わりはない。けれど、晶が自分の知っている晶であったということが、気持ちを軽くしてくれる。

「護堂。こんなこと、敵側だったあたしが言うのもおかしいかもしれない。ケド、あの娘を助けてあげてほしい。辛い思いを、たくさんしてると思うから」

「言われなくても、助ける」

 当たり前のことだ。

「だけど、情報がないんだ。何も。道満の居場所が分からない」

 護堂は、膝の上で拳を固く握った。

 悔しさが滲み出る。焦りと憤りが、どす黒い感情となって表出しそうになる。

「道満の居場所は、あたしも分からない。あたしは、アイツとは距離を取って生活してきたから。けどね。もしかしたら、晶ちゃんの居場所は、分かるかもしれない」

「ほ、本当か!?」

「う、うん。上手くいってくれればだけど。あたしの部屋にある、ノートパソコンがあれば」

「明日香の部屋のノーパソだな!」

 護堂は素早く立ち上がる。反動でイスが倒れたが、気にしなかった。

「ちょっと、護堂。どうするのよ!」

「取ってくる」

「え? はあ!? ちょっと、待って、あたしを連れて行きなさいよ!」

 

 

 

「危なかったわ。本当に」

「すみませんでした」

 土雷神の化身を使って、明日香の部屋からノートパソコンを入手、病室に戻ってくるまでに一分とかからなかった。 

 雷の速度で移動するというのは、伊達ではない。

 護堂が何も考えずに、その場の勢いで土雷神の化身を使おうとしたものだから、明日香は危機感からすばやく護堂に飛び掛った。

 呪力で身体を強化した問答無用のフライングクロスチョップであった。

「まったく、これでも女の子なのよね。許可も得ず部屋に押し入ろうとするなんて」

「申し訳ありません」

 深く、頭を下げる。

「ところで、徳永さん。晶さんの居場所をどうやって掴むんだい?」

 護堂と明日香が二人で話すべきことを話し終えたので、馨たちも病室に入っている。

 すでに、明日香の転生の話は、馨たちにしてある。これは、晶の転生の秘密と大きな関わりがあることだけに、秘密にしておくわけにはいかなかったからである。

「あたしは、あの娘に道満が目を付けていることを知ってから、何かアイツの裏をかく方法はないかと考えていました。まあ、結局いい方法が思いつかなかったんですけど……」

 そう言いながら、明日香はベッドの上でノートパソコンを立ち上げる。

 立ち上がるのを待つ間に、馨がいくつかの質問をして、それに明日香が答えるという簡単な事情聴取が行われた。

「でも、一つだけ。確信したことがあります」

「それは?」

「道満は、科学技術に疎いということです。千年以上前に降臨した呪術の神様なので、呪術に関しては非常に興味を持っているようですが、こうした最新の技術は理解できないようなんです。今回、念話の妨害は念入りにしていたようですが、メールはあっさりと護堂のところに届きましたから、間違いないと思います」

「なるほどね。それは、確かにそうだ。神様が、人類の技術に興味を示す例は少ない」

 馨は神妙な顔つきで頷いた。

 護堂も分かる気がする。

 多くの神々は、前時代的だ。その神話や歴史が、数百年から数千年と古いこともあり、彼らは人類の進歩から一歩も二歩も遅れた知識を基に行動する。アテナのように、建造物すら自然を破壊するものとして、嫌悪の対象と見る神までいるくらいだ。

「呪力は遮断しても、電波は遮断しなかったか。迂闊と言えば迂闊だけど、神様の性質上仕方ないのかな」

「はい。それで、あたしはそれを逆手に取ることにしました。趣味のプログラミングで、こういうのを作りました」

 明日香がノートパソコンの画面を見せる。

 それは、日本地図。マップアプリのようなものだ。

「世間に出回っているものを、流用しただけですけどね。要するに、GPSです」

「なるほど。道満は機械に疎いから、GPSでなら追えるということですね」

 冬馬が身を乗り出すように確認した。

 彼にとっては、姪の一大事である。少々取り乱しているところはある。

 明日香はキーを叩きながら、頷く。

「でも、いつ仕掛けたんだ? 大分前からか?」

「うん。あの娘、痴漢撃退用の呪具を持ってたでしょ。あそこに仕込んでたの」

「な、あ、あれに!?」

 晶が持つ痴漢撃退用の呪具とは、痴漢バスターMKⅡセカンドというクリップのような形をした物体のことである。

 痴漢に対して自動的に迎撃行動を行い、相手の指の骨を折らんばかりに噛み付くという代物だ。

 晶は、これを、正史編纂委員会に属する女性呪術師から渡されたといっていたが。

「あれ、あたしの仕込みなの。電車の中のこともそう。怖い思いをさせちゃったけど、あの呪具の有用性と痴漢の不快感を知れば、きっと肌身離さず持ち歩いてくれると思って」

「晶を痴漢に巻き込んだ?」

「そう。余罪がある連中に、簡単な暗示をかけた。狙うなら、晶ちゃんを狙うようにって」

 唖然とする。

 痴漢をするように暗示をかけるなど、最悪の行いである。とはいえ、相手はすでに集団で痴漢を繰り返す常習犯のグループだった。放っておいても、新たな被害者を生むだけだっただろうから、検挙に繋がったと判断すべきだろうか。

 だが、そのおかげで晶は、常に明日香のパソコンに信号を送り続けるようになった。

「これで、よし」

 明日香が軽快にEnterキーを叩く。

 晶が持つ発信機から送られた電波を受信すれば、その位置が特定できる。

 画面を覗き込む。

「何もでねえじゃん」

 画面は相変わらずの日本地図。赤い点が示されるはずだが、それもない。

「むう。きっと、電波の届かない場所にいるのよ。建物の中とか、深海とか、地下とかね。ちょっと待ってて」

 明日香はさらにキーを叩く。

 すると、画面に赤い点が表示された。

 東京都内。それから、点が増えていく。

「これは?」

「晶ちゃんの現在地を時間ごとに追いかけてるのよ。かなり細かく、追跡できるようにしてあるわ」

 赤い点が、移動を始める。

 東京から、山梨、岐阜、京都と点が連なっていく。神速とまではいかないものの、かなりの速度で移動していることが分かる。飛行機よりは、速い。近畿を通り抜けたところで、明日香はさらに地図を拡大し、時間を細分化して、より細かく表示する。そして、最後に表示されたのは、

「島根か」

「これ、出雲です」

 赤い点が消失したのは、出雲の近辺だった。

「道満は、晶ちゃんのことをクシナダヒメと呼んでいました」

「ははあ、なるほど。しかも、従属神に牛頭天王までいる。そういうことですか」

 馨はそれだけで、大体のことを理解したようだった。

「ちなみに、他に情報はありますか?」

「そうですね。えーと……たしか、星辰が関係するとか。あと、巫女がどうとか言っていたかと」

 どういうことだろうか。

 護堂は首を捻る。

 聞くところによれば、大魔術を使う際には星の並びを考慮するべきだというが。それで、特定できるものだろうか。

「すると、もうすでに巫女を確保していることになりますね。その辺りも確認を取る必要がある」

「どういうことですか? 沙耶宮さん」

「やはり、かなりまずいことになっているようです。蘆屋道満が、どのように封印を破り神になるのか、その方法が見えました」

「本当ですか!?」

「ええ、間違いないと思います」

 馨は、持ち前の頭脳と、呪術の知識を動員して考えられる可能性を整理している。

 キーワードは、『牛頭天王』『クシナダヒメ』『星辰』『巫女』。

「晶さんは、きっと触媒です。そして、巫女と星辰。司祭は道満本人が務めるのでしょう」

 星辰は、星の並び。それに、巫女と司祭。触媒を配置。

 それが、どうにも記憶に引っかかる。

 以前、聞いたことがあるような。

「まさか……!」

 護堂よりも先に、祐理が息を呑んだ。

 口元に手を当てて、青ざめた顔をする。

「そう。おそらく、道満の言う儀式は、『まつろわぬ神』の招来だ。狙いは、ほぼ間違いなくヤマタノオロチだろうね」

 『まつろわぬ神』を招来する儀式。

 極めて高度で危険な儀式だ。

 四年前、祐理がヴォバン侯爵に攫われて、無理矢理その儀式に参加させられたことがある。その際、巫力の弱い魔女や巫女は、発狂してしまったという。

 そういえば、ヴォバン侯爵が祐理を狙って日本を訪れたのも、近く星辰が調うからではなかったか。

「ッ……そうか。それで牛頭天王か。牛頭天王はスサノオと習合しているから、ヤマタノオロチを相手にすれば、《鋼》の性が刺激されて力を強められる。従属神が強くなれば、その主も力を増すから」

「いけません。このままでは、晶さんが!」

 危険性を知る祐理が、悲鳴のような声を出す。

「草薙さん。出雲には僕が通達を出します。すぐに向かってください! あそこは、ヤマタノオロチに最も縁がある土地。そこで間違いありません!」

「よろしくお願いします!」

 折り良く、雨が降ってきた。

 窓を叩く雨は、非常に激しい。

 伏雷神の化身が使える。

 護堂は、窓から外に飛び出し、雷光となって風雨の中に飛び立った。

 

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 

 儀式は穢れを流すことから始まる。

 流水を以て身体を清める行為。

 世界各地にそういった宗教行為があり、沐浴と訳されることが多い。日本では、仏教の温浴が俗化して入浴の文化に繋がったとされる。

 沐浴を、神道では特に禊という。

 地下牢に現れたのは、二体の鬼だった。牛頭鬼と馬頭鬼。地獄の獄卒として有名な鬼であるが、これは道満の式神だろう。

 晶は、白装束の湯着に着替えさせられた。そして、引きずられるように連れて行かれたのは、洞窟の中にある、地下水が溜まったような場所だった。

 そのまま、突き飛ばされるように、泉に投げ込まれた。

 真冬の地下水は、身体を引き千切らんばかりの冷たさだった。心臓が止まらなかったのが、不思議なくらい。

 凍りつく。心すらも。何も感じない。感じることは、止めた。このまま水底に沈んで消えることができたらいいのに。

 晶がこの洞窟に連れてこられたのは、五年前だそうだ。

 正確な年月は、覚えていない。

 きっと、本当の高橋晶は最初の数日で壊れてしまったに違いない。

 教育の名を冠した魂への干渉は、幼い晶の身体を徹底的に陵辱することで為された。

 恐怖を忘れ、痛みを忘れ、死にながら生き返り、ただひたすらに快楽に漬け込まれる日々の中で、晶という少女は自我すらも忘れ去り、五年という月日をかけてじっくりと魂に手を加えられた上で、新たな肉体を与えられた――――らしい。

 けれど、そんなことは、もはやどうでもいいことだ。

 すでに、晶には守るべきものがない。

 そんなものは、初めから奪い取られていた。

 身体も記憶も心も、何もかも価値がない。

 人形。正しい。人の形をしているだけの、肉の塊に過ぎないのだ。

 想い人の敵の手によって作られた身体。

 汚され、あらゆる快楽を教え込まれた魂。

 そして、これから、生贄として儀式の中核を為す。

 すべて、敵の思うままに。

 護堂の敵を利するためだけに、存在した命だった。

 

 

 禊では、この穢れは雪げない。

 どんなに呪術的に清らかであっても、記憶に刻まれた忌まわしい事実が消えるわけではない。

 

 

 引き上げられて、また別の部屋に連れて行かれる。

 濡れたまま連れてこられた部屋は、四方に松明が焚かれていてぼんやりと明るい。ここが、彼らの言う儀式場なのだろうか。

 吐息は白く、濁った空気は剣のように鋭い。

 濡れた身体からは体温が失われていき、寒さに息が止まりそうになる。

 背後の壁に、少女が埋め込まれていた。

 見覚えのある顔。

 変わり果てた、神祖の姿。今の自分と大差ない。

 晶の心は暗い暗い闇の奥底に沈む。

 光を失くした瞳は茫洋と虚空を見つめている。

 抵抗する気力も、体力も晶には残されていなかった。

 初めから、護堂の傍にいる資格などなかったのだ。

 ああ、それでも。

 最期にもう一度だけ、顔を見たかった。

 晶の瞳から、一滴の涙が流れた。

「さて、時間じゃ」

 道満が、晶の傍らに立つ。

 どす黒い呪力を、身体中から発散させる。

「う、ぐぅ……」

 苦悶の声が擦り切れた喉から漏れた。

 晶の身体から呪力が抜け落ちていく。

「神話をなぞるぞ。クシナダヒメはここにある! さあ、まつろわぬ蛇よ! 降臨せよ!」

 道満の声が洞窟に響き渡り、床に描かれた大きな魔法陣が輝きだす。呪力は吹き荒れる嵐となって松明を蹴散らし、白銀の光が暗闇を払う。

 日本神話最強にして最大の竜蛇の神格を招来する。

 そのために、魔王の存在は必要だった。

 斉天大聖孫悟空は、日本国内の《蛇》を駆逐する役割を担っていた。道満にとっては目の上の瘤であった。それが倒されたと思ったら、海を渡って最源流の《鋼》の一柱が渡ってきた。結果、ここまで動き出すのが遅れてしまった。

 それでも、招来の儀に相応しい星辰には間に合った。

「きあああああああああああああああああああああッ!!」

 アーシェラが白目を剥いて奇声を発する。

 道満によって、強制的に生かされていた神祖は、地上のあらゆる巫女を上回る巫力を持つ。危険を冒して万里谷祐理と他の媛巫女を確保するよりもよっぽど確実性があり、安全だった。

 アーシェラの巫力が限界まで引き出され、儀式が大詰めに入る。

「あ……ぐあ……うぎあ、あぁあああああああああああッ」

 身体が砕ける。

 痛みを通り越した苦痛が、晶の身体を駆け抜ける。

 右も左も分からない中で、ただ晶は叫び続ける。

 ミシミシと、骨が軋む。

 身体の内側が、熱い。

 晶を構成する要素に罅が入っている。

 痛くて、苦しくて、寒くて、辛い。言葉にならない苦痛が身体を這いずり回る。焼けた刃で斬り付けられたかのような痛み。焼き鏝を押し付けられたかのような灼熱。全身の骨という骨が砕かれたかのような、地獄。

 やがて、光が一際明るく輝いて、

 

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」

 

 大山を鳴動させる雄叫びが、世界を駆け巡る。

 

 




ウソ予告

ヤマタノオロチを取り込んだ晶は、最強最悪の蛇神となって東京を襲う。
「牛頭天王? 蘆屋道満? ああ、いましたねぇ、そんなの。あんまり搾り取れなかったし、美味しくもなかったなぁ……」
 くすくす笑ってゴーゴー。
「あははッ。あのメスなら芋虫の相手をしてますよ。だぁいじょうぶですって。死ぬほど気持ちよくなれますけど、絶対に死なせてくれませんから☆ わたしが保証します」
 闇を引きつれ、
「先輩、ダメじゃないですか。獣姦は犯罪ですよ。そのメス犬。さっさと屠殺しないと」
 狂気を振り撒き、
「あまのむらくも? なんですこれ、キャハッ。なまくらー♪ 食べていい?」
 神剣すらも歯が立たず、
「ハーレムエンドは許しません。だから、他の女も要りません。先輩。わたしだけを見てください。わたしだけを可愛がってください」
 秩序を砕き、命を溶かす。
「ああ、でも先輩の頭の中にも女神様がいるんでした。大変。綺麗にしないと」
 狂乱に狂う魔物は東京を恐怖のどん底に叩き落す。
「でも、困ったなぁ。……先輩って、どこの誰だっけ」
 血の海の中に、一人で佇む。
 かつてない強敵に、護堂はどのように立ち向かう!?

 


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八十五話

 幸福な夢を見た。

 出生の秘密を知らず、絶望を忘れ、一人の少女として、そして戦士として全力で駆け抜けたこの半年の夢だ。

 出会いは劇的で、想いは純粋なまま育まれた。

 共にいることが、喜びだった。

 共に戦えることが、幸せだった。

 いつの間にか、その姿を目で追うようになった。

 いつの間にか、声を聞くことが楽しみになった。

 体温を感じることができた日は、心が暖かくなった。

 

 

 護堂がいて、静花がいて、祐理と恵那がいて、それから冬馬や馨もいて。学校では、普通の少女として生活し、戦いの場では戦士となって護堂の背を守った。

 楽しかった。

 想い出は、どこを切り取っても輝いて見える。

 そう、それは黄金に輝く時間だった。

 

 

 けれど、この身は紛い物で、魂は穢れていた。

 乙女として恥ずべきことで、人として受け入れ難いこと。

 あのままなら、すべてを諦めてしまえたのに。

 幸福な日々を知ってしまったから、この苦しみはひたすらに大きくなった。

 身体に力は入らない。

 弛緩しきった肉体からは、確実に命が零れ落ちている。

 冷たい外気が、そのまま晶の身体に吹き込んでくるようだ。

 もう一度、触れたい。

 もう一度、声を聞きたい。

 もう一度、名前を呼んで欲しい。

「――――!」

 もう誰もいない洞窟の中に、自分以外の声がする。

 どこかで、聞いたような声だ。

「――――キラ!」

 護堂によく似ている。

 走馬灯が生み出した、幻聴。それにしては、はっきりとしている。

「晶!」

「せん……ぱい?」

 ゆっくりと目を開くと、自分を見下ろしている護堂がいた。

 どういうことだろう。

 自分は、まだ夢を見ているのだろうか。

 なんだろう。

 とても、暖かい。

「しっかりしろ! 迎えに来たぞ!」

 はっきりとした護堂の声は、弱りきった晶の胸に響いた。

 こんなところまで、来てくれるなんて。

 胸が一杯になって、涙が溢れ出した。

「あ、ありがとう……ございま、す」

 掠れた声で、精一杯の想いを伝えた。

 やっぱり、この人のことが好きだ。 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 東京から島根県の出雲まで、真っ当な移動手段では何時間もかかる。

 神速は、そのようなことはない。

 何百キロ先であろうとも、瞬く間に移動することができる。その速度を人が目で追うのは、一部の武を極めた者を除けば、不可能と言っても過言ではない。

 神速による長距離の移動は、本来、身体に大きな負担を強いるものであり、過去に東京から京都までを伏雷神の化身で移動したときには、頭痛や吐き気といった神速酔いに苛まれた。

 だが、あれはカンピオーネになってから一ヶ月と少しという新参者のときのことであり、数多くの戦いを乗り越えて神速を使いこなした護堂は、神速の高速移動状態に慣れていた。雷化という身体への負担が小さい状態ということもあり、出雲への移動は苦もなく行えた。

 途中、京都辺りで雨が止み、伏雷神の化身が解けるアクシデントがあったものの、地上に降りると同時に土雷神の化身を発動して再び神速の領域に足を踏み入れる。

 

 出雲。

 日本最大級の霊地の一つであり、神話的にも非常に重要な土地。

 記紀神話の三分の一は出雲の神話であり、歴史的に見ても多数の青銅器などが発掘されていることから、古代日本を代表する一大勢力を築いていたことは明白である。

 この勢力に対する研究は、当時を記した文献が存在せず、どうしても記紀神話や発掘品の状況から判断しなければならないために、定説を見るに至っていない。

 しかし、様々な説が発表される中で一定の価値を認められた説として、出雲の勢力を大和の勢力が討伐し吸収したとするものがある。

 スサノオとヤマタノオロチの伝説や国譲りの伝説は、こうした征服の歴史を反映しているものだという。

 また、出雲の周辺は鉄が採れる。

 良質の砂鉄を採ることができるのは、鉄器文明の発達には必要不可欠であり、それだけでも他勢力を圧倒する国力を養うことに繋がる。

 巨大かつ資源大国を、隣接する大和政権が無視することはありえない。

 武力による征服か、融和政策か。

 何れにせよ、歴史の勝者は大和であった。

 それでも出雲の神話は日本神話に大きな影響を与え、オオクニヌシを祀る出雲大社が今でも多くの参拝客を集めているのも、古代からの信仰が大和の信仰と一緒に溶け合って生き残ったからだろう。

 奇妙なことに、撃ち滅ぼした敵を悪しき者、穢れた者として描く日本神話に於いて、出雲の扱いは別格である。

 土蜘蛛やリョウメンスクナのように怪物になることはなく、国を譲って鎮まった。

 神話の中で戦いはあったものの、国津神は怪物へと零落することはなく、出雲大社に至っては現在でも信仰を集める神道の重要拠点である。

 神話から消しきれないほど、出雲が強力だったということだろうか。

 もっとも、出雲の敵は大和ではなく、越国だとする説もある。その説では、ヤマタノオロチ伝説は、この越国との戦いの歴史だとされる。

 

 出雲市は変わった地形である。

 日本海に面する出雲平野の上に形成された都市であり、『出雲国風土記』に見られる国引き神話の舞台となった島根半島と北部を接し、南部は中国山地、東部は宍道湖に接している。上空から見ると、上下を緑に、左右を青に囲まれた不思議な地形であることが分かるだろう。

 

 護堂は一時的に土雷神の化身を解除して、地上に出る。

 田畑が多いため、高い建物は東京に比べて多くない。中心部から距離を置いた学校の屋上に出れば、遠くまで一望できた。

 まだ夜明けには早く、街はとっぷりと闇に沈んでいる。

 明かりは少なく、地上の星というには物寂しい。

 だが、カンピオーネは、どれだけ深い闇でも見通すことができる。

 この街にやってきてから、呪術の気配を肌で感じていた。

 この出雲は富士山と地脈で繋がっているという。ならば、その地脈を弄り、各地に騒動を引き起こした道満が潜んでいてもおかしくはないのだ。

 晶はどこにいるのか。

 この街のどこかにいるはずである。

 護堂は精神を研ぎ澄まして、呪力を感じ取る。

 道満が儀式をしようとしているのなら、呪力が動くはずだ。

 明日香が電波の届かない場所だと言っていたか。地下の可能性がある。地脈も大いに利用するだろう。すると、遠くに見える小さな社が怪しい。

 どくん、と心臓が高鳴った。

 引っかかるものがある。

「後ろか」

 勘、であるが、おそらく間違いない。

 中国山地を構成する山々の緑の奥に、呪力の流れを感じた。それも、結界などとは規模の異なる大きな呪力の動きだ。

 山をいくつか越えたところ。今、護堂がいるところから、それなりの距離がある場所だが、出雲大社から流れ出る地脈から呪力を吸い上げていると見えて、そのおかげで護堂は感知することができたのだ。

 すぐに、護堂は土雷神の化身を使おうとして、身体に変化が訪れたことに驚いた。

「な……ッ」

 力が湧き上がる感覚は、間違いなく『まつろわぬ神』に相対したときの臨戦態勢である。

 そして山の向こうが白銀に輝いた。

 白銀の光と、信じがたい呪力の爆発。

 それは物理的エネルギーとなって、街中を駆け巡った。

 木々は大きく揺さぶられ、ガラスはガタガタと揺れた。

 

 そして、太古の竜が目を覚ます。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」

 白銀の光の中に現れた八体の竜。

 だが、その根元を辿れば一つの身体から八つの首が伸びているのだということに気付く。

 護堂が立つところからも見えるのは、それだけその生物が巨大だからである。少なくとも、山の頂を見下ろすだけの巨大な身体を持っている。

「ヤマタノオロチ……! クソッ!」

 その名を、馨から聞いていた。

 護堂も極一般的な知識として、その魔獣のことを知っている。

 とても、有名な八首の蛇だ。

 天を突くほどの巨体だとされているが、それにしても遠近感が狂うほどに巨大。まさに、怪獣映画さながらの様相を呈している。

 出雲の呪術師が、どこまで民間人の安全を守りきれるか。 

 あの巨体なら、寝返りを打つだけでビルを押し潰せるだろう。

 ヤマタノオロチの出現に触発されて、空を暗雲が覆う。風が強まり、滝のような雨が降ってくる。顔を叩く水のベールが、護堂の視界を遮る。

 ヤマタノオロチに、小さな何かが襲い掛かっている。 

 大蛇からすれば、羽虫に等しい。軽く身を捻ってこれを一蹴する。

 どうやら、牛頭天王が神話をなぞり始めたらしい。

 あの戦いの場に、晶もいるのか。

「晶ッ!」

 バチ、と紫電が弾ける。

 護堂の姿はその場から消えた。

 雷光と化して、空を駆ける。 

 ヤマタノオロチも、おそらく護堂を感じ取っている。『まつろわぬ神』ならば、カンピオーネである護堂を感じないはずがない。

 しかし、ヤマタノオロチの目の前には、天敵である牛頭天王がいる。護堂に襲い掛かる余裕は、おそらくない。

「どこだ。どこにいる!」

 呪力を探る。

 ヤマタノオロチが出現した山間の地。すでに、二柱の戦いで土砂は崩れ、木々は消し飛び、地形そのものが変わっている。

 その中で、神社の跡地を見つけられたのは、呪力が流れ出ていることに着目したからだった。

 崩れ落ちた神社。

 それは、かつてスサノオを祀った須佐神社という歴史ある神社だった。

 その瓦礫の中から、ヤマタノオロチと同質の呪力を感じるのだ。あの魔竜と、この神社は霊的に繋がりがある。

 そして、この異質な空気。

 間違いない。

 儀式場は、ここにある。

「行くぞ」

 土雷神の化身を使用して、護堂は須佐神社の地下空間に潜り込んだ。

 地続きであれば、どこにでも入り込むことができるのが、土雷神の化身である。瓦礫が道を塞ごうと、関係ない。

 地下空間は、土壁の簡単な横穴だった。

 外の豪雨の影響か、入口付近は水が流れ込んでぬかるんでいる。

『開け』

 道を閉ざしていた結界を、言霊で無力化する。 

 道を開かせる。破るのと異なり、自然に中に入ることができる。

 以前は、もっと多くの守りがあったのだろうが、ヤマタノオロチが降臨した衝撃で多くの結界が無力化されていた。

 護堂は難なく奥に進む。

 雷化は、実のところ魔術破りに弱いという特性がある。アレクサンドルのそれと同じように、護堂の雷化も、結界の中では全力を出せない。

 地中で雷化が解除されれば、かなり危険なことになる。敵の本拠地でもあるこの地下空間では無茶をすることができない。

 まして、相手は大陰陽師の名を冠した呪術の神。

 どこから何が飛び出てくるか、分かったものではない。

 それでも、護堂の邪魔をしたのは入口付近にあった結界だけだった。

 息を切らして辿り着いたのは、地下牢のような場所だった。小さな部屋が格子で仕切られている。部屋の中には鎖が落ちていて、人間を閉じ込めるための部屋だということがすぐに分かる。

 巫女服の骸も、いくつか打ち捨てられている。

 白骨化した遺体。年齢は分からないが、そのうちの二、三体は護堂よりも年下だと思われる。頭蓋骨がそれだけ小さかった。

 この遺体の内のどれかが、もともとの晶の身体なのだろうか。

 

 護堂は頭を振って、想像を振り払う。

 

 充満する土の匂いに顔を顰めながら、護堂は道を進んでいく。

 地下は、複雑な構造にはなっていなかった。

 ほぼ一本道で、分岐することもなく、何かしらのトラップがあるわけでもない。

 一番奥にやってきた護堂は、祭壇を見た。小さな、神棚のような祭壇だ。周りを見ても、何もない。道もない。

 見落としがあったか。

 それとも、間違えた。

 そんなはずはない、と信じたい。

「何か、俺が気づかなかった何かがあるはずだ」

 暗闇に目を凝らし、土壁のどこかが道になっていないかと探る。

 三方の壁は閉じ、道になっているのは護堂が来た道だけ。

 しかし、違和感がある。

 呪力の流れから、ここが行き止まりになっているのはおかしいような気がする。ようするに、対流もなければ、澱みもない。どこかに、呪力が流れているように思うのだ。

 そう考えているうちに、三つの壁の内の一つが、他の壁と異なるものだと気付いた。土の壁ではなく、これは呪術の壁だ。

『開け』

 一縷の望みを託し、言霊で呪術の壁を開かせる。

 言霊が壁に干渉したとき、一瞬だけ護堂は五感を失ったかのような錯覚に陥った。

 空間そのものが歪曲し、そして壁の奥に、大きな部屋を生み出したのだ。

 一目で儀式場だと分かる構造になっている巨大な部屋。

 魔法陣らしき模様が地面に描かれていて、そしてその中央には、

「晶ッ!」

 白装束の晶が寝かされていた。

 名前を呼び、駆け寄って頬に触れる。

 冷たい。

 人間が、これほど冷たくなるのかと思うほどに。

 護堂は晶を抱き起こし、若雷神の化身を使う。この化身は、あらゆる病や傷を治癒し体力を回復させる生命力の象徴である。弱った人間を回復させることは、この化身にとって造作もないことだ。

「晶、しっかりしろ! 晶!」

 何度も呼びかける。

 濡れた身体で、真冬の空気に曝されていたこともあって、唇は紫色に変わっていて、頬も白い。白装束の湯着は、死に装束を思わせた。

「せん……ぱい?」

「しっかりしろ! 迎えに来たぞ!」

 何度も呼びかけていると、晶が反応を示した。

 そのことで、少しだけ不安が薄れた。

「あ、ありがとう……ございま、す」

 掠れた声。弱弱しく、力はない。若雷神の化身が、効いていないのか。呪力を注いでも、どこかに流れ出ているような感覚がする。

 もっと、根源的な何かが、足りていない。

 生命力ではない何かが、今の晶には必要だ。

「頑張れ。晶。すぐに、東京に連れてってやる」

 護堂は晶を抱えたまま土雷神の化身を発動した。ヤマタノオロチと牛頭天王は、未だ激しく戦い、大地を震わせているが、そんなことは、もうどうでもよかった。

 まず、晶を助けることが最優先だ。

 東京に向かって雷速で移動する。

 一瞬を凝縮したような時間が流れる。瞬く間の移動時間でありながら、それすらももどかしい。

 

 晶を抱き抱えた護堂は、明日香の病室に戻ってきた。

 病室を出てから戻ってくるまで、時間にして二十分ほどしか経っていないだろう。

 そのような短時間で、連れ去られた晶を助け出して戻ってくるというのが、奇跡に近いことである。

 祐理が護堂の帰還を喜び、駆け寄ろうとした。

 だが、それに先んじて馨が目を見開き、冬馬が素早く晶の脈を取る。

「まだ、生きてます。すぐに治療をッ」

「濡れた服を何とかしないと」

「あたしの替えの服があります! あと、この毛布!」

 馨が、明日香の服を取りにクローゼットに向かい、明日香は自分の毛布を鷲掴みにして晶の下に持ってくる。 

さらにタオルで、濡れた身体を拭き、呪術で服を瞬時に交換した。晶は、白装束から明日香が病院に運びこまれるまで着ていた服に換えられたのだ。

「晶さん。しっかりしてください!」

 明日香のベッドに横たえられた晶の手を、祐理が握る。

「クソッ。若雷神が効かねえ! どうなってんだッ!」

 護堂は毒づきながら、必死に呪力を送り込む。

 しかし、豊穣と生命力を司る若雷神の神力が、晶の身体に作用しない。身体の傷を癒し、体力を回復させる。今まで、多くの危機を救ってきた若雷神の回復能力が、ここに来て効果を発揮しなかった。

「万里谷。治癒を!」

「はい!」

「あたしもやるわ!」

 祐理と明日香も持ちうる治癒術を使って晶の治療にかかる。

 しかし、

「これ、傷とかそういうのじゃないッ」

「治癒、するところがない? いえ、これって……」

 明日香が悲鳴に似た声を上げ、祐理が息を呑む。

 呪術の知識を持つ彼女たちには、晶の状態が護堂以上によく理解できたからだ。なぜ、回復の権能も治癒術も効果がないのか。その根本的な問題を知り、そしてそれが彼女たちの手に余ることだと分かってしまった。

 身体の問題ではないのだ。

 晶の身体は、完璧に治癒が完了している。

 傷一つない綺麗な状態だ。外側も内側も、どこにも問題はない。だから、どれほど治癒をかけたところで意味がない。

 もっと、根源的な『生命』という部分で、晶は手遅れになっていた。

「…………護堂」

「なんだ! 少しでも治癒を手伝ってくれ!」

「護堂!」

 明日香が、護堂の手を取った。

「なんだよ!」

「…………」

 強い口調の護堂は、明日香に意識を割く余裕はない。少しでも、晶を回復させることに躍起になっているのだ。

 そんな護堂も、明日香が何も言わずに護堂の手首を握り締めているので無視するわけにもいかず、

「なんだ。なんか言えよ」

 尋ね返し、明日香の悲痛な表情を見て、胸が締め付けられるように痛んだ。

「もう、この娘の身体を維持できない……。道満の術式が、壊れているからッ」

 明日香は、目に涙を浮かべて声を絞り出した。

 肩を震わせて、護堂の手首を、爪が食い込むくらい強く握り締める。

「ふ、ふざけんなッ! そんなん認めるか!」

 怒鳴った。

 呪術で維持? 知ったことか。命がここにあるのなら、若雷神の生命力が使えないはずがない。権能なのだ。呪術とは次元が違う。奇跡だって、平然と起こせる代物だ。

「戻って来い」

 護堂は祈るような思いで、呪力を注ぎ続ける。

「戻って来いよッ。晶ッ!」  

 

 

 

「せん、ぱい」

 晶が、気だるそうに目を開いた。今にも眠りに落ちそうな、そんな表情だ。

「あ、晶。気が付いたのか?」

 護堂は晶の手を握る。

 ひんやりとして冷たい。けれど、確かに仄かな暖かさがある。晶は、まだここにいる。

「ごめんなさい」

「何を謝ってんだ。心配すんな。すぐに元気になる」

 弱弱しく、晶は微笑んだ。表情を動かすことすらも、体力を消費するような状態で、それでも笑った。

「晶ちゃん……。あたし……」

 明日香は、怯えたような表情で、そっと晶の顔を覗き込む。何を言えばいいのか、言葉が浮かんでこない。明日香は、晶をこのような状態に陥れた責任を感じていた。もっと早く、護堂に正体を明かしていれば、このような事態を回避できたかもしれないと。

「ありがとう、ございました」

「え……?」

 聞き取れないほど、か細い声。

 明日香は、呆然と晶を見る。

「誕生会、楽しかったです。……みんなで、集まって……たくさん、おしゃべりして……それで……」

 その囁きは、半ばうわ言めいていて。晶の唇を、何か別のものが動かしているようにも思えた。それくらい、受け入れ難い現実だった。

 晶が、なぜこのようなことを言うのか。

 その不吉さを、病室にいる誰もが感じ取り、そしてそれが不可避なものだと誰もが理解してしまっていた。

「……たし、幸せ、だったんです」

 パキン、と何かが割れる音がした。

「……叔父さん。こんな、ことになって。ごめんなさ、い。……お母さんに、伝えて……ありがと、う……」

 晶の目から、涙が零れ落ちた。

 そして、銀色の粉が、どこからともなく舞い上がる。

 キラキラと、それはダイヤモンドダストのように美しい。

 護堂の手の平の中で、晶の手が固くなった。

「せんぱい。……助けて、くれて……ありがとう、ございました」

 晶の身体が、少しずつ白くなっていく。

「あ、晶。待て、逝くな!」

 存在感を薄れさせ、透明な砂に変わろうとしているのだ。

 それは、エンナの最期を髣髴させる。

 神祖に近い身体になった晶は、自らの死と同時にその身体を無機物に変える。

 握った手の中から、珊瑚のように綺麗な砂が零れ落ちた。

 護堂の心臓が、拍動を速めた。

 頭に昇った血が、急速に引いていく。感情が現実を受け入れられず、しかし頭の片隅に残った理性が、理解してしまう。

 恐ろしい。

 今までにないほど、恐ろしい。

 この状況が、晶の笑顔が、晶の声が、恐怖を助長する。

「…………負けないで。……………………わたし、先輩が、大好きです」

 最期に、花のような笑顔を浮かべて、晶は逝った。

 誰も、何も言えなかった。

 静かに崩れ落ちた晶の身体は、真っ白な砂と小さな呪力の塊――――竜骨に別たれた。

 その竜骨も、呆然とする護堂たちの前で透けて消えた。

 そこに、高橋晶という少女がいた痕跡は、何もない。

 辛いだけの人生の中で、僅かばかりの幸福を得た少女は、ただそれだけを胸に、この世を去った。

 残された者たちに、消えない痛みを残して。

 

 




子どもの頃、僕はハッピーエンドに憧れてた。


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八十六話

 なんとも、よくできた話ではないか。

 蘆屋道満は、その少女の名を聞いたときにそのように思った。

 攫ってきた少女たちの中から、彼女を選別するのは難しいことではなかった。 

 神の力をその身に降ろすのは、巫女の本来の役割である。

 だが、残念なことに現代にその才能を持つものはほとんどいない。一流の巫女にはすでにスサノオが加護を与えている。迂闊に手を出すことはできない。どうしたものかと思ったときに、未熟ながら才ある巫女が見つかったと情報が入った。

 都合よく、拠点近くの出雲大社に出仕してくるらしい。

 情報を手に入れた道満は、捜索を撹乱するために彼女を含めて纏まった人数を誘拐した。

 必要なのは一人だけなので、他は適当なときに解放した。

 神降ろしの才を持つ少女は、道満の計画に必要不可欠であった。

 

 蛇を崇めるのがこの国に於いて重要な意味を持つ信仰であり、そのため、巫女は「蛇巫」とも呼ばれた。

 彼女たちの役割は、蛇神の声を聞くこと。

 そのために巫女は、時に身体を差し出し、蛇の子を孕む。

 アマテラスが女神である理由を、この蛇巫に求める説もある。

 蛇神は、雷神であり風雨の神である。雨を降らせ、時に川を氾濫させる自然の猛威の化身だ。それは、オオモノヌシや一目連、ヤマタノオロチのほか、数多の竜神信仰に見られる傾向である。

 しかし、古代日本に於いて蛇は太陽神でもあった。

 それは光を照り返す鱗が太陽を想起させたからであろう。そして、蛇を祀る巫女そのものの霊威が畏れられるようになり、やがて巫女が神格化されて太陽神アマテラスが生まれたのだという説がある。

 蛇は光り輝くモノ。

 

 本当に、不思議なものである。

 道満が蛇巫として選んだ少女の名が「晶」だというのは。

 というのも、「晶」という漢字は、輝く星が三つ並んだ形から生まれたものである。

 意味は、「光り輝く様」。特に、「澄み切った」という意味が強く現れる漢字だという。

 同じくアキラと読む漢字には、光に関する漢字が多く、字形も似ている「昌」の字も「光り輝く」という意味を持つ。

 しかし、「澄み切った」光を意味するのは、「晶」の字であり、この字は水晶や結晶など、澄み切った鉱石を意味する字でもある。

 だからこそ面白い。

 これから、死して砂に還る身体となる蛇巫が、「晶」の字を名に持つとは。

 運命というのは、斯くも皮肉で面白い演出をしてくれるのかと。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 それはまさしく神話の再現であった。

 前が見えないほどの豪雨の中、雲にまで届くかというほどの悪竜を相手にたったの一人で立ち向かう大男。

 如何に、彼が巨体を誇ろうと、それはあくまでも平均的な人間の身長と比べての話。山と比較されるような怪物からすれば、虫も大男も大差ない。

 その刃は鋼鉄の如き竜鱗を斬り裂くことはできず、その拳は決して彼の命には届かない。

 吹けば飛ぶような羽虫に、意識を割くことこそ無駄なこと。

 以前の彼なら、そうして楽々と討ち取られてしまったことだろう。

 

 だが、今は違う。

 

 敵が、多少神格に違いはあれど、神代に於いて自分を打ち破った相手だと知っている。さらに、敗北の要因となった神酒がここにはない。

 加えて、敵は『まつろわぬ神』に届かない程度。

 力は圧倒的に、こちらが上である。

 故に、敗北する道理はない。

 八つの顎を大きく開き、一飲みにしようと食らい付く。

 

 山は崩れ落ち、川は溢れかえる。

 神代と何も変わらない闘争は、初手からヤマタノオロチの優勢で進んでいた。

 

 

 牛頭天王の手には、光り輝く神剣が握られている。

 神話に於いて、ヤマタノオロチの尾から取り出されたという《鋼》の神剣だ。

 ヤマタノオロチにとっては、自身の骨にして、己を討ち取ったという屈辱の証。

 日本の王権の象徴にして、考古学的に見ても正真正銘の本物だという、失われたはずの神剣だ。

 わざわざ、壇ノ浦から引き上げたそれは、神剣故に朽ちることなく神代の輝きを宿していた。

 スサノオと習合する牛頭天王にとって、これほど相性のよい武具はない。

 

 全身に傷を負いながらも、牛頭天王は歓喜を露にして斬りかかる。

 なんど、弾かれようとも立ち上がり、その度に力を増していく。

 一つ選択を間違えれば死に繋がる綱渡りの状況で、牛頭天王は自分が神に近づいていることを自覚していた。

 天秤が傾く。

 劣勢は均衡し、均衡は優勢に。

 ヤマタノオロチの攻撃は、徐々に牛頭天王に届かなくなってくる。

 戦い始めて何時間が経っただろうか。

 遂に、牛頭天王の一閃が、ヤマタノオロチの首を一つ叩き落とした。

 豪雨に、赤き血が混じる。

 鉄錆の臭いが充満し、蛇神がのた打ち回る。

 

 ヤマタノオロチは、大きな勘違いをしていた。

 優勢だから勝利を掴めるわけではない。

 英雄神は、如何なる劣勢をも覆して勝利を獲得するからこその英雄神。

 搦め手が使えないのなら、また別の方法で、それでもダメなら正面から堂々と。ありとあらゆる状況で、ありとあらゆる手段を以て敵を打ち倒す。それが、英雄神。

 ヤマタノオロチが如何に最強最悪の蛇神であろうとも、これを打ち倒せない道理がない。

 乗り越えるべき壁が高いほど、彼らは燃え上がるのである。

 

 幾度も打ち負け、幾度も弾き返される。

 それでも、牛頭天王は立ち上がり、一つ、二つと首を落としていく。

 

 そして、東の空から日が昇るころ。

 最後の頭に神剣を深々と突き刺し、激闘の幕は下りた。

 

「満足か?」

 すべてが終わった後で、道満が牛頭天王に話しかけた。

 いや、もはやそれは蘆屋道満などではなかった。 

 姿容に変わりはない。

 されど、その本質は大きく変容していた。元に戻ったというほうが正しいかもしれない。

「いいや」

 牛頭天王は、傷ついた身体を引きずるように、しかししっかりと大地を踏みしめて立つ。

 それが自分の血か討伐した魔獣の血かも分からないほどに赤黒く汚れた身体は、疲労に勝る高揚に支配されていた。

「まだ、足りぬ。俺は《鋼》。《蛇》を殺すのは至極当然。一匹程度では、まだまだ足りぬ」

 血に餓えた獣のように、牛頭天王は喉を鳴らす。

 頭から浴びた《蛇》の血が、彼を猛らせている。

「おうおう、なるほど。ならば、よい。これで満足してもらってはわしも困る」

「貴様も力を取り戻したようだ。道満。いや、法道」

「ホッ」

 法道は皺だらけの顔におぞましい笑みを浮かべる。

「なんともこそばゆいのう。千年ぶりに真名を呼ばれるというのは」

 法道。

 遥か昔、牛頭天王を伴ってインドから渡ってきたという仙人だ。

 陰陽道に優れ、播磨を拠点に多くの弟子を輩出したとされる謎多き人物である。

「まずは、早々にその傷を癒すのじゃ。半日もすれば、万全となるじゃろう」

「うむ」

「その後、千年前の借りを返しに行くとしよう。今の都は東京なる地。そこには、晴明の忘れ形見の魔王がおる。実に都合がよい。かつての雪辱を晴らすには相応しき舞台よ」

 小賢しい封印を破り、『まつろわぬ神』として再び舞い戻った今、人間どもから隠れ潜む必要性を感じない。

 そもそも、木っ端の如き格下の存在から隠れるなどありえない。

 なぜなら、『まつろわぬ神』にとって人間など歯牙にもかけない蟻でしかないからだ。視界にも入らない程度の存在から身を隠す。そんなことは時間の無駄であるし、考えるだけ意味がない。

 だが、噛み付いた虫は叩き潰さねばならない。

 この国にはちょうど、『祟り』という概念もある。

 神に楯突く愚か者に、神罰を下さぬほど、法道はぬるくないのだ。

「主の傷が治り次第行くぞ。魔王の血で、わしの凱旋を祝うのじゃ」

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 晶が消えた病室は、水を打ったような静けさに襲われていた。

 人の命が、一つ消えた。

 それが、これほど胸に重く圧し掛かってくるとは。

 護堂は、現実を受け入れられなくて、呆然とするしかなかった。

 明日香や祐理は静かに涙を流し、嗚咽を堪え、抱き合うようにして泣いた。

 恵那は晶がこの世を去ったと、病室のベッドの上で聞いた。初めに冗談だと笑い飛ばし、それが真実だと分かると、変わって色を失くして言葉を詰まらせた。

 恵那にとって、晶は、同年代の中で唯一自分に伍する実力を持った媛巫女だった。

 拳で語るというわけではないが、武芸に於いて常に意識してきた相手である。それが、このような形で失われてしまうことに、唖然としたのだ。

 馨と冬馬も、ショックを受けている。

 このメンバーの中でも最も修羅場を潜り抜けているのは冬馬である。飄々として、物事に動じない彼でも、実の姪がこのような形で死を迎えたことには憤りを隠せなかったが、同時に冷静な部分も健在だった。忍として、情を殺す訓練を受けてきたことや、仲間を失う経験をしてきたことが、冬馬にとって幸となり、だからこそ過酷な精神状態を齎した。

 冷静に、晶の死を受け止め、この先のことを憂う。

 実の姪に対してすら、そのように合理的に考えることができてしまう自分に腹を立てながら、それでも、今後を考えて対応に当たる必要性を認識する。

 まず、組織的に動く必要があるため、馨には冷静さを取り戻してもらわなければならない。

 まだ、馨も十八。

 近しい人間の死に慣れているとはいえない年齢だ。

 媛巫女であり、正史編纂委員会東京分室の長という肩書きを持っているが、高校三年生という若さである。まだまだ遊び盛り。本来は、冬馬たち大人がしっかりと舵取りをしなければならない。

 しかし、事は急を要する。

 晶が消えてすぐ、馨を病室から連れ出した冬馬は、即座に職務に復帰する旨を馨に伝えた。

 そのために、馨が指示を出さねばならないとも。

 冬馬の冷静さは、馨の動揺を鎮めるのに十分だった。

 馨はすぐに、対策本部を自宅に設けることを決め、その連絡を部下たちに入れ始めた。

 東京分室の建物は、道満の術がかけられていた。道満に対処するのに使用することはできない。

 朝日が昇る前に対策本部を沙耶宮家に移し、そして馨は情報収集に当たった。

 各地で起こる地脈の乱れは、未だに安定を見ない。そのため、混乱も続いていて、満足に情報を集めることは難しいと思われた。

 しかし、道満と牛頭天王は、その混乱の中でもあまりに派手に動いていた。

 出雲でヤマタノオロチと死闘を繰り広げているというのである。

 ほぼ予想の通りだったが、戦いの規模が非常に大きい。周辺が山で、人家が少ないということもあり、人的被害は軽微なのが幸いか。

 後の問題は、晶を失った護堂がどう動くのか、ということか。

 東京か出雲のどちらかが戦場になる公算が高い。

 護堂が攻め込むか、向こうが攻め込んでくるかで対処は変わるものの、少なからず被害が出るだろう。

 そのとき、護堂がどこまで今までの護堂として振舞ってくれるかで、大きく変わってくる。

「頼みますよ、草薙さん」

 何を犠牲にしてでも道満を倒してほしい。それとも、こちらを考慮して道満と戦ってほしい? 

 自分の呟きの意味を図りかねて、馨は唇を引き結んだ。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 朝日が昇り、病室に光が差し込んできた。

 晶が消えても、また新しい朝はやって来る。

 時間は止まることを知らず、生きていく中で彼女の存在は過去のものとなってしまうのだろう。

 それは、あまりにも虚しいことではないか。

 心の隙間から、大切なものが零れ落ちた。

 護堂にとっても、それは耐え難い苦痛であった。

 草薙護堂は、非情な殺人機械などではない。

 精神性が他人と異なっているとはいえ、そこに人としての倫理観がしっかりと根付いている。

 魔王などと呼ばれはしても、人並みに好意を抱くし、人並みに後悔もする。

 それが、自分の不注意で起きた悲劇だというのなら、その後悔は筆舌に尽くし難いものがある。

 時が戻せるのなら、今すぐにでも戻して晶を取り戻したい。

 この叫びが、晶に届くのならば、声の限りに叫ぼう。

 しかし、それはもはや何の解決にもならない。

 失われた命を取り戻す術を、護堂は知らない。

 絶望と憤りを抱えて、護堂は病室を後にした。ぽっかりと胸に穴が開いたような気分だった。せめて足取りだけはと、歩調を整え、病院の外に出た。

 昨晩までの悪天候が嘘のように、晴れ渡っている。

 普通、こういうときは雨天であるべきだろうに。

 天の神様は、護堂の心情にあわせるつもりなど毛頭ないらしい。

 日が昇り始めたばかりで未だに人気は少なく、車通りもない。東京といっても、場所によりけりだ。

「畜生ッ」

 転がっていた空き缶を踏み潰し、土雷神の化身でその場を後にした。

 とにかく、激情を吐き出せる場所に行きたかった。

 護堂が行き着いた先は、七雄神社だった。

 今のまま家に帰るわけにもいかず、物に当たるわけにもいかない。

 結局、記憶にある中で人目につかない場所といえば、ここくらいしかなかった。

 すでに、戦いが新たな局面に近づいていることから、この神社の呪術関係者は軒並み退去し、道満の術にかかっていないか検査を受けているという。

 そのため、今、七雄神社は無人となっているのだ。

 人気のない、静かな神社の境内。

 落ち着いたこの空間で、護堂は黙考するしかなかった。

 激情を鎮めるには、それくらいしか方法を思いつかなかった。

 

「草薙さん!」

 どれくらい、ここにいたのだろうか。

 制服姿の祐理が、七雄神社の階段を上がってきたのだ。息を切らして、なけなしの体力を絞りきったように、松の木と膝に手を突いて呼吸を整えている。

「万里谷、なんでここに?」

「草薙さんなら、こちらにいらっしゃると思いましたので」

「わざわざ、追いかけてきたのかよ」

「はい。幸い、病院からそう遠くありませんでしたし」

「明日香と清秋院は?」

「お二人はまだ、病院です。徳永さんは、草薙さんを追いかけるのを躊躇っておいででしたし、恵那さんはまだベッドから抜け出すべきではありません。草薙さんを追いかけられたのは、わたしだけです」

 はあ、ふう、と息を整える祐理。

 運動が極端に苦手な彼女は、学校の体育ですら場合によっては筋肉痛に陥るほどの運動音痴である。

 病院から七雄神社まで、二キロもないと思うが、それでも祐理にとってはとても長い距離である。また、この神社が高台に位置することもあって、石段は非常に険しいものとなっている。

「ここの石段は、いつも辛いんです」

「体力、ないからな。万里谷は」

「それでも、ここ最近はよくなってきたのですよ? これでも、歩く機会が増えてますから」

 ウォーキングレベルで体力が増減するというのは、果たしてどうなのだろう。

 平均値よりも体力が少ないから、ちょっとの運動でも変化を感じることができるということだろうか。

「大丈夫ですか、草薙さん」

 祐理が、護堂の傍まで歩み寄ってきた。

「何が、だ?」 

「とても、怖い顔をされています」

 そっと、祐理は護堂の頬に触れた。

「あなたは、泣かれないのですね」

「そうだな。そういえば、そうだ」

 言われて、初めて護堂は涙を流していないことに気が付いた。

 泣かないのは、晶の死が認められないからか。

「なあ、万里谷。頼みがある」

「はい、なんでしょう?」

 祐理は優しい。

 痛いほどの優しさが、護堂の胸を締め付けるのだ。

「道満が東京に来たら、そのときは、東京から離れてくれ」

「え?」

 祐理は、信じられないといった表情で護堂を見た。

「何を仰っているのですか?」

「東京は戦場になる。万里谷が巻き込まれない保証はない」

 今さらだった。

 これまで、散々『まつろわぬ神』の戦いに同行してもらっていて、祐理や恵那が命を失う危険性があると本気で考えたことがあっただろうか。

 祐理たちの安全を思うのなら、遠ざけるのが一番だった。

 大切なものを失うのは恐ろしい。そして、護堂は、それらを守り通す自信が持てなかった。

 だから、こんなにも弱弱しく頭を垂れるように頼むしかなかった。

「晶は俺の所為で死んだ。俺には、敵と戦うだけの力はあっても、仲間を守るだけの力がないんだ。万里谷まで、俺の戦いに巻き込むわけにはいかない」

 そう言って、護堂は祐理に東京から離れてもらおうとした。

 恵那もそうだし、明日香もそうだ。大事なものを巻き込みたくないのなら、遠ざけるより他にない。

 突然のことだった。

 パン、と乾いた音が響き渡り、視界がブレた。

「……な」

 護堂は驚いて、言葉を失う。 

 掛け値なしの不意打ちだったのだ。

 頬が、僅かな痺れの後に、熱を帯び、赤くなる。

「……万里谷」

 祐理が、護堂の頬を力いっぱい平手打ちしたのだ。

 目に涙を溜め、唇を噛み締めて。

「気をしっかり持ってください、草薙さん!」

 祐理が、縋るように声を張り上げた。

「わたしは、そのような草薙さんを見たくはありません!」

 祐理は、護堂の胸倉を両手で掴む。

 常の彼女からは想像もできない過激な行動は、それだけ祐理の想いの強さを物語っている。

「わたしは、晶さんが好きでした。真っ直ぐで、頑張りやで、一緒にいてとても楽しかった」

 祐理は、涙を流しながら護堂に言葉をかける。

 晶に対する想いを吐露していく。

 祐理にとっても晶は、共に戦い、共に生きた仲間なのだから。

「その晶さんが、道満様の手にかかって亡くなったのです。どうして……どうして、これを許せましょうか。わたしは、絶対に許しませんし、道満様から逃げたくもありません。だから、いくら草薙さんの頼みでも、こればかりは聞き入れられません。わたしは、わたしの職務を東京にて完遂します。これが、わたしの意地です」

 断固として、祐理は護堂の頼みを受け入れないと言う。

 額を護堂の胸に押し付けるようにして、祐理は言葉を続けた。

「あなたが、もう大切なものを失いたくないと仰るのでしたら、今度こそ守り抜いてください。戦って、打ち倒してください。あなたは、カンピオーネなのですから――――カンピオーネとしての意地を通してください! …………晶さんの仇を討てるのは、あなただけなのですからッ!」

 祐理の真っ直ぐな思いが、迷いと後悔に囚われた護堂の心に突き刺さる。

 後悔し、苦しんでいるのは護堂だけではない。

 自分に力がなかったために、友の窮地を救うことができなかった。祐理の心にも、大きな後悔の念が渦巻いている。

 仇討ちを口にするほどに、祐理も追い詰められていた。彼女は彼女で、己の弱さを嘆いていたのだ。

 祐理もまた、道満に立ち向かおうとしている。

 決して、負けない。たとえ、戦うことはできなくても、意地だけは通そうと。

 護堂に比べて、遥かに弱い祐理が、強大な敵を相手に一歩も引くことなく敢然と向かい合おうとしているのだ。

 弱気に支配されていた護堂にその気持ちを無下にすることはできなかった。

 祐理の言葉は、閃光のように護堂の心の闇を払った。

 そして、晶を苦しめた敵を前にして、弱気になってしまったことを恥じた。

「そうか。そうだな」

 護堂は祐理の肩に手を置いた。

「万里谷の言うとおりだ。俺がどうかしてた」

「草薙さん」

「前言撤回だ。万里谷。必ずアイツを倒す。だから、きっちり見守ってくれ」

「はい」

 戦いは、近く必ず起こる。

 護堂と道満の間には、千年にもなる因果の糸が結ばれているのだ。

 絶対に、これを自らの手で断ち切る。

 強く、護堂はそう心に決めた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 祐理と一緒に病院に戻ってくる。

 時間的にはまだ早朝で、朝食の準備をしている時間帯になる。

 まだ受付も始まっていないので、見かけるのは入院患者と病院関係者だけである。

「一時はどうなることかと思ったよ」

 というのは、恵那の談。

 恵那の病室に、祐理と明日香を連れ立って集まった。

「祐理が絶対に連れ戻すって言うから、ここに残ったんだけど、結構早かったね」

「俺を家出娘みたいに扱わないでもらえるか」

 納得いかないと拗ねたように言う。

 ここにきて、やっと固い表情だった皆に笑みが戻ってきた。

「それで、護堂。どうするの?」

 明日香が尋ねてくる。

「とにかく、道満を倒す。絶対にだ。詳しいことは決めてないけどな」

「うん。それでこそ、王さまだ。突き進んで何ぼだよ。恵那たちもできる限り協力するよ」

「まあ、あたしも、弱い式神くらいなら何とかなるかもしれないし。そうでなくても、人払いくらいはできるから」

 『まつろわぬ神』となった道満がどれほどの術者になっているのか見当もつかないため、曖昧な表現にならざるを得ない。

 どのみち、道満に対抗できるのは護堂以外にいないのだ。

 そのとき、ノックの音が聞こえた。

「お話中失礼します」

 馨の声である。

「はーい」

 返事をしたのは、部屋の主である恵那。

 恵那の返事を聞いて、馨が病室内に入ってきた。

「至急お耳に入れなければならないことがありまして、お伺いしました」

「ヤマタノオロチですか?」

 護堂が目撃した巨大な悪竜。晶の救出を優先したために、そちらを放置していた。あの巨体で動き回られたら、それだけで大災害を引き起こしかねない。護堂が腑抜けているわずかな時間でも出雲市を壊滅させることくらいはできるだろう。

「はい。それなのですが、どうやらヤマタノオロチは討伐されたようです」

「……それは、つまり牛頭天王が完全に力を取り戻したということですね」

 『まつろわぬ神』に届くのは、『まつろわぬ神』かカンピオーネのみ。牛頭天王が、ヤマタノオロチを討伐したというのであれば、牛頭天王はまつろわぬ性を取り戻したということになる。

 《蛇》は存在するだけで《鋼》を刺激する。

 道満の都合のいいように話は進んでいるということだ。

「従属神がまつろわぬ性を取り戻したのだから、道満が『まつろわぬ神』にならないはずがないか」

「それなのですが、おそらく道満は真の名を取り戻しているはずです」

「そういえば、道満はあくまでも神性を押さえ込むための名前だったんでしたっけ」

 スサノオから、そのような話を聞いた。

 呪術の神ではあるが、蘆屋道満ではない別の神様。

「本当の名前に心当たりがあるのですか?」

「ええ、はい。状況証拠からの推測ですが」

 馨は、頤に手を当てるそぶりをする。

 護堂たちが、馨の次の言葉に集中し、そして馨は口を開いた。

「蘆屋道満の本当の名前は、法道です」

「法道?」

 まったく聞き覚えのない神の名前。

 護堂は首を捻った。

 だが、呪術を知る者たちには当たり前のように知識としてある神様らしい。

 祐理も恵那も明日香もなるほどと頷いた。

「知ってるのか、皆?」

「はい。法道上人ですね。空鉢仙人とも呼ばれる、インドの仙人です」

 祐理が答えた。

「ま、その辺は伝説でしかないんだけどね。雲に乗って空を飛んだり、空の鉢を飛び回らせたりしたっていう話。で、法道上人は、インドから朝鮮を経由して日本に入ってきたっていう風に伝わってるよ」

 恵那が、祐理の後を受けて話を続けた。

「へえ、そうなのか。呪術の世界では有名だったりします?」

「そりゃあもう。実は、この神様が現代にまで伝わるこの国の呪術事情を形成したといっても過言ではないのです」

「というと、どういうことでしょう?」

「法道上人は、六から七世紀頃に播磨国……今の兵庫県を中心に活動しました。その際、現在にも残る多くの寺院を開基したとされますが、重要なのは、彼の門徒が公の呪術師ではないということです」

「?」

 護堂はまた首を傾げる。

 公の呪術師ではないというのは、つまり今でいう正史編纂委員会所属の呪術師ではかったということだろうか。

「かつて、ほとんどの呪術は国家の管理下に置かれていました。呪術を司る者はごく一部に限られ、仏僧になることにも国の許可を必要とした時代です」

「私度僧ってのが教科書に出てきましたね。その時代ですか」

「はい。陰陽師にいたっては官職ですから、呪術は国家によって厳しく統制されていたので民間で呪術が発達することはほぼないのです。ただ、例外的に、播磨は違いました。当時最新鋭の呪術や大陸系の呪術を網羅した、凄まじい呪術文化が突然、花開きました。その切っ掛けとなったのが、この法道上人だったのです。ようするに、僕たちにとって彼は『民』の呪術師の祖とも言うべき存在なのです。なんといっても、蘆屋道満は、この法道上人の弟子ともされる人物です。活動拠点も同じ播磨。互いに伝説的な呪術師ですから、仮の名として結びつけるのに最適だったのでしょうね」

 そういえば、播磨の呪術師たちを手下に従えていたとか何とか。そのようなことをスサノオが言っていたと思う。呪術結社のようなものを作ったと言っていたか。その頂点に君臨していたのが、法道という呪術師なのだろう。

「確かに、スサノオから聞いた話と重なりますけど、どうしてそれだけで法道と言えるんですか?」

「法道上人は、大陸から日本に渡ってきたときに牛頭天王を従えていたとされているんだよ」

 恵那が、その答えを言ってくれた。

「牛頭天王を、従えて日本に渡ってきた?」

「うん。恵那が戦った牛頭天王は、道満とは長い付き合いだって言ってたし、法道だった頃、それも大陸にいた頃から一緒に行動してたんじゃないかな」

「そうなのか……」

 法道上人か。まったく聞き覚えのない神様だ。いや、神様というよりは仙人か。『まつろわぬ神』だから、厳密には神様でなくても降臨するものだから、そこはいい。

「千年以上前からいるというので、歴史としてはもっと古いのかと思っていましたけど……六世紀くらいの人なんですか」

 それに、神様として大陸から渡ってきたと受け取れることをスサノオは言っていた。すると、矛盾するのではないか。

 あの神が法道であれば、それは日本の『まつろわぬ神』ということになる。いくら、伝承上は大陸から渡ってきたとなっていても、日本で発生した『まつろわぬ神』を大陸から渡ってきた神と表現していいのだろうか。

「それは、おそらくは逆ですね」

 そう言ったのは、馨だ。

 彼女は、今までの情報から法道という名前に行き着いただけに、確証なり確信が持てるだけの論理的根拠を持っているのだ。

「逆と言うのは?」

「草薙さんは、海外から日本に入ってきた呪術師が神格化され、後に『まつろわぬ神』となったように考えているかもしれませんが、おそらくこの場合は、逆。もともと『まつろわぬ神』だった呪術神が、牛頭天王と共に日本に渡ってきて、播磨に根を張り、結果それを崇める者たちの手で法道上人の伝説が生まれたという順序です。僕も当初は半信半疑だったのですが、ランスロットという前例があります。可能性は高いでしょう」

「そういう順番ですか」

 なるほど、それならば海外の伝承を探ったところで見つかるはずもない。

 ランスロットのように、元の名を失った神が、漂泊の果てに新たな神話を獲得するということは儘あるらしい。

 ランスロットの場合は、創作物と自身を重ね合わせたことにより、ランスロットという名が定着したが、法道も、もともとの名を失い、日本で信仰を集めるようになって法道という名を手に入れた。

 だから、あの法道は法道としての神話から発生したものではない、というのが馨の推測であった。

 そして、二人の媛巫女や、道満によって呪術の知識を刷り込まれている明日香が納得の表情を浮かべていることから、ほぼ間違いない情報といってもいいだろう。

「しかし、ランスロットと異なり、あの神の能力は概ね伝承の通りです。ランスロットの神格は創作物としての側面が強いので、別物のようになっていますが、法道の伝承はあの神と直接触れ合い、見聞きした人々によって形成されたものです。決戦までに目を通されておくのもいいかと思います。一応、関連書籍や資料を持ってきましたので、よろしければ」

「ありがとうございます。読ませていただきます」

 護堂は、馨から本と資料を受け取り、法道が動き出すまでに目を通すことにした。

 そして、法道の正体が分かったことで、対策を取りやすくもなった。正体不明の敵と戦うよりも、正体が分かっていたほうがずっと精神的に楽だ。

 戦いの気配を感じることもできる。

 どのような手を使ってでも法道を倒さねばならない。

 護堂は、病院を出て、スマートフォンを取り出した。

 できるかどうか分からない。けれど、法道を倒すため考え得る限りの手を尽くす。これは、その最初の一手なのであった。



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八十七話

 大型の台風と比較しても遜色ない嵐が東日本を直撃したのは、その日の午後のことだった。

 風は吹き荒れ、横殴りの雨が東日本の太平洋側を襲う。

 穏やかな夕暮れは一変して、雷鳴轟く暴風雨となった。

 最近はゲリラ豪雨という言葉がよく使われるようになったことからも分かるとおり、こういった突然の大雨強風には比較的慣れている人が多くなった。しかし、それでも、ゲリラ豪雨は夏頃に発生するものであり、いくら異常気象と言っても、日本のど真ん中に突如として台風並みの低気圧が出現するなど常識的にありえない。 

 大気の流れを見ても、そのような自然現象が発生する要因は一切なく、気象予報士たちは首を捻らざるを得ない状況だった。

 似たようなことは以前にもあった。

 四月と七月に、同じように突然の大嵐が来たことがあった。

 今回の大嵐もそれに酷似している。

 ――――今年は大荒れだな。

 ある気象予報士は、もはや慣れたと言わんばかりに天気図を眺めていた。

 

 

 天気が西から変わるという基本は、最低限守ってくれていた。

 嵐を引き連れた法道は、東名高速道路を東進する。

 風と雨はあまりに強く、高速道路は通行止めを余儀なくされている。それを幸いと、漆黒の闇が怒涛を為して進軍しているのだ。

 嵐を呼んでいるのは牛頭天王。

 スサノオと同じ嵐の神格であり、御霊信仰の中枢を担う彼は疫病神としての側面も持つ。

 スサノオ以上に悪神としての神力が強いのである。結果として、戦いを前にして心が逸っている彼は、周囲に病をばら撒いていた。

 風雨の凄まじさと、高速道路が通行止めになっていたおかげで巻き込まれる人間は高速道路付近に暮らす住民だけであるが、それでもこの時点で数百人が体調不良を訴え病院に搬送されていた。

 座布団ほどの大きさの雲に乗り、自軍の快進撃を眺めている法道は、牛頭天王の気持ちがとてもよく分かった。

 千年前の雪辱を果たす好機である。

 安倍晴明というただの人間に敗れた後の惨めな己はもういない。

 今再びこの世に舞い戻り、呪術の闇で世界を覆い尽くしてみせよう。

 そのために、草薙護堂を始末しなければならない。

 そうでなければ、覇道の一歩が踏み出せないのだ。

「さあ、決着をつけようぞ。晴明」

 法道は東進する。

 現在の都、東京に旗を立てるために。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「いやはや、文字通り驀進といったところですねェ」

 東名高速道路の映像を見て、冬馬は呆れたように呟いた。

 護堂も同じ気持ちだ。

 法道現るの報を聞いて、沙耶宮家に飛び込んだ護堂を待っていたのは、テレビ画面を埋め尽くす黒の集団だった。

 全面通行禁止となった高速道路上を、我が物顔で走り続ける大小様々な鬼の群れ。

 監視カメラの映像だが、雲霞の如き百鬼夜行が東京を目指して進んでいる光景は、恐怖を感じるよりも先に忘我する。

 雲に乗って先頭を切る法道の姿をカメラが捉えていた。

 護堂は唇を引き結び、拳を握り締めた。

「あの集団が東京に入る前に迎撃します」

「お願いします。正直、あの数を相手にするだけの余裕は今僕たちにはありませんので」

「ええ、もちろんです。ですが、俺は今回法道を倒すことを優先して戦います。だから――――」

「大丈夫です。神様の相手はできませんが、それでも僕たちなりにあなたをサポートします。周囲に気を配る必要はありません。――――僕たちも覚悟を決めて、決死隊を組織しましたので。東京の地脈の守護から一般人の安全確保まで、死に物狂いで遂行しますよ」

 決死隊か。

 『まつろわぬ神』が、東京を目指して進んでいる。しかもそれは、日本各地に大災害を引き起こしたあの地脈氾濫事件の主犯であるらしい。

 それを聞いた呪術師たちは、多くが死を覚悟した。

 百鬼夜行を倒すだけでも、彼らは全滅の可能性を考えていたのである。それが、より強力になって首都に攻め寄せてくるとなれば、不安と恐怖に苛まれるのは当然と言えた。

「それにしても法道ねえ。俺が戦ってきた神様の中でも一番マイナーなんじゃないでしょうか」

「そうかもしれませんね。法道上人自体は民間伝承レベルですし。ですが、東京にも法道由来の伝説はあります。渋谷にある神泉町と鉢山町の地名はこの法道上人から来たという伝説があるくらいですからね」

 兵庫県の土着伝説程度の神様扱いではあるが、東京にまで伝説を広げているというのも不思議な話だ。といっても、それは法道の力というよりも弘法大師の伝説に引っ張られた結果だというが。

「じゃあ、行ってきます。後ろのことは、頼みますね」

「ええ、死力を尽くします」

 馨は、力強く護堂に誓った。

 彼女もまた、晶の死に衝撃を受けた者の一人だ。その仇が東京に攻め入ってくるとなるのだから、恐怖など感じていられない。

 復讐という柄ではないし、それは護堂がやってくれる。

 馨は力まず、状況を見定めることが大事なのだ。

 敵は呪術の神。

 今までのような、物的被害や人的被害を意識するだけの対応では、おそらくダメだ。

 地脈などを侵してくる可能性もあり、そうなってしまえば、東京が死の都になる。

 東京都民の、そして日本の今後を考えるならば、相手が『まつろわぬ神』だからといってここで退くわけにはいかないのだ。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「ずいぶんと頭の悪いことをしてると思うよ」

 そう言ったのは、恵那だった。

 彼女がいるのは明治神宮。

 東京都は、日本最大級の都会であるが、実のところ意外と緑が多い。それは、街路樹などもあるが、明治神宮や御苑のような由緒ある神社や庭園が残されているからであり、また、広大な緑を持つ公園を維持しているということもある。

 そして、明治神宮の緑は、神宮と隣接する代々木公園を合わせれば、都心の中では最大級の広大さを持つ。

 今、この明治神宮に集った媛巫女は五十人。護衛の呪術師は二百人という大所帯である。

 ここにそれだけの人員を集結させた理由は、明治神宮が、江戸時代以来、東京を守護する大結界を維持する要であるからだ。

 この結界は、地脈と密接な関わりを持つ。

 近畿を中心に地脈が大きく乱れながらも、関東以北の被害が比較的少なかったのも、この結界が緩衝材の役割を果たしたからである。

 しかし、だからこそ結界が破られてしまうことになれば、地脈は大いに乱れ、畿内の混乱とリンクしてさらに大きな騒乱へと繋がる恐れがある。

 よって、ここだけは死守せねばならないのであった。

 そして、二百五十人もの呪術師を一同に集結させることができたのは、他の分室から多数の応援が送られてきたからである。

 数を頼みにして、最重要な霊地を守護することを、恵那は『頭が悪い』と評したのだ。

 『まつろわぬ神』を相手に、挑戦すること自体が愚策。

 それでも、この場にいるのは志願者ばかりである。

 恐怖を抱いている者が大半であるが、それ以上の義務感と己の正義に命を賭そうとしているのである。

 

 

 

 事ここに至り、日本中の分室が連携を密にして事件の解決に当たっていた。

 近畿地方を中心に、地脈の安定化を図っているが、これに関わる呪術師たちは自分たちの持ち場に拘らず流動的に動いている。

 それと同じように、東京の危機に際して自発的に駆け付けてくれた呪術師が多く、馨が法道の悪逆非道さを説き、日本のために力を貸してもらえないかと説得に当たったところさらに多くの呪術師が集ってくれた。

 この迅速な動きには、法道という神に対する強い危機感が醸成されていたことの他、東富士演習場での戦闘に参加した呪術師たちが、未だに部隊を組んだまま残存していたことが背景にある。

 彼らは法道の襲来に備えて東京と神奈川の各地に散り、人払いや情報操作に従事することとなった。

 恵那に祐理、ひかり、明日香といった護堂の関係者は、それぞれの分野で極めて高い資質を持っている。明日香に関しては、『民』からの協力者という体で参加させているが、実際に道満から与えられた呪術の知識は上位層に食い込めるほどのものがあり、戦いそのものに慣れていないことを除けば、十分に戦力に数えられるのである。

 明日香自身が、贖罪の場を求めていることと緊急事態で形振り構っていられないということから、特別に許可されているのだ。

 集められた媛巫女たちは、良家の子女ばかりということもあり、祐理に近い雰囲気を感じる。この集まりの中では、旧華族の祐理ですら下っ端という家格だから呪術の世界は恐ろしい。

 それでも祐理が最高位とされるのは、媛巫女は家格に関わりなく尊重されるものであり、実力主義的な世界だということが言える。

 逆に言えば、媛巫女ではない呪術師は家格の影響を受けやすいということでもある。

 明日香がこの世界を忌諱していた理由の一つだ。現に今、非常に居心地の悪さを感じている。良くも悪くも小市民的性格の明日香には、このお嬢様集団の中に入っていく勇気はない。 

 端によって、眺めているのが精精だ。ぼっち状態、空気になって現状を受け流す。

「法道様は、東名高速道路を東進されていると聞いています。草薙さんは、いったいどこで対峙されるのでしょう?」

 明日香の気配遮断を無視する形で、トコトコとやってきた祐理が話しかけてきた。

 それだけで、媛巫女たちの視線が明日香に刺さる。

 どうやら、祐理は彼女たちの中でも相当人気があるようで、祐理が親しげに話しかけるあいつは誰だという空気が流れている。

「そうね、敵は東名高速使ってるんでしょ。だったら、その辺りで人気がなさそうなところを探すんじゃない?」

 と、明日香は当たり障りのない返答をする。

 護堂がどこで法道を待ち受けるかなんて、明日香の知るところではない。

 今回は晶のこともあり、護堂が冷静に周囲に気を配ってくれるか読めないところがあるのだから、明言することはできない状況なのだ。

 下手をすれば、あたり構わず攻撃を放つ可能性すらある。

「カンピオーネってのは読めないもんよ。あなたのときだって、ホテルをぶった切ったでしょ」

「あ、確かに、そうですね……」

「あれですら、きっとアイツにとっては周りに配慮した結果なのよ。人気さえなければ、何をしても構わないと思ってるに違いないわ。高速道路を切り倒すくらいはやっちゃうかもね」

「そんなことは……」

 言いよどむ。今までの護堂の所業を見ているだけに、ないとは言い切れない。日光やイタリアのときは、周辺の人を避難させた上で戦いに臨んでいた。 しかし、今回は下準備のために費やせる時間がない。

 本当に、護堂はどこで戦うつもりなのだろうか。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 祐理と明日香が心配していたとき、護堂はすでに戦場とする場所を見定めていた。

 雨はいつの間にか上がっていた。

 東名高速道路を東進する法道を迎撃するのは、厚木海軍飛行場。

 神奈川県にある軍事基地で、自衛隊とアメリカ軍が共同で利用しており、ジョン・F・ケネディを暗殺したリー・ハーヴェイ・オズワルドが勤務していたことでも知られる。

 この基地のすぐそばを、東名高速道路は走っている。

 ジェット戦闘機が、次々に飛び立っていく様を、護堂は見届けた。

 馨にこの場所を戦場にすると連絡したときに、手を回してくれたのである。

 自衛隊もアメリカ軍も、一機で何百億円もする戦闘機を巻き込まれたくはないだろう。スクランブルがかかったかのように慌てて飛び立っていった。

 周辺住民にも、神奈川県の呪術師が動いてくれている。

 説得は時間がかかりすぎるため、暗示でもなんでも使って強制的に公民館などに動いてもらったのである。おかげで、この周辺には人気がなくなっていた。

 次第に、身体に力が漲ってきた。

 『まつろわぬ神』の接近を知らせる、体調の変化。

 呪力の塊が、猛然と高速道路を駆け抜けていくのを見る。先頭の法道のみならず、その背後の集団にむけて、

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 一目連の聖句を口にする。

 数百もの刃が、一斉に百鬼夜行に襲い掛かる。

 それは、鋼の暴威である。

 百鬼夜行とはいえ、所詮は使い魔。神獣にも届かない影である。漆黒の鬼たちは、護堂の掃射を受け止めることができずに次々と撃ち抜かれていく。

 その中で、法道だけは機敏な動きで刃の雨をすり抜けていた。

 大味な攻撃は、法道という小さな老人を仕留めるには範囲が広すぎる。

 だが、護堂の攻撃の狙いは法道ではなく、その背後にいる使い魔の群れである。

 綺羅星のように輝く剣群を受け止められるほど、百鬼夜行は頑丈ではない。

「ヴォバンの狼程度か」

 護堂はそう評価する。

 かつて戦った狼使いの老カンピオーネ。無限に狼を召喚する権能を持っていたが、召喚される狼一体一体の力はそれほど強力ではなかった。

 呪術師でも中堅以上であれば、相手ができる程度の力だったはず。真に驚異的なのは、その物量であって、個々の力ではなかった。

「物量では俺も負けてねえ」

 数を用意するのは、簡単だ。

 剣や槍を無数に滞空させたまま、護堂は無表情に法道を見た。

 飛行場と高速道路までの、数百メートルの間を挟み、護堂と法道はにらみ合った。

 夜。

 人の姿はなく、

 魔王と神だけが、この世界で息をしている。

「東京に入る前に、わしと決着をつける腹か。多少前後するが、よかろう。どの道、魔王の相手はわし自身でなければならぬ」 

 呟いて、法道は、呪符を投じた。

 五枚。

 風の影響も受けず、弾丸のような速度で護堂に襲い掛かる。

 護堂は、それを黙して斬った。槍の一振りで、五枚の呪符を打ち払う。

 それと同時に、法道が印を結んだ。

「なん……!?」

 最後まで言い切らず、護堂は槍を手放して後方に跳んだ。

 槍の先端に打ち払った呪符の一枚が張り付いて膨張したのである。呪符はすぐに水に変わり、ハラハラと舞い落ちる呪符を呑み込んで大波となって護堂に襲い掛かった。

『裂けろ』

 水は、武具では防げない。

 大波を、言霊で二つに分かつ。

 水飛沫が飛び、護堂の左右は水の壁となる。そこで、二枚目の呪符が発動した。

 急激に水が消滅し、代わって大量の木の根が現れた。水に囲まれた護堂は実質木の根に囲い込まれたのである。

「五行ってヤツかよ!」

 毒づいて、護堂は背負った剣群を四方の木に叩き込み、それらを砕く。

 所詮は木。敵が得意とする五行に合わせても、鋼を木では防げない。金克木である。ところが、法道の木は、砕かれた直後に燃え上がった。

 三枚目の呪符が発動したのである。

 木気を吸収し、火気が肥大化する。

 そして、紅蓮の火柱が生まれた。

 

「熱いな、もうッ」

 護堂は服についた煤を払った。

 火柱が発生する直前に土雷神の化身で脱出したため、無事だったのである。

 危うく、特大のキャンプファイヤーで焼き尽くされるところだった。

 もっとも、カンピオーネの抵抗力なら、あれで殺されることはないだろうが、法道が投げた呪符は五枚。残りは二枚であり、炎の次に何に変わるのか、大体予想できる。

 高速道路の上に、未だに立っている法道に、護堂は剣群を掃射する。

 火柱がぐにゃりと曲がる。炎の柱は炎の壁となって、剣群の行く手を遮り、一瞬にして蒸発させる。

 火炎は《鋼》の天敵の一つ。

 金気は火気に相克される。

 陰陽道のルールに照らしても、《鋼》の特性に照らしても、炎は相性の悪い相手だ。

 そして、この炎の壁が護堂に向かって崩れ落ちてくる。

 まるで、火砕流。

 堰を切ったような炎は、道半ばで漆黒の大地に変わる。

 火砕流が土石流に変わった瞬間であった。

 岩盤ごとひっくり返したかのような黒津波は、カンピオーネにもダメージを与えうるものだ。地面を削り取り、巻き込んで勢力を拡大している。

『縮』

 土を巻き込むという性質から、地中に逃れるのは得策ではないと判断して、空間圧縮で上空に跳んだ。

 神速の権能を得て以来、あまり使うことのなかった使い方である。この使い方で十メートルを一メートルにまで縮めれば、一メートルジャンプすることと十メートルジャンプすることが同義になる。

 結果、相対的に護堂は十メートルを一瞬で移動したように見えるのである。

 土石流の効果範囲から脱した護堂は、未だ安息を得ることができなかった。

 下方の土の山が、鉄色に変化し、輝く剣の群れに変わったからである。

 最後に見せるのは、土生金。数百からなる剣の軍団だ。

 護堂の槍から金気を得て、呪符で干渉し水気を発する。それを、さらに相生を繰り返し、膨張させて最後にカンピオーネを傷つけることができる物理攻撃に転化させる。

 人間でもできることであるが、その規模は桁外れに大きい。

「呪術の神ってのは、なんでもありか!?」

 一挺一挺を迎撃していては間に合わない。

 護堂は身を覆う程度の大きさの楯を重層的に配置し、剣群に耐えた。

 普段から自分が得意とする戦術を返されたのだ。あまり、いい気持ちにはならない。

 とはいえ、剣の群れに特異な能力があるわけではない。

 それはあくまでも剣であり、神話的な力を持つものではない。魔術によって作り出されただけの、鉄の塊である。格で言えば、護堂の《鋼》のほうが遥かに上だ。

 当然、重層的に重なった神楯を突破することなどできない。剣は尽く弾き返されて、地面に落ちていく。

「返すぞ!」

 自由落下の中で、護堂は法道に向かって剣の雨を降らせる。

 もはや、五行相生で強化した火柱もない中で、これを如何にして防ぐ。

 降り注ぐ剣群は、夜闇に金の軌跡を描き、獲物に殺到し、法道ごと、周囲のアスファルトを吹き飛ばした。筋骨隆々な武神であればまだしも、老人の外観をした法道が直撃を受けて無事でいるとは考えられない。だが、それ以上に、この程度で倒せることがありえない。

「ッ!!」

 護堂は手に持つ槍を背負うように振るう。

「ぐ……!」

 激しい衝撃が走る。

 背後から、強襲されたのだ。

 空中では、踏ん張れずそのまま地面に叩きつけられた。

「ぐ、がはッ」

 サルバトーレのような頑丈さのない護堂には、これだけでも相当辛い。

 腕の骨を始め、いくつかの骨が折れたり罅が入ったりした。

 それも、若雷神の化身で回復し、なんでもないかのように立ち上がる。

「ほうほう。受け止めるか。さすが。半年ほどとはいえ、戦い慣れておる」

 法道は、護堂と同じ大地に立つ。

「ふぉふぉ、主の怒りを感じるぞ。それほどまでに、あの蛇巫を気に入っておったか」

「…………」

 護堂は何も言わない。

 敵は明らかに挑発している。努めて冷静に、敵を分析するのだ。

 『負けないで』

 と、晶に言われた。

 『カンピオーネとしての意地を通せ』

 と、祐理に言われた。

 彼女たちにそこまで言わせて、負けるわけにはいかない。

 護堂を冷静にさせているのは、偏に彼女たちとの約束があるからだ。

 両者のにらみ合いは、長くは続かなかった。

 音もなく、法道が姿を消す。

 護堂は、前方に跳んだ。

 ブオン、と何かが宙を切る。

「避けるか。恐ろしいまでに冴えておるの」

 法道の声が、ブレて聞こえる。

 注意を払わず、護堂は楯で右肩を守った。

 激しく火花が散る。

 見えないのは、姿を消しているからではない。

「神速……ッ」

 目に見えないほどの高速移動を行う権能。

 多くの武神が持つものだが、法道も持っていたか。

「何も可笑しなことはあるまい。仙人なんぞ、そんなものじゃろう?」

 面白そうに笑って、また消える。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり!」

 ガブリエルの聖句を唱える。

 直感を最大にまで強化し、相手の動きに先んじて動くことで、神速に対応するのだ。

 危機を察知し、呪力を読み取る。

 慣れというのはすばらしいものがある。四月の頃には、呪力を読むことまでできなかったのが、今では勘任せではなく、しっかりと読み取った上で回避できている。

 もっとも、そのことに酔っている余裕は欠片もない。

 できる限り動きを最小限にして、次に繋がる動きをする。無駄を省くことで効率よく神速に対処するのだ。もはや、護堂のそれは心眼に近い。

 ここまで読めれば、後は、その進路上に剣を置くだけ。

 逆手に持った短剣を、法道の進路上に置く。振るうようなことはしない。相手が突っ込んできてくれるからだ。

「危ないのう。危ない危ない」

 切先は、僅かに法道を捉えることがなかった。

 ギリギリでかわされた。

「杖で殴りかかってくる陰陽師か。なんか、違うんじゃないか」

「ふぉふぉ。主ら魔王には、並大抵の呪術は効かんからの。まあ、そう言わんと、付きおうてくれや」

 笑いながら、法道は杖で地面をトン、と叩く。

 その行動の意味を考えることなく、護堂は横に伏せるように跳ぶ。

 背後の地面が盛り上がり、槍となって護堂がいた空間を貫いたのだ。

 避けると同時に、剣を投擲。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

 四縦五横に指を走らせ、法道は呪力を漲らせる。

 空中に描かれた格子模様が光を放ち、護堂の剣を受け止めた。

 道教由来の護身法。

 特に、格子模様を描くのは『ドーマン』と呼称される九字切りの代表格だ。

『穿て』

 剣を防いだ法道に、言霊を飛ばす。

 空間が歪み、法道の身体を巻き込んでいく。

「ぬ」

 法道の杖が両刃の剣に変化する。

 その剣を右手に持ち、呪文を口にしながら左手の指を流れるように動かす。

「去ね」

 剣から強い光が溢れ出て、空間の歪みが雲散霧消する。

「末望足ではないがな」

 笑いながら、法道が言う。

 何かしらの護身法だ。

 護堂の干渉から身を守る術を使ったのだろう。

「雨がなければ、得意の神速も使えまい。そして――――」

 法道が印を結ぶ。

 直後、護堂の足元が割れた。

 大きな顎。

 足場を奪われて、護堂は自由落下する。

「なん……ッ!?」

「火雷大神の権能、蛇巫めがよう知っておったわ。主のことをわしに教えてしもうたことを知ったら、アヤツはどのような顔をするかのう。くふふ、死なせずに飼っておくべきじゃったかの」

 晶のことを、侮辱している。

「てめえッ」

「そら、隙ありじゃ」

 法道が頭上に手を翳すと、そこに一本の枯れ木が現れた。

 太く、硬そうな松の幹。ただ、その形状は異様なまでに捻じ曲がっている。先端は鋭く尖り、巨大な杭を思わせた。

 法道が護堂に手を向ける。

 その手の動きに従って、松は護堂に向かって急降下する。

 法道の投げ松伝説の具現。

 鉄杭の如き巨木は、着弾と同時に周囲一帯を消し飛ばすほどの激しい閃光を生み出した。

 割れた大地は崩れ落ち、瓦礫の山が穴を塞ぐ。

 その様子を法道は、笑みを深くして眺めていた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護堂と法道が厚木海軍基地で激突したという報せを受けて、明治神宮には弛緩した空気が流れた。

 東京に敵が攻め入ってくれば、自分たちが危険に晒される可能性は否応なく高まる。

 命を賭する覚悟はあるが、極力命を危険に晒したくはない。

 そういう矛盾している身勝手な気持ちを抱くのも、人間として当たり前のことである。

 それを責めることは誰にもできない。

 ただ、自分は関係なくなったという空気は、護堂や晶のことを思うと腹立たしいものであり、恵那や祐理や明日香は、内心で不快感を覚えていた。

「一発気付けしたほうがいいかな?」

 恵那は祐理と明日香に冗談めかして言う。

「まあ、恵那さんが仰れば、大抵の人は従うでしょうけど」

 恵那は血筋も実力も最高クラス。この場に集まる術者の中で、恵那を越える者はいない。剣術や呪術の分野で上回れる者がそれぞれ二、三人といったところである。

「師範たちも、眉を顰めてるし、恵那たちが言わなくてもいつか爆発すると思うけどね」

 日本刀を佩いた初老の男性を眺めて、恵那が声を潜める。

「あの人、そんなに強い?」

 明日香が、恵那に尋ねると恵那は頷いて、

「剣術は恵那よりも上だよ。帝都古流の師範なんだ」

「帝都古流?」

「恵那たち媛巫女とかが修める剣術流派だよ。呪術戦を想定してるから、一般的な剣術と大分違うけどね」

 へえ、と言いながら、明日香は祐理に視線を向けた。

「あの、わたしは剣術はさっぱりで……」

「媛巫女といっても、相性があるしね。修行のカリキュラムが違うんだよ」

 恵那は霊視よりも武術が得意で、神降ろしに必要な修行の他に武術を学び、祐理は霊視をとにかく伸ばす修行に従事した。

 その結果が、それぞれの分野で頂点を極めつつある二人の媛巫女を生み出したのである。

「ま、神降ろしさえ使えば、恵那に勝てるのは王さまかアッキーくらいのものだよ」

 恵那は言ってから顔を曇らせた。

 晶は、彼女にとっての最大のライバルであった。

 同世代の少女と技を競えた経験がない恵那にとって、唯一無二の切磋琢磨できる相手だった。

 祐理と明日香も、恵那の気持ちを思って表情を曇らせる。

 直後、恵那と祐理は表情を一変させる。

 焦ったような顔つきで外に意識を向ける。

 恵那は常人離れした聴覚と呪力の流れから、そして祐理は最高峰の霊視能力から、敵の襲来を悟った。

「囲まれてるね」

「はい」

 恵那の言葉に、祐理が頷き、明日香が動転する。

「囲まれてるって、護堂は!?」

 法道の相手は護堂がしているのではなかったか。

 敵の軍勢が押し寄せてきたということは、まさか護堂が敗れたのであろうか?

「いえ、草薙さんはそう易々と倒されるお方ではありません」

 祐理は落ち着いた様子を見せる。

 幾度も修羅場を潜り抜けてきたからか、冷静になるのも早かった。

「今、この近辺にいるのは法道様の式神と、牛頭天王様ですね。法道様の力は感じません」

 目を瞑り、意識を研ぎ澄ませて敵の力を感知する。

 明治神宮の結界と繋がることで、相手の様子を窺うことができるのだ。

 精神感応の一種である。

「なるほど、法道自身は王さまと戦っていて、従属神と式神を別行動させたってこと」

「そのようです。隠形術で隠れていらしたようで、気付くのが遅くなりました」

「いやいや、それでも気付いたんだからすごいと思うよ。……やっぱり、神様クラスは東京の結界じゃ防げないか」

 最後に、恵那は呟いて外に出た。

 式神たちの実力は、正史編纂委員会の呪術師たちでも辛うじて立ち向かえるレベル。しかし、牛頭天王ともなるとそうはいかない。

 神降ろしをした恵那が、防戦に徹して勝ち目がないというレベルだ。

 神獣を上回る従属神。以前戦ったときよりも遥かに強大になっていることは間違いない。

「じゃあ、行くか」

 それでも、恵那は臆せず社の外に出た。

 明治神宮の結界を囲むように、黒い式神が密集している。数は、百ほどか。社を守るように、呪術師たちも出てくる。

 恵那たちの気配を感じ取ったのだろう。木々の奥、代々木公園の外で、牛頭天王が高らかに笑った。

「ハッ。何かと思えば矮小な人間どもか。よもや、この俺に抵抗するつもりか?」

 聞くだけで、強い圧迫感を感じる。これは、言霊である。神の言葉はそれだけで、人間の精神を狂わせる。呪術師といえども、耐えるのは並大抵のことではない。

「よかろう。ならば、無様に死ぬがよい」

 轟、と風が吹き、明治神宮の結界が砕けた。

 いともあっさりと、内部への侵入を許す。しかし、その直後、地脈が脈打ち、再び結界を形作る。

「ほう。壊しても戻るのか。面妖な。やはり、ここを制圧せねばならんか」

 式神は公園の内と外で分断された。さらに、公園内に仕掛けられたトラップが作動し、式神たちを駆逐していく。

 地の利を最大限に利用し、迎え討つ。人が知恵を絞って作り上げた防御陣である。

 法道は、カンピオーネの相手をするために、こちらに意識を向ける余裕がないのではないか。

 神獣が式神の中に紛れていないのは、距離もあるだろうが力を割くことができなかったからか。

 それでも、牛頭天王がいる時点で人間側は詰んでいる。

「オオオオオオオオオオオオオッ!」

 小癪な人間の浅知恵を、黒き風の暴威が蹴散らしていく。

 人に、台風を御す術などない。

 同じく、神に逆らうことなど、できはしないのだ。

 木々が根から抜け、宙を舞う。呪術師たちは悲鳴を上げつつ、防御の術を使い風を避け、式神に相対する。

「法道も面倒なことを言う。地脈の確保など、《鋼》たる俺の役割ではあるまいに!」

 法道にとって、地脈は重要なのだ。

 呪術の神である彼は、地脈という膨大な呪力を扱うことで実力を上昇させる。

 もちろん、地脈は法道のみならず、多くの神々が利用する自然のエネルギーであるが、日本はその力が制限されてしまう。

 人工的に地脈が整備されているおかげで、法道にとっては非常に『気持ち悪い』状態となっているのである。

 自然のままの地脈のほうが、彼にとってはうまく術を使える環境となる。

 それがなくても問題はないが、気になるものは早急に処理しておきたい。

 牛頭天王を寄越したのは、結界の強度や自分がカンピオーネとの戦いでこちらに意識を向ける余裕がないということもあるが、カンピオーネへの牽制に使えると考えたことが大きい。

 護堂は、仲間を強く意識するカンピオーネだ。仲間の下に牛頭天王が向かったと知れば、心穏やかにはいかないだろう。

 そういった策略の下で、牛頭天王は明治神宮に襲い掛かっているわけだが、本人からすれば甚だ不本意であった。

 なんといっても彼は《鋼》の一柱である。

 従属神であるが、それでも神なのだから、矮小な人間よりもカンピオーネと戦うのがいいに決まっている。

 人間を殺すことなど、流れ作業のようなものだ。

 今、法道の式神に辛くも勝利した一人の呪術師に向かって剣を振り下ろすのに何の感慨も湧かない。

 突如、颶風が舞い上がり、牛頭天王の剣を弾いた。

「むぅ!?」

 踏鞴を踏みそうになる身体を制御して、不可解な現象の原因を視界に収める。

「なるほど、スサノオの巫女か」

 清秋院恵那。

 法道が道満だった頃、とりわけ注意を払っていた女であった。

 天叢雲剣を通して、スサノオとコンタクトを取る彼女に接触することは、こちらの情報をスサノオに伝えることに繋がるからである。

 それは、何としても避けなければならなかった。

 だが、もはや彼女を恐れることなどない。

 直接戦えば、牛頭天王に軍配が上がることは証明済み。

 故に、

「貴様の出番は、すでに終わっている」

 天叢雲剣を振り下ろす。それだけで、少女の身体は二つに裂けて死ぬ。

 舞い上がるのは赤き灼熱。吹き上がるのは神秘の風だ。

 天叢雲剣に天叢雲剣が激突し、その衝撃で神風が吹き渡る。

 轟音と共に恵那が吹き飛ばされるも、くるりと回って姿勢を整え着地する。

「恵那が、そう簡単に負けると思わないでね」

 そう言いながら、恵那は太刀を構えて突進する。

 その速度は、これまでの恵那を上回っている。

 二メートルはあろうかという巨漢の牛頭天王に、小柄な少女が勝負を挑む。

 もともとの霊格が違いすぎる上、膂力も見るからに違う。恵那の不利は、誰の目から見ても明らかだ。

 それにも関わらず、恵那の斬り上げを防いだ牛頭天王は、大きく姿勢を崩した。

「何ィ」

 風が吹く。

「いやァ!」

 斬撃の嵐。

 剣と剣が触れ合うたびに、信じられないほど強烈な神気が溢れ出す。

 ただの神降ろしでここまでの力は出せない。

 何かしらのインチキをしているのは間違いない。

 風と風。

 牛頭天王とスサノオ。

 同じ神気が、激突し、激しく火花を散らす。

「そうか。貴様、スサノオ! 幽界で隠居していたくせに、今さらしゃしゃり出てくるか!」

 牛頭天王は、忌々しげに叫ぶ。

 スサノオは、千年前に法道を封じた事件の主犯格である。安倍晴明も、彼の助けがなければ、法道を退けることができなかっただろう。

 何より、自分と同質の力を持っているというだけで、不快である。

 同族嫌悪というものであろう。

「ありゃりゃ、おじいちゃま。ばれちゃったねえ」

『ハッ。気にすんな。あの牛頭(うしあたま)に負けねえよう、気張ってりゃいい』

 天叢雲剣を介して、スサノオの声が聞こえてくる。

 恵那は神降ろしを使っている。それによって得られる力は、身体能力の向上にのみ振り分け、剣術は天叢雲剣に、風の制御はスサノオに分担してもらっているのだ。

 スサノオは、隠居した神だ。

 どうあっても、現世に降臨することはできない。無理をして『まつろわぬ神』に戻ってしまったら、混迷の度合いが増すばかりである。

 だが、今回の一件を今までのように傍観することもしなかった。

 これは、千年前のツケが回ってきたのだ。

 スサノオたちが、後世に残した問題なのである。

 だからこそ、今まで以上に彼は積極的に関わっている。

 恵那にかかる負担を考慮して、天叢雲剣が敵に触れる瞬間だけ、天叢雲剣を通して神気を送り込む。こうすることで、恵那に負担をかけることなく、現世で権能を振るっているのである。

 恵那は、天叢雲剣とスサノオが権能を振るうための触媒となっているに過ぎない。

 目にも止まらぬ連撃。

 剣戟の音は、一つしか聞こえない。しかし、その間に幾十合もの刃が交わされている。

 力で攻める牛頭天王に対して、恵那は技で凌ぐ。

 互いに、風の権能の効きが悪い。

 力が似通っているためだろう。

 高速の打ち合い。加速度を増していき、視認すらも困難な領域に突入していった。

 

 

 同時刻、明治神宮周辺は、呪術師たちと式神たちが激闘を繰り広げていた。

 優勢なのは呪術師側である。

 式神の実力は彼らからしても非常に高い。しかし、結界が張り直されたタイミングが非常によく、戦力を分断することができたことで、いくらか余裕が生まれていた。

 数は呪術師側が四倍以上である。

 如何に相手の力が強くても、一体の式神に四人で攻撃できる状況である。また、初期にトラップで痛めつけていたことも、優位に戦いを進める要因となった。

「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン・ウンタラタ・カンマン」

 前線で剣を振るう呪術師たちの後方で、明日香は一心に火界呪を唱える。

 蘆屋道満の呪術知識を与えられた彼女の力は、それだけで上位層に食い込むものである。

 破魔の炎は、式神たちに次々と襲い掛かる。

 いったい、アイツは誰だと不審がっていた他の呪術師たちも、明日香の火界呪の見事さに驚き、負けじと多種多様な呪術で迎撃を試みる。

 炎だけではない。

 水や光が飛び交う戦場は、もはや言葉にならない悲鳴と怒号が飛び交う地獄である。

 正直、足が震える。

 明日香が体験する戦いは、これが二度目。積み重ねのない彼女が、生来の負けん気と晶への罪悪感と己の良心だけでこの場に立っているのだから、精神にかかる負担は非常に大きなものとなっている。

 恐怖を忘れるように、ただ黙々と火界呪の詠唱に集中する。

 

 そんな外の戦況を、怯えながらも気丈に見守っているのは媛巫女たち。

 彼女たちに与えられた任務は、地脈の安定化である。

 明治神宮の社の中で、媛巫女たちは奉職を続けている。もしも、外の呪術師たちが敗れることがあったら、そのときは彼女たちは為す術なく殺されてしまうだろう。

「あの、万里谷様。外は大丈夫でしょうか?」

 不安げに、尋ねてきた少女は、祐理よりも年下であった。中学三年生の彼女は、その実力と精神性を評価され、この戦いに身を投じたのである。

 媛巫女の集団から、離れたところにいて、外の様子を窺っていた祐理の下までおずおずと進み出たのは、それを聞きたかったからであろう。

 いざというときの覚悟はできているつもりである。しかし、不安なものは不安なのだ。

 そんな彼女に、祐理は穏やかな笑みを返す。

「大丈夫ですよ。あの方たちは絶対に負けません。外で命を懸けていらっしゃる方たちの努力を無駄にせぬよう、わたしたちは職務に忠実でなければなりません」

 すぐそこで、命のやり取りがあることなど関係ないとばかりの落ち着いた祐理に、尋ねた彼女だけでなくその場の大半の媛巫女たちの不安が和らいだ。

 媛巫女たちが、一箇所に纏まっているのは、不安の表れでもある。祐理が扉の前まで来て外を伺っていたのは、そんな彼女たちを慮ってのことだった。

 それもまた、大きな勇気の現れである。

「あれが、魔王様と一緒に戦われた万里谷様なのですね」

「なんて心強いのでしょうか」

「ところで、草薙様とはどこまでいかれたのでしょうか」

「誰か、お尋ねしてみては?」

「……美しい」

 なにやら不穏な会話が後ろでされているが、祐理には聞こえなかったらしい。特に、そちらに意識を割くこともなかった。

 それは、目の前に迫る危機に対して、意識を向けざるを得なかったからであるが。

「伏せてください!」

 祐理が、隣にいた媛巫女を押し倒す。

 同時に、扉が砕かれ中に一体の式神が入り込んできたのだ。

 数は一体。

 大きさは二メートルほどの鬼。

 呪術師たちの防衛線を潜り抜け、さらに護衛たちを突破した最後の一体と言ったところか。

 この部屋には、逃げ場がない。踏み込まれれば、そこまでだ。

「きゃああああッ」

 荒事に慣れていない媛巫女たちは、悲鳴を上げて奥に下がる。

「あなたも奥へ!」

 押し倒した後輩を、祐理は庇うように立ち上がり、奥へ逃がす。

「ま、万里谷さん!」

「大丈夫ですから、下がって!」

 敢然とした様子で、祐理は式神の前に立ちはだかる。

 法道を許しはしない。法道から逃げたりもしない。護堂にそう言った彼女は、式神を前にして一歩も退かずに対峙する。

「ここは、神をお祀りする神聖な場所。あなたが足を踏み入れるべき場所ではありません。疾く、お下がりください」

 式神に言葉が通じるものか分からない。

 けれど、祐理は冷厳な眼差しで鬼を見つめ、言葉に力を込めて語りかけた。

 自分を前にして泣き叫ぶこともなく、逃げる様子も見せない巫女に、鬼は図らずも気圧された。鬼は、それが信じられないとばかりに呻き、そして、丸太のような拳を振り上げた。

 媛巫女たちは悲鳴を上げ、目を覆った。

 目前に迫る死に対して、祐理は尚も冷静だった。

「御巫の八神よ。和合の鎮めに応えて、静謐を顕し給え……」

 静かに、はっきりとした口調で言葉を紡ぐ。

 真っ白な光が、室内を満たした。

 その光に包まれた鬼が、膝を床に突く。戦う気力を失ったかのような鬼は、安らいだ表情を浮かべて身体を崩していく。

 『御霊鎮めの法』という、最高位の媛巫女にしか使えない霊力である。

 神の権能ですら、一時的に鎮めてしまうほどの力となる。

 祐理の霊能が、この半年の間に成長し、到達した『極み』なのだ。

「ご無事ですか!?」

 侵入した式神を追ってきたのだろう。

 呪術師の一団が、駆け込んできた。

「はい。わたしたちに怪我はありません」

 祐理が、頷く。

「ですから、こちらのことはあまり気になさらないでください。いざとなれば、わたしがあの方たちを守り通してみせますから」

 法道の式神を前にして堂々と渡りあった祐理は、軽く息を整えながらも宣言した。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 恵那と牛頭天王の戦いは、徐々に恵那が追い詰められる形に推移していた。

 なんと言っても神と人。

 そもそも、戦いになること自体がおかしいのである。

 それが、曲がりなりにも戦いになっていたのは、恵那がスサノオと天叢雲剣から守られていたからである。

 神に匹敵する呪力を振り撒いて、恵那は牛頭天王に食い下がる。

 負担は普段の神降ろしよりも少し大きい程度で済んでいる。スサノオが、天叢雲剣を介しているだけで恵那とは関わりがない方法で風を操っているからである。

 牛頭天王は有り余る神気で僅かな傷も治癒し、恵那を圧倒する。

 すでに額から血が流れ出て視界が悪い。

 凌いでいるのは、身体の動きを天叢雲剣に任せているおかげだ。

「ぐ、う……」

 恵那は歯を食いしばる。

 身体から呪力が抜け落ちていくのが感じられる。

 神降ろしを維持できなくなりつつあるのだ。

『おい、恵那。もうチッとがんばれねえか!』

「ちょっと、厳しいけど。がんばる!」

 叫び、力を振り絞る。

 恵那は身体に風を纏って牛頭天王に斬りかかった。

 その体当たりのような斬撃は、恵那が生み出すことのできる最大級のエネルギーが込められていた。

「おお、ぬお!?」

 恵那の一太刀を受け止めきれず、牛頭天王が踏鞴を踏み、

「ええいや!」

 すれ違い様の一刀が、牛頭天王の脇腹を抉った。

 恵那は、そのまま地面に倒れ込む。

 一気に、神力が抜けていく。

 無理が祟って、身体が動かない。森の中、式神と牛頭天王に囲まれた状態で、救援はなし。

 窮地に陥ったといえるだろう。

「おのれ。小癪な人間風情が俺を……」

 神として、それは許し難い蛮行である。 

 黄金の剣に呪力を注ぎ、荒ぶる神の裁きを恵那にくれてやろう。

「やれるもんなら、やってみなよ。恵那は、絶対に負けない」

 動けない身ながら、恵那は牛頭天王をにらみ返した。それが、ますます牛頭天王を苛立たせた。

「ぬかせ、人間」

 憤りのままに、神剣を振り下ろす。

 激しく地面を揺らす一撃は、神風と共に恵那の身体を吹き飛ばした、と思われた。

「……まさか、飛び込んでくるか」

 牛頭天王の視線の先、今穿った大穴を避けるようにして、少年が膝を突いていた。恵那を地面に横たえ、その様子を確認するようにしている。

 この少年が、どこからともなく現れて恵那を拾い上げ、牛頭天王の攻撃の範囲外まで連れ出したのだ。

「まったく、神様相手に正気じゃないよ」

「びっくりした。君が来るんだ」

 恵那が目を丸くして驚いている。

 恵那を助けたのは、陸鷹化。中国のカンピオーネ、羅濠教主の直弟子で、日本で一族のビジネスを広げようと画策している少年である。

「仕方ないだろう。そっちの王様に頼まれちゃ断れないよ。陸家(うち)は日本でもビジネスしているしね」

 不機嫌そうにしているのは、生来の女性嫌いの表れか。

「それに、来てるのは僕だけじゃない」

 ニヒルな微笑み。

「え……?」

 恵那が疑問を口にするその前に、牡丹の花が舞う。

 暴力渦巻く戦場に、華やかな色が咲き乱れる。

「草薙王の巫女よ。神との戦い、なかなかに見事でした」

 鈴のような声。

 仙女を思わせる、服装。

 その美しさを前にしては月も花も恥じらい、顔を隠すことだろう。

「ですが、神の相手はわたくしたち王が務めるべきです。いくら、神気を降ろす巫女とはいえ、僭越が過ぎるというものでしょう。鷹化と共に下がりなさい」

 反論を許さぬ言葉の中に、労わりの色を滲ませ、彼女は言う。

 膂力無双にして、不撓不屈。 

 二世紀の長きに渡り、武の頂点に君臨し続ける覇道を極めし中華の王。

「今こそ、いつぞやの借りを返すとき。牛頭天王とやら、この羅濠があなたの相手となりましょう」

 静かに、それでいて猛烈な闘気を発して、羅濠教主は拳を握りしめた。

 



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八十八話

「貴様はッ」

 花吹雪の中から現れたのは、花の精かと見紛うばかりの麗しき女性。

 しかし、牛頭天王は全身の毛が逆立つようなプレッシャーを彼女から感じている。

 見た目は細身の女。だが、迂闊に掴み掛かれば即座に首を落とされる。軍神としての勘が、そう告げている。

「牛頭天王と言いましたか。我が姓は羅、名は翠蓮、字は濠。中華の覇王にして、倭国王・草薙護堂の義姉。此度は、かつての恩を返すため、義弟の敵を討つべく出陣しました」

 耳に心地よい涼やかな声は、怒号飛び交う戦場に於いてもはっきりと相手の耳に届いた。

「ハッ」

 牛頭天王は、羅濠教主の名乗りを受けて歓喜した。

 《鋼》の軍神が、人間相手に武を振るうなど笑止千万。法道が主でなければ決して従わない命令である。当然、それは、承服し難い命令であり、牛頭天王は鬱屈した不満を抱えていた。

 だが、相手が神殺しの魔王だというのなら、文句ない。

「ハハハハハハハハッ! そうか、やはり貴様は唐の魔王! 斉天大聖と渡り合い、その従僕を圧倒した武技の持ち主! 俺の相手に相応しいわ!」

 百年前、降臨したクシナダヒメを斉天大聖が討伐した際の戦いを、牛頭天王は知っている。

 中華最大級の英雄神と互角に戦う魔王に興味を引かれ、しかし顕現すらできぬ身であったために戦うことができなかった。

 今秋、再び斉天大聖と相見えた羅濠教主は、百年前よりもさらに冴えた技で魅せてくれた。

 魔王と戦うのは《鋼》の宿命。

 だが、どうせなら技を競うことができる相手であるのが望ましい。

 羅濠教主は、牛頭天王の敵手として最高の相手だったのだ。

「なるほど。あなたは、わたくしの武を何処かで見ていたわけですね。……その上でわたくしと勝負しようとは」

「強敵と戦い、討ち果たすことこそ《鋼》の喜び。貴様を前にして退くことはありえぬ!」

「いいでしょう。囲魏救趙は軍略の基礎ではありますが、武神の所業にはあらず。そのような策に踊らされる者はどれほどの神かと思っていましたが、それなりに骨はあるようです。どこからでも、掛かってきなさい。あなたの未来は、この羅濠の武威に屈することのみ」

「大言壮語は高くつくぞ、神殺し!」

 歓喜を露にし、牛頭天王は神剣の柄を握る拳に力を込める。

 羅濠教主は、敵の戦意が膨れ上がるのを感じながら、呼吸を僅かも乱すことなく全身の力を抜いた。

 激突を目前に、計らずして対照的な行動をする。互いに、武に於いては頂点に君臨すると言っても過言ではない魔王と武神は、一呼吸の後に同時に動き出した。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 草薙護堂は強敵だ。

 法道は、それをよく理解している。

 逆境に打ち勝つ力や、敵を出し抜く周到さは法道にとっても大きな壁となって立ちはだかっていた。

 また、豊富な権能を使い分けることで強力な敵を打ち破ってきた実績は、護堂に戦闘経験と自信を培わせることとなり、法道が『まつろわぬ神』になった頃には、十二分に成熟した戦士になっている可能性が高かった。

 そのため、法道は、この半年の間、敵となることが確定しているこの神殺しの情報を集めることに多くの時間を費やしてきた。

 それは、『まつろわぬ神』ではなかったからこそできたことでもある。

 『まつろわぬ神』は良くも悪くも奔放だ。

 自分の性に忠実に生きるということは、それ以外が疎かになるということでもある。

 用心に用心を重ねるのは、自分がまだ弱い神霊以下の存在だったからこそであり、『まつろわぬ神』になってしまえば、敵を恐れる心を失うために、護堂の情報をじっくりと精査しようとは思わなかっただろう。

 だが、情報を得た状態で『まつろわぬ神』となった法道は、護堂の権能の特性を理解していた。

 最大の情報源は、やはり晶の存在。

 捕らえた彼女の脳から、無理矢理護堂の情報を引き出していたのだ。

 そのおかげで、護堂を瓦礫の山に埋めることができた。

 護堂が持つ神速は二種類。

 『水分量が多い環境でしか使えない伏雷神の化身』と『地に足が付いていないと使えない土雷神の化身』である。

 牛頭天王が東京に行ったことで雨が上がり、大気中の水分量は伏雷神の化身を使えるほどには達しておらず、足場を失ったことで土雷神の化身も使えなかった。

 結果、護堂は神速での回避ができず、他の権能を使う余裕がないままに法道の強大な一撃を受けて瓦礫に沈んだのである。

 ここまでは、法道が描いた絵図の通りに事が運んだ。

 だが、そう易々とはいくまい。

 これで片付けば御の字。

 しかし、相手は神を殺した魔王である。

 この程度で死んだとは思わないほうが無難であろう。

 

 現に、

「おおっと」

 法道が神速で飛び退くと、そこに、空から無数の剣が落ちてきて地面を穿った。

「ハッ。しぶといの!」

「たりめえだ。てめえは、必ず殺す」

 冷厳な眼で護堂は法道を睨みつける。

 護堂の身体はボロボロだ。

 服は真っ赤に染まっていて、足を引きずるように歩いている。右手もだらりと垂れ下がっていて、まともに動かせそうにない。

 穴の中で、法道の強大な一撃が炸裂したのが原因だ。

 逃げ場のない力が、四方八方から護堂の身体を引き裂きにかかった。

 物理攻撃でもある投げ松は、呪術への抵抗力だけでは如何ともしがたく、咄嗟に生み出した楯で防ぎきれるほど弱い攻撃でもなかった。

 それでも、護堂は立ち上がった。

 何をしてでも法道を倒す。

 そのために、ここにやってきたのだから。

 ギラギラと光る護堂の目は、まさに豹。法道の隙を探し、首下に食らいつくために目を光らせている。

 パキパキと音がする。

 護堂の腕や足が、再生している音だ。痛みは、もう感じない。極限まで高められた緊張は、護堂から痛みという概念を消し去っていた。

 晶の苦しみを思えば、このくらいの怪我はなんというものでもない。

「再生能力は、厄介じゃ。やはり、頭を潰すしかないか」

 法道の姿が消える。

 神速は、護堂の目には映らない。

 けれど、感じることはできる。

 剣と槍を生み出し、法道の気配に合わせて槍を投じる。

 鋭く尖った切先は、確かな手応えと共に敵を貫いた――――と思った。

 直後、乾いた破砕音が聞こえた。

 それは、何かしらの陶器が割れた音だった。

「ッ!」

 護堂は剣で頭をガード。そのガードの上から強かに打ち据えられて、吹っ飛ばされた。

「ぐ、う」

 歯を食いしばって耐える。 

 膝を突くだけで、次への行動は遅れてしまう。

 神速を相手にするには、どのようにも動ける状態であることが大切だ。

「空鉢か」

 護堂は不可解な現象の正体を理解した。

 地面に転がるのは、陶器の欠片。法道が用意した武器である。

 法道は別名を空鉢仙人と呼ばれ、鉢を飛ばした奇跡で知られている。

 今回は、それを身代わりに使ったのだ。

 だが、種さえ知れれば――――

 護堂は、再びガブリエルの直感を最大限に高める。

 呪力の流れをしっかりと掴み、世界を俯瞰するような錯覚を得るほどに、自分を含めてあらゆるものを客観視する。

 近くにある物よりも遠くにある物のほうが、動きを目で追いやすい。

 それを、感覚で体現するかのように、世界を客観視する護堂は法道と空鉢の動きをしっかりと視て取った。

 護堂は身体を前に倒し、その上で半身になる。

 左右から攻めかかってくる空鉢と、背後から襲い掛かってくる法道の攻撃をそれだけで回避する。

「ちょこまかと厄介じゃの」

「ちょこまかしてんのは、オマエだ!」

 剣を振るって空鉢を砕く。

 砕けた空鉢の欠片が、蛇に変わる。

『散れ』

 護堂は狙い済ましたように、この蛇に言霊を浴びせる。

 鮮血を撒き散らして弾き飛ばされた蛇は、煙を吐いて大気に溶けた。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 一目連の聖句を唱え、剣を降らせる。

 法道は、素早くその中を駆け抜ける。

 攻撃が当たらない。

「ナウマク・サマンダボダナン・インダラヤ・ソワカ」

 刃の中で、法道は帝釈天の真言を唱えた。

 迸る閃光が、護堂に襲い掛かる。

「ぐ、あああああッ」

 雷撃の直撃を受けて、護堂は意識が飛びそうになる。呪力を高めてこれに抵抗し、懐に飛び込んできた法道の腹を蹴る。

 目を瞑っていても、相手の動きを視ることができるのだ。電撃は、目庫ましにもならない。

「足癖が悪い」

 ひょい、と避けた法道に、護堂は追い討ちをかけるように鳴雷神の化身を叩き付ける。

 雷鳴が法道の身体を叩き、跳ね飛ばす。

「むぬうッ」

 呻き声は、直撃の証。

 地面を粉砕した雷鳴攻撃は、法道の身体を砕くには至らないものの、初めてダメージを与えることに繋がった。

「往生際が悪いの、神殺し」

「往生すんのは、俺じゃなくてそっちだからな」

 盛り上がってきた地面を、槍で叩いて砕く。

 呪術そのものは、護堂に対して決定打にはならない。炎も雷も風も、権能で防がずとも根性で何とかなってしまうからだ。

 法道が護堂を倒すには、前にやったように刃を創り出すか、地面を操るか、それとも神速の殴り合いをするか、それくらいしかないのが現状だ。強大な呪術で、抵抗力ごと護堂を粉砕する手もあるが、一芸に突出した神々と異なり、幅広い戦術が使える代わりに攻撃力は全体として低いという問題もある。少なくとも、ランスロットのように周囲一帯を丸ごと消し飛ばす攻撃を連発できるわけではないのである。一方、護堂の条件もほぼ同じ。ただし、護堂は一目連の権能があるなど、もともとの戦い方が法道を打倒する条件を満たしている上に、強力な攻撃も可能という点で法道に対して有利になっている。

 だが、それはあくまでも戦略的な視点。それをどのように運用するかで、戦果は大きく変わる。

 よりミクロな視点に立てば、護堂を圧倒しているのは法道である。

 神速と小技を駆使して護堂を撹乱し、その中に大技を混ぜ込むことで対応を遅らせ、少しずつダメージを蓄積させている。

 若雷神の化身で回復しているが、その回復が追いつかないくらいにダメージの蓄積がある。

 こちらの攻撃が読まれているようだ。

 確信を持つのに、そう時間はかからなかった。

 なんといっても、攻撃がここまで当たらないことは今までになかった。

 法道は、護堂と同じく相手の動きよりも一歩速く動き出している。それが、神速だから無数の剣群を放っても当たらないのである。

 護堂の反応も、かなりギリギリになっている。

 相手の攻撃に対して、遅れている実感がある。

「止まっていては的じゃぞ、神殺しよ」

 法道は嘲るように言う。

 速度に勝る法道が、護堂と睨み合うことはない。

 一方的に、攻め立てるだけである。

「この野郎ッ」

 護堂は呪力を迸らせて、全方位に槍を放った。

 法道の動きを先読みすることはもちろん、関わりのない方向にも放つ。彼の進路を槍で塞ぎ、串刺しにする。そのために、ウニのように全方位に棘を突き出したのだ。

 それを、法道は猿のような身軽さで飛び越えて、護堂の懐に入り込んだ。

 そして、振るわれた杖が護堂の腹を強かに打ち据える。

「ガッ!」

 血を吐き、護堂は吹き飛ばされた。

 さながら、バットで打たれた野球ボールのように放物線を描いて護堂は飛んだ。地面に叩き付けられる直前、土雷神の化身を使って雷化し、身体が地面に触れた直後に姿を消す。

 地面に激突したときの衝撃は、これでゼロになる。

 地上に出現した護堂は、思わず膝を突く。

「ゲホ、ガハッ」

 そして、激しく吐血する。

 内臓がやられた。どの臓器がどれくらい損傷しているか分からないが、呼吸が苦しく息をするたびにあらゆる箇所が熱を帯びる。

「ホホホ。どうした、神殺し。主、それでわしに勝てるかね」

 法道は印を結び、炎を呼び出して護堂に叩き付ける。

 灼熱の炎は、護堂の抵抗力で大幅に威力を殺がれながらも確実に護堂の身体を蝕んでいく。

『弾け』

 身体に纏わりつく炎を、言霊で消し飛ばす。

「それッ」

 法道が護堂に杖の先端を向けると、二つの空鉢が護堂に向かって飛んでいく。

 空の鉢だが、威力は凄まじいはず。

『拉げ』

 まともに受け止めては危険だ。護堂は言霊でこれを迎撃し破壊する。

「言霊の呪か。それもまた原始的な呪術よな」

 法道の姿がまたも消える。

 護堂は槍を振るい、辛うじて頭を守った。

 火花が散り、杖と槍の激突から呪力が放散する。

 法道が次の行動に移る前に、

『起きろ』

 言霊は法道ではなく、地面に向けられる。

 突き出てくるのは槍。

 土雷神の化身で地中を移動したときに仕込んでおいたものである。かつて、アテナを陥れた罠だ。

 それを、法道は当たり前のように避ける。

「だあらああああ!」

 咆哮し、護堂は握った拳を思いっきり振るった。

 そして、それは、今までのように避けられることなく法道の頬に吸い込まれた。

「ゴブッ」 

 鈍い音が響き、法道はアスファルトに投げ出された。

 呪力もなにも介さない、ただの拳。

 『まつろわぬ神』を倒すには脆弱すぎる攻撃だが、

「ふう」

 護堂は、息を吐く。

「ちょっと、すっきりしたぞ法道」

 若雷神の化身が、傷を癒す。

 血に汚れた衣服は、泥に塗れ赤黒い。重傷を負いながらも立ち続け、攻撃を受けながら再生し続けた護堂は、ここにきてやっと再生速度が受傷頻度を上回った。

 呼吸は軽くなり、身体は重荷から解き放たれたようだ。

「貴様……」

「ほどほどに血が抜けてさっぱりした。もともと血の気が多いのかな」

 護堂は槍を法道に突きつける。

「来いよ、法道。きっちり落とし前つけてもらうぞ」

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 吹き荒れる神業の嵐。

 戦いの舞台は代々木公園。

 神と魔王の間に横たわる距離は、実に五メートルほど。

 戦い始めてから今まで、平均してこの距離を維持している。

 この距離は、牛頭天王が持つ天叢雲剣の刃が届かない距離である。

 羅濠教主の衝撃波と、牛頭天王の風が所構わず激突し、余波だけで周囲は惨憺たる光景となっている。園内に侵入した法道の式神は、この時点で大半が薙ぎ払われており、呪術師たちは媛巫女を守ることだけに力を注いでいる。

 観客のいなくなった舞台で、舞うように技を競う。

 羅濠教主はほぼ同時に五連撃。

 五メートルの距離など、彼女にとっては一歩で詰められる程度の距離である。

 牛頭天王も武神である。

 易々と詰め寄られる愚は犯さない。

 破壊不可の神剣は、それだけで最高の楯となり、攻撃に転ずれば万物を斬り裂く猛威を振るう。羅濠教主の五連撃の精度が甘くなるのも、この神剣を警戒してのことである。

「さすがですね」

 羅濠教主は武威を尊ぶ。

 己に比肩する敵は、総じて高く評価する。

 蚩尤を思わせる外観の武神である牛頭天王は、羅濠教主の興味を大いに引いているのも事実。

 幾度か懐に飛び込みはしても、決定打を与えるには至っていない。

 牛頭天王も同じ。

 自身の斬撃は尽く受け流される。人でありながら、神を打ち砕く武技の持ち主である羅濠教主は、牛頭天王をして攻め崩せない。

 目にも止まらぬ激突の後、静まり返る戦場。

 互いに動きを止め、相手の出方を見る。

 空気が痛い。

 おそらく、その場に人がいればそのように感じただろう。

 張り詰めた空気は、自然と世界を圧迫する。

 あらゆる生物は息を潜め、緊張の海に投げ出されるのである。

 気が遠くなるほどの静寂を挟み、両者は同時に動き出す。

 吹き荒ぶ風を味方につけた牛頭天王は、圧縮空気を斬撃に乗せ、大地を踏みしめた羅濠教主は、怪力と衝撃波の権能を拳に込める。

「オオオオオオオオオオオオッ!!」

「ハッ!!」

 その激突に、大気は抗しきれずに炸裂し、大地は歪んで四方にのたうつ。

 命のやり取りでありながらも、それは血生臭い殺し合いではなく、演舞のようであった。

 剛の牛頭天王に対し、柔の羅濠教主。

 両者共に譲らない戦いは、技も力も拮抗する。

 飽くことなく互いに武技を披露しあい、闘志を燃やしてこの戦いに耽溺した。




ウソ予告。

トンネルを抜けるとそこは、二十年後の東京だった。
目の前には亜麻色の髪の少女が二人。
「時間ぴったり。歴史通りだ」
 ボーイッシュな雰囲気の少女は、お姉さんか。
「初めまして、父さん。媛巫女筆頭の草薙祐香です。嫌いな言葉は努力でーす」
「従妹の草薙あかりです」
 小さいほうも自己紹介。
「二十年後の東京をご案内しまーす」
 頭がついてこない中、護堂は街に連れ出される。
 これが、新たな騒動の始まりだった!

「父上、今会いに行きます!」
「あら、従姉(あね)のわたしよりも先に若きお父様に会おうだなんて百年早いわ」
 銀と金の騎士が、イタリアでぶつかり、
「エッチなのはいけないと思います。特にお母さん」
 背に神剣を背負った黒髪の少女は、山奥で母に諫言する
「父さんが二人になったか。やれやれ、どんな事態が起きるのか」
 男装の麗人は、これから起こる騒動を憂いながらも心を弾ませ、
「若かりし頃とはいえ、あなたのお父様。それが二人になったらどうなるか」
「毎度お馴染み世界の危機ですね、母さん!」
 ロンドンではブロンドの少女が母と共に目を輝かせ、
「ちょうど最強の《鋼》を倒した頃の父さんか。興味深い」
 シチリア島では学者風の少女が本を閉じ、日本に思いを馳せた。
「何故だ。何故このようなときに《蠅の王》の蛆虫どもが!」
 日本旅行をキャンセルされたとある少女はロスで悲鳴をあげ、
「今、世界のどこかで父さんが二人になったような気がします」
 秦の都で電波を受信。
「父様二人はこのわたくしがお預かりします。さあ、父様方、一緒に廬山に参りましょう」
 チャイナドレスは圧倒的武威で日本に上陸する。
「やっぱりあたし、入れないな……」
 これらの騒動を、傍目から見ているしかない勝ち気ながら引っ込み思案のツインテール。


「陸静季。東京の王の座は、今度こそ俺が貰う」
 そして、二十年後に現れた魔王は、東京王の座を巡って護堂に喧嘩を吹っかける。
「王とかどうでもいいが娘はやらん」
 


「あれ、一人足りない……」


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八十九話

 牛頭天王と羅濠教主は、所有する権能の性質が似通っている。

 トラック程度は軽々と持ち上げる怪力を持ち、風と衝撃波の違いはあれど目に見えない打撃を行うという権能がある。そして、その二つの権能と近接戦闘の高い技術を融和させることで敵を打ち破るのである。

 戦闘スタイルも能力も似通った者同士の戦いは、純粋に相手よりも優れているほうが勝つ。

 まして、裏をかくような思考が一切存在しない者同士である。

 正面からの一騎打ちは、敗北の言い訳が一切許されない誇りをかけた戦いでもあるのだ。

 自分の武に絶対の自信を持つ羅濠教主は、たとえ相手が武神であろうとも臆することはない。敢然と立ち向かい、堂々とこれを打ち破る。

 今までもそうして来た。そして、これからもそうしていくだろう。

 羅翠蓮は武芸の頂点に君臨する者。

「我が絶技を前にしてここまで打ち合うとは、見事です。牛頭天王とやら」

 ト……、とあまりに気軽な歩みで牛頭天王の懐に入り込む羅濠教主。

 牛頭天王の意識と意識の隙間を突き、一瞬の空白を掌握する。それだけで、完全に無防備な身体を敵はさらすのである。

「しかし、あなたの底は見えました。ここから先、あなたはわたくしに埃一つ付けることは叶いません」

 羅濠教主は牛頭天王の赤い鎧に拳を当て、二本の足でしっかりと大地を掴む。

「ぬ……!」

「ハァッ!」

 密着状態から放たれる絶技――――零勁。

 『大力金剛神功』と『竜吟虎嘯大法』の二つの権能を上乗せして放たれた一撃は、羅濠教主が二世紀に渡って磨き上げた武によって、僅かばかりの無駄もなく牛頭天王の鎧を砕き、その内部にまで衝撃を伝えた。

 ただ怪力の権能を持っているだけでは文字通り力の持ち腐れ。羅濠教主のように、その怪力を存分に振るうだけの技術があって初めて活きる権能である。

「ご、ぬうおおあッ!」

 牛頭天王は、ただの一撃で大きく弾き飛ばされた。

 二メートル近い巨漢の男が、線の細い女性に吹き飛ばされるのだ。事情を知らない者からすれば、目を疑う場面である。

 牛頭天王の巌のような身体は、見た目どおりの硬さである。

 筋肉と骨格が、そもそも人間を遥かに上回る頑強さなのだ。

 一撃。

 羅濠教主が、牛頭天王の肉体を砕くのに要した手数である。 

 これまでの戦いは、小手調べのようなもの。

 牛頭天王の力を見極めるための前哨戦であり、本命はここから。

 それも、彼が再び立ち上がることができればの話だが。

「立ち上がりますか」

「無論。俺は、牛頭天王。竜蛇を屠りし《鋼》の武神! 魔王如きに膝を屈するなどありえぬ話!」

 大地を踏みしめて直立する牛頭天王。

 決して少なくないダメージを受けながら、その身体は今でも峻険な城砦のように羅濠教主の前に立ちはだかる。

「おお。なるほど、真の英雄豪傑たるに相応しき心意気。ならば、あなたの力をこの羅濠に示しなさい」

「オオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 愚直に一歩を踏み出す牛頭天王。

 羅濠教主は、敢えて一歩も動かず、牛頭天王が進むに任せている。

 剛力無双の牛頭天王が振るう神剣は、羅濠教主といえども正面から防げるものではない。そもそも、拳一つで敵と戦う羅濠教主は、リーチという点で常に劣勢に立たされている。

 だが、それは牛頭天王以外を相手にしたときも同じだ。

 初めに簒奪した仁王を除けば、ほぼすべての敵が何かしらの武器や能力を使ってきた。

 その試練を、尽くねじ伏せてきた羅濠教主が、今さら剣と拳のリーチで遅れを取るはずもない。

 牛頭天王の嵐のような猛攻を、羅濠教主は見事に受け流していく。

 一撃貰えば即死もありえる剣と風の乱舞。

 それほどまでの攻撃を加えていながら、牛頭天王は羅濠教主を捉えることができないでいる。

 受け止めるのではない。

 柔らかくいなして、弾く。

 柔よく剛を制す。

 今、羅濠教主がしているのはそういうことであろう。

 牛頭天王の攻撃が目にも止まらぬ早業ならば、羅濠教主の防御は早業を上回る神業だ。

 嵐の中、僅かに見えた点を目掛けて羅濠教主は貫手を放つ。

「シッ!」

 刃よりも鋭い右の貫手が、牛頭天王の胸板に突き立つ。

「ぐ、ぶぬおおおおッ!」

 だが、牛頭天王は倒れない。

 血を吐きながら剣を振り上げる。

 風を纏った大斬撃で、跡形もなく消し飛ばすためだ。今、羅濠教主は牛頭天王の懐にいる。しかも、攻撃を放ったばかりである。

 近接戦を得意とする者同士の戦いは、自分の攻撃半径と相手の攻撃半径が重なっているのに加え、遮蔽物を挟む間がないことから攻撃するということがそのまま、攻撃される危険性を増すことに繋がるのである。

 羅濠教主は、今や牛頭天王に首を刎ねられる未来しかない。

 確信と共に剣を振り下ろす。

 速く拳を戻した羅濠教主の動きに、牛頭天王は目を見開いた。

 羅濠教主は裏拳で剣の腹を叩き、この軌道を僅かに逸らしたのである。

 標的を捉え損ねた神剣が、宙を大きく斬り裂いた。

 筋肉量に関わらず、怪力を発揮するのが権能である。どれほど華奢な身体つきであっても、当てれば剣の軌道を変えることはできる。

 だが、真に恐るべきはその怪力を、針の穴を通すような精度で扱うことである。

 拳を引いて裏拳で振り下ろされる剣の腹を叩く。この一連の動作を、武神を相手にやってのけることなど考えられるだろうか。

 如何に牛頭天王が《鋼》の武神であったとしても、驚愕に忘我するのは必然である。

 そして、牛頭天王は羅濠教主の面前で、神剣を振り下ろした姿を曝している。

 思考を白く染めたのは一秒にも満たない短時間で、牛頭天王はすぐに神剣を構えなおそうとしたが、

「終わりです。牛頭天王」

 その僅かな時間すら、魔王と対峙するのであれば大きな隙であった。

「一勁即至! 大勁を以て小邪を制す!」

 黄金の輝きと共に現れた二体の巨漢。牛頭天王と同じくらいの背丈の坊主頭。

 羅濠教主が最初に倒した神・仁王であり、彼女の権能が具現化した影。しかし、それは影にして影にあらず。

 この二体が現れたということはつまり、羅濠教主が三人になったのと同じことなのだ。

 神の目を以てして見切ることのできない連続攻撃が放たれる。

 貫手、掌打、正拳突きなどが織り交ぜられ、急所という急所を撃ち抜いていく。

「ご、ぶおおおおおおおおおおおおッ!」

 牛頭天王の屈強な肉体が砕かれ、爆ぜる。血飛沫が舞い、苦悶の声も喉笛を貫かれて止まった。

 百を越える打ち込みがありながら、打撃音はほぼ一つだけ。

 それはまさに、拳の壁というべき攻撃であった。

 驚異的なのは、それだけの連撃を放っておきながら、牛頭天王が吹き飛ばされないということである。

 一度振るえば屍山血河を築き上げるという羅濠教主の拳は、彼女の技量によってその衝撃すらもコントロールされていたのだ。

 打ち込まれたすべてのエネルギーは、そのまま肉体の破壊にのみ消費された。そのため、牛頭天王は吹き飛ばされることも、崩れ落ちることもなかったのである。

 文字通りの殺人拳。

 これこそ、羅濠教主が積み上げた破壊の極みである。

 仁王立ちする牛頭天王に、羅濠教主はさらに一歩近づく。

 地面を砕かんばかりの震脚。

 大地からのエネルギーを余すことなく右手の先へ伝える。

 握りこまれる拳は、まさしく大砲。

「ハッ!」 

 気合と共に放たれた縦拳が、牛頭天王の胸板を完膚なきまでに破壊しつくし、その巨体を数百メートルも先へ吹き飛ばした。

 断末魔の叫びすらない。

 牛頭人身の武神は、身体中の骨という骨、肉という肉、神経という神経を破壊され尽くして消滅していった。

 牛頭天王の消滅を確認して、羅濠教主は、

「鷹化」

 鋭く、弟子を呼ぶ。

「ハッ」

 恵那を避難させた後、羅濠教主の戦いを見守っていた鷹化は茂みから飛び出して抱拳礼をする。

「わたくしは、これより廬山に帰ります。草薙王の戦いぶりをしかとわたくしに報告なさい」

「お会いにはならないのですか?」

「此度は草薙王への借りを返すための戦いでした。そして、それは牛頭天王を討ち果たしたことで成し遂げられたと考えるべきでしょう。であれば、わたくしと草薙王は義姉と義弟。義姉は義弟を待つものでも会いに行くものでもないのです」

 要するに、護堂のほうから会いに来いということだろう。

 独特の感性の持ち主である羅濠教主。牛頭天王を倒したことを誇るでもなく泰然と受け止め、自らの筋を通そうとしているのである。

「この陸鷹化。しかと承りました」

 鷹化の返事を聞いて、羅濠教主は牡丹の花を散らせて日本から立ち去っていった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 法道は護堂の前にしっかりと立つ。

 殴られた頬は薄らと赤くなっているようだが、もともと色が白い老人だ。見た目に大した変化はない。

 だが、目に見えない部分。彼が身に纏う呪力は大きく揺らいでいた。

 怒りの感情であろう。

 法道の感情の変化が、呪力にまで影響しているのである。

「どうしたジジイ。来いよ」

 護堂は槍を放り投げて無手となる。

 腕を大きく広げて挑発する。

「晴明の忘れ形見風情が、調子に乗りおってからに……」

 底冷えするような暗い口調で、法道は怒りを露にする。

 ついさっきまでは愉悦の感情しか見せなかっただけに、護堂の拳はよほど効いたと見える。

「よかろう。そうまで言うのであれば」

 ザリ、と法道の草鞋が地面を擦る。

「こちらから攻めてやろうではないか」

 法道の姿が掻き消えた。

 神速に突入したのである。

 護堂は最小限の動きで法道の打撃を避けていく。

 ひらりひらりと舞う様は、風に翻弄されている蝶を思わせた。

「おりゃあ!」

 護堂が膝を振り上げる。めり、と何かにめり込む感触。

「ごほッ」

 そして、法道がアスファルトに再び転がった。

「歳考えな、爺さん。運動しすぎは身体に悪いぞ」

「おのれ、神殺し!」

 法道は起き上がり様に火炎を放つ。

 本来なら、あらゆるものを焼き払うであろうそれを、護堂は言霊で散らす。

 火の粉の中を、護堂は駆け抜け、法道に接近する。

「チィッ!」

 法道は、神速を発動。護堂の脇をすり抜けるように移動する。

 だが、護堂はこれを見逃さない。足払いをかけて、法道のバランスを崩し、振り向き様に襟元を鷲掴みにする。

 そして、膝蹴り。法道が前屈みになったところで、顎に正拳突きを放つ。

「ご、ああ」

 地面に仰向けに倒れた法道に、護堂は剣を降らせた。

「オン・シュリマリ・ママリ・マリシュシュリ・ソワカ!」

 印を結び、早口で烏枢沙摩明王の真言を唱える。

 破魔の真言で、障壁を築き剣群を受け止める。弾かれた剣が宙を舞う。

「セイッ!」

 剣を弾き終わったところで、護堂が法道の腹に踵を落とした。

 法道は転がってかわし、再び神速へ突入する。

 護堂は前に飛び込むような体勢になり、地面に手を突いて足を振り上げた。

 護堂の足裏が、背後に回った法道の顎を蹴り上げた。

「ごふ、ふあ。なぜじゃ。何が起こっておる……」

「なんてことねえ。あんたが、俺より弱かったんだろ」

 先ほどまで蛸殴りにしていた相手に、自分が蛸殴りにされる。そのことに理解が追いつかないのであろう。

 護堂もまともに取り合うことはない。

『やはり、予想の通りであろう』

 頭の中でアテナが話しかけてくる。

『アヤツは、あなたの呪力を察知して動いておる。ゆえに呪力の強い権能の類には先読みを思わせる反応をするのだ』

 拳で殴れ。

 そう指示してきたのは、護堂に勝利を齎すアテナの導きである。

 強い呪力の流れを感じ、それに対応することで護堂の剣群をかわしていた法道であったが、呪術の神ゆえに格闘戦の心得がない。

 近接戦闘では、護堂と同じレベルの素人なのである。

 だが、今は違う。

『さあ、畳みかけよ草薙護堂。パンクラチオンの真髄を見せてやるのだ』

「上等」

 アテナの導きで、護堂は格闘戦の能力を得た。アテナの武神としての武技を、権能の発動中のみ身体に憑依させるのである。

 導きの力の攻撃的用法である。

 頭突きでよろめいた法道に、護堂は幾度も拳を叩き付ける。

 法道の反撃は、瞬間的に放てる呪術で護堂を傷つけることができないために効果がない。

「どうした。呪力の先読みはしないのか? できないよな。俺は殴ってるだけだからな!」

 権能で敵を攻撃するものではないため、法道の感知能力は低下している。

 今の状態であれば、護堂の勘による先読みのほうが、法道を遥かに上回っている。

「な、めるなよ、小僧」

 法道が護堂の拳を初めて避けた。

 護堂は、空振りで体勢を崩す。

 感知の呪術を調整したのだ。今までのような強力な呪力に反応するのではなく、カンピオーネの身体が放つ呪力にも対応させる。

 これによって、今まで通り、護堂の先手を取れる。

 カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いは呪力の戦い。呪力を伴わない戦闘はありえないのだから、呪力の流れを読んでしまえば攻撃を避けることは容易い。

 法道はがら空きとなった護堂の腹に杖を突き込んだ。

「なん、じゃと」

 法道は、あまりのことにそう呟いた。

 護堂は、膝と肘で法道の杖を挟み込み、がっちりと固定したのである。

「バカな。貴様、そのような技が」

「舐めてたのは、おまえだったな。法道!」

 法道の杖を護堂は空いた手で掴み、杖を固定していた手はそのまま法道の襟を掴んだ。足を下ろして法道の足を踏みつける。

「鋭く、速き雷よ! 我が敵を切り刻み、罪障を払え!」

 法道を掴んだ手の平から、眩いばかりの閃光が迸る。

 同時に、東名高速道路を支える柱が一本、中心から斜めに切断された。

 咲雷神の化身による斬撃が、法道の身体を駆け抜けた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 形勢は逆転した。

 満身創痍の法道は、右肩から左脇にかけて一本の切り傷を負っていた。

 血が止めどなく溢れている。

「護身の術か。咲雷神を防ぐほどかよ」

 仕留め損ねたことで舌打ちしつつ、護堂は自分に残されている時間を考える。

 アテナの権能を使った以上、そのうち身体にガタがくる。あれは、肉体にかかる負担が他の権能よりも大きいのである。

「ぬぐぐ、貴様。もはや、許さぬ」

 法道は憎憎しげな視線で護堂を睨みつけると、地面を強く踏んだ。

「悪鬼よ来たれ。我が敵を食らい尽くすのじゃ!」

 呪力が吹き荒れ、暗い闇が現れる。

 そして、その中からぬるりと現れたのは、巨大な四足の怪物である。

 神獣を呼んだのだ。

「鵺よ。彼奴を討て! 主らもじゃ!」

 さらに、その後ろから大柄な鬼が続く。どれも神獣としての格を持っている。法道と纏めて相手にするには、少々厳しい。

 護堂がどうしたものかと思案していると、頭の中に声が響いた。

『王よ。己を使え』

 天叢雲剣である。

 アテナに負けじと、まつろわす権能を使おうというのだ。

「いいぜ、やって見せろ」

『応! 悪鬼羅刹を斬り従えるは《鋼》の性!』

 右手に宿る相棒が、先頭を走る鵺と法道の繋がりを切断。鵺を支配下に置いた。

「ひょおおおおおお!」

 鵺が尾を振るい、鬼を打ち上げる。

 さらに、ゴリラのような太い腕を振るって法道の鬼を殴り飛ばしていく。鬼たちも突然の裏切りに混乱し、その隙を突かれて蹴散らされていく。

「わしの使い魔にまで手を出すか。盗人のような輩じゃな」

「そもそも、カンピオーネ(おれたち)はそんな連中の集まりじゃないか。今さら何を言ってるんだ」

「……鵺一匹でいい気になるでない。陰陽の道を究めたわしは、無数の式を扱う術を持つのじゃからな!」

 法道の呪力が溢れ出し、その周囲を黒い集団が覆っていく。

 様々な姿をした鬼。

 百鬼夜行とは異なり、すべてが神獣の格を持っている。

 数は、斉天大聖が召喚した猿よりも多いかもしれない。

 おまけに、法道はこれを『合成』する。

 粘土細工のように神獣がどろりと融解し、一つに合わさる。

「ひょおおおおおおおおおおお!」

 そして、現れたのは二体目の鵺だ。

 ただし、大きさは護堂の支配下にある鵺の三、四倍はあろうかという巨体だ。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 槍と剣を掃射する。

 黄金の輝きが夜空に散りばめられ、鵺の巨体に吸い込まれていく。

「ひゅおおおおおおおおおおお!!」

 トラツグミのような鳴き声は健在だ。

 あまりに巨大すぎて、即製の神剣神槍では致命傷を与えられない。肉の壁がそれだけ分厚いのだ。

 巨大鵺は、護堂の鵺を爪で引き裂いて殺し、護堂にも巨大な拳を振り下ろした。

 アスファルトの下の地面まで、深く掘り返す爪は重機のようだった。護堂は土雷神の化身で窮地を脱し、神剣を放つ。

 四肢に撃ち込まれた神剣が、深々と突き刺さる。

「おおおおおおおおおおおおおお!!」 

 だが、痛みなどないとばかりに鵺は、護堂に飛びかかる。

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ!」

 源頼光から簒奪した破魔の神酒の権能で霧を発生させる。

 鵺の顔面に神酒を叩き付け、霧は薄く飛行場全体を包むようにする。

 これで、呪術をメインに戦う法道は弱体化する。

 だが、さすがに呪術の神は一筋縄ではいかない。霧の権能に対して、陀羅尼助という薬を服用することで抵抗する。

 役小角が作ったとされるこの薬は、強い苦味から修行僧の眠気覚ましに重宝されたという。

 現在でも生産されており、医薬品として販売されているが、法道が自ら製作したこの薬は外敵からの呪術的干渉に対して一定の抵抗力を与えてくれる。

 特に、その成り立ちから酩酊には強い。

 面倒だ。

 法道にも気を配らねばならない状態で、鵺ばかり相手にもしていられない。 

 そう考えて、護堂はあの巨体を一撃で倒しうる巨大な神剣を創ろうと呪力を練ったとき、不意に足元の地面が割れた。

「またかッ」

 土雷神の神速を封じる手っ取り早い手段は、護堂の足を地面から離すことである。

 重力に引かれて落ちる。その上から蓋をするように、鵺が爪を振り下ろしてくる。

「天を覆う漆黒の雷雲よ。光を絶ち、星を喰らい、地上に恵みと暗闇をもたらせ!」

 雷雲が護堂の前面に溢れ出し、漆黒の楯となる。

 鵺の爪が黒雷神の暗雲と接触し、雷光が弾けた。

 そして、怯んだ鵺の目に二挺の槍を叩き込んだ。一目連の権能を楯に使わなかったのは、このためだ。

「ひょおおおおおおおおおおお!」

 鵺が背を逸らして大きく仰け反る。

 その無防備になった腹に、護堂は大きな一撃を叩き込む。

「我は焼き尽くす者。破滅と破壊と豊穣を約束する者なり。全てを灰に。それは新たなる門出の証なり!」

 膨大な熱量が、灼熱の炎となって放たれる。

 火雷神の化身は、大雷神の化身に匹敵する大火力の熱線を放つものである。

 伏雷神の化身とは逆に大気中の水分量が少なくなければ使えないため、雨天での使用はできないのである。

 紅蓮の熱線は、巨大鵺の腹に直撃し、その身体を両断して焼き尽くした。

 鵺が倒れるのを見届けて護堂は地面に足を付け、土雷神の化身を行使する。

 地上に戻ってみたのは、自慢の使い魔を始末されて怒りに震える法道であった。

「おまえのペットは消えた。それに、牛頭天王も倒されたってな。後はおまえだけだ。大人しく、この場で倒されろ」

 護堂は静かに、法道に告げた。

 牛頭天王が羅濠教主に倒されたことは、護堂が天叢雲剣から聞かされるよりも前に知ることができただろう。

 何せ、牛頭天王は法道の従属神である。

 護堂の意識を逸らすため、あえて牛頭天王を明治神宮に向かわせたのだろうが、それは完全に裏目に出た形となったのである。

 

 

 

「罪障を払い、敵を滅ぼせ。急急如律令」

 法道が投じた呪符が、真っ黒な狼になる。

 ただの使い魔ではない。実体を持たない代わりに、相手を呪い殺す呪詛を持っている。

 この狼を剣の投擲で殺すと次に迫ってきたのは日本刀。

 さらに、法道は無数の呪符を展開し、雨霰と呪術を放ってくる。

 護堂はそれらを楯と言霊で防ぎつつ、打開策を模索する。

『急げ。時間も残り少ないぞ』

「分かってる」

 とはいえ、敵の苛烈な攻撃は健在。使い魔をいくら倒したところで相手に傷を与えることにはならないのである。

 さすがに、巨大鵺を倒されてすぐには同等の神獣は召喚できないようだが、それも時間の問題だろう。

「天叢雲剣、やれるか」

『いつでもよいぞ』

 天叢雲剣の返事を聞き、護堂は聖句を唱える。

「雷雲に潜みし、疾くかける稲妻よ。我が刃に宿りて、敵を斬れ!」

 法道の攻撃をかわしながら、護堂は伏雷神の化身を天叢雲剣に吸収させた。

 右手に紫電を放つ天叢雲剣を持つ。

 

 キン、

 

 と軽い音がして、法道の呪術が霧散した。

「何?」

 法道がいぶかしみつつ、再度呪術を放つ。

 護堂に傷を負わせられるのは、物理攻撃だけ。ならばと、法道は無数の刃を召喚して解き放った。護堂の戦術を真似たような攻撃は、刃の壁のように護堂に襲い掛かる。

 だが、それも、一瞬にしてすべてが斬り払われた。

 神速の斬撃。

 それが、伏雷神の化身と融合した天叢雲剣の力である。 

 もっとも、それだけならば神速状態で斬り合うのと変わりがない。

 最大の違いは、

「斬ッ」

 護堂は天叢雲剣を振るう。

 神速の斬撃ゆえに、まともに目で追うことは不可能。

 そして、法道の右腕が、肩から斬り落とされて宙を舞った。

 血が吹き出し、赤い水溜りを作る。

「な、にあああああッ?」

 法道が苦痛に顔を歪ませる。

 切断面からは血が止めどなく溢れていく。

 伏雷神の化身が持つ、雷撃のエネルギーを斬撃にして飛ばす。まさしく雷撃の刃である。

 これで、敵は印を結べない。

「おおおおおおおおッ!」

「!?」

 吹き出す血が、魔法陣を描いている。 

 法道の前に出現した格子模様(ドーマン)が赤く脈打つ。

「我、神殺しを恨むこと限りなし。我が怨敵を討ち滅ぼすため、我が身命を賭して一撃を放たん!」

 法道が、尋常ではない量の呪力を魔法陣に流し込んでいる。

「これは……!」

『用心せよ。王よ』

『ヤツめ、あなたを倒すために命を捨てる覚悟だ』

 自分に対して呪詛をかけたのだ。

 次の一撃に自分の命を預ける。自分自身に護堂を倒せなければ死ぬという呪詛をかけることで、リミッターを外したのであろう。

 文字通り、命懸けの一撃は、だからこそ今までの呪術とは比べ物にならない力を有するはずだ。

「逆に、避けきれば自滅するってことか」

『いや、まず避けることが難しいだろう。あれの攻撃そのものにあなたを倒す呪詛が込められているはずだ。たとえ、神速を以てしても避けられるほど甘くはあるまい!』

 それを聞いて、護堂も覚悟が固まった。

 もともと、護堂には時間をかけている余裕はないのだ。

 すでに、身体中に痛みが走っている。倦怠感もひどい。集中力が低下しているような気もする。

 だから、敵が最後の勝負に出るのなら、正面から受けて立つほうがいい。

 余計なことを考える必要がないからだ。

「晴明の忘れ形見よ。最後の一勝負じゃ!」

 血を吐くような表情で、法道は吼えた。

「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン・ウンタラタ・カンマン!!」

 法道が最後に選んだのは、密教系最強の調伏呪術。不動明王の火界呪だった。

 吼えるような真言の詠唱に合わせて、大気が焼け付くように熱を持つ。

 炎の竜巻が天高くまで昇り、それが怒涛の如く押し寄せてくる。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ、大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 天叢雲剣を地面に突き刺し、右手を砲身にして、護堂も大雷神の化身で迎え撃つ。

 青白い閃光が、法道の炎とぶつかり合う。

 地響きのような爆裂音が響き渡る。 

 飛行場近辺の家々の窓ガラスは砕け散り、道路のアスファルトは蒸発する。

「うおおおおおおおおおッ」

 護堂は呪力を注ぎ、出力を上げる。

 だが、押し負ける。

 まずい。

 このままでは大雷神の化身が敗れる。

 そう直感した。

「ぐ、く……」

 歯を食いしばって、耐える。

 法道は、晶の仇だ。

 ここで護堂が敗れれば、敵はのうのうと生き延びることになる。そんなことが許せるか。

「……死んでも許さねえ!!」

 護堂は地面を踏みしめ、閃光の奥に隠れる法道を視据える。

 覚悟を決めた。すべてを出し切って、法道を討ち果たすと。

「千の竜と千の蛇よ。今こそ集まり、剣となれ」

 天叢雲剣を左手で持ち、聖句を唱えた。

 刀身が漆黒の色を帯びる。

 天地開闢の剣である。

 ただし、事前準備に時間を取れなかったことと、大雷神の化身を使っていることで本来の威力を発揮できない。

 できるとすればほんの一瞬だけ、強力な重力を発生させることくらいか。

 だが、それで十分だ。

 雷撃と火炎が激突するその奥。

 法道が死力を尽くして呪力を練り上げている背後に、一挺の小刀が落ちている。

 刃渡りは五センチほど。散らばった刃の中で、あまりにも存在感がない。

 護堂と法道が権能と呪術で生み出した刃ではなく、とある名工が打ったというだけのただの小刀なので、呪力もほとんど籠もっていない。強いて言うなら、切れ味を高める程度である。

 かつて、晶が護堂に渡した護身刀であり、護堂にとっては晶の遺品ともいうべき刀である。

 この小刀には、ちょっとした細工が施してあるのだ。

 護堂は重力の範囲をこの護身刀に絞り込む。

「来い」

 呟く。

 炎は目の前まで迫っている。

 雷撃に回せる呪力も残り僅か。

 法道も、このまま押し切ろうと呪力を搾り出して火界呪の火勢を強める。

「俺の勝ちだ」

 紅蓮の熱が肌を焼く中、護堂はニヒルに微笑んだ。

「鋭く、速き雷よ! 我が敵を切り刻み、罪障を払え」

 咲雷神の化身の聖句を唱える。

 小刀に込めたなけなしの斬撃力を解放するためだ。

 

 法道の首に背後から小刀が突き立った。

 

「かひゅ?」

 空気が漏れるような音が法道の口から漏れた。

 護堂の重力に引かれた小刀がその進路上にいた法道に突き刺さったのである。

 ただの小刀ならば、法道に傷を付けることはできなかっただろうが、この小刀には微弱ながら咲雷神の化身が込められていた。

 込められた権能は微弱で、しかも護堂が聖句を唱えるまでは眠っていた。

 結果、強い呪力を放つ神剣の山の中に隠れ続けることができた。

 そして、微弱とはいえ権能である。

 攻撃に全神経、全呪力を集中していた法道はこれに気付くことも、これを防ぐこともできなかった。

「かひゅくひゃぁ」

 ゴボゴボと血を吐き、血に溺れる法道。

 もがき、悶える姿はマリオネットのようである。

 これで、火界呪は勢力を急速に衰えさせて消えていく。

「千年分の落とし前だ。ぶっ飛べ法道!!」

 閃光が極大化する。

 法道の紅蓮を駆逐して、護堂の雷撃が青白い光で視界を染める。

「ぎ、ぎくああああああああッ!」

 そして、灼熱の雷撃が法道を包み込み、跡形もなく蒸発させた。

 護堂が今放てる全エネルギーを叩き込んだ最高の一撃は、千年にもなる護堂と法道との縁を焼き払い、消滅させたのである。

 後には抉れた大地と鼻を突く異臭だけが残された。

 全身から力が抜け落ちていく。

 激しい疲労。体力も呪力もすっからかんだ。

 護堂は崩れ落ちるように、その場に倒れこんだ。

 襲い掛かってくる眠気。

 身体の奥深くに重い何かが積み重なるのを感じ、それから吸い込まれるように眠りに落ちていった。

 



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最終話

 護堂が目を覚ましたとき、周囲には何もなかった。

 真っ白な世界には、生の気配がまるでなく、草薙護堂という人間以外の存在は一切感じられなかった。

「ここは……」

 声が妙な反響をする。

 壁があるわけではなく、そもそもどこまで行けば果てに行き着くのかも分からない。地平線すら見えない白の世界は、護堂の知る物理法則の埒外にある。ここは、時間と空間が歪みきった異界である。

「お久しぶりです。羅刹の君」

 ああ、やっぱり。

 この世界には覚えがあった。

 空気の感じがそっくりだ。

「ここは、幽界なんですね」

 護堂は、現れた女性に尋ねた。

 十二単の美しい女性だ。

 御老公の一人、玻璃の媛だ。

 楚々とした風情ながら、艶やかな色気のある不思議な媛だ。詳しくは不明だが、祐理たち媛巫女の祖と目される人物である。ということは、旦那さんがいたということだろうか。

「幽界、と申しますか。ここは、羅刹の君の夢だと思っていただければよろしいかと」

「夢?」

 玻璃の媛は頷いた。

「はい。わたくしたちは、すでに現世を離れた身。軽々しく表に出るわけにもまいりません。しかし、あなた様をお呼びたてするにも下準備が必要ですから、こうして夢の世界でお会いすることとしたのです」

 玻璃の媛はどちらかと言えば、神祖に近いと思われる。

 神様というわけではないので、縛りは緩いのかと思っていたが、現世を外れるというのは、護堂の想像以上に様々な制約を受けるのかもしれない。

「夢の世界は、幽界に似てるんですね」

 護堂の呟きに、玻璃の媛はくすりと微笑んだ。

「最近の言葉では、集合的無意識などとも言うようですが、夢というのは、時折世界の果て、幽界と繋がることがあるのです。すべての人間に共通する無意識領域は、幽界と多かれ少なかれ接点を持ちます」

「はあ、なんかよく分かりませんね。集合的無意識は聞いたことがありますけど」

 護堂は、周囲を見回した。

 何もない世界。

 これが、自分の夢だというのなら、なんとも発想が貧困というか、そもそも何もないのだから発想が乏しいとかそういう次元ではない。

「今回はわたくしがお邪魔したので、多少仕様が変わっていますよ」

「ああ、そうなんですか」

「ええ」

 玻璃の媛は、頷いた。

「それで、どうして俺の夢に?」

「一言お礼を申し上げたく思いまして」

「お礼?」

「はい。あなた様にはわたくしたちの不始末を押し付けてしまいました」

「そんなこと……」

 護堂は、言葉に詰まった。

 彼女たち御老公は、護堂をこの世界に転生させた張本人である。

 だが、そのことで恨んでいるかと言われれば否だ。

「以前も言いましたけど、あなた方を恨むことはありません。それに、負債を押し付けられたとも思っていませんよ。結局、俺は法道が許せなかったんですから、あいつを倒す以外の選択肢はありませんでしたし」

 護堂がどうあろうと、晶が法道の手に掛かった事実に変わりがない。護堂がカンピオーネでなかったら、晶と出会うことはなかっただろうし、晶の仇を取るために法道の前に立ちはだかることもなかっただろう。

 護堂の言葉を聞いて、玻璃の媛は頷いた。

「あなたさまならば、そのように仰るだろうと思っておりました。本当に、ありがとうございました」

 玻璃の媛は頭を下げた。

 亜麻色の髪が、零れ落ちる。

「羅刹の君、どうぞこれを受け取ってください」

 顔を上げた彼女が手の平で包み込むように持っていたものを差し出してきた。

「これは……」

 見覚えがあるような気がした。

 小さな結晶のような何か。

「クシナダヒメの竜骨でございます」

「ッ……」

 それは、まさしく晶の身体の基礎を為していたもの。晶にとっての心臓部というべきものであった。

「消えたと、思っていました」

「神の骸は、そう易々と消えることはありません。わたくしたちが回収し、手元に置いておいたのです。これを、あなたさまにお返しします」

 僅かに逡巡しながらも、護堂は玻璃の媛から竜骨を受け取った。

 不思議なくらいに、暖かい。

「須佐の御老公から言付けを預かっています。『迷惑かけたな』だそうですよ」

「そんだけですか」

「あの方らしいとは思いますが」

 玻璃の媛は、苦笑する。

 そして、真剣みを帯びた瞳で護堂を見つめる。

「あの媛のすべてがここにあります。どうか、心の赴くままに力をお振るいくださいませ」

 最後に、意味深長な言葉を残して彼女は去った。 

 それによって、世界が闇に覆われていく。

 前後左右が分からなくなる。見当識が失われた後、急速に身体が浮上していく感覚を覚えた。

 きっと、これは夢が覚める証。

 ここでのことも、記憶には残らないのであろう。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 法道との戦いから一週間が経った。

 世界は変わることなく回り続けている。

「おはようお兄ちゃん。今日は早いね」

 休日の午前六時。

 部活に属していない護堂が起きるには、少し早い時間帯だ。

「朝、パンにする?」

「静花。悪いな」

「別にいいよ」

 護堂はキッチンに向かう静花に声をかける。

「おまえも今日早いな」

「中三は今日模試だから。ちょっと早めに起きたの」

「ああ、そうか」

 私立城楠学院は中高一貫の学校だ。

 そのため、中学三年生でも進路の悩みにぶつかることはない。とはいえ、学力を把握する必要がないわけではなく、中学三年生の冬は模試が多く入ってくるのである。

 護堂はテレビの電源を入れ、炬燵に入った。

「じいちゃんは……散歩か」

 一郎の朝が早いのは今に始まったことではない。

 歳というのもあるのだろうが、外を歩き、商店街のマダムたちと言葉を交わすのが彼の趣味みたいなものだった。

『近畿地方を中心に各地で発生した広域災害について、古谷防災担当大臣は……』

 映像には崩れ落ちた伊吹山や、枯死した木々が立ち並ぶ伊弉諾神宮の境内が映し出されていた。

 法道が起こした事件は、人的被害こそ少ないものの原因不明の未曾有の災害として世間に知られることとなった。

 すでに、マスコミがそうであるように、各地のオカルトマニアなどは畿内の重要五箇所の霊地で最も不自然な災害が同日に起こっていることに注目しているらしい。

 現に、今護堂が見ている番組のテロップは『パワースポットで異変か?』となっていて、霊地を結ぶと星型の魔法陣が浮かび上がることがパネルで紹介されていた。

「変な話だよね、これ」

 静花が護堂の前にトーストを置いた。

「ああ、そうだな」

 護堂はそのトーストを齧る。

「静花はこういうの信じるか?」

「んー……別に? そういうのもあるかもねってくらいかな」

「適当だなー」

「神様なんてそんなもんじゃないの? いると思えばいるし、いないと思えばいない」

「罰が当たるぞ」

 静花の自論を聞いて、護堂は呆れながら言った。

 とはいえ、護堂が一番罰当たりなことを積み重ねてきたのである。神様の存在を知っているというのに、神様を否定するような行動を取ってきたのだから、静花の曖昧な言葉に文句をつける資格はないのである。

「じゃあさ、もしも目の前に神様が出てきたらどうする?」

 護堂は試しに聞いてみた。

「え、神様が出てきたら? うーん、そうだね」

 静花は腕を組んで考える。

「願いを叶えてもらうよね。絶対」

「へえ……」

 静花にどんな願いがあるのだろか。

 とても興味深い。大晦日にでも聞いてみようか。

「もしも、その神様が願いを叶えてくれなかったら?」

「願いを叶えてくれない神様か。それ、神様じゃないんじゃない?」

「いや、神様って前提で」

「うーん、でも神様って人間に都合がよくないとダメじゃないの? だったら、願いを叶えてくれない神様は、わたしにとって神様じゃないよ」

「おまえ、本当に凄いこと言うな」

 護堂は感心してしまった。

 静花の考え方は、どことなく護堂に似通ったものだったのである。神は総じて我侭で、自分の都合で行動する存在。けれど、その根幹にあるのは神話であり、それは人類の歴史と芸術が積み上げた物語である。

 神を作り出すのは人間。

 神を畏れるのも人間。

 そして、神に創られるのも人間だ。

 神の我侭に人間は苦しめられ、人間の我侭が神を生み出す。

 世界は人と神の関わり合いの中で生きている。そこに抱え込まれた矛盾も含めて、世界という一つの物語を刻んでいるのである。

「お兄ちゃん、今日早いのはなんで?」

「ああ、今日は清掃活動だよ」

「清掃活動?」

「ああ、万里谷のバイト先の神社がこれでちょっと被害を受けてさ。人手を集めるっていうから手伝い」

 これ、と言って指差すのはテレビ画面。

 ヘリコプターから撮影されているのは、柱が切断された東名高速道路と爆弾がいくつも爆発したような惨状の厚木海軍飛行場である。

「ああ、そっか。東京でも明治神宮とか結構大変みたいだしね」

「まあ、万里谷のところはそれほど酷くはないみたいだけどな」

「ふうん」

 静花は、護堂を疑わしげな三白眼で見つめる。

「なんだよ」

「いいや、なんでもー」

 静花はそう言って、護堂のトーストが乗っていた皿を流し台へ持っていった。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

「じゃあ、行ってくる」

「いってらっしゃーい」

 玄関を出ると、目に眩しい朝日が飛び込んできた。

 空は抜けるように青く、遠くに見える白い雲がゆっくりと漂っている。

 今日はいい天気だ。

「おはようございます。草薙さん」

 玄関前で、護堂を出迎えたのは馨と冬馬だった。

 冬馬は白いワゴン車の運転席に座り、ハンドルに手をかけている。

「おはようございます。沙耶宮さん。甘粕さん」

「後部座席にお乗りください。七雄神社までお送りしますよ」

「ありがとうございます」

 冬馬がハンドルを握り、馨は助手席に乗っている。そして後部座席に護堂を乗せた自動車は、ゆっくりと走り出した。

「お二人は、これからすぐに仕事なんですか?」

 馨は頷いた。

「ええ。あの件の後始末がまだまだ多くて。ああ、幸いにして法道が東京分室にかけた術は彼の消滅と同時にほぼ効力を失いました。そのおかげで、それまで隠れていた様々な問題点も浮き彫りになりましたが、まあ問題ないでしょう。今月中には、解決すると思いますよ」

「そうなんですか。地脈とかの様子はどうでしょう。結構、騒いでましたよね」

「そうですね。草薙さんのおかげで、畿内の魔法陣が落ち着きまして、全国的にも小康状態となっています。あと数年ほどは注意する必要がありますが、どこかの地脈が枯れたりだとかはしませんでした」

「ああ、それはよかったです」

 地脈が枯れればその土地は以降数世紀に渡って不毛の大地となる可能性もある。それだけならまだしも、生命力の枯渇した土地は、農業生産だけでなくそこで暮らす多くの命に害となる。様々な不運を招き寄せるパワースポットとなるのである。

「目下、僕たちが抱えている問題は土地枯れと情報漏洩ですね。まあ、地脈云々が表に出たとしても、問題はないのですが、土地が枯れるのはさすがにまずいので」

「表に出ても問題はないんですか。情報操作が仕事の大半だと聞きますが」

 護堂が聞くと、冬馬が苦笑しながら答えた。

「そうなのですが、今回は呪術が表に出たわけではないので。報道されている土地も、もともとパワースポットで有名な場所ですから、これを機に観光業に利用できないかという話もあるくらいでして」

「ミステリーオタクなんかには、受けそうですよね。僕たちとしても俗物的に扱ってくれるほうが、真実から遠ざかるので助かるんですよ」

「商魂逞しいですね。ほんと……」

 確かに、今回の事件は事件そのものを世間から隠し通すことはできない。

 何かしら原因を捏造する必要が出てくるのは当たり前のことだが、だからと言って呪術に行き当たる者がいるはずもない。

 情報操作という点では、呪術を使用しているところや、本物の呪具が世間に出回りでもしない限りは都市伝説として歴史の闇に消えていくことだろう。

 早朝のため、車通りは多くない。

 三人を乗せた車は、スムーズに道を進み、そして七雄神社の参道入口に到着した。

「ま、俗世のことは僕たちに任せていただければ、万事上手く解決します。草薙さんは、玉座で踏ん反り返っていていただければ大概の問題は問題にもなりませんし」

 と、馨はニヒルに微笑んだ。

「そう、ですか。まあ、微力を尽くします」

 この一週間の間に、護堂は一つ肩書きを手に入れていた。

 『正史編纂委員会最高顧問』

 である。

 役職名は、暫定である。

 ようするに護堂は正史編纂委員会を傘下に収めたということである。

 だからといって、今までの生活が変わるわけではないが。

「俺にできる範囲で頑張りますよ」

「はい。よろしくお願いします」

 今回の一件で、陸上自衛隊は多数の弾薬を消費し、海上自衛隊は一つの航空基地を壊滅させられた。日本中の地脈は安定化しつつあるが、氾濫したことによる爪痕は数年は消えないとされ、裏表を問わず防衛面で多大な影響が出てしまっている。

 一度、国内を引き締め一丸となる必要がある。

 護堂はそのための旗頭となったのだ。

 今までの中途半端な立ち位置では、何かと不便。これから、護堂がカンピオーネとして活動するにしても、サポート面で問題が生じる。今まで通りをより確実にしていくためにも足場を固める時期であろう。

「それじゃ、俺はここで。すみません、わざわざ送っていただいて」

「いえいえ、主の足になるのも部下の務めですので」

 車を降りた護堂は石段に足をかけた。

「草薙さん」

 そのとき、冬馬が窓を開けて護堂を呼び止めた。

「晶さんのこと、ありがとうございます」

「あ、はい。その、ああいう形にしかならず」

「いえ、あの娘にとって一番幸せな形になったと思います。それでは、これで」

 冬馬はそう言って窓を閉め、車を発進させた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 石段を上った先には、いつもと変わらない七雄神社があった。

 災害の被害はそれほどでもないようで、外観に変化はない。

「あ、草薙さん」

 護堂を見つけた巫女服の祐理が駆け寄ってくる。

「おはようございます、お兄さま!」

 そしてひかりも。

「万里谷、ひかり。おはよう」

 護堂はひかりの頭を撫でつつ、辺りを見回す。

「清秋院は中か。それに、明日香もいるな」

 拝殿の中から恵那と明日香の呪力を感じる。

 そんな護堂の様子に祐理はくすり、と笑った。

「どうした?」

「いえ、半年前までは呪術すらもご存じなかった草薙さんが、目視できないところにいる恵那さんたちを感じ取れているのがおかしくて」

「あー、まあそうだな。毒されてるよな、確かに」

 何の違和感もなく呪力で人を探してしまっていることに気付かされた。

「あの、本当によろしかったのですか?」

「何が?」

「こんなに朝早くにいらしていただいたことです。しかも、お掃除まで手伝っていただけるとか」

「俺も当事者だからな。それに、これ、掃除だけじゃなくてみんなで集まって話をしようっていうイベントだし」

 朝早くというのが腑に落ちないところだが、企画者の恵那からすると朝早くに集まるのが特別な感じがしていいらしい。

 で、ついでに掃除もしようと。

「中はどんな感じになってるんだ?」

 とりあえず拝殿に向かいながら、護堂は祐理に尋ねた。

「そうですね。倒れた物や壊れてしまった物の片付けはすでに終わっているんです。ですので、後は本当に雑巾をかけるくらいで済むと思います」

 七雄神社は法道との戦いの際の地脈の乱れとそれに端を発する強めの地震を受けて、軽い被害を被っていた。

 それは、草薙家でも同じようなことがあったりしたので至って普通のことではあったが、この一週間、呪術師たちは連日連夜徹夜続きという過密スケジュールの中にあった。祐理や恵那は最前線で戦っていたことと未成年ということで仕事の量も少なく、これまでと変わらず生活できていたが、他の呪術師たちは目を回しそうな状況だったのだ。

 結果、神社の清掃は後回しにされた。

 ここは霊地なので、正史編纂委員会に関わりのない人物が入れず、手の空いていた祐理や恵那が時間を見つけて掃除をするしかなかったのである。

「それで、お兄さまも呼んでみんなでやろうという話になったんですね」

「なぜ、俺も呼ぶのか。いや、いいんだけどね。来ちまったし。荷物運びの段階で呼んでくれれば、力仕事もできたんだけどな」

 神速を使えば箪笥も冷蔵庫もパパッと運べてしまう。権能は便利だ。

 護堂は祐理とひかりと共に拝殿に入った。

「おはよう。清秋院、明日香」

 雑巾を持った恵那と明日香がそこにいた。

「おはよー、王さま!」

「おはよう、護堂。遅かったじゃない」

 そして、護堂は、明日香に目を奪われた。

「んー?」

「な、何よ。やっぱりなんか変?」

 明日香はもじもじしながら指を絡める。

「いや、巫女服(・・・)の明日香って初めて見るなと思ってさ。結構似合うな」

「はう」

 明日香は顔を真っ赤にして俯いた。

 もともと悪くない顔立ちに、長い髪なのだ。似合うのは当たり前だったか。

「それで、なんで巫女服を着てるんだ?」

「ふふ、それは恵那の私物なんだよ。やっぱり、神社だしね。せっかくだから明日香さんにも着てもらおうと思ったんだ!」

 胸を張る恵那。

「そうか。グッジョブと言っておこう」

「ふふん」

「ちょっと、二人とも止めてよ」

 明日香が羞恥に顔を赤らめる。

「お兄さまは巫女服がお好きなんですか?」

 ひかりが興味津々といった様子で尋ねてきたので、護堂は思わず噴き出した。

「護堂、あんた……」

「いやいや、何を言ってるんだよ。そういう趣味はねえって。可愛いなとは思っているけど」

「可愛いとは思ってるのね。それは知らなかったわ」

「く……」

 なんだろう。

 特に悪いことしたわけではないのに、敗北した感がある。 

「と、とにかく掃除だろ。雑巾……」

「あ、向こうの流しのとこだよ」

 恵那が護堂に教えてくれた。

「じゃあ、取ってくるか。とりあえず、晶。いつまでも隠れてないで出て来い」

「え?」

 明日香が固まり、他の三人も護堂を見た。

 そして、護堂の背後の空間が揺らめいて、見慣れた制服の少女が滲み出すように現れたのだ。

 その少女を見て、祐理が声を漏らした。

「うそ……晶さん?」

 信じられない、と理性が訴える。しかし、目の前にいる少女は姿だけでなく呪力の質も含めて晶のそれと同一である。

「アッキーなの?」

 恐る恐る、恵那が尋ねた。

「あの、はい。お久しぶりです」

 晶は恥ずかしそうにして、俯き気味だ。

「アッキーッ!!」

「うわあ!?」

 恵那が感極まって晶に抱きついた。

「晶さん。本当に晶さんなんですね!」

 祐理が、目尻に涙を浮かべて駆け寄る。

「晶お姉様。ご無事で……!」

 ひかりは祐理の後ろについていく。

「あの、晶ちゃん……」

 そして、明日香がおずおずと話し掛けた。

「本当にごめんなさい」

 明日香は頭を下げた。法道のことで、晶には大きすぎる苦しみを与えた。明日香は、それをずっと悔いていたのである。

「そんな、頭を上げてください、徳永さん。徳永さんのおかげで法道のところから救い出されたんですし、徳永さんが悪いわけでもないですから!」

 困ったように手を振って晶はそう言った。

「でも……」

「もう過ぎたことですし、法道も倒しましたし、これで終わりにしましょうよ」

 晶がなんでもないように言うので、明日香はそれ以上何も言うことができなかった。

「そ、そうだ。アッキーどういうことなの? 助かったってこと? 今、どうなってるの?」

 晶から離れた恵那が、晶に尋ねた。

「え、えーとぉ……」

 晶は、護堂に助けを求めるような視線を向ける。やはり、護堂が関わっているのだ、と皆が察して護堂を見た。

「今の晶の状態は、そうだな。強いて言えば守護霊というか式神というか、そんな感じだな」

「式神、ですか」

 祐理が晶をまじまじと見る。

 確かに、護堂との霊的な繋がりを感じる。

「ああ、そうだ。あのとき、病室で晶の身体が砕けたとき、御老公たちが手を回してくれていたんだ。晶の魂を晶の身体を構成していた竜骨に移し変えていたわけ。それを核に、もう一度俺が晶を式神にしたという感じだ」

「法道様の権能ということでしょうか?」

 祐理の質問に、護堂は曖昧に返事をした。

「それもあるけど、それだけじゃない。法道の権能は式神を作ることだけど、死者蘇生まではできない。晶を晶として式神にするには御老公の手助けが必要だったよ。だから、これは一回きりの反則だ」

 もともと、条件は整っていた。

 使うのは、護堂を生まれ変わらせた畿内の魔法陣。法道によって荒らされた魔法陣であるが、呪術師たちの奮闘のおかげである程度持ち直していた。

 護堂を生まれ変わらせるときには、千年かけて溜めた呪力を消費した。だが、それは大半が『魂の選別』に消費されていた。魂が手元にあるのなら、それほど呪力の消費はない上、大気中には地脈の氾濫のおかげで膨大な呪力が溢れている。そして、護堂だけではどうにもならない部分には御老公が関与し、結果権能と大魔術を組み合わせた唯一無二の式神として晶は新生したのである。

「お爺ちゃま全然教えてくれなかった……」

「まあ、積極的には言わないだろう」

 手伝ってくれたのも、護堂への礼などを含めた特例である。死者の蘇生の類を、そうそう許すはずがない。

「はい、そういうわけで先輩の式神としてお仕えすることになりましたのでよろしくお願いします」

 晶は頭を下げる。けれど、どこか挑発的な雰囲気も混ざっているような気がしないでもなかった。

「ふうん、なるほど。じゃあ、アッキーは今後王さまの式神としてずっと一緒にいるわけか」

「はい、そうです。ご主人様にお仕えするのが式神の務めですから」

 と、晶は頬をほんのりと染めつつくねくねする。

「ご主人様って、護堂。後輩に何させてんの!?」

「いや、違うぞ! 不埒な意味に取らないでくれ!」

 護堂は明日香に弁明する。

 そして、護堂が明日香に弁明している最中に恵那が腕を組みながら得意げな顔をして言った。

「まあ、これでとりあえず王さまの周りは固まったのかな」

「周り?」

「うん。正妻が祐理で、愛人が恵那でしょ。それで、式神がアッキーで幼馴染が徳永さん」

 恵那が、一人一人指差してとんでもないことを言った。

「ちょ、恵那さん!? いきなりなんということを言ってるんですか!?」

「そうです! なんで、式神がその他になってるんですか!?」

「この状況で幼馴染って、ただの負けポジション……」

「はいはい! 恵那お姉様! わたしは?」

 一人を除いて非難轟々。

 恵那は悪びれもせず、

「でも式神って子どもできないでしょ?」

「う゛……」

 晶は言葉に詰まった。

「いや、俺を見られても困るぞ」

 恵那が突如始めた会話の流れに一番ついていけてないのは護堂であるし、正直に言えばとても居づらい。こっそりと、雑巾を取りに流しへ消える。

 そして、護堂が消えてから晶は顔を真っ赤にして叫ぶように言った。

「で、でも最低限の務めは果たせるはずです。そ、それに、子どもができないなら付ける必要もないですし、望まれれば何度でもがッ!?」

「ストーップ。晶ちゃん何口走ってんの!」

 明日香が晶の口を塞いだ。

「お姉ちゃん。付けるって何のこと?」

「こら、ひかり。あなたにはまだ早いわ」

「こっちおいで、ひかり。恵那が教えてあげるよ」

「恵那さん!」

 顔を赤くした祐理が恵那に怒る。割りと真剣な表情だったので、さすがの恵那も冷や汗を流す。

「まったく、あなたたちは神聖な神社でなんという話をしているのですか! 今日はお掃除に来たんですよ! 今すぐ雑巾を持って始めてください!」

 夜叉を思わせる笑みを浮かべつつ、祐理は力強い口調で言い放つ。

「わちゃあ、お姉ちゃん激おこだ」

「万里谷先輩すみません」

「わたし、会話に参加してないのに」

「やっぱり恵那の見立て通りじゃん」

 それぞれの感想を口々に呟きつつ、作業に戻る。

 なんだかんだで八時近い。すでに早朝とは言えなくなっていた。

 

 

 一通りの掃除を終えて一段落ついたので、休憩がてらお茶にすることにした。

 熱いお茶と茶菓子を囲んで、談笑する。

「そういえば、徳永さんはこれからどうするんですか?」

 晶が湯気が出ている湯飲みを持ちながら聞いた。

「あたし? あたしは、正史編纂委員会に所属することになったわよ。沙耶宮さんのところで活動すると思う」

 明日香は、呪術師として高い資質を持っている。法道から知識を与えられた明日香は、歩く魔導書のような存在だ。正史編纂委員会としても放っておけなかったという。

「清秋院さんと万里谷先輩は揃って媛巫女筆頭ですか」

「そうだね。二人で筆頭ってのも変な感じだけどねー」

「わたしは、そんな大層な肩書きは必要ないと申し上げたのですが」

 恐縮する祐理だが、彼女の実力は先の戦いでも十分すぎるほど証明されている。

 神の力を無力化する『御霊鎮めの法』に、危険に敢然と立ち向かう勇気。それらに加えて、媛巫女たちをその背に庇って前に出た姿に、胸を打たれた媛巫女は多いという。特に反対意見も出ることなく、祐理は筆頭の座を手に入れた。

 恵那は、もともと筆頭であるから、立ち位置に変わりはない。戦闘でかなりの無茶をしたので、しばらく神憑りは禁止されてしまったくらいか。

「わたしは、まだ見習いです。早く一人前になりたいです」

 ひかりは身近な媛巫女の二人が最高位に就いたことで修行の意欲を増しているようだ。

「まあ、焦ることないんじゃないか。万里谷たちと同年代で見習いじゃない媛巫女って多くないんだろ?」

「そうですね。おそらく、同年代ですと、全体の半分以下くらいになってしまうかと」

「だってよ。才能あるし、しっかりやっていけば大丈夫だろ」

 お世辞ではない。護堂が言うとおり、ひかりには類希な才能がある。『禍祓い』の霊力は世界を探してもひかりくらいしか使い手がいないのではないかと思われるほどの希少な力だ。将来、間違いなく大物になるだろう。

「みなさん、いろいろと変わりましたね。それに先輩も」

「俺?」

「そうだね。王さまが恵那たちのボスになっちゃうんだから驚きだよ」

 護堂が馨から打診されたこの話を正式に受けたのは二日前。二日間で、ずいぶんと広まったようだ。

「まあ、カンピオーネの支配下に入ったんだから、そりゃ世界規模でアピールするわよね。外交にも使えるし」

 明日香が当たり前のように言う。

「それもそうか」

 護堂もすぐに納得する。

 もともと、日本の窮地をなんとかするために名前を出したようなものだ。情報を発信していかなければ無意味であろう。

「あ……」

 話を聞いていた祐理が、声を漏らした。

「どうした、万里谷?」

「あ、いえ、大したことではないのですが。草薙さん、初めてここでお会いしたときのことを覚えていますか?」

 唐突にどうしたのだろう。 

 護堂は首を捻りながら祐理と初めて会ったときのことを思い出す。

 祐理とここで会ったのは、四月の終わり。火雷大神が襲来する少し前のことだ。

「俺がカンピオーネなのかどうか確かめるために、ここに呼び出したんだよな」

「はい、そうです」

 祐理が、なんだか楽しそうにしている。どういうことだろうか。

「そのときに草薙さんは『国家公務員になりたい』と仰いました」

「あ、そうだな。確かにそう言った」

 確か、力の使い方を聞かれたときに、そんなことを言ったと思う。

 

 『別にいいだろ。俺の夢は国家公務員なんだ。安定して堅実な仕事がいいんだよ。カンピオーネなんてなるつもりなかったんだって……』

 

 結局、半年と少しの間に多くの『まつろわぬ神』とカンピオーネと戦い、世界中に名前が知れ渡ってしまった。

 それでも、悪くはないと思う。

「でも、それがどうした?」

「正史編纂委員会の職員は、国家公務員です」

 祐理が答えた。

 あ、と虚を突かれたように護堂は固まった。  

「よかったですね、草薙さん。夢が叶いましたよ」

 祐理が悪戯が成功したときの子どものような無邪気な笑顔で、それでいて心の底から祝福の言葉をくれた。

「そうか。そうだな。はは、まさか本当に国家公務員になるとはな」

 護堂はおかしくて笑ってしまった。

 安定した生活を求め、危険から遠ざかろうとして国家公務員などと言っていたのに、最終的には同じ肩書きながらも正反対の生活に飛び込んだ。

 だとしたら、やっぱりこうなることは必然だったのだろう。

 護堂の周りには、誰一人欠けることなく大切な人たちが笑顔を浮かべている。

「じゃあ、みんな。結局、こんなところに納まったけど、これからもよろしく」

 これは、始まりだ。

 長い長い、草薙護堂が仲間と共に新たな歴史を歩んでいく。その第一歩だ。

 道のりは長く険しく、立ちはだかる壁は高い。けれど、一緒に戦う仲間がいる限り、彼は立ち止まることはないだろう。

 草薙護堂は、カンピオーネ。

 人類最強の魔王にして、あらゆる苦難を乗り越える勝者なのだから。

 




皆様、長らく拙作にお付き合いくださいまして本当にありがとうございました。
これを持ちまして『カンピオーネ~生まれ変わって主人公~』は完結となります。
第一話の投稿が2012年09月09日と、実に一年半もの時間がかかってしまいました。
実はプロットも設定集も書くことなく、全部頭の中に描いた流れでやってきました。綺麗に終わっていますでしょうか?

カンピオーネの二次創作は、これが初めてではなく、二次ふぁん時代にアマテラスとかギルガメッシュから権能を簒奪するヤツをやっていました。そこから半年ほど離れて、その間にアニメ化し、時流に乗って神様転生モノを書き始めた次第です。(神様転生じゃなくね? という意見もいただきましたがどうでしょうか?)
ともあれ、完結させることができたのは嬉しいです。
今後は、今連載しているものをやりつつ新しいものにも手を出しつつ、もしかしたら一番下もあるかもしれずという、さらには『~編』という形でこれの中編にするかもしれず。ようするに決まってないという状況ですね。まあ、今やってるのを中心に進めるかと。
それでは、皆さん。またどこかで! お世話になりました。

最終話時点合計文字数 783,410文字でした。 


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その他
短編 後輩と温泉イベント


 鹿児島県

 九州最南端に位置する県だが、日本史を紐解けば、ここがどれほど大きな影響を日本史に与えてきたかすぐに分かるだろう。

 古代に於いては隼人の居住地として、中世に於いては島津氏の本拠として、近世に於いては西郷隆盛などの偉人を輩出し、薩摩藩閥は近代日本の国家形成に大きな影響力を持っていた。

 主要農産物はサツマイモ、サヤインゲン、鹿児島茶などが有名で、養豚もよく聞く。日本有数の火山地帯でもあり、温泉の数も豊富だ。

 草薙護堂が降り立ったのは、鹿児島空港。

 羽田空港から一直線にやってきた鹿児島市は、桜島を望む景観から「東洋のナポリ」とも呼ばれる鹿児島県の中核市である。

 薩摩藩九十万石の城下町として栄え、現在は、九州第四位の人口を誇る。

 冬だと言うのに、気温は高く、東京から来た身としてはこの気候の違いに驚くばかりである。

「日本が縦長なんだってことを実感できるな」

「今日は暖かい日なんです。十六℃なんて、さすがにあまりないと思いますよ」

 となりで、スーツケースを引く晶が言った。

 式神である晶は姿を消すことができるが、大きな荷物となるとそういうわけにもいかない。

 駐車場まで出た護堂と晶は、そこで迎えを待つことになっている。

「どうだ、久しぶりの故郷は?」

「そうですね。懐かしい、と思います。まだ、あまり実感が湧きませんけど」

 五年ぶりの故郷。

 だが、その期間を語るのは、あまりに酷なことである。

 晶にとって、この五年は筆舌に尽くし難い地獄の日々であった。そこから解放されたのは、半年ほど前だ。

「お母さんか……大丈夫、かな」

 不安そうに、晶は呟いた。

 迎えに来るのは、五年前に失踪してから一度も話していない彼女の母親。連絡だけは、冬馬がしてくれていたはずで、こちらの事情を、ある程度は把握しているという。

 それでも、実際に会って話をするというのは晶にはとても重いことだった。

「まあ、大丈夫だろ。五年ぶりに娘が帰って来るんだ。戸惑いもあるだろけど、それ以上に嬉しいはずだ」

「そうでしょうか」

「ああ、そうだ。だから、心配しなくていいだろ」

 冬馬は、晶の母親は法道戦の後に連絡した際、晶の生存を聞いて泣き出したというから、晶の心配は杞憂だ。

「結局、電話できませんでしたし、いきなり会うの緊張するんです」

 晶は固い表情で、真っ直ぐ前を見つめている。

 よほど、緊張しているのだろう。晶は、空いた手で護堂のシャツの裾を握り締めている。

 それから十分くらい待っただろうか。

「晶……?」

 振り向いた先にいたのは、晶を大人にして、髪を肩甲骨の辺りまで伸ばしたような風貌の女性だった。

「え……?」

 その女性は、恐る恐るという感じであるが、晶のことを見つめていた。

「あ……お、お母さん」

 晶は、搾り出すように、そう言った。

「やっぱり、やっぱり晶なのね!? 本当に、夢じゃないのね?」

「うん、……お母さん」

「晶ぁぁ!」

 泣き崩れるように、晶の母親は晶を抱き締めた。

「お、母さん」

 晶は呆然として、どうしたらいいかと護堂に視線を投げかけてくる。とはいえ、母娘の感動の再会を護堂が邪魔するわけにも行かない。

 晶はしばらくそうして母親に身体を許すしかなかった。

 それから、晶の母親は娘を放して護堂に向き直った。

「あなたが、草薙護堂さんですね。冬馬からお話は伺っています。……娘を救ってくださいまして、本当にありがとうございました」

「そんな。俺は大したことはしていませんし。それに、すでにお聞き及びかと思いますが、娘さんは」

「式神の件なら冬馬から聞いています。それでも、母として娘が生きていてくれることのほうが嬉しいのです」

「お母さん……」

 感極まった晶が、涙を零した。

「あら、晶どうしたの?」

「だって、わたし……ッ」

 ぽろぽろと、晶の瞳から涙が零れ落ちる。

 式神となった自分、その前の過去。母親が受け入れてくれるか不安があった。だが、晶の母親はそれらの事情を知って晶を娘と呼んでくれた。それが、晶には嬉しくて仕方がなかったのである。

「よしよし、本当によく帰ってきてくれたね」

 晶の母親は晶の頭を撫でて、もう一度抱き締めた。

「お帰り、晶」

「ただいま。……お母さん」

 

 

 

 ■

 

 

 

 晶の実家は、鹿児島市の外れで小さな旅館を経営していた。家の後ろには山がある。鹿児島市の外れの外れである。

 晶の家は旅館を経営しているとはいえ、その規模は非常に小さい。本業はあくまでも呪術師である。

「お小遣い稼ぎにはちょうどいいんですよね」

 というのは、晶の母、高橋朱美。

 旅館といっても、呪術師専用の旅館である。呪術師の中には、その呪術の特性や仕事柄から一般のホテルに宿泊するのを避ける人もいるという。そういった呪術師にとっては、晶の実家のような呪術師に理解ある宿泊施設は、重要である。

「さ、お上がりください」

 朱美に通されて、護堂は晶の実家に足を踏み入れた。

「うわあ、懐かしいー! 全然変わってない!」

「今はもう年の瀬ですので、旅館のほうは閉めているんです。呪術師にとっては、年末は大切な時期ですからね。そちらに力を注がなければいけないのです。まあ、もともとそんなにお客さんは来ないので、大して変わりませんが」

 それは問題あるんじゃないかと思いながらも、本業というわけではないから問題はないのか。

 朱美の言うとおり、本当にお小遣い稼ぎのつもりでやっているのだろう。

「晶、荷物は玄関に置いておきなさい。草薙さんも、こちらでお部屋にお持ちしますので、楽にしてください」

「そうですか。ありがとうございます」

 護堂は晶と共に玄関に荷物を一纏めにして置いた。

 それから、居間に行く。

「今日はお客さんもいないので、どこでもいいみたいですけど、とりあえず普段使っているところでということみたいです」

 自分の実家なのに、晶はどこかよそよそしい。自分の記憶にある部分があればない部分もある。中に入って十分もすればそういった違いが見えてくるものだ。

 とはいえ、大規模なリフォームをしなければ間取りが変わることもない。

 居間がどこにあるのか、晶には分かったし、晶についていくことで、護堂もそこに辿り着けた。

「……て、あれ?」

 居間は典型的な和室。

 畳に砂壁。仏間兼客間が隣にあり、襖で仕切られている。部屋の真ん中には炬燵があり、廊下に挟まれているつくりなので、部屋の左右どちらからでも室外に出られる。

 晶が素っ頓狂な声を出したのは、何も部屋の様子が変わったとかではなく、足元に散らばった玩具が視界に入ったからである。

「……これ」

 晶は玩具を拾ってしげしげと眺めた。

 小さな車やヒーローの人形、そしてシル○ニアファミリー。

「なんで、こんな散らかって。あ、でも懐かしい」

「ん。これ、晶のなのか?」

「あ、ええと、昔はよく遊んでいたなと……」

 慌てて、晶は服を着た兎の人形を手放した。幼い頃に遊んでいた玩具を見られるのは、少し恥ずかしかった。

「ふうん、じゃあ、お下がりなんだ」

「はい? 何がで……」

 晶の言葉は最後まで続かなかった。

 晶と護堂が入ってきた引き戸の反対側の引き戸は開け放たれているのだが、戸の影に隠れて小さな女の子が二人、こちらの様子を窺っていたのである。

「うぅええ?」

 晶は変な声を出した。

「ん? あの二人は晶の妹じゃないのか?」

「し、知りません。聞いたこともないんですけど」

 晶は困ったように、少女たちを見る。

 そのとき、朱美が部屋に入ってきた。お盆に麦茶とみかんを乗せている。

「お、お母さん! あの、これは?」

「あら、まったくもう」

 朱美は散らかった部屋を見て、目を見開いた。

「こら、(きよみ)(さや)。ちゃんと片付けなさい!」

「きゃあ、怒った」

「にげねば」

 どたどた、と少女たちは走り去っていく。

 朱美はため息をついた。

「すみませんね。わたしが目を離した隙に遊んでたみたいで」

「いえ、あの。今のは晶の妹さんということでいいんでしょうか?」

「はい、そうなりますね」

「なるの!? お母さん。わたし、聞いてないよ!?」

 驚いた晶が母親に言った。

「そりゃ、五年も家にいなかったんだから仕方ないでしょ」

「あ、うん。まあ、確かに」

 晶は反論することもなく、静々と姿勢を正して炬燵に入った。

 そうしている間にも、晶の妹、澄と清はこちらの様子を窺うために戻ってきていた。

「ほら、澄、清。こっちにいらっしゃい。お姉ちゃんにご挨拶して」

 朱美は澄と清を呼んだ。

 とことこと、澄と清は朱美のところにやってきた。

 大きな瞳で、晶を興味深そうに見ている。

「ほら、お姉ちゃん」

「お姉ちゃん?」

「おねえちゃん?」

「あ、う、うん」

 晶は頷いた。

「おー、帰ってきたの?」

「とうきょうのがっこういってたんだよね?」

「え、うん。そうかな。あはは」

 炬燵を半周して、少女たちは晶の膝元にやってきた。

「その娘たちには、あなたは東京の学校に言ってるんだって教えてたの。いつかは本当のことを言わないとって思ってたんだけど、嘘が現実になるとは夢にも思わなかったわ」

「そ、そうなんだ。そうか、妹かぁ」

 晶は頬を緩ませて、澄と清の頭を撫でている。二人ともおかっぱ頭で、前髪を髪留めで角のように立てている。苺のワッペンがついたゴムが澄、スイカのワッペンがついたゴムが清だという。

「これね、みかん。お姉ちゃん食べる?」

 澄がみかんの皮を剥いて、晶に一房差し出した。

「あまいよ」

「うん、じゃあ貰おうかな」

 晶は澄が差し出したみかんを口に入れた。

「おいしー?」

「うん、美味しいよ」

「これ、みるちゃん」

 清は兎の人形を持ってきて晶に見せる。

「それ、ユキちゃん……」

「?」

「あ、いや、なんでもないよ。あはは……あ、そうだ。二人はいくつになるの?」

 晶は誤魔化すようにそう言った。

 だが、澄と清は晶の質問の意味がわからず首を傾げる。

「歳、年齢」

 「いくつ」という言葉が難しかったようで、晶は言い換える。

 すると、清が指を三本立てて、

「よんさい」

 思わず、晶は笑ってしまった。

「指が一つ足りないよ」

「あ、そうか」

 清は小指を追加して四本の指を立てた。

「この人は?」

 澄が護堂を指差した。

「あ、人を指差しちゃだめ」

 晶が澄の手を引っ張って抱き寄せ、澄を膝の上に座らせた。

「俺、草薙護堂って言うんだ。よろしくね」

「ごどう?」

 澄が首を傾げる。

「ゴドー」

 清は護堂の傍まで歩み寄った。

「おねえちゃんとはどんなかんけい?」

「こぅら、何言ってるの澄ちゃん!?」

「?」

「ああ、違う。清ちゃん!」

 何事という感じで晶を見上げる澄と、護堂の肩を突きながら踏み入ったことを尋ねる清。晶の注意は当然澄には関係のないことだったが、双子ということで呼び間違えてしまった。

「ちゅーした?」

「それは、秘密だなぁ」

 護堂はあえて明言を避け、落ち着いて対処した。顔を赤くする晶と異なり、子どもをあしらうのは上手かった。

「おー、そこはかとなくおとななかんじ」

「そこはかってよく知ってるな」

「なにゆえにひとはおとなになるのか」

「難しいなぁ、それは」

 護堂は清の頭をぐりぐりと撫でながら微笑みかけた。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 夕食後、キッチンで洗い物をする朱美のところに晶がやってきた。

「あら、晶。どうしたの?」

「いや、なんとなく。こっちに来るのも久しぶりだし」

「そう。あ、……あの娘たち、居間に置いておいても大丈夫? 草薙さんに失礼がないといいんだけど」

「大丈夫みたいだよ。澄ちゃんも清ちゃんも先輩のこと気に入ったみたいだし」

 今、護堂は子ども二人の相手をしているところである。居間と仏間を使って肩車やプロレスごっこに興じている。

「本当。いやぁ、カンピオーネというからどんな人かと思っていたのだけど、いい人そうでよかったわ」

「そうだね。うん、きっと他の魔王様方に比べればずっとまともだと思うよ」

 実際、護堂も状況次第ではカンピオーネの呼び名に相応しい活躍をする。だが、みだりに人に権能を向けることはない。護堂が力を振るうのは、それだけ差し迫った事態に陥ったときだけである。

「それで、実際にはどこまでいったの?」

「はい?」

 朱美が何を言っているのか分からず、晶は聞き返した。

「娘が男を連れてきたのよ。気になるでしょ」

「い、いやいや、なんてことを!? 心配するのが普通じゃないの!?」

「高橋家の娘を今さら心配してどうするのよ」

「ど、どういうこと?」

「あれ、そうか。知らなかったっけ?」

 不穏なことを言った朱美に晶が聞き返すと、朱美は水道のレバーを下げて水を止め、困ったというように頬を掻いた。

「そっか、五年前はまだ小学生だったしね」

「何が?」

「いや、大したことじゃないのよ。ただ、高橋家の女は代々経験が早いってだけで」

「……それは結構重要なことじゃないかな」

 晶は呆れたように言う。

「それに、代々って言っても、江戸時代と今を比べても」

「あら、あなたの曾お婆ちゃんから見てもみんな十代中頃には済ませているわよ」

「そんなことを何事もないかのように娘に言わないでよ!?」

 晶は顔を赤くして怒った。

 だが、朱美は微笑んでいるだけで、晶の言葉などどうということでもないかのようである。

「その分じゃまだ未経験なのねぇ」

「当たり前。まだ、十五だよ?」

「まだ? もうでしょ。わたしなんてお父さんと初めてしたのは十四よ」

「犯罪犯罪犯罪! 本当に犯罪! お父さんと歳離れてるでしょ! 何してんのあの人!」

 晶の父親は朱美と二十近く歳が離れている。

 今までまったく気にかけてこなかったが、よくよく考えれば、晶の父親は社会的にまずいことをしていたことになるのである。

 高橋朱美。今年で三十一になる。三児の母とは思えぬ若々しさだが、実際若いのである。

「まあ、そう言わないの。恋愛っていうのは、勝負事だからね。女だって策を弄する必要はあるでしょ。まあ、既成事実ってのは大事よ」

 晶を指差しながら朱美は言った。

「……はあ、もういい。お母さんの株大暴落。ところで、お父さんは?」

「あの人なら今、出張で東南アジアよ。なんでも、三年前に突然現れた島が、一晩で消えてなくなったとか」

「なにそれ?」

「さあ? でも神様同士の戦いがあったみたい。昨日、お父さんが電話で言ってたわ。あの人が地元の人から聞いた話だと、夜中なのに島が黄金に輝いて見えたとか。空から白い光が降り注いで、どっかん、とかね」

 『まつろわぬ神』同士の戦い。

 珍しいと言えば珍しいが、ないということもない。晶もこの半年で幾度も似たような経験をしている。一緒にいるカンピオーネが神様の戦いに介入したこともある。

「その話、わたしから先輩にしておく」

「そうね、そうしてくれると助かるわ」

 日本に被害が及んだり、誰かに助けを求められたりしなければ、護堂も率先して戦いに赴くことはないだろうが、東南アジアでの出来事だ。下手をすれば、火の粉が降りかかってくるかもしれない。

「せっかくだから、草薙さんと裏山行ってきたら?」

「は、いや。なんで」

「高橋家について知ってほしいでしょ。それに、あの方は正史編纂委員会の頂点にいらっしゃるのよ」

「む、むぅ……」

 それは確かに。

 高橋家がこの地に家を建てているのには理由がある。

 この家の裏にある山は鹿児島県全域に連なる山地の一部であるが、その中に霊地を隠し持っているのである。

 先祖代々、その霊地を守ってきたのが高橋家なのだ。

「ついでに湧き水汲んできて」

「それが目的か」

 にこにことした朱美は、晶に空のペットボトルを渡した。

 

 

 

 □

 

 

 

 そして、護堂は晶に誘われて山道を歩いていた。

 冬なので、日が暮れるのは早い。空は深い群青色で、山道はすっかり真っ暗だ。鹿児島市内が一望できる夜景には、確かに価値がある。

 晶は護堂の前を歩いている。肩には大きめのショルダーバッグを背負う。

「それで、見てもらいたいものって、なんだ?」

「うちの家宝です」

「家宝?」

「はい。代々守ってきた、霊地。小さいんですけど、それでも土地の力は優れているんです」

「へえ、霊地か」

 そういわれて見ると、山道の奥から呪力が流れてくるのが分かる。

「普段は三重の結界で呪力の漏洩を防いでいます。今は二つ目の結界を越えたので、先輩ならもう呪力を感じられますよね」

「そうだな。向こうのほうから強い力を感じるな」

 護堂は道を外れた山の中を指差した。

「お見事です。ここが最後の結界の入口なんです。普通は、呪術師でもそう簡単には見つけられないんですけど」

「ガブリエルのお陰だな。それに、日光の結界も似た感じだっただろ」

「あっちの結界は、ちょっとレベルが違うと思うんですけど。まあ、秘匿という点では同じですね」

 カンピオーネである護堂からすれば大差ないのだろう、と晶は結界を緩めてその中に入っていった。

 鬱蒼とした山の中を歩く。

 十分ほど歩くと、一気に視界が開けた。

「え……これ」

 護堂は驚いた。

 そこには真っ白な湯気を出す、温泉があったのである。

 広さはかなりのものになる。向こう岸まで三十メートルはあるのではないか。

「山の中に温泉?」

「鹿児島はもともと温泉県ですよ。大分の次に温泉が多いって聞いたことあります」

 晶はカバンを降ろしてそう言った。

「でも、霊地って」

「ここが、そうです。我が家の管理する霊地は、霊泉でもあるんです。科学的な効能もそうですが、ここには本当の意味で心身を癒す力があるんです。残念ながら、カンピオーネの先輩には効かないかもしれませんが」

 それは本当に残念だ。思わぬところで足枷になるカンピオーネの体質に護堂ががっくりときた。

「あの、それでですね。……その……」

「どうした?」

「ああ、いや、わたし、呪力で生きてるじゃないですか。……それで、その、こういうところと、相性がよくて……」

 晶は言葉に詰まりながら、しゃがみこんでカバンのチャックを開けた。中に入っていたのは、白いタオル。

「せっかく、ここまで来たんですし、……お母さんが、タオル、持たせてくれたんです。えと、……二人分」

 上目遣いに晶はどうするか護堂に問う。

 どうと言われてもどうしたらいいものか。少し悩んだが、ここまでお膳立てされて入らないというわけにもいかない。

 だが――――。

「ふ、二人分って、俺と晶ってことだよな?」

「はい」

「俺は、その、確かに温泉に入りたいけど、そうすると一緒に入ることになるだろ?」

「大丈夫です。あの、ここは広いですし、タオルを入れてもいいので隠せますし」

 隠せるからいいということでもないのだが、晶が大丈夫だというのなら……。

「分かった。とりあえず、俺のタオルは……」

「はい。これを使ってください」

 晶は、カバンからタオルを取り出して護堂に渡す。

「わたし、向こうで着替えるので、見ないでくださいね。先に入ってくださっても構いませんので」

「あ、ああ。分かった。俺も、向こうで着替える」

 護堂はどもりながらも頷いて、晶と反対方向の木陰に向かった。

 

 

 妙なことになったと晶は、思った。

 きっと、護堂も同じように思っているだろう。まさか、一緒に温泉に入ることになるなんて、思いもしなかった。

 鹿児島に戻ってから、晶は次々と昔のことを思い出していた。

 薄ぼんやりとしていた過去の記憶が、繋がって明確な形になる。この場所に来たのは、いつ以来だろう。最後に来たときには、隣に祖母がいたと思う。

 木陰で服を脱ぎながら、当時のことを思い返す。大好きだった祖母に手を引かれ、山道を歩いた日のことを。

 あのときは、足が痛くてすぐに弱音を吐いたのだった。

 当時の晶はまだ幼く、しかも今と違って特別な力を持っているわけでもなかった。晶の身体能力が異常なまでに高いのは、そもそも、竜骨や呪的処理によるもので、今はそれに加えて護堂の式神という特殊な立ち位置となった。人から外れた晶は、蘆屋道満の人形だったときよりも格段に力を増している。晶の身体は、権能の塊のようなものだからだ。だが、道満に囚われる以前の晶は別。運動会の徒競走ではいつも下から数えたほうが早く、体力測定の長距離走では先頭集団から何周も追い抜かれていた。道満による記憶操作で、その辺りをすっかり忘れていた、というよりも気にしなかったのだが、最近、人だったときのことを少しずつ思い出していた。

 今となっては信じられない。

 この程度の山道で、何度も引き返そうとしたり、しゃがみこんだりしたことが。晶が文句を言うたびに、祖母は困ったような顔をして、それでも晶を連れて行こうとしたのだ。

 それでも、ここに辿り着いたときは感動したのを覚えている。霊地がどうとかはどうでもよくて、だけど、ここがとても大切な場所だということは理解できた。

「……そのとき、お婆ちゃんが何か言ってたような気がするな」

 何分、ずいぶんと昔の話だ。五年間の苦しみのせいで、記憶が飛んでいる部分もあるし、普通の人間でも過去のことを完全に記憶していることはないだろう。

 だが、祖母が言ってきたことはなんだったか。気にしながら晶はカバンからタオルを取り出して身体に巻いた。

「うん?」

 カバンに何か入っているのに気がついた。カバンに入っていたのはタオルだけではなかったのだ。

「何これ」

 晶はそれを取り出した。そこそこの大きさの箱だった。

「『激うすごむふぁくとりー 一ダース三パック入り』…………あひやぁぁあああ!?」

 晶は顔を赤くして奇妙な声を出した。

 晶が手にしたそれは、紛れもなく――――。

「晶、どうかしたか?」

 晶の悲鳴を聞いた護堂が温泉のほうから声をかけてくる。

「ななな、なんでもありません! 虫が、虫がいたんです!」

「虫? そうか、冬なのにいるんだな」

 護堂はそれで納得したようで、それ以上は何も言わなかった。

「お母さん。なんて物入れてるの。まったく。…………一ダース三パックって、三十ろ、げほっげほっ、イッ」

 咽た。それから、尻餅をついて勢い余って背後の松の幹に後頭部を強打した。

「~~~~~~~~!」

 涙目になって晶は頭を押さえた。頭を打った衝撃で目の前に閃光が走ったかのようになった。

「ッ!」

 そのお陰か、祖母の言葉が脳裏に蘇った。

 痛みが引いてから元凶の箱をカバンに仕舞いこみ、しっかりとチャックを閉めた。

 

 

 

「先輩、もう入ってますか?」

「ああ、入ってるよ」

 晶に声をかけられて、護堂は返事をした。

 霊泉というからどのようなものだろうかと思ったのだが、きちんと整備されていて、入浴を念頭に置いた設計になっていることがすぐに分かった。

 時代的にはいつ頃になるのだろうか。

 湯に強い呪力が溶け込んでいるのを感じる。困ったことに、この呪力は護堂の強すぎる呪力に弾かれて、温泉の霊的効能を発揮してくれない。

「じゃあ、わたしも失礼します」

 晶が護堂の隣に入ってきたのである。

「え、えあ?」

 護堂は思わず後ずさった。

「お、お前、広いから大丈夫って言ってたのに、こんな近くに来たら意味ないだろう!」

「い、いいじゃないですか。ちゃんと、隠してますし」

「そりゃそうかもしれないけどな」

 護堂も晶も隠すべきところは隠している。だから、問題ないといえば問題ないのだろう。

「あの、もしかして、わたしが近くにいるのは嫌、でしたか?」

 不安そうに晶は尋ねてきた。

「あ、……嫌じゃないぞ」

「よかったです」

 晶はほっとした様子で、肩まで湯に浸かった。護堂もその隣に座る。

「それにしても、温泉持ってるなんてな」

「驚いてくれましたか?」

「ああ。由緒正しい庶民の草薙家からすれば、信じられないの一言だよ」

 護堂は、極力晶のほうに視線がいかないように努力していた。

「ふふ、……我が家の自慢です」

 すぐ隣に晶がいる。

「霊泉か。そんなのもあるんだな」

 護堂は、法道を倒した後、正史編纂委員会の長に就任したのだが、正直なところ呪術の知識はからっきしだ。これまで関わったものなら分かるが、使えるわけではなく、霊泉といったものに代表される、未だ護堂の理解が及ばない領域も多々ある。

「お祖母ちゃんに言われたんです。ここは、高橋家の秘宝。たとえ親友であっても教えちゃいけないって」

「そこまでのものか。じゃあ、俺に教えたのまずかったんじゃないの?」

 護堂の心配を他所に、晶は笑って首を振った。

「いいえ、先輩は大丈夫なんです」

「なんだそれ。親友でもだめなのに、なんで俺はいいんだよ」

 それほどまでに大切にして守ってきた家宝。護堂に打ち明けたことに意味はあるのか。

 晶は、頬を朱に染めた。

「知りたいですか?」

「ああ、知りたい」

 護堂は頷いた。

「それは、添い遂げると決めた相手ができたら、連れて来てもいいって言われたからです」

 恥ずかしそうにした晶は言ってから俯いて、口元まで湯に浸かった。

 そんなことを言われた護堂も恥ずかしさは同じ。唖然とした後に目をそらし、とりあえず空を見た。

「そうか。……うん、まあ。晶に愛想尽かされないように頑張んないとな」

 護堂は、そう言うのが精一杯だった。

「先輩……」

 そんな護堂に晶ははにかむような笑みを見せた。

「愛想なんて尽かしませんよ」

 晶は、護堂の肩に頭を預けるようにした。

「ずっと一緒です。……わたしは、先輩の式神なんですから」

 

 

 帰り道、日が落ちたからか、来たときに比べて気温はぐっと下がっていた。

 吐息は白く、風は肌に冷たい。

 来た道を、二人で並んで歩く。

「あ、先輩。雪ですよ」

 晶が空を見上げて言った。

 護堂が釣られて見上げると、白い綿のようなものが空から落ちてくる。ゆっくりと風に流されるように。

「本当だ。鹿児島でも降るんだな」

 九州の南端だから、まったく降雪はないものだと思っていた。

「ちょうどよかったですね。ずいぶんと熱くなりましたし、ちょっと冷えてるくらいがいいんです」

「そうだな。雪が降ってるのに、寒いとは思わないし」

「ですよね」

 雪は積もるほど降ってはいない。

 地面に触れた傍から消えていく。湯に浸かって熱くなった身体には、雪の冷たさが心地いい。

「ありがとうございました」

「どうした、いきなり」

「帰ってこれたのは、先輩のお陰ですから。妹ができてるなんて思わなかったですし、お母さんにも会えました。先輩がいなければ、どうにもなりませんでした」

 護堂の権能で命を繋いだ晶。自惚れかも知れないが、護堂は自分のために命を懸けてくれたのだと思う。なら、晶も護堂のために、拾った命を使わないといけない。

「これからは、ご恩に報いるために頑張りますから」

「そうか。なら、これからも頼むよ」

「はい」

 晶は自然と護堂に寄り添って歩いた。

 優しい充足感に包まれて、二人は家路についた。

 




お久しぶりです。
今回は後日談ということで、高橋家の実家を登場させました。晶のことがあったので、実家の話もいるかなと思いました。
その他裏設定。
晶の妹はともに、『晶』と同じく『澄み切った』という意味がある漢字から決めました。
晶父は自分が神職を勤める神社で働く巫女に手を出す遊び人でしたが、晶母(16)の策(避妊具の先に切れ込み)に掛かってなし崩し的に人生に墓場に行きました。今回晶に渡したものにも、同じ仕掛けが施してありました。晶母は高校中退です。
高橋家の温泉の周りは翌年鹿の異常繁殖が起こります。


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短編 年末年始のアレと幼馴染

 進学校である私立城楠学院も、年末年始に近い冬休みを補習に費やすような真似はしない。草薙護堂以下、いつも一緒にいるメンバーは、クリスマス前には総じて冬休みに突入していた。

 とはいえ、特別な何かがあるわけでもない。

 強いて言えばサトゥルヌス関係の事件があったが、それもたった一日で解決した。まつろわぬサトゥルヌスを生み出す意思を持つ神具が、なにやら呪詛を撒き散らそうとしたが、護堂と晶には通じず、その場で処分されてしまったのである。

 戦いとも呼べず、運動にもならない拍子抜けした事件だった。

 神獣や神具程度では護堂の敵にはならないということである。

 

 上空に流れ込んだ寒気によって、珍しく雪が舞った二十七日の昼。

 草薙家でヒィヒィ言いながら泣きそうな顔になっているのは晶であった。

 右手にはシャープペンシル。向き合うのは数学のテキストである。

「なんていうか、分かってたけど酷いわね」

「ぐぅ……」

 ため息をつきながら隣に座る明日香が言った。

 私立城楠学院の冬休みには補習がない。が、晶のような極一部の、極めて成績に不安がある生徒には特別に冬休み課題が増量される。

 

 ――――一足早いクリスマスプレゼントだ。

 

 数学担当の先生にそう言われて手渡されたテキストは、およそ三十ページ。一瞬、晶の意識は飛びかけた。冬休みの二週間でやりきるには、毎日二ページ進めなくてはならない。

 多くの人は、これを大したことないと思うだろう。だが、晶にとっては重労働だ。

 神獣だろうが『まつろわぬ神』だろうが、おそろしくはない。だが、数学だけは別だ。

「ま、晶の知識って小学生止まりだし、こうなるのは仕方ないって分かってるけどね」

「分かってるなら加減してくだひゃい」

「分かっているのはわたしたちであって先生じゃないしね」

 机に突っ伏してギブアップを宣言する晶に、明日香は呆れ混じり同情混じりの視線を投げかける。

 晶は、五年前に法道に拉致されてから半年前までずっと出雲の洞窟内に監禁されていた。当然、知識はそこで止まっている。法道が製作した肉体に、不審に思われずに活動できるよう、最低限の知識を与えてはいたが、それは呪術に必要なものが大半で、数学は中一レベルに届くくらいでしかなかった。

「よく、それで進学校でやっていけるわね」

「文系科目は完璧なんですよぅ……」

 歴史、英語、国語。この辺りは呪術にも必須の知識だ。よって、晶でもなんとかなるし、かなり深いところまで理解できているので、古文漢文は大学卒業レベルに達している。その反面理系が壊滅しているので、教室では文系バカ(誉め言葉の一つ)と呼ばれていたりする。

 教師からも文系科目だけで勉強していないで理系にも力を入れろと言われている。

 それに、晶があの学校に入学したのは政治的な理由があってのことで、成績は後回しであった。漫画でよくある突然の転入生というシチュエーションだが、その学校でやっていける学力がなかった晶は、四苦八苦する羽目になった。

「はい、じゃあ次。二次関数ね」

「点Pだけでも無理なのに点Qとか」

「はいはい、妹さんたちに、お姉ちゃんバカだったの? って言われたくなければちゃんと勉強しなさい」

「屈辱。それは屈辱です」

 故郷の妹を思い出し、晶はそれだけは回避せねばとテキストに向かう。

 姉としてのプライドが、妹たちに甘く見られることを拒否したのである。

 

 

 

 

「ありがとうございました。先輩、明日香さん」

 とりあえず、護堂と明日香の助けを借りて、テキストを進めるだけ進んだ晶は、抑揚のない声で礼を言った。

 自分の力で問題を解くことができない晶は以前のように護堂にヘルプを要請。護堂は、理系魔人の明日香にも援軍を要請して二人掛りで交代で晶の面倒を見たのである。

 玄関で靴を履いた晶の顔を見ると、とても疲れているのが分かる。

 外はオレンジ色の夕日に照らされている。午前中に始めた勉強が、ここまで延びるとは思ってもいなかった晶は、エネルギーを使い果たしたかのような有様である。精神的にずいぶんと痛めつけられたのだろう。

「そうだ。先輩。年末年始はどうされますか?」

「年末年始? そうだな。草薙家は……毎年騒がしいからな」

 遠い目をする護堂に、晶は首を傾げる。

「ああ、コイツの家ね。毎年年末年始に親戚が集まって挨拶するんだけど、二次会は必ず何かしらのギャンブルになるのよね」

「今年こそは抜け出したいと思う」

 もっとも、そのお陰で護堂の懐はかなり暖かい。勝負運の強さはカンピオーネになる前からで、年末年始は稼ぎ時でもなる。だが、それでも酒を飲んでの大騒ぎは護堂にとってあまりいい気持ちのするものではなかった。

「そ、それでしたらどうですか? 一緒に初詣でも!」

「言うと思ったけど、却下」

 にべもなく明日香が晶の提案を退けた。

「なんでですか!?」

「だって、年末年始は媛巫女の集まりがあるんでしょ? ほら、あの大祓ってのが」

「あ……そういえば」

 特に関わったことのない行事なので、忘れていた。

 晶は媛巫女であるが、その経歴は空白になっている。知識でそういったものがあると知っているが、参加するのは今年が始めてのことで、詳しい話もまだ聞いていない。ただ、晶には普通の媛巫女とは異なる点が多いため、ただその場にいればいいという非常に投げやりな扱いになっている。そのため、晶の中の優先順位は低い。

「大祓って、聞いたことがあるな」

「年に二回の除災の神事です。毎年六月と十二月に行われていて、六月に行われるのは、夏越の祓なんて言いますけど。茅の輪潜りとか有名ですよね」

 要するに、半年に一度の穢れを落とす神事というわけだ。

「明日香さんは?」

「あたしは巫女じゃないし、参加はできないわよ? その代わり、家の手伝いがあるけど」

「すし屋は年末年始が稼ぎ時だからな」

「そうなのよね。夜だけよ。暇なのは」

 明日香の家は『すし徳』というすし屋を営んでいる。非常に人気のある店で、時折芸能人もお忍びでやってくるという。

「今年は大手の芸能事務所とかからも注文が来てるからね。てんやわんやの大忙しでしょうね。事前に仕込んでおくわけにもいかないからさ。生ものだから」

「式神を使えれば人手も簡単に補えるのにな」

「本当よね。いっそ、ばらしちゃおうかな」

 薄ら笑いを浮かべる明日香は、本気でそうしそうな気配を漂わせている。

 護堂は止めることなく、それもいいじゃないか、と適当なことを言った。

 そんな風になんということのない会話をしていると、携帯の着信音が聞こえてきた。

「あ、失礼します」

 晶の携帯だったようだ。晶は携帯を持ったまま、一旦ドアを開けて外に出た。それから数分ほど話し込んで、再びドアを開けて草薙家に入る。

「あの、先輩。叔父さんからだったんですけど、例の大祓の儀に、先輩も出席しないかって」

「俺も?」

「はい。先輩、正史編纂委員会の長ですから、是非、日本呪術界の一大行事に出席していただけないかということなんですけど……?」

「なるほど……」

 確かに、護堂は正史編纂委員会の長に就任した。法道が好き勝手に暴れた結果、日本各地の霊地が多大な影響を受け、自衛隊基地も一つまるまる使用できないくらいの破壊を撒き散らした。そういったことから発生が予想される内外の不穏分子に対処するため、護堂を長に迎えて組織の引き締めを図るのが馨の意図であり、護堂もまたその意を受けて、長の立場を引き受けた。

 しかし、護堂は今のところ仕事らしい仕事をしておらず、正史編纂委員会の舵取りは馨を中心に行われている。

「ということは、俺の初公務になるのか」

「それでは、出席でもいいんですか?」

「ああ、出る」

 護堂はあっさりと了承した。何よりも、草薙家の厄介なイベントに参加しなくていいのがいい。

「それでは、その通りに返事しますね」

 晶はそう言って、どことなく嬉しそうに顔を綻ばせた。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 大祓の当日、護堂は早朝に家を出た。

 まず晶と合流し、上野駅に向かう。その途上、

「なあ、明日香。お前、こっちに来て大丈夫だったのか?」

 護堂は明日香に尋ねた。

「なんか、お母さんに言ったら、あっさり……」

「へえ、なんか拍子抜けだな」

 護堂はそれ以上突っ込まなかった。

 ちなみに明日香は詳しい内容を言ったわけではなく、護堂と出かけるということしか言っていない。だが、明日香母は明日香も驚くほどあっさりと快諾したらしい。避妊具を持たせようとする辺り、完全に誤解しているのだが。

 何れにせよ、明日香の参加も認められた。巫女ではないので、儀式に参加はできないが、それでも明日香の知識は法道から与えられたものである。失われた古代の呪法にも精通する明日香は、実は正史編纂委員会にとっても手放せない逸材なのである。

「なんにしても、いつものメンバーが揃うわけか」

 護堂は、すっかり見慣れた面々と年末を過ごすことを自然に受け入れていた。

 

 

 集合場所は万里谷家だ。

 向かうのは虎ノ門。駅から徒歩十分という好立地に万里谷一家が暮らすデザイナーズマンションがある。

「ようこそ、おいでくださいました!」

 元気よく出迎えてくれたのは、祐理の妹のひかりだった。

「久しぶりだな。ひかり。元気そうだな」

「はい。おかげさまで風邪もなく、新年を迎えられそうです!」

 小学生とは思えないしっかりとした受け答えをしながら、ひかりは一向をリビングに通す。

 晶が人気のないリビングを見回す。

「清秋院さんは……」

「もういらしてますよ。恵那姉さまは、何日か前からお姉ちゃんの部屋に泊まっているんです」

「そうなんだ。でも、どうして?」

「秩父に帰るのが面倒だと……。恵那姉さま、お姉ちゃんがいなくてもわたしと遊んでくれたりしましたから、自然と家族同然の扱いになっているんです」

「簡単に想像できる光景だな」

 恵那の人付き合いの上手さは異常とも言える。物怖じしないくせに空気を読む力もある。だから、気を許した相手の懐にあっさりと入り込んで警戒感を霧散させてしまうのだ。

 胸襟を開いて接してくる相手を無下にする者はそう多くない。恵那は受け入れてくれる相手を本能的に選び、適切な対応をしていると言える。

 万里谷家のリビングはおよそ十畳ほどの広さで、日当たりがよく、暖房も効いているため非常に快適だ。

「出発まで時間もありますし、どうぞご自由にお寛ぎください」

 ひかりに言われて、護堂はソファに腰を下ろした。祐理と恵那は出発の準備をしているらしく、あと十分ほどはかかるらしい。

 年頃の女性なのだから仕方ない。護堂は特に文句を言うこともなく、言われるがままに寛いだ。

 十分後、祐理と恵那がやってきた。

 祐理は私服姿だが、恵那はいつもの制服である。

「冬休みだぞ?」

「服選ぶのめんどくさいよ」

 分からなくもないが、女の子が言う台詞かと護堂は指摘したくなった。が、その気持ちは護堂も理解できるし、恵那が衣服を選ぶ姿が想像できないこともあり、口を噤んだ。

「すみません、草薙さん。遅くなりまして」

「いや、いいよ。時間もあるしね」

 大祓が始まるのは午後になってからだ。隣県まで移動しなければならないと言っても、そう何時間もかかる距離ではない。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 埼玉県さいたま市緑区にある古社が祭場となっている。移動手段は、冬馬が運転する自動車だ。

 埼玉県と言えば、万里谷家の本家がある県で、祐理とひかりにとっては慣れ親しんだ土地である。二人が両親と共に東京で暮らしているのは通勤と通学に便利だからであり、本来は埼玉県民なのである。

 祭場となる武蔵野の古社の周辺は都心に近いわりに非常に緑豊かな環境に恵まれていた。田畑や湿地に広い鎮守の森と、自然が生き生きと息づいていた。

 

 そんな中で、やや緊張した面持ちの祐理に護堂は問いかける。

「なんでそんなに緊張しているんだ?」

「え、そ、そう見えますか?」

「ああ、そう見える」

 祐理は声を詰まらせている。これからライオンと直に接しなければならないリポーターのような面持ちだ。

「ハハハ、それはご覧になっていれば分かりますよ」

 答えたのは冬馬だ。

 もうすぐ三十路だという彼は、皺の付いたスーツに身を包んでいる。だらしない格好で、当初は大人としてどうなのだろうかと思っていた護堂だが、最近はこの姿が実はまやかしではないかと思えてきた。

 なんと言っても彼は凄腕の忍だ。正面から戦うのではなく、心理戦なども手がける。この格好も、「人は見た目が九割」を悪用するためのものかもしれない。

「まあ、始まればすぐに分かりますよ。正直、私も祐理さんの立場になったら面倒くさいと思いますしね」

「あの、わたし面倒くさいとまでは……」

 と、冬馬の無責任な発言に反論するが、嘘をつけない性格からか次第に尻すぼみになってしまった。

 

 

 

 

 集う媛巫女は五十人弱で、十代前半から二十代中頃である。

 その中にはひかりも混じっている。だが、祐理と恵那、馨の姿はない。

「祐理さんと恵那さんは媛巫女の筆頭ですから、他の娘たちとは異なる準備をしなければならないんです」

「じゃあ、万里谷が緊張していたのは、それが理由?」

 確かに祐理は人の上に立って物事を進めるタイプではない。彼女は縁の下の力持ち。支えとなるタイプである。だが、冬馬はにやりと笑って首を振る。

「それもありますが、それだけではありません」

 とても気になる。

 この飄々とした青年でも面倒だと言わしめる状況がどのようなものなのか。

「ところで晶さんは?」

「まだ体調が悪いとかで明日香と一緒に外です」

「了解です。しかし、権能で生成された式神なのに、体調を崩すんですね」

「いえ、あれは、体調を崩すというより……」

 むしろ酔っていたような感じだった。

 この社に近づいてからずっと、晶は呪力を乱し、制御に四苦八苦していた。到着してからは異様にテンションが上がり、ハイになってしまった。その間、梅の花が急速に開花するなど、周囲に影響を与えるほど呪力を垂れ流していた。

「ふむ、やはりココが影響しましたかね」

「どういうことですか?」

「ここの祭神はクシナダヒメなんですよ。晶さんの核も、クシナダヒメの竜骨なのでしょう?」

「そういうことですか。それであんな風になってしまったわけですか」

 一言で言えば躁鬱。社の中では異常なハイテンションで、外に出るとその反動から酷い欝状態になってしまうのである。晶は護堂の式神であり、その能力は並の呪術師など一蹴してしまえるほどである。そのような人物が躁になったら、周囲にどのような悪影響を与えるか分からない上厳粛な儀式の邪魔になるのは確かなので、明日香に伴われて駐車場に戻っている。

「明日香ならなんとか押さえ込めると思うけど」

「彼女の呪術の知識はちょっとした図書館規模ですからね。禁術から失われた秘術まで様々。晶さんの呪力の暴走を止めるのは簡単ではないと思いますが」

「晶が本気で抵抗すれば無理ですけど、今は協力的ですから。というか欝状態ですし、抵抗する気力もないですよ」

「……本当にご迷惑をおかけします」

 冬馬は姪が起こしたトラブルを申し訳なさそうに謝罪する。

「晶さんの撒き散らした呪力には豊穣系の力があるというのは、新しい発見でしたが……」

「クシナダヒメは、『まつろわぬ神』になったら豊穣神になるんでしょうか」

「そうなるでしょう。何せ、稲の神様ですから」

 さすがの冬馬も、自分の姪が稲の神様が零落した神祖と同じような立場になるとは思わなかっただろう。

「と、いらしたようです」

 冬馬が視線を走らせる先には祐理と恵那と馨がいた。

 祐理と恵那は常とは異なる格好をしている。白衣と袴に加えて薄手の千早を纏っている。頭には華々しい冠と簪をつけている。そして、馨はなんと神主姿だ。

「まあ、誰もあの人の女装姿なんて見たくないですからね。特にお嬢様方は」

 そう言う冬馬の視線の先では黄色い声を上げた媛巫女の一団が馨を取り囲んでいた。さすがの人気だ。沙耶宮馨は日本呪術界最高の血統を持つ由緒正しい家の当主であり、高校三年生ながら正史編纂委員会の事実上の頂点に座して日々組織運営に当たっている。

 馨はこういった状況を楽しんでいるのか、笑顔を媛巫女たちに向け、会話を楽しんでいる。彼女は紛れもない女性だが、護堂にナンパ旅行を提案するような好事家なのである。

 そして、ここにきて祐理が緊張していた理由を察した。

 祐理と恵那もまた媛巫女の集団に取り囲まれていたのである。

 気の毒になるくらいの質問攻めにあっている。姦しい女子たちの食い物にされている。祐理も恵那もこういった騒ぎには慣れていない。祐理は律儀に返事をしようとするが、祐理が返事をするまえに二つ、三つ続けて質問が投げかけられている。恵那は面倒くさいという表情を隠すことなくぞんざいな扱いをしているのだが、そんな扱いを受けても媛巫女たちはきゃあきゃあと嬉しそうだ。

「どういうことです?」

「どうもこうも見てのとおり、あの二人は今や時の人なんですよ。なんといっても草薙さんのお相手ですしね」

「お相手って……」

「それに、この前の戦いで、前に出て戦った媛巫女はあの二人です。恵那さんは真正面から神に挑み、祐理さんは他の媛巫女たちを背に庇って堂々と敵の式神に相対しました。ということで、草薙さんのお相手という肩書きだけでなく、お二人の実力と精神性が正しく認められたわけですね。今では関東の媛巫女の憧れの的です」

 共に媛巫女として最高の資質を持つ二人は、この半年で大きく力を伸ばした。『まつろわぬ神』との戦いに帯同する経験が、その大きな要素だ。

 呪術の世界で祐理と恵那はファーストレディ並の扱いを受けることになる。

「もっとも、祐理さんが囲まれるのは毎年のことです。なんと言っても彼女は媛巫女の中でも図抜けた資質の持ち主ですからね。物腰の柔らかさもあって、慕う媛巫女は多いんです」

 もともと人気者だったのが、護堂との関わりによってさらに箔がついてしまった。その結果、例年以上の喧騒に包まれることになったのである。

 

 

 やがて、儀式が始まる。

 厳かに祝詞を奏上し、武術に心得のある媛巫女が白木の木刀で組太刀を披露する。またある媛巫女は神楽を舞い、続けて和弓で矢を放ち的を射抜く。

 姦しかった媛巫女たちも、儀式が始まったら人が変わったように静かな面持ちで粛々と儀式に打ち込んでいる。

 さすがは選ばれた媛巫女だ。

 家柄に縛られず、媛巫女というだけで高位という生まれながらの才能が物を言う世界の住人は、その才能に見合うだけの態度と技術を習得しているということか。

 

 結局、そのまま二時間ほどで儀式は終了した。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護堂たちを乗せた車は一路東京へ向かう。

 大祓が終了し、後は園遊会を残すばかりとなった。

 上流階級の行事だと認識していた庶民代表の護堂と明日香はさすがに顔を見合わせて戸惑うばかりだったが、衣服もすべて正史編纂委員会が用意するということで、出席することになった。

 もともと、護堂は家に帰るつもりはなかったので、食事ができるのはありがたい。美味いのならばなおのこと善し。

 一方の晶は顔を青くして護堂の肩に頭を乗せて呻いていた。

「たぶん、神降ろしみたいなことになったんじゃないかな」

 というのは恵那の言だ。

「もちろん、普通の神降ろしとは違うよ。でも、アッキーって、核が神様のなんでしょ。あの土地の霊気が一気にアッキーの中に流れ込んだんだと思う。下手をすれば自我がいかれちゃってたかも」

「晶さんは呪力で生きている式神ですから、呪力の影響を受けやすいのだと思います。今後は、霊地などで呪力制御の訓練を積まないといけませんね」

 祐理も晶の問題点を指摘する。

「あい。……わかりました」

 晶は、気力も絶え絶えといった様子だ。

「大丈夫か?」

「大丈夫です。お社から遠のいたので、安定しています。後は残留神気をどうにかすれば、問題ないと思います」

 気分の乱高下と吐き気、頭痛は収まった。まだ身体が重いが、体内に残留する神気が外に出て行けば自然と回復するだろう。

 護堂と晶が並んでいるのは。護堂からの呪力供給で晶の復活を促すためである。距離が近いほど効果が高まるので、隣に座ることになった。晶はこれを幸いに、くっ付いているのである。

 護堂を真ん中にして右手に晶、左手に恵那である。座席は護堂と晶の位置以外は籤引きで決めた。

 祐理と明日香、ひかりは中央の席だ。

 六人を乗せるとなると、大型のファミリー用のレンタカーに頼らざるを得ない。

 晶は、護堂の腕に顔を押し当てる。体調の悪さを感じさせないふやけた顔を人に見せないためである。護堂の体温を感じ、匂いを嗅いで、いよいよ頭が沸騰しそうになっていたりする。

 その晶の意図に、護堂を挟んで反対側にいる恵那はしっかりと気付いていた。

 恵那は気付いた上で放置していた。晶の罪を断じるのは簡単だ。だが、それは愛人である自分の仕事ではない。なぜなら、ここで晶を断じれば、恵那が同じ行動を取ることができないからである。故に、恵那が取るべき行動は、

「王さまァ。恵那も酔っちゃったー」

 反対側の護堂の肩に頭を乗せる。

「いくらなんでもお前が酔うとかありえないだろ!」

 もはや枝垂れかかるような体勢の恵那に護堂が指摘する。

 平衡感覚でも桁外れな彼女が、普通の車に酔うはずがないのである。

「ひどいなあ、こんなに頭がぐらぐらしてるのに。あ、ちょっとつわりっぽい?」

「妙なことを言うな!」

 護堂と恵那は話していると、ひかりが目をキラキラとさせて振り返る。

「恵那姉さま! 次のパーキングエリアで交代してください! お姉ちゃんと!」

「こら、ひかり。運転中に後ろを向かないの! って、どうしてわたし!?」

「いいよー、甘粕さん。次のパーキングで止まって」

「はい、承知しましたお姫さま」

「騒がしい……」

 最後に明日香が眉根を寄せて呟いた。しかし、喧騒は止むことなく、東京に戻ってくるまで続くのだった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 園遊会の会場は、なんと文京区。草薙家からも程近いところに建つ、お屋敷だった。おそらくは明治時代に建てられた西洋建築の邸宅だ。幼いころからいったい誰がこんなところに住んでいるのだろうと疑問に思っていた建物だったので、非常に驚いた。

「いや、まさかあたし、こんなところに入ることになるなんて思わなかったわ」

「俺だってそうだよ」

 気後れした護堂と明日香は、ため息をつく。

 血統書つきのお嬢様や業界の重鎮が集う会場だ。ある意味での忘年会、大祓の打ち上げ会だが、それは一般学生がイメージする打ち上げとは比較にならない豪華さである。

「本当に媛巫女ってのは貴族の末裔なのね」

「ああ。まったくだ」

 護堂は慣れないネクタイの感覚に戸惑いながら、周囲を見回した。

 祐理の家が一般家庭と変わりなかったので、事ここに至るまでなかなかイメージできなかった。しかし、最も身近で最高の家格を持つ恵那が、数百万円の茶器を無造作に扱っていたのを護堂は思い出す。あれは、極端な例ではあるが、そういう世界のお嬢様方なのである。

 護堂は、日頃ただの学ランで生活しているのだ。高級なスーツに身を固める機会なんて今まで一度もなかった。

「あんたはいいわよ。魔王なんて馬鹿馬鹿しい肩書きがあるんだし。あたしなんて一般庶民もいいとこよ。場違いにも程があるわ」

 明日香も強大な呪術師であることは変わらない。血統だけを頼みとする呪術師たちと正面から戦えば十中八九勝利するだろう。彼女の知識には、現代の呪術師を遥かに上回る歴史と神秘が詰まっているのだ。

 現代の体系化された呪術ではなく、素朴で強大で曖昧模糊として古代の呪詛の再現者。彼女の作り手は、日本の呪術の基礎を形作った伝説の呪術師である。明日香の織り成す呪術を運よく目撃した呪術師たちから密かにその噂が広まり、都市伝説となっているのだ。

 『原初の呪詛を再現する女』。

 一部ではこうも囁かれている。 

 

 ホールの中には百人ほどの参加者がいる。媛巫女たちとその保護者、そして業界の重鎮と思われる人物たち。

「一応、顔も覚えておいた方がいいのか」

 曲がりなりにも組織の長として名前を出している手前、顔くらいは頭に入れたほうがいいかもしれないと、真面目に護堂は考えていた。

 強かな人物であれば、こういう場でコネを作ろうとするだろう。もちろん、そういう意味でも護堂は視線を集めた。

 それでも、人が群がってこないのは、単に魔王という肩書きを恐れてのことだろう。

 その代わり、犠牲になるのは護堂の身近な者たちだ。祐理と恵那、そして晶が媛巫女やその他参加者に囲まれてまたもや質問攻めにあっていた。

「晶も呑まれている」

意外だったのは晶までその波に呑まれていたことだ。

 晶も媛巫女であり、同業者に顔を売ったほうがいいとの判断で恵那が引き摺っていったのだが、今では恵那と引き離されて五、六人の媛巫女に取り囲まれて話をしていた。

 祐理や恵那と違い、晶は非常に意気投合したようで、そのグループで固まってずっと話をしているのである。

「とりあえず飯だな」

 視線はいろいろと気になるが、まずは腹ごしらえと、護堂は滅多なことでは食べられない豪華な食事を楽しむことにした。

 

 

 一時間ほどすれば、環境に慣れてくる。それは護堂だけでなく、会場に集った媛巫女たちも同様だ。気持ちが大きくなったのか、声も大きくなる。会場はすでにそれぞれの集団の話し声でざわざわとしていた。

 仲良くなったグループを抜けた晶が、護堂と明日香の下に戻ってきた。

「ただいま戻りました」

「ずいぶんと仲良くなったんだな」

「そうですね。話が合いまして、つい話し込んでしまいました」

 晶の纏う紫紺のドレスは、沙耶宮家から借りた衣装だ。巫女服であれば、晶も自前のものがあるが、馨が気合を入れたため、このような衣装になっている。

「なんの話をしていたんだ?」

「ペイロードの撃ち心地とかです」

「なんだって?」

 思わず聞き返した。

「XM109ペイロードですよ。わたしのメイン武装の一つじゃないですか」

「ああ、あの馬鹿でかい狙撃銃か」

 護堂と知り合い、行動を共にしていた晶は専ら護堂が与えた槍を中心に戦ってきた。しかし、それ以前の晶は銃火器を中心にした戦術を駆使していたという。戦歴は浅いが、馨が舌を巻くほどの実力者であり、拳銃でも、銃弾でロビンフットができるらしい。驚異的。神域の技である。

「分類としては対物ライフルですけどね。もともとはバレットM82というライフルがありまして、これのバリエーションの一つがXM109ペイロードなんですね。最大の特徴は、25x59Bmm NATO弾を使用することで、それ以前のバレットシリーズに比べて大口径になっているんです。そのおかげで対応する弾丸の種類も増えて、徹甲弾や徹甲焼夷弾。はたまた多目的榴弾から徹甲榴弾に成形炸薬弾まで撃ちだせる優れ物。わたしはここに呪術を込めてオリジナルの弾丸として使っていて、グィネヴィアにもそれなりのダメージを与えることができました。あとそれから……」

 晶が突然宇宙語話者になった。

 ぺらぺらとXM109ペイロードの何たるかを語る晶はいつも以上に生き生きとしているようにも見えた。

「それで、なんでそんな話を?」

「媛巫女のミリ研があるみたいです。あの青いドレスの娘はアメリカで拳銃を撃ったときに病み付きになったとか、ああ、あの巫女服の娘は筋肉モリモリマッチョマンの俳優が活躍する映画が好きだそうで。もちろん、わたしの家にもDVDはあります」

「はあ……そうか」

 そういえば、晶は、やけに銃火器や戦闘機などに詳しかった。一目連を追って茨城に行ったときは茨城空港に戻る戦闘機を見て喜んでいたようにも思う。

 晶がブローニングを肩から提げて乱射などという展開にならなければいいが。

 晶はまだ話を続ける。

「それで、今度一緒に大洗に行こうという話になりまして」

「どこだ、それ」

「茨城の大洗です。アンコウの名産地ですが、今は戦車がホットで聖地なんです」

 どういうことだと聞きたくなる話ではある。

「ああ、なるほど」

 と理解を示したのは、ネットに精通する明日香だった。

「じゃあ、行ってくれば?」

「いいんですか?」

「別に俺の許可取らんでもいいぞ」

「いえ、式神ですからご主人様(・・・・)の許可は必要です」

 ご主人様を強調する晶は、言って恥ずかしくなったのか頬を赤らめた。

「ま、まあ、許可を頂いたことですし、返事をしてきます」

 そう言って、晶は逃げるようにミリ研のメンバーの下に去っていった。

「意外。ミリタリー好きだったんだ」

「結構な。銃を使うくらいだし、あいつの家、実はいろいろと銃器がな」

 見つけてしまったものはいくつかある。一般のご家庭であれば、存在が許されない、そんな代物だが、護堂の式神であり正史編纂委員会に属する晶は特例として認められている。

 護堂と明日香は何をするでもなく壁の花となる。

 まるで世界から切り離されたかのような疎外感を感じるのは、間違いなく場違いだからだろう。肩書きとかではなく、意識がそうさせる。

 なんとなく周囲を眺めていると、人々の会話も聞こえてくる。

 

「じゃあ、やっぱりあの方が?」「わたしと同い年なのに、それはもう立派な魔王ぶりだとか」「日光のクレーターを拝見しましたけど、それはもう凄まじい神気でした」「高層ホテルもあの方の前では紙屑も同然だと」「ヴォバン様の件ですね」「あの方はサルバトーレ様とも決闘されていたかと」「あんなにお優しそうなのに、決闘はご自身の方から申し込まれたそうですわ」「草薙様が攻めだったのですか。たまげたなぁ」「やっぱり神を殺められる方は普通ではないのですね」「あちらの方は?」「噂の徳永様でしょう」「もしかして、あの?」「草薙様とは幼馴染らしいですよ」「まあ、なんて羨ましい」「呪術の原典を知るともお聞きしました」「魔王様のお近くにいらっしゃるのですから、只者ではないということでしょうね」

 

 

 

 これは非常に居心地が悪い。

 護堂はじっとりとした汗をかいたような気がした。隣の明日香を見ると同じような心境らしい。

「明日香。提案がある」

「奇遇ね。あたしもよ」

 護堂と明日香は視線を交わし、それだけで意思を伝え合った。幼馴染であり同じような境遇にある二人の間で成立する無言のやり取りであった。

 護堂と明日香は何も言わぬまま、同時にホールを辞した。

 どこに逃れるべきか。人がいないところに決まっている。そして、人気の有無は気配の有無で分かる。半年前と違い、今の護堂はそういう空気を読み取る力があるのだ。

 二人が逃亡した先は洋館の三階にある奥まったスペースだ。細長いテーブルとソファも置いてあった。都合がいいので、護堂と明日香はソファに座ることにした。

 持ってきた料理をつまみつつ、一息ついた。

「明日香。お前、結構有名みたいだな」

「ただの噂でしょ。人前で火界呪とか使ったし、馨さんに頼まれて何度か古い時代の呪術を使ったりしたから、変な噂が立ってるんでしょ」

「徳永様だって」

 護堂の口から失笑が漏れる。

 カッと顔を紅くした明日香がグーで護堂の顔を殴った。

「痛ーッ!」

 しかし、涙目になるのは明日香の方だった。

「あんた、頬骨硬すぎ……!」

「俺に文句言うなよ。カンピオーネの骨格が鉄より硬いのはデフォだ。ついでに言えば頬骨殴れば普通のヤツ相手でもそうなるだろ」

 握り拳で人を殴るのは自らもまた骨折する危険性を孕む。そこは掌底にするべきところだ。

「そっか、神様とガチンコ勝負するんだもんね。それくらいないとダメってことか」

「俺はまだ柔らかいほうだぞ。怪力も変身もないし鋼鉄にもならないからな」

 七人のカンピオーネのうち、半数以上に当たる四人が肉体強化系の権能を持っている。それは変身であったり筋力を増強したり、防御力を出鱈目に上げたりするものだが、そういった力でも神々と殴りあうのはギリギリの戦いになるのだ。護堂は神々の攻撃に対して神速と直感による回避と武具による防御で身体に攻撃が加わるのを防ぎ、ダメージを受けた際には再生を使うことでなんとか凌いでいる。

「ねえ、護堂。あんた、カンピオーネになったこと、どう思ってる?」

「ん?」

 明日香の問いに、護堂は少しだけ考えた。

「別になんとも。なってしまったものは仕方ないし、自分でどうすることもできないわけだからな」

「何も考えてないのね」

「何もじゃねえよ。悪くないとは思ってるよ。死ぬような目に会わなければ尚いいな」

 カラカラと護堂は笑った。

「死ぬような、ね」

 明日香は視線を落とした。

 死ぬ、ということを明日香は知っている。泥沼のような絶望と、深い夜霧のような暗闇。心が溶けて、己が消え去る感覚は、未だに魂に刻み付けられているようにはっきりと想起することができる。その苦しみは、通常であれば、一度味わったら最後だ。もう二度と目覚めることのない、永遠の眠りについた者だけが語ることのできる究極の虚無。

 だが、明日香は虚無から戻ってきた。契約を結び悪の尖兵としてこの世に再び生を受けた。今から十六年前のことである。

 明日香だけでない。護堂と晶もそれぞれが死を経験している。護堂の前世がどのような死を経験したかは知らない。だが、護堂は今でも死に立ち向かい続けている。晶もそうだ。およそ考え得る限り最悪の死に方をした。それも晶の場合は二回だ。一度目の死は、彼女にとって地獄と形容することも憚られるほどの災厄だったはずだ。明日香も詳しくは知らない。だが、今までに得た情報を整理すると、女性としての尊厳も人間としての尊厳も踏みにじられたものだったのだと推測できる。

 死の先には何もない。完全な虚無が広がっているだけである。生に絶望した者にとっては楽園で、生を謳歌するものからすれば地獄となろう。

 悪に身を落としてでも生に縋った明日香にとって、あれは掛け値なしの地獄である。

「護堂。あんた、軽々しく死ぬとか言わないでよ」

「分かってるよ。死にたくねえからな。カンピオーネってのは、誰よりも死を嫌う生物だぞ」

「でも、死ぬときは死ぬ。法道のときだって、負けてたら死んでたのよ」

 法道は護堂を殺すべき存在と認識していた。その出自から、他の神々以上に草薙護堂という存在を危険視していたのは間違いない。敗北の後に再戦というわけにはいかなかっただろう。

「そんなこと言ったって向こうから来るんだから仕方ないだろ。俺だって自分に関わりがないのなら関わりたくないよ」

「でも関わるんでしょ。《青銅黒十字》の依頼だって、無視できたのに、そうしなかったから神様と戦うことになったんでしょ?」

「できたらカンピオーネになってねえよ……」

 ブスッした表情で護堂はテーブルに頬杖を付いた。

 その姿を見て、明日香は理解する。

 護堂はこの先もずっとこうして生きていくのだと。どこかで力尽きて倒れることになるかもしれない。しかし、それを分かっていながら、護堂は逃げられないのだ。彼の心がそれをよしとしない。助けを求める誰かがいたら手を差し伸べずにはいられないお人好し。昔から変わらない護堂の強さであり弱さである。

「護堂、あんた魔王になっても何も変わんないじゃないの」

「そうか? ずいぶんと変わったと思うけどな」

 護堂は、半年間で起こした事件の数々を思い出す。

 原作と異なり世界遺産は壊していない。しかし、それでもいろいろと暴れすぎた。『まつろわぬ神』を相手にするのだからどうしようもなかったが、終わってから後悔するのである。故に、「エピメテウスの落とし子」と称されるのである。

「そんなことじゃないわよ。もっと根本的な部分」

 明日香は護堂の言葉を否定する。幼馴染として幼少期から共に過ごしてきたからこそ分かる。他の誰でもない、明日香だからこそ断言できるのだ。祐理も恵那も晶も、カンピオーネになる前の護堂を知らない。

「結局、あたしが好きなあんたは魔王になっても変わらない。それは、はっきり分かったわ」

「は……明日香、今……」

 護堂は明日香のほうを振り返る。

 窓から差し込む月光を背にした明日香の表情は、影になっていて見えにくい。護堂が深く明日香の表情を観察する間もなかった。

 明日香は腰を浮かせてると、護堂の唇に自らの唇を押し当てたのである。

「ん……」

 触れていたのは数秒ほど。

 唇を離した明日香は恥ずかしそうにして、できるだけ護堂から離れるようにソファの端に座った。二人掛けなので、離れられるのは十数センチでしかないが、心情的にそうでもしないとどうにもならなかった。

「一応、これ、あたしの気持ちだから。その、今後もできるだけあんたの助けになるから、できれば、晶とか万里谷さんだけじゃなくて、あたしも見てくれると嬉しいかな、なんて」

「あ、ああ。そうか。その……よろしく」

 護堂は頬を掻いて、なんとか言葉を捜す。

 こそばゆい沈黙を打破したのは、明日香の掌底だった。

「何すんだよ!」

「な、なんていうか、あんたとこういう雰囲気になると痒くなるわ」

「理不尽だな、そっちから切り出したんだろうが」

「そうだけど、あの、あんたも上手い受け答えしなさいよ。恥ずかしいじゃない」

「横暴だ。それは横暴だぞ!」

 言い返す護堂も対する明日香も楽しそうに言葉を交わす。

 幼馴染だからこそ、すぐに胸襟を開いて話ができる。加えて、護堂と明日香は同じような境遇の持ち主だ。それが分かっているからこそ、相手を無碍にすることなく親近感を抱いて接することができる。それは、明日香だけが持つ、優位性なのである。

 

 

 

 



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短編 奥多摩ムカデ事件

 空を黄金の光が埋め尽くしていた。

 その下で、絶望と共に呻くのは、魔女にして太陽神。名をキルケー。

「ふふ、まさか、これほどとは。さすがは《鋼》の一柱ですわ」

 身体はすでに満身創痍。

 もとより、この身は死にかけだ。数年前に半分の命を神殺しに持っていかれたのだから、『まつろわぬ神』と正面から戦って勝てる公算は少なかった。

 それでも、途中までは互角の戦いだったのだ。

 彼女の権能には、勇士を篭絡して配下にするという能力がある。その力で、相手の化身をいくつか奪い取ることができたのである。戦いを優勢に進めるも、ここに来て限界に行き着いた。

 光が墜ちてくる。

 それは、キルケーを斬り裂くための黄金の剣。

「く、あああああああああッ!」

 無数の剣が、美しき女神の身体に突き立つ。

 刃が身体を斬り裂くごとに、命が零れ落ちていく。

 奪い取った化身たちが抜け落ちていく。

 神殺しの刃。

 『まつろわぬ神』の核を斬り裂くことで、致命的なダメージを負わせる言霊の剣だ。

 キルケーの肉体を断ち、命を奪うのではなく、彼女の本質そのものを断ち切って存在自体を否定する悪辣な神剣なのである。

 万全ではないキルケーには防ぐ手立てはなかった。

 万事休す。黄金の光が収まった後、キルケーは脱力して仰向けに倒れ、空を仰いでいた。

 そんなキルケーの視界を、白銀の光が埋め尽くした。。

 太陽だ。キルケーと同じ太陽の権能。それが、彗星のように空から墜ちて来る。

 

 

 地図に載らない、南の島での出来事。

 強敵を求める『まつろわぬ神』と勇士を求める『まつろわぬ神』が出会い、決別しただけのことである。

 だが、そこで火の手は上がってしまった。

 いずれ、火の粉は風に乗り、神殺しの下にまで届くだろう。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 草薙護堂の冬休みは驚くほど平穏に流れていった。

 春休みはガブリエルと戦い、夏休みはイタリアで死闘を繰り広げ、秋休みを冠した十月の三連休は羅濠教主や斉天大聖とぶつかった。振り返れば纏まった休みには狙ったように事件が舞い込んできたもので、後少しで新学期が始まろうというこの時になってもこれといって事件が起こらないのが不思議に思えるのである。

「何もないのはいいことなんだけどな……」

 サトゥルヌスとかいうのが東京湾にいたが、敵というほどではなかったし、勘定に入れる必要はないだろう。『まつろわぬ神』を熊とすれば、あれは羽虫だ。退治するのに、さほど苦労はなかった。

 勉強机に肘を突いて、カレンダーを見る。一月の第二週の月曜から新学期が始まる。残り五日ほど、冬休みが残っているわけだ。

 年始だというのに、護堂の家は実に静かだ。

 父と妹はカリブ海に旅行、祖父もブータンの友人を訪ねているし、母は年末年始に家にいた試しがない。まあ、父と母は基本的に家にいないのでもはやどうでもいい。あの二人は、おそらく自分以上に生命力が強いから、なんにしても心配する要素は何一つないのである。

 護堂は正史編纂委員会から借りた初心者向けの魔導書を閉じた。

 それを見計らったように、ドアがノックされる。

「先輩、夕ご飯できましたよ」

「ん、分かった。今いくよ」

 護堂は立ち上がると、自室を出て居間に向かった。

 廊下を歩いているうちから漂ってくる夕食の香りに刺激を受けて、腹の虫が鳴る。

 居間に入ると、炬燵の上にはすでに料理が並んでいた。

「あ、全部出してくれたのか」

「はい。今日のおかずは、鶏肉の和風グリルにしてみました」

 晶は持ってきたコップに麦茶を注いでいる。

「そうか。うん、おいしそうだ」

「えへへ、ありがとうございます」

 炊き込みご飯に鶏肉の和風グリル、千切りキャベツ、アサリの味噌汁、豆腐、ほうれん草のおひたしといった家庭的なものだ。すべて、晶の手作りだ。

「じゃあ、先輩。先に食べててください。わたし、エプロンを洗濯機に入れてきますから」

「それくらい待つよ」

「そうですか。じゃあ、すぐに放り込んできますね」

 そう言って、晶はエプロンを脱いで居間を出て行った。洗濯機が設置されている洗面所に向かったのだ。

 護堂は、いつもの定位置に腰掛け、炬燵に足を入れる。冬も極まる一月初旬。雪こそ降っていないものの、外気は五度に満たない。これで寒いというのは、雪国の人に申し訳ないが、東京人の護堂にとってはこれが中々堪えるのだ。こうして炬燵に入ると、炬燵のありがたみがよくわかる。暖房の入っている洋室もいいが、やっぱり布団があるというのは大きな違いだ。少なくとも、護堂は炬燵のほうがリラックスできると思っていた。

 晶が戻ってきて、護堂の正面に腰掛けた。

 いつもは静花が座っている場所なのだが、今、静花はいない。

「それじゃ、食べるか」

「はい」

 二人で手を合わせてから、食事を始める。

 そもそも、晶が護堂の家に泊まり込み始めたのは、大祓の翌日からである。静花も祖父の一郎も、所用で海外に出かけているので、草薙家は護堂だけとなっている。そこで晶が、式神らしいことをさせて欲しいと言いだして、このような形になっているのだ。他の媛巫女たちは、年末年始の行事で忙しく、明日香は両親の目もあり護堂の家に泊まるというわけにもいかない。この機会に草薙家を訪れることができるのは、晶だけだったのだ。

「今更だけど、晶って料理できたんだな」

「半年は一人暮らししてますからね。でも、本格的に始めたのは最近なんですよ」

「そうなのか。それでも、しっかりしてて、美味いし、すごいと思うぞ」

 全体的に薄めの味付けが、護堂の好みにあっているということもあるのだろう。味噌汁などは、作り手によって味が変わるので、人によって好みが分かれたりもすると思うが、晶の味噌汁は静花の味噌汁に慣れた護堂でも違和感なく味わうことができた。

「ありがとうございます。気張った甲斐がありました」

 嬉しそうにしながら、晶も箸を進める。

「そういえば、今頃静花ちゃんはどうしているんでしょうか」

「そうだな。泳いでる、としか言えないな……カリブ海って泳ぐ以外に何かあるのか?」

「え……と、よく知らないです」

「だよなぁ」

 カリブ海は北アメリカと南アメリカの間の海域のことだ。護堂は今まで、ヨーロッパとの関わりは多かったのだが、南北アメリカ大陸との関わりはほとんどない。強いて関わりを挙げるとすればロサンゼルスの魔王、ジョン・プルートー・スミスと交流があったということくらいだ。

「先輩が迂闊にカリブなんかに行くと、向こうの『まつろわぬ神』が出てきてしまうかもしれませんね」

 護堂が動く先で騒動が起こる。これまでの経験則ではそうなってしまっているのである。実際には、騒動が起こった先に護堂が呼び出されるという場面もあったので、一概にそうとは言い切れないはずなのだが、どちらにしても巻き込まれ体質なのは変わらない事実である。

「南アメリカにはカンピオーネがいないしな」

 現在、世界には七人のカンピオーネが存在しているが、その内の四人はヨーロッパに居を構えている。アジアに二人、北アメリカに一人という内訳だ。そのため、それ以外のアフリカやオーストラリア、南アメリカは、『まつろわぬ神』の降臨に対してどうしても後手に回らざるを得ず、最も近くにいるカンピオーネに救援を請うのが常であった。しかし、その一方で、カンピオーネのほうが問題を起こしたり、とても頼れない人格であったりすることも多い。思いつきで人の迷惑を顧みずに行動する者や、人類社会に対してまったくといっていいほど関心を示さない者などがいて、彼らは基本的に神々との戦いを第一義とするために『まつろわぬ神』を討伐するためにカンピオーネを頼ったのに、そのカンピオーネに被害を齎されるといった事態も少なからず報告されているのである。

 それが、人類社会に適応したカンピオーネやスミスが頼られやすくなる要因であり、護堂が、夏休みにわざわざイタリアにまで顔を出してしまった原因でもあった。

「まあ、南アメリカで何かあってもスミスが動くだろうから俺には関わりないはずなんだけどな」

 護堂はバラエティー番組を見ながら呟く。

 かつては、ロサンゼルスに巣食う邪術師たちに梃子摺らされてきたスミスも、今はその組織が壊滅したことで余裕が出てきているという。彼の活動範囲も、今まで以上に広がっていくことが予想された。

 それでも、面積で言えば日本の数倍以上になるアメリカの王だ。彼が担当する領域は、中華圏を支配する羅濠教主以上になるので、忙しさは護堂よりも上だと思われる。

「そういえば、あの南の島の話はどうなったんだ?」

 以前、鹿児島にある晶の実家を訪れた際に、晶の父親が東南アジアで『まつろわぬ神』同士の死闘について情報を寄越していた。その追加調査が今、行われているところなのだ。

「そうですね。今のところ進展は何もない感じです。もともと、地図にない島でしたし」

「何年か前に突然できた島なんだっけ」

「はい。おそらくは何かしらの権能によるものだと思います。地元の漁師たちは不気味がって近づかなかったらしいですし、島を目指そうとした物好きな人は、みんな迷って漂流する羽目になったらしいです。そのせいで、ほとんど情報がないんですよね」

「そうか……」

 護堂は麦茶で喉を潤す。

「というか、それ絶対ミノスの権能だろ」

 島についての情報はなくとも、誰がその島を用意したのかは想像がつく。

「やっぱり、そう思います?」

「見てるからな、実物を」

 思い出されるのは東京湾での死闘の数々。

 最強の《鋼》を蘇らせるべく現れたランスロット・デュ・ラックとグィネヴィア。そして、古くからの因縁にけりをつけるべく策を巡らせたアレクサンドル・ガスコイン。

 護堂もまた、東京を舞台にして行われる戦いゆえに関わらざるを得なかった。

 あのとき、アレクサンドルはミノスの権能と創世の神具を利用して紛い物のアヴァロンを作り出して見せた。ミノスの権能は、迷宮を作り出す権能。それは単純な迷路を構築するのではなく、異界創世の権能と言ってもいいかもしれない。

「準備が整い次第、現地で西の媛巫女が霊視をする手はずになっているので、詳しいことはその報告待ちですね」

「ああ、まあ、なんにしても東南アジアで終わってくれれば御の字だな」

 二柱の『まつろわぬ神』が激突し、島が消失した事件。生き残った『まつろわぬ神』がどのような神格で、その後にどういった行動を取っているのかは未だに分かっていない。

 護堂は視線をテレビに向ける。

 画面の中では小さな猫と戯れる小太りの芸人が笑いを取っていた。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 翌日、護堂は朝から慌しさに襲われていた。

 それも、秩父で修行中兼療養中の恵那から連絡が届いたからことが原因だ。

「神獣か……」

 どうやら、奥多摩の辺りに神獣が現れたらしい。恵那がいる秩父は、奥多摩と隣接している。もちろん、それもかなり広範囲なので決してご近所というほどではないが、恵那の実家は日本呪術界の最高峰である清秋院家である。個人で所有する情報網もかなりの範囲をカバーしている。

 この日、神獣狩りに参加するのは護堂、恵那、晶の三名だ。

「どうして神様は俺を休ませてくれないのだろうか?」

「神殺しだからじゃないですか?」

「まあ、そうなんだけどさ」

 晶の身も蓋もない言葉にげんなりしつつ、山を見上げる。

「いや、もう雪積もってるし、ここに分け入っていくって相当重労働だな。雪山登山とか、俺はやだぞ」

 土雷神の化身を使って、一気に移動してしまおうか。

「それが一番よさそうだな……」

 神獣の居場所は、分かっているのだ。今は身を潜めているが、さすがに神獣ほどの呪力の塊が完全に隠れきるには、それ専用の能力が必要になる。そして、かの神獣は気配を隠す能力を有していない。

「先輩、今回の神獣の相手はわたしにさせてくれませんか?」

「晶が?」

「はい。今のわたしの力を試すいい機会だと思うんです」

 今の晶は護堂の式神であり、厳密に言えば人間ではない。人の姿をした意思を持つ権能とも言えるだろうか。理論上は、神々とも殴り合えることになるわけだが、それを試したことはなかった。

「じゃあ、そうするか」

「はい!」

 返事をした晶は、黄金に輝く槍を呼び出す。

「はいはい! じゃあ恵那もやるよ! 恵那もまだこの子を試してないもん!」

 そう言って、恵那は腰に佩いた剣の柄を撫でた。

 それは、法道の従属神である牛頭天王が振るっていた草薙剣だ。あの戦いの後、正史編纂委員会が回収し、太刀の巫女の武装として貸与されることとなったのである。

「お前、まだ本調子じゃないんだろ?」

 恵那は牛頭天王と戦ったときにかなり無茶をしている。神懸かりはしばらく厳禁と聞いていたのだが。

「ううん。もう完全回復したよ。ただ、周りの人がどうしてもっていうから休んでたけど、おじいちゃまもいいんじゃね? って言ってたし、大丈夫」

 しかし、護堂の不安を恵那は一蹴する。

 スサノオがいいというのなら大丈夫なんだろう。いざとなれば自分が助けにはいることもできる。

「いいのか、それ。一応、本物なんだろ?」

 護堂は恵那が佩いている剣を指差して尋ねた。

 というのも、恵那が持っている草薙剣は、日本書紀などに記される草薙剣と同一の剣なのである。つまり、考古学的、神話学的にも本物ということになる。護堂の相棒である天叢雲剣はまつろわぬスサノオの剣であり、この草薙剣はまた別物なのだ。

「大丈夫じゃない? 呪物である以上、普通の考古学者さんには見せられないし」

 それに、気に当てられて普通の人間は病んじゃうよ、と恵那はなんということなく笑う。

「どうも、これ、おじいちゃまの神気とは相性いいんだよね。まあ、当たり前かもしれないけど、おじいちゃまの剣の原点ってことを考えるとまだまだ考察の余地はありそう」

「つまり、スサノオ伝説を生み出した原型……スサノオに習合された超古代の英雄神の遺物かもしれないと?」

 晶の質問に、恵那は頷いた。

 古事記や日本書紀が編纂される過程で、日本の古き神話は多くが失われたり書き換えられたりしている。たとえば、日本の本来の創世神はオオクニヌシとスクナビコナであったのに、日本書紀ではイザナミとイザナギという当時は無名の神を祀り上げているなどである。

 その過程で、スサノオという英雄神が誕生したのだろうが、スサノオは多面的な神格であり、古くから様々な神格を取り込んで生まれたのではないかという説が唱えられてきた。

「とりあえず、ソイツは使えるんだな?」

「うん。練習済みだよ」

「ならいいんだ」

 本番になって使えないというのでは、役に立たない。どうやら恵那はスサノオの天叢雲剣でなくともある程度使いこなせるらしい。この辺りはさすが太刀の巫女か。

「それじゃ、いくぞ」

 特に気負うこともなく、護堂は二人の手を握って土雷神の化身を発動させた。

 

 

 

 奥多摩の山奥、登山道や林道からも外れた場所に、人知れず大きな断層が形成された場所がある。

 もう昨年の話になるのだが、ここで護堂とランスロットが激突し、互いの必殺の一撃をぶつけ合ったことで大地が大きく抉れたのである。

 この断層の中に、問題の神獣が巣食ったらしい。

「ああ、なんというか懐かしいな」

 護堂は周りを見て呟く。ここはランスロットと打ち合った場所であり、アテナと別れた場所でもある。はた迷惑な連中ではあったが、それでも印象には強く残っているので、戦場跡を見ればあの時のことが容易に思い出せる。

 今は深い雪に閉ざされ、景色も変わってしまったようにも思えるが、それでも懐かしく思える。

「きっと、王さまの呪力に惹かれて来たんだろうね」

「何ヶ月前の話だよ……」

 頭を掻いてぼやく。しかし、それでも否定しきれないのは、強大な呪力は何年もその地に残り続けるということを護堂も知っているからだった。

 そして、神獣や神霊の類は強力な呪力に惹き付けられることがあるというのも、一目連の事件で学んだ。

「さて……」

 護堂は山の頂上から中腹に口を広げる断層を見下ろした。

「ああ、いますね」

 晶が雪の中に眠る巨体を見て、呟いた。

 黒光りする甲殻。無数の足。細長い胴体。尋常じゃないくらいに大きなムカデである。

「大ムカデっていえば藤原秀郷ですけど」

「土蜘蛛のときみたいに、引っ張られて出てくるかもしれないね。まつろわぬ藤原秀郷」

「冗談じゃない。冬休みにまで神様と戦っていられるか」

 護堂は心底嫌そうに表情を歪めて言った。

 恵那と晶はその様子を見て笑った。

「それじゃ、早い内に始末したほうがいいですね」

「よし、いくよ草薙剣」

 恵那と晶はほぼ同時に雪道を駆け下りて行った。

 

 

 

 接近する呪力に気付いたのか、眠っていた大ムカデは鎌首を擡げた。

 起き上がると伸び上がるようにして大ムカデが襲い掛かってくる。恵那と晶はそれぞれ左右に散開してこれをかわす。頭から地面に突っ込んだ大ムカデは、ただそれだけ地面を抉った。雪のみならず、土までも巻き上げて、大ムカデが蠢く。

「おおおおおりゃあああああッ」

 恵那が嵐を纏って神剣を、大ムカデの足に叩き付け、太い足を斬り飛ばす。

「おおうッ」

 恵那は、反撃を恐れて距離を置く。

 縦に長い大ムカデは、側面にいる限りよほどのことがなければ反転攻撃ということもない。

「足を一つひとつ斬っても意味ないかな」

「まずは頭を潰しましょう」

「了解!」

 恵那は呪力を練り上げ、風を呼び集める。

「ハッ!」

 気合を入れて神剣を振りぬくと、渦巻く烈風が砲弾のように放たれる。その威力は大ムカデの固い殻を砕き、巨体を浮かせるほどのである。

 横っ腹を強かに撃ち抜かれた大ムカデは、怒りを覚えたのか足をバタつかせて機敏な動きで恵那を捕捉する。その隙に、晶は懐に入り込んでいた。

 右手を固く握り締め、露になった下っ腹を殴り上げる。

「大雷ッ!」

 インパクトの瞬間、青白い閃光が炸裂し、大ムカデが海老ぞりするほどの打撃を与えた。

 だが、大ムカデはその状態からすぐに持ち直した。鎌首を擡げた状態から、ギチギチと牙を打ち鳴らす。

「やっぱり固いですね」

「でも甲羅のほうから攻めるよりはダメージになってるみたい」

 恵那の分析に、晶も頷いた。

 背中側の黒い部分は固いが、腹側は柔らかい。晶の雷撃の拳が致命傷にならなかったのは、単に敵の生命力がそれだけ強かったからであり、防御力で晶の攻撃を上回ったからではない。

 ならば、同じように攻めていけば、どうにかなりそうだ。

 晶は槍を再び召喚して、大ムカデの様子を見る。恵那は晶が大ムカデを引き付けている間に側面に回りこむ。神気を纏っている恵那は、それだけで神獣と渡り合えるほど肉体を強化させることができるが、それでも晶ほどではないのだ。

 数秒ほど、睨みあい、先に動いたのは大ムカデ。口を大きく開き、なにやら白い液体を晶に向かってぶちまけた。

「うひゃあああッ」

 突撃を予想していただけに、意表を突かれた晶は、大きく飛び退いてこれを避けた。

「うっわ」

 晶は異臭に顔を顰める。

 大ムカデが吐き出した粘液は、触れた木々を朽ちさせ、地面から蒸気を吹き上げさせていた。

 どうやら消化液を武器にしたらしい。

 そこに、大ムカデが体当たりをしてくる。

 フルパワーでこれを受け止めるか、それともかわすか。晶は後者を選択する。受け止めようと思えば受け止められるかもしれないが、ここで危険を冒す必要もない。何より、突進を受け止めると至近距離から消化液をかけられる可能性が高くなる。

 晶は大ムカデの体当たりを横っ飛びでかわす。そして、晶に気を取られた大ムカデの背中に、恵那が飛び乗った。

「せぇのぉッ!」

 草薙剣の切先を、甲羅の隙間に突き入れる。案の定、隙間は防御力が低い。恵那の草薙剣が刀身の半分ほども埋まった。

「吹っ飛べ!」

 恵那は、刀身を介して風を大ムカデの体内に注ぎ込む。ボグン、と爆弾が炸裂したような音が響き渡り、剣を突き立てた部分が抉れて吹き飛んだ。

 それは恵那の足場が崩れたことにもなるが、恵那は軽やかに飛び退き、地面に着地していた。

 一部とはいえ、背中が抉れた大ムカデはさすがに身悶えしてしまう。それを好機と受け取った晶が、神槍に呪力を込める。

「南無八幡大菩薩!」

 逆手に構えた神槍を、晶は投擲する。投じられた神槍は、雷光の輝きを宿して大ムカデの顎を撃ち砕く。

「やった!」

 晶はぐ、と拳を握り締め笑みを浮かべる。

 しかし、頭を砕かれた大ムカデは、ジタバタと暴れ回り、無造作に足を振り上げ、転がり回るだけで消滅しない。

「ど、どういうことです?」

「まあ、ムカデは切ってもしばらくは死なないからねえ。神獣ともなると、何日生き延びるかな」

 恵那は山育ちなのでよく知っている。ムカデは両断しても上半身だけどこかに移動してしまうことが時折あるのだ。それでも当然、生き続けることはできないのだが、かなりの時間を生存することはできる。それが神獣ともなれば、どうなるか。

「頭がないから、放っておいても大丈夫とは思うけど。ここ、山奥だし」

「再生しませんかね?」

「しないとは言い切れないんだよねぇ」

 神獣なので、頭を潰しても新しく生えてくるかもしれない。そういう理不尽が罷り通る生物なのだ。

「だったら、動かなくなるまでダメージを与えるしかないですね」

「仕方ないね」

 恵那は風刃を連続で叩き込む。柔らかい腹部を曝す大ムカデの身体に、無数の裂傷が生じ、足も斬り落とされていく。

「咲雷ッ」

 晶が手に持つ穂先に雷撃の切断力を込めて、神槍を振るう。

 大きな身体に見合うだけの生命力があるようだが、立て続けに身体を切り刻まれては再生も容易ではない。まして、今の大ムカデは頭を潰された状態なのだ。敵を狙うことなど不可能だし、身体を動かしているのも反射に過ぎないのだ。

 攻略難易度は大幅に低下している。

 攻撃力のある晶が胴体を攻め立て、手数のある恵那が足を斬り飛ばしていく。上のほうから順に足を斬り飛ばされた大ムカデは、そう時を置かずに達磨状態になってしまった。

「よし、これくらいになればもう動けないね」

 神懸かりの影響で体力を消耗した恵那が、剣を地面に付きたてて一息ついた。

 そうして動けなくなった大ムカデの身体を、晶が神槍で縦に斬り裂いた。

「うん、ここまでやったらさすがに消えるしかないよね」

 晶は神槍をトドメとばかりに突き立てつつ、もはやピクリともしなくなった大ムカデに語りかける。

 もちろん、反応などあろうはずもない。

 ムカデ特有のしぶとさも、ここまで身体を破壊されてしまえば発揮されない。遠からず消滅するだろう。

 

 問題が発生したのはこの直後だった。

 雪山で派手に大暴れした結果でもある。恵那や晶がいる地点より僅かに上方から、ごっそりと雪が抉れたのである。

 雪崩である。

「ヤバッ」

 悲鳴を上げる間もなく、恵那と晶は真っ白な雪の中に呑み込まれていった。

 

 この時、恵那もさすがに、死を意識した。

 神懸かりをした直後で対応するだけの力がなかったからだ。晶ならば実体を解いて簡単に脱出できただろうが、恵那には無理だった。

 しかし、恵那は無事に生還した。

 雪崩に呑まれた恵那の視界は次の瞬間には空にあった。

 身体をがっしりと大きな爪が捉えている。

 全長数メートルにもなる大きな鷲だった。水墨画から抜け出してきたかのような色彩の、生命力を感じさせないのっぺりとした巨鳥である。

 二羽の大鷲が、恵那と晶を間一髪のところで救い出したのだ。

「二人ともお疲れ」

 山の頂上で、開放された二人を護堂は労った。

「今の、王さまの新しい権能だよね。結局、助けられちゃったか」

「何言ってんだよ。本来、神獣の相手はカンピオーネがするべきものだ。それをたった二人でやったんだから、大したものだろう」

 普通、神獣と戦うときは、一流の呪術師が専門の装備と部隊を整えて命懸けで戦うのである。特殊な能力を持つ二人だからこそ、神獣を圧倒することができたのだ。

 おそらく、晶だけでなく恵那も神獣の単独撃破が可能なのではないだろうか。彼女の力を考えれば、それはありえない可能性ではない。

「晶も、権能の部分共有がうまくいったみたいだな」

「はい。なんとか。でも先輩ほど強力な力は無理でした」

「そりゃあな」

 護堂と霊的に結びついている晶は、護堂の権能の性質を再現することができる。それが、晶の式神としての能力だ。

 それだけでも、大抵の神獣には正面から挑めるだろう。

 それが分かっただけでも、今後の戦い方を決める助けにはなる。この日の戦いは、それだけのいい収穫を齎した。

 




高橋晶の設定情報
H/W153cm/42kg B79/W54/H81
以降、1mmたりとも成長はない。劣化もない。


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中編 東方の軍神編

 文京区根津に、ある高層マンションに晶の自宅はある。

 家族向けのマンションなので、一人暮らしの晶にはかなり大きな間取りである。しかも、今の晶の立場を勘案して、家賃が実質無料になっているのだ。生活する上で、これほど好物件はない。

 カンピオーネ、草薙護堂に仕える唯一の式神。それが、晶の立場である。ベースになっているのは、クシナダヒメの竜骨。以前の晶は擬似神祖であったが、今の晶はその力を継承しつつ、護堂の権能の加護を受けているので、更に霊格が上昇している。そして、晶の肉体は、今や神獣と同格以上のスペックを有している。そのため、晶には物理攻撃も呪術攻撃も、さらには毒物もほとんど効果がない。晶に傷をつけるには、神獣に傷をつけられるくらいの攻撃でなければ話にならない。

 しかし、それだけの肉体を持ちながら、その力を使いこなせているとは言い難い。

 前述の能力はあくまでもカタログスペックに過ぎず、今の晶が使えるのは、その半分程度と言ったところだろうか。

 事実上、カンピオーネと『まつろわぬ神』を除けば最強の存在になった晶も、精神面は飛び抜けて優れているというわけではない。歳相応の真っ当な悩みに悶々とすることも、最近は多い。

「ふぅ……」

 白い湯気の中に、吐息が反響する。

 晶は、少し熱めにした湯船に肩まで浸かり、天井を見上げた。

 式神となった晶は霊的存在であり、霊体になることで汚れが肉体から落ちる。そのため、汚れを落とすという意味で風呂は必要ない。だが、それが分かっていても入りたくなるのは、女の子だからか。とりあえず、一日に一度はシャワーだけでも浴びなければ清潔だと思えないし、真冬なのだから熱い湯に浸かりたい。

 湯の熱さが身体の芯に染み渡ってくる。心地よさに睡魔すら襲ってくる。

 冬休み中に、大ムカデを退治した後、一ヶ月ほどが経過しているが、大きな問題は何一つ起こっていない。神獣すらも、日本国内に現れていないので、晶も力を振るう機会がなく平和で落ち着いた日々を過ごしていた。

 ただの中学生であれば、当たり前の日常。

 しかし、それらは晶にとっては掛け替えのない日々なのだ。

 これまでの人生で晶が失ったものは、あまりにも多い。小学生の時に拉致され、あらゆる責め苦を受けた結果、本来の自我はとうの昔に崩壊してなくなっている。今の晶の人格は、道満だったころの法道が植えつけた記憶や知識を下地にして派生した第二の人格なのである。

 思い返すもおぞましい日々から抜け出し、真っ当な生活ができるのも、すべては護堂のおかげだ。護堂の式神という立場も、晶にとっては喜びであって辛いことは何もない。

 とはいえ、式神となったことによる弊害も皆無ではない。

 晶は自分の身体を見下ろした。

 決して平坦ではないものの、恵那のような大胆な起伏はない。自分の二つの丘は、手の平に収まる程度にはあるが、それ以上に大きくなることはない。

 一応、揉み応えはそこそこあると思うのだが……と、自分で思っていて恥ずかしくなり晶は湯船に沈んだ。

 ぶくぶくと泡を出しながら、肉体面の変化がないというのが利になるか不利になるかは怪しいところだと考える。護堂の好みを尋ねたこともないので分からないが、それでも大きい胸のほうが有利だろうというのは予想できる。少なくとも、巨乳という立ち位置は恵那が独占している。そこに乱入することがほぼ絶望的な今、晶だけの立ち位置を確保することが何よりも肝要である。

「式神も、立場といえば立場か……」

 それを恋愛に結び付けられるかどうかは、これからの行動次第か。

 そもそも、自分のこの想いは『恋愛』と言っていいのだろうか。

 『恋愛』という語が『love』の訳語として創作されて一五〇年ほどが経過し、社会の西洋化がこの概念を一般化したのだが、日本には本来『love』に該当する言葉がなかったとされる。 

 『love』には『聖』が必要だ。

 教会で誓うように、そこには聖なる概念が含まれる。日本の男女間の想いには、その聖性がなかった。異性を慕わしく想う『恋』や相手を慈しむ『愛』は、あくまでも世俗的な概念として受け取られていた。平安時代の貴族の男女関係を見れば、それは容易に想像がつく。だから、明治時代の文豪たちは、適切な『love』の訳語を作るのに苦労した。

 翻って自分の気持ちに、聖性はあるだろうか。

 断言するまでにはならないが、おそらくは聖性はない。

 この想いは、もっと我欲に塗れている。言葉を交わし、触れ合うことを狂おしいほどに求めている。切なくも心地よい愛おしさの中に、僅かでも歯車が狂えば破滅的に加速しかねない凶悪な未知が潜んでいるのを感じている。

 まるで、悪魔か鬼にでも魅入られたように、際限なく依存してしまいそうな危険な香りがするのだ。

 それを理解していながら、ともすれば堕してしまいたいという欲に駆られる。

 その気持ちを圧しとどめていられるのは、偏に護堂がカンピオーネだからだ。

 カンピオーネは、既存の常識や法には縛られない。彼がどれだけ女性と関係を持とうと、誰も咎めることができない。

 だからこそ、そこまで強く嫉妬していないし半ば安心している面もある。

 確かに、祐理や恵那や明日香に思うところはあるがそれはそれと割り切れる。

 これがもし、自分も相手も一般人だったら、どうしようもないくらい不安になっていただろう。選ばれなければそこまでなのだから。それを考えれば、一番でなくとも機会があるのは、消極的ではあるが幸運だと思える。

 それが、時代に逆行する古い考え方だというのは理解しているが、晶のような人ならざる者という『ハンデ』を抱えていて、真正面から勝負する勇気のない臆病者にはそれがちょうどいい――――などと自虐する。

 もしも、護堂が誰か一人しか選べない立場だったとしたら、明日香の抜け駆けを許しはしなかっただろう。

 明日香が園遊会を護堂と二人で抜け出し、あまつさえ告白してキスまでしたのを、晶は濁った瞳で睨んでいたのだ。

 一応は空気を呼んで邪魔しなかったが、あのときに感じた凍った手で心臓を鷲掴みにされたような感覚は、今でも晶を不快にさせる。

 晶は、浴室を出ると身体の水気を取ってリビングに向かった。一人暮らしが長いと、どうにも守りが薄くなる。真冬だというのに、下着と薄手のシャツという気の抜けた服装で過ごせるのは式神の肉体だからだ。

 アイスを口にしながら、晶は薄暗い部屋の中から窓の外を見る。

 部屋を暗くしたので、窓に室内の風景が反射することなく街並を見ることができる。 

 家々の明かりを見下ろしながら目を凝らすと草薙家が視界に入る。もともと、静花の身の安全を確保するために用意した家だ。その立地上、草薙家を見下ろす位置にあるのは当然だ。

 しばらく晶は、何をするでもなく黙々とアイスを食べつつ、景色を眺めていた。

 

 

 二月に入ると、世の中は妙に浮き足立ってくる。

 特に学生は皆、どこか落ち着きがなくなる者が多い。

「ああ、そうか。バレンタインか」

 などと、朝の情報番組の特集を見て晶は呟く。

 そういえば、そんな季節になった。晶にとっては実に五年ぶりになる恋のイベントだが、記憶にあるそれとは大きく異なる印象を受ける。それは、自分が送る側になっているということもあるし、小学生と中学三年生とでは、受け取り方がまったく違うということもあるだろう。

 早い者はすでに動き出しているということだし、小学生のころとは異なり、最近では友チョコなど、単に恋愛イベントという枠に囚われない新しい考え方が生み出されている。

 とにかく、気恥ずかしいけれども、そろそろ準備をしていかなければならない時期だろう。

 朝食の後、荷物を纏めて学校へ向かう。 

 その日、護堂は日直ということで一足早く学校に向かったという。静花と二人で登校し、そのまま一緒に教室に入った。

 商店街もそうだが、街はどこも華やかになってきていて、店に張られているチラシを見るとどの店舗もバレンタインを使って一儲けしようと躍起になっていた。

「なんか、ちょっと雰囲気変わったよねー」

 昼食時、机をくっつけて仲のよい友人と四人で食事を摂っていると、一人が晶の頬を指でつつきながら言った。

「ユキ、何が?」

 晶は眉根を寄せつつ、ユキの人差し指を摘んで弾く。

「いやぁ、最近晶の感じが変わったなぁと思ってさ」

「どういうこと?」

 ミニトマトを口に放り込んで晶は首を傾げた。

 晶自身には、変わった自覚はない。だが、静花を含めた三人がうんうんと頷くのだから、他者から見て自分は何か変わったのだろう。

「最初のころは、なんてーか近付き難いクールさがあったような気もする」

 ミヤコが追随して言う。

「勉強できそうだったしね」

「実際は、ポンコツだったけど」

「ポンコツゆーなし……」

 自覚はある。

 数学、理科が絶望的にダメだという自覚は。

「堅物って感じもあった」

「まあ、今は……犬っぽい感じになっちゃったけど。わたしの中の晶は柴犬。首輪つけたい、はぁはぁ」

「意味分かんないし、ちょっと怖い」

 アブナイ目で晶を見る茶髪ユルフワ髪型のイマドキ系女子ミヤコは、どういうわけかよく人を動物に例える。

 ちなみに静花は以前、女王蜂だと言われて大いに憤慨したことがある。

 牛乳パックを空にしたユキが、笑みを浮かべながら静花を見た。

「朱に交われば赤くなるってことじゃない。ね、静花」

「なんで、そこでわたしに振るの?」

「ぶっちゃけ、一番仲いいの静花だし。いつも一緒にいるよね」

「晶に影響与えんの、静花くらいじゃん。ああ、噂のお兄さんもか」

「むしろ、そっちの影響じゃねえ」

 対角線の二人がタイミングを揃えて笑う。

 護堂を引き合いに出して、笑うというのは不愉快。なので、晶が一言言ってやろうとすると、静花が先んじて二人にアイアンクローをかけた。

「人の家族ネタにしない」

「ぐおおおおおおおおおッ!」

「す、げえ力だ、ギ、ブ……!」

 ミシミシと音が聞こえそうな迫力あるアイアンクローだ。さりげなく、親指がこめかみに食い込んでいる。

 必死のタップアウトを受け入れて、静花は二人を解放する。

「まったく、ひでえ目にあったぜ」

 ユキがこめかみを揉みながら眉間に皺を寄せる。

 よほど痛かったのだろうか。目尻に涙が浮かんでいる。

「まあ、それはそれとしてどうする?」

 不意に、ミヤコが両手を口の前で組んで、深刻そうな顔つきになる。

 唐突に訪れた、真面目な空気に三人は「?」を浮かべる。

「なんが?」

 ユキが代表して聞くと、ミヤコはキロ、とユキを睨んだ。

「ブワレンタウィンに決まってるでしょ。乙女の嗜みよ」

「あ……そう、だね」

 その威圧感に気圧されて、ユキは曖昧に頷いた。

「みんな誰に上げる?」

 ミヤコはじろ、と三人の顔をねめつける。

 上げるというのは、当然一四日にチョコレートをプレゼントするということだ。

 そんなことを、ここでカミングアウトするのかと互いに視線を絡ませる。それは、ある種の牽制であり、さっさと言えという無言の圧力の掛け合いだった。

 そんな中、ユキははにかみつつ、

「あたしは彼いるし、彼に上げるわ」

「リア充乙! 野球部のボーズとよろしくやってろ! 静花は?」

「まあ、家族だろうね。お爺ちゃんとお兄ちゃんかな。後は友チョコ」

「待ってます! 晶は……どうせ、草薙兄でしょうからスキップ! 分かりきったことは聞かない、それがわたし!」

「ちょ……」

 一方的な決め付け。発言の機会を与えられなかった晶は唖然としてミヤコを見るが、ここはミヤコの独擅場だ。介入の余地はない。

「そして、わたしは……実は先週彼氏ができました! なんで今年は女子力を見せ付けようと思います!」

「それ言いたかっただけでしょ」

「人巻き込んでそれって」

 ユキと静花がそれぞれ呆れ混じりのため息をつく。

 それから、ユキがにやりと笑い、

「女子力見せ付けんなら友チョコは期待していいん?」

「ああ、そうだね。それは楽しみだ」

「あぁ? なんであんたらにくれてやらにゃならんのだ?」

「今、女子力見せ付けるっつったじゃんか!」

「うるせー、うちの小遣い月五〇〇だぞ、配る余裕なんぞあるかー!」

 ユキがミヤコに食って掛かる。

 それを傍目に眺めながら、静花が晶に尋ねた。

「で、晶ちゃんはお兄ちゃんにどんなの上げるの?」

「え……あぁ、実はまだなんにも……」

 静花のほうから、この話を振ってくるとは意外だった。静花は、基本的に護堂に悪い虫が付くのを嫌う。そして、この件に関しては、晶すらも悪い虫に入っているはずだ。

「ふぅん……」

 何か言われるだろうかと身構えていた晶だったが、静花は深く追求することもなかった。

 その代わり、晶の耳元に唇を寄せる。

「お兄ちゃん、甘いのより苦いのが好みだから」

「静花ちゃん……!」

 感極まった晶は、思わず静花に抱きついた。

「あ、き、……ぐおぇぇ」

 静花が苦悶の声を上げて呻く。

「な、何してんのあんたら。って、いきなりチョークスリーパー!?」

「嫁小姑戦争かッ。この短時間に何があった!?」

 それから、四人揃って悪ふざけで笑いあい、昼休みを無駄話で浪費した。

 最近、練習がてら作っている弁当は、三分の一ほど余ってしまったが、それは夕飯の材料にでもすればいい。

 放課後、晶は一人で学校を出た。

 委員会も部活もない晶は、帰宅部筆頭。護堂や祐理と鉢合わせるか、静花の部活がないとき以外は真っ直ぐ帰宅するのが常だ。

 しかし、この日は近くのスーパーに寄り道した。

 せっかくバレンタインの話題が出たのだ。今の内に、材料を買っておこうと思ったのだ。

 お菓子作りは初めての経験だ。本を読めばなんとかなるだろうと楽観的に考えながら、チョコレートを探す。

 なんだかいろいろと種類があって困ってしまう。

 静花からの情報によると、護堂は甘いものよりも苦いほうがいいらしい。

「どれが、苦いんだろう……」

 チョコレートの知識が皆無な晶はそこで悩んだ。

 そもそも、護堂の好む苦さとはどのくらいで、カカオ何パーセントの話なのだろう。

 とりあえず、今の晶の知識ではカカオが多いほうが苦いというのがある。ならば、多いのを買っていけばいいだろう。

 手始めにカカオ八〇パーセント付近から試してみることにしたのだった。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 カンピオーネは神を殺した魔王。

 存在するだけであらゆる災厄を引き当ててしまう天性の才能を持っている。

 この一ヵ月半、平穏に過ごせただけでも万々歳だ。

 目前に迫る厄介事の気配を感じて、護堂はそう思っていた。

 

 

 事の発端は、二月の第一土曜日に起こった大事件である。

 最近の護堂は、休みになると正史編纂委員会の東京分室に顔を出すようにしていた。名目上の長になったこともあり、魔術の勉強も必要だろうと思ったのである。

 おかげで、初級程度の魔術は限定的ながらも制御できるくらいにはなった。

 さて、そんな護堂であったが、しばらく神様が登場していないので、どうしても気が抜けてしまう。そんなだれた心に喝を入れたのは、他ならぬ神の報。

「本当に、ささやかな安息でしたねェ」

 目の前にいる冬馬が居た堪れないといった表情を浮かべる。

「同感ですね」

 賛意を示す護堂。とはいえ、冬馬の安息とはつまり自分の平安な業務のことであろう。護堂と『まつろわぬ神』が暴れると、必ずと言っていいほど周囲に被害が出る。その隠蔽工作を行うのが、彼らの仕事である。これまで、多大な負担をかけてきただけに、護堂も申し訳ない気持ちになってしまう。

「しかし、東京タワーを狼煙代わりにするなんて、とんでもない神様ですね」

 護堂はもはや呆れるしかない『まつろわぬ神』の無謀さに改めてため息をつく。

 この日の午後二時ごろ、唐突に雷が東京タワーを直撃し、展望台が爆発炎上したのである。

 まさに青天の霹靂であった。雲ひとつない冬のカラッとした晴空からの落雷に、周辺は一時騒然とした。

 この報せを受けて、護堂はすぐに冬馬と馨を伴って東京タワーに向かった。

 周囲はすでに立ち入り禁止区域になっている。東京タワーの上部が崩れ落ちてきても人を巻き込まないように、避難は完了している。

 護堂が到着したとき、展望台の火災は半ば鎮火していた。

「怪我人とかは、いなかったんですか?」

 護堂が馨に尋ねると、馨はタッチパネル式の情報端末の画面に触れる。

「幸い、そういった話は出てませんね。落雷当時、展望台には五〇人ほどがいたようですが、皆無事です。雷を落とすことが目的で、人を傷付けないようにしていたのかもしれませんね」

「そうですか」

 護堂はほっと胸を撫で下ろす。

 奇跡的に怪我人がいないのではなく、最初からそのように狙っていたと考えるべきだろう。あまりにもできすぎている。神力であれば、展望台を跡形もなく蒸発させることもできたはずだからだ。

 そこに、やや遅れて召集された祐理もやってくる。

「待ってたよ、祐理。さっそくで悪いのだけど、視てもらえるかな?」

 馨が、上を指差した。

 地上二五〇メートルにある焼け爛れた特別展望台。燻り、僅かに煙を出している。

「落雷は明らかに神力に因るものだった。僕は、これが『まつろわぬ神』からの挑戦だと思うのだけど、どうだろう」

「分かりました。ですが、この距離からというのは……。上には上がれませんか?」

「エレベーターが使えないから、階段を使うことになるけど、それでいいかい?」

「はい、大丈夫です」

 と言ったものの、祐理は外階段の半ばまで来たところで後悔し始めていた。

 階段で行ける大展望台までは地上一五〇メートル程度だ。これならば、すぐに上れると思っていたのに、想定外だった。

 段数六〇〇。体力に難のある祐理には、あまりに遠い。

「東京タワーの展望台って、こんなに遠かったのですね」

 肩で息をしながら、祐理は呟いた。

「万里谷は、東京タワーに来るのは初めてなのか?」

 護堂が尋ねると祐理は首を振った。

「いえ、小さいときに何度か。小学校の授業とかでも来ました。ですが、階段は初めてで……」

 祐理がなんとか大展望台に到着したときには、その場に倒れ伏してしまうのではいかというくらいに疲弊していた。

 体力不足が幼いころからの祐理のコンプレックスであり、自覚もある。祐理の体力が、高校生の全国平均を大きく下回っているのは確実だろう。

「万里谷、水」

「ありがとう、ございます……」

 護堂が自販機で購入したミネラルウォーターを祐理は受け取った。

 大展望台は、吹き曝しになっている。特別展望台が雷に打たれたときに、衝撃でガラスが割れてしまったのだ。地上一五〇メートルという高さ故に、吹き込む風が強い。

「ここから上の展望台まで、まだ距離があるけど大丈夫か?」

「はい。ここまでくれば、おそらく。上から神気を感じますし……」

 そう言って、祐理は目を瞑る。

「不浄を払う雷……善なる民衆の守護者であり、太陽を仰ぐ者……黄金色の剣を振るい、数多の敵を撃ち果たす軍神……」

 祐理は見事に霊視を得た。

 やはり、特別展望台を焼いた雷は、『まつろわぬ神』によるものらしい。それも軍神。黄金の剣を持ち、太陽にも縁を結ぶ者。

「……」

 祐理の唇が紡ぐ言葉を聞いた護堂は背筋に氷塊が滑り落ちるような気分を味わった。

 特徴が、あまりにも一致しすぎているからだ。あの軍神に。

「どうかされましたか、草薙さん?」

「え、ああ、いや、なんでもない。久しぶりに、神様が出てきたかとね」

「そうですね。まさか、東京の真ん中に現れるなんて」

 護堂の誤魔化しを祐理はそのまま受け取って、憂いを秘めた顔をする。

 今まで、何かと人の少ない場所を選んで戦ってきた護堂だが、東京タワー近辺を舞台に戦うとなると、甚大な被害が予想される。

 それは、できることなら避けたいところだ。

 自然と、護堂はこの神様とどこで戦うのがよいか思案していた。

 すると、そのとき、祐理が叫んだ。

「草薙さんッ! 何か、強い気が近付いてきます!」

 それと同時に、護堂の身体に力が湧き上がってくる。

 『まつろわぬ神』がついにやってきたのだ。

 瞬間、大展望台を強風が吹き渡る。今までにない暴風に、祐理は思わずしゃがみこんだ。そうでもしなければ吹き飛ばされてしまいそうだったからだ。馨や冬馬も、しゃがむことこそなかったが、風に押されてバランスを崩しそうになる。

 そんな中で、護堂は呪力を練り上げて風に抵抗した。

「ほう、我が風をいとも容易く受け流すか。ハハハ、善き哉! それでこそ、神殺しじゃ!」

 姿は見えない。だが、そこにいる。

「何してやがる。さっさと出て来い!」 

 護堂は挑発気味に叫んだ。

 この声の調子からして、敵は軍神の類だ。だとしたら、目的は間違いなく護堂だろう。

「うむ、そうじゃな。我等の宿縁の敵を前に姿を曝さぬは非礼が過ぎるの」

 風が収束し、渦となってフロアの一画に集う。

 揺らいだ大気の中にぼやけた人型が現れて、瞬きする間に一人の少年になった。

「お、まえは……!」

 護堂は驚愕せざるを得なかった。

 それと同時に納得もする。雷撃に太陽、黄金の剣とくればこの神格しかいないのだから。

「そこな巫女は、すでに我の神名を視たかもしれぬが、あえて名乗ろう。我が名はウルスラグナ。善なる神にして不敗の軍神、ウルスラグナじゃ! 我が打倒すべき障碍たるお主の名は何という?」

「草薙護堂だ」

 意気揚々と名乗りを上げるウルスラグナに対し、護堂は目一杯警戒心を見せつける。

 原作での活躍を知るだけに、この神を相手に慢心などできるはずがない。

「その名前、知ってるぞ。あんた、一年前にメルカルトと戦って消えたんじゃないのかよ?」

 すべての始まりは、昨年の春休みだった。

 護堂はウルスラグナとメルカルトの激突を日和見し、すべてが終わったころにサルデーニャに向かおうと、わざと遠回りの旅路を選び、結果としてまつろわぬガブリエルと対峙することになった。

 護堂が関わらなかったことで、ウルスラグナとメルカルトは予定通りに戦い、激闘の末にウルスラグナは消滅、メルカルトは命の半分を持っていかれる重傷を負った。

 カンピオーネとなった護堂の初陣で下したメルカルトから権能を簒奪できなかったのは、メルカルトの命の大半をウルスラグナが持っていったからだと護堂は見ている。

 では、このウルスラグナは一体何者だ。

 護堂の問いに、ウルスラグナは明瞭な答えを返した。

「無論、生き延びておったのよ。《鋼》は《蛇》とは異なる系統の不死じゃ。我もまた不死の力を持っておる。まあ、多少復活に時間がかかったがな」

「そうか。『雄羊』の化身か……」

 ウルスラグナの不死性の体現。それは、『雄羊』の化身だ。

「よく知っておるな。感心じゃ。如何にも、我は『雄羊』の力で生き延びた。不敗の軍神たる我が、一時とはいえ敗北の汚名を着せられたのは恥辱に耐えぬ。故に、メルカルト神を探し出し、決着をつけようかと思ったのだがのう……かの軍神は、事もあろうに神殺しの手に掛かってしもうたというではないか」

 ウルスラグナは、微笑みながら護堂を見つめた。

「あんたの目的は……」

「分かっていよう。我が倒すべきメルカルト神が討ち果たされたのじゃ。ならば、メルカルト神を討ち果たした神殺しこそが、我が障碍となるのは明白じゃ」

 護堂の身体に、静電気のような妙な感覚が奔る。

 ウルスラグナの純粋な闘志を受けて、身体がさらに高い次元の臨戦態勢に移行したのだ。

 ウルスラグナの戦う理由は明白で、疑う余地もない。強敵と戦うことを追い求めるこの神にとって、自身に深手を負わせたメルカルトを倒したカンピオーネというだけで戦う価値がある。

「そこな小娘よ。神の前じゃ。例え神殺しの加護を受けていようとも、姿を現すのが礼儀ぞ」

 ウルスラグナが右手を一閃すると、呪力の刃が空間を裂いた。

「うわあッ!?」

 捻れた空間から、晶が落ちた。尻餅でもつくかという体勢だったが、空中で身体を捻って猫のように着地して見せた。

「人の身を捨てて、すべてをこやつに捧げたか。健気故に痛ましいな」

 晶が式神だということも、すでに見抜かれているらしい。

 憐れまれた晶はムッとして、

「余計なお世話です」

 と呟いた。

「ハハハ、そう気色ばむな娘。忠節に篤いというのは良いことぞ。神殺しに忠義を誓っておるのが残念でならんがな」

 『まつろわぬ神』は、人間に関心を持たないのだが、晶は別らしい。護堂の権能によって強力な力を振るう彼女を、ウルスラグナは護堂の能力の一部とでも認識したのだろうか。

「さて、神殺し草薙護堂よ。我は不敗の軍神として、また、《鋼》の神としてお主を討たねばならん。奇縁にも思えるが、それもまた我等の宿縁よ」

 ウルスラグナの姿が薄れていく。風が舞い、護堂たちの髪を玩ぶ。吹き荒れる風の中で、少年の姿をした軍神が笑いながら叫んだ。

「かような趣もない地で争おうとは思わぬ。然るべき場所を用意する故、暫し待つがいい。太陽にお主の街が焼かれぬよう、心して刃を研ぎ澄ましておくのじゃな! 願わくば、今度こそ心行くまで争い、真の敗北を味わいたいものじゃ!」

 不穏な言葉を残して、ウルスラグナが消えた。

 どうやら、護堂に宣戦布告をしに来ただけらしい。言いたいことだけ言って、護堂の返答を待たずにどこかに飛び去ってしまった。

 だが、これで終わりなはずもなく、近くまつろわぬウルスラグナの果たし状が届くだろう。

 これは、冬休みの終わりから続いた、護堂の平穏が終わりを告げた瞬間でもあった。

 



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中編 東方の軍神編 Ⅱ

 護堂の下を去ったウルスラグナは、『鳳』に変身して空を切り裂き、自分と相性のよさそうな地点を探した。

 決戦するなら、最高のコンディションで挑める場所でしたい。

 候補地は二箇所。

 一つは、この国で最大の火山である富士山。

 《鋼》と相性のよい火山は好むところだ。それに、霊峰というのがいい。『まつろわぬ神』は、霊力の集まる土地を好み、場合によっては自分の伝承とは無関係な聖地に陣取ることもある。メルカルトがそうであった。

 そして、もう一つの候補地は、江の島。

 偶然、神殺しを尋ねる際に通りがかり気に入った。

 どうやら、《蛇》の神格を崇めている土地らしく水と大地の精に溢れている。これもまた、《鋼》が性を昂ぶらせるのに向いている。

「まあ、ここでよいか」

 ウルスラグナが選んだのは、江の島。

 理由は、近いから。

 一刻も早く戦いに望みたいというのが、ウルスラグナの思いだ。ここなら、島ということで人気を排除するのも容易。邪魔が入ることもあるまい。

 ウルスラグナは、神力を解き放ち『少年』の化身となった。

 彼が最も好む化身でもある。

 その能力は、加護と支配の言霊。万物を言葉によって従えることができるのだ。

「命ある人の子らよ。我の戦場から疾く去るがいい」

 ただ、それだけで、江の島は瞬く間に無人の城と化した。

 これで、舞台は整った。

 神殺しが現れるまで、まだ時間があるだろう。その間に、この島を要塞にでも変えてしまおうか。

 一瞬、そんな考えが脳裏に浮かんだが、即座に一蹴する。

「我は障害を打破する者。メルカルト神のように篭城するのは性に合わぬ」

 かつて、メルカルトは傷ついた身体を癒すために洞窟の中に結界を巡らせ己の城とした。思えば、あそこで神力を使ってしまったことが、手痛い反撃を許すことになったのかもしれない。

 だが、だからといって、自分も同じ戦法を採ることはない。

 ウルスラグナは敵を打ち砕き正義を示す者。

 城に篭って戦うのは、彼の言葉通り性に合わないことである。

 故に、待つ。

 ウルスラグナはひたすらに、自らが打倒すべき敵の到来を待ち続けるのであった。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 ウルスラグナの出現は、衝撃と共に東京の呪術師たちに伝えられた。

 特に護堂が受けた衝撃たるや、事情を知らない他人では想像することもできまい。

 原作知識がある護堂はウルスラグナを知っている。主人公草薙護堂が、最初に倒した神であり、原作で最も重要な役割を果たしていると言っても過言ではない神格なのだ。

 メルカルトに倒されて、終わったのだと思っていたが、そうではなかった。

 むしろ、原作での護堂の不死身さを考えれば、復活するのは当たり前だ。なぜ、原作のウルスラグナは『雄羊』の化身を使わずに護堂に敗北したのだろうか。何か、ウルスラグナが敗北する伏線はあっただろうか。それが思い出せればいいのだが、残念なことに十六年も昔の話だ。細かいところまでは覚えていなかった。

 護堂は祐理や合流した恵那と共に車で移動している。

 目的地は、江の島。

 日本を代表する観光地の一つだ。

 どうやら、ウルスラグナはそこを決戦の地に選んだらしい。

「よく、風になったウルスラグナの居場所が分かりましたね」

「神様の居場所を探るのは、それほど難しくありませんよ。明日香さんほどの術者になれば、かなり細かい地点まで探れます。なんといっても、莫大な呪力の塊ですし、姿を隠すつもりもないようですしね」

「ああ、そうか。確かに……探り当てたの、明日香かよ」

 居場所を探るだけなら、相手がどれだけ速く動いて、飛び去っても問題ない。

 大雑把な位置ならば、それなりの呪術師にも探れるという。ただ、明日香ほどの呪術の巧みであれば、さらに細かい市町村の番地まで絞り込めるらしい。

 ウルスラグナ自身も、自らを隠すような真似はしない。彼は真正面から障害を打破する者なのである。

「それにしてもウルスラグナか……」

「日本ではマイナーな神格なのに、ご存知みたいですね」

「ええ、まあ。メルカルトと戦ったときに、名前を聞きましたから」

 護堂が原作という名の平行世界の知識を持っていることを知る者はいない。

 誰にも伝えていないし、伝える意味もないと思っている。すでに、護堂の知る原作ネタは品切れ状態であり、もはや意味そのものを半ば喪失している。

 そんなときにやってきたのがウルスラグナだった。

「ウルスラグナは、ゾロアスター教に現れる《鋼》の軍神ですね。中級神ヤザタの一人で、一〇の化身に変身して戦うといいます」

「今日、俺たちの前で見せたのは、『強風』『山羊』ってとこですか。確か、山羊は印欧語族の雷の象徴でしたよね?」

「ええ、ゼウスなんかも山羊と縁深い神ですし。太陽を運ぶ馬と雷の山羊はあの辺りの神話が共有する類型の一つでもあります」

 ウルスラグナが見せた化身はまだ二つだけだ。一〇の化身を持つのであれば、残りは八つ。一応、すべての効果を知っているが、まつろわぬウルスラグナがそれを使ったとき、どれほどの脅威になるか想像もできない。

「王さまもつくづく神様に好かれる人だよねぇ……」

「別に俺は好かれたいわけじゃない。むしろ、無視してくれればありがたいんだけどな」

 恵那の言葉に、護堂はため息をついて答えた。

 サルバトーレのように、明け透けに戦い最高、と言えればいいのかもしれない。しかし、残念ながら、護堂の性格はそこまで戦いを好むものではない。

「ですが、草薙さんも神々に挑戦されることもありますし、避けることができるのに避けないというのもどうかと」

「そ、それは仕方ないだろ。どうしたって、向こうから来るんだから、その場で避けても意味ないんだよ」

 祐理の言葉に、ぎくりとしながらも取ってつけたような言い訳をする。

 草薙護堂のこの一年間の所業を振り返れば、巻き込まれたものもあるが、護堂から喧嘩を売った戦いもいくつかある。一概に、被害者だと言えない事情があるのだった。

 そうして、車内で話をしている間に時間が過ぎて、やがて目には見えない気配というべきものが漂うようになった。 

 車の進む先には、緑の覆われた美しい島と砂浜。

「見えてきました、ああ、この辺りまでくれば、私でも感じられますね」

 冬馬は車を停める、小波の奥に浮かぶ江の島を見る。

 護堂の身体にも、強い力が湧き上がってくるのが分かる。

「人がいないね。冬だからかな」

 夏に来れば、人がたくさんいて戦いどころではなかっただろう。今は真冬だ。好んで海に飛び込む者もそういない。

 しかし、どうにもそれだけではないらしい。祐理が首を振る。

「どうやら、先に人払いされたようです。ウルスラグナ様の神力を感じます」

「戦う気満々と言ったところですねェ。どうします、草薙さん」

 冬馬に問われた護堂は、シートベルトを外して言った。

「もちろん、戦いますよ。そうじゃないと、東京に太陽を落とすとまで言ってんですからね」

「はい、では避難誘導などはこちらにお任せください。江の島周辺は、完全封鎖しますので」

「よろしくお願いします」

 護堂は車を降りた。

 恵那がそれに続き、実体化した晶もまた神槍を携えて現れた。

「清秋院も晶も、前には出るなよ」

「分かってるよ、王さま。ヒットアンドアウェイ。神獣が出てきたりしたら、こっちに任せてくれればいいよ」

「後ろは気にしないでください、先輩」

 恵那と晶が、それぞれの武器に陽光を反射させる。

 後ろは二人が守ってくれる。だから、護堂は前方、ウルスラグナだけに集中する。

 

 

 江の島は島ではあるが、江ノ島大橋で陸と繋がっているので、船を使う必要はない。

 護堂たちは、橋を渡って江の島に渡った。

 江の島は古くからの霊地として、信仰を集めてきた。

 特に弁才天と五頭竜伝説の地であり、《蛇》の神格が崇められている土地なのである。

 しかし、そうした霊地という特性の他に、観光地という側面も持っている。緑豊かな土地で、マリンスポーツも盛ん。そうした背景があるから、橋の先は大きな駐車場や商店街、そして広いヨットハーバーという人工的な光景になっている。

 その奥に進んでいくと、緑豊かな霊地となる。

 戦うならばどちらか。

 考えるまでもない。

 護堂たちはヨットハーバーのほうへ歩きながら、ウルスラグナの気を探る。

 いた。

 探すまでもなかった。

 ウルスラグナは一五歳の少年の姿で、ヨットハーバーに停めてあったヨットの上に腰掛けていた。

「来たか、草薙護堂。すっかり待ち侘びてしまったわ」

 暇を持て余した軍神は何をするでもなくこの場でぶらぶらとしていたらしい。

「待ち伏せもなし、罠もなしか」

「当然じゃろう。聖戦に卑怯な手管は使わぬよ。我はウルスラグナ。悪を挫く、正義の軍神故な」

 ならば、この島に何かしらの結界などが仕掛けられているということはない。 

 目の前の軍神以外に脅威はないということだ。

 護堂は恵那と晶の二人と目配せし、下がらせた。神とガチンコで戦うのは、あくまでも護堂である。

「ふふふ、良き目じゃ。この島国に来る途上、南洋の島でキルケーと戦ったが、やはり魔女よりも神殺しのほうが戦いがいがある」

 護堂は眉を顰める。

 キルケーという神に心当たりがないこともあるが、南洋の島というのが気にかかった。

 それは、おそらく晶の父親が調べていた島が消失した事件のことでないか。

 なるほど、それならば上がってきた情報とも一致する。ウルスラグナが黄金の剣と太陽の力で島ごとキルケーという魔女神を沈めたのだろう。

「その事件も知ってるけど、結構前だろ」

「うむ。あの魔女神めにしてやられてな。討ち果たしたが、取り戻すのに多少苦労したのじゃ」

「取り戻す?」

「ふふ、まあ、そう聞くな。もはや過ぎ去った過去のことぞ。今はただ、目の前の戦いにのみ力を注ぐがいい」

 少年神は優美な笑みを浮かべて、ヨットから飛び降りた。

「それに、どうにも我はお主と戦わねばならぬような気がしての。《鋼》と神殺しという宿縁を越えた何かを感じるのじゃよ」

「そら、勘違いだと思うぞ」

 言いながら、護堂は神槍を一〇挺、周囲に展開した。

「ふむ、では行こうか」

 ウルスラグナの宣言に、先手を打つべく護堂が神槍を掃射した。躊躇いなく放たれた刃は、ウルスラグナの身体を刺し貫き、その臓腑を撒き散らすために疾駆する。その刹那、やおら右手を挙げたウルスラグナは、呪力を言霊に託して命ず。

『退け』

 ウルスラグナの言霊が、護堂の刃を弾き返した。

「言霊の権能!?」

「うむ。我が『少年』の化身の力じゃ。お主のほうもなかなか見事な武具じゃな。さぞや名高い鍛冶神を討ち果たしたのであろうよ」

 ウルスラグナの目が鋭くなる。見透かすような視線に怖気を感じた護堂は次なる剣を生成して放つ。

 何度も同じ手が通じるかと、ウルスラグナは言霊を使う。

『退け』

 一言だけの命令でいい。この程度の剣であれば、それだけで弾き返せる。だが、その言霊に対して、護堂もまた言霊で反撃した。

『穿て』

 護堂の『強制言語(ロゴス)』がウルスラグナの『少年』の言霊と激突し、対消滅する。 

 そうなると、当然剣の迎撃はできない。

 迫り来る刃を前にして、ウルスラグナは動じず姿を消した。

 獲物を捕らえそこなった剣は、ヨットを複数台巻き込んで粉塵を上げる。

 風はない。消えたのは、『強風』に変身したからではなく――――『鳳』の神速だ。

「オオオオッ」

 護堂は身を前に投げ出し、受身を取りながら起き上がる。

 一瞬前までいた場所を何かが通り過ぎて行った。

 肩口を掠めたのか、血が噴き出す。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり」

 ガブリエルの聖句を唱えて直感を研ぎ澄ます。神速にすら対応する、先読みの力で、ウルスラグナの動きに合せて身体を動かす。

 舞い踊るように、最小限の動きで『鳳』の羽ばたきをかわすと反撃とばかりに神槍で突く。どこにくるか予想して放った突きは、しかし素人の技故か易々と避けられた。

 護堂の頭上を越えたウルスラグナは、再び少年の姿を取る。

「雑な使い方じゃのう。神の武具をそのように」

「生憎と武芸は苦手でな」

「それで、数多の神と対峙してきたのか。ハハハ、やはり神殺しは我等の天敵じゃな。それでこそ、心躍る戦いになるというものじゃ」

 ウルスラグナが大地を蹴る。神速ほどではないが、速い。三歩とかからず、護堂の懐に飛び込めるだろう。それを許さないよう、護堂は剣群を投射する。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ」

 対するウルスラグナは咆哮する。衝撃波となる咆哮は、それだけで剣を駆逐し道を開く。我が目を疑う護堂に向かって襲い掛かるのは一頭の大猪だ。体長二〇メートルほどの巨体で、猛進する。『猪』の化身に変身したのだ。物理的破壊力は、ウルスラグナの化身でも随一。怪力の化身など持たない護堂は、当然これを受け止める力などなく、咄嗟に発動させた土雷神の化身で地中を移動してどうにかやり過ごした。

「なんて威力だ」

 地上に再出現した護堂は掘削機で削ったような大地の有様を見て唖然とする。

 大猪は突進力だけでなく、重量も尋常ではない。それが全力疾走すれば、こうなるのも当たり前か。

「ほう、変わった技を使う。それもまたお主の権能か」

 ズンズンと足音を響かせて、ウルスラグナはこちらを向いた。

「なるほど、雷神に纏わる力を感じるの。じゃが、不思議なことに、視えぬ。先の言霊と同じ力が邪魔をしておるようじゃの。念の入ったことよ!」

 襲い掛かる大猪は、ヨットハーバーのヨットを粉砕し、地面を掘り返して大暴れする。圧倒的な破壊力に、人間の作り上げた施設は為す術もなく倒壊し、瓦礫の山に変わっていく。

「でかい的だ!」

 護堂にとっては大きな的でしかない。直撃しなければ、突進力も意味がない。土雷神の化身による神速と『強制言語』による空間圧縮を駆使して大猪の突進をいなしつつ、護堂はその身体に神槍や神剣を突き立てる。

「オオオオッ!」

 ウルスラグナが吼える。衝撃波の弾丸が、民宿の屋根を吹き飛ばし、木々を薙ぎ倒す。

 伏せてかわした護堂は、返す刀で神槍を射出する。二〇の刃が大猪の毛皮に突き立つ。原作の猪ならばまだしも、この大猪はウルスラグナそのものだ。防御力は『まつろわぬ神』のそれ。神獣とは比較にならない。

 爆発的な加速。

 飛び上がるウルスラグナは、自らの重量で護堂を押し潰そうと飛び掛る。土雷神の化身を使ってこれを回避する。大猪の巨体は地震を引き起こし、道路を陥没させた。

「さすがに小回りが利かんと当たらんな!」

 ブルブルと頭を振って土を落としてから、ウルスラグナは別の化身を使った。今度は筋骨隆々な『雄牛』の化身だ。牛頭天王と同じような、人身牛頭の怪物へと姿を変えた。

 大猪に比べれば小さいが、それでも二メートルほどの巨人だ。ウルスラグナは、自分が破壊したヨットハーバーの瓦礫を掴むと徐に持ち上げた。

「その化身は怪力だったか」

「如何にも。大地に縁深い牛は、豊穣の証。また、剛力を有するものも多いぞ。我だけではない」

「知ってるよ!」

 ウルスラグナの投撃を、護堂は転がってかわす。

 避ける続けるのは現実的ではないので、楯を作り出して前面に押し出す。ウルスラグナが如何に怪力を誇り、投げる瓦礫が音速を超えたとしても、ただの瓦礫に神具を砕く力はない。

「製鉄神の権能、なかなか多芸じゃな! よし、ならば組み討ちと行こう!」

 ウルスラグナはその大きな手で鉄棒を引き抜いた。拉げた鉄棒は、おそらくは建物に用いられた鉄筋の残骸だろう。三メートルほどの長さのそれを、見せ付けるが如く回転させる。

 それから、ウルスラグナは地を蹴った。怪力の権能を駆使した猛然とした疾走と、その勢い、筋力、そして軍神の才覚を用いた鉄棒の一閃は、神槍の一撃に等しい精度と威力で護堂の楯を殴り、弾き飛ばす。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 護堂は一目連の聖句を唱えて武具を強化する。呪力を練り、神槍を生み出して至近距離からウルスラグナに射出する。

「ぬん!」

 ウルスラグナの鉄棒はあくまでも人工物。神槍には耐えられない。それを理解しているウルスラグナは、真正直にこれを受け止めず、刃の腹の部分に鉄棒を沿えて押す。怪力がこれに加わるので、いとも容易く神槍は逸らされてしまった。

「正気かクソ!」

 護堂は飛び退いて距離を取りつつ、言霊を投げかける。

『穿て!』

 護堂の言霊は、ウルスラグナを狙ったものではない。呪力への耐性から弾かれる可能性も高い。そのため、護堂の言霊が狙ったのはウルスラグナの手元。鉄棒である。鉄棒を一撃の下に粉砕する。

 追撃を仕掛けようとした護堂の前でウルスラグナが大きく地面を踏みつけた。

 その瞬間、護堂とウルスラグナの足場が砕けて、粉塵が立ち上った。左右に、モーゼが海を割ったときのように、地割れが生じた。大地が裂け、護堂は足を取られた。そこに、ウルスラグナが攻め込んだ。拳を握り、護堂の頭を砕かんと豪腕を振るう。

『縮』

 バランスを崩したことで大地から足が離れている護堂は、空間を圧縮して難を逃れる。飛び移った先はウルスラグナの懐だ。

「鋭く、速き雷よ! 我が敵を切り刻み、罪障を払え!」

 咲雷神の化身を発動させる。どこかで、建物なり木なりが両断されて倒れただろう。咲雷神の化身は、高い物体を生贄にすることで発動するのだ。

 咲雷神は、雷の切断力の神格化したもので、化身は雷を以て敵を斬り裂く力を持つ。

 紫電が奔り、稲妻の斧がウルスラグナの胸板を襲う、その刹那、精妙なる風がどこからか吹き込んできた。

「ぐ、ぅ……!?」

 気が付けば、空に跳ね上げられていた。

「まさか、風になりやがったか!?」

 風は斬れない。実体化を解いて、致命的な咲雷神の斬撃を受け流したのだ。

「いや、驚いたぞ。神殺しよ。あれを受けるのは、さすがの我も危ういのでな」

 空中で実体化したウルスラグナが、踵落としを放ってきた。護堂は、これを楯で受け止めたが、失策だった。ただの蹴りではない。『駱駝』の化身による強大な蹴りだった。

 流星のように地面に墜落した護堂は即座に若雷神の化身を使って身体を修復する。

 よろめきながらも立ち上がる護堂に、ウルスラグナは嬉しそうな笑みを浮かべた。

「なるほど、不死性の権能だな。それもまた雷神。なるほど、お主の力はこの国の雷神、火雷大神より簒奪したものじゃな。そして、厄介な言霊の権能はガブリエル。ふふふ、バビロニアの蛇神を起源とする大天使か。確かにこれは大物じゃ。あといくつ隠し持っておるのかの」

 どのように『強制言語』の秘匿能力を破ったのかは分からないが、アテナも見抜いたのだ。ウルスラグナが見抜いたところで驚くには値しない。

「教えねえっての」

「で、あろうな」

 ウルスラグナはますます微笑みを深くする。それから、護堂に駆け寄って、蹴りを放つ。速い上に鋭い。神すら蹴り殺す『駱駝』の蹴り。カンピオーネの頑丈さだけで受け止めるにはあまりに危険。

 護堂は血流の加速を感じた。

 集中力がさらに鋭くなり、直感が冴える。どのように身体を動かせばいいのか、感じ取って動けるようになった。

『足払いだ』

 脳裏に響くアテナの声に、従って護堂はウルスラグナに足払いをかける。

「ぬお!?」

 上段蹴りをかわされた直後の足払いを受けて、ウルスラグナはふら付いた。そこに、護堂は生成した神剣を突き込んだ。素人のそれではなく、達人の剣筋での刺突をウルスラグナは尻餅をつくことで避けた。あのまま無理に体勢を立て直そうとしていたら、首を刎ねることができただろうに。

 ウルスラグナはそのまま後転して立ち上がり、さらに一歩退く。

「ハハ、なにやら胡乱な力を使いおったな。組み打ちの力を持っておるのではないか!」

 面白くなってきたと言わんばかりに嬉々としたウルスラグナは、臆することなく近接戦を挑んできた。

 アテナから得た力と『強制言語』を駆使してウルスラグナを相手に一歩も引かずに激しい打ち合いをする護堂は、それでも徐々に形勢が不利になっていくのを感じていた。

 打ち合い自体は互角だ。

 だが、身体の頑丈さで負けており、さらにアテナの力を使ったことで制限時間が発生した。勝負を急がなければ、何れ身体が動かなくなってしまう。

 『神便鬼毒酒(フォッグ・オブ・ザ・インタクシケイション)』で破魔の霧をばら撒き、ウルスラグナの力を弱めようとしたが、効果を発揮する前に『強風』の化身が霧を内側から吹き散らした。暴風に曝されて、護堂の身体も跳ね飛ばされて地面を転がる。瞬間的にあらゆる台風を凌駕した突風を生み出したのだ。

 相手に合せて手札を切る。それがウルスラグナの戦い方だ。それは護堂と似通ったものではあるが、自分と同じような戦い方がこれほど厄介だとは。サルバトーレのように、一つの必殺技に託けて突撃してくれるほうが幾分かやりやすい。

 しかも『まつろわぬ神』のウルスラグナは原作の権能となったものと異なり化身を連発してくる。正直に言って、これは反則だ。

「まあ、一柱の神様がいくつも技持ってるわけだし珍しくもないけどな!」

 そう言って、護堂は己を奮い立たせる。

 しかし、次第に身体が重くなってくる。恐ろしいまでの倦怠感が、護堂の反応を遅らせていく。

「どうした。動きが鈍くなってきたな、神殺しよ!」

「そりゃあ、気のせいだ!」

 気合を入れて、神槍を振るうと、ウルスラグナは飛び退いてかわす。何度も繰り返してきた光景だ。

 そこに、これまでと異なる化身を発動する。

 右手に雷光を集め、一息に聖句を唱える。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ、大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 八つの化身の中でも最強の一撃を可能とする大雷神の化身だ。その閃光は大地を蒸発させ、通り過ぎた後には何も残らない。

 この脅威に勘付いたウルスラグナもまた対処する。『鳳』で避けるか、それもありだが、ここは正面から受けてみよう。

 発動する化身は、『山羊』。

 護堂と同じく、雷を操る祭祀の化身だ。

 雷光を束ねて、ウルスラグナは紫電を放って迎撃した。

「ぬ、う……さすがに重いの! だが、それでこそよ!」

 歓喜するウルスラグナは、聖句を唱えて力を底上げしつつ、眩い白の輝きに目を輝かせる。

 威力は護堂のほうが上だ。このまま続ければ押し切れる。護堂は呪力を振り絞って大雷神の化身をさらに強める。

 異変があったのはその直後だ。

「な……ッ!?」

 大雷神の化身が急速にしぼんでいく。まだ、発動限界に達していないはず。

『ウルスラグナだ。雷を操る祭祀の力で、あなたの雷を奪っているぞ!』

「嘘だろ、なんでもありかよ!」

 アテナの言うとおりだ。ウルスラグナは護堂の雷を迎撃しつつ、その力を奪い取っていた。さすがに、再利用することは能力の限界を超えているが、避雷針のように他所に飛ばして威力を分散させることはできていた。

 それは奇しくも、護堂がアテナにしたのと似ている。

 そうして、カンピオーネの雷と『まつろわぬ神』の雷は相打つ形で消滅した。

 最悪なのは、護堂はこれで日が変わるまで大雷神の化身が使えなくなったことである。

「ふふ、いやはや凄まじい威力じゃ。我が右腕がほれ、この通り」

 ウルスラグナは右手を護堂に見せる。

 彼の右手は、赤黒く焼け爛れていた。護堂の雷撃を正面から受け止めた代償だ。

 だが、それはつまりその程度の手傷で防ぎきったということでも在る。

 残りの手札の中で最大火力は火雷神の化身か重力球。対して、ウルスラグナには『白馬』の化身がある。撃ち落されない可能性がゼロとは言い難い。

「お主が切り札を切ったというのに、我が切らぬわけにもいかんか」

 ウルスラグナの周囲に黄金色の星が現れた。

 目視しただけで、その恐ろしさが分かってしまう。

「何を斬るべきか考えどころであったが、やはり火雷大神は見過ごせぬ。まずは、その多彩な力から斬り裂くとしようかの!」

 ウルスラグナの手に集った光が剣となって燦然と輝く。

「火雷大神は、この国の神話に語られる典型的な雷神じゃ。創造神たるイザナミの身体から生まれ、八つの蛇神にして神格を一にする雷神。それは、雷が持つ八つの側面をそれぞれ神格化したものじゃ」

 光の粒と光の剣が、神々しい輝きを放つ。

 神格を斬り裂く言霊の剣。

 ウルスラグナは火雷大神の権能を丸ごと斬り捨てようとしている。

 対処法は三つ。

 ひたすら避けること。あえて火雷大神の権能をぶつけて対消滅させること。そして、まったく別の権能で迎撃することだ。

 最も現実的なのは三番目。

 護堂は、『武具生成(アームズ・ワークス)』を全力展開。質ではなく数のごり押しで言霊の剣を押し切ろうとした。

 あの黄金の剣は、あくまでも『(エイト・アス)(ペクツ・オブ)(・サンダーボルト)』を斬り裂くためのもので、他の権能には影響を与えない。

「行けェ!!」

 護堂は吼えて、黄金の剣に向かって掃射する。

 無数の刃に対して、ウルスラグナを守るように展開して黄金の星は、激突してあらぬ方向に弾き飛ばされていく。だが、消えない。護堂の刃は言霊の剣を弾くのみで消滅させるには届かない。

「ハッ、この剣の性質に即座に気付き、手を打ってくるとは驚きじゃ! なればこそ、堂々とお主を斬り捨てる喜びがあるというもの!」

 ウルスラグナは剣を片手に、前進してきた。類希なる武芸の才が、ウルスラグナの目に安全圏を映し出す。鋼の群れの中をすり抜けるように進む主に遅れを取るまいと、黄金の剣が怒涛となって特攻してくる。

 使えば使うほど、切れ味を落としていく黄金の刃をこのような形で犠牲にするとは思い切ったことをする。

 ウルスラグナは黄金の剣を二つの集団に分けた。

 前面に展開された黄金の剣はとにかく楯として機能することを目的としたもの。これが刃の雨を弾き返している。その後ろで、ウルスラグナ自らが率いる本隊が漸進してくるのだ。

 言霊の剣は、使えば使うほど切れ味が悪くなる。

 だからウルスラグナは、使い捨てる剣と、温存する剣に分けて運用しているのだ。まさか、このような使い方があろうとは。

「くそ……!」

 ここは一旦撤退するのが懸命だろう。これ以上戦ってはジリ貧だ。アテナの力を使ったことによる反動で身体が重すぎて格闘戦はできない。

 護堂はここで土雷神の化身を使い、ウルスラグナから距離を取ろうとした。

 それを見計らったかのように、ウルスラグナが地面を斬り裂いた。

「なッ……!?」

 護堂は目を見開いて驚いた。

 ウルスラグナが剣を振るった直後、土雷神の化身が解けたのだ。

「実体を解く類の権能は、総じて魔術破りに弱くての。我が剣は天敵じゃろう。土と呪力の繋がりを絶てば、お主の雷神の足は使えぬ」

 そうこうしている内にウルスラグナはかなりの距離にまで近付いている。剣群では足止めにならない。

「黒き星よ。一掃しろ!」

 起死回生を狙う。なけなしの呪力を、この一撃にかける。

 右手に構える漆黒の刃を振り下ろし、最強の重力球を顕現させるのだ。

 出現した黒き星は、ウルスラグナに向かって墜ちていく。辺り一帯の地盤をひっくり返し、ヨットを吸い上げ、何もかもを無に帰そうとする。

「な、に……なんと、これほどの力を!?」

 さすがにウルスラグナも足を止めて黄金の剣で自らの身体を覆い、護堂の重力球からの干渉を防ぐので手一杯の様子だ。

「あんたは、化身を二つ纏めて使えないだろ。その剣を出している今、この創世の剣は防げないぞ」

「いいや、まだじゃ。まだ、我の敗北と決まったわけではない!」

 東の空に暁の光が差した。

 膨大な呪力と共に、白熱した槍が降り注いでくる。

「な、太陽だって!?」

 ウルスラグナの『白馬』の化身。それは、暁を模した擬似太陽からの太陽フレアとなって顕現する。

 灼熱の焔が槍と化し、漆黒の重力球と激突する。激しい力のぶつかり合いが周囲への破壊を更に加速していく。

 護堂は信じられんとばかりに目を剥く。

 ウルスラグナは二つの化身を同時に使えないはず。それが、この軍神の数少ない弱点なのだから。

 事実、ウルスラグナは苦悶に顔を歪めている。『戦士』の化身と『白馬』の化身を同時に使うことによって、想像を絶する負担が彼を襲っているのだ。

 それはつまり、押し切れる可能性があるということだ。

 ウルスラグナをこのまま重力球で圧倒し、押し潰す。そうでなければ、こちらは圧倒的に不利なってしまう。

「墜ちろ」

 残された呪力を、重力球の制御に回す。

 ともすれば暴走しそうになる強大な力だけに、繊細なコントロールが必要だ。だが、今はそんなことに構っている余裕はない。とにかく、ウルスラグナのいる辺りを纏めて潰し、尚且つ暁の光を撃退するようただそれだけを念じる。

 ひたすら、重力球に集中していた所為で、足元が疎かになった。

 ウルスラグナが呟く。

「我の勝ちじゃな」

 護堂の足元の瓦礫の中から、黄金の星が飛び出して護堂の身体を斬り裂いた。

「ぐ、うああああああッ」

 ごっそりと力が持っていかれる感覚。呪力が急速に衰えていく。重力球が『白馬』に抗しきれなくなって溶け落ち、黒と白は互いに喰らいあって消滅した。

 残されたのは、疲弊の極みに陥り立つこともままならない護堂とまだ動けるウルスラグナ。

「ハ、ハハハ! いや、楽しい戦いじゃった。このような死力を尽くした戦いは久方ぶりじゃ!」

 ウルスラグナの身体が膨れ上がり、怪力の化身へと変わる。

「草薙護堂。我を楽しませた神殺しよ。せめてもの礼に、念入りに殺してやるとしよう!」

 護堂は今、火雷大神の権能が使えない。呪力も満足に練れないほど疲弊した状態では、あの怪力を喰らった瞬間に死んでしまう。若雷神の化身が封じられた護堂は、もう再生することができないのだ。

「させるかッ!」

 牛の怪人に晶が斬りかかった。

 晶の神槍は護堂の権能で作ったもの。刃がウルスラグナの腕に突き刺さり、血を滴らせた。

「ほう、先の式神ではないか」

「あの人には、絶対に触らせない! 清秋院さん!」

 晶の呼び声に応えて、恵那も飛び出した。

「先輩を!」

「アッキー、死なないでね!」

 血相を変えて、護堂に走り寄った恵那は護堂の身体を背負って走り出した。

「む、ここまできて逃げられるのはいかん。小娘、道を開けよ」

 『雄牛』の怪力であれば、撫でるだけで人間をすり身にできる。

 本来であれば、神に刃を向けた罰を与えるところだが、最高の戦いを与えてくれた男の所有物を壊すのは気が引ける。だから、少し手加減してやろうと思い、腕を動かして驚いた。

「小娘、お主、そこまで人を捨てたか」

 晶の身体を水墨画のような濃淡ある黒が覆っていた。刺青のように晶を侵食する黒い呪力が、次第に形になり、軽装の鎧を思わせるものになったのだ。

「お主のような者をこの国では鬼だの生成りだのというらしいの」

 ブオン、とウルスラグナは腕を振るい晶を振り払った。

「ぐ、く……」

 信じがたい怪力に晶は歯を食いしばり、顔を歪めた。

「行かせない。絶対に!」

 大地から呪力を吸い上げて穂先に込め、神槍を振りかぶった。

「南無八幡、大菩薩!!」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 後方で大きな呪力が炸裂したのを恵那は感じた。

 晶の呪力なのだろうが、今までのそれとは比較にならない規模の力を解き放っていた。おそらく、護堂の式神としての力を解放したのだろう。護堂自身が、まだ掌握していないので限定的なものになっていると言っていたが、この力で限定的とは恐ろしい。

 だが、相手はまつろわぬウルスラグナ。

 敗北を知らない、討ち果たす者だ。

 晶の心配をしつつ、護堂を背負った恵那は江の島大橋を風のように駆ける。

 とにかく護堂を回復させなければならない。

 背負う護堂の息は弱く、話しかけても反応が鈍い。意識が朦朧としているのだ。

「王さまもアッキーも死なないでね、ほんとに!」

 内心で焦りを抱えながら疾走する恵那を、呪力を宿した風が追い抜いた。

「ッ……!」

「逃がさぬよ。我が障害はここで打倒する。さあ、神殺しを置いて去るがいい。人の子よ」

 少年の姿になったウルスラグナの言葉に、恵那の身体が縛り付けられる。

「な、し、支配の言霊!?」

 身体が軋む。足が止まり、護堂を地面に降ろしてしまう。必死に呪力を練り上げながら、これに対抗する恵那は、全力でスサノオの神気を呼び込んだ。

「いやァ!!」

 草薙剣を振るいウルスラグナの支配を断ち切る。

「むむ、先ほどの鬼の娘といいお主といい。人の身でそこまでに至るとは大したものじゃ。神殺しに忠義立てせねば、格別の加護を授けてやっただろうに」

「アッキーを……さっき、あなたと戦った娘はどうしたの?」

「あの娘なら、寝ておるよ。何、ここまで我を相手に時間を稼げたのが奇跡じゃろう」

 護堂からの加護がほとんど枯れている状態で、あそこまで善戦したのだから晶は確かに仕事を果たしたと言えるだろう。だが、それでも尚ウルスラグナには届かなかった。

 恵那は剣を構えながら懸命に思考を働かせる。このまま、護堂と無事生きて帰る方策を思案する。

 だが、何も思いつかなかった。恵那は本能に任せて動くタイプで、交渉事はまるっきり苦手なのだ。これが、馨だったなら、上手いこと弁舌で切り抜けたかもしれないのに。今は、その力がない自分の無力さが悔しい。

「ここで、見逃してもらえないかな?」

「ならんな。我が温情は我を信奉する民にのみ与えられるもの。お主や、まして神殺しには与えられぬ」

 ウルスラグナは、一瞬にして恵那との距離をゼロにした。

 神懸かりをした恵那ですら、満足に反応できなかった。ウルスラグナは恵那の腹部を軽く小突く。恵那は息が止まり、膝をついて屈した。

「が、……あッ」

 呼吸が乱されて、集中力が削り取られた。神懸かりが解けて、恵那の身体の守りが失われる。

 それでも、護堂を守ろうとした恵那は、うつ伏せのままウルスラグナに手を伸ばす。

 その恵那の顔に、鮮血が降り注いだ。

「あ……」

 呆然と、恵那は惚けたような顔をした。

 ウルスラグナに持ち上げられた護堂。その胸から、ウルスラグナの腕が生えていた。護堂の口から、血の塊が零れ落ちる。

 護堂は最期の抵抗とばかりに自らを貫くウルスラグナの腕を両手で握ったが、それもすぐに力尽きた。

「お主の戦いぶりに我は最大の敬意を送ろう。さらばじゃ、神殺し、草薙護堂」

 ウルスラグナはそのまま、護堂の身体を放り投げた。

 護堂はそのまま、抵抗することもなく海の中に落ちた。

「うあああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 恵那が血を吐くような顔つきでウルスラグナに斬りかかった。

 だが、そのような殺意を振り撒く特攻が功を奏するはずがない。

 ウルスラグナは軽く恵那の腕を捻りあげると、手刀で当身を食らわせて意識を刈り取った。

 崩れ落ちた恵那を確認し、ウルスラグナはぐらついた。

 その額からは玉のような汗が噴き出している。

「ふ、ふふ。神殺しめ。本当によくやってくれたものじゃ」

 勝利はした。だが、ギリギリだった。あのとき、黄金の剣が敵を斬り裂いていなければ、敗北したのはウルスラグナのほうだったはずだ。

 まさに危機一髪。

 勝利の女神が微笑んだのは、やはり神殺しではなく神のほうだったのだ。

「我も暫し身を休める必要があるか」

 そう呟いて、ウルスラグナは『強風』に変わって飛び去ったのだった。

 

 



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中編 東方の軍神編 Ⅲ

 ウルスラグナが去った後も、祐理はあまりのことに言葉をなくした佇んでいた。

 全滅。

 そう呼ぶに相応しい完全敗北を喫した神殺しサイドは、その衝撃から立ち直るのに暫しの時間を要した。

「す、すぐに船を!」

 護堂が血に塗れて海に落ちたのを祐理は見ている。

 すぐに助けに行かなければならない。

「まずいですね」

 渋い顔をするのは冬馬だった。

「何がですか!?」

「この近辺の海水が撹拌されているんです。ウルスラグナの風の化身や猪の化身が暴れまわった所為で、津波とまでは行きませんが大荒れです。しかも天気が」

 そんなことは言われなくても分かっているのだ。分かっているが、護堂を助けに行かなければならない。

 しかし、どうやって。

 冬の太平洋。日本海ほどではないが、荒れている。大猪が大地を踏み荒らした振動はマグニチュード5クラスの地震を引き起こし、吹き渡る風の化身も相まって海を荒らした。おまけに、風が出てきた。天気が崩れ、真っ黒な雲が空を覆いつつある。

 この状態で船を出すのはあまりに無謀だ。

「そんな……」

「海上保安庁や海上自衛隊に応援を要請しました。彼らなら、このくらいの荒波は乗り越えられるでしょう。今は、草薙さんの無事を祈ることしかできません」

「ッ……」

 ぎゅ、と祐理は唇を噛み締めた。

 恵那や晶のように、楯になることすらできなかった自分の弱さが恨めしい。

「恵那さんと晶さんは?」

「恵那さんはご無事です。ですが、晶さんは……」

 冬馬が、常の彼では考えられないような辛そうな顔をした。

「何か、あったのですか?」

 祐理が尋ねると、冬馬は暫しの沈黙の後、口を開いた。

「晶さんは、消えました」

「消え、た?」

「はい。あの娘は草薙さんの式神です。ですから、おそらく草薙さんからの呪力供給が完全にストップしてしまったのではないかと……」

 冬馬の仮説は考え得る限り最悪の展開であった。

 晶が肉体を構成できないくらいに呪力不足になるということは、護堂が晶に呪力を渡す余裕がないということ。つまり、護堂は今、死んだか、あるいはその間際にいるということである。

 晶は冬馬の親族だ。その無事を願う気持ちは、強い。当然、護堂とも少なからぬ縁を結んだ仲だ。冬馬はできる大人で、呪術師として最前線にいる身だが、人情までも捨ててはいない。

「加えて、明日香さんです。草薙さんを助けようと海に飛び込んだらしく、行方が……」

 祐理は愕然とした。この海に飛び込んで、生きていられるとは思えなかったからだ。

 明日香は呪術に造型が深い。だから、なんとかなるかもしれないが、それでも危険なことに変わりはない。

「一体、どうすれば……」

 何もできないままに、ただ時間だけが過ぎてく。

 護堂の生死は分からず、友人は傷つき倒れ、ただ祐理は不安に苛まれながら無益に時間を費やすことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 流れに身を任せて海を行く。

 息は止まり、心臓は抉り取られている。肺は潰れて役に立たず、流れ出る血はとうに致死量を超えてしまった。

 草薙護堂は死んだ。

 誰がどう見ても、それは確かだった。

 

 

 打ち寄せる波と吹き荒れる風の交じり合う。

 頬を打つのは雨だろうか。

 冬の海に落ちたのに、風と雨を感じるとは。運よく陸地に運ばれたのだろうか。

 働かない頭を動かして、護堂は瞼を開いた。

 そこは屋外で、どうやら岩礁か何かの上らしい。背中に岩が当たって、痛い。空は真っ暗で、重苦しい雲に覆われている。雨と風が立て続けに護堂を襲い、身震いする。真冬の海、且つ、夜中で風雨に曝されている。低体温症になりかねない危険な状態だ。

「ご、護堂!」

 誰かが名を呼んだ。

 反射的にそちらに目を向けると、土砂降りの中、雨の雫に濡れた明日香がいた。

 風雨に曝された長い髪は解けて靡いている。

 護堂の復活を見た明日香は、護堂に駆け寄ってきたのだ。

「わたしが分かる!?」

「明日香? なんで……」

 護堂は疑問符を浮かべる。明日香がどうして風雨の中、護堂の顔を覗きこんでいるのだろうか。

 明日香は、護堂の胸元に崩れ落ちるようにすがり付いた。

「このバカぁ、生き返るなら生き返るって言ってから死んでよ……ッ!」

「え、ああ。……そうか、上手くいったのか」

 護堂は明日香にどう声をかけるべきか逡巡しながら、最後の手段が上手く通じたことに安堵した。

「あんた、完全に死んでた。胸に穴が開いて、若雷神も封じられてたんでしょ? もう、ほんとにダメかと思った……!」

「悪かった。心配かけたな」

「悪かったじゃないわよ。おかげで冬の海を漂流する羽目になったんだから」

「そうか。明日香が助けてくれたのか」

「別に、あんたが勝手に蘇生しただけ。わたしは、海の中からあんたを探して、一緒に漂流しただけ」

 その言葉を聞いて、護堂はまた唖然とする。まさか、この海に飛び込んだというのか。いくらなんでも、それは無謀が過ぎるというものだ。

 真冬の荒れた海に、身を投げ出すなど自殺行為以外の何物でもない

「おまえ、なんて危ないことしてんだ」

「しょうがないじゃない。どうしようもなかったんだから!」

 明日香は叫んだ。彼女も後先考えずに行動したらしい。呪術で身を守れるから、死にはしないという楽観的な考えで、この死の海に身を投じたのだ。

 初めのうちは海面に顔を出すのが精一杯。護堂の身体を抱えながら、何とか体勢を維持しつつ、陸地を探す術を平行して使うのは、さすがに明日香を消耗させた。加えて、この悪天候。冷たい海水が体温をごっそりと奪っていく。明日香は、寒さにも呪術で対策を講じなければならなかった。

「明日香って、やっぱすごい呪術師なんだな」

「誉めても何もでないわよ」

 ふん、とそっぽを向く明日香は、どことなく嬉しそうだった。

 

 

 空を雷光が駆け抜けた。

 護堂はそれを洞窟の中から眺める。もともと、島には洞窟などなかったが、明日香が呪術で岩の形を変えて簡易的な洞窟とした。雨風を防げるというだけでも、意義は大きい。

 パチパチと火花が弾ける。 

 濡れた服は呪術で乾かし、焚き火も呪術で熾す。

「こうしたサバイバルすると、呪術の便利さが光るな」

「まあ、そうね。生きていくのに困ることはないわよね」

 火を熾し、身体を乾かしても寒さは如何ともしがたい。

 おまけに、護堂は身体が動かせないのだ。体力も呪力も底を突いた状態で、キリキリと胸の辺りが痛んでいる。

 地面は岩ではなく、砂。粉砕の呪術で岩を砕いて砂に変えたのだ。明日香は、多彩な呪術で岩しかない岩礁を、ある程度快適な場所に作り変えたのである。

「ちなみに、ここは多分名島よ。鳥居と灯台に見覚えあったし」

「もしかして、子どものときに行ったとこか? 森戸海岸から見えた」

「うん。結構流されてきたみたいね」

 風雨の中で、目を凝らすと本土が見える。

 名島は神奈川県に属する島で、江の島から直線距離にして一〇キロほど離れている。最も近い陸地の森戸海岸までは約一キロ。夏場の晴れた日ならばともかく、大荒れの冬の海を渡るには厳しい距離だ。

 護堂は幼いころに、徳永家と一緒にこの海に来たことがあるのを思い出した。

「ぐ、く」

 ピキ、と心臓に針を刺したかのような痛みが走る。

 肉体の修復が不完全なのだろうか。コピーした不死では、完全に治りきらないということか。

「護堂、顔色悪いわよ」

「悪い、話しかけないで」

 顔を歪めて痛みに耐える。若雷神の化身が使えないので、肉体を修復できない。こんなことは、久しぶりだ。メルカルトと戦ったとき以来になるだろうか。ずいぶんと、若雷神の化身に助けられてきたのだと改めて実感する。

 その様子を見ていた明日香は、護堂に身体を寄せた。

「……護堂、ちょっと乱暴にするわよ」

 そう言って、明日香は護堂の身体を無理矢理起こした。痛みに、苦悶の表情を浮かべた護堂は何事かと明日香に文句を言おうとして、言葉を失った。

 明日香は、護堂の身体の下に自分の身体をずらし込んだのだ。

「お、おい、明日香!?」

「お、大人しくしてなさい。病人は!」

 目茶苦茶なことを言う明日香は、それでも本人も自覚があるのか顔が紅い。

 しかも、護堂をうつ伏せの状態にしたものだから、護堂が明日香を押し倒しているような格好になってしまっている。

「あんたはわたしと違って呪術で体温調整できないんだから、せっかく復活したのに凍死なんてことになったらどうするのよ」

「そりゃ、そうかもしれないけど」

「今は身体を暖めて、体力を回復させることが第一でしょ」

 それで、明日香は護堂と身体を密着させるという荒業に出たのだ。

 護堂を呪術で暖めようとしても不可能だ。カンピオーネの体質が弾いてしまう。自然の温もりが必要だった。

 外気と触れ合う表面積を少なくして熱が逃げないようにするのは大切なことだ。人の体温というのは侮れないもので、寝袋すらない今の状況下では、これも効果的なのである。

 しかも、明日香は自分を下にすることで、護堂が直接地面に横たわらないように配慮している。これが逆ならば、胸が治りきっていない護堂にかかる負担が大きくなっただけだっただろう。

 これだけでも、十分に安らぐ。明日香の身体の温もりを受けて、護堂は寒さに震えなくて済むようになった。だが、それは胸の痛みとはまた別問題だ。護堂は痛みが増してくるような錯覚すらも覚えて無意識に明日香の腕を握り締めた。

「ちょ、護堂!?」

 それに驚き、そして護堂の蒼白な顔に焦った明日香が声を上げる。

「ちょっと、マズイかも」

「マズイじゃないわよ、バカ。何がどうなって……!」

「だから、治りきっていないかもしれないんだ」

「治りきってない?」

 護堂が動けないのも呪力が枯渇しているのも、胸に穴が開くほどの重傷を治癒したからだと思っていたが、思えば、それ以前から護堂の身体は限界を迎えていた。その中で重傷を治癒したのだから、肉体にかかる負担は想像を絶する。

 そもそも、若雷神の化身を封じられた状態で、どうやって生き返ったのか。

「最後の最後で、運よく『雄羊』をコピーできた。けど、本物ほどきちんと機能しなかったみたいで」

「修復が不完全だった? もっと早くいいなさいよ!」

 護堂は痛がりはしても事情を話さなかったのだから、明日香がそこまで察するのは無理だ。そもそも、医者でもない明日香では、外傷がない護堂の内側を診ることはできない。

 護堂は最後にウルスラグナの腕を掴み、そこで不死の化身を天叢雲剣にコピーさせた。海中に落ちたときに発動して、蘇生を始めたのだが、どうしても完全とはいかなかったらしい。

 胸の穴が修復しきれないということは、心臓の辺りにも異常があるということだ。せっかく生き返ったのに、活動開始の直後に心疾患で死亡など笑い話にもならない。

「たく……じっとして」

 明日香は、冷や汗を流し、朦朧としている護堂の頬に手を添えてキスをした。

 ここまで護堂が回復していれば、後はその回復力を手助けしてあげればいい。カンピオーネの回復力に治癒術を合せれば、なんとでもなる。

 護堂の胸の辺りを意識して、治癒術を送り込む。

 その治癒に、護堂の生存本能が反応する。半ば無意識に、護堂は明日香の舌を貪った。

「ふぎゅ、ん……んぁ」

 明日香は硬直し、それから全身を弛緩させて護堂に委ねる。

 護堂は明日香から治癒術を吸い上げて身体の修復に当てる。

 長いキスの後、護堂はやっと意識をはっきりさせるまでに回復した。胸の痛みはなくなり、完全に傷が癒えたようだった。

「う、ぐす。ふえっ」

 ただ、明日香がぐずってしまった。

 護堂も、悪かったとは思う。ちゃんと覚えていないが、明日香が治癒をかけてくれたことは理解できたし、それが意味するものも分かった。だから、気まずい。

「この野獣」

「す、すまん」

 とりあえず、謝るしかないので謝った。

「もういいわよ。人口呼吸みたいなもんだったわけだし」

 身体が回復したので、護堂から上体を起こした。明日香が隣に腰掛ける。

 あ、と明日香が洞窟の入口に目を向けた。

「どうした?」

 すると、洞窟の中に一羽の鳥が飛び込んできた。真白なハトだ。だが、呪力を感じる。

「わたしの式神。なんとか、万里谷さんたちと連絡を取りたいと思って。よかった、向こうに通じた」

 式神はペットボトルを足に括りつけられていた。その中に一枚の紙が入っていて、祐理からの返信が認められていたのだ。携帯が海水で壊れてしまったので、外部との連絡手段としては古典的な伝書鳩に頼ったのだ。悪天候が不安材料であったが、式神はちゃんと祐理の下に辿り着いた。

「もう迎えが来るわ」

 そう言って、明日香は笑ったのだった。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 明日香が祐理に連絡を取ったことで、護堂は日が昇る前には正史編纂委員会肝いりの病院に入ることができた。

 それから、精密検査を行い、落ち着いたのが午前九時ころ。それから一眠りして目が覚めたときにはもう日が暮れかけていた。空は依然として黒く沈んでおり、夕日は見えない。吹き付ける風雨が窓ガラスを揺さぶっていた。

 面会が許されたとき、入ってきた女性陣に泣かれたり怒られたりで大変だった。

 明日香は感情を抑えるかのように黙して語らず、恵那はよかったよかったと笑い泣きし、祐理は涙目で怒り、護堂の呪力が戻ったために実体を取り戻した晶はひたすら号泣して抱きついてきた。晶はずっと霊体のまま護堂の傍にいたのに、何もできないまますべてを傍観せざるを得なかったのが、あまりにも悔しかったという。

 そうした騒動が一段落してから、護堂は自分の身体を改めて確認した。

 ウルスラグナの剣に貫かれたのは、ちょうど一日前だ。二四時間が経過し、火雷大神の権能が戻ってきたのを感じた。

「よし」

 ぐ、と護堂は拳を握る。

 傷も完全に癒えた。体力も呪力も完全回復を果たしたのだ。霊薬を飲んで寝るだけで、大抵の傷は修復できてしまうのが、この身体の強みだ。

 病室には誰もいない。

 護堂に負担をかけないようにするため、皆各々の居場所に戻ったのだ。

 まつろわぬウルスラグナはまだ国内に潜んでいる。護堂から受けた傷を癒しているらしい。今、祐理が居場所を探り、晶が斥候に出るという形で捜索が進んでいる。

 ウルスラグナとは決着をつけなくてはならない。

 護堂は確信している。

 ここまで痛めつけられたのだ。きちんとお礼参りをしなければならない。

 護堂はベッドの枕に頭を乗せた。

 ウルスラグナの言葉が、頭に残っている。

 

『それに、どうにも我はお主と戦わねばならぬような気がしての。《鋼》と神殺しという宿縁を越えた何かを感じるのじゃよ』

 

 宿縁を越えるというのは誇張表現だと思っていたが、冷静に考えるとそうではないのかもしれない。

 過程として、この世界に修正力のようなものがあったとしよう。

 それは、歴史を一定の方向に維持しようとする力だ。

 この力がある以上、歴史はほぼ確定する。細かい差異はあっても、努力では変えられず、気がつけば定められた方向に流れてしまう。

 例えば、護堂がカンピオーネになってしまったときのように。

 あのとき、護堂はウルスラグナとメルカルトの戦いを避けた。それはカンピオーネになりたくないと思っていたからだが、その結果としてガブリエルに行き会ってしまった。

 護堂はスサノオたちが一〇〇〇年かけて生み出した、『神殺しを為す運命にある魂』の持ち主だった。それはつまり、護堂が神を殺すことが確定していたということであり、護堂がそれに逆らおうとも修正力が働いて神殺しをしてしまう、という流れができる。

 そうすると、こうも考えられる。

 あのとき、護堂が倒すべき神はウルスラグナだったのではないか。

 それを護堂が無理矢理回避しようとしたから、代わりにガブリエルが宛がわれた。

 護堂に出会わなかったウルスラグナは、メルカルトに殺されることなく生き延びてしまった。

 そうした違いが積み重なった結果、原作乖離という形での差異が生じた。

 いや、そもそも法道という原作にいない神格がいた時点で原作乖離が生じている。だから、この思考に意味はない。

 意味はないが、原作で護堂が倒したウルスラグナが生き延びたというのは、世界からしたらそれなりの影響があるだろう。何せ、相手は『まつろわぬ神』だ。死ぬはずの『まつろわぬ神』が生き延びるというのは、歴史的に見ても大きな問題に発展するかもしれない。

 今、遠回りはしたものの、護堂とウルスラグナは出会った。

 そこに、何かしらの力が働いてこの結果に集束したのかは分からないが、運命というにはできすぎている。

「やっぱり、倒すしかないよな」 

 いろいろと考えたが、どうしてもそこに考えが行き着いてしまう。

 ウルスラグナと戦う前に祐理に言われたことが、否定できない。

 けれど、それが間違いだとは思わない。ウルスラグナは倒さねばならない。確信している自分がいる。

 ウルスラグナを倒す。

 そのために、策を練る。

 ウルスラグナの能力や自分の能力を比較検討して、どのような対策が取れるか考えるのだ。

 考えているところで、扉がノックされる。返事をすると、扉が開いて明日香が入って来た。

「明日香か。どうした?」

「ちょっと、聞きたいことがあって」

「聞きたいこと?」

 明日香は憂鬱そうな顔で、護堂のベッドの傍に歩み寄り、イスに腰掛けた。

「ウルスラグナのこと。あんた、またあの神様と戦うつもり?」

「ああ、そうだけど」

「正気なの? あんなふうに負けて、復活だって奇跡みたいなもんじゃない。次に戦って勝てる保証なんてないでしょ」

 明日香の言いたいことは理解できた。

 だが、一度負けたからといって逃げるわけにはいかない。

 それにウルスラグナも言っていたように、もうどちらかが倒れるまで戦わねばならない運命にある。

「まあ、勝ち目のない戦いなんてないぞ。神様相手でもやりようによっては勝てるさ。俺たち、そういう人種だし」

 たとえ相性が悪くとも、根性次第で乗り越えられる。そういう理不尽が罷り通る世界だ。必要なのは、負けん気。それと、相応の準備。ありとあらゆる手を使って初めて神様を降すまでに至るのだ。

「あんたはそう言うけど……」

「ウルスラグナと戦うなっていってもダメだからな。どうせ、向こうから来るし」

「む……」

 護堂の言うとおり、あの『まつろわぬ神』の気質を考えれば、そういうことなるだろう。再戦。完全決着を何よりも望むはずだ。

「じゃあ、どうすんのよ。負けた相手に、どうやって挑むってのよ」

「まあ、策がないってわけじゃないんだけどな」

 ふと、思いついたことがあるのだが、それは護堂だけではどうにもできない。

「なあ、明日香。お前、ウルスラグナのこと、詳しい? 成立過程とかも含めて」

「え、ああ、まあ。あれは、インドラを原型にする神格だし、帝釈天とも間接的に関わるからね。一応、その辺りも押さえてあるけど?」

「頼みがあるんだけどさ」

「何?」

「お前、また俺とキスでき、ぶるああああああああッ!?」

 明日香の溜めなし張り手が護堂を襲った。

「へ、変態ッ! なんてこと言うのよいきなり!」

「ま、待て、話せば分かる。敵を知り己を知ればなんたらって言うだろ!? 教授の術をかけて欲しいってことで」

「そ、それでもすることに変わりないじゃない」

 顔を真っ赤に染めた明日香が目を怒らす。

「そ、それに戦略的な意図もあるんだ。成功すれば勝率も上がる。狙い通りにいくか分からないけど、手札は多くしておきたいんだ」

「むぅ……」

 明日香は、口をつぐんで思案する。

 確かに、護堂の手助けをしたいとは思うが、こういう形でキスをするのは心の準備が必要で、今すぐというのは困る。

 明日香が逡巡していると、護堂は明日香を抱き寄せた。

「ダメか?」

「うぅ……その、ダメってわけじゃ、ないけど」

 明日香が折れたのを確認してから、護堂は明日香の唇を奪った。

 ウルスラグナの知識を、明日香は護堂に与える。長くは持たないが、一時的に明日香の知識がそのまま護堂のものとなる。

 法道に与えられた莫大な呪術の知恵。その中にあるウルスラグナの伝承。帝釈天や金剛力士とも繋がるだけに、間接的に日本呪術にも影響していると言えるだろう。

 教授の儀式が終わった直後、扉がノックされた。

 二人は慌てて身体を離す。

 訪れたのは晶だった。

 晶は、護堂と明日香を見比べて、ひく、と表情を固めた。

 互いに距離が近い。顔も紅い。二人きり。それでいて呪術の残り香――――

「明日香さん……」

 ずんずんと早足で近付いてきた晶は、興奮気味に叫んだ。

「人がきばっちょるときにいんのまいかひっちっせぇ!」

「落ち着いて! 何を言ってるか分かんないから!」

「人が頑張ってるときにいつの間にかくっ付いて!」

 言い直した。

「いったい、何をしてたんですか」

 霊体として傍にいた晶は明日香が護堂に治癒をかけていたのを見ていたのである。ただ、そのときは護堂の呪力が枯渇していたので、晶は実体となることができなかったのだ。

 目の前で護堂と明日香がキスしているのを指を咥えて(指はないが)見ているしかなかったときの複雑な思いは、誰も想像できない晶だけが抱くものだ。

 護堂が命の危機にあるような緊急事態ならばまだしも、この平時に一体何をしていたのか。

 晶は、底抜けに暗い目で、明日香と護堂にずずいと迫る。

「ま、まあ晶。落ち着け。お前、ウルスラグナの居場所を探ってたんだろう?」

 強引に、護堂は話を変えた。

 晶はウルスラグナが傷を癒している土地を探る任についていたはずだ。彼女が戻ってきたということは成果が上がったということだろうか。

「……ウルスラグナ様の居所が分かりましたので報告しようと思って来たんです」

 ジト目で二人を見つめつつ、晶は調査結果を報告する。

「ウルスラグナ様は今、富士山にいらっしゃいます。《鋼》に相性のいい土地ですから、そこなら《鋼》の神性も高まると思われたのかもしれません」

「《鋼》の相性がいいのって、火だったか」

 鉄は火の中から生まれる。故に火の属性は《鋼》の軍神の誕生に深い関わりがあるのだ。

「おそらくは、そういうことかと」

「よし、じゃあ行くか」

「は?」

 晶はポカンと口を開けてベッドから降りた護堂を見る。明日香も同様だ。

「な、な? こんな時間に、ですか?」

「夜だからだよ。ウルスラグナは昼に戦うより夜に戦ったほうがいい。アイツ、太陽の神様と縁があるからな」

 ウルスラグナは善の陣営に属し、太陽の加護を持つ者。太陽神の軍勢の先陣を切るウルスラグナは、暁の時間帯に最も神力が高まるのだ。

 その逆に、夜間はそういった補正がない。

 戦うのであれば、今が絶好の好機なのだ。

「で、ですが……いえ、分かりました。すぐに、こちらも準備します」

 そう言って、晶は病室を辞した。冬馬や馨と連絡を取って、護堂が戦いやすい環境を整えようというのだ。

「護堂。あそこまでしたんだから、負けんじゃないわよ」

「分かってるよ。今度は勝つ」

 護堂は明日香と笑いあって、それから戦場に向かったのだった。

 



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中編 東方の軍神編 Ⅳ

 ウルスラグナは、富士山の六合目付近に陣取っていた。

 この季節、富士山の上部は厚い氷に閉ざされ、寒風吹き荒ぶ凍結地獄と化している。この年の六合目は、雪と土のちょうど境目辺りであった。

「冷たく凍える白き大地か。ふぅむ。我が生国にも似たような地がなかったわけではないが」

 イランは大部分が砂漠の国ではあるが、土地によっては豪雪になるところもある。

 郷里の四季を思い描いて、ウルスラグナは富士山の冷気に身を曝す。

 風は冷たく、刃物のように吹き渡る。

 雪が舞い上げられて、霧のように視界を妨げるのが常である。触れれば溶けて水に変わる。これだけの水があれば、アナーヒターすら不要かもしれないなどと埒もない考えに耽る。

 少年の姿は、ウルスラグナが好んで取る化身でもある。

 一五歳の少年は、英雄のシンボル。敵を打ち砕く軍神が取るには最良の化身であろう。

 山の天気は変わりやすく、雲はいつの間にか流れてどこかに消えていた。いつもよりも近くなった星を見ながら、ウルスラグナは雪原という神秘に遊ぶ。

「ずいぶんと、物珍しそうだな。雪がそんなに面白いか?」

 閃電を纏って現れた神殺しの声に、驚きはない。

 なんとなく、再び相見えることになるだろうと思っていたからだ。とはいえ、心臓を抉り出されてよく生きていたものだと感心はする。彼の回復能力は封じていたはずだが。

「俄かには信じがたいな。如何様にして、あの死から蘇ったのじゃ?」

「そりゃ企業秘密だよ。あんたに教えたらまた斬られちまうだろ」

「ふむ。なるほど。当然じゃな。我は、お主の中で厄介な《蛇》を封じにかかった。《蛇》は死と再生の象徴じゃ。お主の火雷大神もまたその性質を有する神故に、確実を期して剣で斬ったのじゃがな」

「そう簡単に死んで堪るかっての」

「やはり神殺しじゃ。生き汚いにも程があろうて」

 ウルスラグナは流麗な笑みを浮かべた。

 護堂の生命力に呆れながらも、好敵手の復活を喜んでいる。そんな笑みだ。

「では、決着と――――いこうかの!」

 雪原をウルスラグナが蹴った。一息に護堂との距離を詰めて、跳び蹴りを放ってきたのだ。護堂は楯を創造して、これを受け止める。真正直に受けては、以前の二の舞だ。これはただの蹴りではなく、『駱駝』の化身なのだから、キック力は桁外れ。ウルスラグナが楯に蹴りを入れたときには、護堂は斜面を転がるようにしてウルスラグナの射線から逃れていた。反撃に、一〇挺の剣を投じる。ウルスラグナに迫る刃を、軍神は笑みすら浮かべながらすり抜ける。

『弾け』

 護道は言霊を放ってウルスラグナを牽制。動きが鈍ったところに神槍を投撃する。

「同じ手ばかりでつまら、ぬ!」

『来たれ』

 神槍を伏せてかわしたウルスラグナが後方を振り返る。そこには、ブーメランのように回転しながら迫る一〇挺の刃があった。

 護堂の言霊が、先ほど投じた剣を呼び寄せたのだ。回転する剣はギロチンのようにウルスラグナの首を狙う。

『去ね』

 ウルスラグナもまた言霊使い。護堂が言霊を使うのならば、自分もまた言霊で対処しよう。

 ウルスラグナの言霊を受けた剣が弾かれ、複数本を纏めて激突。互いに喰らい合う形になって地に墜ちる。

 護堂が神槍を突き込んだのはそのときだ。

 今のウルスラグナは『少年』の化身。『駱駝』ではなく、格闘戦では『駱駝』に劣る。『強制言語(ロゴス)』による先読みを駆使して、ウルスラグナに近接戦を挑んだ。

 それでも、敵は軍神。素の身体能力や格闘能力が護堂とは比べ物にならない。背後から襲い掛かった護堂の神槍を脇で挟み、固定する。

「ふふ、後ろからとはつくづく貪欲な男じゃな!」

「それが嫌なら他の神殺しでも当たってくれ!」

「何、嫌なものか。畢竟、戦とはそういうものじゃ。無論、我はそのような手は使わぬ。堂々とお主を打倒してくれよう!」

 ウルスラグナは、そう言い放って護堂の神槍を掴んだまま、身体を捻る。梃子の原理で護堂は振り回されて、柄から手を離してしまう。勢いのままに飛ばされた護堂の眼前に神槍が迫ってきていた。

 護堂が手放した神槍をウルスラグナが投げたのだ。

「う、おォ!?」

 護堂は咄嗟につま先を伸ばして雪に触れ、土雷神の化身を行使する。雷光となった護堂は瞬時に雪の中に潜りこんで投槍から逃れた。

 護堂が現れたのは、ウルスラグナから二〇メートルは離れた地点だ。

 これでも、あの軍神からすれば数歩で詰められる距離であろう。油断はできず、精神は常に張り詰めている。

 だが、それが妙に心地いい。

 身体に走る震えは、寒さによるものでもなければ恐怖によるものでもない。

 この軍神と渡り合うことの喜びを感じている、武者震いに相違ない。ウルスラグナという猛者と、智勇を総動員して戦い乗り越えることを欲してしまっているのだ。この心が。

「善き哉、草薙護堂! お主も心が煮え滾っておるようじゃな! それでこそ我が強敵じゃ! お主の持てる力を尽くして我に敗北を与えてみよ!」

「言われなくても、そうするさ!」 

 護堂は呪力を放つ。無形の呪力がウルスラグナに向かって放たれ、それは細いワイヤのように結晶化する。『武具生成』の権能で作った即製の網だ。これがウルスラグナを包む。糸といっても、神具である。そう易々とは千切れない。

「む、なんとも小賢しい真似を。じゃが、甘い!」

 ウルスラグナは即座に『雄牛』の化身を使う。

 身体が膨れ上がり、ミチミチを音を立てて内側から網を引き千切ろうとする。本来ならば、逆に身体のほうが細切れになってもおかしくないのだが、ウルスラグナの『雄牛』は怪力の化身であり、その怪力に見合った頑丈さを得ている。怪物そのものの肉体は、糸で傷を負いながらも、硬すぎる筋肉が一定以上に食い込むことを許さず、やがて、バツン、と網のほうが耐え切れなくなり弾け飛んだ。

 その間に、護堂は次の仕掛けを使う。

 思い切り呪力を練り上げて、山に向かって叫んだ。

『墜ちろ』

 唐突に地鳴りが響き渡った。

 富士山を震わせる、地震を思わせる振動は真白な雪原に亀裂を入れて、ごっそりと移動させる。

 可能な限り広範囲に対して解き放った言霊は、全層雪崩という形で破壊をばら撒いた。

「何!?」

 富士山の斜面を、雪の壁が降り落ちてくる。それはもはや氷の大瀑布。岩石の塊が転がり落ちてくるようなもので、ふわふわとした雪が身体の上に乗るのとは訳が違う。毎年数多くの人命を奪う自然の猛威は、白銀の怒涛と化してウルスラグナと護堂を纏めて呑み込んだ。

 護堂は土雷神の化身を発動して、雪崩の中に溶け込む。護堂にとっては雪崩も移動経路の一つに過ぎない。

 対するウルスラグナはどう出るか。

 彼の化身の中で範囲攻撃ができるものはいくつかある。『白馬』『強風』『猪』。どれでくるか。

「オオオオオオオオオンッ!」 

 響き渡る咆哮は、氷雪の地獄を吹き散らして余りある正義の鉄槌。

 漆黒の大猪が、雪崩の中から現れた。全身から衝撃波を放って、雪崩を押し返し、逸らしてしまったのだ。圧倒的な巨獣の力を存分に見せ付ける。

「い、猪って、全身から衝撃波が出んのか」

 護堂の知る原作では、とにかく突撃という性格の猪だったのでこれは驚きだ。吹き散らされた雪の中で実体化した護堂は、言霊を叫ぶ。

『撃て』

 言霊が干渉するのは、雪崩の中に仕込まれた刃たち。

 五〇を超える黄金の剣が漆黒の獣に群がった。四方八方から刃を突き立てられたウルスラグナだが、身体を揺すって剣を振るい落としてしまった。やはり、頑丈だ。猪の毛皮は厚く、筋肉は硬い。簡単に、刃を通しはしないのだ。

「ハハハハハハッ。今のは面白い攻めであったな! どれ、そろそろ我も攻めねばならんな!」

 大猪が強靭な後ろ足で地を蹴った。爆発的な加速が生まれ、巨獣は一瞬にして護堂との距離を無に帰した。護堂は、反射的に伏雷神の化身を使い、肉体を雷に変えた。雪崩で舞った粉雪が発動条件を満たしていたのだ。

 実体を失った護堂を捉えられず、ウルスラグナの突撃は大地に亀裂を入れるだけに終わった。

「おお、なるほど雷光の煌きと化す化身か。それは、伏雷神かの。よし、ならば我も後れを取るわけにはいかんな」

 大猪が身体を萎ませて消えた。それと同時に、護堂は剣を創って振り上げる。刃とぶつかったのは、大きな鳥の爪だ。神速の『鳳』の化身となって、護堂に襲い掛かってきたのである。それでも、護堂もまた神速に飛び込んでいる。機動力では『鳳』に負けずとも劣らない。雷光となって羽ばたく鳥を追い、神槍と爪を幾度もぶつけ合う。火花が散り、お互いに相手の身体にいくつかの裂傷を与え合った。

 濛々と立ち込める雪雲は、風に流されて散っていく。雪の密度が低くなるに従って、護堂の速度が鈍くなりやがては神速が解除されて地面に足を付けた。

 その直後、肩を鋭利な刃物のようなもので斬り裂かれて転倒する。

 前のめりに倒れた護堂は、富士山の斜面を転がり落ちてしまう。雪崩で雪がなくなり地面が露出しているので、止まりにくい。土雷神の化身を使って実体を解き、地中に逃れることで勢いを打ち消し地上に何事もなく帰還する。

 ただし、護堂のそれは、明らかな隙であったはずだ。それでも、ウルスラグナは追撃をすることなく自身もまた『鳳』から少年の姿に変身して地に足をつけた。

 姿が少年だからといって、『少年』の化身というわけではないだろう。彼は、変身しなくても能力だけを使うことだってできるのだ。

 ウルスラグナの能力は一〇の化身に変身して戦うこと。状況に合せて手札を切ってくる変幻自在さは、今まで戦ったあらゆる『まつろわぬ神』を凌駕している。

 技の数では呪術神であったまつろわぬ法道のほうが上だろうが、カンピオーネの呪術に対する耐性もあって脅威の度合いは低かった。しかし、ウルスラグナは違う。格闘戦にも秀でた彼は、カンピオーネを殴殺して余りある能力の持ち主だ。

 それぞれの化身に的確に対応しないことには、護堂の勝利はない。

 手数ならば、護堂も互角以上だ。ただし、咲雷神は周囲に背の高い建造物や木がないため使用不可。もともと回避されている化身だけに、惜しくはない。大雷神も敵の『山羊』に防がれている。しかし、出力はこちらが上だったのは確認できている。撃ち合いを避け、直接当てることができれば必殺となるに違いない。火雷神も同様だ。

「ふむ、やはりお主の火雷大神。化身の使用に何かしらの条件があるようじゃな。難儀なことじゃの、神殺しというのは」

 案の定、ウルスラグナは護堂の権能の欠陥に気付いている。一つの権能で複数の化身に変化する場合、化身の発動に制限がかかるのが常識だった。原作護堂然り、ジョン・プルートー・スミス然り、この護堂然り。それでも状況に応じて使い分けられるというのは、デメリットを差し引いても大きなメリットだが、ウルスラグナのように、ほぼ制限なく化身を使い分ける『まつろわぬ神』と戦う際には枷ともなりかねない。

 初期条件からして不利なのだ。

「とはいえ、お主の権能の中で戦術的に高い役割を果たしておるのが火雷大神というのは事実じゃ。発動条件による縛り以上の恩恵をお主に与えているのは明白……故に封じるのであれば、その権能と判じたのじゃ」

 ウルスラグナが右手を挙げた。その手に黄金の光が集束していく。

 ウルスラグナの切り札『戦士』の化身を使ったのだ。あの黄金の星は、あらゆる神格を斬り裂く神殺しの剣だ。

「お主が殺めた火雷大神は、雷を神格化したものじゃ。稲作を営むこの国の古代人にとって、雷は脅威であると同時に恵みの雨をもたらすものでもあった。それ故に、雷神以外にも稲作、雨乞いの神でもあるのじゃ。別名の八雷神は、火雷大神が一柱の神でありながらも、八柱の神でもあったことに由来する。八通りの雷の姿を、それぞれ神として崇めた結果生まれたのが、火雷大神じゃ」

 ウルスラグナが、火雷大神を語るごとに光が増していく。あれに斬られると、護堂は機動力に回復力、おまけに火力までをごっそりと失うことになる。

 前回はそれで死にかけた。だが、同じ轍は踏まない。

「天叢雲剣。俺にも神殺しの剣を!」

『応!』

 威勢のよい返事と共に、天叢雲剣がウルスラグナから『戦士』の化身を複製する。

 右手に宿った熱を感じながら、護堂もまた言霊を唱えた。

「ウルスラグナ。あんたは、ペルシャ、今のイランの辺りで崇拝された神格だ! 軍神だったこともあり、サーサーン朝ペルシャの初代皇帝アルダシール一世は自らウルスラグナの聖火を建立し、以後の皇帝は代々ウルスラグナを崇拝することになる。その証拠に、四代皇帝バハラーム一世の名はウルスラグナの中期ペルシャ語形だ!」

 サーサーン朝を開いたアルダシール一世は、ゾロアスター教の女神アナーヒター神殿の神官だった。彼の王朝が、ゾロアスター教と深く結び付くのは、至極当然の流れなのである。

 また、王が神の名を名乗ることは珍しいことでもない。

 三世紀初頭にローマ帝国に君臨したヘリオガバルスの名は、太陽神ミトラスの別名であった。エジプトのファラオは、多くがその名に神名を取り込んだ。こうした、神の名を名乗りその加護を賜ることは、テオフォリックネームとも呼ばれる。

 サーサーン朝の皇帝がウルスラグナの名を名乗る。それは、ウルスラグナへの信仰がそれほどに篤かったということだ。

 護堂の周囲にも、黄金の星が瞬いた。ウルスラグナのそれとまったく同じ、神殺しの剣だ。

「何!? お主、それは……ハハハハハハハッ! なんとも盗人染みたことをするな、神殺し! このような手を隠していたか!」

 ウルスラグナの『戦士』の化身は、敵の力を見抜く目を持つ。これで、敵の来歴を解き明かすのだろう。当然、天叢雲剣が『戦士』の化身をコピーしたと気付いていた。

 星と星がぶつかって対消滅する。

 まだだ、まだ、ウルスラグナを斬るには弱い。護堂は言霊をさらに唱えていく。

「ウルスラグナは《鋼》の軍神ではあるが、《鋼》らしいエピソードにはそれほど縁がない。太陽神ミスラの先陣を切って敵を打ち倒すだけならただの軍神でもいいはず。それが、《鋼》になるのは、あんたの起源となる神格や習合した神格が《鋼》だからだ! 例えばサーサーン朝以前、パルティアの時代にはすでにギリシャのヘラクレスと習合しているし、アルメニアではヴァハグンという英雄神として信仰される。どちらも竜殺しの《鋼》だ!」

 ウルスラグナの剣が夜闇を斬り裂いて護堂に迫る。それを迎撃するのもまた剣の言霊。幾度目かの激突は、ついに護堂の剣の勝利という形に納まった。

 護堂の剣は、ウルスラグナを斬る剣だが、ウルスラグナの剣は火雷大神を斬る剣。剣の言霊の性質上、護堂の剣をウルスラグナが斬ることができないのに対して、護堂の剣はウルスラグナの剣すらも斬り裂くことができる。

「くく、確かにこれは劣勢じゃ。よもや、我の力で我を斬ろうとはな。じゃが、まだまだ負けてはおらん! ――――お主が我の剣を使えるのは、天叢雲剣によるものじゃな。この国の《鋼》の英雄神スサノオの神剣であり、王権の象徴たる剣。それそのものが神格を有し、数多の敵をまつろわせた最源流の《鋼》。故に、お主は他者の権能を複製し、操ることができるのじゃ!」

 ウルスラグナの剣の輝きが変わったように見える。火雷大神を斬る剣を無理矢理、天叢雲剣を斬る剣に作り変えたのだろう。

 ウルスラグナが斬るのは、己の化身を複製し操っている根本部分。根を切ってしまえば如何なる大樹も朽ち果てるのみ。護堂の切り札はそこで打ち止めになる。対する護堂もそう易々と負けるわけにはいかない。相手は無理な剣の組み換えで疲弊しているし、何よりも自分が操っているのはウルスラグナを斬り裂く言霊の剣。光の激突は、未だにこちらが有利なはずだ。

 縦横に駆ける星たちが、激突しては対消滅を繰り返す。僅かに護堂の剣が優位に立っているものの、剣の数はウルスラグナのほうが多い。オリジナルと複製の差は、弾数という面に現れているのか。量より質の護堂と質より量のウルスラグナの削り合いの様相を呈してきた。

 剣は使えば使うほど斬れ味が鈍る。数が少ないというのは、そのまま不利にも繋がりかねない。対処するには、剣の質を底上げするしかない。

「ウルスラグナの意味は『障害を打破する者』。だから軍神としても崇められる。だけど、この神はペルシャの地で誕生した神じゃない。あんたの他にも、『障害を打破する者』という名で崇められた神がいる。その神名はヴリトラハン。ウルスラグナの起源となったインド神話の雷神、インドラの別名だ!」

「天叢雲剣はスサノオが討ち果たしたヤマタノオロチから生まれた神剣じゃ。それそのものが《蛇》からの力の簒奪を意味しておる。神剣は太陽神に献上された後、再び地上に戻り、王権の象徴となりヤマトタケルという《鋼》の英雄神の剣として草薙剣の名を得るに至る!」

 剣と剣の激突が激しさを増す。

 あたかも世界が始まる創世のときを早回しで見ているかのように、星は互いに互いを喰らいあっている。

「なかなか攻め切れんの! さすがは我の権能といったところか! それを操って見せるお主も見事じゃがな!」

「なんで笑ってられんだよ、こんなときに!」 

 一歩間違えば自分が死ぬ。まさに綱渡りの状態なのだ。そんなときに笑うなど尋常の精神ではない。

「笑うとも! かつてない強敵に出会い、ここまで苦戦しておる。軍神として、これほど愉快なことはない!」

 剣の削り合いは、確実に両者の権能に影響を与えている。剣を介して間接的に斬られている天叢雲剣はまだしも、直接斬られているウルスラグナの消耗は激しいはずだ。

 それでも笑い、戦いを続けるのは、やはり軍神だからだろう。アテナを初めとする今まで戦った多くの神々がそうであった。

「インド神話のヴリトラはインダス人が崇めた神だった。ヴリトラの名は『障害』を意味し、インドラはこの竜神を殺すことでヴリトラ殺しを意味するヴリトラハンの称号を得る。それはつまり『障害を打破する者』ということだ!」

 剣をより輝かせ、精錬する。神格を解き明かせば解き明かすほどに、その輝きは強くなり、斬れ味は増していく。

 だが、如何せん敵の数が多い。降り注ぐ剣をいくつか取りこぼした。それが真っ直ぐ護堂に向かって迫ってくる。ここで、本体が斬られてしまえば一巻の終わりだ。だが、今更切り替える余裕もない。

 そこに二つの影が飛び込んできた。

 恵那と晶だ。この拮抗状態は、事前に予期できるものだった。二人には、ウルスラグナの言霊の剣を凌ぎきれなくなったときに手助けして欲しいと頼んでいたのだ。晶は初めから護堂の傍にいたし、恵那は雪崩のあとに息せき切って富士山を駆け上ってきた。山育ちの媛巫女の異常な脚力が輝いた瞬間だった。

「我が背の君を守りたまえ!」

 恵那が童子切安綱を振るい、スサノオの神力を纏った風の斬撃を放った。草薙剣を使わず、あえて霊格の劣る童子切安綱を召喚したのは、あの剣の言霊が草薙剣殺しだからだ。

「陰陽の神技を具現せよ。鬼道を行き、悪鬼を以て名を高めん!」

 晶が法道の聖句を唱えて、水墨画で描いた鬼を思わせる鎧を身に纏う。『黒き魔物の群れ(ザ・ファントム・オブ・ダークネス)』は護堂本人が使えば無数の鬼を式神として操る権能だが、晶が使う場合は晶の身体を神獣と殴り合いができるほどに強化する。それは、晶自身がこの権能を体現する者だからできる荒業である。

「ちぇすとーッ!」

 晶は叫んで豪槍を振るう。彼女が手に持つ一目連の神槍は、法道の黒い呪力を纏って黄金の剣を吹き散らす。

 対象となる神格以外には影響しないという『戦士』の特性が、裏目に出たのだ。

「そうくるか。ならば、我も我が身を可愛がってはおれん。お主を直接斬り捨ててくれようぞ!」

 ウルスラグナは覚悟を決めた。

 このままでは敵を斬る前に自分が斬られるかもしれない。護堂が操る言霊の剣と自分の剣の相性の悪さは、それが自分の化身だからこそよく分かっている。

 だからといって、逃げるなどもってのほかだ。ならば、どうするか。無論、死中に生を求めるだけだ。

 翳した右手に光を集め、剣の密度を最高に高める。星は集合して一振りの長剣へと変貌する。

 そこに護堂の星が襲い掛かった。四方八方から襲い来るウルスラグナ殺しの剣を、ウルスラグナは見事な体捌きでかわし、避けて、星と天叢雲剣との繋がりを断ち切っていく。

 ウルスラグナの剣では星を直接消滅させることはできない。だが、星と敵との繋がりは断てるのだ。

 戦士の神、逆境こそが我が喜び。障害を打破する者の敵に相応しい、強大な敵だ。久方ぶりの燃える戦いに、ウルスラグナの喜びは絶頂に達する。

「行くぞ、草薙護堂!!」

 ウルスラグナは地を駆ける。黄金の剣を携える戦士。神話に語られる最強の軍神像をそのままに、己を魔王を斬り裂く正義の剣と化してあの敵を打ち破るのだ。

「なんだよ、あの動き」

 無数の星に囲まれながらもウルスラグナは敢然と受けて立ち、星を打ち消していく。さすがは軍神と、舌を巻くよりほかにない

『王よ。あの軍神は自分の傷を無視して斬りかかるつもりぞ! 気をつけよ。今の軍神に、生半可な攻撃は通じん!』

 天叢雲剣の警告に護堂は頷いた。

 覚悟を決めたウルスラグナは鬼神の如き戦いを演じている。いくらか彼に剣が届いているはずだが、微々たるものでしかない。窮鼠猫を噛むというほど追い詰めたわけではないが、まさに死兵となって護堂に一太刀浴びせようとしているのだ。

 今のままでは攻めきれないしジリ貧だ。向こうが覚悟を決めたのなら、こちらもまた覚悟を決めねばならない。

「天叢雲剣。剣の制御を頼む」

 護堂もまた、右手に星を呼び込んだ。こちらは天叢雲剣を模した反りの入った黄金の大太刀。当初の三分の一程度にまで減少した星を掻き集め、一振りの刀とした。

 護堂は太刀を構えて斜面を下る。ウルスラグナもまた、護堂の狙いに気付いて笑みを深めて走ってくる。

 先に一太刀入れたほうが勝つ。

 太刀の維持を天叢雲剣に任せて護堂は脳裏にアテナの導きの力を使う。これで、格闘戦能力はウルスラグナに匹敵する。

「オオオオオオオオオオオオッ!」

「ハアアアアアアアアアアアッ!」

 互いに咆哮して刃を打ち付け合う。

 衝撃に地面が抉れて踏鞴を踏むが、アテナの導きが最適な体捌きを実現させる。

『分かっておるな。状況はこちらが有利だ。ウルスラグナの剣ではあなたの剣を斬ることはできぬが、あなたの剣はウルスラグナの剣ごとその神格を斬り裂くことができよう』

 脳裏でアテナが囁く。その通りだ。ウルスラグナは護堂と剣を交えることを避けるように、黄金の剣を振るっている。鍔迫り合いは最初の一撃のみで、それ以降は回避か刃に刃を当てて反らす絶技で凌いでいる。

 ただし、ウルスラグナの一太刀を受けてしまえば護堂は黄金の剣を維持できなくなり敗北する。

『故に、敵の剣を一切受けずに敵を斬れ。動きは妾に任せよ!』

 無理難題を押し付けてくるアテナであるが、心強いことも言ってくれる。護堂の身体が勝手に動いてウルスラグナの剣技に追いすがる。

「インド神話は世界各国の神話に大きな影響を与えた神話だ。その天空神はヨーロッパ全域に広がるほどに。それだけ古く強い神話だから、当然、あんたが信仰されたゾロアスター教の成立にも大きな影響を与えている」

 護堂は、剣の維持を天叢雲剣、肉体の動きをアテナの導きに任せて自分は剣を磨ぐことに集中することにした。ウルスラグナを斬り伏せる最強の剣を編み出すために。

「インド神話の影響を多いに受けたゾロアスター教には、インドの神々も名前を変えて登場する。ただし、インドの善神を現す『デーヴァ』はゾロアスター教では悪神を表す『ダエーワ』に、インドの悪神を現す『アスラ』はゾロアスター教では善神『アフラ・マズダ』となるように善悪が入れ替わっている。そのせいでインド神話で神々の王だったインドラは、ゾロアスター教では魔王の一人となって登場することになる。それなのに、何故、あんたが善神のままなのか――――」

 ウルスラグナとの剣戟は苛烈を極め、黄金の剣の欠片が飛んでは寒風に流れていく。

 何十合と打ち合う中で、ついに護堂とウルスラグナは鍔迫り合いの状況に陥った。

 護堂はここぞとばかりに黄金の剣を押し込んでいく。

「く……!」

 ウルスラグナが笑みを消して苦悶の表情を浮かべる。対ウルスラグナ用の剣がウルスラグナの『戦士』の化身を斬り進んでいるのだ。

「――――それは、インドラの別名、ヴリトラハンが一人歩きしてしまったからだ。インドラ自身は魔王へと墜ちたが、その別名であるヴリトラハンは別個の神格として崇められた。それが、『障害を打破する者』つまり、ウルスラグナなんだ!」

 ウルスラグナが《鋼》となるのも、その名前自体に竜殺しの意味があるというのも大きいだろう。

 恒星の爆発を思わせる光が瞬き、ウルスラグナの剣が両断される。護堂の黄金の太刀の刃がウルスラグナの身体を袈裟切りに斬り裂いた。

「ぐ、おおおおおおおおおおおおおッ!」

 傷口から光が溢れて、ウルスラグナの神力が散る。 

 そのような状態にあって、ウルスラグナの目には未だに闘志が燃えていた。

「まだじゃ!」

 両断された『戦士』の剣の残滓を、ウルスラグナは蹴り上げた。剣の切先部分が消滅するその刹那、それは護堂の腹部に深々と突き立った。

「な……」

 そして、周囲一帯を黄金の光が包み、両者は同時に弾き飛ばされた。

 

 

 両者がうつ伏せになっていた時間はほんの僅かであった。

 護堂は跳ね飛ばされたときに身体を強く打ちつけていくらか骨折したり切り傷を負ったりしたが、若雷神の化身がすでに治癒を始めている。

 改めて、この化身のありがたみを実感することとなった。

 それでもアテナの導きの力を使った反動が出始めている。身体を襲う倦怠感が、護堂の集中力を乱す。おまけに天叢雲剣が封じられてしまった。最後の最後で失態を犯した。

 舌打ちしながら立ち上がる。

 そして、ウルスラグナもまた蒼白な顔で立ち上がった。

「まさに毒を以て毒を制すじゃな。我が化身のうちいくつかを斬り裂いたか。まったく、ままならぬものよ」

 どうやら、ウルスラグナそのものを斬るには至らなかったようだ。もともとウルスラグナの力だからか、それとも複製した力だからか。手応えとしてはいくつかの化身を斬り伏せただけ。それでも、大きな戦果と言える。

「ずいぶんと顔色が悪いぞ。もう、ダウンか?」

「冗談を言うでない。これほど楽しい戦はいつ以来か。ここで終わらせるにはあまりに惜しい。決着が付くまでは、付き合ってもらうぞ」

 そう言いながらも、ウルスラグナは己の不利を悟っている。

 封じられた化身は直接斬られた『戦士』の他『雄羊』『雄牛』『強風』。神力も大幅に減じている。化身の出力は、完璧な状態の六割程度だろうか。それは、黄金の剣を受けた敵も同じだろうが、神格を斬られたウルスラグナに対し、権能の一つを封じられた護堂では消耗の具合が違う。

 残された力は僅か。日の出を迎えれば幾分か回復するはずだが、そんな後ろ向きな戦術は面白くない。巨大な一撃に渾身の力を乗せて撃つ。それが最も相応しい戦い方だ。

 ウルスラグナは後方に跳躍した。

 護堂は追おうとして、足を止める。ウルスラグナから放たれる神力が急激に上昇したからだ。これは、何か大きな攻撃に出ようとしてるに違いない。

 ここに来て、ウルスラグナが放つ一撃と言えば、間違いなく。

「我が下に来たれ勝利のために。不死なる太陽よ。我がために輝ける駿馬を遣わしたまえ!」

 護堂の重力球にすら拮抗した、強大なる『白馬』の化身だ。

 東方の空が擬似的な暁を迎え、強烈な太陽光線を降らせる。

 土雷神の化身で逃げるか。

 ダメだ。おそらく、このタイミングでは岩盤ごと撃ち抜かれる。

 大火力の一撃を防ぐには、一目連の楯では弱すぎる。

 そのとき、護堂は閃いた。あの一撃は、太陽の一撃。太陽神の裁きだ。だったら、最適な化身がある。

「天を覆う漆黒の雷雲よ。光を絶ち、星を喰らい、地上に恵みと暗闇をもたらせ!」

 降り注ぐ白熱の閃光を遮るように、暗黒の雲が出現した。

 黒雷神の化身。

 火雷大神の化身の中でも唯一防御特化の化身だ。

 漆黒の雲が護堂の前面に展開して膜状に広がる。太陽光線と黒き雲が激突して、周囲を融解させる。鼻を突く刺激臭が堪らなく不快であるが、護堂は呪力を黒雲の楯に注ぎ込む。 

 黒雷神は、積乱雲が太陽を覆い隠す様を神格化した神だ。そのため、この化身は太陽神系の攻撃に対して高い防御力を誇る。

 今まで真っ当な太陽神と戦ってこなかったので、出番が少なかったのだが、ここに来て大きな見せ場となった。

「だから、きっちり守りきれよ、黒雷!」

 再び白と黒が喰らい合う。今度は重力球ではなく、暗黒の雲。太陽を遮る分厚い雲が、灼熱から護堂を守ったのだ。

 光は次第に収束し、やがて夜の闇が帰ってくる。

 『白馬』に焼かれた大地は赤い溶岩に変わってしまったが、冬の風に曝されて蒸気を発しながら冷えていく。

 そして、護堂は五体満足で立っていた。

 呪力を大分消耗したが、それでも倒れることはなかった。

 ウルスラグナは驚愕の表情を浮かべた後に、再び大いに笑った。

「ハ、ハハハハハッ……我が『白馬』すらも凌いだか。いやはや、お主には驚かされてばかりじゃ」

 一頻り笑った後で、ウルスラグナは護堂と向き合った。

「お互い、残された力は僅かのようじゃな。『戦士』は斬られてしまったが、それでもお主が消耗していることは分かる」

「本当に、こんなときでも笑えるなんて能天気な神様だよな」

「軍神とはそういうものじゃ。お主が出会ってきた神々もそうではなかったか」

「まあ、確かに……」

 アテナ、ペルセウス、一目連にランスロット。戦うことを至上の喜びとする連中は己の死すらも笑って受け入れる度量の持ち主たちだったと思う。それは、死の寸前まで命を謳歌する神々の基本姿勢なのかもしれない。

「じゃあ、俺がお前に敗北の味を教えてやるよ。感想は、あの世で考えてくれ」

「ふふ、それは楽しみじゃが、お主が我に勝てたらの話じゃ」

 彼我の距離は、およそ三〇メートル。

 この距離で相手を確実に仕留める化身は何か。両者が同時に思案し、その思考は一秒と経たずに終了する。

「さあ、決めるぞ。草薙護堂!」

 消耗して尚絶対の自信を胸に、ウルスラグナは吼える。

「咎人には裁きを下せ! 背を砕き、骨、髪、脳髄を抉り出し、血と泥と共に踏み潰せと! 我は鋭く近寄り難き者なれば、主の仰せにより汝に破滅を与えよう!」

 高らかに、朗々と。斜面を下り降りる風すらも、その勇ある声を掻き消せはしない。

 悪に絶望と破滅をもたらす断罪者。太陽神ミスラの先陣を切って、悪神の軍勢の道を切り開くもの。

 漆黒の大猪となったウルスラグナは、今こそ燃え立つ己の心のままに、すべてをこの一撃に捧げて突進する。その勇壮な嘶きと、大地を抉り取る蹄の力強さは、これまでの『猪』の比ではない。

 それを見て取った護堂は、脳裏に炎を思い描く。

「我は焼き尽くす者。破滅と破壊と豊穣を約束する者なり。全てを灰に。それは新たなる門出の証なり!」

 もはや自然と口を衝く聖句は、灼熱の炎の力を護堂に授けてくれる。

 真冬の山。すべての水分が凍りついたこの環境は、湿度が低くなっている。故に放たれる火雷神の化身の力は、大雷神の化身にも匹敵し、《鋼》の軍神すらも溶かし尽くす灼熱を生み出すのだ。

 一〇〇メートルの距離すらも一瞬で走破する大猪の蹄と牙が護堂を蹴散らすその寸前、解き放たれた紅蓮の光が大猪の身体を呑み込んだ。

 激突の衝撃は周囲に音の特異点を生み出し、岩盤が捲れ上がる。

 呪力を燃やし、力を尽くし、共に全力を傾けた戦いの勝敗は、能力の相性という形で決まった。

 己の肉体での体当たりは、当たれば最高の威力を発揮する。カンピオーネや『まつろわぬ神』も、この突進を防ぐことはできない。

 だが、ここで護堂はウルスラグナの体当たりを《鋼》をも溶かす炎で迎撃した。

 炎はウルスラグナの体毛を焼き肉に届き、体当たりの勢いも殺されて、閃光の中に身体が融解()けていく。

 賭けに負けた。

 敵の攻撃に先んじるか、あるいは敵の攻撃を受け止めた上で押し切ればウルスラグナの勝利だった。大雷神の化身は先日見知っているし、あの威力であれば突破できるはずだった。黒い重力球は天叢雲剣を封じたので使えない。

 だが、火雷神の化身がまさか大雷神の化身に匹敵する威力を誇る灼熱の権能だとは思いも寄らなかった。

 なるほど確かに、これならば《鋼》を撃ち殺すのに最適だ。

 爆裂なる閃光の中にあって、ウルスラグナは己の敗北を悟り、そして、大いに笑ったのだった。



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短編 お菓子作り

 二月十四日を目前にして、護堂の四方を囲む四人+一の少女たちは一同に会していた。

 集ったのは祐理の家。

 祐理の両親が不在のこのとき、キッチンは祐理以外の使用者を持たず、昼間ゆえにそこは静まり返っているべきであったが、この日は異なる様相を呈していた。

 部屋に充満する甘い香り。

 それは、チョコレートの匂いである。

「やっぱり、普通の家はあったかくていいねぇ」

 と、からから笑ったのは艶やかな黒髪を腰まで伸ばした恵那だった。冬の雪山に篭るという想像を絶する苦境をあっさりと乗り越えた直後である。見目麗しい良家の子女である彼女は、おそらく日本で最も苛酷な環境で生きられる女子高生でもあった。

 そんな恵那でも冬山はさすがに堪えるのか、祐理の家にやってきて風呂に入ったら一時間ばかり出てこなかった。このまま、この日は祐理の家を宿にする算段のようだ。

「というか、清秋院さんも作業してください」

 少し癖のあるショートヘアの上に白いカチューシャを乗せた晶は包丁を握り締め、慎重にチョコレートを刻んでいた。

「ただいまー。ゼラチンとか買ってきたよ」

 と、そこに買い物袋をひっさげてやってきたのは明日香だ。足りない材料を買出しに行っていたのである。

「ついでだから、お菓子とかも買っちゃった。後で時間があったら開けよう」

「お、いいねー。何々、ポテチ? ねるねるある?」

「ポテチはあるけど、ねるねるはさすがにないわよ」

 明日香はそう言いながらテーブルの上に袋を置き、中に入っているものを取り出して並べる。

「すみません、明日香さん。わざわざ買出しに行っていただいいて」

「いいのよ。教えてもらうんだから、これくらい」

 少女たちがこの場に集まったのは、偏にチョコレート菓子の製作に取り組むためである。バレンタイン・デイという乙女のイベントを前にして、互いにライバル視するよりは、協力して一つの作品を製作し、それを護堂に渡すほうが後腐れがないという方針で一致したのである。

 個別にチョコレートを準備しては、お菓子作りに一日の長がある者に軍配が上がるのは必至。それでは不公平であるという事情もあった。少なくとも、ここにいる面々はそれ以外の外野と違って競争相手ではなく、協力者であるべきだ。

 外堀を埋めさせない。そのためには、彼女たちは一致団結している必要がある。

「晶さん。このチョコレートは、少し苦味が強すぎる気がします……」

 祐理が晶の用意したチョコレートの箱を見て指摘する。

「そ、そうですか?」

「カカオ八六パーセントは、お菓子に使うにはちょっと……」

「苦すぎ」

 恵那が祐理の後を受けて言った。

「むぅ、ちょっと苦いくらいがいいんですよ」

 晶は頬を膨らませた。

 ガリガリと晶はチョコレートを削る包丁に力を入れた。

「まあ、チョコの量とか、生クリームとかで調整できるでしょ。そんなに気にすることはないんじゃない」

 明日香が助け舟を出して、晶の前に購入したばかりの生クリームの箱を置いた。

 今回、作るのは同じ物。しかし、味付けは個々人に任されるため、結局五通りの菓子ができる。チョコレートのカカオ含有量や、生クリームに使用量なども結果と関わってくる。

 しかし、この中でまともに菓子作りをしたことがあるのは祐理だけだ。恵那は興味の欠片もなかったし、明日香は片思いの相手であった護堂から距離を取っていた。思春期の大半を日常生活から切り離されていた晶は言うに及ばない。

「明日香さんはチョコレートとか作ったことないんですか?」

 晶が尋ねると、明日香は頷いた。

「そうね。正直、あまりないわね。バレンタインとかは基本的に買ったので済ませてたから」

「そうなんですか。てっきり、そういう経験はあるのかと思ってました」

「うーん、聞きたくないけど、なんでそう思ったのかな?」

「それは、だってバレンタインが定着し始めたころの……ぐむ」

 明日香が笑顔で弾いたチョコレートの欠片が晶の口の中に放り込まれた。

「ふぇぇ!? 苦ッしぶッ!?」

「カカオ九九パーセント。健康にいいのよ」

 甘さなど一切ないチョコレートの一撃に、晶は涙目になる。

「けほ、けほ、何するんですか」

「乙女の歳に関わることを言うからよ」

 明日香の肉体は、確かに十六歳だ。しかし、彼女は道満によって転生させられたのであり、その魂はそれ以前にも二〇年に満たないながらも人生があった。記憶と戸籍を辿れば、おそらくは前世の家族のその後も分かるだろうし、自分の墓を訪ねることもできるだろう。

 要するには明日香の魂がこの世に生を受けたのはバレンタイン・デイが定着し始めた七〇年代の終わりごろになるのである。

 一方の晶は肉体面では誕生から未だ三ヶ月も経っていない乳幼児だ。そして、人格も形成されてから一年も経っていない。正しく高橋晶という人間の時を刻んでいるのは、その中核にある魂の部分だけである。

 人格が記憶や経験を下に構成されるのなら、道満によって記憶を整理された晶の人格は擬似神祖の肉体で活動を始めたその時に新たに形成されたと考えるべきだろう。そもそも、オリジナルの人格など、道満の調教の初期段階で、早々に壊れてなくなっている。そういう意味では晶は精神を保持して転生した明日香とは正反対の存在なのである。

 しかし、そんな過去のことは今はもうどうでもいいので、晶は前向きに生きている。

「お姉ちゃん。わたし、こんな感じだけど大丈夫?」

 皆がそれぞれの作業に没頭する中、ひかりが祐理の下に刻んだチョコレートが入ったボールを持っていった。

「うん、大丈夫。後で湯煎するから、溶けやすい程度に細かくなっていればいいの」

「はーい。じゃあ、わたしお湯沸かすね」

 そう言って、ひかりは鍋に水を入れて火に掛ける。

 今回作るのは、チョコムースだ。

 溶かして成型するチョコレートよりも多少手間がかかるが、甘さも控えめで食べやすいお菓子だ。

 ほぼ初心者ばかりなので、特筆するような工夫をすることもなく、個人差となるのは使用した材料の僅かな違いと、入れ物の形状くらいであろう。

「ねえねえ、アッキーはさ。食べたものはどうなるの?」

「はい? どうとは?」

 恵那の突然の疑問に、晶は首を捻る。

「だって、食べ物の栄養とか、もう関係ないんでしょ?」

「そうですね。確かに、ビタミンとか、そういうのは必要ないみたいです」

 晶の身体は呪力で構成されたものだ。よって、自然界の栄養素は生存になんの意味も為さない。晶に必要なのは呪力という名の目に見えぬ生命力だ。

「食べたのはみんな呪力に変換されるようです。微々たるものですが」

「そうなんだ。じゃあ、たくさん食べれば呪力補給になるわけか」

「いや、食べ物から摂取するのは本当に僅かなんですよね。特に調理したのは呪力が少なくて。できるなら新鮮な生がいいです」

 呪力を食べ物から摂取するのは難しい。それが生命力である以上、生きていなければ呪力は宿らず、食品に含まれる呪力は、時間と共に減少していくからだ。調理などしようものなら、ほとんど呪力は散逸する。食べ物を分解して得られる呪力は、晶が言うとおり微々たるものだ。

「ふぅん、それなら結局は護堂依存なわけね」

 明日香が言う。

 晶が頷いて答える。

「そうですね。先輩からの呪力供給が九割九分を占めています。安定して活動するには、先輩のサポートが必要ってことですね」

「王さまからの供給がなければ、アッキーはもうダメってこと?」

「厳密にはそうではないですね。わたしの根幹を維持しているのは、先輩の権能の他に御老公の術式も混じっていますから両方ダメにならない限りは存在できます。ただ、実体化するだけの呪力を得るのが難しくなるので、霊体として彷徨うことになると思いますけど」

 護堂がなんらかの形で死亡した後、晶が生き残ってしまった場合、彼女はすぐに消滅せずにこの世に留まることになる。ただし、その際は高位のはぐれ式神となり、権能の代理行使などの護堂依存の力は使えなくなるといったデメリットを背負う。

 実体化するだけの呪力も、どこかから持ってくる必要性がある。

 大地や月光から呪力を得るという手もあるが、あれは肉体の維持に使うよりも、戦闘に使うべき呪力だ。灯油と重油のような関係だろうか。

 ウルスラグナに護堂が瀕死の重傷を負ったときのような事例もあり、緊急時の呪力供給は晶の喫緊の課題であった。

「じゃあ、いっぱい食べても意味ないのか。結局、呪術的に呪力を摂取するのが一番なのかな」

「吸血、吸精、吸魂……この辺りが妥当なんでしょうけど、完全に魔の領分よね。魔女辺りもするのかしら」

 恵那と明日香が立て続けに言う。

 吸血は言わずもがな、他者の生血を吸うことでその血に宿る呪力を取り込む行為だ。吸精は相手との性的な接触が前提となり、吸魂は他者から直接生命力の根幹を抜き取ってしまう危険な行いだ。

「アッキーどれできる?」

「やろうと思えば、全部できますけど、やりませんよ。血は輸血パックで試しましたけど、飲めたものじゃないです」

「試したんだ……」

「血を吸うのは、吸血鬼。吸精は、夢魔、とか? 吸魂だと、何かいたっけ?」

吸魂鬼(ディメンター)がいますよ、恵那お姉様」

 三人の会話に割って入ったのはひかりだった。

「お、そういえばいたね。ハリポタに。いいじゃん、アッキー。かっこいいんじゃない?」

「好き勝手言いますね……わたし、一応すでに鬼とか式神って肩書きがついちゃってるんですけど」

 鬼は種族名、式神は役職名と考えると、この二つは両立する。

 『おに』という言葉が定着したのは、平安時代とされる。その語源は、目に見えないものを指す『(おぬ)』が転じたもので、それ以前の怪異は『もの』と呼称された。現在の『物の怪』に続く呼び方である。

 まつろわぬ神などもおにの一種。それらの古代の概念が、仏教に触れて誕生したのが『鬼』という存在である。

 姿を隠す少女の霊、という点で、晶は本来の鬼の概念に当てはまるのである。

「アッキー今夜あたり夢魔ってくれば?」

「いきなり何言ってんですか、枕元でポルターガイストしますよ!」

 恵那の意図することを察して、顔を赤くした晶が脅しを掛ける。

「アハハ、確かにそれは怖いなぁ。霊体な上に隠形とかされたら堪らないよ。お、そろそろかな」

 恵那は湯煎で溶けたチョコレートが入ったボールを湯から出し、ヘラで中身を混ぜる。

「夢魔で思い出した。房中術ってのがあるね、明日香さん」

「ちょっと、なんでそれをいきなりあたしに聞くわけ?」

「いや、だって詳しいじゃん」

「へえ、詳しいんですか、明日香さん」

 今まで散々からかわれた晶が矛先を明日香に向けるべく、煽った。

「誤解を招くような言いかたしないで貰いたいわ。呪術の知識としてあるだけよ!」

「立川流とか玄旨帰命壇とかは今はないしね」

「邪教でしょ、それは」

 どちらも江戸時代の初めには国家によって廃絶に追い込まれた流派である。

「えー、でも、まあ興味がないわけではないしね。ね、祐理」

「わ、わたしに聞かれても……といいますか、今はお菓子作りに集中すべきです!」

「房中術もすべてが悪いってわけじゃないし。儒教とかでも認められていたはず……子孫繁栄はあの教えの重要事だし」

 一応、この中で最も呪術に詳しい明日香がフォローを入れる。

 客観的な意見で、自分のものではないという逃げ道も含ませる。

「子孫繁栄……」

 表情を翳らせるのは晶だった。

 あ、やべ、と明日香は慌てた。晶は呪力で肉体を構成しているために、子どもを宿せない肉体なのだ。

「まあ、うちは妹が跡を継ぐので家そのものは残るんで問題ないんですけどね」

「ふ、双子だっけ」

「そうです」

 明日香は必死に話題を逸らそうと躍起になる。晶も、一度しか帰省していないので、二人の妹には一度しか会っていない。

 晶の妹の(きよみ)(さや)は現在四歳だ。舌足らずな遊び盛りで、顔立ちは姉妹だからか晶によく似ている。

 晶が姿を消したのが五年前なので、晶はつい最近まで妹の存在を知らずに過ごしていた。

 晶母が、晶の行方不明からショックを受けて、勢いのままにハッスルしたらできた、というのは晶の知らない衝撃の真実である。

「二人もいるんだ。じゃあ、これから大変だね」

 恵那が驚きつつ、そんなことを言う。

「そうですね。これから大きくなると、何かと入用になりますし」

「んー、それは大丈夫だと思うな。アッキーが王さまの式神やってる限り、高橋家が生活苦になることはありえないし」

 高橋家を敵に回すことは、当然ながら護堂を敵に回すことになる。むしろ、高橋家とうまくやっていくほうが有益なのだから、高橋家が経済的に困窮するようなことは、その周囲が防ぐはずだ。

「アッキーの妹さんたちは、きっとこれから狙われるよ。結婚とかで」

「う、確かに……」

 最も危惧すべきは、晶の妹との婚姻を結ぶという政略を誰かが始めてしまうことである。

 高橋家の価値は今、それほどまでに高まっている。晶を介した間接的な護堂の恩恵を受けることができるからだ。

「そうですね。恵那さんや明日香さんは一人っ子ですし、うちも草薙さんと身近なのでそういった話はありませんが、晶さんの妹さんたちはまだ、草薙さんとの繋がりも弱いですし、縁談が舞い込んでもおかしくないですね」

 祐理が憂いを帯びた表情で言うと、説得力が増す。高橋家の血にはそれほどの価値がないのだが、カンピオーネの後ろ盾があるというだけで一般庶民の家ですら最高位の呪術の大家と同格に押し上げられる。

「一番簡単にこの問題を解決する方法は、ぶっちゃけアッキーの妹さんたちを東京に呼んで、王さまの庇護下にしちゃうってのがあるね。いっそ、将来のお妾さんにすればいいよ」

「四歳の女の子にそんなことできるわけないでしょ」

 明日香が突っ込みを入れる。

 護堂がそんな小さな娘に手を出したなんてことになれば、立派な犯罪である。

「あと十年もすれば、うちらと同じくらいになるし、二〇年すれば問題ないんだけどなぁ」

「ダメですよ。高橋家(うち)の女の子なんですよ。何が起こるか……」

 晶はまた別の理由で反対する。

 高橋家の血に隠された衝撃の秘密。

 恋愛に対する異様なまでの積極性と勝率である。

 薄いとはいえ媛巫女の血を宿しながら、高橋家の女は代々恋愛に勝利してきた実績がある。

 正史編纂委員会やその前身となる組織、またあるいはイエ制度による婚姻干渉すらも退けて、想い人を手に入れる。そのための手段を選ばない恐るべき一族である。晶の母も、十六にして策略を駆使して夫を手に入れているし、祖母もいろいろとやらかしたという。さらに遡れば、略奪婚も既成事実婚もあらゆるバリエーションで登場し、家に伝わる和綴じの本には、男を手に入れるための高橋流四十八手が事細かに記されていたりする。

 二〇までに相手がいないのは行き遅れ。そういう評価が現代にも残る家なのだ。

 しかも、晶がこの先もずっと中学三年生時の肉体のままなのに対して妹たちは正しく成長するだろう。

 十年後はいいとして、二〇年後にどのような体形になっているか。母親がグラマーなだけに心配だ。

 話をしているうちに、ムース作りは最終段階に突入した。

 それぞれが持ち寄ったカップに生地を流し込んで冷やして終わりだ。

「あ、そういえば恵那の友だちがバレンタインのチョコに血を入れたって去年言ってた。お呪い? みたいな感じだって。どーする?」

 思い出したように、恵那が尋ねた。

「入れる訳ないでしょ。それヤバイヤツ! その娘、注意しなきゃ!」

「恵那お姉さま、痛いのはよくないですよ」

「恵那さん、お願いですから余計なことはしないでくださいね」

「わたし、刃物が肌に通りません……」




晶の初登場からもうじき二年が経つのか……

就職も決まったはずだ。何かの間違いがなければ……!


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中編 ロサンゼルス編

「やっと一区切りついたか」

 時の番人と呼ばれる老人だ。

 歴史学と神秘学に精通する元人間で、今は世界の側に立って現世を俯瞰している。

 職務内容は、主に世界の修正力を観測することであり、修正しきれない事象に対しては自ら現地に赴き修正を加える。

 ここ一五〇年は、時を渡る権能を持つとあるカンピオーネのために日々悲鳴を挙げ続けていたのだが、ただでさえ激務だった仕事が、この一年でさらに過激化した。

 理由は、新たなカンピオーネの出現によるものだ。

 草薙護堂。

 日本国に生まれた希代の魔王だ。

 一年と経たずして、他の先達に匹敵するだけの権能を簒奪した魔王の中の魔王。それもそのはずで、彼はそもそも『神を殺す人類の剣』として生み出された人類側の最終兵器とも言うべき存在なのだから。

「安倍晴明め。面倒なことをしてくれる」

 思い出されるのは、千年前にこの場を訪れた大陰陽師。神殺しを生み出す秘術を歴史上唯一考案した怪物であり、その危険性が故に修正力によって世を去った伝説的英雄。

 文字通り世界を震撼させた神殺しを生み出す技法は、晴明の死と共に失われてしまったが、それによって生み出された草薙護堂は、老人の頭を悩ませるには十分な逸材だった。

「人間でありながら運命に抗うなど言語道断、にも拘らずあの御仁は……まったく、けしからん。ああも流れに逆らおうとする者はいままでいなかった」

 老人がいる空間は、世界の過去と現在起きている出来事が文章の形で集積される究極の歴史集積所である。老人が守るのは、この場に集積される歴史の流れである。そのため、過去に移動する権能を持つカンピオーネの誕生は、老人にとって絶望的な過労を強いることになっていたのだが、草薙護堂は、未来に喧嘩を売るような行動を取る。

 さすがは、神殺しになるべくして生まれた人間ということか。

 不幸中の幸いなのは、未来は確定しきっていないということである。ある程度の流れは定まっており、魔女や巫女の霊視はその流れを読み取って最も起こる可能性の高い事象を視るというものだ。そういった性質のために、過去の改変に比べれば、無理矢理別の流れを作り出すという行動自体には老人に与える影響も少なくて済んでいる。

 しかし、そのような『新たな流れ』というのは、先読みできないこともあり、歴史の修正を司る老人には傍迷惑もいいところなのだ。下手をすれば過去との整合性まで崩壊させかねない暴挙にもなる。神々によって殺されるはずの人間が、逆に神を殺害してしまうという事例がそれにあたる。世界の法則すらも歪ませる行いは、星辰の運行に支障を来たすもので、神殺しが神々に目の仇にされる原因の一つがそれである。

 ところが、草薙護堂は神殺しになる前から度々時の流れを逆撫でするような行動を取ってきた。小さな積み重ねだが、人間に定められた流れを変えられては老人の立つ瀬がない。その都度介入し、流れに沿うように矯正してきた。

 城楠学院への入学を拒否しようとすれば、そうせざるを得ないように公立高校の受験日に交通事故に遭わせたし、まつろわぬウルスラグナと出会うはずの日にまったく違う土地を訪れたときには、近くを彷徨っていたまつろわぬガブリエルもどきと遭遇させることで神に殺される運命を決定付けようとした。

 結果として、護堂はカンピオーネへと生まれ変わり、再び歴史に大きな傷跡を残したわけだが。

「それでも、流れは戻りつつある。死しているべきウルスラグナ神が、最も相応しき死を受け取られた。これで、歪んだ流れはそれなりに戻ったか」

 老人は一先ずペンを置く。

 死ぬはずの神が生き永らえることもまた、許容しがたい重大事である。彼らは世界の側にいる存在なので、その流れは人間以上に厳格に定められている。変わるとすればカンピオーネの事情によるものだけだ。そのため、まつろわぬウルスラグナの処遇に困ったのだが、放置すれば流れとまったく異なる展開が出来上がる。仕方なしにそれとなく諭して草薙護堂にぶつけたのだが、この判断が功を奏して大きく撓んだ未来への流れが落ち着きを取り戻した。

 予想外な行動をするのはカンピオーネならではだが、それに引き摺られて周囲の人間まで流れに逆らうような動きをするようになる。それが連鎖的に続けば、どうあっても未来は予測不能な領域になってしまうのだ。

 世界にとってこれほど迷惑なことはない。

「む……これは」

 老人は常に七人のカンピオーネの動静を気にかけている。新たな行動に出たカンピオーネに関して、すぐに情報を知ることができるようにだ。

「草薙護堂、今度は王と接触を図るか」

 歴史が刻まれた石版には、こうあった。

 『草薙護堂、ロサンゼルスに渡りジョン・プルートー・スミスと交流す』

 

 

 

 

 □

 

 

 

  

 護堂にとっては初めてのアメリカということもあって、多少気分が高揚しているところはある。

 二月も終わりに近付いて、日本も春の兆しが見え始めた時期であるが、ロサンゼルスは体感的には夏かと思うくらいに気温が高かった。

 この日は快晴。気温は華氏六八度。大体摂氏二〇度に届くくらいとなっているのが、電光掲示板の温度計で読み取れる。

 穏やかな陽光を煌びやかなビル群のガラス窓が反射して眩しい。

 世界でも有数の大都市であるロサンゼルスは、北米における裏世界の中心地でもあった。

 邪派の呪術師集団と善の陣営に属する呪術師との長き抗争が、終焉に向かったのは昨年の中頃のことだ。

 このロサンゼルスを拠点とするジョン・プルートー・スミスによって、邪術師を纏め上げていた神祖アーシェラが討たれて以来、邪派の勢力は先細りしている。

 このまま何事もなければ数年のうちにスミスとその仲間によってロサンゼルスの呪術的治安は回復すると見られている。

 アーシェラの完全な死が日本で確認され、その事実を以て攻勢を強めた善の陣営が邪派の拠点を制圧したのが一月のことだ。

 その後、戦後処理を終えてやっと、草薙護堂をロサンゼルスに迎え入れる準備に着手できたのである。

「でも、学校を休んでしまったのは大丈夫なのでしょうか?」

 空港からタクシーに乗り換えた護堂の隣には祐理が座っている。

「病欠ってことになってるから、問題ないんじゃないか?」

「形式の上ではそうかもしれませんけど……」

 この場にいるのは護堂と祐理の二人だけである。普段は、こういった事案に対しては護堂を中心として、祐理や恵那、晶らが一個のグループとして動くのが定石となっていたので、新鮮な光景だ。

 祐理はインフルエンザ、護堂は静花が学校に通っているので病欠という手は使えず一身上の都合という形で欠席している。出立前に静花にいろいろと勘繰られてしまったが、その辺りを上手く言い包めて日本を発った。

「皆にもお土産を買っていかないとなぁ」

「そうですね。皆さん、草薙さんとご一緒したかったと思いますし」

 恵那は奥多摩での修行が外せず、明日香と晶は正史編纂委員会の荒事に参加している。

 とりわけ、晶は霊体化や圧倒的な戦闘能力といった固有技能が重宝されて、様々な組織への潜入調査や強襲作戦を単独実行するという任務に就いている。

 草薙護堂を頂点として新体制の発足に伴うちょっとした問題と正史編纂委員会に属さない呪術犯罪組織の問題を解決を推し進めているのであり、これもまた護堂の配下として外せない仕事であった。

 日本に残った仲間に対して申し訳ないという気持ちを抱きながら、護堂はこれも自分がすべきことの一つだと認識してここまでやってきた。

 

 ロサンゼルスのロスフェリス地区は南にシルバーレイク、西にハリウッドと名の知れた地名に囲まれたこの場所は、魔術の世界ではジョン・プルートー・スミスの配下である『SSI』という名称の政府機関のロサンゼルス支部が存在する街として知られている。

 護堂と祐理が訪れたのは、ロスフェリス地区のサマンサ大学だ。

「久しぶりね、ゴドー。いろいろと大変だったみたいだけれど、問題はないのかしら?」

 案内板の前に待っていたのは、アニー・チャールトン。

 濃い赤毛の髪を短く整えた、理的な女性だ。彼女はこの大学の学生という立場を持ちながら、それと同時にスミスの右腕として探偵のような役回りを演じることもある。斉天大聖が日光で暴れた際には、彼女もまた護堂の協力者の一人として活動してくれていた。

 そして、それすらも表向きの顔でしかなく、その実態は仮面の魔王ジョン・プルートー・スミスその人である。

 この事実を知っているのは、彼女の周囲にいる極僅かな人間と原作知識という反則を犯している護堂だけである。もちろん、護堂はアニーにそのことを告げてはいない。

「こちらの問題は大体解決しました。今は呪術を使った犯罪の撲滅に力を注いでいるところです」

「そう。あなたが正式に正史編纂委員会の長に就任したと聞いて驚いたのだけど、組織運営もきちんとしているのね」

「まさか」

 と護堂は笑う。

「俺は、組織運営に関わっていませんよ。できる人に丸投げです」

「そうなの。だとしたら、そのスタンスはスミスに通じるところがあるわね。彼も君臨者として活動するわけではないから」

 どこからともなく現れて、事件を解決に導くヒーロー。それが、スミスのスタンスである。故に、組織を運営することはない。

「ところで、スミスのヤツはどこにいるんです?」

「彼は今ここにはいないの。王を出迎えるにも時と場所を選ぶべきだと言ってね」

「スミスらしいといえばらしいですね」

 日が没してもいない時間帯の大学構内に、仮装した男が佇んでいるというのもシュールな光景だ。彼が素顔で応対する気にならない以上は、妥当な判断ともいえる。

「あなたへの挨拶は後々彼自身がするわ」

 それから、護堂はアニーに先導されて大学の構内を歩く。日本の大学のような、無駄を取り払った建造物ではなく、建物そのものがアーティスティックだ。

「外国語文学科のジョー・ベスト教授は、幻想文学では世界的な権威なのだけど、それと同時に妖精博士(フェアリードクター)としての力量も世界最高峰の魔術師なの。もちろん、わたしもそこの学生よ」

「そうなんですか。大学構内にSSIの拠点があると考えてもいいということですか?」

「そうなるわね。ここは、ロサンゼルス支部という形になるのだけど、スミスがいるから実質本拠地といってもいいかもしれない。ゴドー。あなたは、あまり魔術には詳しくないと聞くけれど、それは本当?」

「そうですね。カンピオーネになってから、呪術に関わるようになったので、正直まだまだです」

「そう。なら、大学と魔術の組み合わせに違和感を覚えても仕方ないかもしれないわね」

 大学は、学問を究める研究機関だ。オカルト系は文学や民俗学として研究することはあっても、本気になって魔術を突き詰めようとする機関ではない。それが、護堂の認識であった。

「一般的なオカルトとわたしたちの魔術は違うということね。魔術はそれそのものが学問なの。当然、対処するには相手よりも深く魔術を学んでいなければならない。そうすると資料も膨大なものになるわ。魔術師が学術面で他の学生よりも強いのは、特殊な記憶術を幼い頃から実践しているからだけど、それは短時間で多くの資料に目を通さなければならないという時間的制約から来るものなのよ」

「それで、文系科目の成績がいいのか……」

 思えば、晶のように中学校にまともに通い始めたのが中学三年生になってからというスロースターターでも、歴史や古文などの文系科目はほぼ完璧にこなしていた。それは、呪術師たち特有の記憶力の恩恵によるものだったのだ。

「万里谷もそういう記憶術、使えるのか?」

「ええ、そうですね。記憶術というと、いかにも呪術によるものに聞こえますけど、実際はちょっとした意識の仕方によるもので、呪術は関わりないんですよ」

「そうなのか?」

「はい。記憶を長く止める呪術は非常に難易度が高いのです。自らの知識として定着させようとすれば、おそらくは『まつろわぬ神』の秘術に匹敵するほどのものとなると思います」

「なるほど……」 

 思えば、教授の術も一定時間が経てば記憶から情報が失われるものだった。アテナが護堂に力を託したような、女神の呪法でなければ記憶の定着はできないのだろう。

 つまり、記憶術は呪術によるものではなくあくまでも個々人の努力の延長線上にある技ということだろう。

「ここが、彼の研究室よ」

 そういうや否や、アニーはドアをノックする。「どうぞ」と返事があったので、アニーはそのままドアを開けた。

「ジョー。東京のチャンピオンをお連れしたわ」

「おお、そうか」

 ジョー・ベストは知的な風貌をした黒人の老人だった。

「ようこそ、ロサンゼルスへ。お会いできて光栄です、草薙護堂様」

 歩み寄ってきたジョーが右手を差し出してきたので、護堂はその手を取った。

「こちらこそ、光栄です。ベスト教授。できれば、敬称は止してください」

「なるほど。では、ゴドーと呼ばせてもらっても?」

「はい。そのほうが落ち着きます」

 学生であるアニーが呼び捨てにしているのに、教授であるジョーが敬称をつけるというのも可笑しな話だ。それに、護堂自身、このような形で敬われるのは慣れていない。

「後ろにいるのは、確か……」

「万里谷祐理です。この度はお世話になります」

「そうだ。君の話は聞いているよ。巫女としては世界有数の術者だとね。さしずめファーストレディといったところかな」

「そ、そのような大仰なものでは……」

 祐理は顔を紅くして言葉に詰まる。その様子に、ため息をつきつつアニーがジョーに苦言を述べる。

「今はそういうのもセクハラになるのよ、ジョー」

「おっと、しまった。すまないね、ミス・マリヤ。老人のジョークと思って忘れてくれるとありがたい」

「大丈夫です。特に気分を害したわけでもないですから」

 ジョーは、謝罪の後に護堂と祐理を隣部屋のソファーに案内した。

 研究室の中で繋がる部屋で、資料室と応接間を兼ねたような作りとなっている。壁の両側の書架には、無数の本が積み込まれていた。

 護堂と祐理は、ガラステーブルを挟んでジョーと対面した。ちなみにアニーは所用を訴えて退出した。おそらく、祐理に霊視されるのを嫌がってのことだろう。

 用意された芳しい紅茶が薄らと湯気を上げる。ジョーが資料を用意する間の僅かな時間で、護堂は紅茶を軽くすすって喉を潤した。

 紅茶の味はよく分からないので、美味しいというありきたりな感想しか出てこなかった。

「さて、君たちはまだハイスクールに通っているというから、このような研究室に来る機会もそう多くはないだろう。少し味気なく思えるかもしれないが、眺めてもらって、幻想文学に興味を持ってくれるのであれば、この分野の一ファンとして喜ばしく思う」

 ジョーはそう言うと、ファイルから資料を取り出した。

「これが、以前スミスに倒されたまつろわぬアルテミスについて記述したものだ。英文だが、問題はないかね?」

「はい。大丈夫です」

 護堂は頷いて、資料を受け取った。カンピオーネになって以来、語学に苦労することはなくなった。世界中どこに行っても、ネイティブと会話を楽しむことができるのは、数少ない恩恵の一つだ。

「顕現したのは、ロスの自然公園だ。当時、そこには多くの観光客がやって来ていた。それが、アルテミスの権能によって皆動物に変身させられた」

「被害にあったのは、およそ三〇〇〇人……思っていたよりも多いですね」

「これでも少ないほうだ。自然公園は広大でね。スミスとの戦いに巻き込まれた者も多いし、我々の手を逃れた者もいるだろう」

「動物にされた人と本物の動物との間に違いはないんですね」

「見分けることができないから、あの一帯で発見された動物をすべて捕まえている。年間維持費は、かなりの額に上るよ」

 資料とジョーの説明によると、自然公園の一部を立ち入り禁止区域とし、その中に秘密裏に被害者を収容する施設を用意したのだという。

 それでも、三〇〇〇匹の動物を集中管理する施設はすぐには作れないので、多くが野に放たれた状態で、肉食動物だけが施設に収容されることになったという。

 だが、問題が解決するわけではないし、動物に変身した人に人としての意識があるわけでもない。生活習慣から寿命まで多くのものが変わってしまった。

「こんな、ひどいことが」

 祐理も情報を聞くうちに愕然とした表情を浮かべる。

 この被害を見れば、今までの護堂が経験してきた戦いが如何に幸運だったか理解できる。

「それで、どうかな。ゴドー。君には、彼らを救う手立てがあると聞いている。どうか、助けてやってくれないだろうか?」

 懇願するようなジョーの言葉と態度に彼の誠実さが見て取れる。ジョーを初めとするSSIの関係者も、この件には心を痛めているに違いない。神の呪いに対抗できるだけの力の持ち主がいるわけでもなく、解呪することができないまま動物として死んでいった人を看取ってきたのだ。それは、己の無力さを知らしめるものであっただろう。

「お引き受けします。微力ながら、力を尽くしたいと思います」

 そのように答えるしかないではないか。

 人の窮状を知り、助ける手段があるのなら、護堂は自分の力を使うことに否やはない。

 方法はある。

 神が撒き散らした呪詛を打ち破る力を有するのは、神に匹敵する神殺しのみ。その中でも、護堂だけが、この問題を解決する権能を有しているのである。

 

 

 

 

 ジョーとの話を終えてみれば、いつのまにか太陽が沈み夜の帳が降る時間になっていた。

 この日は、SSIが用意したホテルに泊まり、翌朝を待って問題の施設に向かうことになった。

 外に出て食事にしようかとも思ったが、祐理が時差ぼけによって体調に異変を来たしたためにルームサービスで軽食を取るだけにした。

「豪華な部屋だ。学生には分不相応だぞ、これ」

 部屋に入るなり、護堂はその高級感に圧倒された。

 家具はすべてイタリア製のこだわりの品。

 最上階なので、窓から見える景色は最高だ。住宅街が集まる地域なので、足元はそれほどでもないが、隣の地区のハリウッドやロサンゼルスのビジネス街まで見渡せるので、遠くに光の海があるように見える。

 政府系の組織の癖に、このような豪華なホテルを所有しているとは、問題ではないのか。

 おまけに、どういうわけか祐理と同室なのだ。この国の倫理観はいったいどうなっているのか。

「き、きっと、何かの手違いがあったんですよ。えっと、わたしのことを男性だと思っていらしたとか」

「それはそれで失礼だろう」

 おそらく、これは恣意的な部屋割りだ。

 今のところ、三日はこの部屋で過ごすことになるのだ。祐理のような可愛らしい少女を年頃の男と一緒にするとは大人としてどうなのか。

「悪いな、万里谷。安心して眠れないだろ。今からでも、ジョー先生に掛け合ってみるよ」

 護堂はスマートフォンを取り出して、ジョーの携帯に連絡を入れようとする。

「あ、お待ちください、草薙さん」

 それを祐理が制す。

「あの、わたしは別にこのままでも構いませんから」

 光の加減とはまた別の要因で、祐理の頬は紅くなっている。淑やかで落ち着きのある媛巫女も、羞恥心を隠し切れずに俯いた。

「草薙さん。晶さんのご自宅に行かれたときに、晶さんと同じ部屋でお休みになられたと聞きました」

「あ、まあ、あのときは晶のお母さんがな……」

 あのときのことを知るのは、護堂の身の回りでは晶しかいない。晶がどこかで口を滑らしたに違いない。

「でしたら、わたしが同じ部屋に過ごしても…………あの、いけませんか?」

 祐理は最後まで言葉を続けられず、曖昧に濁しながら訴えかけてきた。

 護堂としては、拒否する理由は特にない。

 すべて祐理次第だったので、祐理がいいというのなら護堂はそのまま受け容れることとした。

 

 

 それから数時間が経った。

 当初は、夜景やテレビを楽しんでいた二人だったが、祐理の時差ぼけによる体調不良がいよいよ悪化したようで、起きているのはよくないと判断し、消灯して早めに就寝とした。今は、祐理はベッドの中で安らかな寝息をたてている。

 護堂は眠気がまったく襲ってこないのでソファに座り、卓上のランプの明かりで明日の予定や事件の関連資料を確認していた。

 護堂がふと窓辺を見れば、カーテンが揺らめいている。窓はきちんと閉めて鍵までかけていたのだが。

「普通にドアから入ればいいじゃないか」

 視線を、横に動かす。

 月光に照らされる室内に、影が立ち上る。黒いマントとバイザーの怪人、ジョン・プルートー・スミスがそこにいた。

「さすがに、勘が鋭い。慎重を期したつもりだったのだが、驚かせることができなくて残念だ」

「いや、十分に驚いてるよ。ここは、一応最上階なんだけどな」

 尤も、護堂もそうであるように、カンピオーネにとってはこの程度の高さなど問題にならない。護堂も自分の手持ちの技術の中で高層ビルの窓から内部に侵入する方法を何通りも頭に思い浮かべられる。

 とはいえ、スミスがどのような方法で侵入を果たしたのか、については具体的には分からない。

「ロスでも指折りの高級ホテルだ。聞けば、アメリカに来るのは初めてだそうじゃないか。楽しんでくれていると嬉しいのだがね」

「そうだな。日本とも西洋とも違う文化だから、見てるだけでも楽しめる。でも、万里谷と同じ部屋にしたこととかは、文句を付けさせてもらうぞ」

「草薙護堂。君がその歳で複数の女性と愛を語らう仁であるということは私も理解している。君が私のスタイルに口を挟まないように、私も君のスタイルには理解を示そう。これはその意思表示だったのだがね。一応、君の貞操観念を信頼してのことだが、もしも、そういう行動を取っていたのなら、私もこのように現れることはなかっただろう」

「余計なお世話だ。まったく、俺はともかくとして、万里谷にはきついだろう」

「あの姫は、なかなか芯の強い女性だと見ている。この状況下で眠りについているというのは、よほど君を信頼しているのだろう」

 それも男としてどうなのかと思う護堂だが、冷静に考えれば似たような状況は前にも二回ほどあった。どちらも、相手は祐理ではなく晶だったという点で異なるが。

「君が今回の労を引き受けてくれて嬉しく思う。ジョーがすでに礼を述べたとは思うが、改めて感謝の意を表そう」

 と、言ってスミスは大仰な一礼をする。まるで、中世を舞台にした演劇を見ているかのような芝居がかった仕草だが、それが様になるのがスミスのスミスたる由縁だろう。

「こっちこそ、斉天大聖のときは関係もないのに助けてもらった借りがある。命懸けじゃない分、こっちのほうが楽だ」

 バイザーの奥で、スミスが笑ったように感じられた。

「それでは、私は暇をいただこうか」

「突然来たと思ったら、あっさり帰るんだな」

「淑女の眠りを妨げるのは性に合わないのでね」

「だったら、初めから時と場所を選んでくれ」

 軽口を互いに交わした後、スミスは優美に一礼して窓の外に消えた。

 まるで煙のように、とは彼のような神出鬼没さに付加される評価であろう。

 

 

 

 □

 

 

 

 護堂がロサンゼルスを訪れたのは、昨年の秋に斉天大聖を葬る手伝いをスミスにしてもらった借りを返すためである。

 かつて、ロサンゼルスに降臨したまつろわぬアルテミスによって、多くの人が動物に変身させられてしまい、未だに元に戻す方法が分からないまま時の流れるままになっているという問題を解決するのが目的だ。

 アルテミスの被害者たちは、ロサンゼルスにある国立公園内に密かに匿われているという。

「草薙さん。一つ、よろしいですか?」

 と、出立までの時間をテレビを見て潰していた護堂に祐理が話しかけてきた。

「どうかしたか?」

「アルテミス神の呪詛を破るのに、天叢雲剣をお使いになるおつもりなのですよね?」

「ああ、そうだな。正確にはそれに加えて神酒の権能をミックスするんだけどな」

 護堂の呪詛破りの権能は、単独によるものではなく天叢雲剣が破魔の神酒の権能と融合することで一時的に強力な対魔剣となるというのがからくりの答えだ。

 これまでにも、幾度となくこれによって窮地を切り抜けてきた。使い勝手のよさについつい甘えてしまう。

「ですが、その使い方は天叢雲剣にかかる負担も大きいとか」

「ああ、連続使用ができないわけじゃないけど、するとダメージが蓄積されるんだよ。やりすぎるとしばらく使い物にならなくなる」

「それでしたら、控えられるのがいいと思います。天叢雲剣は何かあったときの切り札になるものですから。この前のウルスラグナ神との戦いでもそれが命綱となりましたし、万が一のときのためにとっておくべきではありませんか?」

 確かに、と護堂は思う。

 まつろわぬウルスラグナと戦ったとき、一戦目は死にかけたがウルスラグナの『雄羊』の権能をコピーして生き永らえた。二戦目は、『戦士』の権能をコピーして敵に決定打を与えた。どちらも、天叢雲剣がなければどうにもならなかったであろう。

「それだと、助けられないじゃないか」

 しかし、それで控えたところでアルテミスに変身させられた人が助けられるわけではない。

「いいえ。他に手はあります。草薙さん。ウルスラグナ神から簒奪されたのは、『戦士』の化身なのでしょう? 神格を斬り裂く言霊の剣なら、より確実に呪詛を無効化できるはずです」

 祐理の言うとおり、『戦士』の化身であれば確実にアルテミスの呪詛を斬り裂ける。

「だけど、言霊の剣を使うには、知識が必要で」

「わたしなら、大丈夫です。草薙さんが危ないときに、お役に立てないことが多かったので、このようなときにこそ、わたしの霊視が役立つはずです。かの神の素状。実はすでに霊視できているのです」

 お膳立てはすべて整っているということだ。 

 祐理の言うとおり、天叢雲剣に負担をかけて、いざというときに使えない状況に陥るのはまずい。できるだけ温存しておいたほうがいいだろう。それに、未だ掌握できていないウルスラグナの権能を慣らすということもできる。

 夏にイタリアに行ったときのように、突然『まつろわぬ神』に喧嘩を吹っかけられるかもしれないのだ。杞憂だと笑い飛ばせるものでもなかった。

「じゃあ、頼む。万里谷」

「はい」

 祐理は悠然として笑みを浮かべ、それからゆっくりと口付けた。



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中編 ロサンゼルス編 Ⅱ

 正史編纂委員会は日本で唯一の公的呪術結社である。所属している職員はすべて国家公務員扱いであり、日本伝統の呪術の保全と発展を主任務として日々全国津々浦々で活動している。

 日本の人口は一億人を突破して久しく、少子化が叫ばれる現代でも呪術の本場であるヨーロッパに比べれば人口は圧倒的に多い。そのため、全体的な呪術師の人数も国別で見れば上位に位置している。

 しかし、人口比で見ると呪術師が不足しているのが現状で、なかなか正史編纂委員会の目が行き届かないところが多い。

 『民』と『官』を住み分けすることで、これまでは上手くやりくりしてきたのだが、その合間に付け込んで犯罪を犯す者は後を絶たない。とりわけ、昨年の内訌以来、犯罪の発生件数は微増傾向にあった。

 カンピオーネが正史編纂委員会の長に就任したとはいえ、罪を犯す者は犯す。反骨精神に溢れる者や、カンピオーネに詳しくない三流呪術師などにはまだまだ護堂の影響力が及ばないのである。

 まつろわぬ法道が引き起こした全国的な騒乱が尾を引いて、治安も悪化した。そこで、引き締めを図るために、本格的な掃討戦に打って出たのである。

 埼玉県某所に馨はいた。

 二階建てのビルの一室を借りて、簡易拠点とし指揮を執るために東京から出向いてきたのだ。

 人間の組織を相手にするのは、昨年の五月以来のことで懐かしく思われる。あのときに比べればずいぶんと気持ちが楽である。

『馨さん、こっちはいつでもいけますよ』

 携帯で会話する相手は晶である。あえて、念話を使わないようにしているのは敵にも呪術師がいるからだ。勘付かれるのは、できるだけ避けねばならない。

「分かった。君のタイミングで突入していいよ。ビルの包囲は済んでいるからね。鼠一匹逃げられやしないよ」

『最近、いいように使われすぎている気がします。わたしは、先輩の式神なのに』

「草薙さんの地盤を固めるために粉骨砕身するのも式神の仕事じゃないかな」

『物は言いようですね。……もう、こんな夜遅くに中学生を働かせるなんて労働基準法違反です。公務員なのに』

「それを言えば、僕だってまだ高校三年生だよ。何もせずにうろついていれば補導コースさ」

 労働条件に苦言を呈する二人は、共にそれぞれの分野で日本最高峰の実力者だ。政治的な折衝に関して、馨の右に出る者はいない。晶の力はもはや人間の枠に収まるものではないのでいいとしても、馨のような未成年が組織を回しているというのが、ある意味ではこの国の人材不足を象徴するものといえるだろう。

「まあ、面倒な仕事ほど素早く終わらせるに限る。内部には武装した呪術師が十人以上いるようだけど、応援はいる感じかな? 今ならまだ間に合うけど」

『いりません。中に入ったときと顔ぶれは大して変わっていないみたいですし、あのくらいなら一人で十分です』

「草薙さんに自慢できるくらいには、結果を出して欲しいな」

『分かってます』

 むすっとした声で、晶は返答した。

『わたしもロサンゼルスに行きたかったのに、なんで万里谷先輩だけなんですか』

「それは、君にはこっちの仕事のほうが適任だからね。草薙さんも、それぞれの能力を加味して判断したんだよ」

『うー……分かってますけどぉ』

「羨ましいなら羨ましいって、はっきり言ってもよかったのに、律儀なものだね。君たちは」

『もういいです。そっこーで終わらせてきますので、切ります』

 ブツ、と馨の返答を聞かずに晶は通話を切った。

 納得いかないことを納得できないままに我慢するというのは、自制心が必要だ。晶は生い立ちからして、精神的に未熟なところがあるので、今回のことはそれなりにいい薬になるのではないか。

 政治的には、護堂と祐理をより親密にするという意図もあった。

 馨が意識しているのは次世代の人材だ。後継者が作れない晶や知識に特化した明日香よりも、血に能力を宿している祐理や恵那に寵愛が向くほうが組織としてはありがたい。

 尤も、そのようなことを口に出そうものならどこから槍が飛んでくるか分からないので絶対に言わないが。

 

 

 一方の晶は、三階建ての雑居ビルに巣食う呪術犯罪者の集団に怨念を向けていた。

 学校指定の紺色の体操着を着た晶は、何食わぬ顔でビルの中に入る。こじんまりとした個人事務所という感じだ。一階は駐車スペースになっていて、ガラス製のドアを押し開けるとすぐに階段がある。そこを上っていくと、事務所に通じるようになっているのだ。

 祐理だけが、選ばれて護堂と共にロサンゼルスに渡ったというのは腹立たしい限りだ。我慢したのは、ただ護堂に面倒をかけたくないからというそれだけのことで、断じて納得したわけではない。

 年頃の男女がホテルで同室だったりしたらどうなるか。

 一緒に寝たり風呂に入ったりもあるかもしれない。護堂は公式ハーレム王なので、間違いがあってもまあ、なんとでもなるかもしれないが、女として不愉快なのは否めない。

 そもそも、高校一年生で二人きりでのお泊り会など不健全だ。同室や風呂など言語道断。まったくもって破廉恥だ。

 渋い表情のまま、晶は霊体化する。相手が呪術師なだけに、ビルには警報用の結界などが張られているのだが、実に低レベルのものでしかなくすり抜けるのは容易だ。姿を消したまま、晶は二階へ。

 この世ならぬもので構成された晶の肉体には物理攻撃が通じない。身体の構造としては『まつろわぬ神』や神獣に近いので、呪術も対神用の秘術でなければ効果は薄いという破格のスペックだ。それが、姿を消して忍び寄ってくるのだから、対応できる人間などそう多くはない。

 十六人の呪術師を一方的に無力化した晶がつまらなそうな口調で馨に連絡を入れるまでに、五分とかからなかった。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 護堂と祐理はSSIの職員と共にマイクロバスで自然公園に移動することになっている。

 ロスフェリスを出た一行はヴァントーラフリーウェイを通って、市街地の中を進む。ロスフェリスの街がそもそも山麓になるのだが、今、護堂たちの左手に見えている山地は、ロスフェリスの背後に佇む山と繋がっている。山脈といったほうがいいかもしれない。

 アルテミスの被害者たちが収容されているのは、この山の中でも特に自然豊かなサンタモニカ・マウンテンズ国立保養地の奥地であるという。

 市街地を抜けて荒涼とした大地が見えてきたところで左折し、山に向かう。アメリカらしい光景に、護堂は内心でいたく感激する。

 そうして、休憩を挟んで三時間あまりの行程を経てやってきたのは土の匂いに満たされた森の中であった。

 サンタモニカマウンテンは、一〇の公園が集まる総面積一五万エーカーにもなる巨大公園だ。大都市に近いものとしては全米でも最大規模だというが、日本のこじんまりとした公園しかしらない者からすれば、公園という言葉の意味を考え直さなければならないとも思えるだろう。

「気軽に遊びに来るところではないな」

「キャンプとかにはいいかもしれませんね」

「ああ、沢遊びもできそうだしな」

 なんにしてもアメリカは規模が違う。

 経済もそうだが、国土が桁違いなのだ。その中にあっては公園も巨大化するのだろう。

 どういうわけか、アニーとスミスの姿はない。聞くところによると、邪術師がまたよからぬ企てを始めたらしく、その討伐に赴いたというのだ。

 アニーがいなければスミスもいない。当然のことだ。

 日本でも晶に似たようなことを任せてきたなと思いながら、護堂は自分の役割をこなそうと意気込む。

 遊歩道を歩いていると、呪術の気配を感じた。目には見えないが、結界が張ってありその奥に別の道がある。

 結界に気付いた護堂と祐理の様子に、先行するジョーは微笑む。

「気付きましたか。そうです。この奥に、件の施設があるのです」

「結界で区切って、一般人が入らないようにしているんですね」

「そうだ。ゴドーは呪術に触れて浅いと聞くが、カンピオーネともなると簡単に見つけてしまうのだね」

「似たようなものを前にも見ましたから」

 土地を隠す結界は、日光や高橋家を訪れたときに見ている。この結界は一般人を対象にしているので、呪術師の侵入を想定していた日光と高橋家に比べればそれほど秘匿する力は強くないように思える。

「そのまま、真っ直ぐに行けば通れるようになっているから、構わず進んでくれ」

 そう言って、証明するようにジョーは結界の奥に消えた。護堂の目からすると、薄ぼんやりとした風景の奥にジョーの姿が歪んで見える。一般人から見れば、木々しか映らないのだろう。

「なるほど、こうなっているのか」

 感心しながら、護堂は結界を通り抜けた。

 

 

 そこは、真白な施設だった。

 一見すれば博物館のような印象を与える。建造物としては小規模で、駐車場もない。寝泊りし、呪術の研究をする。ただそのための建物のようだった。

「ここが、アルテミスの呪詛を研究する専門機関だ。ゴドーが彼らを救ってくれれば、業務時間の七割が浮くことになる」

「それはいいんですか?」

「無論だ。その分だけ研究に時間を費やせるというものだ。こんな業界だからね、我々も人手が足りないんだ」

「どこの世界も同じというわけですか」

 日本とアメリカ。人口も規模も異なる両者だが、共に内訌を経験している、政府所属の機関であるなど接点は多い。SSIに関しては長年神祖率いる邪術師一派の『蝿の王』と戦いを繰り広げていたためにそれなりに消耗しているのである。

「善は急げだ。このまま、彼らの下に案内するつもりだが、いいかね?」

 ジョーが尋ねてくるので、護堂も頷いてその提案を受け容れる。

 施設に入って真っ直ぐ進むと、鍵のかかったドアがあった。ジョーが職員から鍵を受け取って、ドアを開けると、その先は広大な自然公園の中に続いていた。

「昨日説明した通り、結界と網で行動範囲を絞っている。肉食獣に変えられた人は、別にいるからそこも案内しよう」 

 このようなとき、結界は便利だと思う。

 網を使っているが、結界を張るほうが資金面では楽なのではないか。手間もかかるまい。維持管理がどうかは分からないが。

 護堂の視界にいるだけでも百余匹の動物がいる。馬であったり鳥であったり羊であったりと種類は多彩だ。

「これが、元人間か」

「正確には元人間も混ざっているですね」

 動物に変えられた人間と動物との区別をつけることができないのだという。

 さすがにシマウマやヌーあたりは人間だと判断できるが、在来種に変わった人はどうにもならない。

「分かりました。それじゃあ、始めます」

 目前を行き交う動物たちが人間だと思うと怒りが湧き起こってくる。確かに、神話上でもアルテミスはカリストーを大熊に変身させるなどしているが、それは物語だから許されるのである。

 護堂は脳裏に黄金の剣をイメージし、言霊を紡ぐ。

「アルテミスは、ギリシャ神話の女神だが、その信仰は新石器時代にまで遡り、系統としては紀元前六〇〇〇年頃には存在した多産の女神の系譜に当たる。もともとギリシャ民族の女神ではなく、それ以前の信仰を核としてギリシャ神話に取り込まれた外来の女神だ」

 古き地母神。例えば、アナトリアのチャタル・ヒュユクで発見された女神像はキュベレーと関係付けられるが、アルテミスは多産の女神としてこのキュベレーの系譜を引く。

 彼女たちは生と死の円環を司る大地の女神であり、多産の女神の系譜は、アルテミスが百獣の女神とされる由縁でもある。

 これとは別に、水と鳥と蛇に縁を持ち天空と地上を繋いだ女神の一群もあった。

 この系統は、インド・ヨーロッパ語族系の民族の侵入によってヨーロッパの中央部から駆逐され、ギリシャやエーゲ海近辺、クレタ島などで生き延びた。

 ヘラやアテナの系統である。

 農耕文化以前の思想を残す水と鳥の女神に対して、多産の女神は純粋に農耕文化から派生したと考えられる。

 こうした神格の背景を語り、そのまま武器とするのが『戦士』の権能だ。

 護堂が一言呟くたびに、その周囲を黄金の光が取り巻いた。

 神々を斬り裂く黄金の剣。言葉によって紡がれる歴史を暴き立てるものだ。

「アルテミスの職能は広い。古くから豊穣や出産を結び付けられて信仰されてきたが、それと同時に凄腕の狩人でもあった。古代ではアルテミスには人間が捧げられていたが後に生贄が雄牛に変わり、そのために『雄牛殺し(タウロポロス)』という別名がつけられた」

 黄金の星が宙をかける。流れるように標的を追いかけ、討ちぬいていく。オランウータンが一瞬にして人間の男性に変わった。鳩が、雉が、シマウマが、次々と人の姿に戻っておく。

 護堂は手応えを感じながら、言葉を続ける。

「アルテミスが後に月の女神と同一視されるのも狩人の側面があったからだ。夜に狩りをするアルテミスの行動は、破壊者として欠けていく月を連想させた」

 アルテミスの神話を解体していくごとに、園内にいる動物と人間の比率が変わっていく。子どももいれば、大人もいる。人種も多様だ。それだけ多くの人がアルテミスの犠牲になっていたのだ。

「アルテミスの神話は他の神々のそれと同じく当時の人々の文化を下地にして構成されたものだ。例えば、自分の裸身を見たアクタイオーンを鹿に変えて八つ裂きにするのは古代ヨーロッパの『王殺し』の風習に影響を受けているし、ゼウスと交際したカリストーを熊に変えるのは少女が結婚して大人になったことの暗喩だともされる」

 古代ヨーロッパには力を失った王を殺して新たな王を立てることで秩序を回復するという文化があった。北欧神話の王であるドーマルディが、飢饉に対処できなかったことから豊穣神への生贄にされた話などが代表例だ。

 アテナイではアルテミスの祭で少女が熊の真似をして踊ったという。これは、結婚して大人の仲間入りをする通過儀礼をアルテミスが司っていたということであり、処女を失って熊になるカリストーの神話がこうした文化を下地にしていることは推測できる。

 山の神(狩猟神)が結婚と出産を司るのは日本も同じであり、アルテミスとカリストーの神話は処女=自然から熊=獲物=文化(結婚)の状態に移行することを示しているのである。

 処女に聖性を認めていた西洋と異なり、老人に聖性を認めていた日本ではアルテミスの役割は山姥という妖怪に当てはめられる。

「スイスのヘルヴェチカ人は、アルテミスを雌熊として崇拝し、アルティオと呼んだ。ケルト人がこの神を取り入れ、アルトと省略し、やがてアーサーへと転訛する。ケルト人社会で熊は戦士階級を示すから、英雄の名前として取り入れるには都合がいい」

 呪詛という呪詛をなで斬りにする。

 星の数は空を覆い尽くさんばかりになり、流星群のように地上に降り注ぐ。逃げ道を塞ぎ、推し包むように結界内を一掃するのだ。

「ジョー先生。肉食獣のほうに行きます」

「あ、ああ。分かった。すぐに案内する」

 黄金の剣を維持したまま、護堂はジョーをせっついて施設の中に戻る。肉食獣は、主として熊だった。共食いの危険性が低いからいくつかのグループに分けられて分散隔離されていた。

「アルテミスは強大な女神だったが、やがてその立場を落とされることになる。アルテミスの双子の兄であるアポロンが母権制社会を破壊して父権制社会を創始したからだ。アルテミスは本来アポロンの母であり、だからこそアポロンは狼や鼠といった大地と闇に関わる姿をしていた。これが覆されてアルテミスは太陽神の妹という立ち位置に落とされた」

 母権制社会の象徴とも言えるアルテミスの否定は、革命的な事件であろう。アポロンの役回りは、神話学的に見ても非常に大きい。

 黄金の剣が舐めるように熊たちに殺到し、施設内を輝かしい光で埋め尽くす。

 光が消えた後には、それぞれの姿勢で倒れる人々の姿があった。

 施設職員が慌しく救護していく。意識がない人々を介抱するのは、とても骨が折れる作業だ。

 とはいえ、事前に分かっていたことなので、人手の用意はしてあった。素人の護堂が手を出すまでもない。

「すばらしい。すばらしい権能だ。ゴドー。見たところ言霊による神格への直接攻撃かな」

「それは秘密です。といっても、使えばすぐにばれてしまいますけど」

「ああ、分かっている。他言はしないよ。これだけの人を救ってくれたことに、ともかく感謝する」

 感動したのか、目尻に涙さえ浮かべてジョーは護堂の手を取った。

 大袈裟な、と感じるものの、護堂がいなければ彼らを救うことはできなかったのだ。それだけの結果を出したと喜ぶところだろう。

「草薙さん!」

 ちょうど、そのときだった。

 それまで、静かに成り行きを見守っていた祐理が叫んで、駆け寄ってきたのである。

「どうした?」

 焦ったような祐理の表情に、護堂は不安を覚えながら尋ねる。

「何か、近付いてきます。ものすごく、大きな力が」

「なんだって……?」

 護堂は表情を引き締めた。

 祐理の勘はよく当たる。霊視が使える者は、危険に敏感だというが、祐理のそれは半ば予知の領域に足を突っ込んでいる。

 祐理が危険と言うからには、それなり以上に危険な存在が接近しているということだ。

 祐理に遅れて、護堂の身体にも変化が生じた。

 身体の奥から力が湧き上がってくるこの感覚は、これまでに幾度も経験してきた戦闘態勢への強制移行の合図だ。

 つまり、向かってくるのは『まつろわぬ神』だということだ。

「なんだってこんなときに」

 護堂は毒づいて、ジョーと目配せする。スミスがいないこの場に『まつろわぬ神』が現れたのだから、護堂が対処せねばならない。ジョーは護堂の意を汲んで、施設職員と倒れた人々を安全な場所に避難させるべく指示を飛ばし始めた。

 結界の上を大きなドラゴンが通り過ぎて行ったのを見送って、護堂は施設の外に出たのであった。




この話で百話目です。
もうすぐ九十万字じゃあああああああ。







??「先輩の部屋しばらく誰も来ないんだ」
  
??「ああぁぁぁせんぱぁぁいぃ、早く帰ってきてよおぉぉぉぉぉ、はぁはぁもぞもぞ…………うっ…………」



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中編 ロサンゼルス編 Ⅲ

 何がどうなっているのか。

 空の上には、何の冗談か全長三〇メートルはあろうかという赤い竜が飛んでいる。間違いなく、『まつろわぬ神』だ。

 形態は典型的な西洋竜。ただし、手足がすらりと長く、鉤爪が地上からでも見て取れるほどに大きい。蝙蝠のような翼を広げると、陽光が遮られて地上に大きな影ができた。

「怪獣系か。これはこれで久しぶりだ」

 『まつろわぬ神』として対峙した敵の中で、人の姿を取っていなかったのは一目連くらいのものだ。思えば、竜は神獣としては顕れたが、『まつろわぬ神』としては降臨していない。少なくとも、この一年の間には。

「そこにいるのは、神殺しか」

 図太い、それでいて知性を感じさせる声で竜が言った。

「ほう、なるほど。我を信奉するもの共が言っていたな。今、この地に二人の神殺しがいると。先ほど、一人とは一戦交えたが、貴様が残る一人ということか」

「スミスと戦ったってのか!?」

「うむ。とはいえ、彼奴は腰抜けよ。正面からぶつかってくることもなく、様子見に徹しておったからな。貴様がそうではないことを祈るぞ神殺し」

 スミスは権能の使用に制限がある。アルテミスの矢も変身も軽々しく使えるものではないから、敵の情報を探り手の内を読んでから攻める。ヒット&アウェイは、彼の常套手段ということだ。

「戦う気は満々か」

 外見で判断すれば、火を吹くことも考えられる。周囲は自然公園というだけあって緑豊かな地で、こんなところで火炎放射などされては、大火災になってしまう。そうなれば、背後の祐理たちの逃げ場がなくなる。開けた場所まで移動する必要があった。

『縮』

 短く言霊を呟いて護堂は空に昇る。竜の頭を飛び越えて、放物線を描いて自由落下。空中でほどよい土地を探し、そこを目掛けて空間を圧縮する。

 護堂が舞い降りたのは、ピウマロードと呼称される道の近くだ。周囲は赤茶けた土が露出し、低木が立ち並んでいる。西部劇に出てきそうな、乾燥した大地で、連なる山々によって起伏が生まれていた。人気はない。延焼は仕方がないとしても、巻き込まれる人は少ないだろう。

 と、そこに空から炎の塊が落ちて来る。

「あぶねッ」

 護堂は斜面を転がり落ちて直撃を避ける。爆発によって崩れた土砂が、護堂の身体にかかる。シャツの中に砂が入って気持ちが悪い。

 だが、そんなことに構っていては直撃を食らう。護堂は一目連の権能を駆使して無数の楯を生成し、空中に展開する。

 竜の炎が楯にぶつかり、派手に火花を散らした。

「《鋼》の楯! なるほど、製鉄神を殺めたか!」

 口腔から炎弾を連射する竜は、どのような原理か平然と言葉を紡ぐ。匂いか気配か。一目連の権能が生成する武具に宿る《鋼》の聖性を感じ取っているらしい。

 やはり、見た目どおり《蛇》に属する神格なのか。

 しかし、外見が竜だから《蛇》という発想も危険だ。《蛇》は他勢力に征服された証のようなものだ。そういった歴史的、神話的背景がなければ《蛇》と断定するのは難しい。

「なかなかの楯だ。戦いなれているな神殺しの少年。……炎を弾くならば、少々力押しに行くまでのこと!」

 竜が、爪をぎらつかせて舞い降りる。

 炎を完全に防いで見せた楯の数々も、三〇メートルに及ぶ巨獣を前にすれば紙屑も同然か。圧倒的な重量はそのまま物理的な破壊力に変換され、護堂に襲い掛かる。

 迎撃は、危険。回避するには、地中を行くしかない。

 土雷神の化身を行使し、肉体を解く。雷と化して地中に潜り、竜神から距離を取った。直後、竜神が楯を蹴り砕いて大地に足を突いた。凄まじい衝撃が四方に奔り、硬い低木の枝が激しく揺さぶられて吹き飛ぶ。竜神が着地した斜面も、衝撃を支えきれずに崩落し、直下の道路が寸断された。

「素早いな、神殺しの少年」

「正面からあんたの体重を受け止めようとは思わないだろ。逃げんのは当たり前だ」

 護堂は周囲に剣を展開する。《鋼》の剣。《蛇》を打ち倒し、敵を征服する象徴。《蛇》から生まれし《蛇》殺しの力だ。

 切先を向けられた竜神は臆することなく牙を剥いた。

「貴様たち神殺しが地上に蔓延し、星の運行は大いに乱れている。主も嘆かれるはずだ。我もまた神殺しを血祭りに上げ、世に巣食う悪鬼羅刹への宣戦布告としてくれよう」

 翼が大気を打つと、目に見えない津波のような大風が起こる。それが、そのまま攻撃に転用されるのだから、風の攻撃は反則じみている。

 護堂の剣を薙ぎ払って、赤茶けた風の壁が護堂を襲う。

 護堂は一目連の権能を使って簡易シェルターを構築し、風をやり過ごした。単純ながら強烈な打撃攻撃に曝されたシェルターが悲鳴を挙げる。

 並みの神獣程度であれば、この一撃を受けるだけで消滅しただろう。護堂も、生身で直撃を食らえばどうなることか。爆風が指向性を持って襲い掛かってくるに等しいのだ。脅威以外の何物でもない。

 しかし、竜神の攻撃を受けても護堂の心は穏やかだった。

 幾多の死線を潜り抜けてきた恩恵からか、冷静に敵の力を分析する余裕がある。…………それ自体が、どこかおかしいと感じながら、護堂は呪力を練る。

「陰陽の神技を具現せよ。鬼道を行き、悪鬼を以て名を高めん」

 

 

 

 彼をこの地に呼び出したのは、復讐心だ。

 現代で言えば、カルト教団というべきか。人間がロサンゼルスと呼ぶ都市のはずれに巣食った邪術師たちが祈念し、己が身を犠牲にしてまで祈り続けた結果、降臨したのがこの竜神だ。

 血肉を捧げた邪術師に思うところがないではないが、彼も『まつろわぬ神』。人間に配慮をする気にはならないものの、神殺しへの復讐には手を貸してやることにした。

 彼は権力を肯定し、地上を治め、四方を安定させる。創世神話の一翼を為す竜神は、創造主に仇為す神殺しを殲滅する義務がある。

 風を受け流すために鉾状になったシェルターに篭った神殺しを蒸し焼きにしてやろうと、竜神は口腔内に炎を溜める。

 あの形状では風は防げても熱までは防げない。神殺しは生物の限界を突破してはいるが、さすがに神の火には耐えられまい。

 灼熱の炎を吹き出す瞬間、彼は標的を変更して上空に顔を向ける。

 いつの間にか、真上に神殺しがいた。

 黒い槍の穂先を向けて、竜神に向かって落ちてくる。

「笑止。その程度の小癪な技で、我を討てると思うな!」

 狙いは上空の神殺しに向けられる。

 守りは一切ない。不意打ちは、気付かれた時点で立場が逆転する危険な賭けである。今回は、竜神のほうに分があった。

 紅蓮の炎弾が、三連射。

 一発で大地に大穴を穿つ威力の、炸裂弾が如き必殺の炎。それが三発。すべて直撃した。苛烈極まりない先制攻撃。敵を蒸発させて余りある威力の攻撃は、そのまま真っ直ぐ進むはずだが、あえて炸裂させた。神殺しを殺すには直撃だけでは足りないからだ。熱で簡単に融解するはずがない。だから、爆発させる。膨大な熱と大地を穿つ炸裂弾を叩き付けて、粉々に吹き飛ばすのだ。

 虚空ゆえに、その炎弾が爪痕を残すことはない。

 しかし、響き渡る轟音と打ち寄せる熱波がその威力のほどを如実に語っている。

 

 紅蓮が風に流れた後には、何も残されてはいなかった。

 当たり前だ。人間が、炸裂弾の直撃を受けて人の形を保つことができるか。できるはずがない。跡形もなく消し飛んで当然なのだ。

 だがしかし、相手は人の身で神を殺した神殺しだ。《鋼》の楯を作り出す権能を所持しているのも確認している。大人しく、直撃を受けて跡形もなく消し飛ぶとは思えない。

 では、どこへ。

「ご……ッ」

 激痛が脳髄を焼いた。

 痛みの出所は足だ。強靭な竜神の皮膚を貫いて、宝石のような輝きを持つ槍が竜神の足を貫いていた。足の裏から甲へ。貫通して地面に縫い付けられる。

 地下からの不意打ちだった。

 竜神が空中の護堂を迎撃しようとして上を向いた、その瞬間を見越した攻撃だった。

 さらに、それだけに終わらず、槍が地面を食い破って突き出てくる。

「おごあああああああッ」

 叫び、気合を入れて身体を捻る。胴体に向かって伸びる槍の穂先から、何とかして逃れなければならないから。

 焼けた鉄を押し付けられたかのような痛みが襲い掛かる。

 胴体を取り逃がした槍の一挺が、左の翼を貫いたのである。

 足が縫い付けられているために飛び立てない。

 急所こそ外したものの、合計五挺の槍が身体の末端に突き立ってしまった。傷は深いが、戦いを止めるほどのものではない。

 体勢を立て直そうとしたそのとき、竜神の身体を怒涛の炎が襲った。

 

 

 

 □

 

 

 

 火雷神の化身は大気中の水分濃度が低いときに使用可能になる。

 超高温の炎を敵に叩き付けて焼き払う、殺傷性の高い化身だ。使い勝手の悪さが目立ち、なかなか日の目を見ることはないのだが、多くの戦場で敵に大打撃を与えてきた。気難しいながらも頼れる化身だ。

 直撃を受けた竜神は消滅。

 赤茶けた大地は融解して赤熱している。

 初めから護堂はシェルターから動いてはいなかった。

 竜神の体当たりを土雷神の化身でかわした際に、地雷を設置するかのように地中に槍を埋め、シェルターに隠れながら、式神を護堂に似せて相手の頭上に飛ばす。

 相手が釣られてくれれば御の字という程度の浅はかな策ではあったが、上手く嵌ってくれた。

 地中から攻める手は、以前アテナと戦ったときに決め手になったのと同じやり方だ。あの女神の不意を突けたのだから、この竜神にも通じるかもしれないとは思ったが、こうもあっさりいくと拍子抜けする。

「おかしいな」

 護堂は眉根を寄せる。

 火雷神の化身による大火力攻撃によって、竜神は粉々に砕け散った。それを、確かに見届けたにも拘らず、

「権能が増えない。何か、条件があったか……?」

 護堂が知る限り、権能獲得の条件は『パンドラを楽しませる戦いをする』という前提に立つものである。そのため、『弱った神を討つ』『数的優位で勝利する』というような状況では、権能が増えないとされる。

 しかし、今回は正面から一対一で戦ったのだ。

 今までの敵に比べて、簡単に勝利できたとはいえ、『まつろわぬ神』であることに変わりはない。

 だというのに、権能は増えないのは何故なのか。

「倒していないとか。逃亡用の権能を使って、死ぬ前に撤退した?」

 ありえないことではない。

 カンピオーネと『まつろわぬ神』との戦いが正しく決着するというのは希らしい。これまで護堂は出会った神は概ね打ち倒し、権能を簒奪してきたから実感がないが、川中島の戦いのように勝敗が決せず互いが勝利を主張するような、そんな終わり方が多いらしいのだ。

 今回のあっさりとした終わり方のように、生死を賭けた戦いが長引くとは限らず、思いの他あっけない幕切れになるという展開もないではないだろう。

 一瞬で決するか、長期化するか。二つに一つだというのなら、これでもいい。

 しかし、そう考えても、あの竜神は弱かった。

 『まつろわぬ神』特有の生命力と勝負強さが感じられなかった。

 ウルスラグナと対峙したとき、一つ選択を誤ればその場で死んでいたと思わされる綱渡りの感覚がない。

 これでは、熊やライオンのような、『ちょっと危ない動物』を相手にするのと大差ない。

「てことは、まだ何かあるんだな……」

 あの竜に関する秘密。勝負がついていないのではなく、そもそも始まっていないと考えれば手応えのなさも頷ける。

「まずはスミスと連絡を取らなきゃならないかな」

 あの竜神が言うにはスミスとも一戦を交えたという。

 彼は地元のカンピオーネだし、魔術にもおそらく詳しいだろう。カンピオーネとしての経験もあるから護堂が一人で悩むよりもずっと建設的に話を進められるに違いない。

 そうと決まれば戻らなくては。

 護堂は、まず祐理に連絡を入れて無事を報告し、合流地点を決めて土雷神の化身を行使したのであった。

 

 

 

 □

 

 

 

 神速の化身を使ったので、祐理と合流するのにかかった時間は一瞬だった。

 自然公園の駐車場。護堂たちが乗ってきたマイクロバスが停めてある場所だ。そこで、避難した人たちと一緒にいた祐理やジョーに状況を伝え、スミスがどうしているのか尋ねた護堂は、再び驚愕の事実を知ることとなる。

「スミスが言うには、竜神はあちらで討伐したとのことだが……」

 ジョーが困惑したように言う。

 それもそうだろう。

 彼自身も赤い竜神を目撃しているのだから、スミスが倒していたなどと言われても信じられない。

「こっちに出た竜神とは別物ということでしょうか?」

 祐理の意見に、護堂が首を振る。

「それは違うだろう。俺が倒した竜のほうが、スミスと戦ったって言ってたからな。まったく別の神格ってわけじゃなさそうだ」

「でしたら、同じ神格の竜神が二柱いたということになります」

「さらに、第二第三の竜が出るかもな」

「草薙さん。笑いごとじゃないですよ」

 そうは言っても、笑うしかない。

 竜神が複数確認されたというのなら、護堂が危惧するとおりさらに数を増やすかもしれないのだ。

「とにかく、SSIはこの件に全力で対処する。続報が入り次第君にも情報を提供するが、今の段階で言えることはほとんどない」

「それは仕方がないでしょうね」

 先ほど出現が判明したばかりの『まつろわぬ神』の情報を寄越せと言われても、出せるはずがない。

 地道に正体を絞り込もうとすれば、数日、あるいは数週間かかるだろうし、正体不明のままに終わることも考えられる。

 スミスが戦ったというから、スミスの持っている情報と突き合せれば、また別の事実が浮かび上がってくるかもしれないが。

 情報がなければ行動に移すこともできない。護堂は、今後の方針を練るために一旦宿泊しているホテルに戻ることに決めた。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 護堂が泊まっているホテルは、簡単に言うと世界屈指のセレブが宿泊するとんでもホテルだ。人種の坩堝であるアメリカに日本人がいてもそれほど目立たないが、一歩ホテルの中に入れば年齢もあって異様に浮く。

 ここがSSIの傘下にあると言っても、一般人も利用するのだからその人物からすれば護堂の事情など知るはずがない。ここで言う『一般人』はあくまでも呪術を知らないということであり、それを除けば『一般人』などという括りにできないような立場の人間は大勢いる。

 そして、護堂は高校生でありながら、見目麗しい同年代の少女と共にこのホテルを利用しているので、周りから見れば何者だと奇異の視線を集めることになる。

 実は遠まわしな嫌がらせなのでは、とも思わざるを得ない。

 今度から宿泊するところは身の丈にあったところにしようと心に誓う。

「やっぱり、皆さん気にされていますね」

 部屋に戻ったとき、祐理が護堂に言った。

 ロビーからこの部屋に来るまでに二人に注がれた視線を言っているのだろう。

「万里谷は気になるか?」

「いいえ、そういうわけではないのですが、やはりこういったところを利用するのは不思議な気分です」

「落ち着かない、よなぁ」

 そう言いながらもソファに座り込みリラックスしているように見える護堂を見て、祐理は笑う。

「草薙さん。言動が一致していませんよ」

「そうでもないぞ。内心では、民宿みたいなとこのほうが合ってると思ってる」

「草薙さんはカンピオーネなのですから、それもどうかと思いますけど」

 祐理は、笑みを困ったような、そんな微妙なものへと変えた。

 護堂が王としての自覚を持っていることは明確なのだが、行動が伴っていないという感覚。祐理の生真面目な部分が、王として振舞う護堂と一人の少年として振舞う部分の双方を肯定しているから、どう表現すべきか困ってしまうのだ。

「深く考えているわけじゃないしな」

 と、護堂は言う。

「カンピオーネなんて、皆感覚で生きてるんだと思うぞ」

 他のカンピオーネもひっくるめて、護堂は評価を下す。

 あまりにも横暴で根拠のない意見だが、これまでに接してきたカンピオーネたちには概してそういった傾向があった。それは、適当というようなものではなくて、個々人の感覚が常人とは異なるベクトルを向いているというものだと祐理は思った。

 護堂の場合はどうだろうか。

 表現が難しい。護堂自身にも、祐理にも分からない。どのように言い表せばいいのか、適した言葉が見つからない。

 ただ、護堂はあまり路頭に迷うようなことはない。

 行動する前に、結論を用意するタイプなのだろう。そのための道筋を、どうするのか迷うことはあっても、我武者羅に無軌道な行動はしない。

 だから、傍目から見れば迷いがないように見えてしまう。

 実際はいろいろと考えているのだが。

 

 しばらく、他愛のない会話を交わしていると、護堂のスマートフォンが振動した。

 画面にはジョー・ベストの名がある。

「ジョー先生、どうしましたか?」

 ジョーとの会話は数分程度だった。

 スミスと情報を付き合わせる必要性から、彼と予定を合わせなければならないということだった。護堂のほうは自由が利くので相手に合わせると言うと、今日の午後六時を指定された。場所は、ジョーと最初に会った、彼の研究室だ。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

「まずは三〇〇〇人もの人命を救ってくれたことについて、礼を言わせてもらおう。草薙護堂。君のおかげで、多くの人が人としての生を取り戻した」

 バイザーの怪人は、芝居がかった口調で護堂にそう言った。

 他の人間がこのような話し方をすれば鼻持ちならないヤツという程度の認識に終わるが、スミスはそのミステリアスな服装と出自から舞台俳優的な仕草が実に似合っている。

 彼でなければ、こうはいかないだろう。

「そんなことはいいって。それよりも、あの人たちは今、どうしてるんだ?」

「大半が意識を取り戻した。ただ、動物だったときのことは覚えていないようで、時間の経過に意識がついていかないのが現状だな」

「浦島太郎状態ってことか」

「日本の民話だな。言いえて妙だ。確かに、そのようなものだろう」

 護堂の呟きを的確に拾ったスミスが言う。浦島太郎伝説は日本では知らない者のいないメジャーな物語だが、それをスミスが知っているとは。

「日本の神がアメリカに降臨しないとも言い切れないのが、『まつろわぬ神』の厄介なところだ。世界各国の民話や神話をある程度齧っておくのも大切なことだろう。もっとも、我らが同族にはそのような地道な努力にまったく興味を示さない者もいるがね」

「ああ、あれでよくやれるなと思うよ」

 護堂が思い浮かべるのは、サルバトーレ・ドニの間抜け面だ。

 彼ほど不勉強なカンピオーネは他にいないだろう。

 他のカンピオーネは意外にも神話に精通している。アレクサンドルは当然のように知識が豊富だし、羅濠教主は嗜みとして学問にも造詣が深い。近代以前のアジア系の神話であれば、いけるだろう。ヴォバン侯爵はどうか分からないが、戦闘狂だけに神には詳しそうだ。

「それで、スミスは今回の『まつろわぬ神』についてどう思っているんだ?」

「さて、それに関してはなんとも言えないな。情報が出揃っていない状況で不確かな推測を口にするわけにもいくまい」

 スミスは大仰に肩を竦める。

 その上で、

「草薙護堂。手を引くならば今だぞ。君への貸しはアルテミスの被害者を救ってもらったことで帳消しだ。この上、この問題に手を出す必要はないと考えるが?」

「邪魔はしないが、あれだけで借りが返せたとは思わないんだよな。こっちは斉天大聖を相手にしたわけだし、『まつろわぬ神』の事件に協力するのが釣り合ってると思う。せめて、一定の解決を見るまでは協力するぞ」

 斉天大聖のとき、スミスはその従属神を相手に戦ってくれた。一方でその借りを返しにきた護堂が人命救助で終わったのでは借りを返しきれていないのではと思わされる。

「ふむ、なるほど。貸し借りにうるさい性格というわけだ。とはいえ、君はなかなか厄介事を惹き付ける性質にも思えるしな、ハイリスクハイリターンな取引だな」

「失礼だな。トラブルに愛されてんのは、そっちも同じだろ」

「それは違うな。私はトラブルに愛されているのではなく、トラブルを愛しているのだよ。ダイナミックなトラブルは、役者をより輝かせるものだろう?」

「そっちのほうが性質が悪いじゃねえか」

 もしかして、今回の件もこの魔王が引き起こしたのではないか。そのようにも思える発言だ。

「まあ、戦力は多いに越したことはない。敵の正体を探る上でも、君たちの協力は必要不可欠だ」

 

 

 

「では、まず情報を整理しよう。あの竜神が出現したのはハリウッドの郊外にある《蝿の王》の関連施設だ」

「《蝿の王》。……スミス様が昨年討伐した、邪術師の結社ですね」

「ああ。今回の主犯は、その残党だ。彼らがロスに入ったという情報を得たのが、昨夜のことでね。用意周到にダミーを置いていたおかげで追撃に手間取り、召喚を許してしまった」

 昨夜、護堂と会話を交わした後で、スミスは仇敵を倒すべく行動を開始したのであろう。しかし、相手もスミスをよく知る一派だけに簡単にとはいかず、時間を消費してしまった。

「待ってくれ。『まつろわぬ神』を召喚するなんて、そう簡単にできることじゃないだろ」

 護堂はスミスの言葉に疑問を投げかけた。

 『まつろわぬ神』を呼び出すには、多くの制約と危険を乗り越えねばならない。狂気に等しい一途さで祈る祭祀と道しるべとなる巫女、そして星の並び。これらの要素を取り入れなければならず、そのためにヴォバン侯爵は祐理を拉致しようとしたのである。

「その通りだ。だが、それだけでもない。運の要素も忘れてはならない。彼らにとっては幸運だっただろう。そして私たちにとっては不運なことに、『まつろわぬ神』が降臨してしまった。彼らはそのために命を捧げる羽目になってしまったが、私に一矢報いるのであればこれほどの成果はないだろう」

「じゃあ、本当に適当に儀式をやったら、神様が出て来たってのか?」

「そういうことになるだろう。根城となっていたビルが倒壊してしまったので、触媒がなんだったのかも分からない。そちらから敵の正体を探るのは難しいな」

「ずいぶんと安い神様だな、おい……」

 このように簡単に『まつろわぬ神』が出てきたと聞いたらヴォバン侯爵はどう思うだろう。

 出てくる神も神だ。自分を安売りしすぎているのではないか。

「さて、話を続けよう。私は、出現した竜神をハリウッドの上空で撃墜した。その身体が砕け散るのも目視で確認している。よって、あの竜が君たちのところに飛んでいくとは思えない」

「だけど、俺が戦った竜はお前と戦ったって言ったぞ。しかも、お前のことを正面から戦わなくて様子見ばかりだって文句垂れてたし」

「それは見解の相違だな。しかし、そうなると同一個体でないとしても記憶を共有していることになるか」

 スミスはバイザーの顎の部分に手を当てて思案する。

 そのスミスに、ジョーが自分の見解を述べる。

「記憶を共有しているのなら、それは同一神格と考えるほうがいいだろう。複数の肉体を一つの意思で操っているのか、それともそれぞれが独立しているのかは判断がつかないけどね」

「私もジョーの意見には賛成だ。独立しているのなら数には限りがあるだろうが、そうではないのなら頭脳(ブレーン)となる個体がいるはずだな。護堂、君と戦った竜神の特徴を教えてくれ」

 スミスに問われて、護堂は竜神の姿を思い返す。

「そうだな。手足が長くて、全長は三〇メートルくらいか? 口から火を吹いて、風を起こして攻撃してきたな。翼は蝙蝠みたいだった」

「なるほど。どうやら私と戦った竜と同種のようだ。身体の色は黒か?」

「黒? いや、真っ赤だ。赤い竜」

「赤?」

「ああ。そっちは黒だったのか?」

 スミスは頷いた。

「赤と黒の竜神か。これが、偶然によるものでなければ、正体を探る助けにはなるだろうな」

「それだけでは絞れないか」

「いや、大分絞れるな。とはいえ、アメリカ大陸は竜神は多い。特に南米の神話は多くが竜神の姿を取る。神の身体の色について言及する神話は少ないから、降臨した際にどのような色をしているか分からないからな」

「そうか、なるほど……」

 『赤い竜』という情報で絞ろうにも、色に言及されない竜神が赤い身体で降臨するかもしれず特定には至れないというのだ。

 黒と赤の二色を有するとなれば、かなり絞れるようだが確信できるかといえばそうではないのだろう。

「赤い竜と黒い竜。今の段階ではこれしかないが、この地には赤い竜の痕跡が残されている。君ならば、何かしら読み取れるのではないかと思ったのだが?」

 スミスの視線を感じた祐理が恐縮したように身を縮めた。

 祐理ほどの霊力者はアメリカにはいない。千年もの長きに渡って血を守ってきた日本の呪術師は数こそ少ないが質は桁外れに高い。栄枯盛衰が世の常だった西洋にも誕生して二〇〇余年という若い国にもいない。

「わたしの霊視は、そう簡単に降りてくるものではありません。その、今回の竜神に関しても、赤と黒という情報だけでは……ッ」

 ふらり、と祐理は膝の力が抜けたように崩れ落ちる。護堂が慌てて腕を取って支えると、祐理は生気のない機械的な表情で唇を動かした。

「世界の始まりより前から存在する神。……四方を安んじ、世界を象る……」

 祐理の霊視だ。

 幽界と繋がる彼女の霊感は、向こう側から適切な情報を引き出して護堂を度々助けてくれた。今回も、彼女は当たりを引いたらしい。

 祐理が呟く神の名にスミスは満足げに頷いた。

「半信半疑だったが、これで神の名の確証が取れた。しかし、惜しいな。彼女ほどの霊能力者がSSIにもいてくれれば、《蝿の王》との抗争ももっと早期に決着できただろうに」

 そう言ってから、スミスは祐理をイスに座らせた。

「彼女を労わってあげるといい。間違いなく、今夜最高の功労者だ」

「それはそうだが、これからどうするんだ?」

「敵の正体が知れたのだ。後は決着をつけるのみ、だ」

 スミスはそう言って、自信たっぷりに宣言した。

 

 

 

 □

 

 

 

 敵となる『まつろわぬ神』の居場所は、大体見当がついているという。

 姿や気配を隠す権能を所持していない神は、その呪力の強大さから凡その居場所を特定できる。そもそも、姿を隠すという発想がない者もいる。捜索は容易だっただろう。

 明日、『まつろわぬ神』と接触する。

 おそらくは、戦闘になるだろう。敵の本体と戦うのはスミスで護堂はスミスの支援に回る形になるはずだが、敵の性質上護堂もいろいろと背負い込まねばならない。

「あの……草薙さん。どうか、ベッドを使ってください。明日は戦いになるのでしょう? 英気を養っていただかないと」

 夕食を終えて、シャワーを浴びると、後は特にすることもなくなってしまう。テレビを見るか、背伸びして夜景を楽しむかくらいだ。本を読むという手もあるが、祐理がいるのに一人で本を読むというのはどうなのか。あまりいい選択肢とはいえない。

 とすると眠るしかないのだが、ベッドはキングサイズが一基だけだ。

「ベッドを使ったら万里谷が寝れなくなるだろ」

「わたしはソファがありますし」

「バカ言うな。女の子をソファに寝かせて自分がベッドなんてできるか。恥ずかしいぞ、それは」

 このように、どちらがベッドを使うのかで揉めることになる。

 年頃の男女が同じベッドで眠るというのは、魅力的ではあるがやはりよくない。

「しかし、草薙さんをソファで眠らせるわけにもいきません。ですので、わたしがソファを使います。昨日はベッドを一人で使ってしまいましたし、このような失態を続けるわけにはいきません」

「失態でもなんでもないって。何度も言うけど女の子をソファに追いやる男は問題があるだろ」

 偏に男としての矜持の問題だ。

 世の中には、それで平然としている男もいるだろうが、草薙護堂はそのような外道になるつもりはない。

 『まつろわぬ神』関係で人様に迷惑をかけてしまうのは仕方がないと割り切れるが、日常生活ではそうもいかない。

 しかし、その一方で祐理もまた自分がベッドを占有するわけにはいかない立場にある。

 単純に申し訳ないのと、これから戦いにいく護堂に万全の状態になってもらわないといけないという理由。体調不良から、昨日は早く休んでしまったので、今日こそはと護堂がベッドを使うべきだという立場を堅持するつもりでいた。

 互いの意見が食い違い、平行線を辿る中でいきついたのは、二つの結論だ。

 二人で一緒にベッドで寝るか、それともベッドを使わないかだ。

 不毛な言い争いに、結論を出す難しさを悟った二人は、ぎこちなく視線を交わした後、諦めたように笑って床を同じくした。



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中編 ロサンゼルス編 Ⅳ

 『まつろわぬ神』との戦いで、先鋒を務めるのは護堂だ。

 スミスはその権能の性質上、初見での戦いに向かない。必殺のアルテミスの矢は強大極まりない威力を持つ一方で、月に六発しか撃てないという制約があり、変身の権能も自由自在にとはいかない。護堂の『(エイト・アス)(ペクツ・オブ)(・サンダーボルト)』に類似した、複数の化身を使い分ける権能だ。

 そのため、比較的自由に権能を取捨選択できる護堂のほうが先手を取り、相手の様子を探る役割を担った。

 望むところである。 

 『まつろわぬ神』と戦う。日光のときとは逆の立場でだ。これで、貸し借りは帳消しだ。

 戦いのときが近付き、護堂は高揚する気持ちを感じていた。

 まだ、日が昇り始めたころに、護堂は目を覚ました。

 窓の外は薄ぼんやりとした藍色で、東の空から上る太陽の光が山の向こうから伸びてくる。ホテルの最上階なので、小鳥の囀りは聞こえないが、おそらく外に出れば賑やかな合唱が降り注いでくることだろう。

 身体を起こして周囲を窺う。

 窓の外を見て、眩さに目を細め、ついで隣に横たわる祐理を見る。

 穏やかな寝顔で、眠りに就くときよりも僅かに距離を縮めてそこにいる。真面目な祐理が、完全に無防備な姿で同じベッドにいるというのが、言い様のない背徳感をもたらしてくる。信頼されているのが分かるからこそ、触れがたい。

 男は狼、などというが、草薙護堂はそういった『俗説』には敢然と否を突きつける男だ。

 しかし、このことに関してはそれほど悩む必要もなかった。

「草薙さん。お早いんですね」

 護堂が目を覚ましたすぐ後に、祐理も目を覚ましたからだ。ゆっくりと身体を起こして、話しかけてきた。

「万里谷、起こしたか」

「いいえ」

 と、祐理は首を振る。

「わたし、普段からこれくらいに起きるんです」

「そうなのか? 早いんじゃないか?」

「巫女の修行は日の出から始まることも多かったので、癖になってしまったんです」

「そうだったのか」

 確かに、巫女には朝早いイメージがある。早朝の澄んだ空気と巫女の静謐な世界観が妙に合っているからだろうか。

 すっかり眠気も覚めてしまって、寝なおそうにも落ち着かない。

 かといって、護堂がすることもそう多くないので、顔を洗ってそれで終わりだ。後は、『まつろわぬ神』に対して、どのように戦うのかイメージトレーニングでもするしかない。

 祐理が身だしなみを整える間、会話をすることもなく、護堂は茫洋とした目で窓の外を眺めていた。

 ソファに座って、敵のことを考える。

 竜神。世界の始まりに関わった創世神話の竜神だという。名前に聞き覚えはなかった。聞くところによれば、南米の神格で、まだ五百年ほどしか歴史を刻んでいないという。

「草薙さん。大丈夫ですか」

 祐理が、護堂の姿に何を思ったのか、心配そうに尋ねてきた。

「何か、思いつめたようなお顔です」

「そうかな」

「はい」

 祐理は、そう言いながら護堂の隣に腰掛ける。大きな黒いソファはふっくらとしているのだが、それにしても静かだった。祐理がどっかと座る様子も想像できないが、こうした挙措の一つひとつに人間性が出るのだと護堂は思う。

「あの、竜神のことだ」

「それが、何か」

「大したことじゃないけどな。聞いたことのない名前だと思って」

「そうですね。わたしも、霊視が降りるまでは聞いたこともない神格でした」

 十六年間、呪術の世界に身を浸してきた祐理が知らないのだから、護堂が知らないのは仕方がないだろう。

「黄金の剣を砥ぐには、『まつろわぬ神』の知識が必要、ですよね」

 祐理は伏目がちになって、護堂の様子を窺う。恥じらいながらも何かを期待しているかのような仕草に、護堂はどうしようもない愛らしさを感じてしまう。

 祐理の言わんとすることは分かる。戦うために、必要不可欠とまではいかないものの、あれば勝率が大きく上がる。

 ウルスラグナの『戦士』の化身は、ジョーカーとも呼べる切り札だ。

 ただし、その特性ゆえに護堂単独では幽界にでも行かない限り使えない。『まつろわぬ神』の来歴に詳しい仲間の支援があって、初めて使用可能になる気難しい権能だった。

「万里谷。……すまん、また手伝ってもらえるか?」

 祐理は返事をするよりも前に、護堂の頬に手を添えて顔を寄せた。

「はい。わたしの力、少しでも草薙さんのお役に立ててください」

 囁くように言って、祐理は護堂とキスを交わす。

 一〇秒ほどしてから、祐理は惚けた表情で唇を離して呟く。

「草薙さん。もっと、わたしを感じてください。わたしの中の神の御姿を、そのご来歴を、すべてお伝えします」

 祐理は護堂に体重を預けるようにして、より深く唇を合わせる。

 護堂の唇を包み込み、ついばむようにキスをするのだ。

 舌を使い、唾液を絡めて互いを求め合った。そうする中で、祐理から護堂へ『まつろわぬ神』への知識が注ぎ込まれていく。

 最初に脳裏に浮かんだのは、十字架のイメージだった。

 それは、世界の象徴であると同時に宗教の象徴でもある。

 次いで、蛇の形をした杖を幻視する。

 護堂とスミスの倒すべき竜神の正体とその来歴が脳に刻み付けられて、護堂の右手が熱くなる。

 『戦士』の権能が使用可能の状態になったのだ。

 

 

 

 □

 

 

 

 

 降臨した『まつろわぬ神』は、ロサンゼルスに程近いエンジェルス国立森林公園の中に潜んでいるという。程近いといっても、地図上でのことで、実際の距離は車で二時間弱といったところであろうか。

 カリフォルニアは広大だ。カリフォルニアの中だけで登録されている保護地区は一万四千箇所にもなるという。一つひとつも大きく、日本とは規模の違いを実感させられる。

 エンジェルス国立森林公園は、その中の一つであり、先日竜神と遭遇したサンタモニカマウンテンズ国立保養地の数倍の面積を誇り、山頂からはどこまで続く山並みを俯瞰することができるだろう。

 日本の森のような鬱蒼とした雰囲気はなく、地形や気候の影響なのだろう。見るからに硬そうな低木が、赤茶けた地面を覆っている。

 護堂が立っているのは、サン・ガブリエル・キャニオン・ロード。エンジェルス国立森林公園の中を走る道路の一つである。

 山の斜面の作られた道なので、山の形に添って蛇行している。護堂が立つ場所は東西に道が伸びている部分で、北には断崖絶壁、南にはサン・ガブリエル貯水池が広がっている。ここは、ダム湖であり、近隣の水事情に大きな影響を与える湖なのだ。

 カリフォルニアは夏に乾燥し、冬に雨が降る気候なのだが、この年は乾燥が長引き、ダム湖の水位が下がっている。未だに雪が降っていないので、温暖化の影響も心配されているという。異常気象は日本に限った問題ではないということだ。

 ダム湖の中に黒い影が見える。

 護堂の身体が自動的に臨戦態勢を取ったことからも、あれが『まつろわぬ神』であることが分かる。竜神の親玉というから覚悟はしていたが、とてつもない大きさのようだ。

「貴様が来なければこちらから行くつもりであった」

 湖に翼が生える。蝙蝠の翼だ。ついで、水面が大きく粟立ち、豪快な水音を響かせて巨体が姿を見せる。

 その威容は、神話の怪物と呼ぶに相応しい。

 

 『まつろわぬ神』に勝負を挑むのにもすっかり慣れてしまったためか、護堂は自分の足でこの場に来ることに何の躊躇もなかった。

 いいところはスミスにくれてやるのだし、自分は前座なのだという軽い気持ちもあった。

「でかいな。昨日戦ったヤツよりもずっと……」

 それでも、気を抜いたら即死する。

 竜神の図体の大きさからしても、相手の打撃攻撃が掠めるだけでも重傷を負いかねない。

 護堂が戦った赤い竜は、三〇メートルほどだった。これでも、かなり大きいのだが、目の前の深緑色をした竜は、その三倍はありそうだった。一目連よりも大きい怪物に出会ったのは初めてだ。

「小さき者よ。二人目の神殺しよ。貴様と出合ったときは赤竜の姿であったか」

 のそりと、竜神が首を持ち上げる。あまりに大きいので、速度の感覚が狂って、とてもゆっくりに見える。

「あれは、あんた自身だったのか? てっきり、神獣か何かだと思ったんだけどな」

「余の配下は余の分身にも等しい。主に託されたあれらを無残に打ち砕かれ、余は我が身が切り裂かれるかとも感じたものだ」

 老練した声だ。

 静謐で、聞く者の心に響く声だ。

 だからこそ、その声の中に怒りが含まれているのを容易く感じ取れてしまう。

「四方を安んずるのがあれらの務め。それを邪魔立てする神殺し。主の威光を穢す魔王を前にして、どうして己が役割に邁進できるだろうか」

 竜というには長い腕が護堂の頭上を通り過ぎ、崖の上部に爪を立てる。五指が深く崖に食い込んで、岩壁がひび割れる。

「神殺しの魔王を余が潰す。世界を遍く主の光で満たすためにな」

 竜神は崖に食い込ませていた爪を横一文字に振るった。

 崖が切り裂かれる。

 巨大な岩石が護堂の頭上にばら撒かれて、落下してくる。一片が一〇メートルを超える巨岩だ。護堂は土雷神の化身を発動して、竜神の先制攻撃を難なくかわす。

 地中を移動して、離れた場所に再出現し、《鋼》の剣を生成する。一挺や二挺では、あの竜神の命には届かない。そもそもあの巨体なら皮膚も相当分厚いことだろう。剣が根元まで刺さっても、肉に届かないかもしれない。そう考えると、巨体がいい的とは思えない。身体の大きさに比例した、強靭な皮膚がその身を守っているからだ。

「小癪な足を持っているな、神殺し」

 現に、こうして竜神は護堂の連続射撃を物ともせずに突っ込んでくる。二〇、三〇と剣を飛ばすも、硬い鱗とその下の分厚い表皮に邪魔をされて満足なダメージにならない。

「反則ってんだぞ、それは!」

 一目連の権能で四重の壁を生成する。

 三枚目まで砕かれたが、四枚目でなんとか突進を防ぐことができた。

 しかし、相手は知性ある竜神だ。

 真っ直ぐ突っ込むだけの脳筋ではない。すぐに、壁を乗り越えてこちらに攻撃を仕掛けてくる。

 大きな首を拉げた壁の上に持ち上げる。閉じた口の隙間から、火の粉が零れている。

「や、べえ!」

 護堂はとっさに、崖下に飛ぶ。下は湖だ。水の中に飛び込むと同時に竜神が火炎をばら撒いた。地面に吹き付けられた炎が濁流となって道を突き進み、数百メートルを焼き払った。

 熱風が吹き付けて、軽く火傷をする。

 身体は硬く、巨体はそのまま武器になる。炎の威力も赤い竜のときとは比べ物にならない。

「親玉らしいっちゃらしいけど、さすがにこれはなあ」

 攻撃が弾かれるのでは、牽制にもならない。竜神からすれば、小石が身体に当たる程度でしかないのだろう。一〇や二〇の剣を投げつけたくらいでは無意味だ。

 数を増やすのは愚策。

 ならば、質を高めるか、別の権能で勝負するべきだ。

 護堂は、伏雷神の化身で水中を高速移動し、対岸まで逃れる。一旦距離を取って、対応策を考えようとしたのである。

「逃げ足の速いことだ」

 竜神の呆れたような言葉が護堂の耳に届く。

 護堂自身の聴覚が研ぎ澄まされていることもあるのだろうが、竜神が何かしらの能力で護堂に言葉を届けているのであろう。

「だが、所詮は神々から奪い取った程度のものであろう。余と主の神威には及ぶべくもない」

 竜神は、四肢を崖に食い込ませて、全身の筋肉を引き締める。ゆっくりと、引き絞られた弓矢のように。直後、空気が死んだ。

「ッ……!」

 あの巨体で、竜神は一瞬にして護堂から二〇メートルほどの位置にまで跳んだのである。切り刻まれた空気が捻れ狂い、猛烈な突風となって四方に襲い掛かる。

 その突風だけでも、人間一人をミンチにするには余りある威力だ。

『弾け』

 護堂は言霊を用いて襲い掛かってくる突風を逸らす。次いで、目前に迫った尾に対して楯を可能な限り量産してぶつける。

「おおおおああああああああああああッ」

 凄まじい威力の尾だ。ムチのように使用しているが、その大きさが桁外れた。護堂から見れば電車が横薙ぎに向かってくるようなものだ。

 しかも、ここで護堂は対応を誤った。

 向かってくる尾の狙いは護堂ではなく、その足元の崖であったと気付くのに遅れたのだ。

 大質量に、崖が砕かれる。

 湖面に向かって真っ逆さまになる護堂に向かって、竜神が火を吹いた。

 土雷神の化身で回避することができない。足場がなければ地中に潜れないからだ。

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ」

 源頼光から簒奪した神酒の権能を発動する。

 破魔の神酒は、敵の権能を弱め、泥酔させることができる。大量の神酒を、自分に向かってくる紅蓮に叩き付ける。炎の勢いが削がれたところで、護堂は足を伸ばして崖につま先をつけ、土雷神の化身で再び地中に潜る。

 そうすることで、護堂は崖の上に出ることに成功した。

 崖の中に作られた道路にいる竜神からすれば、頭上を取られたに等しい。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ」

 一目連の聖句を唱えて呪力を底上げする。

 生成するのは五挺の神槍。

 一挺一挺が、アテナと打ち合った際に生成した日本刀と同格の力を込めている。

 竜神が気付くよりも前に、護堂は敵の巨大な首と背中に、垂直に神槍を叩き付けたのであった。

 

 

 

 □

 

 

 

 黒きマントを棚引かせ、ジョン・プルートー・スミスは戦場を高所から俯瞰する。

 暴れているのは深緑色の竜神と日本から来たカンピオーネ。

 優勢に戦いを進めているのは竜神のようだ。草薙護堂の攻撃は大半が竜神の硬い守りに弾かれてしまう一方、竜神の攻撃はどれもが必殺の領域にある。サルバトーレ・ドニの『鋼の加護(マン・オブ・スチール)』くらいでなければ、あの攻撃を受け止められまい。

「しかし、彼もうまくやっているな」

 敵の巨大さはそのまま機動力のなさにも繋がる。

 直線的な移動は凄まじいが、懐に入られたときにあの竜神は大きく距離をとって戦いをリセットする。そこに、攻略の糸口があるか。

 大きすぎるのも考え物ということか。

 それでも巨体に見合う再生力もあるので、なんとも言えない。

 明確に《蛇》ということはできないまでも、その系譜にある神格なのは言うまでもない。征服される神話を持たず、むしろ征服者の側の竜神なので、《蛇》の性質もかなり薄くなっていることだろう。《鋼》の神剣の効果が薄いのもあるいはその所為かもしれない。

 護堂が進んで先鋒を買って出てくれたおかげで、スミスはじっくりと敵を観察する時間が取れた。

 彼は借りを返すと言っていたが、貸し借りで言えばやはりスミスの借りのほうが大きくなるだろう。日光の事件のときは、スミスは斉天大聖の従属神と戦ったに過ぎず、今回は敵の大本との戦いに加えてアルテミスの被害者たちの解呪までさせてしまった。

 騒動を引き起こすのはカンピオーネの常だが、彼は巻き込まれるのも得意らしい。

 護堂の好意を無下にするわけにはいかない。スミスは、己の戦術を編み出すために、粛々と観察を続ける。

「厄介なのは巨体を利用した打撃と口からのブレスか。これだけならば典型的な竜神だが」

 そのとき、ポツポツと空から雫が落ちてきた。

 いつの間にか、上空に黒い雨雲が滞留していたのである。

「雨を呼んだか。竜神として持つべき権能はあらかた網羅しているようだな」

 とすれば、風や雷を操ることもできるのだろう。

 『竜』は古くから世界各国で水と関係付けられてきた。中南米の神話に登場する竜神も多くが水と縁を持つ。創作の度合いがかなり強い神格ではあるが、竜神の基本には忠実なようだ。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 雨が大量に降り注ぎ、緩くなった地盤を、竜神の巨体が容赦なく打ちのめす。

 竜神が動くたびに小規模な地震が発生して、湖に沿って作られた道路は至るところが崩落していた。

 雨を呼ばれたことで、護堂は必殺の化身のうちの一つを失ったが、その代わり神速の自由度が上昇した。熱帯雨林のスコールを思わせる土砂降りによって、伏雷神の化身が使えるようになったので、余裕を持って回避できるようになった。

「貴様の酒は面倒だからな。手早く押し流させてもらう」

 護堂の神酒の権能を封じ込めるために、大雨を降らせているというのだ。

 さらに、空から無数の雷撃を降り注ぐ。天変地異を操るのが神々の常なので、今更驚かないが雨と雷のコンボは本当に厄介だ。避けたと思っても、水を伝って雷が襲い掛かってくる。走って逃げるのは基本的に不可能だし、護堂の神速は最も早い状態で雷速である。雷に先手を取られれば避けきれない可能性もあった。

「別に酒が切り札って訳じゃないしな。好きにすればいいさ」

 護堂は神速となって三次元的に飛び回る。

 相手の防御力によって、一手が遠いのは相変わらずだが、手数と機動力で攻めるスタイルの護堂には今の状態が望ましい。

「鬱陶しい羽虫が。あまり、余を煩わせるな」

 護堂が槍を投じようとしたそのとき、竜神が吼えた。爆発的な衝撃波と、全方向への雷撃が解き放たれ、護堂を巻き込む。

「う、わ……!?」

 雷撃は蛇のように暴れまわりながら、周囲にあるあらゆるものを焼き払う。水を伝うので、上下左右から護堂は雷撃に挟まれた。

 呪力を高め、楯と言霊を駆使するも耐え切ることはできなかった。

 墜落する護堂に追い討ちをかけるように、竜神の尾を覆いかぶさってくる。

 どこからともなく飛来した青白い魔弾が、竜神の尾を弾いた。破裂音が耳朶を叩く。

「ちょっと、遅いんじゃないか?」

 護堂は泥に塗れた顔を袖で拭い、身体を起こした。

 ヒーローは遅れて登場するものだと言わんばかりの、絶妙なタイミングで現れた黒装束に、護堂は不満をぶつけた。

「何、舞台が整うまで待つのは名優の基本というものさ。それを思えば、君はいい仕事をしてくれた」

「そうかよ」

 護堂も文句を垂れてはいたが、こうなることは初めから分かった上で戦っていたのだから文句を言える立場ではないが、もっと早く出てきてくれればこちらの苦労も少なかったのにと思わざるを得ない。

「ほう……珍しいな。神殺しが並び立つとは」

 尾の中央部分が黒く変色している。

 スミスの魔弾を受けた部分だ。

「大丈夫か。アイツ、結構強いぞ」

 スミスの弾丸の威力は護堂の大雷神の化身にも匹敵する。今の一撃は恐らく手加減したのだろうが、それでも敵の身体を貫通することができていない。

「問題あるまい」

 スミスは平然と言う。

「君も奥の手を秘した状態で五分五分なのだ。私がそこに参戦すれば、十分に勝利できるだろう」

 楽観的な思考だ。

 『まつろわぬ神』を相手にして数的優位がどこまで通用するか。《鋼》の神格ではないので、斉天大聖がしたような対カンピオーネの権能は使えないにしても、基本的に相手は格上だ。これで五分五分と言ってもいいくらいに。

「それもまた面白いだろう。ジャイアントキリングは、いつの時代も人の心を惹き付けて止まない最高の結末だ」

 スミスは銀色の拳銃を携えて、堂々と竜神の前に立つ。

「先日、私と戦ったときのことを覚えているようだが、改めて名乗ろう。我は、ジョン・プルートー・スミス。君の命をいただく、死神の名だ。覚えておきたまえ」

「貴様らの名などに興味はない。二人纏めて、余が誅するのみ!」

 竜神の身体から呪力が溢れる。

 緑色の光が四方に放射され、大地と水の気が四柱の竜神へと変化した。

 それぞれが異なる色の竜神だ。

「黒、黄、白、赤……なるほど、伝承の通りだな」

 スミスが呟きは、四柱の竜神の咆哮でかき消される。そして、その中央に座す、一際巨大な竜神が大声で笑った。

「貴様が徒党を組むのなら、余もまた己が軍勢を呼び出そう。四方を固め、世界に安寧をもたらすためにな!」

 四柱の竜神が、一斉に飛び立った。

 本体も合わせれば五柱だ。数的優位は、一瞬にして覆された。

「スミス。アイツらは俺に任せろ」

「いいのかね?」

「ああ、大丈夫だ」

 竜神が四色の炎を吐く。迫り来る炎に対して、護堂は右腕を振るった。

 直後、黄金の星雲が、四色の炎をかき消した。

「カンヘルの相手は俺がする」

「いいだろう。では、一番の大物は私がいただく」

 スミスの身体が溶ける。

 何も知らずに見れば、何事かと思ってしまう光景だ。

 瞬時に、ジャガーの姿を取ったスミスは、影に溶け込んで消える。テスカポリトカから簒奪した『超変身(メタモルフォセス)』の権能だ。贄を捧げることで、五種類の姿とそれに対応した力を獲得する。ジャガーの姿は、高速移動と影から影への転移だ。

 贄は人工の光。ここに来る前に、どこかから調達していたのだろう。

 スミスが転移した影は、竜神の巨体で生じた影だった。一瞬にして竜神の懐に潜りこんだスミスは、ジャガーから人型へ戻り、アルテミスの矢を撃つ。一度に二発。この魔弾の特性は、複数の弾丸を同時に撃つと威力が倍化するというものだ。竜神の胸で炸裂した弾丸は、硬い身体を苦もなく貫通する。

「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 大量の血が流れ出る。吹き飛ばされた肉片が飛び散る中で、スミスは再びジャガーとなって離脱する。

 なるほど、この戦い方をスミスと対峙した竜神――――カンヘルは嫌っていたのか。

 護堂は納得しつつ、言霊の剣を砥ぐ。

「お前たちの名である『カンヘル』は、もともとはアステカに伝わる杖の名だった。王や神官だけが所持できる権威の象徴である竜の杖の名を、お前たちを生み出したヤツが利用したんだ」

 黄金の星が護堂の周囲で燦然と輝く。

 黒、赤、黄、白の炎をそれぞれのカンヘルが吐き出すが、黄金の星がそのすべてを打ち消してしまう。護堂の下には、熱も届かない。

「神格を斬り裂く言霊の剣! それが貴様の切り札かッ!」

 赤いカンヘルが血を吐くような声で叫ぶ。

 『まつろわぬ神』にとってもこの『剣』は致死性の毒になる。ましてや、それは従属神程度の神格でしかないのだから、カンヘルたちには天敵も同然である。

「カンヘルは創世神話に関わる竜神だ。身体の色は方位を表し、世界創世のときに、唯一神に命じられて四方に住み着いた。それで、方角の概念が生まれた。だが、創世神話に関わりながら、お前たちの歴史は古くない。それは、お前たちが、古代から信仰された神格ではなく、キリスト教を布教するために創造された新しい天使だからだ」

 カンヘルの発祥の地はメキシコ。数百年前にスペインによって征服された国だ。当時のスペイン人たちは、キリスト教を広めるために、現地の宗教や文化を取り入れたカンヘルという守護天使を生み出し、キリスト教への改宗を促したのだ。

 マヤやアステカの文化では世界が十字型になっていると信じられており、方位は色で示された。

 マヤ神話のバカブやチャクが黒、白、黄、赤の色を持っているのと同様だ。

 四方を守る竜神は、聖書の天使とは似ても似つかぬ悪魔のような外見をしている。これも、旧来の信仰の影響を排除できなかったからであろう。

 もっとも、聖書に登場する天使たちも多くはバビロニアやインド、エジプトの蛇神を下地にして誕生した神格だ。旧約聖書の青銅の蛇(ネフシュタン)の呼び名がインド神話のナフシャに影響を受けていたり、バビロニアの雷神にして蛇神のセラピムが取り入れられて熾天使(セラフィム)になったようにだ。

 とすれば、外見は別として蛇の姿を象るのは、原点回帰のようなものであり、別段奇妙というわけでもない。

「忌々しい、我らの素性を不躾にも暴き立てるか」

「賢しげな口を利く。汚らわしい神殺しが」

 黒と黄のカンヘルが、高速で飛び回り、炎弾を撃ち込んでくる。

 黒のカンヘルは北、黄のカンヘルは南に陣取っている。祐理から与えられた知識に照らし合わせると、彼らがそれぞれ司っている方位だ。

 火力と呪力が上昇している。

 白のカンヘルは東、赤のカンヘルも西を背負って炎を放ってくる。

 一柱の強さが前回戦ったときよりも強い。自身が司っている方角を背負い、本体から直接呪力供給を受けることで力を増したということか。

 従属神は、『まつろわぬ神』に比べれば非力だ。四柱集まっているので、厄介だが、本体ほどではない。現に、カンヘルの炎は四方から攻めかかりながらも護堂の言霊の剣と対消滅すらせずに斬り伏せられている。

 力押しでも押し切れるが、念には念を入れて敵を追い詰める。

 従属神と本体を繋ぐ糸。

 ウルスラグナの『戦士』の権能を使用しているとき、護堂は敵の本質を見極める目を得る。『強制言語(ロゴス)』の影響もあり、明確に従属神と『まつろわぬ神』を結びつける糸を見つけることができた。

「カンヘルは四方に配置された四柱だけじゃない。原初にして統率役とも言うべきカンヘルがいた。その名はセルピヌス。あそこでスミスと戦っているあんたたちの親玉だ」

 黄金の剣がカンヘルではなく、カンヘルとセルピヌスを繋ぐ縁を断ち切った。主から切り離された従属神は急速に力を失っていく。

「貴様ッ!」

 牙を剥く赤いカンヘルに護堂は一目連の神槍を投じる。その穂先に、黄金の言霊を纏わせた。赤いカンヘルは炎を吐いて神槍を迎撃するが、剣の言霊がカンヘルの炎を無力化してしまう。守りすらも斬り裂いて、無防備になった肉体に、神槍が食らいつく。

「ごあああああああああああああああッ」

 心臓を抉られて絶叫する赤いカンヘルに、言霊の剣が無数の矢となって襲い掛かる。言霊の剣は、一目連の剣のように物理的なダメージを与えるわけではない。しかし、命の源を削り取る強烈な毒となって神格そのものを侵す。

 赤いカンヘルの墜落は、その他の三柱の連携を崩すことに繋がった。

 そうなれば、もう護堂の勝利は揺るがない。

 連携による優位性は、連携が崩れた時点で敗北へ直結するものでもある。

 言霊の剣は粒を重ねて刀の形状を取る。

 もはや、守りは考えなくてもいい。

「四匹纏めて、ぶっ飛べ!」

 黄金に輝く剣という剣が、カンヘルの身体に突き立ち、その神格を斬り裂いていく。剣が突き立ったところから、大量の呪力が漏れ出る。

 赤いカンヘルに続いて、神格に致命的なダメージを負った三柱のカンヘルは断末魔の叫びを上げる間もなく力尽きて地に墜ちる。もはや息をするのもやっとという状態に陥った四柱の頭に、護堂は槍を突き立てて止めとした。

 

 

 カンヘルの消滅を確認してから、護堂はスミスの様子を窺う。

 魔鳥の姿となったスミスが、セルピヌスを翻弄している。頑丈な身体を誇るセルピヌスも、魔鳥の放つ毒の羽によってじわりじわりと動きを鈍らせている。

 後は、どのタイミングで必殺技を使うのかというところまで来ているようだ。

「おのれッ、神殺し! この世の静謐を乱す不届き者! 主の威光を穢す不信心な愚者めが!」

 爪を振るい、牙を剥き、炎を放つ。

 世界の守護者というよりも、世界を亡ぼす魔物のようだ。

 護堂は『戦士』の権能の状態を確認する。

 カンヘル用の言霊だが、その主であるセルピヌスにも十分に通用する。

 四柱のカンヘルに使用したので、ずいぶんと切れ味が落ちているものの、まだいくらか使える状態だ。

 

 

 

 □

 

 

 

 魔鳥となったスミスは口から吐いたアルテミスの矢でセルピヌスの目を射抜く。片目が潰れたセルピヌスは首を大きく振って苦悶の様子を見せる。

 これで、残りは二発。

 月に六発という制限があるだけに無駄撃ちは厳禁だ。

 セルピヌスも弱ってきた。止めを刺すならば、今を於いて他にない。

 スミスは素早く上昇し、セルピヌスの頭を狙う。その動きは、あたかも獲物に襲い掛かる猛禽のようであった。

 スミスが勝負に出たことを、セルピヌスは察した。翼を大きく広げ、四肢を緊張させる。次の一瞬で、上空のスミスに食らいつく。強靭な筋肉をバネとし、巨大な翼によって生じる推進力で加速し、スミスよりも速く攻撃を仕掛ける算段だ。

 セルピヌスの突進の速度は神速にすら迫るものであり、スミスの機動力を上回る速度だ。傷つくことを恐れずに突撃してくるとなれば、その威力は凄まじいもので、生半可な攻撃ではスミスの肉体ごと打ち砕かれるだろう。どちらの一撃が早いか、一か八かの勝負となったかに見えたそのとき、やおら飛来した黄金の剣がセルピヌスの翼を射抜き、四肢を串刺しにした。

 セルピヌスの重量を支えていた四肢が力を失い、彼はその場に伏す形となった。黄金の剣を四肢に受けたことで身体を支えることができなくなり、崩れ落ちたのである。

 ここに、勝敗は決した。

「ナイスアシストだ。草薙護堂」

 黄金の剣を投じた戦友を一瞥もせず、心からの賞賛を呟くに止める。

 魔鳥の身体が燃える。

 青黒く染まったおぞましい炎は、太陽の象徴だ。よってその贄は雨なのだが、炎を操る我が身すらも供物として求めてくる。

 変身と同時に土砂降りの雨が上がり、太陽が顔を覗かせた。テスカポリトカ第三の変身体『殲滅の焔』は、雨と自身を贄として発動し、すべてを焼き払うスミスの必殺の一撃なのだ。

「滅びのために我が大業を数え上げよう! 我は終末を呼ぶ夜の斧。世界終結の幕を降ろす、黄泉よりの使者!」

「ぬう、おおおおおおおおおッ!」

 長い首を擡げて、セルピヌスは炎を口腔内に蓄える。

 そして、スミスの焔とセルピヌスの炎が空中で交わり、一つの黒い焔の塊となってセルピヌスの大きく開いた口の中に飛び込んだ。

 壮絶な撃ち合いは一瞬にして決着となり、セルピヌスは黒い焔によって頭を砕かれ、喉から尾の先まで両断されて砕け散った。

 

 

 

 □

 

 

 

 南米にのみ伝わる聖書の天使との決戦は、護堂とスミス、二人のカンピオーネの勝利となった。

 砕け散ったセルピヌスの遺骸は風化を早めたかのように急速に劣化して風に溶けて消えた。

「あれだけ猛威を振るった神様が何も残さないで消えるってのもなぁ」

 諸行無常の響きあり、ということだろうか。セルピヌスが遺した爪痕は、自然災害として処理される。結局、かの神格がこの世に与えた影響は皆無と言っても過言ではないのだ。

「もとより不死の世界にいるべき存在だ。この世に迷い出てきた彼らが、何かを残すようなことがあってはならないのだよ」

「きついなそれも」

「人の世だからな。信仰の上の神ならばまだしも『まつろわぬ神』は災厄にしかならない。天使の骸などの聖遺物は時として邪教の活動を促進することにも繋がるからな」

「あんたはそれで苦労してたんだったな」

「優雅な物言いではないが、そのようなものだな。尤も、これでしばらく彼らの活動はないだろう。羽を伸ばすにはいい機会だ」

 今回の騒動の原因も《蝿の王》である。しかし、彼らはセルピヌスを呼び出した際に壊滅的打撃を被った。多くの術者が死に至ったことで活動は停滞するだろう。スミスが動かずとも、SSIの職員で十分に対処可能なほどに実力差は開いた。

「では、私はこれで失礼しよう。君には今回大いに迷惑をかけたからな。アニーから十二分に礼をさせよう。残り滞在期間は短いだろうが、目一杯ロスを楽しんでくれたまえ」

「くれるってんなら貰うけど、俺はあんたに借りを返しに来たんだ。このくらいは当然だろ」

 護堂の返答を聞いて、スミスはバイザーの奥で小さく笑う。

「無欲なことだ。まあ、君がそれでいいというのなら、これで貸し借りはなしということにしよう。次に会うときに友人となっているか敵となっているか分からないが、できることなら矛を交えたくはないものだな」

「同感だ」

 それから、護堂とスミスは握手を交わして分かれた。スミスはジャガーに変身してどこかへ消え、護堂は土雷神の化身を使って戦場を後にした。

 

 

 護堂と祐理が羽田空港に戻ってきたのは、セルピヌスの戦いから二日後の日曜日であった。

 最後の一日をロサンゼルスの観光に費やした護堂は戦いのことなどすっかり忘れて旅行気分を味わっていた。ロサンゼルスに渡った目的を達成した後だったので、存分に楽しむ余裕があったのである。

「護堂さんは、どこにいてもトラブルに巻き込まれるんですね」

 というのは祐理の言だ。

「それは、別に俺が望んでることじゃないからなぁ……まさか、神様が出てくるなんて思わなかったし」

 ターミナルでロサンゼルスで過ごした日々を思い返すと、当初の予定を大きく逸れた日程だったことに驚かされる。これまでの海外旅行が尽く予定通りに運ばなかった――――主に『まつろわぬ神』やカンピオーネとのゴタゴタに巻き込まれる所為もあって、旅行らしい旅行は経験していないのである。今回のロサンゼルスの旅も結局『まつろわぬ神』と遭遇してしまった。

 行く先々で神様と出会う可能性など、天文学的数字なのではないか。

「祐理にも迷惑かけっぱなしだったな」

「そんなことはないですよ。わたしは、護堂さんの助けになれたのなら、それでいいのですし。これからも頼っていただけるのでしたら幸いです」

「ああ、うん、そうだな。頼りにしてる」

 護堂は照れくさそうに頬を掻きながら視線を人込みに彷徨わせる。

 人込みの中に、見知った顔を見つけて軽く手を振る。

 恵那と晶である。その後ろには冬馬もいた。

「王さま、また神様と戦ったんだって? 大変だったね!」

「お帰りなさい、先輩。お疲れ様でした!」

 楽しげに笑う恵那と嬉しげな表情でいそいそと駆け寄ってくる晶が口々に言う。

 見目麗しい女子が一堂に会して一気に華やいだ。

「あの、明日香さんの姿が見えませんが、どうかされたのですか?」

 祐理が恵那と晶に尋ねる。

 特に明日香が迎えに来るとは聞いていないが、いつものメンバーという括りにすると一人いないのが気になるのだろう。

「ああ、なんかね、馨さんの実験に付き合わされてるみたい。ほら、あの人の頭の中にしかない術式とかもあるからさ」

「ああ、なるほど」

 恵那の答えを聞いて、祐理は納得して頷いた。

「あ、そうだ。ねえ、王さま。今回は祐理が頑張ったみたいだけど、もう神降ろしも使えるようになったし、次は恵那にも出番ちょうだいね」

「先輩。わたしも、頑張れます。次に敵が出てきたら、わたしに任せてください」

 恵那の主張に晶も負けじと言う。二人の戦闘力があれば、『まつろわぬ神』との直接的な戦闘以外ならば、大体任せることができる。

 それから立ち話をしていると、不意に護堂は祐理のショルダーバッグがずり落ちそうになっているのに気付いた。

「なあ、祐理。バッグが落ちそうだぞ」

「あ、はい。ありがとうございます、護堂さん」

「よければ、持つぞ」

「いえ、そんな。そのようにしていただかなくても、軽い荷物ですので」

 祐理は護堂の申し出をありがたく思いながらも断った。

 重い荷物はスーツケースに入っている。ショルダーバッグには、財布などの携行品くらいしか入っていない。

 護堂と祐理の自然な会話に、

「あ、……え?」

 晶はぽかんとした表情を浮かべる。そして、恵那はニヤリと笑って祐理と肩を組んだ。

「祐理、向こうでなにがあったの?」

「え、いや。特に何があったというわけではないのですけど」

「嘘」

 間髪入れずに晶が否定する。

「今まで苗字で呼んでたのに、海外から帰ってきていきなり名前呼びなんて。一体何があったんです!?」

「そうだね。王さまと何があったのか、きっちり話してもらうよ!」

 祐理が恵那と晶に囲まれる。女子が固まったところで、冬馬が護堂に話しかけてきた。

「草薙さん。どうでしたか、初の外遊は?」

「いつも通りでしたよ、いい意味でも悪い意味でも」

「なるほど、草薙さんらしいです」

 冬馬は苦笑を漏らして、護堂たちの進路を指差した。

「駐車場に車を停めていますので、どうぞ」

「ありがとうございます」

 護堂は礼を言って、冬馬の後に続いたのであった。




本編では影が薄かった祐理だけども、実はメインヒロインとして構想したキャラ。話の流れで晶がドンドン濃くなったけれども、キスの回数は祐理がダントツだったり大事なところはしっかりと押さえていたりする。



紅茶のほうに英語の感想が来てビビッた。


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古代編 1

 三月の上旬に入り、世の中は少しずつ暖かくなってきた。

 まだ風には冬の名残を感じるものの、確実に春が近付いてきている。

 石造りの街並(・・・・・・)を眺めて護堂は思う。

 

 

 イタリアは日本に比べればずっと温暖な気候だ。

 もちろん、緯度にはさほどの違いもないのだから、季節の違いは変わらない。しかし、地中海性気候と温暖湿潤気候の狭間にあるここフィレンツェの三月は東京の三月に比べてもかなり暖かい。平均して五℃から六℃は違うだろう。

 それ故に、ここで春の到来を感じても東京はまだ冬の気配を大きく引き摺っていたりする。

 春の麗らかな暖かさは気持ちを楽にしてくれるように思う。

 考えてみれば、カンピオーネになって一年が経過しようとしている。この一年の間に起こったことを思い返すと、よく生き残ってこれたなと感心してしまう。我武者羅に走りぬいてきた一年は、信じられないほど濃密であっという間の出来事だった。そして、これから先の人生もまた、似たようなことの繰り返しになるのだろう。すでに諦観とともに護堂は自分の末路を受け入れていた。――――どこかでのたれ死ぬかもしれない。天寿を全うできる可能性のほうが低いともいわれるカンピオーネの業界だ。それは、幾度も繰り返された『まつろわぬ神』との戦いの中で痛いほど感じてきた真実である。そして、それと同時にヴォバン侯爵や羅濠教主のような人間の寿命を遙かに越えてこの世に君臨する魔王もいる。

 要するにこれから先早死にするか長生きするかはまったく不透明であり、その点に関しては考えても仕方がないと割り切っているのであった。おまけに、死ぬかもしれないことは理解しているが、死ぬだろうとは思わないことも護堂の、あるいはカンピオーネ全般の特徴なのかもしれない。

「先輩、ずいぶんとこの状況に慣れてきましたよね……」

 隣を歩いていた晶が言った。

 小柄な少女の頭は護堂の胸の辺りにある。久しぶりにカチューシャをつけているのだが、それが護堂の位置からよく見えた。

「海外旅行も慣れたもんだからな。つい最近アメリカに行ったばかりだし」

「一月と経たずに西から東に飛び回る高校生なんて、そうそういませんよ。それこそ、世界的に人気のあるアイドルグループくらいのものです」

「まあ、王さまの場合は行く先々で神様と戦う羽目になるんだけどねー。結局ロサンゼルスでも大暴れだったんでしょ」

 恵那が晶に続いて笑いながら言った。

「笑い事じゃないっての……別に戦いたくて戦ってるわけじゃないんだからさ」

 真白に輝く太陽を見上げて護堂を呟く。

 護堂の海外は、基本的には神様に関連した事件の解決のためのものである。そのため、日本を発つときには神様と出会うことを覚悟しているのが大半であった。

 そのため、見方を変えれば護堂のほうから『まつろわぬ神』に会いに行っているようにも見えてしまう。

「護堂さんはこのお話をお断りすることもできたのにしなかった。すべてはそこに原因があると思います」

 祐理が嗜めるような口調で護堂に言った。

 その通りだと、護堂も理解しているので反論はまったくない。

 結局、この問題は護堂の性格に帰結する。頼まれたら断われない。好きなように利用されているというのではなく、自分が何とかしなければならないという義侠心によるものである。使命感のような大それた考え方ではない。ほかに適任者がいるのであれば、そちらを検討してもらいたい。だが、カンピオーネにしか解決できない問題であり、かつ別のカンピオーネに頼むのはかなりのリスクを考慮に入れなければならないとなった場合、選択肢に上がるのは護堂とロサンゼルスの魔王の二人だけとなる。そして、フットワークの軽さと傍から見たらただの学生に見えるというお手軽感が合わさって、護堂を頼りやすい環境ができつつあった。

 もっとも、それでもなおカンピオーネの雷鳴が強烈である。

 頼りやすいというのも他のカンピオーネに比べればという話であり、軽々しく護堂に意見を述べられる者はほとんどいないという点ではそれ以前と変わりはない。

 護堂に話が行くのはよっぽどの緊急事態に限られる。

 例えば、本来頼るべきカンピオーネがどうしようもない大騒動を企てている、というような誰にも止められない事態が発生したときに、何とかならないだろうかと伺いが立てられるのである。

「まあでも、世の中で起きてる神様関連のトラブルが巡り巡って先輩に降りかかることも今に始まったことじゃないですし、事前に現地入りしておくのも間違った対応じゃないかもしれませんけどね」

 晶が困ったような表情で言う。

 カンピオーネはただいるだけでトラブルを招き寄せる体質の持ち主である。

 そして、往々にしてそのトラブルは『まつろわぬ神』に関わるものとなり、その原因にはほかのカンピオーネがいた、などということもある。

 半年前にイタリアを訪れた際のペルセウス戦はサルバトーレ・ドニがやらかした失態の尻拭いのような形だった。

 そして、今回もまたサルバトーレがなにやら悪事を企てているという情報が正史編纂委員会に寄せられたことから護堂と仲間たちの遠出が決まったのである。

 そんな仲間の会話についていけないのは、明日香である。

 法道の一件以降、すっかり草薙パーティに組み込まれてしまった明日香であるが、その思想は一般人の域を出ていない。幼い頃から呪術師としての教育を受けているわけではない彼女からすれば、こうも平然と海外に飛び出してしまう護堂たちが異様に思えるのである。

「護堂だけじゃなくて、みんなして慣れてんじゃない」

「慣れてるのは祐理が一番かもね。恵那はあまり海外出たことないけど、祐理は昔から海外によく行ってたし」

「やっぱりお嬢様は違うわね」

 明日香は感心したように祐理を見る。突然話題の中心に躍り出た祐理は恐縮した風に身体を縮こまらせた。

 そんな会話がだらだらと続く。

「何にしても、なるようにしかならないだろ」

 一応は正史編纂委員会の頂点にある者としての立ち居振る舞いは気にかける。

 もちろん、護堂はお飾りでしかなく仕事がこなせるわけでもない。護堂の仕事は神々と戦うことだけで、扱いとしては兵器のそれと大差ない。

 しばらく歩いていると、待ち合わせの場所に辿り着いた。

 フィレンツェが誇るサッカースタジアム、スタディオ・アルテミノ・フランキの駐車場である。

「試合があれば、見てみたかったんだけどな」

 壮大なスタジアムを見上げて、護堂は呟いた。

 惰性で始めたサッカーだったが、それでも中学の三年間を思い返せば楽しかった思い出ばかりである。

「お久しぶりです、護堂さん。日本での魔王ぶりは、ここイタリアでも鳴り響いていますよ」

 話しかけてきたのは、銀色の髪の少女である。

 長い髪をポニーテールにしている妖精の如き美少女だ。

「久しぶり、リリアナ」

 手を振って軽く挨拶をする。

「高橋晶に万里谷祐理も元気そうだな。……そちらのお二方は」

 リリアナの視線が恵那と明日香に向けられる。

「清秋院恵那と徳永明日香。清秋院のほうは万里谷の幼馴染で明日香のほうは俺の幼馴染だったりする」

「なるほど」

 と、リリアナは頷いた。

「では、改めて自己紹介を。わたしは《青銅黒十字》のリリアナ・クラニチャール。一応、大騎士の位階を授与されている。護堂さんとは今まで何度かご縁があって、フィレンツェの案内役を申し渡された次第だ」

 流暢な日本語で、リリアナは二人に話しかけた。

 呪術を扱う者は、幼少期から特別な鍛錬法を積み上げることで様々な言語を極めて短時間で習得する技能を手に入れる。

 恵那もそういった技能には堪能だったが、明日香はそこまでではなくまだ拙いイタリア語である。会話ができるようになるまで一週間はかかるかもしれない。

 もちろん、それでも短期間であることには変わらないが、ものの数時間で完全に外国語をマスターできる護堂のような怪物と比較すれば苦戦しているようにも見えてしまう。

 そういった事情を察してリリアナは日本語で話しかけてくれたのである。

「あ、ああ、よろしくお願いします、リリアナさん」

 明日香がおっかなびっくり挨拶する。

 外国人が苦手――――典型的な日本人である。

「よろしく、リリアナさん。祐理から色々聞いてるよ」

 にこやかに対応する恵那はどこでも生きていけそうな自然児。異国でも臆することもなく適応するであろう。

「それでは、これから卿の下にご案内しますが、その前に観て行きたい場所などありますか?」

 問われて護堂は考える。

 フィレンツェは世界的に有名な古都であり、ルネサンスで花開いた芸術の都である。

 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった偉人の作品が生で見ることのできる好機である。

「とりあえず、それは後でいいかな」

 しかし、護堂は観光を後回しにした。

 これから起こる何かを考えれば、迂闊に遠回りはできない。

 リリアナは了承し、それから一行を車まで案内した。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 フィレンツェの街を出た車は、トスカーナ地方の田園風景に囲まれた田舎道をひた走る。

 見渡す限り続く田園風景になだらかな丘陵がアクセントをつける。これだけでも、日本では見られない光景と言えるであろう。

 十分、観光している気分になれる。

 車が進んでいくと、やがて雪が目立つようになっていく。

 斑模様の白が徐々に数と面積を増していく。

 風景も平原から山間部に変わっていた。

 およそ、一時間ほどが経っただろうか。

 停まった車の中から、護堂は大きな古城を見上げていた。

 聞けば中世の城をホテルに改装したものだという。

 今回、首謀者であるサルバトーレ・ドニが丸ごと借り切っているのである。

 そして、ホテルのロビーで二人の神殺しは再会した。

「いよう、護堂。元気だったかい?」

「おかげさまで。そっちも元気そうだな」

「有り余ってるくらいさ」

 サルバトーレは陽気に笑った。

「その元気を少し分けて欲しいもんだね」

「東の果てからわざわざ足を運ぶくらいに元気があるんだから大丈夫だろう」

 にやりを笑うサルバトーレは丸腰だ。しかし、その歩みにはまったくの無駄がなく、立ち姿には隙が微塵も感じられない。常在戦場を実践する男は、こうして笑顔で軽口を叩いていても、その延長線上で殺し合いができる異常者だ。

「さて、僕はもう行くよ。せっかく来たんだし、楽しんでいってくれたまえ」

 はっはっは、と大袈裟に笑ってサルバトーレは去って行った。

「まだ神獣のほうは発見できていないようですね」

 すっと隣にやってきたリリアナが護堂に話しかけてきた。

「ああ、恐竜みたいなヤツなんだって?」

「直接見た者は少ないので、何ともいえませんが、そのように聞いています」

 護堂がこの地にやって来たのは、サルバトーレの企てに対処するためのお目付け役を依頼されたからである。

 イタリアの騎士の誰もが、サルバトーレの目的を知らされていない。

 表向きはカゼンティーノの近隣に出現した神獣を捜索し、討伐するためであるとしているのだが、サルバトーレは神獣の討伐には消極的だったはずである。神獣程度の弱敵では面白くないというのがその理由であるが、出現場所がカゼンティーノと聞いて俄然やる気を出したらしい。

「あいつがここで何かしようとしているのは間違いないってことだな。噂のアイーシャ夫人ってのも気になるところだし」

 この辺りに、アイーシャ夫人が出現したとの情報がある。

 根拠のある者ではなく、目撃者がいたという程度のものだが、現在最も謎が多いカンピオーネだけに護堂もまたその正体には興味がある。

 曰くアレクサンドリアの洞窟の中で隠棲しているとのことだが、信憑性としてはどうか。

 護堂がそうであるように、カンピオーネは存在しているだけで『まつろわぬ神』と縁を持ってしまう生き物なのだ。

 それを思えば、洞窟の中で悠々自適な生活が送れるとは到底思えない。

 すでに一世紀以上を生きているという時点で、色々と奥に抱えていそうな怪人だというのは明確である。

「アイーシャ夫人のことが気になるのだったら、わたしが教えてあげましょうか」

 凛とした声。

 眩い黄金の髪に赤と黒の衣装が映える。

「エリカ……お前も来てたんだな」

「イタリア全土の大騎士以上の階級に属する騎士が集められているのだから、当然でしょう。まさか、わたしがこの集会に呼ばれない程度の腕前だと思っていたわけじゃないでしょうね」

「いや、まさか」

 護堂は首を振る。

 エリカが同世代の中でもトップクラスの実力者であることは周知の事実である。彼女は、《赤銅黒十字》の次代を担う才媛なのだ。

「エリカ、一体何のようだ?」

「相変わらずねリリィ。わたしが護堂に挨拶に来るのがおかしい? 少なくとも、この集まりの中では最高位のVIPなのよ」

「む……確かにその通りだが」

 言い澱むリリアナはエリカに口答えすることができなかった。

 エリカが護堂に話しかけることを邪魔する道理がない。単にエリカへの敵愾心から食って掛かっただけなので、道理で責められると弱い。

「あなたたちも半年振りね。知らない顔も混じっているけれど、護堂のほうは噂に違わずといったところなのね」

 エリカの視線が祐理と晶に向けられる。

 二人揃って苦笑いを浮かべることしかできない。

「何だよ、噂って」

「聞きたい?」

「いや、いい。こんな遠くで何を噂されていようが関係ないしな」

「自分の評判に頓着しないわね、あなた」

「俺が知る限り、他のカンピオーネも似たようなものだった気がするけどな」

「それもそうかもね。結局、あなたたちって、我が道を行く人ばかりだから」

 くすり、とエリカが笑った。

「それで、アイーシャ夫人の情報ってなんだ?」

「アイーシャ夫人の権能」

「知っているのか?」

「さっき、わたしの叔父様と聖ラファエロ……アイーシャ夫人と顔見知りの方なんだけれど、このお二人と話をしていたの。そのときに聞いたわ」

「へえ……」

 護堂は好奇心を刺激された。

 アイーシャ夫人は護堂が知る「原作」でも正体が分からない人物であった。もちろん、権能についても詳しい事が分かっておらず、春と冬を呼び込む、とかその程度の断片的な情報だけであった。

「待て、エリカ。まさか、護堂さんに好からぬ条件をつけて交渉を迫るような真似はしないだろうな?」

 リリアナが確認口調でエリカに迫った。

「もちろん」

 とエリカも答える。

「そんなことをしたら、わたし酷い目に合わされそうだしね」

 冗談っぽく、エリカが笑う。

 とりわけ晶がピリピリとした空気を醸し出していたのを感じ取っていたのだろう。

「でも、別室に移動する必要はあるわね。広間のビュッフェで食事を摂りながらというのは目と耳が多すぎて困るし」

「アイーシャ夫人の権能は今までほとんど情報が公開されていなかった秘事。迂闊に口にするわけにはいかないということか?」

「それもあるけれど、徒に不安を煽っても仕方がないでしょう」

 リリアナは首をかしげる。

 そこに声をかけたのは祐理であった。

「それはつまり、アイーシャ夫人の権能が多くの人々の生活に何らかの悪影響を与えるかもしれないものだということですか?」

「さすがね。もしかして、何か感じたのかしら?」

「いえ、そこまでは。何となく、不吉な気配を覚えたものですから」

 祐理の虫の知らせはよく当たる。

 それを考えれば、アイーシャ夫人の権能はやはり、かなりの危険物である可能性が高い。

「話を聞くのは、俺だけか? それとも、ほかの皆も聞いていいのか?」

「どうせ、護堂の周りの面々には伝わるでしょうから、別に構わないわ」

 と、エリカが言うので護堂は背後の四人に目配せする。

 頷きあう四名。それに加えてリリアナがエリカに同行を申し出る。

 秘事と言いつつも、そこまで厳重に情報を守るつもりもないようでエリカはあっさりとリリアナの同行も許可した。

 そうしてやって来たのは古城の二階にある一室。

 木製のドアの先に、小さな談話室があった。

 ソファに腰掛けて、エリカと向かい合った。

「それで、アイーシャ夫人の権能って、一体どんなんだ?」

「性急ね護堂」

「それが目的でここまで来たんだからな」

 やれやれ、と言った様子のエリカ。とはいえ、護堂としては別にリップサービスを並べてエリカを楽しませるつもりはない。彼女のような優美な女性を相手にするのは難しい。護堂はそこまで気が利く男ではないのである。

 まあ、それも護堂よね、とエリカは一人で納得する。

「アイーシャ夫人の権能について、護堂はどこまで知っているの?」

「そりゃ、永遠の冬を呼ぶとか、若さを保つとかその程度の噂を聞きかじったくらいだ」

「そうね。わたしも、さっきまではその程度だったのだけど」

 エリカは珍しく憂鬱そうな顔を浮かべた。

「アイーシャ夫人の権能の中で一番厄介なのは、孔を開ける権能だと聞いたわ。この世とは異なる別の世界へ通じる孔を通って、アイーシャ夫人は異界を旅しているのだそうよ」

「それって、幽界とかアストラル界とか言われている場所か? 俺も何度か行ったことがあるけど」

「あら、もうそんな経験をしているの? でも、それだけじゃないみたい。聖ラファエロ曰く、あの方の孔は、文字通り過去の世界にも通じているらしいの」

「過去、だって?」

 護堂はさすがに驚いた。

 もちろん、世の中には時間を司る神もいる。そんな神がいれば、時間旅行も不可能ではないだろう。時間そのものに干渉するというのであれば、神速の権能などはその典型例に挙げられる。

「あ、ということはアイーシャ夫人が過去の世界で歴史を変えちゃうかもしれないから恐ろしいっていうことなのかな?」

 恵那が口を挟んだ。

 思ったことを口にしただけのようだが、存外的を射ている。

「歴史が変わる。例えば、アイーシャ夫人の行動の結果わたしの父が生まれなければ、ここにいるわたしはどうなってしまうのだろうか、ということだな。バタフライエフェクト……もう、SFの世界だな」

「ふふ、そういうの好きでしょうリリィは」

「妙な勘違いをするなよエリカ。わたしは一般論を言っているだけだからな」

 小悪魔的な笑みを浮かべてリリアナを見たエリカに慌てたリリアナが反論した。

 おそらくはリリアナがひっそりと書き記している「物語」についてちくちくとからかっているのであろう。

「そもそも、過去を改変すると現代に影響が出るんですかね。小説とかでは、並行世界という形で別に歴史が生まれるだけって考え方もありますし」

「そこまでいくともう哲学ね。現代の技術でタイムスリップが実現していない以上、アイーシャさんにしか分からないんでしょうし、もしかしたら本人にも理解できていないのかもしれない……」

 晶の疑問に明日香が答えた。

「並行世界の理論が現実であって欲しいところね。もしも、現代を改竄できてしまうようなものなら、最強の権能と言っても過言ではないわ。何せカンピオーネと敵対しても、その人物がカンピオーネになる前の時代に移動して殺してしまえばいいのだから」

「俺を見るなよ、エリカ……」

 護堂は生唾を飲んだ。

 エリカの言うとおり、歴史を簡単に変えられるのであれば、意図的に気に喰わない相手を消すことだってできるのである。しかも、歴史そのものが変わってしまうため、その人物がいたという事実すらも残らない。その場合、世界がどのように矛盾を解消するのかはまったく分からないが、よくない事態になるのは明白と言えよう。

「それで、問題はそれだけではなくて、サルバトーレ卿の目的もアイーシャ夫人である可能性もあるから……」

「アイーシャ夫人が目撃された土地で暴れる神獣か。もしかしたら、その孔から出てきたって可能性もあるんだな」

 沈鬱な空気が談話室を覆った。 

 問題児サルバトーレの目的が何となく見えてきたような気がした。

 アイーシャ夫人そのものに用があるのか、アイーシャ夫人の孔に用があるのか――――おそらくはその両方なのだろうが、あのバトルジャンキーならば、見ず知らずの世界に飛び込むことに躊躇はするまい。まして、過去の世界はサルバトーレが得意とする剣が横行していた時代に通じているかもしれないのである。武者修行だ、などと戯言を吐いて過去に旅立つ、そして好き勝手に暴れて歴史が変わるということもありえなくはない。

「いや、むしろあり得てしまうのか」

「卿のことだから、本当にやりかねないわよね」

 一番なのはアイーシャ夫人が作り出した孔をサルバトーレが発見できずに終わることである。そうなれば、迷い込んだ神獣を討伐するだけでこの問題は終わる。

 サルバトーレに呪術の才能はないから、孔もそう簡単には見つからない、はずだと思いたい。

 中々に厄介な案件を持ち込んでくれたものだと護堂はため息をつく。

 ちょうどそのときであった。

 古城ホテルが僅かに振動したのである。

 カタカタと調度品のカップや電灯が揺れる。

「どうやら、来たみたいね」

「噂の神獣か」

 神獣の捜索は、呼び集められた騎士の中から選ばれた数人が行っていると聞いていた。

 城の外から甲高い雄叫びが聞こえ、地響きを立てて大きな何かが暴れているのが分かった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護堂たちが現場に到着したときには、すでに戦闘が始まっていた。

 戦場となったのは、中庭だった。

 どうやらあの神獣、城の壁をよじ登って内部に飛び込んだらしい。

 二十人ばかりの騎士が中庭には駆けつけていたが、実際に戦っているのは二人だけであった。

 紫色のケープを纏ったポニーテールの女性と赤と黒のケープを風に靡かせる壮年の男性の二人である。

「聖ラファエロと叔父様――――パオロ・ブランデッリよ。欧州でも最高クラスの騎士なの!」 

 エリカが興奮した様子で教えてくれた。

 確かに二人の力は真っ当な人間を遙かに上回っていた。

 輝く呪力の守りはそのまま身体能力の底上げにも使われているらしい。噂に行く聖絶の言霊というものであろうか。大剣を持つラファエロが近接戦で神獣を抑えると、その横っ面を馬上槍を構えたパオロが撃つ。見事な連携で、神獣の反撃を許さない。

「すごい、安定感だな」

 護堂の感想にエリカもリリアナも驚いたように目を見張る。

「この光景を見て、すごく強いとかじゃなくて安定感と表現できる辺り、やっぱりカンピオーネなのね」

「確かに、あなたからすれば弱敵なのかもしれないが……」

 神獣は全長七メートルほどで、二足歩行の恐竜という感じの見た目であった。それこそ、子どものころに見た映画に出てくる小型の肉食恐竜そのままの姿である。

 特徴的なのは足の爪の一つが異様に肥大化しているところであろう。

 「恐ろしい鉤爪(デイノニクス)」と、呼ばれる恐竜が現代に蘇ったかのような光景であった。

「先輩!」

 晶が叫び、跳んだ。

 瞬時に莫大な黒い呪力がその身体から噴出し、空中の何かを打ち払った。

「二体目か。コイツはちょっと大きいな」

 驚く様子もなく、護堂は新たに現れた神獣を見た。

 奇襲が失敗したデイノニクスはそれでも護堂への敵意をむき出しにして唸っている。

「仕方ないから、俺が……」

「中庭で先輩が権能なんか使ったら色々と危ないじゃないですか」

 と、晶が護堂の前に出た。

「せっかくなので、わたしがやります」

 その発言に、中庭に詰めている誰かがぎょっとした。

 護堂の仲間たちはこれといった不安も見せずにいる。

 神獣をたったの一人で相手にするという愚行を、日本からきた呪術師たちは容認するというのかと。

 しかし、それも仕方のない話である。

 何せ、高橋晶という少女は見た目で判断するにはあまりにも特異な立場にいるのだから。

 その存在そのものが、目の前で暴れている神獣と同格、或いは上を行くのである。

「分かった。じゃあ、手早く終わらせてくれ」

「はい!」

 元気よく返事をした晶は、次の瞬間にはデイノニクスの頭上を取っていた。

 雷光の煌きを纏った少女は、思い切りデイノニクスの頭に拳骨を打ち込んだ。

「火雷!」

 爆弾が爆発したような音が響き、晶の腕から炎が上がる。

 デイノニクスは衝撃で大きくよろけた。

 脳震盪でも起こしたのであろうか。

 しかし、神獣の肉体はそこらの獣とは次元違いの頑丈さを誇っている。

 負けじと踏ん張り、空中にいる晶に向けて尾を振るった。

「ッ……!」

 晶は両腕をクロスして尾を受け止める。空中で踏ん張れずに跳ね飛ばされたが猫のようにくるりと回転して着地した。

「ふう……芯に響く」

 手を握って開く。

 両腕には前腕部を覆う籠手が煌いていた。

 神具である。

 一目連の権能を借りて咄嗟に造り上げたものだ。

「よし、来い」

 神槍を召喚し、ぐるりと回す。

 デイノニクスは大きく吼えて、晶に向かって跳びかかった。

 

 神獣と晶の戦いは、晶が圧倒する形で進んでいる。

 驚くべき反応速度と、人間を遙かに越えた威力の攻撃を放つ晶にエリカもリリアナも驚愕を隠しきれない。

「やはり、以前とはまるで別人だな。すでに、人間を止めていたのか」

 リリアナが悲しげに呟く。

 直接戦ったことのあるリリアナには、晶の戦い方の変化が一目瞭然であった。そして、魔女の目が晶の存在がこの世のものではない別物になっていることを見抜いていた。

「人間を……? そういうこと、護堂の使い魔になっているわけね」

 非難がましい視線をエリカが護堂に向ける。

 事情を知らない人間からすれば、当然そのように映るだろう。

「まあ、色々あったんだよ。晶にもな……」

「ふうん、そう。まあ、護堂が一方的にそんなことをするとは思えないし、詮索はしないけれど……」

 視線は再び晶とデイノニクスの戦闘に映る。

 晶もずいぶんと力を使いこなしてきたようだ。

 時折、笑みすら浮かべてデイノニクスを手玉に取っている。技ではなく、圧倒的な力によってねじ伏せるスタイルでの戦闘で、デイノニクスの身体が宙を舞う。

「ところで、これだけの騒ぎなのにサルバトーレが出てこないのは何でだ?」

 護堂の疑問に、確かにと少女たちは思案げな顔をする。

「ねえ、護堂。サルバトーレさんって別に神獣に興味があったわけじゃないんでしょ?」

 明日香が言葉を選びながらという感じで言った。

「みたいだけどな。もしかして、アイーシャ夫人のところに向かったとか?」

「可能性としてはあるんじゃないかな。この騒ぎだから、面倒なお目付け役の人とかからも逃げられるんじゃない?」

 明日香の意見にますます少女たちは困った顔をした。

「確かに、徳永明日香の意見は信憑性があるな……」

「ねえ、リリィ。ここは、魔女の目でサルバトーレ卿を探してみたほうがいいのではないかしら。なんていうか、本当にどうしようもないことが進行している気がするの」

「だな、一つ探ってみよう」

 そうして、リリアナは目を瞑って魔女の目を飛ばし、問題児の行方を探ったのであった。

 

 

 脛の骨を神槍で砕いた手応えを感じた。

 悲鳴を上げて崩れ落ちるデイノニクス。

「と、ど、め、だ!」

 叫ぶ晶の全身を真っ黒な炎が包み込んだ。

 右腕の炎が肥大化し、巨大な拳となる。

「だあああああああああああああああああああ!!」

 ズグン、という地響きが城の窓ガラスを鳴らした。

 鉄槌と化した晶の拳がデイノニクスを押し潰したのである。

 腹部を完全に破壊された神獣は小さく呻いてから、それっきり動かなくなった。

「終わった。先輩、片付けました」

 何事もなかったかのように護堂の下に駆け寄る晶に、エリカは呆れ顔を浮かべる。

 まるで子どもが散らかした玩具を片付けただけと言わんばかりの言動である。

「リリアナさんは何を?」

「ちょっと、サルバトーレの居場所を探ってもらっているところだ」

「サルバトーレ卿の?」

 そう言えば姿が見えない、と晶は中庭をぐるりと見渡す。

 中央では未だにパオロとラファエロがデイノニクスを相手に死闘を演じている。

 さすがにただの人間である二人では、神獣を相手に善戦をできても圧倒はできないようだ。長期戦になれば、こちらが不利であろう。

「じゃあ、わたしあっちに加勢してきます」

 晶がそう言って槍を構え直したときだった。

「ッ……!」

 目を瞑っていたリリアナが跳ね起きるかのように顔を起こした。

「卿に勘付かれたようだ。魔女の目が破られた」

「さすがといったところかしらね」

 エリカが深刻そうな顔をする。

「でも居場所は分かったんでしょう」

「ああ」

 リリアナは頷いた。

 そこで、神獣が吼えた。

 おまけにその口から無数の雷撃が飛び出て、騎士たちを薙ぎ払う。

「こっちもこっちで中々……! 天叢雲、力を貸して!」

 恵那が虚空から天叢雲剣を引き抜いた。

 真っ黒な剣は天叢雲剣の影であり写し身である。日本風に言えば、分霊となろうか。本体と寸分変わらぬ力を持った型代である。

 敵の気配を感じ取ったデイノニクスが強靭な足で恵那に飛び掛った。

「やああああああああああああ!」

 恵那が颶風を纏って天叢雲剣を一閃。

 太い爪と神剣が激突し、爆発する。

 ビリビリとした振動が中庭に広がる。

「神降ろし!? そんな希少能力まで! 本当に護堂、あなたのパーティはどうかしてるわね」

 呪術の本場を自認する欧州にすら、この手の能力者はほとんどいない。血統も伝統も宗教的な弾圧などで多くが死に絶えたからである。

「でも、まあ、この戦力なら何とかなりそう。護堂。あなたはサルバトーレ卿を追いかけて」

「大丈夫か?」

「叔父様たちも全然問題ないみたいだし、恵那さんみたいな切り札もあるしね。わたしも高みの見物をするつもりはないわ。まあ、一匹仕留めるには十分な戦力よ」

 大騎士クラスが二十人余、聖騎士クラスが二人、そして神降ろしの巫女。さすがの神獣も力を与えてくれる何者かがいなければやがては討ち取られるであろう。

「草薙護堂。わたしが、サルバトーレ卿の下にお連れします」

「できるか?」

「はい。飛翔術ならば、すぐに目的地まで行けますから」

 リリアナが大きく頷き、呪力を練り始める。

「あの、わたしも行きます!」

 晶がリリアナに言う。

「分かった。だが、これ以上は無理だぞ」

 無理と言われて残念そうにする恵那や明日香。

「まあ、仕方ないか。現状の最高戦力だしね。こっちは任せといてくれればいいから」

 明日香はため息をついて、祐理の隣に立った。

 戦えない祐理を守るという意思表示であろう。

「すみません、お力になれず。あの、……護堂さん。お気をつけて」

「王さま! 恵那たちもすぐに追いかけるから、無理しちゃダメだよ!」

 祐理と恵那がそれぞれ思いを込めて送り出してくれる。

 仲間の声援を受けて、護堂は頷いた。

「ああ、ちょっと行ってくる」

 そして、リリアナは護堂と晶の手を掴んで、飛翔術の呪文を唱えた。

 青い光が球となって三人を包み込み、あっという間に視点が上空に至った。

「うお、すげえ」

 護堂は思わず口走っていた。

「目的地まで直線でしか移動できませんが、その気になれば数百キロを移動可能です。先ほど確認したサルバトーレ卿のお近くまで、一気に行きます!」

 そして、雪化粧が残る山を眼下に収めてリリアナと共に護堂と晶は飛んだ。

 サルバトーレの気配を護堂は明確に感じ取った。

 ガブリエルの直感が、サルバトーレを認識したとき、護堂たちは地上に降り立った。

 リリアナの言ったとおり、目的地まではあっという間であった。

「うん? おお、護堂じゃないか。奇遇だね」

 渓流の畔でぼけっとしていたサルバトーレがにこやかに笑った。

 この寒空の下で、薄着に剣を一振りだけ持ち歩いているという馬鹿みたいな格好である。

「お前が探してたっていう神獣。城に襲い掛かってたぞ」

「知ってるよ。だから、こうして抜け出してきたんじゃないか。アンドレアもそれどころじゃないはずだしね」

 やっぱりか、と三人は呆れ返った。

「あんたの真の目的がこの場所だったって訳だ」

「ふふ、そうそう。ちょっとばかりゲームがしたくてね」

「ゲーム?」

 なんだろうか、その不穏な響きは。

 ゲーム、遊戯、子どもの遊び。しかし、サルバトーレが引き起こすとなると、遊びでは済まされない。

「あの神獣、どうやらこの世ではないどこかに繋がっている孔から出てきたらしいんだよね。僕はそこを潜ってみたいのさ」

「アイーシャ夫人の権能でできたっていう孔か」

 護堂が言うとサルバトーレは目を輝かせた。

「そうそう。それさ。さすがだ、護堂。知っていたんだね」

「さっき聞いたばかりだよ」

 肩を竦める護堂は、サルバトーレの後方に自然と目が向いた。

 ピリピリとした感覚が護堂の肌に走っている。

 サルバトーレの背後、何もないはずの空間が異様に気になる。ある一点だけ、妙に呪力の濃度が違っているのである。それは、水に塩の塊を入れたときに、濃度の違いで水溶液中に揺らぎが見えるのと似ていた。不自然な呪力の流れをサルバトーレは野生の勘で探り当てたのである。

「気付いたかい、護堂」

「ああ、どうやらそこにあるみたいだな」

 一度気付けば、その存在を明確に意識できる。

 ほかのカンピオーネを上回る勘の持ち主である護堂ならば、見えない洞窟を探り当てることなど造作もなかった。

「そこで提案だ、護堂。僕と一緒に孔を潜ってみないか?」

「何?」

「ゲームって言っただろ。この孔の先に、僕たちの知らない世界がある。そこで、どっちが大きな活躍ができるのか競ってみないかい? ほら、最近日本のアニメでも現代人が異世界に飛ばされて~って展開増えてるだろ。ブームなんだよ。来てるんだよ! 乗るしかないだろ、このビッグウェーブに!」

 次第に語調を強めて、熱く語るサルバトーレ。

 とりあえず彼が日本のサブカルチャーに詳しいということを再確認した上で、護堂は槍を生成した。

「言いたいことは分かったけど、アイーシャさんの権能でどっか行って戻ってこれる保証はないし、こっちにどんな影響があるかも分からないんだ。そう簡単に許せるもんじゃないな」

「ふふふ、君ならそう言ってくると思ったよ」

 かつて一度は戦った者同士。

 しかし、護堂はあのときよりも手札を増やしているし、サルバトーレは隠された第四の権能がある。手の内を知っているというには程遠い状況にある。

「ここで君と再戦するのも面白そうだけど、やっぱり今は向こう側に興味があるからね」

 そう言うサルバトーレの身体から濃密な神気が流れ出る。

 権能を発動するつもりなのだ。

 察した瞬間、リリアナに啓示が下りた。

 狂乱と陶酔に関わる宗教の主神であり、東方からやってきた神の似姿がリリアナの脳裏に浮かぶ。

「酒と豊穣、狂乱の神――――デュオニュソス!?」

「それが分かるとは、さすがクラニチャール」

 サルバトーレの表情が変わった。

 朗らかで能天気な青年は、今や神を殺す戦士の表情を浮かべて剣を握っている。

「第四の、権能か!」

 護堂は初めてサルバトーレの隠し玉を見た。

 攻撃的な権能には思えない。しかし、この男の権能は一芸に特化したものか、あるいは限定的ながら、極めて面倒な効果を発揮するタイプの権能である。このデュオニュソスの権能も、この状況で使うからには意味があるに違いない。

 どうする――――そう思案したとき、護堂の手の中で槍が弾けた。

「な、に」

 呪力を吹いて、槍が暴れたのである。

 思わず地面に取り落とした神槍は、地上でガタガタと震えて呪力を発散している。

「ふふふ、驚いてくれたかな護堂。今の僕はあらゆる神秘の力を強化したり、活性化させたり――――というか暴走させることができるのさ。使い手の僕ですら、まともに権能の制御ができなくなるんだ。絶対にコントロールできないから、使おうとか思わないほうがいいよ」

「なんだ、それ。反則だろ」

 そう、反則だ。

 ぎちり、と頭に激痛が走る。

 使用していたガブリエルの権能が必要以上に活性化されたせいで頭痛を引き起こしたのである。目の前が真っ赤になり、脳が熱を帯びている。

 慌てて、護堂は権能への呪力供給を遮断した。

 ブレーカーが落ちたかのように、護堂の頭が一瞬真白になった。

「くっそ……」

 サルバトーレには剣があり、こちらは丸腰だ。

 権能に頼らなければ大した戦力を持たない護堂と元々世界最強クラスの剣士とでは、素の戦闘能力に大きな開きがある。負けるとは思わないが、圧倒的に不利だ。

「いざ、バッカスの巫女たちよ――――神の子を呼び参らせよ。荒ぶる神の酒に酔い、家を捨て、山を彷徨え。我等の神を崇め奉れ!」

 サルバトーレが聖句を叫ぶと、護堂の体内の呪力までが活性化し、暴れ始めた。全身が熱くなり、興奮状態に陥ったかのようだった。

 相手にまで強制的に干渉する力は、凄まじいの一言だ。

 そして、護堂は見た。

 サルバトーレの背後に大きな洞窟がぽっかりと孔を開けているのを。

 その孔に周囲の空気が吸い込まれていく。

 真空に向かって空気が流れ込むようなものだろうか。引力のような何かが、護堂たちまで捕らえていた。

「ちょうどいい感じに暴走してくれたな。よしよし」

「よしよしじゃねえ。この、ドアホウ!」

 吸引力がますます強くなっていく。

 護堂とリリアナは姿勢を低くして吸い込まれないようにする。

「じゃあ、僕は向こうに行くよ。また会おう、護堂」

 サルバトーレはふっと全身の力を抜いて吸引に身を任せた。

 青年の身体は真っ黒な洞窟に呑み込まれて消滅する。

 サルバトーレがこの場を離れても、吸引は終わらない。

「護堂さん! 撤退しましょう、このままではわたしたちも呑み込まれてしまいます!」

「ああ、分かった。――――晶」

 護堂は晶に呼びかける。

 が、晶は苦悶の表情を浮かべて膝を突き、身体を丸めてしまった。

「お、おい、どうした!?」

 護堂の目の前で晶が身体を震わせる。

「――――つい」

「?」

「熱い、身体、が、熱いんです、い、ぐぅううッ」

「あ、くっそ――――」

 そこで護堂は思い至った。

 権能や呪術を暴走させる。それはつまり、肉体を権能と呪術で構成している晶にとっては身体中の細胞が暴走しているに等しい状況に陥ったというわけである。

「護堂さん、高橋晶との接続を一端切ってください!」

「分かってる!」

 晶の暴走を止めるには、ガブリエルの権能を遮断したように晶への呪力供給をストップし、強制的に霊体にしてしまうしかない。

 しかし、その判断は僅かに遅かった。

 晶の全身から、墨汁を煮詰めたかのような漆黒の煙が吹き上がり、炸裂したからである。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああッ」

 内側を引っ掻き回されるような激痛に苛まれた晶は耐え切れずに絶叫し、呪力を爆発させた。

 結果、護堂もリリアナも踏ん張りが利かず、意識を失った晶と共に先の見えないトンネルに放り出されてしまったのであった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 雷鳴が轟いた。

 木々は倒れ、川は氾濫する。

 恐るべき神気が大気に満ち満ちている。

 相対するのは二柱の『まつろわぬ神』。

 ――――金と銀が入り混じった髪を肩口で切り揃えた女神は雷光を背負い、黒い瞳で空を睨み付ける。美しく柔らかな絹の衣装は戦闘によって破れて素肌がところどころ露出していた。

 ――――金の髪を風に乗せ、穏やかな笑みを浮かべる神は、少年とも少女ともつかない美しい顔立ちだ。トーガのようなゆったりとした服を纏って、悠然と宙を踏みしめている。

 二柱の神の上空では、数え切れないほどのフクロウが互いにぶつかり合い、爪と嘴で傷つけあっている。舞い落ちる羽が嵐に飛ばされて何処かに消え、落下した死骸も呪力の粉と化して消える。

「ずいぶんと息が上がっているようだね、女神様。この辺りが潮時かな」

「抜かせ異教の野蛮人が」

「それを言ったら君もそうだろう。僕からすれば、君は邪悪な異教の雷神さ」

 ふわりと、空の神は手を広げた。両手には雷の球が発生し、その背後に氾濫した川の水が持ち上がる。

「く……」

 女神も負けじと雷を招来する。

 しかし、力が足りない。

 疲弊しきった今の女神では、この神には届かない。

「じゃあね」

 穏やかな微笑を湛えたまま、その神は無造作に死の放流を叩き込んだ。

 川の水が一匹の竜となり、雷を吸収して女神を押し潰そうとする。

 押し寄せる水の塊を前にして女神の雷撃はあまりにも心細い。

 打ち込んだ雷撃ごと、その小さな身体は瞬く間に濁流に呑み込まれて勝敗は決した。




久しぶりに書いてみた。

古代編は長丁場になりそうだから完結を外してみたり。
終わったら、またつける予定。

とりあえず、オリジナルを挟まないと死んじゃう病ということで原作未登場神様二柱登場です。ウルディンはその後じゃ。


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古代編 2

 この世ではないどこかに通じるというアイーシャ夫人の孔に吸い込まれた護堂たちは、気付けば麗らかな太陽の下にいた。

 トンネルを抜ければそこは雪国――――ではなく春の森であった。

 数十秒前まで足元にあった雪は見る影もなく、深い緑に埋め尽くされた森に護堂たちは囲まれていた。

 目の前には、濁った川が轟々と音を立てて流れている。

「……なるほど、アイーシャ夫人の権能ってのは、こういうものか」

 護堂は呟いた。

 サルバトーレが暴走させた孔の中に引きずり込まれ、まったく知らない土地に放り出されることは覚悟していたが、季節まで変わってしまうとなると、事前に得ていた情報の通り時間すらも超越してしまった可能性が高かった。

「本当にSFだな。神様と戦ったりしてなかったら、大混乱してたところだ」

「護堂さん。いくらなんでも順応が早すぎます」

 リリアナが呆れたように呟いた。

 彼女も神々の戦いに巻き込まれた経験はある。ヴォバン侯爵に招聘された際にサルバトーレとジークフリートの戦いを目撃しているし、護堂とヴォバン侯爵の戦いにも参戦していた。権能を持つ者が、どれほど理不尽な力を振るえるかは身を以て理解しているが、これはあまりにも規格外ではないか。

 少なくともリリアナが知る権能は、兵器として優れているものであった。

 護堂にしろ、ヴォバン侯爵にしろ、サルバトーレにしろ、彼らの権能はものを破壊する力が強大であるが故に最強の生命体たりえている。しかしながら、アイーシャ夫人の権能は方向性があまりにも異質すぎる。この権能は直接的には脅威にはならないだろう。しかし、引き起こす奇跡のレベルはただ物を壊すだけの権能とは段違いだ。

「権能というよりも、魔法といったほうがいい気もします」

「かもなぁ。おまけに、トンネル閉じちまったし、アイーシャさんを探すかサルバトーレをここに連れてくるしかなさそうだな」

「そうですね。後は、有能な巫女なり魔女なりを何人も集めて、満月の夜などの時期を見計らって儀式を執り行う手もありますが、現実的とは言えませんね……」

「まずはここがどこでいつなのか、だな。ただ移動しただけなら問題ないんだけど」

「時間まで移動しているとなると、本当に厄介ですね」

 解決策は二人のカンピオーネのどちらかに出会い、この孔を開けてもらうしかない。

 しかし、アイーシャ夫人の人となりはよく分かっておらず、カンピオーネに出会うということはそれだけで厄介事を運んでくることでもあるので危険を伴う。サルバトーレに関しては協力を仰ぐだけ無駄だろう。

「何か色々と詰んでる気がするな……」

「とにかくここを移動したほうがよさそうですね。サルバトーレ卿の行方も捜さないといけませんし、森の中にいても始まりません」

「まずは人里か」

 護堂はサルバトーレの権能の影響を受けて暴発した晶の様子を窺った。

 霊体となった晶は、護堂の背後でふわふわと漂っている。常人には姿を見ることすらできないが、魔女であるリリアナは気配を捉えることができるようで、しばしば気にかけている。

「晶のほうの調子も悪くなさそうだ。若雷が効いているな」

 回復能力のある若雷神の権能は、護堂だけでなくその周囲の人間を治癒することも可能である。また、晶自身が護堂の権能の一部を借り受けることもできるので、サルバトーレの権能の影響をそうそうに排除することに成功していた。

「どっちに行く?」

 まずは川の上流か下流か。

 木々に囲まれたこの場所は完全に閉鎖されている。道はなく、人の気配も皆無。動物の気配は、小鳥の囀りだけといった状況である。

「少し、お待ちください。目を飛ばして周囲の様子を窺ってみます」

 リリアナは目を瞑り、視覚を遙か上空に飛ばした。

 魔女の目を使い、広範囲を一息に調べてしまおうというのである。

 空から見れば、人里も道も一目瞭然である。

 目を開いたリリアナはため息をついた。

「森の先は見渡す限りの平原ですね。ただ、人工的に整備されたと思われる道がありました。とりあえず、そこまで移動しましょう」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 そして、尋常ならざる時間旅行に巻き込まれてから四日が経った。

 護堂とリリアナ、晶の三名は最初に訪れた農園の主に手厚い歓待を受けて比較的快適な生活を送っていた。

 屋敷の主の名はフリウスといい、ローマ人の血を引く貴族階級で、かつては近くの市で議員を務めていたらしい。積み上げた私財で以て農園を開き、この小さな集落の長老として村人を纏め上げている。

 そんなフリウスは護堂に自らの屋敷を献上し、家族と共に別邸に移り住んでいる。

 神殺しの雷鳴がこの時代でも通用する――――ということではなく、別の誰かと人違いをしているらしい。

「ウルディン、という人物をこの村の人々は恐れているようです。あの川辺の砦がその人物の居城で、『テュールの剣』などと呼ばれているそうです」

 数日前に降り注いだという猛烈な豪雨の影響で濁りきったライン川の川辺を散策しながら、リリアナは護堂に教えてくれた。

 西洋の地理関係に疎い護堂はライン川と聞いても名前くらいしか聞いたことがない。ましてやここは過去の世界である。現代と地名が一致するはずもなく、護堂や晶だけでは途方に暮れていたことであろう。

「ガリアってフランスあたりだったっけ」

「ガリアといっても広範になりますから一概には言えません。例えばここはわたしたちの時代ではスイス領のはずです。ガリアとゲルマニアの境界で、まさしくローマ文明の末端というべき場所に位置します」

「名前くらいは聞き覚えがあるなぁ。一応、世界史の授業でやったんだよな」

 リリアナが貨幣や調度品、地名や人名を調べた結果、時代としては五世紀の前半であるとのことであった。

「激動の時代だよな。ゲルマン民族の大移動があったころじゃないか?」

「はい、そうです。ゲルマニア方面から他民族に押し出される形で南下したゲルマン民族――――主にゴート族などがローマ帝国と緊張状態となり、やがてローマの崩壊にまで至る一連の民族移動ですね。あの砦の主は、その要因を作り出したフン族の者ではないかと思います」

 と、リリアナは砦を眺めて言った。

「それも聞いたことのある名前だな。匈奴だかを先祖にしてるって話だったっけ」

「はっきりしたことは分かりませんが、有力な説の一つですね。遊牧民族であり、古代ローマの人々に最も恐れられた異民族の一つです。そして、ゲルマン諸民族と異なり、彼らはアジア系だったとされています」

「それで、俺が怖がられたわけだ」

 護堂はやっと納得した。

 西洋人は日本人の顔の区別がつかないという話は聞いたことがある。

 それが誇張されたものではあるにしても、この時代の西洋人がアジア人を見慣れているはずもない。まして、肌や顔立ち、髪色などの大まかな特徴だけが広まっているのであれば、当然のように護堂をウルディンという人物と間違えても仕方がない。

「それにウルディンという名前も重要です。彼は個人名が知られるフン族では最初の人物になります。詳しくは歴史にも残っていませんが、重要人物であることに間違いはありませんね」

「そっか、過去の世界だもんな。歴史上の重要人物に出会うことも不可能じゃないのか。それはそれで、興奮するな」

 護堂は砦を眺めて呟いた。

 生憎と今、あの砦の主は長期の出征に出かけたらしく不在の模様である。

「五世紀の前半で有名な人って誰がいましたっけ?」

 と、尋ねてきたのは晶である。

「失礼を承知で言うと、微妙な年代だよな……日本は、古墳時代だからな」

「百五十年前に卑弥呼が生きていたって思うと、浪漫がありますけどね」

「言われてみると確かにそうだな」

 まったく思いつかなかった。

 イメージ的に卑弥呼は古代の人間のようだが、世界史の視点から見れば比較的新しい時代の人物だ。活躍は二世紀の中頃なので、五世紀前半に飛ばされた護堂からすれば邪馬台国の時代から百五十年程度の開きしかないことになる。それは、現代と明治時代初期くらいの差である。

「西洋で言えば、やはりアッティラ、ガイセリック、アラリック一世でしょうか。どれもローマを脅かした異民族の王ではありますが」

 と、リリアナが名を上げる。それぞれ、フン族王、ヴァンダル王、西ゴート王である。

「ローマの有名人っていないのか?」

「そうですね。今の西ローマ皇帝はホノリウスという人物ですが、暗君で有名ですね。ゴート族を恐れてラヴェンナに引き篭もっているといいますし……有能な人物は、アエティウス将軍などどうでしょうか」

 アエティウス将軍。

 聞き覚えのない名前に護堂も晶も首を捻った。

「西ローマ帝国を異民族から守り続けた英雄です。もっとも、完全に異民族を排除していたわけではなく、フン族の傭兵を雇い入れるなど柔軟に対応していたようです」

「フン族の傭兵?」

「はい。この時代のローマは足りない戦力を補うために度々傭兵を雇い入れていたのです。アエティウスはフン族の傭兵部隊を駆使してブルグント王国を滅ぼしますが、これは『ニーベルンゲンの歌』の成立に大きな影響を与えます」

「ジークフリートの伝説だったな。サルバトーレが面倒な権能を手に入れた元凶ってわけだ」

「いえ、まあ、アエティウスも千五百年後にそのような影響を与えるとは思っていなかったでしょうけど……」

 しかし、結果的にサルバトーレ・ドニはジークフリートを倒して鋼鉄の肉体を手に入れ、時を遡って五世紀のガリアに侵入を果たしてしまった。彼がこの時代でどのように大暴れするのか未知数ではあるが、もしもジークフリートが存在しなければ、どうなっていたのだろうか。歴史を遡ったことで、そういったIFの状況を想像しやすくなってしまった。

「そろそろお昼時ですし、このあたりで食事にしませんか?」

 リリアナの手には簡素なバスケットが握られていた。

「そうだな。晶は?」

「いただきます」

 基本的に護堂たちにするべきことはない。

 五世紀のガリア地方は田舎も田舎。娯楽が氾濫していた時代の人間からすれば、あまりにも無駄がなさすぎて息が詰まる。しかし、その一方で為すべきことが明確であり、日々を素朴なままに道に外れることなく生きている人がいる。何かに追い立てられるように生きる現代の人間にはない空気感のようなものを護堂は感じていた。

 ネットもなければテレビもない。もちろん、本もないのでは手持ち無沙汰になるのも無理はない。

 情報収集にも限界があり、早くも護堂たちの冒険は行き詰まりつつあった。

 リリアナがどこからともなく取り出した敷物の上に腰を下ろし、改めて大河を眺める。

「正直、今でも夢を見てるみたいだ」

「同感です。可能な限り早く元の時代に戻りたいところですが、卿の行方も分からずアイーシャ夫人を探す手掛かりもないとなれば、難しいところですね」

「サルバトーレ卿なら、そのうち大きな問題を引き起こしてくれる気がしますけどね」

 晶の言葉に、護堂とリリアナは苦い表情を浮かべて頷く。 

 確かに放っておいても風聞は聞こえてくるに違いない。 

 あの男は、問題を起こすことを目的としてこの時代にやって来たわけだから大人しく歴史の闇に埋もれることをよしとするはずがない。

 もちろん、そうなったらそうなったで後世に与える影響などがどうなるか分からないという大問題が発生する。

 それを気にかける男ではないということがさらに輪をかけて護堂たちの心に重く圧し掛かった。

「と、とにかく今は重く考えても仕方がありません。サルバトーレ卿を見つけ出すことは難しくないと、前向きに捉えることにしましょう!」

「あ、ああ。そうだな」

 頷いた護堂はバスケットの中身に目を向けた。

 蓋代わりのハンカチを取り去ると、中からは綺麗に切り揃えられたサンドイッチが現れた。

「おお、これはまた……」

「お口に合うか分かりませんが、どうぞ、ご賞味ください」

 と、リリアナは少し恥ずかしがりつつ護堂にサンドイッチを進めてくる。

 リリアナが朝に台所を借りて料理をしたのだという。

 護堂はそのうちの一つを取り上げて口に運んだ。

「これ、上手いな」

 キャベツのシャキシャキとした食感に卵マヨネーズの味がよく合わさっている。王道の組み合わせではあるが、現代のものよりも酸味が少ない。手作りだからか、それとも材料の影響か。

「ありがとうございます。作った甲斐がありました」

 嬉しそうにリリアナは微笑む。

「やっぱりリリアナさんって料理上手なんですね。そんな気はしてましたけど」

 晶も一口食べて感心したように呟いた。

 それでも、その口調にはどことなく悔しさを滲ませているようにも思えた。

「あなたは普段料理はしないのか?」

「し、しますよ。人並みには。一人暮らしですし……まあ、リリアナさんほど上手くはないですけど……」

 などと、予防線を事前に張っておく。

 本当は、対抗したいところだったが、到底敵わないとすでに白旗を揚げてしまっていた。

「晶だって十分料理上手だろ。得意不得意があるってだけで、卑下することないって」

 そんな晶を護堂がフォローする。

「あ、ありがとうございますぅ……!」

 落ち込みつつあった晶は、その一言だけでにへらっとだらしない笑みを浮かべて敗北感を消し去った。

 現金な女だという自覚はあるものの、他者の評価などどうでもいい。護堂から誉められたという一事を以て万事と為すのだ。

「そんな先輩にせっかくですのでわたしから、これをプレゼントします」

 と、晶は転送の術で真っ赤な球を呼び出した。

 差し出した両手の中に転がり込んだのは、赤々と熟した見事な林檎だった。

「お、デザートか」

「この季節にどうしてそんなものが?」

 単純にフルーツの登場に目を輝かせた護堂に対し、リリアナは現実的なツッコミを入れる。

 主に秋から冬の食べ物という認識である林檎が、完熟した状態でここにあるのが意外だったのだろう。

「というかどこから持ってきたんだ?」

 リリアナは護堂の手に移った林檎を眺めて、晶に尋ねた。

「作りました」

「は?」

 リリアナは意味が分からないという風に首を傾げた。

「作ったってどういうことだ?」

 リリアナの疑問を代弁するように護堂が尋ねた。

 すると晶は胸を張って答えた。

「もちろん、林檎の木からです」

「いや、まだ時期じゃないから無理だろっていう話なんだが」

「ふふん、そうでもないんですよ先輩。わたしの本質をお忘れですか?」

 と晶は意味ありげに笑みを浮かべる。

 しかし、本質と言われても護堂にはピンと来ない。

 どういう意味での本質なのだろうか。

「例えば、そう。こういうこともできるわけです」

 と、晶は近くに生えていた草の一本に触れる。

 晶の指先から呪力が草に流れ込んだかと思えば、瞬く間に草が成長し、一メートルほどにまで丈を延ばして小さな花を咲かせた。

「な……!?」

 リリアナが驚愕して目を見張った。

 大地に属する神の気配を感じ取り、護堂もまた感嘆する。

「そうか、クシナダヒメか」

 高橋晶という少女を構成する要素は複数の権能と呪術からなる。

 御老公らが生み出した転生の秘術と護堂が有する式神の権能、そしてまつろわぬ法道が用意したクシナダヒメの竜骨とそれに魂を定着させる呪術といった具合に雑多な力が組み合わさっている。そのため、晶は護堂の式神でありながら護堂なしでも存在することを可能とし、その一方で跡形もなく消し飛ばされるような事態になったとしても護堂が無事ならば蘇ることができるというカンピオーネが従える神獣にも似た状態を手に入れた。ヴォバン侯爵のゾンビが、ヴォバン侯爵なしでも活動できるようになったという感じだろうか。

 そうして様々な要素で成り立つ晶であるが、その身が肉を持っていたころから親しんでいた神力はクシナダヒメのものであり、晶の特異な巫女としての能力もこれに起因している。晶自身が、本質と呼ぶのもこのためであろう。

「最近になってやっとある程度コントロールできるようになったんです」

「クシナダヒメ、というと確か日本神話に登場する女神だったな」

「お、知ってますか」

 晶は身を乗り出してリリアナに尋ねた。

「これでも、そこそこ日本には詳しい自信があるんだ。それにしても、事情は聞いていたが権能に近い能力まで持つとは、護堂さんの陣営はずいぶんと層が厚い」

 晶だけでなく、恵那や祐理といった世界に通じる若手が一堂に会している。あまり会話を交わしていない明日香についても、色々と驚かされる何かがあるのではないかと疑ってしまうくらいに、護堂の仲間は才に溢れていた。

「すばらしいことだ。わたしも、うかうかしていられないか」

 同世代の少女たちが着実に力を付けている。

 彼女たちは『まつろわぬ神』やカンピオーネの戦いを身近で見て、時には巻き込まれることで実戦経験を積んでいる。

 大騎士という立ち位置に甘んじていては、この先取り戻せないくらいに引き離されてしまうかもしれない。

「まあ、これをわたしの実力と言っていいのかどうか分かりませんけど」

「実力は実力だろう。先天性だろうが後天性だろうが、それが自分の力であることに変わりはない。それをどう使うのかが重要であって、実力や才能云々は後付けの理屈でしかないと思う」

 リリアナは素直に晶の力に感服し、それを羨ましいと思いつつも認めた。自分にはない力を羨んでいても仕方がないことであり、自身の成長のためには自分を磨く以外に術がないと分かっているからであった。

「人それぞれだな。リリアナにはリリアナの得意分野があるし、晶には晶の得意分野があるというくらいなんだろうな。まあ、それにしたって食べ物を作れるのは、こういうときには便利な力だな」

「確かに、そうですね。この時代では特にこの能力は大きな役割を果たしてくれるでしょう。道に迷っても、餓える心配がないのはありがたい」

「え、そうですか。まあ、確かに食糧事情を改善することはできるかもしれないですけど……うん?」

 晶が不意に川の上流に視線を向けた。

 それにつられて、護堂とリリアナもそちらを向く。

 陽光を受けてキラキラと輝く大河。

 その中心に、水面よりも綺麗に光を反射する球体を見つけて、首をかしげる。

 ゆらゆらと、川を流れる白い――――繭。

 遠目からでも美しい紋様が表面に走っているのが見て取れた。

「ッ」

 その瞬間に走った衝撃は、この時代に飛ばされてから始めてのものであり、同時にこの一年の間に慣れ親しんでしまった感覚でもあった。

 リリアナと晶も気付いた。

 護堂の肉体はすでに活性化して、全身が武者震いを始めている。

 もはや、改めて確認するまでもない。

 あの川を流れてくる繭の中に、『まつろわぬ神』がいる。

 護堂は跳ね起きるようにして立ち上がった。

 リリアナと晶は警戒して中腰になって、繭を凝視する。

 流れてくる繭はゆっくりと岸に近付いてきて、やがて葦に引っかかって止まった。

 護堂たちから、およそ三十メートルほど離れている場所である。

「晶とリリアナはここで待っててくれ。俺が様子を見てくる」

 敵意ある『まつろわぬ神』だった場合、対抗できるのは護堂くらいのものである。晶でも何とかなる場合もあるだろうが、それでも護堂がまずは確かめるべきである。直感に優れた護堂ならば、敵の不意打ちにはある程度は余裕を持って対応できるということもある。

「気をつけてください、護堂さん」

「先輩、危ないと思ったら、まずは距離を取ってくださいね」

「分かってるって」

 護堂は一目連の権能で楯を生成して左手に持ち、そして様子を窺いながら純白の繭に歩み寄っていく。

 繭と護堂は葦の林を挟んで対峙した。

 距離にして、五メートルもない。

 護堂が相手を認識しているように、相手も護堂のことを感じ取っているだろう。

 それがカンピオーネと『まつろわぬ神』との数千年に亘る逆縁なのだから。

 しかし、ここまで護堂が近づいたにも拘らず、繭はピクリとも動かず小波を受けて揺らぐだけであった。さすがに不審に思って護堂は神槍を召喚し、邪魔な葦を一息に刈り取った。

 この一連の行動によって葦に引っかかっていた繭がくるりと回った。

 月の表と裏がひっくり返ったかのように、隠れていた反対方向が護堂の目に触れる。

「え……!」

 思わず、声を出してしまった。

 純白の繭は、その三分の一ほどが破壊されていたのである。

 そこまで壊れていれば、もはや繭とは呼べまい。沈みかけたゴンドラのような形状であり、その内側にも川水が侵入を果たしている。

 壊れた繭の中に入っていたのは、一柱の美しい女神であった。

 光の具合によっては金にも銀にも見える煌く髪は緩く波を打ち、肩口で切り揃えられている。鼻筋の通った、整った顔立ちで、抜けるような白い肌が濁った水に汚されている。

 しかし、ただの男ならばまだしも、護堂が美しいだけの女神の姿に騙されることもない。

 彼女たちは飛び切り美しいか人ならざる姿をしているかのどちらかであることが多い。見てくれに騙されては痛い目を見るに違いない。

 とにもかくにも、この女神は護堂に危害を加えられる状態ではないということは明らかであった。

 目を瞑り、苦悶の表情を浮かべているではないか。

 呪力も大きく消耗しているようだ。

 肉体に目立った怪我は見られないが、相手は人間ではないのだ。分かりやすい怪我くらいは気絶していても自動で治癒するなりするだろう。

『来い』

 護堂は『強制言語(ロゴス)』による命令を繭にぶつける。

 繭は弾け跳ぶようにしてライン川から飛び出し、護堂の元へ移動した。抵抗するそぶりはまったくなかった。

「先輩、大丈夫なんですか?」

 晶とリリアナが繭を引き上げた護堂の下に駆けてきた。すでに神槍を取り出していて、いつでも戦闘できるように準備済みである。

「何か、怪我をしているみたいだ。気絶してる」

 繭の中から女神を引きずり出し、地面に横たえる。

「相当衰弱しているみたいですね」 

 リリアナが女神の顔を覗きこんで言った。

「リリアナは霊視ができるんだろ。この女神の素性とか、分からないかな?」

「申し訳ありません……ご期待には添えそうもないです。ですが、何かの拍子に霊視を得ることもありますので、その際にはお伝えします」

「そうか。分かった」

 霊視は魔女や巫女の一部が持つ特殊能力で、呪術的な物品の鑑定などに利用されるものであるが、『まつろわぬ神』に関連して、その神の由来を読み解くといった形で人類に恩恵を与えるものでもある。

 神名さえ分かれば、その神の権能をある程度予測することもできるようになる。

「ですが、少しだけ視えたのは、雷に由来する女神だということでしょうか。それと、この繭のようなものを見る限りでは服飾にも精通していそうですね」

 近くで見れば、その文様の緻密さに舌を巻く。

 人の手によるものではなく、女神の手によるものなのだから当然といえば当然なのだが、それでも間近で神代の技を見ることができるのは幸運以外の何物でもない。

「とりあえず、この女神様を起こしてみようか」

「それ、いいんですか?」

「仕方ないだろ。いくら女神とは言ったってほっとくのは良心が痛むだろ。それに、女神をここまでにする相手が近くにいるってことでもあるしな」

 心配する晶に護堂はそう言った。

 しかし、晶の心配も当然のことだ。

 この女神の名も性格も分からない状態で神殺しと女神が出会うというのは状況としてはかなりまずい。

 場合によってはその場で死闘を繰り広げることになる。女神の消耗を考えれば、護堂が優位に戦闘を進めるだろうが、何事も事故は起こりうる。

「ですが、護堂さん。女神を起こすとしても、どのように?」

「そうだな……」

 護堂は眉根を寄せて、考え込んだ。

 怪我は治癒しているようだが、呪力が減衰している。人間で言うところの栄養失調の状態である。時を置けば自然と快復するだろうが、すぐに叩き起こすには外部から失った栄養を送り込んでやる必要がある。

「若雷神っつっても、弾かれるからなぁ」

「若雷神って、それキスしなきゃダメじゃないですか。そんなのはダメです。何があるか分かったもんじゃないんですから!」

 晶が護堂の呟きを拾って抗議した。

 護堂が女神に呪力を供給しようとするのなら、若雷神の呪力経口摂取させるのが手っ取り早い。

 しかし、それは同時に女神が護堂に何かしらの呪詛を吹き込む機会を与えるものでもあり危険を伴う。何よりもキスというのがダメなのだ。晶にとっては。

「じゃあ、どうする?」

「大地の呪力を込めた林檎のジュースを飲ませれば、多少は改善すると思います。完全に快復しないでしょうけど、それはそれで都合がいいはずですしね」

「なるほどな。高橋晶の能力で生成した果物であれば、確かに女神に呪力を供給することができるだろう。相性もいいはずだ」

 リリアナが納得したとばかりに頷いた。続けて、

「女神の不意打ちに備えて、拘束しましょう。護堂さんの権能で鎖なり紐なりを用意できませんか?」

「できるけど、何かそれも嫌だな……」

「護堂さんのその考え方は美徳ではありますが、神々とカンピオーネの相性の悪さを考えれば、即戦闘になる可能性は否定できません。念には念を入れておくべきかと思います」

「うーん、まあ、そうか」

 気絶している少女を拘束するのは非常に釈然としないものがある。

 リリアナの言うことが正しいことだというのは分かるが、犯罪を犯しているような気分になってしまうのである。

 それに、女神を拘束することで敵対的な意思を感じさせてしまっても、それはそれで問題である。 

 メリットとデメリットが混在する中で、護堂は女神を拘束しないという判断を下したのであった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 晶が豊穣の念を込めた林檎ジュースを少しずつ女神の口に含ませることで、大幅に消耗し、蒼白となっていた女神に血色が戻った。

 傍に宿敵たる神殺しがいることも手伝ったのだろう。そう時をおかずして、女神を瞼を開けた。

「……な、に」

 女神が呆然としていたのはほんの一瞬であった。

 護堂の気配を感じ取り、顔色を変えたのである。

「神殺し、か」

「気付いたみたいだな、女神様。ずいぶんと酷い有様だったけれど、体調のほうはどうだ?」

 護堂の問いに女神は答えない。

 警戒しつつも身体を起こし、立ち上がろうとした。

「く……」

 それでも、さすがに動き回れるほどにはなっていないらしく、膝の力が抜けて座り込む形となってしまった。

「いきなりは無理だろ。消耗しすぎてたんだって。こっちから呪力を分けてやらなくちゃいけないくらいだったんだぞ」

「……神殺しが、わたしに呪力を分け与えただと」

「分け与えたのは俺の連れだけどな」

 と、護堂は晶に視線をやる。

 護堂の後ろに立つ晶が小さく頭を下げた。

「知らぬ神だ……未だ存在しない、あり得ぬ大地の女神の……残滓? 一体何者だ?」 

 女神は疑惑の目を晶に向ける。

 確かにこの時代はまだ『日本書紀』は成立していない。日本は未開の時代を過ぎた頃の古墳時代の前期に当たり、統一王朝の有無については、議論の必要性を有するという状態である。無論、晶の根幹を成すクシナダヒメの神話も、その源流となったものはあるかもしれないがはっきりとした形で語られているわけではない。つまり、五世紀の時点では、歴史上に存在していない地母神なのである。

 それを、この女神は見抜いたのである。

「霊視の権能か? 色々と引き出しがあるのは不思議じゃないけどな」

「神殺しが、わたしを助けて何とする」

「そりゃ、あなたをそんな目に合わせたヤツがどっかにいるわけだろう。それが降りかかる火の粉にならないとも限らないからな。情報収集だよ」

 瞬間、護堂の首に雷光を纏う剣が飛び込んだ。

「わたしがその火の粉になるとは思わんわけだな」

「そんなはずないだろ。優先順位の問題だっての」

 護堂は女神の攻撃を用意していた楯で受け止めていた。

 ジリジリとした熱が頬に届くものの、それは呪力によるものである。よって、護堂の呪力耐性によってほぼ無力化されていた。

 弱りきった女神の攻撃であれば、受け止めるのは難しくない。

 前かがみになっている護堂に向けて、膝立ちでの斬撃を放った女神は悔しそうに顔を歪める。

「とりあえず、落ち着いて話がしたいんだけど、この剣、何とかしてくれないか」

「このままでも話はできるだろう」

「疲れないか、その体勢。それに、さっきも言ったけど、あなたを襲った何者かが近くにいないとも限らないんだ。こっちとしても襲われたときのためにどんなやつなのか知っておきたいんだよ」

「わたしがそれを話すとでも?」

「あなたがどこの神様だかは知らない。けど、恩を仇で返すのならそれもいい。相手になるだけだ」

 護堂が女神を拘束しなかったのは、彼女に必要以上に敵意を感じさせないようにするためであったが、それでも戦闘状態に移行する可能性は常にある。相手が素性の知れない『まつろわぬ神』である以上、護堂との相性は決してよくはないからである。

 膠着状態は、その後二十秒ほどに亘って続いた。

「チッ……」

 露骨な舌打ちをして、女神は剣を引いた。

「いいのか?」

「今のあなたに立ち向かっても敗北は必至。戦うつもりのない相手に立ち向かって敗北するのはあまりにも愚かしいからな」

「そう。それは助かるね」

 背後で、安堵の吐息を漏らす二人の少女がいる。

 護堂も内心ではほっとしている。

 物分りのいい女神でよかった。

 威厳を守りつつも理性的な判断を下してくれるのはありがたい。

 相対してみた感じからだと、やはり地母神に連なる女神という印象が強い。

 女神が剣を消したので、護堂も武器を手放した。敵意がないということを示すためである。

「ふん、形はどうあれ、助けられたことに変わりはないからな。その事実に目を背けるわけにもいくまい」

 と、そこで女神は視線を険しくして、護堂の背後を見据えた。

 リリアナと晶を見ているわけではないようで、護堂もつられて振り返る。

 十メートルほど離れたところに、一人の少女がいた。いや、少女なのだろうか。中性的な顔立ちで、年齢が十代の中ごろから後半くらいということもあって男女の区別を付けにくいが、男性的かと問われればはっきりと否を突きつけられる――――となれば、女性的、少女と表現するほうがいいかもしれない。

 そして何よりも問題なのが、これほどの近距離に近付かれていながらまったく気配を感じなかったことである。極めて鋭い直観力を持つ『強制言語』の権能を持っている護堂ですら、振り返るまでその存在には気付かなかったし、こうして対峙した今でも薄らと神性を感じ取ることができる程度でしかない。

 極めて脆弱な神霊の類か。

 一瞬、そのような考えも頭を過ぎった。

 しかし、護堂の肉体は明らかにあの存在に対して戦闘態勢を整えつつあった。反応は鈍く、普段とは比べ物にならないが、それでも目前の存在が『まつろわぬ神』であると如実に物語っている。

 そして、何よりも――――護堂は、その顔を知っていた。

 なるほど、確かに過去の世界ならば、そのような出会いもあるのだろうと納得して。

「晶、リリアナ。下がって」

 静かに、護堂は言った。

 晶とリリアナも、その異質な存在を警戒していたので、護堂の言を素直に聞き入れた。

「貴様……」

 女神が唸るように敵意を明らかにする。

「やっと見つけたよ、雷神様」

 その声は聞く者を惹き付ける優美なソプラノであった。

 淡い微笑みすら浮かべての『まつろわぬ神』は護堂にも視線を向けた。

「まさか、神殺しの恩寵を受けるとはね。邪悪なる女神は、恥も知らないようだ」

「こそこそと隠れて様子を窺っていたか。恥を知らんのはどちらだろうな」

 ビリビリとした呪力の鬩ぎ合い。

 『まつろわぬ神』同士の決闘は、ただ睨み合うだけで天変地異を思わせる環境の変化を引き起こす。

 いつの間にか空が暗くなっている。

 風が強まり、ライン川の水面が泡立った。

「お前が喧嘩の相手だったんだな」

 護堂がその神に向かって言った。

「喧嘩なんて、つまらない言い方は止めてほしいな」

 淡い微笑みをそのままに、護堂に向けて冷たい言葉が飛んだ。

「これは、誅罰だ」

「は?」

「誅罰だよ、少年。悪しき神を堕落の元凶を打ち滅ぼすのは僕の使命なんだ」

「悪しき神?」

 この美しい女神に向かって、その神は悪しき神と言った。

 とてもそうは見えないが、しかし地母神というのは崇められると同時に恐れられるものでもある。死に深く精通するが故にだ。

「そうだ神殺しの少年。そこのメンルヴァを始末した後に、大罪人たる君も処断すると宣言しておくよ」

 言うや否や目にも止まらぬ速さで何かが射出された。

 予備動作はなく、その危険を一切感じさせないままに無造作に投じられた一振りの槍。それが、メンルヴァと呼ばれた女神の顔面に向かって飛ぶ。

 ただ速いだけではない。

 恐ろしいのは、攻撃の直前まで何も感じないことだった。呪力の流れの変化もいまいち分からない。銃口を向けられているのに、それに気付かないようなものである。面と向かっていながら完全なる奇襲に成功したその神の刃は、しかし、女神を貫く前に火花を散らしてあらぬ方向に飛んでいく。

 打ち払ったのは護堂の神槍であった。

 咄嗟に反応ができたのは、間違いなく『強制言語』の恩恵であろう。

「へえ、僕の攻撃を弾いてみせるのか」

 笑顔を浮かべるも、その口調には明らかな不快感が混ざっている。

「驚いたけどな、色々と」

 何と言ったらいいのか、上手く言葉にできない護堂は困り顔で言った。

「あんたのことは、それなりに知ってるんだよ。相変わらず、能面みたいな笑顔貼り付けやがって――――ガブリエル」

 晶とリリアナが驚愕に目を剥いて護堂とまつろわぬガブリエルを見る。

 メンルヴァも正体を確信してはいなかったのだろう。護堂の言葉に得心が言ったとばかりに顔つきを変える。

「そう、驚いたのは僕のほうだよ、神殺し」

 そして、まつろわぬガブリエルは、機械的な笑みをより深くして護堂に視線を向ける。

 草薙護堂が最初に討ち滅ぼした『まつろわぬ神』と寸分違わぬ顔立ちと物言いだ。

 護堂の人生を狂わせる要因ともなった存在であり、初めて心底美しいと感じた少女との再会に、護堂は運命的なものを感じていた。



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古代編 3

 ガブリエルは、聖書に登場する高位の天使の名である。

 宗教や神話に詳しくない者でも、名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。西洋では、人名にも用いられるくらいにメジャーな天使である。

 しかし、こと草薙護堂の傍に仕える者からすると、途方もなく強大で有名な天使が降臨したという事実以上に驚愕せざるを得なかった。

 何せ、ガブリエルは草薙護堂が最初に討伐した『まつろわぬ神』なのだから。

 相手は護堂のことを知らない。

 しかし、護堂からすれば、時を超えて再会を果たした形になるのだ。様々な思いが、護堂の中で渦巻いていても不思議ではない。

「僕の名を知っているか。どうやって見抜いたんだい? メンルヴァですら、見通すことのできないこの僕の名を」

 問いを投げかけてくるまつろわぬガブリエルの口調には若干の好奇心が含まれている。

 ガブリエルは啓示を司る権能を持つ。

 それは、護堂が簒奪した『強制言語(ロゴス)』にも含まれる能力である。それを用いて、このガブリエルは護堂やメンルヴァの直感をすり抜けて接近を果たしたのであり、護堂が指摘するまでメンルヴァにすら正体を悟らせなかったのであろう。

「答える必要があるか?」

「僕の言葉は神の言葉だ。逆らうのなら、君に未来はないということになる」

「じゃあ、何も言う必要はないな。さっき、抹殺宣言喰らってるからな」

 護堂が開き直ったように言い切ると、その後ろメンルヴァと呼ばれた女神は失笑した。

 面白そうに口元を歪めた女神に、ガブリエルはいたく機嫌を害したように冷笑を向ける。

「悪魔風情が僕を笑うか」

「ふん、悪魔の筆頭とも言うべき神殺しに論破されているようでは、神の力も衰えたものだな。いや、もともと貴様は神の使いなどではなく――――」

 轟、と風が鳴った。

 前触れなく解き放たれた風の弾丸が、メンルヴァの身体を打ちのめした。

 強烈な一撃をメンルヴァは辛うじて楯で受け止めるも、衝撃を殺しきれずに仰向けに転がった。

「無礼な悪魔だ。やはり、神殺しと共に滅ぼすべき悪だな」

 言うや否や、ガブリエルの背後に無数の水の塊が現れた。

 宙空を漂う水球は、細長い棒状に伸びると、先端を鋭く尖らせた。

「まずは小手調べだ」

 ガブリエルの号令の下に、大量の水の槍が降り注ぐ。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 護堂が咄嗟に一目連の聖句を唱える。

 解き放たれる呪力に呼応して、輝く《鋼》の刀剣が召喚された。

 護堂の刀剣は、射出と同時に水の槍と激突し、これらと相殺する。

 撃ち落した水の槍を構成する水分が、再び一点に収束する。直径二十メートルはあろうかという巨大な水の球は、さらに凍結して強度を高めた。

「これならどうだい?」

 墜ちる氷塊はさながら隕石のようだった。

 迫り来る氷塊に対して、護堂ではなく晶が迎撃を行った。

 影から伸び上がる魔手。 

 太い大木のようなその先は漆黒の刃となっていた。

「だああああああああああああああああああ!」

 晶が叫び、刃が氷塊を刺し貫く。

 さらに、護堂が数百からなる剣群を生成し、ガブリエルに向けて投射する。

 煌く凶刃は大気を切り裂き、たった一柱の天使に殺到する。

『回れ』

 ガブリエルは小さく呟く。

 回避行動は一切取らず、力強い言葉のみで刃に相対したのである。

 鋼鉄すらも、護堂の刃の前ではバターに等しい存在へ成り下がる。『まつろわぬ神』であっても、その肌を切り裂き、肉を穿って骨を断つ代物である。

 神具は生半可な守りを許さない。

 しかし、神の言葉は絶対だ。

 それが、如何なる製鉄神より簒奪した権能であろうとも、その言葉はさらに上を行く。

 護堂の剣はガブリエルの言霊を受けて回転した。

 刃同士が互いに撃ち落しあい、空中は大混乱の様相を呈した。火花を飛び散らせ、目茶苦茶な方向に飛んでいく剣たち。

「そんなに上手くいかないか」

 しかし、得意の剣が無効化された護堂は舌打ちすることもなければ、落胆することもなかった。

 相手は『まつろわぬ神』である。

 この程度の刃に曝されたからといって、大人しく撃退されるような存在ではないということくらいは自明のものとして理解している。

「製鉄の魔物から奪った権能か。雑な使い方だ。もったいないなぁ」

「よく言われるよ。けど、効果的でもあるんじゃないか」

「さて、どうかな。いい武器を無数に作ることができるのに手に取って戦わないというのは、矢として使う利便性以外にも理由がありそうだ」

 ガブリエルはそう言うと、右手に諸刃の剣を呼び出す。

 そして、次の瞬間には護堂の左隣に姿を現していた。

「ッ……!」

 護堂は大きく身を引いてガブリエルの刃を交わした。

 護堂の頬を浅く割いたガブリエルの剣は、返す刀で護堂の首を狙う。

「この……!」

 避けきれないと判断した護堂は、即座に土雷神の化身を発動して地中に逃れた。閃電となった護堂をガブリエルは視認していたが、突然の神速に対応が遅れたのである。

 再出現した護堂に向かって、ガブリエルが再び剣を振るおうとする。距離を詰めるなどお手の物だろう。遠距離戦よりも近接戦のほうが護堂を圧倒しやすいと確信したガブリエルは、神速への突入を試みる。

 が、しかし、ガブリエルは姿を消すことなくその場に踏み留まった。

「これは……」

 ガブリエルは周囲に視線を配る。

 薄らと見える細い線が、太陽を受けて僅かに光っている。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸が、いつの間にかガブリエルを取り囲んでいた。

「メンルヴァ!」

「貴様の相手がわたしであることを失念したか? 礼儀を知らぬな、ガブリエル!」

 膝立ちになったメンルヴァが、ガブリエルに手を伸ばす。

 その手に操られて、張り巡らされた糸の結界が一気に収縮する。

 複雑な紋様を描く絹の織物にして、屈強な神を封殺する神秘の檻だ。

 そう易々と打ち破ることはできない。

「おのれ、悪魔が……!」

「神殺しめに集中しすぎたな。今のわたしでも、貴様を封じることくらいはできるというのに!」

 ガブリエルは水の弾丸をメンルヴァに向けて放つ。

 明確な殺意を込めて発射されたそれは、閉じつつある糸の結界に阻まれてしまう。

「この……!」

 メンルヴァを取るに足らぬと放置した結果、足を掬われる形となったのである。

 護堂を相手にしている間に、彼女はガブリエルを封じるための下準備を着々と進めていたのだ。確実に事を成すためにじっと様子を窺い続けていた。

 そして、真白な牢獄が完成する。

 美しい花をあしらった絹の球は、その内側に至高の天使を封じ込んだのだ。さらに、追い討ちをかけるかのように地割れが生じた。地の底に通じるが如き大地の亀裂に、絹の牢獄は呑み込まれていった。

「く……」

 メンルヴァはこの一撃のために溜め込んだ力を吐き出したのか、その場に崩れ落ちた。

 女神としての意地を貫いた彼女も、もとより手負いの身である。晶から与えられた呪力も、ほんの僅かでしかないのだから、このような権能の使い方をすれば瞬く間に枯渇してしまう。

「おい、大丈夫か?」

 護堂が駆け寄って声をかけても、メンルヴァは応答しなかった。

 うつ伏せに倒れ伏して、再び気を失っている。

「護堂さん。ここは一旦引きましょう」

「だな。ガブリエルを倒せたわけじゃなさそうだし」

 基本的に『まつろわぬ神』との遭遇戦というのは危険なのである。

 相手は格上ばかりなので、できる限りこちらに利する環境で戦いたいというのが本心である。せっかくメンルヴァが作ってくれた猶予を対ガブリエルのために利用する。そのためには、まずは拠点に移動し、体制を整える必要性があった。

「とりあえず、この女神様は俺が背負っていく」

「それでは、わたしは拠点を確保しておきます。『まつろわぬ神』に狙われているというのに、集落に戻るわけにもいきませんからね」

「そうか。確かに、そうだな」

 そこまで考えが及ばなかった。

 確かに、ガブリエルが護堂たちを追って集落にやって来たら大問題である。交通の発達していないこの時代に於いて、田畑が破壊されたり蓄えが失われたりするのは致命的な損害となる。『まつろわぬ神』と人里近くで戦闘を行うのは、あまりにも迷惑極まりないことであった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護堂たち一行が仮の宿と定めたのは、集落から離れた場所にある水車小屋だった。

 手狭な小屋は生活を営む場所として設計されてはいない。

 半分以上は物置で、残り半分は穀物を粉末にするために利用する場所といった感じになっている。

「まあ、雨風を防げるんだから文句ないな」

「申し訳ありません。集落の外でとなると条件がかなり限られてしまって」

 四方数キロを捜索したものの、屋根があるのはここだけだった。

 川の向こうは森で、こちら側は背後に田園地帯が広がる場所である。護堂が寝泊りしていた集落は、上流に二キロほど離れた場所になる。

「生活に必要な道具は、借りて来ましたので何とかなるとは思いますが、カンピオーネたる御身をこのような環境に置いてしまうのは心苦しい限りです」

「いやいや、そういうのはいいから。しょうがないことだし。そんなことよりも、リリアナも晶も俺に付き合う必要ないからな。こんなところ、女の子には辛いだろ」

 そう言うと、晶は勢いよく首を振って否定する。

「問題ありません。そもそも、先輩の式神であるわたしが、先輩を差し置いて集落に戻るわけにはいきませんよ」

「わたしも同感です。王を水車小屋に案内した挙句自分はベッドの上で眠るなど許されることではありませんからね」

 と、護堂の提案はすげなく却下された。

 そこまで思ってもらえるのは、ありがたいことではある。

 しかし、薄い木の板で囲まれただけの小屋である。部屋の区切りはなく、床も土のままなのだ。そのような環境は、年頃の乙女には辛いのではないか。

「まあ、正直に言えば、あまりよくはないですよね。でも、わたし、もっと酷いところにいたこともありますし気になりませんね」

「程度の低いところと比べるなって。というか、それ笑えないからな」

「そうですね。わたしも自分で言って欝になりそうです……」

 晶は沈んだ声で言った。

 五年近く劣悪な環境に止め置かれ、身体を弄られ続けた最悪な記憶が蘇る。嘔吐感と悲壮感で気分が一気に沈みこんだ。

 リリアナは晶の事情を深くは知らない。

 この会話の意味も分からなかったが、聞くべきではないと判断して無視する。

「とにかく、わたしたちがあなたと離れる理由は特にありません。小屋が狭いというのであれば、わたしは外に出ますし」

「さすがにそれはダメだ。人として許されないっての」

 女の子を外に放り出すとかダメ男にもほどがある。それだったら、護堂のほうが外に出る。

「とりあえず、先輩。女神様をどうするのか考えたほうがいいんじゃないですか」

 と、晶は積み上げた毛布の上に寝かせたメンルヴァを見て言った。

「どうにかって言ってもな。ぶっちゃけ、どうにもならないだろ。目を醒ましてくれないことにはさ」

「またわたしのジュースを飲んでもらいますか。そうすれば、快復が早まると思いますけど」

「そうだな。それがいいな。頼めるか?」

「はい」

 晶は頷き、小屋の外で林檎の木を育て始めた。

 メキメキと音を立てて、一本の木が生まれる。早回しの映像を見ているかのようだが、生長した木は真っ赤な林檎を何個もつけて、生き生きと葉を茂らせている。

「高橋晶の能力、正直に言って出鱈目だと思うんですけど」

「それは、俺も思う。まあ、神様由来の力だからな、おかしくはないんだけど」

 豊穣神の力で育てた木は、その幹や葉にも呪力を漲らせている。

 晶からの呪力供給が失われれば、瞬く間に枯れる儚い存在ではあるが、そうとは感じさせない生命力の脈動を感じ取れる。

「なあ、高橋晶」

「なんですか?」

 リリアナに話しかけられた晶は木に手を伸ばしたところで振り替える。

「いや、その木なんだが」

「この子がどうしました?」

「動いてないか?」

 リリアナがそう言ったとき、木の太い枝が突然曲がり、晶が伸ばした手の中に林檎を一つ落とした。木質化しているとは思えない曲がり方だった。そして、それがさも当然のように林檎の木は元の状態に戻った。

「動いているだろ?」

「そうですね」

「そうですねって」

 何かおかしいですか? と晶は首を傾げた。

 生みの親である彼女からすれば、この特殊な林檎の木が意識を持っているかのように振る舞うのが当然という認識なのだろうか。その構造を誰よりも知っているからこそ、おかしいと思っていないのである。

「まあ、わたしの式神みたいなものですからね」

 晶はそう言って自分の手にある林檎を見てから、林檎の木の幹に手を付いた。

「もうちょっと呪力込められるよね。うん、そうそう。いいよ、その調子。もうちょっと。がんばれがんばれ」

 晶は林檎の木を慈しむようにその樹皮を摩り、声をかける。

 すると、林檎の木はざわざわと枝葉を揺らして晶に応えている。呪力を地中から吸い上げ、林檎の実にどんどんと送り込む。晶が応援するたびに、真っ赤に染まった林檎は艶を増し、普通の林檎よりも一回りも二回りも大きく膨らむ。

 晶はそうしてできた林檎を一つ取ると、その場で二つに割った。

 断面から溢れんばかりの汁が染み出し、滴り落ちる。

 濃い林檎の芳香がその場に広がり、汁を浴びた枯れかけの下草が緑を取り戻した。

「大地の精気が濃縮されているな……こんなに濃く溜め込んでいる果物は始めてみたぞ」

 リリアナが生唾を飲んだ。

 見るからに美味しそうな林檎だ。おまけに、含まれる呪力は、一口で数日分の呪力を補給できるのではないかというほどである。

「これなら、女神様にも十分効果を発揮してくれますよね」

 晶は微笑む。

 自分が端整込めて作った作品が役に立ちそうなので、嬉しいのだろう。

「今日の夕飯になりそうだな」

「そうですね。川で魚を取って、林檎をデザートにしましょう」

 食糧事情が改善されるというのはいいことである。 

 食べる物があれば、生きられる。食料の有無は古代に飛ばされた護堂たちにとって大きな問題であったが、その心配がなくなった今では、精神的にもかなり余裕を持てていた。

 

 

 リリアナが用意した調理道具は、古めかしいデザインのものばかりであったが、使い方が分からないものは一つもなかった。

 鍋と皿とスプーンがあれば大抵のものは現代人風に食べられる。

 腹に物を入れるだけならば、何も丁寧に料理を作る必要もなく、使う道具も最低限で済む。リリアナは抗議したかったようだが、食材も限られる今では工夫にも限界があった。

 女神は部屋の真ん中を陣取り、相変わらず浅い寝息を立てている。

 リリアナの見立てでは、呪力の快復を第一にしているらしく、調子を取り戻すまではこの状態を維持するつもりらしい。

 晶の林檎ジュースだけでは、女神を本調子まで持っていくことはできなかった。かなり快復したのは間違いないが、それでも追いつかないくらいに疲労しているのであろう。

 あたかも冬眠しているかのように、眠りに就いている。

 そんな女神がいるために、人間と神殺しの三名は、水車小屋の端によって夕食を摂らなければならなかった。

 川魚とキャベツの煮込みと林檎、そしてパンが今夜の夕食である。リリアナと晶が、フリウスの屋敷から貰ってきた食材をベースにして作った簡素なものだが、腹を膨らませるには十分であり、晶の林檎が想像以上に身体に染み渡ってくれたので疲労も一気に吹き飛んだ。恐るべき、ドーピング剤になるのではなかろうかと、護堂は思った。

「リリアナさん。メンルヴァ様ってどんな神様か知ってますか?」

 食後、晶がリリアナに尋ねた。

 メンルヴァが起きていたら、決して口にできない話である。

「それは俺も気になってたんだ。聞いたことのない名前だからな」

 護堂も晶と共にリリアナに尋ねる。

 リリアナは護堂の背後で眠るメンルヴァに視線を向けて、彼女が相変わらず深い眠りに就いていることを確認してから口を開いた。

「メンルヴァ様はエトルリア神話に登場する女神の一柱です。父はティニアという嵐の神で、その妻のユニと共に主要な三柱の神として大きな尊崇の念を集めていました」

「エトルリアって、何か聞いてもいいか?」

 まったく聞き覚えのない言葉に護堂は初めから躓いた。晶もまったく分かっていないという表情である。

「エトルリアは、イタリア中部にかつて存在した都市国家群の総称ですね。ギリシャともローマとも違う文化を築いた先住民たちの国でしたが、後にローマに吸収されて消滅します」

「この時代にはもう……」

「ありませんね。紀元前四世紀頃から一気にローマ化してしまいますから、この時代から数えても八百年は前になりますか」

「へえ、じゃあ、この女神様はすでに滅んじまった文化の名残ってわけなのか」

「エトルリアという集団は確かにローマに吸収されてしまいましたが、その文化まで完全に滅んだというわけではありません。彼らの文明はローマからしても珍しく先進的でしたので、その後もローマ文明の中で生き残り続けます。エトルリア語はインド・ヨーロッパ語族には属しませんが、ギリシャの文字を参考にしたものとされ、ローマで用いられるラテン文字の原型となっていますし、芸術面でもローマに与えた影響は大きいのです。当然ながら、ローマ神話にも重要な役割を果たします。例えば、こちらのメンルヴァ様は、後にミネルヴァとなってローマ神話に登場します。要するに、エトルリア人がギリシャ神話を自らの神話に取り入れ、そしてエトルリアを征服したローマがそれに触発されたという形になるわけですね」

 ローマ神話とギリシャ神話の互換性については、昔から知っていることではあった。

 ローマ神話の神々には、それぞれギリシャ神話に対応する神がいる。それは、ローマが当時最先端の文明を築き上げていたギリシャの文明を取り入れたことによって生じたものであり、結果としてローマ古来の神話の大半が消滅してしまったのだという。

 リリアナが名を挙げたミネルヴァという女神は、そんなローマ神話の中でも非常に高名で、世界中に名を知られる存在である。

 権能が多彩で、有名所は学問や裁縫、芸術あたりであろうか。ミネルヴァの名を冠する学校を初めとする公共施設は多い。

 そして、護堂にとってもこの女神はかなり重要な存在である。

 なんと言ってもその前身はギリシャの戦女神アテナなのだから。

「護堂さんは女神アテナと戦われた経験がありますから、思うところもありますか」

「そうだな。まあ、ないと言えば嘘になるけど」

 護堂は複雑な心境を表情に浮かべた。

 アテナと雌雄を決したというわけではない。ランスロットの妨害があり、そしてアテナは聖杯に命を吸われて消えた。護堂の中に、彼女の権能の一部を移譲するという極めて希な現象を遺して、この世を去ったのである。

「ガブリエルにアテナの後輩かよ。ほんとに、こっちに来てから縁のある神様ばっかだな」

「メンルヴァ様の権能は主にアテナと同じでいいんでしょうか?」

 護堂が毒づき、晶がリリアナに質問する。

「そうだな。多くがアテナから受け継いだ権能だというのは間違いないんだろう。ただ、メンルヴァ様は他の女神にはない雷神という相も持っていらっしゃる。エトルリア神話に於いて、ノウェンシレスと呼ばれる九柱の雷神に数えられているくらいだ。まあ、元となったアテナもゼウスの雷を生み出したという説のある女神で、何よりも嵐の神の頭から生まれているのだから雷神としての側面があってもおかしくはないんじゃないか」

「頭から生まれたのはアテナなんだろうけど、メンルヴァも?」

 護堂に問われたリリアナは首肯する。

 父であるティニアの頭からメンルヴァは生まれるらしい。

 どうやら、メンルヴァはかなりアテナの影響を受けて成立した女神のようだ。

「とにかく、復調すれば非常に強力な女神であることは間違いありません。ガブリエルが明確に護堂さんを狙っている以上、神殺しと女神の呉越同舟を考えてもいいかもしれません」

 リリアナの提案に護堂も頷いた。

「ああ、それがいいと俺も思ってる。さっきは成り行きで共闘したけど、ガブリエルをどうにかするまでは、敵対したくないからな」

「まあ、先輩はそういうの得意ですからね。アテナとも共闘しましたし、なんだかんだで上手くやるような気がします」

 晶は神殺しと女神の共闘について、ほとんど心配していないようであった。

 護堂のこの一年の戦いにほとんど随行していたのだから、その悪癖をよく理解しているのであろう。

 草薙護堂という男は、敵と認識した相手には全力で戦うが、状況が変わればその敵とも手を取り合いかねないのだと。悪く言えば行き当たりばったり、良く言えば柔軟な発想の持ち主で敵味方に拘りがない。きっと、この男は去る者追わず、来る者拒まずの精神を持っているのであろう。

「まずは、身体を休めることですね。メンルヴァ様の封印がどれくらい持つのか、わたしには分かりませんが、相手は最大級の天使の一柱です。数日中には、再戦となる可能性も考えておくべきでしょう」

 リリアナの神妙な顔つきを見れば、その悲観的な考えを的外れではないと考えていることが読み取れる。

 如何にメンルヴァが高位の神格であろうとも、相手もまた高位の神格である。弱体化した状態の封印術が、そう上手く機能し続けるとも思えないのは護堂も同感であった。

 

 

 疲れを取るには睡眠が一番である。

 が、問題として、この水車小屋は極めて狭いということが挙げられる。

 おまけに、中央を女神が占領しているのだ。

 三人が使うことのできるスペースはほとんどないと言っても過言ではない。

「日本には男女七歳にして席を同じくせずという言葉があったはず……!」

 複雑な表情を浮かべて身体を固くするのはリリアナである。銀色の髪を下ろし、すでに就寝も間際といった姿になっているものの、白い頬は淡く紅潮しているようだ。

 寝る場所はなく、しかし眠らないというわけにもいかない。護堂と晶がそれぞれガブリエルの権能による探知を行えるということとリリアナの使い魔たちが外を見張っているということを合わせても、本人たちがそのまま起きている必要性は低かった。敵は直感をすり抜けてくるかもしれないが、それでも完全に同一の権能である。相殺することで、隠密性を著しく下げることができるのは、ガブリエルの攻撃を護堂が打ち払ったところからも分かる。

 現状では、詰めて川の字になって寝るという以外に方法がない。

 リリアナからすれば、異性とここまで近い距離で就寝するという事実に混乱するばかりであった。

「日本じゃなくて中国の言葉ですよ、それ」

 リリアナが口走った言葉にすでに毛布に潜り込んでいた晶が指摘した。

 灯りのない真っ暗な五世紀の夜。水車小屋は光一つない暗闇に包まれているものの、夜目が効く晶たちにとっては大した意味もなく、普通に相手の表情すらも読み取れる。

 未来人の感覚で言えば、大体夜の九時くらいだろうか。

 日が没すれば一日が終わるのがこの時代である。

 何もすることがないので、寝るしかない。

 そう割り切った護堂は、早々に眠りに就いていた。恐るべき環境適応能力である。さすがに、リリアナは呆れざるを得なかったが、これがカンピオーネの特性なのだと無理矢理に自分を納得させる。

 来るべき戦いに備えて牙を研ぐのは、カンピオーネならば誰もが行うものである。そのための準備には余念がない。普段ならば、晶やリリアナと寝床を同じくすることに苦言の一つもしただろうが、今回はガブリエルという強敵との戦いを控えていることもあり、護堂はそれ以外の一切を頭から排除して身体を休める選択をした。

 結局寝付けないのは、リリアナだけである。睡魔と闘う必要性のない晶は、護堂の隣で寝転びつつも完全に眠りに就くことはないのだから。

 雑念を打ち消して、リリアナは自分の毛布に潜り込んだ。

「というか高橋晶。あなたは霊体になることができるのだから、そこで寝なくてもいいんじゃないか?」

 声を潜めて、リリアナは尋ねた。

 晶が霊体になれば、一人分のスペースが開く。狭い水車小屋の中で、この一人分のスペースは中々貴重である。

「リリアナさん。そんなこと言って、先輩の隣で寝たいだけなんじゃ……」

「い、いきなり変なことを言うな! わたしはただ合理的に考えれば霊体になったほうが余裕ができるのではないかと聞いただけだ!」

 確かに、晶の言うとおり晶が消えれば護堂とリリアナは並んで寝ることにある。一人分のスペースは、結局は一人分でしかない。数十センチを稼いだところで、大きな距離の変化は起こらない。今でも、手を伸ばせば護堂に届く程度の距離なのだ。

「…………ふーん」

 晶は三白眼でリリアナを見つめる。

 その表情は、如何にも警戒しているといった風である。

「ま、別にいいんですけどね。今更一人二人増えたところで変わりませんし。でもここはわたしの場所です」

 晶はもぞもぞと毛布の中で体勢を変える。自分の分の毛布は抱き枕のように丸め、自分は護堂が使っている大きめの毛布の中に入り込んでいる

「取るつもりはないんだが……」

 縄張りを侵された猫のような反応をする晶に、リリアナは呆れ顔で言った。

 そのときにはもうすでに、晶はリリアナではなく護堂のほうに身体を向けて小さくなっていた。

 



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古代編 4

 春先の朝は恐ろしく冷え込む。

 まして、川に隣接した水車小屋は、雨を凌ぐことはできても風までは凌ぎきれない。隙間風が否応なく吹き込み、身体を凍えさせる。幾重にも毛布を重ねなければ、眠りに就くことすら難しかっただろう。

 ひんやりとした空気を肺に取り込んで、リリアナは水車小屋の外に出た。

 青と黒のケープが、朝日に鮮やかに浮かび上がる。

 東の空は明るく、西の空は群青色に染まっている。穏やかに流れる雲を見れば、天気の好転を予想することくらいはできるだろう。

 しかし、それでもリリアナの心中には暗いものがある。

 まつろわぬガブリエルの存在。

 まつろわぬメンルヴァの存在。

 二柱の『まつろわぬ神』のうち、一柱とはすでに戦うことが決定してしまっている。そして、もう一柱ともどうなるのかは未知数のままである。

 草薙護堂とメンルヴァの共闘が実現しなければ、護堂は二柱の神を相手に戦わなければならない可能性すら出てくる危険な状況である。そんな中で天敵たる女神と同じ屋根の下で就寝するというのは異常とも言うべき暴挙であったが、メンルヴァが目を醒ますことはなくリリアナも寒さで目を醒まさなければ、朝日が昇るまでそのまま寝ていただろう。真っ先に女神と敵対するはずの護堂が、落ち着いていたからリリアナも安心感を得ることができた、ということだろうか。

 肌に染み入る寒さに身震いしたリリアナは、水車小屋の周囲に張り巡らせた結界の様子を見て回ることにする。

 寒さのおかげでまったく眠気を感じない。

 夜更かししなかったこともあって、十二分に睡眠を取ることができている。身体の調子も非常にいい。

「しかし、毛布を借りられたからよかったものの……」 

 この時代には毛布すらも持っていない貧民はいくらでもいる。生活保護などという概念は存在しない時代だ。下層社会の劣悪さは、イタリアの貴族階級で生まれ育ったリリアナには本質的に理解できないものである。

 しかし、それでも土の地面に毛布を敷いて、寒さを凌いだというのは得るもののある経験だったのではないだろうか。

 女神とカンピオーネに挟まれる形で眠るとは、我ながら命知らずなことをしたものだと今になって思う。

「特に異常らしいものはないか」

 呪力の変動もなく、結界にほつれもない。放っておいた使い魔たちにも可笑しな点はなく、問題らしいものは特に見つけられなかった。

 まつろわぬガブリエルが、まつろわぬメンルヴァの封印を抜け出すのも時間の問題ではあるのだろうが、夜の間に現れることはなかったらしい。

 ほっと、リリアナは安堵の吐息を漏らす。

 それから、この先どうなってしまうのだろうかと漠然とした不安を覚えてしまった。

 魔女術に造詣の深いリリアナならば、五世紀前半のガリアでも生活していくことは難しくないだろう。この時代は中世の魔女狩りも起こっていない頃だ。もちろん、十字教圏で、異教の呪術を行使すれば問題になるがそれもローマの支配圏が中心である。民草の中に溶け込むのは、さほど難しくはないし、重宝されるであろう。

 だが、それでも二十一世紀の生活が恋しい。

 本もなければテレビもない。それほど興味を持っていなかったローマやナポリの雑踏が、輝いて想起される。

 ちょっとしたホームシックだ。

 何の準備もなく、どことも知れない場所に飛ばされたのだから当然であり、むしろ平然としている護堂や晶のほうがおかしいのである。

「いかんいかん。わたしがしっかりしなければ!」

 リリアナはパンパンと自分の頬を叩いて活を入れる。

 護堂は普段の言動に惑わされがちだが、カンピオーネなのだ。放っておけば何を仕出かすかわからない。そして、晶は護堂の言動を全肯定するイエスガールであるようだ。盲目的なのはいいのだろうが、この時代にあって歴史を狂わせる可能性のある存在に諫言の一つもしないのでは、好からぬ未来に繋がりかねない。晶が主に意見しないのであれば、自分がするしかない。

 前向きに前向きに――――人にとやかく言う前に、この状況を楽天的に捉える努力をする必要があるのではないか。

 そもそも、時を超えて旅をするなど、普通に生きていては経験できない珍事である。そして、ファンタジー物には、異世界に旅立った先での大冒険というのはありふれた題材なのである。

 往々にして、物語の主人公は不可抗力によって異世界の扉を開く。それは運命であり、旅先で様々な不幸に襲われつつも出会いと別れを繰り返し、世界の命運を背負う大冒険へと発展していく――――。

 もちろん、その過程でヒロインの存在は大きくなるだろう。

 世界を救う英雄とそれを影で支える健気なヒロインの組み合わせは、古今東西あらゆる物語の必須条件で……

「ハッ、だ、だめだだめだ。こんなことを考えている場合ではない」

 頤に手を当てて物思いに耽っていた時間は、どれくらいなのだろうか。

 腕時計に目を落とすと、三、四分程度だろうか。

 リリアナは、慌てて周囲を見回し、誰にも見られていないことを確認して再び安堵の吐息を漏らす。

 心臓がバクバクする。

 こんなところを見られたのでは、また何を言われるか分からない。護堂と晶には、自分の趣味が知られているが、それでも弱みを追加する必要もないのだから。

 この時点でリリアナは自らの不注意に気付いてはいなかった。

 普段の彼女ならば、苦もなく勘付くことができただろうが、自分の精神を落ち着かせることに躍起になったためか、背後に佇む不可視の存在を見落としたのである。

「リーリアナさん、おはようございます(ブォンジョールノ)!」

 リリアナの両肩に飛びつくような勢いで背後から飛びつく影は、それと同時に流暢なイタリア語で話しかけてきた。

「うわああああ!?」

 まったくの不意打ちにリリアナは素っ頓狂な声を挙げて飛び退き、慌てて振り返ってそれが晶だと理解して呆然とした。

「た、高橋晶。い、いつの間に?」

「リリアナさんが、何かぶつぶつと言いながら棒立ちしてた頃からです」

「な、何!?」

 リリアナは愕然として、頬を朱に染めた。

「み、見てたのか……?」

「何やら深刻そうな顔をしていたので、どうしたものかと思っていたのですが、特にそんなこともなかったみたいですね」

 言いながら晶は、にやりと意味ありげに口元を歪ませた。

「ぐ……」

「ふふふ、リリアナさんの新ネタは、異世界冒険物ですか。ブームと言ってはブームですが、マンネリ感を打ち消す新要素も欲しいところで……」

「うわあああああ、もういい! 弄るな! そういうのは、本当に苦手なんだああああああああああ!」

 リリアナはポニーテールを振り乱して喚いた。

 顔は羞恥で真っ赤に染まっている。

 聞かれただけでも恥ずかしいのに、それを面と向かって言われるのは全身を掻き毟りたくなるような恥ずかしさだ。

 畜生、後で覚えてろ、とリリアナは内心で晶に向かって毒づくものの、これといって実行に移せる機会があるわけでもなく移すつもりもなかったりする。

 そんなことを考える必要もないような事態が直後に起こったからだ。

 地響きを伴う爆発と荒れ狂う呪力の炸裂を見た。

 護堂とメンルヴァがいるはずの水車小屋が、激しい炎を噴いて吹き飛んだのである。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 木っ端微塵になった水車小屋。

 吹き飛んだ瓦礫は上空数百メートルまで舞い上がり、ライン川と周囲の大地に降り注いだ。

 西洋で火薬が調合されるのは十三世紀以降のことだという。

 ならば、落雷などの自然現象を除いてこの時代で大爆発が生じることなどまずない。

 無論、この爆発に神力が関わっている以上は原因となるのは『まつろわぬ神』かカンピオーネのどちらか、あるいは両方であると言える。

 爆心地は小規模なクレーターができていた。

 瓦礫の類は粗方吹き飛ばされたのか、お盆型に抉れた地面には何も残されていなかった。

 否。

 粉塵が去った後、無傷で向かい合う神殺しと女神がそこにはいた。

 険悪な雰囲気は、あまりない。

 互いに相手の出方を見ているのか、泰然とした様子で向き合っているだけである。

 護堂の手には輝ける黄金の楯と剣。

 女神の両手には、青白く輝く雷光。

 何事かと駆けつけてきた二人の少女は、遠巻きにその様子を眺めていることしかできない。

 迂闊に近付けば、この均衡を崩すことになる。

 だから、動けない。

 静観を決め、無関係の人間が巻き込まれないように人払いをする。それが、晶とリリアナにできる最低限の支援だった。

 そして、護堂はチリチリとした女神の戦意を感じながらも決して護堂のほうから手を出すような真似はしなかった。

 多少の行き違いは覚悟の上だった。

 相手は女神でこちらはカンピオーネ。敵対する可能性のほうが高かったのだから。

「さっきも言ったケド、俺はあなたと戦うつもりはないぞ」

「今のところは、だろう。それに――――」

 バシ、と大気を焦がすような音。

「神殺しの言葉、容易く信じることはできまい」

 メンルヴァが放った雷撃を護堂は楯で受け止める。

 普通の楯ならば、跡形もなく消し飛んでいるところだが、《鋼》の神具はそう簡単には破れない。

「さらに、あなたがわたしと共闘するのは、あなたがガブリエルよりも弱いからではないか? 自らの保身のために、共闘を持ちかけるのは勇士のすることではないな」

 さらに一発、雷撃が襲う。

『弾け』

 護堂の言霊がメンルヴァの雷撃を捻り上げ、空に逸らした。

「何……?」

 メンルヴァは訝しげに護堂を睨む。

 今の権能に覚えがあったからだ。

「ガブリエルは、啓示を司る天使。相手の第六感に訴えかけ、神の言葉を届ける存在だっていう話だ」

「あなたは、まさか……」

 目の当たりにした言霊の権能とガブリエルについてこれ見よがしに語る護堂の口ぶりにメンルヴァはある可能性に思い至った。

 ありえないことではない。

 神話がこの世にある限り、神々は不滅の存在なのだから。

「お察しの通り。俺は前にガブリエルを倒して権能を簒奪してる。だから、アイツと俺が戦うのは成り行きではあっても避けられるものじゃないんだろう」

「ほう、戦う運命は変えられぬと分かっていながらわたしと手を結びたいとはどういう了見だ?」

「少なくとも、そうすればガブリエルとあなたを同時に相手にする危険は避けられる。もちろん、強大な『まつろわぬ神』の助勢を得られるのはありがたいことだし、持ちかけて損はないだろ」

「なるほど、確かに一理ある。わたしのほうもガブリエルの手の内を知っているあなたを味方にするのは利となるか」

 メンルヴァは思案げな顔をして、少しの間黙り込んだ。

 この間にも彼女の両手に弾ける雷光は輝きを失くさず、護堂を打ち抜くときを今か今かを待っている。

 やがて、メンルヴァは口を開いた。

「あなたを味方にする利はある。だが、それは女神の戦にあらず。わたしはわたしのやり方であの無礼者を始末するつもりだ」

「どうしてだ? 利があるんだから、手を組んだほうがいいはずだろ?」

「ふん、神殺しと易々と手を結べるか。まあ、わたしの快復を助けてくれたことには礼を言っておくがな。わたしも恩知らずではないのだ。この場では、あなたを討ち果たさずにおいておこう」

「おいおい……それは、礼でも何でもないじゃないか」

 呆れた護堂にメンルヴァは淡く微笑んで見せた。

 戦士と女の双方が綯い交ぜになったかのような笑みである。

「勇敢なる戦士ならば、臆せずに戦えばよい。生を拾うか死を受け取るかは、あなた次第。それはわたしにも言えることだな」

 生死は問わず、戦うことこそが重要だとメンルヴァは述べている。

 人間とは根本的に異なる考え方。しかし、命よりも名誉を重んじる時代もあった。もしかしたら、『まつろわぬ神』の性格は、その神話が形成された当時の世相を反映しているのかもしれない。

 いずれにしても、一緒に戦うという線は消えた。

 メンルヴァとここで戦わなくていいということが救いだろうか。

「では、もう一つあなたに伝えておこう。わたしが施した封印が解けるのは、おそらくは今夜だ。ヤツの神力は日没と共に高まるであろうから、あの封印ではそう長く持つまい」

「そうか、ありがとうな。それだけ分かれば、心構えくらいはできそうだ」

「まあ、あれを討ち果たすのはわたしだ。あなたの出番などありはしない」

 メンルヴァはそう言うや否や姿を変えた。

 一羽のフクロウである。

 女神アテナの象徴でもあるフクロウは夜に活動するハンターとして魔の象徴としても扱われる。聖と魔の双方の顔を持つ地母神ならではの神獣であろう。

 羽ばたく音もなく、メンルヴァが変身したフクロウは飛び立っていった。

 彼女は封印を施した張本人である。ガブリエルがいつ出てくるのかも、手に取るように分かるに違いない。

「行っちゃいましたね、女神様」

 メンルヴァが去った後、晶がやって来た。

 跡形もなく消し飛んだ水車小屋のクレーターは高熱で融解してガラスのように艶やかになっている。晶の足音が妙に響くのも地面が固くなっているからである。

 さらに、晶と一緒にやって来たリリアナが護堂に言った。

「不戦の約束をしたのは、よかったと思います。ガブリエルとの戦いもメンルヴァ様が引き受けてくださるようですし、護堂さんにも余裕ができたのではないですか?」

「そうだな。もしも、メンルヴァがガブリエルに勝てば、俺は何もすることがないから最高なんだよな」

 何も好き好んで戦いたいと言うわけではない。

 メンルヴァを救ったのは、偏に自分の身を守るためであった。ガブリエルに目を付けられたから、同じくガブリエルと敵対しているメンルヴァに共闘を持ちかけただけのことなのだ。

「けど、どっちが勝っても戦わないとダメなのは変わりないみたいだ。勝ったほうが俺に突っかかってくるのは目に見えてるんだよな」

「確かに、『まつろわぬ神』の中でも軍神の相を持つメンルヴァ様ですから、神殺しである御身と戦おうとするのは分かりますし、ガブリエルはすでに敵対していますから……本当に猶予ができたというだけですね」

「あのとき、メンルヴァを拾わなければよかったなんて思うけど、それでもガブリエルが近くにいる時点で遅かれ早かれこうなったんだろうか」

「まつろわぬガブリエルの権能が、広範な知覚力を伴うのは先輩の権能を例に挙げるまでもなく予想できることですし……」

 どれだけ護堂がガブリエルを避けたとしても、向こうからやって来るのではどうにもならない。

 護堂の気配を察して、ガブリエルがやって来る、あるいは色々な行き違いが重なってガブリエルと戦闘に突入する。護堂がカンピオーネである以上、『まつろわぬ神』と戦うのは運命と言ってもいいのだから、理屈はどうあれ、ガブリエルが敵となっていただろう。

 まつろわぬメンルヴァとまつろわぬガブリエル。どちらが敵となったとしても、強敵となるのは確実である。そして、戦いの刻限は刻一刻と近付いてきている。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 メンルヴァが派手に水車小屋を消し飛ばしてしまったために、護堂たちは雨風を凌げる場所を改めて探さなければならなかった。

 幸いにして、この辺りは田園である。

 集落から多少離れても、物置などは点在していた。

 日差しを避けるために、ある物置を仮の宿とした護堂たち三人。『まつろわぬ神』の襲撃に備えて、集落に帰ることもできないので、この場で徒に時が過ぎるのを待つしかなかった。

「暇を持て余すっていうのは、正直苦手なんだよなぁ」

 護堂が言った。

 物置の中から外の田園を眺める。

 春の風に包まれる麦の若葉が、さわさわと音を立てる。どこからか聞こえてくる小鳥の鳴き声は、平穏さを感じさせてくれる。

 本当にこれから死闘に赴かねばならないのだろうかと疑問すら湧いてくる始末である。

 そう呟くと晶は、

「嵐の前の静けさだと思うといいのではないでしょうか」

 と言った。

 戦意を損なわないためにも、戦いは意識しておかなければならない。

 護堂は頷くものの、どうにもやる気にならないのである。目の前に『まつろわぬ神』がいれば、また変わってくるのだろうが、今回は明確に戦う理由がないから盛り上がりに欠ける。誰に頼まれたわけでもなく、誰に迷惑がかかるわけでもない。神様同士の戦いに巻き込まれただけなので、モチベーションが低いのだ。

 暖かな日差しは、やがて西の空に消えていく。

 空が橙色になるにつれて、空気が冷ややかさを帯びてくる。昼と夜の寒暖差もまた春らしい。

 ガブリエルが動き出すのが、日没後だとメンルヴァが言っていたが、果たしてどうなるか。

「今のところ、大気に呪力の乱れはありませんね。護堂さんは、何か感じていますか?」

「いや、特に何も。まだ、封印は破れてないみたいだな」

 リリアナは終始ガブリエルの動きを捉えようと使い魔や呪術を使って監視の目を張り巡らせてくれていたが、現状では大きな変化はない。女神の封印を破るとなれば、それなりに大きな呪力の変化があってもおかしくはないので、それがないということはガブリエルはまだ虜囚の身に甘んじているということであろう。

「ですが、まだ夕暮れ時というだけですから。夜は長いので、いつかの大天使が復活するか分かりません。準備することがあるのでしたら、抜かりなく準備されたほうがいいでしょう」

 リリアナがそう言うと、晶が護堂の袖をつついた。

「あの……先輩。リリアナさんの言うとおり、戦いに備えて最善を尽くしたほうがいいと思うんです……」

「晶……」

 もじもじと恥ずかしげにしながら、晶は言った。

 彼女の言わんとすることを、分からない護堂ではない。

「『剣』か……確かに、あれがあれば大抵の敵に優位に立てるけど」

「なら、先輩はその準備もしておくべきです。後で必要になったけど使えなかったでは、笑い話にもなりません。命が懸かっているわけですから……」

「そう、だな」

 護堂もまた羞恥で顔を紅くする。

 ウルスラグナの言霊の剣を砥ぐということは、そのための知識を護堂が手に入れなければならない。この場合、ガブリエルとメンルヴァについての知識である。護堂がそんなものを持っているはずもないので、誰かから与えられなければならない。

 しかし、ここで問題になってくるのがカンピオーネが持つ呪力への高過ぎる耐性である。

 カンピオーネは善悪の区別なくあらゆる呪術を無効化する。

 知識を与えるための教授の術も例外ではない。

 ただし、カンピオーネが無効化するのは身体の表面に触れた呪力だけであって、体内からは別である。つまりは、最も手軽にカンピオーネに術をかける方法は、経口摂取であり、キスという形になるのだ。

「分かった。晶、頼めるか?」

「はい! それは、もち、ろん……で……」

 喜びの絶頂に飛び上がった晶のテンションはすぐさま下降線を辿る。

 あからさまに元気をなくし、落ち込んだ。

「ど、どうした?」

「いや、あの、その……本当に、何ていうか……今気付いたんですけど……」

 晶は、ぶつぶつと小さな声で呟く。

 そして、ふっと笑って呆然とした表情で護堂に言った。

「ワタシ、ガブリエル、シリマセン……」

「え?」

 晶はどんよりとした雰囲気をそのままに護堂に謝る。

「だって、そんな西洋の天使の来歴なんて知ってるわけないじゃないですか……霊視、できませんし。わたし、日本とかアジア系なら何とかいけますけど、西洋なんて、無理で……ごめんなさい……」

「いや、別に責めたりしないからな。『剣』はあれば便利だけど、なくてもどうとでもなるからさ」

 消沈する晶を護堂は励ますように言った。

「はい……」

 晶は項垂れながらも頷いた。

 何とか護堂の力になれる機会はないものかと思っていたところだっただけに、知らないという根本的な問題に直面して精神的にダメージを負った。

 護堂と晶の会話についていけなかったリリアナは、会話の内容をつまみ食いして不完全な理解をした。

「これからガブリエルと戦うというのですから、その知識を学ぼうというのは正しいことでしょう。護堂さんの戦いに有利になるのは間違いありませんし、よろしければわたしがお教えしますが?」

「は?」

「え!?」

 リリアナの申し出に、護堂は唖然とし、晶は目を剥いてリリアナを見る。

「別におかしくはないでしょう。わたしはイタリアで生まれ育った魔女ですよ。大天使ガブリエルについて講釈するくらい何ということもありません」

「え、ああ、うん。そうだな」

 リリアナはウルスラグナの権能の特性について知らない。だから、単に教えればいいという程度の認識なのだろう。いや、そもそもウルスラグナの神殺しの剣を発動する要素として必要不可欠なのが神の知識であるということすら知らないのだから、今のリリアナはただ「彼を知り己を知らば百戦殆うからず」という諺の通りにガブリエル対策に知識を求めているだけだと思っている。

 しかし、現実にはただ教えてもらうだけでは意味がない。

 護堂自身がその知識を完全に覚え、そして理解しなければ敵の神格を斬り裂く『剣』を作り出すことはできない。

「どうかしたのですか?」

 気まずそうな沈黙にリリアナは首を傾げた。

 護堂も晶も、リリアナから視線を逸らしている。

「別にガブリエルの知識が必要なのですよね?」

「それは、まあそうなんだけど、ただ教えてもらうだけじゃなくてだな……まあ、何だ……」

「教授の術をかける必要があります」

 言いよどむ護堂の言葉を、晶が代弁した。

「教授?」

 晶は、一回護堂と目配せし、それから理由を説明した。

「先輩がウルスラグナと戦い、黄金の剣の権能を簒奪したことはもう知ってますよね?」

「それはまあ。効果までは分からないが、賢人議会のレポートには外見だけは載ってたな。セルピヌスと戦ったときのものだけだが」

 やっぱり報告が行ってたのか、と護堂は思った。

 セルピヌスとその分身であるカンヘルと戦ったのが日本国外ということもあり、護堂の情報はほとんど筒抜けになっていたらしい。

「そのウルスラグナの権能を使うのに、『まつろわぬ神』の知識が必要なんです。それも、概要だけじゃなくて成立過程とか背景とかも要るらしく……先輩はその辺りに詳しいわけじゃないので、知っている人が教授の術をかけなければならないのです」

「なるほど。それで、ガブリエルのことを。――――高橋晶はガブリエルの背景まで説明できないから教授ができないと」

 晶はぎこちなく頷いた。

 世界的に有名な大天使の背景を説明できないのは呪術師としてどうか、と思われそうで嫌だったのと、この流れがリリアナと護堂をくっ付けることに繋がりそうで不安だったことの両面から晶の不快感は顔に出てしまった。

 ウルスラグナの権能についてもリリアナに知られたところで問題にはならない。

 原作の草薙護堂はウルスラグナの権能しか持たないこともあって、その発動条件を公にしていなかった。しかし、この世界の護堂にはそのような縛りは必要ない。ウルスラグナ以外にも使い勝手のいい権能を保有しているからである。

 とはいえ、対象となった権能、神格は例外なく斬り捨てることができるという点でまさしくジョーカーとなりうる権能である。使えるのと使えないのとでは戦略幅が大きく変わる。

「教授の術はわたしでも使えます。どうしてそこで躊躇するのです? メンルヴァ様によれば、もう直まつろわぬガブリエルが復活するというのに」

 リリアナは護堂に尋ねた。

 当然であろう。

 権能が使えるか使えないかが『まつろわぬ神』という強大な敵と対峙するのにどれほどの影響をもたらすか分からぬリリアナではない。

 ウルスラグナの『剣』を用意するのに教授が必要ならば、教授をしろと一言命令するだけですむ。

「リリアナさん。あなたはとても大切なことを見落としています」

 そんなリリアナに晶は訳知り顔で言った。

 ずい、と身を乗り出して、

「先輩はカンピオーネなんです。カンピオーネに、人間の呪術は一切効果を発揮しません。それをお忘れですか」

「あ、そういえば、そうだった」

 カンピオーネなど身近な存在ではないリリアナにはそこまでの気が回らなかった。

 権能の有無が普通の呪術師との大きな違いだが、細かく見ていくと鋼よりも固い骨格や強靭極まりない筋肉繊維、そして呪力耐性と権能を除いてもただの呪術師にどうこうできる相手ではないのである。

「では、どうやって術をかける? 術が効かないのでは、そもそもウルスラグナの権能は使えないじゃないか」

「まあ、正面からかければ弾かれて終わりですけど、内側からは別です。要するに経口摂取、キスすることで内側から術をかけるんです」

「な……!?」

 リリアナは顔を真っ赤にして慄いた。

 聞き及んだことはある。呪術の世界に伝わる有名な故事に神殺しと巫女の話がある。それが事実とすれば、別段驚くこともないのだが、しかし、今の話の流れからするとリリアナが護堂にキスをしなければならないということではないか。

「だから、言いたくなかったんです」

「な、なるほどな。そうか、キスか」

 リリアナは護堂をちらりと見る。視線が合って、すぐに逸らした。

「それで、リリアナさん。どうするんですか?」

 晶は語気を強めて尋ねた。

「ど、どう、ちょは」

 座りながら後ずさるという器用な行動で晶から距離を取るリリアナ。

「当然、先輩とキスするのかどうかです」

「いや、確かに教授はできる、が、やっぱりそういうのは正しく恋人とすべきだと思うぞ。そう軽々にしていいことではないはずで、あ、いや、別に護堂さんが嫌だとかそういうことではないが、いきなりというのは」

 しどろもどろになりながらリリアナは早口で言い訳を並べる。

「そ、そうだ。高橋晶。わたしがあなたに教授をかけるから、あなたが護堂さんに教授をすればいい」

 名案だと言わんばかりに、リリアナは言ったが晶は渋い顔のままだ。

 どうしてなのか。

 晶は護堂の恋心を抱いているはずで、他人が彼とキスをするのを良しとするはずはないのに。

「わたしは先輩の式神です。身体は呪力で構成されていて、人間の呪術は基本的に効きません。理屈は先輩と同じです。リリアナさん。わたしとキスするんですか?」

「ううぇえええ!? いや、あなたに術が効かないなんて、初耳なんだが」

「いちいち言いませんよそんな情報。……ちなみにわたし、先輩が必要だっていうならリリアナさんとでもしますよ」

 護堂も晶も呪術は効かない。晶の場合はそれに加えて呪力を伴わない物理攻撃も無効である。身体が呪力で形作られているために、この世ならぬ力を介さなければまともに干渉できないのである。

 リリアナは護堂にキスをするか晶にキスをするかの二択を示された。

 晶のほうにそれを嫌がる様子はない。

 本当に護堂のためになるのなら、リリアナに唇を差し出すことにすら欠片の躊躇もしないのだ。

「まあ、待て晶。別にウルスラグナの権能がなければならないというわけじゃないんだからさ」

 護堂はヒートアップする晶をなだめるように言った。

「ウルスラグナを倒す前から俺は『まつろわぬ神』と戦ってきたんだし、ガブリエルなんてそもそも権能がない頃の相手だ。大きな問題にはならないって」

「それは、そうかもしれませんけど……」

 護堂の戦闘にウルスラグナの『剣』が必須というわけではない。

 しかし、それでも『剣』があることの安心感は大きいのだ。敵を斬り裂くだけではない。攻撃や呪い、毒、相手の神格に関する様々な力を無効化する言霊の『剣』は、護堂が有する権能の中でも最大の防具として機能するだろう。生存率を高める上でこれほど頼れるものはない。

「あの、護堂さん」

 リリアナはおずおずと話しかけた。

「ん?」

「そのウルスラグナの権能というのは、ガブリエルやメンルヴァ様と戦う上でかなり重要な役割を果たすのでしょうか?」

「……そりゃ、まあ、あれば便利だよな。知識さえあれば、ほぼすべての神様に対して劇薬になるものだから」

 ウルスラグナの『剣』の権能は、護堂が最近になって手に入れたものである。そのため、情報が少なくリリアナはその効果を把握していない。

 しかし、ウルスラグナの十の化身の中に黄金の剣を持つ戦士のモチーフがあることは知っている。

 ならば、『戦士』の化身を権能として簒奪したのであろう。

 外敵を討ち果たす武勇の象徴だ。

 あらゆる神を相手に通じるというのだから、かなり頼れる権能なのだろう。

「……分かりました」

「え?」

「ガブリエル、それとメンルヴァ様の来歴についてわたしが護堂さんにご教授いたします!」

 茹蛸のように顔を紅くしたリリアナは、意を決して叫んだ。

 護堂はその剣幕に圧され、晶は護堂の隣で小さくため息をついた。

「それは、ありがたいんだけど、いいのか? 本当に?」

 護堂は念を入れて確認する。

 これまで、複数の女子とキスをしてきた罪深さは今更言うようなことではない。

 護堂自身も自覚していることではある。彼は、戦うのに必要な切り札を手に入れる機会があるのなら、容赦なく奪っていく男であると。人並みの良識があるから無理矢理はしない。しかし、僅かでもその隙があるのなら、付け入るだろう。

 リリアナから言質を取れば、躊躇はしつつも強く断ることはない。

 それが戦いに利用できるのであれば、護堂はリリアナとキスすることも辞さない男だ。

 だからこそ、あえて尋ねる。

 無理矢理ではないと、自分を納得させる最後の一押しになるからだ。

「あ、う……」

 リリアナはそこで躊躇し、それからこくんと頷いた。

「ウルスラグナの権能さえ使えればという状況もありえます。そのときにわたしが教授しなかったからとなっても困りますから」

 搾り出すようにそう言った。

 その言葉そのものが、羞恥のせいか震えているように思えた。

 リリアナが宣言したのを聞いた晶はすっと立ち上がった。

「じゃあ、わたし外に出てますから。五分したら戻ってきます。それまでに済ませてくださいね」

「あ、ああ」

 色々と諦めたような晶の表情に申し訳なさを感じつつ、護堂は頷いた。

 晶は護堂の返事を聞いて、小屋から出て行く。彼女の気配が十数メートルほど遠のいたところで、リリアナが護堂に迫った。

「あの、勘違いしないでくださいね。これは、人口呼吸のようなものです。……必要でわたし以外にできないからするだけですから」

「ああ」

 護堂はそれだけを言うと、リリアナの腕を掴んで引き寄せた。

「悪いな」

「いいえ、お気になさらず……」

 そして、リリアナは呪力を練り上げて唇にガブリエルの知識を乗せ、護堂とキスをする。

 初めてのキスに固くなるリリアナは、ゆっくりと教授の術を護堂の中に送り込む。

「……あなたが始めて弑逆し、そしてこれから対峙するであろうガブリエルという天使は、一神教成立当初から重要な役割を持って描かれた神格です」

 リリアナが知識を送り込み、そして息をするために唇を離す。それを数秒おきに繰り返す。まだ、慣れていない女騎士は、緊張しつつも献身的に護堂に唇を押し付ける。

 そのたびに、護堂の脳裏に輝ける天使の姿を浮かび上がる。

 光を纏う正義の象徴。

 神の言葉を告げるメッセンジャー。

 ガブリエルという神の情報が、護堂の脳に刻み込まれていく。

「ガブリエルが属する階級を熾天使(セラフィム)としたのは中世に入ってから、有名な大天使という階級も六世紀に偽ディオニシウス・アレオパギタが『天使の九階級』を定めたことによります。ですので、五世紀以降のガブリエルと今この時代にいるガブリエルは異なる神性を持っている可能性を考慮に入れるべきでしょう」

 『まつろわぬ神』は降臨した時代の伝説や神話によって権能を変える。

 ならば、五世紀に降臨したあのガブリエルには、後世付け加えられる設定の影響を受けていないはずなのだ。

 リリアナはやっと肩の力が抜けたのか、それとも護堂とキスをしてきて自分も流されたのかさらに深く求めるようになっていた。護堂もそれに応え、知識をリリアナから能動的に吸い上げるようにする。

「聖書は、西洋からアジアに至るまで様々な国の神話や伝説を取り込んで形成されています。その名残は、ガブリエルを初めとする高位の天使にも見ることできるのです。初期から名前の挙がる天使たちは、その起源をオリエント、特にバビロニアに遡るのですから」

 燃える炎の蛇が空を行くイメージが次いで想起される。

 ガブリエルに関連してミカエル、ラファエル、ウリエルといった著名な天使たちの名が現れる。

 そして、その行き着く先。

 西洋を出て東へ。

 遙か古代の受難の民の歴史へと続いていく。

 

 

 きっかり五分、席を外していた晶が戻ってきたときには、教授の儀式は終わりを迎えていた。

 ガブリエルとメンルヴァの知識を得た護堂は、この二柱の神のどちらと戦うことになったとしてもウルスラグナの『剣』を作ることができる。

「どうですか、先輩?」

 晶は護堂に尋ねた。

 護堂は自分の右手を見て答える。

「大丈夫そうだ。リリアナと晶のおかげでしっかりと戦えそうだ」

「わたしは何もしてませんけど」

「きっかけを作ってくれた」

「もちろんやでしたよ。しかたないことですけど」

 あからさまに拗ねた態度で晶は言った。

「悪かったよ」

「本当に分かってます?」

「分かってるって」

 ジトっとした目で護堂を見る晶。

 しかし、彼女はそれ以上追及することはなかった。護堂は、どうせ同じような事態になれば誰かから教授を受けるのだろう。それを止める権利は晶は持たない。感情としては嫉妬してしまうが、それによって護堂の生命を脅かすことがあってはならないと自制する。

「リリアナさんは……」

「い、今話しかけないでくれ。落ち着くまで待って」

 リリアナは身悶えするようにして、小屋の隅で縮こまっていた。

 かなりの羞恥を感じているのだろう。薄暗がりの中でも分かるほどの、顔が紅い。行為を終えて数分は経っているのに、まだ赤みが引いていないのだ。

 晶はそんなリリアナは見た後に、護堂の隣に腰掛けた。

 それから、晶は護堂の二の腕辺りをトントン、とつついた。

「どうした」

 護堂が振り返ったとき、晶の唇が護堂の唇と重なった。

 同時に、晶から護堂に何かしらの呪力が送り込まれる。

「わたしにもできることはないかって考えてました」

 晶は言う。

「クシナダヒメの権能で先輩をサポートします。大したことではありませんけど」

「いや、助かるよ。神様が相手なんだからな」

 そのとき、川を遡った上流で大きな閃光が立ち上った。

 青白い雷のような光が柱となって空を貫く。

 地鳴りと豪風が辺り一帯を駆け抜ける。呪力の爆発的な膨張は、まさしくまつろわぬガブリエルの復活を意味していた。

 



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古代編 5

 激しい閃光が大地を吹き飛ばす。

 粉塵を散らし、宙に浮き上がる天使は汚れの一つも付着しておらず、丸一日を地下で過ごしたとは思えない輝きを全身からこれでもかと放っていた。

「さてさて、してやったりとでも思ったかな。メンルヴァは」

 美しい金色の髪を指で梳く。

 流麗な顔に微笑が浮かぶ。

 それ以外の表情を、彼/彼女は知らない。

 性別のない身体は男性的であり女性的でもあった。美しく気高い姿に民草はひれ伏し、臣従を誓うであろう。

 それが道理だ。

 そうでなければならないのだ。

 ならば、己に逆らう者は人ではなく導く対象でもない。

 いつかのときと同じように、地上から消し去ってしまうべき悪徳の塊なのだ。

『弾け』

 背後から襲い掛かってきた雷の竜を、ガブリエルは言霊で弾き飛ばした。 

「来たね、メンルヴァ。やはり、神殺しの前に君を潰さないといけないらしい」

 川の対岸に広がる森の中にメンルヴァは潜んでいるのだろう。 

 神殺しの気配はおぼろげながらまだ遠くにある。二、三キロは先にいるのか。愚かなことだ。封印術をかけたときのように手を携えて挑めば勝ち目はあったものを。

 呪力が形を変え、雷撃の竜を生み出す。

 メンルヴァの雷神としての相が、大地の呪力を雷に変換しているのである。

「なるほど、僕が舞い上げた土を利用して……」

 現れるのは九つの竜。 

 神話の怪物の姿をそのままに、眩い雷撃となってガブリエルに襲い掛かる。さすがに、この規模を言霊で防ぐのは難しい。

「さすが、だ!」

 正義の象徴たる剣を抜き、楯を構え呪力を爆発させる。

 雷の竜は、そのままガブリエルを飲み込もうとし、天使が振るった一刀に斬り裂かれる。

 だが、生き物ではない雷の竜の首を落としたところで攻撃を止めるには至らない。僅かに稼いだ時間を使って、ガブリエルは大きく飛翔する。その後をライン川の水が追いかける。

「地母神である君も水に関与する権利はあるだろう。けれど、そもそも水を司るとされるこのガブリエルを相手に、水辺で勝負を挑むなど命知らずにもほどがあるね!」

 舞い上がる水の柱はあっという間に雷の竜の総てを束ねた太さよりも太く成長する。あたかもそれは、水でできた生命の樹のように屹立し、そして――――弾けた。

 真白で冷たい爆発だ。

 衝撃波が四方八方に飛び散り、森の木々は倒れ、雷の竜は消し飛んだ。

「見えてるよ、メンルヴァ。他の悪魔共ならばともかく、このガブリエルから逃れられるなんて、思ってないだろうね!」

 とん、とガブリエルは宙を蹴った。

 羽はないが見えない力で空を舞う。

 ガブリエルは啓示の天使。第六感に働きかけることがその能力の本質である。

 知恵の女神であるメンルヴァの知覚力をすり抜けて、ガブリエルはあっという間にメンルヴァの接近する。

「く……!」

 メンルヴァは漆黒の鎌を取り出して後方に跳びつつ、ガブリエルの剣を受け止める。二合、三合と打ち合う中で、メンルヴァは苦悶の表情を浮かべた。

 動きが読めない。

 先が視えない。

 ガブリエルの権能が、未来視にも匹敵するメンルヴァの霊眼を阻害しているのであろう。

「どうしたの? 君、一応は軍神なんじゃないの?」

「侮る、なよ!」

 メンルヴァの目の色が変わった。

 深い黒色の魔眼はさらに大地の呪力を吹き上げてガブリエルに焦点を絞る。

「う……!?」

 ガブリエルの動きが止まる。

 風に棚引くガブリエルのトーガが固まった。石化しているのである。

「この……!」

「遅いな!」

 石化の魔眼によって著しく動きを鈍らせたガブリエルに向かって、メンルヴァは鎌を振り下ろす。脳天を叩き割るように刃がガブリエルに迫る。剣でこれを受け止めたガブリエルは、衝撃を殺しきれずに跳ね飛ばされた。

「ゴルゴンの目か。元来君のものじゃないから油断してたな。そこまでできたのか」

「その減らず口もすぐに利けなくしてやろう」

 メンルヴァの鎌が形を変えて弓と矢になった。

 真っ黒な弓矢には、見るからに死の呪詛が吹き込まれている。

「見ての通りだ、蛮神。わたしの世界へ、貴様を案内してやるとしようか!」

 弓弦を引き絞り、メンルヴァは矢を射放った。

 死を纏った矢は空中で分かれてガブリエルの頭上に降り注ぐ。

 地母神の多くが死と密接に関わりを持つ。死の呪詛は、比較的ポピュラーでありながらも強力無比な代物だ。

「面倒な」

 ガブリエルは矢の雨の中を踊るようにすり抜ける。直感を極限まで高めた結果、矢の軌道を先読みするまでになったのである。それでも、避けきれる数ではない。いくらかの矢がガブリエルの身体を掠め、呪詛を送り込む。

 美しい微笑が初めて歪む。

 身体の動きが鈍った。毒が全身を巡り、体温が急速に落ち込んでいく。

「さあ、覚悟しろ。ガブリエル!」

 メンルヴァがガブリエルに向けて止めを放つ。

 特大の雷撃を込めた鎌だ。

 『まつろわぬ神』と雖も、この一撃を受ければ致命傷は免れない。毒で身体を痺れさせたガブリエルには、回避するなどということも儘ならないはずである。

 

 

 

 どこまでも広がっているかと思うほどに広大な古代の森の一画は、根こそぎ抉り取られて大穴が開いていた。

 クレーターの直径は五十メートルはあるだろうか。その周囲は激しすぎる爆風によって撫で付けられて、円の外側に向かって木々が倒れるという奇怪な状態になっていた。さながら、ミステリーサークルのような破壊痕。パチパチと空気が爆ぜるような音がするが、これはどこかで火が出たからであろう。そのまま鎮火するか、燃え上がるかは状況次第か。

 瓦礫に埋まった形でメンルヴァは呻く。

 意識を失わなかったのはありがたいが、身体が動くかと言えば否だった。

 蛇神ならではの再生力を以てしても如何ともしがたい打撃を受けた。

「く……なぜ……」

 ただ、疑問なのは明らかに届いたはずの死の呪詛がガブリエルに効かなかったことであろう。最後の交錯の瞬間、ガブリエルは万全のときと同等の動きでメンルヴァに対抗し、そして事前に準備していたであろう強大な一撃で辺り一帯を吹き飛ばしたのである。

 勝利を確信していたメンルヴァは、ガブリエルの反撃に為す術がなかった。

 女神の直感に干渉されていたこともあって反応が遅れ、辛うじて生を拾うのが精々であった。

 疑問は尽きない。

 しかし、それを解決する手段がメンルヴァにはない。

 ガブリエルの過去を読み解くだけの力がメンルヴァにないからである。

 推測することができるだけ。

 ならば、頭を使わなければならない。知恵の権能に頼るだけではなく己が積み上げた知識を以て対処するしかないのだ。

 手応えからして、呪詛を弾いたというよりも癒したというほうが正しい。

 しかし、それはガブリエルというよりはラファエルの領分である。となれば――――そう、メンルヴァがメドゥサの魔眼を使用したように、ガブリエルもまたその身に宿る別の側面を用いた可能性が高い。

 と、なれば――――、

「く、なるほど。貴様……」

「知恵の女神なだけのことはあるか。まあ、僕ら『まつろわぬ神』の宿命みたいなものさ。ガブリエルである以上、完璧に使いこなせるわけじゃない。けれど、その一端を引っ張ってくる程度はできるのさ」

 だからこそ、ガブリエルに毒は効かない。

 完全にとは言えないものの、ガブリエルには体内に入り込んだ異物に対処する能力がある。

「さて、硫黄の火を受けて生きているのは驚きだけど、まあこれ以上は無理だね。その身体じゃあ、日の出まで持ちそうもない」

 かといって見逃す理由はない。

 メンルヴァは強力な再生力のある女神だ。このまま放置しても九割九分死ぬだろう。それでも万が一にでも生を拾って再戦となれば負けることはないだろうが、苦戦は強いられることになるだろう。知恵の女神を相手に二度も三度も戦っていれば手の内を読まれてジリ貧になる。

 元々、オリジナルのアテナほど軍神としての相が強くなく、さらにガブリエルが常に先手を取れる条件だったからこそここまで優位に事が運べたのである。

 ガブリエルは基本的に相手を対等とは思わないが、脅威に対して油断するほど『まつろわぬ神』を舐めてはいない。

 故に、ここで止めを刺しておく。

「じゃあ、さようならだ。メンルヴァ」

 剣を逆手に構えたガブリエルは、メンルヴァの胸に切先を突き立てる。――――そのほんの一瞬前、ガブリエルは不意に飛来する三挺の刃を迎撃するのに、剣を返した。

 弾かれた剣は、そのまま瓦礫の山の一部を吹き飛ばす。

「神殺しか。僕と女神の戦いに決着がついてから現れるとは強かな男だ」

 竜虎相打つのを狙っていたのだろうが、当てが外れたようだ。

 ガブリエルは健在、女神は死に体である。

 出てきてくれるのは都合がいい。

 こちらから出向く手間が省けるというものだ。

 ガブリエルは剣を肩に担いでメンルヴァの下を離れた。女神が最後の力を振り絞らないとも限らない。とりあえずは安全圏に逃れた上で神殺しを始末する。

 悪徳の抹消と神の声の伝達。

 それが、ガブリエルという天使に課せられた使命なのだから。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 実力が拮抗した者同士の戦いは一瞬で決着が就くものもあれば千日手に陥るものもある。

 それは、対峙した者の強弱というよりも時の運ともいうべき理不尽な形で結果が現れる。

 ガブリエルがメンルヴァに勝利した。

 それは、メンルヴァが弱かったということではない。

 相性や性格、時間帯、能力の性質その他諸々の要素を加味して考察すべきものである。

 例えば、ガブリエルがメンルヴァの危険察知能力を封じて戦っていた点は、ガブリエルの戦術が功を奏したといえるだろう。一方で、メンルヴァがそれを打ち破ることができれば、結果はまた別の形に落ち着いたかもしれない。

 だが、それを考えることこそ無意味か。

 メンルヴァは墜ち、ガブリエルは五体満足で生き残った。 

 故に、護堂の敵はまつろわぬガブリエル。

 一神教に謳われる至高の天使である。

「遂にその罪を雪ぐときが来たね、邪悪なる神殺し。待っていた、というのはおかしいかな」

「おかしいな。誰もそんなもん、待ってないのにさ」

「いやいや、そんなことはない。君の死は世界が望むもので、僕の勝利は正しく星の定めなのだから。言うなれば、神が望んでいるんだよ。僕は、天使として神の名の下に君を討つ」

 ガブリエルが貼り付けたような微笑を深めた。

 彼我の距離は、目測で二十メートル程度か。

 遠い、とは思わない。

 この程度の距離、『まつろわぬ神』にとっては零にも等しい近距離だからだ。

 現に、

「その首を貰う」

 こうして、ガブリエルは護堂の眼前に迫り、剣を振るっている。

「ッ……!」

 ガブリエルの剣は、護堂の首から数センチ手前で止まった。

 護堂が咄嗟にその軌跡に差し込んだ剣が受け止めていたからである。

 火花を散らして、両者は離れる。

 護堂は剣を両手で握り締め、油断なくガブリエルを見据える。

 ウルスラグナの切り札をいつ使うのか。ほかの権能は通じるのか。諸々、確かめなければならない要素はたくさんある。

「ふぅん、この感じ」

 ガブリエルは自分の剣を見つめ、それから護堂を見る。

 そして、閃電のようにその身体を閃かせて護堂に襲い掛かる。烈風かと見紛う速度域での突貫であったが、ガブリエルからすれば駆け足も同然の移動速度である。それでも、ガブリエルの動きには一切の無駄がなく、そして直感殺しの権能が護堂の感覚を狂わせる。――――そのはずだったのだが。

 一度ならず二度までも、剣戟を交える羽目になった。

 それだけに留まらずに三合、四合と打ち合う。

 ガブリエルの動きを先読みしているとでもいうような動き。

 何よりも素人丸出しの動きでありながら、何故ガブリエルの剣を避け、受けることができるのか。

 メンルヴァがそうであったように、ガブリエルもまた自分の知覚の外にある現象に首を捻ることとなった。

「君は大して武術の心得がないはずなんだけど、どうしてこう攻め切れないのかな。神殺し共は概してそうなんだけど、君の場合はまた別な気がするね……」

 その正体を探るためか、ガブリエルは護堂に剣を打ちつけ続ける。

 どこかで襤褸が出れば御の字。そうでなくても、時が問題を解決するであろう。

「そう、例えば僕に類似する権能を持っているような気がする。あるいは、僕と同一かそれに等しい神格から簒奪したのかもね」 

 『まつろわぬ神』ならば、それもありえるだろう。

 討伐された神と同一の神格が、別の場所で再臨を遂げるというのは可能性が低くはあっても皆無ではない。

 だからこそ、ガブリエルは思っていたほどには攻め切れない。

 護堂がガブリエルの直感殺しに対抗する何かを持っているために、メンルヴァのように不意打ち状態を作り出せないのである。

 それでも、護堂が剣の素人であることには変わりない。

 ならば、責め続ければこの守りも崩壊するだろう。

 ガブリエルは護堂の動きを観察しつつ、隙あらば首を刎ね飛ばせるように連撃を叩き込んだ。

 

 

 ガブリエルからの攻撃は鋭く無駄のない剣に終始する。

 武神というわけではないが、それでも神の力を体現する強大な天使である。当然ながら、一太刀が致命傷になりかねない危険性を持っている。

 それでも、相手はまだ護堂を素人だと思っている。

 そこに隙がある。

 『まつろわぬ神』と神殺しは決して対等な存在ではない。

 神を殺し、その権能を簒奪したとしても、カンピオーネは『まつろわぬ神』と同格には至れない。

 にも拘らず、勝利する。

 だからこそのチャンピオン。

 護堂はここで手を変える。

 女神アテナの導きの権能が、護堂の戦闘技能を一息に達人の域に押し上げる。

 ガブリエルの剣を躱した直後、護堂は自らの剣を八双の構えにし、半身になってガブリエルの胸に体当たりをした。凡庸極まる踏み込みながらも、ガブリエルの呼吸を外した体当たりはただの一歩で護堂の身体をガブリエルの懐にまで導いた。

 ガブリエルの剣はまだ引き戻されておらず、護堂の剣術は神にも届く極地に至っている。

「おおおおおおおおおおおおおお!」

 護堂は吼え、逆袈裟にガブリエルを斬る。

 痛烈なる斬撃も、ガブリエルは瞬時に危険を察して飛び退いた。護堂の剣は、ガブリエルの胸を浅く斬るだけで致命傷には程遠い。

『仕損じたか。後一歩踏み込んでいれば片付いたものを』

 無茶を言うなと護堂は思う。

 アテナのナビゲーションは肉体を直接操ってくれるものでもある。護堂の反応速度、筋力、戦闘センスそれらは武神とも呼ぶべき状態にまで高まるのである。アテナが導くので、その技能はアテナに由来するものとなる。

『クシナダヒメの権能も存外、行き渡っていると見える。ガブリエルに体勢を立て直す暇を与えず攻めよ』

 分かってる、と護堂は心の声に返事をして跳躍した。

 たった一度の跳躍で、十メートルは移動できただろうか。身体能力が、常人のそれを遙かに越えている。晶が施してくれたクシナダヒメの権能――――英雄を生み出す権能が護堂の身体能力を押し上げているのである。これによって、アテナの戦闘技能を存分に発揮することができるようになった。

『古今東西に跨って英雄には地母神の加護が付き物よ。かく言う妾も、ペルセウスをはじめとする英傑に手を貸してきた。クシナダヒメもまた、一人の益荒男が英雄に至るための道を示す存在に相違ない』

 地母神と《鋼》の英雄たちの関わりは非常に複雑である。

 《鋼》と《蛇》の関係は一般的には敵対関係にあり、《鋼》の軍神は《蛇》の地母神を討ち果たし、その力を簒奪し、あるいはその女神を支配下に置いてきた。しかし、それでも女神への信仰は消えることはなかった。古来の大地の女神を最高神とする信仰は消えたとしても、女神の力そのものは普遍的に信仰を集めたのである。それこそ、《鋼》の軍神たちですら無視できないほどに。

 結果的に《鋼》の軍神は英雄へと至る過程の中で少なからず《蛇》の女神の加護を欲した。

 ペルセウスはメドゥサを退治するためにアテナの加護を求め。

 アキレウスはテティスの息子として生まれ、同じくアテナの加護を得た。

 また、アキレウスやヘラクレス、ヤマトタケルなどの英雄たちは目的は様々であるが女装した逸話がある。

 これは女神の力を取り入れるための儀式としての側面があり、ヘラクレスに仕える神官は彼に習って女装をしていたと伝えられる。

 では、スサノオとクシナダヒメはどうか。

 ヤマタノオロチ討伐に於いて、スサノオはクシナダヒメを櫛に変えて髪に挿し、戦場に向かった。

 クシナダヒメを守るための戦なのだから、クシナダヒメを遠くに避難させればよいはずである。わざわざ櫛に変えて携行する必要はないように思える。しかし、他の神話に見られるように、クシナダヒメが英雄に力を与える存在であったのなら筋は通る。

 日本では櫛は魔除けの力を持つと伝わっており、『古事記』ではイザナギが火雷大神の軍勢から逃れるために同じく魔除けの力を持つ竹でできた櫛の刃を追って投げつけたという記述がある。

 同じようにスサノオも女神を魔除けの櫛に変えることで、ヤマタノオロチを討伐するための神力を得たと考えるべきであろう。

 そして、クシナダヒメの権能を受け継いだ晶は、その権能を不完全ながら行使できる。

 護堂に大地の呪力を供給し、その身体能力や権能の出力を上昇させることで、護堂の戦いを支援するのである。

「ガブリエル!」

「小癪な!」

 剣と剣がぶつかり合う。

 火花が散り、呪力が弾ける。

「何かしらの権能を使っているのか。さっきと動きが違うな」

 ガブリエルの接近戦での戦闘能力は決して低くはない。しかし、軍神と語り継がれているわけではないので、本家本元との力量差は確かにある。『まつろわぬ神』というのは、自分の領分では非常に強力ではあるが、その外に出ると得手不得手がはっきりするものなのである。

「ふん、この距離で君と戦う理由もない」

 護堂の斬撃を寸でのところで躱したガブリエルは、大きく飛び退くと同時に空に舞い上がった。

「大地の息吹よ。邪悪なる魔王を討て」

 突如として発生した地響き。

 森の木々が蠢き、地面が隆起する。

 それらは即座に結びつき、五メートルほどの大きさの塊となった。土塊は、丸い図体に短い四肢を持った姿をしている。

 それが視界にいるだけで数十体。

 土と木でできた異形の怪物に、護堂は取り囲まれたのである。

 その内の一体が、護堂に対して襲い掛かってくる。大きな岩石の拳で護堂を押し潰そうとする。

「陰陽の神技を具現せよ。鬼道を行き、悪鬼を以て名を高めん!」

 護堂が対処するよりも前に、漆黒の風を纏って現れた晶が、この土塊を槍の一閃で粉砕した。

 さらに空から青い光線が舞い降りて、土人形を射抜いていく。リリアナが、戦場の端から狙撃してくれているのである。

「神殺しに力を貸すか、人間。ならば、君たちも打ち滅ぼさねばならないな!」

 上空でガブリエルがリリアナと晶を見据えて怒りを露にする。

 ガブリエルの表情は微笑から変わることはない。しかし、その言動の端々に、明確な怒りの感情を感じる。

「し、ら、ない!!」

 ガブリエルの怒りを晶はまったく意に介さず、ゴーレムをさらに一体屠る。

 加えて、槍を地面に突き刺すと右手を挙げて呪力を放出した。真っ黒な呪力は大きな鬼の腕となって、攻め寄せるゴーレムを正面から殴り飛ばした。

 しかし相手は土でできたゴーレムだ。

 材料は無限に等しく存在している。晶は小型の式神を生み出して、全方位に解き放って数の暴力に抗うが、それでも敵の数が減る様子はない。

 晶とリリアナの奮戦によって、ゴーレムの群れは護堂から大きく圧し戻された。

 黒い式神の群れと巨大な鬼を思わせる鎧に包まれた晶、そして幻惑の弓矢を放つリリアナがゴーレムたちを寄せ付けないように立ち回っている。

 そのおかげで、余裕が生まれた。

「先輩!」

 晶が悲鳴にも似た声を挙げる。

 ああ、言われなくても分かっている。

 ガブリエルのほうは、すでに準備を終えていたらしい。馬鹿らしいほどの呪力が空一面を覆い尽くしている。

 

 見上げる空は夜の闇を失い――――青く燃えている。

 




まったく関係ありませんが、ウリエルは天使から聖人にまで零落してしまったからサーヴァントで呼べるはず。クラスはセイバーかな。


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古代編 6

 青く燃える空を見て、リリアナは死を覚悟した。

 大気は灼熱に包まれ、木々が萎れていくのを感じている。

 あれは、先刻、メンルヴァを叩き落したガブリエルの奥の手に他ならない。その正体を、理解できないリリアナではない。魔女の直感も霊視も必要ない。ガブリエルが天から落とす裁きの火は、聖書にも記されるものだから。

 ゴーレムを射る手を思わず止める。

 この状況を変えられるとしたら、唯一人、草薙護堂を置いてほかにはいない。

 救いを求めるように、護堂を見る。

 彼もまた立ち尽くしていた。

 剣を放り投げ、あたかも降服するかのように――――。

 否、護堂の身体に充溢する呪力は加速度的に上昇している。何かしらの権能を使う前触れ。ガブリエルの硫黄の火に対して、護堂もまた異なる権能で対抗しようとしているのである。

「護堂さん!」

 リリアナは叫んだ。

 護堂が何をしようとしているのかは分からない。

 それでも、護堂の権能に賭けるしかない。

 天使が召喚したゴーレムくらいはリリアナでも何とかなるだろう。

 上位呪術師が一体作り出せれば僥倖というほどのできばえであるが、ランクとしては魔獣程度でしかない。だが、空で輝く青い炎は別格なのだ。あれはまさしく権能と言うべき代物である。リリアナが寿命の総てを注いで大呪術を放ったところで、あそこから漏れる火の粉にすら敵わないだろう。

 そして、空から絶望と共に青い炎が落ちてくる。

 

 ガブリエルが余裕の笑みを浮かべながら地上の護堂を見下ろしていた。

 羽のように広がる青い炎は、遙か古の時代に悪徳を積んだ二大都市を消し飛ばした神の裁きそのものである。

 ガブリエルにとっては最大火力と言っても差し支えない。

 悪しきモノに対して特効効果を持ち、ありとあらゆるものの存在を許さず灰燼に帰す絶滅の炎。

「さて、神殺し。このソドムとゴモラを焼き払った硫黄の火を受けて、それでも立ち向かってこられるか、試してみようじゃないか」

 メンルヴァがそうだった。

 この火を受けて、立っていられる者などそうはいない。

 ガブリエルと同等の天使たちならば、あるいは防ぐなり打ち返すなりはできるかもしれない。が、しかし神殺し風情にどうこうなるものではない。

 地上にある神殺しと、その仲間を纏めて焼き払い以て神の正しさを証明する。

 わざわざ狙う必要もない。

 ただ、無造作に振り下ろすだけで事足りる。

 ガブリエルの硫黄の火は、莫大なる熱と呪力で神殺しを粉砕し消滅させるであろう。

 

 

 空を見上げる護堂に向けて、遂にガブリエルの炎が落ちてきた。

 それは隕石というよりも流星群のように複数の火球に分かれて地上を目指している。無差別に森を焼き払うつもりなのであろう。

 空は相変わらず青く燃えている。

 燃える天蓋から火球が降り墜ちる様は、焼夷弾を落とす爆撃機の編隊を想起させた。

 これが地上に落ちることを許したら、護堂の敗北は濃厚になる。

 ならば、落とさせない。

 受け止め、打ち消す。そのための武器を、護堂は持っているのだから。

「この炎は、聖書に記された神の裁きの中でも特に有名なソドムとゴモラを滅ぼした硫黄の火だ。退廃の都となったこの二つの都市に派遣された天使の中にガブリエルはいたとされている」

 青い炎が空中で落下を止めた。

 ガブリエルは目を見開き、護堂は当たり前のようにその現象を受け止めている。

 燦然と輝く黄金の星。ウルスラグナの『剣』が、硫黄の火の真下に展開されたのである。

 神を斬り裂く言霊の剣は、対象となった神格に関するあらゆるものを無力化する。それが、例えソドムとゴモラを滅ぼした聖書最大の滅びであったとしても、ガブリエルの権能である以上はガブリエル殺しの言霊を越えることはできない。

「ガブリエルは聖典に名前が現れる三柱の天使のうちの一柱であり、神の言葉を伝えることを主要な職能としている。最も信仰を集める天使の一つでもあり、ユダヤ教からキリスト教に受け継がれた後も受胎告知のように主要な場面で度々登場する重要な役割を担った」

 リリアナから与えられた知識を最大限に活用して『剣』を研ぎ澄ます。

 護堂が言霊を紡ぐたびに黄金の星は数を増し、空一杯に溢れかえるまでになった。青い炎にもびくともせず、逆に受け止めてはこれを斬り捨て、消滅に追い込んでいく。

「まさか――――神格を斬り裂く言霊の剣か! それが、君の奥の手というわけだな!」

 ガブリエルは自分の奥の手を封じている護堂の権能を見て、事情を察した。

 己の業が手の中からすり抜けていくのを感じている。

 硫黄の火が目の前で次々と斬り捨てられていく。

「何という、愚かなことだ。神の裁きを受け入れないか。不敬にも程があるぞ! 天上にまします神よ。我に滅びの火を与えたまえ!」

 硫黄の火が火力を増した。

 護堂を一息に焼き滅ぼそうという算段なのだろう。

 護堂は『剣』を集めて、火球に対抗する。

「お前は聖書最大級の天使として多くの信仰を得た。けれど、この時代から百年くらい前にはすでに聖書の成立過程の中で色々な神話伝承が取り入れられていることは知られていた。ガブリエルという天使も、元は別の神話で語られた神だったってこともこの時代には知られていることだった。源流となったのはメソポタミア――――時代は新バビロニア王ネブカドネザル二世の頃だ」

 護堂の中でガブリエルの知識が白熱していくのが分かる。

 自分のモノではない知識が徐々に浸透し、口を付いて表に出てくる。

 知っていることと理解していることは違う。

 今の護堂はただ知っているだけではなく、正しくガブリエルという天使を理解している。

 黄金の星は容赦なくガブリエルの青い炎を斬り付けていく。墜ちてくる炎は言わずもがな、ついには空に昇り、滞空している炎の羽にすら喰らいつく。

「ネブカドネザル二世はイスラエルを占領し、多くのユダヤ人たちをバビロニアに連行した。バビロン捕囚と歴史に残る出来事は、当時のユダヤ人たちに自らの宗教や民族性を再考させるきっかけにもなった。半世紀あまりのバビロニアでの生活の中で、先進的な文明に圧倒され、故郷の神殿すらも破壊されてしまったユダヤ人は、物質的ではない信仰を求めて「律法」を宗教の中心に置くことになった。それは、解放された後も発展し続け、バビロニアの宗教の影響を大きく受けながら今日に伝わるユダヤ教となったんだ。やがてそれは救世主の登場と共にキリスト教に繋がっていく! 当然、その流れの中でバビロニアの神々を天使として取り込みながらな!」

 青い炎が砕け、黄金の星が舞い踊る。

 熱も呪力も地上には届かない。

 満天の星空が、その上から降り注ぐ焔を完全に遮断しているからだ。

「どこまで抗うか、神殺し。無礼なヤツ。早々に滅びるがいい!」

 ガブリエルが呪力を上昇させて黄金の星々に炎を落とす。

 当然のように打ち消されるが、しかし『剣』の言霊は無限ではない。斬れば斬るほどその切れ味を落としていく。ならば、ガブリエルのようにひたすら攻撃を繰り返すというのも、言霊の『剣』を打ち破るには有効な手の一つである。もちろん、その過程で自分の神力を使いきる可能性も否定できない。要するに、これは意地の張り合いなのだ。

 押し切られるわけにはいかない。より深くガブリエルの歴史を掘り返し、打ち破る刃としなければならない。

「ガブリエルという天使の名前は、一般には「神の力」とか「神の人」とかいう意味だとされている。けど、これもシュメール語由来で解釈されることもある。それによれば、ガブリエルの「ガブリ」は、シュメール語で「統治者」あるいは「英雄」という意味になる単語だという。マルドゥクの影響を受けたミカエルやウリエル、バビロニアでラビエルの名で呼ばれたというラファエルと同じくガブリエルもバビロニアの神の一柱だった」

「僕の過去を土足で踏みにじるか。その忌々しい口、どこまで開いていられるかな!」

「あんたが落ちてくるまでかな――――ガブリエルは天使たちの中で唯一女性的に描かれる天使だ。聖母はガブリエルを見たとき同姓だと分かって安心するという描写が伝わっているし、ユダヤ教で女性の位置とされる主人の左側に座るのもガブリエルだ。お前の象徴は月と水と百合だけど、これも総て地母神の象徴だ。ガブリエルの元になったのは英雄神というよりは、地母神として崇められた女神だったんだろう」

 黄金の『剣』が遂にガブリエルの炎の羽をズタズタに引き裂いた。苦悶に顔を歪めるガブリエルはそれでも黄金の『剣』を振り払うために硫黄の火をばら撒く。自分に届く前に対消滅させるつもりなのだろう。空中を動き回って、回避に出る。

「逃がすか! 追え!」

 『剣』に思念を送る。

 ガブリエルを取り囲むように、『剣』を動かしていく。

 護堂の『剣』は減ったが、ガブリエルの炎も順調に減っている。有利なのは、護堂のほうだろうか。いや、油断はできない。

「ガブリエルのルーツを探る上で、百合は貴重な考察材料だ。ラテン語でリリウム、後に英語でリリィと呼ばれる花だけど、この花を象徴とし、そしてその名を持つ悪魔が聖書には登場する」

「やめろ、それ以上口を開くな神殺し!」

 やはり、さすがにここまで言われるとガブリエルも冷静ではいられない。

 何せ天使でありながらも悪魔を代表する存在と祖を同じくするのだから。

 だが、黙らない。 

 それこそがガブリエルのルーツを紐解く鍵にして、黄金の『剣』を真にガブリエル殺しに創り変える要素なのだから。

「悪魔の名はリリス。アダムの最初の妻にして多くの悪霊の生みの親であるリリスは、元を辿ればメソポタミアの悪霊リリトゥに行き着く。リリトゥはアッカド語ではアルダト・リリとなるが、「リリ」は大気や風に由来する言葉だ。この悪霊は、メソポタミア神話の女神「風の女」ニンリルと関係付けられる」

 「ニン」は女神、貴婦人を指し、「リル」は「風」となる。その名が示す通りニンリルは風の女神であり夫である風の主人(エンリル)と共にメソポタミアの風を支配した。

 南風の女王であるニンリルは同時に死神でもあった。

 南風は人類に敵意を持つ存在として語られる。それは、夏の熱風が砂嵐を呼び、当時の人々を苦しめたからであろう。

 ニンリルは冥界と結びつき、強大な死神であるネルガルの母となる。

「そして、ニンリルにはまた別の名がある。多くの異名を持ち、時に他の女神すらも自分の名前の中に取り込んでしまう偉大なる女主人。豊穣の女神であると同時に天空の支配者であり、歴代シュメール王を育てたとされる女神の名は、ニンフルサグ。これが、ガブリエルの祖、あるいは近縁となった女神だ」

 ニンフルサグ。

 その意味は「聖なる山の女神」。

 シュメールに於いて山は死後の世界であり、故に彼女は死神でもあった。そして、死神は同時に生命の誕生を祝福する存在でもある。「胎児の女神(ニンジナク)」「生命を生み出す母(アマウドゥダ)」などと呼び習わされる彼女は、まさしく豊穣の女神の原初の一つである。

 そして、ガブリエルがメンルヴァの毒を打ち消した理由もここにある。

 ニンフルサグは、神話の中でエンキの体内から病の原因を取り出しているのである。この神話の中では、エンキが病になった原因もまたニンフルサグであるが、権能はこれを拡大解釈でもしたのだろう。自分の体内から毒素を抜き出すという形で応用したに違いない。

 一つの神格が、別の宗教に取り込まれた際に善と悪の側面で別の神に分化するのはよくある話である。

 インド神話のインドラがペルシャに入って悪神となった際にその善性がウルスラグナに変化したように。

 天の主人、最高峰の女神としての部分がガブリエルの原型へと繋がり、死神としての側面はリリスへと受け継がれた。

「ニンフルサグは聖書に大きな影響を与えた女神だ。彼女は夫であるエンキと共にエディヌという庭園を作ったことで知られる。ニンフルサグは土から人間を作り出し、エンキの間にはニンティという女神を生む。この女神は「肋骨の女神」とか「生命の女神」とか呼ばれる。これは、一つの単語に肋骨と生命の二つの意味があるからだ。エディヌの庭園、土から作られる人間、肋骨から生まれた女――――聖書に記されるエデンの園の源流となる伝説だ。だから、お前の源流はメソポタミア神話に違いない。聖書に影響を与えた女神。大地の女神にして天空の女王、そして「王権の守り女神(ニンメンナ)」の異名を持つニンフルサグだからこそ、「統治者」の称号を持つお前の祖に相応しいんだ」

 そして、護堂の星が空一面に広がっていた青い炎を駆逐し尽した。

 もはや、ガブリエルを守るものは何もない。

 見るからに焦るガブリエルを取り囲んだ黄金の輝きは、逃げる間を与えずに偉大なる天使に殺到し、その神格を深々と斬り裂いた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 ――――やった。

 リリアナも晶もそう思った。

 周囲を埋め尽くしていた土のゴーレムが崩れ落ちる。

 空は夜の闇を取り戻し、燃える炎を地上に達することなく消え果てた。

 地に墜ちる天使。

 あたかもそれは、罪を犯した天使が神罰を受けたかのようだ。

(そういえば、ガブリエルも一時期は天界を追われたことがあるという伝説があったな……)

 などと、リリアナは考える余裕が持てるまでになった。

「先輩!」

 晶が嬉々として護堂に駆け寄ろうとする。

 それを、護堂が視線で制した。

 見れば、地に伏していたはずのガブリエルが立ち上がり、護堂と対峙しているではないか。

「最後の一瞬で、ガブリエルという神格の表層にニンフルサグとかリリスを押し出して逸らしたのか。器用なことするな」

 護堂の「戦士」の目がそのからくりを見抜いていた。

 ウルスラグナの権能はあらゆる神々に対して劇薬となる。そして、単一の権能であるが故に原作のそれよりも効果が大きく、たとえ同一視されている別神格のものであろうとも斬り裂くことができる。今回、ガブリエルがやったような手は原作では弾かれていただろうが、今の護堂の「戦士」ならば、纏めて斬ってしまう。それでも、切れ味は大きく劣ってしまうらしい。ガブリエルが立ち上がっていられるのもそのためだ。

「僕の、過去を暴きたて、神格を斬り裂く黄金の剣……東方の軍神から奪ったものか。確かに、驚異的だ」

 顔色は蒼白だが、目の力は失われていない。

「だが、「神の力」に敗北はない!」

 轟、と風が吹いた。

 目に見えない豪風が護堂の身体を打ち据える。

「ぐ……!?」

 指向性を持つ風の魔弾。

 おまけに熱い。中東地域を駆け抜ける熱波を凝縮したような乾燥した風ではないか。

 肌がひりつき、水分が奪われる。

「水が欲しいかい? なら、くれてやる。たんと飲め」

 ガブリエルがライン川に手を向ける。

 どぶん、という音と共に舞い上がるのは巨大な水球であった。

 全盛期ほどではないにしても、水を司る天使の力は強大に違いない。 

 『剣』に斬られていながらまだ、これほど残っているとは。

「撃ち落すしかないってか」

 一目連の権能でドリル状の巨大な槍を創り出し、水球にぶつける。激突と同時に水球が爆ぜて、周囲に雨を降らせる。

「ガブリエルは……!?」

 まずい、と思った。

 ガブリエルを今の交錯で見失った。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり!」

 ガブリエルの聖句を唱えて自らの直感を強化する。

 相手もまた同種の権能を持っている。

 こちらの知覚力と相手の隠蔽力はほぼ互角、あるいは、相手が一枚上手。打ち消し合い、弱体化し合う関係性。しかし、今はガブリエルも弱っている。その傷、漏れ出る呪力を探れば――――。

 後ろに豊穣の気配を察して、護堂は身を捻る。

 間一髪、突き込まれた剣を避けることに成功した。

「この……!」

 護堂が反撃に出る前に、ガブリエルの蹴りが護堂の脇腹を打つ。

 呻く余裕すらなく、蹴り飛ばされた護堂は着地の隙を狙われないように土雷神の化身で地中に潜り、安全を確保した上で地上に戻った。

 ジンジンとと痛む脇腹を押さえてガブリエルと再度睨み合う。

 晶の権能で強化された身体能力の恩恵は大きいが、それでもアテナの権能が切れつつある今護堂の動きは鈍り続けている。

 長期戦はまずい。

 そして、それは敵も同じようだ。

「……ずいぶんと疲れてるみたいだな。ガブリエル。呪力が駄駄漏れだぞ」

 ガブリエルの身体からは、今も大量の呪力が漏れ出ている。

 まるで穴の開いたドラム缶のように。

 ウルスラグナの『剣』の傷は、護堂が思っているよりもずっと深かったのだ。

「抜かせ神殺し。僕のほうも分かっているぞ。君はさっきまでの動きはできないと。何かしらの権能の補助は、もうとっくに切れていると」

 ガブリエルは剣を構えて言う。

 図星であった。

 護堂の動きは鈍り、戦闘センスも下落した。剣による接近戦は、ガブリエルの直感に頼るしかない。

「かもな、でも負けねえ」

「試してみようか」

 ガブリエルが護堂に飛び掛った。

 負傷を物ともしない高速移動に護堂は剣で応じる。

 相手の土俵だが、逃げる場所がない。護堂が逃げるよりも先に、ガブリエルの切先が護堂に届くだろうから。

 勘任せに振るう剣が辛うじてガブリエルの剣を捉え、交錯する。

「鋭く、速き雷よ! 我が敵を切り刻み、罪障を払え!」

 三合目。

 剣が交わる瞬間を見据えて、護堂は咲雷神の化身を使う。

 どこかの高木が両断され、その代わりに護堂の剣に切断の雷撃が宿る。

「ぐ、ぬ!」

 護堂の剣は紫電を纏ってガブリエルの剣を斬り捨て、そのまま左腕を斬り飛ばす。

『弾け!』

『弾け!』

 言霊が激突し、空間が捻くれる。

 呪力が呻き声を挙げるかのように。歪んだ世界は一瞬で爆発し、護堂を跳ね飛ばした。

「う、おおおおおおおおおおおおお!?」

 同種の権能。

 しかし、相手は『まつろわぬ神』である。護堂のそれよりも出力が高いのは当たり前だったか。

「大地よ命を紡げ。その生誕を寿ぎ、人の世の始まりを示せ!」

 ガブリエルが呪力を地面に叩き込んだ。

 土が捏ね繰り回されて、岩石混じりのゴーレムが生まれた。

 その大きさは、先ほど作られたゴーレムよりもずっと大きい。ニンフルサグの土から人間を造り出す権能。ガブリエルであるが故に完全には使いこなせないが、ゴーレムとして使役することはできるということなのだろう。

 神殺しに呪術系の攻撃は効きずらい。

 しかし、ゴーレムのような物理攻撃ならば話は別になる。

「く、そ」

 ゴーレムが振り下ろした豪腕が護堂を掠める。

 飛び退いた地面が大きく抉れて、ひっくり返った。土と石が飛び散って、護堂の身体を打ち据える。

「我は焼き尽くす者。破滅と破壊と豊穣を約束する者なり。全てを灰に。それは新たなる門出の証なり」

 護堂が切ったのは火雷神の化身のカード。

 莫大な火炎で、ゴーレムごとガブリエルを狙うつもりなのだ。

「大地よ水よ! 僕を守護せよ!」

 大地と水の精気がガブリエルを包み込む。

 真っ赤な炎の津波はゴーレムという楯に激突し、これを粉砕する。そのまま突き進み、ガブリエルを守る水と土の要塞に衝突した。

「どらああああああああああああああ!」

 吼える護堂は、そのままねじりこむように腕を押し込む。

 それに呼応して火雷神の化身の炎が火力を増してガブリエルの要塞を蒸発させて貫いた。

 勢い余った炎の怒涛は背後の森に到達し、進路上の木々を一瞬にして灰に変えた。

 火雷神の化身が焼き払った直線上には何も残らない。

 地面に真っ直ぐな焼け跡が刻み込まれるだけである。

「その炎で、この僕が倒せると思ったのかい!?」

 声が響く。

 見上げた空に浮かぶ一つの影。

 天使ガブリエルは煤一つなく、輝ける姿のままそこにいた。

「あの砦は身を守るためじゃなくて、姿を隠すためだったのか」

 護堂は呟いた。

 火雷神の炎が要塞を貫いたときには、すでにガブリエルは脱出を果たしていたのである。

「僕をここまで追い込んだことを誇るといい。なるほど、君は神殺しに相応しい罪人だ」

「だとして、どうするんだ?」

「無論、ここで神罰を下すのみだ。それが、天使である僕の定め」

 今も、呪力を失いつつある身体でガブリエルは言い切った。

 逃げることもなく、ただ護堂を討つことだけを考えている。使命に忠実な神の使徒のあり方を体現したような言い草であった。

「だったら、ここで終わりだ。ガブリエル!」

「それは君のほうだ、神殺し!」

 護堂は剣を掃射する。

 三十挺の剣はガブリエルに殺到し、空中に現れた大きな水の塊に吸い込まれてしまう。正面からの単純な攻撃は、やはり通らない。

 だが、この剣は囮だ。

「天叢雲!」

 ここで、護堂は右手の相棒に呼びかけた。

 使えそうなものは何であれ使い、勝利を手繰り寄せるのが神殺しの真骨頂。

 天叢雲剣の能力でコピーした権能を、このタイミングで発動する。

 月の光に僅かに映り込む、黒い線。

 無数のピアノ線のような何かが、ガブリエルの周囲に突如として現れたのである。

「……ッ!? これは!?」

 黒い糸だった。

 ガブリエルの腕や足、胴体に絡みつこうと襲い掛かるそれを、剣や氷で受け止める。結果として、ガブリエルは空中に固定される形になってしまった。僅かでも抵抗を緩めれば、護堂の糸に絡め取られてしまう。そうなれば、引き裂かれるか、先日のように封じられるかするだろう。

「それは、メンルヴァの権能だ」

 護堂は言う。

「なん、だって?」

「メンルヴァが、この前アンタを封じたときの権能を真似させてもらった。俺の相棒にはそういうのが得意な奴がいるんだよ」

 護堂は笑った。

 ガブリエルの権能でできることは、大体護堂の権能でも模倣できる。ならば、真似る必要はないし、何よりオリジナルに対して同じタイプの権能を使っても効果は薄まる。ならば、ガブリエルを封じたメンルヴァの糸を紡ぎ出す権能を複製するほうが、後々使えそうだと判断したのである。

「抜かりないヤツめ。……だが、これが限界だな。君は、この状態を維持するだけでその先がない。これで、僕を倒すことは、不可能だ!」

 ガブリエルには分かっていた。

 護堂にも余力がないことを。メンルヴァの権能を模してガブリエルを固定したはいいものの、止めを刺すための一撃を用意するだけの余裕がないのである。少しでもほかの権能を使おうとすれば、その隙にガブリエルは糸の結界から抜け出すだろう。

「確かに、俺には余力がないな。――――俺にはだけどな」

 その呟きをガブリエルは拾えただろうか。

 黒い糸の結界の上。月の光を小さな影が遮った。

 舞い上げる銀の騎士。その腕に抱かれた黒髪の少女が、宙に身を躍らせる。

「行け、高橋晶!」

「任せてください!」

 常のガブリエルならば、こんな風に接近を許すことはなかっただろう。神格を傷付けられ、護堂以外に意識を割く余裕がなくなった今だからこそ、リリアナの飛翔術を察することができなかった。

「結局、あんたらは人間を舐めすぎた。眼中にないなんて言ってるから、そうやって隙を曝す」

 ガブリエルは護堂からすでに視線を外している。

 今の時点では護堂から攻撃が来ることはない。

 上から飛び降りてきた黒髪の少女こそが脅威だった。護堂の加護を受けた、神殺しの従者。微力ではあるが、神力を持っているのならば、神を傷付けることもできるだろう。

 ガブリエルは、咄嗟に氷の幕を張った。

 晶の攻撃を弾く程度なら、これでも十分な強度だ。

 その、はずだった。

「我は最強にして、全ての勝利を摑む者なり。全ての敵と、全ての敵意を挫く者なり!」

 護堂と晶の聖句が自然と重なり力となる。ウルスラグナの聖句が呪力を高め、悪神を討ち滅ぼす鉄槌となる。

 晶の右腕が黄金に輝く。

 草薙護堂の取っておき。密かに残しておいた、最後の『剣』の一太刀である。

「いやああああああああああああ!!」

 晶が咆哮と共に突き込んだ拳は、ガブリエルの防御膜をあっさりと撃ち抜いて、その本体にまで届いた。

 胸に突き立つ右腕から、ガブリエル殺しの権能が毒となって滲み出て、ガブリエルを侵す。

「く、ぬ、おおおおおおおおああああああああああああああ!?」

 ガブリエルが絶叫するのは、これが初めてなのではないか。

 今回ばかりは逃れられない。

 ウルスラグナの『剣』が、その神格を完膚なきまでに叩き壊し、討ち滅ぼす――――。

 晶の全力のパンチで地面に叩き落されたガブリエルは、それでも原型を止めていた。人間ならば、粉微塵になっているであろう衝撃も、頑丈な『まつろわぬ神』の身体を壊すには至らない。

 だが、それでもこの天使は死に体だった。

 身体を起こすものの、胸にぽっかりと開いた穴からはおびただしい呪力が漏れ出している。生と死を司る女神の末端にいるガブリエルでも、この損傷を癒すことはもはや不可能であろう。

 勝敗は決したのだ。

「いや、まだだ……」

 ガブリエルは事ここに至っても敗北を認めないらしい。

 僅かに動くたびに、命の源が流出しているというのにだ。

「もう、止めろ。それ以上は……」

 護堂が声をかけた。

 懸命に動こうとする天使が痛々しかったからだ。同情も憐憫もないが、それでも生き足掻いている姿は見るに耐えない。

「僕は神殺しの罪を罰しなければならない……それが、ガブリエルの職務、だからだ」

 虚ろな表情でガブリエルは言う。

 もしかしたら、ガブリエルとして召喚されていながら異教の神の逸話をその身に取り込んでいるという矛盾に、抗っていたのかもしれない。異教を認めない思想でありながら、『まつろわぬ神』の身には異教の神々が取り込まれているからである。

 自我の強弱が『まつろわぬ神』の強さの源であるならば、自らに疑問を抱く、あるいは自らの出自を恥じる神の強さはどうなるのだろうか。考えても仕方のないことではあるが、興味はあった。

 ガブリエルは強かった。

 しかし、それが真骨頂を発揮できていたのかどうか。

 余計なことを考えているうちにガブリエルの姿は薄くなっていく。

「このまま、神殺しに僕の力を与えるわけにはいかない。――――僕はすでに刻み込んだぞ。この世界に、僕の力を……僕はこのまま消えるが、僕の意思を受け継ぐ者がやがて現れるだろう……そのとき、こそ、君の罪を清算する、ときだ」

「なんだって!?」

 ガブリエルの言い分に護堂は耳を疑った。

 負けを認めないどころの話ではなかった。

 自分の死後も必ず護堂に再戦すると、世界に何かしらの呪詛をかけたのだ。ガブリエルの言い分を信じるのなら、護堂の権能は増えず、いつかガブリエルの意思を継いだ何者かと再戦しなければならないというのだ。

「何年先になるか分からない。けれど、必ず僕は君に辿り着くぞ。――――覚悟、して、おくんだな」

 皮肉げな微笑を残して、ガブリエルは消えていった。

 その言葉のとおり、倒したはずなのにガブリエルの権能が増えることはなかった。何の恩恵もなく、ただ命を賭けただけの戦いになってしまったではないか。

「護堂さん。あの、もしかしてこれは……」

「言わないでくれ。考えたくもない……」

 ガブリエルの残した呪い。

 もしかしたら、それは、千五百年後にすでに体験していたのかもしれないから。

「あの、でももう終わったことなら、気にしなくてもいいんじゃないですか?」

「うん。まあ、確かにそうなんだよな。晶の言うとおり」

 千五百年後の未来で、ガブリエルはすでに倒してしまっている。

 この時代のガブリエルの残した呪いは成就し、しかしそのときにいたのは神殺しではないただの少年草薙護堂だった。

 神殺しの草薙護堂と戦うという呪いは中途半端な形になってしまった。

 まさか、護堂が神殺しとなる発端になるとは考えもしなかっただろう。そう考えると、何とも言えない無情な気持ちになってしまう。

「あんたは、どうなるんだ?」

 護堂は気配のみを察して声をかけた。

 ゆらゆらと漂う神気が、大地から立ち上った。明確な形はなく、そこに何かいるという程度の脆弱な気配である。

「ああ、わたしはこのまま地上を去ることになろうな。口惜しいが、仕方あるまい」

 まつろわぬメンルヴァは、やはり残れないらしい。

 ヤツの最期を見届けただけでも良しとしようなどと前向きな発言をする。

「わたしもただでは死なん。我が叡智を石に刻んだ。いつの日にか、我が力を継承し、地上を治める女神が現れることだろう」

「また、面倒なことを……」

 ガブリエルもメンルヴァも、考えることはおなじだったらしい。

 もしかしたら、護堂がそれに巻き込まれるかもしれないというのにだ。迷惑なことこの上ない。

「ふふふ、あなたとそのときに縁があるか分からんがな――――」

 風に火の粉がかき消されていくように、女神の気配は大気に溶けて消えていった。

 『まつろわぬ神』が消えるときは、往々にして物悲しいものだ。絶対的な存在感を有していたものが消えるのだから当然だろう。

 護堂たちは、五世紀の初戦を勝利で飾った。

 得るものはまったくなかったが、それでも今後に向けた弾みにはなるだろう。

 決してこの時代で活躍するとかは考えていないが、無事に現代に戻るためにもまず生きていかなければならないから、神様との戦いを乗り切ったのは、モチベーションを高める上でいい意味を持つ。

 アイーシャ夫人とサルバトーレ・ドニ。

 この二人の行方を捜すためにも、再び人里に帰らなければならない。

 護堂たちは、疲れた身体に鞭打って当初拠点としていた集落への帰路に就くのだった。




ウルディオーネを書いている辺りからシュメールの単語が少しだけ頭に入っているようになってしまった。
エンキ、とかって神の名前を見ても、ああ、大地の主ね、みたいな感じで自動翻訳される。なぜ、これが学生時代の英語で発揮されなかったのか。もう少し言語そのものに興味を持てていれば、学年で下から二番目などという不名誉を曝さなくても済んだのに。
やっぱり面白いと思えることが学習の第一歩なのだ。
まあ、単語といっても両手で数えられる程度だけれども。

ちなみにガブリエルに関しては諸説あるのであしからず。
ニンフルサグと繋がるという意見もあるらしいという程度で考えてください。




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古代編 7

 まつろわぬガブリエルとの戦闘が終わった後、護堂はフリウスから借り受けた屋敷に二日ぶりに帰還した。屋敷を開けていた理由については、リリアナが毛布を借りに行った際に適当に誤魔化してくれていたらしく、夜中の帰宅でも何も問題がなかった。

 そんなことよりも、この集落の間では近隣の森で発生した天変地異(・・・・)のほうがよっぽど恐ろしかったらしく、護堂たちに構っている余裕はなさそうだった。村人の中には、護堂たちがその原因なのではないかと疑う者もいるようだが、おいそれと口に出せる話題ではないこともあって、表だって批判されることはないだろうというのがリリアナの見立てであった。

 時刻は大体夜の十一時を回ったというくらいだろうか。

 古代に来たせいで時間の感覚が狂い始めているが、腕時計が生きていたのが幸いだった。

 これを見れば現代の感覚をすぐに思い返すことができるからである。

 毎日日暮れと共に眠り、夜明け前に起きる生活。

 二十一世紀の日本ではありえない生活習慣である。

 少なくとも、護堂の周囲にはそのような生活を送っている人間はいない。娯楽に溢れ、夜の闇を駆逐する電気という文明の利器があるので、人は昼夜の別なく活動を続けることができる。人間の生活は自然から切り離され、完全に人間の都合で生活習慣を定めることができるようになった。

 それが、二十一世紀という科学の時代である。

 五世紀のガリアはそうもいかない。

 人間は未だ自然と共に生きている。

 僅かな抵抗として火と土木工事がある程度である。そして、それすらも日常生活を快適に過ごすことができるほどの安心をもたらしてくれるものではない。

 千五百年という月日の断絶は極めて大きく、しかしながら人の営みそのものは形は違えど確かに存在している。不思議なことだが、古代の生活は、これはこれで歯車がかみ合っているかのように効率的に運営されている。むしろ、雑多な未来の世界に比べて遙かに無駄がなく、そのために生きるという単純な目的のために日々を過ごしているように見える。

 それが、人間のあるべき姿なのではないかと錯覚するほどに。

 農本主義とか、土に還れ主義とか言うものか

 かつての文豪に島木健作という人物がいたが、彼の著作『生活の探求』がまさしくこの状況を描いているようではないかと、護堂は思う。

 古本屋で育った護堂は、古い書籍に自然と馴染みがあった。

 何となく、人間らしい生き方を模索する主人公がエリート街道を外れて帰農し、真の生を探求していく『生活の探求』のストーリーが頭に浮かんだ。

 かつて、発展する社会と農村との葛藤の時代を生きた人々が漠然と抱いていた回帰衝動の根幹に当たる光景が、護堂がいるこの時代にはあるのではないかと、ふと思う。

 その農村を一手に引き受けるのは、この屋敷の主であるフリウスである。

 厳密に言えば、ここは農村であると同時にフリウスの私有地でもある。つまりは、一つの集落と見紛う程に広大な個人所有の農地なのである。フリウスはこの広い農地を利用して葡萄を作ったり、麦を作ったりして生活しているのだが、基本的に働いているのは奴隷たちばかりである。

 奴隷制。

 平成の日本に生まれ育った護堂にはまったく馴染みのない制度であるが古代の世界では社会を支える重要な制度であったという。

 より厳密に言えば、この時代のローマのそれは奴隷制ではなく古代ローマ式の大規模農業形態(コロナートゥス)であったか。

 奴隷ではなく、ローマ市民権を持つ小作人(コロヌス)を使った大規模農業である。

 古代ローマの奴隷制は、古代ギリシャの奴隷制に比べて非常に緩やかで、奴隷身分から脱することも不可能ではなかった。しかし、戦争奴隷を中心に発展してきたローマの奴隷制は、平和な時代(パクス・ロマーナ)による戦争の激減によって奴隷の供給量が減少し、その市場価値が急騰したことで限界を迎えた。五世紀のローマは、それに加えて異民族の侵入で奴隷の確保どころの話ではない。現状、ローマの奴隷制は維持できないほどに社会が変わりつつあったのである。

 大規模農業のコロナートゥスへの移行は、裕福なローマ市民が郊外の農村に居宅を構える流れに繋がり、都市の衰退や分権化が発生する。フリウスが経営するこの大規模農園も、そのうちの一つであろう。

「草薙、様……」

 と、小さな声が護堂を呼ぶ。

 振り返ると、仄かな獣脂蝋燭の灯りに照らされた少女が立っていた。

「リンデ?」

「はい……あの、姫様方はご入浴されましたが、草薙様はどうされますか?」

 ぎこちなく、護堂にそう言ってくるのはこの屋敷で小間使いとして働く少女である。

 歳の頃は晶や静花と同じくらいだろうか。あるいは、欧米人は大人びて見えるから、もしかしたらもっと年下かもしれない。

 彼女もまたコロヌスの一人。 

 ガリア出身のゲルマン系で、白い肌と金色の髪がそれを物語っている。

 リリアナと晶が先に風呂に入った。

 それは、護堂がそうするように言ったからだ。

 女性にとって風呂は重要な活力源であろう。イタリア人のリリアナには湯船に浸かるという習慣はないかもしれないが、身体の汚れを落とすのは何物にも変えがたい生活習慣の一つである。さすがに中世ヨーロッパのような不衛生な環境に身を置くのは、気高い女騎士であっても御免被るところであろうと、護堂はそう思ってリリアナと晶を先に風呂に向かわせたのである。

「どうと言われてもな」

 護堂は困った風に笑った。

「まさか、あの二人と一緒に入るわけにもいかないだろうし、出てくるのを待つよ」

 以前、晶と混浴をしたことはある。

 しかし、それはそれ。今、そのようなことをする必要性はないし、常識的にどうかしている。

「あの……」

 と、リンデは言う。

「それでしたら、他にもあります。浴場は、一つではありませんから」

「そうなのか?」

「はい」

 リンデは頷いた。

「姫様方がご利用になられているのは、野外の温泉ですが、それ以外にも屋内のものがございます」

「あ、そうなのか。そっち、使えるのか?」

「天然の温泉を引いておりますし、掃除も済ませておきましたので、すぐにご利用できます」

「へえ、いいな。じゃあ、そこを使わせてもらおうかな」

「承知しました。ご、ご案内します」

 おどおどとしつつ、リンデは護堂を浴場まで案内してくれるようだ。

 ローマに於いて浴場というのは屋内にあるものであるが、ここはローマ文明の端の端。異民族が治める土地と境界を接する地であり、様々な価値観が入り乱れる土地なのかもしれない。

 入浴という文化はローマ以外にはほとんどないし、ローマ帝国が衰退していけば公衆浴場の文化はあっという間に下火になってしまうだろう。

 水は身体に悪いと信じられた中世ヨーロッパでは身体を水で清めるという習慣すらも存在しなかった。二十一世紀に入っても進んで湯船に浸かろうとするのは日本を初めとするごく一部でしかない。

 ローマの消滅と共に、入浴習慣そのものが西洋から消え去ってしまったのである。

 フリウス氏所有の屋内温泉は、屋敷に併設された大きな施設の中にある。

 一度屋敷を出て、それから施設の入口から中に入る。

 白い石の柱が立ち並ぶ廊下は中庭に面していて、夜の風が肌を撫でる。

 古代ギリシャや古代ローマの建築物によく見かける柱で囲まれた廊下。

 アーケードの前身の一つであり、柱に支えられる部分をエンタブラチュア、そしてエンタブラチュアで繋がる列柱構造をコロネードと言うらしい。

 多方面に知識のあるリリアナが、この建物を見たときに教えてくれた。

 また、コロネードに囲まれた屋根のない中庭をぺリスタイルというのだとも。

「見た目から分かってたけど、大きいな」

「お館様が、ローマのテルマエを再現しようとされて建てられたのがここです」

公衆浴場(テルマエ)か……」

 平成の人気漫画風に言えば、護堂と晶は「平たい顔族」である。では、この時代のローマ市民も「平たい顔族」を見て驚いたりするのだろうか。フン族の活躍によって、辺境の民はすでに「平たい顔族」を恐怖の対象として認識している。

 護堂が魔王の力を誇示するでもなくこの屋敷を貸与されたのも、フン族――――とりわけ名の通ったウルディンという人物の仲間、あるいは同族であると見なされているからである。

 リンデもまた、護堂のことを恐れている。

 西洋人であるリリアナとはそれなりに会話をしているようだが、フン族似の容貌であり、数日の付き合いしかない護堂の人となりを彼女に理解してもらおうというほうが難しいだろう。

「こちらが、脱衣所(アポディテリウム)になります……。この部屋で衣服を脱いでいただいて、蒸し風呂(ラコニクム)高温浴室(カルダリウム)をご利用になれます」

「どっちを使ってもいいのか?」

「はい。どちらを使っていただいても大丈夫なように準備をしておりますので」

「そう。じゃあ、高温浴室(カルダリウム)を使わせてもらうよ」

 護堂は、蒸し風呂の利点がいまいち分からないのだ。

 垢を落とすために利用するというのだが、温水があるのならそちらを使いたい。おまけにこの辺りの温泉は、ローマ軍御用達の天然温泉と源泉を同じくするという。

 浴室の中からはオレンジ色の光が漏れ出ている。

 護堂が夜中に使えるように、篝火を焚いているのであろう。

 本来、こんな時間に利用することのない施設だ。

 かなり、無理をしているのは間違いない。

「あの、お召し物をお預かりします」

「ん?」

「お召し物。そのままでは入れませんし、オリーブオイルとか、垢すりとかも必要です」

 リンデは顔を紅くしつつ、そんなことを言った。

 この時代では、オリーブオイルを石鹸代わりにし、垢すりをすることで身体を清潔に保っていた。一人でできるものでもないので、奴隷などが主の入浴を補助したとされ、護堂もこの村に来てから背中の垢すりをしてもらったりもした。もちろん、男性の小間使いにだ。

「いや、君、一緒に入るつもりか?」

「い、今は草薙様のご入浴をお手伝いできるのがわたしだけですので……その、男性でなくて申し訳ありませんが……」

「あん?」

 今、彼女は奇妙なことを言わなかっただろうかと護堂は首を捻った。

「男性でなくてってどういう意味だ?」

「その、草薙様は、男性のほうがいいのではないかと……姫様方と臥所を共にされませんし、入浴のお手伝いも男の方にさせていらっしゃいましたし……わたしは、その、性に関してはどうとも言えませんが……」

 おどおどとした様子のリンデは搾り出すようにしてそう言った。

 なるほど、確かに護堂は入浴も就寝も男女の別を設けている。

 ガブリエルとの決戦を前にした日はしかたなかったが、今回は部屋がかなり余っているので晶やリリアナと部屋を共にする意味がなかった。入浴については日本男児が軽々しく見ず知らずの女性に補助させるわけにはいかないという極めて常識的な判断をしたまでであった。

 ところが、この古代の少女の眼にはそうは映らなかったらしい。

 その理由――――何となくだが分かってしまう。

 リンデが口にした理由もあるが、何よりも古代ローマは一応男同士の色恋には寛容だったという背景もあるに違いない。

 総てが許されていたわけではない。

 が、しかし男に抱かれることは問題でも男を抱くことは許容の範囲内だった。どちらが上か下かというだけの問題しか、この時代のローマにはなかったらしいのである。無論、キリスト教が広まった後はその傾向も一気に下火になっていっただろうが、そういうものがあるという認識はローマ市民には当たり前のようにあっただろう。

 リンデの言葉の端々に滲み出る不快感のようなものは、彼女が生粋のキリシタンであることを髣髴させる。

 とにもかくにも、この恐るべき誤解を残すわけにはいかない。

 千五百年の月日を越えた黒歴史を作るのは、御免被る。

「あのなぁ、さすがにそれはない。俺は男と関係を持ちたいと思ったことはないぞ」

「え?」

「え? じゃないよ! 繰り返すけど男にはそういう意味で興味はないからな!」

「では、女性のほうが……?」

「いや、それはそうだろ」

「ッ」

 びくっとするリンデ。

 気持ちが分からないわけでもないが、結構傷つく。

「だからな、君もここまででいいから。自分のことは自分でできる。部屋に戻って明日に備えておくんだ」

 できるだけ怖がらせないようにリンデには話しかける。

 そもそも、普通は眠っているであろう時間に無理をして護堂の世話をしようとしているのである。異民族に対する恐怖や主人からの言いつけもあるのだろうが、職務に忠実で誠実な彼女に厳しく言葉を投げかける護堂ではない。

 しかし、護堂からの命令という体裁は一応とっておかなければ後でフリウスに何か言われるかもしれない。護堂はマレビトでしかなく、数日中にはここを出て行く。後の禍根を残さないようにしなければならない。

「その通り! リンデさんは、お休みになってください!」

 そんなところに飛び込んできた一陣の疾風。

 ぬばたまの髪をしっとりと濡らした晶であった。よほど慌てていたのか、身体には水滴も付いている。それが分かるのは彼女の身体を包んでいるのが薄い布一枚だけだからである。

「お、お前なんて格好してんだ!?」

 護堂がさすがに声を荒げた。

 しかし、晶は護堂よりもまずリンデに向かっていく。そして、リンデの両肩をぐわし、と掴むと、

「ここは、わたしがします。リンデさんはお休みになってください」

 と、ゆっくり、しかし明確に語りかけた。

「は、はいぃぃ……」

 晶の気迫に気圧されたリンデは、がくがくと震えながら頷くと、逃げ去るように脱衣所を飛び出ていった。

「ふう、危なかった」

 晶は汗を拭うような仕草をする。

「さあ、先輩。入浴のお手伝いを……」

「いや、もう、お前も出てけ」

 護堂は一切の容赦も慈悲もなく晶を脱衣所から放り出した。

 

 

 

 温泉で汗水を流した後に自室に向かった護堂は、部屋に近付いたころになって、真っ暗なはずの室内から覚えのある呪力を感じ取った。

 呪力を感じるというのは、中々不思議な感覚だが、強いて言えば匂いに近い。

 例えばカレーが用意されていたとして、大抵の人は見なくてもそれをカレーだと判断できるだろう。呪力を感じ取るというのは、そのように目に見えずともその存在を認識できることなのである。

 今、護堂の部屋にいるのはリリアナと晶の二名だ。

 さすがに、この二人の呪力を感じ取れないほど護堂は鈍くはない。

 そして、護堂の勘が告げるには、リリアナは室内で何かしらの呪力を行使しており、晶はその近くにいるようであった。

 護堂が部屋に入ると、ぼんやりとした火の灯りに目が眩んだ。

「何だ、明るいな」

 見れば、部屋の四隅に小さな燭台が置かれていて火が灯っている。

「お上がりになりましたか、護堂さん」

 リリアナが護堂に言った。

 ポニーテールを解いたリリアナは、その銀色に輝く長い髪の先端をリボンで結んで纏めていた。

 リリアナがポニーテール以外の髪型をしているのを見た覚えのなかった護堂は一瞬、まじまじと眺めてしまった。

「何か、おかしな点でも?」

 リリアナが不安そうな顔をするので、護堂は笑って謝った。

「悪い、見慣れない髪型をしてたもんだから」

「この髪型、おかしいですか?」

「おかしくない。むしろ似合ってるよ」

「そ、うですか。ありがとうございます」

 リリアナは照れながらも笑った。

 誉められて悪い気がしなかったのだろう。

「何、いい雰囲気だしてんですか」

 と、機嫌悪そうに晶が言う。

 彼女の服装は貫頭衣――――トゥニカである。一枚の布を半分に折り、頭を出す部分に穴を開け、腕が出る場所を残して左右を縫い止める。この時代の一般的な衣服である。

「で、なんで二人は俺の部屋にいるんだ?」

「ミーティングが必要だと、リリアナさんが言ったので」

「ミーティング? こんな時間に?」

 護堂はリリアナを見た。

「申し訳ありません。ですが、報告はしておくべきかと思いましたので。例のウルディンという人物について、いくつか気になる情報があります」

 深刻そうな面持ちで、リリアナは護堂に言った。

「フン族のウルディン――――彼は、あなたと同じカンピオーネである可能性があります」

「なんだって?」

 護堂はつい問い返さずにはいられなかった。

 ウルディンという名は歴史に名を残すフン族の人間の最初期に現れる。フン族の王であるとか、複数いる指導者の一人であったとか様々な説があるが、実在する人間である。護堂たちの耳に届くウルディンが二十一世紀に語り継がれているウルディンであるとは限らないが、歴史的に重要な活動をした人物である可能性があるために接触は避けるべきであるとリリアナは言っていた。

「歴史に名を残した英雄が、その実神殺しの王であったという可能性は夢がありますが……ウルディンという方についてはどうも本物のようです」

「この時代のカンピオーネってことか」

「はい。厳密にはカンピオーネという名称はありませんが。……例のデイノニクス。どうも彼の神獣のようなのです」

 護堂はこの時代にやってくる直前まで暴れていた恐竜を思い出す。

 護堂の時代では恐竜という概念がきちんとあるが、この時代は一括りにして竜となるのだろう。どういうわけか分からないが、古代のカンピオーネは竜を操る権能という形で、なぜか恐竜型の神獣を呼び出せるらしい。

「リリアナさん。やっぱり、先輩とウルディンさんが会うのはまずいですよね」

「まあ、ろくな結果にならないとは思う。今までの例を見る限りでは……」

「自覚はあるけど、露骨に言わなくてもいいだろうに……」

 カンピオーネとカンピオーネが同じ場所にいるというのは、まったくよいことではない。

 それは、今回、護堂がこの時代に飛ばされてしまったように、訳の分からない権能を持ち、それを気侭に使う精神構造をした連中と一緒にいては何に巻き込まれるか分からない。まして、今は五世紀で、相手はフン族の指導者だというではないか。基本的な価値観が、現代人とは違いすぎる。

「護堂さんの影響力を考えれば、この時代のカンピオーネと出会うのはよくないわけです。間違いなく互いに影響し合うことになるでしょう」

「それに巻き込まれる周りがいるわけですし」

「この時代では家や土地が荒れるだけで飢餓を招きかねません。行政による保護など、到底望めない時代です。お気をつけください」

 リリアナと晶が代わる代わるに護堂に注意を促す。

 それを、護堂は神妙な面持ちで聞く。

 意識はしなければならない。実行できるかどうかは、また別ではあるがこちらから手を出すようなことはゆめゆめ控えるべき。護堂はあくまでも歴史の流れに突如として現れたマレビトでしかないのだから。

「それと、もう一つ。これに関連してですが……現在、そのウルディンというカンピオーネはアウグスタ・ラウリカという都市を攻略しようとしているらしいのです」

「アウグスタ・ラウリカ?」

「二十一世紀では古代ローマの遺跡としてスイスの観光地になっているところですね。この時代ではなかなか大きな都市ですが……なんでも、この都市には聖女がいて、ウルディンはその聖女を妻に迎えるためにちょっかいをかけているのだとか」

 ウルディンはローマ人が恐れるとおりのフン族であるらしい。

 都市を襲い、欲しいものを略奪していく悪魔のような存在。定住し、土を耕す民族に於いて遊牧民は大きな脅威であったが、まさしくその脅威を現実のものとして実感する日が来るとは思わなかった。

「ウルディンはカンピオーネなんだろ? そんなちまちまと攻撃するようなものなのか?」

 この時代でもカンピオーネの権勢は通用するらしい。

 しかし、それであればその聖女というのをさっさと差し出させればいいのである。

「それができない相手――――だとすればどうでしょうか?」

 リリアナは、もうこの答えを知っているのであろう。

 護堂も自分で問いかけて、まさかと思う可能性が頭を過ぎる。

「あー……つまり、その聖女はウルディンってヤツが簡単に手に入れられない相手。俺と同格のカンピオーネってことか」

「はい。そして、この近辺にいる女性のカンピオーネとなると、もしかしたらアイーシャ夫人なのではないかと思うのです」

「なるほどね……」

 護堂は頷いた。

 ここに来てやっとアイーシャ夫人の手掛かりを手に入れたのである。

 正体不明の旧時代の三魔王の一人であるアイーシャ夫人。洞窟に引き篭もっているという噂ではあったが、その洞窟の先が過去の世界などというどうしようもなく迷惑な権能の持ち主である。

「なんか、きな臭い感じになってきたような気がしますね」

 晶が言う。

 護堂もため息をついた。

「場合によってはこの時代のカンピオーネに喧嘩を売らないといけないってこと、か」

 仮にその聖女がアイーシャ夫人だとして、ウルディンが彼女を妻に迎えようとしている状況で護堂が出て行けばどうなるか。

 ウルディンとしては恋敵が出てきたとでも思うかもしれない。事情を説明して分かってくれるのならばいいとして、そうでなければ戦闘になるだろう。

 さらに、場合によってはアイーシャ夫人とも戦いになるかもしれない。

 彼女もまたカンピオーネなのだ。

 絶対に戦わないですむという保証は何一つない。

「とりあえず、わたしたちが元の時代に戻るためにはアイーシャ夫人の協力が不可欠です。明日の朝にはアウグスタ・ラウリカに向かうべきではないかと思うのですが、状況が状況です。護堂さんの判断を仰がなければ始まりません」

「うん、まあ、行くしかないだろうな。行こうか」

「よろしいのですね?」

「さっさと元の時代に戻るには、それしかないからなぁ。アイーシャ夫人が、ウルディンにどうにかされるとますます面倒だから、その前にこっちが接触しなくちゃいけない」

「承知しました。高橋晶も、それでいいか?」

 リリアナは晶にも尋ねた。

「わたしは、大丈夫ですよ。いつでも、移動できます」

 三人は三人とも根無し草である。

 目的地がはっきりすれば、この地に留まる理由がない。護堂が行くというのに、晶が断わる理由もまた存在しない。

「では、そのように。急ではありますが、フリウスさんには朝一番に報告しましょう。それともう一つ、とても大切なことがあります。護堂さんに、きちんと意識していただきたいことです」

 リリアナは妙に緊張したような口調で、護堂に言った。

 心なしか顔が紅くなっているようにも見える。蝋燭の影響ではないだろう。

「何だ、改まって」

「その、なかなかこういうことを面と向かって言うのはどうかと思うのですが、女性関係には気を遣われるべきかと思うのです」

「はあ?」

 護堂は突然のリリアナの意見の意図が分からず首を傾げた。

「さきほど、リンデと同じ浴場に入りかけたとか」

 リリアナにそう言われて、護堂は咽そうになった。

「う、それは、あの娘が勝手に言ってただけだぞ。俺は断わってたからな!?」

「はい。ですが、まかり間違ってということはあるわけです。そして、そうなった場合、あなたを止めるものは何もありません。唯一、あなたの理性のみがストッパーなのです。この時代に、あなたの子を残すようなことがあってはなりませんので、そういった行為は厳に慎まれるよう、お願いします」

 少し、厳しくリリアナは言った。

「そりゃ、まあ、当然のことだ」

 護堂は頷く。

 人としての責任もあれば、歴史に与える影響もある。護堂がこの時代の女性と関わりを持つのは、非常に危険なことなのである。

「それでは、もう夜も遅いので失礼します。高橋晶、あなたも」

「え、はい……」

 リリアナに声をかけられた晶は、口数少なく小さな返事をしてリリアナの隣に向かう。

 それから、リリアナと晶は並んで部屋の外に出ていった。

 

 火の呪術が消えたことで、部屋の中は真っ暗になった。

 護堂はベッドの上に寝そべって仰向けになっていた。ガブリエルとの戦闘による疲労があるはずなのに、妙に目が冴えて眠れない。こういう日は時々あるのだ。身体が眠りを欲しているのに、精神が眠りを拒否するような日が。それでも無理にでも眠らなければ疲れは取れないので、護堂は目を瞑る。暗闇を見通す目を持つ護堂が、真の暗闇を得るには、こうして瞼を閉じるかアイマスクのようなものをつける以外にはないのである。

 と、そのとき護堂は馴染みの気配を感じて目を開けた。

「何してるんだ、晶?」

 ドアをすり抜けて入ってきた晶に護堂は声をかけた。

「むぅ、全然どっきりにならないじゃないですか」

 実体化した晶が護堂のベッド脇に現れる。

 やや不満げにしているのは、彼女の言葉のとおり護堂を驚かすのに失敗したからであろうか。

「何言ってんだよ。というか、人の部屋にいきなり入るのはよくないっての」

「すいません」

 と、晶は謝る。

「まあ、どっきりもありますけど、ちょっとさっきの話で」

「さっきの?」

「はい。リリアナさんが言ってた、この時代に子どもを残すのはよくないって話です」

「ああ、それか」

 それがどうかしたのか、と問おうとしたとき、晶は護堂の上に圧し掛かり、胸を顔を埋めていた。

「お、おい?」

「……」

 護堂は身体を起こす。

 晶は、護堂の背中に両手を回して抱きついている。離れようとはしなかった。

「どうしたん、だよ」

 護堂は問う。突然の晶の行動に理解が追いつかなかったからである。

「夜這いです」

「はあ?」

「だから、夜這いですって」

 小さな声で晶は言った。

 羞恥に顔を歪めている晶は、護堂と視線を交わさないようにしている。

「あのな、夜這いって、お前それ意味分かって言ってるのか?」

「あ、当たり前じゃないですか。分かってなかったら言いませんし、行動しません」

「何でいきなり、そんなこと」

 護堂はつい大きな声を出しそうになるのを堪えた。

「だって、リリアナさんがこの時代に子ども作っちゃダメって言ったから……子どもができないわたしなら、なんの問題もないじゃないですか」

「問題ないって。それはダメだろ。色々と問題あるだろ」

 道義的にも年齢的にも行為に及ぶのは推奨されない。

 護堂自身もそういった点での一線は守らなければならないと思っているのだ。それが、リリアナの言っていた理性の部分である。

 だが、晶はまったく納得しないとでも言うように護堂の背中に回した手に力を入れる。

 そのまま、晶は護堂を押し倒した。普段の純粋な力では護堂よりも晶が上だ。まして、晶の意図が読めないこの状況では――――。

「ダメって、何でダメなんですか?」

「何でって」

「わたし、今回ばかりは真剣なんですよ……。どうして、この状況で手を出してくれないんですか? 言ってくれれば、何でもできるんです。何でもですよ……。先輩の好きなようにしていいのに。それでも、ダメなんですか? どうして?」

 見れば、晶は半ば泣きそうになっている。

 瞳を潤ませて、護堂に迫っているのだ。並々ならぬ感情がそこにはある。何かに追い込まれ、突き動かされているような感じである。

 晶の香りがともすれば護堂に一線を越えさせようとする状況で、護堂は冷静になろうと深呼吸して答える。

「とにかく、ダメだ。晶だけじゃない。他の娘にも、そんな簡単に手を出すわけにはいかない」

 晶が自分のことを好いてくれているのは知っている。何せ告白までされたのだから、今更その気持ちを無視するわけにはいかない。

「――――わたし、ダメですか?」

「晶がダメなんじゃない。前にも言ったけど、俺のほうの問題なんだってことだ」

「分かってます。でも、先輩、いつもいろんな女の子と仲良くしてるじゃないですか。万里谷先輩とか清秋院さんとか明日香さんとか。リリアナさんともキスしたし……」

「それは、そうしないと『剣』が使えないから」

「それも分かってます。でも、合理的なのと感情は別ですから。理由があっても、納得できないものはあります。特に、先輩は――――こういうときに自分から求めることってあまりないじゃないですか」

「どういう、ことだ」

「わたしたち、みんな先輩のことが好きで集まった仲間です。紆余曲折ありましたけど、結果的にそういう構成になってます。けど、先輩のほうがどうなのか分からない。先輩が、きちんと意思表示してくれたこと、ないから。だから、こんなに不安になる。もしかしたら、自分は友だちとか戦友とか、その程度の立ち位置なんじゃないかって。ここまでして、ダメって、もうそう考えるしかないんじゃないかって。みんないい人ばかりで、ガツガツしてないから争いになりませんけど、一歩間違ったら内紛状態になりかねませんよ」

 一息に言い切った晶は恨めしげな視線を護堂に落とした。

 護堂に明確に好意を向けて集まった仲間は、祐理、恵那、晶、明日香の四人の少女が中心である。

 祐理は奥ゆかしい性格で争いを好まず、他者を優先する気質があるし、恵那は育った環境が極めて特殊だ。男の女遊びについても理解がある家庭で育っている。明日香については、晶もきちんと把握していないが、ベストを追い求めるタイプではなく、ベターに留めようとするタイプだ。祐理や恵那に対して勝ち目がないと分かっているから、無理に勝負せず皆で一緒にという選択に落ち着いているという状況ではないか。

 何にしても、護堂にとっては都合のいい環境であり、常識的にはありえない状況ではある。

「それが許されているのは、カンピオーネだからですよ。カンピオーネだから仕方ないって思えるんです。あらゆる権利を持っているカンピオーネなら、全員に可能性が残り続けるわけですから、ベターでも選択肢に入るんですね。先輩がカンピオーネでなければ、どうなっていたか」

 早々に護堂に見切りをつけて去っていく者もいたかもしれない。

 あるいは互いに憎み合い、排除しようと動いたかもしれない。

 もしくは、護堂に憎しみを抱くということもあるかもしれない。

 誰か一人しか選ばれず、護堂自身が法に縛られる定めにあるのなら、護堂を諦められない者たちが一つしかない席を巡って争うのは当然ではないか。

 それがないのは、護堂がすでに権利を行使しているからである。

 彼の自覚の有無に関わらず周囲が彼に認めた特権が、文句を封殺している。それどころか、元々は好意によって集った集団ということもあって、護堂の指示ではなく自分の意思でそこにいるのだという前提が生まれている。護堂からすれば、自分が命じたわけではないという逃げ道が常にあるのだ。

「それは卑怯です。現実的にはキープしているのと同じような状況なのに、先輩自身は手を出すとも言わず、誰かを選ぶとも言わない――――はっきりしないから、わたしたちから行動するしかないじゃないですか」

 今にも泣きそうな顔。

 不安に苛まれた晶に護堂は申し訳ないという気持ちで一杯になった。彼女の気持ちを、察していなかった。察して当然であるべきところを気付けなかったのは、偏に護堂の落ち度でしかない。彼女の言うとおり、カンピオーネでなければ非難されていたのは間違いない。

「悪かったよ、晶。そんな風に、苦しませるつもりはなかった」

「本当ですよ。先が見えないのはきついんですから」

 護堂が自分を嫌っているわけではないというのは実感する。しかし、その一方で異性として捉えてくれているのかどうかはあやふやなままであった。エリカのように、ビジネスライクな付き合いだと公言することもなく、ただの妹の友人であったころとほとんど変わらない距離感が維持されているような気すらする。

「俺が晶に手を出さないのは、責任が取れる歳じゃないからだよ。晶を女の子として見てないってわけじゃない」

「歳って、先輩、カンピオーネなのに」

「カンピオーネでも犯罪はダメだろ。できることとすることは違うっていうのかな。俺は色々な権利を持っているし、義務も負ってないけど、だから、人間らしく守れるところは守らないとって思う。そこが、俺なりの線引きなんだよ」

「そう、ですか」

 晶は護堂の言葉を噛み砕くように呟いた。

「じゃあ、わたしに手を出さないのはまだ高一だからですか」

「そうだな」

「ほかの人に出さないのも? 万里谷先輩とか清秋院さんとか」

「誰だって、同じだ」

「複数人に手を出す可能性があるってだけで、先輩最低なんですが」

「分かってるよ」

 護堂は捨て鉢になって答えた。

 何と言うことはない。

 そういう面で、草薙護堂という男は最底辺の男なのだ。

 晶との問答で、自覚した。祖父のように女性を積極的に篭絡するタイプではない。護堂はそれとはまた別の道を行く外道であると。

「まあ、分かりました。先輩は人の好意を受け取っても、それに応えるのは十八からってことですか。そのときに傍にいる女の子にはきちんと手を出すと」

「そうなるかもな」

「そうですか。もう分かってましたけど、どうしようもない人ですね」

「晶から見限るんなら、もうそれでも仕方ないと思えるくらいには最低だと思ってるよ」

「何言ってるんですか。わたし、先輩に首輪付けられてるようなものなのに」

 晶は護堂の胸に頬を寄せた。

 薄い掛け布団を一枚隔てただけなので、彼女の体温はよく伝わってくる。こうしている今でも、晶に手を伸ばしたいという自分がいるのを護堂は抑えているのだ。それを、彼女は理解しているのだろうか。

「でも、まあいいんです。わたしのことを異性として見てくれているって分かったので、ちょっと安心しました」

「いいのかよ、それで」

「いいんですよ。そういう人を好きになったってことですから」

 そもそも、護堂が誰か一人を選ぶことはないだろうと晶は思っていたし、それは仲間うちでの共通認識ではあった。そういうものだから仕方がないのだ。本当に、その一言で片付く問題でもあった。だから、一番になりたいとか、そのような欲は抱けない。護堂の中に手を出すか出さないかの枠組みがあるのなら、自分がどちらに属しているのかということだけが気がかりだった。

 とりあえず、今日のところは選ばれる側にいるということが確認できただけでも良しとしよう。

「なあ、晶」

「何ですか?」

 護堂に問われた晶はのそりと身体を起こした。

「さっき、カンピオーネだから、今の状態が許されるって言ってただろ」

「はい」

「もしも、俺がカンピオーネじゃなかったら、お前はどうしてた?」

「わたしですか?」

 自分で言ったことではあるが、自分に置き換えて考えたことはなかった。

 少しだけ考えて、答える。

「そうですね、もしもそんな形で先輩を好きになってたら……」

 晶はぎゅっと護堂に抱きついた。

 護堂の耳元まで唇を寄せて、囁く。

「ほかの人、皆どうにかしちゃって、わたしだけの先輩になってもらってたかもしれないですね」

 




外道であると自覚すると同時にさり気なく言質取られた護堂であった。


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古代編 8

 アウグスタ・ラウリカは、スイスにおける最大の古代ローマ遺跡である。

 五世紀現在の人口はおよそ二万人。

 水道設備や公衆浴場、議事堂、闘技場、神殿、教会と五世紀の日本ではありえない街並をしている。古代ローマの植民市としてはこれが一般的だというが、西と東の文明力の差は極めて大きい。もちろん、物事には様々な見方があり、西洋的な文明と東洋的な文明を同列で語ることはナンセンスではあるが、グローバル社会で育った護堂からすれば、古代ローマの文明は、この時代の最高峰を走っているのは間違いないと実感できるものであった。

 アウグスタ・ラウリカは、フリウス所有の農村から馬車で二日ほどの距離にあるという。

 古代ローマの街道は千五百年後まで残るものもある石造り。その道を優雅に馬車で旅するというのも、悪くない選択肢ではないかとも思ったのだが、サスペンションも何もない馬車で石造りの街道を進めば絶対に身体に悪影響が出る。

 土雷神の化身を使って一瞬で移動するという手もあるにはあるが、護堂にはアウグスタ・ラウリカの位置が分からない。

 分からないところに移動はできない。地中を彷徨うことになるのは御免だし、下手に神速で自分の知らない土地に行ってしまうと戻って来れなくなるかもしれないのである。

「で、あればわたしの飛翔術で移動するのが一番手っ取り早いでしょうね」

 と、リリアナが言った。

「行けるのか? その飛翔術って」

「もちろん、行けます」

 リリアナは自信満々に言い切って見せた。

 飛翔術は直線しか移動できないという制限があるものの、高速で長距離を移動する飛行呪術である。なるほど、それならば馬車で二日の距離を瞬く間に移動することすら可能であろう。

「アウグスタ・ラウリカの場所ならば、わたしは知っています。何せ、観光したことがありますからね。それに、飛翔術はその気になれば大陸横断すら可能とする術です。目的地がはっきりしていれば、すぐにでもお連れできます」

「魔女の力って、便利すぎやしないか? 大抵のことは不自由なくできそうだけど」

 長距離移動に霊視、その他呪術の中には魔女にしか使えない秘術もいくらかあるというし、薬物についても詳しい。剣を振り回しているよりも、このほうが魔女の一般的なイメージに近いのは分かるが、実際にその恩恵に与るとなると、実感としてその反則さが理解できる。

「そうですね。そのためか、わたしたちは歴史の影に隠れることになったわけですが……テンプル騎士に取り込まれていくのも、魔女だけでは生き延びられなかったという背景もあるようです」

「日本の媛巫女もそうだけど、血縁が物を言うんだから、生き残りを図るのは大変だよな」

 血に由来する力を後世まで残そうとするのなら、それ相応のパトロンが必要になる。古代から近世にかけて政治体制が激変し続けた西洋では、統一された意思の下に血族を守っていこうというのは難しかったのだろう。その点、日本はまったく異なる歴史を歩んできたと言える。

 俗の部分では血縁と家名の双方を重視していたがために、養子縁組などで家を守ってきたものだが、聖の部分は多分に血縁が絡む。武士ならば源平藤橘、貴族ならば五摂家、そしてその上に何人にも犯されない神聖不可侵の天皇家が君臨していた日本の聖の世界。血縁を重んじるが故に外部の者が取って代わることもできず、その発想自体がタブー視された。

 日本の文化の外にある勢力との出会いが少ないからこそ、自国内の常識だけが通用する社会であったとも言えるが、結果的に媛巫女の血は現代まで受け継がれることとなったのである。

 様々な形に姿を変えて、時代に翻弄されながら生き残りを図った魔女とは同根ながらも相容れない存在ではなかろうか。

 強大な権力の庇護を受けて成り立つ媛巫女と野に下り研鑽を積み重ね、騎士にまで取り入った魔女。それは、あたかも日本に於ける貴族と武士のような立ち位置の違いになっているような気がする。

「リリアナさんの能力は反則的ですけど、まあ、この時代で簡単に移動ができるってのは強み以外の何物でもないと思いますよ」

 と、晶が言った。

「交通機関もないですし、現代人には辛い状況ですよね」

「まあ、そうだよな。馬車って、そんなに速くないんだろ。そんなペースで二日も旅したことないよなぁ」

「普通は景色が吹っ飛んでいきますからね。交通機関を使うと」

 色々と高速化した二十一世紀。 

 その環境で過ごした日々は、非常にゆったりとした時間が流れる古代では苛立ちを募らせるものにもなってしまう。

 ずいぶんとせっかちな生き方をしてきたのだろう。

「確か、平安時代の人は話す速度が非常に遅かったみたいですね。現代人と会話したら、平安時代の人は聞き取れないだろうって」

 晶が言うと、リリアナが頷いた。

「それなら、分かる気がする。耳から入ってくる情報の処理速度が違うんだろう。盲目の人が利用する音声サービスには、一般の人では付いていけないくらい早口のものもある。耳が発達している分、健常者の会話速度はじれったくなると聞いたな」

 あまり福祉に興味のなかった護堂には初耳の情報であった。

 必要に迫られれば、人間はその分野を発達させる。情報に溢れた二十一世紀では、それを処理するために五感についても古代から変化しているのであろう。

「リリアナは本当に物知りだな」

「いえ、それほどでも。日々の学びは糧となります。意外なところで豆知識が活きることはあります」

 誉められて嬉しそうにしつつ、リリアナは謙虚に答えた。

「それはあれですか。ネタになるってことですか? 小せ――――ぷぉ!?」

 リリアナを小説ネタでからかおうとした晶の顔にすばやくリリアナが何かを投じた。

 小さな紙屑のようなそれは空中で広がると、晶の顔を包み込む。

「むあっ!? 何だぁ、こや!?」

 驚いた晶は身を仰け反らせ、紙を顔から取り除く。人間が咄嗟に紡いだ程度の呪術で、晶をどうこうするのは不可能に近い。驚かせるのがいいところであろうか。

 晶に引き千切られた紙はかなり繊維質のように見える。構造としては、パピルスに近い。

「何するんですか!?」

「今のはそっちが悪いだろう。当然の対応だ」

 ぷい、とリリアナは晶から目を背ける。

 リリアナはリアクションがはっきりしているのでからかいやすい。しかし、そういうタイプの人間は往々にしてからかわれなれていないので、そのキャラ付け自体がストレスになることもある。もっとも、彼女の場合はエリカとの付き合いが長いので、その辺りは慣れているだろう。

「そろそろ行きましょう。一息に行くと負担もかかりますので、休憩を挟みつつアウグスタ・ラウリカに向かいます」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 眼下に古代ヨーロッパの自然を見下ろしつつ、護堂と晶はリリアナに抱えられて空を飛んでいる。

 吹き付ける冷たい春風がひんやりとして心地いい。

 飛翔術で空を飛ぶと、まるで飛行機に乗っているかのように景色が過ぎ去っていく。

 直線しか移動できないという欠点はあるものの、それはメリットを打ち消せるほどのデメリットとはなっていないだろう。戦闘で用いるのならばまだしも、移動するだけならばこれほど便利な術はない。

 飛行しているのは地上三百メートル程度の高さである。

 二十一世紀ならば高層ビルの屋上くらいの高さになるが、この時代にはそのような建造物は一つもない。現段階で世界最大の建物は、ギザの大ピラミッドが誇る約百四十六メートルである。

「古代人からしたら空を飛ぶってのは夢のまた夢だよなぁ」

 眼下を流れる森や川、小さな集落を眺めながら護堂は呟いた。

「手を伸ばそうとする人は少なからずいましたが、一様に失敗していますからね。まあ、魔女はこの時代で唯一飛行を可能とした人間ではありますが、それを除けば成功例は皆無。まさに夢物語です」

 人類が空を飛ぼうと思ったのはいつの頃からなのか。

 人体を如何に駆使したところで飛行することは叶わない。しかし、人間には不可能を可能にする知性という武器があった。道具を作り、儀式を行い、鳥のように空を飛ぶ夢を追い求めてきた人類。多くの生き物は、その目的に従って肉体を変化させ、多種多様な能力を手に入れてきたが、人間は肉体ではなく周囲の環境に手を加えることで己の目的を果たす方向で進化した。

 高い知能がそうさせた。

 肉体は目的を果たすために変化するものではなく、目的を果たすための道具を生み出すことに特化した。

 空を飛ぶ。そのための変化を肉体ではなく道具や呪術という外部に求めたのである。

 魔女達は、遙か古代の時点でその試みに成功した。

 しかし、技術面では近現代に至るまで誰にも手の届かない夢の領域にあった。

 護堂とて、こうして魔女リリアナの手を借りるか、権能を使うかしなければ生身で空を飛ぶことなどできない。道具もなしに空を飛ぶというのは、それだけ稀有な経験なのだ。

 視界を遮るもののない遙かな高みから大地を眺める。

 それだけで、脳の中心に叩き込まれる根拠のない全能感に胸が震える。

 まるで、この世のすべてを見通しているかのような気持ちにすらなる。

「護堂さん。あれを……!」

 リリアナが護堂の耳元で声を挙げる。切羽詰ったような声である。その原因を護堂も視認した。何せ、この高さだ。見たくなくても目に入る。

 大きな城塞都市の正面に、騎兵の一群が迫っているのである。さらによく見れば、その騎兵の前を走る数騎の兵がいる。装備がまったく違うのは、属する組織が異なっているからだろう。前を走っているのは、アウグスタ・ラウリカに逃げ込もうとする誰かであって、後ろから押し寄せているのは、それを阻もうとする敵軍に違いない。

「フン族、か?」

「あの騎兵隊の面々、アジア系の顔立ちに見えます。おそらくは、その通りかと」

 フン族の集団は、ざっと三百騎くらいいるだろうか。

 本気で戦争をするには数が少ない。

 戦うためにここまで来たというよりも、何か別の目的で移動していたところで、ローマ側の兵と偶発的な遭遇戦になったというような感じに見える。

 戦争には詳しくない護堂であるが、さすがに三百騎程度の兵力で巨大な城塞都市を陥落させるのは無理がある。放っておいても、彼らは撤退していくに違いない。

 歴史の流れには、極力干渉してはならない……とは言われた。

 現状、ローマ側とフン族側のどちらが良いとも悪いとも判断できない。未来の時代を生きた護堂の価値観で、相手を判断するのはあまりに愚かなことである。

 それでも――――。

「リリアナ、このまま突っ込んでくれ!」

「承知しました!」

 リリアナもその気だったのだろう。

 着地地点は、逃亡を図るローマの騎兵とフン族の集団の中間。

 空から青い光を纏って舞い降りる護堂たちは、そのまま迫り来るフン族の集団に相対した。

 突然、地上に現れた三人組に、先頭の騎兵は目を丸くして手綱を引いた。

 さすがに、全力で走ってきていきなり止まるのは不可能である。

 馬首を廻らし、フン族の一群は護堂たちを避けるように逸れていく。

 その流れに沿うように、護堂は一目連の権能で創った神槍を地面に打ち込んでいった。強力な呪力の高まりに馬が脅え、空から地面に杭のように打ち込まれる槍を見てフン族の面々は顔面を蒼白にした。

 護堂は、特に何を思うでもなく騎兵を眺める。 

 三百騎に単独で挑んで、勝利できる人間など皆無である。呪術の心得があろうと、それは同じだ。それこそ、聖騎士クラスの実力者であれば生還することも可能だろうが、それでも相応の覚悟をする必要がある。

 その厳然たる事実も、カンピオーネを前にすれば屈服するよりない。

 護堂は事ここに至っても恐怖の一欠けらも抱いてはいなかったのだ。

 護堂が、彼らを見て思ったのは――――向かってこられたら、殺さないように手加減しなければならないから面倒だ、ということであった。

 端から敵とすら認識していない。

 それは、人間が蟻の観察をするときに、蟻を潰したり、傷付けたりしないように細心の注意を払うのと同じ感覚である。

 同じ姿容をしていたとしても、両者の実力差はあまりにも隔たってしまっている。

 相手もそれを理解したのだろう。

 これは勝てないと悟り、一目散に逃げ去っていく。

 それは見事な退却振りだ。

 ヒットアンドアウェイをまったく無駄なく遂行している。獲物に対する執着など、まったく感じさせない撤退であった。

「あっさりと退きましたね」

 晶が護堂の後ろから声をかけた。

 彼女も護堂が投じた槍と同種の槍を肩に担いでいた。いざとなれば、護堂よりも先に自分が前に出ることで、敵を黙らせる。

 式神である彼女は、護堂に比べれば幾分か加減もできるし、鬼の鎧は示威効果が十分に期待できる。

 そのつもりでいたのであるが、非常にあっさりと撤退していったものだから肩透かしを食らった。

「カンピオーネの力を目の当たりにして、まともに戦う意思を維持できるものではないだろうからな。それに、フン族の頂点に位置するウルディンはこの時代のカンピオーネの可能性もある。となれば、向こうもそれなりの知識はあってもおかしくないだろう」

 リリアナの言うとおり、フン族の中のどれくらいの人員が神殺しのことを知っているかは定かではないにしても、誰も知らないということはないだろう。

 ウルディンが神殺しであるのなら、当然その部下たちは神殺しに挑む愚かしさを理解しているだろう。たかが三百騎の軍勢では、一撃で蹴散らされるということをだ。

「護堂さん、それよりもこれからのことを相談しませんと」

「これからって?」

 護堂はリリアナの言葉に首をかしげる。

「わたしたちは今、フン族を追い散らしたのですよ。それも神殺しの力で」

「あ、そうですね。先輩が神殺しであることが相手に伝わったかもしれないから、ウルディンさんが出てくる可能性もあるってことですね」

「……ああ、なるほど、これからのことってそういうことか」

 ウルディンの配下を蹴散らしたのだ。

 理由はどうあれ、敵対行動とみなされてもおかしくはない。

 そして、神殺しに対抗できるのは神殺し。その道理に従うのならば、護堂の相手をするのはウルディン――――五世紀の神殺しに他なるまい。

「まずは、拠点の確保を。このアウグスタ・ラウリカをわたしたちの次の根拠地としたいと思うのですが」

「あー、人がいっぱいいそうだけど……背に腹は代えられないか」

 それに、曲がりなりにもウルディンに対抗してきた城塞都市である。

 フリウス氏の農村に比べれば、神殺しとして滞在するのに気を遣わなくていいかもしれない。

「でも、どうやってだ? リリアナはいいとして、俺と晶は東洋人だぞ。街の人からすれば、フン族と変わりないと思うけど?」

「その点については、交渉で何とかなると思います。この時代のローマなら、東洋人だから総てが敵というわけでもないですし……」

 リリアナはなにやら思案するような表情を浮かべて砦を見上げた。

 リリアナが見つめるのは物見台。

 一際輝く鎧を身につけた、この街に詰めるローマ軍の司令官と思しき人物であった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 交渉の余地など初めからなかった。

 神殺しに対抗できる者など、『まつろわぬ神』か神殺ししかいないのだから、フン族の騎兵に襲われて何もできなかったアウグスタ・ラウリカのローマ兵では到底話にはならない。

 もっとも、彼らの士気は思いのほか高く、ウルディンからこの街を死守してきた実績からも力と強権による圧力では屈服しないだろうというのは分かっていた。

 リリアナは護堂を王として迎え入れさせるのではなく、一人の傭兵として雇い入れるように仕向けたのである。

 怪物ウルディンに唯一対抗できる者として。

 護堂が空から神槍を降らせたところを見ていた者も一定数いたらしく、それも交渉を優位に運ばせた。

 結果として、護堂たちはアウグスタ・ラウリカの一等地に自らの邸宅を構えるに至った。

 身分としては独自の兵を持たない軍団長として。

 あくまでも駐留する上での名目上の名義である。

 ベッドとソファは兼用だ。

 食事を摂るときに、寝転がりながら食事をするのが古代ローマのマナーということで、ソファとベッドが一体となったものを使うのである。

 護堂は白いソファに腰をかけてため息をついた。

「どうかしましたか?」

 晶が護堂の様子を心配して話しかけてくれた。

「ああ。ちょっとな」

「……もしかして、ウルディンさんのことですか?」

「ん、まあ。結局、戦うことになるのかもしれないだろ。何と言うか、呪われてんじゃないかとな」

「それはもう盛大に呪われてますね。神様を殺しちゃった人ですから、そういうのはデフォルトかもしれないですね」

「よくよく考えれば罰当たりだもんな……神殺しってのは」

 神様を殺すというのが、そもそもありえない話である。それを実現し、地上の王となったからには、それなりの運命が待っているのは常識的に考えれば当たり前のことであろう。

 もちろん、神を殺すような人間に常識は通じないのが常である。が、何かと騒動に巻き込まれたり、引き起こしたりする者が大半とあっては、そのような星の下に生まれているのだろうと思うしかない。

 不幸だと叫びたくなるくらいには不幸なのだが、それに見合うだけの幸運も兼ね備えているから文句は言えない。後は早死にさえしなければいい人生を送れるだろうと、達観できるくらいにはなっていた。

「戦うとなれば、ウルディンの能力も調べなくちゃならないか」

「あ、あああの、先輩。その、わたしが知っている神様なら、教授、できますからね。アジア系。インドとかその辺りであれば!」

 晶がどもりながらアピールした。

 言霊の『剣』を使うための前準備に教授の術をかけてもらうのだが、そのためには対象となる神についての知識を持つ者とキスをする必要があった。

 まつろわぬガブリエルのときには、リリアナが教授をかけた。

 ガブリエルの出自を詳しく知らない晶では教授がかけられず、忸怩たる思いをしたのである。もしも、次の敵がアジア系で、自分の知識にある神様であれば、今度こそはと護堂に好意を抱く少女として自分の存在を忘れられないようにアピールしている。

「分かったよ。そのときは、晶に頼む」

「先輩!」

 晶は喜悦に笑みを浮かべる。

 満面の笑みであった。

 昨晩の件で護堂の気持ちもしれたことだし、晶にとってこの時間旅行は決して損なものではなかったのかもしれない。少しだけ、距離を近づけることができたような気がするのである。

 ドアがノックされたのはそのときであった。

 外から呼びかけてくるのは護堂と共に旅をしている銀色の女騎士である。返事をすると、ゆっくりとドアが開かれた。

 現れたのはリリアナではなかった。

 黒髪のショートヘアとゆったりとした白い外套が落ち着きある雰囲気を醸し出している。目鼻立ちの整った、愛らしい乙女である。

「こんにちは、草薙護堂さん。まさか、同時代のお仲間とこのようなところでお会いできるとは思っておりませんでしたわ」

 にこやかに、彼女は言った。

 初対面且つ護堂からすれば大先輩に当たる人物ではあるが、彼女自身はとてもフレンドリーな人柄のようだ。口を開くだけで春風が(そよ)いでいるかのようではないか。

「始めまして。ええと、アイーシャさん、とお呼びして構いませんか?」

 護堂は立ち上がって尋ねた。

 護堂の知識にも名前しか存在しない謎のカンピオーネ、アイーシャ夫人は、愛らしく微笑んで頷いた。

「それはもちろんです。どうぞ、お好きなようにお呼びください」

 カンピオーネらしからぬ、人好きのする笑み。 

 これが二十一世紀に存在する七人の魔王の中で最も傍迷惑な権能を持っている神殺しなのかと護堂は本気で疑問を覚えた。

 とても、神を弑逆するようには見えないからだ。

 しかし、それでも相手はカンピオーネである。護堂がこの時代で色々と大変な目に合っているのも、彼女が原因なのだ。油断だけはせず、しかし温和そうな性格から争いにだけは発展しないように注意する。

 ともかく、これで元の時代に戻るという最大の目的は果たせそうだ。

 護堂は内心でほっとすると共に、どのようにして元の時代に戻るよう説得するか考えるのであった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 ライン川の畔に聳える巨大な砦。

 かつては、ローマ軍が詰めていたそこは、すでに敵の手に墜ちていた。たった一人の男の手によって強壮を謳われたローマ軍は蹴散らされたのである。

 周囲を囲む森の中にはこの時代にはありえない生物が跋扈している。

 デイノニクスと後に呼ばれることとなる恐竜と酷似した身体つきの神獣たちである。

 その内の一体、前足が翼になった翼竜に跨っていた男が遂にこの砦に戻ってきた。

 筋肉質な肉体。

 短く狩った髪。

 そして、アジア系の顔立ち。

 現時点でフン族の頂点に君臨する王――――ウルディンである。

「お待ちしておりました、ウルディン様」

 そして、ウルディンの帰還を出迎えたのはゲルマン系の顔立ちの女性とフン族出身の少女であった。

「よう、クロティルド、ルスカ。出迎えご苦労」

 と、にこやかに笑うウルディンは、一人目の妻と四人目の妻に気さくに話しかける。

 数日間、どことも知れぬ場所をほっつき歩いていたことを二人が怒っているのが目に見えて分かっていたからご機嫌を取ろうとしてのことだ。

「まったく、あなたという人は。また、勝手に出歩いて。置いていかれる身にもなってください」

 と、静かに抗議するクロティルドに対してルスカは半ば諦めの境地で呟く。

「まあ、生きて帰ってきたしね。それだけでも上々」

「ハハハ、物分りがいいなルスカ。よし、今晩の相手はお前にしよう。コンスタンティノポリスの連中が寄越した酒でも飲みながらな」

「ん」

 頬を染めつつ、頷くルスカ。そして、その隣のクロティルドは絶句する。

「あ、なっ」

 言葉にならない呻き声を発しつつ、震えるクロティルドははっとしてウルディンに視線を戻した。

「そ、それどころではありません。ウルディン様の夜の件は置いておいて、まずは報告があります。例の聖女の件で、斥候に出ていたドナート殿からです」

「あん、何か進展があったのか?」

「はい。おそらくはよくない方向に」

 武勇と呪術のみならず学識に優れたクロティルドが「よくない」と表現するからにはよっぽどのことがあったのだろう。

 ウルディンは表情を引き締めて、クロティルドに先を促した。




無課金だけどアルトリアとタマモキャットが手に入って有頂天な我。それにしてもガチャから優雅たれが出た時の衝撃ときたら……腹筋に候


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古代編 9

 アイーシャ夫人は、護堂がこの世に生を受けるよりもずっと前から存在する所謂旧世代のカンピオーネの一人である。

 その経歴ははっきりとはしていない。

 本人が事あるごとに世界から姿を隠してしまうということに加えて、賢人議会が情報を限りなく制限してしまっているからである。

 結果的に上位の呪術師であっても、まともに彼女の情報を持っている者はおらず、洞窟の奥に引き篭もっているという俗説が流れてしまった。

 賢人議会もそれを都合よく利用したのであろう。

 二十一世紀の呪術業界に於いて、アイーシャ夫人は隠居した謎のカンピオーネという立ち位置を築いていた。

 よくよく考えれば、そんなことはありえないと気付いただろう。

 カンピオーネは須らく傍迷惑な存在なのである。

 おまけにじっとしていても騒動が寄ってくる。護堂もこの一年の間に体験したことであり、今現在もかつてないほどのトラブルに見舞われている最中である。

 そのような存在が、大人しく洞窟の中で隠居できるはずがない。

 初めからおかしいと思うべきだったのだ。

 それがなかったのは、原作知識とこの世界の常識の両方に流されたからであろうか。

 名前だけは知っているカンピオーネは、意外にも小柄な少女であった。

 東南アジア系――――聞けばインドの出身らしい彼女は、日に焼けた健康的な肌と白い衣装を身に纏い、ほんわかとした空気を全面に押し出している。

「何か、権能を使っているんですか?」

 護堂はアイーシャに尋ねた。

 部屋を満たす空気が、妙に暖かい。

 護堂の直感が、アイーシャ夫人が何かしらの権能を用いていると告げている。決して害意あるものではなく、護堂を害するような代物ではない。ガブリエルの権能のように、戦闘以外の場面でも役に立つサポート系の権能ではないだろうか。

 問われたアイーシャは驚いたのか目を見開く。

「あら、お会いしたばかりですのに、お分かりになるのですか?」

「何となく、感じるんです。俺、そういうのを感じやすい性質なんで」

「そうなのですか。ふふ、お察しの通りです。カトリックのとある聖人より心ならずも簒奪してしまった権能なのですが、所謂魅了の類でして、これのおかげで見ず知らずの土地でも助けてくれる人がいるので重宝しております」

「み、魅了!?」

 護堂が何かしらの反応をする前に、悲鳴に近い声を挙げたのは晶であった。

「あら、あなたは?」

「あ、えと、高橋晶と申します。その――――」

「ああ、草薙さんのお嫁さんのお一人ですね。二十一世紀にいた頃に小耳に挟んだのです。最も若い神殺しは、希代の女好きで、傍に愛人を何人も侍らせている、と」

「はあ!? 誰ですか、そんな嘘っぱち吹聴してんのは!?」

 さすがに護堂は黙っていられず、アイーシャに声を荒げて尋ねる。

 尋ねられたほうは、のほほんとした空気をそのままに、首を捻った。

「しかし、わたくし様々に噂を拝聴しましたが、草薙様の見事な暴れっぷりの他には、概ね女性関連の噂が多かったように思います。火のないところに煙は立たぬとは、日本の諺のはず……」

「いや、諺を引き合いに出されても……なあ、晶」

「え、あ、その、いいんじゃないですか? 実害はないですし、そういう認識でも……えへへ」

 晶はすっかり頬を緩めている。

 確かに、直接的に困ったことはないが、だからといって実態のない噂が広がられるのはいい気持ちはしないものだ。それが、現代では好意的に受け取られることの少ない女性問題となればなおのことである。本人の自覚の有無や、実態は別として他者からの評価はいいものでありたいと思うのは人の性だ。

「たく……なあ、リリアナ。俺って西洋だとそんな認識なのか?」

「え、と……そうですね。そのような話を聞くことは儘あります。もちろん、好意的に受け取る方も多いですよ。良くも悪くも貴族的な社会ですから。それは、日本も同じようですけど」

「そういう問題じゃないんだけどな……」

 貴族的。

 呪術の世界は、古い因習などが複雑に絡む社会であるという。

 それは、呪術のみならず生活習慣にまで及ぶ。中には複数の異性と恋を育む者もいる。日本では清秋院家などがそれをおおっぴらにやっているし、正史編纂委員会が祐理を護堂に近づけたのも愛人を利用して護堂との繋がりを作るためである。

 愛人というのは、一般的には好ましくない表現であるが、カンピオーネを相手にする上で「人間らしい」ところがあるというのは安心感に繋がるのである。

 リリアナが言った好意的というのも、そういった事情に由来するものでもある。

 取り入りやすいとは、思わない。

 だが、話は通じそうだとは思う。

 ほかの魔王に比べれば、女好きなど可愛いものではないかと。

 護堂にとっては堪ったものではないのだが、呪術の業界関係者からすれば朗報でもあった。だからこそ、護堂についての話が尾ひれはひれをつけて広がっていったのであろう。

 迷惑な話である。

 そもそも、他人が自分について様々なことを語ること自体、あまりいい感情を抱くものではない。

 周囲に図抜けて可愛らしい少女たちがいれば、そんな噂が流れるのも仕方ないと割り切るしかないのかもしれないし、有名税と思えば無視もできるだろうが……。

 アイーシャはそんな護堂の懊悩を無視して、リリアナに視線を向けた。彼女の瞳はすっかり好奇心に溢れかえっている。

「それでは、リリアナさんは、草薙さんとどのようなご関係なのでしょうか?」

「え、わ、わたしですか?」

「はい。お三方を見た兵の方たちはリリアナさんを草薙さんの愛妾とか奴隷とか様々に噂しておられましたが、実際のところはどうなのでしょうか?」

「はえっ!? ど、奴隷っ!?」

 愕然とした様子のリリアナは飛び上がらんばかりに驚いた様子で顔を紅くした。

「わたしと護堂さんは、そのようなふしだらな関係ではありません! わたしは騎士として、王を支える職責を果たしているに過ぎません! ど、どど、奴隷などというのは、あぁりえません!」

 怒りなのか羞恥なのか。リリアナは元々透き通るような白い肌の持ち主なので紅潮するとよく分かってしまう。食って掛かる勢いで否定したリリアナは、その勢いのままに晶を指差した。

「どちらかというと、そのような役回りは高橋晶ではないかと」

「あ、わたしですか。リリアナさんの中でわたしってそういう位置付け? ちょっと、それはショック……。まあ、あえて否定はしませんが」

 どういうわけか、にやりとする晶に護堂はため息をつく。

「そこは否定するところだ、晶」

「いやでも、式神として先輩に依存しているからには似たようなものかと」

「いや、似てないから。式神と奴隷はまったく別種の概念だろ。表現一つで俺の評価にも関わるから変なこと言うの止めてくれ」

 げんなりとした護堂はアイーシャに改めて向き合った。

 これ以上、何か余計なことを言われる前にこちらも話を進めてしまいたかった。

「ところで、アイーシャさん。俺たちが二十一世紀からこの時代にやってきたのは、アイーシャさんの通廊の権能に吸い込まれたからなのですが、元の時代に返してもらうことってできませんか?」

 護堂は単刀直入に尋ねた。

 アイーシャの権能を、護堂の力でこじ開けるのは難しい。

 サルバトーレのように権能を暴走させるという方法で無理矢理開けるというのは、護堂の能力ではできない。むしろ、通廊そのものを消してしまうタイプの権能の持ち主であるから、迂闊な手出しはできないのである。

 護堂に問われたアイーシャは申し訳なさそうにしつつ、答えた。

「おそらく、今すぐにというのは難しいと思います。実はわたくし、あの権能を上手く制御できないのです。わたくしが特に意識していないときに、いきなり開いてしまったりだとかで。ですので、好きなときに開くというのは難しいかと」

「そ、そうなんですか」

 自分の意思で制御できない権能など聞いたことがない。

 これまで出会ってきたカンピオーネは皆自分の権能を我が物として自在に操っていた。制限はあっても、勝手に発動して、持ち主を振り回すなど尋常の権能ではない。

 まして、それが歴史に影響を与えるほど世界的に危険な代物だというのだから、賢人議会が混乱を恐れて公表を差し控えるようにしていたのも分かる。

「ですけど、戻れなくはないんですよね。アイーシャさんだって、行き来しているわけですから」

「そうですね。例えばよく晴れた満月の夜とかたくさんの魔女や巫女の方々の協力を仰いで長期に渡る儀式を執り行うとかすれば開きます。現実的なのは、満月の夜を待つことでしょうか」

「今すぐに、というのは無理なわけですか」

「申し訳ありません。草薙さんを巻き込んでしまったようで」

「ああ、いえ。俺たちを巻き込んだのはサルバトーレ・ドニっていう同類なんで、アイーシャさんが申し訳なく思う必要はないですよ」

 そう、悪いのは総てサルバトーレである。

 二十一世紀最大の問題児。

 彼に比べれば、アレクサンドルもヴォバン侯爵もまだ大人しいほうだ。アレクサンドルは騒動そのものは忌み嫌っているが、結果的に起きてしまうタイプの男であり、ヴォバン侯爵は最近は大きなトラブルを起こすことなく泰然としている。

 騒動を積極的に起こそうとしているのは、サルバトーレだけであり、諸々の事情からその後始末などを頼まれるのは護堂という流れができつつあった。

「そういえば、サルバトーレ卿はいったいどちらに行かれたのでしょうか。聞き込みはしているのですが、これといって情報がないのですが」

 サルバトーレの話題になって、リリアナは思い出したのだろう。護堂も疑問に思っていたことではあったのだが、それを彼女が代弁してくれた。

「サルバトーレさん。お名前は聞いたことがあります。中々困ったお方だとか。あの方もわたくしの通廊を通ってこの時代にやってきているのですね」

「そうです。サルバトーレのヤツがアイーシャさんの通廊の権能を暴走させて、無理矢理入口を開いたんです。俺たちはそれに巻き込まれた感じで……ですから、飛び込んだ時間はほとんど変わらないんですけど、姿も見なければ名前も聞かないんですよね」

「ああ。そういうことなら、仕方がないかもしれませんね」

 と、アイーシャは言った。

「仕方がないとは?」

「わたくしの通廊の権能は、細かい時間の指定はできないんです。例えば西暦五百年ごろに送ることはできても、何月何日に送るということはできなくて、結果的に春夏秋冬のいつになるか出てみるまで分からないんですね」

「なんですか、そのいい加減なタイムマシンは……」

 何となく分かったことがある。

 一説には、カンピオーネの権能は本人の嗜好や気質によって調整されるものであるという。

 証明できるものではなく、状況証拠しかないが、そういった傾向が見られることは事実である。そして、それに照らし合わせれば、アイーシャ夫人は実にいい加減――――大雑把な性格をしていると言えるのではないだろうか。

 のほほんとした雰囲気やあらゆる時代に唐突に呼び出されても生きていける順応力は、聖人から簒奪した権能のおかげというよりも、彼女が生来持っている資質によるもので、魅了の権能は後付けに過ぎないのだろう。

 彼女のいい加減な時間間隔のままに元の時代を目指したとして、果たして本当に本来戻るべき時間に戻れるのであろうか。

 護堂はそれが気がかりだった。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 

 日が沈み、アウグスタ・ラウリカに夜の帳が下りた。 

 古代ローマの代表的植民市であるこの街は、二十一世紀の生活に慣れた人間にとっては物足りないところも多々あるものの、この時代にしては非常に住み心地もよく、護堂に与えられた屋敷の中でならば普通に生活していくことも難しくはないと思えるほどであった。

 とりあえずは公衆浴場と食事、暖かいベッドがあるのだからこれ以上を求めるのは罰が当たりそうだ。

 文句はない。

 厳しい環境ではあるが、これも得がたい経験として後々に活かしていけばいい。

 五世紀のヨーロッパを直接見て回ることができる者などまずいない。リリアナは、現在巨万の富を費やしても経験することのできない稀有な体験をしている真っ最中なのだ。

 これまでは、あまりの事態に思考が追いつかず、今をどうにかするのに手一杯だったのだが、元の時代に戻る手はずを整えたことと、当面の生活が保障されたことで落ち着きを取り戻したのであった。

 リリアナは蝋燭の灯りに照らされた手元の羊皮紙に羽ペンを走らせる。

 やっと取れた自分の時間だ。

 プロットも特に深く考えることもなく、思い思いに自分の妄想を書き連ねることこそが至福。時に、長編を考えたりもするが、やはり自分はそのときその場での思いを書き綴るほうが趣味に合っているらしい。

 パソコンでの入力よりも手書きに拘るリリアナにとって、羽ペンと羊皮紙というのはそれだけで気持ちを昂ぶらせてくれる逸品である。一筆入れるごとに、自らの内部で醸成された多種多様な感情が解き放たれ、紙面の上に一つの世界を構築していく。

 リリアナにしても珍しく舞台設定を中世とし、女騎士と若き領主との許されぬ恋を描き出す。

 台詞は次から次へと出てくる。

 中世の封建制にまで言及する形で舞台設定は万全だ。

 興が乗ってきた。時間を忘れて手を動かし続けていくと、情景もどんどんと変わっていく。

『そ、そんな。話が違う……』

『違わないさ。俺に仕えると言ったじゃないか。なら、お前はもう俺のものだ』

『わ、わたしは騎士です。だというのに、これではまるで……』

 昼間の優しい主は仮面でしかなく、夜は女を泣かせる鬼畜な王。幻滅したはずなのに、騎士の誇りが主を裏切らせず、いつの間にか自らも心と身体を差し出すように――――。

「ち、違うぞ。何か違うぞ!」

 はっとしたリリアナは慌てて筆を止めた。

 それから、自らが直前まで認めていた小説をざっと流し読みし、顔から火を吹く勢いで頬を紅潮させた。

「こ、これはわたしの趣味じゃない。わたしの好みは正統派のラブロマンスだ。こんなアブノーマルな主従関係はわたしの考えているものとは違う!」

 何という破廉恥な文章か。

 己の手が生み出したものは、自分がそれまで追い求めてきた聊か古式ゆかしい伝統的恋愛小説とは似ても似つかない退廃的な代物ではないか。

 それもこれも、昼間のアイーシャ夫人の会話が原因だ。王というものはどれだけ善良な性格をしているように見えてもどこかしらで可笑しな部分が出てくる。世の中に迷惑をかけていないだけ、草薙護堂の女好きは長所と言ってもいいくらいだ。英雄色を好むとも言う。彼のそういうところは、個人的に好かないが、それでもカンピオーネなのだからそれくらいはあってもいいのではないかと思う。

「まったく、あの方ももう少し王らしく威厳ある振る舞いをすれば、トラブルの一部は解消されるのだろうに」

 一時的ながら騎士として仕える主の王としての自覚の薄さは実はトラブルの原因ではないかと考えられる。今の段階では都合よく利用されているのと大差ない。助力を請うたリリアナ側が言えることではないが、もう少しでいいから彼の周囲に政治的に頭の回る宰相なり相談役なりを置いたほうがいい気がする。

 と、そこまで思考の海に潜っていたところで大地を震わせる振動が部屋を揺らし、リリアナの意識を引き上げた。

 蝋燭やインク壷が危うく倒れるところであった。

 リリアナは慌てて蝋燭の火を消し、窓から外の様子を窺った。

「あれは……」

 リリアナがいるのは比較的高台にある見晴らしのよい部屋だ。そのおかげか、振動の原因がすぐに分かった。城壁の上に、一体の恐竜が乗っている。身体は大きいものの、二十一世紀のイタリアで見た恐竜と同じ種類に見える。

「まさか、この時代のカンピオーネか!」

 リリアナがすぐさま護堂に知らせようと部屋を飛び出した。

 護堂の部屋に向かって走っていると、正面から護堂と晶が走ってくるではないか。

「護堂さん! 例の恐竜です!」

「ああ。さっそく来たかって感じだな」

 突然の夜襲に街中はまだ事態を飲み込めていないが、城壁を乗り越えられた時点で本来は詰んでいる。月光すらない漆黒の夜に、カンピオーネ単体の襲撃に対応することなど土台無理というものであろう。

「ちょっと行ってくる。リリアナと晶は、俺たちが戦う羽目になったときに備えてくれ」

「ッ……承知しました」

 護堂の落ち着き払った様子にリリアナは一言を返すのが精一杯であった。

「先輩。わたし、とりあえずは街の人の安全を確保するようにします」

「ああ、よろしく頼む」

 夜警に当たる兵士に声をかければ、護堂とウルディンと思しき人物との戦いに巻き込まれないように避難誘導することは可能ではないか。

 相手の能力がはっきりしないため、確実なことは言えないが、護堂が後顧の憂いなく戦うには一般市民は邪魔だ。

「それじゃ、後は頼んだからな」

 そう言い残して、護堂は消えた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 突如、城壁に現れた恐竜は、人間の身長の数倍にもなる巨躯で、到底ローマ兵が敵う相手ではない。城壁という地理的有利な条件を失った今、守備兵は恐慌状態に陥って逃げ惑っていた。

 その様子をつまらなそうに眺める男は、逃げていく守備兵には目もくれない。見えていないのか。否だ。神を殺した者は権能と共に様々な呪術的特徴を肉体に宿す。外部からの呪術の一切を無効化し、肉体の強度を極めて高いものにする。短期間に外国語を理解するといったようにだ。そして、光のない環境でも闇を見通す透視力を持つのも総ての神殺しに共通する能力であった。

 彼が手を出さないのは、単に面倒だからという一言に集約する。

 部下からもたらされた報告によれば、この街には自分と同じ神殺しが来たらしい。

 ならば、一言挨拶でもしなければならないだろうとわざわざやって来たのである。

 相手はどのような人間なのか。

 聞いたところではフン族と似た顔立ちだという。となれば、自分と同じ遊牧民族の出身であろうか。

「来たか。待ってたぜ、兄弟」

 いつの間にか、自分から十メートルほどのところに少年が立っていた。少しばかり年下のようだが、確かにフン族と似通った顔立ちである。

「あんた、何だってこんな時間に竜なんかに乗ってんだよ」

 第一声はあまりに的外れなものだった。

 戦おうと言うわけでもなくウルディンの正体を聞こうともせず、竜を使役していることにすら驚愕することがない。

「慣れたもんだな。この俺の相棒たちを前にして、平然としてる人間は初めてだ。さすがは兄弟だ」

「その兄弟って呼び方止めてくれ。あんたとそんな関係になった覚えはないぞ」

「つれないことを言うな。滅多に逢えない同族同士、少しばかり気安く話しかけてもいいだろう」

 言いながら、ウルディンは神殺しの少年の隙を窺う。

 相手も言葉を交わしながらいつでも攻撃できる隙を探っている。

「さて、名を知らぬ神殺しよ。お前の名前を聞かせてもらおうか。ちなみに、俺はウルディン。テュールの剣などとも呼ばれているな」

「草薙護堂だ。特に変わった呼ばれ方はしてない」

「変わった名前だが、俺たちとは別系統か。よし、少しばかり安心したぞ。もしも、兄弟がフン族なら、決して生かしておくわけにはいかなかったが、そうでもないらしい」

 王は二人もいらない。

 ウルディンがわざわざ真夜中にここを襲撃したのは、興味本位が半分、そしてもう半分はフン族の頂点を争う相手が現れたかもしれないという政治的な都合によるものであった。

「これで互いに名が分かったわけだ。なら次は、剣を交えるか酒を飲み交わすか、決めようじゃないか」

 獰猛に笑いながらウルディンは言った。

 気乗りしなそうな表情の相手だが、戦いが嫌いということはないだろう。こうして向き合いながらも喉元を狙っているような男だ。戦うにしても、同盟を組むにしても面白いことになるのは間違いないと、断言できた。

 

 

 



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古代編 10

 筋肉質の男だった。

 身長は護堂よりも少し高い程度であるが、この時代の人間にしてはずいぶんと立派な身体付きをしている。それだけでも、その部族の中で非常に優れた家柄に生まれたことを予感させるものであるが、恵まれた肉体をさらに厳しく苛め抜き、屈強な戦士のものへと進化させている。

 少なくとも、素の腕力では護堂に勝ち目はなさそうだ。

 もちろん、護堂は腕力勝負など今まで挑んだことはないし、これからもないだろう。こんな二の腕が筋肉で張ったような男との殴り合いは負けるとは言わないまでも、勝算は低いといわざるを得ない。

「ウルディンか。なあ、ライン川の畔にある要塞を乗っ取ったのはあんたか?」

「お、知ってるのか。ハハハ、中々いい砦だろう。正直に言えば、一所に身を落ち着かせるのは趣味ではなかったのだが、やってみると案外いいものだぞ。もちろん、それだけが理由ではないがな」

 豪快に笑うウルディンは、要塞を落としたことについてはまったく悪びれる様子はない。

 それは、自身の強大さを示す象徴ではあっても暴虐を恥じる要素には繋がらないということであろう。別にそれは構わないのだ。生まれた時代の異なる人間の価値観を非難することなどできないし、この時代の彼らフン族の間では罷り通ることであったのだから文句を言ったところで通じるはずがない。

「それで、兄弟。お前はどうして、この街に居座っているんだ? この街を手に入れるためか? それとも、この街にいる聖女が狙いか?」

 ウルディンに問われて護堂は少しだけ思案した。

 そもそも居座りたくて居座っているわけではない。アイーシャ夫人がここにいるからこの街に入ったに過ぎないのである。帰る時期になったら、誰に言われるでもなく去るつもりでいる。

「街の支配権に興味はないし、あんたと対峙してんのは頼まれたからだが……聖女ってのは」

「あん。この辺りで話題の聖女だよ。どんな傷もたちどころに癒す奇跡の持ち主だって話だ。この街にいるんなら知っているだろう?」

 ウルディンは怪訝そうな顔をして護堂に言った。

 どんな傷も癒す奇跡――――おそらくはアイーシャ夫人が持つ権能を指しているのであろう。アイーシャ夫人がこの街の近辺でどれほど高い評価を受けているのかは、たった一日しかこの街にいないにも拘らず明確に理解できていた。

 カトリックの聖人から簒奪したという魅了の権能まで持っているのだから聖女と呼ばれるのにそう時間はかからなかっただろう。

「じゃあ、ウルディン。あんたは、まさか聖女に用があってこの街にちょっかいをかけてんのか? 聞いた話だと、今までにも何回か来てるって言うじゃないか」

「おうよ。俺ほどの男なら、名の知れた女を囲うくらいはしないといけないからな。だが、どういうわけかこの街の兵はちっと厄介でな。俺の竜を相手にしても一歩も引かん。面白くなってついつい時間をかけてしまったわけだ」

「面白がるなよ。それで人が死ぬかもしれないだろうが」

「人死が出るのは戦だ。仕方がないだろうよ。まあ、兄弟はこの街に雇われているらしいからな、それを気にするのも分かる。安心しろ。俺は、ただの人間を追い散らして殺すような非生産的な戦はしない主義だ。それに聖女の奇跡が本当なら、多少はやりすぎても問題にならんだろうしな」

「見ず知らずの相手の能力を頼りに戦争しかけてんじゃないっての……」

 護堂は呆れかえってものが言えないとばかりに呟く。

 そもそも、戦とは金食い虫で生産的とは言えないものが大半のはずだが、略奪を生業とするフン族からすればそれが生活の糧となっている以上は生産性のある戦を旨とするのも頷ける。

 許す許さないでは語れない、この時代の特質には護堂は決して口を出さないが、このウルディンの略奪対象が聖女――――アイーシャ夫人であるのならば黙っているわけにはいかない。

 彼女がこの時代のカンピオーネの手に落ちるというのは元の時代に戻る上で大きな障害となりうる。

 結論として、ウルディンがこの場を去らないのであれば、護堂は戦うよりほかにないのであった。

「やるか」

「仕事だしな」

 やる気自体は、あまりない。

 しかし、金と宿を与えられた以上、契約は履行しなければ気分が悪い。気乗りしないが、ウルディンがその気なら、受けて立つ。

 だが、そうは言っても興味を抱いている自分もいる。

 五世紀のカンピオーネ。

 現状では竜使いの権能しか見せてはいないが、さて、他にどのような手札があるのか。

「まずは、小手調べからだ! 兄弟!」

 戦闘はウルディンの一矢によって火蓋を切った。

 流れるように矢を弓に番え、護堂の脳天を目掛けて射放った。

 秒速約一〇〇メートルで迫る鏃を、護堂は軽く首を傾けて交わす。武芸を齧ったこともない護堂は弓矢の知識があるわけでもないが、それでもウルディンの一矢が非常に優れたものであることは理解できた。その上で、今の一矢は大して脅威には感じなかった。

「よし、行け」

 ウルディンの命を受けた竜が護堂に向けて走りだす。

 人間を遙かに上回る瞬発力。

 瞬く間に護堂との距離を詰め、そして勢いのままに駆け抜ける。鋭く大きな爪を武器にするこの神獣。その巨体と脚力を駆使すれば、護堂の肉体を容易く打ち砕けるであろう。

 しかし、この神獣の突進も護堂を跳ね飛ばすには至らない。

 理屈は簡単だ。

 そのときには、すでに護堂はそこにいなかったのだから。

「おおうッ」

 危機感に身を震わせ、ウルディンは前屈に近い姿勢を取った。その頭上、一瞬前まで頭があった場所を護堂の剣が通過した。

 正しく、それは瞬間移動。地中を雷の速さで移動する土雷神の化身はその性質上移動先がほぼ読めない。ウルディンにとっては、目の前にいたはずの人間が一瞬にして背後に現れ剣を振り抜いていたという状況になったわけだが、その程度で後れを取るようならば神殺しなど為し得ない。

 ウルディンは護堂の様子を窺うこともなく、前かがみの状態から地面に手を付き、両足を振り上げて腕の力だけで後方に跳ねる。ドロップキックのような要領で、護堂の腹を両足で蹴った。

「う……!?」

 ズン、という衝撃に護堂はひっくり返りそうになる。

 筋力は並の護堂だ。体格のいい古代の戦闘民族の男と取っ組み合いで勝てるはずがない。

 ウルディンの驚異的な身体能力は護堂を蹴り飛ばした後にも発揮される。このまま倒れたのではウルディンのほうが不利な体勢になる。それを当然分かっていたウルディンは、自分が落下する前に剣を抜き、膝を抱えるようにして着地したかと思えば、回転しつつ起き上がる。独楽のように、両刃の鉄剣を振るうのだ。

 護堂の眼前に火花が散る。

 円形の楯が、間一髪でウルディンの刃を受け止めていた。

「それがお前の権能か!」

「――――楯だけじゃないぞ」

 ウルディンの剣は確かに恐ろしいものではあるが、所詮はただの鉄剣である。それもこの時代の拙い鍛造技術によるものであり、決して業物と呼べるものではない。護堂の神具の格を持つ武具を貫く力はない。そして、防ぐこともまず不可能だ。

 頭上に煌く刃は三つ。

 それが、角度を変えて三方からウルディンに向かって落ちる。

 神具と鉄剣では、強度が違いすぎる。受け止めるという選択は無きに等しく、ウルディンは後方に跳躍して剣を躱した。

「ハハハッ、武器を創る権能か! 面白いな!」

 ウルディンは大きく笑うと、城壁の外に身を翻す。

 数多の敵を寄せ付けない城壁だ。当然、人間が飛び降りて無事で済むような高さではない。たとえ、それがカンピオーネであったとしても、地面に叩きつけられれば重傷を免れることはできまい。――――とはいえ、カンピオーネには権能という超常の切り札がある。自ら空中に身を翻したのであれば、それ相応の考えがあってのことだろう。

 夜に響く大きな風きり音。

 甲高い獣の咆哮。

 ウルディンを背に乗せた大きな竜が、前足を翼に変化させて悠然と舞い上がったではないか。

 胴体こそデイノニクスに近似しているものの、その両腕は翼竜のそれへと変わっている。どうやら、あの神獣はある程度任意に肉体を変化させることができるらしい。

 ウルディンの手には、弓。そして、番える矢を見て護堂の背筋が粟立った。

「やっばッ」 

 護堂は躊躇なく城壁の外に飛び出す。

 規格外の呪力を宿した矢は権能によって生み出されたものに他なるまい。ウルディンが翼竜に跨ったのは、逃亡のためではなく遠距離戦へと戦い方を切り替えただけなのだ。

 近接戦では、武器の差で護堂が有利だ。

 肉体面のスペックも、神具と鉄剣の性能差の前には霞んでしまう。それが分かったからこそ、ウルディンはより強大な力を振るえる遠距離戦を選択した。

 ウルディンは番えた矢を、護堂ではなく東の空に向かって放った。何事かといぶかしむ護堂の目に東方から昇ってくる太陽の光が飛び込んできた。

「ルドラの矢よ。俺に日輪の輝きをよこせ!」

 ウルディンの唱える聖句。

 ルドラ――――聞き覚えのない神名を記憶に刻みつつ、この現象の正体を認識する。

 第二の太陽から放たれる強烈なフレアが護堂に向かって伸びてくるのだ。

「天を覆う漆黒の雷雲よ。光を絶ち、星を喰らい、地上に恵みと暗闇をもたらせ!」

 ウルディンの権能の由来は分からないが、太陽神の権能なのは間違いない。

 ならば、護堂が使うべきなのは太陽神系の権能に対して無類の防御力を誇る黒雷神の化身であろう。

 暗黒の雲が護堂の身体を包み込み、分厚い球体となる。

 そこに、白熱した太陽の光が降り注いだ。

「う、ご――――おおッ!」

 凄まじい衝撃が雲の塊を貫く。

 しかし、衝撃には耐えられるのだ。護堂の守りは太陽の光を受けても融解せず、熱を通さず、絶対の暗闇を堅持している。

 黒の守りが消えた後には、赤熱する大地が横たわるのみ。

 草薙護堂は、悪臭漂う赤い空間の只中に五体満足で立っていた。

「剣を呼び出すだけじゃないか。戦いなれているようだし、いくらか神を殺しているみたいだな」

「お互い様だろ。今のを竜を呼び出す権能の一部だって言っても信じないからな」

「俺の持つ権能の中でもそれなりに高い火力があるんだがな。小手調べ程度とはいえ、無傷で凌がれたのは傷つくぜ」

「小手調べっつってもマジで殺しにきてるじゃないか。下手したら死んでたぞ」

「それならば、それで俺にとって不都合はないだろう。まあ、兄弟が真に神殺しなら、この程度でくたばるはずもない。考えるだけ無駄ってもんだ」

 あっけらかんと護堂の生死を度外視するウルディンに、護堂はそれ以上言葉を投げかけるのを止めた。

 悔しいことに彼の言い分には納得できる部分が多々あった。

 大地を沸騰させるほどの太陽光線ですら、何とかなると直感するほどに、護堂の感覚も常人離れしていたからである。

 今更否定はするまい。

 それでも、やはり人外の化物に成り果てたことをまざまざと実感させられる。

「さてさて、ここまでやるとなると、お前の底が気になるな」

 ウルディンは呟き、それから彼を乗せる翼竜は一際高く舞い上がった。

「ここで一気に片付けるには惜しい。何よりも準備不足だからな、今宵はここまでだ兄弟。次はこの決着を付けさせてもらうぞ」

 大きく声高に叫んだウルディンは、そのまま夜の闇夜に消えていく。

 相手の正体がよく分からないうちは、深入りしない。

 最低限、自分の準備を整えた上で勝負を挑む。

 カンピオーネが相手となると、『まつろわぬ神』とはまた別の戦い方が求められる場合もあるだろう。単一の系統ではなく、複数の権能を所持しているのがカンピオーネの常だということを考えれば、お互いが持っている切り札をどのように切っていくのかが勝敗を別つポイントとなる。

 今回の戦いはウルディンが言っていたように小手調べであり、護堂に一当てしてその反応を窺う程度のものだったのだ。あるいは、そこに宣戦布告も含まれていたかもしれないが、いずれにしても初めから本気で戦うつもりはなかったのだろう。

「好き勝手暴れてそれかよ」

 護堂は舌打ちをして、ウルディンが去った夜空を見つめる。

 冷たい風に曝されて、焼けた大地は冷え始めていた。煙る空気に顔を顰めつつ、護堂は警戒を解いて城壁の中へと凱旋した。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 ウルディン襲来の報を受けて、アウグスタ・ラウリカ内部は大混乱に陥っていた。

 それは、真夜中の眠っている時間帯に竜の咆哮が響き渡ったり、空から熱線が降ってくる様子を間近で見る羽目になったりすれば恐慌状態に陥るというモノであろう。ましてや、それがフン族のウルディンの仕業であるとするならば、住民が抱く恐怖たるや尋常のものではなかっただろう。

 しかし、その恐慌状態も最初だけのことだった。万を越える人々のパニックに兵たちも対応できず、ただ恐慌が伝染していく中で、人々の前に颯爽と現れたのは小柄な少女であった。

 今は恐怖に震える市民は誰一人としていない。

 確かにウルディンは恐るべき魔王だ。

 破壊の限りを尽くし、生命と財産を貪りつくす巨悪の化身である。

 しかし、それがどうしたというのだろう。

 この街には聖女がいる。

 死に瀕した兵を一瞬にして回復させ、その声と姿に歓喜しない者はいない。

 今もこうして、恐るべきウルディンの襲来に対しても臆することなく人々の前に出て、清らかな声で語りかけているではないか。

 群集の無秩序な騒乱は、瞬く間に鎮圧された。 

 武力ではなく、圧倒的なカリスマによって、自然と騒ぎは終息していく。恐怖は歓喜に変わり、渦を巻いてまったく別種の騒ぎへと昇華した。

 それは、さながらアイドルの武道館ライブに集ったファンのように、聖女を取り囲む市民は一様にアイーシャ夫人という偶像に自らの視線を釘付けにしていたのである。

 その様子を窓から見下ろしていた護堂は、アイーシャ夫人の権能に始めて感謝することとなった。

 彼女がいなければ、この街はどうなっていたか分からない。

 不安と恐怖が暴動に発展すれば、この程度の都市など容易に内側から崩壊するだろう。そうなれば、それこそフン族のような異民族の狩場となってしまう。そこまで護堂は面倒を見切れないが、そうなってしまうのは哀れだとは思うのだ。

「ご無事で何よりです、護堂さん」

 帰還した護堂にリリアナが水を持ってきてくれた。

 護堂はカップを受け取って、一口だけ水を飲んだ。冷えた水が戦の高揚感を落ち着けてくれる。

「アイーシャさんの権能……狂信者を作ることもできるって話だったけど、こういう状況だとありがたいな」

 護堂は外で演説を続けるアイーシャを見て言った。

「そうですね。ですが、社会情勢が不安定になったところで、圧倒的なカリスマ性を持つ人が現れた場合群集がどのように行動するのかという観点からすると、あまりいい流れではありませんが」

「まあ、アイーシャさんに世の中をどうこうしようって考えはないだろうから、問題はなさそうだけどな」

 もしも、彼女が政治を志したりしたらそれこそ大変なことになる。

 アイーシャ夫人の能力の有無によらず、周囲の総てが彼女を支持することになるだろう。そうなれば、アイーシャ夫人が善政を敷こうと敷くまいと、その影響下にある人々は従わざるを得ないだろうし、喜んでその身を捧げることになるだろう。冷静に考えれば、彼女の権能は世界そのものを支配できる凶悪な権能なのではないだろうか。

「ウルディンさんがいなくなったこともあって、皆さん自宅に戻られるようですね。アイーシャさんがそう促していましたし、そろそろ落ち着くと思いますよ」

 と、闇の中から湧き出したかのように現れた晶が言った。

 実体を解いて、街の様子を見て回っていたのだ。

 晶の外見は一見すればフン族にも見える。この街でどの程度アジア系の顔立ちが受け入れられているのか不透明なので、念のために姿を隠していた。

「それで、リリアナさん。どうでしたか?」

 晶はリリアナに尋ねた。

 リリアナは頷いて、護堂に言った。

「何とか収穫はありました。彼――――ウルディンの竜の権能ですが、古代メソポタミアの竜神ウシュムガルより簒奪したものでしょう」

 リリアナは自信を持って護堂に告げる。

 祐理ほどではないにしても、彼女も霊視能力の持ち主である。ウルディンがばら撒いた恐竜型の神獣とはこれまでに何度か遭遇していることもあって、その使い手と共に現れた神獣から来歴を読み取ったのである。

「ウシュムガル? 聞いたことのない神様だな」

「無理もありません。わたしたちの時代でもマイナーな神で、五世紀でもほぼ忘れられている神格ですから」

「メソポタミアの神様だしな、全盛期は数千年前って感じだよな」

 メソポタミア神話は、世界最古の神話の一つである。

 紀元前三千年ごろから語られるもので、シュメールからアッカド、バビロニア、アッシリアと時代ごとにその地を治める王朝、民族に受け継がれ改変を加えられながら発展していったものである。そのため、時代によって登場する神の性質が異なっている場合があるなどするが、それはどの神話にも言えることであろう。

「ウシュムガルは、最初期――――シュメールの時代から存在する竜の王です。後年、ティアマトーの眷属に零落しますが、元は強大な神だったと思われます」

「竜か。やっぱり、《蛇》なんだろうな」

「そうですね。ティアマトーと共に討伐される側に立つことも、要件を満たしているように思いますし」

 『まつろわぬ神』にも属性はある。太陽や大地、水、風などそれそのものが司る神威や《蛇》や《鋼》といった神話的役割に応じた性質などである。

 《蛇》は討伐され、奪われた経験のある神々で、多くは大地や水との関わりを持っている。そして、《鋼》はそうした《蛇》を討伐した英雄や神が持つ属性であった。

「見たところ、あんまり強そうじゃないってのも気になるんだよな」

 通常、神獣そのものは強くはない。人間でもそれなりの猛者を何十人も集めれば何とかなるレベルでしかない。しかし、それもはぐれ神獣の場合であり、『まつろわぬ神』やカンピオーネが操る神獣は人類では到底届かない災厄となりえる。

 それにも拘らず、ウルディンが召喚した竜はどれも護堂からすれば脆弱であった。

「ヴォバン侯爵と同じタイプかもしれません。個としては弱くとも数を揃えることができるとか、あるいはさらに奥の手が隠されているのかもしれません」

 晶の言葉に、護堂は頷いた。

 以前戦ったヴォバン侯爵の狼の権能も厄介ではあった。無数の巨狼を召喚するだけでなく、自らも巨大な狼に変身してしまう。二つの能力は別個のものではなく、一つの権能を使い分けで行く中で派生したものである。カンピオーネの権能は意外にも柔軟性がある。状況次第で、まったく新しい用法が生まれることもあるのである。

「今分かってるのは、ウシュムガルとルドラか。全然、奥の手見せなかったから何ともいえないけどな」

「収穫としては大きいんじゃないですか? 手の内を見せなかったのは、先輩も同じですし」

 晶が言うと、リリアナも頷いた。

「彼の言葉どおりならば、近日中に決戦を挑んでくるでしょう。その前に敵の戦力を一部なりとも知ることができたのは大きいと思います。あなたには、その、敵を知ることで戦局を覆す権能もあることですし」

 リリアナは、護堂と視線を合わせないように言った。

 そのリリアナを、晶が口をへの字にして睨んだ。

 ルドラとウシュムガル。

 共に、護堂の知識にはない神々である。

 ウルディンにはほかに権能もあるだろうが、現段階で判明しているのはこの二柱だけだ。となれば、晶とリリアナに協力を仰ぐのは、この二柱についてとなるだろう。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 護堂との戦闘を終えたウルディンは、葡萄酒を盛大に煽りながら大笑いしていた。

「気分がよさそうだね、ウルディン」

「あまり、飲みすぎないようにしてくださいウルディン様」

 ルスカとクロティルドが口々に言う。

「別に良いだろう。久しぶりに倒し甲斐のあるヤツを見つけたんだからよ」

「ウルディン様と同格の魔王、ですか」

「おう。神殺しと逢える機会は多くねえからな。ものの見事に俺が狙ってる都市を守ってやがる。戦う理由には事かかんだろう」

 戦うとなれば、相応の代償も覚悟しなければならない。 

 雑兵ならばまだしも、相手が同格となれば苦戦は必至だ。場合によっては、ウルディンのほうが敗走することもありえる。

 クロティルドはそんな主を心配して沈鬱な表情を作ってしまう。

「それで、ルスカ。お前、見てたんだろ?」

 ウルディンに問われたルスカは驚いたように目を見開いた。

「気付いてたんだ」

「当たり前だ。で、視えたか?」

 ウルディンの鋭い眼光がルスカを貫く。

 戦いに貪欲な男の目だ。

 この第一の妻が有する稀有な能力――――霊視の力によって草薙護堂が有する権能の正体を掴もうと言うのだ。

「うん、視えた。けど……」

「ん?」

「正直、よく分からない」

 ルスカが申し訳なさそうに言った。

 そんなルスカにクロティルドが尋ねる。

「よく分からないとはどういうことでしょうか?」

「まず、向こうはあたしの霊視に対抗する権能か能力を持ってるみたい。はっきりとは見通せなかった。……ただ、あの魔王はありえない魔王……あたしたちとは、まったく違う場所から来た、存在するはずのない魔王だってことは視えた」

「なんだそりゃ」

「ごめん。あ、製鉄のほうだけど、あれはずっと東の国の製鉄神だと思う」

「そうか。東国の出か。まあ、見た目からしてそうだとは思っていたがな」

 ウルディンは何が面白いか分からないものの、にやりと笑って見せた。

 ルスカが相手の素性を見抜けなかったことも、ただ護堂への興味を増やしただけである。もともと、ウルディンには相手の権能の元になった神の情報など必要ない。ただ、手札を知ることができれば、対策が取れるかもしれないから聞いただけである。

 分からないなら分からないで、正面突破すればいい話。

「ふん、まあただ漫然と戦うのもつまらんな。せっかく向こうが、アウグスタ・ラウリカを守っているんだ。一つ、賭けでもして決闘という形を取ってみるのも面白いか」

 アウグスタ・ラウリカの連中は護堂を頼みとしているらしいが、その護堂がウルディンに討ち果たされたとき、どのような反応をするのか気になるところだ。

 柱が崩れれば、兵の気力も萎えるだろう。上手くすれば、労せずして都市が丸まる一つ手に入るかもしれない。いずれにしても、護堂との再戦はウルディンの望むところであり、それも数日中には始めるつもりで調子を整えていこうと考えるのであった。



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古代編 11

 昨夜のパニックが嘘のように要塞の中は落ち着きを取り戻していた。

 ウルディンの襲来に端を発する大混乱も、アイーシャ夫人の魅了の権能のおかげで事なきを得た。集団に作用する催眠術のようなそれは、権能というだけあって極めて強力であり、カンピオーネや神獣クラスには効果がほとんど期待できないものの、人間が相手ならば都市の一つや二つ、軽々と支配下に置くことができるものであった。

 権能を真正直に人の役に立てているのを初めて見た護堂は、僅かなりとも感動したものだが、ここに詰める兵士たちがアイーシャ夫人の信奉者になってしまっているのを見ると、やはり権能というもののろくでもない一面は常に付き纏うのだと実感する。

 護堂は目の前のソファに座り、にこやかにパンを頬張るアイーシャ夫人もこの問題の原因の一つではあるのだが、護堂はそこまで言うのはさすがに野暮だろうと自制した。

 彼女がいなければアウグスタ・ラウリカは昨晩のうちに滅びていたかもしれない。 

 比喩ではない。

 この時代、一つの砦が内側から瓦解するというのは、その時点で滅亡を意味すると言っても過言ではないからである。

 護堂はウルディンを退けたかもしれないが、それでもアイーシャ夫人の功績に比べれば霞んでしまう。彼女が昨晩したことはそれほどまでに重要なものだった。

「ウルディンは……」

「はい?」

「ウルディンは、近いうちにまた来ると思います」

「そうですね。おそらく、そうなる気がします。昨日、戦われたときに、何か仰っていたのですか?」

 問われた護堂は、どうしたものかと口篭る。

 ウルディンの狙いはアイーシャ夫人だ。アウグスタ・ラウリカもそのついでに狙っているようだが、神殺しの権能があれば陥落は容易かろう。それをしないのは、ドサクサに巻き込まれたアイーシャ夫人が行方をくらませるかもしれないからではないだろうか。

「ウルディンの狙いはあなたみたいです、アイーシャさん」

「え、わたくしですか?」

 アイーシャ夫人は驚いて、パンを千切る手を止め、まじまじと護堂を見る。

「事実です。ウルディンは、どうもあなたを自分の妻の一人に迎え入れる算段のようです。そのために、ここを襲撃しているのだとか」

「あら、まあ……」

 困ったわ、とアイーシャ夫人は手を頬に当てて恥ずかしがる。

 この件について、どのように思っているのだろうか。彼女がウルディンの後宮に入ることになっても、それが本人の望みであれば護堂がとやかく言うものではない。アイーシャ夫人を二十一世紀に連れ帰っても、彼女が望んでこの時代にやって来るのであれば止めようがないからである。それこそ、殺害するくらいしなければ、過去の誰かとの間に子どもを作るような展開を防ぐことはまず無理なのだ。

 彼女の様子から、子どもについては今まで縁がなかったようだが、これから先はどうなるか分からない。今回の相手はウルディン――――当代の神殺しということもある。

「実際のところどうなんですか?」

「どう、とは?」

「自分を神殺しが攫いに来てるってことについてです」

 護堂の問いは、アイーシャ夫人の微妙な態度に関わるものだ。最低限、彼女の意思を確認しなければ護堂は大手を振ってウルディンと戦えない。

 権能を使った戦闘に、何かしらの理由を求めるのが草薙護堂だ。

 これまではそうだった。きっと、これから先もそうなるだろう。自分にかけられた、性格上の制限。他者から請われて権能を振るうのも、それが一番分かりやすい「戦う理由」だからであろう。

 そして、アイーシャ夫人がウルディンのところに行くのを認めるのであれば、護堂が戦う理由が一つ減る。後はアウグスタ・ラウリカを賭けた戦いとなろうが、彼女を失った都市民の士気を考えると護堂がウルディンから一時的に守ったところで先行きは怪しかろう。

 アイーシャ夫人は気恥ずかしそうにしつつ、水盆で指先を洗い清めて答えた。

「わざわざわたくしのために押しかけてくださるのは、女冥利に尽きます。が、ウルディンさんには申し訳ありませんけれども、わたくし、誰の後宮に入るつもりはないのです」

「つまり、拒否ということですね」

「はい。いざとなれば、わたくし自らあの方と戦う覚悟です。格で言えば同格。従う理由はありませんもの」

 それこそ、目の前にあるパンを齧るのと同じくらいの常識としてアイーシャ夫人は言い切った。気負うこともなく、平然と。護堂は少し面食らった。

「あの、アイーシャさんって、戦う権能はお持ちなんですか? 冬を呼び寄せる権能があるとは伺いましたけど」

「あ、そうですね。まあ、色々と条件はありますし、戦うのは好きではないんで、戦いのための権能と言われると語弊があるものばかりではありますが、これでも歴戦の猛者なんですよ」

 と、アイーシャ夫人は可愛らしく右腕に力瘤を作ってみせる。触ったら、簡単に形を変えるであろう小さな力瘤だ。頼りない、がカンピオーネの戦いは肉体を使った殴り合いではないのだ。こうして、のんきにしゃべっているアイーシャ夫人も、戦うとなれば強力な権能で敵を屠るのだろう。想像できないが、彼女は現実に百年以上に亘ってこの世界を生き残ってきた怪物の一人なのだから。

「ちなみに、冬を呼ぶ権能ってどのようなものですか?」

「そうですね……わたくしが心ならずもギリシャの女神ペルセポネーより簒奪したものなのですが、大地を割り、地の底に相手を落とす権能ですね。代償として向こう数年は極寒の風が地割れの底から吹き出てしまいますが」

「そんなものをこの辺りで使ったら、餓死者が出るので止めてください」

「あ、そ、それは心得ています」

 本当だろうか。

 勝利のためには、手段を選ばないのもカンピオーネの特徴である。

 そして、この物流が乏しく、異民族による略奪が相次ぐ時代で寒冷化が起これば、周辺住民は食べるものがなくなって飢え死にしてしまう。

 やはり、ここは護堂が戦うしかないようだ。

 アウグスタ・ラウリカの傭兵隊長として、そしてアイーシャ夫人と共に二十一世紀に帰還するために。

「とりあえず、昨日のことでアイーシャさんの魅了が街の人の避難に有効だってことは分かりましたし、ウルディンの相手は俺が引き受けるので、アイーシャさんは避難誘導に徹してください。間違っても、地割れを引き起こさないように」

 念入りに護堂はアイーシャ夫人に言った。

 後々まで尾を引く権能だ。それだけで、歴史を一つ変えてしまうこともあるかもしれない。

「わ、分かりました」

 アイーシャ夫人は、護堂の真剣な表情に気圧されて、固く頷いた。

 アイーシャ夫人を戦場に出すわけには行かない。彼女がいなければ、元の時代への帰還が面倒になる上環境に与える影響も非常に大きな権能持ちなのだ。アウグスタ・ラウリカに於ける傭兵という立場もあり、ウルディンと戦うのは必然的に護堂以外なく、また、ウルディンのほうも護堂を真っ先に潰しに来るだろう。

 戦いを日常とする時代のカンピオーネというだけで、かなり強力な存在なのだ。それと真っ向から戦わなければならないというのが、非常に面倒で嫌気の差すものなのだが、かといって逃げるわけにも行かず、死なないことを祈りながらそのときを待つ護堂であった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 古代のカンピオーネであるウルディンがいるのは、やはりこの時代にやって来たときに垣間見たライン川沿いの要塞らしい。

 その周囲には木々が生い茂っていて、自然豊かな森林地帯を為している。とはいえ、今となっては地元の猟師すらも森の中に足を踏み入れることはないという。

「森に住む竜の噂は、この街の人々も知っているようです。兵士の方々にも少しばかり尋ねてみましたが、皆さん、森の竜を恐れて近付かないのだそうで、詳しいことは不明です」

 ウルディンとの初戦が終わってから、事態が動いたのは三日後のことだった。彼のほうで、戦う準備ができたということなのだろうか。空を舞う翼竜が、駆けつけた護堂の頭上に一通の手紙を落としていったのである。

 古典ラテン語で書かれた手紙である。

 一瞬、ウルディンのような粗雑な異民族が古典ラテン語を嗜んでいることに驚きかけたが、それはカンピオーネならば誰でも、極自然に体得する千の言語によるものであろうとすぐに思いなおした。文体こそ古典ラテン語ではあるが、内容は簡素簡潔、無駄を省いた要件だけのもので詩的表現は皆無と言ってよかった。手紙というよりもそれは、通知であり、こちらの要件は一切考慮に入れず、自分の主張だけを書き記し、その通りに行動するという宣言である。

 それは、所謂果たし状であった。

 聖女の身柄とアウグスタ・ラウリカの支配権を賭けて尋常の勝負をしようというのである。日時は今日の日暮れ。太陽が沈んでから。場所はアウグスタ・ラウリカの前に広がる平原。人に迷惑がかからないのがいいが、これはアウグスタ・ラウリカを巻き込むのをウルディンが嫌がったからだろう。

 護堂がこの誘いを断わることはできない。

 断われば、ウルディンはこれ幸いと略奪に移るだろうから。

「念のために、魔女の目を飛ばしておきます。ウルディン様が動き出すのを、事前に察知できるかもしれませんので」

「やっぱり、魔女術ってのは汎用性があって便利だな。リリアナには助けられてばかりだ」

「何を仰いますか。元はといえばわたしたち《青銅黒十字》があなたを困難に巻き込んだようなものですし、わたしも騎士です。護堂さんに協力するのは、当たり前のことです」

 と、青と銀の騎士は心強いことを言ってくれる。

 魔女の目があれば、こちらの安全を確保するのが楽になる。偵察に身体を張る必要がないというのは大きい。斥候としては晶が優秀だが、自ら敵地に乗り込まなければならないので危険を伴うのだ。よって、この場に於いては情報収集はリリアナがほぼ一手に引き受けてくれていた。

「少し、外を見て回る」

「何か、ご予定でも?」

「いや。決闘の時間まで暇だからな。ただの散策」

「そうですか」

「リリアナも来るか?」

「いえ。わたしは、ここに残ります。ウルディン様の動向を監視しなければなりませんから」

 リリアナは少し残念そうにしつつ、生真面目な口調で答えた。

「そうか。悪いな」

「お気になさらず。最も苦労することになるのは、間違いなくあなたなのですから」

「だよなぁ。まあ、気にしても仕方ないか。じゃ、ちょっと行ってくる」

 護堂はリリアナに軽く手を振って部屋を出た。

 正午を過ぎて、日は傾きかけている。決闘の時間まで、残り三時間弱と言ったところだろうか。気持ちを入れていく必要がある。

 人が行き来する賑やかな通りを護堂は歩いた。

 石で整えられたきれいな通りである。貧しい人々が暮らす、高い木製の集合住宅街があり、豊かな人々が暮らす石造りの家々が立ち並び、そして店や公衆浴場、運動場がきちんと整備されている。

 この街に滞在してから、公衆浴場には特に世話になっている護堂だが、今は足を踏み入れるつもりはなかった。

「あれ、先輩?」

 ふらふらとしていると、雑踏の中で見知った顔と目があった。

「何してるんですか、こんなところで」

「俺はただの散歩だよ。晶は……店か」

「はい。さっき完売です」

 晶は得意げに空のバスケットを見せる。

 さっきまでは、ここに真っ赤な林檎が入っていたはずだ。

 晶はここ数日、自らの権能で生み出した林檎を売って小金を稼いでいた。安く、新鮮で、不思議と力が湧いてくる魔法の林檎と一部で評判になっていたらしい。

「リリアナにしても晶にしても、逞しいなぁ」

「そんなこと、ないですよ。お金に換えることができる能力があるから、やってるだけです。これから、何があるか分かりませんし」

「そうだな。ウルディンと戦った後も、サルバトーレを何とかしないとダメなわけだし」

「そうなんですよね。どうしますか? サルバトーレ卿」

「帰るぞ、って言って素直に帰ってくるヤツじゃないしな……」

 戦うことが生きがいのサルバトーレにとっては、この時代のほうが性にあっているのかもしれない。しかしながら、それは許されないのだ。ある程度大冒険に満足したら、帰って来てもらわなければ。

 晶は荷物を転送の術で自分の部屋に送り、身軽になって護堂の隣を歩く。

 護堂は周囲を見て、改めて思う。

 ローマの植民市と聞いて、ラテン系が多いものかと思っていたのだが、案外そうでもないらしい。

 国境付近ということもあるのだろうが、異民族を傭兵として抱えているという事情もあるのだろう。二万人の人口の大半は、やはり白人なのだが、それでも民族は多様で中にはアジア系も一定数混じっている。護堂と晶が並んで歩いていても、特別奇異な視線を集めることはなかった。

 護堂と晶は、人だかりを頼りに円形舞台に辿り着いた。舞台の名は分からないが、役者がステージ上で口上を並べているところであった。

「この時代に演劇があったんだよなぁ」

「日本じゃ考えられないですね。コロッセオなんて、古代日本じゃ絶対に建造できないですよ」

「あれは、明治以降の日本じゃないと無理なんじゃないかな」

 そもそも石造りの建物を建てること自体、日本では難しいのだ。大きな石材が用意できない上に技術もない。地震の多さも問題になるだろう。建て替えしやすい木造建築のほうが、やはり日本には適している。とはいえ、古代の技術で見上げんばかりの建物を築き上げるというのはやはりすばらしいことである。

「そういえば、今の日本は、何してる頃だ?」

「そうですね。多分、古墳時代の終わりごろ、ですかね……確か、後二、三年で倭王の讃が東晋に朝貢するはずですけど」

「正直、古墳時代の日本ってよく分からないんだよな」

「仕方ないですよ。文献に残ってないんですもん」

 文字が入ってくる前の日本を知るには、中国の史書に記された情報に頼る以外には考古学的に推測していくしかない。時期としては大和政権が成立し、強大化していく時期ではあるのだが、やはり文字資料の欠乏は日本の実態を謎のベールに包み込んでしまっている。

 眺める演劇はギリシャ神話に由来する演目のようだが、如何せん知識がない。観客のように見入ることもなく、漠然と時間を潰しているに過ぎないのである。自分に芸術的な才能があれば、この演目に感じ入るものもあったのかもしれないが、それもない護堂にとっては座って休める休憩所くらいの認識でこの劇場を利用しているのであった。

「今なら先輩。誰にも邪魔されずに草薙王権が建てられますよ。手始めに東北辺りから始めて勢力を太らせて、大和政権と一騎打ちとか」

「何言ってんだよ。子ども作るだけで歴史がどうとか言ってたのはそっちだろう。日本を作り変えてどうするよ。今の日本なんて、漢字を持ち込むだけで歴史が変わるくらいの土地だぞ」

「そうなんですけどね。でも、実際ロマンはあるじゃないですか。古代で一旗挙げるって」

「言いたいことは分かる。今の俺の力なら軽く国を興せるもんな」

 カンピオーネの力は絶大だ。

 単独で一国を滅ぼせる力があるのだから、国を樹立することなど難しくはない。おまけに呪術的な力によって国を治める時代でもある。卑弥呼が鬼道を駆使して邪馬台国を率いていた時代から二世紀も経っていないのだ。カンピオーネの力はそれだけで民衆を惹き付けるものとなるだろう。

「古代でも現代でも俺は王さまなんだろ。だったら、別に古代で一旗挙げなくてもいい」

「あぁ、それもそうですね」

 あっさりと、晶は頷いた。

 民主主義が広まった二十一世紀に王などと言っても、非現実的ではある。しかし、カンピオーネというのは、それそのものが非現実的な力に裏打ちされた絶対権力者である。その気になれば、現実の政治にすら影響を与えることも可能となるのだから、十二分に王と称していいだろうし、呪術師たちは王として忠誠を示している。

「そろそろ戻ろうか。演劇が終わると、また混雑するだろうし」

「早めに戻るんですね。分かりました」

 円形劇場に集まった観客は数百人。この演劇がいつ終わるのかは分からないが、これが一度に通りになだれ込めば相応の混雑は起きるだろう。サッカーのスタジアムから大挙して帰宅するサポーターのように。そうなると面倒なので、さっさと拠点に戻り、ウルディンとの戦いに備えることにする。

 

 

 屋敷に戻るころには、太陽も大分傾いてきていた。

 約束の時間まで、後一時間を切ったといったところだろうか。

 晶と共に自室に戻ると、ウルディンの砦を監視していたリリアナが椅子から立ち上がって出迎える。

「おかえりなさいませ、護堂さん。それに高橋晶も」

「ただいま、リリアナ」

「すいません、わたしだけ外に出ちゃって」

「気にするな。わたしはわたしの仕事をしていただけだからな。ところで、護堂さん――――」

 リリアナは真剣な顔つきになって、護堂の傍に駆け寄る。

「ウルディン様の砦が、数分前から騒がしくなっています」

「ウルディンが動いたのか?」

「はい。ウルディン様自ら、森の竜を呼び集めていました。数は全部で九匹ほどでしょうか」

「九匹か。思ったよりも少ないんだな」

「神獣一匹でも、大呪術師を何人も動員しなければならない相手ですから九匹は多いくらいなのですが、あなたの感覚は違いますからね……ただ、その総てを連れてくるつもりはないみたいです。ウルディン様を背に乗せた竜とその左右に一匹ずつ。計三匹の竜で、砦を出ました。おそらくは、一時間もせずに、ここにたどり着くでしょう」

「そうか。――――いよいよか」

 護堂の身体に闘志が湧き上がってくる。

 明朗な呪力の嘶き。血流が増加し、頭が冴え渡ってくるかのようだった。戦いを前にして、集中力が増している。実戦が目の前になると、理性ではなく本能が身体を作り変えてしまうかのような気分になる。『まつろわぬ神』が相手だと、それは明瞭な形で現れるのだが、神殺しが相手だとそこまではいかない。それでも、今の護堂はアスリートで言うところのゾーンの状態に入っている。

「先輩、それじゃ早めに済ませたほうが、いいと思います」

 晶が護堂の袖を摘んで、言った。

 何を、とは今更問うまでもない。

「悪いな、晶。ルドラから、頼めるか」

「はい。その辺りは得意分野ですから」

 薄らと微笑む晶は、護堂の頬に手を添えてキスをする。

 柔らかな感触と共に護堂の脳にルドラの来歴が焼きこまれていく――――戦うための前準備。強大な火力を持つと予想されるルドラの権能を斬るための『剣』を砥ぐ作業であった。



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古代編 12

 屈強なフン族の指導者にして五世紀の神殺しの一人であるウルディン。

 現時点で分かっているのは、ルドラとウシュムガルの権能を所持しているということと、通称として「テュールの剣」という興味深い呼び名があるというくらいである。

 約束の刻限が近づいてきた。西日は次第に弱くなり、東の空から群青色が押し寄せてくる。星明りを遮る余分な光はなく、信じがたいほど美しい満天の星空が天球に映し出されてきた。

 そのような中で、黒髪の神殺しは以前と同じように翼竜に跨り、上空二十メートルくらいのところから護堂を見下ろしている。

「どうやら逃げずにやって来たようだな。そうでなくては面白くない」

「面白いも何もあるか! 何で決闘なんて挑んできてんだよ!」

 戦わなくてはならないと思いながらも、進んで神殺しと戦おうとは思えない。必要がなければ戦わなくてもいいのだ。今更言っても意味のないことではあるが、文句を言うくらいはいいだろう。

「どうせなら興が乗るやり方のほうがいいだろう。どの道、俺がここを攻撃すればお前が出てくるのだから、こうして分かりやすく決着を付けるほうが理に適っているではないか。――――俺はこう見えて、無駄な戦いはしない主義なのだ」

 鍛え抜かれた大胸筋を誇らしげに張って、ウルディンは言い切った。

「そもそも、襲わないって選択肢はないのかよ」

「何を言ってるんだ、お前は。飯の種は必要だろう。目の前に上手そうなもんぶらさげられて、我慢するなんざ御免だろ」

「それを、人間が暮らす都市を相手にするなってんだよ」

 やはり、感性が違いすぎる。

 生まれた時代が決定的に異なるのだから当然ではあるが、あまりにも人命に対する価値観が違う。会話が成り立っているのに、どこまでも平行線を辿る。『まつろわぬ神』と会話をしているときと同じような感覚を味わっている。

 護堂の意見などウルディンは歯牙にもかけない。言って聞かないなら、結局は実力行使するしかない。

「ふふん、なんだかんだでやる気じゃねえか」

「やるしかない状況になればやるさ。んで、俺が勝ったらこの街と聖女さんからは手を引いてもらう」

「おう。いいぜ、その代わり俺が勝ったら果たし状に書いたとおり、この街と聖女はいただく」

 同意はしない。

 街の行く末もアイーシャ夫人の行く末も、共に護堂の管理下にはないからである。勝手に賭けの対象にするわけにはいかないが、護堂が何を言ったところでウルディンは街とアイーシャ夫人を狙うだろう。言葉にしただけで、拘束力も何もあったものではないのだ。

 気分の問題だ。

 互いに、賭けという形を取ったほうが気分が乗る。ウルディンはウルディンなりに、護堂は護堂なりにこの形式に意義を見出している。

 言葉で解決できないのなら力で解決するのがカンピオーネの外交だ。それは五世紀でも変わらないようである。

 ウルディンは手早く弓と矢を用意し、護堂に鏃を向けている。

「おっぱじめるぞ、兄弟! ――――ルドラの咆哮を聞け!」

 先手はウルディン。

 放たれたのは雷光に包まれる一本の矢。

 矢の常識を覆す轟音と豪速。護堂の身体を消し炭に変えんとする嵐神の一撃を、護堂は三重にした《鋼》の大楯で受け止める。

 閃光が駆け巡り、音がかき消された。

「ルドラの火よ。この地を焼き清めろ!」

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ!」

 ウルディンの放つ矢が炎の塊に変わり、猛火をばら撒くや護堂が解き放った呪力が大量の神酒に変化してルドラの炎とぶつかり合う。

 神酒の竜巻を蒸発させる炎。

 炎を消火する神酒。

 両者が互いに喰らい合い、対消滅する。

「中々引き出しが多いな、兄弟」

「お互い様だろ! 今度は、こっちからいくぞ!」

 護堂は右手を振り上げる。

 十挺の剣をイメージし、脳裏に描いたとおりの簡素な両刃剣を生成する。そして、感心したように吐息を漏らしたウルディンに向けて、十の刃を一斉に射出した。

「しゃらくせえ!」

 ウルディンは笑みすら浮かべて、翼竜の腹を蹴る。

 主の指示を受けて翼竜は驚くべきしなやかさで身体を捻り、護堂の剣を交わす。予想以上の瞬発力に護堂は面食らう。優雅に空を飛んでいそうだったが、まるで地面を蹴ったかのように静止状態から急加速したのだ。あの身体の構造で、どうやってトンボのような自由自在な飛行を可能としているのか皆目検討もつかない。さすがは神獣。非常識である。

 非常識と言えば、今まさに三匹の翼竜の口に炎と雷がチャージされているのもまた非常識である。恐竜のくせに火を吹くし、雷を吐くのだ。

「と、ぉ!」

 護堂は大地を駆ける。空から落ちてくる火炎と雷を紙一重で躱していく。飛び散る熱は呪力耐性で無効化できるが、礫の類はそうもいかない。身体を飛んできた石が叩くたびに表皮に裂傷が生じる。

 反撃に刀剣を射出するも牽制程度にしかならない。翼竜自ら危険を察知して、護堂の攻撃に対処しているだけでなく、ウルディンが護堂の刀剣の射出速度から対応可能な距離を算出して、護堂と一定の距離を保っているからであった。

 この辺り、やはり戦上手だ。口だけではない。冷静に護堂の様子を観察し、自分に有利な状況を組み立てようとしている。

「ちょこまかと、上手く避けるじゃないか」

「それはこっちの台詞だ」

 爆発が背後で生じて、熱風が背中を押す。

 護堂は逆らわずに風に乗って全力疾走する。どこまで走っても身を隠すような場所はない。ここは古代ヨーロッパの平原だ。守るべきアウグスタ・ラウリカ以外に隠れ家などありはしない。

 そのため、護堂は常に空からの爆撃に曝され続けなければならない。

「空を飛ぶ敵ってのは、やっぱり厄介だな」

 今までにも何度か経験してきた相手だ。護堂も空中戦ができないわけではないが、自由自在に空を動き回れるかと言うとそこまでの能力はない。雨が降っていれば話は別だが、現時点では雲ひとつない星の天蓋が頭上に広がっている。伏雷神の化身は使えないということである。

「中々当たらんな。――――景気よく、数を増やしてみるか」

 ウルディンは腰にぶら下げた布袋を掴むと、その中身を空中にばら撒いた。

 白色の牙であった。

 その大きさと形状から、ウルディンが操る神獣のものであると思われる。

「兄弟、物量戦はお前も得意だろう?」

 ウルディンの呪力が牙に浸透し、その一つひとつが竜の神獣に変化する。一匹の大きさは四メートル前後。狂悪な牙と足の爪はどの個体も変わらず有している。

 空の三匹に加えて、地上に五匹の計八匹が護堂を取り囲んだ。

 地上の神獣が、護堂に向けて飛び掛る。鋭い爪で蹴り飛ばそうとしているのだ。空のウルディンが指示を出して、タイミングを微妙にずらすことで効果的な狩りを実現している。

「く……!」

 護堂は咄嗟に楯を全方向に展開する。二十近い楯を自分を覆うように半球状に配置して、四方八方からの攻撃に対処する。それはさながらシェルターのように護堂を守り、竜の突撃を受け止める。

「まだまだァ!」

 護堂は受け止めるだけではない。

 反撃に五匹の神獣に『神便鬼毒酒』を叩き付ける。飛沫が上がり、白波を湛えた破魔の神酒が竜を押し流していく。

 殺傷能力はほとんどない。この権能だけで『まつろわぬ神』と戦うことになったら、かなりの苦戦を強いられることになるだろう。

 今も、直撃させた神獣を打ち倒すには至っていないのだ。

 だが、この神酒の権能の真価は攻撃ではない。

「ぬ……!?」

 ウルディンも異常に気付いたらしい。

 倒れた神獣が起き上がれない。立ち上がれずにもがく個体や立ち上がったとしてももたもたとして足取りが覚束ない個体がいる。

「ほう、それは酒か。俺の竜を酔わせるとは、物好きな権能もあったものだな」

「お前も、降りてきてもらうぞ!」

 護堂は神酒をより合わせて三本の水流を生み出し、ウルディンと翼竜を挟み込むように打ち出す。

「そうと分かっては、試しに喰らってみるとは言えんな!」

 ウルディンは水流の一本に矢を打ち込み、これを内側から吹き飛ばすと、翼竜を駆って包囲を抜ける。カンピオーネが直接支配する神獣は並の神獣の数倍以上の強さとなる。ウルディンの翼竜は、火を吹き、雷を吐いて主をサポートしつつ、追いすがる護堂の神酒を巧みに避け続ける。

 まさしく人馬一体となったウルディンと神獣は、護堂の頭上を大きく旋回しながら狙いを定めている。

 金色の鏃を持つ矢を弓に番えながらも、翼竜の動きはまったく衰える様子がない。主従の信頼関係が為せる業であろうか。あるいは、翼竜そのものがウルディンの手足となって無意識でも自在に操ることができるのか。

「お前は一撃の重さよりも手数を重視する神殺しようだな、兄弟」

「その兄弟って呼ぶの、いい加減止めろっての」

「ハハハ、そう恥ずかしがるな。俺たち神殺しは似た者同士。おまけに、何つったか女神の一柱が義母を名乗ってやがる。なら、俺たちは血の繋がらない兄弟ってことでいいだろう」

 ウルディンに追い込まれている様子はない。攻撃しているのは護堂だが、ウルディンはそれを物ともせず反撃の準備をしている。

 黄金の矢。

 太陽の力が凝縮した、炎の一撃。

「ルドラの火よ。焼き払え」

 音もなく放たれた矢は千々に分かれて、炎、雷、嵐にそれぞれ変化する。節操のない爆撃の雨は、護堂の神酒を蒸発させ、吹き散らし、その下にいる護堂を周囲も含めて消し飛ばそうとする。

 太陽だけならば、黒雷神の化身だけで防げるだろう。

 しかし、そこに嵐の神格まで加わると具合が悪い。

 黒雷神の化身は太陽神に対して極めて高い防御力を発揮してくれるが、それ以外に対しては特別強力な守りであるとは言い切れず、頑丈なだけの壁でしかない。破られるときは普通に破られる。

 土雷神の化身で土中に潜り、神速で移動するという手もあるが――――護堂はここで、黄金の剣を引き抜くことにした。

 ルドラを斬る。

 おそらくは、これがウルディンの権能の中でも特に高い火力を持っているであろうから。

 ここで、ルドラを斬り捨てれば、多少なりとも余裕を持って戦えるかもしれない。

「ルドラは古代インドの嵐の神。弓を持つ姿で描かれる破壊神だ」

 降り注ぐ破壊の雨が、地上に届く前に霧散する。

 炎の煌きも、雷の雷光も大地を焼くことは叶わない。黄金の傘が、破壊の雨の尽くを受け止め、雲散霧消させているからである。

「何……?」

 ウルディンは驚き、というよりも困惑に近い表情でその様子を窺った。

 自慢の権能が防がれている。

 直撃すれば、『まつろわぬ神』ですら消滅させるであろう強大な弓の権能が、謎の光の群れの前に為す術もなく打ち消されている。

「防ぐというよりも、消し去っているか。力ではなく言葉で相対する気か――――兄弟、お前の権能は聊か趣味が悪いぞ」

 敵を酔わせる神酒の権能に、相手の能力を打ち消す言霊の権能。力で勝負するウルディンとはまったく異なる権能の使い方である。

「だが、まあそれも面白い」

 ウルディンは無残に打ち消される矢を眺めて笑っていた。

 まだ、何かあるのか。

 あるとすれば何か。護堂が何を隠しているのか、ウルディンは気になって仕方がない。まともに自分と戦える存在など、そう易々とは出会えないのだ。全力を尽くせる好敵手を前にして、武者震いを止めることなどできるはずがない。

「次、行くぞ!」

 ウルディンは嬉々として矢を放つ。狙いは護堂ではなく、天空だった。打ち上げられた矢は目にも止まらぬ速さではるか上空に達し、そこで轟音と共に散った。次の瞬間、満天の星空は輝きを失い、立ち込めてきた重苦しい暗雲によって、地上に漆黒の闇がもたらされた。

「今お前が使ったのは、ルドラが持つ嵐の神の一面だ。ルドラは生と死を司る暴風雨の神だから、嵐を呼び込むことも難しくない」

「その通りだ! ルドラの鉄槌よ、悪魔の城を打ち砕け!」

 暗雲の中に紫電が走ったのを護堂は見た。

 それを認識したとき、護堂は黄金の剣を頭上に集めて光り輝く天蓋を生み出した。十重二十重に重ねる星の壁に、垂直に落ちる莫大な電流。大気を焼き払い、夜闇は引き裂かれた。青白い雷撃は、世界を真昼のように明るく照らす。

 だが、それでもウルスラグナの『剣』は敗れない。

 勝利を掲げた軍神は、破壊神の雷撃にも退くことはなく、むしろ圧倒する。

「ルドラは後に有名なシヴァに吸収され、その一面となるが、元々はシヴァこそがルドラの別名だった。『咆哮する者』を意味するルドラと『静かなる者』を意味するシヴァは、表裏一体の関係だったからだ」

 落ち着いて、頭の中の知識を引き出し、言葉に呪力を乗せる。

 光り輝く黄金は、ウルディンの雷撃も風雨も太陽も斬り裂いて、縦横無尽に夜の闇を飛び回る。

「ルドラの権能は通じないか。まあ、それならば他の権能で攻めればいい話だな」

 ウルディンは指笛を高らかに吹く。

 どこからともなく三匹の翼竜が現れて、三方から護堂に襲い掛かった。

 ルドラ殺しの言霊の「剣」ではウシュムガルの竜は斬れない。それをウルディンが見抜いたのである。

「ウシュムガルはシュメール神話に登場する竜神だ。『唯一の偉大なる者』を意味しているが、後の神話ではティアマトに従属する魔獣にまで零落している!」

 咄嗟に「剣」の一部をウシュムガル用に打ち直す。護堂の周囲に飛んできた数十個の光の粒が、ウルディンの呼んだ竜の体当たりを受け止め、返す刀で深々とその胸を抉った。

 生命の源たる呪力を光という形で傷口から噴き出し、苦悶に呻く三匹の翼竜は、数十メートルを滑空した後で地面に墜落した。

「痛ッ――――!」

 ビキ、と護堂のこめかみに鈍痛が走った。

 脳が沸騰しそうな感覚。

 ルドラとウシュムガルの知識が渾然一体となって訳が分からなくなりそうだ。

 ウルスラグナですら、黄金の「剣」の二刀流には苦労したのだ。初めての二刀流で、簡単に使いこなせるはずもなかったか。

「黄金の剣の攻略を見たぞ、兄弟。複数の権能を同時に相手取るのは、難しいみたいだな!」

「それは、そっちも同じだろ」

「兄弟ほど露骨に負担はかからんさ」

 護堂の言葉を、ウルディンは否定しないどころか飄々とした態度で案に肯定する。

 ウルディンの場合、権能を併用できないというよりも、全力を尽くすにはどちらかに力を注がなければならないという至極真っ当な理由である。操る竜の数を増やしたり、強さを高めたりすれば、その分だけ呪力を消耗する。手数と特殊能力に秀でた護堂の権能に対処するのならば、あらゆる状況に対応できるようにキャパシティーに余裕を持たせておくのが重要であった。

 ルドラとウシュムガルというまったく関連性のない二柱の神格を同時に斬るという離れ業に、護堂は悪戦苦闘する。自分の「剣」を研ぎ澄ますこともままならず、少しずつウルディンの包囲が狭まっていく。

「くっそ……」

「辛そうだな、兄弟! 亀みたい閉じ篭ってるだけじゃ、押し潰されて終わるだけだぞ?」

 護堂を心配するかのような発言。

 しかし、ウルディンは空から度々雷と炎を叩き落している。もちろん、護堂の「剣」にはまったく効果がないが、四方を囲ませた竜が隙を見ては護堂に飛びかかろうとする。

 びくともしない光の星。

 シェルターに閉じこもっているかのような状況に、護堂は焦る。ぶつぶつとルドラとウシュムガルの知識を口に乗せるが、どっち付かずで精度が落ちている。

 ――――まずい、か。

 複数の権能を同時に相手にするのに不向きであるという点が露呈したウルスラグナの権能だが、それと同時に使えば使うほど効果が弱まっていくという弱点も抱えている。

 単一の権能であるが故に、原作に比べて威力が増しているものの、特性そのものが変わるわけではなかった。

 どこかしらで勝負に出る必要はあるだろう。

 その隙を、見つけないことには押し込まれるだけだ。

 執念深く、護堂はウルディンを見つめ続ける。黄金の剣を操り、竜と矢を消し去りつつ、僅かな勝機を捜し求めて。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 護堂の劣勢は目に見えて明らかであった。

 切り札であり発動すればあらゆる神格に対して優位に立ち回ることのできるウルスラグナの権能も、複数の権能を所持することが当たり前であるカンピオーネを相手にすると効果は弱まる。

 護堂がルドラとウシュムガルのどちらか一方に集中できれば、この状況を打開することも不可能ではないが、だからといって――――少なくとも見ている分には、その好機がいつ訪れるか分からない。

 城壁の上から戦況を座り込んで眺めていた晶は槍を片手に、おもむろに立ち上がる。

 隣にいたリリアナが晶の横顔を見上げた。

「高橋晶?」

「このままだと埒が明きません。先輩の加勢に行きます」

「加勢だと――――あの戦場に飛び込むつもりか!? 自殺行為だぞ!!」

「あの神獣さえ何とかすれば、先輩はルドラに集中できます。わたしは先輩の権能……本来、率先してあそこに向かわなければならない立場です」

 たとえこの身が引き裂かれ、粉々に砕かれたとしてもすでに高橋晶という従僕は成立している。護堂がいれば、どうとでもなる。だというのに、晶が『まつろわぬ神』やカンピオーネとの戦いを遠巻きで眺めることが多いのは、とどのつまりは護堂の都合である。晶を気遣うが故に全力を尽くせなくなるのではないか、という護堂の心情があってのことだ。だから、ここぞという場合にしか晶は護堂の背中を守れない。

「大丈夫。あの神獣たちはそれほど強くはありません。今のわたしなら、三、四匹は同時に相手取れます」

 ウルディンも本気を出して竜を操ってはいない。護堂にちょっかいをかける程度、それでも一撃を入れれば圧倒的に護堂が不利になるという程度の力の入れようだ。そのため、権能で強化され、神槍を有する晶ならば十分に竜と渡り合うことも可能だろう。

「――――分かった。なら、わたしがあなたを援護しよう。弓術は得意だ。ここからでも、多少の助けにはなるだろうからな」

 リリアナは、愛剣イル・マエストロを弓に変形させた。

 神具ほどの格を持たないものの、古き呪術師が生み出した至高の魔剣の一振りである。形状を変化させれば、弓としても扱うことができ、放たれる矢は神獣の固い表皮すらも射抜くことができる。

「ありがとうございます。それでは、共に――――ッ」

 反応できたのは、護堂からガブリエルの権能の一部を引き出せていたからか。

 どこからともなく飛来した一矢が晶の死角から首を目掛けて遅いかかってきたのである。飛び散る火花。思考と同時に振るった槍で矢を撃ち落す。

「誰?」

 キッと晶は城壁に舞い降りた二人の女性に尋ねた。

 光に包まれ、暗雲から下ってきた姿はあたかも天使を想起するが、この二人は紛れもない人間である。

 ――――今のは飛翔術か。かなり原始的だが……。

 リリアナは魔女の勘を働かせて謎の女性が用いた呪術の正体を見破る。自分が使う飛翔術によく似た術式だ。ここが古代だからか完全に一致するほどではないが、効果は似たようなものだろう。

 金髪で細面のゲルマン系の女性は弓を持っている。晶を狙撃したのは彼女だ。そして、アジア系の顔立ちの女性は無手。ただし、呪力の残滓からここまで高速移動してきたのは彼女の呪術であると思われる。つまりは魔女に違いない。

「クロティルドと申します」

 晶の問いに最初に答えたのは金髪の女性だった。

「ウルディン様の戦の邪魔は慎んでいただきたく……」

 静かに、クロティルドと名乗った女性は呟いた。

 ウルディンの部下なのだろう。晶やリリアナが護堂の傍で補佐しているのと同じように、ウルディンもこういった人材を手元に置いているのだ。

 当然だろう。

 護堂と違いウルディンは世俗の王でもあり、実際に軍を持っているのだ。その中に呪術に関わる者がいてもおかしくはない。

 クロティルドの手にあった弓はいつしか消滅し、その代わりに一振りの直剣が握られている。

 戦う気が満々である。自らの要求を通すのに武力の行使も惜しまない姿勢を露骨なまでに出している。

 晶はムッとして言った。

「嫌だって言ったら?」

「お相手を努めさせていただくことになります」

 クロティルドは剣を構えて晶に切先を向けた。 

 両者の距離は、ざっと十メートルほどか。晶の瞬発力ならば一瞬で詰めることのできる距離でしかないが、それは相手のほうも同じだろう。

 相対して分かる。

 この女性は恐るべき剣に使い手である、と。

 晶もまた、神槍の矛先をクロティルドに向けた。

「もちろん、嫌だ」

「どちらの意味で?」

「邪魔するなってほうの意味で!」

 直後、鉄を打つ音が暗闇に響き渡る。

 両者のちょうど中間で、二つの刃が激突したのであった。

 



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古代編 13

 少なくとも近接戦闘に於いて晶が人間に敗れるということはまずありえない。

 人間離れした身体能力に、護堂の権能が加わっているためにそれが野良神獣であろうとも単独で打破することが可能だからである。

 大抵の相手は力だけで圧倒できる。

 しかし、それはあくまでもカタログスペックでしかないということは重々承知している。

 実際の戦闘は強い者が勝つのではなく勝った者が強いのだ。

 絶対の勝者が存在しない異常は、晶の強大な力も脆弱な誰かに乗り越えられる可能性はある。他ならぬ彼女の主が、そうして王の階段を上っているのだから。

 

 不規則な突風が城壁の上を走り抜けていく。

 金属音が鳴り響くたびに火花が散り、明滅する光に晶とクロティルドの顔が照らされる。暗闇に残像を結び、超高速の領域に飛び込んだ槍兵と剣士はどちらともなく距離を取った。

 戦闘開始から、三十秒。

 刃を交わした回数は五十七。そのすべてが、空を切るか、相手の武器に遮られるかして無為に消えた。

 殺してしまうかもしれない、などという考えは一合目から先には存在しなかった。現状、出せる範囲での全力は尽くしたつもりだったが、クロティルドと名乗った女性の身体には傷一つ付いていない。

 何か特殊な守りを施しているか――――否だ。

 クロティルドは確かにその身に何かしらの守護をかけているようではあるが、それは晶の攻撃を無力化するようなものではなく、身体能力を向上させる強化系の呪術であるように見える。

 驚嘆すべきは晶の槍撃を尽く捌ききったその剣術であり、悲嘆すべきは人間を超えたスペックを与えられていながら一対一の戦闘で人間を圧倒しきれない己の未熟さである。

 ごり押しだけでは打倒できない。

 クロティルドの武芸ははるかに晶を上回っていて、強烈な晶の攻撃を流れるような剣捌きで受け流してしまうのだ。たとえ城壁を穿つ一撃を放ったところで、当たらなければ意味を成さない。

「驚きました。その歳で、ここまでわたしに拮抗するとは」

 静かな面持ちでクロティルドは言った。

 彼女の技量は人間でもトップクラスである。生まれながらの才能とたゆまぬ努力によって人智の頂点まで昇りつめた豪傑ゆえに、自分よりも若い少女が自分と打ち合っていることに惜しみない賞賛の念を抱く。

 技量という点ではまだまだ精進が足りないが、反射神経並びに運動能力はクロティルドを凌駕している。一生努力を続けてもあの領域には届かないだろう。共にやってきたルスカの見立てどおり、神殺しの加護によってかなり強靭な肉体を手に入れているらしい。

 もちろん、力だけの脳筋ならば苦もなく倒せただろう。

 だが、相対する少女は自らの力に頼り過ぎない。こちらの力を見極めて、油断なく対峙している。武器と肉体、共に性能は向こうが上だ。ならば、積み上げた武芸と呪術で性能差をカバーすればいい。

「風よ花と散れ」

 紡ぐ呪文は大気を操り、不可視の鉄槌を作り出す。

 目には見えずとも呪力の動きを感知すれば、これがどのような呪術なのか悟ることは可能だろう。

 晶が目に見えて警戒する。

 解き放つ鉄槌は十二。

 直撃すれば、骨くらいは砕けるだろう。加減はしたが、当たり所したいでは命にも危険が生じる。そういう呪術である。

 避けるにしろ受け止めるにしろ、隙はできる。その隙を狙おうとして、クロティルドは目を剥いた。

 信じがたいことに、晶が風の弾丸の中に生身を曝したのである。まさか、風の鉄槌が放たれたことに気付いていないわけでもないだろうに。その光景に目を奪われて、判断が鈍ってしまった。

「そらッ!」

「く……!」

 風の鉄槌を物ともせずに突っ切った晶の神槍がクロティルドに迫った。咄嗟に後方に飛び退き、剣で神槍の矛先を逸らす。直後の二連撃を必死に交わしながら地面にルーンを刻みつけた。

「逃がす……うわッ!?」

 一歩踏み込み、クロティルドに豪快な一撃を見舞おうとしたところで晶は踏鞴を踏んだ。

 足元から太陽の如き光が迸ったからである。痛みはないが目が眩んだ。

 その隙をクロティルドは見逃さなかった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 激しく攻守を入れ替えながら激突を繰り返す晶とクロティルドの戦闘に比べて、リリアナとルスカの戦闘は一見して見るところのない地味なものではあったが、それでも晶に加勢できないほどリリアナは目の前の魔女に対して悪戦苦闘を強いられていた。

 静かな睨みあい。

 二十メートルばかりの距離を隔てて、リリアナとルスカは対峙している。

 弓からサーベルの形状に変化させたイル・マエストロを手に、リリアナは防御系統の呪術で護身した。敵は強力な魔女で、その実力は自分を上回っていると直感が告げている。こうした相手と戦う場合、まず魔女の術中に嵌らないことが重要だった。リリアナの冷静な判断に基づいて組み立てられた防御陣は、ルスカの放った十七の呪詛を寄せ付けず、跳ね返している。その一方でリリアナは防御に力を注ぐあまりに攻撃に手を回せないでいる。遠距離攻撃のための弓の形状をあえてサーベルに変えたのは、弓では両手が塞がって咄嗟の対応ができないということと、相手が無手であるということがあったからだ。弓矢は加減ができない。刀剣類であれば、気絶させることもできる。

 とはいえ、やりにくいのは変わらない。

 無手の相手を剣で攻撃するというのは気が引ける。

 清廉な騎士の道を奉じるからこそ、血生臭い行為に踏み出せない。それが、この時代にそぐわないものだと分かっているが、二十一世紀のイタリアで育った十六年の月日を鑑みれば、当然の反応である。それが、リリアナが押さえ込まれている最大の要因だと、本人も理解しているのだが。

「へえ……」

 ルスカが感嘆の声を漏らした。

 感情を表に出さないタイプだというリリアナの見立ては外れらしい。

「見たことのない術を使うんだね。根幹は同じようだけど、大した精度。あんたも魔女なわけだ」

「恐れ入ります。優れた魔女であるあなたを相手にするには、わたし如きはまだ未熟ではありますが」

「謙遜。あたしとそう歳も離れてないし、実力も変わらないでしょ」

 平坦な口調の割りに、比較的感情豊かなのだろう。

 会話しながら相手の様子を探り合っている。剣を交える相方とは異なる戦闘。呪術と言葉で、相手を出し抜く術を探っているのだ。

「まあ、いい剣を持っていても使わなければ宝の持ち腐れ。呪術も同じ。あんたは、人を傷付けるのに慣れてないみたいだから、亀みたいに篭っていても隙はできる」

 指を鳴らしたルスカの周囲に夜よりも暗い影が起き上がった。一、二、三……計五体の影人形である。リリアナよりも少し背が高い程度の細身の影は、世界というスクリーンに映し出された幻像はゆらゆらと儚く、しかし明確にこの世に像を結んでいた。

 何かしらの呪詛。

 そうと分かれば、直接触れるようなことはない。

 地面を滑るように迫ってくる影人形をリリアナはイル・マエストロで斬り伏せる。破魔の術を吹き込んだ刀身は、呪いの類を斬り裂く刃となっているのだ。

 一体目の首を刎ね、倒れてくる身体に触れないように身を捻り、後続の胴体を斬り上げる。次いで、回り込んできた三体目を袈裟切りにし、四体目は紡いだ呪術で弾き飛ばす。最後の五体目は一体目と同じ要領で首を落とした。一連の動作に無駄はなく、あたかも踊っているかのよう。銀色の髪が緩やかに流れ、妖精が舞っているかのような清廉な剣術にルスカは感心させられた。

「剣を持ってるだけはある」

 うん、とルスカは頷く。

 影人形を退けたリリアナは次手を警戒して剣を構えている。

「当たれば決まったはずなんだけど」

 如何なる呪詛であったのか、リリアナには分からない。しかし、ルスカがリリアナを倒すために送り込んできた影人形は非常に危険な呪力の塊であって、触れるわけにはいかなかった。ルスカの呟いたとおり、触れてしまえば間違いなく戦闘不能に追い込まれていたであろう。

 けれど、それも過ぎ去ってしまえば問題にはならない。

 次はこちらから攻める。意外にも戦闘狂の嫌いがあるリリアナは、そろそろ防戦一方の展開に辟易していたのだ。

 そのとき、白銀の刀身に汚れがあるのをリリアナは視認した。

 呪力の塊しか斬っていないのに、汚れがつくことなどありえないから始めは見間違いかと思った。しかし、よくよく見れば、それは赤黒い液体のように見えて、怖気が走った。ルスカに意識を割きつつも、自然と斬り伏せた影人形をちらりと見る。

「ッ……」

 呪力の塊であれば、すでに消滅しているべき影人形。しかし、彼らは今もこの世に形を止めていた。黒一色

身体はいつの間にか様々な色に染まっていた。――――脳が認めるのを拒否しているが、否応なく突きつけられる事実としてそれは人だった。広がる赤い染みはリリアナが斬り伏せたことによる出血で、刀身に付着しているのは犠牲者の末期の血であった。

「あ、か――――」

 心臓を掴まれたような錯覚。手足が固まり、思考が停滞する。その刹那の一瞬に、背後に湧き上がった六体目の影人形がリリアナに覆いかぶさった。

「しま――――ッ」

 抱きかかえられたリリアナは、自分の護身術の隙間を黒い呪力が通り抜けてくるのを知覚した。身体が芯から冷えていき、意識が遠退いていく。

 人の命を奪ってしまったのではないかという疑念がリリアナの行動を致命的なまでに遅らせたのだ。

「う、……」

 リリアナの手からイル・マエストロが滑り落ちる。

 希代の魔剣も使い手が倒れればただの棒と同じである。音を立ててリリアナの足元に転がった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 閃光の呪術で晶の目を晦ませたクロティルドは、動作そのものを意識させない自然さで晶の懐に潜りこむや、鋭い刺突を晶の腹に放った。完全に対応し損ねた晶は無防備にこれを受けてしまう。

「な……!?」

 今度こそ、クロティルドは信じ難いものを見た。

 愛剣の切先は確かに晶の衣服を斬り裂いてその内側に刃を届かせている。だというのに、彼女はまったく傷を負わないのだ。鎧のようなもので防がれたわけではなく、呪術で逸らされたわけでもない。突き刺したという手応えそのものがないのだ。

「この……邪魔ッ!」

 晶が真上から神槍を振り下ろす。

 槍の正しい使い方だ。槍は突くよりも、振り下ろすほうが遙かに強い。晶の筋力で神槍を振るえば、物理的な手段で受け止めることはまず不可能となる。

 晶が振り下ろしを選んだのは、剣の間合いで槍が攻撃力を発揮するのはそれ以外になかったというだけであり、クロティルドも晶が攻撃に出るとすればそれ以外にないと予想していたので難なく対処する。 

 強化した足で、思い切り晶の腹を蹴り飛ばしたのだ。

 小柄の少女は、見た目通りの重さだった。

 ボールのように吹っ飛ばされた晶は、二十メートルばかり転がってすぐに立ち上がった。普通ならば、今ので死んでいるところだが目だったダメージはない。服がところどころ擦り切れて肌を曝しているだけであった。

「呪術どころか剣も効かないだなんて、反則もいいところですね」

 呪術、剣術、そのどちらも彼女は意に介さなかった。

 不可思議なまでの不死身さ。人間が帯びるにはあまりに強すぎる効果である。

「なるほど、あなたは人間ではないのですね。少なくとも、見た目通りというわけではないと」

「だとしたら、何ですか?」

「何でもありません。それ専用の戦い方をすればいいだけですので、お覚悟を」

 スッと、クロティルドが剣を切先を上にして自分の胸の辺りで構える。

 二言三言呟くと、その刃に青く光る文字が浮かび上がった。

「アンサズとエイワズのルーンです。神秘を否定する魔剣、神殺し様のご加護まで斬れるわけではありませんが、あなたの身体を傷付ける程度はできるでしょう」

「それはまた……」

 呪術と物理的な攻撃。その双方が晶には効果がない。その理由を完全に見抜いたわけではないものの、感触から晶に通じる剣を生み出したのであろう。

 剣術と呪術のみならず、判断力についても隙がない。

 恐るべき女騎士を相手に、晶は唇を舐めて神槍を構えた。

 クロティルドをどうにかしなければ、護堂の援護にはいけない。かといって、彼女たちを無視して護堂を援護しに行ったとしても、彼女たちが追ってくれば戦場が混乱するだけだ。

 ちらり、と共闘する銀の騎士の様子を確認する。

 何かしらの術を受けたのか、膝を突いて動かないリリアナと静かに佇むルスカがいる。あちらに援護に行ったほうがいいのだろうが、目の前の女騎士がそれを易々とは許さないだろう。となれば、晶もまた切り札を使う必要がある。

「それでは行きます」

 宣言と共にクロティルドが晶に向かって駆け出した。

 晶を斬り裂くために調整を施した刃を輝かせて――――

「舐めないで、ください!」

 クロティルドが放つ銀色の輝きを押し潰さんばかりに放出されたのは泥のような漆黒の闇。輝きなど皆無。晶の身体の内側から滾々と湧き出るあらゆる光を飲み込まんとする黒の奔流である。それが、晶の周囲に絡みついたかと思うと、その全身を隈なく覆った大鎧となる。

 さらにその背後に立ち上がるのは巨大な鬼の上半身であった。

 膨れ上がった筋肉と二本の角、振り乱した長く濡れた髪、太い腕には金棒が握られている。

「魔物の召喚? いや、魔物と繋がっている?」

 初めて見る光景にクロティルドは動転する。

 純粋な人間ではないと思っていたが、まさかここまでとは思いもよらなかったからである。

「墜ちろ!」

 晶が叫び、大鬼が金棒を振り下ろす。

 クロティルドがこれを受け止めるのはさすがに不可能だ。猛禽のような身のこなしで鬼の金棒を躱し、脚力を最大強化、一歩で晶の懐に飛び込む。恐るべき足捌きである。晶の意識の切れ目を狙った踏み込み、そして首を目掛けた斬撃。それを、晶は左手の籠手で受け止める。呪力の鎧が、クロティルドの刃を完全に弾き返した。

「おあああああああああああああああ!!」 

 晶が神槍を振るう。

 横凪の一閃は、あたかも丸太を振り回したかのような破壊力。クロティルドは後ろに跳んで勢いを受け流したものの、身体の芯に来る一撃だったと認めざるを得なかった。

 ――――化物ですね。

 少女の姿をしたナニカ。

 もはや、あれを人と思うのは止めにしよう。そうでなければ、クロティルドは致命的な敗北を喫することになるだろう。技量云々ではなく、存在の格そのものが別。『まつろわぬ神』ほどではないにしても、高位の神獣に匹敵する怪物として処理すべき相手である、と認識を改める。

 クロティルドの空気が変わったことを察した晶は、背後のリリアナを気にかけつつ闇色の狼を二十匹ほど生み出してクロティルドに向かわせた。あからさまな時間稼ぎ。しかし、城壁の上は一本道で複数の獣が群れを成せば進路を塞ぐことくらいは可能である。クロティルドが距離を取った好機を見逃さず、晶はリリアナの元に一息に移動する。

 一目見て、リリアナが倒されていると思った。

 何せ倒れ伏してピクリとも動かないのだ。生きているが、かなり強力な呪詛を受けたらしい。対峙した魔女がそれほどの猛者だったのか。

 ルスカの頭上を飛び越えて、リリアナの傍に着地した晶は若雷神の化身とクシナダヒメの権能を利用してリリアナの身体に豊穣の呪力を注ぎ込んだ。

 大地の神に連なる権能は魔女との相性もいい。

 リリアナ自身も護身の術で呪詛に抵抗していたこともあって、すぐに血色を取り戻して起き上がる。

「高橋晶か」

「大丈夫ですか、リリアナさん」

「――――ああ、すまない。世話になった」

 リリアナは身体の状況を確認しつつ、イル・マエストロを拾い上げた。

「リリアナさん、あの方は……」

 晶が見つめる先にいるのはリリアナを倒したルスカである。

 先ほどから一言も発さず、佇んでいる。

 それもそのはず。今のルスカは瞳の色を失い、寝ぼけ眼で虚空を眺めているのだから。

「イル・マエストロは音を奏でて相手を幻惑する魔曲を生み出す。上手く決まってくれたらしいな」

 リリアナはほっとしたように言った。

 敵の影人形に囚われ、意識を奪われる直前に取り落とした愛剣には、相手を幻惑する術式を発動するように事前に仕込みをしてあった。刀身が地面に触れて、金属音を発したとき、それがそのまま呪術となってルスカを拘束したのである。

 リリアナは敗北したわけではなく、相打ちの状態に持ち込んでいたのであった。

「ルスカ!」

 呆然と立ち尽くすルスカに晶の狼を始末したクロティルドが駆け寄ってきた。

 クロティルドはルスカの背中に指を突き立て、呪力を送り込んだ。ルーンの一種であろう。晶にもリリアナにも詳しくは分からないが、それがリリアナの幻惑を解除し、ルスカを正気に戻したのである。

「く……クロティルド……?」

「怪我は? 相手の術に囚われていたみたいですが」

 それを聞いてルスカは初めて自分が幻惑されていたことに気付いたらしい。悔しそうに顔を歪めてリリアナを見た。

「そう、やったはずがやられてたんだ。その剣だね」

「わたしもあなたにはしてやられましたから、おあいこでしょう」

 戦は振り出しに戻った。

 初期と同じ位置関係に戻った二組の女たち。

 直接的な戦闘能力自体は晶という規格外を有する草薙陣営に軍配が上がる。しかし、ウルディンの陣営は巧みの技があり戦術面で晶たちを凌駕できる。おまけに、クロティルドたちの目的は主の戦いの邪魔をさせないことであり、晶たちの目的は主の加勢なのだから、現時点ではクロティルドたちが大局的には優位に立っていると言えるであろう。

 空から冷たい雨が降ってきた。

 ウルディンが嵐の権能で呼び寄せた雨雲が遂に決壊したのである。スコールのような大雨が視界を無数の線で斬り裂いていく中で、四人の睨み合いは尚も続く。主人の戦いが決着するそのときまで――――。



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古代編 14

 降り落ちる太陽も挟撃してくる爪も、護堂には届かない。

 それがたとえ数多くの命を灰にする灼熱であったとしても意味を成さず、鋼鉄を引き裂く刃であっても無意味である。

 黄金の剣は敵の神力を斬り裂く言霊だ。

 ルドラとウシュムガルに対応した言霊を前にしては、ルドラの炎もウシュムガルの神獣もそよ風ほどの影響ですら護堂には届けられない。

 しかし、手数の多さはウルディンに分があった。

 切り札と成りうるウルスラグナの権能ではあるが、無限に黄金の剣を生み出せるわけではない。二柱分に分割しているために、その性能も普段に比べれば型落ちしているのが現状で、鉄壁の布陣は常にジリジリと押し込まれている。

 黄金の剣は、最強の楯であり最強の防壁である。しかし、攻防一体の武器であってもすべての『剣』を守りに割いている今、攻撃に転用するだけのリソースがないのである。

 言霊の剣の輝きは依然として顕在。

 しかし、その数は目に見えて減ってきている。

「お前の守りは完璧ではあるが、それも数に制限があるようだな。――――その上を行く何かがないのなら、このまま俺が勝つぞ?」

 ウルディンが、それに気付かぬはずがない。

 護堂がウルディンを攻略するために力を振り絞っているのと同じようにウルディンもまた護堂を攻略するために知恵を絞っている。

 考え無しに攻撃を放っているように見えて、その実護堂の能力の欠点を正しく感じ取っているのだ。

 権能における万能性は、器用貧乏に言い換えられる。結局、その道を突き詰めたタイプの権能には劣るため、別の要素で補うという形になってしまうのだ。万能系の権能は相手の土俵に上がった時点で勝てない。ウルディンのように、火力で敵を薙ぎ払うタイプのカンピオーネを相手にして受けに回るのは、余計に勢い付かせるだけなのである。となれば、何としてでもウルディンを守勢に回らせる必要が出てくる。言霊の剣で作り出したシェルターに閉じ篭っている護堂がこの状況をひっくり返すには、ウルディンの虚を突く手札を切らなければならない。

 空を見る。

 ウルディンが呼び寄せた雨雲が、ついに決壊して豪雨を降らせ始めた。

 燃え立つ太陽が地上に花と咲き、降り注ぐ雨が蒸発してところどころに白い蒸気を吹き上げさせている。

 護堂はワイシャツのボタンを外して前を開け放つ。

 濡れたワイシャツが張り付いて動きにくくなっていたからだ。

「勝つのは俺だぞ、ウルディン」

 護堂からすればそれは天恵だった。

 豪雨という気象条件は、ウルディンに利するところがなくとも護堂には大いに役に立つ。

 伏雷神の化身――――汎用性の高い神速の能力は、大気中に水分が多量に含まれていなければ発動できない。しかし、この土砂降りの状況ならば一瞬でウルディンのいるところまで移動することができる。

「雷雲に潜みし、疾くかける稲妻よ。集い来たりて我が足となれ!」

 時間の流れが停滞する。

 無数の線を網膜に刻み込んでいた雨粒は水滴の姿を曝し、炎も竜もその動きを止める。

 時間が静止した中で、護堂は全身を雷光に変化させて飛び上がった。まさしく閃電の移動速度で以て空間を擬似的に跳躍し、ウルディンの後背を取る。止まった敵の背後を取るなど、子どもできる楽な仕事だと思うかもしれないが、相手がカンピオーネや『まつろわぬ神』ともなると制止しているはずの世界に素で対応しかねない。事実、護堂が放つ雷光の煌きを、ウルディンは僅かに遅れて認識している。無論、護堂がその手に握る黄金に輝く星を凝縮した利剣とその危険性を把握していることだろう。

 神速はアドバンテージを握るには便利だが、決して必殺にはなりえない。

 正しく理解し、しかし護堂は思い切り剣を振り抜く。

 狙うはルドラの権能だ。

 大火力、広範囲攻撃はそれだけで脅威だ。ウルディンが好んで使うだけに、加減も自由で使い勝手がいいと反則的な強さを誇っている。

「ぬおおおおおおおおおおおお!?」

 叫んだのはどちらだったのか。

 ウルディンは竜から身を投げ出すようにして身体を引いた。

 許すまじ、と護堂は腕を伸ばすも、ウルディンは生存本能を最大限に活かして護堂の剣の射程から逃れてしまった。

 彼からすれば間一髪、護堂からすれば絶好の機会を逃したことになる。

 神速の状態で相手に打撃を喰らわせるのは、実はかなり難しい。相手は制止しているに近い状態ではあるが、自分の身体は早すぎる。思っていたところを通り過ぎてしまうといった現象も珍しくない。細かい動きができない以上は、大雑把に狙いをつけるしかないのだ。

 相手が巨体を誇る『まつろわぬ神』や神獣であれば余裕で当てられただろうが、ウルディンは護堂と同じくらいの体格だ。全力で回避されては狙いがずれるのも当然と言える。

「惜しかったな兄弟」

 にやりと笑うウルディンの鏃が護堂の胸を狙っている。かくかくとした動きは、まさしく神速破りの心眼の発露に相違ない。

 護堂が神速の権能を有していることは最初の邂逅の時点でウルディンは理解していたのだ。ならば、護堂の神速は決して不意打ちには成り得ず――――そもそもウルディンがこの時を狙っていたという可能性すらあり、逆に窮地に陥ったといっても過言ではないのではないだろうか。

 ウルディンの骨ばった指が弦を離す間際、ウルディン以上に獰猛な顔つきで護堂は笑った。

「惜しかったな、ウルディン」

「ッ!?」

 気付いた、が時すでに遅し、だ。

 ウルスラグナの『剣』は、決して手に持つ必要はないのだということをウルディンは失念していた。護堂が、さも必殺を期して刃を携えていたものだから、そこにすべてを注力したものと早合点したのだ。

 護堂に遅れること、僅かに五秒弱。

 ウルディンの背後から飛来した黄金に輝く二挺の短剣が、彼の筋肉質な背中に突き立った。

「ぐ、ぬおおおおおおおおおおお!!」

 ウルディンは目を見開き、吼える。その身体の中のルドラの権能をズタズタに引き裂く英雄神の刃は根性でどうこうなるものではない。

 ルドラの権能は停止を余儀なくされる。

 これだけでも、ウルディンの火力は大幅に減少する。

「ま、だだあああああああああああ!」

 ウルディンは弓弦から手を離す。

 ルドラの権能が完全に消失する前、雷光の矢を射出したのである。

「な……!?」

 驚くのも無理はない。

 黄金の剣を当てていながら、その権能を行使したのだ。しかし、よくよく考えてみれば、ウルスラグナの『剣』はウシュムガルに対応するために一部の機能を劣化させており、さらに度重なるウルディンの猛攻を凌ぐために刃はかなり欠損している。ウルディンが咄嗟に呪力を高めてウルスラグナの権能に抵抗したこともあり、体内を巡るルドラ殺しの毒を若干弱めた、あるいは遅らせたと考えることもできる。いずれにしても射出されたルドラの矢は、その一矢で護堂を殺戮するには十分な威力があった。護堂がウルディンに対してルドラ殺しの一手を用意していたのと同様にウルディンもまた、護堂に対して必殺となる矢を準備していたのである。

 ウルスラグナの権能は品切れだ。

 目前に迫る雷の矢は神速の域に達している。雷なのだから当然か。護堂自身が雷になっていなかったら対応することすら困難だったに違いない。

 これが太陽だったのなら黒雷神の化身で防げたかもしれないが、ウルディンは太陽への防御性能を見切っていたのか、それとも神速対策のためか雷の矢を選択していた。これでは黒雷神の化身の効果は弱まってしまい貫かれる可能性が高い。

「こんのォ!!」

 護堂は呪力を練り上げて一目連の権能で楯を生み出す。一つではなく、咄嗟に生み出せるだけ生み出して重ね合わせる。

 十三枚の神具が折り重なり、鈍く輝く防壁を造り出す。

 しかし、あまりにも乱暴に作ったためか組成が荒い。込められた呪力も弱く、ウルディンが溜め込んだ呪力を炸裂させる雷撃の矢を受け止めるには防御力が足りなかった。

 最初の接触で三枚が消し飛んだ。

 四枚目で僅かに矢を受け止め、五枚目で速度を鈍らせることに成功する。

 だが、それでも雷光は止まらない。

 受けきれない。

 十三枚の神具を貫いた雷光は、そのまま護堂を巻き込んで遙か下方へ墜ちる。墜ちた天使が天下るかのように、地上に災厄を撒き散らすのだ。

 常人の目から見れば、落雷により、ほぼ一瞬で積層防壁が破壊され、大地に断層が穿たれたように見えただろう。

 神速を見切ることのできる人間であれば、その一撃が矢であったということくらいは認識できたかもしれない。

 いずれにしても護堂の守りはウルディンの悪あがきによって突破された。

 粉塵が濛々と舞い上がり、地響きは数十キロ先まで届いたという。

「チィ……しぶといな」

 ウルディンは額に冷や汗を貼り付けながら呟いた。

 驚愕と納得が綯い交ぜになった表情。

 草薙護堂が生きていたことについては、それ以上の感慨は浮かばない。神殺しならば生きていて当然なのだから。

「悪あがきってレベルじゃないだろ、これは……」

 肩膝を突き、左腕を押さえる護堂はウルディンから視線を逸らさずにその一撃の被害を感じ取った。

 周囲の呪力が乱れきっている。ウルディンの攻撃は文字通り必殺を意図したもので、それゆえにその一矢で以て神すら討ち取れる規模の攻撃を放ったのだから、無防備な地上が破壊されつくすのも無理はない。不幸中の幸いだったのは、ここが開けた平原だったということくらいだ。

 神速によって直撃を避けた護堂は、しかしその余波を受けて深刻なダメージを負っていた。

 若雷神の化身の力で重傷は忽ちにして癒えたものの、疲労までは消えない。

「加減を知れよ、乱暴だな」

「今のを生き残った兄弟に加減などできるものかよ」

 騎乗する竜が舞い降りてくる。

 カンピオーネの聴覚ならば、叫ばなくとも普通に声が届く距離――――ざっと、十五、六メートルほどだろうか。

 左腕の機能は回復した。衝撃で打ちのめされた臓器も快調に機能しているし、身体の痛みもない。表面上は血に濡れているものの、内面は無傷の状態まで戻っている。それでも、失った呪力までは取り戻せない。

「ルドラは斬った。これで、あんたの火力は抑え込んだぞ」

「ふん、この程度、どうってことはないがな。侮ってくれるなよ、兄弟」

 互いに笑みを浮かべ合う。

 ウルディンはルドラを失い、護堂はウルスラグナを失った。両者共に怪我はなく、内面に多大な疲労が積み重なっただけの状態だ。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

「竜よ。恐怖と焔の冠を被り、神となれ!」

 詠唱はほぼ同時。

 現れたのは無数の剣とそれと竜の群れだ。十五メートル前後という極めて近距離での剣群と竜群の大激突。雨霰と降り注ぐ刃にデイノニクスたちが打ち据えられる。血飛沫が舞い、断末魔の悲鳴が上がる。

 それと同じように、剣群が蹴散らされる。

 ある固体は身体を刺し貫かれながらも前進し、護堂に迫る。そらが打ち倒されるとその後続が前に出る。竜は主を庇いつつ、全体として漸進している。

 そのうち、亡骸を楯にするという戦術まで使い始める。

 竜の頭ではなく、狡猾なウルディンが指示していることだ。司令塔がいる巨獣を相手にするのは、ただの神獣を相手にするのとは勝手が違う。

 背後に飛ぶべきか。

 伏雷神の化身ならばすぐにでも距離を取ることはできるだろう。だが、そのときはウルディンがさらに攻勢に出てしまうだろう。

 であれば、護堂もまた別の手札で相対するべきなのだ。

「陰陽の神技を具現せよ。鬼道を行き、悪鬼を以て名を高めん!」

 ぞわり、と護堂の周囲の闇が濃さを増した。

 影が厚みを帯びる。そんなありえない光景が目の前で生じた。

 現れたのは大鎧を身に纏った武者たちだ。地の底から蘇った怨霊――――を髣髴させる影の魔物。実体の掴めない、黒い陽炎を纏った鬼であった。

「ほう……」

 手を変えた護堂にウルディンは興味を抱いたような声を漏らす。

「兄弟も軍勢を従えていたとはな! いいだろう、どちらの兵が強力か試してみるか!」

 尚一層楽しそうに、ウルディンは笑って呪力を高めた。

「行け!」

 護堂は鬼に命じて一斉に突撃させる。長槍や薙刀を持つ長柄武器を持つ中型の鬼が三列になって敵の最前列を牽制しつつ、小回りの利く小型の鬼が下から竜の足元を狙う。そして後列に配した弓兵の一斉射撃が弧を描いて竜の頭上に降りかかる。

「しゃらくせえ!」

 ウルディンも負けてはいない。抜いた剣を指揮棒に見立てて竜を鼓舞する。竜たちは矢をその身に受け槍や剣で突かれながらも獅子奮迅し、ある個体は口から雷を、またある個体は火を吹いて応戦する。

 護堂の鬼が竜の首を槍で貫けば、ウルディンの竜は鋭い爪と激しい咆哮(火炎)で鬼の鮮烈を吹き飛ばす。

 小規模ながらも高密度の異次元の戦争を具現化しているかのようだ。

 さて、どうするか。

 法道の権能は無数の鬼を召喚、使役するのが基本的な使い方だ。式神と晶は呼んでいたが、当然ながらその個々の力にはばらつきがあり、数が多ければ多いほど劣化していく。消費する呪力量も多くなるので、ほどほどの軍勢に抑えるのが一番だが、ウルディンはどうなのか。数を減らし質で勝負するか、それとも質を犠牲にして数で押し切るか。

 空から襲い掛かってくる五匹の竜を視認して、護堂は質で勝負することに決めた。

 軍勢の後列を消し、その分の呪力を一体の式神を造り上げることに注ぎ込む。

 現れたのは二〇メートルに届かんばかりの巨躯を持った大鎧。兜に備え付けられた前楯は二股に分かれた角を思わせる。

 丸太もかくやとばかりの太い腕と握りこまれた金棒が轟然と空気を撹拌する。

 その一撃で五匹の翼竜は身体の大半を吹き飛ばされて砕け散った。

「でかぶつを呼んだか」

 魔獣というよりももはや神獣。神と殴り合いができそうなほどの怪物である。振り上げる金棒。その重さは大型のトラックを易々を上回るほどのものであろう。この鬼の筋力で振り下ろされれば、神殺しの屈強な肉体と雖も無事ではすまない。

「ならば、こちらも相応の相手を用意しなければな!」

 ウルディンがぴゅう、と指笛を吹く。

 忽ちに竜たちが寄り添い、その姿を溶かして混ざり合う。融合しているのだ。誕生したのは護堂の大型式神と同等の大きさの赤い魔竜だった。

 竜神と呼ぶべきだろうか。

 その威容、まさに破壊的というに相応しい。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 大音響の咆哮を轟かせ、魔竜は大鎧に飛び掛る。

 凄まじい跳躍力で大鎧の胸にドロップキックを浴びせかけるのだ。その足には、やはり巨大化した鉤爪がしっかりと装備されている。

 大鎧は受けて立つとばかりに金棒を振り抜く。

 鋭い爪と無骨な金棒が激突して火花と衝撃波を散らせる。それだけで、周囲で戦っていたその他の式神や竜は吹き飛ばされることとなった。

「くっそ、強いな」

 護堂の視線の先ではウルディンの魔竜が護堂の式神を圧倒し始めている光景が展開されている。

 固く強靭な鱗は式神の金棒を受け止める。無論、無傷とはいかないが、それでもダメージをかなり削減しているのだろう。その一方で、式神の鎧は魔竜の蹴りで砕かれ、爪で引き裂かれている。

 単純に、熟達しているかそうでないかの差。

 法道の権能を、護堂は完全に掌握しきっていないのだ。ウルディンはウシュムガルの権能を意のままに操れるほど熟達しているらしい。同じ土俵で戦ったとき、この差は非常に大きくなる。

「だったら――――!」

 超巨大デイノニクスが飛び掛ってくるその瞬間を狙い済まして、護堂は式神に命令を送った。

 身体を楯にして受け止めろ、と。

 命なき呪力の塊である式神はこの非情な命令に唯々諾々と従った。両腕を大きく開き、デイノニクスの一撃を受け入れるのだ。

 結果、鋭い爪が鎧の胴部を刺し貫き、その背中まで足が貫通するほどの重傷を負うに至ったが、同時に両腕でデイノニクスを締め上げるようにして拘束することに成功する。

 消滅するまでの僅かな時間を使い、護堂の反撃に賭ける。

「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ、大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」

 用いる化身は大雷神の化身。

 右手に集う雷は熱き魔風。

 解き放たれる電熱が激しい光を生じさせ、一直線にデイノニクスに向かっていく。

 素早く青白い雷撃で赤い魔竜の頭部を消し飛ばすのだ。

 遂に崩れ落ちる巨大竜。

 その死を見届け、消え去る大鎧。

 怪獣大戦争かと思しき激突は、閃光によって駆逐された夜闇が戻ってきたときには終わりを告げていた。

「とことんまでしぶといな兄弟。アイツは俺の自信作だってのによ」

「権能二つ分費やして倒してやったんだから誇ってくれてもいいんだぞ」

「まあ、確かにな」

 ウルディンも護堂も肩で息をしている。

 直接的なダメージというよりも大技の連発による体力と呪力の消耗が大きいのだ。

「これ以上、時間をかけるのも無駄が多すぎる。そろそろ決着を付けたいところだな」

「同感だな」

 ウルディンの言葉に頷く護堂。

 二人の魔王の激突で、この辺り一帯は地獄絵図と化している。地割れ、焦土、そして竜の死骸の山。それらが視界一杯に広がっているのだ。

 そして、ウルディンは宣言の通りに勝負を賭けにきた。

 右手を高く天に翳し、叫ぶ。

「我が下に来たれ、勝利の剣よ! この手にお前が在る限り、俺はいかなる戦場でも勝利する!」

 ウルディンが翳した手に引き寄せられるかのように、どこからともなく現れる一挺の長剣があった。

 質素な作りの両刃の剣ではあるば、内包する呪力はまさしく神宝というに相応しいものである。さらに、それに続いて空から降ってきたのは天を突く矢印のルーンだった。

 それが大量に。

 何かと思っているうちに目を見張る光景が現れる。

 ルーンが竜の骸に取り付いたかと思うと、次の瞬間には倒れた竜が起き上がったではないか。

「復活の権能?」

「おうよ。我が切り札ってところだな。それ、アイツも起きるぞ」

「ッ」

 一際大きな地鳴りを響かせ立ち上がったのは赤い巨竜。先ほど、護堂が大火力で吹き飛ばした頭部もすっかり再生し、リベンジにその双眸を燃やしている。

「マジか。それは反則だな」

 この戦いでウルディンが操ったすべての竜が集結しているのだろうか。大小合わせて百を越えるデイノニクスの群れだ。

 昔のパニック映画がまさにこんな感じだった。

 悲鳴を上げて逃げ回る無力な人間と同じ立場に立たされた護堂は、文字通りに窮地に陥っているわけだ。

 竜の群れが護堂を相手に呪力を練り上げ始めた。

 口から数え切れないほどの雷撃と炎を放つのに時間はかからず、護堂には逃げ場もないという状況だ。素早く雷光に変化して地中に逃れた護堂は、一息で一〇〇メートル近くも距離を取る。

 竜の群れの側面を取る位置。しかし、ウルディンはすでにこちらの居場所を認識しているし、敵のデイノニクスは機微な動きで対応するだろう。

 一〇〇メートルを駆け抜けるのに、彼らならば五秒とかからないはず。それまでに、護堂が有する最大の一撃を叩き込むことで形勢を逆転する。

「千の竜と千の蛇よ。今こそ集まり、剣となれ!」

 右手に宿る天叢雲剣に呼びかける。

 真っ黒な刀身を持つ、禍々しい神剣は創世神話を再現する鍵となる。

 徐に降りぬいた斬撃が斬り裂くのは敵にあらず。

 呪力の猛りは空で炸裂し、光を許さぬ黒き星を呼び覚ます。

「何ッ!?」

 ウルディンはその強大な力に逸早く気づいたらしい。

 呪力を高めて己の乗騎の抵抗力を底上げし、地面に張り付かせる。しかし、ウルディンが抵抗できたのはそこまでだった。小さなデイノニクスは次々と黒い星に吸い上げられて消滅していく。大型の赤い竜が消えるのも時間の問題だった。

「く、相変わらず、じゃじゃ馬だな!」

 護堂もこの権能の扱いには苦慮する。

 力が強大なために、制御に細心の注意を要するのだ。一歩間違えば自分ごと周囲の大地を消し飛ばしてしまう。

「しゃーねえな! やれ!」

 ウルディンが赤い竜に命令すると、赤い竜は黒い星に向かって跳躍したではないか。さらに、その口内には自身の呪力を限界まで注ぎ込んだ雷撃が溜め込まれている。

「まさか……!」

 護堂はウルディンの目的を察した。 

 察した上で止めようがなかった。

 重力に抗わず、空に墜ちていく赤きデイノニクスは漆黒の重力星に向けて自分の身体すらもエネルギーに変えた特大の雷撃を打ち放つ。

 瞬間、世界に光が満ち満ちた。

 真昼のように明るくなった大地を、ウルディンの乗るデイノニクスが疾走する。

 赤き巨竜を捨石にして、重力星の影響を最小限にまで低下させたのだ。今現在も重力星は赤いデイノニクスを破壊するのに梃子摺っている。その影響で、重力の手が地上まで届いていないのだ。

 ウルディンは竜の背中に跨り、テュールの剣を掲げる。

「決着だ、兄弟! ――――最強の刃たれ、我が勝利の剣よ!」

「やるぞ、天叢雲剣! ――――鋭く、速き雷よ! 我が敵を切り刻み、罪障を払え!」

 手の中の天叢雲剣に呼びかけ、咲雷神の化身を聖句を唱える。

 周囲は平原で咲雷神の化身の生け贄にできるものはない。しかし、この火雷大神の権能を掌握した今、生け贄がなくとも、その力の一部を抽出することはできるのだ。

 天叢雲剣に雷の斬撃を纏わせる。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 飛び掛ってくるデイノニクスを爪ごと両断する。

 まるでバターのように、その竜は真っ二つに切断される。

「もらったあああああああああああああああ!」

「こんのおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 護堂がデイノニクスを斬り裂く前にウルディンは空中に身を投げていた。

 落下の衝撃を加味した大振りの上段切りが護堂を襲う。避けるだけの体力は残っていない。後はこの手に宿る神剣に託すのみ。

 振り下ろされる白銀の剣と斬り上げられる漆黒の雷刀が激突する。

 二人の神殺しが最後の一撃にかけた呪力が炸裂し、空間を揺るがす衝撃波となって大地を駆け抜けていった。




いつの間にか3年目。
ありがとうございます。
3年前といえば、記憶が正しければfate/zeroとかガルパンとかジョジョとかで盛り上がっていたはず。


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古代編 15

 ウルディンとの戦いから丸一日。

 護堂は麗らかな日差しの下で目を覚ました。

 戦いで傷ついた身体はすでにない。すっかり元通りに再生している。《蛇》の再生能力は役に立ってばかりである。右手を開いて握る。確認作業をそれとなくこなし、身体に問題がないことを実証してから床に下りた。

 今、何時なのだろうか。

 時計がないので分かりにくい。

 未来から持ち込んだ時計は正しく時を刻んではいるが、これで分かるのはどれくらい時間が経ったかであって、今が何時になるのかということではない。二十一世紀から五世紀初頭のガリアに来た際に、同時刻に移動した保証はなく、畢竟、腕時計そのものが示す時刻と実際の時刻とで大きなずれが発生している。

「先輩、目が覚めましたか」

 ノックの後に入ってきた晶が言う。

「ああ、おはよう、晶」

「はい、おはようございます」

 小さく礼をした晶の手には三つの取っ手がついた壷(ヒュドリア)があった。中には水がたっぷりと入っていて、ちゃぷちゃぷと音がする。

 女子が手に持って運ぶにはあまりにも重いものではあるが晶はこれを苦もなく持ち上げて運ぶことができる。人ならざる膂力の持ち主であるため、成人男性でも持ち上がらない重さの物体を平然と運ぶくらい訳ないのである。その点、水の入ったヒュドリア程度、まだ常識の範囲内だ。

「お水です。使いますよね」

「ああ、ありがとう。気が利くな」

「え、あ、と、当然のことをしたまでです」

 急に護堂に誉められたものだから、どもってしまう。

 思えば面と向かって相手を誉めるような一言を護堂が発するのは珍しいのではないか。それを思うと嬉しくなってしまう。単純ではあるが、それが晶の長所であり短所であった。自分ではどうすることもできないし、どうにかしようとも思わないので、きっとずっとこのままだ。彼の一挙手一投足に喜んだり、悲しんだりするのだろう。

「ところで、先輩。身体の具合はどうでしょうか。どこか、悪いところでもありませんか?」

「大丈夫だ。若雷が効いてくれたしな。何も問題ない。今から一試合しろって言われても、大丈夫なくらいだ」

 一試合とは、サッカーのことである。もともとサッカーをしていた護堂だから、こうした明言せずともそこにはサッカーであるという前提が入り込む。晶はそれを共通認識としているから、何がと言わずとも分かる。

「まあ、今更俺の身体の心配しても意味ないだろ?」

「そんなこと、ないですよ」

 晶は言う。

 確かに護堂の言う通りではあるのだ。かつて、目の前で心臓を抜かれたときはさすがにダメだと思ったが、護堂はそれでも復活した。ならば、重傷ではあっても重体とまではいかなかった昨夜の戦いでの負傷など、負傷のうちには入らない。

「ところで、おはようとは言ったケド、今は朝なのか?」

「お昼前ですね。十一時ごろになります。さっき、水時計を見てきましたから」

「そうか。この時代に来てから時間の感覚が曖昧なんだよな。ぱっと時間を確認できないから」

「腕時計とか携帯とか、やっぱり便利だって思いますよね」

「普段はそんなこと、考えもしなかったんだけどな」

 失くして分かる大切さがあるという。腕時計も携帯電話もあって当たり前のものだ。多くの日本人にとって、この二つが存在しない世界というのはまずありえない。朝起きて、すぐに手元で時間を確認できるというのがどれほど自分の一日に於いて重要であるか。護堂は、このガリアでの旅の中でしっかりと体感した。幸いにして、時間に追われる旅ではない。寝過ごしたとしても何の問題もないのだが、それはそれ。一日を始める上で、時刻の確認は非常に重要なのだ。

「あ、それとご飯はリリアナさんが用意してくださるそうです」

「へえ、リリアナが」

「まあ、わたしも、そこそこに料理はできますけど」

「知ってるよ。晶の料理も、今度食べさせてもらいたいよ」

「え、あ、はい。それはもう、いつでも言ってください」

 にこやかに晶は答える。

 晶が料理ができることは護堂も知っている。

 外食よりもお金がかからないからと一人暮らしの涙ぐましい努力があったが、最近では鹿児島の実家から仕送りがあるらしく、料理をする目的は大きく変わってきている。

 話をすれば、なんとやら。リリアナがやってきて、料理が完成したことを告げる。

「時間を考えれば、昼食と言ったほうがいいのでしょうが」

「そうだろうな。すまない。俺がもっと早く起きていればよかったな」

「いいえ。護堂さんはウルディン様とあれほど激しく戦ったばかり。カンピオーネとはいえ休息は必要ですから、大いに休み、そして大いに食べてくださればいいのです」

「そんな自堕落すぎやしないか、その表現は」

「いつでも戦えるように英気を養うのも戦士の務めなのです。もちろん、争いはないに越したことはありませんが……」

「カンピオーネに平和はありませんからね。先輩のこの一年を見ると特にそう思います」

 リリアナの言葉を晶が続ける。

「それは、言わずもがなで諦めてはいるけどな」

 平和主義など口が避けても言えないくらいの戦いを護堂は経験してきた。その過程で、いろいろと壊してしまったり、迷惑をかけたりしたところは多々ある。

「そう、それと。今後の話を食事をしながらしたいのですが」

「そうだな。そうしよう」

 リリアナの提案に護堂は頷いた。

 アイーシャと繋がりを得た護堂は、このまま現代に帰還するという手もなくはない。しかし、依然としてサルバトーレが行方知れずであることを考えると、彼を残したまま現代に帰還するのは嫌な予感しかしないのだ。

 護堂は、リリアナと晶と共に部屋を出て食堂(トリクリニウム)に向かう。

 二十一世紀の日本人からすれば異様な光景にも見えるだろう。

 部屋の中央にあるラウンドテーブルの三方を長椅子が取り囲んでいる。それだけならば、まだ普通であるが、その長椅子は頭を乗せるでっぱりがあるのだ。ローマの人々は、この長椅子に寝転がりながら食事を摂るのが正式な作法であるらしい。しかも、上流階級では満腹になると喉に指を差し入れて胃の内容物を戻し、それから食事に戻るという。千五百年後の人々からすれば、おかしいと口を揃えて言いたくなるような食習慣である。もっとも、常にそうした食事をしていたわけではなく、簡易的に座って食べたりもしているようだが、正式には寝て食事を摂るらしい。

 もちろん、護堂たちはそのような食事の仕方はしない。結果、護堂たちは食事時は三人で過ごすことになるのだ。

「うん、この肉美味いな。なんだ?」

 護堂は、真っ先に口を付けた肉料理についてリリアナに尋ねた。

「これは、野兎の肩肉を使ったステーキですね。献上品の中にあったので、使ってみました」

「野兎? へえ、初めてだ」

「兎食べてたんですね、ローマ人」

 護堂は感心し、晶もこくこくと頷きながら野兎の肉を咀嚼する。

 正確にはガリアに近い土地ではあるが、ローマな都市である。文化的にもローマ化しているのは間違いない。

「ローマの人々は驚くほどに多様な食文化を持っていますから。牛肉はまだ一般的ではありませんが、豚や猪、兎や鶏などを育てて食べていたようです」

「五世紀だよな、ここ」

「日本じゃ考えられませんよね」

 記憶を遡ってみても、五世紀の日本について学校で学んだ記憶はほとんどない。日本史的には古墳時代に該当する頃ではあるが資料も乏しい。記紀神話すらまだ先の時代であり、史実と伝説が入り混じる時代でもあった。そろそろ雄略天皇が登場する時代かという頃であり、日本史の中でも初期であると言っても過言ではあるまい。

「小学生の頃は、平安時代ですら大昔って感じだったんだけどな」

「世界史的には新しい部類ですよ。だって、中世なんですから」

「なあ」

 日本人二人が日本史と世界史を比較して話をする。リリアナは中々会話に入れない。日本好きではあるが、日本史をどこまで把握しているかというとそれほどでもないのだ。得意なのは侍の時代であって古代史は注目したこともない。

「それで、護堂さん。これからのことですが」

 強引にリリアナは会話の流れを変える。

「これから、な。ウルディンはあの後から動きはないんだろ?」

「はい。護堂さんと共倒れになった後で、お供の二人に連れて行かれましたので」

 護堂とウルディンの戦いは決着がつかずダブルノックダウンで終わった。護堂もウルディンも共に意識があったにも関わらず、身動きができない状態だった。事ここに至って優位にあったのは、アイーシャを仲間にしている護堂であり、ウルディンのほうもそれが分からないほど馬鹿ではない。素直に撤退していった。

「勝った、とはいえないなあ」

「戦略的には勝利ですよ。ウルディン様はアウグスタ・ラウリカ(この街)を手に入れられず、護堂さんは守り通したのですから」

「ああ、まあそうなんだけどな」

 護堂は目的を果たし、ウルディンは失敗した。その一点で見れば、確かに護堂の勝利ではあるのだろう。実際の殴り合いで互角だった上に勝利条件では護堂が有利だったので、そのまま喜ぶことはないが。

「ウルディンだって、死んでないならもう回復しているだろうしな。昨日の今日で攻めてくるってことはないだろうけど」

「呪力の回復には相応の時間がかかるもの。数日は間を置くのではないですか?」

「ウルディンに回復とか再生とかって権能がなければ、しばらくは様子見に徹してくれるかもな」

 如何にカンピオーネの回復力が尋常ではないものだったとしても、呪力を完全回復するにはそれなりの時を要する。護堂もウルディンも呪力はすっからかんになるまで戦い抜いた。護堂の場合は、回復系の権能のおかげもありそれなりに呪力の回復も早いほうではあるが、同格以上との戦闘を見越すのであれば二、三日は様子を見るべきであろう。そして、それはウルディンも同じ。むしろ、ウルスラグナの言霊によって斬り付けられた彼の消耗は護堂以上であると思われる。失われた神力が取り戻されるまでは、迂闊に動くタイプではないと感じる。

「まずはアイーシャさんだな。ウルディンがあの人に危害を加えないようにしないといけない」

「そうですね。まあ、あの方もカンピオーネですし、ああ見えて歴戦の猛者でもありますからそういう意味では心配はしませんが」

 晶が不安そうな表情を浮かべる。

 確かに、危害を加えられるか否かという点に於いて、アイーシャを心配する必要性は余りない。彼女はウルディンや護堂よりも遙かに長い時間を生きるカンピオーネである。その権能の全貌が明らかになったわけではないが、それでも生き残ることに特化した「厄介」な権能の数々を所持しているはずである。

「サルバトーレがここにいてくれれば、アイツを連れて元の時代に戻るんだけどな」

「問題はそこですね。サルバトーレ卿がこの時代で何をなさるのか……歴史がどのように変化してしまうのか、よく分かっていませんし不安材料ですね」

 時間が無数の可能性から成り立つのであれば、平行世界理論なるもので片付くが、もしも一本道であれば過去の改変が未来に影響することになる。護堂たちは、そういった概念的な歴史については詳しくない。二十一世紀の呪術師であっても時間を解析することなど不可能であり、権能を持っているアイーシャだからこそタイムスリップなどという奇跡を体現できる。

 結局、時間への干渉は奇跡の類だ。専門の権能でも持ってこない限りは、到底解析などできるはずがない。

「とにかく、俺たちが元の時代に戻るのをウルディンが邪魔しないようにはしないとな」

「では、交渉を?」

 リリアナが尋ね、護堂は頷いた。

「するしかない。戦いはもうやったからな。何となくだけど、ウルディンは話が通じないタイプじゃないと思うし」

「ああ、確かにそんな感じでしたね」

 晶がウルディンを思い出して、納得したといった表情を浮かべる。

「戦いを楽しむというよりも、手段の一つと捉えている節は感じました。もちろん、楽しんではいたようですがなんというかこう……」

「戦闘狂という感じではなかったな」

「そう、それです。サルバトーレ卿やヴォバン侯爵とは違った感じです」

 リリアナと晶でウルディンの人となりを言葉に落とし込んでいく。

「フン族を率いる身であるということをきちんと自覚しているようでしたね。高橋晶が言うように、彼にとって戦争は一族を富ませる手段の一つということなのでしょう。フン族は略奪や身代金などで生計を立てていましたから、それが自然なやり方なのでしょうね」

「まあ、五世紀だしな。どこもそんなもんなんだろうけど」

 護堂はため息混じりに言う。

 五世紀ごろのヨーロッパはどこもかしこも殺伐としている。平和などというものは、百年も続くものではないが、この時代はゲルマン人の大移動の真っ只中だ。あと数十年もすれば、南下してきたゲルマン民族との小競り合いに疲弊した西ローマ帝国は滅亡するだろう。ヨーロッパにおける古代と中世の転換期であり、二十一世紀に続く「西洋人」を形成する重要な時期であるといえよう。

 ゲルマン人の大移動の原因の一つであるフン族の指導者こそが、神殺しウルディンだ。権能を使えば、民族の一つや二つ、簡単に根絶やしにできるだろう。ゲルマン人たちが、フン族から逃げるのは当たり前のことのように思える。自分たちの仲間に神殺しがいなければ、抵抗することなどできないからだ。

「世の中に積極的に権能を使っていこうって、俺たちの時代にはいなかったな。ああ、アイーシャさんはあれだけど」

 護堂は同時代に生まれた六人のカンピオーネを思い浮かべる。

 二十一世紀のカンピオーネたちもまた王であり、組織を率いてはいたが、勢力争いなどはしていなかった。部下は便利屋程度の扱いであり、自分たちの組織を肥大化させるために戦うことはしていない。その点、ウルディンはフン族を率いて運営している。戦乱の世に生まれ、自分の戦いだけでなく組織の戦いを経験してきたからだろうか。未来のカンピオーネとはまた異なる思考の持ち主である。そして、組織を運営する王であるのならば、組織にとって利になる話には乗るだろう。筋肉至上主義というか、戦うことを第一とするカンピオーネに比べれば幾分か交渉の余地があるように思う。

 護堂としてはアイーシャが敵の手に墜ちるようなことがなければそれでいい。

 交渉の要件。ウルディンを釣るための餌は、すでに決まっているようなものだろう。

 アイーシャは今も外で元気に活動している。相変わらずの人気振りで、親しくしている護堂が顔も知らない男たちに目の仇にされているらしい。

 アイーシャに今後の予定を伝え、彼女の了承を取ってから本格的にウルディンの砦に乗り込むことにしよう。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 アウグスタ・ラウリカを出た護堂は、リリアナの飛翔術で瞬く間にこの場所まで移動し果せた。本来であれば馬車を使って数日の道のりであるが空を飛べばあっという間だ。さすがは魔女術の中でも最高峰の性能を誇る秘術である。一流の術者ならば、大陸を横断することも不可能ではないという辺り、この呪術が如何に秀でたものであるかが窺えるだろう。

 同伴者はリリアナと晶の二人。この世界に迷い込んだときから変わらないパートナーである。

 わざわざアウグスタ・ラウリカにアイーシャを残してこんなところにまでやって来たのはウルディンとの対話が必要だったからである。

 彼の狙いはアウグスタ・ラウリカとアイーシャ。しかし、護堂はアイーシャがいなければ元の時代には戻れない。ならば、なんとしてでもアイーシャだけはウルディンに奪われるわけにはいかない。もちろん、彼女もまたカンピオーネである。容易く手篭めにされることはありえないが、二十一世紀の世に戻るのに邪魔が入るのはいただけない上に万が一にでもアイーシャの命に危険があっては困るのだ。

「護堂さん、来ました」

「ああ」

 リリアナが小さな声で護堂に忠告する。

 頷く護堂の視線の先に、巨大な翼竜に跨るウルディンの姿があった。

「七日ぶりだな、兄弟。見たところ傷は癒えたようで何よりだぞ」

「俺には回復系の権能もあるからな」

 カンピオーネの非常識なまでの回復力を考えれば、七日という時間は傷を癒すには十分すぎるほどである。

「ふん、なるほどな。兄弟のほうが早く傷が癒えるというのに、俺の傷が癒えるまで待つというのは、争いに来たわけではないという意思表示のつもりか?」

「まあ、病み上がりを攻撃するのは気が咎めるってのもある」

「甘いことだな。俺ならば相手の弱みにはとことん付け込むところだぞ」

「否定しない。けど、あんたとの戦いはもう終わっているだろ。後は落とし所を探るだけだ」

「ハハハ、だろうな。そう来ると思っていたぞ。要するに講和がしたいってことだろ?」

 翼竜の羽ばたきが発生させる風を頬に感じながら護堂はウルディンを見上げる。ウルディンも笑みを浮かべつつも抜かりなくこちらを観察している。彼我の距離は、不意打ちに対応できる絶妙な距離に保たれている。

「いいぜ、乗ってやる。実は俺も兄弟を酒宴に呼ぼうかと思っていたところだったからな。今宵は、朝まで飲み明かすとしようじゃないか」

 

 

 ウルディンの居城は、今までに何度も目にしてきた巨大な石造りの砦である。もともとはローマ軍の支配下にあり、対異民族のための最前線基地であったようだが、それをウルディンが力技で奪取し、自分のものとしてしまったのである。

「まあ、戦略的な拠点てのは必要だろ。フン族(俺たち)がいくら定住地を持たないって言ってもな」

 遊牧民の強さはその機動性にあり、一つの土地に留まる農耕民にとっては天敵とも言うべき存在である。居住地がないというのも厄介で、反抗しようとしても居所が中々掴めないのである。

 ウルディンは砦を利用して擬似的な居住地を生み出してはいるが、それは神獣を育成するのに都合のよい環境だからということが大きいのである。ウルディンの神獣は、この砦の周囲の鬱蒼とした森で育つ。放牧できるものではないのである。

「内装はずいぶんとローマ的だな」

 護堂は砦の中に配置された調度品や像を見て呟く。

「そりゃそうだ。もともとはローマのもんだからな。俺は戦争を仕掛けてこの砦を奪ったわけじゃない。気前よく譲ってもらっただけだからな。モノは前にいた連中のが残ってる」

「脅して奪ったんだろ」

「竜を見せたら、敵わんと思ったんだろう。向こうが譲ると言ったんだ。貰ってやるのが俺の流儀だ」

 何でもないというように言い切るウルディンに、護堂は不快感を抱かなかった。この世界の常識に対して、とやかく言うのはお門違いというものだ。それが、護堂の不利益にならない限りに於いて、極力口出ししない。無論、人命や人の尊厳に関わる行為が目の前で行われていればその限りではないが。

 案内された広間にはすでに長机が用意されていて、宴の準備が着々と進んでいるところだった。

 老若男女、人種すらも異なる人々が忙しなくあちらこちらを行き来している。

「兄弟が突然来たものだから、準備が追いついていない。悪く思うなよ」

「本当に宴会しようって?」

「そう言ったろう。互いに権能を交えて戦った仲じゃねえか。なら、後は酒と飯だ。滅多に会えねえ同族同士、仲良くいこうや」

「大した肝っ玉だな……」

 互いに主張がかみ合わず、殺し合いをした仲だ。それにも関わらず本拠地に招き、酒食を共にしようと言い出す。王の器というものだろうか。それに快く同意してしまう護堂も護堂ではあるが、この辺りの感性が人と違うのだろう。

 護堂は案内された椅子に座ろうとする。そこに、声をかけてくる者がいた。

「ちょっと、待って」

 見覚えがあると思った。日に焼けた褐色の肌の女性は、護堂やウルディンと同じアジア系――――おそらくはフン族の女性であろう。

「どうした、ルスカ。何かあったか?」

 ウルディンはルスカと呼ばれた女性に尋ねる。

「なんか、嫌な感じがする」

「おいおい、唐突だな。客人の前だぞ」

「そう、客。草薙護堂、原因はあんたと後は街の聖女、それからサルバトーレっていう剣使い。遠いところから来た神殺し」

 言葉が途切れ途切れになりながらも、ルスカは唇を震わせるように呟いた。

 祐理の霊視に近い状態だと、護堂には分かった。晶が護堂の袖を引っ張り、ルスカが魔女であると教えてくれる。晶とリリアナが戦ったウルディンのお供のうちの一人だ。道理で見覚えがあるわけだ。

「俺たちが、嫌な感じの原因? どういうことですか?」

「分からない。感覚的なものだから。でも、そう、数が多すぎるし、早すぎる……」

 数というのは、当然カンピオーネのことだろう。

 今分かっているだけでも四人のカンピオーネがこの近辺に存在している。原作では七人で当たり年とされており、それはこの世界でも変わらない。数世紀に渡ってカンピオーネが存在しない時代もあるくらいだから、突然三人のカンピオーネが追加されては、多すぎるという表現になるのも当然であろう。

「早すぎるというのはどういう意味ですか?」

 それを尋ねたのは長い金髪の女性だ。

 クロティルドというウルディンの妻の一人で、晶と激突した女性である。恐るべき剣士であり、ルーン魔術の使い手だという。

「さあ、それは分からない。けど、こんなにそろうのはもっと先だったんじゃないかって気がする」

「神殺しの数が増えると、危険なことが起こるってことか」

「多分。具体的なことは視えないけど」

 ウルディンが頤に手を当てて、考え込むようにする。

 ルスカの言葉に護堂もまた脳裏に警戒心を刻み込む。魔女の勘はよく当たる。そして、ルスカの言葉は恐らくは正しい。

「なあ、ウルディン」

「どうした?」

「実は今の託宣に関わる噂を聞いたことがあるんだが」

「何? 神殺しが増えるとマズイってヤツか?」

 護堂は頷いた。

 詳しいことを知っているわけではないが、護堂の時代に於いてもその脅威はひしひしと感じられていたからだ。グィネヴィアやランスロットという厄介な敵が追い求めていた災厄こそが、ルスカの託宣の正体ではないかと思ったのだ。

「最強の《鋼》って聞いたことがあるか?」

「最強の《鋼》? なんだ、そりゃ?」

「この世の最後に現れる王なんて呼ばれ方もあるみたいだけど、『まつろわぬ神』の一柱らしい。ただ、ソイツはこの世界に存在する総ての神殺しを殲滅する権能があるって話だ」

「何だと?」

 さすがにウルディンも目の色を変えた。その配下であるルスカとクロティルドもまた目を見開いて驚く。当然だろう。『まつろわぬ神』と神殺しの実力はほぼ拮抗している。にも拘らず神殺しを一方的に殺害できる存在がいるなどというのは眉唾物である。

「そりゃ、本当のことか?」

「そこまでは分からない。けど、話によればソイツはずっと昔から神殺しの殲滅と休眠を繰り返しているらしい。俺が前に戦ったグィネヴィアって神祖は、その神をアーサー王って呼んでてな、復活させるために色々と画策してたんだ」

「ふむ、なるほどな。神殺しを殺す神か。今のところは情報が少なすぎるな。ま、それについてはドナートあたりに調べさせるとしよう。感謝するぞ、兄弟。いい情報だった」

「いや、こっちこそ」

 問題となっている《鋼》の神格が正体不明なのは相変わらずだ。しかし、それでもカンピオーネの数が復活の要因であるというのは収穫ではある。

「さて、概ね食事の準備もできたことだ。盛大に飲み、盛大に食らうとしよう!」

 ウルディンの一声で、宴が始まった。

 古代の食事なので、遙か未来の食事ほどバリエーションがあるわけではなく、味付けは素朴なものばかりではある。それでも、決して劣るということはない。肉の塊が豪快に乗った大皿もあれば、小麦パンにチーズと、川で取れた魚など千年先でも変わらない食材をふんだんに使った料理が出てくる。

「ところでウルディン、あんた、サルバトーレに会ったことがあるのか?」

 先ほどルスカが漏らした言葉の中に彼の名があった。少なくとも護堂がこの地に来てからサルバトーレと会ったことはなく、この近辺にもいないはずだった。

 ところがウルディンは頷いて、

「前にこの砦の入口まで来たことがあるな。ふらりとやってきて、ふらりと去っていった。北で一旗上げてから、俺と一戦交えるなどと抜かしてたがな」

「アイツらしい馬鹿げた発想だな」

 迷惑そうに護堂は言う。

 サルバトーレの常識を省みない発想は、多数の混乱と困惑を生み出してきた。今回はその最たるものと言っていいだろう。

「そうか? 男なら一旗上げようってのは分からんでもないだろう。強い者に弱い者が従うのは自然の摂理だ。そうでなければ、人は生きていけないからな」

「あんたはそうかもしれないけどなぁ」

 大自然の中で共存していた時代ならば、そういう発想もあっただろうが、サルバトーレがいるべき場所は二十一世紀のイタリアである。そのような時代は百年以上前に死に絶えた。

「で、兄弟。そろそろ、お前がここに来た理由を教えてくれ」

 葡萄酒で唇を濡らしながらウルディンが言った。

「簡単に言うと、休戦協定を結びに来たってところだな」

「ああ、だろうな。だが、口約束には何の保証もない。見返りやらなんやらが必要になるぞ」

「ああ、だからこうしよう。今回俺たちが戦ったのはアイーシャさん――――聖女と呼ばれる彼女とアウグスタ・ラウリカの二つを巡って争ったのが原因だ」

「そうだな」

「そして、俺たちは戦ったけど、結果は引き分けだった。なら、取り分は分配すべきじゃないか?」

 そこまで言って、ウルディンはにやりと笑った。

「ほお、なるほど。で、兄弟はどちらを取る?」

「俺たちはもともとアイーシャさんとサルバトーレの二人に用があったんだ。だから、今回の件ではアイーシャさんさえ無事ならそれでいい」

「むう、なるほどな。女を取るわけか。ハハハ、まあその気持ちも分からんでもない。そうすると俺はあの街をいただく格好になるが、さてどうするかな」

 ウルディンは悩むような仕草はわざとらしくする。

 彼は稀代の女好きでもあるようだからアイーシャ夫人に固執する可能性は高い。アウグスタ・ラウリカ程度の都市ならば、簡単に攻略できるだろうから女神殺しを選択することにもなりかねない。

「ん、草薙護堂。そのアイーシャっていうのは、神殺しの一人ということでいい?」

 そこに口を挟んだのがルスカだった。

「あ、はい。そうです」

 護堂は頷いた。

「あの人は旅の権能を持っているんです。その力で色々な場所を巡っているようなんですが、俺とサルバトーレはその権能に巻き込まれてガリアに……ですので、あの人に何かあると故郷に戻れなくなりかねないんです」

 丁寧に護堂はルスカに説明する。彼女の目ならば、護堂がこの土地の人間ではなく不可解かつ非常識な経験をしてここに来てしまったことを感じ取るだろう。

 ルスカはクロティルドと視線を交わし、頷きあった。

「僭越ながらウルディン様、ここはアウグスタ・ラウリカをお取りくださいませ」

「クロティルド? なんだ、急に?」

「御身が先ほど仰っていたではありませんか。戦略的な拠点は必要であると」

「最強の《鋼》っていうのも気になる。落ち着いて調べごとをするには、定住地も必要になる。今後のため」

 クロティルドとルスカが口をそろえてウルディンに進言する。

「なんだお前たちいきなり。僭越だぞ」

「夫の行く末を思えばこその諫言とお考えください。先ほどの話を総合すると、神殺しの数は少ないほうがいいに越したことはありません。アイーシャなる神殺しやサルバトーレ某をこの方が引き取ってくださるのならば、早すぎる災厄も引き伸ばせる可能性はあります。対策を練る時間を稼ぐのでしたら、聖女に気を取られてはいられません」

 クロティルドの理路整然とした言葉にもウルディンは動じないものの、しかしそれでも感じるものはあったらしい。

「なるほどな、ルスカ。お前も同じか?」

「ん、同じ」

「ふむ、だそうだ。兄弟。少し惜しいが、先々を考えれば街一つ楽に手に入るならそれに越したことはない」

「じゃあ、この話は成立ってことでいいな?」

「おう、いいぜ」

 気前のいい兄貴分のように、ウルディンはあっさりと和平の案を飲み込んだ。

 何か裏があるのかもしれないと思えるほどにあっさりとだ。

「何、可愛い妻が嫉妬心をむき出しにしているからな。少しは応えてやらんとな」

 などと言って、ウルディンはルスカとクロティルドを不敵な表情で見る。二人は一気に顔を紅く染め上げながらも必死になって否定した。

「ば、馬鹿なことを」

「うん、これからのことを考えただけ」

「ハハハ、まあそう言うな。――――さてと、小難しい話はここまでにしよう。これから先は、飲んで食っての大騒ぎだ! 兄弟、途中で音を上げるなよ!」

 上機嫌になったウルディンは、その後も酒を呷り、料理を口に運び続ける。食い意地では負けないとばかりに護堂も食事に意識を集中し、結局は朝まで騒ぎ明かしたのだった。



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古代編 16

「まったく、失礼しちゃいます。逃げようとしているだなんて」

 馬車の上でプリプリと怒っているのは、褐色の肌の少女である。

 アイーシャ夫人と二十一世紀の呪術師たちは呼ぶ。偉大なる旧世代のカンピオーネの一人であり、十代後半という非常に若い見た目ではあるが、その実百年以上の時間を生きてきた魔王なのだ。

 常に格上との殺し合いが発生するカンピオーネは、時に誕生から数年で命を落とすことも不思議ではない。それどころか、カンピオーネとなってからの二戦目にして、その生涯に幕を降ろすということもありえなくはない。だというのに、人の寿命を越えて世界を、そして時間を放浪する彼女の異常性は明白である。強いというわけではない。けれど、しぶとい。それがアイーシャの特長である。

 そんな彼女が怒っているのは、自分の遙か後輩である護堂に失礼をされたからである。

 もっとも、それを失礼と言っていいのかどうか。

 ただ、護堂がウルディンと話をつけに行っている間に、自分はサルバトーレと話をつけるために旅立とうとしていたというだけなのだ。それは、護堂がアイーシャの身の安全を確保するために危険を冒したことは紛れもない事実であり、それについてはありがたいとは思っている。

 自分のために親身になってくれる人には、きちんと感謝を示す。

 けれど、アイーシャは気まぐれな性格だ。自分が正しいと思ったことは、最後まで実践しようとする性格でもありお節介焼きでもあった。

 それ故に、彼女は思ったのだ。

 護堂が自分のために行動してくれるのであれば、自分もまた護堂のために行動するべきであると。

 それが、サルバトーレと話をして、元の時代に連れ戻そうという行動に繋がった。つまりは、善意から来るものであり、アイーシャに悪気はまったくなかったのだ。

 だが、護堂からすれば、この通信手段もない時代に広い世界に勝手に出て行かれてはいつ会えるか分かったものではない。

 二十一世紀に帰るためにも、アイーシャとは極力行動を共にしなければならないのだ。

「――――という事情をきちんと汲んでください」

「それは、分かってますけど」

 護堂は馬車の荷台でアイーシャに懇願するように言った。

 ただの馬車ではない。

 荷車も二頭の馬も、黒い炎のような輪郭と白い表皮に覆われているのである。それは、水墨画から抜け出してきたかのような不可思議な馬車である。

 護堂が法道から簒奪した権能を使って、簡易的な馬車を仕立て上げたのである。御者を必要としない魔物の如き馬車は、人目につけば相応の騒ぎとなるだろう。

 そんな馬車に乗り込んで、護堂はアイーシャに訥々とここに至るまでの苦労話をしたのである。

 追いつくだけでも一苦労だった。

 アイーシャの幸運の権能なる胡乱な力によって、アイーシャを追いかけようとする護堂に対して多くの艱難辛苦が襲い掛かってきたのである。

 護堂の権能である『強制言語(ロゴス)』によって強化された直感が、どうにかアイーシャまでの道筋を見出してくれたからよかったものの、下手をすれば死んでいたかもしれない。

 アイーシャのしぶとさの一端を垣間見た護堂は、このカンピオーネが長き時を生き永らえた理由を知った。

 今回、護堂の運が良かったのは、偏にアイーシャに危害を加えるつもりがなかったからである。あくまでもアイーシャを心配して追いかけていたからこそ、護堂は何とかアイーシャに追いつくことができた。もしも、彼女に危害を加えるつもりがあれば、もっと酷い目にあっていたことだろう。そして、それは恐らくは『まつろわぬ神』にも適応されるだろう。

 アイーシャが一度逃げの一手を取れば、追いすがるのは困難を極める。神速使いであってとしても、確実にアイーシャを捕らえるのは至難の技だろう。

 生命力、生存能力という点でアイーシャはカンピオーネの中でも一、二を争うのではないだろうか。

「まあ、俺も強く言いすぎたところはあります。突然、アイーシャさんがいなくなって動転したんです。ですが、これも元の時代に戻るためと思ってください」

「それはもちろん、草薙さんたちを巻き込んでしまったのはわたくしの権能ですから、きちんと元の時代にお戻ししたいとは思っていますよ。ですが、サルバトーレさんの説得も早めに行わなければならないことですから」

「ですから、俺も協力しますよ。どうせ、言っても聞かないと思いますけど、場合によっては無理矢理連れ帰るしかないかもしれないですね」

 そうは言ってみたものの、そんなことができるのかどうか判然としない。

 相手は剣の王サルバトーレ・ドニ。

 戦うことが生き甲斐の狂戦士である。言葉で解決できる気がしないし、かといって力に訴えたところで勝てる保証はない。負けるとは思わないが、連れ帰るところまでとなるとなかなか難しいだろう。というか、困難を極める。何せ、護堂はカンピオーネの中では一番の若手だ。サルバトーレですら、戦闘に於いては先輩に当たる。

「サルバトーレ卿が素直に従ってくれるとは思えませんし……」

「あの人はそもそも、こっちでやることがあるから来たわけだから……」

 リリアナと晶もサルバトーレの説得には悲観的だ。

「あの方は生粋の戦士ですから、戦って負ければ勝者の意見をある程度は尊重してくださるような気はします」

「リリアナ、勝つのも難しい相手だって。戦ってうま味もないしなぁ」

 場合によっては、こっちが死にかねないのだ。サルバトーレのような超防御型は護堂の苦手とするところである。何せ、護堂は幅広い手札を持ちながら決定力に欠けるところがあるからだ。対するサルバトーレは攻撃手段は単一ながら、それが絶対的な強さを誇る特化型であり、防御力についても護堂以上である。護堂が手を尽くしたところで、彼の守りはそれを阻むだろう。

 以前戦ったときは、彼の隙を突いて湖の底に引きずり込んで無理矢理決闘を終わらせるという手段を講じたが、ここで同じことはできないだろう。その気になれば、地中に引きずり込むこともできなくはないが、当然、同じ手は食らわないはず。適当なことをして羅濠教主のときのように、油断からのカウンターを食らうという可能性が高い。

 サルバトーレに勝つことを前提に、作戦を立てるのはあまりにも危険である。

「サルバトーレに効きそうな権能はウルスラグナくらいしかないぞ」

 ウルスラグナの黄金の剣であれば、サルバトーレの権能ごと斬り割くことができるだろう。それは確実であり、護堂にとってのジョーカーたる権能である。幸い、サルバトーレの権能は総てその出所からはっきりしている。

 二人の少女が、護堂の呟きを受けて身体を僅かに震わせた。

 ウルスラグナの権能を使うということは、護堂に対象神格の知識を与えるということである。

 となると、そのための『儀式』も必要となる。

「戦いましょう、先輩!」

 晶が言った。

「大丈夫、以前戦ったときよりも先輩は権能を増やしています。対するサルバトーレ卿はあれからまだ一柱も弑しておられない様子。ウルスラグナの権能だって、卿にとっては未知のはずです。イケマス!」

「こ、こら、高橋晶。さすがにはしたないぞ」

 身を乗り出さんばかりの勢いの晶にリリアナが苦言を呈する。

 ウルスラグナの権能を使うための儀式の内容を知るリリアナは、まつろわぬガブリエルと護堂が交戦した際に図らずも儀式の主体となってしまったことがある。ウルスラグナの権能を使うことを勧めるというのが、何を意味するのかはっきりと理解している。

「それに、高橋晶。あなたはヌアダやジークフリートの背景まで説明できるのか? ガブリエルすらダメだったじゃないか」

「う、ぬ……いや、けど。勉強は、一応は、してますけど」

 晶が急に口篭る。

 晶は日本人の日本育ち。それも極めて特殊な環境で過ごしてきた。アジア圏の神話伝承には強くても、西洋の神話伝承については、まだまだ勉強不足が否めない。祐理のように霊視によって、知識をカバーすることができればいいが、生憎と晶は媛巫女ではあっても霊視能力は持っていない。

 本来の肉体であれば、微弱ながら霊視ができた可能性もあるが、魂を移し変えられて以降は霊視能力を失ってしまっていた。

 つまり、純粋に学んだ知識で教授するしかない。とすると、できる範囲は限られてしまうのだ。

「護堂さんが必要だと仰るのならば、その、わたしがささやかながら教授することもできる。適材適所だと思う」

「ぬぬぬ……!」

 唸るように晶はリリアナに鋭い視線を送る。

 彼女が言っていることは戦略的にも戦術的にも正しい。西洋の神話に由来する神格の知識を教授するのであれば、西洋の魔女が最も相応しい。そうでなくても、リリアナには霊視がある。護堂の『強制言語』で強化すれば、より確実に教授することができるだろう。

 もちろん、それは護堂に好意を抱く晶にとっては面白くない。面白くないが、決して護堂の不利になることはしないのが晶のポリシーだ。ハンカチを噛み締め、不満を露にはしてもだ。

 だが、気にかかるのはリリアナの心変わりだ。

 ヴォバン侯爵との決戦以来、裏で繋がりのあった護堂とリリアナの関係は表面化していなかっただけで、実はかなり親密だったのではないか。

 リリアナは生真面目だが、ロマンスに弱いということを晶は知っている。恐らくはかなり吊橋効果に弱いタイプの女性だ。

 そして、遺憾なことにその吊橋はすでに幾度も渡ってしまっている。今もまた、新たな吊橋の上である。

「あの、お二人とも急にどうされたのですか?」

 事情を知らないアイーシャがきょとんとして尋ねた。

「いいえ、なんでもないです」

「は、はい。今度の戦略的な部分での話ですので」

 晶とリリアナは取り繕ったように身を引いて言った。

「はあ、そうですか」

 脳裏にクエスチョンマークを浮かべながらも、アイーシャは深く追求することはなかった。

 追及しようにも、何の話をしているのかさっぱり分からないのだから仕方がないと言えば仕方がない。ここで、真実を知れば、アイーシャはきっと根掘り葉掘り聞き出しに来るだろう。

 それからさらに時が過ぎ、日没も間のないときのことである。

 最初に異変に気付いたのは護堂であった。

 護堂の直感に触れるものがある。

 強い呪力が北方から迫ってきているのだ。ついで、漂ってくるのは獣の臭いだった。動物園やペットショップに漂っているような、そんな臭いである。

「獣臭い、それに」

「はい、間違いなくこの世ならざる怪物ですね」

 魔女のリリアナもその気配を感じ取って言い切った。

 『まつろわぬ神』の気配はしないが、それに近いものが近付いてきている。それも、大集団だ。

「わたし、ちょっと見てきます」

「見るだけだぞ」

「はい」

 晶は頷くや否や、大気に溶け込むようにして姿を消した。

 実体を解いて霊体となり、異変の原因を探りにいったのである。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 するり、と馬車を抜け出した霊体の晶は黄昏に沈むガリアの大地を上空から睥睨する。

 この身体では夜風の心地よさも太陽の温もりも感じない。あるのは自分の視覚と聴覚、あとは嗅覚か。それも五感で感じ取っているというよりも、第六感で感じたことを理解しやすいようにそのように表現しているに過ぎない。霊体のときの感覚を人に伝えることは基本的に不可能なのだ。

 それでも、精神的な昂ぶりというのはある。

 古の平原を、上空から見下ろすスペクタクルに、晶は感動を禁じえない。一生に一度あったら奇跡という経験を今しているのだ。

 とはいえ、感動に仕事を忘れることは許されない。

 馬車まで漂ってきた異変の気配の原因を探るために外に出た。その役目は最低限果たさなければと思ったものの、思いのほか早く原因が掴めてしまうと拍子抜けもする。

 西日が照らす大地を、黒い集団が走っている。

「熊?」

 晶はよりしっかりと確認するために、一時的に実体化して目視でそれを見た。

 草原を駆けるのは、熊の集団だったのだ。

 それもただの熊ではない。

 濃密な呪力を纏っており、集団の中には四から五メートルには達するだろう巨大すぎる熊もいる。

「地母神の眷属で間違いないですね」

 古来、大地の女神は熊を聖獣とする者が多い。ここはケルト文化のあった土地でもある。熊が出てくるのは不思議でも何でもない。

 しかし、それにしてもだ。一頭いるだけで驚異的な生物である熊が、見上げんばかりに巨大化している。それが、凡そ六十頭あまりだ。ちょっとした村であれば、あっという間に食い尽くされるのではないだろうか。

 討伐したほうがいいのだろうか。護堂に何と報告しようかと考えていたとき、平原の先からやって来た人間の集団が、その勢いのままに大熊の群れに挑みかかった。

 

 

 

 晶からの報告を受けた護堂はすぐに状況を確認しに向かった。

 そして、凄惨な戦いを目の当たりにする。

 ちょんまげに近い髪型の男たちが、それぞれの武器を携えて巨熊と戦っているのである。

 凡そあらゆる生物にとって、武器を手にした人間は天敵である。陸上生物の頂点に君臨する熊であっても、鉄で身を守る人間には討ち取られてしまうものだ。

 しかし、今咆哮を上げるのは何処かの女神によって産み落とされた眷属である。格としては非常に低く、人間の手が届く程度ではあるが、それでも野生の熊とは戦闘能力が違う。

 それが六十頭だ。人間が武装したとしても、接近戦では歯が立たないのは道理である。あれを何とかするのならば、呪術を仕込んだ重火器でもなければ、ただの人間には厳しすぎるだろう。

「ああ、もう、見てられないな!」

 どちらが正しいかどうかは、この際関係ない。

 熊の一撃が人の身体を引き裂くのが見て取れる。鉄の鎧も、ほとんど役に立っていない。護堂は、目の前で起こる無慈悲な殺戮を見て見ぬふりをするほど腑抜けてはいない。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 聖句と共に顕現するのは黄金に輝く剣と斧。

 必殺の刃は、この世に形を結ぶや否や、金の軌跡を引いて熊の群れの頭上に降り注いだ。

 神の使いとはいえ、神獣にも満たない脆弱な存在だ。カンピオーネの権能に勝てるはずもない。貫かれ、切り裂かれて倒れていく。

 やはり、護堂の権能は集団でやってくる雑魚を蹴散らすには都合がいい。

 ひと際大きな巨大熊がのっそりと立ち上がったのはそのときだった。

 護堂の刀剣射出で虚を突かれ、何事かと気を抜いた人間たちに、巨大熊が襲い掛かった。

「あ!」

 護堂が小さく声を漏らしたとき、するりと熊の前に現れる人影があった。

 金色の髪の男は、やおら剣を引き抜くと居合いでもするかのようにするりと斬り上げた。刃は大熊の身体を両断し、上半身と下半身は別たれて、空中で塵に還る。

 その卓越した剣技、そして莫大極まりない呪力を忘れることはない。

「サルバトーレ、見つけた!」

 護堂の声が届いたのか、サルバトーレは振り返って護堂に大きく手を振って叫ぶ。

「やあ、護堂! 元気そうで何よりだ!」

 

 



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古代編 17

 大熊の群れは、護堂とサルバトーレによって瞬く間に駆逐されていった。

 凶暴かつ強大なる野生の化身も、さすがにカンピオーネ二人を相手にしては分が悪い。

 全滅は時間の問題であり、事実、最後の一頭をサルバトーレが両断するまでにかかった時間は、ものの三分程度であった。

「やっぱり、君の権能は数で圧してくる相手には相性がいいなあ」

 陽気に笑うサルバトーレは護堂が射出した宝剣の一つを手にとって言う。

「まあ、そういう権能だしな」

 と、護堂はにべもなく答えて剣を消す。

 サルバトーレは特に未練もないのか、呪力に還元されていく剣を見送った。

 残されたのは二人のカンピオーネと、血溜まりの中で呻くフランク族の戦士たちである。

 近くにいた一人に護堂は駆け寄り、その顔を見る。血に染まった顔は、半ばから失われていた。酷い傷である。心臓を抉られたり、様々な刀傷を負ったりした経験がなければ吐いていたかもしれない。二十一世紀の医療技術があったとしても、この傷を癒すことはできないだろう。まして、五世紀の医療では救えない。

「まったく」

 熊と戦えばこうなることは分かりきっていただろうにと思いながら、護堂は傷口に手を翳す。

「治せるのかい?」

「一応は」

 若雷神の化身は、他人にも使用することができる。これまで、自分の周囲に重傷者がほとんどいなかったこともあって使用頻度は低かった。

 再生の呪力が戦士の傷を瞬く間に塞いでいく。

 顔は元通りに修復され、失われた血も補われた。

 その様子を見ていたアイーシャが感激したように両手を胸の前で握った。

「まあ、草薙さん、そのようなお力をお持ちだったのですね。命を賭けて誰かのために戦うだけでなく、その誰かの命まで救おうとなさるなんて!」

「アイーシャさん。俺では一人ひとり治していくので手一杯なので、まとめてどうにかできませんか?」

「もちろんできます。今すぐに皆様の傷を癒しますね」

 アイーシャはさっと手を振って呪力を撒き散らす。

 春の風がどこからともなく吹き込んで、辺り一帯を暖かく包み込む。すると、戦場に倒れた戦士たちの傷が見る見る癒えていく。アイーシャが持つ癒しの権能。女神ペルセポネーから簒奪したという第一の権能の春の力である。

 傷が治った戦士たちは何事かと目をパチクリとして状況が理解できていない様子だ。

「サルバトーレ。この人たちに逃げるように伝えてくれ」

「ん、そうだね。まあ、邪魔になるしね」

 フランク族の言葉を護堂は知らない。知らなければ、千の言語であっても適用はされないのだ。カンピオーネであっても、言葉を自在に操るには、少なくとも、二、三日は彼らの言葉の中で生きていなければならない。

「ねえ、君たち。早いとこ離れてくれないか?」

 サルバトーレの言葉に、フランク族の戦士たちは素直に従った。どうやら、サルバトーレは彼らの親分になっているらしい。それに加えて、邪悪な気配が周囲に蔓延し始めた。彼らはそれを敏感に感じ取ったのだろう。

 三人のカンピオーネは同じ方角を見ている。

 忽然と姿を現した美女に目を奪われた、というわけではない。

 簡素は肌着の上に毛皮を被り、頭にも熊の皮を載せている。

 煌びやかさとは無縁ながら、尊大で偉大な空気をありありと漂わせる彼女は、間違いなく『まつろわぬ神』の一柱であった。

「実のところ、今の今まで迷っておった」

 女神が小さく口を開いた。

「神殺しに不覚にも傷を負わされた我が身では復讐を果たすことは叶わぬ。そこにさらに二人の神殺しが加わってはさすがに不利」

 女神は自身の下腹部に手を当てる。

 そこには痛々しい傷跡があった。赤黒く爛れたようになっているのは、恐らくはサルバトーレに付けられた傷なのだろう。

「ここまで来れば、是非もない。剣を鍛え、研ぎ澄まし、そなたたちを討伐するべき我が息子を招来するとしよう。天より来たりし、魔王討伐の英雄だ。神殺しを殲滅するには、十二分だろう」

 呟くように、諦観に包まれた女神は言った。

 彼女の発言に、護堂は背筋が凍りつく。

 魔王を討ち果たす英雄と聞けば、つい最近ウルディンと話をしたばかりの最強の《鋼》を想起させるではないか。

「何か不味そうだな」

 直感して、護堂は素早く剣を放つ。

 銘すらない武具ではあるが、権能によって産み落とされた明確な神具である。神々の武具に伍する七つの剣は、女神にまっしぐらに突っ込んでいく。

 直撃さえすれば、その五体を容易に引き裂いたであろう。しかし、相手は曲がりなりにも女神である。深手を負ってはいても、回避は造作もない。

 剣が直撃する前に、女神は輪郭を崩して融けるように消えた。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 女神が去った後、護堂たちはサルバトーレとフランク族が起居している古代ローマの植民市コロニア・アグリッピナに移ることになった。

 コロニア・アグリッピナはローマの殖民市ではあるが、今はフランク族が支配している。サルバトーレが人に振るうには大きすぎる力を適当に振りかざして、ローマの駐屯軍を追い出してしまったのだ。やっていることは、ウルディンと大差ない。

 護堂が通されたのは、フランク族の大族長と崇められるサルバトーレの邸宅の一室だった。

 コロニア・アグリッピナは、この時代の都市の中でも比較的大きく発展している。

 もともとはローマ派のゲルマニア人の入植地であり、後のローマの駐屯地、さらに発展してゲルマニア地方の拠点となった。

 また、コロニア・アグリッピナという名はローマ皇帝クラウディウスの妻である小アグリッピナに由来し、彼女は自分の出身地であるこの地方都市をローマの植民市に格上げするように要請し、結果としてオッピドゥム・ウビオルムを呼ばれた地方都市は、コロニア・アグリッピナへと名を変えることとなった。

 そして、歴史の中でアグリッピナは省略されコロニアという部分だけが残り、さらに未来ではケルンと名を改めて二十一世紀を迎える予定である。

「つまり、ここはドイツなのか」

 護堂はリリアナの解説を聞いて呟いた。

 ケルンと聞けば、大体の位置はイメージできる。ドイツの西に位置する都市で、サッカーのプロチームが有名だ。それと大聖堂。

「まあ、まだ大聖堂ないんだろうけどな」

「ありますよ」

「え?」

 残念そうに呟いた護堂にリリアナがきょとんとして言った。

「大聖堂だぞ。あの、有名なケルン大聖堂」

「形は違いますが、ケルンの大聖堂はあります。創建は四世紀なので」

「え、本当に? あれ、四世紀からあるのか」

「いえ、護堂さんが想像されている建物はさすがにありませんよ。二十一世紀に残っているのは、中世に造られたものですから。ですが、その原型となる建物は四世紀に創建されているのです」

「へえ、そうなのか」

 今までも日本との文化の違いにいたく感心してきたが、千年先まで続く建築物の原型をすでにこの時代に生み出していたというのは驚きである。

 石材という長持ちする材料を駆使する技術の賜物だろうか。木造建築の多い日本の建造物は、焼失しやすく経年劣化も激しい。法隆寺などの一部を除けば、二十一世紀まで残る建物というのは僅かだ。

 後で見物に行くのも悪くないかもしれない、などと思う。すでに失われた初代ケルン大聖堂だ。目にできるのは、貴重な経験だろう。

「いや、お待たせ護堂」

 バンとドアを開いてサルバトーレが室内に入ってくる。

 革靴と腰につるした剣以外はこの時代の簡素な衣服である。むしろ、動きやすさを追及すれば、ここに行き着くのかもしれない。

 もともと権威には無頓着な男だ。

 大族長などと持て囃されていても、そのこと自体にはまったく興味がなく、よって金品を身につけることもない。

「勝手に座らせてもらったぞ」

「いいよいいよ好きに寛げば」

 と、家主は寛容な態度を示す。

「それで、色々と聞きたいことがあるんだけど、まず、どうしてサルバトーレはフランク族の大族長なんてことになったんだ?」

「あー、それね。話せば長くなるんだけど、フランク族の皆はどうにも呪いをかけられてたみたいなんだよ」

「呪い?」

「そう。あ、呪いって言うか予言かな。さっきの女神、アルティオって言うらしいけど、彼女がフランク族にお前たちは何日後に死ぬだろうって、言ったらしいよ」

「女神様の呪い、ね。そりゃ気が滅入るだろうな」

 女神はこの時代に於いても強い力を持っている。権能という意味ではなく政治的、宗教的な意味でだ。その女神の本物が降臨して自分たちの死を予言したとなれば、精神的にもかなり追い込まれることだろう。

「どうしてフランク族はアルティオに呪われたんだ?」

「さあ?」

 サルバトーレは首を捻る。

 どうやら、その辺りについてはまったく聞いていないようだった。

「ただ、前の決闘のときにガリアの民の恨みがどうたら言ってた気がする」

「ガリアの民の恨みって」

 ガリアはこの辺り一帯を指す土地の呼び名である。その民というのならば、フランク族も該当するのではないだろか。

「恐らくは民族の違いかと思います」

 リリアナが言った。

「フランク族はゲルマン系です。対して、アルティオはケルト系の女神のはずですから、その辺りが絡んでくるのはないかと」

「ケルト人、か」

 確かゲルマン民族に追い立てられるようにヨーロッパから姿を消した古代ヨーロッパの人々である。北欧やイギリスなどはケルトの影響が強い。

「アルティオという女神はスイスの辺りで暮らしていたヘルウェティイ族の女神です。戦士階級から崇拝される戦いの女神であり、その名は熊を表します」

「はあはあ、見えてきたぞ。あの女神はそれで熊を操ってたのか」

 サルバトーレは本当に理解できたのか分からないものの、納得がいったという顔で仕切りに頷いている。

「推論でしかありませんが、フランク族に恨みを持つケルト系の民族の誰かが女神招来の儀式を行ったのかもしれません。あるいは、降臨した女神がケルト人の嘆きを察してフランク族に敵意を抱かれたということもあるかと思います」

「自分を崇拝する人を助けようってわけだから、それ自体は悪くはないんだろうけどな」

 護堂は面倒くさいとばかりにため息をつく。

 人間同士の小競り合いに女神が介入すればろくなことにならない。それは神話の時代から一貫している。いずれにしても自分を崇拝する者の願いを叶えないというのは女神としての沽券にも関わってくるだろう。サルバトーレが庇護下に置いたフランク族の人々は、神殺しが去れば遠からず滅びることになるだろう。

「歴史の流れ的にどうなんだ、それ」

「確か、コロニア・アグリッピナは後々フランク族に征服されたはずです。それも、五十年ほど先の話ではありますが、メロヴィング朝が始まれば完全にこの辺り一帯はフランク族の領土になります」

「ということは、フランク族が滅ぼされるのはかなりまずいのか」

「未来にどのような影響があるか分かりませんが、ろくなことにならないでしょうね」

 西洋史に詳しいリリアナが、憂慮するように表情を曇らせる。

「それで、サルバトーレがアルティオと決闘して、フランク族を助けたわけだ」

「結果的にはそうなるね」

 それで大族長だ。

 女神は死んでいない上にサルバトーレの武力は一人で一国を攻め落とせるほどである。となれば、フランク族が今後生き残っていくためにもサルバトーレの下に馳せ参じるのは不可解でもなんでもない。

「なら、アルティオは早々に倒さないとダメだな」

 うん、と護堂は納得して頷いた。

 アルティオを捨て置けば歴史が変わってしまうかもしれない。今後どうなるか分からないが、ここまで深く護堂たちが関わった以上はあの女神もまた正しく歴史をなぞることはないのではないか。勝手な物言いではあるが、女神と人命のどちらを取るかと言われれば、護堂は即断で人を取る。

「ふふふ、君もアルティオ狙いってわけかい?」

「いや、俺が倒さなくてもいいんだけどな。とにかく、あの女神を放っておくのはよくないってだけだから、サルバトーレが倒しても構わないぞ」

「なんだ、相変わらずだな、君は。そんなことを言って、どうせ後でアルティオと戦いたくなってくるんだろ」

 皆まで言うなとばかりにサルバトーレはウィンクを飛ばしてくる。

 ずっと黙っていたアイーシャは、少しばかり頬を染めて、

「お二人とも分かり合ってらっしゃるのですね……」

 などと夢見がちな表情で呟いたりしているが、護堂は無視した。

 フランク族は百年もしないうちにこの地に巨大王国を築き上げる。それを邪魔されるのは人類の歴史を大きく変えてしまうことになるだろう。

 ならば、アルティオは護堂の敵である。

 しかしながら、アルティオと個人的な因縁があるのはサルバトーレだ。護堂はアルティオが倒れればそれでいいので、サルバトーレに任せてもいいんじゃないかとは思っていた。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 

 どうやら護堂は大族長の盟友などという触れ込みでフランク族に売り込まれていたらしい。

 いつの間にか、サルバトーレが乗っ取った屋敷に匹敵するほどに大きな屋敷が与えられていて、そこで寝食することになったのである。

 つい一月ほど前までローマ人の地方貴族辺りが暮らしていたはずの屋敷は、アウグスタ・ラウリカで護堂に与えられていた屋敷と同規模のものであった。

「しかし、落ち着かないな」

 護堂はため息混じりに呟いた周りを見回す。

 ゲルマン系の顔立ちの少女たちが、右に左に駆け回り、屋敷の掃除をしているのである。

 およそ三十人ばかり集められた、見目麗しい少女たちは全員護堂に差し出された小間使いである。

「男の浪漫ってヤツじゃないんですか?」

 晶は多少棘混じりに護堂に言ってくる。

 護堂に明確に好意を示す彼女が、機嫌を損ねるのは十分に理解できることである。そこまで、護堂も鈍くはない。

 しかし、小間使いがよりにもよって女だけだというのはどうなのだろうか。

「何にしても気をつけなければなりませんよ、草薙さん。彼女たちに手を出すことは、歴史を歪めることでもありますから」

「分かってるよ、それは大丈夫だ」

 リリアナの言いたいことは分かる。

 護堂がこの時代で子を作れば、その影響力は各方面に大きく広がることだろう。それでは歴史にどのような悪影響をもたらすか分からない。

 晶に宣言した以上、今更他の婦女子に手を出すことはない。

 しかし、彼女たちは権力者に取り入りご機嫌伺いをするために送り込まれたハ二ートラップのようなものだ。

 気をつけなければならない、というのは護堂だけでなく彼女たちから行動された場合にも当てはまる。

 左右に少女を侍らせて廊下を歩く姿は確かに、大きな屋敷の主人を思わせるだろう。まだ、少年から青年に変わりつつある年代というところからすれば若旦那といった感じなのだろうか。小間使いに派遣された少女たちは、明らかに護堂と歳の近い者を選び出している。

 そんな護堂たちの杞憂も気にせず、一人アイーシャはこの屋敷を気に入って愛嬌を振りまいている。すでに護堂からも離れて小間使いの少女たちとの交流を熱心に行っているのだ。

 花瓶の花を見ては、

「まあ、綺麗なお花ですね」

 などと言って声をかけては二言三言で彼女たちの心を鷲掴みにする。

「人が篭絡されるのがはっきり分かるってのも凄いもんだな」

「権能の影響もあるのでしょうが、やはり天性の才能なのでしょうね」

 アイーシャの能力に感心しながら、護堂たちは歩を進め、屋敷を探索した。

 中庭のついた大きな屋敷である。

 小間使いの少女たちが三十人いたとしても、決して窮屈ではないと言えばその広さが分かるだろう。小間使い用の独立した空間までも完備されているので、前の主人はよほどの権力者だったのだろう。誰か分からないが、少し申し訳なく思う。

「これで、しばらくはここに腰を落ち着けることになるのか」

 古代でのゆったりとした時間の流れに反して、『まつろわぬ神』やウルディンとの戦いがあったために恐ろしく早く時が過ぎたような気がする。

 しばらくはこの地にいるとしても、そう遠からず出て行くことになる。分かりきったことではあって、それに今更感慨も何もないが、せっかくならば楽しまなければ損だろうと思えるくらいには護堂もまたこの時代に毒されつつあった。

 

 

 

 それから三日。

 未来のケルンは未だ発展途上。しかし、ここを征服したフランク族は、この時代では珍しいことに略奪を一切行わず、原住民との間にそれなりに良好な関係を築いているようだった。

 護堂はリリアナと晶の二人を連れて、散策のために外に出た。

 コロニア・アグリッピナはライン川の傍らに築かれた城塞都市であり、その周囲はどこまでも続く平原である。街の中央を縦に貫く大通りと東側に横に通った大通りの二つが主要な通りであり、直線の道が十字に交差する計画的に作り出された都市であることが分ける。

「サルバトーレ卿が禁令を出したらしいですね。一切の略奪行為を禁止するって」

 晶が聞きかじったことを言う。

 護堂と晶には好機と畏怖の視線が注がれている。

 サルバトーレの盟友であることもあるが、見た目がフン族と見分けがつかないというのが大きいのだろう。

 フン族の影響もここまでは届いてはいない。しかし、その驚異的な戦闘能力と外見は十分に伝わっているだろう。

「サルバトーレって、意外に人を使うのが上手いんだよな。感覚的にやってるんだろうけどさ」

「イタリアにいたときも、《青銅黒十字(わたしたち)》や《赤銅黒十字》を手足のように使っておられた方ですからね」

 人の上に立つ才能は天賦のものがあるのだろう。ただし、人の上に立つ者としての責任感は小学生以下だと言わざるを得ないが、フランク族を配下にした経緯などからも分かるとおり、サルバトーレは自然と自分のところに集まってくる人々に指図しているだけであって、彼自身が王になるとかいう意識はない。だから、責任も何もないというのが、彼の思考なのではないだろうか。

「王の中の王といった感覚でしょう。他者は自分に奉仕するものというのは、カンピオーネが持っていて当然の感覚だと思います」

「馬鹿言うな。それはさすがに外道に過ぎる」

 力を持ちすぎるカンピオーネは、法治国家が主体となる二十一世紀にあっても法に縛られずに好き勝手にやっている。その特権で護堂が救われたことも一度や二度ではないが、それでも進んでその状況を受け入れられるほど達観はできていない。

 その一方でリリアナは生まれついての魔女であり、西洋呪術師の感覚でカンピオーネを捉えている。絶対の超越者としてカンピオーネを崇めるのは、どこの国も同じだが、西洋はカンピオーネの誕生率が歴史的に高いこともあってその付き合い方は成熟している。

 生真面目なリリアナが、カンピオーネに限定して放埓な生活すらも容認してしまえるのは、彼女の育った生育環境によるものなのだろう。

「アイーシャさんは、あれで自由人過ぎるしな」

「カンピオーネの皆様は、何かと自分の正義がある方が多いですからね。それについては護堂さんも同じように見えますが」

「そうなのかもしれないな」

 なんだかんだで我の強さ。自分のルールを相手に押し付けるという点では護堂も同レベルであろう。究極的にはそれは人類の他者に対する接し方の一つであり、誰もが経験するものではある。

 ただ、カンピオーネはその度合いが非常に強い。負けず嫌いで、人の話を聞かないのはほぼ全員に共通していると言える。あの温厚なアイーシャですら、この傾向は強い。いや、むしろアイーシャは常に自分のルールに従って行動している部類であろう。そうでなければ、護堂がここまで振り回されることはない。

「それにしても、あのアルティオって女神はどこで何をしているんでしょうね」

 晶が言った。

「魔王討伐の英雄を呼び出すって言ってたじゃないですか。それって、きっと最後の王とか最強の《鋼》とかって呼ばれてた神ですよね」

「十中八九、そうだろうな」

 少し緊張した面差しで護堂は言った。

 原作におけるラスボスだと思われる。

 その名は一切不明で、ただカンピオーネを全滅させるほどの力を振るう『まつろわぬ神』だと伝わっている。

 そして、その最強の《鋼》は五世紀のイギリスで眠りに就いたのではなかったか。

 そうか、と護堂の脳裏に電流が走った。

 二十一世紀と同じく五世紀もまた「当たり年」なのだ。

 多数の神殺しが入り乱れて乱世の様相を呈したときに、最強の《鋼》が降臨しそれらを殲滅してイギリスで眠りに就く。

 ルスカが言っていた早すぎるというのは、彼、ないし彼女の降臨時期を指しているのではないか。

 とすれば、本来は後数十年後にカンピオーネが揃わなければならないところに、三人ものカンピオーネがやってきてしまったものだから最強の《鋼》の復活が早まってしまったという解釈も成り立つ。

 ここで総ての神殺しを殲滅しつくして最強の《鋼》が眠りに就けば、本来殲滅されるべき後世の神殺しが生き残ってしまう。それは歴史的にも大きな変化をもたらしてしまうのではないか。

「ん」

 そんなことを考えていた矢先のことである。

 赫々として光に満ち溢れていた太陽が欠けたのだ。

「日食?」

 雲ひとつない空が暗くなっていく。

 常軌を逸した異常現象。

 日食の存在を知っている護堂たちならばいざ知らず、そういった知識のない人々は狂乱して慌てふためいている。

「アルティオが何か始めたのかもしれませんね」

 晶が言った直後に、空から一条の雷光が落ちた。東の方角だ。一瞬だけ地平線が白く染まり、再び真っ暗になる。

『来たぞ』

 護堂の脳内に天叢雲剣の声が響く。

『とてつもなく鋭い剣だ。己と同じく屈強なる《鋼》に属する某かと見て間違いないだろう』

 普段はまったく言葉を放つことのない気難しい神剣は、どこか楽しんでいるように喋った。

「護堂さん」

「ああ。行くしかないな」

 場所は天叢雲剣が分かるという。

 コロニア・アグリッピナの大通りを駆け抜けて、門の外へ出ると護堂は法道の権能を使って二匹の大鷲を生み出した。

 翼を広げれば五メートルには達する水墨画の大鷲である。

「晶とリリアナはそっちに。リリアナ、魔女の目で先行してくれるか?」

「なるほど、承知しました」

 リリアナは頷いて、晶と共に大鷲の背に跨る。

 飛び立つと同時にリリアナは魔女の目を光が落ちた方角に飛ばして、目的地を偵察する。この状態のリリアナは基本的に無防備となる。それを晶が支えるために同じ大鷲に乗せたのだ。

 地上を走るよりも遙かに速く、護堂たちは空を飛んでいく。

「ッ……魔女の目を!」

 唐突にリリアナがびくり、と身体を震わせた。

「リリアナさん?」

「大丈夫だ。く、やはりアルティオでした。魔女の目を撃ち落されてしまいました」

 申し訳なさそうにリリアナは言った。

「仕方ない。相手は女神だ。勘も鋭いだろうし、気にしてもどうしようもない。それよりも、場所ははっきりしたか?」

「はい。この先を五キロほどの行った平原です」

 よし、と護堂は先行する。

 五キロ程度ならば、数分もかからないで跳び越えられる程度の距離である。

 真っ暗な世界でも、カンピオーネの目は何の問題もなくアルティオを見つけ出すことができた。

 晶とリリアナは後方五百メートルほどの空中に待機させた上で護堂は一人地上に降りる。

 護堂の場合、空よりも地に足をつけていたほうが機動力があるからだ。雨が降っていれば、その限りではないが、今は晴天である。日食が起こっていなければ、麗らかな陽気が世界を包み込んでいるはずである。

「そなたが一番手か、黒髪の神殺し」

 静かに、アルティオは言った。その眼差しには苦悶と煩悶が篭っており、身体の傷は相変わらずのようだ。生命力に優れた大地の女神が、これほどまでに苦しむとはさすがはサルバトーレの刀傷だ。

「正直、あんたとはそれほど因縁もないんだけどな。あんたが、フランク族を攻撃するっていうのなら、俺は見過ごせない」

「ふ、何を今更。妾たち神々とそなたら神殺しはいつの世も相争ってきたではないか。そなたもそのつもりで出向いたのであろう」

 無論理解してはいる。

 だが、とりあえず自分を正当化する理由を述べておかないと心の準備ができないだけだ。護堂が言ったとおりアルティオは護堂に牙を剥いたわけでもなく、因縁らしい因縁はほとんどない。サルバトーレならばいざ知らず、護堂がアルティオと戦うというのは、どこまで突き詰めても護堂の理由でしかない。

「とはいえ、手負いの我が身。遠方にいる三人の神殺しに加え、そなたの後を追ってくる二人の神殺しまでも含めれば六人もの神殺しが存在している。嘆かわしいことこの上ない」

 憂慮に歪む表情でアルティオは護堂を見る。

 どのような手を使ったのか、アルティオは今世界に存在する神殺しの位置を正確に捉えているらしい。サルバトーレとアイーシャだけでなく、ウルディンや未だ見ぬ二人の神殺しまでも捕捉している。

「我が息子の名代として魔王殺しの英雄を顕現させれば、あるいはこちらの勝利があるかもしれぬ」

 アルティオの手にはさび付いた長剣が握られていた。

 いつの間に用意したのか、護堂にも分からなかった。

 が、それはもう驚きに値しない。相手は神だ。虚空から剣を呼び出したところでどうしたというのか。そのようなことよりも、護堂は彼女の手にある剣そのものを危険視する。

 それはまさしく、最後の王にして最強の《鋼》が使ったとされる剣の骸に違いない。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 以前と同じく先制攻撃は護堂だ。

 会話をしながらも準備を進めていた結果、護堂が生成した刀剣は百を超える。それが雨霰となって、アルティオに殺到する。

 アルティオは剣を持たないほうの手をさっと地に翳し、呪力を放出する。すると、大地が隆起して剣の前に立ち上がったではないか。

 土と石でできた頑強なる城壁だった。アルティオの呪力で補強されたそれは、ただの土塊とは比較にならない防御力を有しているらしい。護堂の剣はその壁に遮られてアルティオを貫けない。

「この……!」

「その顔を見るに、この剣が何を意味するのか知っているようじゃな。珍しいこともある。が、遅い」

 アルティオの手を離れた剣が白き光を解き放つ。

 真っ白な落雷が護堂の視力を奪う。

「この世の最後に現れる聖王よ、今こそ来たれ!」

 雲のない空に雷鳴が轟いた。

 次の瞬間に現れたのは、背の高い男だった。

 目鼻立ちの整った顔立ちで、青い貫頭衣とズボンを身に着け、さらに白いマントを羽織っている。

 やけに長い前髪ではっきりとした表情は見て取れない。

 彼の手に握られている剣は、白銀に輝いていた。闇夜を切り裂く導きの光のように。

「最強の《鋼》、か……?」

 まだ確信は持てない。

 しかし、ここまで情報が揃ってしまえば断定せざるを得ないだろう。

 恐るべき力を持つ、魔王殲滅の英雄。

 護堂は遂に、彼と出会ってしまったのだ。



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古代編 18

「くっそ、いてえな、ちくしょう」

 毒づきながらオークの大木によりかかる護堂は、全身から真っ赤な血を流している。

 油断したというのは否めない。

 最後の王ないし最強の《鋼》と呼ばれ、原作で大いにその危険性が語られた存在との対決は護堂の敗北に終わった。

 強大極まりない白銀の太陽こそ回避したものの、流れるように踏み込んできたかの神格を前に護堂は押し込まれてこの有様だ。

 止めを刺される瞬間に、土雷神の化身で一気に距離を取って、一目散に逃げたおかげで一命を取り止めはしたが、出血が治まらず、現時点でどうなるかは不透明だ。

 土雷神の化身は地中を雷と化して移動する神速の化身である。その特性から移動経路が読まれにくく、こうした撤退では重宝する。

「サルバトーレと同じ回復阻害かなんかか。若雷でも少しずつしか治んないじゃないか」

 自分の身体の状態を確認すると、見るからに酷い怪我がいくつかある。

 一番酷いのは脇腹に穿たれた傷であろう。

 白熱した剣でずぶりと刺されたここは、じくじくと護堂の脳髄を責め苛んでおり、止まらない出血は意識を遠のかせていく。

 赤黒く変色し、周囲の皮膚組織は焼け爛れている。

 サルバトーレがアルティオにつけた傷によく似ているなと、埒もないことを考える。

 護堂は、頭を固い木の幹に預けてずるずると座り込んだ。

「まいったな」

 無我夢中で地中を駆け抜けたために、どれくらい離れたのか分からない。晶との繋がりは感じられるので、彼女は無事だろうしリリアナも傍にいれば大丈夫だろう。それだけは安心できる材料ではあるが、鬱蒼とした森の中ではどのような危険があるか分からない。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり」

 護堂はガブリエルの聖句を唱えて直観力を強化した。

 目を瞑り、身体の中になけなしの呪力を巡らせる

 深呼吸をして、致命傷であると感じた部位に優先して若雷神の化身を使用することにしたのだ。命の危険に直結しない部位は放置する。

 血を流しすぎたようだ。

 視界がすっかり暗くなり、何も見えなくなる。頭の中が冷え切って、全身から力が抜け落ちていった。

 

 

 

 

 晶が護堂を見つけたのは、その日の夜のことである。

 戦場を神速で離脱した護堂の行方を探るのは、魔女術の使い手であるリリアナであっても非常に難しい作業である。しかし、晶は護堂の式神ということもあって霊的な繋がりがある。互いに居場所を察知し合える関係であり、安否についても連絡が取れないほどに遠くにいたとしても確認する程度は可能だ。

 その第六感を駆使して、晶は護堂を探し当てた。

 戦場から五十キロも離れた森の中にある、大きな木の下で眠っているところを見つけたのだ。

 疾風のように大地を駆けるため、身体に纏っていた伏雷神の化身を解除して護堂に近付く。

「よかった、先輩!」

 駆け寄った晶は護堂の傍らに膝を突き、その頬に触れる。

「先輩?」

 軽く揺すっても、護堂は脱力したまま動かない。

 晶の心中に、冷たい風が吹き抜ける。

 鼓動が五倍は速くなったような錯覚。受け入れがたい未来を前に、目の前が真っ白になる。

「先輩……ねえ、草薙先輩! 嘘、ねえ、起きてください!」

 呼吸が浅く、身体は冷たい。

 夜の気に当てられたわけではあく、出血が酷すぎたのだろう。

 強大無比な剣神の一撃が大地に大穴を穿ったときに嫌な予感はしていたのだ。そして、護堂が剣神に斬られた瞬間に、主人の劣勢を実感した。

 強者同士の戦いは、長期戦になるか一瞬で勝敗を決するかの二択になると聞いたことがある。今まで、護堂の戦いは喰らい付く長期戦。それも、多くの戦いで勝利を繰り返してきたから無条件で安心しきっていた部分は否めない。

 ウルスラグナとの戦いのときであっても、こうも一方的に敗北することはなかっただろう。

 この意外に過ぎる展開に、晶は暫し忘我せざるを得なかった。

「どうしよう……!」

 護堂の若雷神の化身がきちんと機能していないように見える。斬り裂かれた衣服の下からのぞく傷口は一応は治癒しているようだが、内側がどうなっているのか分からないし、身体に刻み込まれたいくつかの傷は今でも残ったままである。治癒阻害の毒が、あの剣には込められていたのかもしれない。となれば、このまま寝かせておくだけでは、護堂の身体は回復せず弱っていく可能性もある。生命力の象徴である若雷神の化身が治癒しきれないのだ。今も護堂を苦しめている毒素を、取り去るだけの治癒能力が必要である。

「アイーシャさんがいれば」

 晶は唇を噛み締める。

 普段なら弾かれるだろうが呪力への抵抗力も落ちている今、アイーシャの権能ならば、この護堂の傷もたちどころに癒えただろうに。

 しかし、この重要な局面にあってアイーシャはいない。

 頼れるのは自分だけ。

 ならば、ここは晶が護堂の傷を癒し、呪力を回復させるべきである。

 護堂からの呪力の供給もほとんど切れかけている状況だ。それほどまでに、護堂の身体には余裕がない。

「ごめんなさい」

 何を謝っているのか、自分でも分からないまま口に出し、それから目を瞑る。

 想像するのは、稲穂の恵み。金色の大地だ。

 晶は護堂の式神であり、その存在の大半を護堂の呪力によって補っているものの、実は彼女を構成しているのは護堂の権能だけではない。いくつもの大呪法を重ねてあるために、ある程度は主人から独立することもできる。その一つが、法道の置き土産とも言えるクシナダヒメの権能であった。

 自分の中核たるクシナダヒメの権能によって、晶は大地から加護を受ける。

 護堂の式神となり、自分の正体を正しく認識したときから晶の力は強まり続けている。幸いにして、今は満月だ。月の呪力も取り込んで、身体の中に膨大な大地の呪力を渦巻かせる。

 それから、晶は護堂にキスをした。

 ただの治癒術では、効きが悪い。

 彼を苦しめている毒素を抜き出すには、権能でなければならない。

 護堂の若雷神の化身と晶の若雷神の化身を循環させる。クシナダヒメの権能で吸い上げる呪力で、若雷神の化身をさらに補強して、護堂の能力を一時的に増大させることで、彼の呪力への抵抗力を底上げするのである。

 晶は護堂にとっての予備電源のようなものだ。大地の呪力を貯蓄することで、いざというときに受け渡せるようにする。それは、晶が思い立ち、いくらか実験を重ねる上で実現した自分の役割の一つであった。

「はう、ん……」

 身じろぎつつ、晶は護堂の唇を吸う。

 身体の内側から呪力が唇を通して護堂の中へ流れ込んでいく。その感覚に陶然とした気持ちになりながら、晶はさらに深く繋がりを求めた。

 恐る恐る、反応を窺いながら舌を押し込んで道を開き、さらに強く呪力を送り込む。

 無防備な相手にキスをしているという背徳感と護堂を身体を心配する気持ちが綯い交ぜになって思考に靄がかかる。

 護堂の身の安全が確保されたと断言できるまで、晶は行為を続けた。

 

 

 

 

 チチチ、という鳥の声に目が覚めた。

 頭がぼんやりとしていて飛び起きるには億劫だった。

「身体が……?」

 痛みがなくなっていて、多少のだるさは残っているものの健康体になっているように思えた。

 立ち上がってみたが、特に問題があるよには思えなかった。呪力も大方回復している。あれだけ命の危険を感じていたのに、これはどうしたことだろうか。

「先輩、目が覚めたんですね」

 聞きなれた声に振り返る。

「ん?」

 護堂は一瞬、目を疑った。

 そこにいるのは、小さな少女だった。小学校に上がるかどうかという程度の年齢だが、護堂との霊的経路は確かにその娘と繋がっている。

「まさか、晶、なのか?」

「そう、です。こんなになってしまいましたけど」

 少女の正体は晶だった。

 ショートヘアの黒髪や目元などはなるほど晶の面影を残している。記憶にある二人の妹と、よく似ているのは血の繋がりを感じさせるところだ。

 身体にあった衣服がないからだろう。晶は小さく縮んだ身体に、マントのような一枚布を巻きつけている。

「どうして、縮んでるんだよ。何があったんだ?」

「え、いや、何があったというか、先輩が戦線離脱した後必死になって探して、それでここで見つけたんです。で、わたしの呪力を先輩にお渡しした結果こうなりました」

 しどろもどろになりながら、晶は状況を説明した。

 要するに自分の身体を構成するのに十分な呪力がない状態である。そのため、実体化するために呪力を節約しているのだという。

「でも、もう俺も大分回復しているから、呪力持っていってもいいんだぞ?」

「大分とはいっても万全ではないじゃないですか。わたしは、あまりお役に立てませんし、徒に力を先輩から貰うわけにもいきません」

 生真面目なことを言って、晶は護堂からの呪力供給量を大幅にカットしている状態を維持するつもりらしい。

 その気になれば自前である程度賄える。とはいえ、護堂から注がれる呪力が実体化に必要な量を補うのに最適なのは変わらない。自分で組み上げるのと人から貰うのでは、労力が違いすぎる。まして、カンピオーネの呪力供給量を自分の力で補うのは、やはり骨が折れる。

「そうか。晶に助けられたのか」

「いえ、わたしがしなくても先輩は助かったと思います。でも、身体の傷はしばらくは引き摺っていたかもしれませんけど」

「うん、そうだろうな。ありがとな、晶」

 と、言って、自分の腰くらいの身長になった晶の頭に手を置いた。

 歳の離れた妹、あるいは娘を慈しむかのような思いが護堂の胸の内に溢れる。

「あう……」 

 対する晶は顔を真っ赤にして俯きながら、護堂の手の平を甘受した。

 その後は、晶が用意した特性林檎で英気を養い、状況を把握するために出立した。

 大鷲の式神を生成し、昨日と同じく晴れ渡った空を飛ぶ。

 晶は霊体となって護堂の傍に控えている。呪力の消費をさらに抑える算段なのだ。

『リリアナさんはコロニア・アグリッピナに戻ったそうです。サルバトーレ卿とアイーシャさんも』

「そうか。みんな無事だったってことか」

 護堂はほっとした。

 一晩あったのだ。晶がリリアナの下に式神を飛ばし、状況をやり取りするくらいは十分できるだろう。

 晶が語るところによれば、護堂が敗退したあとサルバトーレとアイーシャが共にアルティオと最強の《鋼》と戦ったそうだ。

 結果としては、アルティオ側が押し切られて撤退といった運びになったらしい。

「そうか。まあ、アイツも本調子っぽくなかったからなぁ」

 護堂は昨日の戦いを振り返って言った。

『本調子じゃなかった、ですか? でも、ものすごく強そうに見えましたけど』

「うん。いや、殺されかけた俺が言うのもおかしいけど、やっぱり何か事情があるんだろうな。きっと、そこに付け入る隙もあるはずだよ」

『また、戦うんですか?』

 晶が心配そうに言った。

 相手が退いたのならば、このまま遠くに逃げてしまうのも手だろう。

「アルティオは遠くのカンピオーネの所在を感じ取ってたからな。逃げてもダメだろう。それこそ、アイーシャさんの通廊を通れは別だけど」

 そう上手くも行かないのではないだろか。

 アイーシャの通廊の権能は、正直危ういところがあるし、本人も制御できていないようなので信頼性に劣る。逃げようとして発動しなければ話にならない。

「大丈夫だろ。負けた原因は分かってるし、次はそうはならない」

『原因?』

「ビビッてたんだよ。俺が」

『え、先輩が?』

「ああ。最強の《鋼》の話は前々から聞いてたからな。それで先入観が先走った。けど、アイツの状態を冷静に見極めれば、さっきも言ったように付け入る隙はあったからな」

 『まつろわぬ神』は基本的に格上である。まして、最強の《鋼》ならばしっかりと心してかからなければならない相手だ。だというのに、護堂は魔王殲滅の神という部分に引き摺られて臆した。それが敗因だ。最後には気持ちがものを言う。実力で負けている相手に気持ちでも負けていたら、それは敗北も必至だろう。

「次は勝つよ」

 断言する。

 そうすることで、気持ちを入れ替えるのだ。

 話によれば、まだ決着はついていない模様だ。リベンジの機会は遠からず訪れるだろう。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 コロニア・アグリッピナに戻ってきた護堂を迎えたのは、身体にいくつかの傷を残すサルバトーレと無傷のまま、けれど相応に消耗したアイーシャだった。

「草薙さん、よかったです。ご無事だったとは伺っていましたけど、やっぱりお会いするまで心配で心配で」

「ありがとうございます、アイーシャさん。晶のおかげもあって、このとおりピンピンしてますよ」

 護堂は力瘤を作って健在をアピールする。

「ふふ、君は殺しても死なないような男だからね、あっさりとやられるとは思ってなかったよ」

「いや、やられたよ、割とあっさりね」

「いやいや、僕らの戦いは殺す殺されるが基本だからね。逃げるのも手の一つ。死んでなければ、逆転の目はあるさ」

「それだけど、相手を取り逃がしたんだって?」

 護堂はサルバトーレに聞いた。

 もっとも、カンピオーネと『まつろわぬ神』との戦いは決着がつかないことのほうが多いらしい。何かの拍子に、戦いが継続できなくなったり、引き分けに終わったりすることが大半だという。共に生命力が強い者同士だからということもあるのだろう。

「ああ、そうなんだ。アルティオが限界だったみたいでさ」

「きっと、あの最強の《鋼》を呼び出すのに力を使いすぎたんだな」

「かもしれないね。それで、あの剣士のほうも充電が切れたみたいに消えちゃったんだよ。おかげで不完全燃焼さ」

 肩を竦めたサルバトーレは残念とばかりにため息をついた。

「アルティオが限界って、消えちゃったんだろうか」

「多分回復に努めてるんだと思うよ。そんな簡単に消えるほど、大地の女神様は甘くないと思うし」

 サルバトーレの歴戦の勘は、こういったところでは役に立つ。

「あ、それになんか別の神様も出てきたみたいなんだよ」

 と、後から余計な追加情報を出してきた。

「別の神様って、アルティオと最強の《鋼》以外のヤツってことか?」

「そうそう。多分風の神様だと思うけど、パッと出てきて、パッと消えちゃったからよく分かんないんだよねぇ」

「神様のオンパレードだな……リリアナは、その神様のこと、何か分かったりしないか?」

 尋ねてみたがリリアナは首を力なく横に振る。

「申し訳ありません。姿もほとんど見えなかったものですから」

「姿が見えないって?」

「つむじ風の具現のような感じでしたね。竜巻の姿をしていましたが、恐らくは《鋼》の軍神でしょう。そんな、気がします」

 言葉をひねり出すようにして、リリアナは言った。

「風の神様で《鋼》か。ハイブリッドってヤツだな」

『斉天大聖みたいなものですね』

 晶が脳裏に話しかけてくる。

 斉天大聖。またの名を孫悟空。日光で護堂を苦しめた、中国の大英雄にして《鋼》の軍神であった。そういえば、斉天大聖が魔王殲滅の秘儀を僅かばかり形にしていた。

「そうか、きっとあの最強の《鋼》はカンピオーネを殲滅する権能をまだ使えなかったんだ」

 護堂は得心がいったとばかりに呟いた。

「ん? どういうことだい、護堂?」

「いや、前に戦った斉天大聖って神様が一時的に魔王殲滅の権能とかいうのを使ってたみたいなんだよな。多分、最強の《鋼》が使う権能の劣化版なんだろうけど……昨日戦ったあの神は、斉天大聖ほど脅威じゃなかったと思うんだよな」

「へえ、そうなんだ。やっぱし本調子じゃないんだ。うーん、本調子の神様と戦うほうが俄然面白いんだけどなぁ」

「馬鹿言うなよ。この世の最後に現れる王なんて言われてるヤツだぞ。叩けるときに叩いたほうがいいに決まってる」

 『まつろわぬ神』の権能は、その神に纏わる伝説によって決まる。ならば、この世の最後などという表現が使われる神の権能が、どのように影響するのか皆目検討がつかない。本来の力を取り戻す要件は分からないが、弱っているときに消えてもらうに越したことはない。

「また、そのような乱暴なことを仰って。神様にも事情はあるかもしれませんし、きっと話し合いで解決できる部分はあると思うんです」

「んー、でも俺は、話し合いでどうにかなった事例ってほとんど経験がないんですよね」

 アイーシャが言うのももっともではあるのだが、それは人間側の感性でしかないのだろう。

 この人は護堂よりも長い時間をカンピオーネとして過ごしているから、こうした発想でよく生きてこられたなと思う。

「うん、アイーシャ夫人のえげつない戦い方はこの考え方から始まるんだね」

「えげつない?」

「あ、護堂は知らなかったのかな? アイーシャ夫人は、善良なことを言って近付いて、不意打ちにパンチを放つような戦い方をするんだよ」

「差し伸べた手の逆の手にナイフを握ってるって感じ、なのか?」

 護堂は、サルバトーレの言葉を聞いて、恐る恐るアイーシャを見る。

「そ、そのようなことはしません! 失敬しちゃいます!」

 アイーシャは憤慨してプイとそっぽを向いた。

 けれど、護堂は納得できたような気がする。彼女の性格と能力で、どうやって生き残ってきたのだろうかと疑問ではあったのだ。

 アイーシャの権能は暴走気味だということも加味すれば、サルバトーレの言うえげつない戦い方も自ずと見えてくる。

 ほわほわとした笑みを浮かべて話し合いを求めておきながら、本人の意図とは別のところで一撃必殺が炸裂する。

 使い手自身も無意識なので、当然、相手は察知できない。それをえげつないと評さずしてなんとするか。アイーシャの権能と化した『まつろわぬ神』たちも、冥府の底で憤然としていることだろう。

「どっちにしても、相手が回復するのを待つ理由がないと思うんですよね」

「えぇ、でも」

「向こうも弱っている状態なら、交渉の余地があるかもしれないじゃないですか。戦える状態なら、ふざけんなやっつけてやるとなるかもしれませんけど」

「ああ、なるほど。確かに、今のアルティオさんは戦える状態ではありませんからお話はしやすいかもしれませんね」

 弱きを討つということに若干の後ろめたさを感じていた様子のアイーシャではあったが、護堂の提案を受けてあっさりと納得してしまった。

「サルバトーレはどうするんだ?」

「君のほうこそどうするつもりなんだい? 君は一度痛い目にあっているんだろう?」

「俺はもう大丈夫だよ。痛い目は一度で十分だからな」

「ふぅん、ならいいんだ」

 サルバトーレはにやりと笑って言った。 

 好戦的な笑みだった。

 これから、狩りを始めるのだという獣の笑みである。決して、相手を思いやり誇りを持って戦う騎士の笑みとは言えないだろう。

 

 

 

 

 弱っているうちにアルティオを叩くといっても、敵がどこにいるのかは定かではない。

 傷ついているのならば、身を隠すだろう。

 護堂たちが血眼になって探したところで、本気になって隠れた『まつろわぬ神』を探し出すのは難しいかもしれない。

 しかし、そういった難題に対して意外にも力を発揮したのはアイーシャだった。

「わたくしには幸運のご加護がありますから」

 とのことだが、これが凶悪だ。

 アイーシャの目的を運命すら操って達成させようという指向性のある力とでもいうのだろうか。

 アイーシャがアルティオに出会いたいと思って旅をすれば、自ずとのその道の先にアルティオがいる、可能性が高くなるのだという。彼女はこの権能のおかげで探しものに苦労することもないと言っていた。

 出発は正午になった。

 後四時間弱。

 各々自由に過ごし、決戦に備えるのだ。

「正午に決戦を選んだのは、正しい判断ですね」

 と執務室でリリアナが言った。

 部屋の中には縮んだままの晶と護堂がいる。

「正確には探索開始、だけどな」

「はい。ですが、相手はアルティオ。月の女神でもある冥府神です。昼と夜では、断然夜のほうが厄介でしょう」

「やっぱりそうだよな。というか、アルティオは月の女神なのか?」

「軍神としての相が強い女神ではありますが、ギリシャのアルテミスと深く繋がりのある女神でしょう。アルテミスは月の女神ですが、狩猟の神でもあり、そして熊を聖獣としますから」

「ん、ああ、そうか。どっかで聞き覚えがあるなと思ったらアルテミスか」

 ロサンゼルスでアルテミスの呪いを斬った際に、アルティオについて言及していたような気がする。残念ながら教授で得た知識は長持ちしない。すでにうろ覚えとなっていた。

「神様の属性って意外に大事なんですよね。先輩の権能も、気象条件に左右されたりしますし、似たようなものでしょうか」

「どうだろうな。でも夜の属性だからって、日中活動できないわけじゃないだろ」

「はい、そんな吸血鬼みたいな設定はないですね。もちろん、原典で太陽の下に出られないとなっていれば別だと思いますけど」

 晶は椅子の上で足をぶらぶらとしながら言った。

 小さな身体を堪能しているかのようではある。もう、元に戻ることもできるだろうに。

「高橋晶。あなたは、姿、というか年齢を自由に変えられるのか?」

 と、リリアナは尋ねた。

「どうでしょう。多分、わたしが経験したことのある年齢じゃないと難しいかと。具体的には十五歳までで、それ以上はダメでしょうね。枠の問題で」

「枠?」

「枠です。型とも言えますが、まあ、わたしの大本の都合です」

「そうか」

 それ以上、リリアナはこの件には触れなかった。

 十代中頃で成長を止めてしまった晶に、この話題を続けるのは酷だろうと判断したのだろう。

「先輩、リリアナさんに教授してもらったほうがいいんじゃないですか?」

 突然、晶がそんなことを言った。

「いきなりだな」

「そ、そうだぞ高橋晶。大体、わたしは別に、なんというか、その」

 口篭るリリアナはちらちらと護堂のほうに視線を投げかける。

 白い肌が、若干ほんのりと紅くなっている。

「わたしはアルティオの解説できませんし。勝率を上げるには、やっておいたほうが無難かと」

 晶の言うことはもっともではある。

 相手はアルティオだけではなく、最強の《鋼》に加えて風の《鋼》もいる。アルティオ以外は正体不明であり、アルティオも手負いとなればウルスラグナの権能も大きな活躍は期待できないだろうが、それでも手札は大いにこしたことはない。実際に使うかどうかは本番で決めればいいのだ。

「しかし、高橋晶。先日と言っていることが妙に違うような気がするんだが、何かあったのか?」

 リリアナは馬車での一件を思い出して、尋ねた。

 晶は護堂を好いている。

 リリアナがする教授の必要性を理解してはいるが、感情的には受け入れがたい。

 そういった態度だったはずだ。

「え、いや。だって、先輩には頑張ってもらわないとだめだし……それに、わたしは、いや何でも」

 と、今度は晶のほうが口を重くする。

 何だ、とリリアナは首を捻るが晶の外見が外見なので強く言うこともできない。からかうというのは、基本的にリリアナの発想にはなく、まして子どもを相手に無理矢理口を割らせるのはありえない。それが見た目だけだとしてもだ。

「それで、リリアナはいいのか?」

「え、あ、はい。王がそうせよと仰るのならば、従うのも騎士の務めですから」

 と、生真面目に言う彼女の頬は紅いままだ。

 言葉を操ることで、自分の気持ちを落ち着かせようとしているのが見え見えである。

「分かった。じゃあ、リリアナに頼む」

「う、はい」

 ぎゅ、と拳を握ってリリアナは緊張の眼差しで護堂を見る。

 勝利のために必要となれば、護堂に躊躇はない。

 リリアナが許可をしたことで自制の意味もなくなり、彼女の小さな身体を抱き寄せて唇を重ねる。

 古代の世界に来たことで、より野性味を増したというのか。

 ウルスラグナの権能を使用するのに必要となれば、言い訳のしようもなく護堂は求めてしまう。それが戦士の気質というものだろうか。

 リリアナも身体の力を抜いて、護堂を受け入れる。

 むすっとした晶の前で交わされる熱烈なキスとアルティオの知識が、護堂の右手に熱をもたらすのだった。

 

 







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古代編 19

 太陽が中天に差し掛かったころ、三人の神殺しは共にコロニア・アグリッピナを出た。

 恐るべき大敵を前にして、三人の顔には余裕があった。

 緊張感を持ちながらも、決して未来を悲観しない。戦い自体はなるようにしかならないと、達観している風でもあった。

「へえ、これが護堂の新しい権能か」

 黒く燃える水墨画の馬車の荷台に乗り込んだサルバトーレは、感心したように言った。

「ホウドウだったっけ。日本の神様の権能なんだろう?」

「何で知ってるんだよ。後、アイツは神様ってわけじゃない。『まつろわぬ神』ではあったけどな」

「それは報告書を読めばね。今時、神様と戦えばすぐに世界中に情報が出回っちゃうのさ」

「それは分かってるけど、あんたは上手く誤魔化してただろ。ヌアダとジークフリートの権能以外は基本的に口外してこなかったじゃないか」

 サルバトーレは四柱の神を弑逆して権能を簒奪したということは知られていたが、どのような権能を簒奪したのかという点については徹底的に情報を秘匿していた。

「護堂だって、未だに化身系の発動条件とかは知られてないだろ。似たようなものだよ」

「そんなことないだろ」

 どんな権能を持っているのかすら謎であるのと化身の発動条件が知られていないのとでは雲泥の差がある。

 サルバトーレの残り二つの権能のうち一つはすでに体験済みだ。もう一つは原作知識もあって何かは知っている。とりあえず、護堂に悪影響はまったくない。

「お二人とも分かり合っているんですね」

「まあ、僕と護堂は永遠の好敵手ってヤツだからね。お互いにより高みに臨むため、意識しあっているのさ」

「そうなのですか? それは、またすばらしいことです。熾烈な戦いの中ではぐくまれる友情ですか。戦いはよくありませんが、切磋琢磨という点では大切ですよね」

 サルバトーレが的外れなことを言うものの、アイーシャはそれを頭から信じて仕切りに頷いている。困ったことに、このアイーシャという女性は「仲がいい」と感じられるものを全肯定してしまう。護堂がサルバトーレに斬り殺される可能性について、まったく考えようともしない。カンピオーネでありながら、恐ろしいまでに思考を争いに結び付けないのである。

「こういう人がカンピオーネになるからなぁ」

「何ですか?」

「いえ」

 アイーシャはきょとんとして護堂を見るが、護堂は苦笑いを浮かべて曖昧に誤魔化す。

 戦いから無縁そうな思考、性格をしているのに、カンピオーネなどという修羅の道に足を踏み入れ、百年近く生存している。それは、極めて驚異的なことだろう。

 むしろ、こういう性格だからこそアイーシャは面倒事を引き寄せるのだろう。

 引き寄せるというよりも、飛び込んでかき回すといったほうが近いか。

 とはいえ、今回はその飛び込んでいく才能にこそ期待している。

「この馬車、アイーシャさんの思った通りに動くようにしているので、アルティオ探し、よろしくお願いします」

「はい。お任せください。無益な争いを止めるためにも、早く説得しないとダメですよね」

 にこやかにアイーシャは馬車を走らせた。

 全員が荷台にいて、御者はいないという不可解な馬車だがアイーシャの思念と連動して平原を駆け出した。

 アイーシャが持つ幸運の加護の権能は、彼女が求める結果を最短で導き出してくれる。旅をするにはうってつけであり、もの探しにも効果覿面だ。相手が『まつろわぬ神』なのでどうかとも思うが、むしろカンピオーネと『まつろわぬ神』の因縁を考えれば、思いのほか容易に出会えるのではないかとも考えられる。

「振動もなくて、乗り心地のいい馬車ですね」

「この時代の馬車はガタガタいって酷いですからね。さすがに、権能で作ったこいつとは比較にならないですよ」

 護堂の生み出した水墨画の馬車は地面に接していないかのように滑らかに進んでいる。整備されていない平原は、湿地であったり、大小様々な石が落ちていたりと馬車に乗っていれば尻を傷めるような悪路以外の何ものでもないのだが、護堂の馬車はそういった路上の問題をすべて存在しないかのように進んでいる。

 おまけにその速度は、競走馬の全力疾走を軽く凌駕する。

 背後に消えていく景色。

 特に代わり映えのしない同じ景色なので感覚が鈍くなるが、速度そのものも高速道路を走る自動車くらいは出ているのである。

「それで、アイーシャさん。アルティオは見つかりそうですか?」

 護堂は尋ねてみた。

 馬車が走り出して、小一時間が経ったころだろう。サルバトーレは暇を持て余して居眠りを始めている。

「そうですね。うーんと、分かりません」

 てへ、とアイーシャは舌を小さく出して笑う。

「ええ、まあそうですよね。そう簡単にはいきませんよね」

 少しばかり当てが外れて残念ではある。

 もともと、何の手掛かりもない捜索だ。アイーシャの権能頼みであったため、それがダメとなると代案がない。リリアナに頼んで魔女の力で探してもらうというのもあるにはあるが。

 などと考えているときのことである。

 北方の地平線に、黒い熊の群れが現れたのだ。

 恐るべき巨体だった。以前、フランク族と戦っていた熊よりもさらに巨大で、大きいものでは二十メートルにはなるのではないか。

「当たりを引いたみたいですよ、アイーシャさん」

「そのようですね」

 笑みを浮かべてアイーシャは頷いた。

 全身に力が漲ってくるのは、『まつろわぬ神』が近くにいる証拠である。

 『まつろわぬ神』もまた、カンピオーネを察知する能力を有する。アルティオに至っては、世界中にいるカンピオーネをつぶさに観察するほどの感知能力を持っているようだった。であれば、当然ながら三人ものカンピオーネが纏って進軍している状況を理解できないはずもない。アイーシャの幸運が、「運よく」アルティオの感知網をすり抜けて彼女の間近にまで至れたのか、それともアルティオ側が逃げも隠れもしないと意気込んでいるのかは分からないが、目と鼻の先に決着を付けるべき相手がいるのは敵も味方も正しく理解しているところであった。

「うーん、よく寝た」

 サルバトーレがもぞもぞと動き出した。

「おい、緊張感がないな。いるぞ、アルティオが」

「分かってるって。でもさ、いつも通りでいいだろう。僕は毎回こんな感じさ」

 余裕を崩すこともなくサルバトーレは言い切る。適度に肩の力を抜いた彼は、しかしすでに抜刀の体制を整えているように感じる。両手は空で、柄に手を添えているわけでもないが、事あれば一秒とかからずに剣を抜けるだろう。

「そうだ、護堂。一つ相談があるんだけど」

「こんなときになんだよ」

「君、剣をいくらでも出せるんだろ。一本、僕に使わせてくれないかな?」

 サルバトーレは棒切れでも名剣の如く使いこなせるのが一流、などと言うスタンスの剣士ではなかったか。

 彼が身に帯びている剣も、斬れはするものの、名剣とは言い難いただの剣である。呪術的な加工が施されているというわけでもない。それは、彼の権能が如何なるものも両断する切断能力を付与するものだからであり剣の性質の如何を問わず必殺魔剣となる。よって、剣にわざわざ加工を施す必要もないのである。一方で、護堂の権能で生み出される刀剣類はすべて神具としての性質を有し、人間の手では一生かかっても作り出すことはできない最高峰の呪術アイテムである。同じ剣であっても護堂とサルバトーレでは「剣」に対する用途と目的意識が決定的に異なっている。

「あまり意味はないと思うけど」

 意味があるとすれば、攻撃ではなく防御の面だろう。少なくとも神具である護堂の剣はサルバトーレの剣ほど脆くはない。武器を破壊されるという可能性は抑えられる。

「ほらよ」

 護堂は手早くサルバトーレの剣と同じ形状の剣を作り出し、投げ渡した。膨大な呪力を内包した神剣は、サルバトーレの既製品を棒切れのように思わせるだけの完成度と力を持っている。美しさはないが実用的な美は兼ね備えている。

「うんうん、これなら百人力だ」

「何がしたいんだよ」

「二つの権能を合わせたら強そうだろ?」

「漫画みたいに上手くいくかっての」

 そう言いながら、護堂の能力には複数の権能を融合させて新しい能力を発現する天叢雲剣があるので強くも言えない。

 実際に、これでサルバトーレが強くなるのならば儲けモノである。こちらの負担は大きく減るのだから。

 馬車を止めて降りてから、護堂は権能を解除した。霞にでもなったかのように、強烈な存在感を醸し出していた馬車は姿を消してしまう。

 さて、と護堂は顔を上げる。

 二百メートルほど先に、大地の女神が立っている。

「アルティオか」

 サルバトーレに斬られたという傷は、まだ残っている。再生能力を阻害するサルバトーレの魔剣の力もあるが、あの傷を治せないくらいに女神の力が弱まっているという証だろう。

 「息子」の名代に命を分け与えた影響が出ているに違いない。

 それでも、大地の女神の力は本物だ。

 従えるは百を越える大熊で、唸り声の大合唱は並の戦士の戦意をそぎ落とすほど恐ろしい。

 その大熊が、アルティオの合図もなしに襲い掛かってくる。先手必勝を期してのことか、涎を撒き散らし、屈強な肉体と爪と牙で護堂たちを食い物にしようとしている。

 そのような中で進み出たのはアイーシャだった。

「お願いです、落ち着いてください!」

 その声は草原を吹き抜ける風に流れて消える程度でしかなかったが、強烈な魅惑の呪力が篭っていた。

 このお願いがアルティオの眷属に効いた。

 人間を相手にするほどの効能は得られないが、戦いに狂っていた大熊が沈静化し、その歩みを止めてしまう。

 百を越える猛獣の群れを一瞬にして手なずけるという神技も、権能ならではの不条理であった。

「ほう、我が眷属を言葉一つで……これは、妾に対する挑戦と受け取るべきよな」

「ち、違います。わたくしは、あなたに挑戦しにきたわけではありません」

 ニヤリと笑うアルティオに慌ててアイーシャは言った。

「では、何ゆえにここに来た。後ろの神殺しは武具を手に携えておる。我が息子とその配下ともども決着を付けに来たということであろう?」

「そうではありません! わたくしはあなたと友だちになりに来たのです! 不毛な戦いは止めにしましょう。戦ったとしても、何も残らないではありませんか! 徒に血を流すことはありません。どうか、言葉を交わし、友好を結びましょう」

 アイーシャはアルティオに向けてさらに進み出て、真摯に言葉を投げかける。護堂やサルバトーレと異なり、彼女は本当にアルティオと戦う意思は持っていなかったのである。

「ふむ、なるほど。神殺しでありながら、妾との交友を望むか。珍しいことではある」

「あ、はい。そうです。戦うなんて野蛮なことはなしにしましょう。未来志向で、手を取り合って進むこともできるはずです」

「手を取り合う、か。だがな、神殺し。無害を装い妾の懐に入り込まんとするは見事ではあるが、聊か逸り過ぎたな。妾を篭絡することはできぬよ。その魅了の毒は貴様の権能であろう。大した役者だ。誉めてやろう」

 アイーシャの笑顔や声には魅了の力が宿る。それはアルティオにも届いていたのだろう。だが、彼女は曲がりなりにも『まつろわぬ神』の一柱だ。呪力への耐性は眷属の大熊とは比較にならず、アイーシャに魅了されることもない。

 そして、彼女からすればアイーシャはにこにこと笑って無害なふりをしつつ、媚薬を嗅がそうとした不埒者でしかない。

「あの、いえ、そんなつもりではなくてですね」

「いや、責めているわけではない。戦に於いて詐術も重要……正面から戦うことしか知らぬ神殺しにしては珍しいと感心するくらいじゃ。とはいえ、狩りの神にして軍神たる妾は正面から返礼するしかないな。芸はないが、これも戦と思うがいい」

 などと言って、アルティオは呪力を迸らせた。

 アイーシャの言葉にアルティオは力で応えるつもりなのだ。

「あの、そうではなくて、違います! 決してそのようなつもりでは……!」

 アルティオの呪力は瞬く間に沈静化していた大熊たちを奮起させた。アイーシャの呪縛から解き放たれた大熊は、獰猛に唸り、猛り、襲い掛かってくる。

「交渉決裂かい? なら、ここから先は剣の出番だね」

「アイーシャさんは下がってください!」

 大人しく静観していたサルバトーレは護堂の神剣を振りかざして駆け出した。大熊には目もくれず、アイーシャを目掛けて疾駆する。

 護堂はサルバトーレを追いかけることはせず、向かってくる大熊に無数の神剣を乱打した。

 降り注ぐ剣の数々に近接戦しかできず、肉体一つで戦いに出る大熊はなす術なく貫かれて倒れていく。打ちのめされた大熊を乗り越えて次の大熊が進み出る。

 戦場に描き出された地獄絵図にアイーシャは項垂れて、

「麗しの乙女よ、恐るべき秘教の門を開け給え」

 咄嗟に聖句を唱えていた。

 それはペルセポネの春の権能を反転させる禁呪であった。

 今、護堂の剣によって大熊の突進は押さえられ、サルバトーレの疾走によってアルティオの視線はアイーシャから外れた。

 直感的に、これはまたとない好機であると判断してしまったアイーシャは、ついつい呪力を放出する。

 速やかに反転を終えたペルセポネの権能は豊穣を約束する春の力から冷酷で凄惨な冬の猛威を再現する。吹き込む風は肌を刺すように冷たく氷、大地は大きくひび割れて奈落に続く大穴を作り出す。

「うおあ!」

 危うく巻き込まれそうになったサルバトーレは飛び退いて地割れから逃れた。護堂は幸いなことに効果圏外だったらしく巻き込まれる心配をする必要はなかったが、その分だけ地獄絵図を目の当たりにすることとなった。

 割れた大地に吸い込まれるようにして大熊の群れが引きずり込まれていく。

 落下とはまた違う。指向性のある重力のようなものが大熊を捕らえて奈落の底に引きずり込んでいるのである。

「これが、ペルセポネの権能だって……」

 もはや唖然とするほかない。 

 一撃必殺どころの話ではなかった。直撃を食らえば、護堂もただでは済まないだろう。これほど大規模な攻撃を、戦意の欠片も見せずに唐突に発動するのだからえげつないと評されるのも分かる。

「口では友好条約を結ぼって言いながら核をぶち込むようなもんだぞ、これ」

 さらにはアイーシャ自身は生存能力が非常に高いというのが厄介だった。

 これを生き延びて反撃しようにも、アイーシャを補足するのが難しい。

 冬の地割れはさらに大きさを増していき、ついにはアルティオを飲み込まんとする。

「冥府神の力か。小癪なものを」

 アイーシャの権能に対して、アルティオは呪力を振り絞って耐えた。大熊のように簡単に飲まれることがなかったのは、彼女もまた冥府神の系統に属する女神だからだろう。属性が同じために、効果が薄いのだ。やはり、大地の女神を相手にするのならば、《鋼》に属する権能が効果的だ。

「今のうちに!」

 護堂は身動きを制限されたアルティオに向けて、言霊の剣を投げかける。

「女神アルティオは俺たちがスイスの名前で知る地域――――ヘルベティアで暮らしていたケルト系民族ヘルヴェティイ族が崇めた大地の女神だ。狩猟の神であり、冥府の女王であるアルティオは、ギリシャのアルテミスと深く繋がる神格で、その名は熊を意味する。ケルト人にとって熊は戦士の代名詞だった。アルティオが軍神となるのは、熊を聖獣とする女神だからだ」

 黄金に煌く星の刃が、アルティオに殺到する。

 神々の来歴を解き明かし、その神格を斬り裂く神殺しの言霊はあらゆる神々に対して猛毒となる。無論、弱体化したアルティオならば、一撃で葬り去ることも不可能ではない。

 落ちる流星のように大気の壁に軌跡を描き、アルティオ目掛けて飛んでいく言霊の刃は女神が生み出した石と土の防壁をバターのように斬り裂いていく。

「な……!」

 目を丸くして言葉に詰まるアルティオは回避する間もなく黄金の刃の餌食となる――――その未来を覆したのは、颯爽と飛来した青と白銀の刃であった。

 無数と評するに値する黄金を、白銀に輝く剣の一撃が蹴散らした。地響きすら伴い、形勢をたったの一振りで覆すかのように強大な力。

「最後の王か」

 護堂は唇を舐める。

 先入観から臆した先日とは違う。

「サルバトーレ、出たぞ!」

「よし来た!」

 嬉々としてサルバトーレが最強の《鋼》に向かっていく。その進軍を留まらせたのは鉄の竜巻だった。

 初めて見る怪異だった。

 鉄の臭いをばら撒く竜巻はサルバトーレの前に躍り出るや、内部から多種多様な剣戟を放ってくる。風を纏った軍神が、刀剣の高速回転で攻撃していると護堂が理解するまでの僅かな時間でサルバトーレと竜巻は二〇合も刃を交わしていた。

 サルバトーレの剣は一振り、対する軍神の剣は渦巻く旋風によって巻き上げられた土埃で見えないが複数本あるように見える。あるいは、そう錯覚させるほどの高速連撃か。いずれにしてもその驚異的な技量に剣一振りで食らいつくサルバトーレの技の冴えはいつか戦ったときよりも鋭くなっているようにも思えた。

 護堂の神剣をさらにヌアダの権能で強化したサルバトーレは白銀に輝く腕を振るう。斬撃は軍神の剣を斬り落とし、さらに竜巻を半ばから断ち切った。この世に斬れないものはないと豪語するサルバトーレの絶大な殺傷力の具現である。

 と、斬り裂かれた竜巻から飛び出てきたのは人型の『まつろわぬ神』だった。全身を包帯で覆い隠し、面を被るという徹底振りである。最強の《鋼》はその名と正体を秘匿しているというが、主も主ならば部下も部下だ。

 飛び出た風の軍神は、空中で反転しながらサルバトーレを斬り付ける。甲高い金属音が鳴って、軍神の剣が弾かれた。

「ふ――――」

 軽く吐息を漏らしたサルバトーレは無造作な刺突を放った。最小の動きで最大の効果を発揮するよう、心臓を目掛けて突き出したのである。

 その剣を軍神は手の平で横から叩いて逸らす。

 火花と鮮血が咲き乱れる。 

 サルバトーレの刺突は軍神の脇腹を掠めたものの、突き刺さるには至らなかった。それでも、あらゆるものを斬り裂く権能が発現しているために、刺し貫かれなければならないはずだったが、軍神の肉体はサルバトーレと同じく《鋼》の守りを持っているらしい。結果として、浅く傷を付けるだけに終わった。

「へえ、僕と同じタイプの権能か。でも――――」

 ひゅんひゅんとサルバトーレは剣を振るう。無謬の技を繰り出した剣士に風の軍神はステップを踏んで回避に専念する。

 同格の防御力を持っていても、攻撃性能ではサルバトーレに軍配が上がるのか。殴り合いになれば、必殺の一撃を持つサルバトーレが優位に立てるようだ。

「と、眺めてる場合じゃないか」

 サルバトーレと軍神の戦いの最中に、神速で大地を疾走する白銀の戦士がいる。

『弾け』

 護堂はガブリエルの言霊を迫る剣士に叩き付ける。ほんの一瞬だけ、剣士の動きが緩んだ隙を見て刀剣を三〇挺も生み出して叩き付ける。四方八方から軍神を包囲して、串刺しにしようというのである。

『縮』

 トン、と護堂はアイーシャの襟元を掴んで背後にジャンプした。空間を圧縮して、一歩で百メートルを飛び退いた。一瞬の後には、目の前に巨大なクレーターができているではないか。

 銀色の閃光は音もなく大地を抉って見せた。ランスロットが振るった光と同等かそれ以上の力である。

「やっぱり一撃が重過ぎる相手ってのは、面倒だな」

 護堂の剣を撃ち落すだけでなく、護堂とアイーシャを丸ごと討ち取ろうとしたのである。

「アイーシャさん。大丈夫ですか?」

「は、はい、何とか……」

 アイーシャは一瞬にして景色が飛んでしまったので困惑しているらしい。

「俺はアイツをやりますので、下がっていてください」

 護堂はそう言って、右手に呪力を集める。

「天叢雲剣、頼むぞ!」

『応ッ』

 強大な《鋼》が敵となったことで、天叢雲剣も本格的にやる気になったようだ。

「千の竜と千の蛇よ。今こそ集まり、剣となれ!」

 晶からの呪力補助もあり、解き放たれた大質量の重力星は恐ろしく巨大で空を覆わんばかりである。強すぎる重力が、光を捻じ曲げて空に浮かぶ雲の象すらも歪んで見える。

 超重力星はそのまま最強の《鋼》に向かって落ちて行く。大地に近付くごとに重力は強くなり、アイーシャが生み出した地割れはさらに大きく深くなり、崩れた岩盤が捲れて吸い上げられている。

 それは、あたかも世界の終わりにも似た光景だった。

 護堂はサルバトーレとアイーシャを重力の効果圏外に設定するように操作しつつ、アルティオと最強の《鋼》を纏めて薙ぎ払うように重力星を叩き落す。

「つ、く……大地の精よ、妾と息子をこの地に引き止めよ!」

 アルティオが大地の加護を祈る。重力に対抗して、地に足をつけるための言霊だろう。さらに空から落ちてくる大質量に対しては最強の《鋼》が対応する。煌めく剣の切先から放たれる白銀の稲妻が、黒き重力星の失墜を圧し止める。

 強大なエネルギーのぶつかり合いが、世界を軋ませる音が響き渡る。

 力と力が空で衝突する。その直下では、サルバトーレと風の軍神が技と技を競っていた。サルバトーレは重力の標的外であるが、風の軍神はそうではない。通常ならば恐るべき重力の影響を受けて大なり小なり動きが鈍るものであるが、彼の動きにはその影響はまったく感じられなかった。重力の枷に左右されない変幻自在の風の神だからこその芸当であろう。

『王よ、来るぞ』

「ああ、上は任せるぞ」

 重力星の制御を天叢雲剣に任せて、護堂は右手に剣、左手に楯を呼び出した。

 最強の《鋼》は白銀の光を維持したままで神速に突入し、護堂の眼前に迫ってくる。ランスロットですら必殺の武具としていた聖なる剣の光を無造作に放つのみならず、放ちながら別の行動が取れるというのはそれだけ彼の能力が高いことを示している。

 だが、一つ護堂は安心した。

 どうやら最強の《鋼》は白銀の光を同時に複数発使うことはできないらしい。できているのならば、今頃この辺り一帯は灼熱と光に埋め尽くされている。

 が、それは護堂も似たようなもので、重力星を維持している以上、大威力の攻撃は使えない。火雷神も大雷神も使用は控えなければ、重力星の威力が弱まってしまう。

 ならば、敵と同じく近接戦に打って出るしかない。

「アテナ、頼むぞ」

『ついに彼奴とめぐり合ったか。あなたが、この道を行くのならば、最後に立ちはだかるのはあの軍神で間違いないとは分かっていたがな』

 アテナから授かった力を使う。女神の英雄を導く力で勝機を掴み取るのである。迫る軍神の刃を、護堂は楯で受け止める。さらに剣で軍神の首を狙って袈裟切りに斬り付ける。楯を目隠しに使い、影から相手の虚を突いたのだが、さすがに簡単に受けてはくれない。最強の《鋼》は半歩下がって護堂の斬撃を避けた後、返す刀で上段から剣を振り下ろしてくる。

「く……!」

 歯を食い縛って楯で受け止める。バチバチと白銀に染まった火花が接触した箇所から飛び散っていて、刀身そのものが非常に熱を帯びているのが分かる。

 だが、気圧されることもない。気持ちの問題は乗り越えた。アテナの導きがある今、接近戦であっても後れは取るまい。

『知ってのとおり、彼奴は万全ではない。あの《鋼》は女神の命と大地の精気を糧に力を得る。アルティオは自らの命のすべてを捧げるほどの覚悟はなかったと見えるな。もっとも、命の大半を失った状態のあやつでは《鋼》の刃を完全に鍛えることなどできはしなかっただろうがな』

 視界の隅でアイーシャとアルティオが睨み合っている。大熊の支配権はアルティオにほとんど奪われた状態ではあるが、アイーシャは別に巨大な鎧の怪物を召喚して戦争状態に突入してしまっていた。自らが倒れればフランク族に危害が及ぶと、事ここに至って戦う覚悟を決めたのだろうか。

 少しばかり、そんなことを考えていたら目の前で再び火花が散った。

 白銀の剣が護堂の楯の表面を削ったのである。

 アテナの軍神としての力を護堂の身体で再現する。楯はアテナの象徴であり、楯と剣による戦いこそが女神アテナの真骨頂。最も得意な戦い方で、最強の《鋼》と鎬を削る。

『古の地母神が批准し、神殺しを殲滅する……盟約の大法を彼奴はまだ使えぬはずだ。アルティオが余計な手出しをする前に畳み掛けるべきだ。攻め立てよ』

「盟約の大法か。あの白銀の光以外にも奥の手があるのかよ……!」

 半ばショックを受けながら、護堂は前に踏み出した。最強の《鋼》の動きに合わせて、彼とすれ違うようにその脇をすり抜けつつ、回転を加えて斬り付ける。

 はらり、と最強の《鋼》の前髪が風に舞った。

「まず一発入ったな」

 剣の調子を確かめるように柄を握り直し、楯と共に構え直す。

「見事な腕前だ、少年。しかし、解せない。君とは昨日戦ったばかりだが、これほどの武術に精通しているようには見えなかった。よければ、種を教えて欲しいところなのだが」

「お前、喋れたのかよ」

「口数は多いほうではないから、そのように誤解されることもあるだろう」

 涼やかな声色だった。

 精悍な顔立ちの高貴な身分の青年といった印象の軍神だった。それまで護堂が出会ってきた軍神は多少なりとも戦いに酔っているところがあって、荒々しさが言動の端々に滲み出ていた。所謂まつろわぬ性というものに侵されて、神話とは異なる荒ぶる神となっていたのである。ところが、この最強の《鋼》にはそれを感じない。《鋼》でありながらも戦いを倦み、嫌う。己の運命に疲れきった男の顔だった。

「それで、僕の問いには答えてもらえるのだろうか?」

「あんたの名前を教えてもらえるのなら、考えてやってもいいぞ」

「それはできない相談だ。すまないが、僕の名は軽々に口にしてよいものではない、とされている」

 その言い分は、どこか自分の運命を他者に委ねているような響きを感じさせた。名前のことも、誰かに命じられているとでもいうようだった。

「いろんな神様から応援されて、神殺しの殲滅活動か。あんたも大変だな。いい加減、疲れたんじゃないのか?」

「君たち神殺しの豪傑は、いつの世も何かしらの影響を世界に与えてしまう。天上の神々としては、捨て置けないのだろう。僕に与えられた使命も、世界の命運を左右するものだと思っている」

「別にあんたでなくても『まつろわぬ神』ってのは皆強いから、ほかのヤツに任せてもいいと思うけどな」

 事実、神殺しよりも『まつろわぬ神』のほうが格上だ。

 神殺しが生き残れるのは『まつろわぬ神』よりも強いということではない。単に、その時その時の運がいいというだけである。

「君の言も一理ある。中々難しいが、今後の参考にはさせてもらおう」

 そう言いながら、最強の《鋼》は剣を構えた。

 中段の構えである。

 アテナの剣術を警戒して、攻撃にも守りにも使える臨機応変の構えを取ったのだ。

 一方の護堂は楯を全面に押し出しつつも攻勢を仕掛けた。

 ガブリエルの権能による空間圧縮で軍神との距離を零にして、楯を使った高速体当たりを敢行する。待ち受ける軍神は剣を水平にして楯の中心を突く。

 激しい金属音。

 ここで、目を剥いたのは軍神のほうであった。

 白銀の剣が予想以上に容易く楯を貫いたからである。

『固定』

 小さく命じる護堂に従って、楯がその場に縫い止められた。楯を置き去りにして、護堂は生身を曝す。剣の柄を両手で握り締めて、軍神に斬りかかる。

「なるほど、そうくるか!」

 軍神は剣を引こうにも固定されて動かず、かといって手を離せば最大の武器を失うことになる。究極の選択の中で軍神は咄嗟に刀身から白銀の光を解き放った。

 極大の光を回避することができたのは、慣れ以外にはないだろう。この状況では、彼がこう出ると予想して、逃走の準備もしていたからこそ蒸発させられることもなかった。

『あの光を使った以上、空の光は弱まる。この機を逃すな』

 空の打ち合いで天叢雲剣が発する黒の光が優勢になる。白銀の光が押し潰されるようにして、徐々に落下しているのである。

「分かってるよ」

 護堂は唇を舐めて、剣を構えなおした。

 重力星の力も大分落ち着いてきたと見える。白き太陽を喰らい付くし、地上に落とせば護堂のほうに勝機が見えてくる。

 とはいえ、地上の軍神もどうにかしなければならないことに変わりはない。

 アテナの力が効果を失うまでの間で、何とか決着を付ける。

 護堂は天叢雲剣を持って、軍神に向き合った。

 どちらともなく、足を踏み出す。神速の権能を駆使する軍神を前にすれば、彼我の距離など何の意味も持たない。護堂はガブリエルの直感とアテナの技量の限りを尽くして最強の《鋼》の動きを見切り、斬り返す。漆黒の斬撃は、空の重力星から零れ落ちた程度の出力しか持たないものの、それでも威力としては十二分である。

 黒と白の剣が、地上でも火花を散らした。

 両者共に空に呪力を使っているために十全に威力を発揮できていない。それが分かっているからこその近接戦だ。恐らく、護堂も最強の《鋼》も条件は同じに違いない。

 ならば、斬り合いにこそ活路を見出すべきだろう。

 遠距離での射撃では、どうあがいても勝ち目はない。それはランスロットとの戦いで十分に理解しているところであり、本調子ではない状態で重力星と拮抗する光を放てるという時点で出力に差がありすぎる。

「我は最強にして、全ての勝利を摑む者なり。全ての敵と、全ての敵意を挫く者なり」

 斬り合いの中で、ウルスラグナの聖句を口ずさむ。

 あらゆる障碍を打ち砕き、勝利をもたらす軍神の権能。

 ウルスラグナの言霊の力はまたの名を戦士の化身とも呼ばれ、その力は眼前の敵の詳細な観察眼を護堂に備えさせてくれる。ここにアテナの力が加わることで、護堂は瞬間的に超一流の戦士として戦いに没頭できるようになる。

 刃と刃が削り合う。

 共に《鋼》を謳う鋭い神剣である。どちらに軍配が上がるということもなく、剣戟の音を響かせ続ける。

 その最中、護堂は心の奥底で仲間に思う。

 ――――頼むぞ、晶。

 

 

 

 そして、護堂の期待を受けて戦場に足を伸ばしたのは、護堂の式神である高橋晶だった。

 空には重力の嵐と拮抗を維持する白銀の太陽があり、地上は神殺しと神々の総力戦という地獄絵図だ。どこからともなく飛んでくる流れ弾に当たるだけで、常人は愚か神獣ですら蒸発してしまうのではないだろうか。

 穿たれた大穴は十を越え、地形もまっさらな平原はいつの間にか凹凸の目立つ地形に変わってしまっている。

「まったく、傍迷惑な人たちですね」

 と、晶は呟きながら可能な限り気配を消して戦場に近付いていく。

 彼女の手には大きな槍が握られている。

「我は最強にして、全ての勝利を摑む者なり。全ての敵と、全ての敵意を挫く者なり」

 狙うはアイーシャと獣を挟んで対峙する大地の女神。

 護堂の命に従って、横槍を入れさせてもらう。

 遊撃こそが晶の役目である。

 ウルスラグナの聖句を唱え、黄金の呪力を槍にこめた晶は必殺の呪文と共に神槍を投擲する。

「南無八幡大菩薩!」

 轟と大気が呻きを上げる。

 《鋼》の神槍が纏うのは、黒々とした式神の炎と黄金に輝く言霊の剣だ。

 その一投は『まつろわぬ神』にすら届く晶の最大威力攻撃であり、護堂が晶に託した切り札でもあった。

 自分に向かってくる強烈な神槍の気配をアルティオは察して頬を引き攣らせる。まさか、神殺しがもう一人いるという発想はなく、気配もなかった。

 晶は護堂の式神ではあるが、そうと分かって探さなければ感じることは難しいだろう。

 なぜならば、アルティオの権能を封殺するウルスラグナの言霊の力をその身に纏ってたからだ。

 晶だけが有する護堂の権能の一部を弱体化させた状態で再現する力によって、アルティオの探知能力を無効化していたのである。

 虚を突かれたアルティオはそれでも大地の女神であり軍神である。容易く敗れることはない。

「大地の精よ。妾の前に壁となれ!」

 避けるには遅いが自らの手足にも等しい大地を操る程度は造作もない。

 咄嗟に生み出した壁が三重の守りとなって、アルティオの前に出現する。が、これは悪手であった。ウルスラグナの言霊を纏った神槍は、アルティオの守りを軽々と食いつぶして女神の腹部を穿つ。胸を貫くはずの神槍が致命傷にならなかったのは、アルティオが寸前で回避しようと身を捻ったからである。

「ぐ、……が!」

 それでも晶の神槍は女神にとっては猛毒であった。

 アルティオ殺しの権能を纏う《鋼》の神槍は、その役目を終えて消えていく。残された傷口からは血と共に黄金の呪力が零れ落ちていくではないか。

「おのれ、神殺しの縁者か……! 妾の不意を突くとは!」

 してやられたとばかりに獰猛に牙を剥くアルティオは、直後目の色を変えた。

 僅かに映りこむのは、恐怖にも似た戸惑いだった。

 

 

 

 

 晶がうまくアルティオの身体に傷をつけたことで、最後の突破口を見出した。

 護堂は内心でほくそ笑み、そして天叢雲剣に命じた。

「アルティオの呪力を使え、天叢雲剣! アテナは道を作ってくれ」

『応とも。《蛇》をまつろわすのは《鋼》の宿命。刃鋭き軍神よ、貴様の力も借り受けるぞ!』

『あまり好ましいとは思わんが……勝利のために手を尽くすのは当然か。アルティオよ、運がなかったと思うがいい』

 天叢雲剣の刀身が白銀に光る。

 最強の《鋼》が目を見開くのも無理はない。その輝きは、まさしく救世の神刀が有するべき魔王殲滅の光なのだから。

 天叢雲剣は最強の《鋼》の剣を複製し、己が刀身に再現する。さらに、その能力の一部を利用して、アルティオの傷口から呪力を際限なく吸い上げる。

 これは、聖杯の機能の模倣でもある。

「あが、な、……貴様、神殺し! 妾の呪力を、ぐ、む、おのれ、ぬ、ああああああああああああ!」

 離れたところでアルティオが悶絶し、その身体を黄金の光に変化させる。 

 もともと弱りきっていた身体を無理矢理動かしていたのだ。そこに救世の神刀と天叢雲剣の《蛇》を食らい糧にする権能を受ければ当然持たない。

「我が母を食ったか、恐ろしいことをする!」

「あんたに言われたくはないな!」

 最強の《鋼》は地母神の命を奪うことで、その力を最大にまで引き上げる。大地から呪力を奪う能力に於いてはあらゆる《鋼》を凌駕しているともいう。今回は聖杯に呪力を奪い尽くされたアテナの残した智慧と導きの権能の補助があったからこそ優先的に護堂がアルティオの力を奪い尽くせただけで、本来ならば、アルティオの呪力は尽くが彼の剣に吸い尽くされていたはずだ。 

 地母神の呪力を食らったことで、能力を上昇させた天叢雲剣は白銀に輝く刀身を再び漆黒に染め直す。莫大なる重力の刃は最大出力となり、切先に一点に集中させる。

「だらああああああああああああ!!」

 魔王殲滅の勇者は堂々と受けて立つ。

 白熱の剣を突き出して、護堂を斬り捨てようとする。それを、護堂は紙一重で回避する。直感と智慧の合わせ技だ。手に入れた莫大な呪力を燃料に、黒の神剣で最強の《鋼》を斬り付けた。切先に集められた重力の波動が最強の《鋼》の肉をそぎ落とし、両断する。

 上半身の実に七割を失った最強の《鋼》はぐらりと倒れて地に伏した。

「なる、ほど。今回は、君の勝利のようだ」

「まだ、喋れるのかよ」

 空の光は消えていた。

 さすがに、身体の大半を失って実体を維持できるわけもない。

「僕ももう限界だ。やはり仮初の降臨では、君を満足させるに足る戦いはできそうにない。すまないな」

「いや、満足させてくれる必要はないし、あんたとはもう戦いたくない」

「かもしれない。が、君が神殺しとして生き続ける限りはどこかで出会うこともあるだろう。生憎と僕は、神剣さえ無事ならば蘇ることができてしまうし、然るべき手順を踏めば神剣の状態にも左右されない」

「反則だな」

 通常の『まつろわぬ神』も不死といえば不死である。彼らは世界に紛れ込んではいても本質的には神話の世界の住人である。この世での命を終えれば、再び神話の世界に戻っていく。しかし、この最強の《鋼》はほかの神々とは決定的に異なる。この世で死を迎えることがなく、蘇った場合も過去の記憶を引き継いでいる真に不滅の勇者なのである。

「なんで、そんなことを俺に教えてくれるんだ?」

「君は僕に勝利した。勝者には相応の報いが必要だろう。僕はほかの神々とは異なり、君に何の恩恵も与えられないから、せめてこの程度の情報くらいはと思ったのだ」

 律儀に答えてから、最強の《鋼》の姿が消えていく。

 薄らと陽炎のように揺らめいた後で、その存在は大気に溶けてきた。残されたのは一振りの神剣の骸だけだった。

 今回は辛うじて勝利を拾った護堂だったが、この状態でも不完全だったとなると全力の場合はどうなるのだろうか。

 空恐ろしい思いに駆られる。

 主を亡くしたためか、風の軍神も戦場から去っていく。

 神速となった彼にはサルバトーレと雖も追いつけない。ほどほどに打ち合いを楽しんだようだ。

 二十一世紀から迷い込んだ三人の魔王はやっと揃い、目下の敵もいなくなった。後は待ちに待った帰還の途につくだけだ。




やっと終わるよ古代編


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古代編 20

 ずいぶんと長い間古代の世界を旅していたと思う。実際に数ヶ月を過ごしたのだから、当然といえば当然ではあるが、この関門を現代人がよく乗り越えられたなと自分を誉めてやりたい。

 古代は古代で、慣れれば過ごすことは不可能ではなかった。滞在していたのはインフラが整備された大都市だったということもあり、また護堂自身がカンピオーネとして強靭な生命力と支配力を持っていたということもあるだろう。ただの人間だったのならば、ものの数日で音を上げていたのは間違いない。

 そういった意味でも――――

「あー、やっぱ現代は最高だな!」

「そうですね。疑いの余地なく最高です!」

「同感です。やはり、現代人の生活は捨て難い」

 過去に飛ばされた三人は古代ガリアからやっとのことで帰還を果たしていた。

 元の時代に戻ってきて、まだ三時間。しかし、そのたった三時間で、護堂たちは現代の生活の利便性と快適性を全身で享受していた。

「第一にお風呂が最高です。ローマのお風呂もよかったのですが、自由気侭に入れるお風呂は最高です」

 晶がうっとりとした表情で言った。

 晶が言うとおり、古代にもローマ風の公衆浴場はあったが、現代のそれに比べると見劣りはする。

 同じ乙女として意見を同じくするリリアナも大きく頷いて賛同した。

 風呂上りに火照った頬が、妙な色気を出している。

「ん、そういえばアイーシャさんとサルバトーレは……」

 護堂は、一緒にこの時代に戻ってきた二人のカンピオーネを思い出した。

 元の時代に戻ってきたときは確かに一緒にいたのだ。

 古城のホテルに戻ってきた際には二人のカンピオーネも一緒にいたはずである。

「アイーシャ夫人はレストランでお食事中よ。あと、サルバトーレ卿はお付の方に折檻を受けているところね」

 黄金の獅子を思わせる髪の少女がそう告げる。

「エリカ、久しぶりだなぁ」

「わたしからすれば、ほんの一日ぶりよ。あなたたち、いったい何日向こう側にいたの?」

 護堂の口振りにエリカは不思議そうに尋ねてくる。

「何ヶ月か、だな。この時代では一日でしかないのか」

「逆リップ・ヴァン・ウィンクルか逆オシーンといったところなのかしら。ずいぶんと貴重な経験をしたのね」

「貴重は貴重だったな。ああ、アレクサンドルが探してた最後の王ってヤツとも戦ったし」

「それ、本当? よく生きてたわね。地上のカンピオーネを殺戮する神様だって触れ込みのはずだけど」

「相手が本調子じゃなかったからな」

 エリカはリリアナに比する才媛である。

 さすがに騎士の中で最高峰というわけにはいかないが、同世代では突出した逸材である。呪術という点では魔女のリリアナには及ばないが剣術や智慧でそれをカバーする。彼女が真に力を発揮するのは、政治的な駆け引きにおいてであった。

 そういったこともあり、アレクサンドルが何を求めて騒動を起こしているのかという点についても熟知している。そういう情報が得やすい立場にあるということもあるだろう。

「それで、あなたはどうしてここにいるんだ?」

 と、リリアナがエリカに尋ねた。

「あら、わたしがここにいてはおかしいかしら?」

「いや、おかしくはないが、何か用があったんじゃないのか?」

「そうね。そろそろ護堂がアイーシャ夫人やサルバトーレ卿を気にする頃合かと思ってね」

「何故あなたが護堂さんを分かったように言うのか不思議でならないが……」

「でも、当たっていたでしょう」

「む……」

 釈然としないとばかりにリリアナは押し黙る。

 対するエリカは興味深そうにリリアナを頭の先からつま先まで眺めている。

「ま、いいわ。ねえ、護堂。そろそろ、古代の世界の武勇伝を聞かせて欲しいところなのだけど、いいかしら?」

「武勇伝? そんなもの大してないぞ。俺は、サルバトーレやアイーシャさんに振り回されてただけだし」

「でも、『まつろわぬ神』と戦ったり、古代のカンピオーネと出合ったりはしたのでしょう? 最後の王についても気になるところだし」

「知的好奇心が旺盛なのは相変わらずだな」

「最後の王についてはわたし個人の感情面の都合だけじゃないわよ。もし本当にこの世の最後に現れる王なのだとしたら、人類全体の問題になるわ。あなたが、本物と出合ったのならばその正体から探って対策を練る必要があるもの」

「ん、まあ、そうだな。つっても、どこまで探れるか分からないけど」

 最後の王あるいは最強の《鋼》と呼ばれる恐ろしい英雄神がいる。

 アレクサンドル・ガスコインが聖杯に絡めて探求する謎の神であり、はるか古代からカンピオーネと戦い続けてきた魔王殺しの勇者であるという。その力の一端を、護堂は垣間見た。未だ不完全な状態だったものの、それでも護堂と互角以上に渡り合って見せたのだ。本調子になったら、どれほどの猛威を振るうのか想像もつかない。

 確かにエリカの言うとおり、最強の《鋼》の正体が分かれば何かしらの対策は取れるかもしれない。何よりもウルスラグナの権能が使えるようになるのは大きい。

「万里谷先輩に頼んでみるのはどうでしょうか。リリアナさんも先輩も、あの神様の呪力を肌で感じたわけですし、もしかしたら当たりを引けるかもしれませんよ」

 晶が提案すると、護堂すぐに同意した。

 もとの時代に戻ってきたばかりで、そのことを喜びすぎていたが、喜びも覚めれば冷静になってくる。先のことを考えると、きちんと五世紀の経験を活かしていかなければならないだろう。

「リリアナも協力してもらえるか?」

「それは……もちろんです。あなたは王なのですから、協力しろと命じてくだされば、それでいいのですよ」

「そういうのは苦手だ。ま、今後の課題だな」

 などと言って、護堂たちは応接間に向かう。

 祐理や明日香、恵那もそこに来てもらうことにした。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 そして、体感時間では数ヶ月ぶりとなる仲間たちとの本格的な再会が実現した。

 この時代に戻ってきたときに言葉を交わしはしたが、その後は護堂の疲労を慮って距離を取っていたのである。

「それで、護堂。あんたはアイーシャさんのトンネルの向こうで大冒険したそうだけど」

「大冒険って言えば、そうだな。エリカにも言ったけど、まさか五世紀に飛ばされるとは思わなかった」

「えーと、それってタイムスリップってこと?」

 明日香は疑いの眼差しを向けてくる。

「アイーシャさんの権能は、やっぱり過去の時代に通じる穴を開けるものだったみたいですよ」

「へえ、それはまた、まあカンピオーネの権能なんだから当然、なのかしら。話には聞いてたけど……」

 明日香は理解するのも難しいとばかりに目を白黒させる。

 当然の反応ではあるのだろう。

 時間を超えるというのは、ファンタジーやSFではよくある話ではあるが、実際にそれが発生するとなると時間の連続性の点で問題が発生する。平行世界が生まれるのか、未来が変わるのか、そういったところがまったく分からないからである。アイーシャが言うには世界には修正力があるというが、それがどの程度のものなのかは護堂たちには分からないのである。

 事前にエリカからある程度の話は聞いていたが、体験してみるまでは半信半疑ではあったのだ。

「でも、カンピオーネってだけあって出鱈目な権能だね。恵那たちは、アイーシャさんって洞窟に隠棲してるって聞いてたけど、実際はいろんな時間を渡り歩くアウトドア派だったなんてね。しかも、王さまたちも体験しちゃうなんて」

「アウトドアなんてもんじゃなかったぞ。あの人の自由さ、というか腰の軽さは……」

 疲れたように護堂は言った。 

 晶とリリアナも、同調するように沈黙する。

 その三人の表情を見るだけで、五世紀で護堂たちが散々な目にあったことは容易に想像できた。

「ん、なんか護堂ってそういう星の下に生まれてきたんだって、改めて思うわ」

「止めてくれよ、本当に」

 確かに、護堂は法道を倒すためにこの世界に呼び出された存在である。それを思えば、その誕生の目的そのものからして将来の波乱を約束するものではあったのだろう。

 しかし、それは護堂の意志によるものではない。

「ですが、最強の《鋼》が最後に漏らしていたように、護堂さんがこのままカンピオーネとして生き残っていけば、近い将来彼とまた出会うのは確実です」

 リリアナの指摘に、護堂は苦い表情を浮かべた。

 カンピオーネになった時点で、『まつろわぬ神』との対立は避けられない。

 そして、『まつろわぬ神』が滅びることもありえない。彼ら、彼女らは人類の歴史と共に歩むものたちだからである。『まつろわぬ神』が滅びるときは、人類が滅びるときである。

 最強の《鋼》は人類の歴史の中で度々姿を現し、その時代の神殺しを皆殺しにして眠りに就くというサイクルを繰り返している。

 最近の目覚めは一五〇〇年前のブリテンだという。

 護堂が旅をした五世紀初頭よりも、数十年は先の話だったのだろうが、恐らくはウルディンも彼の犠牲になったはずである。

 長すぎる休眠はそろそろ破れるだろう。

 さらに数百年も眠り続けるというのは虫のいい楽観的な考え方である。

「最後の王か。グィネヴィア様がずっと探してた《鋼》の軍神だったよね」

 恵那がかつての強敵を思い返して言った。

 晶と共に敵対した神祖は、最強の《鋼》をアーサーと呼び慕っていた。結局、その目的は果たされることはなく、志半ばで死を迎えたが、彼女が求めていたものは今でも護堂たちの運命の上で復活の時は待っている。

「アーサー王だと伝ってはいましたが……」

「プリンセスアリスによると、アーサー王ではないらしいわよ」

 リリアナの言葉を受けて、エリカが言った。

 どうやら、この件について欧州呪術界で最も高貴と謳われる姫とコンタクトを取っているようだ。

「アーサー王は六年前に降臨されているの。かなり大きな事件ではあったみたいだけど、黒王子とプリンセスのご活躍で秘密裏に処理されたそうよ」

「アーサー王伝説は普及しすぎたから、伝説の中のアーサー王が出てきたってことだろう」

「ええ、そうみたいね。それで、グィネヴィア様は大層うちのめされたそうよ」

 グィネヴィアが最強の《鋼》を蘇らせるために世界を旅するのもその頃からだったという。

 それ以前はアーサー王伝説を触媒にした『まつろわぬ神』の招来に固執していたらしいが、それでは目的は達せられなかった。

 よって、眠りに就いた最強の《鋼》の所在を探し出すようになったのだそうだ。

「結局、どこの神様が最強の《鋼》なのかまったく分からないんだよな。直接戦いはしたけど、アイツは名前を明かすのは許されないとか何とか言ってなぁ」

「魔王殺しの神様と戦われて、よくご無事で……」

「悪運の強さはさすがよね」

 祐理と明日香は、護堂の異常性に頭を抱えそうになる。

 呪術業界の伝説である最強の《鋼》と戦った経験のあるカンピオーネというのは非常に珍しいのだ。最後に彼が活動した一五〇〇年前から現代に生き残るカンピオーネは皆無である。

「祐理には悪いんだけど、俺たちが戦った最強の《鋼》のことを視てもらおうと思ってな」

「あの、護堂さん。わたしたちの霊視は決して万能なものではありませんよ。託宣をいただこうと思っても、いたがけるものではありませんし。ましてや、これまで一度たりとも御名を明かされなかった神格です。非常に難しいかと思います」

「分かってる。けど、今までに何度もそれで助けられたからな」

「祐理って、なんだかんだいって読み解いてくれるから、つい頼っちゃうよね」

 恵那がニコニコしながら祐理を見る。

 恵那の言うとおりである。

 祐理の霊視の的中率の高さは世界でも最高峰なのだ。

 また、霊視を得ることができなくとも、優れた直感で危険を感じ取ってくれることもある。

 これまでの戦いの中で祐理の力が護堂の助けとなった場面は数え切れないほどであり、そういったところからも祐理の力に護堂は全幅の信頼を置いている。

 とはいえ、祐理が言うように、念じれば霊視ができるということでもない。ただ的中率が圧倒的に高いというだけであって、霊視ができないことも少なくない。まして、今回の霊視対象は古代から現代まで正体が謎に包まれてきた『まつろわぬ神』である。歴代の名のある魔女や巫女ですら、読み解くことのできなかった正体不明の相手に挑むのだから、十中八九失敗するだろうというのが当然の見解である。

「わたしも、護堂さんのお力にはなりたいのです。せめて、最後の王と縁のある物でもあればと思いますが……」

「縁のある者ね。天叢雲剣がアイツの呪力をコピーしたけど、それが使えるかな」

 と、護堂は黒い剣を呼び出した。

 天叢雲剣に残留する最強の《鋼》の呪力を祐理に視てもらう。

 ランスロットのときも、最強の《鋼》の呪力はあった。が、それとこれとは力の質が違う。本人が振るった救世の神刀の呪力は、彼に直接繋がる縁である。

「これは、確かに天叢雲剣とは異なる《鋼》の気配を感じます。かなり微弱で、ほとんど残っていないようですが……鋭い、まつろわす剣。大地から力を奪い、敵を討ち取ることを本質とする者……」

 祐理は目を瞑って、精神を研ぎ澄ます。

 それから首を振って、目を開けた。

「申し訳ありません。《鋼》の性質までは感じ取れるのですが、本質的な部分については何も」

「む、そうか。まあ、いいんだ。そんな簡単に正体を割り出せるとは思ってなかったし、当たれば儲けモノって程度だからな」

 そうは言いながらも祐理に期待していたところもあったので残念ではあった。が、それを彼女に伝えるのは失礼だろう。一方的に期待して、一方的に落胆するのはあまりに酷である。

「リリアナのほうも、ダメだったか?」

「はい。申し訳ありません。わたしは、あの神格の呪力を肌で感じていましたのに」

「いや、謝らなくてもいいよ。分からなくて当然の相手なんだからさ。だとすれば、後は情報を集めていくしかないか。やっぱり、都合よく事は運ばないな」

 祐理もリリアナも共に読み取れないとなると、霊視方面から攻める方法は諦めるしかない。

「じゃあ、この話はこれ以上はなしだな。疲れるだけだ」

「それが建設的でしょうね」

 エリカが頷いたことで、最強の《鋼》についての話は終わることになった。

 さすがに女主人のような立ち居振る舞いが身に付いているだけのことはあって、基本的に庶民の明日香などは終始エリカに気圧されているばかりである。自分の言葉を周囲に納得させる強制力のようなものをエリカは持っている。アイーシャのそれとはまた別の才能である。

「とりあえず、もう夕方だし、食べに行かないか? 確か、ピザの専門店がちょっと出たところにあったよな?」

「では、わたしが話を通しておきましょう。車の用意もさせます」

「悪いなリリアナ」

「いえ、王の命となれば当然のことです。では、出発まで少々お待ちください」

 スッとリリアナは携帯電話を取り出して応接間を出て行った。

「なかなか板についた執事っぷりね。護堂、あなた古代でリリィに何かしたのかしら?」

「いや、別に……」

 歯切れの悪い返事をする護堂に湿った視線が注がれる。

 祐理はため息をつき、明日香は頭を抱える。恵那は興味深そうにして晶はというとすべて知っているので余裕の表情である。

「まあ、後であの娘に聞いてみればいいかしら。ありがとね、護堂。また面白いネタを提供してくれて」

 などと、エリカは悪魔のような笑みを護堂に向ける。

 幸いなのは、この悪魔の顔が護堂に向かないことである。その代わり、犠牲になるのは銀色の騎士なのだが。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 護堂が現代に戻ってきた夜のことだ。

 本場のピザに舌鼓を打ったあと、再びホテルに戻ってきた護堂たちは、長旅の疲れを取るために早めに休むことになった。

 フィレンツェの呪術結社《百合の都》が運営する古城ホテルは従業員から呪術師で構成されており、カンピオーネへの特別待遇に揺るぎはない。護堂に与えられた部屋も、VIP待遇と言うに相応しい豪奢なものであった。

 時刻は午後九時過ぎだ。窓の外はすっかり闇に覆われているものの、自然の中に人工の光が見える。部屋の中にも照明器具の明かりが溢れていて、時代の違いを感じさせる。

「生活習慣が変わるわけだな……」

 すでに護堂には眠気が訪れている。

 長い間、古代の地で過ごしてきた影響である。明かりのない世界では太陽の運行が人々の生活習慣を決めていた。日が沈めば一日が終わる。そんな世界に慣れてしまえば、現代のいつでも明かりがある状態はむしろ異質に思えるのである。

 そんなことを考えているところで、ドアがノックされた。

 返事をすると、ドアが開いて中に祐理が入ってきたではないか。

「申し訳ありません、このような遅い時間に」

「いいや、大丈夫だ。遅いといってもまだ九時だしな」

 現代的な生活を思えば、九時は遅い時間ではあるが寝るには早い。学生としては、むしろここからという時間帯ではないだろうか。

 祐理をソファに座らせた後で、護堂は反対側に座って尋ねた。

「それで、どうしたんだ?」

「はい、それが……先ほどの最強の《鋼》について、なのですが」

 祐理は言いずらそうに、言葉を紡ぐ。

「もしかして、何か視えたのか?」

 護堂は身を乗り出して聞いた。 

 後になってから、祐理が何か視たと言うのならばそれは朗報である。

「あ、い、いえ。そうではないのですが……」

 と、首を振ってから、どういうわけか俯いた。

 しばらく後、祐理は紅くなった顔を上げる。

「護堂さんが古代で感じたことをわたしに伝えていただければ、霊視の成功率が上がるように思うのです」

「伝えるって言っても……」

「ですから、その……わたしと護堂さんの感覚を繋ぐことで、それが可能なのではないかと。ガブリエル様の権能で、感覚をさらに研ぎ澄ますことができれば、可能性も上がるかと思います」

 なるほど、と護堂は納得した。

 祐理は自分が直接感じることで霊感を刺激される。

 護堂と精神的な繋がりを得れば、護堂が古代のガリアで戦い、感じ取った最強の《鋼》の情報を祐理に与えることができる。それは、言葉による伝達よりもずっとはっきりとしたものであるはずだ。

「いいのか?」

「はい」

 護堂が何を問うたのか、祐理は理解している。理解した上で、ここに来たのだ。

「先ほども申し上げたとおりです。わたしは、あなたの力になりたいのです」

 しっかりとした口調で、祐理はそう告げる。

 ここまで言われては護堂に断わる理由はない。

「じゃあ、頼む」

「はい……」

 祐理はしっとりと笑みを浮かべて、護堂の隣に腰掛ける。

 それから、護堂の頬に手を添えて自ら唇を重ねた。

 もう何度目になるかわからないキスは、初めてしたときのような初々しさは感じられない。

 しかし、慣れたとはいえ事務的なものに堕したかというとそうではない。祐理は大人しい性格とは裏腹に、積極的な舌使いで護堂に迫るようになっていた。

「はう、んぅ」

 時折、唇の間から声を漏らしながらもより深く繋がるために唇を吸って舌を絡める。

 祐理は護堂の首に腕を回し、抱きつくようにして体重を護堂に預けた。

 互いの口を介して知識が祐理に流れ込んでいく。

 護堂は祐理の存在を感じながら、五世紀での戦いを想起した。

 最強の《鋼》と呼ばれる何者かとの戦いは二度あった。

 一度目は相手の積極的な攻撃になす術なく敗退に追い込まれ、晶の助けがなければ命が危ういというほどに痛めつけられた。そのときの痛みと身体に与えられた損傷の性質はガブリエルの権能で感じ取っている。

 二度目の戦いではカンピオーネの総力戦となった。

 相手にアルティオのほかにも従者と見られる『まつろわぬ神』がいて、風と《鋼》の混淆神であるようだった。

 蠢く蛇のように絡みつく祐理の舌に負けないように護堂もまた反撃をする。祐理は逃げることもなく、護堂の反撃を受け入れて、味わうように口をすぼめる。

「あ、ん……」

 唇を離した祐理は、そのまま脱力して護堂の肩に顎を乗せる。

 荒げた息を整えるために深呼吸をする祐理に護堂は尋ねた。

「何か、見えたか?」

 祐理は身体を起こして、護堂を見つめる。

「あ……」

 祐理の瞳が玻璃色に染まっていた。

 幽界の玻璃の媛と同じである。

 祐理たち日本の媛巫女が、玻璃の媛の血統を受け継ぐ巫女であることの証であり、祐理の高い資質を示すものである。

 陶然とした表情の祐理は、名残惜しそうに護堂の唇を軽く吸うと小さく頷いた。

「本当、か?」

「はい。……視えた、というよりも浮かんだといったほうが正しいのですが」

 祐理は、囁くような小さな声で、歌うように言葉を紡いだ。

「海に邪竜あり。竜は即ち風雲を興して持って天日を擁し、電耀は海に光れり。王は乃ち箭を放ち、まさに竜の胸を破る――――この言葉がわたしの心に浮かんできました」

 祐理は目を瞑って、心に浮かぶ言葉を脳裏に描く。忘れないように、心で覚えるのである。

「竜退治の話、か」

「最強の《鋼》は、《蛇》をまつろわす神と聞きます。竜は《蛇》の属性を持つ神々の象徴のようなものですから、間違いはないかと思います」

「そうか。ありがとうな」

 と、言って護堂は笑った。

 祐理の頭を優しく撫でて抱き寄せる。

 祐理は頬を染めながらも、抵抗せずに護堂に身を任せた。

 せめてもの役目を果たすことができて、ほっとしたのだろう。祐理は、目を瞑ってしばらくの間、護堂に身体を預けたままだった。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 護堂が祐理の霊視結果を仲間たちに伝えたのは、翌朝のことであった。

 夜に口付けを交わしたという点はぼかして、祐理が霊視を受け取ることに成功したという事実を端的に伝えた。

「海に邪竜あり。竜は即ち風雲を興して持って天日を擁し、電耀は海に光れり。王は乃ち箭を放ち、まさに竜の胸を破る、ってのが浮かんだらしい」

 朝食を取った直後のテーブル席でのことである。護堂は祐理が霊視で読み解いた文言を書き込んだメモをテーブルの上に置いて、反応を待った。

「竜を退治する物語って感じだね」

 と、まず恵那が言った。

「でも、そんな話はどこにでもありますよ。ちょっと漢文の書き下し調なのは、なんなんでしょうか?」

 晶が祐理に尋ねるが、祐理は首を振って、

「わたしにも分かりません。感じたままに、言葉にしただけですから」

 感じたことをそのまま言葉にするのは難しい。護堂と祐理がしたように、感覚の共有ができれば話は別だが、感覚を言葉に置き換える時点で、重要な情報が失われることもある。

「うん、でも今回のこれはいつもと違う感じだな」

 護堂は普段の霊視と今回の霊視が異なるように感じていた。

 これまでは、祐理自身が感じたことを上手く表現できないといった事例があったように、祐理自身の言葉で表現されていた。

「これは、祐理の言葉じゃないな。書き下し調にする意味がない。勘なんだけど、これ、なんかの文章じゃないか」

「あるかもね。恵那は覚えがないけど、もしも実在する文章なんだったら、この話の全体像が見えるかも」

「リリアナさんとエリカさんは、どうですか?」

 晶はリリアナとエリカにも尋ねてみた。

 彼女たちは千の言語で日本語も中国語もマスターしている。漢文の書き下しくらいなら、言葉の感じで理解はできる。もしかしたら、学習の過程で答えを得ているかもしれない。

「だめね。わたしは聞き覚えがないわ。竜を殺した英雄の話っていうのならいくらでもあるけれど」

「わたしも分からないな。この文章が実在するとすれば、中国か日本だろう。書き下しとなれば、日本以外にないから、あなたたちが分からないのならば、かなり難しいだろう」

 エリカもリリアナも首を横に振る。

 西洋の伝承には詳しくても、東洋の伝承は難しい。当然と言えば当然であろう。

「やっぱり、日本で探すほかないのでしょうね。国立国会図書館や正史編纂委員会の書庫を当たってみましょうか」

 祐理が困ったように言った。

 無数と言っていいほどの文献の中から、目的の文章を探し出すというのは砂漠から一粒のダイヤを探し出すようなものである。情報が少なすぎて当たりをつけることすらできない。

 せっかく、最強の《鋼》に関わる重大な情報を得たというのにこれでは活かせない。

 カンピオーネ命令による物量作戦という物騒な言葉が護堂の脳裏を過ぎったときだった。

「『六度集経』ね」

 そう呟いたのは、一人スマートフォンを操作していた明日香だった。

「え?」

 護堂は明日香に聞き返した。

「だから、『六度集経』だって。海に邪竜あり云々って」

 ほら、と明日香は護堂にスマートフォンの画面を見せた。

 そこにはインターネットの個人サイトに公開されている漢文が表示されており、画面上の文字検索機能で色づけされた部分に「王乃放箭、正破龍胸」とある。

「おい、ネットかよ!」

「そんなのアリですか!? ここで皆して頭捻ってたのに!?」

 護堂と晶が同時に叫ぶ。

「えー、反則。そりゃ、電気のないところで生活している恵那は思いつかないなぁ」

「わたしも機械は苦手で、そういう考えにはなりませんでした……」

 恵那と祐理はむしろ感心して明日香に視線を送る。

「呪術の話だし、まさかネットを使うとは思わなかったわね」

「盲点だったな。確かに、現実に存在する文章ならば、ネット上にあってもおかしくはないか」

 エリカとリリアナも「呪術の話が公共の場にあるはずがない」という前提でネットの存在を度外視していた。唯一、呪術の知識を持ちながらプログラミングまでこなす明日香のみが、現代機器を有効活用する発想を持っていたのである。呪術から、一定の距離を置いているからこその考え方であった。

「分からないことがあれば、まずネットじゃないの」

 と、明日香はむしろ意外そうな顔をして一同を見る。

「書き下しって時点で漢文だし、だったらネットにあるかもしれないでしょ。まあ、原文で検索するしかないからいろいろと試したけどさ」

 例えば、「まさに」だけで「正」や「将」といった漢字が考えられる。そういった組み合わせを試しつつも、試行回数はそれほど多くはなかった。特徴的な部分を抜き出して、書き下しを漢文の並びに書き換えて検索すれば、何かしらにヒットはする。実在していればの話ではあるが。

「あればいいな、くらいだったけど、まさかヒットするとは思わなかったわ。研究院にはなかったから、ちょっとまずいとは思ったけど、個人サイトとかにはあるわね」

 漢文のサイトは中国の誰かがアップしたものらしい。その他にもPDFで公開されている論文にも、検索ワードが引っかかっているようだ。

「『六度集経』か。確か、菩薩様の活躍を描いた仏典だったっけ……」

 と、恵那はスマートフォンの画面を覗き込み、文面に目を通す。

昔者(むかし)、菩薩大国王と為る……で始まるところからかな」

「わたしが感じたのは、この部分をいくつか切り取ったところのようですね」

 祐理が納得いったというように表情を綻ばせる。

「小猴曰く、人王は射を妙とす。()れ電耀は即ち竜なり。矢を発して凶を除き、民の為に福を招け。衆は聖にして怨み無し。王は乃ち箭を放ち、正に竜の胸を破る。竜は射られて死す。猴と衆は善を称ふ。小猴は竜門の(かぎ)を抜き、開門して妃を出だす……って感じでしょうかね」

 晶が祐理が読み解いた部分を独自に書き下す。それが正しいかどうかは護堂の知識では分からないが、意味は伝わってきた。

「話の流れからすると菩薩が一国の王で、竜に攫われた妃を助けに行ったってとこか」

「そうですね。概ね、そのような理解で間違いないと思います」

 晶が頷く。

「小猴って何だ?」

「小さな猿ってことですね」

「猿、か。あまり、いい想い出がないな」

 護堂は苦々しげに表情を歪めると祐理と恵那が苦笑する。

「日光では酷い目にあったもんね、王さま」

「斉天大聖様も非常に強力な《鋼》であらせられましたから」

「まったくだよ」

 日光を中心とした一連の戦いでは、カンピオーネが三人も共闘するという異例の事態にまでなったのだ。人々が猿に変化させられるという衝撃的な事件もあり、護堂の中にも強烈な記憶として残っている。

「でも、もしかしたら、それはアリかも」

 と、晶が言った。

「アリって?」

「『六度集経』のことです。斉天大聖も、最強の《鋼》に関連しているように思います。異常に強い、カンピオーネ殺しの擬似再現までする神格ですから。『六度集経』にだって猿が出てるわけですから。そう考えると辻褄もあう気が」

「アッキー何か思いついた?」

「何となく、ですが」

 晶は頭の中で情報を整理しながら、言葉を選んで口にする。

「『六度集経』は、確かインドの康僧会(こうそうえ)というお坊さんが、三国時代の呉の国に渡ってから作った仏典だったと思います。えと、サンスクリット語の経典を漢訳する仕事をしていた人ですね」

「三蔵法師みたいなもんか」

「はい。それで、もう皆さんもご存知のとおり仏典にはインドの宗教関係の経典が漢訳されたものが多々あります。インドラが帝釈天になったりしたのも、その流れです」

 それは有名な話である。

 カンピオーネとして呪術に関わっていれば、自然と得られる知識の一つである。

 もっとも、仏教にはアレキサンダー大王を原点とする韋駄天やヘラクレスを原点とする金剛力士などもいるので、仏教はインドだけでなくインド経由で西側の神話の影響も受けているという、文化の流れで見ればグローバルな宗教でもある。

「てことは、この話もインド原産ってことか?」

「そっか、インドか。竜は単純に竜じゃなくてもいいよね。例えば退治される側、羅刹とかラークシャサとかいうふうにインド風に言い換えたほうがいいかもね」

 そう言って、恵那は護堂に視線を向ける。

「ラークシャサとか羅刹とかって、昔から王さまたちカンピオーネの呼び名だね」

「む、まあ、そういう位置付けなんだろうな」

 などと護堂が呟いた瞬間に、恵那と祐理も神妙な顔つきになる。

 さらにはエリカとリリアナもだ。

「ラークシャサ……魔王殺しの話、か」

「ええ、納得できるわね。『六度集経』って書物の内容とも符合するわ。確かに、洋の東西に広く影響した神話ですもの。最後の王の正体には相応しいわ……」

 リリアナとエリカのような西洋の騎士にすら理解できるほどに有名な話なのかと護堂は一人だけ置いてけぼりを受けている。

「整理しましょう。最強の《鋼》の正体として有力な手掛かりは『六度集経』。その内容は一国の王が、奪われた妃を助け出すために、小さな猿を伴って竜を討つというもの。そして、この話の原典はインドの伝説である」

 エリカが祐理と晶の指摘を簡潔に纏める。

「これと同じ話が、インドにもあるわ。今でも残っているの。偉大なる英雄が、妃を救い出すペルセウス・アンドロメダ型神話のインド代表とも言える物語……護堂も聞いたことくらいはあるかもしれないわ」

 エリカは一呼吸を置いて、今まさに伝説の謎をこじ開ける栄誉に身を焦がしながら、

「その物語は『ラーマーヤナ』。主人公はラーマ王子で、ヒロインはシーター。悪役のラーヴァナは、神々では倒すことのできない悪の親玉で、ラーマ王子はラーヴァナを倒すために人間として生まれ変わったヴィシュヌの転生体なのよ」

 『ラーマーヤナ』もラーマ王子も、護堂は知っている。目を通したことはないが、名前くらいは聞き覚えがあった。

「それが、最強の《鋼》の正体だって?」

「可能性は高いです。ガリアの地で、最強の《鋼》と共に戦っていた神格を思い返してください」

 リリアナに言われて、護堂はサルバトーレと戦っていた《鋼》の軍神を思い浮かべる。

「別に何とも。《鋼》と風の神様ってくらいしか……」

「ラーマ王子にも、《鋼》と風の神がお供にいるのです。ハヌマーンという不死身の風神が」

「本当に?」

 リリアナは神妙な顔で頷いた。

「ハヌマーンは猿の神様なんですよ、先輩。おまけに斉天大聖の原型ともされています」

 晶がリリアナの補足をする。

 ハヌマーンの存在が、『六度集経』の小猴と合致する。

「つまり、『六度集経』は『ラーマーヤナ』の逸話を取り込んでいて、菩薩はラーマ王子、小猴はハヌマーン、竜はラーヴァナって言い換えられるのか」

「そうね。しかも、ラーヴァナが属するのは邪悪なラークシャサであり、カンピオーネの古い呼び名でもある。『ラーマーヤナ』の成立は紀元後のことなのだけど、これは詩人のヴァールミーキがヒンドゥー教の伝説とラーマ王子の伝説を編集したものだと言われているから、ラーマ王子そのものはもっと古い神格ね。実際『ラーマーヤナ』の一部は紀元前まで遡るはずよ」

 エリカが言って、恵那が続ける。

「もしかしたら、『ラーマーヤナ』が成立した頃に、ラーヴァナに当たる昔のカンピオーネがラーマ王子と戦ったのかもしれないよ。それが、物語として現代に残ってる、なんてこともあるかも」

「インドの伝説は、聖書の成立にすら影響するほどですし、ヨーロッパの代表的な天空神はその源流をインドのディヤウスに求められるほどです。それほどの影響力があったインド神話の代表格である『ラーマーヤナ』の元になった伝説は当然西洋にも多大な影響を与えているのです」

「ラーマ、王子か」

 護堂のよく知らない神格ではある。が、しかし、これで光が見えたような気がする。

 ここまでの符合が見られるのならば、ほぼ間違いないと断言できるだろう。今、護堂たちは伝説の謎を一つ解き明かした。対策までは見えていないものの、それだけでも驚嘆すべき偉業である。

 護堂の胸に戦意にも似た感情が燃え上がる。

 正体不明の敵の秘密が暴けた。それだけで自信にはなるのだ。後は、この説が正しいかどうかを探求し、来るべき決戦に備える。

 カンピオーネとして、男として仲間が生み出してくれたこの奇跡を無駄にしてはならないと強く心に刻みこむのだった。




晶の積極性を全面に出してきた本作ですが、それでも美味しいところを掻っ攫うのが祐理クオリティ。

これで古代編は終わり。
再び完結状態に入ります。

二年前に本編を最終回としてから、さらに三十話余を書きまして、気付けば百万文字を突破しておりました。
改めてお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。


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中編 古の女神編

久しぶりなので初投稿です


 延々と続く森がある。

 天高く聳える木々が風に揺れて、時折木の葉を散らす。風は冷たく、息は苦しい。朝から四時間も歩きづめで、しかも山を登り続けている。標高はスタート時点で二千七百メートルを超えていたはずで、それから考えるとそろそろ三千メートルの大台に突入していてもおかしくないのではないか。

 しかし、だとするとこの景色はおかしい。

 一般に、ヨーロッパの森林限界は千八百メートル前後とされている。右を見ても左を見ても、太くたくましい木々が立ち並ぶ景色は異常と言っても過言ではない。

「呪力が濃密になってきましたね」

 と、少女は言う。

 蜂蜜を溶かしたような黄金の髪を棚引かせ、赤と黒の戦装束に身を包むエリカ・ブランデッリである。過酷な環境で疲労もあるが、そうと感じさせない優雅さを維持しているのはさすがというべきか。

「ああ、気をつけろ、エリカ嬢。すでに、常識が通じる空間ではない。いつ何が出ても不思議ではない」

 深刻そうな顔で警告してくれるのは、彫りの深い顔立ちの青年だ。屈強な体躯でエリカよりも十は年上だからか落ち着きがある。この青年こそ『王の執事』にして大騎士アンドレア・リベラである。そして、彼がいるということはすなわち、彼が仕える王がいるということでもある。

「何だろうなぁ。楽しそうな空気になってきたじゃないか。ねえ、アンドレア?」

「楽しいわけがあるか。前を見て歩け、この馬鹿」

 ヘラヘラと笑いエリカとアンドレアの前方二十メートルを歩く青年こそが、呪術世界に広くその悪名を知られる魔王サルバトーレ・ドニである。

 剣の王の異名を持つ彼は、その名に違わず右手に両刃の長剣を持ち、手慰みに手近な木々を斬り付けている。

 子どもが道ばたで拾った木の枝でするような行動を、本物の剣でやっているのだ。ここが街中でなかったからいいものを、彼を知らない一般の人が見れば眉を顰めるどころではなく即通報ものである。

 カンピオーネなので地上の法には縛られない。

 サルバトーレが逮捕されるようなことはありえないが、そうならないように方々に駆け回るのはアンドレアの仕事だ。

 つくづく胃の痛くなる話である。

 エリカが側にいるというのに、サルバトーレへの隠すことなく悪態をついたのは、よほど彼の苛立ちが募っているからであろう。

 ここエリカがサルバトーレに招集されたのは一週間前のことだが、アンドレアはそこに至る段階で《赤銅黒十字》との交渉に奔走していた。

 日頃からのストレスの積み重ねが、アンドレアの王の執事としての仮面を崩しつつあったのだ。

「サルバトーレ卿、楽しそうな空気というのはどういったことでしょう?」

 と、エリカは尋ねた。

 呪術の才は欠片もないサルバトーレは、剣一本で『まつろわぬ神』を討ち取って見せた剣の鬼才だ。彼は戦うという一点に人生のすべてを賭けているし、サルバトーレが楽しいというのは間違いなく同格以上の相手との死合である。

「ん? そりゃあ、ここはもう相手のテリトリーなんだろ? 勝手に踏み込まれて黙っているわけないじゃないか。それに、ほら、なんていうかこうピリピリしてるの感じないかい?」

「それは……」

 エリカとアンドレアは視線を合わせる。

 サルバトーレの研ぎ澄まされた野生の勘は馬鹿にできない。

 人よりも獣に近い感性を持つのがカンピオーネだ。危険察知能力の高さは未来予知にも匹敵するほどで、戦いの気配には人一倍敏感ときた。

 サルバトーレがこう言うからには、間違いなく近いうちに目的の敵が現れる。

「エリカ嬢、もう少し距離を取ったほうがよさそうだ」

「そのようですね。そろそろ、わたしたちも用済みでしょうし」

「降りかかる火の粉は払うものだが、振り払えない猛火の中に突撃するのは愚行も同然だからな。特に君は、今回ばかりは完全に巻き込まれた口だ。いよいよとなれば、我々を置いて下山して構わない」

 そもそもエリカはサルバトーレとは組織レベルで関係がない。それなのにエリカがサルバトーレに同行しているのは、サルバトーレの思いつき以外の何物でもない。

 それも草薙護堂に《青銅黒十字》のリリアナ・クラニチャールが協力し実績を残したことを餌にすれば、ライバル関係にある《赤銅黒十字》を動かすのは容易だと考えたらしい。

 サルバトーレ本人はイタリア国内の呪術結社の動向には関心はまったくない。どれほど大きく歴史や権威のある呪術結社だとしても、カンピオーネが声をかければ協力しないわけにはいかないからだ。

 イタリアは世界的に見ても名の通った呪術結社を多く抱える国で、その中でも《赤銅黒十字》はカンピオーネを祖とする名門だ。カンピオーネから一定の距離を置くという政治スタンスを通してきたこともあり、あまりサルバトーレには関わりを持たなかったのだが、サルバトーレから命を受ければ話は別だった。

 アンドレアとしては甚だ不本意である。《赤銅黒十字》もエリカ・ブランデッリも、『まつろわぬ神』の捜索に捜索に付き合わせるというだけでも、後々にどれほどの影響ができるか。まして、エリカに万一のことがあれば、面目が丸つぶれである。《赤銅黒十字》との関係は修復不可能になってしまうだろうし、個人的にも後味が悪すぎる。

「ありがたいお言葉ですが、アンドレア卿。一度、『紅き悪魔(ディアボロ・ロッソ)』の肩書きを賜った以上、鉄火場に背を向けるような恥を晒すわけには参りませんわ。それに何より、『まつろわぬ神』が降臨しているのが、ほぼ確定しているからには、少しでも情報を持ち帰らなければ示しがつきません」

「そうか。なら、止めはしない。だが、命あっての物種だぞ」

「もちろんです。わたしはわたしの役割を果たすだけです。無駄死にはごめんですから」

 悠然とエリカは微笑んでみせる。

 まだ十代半ばだというのに、肝の据わっていることだ。

 『まつろわぬ神』の驚異を知らないわけではない。欧州に生きる呪術師は、常にカンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いに関わり続けてきた。エリカがどれだけ武勇を誇ろうとも傷一つつけることのできない自然災害の如き存在を相手にするつもりは毛頭ない。

 サルバトーレが『まつろわぬ神』と戦うのであれば好きにすればいい。エリカの仕事はこの異界を見つけた時点で九割方終わっている。残るはサルバトーレの戦いがどのようなものだったのかを可能な限り見届けて、情報を持ち帰ることだ。

 それが『赤銅黒十字』の次代を担う『紅き悪魔』の役割だと自負しているからだ。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 空から流星が降ってくる。

 眩い光の雨が地上に降り注ぎ、轟音とともに土煙を上げる。炸裂する膨大な呪力は、光の筋一つだけでも超一流の呪術師が命を捧げて絞り出せる呪力を軽く凌駕するほどだ。しかも、光の筋は一条だけでなく、数え切れないほどで、束になって一つの大きな光の柱を形成した。

 一瞬の輝き。爆発音は重なりすぎて一つにしか聞こえない。爆心地は山肌が大きく抉れて、木々は消し飛んでいた。

「びっくりしたなぁ!」

 土煙からサルバトーレが飛び出した。衣服はところどころ焼け焦げているが、無傷だ。身体を取り巻く青白いルーンの輝きが、彼を守ったのだ。

「これを凌ぐか、神殺し」

「ちょっと痛かったけどね」

 ひゅんひゅん、と剣が虚空を斬る。

 サルバトーレの剣の間合いから『まつろわぬ神』が飛び退いた。見た目に反して俊敏な動きをする。外見はオーソドックスな女神だ。金色の神を束ねティアラを身につけ、ふわりと風になびくドレスを身につけている。

 サルバトーレと『まつろわぬ神』の戦いは、始まって十分ほどが経っている。

 サルバトーレが斬りかかり、女神が距離を取って反撃するといった攻防が続いている。

 攻めているのはサルバトーレだが、女神もよく応戦している。一概にどちらが優勢とは言えない状況だ。

 戦いの様子をエリカとアンドレアは大きく距離を取って観察していた。事ここに至ってしまえば人間にできることは情報収集くらいしかない。

「見た目だとギリシャかローマ由来の女神のように見えますね」

「あの装束を見ると確かに文化圏はそのあたりかもしれんな。断定はできんが、地中海に信仰の基盤を持っていてもおかしくはないか。属性としては地母神的な女神なのは間違いない。今のところ、呼び出しているのは蛇にライオンか」

 木々の陰からサルバトーレに十頭の雄ライオンが襲いかかった。アフリカのサバンナに生きるライオンとは大きさがまるで違う。尾の先から頭までが五メートルはあろうかという巨体だ。並の人間ならば、撫でられただけで首を千切れてしまうだろう。

 そのライオンをサルバトーレは易々と斬り捨てる。

 手にしたものは何であれ、万物を斬り裂く魔剣に変貌させる銀の腕の権能がその効果を遺憾なく発揮したのだ。

「うぐッ」

 サルバトーレがうめき声を上げてひっくり返る。女神が放った光の矢が胴体に直撃したのだ。サルバトーレの鋼の肉体は超重量だ。簡単に吹っ飛びはしない。逆言えば、サルバトーレを転ばせるほどの威力が、女神の矢には込められていたということでもある。

「あっちちちち!」

 並大抵の攻撃ではサルバトーレに傷をつけることはできない。

 しかし、今の一撃は「並」ではなかった。

 サルバトーレの服に大穴が開いていた。穴の縁は焦げていて、鍛えられた肉体も真っ赤に白熱している。

「貴様が鋼鉄の肉体を誇るというのなら、わたしは輝ける灼熱にて焼き払おう。《鋼》には似合いの末路であろうよ」

「うーん、これはちょっと不味いか」

 サルバトーレは舌打ちをする。

 脳天気な彼でも戦闘では抜け目がない。目の前の女神の権能が、『鋼の加護(マン・オブ・スチール)』に傷をつける手立てがあるというのは厄介だ。

 《鋼》の権能に由来する不死身は、強力だが万能ではない。例えば鉄をも融かす超高温ならば、鋼鉄の不死身を文字通り「融解」させることもできるだろう。

「おっと」

 放たれる光の筋を、サルバトーレはステップを踏んで躱す。

 女神の矢が『鋼の加護』を突破する以上、身体で受け止めて突き進むといった攻め方は悪手だ。サルバトーレは、光の矢を斬り払い、躱し、どうしても避けられないものは触れる面積を最小限に抑えられる角度で受け止める。呪力を高めれば、灼熱の矢であっても耐えることは不可能ではない。

「《鋼》の身体に《鋼》の剣。大地を切り刻む忌々しき剣神の性、大いに堪能した。が、その程度でわたしを討てると思わぬことだな」

 女神がサルバトーレに手のひらを向ける。すると、大地から太い木々が槍のように突き出してサルバトーレの行く手を遮る。

「こんなもの」

 サルバトーレは銀の腕を振るった。

 万物を両断する斬撃だ

 女神が空に弓を掲げる。この世の物だけでなく、神々が鍛えた不朽不滅の神具ですら時に斬り裂いてみせる神域の刃。

「ええ!?」

 サルバトーレが目を見開いた。

 如何に太く頑丈だろうとサルバトーレの斬撃の前には無力。そう思われた大木の槍が、サルバトーレの剣を受け止めていたのである。

 魔剣の呪力は確かに効果を発揮している。神気を宿した木の槍衾を半ばまで斬り込んでいる。しかし、それまでだ。あっさりと斬り裂くはずだった剣は、槍を数本斬り捨てたところで止まってしまったのだ。

「だりゃッ!」

 サルバトーレは強引に剣を振り抜いた。呪力を放出し、「両断」の念を込めた剣撃で不可思議な木槍を斬り捨てた。

「ほほう、力業で斬り裂いたか。だが、見事だ。我が末たる男よ」

 サルバトーレは女神との距離を詰めるべく疾走する。

 呪術を使っているわけでもなく、権能による高速移動というわけでもない。サルバトーレの移動速度は人間のそれと大きく変わらない。

 剣士の行く手を遮るように、木々が撓って鞭となる。

 一本目を斬り捨てて、二本目を身を低くして躱す。そして、三本目は胴で受け止める。

「う、くッ」

 瞬間、サルバトーレの呼吸が止まった。

 胸を強かに打って、サルバトーレは跳ね飛ばされてしまったのだ。

 猫のように空中で体勢を整えて着地し、口元の血(・・・・)を拭う。

「いてて……なんかいつもと違うんだよね」

 口の中に血の味がする。胸が熱いのは肋骨あたりに罅が入ったからだろう。サルバトーレが血を流すのは珍しいことだ。『鋼の加護』が機能していれば、彼が血を流すことはない。あらゆる攻撃を弾き返す無敵の肉体だ。例え攻撃が通ったとしても、鋼鉄も同然の肉体は血を流すことがないのだ。

 サルバトーレは木の鞭を寸でのところで回避する。そして、思う。

「僕の権能が弱体化してるって感じかな。理由は分からないけど」

 斬った感じでは、木々の槍が特別硬いというわけではなかった。古代ガリアで戦った《鋼》の軍神のような頑強さでサルバトーレの権能に抗った感じではなく、むしろサルバトーレの権能が弱まっていると考えるほうが納得できた。

 鋼鉄の肉体を突破された後に出血したのも、この説を補強している。

 あの女神はどういうわけかサルバトーレの権能に干渉して、その効力を低下させることができるようだ。

「それでもわたしを斬ることができるか? 神殺し」

「もちろん。この世に僕に斬れないものはない。それが例え神様だろうとね」

「やはり獣だな、神殺しという者は。よかろう。いずれにせよ、わたしの行いに変わりはない。神の領域を侵す不届き者には、それ相応の報いが必要だ」

 女神は艶然と微笑んで、白熱の炎を手の平に出現させる。それは瞬く間に弓と矢に変わり、

「天高く輝く太陽よ。今ここに《鋼》を融かす灼熱を運べ」

 光り輝く矢を引き絞った女神は、そのまま空に矢を射放った。

 そして、先ほどと同じ、いやそれ以上の矢の豪雨がサルバトーレを襲った。

 

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 古代のガリアで、最強の剣神と死闘を演じた護堂だったが、無事に現代日本に戻ってきてからは平穏無事な日常が続いていた。

 いや、厳密に言えば小規模な戦いはあった。日本アルプスを舞台に降臨した《鋼》の鬼神と戦う羽目になったのはつい先日の話だ。本来ならば、一生語り草になるようなスケールの戦いなのだが、この一年の間に何度も『まつろわぬ神』と対峙してきた護堂にとっては、特別な出来事ではなくなっていた。

「本当に何もすることがないな」

 と、呟く護堂。

 居間でテレビを見ている。日曜日の午後だ。興味を引くテレビ番組はないようで、適当にチャンネルを変えてみたが、期待に応えてはくれなかった。

「お兄ちゃん、最近落ち着きがないから、ちょうどいいんじゃない?」

 カチカチとシャーペンを慣らしながら最愛の妹が言う。

「落ち着きがないとは言ってくれるな」

「事実じゃん。何日も家に帰ってこなかったし、帰ってきたと思ったらまたどっか行くし。人助けっていうけど、本当は何してるの?」

「人助けは人助けだぞ。力仕事とか、いろいろな」

「怪しい」

「何がだ」

「全部」

「酷い言い草だな……」

 静花のジトッとした視線に居たたまれない気持ちになってしまう。

 もちろん、護堂の言葉のすべてが真実ではない。呪術の世界の話は静花にはできないから、一切語っていないのだ。

 人助けの部分だけは事実ではある。護堂はそのつもりで海外にまで足を伸ばしているのだから。

「静花さん、護堂さんのお話は本当ですよ」

 そんな護堂に助け船を出したのは祐理だった。

 お盆に麦茶の入ったグラスを乗せて、居間に入ってきたのだ。

「万里谷さん」

 静花は恐縮したように呟く。

 祐理は静花にとって部活の先輩だ。それもただの先輩ではない。完全無欠のお嬢様で大和撫子な祐理は、静花にとっては憧れの対象だ。近づきがたい先輩が兄の隣に自然に座っていることに、違和感を覚えずにはいられない。

「えーと、万里谷さんはお兄ちゃんがこの前何をしていたのかご存じなんですか?」

「はい」

 と、祐理は頷く。

「護堂さんには、わたしの方からお願いしたことがありまして」

「万里谷さんからですか?」

「そうなんです。実はわたしの親戚が岐阜で酪農をしているのですが、この前怪我をしてしまいまして。動物相手の仕事なのでどうしたものかと護堂さんに相談したのです。そうしたら手伝っていただけるとのことで、恥ずかしながらお願いした次第です」

「そうだったんですか。大変だったんですね」

 祐理の話を静花はすっかり信じ込んだようだ。

 護堂には疑り深い視線を向ける妹も、祐理が嘘をつくとは思ってもいない。あっさりと鵜呑みにしてしまうのはどうかと思うが、今回は祐理に感謝だ。

「お兄ちゃん、迷惑になりませんでした? 大丈夫でしたか?」

「はい。それはもう、助けていただいてばかりで。今度、正式にお礼をさせていただきたいと思ってます」

「お礼なんていいですよ。万里谷さんの頼みならお兄ちゃんの一人や二人、どこにでも連れてってください」

「静花、兄ちゃんは一人しかいないぞ……」

 勝手なことを言う妹に護堂は小声で指摘する。

 そんな護堂のささやかな意義は、静花には届かず黙殺される。

「相変わらず仲いいわね」

「静花ちゃんは万里谷さんには弱いんだね」

 祐理に遅れること五分弱、居間に入ってきた明日香と晶は、座卓を囲んで座った。

「護堂、はいこれ」

 明日香が護堂にUSBメモリを渡した。

「この前のヤツ、纏めといたから。冬馬さんにも同じの渡してるけど、あんたも見といて」

「サンキュ、助かる」

「ま、これくらいはね」

 USBメモリの中には、最後の王の有力候補として名が上がったラーマ関係の資料が入っている。

 最後の王については謎が多すぎる。

 祐理が偶然、神名に繋がる霊視を得ることができたのは僥倖だった。

 有史以来、神々の間ですら正体が秘匿されてきたという最後の王は、おそらくは今後数ヶ月以内に日本に現れるだろう。

 これを乗り越えなければ、護堂の命はない。

 歴代カンピオーネは、ただ一つの例外もなく最後の王の前に命を散らしたのだから。

「静花ちゃんは先輩のことが心配なんだよね?」

「べ、別に心配なんてしてないし。ただ、お兄ちゃんが余所で何かやらかしてたら、それは草薙家の評判に関わることなだけだし」

「そうかな?」

「そうだよ」

「えー、ほんとにー?」

 晶が静花の頬をつつきながら意地悪く言い寄る。

 静花は顔を紅くして晶を払いのけている。

「ま、護堂のフットワークの軽さは昔から変わらずってことね」

 呆れたような諦めたような表情で明日香が呟く。

「昔からですか?」

「そうそう。昔からそう……まあ、海外とか県外とかはさすがになかったけど、頼まれごとには弱いって言うかねぇ」

 護堂と明日香はお互いに訳ありだ。人に言えない「過去」がある。ある意味で同族というべき間柄で、幼馴染という関係性以上に「信頼」できるのだが、幼馴染であるという一点で晶や祐理に比べて護堂のプライベートの情報を多く握っている。

 前世の記憶があるからか、人格的には早熟だった護堂は子どもならではの失敗はほとんどない。しかし、うっかり調子に乗ってやらかしたことが皆無というわけでもないのだ。

「それにしても、この一年でずいぶんと華やかになったね、お兄ちゃん周り」

「そうか? まあ、そうだな」

「前は明日香ちゃんがうちに来るくらいだったのに」

「確かに、言われてみればそうだな」

 明日香が草薙家に来るのは珍しいことではなかった。しかし、それ以外の異性が草薙家に来ることはほとんどなかった。護堂はモテる男ではあったが、特別女子との仲を深めようとはしてこなかったからだ。

 それが、この一年で晶と祐理が加わって、一気に女っ気が増した。

 晶も祐理も人目を引く美少女である。少し疎遠になっていたように見えた明日香も、最近はよく来るようになって、草薙家は賑やかになった。

「それだけ先輩に人望があるってことなんですよ。静花ちゃんもそこは誇っていいよ」

「晶ちゃん、なんでそんなにお兄ちゃんシンパになっちゃったの?」

 静花の怪訝そうな視線に晶は気づかない。

 晶が護堂に染まっていく過程を友人の視点で見てきた静花だが、いまいちきっかけが分からないままここまで来てしまった。

 いつの間にか友達が自分よりも兄に懐いてしまったということに一抹の寂しさすら覚える。

 誰も見向きもしていなかったテレビにテロップが表示されたのはそのときだ。

『ただいま入ってきたニュースです。本日、午後十五時二十分頃、フランスのイズラン峠で大規模な土砂崩れが発生しました。イズラン峠は、有名な自転車ロードレースにも設定されていますが、現在は積雪のため通行止めになっているということです。外務省はこの土砂災害による日本人の被害の有無を確認中としています』

 テレビに映された映像は、雪崩とともに大量の土砂が崩れ落ちた後の無残な峠道を移していた。

「こりゃ、しばらくは通れないね」

「雪崩だけじゃないんだな」

「地震? そんな感じじゃなさそうだけど」

 雪崩ではなく土砂崩れだ。それも山の頂上から大きく抉り取られるような生々しい傷跡を山肌に残している。

 護堂の袖を祐理が引いた。

「ん?」

「護堂さん、これ、何だか変です」

「変?」

「胸がざわつくと言いますか……」

「もしかして、神様関連か?」

「……可能性はあると思います」

 遥か遠方の出来事ではあるが、無関係とは言えない――――かもしれない。

 『まつろわぬ神』には、どうあれカンピオーネが関わることになる。

 フランスなら、サルバトーレが一番近い。神様との戦闘が大好きなサルバトーレが解決に動くのは目に見えている。

 しかし、同時に彼が引き起こすトラブルも護堂に飛び火するかもしれない。

 サルバトーレが神様を斬って終われば、シンプルな解決になるのだが、祐理が不安げなところを見ると、この平穏な生活は嵐の前の静けさだったのかもしれない。

 



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中編 古の女神編 Ⅱ

 いつの間にか、何かトラブルがあると七雄神社に集まるようになっていた。昔から正史編纂委員会とその前身となる組織によって管理されてきた由緒ある神社なので、カンピオーネに対しては理解があり、祐理が巫女として務めているということもある。

 カンピオーネというだけで、普通の呪術師は恐怖心を抱いてしまうものらしい。

 護堂の人となりを知り、慣れてくれば普通に接することもできるようになるが、そこまで深い付き合いになることは滅多にない。

 周囲に与える影響を考えると慣れた場所に集まるのは間違いではないだろう。

 護堂の立場ならば、都庁なり区役所なりの会議室を押さえることもできるが、それは大仰に過ぎる。

 七雄神社は護堂が知悉しているメンツだけを集めて、軽く話をするにはもってこいの場所だった。

 社務所の中にいるのは、護堂の他、祐理と晶と明日香、そして冬馬だ。

「それでは、さっそく説明させていただきますね」

 口火を切ったのは冬馬だった。

 無精ひげとよれたスーツ姿は見慣れたものだ。適度に肩の力を抜いて仕事をしているというスタンスを通しているが、その実かなり多忙な生活をしているようだ。

 三日前にフランスで起こった土砂崩れが『まつろわぬ神』に関わるのではないかという疑惑が浮上したことで、正史編纂委員会は情報収集に追われた。

 『まつろわぬ神』は意思を持つ災害と言える。一カ所で災害を引き起こすだけでなく、自由に世界中を闊歩する。例えるなら予測不可能な巨大台風だ。フランスで発生したものが、そのまま日本に流れ着く可能性はゼロではない。

「先日、発生した土砂崩れですが、場所はフランスのサヴォア県、フランスの東端でイタリアと接する県ですが、そこのイズラン峠付近の斜面が大規模に崩落しています。ああ、この山はアルプス山脈の峠の一つですね。峠としてはアルプスの最高峰に位置する峠です」

「ロードレースが有名らしいですね」

「そのようです。私もさほど詳しくはないのですが、標高二千七百七十メートルですから、相当過酷なレースなんでしょう」

 冬馬はA4のコピー用紙を護堂たちに配る。土砂崩れ発生箇所の写真が印刷されている資料だった。

 大きく抉れた斜面は、不自然な削れ方をしていた。その跡は、巨大なショベルカーで削り取ったようで、自然な崩れ方には見えなかった。

「それだけじゃないんです。こちらをご覧ください」

 資料の下方に印刷された写真を見る。

 大きな岩の写真だ。ゴツゴツとした巨岩だったのだろうが、それが綺麗に唐竹割りされている。切断面は鮮やかで磨いたようですらあった。

「機械で斬ったとしても、ここまで綺麗には斬れません」

「……そうですか、サルバトーレ案件ですか」

「ただいま確認中ですが、イタリアの日本大使館にいる職員によるとサルバトーレ卿が『まつろわぬ神』の情報を得てフランスに向かった可能性があるということですね。目を光らせてはいたのですが、あの方、地味に隠密行動が上手いんで、なかなか動向が掴めないんですよね」

 と、冬馬は困ったように呟く。

 サルバトーレはヴォバンと並ぶ大迷惑カンピオーネだ。強敵を求めてフットワーク軽く各地を渡り歩くので、行った先でもめ事を起こす確率が高い。

 そんなこともあって正史編纂委員会としても、兼ねてからサルバトーレの動向をチェックはしていたのだ。

 しかし、彼の厄介なところはそういった追跡から易々と逃れてしまうことだ。側近のアンドレアですら、出し抜かれることも珍しくない。

 まして、遠く離れた日本の正史編纂委員会では、イタリア国内で諜報活動するにも限度があるし、直接的な監視をしようものなら、それを口実にどんな無理難題をふっかけられるか分からない。結局は現地の呪術師や呪術組織からの聞き取りくらいしか情報収集ができないのである。

「『まつろわぬ神』の情報ってどんな?」

「それは不明です。ただ、どうも《赤銅黒十字》を今回かり出しているようですね。意図は分かりませんが、アンドレア卿が出入りしているのが目撃されていますからね」

「あそこって確かエリカの……あまりカンピオーネに関わらない組織だったような」

「《赤銅黒十字》は伝統的に魔王の皆様方とは距離を取ってきた組織ですね。まあ、どうあがいても完全にとは言えないのが苦しいところで、命じられれば当然協力せざるを得ないのが現実です」

 《赤銅黒十字》はイタリアで最も権威ある呪術結社に数えられる大組織だ。それでも、相手がカンピオーネとなると、その要求を突っぱねることはできない。嫌みの一つくらいは返せるかもしれないが、それだけだ。

「サルバトーレ卿の要求は、『まつろわぬ神』捜索への協力要請。捜索から足の確保まで必要なものは《赤銅黒十字》に押しつけたようですね」

「で、《赤銅黒十字》はそれを受けて『まつろわぬ神』を捜索して、フランスでその足取りを掴んだ?」

「そうだと思います。ここからは想像の域を出ませんが、件の峠でサルバトーレ卿と神様が激突して、その影響で報道にあるとおりの土砂災害が発生したということではないかと。場所が場所だけに、現地調査が遅々として進んでいないのが残念です」

 標高二千七百メートルの険しい山の上での出来事だ。冬季で通行止めになっていたので、人的被害はほとんどないのだろうが、そこまでの道が寸断されているというのが問題だ。

 呪術を使えば悪路を無視することもできるのだが、如何せんカンピオーネと『まつろわぬ神』が戦ったと思われる場所だ。誰も好き好んで向かいたいとは思わない。権能の影響が残っていれば、命の危機に陥る可能性もあるのだ。

 安全が確認されない状況では、なかなか人を派遣することはできない。しかし、安全を確認するためには誰かが決死隊となって現地に向かう必要があるということだ。

「というか、サルバトーレはどうなってるんですか?」

「そこですよねぇ、問題は」

 冬馬は困ったように苦笑いを浮かべた。

「実は卿の行方もまだ分かっていません。連絡が途絶えているようです」

「またですか」

「いつもの悪巧みの前兆ということではなく、今回は神様との戦いの中での失踪ですからね。あるいは……」

「……まあ、ないと思いますけど」

「ですよね」

 カンピオーネは例外なく生存能力が桁外れだ。

 基本的に格上の『まつろわぬ神』と戦い勝ち続け、負けたとしても死なずに生還する。そういう実績を積み上げてきた存在である。

 もちろん、殺し合いの世界なので、意外にあっさり殺されてしまうことはありえるだろう。

 しかし、彼の実力と性格をよく知る護堂としては、サルバトーレが簡単に死んでしまうとは思えなかった。

「以上が現時点で分かっていることです。引き続き情報収集は継続しますので、詳しいことが分かり次第報告します」

「分かりました。よろしくお願いします」

 『まつろわぬ神』が降臨しているかもしれないとなれば、地球の裏側の話ではすまない。サルバトーレがちょっかいを出しているということも気になる。

 対岸の火事だと思って気を抜いていると、思わぬところで被害が出るかもしれない。

「『まつろわぬ神』の降臨ペース、ちょっと早くないですか? 去年までを知りませんけど、こんなペースであちこちに出てくるものですか?」

 と、護堂はふと気になったので尋ねてみた。

「確かに、昨年までと比べると格段に今年は多いですね。理由までは定かではありませんが」

 冬馬は無精ひげの生えた顎を撫でながら答えた。

「日本には、これまでほとんど『まつろわぬ神』が来たことはなかったと思いますよ。斉天大聖様がいらしたということもあるのかもしれませんが」

 冬馬に続けて祐理が言う。

 日光に封印されていた斉天大聖は、正史編纂委員会の切り札だった。『まつろわぬ神』を捕えて封印し、さらに戦力として利用するというすさまじいことをしていたわけだが、それも護堂たち現代のカンピオーネの活躍により終止符が打たれた。

 斉天大聖が地上に降臨した竜蛇の神を討伐するために外に出たのは前回が数十年も前らしい。それを考えると、頻繁な『まつろわぬ神』の降臨というのは不自然ではある。

「そんなほいほい神様が出てくるんなら、ヴォバンの爺さんもわざわざ神様の招来なんかしなかっただろうしな」

「先輩たち神殺しの皆さんも、ここ数百年で一番数が多いわけですし、当たり年なのでは?」

 晶が何ということもないように言う。

「当たり年、ねぇ。まあ、確かにそういうことになるのかもしれないけど」

「そういうのは厄年っていうんじゃないの?」

 明日香はげんなりした様子で呟いた。

 カンピオーネは過去最大の七名。『まつろわぬ神』や神獣の降臨回数も、すでに観測史上最大数になっているらしい。

 それに比例して「表向き」の自然災害の発生件数も増大している。世界的な温暖化の影響もあるが、そのうちの一部は護堂とその同族たちが関わっている状況である。

 護堂の戦闘によって生じた被害も世間的にはテロや自然災害として扱われているわけで、やむを得ないとはいえ、自分の行動によって災害の発生件数が増加していることに居たたまれない気持ちになってしまう。

「いや、でも神様もカンピオーネも結局自然災害みたいなものですし、先輩が気にすることじゃありませんよ」

 晶はそんな風に励ましてくれる。

「そうだよなぁ」

 と、護堂も気がない様子で答える。

 考えても仕方のないことだ。

 そして、問題はサルバトーレと戦った『まつろわぬ神』の行方であろう。

 結局、勝敗すらも不明なままなのだ。

 どんな『まつろわぬ神』が降臨して、サルバトーレとどのように戦ったのか。生死はどうなったのか。まるで情報がないのがとにかく不安ではあった。

 

 

 神社を出ると涼やかな春の風が頬を撫でた。

 今日は晴天で、雲一つない穏やかな一日だった。春一番にはまだ早く、かといって冬の寒さも遠ざかっている。こういう日は、グラウンドでボールを追い回したくなるのが元スポーツマンの性だが、それも今は昔の話だ。

 ちらりと視線に入る東京タワー。

 七雄神社のすぐ近くにある東京のシンボルの一つであるそれは、はた迷惑な軍神によって展望台が破壊され、今でも復旧ができていない。鉄骨が落下しないよう落下防止のシートに包まれた展望台の復旧には時間もお金もかかることが容易に予想できていて、残念ながら未だに工事が始まってもいない状況だった。

 ヴォバンと護堂が戦ったときに被害を受けたホテルも、再建できていない。もしも営業を再開することができたとしても、それは数年先の話になるだろう。

 もっとも、カンピオーネや『まつろわぬ神』が世界最大級の都市で暴れた割には、東京が受けた被害は抑えめなのではないか。

 その気になれば都市どころか日本一国に権能を行き渡らせることもできるのだ。人々が今でも生活できているのが奇跡なのだ。

「先輩、先輩、駅に行く前にちょっと寄り道しませんか?」

 晶が護堂の袖を引っ張って言った。

「行きたいところがあるのか?」

「ええ、前から気になってたんですけどね、ウィンターローズってクレープの店がですね、新橋のほうにあるんですよ」

「あ、そこ知ってる。あたしも気になってたんだよね」

「ほら、明日香さんもこう言ってますし、どうですか?」

 晶が行きたがっているのは、半年ほど前にオープンした喫茶店だ。クレープが評判で、クレープを目当てに学生が列を成すことも珍しくない。最近、護堂もテレビで紹介されているのを見たので知っている。

「俺はいいけど、祐理は?」

「わたしも行ってみたいです。そういうお店には、なかなか縁がないものですから」

「じゃあ、決まりですね!」

 晶はスマートフォンを操作して地図を表示し、一行を先導した。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 冷たい雨だれの雫が顔に当たって、エリカは目を覚ました。

 身体が冷え切っていて、指先まで血が通っていない。空腹も感じる。とにかくエネルギーが不足していて、そのために頭も回っていない。

 普段から低血圧で朝に弱いのが数少ない弱点(本人からすると優雅な美点)なのだが、この寝覚めはこれまで経験してきた中でも最悪の中の最悪だ。

 湿った苔のベッドに寝ていたせいか、身体はびっしょりと濡れている。

 美しい髪も衣服も泥で汚れていて、エリカには到底受け入れがたい状況であった。

「まあ、助かったのは不幸中の幸いだけれど……どこかしら、ここ」

 意識を手放す前のエリカがいたのは標高二千七百メートルの山の上だ。摩訶不思議な権能によって、異界化し、森林地帯も同然に作り替えられていたが、地理的にはアルプス山脈のフランス側の峠にいたはずだ。

「まだ女神の異界の中ということかしらね。サルバトーレ卿とアンドレア卿はどこかしらね」

 近くにいたはずのアンドレアすら姿が見えない。

 異界がそのままということは、おそらくは『まつろわぬ神』は生きている。サルバトーレとアンドレアの生死は不明だが、エリカが生きているのだから彼らも生きているはずだ。

 幸いなことに愛剣はまだ手元にある。

 名の知れぬ女神とサルバトーレとの戦いで目の前が真っ白に染まってからどれだけの時間が経っただろうか。

 空腹の度合いから、丸一日も経っていないように思うが、そもそもこの女神の空間の特性が分からなければ、それすら安心できない。 

 場合によっては内と外で時間の流れが違うということも考えられる。

 ここは、幽界ともアストラル界とも大霊界と表現する者のいる生と死の狭間の世界とは、些か趣が異なる。ここはあくまでも地上に女神が作り出した異空間なのだろう。そのおかげでエリカは外と同じように活動できる。もしも、ここがアストラル界であればエリカはたちどころに動けなくなっていただろう。

「それこそリリィがいれば、ある程度の方向性を感じ取ってくれたかもしれないのだけど」

 独りごちてもいないものはいない。無い物ねだりをしていても状況が改善するわけでもない。

 静かに呼吸をする。

 空気が濃い。

 大気中の酸素濃度だけでなく、呪力すらも濃密だ。地面にも木々にも生命力が行き渡っているのが分かる。

 命を育む権能。

 生と死を司る大地母神には、ありふれた能力だろう。

「なるほど。命の母が降臨すれば、山の上に密林を作り出すこともできるというわけ」

 信じがたいことではあるが、さすがは神の権能だ。

 サルバトーレのような分かりやすい破壊能力とは方向性がことなるが、これこそ神が神として崇められる所以であろう。

 物を壊すだけならば、現代の科学技術でもかなりのことができるようになっている。しかし、このような大規模な緑化はさすがに不可能だ。人知を超越した権能という点では、こちらのほうが目に見えてすさまじさを実感できる。

 ただそこにいるだけで環境を激変させる。

 『まつろわぬ神』が如何に理不尽な存在か分かるというものだ。

 降臨した『まつろわぬ神』の正体は気になるものの、ここは神の領域だ。迂闊に正体を探ろうものならどんな神罰が下されるか分からない。

 エリカは神殺しを挑もうとは決して思わない。

 武勲は欲しいが名誉欲のために無駄死にするのは御免被る。今は何としてでもこの異界から生還し、情報を届けなければならない。

 かくしてエリカは異界を彷徨うことになった。

 幸い、保存食は携帯していたので三日は持つだろう。それを越えるとサバイバル食を試す必要があるが、神の領域で狩りをするのは危険だ。可能な限り三日以内に脱出したい。そのためにはサルバトーレを探すのが手っ取り早いのだが。

「反応なし、か。困ったわね」

 膨大な呪力の塊であるカンピオーネを探すのは容易に思えたが、この世界では上手くいかなかった。一帯が女神の力で覆われているからだろう。サルバトーレの気配が全く掴めない。こうなれば、サルバトーレ側から一騒動起こしてもらうのを待つか、偶然の助けを借りるしか道はなさそうだ。

 四方に使い魔を放ってみたが、今のところ目立った成果はない。

 体力温存のためにエリカは可能な限り移動を控え、使い魔での探索を重視することにした。

 当てもなく彷徨ったところで、飢えて倒れるのが目に見えている。サバイバルの基本はできるだけその場を動かず、救出を待つことである。

 サルバトーレがいるのなら、何かしらの騒動を必ず起こす。神が形成する異界の中で、あの魔王が大人しくしているはずがないからだ。

 闇雲に動くのではなく、今は雌伏の時と考える。

 じっと待つのも作戦の内だ。

 エリカはそう自分に言い聞かせ、雨風を凌げる巨木の下に身を隠した。

 

 

 動きがあったのは、それから丸一日経ってからだった。

 遠くで大きな爆発音があり、同時に莫大な呪力が渦を巻いているのを感じたエリカは、温存していた体力をここぞとばかりに使って現場に走った。

 尋常ならざる呪力が立て続けに四方八方に解き放たれる。そして、以前見た空から降り注ぐ光の矢。間違いなくあの女神が戦闘をしているのだ。となれば、そこにはサルバトーレ・ドニがいるのは間違いない。

 『まつろわぬ神』とカンピオーネの戦いに巻き込まれる可能性があるので、深入りはできない。しかし、何かあればすぐにでも駆けつけて、隙を見つけて脱出する。

 サルバトーレが女神を倒せば御の字。そうでなくとも、この異界をどうにかしてくれれば、エリカは生還できる。

 ともかく、状況に置いてけぼりにされることだけは避けなければならない。巨大な倒木を蹴って、大きく跳躍したエリカは、さらに巨木を駆け上がる。

「やっぱりサルバトーレ卿」

 二キロほど先で、サルバトーレと女神が戦っているのが見て取れた。周囲の木々が切り倒され、燃え上がり、円形の闘技場のように両者の周りだけが不毛の地となっている。

 サルバトーレの身体は赤熱していて、女神の炎に炙られたことを感じさせる。

「それにしても、卿のお身体にああも傷をつけられるなんて」

 サルバトーレの鋼鉄の肉体は、万全ならば『まつろわぬ神』の斬撃すらも無傷で跳ね返す頑強さを誇る。竜を討ち滅ぼし、その「大地の生命力」を簒奪した《鋼》の英雄神ジークフリートの無敵の肉体を権能として手にしているのだ。

「あの女神も《蛇》の属性を感じさせるのだけど、違うのかしら? 単純な相性だけですべて決まるとは言わないけれど、何かからくりがありそうね」

 《鋼》と《蛇》は『まつろわぬ神』を語る上で外せない属性だ。一部の神が持つこれらの属性は、戦闘時に相性として現れる。《鋼》の属性を持つ神は、主に《蛇》の属性を持つ神や神獣を倒してその力を奪い取った軍神に多い。『剣』を象徴する軍神や英雄神が《鋼》となり、まつろわされる女神が《蛇》の属性を与えられる傾向にある。

 あの女神は、生と死を司る地母神であろう。神名が明らかではないので確定はしないが、《蛇》の属性を持つ女神の可能性は高い。

 となるとサルバトーレの《鋼》の権能には不利な面もあるだろうが、むしろ、あの女神は《鋼》の権能であるジークフリートの不死身を突破して見せた。

 『まつろわぬ神』の正体は、その神の能力や特性を探る上で重要な情報だ。

 カンピオーネが『まつろわぬ神』を倒すための参考にするというのは限定的な使い方で、エリカたち一般の呪術師としては、その神の嗜好や権能を考察することで、市井の人々への被害を最小限するための対策に利用するのである。

 ここでエリカが何も情報を持ち帰らなければ、何のためにサルバトーレに同行したのか分からない。

 エリカの仕事はサルバトーレの『まつろわぬ神』捜索への協力だが、それとは別にサルバトーレが『まつろわぬ神』の討伐に失敗した場合に、どのような神が降臨したのかを報告し、《赤銅黒十字》をはじめとする各結社がこの大災害に対処できるようにするということもある。

 そのため、エリカは注意深く『まつろわぬ神』を観察した。今、エリカの頭の中にはいくつかの神名候補が挙がっているが決定づけるだけの根拠が乏しい。もう少しで確信に至れるという時、呪力の流れが大きく変わった。

「……え?」

 遠く激烈な魔王と神の戦いの現場で、莫大な呪力が荒れ狂っている。

 空間が歪み、大きく撓んでいるような錯覚すら覚える。

「何……? まさか、サルバトーレ卿の?」

 ごう、と猛烈な風が吹き荒れた。

 エリカは吹き飛ばされないよう大木にしがみついた。

 サルバトーレを中心に、莫大な呪力がのたうち回っている。

「これは、もしかして『聖なる錯乱(ディバイン・コンヒュージョン)』!? こんなところで、それを使ったら……!?」

 サルバトーレが最近まで秘匿していた権能の一つだ。狂乱や酩酊を司るディオニュソスから簒奪したというあらゆる呪術や権能を暴走させる空間を形成する切り札だ。

 発動中はサルバトーレですらまともに権能が使えなくなるのだが、生粋の剣士である彼にはむしろ都合がいいという面もあって、奥の手として今まで詳細が明かされてこなかった。

 少し前、サルバトーレはこの権能を使ってアイーシャの通廊の権能を暴走させ、過去の世界へ冒険の旅に出た。

 今、まさに同じことが起きようとしている。

 世界に亀裂が走った。

「う……きゃあッ」

 エリカは暴風に身体を押されてバランスを崩した。そのまま落下すれば命はない。サルバトーレの権能の影響でエリカはまともに呪術が使えなくなっているからだ。

 エリカはとっさに剣を大木に突き立てた。少女の細腕ではあるが、クオレ・ディ・レオーネは稀代の魔剣。その魔剣の刀身は、今のエリカの力でも大木の幹に突き刺さった。

「ぐ、う……」

 歯を食いしばったエリカは必死に近くの枝に足を伸ばし、身体を安定させる。

 そうしている内に、景色が大きく歪んでいった。空に穴が開き、まるでガラス細工が崩れるようにそこかしこに罅が入る。

「サルバトーレ卿!?」

 そして、サルバトーレが空に吸い込まれていくのが見えた。アンドレアも一緒だ。二人の男が、揃って瓦礫とともに空に墜ちていく。

 エリカはそれを呆然と眺めていることしかできない。

 ここは神が作り上げた異界である。それが暴走させられたことで、異物であるサルバトーレを放逐してしまったのだ。

 それがサルバトーレの意図の通りかは不明だ。何せ暴走の権能なのだ。もしかしたら、サルバトーレにとっても想定外だったのかもしれない。

 やがて、暴風が収まると世界は急速に修繕されていった。空の穴は塞がり、焼け焦げた大地には緑が満ちる。緑化事業を早回しで眺めているかのようで、数十年分の緑化がものの数秒のうちに成し遂げられてしまった。

 すべて終わってから、エリカは地上に降りた。

「参ったわね」

 正直、現時点では打つ手がない。

 サルバトーレがいなくなった以上、この空間からの脱出は困難を極めるだろう。外部から誰かが救出に来てくれるのを待つか、あるいは何らかの形で外部への穴を見つけるしかないだろう。それも、魔女の資質のないエリカには難しいことだが。

 こういった異世界探索は、魔女の得意分野である。ライバルのリリアナならば何かしらの糸口を見つけてくれるかもしれないが、今はエリカだけだ。それに、今回《赤銅黒十字》が担ぎ出されたのも、《青銅黒十字》のリリアナが、ガリア探索を終えて帰還したことで一躍注目を集めたからでもある。間違っても《青銅黒十字》の支援を受けるようなことがあってはならないのだ。

 エリカ個人の意地やプライドの問題ではなく、《赤銅黒十字》という組織が背負う看板の問題だ。次代を担うエリカは何としてでも、結果を出さなければならない立場なのだ。

 当面、エリカにできることはなくなってしまった。

 プラスに考えられることはアンドレアがサルバトーレと一緒に外に出たことだろう。彼ならば、エリカがこの中にいると正しく外部に報告してくれるはずだ。それで、『まつろわぬ神』の支配する領域に誰が踏み込んできてくれるかは分からないが、希望を捨てるには早すぎる。

 大きな落胆があったものの、エリカは気を取り直した。ここで弱気になっては、後々に響く。常に気をしっかり持たないと、過酷な環境では生きていくことすらできない。

 



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中編 古の女神編 Ⅲ

 七雄神社で最初の情報提供を受けてから二日が経った。その間、『まつろわぬ神』の新しい情報は護堂にはまったく入ってこなかった。まだ報告できるような確度の情報が入ってきていないのかもしれない。そう思いながらも、自分が関わることになれば一大事なので、頭の片隅ではいつも気にしてしまっていた。

 かといって日常生活が変わるわけでもない。この二日間は代わり映えのない普通の生活を送っていて、変わったことと言えば数学で壊滅的点数を取った晶に泣きつかれて勉強を見てやったことくらいだろう。

 古典や歴史分野では、同学年に右に出る者のいない晶ではあるが、数学や理科は「基礎」から頭に入っていないので、非常に苦労しているのだ。それも彼女の出自を考えると仕方のない面はあるが、来年度からは高等部に入学することになるので、あまり悠長なことは言っていられない。最低限基礎になる公式くらいは押さえておかなければ、高校の数学についていくことはできないのだ。 

 天変地異とも言える『まつろわぬ神』の情報が護堂に入ってこないのならば、それは対岸の火事として頭から消してしまってもいいのかもしれない。

 今日は終業式で、明日からは春休みだ。午前中にすべての活動が終わり、午後からは部活動の時間になる。

 祐理は茶道部に参加し、晶は最後の追試で不在だ。この学校の追試は、大抵が赤点を取ったテストと同じ問題を出題するので、よほどのことがなければ落第することはない。彼女は中等部なので失敗したところで留年もないが、春休みの半分は学校に来なければならなくなるのが痛手だろう。まず失敗はないと思うが。

 終業式の後は、先輩とのお別れ会がどの部活でも行われる。護堂の友人たちもその例に漏れず、お別れ会があるので、駄弁って時間を潰すこともできなかった。

 思いのほか暇になってしまったので、道草を食いながら帰宅しようと思い校門を出た。

 近くの本屋に寄って週刊誌の立ち読みをして、それから昼食にハンバーガーを食べ、午後の三時を回ったあたりで家路に就いた。

 平日の午後は、住宅街から人気が消えて静まりかえる。あまりこの時間帯に出歩かないので、新鮮な気分になる。

 そんな折り、歩いている護堂のすぐ隣に黒塗りに車が停まった。

「お疲れ様です草薙さん。お時間、よろしいですか?」

 助手席に乗っていたのは馨だった。運転者は冬馬だ。正史編纂委員会の東京支部を室長である馨自ら護堂の迎えに来たというのは、何かしらのトラブルが護堂にも大きく関わるものであることを意味する。

「この前のフランスのヤツですか?」

「はい。祐理と晶にも、別に連絡を入れています。込み入った話になるので、お手数ですが七雄神社までいらしていただけますか?」

 馨は慇懃にそう言った。

 調査を続けていた『まつろわぬ神』の件で大きな動きがあったと思われる。護堂に否やはない。すぐに後部座席に乗り込んだ護堂は、そのまま自宅ではなく七雄神社に向かうことになった。

 

 

 

 古くは伊勢神宮の荘園の一つであった芝公園のすぐ近くの小高い丘の上にあるのが七雄神社だ。階段を使うと汗をかくので、いつもはエレベーターを使って神社まで上がっている。

 いつもと変わらない七雄神社――――とは行かない。足を踏み入れた瞬間に違和感を覚えた。

「何だ、これ?」

 研ぎ澄まされた第六感が、いつもと違うことを伝えてくる。しかし、その正体ははっきりと掴めない。あまりにも弱すぎる。危ないものではないと分かるが、少し気になる。

「さすがですね。お分かりになりますか」

「馨さん、やっぱり何か仕掛けてますか?」

「ただの人払いです。人体には無害ですが、普通の人は『なんか嫌な感じ』だと思って、ここを避けるようになります。それと遠見やらなんやら、諸々の対策ですね。魔王様の会合をのぞき見しようという輩がいるとは思いたくありませんが、念のためです」

「そこまで入念は準備をするのって、今まであんまなかったですよね?」

「ええ、そうですね。まあ、今回はちょっと組織の運営上の話もありますし、先方の依頼(・・・・・)もありますのでね」 

 どうやら、正史編纂委員会だけの話ではないようだ。

 現場がフランスで《赤銅黒十字》が絡んでいるのだから、そこは国境を越えた話になるということだろうか。

「さあ、どうぞ」

 いつもの社務所に護堂は上がり込んだ。

 馨が事前に手を回していたからか、神社の職員は一人もいなくなっている、

 人のいないはずの社務所の中に見知った人影がいた。

「リリアナ?」

「お久しぶりです、というにはあまり間が開いていませんが、その節はお世話になりました」

 白銀の美姫、《青銅黒十字》のリリアナ・クラニチャールがそこにいた。騎士として護堂の前に恭しく跪き、挨拶の口上を述べた。

「珍しい……馨さんが言っていた先方って、リリアナのことだったんですか?」

「ええ、そのとおりです。イタリアの古き呪術結社《青銅黒十字》の大騎士様です。非公式の訪問ですが、無碍にもできません」

「非公式? それで、人払いやらなんやら」

「そのとおりです。僕たちとしてはさほど気にしないのですけどね、あちらはそうでもないようで」

 リリアナ側の事情での非公式会談というわけだ。

「申し訳ありません、このたびはわたしのわがままでこのような場を設けていただきました。護堂さんは正史編纂委員会の総帥であらせられます。お会いするにも、まずは窓口を通してからのほうがいいと思いまして、こちらの甘粕さんに連絡をしました」

「別に気にしなくてもいいのに。メールでも電話でもいくらでもあるだろう」

「もちろん、それもありますが、今回はプライベートを離れますので」

 リリアナは護堂とガリアの旅路を一緒に乗り越えた仲だ。それぞれ連絡先も知っているので、やりとりを行うのに形式張ったことをする必要はない。

 しかし、リリアナ側はそう簡単な割り切りはしていない様子だ。少なくともカンピオーネであり、一組織のトップに立つ護堂に何かしらの依頼をするのなら、組織を通すのが礼儀だと考えているのだ。

「リリアナがわざわざ日本まで来たってのは、フランスのなんとかっていう峠のことなんだよな?」

「その通りです。おそらく概要はすでにご承知かと思いますが、その関係でお話があるのです」

 

 

 晶と祐理、明日香の到着はそれから二十分ほどしてからだった。恵那にも声がかかっているのだが、奥多摩から駆けつけるのは困難だったのでこの場には参加できなかった。

 純日本風の神社の社務所の中で、綺麗に正座をする北欧系イタリアの美少女騎士というのがミスマッチではあるが、それを覗けばいつものメンツだ。

「それでは、事件のあらましから、説明します」

 と、リリアナは居住まいを正して口を開いた。

「きっかけはわたしたちも巻き込まれたガリアの一件です。サルバトーレ卿は、わたしたちがガリアから戻った後、数日は大人しくされていたのですが、ある日唐突にこうおっしゃったのです『ガリアで会った神様が最強の《鋼》だって言うんなら、僕たちはそれを出迎えるためにきちんとした準備をしないといけないと思うんだ』と」

「出迎える?」

「はい。卿のことですから、まつろわぬラーマが降臨した時に、彼と剣を交えるおつもりなのでしょう」

「まあ、アイツならそう言うだろうな」

「そこで、卿はこうも仰いました。『今のまま挑むのもいいけれど、どうせならもっと手札を用意したほうが面白いよね』と。ええ、これはアンドレア卿から伺ったことなのですが」

「その手札ってのは、つまり権能のことか?」

「そのようです。しかも折悪く『まつろわぬ神』に連なる神獣らしき存在がピレネーの頂で確認され、結果、《赤銅黒十字》にその行方を追わせるということになったのです」

 サルバトーレの厄介なところは、大変な気分屋ということだ。他のカンピオーネにも概ね共通する性格的特徴ではあるが、彼は自分と同格かそれ以上の存在との戦いにのみ楽しさを見いだす生粋の戦闘狂でありながら、その場の気分次第では戦わずに、無視することもある。

 今回も、直前にガリアでの大きな戦いがあったのでしばらくは休息を取るという選択をする可能性があったのだが、サルバトーレは迷わずに戦いを選んだ。

「よほど、ガリアのことが効いてたんだな」

「そのようです。そして、それは《赤銅黒十字》を巻き込んだことでも窺えます」

「そうなのか?」

「はい。要するにわたしが関わったことが原因らしいのですが、どうも護堂さんにわたしが付き従っていたところから、《赤銅黒十字》に発破をかけたようで」

「よく分からないんだが……?」

 護堂は首を捻った。それに答えたのは馨だった。

「組織間の対立を上手く煽ったということでしょう。従来から《青銅黒十字》と《赤銅黒十字》は何かと比較されるライバル関係です。そこに、リリアナ・クラニチャールが『まつろわぬ神』関連で功績を打ち立てたものだから、《赤銅黒十字》は面白くなかったでしょうね」

 馨は組織運営に長けているだけあって、その辺りの理解が早い。

 リリアナは頷いて、続ける。

「アンドレア卿と《赤銅黒十字》の会談で、《赤銅黒十字》がサルバトーレ卿に協力することになりました。最初はピレネー山脈を捜索し、神の気配を追ってアルプスまで移動した結果、イズラン峠でサルバトーレ卿と『まつろわぬ神』が衝突した、ということです」

「その『まつろわぬ神』とサルバトーレの戦いはどうなったんだ?」

「今分かっている範囲ですと痛み分けという状況です。どうも『まつろわぬ神』は権能で異界を形成したらしく、サルバトーレ卿とアンドレア卿がその異界から脱出されたことは確認できています。しかし、降臨した神の正体などはまだ分かっていません。地母神ということまでは分かっているのですが……」

「地母神。《蛇》系の女神とかかな」

 情報がまだ少なくどんな神なのかは分からないが、《蛇》の属性を持つ神は大抵が生と死を司る神格で、それ故に不死性を持つ厄介さがある。おまけに、《鋼》の軍神が持つこざっぱりとした潔さがなく、手練手管を駆使して追い詰めてくることもある。こういう策を弄するタイプは戦いにくいので、アテナのような軍神の相がある相手のほうが分かりやすくていいとすら思う。

「サルバトーレはどうしてるんだ?」

「現在、別の『まつろわぬ神』との戦闘中とのことです」

「別の? まだ、いるのか?」

「おそらくは従属神の類かと。しかし、卿も負傷しており万全ではなく、戦線が広がっているとのこと。すぐさま異界の探索というまでには至らない状況です」

「その話、リリアナがわざわざ俺に持ってきたのって理由があるのか?」

「はい、大変申し上げにくいのですが……」

 と、リリアナは言葉を一度切った。そして、

「エリカの捜索にお力を貸していただけないでしょうか」

 意を決した真剣なまなざしでリリアナはそう言った。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 エリカ・ブランデッリ。

 《赤銅黒十字》の総帥、パオロ・ブランデッリの姪であり、若き大騎士。護堂とは同い年で、カンピオーネになった当初、メルカルトとの戦いを最も近くで見ていた呪術師である。護堂が世に知られるきっかけになったレポートを出したのが他ならぬエリカなのだ。

 それ以来、エリカは護堂と交流を続けて現在に至っている。リリアナほどには頻繁でないにしても、ヨーロッパ情勢の情報源の一つとして護堂を助けてくれているのだ。

 言わばビジネスパートナーというべきだろうか。遠く離れた異国の友人である。

 そんな友人にして稀代の才媛が、サルバトーレの『まつろわぬ神』捜索の中で行方不明になり、今も所在不明であるらしい。

「あのエリカが簡単に大事に至るとは思いませんが、相手は『まつろわぬ神』。その領域に囚われれば、エリカであっても脱出は困難でしょう」

「いわゆる神隠しってヤツだね。神様だけじゃない。妖精やら精霊やらが形成する異界は、この世と地続きでありながらも、一度足を踏み入れたら抜け出せない別世界だ。エリカ・ブランデッリはそこにいると、君は確信できているわけだね?」

 と、馨は念押し気味に尋ねた。

「はい。根拠はありませんが、そのように感じます」

「魔女である君がそう言うのなら、きっとそうなんだろう。エリカ卿は少なくとも今はまだ無事ということだね」

「はい」

「思うに、今回の君の行動には組織としての後ろ盾はないんじゃないかな?」

「その通りです。わたしが日本に来たのは、あくまでもわたし個人の意思です。《青銅黒十字》は今回の件には関わりません」

「だろうね。組織としては正しい判断だ。何せ、神様との揉め事だ。魔王に命令されたくらいのいいわけがなければ動けない。まして、その魔王は《赤銅黒十字》にどうにかしろと命令しているわけだから、横からしゃしゃり出るわけにはいかない。サルバトーレ卿が突いた組織間のライバル意識の片翼を担う《青銅黒十字》ならば尚のこと」

「はい。その通りです」

 リリアナは膝の上で握りこぶしを作り、緊張した様子だ。自分たちの事情を馨が言い当てているので、ますます締め上げられているようになってしまった。

「リリアナ卿に確認しなければならないことがあるけれど、いいかな?」

「なんでしょう?」

「エリカ卿を助けたいというのが、君の依頼だ。そうだね?」

「そうです」

「なら、それを僕らが受けたとしてメリットは示せるかな? 君は今、独自に行動している。それはつまりこれが明らかになると、組織の中での君の立場が危ういということでもある。君を助けることで僕らも《青銅黒十字》との関係に罅が入るかもしれない。大変、リスキーだ。何より、君の依頼は我らが王である草薙護堂が命を賭ける可能性もあるのだからね」

 明朗に馨はリリアナに話す。

 リリアナが独自行動をしている以上、彼女が担保できるものは一個人で負担できるものに過ぎない。確かにクラニチャール家は歴史ある名家で、蓄えも十分にあるが、それは個人で見ればというもので、カンピオーネという国家レベルの重要人物を動かすにはあまりにも不十分だ。

「正直に言いまして、今のわたしから提示できるものはほとんどありません。あるとすれば、この身命とイル・マエストロくらいのものです」

「本来、それでは話にならないということは承知しているはずだね?」

「……もちろんです」

 悔しそうにリリアナは唇を噛んだ。

 厳しいことを言われているが、すべて事実だ。

 失礼な依頼だとも分かっている。

 『まつろわぬ神』の相手をする以上命を賭ける必要がある。護堂にそれを頼むのに、リリアナはその見返りになるものが用意できない。

 しかし、今やリリアナは護堂にしか頼れない。

 かつてリリアナの祖父が信奉していたヴォバン侯爵との関係は護堂とヴォバンの対立により白紙化し、さらにサルバトーレの認識ではリリアナは護堂側である。今回の一件も、背景にあるのはサルバトーレがリリアナと《青銅黒十字》が護堂に近いということを利用して《赤銅黒十字》を焚き付けているのだ。

 リリアナは護堂以外に縋る相手がいないのが現実だ。

 おまけにサルバトーレは従属神と傷ついた身体で戦闘中である。降臨した『まつろわぬ神』はもとより、行方不明のエリカを捜索するという手間を彼がかけるとは思えない。

 無理を承知で頼むしかない。リリアナはすべて分かった上で日本に来たのだ。

「馨さんも、リリアナを困らせるのはその辺りで。事情は分かったし」

「申し訳ありません、王よ」

 馨は慇懃に頭を下げる。芝居がかっているのに嫌みを感じさせないのは、さすがだと護堂は思う。

「馨さんが言ってることも分かるけど、要するにリリアナは順番を間違えたんだなってことだな」

「順番、ですか?」

 リリアナは目を白黒させる。

「リリアナは組織のしがらみを無視して、プライベートで頼みに来たんだろ? だったら、初めから直で俺に頼めばよかったんだ。メールなり電話なりで話をすりゃいい。たぶん、エリカならそうしたぞ」

「……確かに、エリカならそういう選択もしたでしょうが……しかし、護堂さんは正史編纂委員会の総帥でもあります。依頼するのであれば、手順を踏む必要があると考えたのですが」

「まあ、確かに正式にはそうなのかもしれないけどな。例えば、エリカなら事前に俺に話をしておいて、内諾を取ってから、馨さんたちに話をしたと思うぞ。そうすれば、事実上俺の一存でスムーズに決まる、とあいつなら考えるだろうし」

「う……確かに」

 リリアナはエリカならばやりそうだと反論できずに押し黙る。

 エリカは決して騎士の礼を忘れるような女ではない。しかし、護堂の人となりを熟知した上で、それを利用するくらいはしてみせるだろう。

「リリアナは友達を助けるためにここに来たんだろ?」

「友ッ、というと語弊があるにはありますが、腐れ縁といいますか……その、まあ、そうです」

 エリカを友人と認めるのは何ともこそばゆい。しかし、彼女の危機的状況は直感で理解している。昔なじみだからだろうか。このままでは、危ないという実感があった。

「エリカも俺の友達なのは変わりないしな。探すのは、構わないよ」

「あ、ありがとうございます」

 リリアナは深く頭を下げる。

 その後ろで、仲間たちが呆れたような分かっていたと言わんばかりの表情を浮かべている。馨に至っては面白そうに笑みを浮かべている始末だ。

「それでは、早速飛行機のチケットを手配します。行き先はトリノでよろしいですね?」

 馨はこうなることを予期していたのだろう。初めから分かっていたように手早く手続きを進めてしまう。

 『まつろわぬ神』の出現だけなれば、護堂は動かなくてもいい。サルバトーレもヴォバン侯爵もいるのだ。放っておいても彼らが何とかするだろう。しかし、知り合いが危機的状況であるとなれば話は別だ。助けに行くというのは烏滸がましいが、助けになりたいと思うのは自然な流れだ。まして、それが護堂にしかできないことならば、断っては寝覚めが悪い。

 エリカが危ないという時点で、護堂がリリアナの頼みを受けるのは確定事項ではあったのだ。

 



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中編 古の女神編 Ⅳ

 エリカにとって人生最大の危機と言っていい。

 人跡未踏の秘境くらいであれば、持ち前の知識と呪術を駆使していくらでも乗り越えることができるだろう。人跡未踏と行っても、現在の人類の文明が届いていない地域はあまりない。地続きの場所ならば、エリカは生還する自信がある。

 しかしながら、ここは人跡未踏という表現も生温いと言っていいところだ。

 大地母神が形成した異界。大自然が広がるそこは、人間が足を踏み入れていい場所ではない。まさに神域と言うべき空間で、どれだけ歩いても出口に行き着くことはない。

 権能で作られた空間だけに、その強度は非常に高い。エリカの呪力で穴を開けることは不可能だった。やはり救出を待つか、何らかの形で穴が開くのを待つか、その二択しかない。

 サルバトーレという頼みの綱がなくなってしまったので、エリカは絶体絶命の状況に陥った。念のため、この任務を引き受けるに当たって遺言を書き残してきたが、まさかそれが現実のものになろうとは。

(わたしらしくもない。この程度で弱音だなんて)

 気を取り直してエリカは寝床から外に出た。

 こうなっては何としてでも生き延びる。保存食はもう直尽きる。できれば神の領域の食物を口にしたくはなかったが、生き延びるためにはやむを得ない。

「できる限り殺生は控えておかないといけないわよね」

 古今東西、様々な文献で異界の食べ物の危険性は語られている。この世のものではない食べ物を口にしたことで、この世の住人ではなくなってしまうという話は珍しくない。

 幸い、エリカの推測が正しければ、この異界を生成した『まつろわぬ神』はその手の神格ではないが、だからといって「大地の母」である女神が自分の領内での狩りを簡単に容認するかというと疑問が残る。動物性蛋白質は、女神の勘気を被る可能性を考慮すると控えるべきだろう。そういうわけで、エリカは山菜で空腹を凌ぐ方針にしたのだった。

 原始的な森林を踏み越えて、エリカは小川に辿り着く。呪力は生命力そのもので、大気にそれが満ちている。そのおかげが、エリカは疲労を外界よりも抑えることができていた。思ったよりも体力を温存できている。環境のおかげだろう。それはサバイバルを強要されている現状では、実にありがたい。

「ふう……」

 エリカは小川のほとりで休憩をすることにした。

 起伏のある地形を歩いていたので、ふくらはぎがパンパンだ。いざというときに動けないと困るので、無理はしない。

 竹を使って作った水筒に水をくみ、呪術で沸かして殺菌する。古代人が苦労した様々な工程を呪術は省略することができる。一から火を熾すような肉体労働はエリカの主義に反するので、可能な限り省エネにするのだ。

「気候と大気中の呪力以外は、外と概ね一緒なのね。植生も馬鹿みたいに現実離れしたものじゃないみたいだし」

 今日はこの辺りでキャンプにしよう。そう思ってエリカは手近な巨岩に目をつけた。小川の水深は深いところで大体一メートルくらいだろう。対岸までは五メートル弱。しかし、川岸の木々の倒れ方や下草の様子からこの川は増水して周囲を水浸しにすることが分かったので、地面に寝るのは危険だと判断した。エリカが巨岩をキャンプの場としたのは、水面から三メートルは上にある巨岩の頂ならば、急な増水にも対応できると考えたからだ。

 薪を運び、小石を並べて薪を囲い、火をつける。せっかく小川が近くにあるのだから魚を獲りたいが、血を流すのは神の機嫌を損なうかもしれないので我慢する。

「キャンプも悪くはないのだけど、こうも制約が多いとげんなりするわね」

 あれもダメ、これもダメではキャンプの楽しさはまったくない。サバイバルという過酷な状況だからこそ、せめて食事は美味しくいただきたいが、そこにすら制限があるのは精神衛生上よくない。

「このエリカ・ブランデッリが木の実を囓ってばかりの生活をする羽目になるなんて」

 そう言いつつ、採取してきた木の実を鍋で煮る。金属を操る術はエリカが最も得意とするところだ。鍋を作ることなど造作もない。

 このような雑多な日用品を作るために呪術の研鑽をしたわけではないのだと内心で文句を言いつつ、そればかりは口には出さない。

 つくづく呪術師でよかった。

 呪術によって生きるのに必要な道具は確保できるし、食べられる植物とそうでないものの区別もできる。

 魔女ではないので専門とは言えないが、植物の区別は呪術を学ぶ上での基本だ。

 現代人の淑女でありながら、狩猟採集の時代に近しいことをしなければならないのは甚だ不本意だったが、自分の知識が実用できると証明されたことは誇らしく思う。

 脱出は困難でも、数週間は生きていられる確信は持てた。

 エリカは懐から懐中時計を取り出す。こんな状況でも古めかしい時計は正しく時刻を紡いでいている。この異界の一日の長さは、外と変わらない。二十四時間は二十四時間だ。日の出から日の出までの時間を計ったおかげで、時間感覚を維持できている。後はこの異界の中の時間の流れが外の時間と同じであることを祈るだけだ。

 戻ってみたら何年も経過していたという事態もあり得る。笑えない話だが、神隠しに遭った人間は、得てしてそういう不条理に囚われるものだ。

 まさか異界でフィールドワークをすることになろうとは思わなかったが、前向きに考えるのならそれもまたアリだ。現状を力尽くで変えられないからこそ、力と知識を蓄える。

 十分ではないが最低限の栄養摂取を終えたエリカは、総身が震え上がるほどの呪力を感じて身構えた。川の上流から、とてつもない呪力の塊が近づいてくる。

「……来たのね」

 エリカは喉を干上がらせながらも、決死の覚悟を抱いた。

 剣を置き、巨岩から飛び置いて跪いた。

 そして、時を置かずすぐに圧倒的な力を持つ存在がエリカの眼前に降臨した。

文明の火(プロメテウス)の気配を感じて来てみれば、人の子が一人迷い込んでいたか」

 涼やかな声だった。 

 理知的で大らか。威圧感はなく、包み込んでくるような慈愛を感じた。エリカは顔を伏せたまま、神への敬意を表す。

「なるほど、お前は我が遠い末であり、ヘルメスの弟子でもあるようだ。差し詰め、息子に従って我が領域に引き込まれたのだろうが、聡明さに助けられたな。神への礼儀を忘れた不忠者であれば、この場で神罰を下していたところだった」

 押し黙るエリカは理性を保つので精一杯だった。今まで『まつろわぬ神』とここまで接近したことはない。遠目で見ても背筋が凍えるほどの強大な存在が、ほんの数メートル先にいて、しかも自分のことを認識している。

 これは、由々しき事態だった。

 人が普段の生活の中で足下の蟻に気づかないように、『まつろわぬ神』も人の存在など気にも止めない。

 しかし、何らかの拍子に認識してしまえばどうなるか。

 人が気まぐれに、あるいは害意を持って蟻を踏み潰すように、一瞬先の未来でエリカが肉片に変わっていても不思議ではない。

「ふ、そう固くなるな、わたしにお前を害するつもりはないぞ。名は、エリカ・ブランデッリと言うのだな?」

「わたし如きを気にかけていただき、光栄の至りでございます。ご推察の通り、わたしの名はエリカ・ブランデッリ。若輩ながら御身に拝謁の栄を賜りましたこと、誠に幸甚の至りでございます」

 名前を知られたことにエリカは内心で驚愕する。顔には出さず、ただ只管に礼を尽くすことだけを考える。

「ふふ、驚くことはないだろう。わたしにとってはお前もあの神殺しもすべては我が子も同然なのだ。サルバトーレ・ドニ、アンドレア・リベラ、そしてエリカ・ブランデッリ。間違ってはいないだろう? 母が子の名を知らぬわけにはいかぬからな」

 得意げに『まつろわぬ神』は言葉を紡ぐ。

 エリカだけではない。

 サルバトーレも含む、この異界に侵入した三人の名をすべて把握している。

 この神は自らを母と呼んだ。

 やはり、大地母神の類いで間違いはない。

「……恐れながら、御身は大いなる大地の神であらせられると愚考いたします。御身を何とお呼びすればよろしいか、ご教示くださいますか?」

「お前ならば我が名の一つや二つ、すでに思い至っているだろうが、なるほど、だからこそわたしの名を問うのだな。やはり、お前は聡い子だ」

 艶然と母神は微笑んだ。

 まるで、それは出来のよい我が子を誇らしく思っているかのような慈母の如き笑みだった。

「いいだろう。わたしにはいくつもの名があるが、敢えてお前の期待に応えるとしよう。以後、メーテール・テオーン・イーダイアの名を胸に刻み、その生を全うせよ」

 大地母神の言葉を受けて、エリカは自分の推測が的を射ていたことに安堵する。

 この神の名は、その信仰地、とりわけギリシャでは直接呼ばれることはなく、婉曲的な表現をされていた。それがメーテール・テオーン・イーダイア。すなわち、「イーデー山の神々の母」である。

 大らかな気質の『まつろわぬ神』だからといって、不敬が許されるはずはない。

 サルバトーレを息子と呼びながら、激しく戦っていたのがその証左である。

 もしも、本当の神名をエリカが口にしたとき、果たしてどのような反応が帰ってくるかは未知数だった。

「偉大なる神々の母よ。御身に、お教えいただきたいことがございます」

「皆まで言わずともよい。あの神殺しの魔王を追い、この世界から抜け出す術を知りたいのだろう?」

「はい」

「その必要はない。お前はわたしの元で生きよ。鉄と石にて木々を切り開き、神の恩寵を忘れた外の世界で汚れずともよい」

「……あ、し、しかし」

 女神が身を翻す気配を感じて、エリカは咄嗟に顔を上げてしまう。

 この女神はエリカを外に出すつもりはない。今までと違って、エリカの存在を認識した上でそう言うのだから、脱出は絶望的になってしまう。何とかして、女神から外に出る許可をもらうか見逃してもらうかしなければどうにもならない。

「あ……」

 そして、エリカは呆然と固まった。

 女神の裸体を目視したことによる呪詛――――等ではなく、ただ見てしまった物を脳が理解できなかったからだ。

 美しいという言葉が陳腐に思えるほどの輝かしい裸体だった。金色の髪を編み上げた細面の美々しい女神は、地母神らしい豊満な乳房を持っていた。だが、エリカが見たのはそこではない。跪いていたエリカが顔を上げたことで、ちょうどそこが目に入った。

 女神の股間に女には存在しない器官がぶら下がっていて、大いなる女神はそれを隠そうともしていないのだ。

(ひ――――い)

 エリカは頬を上気させて顔を下げた。

 同年代の人間の中では並ぶ者のいない美少女であると自負するエリカではあるが、男性経験は皆無だ。知識として知ってはいるだけで、本物を目にする機会があるはずもなく、また自らを淑女とするエリカの身持ちは固い。 

 まったく想像もしていない形で、それを眼前に突きつけられれば、さすがのエリカは思考回路がショートする。

「ふふふ、ヘルメスの弟子も生娘だな。そのように恥ずかしがることもあるまい」

「も、申し訳ありません」

「謝罪も不要。アルテミスのように素肌を見た男を撃ち殺すようでは神々の母の度量が疑われよう。母の玉体を見て顔を伏せずともよいのだ。姿を隠して信仰を得る者もいるが、わたしはそうではない。思う存分に母の玉体をその目に焼き付けよ」

「ご、ご冗談を。あまりにも恐れ多いことでございます」

「謙虚だな。神への礼を弁えている。ふふふ、ますます気に入ったぞ。我が国の住人として申し分ない。その人生を大いに楽しめるよう、後で番いを用意してやろう。お前に相応しい聡明で敬虔な男をな」

 気分をよくしたのか大きく笑った母なる神が口笛を吹くと、空から二頭のライオンが引く戦車が降りてきた。

「では、さらばだ。我が娘よ。サルバトーレのような愚物に育ってくれるなよ」

 そう言い残して、『まとろわぬ神』は去って行く。

 戦車の車輪は空を踏みつけ、雲を纏い、何処かに消えていった。

「はッ――――ふはッ、はあッ」

 『まつろわぬ神』が去って、エリカは激しく喘ぎ崩れ落ちた。

 ずっと押し潰されそうな重圧を感じていた。

 気力がすっからかんだ。

 一つ間違えば殺されていた。あの地母神はエリカを娘と呼びつつ、数多の命と人間の命の価値に差を設けていない。不出来な子どもを間引くくらいは平然とやってのけるだろう。

「なんて、屈辱ッ」

 そして、エリカはあまりの屈辱に悶えていた。

 よりにもよって『まつろわぬ神』の身体を直に見てしまうとは。しかも、そこに男性器がそのままついているとは想像していなかった。

(まさか、キュベレーじゃなくて、アグディスティスとして降臨していたなんて!)

 キュベレーとアグディスティスは、ほぼ同一視される神格である。エリカの推測は間違っていないし、あの女神もキュベレーであることを匂わせる発言をしていた。

 とはいえ、身体的には全く異なる特徴がある。

 キュベレーは肉体的にも女であるが、アグディスティスは両性具有の神だ。女性的な肉体に、男性器がついている。神話上は女神と呼んでいいのかどうかも分からない。

 命の危機が去って冷静になった後で、エリカに残ったのは乙女として最大級の屈辱であった。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 サルバトーレ・ドニが引き起こした『まつろわぬ神』の事件が、一ヶ月の内に二件も発生するというのは、イタリアの呪術師からすれば迷惑極まりないことだった。

 サルバトーレは剣の王として確かな実績がある。降臨した『まつろわぬ神』を率先して退治してくれるのは、ヨーロッパでは彼だけだ。ヴォバン侯爵は、ここ数年は自分に見合わない相手とは戦わないというスタンスを取っているからだ。 

 しかし、それにしても今回の件はやり過ぎだ。半月前にアイーシャの権能を目当てに神獣狩りと称して多くの騎士を巻き込んだのは記憶に新しい。

 今回の『まつろわぬ神』探索に巻き込まれた《赤銅黒十字》はいい迷惑だろう。そのために、優秀な人材が一人、行方不明になっているのだ。

 そして、そのために護堂も再びイタリアの土を踏むことになった。

 カンピオーネになってから、世界各国に飛び回って大忙しの一年だったが、イタリアはもう何度行き来したことか。

「一ヶ月も経たないのに、またイタリアなんて、まともな高校生じゃありえないわよ」

 と、幼馴染が呟く。

「なんだかんだでお前も来たじゃないか」

「……まあね。てか、お金自腹じゃないんだから、来るでしょ。イタリアだよ」

 明日香はさも当然とばかりに言い切る。

 『まつろわぬ神』の驚異はあるが、そうと知っていれば関わらないようにするなど自衛はできる。ここまで来れば、護堂が対処するしかない案件だ。明日香はおまけでしかない。深刻な事態だと自覚はあるが半分は観光気分であった。

 ここはトリノ。ミラノに並ぶイタリア屈指の工業都市であり、二千年の歴史を持つ古都である。

「俺、トリノって正直名前しか知らなかったし、最近までどこにあるかも知らなかったな」

「それを言ったらあたしもそう。オリンピックあったけど、地図まで見なかったし」

 ローマを経由してトリノ空港にやって来たイタリア遠征軍。到着した時にはすでに日が暮れていた。春休みを利用した長旅で、背骨がバキバキ鳴っている。

「すみません、護堂さん。遅くなりました」

「リリアナさんは、もう来てるかな?」

 祐理と恵那が揃って歩いてくる。

「清秋院は無理するなよ」

「大丈夫大丈夫。うちの秘湯で湯治したら、一発だよ。あ、そうだ。王さま、日本に帰ったらうちに泊まらない? 清秋院の秘湯、すっごい気持ちイイよ」

「いいな、それ。でも秘湯ってくらいだから、行くの大変なんじゃ?」

「大分山道だけど王さまなら大丈夫だよ、きっと」

「秘湯は、雪が溶けてからにしよう」

 規格外の野生児である恵那が言う秘湯だ。奥多摩の奥地だろう。それも、きちんと道路の整備もされていないようなところにあるに違いない。護堂なら大丈夫という言葉の裏には、それだけの身体能力が求められるということでもある。

「護堂さんの仰るとおり、恵那さんも身体には気をつけてくださいね。降臨術の多用は心身に危険を伴うのですから」

「大丈夫だよ、若雷も使ってもらったしね」

 心配する祐理を余所に、恵那は平然と答える。

 先日の飛騨の鬼神との戦いで、恵那は降臨術を使用して大きく消耗した。湯治で治したというが、そう簡単な話ではない。若雷神の化身による生命力の活性化がなければ、半年は伏せっていただろう。

「先輩、リリアナさんです」

 晶がふと視線を向けた先に、銀色の騎士がいた。

 その隣に、背の高い男性がいる。柔和な顔つきだが、身体は大きくがっしりとしている。

「ご足労いただき、ありがとうございます。護堂さん」

「お疲れ、リリアナ。そちらの人は?」

「こちらは、トリノの呪術結社《老貴婦人》の聖ピントリッキオ様です」

 リリアナに紹介された男性が深々と頭を垂れる。

「《老貴婦人》のピントリッキオと申します。お見知りおきくださいませ」

「草薙護堂です。そんな、畏まらないで欲しいのですが」

「申し訳ございません。王への礼を失すれば、他への示しがつきません。何卒、ご寛恕いただきたく」

「そういうことなら、はい……」

 きっぱりと断られ、護堂は鼻白む。

 王だから仕方がないとはいえ、見るからに年上の男性に恭しくされるのは、とても気後れするのだ。

「車を用意しておりますので、どうぞこちらに」

「ありがとうございます。リリアナは?」

「わたしは別に向かいますので、気になさらないでください」

 リリアナは一歩下がって一礼する。

 トリノを管轄するのは《老貴婦人》だ。《青銅黒十字》のリリアナはあくまでも護堂の窓口役でしかないというスタンスである。

 リリアナが護堂にエリカ捜索を依頼したというのは、秘密である。よって、この遠征は護堂側から発案したという体で話を進めている。

 護堂がエリカの行方不明を知り、リリアナを使ってイタリア行きを画策した。そういう流れである。護堂からリリアナに命じたとなれば、《青銅黒十字》も組織的に護堂を支援しなければならなくなる。

 そして、護堂がトリノに来るとなれば、《老貴婦人》の出番というわけだ。

 護堂たちを乗せた車は、トリノ空港からホテルに向かって走り出す。途中、いくつかの世界遺産の前を通過した。

 トリノ王宮は言うに及ばず、歴史的にも貴重な建物がひしめき合っている。美術館や博物館もあり、色濃い歴史を感じさせる街なのだ。

 

 

 

 イタリアは美食の国だが、フランスと接するトリノはその代表格であろう。酪農が盛んなアルプスに近いので乳製品も発達している。

 日本で生活していると、なかなかお目にかかれない美味しい食べ物が多く、レストランでは夜景を楽しみながらの食事となった。

 もちろん、ホテルのレストランは完全貸し切りだ。

 初めて食べるアニョロッティが護堂のお気に入りだった。

 食後、一時間後にミーティングだ。

 『まつろわぬ神』に関する事件なだけに、空気は重たい。サルバトーレと『まつろわぬ神』が戦ったイズラン峠は、山をいくつも越えた先にある。直線距離はおおよそ七十キロほどか。車で行けば山々を迂回しなければならないので何事もなく三時間弱といったところだ。

「今の状況をご説明させていただきます」

 ピントリッキオは重々しく口を開いた。

「サルバトーレ卿と《赤銅黒十字》の騎士たちが、イズラン峠で『まつろわぬ神』と戦闘をしたのは五日前になります。降臨した神の力でイズラン峠周辺の植生が変わり、半径三キロメートルが森に覆われることになりました」

「……今は、そうじゃないんですよね?」

「はい。サルバトーレ卿との戦いで、森の異界は消滅しました。しかし、その際に『まつろわぬ神』は別の異界を作り上げたようで、そこにサルバトーレ卿とアンドレア卿、《赤銅黒十字》のエリカ卿が引きずり込まれました。サルバトーレ卿とアンドレア卿は、異界から脱出なさいましたが、エリカ卿の行方は分かっておらず、おそらくは異界の中に取り残されているのではないかと思われます」

 エリカの生死が分からなくなってから五日が経過している。 

 『まつろわぬ神』の権能で生じた異界だ。時間の流れからして、護堂たちと異なっている可能性もある。場合によっては、異界の中は数ヶ月、あるいは数年の月日が流れていてもおかしくはない。時間の流れに差異がある場合、僅かな対応の遅れが、致命的な事態になることもあり得る。

「サルバトーレは、今どうしてますか? 外に出てるんですよね?」

「サルバトーレ卿は、現在別の『まつろわぬ神』と交戦中です。イズラン峠の『まつろわぬ神』に由来する神格だと思われますが、卿をして未だに決着をつけるに至っていないのです」

「降臨したっていう『まつろわぬ神』の正体とか分かりますか?」

「申し訳ありません。現在、調査中です。魔女による霊視を行っておりますが、どうも素性を隠されている様子」

「そうなんですか」

「信仰が広まる過程で、見せるのではなく隠すことで神秘性を高める選択をしたのかもしれません。そのほか、貴人の姿を俗人から隠すというのは普遍的に見られる文化です」

 霊視によって『まつろわぬ神』の正体を知るのは難しいということか。

 ウルスラグナの黄金の剣が宝の持ち腐れになってしまうのはもったいない。

「それと、調査が進んでいない理由として、もう一つ、神獣の存在があります」

「神獣ですか」

「イズラン峠周辺で神獣の目撃情報が寄せられているのです。《老貴婦人》でも呪術師を派遣しましたが、イズラン峠に近づくこともできていないのです。さらに、活動的になっているのは神獣だけではありません。普通の動物たちも活気づいているようで、昨日も二人の若者が立ち入り禁止区域に侵入し、熊に襲われ負傷しました。命があったのは幸いなことでした」

「熊……この時期にですか」

 まだ肌寒い三月の終わりだ。冬眠から覚めるには、少し早いように思う。最も、先日の土砂崩れ等もあったので、たたき起こされた熊はいるのかもしれない。そういう熊は空腹で気が立っているだろうから、むしろ襲われてよく生きて帰れたものだ。それも『まつろわぬ神』の加護が、何らかの形で生きたのか。

「アルプスの神獣や獣たちは、間違いなく『まつろわぬ神』の守備兵でしょう。神に害意ない人間は、追い返すくらいに留めるようにしているのかもしれませんね」

 と、ピントリッキオは言う。

「エリカを探すためには、イズラン峠に行かないとダメなわけだ。ただ、そのためには神獣をくぐり抜ける必要がある」

「到着してからも異界に侵入するにはどうするかという問題があります。『まつろわぬ神』が作り上げた異界は、アストラル界とも異なるものです。侵入するにしても、その方法が分かりません」

 とはいえ、こちらには時間がない。

 手を拱いていればエリカが持たない。リリアナはこのままではエリカの命が危ういと感じていたが、この状況ならばそうだろう。

 救出作戦がほとんど動いていないのだ。そもそも《老貴婦人》からすればエリカは赤の他人で別組織の人間だ。そのために命を賭ける理由がない。彼らが動いているのは、偏に現場が自分たちの管轄のすぐ近くだからというその一点だけであって、そもそもエリカの救出を試みようとはしていない。

 神獣が犇めいている土地に救出部隊を送り込めるはずもない。この案件はカンピオーネでなければ対処できないところまで事態が進んでいたのだ。

「リリアナの飛翔術でイズラン峠まで送ってもらうのはできそう?」

 後ろで話を聞いていたリリアナに護堂は尋ねる。

「神獣の妨害を考慮しなければ可能です。危険を伴いますが」

「うん、じゃあ、こうしよう。俺とみんながいったん別行動する。俺は、アルプスの麓辺りで一暴れして神獣をおびき寄せる。その隙にみんなはリリアナの飛翔術で目的地に移動。最後に俺がみんなと合流するって感じでどうだ?」

 護堂だけで『まつろわぬ神』が潜むという異界へ潜入するのは難しいと思われる。そういう力業でどうにもならない相手に対処するには、知見のある仲間の支援が必要だ。しかし、今回は場所が場所だけに移動する間にも危険がある。護堂が囮になるのは、やむを得ないだろう。

「それではアルプスの麓までは、我々が車を出しましょう。飛翔術は優れた移動手段ですが移動中は無防備になります。空中にいる時間は少ないに越したことはありません」

 《老貴婦人》が何もしないで座していることはできない。ピントリッキオの提案を護堂は受け入れた。

「それじゃ、明日は《老貴婦人》で用意した車で行けるところまでいって、そこから別行動だな」

「護堂、悪いけどあたしはここに残るわ」

 そこで明日香が割り込んで言った。

「どうも向こうに行ってもあたしは役に立てなそうだし、こっちで観測役に徹することにするわ」

「そうか、分かった。悪いな」

「別に悪くはないわよ。こっちの方が楽なんだしね」

 明日香は自分の能力を付き合わせて現実的な判断をした。

 確かに現代では失われた強力な呪術を使用できる明日香ではあるが、その力は神獣には及ばない。天叢雲剣を持つ恵那や護堂の式神として神獣を圧倒できる晶に比べれば戦力としての期待値は低いのだ。

 明日香の本領は呪術的な知識が活かせる場面であって、『まつろわぬ神』やその眷属との実戦は荷が重い。

 

 

 明日は朝早くから行動を始めることになる。

 『まつろわぬ神』との戦いに慣れたとは決して言わない。命を賭けたくて賭けるほど、護堂は戦闘狂ではないし、そこにスリルを求めてもいない。

 ただ、降りかかる火の粉を払わないほど危機意識が低くはないし、友人の危機に立ち上がらないヘタレでもない。

 護堂の力が求められているのなら、力を貸すくらい何と言うことはない。

 ホテルの部屋割りはそれぞれ一部屋ずつ与えられている。カンピオーネを受け入れるだけあって、最高級の調度品が並んでいる。広く柔らかいベッドは肌触りも最高だ。庶民派の明日香は、今頃落ち着かない時間を過ごしているに違いない。

 荷物の整理をしていると、ドアがノックされた。リリアナの気配だ。

「護堂さん、申し訳ありません。今、お休みでしたか?」

「まさか。まだ寝るには早いよ」

 時刻は八時半を過ぎたくらいだ。明日に備えると言っても、まだベッドに入るには早いだろう。

「それで、どうしたんだ?」

「はい、お礼とお願いに参りました」

「ん? 分かった。とりあえず、入って」

 護堂は、リリアナを部屋の中に通す。

「すごくいいホテルを取ってもらったな」

「これから『まつろわぬ神』と戦われる御身が心やすく寛げるよう配慮するのは当然です。もっとも、このホテルの準備にわたしは関わっていませんが」

 ホテル関連は《老貴婦人》が担当したということだ。リリアナは護堂との連絡調整が主な担当だ。組織が異なるので、このホテルにした理由なども当然把握はしていない。

「リリアナ、なんか今日は全体的に気を回してたみたいで、疲れただろ」

「そのようなことはありません。《老貴婦人》のお膝元で大きな顔をするわけにもいきませんので、本来であれば、この辺りでお暇をいただくことも考えていたんです」

「そうなのか?」

「はい」

 と、リリアナは頷いた。

 ある程度落ち着いたら、《老貴婦人》に任せて引き下がるつもりでいたとのことだ。あまり、リリアナが出しゃばると《老貴婦人》のメンツが立たないからであり、

「エリカもわたしに助けられたとは、あまり思いたくないでしょうし」

「そういうもんか」

「立場が逆ならそう思います。助けられたくないという意味ではなく……」

「ライバルに後れを取った感じがして嫌だ?」

「ふふ、そうですね」

 リリアナは小さく微笑んだ。

 組織的に見れば単純な関係ではない。しかし、個人では幼少期から家族ぐるみでの付き合いがある。互いにホームパーティに招待し合うこともあるので、クラニチャール家とブランデッリ家の間は険悪ではないのだ。

 素直にはなれないが、お互い影で認め合っている幼馴染というところだ。

「ピントリッキオさん、なんかすごい人なんだってな」

「それはもう。あの方は聖ラファエロの弟子の一人で、イタリア国内の大騎士の中でも、特に優れた方ですよ。ゆくゆくは《老貴婦人》の総帥にもなられるでしょう」

 リリアナは自分より一回りも年上の大騎士をそう評した。

 護堂に武芸や呪術の才能はないのだが、人類最強クラスの怪物や、神々を相手にしてきたからか、向き合った相手の脅威度がなんとなく掴めるようになってきた。

 ピントリッキオの実力は、素人目にもリリアナ以上であろうことが分かる。

 話が途切れたところで、リリアナがすっと居住まいを正し、跪いた。

「護堂さん、このたびはわたしのわがままを聞いてくださって、ありがとうございました。改めて御礼申し上げます」

「……急に畏まったことするなよ、気恥ずかしい」

「いえ、今回の件、護堂さんがトリノに足を運ばれたのは、わたしが話を持ちかけたからです。さらに、こちらの事情を汲み、口裏を合わせてくださいました。沙耶宮馨が言った通り、わたしの依頼はあなたに命を賭けていただくことを前提とするもので、そのリスクに相応しい見返りをわたしは用意できません」

 『まつろわぬ神』と戦うことは、死を前提とするのは当たり前のことだ。

「別にそれは、まあ、いいホテルに泊めてもらったし、エリカは俺の友達でもある。それに、そっちの認識だとカンピオーネの義務なんだろ? 神様の相手をするのは」

「はい、その通りです。『まつろわぬ神』が現れた時、非力な人類の代表として戦うことが唯一の責務と言えます。無論、これはわたしたちがそのように求めているということですが」

「だったら、それでいいだろう。俺は責務を果たしに来た。そんなんだから、見返りとか、気にしなくていいんだ」

「……ふう、やはり、そうなのですね。いえ、そのように仰ると思っておりました」

 呆れたようにリリアナは言った。

「ですが、それではあなたの不利になるだけです。依頼したわたしが言うのも筋違いかもしれませんが、王に相応しい振る舞いというのは、ただ施すだけではないのです。施してばかりですと、いずれは首が回らなくなります」

「もちろん、分かってるよ。俺だって好き好んで危ない目に遭うわけじゃないからな」

「でしたら、せめて見返りを要求してください。施されている者は、いずれはその状況に慣れてしまう。無償で助けてもらうことが当たり前になっては、あなたの威勢に傷がつきます」

「威勢とか、興味ないけどなぁ」

「与しやすいカンピオーネだと思われれば、名を上げるためにあなたを倒そうとする者が現れるかもしれません。その際には、ご家族に迷惑をかけることもあるでしょう。記録によれば、今ほどカンピオーネの情報がなかった時代には、神殺しの噂を聞いてヴォバン侯爵に挑み、誅伐された者もいるくらいなのです」

「そ、そうなの?」

「はい」

 リリアナは真剣な表情で頷いた。

 ヴォバン侯爵は、洋の東西を問わず最悪の魔王としてその異名が鳴り響いている。今の時代に、彼に挑もうとする者はまずいない。本人曰く、『まつろわぬ神』ですら避けて通ると豪語するくらいなのだから。

「何が言いたいかと言いますと、カンピオーネの権威、絶対性というのは、いつの時代にも通じる完全無欠のものではないということです。誤った情報が流布すれば、あなたの力に疑念を持つ者も、遺憾ながら現れるでしょう。そしてそれは、あなたの日頃の言動にも左右されるのですから、お気をつけください」

「そうだったのか。うん、気をつける。忠告、ありがとうな」

「いえ、申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」

 リリアナは咳払いをして、

「すみません、本題から逸れてしまいました。見返りという点で、一つ、提案がございます」

「提案? 見返りで?」

「はい」

 リリアナは騎士の礼を取ったまま、しばらく黙り込んだ。

 それから、徐に口を開いた。

「わたしをあなたの騎士として召し抱えていただけないでしょうか?」

「……ええと、それはどういうこと?」

「先ほど申し上げたとおり、わたしの頼みのためにあなたは命を賭けることになるのです。ならば、わたしもあなたのために身命を賭するのは当然のこと。わたし一人では、確かに御身の命とは天秤にも掛けられませんが、これが今、提示できる精一杯。何卒、あなたの元で奉公させていただきたく」

「奉公っていつの時代だよ。大体、うちにお手伝いさんみたいなのはいらないぞ」

「日々のお世話だけではありません。戦場での露払い程度ならこなせますし、必要ならば、教授の術を施すことも厭いませんし、いかなる命で忠義を試していただいても構いません」

 リリアナは言葉を紡ぐ内にどんどんと覚悟を決めたような口調になってくる。ここに来るまでに多くの葛藤があったのだろうが口火を切ったことで、すべて割り切ったのだ。

「忠義を試すとか、そういうのはしないし、別に、なあ……」

 堅物の騎士は、納得はしないだろう。彼女なりにいろいろと考えた結果だということは分かる。

「それ、組織の人とかどう考えてるんだ?」

「はい。祖父にはすでに話を通してあります。草薙護堂に忠を尽くすことについて、反対はございませんでした」

「あ、そう……」

 護堂は悩んだ。

 リリアナの言葉を鵜呑みにするのはよくないが、だからといって突き放すわけにもいかない。

 《青銅黒十字》と護堂の関係はすでに、大分誤解もあるが広まっている。その中心にリリアナがいるのも周知の事実だ。

 サルバトーレが《赤銅黒十字》を利用したのも、背景にあるのは《青銅黒十字》と護堂の親密な関係性を突いたものだ。

 となると、護堂がリリアナから距離を取れば、逆に彼女を追い込むことになるのではないか。

 組織の事情とか政治とかは疎い護堂だが、カンピオーネの影響力を考えると十分に想像できることではあった。

 どうやら、いつの間にか外堀が大分埋められていたようだ。

 これを受け入れて護堂が直接困ることもなさそうだ。護堂は、とりあえず頷いてみせる。

「リリアナの言葉はすごくありがたいし、これからも助けてくれるって言うのなら、お願いしようかな」

「は、はいッ!」

 リリアナは嬉しそうに、相好を崩す。

「わたしたちは比翼の鳥にして連理の枝、以後、末永くお傍に置いてくださいませ」

 そして、リリアナは跪いたままうっとりとした表情で護堂の手を取る。

 何事かと思ったとき、そのままリリアナは護堂の手の甲にキスをした。

 騎士が主君に忠誠を誓うように。性別が逆な気もするが、リリアナはまったく気にしていないようであった。

「リリアナ、何もそこまで」

「今のは、忠誠を誓う騎士の礼として、伝統的な方法をしたまでですので、はい」

 リリアナはすっくと立ち上がった。

「そ、それでは本日は失礼いたします。明日の支度がありますので」

 一礼したリリアナは足早に出口に向かう。

 ドアノブに手をかけたリリアナは振り返り、

「そ、その、以後、よろしくお願いいたします」

 そう言い残して部屋を出て行った。

 

 

 

 護堂の部屋を出たリリアナは逃げるように自分の部屋に駆け戻った。

 すべて終わってから我に返った。自分が何を口走り、とてつもなく恥ずかしいことをしてしまったと理解したからだ。

 護堂に仕えるのは間違っていない。

 護堂との関係性を考えれば、これが正しい判断だ。中途半端な立ち位置では、状況に振り回されるだけだ。組織的にも個人的にも護堂との確固たる繋がりを保証しなければならない。

 ああ、だがしかし、あそこまでする必要はなかったのではないか。ついつい興が乗ったというか、勢いに任せてしまったというか、湧き上がる熱い思いのまま忠誠のキスまでしてしまった。明日からどんな顔をして護堂に会えばいいのか。

「どうかしたのですか、リリアナ様。まるで、愛しの王子様と初めての口づけを交わした直後の生娘みたいな顔をして」

「そ、そこまではしてないッ! それにわたしはれっきとした生娘だぞ、カレン!」

「そこまで?」

「うッ……ん」

 自分に仕える年下のメイドに指摘され、うっかり口を滑らせたリリアナは慌てて口を噤んだ。

「はて、今リリアナ様は草薙様の元に行かれていたはず。やはり、そこで何かありましたか」

「ない。わたしにはそんな、恥ずべきことは何もない。騎士として、騎士として正しい行いをしたのだ。絶対に間違いなどではないぞ」

「……何をそこまで慌てているのですか?」

 わたわたするリリアナにカレンは面白いものを見たとばかりに邪悪な笑みを浮かべた。

 愛しの主人を弄るために、ライバルであるエリカとも繋がるという捻れた愛情表現をするカレンがリリアナの慌てようを見逃すはずはなく、この後しばらくリリアナはカレンの追及を受けることになるのだった。



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中編 古の女神編 Ⅴ

 その日、幸運にも天気に恵まれた。

 青く澄んだ空に、白い雲がゆっくりと流れている。それが、石造りのトリノの街によく映える。戦いを控えていなければ、思う存分に観光をして回ったところだ。

 マイクロバスに積み込むのは最低限の物資。目標地点のイズラン峠は近辺は、まだ真冬で、春には遠い。防寒具と登山用の保存食は必須だ。しかし、あまり余計な荷物を持ち込んでも邪魔になる。最終的にはバスを降りて着の身着のまま、とは行かないまでも軽装でイズラン峠まで飛ばなければならないのだ。マイクロバスはあくまでも護堂たちを可能な限り現場に近づけるための手段として使用する。送り届けた後は、その役目はほぼ終わりである。

 トリノを出た一行は、国道をフランスに向けて進んだ。

 出発当初はいつも通りに年相応の賑やかさを見せていた護堂たちであったが、『まつろわぬ神』がいるであろうイズラン峠に近づくにつれて次第に口数が減っていった。

 『まつろわぬ神』との戦いに明け暮れた一年の間に、ずいぶんと耐性がついた。護堂だけでなく、ただの人間である祐理ですら、恐怖を感じながらもしっかりと『まつろわぬ神』と戦うという覚悟を抱くことができるほどにだ。

 しかし、だからといって、護堂と『まつろわぬ神』との戦いが生やさしいものであるはずもなく、一つのミスで全員が帰らぬ人になる可能性は少なくない。いや、相手が曲がりなりにも神である以上、戦って生きて帰るということは前提から除外すべきなのだ。

 護堂という大きな力を仲間としていても、祐理も恵那もリリアナも人の範疇でしかないのだ。

 視界いっぱいに広がる大自然。

 イズラン峠への最短ルートは雪に覆われて通行止めになっているらしい。

 アルプス山脈と一口に言っても、非常に広大な山脈なので様々な区分が存在する。例えば、イタリアのコモ湖とスイスとドイツの国境近くにあるボーデン湖を繋いだ線の西側と東側で東西アルプスを分ける。また、西アルプス山脈のうち、イタリアのトリノとフランスのグルノーブルを繋いだ線を境に南西アルプス山脈と北西アルプス山脈に分けるのが一般的だ。

 護堂を乗せたマイクロバスは、ちょうどこの南西アルプス山脈と北西アルプス山脈の間の通り、フランスまで迂回する道を選んだ。

 リリアナが使う飛翔術は人間が用いる呪術の中でも突出して秀でた移動手段ではあるが、目標地点に直線的に移動するという性質上、空中では無防備になるという弱点がある。

 神獣が蠢くアルプスの上空を飛行するリスクはできる限り小さくしたい。

 そのため、例え遠回りになったとしても、マイクロバスで近づけるだけ近づくことにしたのだ。

 ぐるりと回り、アルプスの山々を右手に眺めながらイぜール川を遡るように車を走らせる。田畑が広がる田園地帯を抜けると、市街地に出た。

 アルベールビル。かつて、冬季オリンピックの主催地にもなった、自然豊かな町である。

「休憩にしましょう」

 リリアナが言った。

 さすがにカンピオーネを乗せているだけあって、スーパーマーケットの駐車場に停車して休憩などという庶民的な対応ができるはずもなく、ほんの少しの王の休憩のためだけに小さな宿を借り上げていた。

「あー、疲れた。腰痛い」

 バスを降りた恵那が大きく背伸びをした。

 山奥に引きこもって厳しい修行に明け暮れる恵那は、普段から何時間も乗り物に揺られることに慣れていないので、精神的にも疲れたようだ。

「やっぱり、なんだか空気が澄んでるな」

「これだけ山が周りにあるとそうですよね。うーん、青梅と奥多摩の間くらいの感じ」

「なるほど、まあ、確かにそんな雰囲気もあるなぁ」

 晶の例えに護堂は頷いた。

 山のど真ん中ではないが、周囲を山々に囲まれた盆地に近い地形だ。地平線は見えず、どこを見ても壮大な山脈が壁となって視界を限定している。

「…………あっち、だな」

 不意に護堂の脳裏に強い違和感が生じた。普段は感じることのない「何かよくないものがある」という感覚だ。

 まだ遠い。しかし、確実に仇敵の存在を感じた。

 アルプスの方角に強い力が蟠っている。ぼんやりとだが、そう思ったのだ。

「王さま、鋭いね。さすが」

「清秋院もか。じゃあ、勘違いじゃないな」

「あはは、こういうのなら王さまのほうが恵那より鋭いじゃん。うん、あっちのほうにいるのは間違いなさそう。ねえ、祐理?」

 恵那が祐理に話を振ると祐理は緊張した面持ちで頷いた。

「はい。『まつろわぬ神』の力が根付いているのを感じます。非常に強い……大地と命の神、のように思います」

 祐理は目を閉じて精神を集中する。

 じっと十秒ほどそうしてから、小さく頭を振った。

「申し訳ありません。ここからですと、これが精一杯の情報です」

「イズラン峠だっけ。そこまで、まだ五十キロくらいあるはずだし、それだけでも分かる祐理がすごいんだよ」

「いえ、ですがこの程度はすでに分かっていたことですから。これだけでは、まだ何もお役に立てていませんし」

 謙遜する祐理を恵那が構う。

「大地と命の神様か。やっぱり《蛇》の仲間なんだろうか」

「本人がどうかは分かりませんが、そういった女神と習合しているかもしれませんし、属性的に大地も命も《蛇》に関わりますからね」

 晶がじっとアルプスの山並みを見つめながら答えた。

 それだけで断定できるものでもないが、世界的に見ても多くの《蛇》の神格が生と死のサイクルを司っているのは事実だ。それは古代人にとって脱皮をして成長する蛇が、死と再生を彷彿させたからだとも言う。

「神様がいなければ、絶好のロケーションなんだよな」

「本当ですね」

 美しい山の連なりではあるが、その向こうに『まつろわぬ神』がいると思うと、素直に景色を楽しめない。

 それに、五十キロ近くの距離を隔てていながら、その呪力を感じることができるというのが、降臨した神の強大さを物語っている。

 神の呪力という余計なエッセンスが混じっているが、自然の空気としては上々。そう思うことにして、東京とは異なる空気を味わいながら、護堂はホテルのレストランに入った。

 護堂たちはそこで早めの昼食を摂った。

 これから戦闘になる可能性が高いので、あまりがっつりしたものは食べないようにする。唐辛子を利かせたトマトソースを絡めたスパゲッティアラビアータとオニオンスープだけで、腹八分に留める。

「アラビアータって聞いたことあったけど、日本では食べなかったな」

 唐辛子の辛みとトマトの酸味と甘みが絶妙に絡み合った逸品だ。ほどよい辛さが身体に渇を入れてくれるようでもあった。

「恵那、アラビアータって食べたことないなぁ。美味しい?」

「ああ、めっちゃ美味いぞ」

「そうなんだ、王さま、一口ちょうだい」

「ん? ああ、いいぞ」

 対面する恵那がスプーンで護堂の皿からトマトソースを取った。

「恵那さん、お行儀が悪いですよ」

「ごめんごめん。んん! ほんとだ、これ美味しい! 帰ったら、作ってみようかな」

 恵那はけらけらと笑いながら、今度は祐理のスープにスプーンを伸ばした。気心の知れている相手にはとことん距離を詰めていくのが恵那のあり方だ。それでいて、相手が不快に思うようなところは踏み込まないように配慮もできる。自由闊達な自然児ではあるが、これでも日本有数のお嬢様なのだ。生活力も実はかなり高い。

 食事を終えた頃合いを見計らってリリアナがそっと護堂の元にやって来た。

「みなさん、少しよろしいですか? 今後のことについて、なのですが」

「ああ、リリアナ。何かあったか?」

「はい。実は、プール=サン=モーリスの手前で雪崩があったようで、道が寸断されているとのことなのです。もしかしたら神獣の影響かもしれませんが、車での移動はその手前までになりそうです」

 この先、入り組んだ山道を進んでいかなければならない。ロードレースなどでも人気の山道だが、それだけに長く険しい道のりだ。

 雪崩による道路寸断は、山深い地域ならば珍しくはない。それ自体に驚きはないが……。

「イズラン峠までの距離ってどんな?」

「直線距離で、三十キロ前後といったところでしょうか」

「リリアナ、飛べるか?」

「可能です。しかし、ひとっ飛びというわけにはいかないでしょう。術の特性上、一気に目的地まで移動することも可能ですが、移動距離が長ければ長いほど危険は増します。そうですね……四回、いえ、三回は着地して、目的地の再設定をするべきかと」

「移動ができるんなら、それでいいかな。他のみんなはどう?」

 リリアナの飛翔術で運ばれるのは、護堂を除く三人だ。護堂よりも彼女たちの意見のほうが重要であろう。

「恵那は大丈夫だよ。高山は慣れてるしね」

「わたしも問題ありません。身体は一番頑丈ですからね」

「わたしも大丈夫です」

 三人とも異議はなかった。

 恵那と晶は人並み外れた耐久力の持ち主だからいいとして、祐理はそうでもない。肉体的には一般人よりも脆弱とすら言えるだろう。

 リリアナはそんな祐理のことをよく知っていたので、心配そうに尋ねた。

「万里谷祐理、本当に今更だが、身体は大丈夫なのか?」

「はい。こういうときのために護身の術も学んでいるのです。自分の足で登山となると、確かに辛いところですが、リリアナさんに送ってもらえるのですから大丈夫です」

「そ、そうか。分かった。なら、いいんだ」

 リリアナが祐理を心配するのは、彼女の身体の弱さを知るからだけではない。四年前にヴォバン侯爵が行った『まつろわぬ神』を招来する儀式でリリアナと祐理は顔を会わせている。祐理はリリアナがそこにいたことを知らなかったが、リリアナは祐理のことをずっと覚えていた。四年後、このような形で再会するとは思っていなかったが、かつて祐理が身を挺してリリアナたちを救おうとした事実は、リリアナにとって非常に大きなものであった。

「それでは、準備ができ次第出発しましょう」

 ここから先は、ほぼ休みなしだ。アルプの山に陣取る『まつろわぬ神』とその領域に向けた進軍と言ってもいい。

 マイクロバスに乗り込んで、東に向かって走る。山と山の間を流れる川に沿って、谷間の道を行くのだ。

 小さな集落が転々と存在する。この辺りはスキーの名所でもある。観光業が盛んなのだ。ただし、『まつろわぬ神』の出現と神獣の活性化で、危険地帯と化している。残っているのは、避難指示に従わなかった住人か、呪術師だけだ。

 

 

 

 しばらくして、マイクロバスが停車した。

 気温は低く、辺り一帯はいつの間にか残雪に囲まれていた。

「どうかした?」

「車はここまでのようです」

 前方を見ればは雪崩によって大きな雪の壁ができていた。木々も倒れていて、道は完全に寸断されている。

「予定地点よりかなり手前ですが、ここから飛翔術を使うことにします」

 と、リリアナは言う。

「分かった。じゃあ、適当に暴れるから、二十分したら出てくれ」

「承知しました」

 護堂はコートを着て、マイクロバスの外に出る。

「晶、清秋院。祐理とリリアナの護衛は頼んだぞ」

「先輩、気をつけて」

「こっちのことは任せてくれていいからね」

 晶と恵那が窓から顔を覗かせる。

「護堂さん、峠でお待ちしています」

「おう」

 少女たちに見送られて、護堂は閃電に化身する。土雷神の化身を使い、雷光の速度で大地を駆け抜けるのだ。ただの人間には護堂は消えたようにすら見えるだろう。まっすぐにイズラン峠に向かえば、リリアナが飛翔するよりも早くたどり着ける。

 だが、護堂が別行動を取ったのは、峠を守っていると思われる神獣たちの気を逸らすためだ。

 まっすぐにイズラン峠に向かったりはしない。

 ヴァノワーズ国立公園で護堂は姿を現した。イズラン峠の南側に位置する国立公園だ。二千メートル台山々が連なる場所で、木々は生えておらず、雪がない時期に来れば、石と僅かな下草の荒涼とした景色が広がっているはずの公園だ。

 起伏の激しいアルプの峻険な岩山が、どこまでも連なっている壮大な光景がそこにある――――はずだった。

「ここ、もうおかしいだろ」

 現出した護堂は、一瞬まったく違うところに来てしまったかと思った。そこは森だった。アルプス山脈といえば、雪と岩山が定番だ。高山の頂上付近で、数十メートル級の木々からなる森が形成されるはずがない。

 おまけに森の中は温暖だった。残雪はまったくなく、どこからか鳥の声が聞こえてくる。アルプスの生態系から、大きくかけ離れた大自然が作り出されていたのだ。

「よし、考えても仕方ないな」

 自然環境を作り替える『まつろわぬ神』は珍しくない。火の神が降臨すれば、その周囲は燃え上がり、嵐の神が降臨すれば、そこに大嵐がやって来る。生命の神や植物の神がいるのなら、どこだろうとこうした景色になるに違いない。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ」

 護堂は相手が《蛇》であると仮定して《鋼》の属性を持つ剣を作り出して四方に射出した。 

 神剣は木々を貫通し、切り倒し着弾と同時に大きな土煙を上げた。無礼な《鋼》の不意打ちは開戦の狼煙となって、国立公園中に響き渡った。

 

 

 

 護堂の戦いをリリアナは魔女の目を通して見ていた。

 森林化した国立公園の中を駆け回りながら、巨大なライオンを三頭ばかり仕留めたところだった。上空に目を移動し、高所から俯瞰すると護堂を取り囲むように神獣や猛獣が移動しているのが分かる。

 それはライオンであったり、熊であったり、アナコンダを遥かに上回る巨大な蛇だったりした。

 その悉くが、護堂の前に討ち果たされていく。

 倒れた神獣は血を流すことなく塵になる。通常の動物であれば、血を流して倒れる。護堂は自分に向かってくる敵は、神獣であろうと、普通の獣であろうと関わりなく打ち倒した。

「王さま、どうしてる?」

 恵那は興味深そうにリリアナに尋ねた。護堂を心配しているそぶりは見せない。『まつろわぬ神』が相手ならいざ知らず、ただの神獣が相手ならば護堂が後れを取るはずがない。

「予定通りに進んでいる。護堂さんを中心に二キロ四方から神獣が集まっている」

「護堂さん……大丈夫ですよね?」

 祐理が心配そうに尋ねた。こちらは護堂が負けるはずがないと思ってはいても、不安にならざるを得ないといった心境だろうか。

「ああ、問題はなさそうだ。今のところかすり傷一つついていない。圧倒的だ。あのライオンの神獣を相手に、一方的に戦えるなんて、さすがはカンピオーネといったところか」

 見る限り、護堂に不安要素はない。一方的で圧倒的な蹂躙だ。ライオンも熊も狼も、関係なく槍と剣に貫かれている。

 護堂に倒されたライオン一頭だけでも、リリアナたち大騎士クラスの呪術師を何十人と動員しなければ勝負にすらならない。

 改めてカンピオーネの規格外さを見せつけられた。

「不幸中の幸いというべきか、『まつろわぬ神』によって環境が書き換えられたようだから、イズラン峠で凍える心配はなさそうだ」

「でも、飛んでる間は寒いよね?」

「ああ、だから防寒対策は変わらず続けて欲しい。もう護堂さんの戦いに巻き込まれないように、迂回して飛ぶ」

 本来、高度二千メートルを越えた辺りの気温は零度以下だ。飛翔術は高度も関係なく目的地に到達できるが、飛行中の温度変化にまで恩恵を与えてくれるほど利便性のある術ではない。防寒対策は個々人でしっかりとしなければならない。

 やはり、ここで心配になるのは祐理だ。人ではなくなった晶や奥多摩の山奥での生活に慣れている恵那とは違い祐理は都会育ちだ。媛巫女の修行で厳しい環境を経験したこともあるが、普段の住まいは東京都心である。

 同様の心配を恵那もしていたのだろう。

 祐理の背中を擦って、何やら呪文を唱えている。

「ま、こんなとこかな」

 と、恵那は言う。

「ありがとうございます、恵那さん」

 祐理は何枚も重ね着をして、フードをかぶり厳重な寒さ対策をしている。コートの下には保温用の呪符を何枚も張ってカイロ代わりにし、さらに恵那が修験者御用達の防寒呪術を施した。

「気温がマイナスだろうが、ぽかぽか陽気に感じるくらいにしっかり術を掛けといたよ」

「とても暖かいです。これなら、冷凍庫の中でも一夜を明かせそうです」

「冷凍庫くらいなら余裕だよ」

 少しだけの軽口。

 第六感の囁きが祐理の視線を自然に山の向こうに向けさせる。

 山の上の方から冷気が降りてくる。祐理は思わず身震いした。風の冷たさにではなく、その風が纏っている死の気配に恐怖したのだ。

「準備はできたようだな……よし、それでは、行くぞ――――アルテミスの翼よ、夜を渡り、天の道を往く飛翔の特権を我に与えたまえ!」

 固い口調でリリアナが言う。

 青い光がリリアナから放たれる。その光が恵那と晶と祐理をそれぞれ包み込むと、四人を連れ立って上空に飛び上がった。

 魔女の才能を持つ者が使用できる飛翔術。一キロほどの距離も、十秒前後で移動できる。人間が出せる速度としては、規格外と言っていいだろう。何せ、新幹線よりも速いのだ。

 飛翔術で上空まで飛び上がり、護堂が戦っている国立公園を迂回するため、戦場から十キロほど北西のモンプリ山のすぐ脇を抜け、シュヴリル湖の湖畔に着地する。

「う……く、はあッ!」

 リリアナが苦しげに吐息を漏らす。

「リリアナさん、大丈夫ですか!?」

「ああ、大丈夫だ。この距離と高度を一気に飛ぶのは久しぶりだったからな」

 祐理の心配を余所にリリアナはすぐに次ぎの飛翔に向けて呪力を練り上げる。今ので距離を半分ほど稼いだ。残り半分だ。リリアナは気を引き締めて、再び飛翔術の言霊を叫ぶ。

「アルテミスの翼よ、夜を渡り、天の道を往く飛翔の特権を我に与えたまえ!」

 風が轟々と音を立てている。

 視点が瞬く間に空高くに舞い上がり、恐ろしい速度で景色が遠ざかる。青い流星のように、アルプスの空を駆け抜ける。

 飛翔術で守られたリリアナたちは、風の影響を受けないが、そうでなければ人体が吹き飛ばされるだろうと思えるほどの強風が吹き抜けている。それもかなりの乱気流だ。太陽が出ているからか、あるいは「ごく一部」が温暖な気候に変えられているからか、暖かい空気が上昇気流となって空を乱しているようだ。

「このままだと、山の天気も滅茶苦茶になりそうだな……!」

 水と大地の精と相性のよりリリアナは、強大な神力で強引に変質したアルプスの山肌を眺めて呟いた。

 雪で閉ざされた高山のまっただ中に唐突に現れる大森林だ。気温が急激に上昇し、気圧も上がった。春を迎えた地上と大差ない気候である。

 これはかなり由々しき事態である。

 アルプス山脈はヨーロッパ各国の水源になっている。冬の間に降り積もった大量の雪が、雪解け水となってドナウ川やライン川といった大河川を潤すのだ。

 もしも、アルプス山脈が常春の気候になってしまえば、ヨーロッパ全域で水不足になってしまう。

 危機感を抱きながらも、リリアナは妨害に遭うことなくイズラン峠に降り立った。視界はほとんどない。大量に降り積もっていたはずの雪は、どこにもなく鬱蒼とした森になっている。

「あっつ」

 恵那が額の汗を拭い、上着を脱いだ。

 麓との気温差は、三十度以上になるだろう。半袖でも十分に活動できるほどの暖かい気温だ。

「こんなになってるなんてね」

「想定以上に森林化が進んでいるみたいだ。エリカがいる異界とここが繋がっているのは間違いないが……」

 ここはほんの入り口にすぎない。エリカが取り込まれた異界は、現実世界とは位相を別にする妖精の国と言うべき場所である。

 歩いてたどり着ける場所ではない。

「と、するとここにこれほどの森が広がっているのは、どういうことなのでしょう。『まつろわぬ神』は、異界にいるわけですよね?」

「もしかしたら、こっちを森にする意図はないのかもしれない。『まつろわぬ神』はそこにいるだけで、周囲に影響を与える。異界への入り口がこの辺りにあるのなら、そこから漏れ出した神気に当てられて環境が変わってしまったのかもしれない」

 リリアナは頤に手を当てて、周囲を見回している。樹木の種類は多様だ。リリアナが注目したのは、太くしなやかな大木。

「なんだこれは……まさか、レバノン杉か? こんなところに?」

 樹皮を擦り、リリアナは興味深そうに木を眺めている。

「レバノン杉って、中東のほうの木ですよね?」

 晶がリリアナに歩み寄って話しかけた。

「ああ。それこそ、メソポタミア神話の時代から生活に利用されていた良質な木材だ。ギルガメシュ叙事詩にも、レバノン杉の森を征服するギルガメシュとエンキドの話があるくらいで、人類の歴史上かなり重要な木材と言っていいだろう。それがここにある、ということは……」

「降臨した神様は、中東に縁のある神様ということですか?」

「可能性は否定できないな。もっとも、ヨーロッパ圏の神々は中東やインドの神性と深く関わっているから、どの神格なのかは一概に特定はできないし、いろいろと混ざっていることもあるだろうし」

 リリアナは深く空気を吸い込んで、目を瞑る。

 大気に満ちあふれる生と死の神気に心を寄り添わせるように、自然の中に自分の精神を溶け込ませる。

 ふっと湧き上がるイメージがあった。荒涼とした大地に照りつける太陽の輝き。あらゆる生命を支える光と熱は同時に多くの命を奪う灼熱そのものでもある。

「ッ……ダメか」

「リリアナさん?」

 晶が心配そうにリリアナの顔を覗き込む。

「今、少しだけ視えた。だが、足りない」

 悔しげにリリアナは顔を歪ませる。

「万里谷祐理、そちらはどうだ?」

「すみません、こちらも同じです。僅かな手がかりは見えましたが神の御名には届きませんでした。権能なのか、何かが霊視を阻害しているような……はい、そのように感じます」

「霊視対策は意図的なものではないのだろうが、厄介な。信仰上、名前を伏せることで神性を高めた逸話があるのかもしれないな」

 リリアナだけでなく、祐理の霊視でもはっきりとしたことは分からなかった。これだけ神力に満ちた土地にいるのに、肝心なところが読み取れないのは珍しい。偶然ではなく、作為的なものを感じる。

 事前調査の段階から疑われていた、「名前を隠す」という方向性なり逸話なりを持つ神格なのだろう。

 薄暗い森の中に紫電が走った。

 一瞬の電光の後で現れたのは護堂だ。

「みんな、無事か?」

「大丈夫。王さまのおかげでピンピンしてるよ」

「そうか、よかった」

 彼女たちの実力を疑うわけではないが、神獣が多数生息している未知の森の中だ。やはり、心配はする。

「それで、どうだった?」

 と、護堂は尋ねる。

「すみません。やはり、はっきりと読み取ることはできませんでした」

「予想通りではあります。霊視の類を遮断し、自らの名を隠す力をお持ちのようです」

 祐理とリリアナが口々に言う。

「ですが、わたしと万里谷祐理で僅かながらも読み取れたことがあります」

「視えたのか」

「少しですが。わたしが見たのは荒涼とした荒野、それから太陽のイメージです。周囲の植生からも、中東の神性を取り込んでいる可能性はあると思います」

 と、リリアナは言い、

「わたしが視たのは、海でした。いえ、島でしょうか。多くの人が行き交う小さな島国で、篤く信仰されている、そのように思います」

「荒野と島国?」

 一見してそこに繋がりがないように見える。

「珍しいことではありませんね。神々の信仰は人の流れに乗る者です。古代の人々にとって船は最大の移動手段ですから、島国に信仰が持ち込まれるのはありえます。護堂さんが今まで戦ってきた神々の中にも、そうした来歴を持つ神格があったのではありませんか?」

 リリアナの問いに、護堂は頷いた。

「メルカルト、とかな。あれは、確かフェニキアの神様だったか。バアルとか、地中海の嵐の神様と習合したんだったっけ……」

 島国の神様と聞いて、筋骨隆々な嵐の神を護堂は思い出す。ガブリエルを倒し、カンピオーネとなった後で戦った『まつろわぬ神』。護堂にとっては初戦の相手だ。そのときは、エリカが一緒にいた。メルカルトは島国発祥の神格ではないが、戦った場所がシチリア島だったので、護堂の中では島と聞いて思い浮かべる神格であった。

「神さまの名前が掴めないのでは、ウルスラグナの剣を研ぐことはできませんね。どうしますか?」

 晶が問いかける。

 彼女の右手には大きな槍が握られている。護堂が渡した神槍は、今では晶のメイン武装となっている。禍々しい神気を帯びた神槍は、存在だけでまっとうな人間を威圧するだろう。

「エリカがいるっていう異界は、この辺なんだよな?」

「そうですね。この辺というよりは、ここと重なる別の場所になりますが、間違ってはおりません。入り口はありませんが、異界は確かにここにあります」

 最も巫力の強い祐理が断言する。

 目には見えないが、『まつろわぬ神』の息吹を強く感じるのだという。

「だったら、俺と祐理でこじ開けるしかないな。いけるか?」

「はい、可能です」

 毅然とした態度で祐理は言う。

 そして、護堂がガブリエルの聖句を唱える。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり」

 精神感応の権能が祐理の巫力を最大限に活性化させる。

「御巫の八神よ。和合の鎮めに応えて、静謐を顕し給え」

 静かに祐理もまた自らの力を練り上げた。清らかな祐理の和魂が真っ白な輝きとなって放射される。高位の巫女のみが扱える御霊鎮めの法であった。

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ」

 重ねて源頼光の権能を使う。

 周囲に満ちる酒気は神々の権能すらも酩酊させて力を失わせる破邪の酒だ。おまけにその性質は《鋼》である。御霊鎮めの法と神便鬼毒酒の権能が『まつろわぬ神』の作り出した異界とこちらの世界との境を曖昧にする。

 護堂の眼前で空間が揺らめき、うっすらと別の世界が見えてくる。

「よし、もう少しッ……!」

 と、思ったときだった。

 ぞっと背筋を走る悪寒に護堂は震えた。咄嗟に祐理を抱えて飛び退く。そこに異界の出入り口となった穴から、大きなライオンが飛び出してきたのだ。判断が遅ければ、祐理が犠牲になっていたかもしれない。

「怪我はッ!?」

「おかげさまで、ありがとうございます」

 護堂に抱きかかえられた祐理は照れくさそうに笑みを浮かべる。

 護堂を目がけて飛びかかってくるライオンの横っ面を、晶の神槍が強かに打つ。

「万里谷先輩、結構余裕ありますね」

「そんなこと、ありません。少し驚きました」

「少しですか」

 もともと危機察知能力が高い上、ガブリエルの権能で第六感がいつも以上に研ぎ澄まされている。護堂並みの早さで自分の身の危険を察したのだろう。その上で余裕があるのは、護堂が助けてくれることも織り込み済みだったからか。護堂と祐理の独特の信頼関係の築き方を少し羨ましく思いながらも、晶はその気持ちを力に変えてライオンの首筋に刃を突き立てる。

「まず一匹ッ!」

 神槍で貫いたライオンの巨体を、晶は神槍を振り回して投げ飛ばす。その先には、敵の第二陣が控えていた。

「南無八幡大菩薩!」

 ライオンの死骸を盾に、走ってくる虎と狼を足止めした晶は、団子状になった集団に向けて神槍を投じた。

 ミサイルのように神槍は疾駆し、神獣と獣の混成部隊を粉みじんに粉砕する。

「オオオオオオオオオッ」

 大木の影から躍り出た巨大ゴリラが吠える。この森の生態系はもはや何でもありだ。普通のゴリラの二倍近い巨体で仲間を葬り去った晶に復讐しようと襲いかかる。

 それでも、カンピオーネの使い魔として絶大な恩寵を受ける晶の敵ではない。ゴリラの大木のような腕の一振りを姿勢を低くして躱し、空振りをしたゴリラの肘に肘打ちをたたき込む。ごきり、と骨が砕ける音がして、ゴリラは苦痛に叫ぶ。

 身体の頑丈さも筋力も晶のほうが格段に上だったのだ。

「セイッ!」

 そして、もちろん速さもだ。

 ゴリラが次の行動に移る前に晶は飛び上がってゴリラの頭を蹴り飛ばした。

 まるでサッカーでもするように胴体から首が離れて飛んでいく。神獣の頭が地面に落ちる前に、身体も頭も塵になって消えてしまった。

「護堂さん、わたしにも武器を!」

「リリアナ、頼む」

 護堂がリリアナに渡したのは矢であった。

 無骨で彩りのない鉄の矢である。これが、恐るべき神気を帯びて、禍々しく輝いている。

「感謝します、護堂さん!」

 気づけばリリアナの手には青く輝く弓が握られていた。そこに、護堂から受け取った鉄箭を番える。

「ヨナタンの弓よ。鷲よりも速く、獅子よりも強き勇士の器よ。疾く汝の敵を撃て!」

 射出された矢の勢いはこの世の物とは思えず、威力もまた絶大だった。

 物悲しい哀悼の呪いを帯びた矢は、『まつろわぬ神』の身体にすら傷を付けうる呪詛を内包している。それが、護堂の権能で作られた神具に重ねられれば、神獣すら絶命させる必殺の一撃となる。

「ク、オオオオオオオオオオオオッ……」

 胸に矢を受けたゴリラが倒れ、さらに狼と虎が射貫かれた。一矢一殺のペースで的確に大地の獣を仕留めている。

「アッキーもリリアナさんもすごいねぇ、これは、恵那も負けてられないねッ」

 恵那は颶風を纏って大木を蹴り、三次元的な動きで神獣を翻弄する。

 天叢雲剣を持って、虎を斬り、風を鉄槌のように叩き付けてライオンを跳ね飛ばす。

 スサノオから引き出した呪力は、本来の神懸かりの三分の一ほどだ。完全な形で神懸かりをすれば、一気に体力を消耗する。

 ペース配分を考えて神懸かりを使用することで、長期間の戦闘行動が可能となるのだ。

「清秋院、そっちはもういい。こっちに一押ししてくれ!」

「分かったッ!」

 恵那はライオンの爪と牙を掻い潜り、晶が恵那に変わってライオンを斬り捨てる。

 護堂の元に駆けてきた恵那は漆黒の天叢雲剣を構える。

「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし、今は吾が名の惜しけくもなし。やああああああああッ!」

 ゆらゆらと揺れる異界との境目に恵那が天叢雲剣を突き刺す。ずぶり、とゼリーを斬るような手応えがあった。

 恵那が力を込めて剣を縦に一閃すると、切り口がぱっくりと開いて異界が顔を覗かせた。温暖な風が吹き込んでくる。向こうもこちらと同じような自然環境であるらしい。

「リリアナ、晶、祐理は任せたぞ」

 護堂は神獣と戦う仲間に声を掛けた。

 未知の異界での探索に体力のない祐理が同行するのは危険。むしろ、こちらに残って優れた霊視による後方支援をしてもらったほうがいいと判断したのだ。

 そのため、祐理の直接の仕事は異界への入り口を見つけ出すところまでだ。リリアナの飛翔術と晶の護衛で安全圏まで一気に離脱してもらう。

「お任せください、先輩。早く帰ってきてくださいね!」

「すみません、後はお願いします」

「エリカのこと、よろしくお願いします」

 リリアナが青い光に包まれる。祐理と晶を飛翔術に取り込み、空高く舞い上がる。追撃しようよする神獣を護堂は酒の濁流で押し流した。辺り一帯に酒気をまき散らして、『まつろわぬ神』の権能を弱体化させるのだ。 

「行くぞ、清秋院」

「うん」

 そして恵那は頷き、護堂とともに『まつろわぬ神』が作り上げたという異界に足を踏み入れた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

「ふむ?」

 洞窟の奥で玉座に腰掛けるアグディスティスは、奇妙な胸騒ぎを覚えて目を開けた。傍らに控えるライオンの神獣が唸り声を上げる。

 自らの領域が、自分とは縁もゆかりもない権能で侵されている。人間的に言えば、丹精込めて作り上げた新築の家を土足で踏み荒らされているような感覚だ。

「サルバトーレ・ドニ、ではないな。新たな神殺しか。ふふふ、この地に腰を落ち着けたかと思えば、数日の間に二人も神殺しがやって来るとは、ままならぬものだな」

 そう言いながらも、アグディスティスは楽しげだ。

 大いなる大地の母であるアグディスティスにとっては、この世に生きるあらゆる生命は自らの管轄であると言える。神への反逆をなし得た神殺しは「不出来な息子」であって、叱責の対象にはなるが、憎しみを持って当たる相手とは思っていない。

「顔くらいは見に行ってやろうか。子の帰省を出迎えるくらいの度量は必要だろうからな」

 ゆったりと玉座を立ったアグディスティスは、絹の衣を纏って洞窟を出た。

 外は朗らかな陽気で、これから破壊の嵐が吹き荒れる前兆すらない。

 二頭のライオンを繋いだ戦車に乗り、アグディスティスは軽快に空へ舞い上がっていった。



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中編 古の女神編 Ⅵ

 春のようなというよりも、むしろ蒸し暑い初夏の日差しを思わせる太陽が燦々と輝いている。

 恵那と一緒に異界に突入してみると、そこは予想したとおりの森の中だった。

 虫と鳥の声が四方から聞こえてくる。

 木々の背は高く見上げてみればどれも二十メートルから三十メートルくらいはありそうだ。広葉樹と針葉樹が入り乱れていて、倒木からも木が生える。人の手が入る前の原生林の姿がそこにはあった。

「なんかいろいろと混じってる感じがするね」

「そうか? 俺は詳しくないからよく分からないな」

「乾燥してる地域の木とか熱帯の木とか、本当にいろいろと混ざってるよ。この空気感は奥多摩の感じにも似てるなぁ……」

「雨が降りやすくなければそれでいいや」

 護堂と恵那の荷物は戦闘を想定して最小限だ。持ち込んだリュックサックには保存食や寝袋が入っていて、サバイバルを想定しているが、だからといって風雨の中を行軍したいわけではない。

「熱帯雨林って感じじゃないな」

 と、護堂は周りを見て思った。

 奥多摩の感じに近いという恵那の感想は納得だ。この森の雰囲気は、どうも日本にもある温帯雨林に近いものがある。

 熱帯雨林と聞いて思い浮かべる酷い湿気は感じない。とはいえ、温暖でそこそこの湿度があるという時点で、雪に覆われているべきアルプスの山腹の環境ではない。この影響が外にも出ている。エリカの安否確認が第一優先だが、この事象の解決もまた今後のヨーロッパの自然環境を考えると重要な課題であろう。

「王さま、知ってる? 熱帯雨林って、あんまり木の実とか採れないんだって」

「そうなのか? 意外だな」

「雨が多くて、受粉が上手くいかないかららしいよ。その点、この辺りは結構いろいろ採れそう。山菜もあるし、食べ物にはしばらく困らないね」

「その辺は清秋院に任せるよ。さすがに山菜は分からないからな」

 護堂はカンピオーネであることを除けば一般的な都会人の知識しかない。奥多摩で自然の中で修行を積んできた恵那に知識で勝つことはできない。

「でも、王さまって、なんだかんだで飢えて死ぬってことはなさそうだよね」

「まあ、やろうと思えば狩りができるからな。残念ながら、普通の熊くらいなら簡単にやれるからな」

 自分でも呆れた身体だと思う。

 普通の熊や虎、ライオンくらいなら対峙しても驚異にすら感じないし、無傷で圧勝できるだろう。それくらいの馬鹿げた力が護堂にはある。

「サバイバルで動物性蛋白質は貴重だってのは、知ってるけど山菜とか植物系も大事だよ」

「ドングリはそのままじゃ食えないんだろうなってことは知ってるし、山菜とかキノコとかも多分、やってみれば何とかなるんじゃないかなって思うけどね」

「知識ないのにキノコは不味くない?」

「知ってるよ。でも、多分、大丈夫。本当にダメなら、そう感じるだろうから」

 ガブリエルから簒奪した直感の権能もあるし、カンピオーネの体質なら毒キノコくらいでどうこうなることはないだろう。

 食あたりで体調を崩すということは考えられないので、必要なら何であれ栄養にすることができる。

 何度かサバイバルに近い環境に身を置いた護堂は、それを実感していた。

「人間って、厳しい環境に適応して生き抜くために知識を活用してきたけど、王さまってそういうとこ全部無視しちゃうよね。エドもベアもそこまで命知らずじゃないよ」

 恵那は楽しげにそんな失礼な感想を言う。

「まるで俺が人間を辞めてるみたいじゃないか。……いや、まあ、体質的にはそうなんだけど」

 普通の人間が勘で何とかなるといっても無謀を通り越してただの阿呆でしかない。実際にチャレンジして安定したサバイバルが勘頼みで繰り返せるわけがない。しかし、護堂は本当に勘だけでどんな厳しい自然環境でも生存できるだろう。おまけにこれはガブリエルの権能を得たからではなく、おそらくはすべてのカンピオーネが等しく持つ生存本能に裏打ちされた能力だ。権能だけではない。あらゆる面でカンピオーネは人間を超越している。

 恵那が知識と経験で積み重ねてきたサバイバル術を、護堂は何となくでやってのける。この理不尽こそがカンピオーネの本質だ。

「それで、王さま。まず、どうする?」

「もちろんエリカの捜索。つっても、何も手がかりがないからな。この世界がどうなっているのかもよく分からないし」

 こう言いながらも恵那は式神を飛ばしているし、護堂も直感を研ぎ澄ませてエリカの呪力を探っている。

 濃密な神の気配を感じる世界だが、その中で人間はエリカくらいのはずだ。上手く気配で探り出せれば、手っ取り早いのだが。

「この世界、かなり広いよ。うーん、雰囲気は幽界に近いね。現実世界に重なっているってわけでもないのかな。どうかな」

 恵那はぶつぶつと言いながら偵察のために出した式神から情報を受け取っている。魔女の目ほど便利には使えないが、手足として、また時に目として動ける式神は使い勝手がいい、恵那は、こうした術は苦手な部類だが、媛巫女として必要な修練は積んでいる。

「王さまのほうは何か分かったことある?」

「特にないな。神獣の気配も感じないぞ。呪力ってヤツが滅茶苦茶濃いのは分かるけどな」

「現代とは全然違うよね。神話の世界とかだと、こうなのかもしれないけど」

 呪力は生命力であり、同時に物理現象では説明できない超常現象の源でもある。この世界はそれが極めて濃い。となれば、何が起こるか分からない怖さがある。

 護堂たちが異界に来てから、早くも一時間ばかりが経過している。

 人が暮らしているはずもなく、獣道を伝って森を彷徨っている。

「お、あったあった」

 と、恵那が嬉しそうに声を出す。地面に降り積もった落ち葉を踏みしめながら、駆けだした恵那の行き先は、河原だった。

 向こう岸までざっと二十メートルくらいの川幅だ。流れは速いが水深はそこまででもなさそうである。河原には角のない石が散らばっていて、そこかしこに身の丈ほどの大きさの岩が転がっている。

「生き物は水辺に集まるからね。エリカさんだって、水がなければ生きられないし」

 エリカと出会う可能性があるとすると水場だ。人間は絶食しても一週間ほどならば生きられるが、水がなければ三日と持たない。この温暖な気候ならば尚のことだ。そうではなくともエリカの知性があれば、自然と水場を探すことだろう。何せ高木ばかりの森の中だ。見晴らしのいい河原があれば、そこにいれば発見される可能性が高まる。救出を待つのなら、何らかの痕跡を残しておくのではないか。

「普通は下流に向かっていけば、集落があるもんだけど」

「ここじゃあ、期待できないね。神様が人を作ってなければだけど」

「怖いこと言うなよな」

 護堂は恵那の呟きに顔を歪めた。

 神が人類を創造したというのは、人類創世神話のよくあるパターンだ。人間がどこから発生したのかいまいちはっきりしない日本神話のようなものもあるが、人類を神の被造物とする神話は枚挙に暇がない。まして、今回の相手は生と死の神である可能性が高い。この異界での人類の創造主になっているかもしれない。

「それで、王さま。どっち行く? 上流か下流かって話なんだけど」

「うーん、王道で下流」

「おっけー」

 どっちに進んでも同じことだが、何となく下流を選んだ。空を飛んで偵察も考えたが、どこに『まつろわぬ神』が潜んでいるか分からないので除外したのだ。

 今はエリカの捜索が重要だ。

 今後の『まつろわぬ神』との戦いのためにも、彼女がどこにいるのかは大切な情報である。

 エリカがどこにいるのか分からなければ、護堂は全力で戦うことができない。戦いに巻き込むかもしれないからだ。大騎士というのは、人間ではかなりの位階であるが、護堂や『まつろわぬ神』が権能で撫でれば死ぬ程度でしかない。エリカが弱いというわけではなく、人間の大半がそうなのだ。ここにいる恵那ですら、本気で身を守っても権能を向けられればほぼ終わりだ。

 人間を『まつろわぬ神』が本気で狙うことはあまりないのが救いだ。神々にとって人間は自らに信仰を捧げる存在だ。戯れに神罰を下すこともあるが、彼ら彼女らは基本的に人間を愛しているし、個人個人には無関心だ。それこそ、人間が蟻の個体差に関心がないようなものである。いちいち個人を探し出してどうこうするというのは、よほどの酔狂がなければしない。

 よって、この世界でエリカが『まつろわぬ神』に害されるという最悪の展開は、あまりないのではないかと護堂は考えていた。

 エリカが助からないとすれば、長期間のサバイバルに耐えきれず飢えてしまうか、あるいは護堂と『まつろわぬ神』の戦いに巻き込まれるかだろう。

 エリカは確かにいいところのお嬢様ではあるが、決して深窓の令嬢ではない。

 剣を握り、呪術を操る西洋騎士である。言わば白鳥のような優雅さと地道な努力を平行して行える胆力の持ち主だ。あっさりと餓死するようなことはないはずだ。加えて、無謀にも『まつろわぬ神』や神獣に挑むということもあり得ない。将来性のない無謀な計画は彼女の好むものではない。やけくそになって、命がけの行動をするようなタイプではないはずだ。

 エリカの気配はまだないが、彼女が生きていると確信しているのは、少なからずエリカの考え方と実力を知っているからだ。

「このまま川を下っていくと、どこに出るんだろうね?」

 と、恵那は言う。

「確かになあ。普通なら海とか湖とかに行き当たるんだろうけど、この世界だとどうなんだろうな」

 『まつろわぬ神』が作り出したこの異界がどこまでの広さを持っているのか検討もつかない。非常識な権能だが現実世界を直接書き換えないだけまだマシなのか、それともまだ別の要素を残しているのか。

「あ、おっきな岩みっけ」

 恵那が軽快に巨岩に飛び乗る。見上げんばかりの岩は、上流から流れてきたものだろう。角が取れて、丸みを帯びている。

「王さま、これ見て!」

「なんだ?」

 恵那が顔色を変えて呼びかけたので、護堂も岩の上に上った。

「ん? これって……」

 恵那が指さしたのは、岩の上に残された黒い跡だ。

「炭だよ、炭。誰かがここで焚き火をしてた跡で間違いないよ」

「エリカか。前にここに来てたんだな」

「炭の跡が雨で流れているから、さっきまでいたってわけじゃなさそうだけど、この辺に拠点があるかも。わざわざ、そんなに遠くに移動する理由もないはずだし」

「そうだな。じゃあ、この辺で探してみるか」

 火を使うのはおそらくはエリカだけだ。彼女がここで生活していた痕跡を見つけられたのは大きな収穫と言えるだろう。

「探すのもアリだけど、向こうから来てもらうのはどうかな?」

「どういうことだ?」

「つまり、ここで火を付けてさ」

「ああ、狼煙か」

 護堂はピンときた。どうしてその発想がなかったのか。狼煙を使うという選択肢が護堂にはなかった。

 あてどなくエリカを探して森に踏み込むより、護堂が来たことを彼女に知ってもらうほうが楽に事が運ぶ。

「でもなぁ、それ『まつろわぬ神』のほうを呼んじゃったりしないか?」

「かもしれないけど、多分向こうはもうこっちに気づいているよ。自分の領域に踏み込まれて、気づかれてないって思うほうが違うんじゃないかなって」

「ん、まあ、確かに」

 そもそも護堂がこの世界への道を開いたとき、ライオンの神獣が襲いかかってきた。この異界側から護堂たちの侵入を察して迎撃していたのだから、『まつろわぬ神』のほうが気づいているのは当然だろう。

 その上でまだ何も手を出してこないのは、こちらの様子を窺っているのか、あるいは関心を示していないか。後者ならありがたい。エリカと合流して、とりあえず外に出て最低限の用事は終了だ。

「じゃ、まあ、そうしようか」

 護堂は恵那の提案を承諾した。

 相手がこちらに気づいているのなら、こそこそ隠れて行動しても無駄だ。それなら、確実にエリカにこちらの存在を伝えておきたい。

 そこで、護堂と恵那は森から松葉や木の枝をかき集めて組み合わせ、簡単な狼煙台を作った。太い枝を三本立てかけて、その上に湿った松葉や乾いていない枝を乗せただけだ。水分を含んだ枝葉は燃えにくいが、火がつけば大量の煙を上げる。

「うん、いい感じ」

 呪術で狼煙に火を付ける。

 恵那は改心の笑みを浮かべて、煙を上げる狼煙台を見た。

 バチバチを火が爆ぜて、濛々とした煙が空に上がっていく。無風状態なので、煙はまっすぐに上昇していく。

「さて、と。これで、俺たちがいることに気づいてくれるといいけどな」

「案外、近くにいるかもよ。『まつろわぬ神』だけじゃなくて、エリカさんもこっちの様子を窺っているのかも」

「俺はとりあえずここから出たいんだから、もしも近くにいるなら、早く出てきて欲しいもんだ」

 できるだけ過酷な自然環境で過ごしたくないというのは、現代の日本を知る護堂ならば自然な気持ちだ。 

 それにここは敵のホームグラウンドだ。あまり長居したい環境ではない。

 それからしばらく何も動きがなかった。一時間もすると狼煙台が燃え落ちて、ただの焚き火になってしまう。

「エリカさん、出ないねえ」

「そんなモンスターみたいに言うなよ」

 岩の上で待ちぼうけを食う護堂と恵那。

 日が傾きかけている。この世界にも昼夜の概念があるようだ。

「王さま、ご飯にする?」

「もう少ししたら、そうしようか。今日はこの辺でキャンプすることになりそうだな」

 結局、『まつろわぬ神』もエリカも出会うことなく、一日目が終わってしまいそうだ。

 どこかに敵が潜んでいるという危機感が常に存在する世界でなければ、恵那という美少女と二人きりのキャンプを楽しめたのだが、それだけが残念だ。

「清秋院」

「うん」

 護堂と恵那は同時に立ち上がった。

 背後の森の中から木々を踏み折る音がする。強い呪力と獰猛な獣の唸り声。森の暗闇の向こうから、何かがやってくる気配がする。

 しばしの静寂、直後に、傲然と真っ黒な鞭が襲いかかってきた。

 

 

 護堂の体内時間が加速する。ガブリエルの言霊を使い、瞬時に川の対岸との距離を縮める。恵那を抱きかかえた護堂は、軽く後ろにジャンプするだけで、一瞬にして対岸の河原に移動した。

 護堂と恵那を仕留め損なった黒い鞭は、巨岩を粉砕し、さらにのたうち回る。そして、土煙から顔を出したのは、見上げんばかりの巨大な蛇だった。

 シュー、と蛇独特の音がする。身体が大きい分、この音もなかなかの大きさだ。

「清秋院、無事だな?」

「うん、ありがと、王さま」

 恵那を下ろした護堂は蛇を見上げる。鎌首を擡げた蛇の頭は護堂よりも五メートルばかり上にある。胴体は森の中に隠れたままだ。全長は何メートルになるのだろうか。ティタノボアよりも身体はでかいだろう。

「この辺の主かな」

「かもね。恵那たちが歩いてきた範囲だと、あんなでかい蛇が動いた跡はなかったんだけどねえ」

 必要なとき以外は動かないのは、蛇としては間違ってはいない。

 この蛇が動けば、当たり前のように木々が折れる。しかし、そんな気配は直前までなかった。この世界特有の現象なのだろうか。

「来るぞ」

 鎌首を擡げた巨大蛇が、隕石のように護堂に襲いかかる。それを護堂は転がるように避ける。

「人間一人食っても、たいした栄養にならんだろうに」

 あの蛇の身体を維持するのなら、人間程度では足りない。もっと大きな生き物を狩るべきだろうが、そこは神獣クラスの怪物だ。何とでもなるのだろう。

『拉げッ』

 めきり、という音がして、巨大蛇の鱗が爆ぜる。空間が捻れて、潰れ、蛇の頭から血が噴き出す。言霊による圧縮攻撃で、頭蓋骨が砕けたのだ。

 それでも蛇は護堂に狙いを定めて躍りかかる。生命力の強さはさすがだ。

「いやああッ」

 裂帛の気合いとともに、恵那が天叢雲剣を振るった。斬り付けたのは蛇の首の付け根辺りだ。護堂を仕留め損ない、地面に顔を突っ込ませた隙を素早く突いた。

 血だらけになり、暴れる蛇に護堂は留めとばかりに神槍を撃ち込んだ。串刺しになり、倒れる蛇は、息絶えて塵になって消えていく。

「たいしたことなかったな」

 と、護堂は素直な感想を口にする。

 神獣といっても、カンピオーネからすれば片手間で済む相手なのだ。

「外に出てきたライオンとかよりは、ずっと強そうだったよね」

「神様の影響が強いんだろうなぁ」

 ヒリヒリした感覚がする。

 身体の内側から力が湧き上がってくる。

 神獣を倒したことがきっかけだったのか、川の上流のほうから『まつろわぬ神』の気配が高速で近づいてくる。

 不自然なくらいに音もなく、絹の一枚布が舞い降りてくるかのような優美さで二頭立ての戦車(チャリオット)が川面に着地した。戦車を引くのは二頭のライオンで、車輪もライオンの脚も水に浸かっていない。御者はおらず、一柱の神が悠然と笑みを浮かべて乗っている。

 美しい神だった。神々しく美々しく「大きい」。何もかもを包み込むような、大きな気配を湛えている。

「あんたが、ここの『まつろわぬ神』か」

 護堂が現れた神に問いかける。

「言われるまでもなく、分かっていることだろう。我が領域に入り込んだ神殺し……サルバトーレ・ドニに続いて二人目だ」

 透き通る声で女神は口を開いた。

「ふむ、まだ若いな」

 女神は戦車の上から護堂を睥睨する。

「サルバトーレ・ドニも若かったが、お前はさらに若い。一廉の戦士ではあるのだろう。すでに幾柱か打ち倒していると見える。なかなかに罪深きことだ。子が若くして道を誤るのは、母として悲しく思うものだ」

「子って何だよ」

「生きとし生けるものは等しく我が子も同然。そこから神殺しの大罪人が生まれ出るのは、わたしの不徳のいたす限りだ」

 チリチリとした危機感が護堂を炙っている。

 目の前の『まつろわぬ神』は戦車に乗っているとはいえ、見るからに戦士系ではない。こうしている間にも何かを仕込まれているのでは?

「神殺しを相手に我が子一匹では足りなかったか。さすがに無理を強いたな」

「あの蛇も子どもか」

「無論。むしろ蛇は我らと特に縁深い神獣だ。万物の母たるわたしも思い入れはある」

 目の前にライオンの牙が迫っていた。

「ッ……!」

 咄嗟に護堂は土雷神の化身で土中に逃れた。強力な戦車の突進で地面が抉れて、木々がなぎ倒された。神速の突進。それも、一瞬でトップスピードに入るものだ。

「清秋院、離れてろ」

「分かったッ」

 神速の戦車が相手だと恵那では厳しい。

 まずは機動力を削ぐ。そのためには、あの戦車をどうにかしないといけない。

「ほう、よく避けた」

「不意打ちは卑怯じゃないのか?」

「何を言う。手練手管を駆使して戦うのは戦の倣い。むしろ、お前たち神殺しの共感を得るところではないか?」

 悠々と空を舞う戦車の上で女神は悪びれずに語る。

「まあ、確かに」

 女神の言わんとすることは分かる。

 あらゆる手を駆使して戦うのはカンピオーネの特徴ではあるのだ。戦いで形振り構わず勝利を求める姿は、神々からも呆れられるほどである。

「母として、不肖の子に報いを与えるのがせめてもの責務というものだ。そうでなければ、天と地の神々に合わせる顔がないというもの!」

 そして、戦車がかき消える。

 護堂は地面を転がって戦車の突進を躱した。車輪に切り刻まれた河原が引き裂かれ、轍というには大きな溝が刻まれる。

「ここが熱帯雨林ならなぁ」

 伏雷神の化身で空中戦という手も使えた。ガブリエルの言霊で空中戦を挑むかとも考えたが、三次元的に神速を使える戦車が相手だと空での戦いは不利だ。上手い手とは思えなかった。

「やっぱり速いヤツとか飛べるヤツは、面倒くさいなッ」

 三度目の突撃を避けた護堂は、舌打ちをした。

 神速の権能との対峙も何度か経験している。そのおかげで、この戦車の特性も見えてきた。 

 瓦礫が舞い上がり水しぶきが舞う。

 戦車の突進の前には、木も岩も障害物としての役割を果たさない。戦場は瞬く間に超高速の戦車に蹂躙され、耕されていく。

「すばしこいな、神殺し」

「それが取り柄なもんで」

 皮肉を返すように護堂は言う。

 速さというのは、それだけで驚異だ。戦車ほどの質量が雷も同然の速度で突っ込んでくれば、耐えられる物はそうはないだろう。鉄をも斬り裂く爪と牙を持つライオンが先頭にいるのならばなおさらである。

 しかし、女神の猛攻を受けて護堂は掠り傷で済んでいる。戦車の突進を、すれすれで躱し続けているのだ。

『拉げ』

 空中の戦車に向けて言霊を投げかける。

 それをライオンが爪で引き裂き、宙を蹴る。再び消えた。神速に突入したのだ。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり」

 ガブリエルの聖句を唱えて心身に直感の権能を行き渡らせる。

「視えたぞ」

 護堂の動体視力をして影しか掴ませなかった戦車の姿を、護堂は第六感で捉えた。勘任せの回避ではなく、完全にその進路を見切った。

「何ッ……!」

「ワンパターンなんだよ、あんた!」

 神速にもいくつかの弱点はある。

 その一つが「速すぎて細かい制御ができない」ということだ。

 一口に神速といってもいろいろと種類がある。徐々に加速するタイプと一瞬で最高速度に達するタイプ。身体をそのままに移動するタイプと、神速に適した形態に顕身するタイプ。それぞれに得意不得意があるが、共通するのが自由度の低さだ。

 護堂を襲う女神の戦車は、護堂を仕留め損なうと余計な破壊をまき散らして地面を抉り、木々をなぎ倒して空中に上っていく。そして、神速を解除して地上の護堂に狙いを定めて加速する。それを繰り返していた。

 戦闘機と同じだ。

 速すぎる戦闘機は旋回するのに長距離を必要とする。伝説の名機ブラックバードは、マッハ3で飛行するが、その最小旋回半径は100km以上になるという。

 女神の戦車にそこまでの物理法則の縛りはないだろうが、不必要な破壊は障害物に戦車をぶつけることで自分の速度を強引に下げる意味もあるに違いない。

 となれば、どれだけ速く駆け回ったとしても連続で追い立ててくることがない分だけ、対処しやすい。

『起きろ』

 戦車の進路上の土中に仕掛けていた神槍を言霊で跳ね上げる。

「何とッ!」

 驚愕に目を剥く女神は、手綱を手繰り、罠の回避に全力を尽くす。

 しかし、遅い。

 彼女が戦士の神格であったのなら、こうも容易く罠にかかることもなかっただろう。

 護堂の仕掛けた鋼鉄の馬防柵が、女神の戦車に刃を剥く。鋭く研がれた穂先がライオンの喉笛に突き立つその寸前に、女神が吼える。

「わたしに仇為すこと、罷りならぬッ」

 今度は護堂が驚愕することになる。

 ライオンを串刺しにし、あわよくば女神にも傷を付けようという狙いが大きく外れた。女神はこともあろうに、馬防柵を粉砕して突破したのだ。

「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」

 ライオンが雄叫びを上げる。

 粉々になった神槍は、それでもライオンを傷つけていた。破片がライオンの身体に刺さって血を流させている。だが、絶命させることはできなかった。

「くッ……!」

 直感に従って護堂は飛び退いた。ライオンの爪が掠めたのか、右の二の腕から鮮血が吹き出す。

「王さまッ」

「掠り傷だッ」

 心配する恵那に声をかけ、護堂は空をかける戦車を睨み付ける。

「ふははは、驚いたぞ。どうも、お前はサルバトーレの如き猪頭ではなかったようだな」

「あれと一緒にするなよ」

 独りごちた護堂だったが、完全に決まったと思った罠を力尽くで突破されたのは想定外だった。『まつろわぬ神』を相手に作戦通りに事が運ぶはずもないが、今のは不可解だった。

 最後の一瞬、護堂が作った神槍の力が大きく弱体化したような気がしたのだ。

「忌々しきは《鋼》の武具か。ヘファイストスの類だな。数多の武具を生み出す権能。神話の時代、かの製鉄神は多くの英雄豪傑に蛇殺しの武具を与えたものだ」

 ヘファイストスはギリシャ神話の製鉄神だ。サルバトーレが倒したウルカヌスは、ヘファイストスがローマ神話に取り込まれた名前だとか聞いたことがある。

「ギリシャ系の神様か。でも、確か中東由来だってリリアナが言ってたような……」

 胸中の疑問だが、ギリシャ系の神との戦いは初めてではない。特に多くの地域の伝承を取り入れて発展してきた有名どころだ。

 リリアナは中東に縁があり、祐理は島国に関わると見立てた。ギリシャ神話系の神格なら、十分にあり得る。

「我が自慢の戦車も、お前には見切られているようだ。口惜しいが、別の手を使うとしよう」

 悠々と空を駆けながら、女神は神力を放つ。

 煌めく弓矢だ。戦車に乗りながら、女神は地上に向けて矢を放ってきた。

『縮』

 空間を縮めての高速移動で矢を回避する。光の矢は河原に落ちると、猛烈な光と熱で半径五メートルばかりを沸騰させた。

「熱ッ、なんだ火か……うわッ」

 二の矢、三の矢が護堂を襲う。光の矢が立て続けに放たれて、地上を灼熱が包み込んだ。矢が当たった岩は融解し、木々は破裂し、燃え上がった。水分が一瞬で気化したに違いない。

「殺意が高すぎるッ。食らったら一溜まりもないぞッ」

 とんでもない超高温の矢である。カンピオーネの呪力耐性ですら、どこまで持つか分からない。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ」

 一目連の聖句で神力を高め、護堂は盾を並べる。

「ほう、そんな芸もあるのか!」

 矢継ぎ早に放たれる光を護堂の神盾はよく受け止めた。幾重にも重なる光と熱で、盾の表面が赤熱し融解していく。

 《鋼》の弱点は、《鋼》をも融かす超高温。あの女神の火矢は、それほどの力を有しているのか。

「なかなか硬い。よい武具だ。だが、わたしの邪魔立ては許さぬ。道を空けよ!」

 これが、言霊だったのか。

 強く引き絞った光の弓から放たれた一条の矢が護堂の盾を貫通する。五層に重ねていた盾の三層までがあっさりと貫かれ、四層目で勢いを削ぐことができた。危険を察知して避けるには十分な時間だ。土雷神の化身を使った護堂は辛くも難を逃れた。

「そういうことか」

 頤に手を当てた女神はにやりをと笑う。

「闇深き冥府の風よ、土の精に力を与えよ」

 弓に矢を番えて女神は聖句を唱える。

 変化があったのは護堂の足下だった。

「な……うわッ」

 護堂の周辺の地面が黒ずみ、歪み、大きなとぐろを巻いた蛇になったのだ。それもただの蛇ではない。尾も頭になっていて、背後からも護堂に襲いかかろうとしている。

「土ならぬものは潜れまい。どうだ?」

 女神が矢を放った。

 護堂にではなく空にだ。打ち上げられた光の矢が天高くで炸裂し、大量の火矢を生み出した。

「我が背の君を守り給え。天叢雲剣、行くよッ!」

 颶風を纏った恵那が死を厭わず突貫する。護堂に牙を剥いた蛇の喉笛をこれでもかと深く斬り裂いた。荒ぶるスサノオの神力を降ろした恵那の一撃は、蛇には痛打となる。

「王さま、あれ、太陽だッ!」

「なるほどッ」

 ハッとした護堂の頭上から、「太陽」の豪雨が降り注ぐ。

 超高温の絨毯爆撃で地表が焼き払われる。

 それは神話に伝わる神の裁きのような大災厄。

 森は燃え、大地は砕けて蒸発する。女神が呼び出した神獣も一時の命を終えて冥府に帰った。そして、神罰の直撃を受けた神殺しとその巫女の姿は焼け跡から姿を消していた。



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中編 古の女神編 Ⅶ

 地上に降り注いだ灼熱の雨は太陽フレアにも似て、着弾点を中心に半径五百メートルを無残な焦土に変えてしまった。熱波はさらに遠方まで届き、大気は焦げ、クレーターには川の水が注ぎ込んだ。あと二、三時間もすれば、立派な湖ができあがるだろう。

「死と再生の神とはよく言ったものね」

 その惨状をエリカは視力を強化して眺めていた。

 護堂がこの異界に突入した時、エリカはそれを察知していた。しかしすぐに行動に移さなかったのは、まさにこの『まつろわぬ神』の襲来を恐れてのことだった。

 護堂が、ではなくカンピオーネが騒動の火種になるのはいつものことで、『まつろわぬ神』は基本的にカンピオーネを敵対視している。

 自分のテリトリーにカンピオーネが乗り込んできたことを察知したアグディスティスが、どのように対処するのかを確認しなければ、合流することはできない。

 エリカが如何に護身の術で身を守ったとしても、あの太陽フレアに晒されれば、一秒と持たずに蒸発するしかない。

 護堂はエリカが異界から脱出する唯一の道ではあるが、同時に非常に危険な火薬庫でもあるのだ。

 火遊びは好きだが、確実に爆発すると分かっている火薬庫に飛び込む馬鹿ではない。

 黒焦げになった大地に緑が芽吹き、みるみるうちに大きく成長していく。

 形作られた湖を中心として、新たな生態系が構築されるのだろう。

 本来、百年かけて行われるはずの自然再生が、ものの一分足らずで成し遂げられた。

 死と再生を司る命の母の国だけあって、その力は桁外れだ。

「あれを食らって、よくあなた生きてたわね」

 振り返るエリカの前には、護堂と恵那がいた。

 護堂も恵那も目立った外傷はない。

 太陽フレアの着弾点にいたとは思えないくらいにピンピンしていた。

「清秋院が太陽の権能だって気づいてくれたからな。おかげで、何とかなった」

「……ああ、そういうこと。確かレポートに載ってたわね。日本神話に登場する黒雷神は、太陽を覆い隠す黒雲の化身だって話。あなたの権能も、それに由来するから、あれを受けて生き延びるのは当然というわけね」

 エリカは得心したとばかりに頷く。

 護堂の居場所を探すのはエリカからすれば難しくはなかった。何せ莫大な呪力の塊だ。しかるべき手順を踏めば居場所を特定することはできる。普段と違い、護堂もエリカから見つけてもらうためにガブリエルの権能を意識的に弱めていたことも奏功した。

 ともあれ、一戦して護堂が撤退したという形にはなったが、アグディスティスも追撃する気配はなく、ここまで来れば護堂と合流しないという手はなかった。

「でもまあ、そうはいっても信じがたいわね」

「何が?」

 護堂は地面に座り込んで、水筒の水を飲んでいた。

 喉がカラカラだ。

 『まつろわぬ神』との戦いは気力と体力を一気に消費するのだ。一歩間違ったら死ぬという極限状況で、最高レベルの集中力で挑まなければならないのだ。疲れるものは疲れる。それが道理だ。

 黒雷神の化身で太陽フレアの矢を凌いだ後、恵那を連れて戦線を脱した。アグディスティスは護堂を倒したとは思っていないだろうが、追いかけてくることなく撤退していった。

 カンピオーネの桁外れの生命力は欧州の呪術師であれば誰であれ一般教養として知悉していることである。

 しかしエリカからすれば自分と同い年の男子が、これほどまでに規格外な力を持っていると言うことに言い知れぬ違和感を持たずにはいられなかった。

「普通、あの爆発の中を生きられるとは思わないでしょう。このわたしですら、骨の一欠片も残さずに消し飛ぶ攻撃だったのに」

「そんなもんなんだよ、俺らの戦いって」

「分かってるわよ、頭ではね。メルカルトとの戦いも、まあ、そんな感じではあったけれどね」

 エリカは心底から呆れたとばかりにため息をつき、そして面白そうに笑みを浮かべる。

 エリカは護堂のカンピオーネとしての最初の死闘を見届け、その活躍を欧州呪術世界に紹介した人物でもある。

 《赤銅黒十字》の大騎士を担う以上、カンピオーネとも『まつろわぬ神』とも何らかの形で因縁を持つことになるとは思っていたが、こうも身近なところにカンピオーネが現れるというのは予想外であった。

「エリカのほうこそ、無事でよかった。思ってたよりも元気そうだ」

「当然でしょう。このエリカ・ブランデッリが、ほんの数日のサバイバルでどうにかなるはずないじゃない。見くびらないで欲しいわね」

 得意げにエリカは腰に手を当てて胸を張った。

 彼女はいつもの紅いケープを身に纏った戦闘装束だ。この異界に囚われてそれなりに時間が経過しているようだが、彼女の美貌は衰えることがなかった。

「エリカさんって、野性味がある感じじゃないけど、タフだねぇ」

「ま、エリカのことだから万に一つもないとは思ってたよ」

 恵那と護堂がそれぞれ感想を口にする。 

 とはいえ、常識が通じない異界でのサバイバルだ。普通の人間ならとうの昔にギブアップしていただろうから、こればかりはエリカの天賦の能力と日々の努力が引き寄せた幸運と言うほかない。

「さて、と。エリカと合流できたし、目的の八割方は達成できたな」

「ねえ護堂、もしかしてあなた、わたしを救うために異界に突入した、なんて言うんじゃないでしょうね?」

「そうだが?」

 頭に疑問符を浮かべたエリカの問いに同じく疑問符を浮かべて護堂が答える。

「……はあ、いいえ、分かったわ。その可能性がないとは思ってなかったし」

「何だよ、可能性って」

「『まつろわぬ神』が出た以上、この事態の解決にはカンピオーネの力が必須よ。サルバトーレ卿が、この異界に再挑戦するって筋書きが一番可能性があったのだけど、その次くらいに可能性があるのは護堂が乗り込んでくることだから」

「なんで?」

「だって他にいないじゃない。侯爵はサルバトーレ卿が絡む案件に首を突っ込んでくるとは思えないし、この異界に黒王子がどこまで興味を持つかは未知数。他の方々も自分の所領から出るなんてよほどのことがない限りないでしょうから、無駄にフットワークの軽い護堂がサルバトーレ卿の次にあり得るとは思ってたわ」

 『まつろわぬ神』との戦いでカンピオーネが出てくるのは当たり前の話ではある。そもそも、カンピオーネ以外では戦いにすらならない。ただの人間では一方的に蹂躙されるのがオチだ。何万人の呪術師を集めたところで、たった一柱の『まつろわぬ神』も倒せない。傷付けることすら、満足にできないだろう。

 だから、もしもこの事件を解決する者がいるとすれば、それは現存する七人のカンピオーネのうちの誰かに絞られる。

 状況から考えて、第一候補がサルバトーレなのは揺るがないが、つい最近までイタリアにいた護堂も選択肢には入る。

「まあ、ともかく感謝はしているわ。助けに来てくれたことにはね」

 高飛車な台詞を言ってのけるエリカ。しかし、その表情には隠しきれない安堵の色があった。状況によって態度を変えないというのもエリカのエリカらしいところで、むしろ微笑ましいとすら思えた。

「あら、何か変なこと考えてなかった? こう、わたしの尊厳に関わる重大なこと」

「考えてねえよ」

 巫女でもないのに妙に察しがいいのも、実にエリカらしい。

「エリカさん、こっちでずっと暮らしてたみたいだし、キャンプみたいなことしてた?」

 と、恵那が聞いた。

「ああ、それね。大切なことだから、きちんと整理しておかないとダメね。いいわ、案内してあげる。わたしの秘密基地にね」

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 護堂と恵那はエリカに従って山深くに入っていく。

 地形は平坦ではなく、険しい山々の連なりだ。護堂が『まつろわぬ神』と戦ったところは川が流れている谷間であって、エリカが拠点を設けたのは山の中腹だった。

 戦いでできたクレーターからは直線距離で五キロほど離れたところである。

 およそ三百メートル程度の標高の山の中腹に、ぽっかりと開いた洞窟があった。

「この穴、エリカさんが掘ったの?」

「その言い方は適切じゃないけれど、わたしが作ったという意味では正解。粉砕の術を使って斜面に穴を開けたのよ」

「こんな洞窟、一人で作れるんだから呪術って反則だよな……」

 神を殺したわけでもないただの人間であるエリカですら、これだけのことを成し遂げられるのだ。呪術の性能は個々人の天性の資質に左右されるものではあるが、個人でなし得る限界を優に超えられるというのは、非常に大きな意味のあるスキルであろう。

 火を熾すのも拠点を作るのも、自分の身一つでできてしまう。

 獲物さえいれば十分に生活できるだろう。

 そこまで見て、恵那は怪訝そうな顔をしてエリカに尋ねた。

「エリカさんさ、もしかして肉とか食べてないんじゃない? 脂の匂いがしないよ。焚き火はしてるみたいだし、食べられる動物がいないわけじゃないし、何か理由があるの?」

 尋ねられたエリカは驚いたように目を見張る。

「すごいわね。そんなことまで分かるなんて」

「恵那って割と鼻が利くほうなんだよねぇ。それに、サバイバルも多分エリカさんより経験してるからね。普通、火があって技術があって洞窟みたいな拠点があるんなら、肉を焼いた気配くらいは残るもんだよ。それに骨も落ちてないみたいだしね」

「鼻だけじゃなくて目もいいのね。まさに野生児ってヤツなのかしら?」

「慣れだよ、慣れ。まあ、奥多摩とは比較にならない秘境みたいだし、恵那の経験が役に立つのか分かんないけど」

「謙遜はいらないわ。中途半端な経験者ならともかく、あなたは本物でしょう? わたしよりもずっと、この手のことには強いじゃない」

 エリカの長所は、事実は事実として受け止めることだ。高いプライドを持ち、それを裏打ちするだけの実力を持つエリカだが、自分よりも優れている人間を頭ごなしに否定するような小さな器ではない。

 恵那は間違いなく西洋でも通用する実力者。

 剣術ではほぼ互角だろう。呪術師としても、負けてはいない。しかし、神懸かりという反則技は、世界中でも今となっては恵那だけが使えるもので、これを使われてはエリカであっても不利は否めない。

 本気になった恵那は、エリカどころか欧州最高の騎士と称されるパオロ・ブランデッリらの位階にすら並ぶ別格の存在だ。

 高い実力と野山で生きる知恵を持つ恵那がいるというのは、それだけで心強い。

「さて、と。とりあえず、休憩にしましょうか。護堂たちも戦ったばかりで疲れてるでしょうし」

「そうだな。ひとまず休憩」

 二つ返事で護堂は頷いた。

 今後の方針を考えるにしても、身体を休めて体力を回復したいところだ。

 休息は次の戦いに備えた身体作りの一環だ。適切な休みを取ることで、心身の健康を保ち本当に必要な時に必要な力を発揮させる。疲れたときにきちんと休めるかどうかはその後に大きく影響するものだ。これから命のやりとりが控えているのだから、尚のことである。

 洞窟の中に残された焚き火跡の炭はうっすらと赤い。熾火の状態だ。そこに燃えやすい松葉を入れて火を強め、その火に薪を入れて火力を上げた。

 パチパチと火が爆ぜて、洞窟の中にほんのりと熱が籠もる。岩壁に熱が反射するので、外にいるよりもずっと暖かいのだ。

「冬じゃないから、暖を取る必要はないけど、火があると落ち着くわね」

「分かる。蝋燭の火とか、落ち着くよね」

 恵那は枝を二つに折って、焚き火にくべた。焚き火を囲んで、三人で座っている。炎の揺らぎで、影がゆらゆらと揺れる。

 護堂はリュックサックの中を漁った。

 『まつろわぬ神』との戦闘中に投げ捨てたものだが、川に流されて下流の岩に引っかかっていた。失せ物探しの呪術を使った恵那が無事に発見し回収できたのである。

 この中にはサバイバルに必要な最低限の装備が入っている。護堂の生命力を考慮した上での最低限なので、一般人からすれば心許ない装備だが、戦いの場に持ち込めるものはそう多くない。邪魔にならないように少ない荷物にするしかなかった。 

「ほら、エリカ」

 と、護堂はビスケットの缶を開けてエリカに見せた。

「いいの?」

「しばらく、こういうの食ってないだろ」

「そうね。じゃあ、ありがたくいただくわ」

 エリカは護堂のビスケットを受け取って口に運んだ。

 護堂と恵那もそれぞれがビスケットでエネルギーを補給する。

「うん、砂糖の甘さはやっぱりいいわね。山菜と木の実ばかりだったから、文明のよさを忘れかけていたわ」

 と、エリカが感想を述べた。

「あ、そうそう、その話。なんでエリカさん、山菜ばっか食べてたの?」

「それはもちろん、血を流さないためよ」

 二枚目のビスケットを手に取って、エリカは言う。

「血? 穢れとか、そういうことかな?」

「穢れ? 日本独自の思想はよく分からないけど、ここはまつろわぬアグディスティスの聖域ですもの。迂闊に命を奪うようなことはできないでしょう?」

 確かに、と護堂は頷いた。

 この異界は一から十まですべてが『まつろわぬ神』によって形成された世界だ。そこに息づくすべての命は、その神によって創造されている。

 その命を奪うのは、神の創造物を破壊するのと同じことだ。

 と、そこまで納得してから護堂は、さも当然のようにエリカが重要なことを口にしたことに気づいた。

「待て、エリカ。今、神様の名前を言わなかったか?」

「ええ、まつろわぬアグディスティスと言ったわ」

「アグディスティス?」

 護堂は首を傾げる。聞いたことのない女神だった。恵那に視線を向けたが、恵那の反応も薄い。日本の媛巫女がピンとこないということは、あまり日本で有名な神格ではないのだろう。

「聞いたことないって顔ね」

「ああ、まったく聞いたことない」

「恵那はうっすらと。でも、よく分かんないな。西洋の神様でも、有名どころじゃないんじゃない?」

 呪術に関わる恵那ではあるが、彼女の知識は東洋圏が中心だ。有名な神ならばまだしも、そうでないもの来歴まで深く知識を求めているわけでもない。

「まあ、そうね。今現在も信仰が継続しているかというとそうでもないわ。特に割と早い段階でキリスト教に目を付けられてしまっているしね。逆に言うと、西暦以後数世紀は無視できない影響力があったってことでもあるけれど。もっとも、このときはキュベレーという名前が一般的だったわ」

「ああ、キュベレーなら、聞いたことあるぞ。ギリシャ神話の神様だろ」

 日本でもキュベレーならば知る人はいるだろう。

 ギリシャ神話に登場する女神で、名前だけならアニメなどにもよく使われている。

「でも言われてみればキュベレーって何した女神かはよく知らないな」

「ギリシャ神話の有名どころはオリュンポス十二神だものね。キュベレーは後から入ってきた女神だから、古いギリシャ神話には出てこないわ」

「そうなのか……。それがアグディスティスだったっけ。関わりがあるっていうことなんだな」

「ええ。関わりがあるって言うか、ほぼ同一の神様ね。アグディスティスの信仰地は、プリュギア、今のトルコの西側ね。アナトリア半島の辺り。アグディスティスは両性具有の地母神で、ライオンを従える姿で信仰されたとされるわ」

「ライオンか。そういえば、何度も出てきたな」

「ライオンは大地の化身の一つ。特にこの系統の女神はライオンを自分の聖獣としている場合が多いの。昔はアジアにもたくさんいたみたいで、メソポタミアの王はライオン狩りをしていた記録もあるわ」

 ライオンといえばアフリカのイメージがどうしても拭えない護堂にとっては、違和感のある話だが、ライオンのモチーフは日本にも中国を介して昔から伝わっている。

 古代の世界で大地を象徴する聖なる獣がライオンならばそれを従える女神は必然的に大地の属性を強く表現していると言える。

 まつろわぬアグディスティスは、多くの獣を護堂に差し向けたが、その中には確かにライオンの姿があった。

「神話の中でアグディスティスは両性具有であることをゼウスに恐れられて、去勢されるの。その結果、完全な女神として生まれたのがキュベレー。切り離された男性部分はアッティスという別の豊穣神として信仰されることになる……」

「去勢……」

「ええ、変なこと考えないでね。これ、神話的にセクシャルな想像を持ち込むのはタブーよ、いい?」

「もちろん」

 エリカはにこやかに、しかし反論を許さない口調で護堂に告げる。

 護堂は頷くことしかできない。

「ギリシャ神話のアグディスティスとしてはこの程度。キュベレーとなってからは、アッティスとは夫婦だったり、親子だったりするわね。ただ、もともとの信仰としてはキュベレー単独だったとも言うわね」

「アッティスが後から信仰されるようになったってことか」

「可能性としてはね。この両者を繋いで、アグディスティスという女神が生まれたのかもしれないわ。キュベレー信仰がギリシャに持ち込まれたのは紀元前八世紀頃っていうけど、実はクレタ島にはもっとずっと昔に持ち込まれていて、レアーと同一視されたようだし、ギリシャ人にとっては古くて新しい女神ってとこかしらね」

 紀元前八世紀。

 確かに、ギリシャ神話としては新しい部類になるのだろう。同時期に成立したホメロスの『イリアス』は、それ以前から語り継がれてきた伝承を纏めたものである。

「そういえば、太陽はどこから来たんだ?」

「太陽? そうね確かに」

 と、エリカは口を噤む。

「アグディスティスもキュベレーも太陽神としての性質は持たないわ。強いて言うとアッティスかしらね。あの神様は、確かミトラスとも繋がりがあったはずだし」

「ウルスラグナの上司じゃないか」

「ああ、ちょっと苦手意識があるかもね。あなた、ウルスラグナの権能も持ってたものね。でも、ミトラスなんてそれこそマイナーな神格、よくミスラと繋げたわね」

「ペルセウスのときにちょっとな」

「そう。そういえば、そうだったわね」

 ペルセウスもまたミトラスと関わりがある英雄神だった。今となっては懐かしい強敵であった。戦ったのはサルバトーレだったが。

「まあ、本質としては遠いわね。ああ、でも、そうね……実際に見てもらった方が早いかもしれないわね」

 ぶつぶつとエリカは独り言を言って思索の海に沈んでいく。

「どうした、エリカ?」

「ええ、ごめんなさい。太陽という権能について、アッティス以外の別のアプローチもあり得ると思って。ちょうど恵那さんもいるし、後で見てもらいものがあるのよ」

「恵那に? それってどんなの?」

 恵那は不意に名前が上がって前のめりになった。

「それは、見てのお楽しみ。もう少し休んだら、出かけましょう。ちょっと、距離があるし、それを見れば、あの神様、いえ、その前身となる神がどれだけ広範囲に影響したかが分かると思うの」

 エリカは悪戯でもするような挑発的な笑みでそう言った。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 プルディア。アナトリア半島で崇拝されたという強力な地母神であるアグディスティスについて、エリカから簡単な講義を受けながら護堂たちが向かったのは、山の反対側だった。

 当然、登山道が整備されているわけではない。普通ならば何の目印もない山道を歩くのは危険なだけだが、護堂たちはそういう意味では普通ではない。

 道なき道に自分の道を通していくのが護堂の生き様だ、というと少しは無軌道な生き方も格好良くなるだろうが。

 最初は獣道を通り、それからエリカが見つけたという近道に踏み込む。なかなか険しい道で、湿った岩が滑るし、降り積もった落ち葉は足場の悪さを覆い隠す。倒木を跨ぎ、時に急斜面に手を突いてまで何とか山を上っている。

「王さま、ちょっと斥候してくるよ」

 と、恵那が言う。

 身軽にひょいひょいと恵那は山を駆け上がっていく。木々を蹴って飛び移る様は、さながら忍者だ。

「さすがね、恵那さん。わたしも、この道は三度目だけど、あそこまで軽快に飛び回れないわ」

 生来の身軽さと身体能力をこれでもかと活かす恵那は、かつてないほどに充実してそうですらあった。

「俺も小さい頃から呪術囓ってれば、ああいうのができるようになったのかな?」

「あれは天性の才能を良質な環境で伸ばしてやっとってくらいのものだから、まあ、無理でしょうね。ところで、あなたも律儀に上ってるけど、別に権能で移動してもいいのよ?」

「便利な力だしできなくもないけど、そんな気分じゃないからいいや。山登りは上ってる最中が一番好きなんだよ」

「努力する過程が好きってこと?」

「別にそういうほどでもない。ただ、身体を動かすのが好きってことだよ」

 かつて運動部に属していた護堂は、カンピオーネになる前からそれなりに体力があった。数々の死線をくぐり抜けた今となっては、足場の悪い玄人向けの斜面をよじ登るのも難しいとは思わなくなった。直感が研ぎ澄まされたことで、適切な登り道が分かってしまうということもあるのだが。

「お、おお……王さま、なんかすごいよ!」

 と、一足早く頂上に辿り着いた恵那の声が聞こえてくる。

「マジ? どんなん?」

「とにかく、早く来て! すごい綺麗!」

 綺麗という言葉を不思議に思いながら、護堂は足早に山を登っていく。

 そして、やっと山を登り切った。

 ひりつく喉が酸素を求める。

 大きく深呼吸をして顔を上げると、眼下に広がっていたのはうっすらと立ちこめる淡い霧であった。その霧の中の森には、うっすらと桃色の花をつけた木々が混じっている。

「桃の花だよ、王さま」

「桃? 季節外れにもほどがあるなぁ」

 今更ながら滅茶苦茶な世界だ。

 厳冬のアルプスに桃の花である。

 今のこの景色にアルプスらしさはどこにもない。緑豊かな森に、ほんのりと霞がかかり、桃の花が咲いている。

 桃の木が密集しているのは、山間の低いところだが、山頂付近にも疎らに桃の木が生えていて、手近ならところだと護堂から十メートルほどのところにある。

「もしかして、もう桃が成ったのか?」

 桃の花は綺麗な満開だ。それがみるみるうちにしぼみ、散って、実が成った。 

 信じられない成長速度だ。

 いや、似たような現象を護堂は見たことがある。

 晶がクシナダヒメの権能で育てた林檎がこのような感じで育っていた。早送り映像のように、桃が結実したのだ。

 さらに成った桃を食べに鳥が集まってくる。山腹から山麓にかけて広がる桃の木にも、多くの動物が集まっている。中には神獣クラスの怪物も混ざっているようだ。

「驚いたでしょう。この世界の生態系を支えるのは、無限に生産される森の恵みというわけね」

 エリカが得意げに言う。

 確かに、この幻想的な景色は値の付けられない宝と言ってもいいだろう。

「それで、護堂。感想は?」

「そうだな。まあ、めっちゃ綺麗な景色だと思う」

「そうね。でも、それだけじゃないでしょ? 顔に出てるわ」

「その鋭さ、ちょっとどうなんだよ」

「あなたが分かりやすいからでしょうね」

 自覚はないしエリカの洞察力が高すぎるのが問題なのだ。

 護堂は図星を突かれてため息をつく。

「正直言って、なんか気持ちが悪いな。うまく言えないけど」

「それだけ分かれば十分だわ。やっぱり、ガブリエルの権能はこういうとき便利よね」

「俺を毒味役にしたのかよ」

「仕方がないじゃない。試しに食べてみるわけにはいかないし、ここの桃だけ不自然に美味しそうに見えるんだし、何かあると思うじゃない」

 否定はしない。

 木に成っている桃は異様に芳醇な香りがする。とても美味しそうで涎が出る。

「なんだか、誘われてる感じがするよね」

 というのは恵那の言葉だ。

 護堂だけでなく恵那も何らかの異常を感じ取っているのだ。

「エリカはこれを俺たちに見せたかったんだろ? 狙いはなんだ?」

「もちろん、アグディスティスに対処するために、彼女の力の源泉を突き止める必要があるでしょ? アグディスティスは、彼女が持つ多くの名前の内の一つでしかない。あの神様が内包する神性は、多岐にわたるのよ。これもきっとその一つね」

「桃が?」

「ええ。だって、それ以外に考えられないもの。わざわざ、ドングリとかじゃなくて桃を用意するのなら、何らかの形で縁があるものだし」

 確かに、と護堂は思う。

 アグディスティスが用意した森の恵みが桃であるということに何らかの意味があるのなら、それはあの『まつろわぬ神』の力を解き明かす重要なファクターと言えるだろう。

「じゃあ、戻りましょうか」

「え、戻るの。せっかくの桃の花だし、もう少し見てたいなぁ」

「ダメよ、恵那さん。あなたならともなくわたしはそろそろ限界だし。正直、かなり桃の誘惑を受けているのよ。あまり近づくとうっかり口にしてしまいそうだわ」

「なるほど、確かにそれは不味いね。じゃあ、王さま、帰ろうか」

 あっさりと恵那は引き下がった。

 桃の魔力がエリカの精神に影響を与えているのなら、そのうち恵那も囚われる可能性もある。長居は無用だ。ここはあくまでも敵地なのだから。

 帰りは護堂の権能を使って楽に移動した。日が暮れかかっていて、歩いて下山しては夜になってしまうかもしれなかったからだ。

 洞窟に戻ってから、今後の方策を話し合うことにした。

 また火を囲む。

 夕食はビスケットと自衛隊のレーションだ。戦闘糧食II型。ミリタリー好きには堪らないレトルト食品である。晶がいろいろと語っていたが、ほとんど頭には残っていない。

 そして意外にもこれにエリカが興味を示した。

「ジャパニーズレーション。噂には聞いていたけれど、ついぞ食べる機会がなかったのよね」

「エリカさんの口に合うかなぁ」

「わたし、こう見えてゲテモノ類もイケる口よ。スリリングな味わいも旅行の醍醐味だもの。でも、日本のレーションは割と評判もいいし、そういう意味での期待はしてないわ」

 木を組んで鍋を釣るし、十分ほどレーションのパックを湯煎する。たったそれだけで、十分過ぎるほどのキャンプ飯が誕生する。

「うん、美味しい。普通にイケるわね」

「恵那もこれは初めて食べるけど、思ってたよりいいね」

 口々に高評価。

 一流レストランでの食事とは比較するものではないが、食べる分には何の問題もない。日常生活でも夕食に並んでいてもおかしくはないだろう。

 空腹だった護堂はあっという間にご飯と肉じゃがを平らげた。

「今後の方針だけど、エリカはこのまま帰って大丈夫か?」

 と、護堂は尋ねる。

「驚いた。気づいてた?」

「何となく、そんな感じがした。今のエリカは何というか、幽界にいた人たちと同じ雰囲気なんだよな」

 護堂は幽界で出会ったかつて人だった者を思い浮かべる。

 外見は似ても似つかないが、この世の者ではない、少しずれた雰囲気が似ている。今までのエリカとは少し違っている。

「そうね。正直、どうなるかは分からないわね」

 深刻そうな顔でエリカは言う。

「ちなみに理由は?」

「この異界の中でそこそこ過ごしちゃったから、ね。この世界を構成するのはすべてがあの女神の権能。水も空気も動物も植物も。キュベレー信仰の血生臭さがあるから、血を流さないようにしてたけど、山菜とか木の実とか、食べないとダメだったし水も飲んだし、少しずつこっちに慣らされてるのよ、わたし。あの桃なんか食べちゃった日にはどうなってしまうか、見当もつかないわね」

「ちょっとずつ毒を盛って耐性を付ける忍者みたいな感じだね」

 恵那は以前からの知り合いを思い浮べて言った。

 忍者と言えば甘粕冬馬である。彼もそういう毒耐性のトレーニングを積んだのだろうか。もっとも、エリカの場合は耐性をつけるどころか、少しずつ毒に侵されているという状態なのだが。

「なるほど、つまり今ここからエリカを逃がすって手はないか」

「逃がしてくれるのならありがたいけど、あっちに出た途端に呼吸困難になって倒れるかもしれないわね」

「黄泉の食べ物を食べると、あっち側の存在になるって日本の神話にもあるもんね」

 イザナギの黄泉下りの説話のことを恵那は思い返した。

「じゃあ、どうするかって、もう一択か」

「そうね。あなたがまつろわぬアグディスティスを倒し、この世界を崩壊させる。それしかないわ。そうしないとこの世界からわたしが出られないし、それに、きっとヨーロッパ全域が大変なことになるでしょうね」

「全域が?」

「当然。アルプスの水がなくなるのだから、記録的な災害になるわ。異界の外も見事な森林だったんでしょ?」

「そうだな。あれ、広がったりするかな」

「広がる可能性は否定できないわね」

「まあ、仕方ないか……」

 好き好んで戦うわけではないが、戦わなくてはならないのなら戦う。もともと、この異界に踏み込むと決めた時点で『まつろわぬ神』との対決は覚悟の上だ。攻め込んでおいて、戦う気はありませんなどという理屈が通じるはずもなく、向こうはすでに護堂を敵と定めている。

「ところで、あのアグディスティスはどうして攻めてこないんだ? ここはあいつの土地なんだから地の利もあるだろ」

「サルバトーレ卿とあなたとの連戦に疲弊している、あるいは、そういう性格だから。もちろん、今まさに何か仕掛けてるかもしれないけど」

「実際、次に会ってみないと分からないってことか」

 次にアグディスティスに会うときは、間違いなく最後まで殺し合うことになるだろう。一度目は見逃すが二度目ない、といったような感じがする。直感だが。

「それで、恵那さんに質問なのだけど」

 エリカは恵那に話を振った。

「何?」

「あの桃、どう思った?」

「ああ、あれね。うーん、多分道教系な気がするんだよね」

「やっぱり、霊力のある桃といえばそうだものね。タオイズムの系譜だと思ったのよ。ただ、わたしは門外漢だから、恵那さんが見てくれてよかったわ」

 護堂を蚊帳の外に置いて、呪術師二人は話を進めている。

 タオイズム、道教、それは古代中国で発生した思想だ。護堂もそれくらいは知っているし、桃が仙人の果実だということも理解している。

「待ってくれ二人とも、話が進みすぎてよく分からないんだが、アグディスティスってのは、ギリシャの神様だろ? 何で道教なんだ?」

 護堂は当然の疑問を口にする。

 中国大陸で発生した道教と古代ギリシャを席巻した大地母神。これがどのように繋がるのか見当もつかない。強いて言えばシルクロード辺りが絡むのだろうか。護堂の知識などそれくらいだ。

「さあ、何でかな」

 と、恵那は困ったように笑った。

「分かんないのかよ」

「まあ、恵那はアグディスティスのことは詳しくないからね。エリカさんは?」

「まだ確信は持ててないわ。それこそ、恵那さんの力を借りたいところなのよ。アジアの歴史には詳しいでしょう?」

「そうだね。そっちでよければいくらでも聞いてよ。これでも、結構勉強してたからさ」

「心強いわ」

 今まで学んできたことを確認するようにエリカと恵那は洋の東西の知識を重ね合わせる。それは完成図の分からないパズルを形にしていく作業に近い。ただ、エリカ曰く方向性だけは分かっているとのこと。二人の才媛が力を合わせれば、霊視がなくても神の素性を解き明かすことはできるだろう。そういう信頼感を護堂は兼ねてからこの二人に抱いている。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 火の爆ぜる音に気づいて護堂は目を開けた。

 背中を壁に当てたまま、胡座をかいて寝ていたらしい。

 腕時計を確認すると、最後に時計を見てから二時間ほど経っていた。思っていたよりも疲れていたらしい。身の危険が迫るとすぐにそうと分かる体質なので、転た寝できるということは、この洞窟は当面の危険はないということだろう。

 それはそうとして、二人の姿が見えない。

 焚き火は小さくなっている。エリカと恵那は洞窟を出て、何をしているのだろうか。

「危ないってのに」

 外には多くの獣がいるだろう。

 当然、そのすべてが格の違いこそあれ、アグディスティスの子どもも同然の神秘の怪物たちだ。

 あの二人なので、不用意に危険を冒したりはしないだろうという信頼はあるが、心配は心配だ。

 護堂はふらりと洞窟の外に出た。

 夜目の利くカンピオーネは真っ暗でも昼間と同じくらい物がよく見えるのだが、今日はそういった能力は必要なさそうだ。

 空に浮かぶ満月が、青い月光で地上を照らしている。遮る物が何もない。空気も東京よりはずっと綺麗だろう。だからだろうか。月の光はとても綺麗で、夜闇という言葉が嘘だと思えるくらいに明るいのだ。

「顔でも洗ってくるか」 

 護堂は気配を消して、そろそろと歩き出した。

 この近くに小さな泉があるのだ。

 この世界の水ではあるが、カンピオーネの護堂が顔を洗ったところで何か影響が出るはずもない。

 夜行性の動物がいると厄介だ。できるだけ物音を消して、森の中を進んだ。立ち並ぶのは低木の広葉樹たちだ。茨も大量に生えていて、これは利用価値があるので洞窟の前に動物避けの柵として設置していたりする。

 泉はエリカが何度か利用していたので、人が通れる道ができている。護堂はそれを通って、木々の間を通り抜けた。

 唐突に視界が広がる。

 薄暗い森を出ると、真っ青な月光に照らされた小さな泉に出る。円形の泉は、直径が十メートルばかりになるか。

 泉に流れ込む川はなく、湧水で形成されたと思われる。ここから少しずつ水が染み出て、山麓の川の水源の一つになるのだ。

 湖面にゆらゆらと満月が映っている。

 涼やかな風が吹き渡り、さわさわと梢を揺らす。

 護堂は地面に膝をつき、冷たい泉に手を浸して、顔を洗った。冷たい水は眠気覚ましには最高だ。

「はあ、すっきりした」

 持ってきたタオルで顔を拭く。

 一息ついて、ふと右側に目を向ける。何となくだ。月光を反射する泉の中に、腰まで使ったエリカと恵那が愕然とこちらを見ていたのだ。

 降り注ぐ青い月光を反射する黄金の髪。そして、西洋人らしい白磁のように白い肌が月明りで強調されて美しい。月と泉、そして夜の森という背景がエリカの美しい肢体をこれでもかと強調しているようであった。

 対して恵那はエリカとは逆の方向性だ。黒い森に溶け込むような漆黒の黒髪が肌に張り付いているのが艶めかしい。

 エリカが月光をスポットライトとして使うのなら、恵那は黒い森を背景にすることで自分を際立たせている。

「お、王さま?」

「う、と……その、すまん」

 とりあえず、護堂は回れ右をした。いつまでも見ていたいという衝動もあったが、それを堪えての行動だ。

 護堂のすぐ隣の木を鋼鉄の刃を貫いたのはその直後であった。

「うおッ!?」

 鋭いレイピアがものの見事に木の幹を貫通している。

「あ、危なッ、いきなり剣を投げつけるヤツがあるかッ」

「当てなかっただけマシと思いなさい。どうせ、あなたの周りには、こういうアクシデントに怒る女はいないのかもしれないけど、神話の昔から乙女の裸体を無断で見るのはタブーなのよ」

「本当に悪かったって。いるとは思わなかったんだよ」

 護堂は両手を挙げて不幸な事故を主張する。

 エリカは身体にタオルを巻き付けて、護堂の元に歩み寄ってくる。

「ギリシャ神話にアクタイオーンっていう英雄がいるの知ってる?」

「いや、全然」

 ひやりとした感覚が背筋を走る。

「賢者ケイローンの教え子で狩りの名手。五十匹の猟犬を連れて狩りに出たある日、迷い込んだ泉で女神アルテミスの沐浴を覗き見てしまう……」

「おいおい……」

 エリカは木に突き立ったクオレ・ディ・レオーネを引き抜いた。

「哀れ英雄は女神の怒りを買い、鹿に変身させられた上に自分の猟犬たちに食い殺されたと伝わるわ」

「しゅ、趣味が悪いな」

 護堂はぞっとする。

 沐浴を覗き見てしまったのは護堂も同じだ。

「乙女の素肌を覗き見ることはそれだけの罪だっていうことよ。覚えておきなさい」

 エリカは護堂の太ももの裏側を抓った。

「痛てて、痛ッ、分かってるよ。悪かった。ほんとに」

「ふん、あなたじゃければこの泉を血に染めていたところだわ。そういう血の流し方なら、アグディスティス女神もさぞ喜ばれるでしょうしね!」

 ぷい、とエリカはそっぽを向いた。

 血と狂乱と生け贄を好む恐ろしい側面があるというアグディスティス。その後を継ぐキュベレー崇拝の逸話はかなり強烈だ。

「あ、はは……ごめんね、王さま。何も言わないで出てきちゃって」

「い、いや、こっちこそごめん。その水、大丈夫か?」

「天叢雲剣で水の呪力は中和したから大丈夫。もともと、水そのものにはそこまで外との違いはないしね」

「そうか。うん、それじゃ、俺は先に洞窟に行ってるから。二人とも、気をつけて帰って来いよ」

 照れくさそうにする恵那の気配を感じるが、迂闊に振り返るわけにもいかないので、護堂はそのまま足早に洞窟に戻ることにしたのだった。

 




キュベレーの関係者にアタランテがいますが、人生の最初から最後まで神に振り回されてて逃げ道がないのはある意味すごいと思った。
処女神に助けられたので処女を通していたら愛の女神に狙われるとかどうしたらいいのか。
処女を捨てる→アルテミス怒る。
処女を守る →アプロディーテ怒る。
最終的に  →キュベレー怒る。


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中編 古の女神編 Ⅷ

 翌朝、洞窟の外はどこまでも続く抜けるような青空が広がっていた。山の中腹から見える景色は絶景の一言だ。緑の木々が延々と、地平線の果てまで連なっている。東京育ちの護堂はおろか山奥で暮らす恵那であっても、ここまでの原生林の森を見る機会はないだろう。もちろん、大都会育ちのエリカも同じだ。神気の漂う異界では、これが普通だ。そして、その影響は確実に外にも漏れ出ている。

 その内、アルプスそのものが常春の原生林に覆われる。

 あり得ないと笑い飛ばせるのは、『まつろわぬ神』の恐ろしさを知らない者だけだ。

 生と死の神であるアグディスティスがその気になれば、地上は瞬く間に彼女の支配する森に置き換わるだろう。

 影響の範囲は想像することもできない。

 カンピオーネが引き起こす異常現象すら、場合によっては一国を覆い尽くすのだ。純然たる『まつろわぬ神』が振るう権能の効果範囲が果たしてどこまでになるのか。ヨーロッパの経済機能が、著しく低下する未来が、今まさにすぐそこまで迫っていると言っても過言ではなかった。

 これを解決するには、護堂がまつろわぬアグディスティスを倒すしかない。ただの人間では、万単位で数を揃えたところで十把一絡げに殺戮されるのがオチである。

 レーションを朝食として、空腹から逃れた護堂は精神を集中するように深呼吸をした。

 死力を尽くすべき戦いが目の前にあるのを感じている。野性的な直感というのだろうか。かつてサッカー部に所属していた護堂にとっては馴染みの精神状態だ。まさにグラウンドに入場する直前の張り詰めた緊張感。

 それに酷似した胸の高鳴りがある。

 そんな感想をエリカに話したら、彼女は呆れたように苦笑いを浮かべた。

「神様との戦いをサッカーの試合と同じ次元で語るなんて、ちょっと信じがたい感性だわ」

 と、言ったのだ。

 確かにその通りだと、護堂は頷いた。

 自分でも自分の感覚に驚いたくらいだ。いつの間にか、『まつろわぬ神』との戦いをその程度のものにしか感じなくなってしまっていたのだ。『まつろわぬ神』は驚異ではある。命を失う可能性も低くはない。それでも、やってやれないことはないだろう、という気持ちはどこかにあるのだ。絶望的な気分にならないのは、カンピオーネだからだろうか。それともあるいは、生まれついての価値観がそうさせるのか。

「ま、神様との戦いを前にしての感想としては酷いものだけど、サッカーの例えは悪くないわ。あなたたちの価値観は分からないけど、試合前の精神状態なら想像できるし」

「恵那はサッカーは知らないけど、試合前の盛り上がった緊張感は理解できるなぁ」

 神様と戦う前の緊張感の表現としては、不適切だったかもしれないが、今の護堂の精神状態を言い表す例えとしては最良だった。意外にも、これでスポーツ好きの少女二名の共感を得ることができたらしい。

「じゃあ、護堂、確認なんだけど、いいかしら?」

「何だ、改まって」

「今日、これからの方針をしっかり明らかにしておかないと」

「もちろん、あの神様を倒しに行く。そうしないと、エリカはここから出られないし、外も滅茶苦茶になるみたいだからな」

「そう、女神アグディスティスと戦うのね」

 護堂は頷いた。

 ここから直線距離にして十五、六キロは離れているところに聳える山にアグディスティスはいる。もともと彼女は山の神だというから、拠点に山を選ぶのは当たり前だ。そこに、護堂は乗り込むつもりでいたのだ。

「護堂って、そんなに好戦的だったかしら」

「別に好戦的じゃないぞ。ただ、やることをやるだけだ。外で待ってるヤツもいるし、連れて帰らなくちゃいけないヤツもいる。それだけ」

 言ってみれば、これは成り行きだ。護堂とアグディスティスの間にはなんら因縁はない。神殺しと神と言っても地球の裏側の話なのだ。エリカが関わらなければ、護堂はアグディスティスに用事はなかった。だから、お互いに運がなかったのだろう。こうして関わった以上、戦いは避けようがない。まして、こんな異界にエリカを放置するわけにはいかないのだから。

「じゃあ、護堂。アグディスティスと戦うという方向性で、もう一つ確認なんだけど……あなたの権能、どこまでまつろわぬアグディスティスに通用すると思う?」

「どこまで? そうだな……」

 エリカの妙な質問の意図を護堂は何となく察した。

 これまで通りに戦うことができるかどうかを考えると、落ち着かない気持ちになるのだ。この感覚は直感的に自分の不利を察しているということだろう。

「よく分かんないんだけど、ちょっと危ない感じはするな。相手は神様だから、もともと不利なのは当たり前なんだけど、違和感があるのは確かだな」

 こういうとき、思考のドツボに嵌まって動けなくなるのが一番怖い。だから、時に思い切った行動で状況を好転させるというのがカンピオーネの資質の一つではあるが。

「まあ、そこは人間らしく状況を精査するべきよ。護堂だって、このままヤケッパチとは行かないけど、手を尽くさないつもりじゃなかったでしょう?」

「ああ、もちろん。けど、事前準備がいるのはウルスラグナくらいだしなあ」

 ウルスラグナの権能は強力だ。『まつろわぬ神』に対する切り札になり得る。しかし、使用するためには斬り裂く対象となる神の来歴までを深く理解する手間がいる。

 アグディスティスの由来を恵那は知らない。そのため、ウルスラグナの黄金の剣は研がないでいた。エリカに頼むかどうか、今の今まで悩んでいるところではあった。それに、あれがアグディスティスのみで成り立っているわけでもないようだ。となると、ウルスラグナの剣がどこまで通じるのか。

「そのウルスラグナももしかしたらアグディスティスには通じないかもしれないわよ」

「どういうことだよ?」

「わたしと恵那さんの推測を護堂の勘が裏付けてくれたことだけど、あの女神とあなたの相性はよくないわ。サルバトーレ卿もきっとそれで苦戦したと思うのよね。つまり、《鋼》の権能に対して、何らかの優位性を持っているはずってことなんだけど、どうかしら?」

「あれはどっちかって言うと《蛇》の神様じゃないのか?」

 護堂は首を傾げた。

 《鋼》と《蛇》は『まつろわぬ神』の属性の一つである。大地と水と関わる地母神を征服し、その力と権威を奪う英雄神の逸話を背景にした神々の関係性を表している。

 征服される神を《蛇》、征服する英雄神を《鋼》として類型化したものだ。《蛇》に属する女神たちは《鋼》の神に頗る相性が悪い。

 まつろわぬアグディスティスを《蛇》の女神とするのなら、《鋼》の権能のほうがむしろ優位であるべきではないのか。

「そうね。その疑問ももっともだけど、《蛇》と《鋼》の関係って、突き詰めるとそう単純じゃないのよね。それが、きっとあの女神の神性の特徴で、だからこそ、あなたの《鋼》もサルバトーレ卿の《鋼》も苦戦したんだと思う」

「王さまがここであの神様と戦うのは、結構大事なことだと思う。今度もああいう女神様が出て来るかもしれないからね」

 エリカと恵那が口々にそう言った。

「かなり特殊な女神なんだな」 

「もちろん。厄介なことに、アグディスティスっていうのは、あの女神を構成する一要素でしかないわ。本質はもっと深いところにあって、そこをどうにかしない限り、あなたの苦戦は確実よ」

「ウルスラグナも《鋼》だしね。あ、確か、ミトラスだっけ。あの女神なら、そっちからも力を引っ張ってくるかもしれないよ」

「エリカも清秋院も、試合前にマイナスから入るのやめてくれ。そこまで言うんなら、もう分かってるんだろ?」

 護堂は投げやりな口調で尋ねた。

 まつろわぬアグディスティスの本質に迫る謎に対する回答を、エリカと恵那は持っているのだ。

「ええ」

 と、エリカは頷いた。

「正直難しかったわ。リリィか万里谷さんがいれば確信が持てたんだけど、恵那さんとお互いに知識を突き合わせていくしかなかったから」

「それでも、かなりいいところまで行ったと思う。きっと、ウルスラグナの剣を研ぐだけの解答になってるはずだよ」

 祐理やリリアナのような優秀な霊視能力があれば、あるいはもっと確実にアグディスティスの謎に迫れたかもしれないが、無い物ねだりはできない。

 エリカと恵那という希に見る才媛は、これまでに積み重ねた洋の東西の知識を組み合わせることで、霊視で素性を読み取るのと同じだけの精度でまつろわぬアグディスティスの力の正体を紐解いたのだ。

「だから、後はあなた次第ね」

 と、エリカは言った。それが何を意味しているのかを理解しない護堂ではなかった。しかし、

「お前はいいのかよ、エリカ」

 護堂はエリカに尋ねた。

 ウルスラグナの剣を研ぐということは、護堂に教授の術を施して知識を与えるということである。そのためには経口摂取――――キスが必要不可欠である。

 恵那はそれを受け入れている。

 彼女と出会ってから半年ほどではあるが、恵那は本気で護堂と一緒に死線をくぐり抜け、そして男女の仲を深めようとしている。

 しかし、エリカはどうか。

 エリカは、護堂の愛人というわけではなく、一定の距離を保ってきた。どちらかと言えばビジネスパートナーといった立ち位置だったはずだ。

「言ったでしょう、護堂次第だって」

 エリカは頬を染めて言う。

「この件については恵那さんとも話し合ったわ。わたしだって、こう見えて淑女ですもの。いろいろと思うところもあるし、恵那さんに教授をして、それから恵那さんが護堂に教授をするという選択肢もあるわ。けどね、そんな自分にもできることを他人に丸投げしてしまうのは、わたしの矜持に反するの」

 胸を張ってエリカは言い切った。

 今のエリカは助けに来てもらったという立場でもある。何もせずにおんぶに抱っこでは、『赤い悪魔』の名が廃る。

「恵那はどっちでもいいよ。王さまを独り占めっていうのも魅力的な話だけど、エリカさんの知識がないとどうにもならないとこもあるしね。知ってると思うけど、清秋院は、そういうのには寛容な家なんだ」

 英雄色を好むというのを当たり前のように受け入れる家柄が清秋院家だ。恵那もその家の長女らしく、護堂の周りに多数の女性がいるのは許容している。むしろ、こういうことについては最も許容値が高いとも言えるだろう。

 ウルスラグナの剣を研がなければアグディスティスとの戦いで苦戦するのは明白だという。かの女神と護堂の権能との相性がよくないのだ。

 勝利するためには教授を受けるべきであって、護堂の勝利は護堂だけのためにあるものでもない。

 すべての条件が、護堂に教授を受け入れろと命じている。

「分かった。エリカ、清秋院。俺に、アグディスティスの知識を教えてくれ」

 目の前に勝利の鍵があるのなら、手を伸ばさないわけにはいかない。いかなる理由があっても、護堂はカンピオーネなのだ。勝利のために最善を尽くす本能が備わっているといってもいい。

「ええ、それじゃ……」

「先、エリカさん、いいよ」 

 恵那はそう言って、そそくさと洞窟の外に出た。

「人前でキスすることを忌諱するわけじゃないけど、初めてくらいは人目を避けたいわ。それとも、護堂は人に見られるのが興奮するタイプかしら?」

「そんな性癖はない」

「そう、ならいいわ。……まったく、せっかくこのわたしが唇を許してあげるというのに、この次に恵那さんが待ってるというのは度しがたいことだわ。本来なら、許されることじゃないの。特別だからね」

 すねたような口ぶりでエリカは言う。

 当然のことだろう。

 気位の高い彼女だからではなく、恵那のような特殊な家庭事情でもない限り、複数の女性と関係を持つのは批判されるべきことだ。

 それを理解した上で護堂は教授を求め、エリカにキスをする。

「んんッ」

 驚くエリカを宥めるように唇を合わせて、抱き寄せる。少し強引すぎたかと思いもしたが、ここまで来て引き返すことはできない。

「はあ、ん……こんないきなり、仕方ない人なんだから。もう……」

 唇を離して抗議しながらも、エリカはキスの続きを受け入れる。そして、教授の術が護堂に吹き込まれる。

「前にも説明したと思うけどアグディスティスは、両性具有の神。ゼウスに去勢されて女神キュベレーと豊穣神アッティスに神格が分割されてしまう神様よ。アグディスティス=キュベレーの出身は、プリュギア。フリギア人が栄えた、アナトリアの中西部の山岳地帯とされるわ。この地域は古代からギリシャと交流が盛んで、フリギア人の文化はギリシャの文化にも取り込まれていく。当然、神話にも与えた影響は絶大……」

 エリカの口づけはぎこちない。護堂がリードしながら、キスを続ける。吹き込まれるアグディスティスの知識が護堂の脳に焼き付いていく。だが、まだ足りない。あの女神の神髄を探るにはさらに広く深い知識が必要だ。

 フリギア、聞き馴染みのない言葉だ。しかし、同時に流れてくる太陽神ミトラスやトロイア王子パリスの名前は護堂も知っていた。彼らはフリギア人の文化に由来するフリギア帽を被った姿で描かれる。東方からギリシャへ文化が流入する途中にあるアナトリア半島はギリシャ人にとって最も身近な外国であり、マクロな視点で見たギリシャ世界の東の果てだ。

「彼女の力を理解する上で重要なのは、二つ。アグディスティスの歴史とさらに広い視点からの《蛇》と《鋼》の関係性。これを押さえておかないと、ウルスラグナの剣すら封じ込められるかもしれない」

 護堂とサルバトーレの主戦力としていた《鋼》の権能を尽く弱体化してみせた謎の権能の正体。これに対処しなければ、護堂は手札の多くを失ったままアグディスティスに挑むことになりかねない。

「代表的な《鋼》の神……ヘラクレス、アキレウス、それからバトラズ。この辺りの《鋼》なら例としては最適よ。後は日本のヤマトタケルも……後で恵那さんに教えてもらうといいわ」

 存在そのものが剣を意味する征服者の神。女神を零落させその力と権威を奪うものであり、一説にはそれは父権性社会の到来を表すものとも指摘される。

 しかし、それは《蛇》と《鋼》の関係性を説明する上では不完全だ。

 やがて、エリカからの知識の伝達が終わり、身体を離す。名残惜しいとすら思える。まさか、エリカから今になって教授を受けることになるとは思わなかった。

「これで、必要な知識の三分の二くらいは溜まったんじゃないかしら」

「ああ、そんな感じだ。これだけでもアグディスティスを斬るには十分だ」

「ええ、けど分かってるでしょう。あなたが斬るべきはアグディスティスではないって」

「もちろん」

 アグディスティスはあの『まつろわぬ神』を構成する神性の中で最も色濃く出ているものではあるが、本質はそこではないのだ。ペルセウスが竜殺しの英雄であると同時に太陽神ミトラスであるように、アグディスティスもまた広く神々の性質を撚り合わせて降臨した混淆神なのだ。

「じゃあ、そろそろ恵那の番ってことでいいよね?」

 席を外していた恵那がやってくる。

「それじゃ、交代ね」

 エリカは腰を浮かせ、それから護堂の脇腹を抓った。

「いてッ、何だよいきなり」

「これくらいの意趣返し、大目に見なさい。リリィを手籠めにした辺りから分かっていたけど、あなたって本当にドンファンなんだから」

 エリカは気が済んだのか、それだけ言って恵那と交代した。

「清秋院、悪いな」

「気にしないでいいよ。あ、それとさ、お願いがあるんだけど」

「何だ?」

「恵那って呼んでよ。恵那だけ名字なの、ちょっとやだし。ダメ?」

「そんなことない。清秋……恵那」

「うん」

 恵那は嬉しそうに笑う。ただ名前を呼んだだけなのに、距離感がもっと近くなったような気がした。

 恵那は護堂の隣に腰掛けて、身体を護堂に預けるように垂れかかる。

「また沐浴してきたのか?」

「うん。汗くらい流しておかないとって思ったんだ」

 恵那の身体は少し濡れている。

 エリカが護堂に教授している間に、恵那は昨日の泉にまた行って、身体を清めていたのだ。

「じゃ、エリカさんの続きするね」

 エリカでは補いきれなかった部分を恵那が補完する。そのための教授だ。恵那の柔らかな唇が護堂の口を塞ぐ。

「ふふ、王さまとするの久しぶりかな」

「そうだったかな。ああ、確かにそうかもな」

「正直ね、ちょっと期待してたんだ。今回はみんな付いて来られなかったでしょ。だから、恵那がこれする機会あるかもって」

 ちゅ、と軽く音を立てて恵那とのキスが深まる。

「アグディスティスは分からないけど、あの神様との縁を東に辿ることは恵那にもできる。王さまも見た、桃……あれはあの女神様の影響が中国まで届いていたから現れた光景なんだ」

「中国……道教系だって話の」

「そうそう。中国で桃は聖なる果実。特に仙人と絡んで不老長寿の果物として有名だよ。斉天大聖様が不死を得たのも、初めはこの不老長寿の桃を盗み食いしたのがきっかけだったんだしね」

 かつて護堂が死闘を繰り広げた日光の『まつろわぬ神』。極めて強大な《鋼》の軍神で鋼鉄の肉体を持つ竜蛇殺しの英雄神だった神の名を久しぶりに護堂は聞いた。

「斉天大聖様が桃を盗んだのは蟠桃会。天上の神々と仙女の宴会でのこと。この宴会の主催者は仙女の女王、西王母。この女神を両性具有的な神とする研究もあって、後に東王父という対になる男性神が生み出されて女神として確立する。アグディスティス様みたいに、女性と男性に神性が引き裂かれた女神なんだ」

 西王母は最も古くから中国で信仰された女神の一柱だ。古くは西母と呼ばれ、殷代では半人半獣の姿で描かれた死に神だった。周代になると人の姿を獲得し、春秋時代には西王母として知られるようになった。

「西王母の逸話で有名なのは周の穆王の伝説。多くの異民族を討ち取った英雄である穆王は、周の西方にある崑崙山で西王母と面会し、三年間崑崙山で過ごした後で帰国したって話。ここに出てくる崑崙山は洛陽から西にだいたい千キロくらいのところにあったって伝わってるんだ」

 より深い口づけを交わす。

 エリカの担当外だった西アジアの知識が流れ込んでくる。

 エリカの知識と恵那の知識が混ざり合い洋の東西の伝播した女神の神性が見えてくる。

 無数に枝分かれした系統樹を遡り、人類の歴史を閲するような作業が護堂の頭の中で行われているようであった。

「実際の距離はあんまり関係ないかな。紀元前の記録だし。ただ、西方の影響を受けてるのは間違いない。殷代では死に神だった西母が、周の頃には天上の女神にまで出世したのは、きっと西から伝播した神話の影響を受けたからだよ」

 輝く太陽のイメージが脳裏に浮かぶ。

 暗い地下世界の住人だった女神を作り替えた天上の女神の姿だ。

「恵那たちは今まで汎ユーラシア的な《鋼》としてラーマ王子を追いかけていたけど、この女神様はもっと古く広範囲に影響した汎ユーラシア的な《蛇》と言ってもいいかもしれないね」

 そうして恵那は教授の最後を締めくくった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

 エリカと恵那から知識を与えてもらった後だと、この異界についての見方も変わってくる。

 ウルスラグナの戦士の権能が使える。だからなのか、アグディスティスの所在が今まで以上にはっきりと視えてきた。

 エリカが調べた通りであった。

 護堂たちが拠点としていた洞窟からもよく見えたひときわ大きな山からアグディスティスの神気が流れている。

 間違いなく、そこがこの異界の中心地点だ。

「キュベレーもアグディスティスも山の神様。特に洞窟を住居としているとされているわ。本質は冥府神だから、太陽の下にはいないっていうことなのかもしれないわね」

 と、エリカは言う。

 『赤と黒』のケープを身につけた戦装束だ。

 エリカと恵那が足を止めた。

 ここから先は護堂が単身で乗り込むべき場所だ。

「王さま、気をつけてね。手伝うことがあったら呼んで」

「ああ、そのときは頼む」

「うん」

 恵那は頷いて、それからエリカも口を開いた。

「わたしの唇を奪った以上、負けることは許されないわよ」

「分かってる。負けるつもりで戦うことなんて万に一つもない。これだけしてもらったんだ。必ず勝つよ」

「そう、ならいいわ」

 護堂の返事に気をよくしたエリカは艶然と微笑んだ。

 少女二人の背中を押されて護堂はアグディスティスの姿を求めて山を登った。最早、『まつろわぬ神』に気を遣うこともない。ガブリエルの言霊で距離を縮めて一気に目的の洞窟近くに移動する。

 山腹に設けられた神殿が厳かに佇んでいる。

 山腹が切り取られて台地となり、削り取られた山肌に洞窟がある。その入り口を固めるように神殿の入り口が設けられているのだ。

「アグディスティス、いるんだろ? 出て来い!」

 護堂は声を張った。遠く響き、山彦となるくらいの大声だ。

 しばらく答えはなかった。

 やがて、神殿の奥の暗闇から一頭の巨大なライオンが飛び出てきた。

『拉げ』

 飛びかかってくるライオンの巨大な顎が空中で止まる。そのままギリギリと空間が捻れて、首がぐるりと回転した。血反吐を零してライオンは倒れ、塵に帰った。

 一陣の風が吹き、ライオンの身体だった塵が流れていく。そして、いつの間にかそこに美しい女神が佇んでいた。憂鬱そうな顔をして、ギリシャ風の衣装を身に纏う女王だ。護堂の身体に力が漲っていく。

「嘆かわしい」

 と、女王は言う。

「お前も今のライオンも、等しく我が子も同然。言わばお前たちは兄弟だろうに」

「牙を剥いてきたのはそっちだぞ」

「敵意を持って我が神域を侵したお前が言うことか。神殺しの大罪、如何にして雪がせるべきか、正直に言って悩みどころではあったが……」

 アグディスティスは深く苦悩したとでも言うように頭を振った。

「時の果てに生まれた我が息子といえど、罪には罰を持って当たるのが神代よりの倣い。お前の罪を命を以て購う他にない。お前に従う巫女とエリカは、我が随獣としよう。かつての英傑がそうであったように」

「勝手なこと言うなよ」

 交渉で解決するとはとても思えない。

 ウルスラグナの剣を研いだので、異界から脱出することはできるだろうが、この異変の解決には繋がらない。

「あんた、アストラル界ってとこに隠居する気はないか?」

 ダメ元で護堂は提案してみた。

 アグディスティスが地上を去れば、問題の大半が解決するし護堂も戦わなくてもいい。しかし、女神からの返答は拒絶の意図を明確にしたものであった。

「女王は現世にこそ君臨すべきであろう。わたしが君臨すれば、地上の人々は安寧と喜びの内に生涯を終えることができるぞ。これは、我ら神が地上を去る前の分を弁えた人間たちの世界を取り戻してやろうという親心だ」

「余計なお世話だ。じゃあ、あんたまさか外のあの森、もっと広げていくつもりなんじゃないだろうな?」

「何を言うかと思えば、当然だろう。あれは我が力の一端であり、いずれは人の子を守り慈しむためのものだ。天上の女王の支配を以て人々の心身は真に救われるものと知れ」

 アグディスティスの左右にライオンが現れた。

 まるで彼女の影からにじみ出るような唐突さで、筋骨隆々の自然界ではお目にかかれない巨体のライオンである。

「いずれにしてもだ。お前への罰を下さなければ、女王の顔が立たぬ。不肖の息子とはいえ、放任してはその責を問われよう」

「勝手に母親面するなよ。別にあんたと俺はまったく関係ないだろうが」

 大地の母であり、大いなる地母神である彼女は懐の広さを示すようにカンピオーネすらも息子と呼ぶが、護堂からすれば赤の他人以外の何者でもない。

 いくら神々の母と謳われた神であっても、現代に通じるものでもない。

 戦って、討ち果たす。

 それ以外に、護堂の選択肢はない。アグディスティスもまた護堂を敵と見定めた。もとより、神殺しを見逃すのは、『まつろわぬ神』としてあり得ないことだ。とりわけ、彼女なりの秩序を世界に敷く支配者たる神格ならば尚のことだ。

 それぞれの思想はどうあれ、行き着く先は死力を尽くした命のやり取り以外にないのだ。

 護堂とまつろわぬアグディスティスの神力が一気に上昇し、そしてぶつかり合った。

 

 

 



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中編 古の女神編 Ⅸ

 灼熱が空から降る。

 鉄をも融かす高熱の矢が、護堂に向けて放たれている。

 太陽神に由来する太陽の権能だ。ただの火ではない。およそ考え得る限り最高の灼熱と言ってもいい。直撃すれば、カンピオーネの肉体もただでは済まない。

 護堂は体内の呪力を全力で高める。

 呪力耐性を引き上げることで、アグディスティスの熱線を軽減するためだ。直撃だけでなく、その余波だけでも普通の金属は融解する。護堂の身体も、溶鉱炉の前に立っているかのような熱に晒されているのだ。

『弾け』

 言霊が胸に飛来する矢を逸らす。森の中に落ちた矢は大爆発を起こして、周囲を消し炭にしてしまう。そして、クレーターから急速に木々が生えて、自然をあっという間に再生する。

「火事にならないのはラッキーだったな」

 護堂は太陽矢を躱しながら呟いた。

 森林火災も、大きな視点に立てば自然環境のライフサイクルの一つではある。しかし、この世界では火が燃え広がるよりも木々の更新のほうが早く進むようだ。

「なかなかにすばしこい。意気軒昂、実によろしい!」

 楽しげに上空を駆ける戦車の御者台でアグディスティスは声を張っている。手には太陽の光を凝縮したような眩い弓が握られている。ここから放たれる矢は空中で十重二十重に分裂して雨のように襲いかかってくる。

「逃げ回るだけが能ではないだろう? どうだ?」

 爆撃音を背中に聞きながら、護堂は山を滑り落ちる。流れに逆らわずに十メートルばかり転がって、跳ね起きた。普通ならば身体を木や岩に叩き付けて重傷を負うところだが、言霊の力で距離を伸ばし、滑落速度を緩める時間を確保した。

「初めての使い方だけど上手くいくもんだな」

 我ながら感心してしまう。

 距離を縮めるのは何度もやって来たが、距離を引き延ばすのは初めてではないだろうか。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ」

 一目連の権能で槍を生成、空を駆ける戦車に向けて放つ。

 戦車の移動速度を計算した一撃は、そのまま行けば直撃するはずのものだったが、

「同じことが、通じるものか」

 当然のように防がれてしまった。それどころか、雄叫びを上げたライオンは飛来する神槍を物ともせずにかみ砕き、打ち払っている。

 案の定、《鋼》というだけでアグディスティスの前では力を封じられてしまうのだ。

「ははは、お前の槍、砕くには惜しい逸品だ。だが、相手が悪かった。他の《蛇》ならばまだしも、わたしにはそよ風のようなものだな」

 自由に空を駆ける戦車の足を止めるには至らない。

 前回よりもさらにアグディスティスの力が上がっているようにすら思う。

「どう防ぐ、神殺し。この試練、お前はどう乗り越えるのだ?」

 弓の弦が甲高い音を立てる。

 放たれた矢が弧を描いて護堂を狙う。

 『強制言語』による空間圧縮。それを利用した高速移動の先を読まれた。

「く……ッ」

 土雷神の化身を使おうとして、気づいた。使えないのだ。土雷神の化身が反応しない。咄嗟に護堂は呪力を高めて、一目連の権能で盾を何枚にも重ねた。

「陰陽の神技を具現せよ。鬼道を行き、悪鬼を以て名を高めん」

 さらに式神の権能を使い、墨絵の怪物を壁とする。

 爆発が生じて護堂の身体を熱波が焼いた。

「うわあああああッ」

 視界が回る。ぐるぐる回って、今度は強く身体を打ち付けた。岩なのか木なのか、自分が背にしているものが何かも分からず、とにかく護堂は身体を起こして真横に飛んだ。一瞬前まで護堂がいた場所を太陽の矢が射貫き、蒸発させていた。

「危なかった。今のはびっくりしたぞ」

 頬の擦り傷がヒリヒリする。

「やっぱり若雷神の化身も使えてないな」

 権能を使おうとすると妙に重い。ずっしりとした違和感があったのだが、気のせいではなかった。今の状態で万全に使えるのはガブリエルの権能と法道の権能、それとアテナの権能だ。それだけあれば十分と胸を張りたいところだが、使い慣れた権能が使えないのはただただやりにくい。おまけにこの異界はアグディスティスの権能で形成された彼女の土俵だ。だったらまずはそこを何とかするべきだろう。

 護堂は腹をくくった。

「聖なる桃の権能。俺の火雷大神(けんのう)を封じたのは、あんたの中にある西王母の権能だな」

 恵那からもらった知識が謎をすぐに解き明かしてくれた。

 周囲に立ちこめる桃の甘い香り。

 それが火雷大神を著しく弱らせている。

「察しがいいな、神殺し。自分の権能故、すぐに分かったのか? 如何にも、わたしの遥か遠い末たる西王母の仙桃こそ、お前が殺めた冥府の蛇を封じる一手に他ならぬ!」

 土雷神が使えなければ土中を移動する雷に顕身できない。相手は神速の戦車だ。機動力で負けるのは不利。そこから突き崩していく。

「古代中国で桃は不老長寿の薬であると同時に厄除けの果実だった。それが伝わった日本でも、弥生時代には桃を魔除けに使っていたくらい、重視された果物で、神様にまでなっている。ただの桃が、意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)という神名を与えられたのは、黄泉の国でイザナギを追う火雷大神を退散させた功績によるものだ」

 護堂の周囲に光の粒が浮かび上がる。

 少しずつ輝きを増す光は、徐々に数も増やしていく。

「何やら奇妙な技を使う……。む?」

 怪訝そうな顔をするアグディスティスがいよいよ眉ねを寄せた。

 光の剣が、桃の権能をかき消しているからだ。

「魔除けの桃の管理人である西王母は、古代中国の西母にさらに西から伝わった様々な神話的エッセンスが組み合わさって形成された神格だ。あんたが西王母を自分の末裔だと言ったのは、この西から中国に伝わった神格こそがあんたの末裔だからだ」

「よもや、神の来歴を解き明かし、神格を斬り裂く神殺しの剣か! そのようなものを隠し持っていたとはッ!」

 火雷大神の弱点である桃の権能から遡り、西王母を解き明かし、さらにその奥に向けて剣を研ぐ。今のままでは表皮を斬りつける程度にしかならない。西王母はおまけでしかないのだ。それでも、周囲の空間から冷たい風が流れてくる。

 ウルスラグナの剣が西王母の権能を傷付けている証拠だ。

 やはり運がよかった。

 アグディスティスを名乗るこの神の性質のおかげで、アグディスティスを斬る剣で西王母の権能にも傷を付けられる。

「この異界を形作るのも西王母の権能の影響が強い。西王母が暮らす崑崙山はこの世の果てであり、仙人が済む異世界だ。常人が辿り着くことのできない桃源郷(・・・)。それがこの異界の根幹だ」 

 光の剣が縦横無尽に駆けて桃源郷を斬り付ける。

 権能を消された部分からマイナスの冷気が吹き込んできている。

「わたしの世界すら斬り裂こうというのか! 度しがたい! 我が子らよ、賢しげな口を止めよ!」

 アグディスティスの命を受けて大地が脈打つ。木々が蠢く。呪力が鳴動し、ライオンや蛇、狼といった神獣が姿を見せた。

 あらゆる命を生み出す生命の母の権能だ。これは彼女の本来の力の一端だ。そこまで剣を研ぐには、もう少し時間がかかるのだが、まだ西王母までしか辿れていない。

「おおおおおおおおおおおおおおッ」

 狼が吠える。強力な衝撃が護堂を襲い、ウルスラグナの剣が弾き飛ばされる。

「その小賢しい剣、まだ未完成と見た。それに剣とは使えば使うほど摩耗する物だ。その言霊の剣で我が無尽蔵の子らをどこまで相手にできるか、試してみよう!」

 力に力をぶつける単純な思想だが、それが正解だ。ウルスラグナの剣は強力な切り札だが、ごり押しされると押し切られることがあるのだ。特に複数の神性を有する混淆神は苦手な部類である。

「頼むぞ、恵那、エリカ!」

 護堂はここで温存していた戦力を投入すると決めた。

「待ちくたびれたよ、王さま!」

「神獣を相手に大立ち回り、ぞっとしないわ。けど、ふふ、ちょっと燃えてきたわね」

 天叢雲剣を肩に担いだ恵那は、すでに神懸かっている。嵐の権能が彼女の内部に充溢しているのが分かる。

 エリカもクオレ・ディ・レオーネを分厚いロングソードに作り替えている。

「行くよ、エリカさん。ついて来れる?」

「もちろん、舐めないでちょうだい!」

 恵那とエリカが向かってくる神獣に突進する。

 飛ぶように駆ける恵那は驚異的な跳躍でライオンの頭上を越え、空中で回転して首を落とした。嵐の刃をまき散らし、周囲の神獣すら切り刻む。

 そして、エリカも猛然と駆ける。獅子のように猛々しく、狼の懐に飛び込んで、首元を貫いたのだ。

 今までのエリカとは動きがまるで違う。大騎士程度では、神獣とまともに戦うことは不可能だ。しかし、今のエリカは神懸かりをした恵那と同等の戦闘能力を有している。それどころか、恵那もエリカもいつも以上に強い。

「さすがに、圧巻だな」

 たった二人で攻め寄せる神獣を次々に倒している。他に余力のない護堂には大きな助けだ。

「当然だ。妾の加護を与えてやっているのだぞ。神の使いとはいえ、有象無象の輩などに後れを取るものか」

 自信に満ちあふれた声が傍らから聞こえる。

 護堂の隣に小さな人形のような少女が浮かんでいた。銀色の髪と闇色の瞳の妖精――――女神アテナと同じ姿をした身長十五センチ足らずの権能のアバターである。

 『女神の導き(ディバイン・ガイダンス)』を掌握しつつある護堂は、今まで自分一人に付与していたアテナの権能を他者に分け与えることに成功した。さらに指揮系統を分割し、アテナを独立させたのである。

 おかげで呪力の消耗はあるものの、そちらに意識を割かなくてもよくなった。

「その力、その姿、まさかアテナか? 天と大地の大いなる女神が、なんと小さくなったものか! 神殺しの手にかかっただけでなく、そうまで零落してみせたか!」

「耳が痛いな。ああ、如何にも今の妾はこやつの一権能に過ぎぬ。ふふふ、しかし英傑を育てるのはアテナの本懐でもある。神殺しであろうと英傑ならば育てるまで。あなたも似たようなものだろう?」

「減らず口を。いいだろう。神殺しの権能に成り下がったあなたをアテナとは思うまい。神殺しもろとも我が冥府(王国)に迎えよう!」

 アグディスティスが空高く矢を放った。真っ白に染まる天空にもう一つの太陽が昇る。

「く……護堂! さすがにあれは防げないわ!」

「王さま、お願い! 露払いはこっちで全部やるから!」

「巫女らの言うとおりだ。あなたは剣を研ぎ続けよ。今は妾の助けすら、ないものと思え」

「分かってるよ」

 護堂は周囲を回る剣の言霊を加速させる。

 西王母をさらに西に遡る。

「あんたが名乗るアグディスティスはプリュギアの山の神で、あんたを崇めたのはフリギア人だった。ギリシャ人はフリギア人と交流の中でアグディスティスをキュベレーと同一視し、さらに付属するアッティス信仰を取り入れて、アグディスティスをキュベレーとアッティスの二柱に分割した。けど、アグディスティスがキュベレーと結びつく前から、別のルートでキュベレーはギリシャに伝わっていた。古い時代、キュベレーはクレタ島のレアーだった。レアーは玉座に腰掛け、ライオンを従える神。キュベレーも同じ姿で伝わっている。これらは同じ女神を起源としている証だ」

「我が太陽を受けて、消えるがいい。その死を以て大罪を雪ぐものとする! 裁きの太陽よ、ここにあれ!」

 光が満ちる。極限の太陽光があまりにもまぶしくて、護堂の視界が真っ白になる。

 あれが落ちれば護堂はいいとしても恵那とエリカは間違いなく助からない。ゆえに、その来歴を斬り裂く。

「キュベレーはかつてクババと呼ばれた。紀元前二十世紀頃にヒッタイト帝国のカルケミシュの守護神だった女神だ。極めて古い神格だったあんたは、多くの神話伝承の中で様々な名前を手に入れた。特に出身地に近いアナトリアから中央アジアではそれが顕著だ。フルリ人はあんたのことを嵐神テシュブの妻ヘパトと呼び、フルリ人の影響を受けたヒッタイト帝国でもその信仰は維持された」

 黄金の剣が飛び交って、天に向かって上昇していく。落ちる太陽を受け止めようとしているのだ。

「あんたと縁深い太陽の神格は二つ、一つはアッティスと習合したミトラス。そしてもう一つが、ヒッタイトの太陽神アリンナ。太陽を象徴とするこの女神をヒッタイト人はフルリ人が崇めたヘパトと同一視した。クババにしてヘパトであるあんたは、こうして太陽の女神アリンナとも結びつけられた!」

 黄金の剣はアリンナの太陽を斬る剣であり、アグディスティスを斬る剣でもある。アグディスティスとアリンナの結びつきを斬り裂く言霊が、落ちてくる太陽と激突する。

 音はなかった。

 眩いばかりの白熱も一瞬で消失した。あまりにもあっけなく、アリンナの太陽は斬り裂かれて消し飛んだのだ。

「気を抜くな、草薙護堂!」

 アテナの叱責が飛ぶ。

「くッ」

 アリンナとアグディスティスの繋がりを斬った。これでしばらくは大丈夫――――かというとそうでもない。未だにアグディスティスは健在だ。神速の戦車が護堂に突進してきた。飛び退いて躱したが、二の腕を掠めたのか血が噴き出した。

 言霊の剣はあとどれくらい使えるか。

 桃源郷を斬りながらアリンナも斬った。いや、厳密に言えば他の混淆神と違いすべてアグディスティスに纏わる権能を斬ると言う方向性で一本化しているので負担は少ない。しかし、アグディスティスが先ほど見抜いたとおり、言霊の剣は有限だ。

「わたしとアリンナの繋がりを断ったか。見事なり。ふふ、不肖の息子もここまで驚かされると可愛らしく見えるものだな。ああ、だからといって加減はせぬがな」

「言ってろ、行け!」

 黄金の剣を空のアグディスティスに向かわせる。この剣はすでにアグディスティスを斬り裂くだけの鋭さを持っている。完成していないが、それでも深手を負わせるに足るものだ。

「確かに、それを受ければ苦しいが……引け、軍神よ。わたしに手向かうものではないぞ」

 アグディスティスがそう言うや、ウルスラグナの剣が鈍った。急激に重くなり、動きが緩慢になってしまう。

「《鋼》封じの権能……やっぱり、一番はそこか」

 おまけに、アグディスティスは太陽の弓を取り出して、矢を放ってくる。言霊の剣で矢を防いだが、太陽の爆発が消せない。言霊も弾かれてしまう。砕けることはないが、消すこともできず互いに弾き合っている。

 護堂は舌打ちをした。

 ついに取り出したアグディスティスのもう一つの太陽。どこかで使ってくると思っていたが、ここで出してきたか。

「アッティスと習合した太陽神ミトラスの権能。アッティスはあんたから生まれた豊穣の神で、あんたそのものだからな。アッティスが獲得した神性も多少は使えるってわけか」

「その通り。そして、お前の剣は東方の軍神ウルスラグナの権能と見た。なかなかよく行き渡っているようだが、ふふふ、わたしに《鋼》で挑む愚行にさらにウルスラグナとは!」

「そうは言ったって、あんたはミトラスそのものじゃない。アッティスの権能って言っても遠い親戚みたいなもんだからな。だったら、やりようはあるってもんだ」

 護堂はウルスラグナの剣をさらに加速させる。

 《鋼》封じの権能で大きく弱体化し、さらに上司のミスラに由来するミトラスの太陽がそこにある。ウルスラグナにとっては逆境だが、それを操っているのはアグディスティスの権能だ。護堂が狙うのはやはりその一点。この勝負はどこまでもアグディスティスを斬るか斬らないかに懸かっているのだ。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ!」

「一太刀馳走仕る!」

 エリカが絶望の冷気を呼び、恵那がスサノオの嵐を呼んだ。二人の剣がライオンの心臓を抉り、狼の首を断ち、蛇を両断する。

 二人は人間ながら善戦している。しかし、顔色が悪い。長時間神気を宿すのはただの人間には厳しいのだ。

「護堂、神獣の動きが鈍ってるわ。間違いなく剣が効いてるのよ!」

「もう少しだよ王さま。恵那たちも、頑張るから!」

 身体を張って強敵と戦う少女に護堂は発憤する。ここで力を費やせなくては男が廃る。

「アグディスティス、あんたはエリカにメーテール・テオーン・イーダイアって名乗ったらしいな。イーデー山の神々の母を意味する名前だ。紀元前五世紀頃のギリシャ人がキュベレーを遠回しに表現したものだ」

 懸命に呪力を活性させる。《鋼》封じとミトラスに対抗するためにあらん限りの呪力を絞り出すのだ。

「《鋼》の太陽よ。我が敵を討て!」

 力を鈍らせた護堂にアグディスティスが猛攻を加える。爆撃もかくやの攻撃を凌げているのは、ミトラスの力を呼び出したのがアグディスティスの権能だからだ。

「あんたが古代世界で習合したクレタのレアーも神々の母だった。紀元前二百三年にハンニバルに対抗するためにローマはキュベレー信仰をプリュギアから輸入した。ローマでのキュベレーはマグナ・マーテルの称号を得た。諸神の母という意味だ。《鋼》封じの権能の真価はここにある!」

 少し言霊の剣が軽くなった。

 ウルスラグナの剣が、アグディスティスの支配を斬り裂き始めたのだ。

「わたしの支配を逃れるか、ウルスラグナ! 許されざることだ! わたしの加護を受け入れよ! お前は真に英雄たるべき軍神だろう!」

「生憎と、ウルスラグナはあんたには従わないぞ。そんなタマじゃないんだ」

 剣が舞う。空高くアグディスティスを追い立てる。少しずつ形勢が変わっていく。ミトラスの太陽がウルスラグナの剣を弾くが砕くには至らない。

「《鋼》封じの権能の正体は《鋼》と《蛇》の歴史にある。ペルセウス=アンドロメダ型神話に見られる代表的な《鋼》と《蛇》の関係。竜蛇に貶められた《蛇》の神を討伐しその力を簒奪する《鋼》の英雄。彼らは時に生け贄の乙女を救い出して妻に迎えるという典型的なストーリーは後世に誕生したものだ。古い時代、後に《鋼》と呼ばれる英雄と《蛇》の女神の関係はもっと親密なものだった。この代表格がナルト神話のバトラズであり、ギリシャ神話のヘラクレスやアキレウスだ」

 護堂は走る。

 走りながら神話を紐解き、真に斬るべき神格を引きずり出していく。

「バトラズの母は海の神の一族だ。赤く焼けた鋼鉄の身体を持って生まれたバトラズは、出産直後に海水で身体を冷やされる。成長してからは無敵の身体を得るために、鍛冶神クレダレゴンに頼み、竜の骸から作った炭の火で身体に焼き入れをして無双の勇者となった。ナルト神話はスキタイ系の神話なだけに、バトラズは典型的な《鋼》の英雄だ。これと似たような出生の英雄がアキレウスだ。海の女神テティスは生まれたばかりの我が子を不死身にするために冥府の川に浸したという。さらに古いバージョンには、聖なる火でアキレウスを炙って人間の部分を蒸発させたってのもある。どっちにしてもアキレウスは生まれた直後に死して蘇る神の性質を与えられていた。アキレウスを支えたのはテティスだけじゃない。テティスに救われた恩のある鍛冶神ヘファイストスもアキレウスの庇護者だった! バトラズもアキレウスも海の女神と鍛冶神の加護を受けた不死身の英雄だったんだ!」

「存外、厄介な権能だ! これはどうか!」

 アグディスティスが呼び出した巨大な蛇が牙を剥く。それが剣の言霊であっさりと斬り伏せられた。すでにアグディスティスを斬る剣として成立している。彼女の神獣は尽く斬り裂かれるだけだ。エリカと恵那を襲っていた神獣の群れも斬り裂かれた。アグディスティスの力に支えられていた桃源郷も崩壊を始める。

「ギリシャ最大の英雄ヘラクレスも不死身の軍神であり《鋼》の英雄だ。広く長く信仰されたせいで多くの伝説を手に入れた彼の最大のエピソードは十二の難行だろう。大地の化身である不死身のライオン殺しや水の化身であるヒュドラ殺し、冥府の番犬であるケルベロスの捕獲といった《鋼》らしいエピソードのオンパレードだ。けど、重要なのはこれらの難行の攻略を支えた力の源泉だ。ヘラクレスを不死身たらしめるもの。それは女神ヘラの存在だ」

 日本でも有名なヘラクレスとヘラの確執。ヘラクレスを受難の英雄としたのは、女神の狂気とも言うべき執拗な嫉妬であった。しかし――――、

「ヘラクレスは生まれてすぐにゼウスの策略でヘラの母乳を吸った。大いなる大地母神の母乳を吸ったヘラクレスは生まれたばかりでヘラが差し向けた神蛇を握り殺すほどの力を得たという。ヘラの存在はヘラクレスの人生にずっと付きまとい、ついに稀代の大英雄を破滅させるに至る。毒に侵されたヘラクラスは自ら火の中で死ぬことを決め、その生涯を閉じた――――というが、この後、ヘラクラスはオリュンポスの神の一員となって完全なる不死を手に入れ、ヘラとも和解する。だとすれば、ヘラクレスの人生は、女神ヘラが与えた不死に至るための通過儀礼と言える。だったら、それは呪いではなく女神の加護だ。ヘラクレスの名がヘラの栄光を意味するのも当然だ! ヘラクレスはヘラのための英雄だからだ!」

 アグディスティスの顔に焦りが生まれる。

 バトラズ、アキレウス、ヘラクレス。一見して関係のないように見える三柱の英雄神の来歴が、アグディスティスの根幹を揺さぶっているのだ。

 効いている。その確信が護堂にはある。

「この三柱の英雄神はすべてが《鋼》だ。竜蛇殺しの英雄ということじゃない。水と火と共生し、戦場における不死を表す英雄だからだ。そして、注目すべきは彼らの力の源泉。彼らの《鋼》の力は、《蛇》を討伐して奪い取ったものではなく、もともとは《蛇》から加護として与えられたものだった。これは《鋼》と《蛇》の古い関係性の一つだ。《蛇》である母から力を与えられることで《鋼》の英雄は不死身になることができるんだ。母権性社会の中では母こそが絶対者だ。その母を守るための剣が英雄であり、母なくして英雄は生まれない。日本でも近親の女性が英雄に与える力を「(いも)の力」と呼びヤマトタケルを大いに助けたってくらい、英雄にとって女性はなくてはならない存在なんだ。アグディスティス。あんたの《鋼》封じの言霊は、この《鋼》と《蛇》の最も古い関係性に由来する力だ」

 急激にウルスラグナの剣が速度を増した。

 軽い。

 今までで最も軽いと感じた。

「わたしの、大いなる母たるわたしの力を否定するのかッ!」

「親離れって言うんだよ、そういうのをな!」

 憤るアグディスティスだが、天秤は護堂に振り切れた。《鋼》封じの言霊は、もうウルスラグナには通じない。

 桃源郷が砕けて、外に広がっていた森も消しゴムで消されるように消えていく。気温が下がって、少しずつアルプスの本来の姿が戻ってくる。

「護堂、このまま一気にやっちゃいなさい!」

 エリカの声が聞こえる。

 言われずとも、ここまで追い込んで逃がすわけにはいかない。

「ローマの時代になってもキュベレーは大いなる母だった。キリスト教がローマの国教となり、キュベレー信仰が異端視されても、その信仰の痕跡を消すことができなかった。クババの時代からキュベレーの象徴だったザクロが聖母マリアの象徴の一つとされるほど、その信仰は根強かった」

 黄金の剣が煌めいて、神速の戦車を取り囲む。ミトラスの矢もその力を失いつつあった。アグディスティスの権能が剣で斬られたからだ。桃源郷などという如何にも斬ってくれと言わんばかりの異界を出したままにしていたのが運の尽きだった。

「本来は《蛇》となった時点で《鋼》には不利だ。それを覆せたのは、あんたには隠し属性として《母》というべき力があったからだ。考えてみれば当たり前なんだ。《鋼》が《蛇》に強いのは、父権性社会への移行を示すからだっていうのなら、それ以前の純母権性社会で崇拝された女神の権能には、属性も何もないんだろうからな」

 そうはいっても、現代にまでその超古代の力を持ち込める神格はまずいない。大抵は《蛇》としての属性に押し込められるし、アグディスティスもまた《蛇》の特性を有している。そういう風に人類の歴史は進んでしまったのだ。

 それでも、彼女が《母》であり続けられたのは、極めて希有な事例だろう。

「母に対するその愚行、看過できぬ! 神殺し、分を弁えよ!」

 太陽の矢と神獣召喚を同時に行うアグディスティスを護堂は相手にしなかった。

「あんたの母の権能、その力の出所は一つだ。玉座に腰掛け、ライオンを従える像は神々の母の象徴として受け継がれたものだ。その最も古い例、それはチャタル・ヒュユクで崇められた世界最古の地母神。八千年近く前の《鋼》も《蛇》もない時代に生まれ、洋の東西に分化しながら紀元後まで《母》であり続けた大地母神が、その力の正体だ!」

「あああああああああああああああああああああああああああ!!」

 黄金の剣が最古の大地母神に殺到する。

 その神格の核となる部分を斬り裂いた。

 これで、桃源郷が完全に消失した。荒涼とした雪と岩の大地が戻ってくる。あまりの寒さに凍えてしまいそうだ。

 アグディスティスが自分に関わりがあるからといって西王母などの遠い親戚の力すら持って来られた理由も母にして女王であるからだ。

 アグディスティスは自分の子とも言うべき派生先の神格に女王として命令を下していたのだ。

 これが護堂にとって幸運だった。完全に別の神性であれば、桃源郷を斬った剣でアグディスティスは斬れなかっただろう。すべての権能がアグディスティスと神性と絡んでいたからこそ、同一の剣が通じた。

「王さま、やったね」

「護堂、ともかく下山しましょう。凍えてしまうわ」

 天候はすぐに悪くなる。

 呪術の輩である三人が凍えて死ぬということはあまり考えられないが、アルプスの過酷な環境に進んで居座りたいとは思わない。おまけに今は軽装なのだ。権能でも何でも使って、素早く暖かい環境に逃げたい。

「ぐ、ふ……はあ……愚昧な、わたしを失墜させたと思ったか。はあ……」

 地に伏したアグディスティスがよろよろと立ち上がった。

 大きく消耗し、今はもうかつての恐ろしい力は感じられない。

 エリカと恵那が距離を取った。

 手負いの『まつろわぬ神』だ。何をするか分かったものではない。

「そんな状態で第二ラウンドしようっていうのか?」

「侮るな神殺し。母たるわたしに失墜はありえないのだ。それに、お前も大分消耗しているようだ。ふふふ、我が権能、ずいぶんと斬り裂かれたが、お前に神罰を下すだけの力、まだ残っているぞ」

 青くなった唇でアグディスティスはそう嘯いた。

 ウルスラグナの剣はかなりのダメージを与えた。しかし、完全には神格を斬りきれなかった。アグディスティスが混淆神だったこともあるだろうし、そこに辿り着くまでに剣が刃こぼれしていたこともあるのだろう。

 いずれにしても、次が最後。

「わたしは誓うぞ。この命を費やしてでも、大いなる母の怒りを示し、神殺しに正しき神罰を与えてみせると!」

 アグディスティスが剣を抜き、切っ先を天にかざすやぶつり、と嫌な音がした。アグディスティスの口から血が零れた。体内の重要な臓器がいくつも潰れたようであった。

「それは」

 護堂が目を見張る。

 今のは間違いなく、自分自身に対して呪いをかけたのだ。命を賭けて護堂を殺すという全力の誓いだ。

「我が最期を見届けよ。天と大地の神々よ。お前たちの母の勇姿を目に焼き付けるのだ。ああ、アッティスよ、我が恋にして我そのものたる太陽よ。母の敵を撃ち払うのだ!」

 大きく後方に跳躍したアグディスティス。その背後に真っ白な太陽が浮かび上がった。豊穣神ゆえに太陽の神格を得たアッティス=ミトラスの力だろう。すさまじい熱と出力を感じる。アルプスにせっかく戻ってきた冬と雪があっという間に消えていく。

「王さま、あれヤバい!」

「護堂!!」

「分かってる。下がってろ!」

 護堂は駆けだした。

 太陽を打ち落とすための最善を尽くす。

「恵那、天叢雲剣持ってくぞ!」

 恵那は二つ返事で手にある黒い剣を投げた。空中で天叢雲剣が消えて、護堂の手に現れる。

「天叢雲剣、行けるな!?」

『無論だ。母なる女神に最源流の《鋼》の矜持を見せてくれる』

 右手が熱い。 

 天叢雲剣が護堂の思いに応えてくれる。

「神罰の時だ、神殺し! 母の怒りをその身で味わえ!」 

 解き放たれる最期の太陽フレア。その規模は過去最大と言ってもいい。大いなる女神が残された命をかき集めて放った極大の一撃だ。

「闇よ来たれ、命のために。黒よここに、嵐を呼べ――――行け、天叢雲剣!!」

 護堂は黒雷神の聖句を唱えて天叢雲剣を投じた。

 ミサイルもかくやの速度で打ち放たれた神剣は、空中で漆黒の雲を纏った。それは嵐を導く積乱雲のようであり、どす黒い冥府の風であり、砂鉄を巻き込んだ鋼の竜巻だった。太陽フレアに対して、漆黒の竜巻が牙を剥いた。巨大な黒雲の蛇が太陽に食いついた。

「ぐ、おおお!」

 護堂は歯を食いしばった。呪力が一気に食い尽くされるようだった。女神の命がけの一撃は軽くない。太陽に対して耐性を持つ黒雷神の化身と天叢雲剣を融合させた黒雲の蛇がまるで焼かれているようだった。

 力は互角だ。

 太陽と黒雲の一騎打ち。

 護堂はありったけの呪力を注ぎ込んでいて、他の権能を併用する余裕がない。

 あるいはこのまま打ち負けてしまうのでは。そんな嫌な予感すらあった。焦る護堂のすぐ隣に、一筋の光が突き刺さる。

 銀色の剣だった。

 それが瞬く間に形を変えて一挺の槍となった。恐ろしく寒い冥府の毒にも似た気配を感じさせる槍の正体は、エリカが投じたクオレ・ディ・レオーネであった。

 ご丁寧に必中の術までかかっている。

 普通なら『まつろわぬ神』に人間の武器は通じない。

 しかし、神をも傷付ける呪いを付与した武器は別だ。それをカンピオーネが投じたのなら、十分に神殺しをなし得る刃となる。

 まして、今のアグディスティスは死力を振り絞っている最中だ。

 護堂は必死になって権能を維持しながら、槍を抜いた。

「神殺し、おまえはッ!」

「初めから仲間と一緒に戦ってるんだ、俺は」

 大きく振りかぶって、槍を投じた。

 後は護堂が何もしなくても、槍は一直線に女神に向かっていく。

「くはッ……!」

 クオレ・ディ・レオーネがアグディスティスの胸を貫いた。

 女神の生命の糸がプツンと切れた。

 太陽が力を失って、傾いていく。

 そして黒蛇が太陽ごと女神を飲み込んだのだった。

 

 

 

 

 

 



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中編 古の女神編 Ⅹ

 轟々と吹き荒れる吹雪が視界を遮る。雪深いアルプスの最高峰、モンブランの頂上近くだ。金髪の優男が、この場に似合わぬ軽装で岩に腰掛けていた。

 衣服の他は、肩に担いだ剣だけが彼の持ち物だ。

「あっちはあっちで片がついたみたいだねぇ……まさか、いや、やっぱりかな。護堂が出張ってくるのは、何となく察してたけど、先を越されちゃったか」

 少し前まで刀身にこびりついていた真っ赤な血は消えている。サルバトーレから五メートルほど離れたところには二人の男女が血を流して倒れていた。

「二人組な上にものすごく速いから、いろいろと手間取っちゃったからな」

 身体の芯が冷えて冷えて仕方がない。普通の人間ならば凍死して、骨まで凍り付く死の世界で、サルバトーレは平然としている。

 鋼の肉体は、普通の生物では耐えられない極限の環境でも生存できる。深海であろうと宇宙であろうと、関係がない。アルプスの山頂程度の環境なら、サルバトーレはミラノでジェラートを食べているときと同じ感覚で活動できるのだ。

「あ、そうだ、君たちの戦車を貸してくれないかな。ここから降りるの、ちょっと面倒なんだ」

 サルバトーレはいいことを思いついたとばかりに、倒れた二柱の神に頼んだ。が、しかしそこには何もなかった。

 人間二人分の身体の跡が、雪に残っているだけであった。

「従属神ってヤツだと、やっぱり脆いな。護堂があの女神を倒したからかな? あっさりと消えちゃったな」

 モンブランの高みから、護堂たちの最後の戦いが僅かに見えた。太陽と黒い蛇がぶつかり、太陽が飲み込まれていったのだ。

 黒い蛇の権能は見たことがないが、いろいろと手札の多い好敵手のことだ。サルバトーレが把握していない権能なり技なりを隠していても不思議ではない。

 サルバトーレは首をコキコキと鳴らした。

 アタランテーとヒッポメネースのコンビには手を焼いたが、あまり充足した戦いにはならなかった。剣の間合いで斬り合うのがベストだ。この二柱は従属神なだけあって、さほど力はなかったし高速移動と弓矢の組み合わせが厄介で攻略に時間がかかっただけで、サルバトーレにとって驚異とまではいかなかった。

 単独の『まつろわぬ神』として降臨していたら、きっと歯ごたえのある敵になっただろうが、こればかりは巡り合わせだ。

 本当ならば、自分も護堂が戦った相手と対峙して、決着を付けたかったが、それも仕方のないことか。

 用事は終わった。

 剣を鞘に戻して、サルバトーレは極寒の雪山から下山することにした。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 まつろわぬアグディスティスを倒し、アルプスの冬を取り戻した護堂はガブリエルの言霊で距離を縮めて下山した。

 真冬の雪山の超低温環境にいつまでもいたくはない。

 アグディスティスの権能がなくなったイズラン峠は、例年通りの寒さであって、一秒でも早い下山が求められたのだ。

「アルプスの一部に永遠に消えない大穴が開いちゃったけど、まあ、結果オーライね」

「さすがに仕方ないよ。ほっといたら、もっと酷いことになってたのは間違いないし」

 無事に下山して、張り詰めていた緊張を解いたエリカと恵那は、楽しそうにそんな話をしている。

 護堂とアグディスティスの戦いで生じた、自然破壊の結果である。

 アルプス山脈のごく一部ではあるが、護堂の黒雲の蛇がアグディスティスごと山肌を削り取ったことで、若干地形が変わってしまった。

「生態系に影響を与えるでもなし、中腹だから標高が小さくなるわけでもない。それだけ見れば、大して影響はないわね」

「言い訳はいくらでもできそうだよね。どうせ、そこまでよく見てる人なんて一握りだし、土砂崩れとでもしておけばいいんじゃない?」

「原因究明なんてしようがないし、放っておいてもよさそうよ」

 真冬のイズラン峠には誰も来ない。通行止めになっているからだ。よって、このまま通行規制を継続すれば、降り積もる雪によってカンピオーネの蛮行は隠されて、綺麗さっぱり消えてなくなる。雪解けの後に破壊の痕跡が出てきたところで、そこで何があったのかを解き明かせるものはいない。

「多くの戦闘が桃源郷で行われたのも救いよね。そうでなければ、この辺り一帯の被害は甚大だったでしょうし、観光業への影響は無視できなくなったでしょうから」

「そうだな。そこだけは、異界ってヤツに感謝だな」

「漫画とかアニメで出てくるご都合主義空間ってヤツだよね。その中なら何しても外には影響が出ないから自由に暴れて大丈夫っていうの」

 桃源郷は言霊の剣で切り裂かれて消え去り、まつろわぬアグディスティスの権能で維持された擬似的な生態系も消滅した。

 残ったのは岩山の上に積もった果てしない氷の山だ。

 それが、夏のヨーロッパを潤す水源となる。

 もしも、戦闘のすべてが異界である桃源郷ではなく、このアルプスの雪山で行われていたら、観光業のみならず、この辺りの山々を水源とするヨーロッパ各国が、水不足に喘ぐことになっただろう。

 そうならなかったのは、まつろわぬアグディスティスが作り出した異界の中での戦闘が主となって、現実世界への影響を最小限に抑えたからだった。

「ん……はあ……やっぱり俗世はいいわね。神様の作った世界と言っても、何があるわけじゃなかったし」

 エリカは大きく伸びをした。

 アルプスの麓は豊かな森である。アグディスティスが支配した森ではなく、普通の自然の森だ。アルプスを水源とする川が右手に流れていて、その川に沿って集落が点在している。この川を下っていけば、アルベールビルに帰ることができるのだ。

「あ、あれ見てよ王さま」

「ん? あ、わざわざここまで来なくてもよかったのに」

 空を見上げると、上空にリリアナの姿が見えた。祐理と晶も一緒だ。リリアナがケープを靡かせて、青い光を纏って護堂の前に彗星のように降り立った。

「お疲れ様でした。皆さん、ご無事なようで、安心しました」

「先輩、最後のあれ、すごかったですね。太陽を飲み込む蛇の権能、天叢雲剣と黒雷神の権能のミックスですよね? さすがです! 興奮しました!」

 ほっとした様子の祐理に護堂の戦いぶり興奮気味の晶。そして、エリカを一瞥してから視線を逸らしたリリアナ。

「全員無事だな。エリカも、問題ないようだ」

「ええ、おかげさまで。あなたに大きな借りができたみたいね、リリィ」

「別にわたしは何もしてない。こんなことを借りなどと思われるのは心外だ」

 そっぽを向くリリアナだが、若干頬が紅い。エリカに感謝されるという機会は多くない。リリアナはエリカをライバルだとも友人だとも思っているが、だからこそ手放しの感謝はこそばゆいのだ。

「それにしても、護堂の戦いが終わるやいなやいの一番に飛んでくるなんて。そんなにわたしとの再会を期待してくれていたのかしら」

「そんなわけないだろう。あなたのことだ。どうせしぶとく生き長らえていると思って、心配なんてこれっぽっちもしていなかった」

「ふふ、そう。なら、やっぱり、護堂が一番の目的だったわけね。残念だわ」

「何が残念だ、まったく。ふん、わたしは護堂さんの第一の騎士だからな。すでに個人的な主従の契りも済ませている。騎士ならば、主の元にいの一番に馳せ参じるのは当然の勤めだ」

「あら、そうなの。第一の騎士ねえ……」

 意外、とは思わなかった。

 リリアナのことを護堂から聞いたわけではないが、貸し借りの話でカマを掛けてみればあっさりとそれらしいことをリリアナは口にした。

 護堂がエリカを助けにするのなら、そこにリリアナが介入していないはずがないのだ。

 護堂のフットワークの軽さは折り紙付きで、エリカに何かあれば動くだろうというのは分かるが、イタリアでの出来事に首を突っ込むには判断が早すぎる。リリアナが護堂にエリカ救出を依頼したと考えるのが自然だし、リリアナは隠しているつもりで隠しきれていない。

「第一の騎士?」

「個人的な主従の契り?」

 祐理と晶がそれぞれリリアナの言葉に反応する。

「護堂さん、その、これはどういうことでしょう? リリアナさんもガリアでは大変なご活躍だったと聞いていますが、個人的な主従関係とは聞いていませんでした……」

 得意げなリリアナの宣言に祐理は目を丸くし、不安げな表情で護堂に尋ねる。その隣で晶が食い気味に前のめりになり、

「騎士かどうかは別にどうでもいいです。主従の契りとかいうの、詳しく聞かせてください! わ、わたしだって先輩とは主従関係ですし、もういっそ永遠の下僕、魂の奴隷と言っても過言ではないわけですが、騎士の契りは初耳です。そんなのあるなら、わたしもしたいです!」

 祐理は小さくため息をつき、まるで放蕩な主人に疲れた新妻のような寂しげな表情を浮かべ、晶は騎士の契りの部分にやけに食らいつく。

 自分の立ち位置を脅かされそうになっていると危機感を抱いているのか、あるいは単純に護堂の騎士になるという部分に関心を抱いたのか。

 そんな二人の様子を眺めて恵那はニヤニヤしながら、

「さすが王さまだねぇ」

 と、からかうように護堂に話しかけている。

「本気なの、護堂の騎士って」

 と、エリカはリリアナに囁きかける。

「もちろんだ。言っただろう、すでに主従の契りを済ませたと。幸い、日本語も習得している。あちらでの生活にも何ら問題はない」

「もうついていく気なの……?」

 どう見ても浮かれているリリアナのことをエリカは微笑ましく思う一方で心配にもなる。リリアナは真面目で堅物だ。能力については申し分ないが、それを活かせるが限定的――――というよりも、自分の持ち味を活かせる状況の作り方を知らないのだ。ただ我武者羅にやればいいという話ではない。今まではそれで上手く回ることもあっただろうが、今後もそうとは限らない。

「ねえ、リリィ。あなたの第一の騎士発言をとやかく言うつもりはないのだけど、おじいさまには話はしたの? 日本に行くって言っても正史編纂委員会への根回しとかは十分?」

「う、それは、一応おじいさまには言ってあるが」

「はあ、ようするに下準備もなしに、その場の気分に乗せられて護堂に跪いた感じでしょう。まあ、大きな恩のある相手だし、あなたの性格的に、惚れ込んだら徹底的に尽くしたいタイプだし、そうなるのも仕方ないのかもしれないけど」

「惚れ込んだって、変な言い方するな。まるでわたしに下心があるみたいじゃないか。わたしはただ護堂さんへの恩をお返しし、いずれは比翼連理の主従として、その苦難の道のりを傍らでお支え申し上げるべくだな」

「ええ、分かったわ。あなたって、昔から感情を優先するところあるわよね。普段はそうは見えないのに、一途というか融通が利かないというか。場当たり的なことして、わたしが何度フォローしたことか」

「く……それは、子どもの時の話だろう。確かに昔はそんなこともあったが……」

「これからも起きるわ。第一、正史編纂委員会との調整だって、全然考えてなかったでしょう。一日二日でできることじゃないのよ、本当は」

「うぐぐ……」

 リリアナは言い返せず、悔しげな表情をする。

 エリカに指摘されて初めて自分が浮かれていたことに気づいた。護堂に仕えると決めたはいいが、細かな調整は完全に頭から消えていた。現実は小説のようには行かない。《青銅黒十字》の総裁の孫であるリリアナは当然、組織にとっても有為な人材なのだ。

「まったく、政治の感覚が抜けているのがあなたの致命的な弱点ね」

 エリカとリリアナの決定的な違いがここにある。呪術師としても剣士としても、スタイルに違いはあるものの、才能も実力も同程度。魔女の素養を入れればリリアナのほうに分があるという状況もあるだろう。

 しかし、政治の面でリリアナは未熟だ。性格的にも政治的なやり取りは向かない。

「ねえ、護堂、ちょっといいかしら」

 と、エリカは護堂に声をかけた。

「何だ、急に」

「リリィがあなたの騎士になった件について、わたしからも提案があるの」

「提案?」

「そう、提案。あなたがカンピオーネになってから、わたし、イタリアから何かと支援してきたつもりなのだけど」

「つもりもなにも、事実だろ」

 『まつろわぬ神』やカンピオーネの動向を教えてもらったり、イタリアでの活動に必要な手続きをしてもらったりとエリカは護堂にとってイタリアの窓口だった。

「ええ、その自覚があるのなら話が早いわ。リリィがあなたの騎士になった。それはいいわ。この娘は有為な人材ですもの。そうして、肩書きを与えて囲ってしまうのは妙手よね」

「囲うって言い方が悪いだろ。ていうか、何が言いたいんだ?」

「そろそろわたしたちも次のステップに進むべきなんじゃないかってことよ。あなたの個人的な騎士の席はリリィのものとして、だったらわたしはあなたの……そうね、個人的な秘書というのはどうかしら?」

「秘書!?」

 護堂は驚愕した。

 そして、祐理と晶も愕然とし、リリアナは目を見張った。

「な、エリカッ、護堂さんの秘書とはどういう了見だ!?」

「あら、何もおかしなことはないでしょう。あなたは騎士なんて言ってるくらいだし。わたし、前々から思ってたのよ。護堂のフットワークの軽さは、問題。それを諫めたり、調整したりする役回りが必要だって。これから先、この調子だと世界各国の応援要請が護堂に集中しかねないでしょ」

 カンピオーネの戦力は『まつろわぬ神』やそれに類するものへの唯一の対抗手段だ。魔王と恐れられるカンピオーネが気軽に相談できる相手だと伝われば、当然、応援依頼のハードルも下がる。

「護堂のことだから、助けを求められたらとりあえず行ってみようとか簡単に言いかねないわ。でも、護堂はそこまでして戦いたいわけじゃないでしょう?」

「まあ、確かに。戦うのが目的じゃないから」

「ええ、だったら簡単よ。裏方の雑務を取り仕切る役回りを、このわたしに任せてみない? あなたの護衛も一緒にできて一石二鳥、いえ、三鳥。悪い提案じゃないでしょう?」

 エリカの政治力や人脈は、非常に有益だ。それは、これまでに護堂が頼ってきた経緯もある。確かに、悪い話ではない。

「お、お待ちください! エリカさん、確かに護堂さんの雑務を取り仕切る方がいるほうがよいのは分かりますが、すでに護堂さんには正史編纂委員会がついております。わざわざ、そのようなお仕事をなさらなくても問題ないように思います!」

 と、祐理が反対の声を上げた。

 しかし、エリカは小さく微笑んでこれを否定する。

「そうね。でも、正史編纂委員会は日本国内の組織で、海外への影響力はほとんどない。今後、護堂がグローバルに活躍するためには、むしろ《赤銅黒十字》や《青銅黒十字》みたいな、国境を越えて活動できる組織の支援は必要不可欠だと思うわ。だったら、わたしやリリィが傍にいるのはメリットだし、何より護堂が組織に縛られなくても済むという利点もあるわ」

「ああ、なるほど、そうだな」

 と、護堂は頷いた。

 正史編纂委員会の名目上のトップになった護堂だが、組織を運営しているのは護堂ではない。馨もカンピオーネの力を背景にして組織改革をしているが、正史編纂委員会は頭の硬い旧態依然とした組織的な土壌があって自由度が低い。それにエリカの言うとおり、日本の中だけならば今のままでもいいのだが、海外に目を向ければ正史編纂委員会の力はあまり頼りにならない。

 このイタリアでの活動も、多くは現地の呪術組織の助けを得ているし、その協力を得るために動いたのはリリアナだった。

「エリカ、本気で護堂さんの私設秘書なんてするつもりなのか!?」

 と、リリアナはエリカに詰め寄る。

「あら、いいじゃない別に。もともと、わたし、護堂とは一番長い付き合いなんだし。それに、あなただって日本での一人暮らしは何かと不安でしょう? 事情を知ってる同郷の友人が近くにいるのは、安心材料じゃない?」

「別に不安なんてない。わたしは日本通なんだからな!」

 顔を紅くしてエリカの放言を否定するリリアナ。

 日本通を自負するだけに、リリアナは日本の時代劇などを愛好する親日家でもあるのだ。護堂との関わりでその傾向には一層の拍車がかかった。といっても、それがすべて正しい知識かというとそうでもないのが問題なのだが。

「まあ、いいんじゃない。恵那たちに政治は分からないし、エリカさんがいたほうが王さまにとって都合がいいんなら、それが一番だよ」

 と、話を聞いていた恵那が口を挟んだ。

「恵那さん、あなたはいいんですか?」

 祐理が尋ねると恵那は白い歯を見せて笑う。

「政治云々は置いといても、こういうのは結局王さまの一存でしょ? それに、王さまがいろいろと動くのにエリカさんが面倒ごとのサポートをしてくれるっていうんだから悪い話じゃないと思うけどなぁ」

「それは、そうかもしれませんが……」

「恵那は王さまの剣であり、妾さんでもあり、自分の仕事をこなせればそれ以外はどうでもいいって言う感じかなー」

 あっけらかんとしているが、恵那の言葉はある意味で真実だ。

 周囲の反対はあまり意味がないのだ。護堂がいいと言えば、周囲はそれに合わせて動くしかない。護堂がエリカの提案を受け入れれば、海外とのやり取りが格段に楽になるというメリットはある。デメリットは護堂にはほとんどない。正史編纂委員会という組織にとっては痛手もあるだろうが、それはあくまでも組織の内部的な権力争いの面でしかない。むしろ、護堂はそういったしがらみからは距離を取った方がいい。

「うん、分かった。エリカが俺を助けてくれるって言うのなら断る理由はないな。ただ、手続き的なとこはどうするんだ?」

「ええ、もちろん当てはあるわ。リリィのことも含めて、沙耶宮さんに話をしておくわ。それにパオロ叔父様とも、実は前々からこの可能性は協議していたわ。多少時間はかかるけど、一月もかからず日本に行けるわね」

「さすが……馨さんのことも知ってるんだな」

「今更ね。護堂が正史編纂委員会と関わりを持った時点で、それとなくパイプは通していたわよ。あなたを最初に呪術世界に紹介したのはわたしだし、そういう意味で日本の組織にも名前は知られていたわけで、まあ、カンピオーネとの個人的な繋がりは、それだけで武器になるのよ」

 どうも、護堂の知らないところで政治的な駆け引きがずっと行われていたらしい。エリカは機会が今までなかっただけで、護堂の私設秘書の座を着々と狙っていたのだろうか。第一志望ではなかったのかもしれないが、そうなってもいいように準備だけは進めていたというべきか。いずれにしても、味方にすれば心強い相方ではある。

 ある程度話がまとまり駆けたところで、護堂の直感が無視できない呪力を捉えた。雪道を走ってくる軽トラックの荷台にサルバトーレが乗っている。

 サルバトーレは護堂を見つけるや気のいい兄貴分と言ったような笑顔を浮かべて軽トラックを停めて、下車した。軽トラックの運転手は通りかかりの一般人のようだ。二言三言話をしてから去って行った。

「やあ、護堂。久しぶりっていうには、あまり時間が経ってないような気がするけど久しぶり」

「あんたは別の神様と戦ってたって聞いてたけど、そっちは済んだのか?」

「ああ、うん。ま、従属神でしかないからね。期待してたほどじゃなかったよ。モンブランの頂上でスパッとやって、一休みしてたところで、君が女神様を倒したのが見えたから、こうして下りてきたんだ」

 激戦の直後とは思えない軽々しさだが、サルバトーレの衣服は、大きく裂けている部分がいくつもある。

 身体に傷一つないのは、もともとそういう能力だからだ。無傷だからといって激戦をくぐり抜けていないとは言えない。

「一番の大物は護堂に取られちゃったけど、おこぼれが他ないかなって」

「そんなのあったとしてもあんたの相手じゃないだろ」

「ふふふ、まあね。僕たちの相手ができるのは、同族か神様だけだ」 

 そんな言い回しをしながら、サルバトーレは腰に下げた剣の柄をとんとんと叩く。

 護堂の背中に冷や汗が流れる。

 にこやかにサルバトーレは話しかけているが、この仕草は「もし暇なら一戦どうかな?」という誘いだ。

 彼にとっては不完全燃焼もいいところだ。だから、どこかで本格的な一戦をしたいと思ってもおかしくはない。

「冗談冗談。僕も君も万全じゃないんだ。こんなとこで決闘しても、互いに納得できないだろうさ」

 と、サルバトーレは肩をすくめた。

 護堂はもとより、周りでことの成り行きを見守っていた少女たちも安堵した。

 その直後だった。

「これは運がよかったっていうべきかな?」

「俺からすると、悪かったとしか言えないけどな」

 サルバトーレは嬉々として、そして護堂は辟易しながら北の方角に視線を向けた。

 疲れ切った身体が急激に体力を取り戻した。力が満ちるのは『まつろわぬ神』が近づいている証拠だった。

 急な突風が木々を揺らし、雪を舞い上げる。つむじ風が人の形を取り、風の軍神が現れる。

「あいつって」

「これって千五百年ぶりって言ってもいいのかな?」

 護堂とサルバトーレからすれば、さほど時間が経っていないのだが、相手からすれば、千五百年を隔てての再会だ。

 最強の《鋼》に仕える風の軍神にして不死身の《鋼》。

「ハヌマーン、か」

 ラーマ王に仕える最強の家臣だ。風の神の息子であり、不死身の肉体を持つという伝説の勇士。猿の一族でもあるので、斉天大聖のモチーフの一つともされる神だ。

「あらら、もしかして名前、見抜かれちゃってるんじゃない?」

 黄金の光が煌めいて、軍神の後ろに少女が現れた。

 銀色の神と漆黒の瞳を持つ少女だ。『まつろわぬ神』ではないが人でもない。その雰囲気は、晶が醸し出す《蛇》の気配にもよく似ている。

 この少女に、護堂は見覚えがあった。

「お前、もしかしてエンナか」

 それは、数ヶ月前、護堂の手にかかって消滅したはずの『まつろわぬ神』になりかけた少女だった。まつろわぬアナトとなることを避けるため、自ら護堂に首を差し出した友人だ。

 目の前の少女はそのエンナとうり二つだった。

「エンナと、そう人間たちに語ったのは遠い昔の話。ああ、あなたのことも少し覚えているわ」

 銀髪を掻き上げて、エンナは少しだけ寂しそうな目をする。

「でもまあ、今は違う。わたしはエンナの骸から生まれた神祖。アト・エンナ。聖杯グラアルに大地の精を注ぎ、最強の《鋼》への贄とする者。その使命を果たすために、こうして地上に蘇ったのだからね」

 アト・エンナと名乗った神祖の傍らに、聖杯が現れる。

 膨大な呪力を蓄えた美しい甕だ。

「原初の母たるキュベレーの神力、確かに貰い受けたわ。アグディスティスには手を出しかねていたのだけど、さすがは神殺しね」

「権能が増えた感じがしなかったから、どっかで生き延びてるかもしれないとは思ってたんだけどな」

「生き延びてたわ。最強の《蛇》の生命力は伊達じゃないってことよ。ふふふ、最後の瞬間にアッティスとしての神性を捨て、キュベレーとして自らを再構築してみせたのは見事。けど、弱り切った彼女なら、わたしと風の王で十分に対応できるわ」

 こんこんと呪力を湧き出させている聖杯の中にさっき戦った女神の力が注がれているということか。地母神の力を取り込み、ラーマ王の力の源とする禁忌の神具だ。

 風の王――――ハヌマーンは《鋼》の一柱だ。アグディスティスには不利を見て、様子見をしていたのだろう。万が一にも聖杯やアト・エンナが倒れることがあってはいけない。荒ぶる剣の性よりも、主を第一に行動するという点では異質な『まつろわぬ神』だ。

「ふむふむ、何となく君と護堂の間に縁があるのは分かった。それで、ここにわざわざ出てきたのはどういう風の吹き回しかな?」

 間に割って入ったのはサルバトーレだ。

 すでに剣を抜刀できる姿勢になっている。

 いつでも斬り合えるという常在戦場の境地であった。

「今日のところは顔見せ。ふふ、他にも紹介したい勇士はいるのだけど、別の《蛇》の相手をしていて不在なの」

 アト・エンナの姿が揺らぐ。絶大な存在感を示した聖杯が溶けるように消えると、アト・エンナも霞のように消えてしまった。

 神祖の撤退を確認してから、ハヌマーンも飛び去った。結局、一言も言葉を発することはなかった。

「で、あんたはどうするんだ、サルバトーレ」

「いやあ、今日は帰るよ。ふふふ、しばらくは興奮で寝付けなくなりそうだ」

 最後の王が近いうちに動き出す。いよいよ、その気配を感じるところまで護堂たちは来てしまったのだ。

 サルバトーレは剣から手を離し、戦闘態勢を解いた。

 護堂は背後にいた仲間に声をかけた。

「エンナの話、どう思う?」

「聖杯が大地の精を集める器で、その力の根源が《蛇》の女神の命だとするのなら、これからは地上に降臨した《蛇》の女神やそれに類する神獣などを倒して回ることになるでしょうから、動向は観測できるかもしれないわ」

 と、エリカは言う。

 『まつろわぬ神』や神獣との戦いが静かに行われるということはあまりない。異界でならば別だが、戦いの痕跡は必ず残る。彼女たちが騒ぎを起こせば追跡は可能だった。

「エンナさんの力も万全でないように思いますし、今回回収されたというキュベレー様の神力も、護堂さんによって大きく削られていたはず。まだ、聖杯の完成までは猶予があると感じました」

 祐理の見立ては護堂の勘と合致している。

 エンナは護堂が介錯したのだ。

 聖杯がその力の残滓を取り込み神祖として蘇らせたとしても、完全な状態ではないはずだ。グィネヴィアほど自由に動けないだろうし、力も弱いと考えられる。

「先延ばしにできない課題というわけね。いよいよ、護堂周りの組織を固める必要性があるというわけね」

 エリカが悪巧みをするように笑みを零す。

 直後、サルバトーレの携帯電話が鳴った。電話に出たサルバトーレは、どうも怒鳴られているようだ。まったく悪びれないまま通話を終えたサルバトーレは、

「じゃ、僕はそろそろ逃げるとするよ。アンドレアがここに向かってきてるみたいだからね。ああ、ついでに君たちを拾って行くように言っておいたから、後はよろしく」

 じゃあね、と言い残してサルバトーレはさっさと踵を返して立ち去ってしまう。逃げようにも逃げられないはずだが、サルバトーレはアンドレアの把握していない情報網やゴロツキ仲間を抱えている。こんな時の万が一のための足も用意していたらしい。

「あの方はさすがの奔放さ、ですね」

 晶はあれは真似できないと感心したようであった。

「とりあえず、一件落着か。大きな問題が出てきた感じもするけどな」

 アト・エンナの問題は、最後の王の復活が現実味を帯びてきたことを示している。グィネヴィアのように当て所なく彷徨うのではなく風の王というラーマの直臣を連れて、明確にラーマ復活に進んでいるのがよく分かる。

 ともあれ、今を乗り切ったのは大きな収穫だ。

 生きるか死ぬかの戦いを乗り切るのはそれだけで戦果であろう。ラーマの動きも少し見えてきた。残すは決戦に向けて覚悟を決めておくくらいなのだろう。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 イタリアでの戦いから一週間が経った。

 世の中は四月になって、大人たちは慌ただし仕事に向かっている頃である。暦の上では新学年になったものの、春休みが終わるまではまだ七日も残っている。長くも短い七日をどう過ごすかが、いよいよ重要な課題になりつつあるのだが、今このとき、草薙家では護堂と静花で兄妹の何と言うことのない団らんの時間となっていた。

「もうすぐ桜が咲くみたいだって」

「今年はちょっと遅かったみたいだけどな」

「満開の予想は早くなったよ。五日が見頃だって言うけど、どうだろうね」

「こういうのもな、どこまで信用できるもんなのかな」

 天気予報も桜前線予報も、データからの推測でしかない。もちろん、最近の技術の進歩は目覚ましく精度はかなり高まっているのだが、神々の戦いを経験した護堂はそうした人間の予測の埒外を行く理不尽をいくつも目の当たりにしてきた。

 春の神様が出てくれば桜前線は一瞬で北海道まで行きかねないのが護堂が身を置く世界なのだ。

 それに、その辺の桜なら晶が念を送れば数分で満開にできてしまう。

「満開のタイミングは、人が多そうだな……まあいいか。せっかくだし、五日辺り行くか、花見」

「え? どうしたの急にそんな、珍しいこと言って」

「別に珍しくもないだろ。静花も高校生になるしな。これから土日にどっか行くってのも難しくなるかもしれないだろ」

「そ、そうだね。ふふん、まあお兄ちゃんにしては気が利くじゃん。じゃあ、五日のお昼頃から上野の……」

 うきうきしながらカレンダーを見ていた静花の言葉を遮ったのは、インターホンだった。

「郵便かな」

 と、静花は腰を浮かせた。

 今日、彼女がネットで購入した漫画が十冊ほど纏めて届く予定になっているらしい。

 静花が玄関の扉を開けた音がする。

「こんにちわ。こちら、草薙護堂さんのお宅でいいかしら」

 鈴を鳴らしたような綺麗な、とても聞き覚えのある声が玄関から聞こえてきた。

「なん……」

 護堂は慌てて立ち上がり、障子戸を開けて玄関に急いだ。

 日本の古き良き町並みを残す根津には不釣り合いな黄金の乙女が悠然と玄関前に立っていた。

「護堂、おはよう。来ちゃった」

 ちゃおー、と非常に気軽に手を振るエリカの様子に静花は呆然としている。

「変な挨拶するなよ。狙ってるだろ、それ」

「ええ、もちろん」

 そして、やはり悪びれない。

「エリカ、護堂さんが困っている。それに妹さんも。やはり、事前に連絡を入れておくべきだったんだ」

 エリカの背後で困惑しているのは銀色の騎士だった。

「連絡をもらえてたら歓迎の準備もできたぞ。といっても、飯を用意するくらいが関の山なんだけど」

「ふふ、そういうのも悪くないけど、今日はあくまでも顔見せ、挨拶程度の話。護堂からの歓迎は、本格的に日本に来てから期待するわ。それでも、サプライズくらいはしてみたくなるじゃない」

 悪戯が成功して気分がいいのかエリカは笑みを深くする。

「も、申し訳ありません、護堂さん。この女狐の奸計、やはりわたしが阻止するべきでした」

「驚いたけど、別にこれくらいは何でもないよ。今は暇してたくらいだし」

「そうですか。ああ、こちらをどうぞ。お口に合うか分かりませんが、ミラノのチョコレートです」

「悪いな、わざわざ」

「いえ、これくらいは当然のことです。今後とも護堂さんをお近くで支えられるよう粉骨砕身の努力をしたしますので」

「堅苦しいわよ、リリィ。護堂はもう少しフラットな関係が好みのはずよ」

「そうは言ってもだな、騎士として侍る以上は完全に友達感覚というわけにもいかないというか……」

 リリアナからチョコレートの箱を受け取った護堂は、隣で固まっている静花に目を向けた。

 突然外国人の美少女がやって来たのだからそれは驚くだろう。

「護堂さんの妹さんの、静花さんですね」

「え、あ、はい……草薙静花です」

「わたしはリリアナ・クラニチャールと申します。護堂さんとは、そうですね。よきパートナーと申しましょうか。今後、お傍で支えさせていただきたく、本日はそのご挨拶に参りました」

「お、お傍で支えるって」

 静花がやはり理解が追いつかずに声が震えてしまっている。

「リリィ、今日はこの辺にするわよ。妹さんも驚かせ過ぎちゃったみたいだし」

「まあ、大丈夫だろ」

「そこは護堂の甲斐性に任せるわ」

「引っかき回しておいてよく言う……」

「ごめんなさい。可愛らしかったものだからついね。これから、馨さんのところに行くのよ。今後のことを話し合う最終段階ね。普通組織のしがらみっていろいろと面倒なんだけど、あなたの後ろ盾があると大抵は二つ返事で進むから楽でいいわ」

「俺の知らないところで、話が進んでるな」

「進捗はその都度報告してるじゃない。でも、今後は気をつけないとね。あなたのネームバリューは大きくなる一方だから、その名を騙る馬鹿者が出てくるのも時間の問題。あなたが気軽にいろんなところに出て行くものだから、名前を使いたい連中にとっては好都合なのよ」

「ああ、なるほどなぁ。詐欺に使われるのは、ちょっと不味いよな」

 カンピオーネの名前が強烈な政治的意味を持つ。草薙護堂の名前が広まれば、それだけ名前に利用価値が生まれる。

 日本のカンピオーネであっても護堂は北アメリカにもイタリアにも顔を出している。どこにいても不思議ではないくらいにフットワークが軽いので、草薙護堂を騙る何者かが詐欺をしやすい状況ではある。「あの王さまならこんな僻地に突然来てもおかしくない」と思われれば、カンピオーネ詐欺が成立する土壌ができてしまう。

 エリカが今後担うのは、そういった戦闘以外の情報の運用であろう。そこは正史編纂委員会と協力しながら、時に間に入って対応していくことになる。

「じゃあ、この辺りでお暇させてもらうわ。リリィ、そろそろ時間」

「分かってる。それでは護堂さん、静花さん、失礼します」

 エリカとリリアナが去った後、十秒ほどの沈黙が玄関に流れた。

 そして、踵を返して居間に戻ろうとする護堂の首根っこを静花が掴んだ。

「お兄ちゃん?」

「う……いきなり、苦しいじゃないか」

「今の何? 万里谷先輩とか明日香ちゃんとか晶ちゃんだけじゃなくて、外国の女の子、それも二人? どういうこと?」

 険しい視線で護堂に詰問する妹。直前いい気分だったのに、急転直下だ。祐理や晶ならばともかく、エリカとリリアナという新たな登場人物だったのだ。この反応も仕方がないだろう。

 花見を上手いこと利用して、静花の機嫌を取る。護堂はこの新たなミッションに挑むためにも、妹と向き合わなければならないのだった。




とりあえずここまで。
久しぶりにカンピオーネに取りかかりましたが、いかがだったでしょうか。
今回のアグディスティスというよりもキュベレーは前々から取り上げてみたかった神格ではありました。アニメの最終回ではメティスが《鋼》を取り込んでたような気がします。8年も前のアニメなのでうろ覚えですが。当時はアテナの声優さんがまだ高校生ということもあって、ちょっとストーリー以外のところでも話題になりました。
いろいろと懐かしく思いながら、書いてみまして、少し長くなりましたが完走です。
今後の展開は登場人物が出そろっていますし、ウルスラグナの権能もあるので、概ね原作通りに進むはずです。
以上、ありがとうございました。


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