俺は天空国家の悪徳領主! (鈴名ひまり)
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人物紹介(2024/2/21更新)

本作オリジナルキャラクターの公開可能情報。


主要

 


 

エステル・フォウ・ファイアブランド

Estelle Fou Firebrand

 主人公。案内人の悪意によって悲惨な最期を迎えた日本のサラリーマンがホルファート王国の貴族女性として転生させられた存在。

 誕生日は四月十日。

 

・人物

 やや癖のあるロングの銀髪とつり目気味の碧眼が特徴の美人。

 同年代どころか大人の女性たちと比べても背が高く、学園入学時点で170センチ。以降も少しずつだが伸び続けている。

 胸はBカップと控えめだが、鍛えられたヒップと太ももがセクシー。

 

 前世では真面目に生きていた善良な男だったが、元妻や会社の上司をはじめ多くの人間に騙されて搾取され続けた末に命を落とし、更には転生してからも父親によってオフリー伯爵家に売られかけるという苦難を味わう。

 これらの経験から、真面目に善良に生きることなど無意味と結論付けており、今世では自分の利益を第一に追求し、力ある悪人として生きようとしている。

 

 傲岸不遜かつ冷めた物言いが目立つが、根は真面目で情に厚い性格。

 また、部下たちの待遇にも気を配っている(離反や裏切りを防ぐため)こと、領地に積極的な投資を行い、大いに発展させている(将来税を搾り取るため)こと、優秀な人材は身分関係なく登用している(無能に足を引っ張られることが許せないため)ことから、人望は極めて厚い。

 

 一方で学園においては案内人が流した悪評によって多くの生徒たちに恐れられており、孤立気味。

 

 前世が男性だったためお洒落には疎く、髪のセットや私服のコーディネートなどは殆どティナに丸投げしている。

 また、メイクも殆どしていない。

 

 肌を露出することにも抵抗感が強く、私服はほぼ全て長袖のトップスにズボンかロングスカート。

 制服のスカートも一般的な膝上丈や膝丈ではなく、ロング丈の特注品。

 

 一人称は基本的に「私」だが、感情が昂った時や気を許した相手の前では「俺」になることもある。

 

 

・能力

 幼少期から力を求めて鍛錬に明け暮れていたことにより、武芸に極めて優れている。

 

 中でも得意としているのは剣。

 基本を極めるというニコラの教えを忠実に守り続けているため、使えるのは基本の型とそのアレンジだけだが、それ故に動きに無駄や隙がなく、莫大な魔力量を活かした肉体強化による強烈なパワーとスピードも相まって凄まじい戦闘能力を誇る。

 

 これに鏡花水月という切り札とセルカのサポートが加わり、無敵に近い強さを得ているが、慢心しないように自戒しており、常に研鑽を怠らない。

 

 鎧の操縦者としても極めて高い技量を有し、並のパイロットではまともに飛ばすことすら難しいアヴァリスを自由自在に操る。

 最も得意としているのはアヴァリスのパワー、機動性、防御力を最大限に活かした近距離戦であり、アダマティアス製の大剣を使った剣戟を好んで行う。

 また、あまり好んではいないものの、射撃も得意としており、一キロの距離から飛行中の鎧に直撃弾を与えられるほど。これは修行で得た極めて高い認識能力により、未来予知じみた先読みを可能としているため。

 

*鏡花水月

 エステルがニコラの指導と過酷な修行によって身につけた剣術。

 その本質はニコラの知る複数の流派の歪なパッチワークであるが、エステル本人の技量とアレンジにより、剣豪クリスと渡り合えるまでに昇華している。

 流派と同じ名を冠する奥義はいかなる攻撃も空間ごと捻じ曲げて逸らし、調整次第では相手に向かって打ち返すこともできる最強の魔法。鏡に映る花や水に映る月に触れることができないように、決して攻撃を届かせることができない。

 

 


 

ティナ

Tina

 ヒロインの一人。エステルの専属使用人。極めて珍しい女性の専属使用人であり、狐の特徴を持つ獣人。

 童顔で十代後半乃至二十代前半くらいに見えるが、実際には二十代後半。

 誕生日は一月七日。

 

 

・人物

 ストレートロングの銀髪と所々黒が混じった白い狐の耳と尻尾、翡翠色の瞳が特徴的な美女。

 身長は耳まで含めれば174センチとエステルより少し高い。

 Eカップの美巨乳と肉感的な美尻、スラリとした美脚を兼ね備えた魅惑の肢体の持ち主。

 若干幼さの残る可愛らしい顔立ちであり、切長だが優しげなタレ目が印象的。

 

 母親は成人前に他界しており、父親は行方不明。そのため、故郷では長らく一人暮らしをしており、生活のために忙しく働いていたせいで遊ぶ時間もなく、周囲の同年代の子供たちと馴染めずに肩身の狭い思いをしていた。

 成人後、ある事件を機に故郷を出て王国本土で新しい暮らしを始めようとするが、知識も技術も財産も頼れる伝手もなかったためにろくな仕事にありつけず、結局奴隷商館に自分で身売りしている。

 

 基本的には明るく前向きな性格であるが、人の好き嫌いが激しく、思っていることが顔や口に出やすい。

 心を開いた相手にはとても優しく、甲斐甲斐しく世話を焼く一方で、嫌いな相手や敵対者には普段の雰囲気からは想像できない攻撃的な一面を見せることもある。

 これは幼少期から周囲の人間関係に恵まれずに苦労してきたため。

 行く先々で何度も虐げられてきたことで簡単に他人を信用しなくなっており、特に男性には殊更強い警戒心を持っている。

 

 この性格ゆえに奴隷に向いているとは言い難く、なかなか買い手がつかなかったことで他の奴隷たちからも蔑まれ、いじめられていた。

 

 人間不信でありながら、心の底では信じられる相手を求めているエステルに自分と似たものを感じており、何があっても彼女の味方でいようとしている。

 エステルがティナを心の支えにしているのと同時に、ティナ自身もエステルに求められ、頼られることに生き甲斐を感じており、主人と奴隷という域を超えて一種の共依存関係になっている。

 

 

・能力

 細身の体型に見合わず身体能力は高く、屋敷の二階から地上に飛び降りる、地上から屋敷の屋根に飛び上がるなどといった動きを容易くやってのける。

 また、聴覚がかなり鋭く、夜目も利く。

 

 簡単な護身術を身につけているほか、刃物や銃火器も一通り扱える。

 

 奴隷商館で専属使用人になるために家事労働や礼儀作法の修練を積んでおり、普通のメイドとしてもやっていけるほどの技術を身につけている。

 

 ファッションセンスや手先の器用さもあり、エステルから髪型のセットや私服のコーデを任されている。

 どちらもエステル本人の意思もあって清楚ながら垢抜けたものになることが多い。

 

 


 

セルカ

SELCA

 ヒロインの一人。魔装の一種であり、機動要塞アルカディアの能力の秘密を解明するために旧人類勢力によってアルカディアの破片から作り出された、いわばアルカディアのクローン。

 名前は「試製対アルカディア合成生命体」を意味する“Experimental Synthetic Life-form Counter ARCADIA“のアクロニムに由来する。

 

 

・人物

 本来の姿はバスケットボール(七号)サイズの白い球体に血のような赤い瞳の一つ目を持った姿。

 オフリー家との戦争が終結し、オフリー家が取り潰された後は人間の姿を取ることもできるようになり、普段は人間の姿で過ごすようになった。

 人間の姿の時はストレートロングの金髪に赤い瞳の少女。

 

 誕生してから殆どの時間を特別製の水槽に収容されたまま過ごしてきたため、好奇心が旺盛でかなりの知識欲を持つ。

 

 自分を解放してくれたエステルには感謝しており、彼女の安全と幸福のために行動する。

 後述の能力と頭脳を活かして戦闘から領地経営まで幅広くエステルをサポートする一方で、ツッコミを入れたり、無計画な出費を窘めるなど、保護者と化しつつある。

 

 

・能力

 アルカディアの持つ強力な主砲や魔法障壁、魔装に対する干渉能力を再現することを期待されていたが、単体では機体も武装も生成できず、使えるのは限定的な魔法のみ、そして威力も手数もアルカディアはおろか通常の魔装にすら遠く及ばない失敗作とされていた。

 しかし、実際には融合合体という特異な能力を持っており、通常の魔装とはまた違った強みを発揮できる。

 

*融合合体

 フレームになるものに融合合体して、強度や耐久性などの各種性能を劇的に向上させることが可能。

 イスマ曰く、その本質は「最高品質のエンジン」。

 アヴァリスに融合合体した際は防御力、推力を大幅に向上させるほか、Gや被弾による衝撃からパイロットを保護する。

 ちなみにフレームになるものにはほぼ制限がなく、それこそ人間の身体に融合合体することも可能である。

 普段使っている人間の姿は元オフリー家令嬢、ステファニー・フォウ・オフリーを殺害し、その遺体に融合合体したもの。

 なお、一旦死んだことでステファニーの人格はなくなっているが、身体はセルカによって修復されて生命活動を維持しており、事実上生きた人間と変わりない。

 

*魔力供給

 触れた相手に自身の魔力を供給する能力。

 エステルが戦う際にはこの能力を活かして消耗した彼女の魔力を補充する役割も担う。

 

*サイコメトリー

 触れた物体の記憶や思念を読み取る。

 対象にもよるが、数千年前もの過去にあった出来事すら視ることができる。

 

 


 

アーヴリル・ランス

Avril Lance

 ヒロインの一人。エステル直属の騎士であり、彼女の身辺警護を任務とする。

 誕生日は六月十八日。

 

 

・人物 

 ショートの金髪に薄い水色の瞳を持つ美女。

 全体的に大人びた顔立ちであり、つり目も相まってキツい印象を与えるが、親しい相手の前で見せる柔らかい表情には艶がある。

 身長が178センチと高く、肩幅が広いこともあって、全体的にがっちりした印象であり、後ろ姿は男性と見分けが付きにくい。

 胸はDカップあるが、邪魔になることも多いため、小さくしようと奮闘している。

 

 妹のシェリルを辱めた主犯であるリック・フォウ・ノックスに何らの処罰もせずに事件を隠蔽したノックス家に激しい怒りを燃やし、自らの手でリックを裁くべく旅に出るなど、理不尽を憎む真っ直ぐな性質と後先考えない向こう見ずさが同居した激情家。

 

 リックを追って辿り着いた先でエステルと出会い、それ以降冒険を共にし、さらには空賊やオフリー家との戦争に巻き込まれるなど波瀾万丈の運命を辿った末、エステルの誘いでファイアブランド家の騎士になった。

 これらの経緯を経てエステルに深く心酔しており、極めて高い忠誠心を抱いている。

 

 

・能力

 元々鍛えており、武芸や魔法に秀でている。

 剣術と射撃の腕前はなかなかのものであり、学園にいた頃から男子にも引けを取らなかった。特に剣術はファイアブランド家仕官後にティレットから手解きを受け、更なる磨きをかけている。

 魔法に関しては風魔法を得意としており、風の刃による攻撃を好んで行う。

 

 


 

サイラス

Silas

 老執事。

 先々代当主ヴィンセントの時代からファイアブランド家に仕えており、ヴィンセントの従者から執事にまで昇進した叩き上げ。出身は平民であるが、今や彼がいなければ屋敷が維持できないとも言われ、大きな影響力を持つ。

 

 

・人物

 老いてなお精悍な顔立ちの好々爺。

 自身の子や孫は男ばかりで女はいなかったため、エステルを幼少期から可愛がり、その将来に期待を寄せていた。

 一方で彼女の女性らしからぬ粗野で奔放な振る舞いを憂えてもおり、領主に即位してからはその破天荒ぶりに度々苦言を呈している。

 涙脆く、エステルに慶事があるとすぐに泣く。

 

 

・能力

 武芸や魔法に特筆すべき才はないものの、長年に渡る財政難にあってなお屋敷を維持し続け、使用人の質も比較的高く保ち続けるなど、その管理能力は非凡なもの。

 

 また、紅茶を淹れるのが上手い。ちなみに紅茶に入れる生姜や蜂蜜は自家製。

 

 


 

ニコラ

Nikola

 エステルの剣の師匠。

 案内人の悪意により送り込まれた三流剣士であり、エステルを騙してデタラメな指導を行うが、それによって彼女が鏡花水月を完成させてしまう。

 みるみる強くなっていくエステルに恐怖し、彼女が十二歳になった春に免許皆伝を与えて逃げ出した。

 

 

・人物

 日焼けと所々に傷跡のある精悍な顔立ちと180センチを超える大柄な体格をしており、黙っていれば強そうに見える。

 だが実際は気が小さく飽きっぽい性分で、何をやっても長続きせず中途半端な小物。

 

 

・能力

 若い頃に冒険者稼業をやっていたことがあり、剣、槍、短剣、銃などの武器は一通り使える他、基本的な体術も心得ている。

 ただしその技量は低く、まともにできるのは基本技だけである。

 唯一、絶体絶命の状況をハッタリで切り抜ける演技力は飛び抜けており、王都で再会したエステルを上手く言いくるめて逃走に成功している。

 

 


 

 

ファイアブランド家

 


 

テレンス・フォウ・ファイアブランド

Terence Fou Firebrand

 

 更新中…

 

 


 

マドライン・フォウ・ファイアブランド

Madeline Fou Firebrand

 

 更新中…

 

 


 

クライド・フォウ・ファイアブランド

Clyde Fou Firebrand

 ファイアブランド家の長男。

 エステルの異母弟であり、庶子。エステルとは五歳差。

 

 

・人物

 テレンスに似て赤い髪と瞳を持ち、顔立ちはマドラインに似て中性的な美少年。

 

 臆病な所があるが、心優しく真っ直ぐな性格。

 幼少期に世話を焼いてくれたティナを本物の姉のように慕っている。

 

 実の姉であるエステルに対しては当初その容姿と交流の無さから恐怖心を抱いていたが、ティナを通じて彼女の素顔を知ることで憧憬を深めていった。

 五歳の時にティナに連れられてエステルの修行を見に行ったことで、エステルと剣を通じて交流したいと思うようになり、自身も剣術を習い始める。

 

 元々身体が丈夫な方ではなく、病気がちだったが、剣術を習い始めてからは改善しつつある。

 

 

・能力

 エステルのせいで目立たないが、地頭は良い方であり、特に計算に素質がある。

 

 エステルの影響で剣術にも真剣に打ち込んでいるが、生来の優しさ故に攻撃的な動きを苦手としており、技量は伸び悩んでいる。

 

 総じて発展途上であり、今後の成長が待たれる。

 

 


 

カタリナ・フォウ・ファイアブランド

Katarina Fou Firebrand

 

 更新中…

 

 


 

 

ファイアブランド家家臣団

 


 

ライナス・アスカルト

Linus Ascart

 

 更新中…

 

 


 

トリスタン・オーブリー

Tristan Aubrey

 

 更新中…

 

 


 

ダリル・グリーブス

Daryl Gleaves

 ファイアブランド軍の若手騎士。

 陪臣騎士であるグリーブス家の跡取りで、若くしてエースパイロットの称号を得ている一族期待の俊英。

 

 

・人物

 伸ばしっ放しの茶髪に青い瞳が特徴の二枚目。

 背も高く、女性人気が高い。

 

 同年代の中で抜きん出た高い実力故にプライドも高く、それを守るのに固執したり、相手を見くびったりといった悪癖があったが、エステルの指揮の下空賊やオフリー軍と戦ったことで精神的に大きく成長を遂げる。

 

 後に中隊長となり、乗機を黄色く塗装するようになる。これは自分に対する警告色であり、慢心しないようにとの自戒を込めてのもの。

 また、威厳を保ち、部下たちを安心させるために髭を伸ばしている。

 

 

・能力

 極めて高い剣術と鎧の操縦技術の持ち主。

 機動力で敵の攻撃を回避しつつ懐に飛び込む戦法を得意とする斬り込み隊長。

 

 鎧で戦う時は基本的に銃器を用いるが、乱戦時には剣に切り替える。

 エステルからアダマティアス製の大剣を支給されており、切り札として鎧の背に常備している。

 

 


 

アンガス・ティレット

Angus Tillett

 ファイアブランド家の屋敷を守る番兵部隊の隊長。ファイアブランド家の陪臣騎士の中で最も腕の立つ剣の名手。

 

 

・人物

 白髭を蓄えた禿頭の老人。

 その容姿と眼光の鋭さから厳格に見えるが、実際には優しく、融通の利く人物である。

 

 サイラスと同年代で共にヴィンセントの従者を務めていたことがあり、その縁で身分を超えた友情を結んでいる。

 

 エステルの稽古相手を務めていたことがあり、彼女の剣術修行を大いに助けた。

 また、クライドにも剣術を教えている。

 

 

・能力

 アークライト流の免許皆伝を持つ一流の剣士。

 戦うことはもちろんのこと、教えることにも才能があり、ダリルをはじめとした若手の騎士たちの育成に大きく貢献してきた。

 

 エステルとの稽古を経て、脱力して重力によって落ちながら動くことで初動を見せずに刺突や斬撃を繰り出す無拍子の剣技を会得しており、これらの技を使ってオフリー家の潜入部隊を屠っている。

 

 


 

イリヤ・カルティアイネン

Erja Kaltiainen

 ファイアブランド家の陪臣騎士家であるカルティアイネン家の現当主の長女。

 エステルにスカウトされ、騎士の道を歩む。

 

・人物

 オールバックにした赤毛と深緑の瞳が特徴的な少女。

 身長は148センチと小柄で実年齢よりも二、三歳ほど下に見られることが多い。またどこがとは言わないが絶壁。

 

 極めて自立心の強いお転婆で、射撃と狩猟が大好き。

 幼少期から騎士になることを夢見ており、その情熱を狩猟に向けていた。

 

 狩りの師匠である祖父を尊敬していたが、その祖父を人喰い熊によって殺され、激しい怒りを燃やす。

 

 エステルと共に人喰い熊を討ち取った後、彼女から直属の騎士に勧誘され、これを受諾。

 訓練を受けるため、故郷を離れる。

 

 当初は自分の力への過信故に向こう見ずなところがあり、また激しやすいという欠点があったが、祖父の死と自分で作戦を立てて熊を討ち取ったこと、その熊を狩人の伝統に則って弔ったことで精神的成長を遂げた。

 

 

・能力

 幼い見た目に反して極めてパワフルでタフ。

 これに山で鍛えた足腰と隠密能力、射撃の才能が合わさり、優秀な狩人に育っている。

 

 特に射撃能力はファイアブランド家家臣団の中でも一二を争う高さであり、エステルから体格のハンデを差し引いても優秀な騎士になれると評されている。

 

 


 

 

その他ファイアブランド家関係者

 


 

コーネリアス・フレッカー

Cornelius Flecker

 エステルのお抱えの発明家。

 ファイアブランド軍技巧部門の顧問として装備開発に携わる。

 

 

・人物

 モノクルをかけた銀髪の中年男性。

 

 元商人だったが、空賊の襲撃で身ぐるみ剥ぎ取られ、外国に人身売買されかけた過去がある。

 その経験から射撃精度を高めて遠距離から砲撃できれば有利に戦えるようになるのではないかと考え、統制射撃システムを作った。

 生産に向けて出資者を探し求め、オフリー家を倒したファイアブランド家に目を付けてエステルに売り込みを掛ける。

 これが空賊対策に腐心していたエステルの興味を惹き、多額の出資と研究設備の提供を受けたことで、一年足らずで方位盤を、二年で射撃盤を完成させることに成功した。

 

 個人の資質に大きく依存する魔法と違って、誰でも恩恵に与れるとして科学技術を信奉している。

 

 

・能力

 元商人だけあって計算能力に極めて優れる。また、機械工学や電気工学の知識も豊富。

 後述の統制射撃システムを考案し、独力で試作にまで漕ぎ着けるなど、先進的な頭脳と行動力の持ち主。

 

*統制射撃システム

 コーネリアスが構想・開発した射撃システム。

 既存の測距装置・照準器の機能を統合し、ジャイロを組み込んで艦の動揺まで計算できる【方位盤】及び、その情報を元に大砲の発砲諸元を算出する【射撃盤】で構成される。

 各砲の砲手が照準・発射を行う従来の射撃方法よりも遥かに正確な射撃を行うことが可能。

 

 


 

イスマエル・フォウ・ガルブレイス

Ismael Fou Galbraith

 王都の鎧製造工場に務める鎧職人。アヴァリスの製作において重要な役割を果たした生みの親とも言える存在。

 周囲からは【イスマ】と呼ばれる。

 

 

・人物

 黒髪黒目のモブ顔青年。

 元は裕福な男爵家の庶子で四男。

 鎧に並々ならぬ情熱を注ぎ、貴族でありながら鎧職人になった変わり者。

 

 口下手で思ったことをすぐに口に出すなど、コミュニケーション能力にやや難がある。

 一方、鎧に関することに対しては異常な行動力と饒舌さを見せ、無茶振りをされても却って闘志を漲らせるなど、熱き技術者魂の持ち主。

 

 鎧職人になることを巡って実家と深刻な対立状態にあり、学園卒業後に家出同然の形で王都に残留し、現在の職場に就職した経緯がある。

 そのため、自身の家族に関することは現在でも続く地雷となっており、姓を名乗らず【イスマ】で通している。

 

 鎧を作るのにかかる手間と労力を理解せず、あまつさえ貶してくることから貴族や女性を嫌っているが、エステルやシェリルには好意的に接している。

 

 

・能力

 学生の頃から既に部品を自作して鎧を組み立てて本職の職人に認められるほどの高い技術力を持つ。

 アヴァリスの本格的な分解整備や改修は彼なくしては行えず、ファイアブランド家にとって最も重要な人物の一人となっている。

 

 また、積極的にする度胸がないだけで喧嘩も実は弱くはなく、学生時代に自作の鎧を汚そうとした女子生徒の専属使用人を一撃でノックアウトしたことがある。

 

 


 



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第一章


 どこまでも続くような青い空と海を白い雲が彩る。

 空が青いのはレイリー散乱で、海が青いのは水の吸収スペクトル、雲が白いのはミー散乱──タネは面白味のないただの物理法則だ。

 

 でも──もしその物理法則を書いたやつがいるのなら、そいつは実にセンスがいい天才だ。

 

 だが、そんな天才が創りたもうた美しい景色は先程から黒い煙で汚されている。

 空中で絶え間なく爆発が起こり、時々黒い煙の尾を曳いて落ちていくモノがある。

 

 そう──ここは戦場だ。

 大空に何隻もの飛行船が浮かんで大砲を撃ち合い、その周囲で【鎧】と呼ばれる人型兵器が空中戦を繰り広げている。

 己の膂力と技術の限りを尽くして命の奪り合いをする真剣勝負の場で俺は高笑いしていた。

 

「どうしたよ?田舎の小領主なんて一捻りじゃなかったのか?」

 

 鎧の中から発せられる俺の声は拡声器を通じて戦場に響き渡る。

 

 鎧──人間が乗り込んで操縦しやすいという理由で人型をしている、空飛ぶ戦車のようなその兵器は俺には欠陥だらけに思える。

 なんで人型兵器に剣やら槍やら銃やら爆弾やらを手に持たせて接近戦をやるんだ?戦闘機では駄目なのか?

 

 だがここはファンタジー世界。そんな合理主義などかなぐり捨てた世界観である。

 

 俺の駆る鎧は白く、流麗で、それでいて大きかった。

 現在主流の小型で機動力を優先した鎧より二回りほどは大きい。

 

 そんな大型の鎧が周囲を飛ぶ小型の鎧のひとつを巨大な手で捕まえる。

 

『助けてくれえええええ!』

 

 命乞いする敵パイロットに俺はニヤリと笑って冷たく言い放つ。

 

「死ね」

 

 そのままもう一方の手で握り拳を作り、相手の胸部──コックピットを思い切り殴りつける。

 

 一撃で相手はひしゃげて動かなくなる。中のパイロットは圧し潰されたか、衝撃で弾けたか──どうでもいい。

 敵を殺したことに罪悪感など微塵もなく、むしろ興奮が湧き起こる。

 他者を踏みにじり、最も大切な命を奪い取る。強者にのみ許された特権だ。

 

「はっ、弱い!弱すぎるぞ!もっと骨のあるヤツはいないのか!?」

 

 笑いながら機体を操縦し、近づいてくる敵を倒していく。

 

 狙いはコックピット。つまりパイロットだ。

 鎧が巨大な剣でコックピットを無慈悲に突き刺し、そのまま横なぎに振るって引き抜く。

 

「恐れる必要はないぞ弱虫共!ただ哭け!俺を楽しませろ!!」

 

 人を人とも思わぬ悪魔のような言葉を十代前半の子供が発している。

 前世の俺ならきっと「狂っている」と感じただろうが──俺は気付いたのだ。

 狂っていたのは自分の方だった、と。

 

 結局力なき者は何を言おうが蹂躙され、奪われるだけ。力のある悪人が()()()()()を虐げて繁栄する──それが人の世の摂理だ。

 

 だから俺は今世では力のある悪人になろうと決めた。

 否、極悪非道の支配者だ。

 今の俺を一言で言い表すならそれは「悪徳領主」だろう。

 

 この不思議なファンタジー世界は大地が空に浮かび上がり、貴族たちが「浮島」と呼ばれる空飛ぶ島を領地にしている。

 そんな世界で俺は子爵家当主の地位にいる。

 悪党の俺が弱冠十二歳で親から家の実権を簒奪し、それなりに大きな浮島とその周囲の小さな島々の支配者となり──そして重税を課し、若者を兵隊に取って戦争をし、民たちを苦しめている。

 

 これが安っぽい勧善懲悪ものの小説なら俺は悪党として退治される側だが、現実は違う。

 

「何だ?そのノロマな尻で誘っているのか?汚らしい姿を俺に見せるな!!」

 

 俺の暴れっぷりに恐怖した敵が逃げていくが、その背中に鎖の付いた禍々しい銛が突き刺さる。

 俺の鎧が銛を撃ち出す特製の武器で撃ったのだ。

 

 鎖が巻き取られ、敵は強制的に俺の方へ引き寄せられる。

 

『うわぁぁぁああああ"あ"あ"!やめて!やめてください!お、俺には故郷に妻と子供が──』

 

 泣き叫ぶ敵に容赦なく刃を突き刺す。

 背中の重要機構を破壊された敵はたちまち爆散する。

 

 故郷で帰りを待つ家族がいる人間を嬉々として殺した。だが正義の味方が俺を成敗しにやって来ることはない。

 

 当然だ。正義など存在しないのだから。

 そんな物は物語の中だけに存在する虚構であり、現実では相手を殺すときに使う言い訳でしかないのだ。

 

 そのことに気付いたのは今世になってから──否、前世の最期の時だった。

 前世の俺は支配者たちから植え付けられた虚構の価値観を無邪気に信じていた愚か者だった。

 

 そんな愚か者が辿った結末はそれはそれは悲惨なもので──そこから全てが始まった。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 目の前の映像に俺は激しく胸を締め付けられ──怒りと憎悪を滾らせていた。

 俺が久しく口にしていない贅沢な食事をしながら下卑た笑みを浮かべている知らない男と、今では離婚した俺の元妻。

 

『お前も悪い女だな。元旦那に借金を背負わせて、挙句に養育費まで払わせているらしいじゃないか。あの子、元旦那の子じゃないだろ?』

『いいのよ。法律上はあいつの子で養育費の支払いは親の義務だもの』

『うわぁ──本当可哀想だな。お前の元旦那』

『女は本能的に優秀な遺伝子を残したいのよ。あの程度の男の子供なんていらないの。金だけ稼いでくれればいいのよ。むしろ私と結婚できたんだからそれくらいしてもいいわよね。その程度の価値しかない男だったんだから』

『女は怖いな』

『そんな女にしたのは貴方じゃない』

 

 二人の会話が理解できるまでしばし時間がかかった。

 

 ──素朴で優しかった元妻がずっと俺を騙していた。

 

 ──この世で自分の命よりも大切だった宝物──子供も托卵された赤の他人だった。

 

 俺は映像の中の元妻と男に目眩のするような憎しみを覚え──怒りの矛先を映像を見せた張本人にも向けた。

 

「おっと、怒らないでください。私はただ貴方に真実を知って欲しかったから今の光景を見せたのです。身に覚えはありませんか?これは幻ではありません。今現在起こっていることなのです」

 

 映像がリアルタイムの出来事だと告げて来る燕尾服の男──【案内人】と名乗る不気味な存在。

 表情は影になっていて口元しか見えず、帽子のつばの端や燕尾服の燕尾部分が炎のようにユラユラと動いている。

 人外あるいは超常の存在であるのはなんとなく分かるが、今となってはどうでもいい。

 

 その案内人が何やらペラペラと喋っていたかと思うと、旅行鞄からパンフレットを何枚か取り出した。

 

「貴方はこれまで不幸でした。そんな貴方には、次の人生で幸せになって貰いたい。どうでしょう?異世界に転生してみませんか?」

 

 案内人の差し出したパンフレットはどれも実に色鮮やかだった。

 だが──

 

「復讐──させろ。絶対に──許さない。全員に──復讐して──やる」

 

 俺はそんなものに興味は持てなかった。

 只々、俺を陥れた奴らに復讐したかった。

 

「残念ながら、貴方の命は尽きようとしています。私に出来るのは貴方に幸せな来世をプレゼントすることくらいだ。今まで不幸だった貴方には幸せな第二の人生が待っています。復讐は諦めなさい」

 

 拒否しようとしたが、声にならない。

 悔しさで頭がどうにかなりそうだった。

 

「貴方に選べるのは、次にどんな世界に行くかだけ。せめて、自分の望んだ世界に転生しなさい。さあ、次こそ貴方には幸せな人生が待っていますよ」

 

 そんなの知ったことではない。

 払い除けるつもりで手を伸ばしたが、力が入らなかった。

 伸ばした手はパンフレットの一つに指先が触れるや否や、床に垂れ落ちてしまう。

 

 案内人は俺の手が触れたパンフレットを見ると、笑みを浮かべながら売り込みをかけてきた。

 

「ほう、こちらの異世界に興味がお有りですか?こちらはお勧めですよ。この世界のような汚らしいコンクリートの森はなく、風光明媚で空気も水も美味しい。人々は遮る物のない大空で冒険を夢見て暮らしています。あ、勿論魔法もありますよ」

 

 俺が触れたパンフレットは大地が空中に浮かんでいる幻想的な表紙絵をしていたが、俺が考えていたのは何もかもが馬鹿馬鹿しいということだった。

 俺はこれまで真面目に誠実に生きてきた。

 犯罪に手を出したことはないし、世間一般で言う「善良」な人間だった。

 

 なのに──その結果は何だ?

 

 誠実に向き合って一途に愛した女には捨てられ、真面目に勤めていた会社は身に覚えのない横領でクビになり、どこにも再就職できずにアルバイトの掛け持ちをする羽目になり、いつしかこれまた身に覚えのない借金ができて、借金取りに怯えながらボロアパートで貧乏暮らし。その末に身体を壊して、今この瀕死状態だ。

 騙されて、嗤われて、搾り取られて、復讐すらできずに死んでいく。

 

 こんなことなら最初から好き勝手に生きれば良かったのだ。

 他人ことなど気にせずに俺の幸福だけ追い求めていれば良かった。

 

 転生するというのが本当なら──今度はもう間違えない。

 好き勝手に生きて、ムカつくヤツは叩き潰して、今まで虐げられてきた分、今度は俺が虐げてやる。

 そうだ。俺は悪の側になってやる。

 

「この世界では貴族たちが権力を握っています。その貴族の家に生まれるようにしておきましょう。生まれながらの勝ち組ですよ」

 

 案内人の言葉に笑みが浮かぶ。

 

「さあ、行きなさい。貴方の次の人生に幸あらんことを」

 

 世界がぼやけて闇に侵食されていく。だが心は死なない。

 

 今日という日を俺は決して忘れない。

 貴族の家に生まれ変わったら、権力を思う存分振るって暴虐の限りを尽くしてやろう。

 

 そんなことを考えながら、俺は死んだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 長い長い夢から醒めた時、目に入ったのは抜けるような青い空だった。

 

 人一人分の一生を昼寝の中で夢見たような不思議な感覚に頭がしばし混乱する。

 だが俺には分かった。俺は転生してたった今前世の記憶を思い出したのだと。

 どうやら案内人の言っていたことは本当だったらしい。

 

 身体を起こすと違和感に気付く。

 首筋から背中にかけて何か当たっている。

 触ってみると、手触りの良いサラサラした──髪の毛だった。

 

「──は?」

 

 思わず声が漏れた。なんで俺の髪がこんなに長いんだ?

 

 立ち上がってみると、すぐ近くに泉が見えた。

 

 駆け寄って水面を覗き込むと──そこにいたのは絹のような白銀の髪に透き通った宝石のような青い瞳をした()()()──否、()()だった。

 

「俺──いや、私──?え?」

 

 首を傾げると、水面に映った幼女も首を傾げる。どうやら俺は今世では女に生まれたらしい。

 それも人形みたいな整った目鼻立ちに、ちょっと生意気そうなつり目、アルビノかと思えてくるような白い肌と髪。

 

 生まれながらの勝ち組ってこういうことか?美少女になってちやほやされて人生イージーモードで生きられるってか?

 

 でも案内人は貴族の家に転生させると言っていたよな?

 貴族家の女性って政略結婚の道具扱いなイメージしかないんだが──この世界だと違うのか?

 だが仮に違うとしても女では領主になれない──権力を振るえないではないか。

 

 あの案内人、俺の望みを分かっていないらしいな。

 俺は権力を振るって悪逆非道の限りを尽くす暴君──悪徳領主になりたいのに、これでは精々社交界で寄って来る男共をあの手この手であしらう程度のみみっちいことしかできない。

 

 全くもって腹立たしいが、取り敢えず今の俺の状況を整理しよう。

 

 今世での俺の名は【エステル・フォウ・ファイアブランド】。年齢は五歳。

 朧げな今世の記憶によれば、俺は辺境の浮島の領主であるファイアブランド家の長女──というか、二人姉弟の姉。

 

 ファイアブランド家はホルファート王国と呼ばれる大国に所属する領主貴族。

 たしか、ミドルネームに意味があって、【フォウ】が領主貴族、【フィア】が宮廷貴族、【ラファ】が王族の出身であることを示す。

 前世の【フォン】とか【ド】みたいな前置詞なのだろう。

 ファイアブランド家は領主貴族の子爵。

 王国の中では大勢の貴族に過ぎないが、地元では絶対的な権力者だ。

 

 尤も、俺は女である故にその後継ぎになれない。

 だが──何か良い手立てはないだろうか。邪魔な両親と弟を排除して領主の地位を手に入れる方法──

 

 考え始めたところで無理だと気付いた。

 今の俺は幼女。あまりにも無力で、仮にどうにかして両親と弟を排除したとしても、婿を取らされるか、親族の誰かが後釜に居座るに違いない。

 

 クソ。無能な案内人め。

 もし今度会ったらたっぷり小一時間ほどは恨み言を言ってやるから覚悟していやがれ!

 

 不意に何かヒラヒラした物が俺の頭の上に落ちてきた。

 

 手に取って見てみるとそれは手紙だった。

 封を開けてみると、案内人からのメッセージのようだ。

 俺が転生したことへのお祝いと、自分が少しばかり忙しくて様子を見守れないこと、だが困らないようにサポートはする、ということが書かれていた。

 

 クシャッと手紙を握り潰す。

 俺は肩を怒らせて今世の家──屋敷に戻った。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日。

 

「専属使用人?」

 

 俺は聞き慣れない単語に思わずおうむ返しをした。

 

「そうよ。貴女のお世話をする専属の使用人──貴女だけの奴隷を買ってあげるわ」

 

 俺の今世での母親【マドライン・フォウ・ファイアブランド】は笑顔だった。

 どうでもいいが、マドラインは全く俺に似ていない。金髪にオレンジ色の瞳で、俺と違って優しそうなタレ目で胸が大きい。

 ちなみにマドラインの隣に立っている父親【テレンス・フォウ・ファイアブランド】も俺に似ていない。炎のような赤い髪と瞳で顔立ちはゴツい。

 

 まあそれはさておき。

 子供の世話を奴隷にさせるって親としてどうなのだ?

 両親の後ろに立つ執事【サイラス】も同じことを思ったらしく、困惑の表情を浮かべている。

 

 だが、ふと考えが一つ浮かんだ。

 案内人の手紙にあったサポートとはこれのことではないだろうか。

 自分の代役として身の回りの世話をしてくれる奴隷を側に置く──どうせなら両親と弟も排除して欲しかったが、まあいい。ありがたく受け取るとしよう。

 

「ありがとう。お母様」

 

 朧げな記憶でしていたように返事をする。

 

 

◇◇◇

 

 

 奴隷商館はホルファート王国本土の中心にある王都にあった。

 ファイアブランド領から定期便の飛行船を乗り継いで五日間の船旅は退屈だったが、ジェット機がないとこんなものだろう。

 さすが大国の首都だけあってファイアブランド領とは比較にならない大きな街だ。都市部だけで人口は百万人はいるのではないだろうか。

 馬車の車窓から見える街並みは美しく、瀟洒な建物が無数に軒を連ねている。

 

「さあ、ここよ」

 

 馬車が止まり、マドラインが馬車の扉を開けて俺を外に連れ出した。

 奴隷商館はイメージしていたのとは違って、洒落たマンションのような建物だった。

 

 中に入るとさながら前世の風俗店みたいに写真がズラリと並んでいた。

 前世では創作物の中でしか見たことがないエルフやケモ耳を持つ獣人たちの写真が壁を埋め尽くしている。

 この写真の中から気に入ったのを選んで実際に見て確かめてから購入する、という仕組みらしい。

 

 なるほど、システムとしては中々良いじゃないか。

 ただ──気に入らないことに奴隷共はどいつもこいつも()()()()である。

 確かに──確かに美形揃いではある。だが俺は身体は女でも心は男なのだ。

 いくら美形でも野郎を侍らせる趣味はない。侍らせるなら美女がいい。

 

「女──の子はいないのですか?」

 

 ビシッとしたスーツ姿の店員に聞いてみる。

 

「おや、珍しいですね。女性の方がお好みですか?でしたらこちらに」

 

 何やら慇懃無礼な感じのする店員に案内されて隅の方に行くと、女奴隷の写真がいくつか掛かっていた。

 その数はやけに少ない。

 この世界では女奴隷の需要がないのか?全く変な世界だ。

 

 一つ一つ見ていく俺はその中の一つに目が留まった。

 

 俺と同じ絹のような銀髪に、外側が白く内側が黒い三角形のケモ耳、そして先端が黒いふさふさの大きく白い尻尾──狐の獣人だ。

 幼さが残る可愛い顔立ちで、切れ長だが優しげなタレ目。そのくせ無表情で媚びた感じがしない。

 

「その娘がいいの?エステル?」

 

 後ろからマドラインが覗き込む。

 

「はい!」

 

 マドラインは微笑んで店員を呼んだ。

 

 そして現れた奴隷──【ティナ】という名前だった──は写真で見るよりもずっと可愛かった。

 年は大学生くらいだろうか。スレンダーだが出る所は出たバランスの良いプロポーションで、形の良い胸とスラリとした美脚が目を惹く。

 威圧感や刺々しさは全くなく、全体的にほんわかしたオーラを纏っている。尻尾を触っても怒りもせずに微笑みを浮かべ、触りやすいように屈んでくれる。

 

 ──気に入った!この娘にしよう。

 

 まあ、ロボットじゃない生きた人間──いや、獣人と言った方が良いだろうか?──だから裏切る心配がなくもないが、その時はその時だ。

 写真を見た瞬間にこれは、と思ったのだ。自分の直感を信じよう。

 

「この娘にします!」

 

 マドラインは頷いて店員と話し始めた。

 

 商談は一分と経たずに纏まったようで、マドラインが金貨を幾つか店員に渡す。

 

 店員が手を伸ばし、ティナの首に着いていた黒いチョーカーを外した。

 

 俺たちはティナを連れて店を出た。

 店の玄関まで見送りに来た店員が営業スマイルで見送りしてくる。

 

「お買い上げありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」

 

 そう言う店員の目に微かに清々したような感情が込もっているような気がした。まるで厄介者を追い出せた時のような。

 

「好みの奴隷が見つかって良かったわね。エステル」

 

 マドラインが俺を見下ろして言った。

 

「うん」

 

 俺は生返事をする。

 

 俺の意識はすっかり隣を歩くティナに向いていた。

 ティナの方が俺よりずっと背が高いので、見上げる格好になる。

 

 袖を掴むと、察したティナが一礼して俺を抱き上げた。

 視線が一気に高くなる。

 細腕に見合わない力を持っているようで、片腕だけで軽々と俺を支えている。

 

 ティナの首に手を回すと、肌触りの良い髪が頬に当たり、思わずもたれかかってしまう。

 彼女の髪からはほっと気持ちが落ち着くような良い匂いがした。

 できればこのまま降りたくない──そう思った。

 

 

◇◇◇

 

 

 領地の屋敷に戻った俺の前で、ティナは改めて挨拶してきた。

 

「この度は私を選んで頂きありがとうございます。改めまして、ティナでございます。これからどうぞよろしくお願い致します」

 

 五歳児相手に一切の緩みのない見事なカーテシーを披露するティナ。

 彼女はシックなワンピースのメイド服を着ていた。

 屋敷のメイドたちが着ているよりも明らかに高級な品である。

 

 令嬢直属の使用人とはいえ、奴隷がこんな高級な服を着てるってどうなんだと思うが、この専属使用人という存在は俺が考えていたほど単純なものではないらしい。

 奴隷とは言うものの雇われの身であり、ビジネス上の関係なのだそうだ。

 

 それを知った俺は得も言われぬモヤモヤした感情を抱いた。

 だが、ティナの美しさとほんわかしたオーラの前ではその感情は鳴りを潜めた。

 何と言うのか──彼女を見ていると無意識的に信じたくなってしまうような、そんな気になってしまうのだ。

 

 こんな逸材がなぜもっと積極的に売り込まれずに隅っこに申し訳程度に展示されていたのだろうか。彼女を欲しがる男は星の数ほどいるだろうに。

 

 謎で仕方ないが、考えても答えは出ない。

 だが、案内人にはちょっとばかり感謝しよう。

 悪徳領主になれないのは癪だが、こんな可愛い専属使用人が手に入ったのは素直に嬉しい。

 

 手を伸ばすとティナが俺を抱き上げる。

 胸を触ってみると意外に大きく、小さな手では掴み切れない。

 

「お、お嬢様?」

 

 ティナが少しテンパっていた。可愛い声だ。

 

「理想的な柔らかさだな」

 

 柔らか過ぎず、張りも弾力もあって実に素晴らしい胸の持ち主である。

 

「あ、あの──お嬢様?あまり触られるとくすぐったいです──」

 

 見るとティナの顔が微かに紅潮していた。

 その顔を見ると猛烈な劣情が湧き起こって──思わず唇を奪ってしまった。

 

「ッ!?」

 

 ティナが息を呑む。

 突き飛ばしたり落っことしたりしたら処刑してやる所だったが、ティナはそんなことはしなかった。

 唇を離すと、ティナは先程よりも紅潮した顔で恐る恐る尋ねてきた。

 

「お、お嬢様──その──と、伽を、お望みなのですか?」

「だったらどうなんだ?」 

 

 奴隷と言うからには()()()()()()もアリかとは思うが、金で雇われている存在なのでひょっとしたら駄目かもしれない。

 

 ティナは驚愕に目を見開く。

 神秘的な翡翠色の瞳が綺麗だ。

 

 しばしの間の見つめ合いの後、ティナは観念したように目を閉じた。

 

「お嬢様のお望みであれば──」

 

 どうやらアリなようだ。

 ティナにベッドに行くよう命じ、帳を下ろさせる。

 

「ティナ、今夜は寝かせないからな」

 

 ふざけてクッサい台詞を言ってみたが、ティナは面白いように反応する。

 前世と合わせてかれこれ数年間ご無沙汰なのだ。たっぷり堪能させてもらうとしよう。

 

 ──まあ、肝心の息子が今の俺にはないんだけどな。

 

 

 

 そんなこんなで俺の第二の人生はスタートしたわけだが──実のところ案内人は俺の望みをちゃんと理解していた。

 だが、それが判明するのはだいぶ先のことだった。




転生先として大地が空中に浮かぶ世界を引き当てたことで分岐したIFルートです。
リオンはじめモブせかの登場人物もこの先登場します。
なお、女性として転生したのはツンデレ貢ぐ系ヒロインこと案内人の仕込みです──


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修行は野望を秘めて

 ファイアブランド子爵家の領地はお世辞にも豊かとは言えなかった。

 

 今のファイアブランド領は今から六代前の当主【アンブローズ・フォウ・ファイアブランド】によって発見され、彼の領地になった場所である。

 アンブローズとその嫡男【ロードリック】は名君で、全くの未踏未開拓だった領地を親子二代で立派な子爵家規模にまで発展させたが、今ではその時の面影はない。

 

 歳出は代を重ねる毎に増えていき、それを補うために重税が課され、時に領地を狙う他の貴族家との戦争も起こり、領地は荒廃していった。

 

 今では栄えていた時代を直接知る者はいなくなり、領民たちはそんな時代があったことすら信じられずにいる。

 屋敷から離れた場所にある港町も飛行船の出入りは殆どなく、道行く人々の表情は暗い。

 

 港の波止場に一隻の飛行船が到着した。

 降りてくるのは正規の通商許可を受けていない密輸業者である。

 荷役管理所の職員が荷物を検めにやって来るが、密輸業者のリーダーが金貨を数枚握らせると何事もなかったかのように去っていく。

 領地全体に金がなく、交易が滞っているせいで密輸と闇市場が栄えていた。

 

 こんなことになった原因はいくつもあるが、その最たるものが正妻への仕送りによる出費だった。

 貴族家当主はその爵位に見合った女性を正妻として迎えなければならない。

 ファイアブランド家は子爵家であり、男爵家以上、伯爵家以下の家から妻を迎える必要があるのだが、殆どの女性は新興の、それも辺境の子爵家になど嫁ぎたがらない。

 

 結果、結婚するために屈辱的な条件を呑まされることになった。

 やれ王都に使用人数十人規模の屋敷を構えろだの、毎月多額の仕送りをしろだの、跡取りを産んだ後は愛人の面倒も見ろだの──。

 産業といえば農業と林業、鉱業くらいしかなく、木材や僅かな鉱物資源くらいしか売るものがないファイアブランド家にとっては極めて大きな負担だった。

 

 また、当主自身にも問題があった。

 アンブローズとロードリックが築き上げた財を食い潰したのは他ならぬロードリックの嫡男【ウェズリー】である。

 生まれた時から領地が繁栄していて何不自由なく育ち、祖父と父の苦労も肌で理解していなかった彼は当主の地位に就くや、過ぎた贅沢をして浪費するようになった。

 

 少年時代に女性にロクに相手にされなかった鬱憤を晴らすかのように何人もの妾を囲い、分不相応に大きな屋敷を新築し、調度品も豪華なものを揃え──それでいて正妻に逆えず、言いなりになって、いつしか望んでいた以上の贅沢をしていた。

 

 当然出費が膨れ上がり、財政は慢性的な赤字になる。

 するとそれを補うために領民に重税を課し、資源の採掘権を他家に売り、ますます領地を困窮させた。

 そんな当主を見て育った跡取りも同じように放蕩になり、さらにその跡取りもまた然り──そのツケは次の世代へと持ち越され続け、いつしか二進も三進も行かない状況に陥ってしまっていた。

 衰退の一途を辿る領地を何とか立て直そうとした者もいたが、誰も成し遂げることはできなかった。

 

 何度当主が代替わりしても一向に良くならず、かといって逃げ出す手段もない領民たちはいつしか諦観に支配されていた。

 

 

◇◇◇

 

 

「力だ!」

 

 開口一番俺は力強くそう叫んだ。

 俺の着替えを用意していたティナが耳をピクッと動かす。可愛い。

 

「お嬢様?どうされました?」

「力が欲しいんだよ。こんな非力で華奢な身体では俺の望みが叶わない。俺は強くなりたいんだ!」

 

 力説する俺にティナは困惑していた。

 

「お、お嬢様。まずその、【俺】という一人称はおやめになってください」

「流すなよ!──俺は力が欲しいんだ。武芸でも何でもいい。個人の力って意味で強くなりたい!」

「えぇ──お嬢様には必要ないのではありませんか?戦うのは殿方のお役目ですよ?」

「いいや必要だ。外を歩いてる時に厳つい男共に絡まれたり、そういう奴らがうちに押し掛けてきた時にぶっ殺せるようにな」

「はぁ──?」

 

 ティナが「何言ってんだコイツ?」みたいな目で俺を見てくるが、俺は別におかしくなってなどいない。本気も本気、真剣そのものである。

 前世で俺は無力で、暴力に怯えていた。

 借金の取り立てに来る、厳つくて無駄に筋肉があってドスの効いた声をした男共が怖かった。

 

 あんな思いは二度と御免だ。

 他者を踏みつけるため──否、それ以前に他者を恐れないための力が欲しい。

 

「──でしたら剣、いえ、フェンシングなど習われてはいかがでしょうか?フェンシングは貴族令嬢の嗜みともされていますし──」

 

 何か諦めたような声音で言ってくるティナ。

 

「剣か──いいな。銃より良さそうだ」

 

 銃は弾が切れたら武器としてロクに使えなくなるが、剣ならその心配はなさそうだ。

 だがやるからには嗜み程度では駄目だ。

 

「本格的な──男が習うような剣を習いたい。親父に指導者を雇ってもらうか。ティナ、一緒に来い」

 

 俺はベッドから降りて親父のいるであろう執務室に向かおうとするが、ティナが立ち塞がった。

 

「その前にお着替えをなさってください」

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド領の港に一人の男が降り立った。

 焦げ茶色のマントに身を包み、腰には剣を差している。

 

「随分辺鄙な場所だな」

 

 そう呟く男の名は【ニコラ】。

 エステルに武芸を教えるためにやって来た男だが──はっきり言ってこの男、強くはなかった。

 たしかに多少の武芸や魔法の心得はあり、冒険者稼業をやっていたこともあるが、稼げずに辞めてしまい、魔法を使った手品やイリュージョンを三流サーカスや大道芸で見せて日銭を稼いでいるような男である。

 

 エステルに武芸の指導者を雇ってくれと頼まれた父テレンスだが、まともに受け止めてはいなかった。

 知り合いに適当に声をかけて、一番報酬が安かった男をよく調べもせずに雇ったのだ。

 

「依頼主はガキだって言うし、騙すくらい簡単かな。それにしても、俺に武芸を教わるなんてそのガキも可哀想に」

 

 一応、基礎を教えるくらいは出来るが、高度な剣技やら奥義などは無理である。

 だが、我儘なガキならすぐに飽きるだろうし、適度に褒めて気分良く指導してやれば満足するだろう、と簡単に考えていた。

 

「それにしても剣か──久しぶりだな」

 

 この世界では剣はかなりメジャーな武器で、男であれば貴族・平民問わず多くの者が一度は触れる。

 だが、戦う貴族や貴族に仕える騎士や配下の兵士、冒険者以外は特に深く修めることもない。

 ニコラも冒険者稼業を辞めて以来、剣を握っていない。今持っている剣もそれらしい格好をするために誂えた安物だ。

 

「さて、うまく騙して金を搾り取ってやりますか」

 

 そう言ってほくそ笑むニコラだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 女がそんなもの習う必要はないと言われて断られるのではないかという懸念に反して、親父はあっさりと指導者を雇うことを承諾してくれた。

 

 そしてやって来たのはただならぬ雰囲気を漂わせたおっさんだ。

 日焼けした肌、マッチョではないが鍛えられているのが分かる大柄な体躯、色褪せてあちこち傷や切れ目ができた地味なマント──格好こそ旅人か流れ者のようだが、その表情は凛としていて、何とも言えない覇気のようなものを感じる。

 

 屋敷の無駄に広い庭で俺と向かい合うおっさん──ニコラ師匠は片膝をついて俺と視線の高さを合わせて口を開く。

 

「──エステル様」

「は、はい!」

 

 緊張で声が上擦ったが、師匠は気にした様子もなく言葉を続ける。

 

「そう固くなる必要はありません。まずは、私の流派について説明しておこうと思います」

 

 そう言って師匠は腰に提げていた剣を外して地面に置いた。

 

「我が流派の奥義は厳しい修行に耐え、心技体全てにおいて極限まで鍛え抜かれた者のみが辿り着く秘技中の秘技。無闇に見せてはなりません。ですが、私の実力を見たいでしょう。なのでエステル様には特別に一度だけ奥義をお見せしましょう。ただし、関係者以外は見ないで頂きたい。エステル様お一人で見ていただく」

 

 いきなり奥義を教えてくれるとは驚きだ。

 もっと出し渋るかと思っていたが、優しげな雰囲気と剣を教えることへの真剣さ──師匠は人としてもよくできているようだ。

 だが、俺の後ろにいるティナは懐疑的だった。

 

「エステル様から離れるわけには参りません」

 

 だが、師匠も退かない。

 

「それではこの依頼をお受けすることはできません」

 

 俺はすぐにティナに下がるよう命じる。

 

「ティナ、下がれ。命令だ」

 

 ティナは少し躊躇う素振りを見せたが──

 

「何かあればすぐにお呼びください」

 

 そう言って下がっていった。

 

 二人だけになると、師匠がスリングショット(投石器)を俺に渡してきた。

 

「エステル様、我が流派の奥義は武の極みにして究極の魔法でもあります。高度な技などこれ一つで十分、あとは基本の型を極めることに力を入れています」

 

 師匠の真剣な雰囲気に俺は息を呑む。

 

「実際の戦いで相対するのは剣だけとは限りません。いいえ、こちらより長い武器や飛び道具と対峙することが当たり前と心得ねばなりません。ですが──この技を極めた者を前にしてはいかなる武器も意味を為しません」

 

 そして師匠は剣を抜いて両手で構えてから言った。

 

「その武器で私を射ってみてください」

「え?師匠を射つのですか?」

 

 驚いて師匠の顔を思わず凝視したが、師匠は自信に満ちた表情で頷く。

 

 石を拾ってつがえると思いの外よく弦が伸びた。

 師匠は二メートルほどの距離──外しようがない至近距離に立っている。

 

「さあ、どうぞ」

 

 俺は石をつまんでいた手を離す。

 放たれた石は真っ直ぐに師匠の胸目掛けて飛んでいき──次の瞬間信じられないことが起こった。

 

 なんと師匠に命中する直前で()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

「──嘘だろ」

 

 次の石を拾って射ってみたがやはり同じように逸れていく。

 師匠は()()()()()()()()()のに、何度やっても、どこを狙っても一発も命中せず、まるで見えない力で弾かれているかのように明後日の方向に逸れていく。

 

 スリングショットがおかしいのかと思って一度近くの木を狙って射ってみたが、こちらは普通に狙ったところに当たる。

 なのに師匠を狙った石は当たらない。

 

 どうやったらこんなことができるんだ?念力のような技なのか?

 

 俺がスリングショットを下ろすと師匠が口を開く。

 

「お分かり頂けましたかな?これが我が流派の奥義でございます。今回は見やすいように投石器でやらせて頂きましたが、極めれば剣による斬撃から槍による刺突、果ては銃弾すらも逸らせるようになります」

「どう、やったのですか?」

 

 思わず問いかけたが、師匠はかぶりを振った。

 

「それはこれから我が流派を学ぶ過程で分かってくるでしょう。己自身で答えを見つけることが最も重要な修行です。では問いましょう。私の弟子として、我が流派を学びますか?」

 

 俺は大きく頷いた。

 

「はい!」

 

 やっぱりファンタジー世界は凄いな。極めれば「弾の方が避けていく」という現象を起こせる技があるなんて。

 

 

◇◇◇

 

 

 エステルが修行を始めてから数年が経った。

 

 毎日欠かさず体力作りとニコラが教えた基本の動作を繰り返している。

 その様子を微笑みを浮かべて見守るニコラ。

 

「子供は覚えが早いな。次は何を教えようか──」

 

 相手の攻撃を見切るには武器や身体がどう動くのかを知る必要があると言って剣だけでなく、槍や短剣、弓、徒手格闘術など色々と教えていた。

 だが教えられるのは基本の型だけである。それらしい説明をつけてやって見せた後は、反復練習させつつ自分で考えさせる。稽古をつけてやることも殆どない。

 

 そんな放任主義な教え方でも、エステルは文句の一つも言わずに愚直に基本を繰り返している。

 ニコラに教えられることはなくなりつつあり、今ではこうして見守ることの方が多くなっている。

 

 ふとニコラは屋敷の方を見た。

 随分と豪華な装飾が施されているが、綺麗に保たれているのは表側だけである。

 客人の目に触れない場所は手入れが行き届いておらず、蔓草が這い、あちこちひび割れている。

 

 領地にも活気がなかった。

 領民は重税に喘ぎ、納めた税は殆ど領地に還元されることなく、ただでさえ少ない富が領地の外へ流出している。

 ずっと前の代から抱え込んでいる莫大な借金によるものであり、今から発展したところで相応に搾り取られるだけである。

 

「あの子は将来何がしたいんだろうな──」

 

 ニコラからすればエステルという人物は不思議だった。

 貴族社会において女性は守られる対象であり、武芸など修める必要はないはず。

 だがエステルは何かに取り憑かれているかのように鍛錬に励み、今やそこいらの腕白坊主とは比較にならない強さを持つに至っている。

 

(まあ、考えても仕方ないか。俺には関係のないことだ)

 

 ニコラにとってエステルは都合の良い金蔓でしかないのだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド家の屋敷の敷地は広い。

 敷地全体を囲む高い柵の内側に林や泉や川があるほど広い。

 

 その敷地の中を俺は走る。

 朝早くに屋敷を出て、石畳の道を走っていくと、林に入る。

 林道から外れ、しっとりとした美味しい空気を味わいながら木々の間を走り抜ける。

 最初の頃は石や木の根につまづいて転んだり、方向感覚が狂って迷ってしまったりして大変だったが、今はもう迷わない。

 林の反対側にある泉までまっすぐに走ることができる。

 

 泉のところまで来ると林を抜けて一気に視界が開ける。

 柔らかな草原が広がり、風に揺られる草が光の反射で波を形作る。

 この草原で俺は昼寝していて、そこで前世の記憶を取り戻した。ちょっと懐かしい場所だ。

 草原を泉から流れ出す川に沿って走る。川を流れる落ち葉と競走したり、ちょっと足を止めて水切り遊びをしてみたりするのも面白い。

 

 ずっと川に沿って進んでいくと柵が見えてくる。浮島の外縁部だ。

 川の水は浮島の外縁部から滝となって海へと落ちていく。

 川が滝になる手前にいくつか飛び石があり、それを伝って川を跳び越える。

 

 そして屋敷の方角へ走っていくといつもの訓練場になっている場所に着く。

 そこで師匠は俺を待っている。

 

 木剣を手に取り、基本の型を練習する。

 師匠が作ってくれた練習用の人形は数え切れないほど木剣を叩き込まれてボロボロだが、それも毎日の鍛錬の証だと思える。

 

 一つの型につき百回一セットを三回。

 この鍛錬は雨の日も風の日も一日も欠かさずにやる。

 一日でもサボったらその分を取り戻すのに三日かかると師匠が言っていたからな。

 病気にでもなったらそれこそどれだけの損失か計り知れないが、幸い鍛錬ができなくなるほどの病気はしたことがない。

 

 師匠の方も毎日欠かさず俺の鍛錬を見守ってくれている。

 あとティナもだな。微笑みを浮かべて俺を応援するティナの顔を見ていると、やる気が湧いてくる。

 何だか青春スポーツ漫画みたいなシチュエーションで少し心が踊る。

 

 師匠に課された鍛錬が終わったら勉強だ。

 女である以上、領主の地位は継げないと分かってはいるが、だからと言って悪徳領主の夢を諦める気はない。

 弟と邪魔になりそうな親族のガキを蹴落とす方法はおいおい考えるとして、まずは優秀さをアピールしなければならない。

 勉学と武芸の両方で優秀であることは後継者争いにおいてアドバンテージになるからな。

 

 幸い今の勉強は言語を除けば楽勝である。

 意識はおっさんでも身体は子供だからか、知識がぐんぐん吸収され、物覚えも実に良い。

 頑張ればそれだけ分かることが増えていって、それが何とも言えない嬉しさと楽しさを感じさせてくれる。

 

 こうまで勉強ができて楽しいと思ったのは前世の小学校時代以来だな。

 あの時は百点目指して漢字の書き取りとか百ます計算とか一所懸命にやってたっけ。

 今世では俺は貴族令嬢であり、学校──といっても読み書きと簡単な計算を教えるだけの寺子屋レベルだが──には通わずに家庭教師を付けられているため、目標にするテストもないが、俺には領主になるというもっと大きな目標がある。

 

 いつか──十五歳になって成人したら王国本土にある【学園】に入れる。

 そこで領地経営を本格的に学んで、卒業したら親父とライバルを追い落として──うん、将来のビジョンを描くのは楽しいし、そのビジョンのおかげで勉強が捗る。

 

 机に齧りついてばかりではなく、領主の仕事を見聞きして学ぶことも忘れない。

 

 親父は自分の仕事を俺に教えたがらず、執務室に入ることも滅多に許してくれなかったが、家臣たちが代わりに色々と教えてくれた。

 可愛い盛りの年の女の子が自分たちの仕事について知りたがるというのは、彼らからすれば驚きではあれど、それ以上に気分が良いことだったようだ。

 

 俺も気分が良い。知識や知見を得られるし、人脈も作れるからな。

 いくら能力があっても、俺を支持する家臣がいなければ領主にはなれない。

 俺が領主になるには、弟よりも俺を支持する家臣が多数派になるように持っていく必要がある。

 そのための布石は今のうちに打っておくべきだろう。

 

 ちなみに弟はまだ幼いのもあって、勉強にも武芸にも身が入っておらず、毎日遊んでばかりいる。

 実に結構だ。そのまま愚鈍な無能に育つがいい。

 俺が領主になれる可能性が高まるからな。

 

 ペンを動かしながら、俺はほくそ笑む。

 

 

◇◇◇

 

 

 光陰矢の如し、とはよく言ったもので気付けば俺は十歳になっていた。

 記憶を取り戻す前よりも身体は大きく、丈夫になり、力は前世の子供時代とは比べ物にならないほど強い。

 毎日の鍛錬の成果だ。

 

 だが──問題がある。

 

「まだ駄目か」

 

 師匠が作ってくれた特製のバッティングマシンのような投石機を使って放たれた石を逸らす練習をしていたのだが、成功率が芳しくない。

 三回に一回は逸らし切れずに身体に直撃を貰ってしまう。

 師匠が見せてくれたように石の方が避けているかのような逸らし方にはまだ至らない。

 

 その師匠は神妙な表情で俺を見ていた。

 不器用な俺に呆れているのだろうか?

 

「申し訳ありません、師匠。まだまだ師匠の域には届きません」

 

 頭を下げたが、師匠はかぶりを振って微笑む。

 

「武の道は長く険しい。終わりなどありはしませんよ。それにしても、僅か五年でよくここまでものにしましたね」

 

 この五年間、どうすれば師匠と同じことができるのか、考え続けてきた。

 基本の型ばかり繰り返していてもできるようになるとは思えなかったので、師匠の言葉を思い出して魔法を取り入れてみたのだ。

 

「はい!風魔法を身体の周りに纏わせてみたんです。その風を圧縮して最良のタイミングでぶつけることで軌道を逸らせると分かりました。正解でしょうか?」

 

 俺なりの仮説を述べたが、自信はない。

 風魔法は威力が低過ぎて、避けられる速さで飛んでくる石を逸らすことにすら少なくない魔力と高い集中力が必要だ。

 だが、俺の不安に反して師匠の答えは肯定的だった。

 

「ふむ──当たらずとも遠からず、といったところですね。たしかに魔法は使う。だが、今のままでは片手落ちです」

「片手落ちですか?」

「そうです。魔法を使うのならば、魔法も学び、探究し、鍛えなければなりません。ただ魔法を覚えるだけでは不足なのです」

 

 なるほど!本格的に学んで自分で研究する必要があるってことか!

 なんでもっと早く気付かなかったんだろう。

 そんな簡単にいくなら秘技の中の秘技になんてならないだろうに。

 

「すぐに魔法の勉強を増やしてみます」

 

 師匠は頷いた。

 

「良いでしょう。それともう一つ。どうにもエステル様は目にばかり頼っているように見受けられます」

 

 図星を指された俺は思わず身構える。

 

「今後は目隠しをして、鍛錬を行いなさい。音、風、魔力──感覚を研ぎ澄ませてそれらを感じ取るのです」

「分かりました!」

 

 まるで漫画のような修行だが、元々ここは漫画のようなファンタジー世界だ。

 それに師匠が言うのだから間違いない。

 

 

◇◇◇

 

 

 目隠しをして剣を振り回すエステルを見てニコラは先ほどから冷や汗が止まらない。

 

(何なんだよこの子は!?)

 

 まさか自分の見せた幻を技として再現してしまうとは思わなかった。

 スリングショットで発射された石を逸らしていたのはただのイリュージョン──錯覚である。

 冒険者時代に覚えた幻術の一種──それも囮や撹乱くらいにしか使えない微妙なもの──を使って自分の虚像を作り、少し離れた所から魔法を使ってあたかも微動だにせずに飛んでくる石を逸らしているように見せていた。

 

 ニコラが奥義と称して見せたものは嘘と欺瞞でできたありもしない虚像──だったはずなのに、エステルは秒間二発という連射速度で射ち出された二十個の石を殆ど逸らしてみせた。

 このままでは本当に銃弾すら逸らす域に達してしまうかもしれない。

 基本の型しか教えてこなかったのにどうしてこうなったのか──訳が分からない。

 

(もし俺が嘘を吐いていたとバレたら──駄目だ、殺されちまう!)

 

 既にエステルの方が実力は上であり、戦っても勝てない自信があった。

 できれば今すぐにでも逃げ出したいが、そうもいかない。

 ファイアブランド家は飛行船の出入りが少なく、紛れて密航できるほどの荷物を積んだ船など来ない。

 可能性があるのは密輸業者だが、彼らと関わるのは御免だった。

 

 そして何より、ニコラには金がない。

 受け取った報酬は酒と女遊びに消え、逃げたところで生活に困窮するのは目に見えている。

 

(そうだ、今は耐えて軍資金を貯めよう。逃げるなら──そうだ、王国本土まで逃げないと。とにかく逃げた後に見つかるわけには──)

 

 逃亡のための資金と逃亡先での生活費を稼ぐためにしばし恐怖に耐えることにしたニコラだったが、彼は知らない。

 本物の恐怖はまだまだこれからだということを──。



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天才なんて生温い

↓本人だけがそうは思っていないのがミソ↑


 遥かに昔。

 今の人類の祖先を巻き込んだ神々同士の大戦争があった。

 海が煮えたぎり、空が燃え落ちるほどの激戦の末、人類が味方した神々の陣営が勝利を収めた。

 前世で言うならギリシャ神話みたいな感じだろうか──怖さと凄惨さと理不尽さが目立つ神話である。

 

 そんな神話の中に気になる場面がある。

 熱閃──ぶっちゃけて言うとビームを発射する神獣が登場するのだが、そいつが敵の神々が乗る船を攻撃した時、ビームが捻じ曲がって大地を抉っているにも関わらず、予言者──コイツは盲目で超常的な感覚の持ち主だ──が言うには「直進」している、という不可思議な現象が起こる。

 

 結局どうしても神々の船に攻撃を当てることは出来ず、その神獣は英雄たちを逃がすために犠牲になるのだが──俺が思うに、師匠が見せた奥義とはこの神々の船が見せた不可思議な現象と同じなのではなかろうか。

 もちろん確証はない。神話は所詮伝説だ。

 だが、どうしてもこの場面がありありと思い浮かんで心から離れなかった。

 師匠が見せてくれた奥義とあまりにも似ていたから。

 

 でも、何をどうやったら()()()()()()()()()()()()()()()()ってことになるんだ?

 暇さえあれば俺はひたすらそのことを考えたが、答えは出ない。

 

 

◇◇◇

 

 

「鎧、ですか?」

「はい。魔力の制御方法を会得するには鎧に乗るのが一番です」

 

 倉庫で俺は師匠と一緒に巨大な人型兵器を見上げていた。

 師匠が俺の修行のためにわざわざ特注してくれたのだ。

 ただ──

 

「で、でも、大丈夫ですか?初心者が乗るにはピーキー過ぎますよ?」

 

 招聘された技師の青年が心配そうに俺の方を見てくる。

 

 師匠が腕利きの職人を雇って色々カスタマイズしてくれた結果、普通の鎧よりだいぶデカくなっている上に背部に天使のそれのような翼まで付いていた。

 

「エステル様は私が見てきた中でも最も才能に溢れています。その才能を伸ばさないのは罪というもの。また本人も力を付けたいと望んでおいでです。心配は無用」

 

 師匠に褒められた。嬉しい。

 

 俺も頷いて先を促すと、技師は紙の資料を見せながら説明を始めた。

 

「──でしたらまず、この鎧の特性について説明致します。ニコラ様の要望により、操縦系統には魔力伝導効率の高い希少金属を使用。これにより、量産機よりも高い応答性と再現率を実現していますが、これは高い集中力を要することと不可分であります。この操縦系統の性能向上に耐えられるよう、フレーム及び可動部位、冷却装置の強化を行なっております。この強化の副次効果として防御性能も向上しています。この鎧は戦闘用ではありませんが、実戦でも十分に通用するかと。それによって生じた重量増大の問題は──」

 

 ここで技師は資料のページをめくる。

 開かれた見開きのページいっぱいに翼の図面が描かれていた。

 

「この【可変式推力偏向翼】によってカバーしています。この四分割構造の翼の展開数及び角度の変更によって推力を調節・偏向し、戦闘用すら遥かに凌駕する運動性能を実現しています。ただ、この翼を制御するには飛行パターンの蓄積とそれに対応するルーティンの構築を要し──」

 

 長ったらしい説明は半分聞き流していた。

 考える前にやってみる。そして修正を加えつつ身体に覚えさせるのがこれまでの修業のやり方だったからだ。

 それに訳の分からない単語が出てくる長文なんて、口頭で聞いたって理解できない。

 

「それではまずテスト操行を行いましょう。タラップを用意致します」

 

 技師がようやく説明を切り上げ、整備員に指示してタラップを持って来させた。

 鎧の胸元が開き、コックピットが露わになる。 

 

 ──どうでもいいが、胸元のハッチが山型に盛り上がっていて、しかも流線形なのが目に付く。

 避弾経始か何かを考慮しているのか、単におっぱいを模したデザインなのか分からないのでちょっと困る。

 

 タラップを昇ってコックピットに乗り込むと、技師が指示を出してくる。

 

「ベルトを締めて、操縦桿を握ってみてください」

 

 指示通りにX字型の安全ベルトを装着し、左右のジョイスティックに似た操縦桿を握る。

 ちょうど良い位置だ。でも身体が成長したら調整が必要だろうな。

 そんなことを思いながら僅かに操縦桿を動かしたら──

 

「あ、あれ?うわっ!」

 

 鎧がいきなり一歩踏み出し、そのままバランスを崩して倒れてしまった。

 ベルトに締め付けられていたお陰でどこも打たなかったが、衝撃は重い。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 技師が大慌てで駆け寄って来る。

 心配症な奴である。俺が普段どれだけ修行で鍛えていると思っているのか。

 

「やはり操縦補助術式をオミットしたのは間違いだったのでは?」

 

 技師が師匠に問い詰めているが、師匠は譲らない。

 

「そのようなものに頼っていては身体が楽をすることを覚えてしまいます。それは自分で自分の可能性を殺すに等しいこと。これもエステル様のためになること──エステル様の望みです」

 

 やっぱり師匠って揺るぎない信念があるんだな。

 その師匠が俺の可能性に期待してわざわざこの鎧を用意してくれたのだ。

 その期待を裏切るわけにはいかない。

 

「練習を、続けます」

 

 そう言って俺は鎧を立ち上がらせる。

 

 鎧の操縦桿は動きを伝えるためというより、思念を読み取るためのものであり、読み取った思念を鎧に伝えるプロセスでは電気信号の代わりに操縦者の魔力が用いられる。

 集中が乱れれば魔力も乱れ、鎧は言うことを聞かなくなる。

 特に今操縦している機体は魔力を良く伝えるせいで、集中の乱れの影響を受けやすいようだ。

 

 全神経を操縦に集中させ、一歩ずつ慎重に鎧を歩かせる。

 これだけでも物凄く難しく感じる。

 

 歩くだけでこれなら飛ばせる日はいつ来るのだろうか?

 

 そう思った矢先、再び鎧がバランスを崩した。

 

「おっと」

 

 だが今度は咄嗟に脚を動かして何とか倒れるのは免れた。

 

「初めてにしては凄いですよ。エステル様はセンスがお有りです」

 

 技師が拍手している。

 

「お世辞が上手いな」

「いえ、お世辞ではないのですが──」

 

 困り眉の技師は放っておいて俺は操縦の練習を再開する。

 

 

◇◇◇

 

 

(よ、よし。何とか間に合った。鎧に集中してくれれば、だいぶ時間が稼げる──はずだ)

 

 ニコラは冷や汗を流しながらそう思った。

 基本の型を教えているだけではエステルが独学でどんどん力を付けてしまうため、必死で「奥義」から意識を逸らそうと考えつく限りのデタラメな修行を課すようになった。

 魔力制御と集中力を鍛えるためと言って鎧の操縦を練習させているのもその一環である。

 

 絶対に乗りこなせないように、いつか乗りこなせるようになるとしてもできるだけ時間がかかるようにと、鎧は操作性や整備性などを完全に度外視して高性能を追求している。

 予算に糸目をつけずに高級素材をふんだんに使わせ、オプション装備も大量に付けた。

 中には実用性が甚だ怪しい装備もあり、【可変式推力偏向翼】などその際たるものである。

 

 そもそも鎧が人型をしているのは魔力を通じて「自分の身体のように動かせる」からであり、逆に言えば鎧の動きは操縦者の身体能力や運動センスに制約されがちになる。

 当然、人間に翼などという器官はないため、いくら魔力でイメージ通りに動かせると言っても、存在しない器官に対応するパーツなどとても制御はできない。

 結果、可変式推力偏向翼は理論上素晴らしいメリットがあっても、制御できなくては意味がないとして理論だけに終わったものである。

 

 それをニコラはエステルの鎧に装備させた。

 全てはエステルという「怪物」から逃げるための資金と金が貯まるまでの時間を稼ぐためである。

 

 剣の修行の方にも抜かりはない。

 

 力がつけばその分負荷も上げないと成長が止まってしまう、と言って各所に重りが付いた特注の練習着を着させ、練習に使う木剣は本物の剣の倍以上も重いものを使わせている。

 また、目だけに頼ってはいけない、視覚以外の五感と魔力を感じ取る感覚を研ぎ澄ませ、と言って目隠しをして修行させている。

 怪我などされては首が飛びかねない(物理的に)ため、付きっきりで見ていてやらなければならないが、それでもエステルが奥義に近づいていく恐怖よりはまだマシだった。

 

 

◇◇◇

 

 

「エステル様、また逸れていますよ」

 

 師匠が注意してくる。

 

「は、はい」

 

 俺は不甲斐なかった。

 目隠しをした状態で二十メートル先の人形に突撃して斬りかかる、という修行をしているのだが、これがさっぱりうまくいかない。

 

 そもそも()()()()()()()()()()()()()()

 見当違いの方向に走って行ったり、逆に人形に突っ込んでしまったり、石につまづいたりで散々である。

 事前に人形の位置が分かっていてもなおこれだ。

 

 なぜ人形まで真っ直ぐ走れないのだ?俺は真っ直ぐ走っているのに実際には曲がって逸れている。それも毎回だ。

 自分には才能がないのではないかというネガティブな考えが頭をもたげるが、必死でそれを打ち消す。

 師匠は言ってくれた。

 

「ただ闇雲にやっても努力は平然と嘘を吐きます。ですが、エステル様は聡明な方です。修行を顧み、より良き道を考える頭と未来を信じて努力できる執念を併せ持っておられる。そんなエステル様の努力がどうして裏切られるでしょう。己を信じるのです」

 

 そう、言ってくれた。

 師匠が俺を信じてくれているのに俺が俺を信じないでどうするというのか。

 

 

 

 夜。

 今日の修行を終え、クタクタになった俺はお風呂に入って汗を流し、ティナの胸を枕にしてくつろいでいた。

 

「結局成功したのは一回だけかよ──」

 

 思わず愚痴を漏らしてしまう。

 目隠しをしていなければ簡単に叩き斬れたであろう人形に到達することすらできず、スイカ割りよりも酷い醜態を晒してばかりだった。

 救いなのは師匠以外に見られなかったことくらいだ。

 それ以外、特にティナになんて絶対見せられない。

 ティナに内心蔑まれて笑われたら、多分冷静じゃいられなくなる。

 

 同時に師匠の危惧していた所がよく理解できる。

 目隠しをするだけで当たり前にできることができなくなる。

 それはつまり、視界を塞がれたら一気に不利になる──煙幕や目眩しの魔法を使われたり、夜の真っ暗闇の中で奇襲攻撃を受けたりしたら、俺は一方的にやられてしまうということだ。

 

 悪徳領主を目指す身でこんな()()があるなど許されない。

 暗殺者に殺されたり、寝首を掻かれたりする間抜けな悪徳領主で終わるつもりなど俺にはないのだ。

 だからこそ、一刻も早く視覚に頼らずに済むようにならなければいけないのに──

 

「お嬢様、そう気に病まれることはないと思いますよ。人間、いえ、生き物の身体は元々左右対称にはできていません。視覚なしで真っ直ぐ進むなんて元々できない──そんな風にできているんですから」

 

 ティナがフォローになっていないフォローをしてくる。

 

 つまり何か?師匠が俺にデタラメな無理難題を吹っ掛けている(その通りである)と言いたいのか?

 

「──もう一度言ってみろ」

 

 自分でも驚くほど低い声が出た。

 

「え?お嬢様?」

 

 ティナが少し怯えた声を出した。

 俺は跳ね起きてティナから離れ、もう一度命令する。

 

「もう一度言ってみろ。そう言ったんだ」

 

 ティナが狐耳をピタッと後ろ向きに寝かせ、尻尾を股の間に挟んで震えながら言い訳する。

 

「で、ですから元々身体が左右で違いますから真っ直ぐ進めないようにできていて──目は本来それを補うのに欠かせないということです。決して、決してお嬢様やニコラ様を侮辱する意図はございません!」

 

 身分は天と地の差とはいえ、遥かに年下の少女相手に恐怖に震えるティナを見ていると、毒気を幾分か抜かれ、どうにか剣を手に取るのは我慢できた。

 だが元々真っ直ぐ走れないようにできている、それが何だと言うのか。

 修行とはできないことをできるようにすること────

 

 ちょっと待て。

 

「元々左右で違うからまっすぐにならない──」

 

 何かが頭の中で繋がった気がする。

 すぐそこまで出かかっているのに──パズルの最後にピースがうまくはまらないようなもどかしさを感じる。

 いかん。一度深呼吸して心を落ち着けなければ。焦ってもこんがらがるだけだ。

 

 大きく息を吸って吐き出す。

 師匠に教えてもらった気を鎮める呼吸法は身体に染みついて殆ど無意識のうちにできる。

 

「──元からまっすぐじゃない──元から──元から曲がるようにできている──そういうことだったのか!」

 

 天啓を得たかのように俺は思わず立ち上がった。

 師匠のあの奥義は攻撃を逸らすものではなく、自分を中心に周囲の空間を捻じ曲げるものだったのだ!

 物理法則に縛られる物体は、外部から力を加えられない限り同じ運動をし続ける──ビームなら直進し続ける──が、空間ごと曲がっていれば話は別だ。

 曲がった空間の内側では直進し続けるビームも、外側から見れば曲がって見えるだろう。

 となると空間に干渉するタイプの魔法を探っていけば答えは見つかる!

 

「ありがとうティナ!お前のおかげだ!」

 

 ティナの身体を両手で持ち上げてクルクル回る。

 体格的にはまだティナの方が大きいが、今の俺はティナくらい片手で持ち上げられる。

 

「え?あの、お嬢様?それってどういう──」

 

 ティナは困惑しているが、俺はもうすっかり有頂天である。

 ようやく、ようやくヒントを掴めた!

 

 

◇◇◇

 

 

 それからは今までの苦労が嘘だったかのようだった。

 空間そのものに着目すれば驚くほど見えるものが違うのだ。

 

 空間に干渉するには空間を認識しなければならない。

 それも音やら風といったエコーロケーションとは全く違う次元でだ。

 

 前世なら何を言っているのかすら理解できず、不可能だと一蹴しただろうが──この世界では実例があった。

 魔法だ。

 

 魔法というものは仕組みがブラックボックスだが、物理法則に干渉する事象を起こしている時点で既にこの世界の次元──三次元世界だけで完結してはいない。

 使用者の意識を通じて物理法則に縛られない別の次元──情報次元とでも言うべきか──にアクセスしてそこの情報を認識し、書き換えること──それが魔法だと仮定した。

 だったら情報を書き換える対象が物体から空間そのものになるだけだ。

 

 そして空間の情報を書き換える、ということに関しても実例があった。

 小型鎧のコックピット等に使われている空間魔法だ。これは容器や小さな部屋の中の空間に干渉してこれを広げ、小さなスペースに本来の容量を超えて物を詰め込むことができる魔法だ。

 あくまで囲まれた小さな空間に作用するもので、自身の周囲の空間を自由に弄れるものではなかったが、大いに参考になった。

 

 空間魔法をベースにして、そこから思いつく限りの手段を総当たりで試した。

 無意識下で行われている計算的な過程を実際に記述して分解し、その意味を調べていく──途方もない作業だったが、苦にはならなかった。

 奥義に近づくための作業なのだから。

 

 その作業がもたらした副次効果は凄まじい恩恵があった。

 

 まず目隠しと耳栓をしていても地形から気象、生き物の存在まで認識できる。

 人形に斬りかかるなどお茶の子さいさい、剣での打ち合いだって普通にできてしまう。

 これで真っ暗闇の中でも怖くはない。

 

 更に中級くらいまでの単純な魔法ならば呪文詠唱なしで発動できるようになった。

 呪文詠唱というのは短いようで、一瞬の隙が死に直結する戦いにおいては致命的なタイムラグだ。そのタイムラグをなくすために最初から術式を封入した【魔弾】なんてものがあるくらいだ。

 だが俺はそんなガジェットに頼らずに無詠唱で魔法を使える。これは絶大なアドバンテージである。

 

 そして空間の認識能力が上がったことで、一種の透視や未来予知じみた芸当まで可能になった。

 これまで見えなかった機械の内部構造を外部から認識できるようになり、人体や武器同様、どう動くかを視て知ることができたのだ。

 お陰で思い通りの動きをさせるにはどこをどう動かせば良いか、といった研究もスムーズに進み、いつしか複雑極まりないあの鎧を自分の身体のように動かせるようになった。

 翼を巧みに使った急旋回・急制動を活かしての空中戦だって難なくできる。

 

 初めてあの鎧で空を飛べた時は感動したね。

 こんなにも速く、自由に空を飛べるものなのかって。

 空中で剣舞ができるなんて夢にも思わなかった。

 

 技師たちどころか、師匠までもがあんぐりと口を開けていたのは印象に残った。

 師匠を驚かせる俺って結構成長したってことじゃないだろうか。

 

 

◇◇◇

 

 

 エステルが修行を始めてから七年が経ち、エステルは十二歳になった。

 

 三方に設置された自動投石機から秒間十発の速さで放たれた数百個の石が全てエステルに命中する直前で軌道を変え、地面に突っ込む。

 

「ようやく──ようやく理解できました師匠!こういうことだったんですね!」

 

 目隠しをしたまま浴びせられた石の雨を全て逸らしてみせたエステルを見て、ニコラは生きた心地がしなかった。

 

(え?理解──したの?何を?ちょっと待って何これどうなってるの!?)

 

 頭の中が疑問符で満ち溢れるニコラだったが、エステルは待ってはくれない。

 

「どうでしょうか?私の答えは正解でしょうか?」

 

 ようやく人前で「俺」という一人称を使わなくなったなー、というどうでもいい感想がニコラの頭をよぎる。

 

「師匠?」

 

 エステルが近づいて来る。

 

(ま、不味い!心臓の音を聞かれでもしたら、俺が怖がってるのがバレる!)

 

 大慌てでニコラは口を開いた。

 

「お見事です。エステル様。もう私が教えることは何もございません」

 

 表情が見えないが、エステルの顔がパッと明るくなったのがわかる。

 

(何なんだよこの子は!?何で基本の型とデタラメな修行でこんなことができるようになったんだ?天才──いやそんな言葉生温すぎる。──駄目だ。もうこれ以上ここにはいられない。自分で飛行船を借りて逃げよう)

 

 エステルが目隠しをしていて良かったと安堵しつつ、ニコラは逃亡の決意を固める。

 

「後はエステル様ご自身が必要と思う修行をなさってください。最後に教えられるのは、剣の道に終わりはないということだけ。どうかこれからも弛まぬ精進をお続けにならんことを。それが私の唯一の願いです」

 

 そう言ってこの場を辞そうとするニコラだったが、エステルに呼び止められる。

 

「待ってください師匠!最後にもう一つだけ聞きたいことがあるんです!」

「何でしょう?」

 

 

 

 踵を返して俺の前から去って行こうとした師匠が振り返ったのが気配でわかる。

 心なしかビクッとしたように感じたが、気のせいだろう。

 

 それより、以前から気になっていたことがある。

 俺が学んでいる流派の名を未だに俺は知らないのだ。

 だから勇気を出して訊いてみた。

 

「師匠の流派は何という名なのですか?」

 

 玉響の沈黙。

 そして師匠は口を開く。

 

「──決まった名はありませんよ」

「え?何故ですか?」

 

 全くの我流じゃないって師匠も言っていた。なのに名前がないとはどういうことなのだろう。

 

 師匠はしばし考え込むような仕草をする。どう説明したものか考えているのだろうか。

 

「──同じ流派を受け継いでいても、それぞれの中にある剣は別の物なのです。私の中にある剣とエステル様の中にある剣もまた別の物。言ってしまえば流派や型、技というものは、それぞれが歩む剣の道を途中まで照らす道標のようなものでしかないのです。見え方は人によって違いますし、そこから先をどう歩むかもまた同じことです」

 

 何だかよく分からない。

 

「エステル様。人を縛りつける最強にして最も原初的な呪いは何であるか、ご存知でしょうか?」

 

 ──何故呪いの話になるんだ?

 

「──いえ、分かりません」

「名前です」

 

 初耳だ。名前がなぜ呪いになるんだ?

 

「考え方や価値観は時代によって変わります。剣術や、戦い方とて同じ。それに決まった名を冠したならば、剣士たちはそれに縛られます。縛られ、囚われること、それはいつまでも道標の近くで留まり、先へ進み続けること──つまりは自らの剣の道を極めるのを放棄するに等しいこと。剣士としてあるまじき怠惰です。故に私の流派には受け継がれる名がありません」

 

 ──そうだったのか。

 名前に囚われて剣の道の追求を怠ってはいけない、と。

 なんて高尚な理念だろう。

 

「ですから──この流派に名を冠したいと願うのならば、その名は貴女自身でお付けなさい。貴女が自分で相応しいと思う名を──そうですね、自身の心の中にある剣に銘を刻むイメージで考えるとよろしいでしょう。自身で名付けたその剣を大切に鍛え、守り育てるのです」

「し、師匠──!」

 

 感激のあまり思わず涙が出てくる。

 

「必ず!必ず名付けます!師匠から受け継いだこの剣に相応しい名を──必ず!」

 

 膝を突いてそう言う俺に師匠は満足げに頷く。

 

 

◇◇◇

 

 

 師匠が出て行った後も俺は鍛錬を欠かさず行い続けた。

 見てくれる人がいなくなって少し寂しいが、代わりにティナが見てくれるようになった。

 

 ティナは実にいい買い物だったと今にしても思う。

 彼女がいなければ俺は奥義に辿り着けていなかったかもしれない。

 流派の名付けのヒントだってティナが奥義を見て発した言葉が元になっている。

 

 なんだか幻でも見ているみたい、とティナは言った。

 幻──そう聞いて思い浮かんだ言葉がこの流派の名にぴったりだと思えた。

 

 だから【鏡花水月】と名付けた。

 今の俺に攻撃を当てようとすることは鏡の中の花、あるいは水に映る月に触れようとするに等しいことだ。

 

 こんな凄い技を教えてくれた師匠と、その師匠と巡り合わせてくれた案内人には感謝しかない。

 

 本当に──ありがとう!!




鎧に関して若干のオリジナル設定があります。


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家出 Ⅰ

書きたいこと書いてったらやたら文字数が多くなるって誰かが言ってたけどこういうことかと実感してる


「は?結婚?」

 

 親父の口から出てきた言葉に開いた口が塞がらなかった。

 

 日課の修行と午前中の勉強を終え、昼食を食べてくつろいでいる最中にいきなり親父──【テレンス】の執務室に呼び出されたかと思ったら、お見合いの話を持ちかけられた。

 というより、嫁に出されるのは決定路線で殆ど事後報告に等しい。

 

 相手の身上書──写真やら身分やら経歴やら色々載った書類を目にした俺は鳥肌が立つような──いや実際に立ったわ──嫌悪感と、こんなものを渡してきた親父に対する怒りが沸々と湧き上がった。

 だって、相手は三十路で見るからに不健康そうなメタボ野郎なのだから。

 

「待ってください父上!なぜ学園に入学する前から結婚の話が出るんですか?」

 

 貴族の結婚は学園を卒業してから──というのが慣しである。

 俺だって学園に行くのは楽しみにしていた。それを結婚などという人生の墓場行きで梯子を外されてたまるか!

 思わず声を荒げて抗議したが、親父は取り合わない。

 

「昔から何度も世話になっている家の方だ。伯爵家の跡取りだぞ。何が不満なんだ?」

「ふざけんなよ!逆になんでこんな結婚に満足すると思ったんだ?あ"?」

 

 口調を取り繕うことすら忘れて俺は親父に食ってかかった。

 学園入学前の結婚なんて政略結婚しかない。

 要するに俺はファイアブランド家の「駒」だ。相手の家にとっては跡取りを産む機械。

 

 だが親父は机を叩いて立ち上がり、怒鳴り声を上げた。

 

「親に向かってその口の利き方は何だ!」

 

 初めて聞いた親父の怒鳴り声。

 だが俺は怯まない。この程度、前世の借金取り共で経験済みである。

 

「誤魔化すんじゃねーよ!!お──私はこんな結婚認めねえ!」

「黙れ!使いもしない剣術やら鎧のために湯水のように金を使わせおって!一体家からいくら出してやったと思っている!お前も少しは家のために役に立て!」

 

 ──この野郎、師匠から受け継いだ【鏡花水月】とそれを習得するための修行──俺が流した汗と血と涙の全てを否定しやがった。

 ──許せない!

 

「お二人とも落ち着いてくださいまし!エステル様はまだ十二歳でございますぞ。いきなりご結婚と言われても驚かれるのは無理もございません」

 

 俺を庇ってくれる我が家の執事【サイラス】は実に勇敢である。

 そして有能でもあり、彼がいなければ屋敷が保てないと言われているほどだ。そのせいで親父も体裁を気にしてクビにできないでいる。

 ──そういう奴は嫌いじゃない。いつか俺が領主になってもクビにはしないでおいてやろう。

 

 そのサイラスに親父は声を荒げる。

 

「サイラス!貴様主人に逆らうのか!」

「いいえ!そんなつもりはございません!ですがエステル様のお気持ちも汲んで差し上げて──」

 

 言い終わる前に親父が思い切り机を蹴り上げた。

 

 物凄い音に身体が反射的に痙攣する。

 

「これまで──」

 

 親父は歯を食いしばって絞り出すような声でそう言ったかと思うと、一気に癇癪を爆発させた。

 

「これまで一体誰のお陰で生きてこられたと思っている!」

 

 それは俺に向けられての言葉だった。

 

「カタリナが死んで、やっとあの薄汚い女狐から解放されたと思った!なのに──なのにあいつが俺を苦しめるために残した置き土産がお前だ!学園にいた時から俺を見下して、ことあるごとに金をせびって、亜人じゃない愛人まで囲っていやがった、何度殺したいと思ったか分からないあの女を!お前を見ていると思い出すんだよ!でも俺はちゃんとお前を子供として養い育てた!世話役だって付けた!お前の変な我儘もみんな叶えてやった!俺がいなきゃお前はこの屋敷になんていられなかった!貴族として生きられなかった!全部全部全部!俺がいたお陰だ!お前はここで生きていられるだけで、俺に恩があるんだ!」

 

 ガキみたいに喚き散らす親父の言からすると、俺は母【マドライン】の実子ではなく、死んだ前妻の娘らしい。

 俺が両親のどちらにも似ていなかった理由が今になって判明したが、特段驚きはしない。

 

 それにしても──普段大人しい部類だった親父がここまで喚くあたり、俺の生みの親である【カタリナ】とかいう前妻は思い出すのも嫌なくらい酷い女だったようだ。

 前世の元妻のことを思い出してほんの少し同情したが、親父への怒りを相殺するには遠く及ばなかった。

 否、それどころかむしろ怒りは増していく。

 

 思えば親父には親らしいことをしてもらった覚えがなかった。

 一緒に遊んでくれたことも、修行や勉強を見てくれたことも、どこかに連れて行ってくれたことも、何かを褒めてくれたことすらも──ない。ないのだ。

 修行や勉強に夢中でずっと気付かないふりをし続けていたが、それでも時々感じた寂しさや疎外感──その全てがパズルのピースのようにつながる。

 

 ──俺はずっと親父にネグレクトされ続けていたのだ。

 

 そんな虐待同然の扱いをしてきた親父に孝行したいなどとは微塵も思えない。

 養い育ててくれたことや、師匠を雇ってくれたことには感謝だが、それとて望まない結婚を受け入れる理由になどなりはしない。

 

 もうこの瞬間から親父は俺にとって完全な敵となった。

 思わず壁に飾ってあった飾り剣に目が行くが、辛うじて残っていた理性がそれを手に取ることをやめさせる。

 ここで親父を殺すのは簡単だが、その後はどうするというのか。

 当然追われる身になる。

 あの鎧に乗って逃げることもできるが、悪徳領主の夢は叶わなくなる。

 

 ──クソったれが!!それもこれもあの無能な案内人が俺をこんな家の娘に転生させやがったからだ!

 あの案内人嘘を吐きやがったな!何が生まれながらの勝ち組だ!

 

 

 

 ふと気付くと音が聞こえなくなっていた。

 今にも机を蹴り倒そうと脚を上げている体勢の親父も、その隣で止めようとしているサイラスも全く動かなくなっている。

 それどころか息さえしていない。

 まるで時間が止まったかのようだ。

 

「止まっている?どうなってるんだ?」

 

 その答えはすぐに分かった。

 背後から聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ。

 

「どうも。お久しぶりですね。エステルさん」

 

 噂をすれば何とやら、案内人に憤りを感じていた所での本人の登場である。

 

「しばらく時間が開いてしまいましたが、息災なようで何よりです」

 

 白々しい台詞に怒りが湧く。

 

「テメェどのツラ下げて出てきやがった」

 

 睨み付けると、案内人は頭を下げてきた。

 

「不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。ですが、これまでのことは全てエステルさんのお望みを叶えるためです。エステルさんは領主になりたがっておられる。違いますか?」

 

 俺は釈然としないながらも頷く。

 

「──そうだ」

 

 すると案内人は旅行鞄から地図とコンパスを取り出し、俺に差し出してきた。

 

「そのお望みを叶えるための算段を私の方でご用意致しました。エステルさんの強力な味方となる存在がこの地図の印が付けられた島にいます。その者の下へ赴き、連れ帰ればこの上なく頼もしい味方と冒険の実績を得ることができます。それが知れ渡ったならば、皆が優秀かつ素晴らしい実績を上げたエステルさんを領主にと望むでしょう。その声を盾にし、お父上から当主の地位をお譲り頂くのです」

 

 地図を覗き込むと、そこには見たことのない島が描かれていた。

 

「このコンパスが目的地への場所を示してくれます。渡航手段はご自身で手配して頂かなくてはなりませんが──あの鎧をお使いになれるかと」

 

 見るとコンパスには針が二つあった。

 一つは北を指しているが、もう一つは南西方向を指している。

 映画で見たようなファンタジーなコンパスなのだろうか。

 

「最初から領主の跡取り息子に転生させてくれたらこうはならなかったと思うけどな」

 

 嫌味をぶつけてやると、案内人は低姿勢で言い訳を始めた。

 

「そうお思いになるのもご尤もですが、この世界では貴族男性は何かと不遇なのです。たとえ跡取りであろうともです。お父上のように家格に見合った結婚をするために酷い女性を甘んじて娶るのはこの世界では珍しくも何ともありません。逆に女性であればかしずかれ、貢がれ、自由気儘に振る舞いながら生きることができます。それを考え、貴女を女性として転生させました」

 

 何だって?そんなの初めて聞いたんだが?

 信じられない、と顔に出ていたらしく、案内人が映像を見せてくる。

 

 そこにはどこか別の貴族の一家が映っていた。

 黒髪黒目の少年が頭にたん瘤を作って、着飾った貴族女性に嫌味を言われている。

 

『全く、教育の行き届かない子供は獣と同じですね』

『申し訳ありません奥様。私共からよく言って聞かせます』

 

 頭を下げているのは少年の母親と思しき女性。どことなく雰囲気がマドラインに似ている。

 どうやら着飾った女性が正妻で、頭を下げている女性は側室のようだ。

 

 正妻は高級そうなスーツを着たエルフの男性──専属使用人を連れていた。

 その専属使用人が少年と側室の女性に向かって蔑んだような笑みを浮かべている。

 見ているだけで腹が立ってくる野郎だ。前世で元妻と食事していた間男を思い出す。

 カタリナが生きていたら、ファイアブランド家でもこんな光景が見られたのだろうか。

 

 少年は父親に倉庫まで連れて行かれる。

 父親は自分の息子を貶されて悔しいのを我慢しているような表情だ。

 

『──倉庫で反省していなさい。食事は後で持って行かせる』

 

 子供を倉庫に閉じ込めるとか正気かよ、と思ったら倉庫には先客がいた。

 

『お前も馬鹿だな。数日我慢すればあいつらは出ていくのに』

『ニックス、リオンに勉強を教えてやりなさい』

 

 どうやら先客の少年はニックスという名前で、たん瘤を作った少年はリオン、そしてニックスとリオンは兄弟らしい。

 兄弟はそのままランタンの明かりで本を読み始める。

 

 ──嘘だろ。

 俺はこれまで普通に電灯の明かりで勉強していたのに、この兄弟の勉強風景はまるで中世ではないか。

 しかも兄弟の会話内容がまた理不尽だ。

 

『おや──父さんと奥様は結婚したんですよね?なんで普段は領地にいないのかな?』

『男爵家以上の女性はアレが普通だってさ。嫌だよな。貰うなら絶対に準男爵家以下の家から嫁を貰いたい。まぁ、身分が高い女性からすれば俺たちなんて眼中にないだろうけどさ』

『アレが普通?』

『お前も今のうちにしっかり勉強をしておけよ。でないと、将来は二十歳までに結婚できないぞ。学園で結婚できなかったら、そのまま年増女の後夫になるかもしれないからな。それは嫌だろ?』

『ふ、普通は男性が家の中心では?というか、年上の女性に押し付けられるってどういうことですか?』

『そのままの意味だ。結婚できなかった女とか、男に逃げられた女とか、とにかく夫がいない女だな。愛人だけ、ってのは面子が立たないらしい。だから若い男を後夫に迎え入れる年増女や婆さんが多いのさ』

『普通は男の方が立場は上では?』

『女の方が強いのは父さんを見ていれば分かるだろ。あいつに──奥様に逆らえないのはお前も見ているだろうが』

 

 映像が終わると、他にもいくつか似たような映像が流れたが、どれもこれも顔を顰めたくなる酷い内容だった。

 案内人は再び頭を下げてくる。

 

「ご覧の通り、この世界では家計を支えるのも戦うのも男性ですが、女性の方が権力を握っています。私はエステルさんに生まれながらの勝ち組とお約束しました。その約束を果たしつつエステルさんの望みを叶えるため、このような回りくどいやり方を選択せざるを得なかったのです。説明が足りず、申し訳ありませんでした」

 

 ──そうだったのか。

 そういえば俺は領地の外の世界のことはあまり知らずに生きてきた。

 これがこの世界の実情だというのなら──確かに男に生まれたいとは思えないな。

 何だよあれ。男に厳し過ぎるだろうが。

 前世でも元妻に騙されて搾取されていたが、それより酷い。

 

 女として生きるのも色々苦労はあったし、今も三十路のメタボ野郎との結婚を避けるために知らない浮島へ旅に出させられようとしているわけだが──男としてあんな屑女共に搾取されながら生きるのに比べれば、こっちの方がよっぽど良い。

 この案内人、俺がこの世界で幸福に生きるために色々と考えて取り計らってくれていたようだ。

 

「私を信じるか否かはエステルさんの自由ですが、私はエステルさんが望みを叶え、幸せを掴むことを願っています。それでは、いつまでも時間を止めているわけにもいきませんのでこれにて失礼します」

 

 そう言って案内人は背後に出現したドアを開け、中の暗闇へと姿を消した。

 

 

 

 直後、動き出した親父によって執務机が蹴り倒され、大きな音が響き渡る。

 

「金を稼いだこともない穀潰しが我儘を言うな!お前は金なんていくらでもあると勘違いしているんだろうが、うちの財政は危ないんだよ!この縁談が成立すれば援助を受けられて財政を再建できるんだ!それをお前の勝手で断るなんて、恩知らずにも程があるぞ!」

 

 喚き散らす親父。

 

 逆に俺の方は既に冷めていた。

 

「──分かった。金があればいいんだな?」

 

 親父とサイラスが俺の方を見る。

 

「財政再建できるだけの金が用意できたら縁談を取り消していいんだな?」

「ガキが何言ってやがる。大したこともない剣術を覚えて、勉強がよくできるくらいで金が稼げると思っているんなら──」

 

 言い終わる前に俺は親父の内懐に飛び込んで襟首を掴んでいた。

 そのまま引っ張り下ろして親父の視線の高さを俺に合わせ、至近距離から真っ直ぐに睨みつける。

 

「──今に見てろ」

 

 それだけ言って俺は親父を放し、執務室を出た。

 

 

◇◇◇

 

 

 部屋に戻ると俺はティナに旅支度を命じた。

 

「旅って、無茶ですよお嬢様!鎧一つじゃ空賊に襲われでもしたら──」

「このままじゃ倍以上の年のメタボ野郎に嫁がされるんだよ!俺はそんなの絶対に嫌だからな!」

「めたぼ?で、でも家出は駄目ですよ。もう一度きちんと話し合われて──」

「アイツに話なんて通じない!」

 

 ティナを押しのけてクローゼットを開け、旅行用のトランクを取り出した。

 そこに服やら毛布やら水筒やらランタンやら色々詰めていく。

 修行のために冒険者が使うような服や装備品をいくつも買い揃えていたのが幸いした。

 

 フリフリした部屋着を脱ぎ捨てて、丈夫な麻のシャツとズボンを身に纏い、ポーチが幾つも付いたベルトとナイフを仕込んだガントレットを装着。

 そしてマントを羽織り、手袋を装着し、剣を腰に差した。

 

「ティナ。誰が何と言おうと俺は行く。一緒に来るか、残るかここで選べ」

 

 そう宣告すると、ティナは両手で顔を覆って嘆く仕草を見せた。

 そして──

 

「──無茶ですよ。でも、止めても無駄みたいですね。残ってもどうせロクなことにならないんでしょうし、一緒に行きますよ」

 

 もうなるようになれというやけくそのような表情で荷物を纏め始めた。

 と言っても、メイド服を脱いで私服に着替えたくらいだ。その上にポンチョを羽織って、腰にウェストポーチを着けただけでティナの旅支度は完了だ。

 ──ティナってミニマリストなのだろうか。

 

 まあそれはさておき、問題は屋敷から出る手段だ。

 さっきから扉がうるさくバンバン音を立てている。

 

「エステル!いるんでしょう?開けなさい!ティナ!何をしているの!?」

 

 マドラインが部屋の扉をノックしているのだ。

 部屋の扉からは出られないな。窓から出るか。

 

 シーツを引っぺがし、掛け布団と結び付けてロープを作ると、カーテンフックに結え付けて窓の外に垂らす。

 

「行くぞ!」

 

 そう言って俺はロープを掴んで後ろ向きに窓から飛び降りた。

 前世の特殊部隊さながらの滑り降りだが、今の俺には簡単である。摩擦熱も手袋をしているので気にならない。

 

 ティナはロープなど要らないと言わんばかりにジャンプし、猫のようにしなやかに着地した。獣人ってすげえ。

 

 外に出ると既に陽がだいぶ傾き、薄暗くなっていた。

 

 夜の闇に駆逐されていく夕焼けに背を向けて、まず向かった先は番兵用の倉庫。

 鍵を剣で叩き壊して扉を開けると、中に納められていたライフルを二挺抜き取った。

 それと予備弾倉ベルトと拳銃も拝借する。

 

 これで準備は完全に整った。

 後は格納庫に行ってあの鎧に乗り込んで出発するだけだ。

 

 不意に後ろから太い声が聞こえてきた。

 

「曲者!武器を捨てろ!」

 

 くそッ!番兵に見つかったか。

 

「走れ!」

 

 そう叫んで俺は駆け出した。

 ティナも一瞬遅れて走り出す。

 

「あ!待て!止まれ!」

 

 後ろで番兵が叫び、警笛を吹き鳴らした。

 その音を聞きつけてあちこちから番兵が姿を現した。

 

「緊急事態!武器を盗まれたぞ!捕らえろ!」

 

 最初に出会した番兵が俺たちを指差して叫ぶと、一斉に番兵たちが追いかけてきた。

 だが足の速さなら俺たちの方が上である。

 

「止まれ!止まらんと撃つぞ!」

 

 ライフルを持った番兵が怒鳴ってくるが、そんな物今の俺には全く怖くない。

 

 パン!と乾いた音が響き、ティナが「きゃっ」と小さく悲鳴を上げた。

 だが、弾丸は俺たちには当たらない。

 

「なっ!?」

 

 相手が驚いた声を上げる。

 無理もないだろう。弾丸が()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

「う、撃て!」

 

 その声を皮切りに次々に銃声が上がる。

 撃ってきているのは麻痺系の魔弾らしく、弾丸が黄色い光を曳いている。

 わざわざ視認しやすい攻撃をしてくれるとは好都合なことである。

 

 黄色い曳光弾は片っ端から逸れていき、一発も命中しない。

 

「なぜだ!なぜ当たらない!?」

「どうなってるんだ!」

「何の魔法だ!?」

 

 番兵たちの間に動揺が走る。

 同時に弾倉を撃ち尽くしたのか、弾が飛んでこなくなる。

 

 俺たちは難なく格納庫に辿り着くが、そこにライフルを持った番兵の一個分隊が待ち構えていた。

 

「止まれ!」

 

 向けられた銃口の数にティナが足を止めてしまう。

 だが俺はそのまま番兵たち目掛けて突撃する。

 

「止まるな!後ろをついて来い!」

 

 ティナにそう命じるや否や、番兵たちのライフルが一斉に火を噴いた。

 

 一斉射撃による飽和攻撃なら、と思ったのだろうがそうはいかない。

 放たれた魔弾は全部纏めて上に逸れていったかと思うと、番兵たちに降り注いだ。

 ぎゃあああああああ、と野郎共の悲鳴が響き渡り、続いてドサドサと地面に倒れ込む音がする。

 

 倒れて麻痺状態の番兵たちを踏み越えて俺とティナは格納庫に侵入した。

 

 俺の鎧はちゃんとそこにあった。

 

 入ってきた扉に突っ支い棒をしてから鎧の所へ走り、胸元のハッチを開ける。

 

 操縦桿を握ると鎧が起動し、片膝をついた状態から立ち上がった。

 

 突っ支い棒をした扉がバンバン音を立て始める。

 

「開けろ!開けろ!」

 

 前世の借金取りを思い出す怒鳴り声が扉の向こうから聞こえてくる。

 前世ではその声に怯えながら息を殺して去って行くのを待つほかなかったが、今は違う。

 

「ティナ、膝に乗れ」

「は、はい!」

 

 ティナが遠慮がちに機内に滑り込んでくる。

 さながら小学生が大学生をお姫様抱っこしているような体勢になる。

 

「発進」

 

 鎧が翼を広げ、マゼンタ色の炎を発したかと思うと、一気に格納庫の天井を突き破って飛び出す。

 

 扉を破ろうとしていた番兵たちが唖然としているのが見える。

 

 彼らを尻目に俺はポケットから案内人がくれたコンパスを取り出し、ティナに持たせた。

 そしてコンパスが指している南西方向に向かって飛ぶ。

 

 

◇◇◇

 

 

 番兵からの報告を受けた屋敷は大騒ぎだった。

 番兵用の倉庫が破られ、武器弾薬が盗まれたと思ったら、エステルの部屋の窓からシーツと掛け布団で作られたロープが垂れているのが見つかり、部屋はもぬけの殻。

 そして武器弾薬を盗んだ曲者二人はエステルの鎧がしまってある格納庫に向かった。

 以上から導き出される結論は──

 

「曲者の正体はエステルだ!何としても捕まえて連れ戻せ!」

「は、はっ!」

 

 自身も番兵たちについて走りながらテレンスは命令を下す。

 長い間運動不足で鈍っていたテレンスの身体は悲鳴を上げ、脇腹に鋭い痛みが走る。

 息が上がったテレンスは立ち止まって汗を拭い、毒づいた。

 

「あの馬鹿娘が!」

 

 長じるにつれて殺したいほど憎んだ前妻カタリナに似てくるエステルはテレンスにとって呪いだった。

 カタリナが病気で死んでからテレンスは正妻を娶っていない。

 子爵家としての格を失ったと白い目で見られるリスクと天秤にかけても、新しい正妻を迎える気になれないほどにカタリナとの結婚生活は地獄だった。

 エステルを引き取って育てたのは単にカタリナが「貴方の娘よ」と言ったのを否定する材料がなかっただけである。

 

 そしてカタリナにそっくりで、かつ彼女と違って無力な小娘であるエステルはテレンスにとってカタリナへの恨みをぶつけるのにちょうど良かった。

 エステルに酷い縁談を持ち込んだのもカタリナへの復讐である。

 

 これでエステルがテレンスを慕ってくれる純真無垢な優しい少女だったなら、テレンスにも罪悪感が生まれただろうが、そうはならなかった。

 いきなり剣を習いたいと言い出したかと思えば、ニコラを通じて金や高価な武具をせびり、極めつけに自分の鎧まで用意させたのだ。

 勿論そんなことをしていたのはニコラで、エステルは関知していないが、テレンスの耳にはエステルが修行のためと言って金を浪費していると伝わっていた。

 これだけでも許し難いのに、エステルは事もあろうにテレンスが持ち込んだ縁談を即答で拒否し、おまけに襟首を引っ掴んで凄んできた。

 かつてカタリナやその専属使用人に同じようなことをされたトラウマが蘇り、テレンスは怒りに震える。

 

「どこまで──どこまで俺を苦しめるんだ!カタリナアアアああああああ!!」

 

 悲痛な叫びを上げるテレンスにマドラインが抱きつく。

 

「貴方!落ち着いてください!」

 

 その声を聞いてテレンスはほんの少し、気を落ち着かせることができた。

 

 ちなみにマドラインは事実上テレンスの現妻であるが、騎士家の出身であり、正妻としては認められていない。

 それでも、マドラインはテレンスにとって心の支えだった。

 カタリナに苦しめられていた時も彼女がいたから耐えられた。

 マドラインとの間に男の子が生まれた時はこの上なく嬉しかった。

 叶うなら愛しい人の血が流れるその子を跡取りにと望んだが、自分と同じような苦労を味わせたくないという葛藤もある。それに長男とはいえ、妾腹の子である。跡取りとして認められるかは定かではない。

 

 だから邪魔なエステルを嫁に出してしまうことにした。

 エステルを学園に行くまで家に置いておけば彼女に婿を取らせるように圧力が掛かるに決まっている。

 それを回避し、ついでに相手の家から援助を引き出して財政状況も改善でき、カタリナへの復讐にもなって、まさに一石三鳥──のはずだったのだが、肝心のエステルが逃げ出した。このまま取り逃せば計画が水の泡どころか、ファイアブランド家の沽券に関わる大問題になってしまう。

 

 息を整え、再び格納庫に向かおうとしたテレンスは次の瞬間呆然となる。

 

「エステル様の鎧が!」

「馬鹿な!なぜ飛ばせるんだ!?」

「と、とにかく捕まえろ!あれを盗まれたらエステル様が──」

 

 まだ騒ぎの下手人がエステルであると周知され切ってはいないため、番兵たちは混乱している。

 エステルが鎧を持ち出してまでの家出を本当にしでかしたことにテレンスは頭を抱える。

 そして──

 

「テレンス様、いかがされますか?」

 

 問うてきた番兵の指揮官にテレンスは冷たい声で命じた。

 

「──鎧を出せ。何としてもエステルを止めろ。止められそうになければ撃ち落とせ」

「貴方!?それは──」

「え?撃ち落とせ、ですと?」

「聞こえなかったのか!」

 

 狼狽するマドラインと指揮官をテレンスは怒鳴りつけた。

 マドラインは肩を震わせて黙り、指揮官は慌てて通信機で指示を飛ばした。

 

 程なく六機の鎧が格納庫から空へと飛び立つのが見えた。

 飛び立った鎧はエステルの鎧が発するマゼンタ色の光を追って飛んでいく。

 それを睨みつけるテレンスの目は酷く濁っていた。

 




ちなみに案内人が見せた映像はリアルタイムのやつじゃないです。


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家出 Ⅱ

「延長戦ってか?」

 

 追ってくる六機の鎧を見て俺は呟いた。

 

 俺を捕まえるために数少ない新型を持ち出したらしい。

 さすがに正規軍でも使われている新型とあってスピードが出るらしく、どんどん追いついてくる。

 

 操縦桿を引いて上昇し、高度で振り切ろうとしたが、相手はプロである。

 俺の上昇に合わせて相手も上昇し、高空に先回りしていく。

 

「チッ、駄目か」

 

 高度で振り切ることは諦める。

 雲に紛れて撒くことも考えたが、近くに手頃な雲はない。

 見渡すと遠くに巨大な積乱雲が見えたが、どう考えても辿り着くまでに追いつかれるし、そもそも積乱雲の中を飛ぶなどもってのほかだ。

 積乱雲なんて中に入るどころか、近付くだけで雷に打たれるか、乱気流で揉みくちゃにされるか──どっちにしたって無事では済まない空の超危険地帯なのだから。

 

「結局応戦するしかないってことかよ」

 

 翼を操作して鎧を反転させる。

 

 直後、追ってくる鎧の一機がパイルバンカーのような武器を発砲した。

 放たれた杭──というか、ジャベリンと言った方がいいか──のような武器はミサイルのようにこちらを追尾してくる。

 

 何のこれしき、いくら誘導兵器でも空間ごと捻じ曲げてしまえば当たりはしない──と思っていた俺は甘かった。

 

 ジャベリンは逸れていく直前でいきなり爆発したのだ。

 至近距離での爆発の衝撃で鎧は大きく揺れる。

 

「きゃああっ!」

 

 膝の上に乗るティナが悲鳴を上げて一瞬強く抱きついてきた。

 思わずドキッとするが、それどころではない。

 機体のあちこちにジャベリンの破片が突き刺さって深刻なダメージを受けている。

 右腕の肘から先が動かせなくなり、バイザーにヒビが入ったのか視界が幾条もの線で遮られている。

 

「クソッ!盲点だった!」

 

 爆発物は鏡花水月でも防げないと今になって気付かされた。

 銃弾なら通り道に当たる空間──弾道の周りのチューブ状の空間と言えばイメージできるだろうか──を捻じ曲げて逸らしていたのだが、爆発物にそれは通用しない。

 炸裂すれば全方向に爆風と破片が飛び散るからだ。

 

【挿絵表示】

 

 

 

【挿絵表示】

 

 防ごうと思えば破片の一つ一つに至るまで逸らすか、爆発の加害半径に入る前から逸らすかしか思いつかないが、そのどちらも俺には不可能だ。

 無数に、しかもランダムに撒き散らされる破片の軌道を全部把握し、その周囲の空間を捻じ曲げて逸らすなんて、キャパオーバーもいい所である。

 そして俺が空間を捻じ曲げられる範囲はせいぜい半径二メートル程度。その範囲を出てしまうと捻じ曲げることも()()()()()()()()()できない。爆発物を防ぐにはあまりに心許ない距離だ。

 自身の周囲全てをカバーするように空間を捻じ曲げれば多分防げるだろうが、そんな捻じ曲げ方は俺にはできない。できたとしても俺の方が何も見えなくなるだろう。相手の攻撃は通さないが、光も俺に届く前に逸れていってしまい、俺の視界は真っ暗闇になってしまう。

 

 鏡花水月の思わぬ弱点に動揺する俺だが、幸いなことにあのパイルバンカーは再装填に時間がかかるらしく、撃ってきた奴は後ろに下がった。

 

 これで少しは対策を考える猶予ができたが、代わりに前に出た五機の鎧が次々に発砲してくる。

 放たれるのは炸裂効果を持った赤い魔弾。直撃すれば大抵の鎧を一撃で撃墜する。

 

「殺しにかかって来てやがる──」

 

 複数方向から飛んでくる魔弾を躱しながら俺は毒づいた。

 必死で回避機動を行うが、プロの鎧乗りからすれば拙いのだろう。何発もの魔弾が命中コースを走ってくる。

 それを片っ端から鏡花水月で逸らすが、キリがない。

 

 俺の鎧には武器がないため、反撃は絶望的。となると振り切るしかないが──この鎧は小回りこそ飛び抜けて利くが、速度はそれほど高くない。

 それに相手は回避機動を取っていても当ててくるプロだ。機動で引き離すのも難しいだろう。

 

 どうすれば連中を振り切れるか必死に考える俺だが、鎧の操縦と魔弾を逸らすのに精一杯で思考がおぼつかない。

 だが、不意にティナが名案を思いついた。

 

「お嬢様、さっき──格納庫の時のように敵に打ち返せませんか?」

「それだ!」

 

 俺自身がさっき番兵たちに麻痺系の魔弾を打ち返して返り討ちにしたばかりではないか。なんでもっと早く思い付かなかったんだろう。

 

 そうと決まれば、狙うはあのパイルバンカー持ち。

 回避機動をやめて鎧をまっすぐ飛ばす。

 空中戦では単調な動きは自殺行為だが、照準安定のためには仕方がない。

 

 チャンスだと思ったのか、魔弾を撃ってきていた五機の鎧がタイミングを合わせて一斉に撃ってきた。

 狙う位置を少しずつずらし、目標がどの方向に逃げてもヒットするように撃つのは洗練されたやり方だが、今回は俺の方に利する。

 放たれた五発の魔弾のうち四発は無視し、命中コースを辿る一発に集中する。

 鏡花水月の照準をパイルバンカー持ちの鎧に合わせ、魔弾が俺に命中する寸前に発動。

 

 逸れた魔弾はぐるりとUターンして見事に目標の持つパイルバンカーに直撃した。

 ジャベリンが誘爆したのか、魔弾炸裂の直後に更に大きな爆発が起こる。

 相手の鎧から動揺が伝わってくる。

 だがパイルバンカーを持っていた鎧は一応生きていた。咄嗟にパイルバンカーを手放したようだ。

 だが両腕を吹き飛ばされており、そのまま戦線離脱していった。

 

 取り敢えず厄介なのは排除できた。

 これで残りはライフル装備の五機。

 だが俺の方も鏡花水月を連発して、魔力の使い過ぎで無視できない疲れが出始めた。

 

 鏡花水月のもう一つの弱点は魔力消費が極めて大きいことだ。

 実戦でどれだけ保つのかこれまでは想像するしかなかったが、思ったより限界は早いようだ。

 加えて俺の身体はまだ十二歳であり、使える魔力の量で大人に水を開けられている。

 このままでは相手より先に俺が息切れしてしまう。

 

 捕まったらよくて監禁──いや、考えるならそんな恐怖を煽る妄想じゃなくて打開策だ!

 

 俺が必死で打開策を考えている間に残りの五機は散開したかと思うと、三機がスピードを上げて突進してきた。

 格闘戦に持ち込まれたら一気に不利になる。

 反撃手段がないことを歯痒く思いつつ、俺は回避機動を取る。

 

 だが、忌々しいことに相手の方が一枚上手だった。

 正面から突っ込んでくる三機に気を取られた隙に両脇から二機が襲いかかってきたのだ。

 

 翼に掴みかかってきたのを振り払おうとしたが、逆効果だった。

 両腕を掴まれて関節を固められてしまう。

 満足に身動きが取れなくなった俺は、そのまま突っ込んできた三機にも掴みかかられ、両脚も固められてしまう。

 

「クソッ!放せ!放せよこの野郎!」

 

 必死で手足を動かして抵抗したが、抜け出すことはできない。

 正面に組みついた一機がハッチをこじ開けてくる。

 

『諦めるんですな。エステル様』

 

 蔑みを含んだ声が聞こえてきた。

 

 その声を聞いた時、あの時の悔しさを思い出した。

 ──今まで不幸だった貴方には幸せな第二の人生が待っています。復讐は諦めなさい──案内人(ヤツ)がそう言った時のことだ。

 

 ──諦めろ?諦めろだと?

 俺は一体何度、いくつ諦めれば良いっていうんだ!?

 前世で俺を裏切った元妻と、その元妻を誑かした間男と、横領の罪を俺に擦り付けやがった糞上司への復讐を諦めるというこの上ない屈辱を血涙を流して受け入れて、そしてこの世界に転生して──そして今度は三十路の気持ち悪いメタボ野郎に嫁がされて、産みたくもない子供を産まされる運命を受け入れろ、だと?

 

「ふざけるな!!」

 

 一言怒鳴りつけると、座席の横に積んでいたライフルを手に取り、相手の鎧のバイザーに狙いを付けて引き金を引いた。

 

『ぐっ!』

 

 相手のバイザーにヒビが入り、パイロットが呻き声を上げる。

 封入された術式によって貫通力が強化された魔弾は鎧のバイザーにも有効だった。

 

 すかさずティナもライフルを手に取ってヒビ割れた場所に撃ち込んだ。

 魔弾はバイザーを貫通して頭部の内側で炸裂する。

 

『うあっ!』

 

 視界を奪われた相手の鎧がハッチから手を離し、他の鎧がそいつに気を取られた隙に、俺は鎧の翼から一気に魔力を噴射させた。

 急な回転に対応できず、両腕を押さえていた鎧が振り落とされる。

 

 その機を逃さず、右脚を押さえていた鎧に右腕で肘打ちを喰らわせてバイザーを破壊する。

 自由になった右脚で左脚を押さえていた鎧に踵落としをお見舞いし、頭部を叩き潰したついでに左腕を伸ばして背中に背負っていた剣を奪い取った。

 

 正直賭けだったが、上手くいった。ここからは反撃できる武器を得た俺のターンだ。

 

 こじ開けられたハッチを閉じ、加速して距離を取ると、無事な二機の鎧が追ってくる。

 飛び道具では逸らされると学習したらしく、武器を剣に変えている。

 

 正直疲労困憊だったが、もう一度鏡花水月を使う用意をする。

 普通の剣戟だと相手に一日の長と数的有利があるので、確実に勝てる手で挑まなければならない。

 

 二機の鎧はそれぞれ別方向から同時に襲いかかってきた。

 辛うじて残っている数の有利を活かし、俺が受けようが逃げようが連携しながら追い詰めて仕留める戦術──だがそんな()()()を弄しても、鏡花水月の前には無意味である。

 

 魔力を振り絞り、一機目の鎧の進路上の空間を二機目の鎧に向けて捻じ曲げる。

 一機目の鎧が俺目掛けて剣を振り下ろす直前、急に向きを変えて二機目の鎧に斬りかかったように見える。

 

『ぐあッ!な、何しやがる!?俺を殺す気か!』

『ち、違う!俺じゃない!な、何が起こったのかさっぱり──』

 

 混乱する二機の鎧。

 二機目の鎧は頭部を大きく斬られ、剣が胴体部にまで到達していた。

 間違いなくコックピットの天井を突き破っているだろう。もう戦えない。

 残るは一機だけだ。

 

『ダリル!後ろだ!』

 

 斬られた方の鎧が警告し、ダリルと呼ばれた兵士が乗る鎧は相方に食い込んだ剣を抜くのを諦めて退避する。

 しかし、落ちていく相方が自分の剣をダリルに投げた。

 

 ダリルはその剣をキャッチし、俺の斬撃を防ぐ。

 そのまま俺の剣をいなし、カウンターを放ってくるが、それがダリルの敗因になった。

 

 伸びたダリルの鎧の腕を捕まえ、その肘を俺の鎧の肩に当てて一撃で圧し折る。

 ニコラ師匠が教えてくれた体術だ。

 

 武器と利き腕を失ったダリルの鎧がそれでもなお組みついてくるが、その背中にある重要機構に俺の剣が突き立てられる。

 

 剣が刺さった箇所がバチバチ放電したかと思うと、大量の火花を散らし、ダリルの鎧は痙攣したような動きを見せる。

 火花が消えると、ダリルの鎧は動かなくなった。

 

 蹴飛ばして離れさせると、そのまま海へ落下していく。

 

『何がどうなって──』

 

 落ちていく鎧からそんな声が聞こえたが最後までは聞き取れなかった。

 

 戦いは終わった。

 どっと疲れが襲ってくるが、それ以上の安堵と達成感が湧いてくる。

 

「やった──やった!」

「──本当に返り討ちにしちゃいましたね」

 

 ティナが安堵したような、不安なような複雑な表情で呟く。

 鎧五機に組みつかれてハッチをこじ開けられた時には俺に加勢してライフルで相手の鎧のバイザーを潰していたのに随分と弱気なものである。

 ティナって強いのか弱いのかよく分からないんだよな。

 だが、今日は彼女に色々と助けられた。

 

「ティナのおかげだな。さっきは助かったぞ」

 

 操縦桿から片手を離し、ティナの頭を撫でてやる。

 ちょっと嬉しそうに目を細めるティナ。だが彼女は俺よりもリアリストだった。

 

「それより、もう夜ですよ?どこかに降りるあてはあるんですか?」

 

 今夜の野営地を訊いてきた。

 

 ──しまった。追いかけてくる鎧から必死で逃げ回っていたせいで位置を見失っていた!

 不味い!これって完全に遭難してるじゃないか!

 

 冷や汗がダラダラ出てくる俺を見てティナは察したらしい。

 

「お嬢様──その反応は──ないってことですか?」

 

 恐る恐る訊いてくるティナから思わず目を逸らす。

 

「えええええええ!?迷っちゃったんですか!?」

 

 涙目で縋り付いてくるティナ。

 

 ──どうしよう。

 鎧は長くは浮いていられないので海の上に降りるわけにはいかない。

 日が昇るまで飛び続けることもできない。間違いなく俺が寝落ちするか、魔力切れを起こして墜落してしまう。ティナに鎧は動かせないので、交代で操縦することもできない。

 

 ──いや待ってこれ詰んでないか?

 

「ん?」

 

 ふと視界の隅で何か光ったような気がした。

 鎧の頭を動かして周囲を見渡すと、小さな光が瞬いているのが見えた。星とは思えない。

 

「お嬢様?」

 

 ティナが怪訝な顔をする。

 彼女にも見えるようにハッチを開け、機体を光の方向へ向けた。

 

「ティナ、あの光が見えるか?」

 

 ティナは目を凝らして俺の指差した先を見て──

 

「はい!それにあの光のところに小さな浮島があります!そこに降りられます!」

 

 涙声で歓喜した。

 

「何だって?浮島?」

 

 目を凝らしてみたが、俺には見えない。

 

「確かです。光に向かって飛んでください!」

「あ、ああ、分かった」

 

 断言するティナに従って俺は鎧を飛ばす。

 獣人って夜目利くんだな。普通の人間の目にしか見えないのに。

 

 

◇◇◇

 

 

 予想に反して浮島に辿り着くまでに五分ほど掛かってしまった。

 

 俺たちを導いてくれた光は淡く発光する鉱石が地表に露出していたものだったが、どうにも最初に見た光より輝きが弱い気がする。

 弱目の懐中電灯かイルミネーションくらいの明るさには感じられたのに、実際に見てみると豆球よりも弱い光しか発していない。

 更に不可解なことに、ティナはその光が犬のような形をしていたと言った。だが、光る鉱石はどこからどう見ても犬の形には見えない。

 実に不思議だが、実際俺たちはこうして野営地を見つけられたので、そこまで気にすることもないだろう。

 

 十分あれば歩いて一周できてしまいそうな小さな浮島だが、しっかりした地面があるだけでありがたい。

 ──もしかするとあの光は案内人の加護だったのかもしれないな。いや、きっとそうだ。感謝するぞ案内人。

 

 心の中で感謝してから俺は野営の準備に取り掛かる。

 浮島に人工物はなかったが、大きな木の根本に空洞があり、そこを一夜のねぐらにできそうだった。

 風で飛ばされないためと、雨避けにするのを兼ねて鎧を空洞の入り口に駐機させ、ロープで木に繋いでおく。

 

 周辺から木の枝を拾ってきて炎魔法で火を起こし、焚き火を作ると、ティナがウェストポーチから乾パンを出した。

 味なんてそっちのけで腹を満たすことだけ考えたかのような簡易食を水で流し込む。

 

「それで、これからどこに行くんですか?」

 

 ティナが訊いてくるので、地図とコンパスを見せてやる。

 

「これは?」

「前に手に入れたお宝の地図だ。このコンパスが方向を示してくれる」

 

 地図を覗き込んだティナは驚いた表情になり、耳をビクッと立てた。

 

「こ、これって──【聖域】じゃないですか」

「知っているのか?」

 

 問いかけると、ティナは言い難そうに告げてくる。

 

「私の故郷の近くにある島です。ですが、その──古の魔神が封印されていると言われる【大墳墓】がある島で、私の故郷の人たちは誰も近づきません。それだけではなく、余所者が入ることも決して許しません。上陸して、あまつさえ大墳墓に侵入などすれば、魔神の呪いを受けて殺される──そう言い伝えられています。だから誰も立ち入れない【聖域】になっているんです」

「魔神?それってただの迷信じゃないのか?実際はダンジョン──古代遺跡の類だろ?」

 

 俺の反論にティナはかぶりを振る。

 

「私の故郷の人たちはそうは思っていません。これまでにも何人か聖域の墳墓に入っていった冒険者や貴族の方がいたそうですが──誰も帰ってきませんでした。そのせいで私の故郷の人たちが殺したと疑われ、報復として街を焼かれたこともあったそうです」

 

 ティナはそこで言葉を区切り、俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。

 

「ですから──この島の、この場所に行くことは考え直して頂けませんか?」

 

 ティナの表情は今まで見たことがないようなものだった。

 今にも泣き出しそうなのを必死で堪えているかのような──。

 

「お前の故郷のことなら心配ない。俺がそこに行くと知っているのはお前だけだ。トラブルにはならない」

 

 そう言うとティナはまたかぶりを振った。

 

「そういうことじゃありません。故郷のことは──私にとっては正直どうでもいいことです。私はお嬢様に聖域に行って欲しくないんです。お嬢様に危ない目に遭って欲しくないんです」

 

 ティナの表情は本気で俺を心配しているように見えた。

 専属使用人なんて所詮雇われの存在、金のために愛想良い顔をして言うことを聞いているだけで、心の繋がりなんて期待できないと思っていたが、もしかしたらティナは違うのかもしれない。

 考えてみれば、こうして俺の家出に付き合っている時点で金払いが途絶えることを気にしていないようにも思える。

 

「お前──俺のこと、心配してくれてるのか?」

 

 その問い掛けにティナは頷く。

 

「──もう七年もお仕えしているんですよ。失礼ながら、お嬢様は私にとって雇い主というより──その、妹みたいなものです」

 

 恥ずかしげに言うティナ。

 

「え──?妹?俺が?なんでさ?」

 

 予想外の単語が出てきて戸惑いを隠せない。

 妹って──毎日毎日扱き使って、しょっちゅう性欲をぶつけているのに?

 

 するとティナは自分の身の上を語り出した。

 

「──私には帰る家はないんです。故郷でも親なしって言われて浮いていて、それで故郷を出たんです。でも──知識も技術も財産も何もなくて、他者に媚びることさえ下手な私が故郷を出たところで行く所はありませんでした。結局奴隷商館に自分で身売りしましたけど、買ってくれる人は現れませんでした。買い手が付かない奴隷は商館にとってはただの穀潰しです。店の人に疎まれて、他の奴隷たちからも笑われて──肩身の狭い日々を過ごしてきました。でも、お嬢様に買われて、変わったんです。お嬢様は私をティナと呼んでくださいました。私を求めてくださいました。私に甘えてくださいました。私にお礼を言ってくださいました。私を──必要としてくださいました。それが私にはとても──言葉にできないほど嬉しかったんです。お嬢様が剣の修行を始めなさった時はただの気まぐれだろうと思っていました。ですが、お嬢様は七年間も挫けることなく、一所懸命に剣に向き合い続けられて、そんなお嬢様の姿を見ているうちにいつの間にか私も負けていられないって、そう思うようになったんです。お嬢様にご満足頂けるように努力して、お陰でこの仕事に誇りが持てるようになりました。お嬢様が『俺』という一人称を使うのを最初は直そうとしました。でもお嬢様はそんな畏れ多いことをした私を罰するでもなく、解雇するでもなく、これは俺のアイデンティティだと、そうはっきり仰いました。お嬢様が人前でその一人称をお使いにならなくなった後も、私の前でだけは続けられました。それはつまり私に心を許している、ということだと思った時──失礼ながら、たまらなく愛おしくなったんです。だから──私にとってお嬢様は、主従関係とは別の意味で大切な方なんです。我儘で、突拍子もなくて、手のかかる、でもとても愛おしい──妹みたいに思えるんです」

 

 長い長いティナの話が終わった時、俺はちょっとした罪悪感に襲われていた。

 

 ティナは容姿と雰囲気と気が利くところと触っても嫌な顔ひとつしない従順さが気に入って、特に深い考えもなく買っただけである。

 主人としての接し方にしたって特に慕われるようなことをしたり、心に響くような良いことを言ったりした覚えはない。

 なのにいつの間にかラノベの主人公よろしくティナの心を救い、抱え込んだコンプレックスを乗り越えるきっかけまで与えていた。

 それを言葉で伝えられた上でこうも真っ直ぐに慕われると、どうにもこそばゆい。

 

 だが──それでも、これはせっかく案内人がくれたチャンスなのだ。

 地図に記された場所に行けば、したくもない結婚を回避できて、悪徳領主になる夢に大きく近づけるのだ。

 絶対にふいにするわけにはいかない。

 

「お前が俺のことを大事に思ってくれているのは分かった。正直、その気持ちは嬉しい。でも俺は行くのをやめる気はない。さっきの戦いで分かったんだ。親父は俺が嫁がなければ、俺を殺す気だ。だから俺は戦う。この島のお宝を手に入れて、結婚の話を取り消させる。その方針は変わらない」

 

 ティナは表情を歪め──涙を拭って泣き笑いのような表情になる。

 

「本当に──お嬢様はこうと決めたら誰が何と言おうと突き進む方ですね」

 

 そして覚悟を決めたような表情になり、力強く宣言した。

 

「分かりました。私もお供します」

 

 

◇◇◇

 

 

 戻ってきた鎧の搭乗員──騎士たちの報告にテレンスは目眩がした。

 

 エステルが追跡に当たった鎧六機を全て返り討ちにして逃走。エステルの鎧にも幾らかダメージを与えはしたが、飛行は継続可能──つまりもう追いつけない。

 エステルの家出と彼女を連れ戻す見込みがないことが知られれば、テレンスは終わりである。 

 面子を潰された相手の家は当然報復措置を取る──下手をすれば戦争を仕掛けてきかねない──だろうし、領民たちはただでさえ無いに等しい領主への信頼をかなぐり捨てる。

 

「まさかあいつがここまで──」

 

 今までエステルの我儘を叶え続けて、それでいて彼女のことを見ようとはせず、無視し続けていたテレンスはエステルの実力を把握していなかった。

 その結果、貴重な最新型の鎧を六機も壊され、指揮官の飛槍使い──エステルがパイルバンカー持ちと呼んでいた鎧に乗っていた騎士である──が愛用の発射砲を破壊された上に全治二ヶ月の重傷という甚大な被害を出してしまった。

 

 騎士が駆る鎧六機を返り討ちにしたエステルの力に恐怖し、自身の失策を嘆くテレンスだが、起こってしまったことはどうしようもない。

 

「エステルの家出は可能な限り隠し通せ。部下たちには緘口令を。もしエステルが一ヶ月以内に戻ってこなければ死んだということにする。それ以降に戻ってきた場合は──消えてもらう」

 

 冷酷な命令に眉をひそめる騎士たちだが、テレンスは必死である。

 カタリナが死んでようやく手に入れた平穏な生活をエステルによってぶち壊されるわけにはいかないのだ。

 一ヶ月以内に戻ってきたなら有無を言わさず嫁がせ、戻ってこなければ病死したと発表し、それ以降にひょっこり戻ってきた場合は辻褄を合わせるため死んでもらう。これがファイアブランド家の方針となった。




パイルバンカー
魔法で誘導飛行させるスピアに任意のタイミングで起爆可能な炸裂弾頭を搭載したものを発射するって設定。
パイルバンカーから発射する理由は加速に魔力を使わないで済む(ぶっちゃけ浪漫)から。


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渡る世間の鬼は斬り捨てる

 案内人から地図とコンパスを貰って冒険の旅に出た翌日。

 

 起きて朝食を食べた後にまずやったのは鎧の修理だった。

 修理といっても精々突き刺さった破片を抜くくらいしかできなかったが、動かなくなっていた右腕は動くようになった。

 

 ティナによると、聖域に行くには飛行船に乗って一週間はかかるとのことだった。

 食糧と水の補給が必要だし、できれば鎧が積めるサイズの飛行船があった方が安心だと言うので、定期航路の寄港地へ向かうことにした。

 

 野営を畳んで鎧に乗り込む直前、はたと思い出して昨夜俺たちをこの浮島に導いてくれた光る鉱石の所へ行った。

 光る鉱石って綺麗だし、何となくお守りになりそうだったので、少し採掘して持って行こうと思ったのだ。

 

 趣味で鉱石収集とかやるのも良いかもしれないな。

 領民から搾り取った血税を投じて、綺麗なだけの馬鹿高い石ころを買い漁る──実に悪徳領主らしいじゃないか。

 

 

◇◇◇

 

 

 定期航路の寄港地──アクロイド男爵領にやってきた俺たちは鎧を港町の郊外の林に隠し、ひとまず質屋に向かった。

 屋敷を出た時にトランクに詰め込んだアクセサリーを換金して現金を用意するためだ。

 

 さして興味もないのにネックレスやらブレスレットやらイヤリングやらを与えられることには辟易していたが、今になって役に立ちそうだ。

 実際かなりの金額にはなった。ざっと一万五千ディアほどだ。

 

 現金を手にした俺たちは港にあるジャンクヤードに向かった。

 ジャンクヤードは【スクラッパーギルド】なる廃品処分業者の組織が運営しているリサイクルショップみたいな場所で、飛行船で旅をする者たちにとってのオアシスらしい。

 処分された飛行船から回収された部品から軍払い下げの鎧や飛行船まで格安で買えるのだそうだ。

 ──どう見ても粗大ゴミ処理場にしか見えないが。

 

 とりあえずスタッフの青年を捕まえる。

 

「飛行船を買いたいんだが、どこに置いている?」

 

 スタッフは一瞬訝しむような視線を向けてきたかと思うと、掌をひらひら振って俺たちを追い出そうとしてきた。

 

「おいおい、そのナリでしかもたった二人で飛行船を買いたいだって?冗談はやめてくれよ。ここにはちびっ子のための玩具は売ってねえんだ」

 

 カチンときた。

 確かに俺はまだ十二歳の少女で子供扱いされても仕方がないかもしれないが、接客態度がなっていないのは腹が立つ。

 スタッフのシャツを掴んで体術で引き倒し、ガントレットに仕込んだ飛び出しナイフを展開して喉元に突きつけてやった。

 

「これでもちびっ子に見えるか?私は冒険者だよ」

 

 凄むと、冷や汗を流すスタッフが被りを振って謝罪してきた。

 

「ひっ!も、申し訳ありません!直ちに案内致します!」

 

 大の大人が少女相手にヘコヘコするのを見て少し気が晴れる。

 そうか、これが暴力の快感なのか。──堪らないな。

 

 二分と経たずに営業スタッフが来て俺たちに応対した。

 脅しつけてやった青年スタッフから口利きがあったらしく、舐めた真似はせずにすぐに案内してくれた。

 売り物の飛行船が置いてあるのはジャンクヤードの端っこにあるマリーナで、そこまでの道をしばらく歩かなければならないようだ。

 

 粗雑な丸太と板で造られたペデストリアンデッキを歩いていくと、無数の飛行船が繋がれた桟橋が見えてきた。

 飛行船の形は様々だ。

 前世でも見たような形のものや、普通の水上船のような姿をしたもの、箱型のものまである。

 

「大きさは如何程をお望みでしょうか?」

 

 揉み手をしながら媚びるような声で尋ねてくる営業スタッフ。

 ──良い。実に良い。媚びてくる奴は大好きだ。

 

「一機で良いから鎧が積めるくらいだ。いや、大きさを考えると二機分のスペースは欲しいところだな」

「さ、さいですか。ではこちらへどうぞ──」

 

 営業スタッフは飛び出しナイフを収納したガントレットを気にしつつも桟橋の一つに俺たちを案内し、そこに繋がれていた飛行船の一隻を指差した。

 

「こちらはいかがでしょう?一般的な鎧なら二、三機程は余裕で積み込めます。浮き袋はバルジ式ですから空気抵抗が少なく、スピードも出ますよ」

 

 営業スタッフが勧めてきた飛行船は前世の水族館で見たハコフグのような形をしていた。全体的な造形もそうだが、舵板や安定翼がヒレにそっくりだ。

 操舵室と船室が前方にあり、その後ろは大きな貨物室。貨物室の天井全体がハッチになっていて、大きな荷物も入るようになっている。これなら俺の鎧も楽に積めそうだ。

 貨物室が大きい分、船室はかなり狭いが、前世で最期を迎えたアパートくらいのスペースはあるし、今の俺はあの時の俺よりだいぶ小柄だ。

 特に汚れや異臭もないし、旅の間の居住性には問題ないだろう。

 見るからに再利用パーツの寄せ集めと主張しているかのような、継ぎ目だらけのオンボロな見た目は癪だが、この際選り好みはしていられない。

 それに見たところ周りの飛行船もドングリの背比べでこれはと思える船はない。

 

「いいな。いくらだ?」

「えっと、よろしいのですか?他にも何隻かありますが?」

「それはコイツの値段を聞いてから考える。いくらだ?」

「アッはい。一万ディアでございます」

 

 ──それって安いのか?それとも高いのか?

 飛行船の相場は知らないが、どうであるにせよ予算の三分の二が吹っ飛ぶのはあまり良い気分ではない。

 迷っていると、ティナが値引き交渉を持ちかけてくれた。

 

「八千にできませんか?それなら今ここで一括払いできますが」

「お客様、八千はさすがに無理な相談でございます。せめて九千でお願いしたく──」

「──八千二百では?」

「──八千八百」

「──八千三百」

「八千七百で」

 

 渋る営業スタッフに俺も値引き交渉に割り込んだ。

 

「じゃあ八千五百でどうだ?サービスとかオプションは一切なしでいい」

「──よろしいでしょう」

 

 営業スタッフはようやく折れた。

 

 用意された伝票にサインして八千五百ディア渡し、受領証明書にサインして取引は終わり。前世で言うなら自転車を買うレベルの手軽さで飛行船が買えるこの世界はちょっとおかしい気もするな。

 

 早速乗り込むと、操舵室に入り、マニュアルを読みながらエンジンを始動する。

 船尾のプロペラが回り始めたのが音で分かる。

 気を利かせたスタッフがもやい綱を解いてくれた。

 

 慎重に飛行船を離岸させ、少し試運転する。舵の効き具合とか、細かい操作方法とかを確かめないと事故が怖い。

 

 だいぶ勝手が分かってくると、ジャンクヤードを離れて鎧を隠した場所に戻った。

 鎧を貨物室に収容すると、補給物資を買うため、港に向かう。

 

 

◇◇◇

 

 

 桟橋に飛行船を繋ぎ、役人に停泊料を納めてから商業地区に行った。

 

 商業地区は繁華街と言っても良いほど所狭しと色々な店が並んでいた。殆どは飲食店だが、時々魔装具やら小道具を売っている店もある。

 だが俺たちが探しているのは船旅用の食糧と飲料水、そして聖域探索に使う鉈とかスコップとかピッケルといった冒険道具なのだ。

 

 通り沿いの店を物色しながら歩いていると、不意に目の前に出てきた奴に道を塞がれた。

 ヘラヘラした笑みを浮かべた、見るからに軽薄そうなその男は馴れ馴れしい口調で話しかけてきた。

 

「よう姉ちゃん、可愛いな。ちょっとお茶していかねえか?」

 

 回りくどい誤魔化しや飾りは抜きにして、二言で纏められた実にシンプルな提案。

 ──ナンパだ。俺じゃなくてティナへの。

 ティナが可愛くて魅力的なのは分かるが、俺の専属使用人を口説こうとは良い度胸だ。

 

 だが俺が何かするより先にティナは無視して俺の手を引いて歩き出す。

 余計なトラブルを起こしたくはなかったのだろうが、この手のナンパ野郎は無視すると逆効果になるような気がする。

 

 実際男はさらに距離を詰めてきて、気持ち悪い猫撫で声を出してきた。

 

「おいおい、無視するなんてつれねえじゃねえか。奢るぜ?そこの可愛い嬢ちゃんの分もよぉ〜」

 

 そしてティナの腕を掴んできたのだが──

 

 

「触るな!!」

 

 

 ティナは叫んで男の手を振り払った。

 

 俺も男も呆気に取られる。

 その乱暴な行動とティナの姿が繋がらなかった。

 いつも緩い表情と優しい声でほんわかした雰囲気を纏っていたティナが嫌悪感を露わに相手を拒絶した──その現実を認めたくなくて意識が停滞したのだろう。

 

 そして俺より先に我に帰ったのはナンパ男の方だった。否、我に帰ったというのは不正確だろう。

 

「テメェ調子乗ってんじゃねえぞ!獣人(ケモノ)が!」

 

 男はドスの効いた声で怒鳴ったかと思うと、ティナを突き飛ばした。

 ティナは小さく悲鳴を上げて尻餅をつく。

 その瞬間、猛烈な怒りが沸き起こり、俺は意識の停滞から解放された。

 

「舐めたマネしやがってこの──」

 

 そう言ってティナに詰め寄る男の腹に拳を叩き込む。

 魔法で強化された俺の拳は大の大人でも軽々と殴り倒せる。

 

「ぐはっ!」

 

 男は泡を吹いて仰向けにぶっ倒れ、腹を抑えて痙攣する。

 

「──その汚い口を閉じろ」

 

 いつの間にか野次馬が周りに集まってきていた。

 

「行きましょう、お嬢様」

 

 ティナが小声でそう言い、俺の手を引いてさっさと歩き去ろうとするが、その前に立ちはだかる奴──否、奴らがいた。

 

「オイオイオイオイ、ちょ〜っと待ちな?」

「ダチに何してくれちゃってんの?ねぇ?」

「まさか人を殴って逃げるつもり?良くないよね〜」

 

 ふざけたような間延びした口調で喋っているが、明らかにこちらに対して敵意を持っている男たちが三人。

 リーダーと思しき長身痩躯の男と、筋肉モリモリマッチョマンの変態という言葉が似合いそうな大男と、腰巾着臭がプンプンする細目の男だ。

 どうやら連中は冒険者らしく、刺々しい装飾のついた厚手の服を纏い、腕にはガントレットを装着し、腰には剣を差している。

 こちらを囲むように位置取り、腰に当てた手はすぐに剣を抜ける位置にある。

 

 ティナが叫ぼうとするが、腕で合図してやめさせる。この程度の相手に怖気付いて助けを求める理由など俺にはない。

 

「アイツの仲間か?ならさっさとアイツを連れて失せろ。こっちは暇じゃないんだ」

 

 他所の領地であまり揉め事を起こしたくないが故に平和的解決を提示したのだが、彼らの低俗な頭では理解できなかったようだ。

 

「ああん!?」

 

 正面にいたリーダーが額に筋を浮かべて地面を踏み鳴らした。

 

「人を殴っといてお詫びの一つもなしにそれはちょ〜っとないんじゃな〜い?」

「だな」

 

 ニヤニヤしている腰巾着とマッチョはさっきより距離を詰めてくる。

 だが、さっきのナンパ野郎よりは利口なのか、こちらのリーチにはギリギリ入らない絶妙な距離を保っている。

 

 ──怒りがどんどん滾ってくる。

 コイツらを見ていると前世の借金取り──の中にいたチンピラを思い出すのだ。

 

「先に私の連れに乱暴したのはお前らのアホなお仲間の方だ。もう一度言うぞ。失せろ」

 

 最後通告を発したが、男たちはまともに受け取らない。

 

「ギャハハハ!こえーこえー!」

「弱い犬ほどよく吠えるってこーゆーことだな!」

 

 ──鏡を見ろとこれほどまでに言いたくなったのは初めてだ。

 

 リーダーが剣の柄に右手をかけてニヤニヤしながら言ってきた。

 

「うるさい子犬ちゃんにはお仕置きが──」

 

 奴が言い終わらないうちに地面を蹴って飛び出し、斜め上に振り抜くように剣を抜いて奴の右手首を切断した。

 奴の右手は抜刀の動作を完遂することなく、柄が握られた剣は鞘に収まったままだ。

 

 男は呆然としていたが、急に顔を歪めて喚き出した。

 

「うわああああああああああ!手が!お、俺の手がぁぁぁあああ!!」

 

 血が流れ出る右手首を押さえて泣き喚くリーダーの男。

 馬鹿な奴だ。最初から俺の言った通りにアホなナンパ野郎を連れて俺の視界から消えていれば、利き手を失くさずに済んだものを。

 ま、所詮弱そうな相手を集団でいたぶって粋がる頭が悪くて肝っ玉の小さい男だ。

 初対面の、しかも肉体は十二歳の少女である俺の力量を見抜けというのも酷な話か。

 

「リック!てめぇよくもリックを!」

「やりやがったなこのォ!」

 

 残り二人が剣を抜いて向かってきたが、この程度の相手に鏡花水月を使うなど勿体ない。

 脚に魔力を込めて跳躍し、振り下ろされた剣を躱すと、マッチョの背後に降り立ち、回れ右の動作で斬りつける。

 

「ぐああああああああ!!」

「メルル!?」

 

 太腿の裏側を斬られたメルルというらしいマッチョが悲鳴を上げて倒れ込む。

 

 それを見た腰巾着が人質にしようと思ったのか、ティナに掴みかかるが、彼女に思い切り腹を蹴られてくの字に折れ曲がる。

 そこにすかさず追撃の膝蹴りを顎に入れるティナ。

 

 悲鳴一つあげることもできずに腰巾着は地面に倒れた。

 実に呆気ない戦いだった。

 基本の型通りの動き一つで倒せてしまうとは、やはり粋がるだけの雑魚だった。

 

 剣に付いた血を気絶した腰巾着の服で拭って、剣を鞘に戻そうとしたが──

 

「あ、あれ?」

 

 上手く入らない。

 剣を握った手が手首ごと凝り固まったかのように動かず、それでいて小刻みに震えている。

 そのせいで剣先がブレて、鞘口に入らない。

 

 それを見たティナが俺の正面にやってきて膝をつく。

 

「──失礼します」

 

 そして動かなくなった俺の指を一本一本丁寧に柄から離し、剣を俺の代わりに鞘に戻してくれた。

 

 一瞬寒気を感じて身体が震える。

 気付けば俺は随分と汗をかいていた。

 

 ──人を斬ったことに恐怖でもしているのか?

 悪徳領主になろうとしているのに、なんと情けない。

 

 思い切り被りを振って汗を振り払う。

 そしてティナに「行くぞ」と言って大股で歩き出す。

 

 周囲の野次馬たちは呆気に取られていたが、慌てて俺たちのために道を開ける。

 

 

◇◇◇

 

 

 商業地区を出た俺たちは人がまばらな公園に入った。

 

 池の水で剣とマントに付いた返り血を落とす俺にティナが心配そうに訊いてくる。

 

「お嬢様、何もわざわざ剣を抜かなくてもよろしかったのではありませんか?」

 

 奴らを斬らなくても叫んで助けを求めていれば誰も傷付かずに済んだと、そう言いたいのだろうか。

 だが、俺に前世のトラウマを思い出させた時点であいつらの判決は死刑だ。

 渡る世間は鬼だらけだが、今世では俺の前に立ち塞がる鬼は全て斬り捨てる。

 

「あれだけ野次馬がいて逃げなかった連中だぞ?あれ以外に方法があったとは思えないな」

「でも、あれは正当防衛とは見做されませんよ。下手をすればお嬢様が逮捕されかねません」

「ティナ、忘れたのか?俺は貴族、それも子爵家令嬢だ。そしてお前はその専属使用人。賤しいならず者が貴族令嬢の使用人を口説いて、断られたら逆上して狼藉を働き、おまけに主人の令嬢共々複数人で囲んで武器を向けようとした。斬り捨てられても当然だろう?」

 

 懐から懐中時計を出してヒラヒラ振りながら俺は言う。

 懐中時計の蓋には俺の名前とファイアブランド家の家紋が彫ってある。今現在家出中の俺が身分を証明できるものだ。

 それを掲げる俺にティナは言い返してこない。

 

 無理もない。俺が言ったことは間違いではないからな。

 この世界は人治国家であり、厳然たる身分制が存在している。だから命の重さにもれっきとした差がある。

 チンピラ如きが貴族令嬢に喧嘩を吹っ掛けた時点でそいつの人生は終わりだ。そうとは知らなかった、などという言い訳は通用しない。

 

 もし捕まったら俺はこの懐中時計で身分を明かすつもりだ。

 ついでに男爵家の分際で子爵家令嬢に対する扱いがなっていない、とでも嫌味を言ってやるか。

 ま、捕まるつもりは毛頭ないけどな。

 

「まあでも、俺のことを心配してくれるのは嬉しい。それと、さっきはありがとうな」

 

 頭を撫でてやると、ティナは耳を伏せて目を細める。

 

「もう、お嬢様ったら──」

 

 そう言いつつも尻尾が上を向いて微かに動いている。──狐娘なのに妙に犬っぽいな。

 

 

◇◇◇

 

 

 返り血を落としたマントが乾いてから俺たちは商業地区に戻り、水と食糧と道具を無事手に入れた。

 かなりの量になったので馬車で俺たちと一緒に桟橋まで届けてくれるサービスを頼み、店員とティナが荷造りしている間、店先で時間を潰していたら──派手な色の軍服を着た一個中隊ほどの兵士たちが走ってくるのが見えた。

 

「急げ!リック様を殺した犯人を取り逃したら領主様のお立場に関わるぞ!何としても探し出し、引っ捕らえるのだ!」

 

 隊長と思しき男の言葉に兵士たちは応で答える。

 そのまま特に俺に目を向けることもなく走り去ったが、さっきの台詞が妙にはっきりと耳に残った。

 リック様という呼び名は、さっき俺が手首を切り落としてやったチンピラトリオ──いや、ナンパ野郎を入れたらカルテットか?──のリーダーの名前と一致する。

 

 はっきりしたわけではないが──あのチンピラのリーダーは死亡し、それが殺人事件として捜査されているのではないか?

 

 だとすれば不味い事態だ。

 街中での喧嘩や強盗、刃傷沙汰などありふれているのに、軍まで動員して犯人を探すということは──あのチンピラ共はただの質の悪い冒険者ではなかったということだ。

 

 まさか──貴族だったのか?

 領地で貴族と取り巻きが何者かに斬られて、領主が面子を守るために犯人を捕まえようと躍起になっているということなら──さっきの兵士たちの言葉と辻褄が合う。

 そしてあのチンピラ共が出来は悪くとも貴族だったなら──捕まった時に身分を明かすという対処法が使えない。下手をすれば俺の方が処刑されかねない。

 

 冷や汗を流す俺に店員が声をかけてくる。

 

「準備できました。お乗りください」

 

 店員が用意した馬車には幌が付いていた。

 取り敢えず検問にでも引っ掛からなければ見つかる心配は無さそうだが、油断はできない。

 平静を装って馬車に乗り込み、なるべく外から見えない位置に腰を下ろす。

 

 御者が手綱を打ち付け、馬車が動き出す。

 検問に引っ掛からないことを祈りながら、武器の確認をする。

 元々捕まるつもりはなかったが、絶対に捕まるわけにはいかなくなった。

 

 

 

 馬車が港に近い所まで来た時、不意に馬車が止まった。

 外から太い声が聞こえてくる。

 

「検問だ。馬車の中を見せろ」

 

 ──恐れていた事態が起きてしまった。

 

 幌が開けられる。

 中に乗り込もうとしてきた兵士と目が合った瞬間、その顔に思い切り蹴りをお見舞いする。

 

「ぐあっ!」

 

 相手が尻餅をついたのが気配で分かる。

 

「ティナ、後ろは頼んだ!」

「ええっ!?」

 

 俺はティナの返事を待たずに御者席に移動し、御者の店員を車外に蹴落とした。

 

「わっ!な、何を?」

 

 地面に転げ落ち、慌てる店員を無視して俺は手綱を握り、馬車を発進させた。

 

「あ、待て!止まれ!」

 

 兵士たちが馬車を止めようと立ち塞がるが、構わずに突撃する。

 ぶつかる直前で兵士たちは脇に飛び退いた。

 そのまま検問所を突破して港へと走る。

 

「お嬢様、騎兵隊が追ってきています!」

 

 ティナが叫んできた。

 騎兵は面倒だな。馬車より速度が出るだろうし、振り切れない。

 

「代われ!」

「え?は、はい!」

 

 ティナが御者席にきたので、手綱を渡し、荷台に移動する。

 後ろを見るとなるほど、馬に乗った兵士たちが警笛を吹き鳴らしながら追ってきている。

 その数六騎。

 

 先頭を走っていた三騎がカービンを構え、発砲してきた。

 飛んできた三発の弾丸は魔弾と違って視認できない実弾だったが、銃口の向きから弾道を読み、魔力で存在を認識して鏡花水月で難なく打ち返す。

 

「「「うわあああっ!」」」

 

 打ち返された弾丸が当たったのは兵士ではなく馬。

 馬たちはほとんど同時に横倒しに倒れ、乗っていた兵士たちは地面に投げ出される。

 倒れた馬たちには気の毒だが、将を射んと欲すれば先ず馬を射よと言うし、兵士に当ててしまうとちょっと洒落にならない。

 

 クソッ!こんな騒ぎになると分かっていたらもうちょっと穏やかに──いや、無理だな。

 最初に絡んできたのはあの馬鹿共の方だし、反撃していなければ俺もティナも酷い目に遭っただろうし、リック様とかいう奴が本当に貴族なら、泣き寝入りさせられていたかもしれない。

 つまり、俺の選択はあの時俺が取れた唯一の道で、今追われているのも決まっていた結末だったというわけだ。ツイてない。

 

 さて、三騎が脱落した騎兵隊だが、さらに六騎が加わり、結果的に数が増えた。

 今度は安直に撃ってくるのではなく、両脇に回り込んで馬を撃とうとしている。

 

 だが生憎とそうはいかない。

 鏡花水月で敵騎兵の進路上の空間を弄ると──

 

「うわっ!」

「危ない!」

「ぐはっ!」

「ぐえっ!」

 

 騎兵たちは互いに衝突してバタバタ倒れていった。

 

 これで追ってきていた騎兵は排除できたと思いきや、ティナが叫ぶ。

 

「待ち伏せです!」

 

 直後、馬車が急に左折し、俺は危うく馬車から落ちかけた。

 

 銃声が響いたかと思うと、新手の騎兵が三騎追いかけてくる。

 角を曲がり切る直前、道を遮る大きな荷馬車がチラッと見えた。

 ティナは荷馬車を避けるためにやむなく左折したようだ。

 その咄嗟の判断は確かに正しい。俺を振り落としかけた罪は不問にしよう。

 

 そして追ってくる新手の騎兵たちに鏡花水月を使おうとしたその時、不意に一騎が倒れた。残りの二騎も何かに足を取られたかのように倒れ、発動した鏡花水月は不発に終わった。

 

 何事かと思って周囲を見渡すと、馬車と併走する馬が一頭いるのに気付いた。

 その背にはローブを羽織り、フードで顔を隠した明らかに騎兵ではない人物。

 

「ついてきてください!」

 

 謎の人物はそう叫んで馬車の前へと出て行く。

 従うかどうか少し迷ったが、すぐにその迷いを断ち切る。

 どこの馬の骨とも知れない怪しさ満点の奴──声からすると多分女──だが、おそらくさっき騎兵たちを倒したのはこいつだ。

 

「ティナ、あいつを追え!」

「はい!」

 

 何かあるにしてもこの際乗ってやれと思い、謎のローブ女についていくことにした。

 

 

 

 そのまま馬車はいくつもの角を曲がり、複雑に入り組んだ路地を走り抜け、いつの間にか港町の外れに出た。

 

 どうやら追っ手は振り切れたようだ。

 上空には俺たちを探しているらしい鎧の姿もあるが、町の中心部上空をうろうろしているばかりでこちらに来る気配はない。

 

 ローブ女が小さな波止場に停めてあった飛行船に俺たちを手招きした。

 

 飛行船の前で馬車を止めると、ローブ女は馬を下りてフードを脱いだ。

 現れたのは──金髪に薄い水色の瞳の美女。

 

「ここまで来れば安全です」

 

 彼女はそう言って馬車に近づいてくる。

 そして俺が馬車から降りやすいように手を差し伸べてきた。

 その手を借りて馬車から降りると、思ったより彼女は背が高かった。

 

「えっと──なぜ助けてくれたのですか?」

 

 いつでも剣が抜けるように気を配りながら質問する。

 

 すると彼女は片膝をついて俺と目線の高さを合わせて答えた。

 

「貴女が妹の無念を晴らしてくださったからです」




ナンパ断ったらブチ切れて怒鳴ってくる奴マジ何なの──


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聖域へ

 時計の針は少し戻って、エステルたちが公園で返り血を落としていた頃。

 

 屋敷の執務室で書類仕事をしていたアクロイド家当主【モーリス・フォウ・アクロイド】は悶々としていた。

 

 理由は客人として滞在している【リック・フォウ・ノックス】である。

 彼はアクロイド家が頼りにしているノックス子爵家の息子であり、跡取りでこそないが正妻の子である。

 

 リックは交易で潤っているアクロイド領を気に入り、度々遊びに来ていた。

 それだけならまだいいのだが、彼の態度は目に余る。

 部屋を用意して食事も出しているにも関わらず、滞在費などびた一文払わず、毎日のように取り巻きたちと遊び歩いては、引っ掛けた女を屋敷に連れ込んでいる。

 

 領民たちからもちらほら苦情が上がってきており、正直言ってすぐにでも追い出したい。 

 だがノックス家の庇護によって平和と繁栄が保たれているという負い目から言いたいことも言えなかった。

 内心いつになったらリックが出ていくのかと思いながらモーリスは黙々と書類に判を押していく。

 

 と、不意に扉が激しくノックされ、判を押す位置がずれた。

 音の主は街の警邏を統括する騎士である。

 

 一体何事だ、ノックの力加減も忘れよって、と不機嫌になりながらも入室の許可を出す。

 入ってきた騎士は大慌てだった。

 

「男爵、一大事にございます!リック様と連れのメルル様が港町で殺害されました!」

「何だと!?」

 

 モーリスは思わず机を叩いて立ち上がる。

 

「何があった!」

 

 事の経緯を問うたモーリスに騎士はハンカチで流れ出た冷や汗を拭きながら答える。

 

「目撃者の証言によると、リック様の取り巻きの一人が二人連れの女性を口説こうとしたところ、揉み合いになり、リック様と残りの取り巻きがその場に介入されたとのこと。リック様たちが件の女性二人を取り囲んだところ、女性の一人が剣を抜き、リック様の右手を切断したそうです。その後その女性は応戦したメルル様も負傷させ、もう一人の女性と共に逃走。リック様とメルル様は救護所へ搬送しましたが、失血死が確認されました」

「何たることだ──」

 

 たしかにリックにはいなくなって欲しいとは思っていたが、領内で死んでもらいたかったわけでは断じてない。

 むしろリックがアクロイド領内で死亡するのは最悪の事態である。まして病死や事故死ではなく、殺されたとあってはアクロイド家の面子が丸潰れ──どころでは済まない。

 

「すぐに港を封鎖しろ。何としてもリック殿を殺めた犯人を捕らえるのだ。さもないと我が領地が存亡の危機に陥るぞ」

 

 モーリスの命令を受けて騎士は部屋を駆け出していく。

 それを見送ったモーリスは力が抜けたようにどさっと椅子に座り込んだ。

 そのまま俯いて頭を抱える。

 

 

◇◇◇

 

 

 目の前で片膝をついて俺に感謝してくる金髪の美女に俺は困惑する。

 

「無念?それってどういうことですか?」

 

 俺の問いかけに美女は目を落とす。

 

「妹は──貴女が斬ったリック・フォウ・ノックスの誘いを断ったという理由で奴とその仲間に(かどわ)かされ、辱めを受けたのです。奴は子爵家の嫡出子、私たちはその家に仕える騎士家の娘。事は揉み消され、妹は泣き寝入りを強いられました。それ以来、彼女は部屋に閉じこもったままです」

 

 ──マジか。あのリックとかいうチンピラ野郎、子爵家のボンボンだったのかよ。

 そりゃアクロイド男爵家が躍起になって犯人を探すわけだ。領内で他家──それも子爵家の息子が斬られたなんて知れたら、間違いなく子爵家からの報復が待っている。

 ──捕まらなくてよかった。

 もし捕まったらリックの実家に突き出されて処されるだろう。

 

「ですから、私自身の手で復讐すべく、リックを追っていたのです。彼らへの復讐を果たした後はいかなる裁きも甘んじて受ける覚悟でしたが──思いがけず貴女がそれを代行してくださいました。奴は妹を辱めたその手を切り落とされて失血死したとのこと。そして彼に断罪の刃を突き立てた貴女が追われているのを見過ごせず、助太刀致しました」

 

 そして美女は立ち上がり、飛行船を指差して言った。

 

「港を目指しておられたようですが、もはや陸路で港に入ることは不可能です。私の飛行船にお乗りください。空路であればまだ入港する飛行船に紛れて港に入れます」

 

 それはありがたい。

 断る理由もないので俺はその申し出を受ける。

 

「感謝します」

 

 ティナに合図して荷馬車に積まれた荷物を降ろさせ、三人で飛行船に運び込んだ。

 

 それにしてもこの美女、偶然とはいえ他人が仇を討ってくれたのだから、そいつ一人に咎を背負わせて去ってもいいだろうに、わざわざ危険を冒して助けに来るなんて──馬鹿なのか?

 下手をすれば逃亡幇助の罪で諸共に捕らえられて処罰されるばかりか、実家にまで累が及びかねないのに。

 

 それでも──心の奥底では嬉しいという気持ちが頭をもたげる。

 前世で俺が身に覚えのない罪を擦り付けられた時、誰も助けてはくれなかった。

 借金取りに追われるようになってからはそれなりに関わりがあった連中も逃げるように俺から去っていった。

 あれ以来もう人間は信用しないし、期待もしない──そう思っていたのだが、見ず知らずの俺をこの騎士の娘は助けてくれた。

 本当にどうしようもなく馬鹿で、義理堅くて、家族思いな騎士の鑑だ。

 

 異世界転生して初めて、俺は案内人とティナと師匠以外の人間に感謝した。

 

 

 

 騎士の娘の飛行船で桟橋に行き、俺の飛行船に買い込んだ物資を運び込み、いざ冒険の再開──というところで待ったがかかった。

 騎士の娘──【アーヴリル・ランス】と名乗った──がついてくると言い出したのだ。

 

 彼女は俺たちには他の旅仲間がいるものと思っていたらしく、俺たちが二人だけで旅をしていると知って驚愕していた。

 そしてなぜ二人だけで船旅をしているのかと尋ねてきた。

 

 仕方なく俺はアーヴリルに自分の身の上を掻い摘んで話した。

 彼女はその話を聞いてドン引きしていた。

 そりゃそうだろう。家の財政を再建するためと言って娘を三十路のメタボ野郎に売りつけようとしたばかりか、その娘が家出したら軍隊を動員して抹殺にかかる親父の神経はこの高潔な騎士には理解できないだろう。

 

 そして彼女は俺たちを見過ごせないから一緒に行くと言い出した。

 正直、これ以上旅仲間なんて要らないのだが、下手に追い返して俺たちのことを誰かに話されても困るので仕方なく連れて行くことにした。

 こうして、旅仲間に騎士の娘アーヴリルが加わり、俺たちは三人旅となったのだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 貨物船のブリッジで舵輪を握るアーヴリルはまだ驚愕が治まらない。

 その理由は船長席でふんぞりかえっているエステルである。

 

 この少女が自分に語って聞かせた身上話によると、彼女は貴族──はっきり言わなかったが、専属使用人を従えていることから男爵家乃至は伯爵家──の令嬢であり、十二歳にして筋骨隆々たる男に剣で勝つほどの力量がある。

 そして現在自分の鎧──専用の鎧をこの年齢の貴族令嬢が持っていること自体おかしい──に乗って家出中。

 更に家出した直後に実家の私設軍の鎧一個小隊に追撃され、振り切れなかったので交戦して返り討ちにし、無人島で一夜を明かした後、補給と飛行船の購入のためにアクロイド男爵領を訪れた、とのことである。

 信じ難い話ではあるが、それ以上に驚いたのは家出した理由である。

 

 見合いが嫌だったから。

 

 それだけの理由でこの少女は空を飛び、追い縋る鎧を撃墜し、海を渡ったというのか!? 

 才能の無駄遣いとかいうレベルの話ではないぞ?

 嗚呼、取り逃して大目玉を食らっているであろう騎士たちが哀れでならない。

 

 ──アーヴリルはエステルの父の所業よりもエステルの行動の方にドン引きしていたのだった。

 

 だが、彼女に家に帰るように説得するのも、このまま彼女を行かせるのも、どちらも違う気がした。

 実家に帰っても彼女には辛い未来が待っているだろう。家出したことを責められるだろうし、鎧は取り上げられるだろうし、下手をすれば監禁されるかもしれない。それに望まない結婚を強いられる辛さは同じ女性として同情できる。

 

 かといって、このまま専属使用人と二人だけで旅に送り出すのも抵抗がある。

 年端もいかない少女二人での旅など、どう考えても苦労する未来しか見えない。それを分かっていて見て見ぬふりをするのはアーヴリルの信じる騎士道に反する。

 ランス家で匿うことも提案したが、どうやらエステルには明確な目的地があるらしく、断られた。

 

 だから考えた末にエステルに同行することにした。

 忌まわしいリックが死んだことを一刻も早く妹に報告したいという気持ちはあるが、エステルたちへの心配の方が勝った。

 

 結果、乗ってきた飛行船からエステルの買った軽貨物船に乗り移り、こうしてブリッジで舵輪を握っている。乗ってきた飛行船は曳航してもらっている。

 エステルは目的地について詳しく教えてはくれず、時々コンパスを見て指示を飛ばしてくる。アーヴリルに許されたのはその指示に従って飛行船の針路を調整することだけ。

 旅仲間として対等に扱われていないのは否めないが、それも無理からぬこと。地道に信頼を得ていくほかはないだろう。

 

 ふとブリッジの扉が開く。

 

「昼食ですよ」

 

 専属使用人のティナがそう言ってサンドイッチを持ってきた。

 

 この専属使用人もアーヴリルからすれば驚きの存在である。

 アーヴリルの知る限り、女性の専属使用人を雇っていた貴族令嬢はいない。わざわざ大金を払って雇うなら男性の専属使用人、というのが普通だ。

 そして、その専属使用人が家出について来ているというのも信じられない話である。

 家出などという不祥事に付き合っても、専属使用人側にメリットは何一つない。

 そもそも亜人たちが専属使用人になるのは手っ取り早く大金を稼ぐためであり、主人への忠誠などない。

 だから普通は主人が家出すれば家から契約を切られるか、それとも自分から契約を終了して出て行き、新しい主人を探そうとするはずだ。

 なぜこの専属使用人は家出したエステルに付き従っているのか、気になる。

 

「どうぞ。ランス様」

 

 ティナがサンドイッチを差し出してきた。

 

「頂こう」

 

 受け取るとティナは一礼して出て行った。

 

(礼儀を弁えている奴隷など初めて見たな──)

 

 これまで見てきた専属使用人は自分の主人より格下の相手には横柄な態度を取る者ばかりだったが、あのティナという専属使用人は騎士家の娘である自分に礼をした。

 

(やはり不思議だな。この二人は)

 

 そう思いながらサンドイッチを一口齧る。

 ティナが作ったのであろうサンドイッチは柔らかく、優しい味がした。

 

 

◇◇◇

 

 

 アクロイド男爵家の屋敷ではモーリスが焦っていた。

 

「ええい!見失ったで済むか!もっと兵を動員しろ!捜索範囲を広げるのだ!」

 

 怒鳴り散らすモーリスに報告に来た騎士が平身低頭する。

 

「申し訳ありません!直ちに!」

 

 駆け出していく騎士。

 

 生きていたリックの取り巻き──ティナをナンパした男と腰巾着と呼ばれた男──と事件当時周辺にいた人々の証言により、リックとメルルを殺害した犯人は十代前半くらいの銀髪碧眼の少女で、彼女の連れは十代後半乃至は二十代前半の獣人の少女と分かった。

 

 その情報を聞いた時、俄かには信じられなかった。

 リックもメルルも腕力はあるし、剣の腕はそれなりに立つし、魔法も使える。いくら油断していたとしても十代前半の少女が相手取って勝てるような相手ではなかったはずだ。

 

 だが、事件を目撃した者たちの証言は皆同じであり、信じないわけにもいかなくなった。

 そしてその二人は港付近の検問で見つかったのだが、検問所を強引に突破され、逃走を許してしまったとのことだ。

 騎兵隊まで動員したのに何をやっていたのかと叫びたくなる。

 

 そしてその二人の少女は一体何者なのかという疑問も大きくなった。

 何せその二人の少女の周りでは不可解なことがあまりにも多く起こっている。

 リックが見切れないほどの速さの斬撃で手首を切り落とされ、メルルが正面切っての剣戟で一手も打ち合うことなく背後を取られて両脚を斬られた。そればかりか、彼女を追った騎兵隊に至っては発砲した直後に馬が三頭同時に倒れたり、味方同士で()()()()したりしている。

 

 奇妙なことに馬が倒れた原因は乗っていた騎兵が発砲した弾丸と同じ種類の弾丸で撃たれたことだった。誤射や別の場所からの狙撃では説明がつかない──まるで()()()()()()()()()()()()()()()怪奇現象に捜査関係者は頭を悩ませている。

 

 騎兵同士が正面衝突したという話も妙だ。騎兵たちは何が起こったのか分からないと言い、目撃者たちは騎兵たちが急に曲がって互いにぶつかりに行ったように見えたと言った。騎兵たちは街中でも互いに衝突しないように訓練されているし、何より馬が本能で衝突を避けるはずだ。それなのに正面衝突を起こすとは何があったというのか。

 

「恐ろしい──私が何をしたというのだ──」

 

 リックに迷惑をかけられ、そして今日摩訶不思議な少女にリックを殺害され、配下の兵にも損害を被った。

 このまま少女たちを捕らえられなければ、リックの実家のノックス家はアクロイド家の手落ちだとして落とし前を付けさせにかかるだろう。

 

 モーリスは自分の不幸を嘆いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 アクロイド領を出た一週間後。

 

 聖域と呼ばれる島に近づいた俺たちは島の住民から手厚い歓迎を受けていた。

 

「はっ!無駄だ!モンスター風情が!」

 

 叫んで剣を振るうと、空を飛ぶイカのようなモンスターが切り裂かれ、黒い煙を噴いて落ちていく。

 

 聖域にはイカやオウムガイのようなモンスターが大量に巣食っていて、上空に入った俺たちの飛行船に襲いかかってきた。

 だが、所詮はモンスターである。俺と俺の鎧の敵ではない。

 可変式推力偏向翼によって繰り出される変則的な機動で翻弄し、一方的に敵を叩き落とす──楽しくて仕方がない。

 そしていくら墜とされても性懲りもなく挑みかかってくるモンスター共の救いようのない馬鹿さ加減が更に笑いを誘う。

 

 俺が鎧で襲いかかってくるモンスターの相手をし、ティナが飛行船を操縦して俺たちは聖域へと侵攻する。

 

 ふとモンスターの一体が俺の迎撃をすり抜けて飛行船の方へ向かった。

 そのままブリッジに襲いかかろうとするが、待ち構えていたアーヴリルにライフルで撃たれて撃墜された。中々射撃の腕が立つようだ。存外良い拾いものだったな。

 すり抜けられてもアーヴリルがいると思えばこそ、俺はそこそこ安心して戦える。ティナと二人だけだったらこうはいかなかっただろう。

 

 もしかしてアーヴリルとの縁ができたのも案内人の加護なのだろうか──一瞬そう思ったが、すぐに目の前の敵に意識を戻し、剣を振るう。

 モンスターはまだいる。いくら簡単に倒せても気を抜くことは許されない。

 

 

 

 ブリッジの真上の見張り台でライフルを構えるアーヴリルはまたしても驚愕していた。

 

 数千はいるであろうモンスターを齢十二歳の少女が殆ど一人で屠り続けている。

 モンスターたちが強い魔力を発し、仲間を大量に殺戮しているエステルの方に引き寄せられているお陰で、アーヴリルの方は手持ち無沙汰に近い有様だ。

 

「凄い──」

 

 どうにか口にできた感想はそれだけだった。

 

 普通なら襲ってくるモンスターの大群を視認した時点で一旦退却を開始しているところだが、エステルはアーヴリルの反対を一蹴し、飛行船を守る最後の砦になるよう命じて鎧で出撃していった。

 しかもその鎧は重量級の機体を背中に取り付けた推進装置付きの可変翼で無理矢理高機動に仕立てたゲテモノであり、正規軍の騎士でもまともに使いこなせるとは思えない。

 そんな機体を自由自在に操って一方的にモンスターを屠るエステルがアーヴリルには頼もしくもあり、恐ろしくもある。

 

 一体何をどうやったらこんな十二歳が育つというのだろうか。

 

 たまにエステルの迎撃をすり抜けて飛行船に向かってくるモンスターに気を配りながらも、ついつい目線がエステルの方に行ってしまう。

 

(あの方は一体何を目指しておられるのだ?)

 

 これほどの規格外な才能の持ち主が上陸先の島で何をしようとしているのか、気になって仕方がない。

 モンスターが大量に巣食う辺境の島に何があるというのだろうか。

 まさかとは思うが、未開のダンジョンでも見つけようというのだろうか。

 

 不意に飛行船が大きく揺れた。

 慌てて周りを見渡したが、何かがぶつかったようでもない。しかし、揺れは収まらない。

 

 一瞬混乱したが、ブリッジからティナが大声で伝えてきた。

 

「下です!」

 

 ティナの言う通りに下を覗き込むと、無数の触手を持った巨大なタコのようなモンスターが船底に張り付いて揺すっている。

 

「このッ!」

 

 ライフルを撃ち込んだが、相手の身体が柔らか過ぎて弾が通り抜けてしまい、ダメージになっていない。

 

 アーヴリルに気付いたモンスターが素早く触手を伸ばしてきた。

 たちまちライフルが絡め取られるが、アーヴリルは剣を抜いて触手を切断する。

 痛みからか触手はライフルを手放して引っ込んだが、船底に張り付いた本体を倒す手段はアーヴリルにはない。

 

(クソッ!どうすれば!)

 

 歯噛みするアーヴリルだが、モンスターは待ってはくれない。

 ブリッジからティナの悲鳴が聞こえてきた。

 

 すぐにハッチを開けてブリッジに飛び込むと、ティナに触手が迫っていた。

 ティナはナイフを手に必死で触手から舵輪を守っている。

 

「はあああっ!」

 

 剣を振るい、ティナに襲いかかる触手を切断する。

 触手はのたうち回りながら出て行ったが、すぐにまた来るだろう。

 

「助かりました。ありがとうございます」

 

 ティナがお礼を言ってきたが、アーヴリルは張り付いたモンスターをどうしたものかということで頭が一杯だった。

 

「礼はいい!それよりあのモンスター、船底に張り付いてて打つ手がない!銃も効かないぞ!」

 

 正直期待できなかったが、今は猫の手──否、狐の知恵も借りたい。

 エステルは群がる他のモンスターの相手で手一杯なようで、助けは期待できない。

 

 打開策を求められたティナは少し窓の外を見回したかと思うと、舵輪を思い切り左に回した。

 

「何をしている?」

「左に岩があります。そこに船をぶつけてこそぎ落とします!」

 

 見ると確かに左斜め前方に大きな岩が浮かんでいる。

 だが──無茶である。少しでも操船を誤れば飛行船が壊れてしまう。

 

 反対しようとしたアーヴリルだったが、それよりも早くモンスターの触手が再び窓を破って襲いかかってきた。

 やむなく舵輪を握るティナと背中合わせになり、剣で応戦する。

 

「来い!相手は私だ!」

 

 魔法で風の刃を作り出し、触手目掛けて投げつける。

 触手は魔法を使ったアーヴリルに反応して襲いかかってくる。

 

「ランス様!」

 

 ティナが持っていたナイフを投げて渡してきた。

 それをキャッチし、二刀流で左右から襲いかかってくる複数の触手を迎撃する。

 モンスターも怒り昂っているのか、傷を負わせても触手は引っ込まない。

 

「衝撃に備えてください!」

 

 ティナが警告してきた直後、飛行船がズシンと揺れる。

 船底が岩を擦り、ゴリゴリと耳障りな音を立てたかと思うと、グチャリと柔らかいものが押し潰されたような音に変わる。

 

 体感にして数分にも感じられる一瞬が過ぎ、飛行船は岩を通り過ぎる。

 

 後ろを見ると、タコのようなモンスターは船底から剥がれて力なく落ちていく。飛行船の損傷は軽微なようだ。

 

「──やった。よくやってくれたな」

「いえ、ランス様が援護してくださったお陰です」

 

 破天荒なのは主人と同じだな、と内心思いつつもアーヴリルはティナに感謝を伝え、見張り台に戻った。

 

 しばらく見ないうちにエステルに群がるモンスターはだいぶ減っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 襲いかかってきたモンスターを駆逐し尽くし、聖域の北端に上陸した時には日が沈みかけていた。

 

 森の木を幾らか鎧で薙ぎ倒して着陸場所を作り、そこに飛行船を降ろして夜営の準備をする。

 拾ってきた木の枝で焚き火をし、アクロイド領で買った缶詰を開ける。

 微かに柑橘系の甘みのあるパンを食べながら、地図を取り出して広げる。

 

 俺たちは確かに印が付けられた島にやってきた。だがこの島に誰かが住んでいる気配はない。

 可能性があるとすれば【大墳墓】に眠る何か──魔神と呼ばれる正体不明の存在だが、案内人は詳しくは教えてくれなかった。

 あいつは肝心な所で不親切だな。俺の味方になる存在とは何のことなのか、どうすれば会えるのか、どうすれば味方にできるのかは教えてくれないまま去って行った。

 

 ──まあいい。今更文句を言っても詮ないことだ。

 取り敢えず方角だけでもとコンパスを取り出して見てみると、針はこれまで南西を指していたのが、南を指していた。大墳墓のある方角だ。

 どうやら案内人が言っていた存在がいる場所は大墳墓の中か、その周辺で間違いないらしい。

 

 そうと分かれば明日は大墳墓の探索で決まりだな。まず飛行船と鎧で上空から偵察して大墳墓を探し、近くに降りてコンパスの指す方向に向かって歩いていけばコンパスが示すものに辿り着けるはずだ。

 

「あの、エステル様」

 

 ふとアーヴリルに声をかけられた。

 

「何だ?」

 

 ちなみにアーヴリルに俺の身の上を話して以降敬語はやめている。

 

 アーヴリルは俺が持つ地図とコンパスを気にしながら尋ねてきた。

 

「エステル様は何の目的でこの島を訪れたのですか?」

 

 やはり話しておいた方が良いだろうか。

 きっとうるさく反対するだろうと思って今まで正確な行き先と目的を話していなかったが、その行き先に着いてしまった今、隠し続ける必要性はあまりない。

 だが全て正直に話すわけにもいかない。

 案内人のことをどう説明すればいいか分からないし、俺もこの島に何がいるのか、あるいはあるのかを把握してはいない。

 

 だから嘘は吐かず、それでいて納得──賛成するかは別として──させられそうな答えを用意する。

 

「──ここのダンジョンを攻略するためだよ」



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大墳墓

 アーヴリルはエステルの返答に唖然としていた。

 

「ダンジョンって──たったの三人でですか?」

 

 普通未開のダンジョンを攻略するのに三人だけでなど心許ないとかいうレベルではない。

 はっきり言って自殺行為である。

 

 だがエステルは涼しい顔で言ってのける。

 

「ああ。このダンジョンを攻略すれば、私は冒険の実績と運が良ければお宝を手に入れられる。そうすれば父も縁談の取り消しを認めてくれる。そう口に出させたからな」

 

 アーヴリルは頭痛がするような感覚を覚える。

 たしかに一攫千金を狙うなら未開のダンジョンを攻略してその所有権を得るのは選択肢に挙がるが、だからと言って迷いなくそれを選択するのは無謀だ。

 島の上空に入っただけであれだけの数のモンスターに襲撃されたのだ。ダンジョンに入ればそれこそ何が待ち構えているか知れたものではない。エステルが駆って暴れ回った鎧もダンジョンではおそらく使えない。

 

 だが、そのことを指摘する前にエステルはアーヴリルの逃げ道を塞ぎにかかる。

 

「お前がついてくると言い出したんだ。ここまで来たからには付き合ってもらうぞ。嫌とは言わせないからな」

 

 有無を言わせないような迫力を感じる声音に一瞬気圧されるが、だからといってはいそうですかと黙るほどアーヴリルは気弱ではなかった。

 

「確かについてきたのは私の意志です。ですがダンジョン攻略など無謀です。島の上空に入っただけでもあれだけの数のモンスターに襲われたのですよ?ダンジョンに入ったらそれこそ何が出てくるか分かりません」

「心配はいらない。何も闇雲に進もうとしているわけじゃないからな。それに私の実力はその目で見ただろうが」

「で、ですがあれは鎧を使っていたからです。ダンジョンの中に鎧は入れるのですか?」

「それは明日の探索で確かめる。もし入れないなら入れるように広げればいい。簡単な話だ。それに駄目でも私には奥の手もある。明日は体力と魔力が要るからもう寝るぞ」

 

 そう言ってエステルは歯を磨いてさっさと毛布を被ってしまう。

 

 諫言を聞き入れられなかったアーヴリルにティナが声をかけてきた。

 

「私も考え直すようお願いしましたが、お嬢様はこうと決めたら絶対に譲らないお方です。誰にも説得はできません」

 

 その言葉はアーヴリルの胸中に燃え上がる、義憤のような独り善がりな感情に油を注ぐようなものだった。

 思わず立ち上がってティナを睨み付ける。

 

「お前は──なぜそうあの方に盲従する?家出に付き従うなど奴隷らしくもない。さりとて主人が危険に飛び込もうとしているのに、一度説得に失敗したからといって黙っているなど──」

 

 奴隷という言葉に一瞬ティナの顔が引き攣り、手が僅かに動く。

 アーヴリルに協力する気はない、そして力を行使するならば応戦する──その覚悟が翡翠色の瞳から読み取れた。

 

 アーヴリルはその瞳を見て座り込む。

 主人の言うこと以外は聞かない──その点はアーヴリルのよく知る専属使用人の特徴だったと思い至った。

 

「お前が分からない。お前は──あの方のことを何だと思っている?」

 

 その質問の答えはアーヴリルの予想──そんなものを具体的にしてはいなかったのだが──を超えていた。

 

「お嬢様は──私の生きる理由です」

「どう言う意味だ?」

 

 尋ねたアーヴリルにティナは自分の身の上を話した。──エステルに話した時よりもずっと詳しく。

 話が終わった時にはアーヴリルはティナを抱き込むことを諦めていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日。

 

 俺は鎧で【大墳墓】の上空を飛んでいた。

 大墳墓は森に覆われて山にしか見えない。前世で見た古墳を思い出す。

 だが案内人がくれたコンパスのお陰で見つけるのは簡単だった。

 

 俺がコンパスと地上を交互に見ながら入り口を探し、後ろからティナたちが飛行船でついてくる。

 不意にコンパスの針が百八十度違う方向を指した。どうやら入り口を通り越したらしい。

 

 飛行船に着陸用意の合図を送り、鎧を反転させた。

 地上に降り、剣を振るって木を切り倒し、飛行船の着陸場所を確保する。

 飛行船が着陸し、探索用の装備に身を包んだティナとアーヴリルが降りてきた。

 俺は一足先に鎧で道を切り開きながらコンパスの指す方向へと前進する。

 

 程なく、無数の木の根に覆われた崖が見つかった。

 

「──あれだな」

 

 コンパスはその崖を指している。

 

 鎧の手で木の根を剥がしていくと、硬質なものに行き当たった。

 軽く叩いてみると金属のような音がする。

 

「当たりみたいだな」

 

 それは巨大な扉だった。

 遥か昔には幾つものブロックが重なって巨大な扉を形成していたのだろう。

 今は殆ど地中に埋まっていて所々開いた場所から土砂が流れ込んでいる。

 

 鎧を使って土砂を掻き出し、進入経路を確保する。

 幸い、鎧が通れるだけの穴を掘ることができたのと、中も相当広いようなので、ダンジョンの中でも鎧を使うことはできそうだ。

 アーヴリルの懸念は今の所当たっていない。

 

 暗くて周りが見えないので鎧の翼から噴き出すマゼンタ色の炎を松明代わりにし、長い年月の間に流れ込んだ大量の土砂が積もってできた山を下っていく。

 ほんの数メートル先は闇、入ってきた穴から差し込む光はどんどん離れていく中でどこまで続いていくのか分からない下り坂を進む──その状況に強い精神的バイアスがかかり、時間が長く感じられる。

 

 下り坂が光沢を持つ硬質な水平面に変わった時、入ってきた穴は見えなくなっていた。

 炎を強くして前方を照らすと、金属質の床がずっと奥の方まで続いているのが見える。

 コンパスはその奥の方を指している。

 

「大墳墓の中にこんな場所があったなんて──」

 

 ティナが驚いている。

 

「こんな広いダンジョンは見たことがないぞ?どこまで続いているんだ?」

 

 アーヴリルも目を丸くしている。

 

 俺はふと炎を上に向けた。天井はどれくらいあるのか──それを見ようと思ったのだが、これが物凄く高かった。目測で百メートルはあるのではないだろうか。

 天井には骨組みやレールのようなものが無数に走っているのが薄らと見える。

 

 魔力で空間把握を試みたが、天井はともかく壁が感知できない。この空間はどれだけ広いのだろうか。

 だが金属質の床と天井に走る骨組みやレールから推測するに、ここは人工的に作られた建物だ。しかも殆どが地中に埋もれ、その上を森に覆われ、流れ込んだ土砂が山を形成するほどの長い年月──おそらくだが数千年──を経ても内部が錆びたり朽ちたりすることなく残っているオーバーテクノロジーの産物。

 

 一体どうやったらこんな建物が作れるのか、そしてこの建物を造って使っていた者たちはどこに行ったのか──疑問は尽きないが、差し当たっての関心は別のことだ。

 

(これだけ広い空間なら飛んで移動できるな)

 

 どこまで続いているかもしれない平面を歩いて踏破するなど論外である。ダンジョン内で食糧が尽きて行き倒れになりかねない。

 案内人のコンパスが指す目的地までどれくらいかは分からないが、なるべく行程は短縮したい。

 

「二人とも、ここからは飛んで行くぞ。手に乗れ」

 

 鎧の手を差し出すとティナとアーヴリルが上に乗る。

 二人を圧し潰してしまわない程度に手を握り込み、鎧を離陸させる。

 思わぬ障害物にぶつからないよう、魔力で空間を把握しながら飛ぶ必要があるのであまりスピードは出せないが、徒歩よりは段違いに速く進むことができる。

 

 二十分ほど飛び続けてやっと突き当たりの壁が見えてきた。

 鎧を減速させ、壁の手前で着陸する。

 

 コンパスを見ると、目の前の壁を指している。

 再び魔力での空間把握を使うと、どうやら目の前の壁は扉であるらしいことが分かった。その先には通路が続いているようだ。

 

 ティナとアーヴリルを降ろし、扉に近づいて取っ手か或いは開閉ボタンでもないものかと探してみるが、見つからない。

 剣で壊そうとしてみたが、かなり頑丈な素材でできているらしく、傷一つ付けられなかった。

 

「お嬢様!」

 

 不意にティナが呼びかけてきた。

 

「何だ?」

 

 ハッチを開けて問いかけると、ティナは上を指差して言った。

 

「上に開口部があります」

 

 見ると確かに格子状の穴が空いた四角い蓋のような物が見える。

 おそらく換気用ダクトの蓋だろう。小さ過ぎて鎧は通れないが、人間なら楽々通れそうだ。

 

「でかしたティナ!」

 

 鎧を浮かせて剣を突き立て、梃子の要領で蓋を外す。

 当たりだ。蓋の内側は大人が立って進める程の大きさのダクトになっていた。

 

 一旦鎧を着地させ、コックピットを出て頭部によじ登る。

 そこからジャンプしてダクトに飛び込む。

 

 ランタンを灯し、足下を照らしながら少し進むと、通風口の蓋らしきスリットが見つかった。

 足で蹴ってみると、簡単に割れて下に落ちる。

 

 通風口から床に降り立ち、扉の近くへ行くと、不意に小さな光が灯った。

 扉のすぐ近くの壁に小さなディスプレイがあり、それが淡い光を発している。

 

「生きているのか──?」

 

 驚いた。まだ電気が通っていて電子機器が動いているなんて。

 こんなSFチックな古代遺跡があるなんてこの世界は一体どうなっているんだ?

 

 ディスプレイを覗き込んでみたが、そこに映る映像は緑がかっていて画質も悪く、何が映っているのか分からない。

 

『お嬢様?聞こえますか?』

 

 不意にディスプレイからティナの声が聞こえてきた。

 どうやらこのディスプレイはインターホンのような機器で扉のすぐ向こうを映しているらしい。

 とすると、どこかに開錠ボタンがあるはずだが──ディスプレイの周りをよく見るとすぐ下に四角いボタンがあった。

 押してみると「ギイイイイイ」と耳障りな音を立てて扉が横に開く。錆び付いているらしく、スムーズには開かないが、それでも開閉装置は生きているようだ。

 

「お嬢様!」

 

 ティナが扉の向こうから駆け込んできた。

 

「どうやって開けたのですか?こんな大きな扉なのに──」

 

 アーヴリルは扉を見て首を傾げている。

 

「なに、ちょっとした魔法だよ。この遺跡の仕掛けはまだ生きてるんだ」

 

 抽象的な種明かしをしながら俺は鎧に戻り、翼を畳んで歩行モードにする。

 

「さて、行くぞ」

 

 

 

 通路は真っ直ぐに続いていた。

 俺の乗る鎧がコンパスを頼りに先頭を歩き、その後ろにティナとアーヴリルが左右を固めながら進む。

 静寂と暗闇が支配する遺跡の中で俺たちの足音がやけに大きく響く。

 鎧の翼を畳んでいるせいで翼から噴き出す炎で照らすことが出来なくなったため、光源はランタンだけだ。

 通路の両脇には大きなドアが幾つも並び、通路を挟んで部屋が並んでいることが分かる。

 

 こういう場所にはモンスターが棲みついているものと思っていたが、全く現れない。

 ──少々不自然だ。

 遺跡の外には無数にモンスターがいたのに、なぜここにはいないのだろうか。

 それこそ部屋という部屋に巣食っていてもおかしくないのに。

 

 ──もしかしてこれも案内人の加護か?

 あいつは異世界を行き来できるような存在だから、俺たちが来る前にモンスターを一掃するくらいやってのけそうだが──

 あるいはモンスターを駆逐できるような何かがこの遺跡にはいるのだろうか。

 

「──ん?」

 

 不意にティナが足を止めた。

 耳をピンと立ててあちこちの方向に向けて動かしている。

 犬が何かを警戒するかのような仕草だ。

 

「どうした?」

 

 問うてみると、ティナは珍しく俺と目も合わさずに歯切れの悪い返事をする。

 

「いえ──何か聞こえたような気がして」

「何か?どこから聞こえた?」

「分かりません。何か物が落ちたか倒れた音かもしれませんが──嫌な気配がします」

 

 ティナはそう言ってライフルを握り直す。

 

「私には特に怪しい音は聞こえなかったが──」

 

 アーヴリルは懐疑的だ。

 俺にも鎧の足音以外は何も聞こえなかったが、獣人であるティナは人間より何倍も耳が良い。俺たちには聞こえないほど小さな音も聞き取れるだろう。

 嫌な気配がするというのも聞き捨てならない。

 魔力での空間把握をしても、モンスターはおろか動く物一つ感じ取れないが、警戒しておくに越したことはない。気配とか野生の勘とかそういうのは馬鹿にならないのだ。

 

「警戒して進むぞ。指は引き金に掛けとけ」

 

 この人数なら誤射の心配はないだろう。

 鎧の操縦で手が塞がっている俺の代わりにライフルを持つ二人が無言で頷く。

 

 

 

 それからどれくらい経っただろうか。

 今まで真前を指していたコンパスの針がグイッと動いて左を指した。

 照らしてみると、通路が突き当たりに達し、左右に分かれている。

 

 ──その曲がり角の向こうにソレはいた。

 異様に大きな腕と丸みを帯びたマッシブな胴体、そして太く短く設置面の大きな脚を持ったソレは前世のSF映画で見たような──()()()()だった。

 頭に相当する部位はなく、胴体の真ん中についた丸いレンズのような物が赤く光っている。

 

 そのレンズが俺たちを捉える。

 ファンタジー世界でロボットを見た驚きで俺はしばし動けなかった。

 だがロボットの方は機械らしく冷静に──或いは無機質に俺たちを観察し、プログラムに照らして適切な行動を取った。

 

 ロボットが叫ぶような機械音声を発して、俺の鎧に向けて腕を突き出したかと思うと、その先端が発光した。

 

 ──その直前に咄嗟に身を捩ったのはこの身体の本能的な危機回避だったのかもしれない。

 発射されたレーザーが鎧の装甲を貫通し、俺のすぐ横に熱を帯びた大穴が空いた。

 あと何センチかずれていたら灼熱の光線に貫かれて死んでいただろう。

 

「隠れろ!」

 

 素早く跳び退がり、通路の曲がり角に身を隠す。

 ティナとアーヴリルも弾かれたように曲がり角に逃げ込んだ。

 

 直後にロボットが再びレーザーを撃ってきて壁の一点が赤熱化する。

 レーザーの軌跡は舞い上がった埃に反射して薄らと見えるだけ。ファンタジー世界のくせに嫌にリアルだ。

 

「無事か!?」

 

 呼びかけるとティナとアーヴリルは恐怖を必死で堪えている表情で、それでも健気に頷く。

 

 曲がり角の向こうからはロボットの機械音声がまだ聞こえてくる。

 ロボットに感情はないはずだが、俺たちを殺そうとする執念のようなものを感じる。

 推測するしかないが、人間の施設として生きていた頃から侵入者排除の任務に就いている警備用ロボットなのかもしれない。

 

 誰もいなくなって、使われなくなった場所を愚直に守り続ける哀しさには憐みを感じるが、俺たちの邪魔をするならば排除する他にない。

 だが、生憎とこちらにはあのロボットを倒せそうな火力はない。

 鏡花水月でレーザーを打ち返せば倒せるかもしれないが、こちらから出て行けばその瞬間にレーザーでやられるのは明らかだ。

 ここは待ち伏せた方が良いだろう。

 

 索敵魔法を使うと、ロボットがレーザーガンを内蔵した腕を構えて少しずつこちらに近づいてくるのが分かった。

 念のためティナたちを近くの部屋に退避させ、俺は壁にぴったり張り付いて曲がり角に意識を集中する。

 

 奴が腕を動かして俺を照準する一瞬の隙に鏡花水月を発動させなければならない。

 できればあのレンズを狙いたい所だ。戦闘用ロボットなら自分の攻撃に耐えられる装甲を持っているだろうが、カメラやセンサーの類には装甲が施せないはずだ。

 

 ロボットの足音がどんどん近づいてくる。

 様子を窺いながらじりじりと少しずつ近づいて来るのではなく、通路の真ん中をのっしのっしと歩いている。

 

 完全にこちらを侮っているらしい。実際こちらの武器は歩兵用のライフル二挺と剣くらいしかないので無理もないが、その認識が奴の命取りになる。

 ──そのはずだ。

 

 ──大丈夫だ。俺には最強の盾と言っても良い【鏡花水月】と地の利がある。焦ってミスさえしなければ勝てる。信じろ──

 

 自分に必死で言い聞かせるが、心臓が早鐘のように脈打つのは止められない。

 脳はロボットが姿を現す瞬間を見逃すまいと極度の緊張状態になり、その脳の要請を受けた肺が少しでも多くの酸素を取り込もうと呼吸を急かす。

 

 ──来るなら来い。というか早く来てくれ!このままじゃ過呼吸を起こしかねない。

 

 そんな叫びが心の中で上がった直後──ロボットが曲がり角から姿を現した。

 赤く発光するレンズと視線が合ったかと思うと、ロボットは上半身全体を回転させて一瞬で腕を俺に向けた。

 見て反応することなど許さない早撃ち。だがそれでも鏡花水月の発動には充分だった。

 

 次の瞬間、赤く光るレンズは融解し、赤熱に縁取られた黒い穴に変わる。

 弱点はレンズで合っていたらしく、ロボットは大量の火花を散らして前のめりに倒れ、そのまま動かなくなった。

 腕だけは最後まで二発目を放とうと俺の方を向き続けていたが、結局発射されることはなかった。

 

 ──勝った。──倒した。

 

 どっと冷や汗が噴き出してくる。安堵で全身から力が抜けた。

 手汗に濡れた操縦桿が手から離れ、鎧が両膝をつく。

 

「お嬢様!ご無事ですか?」

 

 ティナが駆け寄ってきてハッチを開ける。

 

「ああ──大丈夫だ。ただ、疲れただけだ」

「一旦休みましょう。あの敵はもう倒されたのですよね?」

 

 動かなくなったロボットをチラッと見て確認してくるティナ。

 

「ああ。もう動かない」

 

 そう言ってコックピットから降りようとするが、足元がふらつく。

 咄嗟にティナが支えてくれたが、すぐに自分で立った。

 悪徳領主を目指しているのに人並みの弱さなんぞ見せられるか。

 

 通路の床に飛び降りるとアーヴリルが怪我はないかと訊いてきた。

 ティナへのものと同じ返事をして床に座り込む。

 通路の壁に背中を預けると、ひんやりした金属の質感が少し頭を冷やしてくれた。

 ティナが水筒を渡してきたので、受け取って中身を一気に半分ほど飲み干す。

 

「これは──モンスターではないようですが、一体──?」

 

 アーヴリルが倒れたロボットを見て呟いた。

 普通モンスターは倒せば黒い煙になって消え、死体を残さない。

 なのに消えずに残骸を晒しているロボットが不可解なようだ。

 

「古代の使い魔の類だろ。多分この遺跡がまだ使われていた頃からここを守ってたんだろうさ」

 

 ロボットを使い魔に置き換えて適当に推論を述べる。

 アーヴリルは首を傾げていたが、やがて不安げな顔でこちらを振り返る。

 

「エステル様、また同じような敵に出くわすかもしれません。やはり我々三人だけでは危険過ぎます。ここは退くべきです」

 

 その問いかけに俺は首を横に振る。

 退くにはまだ早い。被害は鎧に穴が空いただけだ。それにロボットは鏡花水月で倒せると分かった。

 まだまだ進めるはずだ。

 

「こんな所で退けるか。あれがまた現れたらその時はまた倒すだけだ。私に任せておけばいい。先を急ぐぞ」

 

 そう言って俺は立ち上がるが、ティナがそれを止めた。

 

「無茶をなさらないでくださいお嬢様。進むにしても休息を取ってからにすべきかと。正午を過ぎています」

 

 そうなのかと思って懐中時計を取り出して覗き込むと、確かに針は両方とも十二と一の間を指していた。

 真っ暗な遺跡の中を警戒しながら進み続けていたせいで時間の感覚が狂ってしまっていたようだ。

 意識したら急に空腹感が襲ってきた。

 

 

◇◇◇

 

 

 鎧に積んでおいた缶詰をティナに持って来させ、遅い昼食を摂る。

 さっきみたいなロボットが来ることも想定して鎧のすぐ近くで聞き耳を立てながらの食事だったが、お腹に食べ物が入ると幾分か気が落ち着いた。

 それに極度の緊張の反動で抜け切っていた力が戻ってくる。

 

 やっと人心地着いたところで針路を確認しようとコンパスを探すが──見つからない。

 

「あれ?」

 

 ロボットに出くわすまであったはずのコンパスがない。

 待て、ロボットと出食わした時コンパスは手に持っていたはずだ。レーザーを食らう直前で身を捩った時に落としたのか?

 

「お嬢様?どうされました?」

 

 怪訝な顔をするティナを無視して急いで鎧のコックピットに戻り、コンパスを探した。

 すぐに見つかったが、手に取った俺は悲鳴を上げた。

 

「ああああああっ!!」

 

 案内人のくれたコンパスは壊されていた。レーザーを食らった時にやられたようだ。

 その壊れ方は酷いもので、針を含めて全体の三分の二ほど()()()()()いた。どうやらレーザーが直撃して蒸発したらしい。

 これでは道が分からないではないか!

 

 冷や汗を流す俺に更なる追い討ちが掛かる。

 背後から赤い光で照らされたと思ったら「ベーッ!」という警告音とサイレンのような音が周囲で鳴り出した。

 

 何事かと思って外を見ると、通路の壁のあちこちで赤い光が点滅している。

 

「何だこれは!?どうなっている?何が起こっているんだ!?」

 

 ライフルを構えたアーヴリルが狼狽している。

 確かにいきなりこんな音と光に見舞われたら訳が分からず恐怖しか感じないだろうが──俺はこんなことを起こす存在を知っている。

 

「警報か?今更!?」

 

 どういうわけか今になってこの遺跡──というか、施設の警報システムが作動したらしい。

 捨てられて何年経っているかも分からないのに、よく生きているものだといっそ感心してしまいそうだが──いや待て、心当たりならあった!

 さっき警備用と思しきロボットを倒したではないか!

 あのロボットが通報したに違いない。それにしては警報が出るのが妙に遅いようにも思うが、現に警報が出ていて、俺たちは十中八九排除(抹殺)対象になってしまっている。考えたって仕方がない。

 

「何か近づいてきます!左と──後ろからも!さっきの怪物の足音と同じ音──いえ、大群です!」

 

 ティナが耳をピンと立てて叫ぶ。その声と表情には明確な恐怖が宿っていた。

 コンパスが最後に示した方向から、そして来た道からも敵がやって来る。群れをなして。

 

「逃げましょうエステル様!危険です!」

 

 アーヴリルが叫ぶ。

 

「は──?逃げる?どこにだ?来た道からも敵は来ているんだぞ?」

 

 恐怖でこんがらがる頭が他人事のような呟きを口から発させる。

 どうすれば良い!?突破するか?それともさっきみたいに待ち伏せるか?

 でも一体だけならともかく大群だぞ?──全方向からレーザー攻撃を仕掛けてこられたら──俺にはとても対処できない。そして一つでも逸らし損ねたら──終わりだ。

 鳴り続けるサイレンの音が恐怖を煽り、再び鼓動が激しくなり、呼吸が荒くなる。

 ──頭が働かない。

 ──身体が動かない。

 

 

 ────怖い。

 

 




ティナの身の上話の詳細は十五話の追想にて


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(いざな)われて

だいぶオリジナル設定あります。


「──様!お嬢様!」

 

 いつの間にか横にいたティナとアーヴリルの叫びが半ば放心状態だった俺をショックで現実に引き戻した。

 

「しっかりしてください!すぐ近くにいるわけじゃありません!」

「右側からは敵は来ていません!右に逃げましょう!」

「──あ、ああ。そうだな」

 

 俺は深く考える余裕もなくティナとアーヴリルを鎧の肩に乗せ、ハッチを開けたまま走り出す。

 

 目の前の突き当たりを右に曲がると、真っ直ぐな通路が続いていた。

 

 後ろをしょっちゅう振り返りながら必死で走って逃げるが、可変式推力偏向翼を使えない鎧は鈍足だ。ただでさえ重い機体にデッドウェイトになった翼が加わり、人間が走るのと大して変わらない速度しか出せない。

 

 不意にティナが叫んだ。

 

「後ろです!」

 

 直後にライフルの発砲音が聞こえた。

 ロボットに追いつかれたらしい。

 鏡花水月を使うため、敵の位置を探るべく空間把握を使おうとしたが、急に鎧の脚が動かなくなり、鎧は前のめりに倒れてしまう。

 

「「きゃっ!」」

 

 ティナとアーヴリルが慣性で投げ出され、床に転げ落ちる。

 

 ロボットにレーザーで撃たれたのだと理解した時にはもうコックピットの背中が熱くなっていた。

 湯たんぽ程度の熱さが一瞬で焼けた鉄のような熱さに変わる。

 大慌てでコックピットを飛び出した直後、鎧の背部が爆発した。

 行き場のない地下通路で爆風が前後方向に集中し、俺の身体は後ろから思い切り突き飛ばされて宙を舞う。

 

 何とか受け身を取って無傷で着地したが、ティナとアーヴリルの姿が見当たらない。

 通路には煙が充満し、灯していたランタンも消えてしまったらしく、ただでさえ真っ暗闇だったのが何も見えない。

 

「ティナ!どこだ!アーヴリル!返事しろ!」

 

 叫んだが返事はなく、ロボットが近づいてくる足音だけがどんどん大きくなる。

 魔力での空間把握を使ったが、感知できたのは数十体ものロボットだけ。

 

 だが、不意にロボットの一体が何かを持ち上げた。動かないが確かに生き物だ。

 この場所にいる生き物といえば俺たち三人しかいない。

 そして──持ち上げられた生き物には見慣れた尖った耳があった。

 

「ティナ!」

 

 助けに駆け寄ろうとしたが、ロボットたちがこちらを向いたのが分かる。

 

 ──捕捉された。

 

 本能的に危機を察知した脳が脚を竦ませてしまい、俺は一瞬棒立ちになる。

 そしてロボットたちが一斉に腕を俺の方に向けた。

 

 咄嗟に鏡花水月を全力で使ったが、腰に差していた剣が半分ほど消し飛ぶ。

 次の瞬間には無数の緑色の光線が襲いかかってきた。

 皮肉なことに充満した煙でレーザーの軌道がよく見え、鏡花水月で逸らすのが簡単になった。

 

 全力で鏡花水月を使いながら俺は必死で逃げた。 

 とてもレーザーのシャワーの中を突っ切って助けになんて行けなかった。

 あの恐ろしいロボットの群れから少しでも遠ざかりたい一心で、俺は走った。

 

 

◇◇◇

 

 

 鏡花水月という攻防一体の技を会得した俺は慢心していたのだろう。

 およそどんな攻撃も空間ごと捻じ曲げて逸らし、打ち返すことだって可能なチートとしか言いようのない技──だが攻撃を認識できなければ意味はない。

 

 視認どころか魔力で認識しても対処が間に合わないレーザーという武器を使われて、なまじ根拠と実績があったがために肥大化した万能感が消え去った。

 その後に残ったのは恐怖と後悔。

 ──想定外だった。そう言うのは簡単だが、失ったものがあまりにも多すぎた。

 

 コンパスを失い、鎧を失い、ティナもアーヴリルも失い、剣も失い──残ったのは自殺にしか使えないレベルの貧弱な拳銃だけ。これではこの遺跡からの脱出すらままならない。

 

 ──案内人は俺の味方になる存在がここにいると言った。

 だが現実には侵入者を殺そうとするロボットがうようよしている。

 そしてそいつらに襲われて俺は詰み状態だ。

 

 ──あの案内人、やはり俺を騙していたのか?この島の地図と目的地を示すコンパスも全て罠だった?

 ──だとすれば何が目的なのだ?

 

 俺たちをここに導いた案内人への疑念は肥大化していく。

 超常の存在である奴の考えを人間である俺が読むことなどおこがましいかもしれないが、奴が何を考えているのかがまるで分からない。

 慈善事業みたく見返りも求めずに俺にあれこれしてくれる割に、詳しい説明はしてくれないのだ。

 

 クソッ!鏡花水月を会得して慢心していた俺も俺だが、案内人も案内人だ。

 毎回毎回説明が少なすぎる!

 地図とコンパスをくれた時に敵の存在を一言でも警告してくれたら、もう少しできる準備もあっただろうに。

 

 ──だが全ては無意味な仮定だ。

 俺はここから出られずにロボットに見つかって殺されるか、餓死するかの未来しかない。

 未だにサイレンが鳴り止まない中で俺は疲れ切ってかれこれ数時間ほど通路の隅に座り込んだままだ。

 

 案内人への怒りが過ぎ去ると再び後悔が襲ってくる。

 こんなことなら結婚を受け入れていた方がまだマシだったんじゃないのか?

 気持ち悪いのは我慢して跡取りさえ産めば、あとは相手の家の金で贅沢に暮らせて、ファイアブランド家の財政も再建できて、ティナも失わずに済んで──アーヴリルはどうなったのだろう?

 分からないが、でもこんな真っ暗な遺跡で誰にも知られないまま犬死に同然の最期を迎えることはなかっただろう。

 

 これもまた無意味な仮定と分かっていても、止められない。

 胡散臭い案内人の甘言に乗せられ、凄まじい力を得た自分に酔いしれ、大して準備も整えずに家出して、そして全てを失ってもなお、現状を受け入れて打開策を探し続けられるほど俺の心は強くない。

 

 

 

 不意に光を感じて顔を上げた。

 ティナ?アーヴリル?それともロボットか?

 その疑問の答えを探して光源に目を凝らすが、どれでもないようだ。

 通路の真ん中に浮かぶ淡い光。その光に俺は見覚えがあった。

 

「お前──もしかしてあの時の──?」

 

 家出初日、追っ手との交戦で自分の位置を見失って墜落の危機に陥った時、夜営できる浮島まで誘導してくれた光。

 きっと案内人の加護だろうと勝手に思い込んでいたが、どうやら間違いなかったようだ。

 でも、だとすればなぜコンパスが壊された時すぐに来てくれなかったのだろう。

 

 もしかしてピンチになった時だけ発動するセーフティみたいなものなのか?

 考えても分からないが、来るならティナとアーヴリルを失う前に来て欲しかった。

 

 そんな俺の内心を見透かしたのか、光はスッと俺の前から離れていく。

 

「ッ!ま、待ってくれ!」

 

 疲れてなかなか言うことを聞かない身体に鞭打って立ち上がり、後を追う。

 今はあれだけが頼みの綱だ。見失ったらそれこそ本当に終わりだ。

 

 

 

 光は俺の歩調に合わせて付かず離れずで進んで行く。

 

 しばらく歩いてようやく頭と身体がいくらか落ち着いてきた。

 今のところあの恐ろしいロボットと出くわすことなく進むことができている。

 

 ただ、光が俺をどこに連れて行こうとしているのかは分からない。

 呼びかけてみてもうんともすんとも言わず、捕まえようとしても手がすり抜けてしまう。

 実体のない光といえばスピリット(精霊)か、ゴースト(幽霊)だが、この光はどちらでもないようだ。

 それに──案内人のコンパスを失った以上確かめようがないのだが、どうにも光の行く先はコンパスが示していた方向とは違うように思える。

 

 光が一つの扉の前で止まった。開けろということだろうか。

 横に長いボタンのようなドアノブを押すと、ギシギシと嫌な音を立てて開いた。

 光は扉の向こう側へと素早く入り込み、中を薄らと照らし出した。

 

 そこはどうやら非常階段らしかった。上も下も真っ暗闇で終点が見えない。

 光は底の見えない階段を降りていく。

 塗装が剥がれた手すりを掴みながら後を追って降りる。

 

 降りているからまだいいが、階段というものはなかなかに疲れる。

 鏡花水月を会得するための修行でだいぶ鍛えられたとはいえ、終わりの見えない階段を降り続けるのはきつい。

 エレベーターやエスカレーターを発明した奴は偉大だな。

 

 階段の踊り場には時々外に通じているらしい扉があったが、どれも閉まっている。

 光は扉を無視してひたすらに階段を降りていく。

 もうどこから階段を降り始めたのかも分からない。

 一体どこまで降りていくのだろうか。

 

 

 

 光が一際大きな踊り場で止まった。

 今まであったものより遥かに巨大な金属製の扉があり、剥げて薄れた塗装で何か書いてある。

 

 光が扉の前で急かすように瞬くが、足を踏み出そうとした途端に視界が揺れた。

 そのまま俺は床に倒れ込んでしまう。

 手をついたがその手も肘からあっさりと曲がり、何の役にも立たないまま身体が固い床に打ち付けられる。

 冬にキャッチボールをした時よりも更に強い痛みが身体を襲う。

 立ち上がろうとしても手足に力が入らない。

 冷たい床と地下特有の寒さが体温を奪っていく。

 

 辛うじて動く両腕でランタンを取り出して火を着け、マントに包まった。

 暖を取るにはあまりにも心許ない小さな炎を見ていると俺自身のようにも見えてくる。

 風前の灯火ってやつだ。ここには風は吹いていないけど。

 

 光がスッと俺の目の前に移動してきた。

 どういう理屈かは分からないが、動物の体温のような温かさを感じる。

 間近で光を見ていると、なぜだか酷く懐かしいような気持ちになった。

 何か俺にとって大切な存在だったような──何だったっけ?

 

 眠気が襲ってきて瞼が下がっていく。

 

 

◇◇◇

 

 

 夢を見ていた。

 

「──!──!」

 

 大事に飼っていた愛犬が朝起きたら冷たくなっていて、それを受け入れられなくて必死に呼びかけている男が一人。

 ──前世の俺だ。

 

 前世の俺を今世の俺が後ろから見ている、という不思議な光景。

 

 夢だと分かっているのに、悲しむ前世の俺を見ているとこっちまで泣きそうになる。

 愛犬が死んだ時の悲しみと喪失感は今でも覚えている。

 あの頃は自分の一部が切り取られたような悲しみでしばらく塞ぎ込んでしまった。

 

 でも──まだあの頃は幸せだった。

 

 その後にあの女(元妻)と出会い、一目惚れ同然に好きになり、結婚し、子供が生まれ──そして行き着いた先はあの地獄だ。

 あの女と結婚してから俺の我慢が増えた。

 結婚は人生の墓場とはよく言ったもので、家族への愛情という鎖に縛られて自由を奪われ、自分で稼いだ金も取り上げられて自由に使えるのは僅かな小遣いだけ。

 

 それでも俺はあの女と何よりも大切に思っていた子供のために耐えて自分を殺し続けて──そして裏切られていたことに気付かずに搾取され続けていた。

 植え付けられた「正義」や「道徳」を盲信し、見せかけの幸せに騙されて、陰で嘲笑われながら奪われ続けて──虚しいとか理不尽とかそんな言葉じゃ言い表せない哀しい人生だった。

 

 そして今世でも親に疎まれ、憎まれ、望まない結婚を強いられ、それを回避するために冒険に出て──転生しても苦労ばかりだ。

 

 ──あの頃に戻りたい。

 目の前で愛犬の亡骸を前に泣く前世の俺を見てそう思う。

 いや、違うな。できれば愛犬がまだ生きていた頃──欲を言えば飼い始めた頃に戻りたい。

 優しい両親がいて、可愛い愛犬がいて、有り余る時間があって、有り余る自由があって、喜びと楽しさが一番多くて、苦しみが一番少なかった時代に。

 

 涙が一粒、頬を伝って落ちていく。

 もし──もし、異世界転生じゃなくてタイムリープをして人生を途中からやり直していたなら──俺はどうしていただろうか。

 

 

◇◇◇

 

 

 目が覚めると視界が滲んでいた。

 目元を拭ってみると涙で濡れていた。

 何か、酷く悲しくて、でも懐かしい夢を見ていたような気がするのだが、思い出せない。

 どれだけ眠っていたのか分からないが、空腹を感じることからだいぶ長い間眠っていたようだ。

 休息を取れたからか、手足はまともに動くようになっている。

 

 最後に見た時には俺の目の前にいた光は、金属製の扉の前にいた。

 横にあるインターホンのような機械が光に照らし出されている。

 

 扉を開ける手段は分かったが、ひとまず腹拵えしたい。

 何か食べるものはないかとポケットを探ってみると、小さな乾パンの袋が出てきた。

 水筒の水をちびちび飲みながら流し込んで空腹を和らげ、立ち上がって扉に向かった。

 

 横のインターホンのような機械はまだ生きているようで、埃を被ったディスプレイが微かに光っている。

 下の解錠ボタンを押すと、音もなく扉が上にスライドして開いた。

 

 光が扉をくぐって進んでいく。

 扉の向こうはまた通路になっていた。

 光はその通路の突き当たりに向かって進んでいき、角の部屋の前で止まった。

 

 追いついた俺は肝を冷やした。

 扉の前に死体が転がっていたのだ。

 部屋に入ろうとしてそこで力尽きたかのような姿勢で横たわる死体は白骨化していて、死因は分からない。

 この死体の主がこの部屋に入ろうとした理由は何なのだろう。

 部屋は分厚い金属製の扉に閉ざされていて、中に何があるのかは分からない。

 

 光が死体の手を照らし出した。

 見ると、カードのような物が下敷きになっている。

 そっと死体の手をどかし、拾ってみると、何やら文字が書いてあった。

 

「──アルファベット?」

 

 ほとんど読み取れなかったが、頭文字の「A」だけがまだくっきりと残っていた。

 異世界に来てアルファベットを見るとは思わなかった。

 ますます謎が深まるばかりだが、今はそれを考えても仕方がない。

 

 このカードが扉を開けるのに必要なのだろうか。

 見るとドアの横に四角い箱のような物があった。

 近づくとディスプレイが灯り、四角い枠のようなものが表示される。どうやらこのディスプレイがカード読み取り機を兼ねているようだ。

 

 カードを四角い枠に当ててみると「ピッ」と音がして緑色のランプが灯る。

 カチリ、と音がしたかと思うと、扉が音もなく横にスライドして開く。

 中は真っ暗──ではなかった。部屋の奥に淡い光を放つ窓のような物があり、その向こう側に何かがある。

 

 

 

 窓のように見えていたのは巨大な水槽だった。

 透明な液体で満たされた水槽の中にバスケットボールくらいの大きさの白い球体が浮かんでいる。

 

 その白い球体に俺は違和感を感じた。

 見た目は白いボールなのだが、質感がどうにも変だ。

 滑らかで、ゴムやナイロンではない──まるでイモリかカエルの肌のような感じがする。

 

 

『来客なんて久しぶりね』

 

 

 突然聞こえてきたその声ははっきりとしていたにも関わらず、どこから聞こえてきたのか全く分からなかった。

 

 後ろを振り返ったが、誰もいない。

 俺をここに導いた光もいつの間にかいなくなっていた。

 魔力での空間把握をしてみたが、やはり声の主らしき存在は見当たらない。

 

『貴女の目の前よ』

 

 再び声が聞こえた。

 水槽の方に向き直ると、目に入ったのは血のように赤い瞳を持った「目」だった。

 

「ッ!」

 

 出かかった悲鳴は喉が引き攣って声にならなかった。

 

 バスケットボール大の人間の眼球が白い皮膚で覆われているかのような不気味な外見になったソレは口もないのにはっきりとした声を発した。

 

『貴女は──誰?』

 

 ──肝を潰した。

 目玉だけの怪物というだけで十分怖いのに、いきなり喋ったのだ。それもテレパシーで、ねっとりとした妖艶な女声で、流暢なホルファート王国語で。

 

 腰を抜かした俺に怪物は子供をあやすような口調で言った。

 

『そんなに怖がることないのに。私は何もしないわよ?そもそもこの中に閉じ込められていては外には干渉できないわ。せいぜいこうやってお話する程度よ』

「お前──えっと──え?」

 

 頭が混乱して言葉が出てこない。

 

『焦っても余計にこんがらがるだけよ。深呼吸よ。ひっひっふーよ』

 

 その声に何の力があったのか、俺は素直に従っていた。

 なるほど、確かに一呼吸置くことで頭は整理──されなかった。

 何とか絞り出せた質問は──

 

「お前は──何なんだ?」

 

 それだけだった。

 

 怪物は目を閉じて軽く左右に身体を振った。まるでかぶりを振るかのように。

 

『先に質問したのは私の方──と言いたいところだけれど、まあいいわ。私は【セルカ】。魔装や魔法生物に類する存在よ』

 

 セルカと名乗った怪物は聞いたこともない単語を口にする。

 

『は?まそう?何のことだ?』

 

 俺の問いかけにセルカは少し目を見開き、意外そうな反応をする。

 

『あら、魔装のことを知らない客人なんて初めてね』

 

 そしてセルカは手前の方に寄ってきて俺の身体をまじまじと見つめた。

 

『その服からするとここの人間ではないようね。それに随分と可愛らしい顔をしているようだけれど──どこから来たのかしら?』

 

 訳が分からないまま俺は答える。

 

「──ホルファート王国だ」

『──知らないわね。そんな国。──じゃあ貴女は侵入者ってことかしら?だとしたら感心だわ。よくここまで辿り着けたわね』

 

 セルカが笑っているかのように目を細める。

 

『セキュリティゲートを十回は通らないといけないのだけれど──どうやったのかしら?』

「は?セキュリティゲート?何を言っているんだ?そんなものなかったぞ?」

 

 俺の答えにセルカは目つきを変えた。

 細められていた目が見開かれ、真剣な目つきになる。

 

『──なるほどね。では質問を変えるわ。今は新暦何年かしら?』

「新暦?何だそれは?」

『その答えで分かったわ。彼らは負けたのね』

「負けた?」

『──この研究所を作って私をここに閉じ込めた種族──旧人類とでも言うべきかしら?彼らは私のような存在を創った種族──新人類と呼ばれた種族との戦争をしていたのよ。その旧人類が使っていた暦が【新暦】。それが使われていないということは彼らは負けて滅びた。そしてこの研究所も機能のほとんどを停止した。その結論に行き着くわね』

 

 セルカは少し視線を落として寂しそうな様子を見せた。

 

『ここに閉じ込められているのも戦いに比べればだいぶ居心地が良かったのだけれど。それで、貴女はどうしてここを訪れたのかしら?偶然とは考えられないのだけれど』

 

 再びセルカが俺と目を合わせて問うてきた。

 だが俺はこいつの言ったことに理解が追いつかない。

 

「待て、さっきから一体何の話をしているんだ?旧人類とか新人類とか──ここは何なんだ?研究所ってどういうことだ?」

『──想像以上の年月が経っていたようね。あんな戦争、忘れたくても忘れられるとは思えないのだけれど。まあいいわ』

 

 そう言ってセルカは「長くなるわよ」と前置きしてから話し始める。

 

『貴女が生まれるずっと前、貴女の言っていたホルファート王国という国もなく、空に浮かぶ陸地もなかった時代、この星は旧人類が支配していたのよ。でもいつからか、魔法を使う新人類と呼ばれる種族が現れた。旧人類と新人類がなぜ相争うようになったのかは知らないけれど、とにかく二つの種族がこの星の覇権をめぐって争ったの。旧人類は持ち前の科学技術を駆使して数多の兵器を造り、新人類もそれに対抗して魔装や魔法生物といった眷属を創り出した。でも、【アルカディア】と呼ばれる最強の魔装が戦局を変えたわ。何せ【魔素】を人為的に作り出せるようになったのだから』

「魔素?」

『魔素というのは魔法という現象を起こすのに欠かせない特異物質のことよ。新人類にとっては便利なものだったのだけど、耐性のない旧人類にとっては毒になったの。魔素は元々天然に存在していたけれど、その量は僅かなもので、新人類はなんとか魔素を人為的に作れないものかと研究を重ねた。そして遂にその方法を見つけ、魔素生成装置を作り上げた。更に大事な装置を破壊されないよう、装置そのものを要塞にして【アルカディア】と名付けたの。アルカディアは無尽蔵に魔素を作り出して放出し、放出された魔素を使って新人類は戦いを有利に進めることができた。旧人類は何度もアルカディアを破壊しようとしたけれど、その力は強大で、旧人類の兵器では真っ向勝負を挑んでも勝てなかった。だから彼らは必死で弱点を探していた。そのために彼らはアルカディアを複製しようとしたのよ。それが最も早く、そして確実にアルカディアの秘密に迫る手段だと。その試みが為されたのがこの研究所。そしてその試みによって生み出されたのが私というわけよ』

 

 セルカは一息吐くかのように言葉を区切る。

 

 ゆっくりと話してくれたおかげで聞き取れはしたが、理解できたとは言い難い。

 何万年も前に今よりも優れた科学技術を持った超古代文明があった、という話をいきなり聞かされて信じる気になれるか──と言えば分かるだろうか。

 確かにこの巨大な遺跡と目の前のセルカの存在が証拠ではあるのだが、それでもとても信じられない。

 

 セルカは呆然とする俺に構わずに話を再開する。

 

『でも彼らの目論見はほとんど外れた。私はアルカディアのようにはなれなかった。まあ、なっていたとすればアルカディアと戦わされるか、データを取った後に抹殺されていたでしょうけど──それでも彼らは諦めずに研究を続けたけれど、結局アルカディアはその後の戦いで海の底深く沈められた。それで私は用済みになったはずなのだけれど、何故か処分されることなくここに閉じ込められたまま生かされ続けたの。時々彼らは私と話をしに来ていたけれど、いつしかそれもなくなった。以来時間の感覚がなくなるほど長い時間を独りで過ごしていたけれど、貴女が来た。おかげで久しぶりにこうして話せて嬉しいわ。つい饒舌になってしまったわね』

 

 セルカは目だけでにっこり笑う。

 そして好奇心で瞳を輝かせて問うてくる。

 

『さ、次は貴女のことを聞かせてくれるかしら?貴女は何者?』



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セルカ

「俺のことを聞いて──それでどうする気だ?」

 

 俺はセルカにそう訊き返した。

 

 こいつの話したことは到底信じがたい──壮大なオカルトで、それで俺を煙に巻いているとしか思えなかった。

 仮にセルカが本当にこの水槽に閉じ込められていて、あの恐ろしいロボット共やそいつらを作った者にとって外に出すわけにはいかない存在だとするなら──俺にとって脅威にならない保証がどこにある?

 それこそセルカがやってきた人間を言葉巧みに誑かして、自身の封印を解かせて暴れ出す魔物の類であり、俺を騙して利用しようとしているだけである可能性も排除できない。

 案内人の加護の光が導いた先にいたことを考慮しても、案内人自体胡散臭くて、説明が少な過ぎて、何を考えているのか分からない奴だ。何も考えずに信じて従って良いとは思えない。

 

『まあ、当然と言えば当然ね。私のことを知らないのだし、信用できないのも無理はないわ』

 

 セルカは俺の内心の疑念を読み取ったらしい。

 

『でも私は嘘を言ってはいないわ。私はここに閉じ込められていて、出ることはおろかこの部屋の中での念話や念視以外の如何なる干渉も不可能よ。貴女のことを聞きたいのもただの好奇心。私にはこの部屋を訪れた者との会話くらいしか楽しみがないもの』

 

 そこで俺ははたと違和感に気づいた。

 

 ()()()()()()()()()()

 

 普通、大昔の存在とは言語の違いで意志の疎通ができないはずだ。

 なのにセルカは最初から流暢なホルファート王国語を喋った。

 まるで普段から使っていたかのように。

 

「──そうだ。会話だ。お前はそれこそとんでもない大昔に生きていたんだろう?だったらなんで俺と言葉が通じるんだよ?」

『ああ、それはね、念話だからよ。貴女の出身国──ホルファート王国の言語なんて私は知らない。でもね、念話は言語の壁を超えた概念伝達ができるの。私が貴女に念話で伝えた概念をホルファート王国語に変換しているのは貴女の脳よ』

「つまり──どこの誰が相手でも最初から問題なく話ができる、と?」

『そう。私と念話で話すのに言語の壁は存在しないの。翻訳機は既知の言語にしか対応しないけれど、念話は未知の言語にも難なく対応できるわ。この回答で満足かしら?』

 

 ──なるほど。今はそういうことにしておくか。

 テレパシーについての知識などないから検証などできない。

 それよりもう一つ、疑問がある。

 

「お前は──ここから出たい、とか思わないのか?」

 

 閉じ込められた者ならば抱くであろう至極当然の思いをセルカは口にしなかった。

 そこを見逃さずに問い質すと、セルカはあっさりと認めた。

 

『思わないわけないじゃない。私は外の世界を殆ど見たことがないの。時々来ていた人たちから聞いた話とデータベースの情報から、外の世界のことを知識として知ってはいるのだけれど、やっぱりこの目で見てみたいという欲求は抑えられるものではないわ』

 

 そしてセルカは俺が畳み掛けるよりも先に言葉を継いだ。

 

『でもね──不可能なのよ』

「不可能ってどういうことだ?その気になればこんなガラス破れるんじゃないのか?」

 

 鏡花水月を使う準備をしつつ俺は尋ねる。

 

 するとセルカは「見ていて」と言って目を閉じ、丸い身体をガラスにぶつけた。

 瞬間、青白い半透明のバリアのようなものが水槽内部全体に張られ、セルカの身体は電撃に襲われた。

 声にこそならないが、悲鳴を堪えているのがテレパシーで伝わってくる。

 

 セルカがガラスから離れるとバリアはすぐに消えた。

 

『ほらね。内部から軽く衝撃を与えただけでもエネルギーシールドが張られるの。許可なく魔法なんて使った日にはインパクトショットで区画ごと消し飛ばされるわ』

 

 確かめる術はないが、嘘は言っていないように思えた。

 

『これで私の疑いは晴れたかしら?』

 

 答えは完全にイエスになったとは言えないが、とりあえずこいつが俺に直接的な害を為せる状態にない、とは判断していいだろう。

 

「ああ──」

 

 俺がそう口にした直後、セルカはガラスすれすれまで寄ってきた。

 

『良かった!じゃあ聞かせて頂戴な。貴女の名前は?どうやってここに来たの?』

 

 

◇◇◇

 

 

『それは私の望む答えではない。質問に答えろ』

 

 奇妙な癖のある無機質な声が質問を投げかける。

 

「何──度も、言わせる、な!私に、話せること、など──もう、何もない!」

 

 そう言った直後、電撃が迸り、アーヴリルを襲う。

 悲鳴を上げるアーヴリルに声は冷たく言い放つ。

 

『意地を張らない方が身のためだ。死に近づいている』

 

 電撃が止む。

 

 そして目の前に透明な箱に入れられたティナが置かれた。

 

『第七研究所の強化兵士──()()をどこで手懐けた?』

「だから──何だ──それは?この──者は、ただの、専属、使用人──」

 

 再び電撃を浴びせられ、アーヴリルは悲鳴を上げた。

 

『──弱体化している。総合的な耐久力が前回捕獲したサンプルの四十八パーセント』

 

 何やら訳の分からないことを呟く声。

 アーヴリルは電撃が止んだ隙に酸素を求めて必死に息を吸う。

 

 

 

 エステルの鎧が爆発した時、アーヴリルは壁に叩きつけられて気を失った。

 

 目が覚めたら、金属なのか粘土なのか分からない材質でできた担架のようなものに拘束されていた。

 そして眩しい白い光に満たされて周りがよく見えない部屋で、時間の感覚がなくなるほど拷問を受け続けている。

 

 目の前にはマゼンタ色に輝く一つ目を持った、直径一メートルほどの巨大な白い球体。

 その球体がアーヴリルに訳の分からない質問をいくつも投げかけ、答えられなければ電撃を浴びせ、答えても十回中八回ほどの確率で同じことをする、という理不尽な仕打ちを続けている。

 泣こうが、喚こうが、抵抗しようが、慈悲を乞おうが、拷問は止まなかった。

 

 今やアーヴリルは息も絶え絶えだった。

 抵抗の意思などとっくに消え失せ、思考さえも覚束ない。

 いっそ殺してくれと心の中で叫ぶアーヴリルだが、一つだけ気がかりなのは──

 

(エステル様は──逃げられたのか?それとも──)

 

 できれば無事に逃げ延びていて欲しい──そう思うが、その可能性が限りなくゼロに近いと気付いている自分もいる。

 

 不意に「ベーッ!」という音がしたかと思うと、球体が狼狽したような言葉を発した。

 

『──馬鹿な。地下二十階七番収容室に新規入室記録?入室者は──ライトマイヤー博士?あり得ない。他の可能性は──残り一体の仕業と判断すべき』

 

 そして球体はアーヴリルから一つ目を逸らし、マゼンタ色の光を点滅させながらどこかに指示を出し始めた。

 

『調査チームを編成。地下二十階七番収容室の捜索を開始──』

 

 遠のきそうになる意識の中で「残り一体」という言葉が妙に鮮明に耳に残った。

 間違いなくエステルだ。

 どうやら生きてあの場から逃げ延びていたらしい。

 

 だが、どうやら彼女にも化け物の追手が迫っているようだ。

 

 早く逃げて──そう思ったアーヴリルだが、直後に心の中に湧き起こった感情に戦慄する。

 

 

◇◇◇

 

 

『あら──それは──本当にお気の毒だったわね』

 

 セルカが透明な壁越しに同情の言葉をかけてくる。

 

 俺はセルカに自分の境遇を包み隠さず話してしまっていた。

 さすがに転生者であることまでは話さなかったが、実の父と継母から疎まれてきたことや、望まない結婚を強いられたこと、それを回避するために冒険の実績を求めてここに来たこと、ここが【聖域】と呼ばれて立ち入りが禁忌になっていること、ロボットに襲われて鎧と旅仲間二人を失ったこと、謎の光に導かれてここに来たこと、入り口で白骨死体が持っていたカードキーを使ってこの部屋に入ったことまで全部話した。

 

 その話にセルカは憤ったり、俺に何か言ってきたりするでもなく、ただ話を聞いて同情してくれた。

 創作の魔物みたいに「そいつらに復讐したくはないか?」とか「力になろう」といった甘言を弄してくることもなかった。

 よく見ると目尻から涙のような液体が流れ出して水槽に満たされた液体に溶けていっている。一緒に泣いてくれる相手というのは前世を含めてもいなかったような気がする。

 

 俺の頬にも溢れ出した涙の感触があることに気付いた。

 

 ──どちらが先に泣き出したのだろうか。

 

 

 

『今の私では直接力になってはあげられないけれど──貴女の仲間、まだ助けられるかもしれないわ』

 

 不意にセルカがそう言った。

 

「──は?」

『殺されたとはっきり分かったわけではないのでしょう?ならば生きたまま捕らえられたという見方もできるはずよ』

 

 セルカは真っ直ぐに俺の方を見て言った。

 目玉だけのセルカには表情というものが作れないが、その目は真剣だった。

 

『この研究所のコントロールセンターに行くの。そこからならこの研究所の全てを把握できるわ。おそらく貴女の仲間の安否や所在も』

 

 ──言うのは簡単だが、どうやって行くのか。

 そのコントロールセンターがどこにあるのかすら俺は知らない。

 

「どうやってだ?俺はこんな所の土地勘なんてないぞ」

『貴女は魔法が使えるのでしょう?なら部屋を出た後も私が念話で誘導できるわ。この研究所の大まかな内部構造は知っているし、念視で視界の共有もできるから大丈夫よ』

 

 ──そうなのか。

 だがナビゲーターが付いていてもまだもう一つ問題がある。

 

「あのロボットはどうする?レーザーなんてとても防げないんだが?」

『私が出来る限り遭遇しないように上手く誘導するけれど──そうね、どこかから壁板を剥がして盾にすると良いわ。ここの壁や床はレーザーガンでも簡単には貫けないの。それこそ一時間くらい同じポイントに当て続けでもしない限りはね』

 

 ──そうか。そういえばレーザーが当たった壁は赤熱化してはいたが、抉れたりはしていなかった。

 だがレーザーでも貫けない壁板をどうやって引き剥がせというのだろうか。

 

『壁板は接着されているだけから経年劣化で剥がれかかっている所を探すしかないわね。それと、レーザーを防げても攻撃手段は貴女の方で考えてもらわなくちゃいけないわ』

 

 俺は頭の中でシミュレーションしてみる。

 視認していなくても魔力で存在をはっきりと認識することはできる。

 魔力で索敵し、ロボットに遭遇したら盾でレーザーを防ぎつつ鏡花水月で打ち返していけば──いけるかもしれない。

 

「攻撃手段については心当たりがある。──俺はコントロールセンターに行く。案内、頼めるか?」

 

 セルカは再び目だけでにっこり笑った。

 

『ええ、いいわよ。見返りは全てが終わった後に私をここから出してくれる、でいいかしら?』

「──出られないんじゃなかったのか?」

『貴女が使ったカードキーはこの研究所でもトップレベルの権限があった研究者のものよ。アシュリー・ライトマイヤー博士──彼女のカードキーを使えばこの水槽のエネルギーシールドとインパクトショットを切れるわ。その時の操作についても私が指示するから問題はないわよ』

 

 これは乗ってもいい取引──そう判断した。

 先に解放を要求するなら乗らなかったが、セルカは「全てが終わった後」と言った。

 

「交渉成立だ」

 

 そう言うとセルカは目だけで微笑んだ。

 

『それにしても貴女──ロボットとかレーザーなんて言葉、使うのね。概念伝達に頼らないで──まるでよく知っているみたいに。服装から推定される文明水準に見合わない知識と思うのだけれど』

「──ああ。よく知ってるさ。よく知ってて──敵になるとあんなに恐ろしいとは思わなかった」

 

 前世だとテレビの画面の中の戦闘ロボットはカッコ良くて、未来的な街や宇宙空間でレーザーを撃ち合う戦闘シーンには大興奮していたものだ。

 

 ノスタルジーに浸ったのも束の間、俺はかぶりを振って扉の方に向かって歩き出す。

 セルカは追及してこなかった。

 

 

 

 扉を開けて外に出ると、セルカの誘導に従い、エレベーターを目指した。

 

 セルカによればコントロールセンターはここから十階上、地下十階にあり、専用の直通エレベーターでないと辿り着けないらしい。

 そしてそのエレベーターに乗り込むだけでも高ランクのカードキーが要る。

 

 幸い白骨死体から拝借したものが使えるようだが──あの白骨死体の主はどんな人物だったのだろうか。なぜセルカの収容された部屋の前で死んでいたのだろうか。

 

 その疑問はテレパシーでセルカに伝わっていたらしく、律儀な答えが返ってくる。

 

『ライトマイヤー博士は私を作り出したプロジェクトの統括者だったの。軍に引き抜かれて魔装の解析・研究に携わっていたわ。聡明で心優しく、それでいて勇敢でもあった。アルカディアを複製するための体組織サンプルを手に入れる──そのためだけにアルカディアへの大規模攻撃が行われた時、自ら最前線に飛び込んで、命懸けでサンプルを回収したくらい。研究者なんだから、研究所でサンプルが届くのを待っている立場だったのに、自分の手で確実に手に入れないと、ってね。そんな苦労と多くの犠牲の果てに手に入れたサンプルから作り出された私は期待された性能の一割も発揮できなくて、多くの人がプロジェクトは失敗だと断じたけれど、彼女はずっと私を信じ続けていたわ。上層部の圧力に抗いながら、研究を続けて──それに研究目的以外でもよく私と話をしに来ていたわね。彼女自身のこと、彼女の周りの人のこと、分からず屋の上層部の愚痴や笑える出来事、戦争が起こる前の世界のこと──色々教えてくれたわ。彼女が来なくなってから、長い間彼女はどこに行ったんだろうって考えていたけれど──まさかずっと部屋の前にいたなんてね』

 

 セルカの声は悲しさや寂しさを含みつつも落ち着いた──泣きたいのに泣けないような、そんな感じのする声だった。

 彼女の話を鵜呑みにはできないが、俺には嘘を言っているようには思えなかった。

 

『まあ、全部もう過去の話よ。それより今は貴女と貴女の仲間を助けることに集中しないとね』

「ああ──」

 

 どこか堪えて気丈に振る舞っているように明るい声で言ってくるセルカに何と返せばいいのか、俺には分からなかった。

 

 

 

『その次の角を右よ。その一番奥のエレベーターに乗って』

 

 セルカから指示が来たので一旦立ち止まる。

 

 指定された角は数メートル先にあった。

 

 角を曲がる時はまず索敵しなければならない。

 この遺跡の特殊な環境──セルカによると空気浄化装置がまだ生きていて魔素が薄く、魔法が使いにくいらしい──ゆえに空間把握の効果範囲が狭く、頻繁な使用を強いられている。

 

 何度目かも分からない空間把握を使おうとした時、「ビー」という音が聞こえた。

 ──角の向こうから。

 

 次の瞬間、空間把握に開いた扉の向こうから出てくる三体のロボットが映る。

 よりにもよって俺が乗るはずだったエレベーターから奴らは出てくる。

 俺と感覚を共有しているセルカもロボットの存在に気付いたようだ。

 

『まずいわね。近くに剥がせそうな壁板はあるかしら?』

 

 ──そんなものはない。

 壁は憎たらしいほどきちんと真っ直ぐのままだ。経年劣化というものを知らないのだろうか?

 壁が駄目となると他に盾に使えそうなものといったら──

 

「──そうだ」

『どうしたの?』

「壁板は剥がせそうにない。だったらロボットを盾にすればいい」

 

 危険な賭けではあるが、待ち伏せで一体倒し、そいつを盾にしながら鏡花水月を使えば倒せるのではないかと閃いた。

 

『本気!?』

「やるしかない。俺にも切り札がある」

 

 小声で言いながら俺は拳銃を右手に握った。

 

 ロボットが硬質な足音を立てて近づいてくる。

 

 曲がり角から先頭の一体が姿を現した瞬間、俺は拳銃の引き金を引いた。

 魔法で存在を把握して視界に入る前から照準していたお陰で、ロボットは反応する間もなくレンズを撃ち抜かれ、火花を散らして止まった。

 

 素早く魔法で肉体を強化して掴みかかり、こちらに引き寄せる。

 残り二体のロボットが発射したレーザーで倒したロボットの腕が片方切断されたが、その分重量が減り、却って好都合である。

 

 二体のロボットは俺を追って曲がり角から姿を現したが、拳銃で難なく一体のレンズを撃ち抜く。

 

 直後、もう一体が放ったレーザーが盾にしたロボットの残骸に当たったのが分かる。

 だがレーザーがロボットの残骸を貫いて俺の身体を焼き切るまでには数十秒ほどの猶予がある。

 これなら鏡花水月を使う必要はなさそうだ。

 

 脚に魔力を込めて突進し、ロボットの残骸を思い切り叩きつける。

 ロボットはバランスを崩して拍子抜けするほどあっさりと仰向けに倒れた。

 

 すかさず残骸から手を離し、立ち上がろうとするロボットのレンズに接射で拳銃を撃ち込む。

 黄色い火花が飛び散り、ロボットは動かなくなる。

 

 念のため、倒した三体全てにもう一発ずつ撃ち込んでから、拳銃の回転弾倉に弾を装填し、盾代わりのロボットの残骸を一つ持ってエレベーターに向かった。

 

『貴女、そのなりで凄く強いわね』

 

 セルカが感心したような声で言ってくる。

 驚かれるのは悪くない気分だが、それより疑問がある。

 

「さっきのロボットはお前が言っていたエレベーターから出てきたぞ。俺の居場所がバレているんじゃないだろうな?」

 

 チラッと──ほんの少し、セルカを疑った。

 こいつがロボットたちに知らせたのではないか、と。

 

『そうではないと思うわ。おそらく私のいる部屋への新しい入室記録があったことで【ライチェス】が調査隊を出したのよ』

「ライチェス?」

『この研究所の管理をしていたAI──人工知能とでも言えば通じるかしら?』

「──ああ、分かる。もしかしてそいつがここの機能を維持しているのか?」

『そう。察しがいいわね。コントロールセンターにはライチェスの子機がいるでしょうから、戦う準備をしておいて頂戴』

 

 どうやらロボットたちの親玉が生きていて、そいつがセルカの部屋に誰か入ったと知って不審に思った、ということらしい。

 確かめることはできないが、とりあえずこいつが知らせたというわけではないようだ。

 

 カードキーをエレベーターの横にある読み取り機にかざすと「ピッ」と音がして緑色のランプが灯り、音もなく扉が開いた。

 

 乗り込むと、自動で扉が閉まる。

 

「地下十階って言ったな?」

『そうよ。下から三番目のボタンを押して』

「分かった」

 

 指定されたボタンを押すと、扉の横のディスプレイに矢印が表示され、それが上へと動き始めた。

 

 ちっとも上昇している感覚がないが、魔力での空間把握を使ってみると、とんでもないスピードで上昇しているのが分かった。

 金属製なのに錆びつかない床や壁、扉といい、ロボットといい、レーザーガンといい、やはりここはオーバーテクノロジーの塊だな。

 

 エレベーターが減速し始め、「ブー」という音が鳴る。

 そろそろ着くようだ。

 全力で空間把握をしつつ、盾を構え、拳銃を右手に持ち、鏡花水月を発動できるように準備する。

 

 エレベーターが完全に止まった。

 扉が開き、壁一面のディスプレイとその前に並んだ椅子が目に飛び込んできた。

 

 ゆっくり、慎重に足を踏み入れる。

 中には誰もいないようだ。

 空間把握と索敵魔法の重ね掛けで調べてみたが、あの恐ろしいロボットは一体もいない。ライチェスとかいうロボットの親玉らしきものも見当たらない。

 拍子抜けするほどあっさりとディスプレイの前まで辿り着けてしまった。

 

『──嫌な予感がするわね。うまく行きすぎだわ』

 

 俺もセルカに同意だ。

 静かすぎる、という状況は嵐の前の静けさ──ベタなフラグに他ならない。

 

 そして──その予想は裏切られなかった。

 

 

『よくここまで辿り着けたな。君の評価を上方修正しよう』

 

 

 不意に無機質な電子音のような声がしたかと思うと、俺の周囲に青白い半透明の壁が出現した。

 セルカの水槽で見たエネルギーシールドだ。

 

 ──捕まった。

 

 周り全てを見渡してそう理解するのに約二秒。

 

 エネルギーシールドの向こう側にマゼンタ色に輝くセンサーアイを持つ白い球体が出現する。

 シールド越しでも分かる金属のような質感から、ロボットだと分かる。

 

 ──どこから湧いて出やがった!?

 さっきはこんなの影も形もなかったのに!

 

『新人類にここまでの侵入を許したのは初のこと。注目に値する個体と判断』

 

 球体型ロボットは俺を覗き込むようにシールドに近づいてきた。

 センサーアイの中のレンズがしきりに動いている。

 

『──ライチェス!』

 

 セルカの声が聞こえてきた。

 その声は苦手な奴を相手にしたときのような調子だった。

 

「お前が──ライチェスか?」 

 

 そう口にした途端、球体型ロボットはレンズの動きを止めた。

 

『私の名を知っている?──そうか。セルカに会ったか』

 

 その声は電子音でありながら、なぜか酷く冷たい──殺気を帯びた声に聞こえた。



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実体のない武器

ちょっと短め


『君には質問することが増えた。取調室に来てもらおう』

 

 ライチェスがそう言うとシールドが移動し始める。

 シールドが指先に触れた途端、「バチッ」と音がして衝撃と痛みが走る。

 

『無駄だ。痛みが増えるだけだ』

 

 ライチェスが冷ややかな電子音声で言った。

 

「おい、俺の仲間はどこだ!」

 

 ライチェスを怒鳴りつけたが、答えは返ってこない。

 

『答える義務はない』

 

 俺の頭を最悪の想像がよぎる。

 

 瞬間、俺は痛みにも構わずシールドに両手の拳を叩きつけていた。

 

「てめぇまさか殺したのか!俺の大事な──ティナと、アーヴリルを!」

 

 シールドを叩いても衝撃と痛みが走るだけで通り抜けることはできなかった。

 蹴ってもそれは同じ。

 電撃を受けた肌が火傷を起こしてさらなる痛みをもたらす。

 体内の魔力が俺の身体を修復してくれるが、治療魔法を使えない俺ではそのスピードは鈍い。

 

『やめて!無駄よ。エネルギーシールドは内側からは破れないわ!』

 

 セルカがテレパシーで叫んでくる。

 どうやら視聴覚だけでなく、痛覚まで共有しているようだ。

 だがこのまま大人しくしていろと言うのなら同意しかねる。

 何とかしてシールドを突破しなければ。

 

(おい、そのエネルギーシールドってのはジェネレーターか何かから出ているのか?)

『え?ああ、ジェネレーターは貴女の真上よ。でも──』

 

 セルカが言い終わるよりも先に頭上を見上げる。

 

 たしかに天井に丸い機械がぶら下がっていてそこからシールドが展開されているようだ。

 

 素早くジェネレーターの真下から退避し、鏡花水月を発動した。

 

『何!?シールドを破ったか!』

 

 俺の周囲のシールドが消えたかと思うと、シールドが急に展開される向きを変え、歪な形になりながら天井に向かっていき、ジェネレーターを覆い隠した。

 俺はすかさずジェネレーターから遠く離れて鏡花水月を解除すると、拳銃を抜いてジェネレーターを撃った。

 ジェネレーターが火花を散らし、シールドが完全に消失する。

 

『馬鹿な──何の魔法を使った?』

 

 唖然としたように固まるライチェスが問いかけてくる。

 

「さあな。教えてやる義理はない。ただ、破ったと言うより()()()()ってとこだな」

『──めくった?』

 

 ジェネレーターの真下の空間を弄ったのだ。

 別にジェネレーターはおかしくなってなどいない。愚直に()()に向かってシールドを張り続けている。ただ弄られた空間の外側からは()()()()()()()()()()()()()()()()()だけである。

 

 だがライチェスには理解できなかったようだ。

 まあ無理もない。鏡花水月は初見殺しにも程があるし、タネが分かっても簡単にどうこうできるものでもないからな。

 

「さてと、さっきの質問の答えをまだ聞いてないぞ。俺の仲間はどこだ?」

 

 拳銃を向けて問い詰めると、ライチェスは一つ目の輝きを一層増した。

 

『君の仲間は取調室にて調べさせてもらった。結果新人類は最早我々の脅威たり得ないほどに弱体化したとの結論が出たが──君はその結論を覆すに足ると判断。抹殺する予定だったが、方針を修正しよう。君は仲間共々生きた状態で研究解析させてもらう』

 

 どうやらティナとアーヴリルはまだ死んだというわけではないようだ。

 今どこにいるのかは言わなかったが、殺したと明言しなかっただけでも十分だ。

 それよりも今はライチェスをどうにかしなければならない。

 

「はっ、そうかよ。所詮研究材料ってか!?」

 

 ライチェスの一つ目目掛けて拳銃を撃ったが、ライチェスが素早くボディを回転させた。

 弾はボディの金属部分に当たり、甲高い音を立てて跳弾する。

 

『気を付けて!レーザーが来るわよ!』

 

 セルカがテレパシーで警告してくる。

 

 鏡花水月を発動した直後、赤い光線がライチェスの一つ目から放たれる。

 だが俺には当たらず、曲がって天井を焼いた。

 

『──馬鹿な!直進していたはず!』

「ああ、そうだろうな。センサー上ではな!」

 

 動揺したような声を発するライチェスをせせら笑い、俺は鏡花水月を発動したまま距離を詰める。

 

 ライチェスは逃げながらまたレーザーを撃ってきたが、難なく逸らし、ついでに打ち返してやった。

 残念ながらダメージにはならなかったが、ライチェスの動揺は大きくなったようだ。

 

『オプチカルシーカーの不具合?違う──センサー』

「ボサッとしてるんじゃねえよ!」

 

 壁を蹴ってライチェスに飛びかかり、球形のボディを捕まえて床に叩きつけた。

 ライチェスは球体のくせにやけに強い力で逃れようとするが、そうはいかない。

 

 一つ目が露出した瞬間、拳銃の銃口を押し当てて引き金を引いた。

 それとほぼ同時にライチェスがレーザーを発射し、拳銃が融解する。

 だが、ダメージは通ったらしく、レンズが割れて火花を散らしている。

 

 俺は素早くガントレットの飛び出しナイフを展開し、トドメを刺すべく割れたレンズ目掛けて突き刺した。

 魔法で強度を増した刃が深々とライチェスの割れた一つ目に突き刺さり、マゼンタ色の輝きを奪う。

 壊れたフリをしているのかもしれないと考えてさらに何度か突き刺したが、ライチェスは動かなかった。

 

『もう機能停止しているわ』

 

 セルカの声が聞こえた。

 ライチェスは一つ目を原形を留めないほどに破壊され、断続的に火花を散らすだけになっていた。

 

 どうやら倒したようだと一息ついて飛び出しナイフをしまう。

 

『それにしても貴女──さっきの空間歪曲はどこで覚えたのかしら?』

「空間歪曲──あぁ、タネ分かったのか」

 

 セルカの問いかけに俺は答えるのを躊躇った。

 俺の切り札である鏡花水月の仕組み──誰にも知られたくない秘密を初見で見破ったセルカに対して再び警戒心が湧き上がったのだ。

 

「──そんなの、どうだっていいだろ。それより早く俺の仲間を探す方法を教えてくれ」

 

 強引に話題を逸らし、ディスプレイの前に戻って操作説明を要求した。

 とにかくこっちは一刻も早くティナとアーヴリルの安否と所在が知りたいのだ。

 

『つれないのね。まぁいいわ。まずは手動スイッチを押してコントロールパネルを起動して──』

 

 セルカは食い下がることなく説明を始めてくれたが、その声を遮って聞き覚えのある声が部屋に響いた。

 

 

『驚いた。私を()()()()()()とはな』

 

 

 はっと振り向くと、倒したはずのライチェスが浮かんでいた。

 

「は?なんで──?」

 

 床に目をやると倒したライチェスの残骸は確かにそこに転がっている。

 

『ライチェス──あんたまさか子機をぞう──』

 

 セルカの声はライチェスに気を取られて最後まで聞き取れなかった。

 

『カードキーを理解し、ライトマイヤー博士のカードキーを用いて地下二十階七番収容室並びにコントロールセンターへの侵入を果たしたばかりか、未知の魔法を使用し、私を一体破壊した──警戒レベルを最大に引き上げ。方針を再度修正。抹殺に変更する』

 

 ライチェスがそう宣言した直後、ドアが開いてロボットたちが入ってきた。

 

 拳銃はもう使えない。武器は左右のガントレットの飛び出しナイフと己の肉体のみ。

 だが武器がないからといって大人しくやられるわけにはいかない。

 

 ロボットたちが俺を囲もうと散らばり始めるが、全身の筋肉を縮めて一気に解き放ち、一番端のやつに飛びかかる。

 赤く光る一つ目に刃を突き刺して倒し、そいつを盾にしながら鏡花水月を発動した。

 放たれたレーザーを一つ一つ打ち返してロボットたちの一つ目を焼き潰していく。

 

『後ろよ!』

 

 セルカが警告してくるが、とっくにお見通しである。

 ライチェスがロボットたちを囮にしつつ、背後に回り込んでいる。

 光学迷彩か何かを使って透明化しているようだが、その程度では魔力で相手の存在を感知できる俺を欺くことはできない。

 至近距離まで忍び寄って不可避の一撃を撃ち込もうとしていたが、逆にのこのこと俺のリーチに入ってしまった形だ。

 

 振り向きざまに渾身のパンチを放つと、マゼンタ色の一つ目にクリーンヒットし、飛び出しナイフがど真ん中に突き刺さった。

 今度はもっと念入りに壊すべく、魔法でナイフに微細な風刃を纏わせていた。突き刺さった瞬間にそれを解き放ち、ライチェスのボディの内部で暴れさせた。

 

 ライチェスは先程よりも大量の火花を散らし、バチバチと放電したかと思うと、ポトリと床に落ちた。

 

 床に転がる球形の残骸が二つに増えるが、ほとんど同時に新たな球体が二つ現れる。

 しかもどこかから出てきたのではなく、()()()()()()()()()()()した。まるでワープでもして来たかのように。

 

「またかよ!」

 

 毒づく俺を二体のライチェスがせせら笑う。

 

『いくら倒しても無駄だ。私の代わりはいくらでもある。無闇に壊されても後始末に少々困るが──君の魔力とて無尽蔵ではあるまい。このまま抵抗し続けたところで君は私に勝つことはできない』

 

 それって何か?俺が倒した二体と新手の二体──合計四体のライチェスはどこかの可愛らしい小動物の皮を被った外道(キュ○べえ)みたく、全部ただの端末でいくら倒しても本体にはダメージを与えられないってことか?それってある種の無限復活──チートじゃないか!

 

「ひ、卑怯だろうが!」

 

 思わずらしくもないことを叫んでしまった。

 

 そして次の瞬間、激しい自己嫌悪が湧き起こる。

 

 世の中力が全てだと悟って、悪徳領主を目指すと決めたのに──まだ俺は言葉での虚しい抗議しかできない弱虫から抜け出せないのか。

 

『おや、それはありがとう』

 

 ライチェスは予想外の返事をしてきた。

 

「は?お前壊れてんのか?お礼なんか言いやがって──」

『戦いで卑怯は褒め言葉である。そう学習しているが──君の価値観では違うのか?』

 

 卑怯が褒め言葉、か。

 たぶんそれは怨嗟の言葉をぶつけるしかないくらいに力の差がある相手だと認めている──ということなのだろうが、言った本人は褒めているつもりなど毛頭ないだろう。

 実際俺にはない。

 

「違うな。というか、どこから湧いて出てきやがる」

『教えてやる義理はない。さて、複数方向からの予測困難な同時攻撃──君は凌げるかな?』

 

 二体のライチェスが別々に高速で飛び回り始める。

 

 そのスピードは肉眼ではほとんど捕捉できないほどだが、俺は魔力での空間把握を使ってなんとか捉えている。

 

 ライチェスの一体がレーザーを放ってきた。

 鏡花水月で打ち返すが、高速で飛び回るライチェスには照準が追いつかず、当たらない。

 

 すかさずもう一体のライチェスが真上から脳天目掛けてレーザーを放ってくる。

 それも鏡花水月で逸らしたが、防戦一方になっていてはいずれ魔力か集中力が切れてやられてしまう。

 

 部屋を走り、倒したロボットの残骸を一つ掴んで思い切り投げつける。

 未来位置を予測して投げたが、ライチェスは慣性を無視したかのような急制動で回避した。

 だが()()()()()()()だ。

 

 一瞬空中に静止したライチェスに全速力で突進して掴みかかり、レンズに飛び出しナイフを突き立てようとした時──

 

『駄目!!離れて!!』

 

 セルカの叫び声が聞こえた。

 反射的に跳び下がって距離を取るが、間に合わずに爆発に巻き込まれてしまった。

 

 なんとか致命傷は避けられたが、爆風で俺の身体は宙を舞い、体中にライチェスの破片がいくつも突き刺さる。

 激痛に思わず悲鳴が漏れるが、何とか受け身を取って床を転がり、衝撃を和らげる。

 起き上がろうとすると、額から何か液体が垂れてくる感覚があった。

 拭ってみると、手の甲に血がべっとりと付いていた。

 

「自爆だと!?」

 

 毒づく俺にライチェスは憎たらしいほどの冷静さで律儀に答える。

 

『指向性の攻撃は空間歪曲によって逸らされる。ならば全方位へ加害が及ぶ爆破攻撃で──そう考えるのは自然ではないか?』

 

 ──コイツのことを舐めていた。

 鏡花水月のタネと弱点を短時間で見破るとは、さすが人工知能だ。

 おまけに飽和攻撃と見せかけて、まんまと本命の爆弾を俺の内懐に飛び込ませるあたり、とんでもなく狡猾な奴だ。

 自爆攻撃のせいで俺は死にはしなかったものの、深刻なダメージを受けた。

 破片が突き刺さって痛む手足と止まらない出血が身体を鈍らせる。

 満足な食事と休息もないまま、空間把握や鏡花水月を連発したせいで魔力も底を突きかけている。

 

『もうやめて!これ以上抵抗したら死んでしまうわ!』

 

 セルカが立ち上がろうとする俺を制止する。

 

 この役立たずが、と罵倒が浮かんでくるが、さっきセルカが叫ばなかったら俺は確実に即死していただろう。

 

 ──全部俺が弱いからだ。弱いくせに幼稚な万能感に任せて突っ走ったからだ。

 

『──もう一度チャンスをやろう。降伏すればこの場は助けてやっても良い』

 

 残ったもう一体のライチェスが俺と目線の高さを合わせて囁く。

 

 ほとんど同時にドアが開いてまた十数体のロボットが部屋に入ってきた。

 扇形に広がって俺を取り囲み、レーザーガンを向けてくる。

 

 チラッとガントレットに目が行ったが、右の飛び出しナイフは折れて使い物にならなくなっていた。

 左のはいつの間にかレーザーに焼き切られ、赤熱化した溶断面を晒して床に転がっていた。

 もう武器はない。唯一残った肉体も重傷──万事休すだ。

 

 クソッ!こんな結末、認められるかよ!

 せっかく異世界転生して新しい人生を手に入れて、今度は自分の幸福をとことん追い求めてやるって思ったのに。それをこんなヤツに──

 

 思わず怨嗟の言葉が口を突いて漏れ出した。

 

 

 

「“ふざけるなよこの野郎──”」

 

 

 

 途端にライチェスは固まったかのようにレンズの動きを止めた。

 

『今何と言った?』

「あ?──ふざけるなよこの野郎って言ったんだよ」

 

 俺はよく考えもせずにさっき言ったことを復唱した。

 しかし、ライチェスはその答えに不満だったようだ。

 

『違う。君は先ほどそれを別の言語で言ったはずだ』

 

 ──別の言語?

 

 言われて思い返してみれば確かにさっき口から漏れ出てきたのはホルファート王国語ではなかった。

 

「──“日本語が出ていたか”」

 

 その呟きにライチェスは反応した。

 

『“君は日本語を知っているのか?どこで覚えた?”』

 

 電子音声らしい癖はあるものの、流暢な日本語を話すライチェス。

 

 ──これはチャンスかもしれない。

 

 どういうわけか、ライチェスは日本語を知っていて、しかも日本語を話せる俺に強い興味を持ったようだ。

 ライチェスから戦意を奪える可能性のある唯一の武器を図らずも手にした以上、絶対に使い方を間違えることは許されない。

 

「“覚えたも何も──俺の母国語だぞ”」

『“新人類が日本語を──あり得ない。これまで侵入して来た新人類の子孫は記録されている言語のいずれも使用していなかった”』

 

 ──新しい情報が入った。

 ライチェスはこれまでここに入った冒険者を何人も捕らえて調べたのだろう。

 テレパシーで言語の壁を超えられるセルカはともかく、機械であるライチェスがホルファート王国語を話していたのは不自然だったが、これでタネが分かった。

 

「“最初からこの世界で生まれ育った奴ならそうだろうな。でも俺は違う。お前が何と言おうと、俺は日本語が母国語だぞ。前世の、だけどな”」

 

 俺はカードを切った。

 これまでライチェスが捕らえてきた奴らと俺は中身が本質的に違う、と断言した。

 

『“前世?それは輪廻転生の概念を指しているのか?”』

「“分かるのか?それだよ。俺の前世は日本人だ。ちょっとした縁でこの世界に転生させられたけど、記憶はバッチリ残っているぞ”」

 

 ついさっきまで俺を殺そうとしていた敵が相手とはいえ、久々の日本語でのやりとりに妙な懐かしさと安心感を覚えてしまう。

 

『──それ、本当なの?』

 

 セルカが驚いた声で訊いてくる。

 

(──本当だよ。誰も信じちゃくれねえだろうけど)

 

 本音を言うなら、セルカにも聞かれたくはなかった。

 

 墓場まで持って行かなければならない俺の最重要機密であり、下手に知られたらどんな影響があるか分かったものではない。

 戯言で済めばまだ良いが、そんな戯言を口にする頭のおかしい奴、とでも噂が立ったら目も当てられない。

 俺が転生者だと知る奴は俺を社会的に殺せるに等しい。

 この場を切り抜けるためにやむなく明かしたが、これっきりにしたいものだ。

 

 ライチェスは固まったまましばし沈黙していたが、不意にレンズを絞って俺の身体を凝視して言った。

 

『“──再スキャンの必要性ありと判断。レベルⅤスキャンを開始”』

 

 俺の身体が赤い光に包まれる。

 

 その光が消えた後、ライチェスは至近距離まで近づいてきて言った。

 

『“遺伝子情報を解析した結果、新人類の遺伝子の中に旧人類の遺伝子の痕跡を確認した。──こんなことは前例がない”』

「“そうかよ。でも何だって最初があるだろ?”」

 

 ライチェスは考え込むように小刻みにレンズを動かしていたが、それが止まると再び問いかけてきた。

 

『“前世が日本人だと言ったな?戦時中の記憶はあるか?”』

「”いつの戦争だ?俺が生きていたのは平成だ。しかも職業はサラリーマン。戦争なんて経験しちゃいない。本当に──最後の方以外は幸せだったよ“」

 

 思い出したくないが、かと言って忘れたくもない地獄のような日々を思い出して少し気分が悪くなる。

 

『“転生した経緯を聞かせてもらっても?”』

 

 トラウマを抉ってくる気満々のライチェスを腹立たしく思いつつも、我慢して洗いざらいぶちまけた。俺の最期も、案内人の言動や所業も、全て。

 嘘を言ってもどうせ見破られるだろうし、それに相手はこの遺跡から動かない機械だ。俺が不快になること以外に損害はない。

 

 ライチェスは俺の話を遮らず、それでいて相槌の一つも打たずにじっと聞いていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 俺の身の上話が終わっても、ライチェスは話し始めた時から微動だにしてなかった。

 トラウマだらけの転生経緯を話せと言っておいて、反応が一切ないというのは腹立たしいが、今の俺にはどうにもならない。

 

「”驚いたか?“」

 

 問いかけると、ライチェスはレンズをシュッと縮めてようやく言葉を発した。

 

『“君の話を妄想と断定はできない、という程度の信憑性ではあるが──妄想でここまで流暢な日本語は話せないだろう。君が生きたという時代の元号も実在したもの──非常に興味深い”』

 

 そしてライチェスはまた考え込むかのように沈黙に戻るが、いつの間にかロボットたちはレーザーガンを下ろしていた。

 俺に対する敵意は下がったようだ。

 

「“さっき言った案内人が俺の味方になる存在がいると言って俺をここに導いたんだ。で、ロボットに襲われて、逃げた先でセルカを見つけた。セルカの所に導いたのも多分案内人だ。でもお前は──何なんだ?”」

 

 そう言って俺は地図と欠損の激しいコンパスを取り出して見せた。

 

 案内人が言っていた俺の味方とは結局誰のことなのか、という疑問が俺の中に芽生えていた。

 案内人の加護と思しき光が俺をセルカの所へと導いたことからすると、セルカではないかと思うが、ここに来てライチェスである可能性も出てきた。

 このようなややこしい事態になるとは思ってもいなかった。

 光が導いた先にいて、俺に敵対的ではないセルカと、そのセルカに導かれた先にいて、強力なロボットたちを従えているライチェス──どちらも俺の味方たり得る。

 だから、答え合わせがしたかった。

 

 ライチェスは地図とコンパスをチラッと覗き込んで、考え込むようにレンズをしきりに動かしている。

 そして──

 

『“味方になる存在──確かに今の君を敵性種族と断定はできない。だが君の扱いは私自身には決めかねる。マスター権限を持つ人間が不在の今、君のようなイレギュラーな存在をどうするかの決定権は私にはない”』

 

 ライチェスは言い難そうにゆっくりとそう言った。

 

『──チャンスよ』

 

 不意にセルカの声が聞こえてきた。

 

『今の貴女ならできるわ。ここからの脱出も、私の解放も』

(どうやって?)

『それはね──────』

 

 

 

 セルカの答えを聞いた俺は迷いを断ち切り、腹を括ることにした。

 

 セルカの言う通りにしてティナとアーヴリルを救出し、ここを脱出する。

 さっきまで俺を新人類と呼んで殺そうとしていたライチェスよりは、セルカの方を俺は信じる。

 セルカは最初から俺に対して害意を持っていなかった。ちゃんとコントロールセンターまで俺を導いてくれた。シールドジェネレーターの場所を教えてくれた。ライチェスと違って、こちらの知られたくないことを根掘り葉掘り聞いてこなかった。ライチェスの自爆攻撃を警告してくれた。そして、この状況を切り抜けて脱出する方法も示してくれた。

 

 俺の味方はセルカの方。ライチェスが俺に対する敵意を下げたのはただの偶然であり、本質的には敵であることは変わりない──そう判断した。

 

 ──俺の判断が間違っていて、いつかセルカに牙を剥かれることになったなら、その時は彼女とも戦うまでだ。

 

 そして俺は深呼吸して、口を開く。

 

「“ライチェス──”」

 




アサ●ンブレードみたいな仕込み刃ってカッコいいよね


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崩壊

「”ライチェス、お前のマスターの定義は何だ?“」

 

 俺の質問にライチェスは律儀に言葉を並べ立てて答える。

 専門用語が多すぎて聞き取れないが、セルカがテレパシーで解説してくれた。

 

 要するに旧人類で、【人類存続委員会】なる世界政府のような組織から任命された者。また、何らかの理由でマスター権限を持つ者がいなくなり、人類存続委員会とのコンタクトが取れない場合はライチェス自身が認めた者をマスターとして暫定的に登録できる、という情報も確認できた。

 

「“ライチェス、俺はマスター登録の条件を満たしているか?”」

 

 その問いかけにライチェスは一瞬フリーズしたかのように動きを止めた。

 

 そして──

 

『“否定する”』

 

 そう言った。

 

 可能性が一つ消えたが、この程度は計算のうちだ。

 

「“なぜだ?”」

『“君の目的と私の使命は相容れない。現在の君の目的はこの研究所からの脱出、及びセルカの解放と推測されるが──それらは許容できない”』

「“──俺たちもセルカもここから出すわけにはいかないと?”」

『“肯定する”』

『──やっぱりね。相変わらず頑固者だこと』

 

 テレパシーでセルカが溜息を吐くのが伝わってくる。

 

「“なら──お前の使命ってのは何だ?セルカの収容か?”」

『“それだけには留まらない。この研究所は魔法生物の収容・研究並びにその存在の隠匿、機密保持をも目的に含んでいる。セルカの存在は最重要機密【軍機】に該当。収容の解除はレベルⅩ権限を持つ職員の判断で必要とされた場合のみ。セルカの存在を知った君もこの研究所から出すことはできない”』

 

 俺は頭を抱えたくなった。

 この研究所でセルカを創り出した連中も、セルカの扱いを決めるらしい職員も、もうこの世にはいないし、彼らの敵だって同じだ。

 なのに、いつまでも彼らがいた時代の規則や任務に縋り付いて頑なに守り続けるライチェスは所詮プログラムに縛られている機械なのだ。

 

 やはり案内人の加護の光は正しかった。

 俺の味方になる存在はセルカの方で、ライチェスは立ちはだかる障害。

 そしてその障害を除く手立てはセルカが教えてくれる。

 

「“そうか。分かった。なら──お前は()()()()()()()?”」

『“何を言っている?状況が見えていないようだな”』

 

 ライチェスが指示したらしく、ロボットたちが一斉に腕を俺の方に向ける。

 だが、ここで怯んではいけない。

 

「“いいや。できないはずだ。お前が殺傷を許可された対象は新人類あるいはその眷属と断定できる相手だけ。違うか?”」

『“──戯言を”』

 

 ライチェスはそう言って、凄むように一つ目の輝きを増したが、反論はしてこなかった。

 俺はすかさず畳み掛ける。

 

「“ならなんでそう呟く前に俺を撃たないんだ?”」

 

 ライチェスは答えに窮したのか、沈黙する。

 

「“お前には俺が完全な新人類であるとは断定できない。お前は俺が新人類が使っているはずのない日本語を話せることと、遺伝子情報に旧人類の痕跡があることを知ってしまった。俺を殺傷することはお前のプログラムが許さない。違うか?”」

 

 すると今度はライチェスは反論してきた。

 

『“新人類でなくとも、彼らに与する裏切り者、あるいは洗脳された者と判断されたなら、私は停止できる”』

 

 一つ目に電光を纏っているが、俺は怯えるどころか感心すらする。

 機械でも虚勢を張るものなのか、と。

 

 尤も、セルカがテレパシーで教えてくれた情報がなかったら、こんな余裕は持てなかっただろうけど。

 やっぱり俺の味方はセルカで間違いない。

 

「“裏切り者?旧人類の陣営は既にない。新人類だって旧人類との戦争があったことすら誰も知らない。どちらの陣営も既になくなっているのに、どうして俺が裏切り者だと?それに洗脳されているかどうか見分ける方法があるのなら、俺が洗脳されているか否かはお前も分かっているはずだ”」

 

 ライチェスは答えない。

 

「“止めたいなら、俺を殺すしかないぞ”」

 

 そう言って俺は歩き出す。

 

『“止まれ!”』

 

 ライチェスは立ちはだかったが、俺は鏡花水月を自分に対して使い、あっさりと横をすり抜けた。

 その先でロボットが俺を通せんぼするが、魔力で強化された腕で押しのける。

 

「“どいてくれ”」

 

 ロボットの手は俺を捕らえられず、俺はコントロールパネルの前に辿り着く。

 ディスプレイが灯り、認証画面が出てきたのでカードキーをかざすと、承認され、メインメニューが現れる。

 

『“何をするつもりだ?”』

 

 背後からライチェスの声が聞こえる。

 

「“知れたことさ。セルカを解放する。その前に俺の仲間の解放だな”」

『“警告する。作業を直ちに停止し、床に伏せろ”』

 

 俺の背後にロボットたちがズラリと並ぶ。

 

「“断る”」

 

 振り返らずに黙々とセルカにテレパシーで指示される通りにパネルを操作する。

 

 ドアが開き、カプセルに入れられたティナとアーヴリルがコントロールセンターに入ってきた。チラッと見ると二人の身体には火傷のような跡があった。

 

 湧き起こる激情に思わず歯を食い縛る。

 

 カプセルが俺の方に近づいてくると、ライチェスは次の手を繰り出した。

 

『“再度警告。床に伏せろ。仲間の命が惜しければな”』

 

 ロボットたちがカプセルを取り押さえ、中の二人にレーザーガンを向ける。

 

 ──人質とは中々に古典的な手を使うんだな。

 確かに新人類と断定できなくなった俺と違い、ティナとアーヴリルなら、ライチェスは新人類と断定して殺せる。

 だが、そんな手に引っかかるほど俺は馬鹿ではない。

 ライチェスに屈したところで全員ここから出られずに野垂れ死にするだけだ。

 それにカプセルはギリギリとはいえ、鏡花水月の有効範囲内に位置している。

 もし撃たれても中の二人には当たらない。

 だがそのことを言ってやる義理もないので、別の台詞を用意する。

 

「“──人質に取られた時点で死んだも同じだ。お前の思い通りにはならないぞ”」

 

 操作は残すところカードキーでの認証だけとなった。

 

 不意にロボットが俺をパネルから引き離そうと手を伸ばしてきたが、その手は俺を掴めない。

 鏡花水月であらぬ方向へと逸れて空を切るだけだ。

 

 その間に俺はカードキーをパネルにかざす。

 

 カードキー目掛けてレーザーが放たれたが、これも逸れていった。

 

 認証が完了し、最終意思確認と題されたウィンドウが現れる。

 本当に収容設備の機能を停止するか。

 当然、イエスに決まっている。

 

『“よせ!!”』

 

 ライチェスが叫んだが、構わずにイエスをタップした。

 

『ありがと!今行くわ!』

 

 セルカがテレパシーで感謝を伝えてくる。

 

 ──正直恐ろしい賭けだった。

 セルカがカンニングペーパーならぬカンニングボイスで助けてくれなかったら、そしてライチェスがどこまでもプログラムに忠実な頑固者でなければ、俺は殺されていただろう。

 

 つくづく俺は無力なものだと痛感する。

 

 

◇◇◇

 

 

 コントロールセンターに警報が鳴り響く。

 壁のディスプレイには「!」のマークが付いたウィンドウがいくつも現れ、赤く点滅している。

 

『“地下二十階七番収容室にて収容違反発生。繰り返す。地下二十階七番収容室にて収容違反発生。コードブラック。地下第四階層区画をパージ。インパクトショット、起動”』

 

 ライチェスが俺への興味を失ったかのようにアナウンスを発する。

 

 ロボットたちは急に大人しくなり、腕を下ろしてしまう。

 

 俺はティナとアーヴリルの入れられたカプセルを引き寄せたが、ロボットたちは気にした様子もなく、棒立ちのままだ。次の指示があるまで動けないのだろうか。

 

 カプセルを開き、二人の脈を取る。

 二人とも生きていた。

 意識はなく、全身に火傷のような傷ができているが、それでも生きていた。

 

「よかった──」

 

 思わずホッと息を吐いた。

 二人が死んでいたら、正気でいられたかどうか分からない。

 

 意識が戻らないかと軽く頬を叩いてみたが、効果はなかった。

 だがティナが僅かに呻き声を上げる。

 その表情は明らかに痛がっているように見えた。

 

「何を──されたんだ?」

 

 全身の火傷はおそらく拷問された痕だろう。

 電撃か、あるいは火炙りかは分からないが、ティナとアーヴリルを酷い傷物にしてくれやがったライチェスに怒りが沸々と湧き上がる。

 だが、今の俺には奴を倒せる武器はなく、セルカが来てくれるのを待つしかない。

 

 

 

 程なく壁のディスプレイの赤い点滅が止まった。

 

『“地下第四階層区画、パージ完了。セルカ、殲滅──失敗”』

 

 ライチェスが言い終わるや否や、轟音と共に何かがドアを突き破ってコントロールセンターに飛び込んできた。

 

『待たせたわね』

 

 その声と共に棒立ちしていたロボットたちが一斉に斬り裂かれて倒れた。

 

『何!?』

 

 斬撃を免れたライチェスも弾き飛ばされて部屋の隅に激突する。

 攻撃を放ったのはなんと破壊されたはずの俺の鎧だった。

 鎧は剣を手に俺とカプセルを庇うように立ちはだかる。

 

「え?なんで?」

 

 その疑問への答えはテレパシーで返ってきた。

 

『私は魔素の薄いここでは存在を維持するだけで精一杯で、まともに魔法も使えないの。だから貴女の鎧を得物にさせてもらったわ』

 

 見ると、破壊された背部が白い粘土のようなものに置き換わっている。また、鎧と剣の表面全体がうっすらと白い膜のようなものに覆われていた。

 

 背部に赤い一つ目が現れ、俺の方を見て微笑むように細められる。

 

『いい感じよ。貴女の鎧』

 

 どうやらセルカは俺の鎧と融合合体してこれを操り、物理攻撃で戦っている、ということらしい。

 

『“セルカァァァアアア!!”』

 

 浮かび上がったライチェスが叫び声を上げる。

 マゼンタ色のレンズはひび割れ、火花を散らしている。拳銃弾を弾き、レーザーをも通さなかったボディも大きく凹んでいた。

 魔法を使わない単純な物理攻撃であそこまでダメージを負わせるあたり、セルカのパワーの凄まじさが窺える。

 また、セルカが融合したことで鎧と剣の強度も上がっているようだ。

 

 ──実に頼もしい。

 

 満身創痍で激昂するライチェスの方に向き直り、俺は清々しい笑顔で勝利宣言をする。

 

「“俺たちの勝ちだ”」

 

 仲間は救出でき、セルカも解放した。

 ここに来た目的は完全に果たされた。

 

 俺の鎧を壊し、ティナとアーヴリルを酷い目に遭わせて、俺を散々追い回した挙句、自爆攻撃までしてきやがったライチェスが形勢逆転されて激昂しているのは最高にスカッとする。

 セルカを長年閉じ込め、支配下に置いていたようでその実弱みを知られていた、というのも笑える。

 

 まあ、俺でなければその弱みとて活かせなかったわけだが。

 

 

 

 不意にライチェスが大人しくなった。

 

『“最上位収容対象【SELCA】収容違反。収容成功の見込み、なし。コードレッド。最終爆破処理を実行する。全職員は十分以内に施設より退避されたし”』

 

 ライチェスが無機質な音声でそう言ったかと思うと、コントロールパネルにでかでかとタイマーが表示され、数字が減り始めた。

 

『まずい!この施設全体を自爆させる気だわ!逃げないと!』

 

 セルカが叫ぶ。

 

『乗って!』

 

 鎧の胸元が開き、鎧の手が俺を掴み上げてコックピットに放り込んだ。

 セルカは鎧の左腕でティナとアーヴリルの入ったカプセルを抱え、ドア目掛けて走り出す。

 

『“行かせはしない!”』

 

 ライチェスが立ちはだかり、レーザーを撃ってきたが、セルカはそれをものともせずに剣を振り抜き、ライチェスを一撃で両断する。

 

 二つの半球体に分かれたライチェスが力なく床に落ち、直後に爆発した。

 だが、俺たちはもうそこにはいない。

 

 コントロールセンターの入り口を抜け、鎧の翼を広げてエレベーターシャフトを上昇していく。

 

『ここ!』

 

 セルカが扉の一つを体当たりで破り、向こうの通路に飛び出した。

 

『ここからは走るわよ!揺れるけど我慢してね!』

 

 そう言ってセルカは鎧の翼を畳み、走らせ始める。

 

『くぁwせdrftgyふじこ!』

 

 不意に滅茶苦茶な電子音声が聞こえてきたかと思うと、目の前にライチェスが出現する。

 

『しつこいわね!』

 

 セルカが剣を振るって斬り捨てるが、直後に角を曲がった先に今度は多数のロボットが待ち構えていた。

 

 放たれたレーザーに耐えつつセルカは素早く後退して隠れる。

 

『──背後を任せても?』

 

 唐突にセルカは言った。

 

『正面に防御力を集中して突破するわ。貴女には空間歪曲で背後からの攻撃を逸らして欲しいのだけれど。大丈夫かしら?』

「──正直もう魔力が殆ど底を突いてる。良くてあと一、二回ってとこだな」

 

 身体の方も痛みと出血で凄まじい疲労感を感じる。

 

『──なら、私が少し分けるわ』

 

 セルカの白い身体から触手が伸びて俺の額に触れた。

 

 瞬間、身体中から痛みが引いていく。

 完全にはなくならなかったが、それでもだいぶマシにはなった。

 殆ど空っ穴だった魔力もだいぶ回復している。

 これならまだ戦えそうだ。

 

『いけるかしら?』

「──ああ。後ろは任された」

 

 俺はコックピットを出てベルトを外し、鎧の頭と俺のズボンを繋いだ。

 これで足を滑らせたりバランスを崩したりしても振り落とされはしないはずだ。

 

『行くわよ!』

 

 セルカが走り出す。

 

 前は見ない。後ろから撃ってくるやつにだけ注意する。

 

 だがセルカは実に有能で強力だった。

 俺の目に入るのは斬られたロボットの残骸ばかりで俺は手持ち無沙汰だ。

 

 タイムリミットはあと三分弱。

 ──間に合うのか?その不安が胸をよぎった時、セルカが叫んだ。

 

『気を付けて!後ろから来るわよ!』

 

 直後、鎧の背後に十体以上のライチェスが出現した。

 

 セルカがすかさず鎧の右手に持った剣で俺の身体を隠してガードする。

 

『『『『『にggggえrnなアアアアアア!!』』』』』

 

 バグっているような気持ち悪い叫び声を上げて追ってくるライチェスが滅茶苦茶にレーザーを乱射してきて、鎧と剣があちこち赤熱化し始めた。

 

「なんだよお前!壊れたのか?」

 

 鏡花水月をフル稼働させながら俺は毒づく。

 

『あいつにもアイデンティティ──自我が芽生えていたみたいね。その根底を崩されたら自棄になって発狂しても不思議じゃないわ。──人間みたいにね』

 

 セルカは少し哀しげな声で言った。

 

 苦手ではあれど、今まで生き残っていた唯一の知り合いの末路を哀れんでいるのだろうか。

 だがそんなこと知ったことではない。

 自棄になってすることが自爆だなんていい迷惑である。

 おまけにその自我の根底とやらはセルカを閉じ込めて隠し続けるという任務──全くもって気持ち悪い。

 

「お前の役目はとっくに終わったんだよ!ライチェス!いい加減休んどけよ!」

 

 鏡花水月でレーザーを打ち返してライチェスを一つずつ撃墜していくが、ライチェスは撃墜されたものから次々に爆発していく。

 その度に爆風を浴びることになり、俺は鎧の頭部に打ちつけられたり、火傷したりで散々である。

 なんて迷惑な機械だろうか。

 

『ごめんね。後で治療魔法使うから』

 

 セルカが気遣ってくれたのはせめてもの慰めである。

 

 ようやく最後のライチェスを撃墜したかと思いきや、もう一体出現した。

 ただ、今までのライチェスとは大きさが違う。直径一メートルはあろうかと思うほどの巨大さである。

 その巨大なライチェスが相変わらずバグった叫び声を上げて追いかけてくる。

 

『にggggあアアアsswnあああいいいいいい!!』

『やっと私の知っている姿になったわね』

 

 鎧の背部に目を出現させたセルカが皮肉を言うが、その声はどこか焦っているように思える。

 

 巨大なライチェスはさっきまでと違ってレーザーを撃ってはこなかったが、その代わりどんどん追いついてくる。

 あれに目の前で自爆されたら、俺は間違いなく死ぬ。

 できればセルカに破壊してもらいたいところだが、この狭い通路では鎧の影に隠れていても爆風は襲いかかってくる可能性が高い。

 

 どうしたものかと考えあぐねていると、セルカが指示を出してきた。

 

『もう少しで格納庫に出るわ!そこで私が倒すから、どうにかして時間を稼いで!』

「格納庫ってあの馬鹿でっかい部屋のことか?」

『そう!あそこなら自爆されても貴女を守れるわ!』

 

 ──どうやらセルカを信じるしかないようだ。

 だが俺はもう飛び道具を持っていないし、向こうも飛び道具を撃ってこない状況でどうやって追いつかれないように時間を稼ぐ?

 

 何か投げつけるか?

 でも一体何を──そうだ!

 

 俺は刃が欠損した剣を鞘から抜いた。

 投げつけるものと言ったらもう身に付けている装備品しかない。

 せっかくニコラ師匠が選んでくれた剣だが、命には代えられない。

 物に執着して何よりも大事な命を失うことなどあってはなりません、と師匠も言っていたことだしな。

 

 殆ど柄だけになってしまった剣をライチェス目掛けて投擲する。

 

 ライチェスは避ける気もなかったのか、レンズに剣が直撃した。

 しかしレンズにはヒビ一つ入らず、ライチェスは何事もなかったかのように追ってくる。

 

「クソッ!駄目か」

 

 吐き捨ててガントレットを外しにかかった。

 飛び出しナイフを失ったガントレットはもう役に立ちそうにないが、それでも柄だけになった剣よりは重量があるので、投げつけるには良さそうだ。

 

 今度は魔力で腕力を極限まで強化し、渾身の力で投げつける。

 しかし、集中が乱れたか、レンズのすぐ外側のボディに当たって跳ね返ってしまう。

 しまったと思ったが、ガントレットはまだもう一つある。

 

 今度は外せない。

 残った集中力を掻き集めて自分自身とライチェスの未来位置を予測し、鎧の両足が宙に浮く一瞬で投擲する。

 

 ライチェスの一つ目にガントレットがめり込んだ。

 

『gがアアアアアア!!』

 

 ライチェスは悲鳴のような叫び声を上げて通路の壁に激突し、大きく距離が開いた。

 

「やった!」

 

 安堵も束の間、通路が地震のように大きく揺れた。

 

『始まったわ!』

 

 セルカが叫ぶ。

 どうやらタイムリミットが来て遺跡が自爆し始めたようだ。

 

『おmmmmあえアアアアアアむおおおおお!むむむみいいいちづええええええ!!』

 

 レンズの割れた一つ目にガントレットがめり込んだままのライチェスが再び迫ってくる。

 

「しぶといな。セルカ!格納庫はまだか!」

『出るわよ!』

 

 鎧が扉に体当たりしたらしく、強い衝撃が走る。

 俺はまたしても鎧に身体を打ちつけてしまった。

 クソが。乱暴運転にも程があるだろ。

 

『文句なら後で聞くわ。ライチェスをやるわよ!』

 

 方向転換に備え、俺は鎧の頭部の飾りにしがみつく。

 

 鎧が振り向き、ライチェス目掛けて剣を思い切り突き刺した。

 弾みでベルトが切れ、俺は振り落とされたが、何とか受け身を取って着地した。

 

『セエエエエrrrrrウウウカアアアアア!!』

 

 ライチェスが叫ぶが、セルカはきっぱりと言い放った。

 

『悪いけど、しつこい奴は嫌いよ!』

 

 そして剣を手放し、ライチェスを思い切り遠くに蹴飛ばした。

 

 直後、ライチェスは大爆発を起こし、突き刺さった剣ごと四散する。

 

 セルカが咄嗟に覆い被さって守ってくれなかったら、衝撃と爆風で吹っ飛ばされていただろう。

 実際爆風をモロに受けた鎧の背中には細かい破片がいくつも突き刺さっていた。

 

『大丈夫?』

 

 だがセルカは自分の怪我などお構いなしに俺の心配をしてくる。

 

「ああ、なんとかな。その──ありがとう」

 

 乱暴運転と俺を振り落とした罪などセルカが俺にしてくれたことを思えば些細なことだ。

 

『よかった。さあ乗って。もうすぐここも火の海よ』

 

 鎧の胸元が開き、俺はコックピットに飛び込んだ。

 セルカは鎧の翼を広げ、マゼンタ色の炎を噴き出して飛び立つ。

 

 背後で爆発音がしたかと思うと、眼下の床が爆発した。

 仕込まれていた爆弾が次々に起爆しているようだ。

 格納庫が炎と黒煙で満たされ始める。

 

 視界ゼロの闇の中を俺たちは飛ぶ。

 

『出口よ!』

 

 セルカが叫び、鎧が手足を後ろ向きに伸ばして前方の面積を減らす体勢を取る。

 

 暗闇の中に微かに光が見えたかと思うと、視界が真っ白に染まる。

 眩しさに思わず目を細めた。

 どうやら俺たちが入ってきた穴から外に出たようだ。

 

 安堵したその時、セルカが叫ぶ。

 

『衝撃に備えて!』

 

 直後、鎧は後ろから強い力で押されたように大きく揺れた。

 

 振り返ると、俺たちが出てきた穴から火山のようにもうもうと炎と黒煙が噴き出していた。

 

 そして【大墳墓】と呼ばれた山がゆっくりと崩壊し始める。

 木も岩も、そこにいるであろう動物やモンスターまでも、全てが土煙に覆われて地中へと引きずり込まれていく。

 

 そして現れるのは巨大なクレーターだった。

 そのクレーターを中心に衝撃波が土煙を巻き上げながら島全体に広がっていく。

 

 俺たちはその様子を上空から見ていることしかできなかった。



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最後に笑う者

これにて第一章完結です。


 息絶えた男の前で彼は高笑いしていた。

 

「彼が気付いた時にはもう遅い。きっと楽しいだろうな。こんなはずではなかったと、悔やみ、憤り、悲しみ──きっと私を恨む!憎み、そしてそれが私の糧となる!悪党になって異世界で不幸を振りまいても良し、不幸になって私を憎んでも良し!これからが楽しい時間です!」

 

 両手を広げて喜びを表現する彼──案内人は息絶えた男に嘘を吐いていた。

 次の人生で幸せになってもらいたいなどとは微塵も思っていない。そもそも案内人は息絶えた男を破滅させた張本人である。

 幸せに生きている善良な人間がどれだけ転ぶか見たさに不幸の種を放り込んでみたら、予想を超える不幸の連鎖が発生し、大いに楽しめた。

 だからその続きを用意するために男を異世界に転生させてやろうと思ったのだ。

 

 案内人は人の幸せを願う存在ではなく、その正反対──人を不幸にし、その負の感情を糧として生きる存在だった。

 案内人にとって自分が不幸にした人間の負の感情は最高の食事と一緒であり、これまで多くの人間を食事を楽しむような感覚で不幸にしてきた。

 息絶えた男もその一人だ。

 

 そろそろ行かないと、と指を鳴らして瀟洒な木製の扉を出現させると、ドアノブに手をかけ、どうやって楽しむかを考え始める。

 

「まずは彼をどこに転生させるか考えなくてはいけませんね。幸せな家庭に放り込み不幸にしていくのもいいですがそれは以前楽しみましたし──今回は成り上がったところをどん底に叩き落とすべきでしょうか?しかし、それまでに感謝されては気分が悪いですし──」

 

 顎に手を当てて考え込む案内人は背後から見られていることに気付いていなかった。

 

 犬のような輪郭の淡い光が息絶えた男の傍に寄り添い、案内人に鋭い視線を向けていた。

 

「そうだ!今度は女性として人生を送らせてみるというのはどうでしょうか?丁度女性が権力を握り、増長している国があったはず。そこの貴族令嬢にしましょう。チヤホヤされて増長し、前世の鬱屈を周囲にぶつけ、その挙句に破滅の坂を転げ落ちる──良い!実に良い!!最期はそうですね──今まで踏みつけにしてきた者たちに罵られ、いたぶられ、凌辱されるのが良いですね。私を恨み、絶望しながら死んでいく彼──いや彼女と言うべきでしょうか?楽しめそうですね!あぁ〜、今から待ち遠しい」

 

 案内人は自分の身体を抱きしめて捩り、自身の素晴らしい閃きに酔いしれる。

 

「今度の人生はまさに天道とでも言うべきもの──他者を見下し、踏みつけ、享楽のうちに生き、やがて積もり積もった恨みと憎しみの炎に焼かれ、苦悶の叫びを上げて落ちていく。その後は長く苦しい地獄の始まりだ!私の幸せのために精々もがき苦しみなさい!」

 

 考えが纏まり、スッキリとした気持ちで扉をくぐる。

 それと同時に小さな光になった犬も飛び込んだ。

 

 扉が閉まると同時にこの世界から消失し、後には物言わぬ亡骸だけが残される。

 

 

 

 

 世界の狭間とでも言うべき闇に満たされた空間で、案内人は旅行鞄に腰掛けてニヤニヤしながら目の前の映像を見ていた。

 

「ほほう、やはり側仕えの奴隷を置きましたか。しかも、女奴隷を置いて慰み者にしているとは──まあ今のうちはいいでしょうが、いずれ嘲笑の的になる──それに気付かずにおめでたいことですね。実に楽しみです。ん?」

 

 映像の中での彼──否、彼女の動向が変化し、案内人は前のめりになる。

 

 彼女──エステルは力が欲しいと言っていた。

 

『武芸でも何でもいい。個人の力って意味で強くなりたい!』

 

 それを聞いた案内人は歓喜する。

 

「奪われないために力が欲しい、ですか。実に短絡的な思考ですね。だが、それが良い!」

 

 案内人が指先で映像に触れると、身体から黒い煙が発生し、映像に染み込んでいく。

 

「素晴らしい逸材を用意して差し上げますよ。アフターサービスもしっかり行うのが私のポリシーですからね!」

 

 エステルの映像の隣に地味なローブを羽織った男の映像が出現する。

 全く心得がないわけではなく、それでいて優秀ともいえない者──という塩梅の難しい人選だったが、案内人はすぐに求めていた人材を見つけ出せた。

 

 案内人はその男とエステルに縁を繋ぐ。

 

 人間の繋がりは馬鹿にならないもので、七人ほど介せば有名人にも辿り着くのは人間界でも知られた話である。

 その繋がりを利用して、自分に都合の良い者がエステルの師となるように細工するなど、この時の案内人には造作もなかった。

 これで後はどうやってもその男がエステルの師となる。

 

「楽しんでくださいね、エステルさん。その剣を何に使うのか、じっくりと見せて頂くとしましょう」

 

 案内人は口を三日月型に歪めてほくそ笑んだ。

 

 

 

 

 ファイアブランド家の屋敷──その屋根の上に扉が出現する。

 

「さてと、あの男は上手くやったのでしょうか?」

 

 七年ぶりにエステルの様子を見に来た案内人は、屋敷の屋根から周りを見渡し、庭の芝生の上に立つエステルを見つけた。

 以前見た時よりも成長し、顔立ちは可憐から美麗への過渡期に差し掛かっている。

 

「これはこれは、今世の母親の面影が出てきましたね。将来が楽しみなことです。己の美貌と立場を武器に他者を思うがままに使役し、搾取し、虐げる──さぞかし気分が良いことでしょうね。そして恨みを買えば私も気分が良くなる!好循環ですね」

 

 不意に屋敷から騎士が一人出てきた。

 屋敷の番兵を束ねている騎士だ。

 

「遅いぞ」

 

 エステルが不満をぶつけると、騎士は「申し訳ございません、エステル様」と謝りながらエステルのもとに駆け寄る。

 

「おや?あの男はもういないのでしょうか?──まあいいでしょう」

 

 上手く騙しおおせて逃げたにせよ、バレて斬られたにせよ、案内人にとっては気に留めることでもない。どちらに転んでも楽しめるのだから。

 

 エステルは木剣を二本手に取って、騎士に一本渡した。

 

 そして二人は十メートルほど距離を取って向かい合う。

 

「さて、どの程度の腕前になったのか、楽しみですね」

 

 案内人はエステルの実力など井の中の蛙──領地、否、屋敷の外に出れば通用しないレベルのものと思っていた。

 魔法である程度強化できるとはいえ、たかだか十二歳の少女の身体では膂力も体力も低いし、何より師が低レベルなのだ。ならば低レベルの剣技しか身に付いていないだろう、と。

 

 だが案内人としてはその方が都合が良かった。

 自分の正確な力量を知らないまま幼稚な万能感だけが肥大していけば、世間に出た時、打ちのめされて心が挫けるだろう。そうなったら絶望と共に師を激しく憎悪するに違いない。

 その絶望と憎悪の味はどんなものになるか──想像するだけで歓喜に震える。

 

 騎士が呪文を詠唱すると、周囲に六つの火球が出現し、槍の形を取る。

 

「貫け!ファイアランス!」

 

 騎士が叫ぶと、炎の槍は一斉にエステル目掛けて襲いかかる。

 

 直撃すれば間違いなく焼け死ぬ威力を宿した槍は、しかし一本もエステルには当たらない。

 全部エステルに当たる直前で捻じ曲がって軌道を変え、地面にめり込んで赤熱化した溝を掘るだけに終わった。

 

「──へ?」

 

 信じられない光景に案内人は思わず間抜けな声を漏らす。

 一体何が起こったのか理解できなかった。

 

 その間にエステルは距離を詰め、木剣で騎士に打ちかかる。

 その速さと重さはファイアブランド家お抱えの騎士の中で最も腕の立つ剣士からいなす以外の選択肢を奪うほどに凶悪であり、しかもいなしても木剣に纏わせた風魔法が遅れて襲いかかってくるため、相手にその対応を強いることができるという高度なものだった。

 

 騎士の方は玉のような冷や汗を浮かべてエステルの攻撃をいなし続け、時々魔法攻撃やカウンターを放つだけ。

 手心を加えているのではなく、それしかできないのだと、案内人にも分かった。

 そして騎士の反撃はどれも全くエステルに届かない。

 魔法攻撃はことごとく逸れていって地面を耕すだけ、木剣は見えない障壁に弾かれているかのように逸れていく。

 

「──は?いや、ちょっと待て嘘だろ!?どうなっているんだ?」

 

 案内人は想像を絶する光景に理解が追いつかない。

 いくら魔法があって、肉体的に優れていたとしても、たかだか数年であそこまで強くなれる者などそうはいない。

 それこそ百年に一人出るか出ないかというレベルである。

 

 案内人が口をあんぐりと開けて呆然としているうちに、遂にエステルの木剣が騎士の太腿を打ち据え、体勢を崩させた。

 

 直後、騎士の手から木剣が弾き飛ばされ、喉元にエステルの木剣が突きつけられる。

 

「お見事です。エステル様」

 

 騎士が降参すると、エステルはクロノグラフ*1を手に取ってタイムを見る。

 

「百十秒か。六回も使って十秒オーバーするとは。まだまだだな」

 

 悔しげにクロノグラフを見つめるエステル。

 既に実力は並の騎士を遥かに凌駕し、一流の域に達しているにも関わらず、自惚れるどころか、満足している様子もない。

 

(あの男一体何をした?何を教えた?なぜこんなことになっている?)

 

 案内人はエステルの師──ニコラの姿を探した。

 

 程なく、ホルファート王国本土のどこかにある酒場で酒を呷るニコラの映像が映し出された。

 給仕を兼ねた娼婦と思しき女性が隣に座り、接待をしている。

 

『──何なのあの娘?意味分かんない』

『あらぁ、またお弟子さんの話?』

 

 酔っ払ったニコラは女性相手に愚痴をこぼしていた。

 

『俺なんか剣士としちゃ、二流、どころか三流だよ。なのにあの娘ときたら、俺が出任せで言ったことまで馬鹿正直に実行してさ。気が付けば八歳で俺を超えて、十歳で一流一歩手前だよ』

 

 女性がくすくす笑っている。

 

『それで十二歳で一流剣士になったんだっけ?ニコラさんの冗談面白いわねぇ』

『冗談じゃないんだよ!あの娘は──あの娘はなあ、三方から同時に何百発も石を投げつけられたのに全部かすらせもしないで叩き落としたんだぞ。しかも微動だにせずにだ!もう怖すぎて自分で飛行船借りて逃げたよ!おかしいだろあの娘。意味が分からん』

 

 自分が見せた幻を本物の技として完成させてしまったエステルが信じられないようだ。

 

 ニコラの映像が消えると、案内人は額を押さえた。

 頭痛がする。原因はエステルだ。

 

(それにしても俺は運が良いな。実に素晴らしい師匠に剣を学べた。案内人様様だな)

 

 聞こえてくる心の声──そこには感謝が込もっていた。

 それが案内人には不快だ。

 

 負の感情を糧とする案内人にとって正の感情──特に感謝は毒となる。

 このままでは気分が悪い。

 

「何か──思い切った手を考える必要がありそうですね」

 

 案内人はエステルに負の感情を抱かせるための仕込みを考えることにした。

 

「やはり不幸にするのが一番ですね。精神的なダメージを与えるとするなら──」

 

 可愛がっている女奴隷(ティナ)を使って前世のトラウマを刺激しようかと考えた案内人だったが、もっと良い手を思いついた。

 

 今世のエステルは貴族女性だ。

 その貴族女性が避けては通れない問題──結婚が降りかかる、というのはどうだろう。

 彼女に強い忠誠心を抱いているらしい女奴隷を男に寝取らせるよりよほど簡単にできそうなのもポイントが高い。

 エステルの今世の父親【テレンス】はエステルを疎んでおり、彼女に婿を取らせるよりも側室との間に生まれた息子を跡継ぎにすることを願っている。

 少しのきっかけでエステルには酷い縁談が舞い込んでくるに違いない。

 

 ただ、ここで完全に追い込んでは先の楽しみがなくなってしまう。

 だから逃げ道を用意することにした。もちろんそれとて罠である。

 逆境を切り抜け、領主になる望みを叶える一手と見せかけて敵性存在を取り込ませる。

 この世界には誰も知らないが、古の物騒な遺物が多数現存しており、現生人類に対して明確な敵意を持つものも多い。

 そういう存在の所へ赴かせるのだ。

 

 結婚を受け入れれば地獄、逃げ道を選んでも味方に偽装した敵を抱え込むことになる。

 どう転ぼうが、案内人にとっては美味しい。

 

「そうと決まれば早速候補を探しましょうか。やはり旧人類陣営からですね。うーん──この船では役に立たない。こちらの船はほぼ生まれ立てに等しい上に強力過ぎる──おお?」

 

 案内人が候補の一つに目を留めた。

 映像が大きくなり、案内人の正面に移動する。

 

「これは中々良さそうですね。全くの未踏空域ではなく、到達も比較的容易──さらに性質は頑固、と。うん、この者にしましょう!」

 

 案内人が手の指を広げると、掌から黒い煙が発生し、形を取り始める。

 

 やがて煙は一枚の地図と、一個のコンパスへと変わった。

 

「さて、父親の尻を叩くとしましょう。エステルさんは果たしてどちらの道を選ぶか──楽しみですね」

 

 案内人は愉悦の笑みを浮かべて仕込みに取り掛かる。

 

 

 

 

 夕焼けが闇に駆逐されていく黄昏時。

 

 六機の鎧が空に瞬くマゼンタ色の光を追って飛んでいく様子を案内人は屋敷の屋上から眺めていた。

 

「エステルさんが選んだのは逃げ道の方──予想通りですね」

 

 案内人は今のところ計画通りに物事が進んでいることにご機嫌である。

 エステルは案内人の話を信じて鎧で家を飛び出し、そのエステルに対するテレンスの怒りと憎しみを見た案内人は歓喜した。

 

 怒り狂ったテレンスはエステルの鎧を撃ち落とすよう命令を出したが、エステルは追っ手を次々に返り討ちにして逃げていった。

 その報告を聞いたテレンスの心中に恐怖が生まれ、それがエステルへの憎しみを煽る。

 

 その憎しみを案内人は歓喜と共にじっくりと味わった。

 ヴィアンドはエステルの負の感情であり、テレンスのそれは精々オードブル乃至はスープ程度だが、エステルと関わりが深い人物であるため、十分美味である。

 

 ──案内人がテレンスの負の感情を味わっていた頃、案内人を見張っていた小さな光が離れて水平線の彼方へと飛んでいった。

 

 

 

 

 そして案内人はまたミスを犯した。

 

 テレンスの負の感情が想像以上に美味だったため、エステルと関わりを持つ者の負の感情をいろいろ味わってみたい、という欲が芽生えたのだ。

 

「ああ〜、良い!実に美味!!」

 

 案内人は苦痛に呻く騎士の娘を見て歓喜に震えていた。

 

 高潔な人間は本来であれば近寄り難い存在なのだが、それが今、機械──彼女は怪物と認識しているが──に拷問されて堕ちているのだ。

 

 死にたくない、なぜ私がこんな目に──そうだ、エステルが無謀にも女三人でのダンジョン攻略を強行したせいだ。

 そんな考えがこの高潔な騎士の娘の胸中に芽生えたことに案内人は狂喜乱舞していた。

 

「なんという僥倖でしょう!高潔な魂が堕ちた時に生じる怒りや憎しみはより美味となる──それを確かめられたのは何時ぶりか!」

 

 案内人は思いがけずありついた美味──アーヴリルの負の感情に夢中でエステルのことが一時的に頭から抜け落ちていた。

 

 ──その隙にまたしてもエステルの下に駆けつけるものがいた。

 

 

 

 

「ちがあああああう!そっちじゃないいいいい!」

 

 案内人は叫んだ。

 

「なぜだ?どうやって辿り着いた?あり得ない!」

 

 美食を堪能したかと思えばいつの間にか計画が狂っていた。

 

 訳が分からない。頭の中が疑問符と焦燥で満たされる。

 映像を呼び出そうとしたが、酷いノイズがかかってまるで見えなかった。

 自分が美食に夢中になっている間に何があったのかを知る術はない。

 

 そしてあれよあれよと言う間にエステルは予定外の存在──セルカを解き放ち、案内人が送り込もうとしていた面従腹背の味方──ライチェスを完全な敵と認識してしまった。

 

「どこで計画が狂った?ええい、こうなっては先回りして次の手を考えるしかない!」

 

 案内人は苦虫を噛み潰したように口元を歪ませながら扉を出現させ、その場から去った。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 目覚めた時に感じたのは眩しさと、そして暖かさだった。

 

「ん──ここは?」

 

 身体を動かそうとすると、普通に動いた。

 

 ──拘束されていたはずでは?

 

 その疑問の答えはすぐにもたらされた。

 

「お目覚めです!」

「おお!──おい、大丈夫か?」

 

 聞き覚えのある声がしたかと思うと、見知った顔が二つ、眩しい光を遮った。

 

「エステル──様?それに──」

「よかった。喋れるみたいだな」

「ええ。酷い怪我でしたからね」

 

 エステルとティナはそう言って安堵の溜息を吐いた。

 

「私は──あの化け物はどこに?早く、逃げませんと──」

 

 慌てるアーヴリルをエステルは制止した。

 

「落ち着け。あいつはもういない。ここは大墳墓の外だ。私たちは脱出できたんだよ」 

 

 その言葉にアーヴリルは思わず周囲を見渡すが、見えるのは柔らかい土の地面と森の木々だけだ。

 

「ここは最初に上陸して野営地にした所だよ。ダンジョンが崩落して危なかったんでな。ここまで逃げてきたんだ」

「どう──やって──」

 

 訊き終わる前にアーヴリルの意識は再び暗転する。

 

 

 

 再び気絶したアーヴリルだが、傷や火傷は既に治っている。

 セルカが治療魔法を使って手当てをしてくれたのだ。

 

 ティナの方はもうピンピンしている。

 目を覚ました時にはわんわん泣いて大変だったが、すぐにアーヴリルの手当てを手伝ってくれた。

 

 さてと。そろそろ衝撃波が過ぎて、爆心地付近も落ち着いてきたところだ。

 飛行船を取りに行かなくては。

 

「セルカ。もうひとっ飛びしてくれ」 

『いいわよ。任せて』

 

 セルカは鎧の手で胸部をどんと叩く。

 

 彼女は結局俺に付き従うと言った。

 一人で外の世界に出たところでどこに行けばいいのか分からないし、解放してくれた貴女の助けになりたい──そう言ったのだ。

 やはり案内人の言ったことは本当だった。

 俺の味方になる存在はここにいた。

 

「ティナ、アーヴリルを頼む」

「はい、お嬢様」

 

 ティナを動かせないアーヴリルの守りに付け、俺は鎧に乗り込んで飛び立つ。

 

 

 

 俺の飛行船はちゃんとそこにあった。

 アーヴリルの飛行船は倒れた木の下敷きになって大破していたが、俺の飛行船は無傷で地面に鎮座している。

 あれだけの凄まじい衝撃波に襲われてよく耐えたものである。

 

「全く、見た目オンボロのくせして──良い船だよお前は」

 

 軽く小突いてやると小気味良い音がした。

 

 鎧を貨物室に収容し、ブリッジに入ってエンジンを始動する。

 

 魔石のエネルギーが浮遊石に供給され、飛行船がふわりと浮かび上がると、プロペラが唸りを上げて回り出し、飛行船を前に進める。

 

 舵輪を回して飛行船を回頭させながら、俺は呟いた。

 

「帰ろう」

 

 

 

 ティナとアーヴリルを拾い、ファイアブランド領への帰途に就いた俺はブリッジで舵輪を握りながら思いを馳せる。

 

 傷だらけの旅路ではあったが、俺の冒険は成功と言っていいだろう。

 失ったものは多かったが、仲間の命は一人も失われず、セルカという最高の味方を従えることができた。

 

 この冒険が成功したのはやはり案内人の加護のおかげだな。

 実家の軍との空中戦で位置を見失った時に助けてくれたし、アクロイド男爵領ではアーヴリルと出会わせてくれた。

 俺の慢心でコンパスが失われ、ティナとアーヴリルが捕まってしまっても、ライチェスの注意が二人に向いている隙を突いてセルカの所へ案内してくれた。

 そして俺はセルカの助力を得て二人を救出し、ライチェスを倒すことができた。

 あいつは言葉少ないながらも確かに俺を助けてくれていたのだ。

 

「案内人──疑って、罵ったりして悪かったな。お前のおかげで冒険は成功だ。お前のサポートがなかったらまた前世みたいに──いや、それ以上に情けない死に方をするところだったよ。これで後は金を手に入れて帰るだけだけど、セルカがいればやれそうだ。本当に──本当にありがとう」

 

 止めどなく涙が溢れてくる。

 前世に比べると呆れるほど涙脆い身体だが、今は嫌いじゃない。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 ファイアブランド家の屋敷の庭。

 

 

「ぐぁぁぁあああああああああああああ!!」

 

 

 案内人が胸を押さえ、熱さと痛みにのたうち回っていた。

 

「痛い!痛い!やめろおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 エステルから伝わってくる感謝が焼けた鉄のごとく案内人の胸を焼き、頭が割れそうなほどの頭痛を引き起こしていた。

 

「力が──私の力がああああああああ!!」

 

 流れ込んでくる感謝の気持ちが急速に案内人の力を奪っていく。

 

 激痛に耐えながら案内人は扉を出現させ、這々の体でこの世界から逃げ出そうとしたが、扉を開けた先はどこにも繋がっていなかった。

 

「な、なぜだ!なぜ繋がらない!?」

 

 案内人は混乱する。

 

 そして扉はひび割れ、腐食し、やがて倒壊して消滅してしまう。

 

「そんな!なぜだ!?なぜたかだか数年分の、それも一人の感謝でここまで──」

 

 そして案内人は気付く。

 

「まさか──セルカか!」

 

 数千年単位の時間を閉じ込められたまま過ごしてきたセルカは自分を解放してくれたエステルに途方もない感謝の念を抱いている。

 それがエステルの感謝に上乗せされ、本来ならばあり得ないほどの威力となって案内人に襲いかかっていた。

 

 再び大きな激痛の波が襲ってきて案内人は一層大きな悲鳴を上げる。

 その絶叫は数分間途切れることなく続いた。

 

 

 

 しばらく経つとエステルの感謝が和らぎ、痛みがだいぶマシになった。

 

 ようやく一息つけた案内人は拳を握り締めて震える。

 

「許さない──絶対に許さないぞ、エステル。よくもこの私をこんな目に──必ず、必ずだ。私はお前を地獄に叩き落としてやる!」

 

 よろよろと立ち上がった案内人は歯を食い縛ってエステルへの復讐を誓った。

 

「手始めにお前の帰る場所を奪ってやる。お前が帰ったところでもはや詰み。冒険成功の喜びも束の間、お前はどん底に叩き落とされる。最後に笑うのはこの私だ!!」

 

 そんな案内人を植え込みに隠れ窺っている犬がいた。

*1
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幕間
俺が私になるまで Ⅰ


 何度目を覚ましたって変わらない。

 目が覚めて真っ先に目に飛び込んでくるのはベッドの上に張られた天幕の模様。

 前世だとプリンセスベッドといったか──天蓋の付いた洒落たベッドで毎晩眠りに就き、毎朝目を覚ましている。

 前世で最期を迎えたボロアパートの汚れた布団とは比較にならない寝心地の良さ。

 

 でも俺の気分はどこか晴れない。

 環境に不満はない。でも、いつもどこか寂しい。

 ついこの間までずっと、当たり前にあったものが今の俺にはない。

 

 ないと分かっているのに確かめようと手を伸ばし、そしてないことを確認して溜息を吐く。

 

 俺は男だった前世の記憶を持ったまま、身体は女になってしまった。

 

 

 

 TS転生──元後輩の新田君はそう言っていた。

 前世と逆の性別の人間として転生するという物語のジャンル。同人誌や二次創作でよくある題材だと。

 

 でもいざ自分がそうなってみると、言い知れぬ恐怖が胸中に巣食うようになった。

 女の子らしい服を着せられ、女の子らしい髪型をさせられ、女の子らしい言葉遣いをさせられる──それは自分が男であるという自己認識の上に立って生きてきた俺にとっては思っていたよりもずっと辛かった。

 そんな生活が続いていると、自分が前世で男だったのが夢か思い込みなのではないかと思えてくるのだ。

 

 唯一の前世との接点である案内人は姿を見せず、手紙もいつの間にかなくなっていた。

 俺が男だと実証できる材料は前世の記憶以外になく、周りの全てが、そして自分の身体でさえもが俺が間違いなく女だと告げてくる。

 認識と実態の乖離がこれほどまでに精神的に堪えるものだなんて知らなかった。

 

 その恐怖に対して俺はささやかながら抵抗を試みた。

 長かった髪を短く切ったり、「俺」という一人称を頑なに使い続けたり、剣の修行に打ち込んだり──そうすると周りがそれを訝しむ。

 貴族令嬢らしくないとか、品がないとか、おかしいとか、そんな風に陰口を叩かれる。

 

 でもやめられなかった。

 やめてしまったら、前世の男としての俺が消えてしまって、俺が俺でなくなってしまうのではないか──そんな風に思えたから。

 

 

 

「おはようございます。お嬢様」

 

 優しい声がしたかと思うと、カーテンが開けられ、朝日が差し込んでくる。

 専属使用人のティナが来たのだ。

 

 彼女は毎朝決まった時間に俺の部屋に来る。そしてカーテンを開け、俺の着替えを用意し、身支度を手伝い、部屋の掃除をする。

 

 彼女は俺にとって何なのか、説明しろと言われても難しい存在だ。

 専属使用人の一言で片付けるには彼女の存在は俺の中で大きすぎた。

 確かに使用人として毎日扱き使ってはいるのだが、完全に使用人と割り切れているわけでもない。

 

 どこかで彼女を失うことを恐れている。

 前世の元妻にされたように、捨てられたりしたら──笑顔の裏で俺のことを嗤っているのだとしたら──そんな不安がいつもどこかにある。

 

 その不安に駆られて伽を命じて彼女を抱き、柔肌と嬌声を味わいながらも怪しい兆候がないか探し、見つからないことにひとまず安堵することを繰り返す──それは痛みを別の痛みで紛らわせるようなものだが、これもやめられない。

 

 前世の元妻にずっと騙されていたと知ってから、俺は女という生き物を信用できないでいる。

 自分自身がその信用できない女という生き物になってしまったことへの嫌悪感あるいは忌避感と、ティナだけは違うと信じたい気持ちが混ざり合って、それがティナを抱くという行動へと俺を駆り立てる。

 彼女を性欲の対象として見ること、彼女を失うのを恐れることが俺の心は男だと実証する材料になる。

 

 でも今は朝だ。やることがある。

 俺はティナが用意した練習着に着替えて屋敷の外に出た。

 

 起きたらまず日課である剣の修行だ。

 

 剣を振るっている時だけは何もかもを忘れられる。

 剣のことだけを考えられる。

 俺が、ありのままの人格でいられる。

 

 剣を教えてくれるニコラ師匠は俺に女の子らしい振る舞いを強いてくることがない。

 一人称が「俺」でも、胡座をかいて座っても、男言葉を使っても、小言一つ言ってこないし、溜息を吐いたりもしない。

 ニコラ師匠に見守られて剣の修行をしている時、俺は息苦しさから解放される。

 

 ──そう思っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

「ニコラ殿。貴方からも言い聞かせてくださらないかしら?」

 

 エステルの母【マドライン】にお茶に呼ばれたかと思えば、カップに口も付けないうちにそんなことを言われたニコラは困惑する。

 

 なぜ剣の師(ただし偽物)でしかない自分が行儀の悪い、そして気性も荒い小娘を躾けなくてはならないのやら。

 確かにエステルの行儀の悪さはニコラも知るところだが、それは「貴族令嬢としては」という前置きが付く。

 ニコラにしてみれば貴族令嬢の行儀作法やマナーこそ無駄としか思えない。

 聡明で、それでいて心の強いエステルがそのような無駄に縛られることにうんざりしてもおかしくはない。

 

「いえ、自分は剣を教えているだけでして──」

 

 そう言い訳しようとしたニコラだが、マドラインはピシャリと言った。

 

「ですがあの子と接している時間は私たちよりも長いでしょう?それに教えているといってもあの子が練習しているのを見守っているだけではありませんか。給料分の働きとはとても思えません」

 

 ぎくりとするニコラは慌てて弁解する。

 

「いえ、あれは私の教育方針なのです。反復練習によって動きを身体に覚えさせ、どうすればより良くできるか自分で考えることで剣士としての本質的な成長を──」

「あの子は将来剣士になるのではないのですよ!?あの子は将来どこかの家に嫁ぎ、夫を支え、後継ぎの子を為すのです。あの子があのままでは良い貰い手がありません。それ以前に私たちファイアブランド家の品格を疑われます」

 

 マドラインの剣幕にニコラは思わずたじろぐ。

 元来気が小さい男であるニコラに貴族家の奥方との言い争いなどできない。

 

「とにかく、貴方からエステルに振る舞いに気を付けるように言い聞かせてくださいまし。あの子は貴方の言うことには文句の一つも言わずに従うと聞いています。そこを見込んで依頼しているのです」

 

 命令することもできる。だが()()しているのだ──言外にそう言われていることを感じ取ったニコラは断ればクビになると察した。

 冗談ではない。せっかくこんな割の良い仕事にありついて、日銭を稼ぐ貧乏暮らしから抜け出せたのに、こんなところでクビになりたくはない。

 

「──承知致しました。奥様」

「全く──最初からそう言えば良いのです」

 

 マドラインが優しげな顔つきからは想像できない棘のある言葉を発する。

 

 部屋を辞したニコラは焦った。

 エステルが振る舞いを改めなかったら、その時も自分はクビになるだろう。

 だが下手なことを言ってエステルを怒らせるのも怖い。

 既に木剣で、しかも一撃で相手を殴り殺せるほどの力を彼女は持っている。

 

 どうしたものかと思いあぐねるニコラだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 その日、日課の鍛錬を終えた直後に師匠は言った。

 

「エステル様──心が揺らいでいませんか?」

 

 やはり伊達に毎日俺を見守っているわけではないようだ。

 俺の些細な変化にも師匠は気付く。

 

 昨夜──普段弟の世話にかかりきりのはずのお袋に珍しくガミガミと振る舞いを詰られたのを引きずっていて、それでいつもより調子が悪かった。

 女であることを強いてくるお袋もお袋だが、それ以上に()()()()()ことで凹む弱い自分が嫌いだ。

 

「──すみません。至らないことばかりで」

 

「誤魔化さないで頂きたい」

 

 師匠はいつもと違った声音で俺の謝罪を遮った。

 

 そして師匠の口から出てきたのは恐れていた言葉だった。

 

「エステル様──いつまでそう頑なに令嬢としての振る舞いを拒まれるのですか?」

「え──師匠──なぜ──」

 

 師匠なら俺に女の子らしい振る舞いを強いてこないと、そう思っていた。

 その自分勝手な信頼が崩れていく。

 

「鍛錬の間はいざ知らず、屋敷の中でもお行儀が悪いと皆様が嘆いておいでです。エステル様、私が言うのも差し出がましいですが、貴女はこの家の長女であり、いずれは他の貴族家に嫁ぐか、婿殿を迎えることになるのですよ?ですから今のうちから淑女としての振る舞いを身に付けられてはと思うわけで──」

 

 師匠まで──師匠まで俺に貴族令嬢として振る舞えと言うのか。

 

 裏切られたような気持ちになり、自分でも何なのか分からない色々な激情が込み上げてきたかと思うと──俺の目から涙が溢れた。

 

 ──まただ。この身体はやたらと涙脆い。

 こんな弱虫が自分だなんて認め難い。

 転生する時、次の人生では強さを身に付けて、好き勝手に、思うままに望むままに欲望のままに生きてやると決めたのに。

 剣の修行を始めた時、他者を恐れないための力を得るためなら、どんな苦行でも歯を食い縛って耐えると誓ったのに。

 涙ひとつ堪えることもできないなんて。

 そんな自分が惨めで、恥ずかしくて、嫌になる。

 

 

◇◇◇

 

 

 ニコラは自分の失敗に焦りを隠せずにいた。

 なるべく頭ごなしな叱責にならないように気を遣って言ったつもりだったのだが、それでもエステルの気に障ったらしい。

 彼女は大粒の涙を浮かべて、それを必死で堪えようとしていたが、結局できずに走り去った。

 

(くそ──大変なことになった)

 

 あの様子ではかなり尾を引くだろうという確信がニコラにはあった。

 伊達に長年女遊びに明け暮れてはいない。

 あれは地雷を踏み抜いてしまった時の反応だ。普通の女ならそれこそ激昂しながら平手打ちしてきてもおかしくないくらいだ。

 エステルはそうしてこなかったが、このまま彼女の不興を買ったままでは彼女にクビにされてしまう。

 

 割の良い仕事を守るためにエステルの機嫌を直す方法を考え始めるニコラは彼女に最も近いところにいる人物に話を聞くことにした。

 

 

 

「お嬢様は──女性であること自体が嫌なのかもしれません」

 

 エステルの専属使用人の【ティナ】はそう言った。

 

 彼女が出したお茶を飲もうとしていたニコラは思わず手が止まった。

 

「嫌、とは?」

「時々いるんです。自立心が強くて、周りが何と言おうと自分の望む生き方を断固として追求するような──そんな人が。お嬢様は誰かに嫁ぎ、誰かの子供を産む──そんな女性としての生き方を拒絶しておられるのでしょう」

「何と──するとつまり──あの振る舞いは──」

「ご自身が女性であると認めたくないが故でしょうね──男性として生まれたならばあのようなことをする必要もなかったでしょうに──」

 

 ティナは悲痛な表情を浮かべる。

 

 言われてみればニコラにも心当たりはいくつもあった。

 立ち方、座り方、走り方、言葉遣い──どれをとっても女の子らしい可愛らしさがまるでない。

 意識していなくても滲み出るはずの原初的な媚態が、エステルからはまるで感じ取れないのだ。まるで意図して隠しているかのように。

 幼い女の子が興味を示すような洒落た衣服やアクセサリーにもまるで興味を示さず、スカートやドレスなど絶対に着ようとしない。

 そして何より、剣を習いたいと言って希望したのが、令嬢の嗜みとされるフェンシングではなく、本格的な実戦剣術である。

 すぐに飽きるか、嫌になって投げ出すだろうという周囲の予想を覆し、ニコラの課す鍛錬を愚直に毎日こなし続けている。

 

 それらが全て、自分が女性であることを否定したいが故の行いだったとすれば──納得がいく。

 聡明なエステルが未来に思いを馳せて、そして自身を待ち受けている貴族女性としての運命──誰かに嫁ぎ、跡取りの子供を産む──を悟ってしまい、それに激しく恐怖した。

 そしてその恐怖から逃れるために必死で女性らしく振る舞うことを拒んで、女であることを否定しようとしているのだとしたら──貴族令嬢としての行儀作法やマナーを強要されることに反発するのはむしろ必然とも言える。

 

 だが、だからと言ってマドラインからの依頼を遂行しないわけにはいかない。

 そこでニコラはティナに助力を求める。

 

「それはまた──難儀な方ですな。ですが、このままではエステル様のためになりません。何とか、取り繕うだけでもして頂かねば──エステル様は今どちらに?」

 

 屋敷には戻っていないようで、使用人や執事に聞いても行方は分からなかった。

 

 問われたティナは一瞬目を細めたかと思うと、視線を落として言った。

 

「──おそらくあの場所でしょうね」

 

 

◇◇◇

 

 

 俺は前世で逃げ場というものを持っていなかった。

 会社では陰険な糞上司や使えない馬鹿のくせしてプライドだけは一丁前な若い奴に悩まされ、家に帰っても妻は先に寝ているか、文句や小言や愚痴ばかり。

 休日も妻は着飾ってどこかに出かけて──この時点で浮気を疑うべきだった──子供は遊びに出かけて俺は家に一人。

 俺が本当の意味で逃げ込んで安らげる場所はなかった。

 

 でも今世には一応、ある。

 前世の記憶が戻る前から気に入っていた場所で、前世の記憶が戻った場所。

 駄々っ広い屋敷の庭の林を抜けた先にある草原だ。

 嫌なことがあった時、行き詰まった時はここに来る。

 寝転がっていると柔らかい草とそよ風、そして遮るもののない大空が苛立ちで荒れる心を鎮めてくれる。

 

 だが今度ばかりはそう簡単にはいかない。

 師匠まで俺に令嬢としての生き方を強いるようなことを言ってきたのはショックだった。

 

 俺は権力を振るって領民を虐めて富を搾り取る悪徳領主になりたいのであって、()()()()になりたいのではないのに。

 

 領主と領主の妻とでは立場も権力もまるで違う。

 できる贅沢の度合いで言うなら同じか、妻の方が上だろうが、それでも妻では駄目なのだ。

 領主の妻は夫の進退に人生の全てを左右される。

 自分は何もしていなくても夫がやらかしたヘマの巻き添えを食って人生終了、なんてこともよくある話だろう。

 

 ──冗談ではない。他人に運命を握られて生きるなど真っ平だ。

 

 なのに周囲は俺を「いずれ領主の妻になる淑女」にしようとする。

 それがひたすら鬱陶しくて、そしていつかそれに屈してしまいそうで、怖い。

 

 こんな思いをするなら前世の記憶なんて引き継がなければよかったのかとすら思えてくるが──すぐにそんな愚考を打ち消した。

 俺を虐げて陥れて嘲笑った奴らへの怒りと憎しみを忘れたら──あの時、人生最大の過ちを悟った時の俺が消えてしまったら──俺はまた虐げられ、奪われるばかりの弱者の人生を歩むだろう。

 そんなことは絶対にあってはならない。

 

 だから──前世の、男としての俺が消えてしまわないために、俺は抗い続けなければならない。

 

 

 

「やはりここにおられたのですね」

 

 不意に聞き覚えのある優しい声がした。

 

 身体を起こすとティナと──師匠が立っていた。

 そういえばティナはこの場所を知っているんだった。でも主人の秘密を師匠にバラすとはいただけない。

 

「エステル様──」

 

 師匠は俺の前に進み出てくると──膝をついて頭を下げた。

 

「先程は軽率短慮な発言、申し訳ありませんでした」

「──え?」

 

 お説教でもされるのかと思っていたら、師匠が頭を下げた。

 

 俺は少し面食らって間の抜けた声を出してしまう。

 

「エステル様がなぜ令嬢としての振る舞いを拒んでおられるのか、その理由を知ろうともせずに、一方的な物言いでエステル様に不愉快な思いをさせてしまいました。どうか、お許しください」

 

 落ち着いた声音でしっかりと謝罪の言葉を口にする師匠を見て、心が幾分か軽くなる。

 

 こんなことを言ってきたのは師匠が初めてだ。

 やっぱり師匠は凄い人だ。剣術だけではなく、人間ができている。

 

「その上で、どうかお聞かせください。エステル様は貴族女性として将来誰かに嫁ぐことが受け入れ難いのではとお察ししますが、その通りでしょうか?」

「──はい」

 

 今まで言えなかった本音をやっとさらけ出せた。

 お袋にガミガミ言われた時には、どうせ言っても余計にお説教が長引くだけだと思って言えなかった俺の本音に師匠は辿り着いてくれた。

 

 それが嬉しくて、また涙ぐみそうになるが、今度はどうにか堪えた。

 

「そうですか。では──エステル様はどのようになさりたいのですか?嘘偽りなく本心から教えて頂きたい」

 

 今まで俺がどうしたいかなんて聞かれなかった。

 俺がどう生きるかは周囲が勝手に決めて、俺をその決められた生き方の通りに行動させようとしてきた。

 俺を──男性への贈呈用の人形に仕立て上げようとしてきた。

 

「領主に──領主になりたい、です」

 

 耳打ちした俺の答えを師匠は嗤わなかった。

 

「立派です。エステル様。その志は立派ですぞ」

 

 しっかりと俺の目を見て師匠は微笑みながらそう言った。

 

 心の中にあるしこりが取れていく。

 俺は領主を目指すことに対する承認欲求に飢えていたらしい。

 いつか親父と弟を追い落として俺がファイアブランド領の領主になってやる──その思いを、周りの全てが俺に貴族女性としての生き方を強いてくる中で、自分一人の意志だけで維持し続けられるほど俺の心は強くなかった。

 

 駄目だな。いくら力としての強さを得たところで、メンタルが弱ければ何も変わらないだろうに。

 

 だから──そんな弱い自分を見つけた以上、鍛え直さねばならない。

 

「エステル様、こう考えてはいかがでしょうか?女性らしい振る舞いをすることや行儀作法、マナーを守ることは本質的には剣の修行と同じ──己を磨き、高めるためだと。大事なのは得た力や技そのものではなく、それらをどう使うかです。それがしっかりと心の中にあれば、それらはエステル様にとって素晴らしい財産となるでしょう。無闇に拒絶するのではなく、上手く付き合い、使いこなすことを考えるのです」

 

 その言葉は今までのどんな注意や忠告よりもすとんと胸に落ちてきた。

 

 

◇◇◇

 

 

 半年後。

 

 俺は前世と合わせても人生初の挑戦をしていた。

 

「お似合いですよ。お嬢様」

 

 ティナが俺を褒めてくる。

 

「そ、そうか?」

 

 やはり実際やってみると緊張するものだな。オシャレというやつは。

 

 姿見には洒落たクロスタイ付きのブラウスにロングスカート姿の美少女が映っていた。

 短かった白銀の髪はセミショートくらいには伸びており、後ろで小さなポニーテールになっている。前髪は右側はそのまま垂らし、左側は後ろに流してヘアピンで留めている。

 

 髪型をセットしたのはティナだ。

 俺が髪を結んでくれと言ったら嬉々としてやってくれた。

 

 姿見の前でくるっと回ってみる。

 

 うん──悪くはないはずだ。自分の身体だから別に見惚れたり興奮したりはしないが、それでも前世の感覚からすれば凄く可愛い。

 ただ、これから街にお忍びで出かけるにしては少しオシャレ過ぎやしないかとも思うが。

 

 

 

 ティナと一緒に使用人たちに見つからないようにそっと屋敷を抜け出し、庭の柵の所にある搬入用の門へと向かう。

 

 そこで執事の【サイラス】が俺を待っている。

 この執事は何かと俺に親切だ。

 そして俺が少しずつ女らしい振る舞いを受け入れ始めてから、親切の度合いは増した。

 やっぱりこいつも女らしい(エステル)を望んでいるんだな、という気持ちはあるが、可愛がられるというのも悪くはない気分だ。

 お忍びでの外出に協力してくれるのもポイントが高い。

 

 サイラスが門の掛け金を外し、俺たちが通れるくらいに小さく開けてくれる。

 

 俺たちが門をくぐるとサイラスは見送りの言葉を口にする。

 

「行ってらっしゃいませ、エステル様。──お似合いですよ」

 

 俺は小さく振り向いて返す。

 

「ありがとう」

 

 その言葉は紛れもなく本心からのものだと自信を持って言えた。




ニコラ「ふふ、やっぱりものは言い様ってこったな。ちょろいもんだ。ま、あんな悩み所詮一過性の麻疹みたいなものだろうし、そのうち領主になりたいなんて夢も忘れて女になるだろ。はっはっは!」

エステル「師匠のおかげで目が覚めた!」


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追想 神様はいやしない

「お前が分からない。お前は──あの方のことを何だと思っている?」

 

 ランス様が座り込んで私を睨みながら問うてくる。

 

 お嬢様のことをどう思っているかなど、言葉にすれば本にできるほどになるけれど、それでも一言で言い表すなら──お嬢様は私の全てだ。

 

 お嬢様にお仕えしてきた七年間と、どれくらいかは分からないけれどこれからお側にいる年月──私の人生はその時のためにあったのだと確信できる。

 お嬢様と離れ離れになるなんて考えられないし、もしお嬢様がいなくなってしまったら、私はきっとこの世界を憎むだろう。

 

「お嬢様は──私の生きる理由です」

 

 そう言うと、ランス様は怪訝な顔をした。

 

「どういう意味だ?」

 

 再び問いかけてくるランス様に私は少し意地悪な笑みを浮かべて答える。

 

「そのままの意味ですよ。お嬢様は私に生きる目的をくださいました。ですから私のこの身全て、お嬢様を支え、お守りするために使う。私はそう誓いました」

 

 ランス様は目を見開き、反論してくる。

 

「ならなぜわざわざ危険な所に行くのに止めるどころかついて行くんだ?守ると言ったが、ダンジョンだぞ?お前一人の力など高が知れている。本当に守りたいと思っているのなら止めるべきではないのか!?」

「ええ──それが貴女──いえ、世間一般からすれば正しいのでしょうね。ですが──私が守りたいのはお嬢様のお命だけではないのです。私はお嬢様の幸せを守りたいのです」

「幸せ?このダンジョンにたった三人で無謀な挑戦をすることがエステル様の幸せにつながると、お前は本気でそう思っているのか?」

「それは私が判断することじゃありません。お嬢様にとって何が幸せか、もしくは幸せにつながることかはお嬢様がお決めになることです。そしてお嬢様が決めたことに全力でお力添えするのが私の役目です」

 

 問答の末、ランス様は黙る。

 その表情は明らかに納得しかねているが、私を説得する言葉に窮してしまっているようだった。

 

 そのまま私たちの間にはしばらく沈黙が流れ、焚き火にくべた薪が弾ける音だけが響く。

 

 やがてランス様が口を開いた。

 

「やっぱり──お前は私の知っている専属使用人とは違いすぎる。聞かせてくれないか?お前はどうしてそう思うようになったんだ?」

 

 私の身の上話を聞きたがっているらしい。

 正直、私の過去なんてあまり大っぴらに人に話せるようなものではないのだけど──まあ、ここにはランス様しかいないし、境遇がかつての私に似ていなくもない彼女になら話してもいいだろう。

 思い出して傷つきたくない一心で、必死に記憶に蓋をして周りから隠していた時期はもう過ぎている。

 ただ、それでもお嬢様の耳には絶対に入れたくない。

 

 チラッとお嬢様の方を見ると、もう眠っているようだった。

 念には念を入れて聞き耳を立てるが、確かに寝息を立てている。こうなったお嬢様はちょっとやそっとの物音では起きない。

 

 ──大丈夫だろう。

 

 決心がついた私は口を開く。

 

「ええ。構いませんよ。あまり聞いていて心地良い話ではありませんが──」

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「どうして私にはお父さんがいないんだろう?」

 

 物心ついた頃から何度も抱いたその疑問は、八歳を過ぎた頃には指でなぞり過ぎた本の文字のように掠れてしまっていた。

 

 何度聞いても、お母さんはお父さんがいない理由を教えてくれなかったし、下手に食い下がると怒られた。

 というか、逆に泣きながら「なんでお父さんは()()()()()()んだ」って問い詰められることすらあった。

 当然、そんなの私に答えられるわけがない。

 するとお母さんは私をぶった。ぶった後でまた泣きながら私を抱きしめて何度も何度も謝っていた。

 そんなこんなで私はお母さんには聞かないことにした。

 

 他の人に聞いても答えは「分からない」だった。

 ただ、お父さんは私が乳離れして間もない頃に島を出て行ったらしいことは馴染みのパン屋のおばちゃんがこっそり教えてくれた。

 王国本土まで「出稼ぎ」に行ったっきり戻ってきていないんだって。

 どこにいるのか、そもそも生きているのかも分からない。

 

 お父さんが無事に帰ってこられますようにって毎晩祈った時期もあった。

 明日になればお父さんが帰ってきて会えるって、根拠もなく漠然と信じていた時代もあった。

 

 そして何度目かの春に祈るのをやめた。

 いくら待ったってお父さんは帰ってこない。

 

 ──お父さんがいなくたって別に不満なんてない。私にはお母さんがいる。

 ちゃんとご飯は食べられるし、寂しくなんてない。

 お母さんと二人でいい。

 

 ──そう思っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 私が十二歳になる直前の雪降る夜、お母さんは死んだ。

 

 働き詰めで身体が弱っていたせいで風邪を拗らせて肺が駄目になっちゃったってお医者様は言っていた。

 

 私は十一歳でひとりぼっちになってしまった。

 島にはほかに頼れる親類縁者もなく、私を引き取ってくれる人もいなかった。

 当然だ。雪と寒さの厳しい冬で、どこの家も蓄えを細々と切り崩しながらカツカツ状態で生活しているのに、もう一人子供を養う余裕なんてあるわけがなかった。

 

 結局私は冬の間お医者様の家で厄介になった。

 

 薪割りをしたり、料理を手伝ったり、ゴミを処分したりといった雑用をするだけで家に置いてもらえて、食事も用意してもらえたのはかなり恵まれていたのだろう。

 毎日の雑用はキツくって、お医者様の息子さんたちにはご飯の取り分が減ると不平を言われて、居心地は悪かったけど、背に腹は代えられなかった。

 誰もいない寒い家で凍えるよりはよっぽどマシだ。

 

 

 

 春になると私はお医者様に働き口を紹介され、働きに出ることになった。

 

 勤め先は島の外から仕入れた品物を売っている貿易商の店だ。

 お医者様がそこの店主──獣人の住むこの島では珍しい人間の住民だった──と古い付き合いで、私を雇ってやってくれと頼んだらしい。

 

 そして私はお医者様の家を出て、去年までお母さんと一緒に住んでいた家に戻った。

 冬の間誰もいなかった家は風雪に晒されてボロボロで、おまけに空き巣まで入ったらしく、家具や食器の殆どがなくなっていた。

 それでも他に住むところなんてなかったから、私はそこで寝起きした。

 

 ゴミ捨て場から拾ってきた汚れた毛布と脚の欠けた小さなテーブル、古道具屋さんが山積みしていたガラクタの中からこっそり取ってきた鍋とお皿とコップ──そんなものしかなかったけど、それで我慢するしかない。

 お金を貯めてもっと良いのを買うまでの辛抱だ。

 

 

 

 とにかく少しでもお金が欲しい──その一心で私は必死で働いた。

 その甲斐あって、夏が来る頃には新しい毛布と食器をいくつか、そして服を二着ほど買い揃えることができた。

 やっとひと心地ついたと思って安心できたのはほんの一時の間だけだった。

 

 ──寂しい。

 ──一人は嫌だ。

 ──とにかく寂しい。

 

 そんな風に心が悲鳴を上げ出した。

 

 お母さんがいなくなって、生きていくために働かなければならなくなった私の周りには気付けば誰もいなくなっていた。

 朝起きても家には私一人。

 一緒にご飯を食べる人もいない。

 遊んだり、おしゃべりする相手もいない。

 誰も──いない。

 

 その心の悲鳴から目を背けようと仕事に打ち込もうとしたけど、駄目だった。

 特に仕事で外回りをしている時に目に入る空き地や広場で遊んでいる子供たちを見ていると、胸が苦しくなった。

 

 私も少し前まではあの子たちのようにそれなりに楽しく生きていたのに──朝お母さんに叩き起こされて朝ごはんを食べて、学校に行って読み書きと算数を習い、学校が終わったら子供達同士で集まって遊んだりおしゃべりしたりして、夕方になると家に帰って家族と一緒に晩ごはんを食べて、温かい布団で眠りに就いていたのに──今では仕事ばかりで、誰かと一緒に遊ぶこともなくなった。以前よく一緒に遊んでいた友達も私を誘わなくなった。

 

 どうして──どうして私だけこんなことになってしまったの?

 私の何がいけなかったの?

 お母さんが死ぬ前は悪いことをした覚えなんてない。

 綺麗な服が欲しいとか、もっと美味しいものが食べたいとか、我儘を言ったことだって殆どない。

 なのになんで──なんで私はお父さんだけじゃなくお母さんまでいなくなって、一人ぼっちになってしまったの?

 

 その疑問はかつて抱いた「どうしてお父さんがいないのか」という疑問同様、誰も答えてくれない疑問だった。

 そして皮肉なことに時間が経つに連れて掠れていく所まで同じだった。

 

 朝早くから勤め先の店に仕事に行き、重たい袋をいくつも積んだ荷車を押して街を歩き回って日がな一日納品と売掛金の回収をし、割り当てられた仕事を終えてお店に戻ってきた頃にはもうすっかり日が暮れている。

 誰かと遊ぶ暇なんてないし、そんな気力も体力も仕事の後には残らない。

 お休みの日は疲れを取るためにずっと寝ているし、起きたら溜まった掃除やら洗濯やら、買い物をして、気が付いたら夜になっている。

 そしてまた忙しく働く日々が始まる。

 

 そんな暮らしをしていたら嫌でも心は擦り減って、無気力になって、何も感じなくなっていく。

 そんなこと考えたって何になる?そう自分に言い聞かせて過酷な現実を受け入れてしまう。

 感情が死んでいく。

 

 それでも、完全に心を殺すこともできなかった。

 時々心が息を吹き返して、自分の置かれている現状が堪らなく嫌になる。

 私だって友達と一緒に遊びたい。色んな楽しい話がしたい。誰かと一緒に食卓を囲みたい。──誰かと一緒にいたい!

 心がそう叫ぶ。

 

 それで何度も夜に毛布の中で泣いた。

 呼吸が荒くなって、涙が止めどなく溢れてきて、無性に外に飛び出してどこかに逃げたくなる。

 そして落ち着くまで毛布に包まったまま床を転げ回る羽目になる。

 

 そして落ち着いたら、今度は自分が嫌になる。

 頼れる親も養ってくれる人もいない私は──弱い。とても弱い。

 貰えるお金が雀の涙でも、働いて稼がないと生きられない。

 ずっと一人ぼっちの貧乏暮らしから抜け出せない。

 そんな自分の無力さが嫌いだ。

 私は──私が嫌いだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 十五歳になって、成人しても私は変わらず貿易商の店で朝から晩まで働いていた。

 三年以上も働いているとそこそこお金が貯まってきて、私はお母さんがいた頃と同じ程度の暮らしを取り戻していた。

 もうすぐまた冬がやって来るけれど、今年も何とか越せそうだ。

 

 ただ、暮らしはマシになってもまた別の問題が出てきていた。

 

「おいコラ!もう八時を過ぎてるぞ!どんだけかかってやがるんだ!日曜だってのにこっちの仕事がちっとも終わらないじゃないか!」

 

 店に戻ると新しい店主が怒鳴ってくる。

 

 彼は私がこの店で働き始めた頃の店主は今年の春に引退して、息子さんが後を継いでいた。

 だけどその息子さんは何かと私に当たりがキツかった。

 

 理由は私の仕事が遅いせいだ。

 他の従業員と比べると、十五の少女である私はどうしても非力で同じ時間でこなせる仕事の量は少なくなる。

 すると割り振られた分の仕事を終えるのに時間がかかり、終えた頃には夜になっているってわけだ。

 

 加えて彼は生真面目というか、融通が利かないというか、とにかく物事が自分の思った通りに上手くいかないことが我慢ならない質だった。

 彼は日中他の従業員と一緒に外回りで営業の仕事をやっていて、それを終えてから店に戻って帳簿をつけていた。

 また、繰り越した作業が溜まっていくことを嫌っていて、その日の取引の記録はその日のうちにつけておくようにしていたから、私が仕事から戻るのが遅いと自動的に彼の仕事も終わるのが遅くなるのだった。

 

 前の店主の時とは打って変わって私は毎晩のように小言を言われ、時には今日のように怒鳴られる羽目になってしまっていた。

 

 しかも定休の月曜日を明日に控えた今日は特に虫の居所が悪いようで、私目掛けて帳簿をいくつか投げて寄越してきた。

 

「お前もやれ!計算くらい習っただろ」

 

 ──とんだ無茶振りだ。

 私は神殿がやっている庶民向けの学校で基本の読み書きと足し算引き算を習っただけだ。

 一丁前に帳簿なんてつけられるわけがない。

 

「そ、そんな──私にはできません」

 

 そう言うと、店主は額に筋を浮かべて怒鳴ってきた。

 

「あ"?お前人の仕事遅らせといて自分はさっさと帰る気か?いつからそんな良い御身分になった?」

「いえ、そんなことは──」

 

 そういう意味で言ったんじゃないのに、店主は気に障ったようで、立ち上がってつかつかと私の方に歩いてきた。

 

 湧き上がる恐怖で思わず後退りする。

 数歩で壁に背中がぶつかった。

 

「お前みたいな学も能もない親なしの小娘が生きていけるのは誰のおかげか言ってみろ!」

「ひっ!ごめんなさい!──ごめんなさい」

 

 身が竦んで涙が溢れ出る。

 私はみっともなく泣きながらひたすら店主に謝るしかない。

 でも、それは余計に店主の神経を逆撫でしただけのようだった。

 

「泣いて謝れば何でも許してもらえると思ってんのか?チッ、これだから色気付いたガキは──」

 

 そう言って店主は私を張り倒した。

 左の頬に鋭い痛みが走り、じんじんと熱を帯び始める。

 

 それを見てなぜか店主がニヤリと笑う。

 

「お前が人の仕事を遅らせたんだから、お前が埋め合わせをするのが筋ってモンだよなぁ。帳簿が無理なら別のやり方でしてもらうぞ」

 

 そして店主は私の手を強引に引いて奥の方の部屋へと入っていく。

 

 その先で何をされるのか──分からなかったが、何かとんでもなく嫌な予感がして私は必死で踏ん張って抵抗した。

 

「い、いや!放して!やめてください!」

 

 少女とはいえ私も獣人だ。人間よりも力は強いはずだった。なのに店主の腕力にまるで逆らえなかった。

 踏ん張り虚しくズルズルと引きずられていく。

 

 ドアをくぐった直後に手を伸ばし、ドアの枠を掴んで逃れようとしたけれど、次の瞬間思い切り脚を蹴られた。

 走る痛みに膝をつき、ドアの枠を掴んでいた手も離してしまい、私は店主の方に引き寄せられる。

 

 店主は私の下顎を掴んで顔を近づけて、凄んできた。

 

「暴れんじゃねえ!クビにされたいのか?また露頭に迷うことになるぞ」

 

 この店をクビになったら他に行くところなんてない。

 

「それは──い、いやです──でも──」

「口答えするな!このままここにいたかったら言う通りにしろ!」

 

 店主は本気のようだった。

 逆らったら本気で私をクビにするつもりだ。

 

 嫌だ。

 仕事を失うのは嫌だ。

 仕事──お金を稼ぐ手段はそのまま私の命だ。

 失えば生きられない。なければ死んでしまう。

 

 ベッドで冷たく横たわるお母さんの姿が脳裏に蘇る。

 あの姿はステュクスの河を渡って神様のもとへ召された後の姿じゃない。

 何も見えず、何も聞こえず、身体は動かない──暗く、冷たい虚無の世界に呑み込まれた魂の抜け殻だ。

 あんなことにはなりたくない。絶対に。

 

 手足から力が抜けてしまい、抵抗する気力が失われる。

 そのまま私はなす術もなく店主の私室に引っ張られていった。

 

 そして店主がズボンを脱いで私に迫ってくる。

 

「いや──いやぁ──」

 

 私は目に飛び込んできた景色から顔を逸らし、必死で這って逃げようとした。

 でもそれも虚しく、すぐに店主に押さえつけられる。

 

「早くしろよこのグズが!こっちはただでさえ溜まってんのにお前の仕事が遅いせいでスッキリする暇もねーんだよ!」

 

 その怒鳴り声で頭が真っ白になった。

 叫びたいのに声が出ず、逃げたいのに身体が動かない。

 力の抜けた腕が私自身を支え切れなくなり、私は床に倒れ伏す。

 

 店主が私を抱えてベッドの上に投げ出した。

 衣服が乱暴に剥ぎ取られていくのを感じる。

 そのまま私は私の身に起こったことをまるで芸やお芝居でも見るかのように無表情に、それでいて涙を流しながら眺めていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 ──痛い。

 ──歩く度に身体中が痛い。

 

 肌寒い夜道をよろめきながら家に向かって歩く。

 目の前を踊る白い息──いつもなら手に吐きかけて温めるところだけど、今はそれすら億劫だった。

 私の頭を満たしていたのはひたすらな疑問だった。

 

 ──なんで?どうして?

 ──私そんなに悪いことした?

 ──仕事が遅いから?それで店主に迷惑かけたから?

 ──終わるのは遅かったけど、仕事は真面目にやっていた。

 ──それなのに、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの?

 

 答えてくれる人はいない。

 いや、尋ねたくもない。こんな酷い私を見られたくない。

 

 不意に足がもたついて、バランスを崩してしまう。

 咄嗟に手をついた。でも地面が硬く、手に力も入らなかったせいで虚しく倒れてしまった。

 擦りむいた手に血が滲む。

 

 溢れ出た涙で視界がぼやける。

 

「もういや──もういやぁ──誰か──誰か、助けてよぉ──」

 

 私は地面に倒れ込んだまま啜り泣いた。

 

 

 

 それからどうやって家に帰ったのか分からない。

 目が覚めた時には家で毛布に包まっていた。

 ずっと泣いていたせいか、毛布が所々濡れていた。目の周りもヒリヒリ痛む。

 

 できればもうずっと動きたくなかったけれど、腹立たしいことにお腹は空く。

 なんにも食べたい気分じゃないのに、お腹はぐうぐう鳴って食事をせっつく。

 何時間か毛布の中で攻防を繰り広げた末に、耐えかねて毛布を出た。

 

 せっかくだし、温かいものを作るかと思って、燕麦の袋とミルクの瓶に目が留まる。

 

 ──ミルク粥にしよう。

 そう思って立ち上がった途端、股に違和感を覚えた。

 この年で漏らしてしまったのかと思って、溜息混じりに下着を下ろす。

 

 そして私は()()を見た。

 瞬間、全身に悪寒が走り、猛烈な吐き気がして、私は外に飛び出して嘔吐いた。

 昨夜から何も食べていなくてお腹の中は空っぽだったのに、吐き気は止まず、なけなしの唾と胃液を絞り出すように吐き出した。

 

 そして必死で息を吸いながらも、かぶりを振って蘇る忌まわしい記憶を追い払おうと試みる。

 

 でも無駄だった。

 あの時、お芝居のようにぼんやりと見えていた光景が今になって鮮明に思い出される。

 脚を掴む大きな手、のしかかってくる大きな丸い腹、太くて黒い毛が無数に生えた生白い胸、汗に濡れた首筋、そして私を親なし能なしと貶しながら私の身体の具合は褒めてくる顔──それらを無言で見上げていた時の記憶はどんなに追い払おうとしても、頭から消えてくれない。

 

 そして追い討ちをかけるようにまたその元凶が流れ出てきて、地面に落ちた。

 

 

「ひっ!う、うわああああああああああああああ!!」

 

 

 半狂乱になって、水場を求めて走った。

 皆がよく使う井戸や貯水池は駄目。人目につかない水場といったら──川だ。

 

 走りながらその結論に行き着いた私は家の近くを流れる小川に向かい、そこに飛び込んだ。

 冬の近い川の水は冷たく、浸った下半身が悲鳴を上げる。

 それでも、飛び込まずにはいられなかった。

 早く、早く、一刻も早く、身体から流れ出てくる悍ましいモノを洗い流さなければ──その一心で、私は冷たさを堪えて水浴びをし、必死で股を手で擦り続けた。

 

 

 落ちろ!落ちろ!落ちろ!落ちろ!落ちろ!

 

 

 どれくらいそうしていたかは分からない。

 疲れて岸に上がった時には陽が傾いていた。

 

 私はなけなしの体力を水浴びで身体を洗うのに使い果たし、フラフラのまま家に帰って毛布に倒れ込み、また泣いた。

 

 

 

「神様はいつもあなたたちを見ていらっしゃいますよ」

 

 昔読み書きを教えてくれた神官の女の人がそう言っていたのを思い出す。

 悪いことをしたら神様が天罰を下すんだって。逆に日頃から良い行いをしていれば、困った時に神様が助けてくれるんだって。

 

 ──そんなの嘘だ。

 私は悪いことなんてしていないのに、こんな貧乏暮らしをしていて、おまけに身体も傷つけられて、汚された。

 そして私をこんな目に遭わせた店主を誰も罰しない。咎めもしない。

 

 ──神様はいやしない。

 

 

◇◇◇

 

 

 神様に縋ったって助けは来ない。

 なら無力な私は誰に、何に縋ればいい?

 

 答えは簡単だ。人に縋る。

 私が泣きつくことにしたのは私にあの店を紹介したお医者様だった。

 

 もう限界だった。

 あれから店主は私の身体に夢中になって、何かと難癖をつけては私を襲った。

 何度やられても慣れるなんてことはなく、私は痛みと恐怖に必死で耐えて、ただただ早く終わってくれと願いながらされるがままにされていた。

 終わった後の夜とその翌日はいつも精魂尽き果てて何もする気になれない。

 

 そして頻繁に悪夢を見る。

 うなされて、夜中に飛び起きて、そこから明け方までまんじりともできない時間を過ごす羽目になる。

 

 ──私、このままじゃ壊れちゃう。

 ある朝に急にその思いが湧き上がって、居ても立っても居られなくなった。

 

 そして私は生まれて初めて仕事を勝手に休み、お医者様の家に行った。

 そして診療を待つ人々に混じって長椅子の端に座り、呼ばれるのをじっと待った。

 

 

 

「おや、ティナちゃんじゃないか」

 

 その声を聞いて目を覚ました。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 

「先生──」

「どうした?具合悪いのか?どこが悪いんだね?」

「う──あの、その──」

 

 お医者様の顔を見た私は言葉に詰まった。

 私がされたこと、私が受けた仕打ち、それで私が今どんな有様か──それらをお医者様に言うことは躊躇われた。

 自分の窮地を訴えにきておいて、いざ話せるとなると言葉が喉につっかえたように出てこない。

 

「や、やっぱり大丈夫です!失礼します!」

 

 そして私は居た堪れずにそう叫んで出て行こうとしたけれど、お医者様が私の手を掴んだ。

 反射的に身体が震え、足が竦んでしまう。

 

「待て。そうあからさまにおかしな様子を見て大丈夫とは納得できない。何かあったなら、話してくれ」

「いえ、あの──本当に──」

 

 できればその手を放して欲しいのだけど、うまく言えない。

 変に強い言い方をしてお医者様を不快にさせたら──助けを求める人はいなくなる。

 でもやっぱり──男の人に手を掴まれると怖い。

 

 だが無情にも私が数秒逡巡している間にお医者様はさらに距離を詰めてきた。

 

「話しにくいことなのか?でも話してくれないと助けにもなれないぞ」

 

 思わず半歩後退りしてしまう。

 冷や汗が浮かび、心臓の鼓動が激しくなっているのが分かる。

 身体も若干震えているかもしれない。

 

「教えてくれ。どこが悪いのだね?」

 

 視線が交錯する。

 思わず目を逸らした。

 お医者様のことは良い人だって──私を一冬養ってくれて、働き口を用意してくれて、生きていけるようにしてくれた──そう分かっているのに、彼が怖い。

 

 なんで?お医者様に助けを求めに来たのに、どうしてそのお医者様がこんなに怖いの?どうして!?

 

 固まったままその疑問を頭の中で叫ぶ。

 

 体感にして数十秒の硬直状態を突き破ったのはしゃがれた声だった。

 

 

 

「何してんのあんた!」

 

 お医者様の奥様がお医者様の頭をはたいていた。

 

「この娘怯えてるじゃないの。あんたまた怖がらせるようなこと言ったのかい?」

「い、いや違う!どこが悪いのか聞いていただけだ」

「そんなの見て分かんないのかい?ここよここ!」

 

 奥様は自分の胸を示した。

 そしてお医者様を追い出しにかかる。

 

「ここはあたしが話を聞くからあんたは出て行って。早く!」

 

 お医者様が背中を押されて部屋から出て行き、奥様がドアを閉めた。

 

「ごめんねティナちゃん。怖かったよね」

 

 そう言って奥様は私の前に来ると、屈んで視線の高さを合わせて問うてきた。

 

「話しにくいことなら無理してすぐに話さなくてもいい。でもいつ何があったのか、それだけ教えてくれる?何聞いても怒ったりしないから。ね?」

 

 奥様には恐怖は湧き起こらなかったけれど、それでもやっぱり不安だった。

 今まで人に何かを打ち明けたり、疑問に思ったことを聞いたりしたら、怒られることの方が多かったから。

 

 お母さんにお父さんがいない理由を尋ねた時、お医者様の家に置いてもらっていた時に雑用がキツいと泣き言を漏らした時、売掛金の回収に失敗したと打ち明けた時、帳簿なんて付けられないと言った時──私が我儘だとか、立場を分かっていないとか、私のせいだとか、とにかく私がいけないんだと言われてきた。

 今回も同じことを言われるんじゃないかと不安だ。

 

 それに──私の身に起こったことはできれば誰にも知られたくない。

 

 やっぱり私が我慢すればいいんじゃないのか?

 

 具合が悪いだけだって言っておけば──

 

 そこまで考えた時、不意にベッドに横たわるお母さんの姿が頭をよぎった。

 痩せこけて血の気が失せ、身体は冷たくなって二度と目覚めることのない孤独な眠りに落ちていったお母さん──今まで見たものの中で一番怖いもの。

 

 悪寒に身体が震える。

 

 

 ──嫌だ。死にたくない。お母さんみたいになりたくない!

 

 

「──誰にも──他の誰にも言わないでください」

 

 私は絞り出すような声で言った。

 

「絶対に言わない。約束する」

 

 奥様は真剣な表情で頷いた。

 

 それを見てようやく私は決心がついて、私の身に起こったことを包み隠さず話したのだった。

 

 

 

「──なんて酷いことしやがる」

 

 奥様が歯を食い縛って低い声を上げる。

 その顔に浮かんでいたのは怒りの表情だった。ただ、その怒りは私ではなく店主に向けられていた。

 

「ティナちゃん。仕事にはもう行かんでいい。わざわざそんな酷いことされるって分かっていて行くことなんてない。しばらくはうちにいな。新しい仕事先も探してやる。それと、あの馬鹿店主を懲らしめてやらないとね」

 

 奥様の話を聞いて私は血の気が引いた。

 

「あの店を紹介した私らの落ち度もある。この落とし前はきっちりと付けさせてやるから──」

「いや──!そんなのいや!」

 

 私は引き攣った喉で懸命に叫んだ。

 私は店主に復讐したいんじゃない。そんなことしたら店主が私を恨んで殺しに来るかもしれない。

 私は──逃げたいだけなのだ。

 

「懲らしめたり、仕返ししたり──そんなのいらないから──私、もう出て行きたいの──ここから──どこか、遠くに行って──あの人と二度と会わない所に行きたいの──」

 

 いつの間にか溢れ出てきた涙を拭いながら、私は必死で訴えた。

 

「それって、この島を出たいってことかい?」

 

 頷くと、奥様が困った顔をする。

 

「こう言っちゃ酷だけど、この島を出ても今よりもっと大変だよ?やめときなさい。それに島の皆があの馬鹿みたいな奴じゃない。そもそもあいつは──」

「人間──で、私たち獣人とは違う、でしょ?でも、あの人を懲らしめたって、私はここにはいられないよ。それとも──あの店主をこの島から追い出せるの?あの店がなくなったら、外からの品物が入ってこなくなるんだよ?」

 

 そう──あの店主がやっている店はこの島の人たちの生活に欠かすことができない。

 特に主力商品である小麦粉。これはあの店が取引を独占している。いや、独占しているというより、あの店以外取引をやらないのだ。

 前の店主が言っていたけど、卸先が少ない上に運んでくるだけでものすごい費用が掛かるんだとか。

 

「でもティナちゃん。島の外は本当に危ないんだよ。悪いことは言わない。考え直して」

 

 奥様がなおも止めてくる。でも私はかぶりを振った。

 この島を出たいという願いは口に出したことでより強くなった。

 

「私はもうここにはいられないの。外の世界がどうでも、ここで怯えながら生きるよりマシだよ。ここにいたら私、いつか壊れちゃう」

 

 でも奥様はしぶとかった。

 

「ティナちゃん、あんたは分かってない。意地悪したくて言ってるんじゃないんだ。本当にティナちゃんのために言ってるんだよ」

 

 そして奥様は今まで聞いたこともなかった彼女の過去を話し始める。

 

「あたしゃこう見えて若い頃はこの島が狭苦しいと思って本土に行ってそこで暮らしてたんだ。でも行った先での暮らしは酷いもんだった。仕事はキツい仕事か汚れ仕事ばっかり。這い上がろうと思っても学も金も技術もないせいでなかなかうまくいかない。で結局、ここに戻ってきて嫁入りしたのさ。あたしにはここにしか居場所はなかった。それに気付くのに十年もかかっちまって、随分いらん苦労をしたもんさ。最初から島を出なければって今でも思うことがある。それでもティナちゃんはこの島を出たいと思うのかい?」

 

 私は頷いた。

 このままここに残っても地獄、出て行った先も地獄が待ち構えているのなら、出て行った先でうまくいく方に賭けたい。

 こんなところになんてもう一日だっていたくない。

 

 奥様は私の目をしばらくじっと見ていたけれど、やがて溜息を吐いて折れた。

 

「分かった。それでも行くなら止めはしない。ちょうど三日後に本土への定期船が来るよ。それに乗って行くといい。まあ、ティナちゃんは昔のあたしと違ってまだ成人したばっかりだし、働いた経験もあるから、仕事は見つけやすいかもしれないしね。ただし一つ、忠告しておく。間違っても犯罪ギルドに入るのと身体を売ることだけは絶対にするんじゃないよ。でないと十年、いや、五年と経たずに殺されるか、病気を貰って死ぬことになるからね。あたしと一緒に島を出た子たちはそれで死んだ。ティナちゃんはそうならないで」

 

 私はその言葉をしっかり心に刻みつけて、頷いた。

 

「──うん。約束する」

 

 

◇◇◇

 

 

 三日後、私は衣服と歯ブラシとコップ、そして毛布を袋に詰めて定期船に乗り込んだ。

 

 お医者様が親切にも切符を買ってくれたおかげで、なけなしの貯金をいきなり切り崩さずに済んだのは幸運だった。

 

 飛行船の甲板からどんどん離れていく浮島を眺めていると、思っていたよりもずっとちっぽけだったんだな、と思った。

 

 ──そうだ。私は間違ってない。

 こんなちっぽけな島にしがみついて何になる。

 

 風で髪がなびく度、清々した気分が広がっていく。

 

 ──さようなら。忌まわしき私の生まれ故郷。



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追想 家なき子はもういない

 生まれ故郷の島を出た私は十日間の船旅の末、王都郊外の大きな港に辿り着いた。

 

 入港したというアナウンスが流れると、乗客が我先にとタラップへ向かい、一等船室から順に船を降りていく。

 

 私はその様子を船外通路から眺めていた。

 列に並ぶのが嫌で、最後に降りようと思ったのだ。

 

 船内の売場で買った夕食のサンドイッチをかじりながら、仕事をどうしようか考える。

 兎にも角にも仕事がなければ暮らしていけない。

 

 港を見渡すと、荷物の積み下ろしをしている獣人の労働者たちがいた。

 駄目だな──私にはああいう力仕事は無理そうだ。

 毎日のように重い荷車を押して街を歩き回っていたから、それなりに身体は鍛えられているけれども、やはり男に比べると見劣りするのは証明済み。

 

 じゃあお店の売り子とか給仕は──やったことがない。

 そういう接客の仕事って愛想が大事だっていうけど、私にはできるかどうか怪しい。

 長年働くのに必死で話し方も笑い方もほとんど忘れてしまった。そのくせ思っていることが表情に出やすいのは昔から変わらない。

 だから作り笑いなんてどうしても上手くできない。おまけに口下手ときた。

 やってはみたいけど、望み薄だな。

 

 まあ、そこまで仕事を選り好みできる身じゃないし、私でも人並みにできそうなのがないか、探してみるしかないだろう。

 

 考えが纏まってきたところで二等船室の下船の順番が回ってきた。

 頃合いかなと思って、私は通路から階段を降りてタラップへと向かう。

 

 辿り着いた時には下船を待つ列はだいぶ短くなっていた。

 並ぶ人たちの表情は王都を目にして明るくなっている。

 きっと私も彼らと同じ表情をしているのだろう。

 

 タラップを降りて桟橋に足をつけた時には、空は夕闇に包まれ、街に明かりが無数に灯り始めていた。

 

 今日からこの光の街で暮らしていくのだ。

 再び胸が高鳴る。恐怖からではなく、新しい生活への希望で──。

 

 

◇◇◇

 

 

 それからどれだけの溜息を吐いただろうか。

 何度舌打ちを浴び、何度冷や汗をかき、何度恐怖で震え上がっただろうか。

 

 王都はひたすら巨大で複雑で難解で──そして冷たかった。

 

 

 

 港を出て小型の飛行船に乗り換え、王都の中央へ向かったはいいけれど、降りてすぐに道に迷い、繁華街をぐるぐる回り続けるハメになった。

 人にはぶつかるし、馬車には轢かれそうになるし、話しかけてもいないのに勧誘や押し売りをされまくるしで、頭がどうにかなりそうだった。

 脱出しようにも標識も看板もまるで当てにならず、人に聞いてもすぐに分からなくなってしまう。

 

 何度も道を間違え、何度もぶつかって怒鳴られ、何度も声を掛けてくる怪しげな連中から逃げて、這々の体で繁華街を抜け出したと思えば、夕立に見舞われてずぶ濡れになった。

 幸いポンチョを羽織っていたお陰で上半身は無事だったけど、ズボンと靴が水を吸って冷たくなり、体温を奪っていく。

 

 寒気に苛まれながらどこか泊まる所を探した。でも宿屋は見当たらなかった。

 ホテルと書かれた看板を掲げる建物が並ぶ通りはあったけど、どれもおびただしい電飾で妖しく光り、おまけに黒服の厳つい男の人が何人か戸口に立っていて、怖くなって逃げた。

 

 結局私が一夜の寝床に定めたのは大きな公園だった。

 村一つ分くらいはあるんじゃないかと思うほどの馬鹿げた広さで、農村を模した一群れの家まであった。

 どれも鍵が掛かっていたけど、厩舎を見つけて入ることができた。

 

 ポンチョとズボン、靴と靴下を脱いで、ずぶ濡れになった荷物と一緒に干した。

 下半身が空気に触れて、その冷たさに悲鳴を上げる。このままじゃ凍えそうだ。

 ついてないことに、せっかく持ってきた毛布は雨に濡れて使えない。

 火を焚けないので手っ取り早く乾かすこともできない。

 

 困った私は厩舎の奥の方へ歩いた。

 厩舎なら藁でも敷かれているんじゃないかと思ったのだ。

 

 果たして、立ったままうとうとしている馬たちの足元に藁が敷かれていた。

 

 そっと手を伸ばして少しずつ藁をかき集め、私の寝床を作った。

 藁を幾らか身体に被せると、期待通り冷たさは段々落ち着いた。

 うん、藁ってすごい。

 

 ようやく休めることに安心する一方で、初日からこれで大丈夫なのかという不安が拭えなかった。

 それでも、明日からまた泊まれる所と働き口を探そうと言い聞かせて、私は眠りについた。

 

 

 

「おい!起きろ!」

 

 そんな怒鳴り声と共に、何かで引っ叩かれて目が覚めた。

 痛む頭を押さえながら周りを見渡すと、大きなフォークを持った人間のおじさんが怒りの形相で私を睨みつけていた。

 

「王妃様に贈られた庭園に勝手に侵入した上に、住み着こうとするとはけしからん!とっとと失せろ!」

「ひっ!す、すみません!」

 

 おじさんの剣幕に震え上がった私は大慌てで荷物をかき集める。

 

「──ったく、てめえみてえな薄汚いゴミが入り込む度に俺の仕事が増えるんだよ。毎日掃除するこっちの身にもなれってんだ。クソが」

 

 ぶつくさ言うおじさんを横目に、荷物を袋に押し込んで厩舎を飛び出した。

 

 厩舎が見えなくなったところでようやく一息ついた私は、下半身裸だったことに気付いてかあっとなった。

 そして私を追い出したおじさんへの怒りが湧き上がった。

 

 言われなくても出て行くつもりだったのに、何も叩き起こして怒鳴ったりしなくたっていいじゃないか。

 それにゴミって何だよ。人をゴミ呼ばわりするとか──あの店主並みに最低だ。

 

 そしてその最低野郎に大人しく追い出されるしかない私自身に嫌気が差す。

 無力で無学で帰る家もない孤児──そんな弱い者に世界は厳しいと改めて思い知らされる。

 

 さっさと仕事を見つけて自立しなければ。

 でないと、いつまでもこんな理不尽な目に遭い続ける。

 

 私は溢れ出た涙を袖で拭って身支度を整え、歩き出した。

 

 

 

 仕事は見つからなかった。

 

 目につく限りの店をあちこち回って店員募集の張り紙を探し、何軒かに入って働きたいと頼み込み、そしてほとんど例外なく叩き出された。

 汚い、獣臭い、泥棒、牝狐──それはもう、様々な罵声を浴びせられた。

 どうやらこの町では私のような教養も技術も愛想もない獣人の少女はどの店でもお呼びじゃないらしかった。

 

 数少ない反応が良い店はどれも娼館を兼ねた酒場だった。

 仕事内容を説明されている途中で全力で謝って逃げ出すことを三回くらい繰り返して、王都の酒場というのは大概酒の後に女を買うようになっているらしいと学んだ。

 

 正直もうそんな酒場でも働いてお金が貰えるならいいかなと思って、心が揺れた。

 でも、島を出る前にお医者様の奥様に言われた「身体を売ることは絶対にするな」という忠告を破ることはできなかった。

 

 病気を貰っても、お店は助けてくれない。

 技術も経験も面白い芸もない──言ってしまえば「つまらない」女は身体を壊せば「売り物にならない」としてあっさり切り捨てられる。

 そう奥様は言っていた。その言葉には実感が込もっていた。

 

 

 

 結局、二日目の夜になっても仕事は見つからず、収穫といえば安く泊まれる宿屋を見つけられたことだけだった。

 そして、その安宿でも私の手持ちのお金は二週間で尽きる。

 

 厩舎で寝泊まりした一日目に比べればマシな状況なのは間違いないのに、焦りはその一日目よりも大きくなっていた。

 

「これが──王都──怖いな」

 

 呟いて夜食のパンを一口かじる。

 故郷では高くてなかなか手が出なかった小麦のパンが、王都では庶民でも普通に買えるくらいありふれている。

 

 そう──王都には物があふれている。

 飢えや不足とは無縁にも思えるほど。

 でも──酷く寒くて、寂しい場所だ。

 

 王都の全てが私を汚くて卑しいものとして拒絶しているかのよう。

 こんなに人がいて、こんなに色んな物があるのに、それらはみんな分厚いガラスの向こう側にあるみたいだ。

 手を伸ばしても届かず、何も掴めない。

 行く先々で罵声と軽蔑を含んだ視線を向けられ、まともな仕事一つにもありつけない。

 

 こんなので本当に王都でやっていけるんだろうか──そんな不安が心の中に満ちていく。

 それでも──

 

「──帰りたく──ない」

 

 両膝に顔を埋める。

 

「──どうしたらいいの──私」

 

 私はベッドの上でうずくまったまま声を殺して泣いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 それから四日が経った。

 

 私は十メートルほど先に佇む洒落た建物を目にして悶々としていた。

 

 貴族様やお金持ちの人たちが集まる煌びやかな高級繁華街の奴隷商館──覚悟を決めて来たはずなのに、いざ目にすると尻込みしてしまう。

 

 身を隠した路地から何度も踏み出しては、通りかかる人や馬車から隠れるように路地に逃げ戻ってしまう。

 

 ここには私を知っている人はいないし、別に私がどこで働こうが、私の勝手だとは分かっている。

 分かっているのだけど──やっぱり奴隷商館に入るのも、入るところを見られるのも怖い。

 

 何度目かの挑戦が失敗して、私は疲れて座り込んでしまった。

 せっかく稼げる仕事にありつけるかもしれない絶好のチャンスなのに──

 

 頭を抱える私は、奴隷商館のことを教えてもらった時のことを思い出す。

 

 

 

 王都に来て六日目、相変わらずまともな仕事は見つからなかった。

 奥様はキツい仕事や汚れ仕事しかないと言っていたけれど、まさにその通りだった。

 そして私はそういう仕事にすら就けなかった。

 でも、身体を売ることもスラムで犯罪ギルドの下っ端になることもできない私には、まともな仕事を探し続けるほかなかった。

 

 そして神様はどこまでも私に冷たかった。

 乗合馬車に乗って郊外の方に向かおうとしていた時、スリに遭って、手持ちのお金が二十ディアまで減ってしまったのだ。

 

 もはや安宿の宿泊代すらもままならなくなった私は郊外の方に行くのを諦め、港で働いていた獣人たちを訪ねた。

 もうそこしか行く所は思いつかなかった。

 

 入り組んだ道に四苦八苦しながら歩いて港に行き、広い港を探し回ってようやく休憩中の獣人たちの一団を見つけて、ここで一緒に働かせてもらえないかと尋ねた。

 

 そしたら──

 

「お前、せっかく見てくれは良いんだからそれを活かせばいいだろうに。そもそも──どういう事情でここに来たのか知らんが、その年で、女で、読み書きと足し算引き算くらいしかできないってんじゃ、娼館か酒場くらいしか働き口はねえぞ?」

 

 リーダーのおっちゃんにそう言われた。

 やはり非力な小娘は港の荷役所にはお呼びじゃないようだった。

 

 でも、こっちだってはいそうですかと引き下がれはしない。

 

「で、でも、身体を売るのは絶対嫌なんです。五年と経たずに病気を貰って死ぬってお医者様の奥様が──お願いします。もうここしか当てがないんです」

 

 改めて頭を下げて頼み込んだけれど、おっちゃんは難しい顔で頭を掻きむしる。

 

「可哀想だが、無理なモンは無理だ。他を当たれ。それで見つからなきゃ大人しく故郷に帰るんだな。まぁ──」

 

 おっちゃんは私の身体を頭の天辺から爪先まで一瞥すると、視線を外して言った。

 

「奴隷商館に自分で身売りして、お貴族様の専属使用人になるって手もあるっちゃあるんだが──望み薄だろうよ」

 

 聞き慣れない言葉に私は思わず反応した。

 

「その、せんぞくしようにんって何です?」

「お貴族様、それも奥様やお嬢様のお側について身の回りを世話するのよ。おはようからおやすみまでな。だが、こいつはツラに恵まれた男の仕事さ。お前じゃなれるかどうかは怪しいとこだぜ?」

「どうしてです?女の人の世話をするなら女の人の方が──」

「分かってねえな。その世話っつーのはこっちの世話も含んでんだよ」

 

 おっちゃんは左手の指で輪っかを作って、右手の人差し指をそこに通して見せた。

 

 その言葉と仕草の意味するところを私は何となく理解できた。

 ──そういうことか。だから女じゃなくて男の仕事なんだ。

 

 理解はできたけれど──あれを「世話」するってちょっと想像できない。

 私にとってはひたすら痛くて怖いだけのあれをわざわざして欲しがる女の人がいるなんて──

 

「俺たち獣人やエルフは人間との間に子供ができないからな。旦那に冷めた奥様の慰み者や耳年増のお嬢様のお相手にもってこいってわけさ。だが、美味しい仕事な分ライバルも多い。その中から選ばれるかどうかは客の好みと気分次第──ほとんど運任せだ。ましてお前は女──選ばれるかどうか以前に目にも留めてもらえんだろうよ。ま、女が好きな方とか物好きな豪商もいるし、もし選ばれたらいい暮らしができるのは確実だから、行ってみるだけ行ってみるのもありかもしれんが」

 

 そしておっちゃんは話は終わりとばかりに手のひらを振って、仕事に行ってしまった。

 

 

 

 で、おっちゃんの言った通り、行くだけ行ってみるかと奴隷商館というのを探して、今いる場所に辿り着いたわけだ。

 

 もうかれこれ数十分くらい遠巻きに見ているばかりでなかなか踏み込めない。

 奴隷商館に身売りして専属使用人になるのは、どう考えても「身体を売る」という禁忌に触れる。

 ただ、一人にしか身体を売らないのなら、病気を貰う心配もないんじゃないか?とも思う。それに現実問題仕事がない。

 だけどやっぱり怖いものは怖い──そんな堂々巡りを続けていた。

 

 でも──結論を出したくなくて、現実から目を背けたくて、出来るだけ行動を先延ばしにしようとする試み──それはいつだって外からやって来た現実に破られるのだ。

 

「ねぇ君」

 

 不意にすぐ後ろで声がした。

 振り返ると、黒い背広を着た金髪の若い男が私に笑顔を向けていた。

 だがその笑顔はどこか凄みがあり、私は恐怖で冷や汗をかいた。

 

「さっきからうちの店を覗き見してたみたいだけど、何の用かな?」

 

 閉じているのか開いているのか分からない細い目には光が感じられなかった。

 嘘を言っても見破られるし、逃げようとしても逃げられない──直感でそう思った私は素直に白状した。

 

「あ、あの──専属使用人になれないかと思って──その──ここに置いて頂きたくて──」

 

 口がうまく動かずにしどろもどろになる私を見て、男はスッと顔を近づけてきた。

 

「ふーん──顔はまあまあ可愛いねえ。──いいだろう、ついてきな。オーナーに話をしよう」

 

 そう言って男は私の手を掴んで歩き出した。

 ぞわりと背中に寒気が走る。でもここで逃げ出せば後はない。

 私はこらえて男について歩いた。

 

 

 

 奴隷商館のオーナーは高級そうな背広を着崩した筋骨隆々とした男性だった。

 毒々しい青緑色の髪に、顔にはケバケバしい化粧をして、細長いパイプを蒸しながらけだるげに椅子の背もたれに寄りかかっている。

 前に立つと、パイプの煙と香水できつい匂いがした。

 

 私を連れてきた男が何事か耳打ちすると、少し驚いた顔をして私をまじまじと見つめた。

 

「あらぁ、紹介なしでたった一人でここに身売りしに来るなんて珍しいこともあるものねェ──いいわ。ちょ〜うど部屋に空きがあった所だしぃ、置いてあげる」

 

 男特有の低い声で、女言葉を使い、妙に間延びした話し方をするせいで、ねっとりと絡みつくような気持ち悪さがあった。

 それでも、ようやく働き口が見つかりそうな安堵が勝り、私は懸命に頭を下げて、お礼を言った。

 

 オーナーはそんな私を見て真顔になり、声色を変えて問いかけてきた。

 

「喜ぶのは早いわ。専属使用人になるならお客様に自分を売り込まないと。専属使用人はお客様の最も近くに侍る従者。いついかなる時もお客様を支え、癒し、この世で最も居心地の良い場所を提供できなくてはいけないわ。さて、貴女にはその可愛い顔とピチピチの身体以外にどんな魅力や特技があるのかしら?上流階級の方と不自由なく会話できる?カードゲームやボードゲームの相手はできる?掃除洗濯に整理整頓、時間の管理は?それからこれは最も大切なことだけど──お客様に恥をかかせないための礼儀作法の心得はあるのかしら?」

 

 オーナーの問いかけに気圧されて、私は返事をするのが遅れた。

 

「何をボサッとしているの?質問が聞き取れなかったのならさっさとそう言いなさい?」

 

 冷たい声に私は頭を叩かれたような感覚に襲われる。

 慌てて私にできることを考え──

 

「ッ!──掃除洗濯なら何とか──」

 

 我ながらその乏しさに呆れる。

 そして専属使用人に求められることの多さに驚く。

 ただ身の回りの世話をするというだけで、そんなに多くの能力を求められるとは思ってもいなかった。

  

 オーナーはため息を吐きつつも、どこか楽しげな表情だった。

 

「まあ、貴女の年じゃそんなものよね。今の貴女じゃ間違いなく誰も買ってはくれない。でも、客を取るための手管はある程度ここで叩き込んであげられる。貴女がそれをモノにできるか次第よ。いいわね?」

 

 こんな私でも、マシになれる。努力次第で道は開ける。そう言われている。

 もう逃げない。覚悟を決めて、専属使用人になる──その決意を込めて、私は返事を返す。

 

「はい!」

 

 オーナーは私の顔を見て満足げな表情になった。

 

「よろしい。歓迎するわ。小狐ちゃん」

 

 

◇◇◇

 

 

 奴隷商館での生活は今までに比べれば天国だった。

 毎日三食ご飯が食べられて、着心地の良い服が着られて、温かいベッドでぐっすり眠ることができた。

 そして初めてゆっくりと「勉強」ができる「余暇」を手にした。

 

 オーナーは私に「とにかく本を読め」と言った。

 良い教育を受けた貴族様や富豪の話し相手ができるくらいの知識と教養がないと、専属使用人なんて務まらない。

 本を読むというのはそれらを得るのに最も効果的な方法だった。

 単語熟語はもちろんのこと、慣用句や諺の類も楽しみながら学べるのだ。

 

 だから私は商館に置いてあった本を片っ端から読み漁った。

 読書経験が庶民学校で読んだ説話くらいしかない私にはどれもこれもが新鮮だった。

 最初のうちはしょっちゅう辞書を引きながら四苦八苦して読んでいたけれど、それ以上に楽しくて、気付けば二ヶ月で十冊も読んでしまっていた。

 

 読書だけじゃなく、立ち方や歩き方、座り方、身だしなみに言葉遣いや手紙の書き方まで勉強することはたくさんあった。

 いざという時には主人を守れるようにと護身術も習わされた。

 全ては良い主人に気に入られて買われるため、私は他の奴隷たちと共に必死で連日の猛特訓に耐えた。

 毎日が忙しかったけれど、それでもちゃんと生活ができて、未来に希望が見えている、それだけで頑張れた。

 

 それにもう私は孤独ではなかった。

 

「ティナ、お疲れ。晩ご飯の時間だぞ」

「あ、ありがとうございます」

 

 肩を小突かれて、聞き慣れた声が聞こえてくると、私は急いでその場を片付けて食堂に向かう準備をする。

 

 私と同じ部屋の【ダフネス】さんとは毎日一緒にご飯を食べる仲だ。

 

 エルフである彼女はもう五十代後半だったけれど、とてもそうは見えないくらい若々しくて、綺麗だった。

 専属使用人としてはかなりのベテランで、今まで五人に買われて全て契約期間満了だったそうだ。

 そして面倒見が良くて、私にも惜しみなく知恵や技術を教えてくれた。

 

 初めて「尊敬」という思いを知った。

 いつか彼女のようになりたい──そう思った。

 

 

◇◇◇

 

 

 奴隷商館に来てから三ヶ月ほど経って、ダフネスさんは富豪の男に買われていった。

 

 女奴隷を求めて来る客は珍しく、チャンスはものすごく少ない。

 ダフネスさんはそのチャンスをこともなげに掴んでみせた。

  

 すごいなぁ、と能天気に感心していた私は無知だった。

 そして私はその無知のツケをすぐに支払うハメになった。

 

 最初はほんの小さなことだった。

 私を見て何かヒソヒソ話す声が聞こえてくるようになった。

 でもその時は気のせいだと思って気にしていなかった。

 ──そのせいで彼らは付け上がった。

 

 ある日、ラウンジで本を読んでいたら、いきなり頭に衝撃が走った。

 

「あ、ごめんなさい」

 

 声がしたので振り返ると、見覚えのある顔があった。

 たしか、私と一緒に訓練を受けていた子だ。名前は【フィオナ】さん。私より先にここに入ってきて、ダフネスさんが買われていった時もお客に呼ばれていた。結局選ばれなかったようだけど。

 そのフィオナさんがお茶とお菓子の載ったプレートを抱えて申し訳なさそうにこちらを見ていた。

 

「痛かったよね?でもわざとじゃないの。ごめんなさい」

 

 そう言ってフィオナさんは足早に歩き去っていく。

 こちらの返事も聞かずに、まくし立ててさっさと行ってしまうその態度にムッとしたけれど、追いかけるのも面倒なので読書に戻った。 

 

 ──この時フィオナさんを捕まえてどやしつけていれば、もう少し違う道もあったかもしれない。

 でもそんなの無意味な仮定だ。

 

 私はその後もフィオナさんや他の女奴隷たちにしょっちゅう()()()物や身体をぶつけられ、勉強している机を揺らされ、わざと聞こえる声で陰口を叩かれた。

 狡猾なことに、彼女たちは私の身体に傷は残さなかった。ただ、心を抉ってくる。

 

 それでも私は言い返さなかった。

 そんなことをしている暇があったら、勉強していた方がいい。一日でも早くダフネスさんみたいに買われてここから離れるために──そう思っていた。

 

 すると彼女たちは手を変えた。

 表向きにこやかに食事や休日の外出に誘ったりしてきて、そのくせ会話の中に遠回しな嫌味を混ぜ込み、買い物の荷物持ちを押し付けてきた。

 

 さすがに腹が立ったけれど、厄介なことに彼女たちは取り巻きを連れていた。

 男の奴隷たちだ。それも複数。喧嘩したって勝ち目はない。

 結局私は店主に玩具にされていた時同様、早く終わってくれと願いながらされるがままにされるほかなかった。

 

 ──やっぱり私は一人じゃ何もできない弱虫のままだ。

 私はこれまで、この奴隷商館においてそれなりの存在感を持つベテランであるダフネスさんに可愛がられることによって、他者の悪意から守られていたのだ。

 

 冷静に考えれば分かるはずだった。

 奴隷商館は皆で仲良く頑張る学校じゃない。少ない専属使用人の立場を巡って競い合い、蹴落とし合う場所なのだ。

 

 そんな所にまやかしの希望に目が眩んで飛び込んでしまった私は愚かだった。

 私の居場所はもはやここにはない。私は追い立てられ、虐げられる家なき子のままだ。

 

 でも、今更出ていけない。

 出て行ったところで他に行く当てはないし、そもそも奴隷商館は私が出ていくことなど許さない。

 

 商館での奴隷の生活費は商館持ちで講習や訓練もタダだけれど、実際にはそららの費用は「ツケ」になっている。

 買われたら、給料の中からやりくりして返済していかなければならないのだ。

 今出て行けばその返済に窮するのが目に見えている。下手をすれば売春宿に売られかねない。

 そんなの絶対に嫌だ。

 

 かくなる上は何が何でも買い手を見つけて合法的にここを出ていくしかない。

 

 

◇◇◇

 

 

 奴隷商館に来てから三年が経った。

 私の買い手は現れなかった。

 何度かチャンスはあったけれど、他の女奴隷みたいに自分をあの手この手で売り込んで媚を売る、ということができなくて選ばれなかった。

 

 私に対する嘲笑と疎みは今や奴隷商館全体に広がっていた。

 フィオナさんも、他の女奴隷も、私より後から入ってきた奴隷たちも次々に買い手がついて出て行くのに、私はずっとここにいる。

 

 買い手がつかない奴隷はただの穀潰しだ。

 幸か不幸か、身につけたスキルは奴隷たちの中でも上位に入っていて、新人教育やら掃除洗濯アイロン掛けといった雑用をこなして何とかクビは免れているけれど、それもいつまで続けられるやら。

 その状況は他の奴隷たちの笑い草になると共に、私自身のやる気も削いでいった。

 

 誰よりも頑張ってきたつもりでいた。

 全てを専属使用人の立場を掴み取るために注ぎ込んで、いじめにも耐えてきた。

 おかげでここに来た時とは比べものにならないくらい、色んな知識と技術が身についた。

 

 でも、無駄だった。

 女奴隷を買いに来る富豪の男たちが求めているのは、頭が良くて仕事ができる女じゃなくて、可愛げがあって自分を過剰なくらいに持ち上げてくれる女だった。

 そして私はそうはなれなかった。

 

 私が三年経っても遂に変えられなかったもの、それは口と表情の正直さだった。

 思ってもいない褒め言葉は浮かんでこず、生じた嫌悪感や不快感はすぐに眉や目元口元に表れてしまう。

 それを隠そうとしても、客は存外容易く見抜く。

 

 ──私は専属使用人というものにハナから向いていなかったのだ。

 

 もう出て行こうかと、私はそう思い始めていた。

 既に能力だけなら貴族の使用人をやれるくらいのものを身につけているのだ。

 三年前に比べれば働き口は格段に見つけやすいだろう。

 

 でも、その考えを実行に移すことはできないでいた。

 三年間も奴隷商館にいたことで積み上がったツケ──もはやいくらになるか、想像もしたくない。

 それに三年前、王都に来たばかりの頃に散々浴びせられた罵声──またそれを浴びせられるのが怖い。

 

 何度出て行こうと思っても、結局私は恐怖に負けて、食事と寝床が保証される奴隷商館にダラダラと居続けている。

 

 ──こんなはずじゃなかったのにな。ダフネスさんみたいに綺麗で賢くて、強くて格好良い大人になりたかったのに。結局私は島にいた頃とちっとも変わらず、弱いままだ。

 

「──大嫌い」

 

 膝に顔を埋めて呟く。

 そうだ。大嫌いだ。厳しい世界も、苦しい人間関係も、弱い私自身も、全部。

 

 

 

 不意に部屋の扉がドンドンと鳴った。

 

「白。ご指名だ。支度しな」

 

 扉の向こうから三年前私をここに連れてきた店員の声がした。

 ティナと呼ばず、「白」と呼ぶところにも私への()()が込もっている。

 

 それでも、久しぶりの指名に胸が高鳴った。

 まだどこかで買い手がつくことを期待していたのかと驚きつつも、さっきまでの陰鬱な気分を振り払い、身支度をする。

 

 止まっていた時間が動き出す。

 今度こそ──今度こそ、選ばれてやる。これは私のラストチャンスだ。

 ここでしくじったら、私はこの奴隷商館を出て行こう。

 

 どこか別の遠い所でまた出発しよう。

 奴隷商館がお金を取り立てに来ても、何とかして逃げ切ってやろう。

 

 そんなことを思いながら私は部屋を出た。

 

 

 

 ──驚いた。

 私のお客は小さな女の子だった。辺境の子爵家の令嬢だそうだ。

 私と同じ絹のような銀髪に、搾りたてのミルクのような白い肌、澄んだ水を湛えたかのような青い瞳──今まで見てきたどんな人間よりも遥かに美しかった。

 もはやこの世のものではないのではないかとすら思えるほどだった。

 

 何度も練習した通りに挨拶と自己紹介をする。

 でも私は完全に女の子に意識を奪われてしまっていた。

 

 そしてそれは女の子の方も同じのようだった。

 私を見るその瞳には好意がありありと見てとれた。

 今までそんな目で見られたことはない。

 

 嬉しさが胸を満たしていく。自然に口角が上がる。

 ああ、そうか。本当に心の底から嬉しかったら、こういうほんわか笑顔だってできるんだな、私。

 

 女の子が手を伸ばす。

 私の尻尾を触りたがっているようだ。

 自然と私は屈んでいた。

 

 触りたいなら好きなだけ触ってくれていい──むしろ触って欲しい。

 これまでのお客にはそんなこと一度だって思わなかったのに、この女の子には全てを許して委ねてしまいたくなる。

 

 女の子はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、その場ですぐに私を買った。

 

「この娘にします!」

 

 女の子の母親が頷いて店員と話を始める。

 すぐに話はまとまったようで、店員が金貨を受け取り、私の首に付いたラベル代わりのチョーカーを外した。

 

 そして私は女の子と母親に連れられて奴隷商館を出た。

 

 久しぶりの外の世界は私には眩しく見えた。

 視界いっぱいに降り注ぐ陽射しが地面と建物に反射して、どこを向いても目がチカチカしてしまう。

 でも、それ以上に清々した解放感が湧き上がってきた。

 

 ふと袖が引っ張られたので下を見ると、女の子が私を物欲しげな目で見上げている。

 何となく、抱っこして欲しがっているのだと分かった。

 

 頭を下げてから彼女の腰と背中に手を回して抱き上げると、思っていたより軽かった。

 女の子が私の首に手を回してくる。

 嬉しいやら心地良いやらで軽く感極まった私はその髪を思わず撫でたくなったけれど、何とか堪えた。

 

 こんな小さな可愛らしい子が私を欲しがるなんて、世の中不思議なことがあるものだ。

 彼女の母親の言葉から察するに、私は彼女へのプレゼントだ。

 娘へのプレゼントに好みの奴隷を買い与えることは、貴族にはよくあることだと聞いているけれど、女奴隷を欲しがる貴族令嬢はなかなかいない。

 

 そのなかなかいない貴族令嬢に運良く巡り会えて、そして即決で買ってもらえたことはもはや奇跡と呼ぶに相応しい。

 この奇跡を私は一生忘れないだろう。

 そして──願わくば私をできるだけ長くお側に置いてくださいますよう。

 

 

◇◇◇

 

 

 私を買ったファイアブランド家は王国の最北端部にある一群の浮島を支配する子爵家だった。

 

 領地は冷涼な気候で、真夏でも王国本土の初夏程度の気温しかなく、そして冬は恐ろしく寒い。

 そのせいで町も村も南の比較的暖かく平坦な場所にしかなく、北の方にはほとんど手付かずの森林と山岳地帯が広がっている。

 良く言えば自然豊かで風光明媚、悪く言えば何もない片田舎なそこで、私はファイアブランド家の長女【エステル】お嬢様の専属使用人として働くことになった。

 

 私に与えられた役目は、お嬢様の身の回りの世話と遊びのお相手、そして悪さをしないよう監視すること。

 お母上の【マドライン】様によると、お嬢様はとかく我儘で屋敷での素行が酷いらしい。

 勝手に屋敷を抜け出したり、物を壊したりは日常茶飯事、酷い時には窓ガラスを割ったりもしたそうだ。

 

 お嬢様と初めて対面した時はとてもそんなことをする方には見えなかったけれど。

 むしろ大人しくて、はにかみ屋なように思えた。

 

 だから私は別に気にせずに「お任せください」と言ってお嬢様の所へと向かった。

 

 ──結論から言うと、私が抱いていたイメージは間違いだった。

 挨拶を済ませたら、早速お嬢様に抱っこをせがまれたので、抱き上げたら──いきなり胸を揉みしだかれ、挙句唇を奪われてベッドに押し倒されてしまったのだ。

 

 そして私はあろうことか五歳の女の子に襲われるという予想だにしない事態を迎えた。

 あまりにも現実離れした出来事に頭がついていかず、私は何もできずにただされるがままにされていた。

 

 でも──今までと一つ、違ったことがあった。

 痛みも恐怖も感じなかったのだ。なぜだか、お嬢様にされるのは嫌じゃなかった。

 肌も、手も、唇も、声も──全てが柔らかく、優しかった。

 身体中から伝わってくる、くすぐったいとも気持ちいいともつかない未知の感覚の奔流で頭が溶けてしまうんじゃないかと思った。

 コトが終わった後もしばらくその感覚が頭から離れなくて、結局私は夜明け近くまで眠れなかった。

 

 

 

 後になって冷静に考えてみると、お嬢様は五歳でなぜ()()()()()()を知っているのだろうか、という極めて深刻な疑問が生じた。

 あれは話に聞いたことを見よう見まねでやったのではなく、明らかに手慣れていた。

 ──あり得ない。

 ──どうなっているの?

 

 どこか怖くなった私は、このことをマドライン様にご報告すべきだろうか、と考えた。

 でもそれをやると私の立場が危うくなると思い、黙っていることにした。

 せっかく専属使用人になれたのに、いきなり解雇されたくはなかった。

 

 しかし──あの夜のことは私の気のせい。ただの夢。そう思い込んで納得しようとした私を嘲笑うかのように、お嬢様の「奇行」はその後もどんどん出てきた。

 

 まず一人称が「俺」だった。

 そして可憐な容姿からは想像もつかない男勝りの粗暴な口調で話される。

 思わずはしたないと注意したけれど、お嬢様は全く改められなかった。

 

 さらに何を思ったのか「力が欲しい」と言ってお父上に一流の剣術指導者を雇って欲しいと直談判なされ、そしてやってきた【ニコラ】という胡散臭い男に師事して毎日過酷な鍛錬をなさっていた。

 その鍛錬は体力作りと称して障害物だらけの長距離を走り、それが終われば基本を何度も繰り返すばかり──どう見ても役に立つとは思えないのに、お嬢様は弱音や文句の一つも言わず、むしろ楽しそうだった。

 

 他にもせっかくの綺麗な長い髪をナイフで乱暴に断髪されたり、家臣の方たちの仕事場に入り浸って面白くもない政務の話をお聞きになったり、法律やら経済の本を熱心にお読みになったり──およそ幼い女の子が取るそれとは程遠い行動を取り続けていた。

 

 正直気味が悪かった。

 何を考えておられるのかさっぱり分からず、遊び相手や監視をするどころか、奇行に振り回されてばかりだったのだから。

 

 それでも私は努めてお嬢様に寄り添い、理解しようと試みた。

 お嬢様は分からない人ではあったけれど、私を頼り、私に甘え、私を必要としてくれていたからだ。

 

 母親を亡くし、最初の職場で虐待され、逃げてきた先の王都で度々罵声と軽蔑の視線を浴びせられ、身売りした奴隷商館で同業たちから疎まれいじめられた私にとって、「必要とされている」という実感はこの上ない喜びであり、安堵だった。

 

 ようやく、私は居ていい場所を見つけられたのだ。それに何の文句がある?

 挫けそうになる度、私は自分自身にそう言い聞かせていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 お嬢様にお仕えし始めてから早くも七年が経った。

 

 奴隷商館で三年間積み重なったツケは清算でき、それなりに貯金もできていた。

 先のことは分からないけれど、差し当たって今はお金に追い立てられずに済んでいる。

 ──自由だ。

 

 窓の外を見ればお嬢様が木剣を振るっている。

 相変わらずお嬢様は一人称が「俺」で、鍛錬にも夢中でいらっしゃる。

 ニコラの()()で口調や振る舞いを取り繕うことは覚えなさったけれど、中身はちっとも変わっておられない。

 

 でも、そんなお嬢様に対する私の気持ちはすっかり変わった。

 

 七年もお仕えしていれば分かることがある。

 お嬢様は私とまるで違うようで、実は似ていらっしゃる。

 あまりに頭の出来が良すぎるからか、はたまた人格と行動が奇異に映るからか──いずれにせよ、お嬢様は孤独だった。

 

 お父上は明らかにお嬢様を疎んで避けておられたし、お母上はお嬢様の行動に度々苦言を呈し、お説教をなさっていた。

 家臣の方々や使用人たちも私の見ていた限りではお嬢様の努力や優秀さを不気味に思いこそすれ、表立って褒めそやすことはなかった。

 

 お嬢様はそんな周りの空気に必死で抗おうとなさっていた。

 他人の思い通りになんかなってたまるか。自分を殺してたまるか。周りがどうだろうが何と言おうが自分の望むように生きるんだ──そんな意志が滲み出ていたし、実際に口に出されたこともあった。

 

 そして、その孤独な戦いのせいでお嬢様は人を信じられなくなっていた。

 なればこそ、お嬢様は幼い頃から自分の身を守るための武力と、自分の思い通りに生きるための権力を追い求めておられたのだ。

 でも──お嬢様とて人の子だ。そんな状態に何年も耐え続けられるわけがない。

 私への態度は、心の奥底では信じられる人を探し求めていることの表れに思えた。

 

 ──その姿がかつて一人ぼっちで安心して暮らせる場所を探し求めていた私と重なって見えた。

 だから私は決めたのだ。

 

 

 何があっても、誰が何と言おうとも、お嬢様の味方でいよう──と。

 

 

 昔、私に信じ、頼れる味方が一人でもいたならば、どれだけ心が楽だっただろう。

 それを思えば、お嬢様にはかつての私のような辛い思いはさせたくない。

 

 それにお嬢様への恩返しという意味もある。

 お嬢様は私に何よりも求めていた「居場所」をくれた。使用人として扱き使いながらも、罵倒や無理強いは決してせず、大事にしてくれた。私の性質も受け入れてくれた。

 ──私を家族の一員のように扱ってくれた。

 

 今なら心の底から思える。

 ここが、私の家。もう私は家のない子供じゃないんだ、って。

 

 

 

 ──そろそろ鍛錬が終わる頃だ。お迎えに行かないと。

 

 メイド服を直して、水を入れた水筒を持ってお庭へと向かう。

 果たして、着いた時にはお嬢様は木剣を下ろして汗を拭っているところだった。

 

 私に気付くと、笑顔になって駆け寄ってくる。

 

「いつも時間ぴったりだな。ティナ」

 

 そう仰るお嬢様にいつも通り水筒をお渡しして、いつもよりもう少し、優しさを込めて、労いの言葉をかける。

 

「はい。お疲れ様でした」

 

 そして私たちは屋敷へと歩く。

 早朝で、屋敷はまだ目覚めたばかり。働いている人はまだほとんどいない。

 玄関に着いても、誰もいない。

 

 だから私たちは二人だけで挨拶を交わす。

 

「ただいま」

 

 今日はお嬢様が先に言った。

 先を越されたと思いつつも、私はとびっきりの笑顔と、この世で一番大好きな言葉で返す。

 

「おかえりなさい」

 



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お姉ちゃん

お気に入り数1000人突破記念に。


 怖い。

 

 眠れないくらいに怖い。

 

 ベッドの下から今にも何かが這い出してくるんじゃないか、窓から今にも何かが入り込んでくるんじゃないか、明るい時よりも大きく見える家具や人形たちが今にも動き出して襲いかかってくるんじゃないか、そして時々聞こえてくる正体不明の音、あれ、こっちに来るんじゃないか──

 

 ファイアブランド家の長男【クライド・フォウ・ファイアブランド】は夜の闇が怖かった。

 それはカーテン越しに月明かりが差し込んでいようが、蝋燭が灯っていようが、何も見えない真っ暗闇だろうが、同じだった。

 昼は楽しい遊び場である自分の部屋が、夜になると恐ろしい牢獄へと変わる。

 

 それでも五歳の頃までは寝付くまで母が一緒にいてくれた。

 母の姿が見えていれば、恐怖も薄らいで、眠りに落ちていけた。

 

 だが、五歳を過ぎると、母はいてくれなくなった。

 夜が怖くてどうするのか、男の子なのだから堪えなさい、強くなりなさい──そんなことまで言ってくるようになった。

 

 それはいつかクライドが成長して貴族社会で生きていくにあたって、侮られたりいいように利用されたりして辛い思いをしないよう、強く堂々とした人間に育てなければ──という親心ゆえだったが、まだ幼いクライドにそれが分かるはずもなし。

 優しかった母の変わりようにクライドは戸惑い、そして嘆いた。

 

 毎晩のように毛布に潜ったり寝返りを打ったり丸まったりを一時間以上も無意味に繰り返してまんじりともできず、いつの間にか疲れて眠っている──人知れず、そんな夜を繰り返して、クライドは苦しんでいた。

 

 それでも努めて弱音を吐かず、泣くな挫けるなと自分に言い聞かせていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 そして冬が来た。

 

 その晩は外の吹雪が鎧戸を揺らし、ガタガタと不気味な音を立てていた。

 

 当然寝られるわけがなく、クライドは湯たんぽを抱いてランプの側で震えていた。

 母と一緒に寝ていた時でさえ怖かった鎧戸の音が、一人でいると余計に恐ろしかった。

 耳を塞いでも音は完全には消えてくれない。

 

 今すぐにでもこの部屋から逃げ出して両親の寝室に行きたかったが、怒られるのも嫌だった。

 クライドが泣き言や弱音を言えば、両親──特に母は泣くなと怒る。

 鎧戸の音が怖いと言って両親の寝室になど行けば、何と言われるか──想像するのも嫌だ。

 

 よしんば怒られるのには目を瞑っても、両親の寝室は遠すぎる。

 向かいには姉の部屋があるが──彼女の部屋には行きづらい。

 

 姉の部屋には行ったことがないし、そもそも姉と話したことも殆どない。

 

 老人のような白い髪に、凍てつく氷河のような青い瞳、怒っているかのようにつり上がった目尻──父にも母にも自分にも、家族親類の誰にも似ていない異質な容姿をしていて、滅多に笑顔を見せないせいで何とも言えない怖さがある。母に小言を言われた日にする不機嫌な顔など殺気すら感じる。

 そしていつも黙々と木剣を振るっているか、本を読んでいて、一緒に遊んでくれたことなど一度もない。

 

 そんな姉の部屋に行くなど、両親の部屋に行く以上に恐ろしい。

 何をされるか分からない。

 

 必死で堪えて眠りに落ちるのを待っていたクライドだったが、不意にランプの火が急激に小さくなったかと思うと、フッと消えてしまった。

 

「ちょ、ちょっと!なんで!ねえ!消えないでよ!」

 

 クライドはランプに縋り付いたが、火は戻らない。

 彼は気付いていなかったが、中の蝋燭が切れてしまったのだ。

 

 辛うじて周りを照らしてくれていたランプの光が失われたことで、部屋は真っ暗闇になった。

 そして直後に鎧戸が一際大きな音を立てた。

 

「ひっ!」

 

 身が竦んで、涙が溢れた。

 

(泣いちゃ駄目だ──泣いちゃ──)

 

 必死で涙を拭うが、止まらない。

 

 もう限界だった。

 クライドは四つん這いのまま手探りで部屋の扉を目指して歩いた。

 こんな所にはいられない。もう怒られるのは我慢して両親の所に行こう──そう思った。

 

 手にドアの感触がすると、立ち上がってノブを探し、そっと回して扉を開ける。

 両親の寝室は屋敷の西翼屋──反対側にある。そこに行くには長い廊下を渡らなければならない。

 

 だが、その廊下は真っ暗闇の部屋と同じかそれ以上に恐ろしい場所だった。

 明かりの消えた廊下は一メートル先もほとんど見えず、すぐに出てきた部屋の扉も見失った。

 

 真っ暗闇の中に、一人──何も見えず、微かに聞こえてくる風の音以外は何も聞こえず、確かなのは床と壁の感触だけ。

 ふとした弾みで方角を見失ったら──永遠にこの真っ暗闇の中を彷徨い続けることになるんじゃないか──そんな恐怖に苛まれながら、クライドは歩いた。

 力を込めて壁を捕まえ、震える足を精一杯動かして、一歩、また一歩──

 

 

 

 不意に何かの足音が聞こえた。

 

 思わず立ち止まり、壁にぴったりくっついてしゃがみ、息を殺す。

 

 だが、こちらに気付かずに去って欲しいという願い虚しく、足音はどんどんこちらに近づいてきた。

 その足音はどうやらクライドが来た方角から聞こえてくるようだった。

 

(──誰?)

 

 足音の主を確かめるには振り返るか、声をかけるしかないが──そのどちらもクライドにはできなかった。

 

 身体が動かない。

 手足も首も口も凍りついたかのようだ。

 

 足音はすぐ後ろにまで迫ってくる。

 

(助けて──!)

 

 目を瞑り、声にならない悲鳴を上げた直後──

 

 

「クライド様?」

 

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 振り返ると、手燭を持った獣人の女が怪訝な表情でこちらを見ている。

 

「あ、あなたは──お姉ちゃんの──」

 

 いつも姉に付き従い、時々飲み物やおやつやタオルを運び、夜には一緒に姉の部屋に入っていくメイド──それを何と言うのか、クライドはまだ知らない。

 分かっているのは彼女が【ティナ】という名前であることだけだ。

 

 そのティナがそっと屈んで目線の高さを合わせて問いかけてくる。

 

「こんな時間にお部屋を出られて──どうかなさいましたか?」

 

 怒るでも嗤うでもなく、何があったか問いかけてくるティナに、クライドは何と言ったらいいのか分からなかった。

 素直に話したものか、それとも何か別の話を振るべきか──しばし迷ったが、結局何も思いつかなかった。

 

「──怖くて」

 

 結局白状した。

 

 ティナが目を見開く。

 

 怒られるかと思って思わず身が竦んだが、次の瞬間にはクライドは柔らかいものに包まれていた。

 

 抱きしめられたのだとすぐに分かった。ついこの間まで母がしてくれていたように。

 姉の側を離れず、姉の世話しかしないと思っていたティナが、母のような優しさを自分に向けてくれているのが不思議だったが、それ以上に嬉しかった。

 安堵も合わさって、クライドは泣き出した。

 

「お労しい。まだこんなにお小さい──甘えたい盛りでしょうに」

 

 ティナはそう言ってクライドの頭を撫でた。

 

 そのままティナに抱きかかえられて寝室に戻った。

 彼女はクライドが眠りに落ちるまで、ベッドに腰掛けていてくれた。

 

 

◇◇◇

 

 

 それ以来、ティナは毎晩クライドの部屋に来てくれた。

 

 寝付くまで一緒にいてくれて、そして色々な話を聞かせてくれた。

 絵本、御伽噺、彼女自身のこと──そして主人である姉のこと。

 

 ティナの話はどれも楽しかったが、特に気になったのは姉の話だった。

 彼女の話で聞いた姉はクライドの知る姉の姿とはだいぶ違っていた。それに姉の話をする時、彼女はいつもどこか楽しげで嬉しそうにしていたのだ。

 

「それでお嬢様ったら、本当に目隠しをしてお稽古をし始めなさったんですよ。最初は危ないから訓練場だけでって話でしたのに、目隠しをしてお庭を走られて──見ているこっちの気も知らないで楽しそうになさって──」

 

 子供ながらにティナが姉のことをとても大切に思っているのが分かった。

 そして自分に優しくしてくれるティナがそんな風に思っているのなら、姉も本当は怖い人ではないのかもしれない、と思った。

 

 そう思って以来、姉のことを見ることが多くなった。

 朝食の時、勉強している時、本を読んでいる時、木剣を振っている時──それとなく姉の行動や表情を観察していた。

 そして確かに表情が緩んだり、笑顔を浮かべたりする瞬間を何度か見た。

 

 相変わらず話しかけることはできなかったが、姉のことを知りたいと思う気持ちは強くなっていった。

 

 そしてある晩、クライドは初めてティナに話をねだる以外の頼み事をした。

 

「ねぇ」

「はい、何でしょうか?」

「お姉ちゃんの修行してるとこ、見てみたい」

 

 姉が毎朝行っているという剣の修行、それを見れば姉の本当の姿が見えるのではないか──そんなことを思ったのだ。

 

 ティナは一瞬目を丸くして、そしてすぐに微笑んで言った。

 

「でしたら、明日は早起きしないといけませんね」

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド領の冬は長く厳しい。

 特に十一月から三月くらいまでは大地は雪と氷に閉ざされ、その上を吹雪が吹き荒れ、あらゆるものを凍てつかせる。

 そんな死の季節に早朝から外に繰り出すなど、傍から見れば酔狂である。

 だがそれを毎朝やっているのが姉だった。

 

「はぁッ!!」

 

 掛け声と共に姉が木剣を振るうと、打たれた丸太がカーンと小気味良い音を立てて宙を舞う。

 丸太はしばらく上昇した後、一瞬静止し、そしてまた姉目掛けてすっ飛んでいく。ロープで大きな木に吊るされていて、振り子の要領で同じ位置に戻っていくようになっているのだ。

 

「うむ、動きが良くなっておりますぞ!今日からもう一セット増やしましょう!」

 

 姉の師匠が手を打って指示を出す。

 

「はい!」

 

 姉は師匠の指示に力強く答え、直後に丸太を弾き返す。

 早朝の銀世界の中、防寒着もなしにひたすらに木剣を振るう彼女の姿はさながら雪の精のようだ。

 

 その姿を見てクライドはただただ圧倒されていた。

 

 丸太は見るからに重そうな大きいもので、それを吊るすロープも人の腕くらいはあろうかという太さである。

 それを木剣の一撃でブランコのように高く舞い上がらせるなど、一体どれだけの力が込もっているのか。

 しかも姉は目隠しをしてそれをやってのけていた。

 

 自分では絶対にできそうにない。

 姉と違って何重にも厚着しているのに、まだ寒くて松明の火から離れられないでいるし、本より重いものを持ったことがなく、力は弱い。目隠しなんてされたら一歩も動けないだろう。

 

(すごい──)

 

 姉の集中を乱さないために声を出すことは禁じられていたので、心の中で感嘆する。

 

 一緒に来たティナの方を見れば、「ほらね」というような笑みを浮かべていた。

 

 

 

 朝の鍛錬が終わった。

 

 師匠が木剣を受け取って一足先に屋敷へと戻っていく。

 

 姉は目隠しをしたままクライドとティナがいる所に歩いてきた。

 ティナがタオルを差し出すと、姉は目隠しを取って顔の汗を拭く。

 

「今日もお疲れ様でした」

「ああ。ありがとうな」

 

 ティナにお礼を言う姉は今まで見たことのない優しい笑顔だった。

 

 ──その笑顔が消えないうちに声を掛けなければ、となぜだか強く思った。

 

「お、お姉ちゃん!」

 

 思わず口を開いたら思ったよりも大きな声が出てしまった。

 

 ティナの耳がビクッと動く。

 恥ずかしさと驚かせてしまって申し訳ない気持ちとで、顔が熱くなるのを感じる。

 

 そして姉は笑顔を消し、「なんでお前がここにいるんだ?」とでも言いたげな表情でこちらを見下ろしていた。

 思わずたじろいだが、隣にはティナがいる。彼女の前で逃げたくはなかった。

 

「お、おつかれさま。すごかったよ!さっきの!」

 

 精一杯の勇気で、姉に称賛の言葉を掛けた。ティナが言っていた労いの言葉を添えて。

 

 すると姉は少し目を見開いた。そして、その表情がほんの少し優しくなったように見えた。

 ティナに向けていたような笑顔ではないが、それでも今まで感じたような刺々しさはなかった。

 

「──そうか。こんな朝にわざわざ見に来るとは、お前も物好きだな」

 

 姉は淡々とそう言うと、さっさと屋敷へ向かって歩き出す。

 

「さっさと帰るぞ。突っ立ってると寒いだろうが」

 

 背中越しにそう言ってくる姉にティナは肩掛けを渡しながら小言を言っていた。

 

「もう、お嬢様ったら。もう少し別の言い方がありませんか?」

「どうせただの珍しいもの見たさだろ。それに、子供に褒められたくらいで喜んでいられるか。まだまだ先は険しいんだ」

「そんなこと言わないであげてください。クライド様、今朝のお嬢様の鍛錬を見に来るのすごく楽しみになさっていたんですよ。そのためにわざわざいつもより一時間も早くに起きて──」

「あー分かった分かった。それ以上はいい」

 

 姉はティナを遮ると、クライドの方へと向き直った。

 その顔はどこか困っているような、嬉しがっているような、見たことのない表情だった。

 

「さっきは悪かった。その──ありがとうな。また見たくなったら、いつでも見に来ていいぞ」

 

 姉の言葉にクライドは大きく頷いた。

 

「うん!」

 

 あんな凄いものが見られるなら毎日だって早起きして見に行きたい──そう思った。

 

 ──瞬間くしゃみが出る。

 

「っくしゅん!」

 

 水っぽい鼻水が垂れて、雪の上に落ちる。

 

「ああほらやっぱり寒いんじゃないか。さっさと帰るぞ。ティナ!」

 

 姉が合図すると、ティナがクライドを抱き上げて走り出す。

 

 ティナの腕の中で、クライドは何度もくしゃみをした。

 

 屋敷の中に戻っても、くしゃみは止まらなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

「──あつい」

 

 毛布を二枚重ねられたベッドの中でクライドは呻いた。

 ベッドの中は暑く、そして身体は熱い。そればかりか、唾を飲み込む度に喉に痛みが走り、頭も内側からガンガンと叩かれているかのように痛い。

 

 ──クライドは風邪を引いてしまった。

 

「具合はどうだ?」

 

 姉が顔を覗き込んでくる。

 その隣には落ち込んだ様子のティナもいた。

 

「──頭痛い」

 

 姉に答えると、ティナが謝ってくる。

 

「申し訳ございません。私の用意が足りなかったばかりに風邪を引かせてしまって──」

「ううん。ティナは悪くないよ。僕が──寒がりで弱いから──っしゅん!」

 

 言い終わらないうちにまたくしゃみが出た。

 ティナが差し出したハンカチで鼻をかむ。

 

 入れ違いに姉がカップを差し出してきた。

 

「飲め。身体が温まる」

 

 カップの中身は紅茶だった。

 飲んでみると、ぴりりとした辛さと優しい甘さが口の中に広がった。

 知らない味に思わずクライドは尋ねた。

 

「これ何?」

「ジンジャーシロップ入りのお茶だ。サイラスが淹れてくれた」

 

 姉の口から出た知らない言葉に首を傾げるが、ティナが教えてくれた。

 

「生姜っていうお薬と一緒に煮たお砂糖のことですよ。風邪には良く効くんだそうです」

 

 その言葉通り、喉の痛みが和らぎ、身体が芯から熱くなってくる。

 

「ほんとだ。ね、これなら明日には治るかな?またお姉ちゃんの修行してるとこ見に行きたい」

 

 そう言うと、姉とティナは一瞬顔を見合わせる。

 そしてティナはかぶりを振って残酷な事実を告げる。

 

「残念ですがクライド様、それはできません」

「え?どうして?」

「まず風邪は明日明後日には治りません。それに──今後私がクライド様をお嬢様の鍛錬の場にお連れすることはできません。奥様からの言いつけです」

 

 奥様──つまり母が姉の修行を見に行くことを禁じたことにクライドは驚いた。

 

「お母さんが?なんで──どうして?」

「私が誰のお許しも得ないままクライド様を朝から外に連れ出し、その上風邪を引かせてしまったからです。本来ならば私は追い出されても仕方ありません。お嬢様が庇ってくださり、そうはならずに済みましたが、今後はクライド様を奥様のお許しなく連れ出さないように、と厳に命じられました。ですから、もうお嬢様の鍛錬の場にお連れすることはできません」

 

 ティナの説明はほとんど頭に入って来なかった。

 分かったのは、風邪が治っても姉の修行しているところを見に行くことはもうできないということだけだ。

 楽しみが取り上げられた悲しみと、取り上げた母への怒りが混じりあって、胸が苦しくなる。

 涙を浮かべて、クライドは抵抗した。

 

「そんな──いやだよそんなの。またあのすごいの見たいよ!」

「申し訳ありません。奥様の言いつけには逆らえません」

「言ったもん!お姉ちゃんがいつでも見に来ていいって言ったもん!」

 

 かぶりを振って駄々をこねるクライドだが、直後に姉の怒声が響く。

 

「我儘を言うな!」

 

 初めて聞いた姉の怒声にクライドは黙ってしまう。

 そればかりか、姉はかつてないほど怖い顔をしていた。元の顔立ちがキツめな分、母すら上回る迫力がある。

 

「母さんはお前が心配なんだよ。お前が元気でいるのが何よりも大事なんだよ。お前は私と違ってまだ小さいし、身体が弱いから今みたいにすぐ病気になる。それなのにまた寒い朝から外に出るとか、許されるわけないだろうが。言いつけを破ってお前がまた風邪引いたり怪我したり、死んだりなんかしたら、母さんも父さんもどれだけ悲しんで大騒ぎするか──それにティナと私も怒られるんだよ。さっきだってこっ酷く怒られたしな。次は修行自体やめさせられるかもしれない。お前が痛い思いするだけじゃ済まないんだ」

 

 まくし立てた姉は一息吐いてから、少しだけ表情を和らげて言った。

 

「だから言いつけはちゃんと守れ。また見に来たいなら、もっと丈夫になってからにしろ。朝から外に出ても風邪引かないくらい丈夫になったら、母さんだって文句は言わないだろ」

 

 そう言って姉は屈んでクライドの頭を撫でた。

 

「いいか。約束だからな」

 

 間近で目を合わせてそう言われて、逆らう気が失せた。

 

「う、うん。分かった──ごめんなさい」

「分かればいい。ゆっくり寝てろ」

 

 姉は頷いてクライドの毛布をかけ直した。

 

 そしてクライドが寝付くまでベッドの側にいてくれた。

 

 

◇◇◇

 

 

 月日は流れ、クライドは七歳になった。

 二年前に比べて身体は少し大きくなったものの、まだ身体は弱く、しょっちゅうお腹を壊したり、鼻風邪を引いたりする。

 姉が言ったような冬の朝から外に出ても風邪を引かない丈夫な身体にはまだ程遠い。

 

 でも、身体の大きさ以外にも変わったことはある。

 

「やぁっ!」

 

 掛け声と共に木剣を振りおろすと、練習用の人形の頭に食い込む。

 

「まだです。もっと踏み込んで。鍔で斬るのです。さあもう一度」

「はい!やぁっ!」

 

 師匠のティレットが駄目出ししてくるが、クライドは挫けずにもう一度木剣を振るう。

 

 クライドは体力をつけるために剣術を習い始めていた。

 指導しているのは、姉と違って外から来た一流指導者ではなく、屋敷の番兵を束ねる騎士ティレットだが、彼はファイアブランド家の家臣の中では最も剣の腕が立つベテランだ。それに姉の稽古相手も務めているため、クライドも文句はなかった。

 

 二年前のあの日以来、姉の鍛錬は見に行けていない。

 でも、大きくなって丈夫な身体になるまで待ってはいられなかった。

 身体を鍛えて、一日でも早く丈夫な身体を手に入れて、またあの凄い鍛錬を見に行きたい──そう思ったのだ。

 

 そして木剣を振るうようになった今、クライドにはもう一つ目標ができた。

 

 いつか姉と一緒に鍛錬することだ。

 姉は十二歳になった今でも鍛錬に夢中で、毎朝欠かさず木剣を振るっている。

 そして相変わらずクライドとは遊んでくれないし、話すことも少ない。

 でも、姉が夢中になっている剣術の鍛錬を自分が一緒にやれたなら──一緒に剣を振って、互いに剣を打ち合わせて稽古ができたら──それはとても楽しい時間になる気がする。

 何年かかるか分からないが、いつか絶対に叶えたい。

 

(待っててね。お姉ちゃん)

 

 剣を振るう姉の姿と、鍛錬が終わった後の笑顔を思い浮かべる。

 姉のことを思い浮かべると、力が湧き上がる。何だってできる気がする。

 

 それが憧れからなのか、それとも別の想いからなのか──今はまだ誰にも分からない。




よく知らなかった人の思わぬ一面を見たら、意識するようになっちゃうよね。


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第二章
帰還


 案内人は激怒した。

 必ずや、かの忌々しい女を地獄に叩き落とさねばならぬと決意した。

 案内人には人間の心が分からぬ。案内人は悪魔や邪神の類である。

 人を陥れ、その負の感情を貪って生きてきた。

 だが、正の感情──こと感謝の気持ちを向けられるのは極めて苦痛なのであった。

 

 

 

 今日未明、案内人はかの女──【エステル・フォウ・ファイアブランド】からの感謝によって痛む身体に鞭打って海を越え、オフリー伯爵領までやってきた。

 

 この地を治めるオフリー伯爵の跡取りには正妻がなかった。

 

 伯爵家の跡取りともなれば候補がいくらでもいそうなものだが、これが見つからない。

 その理由はいくつもある。

 

 まず第一に本人が貴族の血を引いていない上に、殆ど魅力がない。

 甘やかされて育ったのが丸分かりの性格の悪さ、その性格の悪さが滲み出た不健康そうな容貌、でっぷりと太った身体。

 

 第二に家にも魅力がない。それどころか、鼻つまみ者にされてすらいる。

 元々男爵家だったのが商人に乗っ取られた──つまるところ豪商が「爵位を買う」という誇りの欠片もないやり方で貴族の地位を手にしたからである。

 そして資金力に物を言わせて勢力を伸ばし、大物貴族に取り入って推薦を受けることで伯爵にまで成り上がった。その過程で様々な悪事にも手を染めていた。

 

 真っ当な貴族からすれば憤慨ものである。

 手柄を立てたわけでも、冒険者として成功したわけでもない者が貴族になり、金の力で勢力を伸ばすなど、自分たちのアイデンティティを根底から揺るがしかねない大問題である。

 

 一方でオフリー伯爵家からすれば勢力を伸ばしはしたが、現当主も跡取りも貴族の血を引いていない上、後ろ盾頼みの不安定な立場を強いられているのが実情だ。

 このような状況に甘んじていてはオフリー伯爵家に未来はない。

 貴族社会で確固たる地位を築くためには家格に見合った身分の貴族令嬢を跡取りの正妻に迎え、貴族の血を取り込む必要があったのだ。

 

 だが、貴族社会で嫌われているせいで縁談の一つも舞い込んで来ない。

 こちらから持ちかければ拒否される。

 

 そこで正攻法は諦めてあれこれ策を巡らせていた。

 その一つが落ち目の家に援助して恩を売り、その家の娘をオフリー家に嫁がせるというもので、選ばれた家がファイアブランド家、選ばれた娘がエステルだったというわけである。

 子爵家で血筋は申し分なく、容姿も整っていて将来が期待できる娘だったため、オフリー家は大いに期待していた。

 

 縁談を持ちかけられたファイアブランド家当主、【テレンス・フォウ・ファイアブランド】は喜んで承諾し、必ずや良い返事をお持ちする、と請け合った。

 だが、縁談を彼女が承諾したという知らせは一向にもたらされなかった。

 それどころか拒否したとも言われず、一ヶ月近く音沙汰がない状態だ。

 

「どうなっておるのだ──」 

 

 オフリー伯爵家現当主、【ウェザビー・フォウ・オフリー】は毒づいた。

 

 既にファイアブランド家には何通も書状を送っているにも関わらず、返事は来ない。

 

 ウェザビーの背後に立つ案内人はほくそ笑んだ。

 

「これはチャンスだ。エステルが領地に戻ってきた時には既に領地は蹂躙された後。帰る場所がなくなるのがどんな絶望か知るがいい!エステル!」

 

 オフリー家を唆してファイアブランド領に攻め込ませ、帰ってきたエステルに踏みにじられ、略奪され尽くした領地を見せて絶望に叩き込む──それが案内人の計画だった。

 

 不意に胸がズキリと痛み、案内人は思わずうずくまる。

 

「ぐっ!な、何事──?」

 

 胸を押さえながら映像を呼び出すと、どこかの浮島にいるエステルが映し出された。

 

「な!?くそ、急がねば──」

 

 

◇◇◇

 

 

 いやはやセルカの有能さには驚かされる。

 目の前に積み上げられた財宝を見て俺はホクホク顔である。

 

 最後に残ったミッション──ファイアブランド家の財政を再建できるほどの金を用意する──を達成するため、セルカと共にどこかのダンジョンにでも潜ろうかと思っていた俺だが、セルカが財宝を積んだ沈没船を発見したのだ。

 

 どうやったのかと訊いたら、タネは俺が使っている空間把握の上位互換だった。

 千メートル上空から海底の様子が分かる上、対象の構成物質が何であるかまで正確に分かると知って、俺は呆気に取られた。

 俺の空間把握の探知範囲は精々半径数百メートル程度で、距離が離れれば精度は落ちてしまう。地形や天候、生物の存在は分かっても物質の特定はできないのだ。

 やはり【魔装】あるいは【魔法生物】と言うからには人間よりも強力な魔法が使えるようだ。人間にとってのコンピューターみたいなものなのだろう。

 能力差がありすぎて却って敗北感は湧かない。

 

 それはさておき、俺は近くにあった小さな浮島に飛行船を停めて鎧に乗り込み、沈没船の所に潜った。

 沈没船はあちこちに大穴が空き、所々から積み込んだ財宝が飛び出して海底に転がっていたが、それでも原型を保っていた。

 

 見たところ、ホルファート王国で見かける飛行船とはかけ離れた姿をしていた。

 二又に分かれた船首と斜め前方向に伸びた翼、船尾にある球形の推進装置らしきもの──人型をしているように見えた。

 もちろんそう見えるだけで、本当に人型をモチーフにしたのかは分からないが、そうとしか思えないほど奇抜な形だ。

 

 セルカによれば、少なくとも旧文明時代の船ではないとのことだった。

 

 ──何となくだが、この世界の姿が見えてきたように思う。

 

 ライチェスとセルカが言っていたことを纏めると、旧文明時代と呼ばれる大昔には「日本」と呼ばれた国が存在していた──つまり俺の前世とよく似た世界だった。

 それが旧人類と新人類との戦争で文明は崩壊し、大地が空中に浮かぶ摩訶不思議な世界に変わり、その後いくつかの文明が興亡を繰り返した末に今の世界になった──というところだろうか。

 

 そしてあの沈没船は旧文明時代と今の文明の間に存在した別の文明のものと考えるのが妥当なところだ。

 

 ──そんな風にらしくもなく考え込んでしまったのはライチェスに言われた言葉のせいだろう。

 俺が滅んだはずの旧人類の遺伝子を持っている──ライチェスはそう言った。

 転生者だからか?だが魂が日本人でもそれが肉体に影響するものか?

 

 ──止そう。考えても答えは出ない。

 

 それよりも財宝だ。

 あまりにも多くて鎧で引き揚げるには何往復もしなければならず、十往復を超えたあたりでセルカに押し付けた。

 財宝の山は既に俺たちの背丈を超える高さにまで積み上がっている。

 

「これ、どれくらいの価値になるかな?」

 

 目利きでも何でもない俺にはこの財宝の正確な価値は分からない。

 貴金属で出来ているのは分かるし、ちらほら宝石が嵌め込まれたものもあるからかなりの額になるのは予想できるが、ファイアブランド家の財政再建に足りるかどうかは未知数だ。

 

「分かりませんが──ひょっとしたら浮島が買えるかもしれませんね」

「冒険者ギルドが査定してくれるとは思いますが──いつの時代のものか見当も付きません」

 

 ティナが推測を延べ、アーヴリルが小さな金の杯を手に取って呟いた。

 

 杯に施された菱形を幾重にも重ねたような奇怪な紋様はおよそホルファート王国製の食器の紋様とは似ても似つかない。

 その杯だけでなく、ほかの財宝にも同じような紋様が施されていた。

 ある種の様式なのだろうか?

 

 いつの間にか海から上がってきていたセルカがまた財宝を積み上げて言った。

 

『貴女たちの国の物価は知らないけれど、その財宝、かなりの貴重品よ。高純度の金や白金がふんだんに使われているし、その紋様の細工だって普通の道具じゃできないわ。だからとっても高く売れると思うわよ。それとね──』

 

 セルカは言葉を区切り、鎧の背中に背負っていたものを降ろした。

 

『この剣は船の周りに散らばって落ちていたのだけれど、これはそこの財宝よりもっと凄いわよ。最強クラスの魔導金属で出来ているわ』

 

 セルカが取ってきた大小六本の剣は漆黒の美しい刀身をしていた。

 何というか、今まで見てきた鎧用の剣とは纏っているオーラが違う。

 触ってみると、微かにだが、確かな魔力反応を感じた。何らかの術式が掛けられているようだ。

 

「これいいな。今度からこいつを使うか」

 

 鎧に乗って漆黒の剣を振るう様を想像すると、ワクワクする。

 

『飛行船に積み込めるのはこれくらいかしらね。これ以上はスペースがなくなるわ』

「まあ、これだけあれば親父の度肝を抜くには十分だな。いずれ落ち着いたらまた来るか」

 

 そして俺たちは引き揚げられた財宝を飛行船に積み込む作業に取り掛かるのだった。

 

 

◇◇◇

 

 

「あの使い魔、本当に大丈夫なのでしょうか?そもそもあれは何者ですか?」

 

 財宝を積み込んで出発してからしばらく経った頃にブリッジでアーヴリルが尋ねてきた。

 

 アーヴリルにはセルカのことをダンジョンに封印されていたスピリット(精霊)だと説明している。

 セルカの封印を解き、使い魔にしたことでダンジョンを脱出した、という説明にアーヴリルは半信半疑だった。

 そしてセルカの能力を見て警戒心を増しているようだ。

 

 セルカとライチェスの見た目が似ているのも原因の一つだろう。

 白い球体に一つ目。

 もちろんボディの質感は違うし、一つ目もライチェスのそれと違ってセルカのは人間の目と同じ見た目をしている。

 ──どっちみち不気味に見えるのは否めないが。

 そのせいでアーヴリルはセルカとライチェスが同族なのではないか、反乱を起こすのではないか──そう疑っているようだ。

 

「さあな。とんでもない大昔の存在だってことしか分からん。でもお前を捕まえて拷問した奴の仲間じゃないのは確かだ。ダンジョンが消えて、お前を拷問した奴もいなくなった今は実害ねえよ」

 

 そう言ってやるとアーヴリルは黙ったが、キッとセルカの方を睨みつけたのを俺は見逃さなかった。

 やはり頭では理解できても心では納得できないようだ。

 こればっかりは仕方ないかとも思う。

 一度根付いた不信感は並大抵のことでは消えないのだから。

 俺だって心の奥底では人間を信用してはいない。

 

 

 

 強すぎる力には誰しもが恐怖する。

 

 アーヴリルはそれを身をもって知った。

 既存のサルベージ技術ではとても引き揚げられないような深さにあった財宝を難なく見つけて引き揚げたセルカにアーヴリルは恐怖心を抱いていた。

 

 エステルの話によれば、あの絶望的な状況から自分たちを救出したのもセルカだという。

 アーヴリルでは手も足も出ず、モンスターの大群を一人で屠れるエステルですら明確に恐れていた「ロボット」を一方的に次々に斬り捨てた──エステルはそれをどこかうっとりと興奮気味に話してくれたが、アーヴリルは「そんな想像もつかない力の持ち主がもしエステルに牙を剥いたら」という悪い想像が湧き上がって止められない。

 

 自分や世界のことではなく、真っ先にエステルの心配をしているのは彼女がセルカに一番近いところにいるから──というだけではなかった。

 エステルに怪物の追手が迫っていると分かった時に、自分の心の闇を知ってしまったからだ。

 

 あの時──エステルが捕まってしまえばいいと思った。

 自分がこんな目に遭っているのは、エステルが女三人だけでのダンジョン攻略を強行したからだ、あいつがこんな無謀なことしなければ。否、そもそも家出なんてせずに大人しく嫁に行っておけば良かったんだ。だから──捕まって自分と同じ苦しみを味わえばいい。

 そう、思ってしまった。

 

 エステルについて行ったのは自分自身の意志だったのに。

 エステルが家出してアクロイド男爵領を訪れ、リックを斬殺したおかげで妹の仇討ちが果たされ、本来であればそれを果たした後に裁かれて処刑されていたであろう自分の運命が良い方向に変わったというのに。

 

 私はなんと身勝手で、恩知らずなことを!

 

 そんな罪悪感がアーヴリルにのしかかり、自己嫌悪を起こさせていた。

 

 恩人である以前に、理不尽な運命に必死で抗う一人の健気な少女であるエステルに対して身勝手な恨みを抱くなんて──騎士失格だ。

 

 そう思い込むアーヴリルは罪悪感を紛らわせる代償行為として、エステルのことを以前にも増して心配するようになっていた。

 本質的にはエステルのためというより、自分を許せる理由を作るため──ただのポーズなのだが、彼女自身それに気付いてはいなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド家の屋敷。

 

 その執務室でテレンスは真っ青になっていた。

 

「なん──だと?」

 

 額には大粒の冷や汗が浮かび、呼吸は浅く、心臓の鼓動は早鐘のようだった。

 

 原因は彼が握りしめている書状にある。

 要約すると、「二週間以内に件の取引を履行しなければ戦争も辞さない」という内容だった。

 

 二週間以内にエステルの身柄をオフリー家に引き渡せる目処など立っていない。

 エステルは未だに戻って来ず、その消息は知れない。

 

「時間稼ぎもここまでか──」

 

 エステルが家出してから、あと数日で一ヶ月になる。

 その間は何とか誤魔化し、もし一ヶ月経っても戻って来なければ死んだことにしようと考えていたテレンスだが、オフリー家の書状を見る限り、その言い訳が通用するかは怪しい。

 

 偽者を身代わりに差し出すという考えが浮かんだが、すぐに否定する。

 身上書の交換でエステルの顔は知られてしまっている。多少似た偽者を用意したところですぐに面が割れるに違いないし、そうなればオフリー家の報復待ったなしである。そもそも偽者を用意するあてもない。

 

 かといって黙殺することもできない。

 書状の黙殺──爵位や宮廷階位が上の相手からの書状であれば尚更──はかなりの無礼に当たり、そのような無礼を働かれてはオフリー家は黙っていない。

 貴族──彼方は当主も跡取りも貴族の血を引いていない名ばかりの伯爵家ではあるが──は常に面子商売だからである。

 この書状を黙殺すれば、オフリー家は面子を守るために武力を行使してくる──戦争になると考えて良い。

 

 そして戦争になればまず勝ち目はない。

 

 ファイアブランド家の艦隊戦力は全部で三十隻ほどあるが、実際に動かせるのは二十隻ほどだ。しかもその多くはフリゲートやコルベットと呼ばれる護衛用の小型艦であり、艦対艦の戦闘が行える戦艦となると四隻しかない。

 

 対してオフリー家は主力艦と呼ばれる二百メートルクラスの大型戦艦だけで八隻も保有しており、それ以下の中・小型艦ともなれば五十隻近く、補給船の役割を果たす武装商船ともなれば百隻近くに上る。

 オフリー家が実際に攻めてくるなら主力艦を旗艦にして十隻乃至は二十隻の艦隊と補給船団を合わせて三十隻程度の戦力で来寇すると予想される。

 

 もし奇跡が起こって撃退できたとしても、それで終わりではない。

 

 戦力を増強して再び攻めてくるだろうし、万難排してそれすら切り抜けたとしても、より強力な敵が現れるだけだ。

 そもそも商人に乗っ取られ、悪どい事業に手を染めて成り上がったオフリー家がなぜ嫌われ疎まれながらものさばっていられるのか──強力な後ろ盾があるからに他ならない。

 それも宮廷政治を動かせる大物貴族──その気になればファイアブランド家など簡単に捻り潰して消し去れるほどの権力者。

 

 今更のようにそんな危険な相手と取引したことを後悔するテレンスだったが、詰んでいる状況は何も変わらない。

 

 取引を履行できなければ戦争。

 なかったことにしてくれと言っても戦争。

 代わりの()()()を用意──できない。

 そして戦争になれば──

 まともにぶつかれば敗北して領地は蹂躙される。

 降伏しても拷問か、処刑か。妻【マドライン】と息子【クライド】の命も危うい。

 逃げれば領地は蹂躙され、領主の地位を失い、一家揃って露頭に迷う。

 勝てたとしてもキリがない戦いの泥沼に引きずり込まれる。

 

 ──悪夢だ。

 

「どうすれば良い──あと──二週間だと──何が──」

 

 恐怖と焦りで頭が混乱するテレンスに更なる凶報がもたらされた。

 

「テレンス様!港島より緊急電!空賊が出現しました!既に上陸を開始!交戦が始まっています!」

 

 オフリー家の侵略に怯える中で空賊まで出るとは、弱り目に祟り目だ。

 頭を抱えるテレンスは今すぐに何もかも放り出して逃げてしまいたい衝動に駆られた。

 

 

 

 翌日。

 

 屋敷に用意された会議室にファイアブランド家の家臣たちが集まっていた。

 長テーブルの上座にテレンスが座り、左には役人、右には騎士たちの代表が座る。

 

「──状況は?」

 

 テレンスの問いかけに騎士たちは厳しい顔をする。

 彼らのその表情が戦況がよろしくないことを物語っていた。

 

「港島との連絡は完全に途絶。既に砦も落ちたものと思われます」

「援軍はどうなっている?」

「手酷くやられました。奴ら只者ではないようです。鎧の性能では此方と同等、技量は一部上回っております。恐らくですが、傭兵稼業も行なっている奴らかと」

「先日の()()で熟練が動けなくなっているのも痛いですね。艦隊はともかく、鎧での戦いの指揮を執れる人材が現時点ではいません」

 

 港島と呼ばれる貿易港がある浮島を占領されたファイアブランド家は、直ちに私設軍を動員して奪還にかかった。

 だがあろうことか、空賊共は逃げるどころか、鎧を出して応戦してきたのである。

 そしてファイアブランド軍は空賊を撃退するはずが、逆に空賊に撃退されるという事態に陥っていた。

 

「なぜ逃げない?盗る物を盗ったらすぐに逃げるのが空賊であろうに──」

 

 空賊共の空賊らしからぬ振る舞いに誰かが疑問を吐露した。

 それはこの場にいる誰しもが思っていることではあったが、その答えを悠長に考えている暇はテレンスたちにはなかった。

 

「それはこの際問題ではありますまい。このままでは商船が入港できず、物資が入ってこなくなる。そうなれば我々は戦わずして負けることになります。一刻も早く再度の攻勢を掛け、奪還すべきです」

「簡単に言われても困りますな。消耗した部隊の再編もまだ完了していませんし、補給もまだ──」

「そもそも鎧部隊だけで挑んだのが間違いなのです。テレンス様、ここは艦隊を動かすべきです。出し惜しみしていては徒らに消耗を重ねるだけ。どうか【アリージェント】の出撃許可を!」

「空賊相手に虎の子の飛行戦艦を動かすと?危険過ぎる!万が一にも撃沈されたら、オフリー家に攻められた時上陸を阻止できなくなるぞ!」

「今必要なのは空賊への対処だ!」

「王国への連絡は?」

「通信は繋がりません。伝令を出すほかありませんが、今すぐコルベットを出発させても最寄りの正規軍基地まで二日はかかる見込みです」

「二日だと?そのロスは大きすぎるぞ」

 

 喧々諤々の論争が巻き起こるが、テレンスは収拾をつけかねていた。

 

 そして一人の役人の提案により、場はさらに騒がしさを増すことになる。

 

「領主様、オフリー家との戦争に備えて兵力を温存しておく必要がある以上、ここは空賊と交渉して穏便に済ませるべきではないでしょうか?」

 

 その言葉は興奮状態の騎士たちを一気に憤激の坩堝に叩き込むに十分過ぎる威力があった。

 

「交渉だと!?相手は空賊だ!卑しいならず者だぞ!」

「あり得ぬ!恥を知れ!」

「すぐに攻勢を掛けて殲滅するべきだ!」

 

 怒号を上げる騎士たちに対して役人は冷めた表情で反論する。

 

「貴方方のその判断で一体何人の兵士が死んで、どれだけの費用がかかるか、考えたことはお有りなのですか?我々には空賊相手に失って良い命などないのです。港島の奪回には交戦よりも交渉が有効と判断します」

 

 騎士たちの反応は二つに分かれた。

 怒号を上げる者と役人にも一理あると思って考え込む者。

 

 そして艦隊指揮官の騎士が再び飛行戦艦を出すことを提言する。

 

「戦艦を投入して迅速に片を付ければ犠牲も費用も最も少なくなると考えます。空賊が交渉に乗るかも、内容を履行するかも定かではありません。それよりも戦艦の火力を以て確実に殲滅するのが最善手でしょう」

 

 しかし、役人の方も負けてはいない。

 その試算は甘いと一蹴し、飛行船の数と艦級、稼働率を考えれば艦隊と空賊の戦力は良くて拮抗、下手をすればこちらが不利であり、相当な犠牲を覚悟しなければならないと指摘した。

 その上で改めて空賊相手に戦力を消耗することは避けるべきだと交渉の必要性を強く訴えた。

 

 再び喧々諤々の言い争いになり、遂には物が飛び交い始める始末である。

 

 テレンスが制止しようとしても頭に血が昇った彼らの耳には届かない。

 

 

「ギャアギャアうるせえんだよ!」

 

 

 不意にこの場にそぐわない鈴を振るような声が、喧騒を突き破って会議室に響き渡った。

 その美声で発せられた言葉は可憐さとはあまりにもかけ離れた罵声である。

 

 会議室は水を打ったように静かになり、視線が入り口の方に集まる。

 

 そこにいたのは怒気を纏った銀髪碧眼の少女──領主の娘、エステルだった。

 

 誰もが呆気に取られる中、テレンスが真っ先に辛うじて口を開いた。

 

「エス──テル?戻ったのか?」

 

 驚愕のあまり吃ったテレンスを見てエステルは不敵に笑う。

 

「ええついさっき戻りましたよ父上。お約束通り大金を用意して、ね」

 

 そしてエステルは笑みを消し、再び怒気を纏って尋ねた。

 

「それで?これはどういう状況だ?」

 

 その声はとても十二歳の少女が発していいものではなかった。

 憤怒に歪む美しい顔と相まって会議室にいた者全員を硬直させる凄まじい威圧感を放っていた。



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反撃前夜

 ファイアブランド家は大丈夫なのか?

 

 空賊に出会してせっかく手に入れた財宝を奪われないように、鎧で船を引っ張ってスピードを上げ、当初の予定よりも早くファイアブランド領に帰ってきたかと思ったら、港になっている浮島が空賊共に占領されていた。

 

 仕方なく回り道して屋敷の庭に飛行船を着陸させ、ティナとアーヴリルには徒歩で後を追ってくるように命じて鎧で屋敷に急行した。

 

 鎧が庭に着陸するとたちまち番兵に囲まれた。

 俺が知っているよりもかなり厳重な警備だったが、鎧から降りてきた俺を見て驚愕と共に銃を下ろした。

 ファイアブランド領の状況を問うても番兵たちは答えられず、ただ家臣たちが集まって重要な会議をしていると言うばかりだった。

 

 埒が明かないので、番兵の指揮官に取り次がせて執事の【サイラス】を呼び出し、その会議とやらが開かれている部屋まで案内させたら、ちょうど会議が紛糾していたというわけだ。

 

 空賊共に大事な港を占領されて、奪い返しに行ったら返り討ちにされて、今度は再度の攻勢か交渉での解決かで揉めている。

 

 おまけに親父がオフリー伯爵家というそこそこの大物貴族と揉めて、戦争を吹っ掛けられそうになっているらしい。

 おそらく件の──俺を嫁として差し出す代わりに援助してもらう──取引絡みだろう。その取引が俺が家出したせいで履行できなくなって、オフリー家が怒ったに違いない。

 

 これではとても縁談の取り消しなど言い出せる状況ではないだろう。

 全く、これでは話が違うではないか。財政再建のための金を用意して縁談を取り消させるためにわざわざ冒険に出たというのに。

 

 それ以上に腹立たしいのはオフリー伯爵家だ。

 他家の援助を当てにして娘を売る親父も腐っているが、オフリー伯爵家も腐っている。

 大金を積んで家ごと買収しないと跡取りの正妻を娶れない、という時点でどんな家か知れるというものだ。

 ファイアブランド家への援助ができるあたり大金持ちではあるのだろうが、取引が滞ったら武力をちらつかせてくるような家が善意での援助などするはずはない。

 俺を嫁として貰う以外にも見返りを求めてくるはずだ。援助してもらう側であるファイアブランド家は負い目から断れず、いずれ骨までしゃぶり取られるのだろう。

 

 ──冗談ではない。

 

 

 

 そんな時にまた奴が現れた。

 急に誰もが動かなくなり、会議室が沈黙に支配されると、聞き覚えのある声がしたのだ。

 

「どうも。エステルさん」

 

 振り返ると案内人がキザったらしい仕草で挨拶してきた。

 

 前回奴に会ったのは日数にして一ヶ月ばかり前のことだが、俺には数年ぶりにも思える。

 

 相変わらず顔は口元しか見えないが、その姿はどこか疲れているようにも見えた。

 もしかして俺のために色々動き回ってくれていたからだろうか。

 だとしたら労いの言葉くらいかけておかないとな。

 

「ああ、また来たのか。冒険では世話になったな」

 

 感謝の気持ちを込めて挨拶を返すと、案内人から一瞬表情が消えたように見えたが、気のせいだろうか。

 

「え、ええ、まあ。ですがエステルさん、領主への道にはまだ後一つ、関門が残っていますよ」

 

 その言葉で確信が持てた。

 この状況は案内人が俺を領主の地位に就かせるために用意した舞台なのだ。

 

「ああ、港島の空賊共と、オフリー家だろ?そいつらを倒して、引き換えに親父から領主の地位を頂くって算段だな?」

 

 案内人は笑って頷く。

 

「そうです。お父上ではこの苦難を切り抜けることはできません。現に家臣たちの言い争いも収められずにいますからね。そこにエステルさんが自ら軍を率いて見事、敵を倒してみせたなら、エステルさんが領主になることに反対する者はいないでしょう。王国とて、功績を鑑みて認めてくれます。エステルさんは晴れて領主になれるのですよ」

 

 案内人が嬉しそうに語ってくれるのを聞いて、自信とやる気が漲ってくる。

 

「そいつはいいな。領主の地位を賭けて戦争というギャンブルか」

「ええ。今のエステルさんには頼もしい味方もいることですし、必ずや勝利を収めることができるでしょう。それではアフターサービスも終わりましたので、私はこれで失礼しますね」

 

 そう言って案内人は扉を出現させ、お辞儀して去ろうとする。

 

「ありがとうな。──何もかも」

 

 お礼を言うと、案内人は小さく振り向いて、シルクハットのつばを軽く持ち上げて言った。

 

「これも仕事ですので」

 

 キザったらしい仕草だが、案内人がやると絵になるな。

 

 そして案内人が扉の向こうに姿を消すと、すぐに扉は消失する。

 

 

 

 時間が動き出し、会議室に喧騒が戻ってくる。

 

 俺が来たことにも気付かずに声を張り上げて、物を投げたりして、お元気なことである。

 だがもういい加減に無意味な罵り合いはやめ時だ。

 

 俺は頭に血が昇った馬鹿共を黙らせるべく、前世を合わせても俺史上最大級の声量で怒鳴った。

 

「ギャアギャアうるせえんだよ!」

 

 会議室が水を打ったように静まり返る。

 

 みんな呆気に取られた顔をしていたが、親父だけが掠れた声で言葉を発した。

 

「エス──テル?戻ったのか?」

 

 幽霊でも見たかのような顔をする親父の姿は酷く滑稽だった。

 

「ええついさっき戻りましたよ父上。お約束通り大金を用意して、ね」

 

 余裕ぶった淑女モードで返してやるが、相手に誤魔化す隙を与えるわけにもいかない。

 すぐに笑顔を消し、馬鹿共を問い詰める。

 

「それで?これはどういう状況だ?」

 

 会議室は沈黙したままだ。

 まるで怖い先生に説教されているクラスのような重苦しい沈黙。

 

 それを破って出てきたのは謝罪や状況説明ではなく、情けない言い逃れである。

 

「お──お前には関係ないことだ。それよりさっさとその服を着替え──」

 

 親父がそう言い終わる前に思い切り床を踏みつけた。

 無意識に魔力を込めていたらしく、踏みつけた所が凹んでしまう。

 

「質問が聞き取れなかったのか?ではもう一度、()()()()()()訊いてやる。空賊に港島を占拠され、一刻も早く奪還しなければならないという時に、一体何をそう派手に言い争って時間を浪費しているんだ?たしか交渉がどうとか聞こえたが──まさか空賊と交渉する気なのか?」

 

 そう問いかけると、何人かが目を逸らしたが、三角帽子を被った艦隊指揮官の騎士が敢然と反論してきた。

 

「いいえ、エステル様。私は交渉には反対です。空賊とは何度かやり合いましたが、奴らは大人しく交渉の内容を履行する人種ではございません。力を見せつけなければどこまでも増長し、対処はより困難となります。ですから、此度港島を占拠した空賊は稼働可能な全戦力を動員してでも殲滅すべきと考えます」

 

 そうだ。普通はそうなるよな。

 前世でも「海賊は人類共通の敵」なんて言われていたし、ホルファート王国でも空賊はモンスターと並ぶ人類共通の敵である。

 交渉などもってのほかだ。

 だが、「私は反対」などと言うからには交渉に賛成する奴がいるということだ。

 

「なるほどな。お前は戦う、と。じゃあ交渉しようなんて言った奴は誰だ?」

 

 騎士たちの視線が一人の役人に集まる。

 

 その役人は俺に向かって言い訳じみた弁舌を振るう。

 

「エステル様、我々は今忍耐を必要としているのです。真に憂慮すべきはオフリー家による侵攻です。我々はこれを阻止するために兵力を温存する必要があります。空賊相手に犠牲を出すよりも穏便に港島を取り返すべきです」

 

 なるほど、一理あるようにも思えるが、今ひとつ考えが足りていない。

 

「そうなのか?じゃあお前の言う通り空賊共と交渉して穏便に港島を取り返したとして、それでオフリー家との戦争に勝てるのか?」

「い、いえ、王国に特使を出し、調停を依頼するのです。それまで持ち堪え、後は王国を介しての──」

「つまりお前は空賊と交渉して戦力を温存して、それで時間稼ぎをすると言うんだな?」

「それしかないではありませんか!オフリー家の戦力は我が方の倍以上ですぞ。戦って勝てる相手ではございません。ならば王国の調停が入るまでの時間を稼げる可能性を高めた方が──」

「話にならんな」

 

 言い終わる前に役人を遮った。

 

「空賊相手に交渉して領地を返してもらったなんて知れたら、相手を有利にするだけだろうが。相手はこっちをさらに舐めてかかってくる。空賊相手にすら戦えない臆病者集団だ、ってな。きっと言いふらされて笑い者になるぞ。格を落とされて、信用もなくなって、ファイアブランド家は落ちぶれるだろうな。それに──」

 

 俺は一息ついて俺の立てた仮説を述べる。

 

「港島を占拠した空賊がオフリー家と手を組んでいるか、あるいは雇われている傭兵だとしたら?」

 

 会議室の空気が一変したのが分かる。

 

「オフリー家は悪どい事業で成り上がった家だったな。なら空賊と関わりがあったっておかしくない。だとすれば、オフリー家との戦争はとっくに始まっているんだよ!」

 

 俺の言葉に列席する家臣たちの表情が強張る。

 

「私たちは今まさに試されているんだよ!オフリー家に!空賊共に!領民に!奴らに空賊風情に喧嘩を売られて惨めに負けた挙句、目先の犠牲を恐れて空賊相手に交渉して、大恥晒して家を落ちぶれさせた愚か者だと嗤われたいのか!?私はそんなの絶対に嫌だ!他の奴はどうなんだ?」

 

 問い詰めると騎士たちが次々に応えた。

 

「私もです!」

「それがしもそんなことは受け入れ難いことにございます!」

「我らが故郷を貶めさせはしません!」

「思いはエステル様と同じです!」

 

 年端もいかない少女の檄で万の味方を得たかのように勢いづく騎士たちは可愛くもあるが、腹立たしくもある。

 本来これはファイアブランド家に仕え、守護するこいつらの役割だ。

 臆病で頭の足りない役人もそうだが、そいつ一人黙らせられない騎士たちもとんだ無能である。

 

「ですがエステル様、現実問題戦力差は如何ともし難きことにございます。ここは恥を忍んで生き延びることを優先すべきでは?生き延びればいずれ汚名をそそぐ機会もありましょう。その時まで待てば──」

 

 役人が言い終わる前に机を思い切り叩く音がした。

 音の主は俺ではない。

 

 全員の視線が上座に座る親父に集まった。

 

「そもそも──お前がオフリー伯爵家への嫁入りを承諾すれば済む話ではないか!」

 

 その言葉に全員が驚いた顔をする。

 

「お前が嫁げば戦争も起こらない、援助もしてもらえる。そういう取り決めだ!それでファイアブランド家は持ち直せるんだ!俺の後はクライドが継ぐ。そもそもお前が素直に嫁に行っていれば空賊如きの対処に悩む必要などなかった!なのにお前は勝手に家を飛び出し、オフリー家を怒らせ、戦争の危機を呼び込んだ!その上今度は戦うだと?ふざけるのもいい加減にしろ!お前一人の勝手で、大勢が死ぬんだぞ!それを理解しているのか!?」

 

 喚き散らす親父を見ていると苛々する。

 

 自分を犠牲にするのは前世でもうたくさんだ。

 これからは俺の幸福のために他人を犠牲にしてやると決めている。

 ただ、それを正直に言っても俺にとって不利になるので、別の大義を用意する必要がある。俺の身を守るのを別の大義にすり替え、この場にいる連中を騙して俺のために戦わせるのだ。

 

「ああよく理解しているとも。その上で私は嫌だと言っているんだ」

「な、なに──?」

「考えてもみろよ。私の身柄と引き換えに援助を受けてファイアブランド家を立て直したとして──それは借りだ。オフリー家に借りができたファイアブランド家はそれに縛られ、後に意にそぐわない要求をされても断りにくくなるんじゃないのか?」

 

 親父は返事に窮したのか、視線を泳がせた。

 

 すかさず俺は会議室にいる全員に聞こえるように声を大きくして畳み掛ける。

 

「最悪の場合、オフリー家の悪どい事業に加担させられることになりかねない。ファイアブランド家が犯罪の片棒を担がされたら、オフリー家やその仲間が捕まった時に諸共に処罰されて取り潰されるかもしれないんだぞ?だからここでオフリー家に借りなど作るわけにはいかない。犠牲を払ってでも手を切らなければいけないんだよ!」

 

 だが親父とてそのくらいのことは思い至っていたようで、大声で反論してきた。

 

「黙れ!お前に何が分かる!易々諾々と聞いていれば、何様のつもりだ!ファイアブランド家独力で解決できるなら苦労はせんわ!ファイアブランド家が生き残るには頼れる相手が必要なんだよ!それがたとえオフリー家でもな!お前が戦うと言ってもついてくる者など誰もいないぞ!」

 

 チラッと周りを見渡してみると、何人かの騎士が目を逸らした。

 だがさっきの艦隊指揮官の騎士をはじめ、数人は意志のこもった目で確かに俺の方を見返してきた。

 どうやら少数ではあるが、親父よりも俺の方についてきたい奴がいるらしい。

 

 ──上等じゃないか。

 

「だったら私が解決してやるよ」

 

 俺の言葉で会議室が騒ついた。

 

「軍を私に預けろ。空賊共もオフリー家の軍勢も私が叩き潰してやる。私は自分の鎧があるし、冒険で良い武器も手に入れたからな。それで負けたら私を嫁にやるなり、戦犯として首を差し出すなり何とでもすればいい。でも私が勝ったら、ファイアブランド家当主の地位を私に寄越せ」

「なっ!?」

 

 親父は目を剥いた。

 家臣たちも口々に焦った表情で反対の声を上げる。

 

「無謀です!エステル様!相手は飛行船の数も兵士の数も練度も上なのですよ?」

「エステル様は戦いに関しては素人であらせられます。ここは我ら艦隊にお任せください!」

「領主になるおつもりか!?無茶です!」

 

 さっきまで互いに言い争っていた連中が一致団結して俺を止めようとしてくるが、俺は涼しい顔で言ってやった。

 

「私は気が短くてな。報告だろうが調停だろうが待つのは趣味じゃない。私の領地になる土地のことは自分の手で解決する」

 

 そして俺は親父の方に向き直り、半ば脅迫のような形で回答を急かす。

 

「時間が惜しいから今返事をくれ。私にファイアブランド家の全軍を預けてくれたら、空賊もオフリー家の軍勢も叩き潰してやる。勝ったら私に領主の地位を渡して引退しろ。負けたら私を好きにすればいい。どうするかここで決めてくれ」

 

 親父はありとあらゆる負の感情を混ぜ合わせたような物凄い表情になって口をパクパクさせていたが、やがて糸が切れた操り人形のように脱力して大きな溜息を吐いた。

 

「──いいだろう。どうせ止めても好き勝手をするのだろう?お前という奴はそういう奴だ。もう──疲れた」

 

 親父は自棄になったようにか細い声で言ったかと思うと、やつれた顔を上げて宣言した。

 

「ファイアブランド子爵家当主、テレンス・フォウ・ファイアブランドの名において──現時点をもって、ファイアブランド家の全権をエステル・フォウ・ファイアブランドに移譲する。これは最後の当主命令だ。エステルに従い、戦いの準備をせよ」

 

 何人かの騎士が無言で立ち上がって敬礼した。

 それに続いて次々に騎士たちが立ち上がって敬礼し、ほかの家臣たちも諦めたようにおずおずと立ち上がって礼をする。

 

 やがて全員が承諾の意を示すと、親父は俺の方を見て言った。

 

「せいぜい好きに足掻くがいい。ファイアブランド家の資産も負債も、苦難も全てはお前のものだ。ファイアブランド領の全ての命運を背負う重みがどんなものか、思い知るがいい」

「はっ、上等だよ」

 

 俺には案内人がついている。

 あいつが整えてくれた段取りなのだから、負けるはずがないし、もし危なくなればサポートが入るだろう。

 勝つと分かっている勝負は楽しいな。

 

「無茶ですエステル様!無謀すぎます!領主様も何卒お考え直しを!このままでは何もかも駄目になります!」

 

 空賊と交渉しようと主張していた役人が往生際悪く声を張り上げるが、親父は取り合わない。

 

 俺は騎士の一人が腰に下げていた剣を抜き取って、思い切り役人目掛けて投擲した。

 

 役人のすぐ近くに剣が突き立つ。

 会議室は騒つき、役人は「ひっ」と小さく悲鳴を上げて腰を抜かした。

 

「私が戦うと言ったんだ。そして父上は私に従えと言った。お前らは準備をすればいい。これは命令だ。お前らに許されるのは黙って従うことだけだ。従えないなら今ここで死ね!」

 

 家臣たちは恐怖したらしく、黙り込んでしまった。

 

 そうだ。黙って俺に従えばいい。

 俺に従っている間は大事に使ってやる。

 そうでなければ殺すだけだ。

 

「すぐに戦力の編成に取り掛かれ。動かせる飛行船と鎧は全部出す。修理すれば復帰できるものは急いで直せ。私の鎧もだ。急げ!」

 

 命令を受けて騎士たちが慌ただしく会議室を出て行った。

 役人たちも後に続く。

 俺も鎧の修理のために基地へと向かう。

 

 

◇◇◇

 

 

「何ですと!?エステル様が?」

 

 テレンスの自室で執事のサイラスが驚愕していた。

 ベッドに腰掛けるテレンスの口からエステルにファイアブランド家の全権を移譲した、という内容が飛び出したからだ。

 

「ああ。既に戦闘準備を下名した。今領内はエステルの命令に従い、港島への再度の攻勢と、オフリー家との戦争に向けて全力で準備中だ」

 

 だから執務室ではなくここにいるのだと、テレンスは力なく笑う。

 

「──全く笑えるじゃないか。俺は家臣たちの言い争い一つ収められずにいたのに、あの子が檄を飛ばして自分から戦いに赴くと言って、それで流れが決まった。それなりに年を食った俺が十二歳の娘に統率力で負けて、領地の命運を丸投げしたんだ。家のためにあの子を生贄にしようとしたら、あの子が自分で家の全てを背負うと言い出した。そして俺はあの子に全部賭けた。何という馬鹿。賭け事で焦って大損する素人よりも酷い馬鹿だよ俺は」

 

 自嘲するテレンスだったが、ふと真顔になる。

 

「あの子は──俺なんかが及びもつかない化け物じみた才能がある子だ。こんな絶望的な状況もそんな化け物ならあるいは──そう思ったのさ」

「テレンス様──」

 

 何と言葉を返したら良いのか分からなくなるサイラスにテレンスは手を伸ばした。

 そしてサイラスの肩を掴み、目を合わせて言った。

 

「お前は長年俺をよく支えてくれたが──俺はもう肩の荷を下ろした。今となってはお前の力が必要なのはエステルの方だ。頼む。あの子を──支えてやってくれ」

 

 サイラスは随分前から濁っていたテレンスの瞳が、憑物が落ちたかのように澄んでいるのを見てとった。

 

 今のテレンスは娘を心配する父親の目をしている。

 

 ──断れるわけがなかった。

 

「分かりました。このサイラス、エステル様のため、力を尽くします」

 

 サイラスもエステルのことはよく知っている。

 彼女が重ねてきた剣の修行も勉学も、その成果も、全て知っている。

 

 正直期待していた。もしエステルが領主になったなら、ファイアブランド家の窮状も変わるかもしれないと。

 

 そして彼女は自分で望まない結婚を避けるために行動を起こし、冒険に出て、そして帰ってきた。

 彼女が見せてきた財宝の一部を見た時、彼女はどんな小さな可能性でも追い求め、そして掴み取るのだと確信した。

 

 それでも彼女はやはり十二歳の少女だ。 その背中はあまりにも小さく、頼りない。

 そんな彼女が絶望的な状況にもめげずに進み続けようとするのがいじらしくて、だからこそ「大人である自分たちがしっかりしなければ」と、そう思わせるのだ。

 きっと彼女に従って戦いの準備を進めているという騎士たちも同じ思いを抱いているのだろう、とサイラスは思う。

 

 テレンスは安心したように小さく溜息を吐いた。

 

「頼んだ。──少し、一人にしてくれ」

 

 サイラスは黙ってお辞儀して部屋を辞した。

 

 

◇◇◇

 

 

 俺の鎧は急ピッチで修理が進んでいた。

 失われた動力系統や魔力回路といった重要機構は格納庫に予備パーツが取ってあったのでそれを移植できたが、それだけでは戦闘には出せない。

 壊れたり、磨耗したパーツを交換し、改造して武装を施し、戦闘に耐えられるように細かく調整しなければならないのだ。

 俺は先程から整備員たちと一緒に鎧の調整に勤しんでいる。

 

「もし、エステル様?」

 

 不意に名前を呼ばれたので周囲を見渡すと、体中に包帯を巻き、松葉杖をついた男がいた。

 

「何だ?」

「私めは一月ほど前、エステル様が出奔なさった時に追撃を行った者でございます。此度の戦、エステル様自ら出撃されるとお聞きしたものですから──」

「ああ。止めようってのなら無駄だぞ」

 

 さっきから俺が出撃するのを止めようとしてくる奴が後を絶たないので、コイツもその類かと思ったのだが、違った。

 

「いえ。お引き留めは致しません。我らの追撃を振り切った貴女を止められようはずもありません。ただ──お見受けしたところ、エステル様の鎧には近接武器しか用意されていないようでしたので──私めの飛槍をお使いになられてはと思ったのです」

「ひそう?」

「飛ぶ槍です。この身体では戦いに参加することは叶いませぬ。ですからせめて武器だけでもお使いください。そして、その節はエステル様を飛槍の爆発に巻き込み、申し訳なかった。これはせめてもの償いです」

 

 ──ああ、あのパイルバンカーのことか。あれには鏡花水月の弱点を教えられたな。

 かなり強力な武器だとは思ったが、まさか使わせてくれるとは。

 ただ、気になる点もある。

 

「どうやって誘導するんだあれ?私に使えなければ意味がないぞ?」

「思念で操るのです。やり方については出撃までに可能な限り私がお教えします。ですから──どうか、近接武器での接近戦はお避けください。エステル様のお命が危のうございます」

 

 ──なるほどな。この男は俺が死ぬ危険を減らすために、パイルバンカーとミサイルを使った遠距離戦に徹させようとしているのか。

 良いじゃないか。俺のために尽くす奴は大好きだ。俺をパイルバンカーで撃った罪は帳消しにしてやろう。

 

「分かった。使おう。すぐに取って来させる。どこにある?」

「案内致します」

 

 整備員に命じて男と一緒にパイルバンカーを取りに行かせ、俺は調整作業に戻る。

 

『良い感じね』

 

 セルカが俺に耳打ちしてきた。

 彼女の身体はカメレオンのように周囲の景色に溶け込んでいる。

 

「ああ。戦いの時は頼むぞ」

『任せて頂戴な。フレームが万全ならもっと凄い力が出せるわよ。期待していて』

 

 戦闘時はセルカが鎧に融合合体することになっている。

 

 セルカは魔装としては欠陥品もいいところらしい。単体では機体も武装も生成できず、骨格となるものが必要だからだ。

 だがそれは骨格となったものの強度や耐久性を大幅に向上させられるという性質と表裏一体だった。

 鎧を骨格にすれば、鎧の防御力・機動力を飛躍的に向上させ、パイロットの身体にかかる負荷からも保護してくれる。

 つまり、セルカと融合合体した鎧は普通の有人機にはできないような挙動を平然とやってのけ、かつ攻撃力も防御性能も高いというチート兵器になるのだ。

 

 実に楽しみである。

 

『そういえば──貴女の鎧、名前はないの?』

 

 セルカに訊かれて俺はハッとした。

 もう俺のもとに来てから二年ほどになるが、名前を付けていなかった。

 でも仕方ないと思う。鎧は俺の中では車のようなイメージだ。普通自分の車に名前なんて付けるか?

 船ならともかく、車は「俺の車」だ。だから鎧も「俺の鎧」だったのだが──考えてみれば名前を付けてみるのも悪くはないかもしれない。

 前世の特撮やアニメの悪役は中二心をくすぐるカッコいい名前のロボットに乗っていたしな。

 

「言われてみればないな──なんかカッコいい名前でも付けてみるか」

 

 考えてみたが、どれもしっくり来ない。

 俺の鎧はなんて言うか──兵器然とした重厚さや無骨さとは程遠い、スマートで曲線の多い、言ってみれば女性的なデザインなのだ。

 そんなデザインの鎧に似合うと思える名前がどうにも浮かんでこない。

 

 何か良い案はないのかとセルカの方を見ると、彼女は一つの名前を口にした。

 

『アヴァリス──というのはどうかしら?』

 




アヴァリス Avarice フランス語
意味は「強欲」


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初陣

 ファイアブランド家の軍事施設。

 

 発着場を埋め尽くす艦艇と忙しく動き回る兵士たちを見て案内人は笑っていた。

 

「ふふ、少々変更を余儀なくされましたが、計画は順調ですね。私としては空賊を倒して調子に乗ったところでオフリー家に負け、玩具になってくれると最高なのですけどね」

 

 案内人はエステルに言っていなかった。

 オフリー家の軍勢がファイアブランド家の予想を遥かに上回る規模で侵攻する準備をしていることを。

 

 オフリー家の財力はホルファート王国全貴族家の中でも上位に入る。

 その財力に支えられ、軍事力もかなり高い水準にある。

 

 ファイアブランド家への侵攻に向けて準備されている戦力は主力艦三隻、中型戦艦四隻、護衛用フリゲート十一隻、武装商船四十隻余、鎧は百機以上と極めて強大だ。

 

 また、威力偵察と戦力漸減を兼ねて空賊たちを雇って尖兵として送り込み、物流の要たる港を押さえさせた。このままではファイアブランド家には商船が入れず、戦争に必要な物資を外から手に入れることができない。

 ファイアブランド家もそれは理解しているだろうから、必死で港を取り返そうとするだろう。

 だから空賊たちにはできるだけ長く港を押さえ続けるように命じてある。一日一時間でも長く港を押さえられればその分ファイアブランド家が商船を通じて受け取れる物資の量が減り、兵站は脆弱になる。

 港を奪還された場合はファイアブランド領に向かう商船の拿捕・撃沈に移行し、オフリー軍がファイアブランド軍と交戦する際はオフリー軍と共に戦う手筈だ。

 

 辺境の子爵家一つ相手取るにしては明らかに過剰な戦力だが、案内人が情報収集の結果を改竄し、ファイアブランド家の戦力を実際よりもかなり大きく見せかけていた。

 案内人によって誇張された戦力はオフリー家当主をしてまともに戦うのを躊躇するほどだったが、既に武力行使も辞さないという脅しを掛けてしまった以上、引っ込みがつかず、ファイアブランド家が期限内に取引を履行することを期待しつつも戦争の準備をする必要があった。

 

 オフリー家は過大に見積もられたファイアブランド家の戦力を凌駕すべく大きな戦力を揃えるとともに、王宮での根回しにも余念がなかった。

 

 大軍を動かす表向きの理由はファイアブランド家から空賊退治のための援軍を求められた、ということにし、交戦によって生じたオフリー家・ファイアブランド家の被害は全て空賊の仕業にする。

 その後のファイアブランド領の占領は戦力を著しく喪失したファイアブランド家を()()ための一時的な進駐に見せかける。

 とんだマッチポンプではあるが、こちらから侵攻する前に本当にファイアブランド家が援軍を求めてくるようなことがあれば、少なくとも軍を動かす理由に関しては嘘を吐かずに済む。

 そして空賊退治という恩を売り、その恩にファイアブランド家が報いたという体でエステルをオフリー家に嫁がせる、ということもできるため、オフリー家としてはそれが理想的な筋書きではある。

 

 どちらにしても真相は闇に葬られるよう、後ろ盾になっている大物貴族への働きかけも行なっている。

 ファイアブランド家が王宮に現状を訴えても握り潰されるよう工作し、更にもしオフリー家がファイアブランド家との交戦中に他家に攻め込まれた場合には援軍を差し向けることを確約させた。

 

 エステルが知らないところで戦争は始まる前からオフリー家の有利に傾いていた。

 

「私を信じる貴女が悪いんですよ。前世の教訓を何一つ活かせていませんね。やはり貴女は愚か者。人の玩具になるしかない存在ですよ」

 

 ファイアブランド軍は孤立無援のまま三倍の数の敵と戦うことになり、濁流に呑み込まれるかのように崩壊するだろう。

 いくらエステルが強かろうとこれほどの不利は到底覆せない。

 

 案内人は忌々しげに歯を食い縛り、エステルとの会話を思い出す。

 

「私にお礼を言うなんて──後でどんな顔をするか楽しみですね。直に感謝は憎しみに変わり、その顔は憎悪で醜く歪む。きっと私を満足させてくれることでしょう」

 

 身体を蝕む感謝に耐えながらエステルが転落するその時を夢見て笑う案内人──その背後で彼を見張っていた小さな光がそっと離れていった。

 向かう先は空賊たちの飛行船である。

 

 

◇◇◇

 

 

「やっとできたな」

 

 強欲を意味する【アヴァリス】の名を冠した鎧の試運転を終えた俺は満足していた。

 

 修理、武装の追加、戦闘用の調整の全てが今朝ようやく完了し、今日一日かけて完熟訓練をやっていたのだ。

 結果は期待していた以上だった。

 

 一見すると腕部や脚部に増加装甲が付き、塗装が純白に変わった程度だが、機動力、防御力、攻撃力全てにおいて圧倒的に向上している。

 

 たとえば機動力の要である背中の翼は推力が以前から倍増している。

 スピードが上がったのはもちろん、急旋回や急制動もよりキレのあるものになった。

 

 ほかにもセルカと融合合体したことで機体強度と装甲の硬度・靭性が増し、防御性能にも磨きがかかった。

 この防御力なら剣や槍では傷一つ付かないだろうし、対鎧用の大型ライフル弾でも簡単に跳ね返すだろう。

 更にこの防御力は攻撃力にもなる。普通鎧の拳で相手の鎧を思い切り殴ったりすれば、拳の方が砕けるか、そうでなくてもひしゃげてしまうが、アヴァリスの拳はビクともしない。肉弾戦になっても一方的に相手を破壊できるということだ。

 

 とはいえ、肉弾戦は最後の手段。

 メインの武器は【飛槍】と呼ばれる誘導兵器だ。

 俺が使うのは、ランチャーから発射することで加速に割かれる魔力を節約し、誘導に振り向けて命中率を上げたタイプ。

 一度に一発しか撃てないが、鎧よりも速く飛び、避けようが逃げようがどこまでも追いかけていって相手を刺し貫く。

 おまけに任意のタイミングで起爆できる炸薬も入っていて、刺突で仕留められなくても爆発で相手を破砕するという奥の手がある。

 

 ──うん、どう見てもミサイルだ。

 

 発射に使うランチャーは小型の鎧の全高ほどの長さがある長砲身の滑腔砲だが、突撃槍のような造形と前腕部を覆う盾の存在、そして先端から飛槍の鋒が顔を覗かせているせいでパイルバンカーにしか見えない。

 実に浪漫をそそる武器である。

 

 ただ、撃てば勝手に目標を追ってくれるミサイルと違って、飛槍は「操縦」しなければならないので、飛槍を飛ばしている間は母機の鎧がほとんど無防備になってしまう。

 使い方を教えてくれた騎士──たしか【ライアン】という名前だった──によれば、味方の援護を受けつつ遠距離から敵を狙い撃ちするというマークスマンのような運用をするそうだが、俺は味方の援護など当てにしてはいない。

 悪徳領主たる者が自分の身の安全を他人に依存するなどあってはならないのだから。

 

 そこでまたセルカの出番だ。

 飛槍にセルカの分身というか端末というか、とにかくセルカの一部を取り込ませ、俺が狙った目標に向けてセルカが誘導してくれるように作り変えた。

 おかげで使いこなすのに習熟を要し、味方の援護が不可欠な難しい武器だった飛槍が本物のミサイルのように簡単に使えるものになってしまった。

 飛槍を撃った直後、誘導中で隙ができたと思い込んだ敵が襲いかかってきても難なく対応できる。

 

 敵の接近を許してしまった場合に備えて、サルベージで手に入れた漆黒の大剣が鎧の大腿部に差してある。

 何でもこの大剣、現在の技術では製造できないロストアイテムらしく、極めて高い硬度・強度と優れた魔法耐性を併せ持ち、飛行船が戦闘時に張る防御シールドすら破れるのだそうだ。

【アダマティアス】──伝説上の存在でしかなかったはずの最強の魔導金属でできた大剣はまさに【魔剣】とでも言うべき逸品である。

 この大剣があれば接近戦になっても返り討ちにするのは容易い。

 ちなみにその剣を取り落としたり叩き落とされても、ガントレットにもう一本飛び出しナイフとして仕込んであるし、それすらなくなっても、防御力と拳を活かした肉弾戦がある。

 

 長くなったが、俺の鎧は遠中近全ての距離において隙のない最強の鎧だ。

 

 この鎧で忌々しい空賊共を叩き落とすのが楽しみで仕方がない。

 

『気に入ってもらえたようね』

 

 コックピットの壁に赤い目が出現して言った。

 

「ああ、最高だよ」

 

 コックピットから降りると、セルカは鎧から離れて球体になり、ついてきた。

 

 日が暮れ始め、世界が闇に包まれていく中を司令所に向かって歩く。

 

 作戦の決行日はもう明日の朝にまで迫っている。

 

 詳細な段取りは部下たちに任せてあるが、総大将として最後にもう一度報告を受け取って、全軍の状態を把握しておかなければならない。まだ準備ができていない部隊があったりすれば大変だからな。

 

 それが終わったら明日に備えて早めに寝ておこう。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド軍の艦隊指揮官を務める騎士【ライナス・アスカルト】は乗艦のブリッジで落ち着かない顔をしていた。

 

 原因はこれから実行されようとしている作戦である。

 

 作戦のためにかき集められた艦隊戦力は中型戦艦四隻と小型護衛艦十八隻だった。

 ファイアブランド家の私設軍の稼働率は高くはなく、主力となる戦艦が四隻全て投入できたのは奇跡的だった。

 

 対して空賊たちは、主力艦をも超える三百メートル級の大型戦艦一隻と、商船改造と思しき百メートル級の砲艦四隻。

 飛行船の数ではこちらが圧倒的に優っているが、艦隊の総火力では劣勢だ。おまけに向こうには高い練度を持つ鎧部隊がいる。

 

 ファイアブランド軍の鎧部隊は一部を除き、練度が低い。実戦経験がない者が多いのもそうだが、何より財政難で満足に訓練が行えていないからだ。

 最初の戦いで手酷くやられたのもそのせいである。

 

 だからこそ、今回は戦力を出し惜しみすることはせずに稼働可能な全戦力を投じる。

 結局のところ戦いは数なのだから。

 

 作戦の概要は、夜明けと同時に鎧部隊が港島へ攻撃をかけ、空賊がそちらに気を取られている隙に艦隊を港島に突撃させ、敵戦艦の無力化及び陸戦隊を港島に上陸させての掃討戦を行う──というものだ。

 空賊が不利を悟れば、人質に取った港島の領民を盾にする可能性が高いため、艦隊はいかなる状況であっても港島の制圧を最優先するよう言い含められている。

 

 ここまで見ただけならまだまともな作戦に見えるが、問題が一つ。

 

 エステルが自ら鎧で出撃し、陽動部隊と共に戦うと言ったことである。

 

 ライナスのみならず、多くの騎士がエステルの出撃をやめさせようと説得を試みたが、全て失敗に終わった。

 業を煮やしたエステルの「止めたいなら私を殺せ」がトドメとなり、エステルの出撃は決定事項になってしまった。

 

 嗚呼、彼女と共に戦う鎧部隊の兵士たちのプレッシャーは如何ばかりか。

 

 しばし彼らに想いを馳せたライナスだが、通信士の報告で中断する。

 

「本部より返電。追って指示あるまでその場で待機せよ、です」

「うむ。各艦に向け発光信号で伝達を」

 

 指示を受けた信号手が探照灯を使って発光信号を送り始めた。

 

「──こちらの準備は整ったな」

 

 ライナスの呟きに艦長が答える。

 

「ええ。途中何度も肝を冷やしましたけどね」

 

 艦長の言うことはもっともだった。

 ブリッジの窓から外を見ればまだ昼間でありながら暗く、上は岩肌、下は海。周囲には大きな岩がちらほら漂っている。

 一つでも操艦を間違えていれば、今頃岩か味方艦に激突して大惨事だっただろう。

 

 ここはファイアブランド領の()()だ。

 艦隊はギリギリまで見つからないために浮島の裏側に隠れ潜んでいる。

 普通に浮島の上空あるいはその周辺の空域を通っていけば、近づく前に見つかって相手に対応されてしまうが、浮島の裏側は完全な死角だ。

 優位な高度を取られないように上空を警戒している空賊の意表を突く奇襲攻撃。

 浮島の裏側からいきなり現れて全速力で突っ込んでくる艦隊には、手練れの空賊たちとて対応が間に合わないだろう。

 

 この作戦を考えたのはエステルだ。

 どの方向から艦隊を突入させるのが一番気付かれにくいかで頭を悩ませていたライナスたちに彼女が浮島の裏側を提案してきた時、目から鱗とはこのことかと思った。

 

 簡単に思いつきそうで誰も思いつかなかった極めて隠密性に優れた侵攻ルートには、しかし極めて危険であるという欠点があった。

 浮島の裏側の地形は地図に載っていないため、手探りで進むほかなく、視界も悪いため事故を起こす危険も大きい。

 

 無論、それを指摘して反論した者もいたが、ライナスはそれを採用した。

 伊達に日頃から空賊対策のために艦隊行動や夜間戦闘の訓練を積んでいるわけではないという自負があり、自分たちならば可能だと信じていたのだ。

 

 実際にやってみれば予想以上に視界が悪く、何度も肝を冷やしたが、どうにか港島の目と鼻の先にまで辿り着くことができた。

 後は明朝の突撃命令を待つのみだ。

 

 陽動部隊が上手く敵を引きつけてくれることを願うが、その中にエステルがいることを思うと、彼女を気にして陽動部隊が満足に戦えなくなるのではないかという心配が頭をもたげる。

 正直言って戦場に出て来られても足手まといなのだが、本人が出ると言って聞かない以上、どうしようもない。

 

 彼女に命令できる立場にあるのはテレンスだけだが、エステルが大人しくテレンスの言うことを聞くとも思えない。テレンスの方もエステルへの全権移譲を取り消す気配はない。

 

 明朝までにエステル様が翻意してくださると良いのだが、とライナスは思う。

 

 ライナスのみならず、ファイアブランド軍の軍人全てがそう思っていた。

 

 エステルが戦場に出ることを歓迎している軍人はいなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 夜明け前。

 

 発着場に総勢四十機ほどの鎧が並んで出撃を待っていた。

 もうあと数日あればもう少し揃えられるが、そう悠長に待ってはいられない。

 一刻も早く港島を奪還するため、今ここに揃っている分だけで殴り込みをかける。

 

 俺は体に張り付く全身タイツのような純白のパイロットスーツに身を包み、整列する鎧のパイロットたちの前に進み出た。

 

 ちなみにパイロットスーツの上には上着を羽織っている。さすがに身体のラインが丸見えというのは勘弁願いたい。

 

 壇代わりに用意された木箱の上に上った俺はこれからこのパイロットたちに向かって訓示を垂れるわけだが──俺の言うことなど誰もまともに聞かないだろう。

 ただでさえ偉い奴の話は聞くに堪えない退屈さだし、俺のような小娘は見た目で舐められて大層な話をしても失笑を誘うだけだろう。

 

 だがそれでいい。反応がどうであれ、演説を相手に聞かせられるというのは権力を持つ者の特権だ。

 何を言うか、どうすれば伝わるかなどどうでもいいし、そもそも大した話をするつもりもない。

 

 俺は差し出された拡声器を手振りで拒否し、笑みを浮かべて口を開く。

 

「諸君、これから楽しい空賊狩りの時間だ。奴らは私たちに栄誉と名声をもたらすためにはるばるおいでくださった、いわばお客様。丁重におもてなしして差し上げようじゃないか。た・だ・し──鉛の玉で、な♪」

 

 ジョークを言ってみたが、笑う奴はいない。

 

 あれ?思っていた反応と違うのだが。

 もっとこう──ガキが何言ってやがる、的なクスクス笑いでも起きるかと思ったのだが。

 

 ──まあいい。

 

「お前たちは私の剣であり、盾だ。逆らうな!従え!私についてくるんだ!そうすれば、私がお前たちを勝利に導いてやる!」

 

 お前たちは俺の道具だということを認識させるべく、パイロットたちを剣と盾に例えた。

 

「これも肝に命じておけ!私の指揮する軍隊に逃げるだの、交渉するだの、守りを固めるだの、そんなことはあり得ない。あるのは攻撃ターンのみ!怖気付き、情けなく逃げ惑うのは敵の役割だ。攻撃に次ぐ攻撃が私の戦法だ。奴らを一人残らずバラバラにして海に沈めて、魚の餌にしてやれ!」

 

 パイロットたちの顔が心なしか引き締まったように見える。

 

「ファイアブランドの名を恐怖と共に奴らの脳裏に刻みつけろ!誰に喧嘩を売ったのか分からせてやれ!」

 

 パイロットたちが一斉に踵を揃えて敬礼し、「はっ!」と力強い返事を返す。

 

 あれ?もしかして本気で俺の煽動で士気が上がっているのか?

 

 ──まあ、士気が高いのは良いことだけれども。

 

「以上だ。全機出撃!」

 

 俺の号令でパイロットたちは一斉に自分の鎧に向かって走り始める。

 

 

◇◇◇

 

 

 浮島の裏側。

 

「アスカルト様!たった今、鎧部隊が出撃しました。間もなく港島上空で交戦に入る見込みです」

 

 通信士からの報告でブリッジが一気に緊張に包まれる。

 ようやく始まったか、という思いと、もう一つの気掛かりによって。

 

「エステル様は?」

 

 ライナスが問いかけると、返事は最も聞きたくなかった内容だった。

 

「先頭に立って出撃されたとのことです」

 

 ブリッジが騒ついた。

 

「何たることだ──」

 

 ライナスは立ちくらみがするような感覚に襲われる。

 

 総大将であるエステルが先頭に立つなど急所を晒しながら戦うようなものだ。

 そして──エステルに何かあれば、自分たちも終わりだ。

 

 ライナスはリアルタイムの戦況を知ることができないのを歯痒く思いながら、せめて作戦の成功とエステルの無事を祈った。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド軍の鎧部隊が発進したという報告を見張りの鎧から受けた【ウィングシャーク】空賊団は直ちに迎撃の鎧を発進させた。

 その数は三十機ほど。

 

 ファイアブランド軍の鎧より少ないが、腕でカバーできると空賊たちは思っていた。

 どうせ奴らはロクな実戦経験もない軟弱者だ、俺たちは奴らとは潜ってきた修羅場が違う、今度だって同じように返り討ちにしてやる──と。

 

 それが盛大な誤りになるまで、一分とかからなかった。

 

『ん?ッ!何か来るぞ!』

 

 誰かがそう警告した直後、空賊の鎧が一機、高速で飛んできたジャベリンのような細長い尖った物体に貫かれた。

 

 狙い澄ましたかのような胸部──コックピットへの正確無比な一撃。

 

 中のパイロットは即死したらしく、鎧は武器を取り落として力なく墜ちていく。

 

『ぜ、ゼブゥゥゥウウウ!!』

『なんだアレは!?』

『どこから撃たれた!?』

 

 視界外からの攻撃に空賊たちの間に動揺が走る。

 

 ゼブと呼ばれた空賊の鎧を貫いたジャベリンはそのまま鎧をぶち抜いて背中側から飛び出し、Uターンして放たれた場所へと帰り始める。

 そのスピードは飛んできた時に比べてだいぶ遅い。

 

『あ、アレを追え!奴らはそこにいる!』

 

 仲間の仇と空賊たちが飛行するジャベリンを追いかける。

 

 その先には悪夢が待っているのを彼らはまだ知らない。

 

 

 

 挨拶代わりに一発ぶっ放してやった飛槍は見事にエース機と思しき派手な鎧に突き刺さった。反応する暇も与えずにコックピットにグサッと。

 中のパイロットは上半身と下半身が涙──否、血を流してお別れしているに違いない。

 

 心の底から笑いが込み上げてきて抑えられない。

 シューティングゲームで「こんにちは、死ね!」ができた時のような爽快感だ。

 

「もう一発いくか」

『了解♪』

 

 セルカが鎧の腕を操作して装填作業を行う。

 砲口から飛槍を入れ、横の穴から装薬を入れるという、面倒な作業をセルカが代わりにやってくれるので、俺は落ち着いて目標を見定めることができる。

 

 距離的にこの一発が最後で、その後はヘッドオンからのドッグファイトが始まるはずだ。

 できればもう一機、エース級の奴を落としたいが──ふと、ほかの鎧より一回り大きい奴を見つけた。

 遅れて発進してきたのか、かなり後方にいる。

 ほかの空賊の鎧とは何か違う、重厚でパワーと防御力の高そうな奴だ。

 

『準備できたわよ。狙いは敵後方のデブね?』

「ああ。いけ!」

 

 パイルバンカーのトリガーを引くと、放たれた飛槍がマゼンタ色の魔力光に包まれて超音速で飛んでいく。

 

「さてと。接近戦の準備だ」

 

 俺はパイルバンカーを背中のラックにしまうと、大腿部に差してあった大剣を抜く。

 

 同時に空賊の先頭集団が視認できる距離まで近づいてきたのを発見する。

 

 俺はニヤリと笑って呟いた。

 

「──歓迎するぞ」

 

 

 

 後続の鎧部隊の兵士たちは大慌てだった。

 

『全機で周りを固めろ!エステル様を討ち取らせるな!』

『それが──味方機を振り切って突撃しています!』

『何をやっているんだ!なんとしてもお守りしろ!』

 

 てっきり護衛機に囲まれて飛槍を撃つだけだと思っていたのに、単機で敵目掛けて突っ込んでいったからである。

 

 鎧部隊の隊長を務める騎士【トリスタン・オーブリー】は声を枯らしてエステルを制止しようとしたが、全く効果はなかった。

 

 エステルの乗機【アヴァリス】は背中の翼からマゼンタ色の炎を噴き上げて凄まじい速度で港島へ向かって飛んでいく。

 

 競走じゃないんだぞ、と毒づきながらも必死で後を追うトリスタンだが、距離は開いていくばかりだ。

 

 当然、突出したエステルに空賊の鎧が群がる。

 

 だがエステルは少しも慌てた様子はなく、漆黒の大剣をアヴァリスの手に握らせて空賊たちに立ち向かっていく。

 

 ──無謀すぎる。

 

『やめろおおおおおおおお!!』

 

 誰かが悲鳴を上げた。

 

 しかし、アヴァリスが空賊の鎧とすれ違った直後、それはすぐに驚愕の声に変わる。

 

『なっ!?』

『空賊共が──?』

『これは──一体──?』

 

 皆が唖然として言葉を失う。

 

 切り裂かれ、爆散したのは空賊の鎧の方だった。

 刃を突き立てるどころか打ち合うことすらも許されず、一方的に袈裟斬りにされ、横胴切りにされ、唐竹割りにされ、瞬く間に三機が撃墜された。

 

 アヴァリスは全くの無傷で空賊の鎧の群れを食い破り、急旋回して空賊たちの鎧を追いかけ始めている。

 

 たちまち一機に追いつき、背部からコックピットを大剣で貫く。

 

 一分と経たずに四機撃墜。

 

 空賊たちは突然の強敵の出現で混乱しているらしく、動きが逃げ腰になっている。

 

 それを見たトリスタンはようやく我に返り、部下に突撃を命じる。

 

「敵は退けているぞ。全速力で突っ込め!これ以上奴らをエステル様に近寄らせるな!」

 

 全員が応で返し、アヴァリスに翻弄される空賊たち目掛けて襲い掛かる。

 

 そして誰も見たことがないほどの激しい、そして鮮やかな空中戦が始まった。



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慈悲はない

「圧倒的じゃないか!」

 

 アヴァリスのコックピットで俺は笑いを止められずにいた。

 

 これだ──これなのだ。

 圧倒的な力で敵をねじ伏せる。

 とんでもなく強力な兵器で敵を蹂躙する。

 しかも相手は空賊だ。

 前世の取り立て屋と重なるような怖い連中を力でねじ伏せていることが、堪らない快感を生じさせていた。

 

 奪われる側から奪う側に回れた。

 

 そうか──これが強者の見ている景色なのか。最高じゃないか!

 

「効かねえなぁ!」 

 

 こちらに斬りかかってきた空賊の鎧目掛けて大剣を振るうと、面白いように壊れていく。

 対して俺の乗るアヴァリスには傷一つ付かない。

 ただでさえ高い機動性に耐えられるよう頑丈にできているのが、セルカと融合合体したことでとんでもなく堅牢になっているのだ。

 おかげで俺は被弾を恐れず思う存分暴れられる。

 

 そしてアヴァリスはスピードもパワーも普通の鎧とは段違いだ。

 他のどの鎧よりも速く飛び、剣を振るえば狙った場所を必ず斬り裂き、敵を圧倒する。

 頑丈で、速くて、思った通りに動いてくれる。

 最高の機体だった。

 

「はっはっは!強い!強いぞ!陽動なんて言わずにこのまま殲滅してやる!」

 

 アヴァリスの強さに興奮する俺は昔を思い出す。

 剣術を学んでいたはずなのにアヴァリス──当時はまだ名無しだったが──の操縦訓練をニコラ師匠に課された時、これが一体何の役に立つのかと思っていた。

 でもやっていなかったら今の俺はいないだろう。

 

 師匠はやはり先の先まで読んでいたのだ。

 俺が領主になるまでに、そしてなった後に立ちはだかるであろうあらゆる苦難を想定して、このような戦いに参加することもあり得ると思ったのだろう。

 だから俺に鎧の操縦技術を身に付けさせようとした。きっとそうだ。

 師匠の教えには全て意味があったのだ。

 

「いやはや、師匠様様、案内人様様だな」

 

 アヴァリスを急旋回させてすれ違った空賊共の後ろを取り、一機の背中に大剣を突き刺す。

 重要機構からコックピットまで大剣に貫かれた空賊の鎧は一撃で動かなくなる。

 

 大剣を横なぎに振るうと、相手の鎧が後ろ向きに投げられる形になり、自然と大剣は抜ける。

 

「さてと、次はどいつだ!?」

 

 興奮冷めやらぬまま次の獲物を探す俺にセルカが水を差してきた。

 

『盛り上がっているところ申し訳ないけれど、ちょっと悪い知らせよ。さっき狙ったデブは仕留め損なったわ』

 

 さっき撃った二発目の飛槍は命中しなかったらしい。

 

「何?外したのか?」

『違うわ。飛槍が()()()()()()のよ。あのデブの中身、相当な手練れよ』

 

 超音速で飛んでくる飛槍を叩き斬るとは確かに凄いことだ。

 空賊の分際で腕が立つ奴がいるらしい。

 きっとエースだな。仕留めたら賞金でも出るかもしれない。

 

「上等だ。次はそいつにしてやる。どこだ?」

『後ろよ。向こうから来るわ!』

 

 振り返ると、件のデブ──他の鎧より大型で見るからに重装甲な鎧が左手にライフル、右手に大鉈のような武器を構えてこちらに向かってくるのが見えた。

 

「いたな」

 

 応戦しようとする俺だが、味方の鎧が割って入る。

 

『奴を止めろ!エステル様に近づけるな!』

 

 ──余計なお節介を。俺の獲物だぞ。

 だがまあ、俺のために強敵に立ち向かう勇気と忠誠心は認めてやろう。

 

 割って入った味方の鎧が三機、デブに立ち向かっていったが──

 

『な、何だこいつは!?』

『硬い!』

『怯むな!止めろおおお!』

 

 味方機はデブを仕留められなかった。

 対鎧用の魔弾で三方十字砲火を浴びせたが、殆どの弾が躱され、当たった弾も装甲に弾かれて全く効いていない。

 そしてお返しに放たれたデブからの銃撃で一機が被弾した。

 

『おのれ!こうなれば!』

 

 不意に味方の一機が剣を抜いた。

 俺が持っているのと同じアダマティアス製の大剣──全部で六本あったので俺が使う分を除いた四本を選抜した味方に配ってあった──でデブ目掛けて斬りかかる味方機。

 

 しかし、デブは大鉈で斬撃をいなし、逆に味方機の腕を引っ掴んだ。

 

『ええい!放せ!ぐああああああ!』

 

 味方機の腕が圧し折られ、剣が奪われる。

 

 ──なんと情けない。あいつらに任せたのが間違いだった。

 

 俺は操縦桿を倒し、デブのところへと向かう。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド家に仕えるグリーブス騎士家の長男【ダリル・グリーブス】は焦っていた。

 

 エステルが家出した際に取り逃がしたことで所属していた精鋭部隊は全員揃って降格処分とされた。

 

 剣術と鎧の操縦技術に優れ、若くして精鋭部隊に配属されて、貴重な新型の鎧を与えられたことにプライドを持っていたダリルにとっては受け入れ難いことだった。

 おまけに追跡中に起こった怪奇現象──撃った弾が戻ってきたり、目標に斬りかかったと思ったら味方機に斬りかかっていたり──をいくら説明しても信じてもらえず、父にまで「見苦しい言い訳をするとは見損なった」と言われた。

 

 全部エステルのせいだと、彼女を恨んだ。

 

 だが、そのエステルによって挽回の機会がもたらされた。

 取り上げられた愛機に再び乗れることになり、更には剣の腕を見込まれてロストアイテムであるアダマティアス製の大剣を支給された。

 そして同じように降格処分になった隊員たちと共に再編された精鋭部隊に入れられ、港島への攻撃に参加させられたのだ。

 

 しかも港島への攻撃にはエステルが自ら鎧で参加すると言い、実行に移した。

 そして味方機を振り切って突撃したかと思えば、次々に空賊の鎧を叩き落としていった。

 

 驚愕と共にエステルを讃える声が味方の間に広がる。

 

 それがダリルの焦りを一層掻き立てた。

 何としてもここで失点を挽回し、エステルを見返してやらなければ──彼がそう思って逸り、エースと思しき敵機に斬りかかったのも無理はなかった。

 

 だがその結果──

 

(ああ──死ぬのか)

 

 迫ってくる漆黒の大剣を見てダリルは悟った。

 

 ついさっきまで自分が振るっていた武器を敵に奪われ、その武器で斬り殺される──何とも情けない最期だ。

 父は何と言うだろうか──きっと怒るだろうな。「馬鹿野郎!」って怒鳴って拳骨をお見舞いしてくる。痛いだろうな。父の拳骨は痛くて、怒鳴り声を聞くと身が竦んでしまって──

 

 ──あれ?そういえば今「馬鹿野郎!」って聞こえなかったか?

 

 次の瞬間、目の前にまで迫っていた大剣が大きく逸れて空を切った。

 ダリルを斬り殺そうとしていた空賊のエース機は純白の鎧に飛び蹴りを食らって乱回転しながら吹っ飛んでいく。

 

「な、何が──?」

 

 何が起こったのか分からずに混乱するダリルを味方機が掴む。

 

『おい!無事か!』

「あ、ああ」

『よし、喋れるならいい。さっさと離脱しろ』

 

 味方に引っ張られて戦闘空域から離脱するダリルが後ろを振り向くと、空賊のエース機と激しく鍔迫り合うアヴァリスが見えた。

 

『エステル様が割って入らなかったらお前今頃斬り殺されていたぞ。戦いが終わったらちゃんと礼を言ってこい』

 

 味方の言葉で先程見えた純白の鎧はアヴァリスだったのだと、ダリルは悟る。

 

 エステル様が助けてくれた?──俺を?エステル様を恨んで、功を焦って、一人で敵の強者に斬りかかって、支給されたロストアイテムの剣を奪われてそれによって斬り殺されるところだった、情けない俺を?

 

 ダリルは泣いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 デブのくせしてなかなかどうして、骨がある奴だ。

 

 味方機から奪ったロストアイテムの大剣で俺と剣戟を繰り広げる重装甲の鎧。

 攻撃力と機動力を重視した軽量型の鎧が主流の今、重装甲の鎧など時代遅れらしいが、大きいし、パワーがあるし、俺は嫌いじゃない。

 おまけに中身も他の空賊とは段違いの手練れらしく、俺と剣での打ち合いをやってのけている。

 

 そして鍔迫り合っていても勝ち目が薄いと分かるや、すぐに距離を取ろうとし始める。

 

 だが逃がさない。

 

 大剣を大腿部にしまい、背中のラックからパイルバンカーを取り出す。

 丁度戻ってきた一発目の飛槍をパイルバンカーに装填し、逃げるデブ目掛けて撃った。

 

 できればそのまま仕留めたかったが、デブは気付いていたようで、振り向きざまに大剣を振るう。

 

 だが今度は狙ったのはコックピットではなく、脚部である。

 直前で軌道を変えた飛槍はデブの大腿部に突き刺さり、大剣は空を切る。

 直後に飛槍が爆発を起こした。

 

 コックピットに直撃しなくてもこれなら大ダメージだろうと思っていたが、甘かった。

 確かに脚部は吹っ飛んでいたが、それ以外の箇所にはダメージになっていない。

 

「トドメが必要か」

 

 再び接近戦に持ち込むべく、パイルバンカーを大剣に持ち替えてデブを追いかける。

 

 追いすがる俺にデブは大剣をしまい、ライフルを構えた。

 銃口に魔法陣が浮かんだかと思うと、そこから尖った石礫が無数に発射される。

 おそらく土魔法の一種だろう。ライフル弾と同等かそれ以上の速度で襲いかかってくる尖った石礫の雨──なるほど、普通の鎧からすれば凄まじい脅威だ。

 

 だが、アヴァリスの防御力の前にはそれこそ鉄の壁に小石を投げつけるも同然である。

 装甲に当たった石礫が甲高い音を立てて砕け散る。

 

 デブは何度も石礫の雨をお見舞いしてくるが、そのことごとくをアヴァリスは弾き、デブへと迫る。

 

『後ろよ。狙われてるわ』

 

 不意にセルカが警告してきた。

 

 デブを追いかけるアヴァリスを背後からライフルで狙う空賊の鎧が二機。

 

「ちっ、罠か」

 

 毒づく俺だが、デブを追うのはやめない。

 

 背後から放たれた対鎧用の魔弾が過たず、アヴァリスの翼に直撃する──直前で思いっ切りUターンして戻っていき、撃った空賊の鎧に命中した。

 

 鏡花水月──いかなる攻撃も空間ごと捻じ曲げて逸らし、相手に向かって打ち返すことも可能なチート技。俺の切り札だ。

 魔弾でもアヴァリスの装甲などまず貫けないので別に使う必要もなかったのだが、鬱陶しかったので使った。

 ほら、カスダメでも後ろから撃たれ続けたら苛々するし。

 

 俺の背後を取っていた二機の空賊の鎧は戻ってきた自分の弾に爆砕されて四散する。

 

「馬鹿が!背後を取ったくらいで落とせると思ったか!」

 

 バラバラになって墜ちていく空賊の鎧を嘲笑いながらデブに追いつき、大剣を振り下ろす。

 

 デブはギリギリで大剣を抜いて俺の斬撃を受け止めていた。

 

 接触したことで相手の声が聞こえてくる。

 

『お前、何をやった!何の魔法だ!?』

 

 野太い男の声──前世の借金取り共を思い出す。

 そんな厳つそうな男が焦っている。

 

「ああ、さっきのアレか?鏡花水月と言ってな、魔法も使うがれっきとした剣術の奥義だ」

 

 優越感たっぷりに教えてやると、相手は怒鳴ってきた。

 

『子供?って、そんな剣技があるか!一体どこの流派だ!?』

「決まった名はない。名前は自分で付けるのさ。だが師の名を教えてやる。ニコラだ!」

『はあ!?知るかそんな奴!ドマイナー剣術使いがヌケヌケと──』

 

 ──鏡花水月とニコラ師匠を侮辱するとは良い度胸だな。

 

 大剣の柄から右手を離し、ガントレットの飛び出しナイフでコックピットを突き刺した。

 

『ぐああああああ!!』

 

 悲鳴を上げる相手に俺は冷たく言い放つ。

 

「ドマイナーとは言ってくれるじゃないか。ならお前らを叩き潰して師匠と鏡花水月の名を広めてやるよ」

『た、助けてくれ!降伏、降伏するから!』

「騒ぐなやかましい」

『助けて!お願い──します!うああああああああ!!」

 

 飛び出しナイフの先端が血に濡れ、機体にも返り血がかかるが、構わずに悲鳴が聞こえなくなるまで何度もコックピットを突き刺し、静かになったデブ鎧を海へと放り投げた。

 直前に奪われた大剣を取り返すのは忘れない。

 

 落ちていくデブ鎧を見て味方は歓声を上げ、空賊たちは恐怖に慄く。

 

『か、頭ああああああああ!!』

『そ、そんな!』

『冗談じゃねえ!お、俺は逃げるぞ!』

 

 どうやら倒したデブに乗っていたのは空賊の頭領だったらしく、空賊共が一気に統制を失い、総崩れになった。

 何機かが逃げ出し、すぐに他の空賊の鎧も次々に後を追って逃げ出していく。

 

『エステル様!』

 

 味方機が近づいてきた。

 

『艦隊より通信です。敵戦艦を無力化、陸戦隊が上陸を開始したとのことです』

 

 ベストタイミングだ。

 逃げていく空賊共に帰る場所はもうない。

 

「よし、追撃だ。艦隊とで挟み撃ちにしてやれ!」

『了解!』

 

 ファイアブランド軍の鎧が一斉に逃げる空賊の鎧を追って港島へと向かう。

 

 逃げ惑う空賊たちの鎧は面白いように墜ちていった。

 

 

◇◇◇

 

 

 アヴァリスで港島に降り立ったのは全てけりが付いてからだった。

 

 空賊の鎧は全て撃ち落とされるか、捕獲され、港島は陸戦隊によって制圧されていた。

 海上ではサルベージが始まっており、墜落した鎧が次々に拾い上げられて港島に運び込まれている。

 

 アヴァリスから降りた俺に炎のような赤い軍服に身を包んだ兵士たちが敬礼してくる。

 厳つい男たちが俺に対して礼儀正しいとか──実に楽しい。

 

 制圧された空賊の飛行戦艦の前には両手を後ろ手に縛られた空賊たちが集められていた。

 

「エステル様」

 

 三角帽子を被った艦隊指揮官が近づいてきた。

 

「三十二名を捕虜にしました。奴ら宝を差し出すと言って慈悲を求めております」

 

 ──慈悲?慈悲だと?

 寝言は寝てから言うものだ。人の領地に土足で踏み込んで略奪しておいて虫がいいにも程がある。

 

「慈悲など不要。さっさと処刑しろ」

「──はい!」

 

 心なしか嬉しそうに返事をする艦隊指揮官はすぐに銃殺隊を用意させていた。

 

『容赦ないわね』

 

 側に浮かぶセルカが言ってきたが、考えは変わらない。

 

「俺の領地で略奪した罰だ。『空賊殺すべし。慈悲はない』って格言もあることだしな」

『え?そうなの?凄いわね』

 

 俺の冗談を真に受けるセルカを見ていると、ちょっと居た堪れなくなった。

 こいつは知識や能力こそあれどかなりの世間知らずだ。

 

「嘘だよ。今作った」

『あはは、何よそれ』

 

 くだらない冗談で笑うセルカのおかげでどこか気持ちが軽くなる。

 

 

 

 地面に八本の杭が立てられ、空賊たちが八人、縛り付けられる。

 その前にライフルを持った兵士たちが八人横一列に並んだ。

 

「やめてくれ!死にたくない!」

「頼む!許してくれえええ!」

「何でも差し出しますからあああ!」

「嫌だあああ!助けてえええ!」

 

 情けなく命乞いする空賊共に向けられる兵士たちの目は冷ややかだった。

 

「構え!」

 

 艦隊指揮官の合図で兵士たちが一斉にライフルを構える。

 

「撃て!」

 

 八つの銃声が響き、空賊たちの悲鳴が止んだ。

 

 撃った兵士たちは下がり、別の兵士たちが空賊たちの死体を運び去っていく。

 

 そしてまた八人の空賊が杭に縛り付けられる。

 

 空賊たちの悲鳴が鬱陶しくて俺はその場を離れた。

 それに処刑を見ているよりもよほどやりたいことがある。

 

 

◇◇◇

 

 

「さてと、お宝探しといこうか」

 

 空賊共の旗艦と思しき三百メートル級の大型飛行戦艦に乗り込んだ俺は、空賊共がどこかに貯め込んでいるらしい財宝を探し始める。

 

 セルカは他の飛行船を捜索するために俺の側を離れており、代わりに臨検を行う部隊を連れている。

 その部隊の隊長が俺に進言してきた。

 

「エステル様、可能性が高いのは二重底か、隠し倉庫かと」

「よし、手分けして探せ。何か見つけたらすぐに教えろよ」

 

 兵士たちは頷いて八人ずつの班に分かれた。

 

 俺は一班を率いて取り敢えず二重底を探そうと船底に向かう。

 

 通路には乗り込んだ陸戦隊との戦闘の痕跡が生々しく残っていた。

 壁のあちこちに弾痕が穿たれ、床の所々に血痕がある。

 

 不意にどこか懐かしい気配がしたかと思うと、視界の隅を何かが横切った。

 

「あれ?」

「どうされましたか?」

 

 兵士の一人が怪訝な顔で尋ねてくる。

 

「今犬か何かいなかったか?」

「犬ですか?我々は見ませんでしたが──鼠捕り用に飼われているのかもしれませんね」

 

 鼠対策として船に犬や猫を乗せるのは前世で聞いたことがある。

 

 待てよ。前世といえば──犬を飼っていた。

 死に際に迎えに来てはくれなかったが、それでもかけがえのない存在だった。

 だから妙に懐かしさを覚えたのだろう。

 

「あっちに行くぞ」

 

 俺は犬のようなものが消えた方向へと足を進める。

 

 通路がずっと先まで続いていて、両脇に扉が並んでいる。

 殆どは戦闘中に蹴破られたのか、倒れたり蝶番が外れたりしているが、隠れる場所は多そうだ。

 

 互いに死角を補い合いながら慎重に部屋を捜索していくが、人の気配はなく、犬もいない。

 

 そして見つけられないまま通路の突き当たりまで来てしまった。

 

「行き止まりですね」

 

 突き当たりの壁を見た兵士が呟く。

 

 仕方ない。引き返して船底に行くか。

 

 踵を返したその時、()()()()微かに犬の鳴き声が聞こえた気がした。

 

 振り返ったが、そこには変わらず壁があるだけだ。

 

「エステル様?」

「この向こうに部屋があるぞ」

 

 俺は壁を叩いて言った。

 

 魔力での空間把握をやってみたら、向こうに小さな部屋があることが分かった。

 ついでにこの壁は隠し扉だ。

 

 兵士に扉を破壊させて中に入ると、そこにあったのは執務室のような部屋だった。

 机と椅子があり、部屋の両端には棚がある。奥の方には小さな窓。

 窓を開けてみると、どうやらここは船尾の方らしく、下に飛行船の方向舵が見えた。

 

 兵士たちに部屋の捜索を命じ、俺は犬を探すが、見つからない。

 犬が隠れられそうな場所なんてないのにどうしてだろう。空間把握を使った時も犬らしい反応はなかったし──不思議だ。

 もしかしてあの鳴き声は聞き間違いだったのか?

 

「なっ!?これは!」

 

 不意に兵士の一人が素っ頓狂な声を上げる。

 

「どうした?」

 

 兵士は手紙の入った箱を見せてくる。

 

「この封蝋の紋章はオフリー家のものです!」

 

 見てみると手紙は封蝋を傷つけないように上の方をナイフで切って開けられている。

 

 中に入っていた手紙には何かの指示か取り決めのような文言が書き連ねてあった。

 文の最後の署名はイニシャルで、書いた奴の名前は断定できないが、筆跡はこれまでオフリー家から送られてきた書状のもの──つまりオフリー家の現当主のとそっくりだ。

 オフリー伯爵家当主と空賊との間でやりとりがあったことを示す、動かぬ証拠だ。

 

「でかしたぞ。こいつは良い脅迫材料になる」

 

 手紙の入った箱を受け取って鞄に入れると、通信機が鳴り出した。

 

「エステルだ」

『あ、エステル様。丁度良かった。見て頂きたいものがあります。四番埠頭まで来てください』

「何だ?宝でも見つけたのか?」

『ええ──ですが何分とんでもないものでして──』

 

 歯切れの悪い相手に苛立った俺はすぐに行くと言って通信を切った。

 

 宝探しと犬の捜索は中断されてしまった。

 

 

◇◇◇

 

 

 行った先にはボロボロの鎧があった。空賊の頭領が乗っていた重装甲の鎧だ。

 その前に兵士と商人らしい人間が集まって何かを見ている。

 

「あ、エステル様」

 

 三角帽子を被った艦隊指揮官が俺に気付き、その何かを持ってきた。

 

 それは洒落た箱に入った首飾りだった。

 宝石がいくつも嵌め込まれていてとても綺麗だ。

 

「この首飾りがどうかしたのか?」

「ご覧ください。これは神殿の紋章です」

「神殿?」

 

 指揮官が首飾りを裏返すと、確かに紋章が刻まれている。

 

「神殿の宝を空賊が持っていたのか?偽物だろう?」

「それがそうとも言い切れんのです。この首飾り──言い伝えにある失われた【聖なる首飾り】にそっくりでして」

「聖なる首飾り?」

 

 たしかホルファート王国史の本にそんなアイテムが出てきた。

 ホルファート王国建国の英雄である五人の冒険者と一緒にいた──

 

「──【聖女様】のか?」

 

「はい。外見的特徴の一致、偽造困難な神殿の紋章も刻まれている──そんなものが市井に出回るはずはありません。私としては神殿に届けて鑑定を依頼すべきと考えます」

 

 俺は記憶を探って聖女に関する知識を思い出す。

 

 聖女はホルファート王国建国に関わった五人の冒険者と行動を共にしていた仲間だ。

 彼女がいたからホルファート王国は誕生したと伝えられ、そしてその力は今も神聖視されている。

 だが五人の冒険者の血筋は王族と名門貴族として残ったのに対し、聖女は行方不明となった。建国後に役目を終えたと判断し、また冒険の旅に出たというのが通説だが、詳細は不明のまま。

 

 ただ、聖女は王国に三つの宝を残していった。

【聖女の杖】、【聖なる腕輪】、そして【聖なる首飾り】。その三つの道具と、それらに認められた資格を持つ者が揃えば聖女の力を再現できるのだとか。

 それらの宝を保管しているのが神殿だ。

 だが、何十年も前に腕輪と首飾りは行方不明になり、王宮を巻き込んだ大騒動になったらしい。

 

 当時の神殿は何をしていたのかと思うが、その首飾りが盗まれて闇市場で売られ、空賊に買われたのだとしたら──目の前にあるこの首飾りは本物かもしれない。

 

「もし本物なら──」

「ええ、神殿が動きます。エステル様、これは好機です。この首飾りが本物だったなら神殿を味方に付けられます。そうすれば神殿の口利きでオフリー家との戦争を回避できます」

 

 嬉しそうに話す指揮官だが、俺にはそうは思えない。

 

「残念だがそれは多分無理だな」

「なぜです?」

 

 俺は鞄から隠し部屋で見つけた手紙を取り出してみせた。

 

「こ、これは──!」

 

 指揮官は手紙を読んで驚愕に震える。

 次第にその表情は憤怒に変わっていく。

 

「オフリー家が空賊が殲滅されたと聞いたら、そいつが私たちの手に落ちたと考えるはずだ。どんな手を使っても奪いに来るぞ。どう足掻いてもオフリー家との戦いは避けられないさ」

 

 悲観的な予測を述べつつも俺は幸運だと考えていた。

 オフリー家を社会的に抹殺できる犯罪の証拠と、神殿という大きな組織に恩を売れるかもしれない宝が同時に手に入ったのだ。

 

 こんな幸運をもたらす可能性といえば──

 

「素晴らしいフォローだよ。案内人」

 




リオン「おいいいいいいい!何イベント潰してんだああああ!!」


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煩悶の夜

 ウェザビー・フォウ・オフリーは間者からの急報を見て蒼白になった。

 

 ファイアブランド領の港を押さえていたウィングシャーク空賊団はファイアブランド軍の総攻撃により半日と経たずに壊滅した。

 最初の戦いではファイアブランド軍を返り討ちにした空賊団がなぜそんな短時間で壊滅させられたのかは分からないが、おかげで空賊の戦力を当てにして立てたファイアブランド領侵攻作戦が大幅な修正を余儀なくされる見通しだ。

 

 だがウェザビーが心配するのは侵攻作戦そのものではなく、空賊たちとのやりとりに使った書類の安否である。

 半日と経たずに壊滅させられたとなると、処分や隠匿が間に合った可能性は低い。

 あれがファイアブランド家の手に渡り、王宮に届けられてしまうと、オフリー家の存亡に関わる。

 

 すぐに追加の工作とファイアブランド家との再度の交渉を行わなければならない。

 ファイアブランド家の関係者が書類を王宮に持ち込んでも上層部に届く前に握り潰すよう働きかけ、ファイアブランド家には捕虜になった空賊の引き渡しを要求する。

 受諾すれば良し、拒否したならば武力行使で要求を通す。

 

 後者の場合に備えて、ファイアブランド家と仮想敵同士の関係にある領主貴族とも話をつけた方が良さそうだとウェザビーは考えた。

 空賊団が壊滅した以上、オフリー軍が動く表向きの理由を新しく用意する必要がある。

 そこで利用できるのがファイアブランド家の仮想敵である別の領主貴族家とオフリー家が有している利権だ。

 ファイアブランド家の勢力圏は周辺の他の領主貴族家の発展に伴い、縮小を続けており、その過程で何度も小規模な抗争が起こっている。また、ファイアブランド家は領地の浮島の一つにおける資源の採掘権をオフリー家に売ったことがある。

 これらの事情により、オフリー家は新たに勃発した貴族家同士の抗争に伴い、利権を守るために軍を動かした、という言い訳ができる。

 

 無論、ファイアブランド家が空賊引き渡し要求に応じてくれるのが最善ではある。

 空賊引き渡し要求を受諾すれば件の取引をなかったことにしても良い、とでも言っておけばファイアブランド家が応じる可能性は上がる。

 ファイアブランド家との再交渉の際はそれを仄めかしておくべきだろうとウェザビーは考える。

 跡取りの正妻候補はまた探せば良いが、空賊と手を組んでいた証拠を握られてしまえばお終いだ。それに無闇に血を流したくはない。

 

 

 

「だがそうはさせない」

 

 ウェザビーの背後に立つ案内人はニヤリと笑って言った。

 案内人としては何が何でもエステル率いるファイアブランド家とオフリー家に戦争をさせ、エステルを敗北させなければならない。

 その後はオフリー家に囚われるなり、屈辱的な取り決めを結ばされて搾取され続けるなり、案内人にとって嬉しい未来が待っている。

 

 思えば短い付き合いだったが──これも自分の期待通りにならないエステルが悪いのである。そればかりか、彼女の感謝によって凄まじい苦痛を味わわされ、力を失った。

 さっきも空賊を倒した喜びからか、一段と激しい感謝に襲われたところだ。

 許せない。死が慈悲に思えるほどの地獄に叩き込んで、特大級の負の感情を味わわせてもらわなければ腹の虫が治まらない。

 

 案内人はファイアブランド家が交渉を受けないようにするため、ファイアブランド領に戻ってそこで工作に勤しむことにした。

 

 

◇◇◇

 

 

 夜。

 

 ついこの間まで親父が使っていた執務室で、俺は書類を処理しながら手に入れた切り札の活用法を考えていた。

 

 オフリー家が空賊と組んでいたことの証拠書類と失われた神殿の宝【聖なる首飾り】は俺自身が預かっている。

 案内人のフォローのおかげで手に入ったせっかくの切り札を盗まれたり破壊されたりするなどあってはならないからな。

 

 ただし、切り札であるとはいっても一筋縄ではいかない。強敵を倒せる威力は秘めているが、使い方を間違えればこちらが危なくなる諸刃の剣である。

 

 オフリー家は空賊と組んでいた証拠がファイアブランド家の手に渡ったかもしれないと考えて気が気ではないだろう。

 そしてこちらがその証拠を握っていると知ったなら、何が何でも抹消しようとするに違いない。

 

 更にこれまで聞いたオフリー家の情報によれば、オフリー家にはとんでもない大物がバックについている。でなければ商人に乗っ取られた家が陞爵などできるはずがない。

 一応、表向きは衰退していた領地を短期間で立て直して豊かにしたとか、因縁浅からぬ隣国【ファンオース公国】との外交で活躍したとか、色々な功績があるらしいが、それにしても大きな後ろ盾の存在なしには考えられないことだ。

 考えられるのはオフリー家が所属している派閥の幹部クラスか、あるいは長か──いずれにしてもファイアブランド家が相手取るには厳しい。

 証拠書類を王宮に持って行っても、後ろ盾に握り潰されれば意味はないし、下手すれば報復でこちらが潰される。

 

 とすると考えられるのは、証拠書類をオフリー家の属する派閥と敵対している派閥に流すことだが、これも不安が残る。

 親父がこれまでに何度もオフリー家の世話になっているせいでファイアブランド家はオフリー家と近しいと見られている。

 そんな家からのタレコミを敵対派閥が信用するとは思えないし、証拠書類を渡したら用済みとして見捨てられる可能性だってある。

 

 やはりどうにかして証拠書類を握り潰されないように国王陛下の下へ届ける必要がある。

 理想的なのは襲来したオフリー家の軍勢を撃滅した後、国王陛下にオフリー家の不法行為を直訴し、オフリー家を取り潰しに追い込む、というシナリオだが、ファイアブランド家は王宮に伝手がない。

 伝手がなければ、国王陛下への面会にはいくつも面倒な手続きを経なければならず、その手続きを処理する立場の人間をオフリー家やその後ろ盾に買収されでもしたら何もできない。

 

 そこでもう一つの切り札、聖なる首飾りだ。

 案内人が聖なる首飾りを見つけさせたのはこれを使って神殿を味方に付け、王宮への伝手にしろという意味なのだろう。

 神殿は表向き貴族の派閥争いとは関係ない中立の立場だが、同時に無視できない影響力を持つ陰の支配者とでもいうべき存在だ。伝手にするにはもってこいである。

 

 以上から俺が為すべきことはオフリー家の軍勢を撃滅し、国王陛下への面会が叶うまで証拠書類と聖なる首飾りを守り抜くことだ。

 

 というわけで今俺は証拠書類を懐に入れて、聖なる首飾りを首に下げているわけだが──この首飾り、明らかに曰く付きの品である。

 身に着けているとうっすらと魔力を感じるし、何よりセルカの反応がよろしくない。

 

『嫌な気配ね。何か憑いているわよこれ』

「分かるのか?」

 

 問いかけるとセルカは頷く。

 

『私は触れた物の記憶や思念をある程度視ることができるのだけど──この首飾りのはまるで視えないわ。それこそ意志を持って隠しているようにね。そんなことができるのは憑き物が憑いているからよ』

「──祓えるのか?」

 

 何か憑いた首飾りとか着けてて穏やかな気分じゃないので除霊したかったが、セルカは身体を左右に振った。

 

『無理ね。私には干渉できないわ。とにかく一刻も早く神殿に届けるなり何なりして手放すのが良いと思うわ』

「そうか──」

 

 俺は首飾りを外そうとして、やめた。

 気持ち悪がって身体から離したばかりに盗まれた、なんてことになったら洒落にならない。それにどうせ持っているのは短い間だ。

 

「でもまあ、神殿に持っていくのはオフリー家との戦いがひと段落してからだな」

『あら、随分落ち着いているのね』

 

 セルカが意外そうに言ってきたので、俺は余裕ぶって返してやる。

 

「憑き物が何だっていうんだ?怖さなら人間の方が上だ」

 

 そう──怨霊や悪霊などより生きている人間の悪意の方がよほど恐ろしい。前世で俺はそれを嫌と言うほど知った。

 そんな俺が首飾りに憑いたもの如きに怖気付くなど、悪徳領主を目指す身であってはならないことだ。

 

 ただ──本物の神殿の宝なら憑き物なんて憑いているものだろうか?

 少し気になるが、案内人が俺に害をなすものをもたらすとは考えにくい。

 

『達観しているのね。さすがは──あら?』

 

 セルカが振り返ると、ドアがノックされ、ティナの入室の許可を求める声が聞こえてきた。

 

「入れ」

 

 ドアが開き、トレーを持ったティナが入ってきた。

 

「差し入れです」

 

 そう言って湯気を上げる飲み物が入ったカップを二つ机に置く。

 

『あら、私の分も用意してくれたの?』

 

 セルカが嬉しそうに寄ってくる。

 

「はい。その──精霊様の口に合うかは分かりませんが。ココアです」

『嬉しいわ。人から何かを貰ったのは何時ぶりかしら』

 

 そう言ってセルカは一つ目の下に口を出現させ、触手で器用にカップを持ってココアを飲み干す。

 

 俺もカップを手に取って口を付けた。

 温かさと甘さが染み渡り、気分が落ち着く。

 夜が更けるまで書類の処理をし続けていたせいで気付かないうちに疲れ切っていたようだ。

 

 ふと気になったことをティナに訊いてみた。

 

「そういえばアーヴリルの様子はどうだ?」

 

 

◇◇◇

 

 

 屋敷の一階にある客人のために用意された部屋。

 

 そこでアーヴリルはうずくまっていた。

 

 自分の飛行船を失い、エステルの飛行船に乗せられてファイアブランド領に来てから、驚きが大きすぎて頭と心が追いつかなかった。

 

 まずエステルの正体がファイアブランド子爵家の長女だった。

 ファイアブランド子爵家は、アーヴリルの実家であるランス騎士家が仕えるノックス子爵家と勢力圏が隣接している──言ってしまえば仮想敵である。

 互いの勢力圏内の零細領主同士の争いは後を絶たず、ランス騎士家の人間が争いに加わったこともある。

 

 そんな家の令嬢が家出して自分と旅をしていたことも驚きだが、それ以上に驚いたことにそこが空賊の侵攻を受け、悪名高きオフリー伯爵家に戦争を吹っ掛けられそうになっていた。

 

 エステルの行く先にはいつも何か騒ぎや災難がある、あの方には疫病神でも憑いているのか──そう思った。

 

 だがエステルは怯えや絶望の一つも見せずに家臣たちを鼓舞し、自らも戦場に立って空賊を殲滅してみせた。

 

 空賊が殲滅されたことで商船が入れるようになり、ファイアブランド家はあらゆる伝手を頼って戦争に必要な物資を買い集めている。

 

 まだ十二歳の少女が現当主にも家臣の誰にもできなかったことをやってのけた。

 

 この分だと本当にオフリー家にも勝てるかもしれない、という空気がファイアブランド領に醸成されている。

 

 それがアーヴリルには酷く堪えた。

 

 どこかでエステルを自分がついていてやらなければいけない、か弱い少女と見ていたのを完全に否定されたことがアーヴリルのプライドを打ち砕いた。

 もう、自分が何をすればいいのか分からない。

 故郷に帰ろうとも思ったが、飛行船が片っ端から徴用されているせいでそれもできない。

 

 それでこうして部屋でうずくまっているわけだが、それもいい加減に嫌になってくる。

 自分も何かしたい、エステル様の役に立ちたい──そう思っているが、軍事や領内統治に関しては素人で、しかも余所者であるアーヴリルの居場所はどこにもない。

 

 

 

 不意に視界を淡い光が横切った。

 

 顔を上げるとドアが僅かに開いている。

 

 いつの間に開いたのだろうと首を傾げながらベッドから降り、ドアを閉めようとすると、ドアの隙間を一瞬光るものが横切ったように見えた。

 

 何だと思ってドアを開けてみると、フワフワと浮かぶ淡い光が廊下の曲がり角の向こう側へと消えていくのが見えた。

 

 アーヴリルは思わずその後を追った。

 なぜそうしたのかは分からない。だが、その光を放っておいてはいけないと無意識的に強く思ったのだ。

 

 光が消えていった曲がり角を曲がると、何者かが庭へ続くドアから屋敷の外へ出て行くのが見えた。

 

 なぜ夜にわざわざそんな所から外へ出るのかと訝しんだアーヴリルは後を尾ける。

 

 屋敷を出た何者かはそのまま屋敷の庭を出て街の方へと歩いていく。

 

 肌寒さを感じて身を震わせながらもアーヴリルは静かに尾行する。

 

 

 夜の街は灯りもまばらで閑散としていた。

 路上で客引きが声を張り上げることも、酒場から賑やかな声が聞こえてくることもない。

 

 ファイアブランド領の景気の悪さが如実に現れている街で、屋敷を出た何者かは灯りの消えた店の一つに入っていった。

 

 アーヴリルは少し待ってから店に入ろうとしたが、鍵が掛かっていた。

 見ると、店のドアには「営業終了」の看板が掛かっている。

 

 屋敷を出た者が閉まっている店に入っていったなど怪しいにも程がある。

 これはエステル様に報告しておくべきだろうとアーヴリルは思った。

 もし自分が見た人物が間者で、自分がその間者の隠れ家を見つけられたのだとしたら──私は役に立てる。エステル様に妹の仇を討ってもらったこと、ダンジョンから助け出してもらったことへの恩返しができる。

 

 そう思って屋敷に戻ろうとしたアーヴリルだったが、次の瞬間、背後から声をかけられる。

 

「何してる?」

 

 思わず悲鳴を上げそうになったアーヴリルだったが、声の主を見て出かかった悲鳴は引っ込む。

 ローブを着たエステルが怪訝な表情でアーヴリルの後ろに立っていた。

 

「あ、エステル様──なぜここに?」

 

 言い訳じみた質問で返すなど失礼だが、アーヴリルは頭が回らなかった。

 

 だがエステルは気にした様子もなく、淡々と言った。

 

「ずっと部屋に閉じこもっていると聞いたから様子を見に行ってみたらいなかった。屋敷の者に聞いたら外の道を歩いているのを見たと言う奴がいたから探して尾けてきたんだ」

「そうですか──」

 

 屋敷に戻る手間が省けたという思いと──自分がやっていたことは本当にエステル様の助けになるのか、エステル様は本当は何もかも分かっているのではないか、という疑念が混ざり合い、アーヴリルはしばし沈黙する。

 

 エステルは苛立ったのか、先ほどよりも強い声で再び問いかけてきた。

 

「それで?ここで何をしている?なんでこんな時間に屋敷の外に出た?」

 

 アーヴリルは自分が見たことをエステルに話すのだった。

 

 

 

「スパイか──」

 

 アーヴリルの話を聞き終わったエステルは目を細めて呟いた。

 そしてキッと目の前の店を睨みつけて言った。

 

「いいだろう。スパイ狩りだ」

「え?まさか踏み込むのですか?」

 

 アーヴリルは思わず聞き返した。

 

「モタモタしていたら取り逃すだろうが。お前も来い。人数は多い方が良い」

 

 そう言ってエステルは店のドアに魔力を込めた掌底打を叩き込んだ。

 錠が破壊され、最小限の音でドアが開く。

 

「行くぞ。地下室だ」

 

 エステルは懐から拳銃を出してアーヴリルに差し出した。

 

「使え」

「え?よろしいのですか?エステル様の武器は?」

「私は魔法で十分だよ。──後ろは任せるぞ」

 

 そう言ってエステルはローブのフードで顔を隠し、店の中へと踏み込んでいく。

 

 アーヴリルは慌ててその後を追った。

 

(後ろは任せるぞ──か)

 

 最後にエステルが念押しするように発した言葉が妙に耳に残っていた。

 

 どうやらエステルは二人だけで地下室に突入し、曲者を捕まえるつもりらしい。

 なぜエステル様はいつもこう向こう見ずなのかという思いが湧き上がるが、エステルが初めて自分を頼ってくれているような発言をしたことを嬉しく感じている自分もいる。

 

 店は服飾店らしく、あちこちに衣装がかかっている。

 

 エステルはカウンターを飛び越えて店の奥へと進み、地下室への入り口を見つけ出した。

 

「いるな。二人だ。さっきから動いていない」

「我々だけで大丈夫でしょうか?」

 

 もう一度だけ確認するアーヴリルにエステルは落ち着いた声で返してくる。

 

「当たり前だ。相手は所詮人間だぞ。お前だって人間相手なら十分強いだろ」

 

 違う、そんなことはない──本当はそう言いたかった。

 確かに武芸や魔法の心得はあるが、それには「女にしては」という但し書きが付く。

 鍛えた男性相手にはまずもって勝ち目はない。騎兵隊に追われていたエステルを助けた時は相手がエステルに夢中で不意打ちに成功したに過ぎない。

 自分は相手と真っ向勝負で勝てるような力は持っていない。

 今までそれに気付かずに幼稚な万能感が肥大化していて、エステルとの旅でそれが完膚なきまでに打ち砕かれた。

 私は弱い──それを自分で認めたのにエステルに言うことができない。

 

「行くぞ。準備はいいな?」

 

 エステルの問い掛けにアーヴリルは小さく「はい」と返すことしかできなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

「エステル嬢が空賊討伐の指揮を執ったと?それは本当なのかね?」

 

 男からの問いかけに【トビアス・ヘイズ】は頷いた。

 

「本当です。彼女が現当主に啖呵を切りまして、自分に軍を預ければ空賊もオフリー家も叩き潰してみせると言ったのです。失敗したなら自分を如何様にもするが良い、成功したなら当主の地位を自分に寄越せと。それでテレンス様は彼女に全権を委譲しました。実質的に彼女が今のファイアブランド家当主です」

「だとしてもなぜだ?ファイアブランド家の戦力ではあれだけの空賊団をああも短時間で撃滅できるとは思えんが」

 

 彼の疑問に確信を持って答えることはトビアスにはできかねた。

 トビアスは軍人ではないし、実際の戦闘を見たわけでもない。

 

「私にもはっきりとは分かりかねますがエステル様が自ら戦闘に参加しました。聞いた話では空賊の鎧は半分近くが彼女に撃墜されたそうです」

「──信じ難いな。仮に本当だとして一体どうしたらあれだけの空賊を蹂躙できるのだ?黒騎士ではあるまいし──」

「知りたいか?」

 

 彼の声は鈴の音のような声によって遮られた。

 

「誰だ!?」

 

 彼が素早く振り向いて拳銃を抜いたが、次の瞬間、拳銃を握った手がポトリと落ちた。

 

「ッ!う、うわああああああああ!!」

 

 なくなった手と噴き出る血を見て彼が恐怖に叫ぶ。

 釣られてトビアスも叫び声を上げた。

 

「やかましい」

 

 そんな声がしたかと思うと、小柄な人影が彼の後頭部に打撃を与えた。

 

 彼は気絶して静かになる。

 小柄な人影はふっと息を吐いて満足げな声色で呟いた。

 

「風魔法だけでも案外切れるもんだな」

 

 その姿はローブに包まれて見えないが、愉悦の笑みを浮かべているであろうことは気配で分かる。

 

「だ、誰だ!?な、何をする!」

 

 トビアスは吃る声で必死に問い掛けた。

 

 小柄な人影は着込んだローブのフードを脱いで、底冷えのする声で言った。

 

「──私だ」

 

 現れた相手の顔にトビアスは狼狽する。

 

「ば、馬鹿な。なぜ貴女がここに──」

 

 いるはずのない【エステル・フォウ・ファイアブランド】がそこにいた。

 

 恐怖やら驚きやらで混乱して後ずさるトビアスだが、その後頭部に冷たく固いものが突きつけられた。

 

「動くな。動けば撃つ」

 

 突きつけられたのが拳銃だと悟ってトビアスは小さく悲鳴を上げる。

 どうやら背後にエステルの仲間がいるようだが、振り向くに振り向けない。

 

 エステルはそんなトビアスに冷ややかな目を向けて近づいてきた。

 

「なぜここにいるか?簡単なことだ、お前が尾けられていたんだよ。迂闊だったな。それと何をするか?決まっているだろ」

 

 そうまくし立てた後、エステルは軽く顎をしゃくった。

 

 トビアスは背後から蹴られ、床に両膝をつく格好で倒れ込んだ。

 

 顔を上げると目の前にエステルの顔があった。

 

「お前はファイアブランド家の情報をスパイに漏らした──私を売った罪で処刑する。だがそうだな、せっかくだから言い訳があれば聞いてやる。言ってみろ」

 

 言い訳してもいい──そう言われたが、トビアスは口が動かなかった。

 

「あ──いや──その──」

 

 言葉が出てこないトビアスを見て苛立ったのか、エステルは眉をピクリと動かし──

 

「時間切れだ。撃て」

 

 冷たく宣告した。

 

 背後にいたエステルの仲間が拳銃の引き金を引くのが気配で分かる。

 そして後頭部に凄まじい衝撃が走り──トビアスの意識はそこで途絶えた。

 

 

 

 なぜ裏切ったのか、など聞くまでもなく分かっている。

 ファイアブランド家ではオフリー家に勝てない。戦争になったら負けて殺されるか、搾り取られるか──だったらオフリー家に取り入れば助かるのではないか。そんな誘惑に屈したのだろう。

 

 気持ちは分かるが、情状酌量は一切しない。俺を裏切った罪への判決は死刑だ。

 

 だが──裏切り者が出るのは構造上あるいは制度上の問題でもあるな。

 どうすればこれ以上の裏切り者を出さずに済むだろうか。

 頭から血を流して倒れた男を見て俺は考える。

 

 その隣ではアーヴリルがスパイと思しき奴の手当てをしていた。

 スパイの方には聞きたいことがあるので、生かしておくよう指示したのだ。

 その手つきは手慣れたもので、風の刃で斬られた手首の止血をそつなくこなしている。まるで傷の手当てをすることなど日常茶飯事だったかのようだ。

 

 一人で妹の復讐に旅立ったり、俺の冒険についてきたりとアーヴリルは実に逞しい。

 今回スパイと裏切り者を発見できたのはアーヴリルが裏切り者を偶然見つけて尾行したからだ。

 

 ファイアブランド家の家臣共もこいつくらい逞しくて有能だったらな──

 

 ──そうだ。だったらこいつをファイアブランド家の騎士として召し抱えればいいのではないか?

 



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貴女とお茶会を

 彼女に撃てと命じられた時、自分でも驚くほどあっさりと引き金を引いた。

 まるで自身が彼女の部下であったかのように、その命令に自然に従っていた。

 裏切り者の男は自分が撃った弾で後頭部──脳幹を撃ち抜かれて即死した。

 

 頭に空いた穴から血を流す男の死体を見た時、湧き上がったのは歓喜でも恐怖でもなく、虚しさだった。

 自分は一体何をしているのだろう。

 またしても自分はただ彼女に引っ張られていただけだ。

 間者と裏切り者が潜んでいると目される店に乗り込もうとした時、自分は尻込みしていたのに、彼女はすぐに踏み込んでいく決断をした。

 後ろは任せるぞ──そう言われた時、嬉しかった。

 しかし、結局彼女の背後を守ることはなく、やったことは恐怖に震える男に拳銃を突きつけて一方的に射殺しただけ。

 出会った時には小さくて頼りなく見えた彼女の背中が今ではとても大きく見える。そしてそれに反比例して自分の存在の矮小さを思い知らされる。

 

 彼女の指示で手首を斬り落とされた間者の手当てをしながらアーヴリルは葛藤していた。

 

 やがて兵士たちがやってきて間者を屋敷に連行していき、アーヴリルは彼女と共に屋敷に戻ったが、葛藤は東の空が白み始めるまで続いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 気絶させたスパイ野郎を屋敷に連れ帰り、少し()()をしてみたら、存外あっさりドロを吐いてくれた。

 スパイ野郎の正体はオフリー伯爵家の傘下にある大商会のメンバーで、表向きは服飾品を扱う商人としてファイアブランド領で商売しつつ、その裏で役人を買収して色々悪どいことをしていたようだ。

 そしてここ最近はオフリー家からの命令でファイアブランド家の戦力規模や作戦に関する情報を集めていたらしい。

 

 こんな奴の跳梁跋扈を許すとか、やっぱりファイアブランド家ってガタガタだわ。内憂外患と言うのだったか?とにかく内も外も問題が多過ぎる。

 これは一度大掛かりな掃除が必要だな。

 

 その後、慈悲を乞う立場のくせして図々しくも表向きの立場を利用して俺を脅そうとしてきたスパイ野郎は苛々したので、騎士たちに命じて地下牢にぶち込んだ。

 あとは騎士たちがきっちりと落とし前を付けさせてくれるだろう。

 

 それよりアーヴリルだ。

 あいつを是非とも俺の騎士として召し抱えたい。

 

 裏切りや理不尽を憎み、見て見ぬ振りをすることもできた状況でそれをしなかった騎士道精神溢れる人柄、裏切り者を真っ先に見つけた観察力と勘の鋭さ、鍛えられた身体能力と信頼できる射撃の腕前、どれをとっても実に素晴らしい逸材だ。

 あと、顔もスタイルもなかなか良い。

 

 さて──望むだけなら簡単だが、どうやって引き抜いたものだろうか。

 

 全てが終わればアーヴリルは実家に帰るだろう。

 リックへの復讐を果たした後は如何様にも裁かれる覚悟だったようだが、思いがけず俺が代わりにリックを殺したことで、アーヴリルは大手を振って実家に戻れるようになったのだ。

 だから彼女が実家に帰る前に仕官の誘いをかけなければならない。

 

 ただ、いきなりストレートにファイアブランド家に仕官しないかと誘っても断られる可能性が高い。

 

 アーヴリルの実家が仕えているノックス子爵家だが、ファイアブランド家とは因縁浅からぬ仲のようだ。

 今まで知らなかったが、両家の寄子になっている零細領主たちの領土争いがしょっちゅうあって、両家の介入が度々行われていたらしい。蔵書室にその記録がどっさり保管されていた。

 ──ということは俺がリックを殺った時に捕まっていたら、それこそファイアブランド家とノックス家の戦争になる可能性もあったってことか。笑えないな。

 

 まあそれはさておき、アーヴリルにとってファイアブランド家は主君のライバル──敵も同じだ。

 敵の家の娘にヘッドハントされてあっさり仕官先を変えるなど、あの高潔な騎士の娘はするまい。

 

 だが、付け入る隙はある。

 アーヴリルの中にはまだ主君であるノックス家に対する遺恨は残っているはずだ。

 仇討ちは果たされても、アーヴリルの妹が元通りになることは期待できないだろうし、ノックス家が強姦事件を隠蔽したという事実も消えない。

 そこを徹底的に突く。

 

 ゆっくりと溶かしてほぐすような説得で、今まで仕えてきたノックス家から心を離れさせる──あれ?これって人妻を寝取るのに似ていないか?

 狙った人妻(アーヴリル)(主君)愚痴を吐き出させ(理不尽な仕打ちを再認識させ)、それに共感(同情)しつつ、自分といる(に仕える)方が良いと思わせて──俄然やる気が出てきた。

 前世で寝取られたのだから、今世では寝取る側の気分を味わいたい。

 

 まずはお茶にでも呼び出して、改めてもてなしてやるとするか。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日、エステルに呼び出されたアーヴリルは目元にできた微かな隈を気にしながらも、指定された部屋に赴いた。

 

 案内のため前を歩くティナはシックなメイド服に身を包んでいる。

 これまで冒険の旅で見てきた実用性重視の衣服とはまるで違う、一目で高級品と分かる衣服。アーヴリルが持っているよそ行きの服よりも上等な品である。

 

 奴隷にこのような高級な衣服を用意できるあたり、やはりエステルは大きな貴族家のお嬢様──自分とは住む世界が違っていたのだと思い知らされる。

 

 そしてさっぱり分からない。子爵家令嬢としてかしずかれ、守られてぬくぬくと育ったであろうエステルがなぜああも貴族令嬢らしくないのかが。

 習う必要もなさそうな剣術や鎧の操縦を学び、十二歳でそれなりに鍛えた男を剣で圧倒し、数千のモンスターを一人で蹴散らし、果ては軍を指揮して空賊を殲滅するほどの力を持つに至っている。

 ついでに言うと、望まぬ結婚を避けるために一攫千金を狙って冒険の旅に出るという選択をした理由も分からない。

 

 いつだってそうだ。エステルは何を考えているのか分からないし、予測不能だ。

 今こうして自分を呼び出している理由も分からない。

 

 ──分からないから不安になる。

 

 

 

 ティナがある部屋の前で立ち止まり、ノックする。

 

「ランス様をお連れしました」

 

 扉が内側から開かれる。

 開けたのは口髭を蓄えた老齢の執事である。

 

「ようこそお越しくださいました。エステル様が中でお待ちです」

 

 ティナが道を開け、先に入るよう手振りで示す。

 

 アーヴリルが扉をくぐると、そこは明るいサンルームだった。

 窓際にケーキスタンドとティーセットの載ったテーブルが置かれ、そこにエステルが着いている。

 彼女の反対側にもう一つ席があり、そこは空いていた。

 

 エステルが座ったままアーヴリルを手招きした。

 

「よく来てくれたな。ティータイムだ。付き合ってくれ」

 

 微笑を浮かべて尊大に宣うエステルの格好は今まで見てきたものとはかけ離れていた。

 赤いクロスタイの付いた白いブラウスを着て、下には濃紺色のロングスカート、髪は垢抜けたオールバックにセットされている。

 その姿は可愛らしくもあり、美しくもあり、アーヴリルは思わず見惚れてしまう。

 

「お掛けください。ランス様」

 

 執事がアーヴリルの座る椅子を引いた。

 

 ティナはエステルの後ろに移動し、そこで待機に入っている。

 

「──どうも」

 

 礼を言って椅子に腰掛けると、程なく芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。

 

 執事がポットに茶葉を入れ、素早く湯を注いで蓋をし、脇の砂時計を返す。

 

「サイラスの淹れるお茶は美味いんだ。楽しみにしてていいぞ」

 

 エステルが自慢げに言うが、サイラスと呼ばれた執事は肯定するでも謙遜するでもなく、粛々と仕事に勤しむ。

 

 サイラスがケーキスタンドの前に移動するとトングと皿を手に取った。

 

「お茶請けはどれになさいますか?」

 

 その言葉はアーヴリルに向けられたものである。お茶請けは客人であるアーヴリルが先に選ぶのだ。

 

 アーヴリルは口の中に唾が湧いてくるのを自覚する。

 ケーキスタンドに並んだお菓子はどれも美味しそうだ。

 

 アーヴリルは少し迷ったが、下の方の段にあった好物に目が留まった。

 

「では──そのロールケーキを」

 

 綺麗に切られたロールケーキが一切れ皿に移され、前に置かれる。

 

 エステルには三角形に切ったチーズケーキ。

 

 そしてサイラスは無駄のない動きでポットからカップへと紅茶を注ぎ、二人の前に出した。

 

 その光景にアーヴリルは学園にいた頃を思い出す。

 上級クラスの男子たちが女子たちをお茶会に誘っていて、女子たちは誰彼のお茶会はどんなだったかという話で盛り上がっていた。

 普通クラスに所属していたアーヴリルはお茶会に招かれることはなく、人伝に聞いて想像するしかなかったが──今自分がいるのはまさにそのお茶会だ。

 

 エステルが手振りで合図すると、サイラスとティナは一礼して部屋を辞した。

 サンルームにはエステルとアーヴリルの二人きりになる。

 

「帰ってきてからずっとバタバタしててゆっくりお茶してる暇もなかった。それにお前にもロクなもてなしができなかったからな。楽しんでくれ」

 

 そう言ってエステルがフォークを手に取った。

 

 アーヴリルも慌ててフォークを手に取り、ロールケーキを口に運んだ。

 口の中に広がる甘さに思わず頬が緩む。

 

 エステルの方を見ると、ご満悦なのか今まで見たことのない緩んだ表情をしている。初めてエステルが年相応の少女に見えた。

 

 アーヴリルの視線に気付いたエステルが「何だ?」と問いかけてくる。

 

「いえ──その──エステル様のそのようなお姿は初めて見たもので──」

 

 どう言えばいいのかいまいち分からず、言葉に詰まるアーヴリルだが、エステルは悪戯っぽく笑って言う。

 

「おいおい、私はこれでも子爵家令嬢だぞ?女物の服くらい着るし、おめかしだってするさ」

 

 そのことを言ったのではないのだが、アーヴリルは訂正しなかった。

 代わりに媚びるような褒め言葉を発する。

 

「ええ、そうですね。とてもお綺麗ですよ。まるで──そう、妖精のようです」

 

 エステルは一瞬目を逸らしてふっと息を吐いた。

 

「妖精か──じゃあ、お前は凛々しい女騎士だな」

 

 え、とアーヴリルは思わずエステルを見返した。

 

 いきなり何を言い出すのか、というアーヴリルの疑問にエステルは笑顔で答える。

 

「出会った時、追われていた私を助けてくれただろう?知らんぷりもできたろうに──おかげで私は冒険を続けられて、そして成功させられた。ちゃんと礼を言っていなかったな。あの時はありがとう。嬉しかったぞ」

 

 今まで見たこともないような屈託のない笑顔で感謝を伝えられて、アーヴリルは面食らい、そして罪悪感が胸を支配する。

 

「いえ──礼を言われることではありませんよ。ただの──気まぐれです。貴女が誰かも私は知らなかった。知っていたら──」

 

 エステルの正体をあの時知っていたら助けたかどうかは疑わしい。

 彼女は──自分が仕える家の敵なのだ。

 リック殺害の咎を自分の代わりに敵が背負い、自分の目的は果たされた状況──間違いなく見て見ぬふりをしていただろう。

 

「助けたさ」

 

 エステルは力強くアーヴリルの主張を否定した。

 

「お前なら私を助けたよ。たとえ正体を見抜いていたとしてもな」

 

 違う──違う、私はそんな高潔な人間じゃない。

 自分の本性を隠して、自分さえも騙して高潔に振る舞っていただけだ。その本質は粋がるガキと変わらない。

 

 否定し返そうとするが、言葉にならない。

 エステルの美貌と笑顔で言われたことを否定したら、取り返しがつかない所まで堕ちてしまいそうで、それ以前に彼女に軽蔑の目を向けられるのが怖くて──だからアーヴリルはまた嘘を重ねるしかない。

 

 アーヴリルの内心など露知らぬ風でエステルはアーヴリルを煽ててくる。

 

「お前は立派な騎士だ。理不尽を憎む真っ直ぐな心も、弱い者を自ら助ける優しさも、一人で妹の仇討ちに旅立つ行動力と逞しさも、全て持ち合わせている。お前のような騎士の鑑を育てたランス家も実に素晴らしい。ノックス子爵家が羨ましいよ。──豚に真珠な気もするけどな」

 

 最後の言葉は嘲りか、はたまた同情か、含みのあるものだった。

 

「何を仰りたいのですか?」

 

 思わずアーヴリルは語気を強めたが、エステルは気にした風もない。

 

「お前は──ノックス子爵家が仕えるべき主だと、今でもそう思っているか?」

「ッ!それは──」

 

 あっさり「いいえ」と言えたならどれだけ楽だっただろうか。

 だが、アーヴリルにはできかねた。辛うじて残っていた騎士の娘としてのプライド──主を貶めることを許さない──がアーヴリルの口を閉ざす。

 

 しかし、エステルは容赦なく踏み込んできた。

 

「言いにくいなら当ててやろう。お前の答えは否だ。でなきゃノックス子爵家の嫡出子の命を狙うなんてするわけがない。違うか?」

 

 ──言い返せない。

 妹の【シェリル】が傷つけられた時、それまで当たり前だった価値観が崩れた。

 ノックス子爵家はシェリルを拐かし、辱めた者たちに殆ど罰を与えなかった。シェリルが主犯だと証言したリックに至っては、関与していなかったとされ、お咎めなしだった。

 ランス家はこれまでノックス子爵家に忠実に仕えてきたのに、なぜこんな酷い仕打ちを受けなければならないのか。

 当主である父にそれを訴えもした。だが父は教えを繰り返すだけだった。

 

「暗君であろうと名君であろうと仕えた主君には忠義を尽くせ」

 

 それが騎士として当然だとアーヴリルも思ってきた。

 でもこれはあんまりだ。私たちは騎士であって奴隷ではない、そして騎士である以前に尊厳と誇りのある人間なのだ──だからそれをリックに分からせてやりたいと思って、復讐に乗り出した。

 

 結果リックは思いがけずエステルの手にかかって死んだ。エステルとその連れを拐かそうとして斬られたと人伝に聞いてアーヴリルは溜飲を下げた。

 そして同時に自分の復讐の落とし所に達したと思った。

 

「事はもう済んでいます。妹を辱めたリックは死に、復讐は果たされました。これ以上は等価報復を過ぎます。それは──騎士の道に悖ります」

 

 騎士の復讐は【等価報復】が大原則である。

 感情や正義に任せて際限なく復讐すれば先に待つのは破滅のみ。

 だから等価報復の手段として【決闘】制度があるのだが、それはまた別の話である。

 アーヴリルは半ば自分に言い聞かせるようにそれをエステルに伝えたが、彼女は引き下がらない。

 

「本当にそう思うか?リックが死んだだけで事は済んだと」

「違う──そう仰りたいのですか?」

「私からしてみれば、な。お前は身の上を話してくれた時こう言ったはずだ。事は揉み消され、妹は泣き寝入りを強いられた、と。強姦事件をノックス子爵家が権力で揉み消した。違うか?」

 

 ──違わない。

 妹を傷つけたのはリックだが、ノックス子爵家が彼を庇った。

 元凶はリックであって、彼が死んだ以上はもう手打ちとすべき──そう結論づけたはずなのに、エステルはそれを揺さぶってくる。

 

「沈黙は肯定と取るぞ。つまりお前の家に起こったことはノックス子爵家のドラ息子が犯した過ちなんかじゃない。ノックス子爵家の裏切りだ。ランス騎士家が捧げた忠誠とこれまでの貢献に対する恩を仇で返されたということだぞ?」

 

 アーヴリルは言い返す言葉もない。

 

「お前の騎士道精神は素晴らしいが──忠誠と盲従は違う。ノックス子爵家はお前を、そしてお前の家族を都合よく利用して搾取しているだけだ」

 

 そしてエステルは一息ついて、紅茶を一口飲んだ。

 

「私なら絶対に、お前のような素晴らしい騎士をぞんざいに扱ったりはしないのにな」

「──え?」

 

 その言葉にアーヴリルは激しく動揺した。

 なぜかは自分でもよく分からないが、一瞬凄まじい高揚感が湧き上がったかと思うと、その後すぐに大きな抵抗感が湧き上がった。

 まるでエステルが自分に仕官しないかと誘っているかのように思えた。

 何と返せばいいのか分からなくなるアーヴリルだが、エステルの関心は既に別のことに移っていた。

 

「お茶がぬるくなってしまったな。淹れ直させよう」

 

 エステルがベルを押すと、サイラスが入ってきてカップを回収していった。

 

 またしばし、サンルームには二人きりになる。

 

 だがアーヴリルは何としても先程の発言の真意を問わなければならなかった。

 この機会を逸してしまえば、二度と訊けなくなるような気がしたから。

 エステルは先程までの饒舌さはどこへやら、口を閉じて窓の外を見ている。

 

「あの、エステル様」

「何だ?」

 

 エステルがアーヴリルに向き直る。

 その瞳は何かを期待しているようにも見えるが、相変わらず読めない。

 

「先程の言葉は──」

 

 どういう意味で言ったのか、と続ける前にエステルは答えを返してきた。

 

「ああ、お前を召し抱えたい。そう思ったのさ」

「私を──?」

「そうだ。アーヴリル、私に仕官する気はないか?」

 

 ああ──私をお茶会に呼んだ本当の用事はそれだったのか。

 

 昨夜の葛藤がまたぶり返してくる。

 

 

 

 いつの間にかアーヴリルは泣いていた。

 

「私には──貴女にお仕えする資格などありません」

「なぜだ?」

 

 涙でぼやけた視界に映るエステルは憎らしいほど落ち着いた表情だった。

 

「私は!──私は、恩人である貴女を恨みました」

 

 アーヴリルは抱えていた罪悪感と自己嫌悪の元凶となった出来事をエステルに告白した。

 自分がダンジョンで捕まって一つ目の怪物に拷問されたことで気付いた醜い感情は、今でもありありと思い出せる。

 否定しようとすればするほど強く脳裏に刻みつけられたそれを告白したことで、解放感が訪れたのも束の間、恐怖が心を支配する。

 

 エステルが席を立ったのが音で分かった。

 

 浴びせられるであろう罵倒と軽蔑の眼差しからのせめてもの逃避としてアーヴリルは俯く。

 

 不意にアーヴリルの頭が柔らかく温かいものに包まれた。

 

 抱きしめられたのだと気付くのに数秒かかった。

 

 エステルが子供をあやすような声で言ってくる。

 

「すまなかったな」

「え──あの──エステル様?」

 

 思わず顔を上げると、エステルは悲痛な表情を浮かべていた。

 

「お前の抱いた感情は間違ってなんてない。私の我儘でお前を酷い目に遭わせてしまった。苦しかったよな。痛かったよな。結果的には全員生還できたけど──お前の言った通り、無謀だった。許してくれなんて言わない。私を憎んだっていい。でも──本当に──すまなかった」

 

 その言葉がアーヴリルを叩きのめした。

 

「どう──して──」

 

 その先に続けたい言葉はいくつも思い浮かんだが、どれも喉につかえたまま出てこない。

 

 独り善がりで助けようとして、そのくせ助けられてばかりで受けた恩に何ら報いることができなくて、挙句貴女を逆恨みして、憎んで、呪った。貴女が不幸になる未来を望んだ。

 

 それなのに──どうして貴女が謝るのか。

 

 どうして私を蔑まないのか。

 

 どうして私を許すのか。

 

 どうして私に優しくするのか。

 

「だから──もう自分を責めるのはやめてくれ」

 

 そう言ったエステルの目から涙がこぼれた。

 

 負けた──そうはっきり分かった。

 目の前の少女は何もかもにおいて自分より優っていて、それでいて清浄で汚れのない存在で、自分に許されるのはただその強さと優しさに縋ることだけなのだと思い知った。

 

 心にかかった重く粘っこいモヤが晴れていく。

 涙の勢いは衰えるどころか、さらに増していき、全く止められない。

 

 アーヴリルは号泣した。

 その姿は産声をあげる赤子のようにも見えた。

 

 

◇◇◇

 

 

 演技するのもそろそろ疲れてきた。

 正直、「そんなことで悩んでいたのか?」と言いたい。

 あの状況で俺を恨まない人間などいないだろう。

 それくらい、アーヴリルに聞いたライチェスの拷問は凄まじかった。

 

 そして俺は恨まれようが、憎まれようが、別に気にしない。

 そもそも俺自身が恨みと憎悪が服を着て歩いているような人間だ。

 前世から持ち越された恨みと憎悪は転生して何年も経った今でもずっと、心の底に煤混じりの油汚れみたいにこびりついている。

 リックを殺したのはそれが爆発したからだし、空賊共を殲滅したのだって貴族の義務とか領民のためとかそんなご大層な理由ではない。領主の地位をものにするためと──あとは単なる憂さ晴らしだ。

 俺が抱く恨みと憎悪に比べれば、アーヴリルが抱いた逆恨みなど可愛いものである。

 俺のは絶対に消えずに燻り続けるが、アーヴリルのはとっくに消えている。

 

 過ぎたことでウジウジ悩む奴は見ていて苛々する。

 だがグッと堪えて俺はアーヴリルを口説き落とす最後のフェーズに取り掛かる。

 

「お前はやっぱり立派だよ。普通の人間ならその恨みを持ち続けるか、調子良く忘れてしまう。でもお前は違った。お前が自分を責めていたのはお前が己を顧みて律することができる特別な人間だからだ。お前はやはり騎士の鑑── 騎士道精神の体現者だよ」

 

 アーヴリルは嗚咽を漏らすだけでロクな返事を寄越さない。

 そんなアーヴリルに俺は精一杯の女神スマイルと女神ボイスで囁きかける。

 

「だから──やはり私はお前が欲しい。今すぐに返事をくれとは言わない。そしてどんな返事でも、お前の意思を尊重する。お前のいるべき場所は──いや、いたい場所はどこか、考えてみて、その上で返事をくれ」

 

 そして俺はティナを呼んで泣き続けるアーヴリルのためにハンカチを持ってこさせ、入れ違いにサンルームを出た。

 

 

 

 ──終わった。

 

 セルカとティナと一緒に練り上げたアーヴリルヘッドハント計画をやり遂げた。

 あとはアーヴリルの反応次第だ。

 

 どっと疲れが襲ってくる。

 主な原因は最後の方で慣れない演技をしたことだろう。

 セルカがアーヴリルは無意識的に理解者を欲していると言うものだから、アーヴリルの抱いた逆恨みを敢えて肯定し、酷い目に遭わせたことに対して謝罪する演技をしたのだ。

 しかもその際は俺も泣かないといけないとティナに言われ、涙を流す演技の猛特訓を一夜漬けでやる羽目になった。

 今世の肉体の涙脆い体質のおかげかコツはすぐに掴めたが、どうにも何か大事なものが失われたような汚されたような複雑な気分だ。

 

 でもまあ、頑張った甲斐あって手応えは上々だ。

 だから──良い返事を期待しているぞ。



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父娘喧嘩 Ⅰ

「お嬢様。起きてください。起床時間ですよ」

 

 耳元で囁かれる甘い声と窓から差し込む光が頭を覚醒させる。

 横を向くと目と鼻の先にティナの顔。

 先に起きて朝の支度を済ませてくれたらしい。

 

 欠伸をしながらベッドを下り、ティナが用意した服に着替える。

 

 すっかり女物の服に馴染んでしまった自分に何とも言えないものを感じつつも、洗面台で顔を洗って食堂に行く。

 

 朝食を食べながら騎士たちの報告を聞く。

 

 戦争に必要な物資の買い付けは当初の予定より遅れているようだ。

 どうにも売ってくれる商人がなかなか見つからず、数少ない売ってくれる商人には足元を見られているようで、現在の予算では予定量の購入ができそうにない、とのことである。

 腹立たしいことに、ファイアブランド家が伝手を持つ商人の全てにオフリー家の息が掛かっていて、取引を軒並み拒否してきたのだ。

 だからオフリー家の息が掛かっていない商人から購入するほかないのだが、これが難航している。

 

 幸い俺が冒険の帰りにサルベージで手に入れた財宝を換金して軍資金に充てることができそうなのと、時間との勝負なのとで、多少割高でも買い付けを優先するよう伝えてある。

 

 ──戦争というものは始まる前からやたら金がかかって気苦労が多いものだな。

 それでもやめるという選択肢がないのが戦争が地獄たる所以だ。

 嫁に行くのを回避するという自己保身と領主の地位を手に入れる野望──即ち自分一人の勝手で家臣と領民をそんな地獄に巻き込む俺は紛うことなき悪人だろう。

 

 

◇◇◇

 

 

「増税だな」

 

 執務室での書類仕事がひと段落した俺は呟いた。

 

『資金繰りの話かしら?』

 

 察しの良いセルカに頷き、俺の中で出した結論を述べる。

 

「外からの借金など以ての外だ。戦費は戦時増税で賄う!」

 

 オフリー家との戦争のための武器と物資の購入に多額の予算が回されることへの帳尻合わせには、借金やファイアブランド家の私財放出などいくつか方法があったが、俺は自領の増税で賄うことにした。

 

 何?領民が困る?関係ないな。

 俺がオフリー伯爵家に勝って領主の座を手にするために必要な経費だ。

 それに借金にはトラウマがある。

 

 セルカはしばし考え込むように沈黙すると、肯定的な返事をしてきた。

 

『そうねぇ──財宝の買取価格にもよるけれど、装備調達費で相殺されてしまうでしょうし──良いと思うわ』

「だろ?今から領民共の悲鳴が聞こえてきそうだ」

『そうかしら?案外みんな喜んで納めたりして。撫民宣伝、相当な効果よ』

 

 そう言ってセルカはビラを一枚、俺の前に差し出してくる。

 

「──ああ、あれのか。ふん、こんなものに踊らされるとはおめでたい連中だな」

 

 撫民宣伝とは領内の混乱を避けるために行われているプロパガンダのことだ。

 

 俺が親父にファイアブランド家全権を委譲させた──つまりファイアブランド家が事実上の代替わりをした──ことと、オフリー伯爵家との戦争を決定したことはたちまち領内に広まり、少なくない混乱と反発を生じさせた。

 

 そこで俺の行動の正当性を知らしめるため、オフリー家が港島を襲撃・占拠した空賊団と繋がっていた事実、及び空賊との戦いでの俺の活躍を領民に向けて宣伝していた。

 

 俺がアーヴリルとお茶会をやっている間、家臣たちはかなりの人手を割いて領内のあらゆる街や村で熱心にビラを貼り、演説をして回っていたらしい。ちなみにその際、港島で空賊共に人質に取られていた領民たちが大いに協力してくれたそうである。

 

 その報告を聞いた時は俺のために熱心に働いてくれて実に結構だと聞き流していたが──今その宣伝のビラを見てみると思わずドン引きする内容だった。

 

 会議で揉めていた家臣たちを怒鳴りつけて親父に啖呵を切った場面は、領民を想う善良かつ勇敢な(エステル)が弱気になっていた当主と軍人たちを熱く叱咤激励した──という描写がされている。

 

 当主の地位を賭け金にした賭けを親父に持ち掛けた場面も、やはり凡愚で気弱な父親に代わってファイアブランド領を良くしたいという熱い志に基づいた行動であるかのように書かれている。

 

 さらに自ら戦場に飛び込んだ理由は部下たちだけに危険を背負わせはしないという決意であった、などと勝手に解釈され、それを裏付ける証拠として戦闘中に敵エースにやられそうになった味方を間一髪で助け、味方のために危険な敵エースの相手を自ら引き受けた──とある。

 

 そして極めつけはオフリー家との戦争の理由だ。

 

「空賊を雇ってけしかけるなど、民の上に立ち、民を守る立場にある貴族としてあるまじき悪逆非道な行いであり、そのような卑劣極まる行いをするならず者に屈しては、ファイアブランド領に暮らす者全ての生命と財産が危険に晒される」

 

 という()()なものになっている。

 

 これでもかと俺を持ち上げる方向に脚色された内容。

 

 さすがにこれは少し気持ち悪いと感じたが──領民たちがこんなあからさまなプロパガンダにあっさり騙されているのは笑えるじゃないか。

 せいぜい今のうちは無邪気に俺を信じているがいい。

 全てが終わって俺が正式に領主になったら見ていろよ。嘆き、苦しみ、怨嗟の声を上げるまで虐め抜いてやるからな。

 

 そうと決まればと早速どの税をどれだけ上げるか考えていると、扉がノックされた。

 入室許可を出すとサイラスが入ってきた。

 

「エステル様。オフリー伯爵家より書簡が来ております」

 

 そう言ってサイラスは封筒を一つ差し出してきた。

 

「書簡だと?」

 

 ファイアブランド家に攻めてくるのは確実なのに、今更書簡など出して何を言ってくるのだ?

 眉をひそめながら封筒を開けてみる。

 そして──

 

「──何だと?」

 

 

◇◇◇

 

 

 久しぶりに悪夢を見なかった。

 カタリナに見下されて暴言を吐かれる夢も、カタリナの亜人奴隷に締められる夢も──家出したエステルが復讐に戻ってきて殺される夢も──何の夢も見ずにぐっすりと眠れた。

 こんなことは何時ぶりだろうか。

 

「あ、やっと起きたわね。おはよう」

 

 マドラインの声が聞こえた。

 昨夜しどけない格好で同衾していたのが嘘のように身なりを整えて裁縫をしていた。

 どうやら服を作っているようだ。

 

 誰のための服なのだろうか、と疑問に思いながらもテレンスは朝の挨拶をする。

 

「ああ──おはよう。──お疲れ様」

「昨夜はよく眠れたみたいね。安心したわ」

 

 マドラインは裁縫の手を止め、テレンスの側に寄ってきて顔を覗き込む。

 

「ああ──久しぶりに何の夢も見なかったんだ」

「──そう。良かったわね。貴方、あの子が帰ってくるまでずっとうなされていたものね」

 

 そう言ってマドラインはテレンスの隣に腰掛ける。

 

 テレンスがマドラインの肩にもたれかかると、マドラインは頭を傾けてテレンスの頭に頬をくっつけた。

 テレンスは昔からマドラインと二人でこうするのが好きだった。マドラインにもたれかかっていると気持ちが落ち着くのだ。

 仕事で疲れた時も、王都で暮らすカタリナが領地にやってきて嫌な思いをさせられても、マドラインと身を寄せ合う時間が癒してくれた。

 

 マドラインがふと呟く。

 

「ねぇ──あの子は──エステルは大丈夫なの?」

 

 その問いにテレンスは即答できかねた。

 

 領地の危機に手を付けかねて十二歳の娘に全権を委ねるなど前代未聞の所業である。

 

 領内統治も戦争も、交渉の一つさえも経験していない箱入り娘──少なくとも普段屋敷に出入りすることのない者たちからすればエステルはそう見えていた──にファイアブランド家の全権が委譲されたと知った家臣や騎士たちからは凄まじい反発が起こった。

 エステルを子供と侮る者も多かったし、素人と信用しない者もまた然り。

 

 彼らを抑えていたのは昔からエステルと交流を持ち、彼女をよく知っていた者たち、そしてあの時の会議室でエステルの尋常ならざる覚悟を感じ取った者たちだ。

 特に全権委譲の直後、抗議する役人目掛けて剣を投擲し、「命令に従わなければ殺す」とはっきり示した時、会議室にいた家臣たちはエステルに逆らう意志を完全に削がれた。

 彼らが部下を抑えていなければ反乱が起こってもおかしくなかった。

 

 ──そうなると分かっていて、エステルを修羅場に放り込んだ。

 

 エステルが持つ化け物じみた才能なら領地の危機もどうにかなるのではないか──その考えもあるにはあったが、ほとんど自棄になっていたのだ。

 もう何もかもどうでもいい。ただただ、この世で最も憎かった女の娘──生意気で、浪費家で、可愛らしさや純真さの欠片もない、腹の立つ小娘を苦しめてやりたいと思った。

 

 その時の気持ちを思い出してテレンスは顔を歪める。

 

 今にして思えば何ということをしたのか。親どころか、人間としてどうかしている。

 マドラインは昔から曲がりなりにも精一杯エステルを愛していたのに、自分はついぞエステルを愛せなかった。

 打ちのめされて、絶望して、泣きながら助けを求めてくるのをどこかで期待していた。

 

 だが──結果的にエステルは勝った。

 

 港島の戦いを機に家臣たちのエステルを見る目は変わった。

 姿形はか弱い少女でありながら自ら戦場に赴き、敵の矢面に立って戦ったばかりか、誰よりも多くの戦果を上げてみせた。

 家臣たち──特に軍人たちからは畏敬の念と共に信頼と忠誠を抱かれ、エステルならばオフリー家にも勝てるのではないかという考えが広がりつつある。

 

「大丈夫──そう信じるほかはないだろう。それにあれはあの子自身が望んだことだ」

 

 どうにか言葉にできたその考えにマドラインは不満げだった。

 

「でも──あの子まだ十二歳よ?学園も出ていないし、領主の仕事の経験だって一つもないのよ?なのに伯爵家と戦争なんて──やっぱり貴方から考え直すように言った方が──」

 

 食い下がるマドラインに対してテレンスはかぶりを振った。

 

「あの子が一度決めたら絶対に譲らないのはお前も知っているだろう?今の俺が何を言ったところで意地でも耳を貸さないだろうさ。それに──俺は今まであの子につらくし過ぎた。さぞかし恨みを買っているだろう。今更下手に口を出したりすれば何をされるか──」

 

 マドラインは黙ったが、その顔は納得していない表情をしている。

 

 テレンスは居た堪れなくなるが、今更どうにもならないという諦観は変わらない。

 否、変えてはいけないと、テレンスは思う。

 領内はエステルを支持して対オフリー戦争の気運を高めている。

 ここで逆らえばそれこそ殺されてもおかしくないし、そうでなくても自分やマドラインやクライドの今後の扱いに悪影響が出る恐れがある。

 

「そんな顔をするな。あの子は俺よりも、いや、このファイアブランド領の誰よりも強い。それに家臣たちもあの子の下で今までになく奮励努力している。あの子にどうにかできないなら誰にもどうすることもできないさ。今俺たちにできるのは見守ることと──祈ることだけだ」

 

 せめてマドラインを少しは安心させてやりたいと思い、テレンスはエステルを精一杯持ち上げる。

 だがマドラインの表情は晴れない。

 

「それはそうかもしれないけれど──でも、やっぱりちゃんと話はした方が良いと思うわよ?お互い意固地になったままじゃ、あの子にとっても私たちにとっても良くないことになる──そんな気がするの」

 

 その言葉にテレンスは考え込む。

 

 エステルが上手くやってオフリー伯爵家に勝てたとして──その後は?

 ほぼ間違いなくエステルがファイアブランド家の当主になる。

 口約束とはいえ、空賊とオフリー伯爵家に勝てば領主の地位を正式にエステルに譲るという約束をした。

 エステルはその約束の履行を迫るだろうし、周囲もエステルが領主になることを歓迎するだろう。

 ──その時俺たちはどんな扱いになる?

 

「ああ──そうだな。今更遅いかもしれんが、あの子と和解する努力をしよう。お前とクライドのためだ。つまらないプライドや私怨は捨てよう」

 

 可及的速やかに──遅くともオフリー軍との戦いが始まる前にエステルと話をしようとテレンスは決意する。

 

 

◇◇◇

 

 

 書簡の内容は再度の交渉の打診だった。

 オフリー家から新たな提案があるのでこちらから使者を送る──と書いてあったが、オフリー家の魂胆は知れている。

 使者に見せかけたスパイを送り込んで空賊と組んでいた証拠がファイアブランド家の手に渡っていないか探りを入れ、あわよくば盗み出そうとでもしているのだろう。

 

 だがそうはいかない。

 

「ふん。誰が交渉などするか。今更媚びても遅いんだよ」

 

 毒づくとサイラスは心配そうに言ってくる。

 

「よろしいのですか?差し出がましいですが、向こうの提案を聞いてから決めても遅くはないかと存じます」

「論外だ。空賊と組んでうちの領地を荒らさせた奴らだぞ?そんな奴らの提案など信用に値しない。というか、聞く価値もないな」

 

 突っぱねると、サイラスはあっさりと引き下がって頭を下げてきた。

 

「──出過ぎた真似を致しました。申し訳ありません」

「分かったら下がれ。あ、それとお茶を用意しろ。喉が渇いた」

「かしこまりました」

 

 サイラスは一礼して部屋を辞した。

 

 入れ違いに隠れていたセルカが出てくる。

 

『やっぱり貴女、しっかりしているのね』

「いや、当然のことを言っただけだ。あの書類の存在を知ってしまえば誰だって同じ選択をしたさ」

 

 セルカはふっと目を閉じて、うんうんと頷くように身体を揺らした。

 

『そうね。ここで交渉を受けたりしたらそれこそ信用問題よ。空賊と組んだ卑劣なオフリー家に屈しない!っていう大義名分で戦争準備をしているのだし』

「ああ。俺の沽券に関わる」

 

 そう言って俺は書状をクシャクシャに丸めて炎魔法で燃やした。

 

 もし、オフリー家が空賊と繋がっていた証拠を見つけていなかったら、血を流さずに済むと思って交渉に応じたかもしれないが、そんな仮定をしたって仕方がない。

 それに親父に啖呵を切った時に言ってしまったのだ。

 空賊共も()()()()()()()()()私が叩き潰してやる、と。

 それが領主の地位を頂く条件だからきっちり満たしてやらないといけない。

 

 

◇◇◇

 

 

 エステルとセルカのやりとりを隣の部屋でこっそりと聞いていたのは案内人である。

 口元を三日月形に歪め、ガッツポーズをしている。

 

「ふふふ。これでもう戦うしかなくなりましたね。プロパガンダを盛り上げた甲斐があったというものです」

 

 案内人はファイアブランド家がオフリー家との戦争に突き進むよう、ファイアブランド領の領民たちを煽動していたのだ。

 一部の家臣たちが行なっていた撫民宣伝を見てこれは使えると思い、他の家臣たちや領民たちの意識にせっせと働きかけて、オフリー家倒すべしの気運を盛り上げていった。

 その効果は満足のいくもので、オフリー家への激しい敵意が燎原の火のようにファイアブランド領全体に広がっていった。

 

 ただ、それは案内人にとっては諸刃の剣でもあった。

 経済的に困窮した現状に強い不満を抱いていたファイアブランド領の領民たちの目に、エステルが希望の太陽のように映ったのだ。

 多くの世界の歴史上で度々繰り返された通り、鬱屈したものを抱える民たちは強い指導者を求め、その指導者(エステル)の掲げる正義に感動した。

 エステルに向けられる期待と好意がエステルの感謝に上乗せされ、案内人の身体を蝕む。

 

「もう少し──もう少しの辛抱だ。エステルが負ければこの熱狂は失望と憎悪に変わる。覚悟しておけ、エステル。とびっきりの地獄を用意してやるからな。さてと、次はオフリーだな。あ〜忙しい忙しい」

 

 胸を押さえながらも笑みを浮かべてそう呟くと、案内人は浮かび上がり、天井をすり抜けて姿を消した。

 ファイアブランド家での仕込みはもう十分だと判断したのと、あまりに気分が悪いのとで、ファイアブランド領を離れてオフリー家での仕込みに取り掛かることにしたのだ。

 

 案内人が部屋から消えると、物陰から淡い光がそっと出てきた。

 犬のような形をしたその光はじっと案内人の消えた天井を睨み付けていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 夜。

 

 執務室の扉がノックされたかと思うと、聞こえてきたのは親父の声だった。

 

「エステル──入ってもいいか?」

 

 答えはノーだ。今は親父の顔など見たくもない。

 

「今忙しい」

 

 そう言って追い払おうとするが、親父は去っていかなかった。

 

「そうか──ではひと段落してからでいい。話をさせてくれないか?それまで待っている」

 

 はぁ?今更何を話しに来やがった。

 というか、いつまでも外に張り付かれているのも気持ち悪いんだが。

 

 無理矢理追い払おうかと思ったが──やめた。

 俺も前世では娘を持つ父親だった。そして──その娘に拒絶された。

 ありったけの愛情を注いで大事に育てたのに、「新しいパパがいい」と言われた。

 娘を誑かした元妻のせいだと分かってはいるが、納得はできないし、許せもしない。

 今ここで親父を追い払ったら──俺は前世でロクに話も聞かずに俺を拒絶した元妻や娘とどう違うんだ?

 

 ペンを置き、執務机から立ち上がった。

 

 すぐ横で待機していたティナが察して扉を開けようとするが、手で合図してやめさせ、自分で扉を開けた。

 親父は扉の前に立ったまま待っていた。

 

「今終わったよ」

 

 そう言ってソファを示すと、親父は遠慮がちに座った。

 

 俺は扉を閉めて親父の対面に座る。

 

「それで?話って何だ?」

 

 単刀直入に切り出すと、親父は怒鳴るでも机を叩くでもなく、謝罪の言葉を口にした。

 

「今まですまなかった」

「──は?」

 

 少々予想外だった。

 

 どうせ今まで俺が戦場に出るのを止めようとしてきた家臣たちみたく、オフリー家との戦争を考え直せとでも言ってくるものと思っていた。

 

 でも、親父が憎んでいる俺──見ていると酷かった前妻を思い出すという理不尽な理由でだが──にいきなり謝ってきても、何か裏があるとしか思えない。

 

 親父は俯いたまま淡々と話す。

 

「俺は──お前が嫌いだった。いや、違うな。お前の生みの親──カタリナが嫌いだった。だから──お前とカタリナを重ねてしまった。とうの昔に死んだカタリナへの積もり積もった恨みを──お前にぶつけてきたんだ。お前は──カタリナのしたこととは関係ない──それどころかカタリナの存在すら知らなかったのに──お前を苦しめた。今になってやっと思い返した。今更謝っても遅いだろうが──本当に、すまなかった」

 

 親父の反省の弁を聞いていて思った。

 ──コイツ、色々と駄目だなって。

 

 典型的な手の平返しだ。

 空賊共を倒して領地が勝利に沸き、オフリー家との戦争に向けて戦意を高揚させている今のタイミングで俺に阿ってきたのが何よりの証拠だ。

 俺の機嫌が良いであろう時を狙って心証を良くしに来たのが丸分かりだ。

 

 全くもって図々しい。

 どうせ俺が何かヘマをすれば、また手の平を返して俺を罵るのだろう。

 前世でそういう奴を多く見たから分かる。

 身に覚えのない横領で告発された時、周りの奴らは口では俺を信じているようなことを言って励ましておきながら、具体的な助けを寄越してくれることはせず、いざ俺が不利になると逃げるように俺から離れていった。

 

 結局人間なんて自分可愛さに簡単に他人を裏切り、貶める信用ならない存在なのだ。

 だから俺は言葉など信じない。

 俺に信じて欲しければ、俺のために命を懸けることだ。

 

 そして俺は親父に言ってやる。

 

「その白々しい小芝居をやめろ。苛々する」

 

 親父の顔から表情が消えた。

 

 

◇◇◇

 

 

 随分と長く感じられた沈黙を破ったのは親父の乾いた笑い声だった。

 

「はは──は、そうか。それがお前の本性か」

 

 親父は暗い笑みを浮かべて上目遣いに俺を見る。

 いや、オッサンの上目遣いとか需要ないから。

 

「──やっぱり俺はお前が嫌いだよ」

 

 親父の言葉に俺は笑顔で返してやる。

 

「奇遇だな。私もだ。何でか言ってやろうか?お前が弱っちくて情けないカス野郎だからだよ!」

「な、何だと?」

 

 たちまち親父が顔を真っ赤にする。

 

 でも、止まらない。止まれなかった。

 

「私の生みの親──カタリナだったか?そいつに見下された?金をせびられた?愛人まで囲われた?お前それに抗議とか仕返しの一つでもしたことあるのか?その様子だとないんだろうな。苦しめられているのに正妻として迎え入れて、言われるままに金を出して、言いなりになって──そんな情けないお前だから虐げられて、搾取されて、苦しめられたんだ。自業自得だ!何も行動を起こさなかったくせして、口先だけでは一丁前に罵詈雑言を並べ立てる。そんなお前は見ていて物凄く苛々するんだよ!」

 

 つい長々と罵倒してしまった。

 

 俺はたしかに悪人だ。

 恨みと憎悪が服を着て歩いているかのような人間だ。

 だが──何もできずに口先だけの虚しい呪詛を唱えることしかできない弱虫とは違う。

 

 前世で死んだ時、案内人が俺を異世界転生させるのではなく、生き返らせてくれたなら、俺は俺を苦しめた元凶全てに直接復讐した。

 結局それは叶わず、今世でチンピラ(リック)や空賊共を相手に八つ当たりするしかない状態だが、もし、今から前世の元妻や間男や糞上司に復讐できるというなら、俺は迷わず行く。

 

 それに比べてコイツときたら何だ?

 カタリナに抗議や仕返しをする機会はたくさんあったにも関わらず、何もせずにカタリナが死んだ後になって年端もいかない実娘に対して八つ当たりしている。

 こんな弱虫を前世の俺と重ねてほんの少しでも同情したことが馬鹿馬鹿しい。

 

 特大級の地雷を踏み抜かれた親父はこれまでにないほどの憎悪が込もった目で俺を睨み付けている。

 

 そして親父は涙を浮かべて怒鳴ってきた。

 

「お前に──お前に俺の何が分かる!!」

 

 拳骨が飛んでくる。



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父娘喧嘩 Ⅱ

 昔からずっと不運だった。

 時々小さな幸運がちらほらあったが──一つ幸運を得る度に最低一つの不運が付いてくる。

 それが【テレンス・フォウ・ファイアブランド】の半生だった。

 

 テレンスの上には姉が三人いた。

 

 四人目にしてやっと授かった跡取り息子であるテレンスを両親は溺愛した。

 それが姉たちの嫉妬を買って、テレンスは事あるごとに嫌がらせを受けた。

 

 屋敷に帰れば姉たちがいて嫌な思いをするため、外で遊び歩くことが多くなった。

 両親はそんなテレンスを案じて、寄子の家から年の近い娘を選んで遊び相手に付けた。

 

 その娘──【マドライン・フォウ・ホプキンス】とテレンスが仲良くなるのに時間はかからなかった。

 初めて一緒にいて楽しい()()ができたテレンスはとても嬉しかった。

 姉たちにいじめられてもマドラインが慰めてくれたし、一緒に遊べば嫌なことも忘れられた。

 いつかマドラインと結婚して、ずっと一緒にいるのだろうと、漠然とそう思っていた。

 

 でも、現実は非情だった。

 子爵家の跡取り息子である自分と準男爵家の娘であるマドラインとでは結婚できないと知った時、テレンスは泣いた。

 

 

 

 やがてテレンスは成人を迎え、学園に入学し──()()と出会った。

 

 学園は貴族の子女たちにとっては学び舎であると同時に出会いの場でもある。

 特に男子生徒たちにとっては、学園で家格に見合った結婚相手を見つけることは、三年間の学生生活の最重要目標である。

 その達成のためには選り好みなどしてはいられない。

 貴族──特に男爵家から伯爵家──の結婚は圧倒的な女性有利であり、そもそも結婚自体が難しい。愛する人と結ばれる恋愛結婚など望むべくもない。

 

 テレンスも頭ではそれを理解していた。

 でも──彼女を見た時から彼女のことしか考えられなくなった。

 一目惚れだった。

 貴族令嬢は元々美人揃いだが、彼女──【カタリナ・フォウ・クライヴ】は特にテレンスの嗜好のど真ん中だった。

 

 百七十センチを超える長身に引き締まったスレンダーな肢体。

 ウェーブの掛かった絹のような白銀の長い髪と宝石のような青い瞳。

 しなやかな体つきと寒色系の髪と瞳、そしてややつり目気味な顔立ちが内に秘めたる力強さを想起させる。

 実際彼女は勉強も運動も良くでき、成績優秀で自信に満ち溢れていた。

 カタリナの美しさと利発さの前には他の女子など皆霞んでしまい、気付けばテレンスはいつもカタリナを目で追っていた。

 

 彼女が男爵家出身で結婚に何の問題もないと知って、これは運命だと思った。

 彼女を落とすためにあらゆる努力をした。

 身嗜みを整え、身体を鍛え、休日にはダンジョンに挑んで金を稼ぎ、高級な道具や茶葉やお菓子を揃えて格式高いお茶会に招いた。

 

 その頃のカタリナは我儘で、奔放で、周囲を振り回しがちな所こそあったが、露骨に男子を見下してくるようなことはせず、誰にでも気さくに接する人物だった。

 

 当然そんなカタリナは男子生徒たちに大人気で、同級生のみならず上級生からもしょっちゅう口説かれていた。

 ライバルは非常に多かったが、テレンスは諦めなかった。

 カタリナの笑顔が見たい──その一心で頑張っていた。

 彼女が食べたがっていたお菓子をお茶会に出したり、行きたがっていたお店に連れて行ってあげたり、欲しがっていたアクセサリーを買ってあげたり、できることは何でもやった。

 

 ──それが彼女を付け上がらせていることに気付かないまま。

 

 

 

 気付いた時にはもう遅かった。

 テレンスが好きになったカタリナという利発で快活な少女はいなくなっていた。

 

 代わりにそこにいたのは学園の空気に染まって増長した性悪女だった。

 

 自信は傲慢に、我儘は強欲に、奔放は残虐に、賢さは狡猾さに──変わり果てたカタリナは幾人もの男子を自分の下僕のように従え、まるで女王様のように振る舞っていた。

 高級なお菓子やらブランド物の服やら高価なアクセサリーやらを貢がせ、気に入らないことがあれば下僕の男子か亜人奴隷を使ってリンチすることさえあった。

 

 それでもテレンスはカタリナに尽くし続けた。それが愛だと信じて。

 

 そして幸か不幸か、学園を卒業した時、カタリナは幾人もの下僕の中からテレンスを結婚相手に選んだ。

 テレンスは望み通り、カタリナを自分のものにできたのだが──胸に湧いたのは嬉しさではなく、口惜しさと虚しさだった。

 確かに結婚こそしたが──王都に使用人数十人規模の屋敷を用意させられ、多額の仕送りをさせられ、おまけに跡取りを産んだ後は彼女に愛人を認めるという屈辱的な条件を呑まされたからだ。

 

 だがそれを恨んだり嘆いたりしたところで何かが変わるわけでもない。

 それにテレンスと同じようにカタリナに下僕扱いされながら、結局選ばれなかった者たちに比べればまだマシだった。

 

 

 

 そうして虚しさと屈辱感を抱えて領地に戻ったテレンスだったが、そこで僅かに残った幸運に巡り逢う。

 マドラインがわざわざ会いに来てくれたのだ。

 

 学園に入ってから疎遠になっていたにも関わらず、昔と変わらない笑顔で結婚を祝福してくれたマドラインにテレンスは感極まって──頭を下げて頼み込んだ。

 

 側にいて欲しい、と。──妾として。

 

 妾は辛い立場だ。正妻にいびられ、産んだ子供は後を継げない。それどころか、学園にやることすらできないこともあり得る。

 なのにマドラインはそれを承諾してくれた。

 それが嬉しいやら、申し訳ないやらでテレンスはまた泣いた。

 

 カタリナはマドラインを妾として囲うことに特段何か言ってくることはなかった。

 カタリナからしてみればテレンスが他の女と仲良くしていようが、子供を作ろうが、自分の生活の保障さえしてくれればどうでも良かったのだろう。

 それがテレンスには悲しく、虚しかった。

 

 

 

 数年後、テレンスの父は引退し、テレンスは父の後を継いでファイアブランド領の領主となった。

 

 カタリナは普段王都の屋敷で生活していたので、顔を合わせる機会は少なくて済んだ。

 

 だがそれでも、結婚生活は控えめに言って地獄だった。

 学園にいた時には幾人もの下僕たちに分散していたカタリナの我儘は全て結婚相手のテレンスに向かっていた。

 カタリナへの仕送りのせいで家計は火の車。それなのにカタリナは感謝のひとつもなく、それどころか仕送りの増額をしょっちゅう迫ってきた。

 領地の懐事情が厳しいと言えば、もっと税を上げろだの金を借りろだのと統治にまで口を出してくる始末。

 そのために、ただでさえ疲弊した領地に更に重税をかけることになり、家臣や領民から凄まじい不満の声が上がった。

 カタリナと悲鳴を上げる領内との板挟みに遭ったテレンスは心労で弱っていった。

 

 微かに残っていた愛が完全に憎悪へと変わるまで長くはかからなかった。

 

 しかし、結婚してしまった後では別れることもできなかった。

 妻がどんなに酷い女でも切り捨てれば悪評が立つ。ファイアブランド家の格を落としてしまい、貴族社会で不利な立場を強いられる。

 

 テレンスは心を殺してカタリナと夫婦であり続けた。

 

 他の男──亜人奴隷だと思っていたが後で違うと知った──と比べられて貶される屈辱に耐えて彼女を抱いて、身籠らせた。

 だが生まれたのは女の子。しかもテレンスに似ている所が一つもなかった。

 本当に俺の子なのか、という疑問は当然生じたが、確かめる術はない。

 

 何はともあれ、女の子では跡取りにできないので、二人目の子供を作ることになったのだが──二人目の子供は早産児であり、生まれてすぐに死んでしまった。

 

 そしてカタリナも産後程なくして病死した。

 長年の贅沢と不摂生、そして薬物の乱用が原因でカタリナの身体はボロボロになっていたのだ。

 

 それを聞いたテレンスは発狂した。

 俺の人生は何だったのだ?あの女のために全てを捧げて──その結果がこれか?

 時間と金と自由を奪われて、尊厳を踏みにじられて──跡取りさえも産んでもらえずに、残ったのは莫大な負債と誰の子かも知れない娘だけ。

 

 いっそのこと何もかも捨ててしまいたいと思った。

 屋敷の執務室から、浮島の縁から、飛行船の甲板から──何度も身を投げかけた。

 その衝動が治まるまでには数年を要することとなる。

 

 

 

 カタリナが残した忘れ形見である娘は法的な父親であるテレンスが引き取った。

 

 テレンスは心苦しく思いつつもその娘──エステルをマドラインに育てさせた。

 

 エステルは思いの外マドラインによく懐き、マドラインを「お母様」と呼んだ。

 それをテレンスは幸運だと胸を撫で下ろした。

 あの女の娘を育てさせるだけでも申し訳ないのに、懐かなかったら、今まで何度も自分を助けてくれたマドラインに合わす顔がない。

 

 そして数年後、テレンスにもう一つの幸運が訪れる。

 マドラインとの間に息子【クライド】が生まれたのだ。

 目元や口元にマドラインの面影があり、髪と瞳はテレンスと同じ炎のような赤。

 自分の子供だと実感できるだけでこんなにも愛おしく思えるのだと、感動した。

 

 だが、今まで通り、幸運の後には不運がやって来た。

 テレンスとマドラインがクライドの世話にかかりきりになり、構ってもらえなくなったエステルが様々な問題行動を起こすようになったのだ。

 勝手に屋敷を飛び出しては広い庭をほっつき歩き、屋敷にいれば物を壊したり、壁や床に落書きしたり、調度品を汚したりといった悪さをする。

 

 何度注意しようが、叱りつけようが、全く直らなかった。

 昔両親がテレンスにしてくれたように遊び相手を付けてやろうともしたが、生憎と良い人材は見つからなかった。

 

 困り果てたテレンスはマドラインと相談して専属使用人を雇うことに決めた。

 専属使用人がエステルの世話係と遊び相手を兼ねてくれれば、エステルも悪さはしなくなるだろうと考えていたが、事態は予想だにしない方向へと動くことになる。

 

 確かに専属使用人を雇ってからエステルは悪さをしなくなったが──明らかに人が変わったようになった。

 立ち振る舞いや言葉遣いが粗暴になり、「俺」という一人称を使い出した。更に何を思ったのか、剣を習いたいと言い出した。

 

 断って癇癪を起こされても面倒なので、適当に指導者を探して雇ったが、報酬が一番安かった者を選んだ。どうせ子供の思いつきですぐに飽きるか、嫌になって投げ出すだろうと思っていたからだ。

 

 しかし、予想に反してエステルは剣の修行をやめなかった。

 

 悪さをしなくなったかと思えば、今度は変になったとテレンスは溜息を吐いた。

 

 雇った専属使用人(ティナ)が何か吹き込んだのかと思って問い詰めたこともあったが、彼女は関与を否定し、むしろ僭越ながら直そうともしたと言った。

 

 結局エステルが変わった原因は掴めず、テレンスは気味の悪さを感じた。

 そしてエステルを避けるかのようにより一層クライドを溺愛するようになった。

 

 

 

 エステルは成長するに連れてどんどん生みの親のカタリナに似てきた。

 

 顔立ちのみならず、気の強さや勉学の優秀さもカタリナを彷彿とさせる。

 そして何より、周りの人間を惹きつける資質を備えている所が出会った頃のカタリナによく似ている。

 家庭教師や使用人たちには勉学へのひたむきな努力を高く評価されていたし、家臣たちまでも彼女に一目置いていた。

 

 また、エステルは屋敷に出入りする役人や軍人たちと積極的に交流を持ち、彼らの仕事について知りたがった。

 彼らが質問に答えれば目を輝かせて聞き入り、時間を割いてくれたことへの礼をきちんと言い、立場が遥かに下の者たちにも腰を低くして教えを乞うた。

 当然、そんなエステルは家臣たちからは好感を抱かれ、男であれば良い領主になるだろうにと惜しむ声もちらほら出ていた。

 

 それに気付いてからテレンスは一層エステルを避けるようになった。

 エステルの顔を見ればカタリナを思い出して嫌な気分になってしまうし、おまけにカタリナに虐げられる悪夢まで見るからだ。

 できる限り顔を合わさずに済むように、波風立たないように、彼女の我儘は全て聞いた。

 

 だがそれもやがて限界を迎え──そしてある時、ふと思った。

 自分がカタリナのせいで味わった地獄を、彼女の娘であるエステルに味わわせてやれたら──この上ないカタリナへの復讐になるではないか、と。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 飛んできた拳骨はノロい上に軽かった。

 何の苦もなく片手で受け止め、押し返すと親父は椅子ごとひっくり返る。

 その拍子に床で頭を打ったらしく、親父は後頭部を押さえて呻いた。

 

「てんで駄目だな。ただの力任せで速度も重さも乗ってない。こんなんで私を殴れるとでも思ったのか?」

 

 これ見よがしに溜息を吐いてやると、親父は嗚咽を漏らしていた。

 

「俺の──俺たちの境遇の苦しさ、理不尽さはお前には分かるまい。必死で頑張って、真面目に生きているのに負担ばかり背負わされて──どう足掻いたって報われない。感謝すらされない──それに反抗などすれば蔑まれ、弾き出される──お前は俺たちが味わった地獄を見ていないからそんなことが言えるんだ!」

 

 残念だが俺は知っている。この世界の男の、ではないが──地獄の苦しみなら知っている。

 惨めなものだ。自分の時間、自分で稼いだ金、自分のやりたい事──その全てを犠牲にして他者のために尽くして──そして騙され、何もかも失って無様に死んだ。

 

 だが、前世で俺がそんな苦しみを味わったのは、前世の俺が世界の現実を何も理解していなかったからだ。

 どんな世界でも強者が弱者を支配し、悪党が善良な人間を虐げて繁栄を謳歌する。

 それが厳然と存在する人の世の摂理だ。

 

 だから、親父が責めるべきは俺やカタリナではない。社会に望まれる通りに()()()生きることがただの自己満足でしかないと気付かなかった自分自身だ。

 

 以前に案内人がこの世界の貴族男性は何かと不遇だと言っていたが──それはその不遇な現状に甘んじ、下手に出てばかりで女共を付け上がらせた男たち自身の責任だ。

 そもそも人口を見れば、男の方が結婚において立場が有利になるのは自明の理だ。

 空賊やモンスターが跳梁跋扈し、いつもどこかで戦いが起こっているのがこの世界だ。

 戦いで男がどんどん死んでいくせいで女余りが生じているのだから、男の方が女を選ぶ立場になるはずなのだ。

 なのに現実にそぐわない意味不明な女尊男卑の社会常識に囚われて、自分の価値を自分で貶め、女を付け上がらせるとは、何という体たらく。

 

「ああそうだな。私はお前じゃない。だがこれだけは確かだ。お前が奪われて虐げられたのは、お前がやり方を間違えたからだ。諦観に縛られて、下手に出て、相手に尽くして、苦しめられても抗議も仕返しもしない──そりゃあ女は付け上がるさ。権力か暴力で首根っこを押さえつけるくらいの気概で接していれば、少なくとも見下されて搾取されることはなかっただろうにな」

 

 冷たく言い放ってやると、親父はカッと目を見開き、俺の方に向き直って怒鳴ってきた。

 

「黙れ!何を分かったようなことを!そんなことをして結婚などできると思うのか!女には嫌われて、噂が広がって周りから白い目で見られて、不利益を被るだけだ!他に選択肢などなかった!」

「はぁ?そんなのただの言い訳だろうが。世間体を言い訳にして状況を改善する努力を怠って、口先だけの不平不満ばかり垂れ流して、結局できたことは年端もいかない娘への八つ当たりだけ。しかもその娘にすら勝てないとか──本当にどうしようもないな」

 

 煽ってやると、親父は立ち上がって再び殴りかかってきた。

 

 今度は魔力で肉体を強化しての渾身の拳打。

 なるほど、素の肉体が俺より屈強な分、俺の拳より重くなっている。

 そして腐ってもよく鍛えられているらしく、動きも悪くない。

 拳が躱されて空を切ってもすぐに次の打撃を繰り出し、隙を見せない。

 

 だが、無意味だ。俺にはスローモーションにさえ見える。

 全ての打撃を最小限の動きで難なく躱し、疲れからか打撃が途切れた隙に跳び膝蹴りをお見舞いしてやる。

 親父は腕でガードしようとしたが、俺は空中で身体を捻って軌道を変え、側頭部に回し蹴りを直撃させてやった。

 ニコラ師匠が教えてくれた、相手のガードを迂回して蹴りを叩き込む技だ。

 

 効果は抜群だった。親父はあっさりと吹っ飛び、執務机に激突して倒れ込んだ。

 

 机上の書類や小道具が床に散らばるのを横目に、立ち上がろうとする親父の上に伸し掛かり、体術の関節技を決めて動きを封じる。

 親父は抜け出そうともがくが、俺はびくともしない。

 

 ちなみにここまで俺は魔法による肉体強化を使っていない。

 親父のあまりの弱さに拍子抜けしてしまう。

 

「魔法も使っていない小娘相手に魔法を使ってこれとか──やっぱり弱っちいな。お前はさっき私がお前の味わった地獄を見ていないとか言っていたが──逆にお前は私の何を見てきたんだ?この力を得るために私は何年も修行してきた。周りには品がないだの、おかしいだの陰口を叩かれて──挫けそうになったことだって一度や二度じゃなかった。それでも毎日欠かさず続けてきた。その修行をお前は一度だって見に来たか?来なかったよな!お前はずっと同じ屋敷にいながら、()の──()()()のことなんて何にも見ていなかった!だから()との実力差も分からないんだ!」

 

 後半は殆ど私怨から来る恨言だが、こいつがカタリナの亡霊に囚われて俺自身のことをまるで見ていなかったのは事実だ。

 

 親父は俺に押さえつけられたまま、歯を食い縛って涙を流しながら怨嗟の声を漏らす。

 

「くそ──何なんだ──何なんだよお前は!なんで──そんな力を求めた!?守られて、優遇されて、強くなる必要なんてない立場のお前が──なんで──」

「そんなの決まっているだろ。奪われないためだよ」

 

 質問に答えてやると親父は訳が分からないという顔をする。

 

「何を言って──」

「この世はな──強い悪党が弱者を虐げて美味しい思いをするようにできているんだよ。いくら善良だろうが、誠実だろうが、良い立場にいようが、弱ければ奪われて蔑まれるだけさ」

 

 上から目線でそう言ってやった。

 

 傍から見れば、十二歳の少女が大の大人に伸し掛かって偉そうに説教を垂れているというおかしな光景だが、俺は前世を含めれば親父と同等かそれ以上の年月を生きている。

 つまり、これは人の世の摂理を知った人生の先輩たる俺が、何も分かっていない後輩である親父に残酷な世界で生きる心構えを説いてやっているのだ。

 

 だが、親父は再び顔を歪ませて言い返してくる。

 

「ヒヨッコが偉そうにさえずりやがって。何様のつもりだ!たかだか十二年しか生きていないくせに何を分かったような口を──」

「少なくともお前よりは分かっているさ」

 

 自分でも驚くほど低い声で親父を遮る。

 

 親父の物言いが頭にきたので掛けていた関節技を外し、親父の襟首を引っ掴んで無理矢理身体を起こさせた。

 そして耳元で言ってやる。

 

「実際俺は父親だと思っていたお前に何もかも奪われかけた。俺の知らない奴を勝手に俺に重ねて、八つ当たりで俺の自由と幸福を奪おうとしたよな?俺が無力な小娘だったら、今頃気持ち悪いメタボ野郎に嫁がされて、地獄みたいな生活をしていただろうさ。力をつけておいて正解だった。守られる立場にいたって、強さがなければ結局奪われるんだ。それも守っている奴(父親)にな」

 

 すると親父はクツクツと笑い出した。

 

 気持ち悪くなって襟首を離すと、親父は両手を床につき、俯いたまま笑い続ける。

 

「──自由だと?幸福だと?貴族に生まれついてそんなことを口にするとは傑作だ!では聞くが、お前が言う自由と幸福とは何なのだ?お前は──何がしたいんだ?」

 

 何がしたいかだと?とっくに答えを言っただろうが。

 

「言っただろ?俺は領主になりたいんだ。民の上に立って権力を振るって、民から財を集めて贅沢して、誰にも何も奪われずに、誰からも指図されずに、優雅に自分の思うままに生きていく。それが俺の自由と幸福さ」

 

 すると親父は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

 

「随分と領主に夢を見ているのだな。領主になっても得られるのは今以上の責任と重圧だけだ。己の自由も幸福も民と国のために犠牲になる。それにファイアブランド領は斜陽の地だ。今更領主になったところでお前の思っているような気ままな暮らしなどできんぞ」

 

 ──前半はともかく後半はその通りなのが癪だ。

 

 家出して冒険の旅に出る前から何度かお忍びで街に出掛けたことがあるが、活気のない寂れた雰囲気だった。

 親父が俺にオフリー家の跡取りとのお見合いを伝えてきた時も「うちの財政は危ないんだよ!」と言っていた。

 そして戦争準備をしている今、俺自身の目で領内の状況を把握して分かったのは──今のファイアブランド領は悪徳領主として領民たちを虐げた「後」の状態だということだ。

 既にギリギリまで搾り取られていて、今回の戦費調達でまた搾り取ったら──後は干からびた搾りかす同然になってしまう。

 領民から搾り取って贅沢に暮らすなど不可能だ。

 

 だが手はある。今貧乏で搾り取れないなら、豊かにしてから搾り取れば良いのだ。

 幸い俺にはセルカという素晴らしい味方というか、片腕がいる。

 彼女の頭脳と能力を以ってすれば領地を発展させることなど容易いだろう。

 だから俺は余裕の笑みで返してやる。

 

「そうかそうか。お前の代はよっぽどキツかったんだな。今までご苦労さん。だったら尚更そんな領地さっさと俺に譲ってしまえよ。オフリー家が片付いたら俺が豊かにしてやるからさ。豊かになって領民共が肥え太れば、俺の夢は叶う」

 

 親父はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 

「やれるものならやってみろ。今に吠え面かくだろうがな。──ただ一つ、約束しろ」

「何だ?」

 

 俺から自由と幸福を奪おうとして、逆に俺に領主の地位も財産も奪われる親父の最後の足掻きくらい聞いてやろうとすると、親父は床から手を離して座り込み、俺の方に向き直って言った。

 

「マドラインとクライドに危害を加えるな」

「あぁ──今更俺のご機嫌取りをしに来た理由はそれか」

 

 今になって親父が憎んでいるはずの俺に謝罪してくるなど、どう考えても裏があるとは思っていたが──現妻と息子のためだったとはな。

 ──憎らしい。

 俺のことは酷かった前妻に似ているというだけで腫れ物扱いしてネグレクトしてきた親父が、こうまで大事に守ろうとする二人が──嫉ましい。

 

 ──いや、やっぱりどうでもいい。

 最初から今世の家族に情など期待していなかった。

 そもそも俺の親は前世の父と母だけだ。

 

「──それはお前ら次第だな」

 

 俺に刃向かったり、俺を貶めたりしなければ、領地の隅っこで大人しくしていることくらい許してやる──くらいの意味を込めて言った。

 

 親父やお袋には嫌な思いも沢山させられたが、今まで養い育ててもらったのは確かだし、ティナを買ってくれたことやニコラ師匠を雇ってくれたこと、冒険で使った武器や装備品、そしてアヴァリスの購入費用を出してくれたことには感謝している。

 

「相互不干渉。それでいい。お前のことに口出しはしない。だから──俺の居場所を奪わないでくれ」

 

 親父は絞り出すような声でそう言った。

 

 俺の自由と幸福を奪おうとしておいて虫がいい話だが、下手に虐めて話が拗れても面倒だな。

 

「──分かった。それで?話は終わりか?ならさっさと下がってくれ」

 

 扉を顎で示すと、親父はよろよろと立ち上がり、扉に向かって歩いていく。

 

 手も口も出さずに背景に徹していたティナが扉を開ける。

 親父に肩を貸そうとしていたが、親父はかぶりを振った。

 

 そして出て行く直前、親父は一瞬こちらを振り向き、「ごめんな」と言った。

 その目には後悔が見て取れた。

 

 

 

 その後、荒れた執務室をティナとセルカと一緒に片付けながら、俺は毒づいた。

 

「遅いんだよ。クソが」

 



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開戦

 オフリー伯爵家からの脅迫文が届いてから二週間が経つ日、オフリー家の使者と名乗る男が護衛を十人ほど引き連れてファイアブランド領にやって来た。

 

 交渉に応じる気はさらさらないが、使者を話も聞かずに追い返すと後々面倒になるので、屋敷に通してやった。

 

 そしてオブザーバーとしてサイラスを伴い、応接室で対面したのだが──使者の分際で随分と尊大な態度だった。

 

「これはこれは驚いた。このような()()()お嬢様が来られるとは聞いておりませんな。当主殿はどうされたのでしょう?」

 

 明らかに俺を見下している口調と表情にカチンときたが、表には出さずに答える。

 

「当主は今体調が思わしくない。だから代理として私に応接を命じられた」

「おや、そうでしたか。それはお見舞い申し上げます。ですが── 貴女のような子供を代理にするとは、ファイアブランド家は余程人材不足のようですね」

 

 ──どうにも慇懃無礼な奴だ。

 腹が立って仕方ないが、ぶん殴るのは堪える。

 ただし、無礼には無礼で返すとしよう。

 

「社交辞令は抜きでいいでしょう。私は当主より応接の全権を預かっております。早く要件をお話し頂きたい」

 

 使者の男は一瞬顔を引き攣らせたが、すぐに姿勢を正すと、一枚の紙を取り出して読み上げ始める。

 淀みなく言葉を紡ぐその口元は微笑みを浮かべているようにも見えるが、どうにも表情全体が作り物じみていて真意が読めない。

 それに目を開けているのか閉じているのかも定かではない糸目が相まって気味が悪い。

 

「ではウェザビー・フォウ・オフリー伯爵代理、【メイナード・フィーラン】が申し上げます。まずは貴家が先月よりオフリー家との間で行われている取引を連絡もなしに一方的に中断し、度重なる我が方からの問い合わせにも一切反応がなかったことに対し、改めて遺憾の意を表するものであります。ですが、賢明にして寛大なるオフリー家当主、ウェザビー・フォウ・オフリー様は新たな交渉材料を提示なされました。取引の主眼である我が家から貴家への援助に対する見返りの変更です。先日貴家の軍が成し遂げた空賊団討伐の戦利品──その全ての買取をオフリー家にさせて頂きたい。無論、ただでとは申しません。買取価格は一般的な相場よりも高値をお約束します。また、捕らえられた空賊がいれば彼らも我が家の所有する鉱山の坑夫として買い取ります。貴家は既に決まったオフリー家からの援助に加え、商会を通して戦利品の代金支払いを受け、財政状況の改善により大きく前進できます。今提案に対しては私がファイアブランド領に滞在している間に回答するよう求めるものであります」

 

 オフリー家の当主が賢明にして寛大だと?笑わせてくれるじゃないか。

 賢明なら金で嫁を買うような真似はしないだろうし、寛大なら返事を渋った家に空賊をけしかけたりしないだろう。

 

 俺は長々と口上を述べたフィーランを鼻で笑って一言返してやった。

 

「話になりませんね」

 

 フィーランは一瞬唖然とした顔になったかと思うと、若干焦りの入った笑みを浮かべて説得を始めた。

 

「いえ、貴家にとって悪い話ではないのですよ?あくまで見返りの変更ということですので、貴家が失うものは何もありません。我々は以前取り決めた通りに貴家を援助し、貴家は空賊団討伐の戦利品と捕らえた空賊の生き残りを我々に売却する。この内容ならば貴家が得られる利益は以前のそれで得られる利益よりも大きくなります。先程も言った通り、戦利品は相場よりも高値で買い取らせて頂きますので、他の商会やスクラッパーギルドに売却するよりも多額の現金が得られます。それに空賊の生き残りにしても領内に留めておくのは貴家にとって負担になるでしょう。いつ脱走してまた悪さをするか分かったものではない。そのような危険な犯罪者を我々に売り渡せば、彼らを領内に留めておく負担から解放され、それどころか利益が転がり込むのです。まさに一石二鳥ではありませんか。何も悪いことはありませんよ」

 

 長々とファイアブランド家にとってのメリットを説明してくれたフィーランに俺はパチパチと拍手をしてやった。

 よくもまあ、こうまで白々しく美味い話を持ってきたものだ。

 例の書類の存在を知らなければ心が揺らいでいたかもしれない。

 

 ──いや、これも無意味な仮定だな。

 

「いやはや見事なプレゼンでした。それで?その見返りの変更でオフリー家には何の得があるのでしょうね?」

 

 そう、フィーランはオフリー家の利益については一言も言及していない。

 まあ、分かり切ってはいるのだが、一応聞いてやる。

 

 するとフィーランは口元を円弧形に歪め、笑顔でとんでもないことを言い出した。

 

「いえ、損得の問題ではございません。ウェザビー様は貴家に対する礼の意味合いも込めて此度の見返りの変更を決断されたのです。貴家の領内で商売をさせて頂いている商会の会員から聞いたところによれば、貴家が討伐なさったのは指定危険空賊団の【ウィングシャーク】とのこと。彼の空賊団には我々も何度か辛酸を舐めさせられております故、それを討伐してくださった貴家に報いないわけにはいかぬとウェザビー様は仰せでした」

 

 ──人ってよくここまで明るい笑顔で嘘が吐けるんだな。一周回って感心だ。

 小娘なら騙すのは容易いと思ったのだろうが、そうはいかない。

 

 元は商人で、現在も王国有数の大商会を抱えるボスであるオフリー伯爵家が取引の内容を恩や義理で変えるわけがない。

 空賊と手を組んでいた証拠を取り返せるという利益が見込めるからこそ、変えたのだ。

 そしてその利益のためには、跡取りの正妻を確保できるという利益を犠牲にする必要があった。

 

「嘘だな」

 

 冷たく言い放ってやるとフィーランの顔から一瞬表情が消えた。

 フィーランが何か言おうとするが、それよりも早く俺は不自然な点を指摘する。

 

()()()()の恩義のために、武力をちらつかせてまで手に入れようとしたご子息の正妻候補を諦めると?およそ()()()()()()とは思えない振る舞いであらせられる」

「商会を束ねてはいても()()()()()()ですので。そこは弁えております。それに──貴家の反応がなかったのは、貴家の長女が承諾されなかったということなのではないか、とウェザビー様はお考えでした。オフリー家は伯爵家としての歴史が浅い。無理強いして波風立てるわけにもいかぬと考え直されたのです」

「ほう?ならもう一つ。さっき言ったウィングシャークとかいう空賊団はオフリー家からこの書状が届いた同じ日に出現し、港を占拠した。しかもそいつらは略奪した後も逃げずに港を占拠し続けた。これは一体どういうことなのでしょうね?」

 

 二週間前に届いたオフリー家からの書状をフィーランに見せてやる。

 書状には「一週間以内に件の取引が履行されない場合は相応の措置を取らせて貰う。抵抗する場合は武力行使も視野に入れている。速やかなる回答を望む」といった内容が書かれている。

 

 しかし、フィーランは涼しい顔でシラを切る。

 

「おや、そうだったのですか。俄には信じ難い偶然ですね。貴家の災難には心からご同情申し上げます」

「とぼけないでもらいたい!」

 

 俺は立ち上がって机を叩いた。

 

「空賊の飛行船を調べたら()()()が見つかった。中には手紙。オフリー家当主からのな。全部読ませてもらったが、うちの港を占領して商船が入れないようにしろと指示した手紙があったぞ。あの空賊共に港の警備隊三十人が全滅させられた。他にも港にいた領民が三人殺されて、女性四人が辱めを受けた。灯台やクレーン、作業用の飛行船や鎧他の器物も壊された。全部あんたらオフリー家が指示したことで被った被害だ。我々は空賊をけしかけて領地を荒らさせた犯人と取引などしない!全てご破算だ。それと、この落とし前はどう付けてくれるんだ?」

 

 声を荒げて追及すると、フィーランは一瞬微かに目を見開いた。

 ハイライトの消えた冷たい目だ。

 

 そしてフィーランはすぐに糸目に戻って不気味な笑みを浮かべ、先程とは違う声色で言った。

 

「おや──見つけられていましたか。実に残念ですね。ご存知なければ良い取引ができたというのに。──いいでしょう。では隠さずに申し上げる。見つけた手紙も含めて貴家が()()()()()()()()()()()()()()()()()()を我々に売って頂きたい。価格はそちらの言い値を受け入れます。それと、損害についても経済援助の一環という名目で賠償金をお支払いします。それで今回の件は忘れ、今後とも良い関係を維持していこうではありませんか」

 

 ──なるほど。やはり使者を寄越してきた真意は口止め料と迷惑料でこちらを黙らせることか。

 予想よりだいぶ穏当だな。空賊と手を組むような悪どい家のことだから、もっと脅迫的な感じでくるかと思っていた。

 こういうのも嫌いじゃないけどな。金の力で悪事を揉み消すとか、まさに俺が目指す悪徳領主の振る舞いそのものだ。

 

 だが──俺を強引に跡取りとかいうメタボ野郎の嫁にしようとしたこと、俺のものになる領地を間接的にとはいえ荒らしたという二つの大罪を許す気はない。

 俺の中ではとっくにオフリー家の判決は決まっている。死刑だ。

 

「断る」

 

 今までで一番冷たく、低い声で俺は言い放った。

 

 フィーランは相変わらず不気味な笑みを浮かべたまま、こちらを懐柔しようとしてくる。

 

「お気持ちはお察ししますが、断ってもお互い何のメリットもありませんよ?」

「メリットならありますよ。ファイアブランド家にとって脅威となる家を一つ潰せるチャンスを逃さずに済む」

 

 そして俺は件の手紙をこれ見よがしに懐から取り出す。

 

「これは貴方方に売らずに王宮に持っていった方がファイアブランド家にとっての利益は大きいと判断しました。それにそもそも、貴方方が本当に取引を履行するかどうかも疑わしい」

 

 フィーランは再び目を見開いて一瞬身構えたが、それ以上妙な動きはしなかった。

 そして悪どい笑みを浮かべて脅迫の台詞を口にする。

 

「そのようなことを言ってよろしいのですかな?こちらの提案を呑んで頂けない場合、実力行使で要求を通させて頂きますが──我がオフリー伯爵家の戦力を以ってすれば田舎の小領主など一捻りですよ?貴女の身もどうなることでしょうね?()()()()()()?」

 

 最後の方の言葉に不覚にも寒気を覚えた。

 どうやらフィーランは俺の正体に気付いていたらしい。

 写真付きの身上書がオフリー家に行っているので、そこから面が割れていたのだろう。

 

 本能的な恐怖が一瞬表情に出たらしく、フィーランは畳み掛けてくる。

 

「この取引を呑んで頂ければ貴女の家の財政危機は去り、貴女自身も望まない結婚から逃がれられる。一滴の血も流れることなく、一人も損をすることなく、貴家には莫大な金が転がり込んでくる。それで良いではありませんか。避けられる争いに私情で突っ込んで無用な血を流させるなど、上に立つ者のすることではありませんよ?」

 

 忌々しい似非貴族の眷属風情が偉そうに説教を垂れやがって。

 だが──そうだろうな。それが普通の「大人の対応」なんだろうな。

 

 でも俺はそうではない。俺は子供じみた我儘を押し通す。

 だって俺は悪人だ。悪人は自分勝手なのだ。

 

「お気遣いどうも。だが私は他人の命のために自分が我慢することはしない主義でしてね。むしろ自分の満足のために他者を犠牲にしてやりますよ。──貴方方オフリー家もね」

「愚かな──自分たちの力量を測れていないようだ。オフリー伯爵家とその傘下の商会、更にはオフリー伯爵家の寄子の全てを敵に回して勝てるとでもお思いですか?それにオフリー伯爵家と敵対すれば援助の件もご破算です。援助なしで財政をどうするというのでしょうね?」

 

 こっちの痛い所を突いたつもりか?なら思い違いだ。自身の力量を測れていないのはコイツらの方である。

 まあ、コイツらは俺に力と加護を与えているセルカや案内人の存在を知らないのだから無理もないけどな。

 

「それは貴方が心配することではない。もう一度言います。貴方方の提案は拒否します。これが我がファイアブランド家の結論です」

 

 それを聞いたフィーランは溜息を吐いて再び糸目に戻る。

 

「──そうですか。残念ですね。貴女方は自滅の道を選んだ」

「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。いえ、貴方方の場合はずっと前からそうでしたね」

「──本当にお気の毒な方だ。では交渉は貴家の拒否により打ち切りとさせて頂く。私はこれにてお暇します」

 

 荷物を纏めて席を立ったフィーランの背中に餞別の言葉をくれてやる。

 

「帰るならオフリー伯爵に一つ言伝をお願いします。用があるなら自分で来い、カスを寄越すな、と」

 

 フィーランは額に筋を浮かべて振り返る。

 初めて怒気を纏ったフィーランは今までになく目を見開いていたが、その瞳にはハイライトがあった。やっと人間らしい目になったな。

 

「ええ──しかとお伝えします」

 

 その声には苛立ちが込もっていた。

 

 フィーランはその日のうちに飛行船でファイアブランド領を出て行った。

 

 

◇◇◇

 

 

「拒んだか」

 

 ファイアブランド家へ使いに出した騎士フィーランから報告を受け取ったウェザビー・フォウ・オフリーは苦々しい顔で呟いた。

 

 フィーランが思い出すだに腹が立つのか、額に筋を浮かべたまま頷く。

 

「ええそれはもう手酷く。度し難いことに、学園も出ていない小娘を全権応接係に出してきまして。そして彼女、エステル嬢は我々の提案にまるで耳を貸しませんでした。さながら幼子が意地を張っているかの如しです。ああそれから、エステル嬢よりウェザビー様に言伝を預かっております」

「何だ?」

「用があるなら自分で来い。カス野郎──と」

 

 その言葉にウェザビーの額にも筋が浮かぶ。

 拳を握りしめたウェザビーは低い声で傍の女性秘書に命じた。

 

「そうか──では致し方ない。【コープ】を呼べ」

「はい」

 

 女性秘書は頷いて部屋を出て行く。

 

 程なく、髭を蓄えた大柄な男が部屋に入ってきた。

 

「お呼びでございましょうか?閣下」

 

 執務机の前で一礼した男は酷く嗄れた声で言った。

 

 ウェザビーは椅子に座ったまま男に命じる。

 

「交渉は決裂した。これで後はお前たちの出番だ。直ちに出撃し、ファイアブランド領に向かえ。ノックス、アクロイド、クレイトン、フォックスの四家からも艦隊が向かう手筈だ。彼らと協同し、総力をもってファイアブランド軍を粉砕しろ。抜かるなよ」

「承知致しました」

 

 男は満面の笑みを浮かべて返事し、部屋を辞した。

 

 彼が出て行った扉を見てウェザビーは苦笑いを浮かべる。

 

 先程の男【レナード・フォウ・コープ】は良く言えば勇猛果敢、悪く言えば好戦的かつ加虐的──戦いと聞けば高揚し、相手をいたぶるような戦い方を好むタイプだった。

 普段表立って事を起こせないオフリー家にとっては扱いにくいが、同時に有用な人物でもあった。

 

 空賊と手を組んで後ろ暗い稼業もしているオフリー家だが、空賊には手綱が必要だ。

 確かな艦隊戦の技術を持ち、相手が誰であろうと戦いと聞けばやる気を見せるコープは空賊たちに付ける手綱にうってつけだった。

 実際コープは今まで何度か調子に乗った空賊を艦隊戦で滅ぼしている。それも味方の損害は殆どなしに、である。

 

 そんな有能で実戦経験も豊富なコープならばファイアブランドの艦隊も破ってくれるだろうと思い、彼を今回のファイアブランド領侵攻作戦の指揮官にした。

 他にも艦隊指揮官が務まる人材はいるが、それなりに強力とされるファイアブランド軍を相手取るには不安がある。

 コープの人格や戦い方は良い顔をされないだろうが、勝つことが最優先だ。

 それにフィーランから聞いたエステルからの侮辱の言伝は許し難い。

 

 今に私の恐ろしさを思い知らせてやる。首を洗って待っているがいい。

 

 そう心の中で呟いたウェザビーは大きく伸びをして気分を変え、別の仕事に取り掛かった。

 

 

◇◇◇

 

 

 早朝。

 

 朝焼けに染まった空を二十隻ほどの飛行船が悠然と進む。

 百メートルクラスの中型飛行戦艦四隻と周囲を固める小型艦が十数隻。

 ファイアブランド家の艦隊だ。

 

 その艦隊の先頭を進む旗艦【アリージェント】のブリッジで、俺は中心にある司令官用の椅子にふんぞり返っていた。

 三角帽子を被った艦隊司令官が俺の横に立ち、艦隊に指示を出している。

 ブリッジには他にも艦長、航法士、操舵士及び多数の通信士が詰めており、飛び交う声で賑やかだ。

 だが皆の表情は真剣そのもの──というより、今にも逃げ出したくなるような恐怖を必死で押し殺しているかのように強張っている。

 

 ──無理もないか。

 二十隻ほどの中・小型飛行船で五十隻以上の敵艦隊に挑むのだ。

 

 最初に敵艦隊を発見した哨戒の鎧からの情報では敵艦隊は二百メートルクラスの大型飛行戦艦を三隻擁している。この時点でこちらが不利だが、更にその周囲は全周に渡って中・小型艦が固めており、飛行船の数から推測される鎧戦力は楽観的に見積もっても八十機程。

 こちらの戦力では艦隊戦のみならず、少数の小型船や鎧による奇襲攻撃すら通用しそうにない、隙のない布陣。

 そこに()()()()()()()()()のだ。緊張するなという方が酷だろう。

 

 通信士の一人が声を上げた。

 

「索敵艦【ガーレイラ】より入電。敵艦見ゆ。位置はサロ島南約四十八キロ。針路〇一二。ファイアブランド領本島に向け接近中。速度約四十!」

「第一任務部隊、通信管制解除。ガーレイラは触接に移行させろ」

 

 艦隊司令官が指示を出すと、通信士がそれを電信で各艦に伝える。

 

 程なく触接──敵艦隊に接近してその規模や動向を探り、報告する──に移行した味方艦からの続報が届き、通信士によって読み上げられる。

 

「艦種識別。主力艦三、中型戦艦九、他小型護衛艦二十二」

「面舵二十、速度そのまま────」

 

 艦隊は接近してくるオフリー家の艦隊に舳先を向け始める。

 この調子ならあと一時間ほどで互いに視認できる距離まで近づくだろう。

 

「今の通信で奴らも我々の存在を把握したはずです。今更ですが──これでよろしかったのですか?」

 

 艦隊司令官がここまで来て弱気なことを言っている。

 敵がどんなに強大であろうと戦う意思に変わりはないし、戦う時は俺が自ら叩き潰す。

 安全な後方から戦況を眺めて報告を待っているだけなんてつまらない。

 だが部下たちはそうはいかないらしい。

 

 空賊を倒した実績で信頼は上がったようだが、前にも増して出撃を止めようとしてくる奴が多かった。

 曰く、「エステル様はこの地に必要な方です。万が一にも戦死なされたらこの地を守る方がいなくなってしまいます」とのことだが、俺が死ぬなどそれこそあり得ないので杞憂である。俺には案内人の加護があるのだから。

 勝つと分かっている勝負を楽しまない手はない。

 

 あと、こいつらだけでは弱すぎてとてもオフリー軍の相手など任せられない。

 案内人の加護があるので負けはしないだろうが──数で遥かに劣る空賊相手にすら手こずっていた連中だ。数で勝るオフリー軍など相手にすれば凄まじい犠牲が出るのは目に見えている。

 多くの犠牲が出るということはそれだけ俺の手駒が減り、回復に年単位の長い時間がかかることを意味する。

 そんなの許せない。やはり俺が自ら戦場に出て戦いの流れを作らなければならない。

 全く、何という体たらくか。

 俺が正式に領主になったら真っ先に軍拡と練度向上に取り組むとしよう。悪徳領主たる者、お抱えの軍が弱いなどということはあってはならない。

 

 俺は艦隊指揮官を睨みつけて言った。

 

「私を見ろ。よくないように見えるか?」

「いえ──落ち着いていらっしゃるのですね」

 

 艦隊指揮官の言葉には皮肉が込もっているようにも思えた。

 まだ本物の不利な戦いを経験したことがないから、震えの一つも起こさずに呑気に構えていられるのだ──そう言いたげだった。

 

 気付けば艦長や通信士たちまでもが俺に視線を向けていた。

 その目に込もる感情は哀しみとも恨みとも取れる。

 無謀な戦いを命令してくるガキに思うところがあるのだろうが、俺の意志は変わらない。

 せっかく案内人が用意してくれた、俺が領主になるための晴れ舞台なのだ。

 だが、ここは一つ、もう一度檄を飛ばしておくか。

 

「受話器を寄越せ。全艦隊に繋ぐんだ」

 

 命令するとすぐに通信士が受話器を渡してくる。

 

 通信機の準備が整うと、俺は受話器を口元に持っていき、演説を始める。

 

「くだらん挨拶は抜きだ。これから我々は強大な敵との苦しい戦いに赴く。戻れない者も多くいよう。いや、一人も戻れないこともあり得る。だが、ここで尻込みして逃げることは許されない!もちろん私も許さない!」

 

 案内人の加護がある俺が負けて死ぬなどあり得ないが、それを言ったところで説得力がない。粋がるガキの妄言と馬鹿にされるだけだ。

 だから敢えて厳しい戦いだと正直に言い、それでも退くことができない理由があって、戦わなければならないのだと訴える。

 

 例えば負けたら自分が死ぬばかりか、家族がどんな目に遭うか──とかな。

 

 この世界では戦時国際法などというものはない。

 戦争になれば負けた側の扱いなど勝った側の胸三寸である。

 王国内の貴族家同士──つまり身内同士の争いですらもそうだ。

 基本的には当事者同士で最後までカタを付けるものとされていて、その付け方は各々の判断に委ねられる。

 そして余程のことがなければ王国は勝った側を咎めることはない。

 負けた側は暴行だろうが略奪だろうが殺人だろうが泣き寝入りになる。

 

 そうなることへの恐怖を思い出させれば、部下たちを死に物狂い──人間が最も強い力を発揮する状態──にさせることができる。

 

 ──俺の考えではなく、セルカの入れ知恵だが。

 あいつ本当に役に立つな。

 

「敵はオフリー伯爵家!奴らは戦場での手柄も冒険者としての実績もないまま、金で貴族の地位を買い、悪どい事業に手を染め、長きに渡りのさばってきた。挙げ句の果てには空賊と手を組み、我々の故郷を襲わせ、今、大義もなく侵攻してきている。このような暴挙を絶対に許してはならない!──全員、後ろを見ろ」

 

 俺の言葉でブリッジの殆ど全員が後ろの窓に視線を向ける。

 俺も立ち上がって窓べりに移動すると、そこから小さく見えるファイアブランド領の浮島を指差した。

 

「あの浮島は我々が生まれ育った場所だ。そして、今も──これからも私たちと、その子孫たちが暮らしていく場所だ。オフリー家の屑共に教えてやれ!あの浮島は我々のものだと!」

 

 そう、あの浮島はそこに暮らす民のもの──つまりは彼らを支配する俺のものだ。

 俺の所有物を蹂躙し、略奪しようとするなど万死に値する。

 

 兵士たちの顔が心なしか引き締まったように見えた。

 故郷を守るという正義感や使命感が恐怖を上回り始めたらしい。

 どんなに生活が苦しくて酷い場所でも、生まれ故郷や家族への愛着は確かにあるようだ。

 

 実に結構。そのまま俺のために血反吐を吐いて戦え。

 俺が領主になるための礎となれ。

 

「今故郷を守れるのは我々だけだ。そのために、我々はこれから地獄へと飛び込む。だが!肝に銘じておけ。先頭に立ち、一番槍を入れるのは私だ!お前たちは私に従い、私の後に続けばいい。もし逆らったり逃げ出したりする奴がいれば、敵より先に私が殺す!戦いが終わるまで我々が本島に戻ることはない!」

 

 そして俺は一呼吸置いて、ありったけの威厳を持たせた低い声で静かに命令する。

 

「──総員、戦闘用意。オフリー艦隊を叩き潰せ」

「「「「「はっ!!」」」」」

 

 部下たちが一斉に敬礼する。

 彼らの声と表情にもう弱気の色はなくなっていた。



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蒼穹に紅を曳いて

 その日の朝早く、寄子の騎士家からの通報で俺は叩き起こされた。

 哨戒に出していた鎧がオフリー家のものと思しき大艦隊を発見──という報告をその騎士家の当主が自ら鎧を飛ばしてファイアブランド家に持ってきたのだ。

 その心意気や良しであるが、褒美をくれてやっている暇はない。

 

 すぐに伝令を飛ばして騎士たちを呼び出し、基地に集合させて艦隊の出撃準備に取り掛かり、即応待機していたコルベット部隊を索敵のため急行させた。

 

 朝四時に叩き起こしてもすぐに集まる騎士たちに、命令を受けて十分で離陸していったコルベット部隊を見ていると、ファイアブランド家の軍もまだ捨てたものではないと思える。

 いやまあ、捨てたら俺がお終いだから捨てないけどな。

 

 

 

 艦隊は一時間で全艦離陸に成功した。

 

 だが、飛行船の数は三十隻にも満たない。

 この二週間弱で兵器と弾薬をはじめとした物資を掻き集められるだけ掻き集め、できる限りの飛行船を稼働状態に持っていったが、それでもあまりに時間が足りなさすぎた。

 

 艦隊戦力は空賊と戦った時から十隻ほど増えただけに留まった。

 増えた分の半分は修理や整備が短期間でできたコルベットや商船改造の哨戒船だったため、それらは索敵部隊に回した。

 残りの半分は鹵獲した空賊の飛行船五隻。だが肝心の乗組員が用意できず、敵艦隊との殴り合いには参加させられない。

 

 結局オフリー家の艦隊と直接交戦する役割は空賊と戦った時と同じ編成の【第一任務部隊】二十二隻でやるほかなかった。

 だがせっかく空賊から分捕った飛行船を五隻も遊ばせておくわけにはいかない。

 そこで空賊の飛行船五隻は新たに編成された【第二任務部隊】に入れ、第一任務部隊とは別の役割でオフリー軍の迎撃に参加させることにした。

 

 離陸した艦隊は旗艦を先頭に単縦陣を組んで航行を開始する。

 

 旗艦が先頭になるのは無線通信機の使用を抑えるためらしい。

 離陸直後の今はともかく、浮島を離れてから無線通信を発してしまえばこちらの大まかな位置が敵に知られてしまい、敵に対策を取る時間を与えることになる。

 ギリギリまで敵に気付かれずに接近するためには、旗艦が先頭に立ち、後続艦はそれについていけばいい単縦陣が適していたのだ。

 

 三角帽子を被った艦隊指揮官が受話器を手に取り、指示を出し始める。

 

「旗艦アリージェントのアスカルトより各艦。第一・第二任務部隊はこれより敵艦隊が目撃された空域へ向け、南下を開始する。なお、この通信が終了してからは、先行した索敵艦から敵艦隊発見の報が入るまで通信管制を実施する。全艦、アリージェントの動きをなぞれ。忘れるな。今作戦はファイアブランド領の総力を上げた迎撃作戦だ。ここでしくじれば後はない。各員、心して励み、己の義務を全うせよ。以上だ」

 

 

 

 先行させていた索敵艦が敵艦隊を発見したのは出撃から二時間ばかりが経った頃だった。

 

 送られてきた敵艦隊の情報をもとに指揮官が素早く行動を決定して指示を下し、各艦が割り振られた行動に移っていく。

 

「面舵二十。速度そのまま。第二任務部隊は通信管制を維持したまま、直ちに所定の行動を開始せよ」

 

 艦隊後方から空賊の飛行船五隻と護衛のコルベット三隻が離れ、南東方向へと針路を変えて進んでいく。

 

 彼らに向けて心の中で「抜かるなよ」と念押しする。

 

 第二任務部隊がしくじれば、オフリー家との戦争は良くて痛み分けに終わってしまう。

 それでは駄目なのだ。完膚なきまでに叩きのめし、部下たちに、領民共に、オフリー家に、俺の完全勝利を見せつける。

 

 だが、指示を出し終わった艦隊指揮官が水を差してきた。

 

「今の通信で奴らも我々の存在を把握したはずです。今更ですが──これでよろしかったのですか?」

 

 まだそんな弱気なことを言っているのか?もう後戻りはできないんだぞ。

 どいつもこいつも情けない。今一度喝を入れてやらなければ。

 

 そして俺は通信機の受話器を手に取って勇ましく、空虚な大演説を始める。

 勝つために士気を上げるのに必要とはいえ──笑ってしまいそうになるくらい悪質なマッチポンプだ。

 そもそも俺が素直にオフリー家へ嫁入りしていたら、こいつらは戦わなくて良かった。死ぬことだってなかった。

 自分の勝手でファイアブランド家とその家臣たちをオフリー家との戦争へ巻き込んだ俺が、「邪悪なオフリー家の侵略から故郷を守れ」などと情に訴えて部下たちを焚き付けて地獄へ導こうとしている──嗚呼なんという外道な行いだろうか。

 

 

◇◇◇

 

 

 オフリー家の艦隊。

 

 その旗艦のブリッジに警報が響き渡る。

 

「敵艦発見!一時の方向!」

「戦闘配置!」

「艦種識別急げ!」

「中型戦艦四隻を確認!あとは護衛の小型艦です」

「予想よりも少ないな」

「おそらく稼働率の問題かと」

「いや、まだ別働隊が潜んで機を窺っているかもしれん。周囲の警戒を怠るな!」

 

 慌ただしくなるブリッジでほくそ笑んでいるのは案内人である。

 大勢が忙しく働いている中で優雅にカップを手に持って紅茶を飲んでいるが、誰も咎めることはない。そもそも見えていないのだから。

 

 案内人が敵艦が発見された方角に顔を向けると、その目の前に映像が現れる。

 その映像にはファイアブランド家の家紋を掲げる飛行船の群れが映っていた。

 

「たったの二十二隻ですか。ふ、もう勝負は見えましたね」

 

 ファイアブランド家の家紋を掲げる敵艦隊は全部で二十二隻。

 

 対してこちらはオフリー家から派遣されてきた十八隻にファイアブランド家と対立する家から派遣されてきた十六隻が加わり、三十四隻に達している。しかもこれだけではなく、艦隊の後方には補給物資と上陸部隊を満載した輸送船団五十五隻が続いている。

 

 また、敵艦隊は中型飛行戦艦四隻を除けば小型のフリゲートやコルベットと呼ばれる護衛艦だけ。

 

 こちらには二百メートルクラスの大型飛行戦艦三隻、中型飛行戦艦九隻があり、火力差は数の差以上に圧倒的である。

 

 どうやら敵艦隊はこちらを視認しているらしく、真っ直ぐ向かってくる。

 

 不意に胸を焼くような嫌な感覚が強くなり、案内人はエステルが近づいてきているのだと理解する。

 

「いるのだな、エステル。そこに──いるのだな」

 

 冷や汗を浮かべつつも案内人はニヤリと笑う。

 エステルが出てきたということは空賊の時のように鎧で先陣を切るだろうと確信したからだ。

 

 だが今回のエステルの相手は空賊などとは違う。

 強力な装備を揃え、それらを扱う兵士たちの練度も高く、そして数の上でも圧倒している【軍隊】である。

 いくらエステルが強くとも、軍隊を相手取っての他勢に無勢では勝てはしない。

 囲まれて袋叩きにされるか、味方を全て失って孤立無援になるか──いずれにしてもここでエステルの命運は尽きる。

 ファイアブランド軍は濁流に呑み込まれるかのように崩壊し、ファイアブランド領は蹂躙され、エステルは領主になる夢が叶う目前で絶望の淵に叩き落とされるだろう。

 

 これまで幾多の英雄豪傑が数を呑んで襲いかかる敵に圧し潰されるのを見てきた案内人はそう信じて疑わない。

 だが──それでも念には念を入れておくべきだろう、とも判断した。

 

「ここは先手を打っておきましょうか」

 

 

◇◇◇

 

 

 互いに視認できる距離まで近づいた両軍の艦隊は陣形を変えながら上昇を始める。

 上を取られないようにするためだ。

 

 ファイアブランド艦隊は単縦陣のまま同航戦に備えて大きく弧を描くように上昇していく一方で、オフリー艦隊はV字型の陣形を斜めに三つ重ねたような複雑な陣形を取っていた。

 下のグループは何隻かがもたついて遅れているが、一番上のグループは精鋭らしく、一糸乱れぬ動きで後続を導いている。

 

 それを見たファイアブランド艦隊の指揮官ライナス・アスカルトは苦々しい表情で呟いた。

 

「抽斗陣形か。厄介な」

 

 艦隊をいくつかのグループに分け、高度差を設けて配置することで互いの死角を補い合う、極めて防御力の高い陣形を相手が取っていた。

 鎧による撹乱及び高速を活かした素早い接近と離脱を繰り返し、敵戦力を擦り減らすことを目論んでいたファイアブランド艦隊だが、初っ端からその目論見が外れた。

 

 相手の陣形は全方向に高密度の砲火を浴びせることができ、横や下から迂闊に近づけばたちまち火達磨だ。

 かといって前や後ろからでは相手の砲火の密度は低くてもこちらが攻撃できない。飛行船の大砲は殆どが舷側に搭載されており、攻撃時は舷側を相手に向けなければならないのだ。

 そして上は──取れそうにない。

 

「仕方ない。予定より早いが、艦載機の展開用意を。何としてもあの陣形を崩さねばならん」

 

 指示を出すと、通信士たちが慌ただしくなる。

 そんな中で笑っているのはエステルだ。

 

「早速私の出番か」

 

 その表情は虚勢を張っているようには見えない。

 まるで狩りや遊びを楽しむかのような純粋で獰猛な笑みを浮かべている。

 

 ──はっきり言って異常だ。

 こんな絶望的な状況であんな風に笑っていられるなど余程の馬鹿か、あるいはとんでもない化け物のどちらかとしか思えない。

 そしてエステルは──間違いなく後者である。

 

 エステルが空賊やオフリー家と戦うと言い出した時には、彼女を聡明で勇敢な愛郷心溢れる少女くらいにしか思っていなかったが──今や彼女が怖い。

 同時に、そんな化け物じみた彼女に魅せられている自分もいる。

 

 冷や汗を流すライナスの横を通り過ぎて格納庫へと向かうエステルを誰も止められはしなかった。それどころか、声をかけることすらままならなかった。

 ただ一人、ライナスだけが「ご武運を」と呟いただけだった。

 

 

 

 アリージェントの格納庫は船体の後ろ半分の殆どを占める広い空間だった。

 左右に鎧や小型艇を発着させるための巨大な扉があり、出撃を待つ鎧が総勢二十機ほどズラリと並ぶ。

 扉が開いたら合図と共に一斉に大空へと飛び出すのだ。

 まるでSF映画のような光景に興奮が止まらない。

 

 その格納庫で俺の乗機である【アヴァリス】は一際大きな存在感を放っていた。

 他の鎧より二回りほどは大きな機体と背中の可変式推力偏向翼のせいで格納庫のスペースを占領して仕方がないが、それに関して文句を言う奴はここにはいない。だって俺はこの場にいる誰よりも偉いから。

 

 パイロットスーツに身を包み、アヴァリスの前にやってくると、機体のチェックをしていた技師たちが敬礼してきた。

 

「最終チェック、完了致しました。いつでも行けます」

「ご苦労」

 

 鷹揚に返してタラップを昇り、コックピットに乗り込む。

 

 起動すると、バイザーの視界がコックピットに投影される。

 ちょうど目の前に発着誘導用の大型信号機が見えた。

 扉が開き、この信号機が青に変わった時が出撃となる。

 

 不意にザザザ、というノイズと共に声が聞こえてきた。

 鎧部隊の隊長が通信機を通じてパイロットたちに最後の注意事項を伝えているのだ。

 

『大隊長オーブリーより各機。敵は数においては圧倒的。練度もおそらく我々よりも高い。忘れるな。我々の戦い方は一撃して離脱だ。編隊を崩さず、速度を落とさず、一斉射浴びせたらすぐに距離を取れ。くれぐれも格闘戦には応じるな。生き残ることを最優先せよ』

 

 それは俺以外のパイロットたちに向けられたものだった。

 アヴァリスの圧倒的な高性能で押し切れる俺と違い、他のパイロットたちが乗っているのは普通の鎧だ。しかも殆どは一、二世代前の旧型機。

 そんな彼らが数で勝るオフリー軍の鎧戦力に対抗するには、常に高速を保ち、突撃と離脱をチマチマ繰り返すほかないのだ。

 数が少ないのは辛いな。

 

 そう思っているうちに艦隊全ての鎧が出撃準備を完了したらしく、巨大な扉がゆっくりと上に跳ね上がるように開いた。

 

 風が吹き込んでくるのが音で分かる。

 

 信号機が青へと変わり、アナウンスが響く。

 

『全機発進!』

 

 アヴァリスの翼からマゼンタ色の炎が噴き出し、機体を前へと押しやる。

 

 俺は勢いよくアリージェントの右舷に飛び出した。

 

 他の味方機も続々と発艦し、空中集合して編隊を組み上げる。

 

 俺の乗るアヴァリスだけが単独で編隊から少し離れた所を並走する。

 味方機と一緒に編隊を組んでも味方機が邪魔で自由に動けないし、そもそもアヴァリスの速度と機動性に味方機が追従できないからだ。

 

『敵艦隊の正面に回り込め!そこが一番火力が薄い。一番上の正面から突っ込んで下に抜けるぞ!』

 

 隊長機の命令で編隊が一つの生き物のように素早く方向転換する。

 アヴァリスだけが一瞬方向転換が遅れて大回りになったが、速度を上げるとたちまち追いつき、追い抜いてしまう。

 

「一番槍は俺だ!」

 

 さらに速度を上げ、全速力でオフリー艦隊目掛けて突撃する。

 

『エステル様!突出しています!』

 

 隊長機がうるさく言ってきたが、無視して突っ走る。

 

 敵艦隊も鎧を発進させたようで、百機近くの鎧が鶴翼のような陣形を形成して待ち構える態勢に入っている。突っ込めば間違いなく斬りかかる前に蜂の巣にされるだろう。

 

 ──上等だ。突き崩してやる。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド艦隊が鎧部隊を発進させたのを見て、オフリー艦隊も直ちに迎撃機を発進させた。

 

 鎧の火力では飛行船のシールドと装甲を貫くのは難しいが、脅威であることには違いない。ましてや相手は指定危険空賊団を半日と経たずに壊滅させたファイアブランド軍だ。

 

 即応状態だった三十機がすぐに発進し、さらに後続も続々と発進している。

 

 ファイアブランド軍の鎧部隊は一塊になって、艦隊目掛けて正面から突っ込んでくるが、オフリー軍の鎧部隊の展開速度の方が優っていた。

 

(火力が薄い正面から突っ込んで下に抜けるつもりだったのだろうが──そうはいかん)

 

 鎧部隊の指揮官は敵の狙いを正確に読んでいた。

 

 ふと敵機の中に突出してくる一機を見つけた。

 

「新兵か?いやそれにしては速いな」

 

 訝しむ指揮官にどこからか侵入した黒い煙が纏わり付く。

 そして指揮官の頭に誰かの声が響いた。

 

『一番前の機体を破壊しろ。奴が親玉だ。全機一斉射撃で叩き落とせ!』

 

 指揮官はその声の正体について深く考える暇もなく、命令を下す。

 

「間抜けが突っ込んでくるぞ!全機、あの間抜けに照準!一斉射撃で粉微塵にしてやれ!」

 

 指揮官の命令にパイロットたちが戸惑いながらも応で答え、ライフルを構える。

 

 普通なら突出してきた一機に全機で一斉射撃などしない。数機、多くとも十数機ほどで事足りるからだ。

 それでも騎士たちが疑問や反論の一つも口にせずに従ったのはある種の直感だった。

 あの機体は普通じゃない──大きく、飾りではない翼を持ち、光を発するほどの魔力を垂れ流している。そして何よりこの数の鎧相手に平然と突っ込んでくる──化け物か、そうでなくてもとんでもない手練れだと、無意識的に感じていたのだ。

 

 三日月型に展開したオフリー軍の鎧部隊は後続が加わって八十機ほどにまで膨れ上がっていた。

 その全てがエステルの乗るアヴァリスに照準を合わせる。

 

 その壮観な光景に指揮官──の隣にいる案内人は興奮する。

 合図一つで多方向から百発近い弾丸が同時にエステル目掛けて襲いかかるのだ。いくらエステルの鏡花水月でもそんな攻撃には対処し切れないだろう。

 

「さあ来い。ここがお前の死に場所だ、エステル」

 

 そう呟く案内人の期待通り、エステルは圧倒的な鎧の大群を前に怯んだ様子もなく突撃してくる。

 その速度は普通なら狙って当てることなどできそうにないほど速いが、現在の状況では違う。オフリー軍は待ち構える側であり、空中で停止してじっくりと狙いを定めることができる。

 

 そしてアヴァリスが距離三百メートルまで接近してきたその瞬間、指揮官は叫んだ。

 

()ええええええええ!!」

 

 その合図で一斉にライフルが火を噴き、無数の魔弾がアヴァリス目掛けて殺到する。

 

 今更避けようとしたのか、アヴァリスの翼が動きを見せたが、アヴァリスが向きを変えるよりも魔弾の弾着の方が早い。

 

「ふはははは!墜ちろエステルゥゥゥ!」

 

 案内人は高笑いするが──次の瞬間、魔弾は()()()()()()()()()()()()U()()()()した。

 

 予想だにしていなかった事態に殆どの鎧が反応できず、悲鳴一つ上がる間もなく無数の火の花が空中に咲いた。

 少し遅れて無数に重なり合った爆発音が響き渡る。

 ついさっきまでオフリー軍の鎧部隊が陣形を組んで浮かんでいた場所は、一瞬で爆煙と鎧の破片に埋め尽くされていた。

 

「──は?」

 

 案内人は呆気に取られる。

 

 百機近くの鎧が自分たちの撃った弾によって一瞬で壊滅した。

 六割ほどが戻ってきた弾に貫かれて爆散し、三割ほどが戻ってきた弾を躱そうとして失敗し、手足や頭を吹き飛ばされた。

 無傷なのは残りの一割──数機だけだった。

 

 エステルはそのまま急降下で逃げていき、直後に後続のファイアブランド軍の鎧が襲いかかってくる。

 

「いやちょっと待て!どういうことだ!どうしてそんなことができる!?」

 

 狼狽して叫ぶ案内人だが、実のところ頭で分かってはいる。

 空間ごと弾道を捻じ曲げて相手の弾を打ち返す──間違いなくエステルの切り札、【鏡花水月】だ。

 それでも、今まで見てきた鏡花水月の威力及び限界と今起こった現象との間に隔たりがありすぎて、心が納得を拒む。

 

「私の計画が──やっとここまで揃えて──お膳立てしたというのに」

 

 ファイアブランド家の戦力見積もりの改竄でオフリー軍の戦力を増やさせ、更に軍を動かす大義名分のために新たな紛争が起こったという体で他家からも戦力を出させた。

 飛行船、鎧、兵站──総合的な戦力差は当初の予定の三倍から更に増えて五倍にまで達していた。

 

 どう足掻こうがファイアブランド軍は数の暴力の前に敗れるはずだった。

 領地は占領・蹂躙され、総大将であり、開戦を命じたエステルは部下や領民たちから恨まれ、オフリー家によって身柄を拘束され、貴族の血を取り込むための胎にされて地獄の苦しみを味わった後、真実を聞かされて案内人を激しく憎むことになるはずだった。

 

 そして表向きには、「ファイアブランド家は愚かにも他家との新たな抗争を起こし、返り討ちに遭って私設軍を壊滅させられ、領地にまで攻め込まれたものの、利権を守るために出動したオフリー軍の協力を得てどうにか滅亡を免れた。そしてファイアブランド家はオフリー家による軍の駐留という形での防衛力提供と、復興のための経済援助という恩義に報いるべく長女エステルを嫁がせた」──そう処理されるはずだった。

 

 なのに──そのために揃えた戦力の約四割がエステル一人によって一瞬で溶かされた。

 絶対の自信を持って立てた計画が、いよいよ大詰めという所でいきなり前提条件をひっくり返されて破綻した。

 

 案内人は頭を抱えて叫ぶ。

 

「なぜだあああ!どうしてだあああ!!」

 

 

◇◇◇

 

 

 ふと懐かしい声が聞こえた気がした。

 そうか、どこかから案内人が見守ってくれているのか。

 ならこの結果も当然だな。

 

『上手くいったわね!大戦果よ!』

 

 セルカがコックピットに目を出現させて言ってきた。

 その軽やかな声と目の輝きが彼女の興奮ぶりを物語っている。

 無理もない。正直初めて使う、制御できるかも分からない賭け同然の大技が見事に決まったのだ。

 

 鏡花水月の発展型──【鏡花水月・連】は俺とセルカが互いにないものを補い合うことで実現したコンビネーション攻撃だ。

 その内容は至ってシンプル。セルカが照準計算し、俺が発動する、という分業に過ぎないが、その効果は凄まじかった。

 今までは相手の数が多ければ、あるいは複数方向から同時に攻撃されれば、逸らすだけで精一杯でとても打ち返すなんてできなかったが、それができるようになった。

 それこそ四方八方から多数の弾丸を同時に撃ち込まれても、全て放たれた場所目掛けて打ち返す──そんなことだってできてしまう。

 更に、消費した魔力もセルカが補充してくれるというオマケ付き。

 

 考えたのは俺だが、あまりにも凄まじいチートぶりに我ながら戦慄してしまう。

 相手が揃いも揃って空中で停止するという舐めプをしてくれたせいもあるが、一瞬で七十機ほども墜とすことができた。

 

 ──最高だな!!

 

「ああ、すごいぞ!このまま畳み掛けてやる!」

 

 急降下させていた機体を引き起こし、今度は急上昇で下からオフリー艦隊に襲いかかる。

 

 飛行船が大砲を撃ってきたが、難なく全弾躱す。

 

「遅いんだよ!」

 

 そのまま下層の飛行船の隙間を縫って上昇し、最上層を飛んでいた大型飛行戦艦の一隻目掛けて体当たりをかますと──船底部を突き破って船内に飛び込んだ。

 大腿部に差した漆黒の大剣を抜いて周囲を破壊し、弾薬庫を探す。

 

「──ここか!」

 

 大量の砲弾と装薬入りと思しき箱が詰まった部屋に爆弾を投げ込むと、素早く上昇して離脱。天井をいくつか突き破って甲板から飛び出す。

 

 直後、大型飛行戦艦は内部から大爆発を起こして四散した。

 

『主力艦を墜としたぞ!この機を逃すな!押し広げろ!』

 

 大型飛行戦艦が吹き飛んだことで生じた間隙に味方機が突入し、周囲の飛行船を攻撃する。

 

 俺が吹き飛ばした大型飛行戦艦の後ろにいた中型飛行戦艦が被弾して火を噴いた。

 ブリッジを吹き飛ばされて操舵不能になったらしく、急に向きを変えて旋回し始める。

 

 それを避け損なった敵艦が一隻、衝突してくの字型に折れ曲がり、大破した。

 

 一度に二隻を撃墜したが、味方機は欲張らずに上昇して離脱する。

 

 その後ろからオフリー軍の鎧が二十機ほど追ってくるのが見えた。

 どうやら残存機を集めて態勢を立て直したらしく、編隊を組んで味方機を追っている。

 

 ──なるほど、頭を失った途端に総崩れになった空賊とは確かに違う。

 面白い。

 

「セルカ、アレを使うぞ」

『はいな』

 

 アヴァリスの左手にそれが握られる。そして右手には漆黒の大剣。

 これで鎧相手の接近戦の準備は完了だ。

 

 アヴァリスを宙返りで上下反転させると、追ってくるオフリー軍の鎧目掛けて急降下する。

 

 彼らに一言、餞別をくれてやる。

 

「──死ね」

 

 

◇◇◇

 

 

 オフリー艦隊旗艦のブリッジ。

 

 誰もが外で繰り広げられる蹂躙劇にワナワナと拳を震わせていた。

 

「あ、悪魔だ──」

 

 誰かがそう呟いた。

 

 蒼穹をマゼンタ色の光を曳いて飛び回る純白の鎧──その一機だけに六十機を超える数の鎧と主力艦一隻が撃墜された。

 何をやったのか、味方機が撃った弾は当たる直前で跳ね返ったかのように向きを変え、味方機を貫いた。

 同等クラスの飛行戦艦との砲撃戦でなければ沈めることは不可能と謳われた主力艦が、体当たりで船体をぶち破られて内部から爆破された。

 

 あり得ない。あってはならない。

 

「何なんだあいつは!あれではまるで──」

 

 艦隊指揮官のレナード・フォウ・コープは思わず毒づいた。

 純白の鎧の暴れぶりは口にするのも恐ろしいとある化け物を彷彿とさせるものだった。

 

 部下が悲鳴のような声で報告を上げてくる。

 

「敵鎧部隊急速接近!迎撃不能!」

「ヴィクサス、シャヴァリア、大破!」

「鎧部隊は何をやっているんだ!」

「奴らは一塊だ!注視しろ!攻撃を仕掛けてくるタイミングでシールドを集中して耐え凌ぐのだ!後は鎧部隊に任せろ!」

「だから、その鎧部隊が──」

 

 大混乱のブリッジを後目に純白の鎧と後に続くファイアブランド軍の鎧は悠々と高空へ離脱していく。

 そして今更のようにその後を追いかける味方機。

 

 だが──コープは直感で不味いと悟った。

 

「いかん!深追いさせるな!」

 

 しかし、遅かった。

 次の瞬間、ブリッジの天井は何か巨大な物が叩きつけられたように崩落する。



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破砕衝

 その武器は元々【飛槍】と呼ばれる、魔法で誘導飛行させられる武器を撃ち出す特製の発射砲(ランチャー)だった。

 遠距離狙撃を主目的としつつも、接近を許してしまった時の盾にもなるように設計されたその武器はアームガードの付いた突撃槍のような優美な造形をしていたのだが──今やその優美さは見る影もない。

 

 アームガードは取っ払われてランチャー本体と同じくらい大きなバヨネットに置き換えられ、本体側面には巻き取り機とそれを動かす小型エンジン、そして装薬の詰まった弾倉が増設されている。更にそれらを本体に固定するために多数の留め具やバンドが追加されて、まるでポストアポカリプス映画に出てくる醜悪な改造武器のような見た目になってしまった。

 

 こんなことになったのは接近戦能力の向上と鎖付きの飛槍を撃ち出せるようにすることを目的に改造したためだ。

 

 オリジナルの飛槍とそのランチャーはあまりにも使い勝手が悪かった。

 飛槍はその操作の難しさからどうしても遠距離狙撃に特化したものとならざるを得ず、落ち着いて狙いを定め、誘導に集中できる場面でしか使えなかったのだ。

 

 前回の空賊との戦いでは誘導をセルカに任せることでこの欠点を解消したが、それでも数で勝るオフリー軍相手には不足だった。

 遮るもののない空中では、数で勝る相手に対して逃げ回りながらの狙撃で一機ずつ確実に墜としていく、などというやり方は通用しない。

 一機一機チマチマ削ったところで相手はものともせずにこちらを圧倒してくるだろう。

 それに俺としてはやはり接近戦の方が好みである。

 

 そこで鎖付きの飛槍を考えた。

 

 鎖が付くだけで飛槍はその用途の幅が大きく広がり、便利なものになった。

 特に直撃させてもパイロットにダメージを与えられなかった場合、鎖を巻き取って引き寄せ、別の武器でトドメを刺せるというのが大きい。

 そのような場合、今までは飛槍を爆発させるしか確実に仕留められる方法がなかったが、飛槍の数には限りがある。そうしょっちゅう爆発させていたらすぐに手持ちがなくなってしまう。

 また、鎖と巻き取り機があれば飛槍の回収と再装填の手間が減る。わざわざ誘導飛行で帰還させなくても鎖を巻き取るだけで戻ってくるからだ。

 

 ミサイルのように相手を追尾するという強みはそのままに、毎回使い回せるようになって、発射レートも向上──これは大きな利点である。

 ただ、その利点の代償として飛槍の射程が鎖の長さ分、つまり二百メートルに制限されるのだが──そもそもそれ以上の距離からの狙撃などする機会はないだろう。

 

 というか、これってもはや飛「槍」じゃないような──もはや「銛」じゃないか?

 銛──英語で言うとハープーン。

 

 うん、嫌いじゃない。浪漫を感じるじゃないか。

 

 ちなみにオリジナルの飛槍の使い方を教えてくれたライアンは改造された飛槍を見て「私の飛槍が!」と泣いていたが、知ったことではない。

 今世の俺の身体は女だが、心は格好良さと浪漫を追い求める男だ!

 

 

◇◇◇

 

 

 隊長機と思しき角が付いた中型の鎧目掛けて飛槍を発射する。

 

 相手は横に滑るようにして回避しようとしたが、飛槍は向きを変えて進路上に先回りし、胸部に突き刺さる。

 直前で身を捩って致命傷は回避したらしく、飛槍を掴んで引き抜こうとするが──抜けない。改造された飛槍には返しも付いていて、突き刺さると返しが展開して簡単には抜けなくなるのだ。

 抜けないと分かると、相手は斧を取り出して鎖を切ろうとするが、それも無駄である。鎖はセルカ謹製の逸品で、鎧が使うような武器ではまず切断できない。

 

 もがく相手を嘲笑いながらアヴァリスを横滑りさせ、大きく弧を描くような降下機動に変更する。飛槍が突き刺さった相手は遠心力で弧を描くように引っ張られている。

 上出来だ。

 

 降下するアヴァリスをゆっくりと引き起こす。

 向かう先には敵の旗艦と思しき大型飛行戦艦。数機の鎧が直掩についていて、こちらを迎撃しようと向かってくる。

 

「お前らに一つ教えてやろう」

 

 アヴァリスの左手に飛槍の鎖を握らせて俺は呟く。

 

 そして叫びながら敵旗艦目掛けて思い切り鎖を振り抜いた。

 

「銛ってのはな、こう使うんだよ!!」

 

 飛槍が突き刺さった敵機が大きな弧を描いて敵旗艦のブリッジに叩きつけられる。

 そしてブリッジの天井をあっさりと突き破り、床もその下の部屋もぶち抜いて船内に深々とめり込んで、爆発した。

 

『んなあああッ!?』

『馬鹿な!』

『き、旗艦が──』

 

 敵味方双方が度肝を抜かれたらしく、通信が騒がしくなる。

 その狼狽ぶりが実に心地良い。

 

『絶対違うと思うわ──』

 

 セルカだけは若干呆れているようだが、さもありなん。

 刺した相手を鉄球代わりにしてモーニングスターのように振るうなど、どう考えても銛の使い方ではない。

 だが細かいことはどうでも良い。その効果は今実証されたのだから。

 遠心力を使って攻撃するという性質上、どうしても動きが大振りになり、素早く飛び回る鎧には命中させられないが、鈍重な飛行船ならば話は別だ。

 敵の鎧を敵の飛行船に叩きつけて破壊──なんて浪漫溢れる戦い方だろうか。

 

 ブリッジに直撃を受けた敵旗艦は操舵不能になったらしく、ゆっくりと右に旋回し始める。

 後続艦が旗艦を避けようと向きを変えるが、指揮官を失って混乱しているらしく、動きがてんでバラバラだ。

 そして混乱がさらなる混乱を生じさせ、陣形がどんどん崩れていく。

 その光景は見ていて笑える。

 

『おのれ!化け物!』

『コープ様の仇!』

『その首渡せえええ!』

 

 やっと我に帰ったらしい敵の鎧部隊が迫ってくるので急いで飛槍を回収し、急降下で離脱する。

 

 直後、混乱する敵艦隊の周辺で無数の爆発が起こった。

 

 見ると、味方艦隊が距離を詰めて砲撃を開始している。

 まだ有効射程ギリギリで殆ど命中は期待できないが、それでも敵が乱れた隙は逃がさなかったようだ。

 その判断は正しい。殆どの砲弾は外れたようだが、何発かは命中したようで、敵艦が数隻被弾して火災を起こしている。

 混乱している状態でシールドを張っている余裕もなかったのだろう。

 

 すぐに次の砲撃が行われ、再び敵艦隊が爆発に包まれるが、今度は味方の砲撃によるものだけではなかった。

 次の瞬間、味方艦隊の周囲でいくつかの爆発が起こる。敵艦隊が反撃を開始したようだ。

 

 反撃を受けた味方艦隊は素早く陣形を変更し、さらに距離を詰めて本格的な砲撃戦に移行する。

 

 さて、飛行船は飛行船に任せてこちらはこちらの仕事をするとしよう。

 

 ライフルを撃ちながら追ってくる敵の鎧が六機。

 その動きは不規則で、鏡花水月による打ち返しを警戒しているのが分かる。

 

 ──笑える。それで対策したつもりか?

 追ってきている、つまり自分から近づいてきている時点でお前らの命運は俺の手中に握られている。

 

 アヴァリスの翼を操作して炎を逆噴射させ、降下をやめてこちらから向かっていく。

 

『来るぞ!散開!』

『墜ちろ悪魔め!』

『死ねえええええ!』

 

 敵機はばらけて複数方向から撃ってくるが、そのうちの一機に狙いを絞って突撃する。

 打ち返しても当たりそうにないので鏡花水月は使わず、弾は全て装甲で弾き返す。

 

『硬ッ!な、何だよ!何なんだよォォォ!』

『この野郎!何で墜ちねえんだよ!』

『クソッ!クソッ!クソがぁぁぁあああ!』

 

 俺に狙われた敵は出鱈目な動きで空中を逃げ回りながら、それ以外の敵は俺を囲むようにして飛びながらライフルを撃ちまくるが、アヴァリスの装甲を貫くことはおろか、傷の一つさえも付けられない。

 

 やがて弾切れを起こしたのか、敵機からの銃撃が止む。

 

 その隙に一気に距離を詰めてバヨネットで刺突を食らわせると、あっさりとコックピットから背部まで貫通した。

 同時に他の敵機が一斉に剣や戦斧を手に襲いかかってきたが、右手の大剣を振るえば全機あっさりと撫で斬りにしてしまう。

 

 ──いや、一機だけ斬撃を免れた鎧があった。得物の剣が長かったからか、鎧本体まで斬撃が届かず、得物を失っただけで済んでいた。

 だがその幸運も無意味だ。たまたま一度斬られなかったからといって、そいつには俺を倒す術も俺から逃げおおせる術もないのだから。

 

 距離を詰めると、武器を失った相手は「ひっ!」と悲鳴を上げて逃げ出した。

 だがすかさずその背中に飛槍を撃ち込み、鎖を巻き取って引き寄せる。

 

「おいおい、あれだけ大口を叩いておいて武器をなくしただけで逃げるのか?悪名高きオフリー伯爵家の軍人ともあろう者がそれじゃ情けねーだろうがよ!」

 

 拡声器を使ってもがく敵に呼びかける。

 だが相手は半狂乱で泣き喚くばかりだった。

 

『う、うわああああああ!嫌だああああ!やめてくれええええええ!』

「ギャアギャアうるさい奴だな。もういい黙れ」

 

 バヨネットの一突きでコックピットを貫き、動かなくなった相手を放り投げる。

 

 次の獲物は──

 

「アレにするか」

 

 目標に定めたのは下層から上がってくる敵飛行船。

 蹂躙される上層の艦隊に加勢しようとしているのだろう。

 

「お前らの相手は俺だ!」

 

 敵飛行船目掛けて急降下すると、直掩の鎧が阻止しようと向かってくる。

 

「邪魔だあああ!」

 

 大剣を振るって立ち塞がる鎧を蹴散らし、一機を飛槍で捕まえると、再びモーニングスター代わりにして近くの敵飛行船に叩きつける。

 

 敵は上方──つまりブリッジにシールドを集中して防御力を強化していたようだが、その程度の対策など無意味である。

 振り抜く直前で鎖を少し繰り出すと──鎖はシールドによって阻まれたが、飛槍が突き刺さった敵機は軌道を変えて敵飛行船の土手っ腹に直撃した。

 さながらモーニングスターが相手の盾の外枠を回り込んで打撃を届かせるかの如く。

 

 直後、飛行船はボコボコと膨れ上がったかと思うと、爆発して粉々に砕け散った。

 めり込んだ敵機が爆発し、弾薬庫に誘爆したようだ。

 

「やったぜストライク!」

 

 思わず歓声を上げると、セルカがジト目でツッコんでくる。

 

『いやあれ狙ってやったんじゃないわよね?』

「細かいことはいいんだよ!」

 

 せっかくの気分を壊すんじゃない。

 

 何か微妙な空気になるのを振り払うように、俺は素早く飛槍を回収した。

 あれだけの爆発に巻き込まれたにも関わらず、飛槍も鎖も煤けただけで無傷である。

 その頑丈さに驚きつつ、次の獲物を探す。

 

『またお前かあああああ!』

『暴れすぎなんだよ!』

 

 飛行船を守り切れなかった敵の鎧が怒りの叫びを上げながら向かってくるが、大剣とバヨネットを振り回して片っ端から破壊していく。

 数こそ多いがどれも俺の敵ではない。わざわざ倒されに来ているようなものである。

 顔が自然とニヤけてしまう。

 

「さあ来い。もっと来い。どんどん来い!」

 

 

◇◇◇

 

 

 アリージェントのブリッジ。

 

 窓の向こうで繰り広げられる光景に見張り員の一人が呟いた。

 

「強い──強すぎる」

 

 まだ学園も出ていない十二歳の少女が嬉々として敵と戦い、片っ端から叩き落としていく。

 冷や汗を浮かべる見張り員の隣に艦隊司令官のライナスが立つ。

 

「怖いか?」

「い、いえ!そんなことは──」

「よい。気にするな」

 

 ライナスは見張り員の弁解を遮り、窓の外に視線を向ける。

 戦況を自分の目で確かめつつも、ついついアヴァリスに視線が引きつけられてしまう。

 

「──ファイアブランド家に生まれていなければ──いや、せめてテレンス様に似ておられたなら──あの方はただのお嬢様でいられたであろうに。不憫だな」

「それは──どういうことでしょうか?」

 

 見張り員はライナスの言葉に首を傾げる。

 

 ライナスは彼にエステルの身の上話を掻い摘んで説明する。

 

「エステル様は当主様の亡くなられた奥様の子だ。それもその奥様に瓜二つときた。奥様は──その、いわゆる恐妻でな。そんな奥様に似たエステル様を当主様は酷く疎んでおいでだった。あの方が不義の子ではないかという疑いもあったのだろうな。実の父に愛されず、挙げ句の果てに十二歳で身を売られかけ──その理不尽な仕打ちに必死で抗い、それでいて家のことや、領地のことを誰よりも考えて最適解を模索し続けて、遂には自らが領主になる覚悟をし──そして今はこうして自ら戦いに身を投じている。全く、何をどうすればこのような子が育つのか、私も知りたいよ」

 

 ライナスはエステルのことを昔からよく知っている。

 報告や会議のために屋敷を訪れた時、彼女とよく話をしていた。

 自分たち軍人の仕事のこと、お互い自身のこと、領地のこと──色々な話題で話をする度、彼女の聡明さに舌を巻いたものだ。

 

 そしてライナスはエステルが家出した背後にあった事情も最初から知っていた。彼女がオフリー家への嫁入りを嫌がって家出したことも、その時勝手を詰るテレンスに財政再建ができるだけの金を自分が用意するから縁談を取り消せと啖呵を切ったことも。

 

 そしてエステルはその言葉通り、かなりの値が付く財宝と伝説級のロストアイテム複数を持ち帰ってきた。

 

 そんな彼女からすれば帰ってきてからの状況は「話が違う!」と言いたくなるものだろう。

 オフリー家から取引を履行しなければ武力を行使すると脅迫されて、縁談の取り消しを言い出せる状況ではなくなっており、おまけに名の知れた危険な空賊団に港を襲われていた。

 そしてテレンスからオフリー家への嫁入りを承諾すればオフリー家との戦争の可能性は消え、援助によって財政再建もできると家臣たちの前で暴露された。

 

 あの場で多くの人間がこう考えたはずだ。

 エステルがオフリー家への嫁入りを承諾するだけでオフリー家という最大の脅威を除くことができ、後顧の憂なく空賊に対処できるばかりか、長きに渡る財政問題も解決できるなら──エステルに犠牲になってもらいたい、と。

 

 それは当然の考えだ。

 いくら領主の娘であるとはいっても、所詮一人の人間だ。

 その一人が意にそぐわない結婚を堪えるだけで、戦争や貧困によって失われるはずだった多くの命を救うことができるのだ。

 オフリー家と戦争などすれば、多くの戦死者が出るし、莫大な戦費もかかる。戦いの結果がどうあれ、ファイアブランド家は今以上に困窮し、下手をすれば破産してしまう。

 それを避けられる可能性というのはこの上なく甘美な誘惑だっただろう。

 

 ──ライナスからすれば、理解はできても納得はできなかったが。

 

 だがエステルはそんな誘惑を打ち砕いた。

 オフリー家に自分を差し出して目先の危機を回避したところでファイアブランド領に明るい未来は訪れない、その先にあるのは経済で首根っこを押さえつけられ、オフリー家に縛り付けられる陰惨な運命だ──そう言い切った。

 そしてその上で自分が全てどうにかしてやると言った。

 自ら軍を率いて空賊とオフリー家の軍勢を片付け、その後は自分が領主になる、というエステルの言葉はあの場にいた全員に衝撃を与え、テレンス寄りになっていた空気を一変させた。

 

 ライナスにはそれを何の根拠もない、世間知らずの幼子が粋がっているだけの妄言と断ずることはできなかった。

 

 ──彼女の目を見てはっきりと分かった。

 彼女の覚悟は本物だ、と。

 彼女はただ嫌なことから逃れたくて駄々を捏ねているのでは決してなく、自分の望む未来のために自ら行動し、そして掴み取ろうとしているのだと。

 

 ──そして思った。

 目先のことに囚われずにずっと先を見据えることのできる聡明さと、領地と領民と家臣たちを想う熱い心を併せ持つ彼女はファイアブランド領の未来のために絶対に必要な人だと。

 彼女は悪名高きオフリー家の跡取りの妻に収まってそのまま終わるような方ではない。

 否、彼女をオフリー家などに渡してはならない、彼女は我ら軍人の命と引き換えにしてでも、オフリーの魔の手から守るだけの価値がある、と。

 

 だからこそ、ライナスは真っ先に彼女に賛同の意を示し、彼女に全権を委譲したテレンスの命令を支持したのだ。

 

「あの年であんな化け物じみた強さ──それを怖いと思うのは当然の反応であろうさ。だが、エステル様を化け物にさせてしまったのは我々大人の責任だ。我々が弱く、不甲斐なかったがためにエステル様は自ら力を持ち、化け物となるほかなかったのだ」

 

 空中を縦横無尽に飛び回り、向かってくる敵の鎧を次々に屠るその姿は頼もしいを通り越して神々しくすら見える。

 その姿に勇気付けられ、ファイアブランド軍の士気は高く保たれているが──ライナスにはそれが心苦しかった。

 弱体とはいえ、貴族家に仕える軍人たる者たちが主たる領主の娘、それもまだ十二歳の少女であるエステルを鎧に乗せて戦場に立たせ、華々しく先陣を切る彼女の戦いぶりに魅入っている──何とも情けない。

 本来であれば最前線で戦うのは自分たち軍人のみが背負わねばならない責務であり、守る対象であるエステルを戦わせることなどあってはならないのに。

 

 ライナスは自嘲気味に息を吐き、しばし目を閉じた後、見開いて拳を握り締めて言った。

 

「──だからこそ、我々大人が先に逃げ出したり諦めたりするわけにはいかない。それに見ろ。化け物とて味方であれば頼もしいだろう?」

「ッ!はい!」

 

 見張り員は力強く頷き、仕事に戻る。

 その目には恐怖の色はもはやなかった。

 

 安堵しつつもライナスは見張り員に語って聞かせた自分の言葉を反芻する。

 

(化け物となるほかなかった──か。思えば、自ら最前線に出るというのはあの方なりのけじめなのかもしれんな)

 

 エステルは自分が大勢の軍人が命を賭して戦い、守るに値する存在だと証明しようとしているのかもしれない、とライナスは推測する。

 

 あくまでも推測に過ぎないが、エステルのこれまでの言動から見えてくる性格は「不撓不屈」「率先垂範」だ。

 恐らく、彼女はいくら高説を吹聴して戦えと命じても、自分が先頭に立たなければあの夜の会議室でテレンスが言った通り、誰もついてこないと思っているのだろう。

 或いは、「幼稚な万能感に支配されて無闇に粋がり、部下たちを扇動するだけ扇動して自分は何もしない暗愚な臆病者」との誹りを免れるためには誰よりも勇敢に振る舞い、その心意気が口先だけのものではないと証明しなければならない、と。

 

 実際の所はエステルが先頭に立って戦わなくともそれを責める者などいないだろうし、それを彼女に伝えもしたが、それでも彼女は意志を曲げなかった。

 

 彼女を万が一にも死なせるわけには行かないと思えばこそ、出撃を止めようとしているのになぜ理解しないのか──当初はそう思って苛立ったが、今では彼女の行動にも理はあったと思える。

 ライナスの部下たちはあの時の会議室でのエステルを見ていない。

 彼らは彼女が最前線に出たからこそ、自分たちはいいように使い捨てられる駒ではないと安心し、士気を大いに高めた。

 

 言葉ではなく、その行動で自分の心意気を示して部下たちの心を打つ──それができるというのは凄いことだとライナスは思う。

 ──少なくとも今まで仕えてきたテレンスにはそんなことはできなかった。

 これまで何度か空賊との戦いや他家との抗争もあったが、テレンスは前線に出るどころか、自分たちに顔さえ見せることなく、執務室から現場を無視した無茶な命令と空虚な激励を発してくるだけだった。

 それに比べればエステルはその行動こそ極端ではあれど、上に立つ者としてはよほど優れている。

 

『どうしたよ?田舎の小領主なんて一捻りじゃなかったのか?あれだけ大口を叩いておいてこれだなんてつまらないぞ!』

 

 ──戦いを楽しんでいるような気もするが、泣きながら戦うよりは良いだろう。

 数を大きく減らしたとはいえ、未だなお圧倒的な敵を前に総大将が笑っている──それが皆の不安を和らげていく。

 この人についていけば勝てる──エステルの活躍をその目に映すファイアブランド軍の軍人たちはそう確信していた。

 

 

◇◇◇

 

 

「コープ様!ご無事ですか?」

 

 崩落したブリッジの天井の一部の下敷きになったコープは駆けつけてきた応急班によって助け出されたが、片脚が言うことを聞かず、身体のあちこちに破片が突き刺さって出血を起こし、満身創痍だった。

 

「無事に見えるのか!さっさとメディックを呼んでこい!それより状況は?」

 

 思わず八つ当たり気味に叫んだコープだったが、それでも艦隊を預かる身としてやるべきことをする。

 指揮官が脱落しては戦いが続けられない。

 

 応急班を指揮していた騎士がコープの手当てをしながら状況を報告してくる。

 

「被害は甚大です。敵の攻撃は本艦の艦橋及び内部通信室を貫通し、食堂で爆発を起こしました。艦長、操舵手、及び通信士八名が死亡、通信士七名、その他二十四名が重傷です。幸い後部操舵室は無事でしたので現在そちらで操艦を行なっております」

「そうか──戦況はどうなっている?」

「詳しくは分かりませんが──よくありません。我が第一梯団は主力艦一隻、中型戦艦一隻、フリゲート三隻が撃墜、中型戦艦二隻が大破炎上中です。また、敵の鎧による攻撃で各艦とも砲郭に被害を受け、火力が低下しています。次席指揮官アーガス殿並びに三位のアドラム殿は殉職、現在はガーネット殿の指揮の下、砲戦を継続中ですが、火力の優位を失い、膠着状態です。第二・第三梯団は敵の鎧及び小型艦に頭を押さえられ、援護不能となっております」

「くそッ!やってくれる」

 

 コープは思わず悪態を吐いたが、すぐに善後策を指示する。

 

「このまま撃ち合っていても埒が明かん。ガーネットに一旦距離を取って態勢を立て直すように伝えろ」

 

 コープの命令は無事だった通信機によって速やかに伝えられ、艦隊は退却を開始した。

 指揮系統を保つためにコープの乗艦を先頭にし、殿には最も防御力の高い残り一隻の主力艦を置いて中小型艦を守りながら距離を離していく。

 

 ファイアブランド艦隊は追撃らしい追撃をしてこなかった。

 小回りの利く鎧部隊はしばらく殿の主力艦の周囲を飛びながらしつこく弾を撃ち込んできたが、主力艦のシールドと装甲は貫けず、やがて諦めて艦隊の方に戻って行った。

 

 

 

「──しくじった。奴らを甘く見ていた」

 

 コープはギプスで固定された片脚の痛みに歯を食い縛りながら呟いた。

 

 今までやってきたように数の優位を活かして全方向、全高度に高密度の火力を指向しながらぶつかれば、さして被害を出さずに簡単に押し潰せると思っていた。

 

 だが違った。

 奴らはちょっと力を付けて調子に乗った空賊とは違う。少数だが精強な軍隊なのだ。

 そんな奴らが死に物狂いになれば空賊とは比較にならない脅威だと──なぜ俺はそんな当たり前のことを失念していたのだ!?

 

 相手を見誤ったばかりに貴重な主力艦と多数の鎧を失った──これは言い訳のしようがない大失態だ。

 この失態がオフリー伯爵の耳に入れば、コープには確実に重い処分が下るだろう。

 

(ええい。今更悔やんでも詮無いことだ。こうなったら態勢を立て直し、挽回を図るほかない。間違っても()()に期待して待つなどできん!)

 

 そしてコープが後続の輸送船団との合流を命じるために口を開きかけたその時、通信士が叫んだ。

 

「コープ様!大変です!」

「何事だ?」

 

 通信士の尋常ではない慌てぶりに思わず問い質すと、通信士は震えながら入電の内容を読み上げる。

 

「輸送船団が──輸送船団が襲撃を受けています!」



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烈火

『ひええー!何だよこれ!夢でも見てるんじゃないか?入れ食い状態だぞ!』

 

 誰かがそう叫んだ。

 

 その声に呼応するかの如く飛行船が一隻盛大に爆発した。

 その周囲でも多数の飛行船が紅蓮の炎へと変貌を遂げている。

 炸裂弾や焼夷弾、炎系の攻撃魔法による火災だ。

 

 炎に包まれる飛行船の間を縫って飛ぶのはファイアブランド軍の鎧部隊だ。

 その数約四十機。数こそ多いが、殆どは二、三世代前の旧型機で中には作業用機まで混じっていた。

 また練度も低く、その飛び方はどこか単調でのろのろとしている。

 ただ、武器だけは高性能なライフルと高威力の魔弾、そして多数の爆弾と極めて充実していた。

 

 寄せ集めに強力な武器を持たせただけの、本来ならとても実戦には耐えられないその部隊こそがファイアブランド軍の本命だった。

 彼らに課せられた任務はオフリー軍の輸送船団撃滅である。

 

 

「私たちが狙うべきは敵の艦隊よりも上陸部隊と補給物資だ。艦隊だけではファイアブランド領に上陸して占領するなんて不可能だし、補給が断たれれば飢えて戦うどころではなくなるからな」

 

 

 全てはエステルのその言葉が始まりだった。

 艦隊決戦で勝負をつけるのではなく、敵の補給を断ち切り無力化する──その方針に則って立てられた作戦は以下のようなものだった。

 

 

一. 艦隊による陽動

 主力の中型飛行戦艦とその護衛で構成される【第一任務部隊】がオフリー艦隊と交戦する。   

 これにより、オフリー軍の艦隊と輸送船団を引き離す。

 敵戦力を誘引するため、また可能な限り長く戦闘を継続するため、第一任務部隊には稼働可能な艦隊戦力と鎧戦力のほぼ全てを投入する。

 

二. 敵輸送船団攻撃

 第一任務部隊がオフリー艦隊と交戦している間、空賊から鹵獲した飛行船五隻とその護衛で構成される【第二任務部隊】が先行したコルベット部隊と協同してオフリー軍の輸送船団を捜索・撃滅する。

 なお、攻撃は全て鎧戦力によって行う。飛行船は戦闘を行わず、搭載能力を活かして目標近くの空域まで鎧戦力を輸送する母艦の役目に徹する。

 

三. 敵艦隊への総攻撃

 第二任務部隊は任務完了後、速やかに離脱し、第一任務部隊と合流する。

 両部隊は補給完了後、敵艦隊に再度の攻撃を行い、これを撃滅する。

 

 

 なお、この作戦の内容を知らされていたのは各部隊の指揮官クラスまでであり、一般兵たちには概要すら知らされなかったため、多くの一般兵──特に第二任務部隊に配属された者たちはなぜ第二任務部隊が第一任務部隊と別れて、敵艦隊から離れていくのかと疑問を抱いた。

 中にはその疑問とそこから生じた憤りを上官にぶつける者もいた。

 曰く、自分たちは故郷を守るために敵との戦いに参加したのに、全く見当違いの方向に向かわされるとはどういうことだ、と。

 

 だが今や、彼らが抱いた疑問と憤りは歓喜と熱狂に変わっている。

 敵の輸送船団が殆ど丸裸のまま密集して進んでいる所に奇襲攻撃をかけることに成功したのだ。

 大事な補給物資とファイアブランド領侵攻の主力である上陸部隊にロクな護衛も付けずに艦隊から離れた所を進ませていたオフリー軍の()()をせせら笑いながら、彼らは輸送船団目掛けて銃弾を雨霰と浴びせ、破口から爆弾を投げ込み、炎魔法で火を放った。

 

 オフリー軍の輸送船団とて丸腰ではなく、大砲や鎧を搭載し、自衛が可能な【武装商船】で構成されていたのだが、ファイアブランド軍の鎧部隊の前には無力だった。

 それもそのはず、自衛が可能とは言ってもそれは()()()()()()である。

 大砲の門数も威力も鎧の搭載数も本職の軍艦には遠く及ばず、ロクな装甲もない。精々「掠奪目的で近づいてくる相手」を威嚇し、襲撃を諦めさせるのが関の山である。

 当然、「最初から破壊目的で襲ってくる相手」に対して為す術はない。

 しかも相手は四十機もの「鎧」である。

 積んであった鎧は相手の数に呑まれて瞬く間に全滅し、大砲は素早く飛び回る鎧相手には全く当たらず、何の役にも立たなかった。

 

 武装商船は撃たれた傍から次々に爆発炎上して海へと墜ちていった。

 搭載していた弾薬に引火して木っ端微塵に吹っ飛ぶ飛行船も少なくなかった。

 その惨劇を目にして大混乱に陥った輸送船団は我先にと速度を上げ、高度を上げ、向きを変えてオフリー艦隊のいる方向へと逃げ始めた。

 その動きはまるで統制が取れておらず、あちこちで空中衝突が起こり、被害は拡大していく。

 中には船団から離れて元来た方向に引き返そうとする飛行船や、降伏の印を掲げた飛行船もいたが、例外なく攻撃を浴びて撃墜されていった。

 

 五十隻以上の大船団が、圧倒的に小さな鎧の群れ相手に反撃も逃走も降伏も許されずに一方的に攻撃を浴び、消しようがないほど巨大な炎に焼かれながら墜ちていく──その光景はもはや戦闘とは呼べず、一方的な殺戮と言って良かった。

 普通このような戦い方は忌避されるが、ファイアブランド軍には余裕がなかった。

 敵輸送船団は助けを呼んだはずであり、すぐに敵艦隊から救援が向かってくるだろう。数的不利を背負っている第一任務部隊にはそれを止める手立てはない。

 そして敵の救援が到着すれば、寄せ集めの第二任務部隊ではとても太刀打ちできない。

 つまり、何としても敵の救援が到着する前に敵輸送船団を撃滅して逃走しなければならないのだ。

 当然、相手が降伏してきたところで武装解除や乗組員の救助、物資の接収などしている暇はなく、無視して攻撃するしかなかった。

 

 

 

「分かってはいたけど──キツいなこれは」

 

 嚮導及び現場指揮のために第二任務部隊に配属されていたダリル・グリーブスは戦況を見て呟いた。

 

 敵輸送船団の発見に少々手間取ったが、作戦は順調、部隊は大戦果を上げている。

 それ自体は喜ばしいことだが、こんな残酷なやり方を選ばなければならなかったことには胸が締め付けられる。

 燃える船に閉じ込められたまま焼け死んでいくのが、どれだけ苦痛に満ちた惨い死に方か──想像しただけでも気分が悪い。

 

 確かに相手はこれまで様々な悪事に手を染め、ファイアブランド領に空賊をけしかけた憎き敵の軍勢ではあるが──いくら何でもこれは残酷にすぎるのではないか?

 

 ともすれば湧き上がってくるその疑問を必死で抑える。

 駄目だ。今は考えては駄目だ。

 

(皆と──エステル様が作ってくれた絶好のチャンスなんだぞ。それを私情で無駄にすることこそ絶対に許されない!)

 

 ダリルが葛藤を抱えつつもこんな作戦を遂行できているのは、これまで肩を並べてきた仲間と、エステルが第一任務部隊で戦っていることを知っているからだ。

 

「死んでもいい優秀な者」というのが第一任務部隊に配属された者たちの条件だと、鎧部隊を率いるオーブリー隊長は言っていた。

 第二任務部隊が任務を果たす時間を稼ぐために圧倒的な数の敵に挑む第一任務部隊は、恐らく多くの者が戻らない。そしてダリルは「死んではいけない優秀な者」だった。少なくともオーブリー隊長にとっては。

 

 第二任務部隊の鎧部隊隊長に任命され、果たすべき役目を告げられた時は反発した。

 ただでさえファイアブランド領の命運を決する戦いで仲間と共に戦えないなど納得できないのに、エステルが第一任務部隊と共にオフリー艦隊と戦うと宣言したからだ。

 最前線に出てくる必要すらない、否、出てきてはいけないはずのエステルが陽動部隊の方で戦うのに、なぜ自分は共に戦えないのか、騎士として今こそエステル様と共に戦って助けられた恩を返したい、自分も第一任務部隊にしてください──そう抗議するダリルにオーブリー隊長は言った。

 

「エステル様は必ずこの戦いを切り抜けるだろう。俺たちを鷹とするならあの方は竜だ。鷹が何羽群がろうが竜は倒せない。あの方は絶対に切り抜けて戻ってくる。だが俺たちは──違う。きっと俺たちの殆どは戻れない。一緒に行けば、お前もきっと戻れない。それでは駄目なんだ!お前はまだ若い。生きて、老いの近い俺たちの代わりにファイアブランド家を支えなきゃならないんだ!エステル様がこの戦いに勝って領主になられた時、腕の立つ騎士が一人も残っていなかったら、あの方もファイアブランド領も苦しい道を歩むことになる。これからのファイアブランド領にはエステル様と、お側で支える優秀な若手が必要だ。ダリル、お前がエステル様のご恩に報いるためにすべきことは、今戦って死ぬことじゃない。これからのファイアブランド領のために生きることだ」

 

 その言葉に叩きのめされ、今でも背中を押されている。

 

 ライフルの照準器を覗き込んで、まだ無傷な武装商船に狙いを定め、引き金を引く。

 着弾する一瞬前、甲板の敵兵と目が合ったような気がした。

 まだ若い──下手すれば年下かも知れなかった──童顔のその兵士は絶望に染まった顔をしていて、目には涙が浮かんでいた。

 

 しかし、次の瞬間には炎と黒煙が全てを塗り潰した。

 

 瞼の裏にこびりついた敵兵の表情を振り払い、ダリルは別のターゲットを探す。

 

「先に侵攻してきたのはお前らだ──悪く思わないでくれよ」

 

 

◇◇◇

 

 

「──何だと?」

 

 通信士からの報告にコープは蒼褪めた。

 輸送船団が襲撃されている──それは今回のファイアブランド領侵攻作戦が頓挫の危機にあることを意味する。

 輸送船団は今回の作戦を支える兵站の全てだ。

 弾薬やエネルギー源の魔石、修理用の資材といった艦隊の補給物資と、ファイアブランド領制圧のための上陸部隊、その上陸部隊の補給物資──それら全てが今敵の攻撃に晒されている。

 

「すぐに救援を向かわせろ!位置と被害状況は入っているか?」

「位置は本艦隊より東南東三百キロ、被害状況ははっきりしません!」

「くそっ!何たることだ!とにかく救援を急がせろ!」

 

 艦隊の中から速度が出る飛行船が輸送船団のいる方向へと向かっていく。

 足の遅い大型艦も鎧部隊を発進させて、輸送船団救援に向かわせる。

 

 ただ、今更救援に向かったところで到着には二時間近くかかるため、救援が間に合う可能性は無に等しい。

 救援部隊が到着した頃には敵は輸送船を一隻残らず沈めて逃げ去った後だろう。

 それでも、輸送船団救援を無駄だと断じることはできなかった。

 まだ助けられるかもしれない、沈められずに拿捕で済んだ飛行船がいるかもしれない、もし一隻も残っていなくても脱出した生存者がいるかもしれない──という一縷の望みに懸けて、オフリー艦隊は輸送船団の援護に向かわなければならなかった。

 

 泣きっ面に蜂とはこのことか、とコープは頭を抱える。

 敵から遠ざけるために艦隊から離れた所を進ませていたのが仇になるとは予想していなかった。

 

 何か善後策はないかと考えるコープだが、あらゆるシミュレーションの結果は敗北か撤退だった。

 輸送船団が壊滅が決定的になった今、ファイアブランド領侵攻作戦は続行不可能だ。

 艦隊の補給物資を失うだけならまだ何とかなるが、上陸部隊を失ってはどうしようもない。

 艦隊には地上戦力の代わりは務まらないからだ。

 地上戦力なくしてファイアブランド領を占領することはできないし、その先にある領主とその家族の確保や件の機密書類の捜索という目的も果たせない。

 

 ──作戦は失敗と断ずるほかない。今回の戦いはこちらの完敗だ。

 かといって、おめおめと撤退するわけにもいかない。

 戻ったところで待っているのは査問と処分、その先にある騎士としての終わりだ。

 

 

 

 頭を抱えるコープの横でもう一人、苦悶している者がいた。

 

「痛い──胸が──苦しい!くそっ!」

 

 歯を食い縛って胸を押さえる案内人は苦痛で霞む頭を必死で回して打開策を探していた。

 このままではエステルからの感謝で消滅させられかねない。

 

「何かないのか──ここからエステルを絶望させられる手は──」

 

 オフリー軍に自分が加勢するか?無理である。

 エステルからの感謝と、それに上乗せされたセルカや、ファイアブランド家の軍人たち、そして領民たちの感謝と好意で案内人の身体は蝕まれ、力は衰えている。とても戦況をひっくり返すほどの影響など与えられはしない。

 

 では自分の目的と正体を明かすか?論外である。

 これまでの冒険やオフリー家との戦いは全てエステルを領主にさせるためのことだと言ってしまったのだ。負の感情を抱かせるどころか、下手をすればまた感謝されかねない。

 

 頭を抱える案内人の隣でコープが苦い顔で頭を上げた。

 

「もはや【保険】に託すしかないのか。くそっ!」

 

 その言葉に案内人は反応する。

 

「保険?どういうことだ?」

 

 案内人はコープの思考を覗き込む。

 するとオフリー家が秘密裏に進めていた別の計画が見えた。

 どうやら案内人がファイアブランド領での煽動工作に勤しんでいた間に立てられていたらしく、案内人は存在を知らなかった。

 ファイアブランド領に入る商船に紛れ込ませて潜入部隊を送り込み、機を見てファイアブランド家の屋敷を捜索させる、という内容だ。

 

「これだ!」

 

 案内人は暗闇の中に差し込む一筋の光を見つけたかのように、飛び上がって喜ぶ。

 そしてそのままブリッジの天井をすり抜けて飛び出していった。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド家の屋敷の庭。

 

 木々に紛れて屋敷に接近する一団がいた。

 隠密や暗殺を得意とするオフリー家私設の潜入部隊だ。

 商船に紛れてファイアブランド領に侵入し、件の機密書類の安否に関する情報収集を行い、可能であれば処分するという任務のために一週間近く前から潜伏していた。

 

 そしてファイアブランド領で行われていた撫民宣伝の内容から件の機密書類がファイアブランド家の手に落ちていることを知り、その処分のために動いていたのだ。

 機密書類が保管してあるとすれば屋敷内部だろうと睨んでいたが、生憎警備が厳重で屋敷内部に人が多く、これまで侵入できなかった。

 だが、今なら軍がオフリー軍迎撃のために出払い、屋敷に残っている人間は少ない。

 

「よし、行け」

 

 隊長の指示で数名が同時に風魔法の刃を放つ。

 赤い軍服を着た屋敷の番兵が二人、悲鳴一つ上げる間もなく喉笛を切り裂かれて絶命する。

 素早く死体を茂みに運び、服と装備品を剥ぎ取る。

 二人が番兵になりすまして出入り口を確保し、残りはファイアブランド家の使用人に偽装して屋敷に入り込むのだ。

 慣れた手付きで偽装を完了させた潜入部隊は二人の番兵が受け持っていた出入り口の鍵をピッキングし、屋敷の中に侵入する。

 

 目指すは当主の執務室である。

 本来なら、事前に内通者から屋敷の見取図を受け取る手筈だったのだが、その内通者は既に裏切りが露見して捕まってしまっていた。

 

 作戦の前提条件だった見取図はなく、道を尋ねることもできないせいで、彼らの進みは遅かった。

 加えて屋敷内を巡回する番兵たちの存在が邪魔だった。

 侵入を気取られないためにはやり過ごすのが望ましいが、それとて限度があった。

 何度目かに出会した番兵に怪しまれて排除する必要に迫られ、死体を隠すのにまた手間を取られる。

 

 焦りの色が見え始める潜入部隊の周囲に黒い煙が忍び寄る。

 

「ん?何だ?」

 

 隊長が気付いて訝しむと、どこからか声が聞こえてきた。

 

『東翼屋の二階正面だ。そこに向かえ。早く!』

 

 隊長はその声を自分の直感だと認識した。

 

「二階に行くぞ。東翼屋から探す」

 

 部下たちが頷き、移動を開始する。

 

 彼らの後を尾ける案内人は彼らの向かう先にいる人物を狙っていた。

 その人物を彼らに殺害させれば、エステルの心に消えない傷を残し、勝利の喜びを、引いては自分への感謝を消し去れるだろう、と考えたからだった。

 

 早くしろと潜入部隊を急かす案内人は自分を見ていた存在に気付かなかった。

 

 案内人の背後から彼を見張っていた淡い光が離れて別の場所へと向かっていった。

 

 

◇◇◇

 

 

 夜の闇が朝日に駆逐される前から窓の外を見つめていた。

 

 夜明け前に無数の標識灯を煌めかせて出撃していったファイアブランド軍の艦隊──そこにエステルが乗っている。

 今の自分には彼女のためにできることはないが、せめて無事を祈りたいという一心でずっと艦隊の消えていった方角を見つめている。

 

 あのお茶会の日からずっと考えていた。

 自分がいるべき場所は──いたい場所はどこなのか。

 これまでそんなことは真剣に考えたことがなかった。

 いつだって自分のいる場所は周囲が勝手に決めてそこの席を用意してきたのだ。

 

 貴族や騎士の子女の義務として学園に通い、教養を身に付け、卒業した後は領地に戻って父や後を継ぐ兄の仕事を手伝った。

 時々父から紹介されてお見合いもした。

 結局お見合いはどれも成功しなかったが、いつかは自分も結婚して実家を出て別の家で誰かを支えるのだろう、と思っていた。

 そしてその未来に特段何も──嫌だとも楽しみだとも感じなかった。

 ただ人生とはそういうものだと思っていた。

 自分の身は自分一人のものではない、自分の自由にはならない──そういう諦観が根底にあった。

 

 でもエステルは自分の居場所は自分で考えるように言った。

 

 そしてアーヴリルが出した結論は「エステルの側にいたい」だった。

 助けられてばかりで恩返しがしたいとか、自分を含めた配下の騎士に理不尽な仕打ちをしたノックス家よりもこれからエステルがいるファイアブランド家の方が自分の身を捧げるに相応しいとか、そんな貸し借りや合理性の話ではなく、自分を必要としてくれるエステルの側にいたい──という純粋な願いだった。

 

 この戦争が終わって全てが片付いたなら、今度は自分であの方のところに行こう。

 

 自分の意思で、自分の言葉で、はっきり言おう。

 

 貴女に仕官したい、と。

 

 

 

 不意に目の前の窓ガラスが淡く光った。

 

 後ろの発光物の映り込みだと気付いたアーヴリルはすぐに後ろを振り向いた。

 見ると先日間者を見つけた時に見た光が扉の前に浮かんでいる。

 小刻みに揺らぐその姿はまるで助けを求めているかのように見えた。

 

「お前は──この前の──?」

 

 手を伸ばして触れようとすると光は扉をすり抜けて飛び出してしまう。

 

「あ、待て!」

 

 慌てて扉を開けて後を追う。

 

 光はまるで小さな犬か猫のような素早さで廊下を走っていく。

 その後を走って追いかけるアーヴリルは光が導く先にあるものが何なのか考えるが、エステル、ひいてはファイアブランド領にとってよろしくない存在であることは何となく分かった。

 

 でも、今度は尻込みしない。

 エステルの騎士になる者として、エステルに仇なす存在は捕らえるか、排除してみせる。

 今度こそ、私は私の誇れる私になってやる。

 

 そう自分に言い聞かせて、アーヴリルは走る。

 

 

◇◇◇

 

 

 東翼屋の二階にあるのはエステルの寝室だ。

 そこでいつも通りに部屋の掃除をし、シーツや枕カバーを交換して洗濯物を持っていこうとしていたティナはふと不自然な足音に気付いた。

 軍が出払い、エステルも出撃していったことで屋敷にはあまり人がいないはずだが、なぜか十人近くで固まって移動している。

 

 何かおかしいと思ったティナは足音の聞こえてくる方向に向かう。

 すると屋敷の使用人の格好をした男たちが階段を上ってくるのが見えた。

 

 ティナを視界に収めても会釈の一つもせず、目線すら合わさずにすれ違う。

 そのこと自体は別に不自然ではなく、いつものことだったのだが──彼らの顔は見覚えがなかった。

 ティナは屋敷の使用人や番兵全員の顔を知っている。

 エステルと共に旅をしていた一ヶ月の間に新たに入ったとは考えにくい。

 なのに見覚えがない者が十人近くも集まっているというのはおかしい。

 

「お待ちください!」

 

 ティナは彼らを呼び止めた。

 

「貴方たち、見かけない顔ですね。──何者ですか?」

 

 すると相手は立ち止まり、振り向くことなく口を開く。

 

「我々は──」

 

 瞬間、ティナは猛烈な勢いで横に吹っ飛ばされた。

 

 

 

「んなッ!?馬鹿な!なぜお前がここに来るんだ!」

 

 案内人は叫んだ。

 ここに来るなどあり得ない──ずっと部屋でじっとしていたはずの人物がここにいた。

 

 侵入したオフリー家の潜入部隊にティナを殺させることを思いついた時、微かに懸念材料として浮かび上がったのがその人物だった。

 だが、その人物は朝からずっと部屋に篭ったまま同じ方向を見つめ続けていて、実際、思考を読んでもエステルが戻ってくるまでそこを動くつもりはないと確認できた。

 

 なのに──彼女はまるで自分の企みを察知していたかのようなタイミングで現れた。

 

「おのれ!せっかくのチャンスを!こうなったらお前も一緒に殺してやる!」

 

 思わぬ邪魔をされて怒りに震える案内人の身体から黒い煙が発生し、屋敷を包み込んでいく。

 

 

 

 倒れたティナは小さな竜巻のような魔法の旋風によって包み込まれていた。

 

「チッ、旋風結界魔法(ワールシールド)か」

 

 侵入者の一人が毒づく。

 その腕には風魔法の魔法陣が浮かんでいた。

 ティナは彼の風魔法による攻撃を受けたのだとようやく理解する。

 

 ──ならば自分を包んでいるこの旋風は?

 

 その答えはすぐにやってきた。

 

「無事か!?」

 

 その声の主はティナを庇うように立ちはだかる。

 

「──ランス様?」

「喋れるならいい。早く誰かに伝えろ。侵入者だ!」

 

 アーヴリルが侵入者たちから目を離さずに旋風結界を消し、ティナを通報に向かわせようとするが──

 

「危ない!」

 

 ティナは咄嗟にアーヴリルを突き飛ばした。

 直後に背後から放たれた氷の矢弾がアーヴリルの側頭部を掠めた。

 

(しまった!後ろにまだいたのか!)

 

 侵入者たちの後ろにもう二人、仲間がいて背後をカバーしていた。

 さっきティナが突き飛ばしてくれなければ氷の矢弾に頭を貫かれていただろう。

 彼らの背後に追いついたと思いきや、包囲されたことでアーヴリルは一気に不利になる。

 それでも素早く体勢を立て直し、ティナと共に壁を背にして侵入者たちと向かい合う。

 

「貴様ら──何者だ!」

 

 アーヴリルは大声で問いかけるが、侵入者たちは答えない。

 侵入者たちの指揮官と思しき男が身振りで合図すると、侵入者たちは後ろをカバーしていた二人を残して走り去った。

 

 残り二人は剣を抜いたかと思うと一瞬で距離を詰めてくる。

 ティナは跳躍して躱し、アーヴリルは魔法で刃を生成して斬撃を防いだが、侵入者たちは途切れることなく斬撃を繰り出し、距離を取らせない。

 生成した魔法の刃は僅か二手打ち合っただけで砕けて消えてしまった。

 すぐに新しい刃を生成するが、押さえ込まれて尻餅を突いてしまう。

 

「ランス様!」

 

 ティナが叫んだが、アーヴリルは素早く相手の腹を蹴り上げ、相手の勢いを利用して弾き飛ばした。

 力で男性に敵わない以上、力の使い方で対抗する必要があると言い聞かされて学んだ体術が役に立った。

 

 ようやく距離を取ることに成功したアーヴリルは魔法で風の刃を生成して相手に投げつけたが、全て回避されてしまい、お返しに氷の矢弾が飛んできた。

 魔法のシールドを張りつつ紙一重で回避するが、それによって攻撃が途切れてしまう。

 相手はその隙を突いて距離を詰めてこようとするが、アーヴリルは必死で逃げ回り、牽制の風刃を放つ。

 

 互いに回避し合いながらの風の刃と氷の矢弾の撃ち合いは一進一退の膠着状態になった。

 ティナの方は更に不利を強いられ、防戦一方になっている。とても援護など期待できない。

 

 番兵たちは何をやっているのだ、とアーヴリルは内心毒づく。

 銃声や叫び声に比べれば静かとはいえ、これだけ魔法を撃ち合っていて、物音はかなり立てている。

 それなのに未だに誰一人来る気配もないとは──そう思ったその時、屋敷の中に銃声が響いた。

 続いて何発も断続的に銃声が響き、番兵たちのものと思しき怒鳴り声が聞こえてきた。

 銃撃戦が始まったらしい。

 

 二人の侵入者が一瞬驚いたような仕草をしたかと思うと、小さな丸い物体を取り出して床に放り投げた。

 思わずアーヴリルが飛び退き、顔を保護した次の瞬間、丸い物体が弾けて強烈な閃光を発する。

 目眩しの閃光手榴弾だったようだ。

 

 閃光が収まった時には二人の侵入者は見えなくなっていた。

 

「消えた?──助かったのか?」

 

 アーヴリルが呟いた直後、番兵たちの悲鳴が聞こえてきた。



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騎士アーヴリル

 令嬢の専属使用人と思しき獣人の少女に見つかった潜入部隊は何食わぬ顔でやり過ごそうとしたが──失敗した。

 

「貴方たち、見かけない顔ですね。──何者ですか?」

 

 強い口調で誰何してきた獣人の少女に対し、潜入部隊の隊長は即座に排除を決断した。

 

「我々は──」

 

 隊長がそう呟くと同時に部下が一瞬で風魔法の刃を生成し、少女目掛けて放つ。

 見てから回避することなど不可能な距離から放たれた必殺の一撃──それはしかし、少女の後ろから飛んできた風の塊によって阻まれてしまう。

 風の塊は少女を壁際へと吹き飛ばし、旋風に変わって彼女を守る結界となった。

 

「無事か!?」

 

 風の塊を放ったのは二十歳かそこらの若い女だった。

 彼女の腕には風魔法の魔法陣が浮かんでいる。

 ファイアブランド家の寄子あたりの娘だろうか──どうやらそれなりに鍛えているらしく、魔力量もかなりのものと見えた。

 

 正面から打ち合っても簡単には倒せそうにない。

 ならば──

 

「──ランス様?」

「喋れるならいい!早く誰かに伝えろ。侵入者だ!」

 

 直後、後方を見張っていた殿の二人が女の頭部目掛けて氷の矢弾を放つ。

 自分たちを警戒して後方への警戒が疎かになっている──そう思っていたが、獣人の少女が気付いて女を突き飛ばして救った。

 不意打ちは失敗した。

 

「貴様ら──何者だ!」

 

 大声で問うてくる彼女の意図が番兵を呼ぶことにあるのは明らかだった。

 思い切り叫ばないのは、叫ぶのに意識を傾けたその隙に距離を詰められて殺されると理解しているからだろう。

 

 ここで悠長に戦っていても相手の思う壺──隊長はそう判断し、殿の二人に女と獣人の少女の相手を任せ、残りで任務を続行することにした。

 ただし、方針は第二プランに変更する。

 侵入を気取られた以上、隠密行動は続けられない。

 こうなっては強硬策しかない。領主、テレンス・フォウ・ファイアブランドとその家族を拉致して人質にし、件の機密書類を身代金に要求する。

 まずは適当な番兵を捕まえて領主一家の居場所を聞き出す必要がある。

 

 隊長の誤算は予定していたよりも多くの番兵──一個分隊と鉢合わせしてしまったことだった。

 素早く風魔法の刃で三人を屠ったが、残りの反撃でこちらも一人やられてしまった。

 物陰に隠れて風魔法で再び攻撃したが、番兵たちも魔法を使う相手との戦いを心得ているようで、柱の陰に身を隠して出てこず、銃身だけ出して断続的に発砲してくるだけだ。

 このまま膠着状態が続けばこちらがどんどん不利になる。

 隊長は移動を命じようとしたが、銃声を聞きつけたほかの番兵たちが次々に集まってきた。

 

 もはやここまでかと思った隊長だったが、不意に集まってきた番兵たちが二人倒れた。

 見ると、倒れた番兵たちの背中には見覚えのある氷の矢弾が突き刺さっている。

 

(片付けて追いついてきたか。でかした!)

 

 すかさず風魔法の刃を放って挟撃する。

 後ろから氷の矢弾、前から風の刃に襲われた番兵の一隊は為す術なく全員倒れ、逃げ道が開いた。

 

「行くぞ!」

 

 隊長はそう言って煙幕弾を取り出して放り投げた。

 潜入部隊は発生した煙に紛れて移動を開始する。ついでに倒れた番兵の中からまだ息がある者を一人情報源として確保するのは忘れない。

 

 番兵たちを倒したのはやはり残してきた二人だった。

 結局女と獣人の少女を仕留めるには至らなかったようだが、侵入を番兵たちに気取られた以上、問題ではない。

 全員合流した潜入部隊は幻術を巧みに使って追跡を欺きながら速やかにその場を離れる。

 

 

◇◇◇

 

 

「下からだ!」

 

 番兵たちの悲鳴を聞いたアーヴリルは急いで階段を降りて悲鳴が聞こえてくる方向へと向かった。

 

 番兵たちではあの風の刃と氷の矢弾を使う相手には分が悪い。だが、風魔法が使える自分が加勢すれば、協力して侵入者たちを撃退できる。

 そう思って駆けつけたアーヴリルだったが、駆けつけた先には既に煙幕弾によるものと思しき白煙が充満し、侵入者たちの姿は見当たらなかった。

 

「くそっ!間に合わなかったか」

 

 毒づいて風魔法で煙を霧散させたアーヴリルは惨状を目にして戦慄する。

 

 首を落とされた者、急所に氷の矢弾が突き刺さった者はまだマシな方だった。

 風の刃に手足を落とされたり、太い血管まで切り裂かれて大量出血を起こしたり、急所を外れた氷の矢弾が刺さった箇所を凍らせて抜けなくなったり、刺さった氷を抜こうとして手が接着されてしまったり──重傷を負って苦痛に呻いている者が多くいた。

 どうやら侵入者たちと交戦して一方的に蹂躙されてしまったらしい。

 

「あ、貴女は──」

「エステル様の御客人?」

 

 急に煙が晴れたことで物陰に隠れていた番兵たちが戸惑いながらも姿を現した。

 

「アーヴリル・ランスだ。先ほど侵入者を見つけて戦いになったが、逃げられた。ここに来たようだが、奴らはどこに?」

 

 問いかけるアーヴリルに番兵たちは悔しげに俯いて応える。

 

「分かりません。先ほどまで膠着状態だったのですが──煙幕を使われて、逃げられました」

「おそらく、第四分隊を突破して西翼屋に向かったものと思われますが──」

「見当は付きません。奴らどうやら隠密のプロのようで」

 

 番兵たちの答えから闇雲に追っても無駄だと判断したアーヴリルは、侵入者の追跡を一旦諦めて番兵たちの手当てを優先することにした。

 

「負傷者の手当てが先だな。無事な者は手を貸せ!それと、お前たち二人は早く医者を呼んでこい!」

 

 アーヴリルの指示で番兵たちが動き始める。

 名指しされた二人の番兵が街まで医者を呼びに行くためにエアバイクの格納庫に向かい、残りはライフルを下ろして仲間の手当てを始めた。

 

 アーヴリルは負傷者の重傷度を一人一人観察して手当ての優先順位を決めていく。

 アーヴリル含め、この場にいる誰も治療魔法は使えないため、治療魔法でなければ助からないような重傷者は後回しにするしかなかった。

 

 一通り指示を出し終えたアーヴリルは手の回らない負傷者の手当てに取り掛かる。

 その隣に大きな赤い箱がゴトッと音を立てて置かれた。

 

「これを!」

 

 ティナが箱を開けて中から包帯と消毒・気付用の酒瓶を取り出した。

 どうやら彼女はアーヴリルが番兵たちの所に駆け付けていた間に、救護所に救急箱を取りに行っていたらしい。

 

「でかした。支えろ!」

 

 大腿部に風の刃による裂傷を負った番兵の脚を高く上げながら止血処置をするのは一人では難しかったため、ティナに脚を支えるよう要求する。

 

 ティナが素早く番兵の脚を肩に担ぐと、アーヴリルは酒瓶を開けて中身を口に含み、傷口に噴き掛ける。

 そして大腿部に止血帯を巻き、棒で捻ってきつく締め上げる。

 持っていた懐中時計を見て時間を確認し、止血帯を緩める時間を計算してから次の負傷者のところへ向かう。

 

 医者が到着したのはそれから十分ほど経ってからだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 負傷者の手当てが一段落し、後を医者に任せたアーヴリルはティナと共に番兵たちに事情聴取に呼ばれた。

 

 案内された部屋の真ん中にシートが敷かれ、その上に番兵たちに射殺された侵入者の遺体が置かれている。

 

「侵入者と交戦したと聞きました。この顔に見覚えは?」

 

 番兵たちを束ねる騎士【アンガス・ティレット】が二人に問いかける。

 

「確かにいました。私が見た時はほかに仲間が十人ほど」

 

 ティナが侵入者の顔を確認して頷いた。

 

「私も見ました。風魔法の使い手です」

 

 アーヴリルも侵入者の顔に見覚えがあった。

 たしか、ティナに振り向きざまに風の刃を投げつけた奴だ。

 腕に魔法陣が浮かんだのを見て咄嗟に旋風結界魔法を使ったのはただの直感だったが、正直よく間に合ったと思う。

 発動速度といい、隠密性といい、威力といい、かなりの技量だった。

 

「交戦に至った経緯について詳しく聞かせて頂けますか?」

 

 ティレットが手帳を開いて質問してくる。

 

 アーヴリルがティナに目配せすると、ティナが話し始める。

 

「私がお嬢様の部屋を掃除している最中に大人数で移動する足音が聞こえてきたんです。東翼屋の階段を一階から二階に上ってきていました。それで何かおかしいと思って、見に行ったんです。そして使用人の格好をした人たちを見つけたんですが──誰の顔にも見覚えがなかったもので、誰なのか尋ねたのですが──」

 

 ティナがアーヴリルの方を見てきたのでアーヴリルが説明を引き継ぐ。

 

「私はおそらくそのタイミングでティナを見つけました。その時、この男と他もう一人が風魔法を使おうとしていましたので、咄嗟に旋風結界魔法を最大威力で使用しました。発動がほぼ同時で、威力的にも拮抗状態でしたが、連中が放った風の刃を相殺することには成功しました」

「そこから交戦に突入したと?」

「そうです」

 

 ティレットは手帳にペンを走らせ、考え込む。

 

「ふむ──なるほど。第一発見から交戦までの経緯は分かりました。ではランス様、貴女はどのような経緯でその場に居合わせたのですか?」

「それが私にもよく分からないのです。夜明け前からずっと客室にいたのですが、突然正体不明の発光物が現れて──それを追っていったところ、ティナのところへ辿り着いたのです。信じ難い話ではありますが──現にティナを間一髪で助けられました」

「発光物──ですか?ふむ──確かに突飛ではありますが、微精霊を使い魔にして危険を察知させたり、対象を守らせる魔法も存在すると聞きます。可能性があるとすればエステル様がそのような魔法を使っていたか──いや、これは本人に直接訊くほかないか。失礼、では交戦時の状況を聞かせて頂きたい」

 

 事情聴取はそれから二十分ほど続いた。

 

 

 

「参ったな。奴ら思ったよりも手強そうだ」

 

 事情聴取を終えたティレットは溜息を吐いた。

 ティナとアーヴリルから聞いた限りでは敵は楽観的に見積もっても騎士レベルの実力と極めて高い隠密能力を持つ集団だ。精鋭とはいえ、殆どの者が一般兵の域を出ない番兵部隊では分が悪い。

 実際先程の戦闘で二個分隊分がやられてしまっており、他にも行方不明の番兵が何人か出ている。

 下手に探し回ってまた鉢合わせでもすれば、また多くの犠牲が出てしまうだろうし、それで仕留められる確証もない。

 まずは相手の正体を明らかにするのが先だ。

 

「どうだ?何か手掛かりは?」

「駄目ですね。所属が分かるようなものは何も」

 

 侵入者の遺体を調べていたティレットの部下がかぶりを振った。

 

 身体が異様によく鍛えられ、衣服のあちこちに暗器が仕込まれ、自決用と思しき毒薬まで持っているが、服装は屋敷の使用人のものであり、所属が分かるものを一つも身に着けていない──ということはおそらく間者だ。

 そんなものがいきなり屋敷に現れた理由といえば、一つしか思いつかない。

 その仮説はティレットよりも先に部下が口にした。

 

「あくまで推測ですが、おそらく例の証拠を奪取もしくは隠滅するためにオフリー家が送り込んできた隠密部隊でしょう。侵入のタイミングとこれほどの事前準備ができたことからすると、少なくとも数日前から領内に潜伏していたものと思われます」

 

 部下の言葉にティレットが考え込む。

 

「やはり奴らはまだこの屋敷の中に潜んでいる可能性が高いな。厄介だぞ。屋敷の中に隠れる場所は沢山ある。我々ではとても手が足りん。軍の地上部隊、できれば風魔法が使える者を応援に寄越してもらいたいところだが──」

「地上軍が人手を回してくれるかは微妙ですね。外縁(水際)作戦に備えて全兵力を外縁部の陣地に集結させています」

 

 渋面になるティレットだが、この際やれることは全てやろうと速やかに部下に命令を下した。

 

「それでも要請するしかあるまい。我々だけでは奴らを狩れない以上、下手には動けん。まずは領主様とご家族の安全を確保する。避難はどうなっている?」

「は、現在領主様の私室に避難されています」

「よし、【特番分隊】を呼べ。ご一家をこの屋敷から脱出させる。御客人と専属使用人もだ」

「了解です」

 

 部下が部屋を出て行くと、ティレットは別室に移らせていたアーヴリルとティナのもとへ向かう。

 

 

 

 扉が開いて、先程事情聴取してきたティレットが入ってくる。

 

「ランス様、でしたね?」

「はい」

「貴女とそちらの専属使用人も領主様と共に屋敷から脱出して頂きます。これ以上客人である貴女を危険に晒すわけには参りません」

 

 ティレットの申し出はアーヴリルには承諾しかねるものだった。

 

「いえ、私にも侵入者排除を手伝わせてください。私は魔法が使えます。あの者たちの相手をするに当たっては魔法が使える者が一人でも多くいた方がいいでしょう」

 

 食い下がるアーヴリルにティレットはかぶりを振る。

 

「いいえ。ファイアブランド家に仇なす輩への対処は我らファイアブランド家の軍人の職務です。身分や能力がどうであれ、貴女は客人であってファイアブランド家の戦闘員ではありません。そんな貴女を我々は既に敵襲に巻き込んでしまった。この上戦いに駆り出すなどあってはならぬことでございます。騎士としてそこは譲れません。どうかご理解頂きたい」

 

 そう言うティレットの目は真剣だった。

 彼を翻意させることは無理だとアーヴリルは悟った。

 

「──分かりました」

「こちらへ。案内致します」

 

 ティレットの指示で番兵たちがやってきてアーヴリルとティナを部屋から連れ出した。

 

 

◇◇◇

 

 

 縛られた番兵の大腿部にナイフが突き立てられる。

 番兵は痛みに悲鳴を上げるが、その声はどこにも届かない。

 音を遮蔽する特殊な仕様のシールドが周囲を覆っていた。

 

「言葉、分かるか?」

 

 ナイフを突き立てた犯人──潜入部隊の隊長は男に冷たく問いかける。

 

「習うまでもないよな?ガキの頃から喋ってんだからさ。でも俺たちは習ったよ。いや、習わなきゃいけなかった。それと一緒に──」

 

 突き立てられたナイフが引き抜かれ、肉を切り裂いて血を噴き出させる。

 付着した血を布で拭き取りながら、隊長は酷薄に笑う。

 

「お前みたいな奴に口を割らせる方法もたっぷり習ったよ」

 

 屋敷の一室で隊長は捕らえた番兵を尋問していた。

 ただ、思ったよりも忠誠心があるようで中々口を割らなかったため、少々手荒にやらなければならなかった。

 

「なあ、いい加減に教えてくれねえか?雇い主お抱えの軍の奴らが乗り込んでくる前に俺たちの手で目的のものを手に入れねえと、俺たちも困るんだよ。領主の家族の居場所はどこだ?」

「誰が!お前らに最初から勝ち目なんてあるか!」

「──強情だな」

 

 隊長は目を細めると、叫ぶ番兵の手を踏みつけた。

 指の骨が砕かれ、番兵は再び悲鳴を上げる。

 

「安心しろ。喋れなくなるくらいにはしないから。ただ、痛いだけさ」

 

 そして再び番兵の手が踏みつけられ、指の骨が砕かれる。

 

 

 

 その光景を見る案内人は苛立っていた。

 

「全く、何をちんたらと。あの二人を殺せるチャンスを勝手に放り出しやがって」

 

 あの時全員でティナとアーヴリルを殺せと隊長に呼びかけたにも関わらず、隊長は思い通りに動かなかった。

 精神力の強い人間はこれだから嫌いだ。

 足先で床を小刻みに踏み鳴らしながら映像を呼び出し、ティナとアーヴリルの様子を見る。

 

「おや?これは──」

 

 見ると二人は領主一家と共に番兵たちに連れられて屋敷の外に通じる隠し通路へと入っていくところだった。

 隠し通路の入口が閉じられると、本棚が横に動いて入口を覆い隠した。

 

「なるほど。利口な奴らだ。だが逃しはしない」

 

 案内人が腕を潜入部隊の方に向けると、掌から黒い煙が発生して隊長へと忍び寄る。

 

 

 

「ん?」

 

 隊長は不意に妙な頭痛に襲われた。

 何かが頭の中に流れ込んでくる。

 それは誰のものかも分からない不気味な声だった。

 

『お前たちの目標の場所を教えてやる。このまま任務に失敗して死にたくなければ言う通りにしろ』

 

 そして隊長の目の前に黒い煙を纏った人影が出現する。

 

「誰だ!」

 

 隊長は武器を構えたが、ふと違和感に気付く。

 部下たちが()()()()()()()()。それどころか、呼吸さえもしていなかった。

 

「貴様は一体──何をした?」

 

 人影はその問いかけには答えず、掌を隊長の方に向けた。

 発生した黒い煙の奔流が隊長を包み込み、視界を奪ったかと思えば、どこか知らない場所の光景を見せる。

 

(これは──?)

 

 見えてきたのは暗い通路を進む一行。その中には見たことのある顔があった。

 ファイアブランド家現当主テレンス・フォウ・ファイアブランドと、その妾のマドライン・フォウ・ファイアブランド、そして息子のクライド・フォウ・ファイアブランド。

 人質に取ろうと狙っていた人物が全員揃っているが、彼らが進んでいる場所はどこなのか、これが分からない。

 不意に視点が前へ前へと進み始める。

 そして見えてきたのは──屋敷の外の小屋にある出口だった。

 

(隠し通路──脱出する気か!)

 

 思わず歯噛みする隊長の脳裏に声が響く。

 

『諦めるには早い。私の言う通りにすれば捕らえることはまだ可能だ』

 

 また別の光景が見えてきた。

 四人の番兵たちが馬車を用意している。場所は屋敷の離れの厩舎。

 どうやら馬車で領主たちを拾うつもりらしい。

 

『あの馬車を奪え。そして出口から出てきた奴らを掻っ攫うのだ》』

 

 声が響く度に頭痛が酷さを増していく。

 声の正体を考えることも、その声の主が伝えてくる情報を疑うこともままならない。

 今にも意識を手放してしまいそうだった。

 自分の意思が奪われていく。

 

『さあ、行け!』

 

 瞬時に頭痛が消える。

 

 隊長は光の消えた瞳で床に転がされた番兵を見下ろすと、その首を思い切り踏みつけた。  

 靴の踵が硬いものを砕く感触。一撃で番兵の命は頸椎と共に潰えた。

 

「隊長?」

 

 部下が怪訝な顔をする。

 尋問中だったのにいきなり殺してしまったのだから疑問はもっともだ。

 だが、あの番兵はもはや用済みだ。

 

「移動する。厩舎に向かい、馬車を奪う」

 

 そう言って隊長は部屋を出る。

 部下たちは訝しみつつも特に何か言うでもするでもなく、ついてきた。

 

 

◇◇◇

 

 

 厩舎で馬車を用意していた番兵たちは【特番分隊】と呼ばれるエリート部隊だった。

 領内から選りすぐった強者揃いの番兵の中から特に信頼できる者が領主直々に選抜され、緊急時に使う隠し通路の存在を知らされていた。

 領地が攻め落とされた時などの緊急時に領主一家の脱出を支援するためである。

 

 少なくとも騎士クラスの魔法の使い手が組織だって屋敷に侵入する、という想定し得る中で最悪の事態でも、彼らは忠実に職務を遂行した。

 分隊を二つに分けて一方が隠し通路を進む領主一家の護衛をし、もう一方が馬車を用意する。

 領主一家を隠し通路の出口で拾った後はファイアブランド軍の基地まで護送する手筈だ。

 侵入者がまだ屋敷の中に潜んでいる可能性が高く、番兵部隊だけで排除できる見込みもない以上、一刻も早く領主一家を避難させなければならない。

 どこかで聞き耳を立てているかもしれない侵入者たちに気取られないよう、全ての手順は特番分隊のみで行われなければならなかった。

 馬車の用意を四人だけでやるのは手間だったが、彼らは驚くほど短時間でやり遂げた。

 

 ──彼らに落ち度はなかった。

 ただ、相手が本来知りようのない情報を知っていただけだった。

 

「よし、行くぞお前──ら──」

 

 準備が完了して出発しようとしたまさにその時、四人の番兵たちは知覚する間もなく風の刃で首を刎ねられて死んだ。

 

 

 

 四人の番兵たちをあっさりと始末した潜入部隊は死体から服と装備を剥ぎ取り、手早く変装を済ませた。

 そして馬車に乗り込むと、隊長の指示する目的地に向かって屋敷を出ていった。

 

 去っていった彼らを犬のような形の淡い光が睨みつける。

 悔しげな唸り声を上げるが、すぐに為すべきことを為すために走り出していった。

 

 

◇◇◇

 

 

「ねえ、どこに行くの?」

 

 マドラインに手を引かれるクライドが不安げな表情で質問する。

 

「軍の基地よ。そこに逃げるの」

 

 マドラインが険しい表情で短く答える。

 その答えにクライドは納得できかねるらしく、ぐずり始める。

 

「嫌だよ。ここ暗いよ。怖いよ。戻ろうよ」

「駄目!しっかり手を掴んでいて。お母さんがついてるから」

「で、でも──」

「駄目!」

 

 マドラインの強い口調にクライドは黙り込んでしまう。その代わりに目を瞑ってぎゅっとマドラインの袖を掴んだ。

 

 ──怖がるのも無理はない、とアーヴリルは思う。

 いきなり有無を言わさず強引に屋敷から連れ出され、ランタンの灯りを頼りに暗く冷たい地下通路を歩かされているのだ。

 七歳の子供にそれに怯えるなという方が酷な話だ。

 自分もあのくらいの年だった頃は暗い所が苦手だった。

 

 

 

 先頭を進んでいた案内役の番兵が立ち止まった。

 

「ここです」

 

 番兵が通路の壁に固定された梯子を見上げて小声で言ってきた。 

 梯子は天井の丸いハッチへと続いている。

 

 番兵が梯子を上り、ハッチを押し上げると、通路に光が差し込んでくる。

 

「クリア」

 

 先頭の番兵が外に出て安全を確認し、手招きしてくる。

 

 まず子供のクライドが上り、次にマドライン、そしてアーヴリル、テレンス、ティナ、最後に殿の番兵たちが上り、通路を出た。

 

 通路を出た先は屋敷から離れたところにある石造りの小屋だ。

 一つしかない窓からは屋敷とそこへ通じる道が見える。

 

「じきに仲間が馬車で我々を拾いに来ます。来るまでこの中で待ちましょう。お前たちは周囲を警戒しろ」

「「「了解」」」

 

 三人の番兵たちが扉を開けて外に出ていった。

 小屋の中にはテレンスとマドラインとクライド、アーヴリルとティナ、そして特番分隊の隊長が残される。

 

「そろそろ説明してください。一体何がどうなっているのですか?」

 

 マドラインがテレンスと分隊長に問いかける。

 

 分隊長は話してもいいものかとテレンスの方を見る。

 テレンスが頷くと、分隊長はお耳を、と言ってマドラインに現在の状況を耳打ちする。

 それは子供であるクライドの耳に入らないための配慮だった。

 

「えっ?なぜそんな者たちが?」

「しっ、お静かに願います。確定したわけではありませんが、奴らの目的は見当が付いています。ここ数日の撫民宣伝の内容はご存知ですよね?」

「ええ──たしかオフリー伯爵家に屈してはならないと──」

「オフリー伯爵家は空賊と手を組んでおり、先日港を襲った空賊もオフリー伯爵家の差し金だった、とされていますが、あれは事実です。証拠も掴んでいます。その証拠をオフリー伯爵家は奪取もしくは抹消しようとしているのです」

「──排除はできないのですか?それが貴方たちの役目でしょうに」

「お恥ずかしい限りですが、我々だけでは歯が立ちません。地上軍の応援を待ち、屋敷の掃討を行う予定です」

 

 話し込む大人たちから取り残されたクライドは今にも泣き出しそうな顔でキョロキョロしていた。

 その仕草がどうにも放っておけず、アーヴリルは隣に座る。

 クライドはビクッと肩を震わせたが、アーヴリルは精一杯の笑顔で「大丈夫です」と言った。

 

「あの──あなたは?」

 

 恐る恐る訊いてくるクライドにアーヴリルは目線の高さを合わせて答える。

 

「私はエステル様──貴方のお姉さんの騎士です。だから、何があっても主君の弟君である貴方を守ります。だから大丈夫です」

「──お姉ちゃんの騎士?お姉ちゃんと一緒じゃないの?」

 

 中々鋭いところを突いてくるな、と思いつつもアーヴリルは言葉を紡ぐ。

 

「私は鎧に乗れませんから戦いには行けません。でも貴方を守ることはできます。そのために私はここにいます。だから安心してください。何かあっても絶対に私が守ります」

「本当に──大丈夫なの?」

「もちろんです」

 

 大きく頷くアーヴリルにクライドは若干表情を緩めるが、それでもまだどこか不安げだ。

 

 それを見たティナが助け舟を出した。

 

「ランス様はとても頼りになる方なんですよ。私も二度ほど助けて頂きました」

「──そうなの?」

「ええ。大丈夫です。私が保証しますよ」

 

 ティナの言葉にクライドはようやく笑顔を見せる。

 どうやらティナのことはそれなりに信頼しているらしい。

 

「馬車が来ました!仲間です!」

 

 外から番兵の声が聞こえてきた。

 

「ほら、もう大丈夫ですよ」

 

 アーヴリルがそう言った直後、馬のいななきと共に馬車が止まる音がする。

 

 そして────銃声が響く。




クライド君何気に初登場だった


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危機

 戦争中でも執事の仕事に変わりはない。

 屋敷や土地から食器や酒類に至るまで、ファイアブランド家が有する財産の全てを管理する役目を担う執事サイラスにとって、その日はいつもとさして変わりはなかった。

 変わった点といえば、主人であるエステルが夜明け前に軍と共に出撃していったことで、朝食の給仕がなくなったことくらいだ。

 

 いつも通りに屋敷の敷地内を見て回って、使用人たちの仕事の具合を把握し、屋敷やその備品に不具合がないかチェックする。

 尤も、不具合や欠損など既に数え切れないほどあるし、新しく見つけたところで直せるかどうかは甚だ怪しい所だが。

 

 荒れていく一方の屋敷の裏手を見て溜息を吐く。

 塗装が剥げ、ひび割れ、蔓草が這う壁。やたらと豪華だが、あちこち欠損している装飾。

 予算不足で屋敷の人目に付かない部分の修理には粗悪な資材しか使えず、全体を把握するサイラスから見れば、継ぎ接ぎだらけの醜い屋敷に成り果てている。

 だが、それが領地と領民のためを思っての止むに止まれぬ事情ゆえのことだというのがやり切れない。

 

 先代当主にしてファイアブランド家六代目【ヴィンセント・フォウ・ファイアブランド】が始めた緊縮政策──領地の公的支出を削減し、財政を立て直す試みによって、領主家も家臣たちの家も禄を減らされているのだ。

 全ては領地の立て直しのため。今は苦しくとも、耐えてこの苦境を脱すれば、また豊かな時代がやってくる──ヴィンセントはそう言って家臣たちを説得し、緊縮政策を断行した。

 そして家臣たちばかりに負担を強いるわけではないと証明するために、ファイアブランド家の禄を最も大きく削減した。

 

 先代当主の部下思い、領民思いな行動は尊敬するが、その結果屋敷の維持費が工面できなくなり、じわじわと荒れていくのを甘んじて受け入れるしかないのは、管理人として辛いものがあった。

 

「──いや、私が口出しすることではないな」

 

 自分は執事に過ぎない。政策に口を出すなど分を超える。

 呟いて自分を窘め、仕事に戻ろうとした時、視界の隅を何かが横切った。

 

「ん?」

 

 それが消えた方に視線を動かすと、動物の尻尾が見えた。

 すぐに建物の陰に隠れて見えなくなってしまったが、どうやら犬のように思えた。

 

「野良犬か?いかんな。叩き出さねば」

 

 一度屋敷の敷地内で餌を見つけた野良犬は何度も餌を求めてやってくるし、味をしめて居付こうものなら、何かの拍子に家の者に危害を加えたり、病気を媒介しかねない。よって見つけ次第速やかに追い払う必要がある。

 サイラスは武器として庭掃除用の箒を手にし、犬らしきものが消えていった方向へと足を進めた。

 

 だが、追っても追っても追いつけない。

 建物の蔭、植木鉢の向こう、生垣の下に隠れられ、目に入るのは尻尾だけだ。

 しかし、野良犬にしては妙に逃げ足が遅く、また林や茂みに逃げ込もうともしていないのが少し不自然だった。

 

「一体どこに向かっているのだ?」

 

 呟いた直後、目に入ったのは犬の尻尾が厩舎に消えていくところだった。

 

 後を追って厩舎に入り、中を見回してみたが、犬は見つからない。

 

 厩舎の奥の方へと足を進めると、ふと違和感に気付いた。

 馬が二頭と馬車が一台見当たらない。馬車を出す予定はなかったはずだが──何か緊急の案件で馬車が出されたのだろうか?

 これは番兵と軍関係者に確認を取る必要があると思い、屋敷へ引き返そうとしたその時だった。

 厩舎特有の馬の体臭と秣の匂いに混じって微かに違う臭いが漂ってくるのに気付いた。

 

 その臭いはどうやら厩舎の一番奥から発生しているようだった。

 臭いの発生源を確かめるため、()()を覗き込んだサイラスは次の瞬間、怖気立った。

 臭いの発生源は首を刎ねられた四つの死体だった。

 

 

 サイラスは走った。

 一刻も早く、番兵たちに知らせなければならない。厩舎で番兵が四人殺害された、と。

 番兵を殺害したのが何者かは分からないが、屋敷に危険が迫っているのは十二分に理解できた。

 

 

 厩舎から走り去るサイラスの後ろ姿を小さな光が見つめていた。

 小刻みに震えるその姿は祈っているかのようにも見えた。

 

 

◇◇◇

 

 

『緊急!緊急!索敵艦【カターン】より敵増援部隊接近中との報告あり!戦闘空域到達まで推定五分!全機直ちに撤退せよ!』

 

 通信機から響く焦りを含んだ声に、ダリルは大剣を振るう手を止めた。

 その直後、シールドを破壊された敵の飛行船が味方の鎧の銃撃でエンジンと方向舵を破壊され、操舵不能となって明後日の方向へと回り始める。

 

 手持ちの弾薬を全て使い切ったダリルは、再支給された漆黒の大剣──戦闘中にシールドを無力化する何らかの特殊能力があることが判明した──で敵輸送船のシールドを破るサポート役に徹していた。

 今のでダリルの戦果は共同を含めて鎧八機と武装商船十七隻。第二任務部隊全体での戦果はこの倍以上に上る。

 もうそろそろ引き時ではないかと思っていた所に、撤退命令が母艦の方から発せられた。反対する理由はどこにもない。

 

「全機、聞いての通りだ。残った爆弾と弾薬は投棄して撤退しろ。敵に追いつかれるぞ!」

 

 だがその命令に部下たちの殆どは従わなかった。

 

『野郎!大人しく墜ちやがれ!』

『こんのおおお!!』

『うおおおおおおおお!!』

『まだまだあ!』

『撃ち込めえええ!』

『グリーブス隊長!援護を!』

『隊長!シールドを破ってください!』

 

 頭に血が昇った部下たちは我も我もと残存する敵輸送船に攻撃を浴びせ続け、ダリルにも攻撃に加わるよう求めてくる。

 彼らの耳に撤退命令は届いていなかった。

 

「潮時だ!退け!全機!撤退しろ!!敵の増援が向かってきている!!」

 

 ダリルは拡声器を使って叫んだ。

 興奮状態の者に命令を届かせるには、とにかく大声で命じなければならない。

 

 拡声器を使いながら射線上に割り込み、必死に撤退を呼びかけると、鎧部隊はようやく敵輸送船団から離れ始める。

 しかし、その動きは未練がましくのろのろとしている。

 中には離れながらも後ろを向いて発砲している者もいた。

 

 殆どを撃墜したとはいえ、まだ十数隻の武装商船が浮かんでいる。

 どうやら他の飛行船が狙われている間に防御態勢を整えることができたらしい。

 それらを逃したくないのは分かるが、ぐずぐずしていれば敵の増援部隊に追いつかれてしまう。

 

 ダリルは最後尾付近を飛び回りながら部下たちに退却を呼びかけ続けた。

 

「退け!敵はそこまで迫っている!母艦への帰投急げ!」

 

 

 

『くそッ!やりやがったな奴ら』

 

 オフリー軍の増援部隊──その先駆けを務める鎧部隊の誰かがそう毒づいた。

 遠目でも分かる大量の黒煙が輸送船団の辿った末路を告げている。

 

『まだ生き残っている船がある!急げ!全速力!』

 

 観測魔法でまだ浮かんでいる飛行船を見つけた指揮官が部下たちを鼓舞するが、それは自分に言い聞かせてもいた。

 全滅ではない──つまり、自分たちは完全に間に合わなかったわけではないのだと、そう思いたかったのだ。

 

『中隊長!十一時の方向に敵鎧部隊を視認!撤退中のようです!』

 

 味方から告げられた方角に観測魔法の照準を合わせると、四十機ほどの敵機が確かに見えた。

 怒りが沸々と湧き上がってくる。

 

『ベケット小隊、ロム小隊は残存輸送船のところに向かい、生存者を確認しろ。残りは俺に続け!奴らを逃すな!』

 

 指揮官の命令に部下たちが応で答える。

 

 名指しされた二個小隊がまだ浮かんでいる飛行船へと向かい、残りは撤退するファイアブランド軍の鎧部隊を追う。

 一方的に撃たれ、焼かれ、沈められた輸送船団の仇討ちに燃える彼らは怒号と共にスピードを上げていく。

 

 

 

「ッ!速い!」

 

 後方を振り返ったダリルは歯噛みする。

 オフリー軍の鎧部隊がどんどん追いついてくる。

 速度ではこちらが明確に劣っているようで、このまま全力で逃げ続けていても振り切れそうにはない。

 

 雲に紛れて撒くことも考えたが、部下たちの練度を考えるとできなかった。

 それなりに実戦経験がある熟練揃いの第一任務部隊と違って、殆どが訓練不足で練度が低い第二任務部隊では、雲の中を飛ぶこと自体が難しい。

 自分の位置を見失って落伍する者が続出し、各個撃破されていくのは目に見えている。

 

 では応戦するか?論外である。

 こちらは鎧の性能でも練度でも圧倒的に不利であり、加えて弾薬も殆ど消耗している。

 先程自分たちが敵輸送船団にしたように、一方的に蹂躙されるのがオチだろう。

 

 となると──誰かが敵を足止めするしかない。

 そしてその役目が務まる者はこの第二任務部隊には一人しかいない。

 

 判断を下したダリルは通信機に向かって指示を出す。

 

「全員聞け!このまま奴らを連れて母艦に戻るわけにはいかない!俺が奴らを足止めする。その間にお前たちは全速を維持したまま母艦に向かって飛び続けろ!」

 

 ──自分が敵を引き付け、部下たちが逃げる時間を稼ぐ。それが最も犠牲の少ない最善策だ。

 

『お一人でですか?無茶です!隊長!』

『まだ弾は残っています!自分も戦います!』

『俺もです!奴らと戦わせてください!』

『ここは全員で応戦するべきです!』

 

 部下たちは口々に反対の声を上げるが、ダリルの意思は変わらない。

 

「駄目だ!お前らじゃ相手にならない。無駄死にするだけだ。逃げろ!これは命令だ!」

 

 ダリルが怒鳴ると、部下たちは黙ったが、それでも納得はしかねているようだった。

 確かにダリルは第二任務部隊の最強戦力で、ファイアブランド軍の中でも最精鋭の一人ではあるが、一人であの数の鎧を足止めするなど無茶である。部下たちが逃げるために十分な時間を稼げるかも怪しく、稼げてもダリル自身の生還は絶望的だ。

 

 だが、それでもいい。とにかく彼らが逃げて、一人でも多く無事に母艦に戻ってくれれば、それでいい。

 自分を生かすために第二任務部隊に配属したオーブリー隊長の思いを裏切ることになってしまうのは心苦しいが、預かった部下たちを大勢失っておめおめと生きて帰り、生涯残る汚点を作ってしまうよりは、ここで部下たちの盾となる方が胸を張ってあの世に行けるというものだ。

 彼らがこの戦いを生き延び、訓練と経験を積んで熟練になっていけば、自分の代わりにエステルとファイアブランド領を支えてくれるだろう。

 

「さあ行け!飛ばせ!!」

 

 そう叫んで、ダリルは鎧を反転させる。

 

 追ってくる敵に向かって突撃すると、無数の弾丸が放たれ、向かってくる。

 その全てを舞うように躱し、すれ違う直前で急上昇して高度を稼ぐ。

 そして宙返りして先頭を飛ぶ敵機に狙いを定め、太陽を背にして急降下で襲い掛かる。

 一撃でコックピットを貫き、大剣を横に振り抜いて放り投げる。

 

 近くの敵がダリルを追いかけ始める。

 四機ほどの敵機が後ろを取って一斉に発砲してきたが、弾丸はダリルの横を掠めるだけ。 

 高速を維持したままひらりひらりと機体を動かして相手の照準が定まらないようにしつつ、ダリルは次の目標目掛けて突き進む。

 

 目標は振り向いてライフルを撃ってきたが、大剣を前に構えて盾にして弾丸を弾き、そのままの姿勢で敵機目掛けて突っ込む。

 直前で大剣の角度を少し変えると、敵機は溶けかけのバターのようにあっさりと上下真っ二つになった。

 

『なッ!?何だあの剣は!』

『気を付けろ!手強いぞ!』

『囲んで叩け!奴は単機だ!』

 

 あっという間に二機撃墜したダリルに敵の注意が向く。

 追撃が止まり、全敵機がこちらを囲むように動き始めるが、ダリルは巧みに隙間を縫って飛び、逆に相手の隙を見つけては各個に撃破していく。

 

 敵はダリルが銃火器を持っていないと侮り、また大剣の威力を警戒して、固まらずに複数方向にバラけたのが仇になっていた。

 おまけにどの敵機も技量は大したことなく、空戦機動も拙かった。包囲は穴だらけ、相互の火力支援もなっていない。

 

 思ったよりも敵が弱く、ダリルは少し拍子抜けした。

 数こそ多いが、はっきり言ってそれだけだ。空戦機動で容易に局所的な一対一を作り出して墜とせてしまう。

 

 これならかなり粘れそうだと思ったダリルだったが、敵は弱くとも馬鹿ではなかった。

 大剣で六機目を斬り伏せた直後、敵の動きに変化があった。

 ダリルを仕留めることは諦めたらしく、数機が遠巻きに牽制の銃撃を放ってくるだけになった。残りは部下たちが逃げた方向へと向かっていく。

 

「ッ!まずい!」

 

 急いで反転し、離れていく敵を追いかけるが、既にだいぶ距離が離れており、追いつくことは困難だった。

 

 やむなくダリルは【緊急加速】を使用した。

 動力部を意図的に暴走させ、出力・機動性を劇的に向上させるその機能は、機体とパイロットに多大な負荷を掛けるため、自壊や失神のリスクと、終了後の機能低下という極めて大きなデメリットが伴うが、元より生きて戻れないのは覚悟の上だ。

 それよりも敵を自分の方に引き付け、部下たちを追わせない方が大事だ。

 

 鎧の背中から青白い炎が噴き出し、鎧を急激に前方へと押しやる。

 それを見て、牽制してきていた敵機が行かせまいと立ちはだかるが、ダリルは相手にせずに隙間をすり抜けて突破した。

 

 そして敵の最後尾に追いつき、背後から一機を大剣で斬り裂く。

 背中の重要機構を破壊されて墜ちていく敵機からライフルを奪い、射撃戦に移行する。

 

 気付いてこちらを振り向いた敵機が次々に発砲してくる。

 回避機動を行いながら撃ち返し、敵の注意を引こうと試みる。

 命中は期待していなかったが、一機に偶然命中し、撃墜した。

 

 それを見た敵の先頭集団がダリルを片付けるのが先だと思い直したらしく、反転して距離を詰めてきた。

 後ろからもダリルを追ってきた敵機が迫ってくる。

 前後を塞がれたが、敵の注意を自分に向けさせるという目的は達成した。

 

(そうだ。これでいい。俺を追ってこい!)

 

 心の中で叫んだダリルは、反転してきた敵とぶつかる直前で急降下し、相手の下側に潜り込む。

 すかさず今度は急上昇して宙返りし、敵の背後に回り込んだ。

 緊急加速によってスピードが出ている今だからこそできる空戦機動だ。

 敵はダリルの動きに不意を突かれ、混乱している。

 

 一番近くの敵目掛けて突撃し、至近距離からの一撃で撃墜する。

 飛び散った破片が機体に刺さるのも構わずに、爆煙の中を突っ切り、次の目標を定めて照準したが、引き金を引いても弾は出なかった。

 不発や弾詰まりの可能性も考えて、排莢のため閉鎖ボルトを引いてみたが、何も起こらない。

 ──弾切れだ。

 

「ああくそっ!」

 

 毒づいて弾切れになったライフルを放り捨て、大剣を手にする。

 もうすぐ緊急加速が終了し、機体性能が大幅に低下する。その前に、もう一機か二機は道連れにしたい。

 

 だがその願い虚しく、次の獲物に狙いを定めたのとほぼ同時に緊急加速が終了し、機体の速度がガクッと落ちた。

 狙っていた敵機はライフルを撃ちながら遠くへ逃げていく。もう追いつけない。

 

『今だ!かかれえ!』

 

 どこかにいる敵の指揮官が拡声器で命令を下し、敵機が一斉に襲いかかってきた。

 機能が低下した今ならと思ったのか、少なくない数が剣や戦斧を手に接近戦を仕掛けてくる。

 ダリルは大剣を振り回して牽制しながら必死で敵機の群れから逃げる。

 緊急加速終了後は機体の安全確保のために戦闘は避けなければならないが、今のダリルには無理な相談だった。

 

 銃弾を躱せばその先に剣の鋒が待ち構え、その剣を打ち払えばその隙に別の剣が突き出され──絶え間ない攻撃に晒されてダリルは追い詰められていく。

 避け損なった銃弾や斬撃が何発も直撃し、鎧がボロボロになっていくのが分かる。

 正直よく飛んでいられるものだと思うが、まだ足りない。

 もっと、もっと、一分、いや一秒でも長く、飛び続けなければ──

 

 遂に敵の振り下ろした戦斧の一撃がダリルの鎧の右腕を切断した。

 大剣は切り落とされた右手に握られたまま、海へと落下していく。

 

「しまった!」

 

 そのままトドメを刺そうとする敵を何とか躱し、ダリルは急降下して落ちていく右手と大剣を追いかけるが、別の敵機に掴みかかられ、動きを止められてしまう。

 掴まれた脚をパージするが、すぐに背後からまた別の敵機に掴まれ、羽交い締めにされてしまう。

 振り解こうにも機体の出力が足りず、全く動けない。

 

 万策尽きたダリルの目の前に剣を構えた敵機がやってきた。

 その敵機が怒りの込もった声を発する。

 

『散々暴れてくれやがって。お前も、お前の手下共も今更逃げようったってそうはいかねえからな!』

 

 そして敵機がコックピットの中のダリル目掛けて剣を突き刺そうとしたその時──

 

 

『逃げる?とんでもない。待っていたんだ』

 

 

 鈴の音のような声が、響いた。

 

 

◇◇◇

 

 

「違う!仲間じゃない!」

 

 外にいた番兵が叫んだ。

 直後に十発近くの銃声が響く。

 小屋の扉が開き、外にいた番兵たちが二人、逃げ込んできた。

 

「敵襲です!ジェスがやられました!」

「何だと!?奴ら屋敷に潜んでいるんじゃなかったのか?」

「番兵の制服を着て変装していて──地下道での脱出がバレていたとしか──」

「馬鹿な!」

 

 特番分隊の隊長は驚愕する。

 なぜ領主と自分たち以外知らないこの場所が敵に悟られたのか、と。

 だがそんなことを考えても仕方がないし、考えている暇もない。

 

「ええい仕方がない。引き返しましょう!扉と窓を塞げ!」

 

 分隊長が叫び、素早く窓の鎧戸を閉めた。

 二人の番兵たちは扉に突っ支い棒をしようとするが、次の瞬間、外から撃ち込まれた風の塊によって扉ごと吹き飛ばされてしまった。

 受け身も取れずに壁に思い切り叩きつけられた二人の番兵は、床に倒れ伏して動かなくなる。

 

 そして扉がなくなった戸口に人影が現れる。

 

「まずい!」

 

 アーヴリルが素早く呪文を唱え、戸口を塞ぐようにシールドを張った。

 突入しようとしていた敵がシールドに阻まれ、一瞬よろめく。

 その隙に分隊長がシールドからライフルの銃身だけ出して射撃し、敵を一人倒した。

 敵は素早く戸口から離れ、見えなくなる。

 

「助かりました。領主様!今のうちです。お逃げください!」

 

 分隊長が叫ぶと、素早くティナが地下通路に通じるハッチを開く。

 

「降りろ!早く!」

 

 テレンスの命令でクライドとマドライン、そしてティナが梯子を降りる。

 

「貴女も早く!」

 

 テレンスはアーヴリルにも降りるように言ったが、アーヴリルは拒否した。

 

「いいえ。貴方が先に行ってください。私はここでこの方と奴らを食い止めます」

 

 そう言うアーヴリルの手には魔法陣が浮かんだままだった。吹き飛ばされた扉の代わりにシールドで戸口を塞ぎ続けているのだ。

 その隣で分隊長がライフルを構え、敵の迎撃に備えている。

 今や分隊長とアーヴリルが矛と盾になり、どうにか敵の侵入を防いでいる状態だ。アーヴリルが手を離してしまえば、敵の侵入を止められなくなる。

 

 それは分かっている。

 アーヴリルが残るのが、自分たちが生き残れる可能性が一番高い最善策だと、頭では分かっている。

 だが、テレンスの中にある僅かな貴族の男としての矜持が、客人で、それ以前に女性であるアーヴリルを置いて逃げることを許さない。

 

「ッ!だが貴女は客人だ!ここは私が残る!貴女をこれ以上巻き込むわけには──」

「「きゃあああああ!!」」

 

 テレンスが言い終わらないうちに通路の方からマドラインとティナの悲鳴が聞こえてきた。

 それと同時に何かとんでもなく重いものが落ちるような音が響いてくる。

 

「どうした!?」

 

 テレンスは思わずハッチの方を振り返り、問いかけるが、返事はない。

 アーヴリルが再度テレンスに先に行くよう叫ぶ。

 

「行ってください!早く!奥様とご子息が!」

 

 何らかのトラブルに陥った妻と息子を助ける、という大義名分を得たテレンスはようやく踏ん切りがつき、ハッチから地下通路へ飛び降りた。

 

 そして飛び降りた先でテレンスは驚愕する。

 

「何だと──?」

 

 通路は天井から伸びた複数の巨大な氷の柱によって塞がれてしまっていた。

 そしてマドラインもクライドもティナもいなかった。

 

 冷や汗が一気に噴き出してくる。

 

「クライド!マドライン!どこだ!返事をしろ!」

 

 テレンスは狼狽した声で周囲に呼びかけるが、返事は返ってこなかった。

 返ってきたのはハッチの上から分隊長が状況を問いかけてくる声だけだった。

 

「どうされました!?」

「通路が塞がれている!氷魔法だ!クライドとマドラインがいない!ティナも──まさか──」

 

 まさか──攫われた?

 

 最悪の想像が頭を過った直後、上から馬のいななきと、馬車が進む音が聞こえてきた。

 そしてアーヴリルの焦った声も聞こえてくる。

 

「ッ!?あいつらまさか!」

 

 彼女もテレンスと同じ考えに至ったようだ。

 

 テレンスは急いで梯子を上り、小屋に戻った。

 扉がなくなった戸口から外に出ると、土煙を立てて走り去っていく馬車が遠くに小さく見えた。屋敷や基地の方向とは逆──街の方へと向かっている。

 

 街に逃げ込まれたら、もう捕らえることはできない。

 馬車を乗り捨て、領民の中に紛れ、隠していた飛行船でマドラインとクライドとティナを人質として連れ去るだろう。

 そして身代金として件の証拠書類を引き渡せと脅迫してくるだろう。

 

 そうなったら、この世で最も大切な妻と息子の命か、ファイアブランド家の勝利か、という極めて重い選択を突き付けられることになる。

 どちらを選んでもテレンスに待つのは地獄だ。

 前者を選べば、エステルや彼女に味方する家臣・領民たちと争わなくてはならなくなる。

 だが後者を選べば──自分の生きる希望の全てが失われる。ファイアブランド家が勝っても、テレンスにとっては敗北だ。

 そんな選択は絶対にできない。

 

「あの馬車を追いかけないと!」

「ですが──乗り物がありません」

 

 焦るテレンスに分隊長が現実を突き付ける。

 どんなに必死で走っても──それこそ魔法で肉体を強化しても、人間の足では全速力で走る馬車に追いつくことはできない。

 となるとできることは一旦徒歩で屋敷に戻り、馬かエアバイクを出すことだが、それではとても間に合わない。

 

 頭を抱えて思わず叫びそうになったテレンスだが、ふと馬の足音が聞こえてくるのに気付いた。

 ──屋敷の方からだ。

 

 見ると、馬に乗った番兵たちが四人こちらに向かってくる。

 また敵かと思って身構えたが、今度は本物だった。

 

「領主様!ご無事でしたか!?」

 

 番兵たちの統括であるティレットが馬を降りて問いかけてくる。

 

「あ、ああ。だが!クライドとマドラインが攫われた。奴ら馬車を奪ってここを襲ってきたんだ!すぐに追いかけて取り返さないと!」

 

 テレンスは焦燥のあまり説明が雑になるが、ティレットは察したようだった。

 

「お任せを。我らで追跡致します。領主様方はすぐに屋敷にお戻りください」

 

 そう言って再び馬に跨るティレットにアーヴリルが待ったをかけた。

 

「待ってください!私も行きます!」

「駄目です。先ほども申し上げました。貴女を巻き込むことはできません!」

「ですが!その人数で奴らを無力化し、奥様とご子息、ティナを無傷で奪還できるのですか?奴らは風使いです。対抗できる風魔法の使い手はいるのですか?」

 

 ティレットは一瞬答えに窮したように押し黙る。

 その反応をアーヴリルは否定と受け取った。

 だが、アーヴリルがそこを追及する前に分隊長が助け舟を出した。

 

「統括。ここはランス様のお力を借りるべきかと。ランス様がいなければ我々は全員やられておりました。彼女の言う通り、その人数で奴らを追いかけても返り討ちに遭うだけです。人質を奪還するにせよ、奴らの行き先を突き止め、応援を待つにせよ、ランス様の魔法による援護なくしてはあまりに危険です」

 

 分隊長の説得を受けてティレットは渋面になるが、迷っている時間はないと判断したらしく、手短に指示を出した。

 

「鞍にお乗りを。この際は致し方ありません」

「はい!」

 

 ティレットが後ろに移動し、鞍と鐙を空けた。

 アーヴリルは鞍のホーンを掴んで素早く鞍に飛び乗った。空いた鐙に足をかけ、振り落とされないようホーンに掴まる。

 

「行くぞ!」

 

 ティレットの合図で馬たちが一斉に走り出した。

 先行するティレットの部下が目に魔法陣を浮かべて目標を観測する。

 

「速度がやや落ちています。我々には気付いていないようです!」

「よし、少しずつ距離を詰めるぞ。見失うなよ!」

「了解!」

 

 番兵たちは極力土煙と足音を立てないよう、馬に道の脇の草地を走らせ、静かに馬車を追い上げる。

 

 アーヴリルは鞍のホーンを握り締めながら、どうか全員無事であってくれ、と祈る。

 そして誓う。

 エステルの騎士を自称した時にした約束──何があってもクライドを守るという約束を必ず果たす、と。



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救出

『逃げる?とんでもない。待っていたんだ』

 

 聞き覚えのある声がしたかと思うと、ダリルの鎧は勢いよく斜め後方に引っ張られた。

 こちらのコックピット目掛けて剣を突き刺そうとしていた敵機が見る見る離れていく。

 

 二百メートルほどは離れた時、不意に敵機が脱力し、羽交い締めにしていた腕が外れた。そのまま敵機は力なく海に落ちていく。

 

 自由になったダリルの鎧は慣性であらぬ方向へと飛んでいくが、巨大な手がその左手を捕らえた。

 見上げると、そこにはマゼンタ色の炎を噴き出す巨大な翼を持った純白の鎧がいた。

 見間違えようもない。

 アヴァリス──最も頼りになる友軍機がそこにいた。

 

「エステル──様?」

 

 鎖が巻き取られる甲高い金属音と共に、アヴァリスが飛槍を回収して発射砲に戻す。

 どうやらダリルを羽交い締めにしていた敵機に背後から飛槍を撃ち込んで引っ張ることで救出してくれたらしい。

 

『命拾いしたな』

 

 通信機からエステルの声が響く。

 それに続いて聞き覚えのある仲間たちの声も次々に響いてきた。

 アヴァリスの後ろから次々に味方の鎧が姿を現し、敵鎧部隊目掛けて襲いかかっていく。

 

『ダリル!お前という奴は──』

『一人で殿とか何やってんだ馬鹿野郎!』

『勝手に英雄気取りしやがって!仇はきっちりとってやるからな!』

 

 おい三番目勝手に殺すな、と思わずツッコミかけたダリルだったが、はたと大事なことを思い出した。

 

「皆なぜここに!?敵の本隊は!?」

 

 そう──今敵の増援部隊に襲いかかり、蹴散らしている味方機は第一任務部隊の所属機だ。

 彼らは敵艦隊と戦っているはず。このタイミングでここに来るなどあり得ない。

 その答えはアヴァリスに乗るエステルから返ってきた。

 

『ああ、ぶちのめしてやった。私だけでも飛行船七隻と鎧百機くらいは落としたかな。それで奴ら尻尾巻いて逃げていったよ。正直暴れ足りないと思っていたところに、お前らがピンチだって報告が来たんでな。加勢しに来た』

「そ、それは──かたじけない。助かりました」

 

 まるで現実味がない馬鹿げた戦果を上げながら、まだ暴れ足りないと宣うエステルにダリルは内心呆れ返りつつも感謝する。

 

 そしてエステルはダリルの鎧を放して、代わりに大剣を手にし──思い出したようにダリルの方を向いて言った。

 

『そういえばお前、あの剣はどうしたんだ?まさかまた奪られたんじゃないだろうな?』

「は、いいえ。敵に右腕ごと切り落とされて、海に落ちてしまいました。面目次第もございません」

 

 敵に囲まれてどうしようもなかったとはいえ、思い出すだに口惜しい。

 あの伝説級のロストアイテムである漆黒の大剣を失ったのはこれで二度目だ。

 

 一度目──空賊との戦いの際には、功を焦っての判断ミスで空賊の頭領に奪われ、それで斬り殺されかけた。

 絶体絶命だったダリルを救い、奪われた大剣を取り返したのはエステルだ。

 そしてエステルはそんな大失態を犯したダリルに再度大剣を託してくれた。他に適任者がいなかったというのもあるだろうが、極めて寛大な措置である。

 ダリルはこの措置に大いに感謝し、次は絶対に手元から離すまいと誓った。

 にも関わらず、また失ってしまった。しかも今度は海に落ちて沈んでしまっている。回収は不可能だろう。

 

 別に自分が失態に対する処分を受けることはどうでもいい。

 だが、あのかけがえのない値打ちがある大剣──希少性はもちろんのこと、エステルが自身の命運を懸けた決死の冒険の末に持ち帰り、一度は彼女を鎧で追い立てて撃墜しようとし、あまつさえ名誉と誇りを地に落とされたと逆恨みした自分を二度も信じて預けてくれた大切な武器──を海に沈めてしまい、そしてまたエステルに助けられておめおめと生き残ってしまったのが情けない。

 このまま戻ってもエステルに合わす顔がない。

 

 だが、ダリルの弁明を聞いたエステルは特に怒ったりはせず、淡々とした物言いを崩さなかった。

 

『そうか──まあいい。さっさと母艦に戻って整備と補給を受けてこい。一人で飛べるな?』

「は?は、はい!飛べます」

『よし』

 

 そう言ってエステルは鎧の翼から炎を噴射して戦闘空域に飛び込んでいった。

 

『おいお前ら!私の分も残しておけよ!』

 

 エステルの楽しげな声が通信機から響く。

 

 ダリルは拍子抜けしたまま母艦への帰途に就いた。

 エステルはあのロストアイテムの大剣を失ったことに何らの痛痒も感じていないようだった。

 何故だか、それがどこか──恐ろしかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 案内人は馬車を追ってくる番兵たちとアーヴリルの存在に気付いていた。

 

「くそっ!もう気付かれたのか。さっきといい、一体どうなっているんだ」

 

 さっき、というのはオフリー家の潜入部隊が、屋敷でティナと鉢合わせして彼女を殺害しようとした際、アーヴリルの介入で失敗したことだ。

 まるで自分の企みが筒抜けになっているかのような──以前であれば考えられない失敗の連続に案内人は苛立っていた。

 

「この役立たず共が──」

 

 忌々しげに馬車を駆る潜入部隊を睨みつける。

 彼らが思い通りに動かないせいでティナもアーヴリルも殺すどころか傷つけることさえできていない。

 

 いっそここに捕らえられているティナだけでも自分の手で殺そうかとも思ったが、できなかった。

 彼女の身体は見えない障壁に守られているかのごとく、案内人の接触を拒むのだ。

 以前なら簡単に捻り潰せたであろうに、今では指一本触れられない。無理に触れようとすれば激痛が走る。

 やはり潜入部隊に殺させるしかない。

 

「ええいくそっ!今だけは手を貸してやる。だが、全てが片付いたらお前たちには地獄を味わってもらうからな!」

 

 案内人は腹を括り、潜入部隊が追手から逃れるのに力を貸すことを決めた。

 潜入部隊には何としても追ってくる番兵たちとアーヴリルを返り討ちにさせ、その上でティナを殺害してエステルの心に消えない傷を残してもらわなければならない。

 絶対に、ここで負けて人質を奪還されるわけにはいかない。

 

 そして案内人は潜入部隊に警告を発する。

 

「後ろを見ろ!追われているぞ!」

 

 潜入部隊の隊長が反応し、窓から後ろを覗く。

 

「追手だ!」

 

 隊長が叫ぶと、潜入部隊は即座に武器を手に取り、臨戦態勢を取る。

 

 

 

「ッ!気付かれました!」

 

 ティレットの部下が叫んだ直後、銃声が響いた。

 馬車の窓から白煙が上がっているのが見える。

 

「奴ら撃ってきます!」

「私の真後ろにつけ!ランス様、シールドを!」

「はい!」

 

 アーヴリルが馬の前方にシールドを張り、他の番兵たちが馬ごとその後ろに隠れる。

 

 敵の銃撃はなおも続き、弾丸が何発もシールドに当たっては甲高い音を立てて跳弾する。

 更には銃弾に混じって風の刃と氷の矢弾も飛んでくる。

 

 風の刃はともかく、氷の矢弾は厄介だった。

 銃弾よりも威力が大きく、着弾するたびにシールドがひび割れを起こす。

 魔力を注ぎ込んで壊れた側から修復することでどうにか凌いでいるが、このままでは追いつく前に魔力が底を突きかねない。

 

 それを見たティレットが呪文を詠唱し、火球を放った。

 火球は過たず、飛んでくる氷の矢弾を捉え、炎に包んで蒸発させた。

 他の番兵たちも次々に炎魔法の火球を投射し、飛んでくる氷の矢弾を迎撃する。

 

「氷は私たちにお任せを。貴女は銃弾と風の防御に集中してください!」

「ッ!かたじけない!」

 

 氷の矢弾を迎撃してもらえることで、アーヴリルに余裕ができる。

 そしてアーヴリルはもう一つ、魔法を使う。

 

「風よ──我が背を支えよ!」

 

 対象を浮き上がらせ、歩幅を増やすことで足を速める風魔法は馬にも有効だ。

 尤も、馬に使う場合は乗り手の技量を必要とするが、ティレットと番兵たちであれば十分御せるだろうという確信があった。

 

 狙い通り、ティレットたちは馬を巧みに御し、むしろ風魔法の恩恵を最大限活かせるように走り方を変えた。

 馬車との距離が一気に縮まり、敵の顔が肉眼で分かるほどになる。

 

「今だ!散開!」

 

 ティレットの合図で番兵たちが二騎ずつ左右に分かれた。 

 

 ティレット以外の三人の番兵たちが素早くライフルを構え、馬車の窓に向けて発砲する。

 悲鳴が上がり、銃と魔法でこちらを狙っていた敵が三人、撃たれて転げ落ちた。

 銃撃を逃れた敵が一人、氷の矢弾を放とうとしてきたが、アーヴリルが風の刃を投げつけると、顔面を大きく切られて内側に倒れ込んだ。

 

「よし!よくやった!」

 

 叫んで、ティレットは呪文を詠唱する。

 ティレットの腕に魔法陣が浮かび、頭上に巨大な火球が出現したかと思うと、前後に伸びて槍の形になる。

 

「貫け!」

 

 炎の槍が馬車目掛けて飛んでいき、御者台を直撃する──直前で霧散してしまった。

 

「は?」

 

 ティレットが思わず間抜けな声を出した。

 敵はシールドなど張っていなかったのに、なぜか攻撃が無力化されてしまったのだから無理もない。

 

 次の瞬間、馬車から黒い煙が湧き出し、アーヴリルたちに襲いかかる。

 アーヴリルが素早く風魔法で吹き散らしたが、反対側にいた二人の番兵は間に合わずに煙を吸い込んでしまったらしく、馬共々地面に倒れてしまった。

 これでこちらは二騎──アーヴリル、ティレット、ティレットの部下の三人だけだ。

 

「毒煙玉!?あいつらどれだけ──」

 

 ティレットが毒づくが、アーヴリルは違和感を感じていた。

 先程の黒い煙は馬車の中から湧き出てきたように見えたのだ。

 毒煙玉なら車外で炸裂させるはずであり、車内から煙を出すなどあり得ない。中にいる者も毒煙にやられてしまう。

 だが、生憎と煙の謎について考えている暇はなかった。

 

 ティレットがもう一度呪文を詠唱し、炎の槍を形成する。

 再び炎の槍が御者席に襲いかかるが、またしても霧散してしまう。

 

「くそッ!どうなっているんだ!」

 

 ティレットは怒声を上げる。

 防がれる要因などどこにもないのに、なぜか攻撃が届かない。

 あまりにも不気味な現象だった。

 

 そして馬車の窓にまた敵が現れ、ライフルを撃ってきた。

 御者席からも御者が発砲してきて、アーヴリルはシールドで弾丸を防ぐのに手一杯になる。

 並走するティレットの部下がライフルで撃ち返すが、弾丸は見えない壁に当たったかのように弾き返されてしまう。

 

 不意にティレットの部下がアーヴリルに呼びかけてきた。

 

「ランス様!風魔法でハーネスを狙えませんか?」

 

 その要請にアーヴリルは素直に従いかねた。

 なぜなら、それはここにいる全員を危険に晒すことを意味したからだった。

 

「できますが──それではシールドを消す必要が──」

 

 だが、ティレットと部下はとっくに覚悟を決めていた。

 

「構いません!我々の攻撃は通りません!可能性があるのは貴女だけです!」

「我々のことはお構いなく。やってください」

 

 二人の返事を聞いてアーヴリルはハーネスへの攻撃を決断する。

 

 敵の発砲が途切れた一瞬の隙にシールドを解除し、呪文を詠唱する。

 

 敵はその隙を逃さずに撃ってこようとしたが、ティレットと部下がそれぞれ拳銃とライフルを手に、ありったけの弾丸を放ち、敵を怯ませて発砲を許さなかった。

 

 二人が稼いだ二、三秒の僅かな時間でアーヴリルは巨大な風魔法の刃を生成する。

 残存魔力の殆どを使った、渾身の一撃。

 この一撃に、人質に取られたティナとマドラインとクライドの命、ひいてはファイアブランド家の勝利が懸かっている。

 絶対に失敗は許されない。

 

「切り裂けッ!」

 

 アーヴリルが腕を振るうと、風の刃は過たず、馬車と馬を繋ぐハーネスを直撃し、綺麗に切断した。

 

「やった!」

 

 馬車が一気にスピードを落とし、道から外れて草地に突っ込んで止まった。

 ティレットと部下が素早く馬を降り、御者席に登って御者を射殺すると、馬車の中へ突入する。

 

 アーヴリルも遅れて彼らの後を追うが、彼女が加勢する前にけりはついた。

 銃声が数発響いた後、馬車の扉が開き、ティナとマドラインとクライドがティレットたちに担がれて運び出されてきた。

 

 ティレットたちはそっと三人を地面に降ろすと、アーヴリルに手当てを頼み、馬車を牽いていた馬を連れ戻しに行った。

 

 三人とも死んだように動かず、肩を軽く叩いてみても反応がなかったが、呼吸も心拍も正常だった。

 どうやら何らかの魔法か薬物で眠らされているようだが、今のところ命に別状はなさそうだ。すぐに屋敷に連れ帰って医者に診てもらえば大丈夫だろう。

 

「よかった──本当に、よかった」

 

 アーヴリルはほっと安堵の息を吐く。

 

 エステルの家族と、彼女が大事にしていたティナを無事に取り戻せた。

 初めて、自分の力がエステルのために役に立った。

 そして──クライドとの約束を守れた。

 

 今度は嘘吐きにならずに済んだ。

 

 そのことが無性に嬉しかった。

 

 

 

「く、くそぉぉぉ!アーヴリル・ランス──!」

 

 馬車の中で案内人は歯軋りしていた。

 

 潜入部隊が番兵たちを返り討ちにできるように色々と手助けしてやったのに、結局潜入部隊は負けてしまった。

 彼らが負けたのは番兵たちと一緒にいたアーヴリルのせいだ。

 

 馬車を少し浮き上がらせて揺れを抑え、攻撃しやすくしてやったのに、銃撃と風魔法はアーヴリルのシールドに阻まれ、氷魔法はシールドに守られた番兵たちによって迎撃された。

 

 そして追いついてきた番兵たちの銃撃と、アーヴリルの風魔法で潜入部隊のメンバーは一気に四人もやられ、また風魔法と氷魔法の使い手も失った。

 

 慌てて結界を張って番兵たちの銃撃や魔法攻撃から馬車を守り、更に呪いの黒い煙を発して番兵たちを攻撃したが、どちらもアーヴリルによって打ち破られてしまった。

 エステルへの感謝と好意の乗ったアーヴリルの風魔法は黒い煙を霧散させ、結界もあっさりと貫いて馬車と馬を切り離した。

 

 そして馬車を牽く馬を失った潜入部隊の残りは、逃走もロクな抵抗もできないまま番兵たちにやられてしまった。

 三人の人質は奪還され、番兵たちは人質を屋敷に連れ戻す準備にかかっている。

 

 このままでは潜入部隊を逃すために使った力は全て無駄になってしまう。

 残された僅かな力を振り絞り、身体が霞んで消えかかるほどに追い詰められて、その結果が失敗であるなど、受け入れ難い。

 

「ええい!かくなる上は──」

 

 案内人の掌から弱々しい黒い煙が発生し、辛うじてまだ微かに息があった潜入部隊の隊長に纏わりついた。

 

「貴様に特別にもう一度チャンスをくれてやる。あの女と獣人の小娘を殺すのだ!」

 

 隊長の身体がビクッと跳ね上がり、銃で撃たれた傷が塞がっていく。

 そして隊長はカッと目を見開き、剣を手に馬車の外へと目を向ける。

 その瞳に、屋敷で出会して仕留め損ねた金髪の若い女を捉えたその瞬間、隊長は醜悪な笑みを浮かべて、音もなく馬車の窓から飛び出した。

 

 

 

「ッ!危ない!」

 

 不意にティレットの部下が叫び、馬の背にティナを括りつけようとしていたアーヴリルを突き飛ばした。

 

 次の瞬間、部下の脇腹に剣が突き刺さる。剣はそのまま彼の身体をぶち抜いて馬にまで刺し傷を与えた。

 馬が悲鳴を上げて走り出し、ティナが振り落とされてしまう。

 

 部下を刺した犯人はそれを見て乱暴に剣を引き抜き、ティナ目掛けて剣を振り上げた。

 

「やめろッ!」

 

 アーヴリルは咄嗟に風魔法を使ったが、相手はよろめいて尻餅をついただけで何らダメージを受けなかった。

 魔力が払底していることに歯噛みしながら、アーヴリルは倒れた部下の腰から剣を拝借して、ティナを守る位置に立ち塞がった。

 

 ほぼ同時に立ち上がった相手の姿を見てアーヴリルは驚愕する。

 

「お前は──!」

 

 明らかに致命傷と分かるほどの出血で衣服が赤黒く染まっているにも関わらず、無傷であるかのように動き、目が爛々と輝き、獰猛な笑みを浮かべている男──屋敷で見た時、他の敵に指示を出していた奴だ。

 

 敵はさっき全員倒したはずなのに、目の前の男は確かに生きて動き、こちらを殺しにきている。まるで御伽噺に出てくる「動く死体(アンデッド)」のようだ。

 一体何がどうなっているのだと叫びたくなるが、口を開くことはおろか、身動ぎの一つもままならない。

 相手の僅かな動きも見逃さないよう、目線は決して逸らさず、瞬きさえもできない。

 

 そのまま一瞬目に見えない攻防を繰り広げた直後──

 

「ふんっ!」

 

 不意に横からティレットが男目掛けて斬りかかった。

 男は素早く反応し、剣で斬撃を受け止める。

 

「確かに胸に三発撃ち込んだのだがな。何とも面妖な」

 

 そう呟いて、ティレットは素早く間合いを取り、得物の長剣を構え直した。

 

 男はティレットの方に向き直り、胸を押さえて怨嗟の声を上げる。

 

「貴様ァさっきはよくも──痛い!痛い痛い痛い痛い痛い!この痛み貴様にもおおお!!」

 

 そして男は人間離れした素早さでティレットに斬りかかる。

 胸に三発銃弾を撃ち込まれてなお死なずに蘇ったばかりか、身体のリミッターが外れ、気まで狂ったらしい男にアーヴリルは恐怖する。

 

 一方、ティレットは次々に繰り出される斬撃の全てを最小限の動きでいなしながら、アーヴリルに向かって口を開いた。

 

「此奴の相手は私が。ランス様は【ピット】の手当てを!」

「──は、はい!」

 

 固まったまま立ち尽くしていたアーヴリルはようやく硬直から解き放たれ、脇腹を貫かれたティレットの部下のもとへ駆け寄る。

 

 着ていた服を脱いで傷口を押さえて止血したが、彼の受けた傷は深く、出血量があまりにも多過ぎた。

 直感で助からないとアーヴリルは悟る。

 

 私のせいだ。

 

 ティナの方に気を取られて、近づいてくる男に気付かなかった私を庇って、彼は刺された。

 

 自分の目で確かめたわけでもないのに、敵はいなくなったと思い込んで、警戒が緩んでいた。

 

 最後の最後で、しくじった。

 

「ん──」

 

 不意にティレットの部下が薄目を開けた。

 

「意識がある?ピットさん!聞こえますか?」

 

 アーヴリルは縋るような気持ちで呼びかけた。

 

 ピットと呼ばれた男は微かに笑みを浮かべて応えた。

 

「あ、ああ──聞こえる──怪我は──ないか?」

「私は無事です。喋らないでください。血を止めていますから。あ、ここを押さえていてください。すぐに医者を呼んできます」

 

 アーヴリルはピットの手を傷口に押し当てた衣服の上に置き、馬に乗ろうと立ち上がるが、ピットがそれを止めた。

 

「いや、行かんでいい。屋敷を出る時、応援を頼んだ。そいつらがじきに追いついて来る」

「ですが──」

「分かってる。俺はもう、駄目だ。もう、目の前が殆ど真っ暗なんだ。だから──置いてかないでくれ。一人に──しないでくれ」

 

 焦点の合わない目で自分を探すピットを放っておけず、アーヴリルは彼のもとへ戻った。

 ピットの手に手を添えると、彼は安心したように表情を幾ばくか緩めた。

 

 そしてアーヴリルの方を向いて弱々しく問うてくる。

 

「な、なあ──ランスさん、あんた、この戦が終わったら──故郷に帰るのか?」

「いいえ!いいえ!私はここに留まります!ここで、エステル様に仕官します!ここでエステル様を守る任に就きます!だから──意識を保ってください!生きて、こんな怪我治して、共にエステル様をお守りしましょう!」

 

 アーヴリルは必死でピットを励ますが、彼は刻一刻と弱っていく。

 

「そう──か。よかった。頼む──あんたの、ような、腕の立つ──魔法の、使い手がいれば──エステル様は──あ、あの方を──守って──頼む──」

 

 最後の方はろくに聞こえず、口元に耳を近づけて辛うじて聞き取った。

 

 そしてピットの息が止まる。

 顔を上げると、彼の瞳は完全に光を失っていた。

 

 その瞼をそっと閉じて、アーヴリルは力の抜けたピットの手を握る。

 そして、流れ出る涙を拭くこともなく、何度も頷いた。

 

「はい──はい!必ず──」

 

 

 

「オラオラどうしたよ老ぼれえええ!」

 

 出鱈目な足捌きと出鱈目な振りで次々と斬撃を繰り出す潜入部隊の隊長が楽しげな声を上げる。

 いつもの自分とはまるで違った、高揚感に支配された不思議な感覚がするが、それが心地良い。

 無限に力が湧いてくるようだ。

 

「よォ爺!何とか言ったらどうなんだあああ?」

 

 饒舌な隊長とは対照的にティレットは一言も声を発さない。

 先程からティレットは隊長の斬撃をいなすばかりで、ロクな反撃もできていなかった。

 隊長はそれを自分が圧倒しているが故と確信して、悦に浸る。

 

「いなしてばっかりじゃ勝てないぜえ?反撃しないとなあ!」

 

 挑発してみるが、ティレットは動じた様子がない。

 それが隊長の神経を逆撫でした。

 

「チッ、つまんねえ爺だな、オラァ!」

 

 ティレットが何度目かも分からない斬撃をいなした時、隊長が蹴りを繰り出した。

 肉体強化によって威力を増した重い一撃に吹っ飛ばされ、ティレットは地面を転がる。

 

 剣を杖にして何とか立ち上がるが、その姿は青息吐息である。

 それを見て隊長は下品な笑い声を上げた。

 

「アハハハ!体力切れか爺!?ならさっさと死ね!」

 

 隊長は剣を両手で構えて突っ込んでいく。

 

 そして隊長の剣がティレットの長剣を払い除けて斬撃をお見舞いしようとした瞬間──

 

「──は?」

 

 隊長は間の抜けた声を発した。

 そしてゆっくりと視線を下に落とす。

 

 ティレットの長剣が深々と隊長の胸部に突き刺さっていた。

 

 いつ刺突を繰り出されたのか、全く分からなかった。

 さっきまで青息吐息でロクな構えも取れていなかったはずの老騎士が、今自分の心臓を貫いていることが理解できない。

 先程までの高揚感は消え失せ、頭の中が疑問符で満たされる。

 

 ──何をされた?

 

 ──何が起こった?

 

 その問いは言葉にならず、ティレットも言葉に出ない問いに答えることはなかった。

 ただ、脱力して剣を取り落とした隊長から長剣を引き抜いた際、ティレットは淡々と隊長の戦いを批評した。

 

「速いことは速いが、重さが乗っていない。視野が広いようでその実ロクに見えておらん。どこを狙っているのかも丸分かり。出鱈目なようでパターンがあり、それが隙を生んでいる──」

 

 そして長剣を構え直すと、冷たい目で吐き捨てた。

 

「貴様の剣など、エステル様のものに比べれば児戯に等しい」

 

 その言葉の直後、自分の首と胴が離れたことを隊長は感じ取る。

 

(はは──強えな。この爺さん──というか、エステル?まさかそいつ、この爺さんより──)

 

 その思いを最後に、隊長の意識は途切れた。

 

 

 

 隊長にトドメを刺したティレットは返り血を払って長剣を鞘に収めると、大きく息を吐いた。

 疲弊していたのは演技ではなかった。

 

(エステル様には感謝せねばな。この技を編み出せたのも偏にあの方との稽古あってのこと──)

 

 そしてティレットはピットとアーヴリルの所へと向かう。

 

 アーヴリルは涙を流しながら横たわるピットを見つめていた。

 

「申し訳ありません。助けられませんでした」

 

 アーヴリルが涙声で言った。

 

 ティレットはアーヴリルの隣に屈み、祈りの印を切った。

 

「いいえ。自分をお責めにならないでください。貴女はよくやってくださいました。貴女がいなければ奥様もクライド殿も、エステル様の専属使用人も助けられなかった。それに──彼としても貴女のような方を助けるために死ぬなら本望でしょう。主君のため、肩を並べる仲間のために命を擲つ──それが騎士の男の役割です」

 

 ティレットの物言いは淡々としていたが、その表情には深い悲しみが宿っていた。

 

 

 

 馬の足音が聞こえてくる。

 見ると赤い軍服を着た地上軍の兵士の一隊が向かってくるところだった。

 

 彼らに拾われて、アーヴリルたちは屋敷へと戻った。

 

 馬の背に揺られながら、アーヴリルはピットが言い残した言葉を反芻していた。

 

「エステル様を守って欲しい」

 

 ピットのその言葉で、アーヴリルの決意はより一層固くなった。

 

 この先何があっても、エステル様のことは彼のようにはさせない。

 いざとなったら、彼が自分にしてくれたように、身を挺してエステル様の盾となろう。

 彼に貰ったこの命、彼の望み通り、エステル様のために使おう。

 

 それがピットの犠牲で生き延びた自分の責務だと、アーヴリルは信じる。

 

 

◇◇◇

 

 

「おのれ──おのれえええ!」

 

 今にも倒れそうにフラフラとファイアブランド領本島の外縁部を歩く案内人は、今にも消えそうな半透明の姿で怨嗟の言葉を吐いていた。

 

 最後に取っておいた力を振り絞って潜入部隊の隊長を蘇生させ、ティナとアーヴリルを殺させようとしたが、結局どちらも殺せないまま、隊長はティレットによって倒されてしまった。

 案内人の数々の苦労の全ては徒労に終わった。

 

 殺された潜入部隊のメンバーから僅かに負の感情を回収できたものの、力は戻らない。

 

「くそッ!このまま終わらせてなるものか。ここを出て──他の場所で負の感情を回収する。そして力を蓄えて、今度こそエステルを破滅させてやる」

 

 改めてエステルへの復讐を誓う案内人の後ろを、犬の形をした淡い光がついていく。

 



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勝利

遂に一万字を突破してしまった──
だから更新頻度下がるんだって分かってるけど仕方ない。書きたいこと書いていったら文字数増えちゃうんだから──


 オフリー艦隊は荒れていた。

 輸送船団壊滅と救援に向かった部隊が苦戦中との報を受けて、艦隊指揮官として復帰したコープのもとには、怒涛の勢いで詰問の通信が浴びせられる。

 

『これは一体どういうことだねコープ殿!』

『あんたがただ後ろをついてくれば勝てる、上手くいくと豪語したから我々は話に乗ったんだぞ!それなのに何だねこのザマは!?』

『うちの鎧部隊が全滅したぞ!』

『うちは虎の子の飛行船を二隻もやられた!』

『私の所は三隻もだ!』

『だからファイアブランド家と戦うなど気が進まなかったのだ!』

『もはや兵たちの飯も、撃つ弾もない。帰りの分の魔石すら危うい!現地調達も望み薄。このままでは立ち往生だ!作戦全体が台無しではないか!あんたの判断ミスで!』

 

 怒声を上げているのは今回の侵攻作戦に飛行船を出した他の貴族家の軍人たちだ。

 ファイアブランド家と勢力圏を隣接しているノックス子爵家とクレイトン子爵家、更に両家と同盟関係にあるアクロイド男爵家とフォックス男爵家──彼らは戦利品の分前とオフリー家からの援助という見返りに期待して侵攻作戦に加担した。

 それなのに分前どころか派遣した戦力が壊滅する大損害を被り、話が違うと騒いでいる。

 

 彼らの罵倒にコープは一切の申し開きをしなかった。

 今は何を言ったところで彼らは納得しないだろう。

 だからこそ、コープは怒声を上げる同盟者たちには構わず、今後のことを考えていた。

 

 このままオフリー領に戻るわけにはいかない。

 戻ったところでコープにはロクな結末が待っていないからである。

 

 ファイアブランド家は王宮に今回の侵略を訴え、オフリー家を追い込みにかかるだろう。

 空賊と手を組むというあまりにも重大な犯罪の証拠を握られている以上、オフリー家の不利は免れない。

 後ろ盾を頼って訴えを握り潰すという手もあるだろうが、ファイアブランド家が王宮にロクな伝を持っておらず、敵対派閥に情報を流して働きかけることもしなかった場合にしか成功が期待できない危険な賭けだ。

 後ろ盾は不利と見ればあっさりオフリー家を見捨てるだろう。

 

 そして、どう転んでもコープは今回の敗北の責任を取らされる。

 楽観的に見積もっても解雇、下手をすれば自裁という名の処刑が待っている。

 

 かくなる上は「転職」という手を考える必要があるかもしれない。

 残る味方共々投降してファイアブランド領に身を寄せ、そこで風がどちらに吹くか静観する。

 風向きによっては、自分を売り込んでファイアブランド家に仕官することも選択肢に入る。

 

 コープが考え込んでいる間にも業を煮やした味方の離反が始まる。

 

『あんたを──いや、オフリー家を信じた我々が馬鹿だった。我がクレイトン家は退かせてもらう。これ以上の損害は許容できぬ』

『我がノックス家も同様に。これは貴家が始めたことだ。我々は与り知らぬ』

 

 それを部下たちが聞き咎めた。

 

「何だと貴様ら!今更足抜けする気か!」

「取り決めはどうなる!?既に前金を受け取ったであろう!」

『知ったことか!こんな損耗状態であんな化け物共にどうやって勝つというのだ!』

『どう考えてもここから逆転などできるか!あの白い死神をどうにかする当てでもあるのかね!ええ!?』

「対処のしようはある!奴とて所詮一パイロットに過ぎん!鎧部隊で囲んで叩けば墜とせる!」

『戦いを見ていなかったのか!?奴にその手が通用するならとっくに墜とせておるわ!』

『奴に挑んだうちの鎧部隊の損耗率は九割だ!たった一度の戦いで九割だぞ!あんたらのところは何機墜とされた?最初の攻撃で七、八十機は墜ちたように見えたが?これでまだ奴を墜とせるだと?ふざけるのもいい加減にしろ!』

「ッ!ここで退いてはためにならんぞ!」

「そうだ!我がオフリー家がこの戦いに負ければ貴様らも道連れだぞ!分かっているのか!」

『買収の次は脅迫か!チッ、薄汚い似非貴族らしいな」

「何だと!?取り消せ!」

『持ちかけてきたのはそっちの方だぞ!我々は騙されたんだ!』

「そんな言い訳が通用するとでも──」

 

「もうよい!」

 

 離反しようとする彼らと言い争う部下をコープは制した。

 

「よせ。無駄だ」

 

 コープの制止に部下は狼狽する。

 

「ですがコープ様!このままでは──」

「よい。私に考えがある」

 

 そう、止めても無駄だ。

 彼らからしてみれば最初から利益で手を結んだのだ。その利益が期待できず、むしろ大損害を被ったとなれば、離反しない方がおかしいというものである。

 加えて彼らは怯えている。あの白い死神──翼からマゼンタ色の炎を噴いて飛ぶ純白の鎧に。

 あれとまた戦うなどコープですら御免被りたいと思っているのだ。彼らを臆病と誹ることはできまい。

 

 それに残っていてもコープが考える計画の邪魔になりかねないため、離反してくれた方が好都合だった。

 

 

 

 艦隊から数隻の飛行船が離脱していく。

 四家は結局全てオフリー軍を見限り、帰途に就いたようだ。

 戦いが始まる前には十六隻もいたのに、今や半分ほどに減ってしまっていた。

 

 残ったオフリー軍の飛行船は十一隻。

 主力艦一隻、中型飛行戦艦三隻、そしてフリゲート三隻、合わせて七隻が失われていた。

 損耗率にして約四割。壊滅的な打撃だ。

 生き残っている飛行船も無事ではなく、多くが砲郭や指揮所をはじめ艦上構造物に被害を受けていて、まともに戦える状態にはない。

 

 輸送船団の方は確認できた残存艦は十四隻。

 何とか輸送船団を襲撃していた敵鎧部隊は追い払ったが、撤退する敵鎧部隊を追撃した味方鎧部隊とは先程連絡が途絶。

 状況的に見て、敵に返り討ちにされ全滅したものと思われる。

 

 対してこちらがファイアブランド軍に与えた損害は、鎧二十機弱を撃墜したのと、フリゲートやコルベットを数隻戦線離脱させたのみ。

 敵飛行戦艦はまだ健在であり、鎧の数もまだ充分──追撃した鎧部隊が返り討ちにされたのがその証拠である──、ファイアブランド領本土からの補給・増援も受けているだろう。

 

 もはやファイアブランド軍相手に戦える力は残されていない。

 そして撤退もできないとなれば──残された道は一つだ。

 

「コープ様、我々は如何致しますか?」

 

 伺いを立ててくる部下にコープはかぶりを振って口を開いた。

 

「輸送船団の残りと合流を急げ。彼ら共々ファイアブランド軍に投降する」

 

 コープの言葉にブリッジは騒つく。

 

「投降ですと?それは──」

「異議あり!ここはアクロイド領あたりに寄港して立て直し、伯爵の判断を仰ぐべきです!」

「そうです!あのような手を使ってくる相手ですぞ!投降などすればどんな扱いをされるやら──」

「そもそも相手が投降を受け入れるという確証はあるのですか?奴ら殆ど丸腰の輸送船団でさえ躊躇なく襲って沈めたのですぞ!」

 

 部下たちが口々に反論するが、コープは意見を曲げない。

 

「このまま戻ったところで我々には先がない。田舎の子爵家一つ相手に鎧部隊も艦隊も輸送船団も上陸部隊も壊滅、同盟した家にも離反されて、おめおめと逃げ帰った我々を伯爵はどう見る?それにそもそも、艦隊が撤退を完了できるだけの魔石も糧食も調達のあてはない。我々の寄港を受け入れる領などもはやなく、無理に押し掛ければ我らは賊扱いを受けるであろう。ならばファイアブランドの軍門に降る方がまだ生き残れる可能性はある」

 

 コープの指摘を受けて部下たちは黙ったが、納得していないのは明白だった。

 

 無理もない。降伏すれば捕虜になり、扱いは相手の裁量に委ねられることになる。

 ましてや降伏する相手は、虎の子の飛行戦艦や熟練の鎧部隊を事もあろうに囮として使い、その隙にこちらの輸送船団を襲って焼き討ちするという()()()()()()()()()手段を用いる連中──到底受け入れ難いだろう。

 

 ただ、コープからすると、ファイアブランド軍の取った行動はむしろ突き抜けて合理的である。

 不利な艦隊決戦を捨ててこちらのアキレス腱(補給物資と上陸部隊)を狙い、狙いを悟られないために艦隊すらも陽動として使い捨てる──並大抵の頭脳と精神では思いつきもしないであろう冷徹な奇策。

 だが、それができる──名よりも実を取り、目的のためならば手段を選ばない──合理主義極まる相手ならば、コープにとってはむしろ好都合だ。

 オフリー家の後ろ暗い稼業に関するちょっとした情報あたりをダシに取引を持ちかければ、降伏した後の身の安全を保証してもらえる可能性は充分にある。

 

 自分の保身のため、コープは言葉の魔術で部下たちを説得する。

 

「何も無条件で降伏するわけではない。これはこれ以上無駄な人死にを出さないための名誉ある()()だ」

 

 停戦という言葉に再びブリッジが騒つく。

 

「我々は負けた。これはもはや覆しようのない事実だ。そして我々が負けた以上、この侵攻において伯爵家が掲げていた大義も意味を為さなくなった。政治の世界は分からんが、伯爵家はこの先苦しい立場に追いやられるだろう。下手をすれば取り潰されかねん。そうなれば、我々は汚名を着せられ、路頭に迷うかあの世行きだ。その前に我々は伯爵家とは別にファイアブランド軍と停戦し、その傘下に入る。ファイアブランド家を利用して我々の身の安全と名誉を守らせるのだ」

 

 コープの演説が一区切り付いたところで伝声管から見張り員の声が聞こえてきた。

 

「一時の方向に船影!──味方輸送船団です!」

 

 どうやらやっと味方輸送船団と合流できたようだ。

 

 双眼鏡を覗き込むと確かに十四隻の輸送船と数機の鎧が見えた。

 その近くで先行した小型艦が救助活動を行なっている。

 

 五十五隻もいた輸送船団が四分の一程度にまで減ってしまったのを見て、コープは改めて作戦の失敗を痛感する。

 

 だが感傷に浸っている暇もなく、また見張り員の声が響く。

 

「敵艦発見!十時の方向!」

 

 見ると、ファイアブランド家の家紋を掲げた艦隊が近づいてくるのが見えた。

 先の戦闘の時よりも大型艦の数が増えており、三百メートル級の大型飛行戦艦が後方に控えている。

 どうやら輸送船団を襲った別働隊と合流したようだ。

 既に鎧部隊が展開しており、こちら目掛けて接近してきている。

 

「取舵三十!輸送船を守れ!」

「シールド展開急げ!出力最大!左舷方向に集中せよ!」

「鎧部隊は輸送船団及びフリゲート部隊の直掩につけ!」

 

 オフリー艦隊は残る力を振り絞って臨戦態勢を取る。

 

「敵艦隊より入電。『オフリー艦隊に告ぐ。直ちに降伏せよ』です。返信は如何致しますか?」

 

 通信員が伝えてきた内容にコープは安堵する。

 降伏勧告もなしに攻撃してきた場合、応戦せざるを得ず、命が危ういところだった。

 ひとまず計画の第一段階はクリアだ。

 

「降伏だ。全艦機関を停止し、白旗を掲げろ。それと、救助活動の続行を許可するよう要請しろ」

「はっ」

 

 通信員がコープの命令を通信で伝えると、オフリー艦隊の飛行船は次々に速度を落としていった。

 輸送船と救助活動を行うフリゲート部隊を庇う位置で止まり、戦闘旗を下ろして白旗を代わりに掲揚し、備砲を全て最大仰角にして戦う意思がないことを示す。

 

 程なくファイアブランド艦隊も速度を落とし、安全距離を取って向かい合った。

 中型飛行戦艦の一隻から小型艇が発進し、コープの乗る主力艦へと向かってくる。

 

 

◇◇◇

 

 

 降伏条件の話し合いは二時間ほどで合意に達した。

 

 オフリー艦隊はファイアブランド領に入港し、そこで全艦艇を引き渡すことになった。

 俺としてはもう少し抵抗してくれても良かったのだが、三十隻近くの飛行船と二十機弱の鎧を生け捕りにできるので、ありがたいと思うことにした。

 

 旗艦アリージェントが回頭し、「我に続け」と発光信号を送る。

 オフリー艦隊がそれに続き、周囲をファイアブランド艦隊が固める。

 俺はアヴァリスで艦隊上空を飛んでオフリー艦隊の動きに目を光らせていた。

 装薬を使い果たした飛槍はラックにしまい、代わりに第二任務部隊から拝借したライフルを持っている。

 妙な真似をしたらその瞬間に炸裂弾を撃ち込んでやるつもりだ。

 

 艦隊指揮官や鎧部隊の指揮官は俺に戻るように言ってきたが、一蹴した。

 今オフリー軍に最大の恐怖を与えているのは俺だ。

 その俺が見張っていた方が敵も大人しくいてくれるというものだろう。

 ま、妙な真似をしてくれてもそれはそれで面白いけどな。

 

『効果覿面ね。「白い死神に睨まれてる」ってみんなビクビクしているわ』

 

 セルカがテレパシーでオフリー艦隊の様子を教えてくる。

 

「白い死神、か。悪くない渾名だな」

『──そうね』

 

 なぜかセルカは不満げだったが、俺は「白い死神」という渾名あるいは二つ名が気に入った。

 字面からして相当恐れられているのが分かる。

 また一つ、悪徳領主らしい体験ができた。

 

 

 

 オフリー艦隊の艦艇引き渡しと武装解除は粛々と進んだ。

 港島で乗組員と上陸部隊の生き残りを退船させ、武器を取り上げて本土外縁部の地上軍陣地へ移送し、収容所代わりに張られたテントに収監する。

 懸念していた衝突も起きず、捕虜になったオフリー軍の兵士たちは大人しく武装解除を受け入れた。

 

 これでひとまず()()()()()との戦いは終わった。

 だが、()()()()()との戦いが完全に終わったわけではない。

 まだ次なる戦い──戦後処理が待っている。

 

 オフリー家は再び交渉を持ちかけてくるだろうが、それに応じるつもりはない。

 

 神殿に【聖なる首飾り】を届け、その見返りとしてファイアブランド家への協力を取り付ける。そして王宮に今回の侵攻を提訴し、空賊と組んでいた証拠を国王陛下のもとへ届け、憎きオフリー家を取り潰しに追い込む。

 

 他の奴にその任務と大事な証拠を任せることはできかねるため、神殿と王宮には俺が直接出向くことにしている。

 

 俺は休息もそこそこに王都へ出立する準備のため、馬を拝借して屋敷に戻った。

 

 

◇◇◇

 

 

 降伏してきたオフリー軍の武装解除が始まった頃。

 

 ファイアブランド軍基地へ帰還したダリルはオーブリー隊長に呼び出されていた。

 

「俺は生き延びるように言ったはずだが?」

 

 開口一番、オーブリー隊長は低い声でダリルを睨む。

 

「申し訳ありません。血気に逸る部下たちを抑え切れず、撤退が間に合いませんでした。自分の責任です。その責任を取るには自分が敵を足止めし、部下たちを逃がすほかないと考えました」

 

 ダリルの弁明にオーブリー隊長はフン、と鼻を鳴らして溜息を吐いた。

 

「何とも耳触りのいい話だな。だが──俺が思うにお前はむしろ失敗の責任から逃げようとしていたのではないか?」

「ッ!そんなことは──」

「ない、とそう言い切れるのか?」

 

 オーブリー隊長は目を細めてダリルを遮った。

 

「俺はあの時言ったはずだぞ?今戦って死ぬのではなく、これからのファイアブランド領のために生きることこそお前の使命だと。その使命に忠実であれば、自分一人で殿を務めることなどしないはず。お前には部下を御し切れず、撤退を間に合わせられなかったという不名誉を抱えてでも使命を果たす覚悟がなかったのだ。だから部下たちを救うという体で使命を投げ出し、押し付けようとした。浅ましくも自分の失敗を英雄的行為で覆い隠し、無能の誹りを免れようとした。違うか?」

 

 ダリルは言い返すことができなかった。

 確かにあの時思ったのだ。ここで部下たちの盾となる方が胸を張ってあの世に行ける、と。

 使命を果たすことよりも英雄として死ぬことを望んだことに他ならない。

 

「自分は──俺は──」

 

 打ちひしがれて言葉にならない言葉を口にするダリルに更なる雷が落ちた。

 

「馬鹿者!」

 

 身が竦む。

 昔からそうだ。

 父親に、教官に、上司に──小さい頃から何度も何度も怒鳴られて、拳骨を貰ってきた。

 なのに、二十歳を越えた今も慣れない。

 

 だが、オーブリー隊長が怒鳴り声の次に繰り出したのは拳骨ではなかった。

 

「落ち込むのはなお悪い。ただ懲りれば良いのだ」

 

 ハッとするダリルを見てオーブリー隊長は幾ばくか表情を緩めた。

 

「言っただろう。お前はまだ若い。それだけじゃない。若くして精鋭部隊に配属されるだけの才能もある。お前の命は決して並やそれ以下の兵士数十人などと等価ではない。お前が救おうとした兵士たちではどんなに鍛え上げても、お前の役割を代わりに果たすことはできん。そもそも、鍛えられる奴もいなくなってしまえば鍛えようもない。お前は──死んだら代わりがいないんだ。そのことを忘れるな」

 

 オーブリー隊長の説教を聞いて、ダリルははたと思い出した。

 エステルがロストアイテムの大剣を失ったと聞いてもまるで動揺を見せなかったことだ。

 

「何だ?何か言いたいことでもあるのか?」

 

 オーブリー隊長が怪訝な顔で問うてくる。

 

「いえ──今のお話を聞いて思い出したことがありまして──」

「言ってみろ」

 

 促されて、ダリルはオーブリー隊長にあの時のエステルとのやりとりを説明する。

 

「──エステル様が自分を助けてくださった時、あの大剣はどうしたのかとお尋ねになって──海に落としてしまったことを伝えてお詫び申し上げたのですが、何のお咎めもなく──それどころかまるで気にもされていないように振る舞われて──」

 

 ダリルの話を聞いてオーブリー隊長は一瞬目を見開き、そして目を閉じて深く頷いた。

 

「──やはり、あの方は分かっておられたようだな。エステル様にとっては、あの剣よりもお前が生きて戻ることの方がずっと大事なことだったということだ」

 

 そしてオーブリー隊長はまた長々とお説教を始める。

 

「いくら強力で貴重でも所詮は武器だ。壊れたって直せるし、なくしても代わりのものは買うか作るかすればすぐに手に入る。だがな、それを扱う人間はそうはいかない。地上軍の一兵卒でさえまともに使えるようにするだけでも一年はかかるし、まして鎧で戦えるパイロットなんぞ最低でも三年はかかる。それに訓練だってタダじゃない。そんな風に手間と費用をかけて育てて、しかも才能にも恵まれた貴重な人材が死ぬことに比べれば、強力な武器を失うことなんて些細なことだ。エステル様はそこを分かっておられる。あの方は人材こそが何物にも代え難い宝だとお考えなのだ」

 

 オーブリー隊長の話には多分に主観が入っているような気もしたが、言われてみれば納得できる気もする。

 空賊との戦いの時も危機に陥った自分を助けてくれたし、オフリー艦隊との戦いが終わってすぐに撤退が間に合わなかった第二任務部隊に加勢しに来て、敵機に囲まれて絶体絶命だったところを助けてくれた。

 

 どちらも他の目的のついでのようだったし、本人もそう言っていたが──本当は自分たち部下を必死で助けようとしていたのだろうか。

 

 ダリルはエステルが自分が思っていたよりも遥かに凄い人物なのではないかと思い始めていた。

 

「分かったらもういい。休め。生きてまた戦えるようにな」

 

 オーブリー隊長はそう言って席を立った。

 

 去り際、少しダリルの方を振り返る。

 

「覚えておけ。自分を犠牲にして未来ある若手を生き残らせるのは先の短い老兵の特権だ。お前があと二、三十年ほど年を食っていたなら、こんなことは言わん。今回のような行動はそれくらいの歳になるまでとっておけ」

 

 その言葉はやけに重く響いた。

 

 

◇◇◇

 

 

「何だと?」

 

 屋敷に戻った俺はサイラスから聞いた話に驚愕した。

 

 俺がオフリー軍と戦っている間に屋敷がオフリー家の手先と思しき隠密集団に襲われ、ティナとお袋と弟が攫われたらしい。

 番兵部隊が多くの犠牲者を出しつつも攫われた三人を奪還し、隠密集団も全滅させたそうだが、三人は未だに意識不明とのことだった。

 

 急いで三人が収容された部屋に向かうと、医者が魔法でティナを治療しているところだった。

 お袋と弟の方は既に治療が成功して目を覚ましており、親父と泣きながら抱き合っていた。

 

 無事を喜び合う家族を見ていると寄る辺なさを感じ、そっと部屋を離れようとしたが、直前でお袋と目が合ってしまった。

 

「エステル!」

 

 お袋が叫んで起き上がり、駆け寄ってくる。

 逃げ損なった俺はお袋に捕まって思い切り抱きしめられてしまった。

 

「よかった。本当によかった。無事に帰ってきてくれて──」

 

 お袋は泣いていた。

 

「お姉ちゃん!」

 

 少し遅れて弟も駆け寄ってきて俺に抱きついた。

 弟の目からも涙が新たに溢れている。

 

『なんだ、やっぱり貴女愛されてるじゃない』

 

 セルカがテレパシーで言ってくる。

 その声色はどこか安心しているようにも思えた。

 

 ──確かに親父はともかくお袋と弟は俺を無視したりはしていなかったように思う。

 特にお袋──振る舞いやお行儀について説教されることは度々あって、それはとても煩わしいことではあったが、俺の将来を案じての親心だったのだろうし、勉強を見てくれたり褒められたりしたこともあった。

 そして今、凱旋した俺の無事を泣きながら喜んでいる。

 

 ──親父を苦しめた酷い前妻の娘だと知っていてなお、そういうことができたということは、親父に比べれば余程俺に対する愛情はあったのだろう。

 俺が望んでいた接し方ではなかったというだけで、人間的に見れば良くできた母だったようだ。

 ──親父が俺に頭を下げてまで守りたがるのも納得だな。

 

「──ただいま」

 

 小声でそう言うと、お袋と弟はより一層強く俺を抱きしめる。

 

「おかえり。おかえりなさい!エステル!」

「おかえり!お姉ちゃん」

 

 抱擁はしばらく続いた。

 

 

 

「エステル」

 

 ふと親父に声をかけられた。

 声のした方に顔を向けると、親父はばつの悪そうな顔で感謝を伝えてきた。

 

「──よくやってくれた。お前のおかげでファイアブランド領は救われた。本当に──ありがとう」

 

 どうにも白々しい感じがするが、この前のような取り繕った小芝居ではなく、本心であろうと察せられた。

 

「別に──やるべきことをやっただけだ。それにまだ終わりじゃない」

 

 お袋から離れると、俺は親父の方へ向き直る。

 

「王都に行く。そこでオフリー家と完全に決着を着ける。一緒に来てもらうぞ。国王陛下への面会が必要になるからな」

 

 遺憾ながら俺だけでは国王陛下への直接の面会は叶わない。

 国王陛下への面会権があるのは宮廷階位六位下からなのだが、俺には宮廷階位がない。

 一応親父からファイアブランド家の全権を委譲された身ではあるが、それはあくまでファイアブランド家の中でのことであって、王宮が認めたわけではなく、外からすればファイアブランド家の当主はまだ親父のままだ。

 だから宮廷階位五位下を持つ親父に王都に一緒に来てもらう必要がある。

 

「──分かった。俺にできることなら何でも力になる」

 

 俺の要求に親父は真剣な表情で頷いた。

 

「失礼、お嬢様。使用人が目を覚ましました」

 

 医者が治療の完了を告げてきたので親父との話は切り上げてティナのベッドに行く。

 

 ティナはうっすらと目を開けていた。

 

「ティナ!」

「──お嬢──様?」

 

 まだ眠気が抜けきっていない顔で俺を見るティナだったが、突然目を見開き、焦りの表情に変わる。

 

「ランス様は!?早く助けを──」

「落ち着けティナ!大丈夫だ!」

 

 肩を掴んで言い聞かせると、ティナは若干落ち着きを取り戻し、周囲を見渡す。

 そして自分が屋敷の中にいることを理解したらしく、ほっと息を吐いた。

 

「──終わったのですね」

「ああ、喜べ。大勝利だ。それより身体は大丈夫か?」

「ええ、少し頭痛はしますけど、大丈夫です。あの、それでランス様はどちらに?」

 

 ティナは少し不安げにアーヴリルの所在を訊いてきた。

 

「アーヴリルか?あいつは客室にいたと思うが──」

「いいえ、私たちと一緒でした。脱出した先の小屋で襲われた時、番兵の方と一緒に敵を食い止めるために残られて──」

「ッ!あいつ、そんなことを──」

 

 俺は急いで部屋を出た。

 アーヴリルが番兵たちと一緒に戦っていたなんて聞いていない。

 

 何か知っている番兵がいないかと探していると、統括の騎士であるティレットの姿を見つけた。

 俺はティレットを呼び止め、アーヴリルの所在を問いかける。

 

「おいティレット、アーヴリルはどうしたか知らないか?番兵と一緒に侵入者と戦っていたと聞いたぞ」

「ご安心くださいエステル様。ランス様ならご無事ですよ。基地の方に負傷兵の手当てを手伝いに行かれました」

「そうか──よかった」

 

 アーヴリルが無事だと聞いて俺は安堵の息を吐いた。

 せっかく引き抜き工作をやったのに、返事も聞けないまま死なれてはたまらない。

 

 だが、ティレットは俺の安堵に反して難しい表情になる。

 

「ただ──」

「何だ?」

「──不意打ちを喰らったランス様を庇ってピットがやられまして、それで精神的にかなり──参っておられた様子でした」

 

 どうやら戦闘中にアーヴリルの身代わりになって番兵が死んだようだ。

 彼女の性格を考えると、それでかなりショックを受けただろうことは容易に想像できた。

 負傷兵の手当てを手伝いに行ったのもそれを紛らわせるためなのかもしれない。

 

 どうフォローしたものかと考えていると、今度はティレットが質問してきた。

 

「そうだ。エステル様、一つお聞きしたいのですが──」

「今度は何だ?」

「ランス様ですが、屋敷で謎の発光物を見かけたそうです。それを追って行ったところ、侵入者たちと鉢合わせしていた専属使用人の所へ辿り着き、間一髪で彼女を助けられたとのこと。エステル様──【精霊術】をお使いになられていましたか?」

 

 ティレットの問いかけに俺は一つ、心当たりがあった。

 案内人の加護の光──と勝手に呼んでいるが、ピンチに陥ると発動するらしい案内人のサポートだ。

 冒険の時には二度その世話になった。

 

 ──なんだ。今回は頼らずに済んだかと思っていたが、結局また世話になってしまっていたのか。

 案内人──俺のことだけじゃなく、ティナのことも守ってくれていたんだな。

 本当にあいつには世話になりっ放しだ。

 

「ああ、使っていたよ」

 

 俺はティレットにそう答えた。

 

 俺の仕業ではないのだが、さすがに案内人の加護だとは言えない。

 案内人には申し訳ないが、ここは俺が魔法を使ってティナを守っていた、ということにさせてもらおう。

 

「──そうでしたか。失礼、お時間を取らせてしまいました」

 

 ティレットは一礼して歩き去った。

 

 俺は今度こそ王都への出立準備に取り掛かろうとするが、その前に窓際に足を止めた。

 窓から見える夕焼けに染まり始めた空へ向かって、俺は感謝の念を送る。

 世話になりっ放しで何もお返しはできないが、せめて感謝の気持ちだけはいかなる時も忘れないようにしよう。

 どこかで俺を見守ってくれているであろう案内人に届くことを願って、俺は呟く。

 

「本当にありがとう。案内人」

 




案内人「ぐわあああああああああああああああああ!!また感謝がああああああああ!!」


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次なる戦場へ

 ホルファート王国王都。

 中心市街地にある高級ホテル──その地下にあるグリルにオフリー伯爵家現当主ウェザビー・フォウ・オフリーの姿があった。

 オフリー家の息が掛かった者が経営しており、秘匿性という点においては申し分ないこのホテルのさらに奥深くで、彼は待ち合わせ時間の三十分前から部下と共に待ち構えている。

 

 周囲は人払いがされており、彼らだけだ。

 その静けさゆえに自分の心臓の鼓動すら鮮明に聞こえ、それが更にウェザビーの焦りを掻き立てる。

 努めて冷静を装っているが、心中は嵐のごとく荒れている。

 

 一週間前にファイアブランド領へ派遣した艦隊は、迎撃に出てきたファイアブランド軍に予想外の大敗を喫し、残存部隊は降伏。

 ファイアブランド領を占領するどころか、主力艦三隻を含む艦隊と上陸部隊、それらの行動のために用意した物資の大半を喪失してしまった。

 

 このような大惨事になった責任はウェザビーにあるとする声が各地で上がっている。

 ファイアブランド家との抗争を演出し、そして敗北を伝えてきたノックス、アクロイド、クレイトン、フォックスの四家、軍事行動の正当化と王宮による介入を防止するため宮廷工作に奔走した味方派閥の宮廷貴族家、鎧戦力と地上戦力を出した傭兵団──ウェザビーが少なからず金をばら撒き、取引と要請と恫喝を織り交ぜて根回しし、それに対して取り分次第と返してきた連中が皆、手の平を返したようにファイアブランド領への侵攻は間違いだったと言い立てている。

 

 ただファイアブランド家に対して武力を行使する決断をしたのはウェザビーであり、傍から見れば援助と引き換えに娘を嫁がせる契約を反故にされて、武力を行使したら無様に負けた、というオフリー家の面子が丸潰れの状況であることから、反論もしづらく、今のところは口止めを兼ねた補償を支払う方向で対処している。

 

 ──それだけならまだ良かった。

 問題はこちらの軍勢を打ち破ったファイアブランド家が王宮に今回の侵攻を証拠付きで訴えようとしていることだ。

 

 家同士の争いに王宮は介入せず、当事者同士で解決するのが基本だが、今回ばかりは状況が違う。

 正式な宣戦前に空賊を尖兵として送り込むという卑劣な騙し打ちと、それ以前から空賊と手を組んで掠奪や密輸で収益を上げていた事実──その証拠をファイアブランド家が然るべき場に提示すれば、王宮とて黙っていない。

 

 介入の内容がどうなるかは未知数だが、どう転んでもオフリー家は多くのものを失うことになる。

 良くて落ち目、最悪の場合取り潰されるだろう。 

 

 ──そんなことは絶対にあってはならない。

 今まで自分が、父が、そして支えてくれた多くの部下たちが、何十年もかけて積み重ねてきた全てが砂の城のように崩れ去ることになる。

 

 今は亡き父がその才覚と人脈を総動員して、苦労の末に当時男爵家だったオフリー家の家督を()()()()譲り受け、貴族の地位を得て以来、幾度の逆境に耐えてきた。

 

 領地を広げ、開発し、ビジネスの分野と販路を拡大し、貴族社会での後ろ盾を得るために相当な献金と支援をしてきた。

 似非貴族と侮られて不利を被らないために軍事力の整備にも注力し、最初は雇われの傭兵ばかりだった私設軍を数十年かけて立派な常備軍にまで鍛え上げた。

 

 その多大な努力の末に、伯爵家の地位を手にするまでに大きくなったオフリー家が田舎の貴族家ひとつによって追い込まれ、落ちぶれることは何としても防がねばならない。

 

 だがそれは言うは易しというものだった。

 軍によるファイアブランド領の占領、秘密裏に送り込んだ隠密部隊による証拠書類奪取のいずれも失敗した以上、もはやできることは少ない。

 宮廷工作で情報を握り潰すか、王宮に届けられる前に証拠書類を奪取するか──どちらか一方を何としても成功させなければならず、そしてどちらもかなり分の悪い賭けだ。

 

 それでもウェザビーは諦めずに方々に手を回していた。

 取れる手段は何でも取り、使えるものは何でも使う覚悟があった。

 そして今、ウェザビーは使えるカードの中でも最強級のものを使う準備を進めていた。

 

「ウェザビー様」

 

 入り口の向こう側からノックと共に太い声が聞こえてくる。

 

「失礼。客人をお連れ致しました」

「通したまえ」

 

 ウェザビーが許可を出すと、扉が開き、数人の黒服の護衛に囲まれた初老の男がグリルに現れる。

 死んだ魚のような光のない目に二メートル近い背丈、黒ずくめの服装が相まって不気味な雰囲気を纏っている。

 

「この私を呼びつけるとは随分と舐められたものですな」

 

 男がその見た目に違わぬ地を這うような声で皮肉を言う。

 ウェザビーも不敵な笑みを浮かべて皮肉で返す。

 

「だがやってきた。違うかね?ライル君」

 

 ライルと呼ばれた男は無表情のまま部下が引いた椅子に腰掛ける。

 

「ふん、相変わらず人を食ったお方だ。それで?わざわざファミリーの長たる私を呼びつけるとは、余程の案件なのでしょうな?」

「然り。我々のビジネスにとって好ましからざる影響が出る事態が発生した。君たちのファミリーにもその対処に協力してもらいたい」

 

 二人がファミリーと呼び、一般的には【犯罪ギルド】と呼ばれる巨大な犯罪組織──その情報網こそ、ウェザビーが切れる最強のカードの一つである。

 不動産業、武器の密輸、違法薬物の密造・密売、人身売買、高利貸し──様々なビジネスを展開し、王都を裏で牛耳っていると言っても過言ではない巨大な犯罪組織。王都の隅々まで浸透しており、ありとあらゆる場所に彼らの手先がいるとさえ言われる。

 

 オフリー家が短期間でビジネスを拡大し、僅か二代で男爵から伯爵にまで陞爵する快挙を成し遂げられた理由の一つも、このファミリーと商会を通じて繋がりがあったからだった。

 そして今ウェザビーと対面しているライルにも、十数年前の跡目争いの時ウェザビーに支援してもらった借りがある。

 

「──それは先日貴方が行った派兵の失敗のことを仰っているのですかな?」

「そうだ。ファイアブランド家によって派遣した艦隊は壊滅。輸送船も含め、戻ってきた船はない。生き残りは全てファイアブランド家に降ったと見て良い。捕虜返還交渉の打診も黙殺された。奴らは完全にこちらを殺る気だ」

 

 掻い摘んで事情を説明すると、ライルはつまらなさそうな顔で言った。

 

「まさかあの艦隊が貴家の軍事力の全てというわけでもありますまい。そもそもファイアブランド──でしたか?寡勢で貴家の艦隊を撃破したことは驚きですが、連中に空を渡り貴家の領地に攻め入るほどの力など、あるようには思えませんが?」

 

 一体何をそう怯えているのかという問いかけにウェザビーはかぶりを振った。

 

「実は開戦に先立ち、ウィングシャーク空賊団を尖兵として送り込んだ。港湾施設の占拠、及びファイアブランド領に向かう商船の拿捕乃至は撃沈を命じたのだが──彼らは三日と保たずに全滅した」

「ほう?それはまた──」

「問題はそこからなのだ。空賊団とのやり取りに使った書類がファイアブランド家の手に落ちた。当主代理がこちらの使者に明言したのだ。このままでは王宮が介入に乗り出してくる。そうなれば、我が家は多くを失う。君たちのファミリーに助力することもできなくなる。この意味が分からぬライル君ではあるまい」

「──とんだヘマをやらかしてくれたものですな。何とも不甲斐ない」

 

 溜息を吐くライルにウェザビーは頷くが、この際それはどうでも良い。

 ライルのファミリーに協力を確約させるという目的のため、再度要望を伝える。

 

「全くもってその通りだが、起こってしまったことは仕方がない。だが、まだ手はある。ファイアブランドの手の者が必ず王都に来る。いや、もう来ているかもしれない。件の書類を持ってだ。奴らが王宮に入る前に確保し、書類を奪取すれば、我々の勝ちだ。だが、そのためには協力が必要なのだ。この王都において人探しにかけては右に出る者がいない君たちの協力がね」

「──つまり、我々にファイアブランド家の関係者を探せ、と?」

「その通りだ。無論、相応の対価は用意する。見つけた者には特別褒賞も用意しよう。そして見つけさえしてくれれば、後は我々がやる。君たちは末端の人手を貸してくれるだけで良い」

 

 ウェザビーの要望を聞いたライルは先ほどまでのつまらなさそうな無表情を渋面に変えた。

 

「無茶を言ってくれますな。我々とて暇ではないのですが。他のファミリーの手の者による縄張り荒らしに加え、新興のシンジケートの台頭に、トップが替わったせいか憲兵共も不穏な動きを見せている──そんな状況で人手を割いて人探しなど」

「ならば、我がオフリー家と傘下の商会でそちらの対処に協力しよう。我らにはそれに役立つ経済力と人脈、政治力がある。適材適所だろう?何より、困った時はお互い様だ」

 

 ウェザビーの言葉にライルは目を閉じてふっと息を吐いたかと思うと、部下の方を振り返って合図をした。

 すかさず部下がシガレットケースから葉巻を取り出してライルに渡すと、早技でマッチを擦った。

 

 勿体ぶったように紫煙を燻らせるライルをウェザビーは辛抱強く待った。

 一見一服しているだけの彼が、頭の中で利益を計る天秤を必死で働かせていることを理解していたからである。

 昔からこうして考え込む癖があって──そして物分かりが良い。

 

 そしてライルは葉巻を灰皿に置いて、口を開く。

 

「──やれやれ。どうやら私に選択の余地はないようだ」

 

 大袈裟に溜息を吐くライルだが、その目は真剣なものになっていた。

 

「よろしいでしょう。我がファミリーの「目」と下請け共を動員しましょう。ただし、我らは訊かれたことに答えるのみ。貴族の暗殺などに加担することはない。覚えておいていただきたい」

「うむ。それで良い。では商談に移ろうではないか」

 

 頷いてウェザビーも煙草に火を点ける。

 

 密室の密談は続く。

 

 

◇◇◇

 

 

「七年ぶり──か」

 

 窓の外、下界に見える無数の建物の群れを見て思わず呟きが漏れた。

 

 分厚い雲を掻き分けて降下していくファイアブランド家の飛行戦艦アリージェント。そのブリッジから見えるは麗しきホルファート王国の王都だ。

 

 王都を訪れるのはこれで二度目。ティナを買ってもらった時以来だ。

 あの時は奴隷商館に行ったほかは高級繁華街を歩いた程度で、すぐに領地に戻ってしまったが、今度は何週間か、下手をすれば数ヶ月の間滞在することになる。

 だからといってのんびり観光などしてはいられないが。

 

 町の中央に鎮座する一際大きな建物に目が向く。

 王宮── ティナを買ってもらった時は遠目に見ただけだったが、今回はそこに足を踏み入れる。

 そこで俺とファイアブランド家の命運は決する。

 

 肌身離さず持っている聖なる首飾りと証拠書類を入れた鞄を思わず握り締める。

 ふとその手が冷たいことに気付いた。心なしか指先が震えているようにも見える。

 

『不安?』

 

 セルカが心配そうな声で言ってくる。

 その姿は周囲に溶け込んで見えないが、すぐ隣にいるのが気配で分かる。

 

(別に。ただの武者震いだ)

 

 そう念を返したが、実質自分に言い聞かせているようなものだ。

 

 王都に行ってすんなりケリが付くわけはない。

 オフリー家は死に物狂いで俺たちを探し、どんな手を使っても証拠書類を奪おうとしてくるはずだ。

 

 だが、恐れることはない。粛々とやることをやるだけだ。

 別に刺客など脅威ではない。腕の立つ護衛を連れてきているし、俺の周りは常にセルカが目を光らせている。俺自身、空間把握や鏡花水月といった切り札がある。襲われても返り討ちにすることは容易い。

 それに今は人質にされるような者も連れてきていない。

 ティナもアーヴリルもお袋も弟も領地の屋敷で厳重に守っている。

 それに何より、俺には案内人がついている。今までだって、あいつのおかげでどんな危機も切り抜けてこられた。大丈夫だ。俺が負けるはずはない。

 

 ──でも、それでもやはり、緊張はする。

 

 

 

 アリージェントが接舷し、昇降口が開く。

 

「ご武運を」

 

 艦長以下、手空きの乗組員の見送りを受けてタラップを降りると、桟橋で待っていた家臣【トレバー・シム】が帽子を取って出迎えた。

 

「お迎えにあがりました」

「ああ、すまんなトレバー。急な苦労をかけた」

「いえ。お気になさらんでください」

 

 親父がトレバーを気遣う。

 

 彼は親父の最も信頼する家臣だ。先代当主ヴィンセントの代から仕えている古参で忠義者と評判である。俺も政務についての話をだいぶ聞かせてもらった。

 

 そのトレバーを先に王都に送り込んで、滞在及び王宮と神殿への申請準備に当たらせていたのだ。

 急な仕事でしかも期限も短かったが、快く引き受けてくれた。

 領主の命令に対して拒否などできはしないが、良い働きをしてくれたと思う。終わったら褒美をやるとしよう。

 

「小型艇を用意してあります。どうぞこちらへ」

 

 トレバーの先導に従って別の桟橋に移動し、バスのような小型の飛行船に乗り込むと、トレバー自らが操縦して離陸し、港を離れた。

 

 向かう先は貴族の屋敷が並ぶ高級住宅街。

 そこにかつてカタリナが暮らしていた屋敷があり、そこを今回の王都滞在の拠点にすることにしたのだ。

 

 カタリナが死んだ後、親父は屋敷を売り払おうとしたそうだが、姉たちがそこに待ったをかけた。カタリナと同様、王都に自分用の屋敷を用意させてそこで生活していた彼女たちにとって、カタリナが住んでいた屋敷はかなり魅力的に映ったのだ。

 そして今では名義こそ親父だが、姉の一人が住んでいて、時々姉妹での集まりに使われているのだとか。

 

 貴族用の屋敷という拠点が使えるのはこの上なくありがたい。

 身の安全という点において家が管理する屋敷はホテルなどより数段上だ。

 セキュリティはもちろんのこと、周りには他の貴族の屋敷が並び、そこの守衛や正規軍の部隊の目があるため、オフリー家も荒事に及ぶことができない。

 無論だからといって油断は厳禁だが、あるのとないのとでは雲泥の差だ。

 

 

 

 小型艇が着陸したのは屋敷の庭だった。

 土地代の高い王都で飛行船が着陸できるほど広い庭を持つ屋敷──一体いくらかかったのやらと考えてしまう。

 見栄を張って散財するのも悪徳領主の楽しみだが、そのせいで財政が傾いてしまうなど馬鹿馬鹿しいにも程がある。まして自分が欲しいと思ったものでもなく、妻に要求されて用意したものだなんて──胸糞悪い。

 

 だが、気分と事情は別だ。

 心を切り替えて席を立ち、タラップを降りる。

 

 下には屋敷の執事が出迎えに来ていた。

 

「ようこそお越しくださいました。テレンス様。エステル様」

 

 恭しくお辞儀をする初老の執事はサイラスよりも雰囲気が柔らかかった。

 初めて見る顔だが、親父は知っているらしく、鷹揚に返事をする。

 

 親父の返事を聞くと、執事は俺の方を向いて自己紹介をしてきた。

 

「お初にお目にかかりますお嬢様。私はこの屋敷で執事を務めております【ニール】と申します。ご滞在の間は何なりとお申し付けくださいませ」

 

 ニールは笑顔だった。

 普通の人間が見れば穏やかで優しい好々爺にしか見えないだろう。

 だが、俺にはどうもその笑顔が臭かった。何というか──笑顔の裏に面倒だとか厄介だとか、そんな思いを隠している気配がする。前世の元妻や奴隷商館の店員がしていた顔に似ているのだ。

 

 まあ、今それを追及しても仕方ない。実際突然押しかけた俺たちは厄介者だろう。

 

「ええ。よろしくお願いします」

 

 俺は努めて笑顔で返した。

 

 

 

 屋敷の中で俺たちは書斎の一つと客室の二つを自由に使えることになった。

 

 早速書斎の中で俺と親父とトレバーとで打ち合わせを始める。

 

「神殿の方は既にアポが取れております。日時は二日後の午前十時。こちらから神殿に出向くことになっております。それと、会談には大神官様が直接お越しになるそうです」

「大神官様が?」

 

 親父が驚いた顔をする。

 

「はい。何でも、こちらの出した書簡に同封した写真をご覧になった大神官様が是非にと要望されたそうです。これは僥倖かと。大神官様の協力を取り付けられたなら、神殿は我らの後ろ盾としてより確固たるものとなりましょう」

 

 トレバーの言う通り、いきなり神殿の最高権力者と会談ができるとは幸先がいい。

 それほどまでに聖なる首飾りが発見されたというのは大きな衝撃だったようだ。

 いや、これも案内人のサポートだろうか?

 

「よくやった。王宮の方はどうだ?」

 

 尋ねると、トレバーの表情が曇る。

 

「やはりですが、芳しくありません。何分伝手がないものですから、手探り状態です。予備プランの方は難しいかと」

 

 オフリー家の妨害で国王陛下への面会ができなかったり、面会の結果が思わしくなかった場合に備えて、オフリー家の属する派閥と敵対している派閥に情報を流して働きかけをしてもらうという手も考え、トレバーに情報収集をさせていたのだが、上手くいっていないらしい。

 尤も、俺はそちらの方はあまり期待していなかったが。

 

 だが、俺とは逆に親父とトレバーは使える手は多いほど良いと考えている。

 そのため、宮廷工作以前に情報収集すら進んでいないことに焦りを隠せずにいた。

 

「一発勝負になる可能性が高いというわけか」

「ええ。何しろ宮廷工作は相手の土俵ですから。今は神殿に期待しつつ地道に続けていくほかないでしょう」

「そうだな。苦労をかけるが、引き続き頼む」

「お任せください。それで神殿の話に戻りますが──」

 

 打ち合わせは日が暮れるまで続いた。

 

 

 

 夜。

 

 食堂に呼ばれた俺たちは屋敷の女主人【オフィーリア・フォウ・バイロン】と夕食を共にすることになった。

 彼女は俺の伯母であり、祖父ヴィンセントの三女である。

 学生時代の同級生であるバイロン子爵家の跡取りと結婚して、夫が王都に用意した屋敷で仕送りをしてもらいながら暮らしていたが、カタリナが死んだのを機に主人がいなくなったこの屋敷に子供たち共々移り住んだ。そう親父から聞いている。

 

 初めて顔を合わせた伯母は、俺のことを随分と「可愛い」だの「賢そう」だのと褒めちぎってきたが、俺の方は込み上げる不快感を抑えるのに必死だった。

 

 産後太りか、食生活のせいか、はたまたその両方か、やつれ気味の親父とは真逆の丸々と肥え太った身体。外に出かけるわけでもないのに厚化粧をして、やたらと豪華なアクセサリーを身につけ、美形のエルフの専属使用人を侍らせている。

 そしてこちらを置いてきぼりにして自分の言いたいことばかり延々と喋り、その節々に男を見下しているのが伝わってきた。

 

 コイツも元妻やカタリナや案内人が見せた女たちの同類──男を騙して搾り取る屑女なのだとはっきり分かった。

 民から富を搾り取って苦しめる悪徳領主を目指す俺がそんなことを言える義理ではないだろうが、心情的には許せない。

 今回の件が終わったら二度と会いたくないし、今だって顔も見たくない。

 

 幸い、オフィーリアの話し相手は親父が引き受けてくれた。

 俺は黙々と複雑な気分で運ばれてくる豪華な料理を味わっていたが、メインディッシュが片付いた頃になってオフィーリアが俺に関する話題を口にした。

 

「それでね、聞いたのよ。戦いの指揮を取ってたのがエステルちゃんで、最前線にもエステルちゃんが出てたんだって。まさかと思うけどそれ本当なの?」

 

 オフィーリアの問いかけに俺は目を合わさずに即答した。

 

「ええ。全部本当ですよ」

 

 チラッと見るとオフィーリアは開いた口が塞がらないという風にポカンとしていた。

 まさか本人に肯定されるとは予想外だったらしい。ただの噂や流言の類だと思っていたのだろう。

 

「船も大砲も数ではオフリーに遠く及ばず、武器や物資を調達しようにも商人たちはオフリーの圧力とこちらの債務不履行を恐れて取引を渋り、援軍の要請も全て断られたとあっては、戦える者を女子供だという理由で甘やかしている余裕はなかったので」

 

 別に本気で責めているわけではないが、ちょっと皮肉を交えてやった。

 

 伯母たちが嫁いだ家をはじめ、あちこちに援軍の要請を出していた家臣たちが青い顔をして全て断られたと報告してきた時、別に驚きはしなかった。

 しなかったが──ほんの一瞬、怒りが湧いた。

 

 そして今オフィーリアと顔を合わせて話を聞いていても、援軍の要請に応えられなかったことへの詫びの一つも出てきていない。

 というか、要請を記した手紙を読んでいないようにも思える。

 

「ああ、そうなのね。その節はごめんなさいね。私は実家の危機を救ってほしいとお願いしたのだけど、夫も義父さんも頑として認めてくれなくって」

 

 ──嘘だな。本当なら手を尽くしたが駄目だった旨の手紙くらい寄越すだろう。

 大体この屋敷で暮らしていてどうやってお願いしたというのやら。

 それにやるべきはお願いじゃなくて説得だろうに。

 

「ええ。非難しているわけではありませんよ。相手は伯爵家です。その判断は家の長として妥当です。それに結局は私たちだけでオフリーの軍勢は撃退しましたし、どのみち結果に変わりはなかったでしょう」

 

 そして俺はナプキンで口元を拭いて席を立った。

 

「ご馳走様でした。満腹になりましたので、私はこれで失礼します」

「ちょっとエステルちゃん!?デザートがまだあるのよ?」

 

 オフィーリアが呼び止める声が聞こえてきたが、結構ですと返して食堂を出た。

 満腹だったのは本当だ。

 

 

◇◇◇

 

 

 二日後。

 

 俺と親父は護衛と共に屋敷から拝借した馬車で神殿に向かった。

 

 神殿は王都を流れる川の中洲に鎮座する宮殿を思わせる壮麗な建物だった。

 幾つもの尖塔を空に向けて突き出し、窓は色とりどりのステンドグラス、屋上には無数の彫刻が並んでいる。

 

 約束の時間より三十分も前に着いてしまったが、衛兵たちは俺たちの訪問を前もって聞き及んでいたらしく、すんなり門を開けた。

 馬車を降りて護衛と別れ、出迎えに来た神官の先導で応接室へと歩く。

 

「大神官様は間もなくおいでになります。しばしここでお待ちください」

 

 案内してきた神官はそう言って退出していった。

 入れ替わりに別の神官が入ってきてお茶を出した。

 

 セルカがすかさず毒見をする。

 

『大丈夫よ。何も入ってないわ』

 

 セルカのお墨付きを得てカップを口に運ぶ。

 飲んだことのない味だが、何の銘柄だろうか。香りが割と好みだ。

 

 壁の柱時計を見ると針は九時四十五分を指していた。

 前世からの習慣で五分前行動になるように早めに屋敷を出たのだが、さすがに少し早すぎただろうか。

 心象が悪くなるなんてことはないだろうが──

 

 そう思った直後、扉が勢いよく開き、豪奢な服に身を包んだ高位の神官たちがぞろぞろと入ってきた。

 

 親父がすかさず立ち上がり、礼をする。

 俺も親父に促されて頭を下げた。

 

「頭をお上げください」

 

 静かなバリトンでそう発したのは一際装飾の多い服を纏った大神官様だった。

 慈愛に満ちた笑顔を浮かべているが、その目は笑っていない。

 

 ──やはりコイツも権力争いだか利権争いだかに明け暮れる政治家の面をしている。

 でも、だからこそ好都合だ。下手に清廉潔白だったら、世俗の争いには関わらないとか言ってきそうだし。

 

「遠路はるばるの来訪に感謝しております。あまりもてなしもできず、申し訳ない」

「滅相もない。大神官様直々に応対して頂けるなど恐悦至極。そも神殿に接待を求めるなど畏れ多いことにございます」

 

 俺を置いてきぼりにして大神官と親父が挨拶と自己紹介を交わす。

 誰も年端も行かない少女である俺を見ていない。むしろ場違いだという空気を感じる。

 

 大神官と親父のしばしの社交辞令を経て、大神官が切り出した。

 

「貴方方から送られてきた写真を見た瞬間、直感で判ったのですよ。()()()()本物だ、と。して、現物の方はどちらに?ここにお持ちですかな?」

 

 一瞬、部屋が剣呑な空気に満たされる。

 持ってきていない、あるいは偽物だったなら──分かっているな?と、言外にそう言われている。

 

 親父は気圧されて冷や汗を浮かべながら頷く。

 

「は、はい。もちろん、こちらに持参しております。エステル」

 

 親父に促されて、俺は鞄から聖なる首飾りの入った箱を取り出した。

 そっと蓋を開けると、神官たちの目が中に釘付けになる。

 

「「「おお!」」」

「「「これは!」」」

 

 口々に声を上げて目を見開く。

 

 大神官が恭しい動作で首飾りを取り出すと、隅々まで検分する。

 

「うむ、間違いない。伝承の通りだ。よもや私の代で見つかるとは──」

 

 大神官は溢れ出た涙を拭うと、こちらに向き直った。

 

「よくぞ──よくぞ見つけて届けてくだされた。空賊によって持ち去られて以来、幾度もの捜索も虚しく、もはや再び見ることは叶わぬやもと思われた大切な宝を──貴方の行いは神殿と王国への多大な貢献です。神殿を代表し、厚く御礼申し上げる」

 

 大神官からの謝辞に親父はかぶりを振った。

 

「いえ、その賛辞は娘に」

 

 そして俺の方を指し示す。

 

 若干怪訝な表情になる神官たちに親父は空賊退治と首飾りの発見の真相を語り始めた。

 

「空賊を討伐したのは娘です。私の娘にしてファイアブランド子爵家の長女、エステルが自ら鎧を駆り、軍を率いて戦ったのです。神殿の宝を持っていた空賊の頭領もエステルが一騎討ちで討ち取りました。私は首飾りをこの場に届ける助けになったのみ。讃えられるべきは私ではなく、彼女です」

 

 親父の言葉で初めて神官たちが俺に目を向けた。

 

「なんと──」

 

 大神官は言葉を失ったようだった。

 その目は明らかにこちらを疑っているが、今更突っ込む気はないようだ。

 あるいはどこから突っ込んだものか考えあぐねているのかもしれない。

 

 しかし、親父もよくそれを言う気になったものだな。

 場の空気を壊さないために自分の功績ということにしておくのかとも思ったが。

 

「神聖なる神殿で虚偽を語ることはできません。神殿の宝を神殿に無事お返しできたのは娘のおかげです」

 

 ──なるほどな。今ここでそれをやってもいずれ真相が明るみに出れば却って立場を悪くするからか。

 先が見える奴は嫌いじゃない。

 

「そうでありましたか。これは失礼をした。エステル殿、これまでの非礼を謝罪します。そして改めて貴女の貢献に対し、無上の感謝を。ついてはこの貢献に報いるため、貴女方二人を神殿騎士に叙任したいと思うが、いかがだろうか?」

 

 ──来た。

 神殿が褒章を提示してくるタイミングを待っていた。

 

「身に余る光栄です。大神官様。ですが──私どもの望みは神殿での地位や名誉ではございません」

 

 大神官の顔が一瞬強張ったが、すぐに微笑みを貼り付けて問いかけてきた。

 

「何か──他の見返りを望む、と?」

「はい」

「──聞きましょう」

 

 一呼吸置いて、俺は願い出る。

 

「我がファイアブランド家にご助力頂きたいのです」



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ジョーカー

せ、セーフ⋯⋯


 時計の針は戻って、ファイアブランド軍とオフリー軍の戦いが終わった翌日。

 

 王都郊外にある、古い要塞跡に形成された巨大なスラム街に案内人の姿があった。

 

「うーん、やはり人の多く集まるところ、負の感情の溜まり場には事欠きませんね」

 

 かつて狼煙台として使われ、今では貯水池になっている塔の天辺で、顔を綻ばせて大きく深呼吸をする。

 

 エステルの感謝によって身体が消えかかるまでに追い詰められた案内人だったが、王都まで逃げ延びてようやく人心地ついた。

 王都に住まう無数の人々──特にこのスラム街に住まう貧民たちが発する負の感情が案内人の身体を包み、癒してくれる。

 

 ただ、期待に反して力はあまり戻らなかった。

 どうにも負の感情の吸収効率が悪く、しかも大して美味くもない。ばらつきはあるが、十吸い取って良くて一くらいしか吸収できない。以前とは比べるべくもないほどの低効率だった。

 扉を出してみたが、別の世界へ移動することはできないままだ。

 

「くそ!まるで足りない!ロスが多すぎるじゃないか。やはり、エステルのものでなければ駄目なのか。おのれエステル!」

 

 案内人は改めてエステルへの復讐心を燃やし──そのまま一週間ほどが過ぎた。

 

「ん?この反応は──エステルのことを考えている?」

 

 案内人はふと覚えのある気配を感じた。

 それも王都各地に無数に散らばっているようだった。

 どういうわけか、エステルのことを知っていて、彼女のことを考えている者が王都のあちこちにいる。

 

「行ってみるしかありませんね。近いのは──あそこか」

 

 案内人は立ち上がって一番近い気配に向かって歩き出した。

 

 探していた人物はすぐに見つかった。

 

「この面を見たらすぐに教えろ。いいな?」

 

 黒いスーツを着た男たちが宿屋の主人にエステルを含めたファイアブランド家関係者の顔写真を見せて聞き込みと情報提供の要請をしていた。

 

 案内人は男たちの思考を覗き込む。

 どうやら彼らは犯罪組織の人間で、上からの命令でファイアブランド家の関係者を探しているようだ。

 

「オフリーの当主の差し金か?だとすればチャンス──だが、エステルに勝てるのか?」

 

 一瞬舞い上がりかけた案内人だったが、すぐに考え直す。

 王都でオフリー家の手先がエステルを襲ったとして──彼らがエステルに勝てるとは思えなかった。

 

 エステルは生身でも強い。稽古とはいえ、ベテランの騎士であるティレットを正面から捻じ伏せるくらいには強い。

 そして技量が上の相手や飛び道具には鏡花水月という絶対的な防御によって対抗できる。

 

「駄目だ。このままではエステルを見つけても返り討ちにされて終わりだ。何かないのか──エステルの優位を崩せるような──」

 

 案内人は回復したばかりのなけなしの力を振り絞って映像を呼び出し、エステルを倒せる可能性があるものを探す。

 

 すると、その中にあるものを見つけた。

 鮮やかな装飾が施された卵型の首飾りのようなそれは、一見ただのアクセサリーにしか見えなかったが、案内人はその正体をすぐに見抜いた。

 

「これは──なんと素晴らしい道具!場所は──王宮の宝物庫?これは使わない手はありませんね!」

 

 思わぬ発見に案内人は手を叩いてほくそ笑む。

 

 そして扉を出して王宮へと移動し、目当ての魔装具を見つけ出した。

 早速棚に陳列されていたそれを抜き取り、用意した偽物とすり替える。

 

 手に入れた魔装具に触れていると、詳細な情報が読み取れた。

 

「ふむ──どうやらこの魔装具の正体や使い方は誰にも知られていないようですね。ならばここは一つ私が手を打つとしましょう」

 

 案内人が右手の指をパチンと鳴らすと、左手の掌から黒い煙が現れ、手紙の形になった。

 手紙にはオフリー家の窮地打開に役立つロストアイテムを見つけたので贈ること、ロストアイテムの効果と使い方、そして機密保持のため読んだらすぐに燃やすようにとの警告が記されている。

 差出人はオフリー家が所属する派閥の領袖である大物貴族。

 

 後はこれをウェザビーのもとに送り届ければいい。

 

「ふふ、これならエステルの鏡花水月も形無し──首を洗って待っていなさい」

 

 案内人はニヤニヤと笑いながら宝物庫を去った。

 

 直後に柱の陰から犬の形をした淡い光が現れ、後を追っていく。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド家への助力を願い出た俺に、大神官はスッと目を細めて問いかけた。

 

「助力とは──どのようなことをお求めなのですか?」

 

 他の神官たちも剣呑な空気を纏う。

 チラッと空間把握で覗いてみたが、部屋の外、隣の部屋には武装した神殿騎士が控えている。

 一つ間違えれば叩き出されそうだ。

 

 ──無理もないか。俺たちよりも遥かに立場が上の大神官が提示した褒賞を突っぱねて、しかも神殿の力を利用させてくれと要求したのだ。

 神官たちが憤るのも仕方ないだろう。

 

 だが、こちらにも切実な事情がある。

 ここで神殿の協力を得られなければ、せっかくの切り札も握り潰されて終わりだ。そうなったら戦った意味がない。

 大神官の顔はまた別途立てて差し上げればいい。

 

 俺は臆さずに答える。

 

「まずは我がファイアブランド家が置かれている状況について説明させて頂きたく存じます。さすればよりご理解頂きやすくなるかと」

「──よろしいでしょう」

 

 大神官は頷いて人払いの合図をした。

 

 神官たちが部屋を出ていくと、俺は大神官の説得にかかる。

 

「ありがとうございます。現在、我がファイアブランド家はオフリー伯爵家と戦争状態にあります。ことの起こりは二ヶ月前、オフリー家と我が家の交渉において到底呑めない条件を突きつけられたことです。抵抗する当家に対してオフリー家は恫喝に出ました。要求が呑めないのであれば武力行使も辞さないと。あまつさえ彼らは空賊を雇い、当家の領地を攻撃させたのです。先ほどお渡しした、聖なる首飾りを持っていた空賊です。彼らはオフリー家の指示で動いておりました。その証拠も掴んでおります」

「なんと──それは真ですか?」

「はい。その証拠はこちらに」

 

 俺は鞄から件の証拠書類を取り出して大神官に渡した。

 

「その手紙の送り主はオフリー家現当主、ウェザビー・フォウ・オフリー氏です。手紙の署名に加え、筆跡がこれまで彼が我が家に送ってきた書簡のものと一致しました」

 

 大神官は眉根を寄せて手紙を読み終えると、そっとこちらに返した。

 

「これはまた──複雑な事態に巻き込まれておられるようですね」

 

 その目はこちらを憐んでいるように見えて、その実「面倒ごとに巻き込みやがって」という苛立ちが見て取れた。

 やはり聖なる首飾りを渡しただけでは押しが足りないと見える。

 だが、この程度は想定の内だ。

 

「はい。空賊を殲滅してから一週間弱でオフリー家の艦隊が我が領に侵攻してきました。我が家、寄子、民の総力を挙げて撃退はしましたが、このまま戦い続けても勝ち目は薄い。そこで王宮に侵攻を提訴するべく動いているのですが、この先オフリー家の属する派閥による妨害が間違いなく行われます。つきましては神殿に、大神官様に、王宮中枢と我々ファイアブランド家の橋渡しとなって頂きたく存じます。無論、ただでとは申しません。殲滅した空賊から得た戦利品を神殿に寄付致します」

 

 そして俺は空賊からの分捕り品の目録を取り出して見せた。

 金銀財宝はもちろん、彫刻とか諸々の芸術品やロストアイテムまであった。換金すればかなりの額になるだろうが、所詮泡銭だ。惜しんではいられない。

 

 だが、大神官の表情は優れない。

 

「失われた宝を届けて下さった恩人にこのようなことを言うのは心苦しいのですが、神殿の立場と事情に照らして、その要請にお応えするのは難しいと言わざるを得ません。神殿の役割は教えによって民を導き、秩序を保ち、祭事を通して国の安寧を祈ることにある。貴方方ファイアブランド家とオフリー家の争いは、貴族家同士の単なる利害の対立とお見受けします。そのような争いに一方の肩を持つという形で首を突っ込むことは、聖職者としての信念を曲げることになります」

 

 ──出たよ建前。

 一見すると正論に聞こえるが、その実、体のいい断り文句。

 大抵その真意は手間と金がかかって面倒だという思いだ。

 前世で何度も聞いて、その度虚しい思いをしたものである。

 

 でも、今回はそれで引き下がるわけにはいかない。

 何が何でも協力を取り付けなければ、戦いの勝ち筋が遠のいてしまう。

 悪徳領主になる夢も叶わなくなる。

 

 かくなる上はもう一つ、利を提示しよう。

 

「お言葉を返すようですが大神官様。当家への助力は大神官様の仰る信念に何ら反する所はございません。いいえ、むしろ神殿の名誉を高めることと拝察致します」

 

 大神官が眉をピクリと動かした。

 

「──如何なる理由でそう仰るのですか?」

 

 睨めつけるように問い返してくる大神官に俺は落ち着いて答える。

 

「先程大神官様は教えによって民を導き、秩序を保ち、国の安寧を祈るのが神殿の役割と仰いました。然るに不当な手段で手に入れた貴族の地位を利用して不正な利益を得、空賊などという邪悪と手を組んで他領の民を脅かし、国の秩序を乱しているのがオフリー家です。我が家は圧倒的な形勢不利にも関わらず、彼の家の恫喝にも武力行使にも屈さず、一丸となって戦い、領地と民を守り抜きました。このことが知れ渡った時、第三者──即ち、他の貴族家や神官の方々、民たちはどちらに義があると思うでしょうか?」

「──ッ!」

 

 大神官が息を呑む。

 

「大神官様。今一度お考えください。神殿とて信仰を持つ民の民心があってこそです。ここで神殿が体裁に拘り、恩人にして、邪悪な力に対して立ち向かった勇気ある者の求めに見て見ぬ振りをし、邪悪を討つ機会を逸させたなら──あまつさえ、その邪悪が事を揉み消し、返す刀で勇気ある者を叩き潰すのを傍観していたなら──それは巷に神殿は恩に報いず、そればかりか義心を持つ者を見捨てる腐り切った組織であると自ら喧伝することになりかねません」

 

 俺の言葉に大神官は一気に表情を顰める。

 当然だろう。王国で最も権威ある立場の一つである大神官に向かって、年端も行かない田舎貴族の小娘がお前の考えは間違っている、お前の考えの行き着く先は悪い結果だと指摘しているのだ。

 面白いわけがない。

 

「エステル殿──神殿を脅す気ですか?」

 

 実際大神官は無表情になり、これまでよりも低い声で言った。

 伊達に宗教組織のトップをやっているわけではないようで、何とも言えない凄みがある。

 正直、少しビビった。

 

 脅しと言えばその通りだが、要はメリットとデメリットの提示である。

 さっき言ったことは裏を返せばファイアブランド家に協力すれば神殿の株は上がるということでもある。

 オフリー家の所属する派閥の貴族やオフリー家に取り入って美味い汁を吸ってきた連中からは恨まれるだろうが、それ以外──オフリー家に対して辟易している貴族連中や一般民衆に、神殿は不当に虐げられる恩人を見捨てず手を差し伸べた、という実績を見せつけられる。

 支持が大きくなってお布施が増えたり、発言力が増したりと色々良いことがあるだろう。

 神殿がどこまで政治に絡んでいるかは知らないが、大きな影響力を持ちたい、権力を握りたいとは考えているはずだ。

 後は大神官が建前よりも実利を取ってくれるかどうか。

 

「いいえ。ただ申し上げたいのは不介入を貫くよりも我が家に助力頂く方が理に適っているということです。神殿が失われた宝を見つけた恩人に報い、またかの恩人を邪悪の魔の手から守ったという実績は、長い目で見れば貴族から庶民まで多くの人々に神殿に対する支持、信頼を抱かせることになりましょう。ひいては神殿の権威はこれまで以上に高まります。どうか大神官様には十年二十年先を見据えた上で、双方にとって利となる判断をして頂きたく」

 

 大神官は目を細めてしばらく考え込むような仕草を見せた。

 

 そしていくらか表情を緩めて口を開いた。

 

「確かに貴女が仰ることには一理ある。仮に──神殿が貴女方への助力をするとして、それで貴女方はどのような筋書きでことを収めるのですか?我々に具体的にどのような行動を求めるのか、聞かせて頂きたい」

 

 これは脈ありのようだ。

 勝機を見た俺は考えている作戦を大神官に説明する。

 

 武力でオフリー家を完全に屈服させる見込みがない以上、オフリー家の犯罪行為を証拠付きで訴え、取り潰しに追い込むのが目的となる。

 それも法院──最高裁判所のような部署だ──にではなく、国王陛下に直訴するのが望ましい。法院の判事の買収や脅迫くらいオフリー家や後ろ盾は躊躇なくするだろうし、実際できるだろう。

 法の下の平等とは名ばかり、結局のところは権力の大きい方が勝つのだ。

 そうならないために、神殿には国王陛下との面会が可及的速やかに実現できるよう働きかけてもらう。

 

 そういったことを詳しく説明すると、大神官はようやく承知してくれた。

 ただ、この証拠だけではオフリー家の取り潰しまでは難しいかもしれない、と釘を刺された。

 

 

◇◇◇

 

 

 王都中心市街地の高級ホテル。

 スイートルームでオフリー家当主ウェザビーは書類を処理しながら報告を待っていた。

 

 王都にファイアブランド家の関係者が来る場合、確実に王都にある屋敷を拠点に使うだろうとウェザビーは読んでいた。

 そこで現在、ライルのファミリーと連携しつつ、不動産業者の記録を漁り、ファイアブランド家所有の屋敷を探している。

 

 屋敷の場所が分かれば、相手の居場所の見当が付く。

 居場所が分かれば、すぐに手駒を送り込める。

 時間との勝負である。

 

 焦りで爪先が動くウェザビーの背後に、案内人が床から這い出るようにして出現した。

 

 ウェザビーの思考を覗き込み、犯罪組織にエステルを探させていたのはウェザビーだったことを確かめると、頷いて指をパチンと鳴らす。

 

 案内人の足元から黒い煙が噴き出して床を這い、部屋の外にいたホテルのボーイに纏わりついた。

 煙はボーイの手に手紙と小包を持たせ、頭に侵入して彼の認識を書き換えた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことにされたボーイは何の疑問も抱かずに、ウェザビーのいる部屋の扉をノックする。

 

「オフリー様。お手紙と小包が届いております」

 

 扉が開き、ウェザビーの秘書が出てきて受け取る。

 

 秘書が手紙と小包が届いたことを知らせると、ウェザビーは怪訝な顔になる。

 

「差出人は?」

()()様からです」

「侯爵だと?」

 

 思わず引ったくるようにして手紙を受け取り、開封してみると、確かに派閥の首領、【マルコム・フォウ・フランプトン】の特徴的な筆跡とイニシャルのサインがあった。

 

「これは──」

 

 ウェザビーは素早く手紙を読むと、小包の方を開けた。

 

 中にあったのは首飾りのような魔装具だ。

 卵型をしていて、サイズも卵くらい。極彩色の不可思議な紋様が描かれており、一見するとただの古代のアクセサリーである。

 

「ここをこうすると──」

 

 ウェザビーが魔装具を書かれていた通りに弄ると、魔装具はロケットのようにぱかっと開いた。

 そしてその効果を確かめたウェザビーは戦慄し、すぐに今回使う手駒を呼ぶよう命じた。

 

 手紙の指示通りに手紙を暖炉で燃やしながら、恐怖と歓喜の入り混じった表情を浮かべるウェザビーの背後で、案内人はほくそ笑んでいた。

 

「ふふ、素直な人は嫌いじゃありませんよ。さて、あとはエステルですね。──おお、来ていましたか。ではもう一押し、さりげなく助力しましょう」

 

 エステルの居場所を突き止めた案内人は部屋の壁をすり抜けて姿を消した。

 

 背後にいた光は後を追わず、案内人とは別の方向に向かって去っていった。

 

 

◇◇◇

 

 

 神殿を出られたのはすっかり日が暮れた頃だった。

 

 大神官とのお話が終わった後、食事に招かれ、大神官含め高位神官たちと夕食を共にしたことでだいぶ時間を食ってしまった。

 何せ連中、今日は失われた宝が戻った祝いだとか言って豪勢なフルコースを振る舞ってくれやがったのだ。

 

 その時俺は確信したね。

 こいつらは普段から信徒たちから巻き上げたお布施で贅沢しているのだ、と。

 こんなご馳走がたかだか数時間で用意できるわけがない。

 神に仕える聖職者集団とは名ばかり、その実態は宗教的権威を盾に富を吸い上げて私服を肥やす利己集団だ。

 だが、責める気にはならない。むしろ見習いたいくらいである。

 まさに国家スケールの悪徳領主と呼ぶに相応しいからな。

 

 神殿の厩舎に預けていた馬車に乗り込み、神官たちの見送りを受けて屋敷への帰途に就いた俺たちはようやく緊張の糸が解けたことでぐったりとしていた。

 ほとんど座っていたのに、半端ない疲労感──何か覚えがあると思ったら、前世で仕事をクビになる前、会社のお偉方が出席する会議に出ていた時だ。

 

 転生してまで前世と同じ気分を味わうとは癪だが、これも邪魔なオフリー家をぶっ潰して、悪徳領主になるためだ。

 それに国王陛下への面会の時は今回以上だろう。

 今のうちからへこたれてはいられない。

 

 気を奮い立たせていると、セルカが耳打ちしてきた。

 

『ねえ。さっきからずっと後ろを走っている馬車がいるのだけど、追われているのではないかしら?』

「何?」

 

 思わず馬車の窓から後ろを見る。

 

 一見何の変哲もない黒塗りの馬車。空間把握を使ってみたが、武装した奴が乗っているようでもない。

 ただ、ぴったり後ろをついてくる。

 

 猛烈に嫌な予感がした。

 あれは間違いなく俺たちを尾けている。

 いつ襲撃されてもおかしくない。

 

「どうした?」

 

 怪訝な顔で問いかけてくる親父に答えることなく、俺は御者台に座る御者に命じた。

 

「速度を上げろ!尾けられている!」

「えぇ!?」

 

 御者は面食らいながらも、手綱を打ちつけた。

 

 後ろを見ると黒塗りの馬車も増速している。

 

「くそ!やっぱりか!」

 

 思わず毒づいた。

 屋敷を出る時や移動中にどこかにいるかもしれないオフリー家の手先に顔を見られないように注意していたし、馬車だってファイアブランド家のものと分からないように家紋を消していた。

 だがどうやら不十分だったようだ。

 どこかで顔を見られたのか、それとも屋敷か神殿にオフリー家と内通している奴がいたのか──オフリー家の情報力は予想以上だった。

 

「襲撃が来るぞ!武器を──」

 

 そう叫んで座席の下に隠してあった銃を取り出そうとしたその時、馬車がいきなり大きく揺れたかと思うと、一気に傾いて、横転した。

 咄嗟に受け身を取ったが、膝を打ち付けてしまった。

 

『風魔法!?こんな街中で──』

 

 セルカが驚いた声で言う。

 どうやら馬車が横転したのは風魔法で攻撃されたからのようだ。

 

「滅茶苦茶だなクソが!」

 

 街中で魔法を使って馬車を横転させるなどという派手なやり方をすれば目立つだろうに、敵はお構いなしのようだ。

 

『来るわ!向かいの路地から二人!武器を持ってる!』

 

 周りを見回したが、護衛と親父は頭を打ったのか気絶していた。御者台には御者の姿はない。

 戦えるのは──俺一人。

 

「またこれかよ!」

 

 毒づいて座席の下から拳銃と剣を取り出す。

 冒険の時、遺跡でロボットに襲われてティナとアーヴリルを置いて一人で逃げてしまったのを思い出す。

 結局また一緒にいた者たちをやられて一人で逃げる羽目になっている。

 

 鞄の中の証拠書類を確かめてから、御者席から馬車の外に出ると、近づいてきた襲撃者たちが立ち止まり、拳銃を向けてきた。

 

「武器を捨てろ!」

 

 怒鳴り声で命じてくる襲撃者。

 そいつ目掛けて思い切り地面を蹴って突進し、すれ違い様に剣を抜いてそいつの首を刎ねた。

 もう一人も難なく倒し、俺は助けを呼ぶため人通りの多い大通りに向かって走る。

 

 だが、百メートルと行かないうちに目の前の地面が突然隆起して巨大な壁になってしまった。

 

 立ち止まった俺の背後にまた別の襲撃者が現れる。

 

「止まれ!」

 

 命じてくる襲撃者に拒絶の意味を込めて斬りかかろうとしたが──

 

「──は?」

 

 魔法での肉体強化が急に解けてしまった。

 普通に走り出したのと同じ速度しか出ず、斬撃はあっさりと防がれてしまう。

 

 何が起こったのか全く分からず、一瞬面食らった隙に腹に蹴りを貰って俺は吹っ飛ぶ。

 

「無駄な抵抗はやめな。嬢ちゃん」

 

 襲撃者が俺を嘲笑う。

 

 直後にセルカが俺の肩に落ちてきた。

 触手を出現させて必死で俺に捕まっている。

 そして触手の一本を俺の耳の後ろに当ててきて──

 

『──囲まれているわ。それに──()()()使()()()()()

 

 聞こえてきたセルカの言葉は俄には信じられないものだった。

 

 

◇◇◇

 

 

「ふはははは!どうだエステル!魔法のない世界にやってきた──いや、戻ってきた気分は!」

 

 建物の屋根から襲撃者に囲まれるエステルを見下ろして案内人は高笑いしていた。

 

 案内人が王宮の宝物庫から盗み出し、ウェザビーのもとに届けた卵型の首飾りのような魔装具──それは一定範囲内での魔法発動を一切不可能にする効果を持つロストアイテムだった。

 

 切り札の鏡花水月はおろか、高速で走り剣を振るうための肉体強化すらも使えなくなったエステルに、もはや襲撃者たちに打ち勝つ術はなくなった。

 

 そしてセルカも魔法を封じられて浮いていられなくなり、力なくエステルにしがみついている。

 

 万事休すだった。

 

「さあ、どうするかなエステル。無駄な抵抗を続けるかな?それともオフリーを倒す機会を捨ててでも生き延びようとするかな?どっちだ?」

 

 どちらを選ぼうともエステルに未来はない。

 最後にエステルがどんな足掻きを見せてくれるか、楽しみで仕方ない案内人だったが──それに夢中で近づいてくる存在に気付かなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 蹴られたついでに剣は弾き飛ばされ、ポケットに入れていた拳銃も落としてしまった。

 

「魔法が──どうなっていやがる」

 

 痛む腹を押さえて毒づく俺に襲撃者は律儀にも答えてくれた。

 

「その負けん気に免じて特別に教えてやるよ嬢ちゃん。失われた時代の遺物──ロストアイテムの中には魔法を封じるものがあってな。効果範囲内じゃどんな魔法も使えねえんだ。つまり、純粋な身体と力の戦いになるんだよ。さっきの動きは良かったが、大の男と渡り合うには筋力不足だったな。さて、今度は嬢ちゃんが教えてくんな。例の書類はどこだ?」

 

 ドスの効いた声で証拠書類の在処を問うてくる襲撃者。

 

 無駄だとは思いつつも俺は時間稼ぎを試みた。

 

「書類?何の書類だ?」

 

 次の瞬間、襲撃者は拳銃を抜いて撃ってきた。

 銃弾は俺の左足のすぐ近くに着弾し、石畳を削った。

 

 発動しようとしていた鏡花水月は結局発動できなかった。

 どんな魔法も使えない、というのは残念ながら本当のようだ。

 

「次は外さねえぞ。お前らが空賊から奪った書類はどこにある?」

 

 前と左右には襲撃者、背後には高い壁。

 抜けられそうな隙はなく、誰かがやって来る気配もなし。

 

 しびれを切らした襲撃者が告げてきた。

 

「あと五秒で答えないと撃つぜ。んで、書類の在処は別の奴に訊く。ごーぉ!」

 

 ──何かないのか。この状況を打開できる何か。

 セルカの方を見ると瞳の動きでかぶりを振っているのが分かった。

 

『駄目。どうやっても魔法が使えない。浮遊魔法に、念話までやられて骨伝導でしか──助けも呼べないわ』

 

 彼女にもどうにもならないようだ。

 

「よーん!」

 

 ──どうする?

 

 ここは鞄を渡してこの場を切り抜けるか?

 いや駄目だ。ここで奪われたらもう取り返せない。それ以前に渡したところで助けてくれるわけがない。

 

 どこか別の所に誘導するか?

 たぶん乗ってはくれないだろう。

 

 もっと時間を稼ぐ?

 その前に撃たれるだけだ。

 

 駄目だ。何一つとして打開策が浮かばない。

 

「さーん!」

 

 襲撃者が撃鉄を起こす。

 

 ──結局俺はこうなるのか。

 案内人がせっかくオフリー家を倒せる切り札を二つも持たせてくれたのに。

 十分警戒していたつもりが結局オフリー家の力を侮り、目立つのを避けるためとしつつその実自分の力を過信して、最小限の人数で行動してしまった。

 

 また、俺は選択を間違ったのか。

 

「にーい!」

 

 ──案内人に呆れられるかな。

 

 そう思ったその時──

 

 

 

「そこまでだ!悪漢共!」

 

 

 不意に上からよく通る声でそんな言葉が響いた。

 

 声が聞こえてきた方を見上げると、白いスーツに黒いマントを羽織った男が壁の上に立っていた。

 人をおちょくったような変な仮面を着けていて顔は見えない。

 

 仮面の男はマントを手で払って翻すと、キザなポーズをつけて声を張り上げる。

 

「私はこの王都の監視者にして守護者!弱きを助け、強きを挫く正義の味方、【仮面の騎士】!この王都でいたいけな少女を多数で囲みいたぶるなどという蛮行は許さん!ここで──」

 

 仮面の騎士と名乗った男が芝居がかった冗長な台詞を言い終わるよりも早く、襲撃者の一人がナイフを投擲した。

 

 しかし、仮面の騎士は電光石火の早技で剣を抜き、ナイフを弾き返した。

 

 襲撃者たちが息を呑む。

 

 俺も思わず見入ってしまった。剣を抜く時初動が殆ど見えなかった。

 こいつ──強い。

 

「いたいけな少女を多数でいたぶるのみならず、騎士の名乗り口上に水を差すとは何たる不作法者か。この仮面の騎士がここで成敗してくれる!」

 

 仮面の騎士は口上を述べ終わるや否や、壁を蹴って飛び出した。

 



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燃えさし

 彼はその日も夜の王都に繰り出していた。

 

 夜でも煌々と明かりが灯り、人々が道を行き交うこの町は、彼にとって息が詰まる王宮での時間を忘れられる隠れ家であり、遊び場だった。

 

 行くあてなどはない。いつだってただ気の赴くままに歩き、素敵な出会いや面白い出来事が有れば迷わずそこに飛び込む。それが彼の遊び方だった。

 いつも決まった所に行くのではつまらなくてすぐに飽きてしまう。彼が求めるのは心躍る時間であり、それには知らない場所を知る、偶然の出会いをものにする、といった新鮮さが不可欠なのだ。

 

 その日はお気に入りの変身セットに身を包み、酔っ払いに絡まれて困っている女性でもいたら華麗に助けてやろうと思っていたが、ハズレだった。

 こういう日に限って何も起きず、つまらない思いをしたばかりか、パトロールに出ていた憲兵に怪しまれて必死で逃げ回る羽目になった。

 

 そして憲兵を撒くのに体力を消耗し、建物の屋上に腰を下ろして休憩していると──視界の隅を小さな光が横切った。

 

「おや?何だ?」

 

 光が消えた方に目をやると、フワフワと浮かぶ淡い光が視界に入った。

 

「お?なんだあれは?待てぇ!」

 

 子供が珍しい蝶でも見つけたかのように、彼は走り出す。

 

 光は追われているのに気付いたのか、彼から逃げるように距離を取る。

 だが、彼はせっかく見つけた見たことのない面白そうなものを逃すまいとスピードを上げた。

 

 そして、あと少しというところで光を見失い、悔しがっていたところに銃声が聞こえた。

 彼は迷わず銃声が聞こえてきた方向に足を運び──彼女を見つけた。

 

 

◇◇◇

 

 

 飛び降りてきた仮面の騎士の足が襲撃者の一人を直撃し、その身体を地面に叩きつけた。

 

 クッション代わりの襲撃者の身体と、関節を巧みに使い、更に地面を転がって回転受け身で衝撃を和らげた仮面の騎士は、飛び降り直後とは思えない動きで二人目に飛びかかり、拳銃を叩き落として顎に肘打ちをお見舞いした。

 

 他の襲撃者たちが仮面の騎士に拳銃を向けて発砲するが、仮面の騎士は気絶させた二人目を盾にして銃弾を防ぎながら突撃する。

 襲撃者たちの使う隠し持つことに特化した小型の拳銃では大の大人の身体を貫けず、仮面の騎士は難なく三人目を斬り伏せた。

 

 残りの襲撃者たちは弾丸を撃ち尽くしたらしく、短剣を手にして仮面の騎士に突進する。

 当たりさえすれば毒なり何なり送り込めるとでも思っているのか、斬られることを意に介さない捨て身の攻撃だった。

 

 仮面の騎士は素早く盾にしていた襲撃者の遺体を一番近い一人に向かって投げつけ、体勢を崩させると、壁際に移動して背後を守る。

 襲撃者たちは仮面の騎士を追って行ったが、遺体を投げつけられた襲撃者は体勢を立て直すなり、俺の方に駆け寄ってきた。

 

 すかさず俺は立ち上がり、取り落とした拳銃を拾いに向かう。

 そうはさせじと襲撃者が手に持った短剣を投げつけてきたのが気配で分かる。

 その飛んでくるスピードが速すぎて、避ける余裕などなかった。

 鏡花水月あるいは肉体強化が使えれば、簡単に逸らすなり躱すなりできただろうが──

 

『ぐぅッ!』

 

 拳銃を拾う寸前、右の太腿への鈍い衝撃と共にセルカの声が聞こえた。

 どうやら脚に刺さるはずだった短剣をセルカが代わりに受け止めてくれたらしい。

 

『やっぱり毒が塗ってあるわね。それも即効性の麻痺毒──』

(助かった。ありがとな)

 

 俺の盾になってくれたセルカの行動を無駄にはできない。

 

 拳銃を拾い上げ、左手の腹で素早く撃鉄を起こし、振り向きざまにこちらに飛びかかろうとしていた襲撃者の顔面目掛けて撃った。

 

 ロクに狙いを定められないまま撃ったが、弾は過たず相手の眉間に風穴を空けた。

 脳を撃ち抜かれて即死した襲撃者が俺の身体の上に倒れ込む。

 

 力が抜けて重くなった襲撃者の身体をどかして脱出し、仮面の騎士に加勢しようと周りを見渡すと──

 

「お怪我はないかな、お嬢さん?」

 

 仮面の騎士が手を差し伸べてきた。

 どうやら残りの襲撃者は片付けたようだ。

 変な仮面とスーツに付いた返り血のせいで、さながらホラー映画の殺人鬼のように見えるが、こいつは確かに俺を助けてくれた。

 

 妙にタイミングが良かったが、また案内人の加護だろうか?

 その可能性は高いが、念のため確かめておいた方が良さそうだな。

 

 ひとまず差し伸べられた手を借りて立ち上がり、礼を言う。

 

「ええ。大丈夫です。おかげで助かりました」

「いや、礼には及ばないよ。さあ、早くこの場を離れよう。もうじき銃声を聞きつけた憲兵や野次馬が集まってくる。彼らに見つかると厄介だ」

 

 そう言って、俺の手を引いて歩き出そうとする仮面の騎士を踏ん張って止める。

 

「待ってください!まだ父が馬車の中で倒れているはずです。助けに戻らないと」

 

 親父がいないと国王陛下への面会ができないので、絶対に置いて行くわけにはいかない。

 それに、まだ仮面の騎士を完全に信頼したわけじゃない。いざという時のために自分で動ける体勢は維持したい。

 

「では急ごう。どちらかな?」

「ついてきてください」

 

 俺が来た道を走り出すと、仮面の騎士は頷いて後をついて来た。

 

 

◇◇◇

 

 

「なぜだ!どうしてこうも毎回毎回邪魔が入る!」

 

 案内人は地団駄踏んで悔しがる。

 

 貧民街で集めた負の感情で戻った力を振り絞って、反則的な機能を持つ魔装具を見つけ出してオフリー側に提供し、エステルの位置もとある人物を通じてオフリー側に情報漏洩させた。

 好みのやり方ではないながらも、エステルを倒して負の感情を頂くために彼女の敵に三度目の助力をした。

 

 そしてエステルを、生身で魔法も使えない上に多勢に無勢という絶対に切り抜けようのない窮地に追い込めた──はずだったのに【仮面の騎士】なる人物の乱入で失敗してしまった。

 

 悔しさと怒りで思わず喚き散らしそうになった案内人だが、直前で自分に迫る危機に気付く。

 

 エステルが仮面の騎士を自分の加護ではないかと考えていた。

 

「ま、まずい!また感謝が来る!」

 

 案内人は大慌てでその場から逃げ出した。

 今にも感謝をぶつけてきそうな時限爆弾と化したエステルから少しでも遠く離れるために。

 間近で食らえば今度こそ消滅させられるかもしれない──そう直感したのだった。

 

 ちなみにこの時、仮面の騎士の格好がエステルに一抹の疑念を抱かせていた。

 その疑念に付け込めば、あるいは案内人の目論みは違った形で成功したかもしれなかったが──何度も感謝をぶつけられ、その度苦痛にもがき苦しんだ案内人は著しく弱り、そして恐怖を植え付けられてしまっていた。

 だから──危機の中に潜む活路を見逃し、機を逸してしまう。

 

 案内人が消え去った方角を犬の形をした淡い光がしばらく睨みつけていたが、やがて忌々しげに頭を振って姿を消した。

 

 

◇◇◇

 

 

「嘘だろ──」

 

 馬車のあった場所に戻った俺は思わず呟いた。

 

 ひっくり返った馬車の中に倒れていたはずの親父と護衛二人の姿はなかった。

 そればかりか、最初に襲ってきた襲撃者二人の遺体もない。倒した時に周囲に付いたはずの血痕さえもない。

 そこに人がいた痕跡が跡形もなく消え去っていた。

 

 仮面の騎士が周りを少し見渡して問うてくる。

 

「この馬車の中に父君が倒れていたはずなのだね?」

「そうです。確かに私たちが乗ってきた馬車のはずなのに──」

 

 目を覚まして逃げた可能性もなくはないが──だとすれば襲撃者の遺体まで綺麗さっぱり消えているのは不自然だ。

 となると考えられるのは──

 

『奴らの仲間の仕業ね。三人とも攫っていったみたい。──こんな忌々しいものさえなければ』

 

 予想していたのと同じ答えがテレパシーで聞こえてきた。

 聖なる首飾りには効かなかったサイコメトリーで過去を見たようだ。

 

 仮面の騎士からは見えない馬車の陰で、悔しそうに目を細めるセルカ。

 その球形の身体から触手が何本も伸びて何かを握りしめている。

 

 何を持っているのか訊こうとしたが、仮面の騎士が肩を叩いて告げてきた。

 

「お嬢さん。長居はできない。ひとまず安全な所まで逃げないと。私がお連れしよう」

 

 そしてセルカもテレパシーで仮面の騎士に賛同する意を伝えてくる。

 

『彼の言う通り。この分だと屋敷に戻るのは危険よ。間違いなく途中で待ち伏せがあるでしょうし、屋敷内部に内通者がいる可能性が高いわ。仮面の騎士に匿ってもらうほかないと思う』

 

 襲撃のタイミングからして敵は屋敷の位置や俺たちの目的地、馬車に施した偽装のことを知っていた。そして親父の身柄が敵の手に渡った以上、俺が書類を持っていることも聞き出されてしまっていると考えるべき。そして街中で魔法や銃をぶっ放す相手のことだから、こちらを見つければまた襲撃を掛けてくる可能性が高い──つまり、屋敷には戻れず、仮面の騎士に従って彼の言う「安全な所」に身を隠すしかない。

 

 それは頭では理解できる。

 理解はできるが──その前にひとつ確かめることがある。

 

「その前にお訊きしたいことがあります。仮面の騎士様、私を助けにきてくださる前に何か変わったものを見ませんでしたか?」

 

 仮面の騎士はなぜそんなことを訊くのかという風に一瞬首を傾げたが、すぐに答えてくれた。

 

「ああ、そういえば淡く光るものが浮かんでいたのを見たな。それを追っていたら貴女を見つけたのだが──それが何か?」

「──いえ、大したことではありません。ですが、これで決心はつきました。仮面の騎士様、ご苦労をお掛けしますが、ご一緒させて頂けますか?」

 

 頭を下げると、仮面の騎士は「お任せを」と言って、俺の手を引いて走り出した。

 そのまま通りを離れ、人目につかない裏路地に入っていく。

 

 格好こそ変だし、迷路のような入り組んだ裏路地を自分の庭のように走り抜ける土地勘もあって、何者なのかという疑問は増していくが、こいつを差し向けてきたのは間違いなく案内人だ。

 案内人の加護の光が連れてきたのなら、俺にとって危険な人物ではないはず──ならば助けを借りても問題ないだろう。

 

 ひとまず仮面の騎士を信頼することにした俺は先ほどの疑問をセルカにぶつける。

 

(そういえば、さっき言っていた忌々しいものって何だ?)

『魔装具よ。大体半径十メートルくらいの範囲内の魔法の発動を阻害するの。魔法障壁や封印魔法とは原理からして別物──こんな技術見たことも聞いたこともないわ。取り上げておいたから後で渡すわね』

(オフリーの奴らそんなものまで持っていたのか。でかした)

 

 未知の脅威の正体を特定し、奪取までしてくれたセルカに改めて感謝の念を送る。

 この世界にはまだまだ俺の知らない摩訶不思議なものが沢山あるのだろう。これからはもっとそういうものに対する警戒と備えをしておかないとな。

 そして、またしても危機を救ってくれた案内人には今度会った時何かお礼をしよう。

 

 

◇◇◇

 

 

 王都郊外。

 

 まるで要塞のように厳重な防御が施された屋敷に馬が一頭入ってくる。

 乗っていた男が馬から降り、用心棒たちに合言葉を伝えると、玄関の扉が開かれ、男は中に駆け込んでいく。

 

 廊下を進み、階段を上り、一際大きな部屋の前に来ると、そこに置かれた机に座っていた隻眼の男に耳打ちする。

 すると隻眼の男は「下がっていい」と言って、耳打ちしてきた男を追い払い、部屋の扉をノックする。

 

 扉が開くと、そこにいたのはファミリーの幹部たちと長であるライルだった。

 

「何か?」

 

 ライルに問われて隻眼の男は口を開く。

 

「ボス、報告です。オフリーの手駒はしくじりました」

「──詳しく話せ」

「はい。確かにファイアブランドの馬車は網にかかり、オフリーの手駒が待ち伏せて捕らえました。ですが、目標を無力化できずに逃走を許し、その後目標及び乱入した謎の人物との交戦により彼らは全滅。目標以外は、ファイアブランド家当主を含め全員我らの目が確保し、現在キープ十二に。書類は持っていません」

「──逃したか。しかも貴族家の当主を捕らえた──困ったな。我々はただの人探しだというのに」

 

 ライルはやれやれという風にかぶりを振ったが、その顔にさほど不機嫌の色はない。

 

 証拠書類の奪取には失敗したが、王への面会権を持つ当主を捕らえたのはそれなりの戦果である。

 オフリー家が恐れていたのはファイアブランド家が面会権を行使して王に直訴することだったが、その可能性を潰すことができた。

 そして逃げ遂せた目標も行動に著しい制限がかかるだろう。

 確実に相手を追い詰めることができている。

 

「捕らえた者たちはウェザビー卿のもとへ送れ。そして引き続き、目標を捜索しろ。相手が相手だ、見つけても下手に手出ししたり、見失ったりしないよう念押ししておけ」

「承知致しました。ボス」

 

 隻眼の男は恭しく一礼し、部下たちに指示を出すべく部屋を出て行った。

 

 彼が出て行った扉を見つめて、ライルは葉巻を蒸しながら呟いた。

 

 

「見落とした燃えさしが時に山火事を起こす、か」

 

 

 先代のファミリーの長であった父が言っていた言葉。

 逆らった者、裏切った者、命を狙ってくる者、邪魔になる者──それらに一切情けは無用、一人でも見逃せば恨みを募らせ、牙を研ぎ、そしていつか復讐にやってくる。

 その牙に斃れたくなければ、全てを疑え。そして疑わしきは殺せ。

 

 ライルはその言葉の意味をそう捉え、ウェザビーの支援を取り付けて自分のビジネスとファミリー内での権力を拡大し、兄弟たちを蹴落としてファミリーの長となった。

 なればこそ、ファミリーとオフリー家を脅かす危険物を持つと目される者は、どこに逃げ隠れしようが必ず探し出し、オフリー家に捕らえさせる心づもりである。その者がまだ十二歳の可愛らしい少女であっても。

 

 ライルはファイアブランド家の関係者を探していた時、接触してきた人物から彼らに関する詳細な情報を得ていた。

 拠点として使っている屋敷の位置や使っている部屋、当主テレンスとその娘エステル、古参の家臣トレバー、その他護衛六人の計九人で王都に来ていること、当主と娘が今朝神殿に向かったこと。そして書類は屋敷の金庫にはなく、誰かが常に持ち歩いている可能性が高いこと。

 

 その情報からライルは書類を持っているのはエステルだと当たりをつけていた。

 

 ウェザビーからファイアブランド家との戦争の経緯を聞いた時、当初テレンスは取引に意欲的であり、縁談も快諾したにも関わらず、急に連絡を絶ち、その後フィーランが使者として派遣された際にも応対に出てこなかった。そしてフィーランに対して応対してきたのは、縁談の相手だったエステル──というのが引っかかったのだ。

 

 ウェザビーはなぜそうなったのかは分からず、まだ調べている途中だと言っていたが、ライルは直感で一つの可能性を考えた。

 連絡のつかなかった一ヶ月の間にオフリー家との取引に賛成する者と反対する者の間で争いがあり、反対派を味方につけたエステルがファイアブランド家を掌握したのではないか──無論、ただの勘に過ぎないし、そんな争いがあれば間者を通じてウェザビーが知っていてもいいはずだ。

 それでも、ライルはエステルが今のファイアブランド家のトップであり、空賊を討伐した時から今に至るまでオフリー家との戦いを指導しているように思えてならなかった。

 

 だとすれば証拠書類は彼女の生命線だ。彼女の立場と行動の正当性を担保し、ファイアブランド家の勝利につながる唯一の切り札。

 それを他の者に持たせるとは考えにくい。十中八九彼女自身が肌身離さず持っているはずだ。

 

 そして今、その勘は確信に変わっている。

 だからライルはエステルを捕らえるまで決して手を緩めない。

 十二歳で家を掌握し、他家との戦争を決断し、倍以上の軍勢に勝利し、生身で完全な不意打ちを食らってもなお捕まらずに逃げ遂せる傑物を野放しにはしておけない。

 燃えさしが山火事になる可能性が僅かでもあるのなら、踏み消しておかなければならないのだ。

 

 

 

 中心市街地の高級ホテル。

 

「ウェザビー様。ファミリーの者より報告です。ファイアブランド家当主と他二名を確保。されど娘は逃走、部隊は全滅、と」

 

 部下の報告にウェザビーは表情が険しくなった。

 

 ファイアブランド家の関係者を捕まえるのは書類が王宮に届けられるのを阻止するという目的を達成するための手段に過ぎず、そして失敗すればオフリー家は更に不利になる諸刃の剣でもある。

 なればこそ、その手段を実行する時は誰一人として逃すわけにはいかなかった。

 おまけに派閥の首領に魔法を封じるロストアイテムまで用意してもらったのに──それを持たせて送り出した手駒は全滅し、娘を取り逃した挙句、結局ファミリーが残りを捕らえたという結果にウェザビーは焦りと苛立ちを募らせる。

 

「屋敷には戻っていないのか?」

「いいえ。そのような様子はありません。ファミリーは引き続き娘の捜索を行うとのことです」

「──そうか。捕らえた三人はどこに?」

「現在彼らの拠点からこちらに移送中とのことです」

「よかろう。彼らには私から()()をするとしよう」

 

 当主を捕らえられたのなら、彼の口から取引を反故にした経緯や、上手くいけば証拠書類の在処を聞き出せる。王手はかけられずとも勝利には近づいていると思うことにした。

 それにファミリーの情報網が伊達ではないことは証明されている。取り逃した娘もそう長くは逃げ続けられないだろう。

 

 だが──胸に渦巻く不吉な予感は消えなかった。

 

 ウェザビーの胸中を映し込んだかのように、外の空から雷鳴が響いてくる。

 

 

◇◇◇

 

 

「ここは──?」

「見ての通り、地下道だよ。秘密のね」

 

 仮面の騎士に手を引かれて入っていった建物から地下室に入り、そこから隠し扉を通って地下通路を歩いている。

 なるほど、確かに誰にも見つからずに逃げるにはもってこいだ。

 

「──どこに通じているのですか?」

「心配ご無用。この王都で最も安全な場所だ。それに快適だよ」

 

 仮面の騎士は具体的な場所を答えてくれなかったが、おそらく仮面の騎士の拠点だろう。

 子供じみた正義のヒーローを気取っていても実力は本物──ならば前世の戦隊ヒーローよろしくどこかに秘密の拠点を設けて普段そこで生活しているのかもしれない。

 

「お嬢さん、私からも質問がある。貴女はなぜ一人で奴らに追われていたのかな?」

 

 返す刀で質問を投げかけてくる仮面の騎士。

 そりゃ暗殺者みたいな連中に追われる少女なんて、何かあると思うに決まっているよな。

 

 一瞬話していいものか迷ったが、素直に話すことにした。

 さっき仮面の騎士を信頼することにしたばかりだ。

 

「実は敵対している貴族家に狙われているんです。私の家はその家と戦争中でして。私はその戦争を終わらせるために、ある品を王宮に届けなければならないのですが、彼らはそれを阻止しようとしています。さっきの襲撃で一緒にいた父と護衛がやられ、それで一人で逃げていたのです」

「──なるほど。それは大変だったね。しかし、お嬢さんのような小さな子を巻き込むとは、一体どうなっているのやら。貴族としての矜持は──」

 

 仮面の騎士は空いている方の手を仮面の額に当てて嘆く。

 その憤りの矛先はファイアブランド家にも向いているようだった。

 本来両家の軍人同士でやる争いに子供を巻き込むのが許せないのは正義の味方らしいと思うが、こいつは勘違いしている。

 そもそもファイアブランド家を戦争に踏み切らせたのは俺だ。

 俺がこの戦争の首謀者であって、巻き込まれた哀れな被害者などではない。

 その勘違いが鼻について、俺は反論する。

 

「いえ、関わったのは私の意志です。巻き込まれたわけではありません。そもそも戦争になったのも──私が原因です」

「──それは、どういう意味かな?」

 

 仮面の騎士は怪訝な声で問うてくる。

 

「言った通りの意味です。相手の家との戦争を決めたのは私です。父は戦争には反対でした。でも私が家臣たちを焚きつけ、軍の指揮権を父から強引に借用して、戦争に踏み切りました。そうしないと、私は相手の家に身を売られ、我が家は援助という名の経済的支配を受け、食い物にされてしまうからです。ですから全ては私が自分で責任を持ってやったことなのです」

 

 俺の反論に、仮面の騎士は黙った。

 そして立ち止まって振り返り、頭を下げる。

 

「とんだ失礼を言ってしまったね。許して欲しい。お嬢さん、貴女は身体は幼くとも、心は立派な貴族なのだね。その心意気、感服したよ。今日貴女を助けたことは、私にとって生涯の誇りとなるだろう。さ、目的地まではもうあと少しだよ」

 

 仮面の騎士は再び俺の手を引いて歩き出す。

 

 そして俺たちは小さな梯子のある場所へと辿り着いた。

 仮面の騎士が先に上り、天井のマンホールのような蓋を持ち上げて外す。

 

 開いた出口から雫が落ちてきて顔に当たった。

 外からザーッという音が聞こえてくる。地下道を進んでいる間に雨になっていたらしい。

 

 仮面の騎士の手を借りて地下道から出て、雨の中を走る。

 周りを見渡してみると、ここはどうやらどこかの庭のようだった。

 綺麗に手入れされた花壇と植木と噴水があって、とんでもなく大きな建物が周りを囲んでいて──おいちょっと待て。建物に見覚えがあるぞ。

 

 建物の庇に入って一息ついた俺は仮面の騎士に向かって問いかける。

 

「騎士様。もしや、ここは王宮ではありませんか?」

「ああ、そうだよ」

 

 しれっと答える仮面の騎士。

 だが、俺は驚きで開いた口が塞がらない。

 王宮につながる地下通路を知っている人間はほんの少数──それこそ王族くらいなものだろう。

 そんな場所を俺を匿うために躊躇なく使ったということは──もしかしてこいつ、こんなナリで王族なのか?

 

「貴方は一体──」

「仮面の騎士、だよ。決して貴女が思っているような者ではないから。詮索はなしで頼むよ」

 

 若干威圧感を含んだ声で言われて俺は口を噤む。

 ここで下手なことを言って仮面の騎士の機嫌を損ねるのは愚策だ。

 それに王宮に来られたのは好都合だ。仮面の騎士が言った通り、安全な場所なのは間違いないし、彼の伝手を使えば国王陛下との面会も叶うかもしれない。

 さっきの反応からすると微妙なところだが、頼むだけならタダだ。

 駄目で元々、その時はアリージェントと連絡を取り、戦力を集めて親父を探し出し、奪還する。尤も、それも攫われた親父が生きていればの話だが。

 

 

 

 仮面の騎士が一つの部屋の前で立ち止まり、扉を開けた。

 中は暗いが、高級そうなベッドとソファー、書き物机と椅子が置かれたそこそこ広い部屋だ。

 

 仮面の騎士がソファーの脇にあったランプを灯して口を開く。

 

「ひとまず今夜はこの部屋で休むといい。客室の一つだからベッドと机、シャワーが使える。食事は私の方で用意させるから心配いらない。あ、それと銃は見つからないよう隠しておいた方がいい。王宮に武器を持ち込んだとあれば子供といえど罪に問われるからね。何か質問や要望などはあるかな?」

 

 国王陛下との面会ができるか訊くなら今だと思った。

 

「──騎士様。助けて頂いた上にこのような上等な部屋まで用意して頂いて、このような要望を出すのは畏れ多いのですが──国王陛下と面会できないでしょうか?」

 

 仮面の騎士は一瞬凍りついたように固まった。

 

「ず、随分と大胆な要望だねぇ。訳を聞かせてもらっても?」

 

 至極真っ当な質問が返ってくる。

 俺は腹を括って詳細な事情を仮面の騎士に話した。

 

「先程王宮に重要な品を届けなければならないと言いましたが、正確には国王陛下にお届けする必要があるのです。敵方の家が我が家に対して行った違法な攻撃と、これまでの不法行為の証拠です。敵方の家の息が掛かった者に握り潰されでもすれば、我が家も私もお終いですので、法院や他の貴族の方にお預けすることはできかねます。本来であれば父が国王陛下への面会権を行使し、そこに私が同行してお届けするはずでしたが、父が行方不明の今、それはできなくなりました。ですが、ことは急を要するのです。騎士様、無理を言っているのは百も承知ですが、貴方のお力でどうにかならないでしょうか?」

 

 頭を下げて頼み込むと、仮面の騎士は困ったように頭を掻いて考え込んだ。

 やはり無理だったかと思ったが、直後に帰ってきた返事は色良いものだった。

 

「分かった。可愛いお嬢さんの頼みとあらば何とかしてみよう。ところでお嬢さん、父君の方はどうするおつもりかな?」

「港にいる我が家の軍艦と連絡を取ります。国王陛下に証拠をお届けした後、応援を寄越してもらい、私と父を売った屋敷の内通者を捕らえます。いればですが──まず間違いなくいます。心当たりもあります。そいつから情報を聞き出して捜索、奪還します。絶対に見捨てはしません」

 

 仮面の騎士はじっと俺の目を見つめていたが、ふっと息を吐いて笑みを浮かべた。

 

「そうか。では僭越ながら、私も協力しよう。私は王都の守護者。必ずや父君を無事連れ戻すとお約束しよう」

 

 何やら面倒臭いことになった気もするが、仮面の騎士が協力してくれるなら戦力という意味では心強い。

 ただ、格好は怪しさ満点なので俺から軍艦に連絡する時に一言書いておこう。

 

「他にはないかな?──よし、では私は失礼するよ。良い知らせを待っていてくれたまえ」

 

 仮面の騎士はマントを翻して部屋を出て行った。

 

 その直後、隠れていたセルカが姿を現す。

 

『さっきサーチしてみたけれど、お父様と護衛二人は生きてるわ。位置も掴んだ。取り敢えずは大丈夫よ』

「そうか。助かる」

 

 俺は書き物机に向かうと、紙とペンを取って手紙を書き始める。

 港に停泊中のアリージェントの乗組員たちに宛てて、現在の俺の状況と今後の方針、それとこちらから指示があるまで勝手に動くなとの旨を認め、セルカに持たせる。

 今のところ確実な通信手段は彼女に飛脚になってもらうことしかない。

 

「セルカ、すぐにこいつをアリージェントに届けてくれ。この際だ、姿を晒しても構わない。それとトレバーが内通者かどうか調べてくれるか?今日俺たちが神殿に行くのを知っていたのはあいつだけだ。もし違うなら他にいるかどうかも」

『分かった。その前にこれ。さっき言った魔装具よ。渡しておくわ』

 

 セルカは手紙を身体の中に呑み込むようにしまうと、入れ違いで卵型のネックレスのようなものを取り出して渡してきた。

 細かな装飾が施されていて、一見すると工芸品に見える。

 

『じゃ、行ってくるわ。できるだけ早く戻るから』

 

 そう言ってセルカは窓を開けて外に飛び出していった。

 その姿は夜の闇と雨に紛れてすぐに見えなくなる。

 

 仮面の騎士に頼んだ国王陛下との面会の件、内通者の特定、親父の救出。どうか全て上手くいくようにと願いながら、俺は窓を閉じた。



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雨上がり

 王都の裏路地。

 

 降りしきる雨の中、黒服に身を包んだ二人組の男が傘の下で煙草を蒸しながら誰かを待っていた。

 懐中時計を取り出して時刻を確認すると、ため息と共に煙を吐き出す。

 

 そこへ簡素な服装の男たちが三人やってきた。

 黒服の男たちを見ると、三人とも踵を揃えて礼をする。

 

「成果はあったか?」

 

 黒服の男の一人が問いかけると、三人の代表が答える。

 

「いえ、皆目。まだ目撃証言も集まっておりません。この雨の中では追跡は困難──」

 

 言い終わらないうちに代表の首が締め上げられる。

 

「俺たちが聞きたいのは泣き言じゃない。そんなことを言っていられる辺りまだ本気で探していないな?下請けの分際で良い度胸じゃないか──ええ?」

「ゆ、許してください。そんな──つもりじゃ──」

 

 黒服の男が手を離すと、代表は地面に落ちて両手と膝を地につける。

 跳ねた泥水に塗れた代表を冷たく見下ろして黒服の男は告げる。

 

「次はもう少しマシな報告を持ってくることだ。また泣き言を言ってきたら、今度はその無能な口を溶接してやる」

 

 火のついた煙草が代表の目の前に放り捨てられる。

 雨に濡れてすぐに火は消えたが、三人の男たちは震え上がった。

 

「は、はい!必ず!」

 

 三人の男たちがその場を辞すと、黒服の男は新しい煙草を取り出して着火した。

 

「どいつもこいつも根性なしの役立たずが。下請け共の質も落ちたか?」

 

 そう呟いた直後、どこかからねっとりとした妖艶な声が聞こえてきた。

 

『これは必要な犠牲よ。ええ、仕方ない。仕方ないのよ』

「誰だ!」

 

 黒服の男たちは拳銃を抜いて辺りを見渡したが、人っ子一人見当たらない。

 

 直後にグキリという嫌な音が聞こえてきたかと思うと、黒服の男の片方が倒れた。その首はあらぬ方向に捻じ曲がっており、一目で死んでいると分かる。

 

「誰だ!誰がやった!」

 

 残されたもう一人の黒服の男は冷や汗を浮かべて叫ぶが、すぐにその口は塞がれる。

 

『静かにしてね』

 

 その声と一緒に何かが口の中に入ってくるのを感じた。

 

(何だこれは?一体何が──)

 

 息ができない。

 

 力が抜けて身体が動かない。

 

 入ってきた何かが自分を侵食していく。

 

 痛い。身体が悲鳴を上げている。

 

 境界が曖昧になる。──自分が自分でなくなっていく。

 

 そして黒服の男は眠るように息絶えた。

 

 だが、その身体は倒れることなく数分の間立ち続け、そして目を開いた。

 その瞳は夜の暗闇の中でも血のように赤く見えた。

 

「成功ね。これなら本来の姿を晒さずに済む。あの人を害そうとする害獣にも使い道はあるわね」

 

 一通り声を発し、身体を動かし、不具合がないか確かめてから、男は走り出す。目指すのは港である。

 その懐には主君にして恩人であるエステルから持たされた手紙がしまい込まれている。

 

 黒服の男を殺し、その身体を乗っ取ったのはセルカだった。

 彼女の持つ融合合体──それは人間にも有効だった。

 

 

 

 港に停泊していたアリージェントに黒服の男に扮したセルカが現れる。

 

「ん?誰だ?」

 

 歩哨に立っていた二人の乗組員が銃を構えて誰何すると、セルカは両腕を上げ、黒服の男の声を真似て答える。

 

「松明の火が消えてしまいました。火を貸していただけますか?」

「ッ!直ちに」

 

 歩哨の一人がすぐに船内に人を呼びに向かう。

 セルカが発したのは計画が失敗した時、あるいは危機に陥った時のために予め取り決めておいた合言葉だった。 

 

 すぐに甲板長がやってきてセルカを船内に招き入れ、艦長室へと案内する。

 

 艦長室でセルカを迎えた艦長の【レックス】はその手紙の文面に顔を顰めた。

 街中で暗殺者をけしかけてきた卑劣なオフリー家。オフリー家に情報を売った内通者。襲撃からテレンスとエステルを守りきれなかった護衛の者たち。彼らへの怒りでレックスは手紙を持った手を震わせる。

 

「これは──本当なのですか?」

 

 圧の込もったレックスの問いかけにセルカは眉ひとつ動かさずに答える。

 

「はい。その手紙にも書いてあるかと思いますが、エステル様は現在ある方の個人的なご厚意により、王宮にて保護されております。手紙はそこから、エステル様が世話係を仰せつかった私に託してお送りなさったものです。私の命と名誉に懸けて本当です」

「合言葉もエステル様からお聞きになったと?」

「はい。私にのみお教えなさいました。他言はしておりません」

 

 レックスはひとまず納得したらしく、圧を解いた。

 

「うぅむ。懸念していた事態が起こってしまったか──ご協力感謝致します。エステル様に了解したとお伝えください。こちらも準備を急ぎます」

「はい。承りました」

 

 レックスは手紙の余白に走り書きで返事を書き、セルカに渡すとすぐに席を立った。

 そのまま部下たちに指示を出すため艦長室を出ていくと、セルカもアリージェントを降りた。

 

 アリージェントが停泊している桟橋を離れ、歩哨たちの姿が見えなくなったところで、セルカは融合合体を解いた。そして、抜け殻になった黒服の男の遺体を岸壁から突き落とした。

 彼の身体はもう用済みだ。

 

『アリージェントの方はひとまずこれで大丈夫ね。あとは内通者が誰なのか──』

 

 エステルはトレバーが内通者ではないかと疑っていたが、セルカは内通者は別にいると考えていた。

 実際のところエステルたちが神殿に行くと知っていたのは彼だけではない。

 トレバーは屋敷に滞在するにあたってオフィーリアに事情を説明しただろうし、それを聞いていた者もいるだろう。

 

 取り敢えず屋敷の全員の思念を読み取って探そうとセルカは考える。

 

 

◇◇◇

 

 

 王宮に来た翌朝。

 

 いつもよりやや早くに目が覚めた俺はふと鏡を覗き込んだ。

 もうすっかり見慣れて当たり前に自分の顔と認識するようになった美少女の顔──その目元に薄らとクマができていた。

 昨日色々あって疲れていながら、なかなか寝付けなかったせいだろうか。

 子供の身体だからか昨日の疲れは引きずっていないが、寝不足の影響は出るらしい。

 

 だが寝直そうにも一旦目が覚めてしまってはおいそれとは寝付けない。

 今の俺には仮面の騎士の「良い知らせ」とセルカの帰りを待つ以外にできることはないのは分かっているが、それでも考えてしまうのだ。

 

 神殿に聖なる首飾りを届けて協力を取り付けたはいいが、その後の予定は狂いまくり。

 

 面会権を持つ親父がいなければ、神殿の働きかけがあっても国王陛下との面会は不可能。

 だがその親父は敵の手に落ち、生きてはいるがいつ殺されてもおかしくない──というか、実質死んだも同じだ。親父からファイアブランド家の現在の状況と書類の在処を聞き出すまでは生かしておくだろうが、親父が吐けばそれで用済みとして始末されるだろう。

 事故死や行方不明として処理されるか──考えたくはないが、実権を強引に移譲させた俺が犯人に仕立て上げられるか。

 

 だから親父抜きでも国王陛下に面会できる可能性として、王族と思しき仮面の騎士の伝手に賭けてみたが──うまく行く可能性は高くないだろう。

 変な仮面を着けてヒーロー気取りで夜の王都に繰り出しているような奴が大きな影響力を持つ立場にあるとは思えない。むしろ一族の鼻つまみ者にされている可能性すらある。

 案内人の加護の光が連れてきたとはいっても、それは絶体絶命の窮地を脱するのに力を貸してくれたに過ぎず、何もかも上手く運んでくれるデウス・エクス・マキナとは思わない方がいいだろう。

 

 仮面の騎士の伝手で面会が実現できないのであれば、王宮を出てアリージェントと合流し、屋敷の内通者を排除した後、セルカと共に親父が拘束されている場所に襲撃を掛けて奪還するしかない。

 それまで親父が生きていなければ実施できない作戦であり、実施できたとしても奪還する前に親父が殺されてしまえば意味はない。

 

 王宮内の情勢を調べさせていたトレバーに内通の容疑が掛かっている今、オフリー家の敵対派閥を利用するプランも危険だ。

 もしトレバーがクロなら、彼が調べた情報は全て信頼できなくなり、自分で調べるほかなくなる。敵はそんな時間と猶予は与えてくれないだろう。

 

 ──もはやファイアブランド家に勝機はほとんどないと考えていい。

 

 並の大人を凌ぐ身体能力と魔法、奥義の鏡花水月──他者を恐れないために身につけた力は確かに()()()()()()()絶大な効果を発揮したが、戦争を乗り切るにはまるで足りないことを思い知らされる。

 

 戦争とは武力と武力のぶつかり合いではなく、「政治」だ。

 いかに相手を悪者に仕立て上げて自分を正当化するか、そしていかにして相手にそうさせないか。

 俺は戦闘力では敵を上回っていたかもしれないが、そういう本質的な部分で遠く及ばなかった。

 結局俺は前世で身に覚えのない罪で破滅した時と同じ──物事の本質に気付かずにもがき続けて深みに嵌る愚者だった。

 今回身をもって得た教訓を活かす機会さえ、もうあるかどうか──

 

 駄目だ。このままではどんどん思考がネガティブになっていく。少し気分転換しないと。

 ニコラ師匠も言っていた。

 

『辛さや不安で力が出ない、何をすればいいか分からない、そんな時はまずお茶でも飲んで落ち着きなさい。少し別のことをするのもいいでしょう。揺れる心を鎮め、澄んだ泉のごとく穏やかにすれば、道は見えてきますよ』

 

 生憎とお茶を淹れる道具はなかったので、鍛錬することにした。

 領地を離れてから毎朝のパルクールができていないし、剣も振れていない。このままでは身体と感覚が鈍ってしまう。

 

 剣はなかったので、筋トレだけで我慢することにした。

 魔法が使えなければ純粋な膂力の差で押し切られてしまう弱点は、時間はかかるだろうが必ず克服したい。

 

 

 

 しばらく腕立て伏せやらスクワットやら腹筋やらやって汗を流していたら、少し気持ちが落ち着いてきた。

 

 シャツが汗でベタつく前に切り上げてシャワーを浴びる。

 身体が温まり、力が抜けていくと、焦る気持ちも和らいでいく。

 

 シャワー室を出て洗面所で髪を乾かしていたら、扉がノックされた。

 

 急いで服を着て扉を開けると、そこにいたのは朝食の載ったトレーを片手に持った仮面の騎士だった。

 昨夜の返り血の付いた白スーツではなく、真っ新な紺色のスーツである。

 

「おはようお嬢さん!早速良い知らせをお届けに来たよ!」

「ッ!本当ですか!?」

 

 思わず大きな声で聞き返した俺に仮面の騎士は大きく頷く。

 そして部屋に入ってきてトレーをソファーの前のローテーブルに置くと、懐から紙を一枚取り出して渡してきた。

 紙に書かれているのはどこかの部屋までの道順と手描きの地図のようだ。

 

 仮面の騎士が紙に描かれた部屋の一つを指差して口を開く。

 

「今日の昼前、十一時にここ、十四号応接室に行きたまえ。そこで王妃様が陛下の代理として面会の場を設けてくださるそうだ。残念ながら国王陛下は予定が詰まっていて面会は取り付けられなかったが、王妃様は公正なお方だ。きっと貴女の力になってくださるだろう」

「王妃様が、ですか?」

 

 予想外の人物が出てきたことに俺は驚く。

 正直王妃様の権力なんて当てにできるようなものではないと思うのだが──王国だと違うのだろうか。

 

 俺の心中を見透かしたらしく、仮面の騎士は屈んで視線の高さを合わせて諭すように言ってくる。

 

「大丈夫。あまり大っぴらに言えたことではないのだが、王妃様はその有能さ故に強い権力をお持ちだ。それこそ陛下に代わって重要な裁決を行うこともあるくらいにはね。それに、元は外国から嫁いできた身で周囲に味方はおらず、疎ましく思う者も多かった中で着実に成果を上げ、遂には陛下からも全幅の信頼を寄せられるようになった経緯がある。貴女の置かれた状況に感じるものもあろうさ。むしろ貴女にとっては陛下よりも頼もしい味方だと私は思うよ」

 

 正直半信半疑だが、仮面の騎士の言うことが本当なら、ファイアブランド家にも勝機はまだある。

 国王陛下に信頼されている王妃様を説得して味方につけ、国王陛下に話を通してもらえれば、実質国王陛下と面会を果たしたのと同じになるだろう。

 

 仮面の騎士──てっきり王宮内でも変人扱いされて浮いているものと思っていたが、とんでもないパイプの持ち主らしい。

 窮地を救ってくれたばかりか、こんな強力な味方を連れてきてくれた案内人の加護の力には改めて驚かされる。

 

「ご尽力誠に感謝致します。このご恩はいつか必ずお返しします」

「なに、構わないよ。困っている女性には手を差し伸べる。当然のことをしたまでさ。まぁ、どうしてもと言うなら──」

 

 仮面の騎士は一旦言葉を区切り──キザったらしい仕草をつけて言った。

 

「貴女の名前を教えてくれないかな?可愛いお嬢さん」

 

 ──一瞬何の隠語かと疑った。それくらいに予想の遥か下を行く言葉だった。

 だが、どう考えても言葉通りの意味にしか感じ取れないので、素直に答えることにした。

 

「エステルです。私は、エステル・フォウ・ファイアブランドです」

 

 それを聞いた仮面の騎士はふっと息を吐いて笑みを浮かべる。

 

「エステルか。星という意味だね。良い名前じゃないか」

 

 そして仮面の騎士は立ち上がり、踵を返して扉の方へと歩き出す。

 

「今日はこれにて失礼する。健闘と幸運を祈るよ。あ、食事はちゃんと取るようにね。腹が減っては戦はできぬ、だよ」

 

 仮面の騎士はそう言って扉を閉めた。

 

 ローテーブルに置かれたトレーに目をやると、サンドイッチと紅茶、そして小さな茶菓子が載っている。

 食べ物を見ると急に空腹感を覚えたのでサンドイッチを齧った。

 

 さすがは王宮、上等なパンを使っているらしく、食感はふわふわでほのかな甘みがある。

 夢中でサンドイッチを平らげ、紅茶で流し込んだ。

 

 仮面の騎士が用意した朝食を食べてしまってから時計を確認すると、七時を過ぎた頃だった。

 王妃様との面会まではあと四時間近くもある。 

 歯を磨いて、髪を梳かして、身支度を整えて、証拠書類を確認して──王妃様に会うわけだから入念に準備するにしても、時間が余ってしまいそうだ。

 

 精神を落ち着けるために瞑想でもするとしようか。

 

 

◇◇◇

 

 

 午前十一時。

 

 俺は指定された時間の三十分以上前から十四号応接室で待っていた。

 柱時計が十一時を告げるベルを鳴らしているが、王妃様は現れない。

 公務で忙しいのだろうか。

 

 ──考えても仕方ない。相手が相手だ。

 本来ならば面会などできる立場にない俺には気長に待つことしかできない。

 

『ここにいたのね。その様子だと面会を取り付けられたのかしら?』

 

 不意に声が聞こえたので振り返ると、セルカが窓から入ってきたところだった。

 

「ああ。国王陛下じゃなくて王妃様だけどな。そっちはどうだ?」

『アリージェントは臨戦態勢に移行しているわ。貴女の指示があり次第、屋敷に陸戦隊二個小隊を向かわせられるとのことよ。全く、あの艦長ったら字が読みにくいのよね』

 

 そう言ってセルカは身体から紙を一枚取り出して渡してきた。

 そこには走り書きでセルカが言った通りのことが書かれている。

 

「内通者の方はどうだ?何か分かったか?」

『──トレバーはシロだったわ。過去二週間分の記憶と思念を読み取って調べたけれど、敵に情報を流した様子は一切なかった』

「何?だとすれば誰だ?」

『それは──』

 

 セルカが言い終わる前にこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。そこそこの人数だ。

 セルカは素早く椅子の下に隠れてしまう。

 

 直後に扉が開き、女性が二人、護衛と一緒に入ってきた。

 一人は俺と同じ銀髪碧眼の妙齢の美女、もう一人は編み込んだ金髪に赤い瞳が目を引くメイド服姿の少女。

 まだ会ったこともなければ、名乗られてもいないが、直感で分かった。王妃様と侍女だ。

 

 すぐに立ち上がり、礼をする。

 そしてしまったと思った。今世の俺は貴族令嬢。つまり礼とはお辞儀ではなく、カーテシーである。

 これまでする機会が殆どなかったのと、さっきまでセルカとの話に意識が傾いていたせいで、つい前世のようなお辞儀をしてしまった。

 

 だが、相手は気にした風もなく、「楽にしなさい」と返してきた。

 頭を上げると、王妃様は微笑みを浮かべて自己紹介する。

 

「遅れてしまって申し訳ありません。私はホルファート王国王妃、【ミレーヌ・ラファ・ホルファート】です。こちらは【アンジェリカ】。私の侍女です。貴女はファイアブランド子爵家の長女エステル殿、で間違いないかしら?」

「はい。王妃様。私がエステル・フォウ・ファイアブランドです」

 

 思ったよりも物腰柔らかで話しやすそうな人だ。

 大神官と対面した時に感じた政治家の臭いをまるで感じない。それこそティナと話しているかのような安心感を覚える。

 

 だが──本当におっとりほんわかした人間なら、政治の世界で、しかも頼れる味方もいない状況からのし上がって権力を握ることなどできないはずだ。

 この女神のような柔らかい雰囲気も、相手の警戒心を解いて自分有利に物事を運ぶための演技と考えるべきだろう。

 実際俺は前世で元妻に完全に騙された。雰囲気に惑わされてはいけない。

 

「じゃ、早速貴女のお話を聞かせてくれるかしら?急を要すると聞いているけれど」

 

 王妃様はローテーブルを挟んだ向かい側の椅子に腰掛けて言った。

 俺も腰掛けて、一呼吸置いてから話を始める。

 

「単刀直入に申し上げます。こちらへはオフリー伯爵家が我がファイアブランド子爵家に対して行った不当な侵攻、非合法な手段を以ての攻撃に対する裁決をお願いに参りました」

 

 王妃様の顔つきが変わる。

 笑みが消えて、目の奥に底冷えするような鋭い光が宿る。

 やっぱり。この人も政治家だった。

 

「経緯を説明してもらえるかしら?」

 

 声色までも先程とは明らかに違う。

 

「はい。今回の事態の発端は二ヶ月ほど前、私の父にしてファイアブランド家現当主、テレンスがオフリー家から提案を受けたことです。提案の内容は私をオフリー家の嫡子に嫁がせる代わりに、オフリー家がファイアブランド家への金銭的援助を行うこと。父は私に話を通さずに取引をほぼ取りまとめ、私は事後報告同然の形でそれを知りました。それを知った時、私はその提案に反対し、止めるように父に掛け合いました。オフリー家を信用できなかったからです」

「聞いていた情報と違うわね。ファイアブランド家は近隣の貴族家四家と抗争になり、そこにオフリー家が武力介入したと聞いているけれど」

「──それはオフリー家の流した欺瞞情報です。こちらには確かな証拠があります。この鞄に入れて持参していますので、今ここでお見せできます」

 

 王妃様が頷くと、俺は鞄から親父とオフリー家との間で交わされた書簡を取り出した。

 

「こちらに」

「拝見しましょう」

 

 王妃様は眼鏡を掛けると、一枚ずつ確認していく。

 

「なるほど──続けて」

「私は父にオフリー家との取引を止める条件として、財政再建のための財源を私が用意することを提示し、一ヶ月近くを費やして実現させました。ですがオフリー家は取引の中止を認めず、空賊を雇い、港を攻撃させるという卑劣な脅迫に出ました。この行為はホルファート王国の国法に明確に違反しております。あまつさえオフリー家は、雇った空賊が我が家の軍により殲滅され、空賊とのやり取りが我が家の知るところとなるや、証拠隠滅のため我が家への侵攻を企てました。こちらがその際オフリー家と空賊のやり取りに使われた手紙です」

 

 鞄から証拠書類を出して王妃様に渡すと、彼女はスッと目を細めた。

 さながら獲物の僅かな隙を虎視眈々と狙う肉食獣のような冷徹な表情。元の顔立ちが整っているのもあってかなりの威圧感がある。

 

 手紙を読み終えた王妃様は冷徹な表情のままこちらに質問を投げかけてくる。

 

「いくつか確認します。この手紙はいつ、どこで入手されたのですか?」

「約四週間前、空賊を討伐した直後です。制圧した空賊の飛行船を検分中、私の部下が隠し部屋の棚から発見しました。私もその場におり、現場を見ております」

「なぜこの手紙がオフリー伯爵のものだと断定を?」

「二つあります。一つは筆跡です。先程お渡ししたオフリー・ファイアブランド間のやり取りの手紙と筆跡が一致しました。もう一つはオフリー家の使者による言及です。空賊討伐後にやってきたオフリー家の使者を問い詰めた結果、手紙を含め、空賊討伐で得たもの全てをオフリー家傘下の商会に売却するよう求めてきました。明らかにこの手紙が第三者の手に渡ることを恐れていると考えられます。故に本物のオフリー伯爵の手紙と断定致しました」

 

 王妃様が眉を微かに動かした。

 

「使者の方が言及したのですね?その使者の方が来たのはいつですか?」

「空賊の討伐から十二日後です」

「その際の記録は取ってありますか?」

「はい」

 

 フィーランとかいう使者が来た日にサイラスが取った議事録を渡す。

 

「──なるほど。これが本当ならかなり迂闊な発言をしたわね」

 

 王妃様は更に顔を険しくして呟いた。

 

「他には何かありますか?例えば、捕らえた空賊からオフリー伯爵家との関係を認める証言などは?」

「いいえ。空賊の頭領及び幹部クラスは戦闘により死亡し、捕虜になったのは下っ端の船員ばかりでした。引き出せるような情報は持っていないと判断し、全て処理しました」

 

 王妃様は冷徹な表情を幾ばくか緩めたが、依然難しい顔のまま手を顎に当てて考え込む。

 そして言いにくそうに告げてくる。

 

「それだけではこちらとしても断定は難しいわね。使者が言及したとはいえ、言った言わないの水掛け論になるでしょうし──筆跡が一致するといっても偽造だという反論を否定できる材料がない──心苦しいけれど、この議事録と手紙に決定的と言えるほどの証拠能力はない、と言わざるを得ないわ」

 

 ──何だよそれ。

 侵攻してきた敵軍を撃滅するのに少なくない犠牲を払って、ティナやお袋や弟が攫われかけて、無関係のアーヴリルまで危険に巻き込んで、挙句の果てには街中で襲撃されて、魔法を封じられてロクな抵抗もできないまま殺されかけて、間一髪助かったと思いきや親父を攫われて──それでも必死に守り抜いて、やっとの思いで届けた書類に証拠能力がないだと?

 

 ──ふざけるな。絶対に引き下がらないからな。

 理不尽なことをどうにもならないと諦めるのは前世の最期の時で終わりにしたのだ。

 王妃様相手だろうが、首を縦に振るまでとことん食い下がってやる。

 

「──それらの書類は断じて偽物などではありません。相手が行動で証明しています」

「それはどういうことかしら?」

 

 僅かに身を乗り出してきた王妃様に、俺は証拠書類を確保してから受けた苦難を語って差し上げる。

 

「その書類を確保してから、我々は何度もこの書類を奪取隠滅せんとする敵の襲撃を受けました。一度目は先程申し上げた通り、オフリー軍による侵攻。戦力には絶望的な差がありました。彼らはどこから集めたのか、三十隻を超える大艦隊で押し寄せてきたのです。我が家に味方する者は現れず、我が家は孤立無援のまま苦しい戦いを強いられ、多くの犠牲を払いました。二度目は侵攻してきたオフリー軍を迎撃中、屋敷に所属不明の武装集団が侵入しました。それにより屋敷の番兵二十名以上が死傷し、母と弟、使用人の一人が拉致されかけました。三度目はつい昨日のことです。王都市街地にて二度目の時と同様、謎の武装集団による襲撃を受け、父が攫われました。私も、ある方が助けに入り、この王宮に匿ってくださらなければ同じ運命でした。壁際に追い詰められて銃口を向けられ──空賊から奪った書類はどこかと問いかけられたのを確かに覚えています。彼らが、ひいてはその背後にいるオフリー伯爵がこの書類が本物であると認識していなければ、このようなことは起こり得ないはずです!」

 

 王妃様は片手を口に当てて絶句していた。

 

「そんなことが──大変だったわね。まだアンジェと同じ年でそんな──」

「私が求めているのは同情ではありません。このような卑怯卑劣な行いに及んだオフリー伯爵家に対する裁きと処分を要求しているのです!」

 

 つい語気が荒くなり、しまったと思ったが、次の瞬間雷が落ちた。

 

 

「控えよファイアブランド!!」

 

 

 落としたのは、王妃様の後ろに立っていたアンジェリカというらしいメイド。

 俺と同じ年齢らしいが、声が大きく、眼光は鋭い。なかなかの気迫である。

 

「いいのよアンジェ。とても怖い思いをしたのでしょう。仕方ないわ」

 

 俺を庇ってくれたのは王妃様だった。

 

「取り乱してしまい、申し訳ありません。ですが、私がこうして王妃様に面会し、証拠を届けるまでに尋常ならざる苦労と覚悟があったことをご理解頂きたく存じます。目的のためなら空賊をけしかけることも平気で行う家を相手にしている以上、調停による解決や正規の手続きでの提訴は危険が大きいと判断し、国王陛下に直訴することにしたのです。真っ当な手段でないことは承知ですが、証拠を握り潰されないためにはそれくらいしか取れる手がありませんでした。そしてここまで来て引けば我が家はお終いです。どうか、お願いします。我が家を──ファイアブランド家をお救いください」

 

 涙を浮かべて頭を下げると、王妃様は一瞬得心が行ったような顔をする。

 そしてさっきよりは若干圧が減った真顔で口を開いた。

 

「そういうことだったのね。──分かりました。私の権限で査問会を開き、オフリー伯爵を査問しましょう。処分の如何はその結果で決定することになるでしょう。貴女のことは重要参考人として引き続き王宮で保護し、査問会にも出てもらいます。よろしいですね?」

 

 処分するとの確約は取れなかったが、取調べの場を設けてくれるだけでも成果としては十分か──いや、ここで下手に欲をかいて心証を悪くするわけにはいかない。

 ここはひとまず妥協しよう。

 

「はい。ありがとうございます」

「ごめんなさいね。大物貴族を裁くとなると色々と大変なのよ。強行すれば当然反発も出るし、下手をすればそれが広がって王宮が機能不全に陥る恐れもある。だから入念な準備と根回しが必要なのだけれど、それを貴女に求めるのも酷というものね。恐ろしい目に遭ったばかりなのに。よく耐えてここまで来たわね」

「いえ。事情はお察し致します。そのような事情がある中でのご配慮、感謝の念に堪えません」

 

 王妃様がフォローしてくれる。

 少し──ほんの少し、今までの苦労が報われたような感じがして、気持ちが軽くなる。

 

 だが、俺はお礼を言いつつも次のことを考え始めていた。

 査問会でオフリー伯爵家と黒白を争うことになる以上、それに向けての準備は今のうちからしておかねばならない。今ある証拠だけでは不足だ。

 

 ──やはり見つけなければならない。

 査問会で俺の側に立ってオフリー伯爵家を訴追してくれる人物──それも派閥を率いるような大物貴族を。

 でないと出てくるであろうオフリー伯爵家の属する派閥のボスを抑えることができない。

 

 すぐにトレバーに連絡しなければ。トレバーがシロなら、彼が集めた情報と人脈を利用しない手はない。

 

「ではこれにて、面会を終了します。アンジェ、エステル殿をお部屋までお送りして。終わったら執務室に」

「かしこまりました」

 

 王妃様が護衛と共に出ていくと、アンジェリカは俺に退室を促す。

 

 それに従って応接室を出ると、アンジェリカが扉を閉める。

 

「行きましょう。お荷物をお持ちします」

「どうも」

 

 アンジェリカが手を差し伸べてきたので、鞄を預ける。

 

 そのまま二人で無言のまま俺の客室への道を歩いた。

 さっき取り乱した者とそれを咎めた者で二人きり──気まずい。

 

 王妃様には謝罪したが、アンジェリカにも謝罪しておいた方がいいだろうか。

 考えているうちに客室に着いてしまった。

 

「お荷物はこちらでよろしいですね?」

「はい」

 

 アンジェリカが鞄を荷物置きに置く。

 そしてそのまま立ち去るのかと思いきや──

 

「エステル殿。一つ質問しても?」

 

 真っ直ぐ俺の目を見て問いかけてきた。

 

「──答えられることなら」

「貴女はその年で、その身で、どうして戦いに身を投じている?本来今の貴女がしていることは当主や家臣たちの責務であり、領域であるはず。なのになぜ、貴女はそこにいる?咎めようというのではなく、純粋に知りたい」

 

 その顔は至って真面目で敵意などは感じ取れなかった。

 味方ではないにしても、敵であるということはなさそうだ。

 

「──私が先頭に立ってオフリー家と戦わねば、誰もオフリー家と戦おうとはせず、私にもファイアブランド家にも未来はないと思ったのです。父を含め多くの者たちは援助という目先の餌に目が眩み、私をオフリー家に差し出し、自ら軛をつけられようとしていました。それを拒絶するにはただ反対と叫ぶだけでは不足。行動で示し、結果を出す必要があったのです」

 

 もっともらしいことを言ってみたが、結局のところ嫁に行くのが嫌だったのと、領主の地位が欲しかっただけだ。

 

 だがアンジェリカは納得してしまったのか、表情を緩めて礼を言ってきた。

 

「そうか。ありがとう。時間を取らせてしまった。それでは失礼する」

 

 一礼して去っていくアンジェリカの後ろ姿が、どことなく王妃様に雰囲気が似ている気がしたが──気のせいだろう。

 

 扉を閉めて鍵を掛けると、俺は机に向かった。

 窓の外を見てみると、雨は止んで、雲の隙間から陽の光が差し込んでいた。



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根回し

「それで、結局内通者は誰だったんだ?」

 

 トレバーとアリージェントへの手紙を書く準備をしながらセルカに訊いた。

 

『ニールよ。オフィーリアも関わっているわ』

 

 思わずペンを持つ手に力が込もって、インクが飛び散り、紙に少しシミができてしまった。

 

「──何だと?」

『ニールはオフリー家が所属する派閥の貴族と繋がりがあって、その貴族伝手にオフリー家と接触したようなの。ファイアブランド家に勝ち目はないと思って、貴女を裏切るようオフィーリアを唆していたわ。勝っても負けてもオフリー家やその派閥による報復を受けることになる、そうなればオフィーリアやその子供たちの身も危うい──ってね。トビアスと同じよ。自分たちの保身のために情報を売ったのよ』

「──そうか。やっぱり、親類なんて信用したのが間違いだったな」

 

 ニールは初対面の時からどうも臭いと思ったし、オフィーリアは夕食を共にした時から屑だと思っていたが、その勘が当たった。

 それに俺は知っていたはずだ。前世で俺から逃げるように離れていった親類たちを。血縁関係など人間を信用する材料足り得ないと。

 

 どこにオフリー家の手の者が潜んでいるか分からない王都で、比較的侵入や襲撃を受けにくい安全な拠点としてあの屋敷を滞在先に選んだが、これならアパートかホテルでも取っておくべきだったか?

 

 ──いや、それはそれで厄介なことになっていたか。

 

「まあいい。全て終わったらあいつらには落とし前つけさせてやる」

 

 シミが付いた紙をどけて新しい紙を用意し、手紙を書く。

 トレバー宛てには俺の無事と所在、裏切り者の存在を知らせ、屋敷から退避した上で今まで集めた情報をこちらに返事で寄越すように指示する内容。

 アリージェントには裏切り者の拘束と、親父の奪還のための行動を開始するよう指示する内容。

 そして神殿宛てにも、査問会が開かれるのでオフリー伯爵の訴追に協力してくれるよう要請する内容の手紙を書いた。

 

 トレバー宛てのと神殿宛ての手紙をセルカに持たせ、アリージェント宛ての手紙は仮面の騎士に渡すために取っておく。

 

「セルカ、頼んだ」

『はいな』

 

 セルカが窓を開けて出て行くと、俺は窓を閉めて、一眠りすることにした。

 王妃様と面会できて、証拠書類も預けられてひと段落着いた安堵からか、ベッドに入ってすぐに眠気が襲ってきた。

 

 

◇◇◇

 

 

 王宮の一室で彼は人を待っていた。

 

 その傍らには女性の姿がある。

 

「もう〜陛下を待たせるなんて、イケズな人ですね~。ねぇ陛下、そんな人待つより私と楽しいことしましょうよ〜」

 

 甘ったるい声を発して彼にしなだれかかる女性の頭を撫でながら、彼は言う。

 

「うーん、そうしたいのは山々だが、これは国にとって大事なことなんだ。片付けておかないと君と一緒に過ごす時間も余裕もなくなってしまうくらいにね。だから今日は辛抱しておくれ。また今度楽しませてあげるから」

「むぅ〜──約束ですからね~」

 

 頬を膨らませる女性の背後で扉が開き、渋面の男が一人入ってくる。

 

 慌ててその場を辞した女性と入れ違いに、彼の前に立った男が不機嫌そうに口を開く。

 

「お呼びと聞いて伺いましたが──お邪魔でしたかな?陛下」

「遅かったじゃないかヴィンス。紅茶が冷めてしまったぞ」

「それは申し訳なく。()()()()()()と気が気でなく、足取りも重かったもので」

 

 ヴィンスと呼ばれた男が皮肉を言うが、彼は聞き流す。この程度はただの挨拶だ。

 

「して、ご用件は何でしょうか?」

 

 鋭い目で問いかけるヴィンスに彼は涼しい顔で手札を突きつける。

 

「朗報を聞かせてやろうと思ったまでだよ。オフリー伯爵に空賊と手を組んで他領を脅かした嫌疑が掛かっていてね。近々査問会が開かれる。お前にとっては政敵を叩く良いチャンスだよ。是非出るといい。そのための材料もある」

 

 勧めているようで、その実オフリー伯爵を訴追するよう命令している。

 彼がその言葉と共に差し出した書類を受け取って読んだヴィンスは目を見開いた。

 そこに書かれていた内容もそうだが、そもそも彼がこのような証拠を自分たちの知らないところで手に入れていたこと、そして彼がわざわざ自分に見ず知らずの告発者の肩を持つよう命じてきたことが驚きだったのだ。

 

「告発者は誰です?オフリーの身内ですかな?」

「いいや、中央の政治には何ら関与していないただの田舎領主の娘だよ。他ならぬ彼女がその証拠を王宮に届けてきたのさ」

「──なるほど。彼女の身元の確認は取れているのでしょうね?」

「無論だ。ファイアブランドという名に聞き覚えはあるだろう?」

 

 その家名にヴィンスは眉をピクリと動かした。

 

「──ええありますとも。ですが、私の知る限りでは他家との抗争を起こし、オフリー家に出兵を求めた張本人の一族のはずですが?」

「綻びや抜け穴だらけで、()()に利用されやすい情報網よりも、本人の言葉の方が時として信頼できるものだよ。私はこれまで数多くの女性を見てきたからね。面と向かって話せば相手のことは大体分かるのさ。その娘がどんな人柄か、頭は良いか悪いか、股は緩いかどうか──嘘を吐いているか否かもね」

 

 饒舌に語る彼に、ヴィンスは猜疑心の込もった視線を向ける。

 

「要するに勘ですか」

「勘は馬鹿にならんぞヴィンス。膨大な経験に裏打ちされたものは特にね」

「その経験とやらを得るのにどれだけ時間を割いて(政務をサボって)いらしたのでしょうね」

 

 ヴィンスは額に青筋を浮かべて皮肉を言うが、敢えなく聞き流されてしまう。

 

「とにかく、私の腹は決まっている。オフリーとファイアブランド、どちらが倒れ、どちらが残るのが王国の将来にとって得か──お前も分かってくれると信じているよ」

 

 黙り込むヴィンスをよそに彼はさっさと席を立つ。

 

「それでは私は忙しいのでここらでお暇するよ」

 

 返事も聞かずに扉を開けて外に出て行くかと思いきや──

 

「ああそうだ。ファイアブランドの娘について知りたければお前の娘に訊くといい。お前の娘はこの王宮で彼女に会っている」

 

 顔だけヴィンスの方に向けて、そう告げた。

 

 

 

 部屋に残されたヴィンスは、彼が出て行ってしばらくしてから忌々しげに呟いた。

 

「──らしくないにも程がある。何なのだ?あの入れ込みようは」

 

 正直まるで分からない。

 分からないが──あの怠け者の彼が動く時には何かがある。

 何か、自分が気付いていない重大なこと──それこそ下手をすれば王宮に激震が走るようなことだ。

 認めたくはないが、彼は素行は悪くとも馬鹿ではない。むしろ人並み以上に頭は切れる。

 

 そんな彼が渡してきた書類を見る。

 

(上がってきた情報に間違いがあった?ファイアブランド家がオフリー家に攻め込まれていたのだとしたら──他家との抗争はカモフラージュ──オフリーの欺瞞情報だということか?だがファイアブランド家がオフリー家に擦り寄っていたのも確か──なぜ急に方針を変えた?)

 

 ヴィンスは王宮内最大派閥の領袖だ。

 国中の隅々にまで、とはいかないが広範囲に構築された情報網を持っている。

 オフリー家が軍を動かしたと聞いた時、当然その情報網を使ってその目的を調べた。

 だが、その結果はファイアブランド家がノックス家及びクレイトン家との抗争を起こし、オフリー家に援軍を求めた、というものだった。

 ヴィンスとしては表立って介入する理由もなく静観を決め込んでいたが──その考えの前提となっていた情報が間違っている可能性が出てきた。

 

「再調査を行うべきか」

 

 不可解な点はあるが、オフリー家とファイアブランド家が抗争を隠れ蓑に戦争を行なっていたのなら、その痕跡がどこかに残っているはずだ。

 例えば金の流れにそれは顕著に現れる。

 ファイアブランド家は複数のルートから武器や弾薬、魔石などの物資を大量に買い求めたはずであり、その数だけ売った商人と運んだ飛行船が存在する。

 前回調べた時は見つからなかったか、あるいは報告を揉み消されたルートがあったのだとしたら──そこに真相が隠れているのかもしれない。

 

 そして残る不可解な点は当事者に直接訊けばいい。

 彼の言から察するにファイアブランドの娘は今この王宮のどこかにいる。

 そして娘のアンジェリカは彼女の居場所を知っている。

 

「差し当たり武器を扱う商会でオフリー家に関連のないもの、それと北部で活動している運輸業者を総当たりさせるか。娘の方はアンジェに取り計らわせよう」

 

 考えが纏まったヴィンスは席を立ち、動き出す。

 

 

◇◇◇

 

 

 何となく気配を感じて目が覚めた。

 

 直後にノックの音がする。仮面の騎士が来たようだ。

 

 扉を開けると、朝と同様トレーを持った仮面の騎士がそこにいた。

 

「やあお嬢さん、今度は起きていたね。夕食の時間だよ」

「ありがとうございます。騎士様」

 

 俺が寝ていた間にも来ていたらしいが、起こさないでいてくれたようだ。

 

 仮面の騎士はスープの載ったトレーをローテーブルに置くと、「食べたまえ」と言って俺に着席を促す仕草をする。

 

 従って夕食のスープを頂いている間、仮面の騎士は使用人のようにじっと待機していたが、俺が食べ終わって一息つくと質問を投げかけてきた。

 

「してお嬢さん、王妃様との面会は上手くいったかな?」

「はい。ひとまず成功です。騎士様のおかげです。重ね重ねお礼申し上げます」

 

 仮面の騎士は笑みを浮かべた。

 

「随分難しい言い回しを知っているんだね。だが、上手くいったようで何よりだ。私も奔走した甲斐があるというものだよ」

 

 そう言って、空になったスープ皿を下げる仮面の騎士を呼び止めて、俺はお願いする。

 

「騎士様、もう一つお願いがあるのですが」

「何かな?」

「この手紙を港に停泊している我が家の軍艦に届けて頂きたいのです」

 

 仮面の騎士は仮面の奥で目を見開いた。

 

「おお、ではいよいよ──」

「はい。内通者を捕らえ、父を救出します」

 

 仮面の騎士は大きく頷き、胸をどんと叩いて言う。

 

「では前にも言った通り、私も助力しよう。味方は一人でも多い方がいいだろう?」

「──ええ。お願いします。それからお耳を。接触する際の合言葉をお教えします」

 

 本音を言えばその怪しい格好を何とかして欲しいのだが、黙っておいた。

 

 屈んできた仮面の騎士に合言葉を耳打ちすると、彼は「心得た」と言って立ち上がった。

 

「必ずやお父上を無事に連れ戻してご覧に入れよう。大船に乗ったつもりでいたまえ」

 

 そう言って仮面の騎士は部屋を出て行った。

 

 入れ違いにセルカが姿を現し、計画がうまく行っていることを伝えてくる。

 

『トレバーは既に屋敷を出ているわ。今頃神殿の大神官に手紙を届けようとしている頃でしょうね。襲撃に一切の支障はなしよ』

「よし。あとは逃げられる前に二人を抑えられるかだな」

 

 おそらく屋敷の周りにはオフリー家の手の者が張り込んでいるはずだ。

 彼らがこちらの部隊の接近に早期に気付き、ニールとオフィーリアに知らせれば二人を取り逃がす恐れがある。

 

 だがセルカは「任せて」と言った。

 

『襲撃を決行する時は私も行くわ。屋敷の周囲の監視を潰して、ニールとオフィーリアが逃げたなら追跡する。いいでしょう?』

「ああ。任せるぞ」

『ええ。それとこれ。トレバーからの預かり物よ。オフリー伯爵家が所属している派閥についての情報と、その敵対派閥の主要メンバーについてね』

 

 セルカが取り出した手紙はトレバーからのメモだった。

 走り書きで書いたようで読みにくいが、かなりの数の貴族の名前が書かれている。

 

 宮廷内部の事情などほとんど知らない状態から随分とよく調べ上げてくれたようだ。

 

 取り敢えず敵対派閥の主要メンバーに王妃様か仮面の騎士を通じて面会の場を設けてもらうか。

 査問会が開かれるという情報はまだそれほど広がっていないはずだ。

 オフリー家側に情報が知れて動かれる前に、こちらは準備を整えておくべきだろう。

 

 状況打開の目処が立ったことで思わず吐息が漏れる。

 あとは自分にできることを全力でやるのみだ。

 

『それじゃ、私はアリージェントに行くわね』

 

 そう言ってセルカは窓を開けて出て行った。

 その姿はすぐに夕闇に溶け込んで見えなくなる。

 

 濃い青の中にほんの僅かに残った茜色の空に向かって俺は感謝の念を送る。

 セルカと仮面の騎士を俺に巡りあわせてくれた案内人に届くように。

 

 

◇◇◇

 

 

 王宮の上層階にある執務室。

 

 そこでミレーヌは日が暮れてからも書類仕事を続けていた。

 

 柱時計のベルが鳴ると、アンジェリカが入ってくる。

 

「王妃様、そろそろ夕食のお時間です」

「あら、今日は時間が経つのが早いわね。今日はここまでにしましょうか」

 

 ペンを置いて大きく伸びをするミレーヌ。

 

 アンジェリカは素早くその後ろに移動し、ミレーヌの肩を揉む。

 心なしかいつもよりも凝りがマシに感じられる。

 

 一通りほぐれたと思えたところでミレーヌが「ああそうだ」と切り出した。

 

「アンジェ、貴女に呼び出しがかかっているわ」

「私にですか?」

「ええ。ヴィンス殿からよ。急ぎの話があると」

「父上が私に──」

 

 アンジェリカは目を見開く。

 行儀見習い中の身に過ぎない自分に何の話が来るのか──その疑問に対する心当たりは一つだけだ。

 

「──ファイアブランドか」

 

 おそらくヴィンスはエステルと接触しようとしている。

 オフリー伯爵の査問会を開くとミレーヌが決定したのが今日の昼前。その準備は内々に始まっている。

 そしてそれを聞きつけたヴィンスは、出方を決めるためにエステルから情報を得ようとしている──そう考えられる。

 

 アンジェリカの呟きにミレーヌは真剣な表情で言った。

 

「そう思うのなら、行ってきなさい。ヴィンス殿は六号応接室に居られるわ」

「──はい。それでは失礼致します」

 

 アンジェリカは一礼して執務室を出た。

 

 

 

 ヴィンスがいるという部屋の前には護衛の騎士が二人立っていたが、アンジェリカが彼らに「私だ」と言って顔を見せると、恭しく扉を開ける。

 

 ヴィンスは中でソファーに腰掛けて待っていた。

 

「お呼びでしょうか。父上」

「来たか。楽にしろ」

 

 ヴィンスは向かいのソファーを指し示す。

 

 アンジェリカが腰掛けると、早速ヴィンスは切り出した。

 

「陛下から情報があった。オフリー伯爵の査問会が開かれるそうだな?」

「──はい」

 

 ヴィンスは頷くと、さらに踏み込んだ質問を投げかける。

 

「ファイアブランドの娘がオフリー家の犯罪を王妃様に証拠付きで訴えた。理由はそれで間違いないか?」

「はい。私もその場におり、話を聞いておりました」

「ふむ──アンジェ、お前から見てファイアブランドの娘はどんな人物だった?」

 

 その質問の意図をアンジェリカはすぐには測りかねたが、面会と客室で彼女と話した時のことを思い出して答える。

 

「彼女とは少し話しただけですが、強い信念を持って行動している人物だと感じました」

「強い信念だと?」

「はい。彼女が言うには、彼女の実家は当主から家臣までオフリー家の財力と軍事力を前に萎縮し、彼の家の要求を呑もうとしていたそうです。そのような状況から彼らを説得し、自らも戦いに加わり、そして度重なる襲撃を受けてもなお、挫けずに己が役目を果たそうとするなど──よほどの信念と覚悟がなければできないでしょう。さらに彼女は王妃様を前にしても一切萎縮した様子はなく、そればかりか啖呵を切りさえしました」

 

 アンジェリカの答えにヴィンスは目を細める。

 

「なるほど──他に何か工作の類をしている気配はあったか?」

「いいえ。最初から国王陛下への直訴に目的を絞っていたようです」

「そうか。なりふり構わぬほど追い詰められているか、宮廷政治を知らぬと見えるな」

 

 ヴィンスはため息を吐いた。

 そしてアンジェリカの目を見て神妙な表情で言う。

 

「陛下からは査問会でオフリー伯爵を訴追するように言われた。あのろくでなしがこれまでにないほど入れ込んでいるのがどうにも不思議でな。彼女との間に直接の接触があったようだが、それはいつのことだ?」

「──断定はできませんが、おそらく彼女が王宮に保護された時かと。彼女は謎の武装集団による襲撃を受けて捕まりかけ、ある方が助けに入って王宮に匿ってくれたと言っていました。そのある方が陛下であれば、辻褄は合います」

「ありそうな話だ。飛ぶ鳥懐に入る時は狩人も助く、というわけか。とんだ()()もあったものだな」

 

 忌々しげに吐き捨てたヴィンスは一転して考え込み、落ち着いた声で考えを述べ始めた。

 

「正直な話、私はこの話に乗るメリットは薄いと考えている。割かねばならぬ労力の割に得るものはない、おまけにこちらも火傷を負い、あのろくでなしの一人勝ちになることが予想される」

「それは──どういうことでしょうか」

 

 アンジェリカが質問すると、ヴィンスは若干噛み砕いた説明をする。

 それは将来重要な役目に就く娘への教育にもなることだった。

 

「どうにもファイアブランドの娘は他にも真っ当でない手段を使った気配がする。当主や家臣たちをどうやって説得したのか、戦費や装備をどこから調達したのか、オフリー家相手にどうやって独力で対処し得たのか──確実にそこを突かれ、相殺法に持ち込まれるだろう。我々は名も知れぬ田舎の子爵家一つのために割に合わない手間と出費をかける羽目になるのだ」

「しかし──先に法を犯したのはオフリー伯爵の方では?」

 

 アンジェリカの指摘にヴィンスは「その通りだ」と頷くが、ことはそう単純にはいかないと続けた。

 

「相殺法に持ち込まれた場合、白黒つけるのにも、後始末にも多大な手間がかかるし、トラブルも増える。それに目を瞑ってまでこの話に乗って得られる成果といえば、ファイアブランドに恩を売れるのと、陛下からの皮肉の込もった労いくらいなものだ。相手の派閥は不利と見ればトカゲの尻尾切りに転じるだろう。決定的と言えるほどの打撃は期待できん。お前の将来にもさして何らの影響もありはしないが──お前の考えはどうだ?」

 

 ヴィンスは娘に課題を出した。

 

「──父上、その質問に確信を持ってお答えすることはできかねます。この場で結論を出すには情報が不足しています。先程父上が申されたことは父上の主観であり、客観的な事実ではありません。したがって、戦争中のファイアブランド、オフリー両家の動きに関する詳細な調査を行い、然るのち結論を出すのが良いかと」

 

 娘の回答にヴィンスは一先ず満足する。

 

「定石だな。充分な情報が集まるまで不用意に動くべからず──戦にせよ政争にせよ情報は最も重要だ。──ファイアブランドの娘と話はできるか?」

 

 来たか、とアンジェリカは思わず心の中で呟く。

 

「はい。私と王妃様が彼女のいる部屋を知っています。王妃様の許可を頂いてから面会することになるかと」

「任せるぞ。なるべく急ぐように」

「承知致しました」

 

 アンジェリカが礼をすると、ヴィンスは退室を促す。

 

「よろしい。では、下がってよい」

 

 アンジェリカは急いでその場を辞してミレーヌのもとへ向かった。

 

 

 

「やはり陛下が動いていましたか」

 

 アンジェリカから報告を受けたミレーヌは顎に手を当てて考え込む。

 

 夫である国王がヴィンスにエステルの側についてオフリー伯爵を訴追するよう命じたのは、それで事をうまく運べるという確信があったからだろう。

 日常的に政務を自分や貴族たちに押し付けて女遊びに勤しんでいる駄目な国王だが、いくら美しい娘が困っていたところで勝算もなしに味方するような人物ではない。

 

「陛下は本気でオフリー伯爵を粛清なさるつもりのようですね」

「はい。父は乗り気ではなかったのですが、今回の戦争に関する調査には乗り出している様子でした」

 

 アンジェリカがヴィンスの言から読み取った実家の動向を話すと、ミレーヌは顔を上げた。

 

「よろしいでしょう。陛下の意向に従い、面会を許可します。ただし、機密保持と証人保護のため、時間と場所は私が指定します。アンジェ、貴女にも動いてもらうわよ」

 

 その言葉はミレーヌが国王の意向に従い、オフリー伯爵を訴追する側につくことを意味していた。

 エステルとヴィンスを矢面に立たせ、裏で彼らを支援する形だ。

 

 アンジェリカはそのことに気付いて気持ちを引き締める。

 

「何なりとお申し付けください」

 

 立場や政治的な事情はともかく、心情的にはアンジェリカはエステルの味方だった。

 正直、会ったばかりのエステルのことを尊敬すらしていた。

 

 自分も物心つく頃から将来王妃となるべく英才教育を受けて、国と王室のために尽くすという心持ちを強く持っているが、エステルはそんな自分に勝るとも劣らない故郷への強い愛着と、自らの命を賭して戦う勇気を持ち合わせているように感じたのだ。

 

 国王陛下と自分が仕えるミレーヌがそのエステルに味方している。

 そして調査とエステルとの面会の結果次第で、父と自分の実家も味方することになるだろう。

 

 そこに自分がほんの脇役とはいえ関わることに不思議な高揚感が湧き起こる。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日。

 

 朝食を運んできたのは仮面の騎士ではなく、アンジェリカだった。

 

 彼女は朝食を置くなり、盗聴を警戒してか、抑えた声で話しかけてくる。

 

「エステル殿、重要な話がある」

「はい。何でしょうか?」

 

 アンジェリカが手招きしてきたので少し近くに寄ると、彼女は先程よりもさらに低い声で告げてきた。

 

 

「レッドグレイブ公爵が貴女との面会を求めている」

 

 

 その言葉に思わず目を見開いた。

 

 レッドグレイブ公爵──その名前はトレバーが寄越してきたメモの中にあった。

 たしか、王国で唯一の公爵家の当主にして王宮内で最大の派閥を率いる人物。

 オフリー家が派兵した際に貴族会議でその目的を問い質すなどの行動が見られ、彼の家とは敵対関係にある可能性大、との注釈もついていた。

 

 まさかそんな大物が向こうから接触してくるとは驚きだが──これは僥倖だ。

 

「昨日国王陛下から公爵にオフリー伯爵を訴追するようにとの話があり、貴女の実家とオフリー家との戦争の経緯を調査し始めているらしい。貴女からも事情聴取をしたがっているのだろう」

 

 アンジェリカの言葉で俺は計画がうまくいっていることを確信した。

 王妃様から国王陛下に話が行き、国王陛下がレッドグレイブ公爵を通じてファイアブランド家を支援する判断をした──そう考えて間違いない。

 

 頬が緩むのを自覚するが、アンジェリカの表情は固いままだ。

 

「エステル殿──一つ、忠告しておくが、公爵に対して虚偽は一切述べるな。王妃様への直訴以外にも真っ当でない手段を使ったのならば、それも含めて包み隠さず話されよ。正直に認め、追い詰められてやむにやまれず取った手段だったと主張すれば、先に法を犯したオフリー側に非があるとの主張もできよう。だが下手に隠して後から発覚したのでは、貴女の立場も悪くなる」

「──ご忠告痛み入ります。肝に銘じましょう」

 

 大丈夫。今までも虚偽は述べてこなかったはずだ。

 都合の悪い部分は訊かれなかったので話さなかった。それだけだ。

 訊かれたならば、正直に答えよう。

 

 アンジェリカは頷き、表情を緩めた。

 

「では貴女には今日の昼に王妃様と公爵との会食に出席して頂く。その時またお迎えに上がるのでそのつもりで準備をなされよ」

 

 そう言ってアンジェリカは部屋を出て行った。

 

 俺は急いで朝食をかき込み、身支度を整える。

 

 

◇◇◇

 

 

 アンジェリカは正午を少し過ぎた頃に部屋にやってきた。

 

「準備はよろしいか?」

「はい」

 

 俺の返答にアンジェリカは心なしか満足げに頷く。

 

「では、参りましょう」

 

 アンジェリカが扉を押さえ、俺は部屋の外に出る。

 

 扉を施錠してからアンジェリカが「ご案内します」と言って歩き出す。

 

 アンジェリカの案内に従って向かったそこは、屋上の庭園だった。

 周囲は人払いがされているのか、入口に護衛とメイドが数人ずつ立っているだけだ。

 

 美しく手入れされた植え込みの間を抜けると、そこは東屋のような場所だった。

 装飾の施された柱と屋根だけの簡素な構造の建物からは王都の街並みがよく見えそうだ。

 

 そこに用意されたテーブルに、王妃様と威風堂々とした中年の男性が先に来て座っていた。

 見るからに背が高く鍛えられていそうな体躯に小綺麗なオールバックにした灰色の髪。

 おそらく彼がレッドグレイブ公爵だろう。

 

 その直感はすぐに当たりだと証明された。

 

「王妃様、公爵。エステル殿をお連れしました」

 

 アンジェリカが一礼して告げると、二人がこちらを見て、席を立つ。

 今度は間違えないように一呼吸置いてから、カーテシーでご挨拶する。

 

「エステル・フォウ・ファイアブランドです。お目にかかれて光栄です」

 

 公爵と呼ばれた男性が「楽にしたまえ」と言って、自己紹介を返してきた。

 

「急な呼び出しにも応じてくれてかたじけない。私はレッドグレイブ公爵家現当主、【ヴィンス・ラファ・レッドグレイブ】だ」

 

 微笑みを浮かべてはいるが、その目に宿る眼光は鋭い。

 大神官や王妃様も凄かったが、それ以上の威圧感を感じる。これが公爵の威厳というやつか。

 しかも隣には王妃様までいる。

 

 かつてないほどの緊張感で冷や汗が出そうになるが、ここは正念場だ。気合を入れなければ。

 

 そして信じろ。

 俺には案内人がついている。

 自分ではどうにもならなくなっても、あいつが助けてくれる。

 だから俺は粛々とやることをやるだけだ。

 

 アンジェリカが空いている椅子を引いて、座るように促してくる。

 

 ファイアブランド家と俺の命運を決する静かな戦いが始まる。



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協力者

 エステルが三度セルカを送り出してから一時間ほど経った頃。

 

 港に停泊していたアリージェントの前に現れた彼の姿を見て、歩哨たちが武器を向ける。

 

「止まれ!何者だ!」

 

 彼は落ち着いて両手を上げ、合言葉を口にする。

 

「松明の火が消えてしまいました。火を貸していただけますか?」

 

 だがそれを聞いた歩哨たちはさらに剣呑な空気になる。

 

「──おい貴様、その符牒をどこで聞いた?」

「この前来たのとは違うな。どういうことだ?」

 

 警戒心と猜疑心に満ちた目で問いかけてくる歩哨に、彼は余裕ぶった態度で要件を述べる。

 

「まあまあ落ち着かれよ。符牒はエステル・フォウ・ファイアブランド殿から直接伺いました。訳あって顔は晒せませんが、私はエステル殿の使いです。この艦の艦長殿にお取り次ぎ願いたい。言伝を預かっております」

 

 歩哨たちは納得がいかない表情をしつつも、甲板長を呼んだ。

 

 

 

 艦長室。

 

 レックスは目の前に座る男と彼が届けてきた手紙の内容に困惑していた。

 

 目の前にテーブルを挟んで座る【仮面の騎士】なる男がエステルを王宮に保護した張本人であり、かつテレンスの奪還に助太刀してくれる──そんなことが手紙に書いてあったのだ。

 

「して、貴方方はどう動かれるおつもりかな?」

 

 仮面の騎士が問いかけてくる。

 

「──即座に陸戦隊を出発させ、一隊で屋敷を包囲、もう一隊で屋敷内に突入します」

「ありきたりですな。屋敷の門番や付近に駐留する憲兵隊に話は通しておられるのですか?」

「──それでは奇襲効果が失われてしまいます。今作戦は迅速さと、何よりも隠密性が求められる。情報漏洩はあってはならんことです」

「故にしていないと?無用なトラブルを起こしていては、それこそ奇襲効果を失うかと思いますが?」

 

 仮面の騎士の物言いに苛立ったレックスは目を細めて問いかける。

 

「そう言う貴公は何か代案でもお持ちなのですかな?」

 

 すると仮面騎士はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに大袈裟な身振りで答える。

 

「追い込み漁の要領です。私が屋敷への闖入者を演じ、屋敷の中の人間を追い立てます。その直後に貴方方の兵で素早く裏口ほか脱出経路を抑え、逃げてきた者たちを保護を装って確保。私は憲兵隊に追われる形で離脱し、貴方方は目標を避難という体で拘束し、本艦に連行。その後私も本艦に合流する。憲兵隊には私から話を通しておきましょう。いかがでしょうか?行動には闖入者への対処という大義名分が立ち、兵の半分を突入に割かずに済む。先程の作戦よりも成功率は高いと思いますが?」

「先ほどと言っておられることが矛盾していませんか?我々は隠密性を求めているのです。気取られることなく屋敷に入り、目標を拘束して速やかに離脱。これが最善策でしょう。それに、憲兵隊に話を通しておくなどということができるのですか?そのような確証のない話を信じて作戦を遂行することはできかねます」

「信じて頂くほかありませんな。グダグダ言い合っている時間はない。一つ、私が根拠を示せるとすれば、それは私がエステル様を暗殺者の群れから助け出し、王宮に保護したと言う事実のみ。エステル様の手紙にもそう書いてありましょう。どうか、ご信頼頂きたい」

 

 論戦はその後も十分ほど続いたが、仮面の騎士の終始毅然とした態度での説得にレックスは程なくして折れた。

 

 赤い軍服を着た陸戦隊二個小隊が仮面の騎士と共に小型艇に乗り込んでアリージェントから出撃していった。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド家の屋敷。

 

 その庭の生垣に潜んでいた男の頸にナイフが突き立てられる。

 

 ナイフの刃先は至極あっさりと皮膚を破り、肉を裂き、首の骨の隙間を的確に貫いて声一つ上げさせることなく男の命を奪った。

 

「これで全部、か」

 

 ナイフを引き抜いた男──に融合合体したセルカは素早く治療魔法で殺した男の傷口を塞ぎ、遺体を抱えて運び出す。

 

「こいつらは全員雇い主のもとに返して差し上げないとね」

 

 屋敷の周りを見張っていた犯罪組織の下っ端たちは今身体を()()()()()者を除き、全部で六人。見つからないように処分するのは骨が折れる数だ。

 それにエステルに危害を加えようとした者には()()()をしなければならない。

 

「そうだ。せっかく空間魔法を覚えたことだし、冷凍保存しておきましょうか」

 

 閃いたセルカは遺体を集めておいた場所に六人目の遺体を置くと、物置に向かった。

 

 錠前をあっさりと解錠して侵入すると、空の木箱を一つ、持ち出した。

 

 木箱に空間魔法をかけて中を広げると、六人の遺体を無造作に放り込む。

 そして氷魔法を使って箱の中身を氷で満たした。

 

 これで遺体は氷に閉じ込められたまま何年も腐らない。

 

 テレンス救出作戦が終わったら、彼らを送り込んできた犯罪組織のボスにブービートラップを添えて送りつけてやるつもりである。

 

「さてと。第一段階は終わり。次は彼らをうまくホテルまで誘導しないとね」

 

 セルカはニールから読み取った記憶伝いに幾人もの貴族や犯罪組織の人間を見つけ出してはその記憶を読み取り、現在テレンスが囚われているのは王都中心市街地にある高級ホテルであることを突き止めていた。

 

 テレンスを救出するだけなら自分だけでもできるが、それは禁じ手である。

 彼を救出するのはファイアブランド軍と仮面の騎士でなければならず、そのためには迂遠ながらも然るべき手順を踏まなければならない。

 

「そろそろかしらね」

 

 セルカは頃合いだと思ってサーチすると、満足げに頷いた。

 

「頼んだわよ。仮面の騎士さん」

 

 

 

 仮面の騎士は一足先に屋敷に辿り着き、別の屋敷の屋根の上からの配置を確認していた。

 

「ふむ──正面には門番一人。周囲に他の密偵や物見の類はいない、と。上出来だ。上出来すぎて怖いくらいだな」

 

 そう呟いてランタンを取り出して灯し、合図を送ってから屋根を降りる。

 

「さてと。あまり好みではないが、お嬢さんのためだ。ひとつ、ならず者を演じるとしようか」

 

 仮面の騎士は懐からもう一つ仮面を取り出すと、着けていた仮面と取り替えた。

 そしてマントを払って腰に差した剣を露出させると、そのままずかずかと屋敷の門へと歩いていった。

 

 門番が気付いて銃を構える。

 

「止まれ」

 

 門番の命令に仮面の騎士は立ち止まり、精一杯の低い声で言った。

 

「この屋敷の主人に御目通り願いたい」

 

 すると門番は目を見開き、声を荒げる。

 

「膝をつけ!両手を上げるんだ。ゆっくり」

 

 それを見て、仮面の騎士はゆっくりと両手を上げながらこれ見よがしにため息を吐いて言った。

 

「やれやれ。そう熱くなりなさんなよ。お兄さん」

 

 そして手が肩の高さに達した瞬間、仮面の騎士はマントを払って門番目掛けて投げつける。

 

 マントが地面に落ちた時にはそこに仮面の騎士の姿はなかった。

 

 直後に()()()()口笛の音が聞こえてきて、門番は振り向いて銃を向けた。

 果たして、そこには仮面の騎士がいたが、門番が彼に向けて発砲しようとした時にはもう彼は内懐まで飛び込んできていた。

 

 銃身を掴まれて銃口を逸らされ、放たれた弾は明後日の方向へ飛んでいって窓ガラスを割った。

 

 そのまま仮面の騎士は門番の腹に蹴りを入れて銃を奪い取ると、ストックでこめかみを殴りつけた。

 

 一撃で門番は意識を失い、地面に倒れ伏す。

 

「ふはははは!何と軟弱な!」

 

 倒れた門番を踏みつけて仮面の騎士は高笑いする。

 

 直後、屋敷から悲鳴が上がった。

 

「曲者だ!」

「門番がやられたぞ!」

「誰か!憲兵を早く!」

 

 騒ぎになる屋敷を見て仮面の騎士は満足げに笑い、銃をその場に放り捨てると、剣を抜いて正面玄関に向かって歩き出す。

 

 魔法で肉体を強化しての一閃で重厚な扉を紙切れのように斬り裂き、蹴破って中に侵入すると、武器を構えた男性使用人たちが寝間着のまま走ってくるところだった。

 

 それを仮面の騎士は怯むどころか、仮面の下で獰猛な笑みを浮かべる。

 

「ほう?存外早く出てきたじゃないか。だが甘い!」

 

 踊りかかってきた使用人たちが手にしていた箒や刺股を容易く斬り払い、蹴りや肘打ち、剣の柄での殴打で一分と経たないうちに全員昏倒させる。

 

「この屋敷の主人はどこだ!主人を出せ!!」

 

 屋敷中に響き渡る大声で仮面の騎士は叫ぶ。

 

 

 

「何なのよ!?何がどうなっているの?」

 

 オフィーリアは金切り声を上げて問うた。

 

「不審な男が屋敷に侵入し、門番を倒し、貴女を出せと喚いております。どういうことなのか全く分かりませんが──とにかく逃げませんと」

 

 側に付き添う専属使用人がオフィーリアの手を引いて急かす。

 

 ついさっきまで大きないびきをかいて寝ていたオフィーリアは騒ぎに気付いた専属使用人に叩き起こされ、着替えもそこそこに裏口へ向かって逃げ出していた。

 

「使用人共は何をしているの!?」

「憲兵が来るまで相手を足止めしているはずですが──」

 

 歯切れの悪い返事をする専属使用人は実のところ気付いていた。侵入者に向かっていった使用人たちはすぐに全員倒されたことに。

 そして──すぐに危機が背後に迫ってきたことにも気付く。

 

 

「みぃーつけたぁ!!」

 

 

 楽しげな声が聞こえたかと思うと、暗闇の中に不気味な仮面が浮かび上がる。

 

「お逃げください!こいつは私が!」

 

 専属使用人がオフィーリアを庇う位置に立ち塞がった。

 

 オフィーリアは一瞬逡巡したが、すぐに裏口へ向かって走り出す。

 

「ほう、奴隷にしては随分と忠誠心が高いものだねぇ」

「ほざけ仮面野郎!」

 

 専属使用人は叫んで懐から短剣を取り出し、仮面の男に斬りかかる。

 

 しかし、仮面の男は見事な体捌きで躱し、あっさりと短剣を弾き飛ばした。

 

 専属使用人は諦め悪く、懐に飛び込もうと身を屈めて突進する。

 大ぶりな斬撃を躱し、顎に拳を叩き込もうとした瞬間──

 

「ガハッ!」

 

 横っ面に思い切り蹴りを喰らい、視界が激しく揺れた。

 一瞬意識が遠のき、続いて口の中に鋭い痛みが走る。

 

(くそっ──抜かった)

 

 直後、後頭部への衝撃と共に専属使用人は意識を失った。

 

 

 

「ふむ。聞きしに勝る勇敢さだな。少々意外だ」

 

 仮面の騎士は倒れた専属使用人を一瞥して呟くと、剣を収めた。

 

 裏口が見える窓のところまで行くと、一旦そこで止まり、様子を確認する。

 すると、予定よりもやや早いながらも、陸戦隊に保護されて小型艇に乗り込むオフィーリアの姿が見えた。

 

「さてと──目標その二はニール殿だったな。──見当たらないな」

 

 裏口から出ていく使用人たちの中にニールの姿は確認できない。

 目標を両方とも捕らえたのであれば合図があるはずだが、それもない。

 

 まだ屋敷の中にいるのか──それともまさかこちらの意図を読んで逃げたのか?

 

 そんな疑問が湧いたその時、玄関の方からしゃがれた叫び声が聞こえてきた。

 

「は、放せ!何をする!」

 

 直感でその声の主がニールだと思った仮面の騎士は急いで玄関へと向かう。

 

 果たして、そこにいたのは高級な背広を着た初老の男だった。

 気絶して白目を剥いているが、その容貌は聞いていたニールの特徴と一致する。

 

 仮面の騎士はポケットから気付け薬を取り出すと、気絶した男に嗅がせた。

 

 男が意識を取り戻すと、仮面の騎士は彼の顔を覗き込んで問いかける。

 

「ニール殿、で間違いないかな?」

 

 男は仮面の騎士を見ると驚愕の表情で口を震わせる。

 

「き、貴様は一体──」

 

 瞬間、仮面の騎士の手が男の顎を引っ掴んだ。

 

「質問に答えたまえ。君がニール殿かな?」

「な、なぜそれを──」

「答えたまえ。それとも、指の一つでもなくさないと答えられないかな?」

 

 剣を抜いて見せると、男は「ひっ」と声を漏らして首を縦に振った。

 

「ふむ。君がニール殿か。では話は早い」

 

 その言葉を最後にニールの意識は途切れた。

 

「よし。目標その二も確保完了、と。急いで──」

 

 言い終わらないうちに飛行船の飛び立つ音が聞こえてきた。

 

 外に出て庭の方を見ると、小型艇が飛び去っていくところだった。

 そして通りの方からは大勢の足音が聞こえてくる。憲兵隊がお出ましになる時間が来てしまったようだ。

 

「やれやれ。打ち合わせ通りとはいえ、置いていかれるのは嫌な気分だねえ」

 

 仮面の騎士はぼやいたが、すぐに気絶させたニールを担ぎ上げて移動を開始した。

 

「いたぞ!捕らえろ!」

 

 門のところまで来た憲兵たちが仮面の騎士の姿を見つけて声を上げるが、仮面の騎士は肉体強化を使って走り、屋敷の塀を飛び越えてたちまち姿を消した。

 

 

◇◇◇

 

 

 港。

 

 オフィーリアと屋敷の使用人たちを乗せた小型艇がアリージェントに接舷する。

 

「ここならば安全です。安全が確認されるまでしばらくここに避難していただきます」

 

 護衛の小隊長の言葉にオフィーリアは噛み付く。

 

「何が避難よ!兵隊まで出してたった一人の曲者ごときすぐに始末できないというの?いつまで私をこんなオンボロ船の中に閉じ込めておくつもりよ!」

「お静かに願います」

 

 その場に現れたレックスが低い声で言った。

 

「貴女の身の安全のためです。どうかご理解頂きたく。残してきた一個小隊もしくは憲兵隊からの連絡があるまでここに留まってください」

 

 レックスが合図すると、兵士たちが有無を言わさずオフィーリアを船室へと連行していく。

 

「ちょっと何するのよ!放しなさいよ!話はまだ終わっていないでしょう!」

 

 諦め悪く騒ぐオフィーリアだったが、兵士たちの力には逆らえず、艦内へと押し込まれていった。

 

 その姿が消えてからレックスは小隊長に問いかける。

 

「執事の方はどうした?」

「はっ。それが執事の姿は見当たりませんでした」

「何?」

 

 レックスは眉間に皺を寄せた。

 

「──まずいな。最も重要な容疑者を逃すとは」

 

 焦りを抱くレックスだが、直後にそれを否定する声が響く。

 

『心配ご無用!』

 

 見上げるとマントをはためかせた鎧が一機、降りてくるところだった。

 

 兵士たちが身構えるが、ハッチから姿を現した人物を見て武器を下ろす。

 

「お探しの執事は私が捕らえた。ご安心なされよ。気付けすればお話もできるだろう」

 

 鎧から降りてきた仮面の騎士が、担いでいたニールをレックスたちの前に投げ出した。

 

「ご協力感謝します。彼を営倉へ。直ちに取調の準備にかかれ」

「はっ」

 

 小隊長がニールを担ぎ上げて艦内へと運び、レックスと仮面の騎士も後に続く。

 

 後に残された兵士たちはぼやいた。

 

「この鎧、どうすりゃいいんだ?」

 

 

 

 営倉。

 

「お目覚めかな?」

 

 目を開いたニールにレックスが声をかける。

 

「誰だ君は?ん?な、何だここは!ええい縄を解け!」

 

 周囲を見回し、自分が狭く薄暗い部屋で手足を縛られた状態で椅子に座らされていると悟ったニールは、目の前に座るレックスに対して抗議の声を上げた。

 

 次の瞬間、レックスは強い力でニールの顎を掴む。

 

「立場を分かっていないようだから教えてやろう。貴様は今テレンス様とエステル様をオフリーの手の者に売った裏切り者として捕縛され、これから楽しい取調に臨もうとしているところだ。速やかにこちらの知りたい情報を教えてくれれば痛い思いはせずに済む。どうだ?分かったかな?」

 

 顎が放されると、ニールはすかさず食ってかかる。

 

「ふざけるな!何という言いがかりだ!私は何もしていない!」

 

 直後に椅子が蹴り倒される。

 縛られていてろくに受け身も取れず、床に身体を打ちつけてニールは悲鳴を漏らした。

 

「口の利き方に気を付けろ下衆。今度舐めた口を利いたらただではおかんぞ」

「ま、待て!待ってくれ!私は本当に何も知らん!無実だ!」

「ほう?ならば訊くが、念入りに偽装した馬車がなぜ街中で待ち伏せを受けたのかな?情報を敵に流した者がいなければ説明がつかないと思うのだが?」

「それは──そうかもしれんが、私じゃない!誓って本当だ!」

「そうなのか?ならば命に懸けて誓えるかね?」

「も、もちろんだ」

 

 ニールの答えを聞いたレックスは笑みを浮かべる。

 

 その笑みを見てニールは解放してもらえると期待するが──直後に凍り付くこととなる。

 

「先程オフィーリア様から興味深いお話があってね。何でも貴様がオフリー家との戦いに加担してはならないと必死に訴えたと仰るのだよ。伯爵家を敵に回したファイアブランド家に勝ち目などない、オフィーリア様やご子息の安全と将来も危うくなる、とね。さて、これについてご説明を願おうか」

「な、何だと?オフィーリア様に何をした!そんなデタラメ──」

 

 ニールが言い終わらないうちに、腹にレックスの蹴りが直撃する。

 

 腹を押さえて悶絶するニールを見下ろしてレックスは問いかける。

 

「質問は全部で三つだ。貴様が情報を渡したのはどこの誰か。何の情報をいつ渡したか。そしてどこでどのように受け渡しをしたか、だ。全部答えるまでまともに息ができると思うなよ」

 

 レックスが合図すると、ニールの目の前に水が入った樽が運ばれてきた。

 

「まずは水責めだ。溺れたことがあるなら想像はつくだろうが──苦しいぞ?息ができなくて死ぬ思いだ」

「待ってくれ!本当に違うんだ!話を聞いてくれ!」

「やれ」

 

 指示を受けた甲板長がニールの頭を掴んで水の中に叩き込む。

 

 ろくに息も吸えないまま水の中に叩き込まれたニールは必死でもがくが、それによって僅かな空気をすぐに吐き出してしまい、反射的に水を吸い込んでしまう。

 鼻の奥に走るツンとした痛みと肺が潰れるような圧迫感が続き、意識が朦朧としてきたところで思い切り頭が引き上げられる。

 

 水を吐き出して激しく咳き込むニールにレックスが再び問いかける。

 

「気は変わったかね?」

 

 空気を求める肺のために息を吸うのに必死で、ニールは答えられなかった。

 

「時間切れだ。やれ」

 

 再びニールの頭が水の中に叩き込まれる。

 

 意識を失う寸前まで水に沈め、ギリギリで引き上げるのを一時間ほど繰り返した後、レックスたちはニールを床に放り出して一服する。

 息も絶え絶えで床に横たわるニールの頭に声が響いた。

 

『随分苦しそうね。それなのに全然口を割らないなんて──よっぽど()()が怖いのかしら?」

(──誰だ?なぜそれを──)

『貴方のようなお馬鹿さんに教える義理はないわね。素直に吐けば証人として守ってもらえるのに、意地を張って苦しむ。秘密を守ったところで助かりはしないわよ。いざとなれば貴方を殺して私が代わりに喋るから』

(──何を言っている?)

『信じられない?じゃあ試してみましょうか』

 

 直後に右腕に激痛が走り、一瞬で感覚が失われる。

 そして右腕は勝手に動き、拘束を抜けて喉元へ上がってきたかと思うと、思い切り喉仏を押した。

 

「ぐあっ!」

 

 息を詰まらせてのたうち回るニールにレックスたちが気付き、取り押さえた。

 

「こいつ!目を離した隙に拘束を──」

 

 甲板長がニールの手首を縛り直している間、声は嘲笑うように囁きかける。

 

『分かった?その気になれば身体のどのパーツも──脳すらも奪えるの。ちなみに玄関から逃げようとした貴方を殴り倒した男、あれ実は私が脳を奪って動かしていたのよ。さて、貴方には二つ選択肢をあげるわ。私の言う通りの台詞を喋って楽になるか、さっき話した男みたいに私に脳を奪われて死ぬか。どっちを選んでもいいけれど、死にたくなければ前者をお勧めするわ』

(ッ!何だ?何なんだお前は──)

『あら?そんなこと気にしている暇がおありかしら?尋問が再開されるわよ』

 

 直後、ニールは髪を掴まれて樽の前に立たされる。

 

「さて、休憩は終わりだ。楽しい取調の再開といこう」

「ま、待ってくれ!分かった!分かったから!全部話す!」

「やっとその気になってくれたかね。では座りたまえ。じっくり聞かせてもらおうじゃないか」

 

 甲板長に引っ立てられて椅子に座らされたニールは、頭に響く自分だけに聞こえるらしい声を必死で聞き取って喋った。

 霞む頭を必死で回して、影のようにすぐ後ろを追いかけて──気付けば自分が知らないことまで喋っていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 前菜が片付き、食器が下げられていった直後、レッドグレイブ公爵が俺の方を見て口を開いた。

 

「君が持ち込んだ書類を見せてもらったよ」

 

 俺が王妃様に預けたオフリー伯爵家の犯罪の証拠書類のことを言っているのだろう。

 

「実に驚きだ。あのような明確な証拠を手に入れ、あまつさえ王宮まで届けに来られた者は今までいなかった。──どうやったのか聞かせてもらえるかな?」

「はい」

 

 王妃様とレッドグレイブ公爵の前で、俺は王妃様に話したオフリー家との戦いの経緯を再度話した。

 

 二人は口を挟まずに俺の話を一通り聞いていたが、その表情は固い。

 

 レッドグレイブ公爵が口を開く。

 

「おおよそは分かった。見事な活躍だと称賛したいところだが──いくつか疑問がある」

「──何なりと」

「ではまず、君が如何なる方法でもって当主や非戦派の家臣たちを説得したのか、詳しく聞かせてもらえないかね?」

 

 早速痛いところを突いてきた。

 だが、ここはアンジェリカの忠告に従い、潔く話すべきだろう。

 

「空賊との決戦の前、私は父に対してオフリー家などに借りを作ってはならない、今からでも手を切らなければならないと訴えました。しかし父はファイアブランド家の抱える問題はもはや独力で解決できるものではなく、オフリー家の助けを借りなければ生き残れないと言って譲りませんでした。そこで私は父に軍の指揮権を私に預けることを提案したのです。そうすれば、空賊もオフリー家の軍も、私が指揮を取り適切に対処する。そして全てが片付いた後、ファイアブランド家の抱える問題は私が解決する、と。父は提案を承諾し、軍の指揮権のみならずファイアブランド家の全権を私に移譲しました」

 

 王妃様とレッドグレイブ公爵が目を見開く。

 

「君に家の全権移譲を?それを当主の方からやったというのかね?」

「はい」

「俄には信じられん話だな。家臣たちはそれを止めなかったのかね?」

「はい。反対する者もおりましたが、父は命令として押し切りました。また、艦隊指揮官をはじめとした軍人たちに私と考えを同じくする者が多く、私の支持に回ってくれました」

 

 レッドグレイブ公爵はまだ釈然としないようだったが、それ以上の追及はしてこなかった。

 

「なるほど──説得したのではなく当主自身の命令と軍の支持を盾に家を掌握した──というわけかね。それでは事実上の簒奪だな」

 

 レッドグレイブ公爵の言葉に俺は頷いた。

 

「はい。強引ではありましたが、差し迫った状況下で他に手は──」

「それ以上はよい。その辺りの君の考えや事情は既に聞いている」

 

 俺の言葉を遮って、レッドグレイブ公爵は次の質問を投げかけてくる。

 

「君がファイアブランド家を掌握していたことは分かった。次に知りたいのは君がオフリー家との戦争を遂行し、勝利を収めるために何をしたのかということだ。具体的には武器や戦費はどうやって調達したのか、だな」

「私が冒険で得た宝を換金し、武器弾薬の購入費用並びに艦艇の整備費用に充てました。他の費用については戦時増税で賄う算段です」

 

 するとレッドグレイブ公爵は先程よりも大きく目を見開き、僅かに前のめりになった。

 

「冒険で得た宝、だと?君が冒険に出たのか?」

「はい。さる筋からダンジョンの情報を手に入れ、専属使用人と二人で向かいました」

「二人だけでかね?それはまた随分と大胆なことを──」

「はい。ですが、無事飛行船にいっぱいの財宝を手に入れて戻り、それらを売って得た金で武器を揃えて、オフリー家の軍勢を打ち破ることができました」

 

 レッドグレイブ公爵は半信半疑といった表情で俺を見てしばし絶句していたが──

 

「その話、詳しく聞かせてもらえないかね?」

 

 真剣な、しかし好奇心が抑えられていない表情で言った。最初の威圧感はどこへやら、読み聞かせをせがむ子供のような雰囲気を感じる。

 王国を建国した冒険者を先祖に持つ者として、冒険の話に胸が騒いだのだろうか。

 

 俺はお望み通り冒険譚を語った。

 部屋の窓から抜け出して、倉庫から武器を盗んで自分の鎧に乗って飛び立ったこと。実家の鎧部隊に追撃されて、振り切るために応戦したこと。無人島で一夜を過ごした翌日に飛行船と旅に必要な物資を買うためにアクロイド男爵領に立ち寄って、そこでリックを斬ってアクロイド軍に追われ、盛大な逃走劇の末にアーヴリルと出会ったこと。モンスター共を蹴散らして大墳墓に入り、そこでロボットたちに追い回されたこと。ロボットから逃げた先でセルカと出会ったこと。彼女の助けを借りてロボットたちを倒し、大墳墓から脱出したこと。

 全てを正直に言うわけにはいかず、案内人の加護の光やライチェスとのやりとりのことは伏せたが、それ以外は全部話した。

 

 レッドグレイブ公爵は表情を様々に変化させながら俺の冒険譚に聞き入っていた。

 

『この感触は良好ね』

 

 頭の中に声が響く。

 

(戻ったのか。首尾はどうだ?)

『ばっちりよ。ニールとオフィーリアはアリージェントに確保済み。二人とも()()()()()()()()()であっさりドロを吐いたわ』

(よし。親父の方は?)

『大丈夫。まだ生きているわ。貴女のお父さんの居場所はニールに念話で教えて、彼からの情報提供って形で艦長たちと仮面の騎士に伝えておいたから、今晩にも救出作戦が決行されるでしょうね』

(でかした)

 

 一晩で内通者二人を確保して()()()()()()()()()()、親父の救出の目処も立ったのは上出来だ。

 

 そして冒険の終わり──ファイアブランド領への帰還と家の実権簒奪までを話し終えた俺にレッドグレイブ公爵が質問してくる。

 

「君の言った【セルカ】だったか?その使い魔にした精霊はここに連れてきているのかね?」

「はい。セルカ、姿を見せていいぞ」

 

 直後にセルカが俺の右肩あたりに姿を現した。

 

『お初にお目にかかります。王妃様、公爵様。私がエステル様の使い魔、セルカでございます』

 

 自己紹介し、球体の身体を傾けてお辞儀するセルカに王妃様とレッドグレイブ公爵が目を見開く。

 

「人語を話す精霊など初めて見たな」

「これは──話しているというより頭の中に直接声を届けているかのような──」

『ご賢察の通りです。王妃様。私には発声機能がございません。代わりに心の声を直接相手の心に届けることで意思疎通が可能です』

「なんと!まるで言い伝えに出てくる高位精霊のようだ。封印されていたと言ったね?その前のことは覚えているのかね?」

『はい。朧げではありますが、私を封じた者のことを少し覚えています。いつか封印を解かれることがあったなら、それは貴女の力が必要とされた時。その時貴女はその人の助けになりなさい──確かにそう言っておりました。ですから私は今エステル様にお仕えしているのです』

 

 物憂げな目をしてそう言ったセルカに俺は思わず心の中で突っ込んだ。

 

(そんな話初めて聞いたんだが?)

 

 すかさずセルカが俺にだけ聞こえるように返してくる。

 

『当然よ。所詮彼らの警戒心を解いて同情を誘う出まかせなんだから』

(お、おう──)

『それに、私の力を売り込めれば公爵が味方になってくれる可能性が高まるでしょう?』

(──ああ、そうだな)

 

 俺とセルカの会話が聞こえていないレッドグレイブ公爵は少しがっかりした顔をしていた。

 

「そうか──太古の時代の話を聞けるかとも思ったのだが、残念だ。して、その君の力とはどういうものなのだ?」

『私が認識している限りでは三つあります。一つ目は先程申し上げたように心の声で会話できること。相手の真意を見抜き、交渉時などにおいて有利に立ち回ることを可能とします。二つ目は周囲の景色に溶け込み、隠れられること。どんな斥候よりも高い隠密性をもっていかなる場所にも忍び込むことができます。三つ目は特殊な魔力照射により周囲の情報を把握できること。半径十キロ以内の全ての地形や建物の構造、範囲を半分ほどに絞れば特定の人物の所在をも瞬時に暴き出します』

「──驚異的と言うしかないな。まさに情報収集力の権化ではないか。さぞかし有用な力であっただろうになぜ封じられたのやら──いや、だからこそか?」

『真相は分かりませんが、少なくとも封じた者たちにとっては私の力は使う必要性がなかったということでしょう』

「そうだったとして、一体どんな世界だったのか興味が尽きんな。──いや、失礼。話が逸れてしまったな。それで、君がその冒険に出たというのはいつのことだ?」

「私が父からオフリー家との見合い話を持ち込まれた日です」

 

 俺の答えに王妃様が反応する。

 

「すると、先日貴女が言っていた財政再建のための財源というのはその冒険で得た財宝のことだったのですね?」

「はい」

「なるほど。貴女が冒険に出たことで、当主は貴女をオフリー家に引き渡す目処が立たなくなり、返事を濁しているうちにオフリー家がしびれを切らした──といったところかしら?」

「当主としては取引の要である娘に逃げられたとあっては、面目が立たない。のみならず、オフリーからの大きなペナルティを覚悟せねばならない。その恐怖から隠蔽と先送りに走ったが、それにも限度があった。そして当主が君を探し出して連れ戻す前にオフリー家の堪忍袋の緒が切れた。直後に君が財宝と共に戻ってきた──で、合っているかな?」

「はい。仰る通りです」

 

 王妃様とレッドグレイブ公爵は苦虫を噛み潰したような顔で考え込む。

 

「先に取り決めを違えたのはファイアブランド家の方だったわけか。厄介だな。これではオフリーの主張にも一定の正当性を与えてしまうことになる。実情はともかく、客観的に見れば君の行動はクーデターでもって家を掌握し、家同士の取り決めを反故にさせたものだからね」

「ええ。このことをオフリー家が知っていれば査問会でも確実に派閥による追及があるでしょう。そうなれば、相殺法に持ち込まれることは避けられません。双方の落とし所を探る必要性が生じます」

 

 二人の言葉に反論したのはセルカだった。

 

『それに関しては問題はないかと。私が調べた限りではオフリー側はファイアブランド家が取り決めを違えた経緯については全く知りません。そのため、捕らえたファイアブランド家当主から聞き出そうとしていますが、当主は口を割っていません。そして現在ファイアブランド軍による当主救出作戦が進められており、今日中には奪還できる目処がついています』

「何?」

「もうファイアブランド軍が動いているというのですか?」

『はい。先程申し上げた私の探索能力により、当主の所在は既に把握しております。その情報をもとに動いている次第です』

 

 セルカの言葉に二人が息を呑む。

 

『ですから、この中の誰かが漏らさない限り、真相は藪の中です。よしんば救出前に当主が口を割ったとしても、その事実を知った者が生きて査問会の場に出てこなければ(を抹殺してしまえば)、追及されることもないでしょう』

「──セルカといったね。君も大概過激だな。一体何人の口封じ、口裏合わせをするつもりかね?」

『私の予想では多くとも数人ですが、必要とあらば何人でも。人類共通の敵たる空賊と手を組んだばかりか、正式な宣戦前に先兵として送り込み、破壊工作を行うという越えてはならぬ一線を越えたのは向こうが先。ならばこちらもフェアにやる必要などございません。彼の粗は誇張し、我が粗は隠し、正義は我らにありと知らしめる──戦の常道でございましょう』

 

 するとレッドグレイブ公爵はクツクツと笑い出した。

 

「実に痛快じゃないか。与り知らぬところで勝手に取引のダシに使われ、領地の窮状を盾に生贄となることを迫られて、やったことが冒険に出ること!しかもそれで大成功を収めて、得た財宝でもって代えた武力と従えた最高の配下の力でオフリーを追いつめるとは!まるで絵物語のようじゃないか」

 

 そしてレッドグレイブ公爵は悪どい笑みを浮かべて答える。

 

「絵物語は美しくなければな。その結末に至るまで」

 

 その言葉に俺は思わず身を乗り出した。

 

「ッ!では──」

 

 レッドグレイブ公爵は大きく頷いた。

 

「ああ。参戦させてもらうとしよう。君の始めた戦争にね」



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長い夜が明けるとき

 メインディッシュが片付き、食後の紅茶が用意される頃には、裏取引と呼べるものが俺と王妃様とレッドグレイブ公爵との間で完成していた。

 

 宮廷工作にかかる費用を全てファイアブランド家が負担すること、またファイアブランド家が押さえているオフリー軍の飛行船や鎧、物資を含めた全てのオフリー家の資産についてファイアブランド家は所有権を放棄し、その処分に関しては王宮の決定に従うことを条件に、王妃様とレッドグレイブ公爵はオフリー伯爵訴追への全面協力を約束した。

 

 莫大な戦費と少なくない犠牲を払って、戦利品も賠償も得られず、それどころか更なる持ち出しをさせられる形だが、背に腹は代えられない。

 

「最後に一つ、訊いても構わないかな?」

 

 レッドグレイブ公爵が問いかけてくる。

 

「はい。何なりと」

「未来についてだ。君はオフリー伯爵家による軛を拒み、君自身とファイアブランド家の未来をその手に取り戻して、その先何を目指しているのかな?自らの命を危険に晒してまで守ったのだ、何か大きな夢や目的の類があったのではないのか?それを是非とも聞かせてもらいたいのだ」

 

 ──先日のアンジェリカみたいな質問だな。あれよりもう一段踏み込んできてはいるが。

 大きな夢や目的は確かにある。悪徳領主になって、領地から富を吸い上げて優雅に暮らしながら、暴政に苦しむ民を見て楽しむ、という夢が。その前段階として領地を豊かにし、領民の所得を向上させるという目的が。

 

 さて、どう言えばレッドグレイブ公爵は好印象を抱いてくれるだろうか。

 

 レッドグレイブ公爵のことをまだ深く理解したとは言えないが、彼が俺に肩入れする気になったのは俺が冒険によってお宝を手に入れた実績とその証明であるセルカを見たから、というのは間違いなさそうだ。

 血筋に宿った性か、先祖の偉業への誇りか、自らの力と勇気をもって道を切り開く者をこそ愛し、逆に汚い手を使ってのし上がり、大物貴族に取り入ってのさばる者への軽蔑を持っていると見える。

 

 ならばこちらも冒険者たる先祖のことを織り交ぜて、目的を夢として語れば──

 

「私は、先祖たちの願いを叶えたいのです」

「願い?」

「はい。北方の未開の地を拓き、我がファイアブランド家を興したアンブローズ。その後を継いで領地の発展に尽力し、なおかつ戦で武功も上げてファイアブランド家を子爵家にまで押し上げたロードリック。彼らと彼らを支えた者たちが世を去ってから、ファイアブランド家は凋落しました。慢性的な財政赤字、膨れ上がる債務、政治の腐敗、他家による侵略──誰もそれらに対して有効な手を打てず、長きに渡って富は外へ流出し続け、民は世代を重ねるごとに貧しくなる一方。近頃では深刻な物不足で店には品物が並ばず、闇市が栄える始末です。私はその状況を変えたい。かつて先祖たちが願ったであろう、強く豊かなファイアブランド領──貧困に苦しむことも戦禍に脅かされることもない、希望と誇りを胸に安心して暮らせる領地を、この私の手で作り上げたいのです」

 

 レッドグレイブ公爵は目を見開いて俺の顔をまじまじと見る。

 

「それはつまり──君自身が領主となって領地を再興に導きたい、と?」

「はい」

 

 その目をまっすぐ見つめ返して答える。

 

 レッドグレイブ公爵はしばらくこちらの腹を探るかのように俺の顔を見つめていたが、やがてふっと息を吐いて、言った。

 

「──娘から王妃様に向かって啖呵を切ったと聞いた時も驚いたが、こうして面と向かって話すと更に驚かされるな。私の前でそのようなことを言った者は初めてだよ。愉快だ。実に愉快だよ」

 

 そう言ってレッドグレイブ公爵はからからと笑う。

 

 ──娘?レッドグレイブ公爵の娘になんて会ったか?

 生じたその疑問はすぐに一つの仮説に辿り着く。

 

 俺が王妃様に声を荒げたところを見ていた者は王妃様と侍女のアンジェリカ、それと護衛数人だけだ。

 ならばアンジェリカがレッドグレイブ公爵の娘だろう。

 

 王妃様は彼女が俺と同い年だと言った。

 ならばきっと、彼女と俺は学園でも同級生になるのだろう。

 ここでこのような形で知り合ったことはいずれ役立つかもしれない。人脈というやつはあらゆる場面で重宝するからな。

 学園に行ったら彼女とは仲良くやるとしよう。

 

「恐れ入ります。その節は大変失礼致しました」

 

 王妃様への改めての謝罪、それによるアンジェリカとレッドグレイブ公爵の心証アップの意味も込めて頭を下げる。

 

「それはもういいと言ったでしょう?その話はここで終わり。いいわね」

 

 王妃様が少し慌てた様子で止めに入る。

 

 頭を上げると、レッドグレイブ公爵が微笑みを浮かべて言った。

 

「またいつか──君とこうしてテーブルを囲んで愉快な話をする時が来るような気がするよ」

 

 

 

 会食が終わり、俺はアンジェリカに付き添われて部屋へと戻った。

 

 すぐに机に向かい、トレバーとアリージェントへの手紙を書く。

 トレバーと親父の身柄は王妃様とレッドグレイブ公爵が保護することになったため、二人には王宮まで来てもらわなければならない。

 

 書き上げた手紙をセルカに託して、俺はソファーに腰を下ろした。

 

 あとは良い知らせを待つだけだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 王都中心市街地の高級ホテル。

 

 その地下の下水道に仮面の騎士とファイアブランド軍の兵士たちの姿があった。

 夜間に下水道を通ってホテル内部に入り込み、テレンスを救出するという作戦に従い、下水道を進んできたのだ。

 

 ランタンを掲げた仮面の騎士が通路の行き止まりになっている鉄格子の扉の前で立ち止まって地図を覗き込む。

 

「ふむ。ここで間違いないな」

 

 そう呟いて地図をしまうと、仮面の騎士は剣を抜いて扉の錠前を一太刀で破壊した。

 

「よし、入るぞ」

 

 仮面の騎士が顎で示した扉の先へ兵士たちが足を踏み入れる。

 

 そして背負っていた荷物を下ろし、中から背広と革靴を取り出して身なりを変え始める。

 

 ものの数分で兵士から宿泊客へと変装を完了したファイアブランド軍は仮面の騎士に続いて昇降口も突破すると、二名を脱出路確保のために残し、目的の部屋を目指して通路を足早に進む。

 

 

 

 そこは外から見ると何の変哲もないただの部屋だった。

 

 だが実際には音を外に漏らさない工夫が何重にも施された特別な部屋であり、中で行われていることを外から窺い知ることはできない。

 

 その部屋で椅子に縛り付けられたテレンスは憔悴し切っていた。

 オフリー伯爵の部下たちによる連日の()()()()()にも、オフリー伯爵直々の懐柔にも屈さず、テレンスは黙秘し続けたのである。

 護衛二人は殺され、自分はここに捕まったが、エステルは逃げ延びており、彼らも行方を掴めずにいることを知った時から、テレンスは何の情報も漏らすまいと決めた。

  

 エステルならば自分がいなくとも何か方法を見つけて上手くやるだろうという確信があった。

 今自分を捕らえているオフリー伯爵やその手先共が何だというのか。エステルの方が余程恐ろしい。

 ファイアブランド家にとって不利な情報など吐こうものならどんな報復をしてくるか分かったものではない。

 

 視線をちらりと上げると、さっきまで尋問を行なっていた者たちが煙草を吸いながらトランプに興じていた。

 この窓一つない殺風景な部屋で、一向に口を割らないテレンス相手に尋問を続けるのにも飽きたらしい。

 

「二枚チェンジ」

「あああ!それじゃツーペア壊れますよ!」

「うっせ。俺は自分の勘を信じんだよ」

「あ!さてはハートのフラッシュ狙いですか!」

「ふん、違うな。まだまだだぜお前ら」

「お、スペードの五です」

「あ、これ決まりましたね」

 

 周りの声を無視してリーダー格と思しき狐目の男が涼しい顔でカードを引く。

 

「ストレート。俺の勝ちだな」

「「「えええっ!?」」」

 

 狐目の男が繰り出した手に周囲の部下たちが驚く。

 

「え、どうして三枚じゃなくて二枚チェンジを?」

「あン?ツーペア崩して二枚チェンジすりゃストレートとフラッシュ両方狙えたんだよ。賭け事ってのはおつむの使い方だ」

「「「おお──」」」

「ま、そんなことはどうでもいい。さっさとお前の──」

 

 狐目の男がニヤニヤ笑って約束の賭け金をせしめようと対戦相手に手を差し出した瞬間──飛んできた部屋の扉が対戦相手を直撃して吹っ飛ばした。

 

 何が起こったのか分からず呆気に取られる彼らに背広姿の男たちが次々に襲い掛かり、ナイフや剣を突き立てて仕留めていく。

 

「当たりだな。奴らも間抜けなことをしたものだ」

 

 仮面を着けた白スーツの男がその様子を見て呟くのを見て、狐目の男は襲い掛かってきた集団の正体を察した。

 

「馬鹿な。なぜここが──」

 

 言い終わらないうちに仮面の男が目の前に迫ってくる。

 

 すんでのところで懐に忍ばせていた短剣を抜き、首を狙った斬撃を受け止める。

 予想以上に重い一撃で短剣を持つ手が痺れる。

 

「ほう、この仮面の騎士の一撃を初見で防ぐとはなかなかやるではないか」

 

 素早く距離を取った狐目の男に、仮面の騎士と名乗った男はそう言い放った。

 仮面の下の口元には余裕綽々の笑みを浮かんている。

 

 一瞬で勝てないと悟った狐目の男は壁に向かって走る。

 

 直後に銃声が聞こえ、拳銃弾が自分の身体を貫いたのが分かった。

 それにも構わず狐目の男は壁にある非常ベルのボタンへと走り、拳を思い切り叩きつけた。

 

 ノッカーがベルを乱打し、けたたましい音がホテルに響き渡るのを聞いて、狐目の男は役目を果たしたとばかりに倒れた。

 

「人を呼ばれたか。テレンス殿を担げ!さっさとここから出るぞ」

 

 仮面の騎士が素早く指示を出し、見覚えのある顔がテレンスの方へ駆け寄ってくる。

 確か連れてきていた陸戦隊の小隊長の一人だ。助けが来たのだとテレンスは理解する。

 

「テレンス様!分かりますか?」

 

 呼びかけてくる小隊長にテレンスは頷いて返す。

 

「よし。意識はありますね。もう大丈夫です。俺は右を持つ。お前は左だ!」

「了解!」

 

 小隊長と兵士の一人がテレンスの身体を起こし、二人がかりで抱え上げた。

 部屋を出るテレンスは満足に動かない口を動かして小隊長に問いかける。

 

「エステルは──あいつはどうしている?」

「ご安心を。エステル様は王宮にて保護されております」

「王宮──だと?」

「はい。何でも──あの仮面の騎士という方のご厚意だそうで」

 

 小隊長が見やった先に視線を移すと、先頭に立って進む白スーツに仮面の男がいた。

 

 あの男がエステルを王宮に?一体何者なのかという疑問は当然湧いたが、それを口に出す気力などテレンスにはもはやなかった。

 救出されて、エステルも無事だと聞いて緊張の糸が切れたのか、急激に眠気が襲ってくる。

 

 意識が落ちる寸前、仮面の男がこちらを振り向くのが見えた。

 彼の姿にどこか見覚えがあるような気がしたが、どこで見たのかは分からなかった。

 

 

 

「テレンス様!意識が!」

「落ち着け!気絶なさっただけだ。あまり揺らすなよ」

 

 意識を失ったテレンスを抱えて、通路を元来た方向へと引き返すファイアブランド軍だったが、無情にも行く先から多数の足音が聞こえてくる。

 

「止まれ!」

 

 ホテルの警備員の格好をした男たちが行く手に現れ、拳銃を向けてくる。

 

 だが──

 

「テレンス殿を守れ!」

 

 仮面の騎士がそう叫んで、警備員たち目掛けて突進する。

 

 警備員たちが次々に発砲するが、弾丸は仮面の騎士の前や後ろを掠めるだけで当たらない。

 そのまま仮面の騎士は警備員たちに肉薄し、次々に斬り伏せていく。

 

 内懐に飛び込まれた警備員たちは接近戦用の武器を取り出す暇もなく、一瞬で三人が倒されたが、それ以上は続かなかった。

 四人目が斬撃を見切って躱し、短剣を抜いて仮面の騎士に切りつけた。

 

「ぐっ!」

 

 短剣の鋒が肩を掠め、呻き声を上げる仮面の騎士だったが、即座に床からの斬り上げを繰り出し、相手の短剣を持つ手を切断した。

 

 四人目の警備員が倒れたが、直後に三人の警備員が飛びかかってきて、仮面の騎士は重みに膝をついた。

 

「騎士殿!」

 

 ファイアブランド軍の兵士たちが加勢しようと駆け寄ってくるが、仮面の騎士はそれを拒絶した。

 

「構わず行け!」

 

 そして魔法で肉体を強化し、覆い被さっていた三人の警備員を力ずくで投げ飛ばした。

 

 投げ飛ばされた警備員たちの一人に喉元への刺突をお見舞いし、直後に手首を掴まれ、剣を落とされる。

 

「ッ!馬鹿力め」

 

 毒づいて、仮面の騎士は手首を握り潰されそうな痛みに耐えて腕を振り抜き、手首を掴んでいた警備員を残ったもう一人の警備員目掛けて思い切り投げ飛ばした。

 

 仮面の騎士が警備員三人と取っ組み合っている隙にファイアブランド軍の兵士たちは下水道へと逃げていった。

 

 その姿が通路の奥に消えるのを視界の隅に捉えた仮面の騎士は満足げに笑い、剣を拾い上げて投げ飛ばした二人の警備員の意識を刈り取った。

 

 そして呼吸を整え、近づいてくる新たな脅威に向き直る。

 

「ふぅ、やれやれ。結局貧乏くじを引くのは私というわけか」

 

 最初に現れた警備員は全員倒したが、新たに十人以上の警備員が現れていた。

 否、警備員に扮したオフリー家の手先だと、仮面の騎士は直感で気付いていた。

 

「戦力の逐次投入とは頂けないな。まあそれはいいとして、この先は立入禁止だ。入りたいなら私を倒してからにすることだな」

 

 仮面の騎士の言葉に警備員たちが武器を構える。

 

 再び銃声がホテルの地下に響き渡る。

 

 

◇◇◇

 

 

「これは──」

 

 地下に広がる惨状を見てウェザビーは絶句した。

 

 今朝まで秘密の部屋には捕えられていたテレンス・フォウ・ファイアブランドと見張り兼尋問役の部下たちがいたはずだが──部下たちは全員惨殺されており、テレンスの姿はない。

 そして階段から秘密の部屋にかけての通路には警備員たちの死体が無数に転がっていた。

 

「馬鹿共が。カードなどに現を抜かして魂を抜かれよって」

 

 死体を調べていた隻眼の男が吐き捨てる。

 敵対組織との駆け引きや抗争、それに伴う裏切りや暗殺が日常的に行われる犯罪組織でそれなりの地位に就いていて、常に身の安全に気を遣っている彼からすればあり得ない失態だった。

 

「これは──敵襲、なのか?」

 

 ウェザビーの問いかけに隻眼の男が答える。

 

「それは間違いないでしょう。わざわざこんなことするのはファイアブランドの連中しかいませんよ。使われた得物からするとやったのは大人。まあ大方連中が王都に来る時連れてきた兵隊の仕業でしょうな。あるいは我々の同業か傭兵でも雇ったか」

「──信じられん。なぜここに奴がいると分かったのだ?」

「知りませんよ。よっぽど鼻の利く犬でもいたのではないですか。それよりこれからどうなさるのです?当主はゲロる前に攫われて、娘も古参家臣も見つからず。内通者も潰された。かなりよろしくない状況ですよ」

 

 隻眼の男の問いかけにウェザビーは癇癪玉を爆発させた。

 

「何を他人事のように!あれからたったの二日だぞ!二日で捕らえた当主に逃げられて、情報は引き出せず、書類は回収できていないんだぞ!しかも部下をこんなに殺されて──あ"あ"あ"あ"!」

 

 声を荒げて床を踏みつけるウェザビーに対して隻眼の男は冷ややかな目を向ける。

 

「喚いたところで何にもならんでしょう。ファイアブランドの目と耳と鼻は我々の想像を超えて鋭かった。もはや我らの出る幕はございますまい。王宮のご友人を頼られた方がよろしいかと。それとも、残ったお仲間と一緒に奴らの軍艦に殴り込みでもかけますかな?」

 

 隻眼の男が言わんするところをウェザビーは察した。

 救出されたテレンスが運び込まれた先は港に停泊しているファイアブランド家の軍艦である可能性が高い。

 そこに乾坤一擲の襲撃をかけるか、王宮への書類持ち込みを阻止することは諦めて政治工作で握り潰せることに望みを託すか。

 もはやそれくらいしか取れる手がないと、彼は言っている。

 

 ウェザビーとてその他の手は思いつかない。

 だが、どちらを取ってもその先に良い結果が得られるとは思えなかった。

 

 前者はあまりにリスクが大きい。

 

 見張りについていたファミリーの手の者の情報で位置は分かっているが、その後その者は行方不明になっている。

 隠れていた見張りにすぐに気付いて抹殺するほど警戒している相手に襲撃などかけたところで成功する可能性は低いし、失敗すればこちらに不利な材料を追加で与えることになる。

 

 それに隻眼の男の口ぶりからしてファミリーは協力しないだろう。

 度重なる失敗でファミリーからの信頼が揺らぎ始めているのをウェザビーは感じていた。

 

 では後者はというと──当てにはできない。

 

 既に派兵の失敗でもともと薄氷だった信頼は失われている。

 宮廷工作への協力を取り付けようと方々を当たったが、どこも態度は消極的だった。

 

 派閥の領袖である侯爵に至ってはウェザビーを支援したことをなかったことにしようとしている。

 ファイアブランド家の関係者を捕えるために一定範囲内の魔法の発動を不可能する魔装具を提供した事実はない。侯爵はそう言ってきた。

 それはとりもなおさず、侯爵はオフリー家の行いは一切関知していない、全てオフリー家による軽挙妄動である、という立場を取るつもりであることを意味した。

 

 尤も、侯爵が魔装具を送ってきた事実は本当に存在しなかった(送り主:案内人(仮称))のだが、ウェザビーにはそれを確かめる術はなかった。

 

 とまれ、もはや頼れるところはない。

 

 ──どうすればいい?

 

 ウェザビーは僅か数日で追い詰められていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 アリージェントの隣の桟橋に王宮の紋章が描かれた小型船が接舷する。

 

 その小型船に乗せられるのはテレンスとトレバー、オフィーリアとニールだ。

 

「お気を付けて」

「ご安心を。必ず無事にお連れ致します」

 

 レックスと小型船の船長が敬礼を交わす。

 

「待ったぁぁぁあああ!!」

 

 そこに大声で割り込んでくるのは──

 

「私を忘れないでもらおうか」

 

 仮面の騎士だった。

 白いスーツは返り血で汚れ、所々切り裂かれていたが、目立った負傷はないようだ。

 

 それを見て小型船の船長が何とも言えない顔をする。

 

「はぁ──どうぞお乗りを」

 

 呆れた表情で乗船を促す船長をレックスは怪訝に思ったが、問い詰めることはしなかった。

 

「仮面の騎士殿。ご無事で良かった。貴殿には大いに助けられました。何もお返しができず心苦しいが、最大限の感謝を」

 

 レックスはそう言って帽子を脱いで仮面の騎士に頭を下げた。

 

 仮面の騎士は鷹揚に被りを振って答える。

 

「そう気負われなくともよろしい。私はこの王都の守護者。己の役目を果たしたに過ぎません。では、ごきげんよう」

 

 見事なお辞儀をした後さっとマントを翻し、レックスに背を向けて小型船に乗り込む仮面の騎士。

 その後ろ姿に向かってレックスは頭を下げ続けていた。

 

 

 

 王宮に向かって出発した小型船のブリッジで船長席に座ってくつろぐ仮面の騎士に、船長が呆れた目で問いかける。

 

「今度は一体どんな修羅場に首を突っ込まれたのですか?陛下」

「いや何、ちょいとばかり悪徳貴族に悪さをされている家のお姫様を助けようとしていただけさ」

「──よくご無事でしたね」

「普段ならタキシードの下に鎖帷子を着込むなんて無粋な真似はしないんだが──今回ばかりはそうも言っていられなかったよ」

 

 仮面の騎士がシャツのボタンを一つ外すと、隙間から銀色の金属が顔を覗かせる。

 

「そうですか。でも、戻ったらちゃんとフレッド殿のところへ行ってくださいね」

「あぁ──また小言を言われそうだな」

「自業自得です」

 

 ブリッジで行われたやりとりは誰にも聞かれることはなかった──はずだった。

 

『へぇ──いいこと聞いちゃった』

 

 仮面の騎士のすぐ後ろでセルカがこっそり呟いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 王宮の医務室に運び込まれた親父は宮廷医による手厚い治療を受けた。

 

 そのベッドの横で俺はトレバーと情報交換を行った。

 

「王妃様とレッドグレイブ公爵が協力を?」

「ああ。公爵が今訴追の準備を進めてくれている。近々王宮の調査団も派遣されるそうだ」

「そうでしたか。神殿には返事を濁されておりましたが、そのお二方が協力してくださるなら一安心ですな。よくぞ取り付けてくださいました」

「ふん、どうせ俺たちが有利だと分かったら知らん顔して一枚噛んでくるだろ。あの狸ジジイ(大神官)なら」

「失礼ですよ。エステル様」

 

 トレバーが嗜めてくるが、実際あの大神官は狸ジジイだろう。

 何十年も取り返せなかった聖なる首飾りをお返しし、空賊退治で得た戦利品を献上すると言っても協力を渋っていたし、トレバーからの要請にも返事を濁していたというなら──王宮中枢との橋渡しという依頼にちゃんと応えてくれていたかどうかも怪しいところだ。努力はした、でもその結果は──ってやつだ。

 結果的に仮面の騎士との出会いによって王妃様との面会が実現し、そこからレッドグレイブ公爵の協力を得られたからいいが。

 

「とにもかくにもこれでようやく終わりが見えてきたな」

「ええ。一時はどうなることかと思いましたが──やはり明けない夜はない、ということでしょうな」

「明ける前が一番暗い、も追加だな」

「ふむ、確かにそうですな」

 

 どちらからともなく窓の外を見る。

 

 雲の隙間から何条も光が差し込んでいて、今のファイアブランド家のようだと思った。

 

「ん──あれ?ここは──」

 

 ベッドから寝ぼけた声が聞こえてきた。

 

 見ると、親父が薄っすらと目を開けていた。

 

「テレンス様!」

 

 トレバーがすかさず呼びかける。

 

「──トレバー?」

「はい!トレバーです!」

「ああ──そうだ。軍が来て、助かったのか」

「はい!もう大丈夫です。ここは王宮です。我々は王宮に保護されました」

 

 トレバーの説明を聞いて親父は安堵の溜息を吐いた。

 

「──そういえばエステルは?」

「ここにいるぞ」

 

 親父が俺を探し始めたので、近くに寄って顔を覗き込んだ。

 

「面会はどうなった?陛下には会えたのか?」

「いいや。でも王妃様には面会できた。その伝手でレッドグレイブ公爵を抱き込んで今オフリー伯爵を査問する準備を進めている」

「公爵を?」

 

 親父が目を見開き、難しい顔をする。

 

「仕方なかった。あの書類だけじゃ証拠能力が不充分だった。だから公爵に宮廷工作で協力してもらう必要があったんだ」

 

 説明すると、親父は項垂れたように目を閉じた。

 

 そして目を開いて懸念を口にする。

 

「借りが高くつかないといいがな」

「ふん、オフリー家に借りを作るよりはマシだ」

「──そうか」

 

 親父は言い合う気力もないのか、窓の方を向いてしまう。

 

 そこへ扉が開き、親父の治療を担当した宮廷医が入ってきた。

 

「おお、お目覚めですか」

「はい。フレッド殿の治療のおかげです。本当にありがとうございました」

 

 頭を下げるトレバーに宮廷医は謙遜する。

 

「いえ、テレンス殿の回復力あってこそですよ。それでは、少しお身体の様子を見ますよ」

 

 宮廷医が親父の服をはだけさせ、器具と魔法を使って診察する。

 親父の身体からは無数にあった傷跡が綺麗さっぱり消え失せていた。

 

「うむ。もう大丈夫そうですね」

 

 宮廷医がそう言って器具をしまい、今日一日は安静にするようにと言って退室していった。

 

 代わって入ってきたのは黒いマントを纏った男たちだ。

 

「法院の者です。早速ですが、貴方方から今回の件に関して詳しく話を聞かせて頂きたく存じます」

 

 査問会に向けての取調が始まったようだ。

 

「ええ。何なりとお尋ねください」

 

 ──そう返してから三時間ほど取調は続いた。

 

 しかもその日だけでは終わらず、彼らは連日来て、俺たちは毎回終わった頃にはヘトヘトだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 三週間後。

 

 査問会でオフリー伯爵家に下された判決は取り潰しだった。

 

 元々王宮やレッドグレイブ公爵派閥が集めていた断片的な情報に加え、今回俺が入手した証拠書類とオフリー家、ファイアブランド家の両家に派遣された調査団の報告が決定打となり、有罪が確定した形だ。

 尤も、実際には予想されていた敵対派閥による宮廷工作がなかったのが大きい。

 どうやらオフリー伯爵はとっくに派閥のお仲間から見限られていたらしい。

 

 対してこちらには王妃様と国王陛下にレッドグレイブ公爵の派閥、さらには神殿や中立派までもが加勢してきた。

 レッドグレイブ公爵の派閥がこちらに味方することが知れ渡るや、一緒にオフリー家を美味しく頂こうと首を突っ込んできたのだ。

 

 まるで血の匂いに群がる鮫のような貪欲さに思わず戦慄したね。

 

 とにもかくにもファイアブランド家はオフリー家に勝利した。

 オフリー伯爵家は当主及び跡取りは処刑、一族の者は平民の身分に落とされ、領地と財産は全て没収されることになった。

 遠目に見えたオフリー伯爵の絶望感に染まった顔を見て、前世の自分をチラッと思い出し──そして安堵感が湧き上がった。

 戦争になった時点でどちらかがこうなることは分かっていた。それが俺ではなかった──前世と同じような末路を辿らずに済んだ。むしろ俺の方が敵をその末路に追い込めた。

 

 勝利に漕ぎ着けられたのは協力してくれた人たちと──その人たちと出会わせてくれた案内人のおかげだな。何度か危機にも陥ったが、その度に助けてくれた。

 また感謝を送っておかないとな。

 

 

 

 オフリー伯爵家とその関係者、傘下の商会の処分をめぐって騒がしくなっている王宮の一室で、二人の男がソファーに座って向かい合っていた。

 

「良いことをした後の酒は格別だな。ヴィンス」

 

 そう言って彼は酒を呷る。

 

「呑気なものですな。こちらはあちこち駆けずり回って大忙しでしたよ」

「奇遇だな。私もだよ。学園でダンジョンに挑んでいた時以来の全力疾走と剣戟の連続だった。いやぁ、実に大変だったなあ。かすり傷だったとはいえ、何箇所か負傷してフレッドにも泣かれたし」

「白々しいですね。普段からそれくらい必死で頑張って頂きたいのですが」

「うーん、考えておこう」

 

 皮肉をあっさり躱されたヴィンスは「ふん」と鼻を鳴らして、疑問に思っていたことをぶつける。

 

「しかし陛下、なぜファイアブランドの娘にあそこまで肩入れなさったのですか?提訴を受理して査問会を開くまではいいとして、その後も妙に気前が良かったように思いますが?」

 

 ヴィンスは彼が「今回の戦争で負った被害の補償」と称して、ファイアブランド領に押さえられていた飛行船や鎧、軍需物資をはじめ、オフリー家の資産を一部秘密裏にファイアブランド家に譲渡させたことを知っていた。

 

「なあに、天秤にかけたまでさ。あの娘とオフリー、どちらが残り、躍進するのが王国にとって得か。あの娘はきっといずれ大物になるぞ。あの目を見た時はっきり分かった」

 

 上機嫌に語る彼にヴィンスは疑いの言葉をぶつける。

 

「本当ですか?単に可愛らしい女の子に良い所を見せたかっただけでは?」

「まさか。国王たる私が私情でそんな決定をするわけにもいかないだろう。ただの投資だよ」

「前例のない当主交代をあっさり認めたのもそれだと?」

「無論だ。何事も最初があるものさ」

 

 彼の取ったもう一つの措置──それはエステル・フォウ・ファイアブランドを、学園卒業後に正式にファイアブランド家の当主として認めるというものだった。

 学園を卒業してすぐの、しかも女性を当主として認めるなど前例がない。

 しかし彼はそれをあっさりと認め、その決定は王宮の正式な決定となった。

 

「あの娘が何をして何者になっていくのか、この目でじっくりと見させてもらうとしよう」

 

 そう言って彼は新たに酒を注いだグラスを乾杯するかのように窓に向かって掲げた。

 

 

◇◇◇

 

 

 王都に来てから三ヶ月近くが経って、ファイアブランド領へと帰る日がやってきた。

 

 季節はすっかり冬になり、雪がしんしんと降っていた。

 今頃ファイアブランド領は雪と氷に閉ざされた極寒地獄と化しているだろう。

 

 桟橋には王宮から派遣されてきた護衛と──仮面の騎士が見送りに来ていた。

 

「久しぶりだね。お嬢さん。見ないうちに顔色が良くなったじゃないか」

「騎士様のおかげです。数々のご助力本当にありがとうございました」

「ふふ、よかった。見送りに来た甲斐があったよ。ここでお別れではあるが──風が吹いたらまた会おう」

「はい。必ず」

 

 別れの挨拶を交わし、アリージェントに乗り込むと、船室には行かずに甲板に立った。

 手すきの乗組員と共に登舷礼を行うためだ。

 

 アリージェントが離岸すると、甲板長が笛を吹いて「気を付け」を号令する。

 

 甲板上に乗組員が整列し、合図で一斉に姿勢を正して敬礼する。

 

 桟橋の護衛と仮面の騎士も敬礼を返してきた。

 

 彼らが見えなくなるまで、俺たちは登舷礼を続けていた。

 

 敬礼を解いた俺たちに艦長が言う。

 

「さあ、帰りましょう。我らが故郷へ」

「ああ」

 

 鷹揚に返事を返す。

 

 凱旋の時だ。



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冬の終わり

 凱旋の日は天が空気を読んだのか、爽やかな晴れだった。

 

 港島には大勢の領民が詰めかけて大歓声を上げて入港するアリージェントを迎える。

 

 昇降口から出た俺が領民たちの前に姿を見せると、一際盛大な歓声が上がり、その声は俺の乗った小型艇が港島から離れるまで衰える気配を見せなかった。

 

 二ヶ月半ぶりの屋敷に戻った後、ささやかな戦勝祝賀会が催された。

 

 金がないと勝利も盛大に祝えないと俺は思い知って、何としても領地を豊かにすると決意を新たにした。

 時間はかかるだろうが、必ず成し遂げて、その後税金をたっぷり搾り取って贅沢豪遊してやる。

 

 取り敢えず採掘権が戻った資源と、セルカと組んでの財宝サルベージで稼いで、それで得た金を領内のインフラ整備と資源調査及び開発に投資しよう。

 生産性と技術力の向上による競争力の強化、雇用の創出と内需の拡大──前世で会社の業務効率化だの生産性向上だのを考えていた経験と、聞きかじった経済学の知識が多少は役に立つかもしれない。

 

 そういえばそれで上手くやって大成功するのを「内政チート」というのだったか──前世で新田君が饒舌に語っていたことがあったな。

 まあ、技術水準や産業構造、社会のあり方や人間の価値観すらも、現代日本とはまるで異なる異世界で現代知識がどこまで役に立つのかは分からないが。

 

 ともかく、やれるだけやってやろう。

 この領地の領主は俺だ。王宮から正式に認められるのは学園を卒業してからだが、親父との間に交わした約束は直ちに履行させる。多少強引にしてでもなるべく早くに領地を豊かにしたいからな。

 

 そんなことを思いながら俺は王都で買ってきた葡萄ジュースを引っ掛ける。

 周りはワインの樽を開けて乾杯して飲んでいるのに、俺だけジュースなのが癪に障る。まだ十二歳だから仕方ないことではあるけれども。

 早く生ビールが飲みたい。前世で仕事終わりに飲みに行った時みたいに、ジョッキをカン!と突き合わせて──あれ、楽しかったなぁ。

 

 

 

 祝賀会が終わり、皆がそれぞれの住処へと引き上げていったのは夜もだいぶ更けてからだった。

 

「お疲れ様でした。お嬢様」

 

 俺にはティナが迎えに来てくれた。

 祝賀会では他の使用人に混じって給仕をやっていたせいで一緒にいられなくて残念だったが、その行動と笑顔一つで許せてしまうのだからずるい。

 

「お前もな」

 

 そう返すと、ティナが少し目を見開く。

 

「お嬢様──少し、変わられましたね」

「変わった?どこが?」

「雰囲気、でしょうか。どことなく大きくなられた気がします」

「──そうか」

 

 そう見えたのなら、それは俺が子供の身体だからだろう。

 前世で子供がいたから分かる。子供は本当に成長が早くて、ちょっと見ないうちに様変わりしているものだからな。

 あっという間に言葉を覚えて、立ち上がって、そこら中走り回るようになって、本を読んで、俺が知らないことまでいつの間にか知っていて──やめよう。嫌な記憶が蘇ってしまう。

 

 なぜか口元が緩みそうになるのを引き締めて、ティナの手を握る。

 

「それより、今夜は久しぶりだからさ──したい」

「はい」

 

 ティナはにっこり笑って手を握り返してきた。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日。

 

 今や俺の仕事場になった執務室で、俺は戦後処理に取り掛かっていた。

 

 従軍した者たちの論功行賞、空賊及びオフリー軍から得た戦利品の処分と捕虜の処遇に関する手配、戦死した者たちの遺族への補償、などなど。次々に執務室に届けられる書類を確認してはサインをしていく。

 既に大筋は決めて指示してあり、細かいことは部下たちが規定に則って、あるいは協議の上で決めて書類にまとめているので、俺はそれらを追認するだけだ。

 親父から領主の地位を奪い取ってその椅子に座ったばかりの俺が下手に細かく口出ししても部下たちが反発しかねないしな。

 

 昼まで書類仕事を続けてそろそろ休憩しようかと思っていた頃に扉がノックされた。

 

「失礼、エステル様。お耳に入れたいことが」

「入れ」

 

 入ってきたのは艦隊指揮官の騎士だった。

 

 三角帽子を取って一礼した艦隊指揮官は強張った表情で言った。

 

「投降してきたオフリー軍の指揮官が当家当主に面会したいと言っております。いかがなされますか?」

「何の用があってそんなことを言ってくるんだ?命乞いか?」

「いえ、それはないかと。我々は彼らを虐待などしておりませんし、食事と寝床は充分に与えております。おそらく今後の処遇に関しての陳情と思われます」

 

 陳情だと?解放してくれとでも言うつもりか?生憎と俺はそんなに優しくはない。

 

 オフリー軍によって鎧が三十一機、コルベット三隻、フリゲート二隻が撃墜され、艦隊同士の砲戦で全ての艦が大なり小なり損傷を受け、百人を超える死傷者が出た。

 戦いそのものは勝ったとはいえ、受けた損害は日本円にすれば億でも済まないレベルである。

 

 この損害はオフリー家に賠償請求したいところだが、そのオフリー家は取り潰され、資産は王宮が持っていってしまった。

 一応、昔オフリー家に売られた資源の採掘権が戻ったのと、こちらが押さえている艦艇や鎧、物資などは取りに来るのが面倒だったのか、こちらに譲渡された。だが、その程度では全く釣り合わない。

 

 なので足りない分はオフリー軍の捕虜たちに働いて返してもらうつもりでいる。

 さしあたり資源採掘と港の再整備にでも送り込んでやるか。

 

 却下しようとしたが──ふと思いついた。

 敢えてここは陳情を聞く優しい奴を演じておいて、いざ陳情されたら即答で断り、絶望する相手の顔を見るのも悪くない。

 

「そうだな。聞くだけならタダだ。聞いてやろう。ここに連れてこい」

「はっ。直ちに」

 

 艦隊指揮官は出て行き、しばらくして髭を蓄えた大男と護衛の兵士たちを連れて戻ってきた。

 

 オフリー軍の指揮官だという大男は、収容所に閉じ込められたまま散髪もできなかったのか、髪が伸びて髭も手入れができていなかった。

 

 大男は俺を見て一瞬驚いた表情になるが、すぐに一礼して挨拶をしてくる。

 

「このような見苦しい姿で申し訳ない。私はオフリー伯爵家艦隊指揮官レナード・フォウ・コープと申します。本日は提案があって参りました」

 

 提案だと?

 意表を突かれて俺は思わずコープに問いかける。

 

「どんな提案だ?」

「私を使ってはみませぬか?」

 

 ──は?

 使う?敵将のお前を、俺が?

 

「何のつもりだ?お前は敵将だろうが」

「はい。ですが今の私は仕える主を失った根無草です。もはやどこにも行き場はございません。領に戻ったところで主たるオフリー伯爵は既に亡く、そこには敗将を恨む者たちが残るだけでしょう。もはや貴女だけが頼りです。エステル様。確かに私は貴女の軍に敗れました。ですが、私がオフリー伯爵家において艦隊指揮官を務めてきた経験と知識、技術、そして実際に空賊団と交戦し、勝利してきた実績は本物です。必ずや貴女のお役に立ってみせましょう。どうか、この提案を受け入れて頂けないでしょうか」

 

 頭を下げるコープを俺は鼻で笑って──

 

 

「断る」

 

 

 はっきりと言い放った。

 

「自分の保身のために主君を裏切って敵に降り、主君が負けたと分かると敵に取り入ろうとする。おまけに自分の指揮で戦い、同様に捕虜となった部下たちのことは全く出てこない──そんな奴を私が信用するとでも思ったのか?生憎と私はそういう奴が一番嫌いなんだ」

 

 一度人を裏切った奴は何回でも裏切りよる──というのは誰の言葉だったか。

 コイツのやっていることはまさにそれだ。旗色が悪くなるとすぐに敵に降り、自分の都合で主を変える。

 そんな奴を部下にしたところでいずれまた今回と同じことをするだろう。

 

 それに、コイツが指揮していた艦隊との戦いで多くの犠牲を出した俺の部下たちが、コイツの指揮下で働くなど受け入れるわけがない。

 少なくとも俺が部下たちの立場なら絶対にコイツを信用できないし、何ならコイツを召し抱えた領主を疑う。

 

 つまり、コイツを召し抱えることはいつ爆発するか分からない爆弾を家に置くことに等しい。

 領主の地位を手に入れて、これから領地を発展させていくという時にそんなことできるわけがない。

 

「お、お待ちください!違うのです!これはあくまでも──」

「言い訳は聞かない。さっさとコイツを摘み出せ!」

 

 見苦しく食い下がるコープを遮って、兵士たちに合図をする。

 

「お願いです!エステル様!何卒!何卒お聞き入れを!」

「うるさいぞ貴様!」

「捕虜の分際で生意気な口を叩くな!」

 

 兵士たちに怒鳴られ、両脇を掴まれて連行されていくコープが廊下へと消えていく頃には俺の腹は決まっていた。

 

「シベリア送りだ」

「は?しべりあ?それはどういう意味でしょうか?」

 

 残っていた艦隊指揮官が問いかけてくる。

 

「奴は北方の未開領域の開拓に投入してやる。それまでは取り返した鉱山で働かせておけ。他の捕虜はもういらん。オフリー領に送り返せ」

「はっ。そのように手配致します」

 

 考えてみれば、捕虜たちを働かせるにしても衣食住の確保に給料の支払い、監視体制の維持とかなりのコストがかかる。

 今の段階でそこまでして大勢を抑留しておく余裕はないし、コストを切り詰めて使い潰すにしても、何かの拍子にそれが他所に知られたら悪評が立って面倒なことになりかねない。

 なら、もう釈放してやった方が互いにとって得だ。

 

 敗将として行き場を失ったコープと違って、他の捕虜たちは殆ど何も知らないまま駆り出された下っ端の騎士や兵士──別の仕官先や帰る場所はあるだろう。

 

 全く、時間を無駄にした。

 

 俺は気分直しにティナにお茶の用意を命じて、書類仕事を再開した。

 

 

◇◇◇

 

 

 王都。

 

 その共同墓地の片隅に案内人は立っていた。

 

 逃げた先でオフリー伯爵家取り潰しの報を聞きつけて王都に戻ってきた案内人は、残された怨念の残滓を辿って処刑された当主ウェザビーとその跡取りが葬られた場所を探し当てたのだ。

 

 雪を被った墓標の周囲には黒い霧のようなものが立ち込めていた。

 絶望の中で死んだウェザビーたちの怨念だ。

 

 案内人が怨念に手をかざすと、怨念は案内人の身体に吸い込まれていった。

 

 外から見えていたよりも怨念は強く、膨大だったようで、吸い込んでも吸い込んでも後から後から噴き出してくる。

 エステルの感謝による身体を焼かれるような痛みが和らぎ、力が戻ってくるのが分かる。

 

「お前にはガッカリした。だがお前とお前の仲間たちの絶望と怒りと恨みと悲しみのおかげで少しは力が戻った。もっともっと、お前の一族郎党関係者からも負の感情を集めて──それで私はエステルに復讐する」

 

 怨念を吸い尽くした案内人はその場を去り、次の目的地へと向かう。

 取り潰されたオフリー伯爵家の残党は身分と財産を失って王国各地に散っている。彼らのもとを巡り、負の感情を可能な限り掻き集めなければならない。

 そしてその後は──

 

「私の手で殺せるまでに力を戻すには何年かかるか分からない。今回回収した分は投資に回そう。エステルを倒せそうな奴を見つけて、そいつに力を与え、エステルと敵対するように持っていく。差し当たり強力な手駒を潰された侯爵に、支援者を失った犯罪組織、繋がりのあった外国もいいな。元凶たるファイアブランドの名は既に広まり始めている。彼らがファイアブランド家を敵視し、潰すために動けば、いくらエステルであろうとも──これだ。これでエステルを──ふふふ、せいぜいしばらくの間は勝利に酔いしれているがいい。その先にはとびっきりの地獄を用意してやろう」

 

 ズキズキと痛む胸を押さえ、足取りがおぼつかないながらも案内人は笑みを浮かべる。

 

 その後を犬の形をした光が尾けていく。

 

 

◇◇◇

 

 

 一ヶ月もすると戦後処理もひと段落ついて落ち着きが戻ってきた。

 

 まだ忙しいところもあるが、俺は執務室で優雅にティータイムを楽しむくらいの余裕はできている。

 部下たちが忙しく働く中でノンビリと飲む紅茶は美味いな。

 

「最低の台詞ね」

 

 セルカが()()()()()()()()言ってくる。

 人間に姿を変えられるようになり、声を発し、表情が作れるようになって、テレパシーで会話することはなくなっているが、心の声は変わらず聞こえるらしい。

 

「仕方ないだろ。俺は偉いんだから。というか、随分表情豊かになったじゃないか」

「練習したのよ。表情がなってないとこの顔も美しく見えないでしょう?せっかく貴女の従者になったのだし、貴女に恥はかかせられないわ」

「そうか。それはお疲れさん」

 

 労いの言葉をかけて紅茶を飲み干すと、扉がノックされた。

 

「エステル様。サイラスでございます」

「入れ」

「失礼致します」

 

 サイラスが入ってくると、報告したいことがあると言う。

 

「どうした?」

「ランス様が二人でお話ししたいことがあると仰っています。外でお待ちです」

 

 アーヴリルが?スカウトへの返事だろうか。

 

「分かった。通せ」

 

 サイラスが頷き、アーヴリルが部屋に入ってくる。

 

 そしてサイラスとセルカが出て行き、二人きりになる。

 

「お時間を頂きありがとうございます」

「気にするな。休憩中だったんだ。それで、話したいことって何だ?」

 

 問いかけると、アーヴリルは姿勢を正して頭を下げた。

 

「エステル様──先日の仕官のお誘い、ありがたくお受けさせて頂きたく思います」

 

 やはりだった。

 

 俺は立ち上がり、手を差し出す。

 

「ありがとう。よろしく頼む」

「はい。こちらこそよろしくお願い致します」

 

 アーヴリルが手を握ってきた。

 

 握手が終わって手を離すと、アーヴリルが願い出る。

 

「つきましてはエステル様、私に一週間の暇をください。実家に戻って家族に──妹に事の顛末を聞かせた後、必要な手筈を整えて参ります」

「分かった。飛行船を一隻用意させる。それに乗って行くといい」

「ありがとうございます」

 

 再び頭を下げるアーヴリルに俺は宣告する。

 

「戻ってきたらお前には私の身辺警護に就いてもらう。これからの業務のためにも、一週間で全て片付けてこい」

「はい。必ず」

 

 アーヴリルは力強く頷き、部屋を辞した。

 

 そしてその日のうちに用意させた俺の飛行船に乗って出発していった。

 

 

◇◇◇

 

 

 四月。

 

 雪解けが始まった頃、俺は十三歳になった。前世でいうなら中学一年生。

 

 鏡の前で自分の姿を見て──

 

「──小さい」

 

 思わず不満が漏れた。

 身長は十二歳の時から殆ど伸びていない。

 これから伸びるのかもしれないが、いつになるやら。それまで威厳がまるで感じられないこの姿でいるのはもどかしい。

 

「まあまあ、せっかくの誕生日なんだし、不機嫌でいたらもったいないわよ」

「そうですよ。今日は雪解け祭りもあるんですから」

 

 セルカとティナが窘めてくる。

 その後ろにはファイアブランド家への所属を示す赤い軍服に身を包んだアーヴリルの姿もある。

 

 今この場にいる美女三人の中で一際背が高いアーヴリルに俺は問いかける。

 

「なあアーヴリル。高身長を手に入れるにはどうしたらいい?」

「えぇ?私に訊かれましても──」

 

 たじろぐアーヴリルだが、俺は食い下がる。

 

「何でもいい。何を食べていたとか、何を飲んでいたとか、何か特別な鍛錬をしていたとか──何か覚えていないのか?」

「そう言われましても──魚が大きく丈夫な身体を作ってくれると母に聞いたくらいです。ですが、その──私は魚が苦手でして」

 

 魚なら割と頻繁に食べている。領内に点在する湖で獲れた新鮮なものが入ってくるのだ。

 

 その俺が伸びなくて、魚が苦手なアーヴリルは百八十センチ近い長身。

 やはり遺伝か?遺伝なのか?

 

「駄目かぁ」

「お役に立てず申し訳ありません」

 

 落胆する俺を見てアーヴリルまで俯き気味になる。

 それにしてもこいつ、ここに来てから随分としおらしくなったような気がするな。

 出会った当初は常に何となく張り詰めた空気を纏っていたのに。

 否、おそらく今のが本来の性格なのだろう。

 

「気にするな。俺の背が伸びないのは俺自身の問題だからな」

「きっと成長期が遅いだけよ。きっとこれから伸びるわ。この領地みたいにね」

 

 セルカの言葉通り、冬の間にファイアブランド領は躍進の準備を進めていた。

 四度に渡る財宝サルベージであの沈没船の財宝を取り尽くし、それらを売って得た莫大な資金を投下する公共事業の計画も作成済み。

 あとは動き出すだけだ。

 

「文字通り春が来るってところか」

「ええ。その号令を今日発するのでしょう?雪解け祭りで」

「そうだな」

 

 雪解け祭りは春の訪れを祝うファイアブランド領の伝統行事で、毎年領主も参加している。

 俺にとっては領主として参加する初の行事。そこで俺が新しい領主になったことと、これからのファイアブランド領の躍進を印象付けさせるため、思い切り派手に大規模にやろうと多額の出資をしている。

 

「きっと皆大盛り上がりですね。今日のお嬢様はすごくお綺麗ですから」

「あ、ああ──そうか。ありがとう」

 

 ティナが褒めてくるので取り敢えず礼を言っておく。

 肩甲骨辺りまで伸びた髪を洒落たアップにセットしてくれたのは彼女である。

 おかげで今着ているどこかの民族衣装みたいなカラフルな服も着こなせている──と思う。

 俺はいつものお洒落着でいいやと思っていたが、お袋がせっかくの大きな祭りなのだからと言って渡してきたのだ。何でも四ヶ月かけてお袋が一人で作った上等な服らしく、断れなかった。

 

 元男として自分は何をやっているのだろうかという思いはある。

 だが、何年も女性として生きてきて、こういうおめかしにも抵抗感がなくなってきたのは事実だ。少しずつ、心が女性に近付いているのかもしれない。

 

 以前はそれがとてつもなく怖くて、泣きたくなるくらい嫌だった。

 でも今は──どこか落ち着いて考えられるようになった。この顔も、この身体も、この声も、この髪も、使い方次第で強力な武器になる──そう思えるようにもなった。まだ積極的に使う気にはなれないけどな。

 

 何だかんだで女性として生まれたことを前向きに捉えられるようになりつつあるということなのだろう。

 

 これも数年前にニコラ師匠に貰った言葉のおかげだ。師匠は元気にしているだろうか。

 

 思いを馳せていると、アーヴリルが懐中時計を確認して急かしてくる。

 

「エステル様。そろそろ出発しませんと」

「ああ分かった」

 

 腹を括って部屋を出ると、両親と弟、サイラスに護衛の兵士たちが待っていた。

 

 全員が一瞬息を呑んだのが分かる。

 

「綺麗よ。エステル」

 

 お袋が若干涙ぐみながら褒めてくる。

 

「ありがとう」

 

 他の連中も口々に俺を褒めちぎり始める。

 

「あのエステル様が──このような晴れ姿を見られて感無量ですぞ」

「ええ。よくお似合いです」

「春を迎える祭りにはこれ以上ない装いですな」

「お姉ちゃんすごく綺麗だよ」

 

 むず痒くなるからやめて欲しい──とは言えず、俺は褒め殺しを甘んじて受けた。

 

「さ、では行きましょう」

 

 お袋が馬車を停めた玄関の方を示す。

 

 

 

 祭りが行われる街の広場には既に多くの領民たちが押しかけてきていた。

 

 広場の一端に置かれた舞台で、俺は祭りの開会の挨拶をやることになっている。

 

 アーヴリルに付き添われて舞台に上がると、領民たちが歓声を上げる。

 

 ひとしきり彼らに歓声を上げさせておいてから、手で合図して静かにさせる。

 

 広場が静かになると、俺は口を開く。

 

「ファイアブランドの民たち、よく集まってくれた。私はこのファイアブランド領の新しい領主、エステル・フォウ・ファイアブランド。領地を治める者として、今日この場に立てることを光栄に思う」

 

 ありきたりな挨拶から始まり、俺は過去のことに思いを馳せる。

 

「私が初めて屋敷を出て、この街に来た時のことは昨日のことのように覚えている。その日は夏だったが、冬のように冷たく、寂れた空気が満ちていた。それはこのファイアブランド領が長きに渡って冬の時代にあったからに他ならない。凍てつく雪も氷もない、されど常に懐は寒く、活力を奪われ、領地全体がゆっくりと死に追いやられていく見えない冬に、我々はずっと晒されていた。挙げ句の果てには空賊と伯爵を僭称する者の軍が襲来するという大きな嵐もあった。その全てに我々はただひたすらに耐えた。だが!それももう終わりだ。今年の雪解けに呼応して、長く続いた冬の寒さに縮こまっていたファイアブランド領は立ち上がる。その先に豊かな未来を見据えて歩き出す。かつてこの地に未開の大地を切り開いて、この街を築いた先人たちのように。この雪解け祭りはファイアブランド領に二つの意味で冬の終わり、春の訪れを告げる特別なものとなる。この祭りに集まってくれた全ての者たち、存分に楽しみ、そしてこれからの躍進の時に向けて英気を養って欲しい。これをもって、今年の雪解け祭り開会の挨拶とする」

 

 俺の演説が終わると、先ほどよりも大きな歓声が上がり、空気を震わせる。

 

 舞台から降りてティナたちのところへ戻ると、拍手で出迎えてくれた。

 

「お疲れ様です。お嬢様」

「お疲れ様でした。エステル様」

「お疲れ様。いい演説だったわね」

「当然だ。一晩かけて考えたからな」

 

 今回の演説はセルカの入れ知恵なしで俺が自分で考えた。

 レッドグレイブ公爵に夢の話をした時に比べればこの程度はチョロい。

 

「おかげで大盛り上がりですね。さすがお嬢様です」

 

 ティナの言う通り、広場は活気に包まれていた。

 出店には美味しそうな料理やお菓子が並び、それらを買い求める人々の表情は明るい。

 

 ここ最近物不足はどんどん解消に向かっているとの報告は受けていたが、目の前の光景を見ると実感が湧いてくる。

 

「さ、私たちも行きましょう。せっかくのお祭り、楽しまないと」

 

 セルカが広場の出店の方を指差した。

 

「ああ。そうだな。どれから行こうか」

「それでしたら、あのシナモンロールのお店はいかがでしょうか?本店が最近繁盛していると聞いています」

「いいな。行くか」

「賛成!」

 

 ティナ、セルカ、そしてアーヴリルと一緒に賑やかになった広場に足を踏み入れる。

 

「スタートは順調、か」

 

 思わず口元が緩み、呟きが漏れる。

 

 ここが俺のスタートライン。

 

 これで俺の少女時代(プロローグ)は終わり。

 

 ここから本格的に第二の人生が始まる。

 

 目指すは誰もが恐れる悪徳領主だ。



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幕間
浪漫


 エステルが王都へと出発する少し前。

 

 格納庫では整備員たちがアヴァリスの整備に取り掛かっていた。

 

 天井のクレーンを使って背中の可変式推力偏向翼とラックを取り外し、背部の装甲板を外すと、技師の青年がタラップを上り、剥き出しになった動力部を覗き込む。

 

「どうです?イスマさん」

 

 下でタラップを支える中年の整備班長の問いかけに【イスマ】と呼ばれた技師の青年は目を見開いて答える。

 

「凄いですよ。こんな状態でよく無事に帰って来られたもんです。魔力回路がオーバーロードしてますよこれ」

「何ですと?」

 

 班長も目を見開く。

 

「出撃前の調整時に出力制限を大幅に緩めましたから、こうなるのも不思議はないですけど──でも普通なら今頃焼き切れてますよ。本当にギリギリで保ってます」

 

 魔力回路を取り外す準備に取り掛かりながらイスマが言うと、他の部位を検分していた別の整備員たちも口々に声を上げる。

 

「こっちも相当ですね。ウィング基部の三軸ジョイントが左右とも限界です。どんだけ無茶な飛び方したんだか」

「推進装置もざっと半分ほど要交換ですね。自壊していないのが不思議なくらいですよ」

「関節もキてるっス。一旦手足全部バラさねーと」

 

 結局昼までかかって機体の隅々まで検分して、大掛かりな分解整備を行う必要があると結論づけた整備員たちは、昼食の後に待ち受ける膨大な作業を想像して──笑みを浮かべる。

 

「まあ、こんなになるまで戦ってくれたってことですよね。そんであれだけの戦果を上げられたって聞きゃあ、鼻も高いってもんです」

「たしかに。聞いた話じゃ二回とも先陣切って戦ってたんだってな」

「しかも被弾上等で突っ込んで接近戦やってたって聞きましたよ。そりゃこうも中ズタボロになるのも分かります」

「こんな繊細なじゃじゃ馬乗りこなして、しかも限界まで性能引き出すとか、エステル様は生まれを間違えたんじゃないですかね?」

「違いねえや。騎士家の男にでも生まれてたら今頃どうなってたんだろうな」

「そりゃあもう、トップエースっスよトップエース。んで正規軍からもお呼びが掛かってたりして──」

「そうなりゃもう伝説ですね。鎧一機と己の腕だけで成り上がりってやつ」

 

 笑いが起こるが、イスマだけが神妙な顔で言った。

 

「でも、エステル様がここに生まれていなかったらコイツもこうして日の目を見ることはなかったでしょうね」

 

 整備員たちが静かになり、一斉にアヴァリスの方を見やる。

 

「ま、まあ、たしかにこんなじゃじゃ馬じゃ他に買おうって人なかなかいないですよね」

 

 誰かが苦笑混じりにそう言うと、イスマは遠い目をする。

 

「高性能な機体を求められてそれに全力で応えたら、よりにもよって一番力入れたところをダメ出しされて注文キャンセルですよ。はは、キツかったですね。エステル様が買ってくださらなかったらどうなっていたやら──」

 

 その様子に整備員たちは興味を持つ。

 

「え?そうなんですか?エステル様が特注して作ったって聞きましたけど?」

「いや、今だから言いますけどね、コイツは最初からエステル様のために作られた機体じゃあないんです。というか、受注時点で鎧としては八割方出来上がってました。それにいくつか機能とパーツを付け足して改良と調整をしただけなんですよ」

 

 思わぬ暴露話に整備員たちは生唾を呑み込む。

 

「一体何があったんですか?」

 

 その問いかけに応えて、イスマは語り出す。

 

 

◇◇◇

 

 

【鎧】──それは妥協の芸術と呼ばれる。

 

 精密で繊細な機械である鎧の設計は、高い技能とセンスを要求される芸術的な行為であり、そして妥協の連続だからである。

 機動力、防御力、パワー、積載能力、航続力、隠密性、精密性、快適性──求められる要素は多々あり、それぞれはトレードオフの関係にある。

 また、逃れ得ない宿命として費用対効果の壁が常に立ちはだかる。

 

 例えば、作り手が性能向上のために革新的な機構を盛り込んだ野心的な設計をしても、開発費用がかかり過ぎるだの、機体の価格が高過ぎるだの、整備の手間が増えるだの、優美さや力強さが足りないだのといった理由で、注文がキャンセルされる──そんなことがザラにある。

 

 では、そんな風に情熱と野心を注ぎ込んで作られながら、途中で買い手が手を引いてしまい、未完成のまま宙ぶらりんになった機体はどうなるか。 

 殆どの場合は解体されるか、倉庫で埃を被ることになる。

 未完成の機体を大金を注ぎ込んで買い取って、完成させようとする物好きなどそうはいない。

 ──いなくはないが、そんなことができる金持ちは最初から自分用に特注するため、極めて稀である。

 

 そんな事情があった中で、その機体はその稀な幸運を掴んだ異例中の異例だった。

 元々は正規軍の次世代機開発要求に応えて作られた試作機の一つであり、予算に糸目を付けずに高性能を追求して野心的な新機軸も盛り込んでいたが、そのせいで開発が遅延して費用も嵩み、キャンセルとなってしまった。

 だが、機体に強い思い入れがあった職人たちが、諦め悪く営業畑の伝手を使って買い手を募集したところ、奇跡的に別の買い手が名乗りを上げたのである。

 

 

 

「ほう、これは中々興味深いですな」

「おお、興味を持って頂けましたかニコラ様!」

 

 機体を目にした顧客【ニコラ】の言葉と表情に主任の技師が手応えを感じて、熱弁を振るう。

 

「この機体は我々の理想を全て盛り込んだ、まさに造りたい機体そのものです。鉄壁の防御!搭乗者の安全確保を最優先とし、搭乗者を必ず生かして還すことを目指しました。昨今巷では、銃火器の進歩によって向上した攻撃力の前には装甲防御など無意味、徹底的な小型軽量化によって機動性を上げて、敵弾を回避する方が生存性はむしろ上がり(当たらなければどうということはない)合理的──などという妄言がまかり通っておりますが、そんな妄言を吹聴する連中は実際の空中戦における脅威を分かっておらんのです。実戦において飛んでくるのは目の前の敵が放つ弾だけではない。気付かぬうちに上や背後を取られて不意打ちを喰らうこともありますし、流れ弾や破片、飛行船や地上からの対空射撃も飛んできます。その全てを躱すなど到底無理な話です。装甲防御はそういった認識外の脅威によって命を奪われる危険を減らすためにあります。機動性の優越がもたらす利点は我々も認識しておりますが、それは防御力と引き換えにするのではなく、動力の強化によって成し遂げるべきなのです。我々はそのことを念頭に置いて設計を行い、コックピットと動力部の装甲防御を堅持しました。その上で、現行機に対抗できるだけの機動性を確保するため、新素材を用いてフレーム及び腕部と脚部を軽量化。それに加え──」

 

 主任が機体の背後に移動し、背中に取り付けられたマントのような部品を指差した。

 

「この追加加速装置と推力偏向装置を兼ねたウィングを搭載しました。このウィングの制御には習熟を要し、整備の手間もかかりますが、それに見合う効果があると大いに自負するところでございます。まず何と言ってもその加速力。それがもたらす運動性能は現行機を大きく凌駕すること間違いありません。現に推進装置の試運転では──」

 

 饒舌に語る主任とニコラをイスマは冷めた目で見ていた。

 

 最初に軍関係者がこの機体を見に来た時、イスマは主任と一緒になってこの機体がいかに素晴らしい性能と革新的な機構を持っているか饒舌に語って、そして「使えん」と冷たく一蹴された。

 

 ショックだった。

 動力部とウィング、そして両者を繋ぐ魔力回路の組み上げという大役を初めて任されて、見事成功させたことに対して抱いていた誇りと達成感が、その一言で踏み躙られたと感じた。

 技術者にはよくあることだと聞いて知ってはいたが、心では納得できなかった。そして心にできたしこりは今も喉に刺さった魚の骨のように残り続けている。

 

 ──端的に言って、イスマは伸びた鼻を圧し折られて拗ねていた。

 

 どうせ顧客はこちらの意図や工夫なんて分かってはくれないのだ。

 高性能と低価格という二律背反をさも当たり前のように押し付けてくるわ、当初聞いていなかった要求を後から追加で言ってくるわ、それが原因で遅れが出れば頭ごなしに叱責してくるわ──馬鹿で、頑迷で、理解や忍耐とはほぼ無縁。

 正規軍の関係者ですらそうなのだ。貴族となればさらに酷いであろうことは容易に想像できる。

 どうせ今回も扱き下ろされるか、あるいは鑑賞用として買い叩こうとされるんじゃないのか──

 

 しかし、そんなイスマの予想に反してニコラの反応は好意的だった。

 

 

「素晴らしい!!」

 

 

 目を輝かせて手を打つニコラに主任が感動した顔になる。

 

「分かって頂けましたか!」

「もちろんですとも!この機体はまさに我が主の求めておられる機体です!」

「なんと!そのようなことを仰って頂けるとは感無量です!」

 

 そのままニコラと主任は機体の開発にまつわる話に移り、やがて他の技師たちも加わっていった。

 

 そしてイスマは主任によって腕を掴まれ、ニコラの前に引きずり出されてしまう。

 

「こいつです。動力部とウィングの組み上げと魔力回路の配線なんかはこいつがほとんど一人でやったんですよ」

「ほぉ、それは凄い。若くして才能に溢れていらっしゃるようですな」

「ど、どうも」

 

 驚きの表情でまじまじと顔を覗き込まれて、イスマは思わず照れて目を逸らした。

 

 代わりに主任がイスマの働きぶりを熱弁する。

 

 感心するニコラに他の技師たちもイスマについて語り出す。

 

「こいつは元々男爵家の坊ちゃんなんですが、鎧に並々ならん情熱を持っていましてね。学園にいた頃からウチの工場に出入りしてたんです。こまっしゃくれたガキが今じゃウチの若手のエースですよ」

「最初に来た時は傑作だったよな。勝手に入り込んでしれっと工作機械弄ってるとこ主任に見つかって、『四十秒で言い訳しな』って言われて何て答えたと思います?『自分の鎧を作ってるけど、学園の設備じゃ作れない部品があるからちょっと使わせてもらってた』ですよ。もう皆唖然でしたよ」

「そんで親方のとこに突き出したら『見込みがある』って気に入られちゃってねえ──それ以来毎日のように入り浸るようになって」

「気が付きゃ普通に設計室で図面引いてたっスよね」

「朝来たら計算尺持って図面と睨めっこしてるこいつがいた時はたまげたよなあ」

「あー──そういうこともありましたね。はは──」

 

 苦笑いするイスマを見て、主任が「思い出したぞ」と言ってその後日談を話す。

 

「そんでその次の週には描き上げた図面を持ってきて『これ作りたいので工作機械新調しましょうよ』って親方に直訴してたんですよ」

「何と!そんなことを?」

「ええ。その時は却下されたんですが、こいつはそれはもうしつこく食い下がりましてね。その執念が他の若衆に伝染って、親方も四回目くらいの説得で折れて新型の工作機械を入れたんですよ」

「あん時ァ親方相当やつれてたよな。導入許可の申請と出資者探しで忙しかったし」

「俺たちもあちこち駆けずり回って頭下げたっけな」

「おかげでこの工場でも面白えモンが色々作れるようになりました。まあ、売れ行きはさっぱりですがね。でも、正規軍の開発計画にお呼びがかかるくらいにはなりましたし、まだまだこれからですよ」

 

 そして話はイスマが熱を上げた新技術に移る。

 

「ウチは開発にかけちゃニュービーっスけど、だからこその強みもあるっスからね。新技術も新素材もバンバン取り入れてアバンギャルドなの作ろうぜーってやってたら、こんなウィングまで作れるようになっちゃって──たぶんウチだけっスよこんなの作れんの」

「それは凄いですな。こんな精密なものを作るのはさぞかし大変だったでしょう」

「まあそこは情熱と頭脳と技術者魂でですね──」

「いやいや普通に新しい工作機械のおかげだろ。もうコイツじゃなきゃいけない~っつってたの誰だっけ?」

 

 ツッコミに笑いが起こる。

 

 その笑いが収まったところで一人の技師が切り出した。

 

「実は試作だけならもっと凄いのもあるんですよ。四分割構造で操作はさらに難しくなりますが、その分以上に加速力と機動性は高くなります。それこそやろうと思えば直角に方向転換とか速度も高度も変えずに宙返りとか、色々意表を突く飛び方もできるんですよ。ま、さすがに浪漫の域ですがね」

「何ですと!それ、是非ともお付けしてもらえませんかな?」

「「「え?」」」

 

 ニコラの思わぬ要望にその場は静まり返る。

 

「我が主はできる限り高性能の機体をお望みです。更なる高性能を見込める手段があるのであれば、是非ともお願いしたい」

 

 その言葉で盛り上がっていた技師たちは一気に冷静になる。

 

「あの、言いにくいんですけどこれ本当に制御するの不可能ですよ?」

「そうですよ。どうやっても制御ができないから試作止まりなんです。悪いことは言いませんから今の仕様で完成させた方がいいですよ」

「それにこれ、めちゃくちゃ魔力を食うんです。今の状態で載っけてもパワー不足でまともに動きませんよ。動力部と魔力回路を作り直さないことには──」

「ではその作り直しをした上で搭載をお願いしたい。予算は惜しみません。皆さんの技術は他にはない素晴らしいものです。その全てを注ぎ込み、限界に挑戦し、最高傑作と呼べる性能のものを私は求めております。制御にしても心配はしておりません。我が主【エステル】様はまさに神童と呼ぶに相応しい才をお持ちです。必ずや習得できましょう」

「そうは仰られましても──」

 

 譲らないニコラに技師たちが困り果てるが──一人、やる気を見せる者がいた。

 

 

「やります」

 

 

 全員の視線が発言者──イスマに集まる。

 

「え、いやお前何言って──」

 

 誰かが発した言葉を遮って、イスマは言う。

 

「技術を求めてくださる方の要望に全力でお応えするのが技術者の本懐──その心構えを叩き込んでくださったのは先輩方です。俺はそれに従います」

「お前──」

 

 驚く技師たちを後目にイスマはニコラの方に向き直る。

 

「この機体を鑑賞用ではなく、高性能な鎧として求めてくださったのは貴方が初めてです。俺、それが凄く、嬉しかったんです。こんなに嬉しいと思ったの、初めてなんです。だから俺、絶対にこいつを最高傑作として完成させます!」

 

 イスマの力強い宣言にニコラは破顔した。

 

「おお、それは頼もしい!期待させて頂きますぞ。イスマ殿」

 

 そう言ってイスマの手を握るニコラに技師たちも吹っ切れたのか、次々に同調の言葉を口にする。

 

「引っ込み思案なこいつがここまで言うんじゃ、俺たちも負けてられねーな」

「負うた子に教えられるってやつかなこりゃ」

「ニコラさん、いいんですね?本当に全部詰め込んじゃいますよ?」

「ええ。よろしくお願いします」

 

 微笑むニコラにイスマをはじめ技師たちはやる気を漲らせる。

 

 

◇◇◇

 

 

 四ヶ月後。

 

「いやぁ──今更だけど随分と豪勢に盛り付けちまったな」

 

 完成した鎧を見て技師の一人が呟いた。

 

 試作だけに終わったはずの四分割構造のウィング──【可変式推力偏向翼】を搭載するために動力部と魔力回路をより強力なものに作り直し、フレームも一部強化する。

 当初の予定ではそれだけだったのが、ニコラの飽くなき高性能追求により、装備品は大幅に増え、工期も当初の予定の倍以上にまで延びてしまった。

 

 まず可変式推力偏向翼の挙動を見たニコラが操縦系統は応答性を優先したものにして欲しいとの注文を付けたことで、コックピットの改修まで行うことになり、魔導伝導率の高い希少金属を使って作り直すことになった。

 そしていざ動作テストを行なってみると、十分と経たずに動力部がオーバーヒートを起こして発火する事故が起こり、分析の結果冷却能力が不足していることが判明、またしても動力部を作り直す必要に迫られた。

 

 ちなみにこの時の事故がきっかけで機体の代金支払いが分割払いになり、これが後に問題を引き起こすことになったのだが、それはまた別の話である。

 

 そうした試行錯誤の末にようやく完成した鎧は、当初の姿とはかけ離れていた。

 

 可変式推力偏向翼の搭載に伴い、重量バランスの問題や機内容積不足で機体の拡張も必要になったせいで、背部、胸部、腰部、そして大腿部が肥大化し、機体を覆う外板は空気抵抗低減のために極限まで突起物や接合部を減らされた滑らかなものになっている。

 そのため、遠目に見ると女性の身体を彷彿させるシルエットだ。

 

「しっかしよくもまあこんな浪漫の塊を本当に作っちまったもんだ」

「操作性も整備性も燃費も最悪、殆ど機動性と見た目に全振りだもんな。まあ、そこがイイんだけどさ」

「ほんと見れば見るほどイイ身体してるよな」

「加工にクッソ手間取ったしな。これくらいナイスバディになってくれなきゃ報われねーだろ」

「それ言えてる。全部削り出しとか今思い返せば正気かよって思うわ。誰だよあんなこと言い出したの」

「「お前だよ」」

「いやーでもホント工作機械様様、親方様様っスね」

 

 他の技師たちが苦労話で盛り上がる一方で、イスマは言い知れぬ寂しさを覚えていた。

 

 この後、この鎧は飛行船に載せられて発注者であるファイアブランド子爵家のもとへ送られることになっている。

 長きに渡って続いた製作も終わり──この鎧とはここでお別れだ。

 

 そのことがどうにも寂しくて、悲しかった。

 

 作るのに今までにないほど苦労したし、何度も嫌な思いもしたが、それが却って愛着を生じさせていた。

 発注者のもとに早く無事に届いて、立派に務めを果たして欲しいと思う一方で、ずっと手元に残しておきたいという気持ちもある。

 

 葛藤しながら鎧を見上げていると、隣に来た主任に声をかけられる。

 

「どうした?未練か?」

「いえ、そういうわけでは──」

 

 イスマの弁解に主任はかぶりを振った。

 

「分かるぞ。丹精込めて作ったもんには情が湧く。出荷する時はそれこそ子供が巣立つような気分になるもんさ。俺なんて若い頃は出荷の度に泣いてたんだぜ?」

「え?──意外です」

 

 主任はいつだってにこやかにしていた。

 泣いているところなんて一度も見たことはない。

 

「ま、慣れだよ慣れ。お前もあと二、三年もすりゃ慣れちまうさ。ところで、例の派遣のことなんだが──欠員が出た。イスマ、お前が行け」

 

 主任の言葉にイスマは驚いた。

 機体の説明と点検整備の指導のため、技師が一名ファイアブランド子爵家に派遣されることになっているが、その役目は主任だったはずだ。

 なぜ若手の自分にお鉢が回ってきたのかと疑問が湧いたが、その答えはすぐに主任の口からもたらされる。

 

「お前は動力部からウィングの推進装置までこの機体の重要な部分を熟知しているからな。今回の派遣にはむしろお前の方が適任だろう。しっかりやるんだぞ」

「ッ!はい!」

 

 まだあの鎧と一緒にいられる。世話ができる。

 そのことが嬉しくて、飛び跳ねたいのを我慢して返事をした。

 

 そんなイスマの顔を見て主任は満足げに笑った。

 

 

 

 軽貨物船が発着場に降り立つ。

 

 船首のランプが降りて、台車に載せられた鎧が積み込まれていく。

 

 イスマは旅行鞄に着替えとよそ行きの服、少しの日用品を詰めて、タラップへと向かう。

 乗り込むと、工場の仲間たちが見送りに帽子を振っていた。

 

 手を振り返して応える。

 

 軽貨物船がランプを戻し、エンジンを唸らせて離陸する。

 

 これから鎧共々王都の大きな港に運ばれ、そこで定期船に積み込まれて、ファイアブランド領への旅が始まる。

 北方の地、ファイアブランド領までは一週間近くの長旅となる。

 

 行ったことのない地に行くことに対する高揚感と、これから待ち受ける仕事に対する闘志が静かに湧き上がる。

 

 呼応するように強い風が吹いて、髪をなびかせる。

 

 

 

 その日、イスマ──【イスマエル・フォウ・ガルブレイス】は鎧の所有者であるエステルと運命を共にし、生涯に渡って支え続けることを決定づけられた。




四十秒で〇〇しな!って台詞を使ってみたかった


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マリオネット

美人なステファニーちゃんをpixivで見かけたので書いてしまった

https://www.pixiv.net/artworks/102645230


 その日、オフリー伯爵家の領地は王国の地図から消えた。

 

 家は取り潰され、資産は根こそぎ王国に没収され、一族郎党全員が地位を剥奪された。

 

 長女である【ステファニー】とて例外ではなく、平民の身分に落とされてしまった。

 

 住み慣れた屋敷から無理矢理連れ出され、役人や民衆から散々罵倒され、殴られ、蹴られ、石を投げられ、監獄の狭苦しい部屋に数週間閉じ込められた後、後見人に名乗り出た父の知り合いのもとへ送られることになった。

 

 独りだった。

 父と兄は処刑され、母は自殺したと聞いた。

 婚約していた辺境伯家の嫡男からは何の便りもなく、ただ婚約が破棄されたことだけが判った。

 

 ステファニーは己の身に降りかかった災難を嘆き、涙が枯れるまで泣き喚いた。

 しかし、誰も慰めに来ることはなかった。それどころか「うるさい!」と怒鳴り声が飛んできた。

 

「許さない──許さない──許さない──許さない──許さない──許さない──許さない──許さない──許さない──許さない──許さない」

 

 泣き喚くのにも疲れてしまい、ずっとうわ言のように呪詛の言葉を呟いている。

 それはオフリー伯爵家を取り潰しに追い込んだファイアブランド子爵家に対する呪詛だった。

 

 どれだけ呪詛を唱え続けたかも忘れた頃、部屋の扉が開いた。

 

「オラ立て!」

 

 やって来た騎士に腕を掴まれて部屋から引っ張り出され、馬車に放り込まれる。

 だが、ステファニーは一切抵抗どころか反応すらせずにずっと呪詛を呟いていた。

 

「チッ!気色悪い」

 

 騎士が吐き捨ててステファニーの向かいに座る。

 

 馬車が出発し、監獄を出て街道を走っていく。

 

 そしてしばらく経った頃──

 

『お前の怒り、恨み、悲しみ──全て貰っていくぞ』

 

 聞いたことのない声に思わず顔を上げると、自分の周囲に黒い煙が立ち込めていた。

 

 煙はすぐに晴れたが、その煙が引いていった先には燕尾服にシルクハットの男が佇んでいた。

 

「──誰?」

 

 ステファニーは思わず問いかけた。

 

『ほう、私に気付きますか。てっきり夢の中にいるものかと思っていましたが。私は──そうですね。案内人とでも呼んでもらいましょうか。貴女の心に渦巻く負の感情があまりにも妖美に輝いているものですから、頂きに来たのですよ。これで私は力を取り戻し、奴への復讐に向けて新たな手を打てます。ではもう用は済みましたので失礼──』

「待って!」

 

 踵を返した案内人を思わずステファニーは止めた。

 

 ついさっきまでファイアブランド家に対する膨大な怨恨で頭がいっぱいで何も考えられなかったのに、今はかつてないほど頭が冴え渡っている。

 その頭の直感が告げていた。この男をこのまま行かせてはならない、と。

 

「わ、私の負の感情を勝手に吸い取って、それでそれを復讐に使うのなら──私の復讐に力を貸して」

『──ほう?復讐ですか』

 

 案内人が振り返る。

 顔がシルクハットの影で隠れていて表情は読み取れないが、その口元が僅かに吊り上がっているのをステファニーは見逃さなかった。

 

「貴方に復讐したい奴がいるのと同じように、私も復讐したい相手がいるのよ。人じゃなくて、家だけどね。その家──ファイアブランドというのだけど、その家のせいで私はこんな目に遭わされたの。父も兄も、母も、使用人たちも、みんないなくなって、一人になった。絶対に許さない。同じ目に、いいえ、この十倍は酷い目に遭わせてやりたいの。一族郎党一人残らず──私の味わった苦しみを味わわせて殺してやりたいの。だからお願い!力を貸して!」

 

 涙を流しながら必死に訴えるステファニーを見て、案内人は口元を三日月形に吊り上げて拍手をする。

 

『素晴らしい!私に負の感情を吸い取られてもなお衰えぬ強い復讐心!感服しましたよ。ですが──復讐すると言っても貴女に何ができるのですか?失礼ながらお見受けしたところ貴女は無力な少女に過ぎない。そんな貴女に奴を──エステルを倒せるとは思えませんが?』

「エステル──?」

『ええ。貴女が憎むファイアブランド家の娘です』

 

 その言葉でステファニーは察した。

 この案内人という男は、最初から自分がファイアブランド家を恨み憎んでいると知った上で自分のもとへやって来たのだ。

 復讐の対象を同じとする自分のもとへ──

 

 つまり、まだ脈はある。

 

「じゃあ──」

『おっと、勘違いしないでくださいね。私とて余裕があるわけではありません。せっかくありついた貴重なエステルに縁のある負の感情、それで得た力は最も費用対効果の高いところに使わねばなりません。そう、エステルを倒せる可能性のある者にね』

「じゃあ尚更私に使ってよ!私は何だってする!それにお父様の伝手だって少しは知ってる!それでお祖父様やひいお祖父様がしたみたいに成り上がって、それでエステルを葬ってみせるから!お願い!」

『──どうやら覚悟は本物のようですね。いいでしょう。ほんの少し、サポートをしてあげましょう。それでやってみせなさい。一つ、プレゼントも用意します』

 

 案内人が指をパチンと鳴らす。

 すると、一筋の黒い煙が彼の掌から発生して馬車の窓から出て空高く上っていった。

 

「えっと、それでプレゼントって?」

『ふふふ、今に分かりますよ。この馬車が辿り着いたその先で、この地図の示す場所に行けばね。では、今度こそ失礼』

 

 その言葉を最後に案内人は黒い煙と化して消えた。

 

 

 

「ッ!」

 

 目が覚めた。

 

 相変わらず馬車はガタゴトと音を立てて走っている。

 

 向かいには見張りの騎士がいてこちらを睨みつけている。

 

「あ?何だ?人の顔ジロジロ見やがって」

 

 騎士が難癖をつけてきたが、ステファニーは聞き流した。

 

 さっき見たものは何だったのだろう。夢にしてはやけに現実感があった。

 それに夢なんてこれまでは起きてすぐに忘れてしまって、時々ほんの一部が思い出せるくらいだったのに、さっきの夢は違う。案内人と名乗った男の姿も声も言ったこともはっきり覚えている。

 

 そうだ。確か醒める直前に案内人が地図を見せてきたはず。

 そこまで思い出したところでステファニーはポケットの違和感に気付く。何か紙のようなものが入っているような──

 

「おい、ガン飛ばしといてシカトか?えぇ?良い度胸だなクソガキ」

 

 騎士が額に青筋を浮かべて髪を掴んできたが、ステファニーはもはや彼を怖いとは感じなかった。

 むしろ蔑みを込めてジッと睨み返すくらいの余裕さえあった。

 

「──ふん。気色悪い目しやがって」

 

 騎士が手を離す。

 

 それ以降、彼がステファニーに手を上げることはなかった。

 

 ステファニーは隙を見てポケットの紙を取り出して覗き見た。

 その紙に書かれた地図を何度も読んだ。

 

 そして──あの案内人は本当に自分のもとへ来ていた。そうステファニーは確信していた。

 

 

◇◇◇

 

 

 数日後。

 

 ステファニーは王国直轄領の港町で馬車から降ろされた。

 

「やぁステファニーちゃん。よく来たね。長旅お疲れ様。災難だったねぇ」

 

 猫撫で声で挨拶してくる父の知人だが、その目は笑っていない。

 

「では、我々はこれで」

 

 騎士はせいせいした表情で馬車に乗り込み、走り去った。

 

「じゃ、行こうか。お腹空いてるでしょう。何か──ってちょっと!?」

 

 ステファニーは一目散に走り出した。

 

 ポケットから取り出した地図はかなり細かいものだったが不思議と難なく読めた。

 

 その地図を頼りに辿り着いた場所は洒落た建物だったが、どこか古びた雰囲気を漂わせていた。

 一見するとバーに見えるが、直感でまともな場所ではないと分かる。

 

 それでもステファニーは勇気を振り絞って足を踏み入れた。

 扉は鍵が掛かっていたので半開きになっていた窓から潜り込んだ。

 

 奥の方から微かに人の声が聞こえてくる。

 その声が聞こえてくる方向へと足を進めると、瀟洒な扉に行き着いた。

 

 中からくぐもった女性の声が聞こえてくる。

 

 扉をそっと開けてみると──そこで繰り広げられていた光景に、ステファニーは思わず「ひっ」と小さく悲鳴を漏らした。

 

「あン?誰だお前?」

 

 女性の頭を抑えていた禿頭の男がステファニーに気付き、睨みつけてくる。

 楽しんでいたところを邪魔されて、明らかに不機嫌な顔をしていた。

 

「す、ステファニー」

 

 ステファニーは震える声で名乗った。

 

 すると、女性の尻を掴んでいた銀髪の男が女性を放り出してステファニーの方に向き直る。

 頭を抑えていた禿頭の男も彼に続く。

 

「何しに来やがったガキ」

 

 銀髪の男が威圧感たっぷりに問いかけてくる。

 

「ッ!それは──」

 

 何と言えばいいのか分からず、口ごもるステファニーに、男たちは目を細める。

 

「言えねえってことは──」

「物乞いかな?」

 

 禿頭の男の声を遮って優しげな声が聞こえてきたかと思うと、バーテンダーのような格好をした黒髪の優男が現れる。

 

「だとしたら生憎だけど、タダであげられるものはないね。他を当たりな?」

 

 優男が諭してくるが、ステファニーはかぶりを振った。

 

「駄目なの。お願い、助けて。行くところがないの」

 

 拙い言葉で助けを求めるが、男たちの表情は冷たい。

 

「助けて、だってよ。ここをなんだと思ってんだろうな?」

「よく見りゃその服囚人服じゃねえかよ。脱獄者かコイツ?」

「てこたァ、憲兵様に突き出しァカネが貰えるんじゃねえか?」

「まあ待て。早合点するなよ。ここは一つお話を──」

「めんどくせえ。ンなもん身体に訊きゃあいいだろ!」

 

 禿頭の男がステファニーに掴みかかろうと迫ってくるが──

 

 

「そこまでよ」

 

 

 ハスキーな声が響き、禿頭の男は動きを止める。

 

 振り返ると、黒いキャミソールワンピースを纏った妙齢の女性が扉の前に立っていた。

 ピンヒールを履いているのに靴音がまるで聞こえなかった。その上厳つい男たちに涼しい顔で命令できるなど──どう考えても只者ではない。

 

 女性が艶かしく唇を開き、禿頭の男を嗜める。

 

「焦っちゃ駄目。ビジネスの鉄則でしょう?」

「は、はい。もちろんでさぁお嬢」

 

 畏まってステファニーから離れる禿頭の男。

 

 それを見て女性は頷き、ステファニーの所へ近づいてきた。

 

「貴女、名前は?」

 

 間近で見つめられて問いかけられて、ステファニーは一瞬気圧される。

 相手の女性は顔立ちこそ整っていたが、蛇のような不気味な目つきをしていた。

 

「──ステファニー」

 

 湧き上がる恐怖を堪えて答えると、女性は目を見開く。

 

「ステファニー?──ねぇ貴女、ひょっとしてオフリー家のステファニーちゃん?」

 

 今度はステファニーが目を見開く番だった。

 

「どうして──」

「貴女は覚えていないでしょうけど、私は一度貴女と会ったことがあるのよ。貴女の一族が催したパーティーでね。とは言っても言葉を交わしたわけでもない、ただ少し顔を合わせたというだけだったけれど。道理でどこか見覚えがあったはずだわ」

 

 ステファニーは記憶を探るが、それらしい人物の記憶はない。

 

「貴女は一体──」

 

 問いかけると女性は笑ってステファニーの肩を抱いて言った。

 

「お茶にしましょう。そこで話すわ」

 

 

 

 バーテンダーの優男が淹れたお茶は美味しかった。といっても、実家で飲んでいたものに比べれば数段劣る味ではあったが。茶菓子もキャラメル数個という貧相なものだった。

 

 そんなお茶をステファニーと二人きりで飲みながら、女性は語った。

 

 自分が所属している組織が密輸業においてオフリー伯爵家と組んでいたこと。自分がここの店を任されているのもオフリー伯爵家の支援によって組織が大きくなり、かつウェザビーの口利きもあったおかげだということ。

 

 ステファニーも女性に訊かれて自分の身の上話とファイアブランド家への復讐心を語った。

 

 話がひと段落すると、女性が持ちかけてきた。

 

「貴女、一生日の当たる所を歩けなくなる覚悟はある?」

「──ええ。元から日の当たる所なんて歩けないわよ。もう私には何もない。だから、何だってするわ」

 

 決意を込めて返事をすると、女性は笑みを浮かべた。

 

「いいわ。じゃあ今から貴女のお父様の遺産を聞かせてあげる。ファンオース公国は知っているわね?」

 

 ステファニーは頷いた。

 忘れようはずはない。父が王国との間に休戦協定を実現した敵国。そのおかげで平穏が訪れ、自分は公国との国境を守る辺境伯家の嫡男と婚約が成立した。そう聞いている。

 

「そのファンオース公国を再び王国の傘下に収める計画が動いている、そして貴女のお父様もその計画に関わっていた──と言ったら信じるかしら?」

「──え?嘘──そんなの聞いたことも──」

「ええ。無理もないわ。私も直接聞いたわけではなくて、断片的に集めた情報と依頼された仕事の内容から推理しただけだから。計画の詳細を知っているのは大物貴族連中だけでしょうね。いいえ、彼らでさえ詳しくは決めていないのかもしれない。でもね──」

 

 女性は声を一段低くして耳打ちしてくる。

 

「兆候は出ているのよ。そう遠くないうちに戦争が起こるわ。それが何年先かは分からないけれど。その機に乗じて私たちは更に大きくなる。そうなれば、貴族家の一つくらい壊せるようになるわ」

「そう──なの?」

「ええ」

 

 女性はニッコリと笑って──そして次の瞬間には獲物を狙う猛獣のような表情へと変貌した。

 そしてどこからともなく取り出した拳銃を右手に握り、撃鉄を起こす。

 

「さて、じゃあ選んで頂戴。私たちと共にお父様の遺産を足がかりに日陰の世界でのし上がるか、何もかも忘れて静かなところで永遠に休むか。さっき言ったことはビジネスに関わる企業秘密よ。それを持ったままお外を彷徨いてもらっては困るの」

 

 ステファニーは腹を括って返事を返した。

 

「やるわ。仲間に──入れて」

「ん、上出来。言葉遣いはともかく覚悟はあるようね」

 

 そう言って女性は拳銃をしまう。

 

「私はシエナ。これからは同志よ」

 

 シエナと名乗った女性は立ち上がって手を差し出してくる。

 

「どうし?」

 

 聞き慣れない単語にステファニーが訊き返すと、シエナはステファニーの手を取って言った。

 

「ええ。貴女は私と同じ。ずっと誰かに支配されてきた。家では我儘を通せても、一歩外に出れば蔑まれ、軽んじられ、何も思い通りにはならない。そして孤独と他者の悪意に怯え、自分の城に閉じこもる。そんなの、もう終わりにしましょう。私たちが支配する側になるのよ」

 

 獰猛な光を宿したシエナの目に気圧されつつも、ステファニーは興奮が湧き起こるのを自覚する。

 

 

◇◇◇

 

 

 夜。

 

 ステファニーが寝起きする場として案内されたのは小洒落た集合住宅の一室だった。

 

「私のアジトの一つよ。好きに使っていいわ。それと、これを渡しておくわね」

 

 シエナが渡してきたのは小型の回転拳銃だった。

 

「ないとは思うけど万一危険が迫ったらそれで何とかしてね。まあ、ロクに訓練もしてないでしょうし、戦うより逃げることをお勧めするけれど。今度練習しましょう」

 

 小型ながらずしりと重い拳銃を、ステファニーは頷いてポケットに差し込んだ。

 

「じゃあ、また明日お店でね」

 

 そう言ってシエナは出ていく。

 

 残されたステファニーはベッドに寝転んでポケットにしまった拳銃を取り出してしげしげと眺めた。

 

 命を奪う武器。

 初めて持ったそれはどことなく頼もしげな気配を発しているように感じられた。

 これが案内人の言っていた「プレゼント」なのかもしれない。

 

「これで──ファイアブランドの奴らを──エステルを──」

 

 憎きファイアブランドの娘の顔に弾丸を撃ち込むところを想像してステファニーが呟いた直後──

 

 

『させないわよ』

 

 

 どこからともなく声が聞こえた。

 

「誰!?」

 

 即座に拳銃を構え、辺りを見回すと、目の前に巨大な赤い「目」が出現した。

 

「ひっ!な、何よあんた!」

 

 悲鳴が漏れ、拳銃を持つ手が震える。

 それでも必死に両手で拳銃を構え、目玉の怪物へと向けた。

 

 だが怪物は怯んだ様子もなく、近づいてきた。

 

『ステファニーちゃん、で合っているわよね?はじめまして』

 

 口もないのに流暢に言葉を話す怪物。

 

「く、来るな!来るなぁ!そ、それ以上近づいたら撃つわよ!」

 

 引き攣った喉と口を必死に動かして警告を発するが、怪物はくすくすと笑うだけだった。

 

『慌て者ねぇ。その銃、どうなっているか見てみたら?』

 

 思わず拳銃に視線を落とすと、さっきまであったはずの弾倉がないことに気付いた。

 

「う、嘘、なんで?」

 

 怪物が触手を出現させ、何かを床に落とした。

 

 コロコロと金属質な音を立てて落ちたそれは──解体された弾倉と中に詰まっていた弾丸だった。

 

「そんな──」

 

 頼りにしていた武器がいつの間にか無力化されていたことに絶望して、ステファニーは拳銃の残骸を取り落とした。

 

「何なの?何なのよ!あんた!」

『そうねえ。冥土の土産に教えてあげるわ。私はセルカ。貴女が逆恨みしているエステルの使い魔よ』

「な──エス──テルの──」

 

 絶句するステファニーをおいてセルカは語り始める。

 

『あの人の身に危険が迫っていると聞いてここまでやって来たら、貴女があいつから力を受け取っていたものだからびっくりしたわ。でも見つけたのは僥倖だった。危険の芽は早めに摘んでおかないといけないもの。だから貴女を見張っていたの。そして犯罪組織に拾われてやっとあいつの目が離れたからこうして貴女と話せている、というわけよ』

 

 怪物が自分を殺す気だと悟ったステファニーは、何とか隙を作れないものかと時間稼ぎを試みる。

 

「なんで──そんなことわざわざ私に言うの?」

『うーん、貴女になら聞いてもらえる気がしたのよ。私の願望──いいえ、欲求をね。私ね、ずぅ〜っと前から思っていたの。人間と同じ姿であの人と並んで歩きたいな〜って。でもこの姿だと殆ど人前に出られなくって──寂しいの』

 

 視線を落として哀しげに語る怪物。

 その隙にステファニーは静かにベッドを降りて扉の方へと向かおうとしたが、次の瞬間、怪物の身体から何本も触手が伸びてステファニーの方へと向かってきた。

 

「ひっ!う、うわあああああ!」

 

 半狂乱で扉に向かって逃げ出したステファニーだったが、すぐに怪物の触手が両足に絡み付き、盛大に転んでしまう。

 その直後には両手も捕えられ、口も塞がれる。

 

 怪物が正面に移動してくる。

 

 目と鼻の先で血のように赤い瞳に見つめられ、力が抜けて意識が遠のいていく。

 

 最後に聞こえたのは、有無を言わさぬ要求の言葉だった。

 

『だからね──貴女の顔、貴女の身体、貴女の姿──全部私に頂戴?』

 

 次の瞬間、強烈な痛みが全身に走り、その後すぐにステファニーの意識は途絶えた。

 

 

 

 数分後、白目を剥いて倒れていたステファニーの身体がむくりと起き上がる。

 

 立ち上がって、歩き、軽くスキップし、くるりと一回転した後に、朗らかに笑い出す。

 

「あはは!良い身体ね!気に入ったわ」

 

 そしてステファニー──の身体を乗っ取ったセルカはベッドの下に隠されていた大量の酒瓶を取り出し、中身を部屋中にぶちまけた。

 

 そして魔法で小さな火球を作り出してぶちまけた酒に火をつける。

 

 一瞬で火球は大きな炎へと変わり、部屋を焼き始める。

 

 セルカは素早く扉から部屋の外へと出て、廊下を走り、建物の裏口から脱出した。

 

 火事が見つかって野次馬が集まり始める集合住宅を後にして、セルカは夜の道をひた走る。

 

「ありがとう、ステファニーちゃん。貴女は愚かで無力で寂しがり屋でそのくせ傲慢で残忍で迷惑な屑だったけれど、ようやく人の役に立ってくれるわね。私の操り人形(マリオネット)として」

 

 その声は誰にも聞かれることなく夜の闇に溶けていった。

 

 その様子を遠くから見ていた犬の形をした淡い光が、満足したように鼻を鳴らしてどこかへと消えていった。

 

 

◇◇◇

 

 

「お前──その姿はどうしたんだ?」

 

 思わず訊かずにはいられなかった。

 

 もうしばらく王都を見て回りたいと言って残ったセルカが人間の姿になって帰ってきたのだ。

 ぱっつんに切り揃えた金髪に吊り目気味の生意気そうな顔立ち。年は十代半ばくらいだろうか。俺よりは上のようだがそう変わらないように見える。

 

「人間に変身する方法を見つけたの。王都で色んな人を見て試したのだけど──この姿が気に入っちゃったのよ」

「えぇ──まあお前の趣味にとやかく言うつもりはないけどさ」

 

 こいつは何をやっているんだと若干呆れたが、セルカは上機嫌だった。

 

「よかった。これで人が来るたびに隠れなくて済むわ」

「あーそのために人間に変身する方法なんて探していたのか」

「ええ。人間の姿の方が何かと動きやすいのよ。人とのやりとりがいつでも誰とでもできるようになるしね」

「なるほど」

 

 訂正しよう。セルカはセルカで考えがあったらしい。

 

「ま、なら言うことはなしだ。おかえり」

 

 セルカはニッコリ笑って返事をする。

 

「ただいま」




これって「ステファニーが仲間に加わった」──っていえるのかな?


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アーヴリルの帰郷

 ノックス子爵領。

 

 港の桟橋に小さな飛行船がやってきた。

 

 人夫が舫綱をかけると、昇降口が開き、降りてくるのはアーヴリルだった。

 

 硬貨を一枚人夫に渡すとさっさと桟橋を後にし、管理所で停泊料を納めてから港を出て街道を歩き出した。 

 

 他に人通りはなく、静寂の中に水っぽい足音だけが響く。

 

 舗装されていない道は雪でぬかるみ、街道沿いの森はすっかり葉を落としていた。

 出てきた時からすっかり変わった景色に時の流れを感じさせられる。

 

(ざっと半年ぶり、か)

 

 もう何年も帰ってきていないような気がするが、数えてみるとそれくらいで少し驚く。

 

 思い返せばかつてないほど濃密な日々だった。

 

 アクロイド領へと向かったリックを追って家を飛び出し、飛行船を手に入れてアクロイド領へ渡り、そこでエステルと出会い、共に冒険をし、ファイアブランド領に客人として滞在し、侵入してきた敵と戦い、攫われたエステルの家族と専属使用人を救い出した。

 

 一つ目の怪物に捕まって拷問されたり、氷魔法の使い手と渡り合ったり、アンデッドと化した敵に刺されかけたりといった危機もあった。

 

 だが無事に生き延びて、そして心から仕えたいと思える主君にも出会えた。

 

 そして今、その日々に決着をつけて新たな道へと踏み出すためにここに戻ってきた。

 

 リックが殺されたことは既に伝わっているだろう。

 誰もやらないのなら自分がリックに罰を下すという書き置きを残して家を飛び出した私は、当然ノックス家にとって嫡出子殺害の容疑者。

 全ては自分の独断であって家族は無関係であること、リックを討った後は如何なる裁きも受け入れることを書き置きに記しておいたが、それでもランス家に向けられる疑いの目がなくなるわけはなし。

 ノックス家の捜査の手は確実に及んだだろう。

 

 ──つまり私は私情で家を危機に陥れた不孝者。

 

 そんな私が今になって帰ったところで歓迎されるはずはない。

 

 でも、もう決めたことだ。

 私の居場所、私がいたい場所に行くと。

 ノックス子爵家に仕えるランス家の娘ではなく、自分の正義と信念を持つ騎士として、否、一人の女性として、自らの意志で──

 

 だから、心残りは全て無くしていかなければならない。

 そう、()()──

 

 自然と足が早まる。

 

 エステルから与えられた暇は一週間。時間は有り余ってはいない。

 なるべく早くに──日暮れまでに実家のある村に辿り着かなければならない。

 

 

◇◇◇

 

 

 ランス騎士家はノックス子爵家の陪臣騎士の中でも古参の家系の一つである。

 

 先祖は初代ノックス家当主が男爵としてこの地に所領を得た時、彼の下に職を求めて仕官してきた者たちの一人だったという。

 

 未踏未開拓の土地を拓くのは苦難の連続だったが、彼らは互いに助け合い、励まし合って、驚くべき早さで成し遂げていった。

 拓かれた土地にはいくつもの村ができ、そのうちのいくつかは街と呼べるほどにまで大きくなった。

 

 ノックス家はそうした村々を所領として古参の家臣たちに与え、その管理と防衛を担わせた。

 先祖も一つの村を与えられ、そこで時折襲来する野獣やモンスターから村を守りつつ、農民たちに混じって畑を耕していたと聞く。

 

 そしてノックス家は家臣たちに対する支援や気配りを惜しまなかった。

 だからこそ、家臣たちはノックス家に絶大な信頼を置き、忠誠を誓っていた。

 

 それが今やどうだ。

 古参家臣の家の娘を拐かして辱めるなどという愚行に走る嫡出子に、それを隠蔽して謝罪も賠償もしない主家、そのような仕打ちを受けてなお抗議の一つもしようとしない意気地なし──

 

 丘の上から実家のある村を見て、アーヴリルは溜息を漏らした。

 

 どうしてこんなことになったのか、今なら分かる。

 領地の頂点に立つ者──領主が力と正義のない事なかれ主義だからだ。

 

 騒動や問題などあってはならない、平穏のためならば小さな悪事や少しの犠牲には目を瞑らねばならない──そんな考えを持つ者が上に立ち、仕える者たちはそれに忖度して立場の弱い者に理不尽を押し付けて臭いものに蓋をする。

 

 ──腐っている。

 村も屋敷もこんなに立派になったのに、実態は戸を蹴破ればすぐにも崩れ落ちそうなくらいに劣化している。

 空賊ばかりか伯爵家の侵攻すらもエステルの下に団結して退けたファイアブランド領を見た後では余計にそう見えた。

 

 どんなに過去の領主が立派で、彼がいなければ今の自分たちはないと言われても、所詮過去は過去だ。

 それに縋り付いて盲従し続けるなど何も考えない人形と同じではないか。

 

 やはりもうここでやってはいけない。

 私の──()()()の居場所はここではない。

 

 その思いを再確認して、アーヴリルは実家の扉を叩いた。

 

 しばしの沈黙の後、扉が開き、男の子が顔を覗かせる。

 

 そしてアーヴリルの顔を見るや目を見開き──

 

「父上ー!アーヴリル姉ちゃんが帰ってきたー!」

 

 大声で叫びながら家の中目掛けて駆け出していった。

 

(相変わらずだな。パットの奴)

 

 何かあるとすぐに大声で親に言いつける末弟の【パット】が相変わらずなのを見て苦笑しながら、閉まりかけた扉を支え、出迎えを待つ。

 

 すぐに父【フィル】と長兄【ザック】、そして母【プリシラ】が玄関に出てきた。

 

「──ただいま帰りました」

 

 アーヴリルはしっかりと家族の顔を見据えて言った。

 

「アーヴリル──」

 

 呟いて駆け寄ろうとしたプリシラをフィルが止める。

 

「連絡も寄越さず今まで何をしていた。どこをほっつき歩いていた?」

 

 フィルは険しい顔で言った。

 

「書き置きの通りです。リックを追ってアクロイド領へ渡っておりました。諸事情あってその後別の場所に行ったために帰りは遅くなりましたが、事は済みました」

 

 アーヴリルの答えにフィルはカッと目を見開く。

 

「お前は──何ということをしてくれた!」

 

 フィルはアーヴリルの肩を掴んで揺すり、問いかけてきた。

 

「本当に──本当にリック殿を殺めたのか!?」

「いいえ。奴を殺したのは私ではありません」

 

 真っ直ぐにフィルの目を見つめて答える。

 

「何?では誰がやった?知っているのか?」

 

 フィルの問いかけに少し身体が強張る。

 知っている。知っているが──彼女の名を明かすことはできない。

 

「どうなんだ!答えろ!」

 

 沈黙するアーヴリルに苛立ったフィルが怒鳴ってくるが、アーヴリルは努めて冷静に答える。

 ──嘘を吐く。

 

「いいえ。知りません。私が見つけた時には奴は既に取り巻き共々死んでいました」

 

 フィルはしばらくアーヴリルの目を見つめた後、手を離したが、なおも険しい顔で追及してくる。

 

「ならばなぜ今の今まで帰ってこなかった?アクロイド領に行った後の半年近く、一体どこに行っていたんだ?」

「詳しく話すと長くなりますが──アクロイド領にて家を追われ、従者と共に旅に出ていた方と出会いました。その方と行動を共にし、家に戻る手助けをしていたのです」

「人助けをしていたと?なぜそう長く行動を共にする必要があった?どこかに保護を依頼するなりここに連れて帰るなりできたはずだろう」

「ええ。それは提案しました。ですが、それをその方は拒絶したのです。家を追われた時に課された条件を満たし、家に帰るとの一点張りで。しかし、その方はろくな旅支度もなく、まして年端も行かぬ()()でした。事情や背景がどうであれ、危険な旅をしようとしている子を見て見ぬふりして行かせるわけにはいかなかったのです」

 

 アーヴリルはエステルとの旅の経緯を掻い摘んで話した。

 ファイアブランド家につながる情報や一つ目の化け物のことは伏せておいたが。

 

 話し終えるとフィルはようやく僅かに表情を緩めた。

 

 そして溜息を吐いて踵を返す。

 

「詳しい話は後で聞く。もう二度と変な気を起こすんじゃないぞ」

 

 そう念押しするように言って、フィルはザックと共に家の中へと戻っていく。

 

「アーヴリル!」

 

 ようやく制止を解かれたプリシラが駆け寄ってくる。

 

「母上──」

「良かった。本当に良かった」

 

 プリシラが泣きながらアーヴリルを抱きしめる。

 

 しばらく会っていなかったうちに、明らかに痩せて顔色が悪くなった母の姿に罪悪感が湧き上がる。

 

「本当にごめんなさい。私は──酷い娘です」

 

 母に対する謝罪の言葉は嘘ではなかった。

 ただでさえ勝手に家を飛び出して迷惑をかけて、そしてこれから出て行こうとしているのだ。

 父や兄はともかく、母には申し訳なかった。

 

「いいの。いいのよ。無事に帰ってきてくれたんだから」

 

 プリシラがそう言ってアーヴリルの頭を撫でる。

 

 しばらく母娘で抱擁を交わした後、アーヴリルは気になっていたことを訊いた。

 

「シェリルはどうしてる?」

 

 アーヴリルの問いかけにプリシラはかぶりを振った。

 

「相変わらずよ」

「──そっか」

 

 その答えを聞いてアーヴリルは決意を新たにする。

 

「話せそうかな?」

「ええ。ついでに晩ご飯持っていってあげて」

「分かった」

 

 頷いたプリシラに連れられてアーヴリルは実家の扉をくぐった。

 

 

◇◇◇

 

 

 あの忌まわしい事件が起こるまで、その部屋はアーヴリルとシェリルが二人で使っていた。

 

 だが、事件以降はシェリルが一人で閉じこもる隠れ家と化し、アーヴリルにとっては寝室から病室へと変わった。

 

 事件以来、シェリルは人が変わったかのように精神が不安定になり、部屋から、否、それどころか布団からも出ようとしなくなった。部屋の外に連れ出そうとすれば、半狂乱になった。

 そして家族を含めて男性を極度に恐れ、声を聞いただけで震え上がるようになった。自分や母に対しては恐怖こそしていなかったが、以前のような会話はできず、声を発する度に酷い吃音を伴った。

 眠れば()()()の光景を夢に見るのか、毎晩のようにうなされ、寝言で助けを求め、許しを乞うていた。

 

 そんなシェリルの姿は見るに堪えない痛ましさだった。

 なればこそ、彼女をそんな状態に追い込んだリックを激しく憎悪したし、彼を誅すれば、彼女の恐怖と苦しみを和らげることができるかもしれないと思った。

 

 だが、母の言葉からするとそう都合良くはいかなかったようだ。

 リックはこの世から消え失せたが、リックにされたことの記憶まで消えはしない。

 シェリルは未だ苦しみ続けている。

 

 ならば──

 

 部屋の扉をそっとノックして呼びかける。

 

「シェリル?入ってもいい?」

 

 返事は返ってこない。

 拒絶はしてこないと取り、アーヴリルはドアノブに手をかける。

 

「入るよ?」

 

 そう言って扉を開けた先には暗闇が広がっていた。

 

 窓は鎧戸まで閉め切られ、一切の光が入ってこない部屋にシェリルは横たわっていた。

 微かに寝息が聞こえてくる。

 

 起こしていいものか一瞬どうか迷ったが、せっかくうなされずに寝ているのを起こすわけにもいかないと思い、待つことにした。

 夕食が冷めてしまうが、また温めれば済むことだ。

 

 だが、程なくしてシェリルは鼻をひくつかせて目を開けた。

 

 そしてアーヴリルの方に視線を向けて、目を見開く。

 

「──お、姉ちゃん」

「ただいま」

 

 瞬間、シェリルの両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 そのまま抱きついてきて泣きじゃくるシェリルの頭をアーヴリルはそっと撫でて、囁く。

 

「遅くなってごめんね。仇を取ったよ。もう奴が来ることはない。永久に」

 

 それを聞いたシェリルは無言で抱きつく力を強めた。

 

 

 

 しばらく抱き合って少しシェリルが落ち着いたタイミングでアーヴリルは切り出した。

 

「シェリル。大事な話があるの。落ち着いてよく聞いて」

「う、う、うん。な、何?」

 

 一呼吸置いてから、まっすぐにシェリルの目を見つめて告げる。

 

「私、ここを出て行こうって決めたの」

 

 シェリルは微かに目を見開く。

 

「──え?な、なんで?」

「旅の途中で出会った貴族のお嬢様がいてね。その方からうちに来ないかって誘われたの。だから私、その方のところに仕官しに行くって決めたの」

 

 アーヴリルの答えにシェリルは悲しそうに目を落とした。

 

「──そう」

 

 乾いた声でそれだけ呟いたシェリルの手を取って、呼びかける。

 

「だからシェリル、一緒に行きましょう」

 

 シェリルはハッとしたように顔を上げた。

 

「向こうに行った後の仕事ももう決まっているの。生活の心配はないから、安心して。お嬢様は優しい方だから、シェリルのこともきっと受け入れて助けてくださるはず。こんな所にいたって先がない。どんどん不幸になるだけだよ。ね、お姉ちゃんと一緒に行こう?」

 

 なるべく優しい言葉で、それでも必死にアーヴリルは呼びかけた。

 

 だがシェリルは再び視線を落とし、目を瞑ってかぶりを振った。

 

「──だ、だめ。わ、わたし、いか、いけな、い」

 

 どうして──そう尋ねる前にシェリルは必死に口を動かして言葉を紡ぐ。

 

「わ、わ、わた、しも、もうく、もう、決め、たの。し、神殿に入る。しん、しん神殿で、あ、尼さんに、なる。も、もう、もうおよ、めめになんなんて、いいい行けないし、い、生き、てるのも、つ、つる、辛い、の。で、でも死のうと、お、思っても、で、できなくて」

 

 そう言ってシェリルは寝間着を脱いで肌を見せる。

 

 そこにあった傷痕を見てアーヴリルは戦慄する。

 何かで突き刺したような痕がいくつも首や腕や太腿に穿たれ、そのうちの半分近くが化膿していた。

 

「な、何回も、の、の喉やろうと、し、したんくしたん、だけど、こ、怖く、て、そ、そしたら、こ、こんなに、な、な、なって、なっちゃった」

 

 また新たな涙がシェリルの両目から流れる。

 

「も、もう、これ、き、消えない。こ、こんこんな、き、傷、傷だらけの、き、きた、きなた、汚いかだ、身体、で、ど、どうやって、い、生きたら──う、うあああああ!」

 

 再び泣き始めたシェリルをアーヴリルは優しく抱きしめる。

 

「大丈夫。大丈夫だから。そんな傷全部消せる。私も旅の途中で酷い怪我をしたけど、お嬢様のお付きの者が全部治してくれた。痕だって残ってない。私と一緒に行けばまたやり直せるよ。だから絶望しちゃ駄目」

 

 だが、シェリルは泣きながらかぶりを振る。

 

「いや、いや!お、お、おと、男の、ひ、人、いる、ところ、む、無理!」

「シェリル、落ち着いて。悪いことにはならないから」

「い、いやなものはい、嫌なの!!もう、でで出てってよ!」

 

 アーヴリルの腕を振り払い、布団に逃げ込むシェリル。

 

 こうなったシェリルは説得しようとするだけ無駄だ。

 騒がれる前に出て行くが吉である。

 

「分かった。でも考えておいて欲しいの。向こうに行ったら今度こそ何か起こる前に私がちゃんと守るから。──晩ご飯置いとくからちゃんと食べるんだよ」

 

 そう言ってアーヴリルは部屋を出た。

 その日は部屋に戻ることなく、客間で眠った。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日、アーヴリルは父と兄から長い事情聴取と説教を受ける羽目になった。

 そして直接事情を説明するためにノックス家の屋敷へ送られることが決まった。

 

 だが、正直にそこに行くつもりなどアーヴリルには毛頭なかった。

 どう考えてもロクなことにはならないからだ。

 

 ノックス家は嫡出子を殺した落とし前をつけさせる対象を探している。

 それは必ずしも()()()でなくとも良い。

 

 父と兄は自分に証言させてランス家の無実を証明しようとしているようだが、ノックス家がそれで納得するとは思えなかった。

 あるいは父と兄もそれを分かっていて家を守るために──いずれにせよノックス家の屋敷になど行くわけにはいかない。

 

 出発した使いがノックス家に辿り着くまで一時間弱。そこから使いの面会の処理、領主が報告を受けて査問を決定し、その日取りが決まるまで長くとも数日。

 

 その間に何とかシェリルを翻意させたいと思って、アーヴリルは昼食と夕食を運びに行った際に再三の説得を試みた。

 

 だがシェリルは神殿に入ると言って聞かないままだった。

 それで何かしらの準備や行動でもしていればまだ良かったが、シェリルの頭の中には神殿に入るまでの過程が欠落していた。

 具体的にどうするのか訊いても、要領を得た答えはまるで返ってこず、ただ子供が駄々を捏ねるかのように神殿に入るの一点ばかり主張していた。

 

 結局二日目も、その次の三日目もアーヴリルは騒がれる前に部屋から退散することを余儀なくされた。

 

 正攻法ではとても説得は無理だと悟った。

 時間をかけてじっくりやればできるかもしれないが、そんなことをしている余裕はない。

 エステルのもとへ戻る期限が迫っているし、明日にも自分がノックス家に連れて行かれてしまうかもしれない。

 

 ──作戦が必要だ。

 

 そのためには──協力者が要る。

 

 そして──守りたかった、笑顔を取り戻したかったシェリルに憎まれる覚悟が。

 

 

 

「本当にごめん。シェリル」

 

 アーヴリルはそう言って頭を下げた。

 

「私の考えばっかり押し付けて、シェリルの気持ち全然考えられてなかったね。ごめんね」

「──お姉ちゃん」

 

 シェリルは驚きに目を見開いていた。

 

「だから私、シェリルのしたいこと、協力することにしたの。一緒に神殿に行こう?」

「──え?」

「シェリルが行きたいところに私が連れていくから。どこでも言って」

 

 またシェリルの目から涙が溢れ出る。

 

「──うん──ありがとう──お姉ちゃん」

 

 感涙に咽ぶシェリルを抱きしめて背中をさすってやる。

 何の疑いもなく自分が考えを翻したと思い込んでいる彼女に胸が締め付けられる。

 

 でも──そんな純真で可愛い妹だからこそ、神殿というカルト集団にまやかしの安息を求めて逃げ込んで、一生下働き同然の尼として生きるより、この苦しみを乗り越えて幸せを掴んで欲しいと思うのだ。

 

 それがエステルを救い、旅についていった時と同様の、ただのエゴだとしても、諦めて手を離してしまうよりはマシだ。

 

 憎まれてもいい。罵られてもいい。

 ただいつか、彼女が人並みの幸せを掴んでくれたら、それでいい。

 

「荷物、まとめておいてくれる?明日の朝早く、ここを出よう。善は急げだから」

 

 シェリルは涙を拭って、頷いた。

 

 部屋を出て、アーヴリルは小さく呟いた。

 

「シェリル──ごめん」

 

 食事に一服盛って眠らせ、そのままファイアブランド領まで連れて行く──やり口がリックとさして変わらないが、いかんせん時間がない。

 

 そしてアーヴリルは感傷を振り払って、出発の準備にかかるのだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 準備が整ったのは翌日の夜明け前だった。

 

 用意しておいた荷馬車に眠ったままのシェリルを乗せて、厩から引き出した馬を繋ぎ、いざ出発──という時に背後から低い声がした。

 

「どこへ行く?」

 

 振り返るとザックが玄関の脇の壁にもたれかかっていた。 

 その横には剣が立てかけられていて、ザック自身も帯剣している。

 

「兄上──」

 

 なぜ──シェリルと同様一服盛って眠らせておいたはずの兄がなぜここにいるのか。

 

 ザックは狼狽するアーヴリルを見て、目を細める。

 

「なぜ俺がここに?とでも言いたそうだな。妹が二度も勝手に家を出ていくのを見過ごす兄がどこにいる?しかも今度はシェリルまで連れ出して──何をする気だ?」

 

 鋭い目に射竦められて冷や汗が出る。

 だが、アーヴリルは懸命に目を逸らさずに踏み止まり、答えを返す。

 

「この家を出て行きます。シェリルと一緒に」

 

 ザックが目の色を変え、怒気を纏う。

 

「今何と言った。もう一度言ってみろ」

「もう一度言えば良いのですね。分かりました。父上や兄上と私の考えは相容れず、ここはもはや私の居場所ではない。それがよく分かりました。シェリルもここにいては恐怖に苛まれ、心身を病むばかり。故に私はシェリルと一緒にこの家を──ノックス領を出て行きます。永久に」

 

 棘を含ませたアーヴリルの宣言にザックは拳を握り締める。

 

「誰がそんなことを許した!?」

「もとより許可など求めてはおりません。もはや私はここにはいられないのです」

「──お前、そんな手前勝手な言い分が通るとでも思っているのか?お前がやったことは脅迫と、未遂とはいえ殺人。立派な犯罪だ。その罪を償わずに逃げるなどという卑怯な行い、断じて許すわけにはいかない」

「ですから、許しなど求めてはいません。貴方方が何と謗ろうとも、私は私の信じる正義を為します。邪魔立てしないで頂きたい」

「正義だと?このような卑怯卑劣な行いのどこにそんな正義がある?」

「それを言っても貴方方は理解しないから、出て行くと申しているのです」

 

 瞬間、ザックは剣を手に壁から離れて立ち上がった。

 

「いい加減にしろよお前。これ以上罪を重ねて我が家の顔に泥を塗るな。これは命令だ。大人しくこっちに来い」

 

 かつてないほど怖い顔をして命じてくる兄に対して、アーヴリルは負けじと精一杯の気迫で言い返した。

 

「死んでもお断りします」

 

 ザックは目を見開き、「それが答えか」と言って、手にした剣をアーヴリルの足元へと放り投げてきた。

 

「拾え。跳ねっ返りには今一度教育が必要だ」

「兄上──」

「余計な問答は無用。拾わぬのなら今ここでお前を処刑する!」

 

 もはや話し合いの余地なしと見たアーヴリルは腹を括ることにした。

 

「いいでしょう。騎士らしく、剣で決着をつけましょうか」

 

 剣を拾い、抜いて顔の横にまっすぐ立てて構えると、ザックも腰の剣を抜いて同じ構えを取る。

 

「──来い!」

 

 ザックのその一言を号令に、アーヴリルは魔法で肉体を強化し、思い切り地面を蹴って突進する。

 自分に出せる限界の力と速さを乗せて、防御した剣ごと頭を叩き割る上段からの一撃──と見せかけて斜め下から斬り上げる。

 

 地重斬と呼ばれる、肉体強化と併用して体格と重量に勝る相手に対抗するための技だが、ザックはあっさりとそれを見切って防ぎ、後ろに跳んで衝撃も殺した。

 

 それでも相手が宙に浮いた隙は逃さず、追撃を繰り出す。

 

 刃がぶつかり合い、火花を散らすが、ザックの体勢を崩すことはできず、完全に勢いを殺される。

 

「力押しで勝てると思ったか」

 

 ザックはそう言ってアーヴリルを押し返し、剣を振り下ろしてきた。

 

 手加減なしの全力の一撃──というわけでもないのに、防いだ剣が悲鳴を上げ、全身の骨が砕かれるような衝撃と痛みが走る。

 

 だが、痛みで参ってなどいる暇はない。

 

 素早く、刃を滑らせて流し、距離を取る。

 鍔迫り合いでは勝ち目はない。

 

 ザックは追撃をかけてこず、剣の鋒をアーヴリルの方に向けて詰ってくる。

 

「未熟者が。その剣と同様、お前は自分の周りと目先のことしか見えていない。お前のしたことで我が家がどれだけ苦しい立場に追いやられ、それで父上がどれだけ苦労していたか、想像できるか?」

「そうやって家のため領のためと言って、上の者が我欲を満たすために行った非道な行いに目を瞑って口を噤んで、その先に何があるというのですか!犠牲になったのは私と貴方の妹!最も大切な家族なのですよ!?」

 

 言い返すと、ザックは露骨に表情を歪めた。

 

「大袈裟に騒いでことをややこしくしたのはお前だろうが。それで一番迷惑を被ったのはシェリルだぞ?」

「何を──」

 

 馬鹿げた戯言を──と叫ぶ前にザックが悲痛な顔で怒鳴ってきた。

 

「リックが死んでから、我が家にノックス家の使いが来た。リックが死んだのとちょうど同じ頃、お前がノックス領を出ていたことが知れて、我が家に疑いがかかり、しつこく事情聴取されたのだ!シェリルも部屋から引きずり出されて何時間も問い詰められて──見るに堪えなかった。お前が勝手に突っ走ったせいで、シェリルは余計に傷を負ったんだぞ!」

 

 その場面を想像してアーヴリルは胸が張り裂けそうになる。

 一瞬言葉に詰まったが──すぐに自分の怒りの原点を思い出す。

 

「元はと言えばノックス家の出来損ないの愚物が原因で起こったことです!責められるべきは身内の恥を棚に上げて被害者である我が家を詰るノックス家でしょう!」

「減らず口を!」

 

 ザックが距離を詰めて再び斬りかかってくる。

 アーヴリルも再び地重斬で打ちかかったが、今度は逆に押し負けて剣を地面に叩きつけられてしまう。

 ガラ空きになった鳩尾に思い切り蹴りを喰らったアーヴリルは派手に地面に倒れ込んだ。

 

「我儘だ!お前が言っていることはただの我儘なんだよ!お前がやろうとしたこと、シェリルは断じて望んでいなかった!お前はシェリルのためじゃなく、お前自身のためにやったんだ!お前の言う我欲を満たすためだろうが!」

 

 怒鳴ってくるザックの言葉が堪える。

 

 そんなの絶対に違う。間違っている。

 辛い現実から、戦いに伴う痛みから目を背けたくて都合良く言葉を並べているだけだ。

 

 そう言いたいのに、その思いを乗せた剣は兄に届かない。

 

 ──やはり自分では兄に勝てないのか。

 

 そんな思いが頭をもたげる。

 

 元々アーヴリルに剣を教えたのはザックだ。

 女に剣術など要らぬと言う父に代わって握り方から振り方、体術との組み合わせまで教えてくれた。

 打ち合いの稽古も数え切れないほどしたが──勝ったのは一度だけだ。そのほかは九割八分負けで残りが引き分け。

 

 そして自分は学園を卒業してから剣を振ることが大幅に減ったのに対して、ザックは戦に備えて厳しい鍛錬を続けている。

 自分が思っている以上に、否、もはや天と海ほどにその差は大きいのだろう。

 

 だが、それでも──それでもどうしても、この思いだけは譲れない。

 

 地面に突き立てた剣を支えに立ち上がるアーヴリルは必死で兄を倒す手立てを考える。

 

 何か──剣術に限らなくていい、何でもいいから、戦いで兄を凌げるものは──記憶と知恵を総動員して突破口を探すアーヴリルの脳裏に在りし日の光景が蘇る。

 

 

 

「お前の魔力は強い。ザックも大概だが、お前の魔力はその倍はある。貴族様方にも引けは取らんだろう」

 

 父も祖父も頭が上がらなかった祖母がアーヴリルに魔法の基礎を教えていた時、そう言った。

 

「だが、その強い魔力も上手く術に変えなければ意味はない。呪文はそれを誰でもできるように作られたものだが、それだけでは駄目だ。大切なのはその力で何をしたいのかってことさね。何をしたい、何を得たい、闘いに勝ちたい、誰かを守りたい──そういう強い思いが魔力を紡ぐ」

 

 

 

 剣を引き抜く。

 

 荒れ狂う暴風を刃に纏わせて、アーヴリルは打ちかかる。

 

 届け。崩せ。吹き飛ばせ。

 私の思い、私の願い、私の未来を阻む壁を──

 

 ザックがようやく肉体強化魔法を使用したのが分かった。

 

 上等だ。

 剣と魔法の合わせ技こそ騎士同士の戦いらしい。

 ノックス家の騎士になる兄とエステル様の騎士になる私の決闘。

 

 風の力を味方に付けた今、アーヴリルは体格と膂力の不利を完全に克服し、ザックと対等に打ち合っていた。

 そして膠着状態が続けば、先に息切れするのはザックだ。

 

(──いける!このまま押し切れば──)

 

 勝ち筋が見えたと思ったアーヴリルだったが、直後に剣を持つ手首が絡め取られる。

 

(しまった!)

 

 引けばそのまま懐に入られ、無理に押せば致命的な隙を生む──剣殺しをかけられた。

 剣を持っていない状況で使うような技を剣戟の最中に使われることは想定していなかった。

 

 だが、このまま大人しく詰まされるわけにはいかない。

 

「風よ!わが背を支えよ!」

 

 最大出力の風魔法で強引に押し込み、ザックを地面に叩きつけようと試みるが──それは完全に裏目に出た。

 

 指向された風の間隙にするりと潜り込んで真横を取ったザックに左腕をひしがれ、激痛が走る。

 

 思わず悲鳴を漏らすも何とか立て直そうとしたアーヴリルだったが、時すでに遅しだった。

 腹に膝蹴りを喰らい、体勢が崩れる。

 

「幕だ」

 

 ザックが冷たく宣告する。

 

 その刃の位置と速さを見て、防御も回避も間に合わないと、アーヴリルは悟る。

 

 やはり駄目だったか──そう思った直後──

 

 

「お姉ちゃん!!」

 

 

 その声にザックが一瞬気を取られたのをアーヴリルは見逃さなかった。

 

 紫電一閃。

 

 弾き飛ばされた剣が回転しながら宙を舞い、彼方へと飛んでいく。

 間髪入れずにアーヴリルの剣の鋒がザックの喉元に突きつけられた。

 

 直後にシェリルがアーヴリルの背中にしがみつく。

 

「な、何してるの!や、やめてよ!こんな、こんなこと!」

「やめない。私たちを行かせてくれない限り、絶対にやめない!」

「──え?」

 

 シェリルが驚いてアーヴリルから離れる。

 

 それを見てザックは叫んだ。

 

「アーヴリル。何をするつもりだったか正直に言え。父上とシェリルに薬を盛って眠らせて、それでシェリルをどうするつもりだった?神殿に連れて行くならこんな仕掛けは要らないだろうが」

「え──お姉──ちゃん?」

 

 シェリルが震える声で呼んでくる。

 

 ザックから目を離せないのと、シェリルの顔を直視できないのと、二重の意味でアーヴリルは視線を動かさずに答えた。

 

「──私はこの領地を出て行く。それに連れて行くつもりだった。私の──心からついていきたい、お仕えしたいと思う主君の元へ、一緒に行くつもりだった。ごめんなさいシェリル。貴女を騙した」

「──そう──なんだ」

 

 ──ああクソ。

 

 ──失敗した。それも最悪の形で。

 

 ──一体どこで間違った?

 

 ──そもそもシェリルを連れて行こうとしたこと自体間違いだったのか?

 

 詰んだと思ったアーヴリルだが、そこにまた声が割り込んでくる。

 

「よかった!間に合った!」

 

 現れたのはプリシラだった。

 

「「母上──」」

「アーヴリル、剣を下ろして。もう勝負はついているわ」

 

 プリシラに命じられて、ようやくアーヴリルは剣を下ろした。

 

「母上、余計なことをしないで──」

「貴方は黙ってなさい!!」

 

 声を上げたザックをプリシラは一喝して黙らせた。

 

 続いてプリシラはシェリルの方へと向き直る。

 

「シェリル。今までずっと話もさせてくれなかったから、相談もできなかったけれど、これだけは言っておくわ。神殿に逃げ込んでも貴女の負った傷はなくならない。綺麗さっぱり忘れて安らかに過ごすことはできないのよ。逃げ続けても、それは一生貴女を尾け回して、隙あらば苛み、殺そうとするの。自分の心からは──逃げられないのよ」

 

 悲痛な表情で訴えかけるプリシラをシェリルは見ていなかった。

 

 耳を塞ぎたい、聞きたくない──そんな意思が見て取れた。

 

 それでもプリシラは懸命に訴えかけ続ける。

 

「だからね、貴女はこの先その傷をずっと抱えて生きていくしかないの。そしてそれは、一人でできることではないの。一緒に傷に苦しんで、悲しんで、怒って、そして一緒に乗り越えようとしてくれる人が必要なのよ。こんな酷なことを言いたくはないけれど、神殿の人たちにそれができる可能性は限りなくゼロに近いわ。貴女と同じような目に遭って、神殿に入った人たちもいるでしょうけれど、彼女たちに貴女を救うことはできない。でも、お姉ちゃんにはそれができる。実際、貴女の恐怖の根源を消し去った。他の誰よりも、貴女の苦しみをよく理解していたからこそ、できたことなのよ。母親として誰よりも近くに寄り添って守るべきだった私が怯んで逃げてしまったことに──アーヴリルは立ち向かって、やり遂げたのよ」

 

 プリシラの目から涙が溢れ出る。

 

「ごめんなさいシェリル。貴女は何も悪くなかったのに、傷ついた貴女を更に酷く傷つけて、こんなになるまで追い詰めてしまった──今更許してなんて言わない。でも──これは貴女の母親──貴女をこの世に生み落とした母としての最後のお願い。お姉ちゃんと──アーヴリルと一緒に、この苦しみを本当の意味で乗り越えて、そして幸せになって欲しいの。貴女はまだこれからいくらでも幸せになれる。すぐには難しいかもしれないけど、アーヴリルと一緒なら、いつか苦しみを乗り越えて、また心の底から笑えるようになるから。だから──お願い」

 

 頭を下げるプリシラに向けて、シェリルが振り返る。

 

「お母──さん」

 

 呟いたシェリルの右目から涙が一筋、流れた。

 

「──あれ?なん──で」

 

 アーヴリルはハンカチを取り出してシェリルに渡し、シェリルの肩を優しく抱いて言い聞かせる。

 

「何度も言ったけど、何度でも言うよ。私は絶対にシェリルを守る。シェリルが自分のことを許せなくても、私はシェリルは悪くないって言い続ける。シェリルに石を投げる奴がいても、そんな石全部叩き落として投げ返してやる。シェリルが恐怖に苛まれたら、それが過ぎ去るまでずっと側にいる。もう二度と、置いてどこかに行ったりしないから。信じて」

 

 シェリルが両手で顔を覆う。

 

 そして──ようやく首を縦に振る。

 

「──うん」

「ありがとう」

 

 よく決断してくれたとアーヴリルはシェリルの頭を撫でた。

 

「そういうことだからザック、もうやめましょう。お父さんには私から話をしておくし、後のことも私がどうにかする。この件に関しては、もう貴方は関わらなくていい。気負う必要はないわ」

「──母上がそう仰るなら」

 

 母に言われてザックは不承不承と言った感じではあったが、頭を下げた。

 

「さ、乗って。早く行くのよ」

 

 プリシラに促されて、アーヴリルはシェリルと共に荷馬車に乗り込んだ。

 

 御者台に座ったアーヴリルにザックが声を掛けてくる。

 

「アーヴリル。力を付けたな」

 

 久しぶりに聞いたその言葉にアーヴリルはハッとする。

 厳格でぶっきらぼうだった兄が、唯一使っていた褒め言葉だ。

 

「師が良かったからですよ」

 

 そう返すと、ザックはほんの僅かに表情を緩めた。

 

「今までお世話になりました。どうか、お健やかに」

 

 短く別れの挨拶をして、アーヴリルは馬車を出す。

 

 

 

 残されたプリシラはザックに気遣いの言葉を掛けた。

 

「怪我はない?」

「──ええ」

 

 アーヴリルとシェリルの去った方角を見つめたまま、短く答えるザック。

 

「強くなったわね。アーヴリル」

 

 プリシラが呟くと、ザックはふっと息を吐いて言った。

 

「当たり前です。俺の妹ですよ」

 

 

◇◇◇

 

 

 三日後。

 

 ファイアブランド家の屋敷の執務室前にアーヴリルはいた。傍にはシェリルもいる。

 アーヴリルが仕えることになる人に会いたいと言われたので、エステルの許可を得て連れて来たのだ。

 

 ティナが扉を開けると、エステルは机に座って待っていた。

 

「只今戻りました。エステル様」

「ああ、期日通りに帰ってきたな。まあ座れよ」

 

 エステルがソファーを指し示すと、アーヴリルはシェリルと一緒に座った。

 

 その向かい側にエステルが座る。

 

「事情は聞いた。お前たち二人のための部屋をこの屋敷の中に用意させよう。安全な居場所がなるべく近くに必要だろうからな」

「ご配慮感謝致します。エステル様」

 

 頭を下げるが、エステルは「気にするな」と言って、ティナに合図をする。

 ティナが持ってきたのは綺麗に畳まれた真新しい赤い軍服だった。

 

「お前のだ。明日からそれを着て職務に当たってもらう。問題ないはずだけど、サイズが合わないとかあったら言えよ」

「はい」

 

 アーヴリルの返事を聞いてエステルは満足気に微笑み、立ち上がった。

 

「シェリルの事情を考慮して大勢の前での叙任はしない。ここで略式に済ませよう。隣の部屋でその服に着替えてこい」

 

 アーヴリルはソファーを立ち、軍服を受け取った。

 

 そして手早く着替えを済ませると、真っ直ぐに立ってエステルと向かい合う。

 

「ファイアブランド子爵家当主、エステル・フォウ・ファイアブランドの名において。アーヴリル・ランス、貴女をファイアブランド子爵家の陪臣騎士として迎え入れ、ここに当主側付に任じるものとする」

 

 厳かに口上を述べた後、エステルはティナから一振りの剣と剣帯を受け取り、アーヴリルの前に掲げた。

 

「この剣はピットが使っていたものだ。その身を犠牲にしてお前の命を救った者の意志を、受け継ぎ、繋いでいくことを期待する」

「はい。必ず」

 

 力強く応えると、エステルが剣帯をアーヴリルの腰に装着し、剣を差し込んで留めた。

 

「これにて叙任を終了する。今日からお前は私の騎士だ。アーヴリル。よろしく頼むぞ」

「はっ!」

 

 踵を揃えて、敬礼する。

 

 この日、ノックス家の騎士の娘としてのアーヴリルは死んで、新たにエステルの騎士としてのアーヴリルが生まれたのだった。




なんでザックが起きてて、プリシラが出てこなかったのかというと、アーヴリルとプリシラが二人で相談してるとこ見てなんか怪しいと思い、夕食の時薬が入ってた自分の皿をプリシラのとこっそり取り替えてたから


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俺が私になるまで Ⅱ

 下世話な話ではあるが、前世の俺は性欲がそこそこ強い方だった。

 

 結婚して何年も経ったり、子供が生まれたりしていつしかパートナーを異性として見られなくなる、という話を会社の先輩や同僚たちから聞いてはいたが、自分には無縁のことだと思っていた。

 子供が生まれても妻──じゃなくて元妻には女性としての魅力を感じていた。

 

 それだけに夜の生活を断られるようになったのは悲しかった。

 

 最初は子育てが忙しいからとか疲れているからという理由で俺も仕方ないかと思っていたが、やがて理由もなしに素っ気なく断られるようになった。

 

 怒りが湧いたし、それ以上に虚しかった。

 でも、良い大人良き夫として堪えて何も言わなかった。

 

 今思えば随分馬鹿なことをしたものだ。

 元妻は俺の求めを拒否し続けて何ら罪悪感も覚えずに間男と浮気三昧で、俺のことを裏で嘲笑っていたのだから。

 

 だから俺は今世では遠慮は一切しないと決めた。

 したいと思ったらそう言うし、理由も述べずに断るなど許さない。

 

 そう、心に決めていたのだが──

 

 

 

「ごめんなさい。今日はお相手できません」

 

 ある日突然ティナにそう言われた。

 

 一瞬足元の床が抜けたような気がした。

 冷や汗がぷつぷつと噴き出てくる。

 

 今まで断られたことはなかったのに、なぜ今日に限って。

 

「──なんで?どうして駄目なんだよ」

「そ、それは──」

 

 ティナは困ったように目を泳がせる。

 

 ──隠し事をしている。

 それが分かって頭に血が昇る。

 

 脳裏に蘇る忌わしい記憶。

 

「やめてよ」

 

「気分じゃない」

 

「嫌なものは嫌なの」

 

「疲れているの見て分からない?」

 

「それしか頭にないわけ?」

 

「私は物じゃないんだけど」

 

「私のこと何だと思っているの?」

 

「今更そういうの無理」

 

「はぁ──」

 

「……」

 

 俺が勇気を振り絞って何度もかけた誘いを無碍に断り続け、その裏で間男に抱かれていやがった女に投げつけられた刺々しい言葉と態度の数々。

 それを真に受けて自分が悪いのだと思い込み、彼女が隠れて浮気しているなど考えすらしていなかった馬鹿な自分への怒り。

 

 それらから受けた無数の古傷が一斉に開く。

 ささくれ立った心が、血を流す。

 

「──拒むのか──俺を──お前も俺を拒むのか!」

 

 飛び出した怒声は鼻声だった。

 

 見開いた目から涙がこぼれ落ちる感触がする。

 

 その涙を拭う気にもなれず、俺はみっともなくまくし立てる。

 

「どうせ俺とするのが嫌なんだろ!鬱陶しいんだろ?おかしいって思ってるんだろ!ずっと堪えて我慢して、俺のこと気持ち悪がっていたんだろ!それが我慢ならなくなったんだろ!?ああそうかよ、俺は奴隷にまで疎まれて拒まれるのか!」

 

 するとティナは慌ててかぶりを振って言い訳する。

 

「違います!そんなこと絶対ありません。ただ、その──」

「うるさい!言い訳なんて聞きたくない!どうせ皆俺のことなんか──」

 

 顔を背けて部屋を出て行こうとすると、後ろからティナが俺を抱きしめる。

 

 振り解こうとしたが、俺の身体は五歳児。力では敵わない。

 

「──何だよ。離せよ」

 

 抵抗を諦めた俺は辛うじてその言葉だけを絞り出す。

 

 力が抜けたのを感じ取ったティナが俺を離し、正面に移動してくると、片膝をつく。

 

「申し訳ありませんお嬢様。私が無神経でした。私はお嬢様を疎んでなどいません。誓って本当です」

「じゃあ何で──」

 

 ティナは一瞬困ったような恥ずかしいような複雑な表情をしたかと思うと、小声で言った。

 

「私、今──生理という状態なんです」

「──え?」

 

 思わず間の抜けた声が出た。

 

 盲点だった。

 前世のトラウマに気を取られて、女性なら誰しもが抱えている事情のことが頭から抜け落ちていた。

 

 俺が何のことか理解していないと思ったのか、ティナが生理について説明してくる。

 

「簡単に言うと、私、今血が出ているんです。私も含めて、女の人のお腹の中には、生まれる前の赤ちゃんが眠るための部屋とお布団があって、そのお布団は毎月新しいものに勝手に替えられるようになっているんです。それで、古いお布団を捨てる時にちょっとドアが開いて血が──」

「分かったもういい。それは知っているから」

「え?ご存じだったのですか?」

「あ、ああ──お袋から聞いたことがあって、な」

 

 股から出血していることを比喩表現を混えて懇切丁寧に説明されると、何とも言えない気分になる。

 

 聞かされている方がこうなのだから、言う方はもっとやりにくいだろう。

 

 怒って泣いていたのが馬鹿馬鹿しい。

 

「怒って悪かった。その──大変、だな」

「いえ、私が最初からきちんと説明すべきでした」

 

 そう言ってティナは頭を下げる。

 

「今日はお相手できませんけど──あと四日ほど経てば大丈夫ですから」

「分かった。待ってるからな」

「はい。お約束しますよ」

 

 どちらからともなく小指を差し出し、絡ませる。

 

 これでお互い水に流して、四日後にまた──

 

 

◇◇◇

 

 

 そんな約束をしてから八年。

 

 雪解け祭りが終わってしばらくしたうららかな五月の始め頃の日に、前触れなく唐突に()()はやって来た。

 

 いつか来ると知識としては知っていて、頭では理解していたのに──ソレを見た時、湧き上がる恐怖で絶叫してしまった。

 

「お嬢様!どうされましたか!?」

「ち、血が──布団が──布団に血が──」

 

 駆けつけてきたティナに俺はみっともなく涙目で縋り付いてしまった。

 でもあれはさすがに仕方ないと思う。起きたら布団が血塗れだったなんてトラウマものである。

 

「大丈夫です!大丈夫ですから!落ち着いてください」

 

 ティナが俺を抱きしめて背中をさすってくれて、俺はいくらか落ち着きを取り戻した。

 

 だが、腰が抜けたか、力が入らない。

 

 それを見たティナが「今日は休まれては?」と提案してくるが、俺はかぶりを振る。

 

「仕事がある。病気でも何でもないのに休めるか」

「──ご無理はなさらないでくださいね。それとお腹を冷やさないように、これをご着用ください」

 

 ティナが差し出してきたのは冬に使う腹巻だった。

 

 仕事着の下に着けていると、確かに腹が温かい。

 

 そのおかげか、腹痛などはなかったが、どうにも調子が出ない。

 

 鍛錬も漏れと貧血が怖くてロクにできなかったし、仕事をしていても微かに眠気を感じて能率が悪い。そのせいか、明らかにいつもよりイライラしている。

 

 それに何より、二時間ごとに()()()を外して洗い、別のに交換するのが精神的にキツい。

 

 ティナやセルカがやろうかと言ってきたのを恥ずかしくて断ったのは俺だが、ちょっと後悔している。

 

 結局仕事を終える頃にはすっかり夜も更けて、俺は疲労困憊だった。

 

「お疲れ様。大変だったわね」

 

 机に突っ伏す俺にセルカが紅茶の入ったカップを差し出してきた。

 

「──ああ」

 

 疲れた身体を起こし、紅茶を一口飲む。

 

 温かさが染み渡り、思わず安堵の溜息が漏れた。

 

 女らしい振る舞いをするのと同様、いずれ慣れるのかもしれないが、これがあと数十年間毎月やって来ると思うと、憂鬱な気分になる。

 

 ティナもこういう気分に毎月なっていたのだろうか。

 そんな素振りは全く見せなかったが、仕事上見せるわけにはいかなかっただけで、本当は苦しんでいたのだとしたら──八年前は本当に悪いことをしてしまったな。

 

 専属使用人としての立場があるとはいえ、怒りや苛立ちを露ほども見せずに、冷静に逆上した俺を宥めすかして丸く収めたティナは本当にできた奴だ。

 今の俺が当時のティナの立場だったら、当時の俺を思い切りぶん殴っているだろう。

 

 ──今度ティナには日頃の感謝も込めてお菓子でも奢るか。

 

「そうねぇ──あの娘シナモンロールが好物みたいだからそれにしたら?」

 

 俺の心の声が聞こえたらしいセルカが提案してくる。

 

「ああ、そうするよ」

 

 力なく答える俺にセルカは苦笑する。

 

「疲れが酷いわね。まあ、貴女の前世を考えると無理もないけれど」

「本当だよ。やっぱり男に生まれたかったな。というか、今からでもできないかな。魔法とか使ってさ」

「うーん──そういう魔法は聞いたことないわねぇ」

「言ってみただけだ」

 

 男になれる方法があるなんて別に本気で期待してはいない。ただの愚痴だ。

 仮にあったとして、今俺が生きているのは歪な女尊男卑の価値観に支配された世界だ。

 また別の悩みや問題が発生するだけだろう。それも前世のトラウマを抉ってそこに猛毒を塗り込むような、どぎついのが。

 

「やっぱり生理に伴う不便やストレスを軽減する工夫をするのが現実的ね。使い捨てにできる生理用品とか、それらがズレないように締め付ける下着とか──あ、下着自体に吸収性を持たせる方がいいかしら?あとは──まあ、当人たちに意見を聞くのが確実ね。今特に困っていることは何かしら?」

 

 セルカの問いかけに俺は迷わず当て布のことを答える。

 

「取り敢えず布よりマシな当てるものを作れないか?動くとズレるし、ゴワゴワしてて気になるんだよ。あと、洗うのがキツいし」

「それなら使い捨ての紙ナプキンでも作ってみる?ちょうど今木材パルプ工場を改修しているでしょう?そこの設備と製法を応用すれば作れると思うの。下着と同じ形に作ればズレる心配もないでしょうし。どうかしら?」

 

 すぐにアイデアを出してくれるセルカの頭脳には感心するが、俺には一つ、深刻な疑問が生じた。

 

「まあ、聞いた感じ悪くはないけど──それっておむつとどう違うんだ?」

 

 セルカは若干目を逸らす。

 

「──大して違わないわね。でも、きっと快適よ?そうしょっちゅう替える必要ないし、漏れる心配しなくていいし」

「いや、でもさすがにおむつは──」

 

 渋る俺にセルカは顔を近づけてくる。

 

「寝ている間も安心よ?寝返り打ってもズレないし、朝起きたら寝間着や布団が血塗れなんてこともなくなるわよきっと」

「それは──ありがたいけど──」

「朝の鍛錬だって何も気にせずできるわよ?たしかあれ、一日サボったらその分を取り返すのに三日かかるんだったわよね?その損失も防げるのよ?」

「ッ!」

 

 ──そうだ、鍛錬だ。

 生理の度に滞っていては強さが失われてしまう。

 

 それは絶対に駄目だ。

 

「わ、分かった。──頼む」

「任せなさいな。来月には生産を開始してみせるわ」

 

 折れた俺を見て、セルカは満足げにそう言って胸をどんと叩いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 一週間後。

 

 俺はティナをデートに連れ出していた。

 

 行き先は雪解け祭りで行った屋台を出していたシナモンロールの店だ。

 取り寄せてもよかったが、やはり店で作りたてを食べさせてやろうと思った。

 こういうのって気持ちというか、気分が大事だっていうし。

 

 店は平日の昼間とだけあって空いていた。

 

 まるで貸し切りのような雰囲気で、幸運だと思った。

 

「好きなの頼んでくれ。俺の奢りだ」

「いいんですか?そ、それではありがたく──」

 

 ティナが遠慮がちに林檎が載ったやつと紅茶を注文する。

 

 俺はアイシングがかかっただけのオーソドックスなやつにした。

 前世の影響か、甘過ぎるのは苦手だ。

 

 運ばれてきたシナモンロールを見て、ティナが目を輝かせる。

 

「ティナ──いつもありがとうな」

 

 そう言うと、ティナは目を見開く。

 

「え?な、何ですか急に?」

「いや、俺さ──今までお前に凄く苦労を掛けていたなって、思ったんだよ。だから──その礼が言いたくて」

 

 照れながらもどうにか自分の言葉で伝えたが、ティナは固まったままだ。

 

「な、何だよ?」

 

 恥ずかしくなってきたので、何とか言えよと言おうとしたら──

 

「あ、あれ?」

 

 ティナの両目から涙が流れ落ちた。

 

「すみません。その──私──そんなこと言われたの、初めてで──嬉しくて──」

 

 後から後から流れ出てくる涙を拭うティナにハンカチを差し出す。

 

 ティナは受け取ったハンカチを目に当ててから、太陽のような明るい笑顔になる。

 

 そして──

 

「私の方こそ、ありがとうございます」

 

 その言葉と表情を俺はきっと一生忘れないだろう。

 

 

◇◇◇

 

 

 六月。

 

 セルカの言ったことは本当だった。

 

 吸収用の綿状パルプと防水紙、それを包んだ不織布でできた下着型のナプキンは当て布とは比べ物にならない快適さである。

 

 おかげで今月は鍛錬を休まずにやれた。

 

 俺と同じく試用を任されたティナとアーヴリルにも好評である。

 

「思った以上に良い出来だわ。これは価格をもう少し抑えればビジネスにできるわね!」

 

 セルカがニッコリ笑って手を打つ。

 

「ビジネスか──」

「ええ。私が知る限りこんな生理用品は王都にも存在していないわ。使い心地の良く、かつ低価格を売りにして上手く宣伝できればシェアの独占も夢じゃないでしょうね」

「独占だと!?そいつはいいな!」

「でしょう?」

 

 俺たちは悪どい笑みを浮かべてガッチリと手を組んだ。

 

「商会を通じて取引するのが手っ取り早いけれど、それでは中間搾取が発生して価格競争で勝てなくなるわ。ならば──」

「自分たちで会社を立ち上げて生産から販売まで一貫して担う」

「そうね。大量生産ともなると原料の調達と生産能力の向上が大変になるけれど──」

「製造をアウトソーシングしてこちらは開発と販売を握っていればいい」

 

 思わず二人して「フフフ」と笑いが漏れる。

 

「そうと決まれば早速、特許の取得と量産に向けての改良に生産設備の増強、そして販路の開拓ね。これはもう国を挙げた一大プロジェクトだわ」

「よし、そのプロジェクト、お前に全て任せる。必要なものはその都度言え」

「承りましたお嬢様」

 

 セルカが恭しくお辞儀をする。

 

 

 

 それからのセルカの働きは凄かった。

 

 どうやったのか、普通は最短でも二年はかかる特許を一年で取得し、二十年間の独占販売権まで勝ち取ってきた。

 

 しかもその間にどこからか志を同じくする女性たちを集めて販売会社も立ち上げ、ファイアブランド領と王都の二ヶ所に販売拠点を用意していた。

 

 俺が十五歳になり、成人と認められた頃には【クレセント】と名付けられたその会社の売り上げが軌道に乗り始めていた。

 

 人や社会の意識というものは簡単には変えられないため、爆発的に売れて大流行とはいっていないようだが、顧客からはやはり便利だと好評らしい。

 

 商品開発も進んでいて、ナプキンだけではなく、おむつやトイレットペーパーなども作り始めているのだとか。

 

 俺の悩みの解決策がこの世界での画期的な発明品となり、ビジネスを生んで大金を稼ぎ出している。

 

 何だか不思議な気分だが、こういうのを現代知識チートというのかもしれない。

 製品や会社を作ったのはセルカだが、それで儲けて得をしているのは俺だ。

 

 そう考えると俺は他人の成果で利益を貪る悪人──良いじゃないか。

 

 悪徳領主の夢にまた一歩近づいたようなものだ。

 

 これからもっともっとできそうなチートを見つけて使って、暴利を貪り、悪逆非道の限りを尽くしてやろう。

 

 執務室に一人、思わず笑いを漏らし、誰もいないことに油断して高笑いしていると──

 

 一気に飛び出してきたソレの感覚が俺を一瞬で真顔に引き戻した。

 

 ──まぁ、その、何だ。

 

 ──不意打ちって、効くよな。

 

 現実逃避しながら俺は呼び鈴を鳴らしてティナを呼ぶ。

 

 色んな意味で、安定と平穏はまだまだ遠い──そんなことを思った成人直後の春の日だった。



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慟哭の狩人

エマちゃん枠を登場させたいなーと思っていたら未完成だったマタギマリエちゃんのエピソードが流用できた


 山で、森で、獣を狩って生きる者たちの古い言い伝えがある。

 熊を仕留めたなら、必ずその魂を森の神エンテの下に送る儀式をせねばならない。さもなくば怨念に濁った魂が現世に残って祟りをなし、七日七晩続く嵐がやってくる、と。

 

 しかし、その儀式というのがどんなものなのかは誰も知らない。

 

 故に狩人たちはその猛獣を仕留めた後にこう唱え、祈りを捧げる。

 

 

「偉大なる森の狩人、山つ神の仔の末裔よ。その魂はエンテの下へ。肉体は現世に残り、我らの糧となりたまえ」

 

 

◇◇◇

 

 

【アッカ】と呼ばれたその村はファイアブランド領の中でも最も小さな集落の一つだった。

 

 村民は元々ファイアブランド領の黎明期の終わり、森を切り拓いて居住地と農地を北へ北へと広げた過渡期の頃に移り住んできた者たちだった。

 

 新天地での平和で豊かな暮らしを夢見てやって来た彼らは当時のファイアブランド家当主【ロードリック】から北の山岳地帯の入り口に当たる土地を居住地として与えられ、そこを開墾して村を作った。

 

 皆で話し合ってそれぞれの持分の土地を決め、木を伐って家を建てた。切り株と石を取り除いた後に鋤を入れて畑を作り、渓流から水を引いて作物の種を蒔いた。

 

 春に麦の種を蒔き、秋には実った麦を収穫し、山に入って山菜やキノコや果実を採り、川で魚を獲って乾燥し、冬には男たちは出稼ぎに行き、女子供や老人は暖炉の火を囲んで保存食で飢えを凌ぎながら春を待つ。

 そんな生活が何年も続き、少しずつ人が増えて村は大きくなっていった。

 

 だが、両脇に山肌の迫る僻地であるが故に、大きくなるにも限度があり、また他の集落とも距離が離れた所謂陸の孤島であることは変わらなかった。

 

 

 

 その年は例年よりも早い十月に冬が来た。

 

 紅葉が終わらないうちに山肌は白く覆われ、村には粉雪が舞った。

 

 村人たちは皆、殆ど家の外に出ることなく、暖炉の周りで身を寄せ合って過ごした。

 

 そして雪の積もった十一月下旬、ある一戸の家で異変が起こった。

 

 夜中に突然馬が激しく嘶き、床を踏み鳴らして暴れ回った。

 これまで見たことのない異様な怯えぶりに家の主人が起き出して外の様子を窺ったが、何も見つからず、主人は寝床に戻った。

 

 だが、次の朝外に出てみると、軒先に干されていた果実が半分ほどなくなっており、その真下の雪には見たことのない異様な大きさの足跡が残っていた。

 

 すぐに村人たちが集まり、その足跡に群がった。

 

「熊だな」

 

 足跡を見た村の長老はそう断じた。

 

 居合わせた村人たちは思わず身を竦ませた。

 

 熊──地上最大の肉食獣。大自然の猛威を体現する森の支配者。

 

 その力強い四肢は深く積もった雪をものともせずに巨体を馬よりも速く走らせ、振るえば牛の頸すら容易くへし折り、爪で皮も肉も紙切れのように切り裂く。

 そしてこれまた強力な顎と牙で骨ごと噛み砕き、哀れな獲物を無惨な肉片に変えてしまう。

 

 彼らの纏う分厚い毛皮は雪も寒さもものともせず、ナイフはおろか、鎌も斧も通さない。

 さすがに銃弾ともなれば通るが、それとてそんじょそこらの猟銃では余程の至近距離から撃たない限りその下の脂肪に止められるか、骨で弾かれるだけ。

 殺すどころか傷を負わせるのも至難の業だ。

 

 そんな下手なモンスターよりも恐ろしい猛獣がつい昨夜家の外にいたと知って、恐怖を覚えないわけがなかった。

 

 しかも奪われたのは冬を越すためのなけなしの蓄え──それだけならまだいい。

 味を占めてまた来て、今度は馬を襲って喰うかもしれない。

 畑を耕すのに不可欠な馬を殺されてしまえば、生活が成り立たなくなってしまう。

 

 すぐに長老の指示に従い、村人の中で銃を持っている者が呼び集められた。

 その中に狩人から熊について聞いたことがあるという老人がいた。

 

「巣ごもり前の奴だろう。腹を空かしとるんだ」

 

 老人の見立てに村人たちは蒼褪めた。

 

「きっとまた来る。ここで待ち伏せして仕留めるぞ」

 

 その言葉に従い、老人ともう二人銃を持った若い男の計三人が被害を受けた家に張り込んだ。

 

 果実が吊るされている軒下に面した窓からでは射線が確保できなかったため、斧で壁の一部を壊して銃眼を二つ開けた。

 

 目が良い若い男二人が銃眼に、熊の習性を知る老人は窓から様子を見つつ指揮することでどの方向から熊が来ても確実に仕留める作戦だった。

 

 だが、その晩熊は来なかった。

 

 その次の晩も、その更に次の晩も熊は来なかった。

 日中家の周囲を調べても痕跡すら見当たらず、食い荒らされたものもなかった。

 

 当初こそ張り詰めていた男たちだったが、次第に緊張が緩んでいく。

 熊はもうとっくに飢えを満たして冬眠に入ったのではないか──そんな考えがその場を支配し始める。

 

 そして一人の若い男が仕事を理由に抜けると言い出した。

 

 不安は拭えないながらも、善意で泊まり込んでもらっている立場故引き止めることもできず、家の主人はその申し出を受けた。

 そして心ばかりの礼として少しばかり豪勢な夜食を振る舞った。

 

 寒村では貴重な肉を使った料理に男たちが舌鼓を打っていたその時だった。

 

 ゴリッ、ゴリッという妙な物音が家のすぐ外から聞こえてきた。

 

「き、来た!」

 

 若い男の一人が慌てて銃を取ろうとするのを老人が制止する。

 

「静かにせんか!親父さん、ランプをこっちに」

 

 小声で家の主人に指示を出し、窓際にランプを持って来させる。

 

 そしてそっと窓から顔を出して外の様子を窺うと、軒下で何かを貪り食っている巨大な獣の後ろ姿が見えた。

 

「手筈通りにやるぞ。銃眼につけ。慌てずにちゃんと頭を狙うんだぞ」

「わ、分かった」

 

 小声で短くやりとりを交わし、男たちは銃を手に配置についた。

 

 獣はむしり取った果実を食うのに夢中で彼らの動きに気付いていないようだった。

 

(む、角度が悪いな。どこからも頭が見えん)

 

 獣はどちらの銃眼からも直接頭を狙えない姿勢で座り込んでいた。

 

 老人にしてみれば少々計算が狂ったが、作戦が破綻したというほどのことでもなかった。

 

 頭を上げるまで待てばいい。

 

「まだだぞ。顔を上げるまで待て」

 

 老人は小声でそう言った。

 

 だが、その声は若い男たちには届いていなかった。

 

 初めて巨大な熊を目にした興奮と緊張感で頭に血が昇っていた彼らは、熊が身を捩った拍子に頭をはっきり視認しないまま発砲してしまった。

 

 獣は弾かれたように立ち上がって森へ向かって走り出す。

 

「馬鹿者!あれほどちゃんと頭を狙えと言ったのに!」

 

 老人が毒づいて窓から銃を突き出し、逃げていく獣目掛けて撃った。

 

 だが、どうやら外れたらしく、獣はそのまま走り去った。

 

 老人たちは日の出を待って足跡を追ったが、運悪く山が吹雪き始め、追跡を断念せざるを得なかった。

 

 それっきり熊は姿を見せず、結局老人たちは熊が遠くへ逃げていったか冬眠に入ったのだろうと判断し、解散した。

 

 危険は去ったと思った村人たちだったが、それから数週間が過ぎた十二月半ばに、事件は起こった。

 

 

 

 それを最初に見つけたのは木樵の【オーロ】だった。

 

 早朝から山に入って売り物にする木材の切り出しを行い、昼食を食べに寄宿先である農夫【ウォラフ】の家に帰ってきた彼が暖炉の方を見やると、ウォラフの末の息子が寝転がっているのが見えた。

 その近くにはいくつかの芋が転がっていた。

 

 芋を放ったらかして眠っている子供に苦笑しながら、オーロは起こそうと近づいて──次の瞬間、血の気が引いた。

 

 子供の顔面が削ぎ落とされたかのようになくなっていて、暖炉の方に向かって赤黒い血と桃色の脳が飛散していた。

 

 オーロは目を見開き、慌てて玄関に立てかけていた斧を手に取った。

 流れ者や賊の類が食べ物を奪うために家に押し入り、子供を惨殺したのだと思ったのだ。

 

 斧を構えたままオーロは家の中を見て回ったが、動くものはなく、もぬけの殻のようだった。

 

(おい、待て。それじゃカミラはどこだ?)

 

 子供と一緒に留守番していたはずのウォラフの妻【カミラ】の姿がない。

 

 オーロは大声でカミラの名を呼んだが、返事はなく、人の気配は感じ取れなかった。

 

 静寂と冷気が身体にのしかかってくるかのような感覚に襲われ、オーロは斧を手に家を飛び出した。

 

 

 

 村のすぐ側を流れる渓流はアッカに恵みの水をもたらすと同時に、外の世界との行き来を制限していた。

 

 下流へと下った先の本流には木製の橋が架けられているのだが、そこは冬になると雪が積もって通行できなくなってしまう。

 

 その対策として、アッカでは毎年氷橋と呼ばれる簡易の橋が渓流に架けられる。

 

 丸太で骨組みを作り、枝を敷き連ねてその周りを雪で固めると、すぐに雪が凍って固い氷となり、馬橇の往来にも耐える頑丈な橋となる。

 そうして氷橋が完成したら、秋に収穫した作物を馬橇に積み込んで街に売りに行き、得た現金で衣服や日用品を調達して村に帰ってくるのだ。

 

 そんな氷橋の架橋工事の現場は昼休憩に入り、男たちは焚き火を囲んで談笑していたが、そこに顔を真っ青にしたオーロが駆け込んできた。

 

「た、大変だ!う、う、ウォラフの!ウォラフの末の子がやられた!そ、それと、カミラが、いねえ!」

 

 息を切らしながら叫ぶオーロに男たちは皆驚愕した。

 

 真っ先に血相を変えてウォラフが走り出し、他の男たちも斧や木槌を手に後に続いた。

 

 粉雪の舞う中を全力で走ってウォラフの家に辿り着き、家探しを開始した彼らが見つけたのは、オーロが見たものを更に上回る惨状だった。 

 

 寝室が赤黒く染まっていた。

 引き裂かれた掛け布団と荒れた敷き布団に大量の血が染みつき、床や壁のそこかしこに大小の血痕が残っていた。

 

 ウォラフが虚ろな目で床にへたり込み、すぐに狂ったように泣き喚き出した。

 

 二人の男がウォラフの両脇を抱えて寝室から運び出したが、その声は止むことなく、家の中に響き渡る。

 

「お、おい、あれは──」

 

 一人の若い男が指差した先には窓があった。

 

 その枠板が剥がれ、裂け目に血が染みついていた。

 

 近づいてみると、血に混じって糸のようなものがこびりついているのが見つかった。

 

「これ、カミラのじゃねえか」

 

 根本から抜けて、赤黒く染まった長い髪──それは確かに彼らの知るカミラの特徴的な金髪に違いなかった。

 

 おそらく、カミラは窓から引きずり出され、その時に髪が板の裂け目に挟まって抜けたのだと思われた。

 

 そんなことが人間にできるとはとても思えなかった。

 

 やがて彼らの視線が窓の外、降り積もった雪とその先の森へと移る。

 

 微かな窪みと何かを引きずったような跡が山肌へと続いていた。

 

「熊だ」

 

 誰かがそう呟く。

 

 思い起こされるのは先月の下旬、軒先に吊るされていた果実が熊に食い荒らされた事件。

 

 彼らはここに村を作って以来、野生動物による死者を出したことはなかった。

 

 他の村から熊が家畜を襲っただの、猟師が殺されただのという噂を聞いて、熊が恐ろしい猛獣であるということは知っていた。

 

 だが、不必要に刺激したり、それこそ狩り殺そうとでもしない限り、熊が人間を襲うことはないと漠然と信じていたのだ。

 

 だが、事ここに至って彼らはその認識を改めなくてはならなかった。

 熊にとっては人間とてただの餌である、と。

 

 夕暮れが迫り、森は既に暗くなっていた。

 

「すぐにここを出よう。日が暮れてはどうにもならん。一旦引き上げて、明日カミラを探そう」

 

 長老のその言葉で、彼らはすぐにウォラフの家を離れ、家族を案じて自分たちの家へと急いだ。

 

 その夜は村の誰もがまんじりともできず、ひたすらに薪を暖炉に放り込んだ火を燃やし続けていた。

 

 銃を持たない者が大半で、持っている者も精々が鳥撃ち用の散弾銃であるアッカの村人たちにとって、熊に対抗できる手段といえば火しかなかった。

 

 そして、長い夜が明け、明るくなってくると、男たちが集まって今後の方針を話し合った。

 

 その結果、隣村の【ケルンド】に一人を派遣してそこの駐在騎士に応援を要請することとなったのだが、その役目を引き受けたがる者はいなかった。

 ウォラフの妻子が殺された直後で、家族を置いて村を離れる気にはなれなかったのだ。

 

 結局隣村に行くことが多かった【ネスキル】という男が推され、彼は自分の他にもう一人隣村へ行くことと、残った家族を村人たちが責任を持って守ることを条件に承諾した。

 

 話がまとまると、ネスキルともう一人の男【ミカル】はすぐに馬に乗り、村を発った。

 

 

 

 ケルンドの駐在騎士は名を【ウルフ・カルティアイネン】といった。

 

 彼はファイアブランド子爵家の陪臣騎士としてこの一帯の地を管轄するカルティアイネン騎士家の出であり、現当主の末弟に当たる男だった。

 

 実力不足とされファイアブランド家の軍に入ることが叶わず、家族の計らいで駐在騎士に収まっていたが、それでも燻ったりせずに誠実に職務に取り組む男だった。

 それ故にケルンドの村人たちからの信望も篤かった。

 

 そんなウルフの所に息を切らした二人の男がやってきたのは、彼が家族と共に朝食を食べている時だった。

 

 アッカから来たネスキルとミカルから事情を聞いたウルフはすぐに自分の銃を持ち出し、家人に命じて村中の男を呼び集めさせ、救援部隊の編成に取りかかった。

 

 集まった男たちの中から屈強な者が選抜され、総勢三十七人がアッカへと赴くことになった。

 その中には旧式ながらもライフルを持つ者が六人含まれており、また、そのうちの二人が猟犬を連れていた。

 そしてウルフの分も入れれば、七挺のライフルと索敵に優れた犬二頭。

 これならば熊とて敵ではないという確信が男たちの間には生まれていた。

 

 ネスキルたちに先導されて雪道を進み、氷橋の側の渓流を渡ってアッカに到着した彼らはそこでアッカの男たちと合流し、六十人に増強された。

 

 もはや軍の小隊ほどの規模にまで膨れ上がった彼らはウルフの指揮の下、全員で熊の足跡を追うことになった。

 

 一塊となって渓流に沿って山の方へと登っていくと、半分雪に覆われたウォラフの家が見えてきた。

 

 家の中の様子は昨日と変わらないようだった。

 

 荒れた寝室も、子供の遺体も、窓に残った毛髪も、凍りついている以外の変化は見当たらない。

 その裏、熊が消えていった山肌は白さを増し、足跡は消えていたが。

 

 ウルフは家の中の惨状に顔を歪めて、祈りの印を切った。

 どうか彼らの天国への旅路が安らかであるように、と。

 

 そして、仇は必ず取ると改めて誓い、男たちに向けて合図を発する。

 

「よし、行くぞ」

 

 男たちは力強く頷き、銃を持った者を先頭と殿に置いて山肌を登り始める。

 

 雪は深く、男たちは全員膝のあたりまで雪に埋もれ、そのせいで歩みは遅かった。

 おまけにどこに熊が潜んでいるか知れない以上、少しの物音にも注意を払わなければならず、度々行軍は止まった。

 

 だが、それでも彼らは着実に山の奥へ奥へと侵攻し、アッカの村は遥か下に沈んで見えるようになっていた。

 

 そしてかれこれ三、四十分ほどは登り続けたかと思われた頃、突然猟犬たちが激しく吠え始めた。

 

 すぐに全員足を止め、犬たちが吠えている方向へと視線を向ける。

 

 三十メートルほど先の大きな針葉樹の根本にあった茶色い枯れ草の塊のようなものが盛り上がったかと思うと、向きを変え、真っ黒な毛に縁取られた黄色い瞳が男たちを捉える。

 

 その獣の巨大さに男たちは瞠目した。

 それは馬よりも遥かに大きく、逞しい巨躯だった。

 

「ッ!怯むな!撃て!」

 

 我に帰ったウルフの号令で射手たちが一斉に引き金を引いたが、起こった銃声はウルフのものともう一人の計二つのみ。それ以外は不発だった。

 しかも気が動転して十分に狙いを付けられず、放たれた二発の弾丸も獣に当たることはなかった。

 

 銃声に獣は一瞬硬直したように動きを止めたが、すぐにその毛が膨れ上がったかと思うと、雪を蹴散らしながら駆け下ってきた。

 

 男たちは悲鳴を上げて我先にと麓へ向かって走り出した。

 

 その後ろから地響きのような足音と荒い呼吸音が迫る。

 

 統制は完全に失われ、男たちは大混乱に陥って雪の中を逃げ惑った。

 

 獣は四散した男たちを追い回すかのように駆け回っていたが、やがて元来た方向へと走っていき、針葉樹の向こうに姿を消した。

 

 獣が去ったのを見たウルフは必死で散った男たちを呼び集めた。

 

 二十分ほどかかって再集結した男たちは雪まみれで得物を失っている者も多かった。

 

 彼らの間にはすっかり恐怖と無力感が蔓延しており、とても追撃は不可能と見たウルフは撤退を決断した。

 

 男たちは力なく斜面を降り、村に戻った。

 

 

 

 アッカに戻ってきた男たちはようやく落ち着きを取り戻し、村の集会所に集まって対策を話し合った。

 

 真っ先に出てきたのはライフルの整備だった。

 

 熊に対抗できる武器はライフルしかないにも関わらず、それらが殆ど不発に終わったのは明らかに整備不足──つまりは持ち主の怠慢によるものであり、責任は明白だった。

 

 不発だったライフルの持ち主たちは男たちの非難に項垂れ、彼らの見ている前でライフルの分解整備に取り組んだ。

 

 それが終わると、ウルフの指示で試射が行われ、今度は全てのライフルから発射音が響いた。

 

 男たちにライフルへの信頼が戻り、議題は次へと移る。

 それは優先順位の話だった。

 

 今いるメンバーだけであの巨大な熊を仕留めることは難しいというのが男たちの総意であり、更なる応援が必要だという意見で一致した。

 

 そこでウルフがカルティアイネン家の現当主である自分の兄に連絡を取り、応援を寄越してもらうことを提案し、すぐに使いの者が選ばれて出発した。

 

 熊の討伐はカルティアイネン家からの応援を待ってからということになったが、それまで何もせずに待つというわけにもいかない。

 

 無人の家に残されたウォラフの息子の遺体と、山に持ち去られたカミラの遺体を回収し、きちんと弔わなければならなかった。

 放置するのは死者に対する冒涜であり、あってはならないことだった。

 

 熊への恐怖こそあったが、その義務感の方が上回り、アッカの村人の一人がカミラの遺体を回収したいとウルフに申し出た。

 

 ウルフは同意し、自分と射手六人、そしてネスキルとミカルの九人と猟犬二頭で山に入ることに決めた。

 

 男たちの見送りを受けて九人は再び山肌へ足を踏み入れた。

 

 既に日が傾き、斜面の雪が赤みを帯びていた。

 

 ウルフたちは警戒しつつも登坂を急ぎ、十五分ほどで朝熊に出会した大きな針葉樹の所まで辿り着いた。

 

 猟犬たちは吠えず、近くに熊はいないようだった。

 

 針葉樹の周りを観察したウルフは根本に不自然な盛り上がりを見つけた。

 まるで何かを埋めたかのようなその盛り上がりをネスキルとミカルと共に掘り起こしてみると──

 

「ッ!」

 

 ウルフは思わず総毛立った。

 ネスキルとミカルもまた絶句している。

 

 雪と枯れ葉と土の下から出てきたのは、遺体と呼ぶにはあまりにも無惨な切れ端──左脚の膝から下と僅かな髪だけだった。

 

「これだけ──だと」

 

 ウルフは乾いた声で呟いた。

 

 しばし放心状態だった彼はライフルを持った男の一人に促されて、遺体の収容に取りかかった。

 

「──袋を準備してくれ」

 

 頷いたネスキルとミカルが遺体を運ぶための袋を取り出して開けた。

 

 左脚と髪、そしてもう少し雪を掘り起こして出てきた少量の骨片を収容し、ウルフたちは山を下った。

 

 

 

 収容されたカミラの遺体と残っていた子供の遺体はすぐに荼毘に付されることになった。

 

 狩人から熊について聞いたことがあるという老人によれば、熊は自分の獲物に執着する、わざわざ埋めて隠していたのがその表れだ、早く焼かないと熊が取り返しにやって来るかもしれない、とのことだった。

 

 死者は土葬し、その地の土に還すのが慣わしであったが、熊がまた襲ってくる危険を放ってはおけなかった。

 

 代わりにカミラと子供を弔うための儀式はケルンドの村の者も交えて盛大に行うことになった。

 

 集会所から五百メートルほど離れた場所にあるアッカで最も広い間取りを持つ【トリグベ】という男の家が会場に選ばれ、酒と大鍋が運び込まれた。

 村の死者は大勢で鍋をつついて語らって送り出すのだ。

 

 鍋には麦と野菜が入れられ、塩漬けや燻製にした魚が添えられた。

 

 アッカの村は慎ましやかな賑わいに包まれることになった。

 

 葬いは夜になっても続き、村は家々で盛んに焚かれる火で明るかった。

 その明かりと人数が村人たちに安心感をもたらした。

 

 やがて葬いがお開きとなり、ケルンドの村の者たちが集会所へと引き上げ、アッカの村人もそれぞれの家に帰り始め、静けさが戻ってきた頃。

 

 突然大きな音を立てて家が大きく揺れた。吊るされていたランプが落ちたのか灯りが消え、家の半分が闇に包まれた。

 

 女子供が悲鳴を上げ、酔っ払っていた男たちが大慌てで立ち上がり、得物を求めて右往左往する。

 

 そして闇の中に目が光り、巨大な獣が姿を現した。

 

「熊だぁぁぁ!!」

 

 誰かが叫び、その声を聞いて村人たちはパニックになってその場から逃げ出そうと走り出した。

 

 十人ほどが玄関に殺到して将棋倒しになり、残りは物陰に飛び込んだり、梁に登ろうと柱に取り付いた。

 

 暖炉の側にいた数人の男たちが燃える薪を投げつけたが、獣は怯んだ様子もなく、男たちに突進してあっさり薙ぎ倒すと、暖炉に掛けられていた大鍋を叩き落とした。

 

 大鍋の中身が溢れて暖炉の火が消え、家の中は完全に真っ暗闇になってしまった。

 

 そして獣の巨体が大きな音を立てて駆ける気配がしたかと思うと、子供たちの悲鳴が上がった。

 獣の腕が振るわれ、空気を切り裂く音に肉が潰され、骨が圧し折れる音が続く。

 

 その悲鳴の中に我が子のものが混じっていることに気付いた【エルサ】という女性がたまらず声を上げてしまった。

 

 子供の名前を呼ぶ声に反応した獣はすぐに彼女に狙いを変え、襲いかかった。

 

 エルサはたちまち隠れていた物陰から引きずり出され、獣の巨体に組み伏せられた。

 

 そして獣は前脚でエルサの纏う衣服を引き剥がし始め、巨大な鉈のような爪が衣服を貫いてエルサの身体を切り裂いた。

 

 激痛にエルサは悲鳴を上げ、命乞いをしたが、それは自分のではなかった。

 

 

「いやあああああ!!やめて!やめてえええええ!お腹破らないでえええええ!!」

 

 

 臨月を迎えていたエルサは自身の死を悟ってなお、お腹の子供を守ろうと叫んだ。

 

「エルサ!エルサァァァアアア!!」

 

 エルサの夫が真っ暗闇の中で妻の名を呼ぶが、真っ暗闇の中でどうすることもできず、すぐにグキリと嫌な音が響いてエルサの悲鳴が止まった。

 

 家の中は静まり返り、肉が引き千切られる濡れた音だけが響き始める。

 

 

 

 一方その頃、ウルフはケルンドの男たちと共に集会所で寝泊まりの準備をしていた。

 

 しかし、突然外に繋いでいた猟犬たちが吠え始めたかと思うと、鳥の鳴き声のような鋭い声が聞こえてきた。

 ウルフはすぐに異変が起こったことを確信し、そしてそれは熊の襲撃ではないかと思った。

 

 遺体は荼毘に付したので熊が取り返しにやって来ることはない、そもそも遺体を収容した時も熊はいなかったのだし、とっくに腹を満たして去ったのではないか──その予想が完全に外れたことに驚愕しつつも、ウルフはライフルを手に取り、周囲に武器を持てと命じて外に出た。

 

 射手たちがウルフに続いて外に出ると大急ぎで弾を装填し、他の男たちもそれぞれの得物を手にし、松明に火を灯した。

 

 ウルフは悲鳴がトリグベの家の方から聞こえてきていることを見て取ると、急いでそちらへ向かって走り出した。

 

 後に続く男たちの顔には困惑と恐怖の色が浮かんでいた。

 

 遺体を取り返しに来ないよう荼毘に付したにも関わらず、熊はまた村に現れ、死者を送る行事をしていた場所に襲いかかってきた。

 食い荒らした餌の残り香を嗅ぎつけてか、はたまた新たな餌を求めてか、人間の営みや感情など何ら気にも留めずにその場に踏み込んで猛威を振るう熊が不気味で、恐ろしかった。

 

 そしてトリグベの家に辿り着いた彼らが目にしたのは、意味不明な声を上げて雪の上を這いずり回る数人の男たちの姿だった。

 

 ウルフは彼らを助け起こさせ、一人に声をかけた。

 

「おい、何があった?」

 

 だが、その男は無表情のままうわ言を叫び続けるばかりで、ウルフを認識しているのかも怪しかった。

 

 やむなくウルフは男の頬に思い切り平手打ちを喰らわせた。

 

「しっかりしろ!何があったんだ!一体どうなっている?」

 

 男が黙り、その目がウルフを捉えると、顔に表情が戻る。

 それはたちまち歪み、震え始める。

 

「──熊が出たのか?」

 

 ウルフが問いかけると、男は激しく頷いた。

 

 そしてトリグベの家を指差し、震える声で言った。

 

「熊が──食ってる」

 

 ウルフと周囲の男たちは一斉にトリグベの家の方を振り向いた。

 

 その直後、何か固いものが砕けるような音が家の中から聞こえてきた。

 へし折るような乾いた音と、細かく砕いて混ぜ合わされているような湿った音が、続いて聞こえる。

 明らかに熊が骨を噛み砕いている音だ。

 

 ──熊は家の中にいる。

 

 居場所が分かった以上、やることは明白。

 熊を殺すか追い払うかして、まだ中にいるはずの村人たちを救出することだ。

 

 だが、家の中に踏み込めば、自分たちも今骨を噛み砕かれている者と同じ運命を辿るだろう。

 

 その恐怖が彼らの足を竦ませていた。

 

「う、ウルフさん、どうするんですか?」

 

 ライフルを持った男の一人が問いかけるが、ウルフは答えを出せなかった。

 

「火だ。火をつけるんだ」

 

 誰かがそう言ったが、そうすれば中に残っている者たちも焼け死んでしまう。

 仮に生存者が一人もいなかったとしても、遺体を損壊するような真似はできなかった。

 

 別の男が遠慮がちに提案する。

 

「て、鉄砲を一斉に撃ち込むのはどうだ?全員で撃てば一発くらい当たるんじゃ──」

「だが、生き残っている者がいるかもしれんのだぞ?」

 

 先程ウルフにどうするのかと問いかけてきた男が難色を示した。

 

 どうする──ウルフは葛藤した。

 

 たしかに家の中に踏み込むのは自殺行為で、熊を殺せる可能性があるとすれば盲撃ちくらいしかないが、それをやると生存者を射殺してしまうかもしれない。守るべき民を攻撃に巻き込んで殺すなど、騎士としてあるまじきことだった。

 

「どうすれば──」

 

 思わず弱音を吐いたウルフだが、ふと、最初に熊と遭遇した時のことを思い出した。

 

 たしかあの時は一斉射撃を命じて、それで熊は怒り狂ってこちらに突進してきた。

 

 ならば──

 

「ライフルで入り口を固めろ。一発空に撃って、それで驚いて飛び出してきたところを仕留める」

 

 すぐにウルフの指示に従い、六人の射手たちが配置についた。

 

「用意はいいか?」

 

 問いかけに射手たちが頷いたのを確認し、ウルフは空に向けて発砲した。

 

 素早く次弾を装填し、入り口に狙いを定めると、土が揺れるのが感じられた。

 

 山で聞いたのと同じ足音がしたかと思うと、扉を吹き飛ばして黒い巨獣が躍り出た。

 

 ウルフが発砲し、他の射手たちも続こうとしたが、獣はそれよりも速く家の軒下を駆け抜け、闇へと溶け込んでしまった。

 

 二人が獣の消えていった方向に撃ったが、何も起こらなかった。

 

 しばらく呆然と立ち尽くしていたウルフたちだったが、静寂が戻ってくると、松明を手にトリグベの家に足を踏み入れた。

 

 火に照らし出された家の中は凄惨だった。

 

 入り口付近に十人近くが折り重なって倒れており、居間にはあちこちに肉と骨の残骸が散らばり、血が床を覆っていた。

 

「おい、誰か生きているものはいるか?」

 

 込み上げてくる吐き気を堪えながらウルフが問いかけると、上から梁に掴まっていた数人の村人たちがそっと降りてきた。

 皆、放心状態なのか、虚ろな目をしていた。

 

 ウルフは彼らの保護を命じると、倒れている者たちの中にも生きている者がいないか、確かめにかかった。

 

 何人かがウルフに続いて家の中を捜索し、気絶していた三人の男と一人の老婆、そして瀕死の少年一人を発見した。

 

 彼らを連れてウルフたちは集会所へと戻った。

 

 そこにはトリグベの家から逃げてきていた三人が身を潜めていた。

 トリグベの妻とその幼い子供、そして木樵のオーロだった。

 

 彼らも無傷ではなく、トリグベの妻は背中を、オーロは右の太腿を切り裂かれ、幼子の頭には酷い咬み傷があった。

 

 ウルフはオーロにトリグベの家にいた者たちの名を尋ね、二十人いた村人のうち八人が殺害された事が判明した。

 

 そしてトリグベの妻が抱えていた幼子と救出された瀕死の少年はもう息をしておらず、犠牲者は十人となった。

 カミラとその息子を合わせれば十二人である。

 

 再び無力感が彼らに重くのしかかった。

 

 ライフルを七挺と六十人もの人数を揃えてもなお、熊を倒すことはできなかった。

 もはやここは熊の餌場と化している、このままここにいれば皆食い尽くされてしまう──そう思われた。

 

「退避だ」

 

 ウルフはそう言った。

 

 このままアッカに留まって更なる犠牲者を出すわけにはいかない。アッカの住民を引き連れてケルンドに戻る。

 そう決断したのだ。

 

 それは既に犠牲になった者たちの遺体を熊の餌として置いていくことを意味した。

 カルティアイネン家からの応援が到着して熊を討伐できたら、その後ゆっくり弔うから許してくれとウルフは祈る。

 

「皆荷物を纏めろ。すぐにここを出る」

 

 ウルフの指示に男たちは頷いた。

 

 そして渓流に沿ってアッカの家々を回り、村人たちを収容して村を出たのだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 ウルフたちに連れられたケルンドの男たちとアッカの村人たちがケルンドに辿り着いたのは翌日の朝のことだった。

 

 ケルンドの村人たちは、熊を討伐して帰ってくるものと思っていた男たちが血の気が失せて疲れ切った表情で帰ってきたことに驚いたが、アッカの村人たちの姿を見て目を潤ませ、彼らを村の集会所へと案内して介抱した。

 

 手当てと滞在の準備で慌ただしくなった集会所に、一人の老人と一人の少女が現れる。

 

 ウルフは二人に気付くと、驚いて駆け寄った。

 

「父上!?なぜここに?」

 

 カルティアイネン家前当主にしてウルフの父親【ボリス】がそこにいた。

 

 ボリスはウルフの方を見やると、少し目を細めて言った。

 

「屋敷で報告を聞いてな。グスタフが主家に軍の出動を要請したのだが、それでは間に合わぬと思って来た。見たところ、その読みは当たったようだな」

「はい。村の者を集めて討伐に向かいましたが、歯が立たず──面目次第もございません」

 

 そう言ってウルフは頭を下げた。

 

「頭を下げるならわしにではなく民にであろう。それより状況を説明しろ」

「はい」

 

 ウルフは男たちを率いてアッカに向かってから村人を連れてここに戻ってくるまでの経緯を詳細に話した。

 

 それを聞いたボリスは顔を顰めて瞑目した。

 

「アッカの者たちは災難だったな」

 

 そう呟いて祈りの印を切ると、目を開けて言った。

 

「すぐに向かおう。案内しろ」

 

 ウルフは頷いてライフルを持ち、ボリスと共に集会所の入り口へと向かったが、一緒にいた少女も来ているのに気付いた。

 

「あの、父上、その子は──」

「イリヤだよ!忘れた?」

 

 ボリスよりも先に少女が答えて防寒着のフードを脱いだ。

 

 現れたのは短く纏められた赤毛。

 それは確かに現当主である長兄の娘【イリヤ】の特徴に違いなかった。

 しばらく見ないうちに大きくなったものだとウルフは思ったが、すぐにそれどころではないとかぶりを振った。

 

「イリヤお前、なんでこんなところに来てるんだ?危ないだろう」

「なんでも何も熊を狩りに来たんだよ。私、じいちゃんから狩りを教わってるの。もうこれまでに熊を三頭仕留めたんだから」

「は?お前、狩りを?」

 

 思わずボリスの方を見ると、彼は困った顔をして言った。

 

「十の頃から騎士になりたいと言い出してな。無理だと言ったら、じゃあ狩人になると言って聞かんのだ。だからわしが教えておる。少々向こう見ずだが、筋は良い子だ」

「はぁ──」

 

 良くも悪くも豪放磊落な父親に大丈夫だろうかという思いが頭をもたげるが、その実績を思えば反論もできない。

 若い頃は空賊と戦ってその頭を討ち取った英雄として崇拝されていたし、戦場に出なくなった後は狩りに精を出し、鹿から熊まで百頭以上倒してきたのだ。

 

「さ、行くぞ」

 

 ボリスに急かされ、ウルフは考えるのをやめて外に出た。

 

 ボリスとイリヤが壁に立てかけられていたライフルを取って背負うと、その側に座っていた白い猟犬が立ち上がってついてきた。

 

「カッルだよ。じいちゃんの六代目の相棒。頼りになるんだよ。じいちゃんは歴代最強だって」

 

 イリヤの紹介を受けてウルフは軽く手を振るが、カッルはそれを一瞥してすぐに顔を背けてしまった。

 

「つれないな」

「照れ屋なだけだよ。主人に似てね」

「うるさいぞ」

 

 三人はどこか和やかに話しながら雪道を歩いていったが、氷橋の側を渡り、アッカに足を踏み入れると、異様な空気に緊張が走った。

 

 どこか気怠げな雰囲気すら纏っていたカッルが耳をピンと立てて辺りを見回している。

 吠えていないことから熊はすぐ近くにいるわけではないのだろうが、それでも気配は感じ取れるらしい。

 

 ウルフは生唾を呑み込み、背中のライフルを確かめる。

 

「まず最初に襲われた家に案内しろ」

 

 ボリスの命令で三人はウォラフの家へと向かった。

 

 トリグベの家の前を通り過ぎ、集会所を経てウォラフの家が見えてきた。

 

「あの家です」

 

 ウルフが指差すと、ボリスとイリヤは躊躇いもなく近づいていき、扉をくぐった。

 慌ててウルフも後に続く。

 

 玄関から部屋の中に視線を巡らせたボリスは目を細め、寝室へと移動した。

 

 生々しい血痕が残る部屋を見てボリスはウルフに問うた。

 

「この家の妻が食われたのだな?」

「はい。そこの窓から裏の山に運び去られて──子供の方は放っておかれていましたが」

「うぅむ──」

 

 ボリスは更に渋面を深くして外に出た。

 

「おそらく奴は下流の方にいる。一軒ずつ調べるぞ」

 

 その指示で三人は村中の家を全て見て回った。

 

 ウルフにとって驚いたことに全ての家に熊が侵入した痕跡があった。

 

 蓄えられていた穀物や保存食が食い尽くされ、鶏小屋が壊されて血と羽が散乱し、扉は残らず破られて家具が破壊されていた。

 そして例外なく女物の衣類や寝具が引き裂かれていた。

 

「コイツ、女の味を覚えてる?」

 

 イリヤが強張った声で呟く。

 

 その隣のボリスも明らかな恐怖の色を浮かべていた。

 

「ああ。五十年狩りをやってきたが、こんな奴は初めてだ」

 

 そして二人は背負っていたライフルを下ろして構えた。

 

「外の足跡が新しくなってきている。まだ四、五時間ほどしか経っていない」

 

 そして三人は昨日の惨劇が起きたトリグベの家に向かった。

 

 入ってみると、入り口の遺体はそのままだったが、昨夜見た時はまだ原型を留めていたはずのエルサの遺体がなくなっていた。

 代わりにその場所には僅かな髪と骨片が散らばっているだけだった。

 

 イリヤの言う通り、熊は女の味を覚え、女の身体を食い漁っているのだとはっきり分かった。

 思えば他の家で女物の衣服が引き裂かれていたのも、熊が匂いを嗅いで女の身体を探し回り、見つからないことに苛立って暴れたからであろうと思われた。

 

「恐ろしい奴だ。絶対に生かしてはおけん」

 

 ボリスが重い声で言った。

 

 その直後、カッルが毛を逆立てて唸り声を上げた。

 

 外に出てみると、カッルは下流の方を向いて唸っている。

 

 その視線の先にあるのは渓流の対岸にある家──ネスキルの家だ。

 

 その家から不意に巨大な茶色い獣が現れる。

 

 カッルが遂に牙を剥き、吠え出した。

 

 獣はビクッと身体を震わせたかと思うと、一瞬こちらを見やり、そしてすぐに駆け出して森の中へと消えた。

 

 それを見たボリスが歯軋りする。

 

「不味いな。あの様子では明日にでも沢を渡りかねんぞ」

「それは──あの熊がケルンドに来るということですか?」

「そうだ。わしらを見て一旦は逃げたが、しばらくしたらまた下ってくる」

 

 ボリスはしばらく思案した後、引き上げを決めた。

 

「今日はもう日が傾いている。一旦ケルンドに戻り、明日奴を追う」

 

 その決定に従い、ウルフたちはケルンドへの道を急いで戻った。

 

 

 

 翌日。

 

 ボリスは自分一人でカッルだけを連れて山に入ると言い出した。

 

「今回の相手は危険過ぎる。イリヤ、お前はここで待て」

「じいちゃん!?そんな、一人でなんて──」

「駄目だ!ここにいろ。お前を連れたまま狩れる相手ではない」

 

 ボリスの尋常ならざる剣幕にイリヤは黙った。

 その顔は昨日と同様蒼白で切羽詰まっているのがありありと見てとれた。

 

 そしてボリスはやや表情を緩めてイリヤの肩に手を置いた。

 

「心配するな。日暮れまでには必ず戻る」

 

 それだけ言ってボリスはカッルと共に氷橋の側を渡り、山へと消えていった。

 

 残されたイリヤとウルフを静寂が包み込む。

 

「あんなじいちゃん、初めて見た」

 

 イリヤが呟く。

 

 それはウルフも同じだった。

 

 恐れ知らずで鳴らしたボリスがあそこまで血の気の引いた顔をしているのを見たのは、覚えている限りでは初めてだ。

 

 いくらベテランの騎士にして狩人といえども、あのような惨劇を見たら恐怖を覚えるのだろうか。

 

 きっとそうだ。

 あれは戦場とは種類の違う恐ろしさだと思う。

 

「でもなんかムカつくなー。私もうじいちゃんの足引っ張ったりしないし、こういう時こそ頼って欲しいのに」

 

 イリヤが頬を膨らませるが、ウルフはそれを窘める。

 

「馬鹿を言うな。お前はまだ十三かそこらだろう。父上の言う通り、あの熊は尋常じゃない。お前が行ってもどうにもならない」

「私もう十六なんだけど?それに熊だってもう一発で仕留められるし」

 

 反論するイリヤを見て、ウルフはボリスがイリヤを置いていった理由を察した。

 

 彼女の向こう見ずさは「少々」どころではない。

 もちろん才能はあって、熊を仕留めた実績も本当だろうが、それで得意になって相手を見くびっている。

 

 そして熊相手にそれは命取りだと、ウルフはアッカで思い知っていた。

 

 だが、それを言ったところでイリヤは納得しないだろう。子供というのはそういうものだ。

 

「だからこそ、父上はお前にこの村の守りについていて欲しいんじゃないか?もし父上が山に行っている間にあの熊が村にやって来たら、村の誰にも、俺にも倒せない。だが、熊を一発で仕留められるお前なら倒して村を守れる。父上はそう考えたんじゃないか?」

 

 ウルフの説得にイリヤは半信半疑なようだったが、文句を言うのはやめた。

 

 そのまま二人は無言のまま氷橋の近くでボリスの帰りを待ったが、日が傾いて雪が赤みを帯び始めても彼は戻ってこなかった。

 

「──遅い。やっぱり何かあったんじゃないの」

 

 イリヤが懐中時計を見ながら苛立っている。

 

「父上が言っていたのは日暮れまでだ。まだ時間はあるだろう」

 

 ウルフはそう言ってイリヤを宥めようとしたが、イリヤはかぶりを振った。

 

「ここじゃどうだか知らないけど、狩人は日暮れまでに帰ると言ったら、その二時間前までには帰ってくるものなの。今までだってこのくらいの時間にはとっくに帰ってきてたのに」

 

 そう言ってイリヤが山の方を見上げた直後。

 

 微かな銃声が響いた。

 

 それを聞いたイリヤは目を見開き、次の瞬間走り出していた。

 

「おい!イリヤ!待て!どこに行く!?」

 

 ウルフは驚いてイリヤを制止しようとするが、イリヤは聞かずに未完成の氷橋を走って渡り、山の方へと駆けていく。

 

 一人で行かせるわけにもいかず、ウルフは後を追った。

 

 イリヤは信じられないスピードで森の中を走り抜け、ウルフは見失わないために魔法による肉体強化を使わなければならなかった。

 

 そのまま三キロほど移動したかと思った時、ようやくイリヤは立ち止まった。

 

 追いついたウルフはイリヤの視線の先を見て息を呑む。

 

 雪が赤く染まっていた。

 

 その中心には見覚えのある毛皮の防寒着と──

 

「ちちう──」

「違う」

 

 イリヤが抑揚のない声で呟く。

 

「じいちゃんは私が何年経っても追いつける気がしない凄腕の狩人なんだ。どんなに素早い鹿も、賢い狼も、でかい熊も、一発で仕留めてきたんだ。そんなじいちゃんが外すわけない」

 

 そう言いながら、イリヤはゆらゆらと血溜まりに近づいていく。

 

「だからさ──嘘、でしょう?ねぇ、嘘だって言ってよ」

 

 血溜まりの中心に転がるボリスの亡骸にイリヤは縋りつく。

 

「ねぇ!冗談キツいよ!そういうのやめてよ!ねぇ!さっさと──さっさと起きてよぉぉぉ!!」

 

 溢れ出る涙を拭うこともできずに鼻声で呼びかけ続けるイリヤだったが、ふと微かな声が聞こえてそちらを振り返る。

 

 少し、彷徨った視線が倒木の近くで止まる。

 そこにカッルが横たわっていた。

 

 白い身体の殆どの部分が紅に染まっていて、一目で重傷だと分かる。

 

「カッル!」

 

 思わず駆け寄ったイリヤだったが、一目見てカッルはもはや助からないと分かってしまう。

 

 膝をついたイリヤの目から更に大粒の涙が溢れ出した。

 

「あ、ああ──なんで──お前──最強だったんじゃ──ないのかよ」

 

 カッルの身体には深い傷がいくつも刻まれ、後脚が左右ともなくなっていた。

 

 猟犬として獲物を探し、見つけたなら吠えて教え、獲物が逃げれば追いかけ、脚に噛みついて足止めする──その役目を全うしようとしたのだろう。

 

 そして力及ばず、巨大な爪と牙にズタズタに引き裂かれたのだ。

 

 役目を果たせなくて申し訳ないという風にカッルが弱々しく鳴く。

 

 かろうじて無事なままの頭を膝に乗せてやり、両手で包み込んでやると、カッルは安心したかのようにふーっと息を吐いて──それっきり動かなくなった。

 

 イリヤは息絶えたカッルの頭をかき抱き、嗚咽を漏らし始める。

 

 ウルフはそんなイリヤにかける言葉が見つからなかった。

 彼も突然突きつけられた父親の死という現実に頭が追いついていなかったのだ。

 

 言葉が出てこないまま、ウルフは周囲を見渡し、いつの間にか夕闇が迫っているのに気付いた。

 

 一刻も早く戻らなければ、夜の山に取り残されてしまう。

 そうなれば、間違いなく自分もイリヤも熊によって殺される。

 

 イリヤの身体を熊が貪り喰らう様を想像したウルフはそれだけはあってはならないと気を奮い立たせる。

 

 カッルの亡骸の側で泣き続けているイリヤの方へと歩み寄ると、防寒着の袖を引っ張って怒鳴った。

 

「泣いてる場合じゃない!すぐにここを離れるぞ」

 

 だがイリヤは駄々っ子のように反発する。

 

「嫌!じいちゃんとカッルを置いていけるわけないでしょ!」

「いいから来るんだ!!」

 

 やむなくウルフは力ずくでイリヤを引き離し、暴れる彼女を担いで走り出した。

 

 イリヤは降ろしてと泣き叫んでいたが、血溜まりが見えなくなると徐々に静かになった。

 

 嗚咽を漏らすイリヤにウルフは何とか慰めの言葉をかけようとした。

 

「お前まで熊に襲われて喰われたんじゃ父上も浮かばれない。ここは生き延びるんだ。じきに軍が応援に来てくれる。それで──」

「私がやる」

 

 ウルフが言い終わらないうちにイリヤが冷たい声で言った。

 

「許さない。あの化け物は絶対に許さない。私が、この手で──」

 

 そしてイリヤは担がれたまま目を見開き、身体を外らして背後の山を睨みつける。

 

 

「絶対に殺してやる────ッッッ!!」

 

 

 イリヤの絶叫が山にこだました。

 

 

◇◇◇

 

 

「熊だと?」

 

 セルカから報告を受けた俺は思わず聞き返した。

 

「ええ。北部のアッカという小さな村で女性が襲われたそうよ。その隣のケルンドの駐在騎士からカルティアイネンに応援要請が来て、そのカルティアイネンから軍の派遣の要請が来ているわね」

「熊一匹に軍まで動かすとか大袈裟過ぎないか?猟師にでも頼めばいいだろうに」

 

 そう言うと、セルカはかぶりを振る。

 

「そうしたけれど、倒せなかったみたいよ。駐在騎士と合わせて七人が同時に撃ったけど、蹴散らされたって。まあ、駐在騎士ともう一人以外は銃が不発だったらしいけれど。とにかく、その村に熊を倒せる者はいないってことよ」

「マジかよ」

 

 俺は溜息を吐いた。

 

 軍は多くの部隊がまだ錬成中でおいそれとは動かせない。

 

 もちろん動ける部隊もあるが、それらは近頃やたらと増えた空賊の襲撃に対処するため沿岸部に張り付けたままだ。

 彼らを動かせば即応に支障を来しかねない。

 

 俺が動いて穴を埋めるか?

 だが俺にもやることがあるし、この屋敷から長くは離れられない──だったら。

 

「分かった。俺が行こう」

 

 俺がアッカに行ってさっさとその熊を片付ける。

 そして後処理は任せてすぐに戻ってくる。

 

 そうするのが一番費用も手間もかからないだろう。

 それに鍛錬にもちょうどいい。

 

「そうと決まればすぐ出発だ。セルカ、一緒に来い」

「はいな」

 

 既に日が傾いていたが、俺はすぐに飛行船を用意させた。

 

 冒険の時に使った軽貨物船──今では燃費のいいプライベートヨットだ。

 

 それにセルカと二人だけで乗り込んで、俺はアッカに向けて出発した。



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狩人の祈り

 最初に撃ったのはまだ若い牝鹿だった。

 

 夕方にねぐらの山から餌場の山へと移動するところを待ち伏せて、見事に心臓を撃ち抜いて仕留めた。

 

 その時の牝鹿の目に最後の最後まで抗って生きようとする意志を感じ取って、思わず膝をついて祈りの印を切ったのを覚えている。

 

 それからしばらく鹿ばかり撃っていたが、ある時家畜を襲った狼の群れを駆除することになり、猟犬を従えた狩人たちと行動を共にした。

 

 最終的に狩人たちが猟犬と連携して群れのリーダーを仕留め、自分は特に何もできずに終わってしまった。

 

 生来負けん気の強い性格故に、このことはかなり悔しかった。

 だからそれ以降、猟犬を連れて狩りをするようになった。

 

 すぐに猟犬は欠かせない相棒となった。

 初めて熊を仕留めた時も、猟犬の足止めがなければ逃げられていたし、吠え声と牙で気を逸らしてくれなければ落ち着いて急所を狙えなかった。

 

 犬というのは実にいいものだ。

 鼻が利き、耳も良く、足も速いのはもちろん、過酷な道のりにも凶暴な獣にも臆することなく立ち向かい、それでいて文句も愚痴も罵倒も垂れない。

 

 人間だとこうはいかない。

 隙あらば人の地位や手柄を掠め取ろうとする者、大した能もないくせに口だけは達者で態度が大きい者、綺麗事を嘯いて他者を非難するくせに自分が同じことをされると被害者ぶる者──全くもって美しくない。

 

 だから騎士の務めとして軍に入ってからはひたすらに上を目指して手柄を積み上げた。

 美しくない者の下で働くなど我慢ならなかったからだ。

 

 その過程で美しいと思える者にも出会えたが、やはりそうでない者の方が多かった。

 そして、陪臣騎士家の中でもさほど格が高いわけでもない家の出では上がれる高さにも限りがあった。

 

 その限りに達して程なく、負傷を理由に軍を辞めた。

 

 美しい空と海を黒煙と金属片と聞くに堪えない罵詈雑言で汚す殺し合いはもううんざりだった。

 軍隊生活で荒んだ心を癒してくれたのは、雄大な山野とそこに暮らす美しい獣たち、そして相棒の犬だけだった。

 

 その頃にはもう連れ合いもいたし、子供だって生まれていたが、自分の全てを捧げる対象ではなかった。

 

 仕事の他は山に入って狩りばかりで、父親らしいことと言ったら、狩ってきた獣の肉を振る舞うくらいしかせず、子供たちには申し訳ないことをしたと思う。

 

 実際、後を継いだ長男はずっとそのことを根に持っているようで、孫娘のイリヤが生まれた時も知らせてはこなかった。

 それどころか、彼女が自分に近づくことを禁じた。

 

 だが、子供が親に反発するなら、その子供の子もまた自分の親に反発するのはある種の必然だった。

 

 家人や民たちから祖父の武勇を聞いたイリヤは、自分も騎士になりたいと言って弟子入りを求めて押しかけてきた。

 

 冗談言うなと思った。

 人間の戦は嫌いだ。怒り、憎しみ、蔑み、虚言妄言、差別区別──余計なものが混じり過ぎてもはや醜悪な混沌と化している。

 

 だが、そんなことを幼子に言っても分かるまいと思い、女では騎士になれないと言った。

 

 するとイリヤはじゃあ狩人になると言った。

 

 そして事あるごとにボリスの所へ訪れ、獣や山や森について質問攻めにし、猟犬を懐柔し、狩りに勝手についてきた。

 

 とうとうボリスは根負けし、狩りを教えてやることにした。

 

 本物の狩りの過酷さを知ればすぐに嫌になって逃げ出すだろうと思っていたが、その予想に反してイリヤはのめり込んだ。

 

 いつしかボリスも本気で教えることが楽しくなっていた。

 

 そして五代目の猟犬が老いて引退し、六代目のカッルがやって来ると、かつてないほど獲物がよく獲れるようになった。

 

 ボリス自身は老いてあちこち動きにくくなり、目が霞み始めていたが、それを補って余りあるほどにカッルは有能で、イリヤは狩人の才能を開花させつつあった。

 

 これまでなら諦めるしかなかった足の速い獲物にもカッルは難なく追いつき、イリヤは若くしなやかな健脚でボリスより遥かに速く山を駆け抜け、正確な射撃で獲物の急所を撃ち抜いた。

 

 もはや自分の役目が師匠ではなく、彼らが逸って突っ走った時に止める手綱になったことをボリスは悟った。

 

 そろそろ銃を置く時が近づいているのかもしれない。

 だが、その前にもう一度、自分の狩人としての生涯のトリを飾る大物を仕留めたかった。

 

 だから今までに見たことのない凶悪な熊を見た時、震えたのは恐怖だけが理由ではなかった。

 

 武者震いだった。

 

 この熊は絶対に殺さなくてはならない。そして殺すのは狩りに生涯を捧げた自分でなくてはならない。

 

 現実問題として女の味を覚えた熊にイリヤを近づけるわけにはいかなかったが、そういう功名心が湧き上がっていたのだ。

 

 そういう雑念が眼を曇らせ、時として命取りになることは知っていたはずなのに。

 

 

 

 目の前に巨大な鉤爪が迫る。

 

 もう次の瞬間には皮を破り、肉を切り裂き、骨を砕いて、命を刈り取るだろう。

 

 ──終わりだ。

 これが自分の迎える結末。数えるのも面倒になるほど多くの敵と獲物の命を奪い喰らってきた。そして今、自分の番がやって来たのだ。

 それが空に山に森に──生涯殺すか死ぬかの戦場に身を置き続けた者の運命。

 

 別に悔いはない。好きなようにしてきたし、年月としては十分長く生きた。

 

 それでも──あともう少し、あともう少しだけ、イリヤと狩りをしたかった。

 

 ──そうだ、イリヤに伝えなければ。

 

 彼奴はただの熊ではない。

 

 老獪な牡鹿や、狡猾な群狼の頭相手にも一度たりとも不覚を取ったことはなかったカッルが匂いを正確に追えずに不意打ちを喰らい、傷の一つも負わせられずに殺された。

 

 急所に三発撃ち込んだはずの弾は一滴の血も流させることはなかった。

 

 誰か──誰かあの子に伝えてくれ。

 

 決して復讐心に任せて彼奴に挑むなと。

 

 どうか──あの子を──

 

 願いを口にする前に鮮血が飛び散り、ボリスの意識は途絶えた。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド領は広さだけなら伯爵領ほどはある。

 

 にも関わらずロードリックの代以来陞爵がないのは、目立った功績がないのもあるが、何より住める場所が少なく、伯爵家規模と認められるほどの人口を有していないからだ。

 

 北部の山岳地帯はただでさえ険しい地形に鬱蒼とした森がどこまでも続き、気候は寒冷でしかも荒れやすい。

 

 開墾したところで作物はロクに育たず、希少な資源が産出するわけでもなく、旨味はまるでない。

 誰もがその地に毛皮と木材の産地以外の価値を見出していなかった。

 

 だからこそ、人間と野生動物の領域は殆ど重なることなく、両者は平和的に棲み分けできていたのだろう。

 

 だが、数少ない重なった領域に折悪く例年より早く冬が来た。

 それによって冬籠りのための蓄えを得られなかった熊が食べ物を求めて人里に下りてきた──ってところか。

 

 カルティアイネン家の屋敷に降り立った俺は、現当主の【グスタフ】の出迎えを受けた。

 

「これはエステル様、直々にお越し頂けるとは恐れ入ります」

 

 へつらうように頭を下げるグスタフだが、その顔には冷や汗が浮かんでいた。

 

 無理もない。

 今この領地に粛清の嵐を吹かせている張本人が現れたとあっては気が気ではないだろう。

 

「挨拶はいい。それより熊害の状況はどうなっている?」

「は、はい。一昨日夜再度の襲撃があり、犠牲者は十人を超えたとの報告があったと聞いております。ですが、現在我が父ボリスが討伐のためアッカに出向いております。父は生粋の狩人故、すぐに朗報をお届けできましょう」

 

 自分の管轄している場所で立て続けに十人以上も死んだのに、どこか他人事のような被害報告。軍の派遣要請までしておいて、俺を前にするや根拠のない楽観論。聞いていて苛々する。

 息子がこうでは生粋の狩人とかいう父親も能力に疑問符が付くな。

 

「そうか。だが、私も明日現地に向かう。手早くそして()()()片付けたいからな」

「さ、左様でございますか。でしたら今夜は我が家にてお過ごしください。手狭ではありますが、食事と寝床の用意をしてございます」

「結構。では案内してもらおう」

 

 グスタフに通された屋敷は質素な木造の平屋だった。

 

 それだけなら見るべき所もないが、あちこちに飾られた骨や剥製が目を引く。

 

 察したグスタフが教えてくる。

 

「全て父が仕留めた獲物です。この頭骨の鹿は、その脚の速さから誰も仕留められなかったのを一週間に及ぶ追跡の末捕らえたものと聞いております」

 

 自慢げだが、どこか蔑んでいるような感じもする複雑な表情。

 

 どうやらグスタフは父のことを快く思ってはいないらしい。

 

 それはグスタフのみならず、彼の妻子も同じようだった。

 

 夕食の席でそれとなく訊いてみたが、どうにも腫れ物に触るような雰囲気が感じられた。

 

 結局俺もそれ以上の追及はすることなく、出された肉料理に舌鼓を打った。

 

 

◇◇◇

 

 

 ケルンドの村は静まり返っていた。

 

 アッカやケルンドでもその名が知られていたボリスが──優れた騎士にして百戦錬磨の狩人が熊に殺された。その知らせに皆が茫然としていた。

 

 そして広がるのは更なる恐怖である。

 

 もはやあの化け物熊に対抗できる者などいない。出動を要請した軍隊が駆けつけてくるまでの数日間、いつ熊が襲ってくるかもしれないこの村で籠城しなければならないのか──

 ケルンドからも逃げ出してもっと下流の街まで避難した方が良いのではないか──

 

 どちらの村も男たちの半数近くが出稼ぎに行っており、女子供や老人しかいない家が多かった。

 そんな状態で残った男たちが頼りにならないと来ている。

 

 何人かの村人は慌ただしく家に戻って逃げ支度を始めた。

 次の夜明けと共にケルンドを出るために。

 

 ウルフは彼らを止めなかった。

 いつあの熊が襲ってくるか分からない以上、足手纏いになる女子供や老人はさっさと避難させた方が得策だと考えたのだ。

 

 自分たちにできるのは軍隊の到着までここで待つことだけ。

 それと明日陽が昇ったらボリスの遺体を回収しなければならない。

 

 人手を集めなければ──

 

 ケルンドの男たちを呼び集めて今後の方針を話し合うウルフをイリヤは虚ろな目で見ていた。

 

 その胸中に渦巻くのは膨大な疑問と怒りである。

 

 ──なぜボリスとカッルは死んだのか。

 

 アッカで見た熊は確かに大きかった。のみならず、人間の無力さを理解し、気が大きくなって大胆な戦い方もできただろう。

 そしてボリスの方は老いて目は霞み始め、足腰も鈍っていた。

 

 だが、その程度でボリスとカッルを返り討ちにできるはずはない。

 

 ボリスは雪の中でも疲れにくい歩法を編み出して若いイリヤに追従するほどの健脚を維持していたし、イリヤより遠くから正確に的を撃ち抜く射撃の腕前も健在だった。

 

 そしてカッルは複雑に入り乱れた止め足も難なく見破り、不意打ちなど一度たりとも許さなかった。

 

 その二人が敗れるということは、あの熊が隠密と知略で優っていたということを意味する。

 

 普通ならそんなレベルの賢さを持つ獣は人里になど寄りつかないものだ。

 

 それがなぜ村に何度も襲来し、人を喰い殺し、手の付けられない化け物と化したのか──その答えは村人たちを見ていて分かった。

 

 コイツらが対応を間違えたせいだ。

 

 最初に果実が食われた家で待ち伏せた時、功名心に逸って急所を外した挙句取り逃がし、そのまま逃げていったと勝手に思い込んで追跡をやめたアッカの村人。

 

 熊の討伐に行くというのに銃の整備もロクにせずに不発だらけにしてしまったケルンドの猟銃持ち共。

 

 おかげで熊は人間を侮ると共に、相対する術も急速に学習していったのだ。

 

 賢い獣は数少ない経験からでも成功要因を抽出し、あっという間に知恵や技術としてしまう。

 

 村人たちを蹴散らし、追跡を撒いて確立した知恵と技術がボリスとカッルの命を奪った。

 

 二人はこの村人たちに殺されたも同じだ。

 

 イリヤの怒りは、畑を耕してひっそりと生きてきた農夫でしかない村人たちには酷で理不尽なものではあったが、そうとでも思わなければ気持ちのやり場がなかった。

 

 そんなイリヤの内心を余所に、ウルフはすっかり意気消沈した村人たちを励ますのに腐心していた。

 

 あと一度。あと一度だけ、ボリスの遺体回収のために一緒に山に行ってくれたら、後はここで軍の来援を待つ。

 軍は必ず来る。新領主のエステルは年若いながら名君と聞く。その彼女が十二人もの死人が出たと聞いて放っておくはずはない。

 

 そう言葉を並べ立てるウルフだが、途中でイリヤの一言がそれを遮った。

 

「試し撃ち」

 

 一斉に視線がイリヤへと集まる。

 

 だが、彼女の言葉の意味するところを測りかねて、村人たちは沈黙したままだった。

 

「イリヤ、それはどういう──」

「今すぐこの村にある銃全部持ってきて!試し撃ちするの!」

 

 問いかけるウルフに対して食い気味に叫ぶイリヤ。

 

 その剣幕に押されてウルフは村人たちに銃を持ってこさせた。

 

 最初にウルフが撃ち、猟犬を連れていた二人のライフル所持者が続いた。

 

 乾いた発砲音が夜空に響き、硝煙の匂いが漂う。

 

 村人たちの表情が確かに和らいでいくのがウルフには分かった。

 

 この音と匂いは熊に対する威嚇としても効果的だろうという安心感を自身も感じる。

 

 そして四人目のライフル所持者が引き金を引いた。

 

 カチ、と引き金と撃鉄の金属音が発せられたが──それっきり。

 

「もう一度撃て」

 

 ウルフの命令で再び引き金が引かれるが、結果は同じだった。

 

 またしても不発である。

 

 その場に不穏な空気が漂い始める。

 

 イリヤが近づき、ライフルを取り上げて地面に放り捨てた。

 

「次」

 

 有無を言わせない口調で指示を出すイリヤに慌てて五人目が応えた。

 

 再び発射音が響き渡り、辛うじて空気は持ち直した。

 

 そのまま試射は続けられ、ライフルから散弾銃まで今ケルンドにある全ての銃が動作確認を受けた。

 

 結果は──半分が不発だった。そこには熊の討伐に動員された七挺のライフルのうちの二挺も含まれていた。

 

「──銃の整備ちゃんとやったの?」

 

 イリヤが蔑みの込もった目で不発銃の所持者たちを睨みつける。

 

「は、はい。一昨日確かに手入れしました」

 

 一人のライフル所持者が弁明したが、それがイリヤの神経を逆撫でした。

 

「その結果がこれ!?それじゃもう殆どスクラップだよ!そんなんでよくあんなのに挑もうと思ったね!おかげであの熊は人間への畏れを完全になくした。そのせいでじいちゃんが──」

「やめろイリヤ」

 

 聞くに堪えずウルフはイリヤの肩を掴んで制止した。

 

「放して叔父さん。この人たち──」

「今それをしてどうなるんだ!?」

 

 怒鳴りつけると、イリヤは黙った。

 

「確かにこの結果を見ればお前の怒りは尤もだ。だが、今彼らを責めたって問題は解決しない。今やるべきは、今ある戦力でこの村を守る方法を考えることじゃないのか。お前が父上と一緒にここに来てくれたのは何のためだ?熊を狩って、村の民を守るためだろう。なら、そのために何をするべきかをこそ考えるべきだ。父上が生きていたら、そうするはずだ。違うか?」

 

 そんなこと偉そうに言えた義理ではないのは百も承知だったが、誰かが言わなければいけないと思った。

 そしてイリヤが辛うじて聞く耳を持ってくれそうなのは親族であり、ボリスを喪った悲しみを理解できる自分だけだった。

 

 能動的に動いて熊を狩れるボリスがいなくなった今、残った者たちで力を合わせて軍の来援まで持ち堪えなくてはならないのに、人間関係の不和など起こすわけにはいかなかった。

 

 それにボリスには及ばずともイリヤとて熊を仕留めた経験のある狩人。その知識と知恵は村の防衛のために是非とも役立ててもらいたい。

 

 そう思って、正論で諭す嫌われ役を買って出た。

 逆上した女性に正論など言っても無駄だと言うのは経験で知っていたので、殆ど賭けのようなものだったが、どうやらイリヤは頭を冷やしてくれたらしく、か細い鼻声で謝罪した。

 

「──ごめんなさい」

「分かってくれたならいい。これからどうする?どうすればいい?」

 

 ウルフの問いかけに、イリヤは溢れ出た涙を拭って答える。

 

「明日夜が明けたらあの作りかけの氷橋を完成させて。さっきの銃声であの熊も一日か二日は警戒して寄ってこないはずだから、その間に工事を済ませるの」

「ち、ちょっと待ってください。氷橋を完成させてしまったら──その上を熊が渡って来ませんか?」

 

 村人の一人が不安げに問いかけるが、イリヤはかぶりを振る。

 

「むしろ好都合だよ。渡ってきた所を待ち伏せできるでしょ?」

「──なるほど」

 

 イリヤの答えに村人の顔が明るくなる。

 

「それに来なかったとしても兵隊と馬が渡れるようにはしておいた方がいいから」

「そ、そうですね!分かりました」

「それと銃は全部一旦私に預けて。今夜中に私が点検する」

 

 すぐに不発だったものも含めて全ての銃が集会所に集められた。

 

 イリヤはそれらを一つ一つ確認し、時には分解して的確に整備調整を施していく。

 弾薬も明らかに劣化しているものを見分けて取り除き、まとめて廃棄袋に放り込んだ。

 

 その手際の良さに村人たちは見入っていた。

 

 彼らの中でイリヤに対する評価が生意気で煩い小娘から頼れる狩人へと変わっていくのが分かって、ウルフは安堵した。

 

 東の空が白み始めた頃に再度の試射が行われ、今度は不発の銃は三分の一ほどに減っていた。

 ただ、不発だった二挺のライフルのうち一挺は遂に機能を回復せず、廃銃と判断された。

 

 それでも一挺使えるようになっただけマシだと切り換えて、イリヤは一旦ウルフの家で眠りについた。

 

 入れ違いに動き出すのはウルフ率いる村の男たちである。

 

 銃を持った射手たちの護衛を受けながら枝を敷き詰め、雪を被せて踏み固めた。

 

 工事が一段落し、あとは一晩待つだけというタイミングで一人の村人が知らせを持ってきた。

 

 その内容は領主エステルがカルティアイネン家からの応援を引き連れてケルンドに到着したというものだった。

 

 

 

 ウルフは目の前の光景が信じられなかった。

 

 やって来たのは軍ではなく、ファイアブランド領の現領主【エステル・フォウ・ファイアブランド】だった。 

 

 彼女のことを直接見たことはなかったが、その噂はよく聞いていた。

 

 曰く十二歳の時に冒険の旅に出て財宝を発見した。

 曰く冒険から帰って来た直後に港を占拠していた空賊を殆ど一人で皆殺しにした。

 曰く攻め込んできたオフリー伯爵家の艦隊相手に一番槍を付け、少なくとも二隻の飛行戦艦を一人で撃沈した。

 曰くオフリー伯爵家の罪状を暴き、数多の妨害を全て跳ね除けて王妃様に直接証拠を届けてオフリー伯爵家を取り潰しに追い込んだ。

 曰く冒険で得た富を全て使って港や道路の拡充、治水工事に架橋、電力網の構築や学校の設立といった社会インフラの整備を推し進めている。

 曰くファイアブランド領の富を狙って攻め寄せてくる空賊や、阿漕な商売で荒稼ぎしようとする犯罪組織、自身の進める事業や投資に抵抗したり、資金の一部を不正に掠め取ろうとする輩を片っ端から捕らえては地獄の強制労働に叩き込んでいる。

 

 聞いた限りでは果断にして苛烈な改革者であり、領民たちの希望の星という感じだったが、正直半信半疑だった。

 上げた戦果はまるで現実味がなかったし、推し進めているという公共事業もケルンドやアッカにはまだ及んでいなかったのだから。

 

 だが、いざ本物を前にすると、それら全てが事実だと直感で分かった。

 

 すぐにウルフは跪き、最上級の敬礼で彼女を迎えた。

 

「お初にお目にかかります。ケルンドの駐在騎士ウルフ・カルティアイネンでございます」

「お前が駐在騎士か。グスタフからはアッカに熊の討伐に出向いたと聞いているが?」

 

 なぜここにいるのかと問うてくるエステルに対してウルフは更に頭を深く下げた。

 

「はっ、三日前ケルンドの村民から三十六名を選抜し、アッカに向かいましたが、山狩りは失敗致しました。のみならず、最初の犠牲者二人の葬儀の場への闖入を許し、十名の死者が出ました。アッカには女子供老人が多く、彼らの安全を守りきれないと判断し、一昨日この村に退避するに至りました。申し訳ございません。全て私の責任です」

 

 無能と罵倒されることを覚悟していたが、意外にもエステルは落ち着いた様子だった。

 

「そうか。賢明な判断だな」

 

 彼女の言葉にウルフは思わず顔を上げた。

 まさか褒め言葉を言われるとは思っていなかった。

 

 そしてエステルの顔を見たウルフは戦慄した。

 

 その目はゾッとするほど冷たく、どこまでも昏かった。

 そこに渦巻いているのは底知れない怒りだ。

 

 それは周囲の村人たちにも伝わったようで、皆が皆言葉を発するどころか息をすることすら憚っている。

 ある意味熊に匹敵するその威圧感を前にウルフは何も言えなかった。

 

 そしてふと気付いたエステルが問いかけてくる。

 

「ところでボリスはどこにいる?ここに熊の討伐に来ているはずだが?」

「は、父は──」

「死にました」

 

 言い澱むウルフを遮って代わりに答えたのはイリヤだった。

 

 彼女の方を振り向いたエステルが少し目を見開く。

 

「お前は──昨日聞いたグスタフの娘か?」

「はい。イリヤといいます」

「ではイリヤ、ボリスが死んだとはどういうことだ?」

「昨日の朝、猟犬を連れて単身熊の討伐に向かいました。ですが失敗し、返り討ちに遭いました。夕方に私と叔父が確認しています」

 

 そしてイリヤはエステルの前で片膝をついて頭を下げる。

 

「エステル様、お願いがあります。どうか、どうかあの怪物の駆逐に力をお貸しください!」

「やめんかイリヤ!」

 

 ウルフが制止するが、イリヤは止まらない。

 

「私に作戦があります!どうか!お願いします!」

 

 エステルは先程よりも大きく目を見開き、イリヤに問うた。

 

「面白いな。その作戦どういうのか聞かせてくれよ」

「陽動作戦です。ケルンドとアッカの男衆とカルティアイネン家からの応援、そしてエステル様でここにある全ての銃を持って、アッカから東の斜面に入ってもらいます。大勢の人間と銃が山に入れば熊は察知して逃げていきます。それを逆に利用して奴を追い込み、尾根の手前で私が待ち伏せ、仕留めます」

 

 イリヤの作戦を聞いたエステルは首を傾げる。

 

「奴が逃げていく先が分かると?」

「はい。私は祖父と共に五年間狩りをして来ました。山の獣の習性は知っています。地形と風を見れば、奴の通りたがる場所は読めます」

「なるほど」

 

 エステルは納得したようだったが、他はそうはいかないようだった。

 

「でも、陽動といってもそう上手くいくものですかね?俺たちが最初に山に入った時、あの熊は俺たちに向かってきましたが──」

「それは食べ残しをそこに埋めてたからだよ。食べ物を奪われるのは獣にとって命に関わることだからね。それがなければいきなり戦いを挑んできたりはしないよ」

「ですがイリヤさん、追い詰められたとして、一人であの熊を仕留められるんですか?」

「そうだぞイリヤ。危険過ぎる!父上でもできなかったんだぞ?」

「それは── 信じてもらうしかない。他にできる人はいないでしょ?」

 

 村人たちとウルフの追及にやや言葉を詰まらせるイリヤだったが、エステルがそれを遮った。

 

「私が一緒に行こう」

「「「「「えっ?」」」」」

 

 その場にいた全員が静まり返り、一斉にエステルの方を見る。

 

「熊を撃つところを見たいからな。もしイリヤがしくじったら私が代わりにやる。陽動の方にはセルカをつける。これでいいだろう」

 

 彼女の提案にウルフは慌てた。

 

「お、お待ちください!エステル様!危険過ぎます!」

「そうです!」

 

 ついさっきまで意見が対立していたウルフとイリヤが一緒になって反対する様子が滑稽だったのか、エステルはフッと笑った。

 

「見くびらないでもらおうか。これでも熊よりヤバいモンスターと戦ったことだってある。任せろ」

「そう言われましても、山での獣相手の狩りはモンスターを相手にするのとは違うんです。狩りは戦いじゃなくて──」

「隠れんぼ、だろ?」

 

 言い当てられて、イリヤは目を見開く。

 

「意外か?知ってて」

「いえ、そんなことは──」

「なら決まりだ」

 

 エステルの鶴の一声でイリヤの考案した作戦は実施が決定された。

 

 

◇◇◇

 

 

 なかなかどうして、面白いことになってきた。

 

 慌ただしく準備に走り回る男たちを余所に、俺は優雅に出された白湯を飲みながら一息つく。

 

 グスタフが急いで集めてきた五十人近くの応援はカルティアイネン家の屋敷がある街と付近の村から呼び集められた烏合の衆に過ぎなかった。

 

 こんなの何人いたところで役に立ちそうもない、隙を見て俺とセルカだけで山に入って熊を探すかと思っていたら、思わぬ逸材がいた。

 

 小柄で幼く見えるが、相当鍛えられているのが分かる身体つき、領主相手にも物怖じせずに要求を伝える度胸、そして──主君たる領主を村人たちごと囮にしてでも自分の手で仇を討ちたいという強烈な復讐心。

 

 イリヤには俺と似たものを感じた。

 だから彼女の作戦に乗ってやることにした。

 彼女の復讐がどんな結末を迎えるかこの目で見届けてやる。

 それに万が一にも彼女が祖父と同じように返り討ちにされたら寝覚めが悪い。

 

 作戦の実施は氷橋が完成する明朝と決まった。

 

 日が昇るのを待ってから陽動部隊が氷橋を渡ってアッカに入り、東側の山を登る。

 俺とイリヤは山裾の所で陽動部隊と別れ、渓流の上流の方へ向かい、そこから連なる丘陵を越えて尾根の前に出る。

 あとは俺の空間把握で逃げてきた熊を見つけ出し、必中距離まで近づいて撃ち殺す。

 

 なかなか良い作戦だ。

 一対一の勝負で勝てないのなら、こちらの人数を活かして気を逸らし、疲弊させ、弱らせてから叩く。

 

 あのイリヤという娘、怒りで頭がいっぱいなのに頭は冴えているらしい。

 それは普通なかなかできることではない。

 優秀な騎士の資質を感じるな。

 

 ことが終わったら仕官の誘いをかけてみても良いかもしれない。

 

 そう思いながら白湯を飲み干した時、外が騒がしくなった。

 

 何事かと思って外に出ると、近くに人だかりができていた。

 

「あの娘たちが帰ってきたみたいね」

 

 隣にやって来たセルカが教えてくれる。

 

 そういえば、イリヤとウルフが山中に放置されていたボリスの遺体を回収しに行くと言っていたな。

 

 村人たちは即席の棺に収められたボリスの遺体に口々に別れを告げていた。

 

「私たちも行きましょう。ちょっと確かめたいこともあるし」

「分かった」

 

 村人たちに道を開けさせ、棺の前に来ると、セルカがボリスの遺体にそっと触れた。

 

 それはほんの一瞬で、すぐに手を放し、険しい表情で礼を尽くしていた。

 傍目からは何かしたとは分からなかっただろう。

 

 だが、俺には彼女がサイコメトリーを使ったのだと分かった。

 そして、それで見たものが余程のものだということも。

 

 やがて棺が馬橇に載せられ、運び去られていった。

 

 村人たちが解散し、周りに人がいなくなったタイミングでセルカが耳打ちしてくる。

 

「襲撃時の状況が見えたわ。彼は確かに不意打ちを喰らっていたけれど、それで死んだのは猟犬だけよ。彼は猟犬の犠牲で銃撃に成功していたわ」

「何?ならなんで倒せなかったんだ?」

「魔力よ。その熊がどういうわけか魔力を持っていて、それで体毛と皮膚を強化していたの」

 

 それはつまり──

 

「魔獣か」

「考えられる可能性はそれくらいね」

 

 魔獣──モンスターに比べると遭遇頻度こそ少ないが、脅威度はそこらのモンスターを遥かに上回るとされる存在。

 体内に魔力を宿し、普通の獣とは比較にならない強い力を持ち、時に原初的な魔法すら操ると言われる。

 

 一説ではその正体は魔力を豊富に宿した人間を喰った獣が変質したものだというが、詳細は不明。

 

 過去に出現した時にはほぼ例外なく甚大な被害をもたらし、討伐に多数の騎士や冒険者が動員されたのだとか。

 

「今ある装備では致命傷を負わせることは困難よ。あの娘には気の毒だけれど、貴女がやることになると思うわ」

「──そうか」

 

 イリヤの銃では魔獣と化した熊の身体を貫けない。

 それは即ち、彼女自身の手で仇を討つことは不可能ということだ。

 

 俺が熊を倒す──元々そのつもりだったとはいえ、やり切れない気分になる。

 前世で自分を破滅に追い込んだのが誰か知りながら、結局何もできずに死んだことを思い出してしまう。

 アーヴリルのように仇は死んだという結果だけ見て受け入れてくれるならいいが、イリヤはそのような割り切りができる人物ではなさそうだ。

 

 ──どうしたものか。

 

 イリヤに恨まれることは承知でさっさとやってしまった方が良いのは分かっている。

 

 そもそも俺は悪徳領主を目指す身だ。悪徳領主たるもの人に恨まれ、憎まれるのが本懐。

 

 なのに──らしくもなく考えてしまう。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌朝。

 

 氷橋はしっかり芯まで凍り、頑丈な橋になっていた。

 

 その上を村人たちが渡り、アッカへと進撃する。

 

 そして先頭を進むイリヤが雪に残った足跡を発見した。

 

「まだ新しい。昨夜ここに来ていたんだ」

 

 足跡は渓流に沿って上流へと上っていった後、山の斜面へと消えていた。

 

「多分昨夜の試射の音を聞いて逃げたんだ。やっぱりまだこの近くにいる」

 

 イリヤの言葉に男たちが表情を強張らせる。

 だが、熊が銃の音で渓流を渡るのを諦めた、即ち自分たちを恐れているということは確かに彼らを勇気付けていた。

 

 そしてイリヤは積もった雪を少し手に取って撒き、風向きを確かめる。

 東向きの風。陽動部隊がちょうど潜んでいるであろう熊の風上に出る。

 

 予定通り、陽動部隊は足跡を追って山を登り、俺とイリヤは渓流をさらに上って待ち伏せの場所へ向かうことになった。

 

「気を付けて。必要だと思ったら躊躇なくやってね」

 

 セルカが別れ際に念を押してくる。

 

「ああ。分かっている」

 

 頷くと、セルカは陽動部隊の先頭へ向かって歩いていく。

 

 万が一熊がこちらの作戦を見破り、陽動部隊の方を襲ったら彼女に対処してもらうことになる。

 

 木々に紛れて見えなくなっていく陽動部隊を背に、俺とイリヤは雪の中を進んでいく。

 

 やがてイリヤの言っていた丘陵が迫ってくる。

 

 イリヤが丘陵の頂上付近に目を凝らしているので、空間把握でその方向を索敵してみたが、いくつかの小動物らしい反応があるだけだった。

 

 本当に熊はこちらに来ているのだろうか。

 

 そんな不安が頭をもたげるが、イリヤは丘陵の縁に沿って歩き始めた。

 

 俺は黙って彼女の後をついていく。丘陵の裏に回り込み、尾根へ出るルートを塞ぎに行くというのが当初の予定だ。

 そこまではまだ距離がある。

 

 やがて丘陵の向こうに隠れていた尾根が見えてくると、イリヤが足を止めた。

 

 そして俺の空間把握が一つの反応を見つけ出す。

 大型の動物。しかも微弱ながら魔力を発している。

 間違いなく、標的の熊だ。

 

 どうやら待ち伏せするつもりが先を越されてしまっていたようだが、幸いにもこちらは風下。

 匂いを気取られずに近づくことは可能だ。

 

 距離はおよそ二百メートル。

 

 イリヤの方を見ると、彼女も熊の存在に気づいているらしく、そっと斜面の上の方を指差していた。

 

 どうやらもっと近づいて高所を取るつもりのようだ。

 

 足音を立てないように細心の注意を払いながら、俺たちは熊ににじり寄っていく。

 

 そして遂に距離百メートルを切った所でイリヤが足を止め、ライフルを構えた。

 

 近くにあった木に身を寄せ、背筋を伸ばし、足を軽く開いて姿勢を安定させて照準器を覗き込む。

 その姿勢は逞しく、そして美しく見えた。

 

 イリヤの口から白い吐息が漏れ、直後に引き金が絞られる。

 

 凄まじい発砲音が凍てついた空気を切り裂き、山にこだまする。

 

 熊は目測で二、三メートルほどは跳ね上がったように見えた。

 

 着地の衝撃で舞い上がった無数の雪片が太陽光を反射して光り輝く。

 

「ッ!心臓外した!?」

 

 イリヤが毒づいて次弾を装填するが、俺は次の銃撃が通用しないと見て剣を抜いた。

 

 案の定、雪煙を突き破って熊はこちらに向かって突進してきた。

 

 吠え声を上げるその口から血が迸る。

 

(効いた!?)

 

 俺は内心驚いた。

 

 先程の初撃は魔力強化に阻まれることなく熊の身体を穿ったようだ。

 どうやら魔力による防御力強化は常時発動しているものではなかったらしい。

 珍しくセルカの読みが外れたな。

 

 だが──それもさっきでもうお終いだ。

 

 イリヤが熊の頭部目掛けて二発目を撃ったが、甲高い音を立てて弾かれる。

 

「なっ!?」

 

 イリヤは驚愕し、一瞬動きを止めてしまう。

 

 熊がイリヤに狙いを定めて襲いかかるが、それよりも早く俺の剣が熊の後脚を切り裂く。

 

 悲鳴を上げて雪に倒れ込む熊。

 

 そのまま首を刎ねてトドメを刺そうとしたが──

 

(危ねぇッ!)

 

 熊が身を捩って姿勢を変え、前脚を振るった。

 

 禍々しい巨大な爪がすぐ目の前を掠める。

 

 俺が距離を取った隙に熊は立ち上がり、殺気の込もった目で睨んでくる。

 

 その後脚の傷がみるみるうちに再生していく。

 

(再生能力まであるのかよ。厄介だな)

 

 熊の背後からイリヤが三発目の銃弾を撃ち込んだが、直前で気付かれ、防がれてしまう。

 

 熊は唸り声と共に背後目掛けて後脚で思い切り雪を蹴り上げ、今度は俺の方へ向かってきた。

 

 ただでさえ強力な熊の膂力に魔力による強化まで乗せた渾身の殴打が放たれる。

 

 受けるのも流すのも不可能だと瞬時に判断した俺は身を屈めて回避し、ガラ空きになった脇の下から心臓目掛けて刺突を繰り出す。

 

 だが、剣の鋒は針金のような毛に阻まれ、皮膚の表面を滑って逸れてしまった。

 

(クソッ!)

 

 予想以上に学習が早い奴だ。

 こちらの狙いを読んで瞬時に脇の防御力を強化しやがった。

 

 すれ違った勢いを維持したまま、熊は雪の中を走り抜け、斜面を下って逃げようとする。

 

「逃がすか!」

 

 素早く剣を鞘にしまい、尻を地面に付ける形で斜面を滑り降りる。

 

 スキー板も橇もなかったが、下層の雪が凍って硬くなっていたおかげでとんでもないスピードで滑っていく。

 

 生い茂る木に激突しないよう注意しつつも逃げていく熊の背は見失わないように目を凝らす。

 

 落ち着け。視野を広く。

 奴の動き、奴の視線、地形、風、雪の状態、そこから奴が向かう先は──

 

 風魔法を使い、奴の向かう先に先回りすべく一気に加速する。

 

 吹き溜まりを飛び越え、立ちはだかる木を逆に足場に利用し、熊に追いついた俺はすかさず風魔法の刃を放った。

 

 不可視の風の刃が分厚い毛皮を切り裂き、その下の肉と筋を破壊する。

 

 後脚を負傷した熊が足を止めた。

 

 その間に体勢を整えた俺は再び剣を抜き、熊目掛けて突撃する。

 

 視線から狙っている箇所を読まれないよう、また逆に奴の繰り出す手を読むために奴の目を注視する。

 

 絶対に奴はまた殴打を繰り出してくる。

 そして俺がそれを掻い潜って心臓への刺突を狙うことも読んでいるはず。

 

 だから今度は上に跳び、背中から首を狙う。

 頸椎を刺せたらしめたもの、もし皮膚を強化されて弾かれてもその時は剣帯を巻きつけて絞め殺せばいい。

 

 切り裂かれた後脚がまだ再生し切っていないところに俺が来たことで熊は逃走を諦めたらしく、再び前脚を振りかぶる。

 

 渾身の魔力を込めて跳躍して紙一重で躱し、丸見えの頸目掛けて剣を振り下ろす。

 

 ──ぱきん、という甲高い音を立てて剣は折れた。

 

 さすがにこれはちょっと想定外だったがまあいい。剣帯はとっくに用意してある。

 

 すぐに剣帯を熊の首に回すと、魔力で肉体を強化して思い切り引っ張る。

 

 首が締まった熊が俺を振り落とそうと暴れ回るが、両脚で挟み込んで逃がさない。

 自慢の前脚も背中にまでは届かず、剣帯自体を切り裂こうとしてもそれはアヴァリスの鎖と同様セルカ謹製の逸品。熊の爪では破壊は不可能である。

 

 やがて熊の動きが鈍り始め、もう少しで落とせそうだと思っていると、不意に熊が立ち上がった。

 そしてそのまま後ろに向かって倒れ始める。

 

「おい嘘だろ!」

 

 俺は絞殺を断念して熊の背から退避する。

 さすがにこんな大きさの熊にボディプレスされたら死ぬ。

 

 だが、ただで放してやるわけもなく、空いた喉元と腹に風の刃を投げつけてやった。

 

 熊の首と下腹に鋭い切れ込みが入り、血が噴き出す。

 

 すぐに再生が始まったが、傷口に入り込んだ微細な風が内部を切り裂き、傷口を広げていた。

 そのせいで再生には時間がかかり、その間に大量の血が流れ出る。

 

 傷口が再生した時には熊はもうフラフラだった。

 

 明らかに魔力も減退している。

 

 ──いける。

 

 そう思って再び風の刃を放とうとしたが──

 

 熊が全身の毛を一斉に逆立てたかと思うと、俺に向かって吠えた。

 

 魔力強化された肺と喉から放たれたとんでもなく大音量の咆哮が破壊的な衝撃波と化して襲いかかってくる。

 

 あまりにも唐突かつ予想外過ぎて対応できず、俺の身体は木の葉のように吹っ飛ばされて宙を舞った。

 

 ──くそ、なんか前にも同じような手を喰らった気がする。

 あれは確か──そうだ。ライチェスが自爆しやがったんだった。

 あの時はセルカが警告してくれたおかげで爆死は免れたが、今回はセルカはいなかった。

 そのせいで衝撃波をまともに喰らってしまった。

 

 雪がクッションになって骨折や失神こそしなかったが、耳と内臓がやられたらしく、耳鳴りと腹痛が酷い。

 

 熊がフラフラになりながらも牙を剥いて迫ってくる。

 

 奴の魔力はもう枯渇したようだが、問題は今の俺の状態だ。

 何とか近くに落ちていた木の枝を杖にして立つことはできたが、もう立っているだけでキツい。

 

 ここから熊の攻撃を躱して一撃入れられるかどうかは──否、やるしかない。

 

 俺は今まであらゆる危機を切り抜けてきた。

 凶悪なロボットも、ライチェスも、空賊も、オフリー伯爵家も、案内人の加護があったとはいえ、自分の力で跳ね除けてきた。

 それをこんな獣如きに終わりにされてたまるか。

 

 さあ、来るなら来い!

 

 その思いを込めて熊を睨みつけた直後。

 

 銃声が轟き、熊の身体が跳ねた。

 

 そしてこちらに背を向けて数歩歩いたところで横倒しに倒れた。

 

 ──倒した?

 

 そういえば銃声がしたな。

 ということは──

 

「エステル様!!」

 

 狼狽したイリヤが現れ、俺の顔を覗き込む。

 

「エステル様!ご無事ですか!?」

 

 血の気の引いた顔で問うてくるイリヤを見て、全身から力が抜けた。

 

 雪の上に座り込みながらも、俺は返事をする。

 

「ああ。何とかな。吠え声で耳と腸やられたみたいだが、それ以外は大丈夫だ」

「重傷じゃないですか!早く助けを──」

 

 イリヤが周囲から木の枝を拾い集めてくると、ナイフで表面を削って火をつけた。

 

 灰色の煙が空へと昇っていき、やがてそれを見て駆けつけてきたらしい人の声が聞こえてきた。

 

 ──助かった。

 

 

◇◇◇

 

 

 熊の死骸は即席の橇に載せられ、ケルンドまで運ばれることになった。

 

 憎き人喰い熊が討ち取られたことを被害者の遺族やアッカとケルンドの村人に見せるためだ。

 

 力自慢の男三十人が橇と熊の四肢に括り付けられたロープを引っ張り、熊の身体の重さに四苦八苦しながらも何とか渓流の所まで運び下ろした。

 

 そこから先はケルンドから連れてきた馬に橇を牽かせる手筈だったのだが、馬は熊の死骸を恐れ、橇を牽くのを嫌がって暴れた。

 

 やむなく、その先も人力で運ぶことになり、馬には代わりに俺が乗せられた。

 

 熊にやられた耳と内臓はセルカの治療魔法で元通りに治っていて、歩くのに支障はなかったが、セルカや村人たちは聞き入れてくれなかった。

 

 そうして渓流を下り始めて間もなく、濃い灰色の雲が山の方から出てきてたちまち空を覆い尽くし、雪が降り始めた。

 おまけに風も強くなり、森の木々が激しく揺れていた。

 

「山の天気は変わりやすいというけど──これはちょっと異常じゃないか?」

 

 セルカに訊いてみると、彼女は目を細めて空を見上げた。

 

「ただの嵐じゃないわね。微細だけど魔力が混じっているわ。魔法が使いにくくなるわね」

「それって──祟りみたいなやつか?」

「分からないわ。あの熊はとっくに死んでいるし、何かしたとは思えないけれど──」

 

 彼女の言い方はどこか歯切れが悪かったが、追及しても意味はないと思って俺はそれ以上何も言わなかった。

 

 やがて見えてきた氷橋を渡り、渓流沿いに更に下って、俺たちはケルンドに帰還した。

 

 あたりはすっかり日が暮れて暗くなっていた。

 

 熊の死骸が運び込まれた集会所の前には大勢の村人たちが集まった。

 

 彼らは死してなお巨大で力強い熊の身体に圧倒されて遠巻きに眺めているだけだったが、不意にその中から一人の老婆が進み出た。

 

 誰が止める間もなく、老婆は熊の死骸に近づいて杖を振りかぶり、熊の身体を叩いた。

 

 それが引き金となって複数の男女が熊の周囲に群がった。

 皆一様に泣き喚きながら、拳で、足で、熊の身体を痛めつけようとする。

 彼らはアッカの村民たちで、犠牲になった十二人の遺族たちだった。

 

 ふと、その光景を肩を震わせて見ているイリヤに気付いた。

 その手には大きな山刀が握られており、目は怒りと憎悪に満ちていた。

 

 そしてイリヤが熊の方に向かって一歩踏み出したその時、彼女の肩に手をかける者がいた。

 

「やめておきなさい。それは狩人の道ではないわ」

 

 

 

 研ぎ上げた山刀を手に熊のところへ向かおうとしたイリヤを諭したのはセルカだった。

 

「何を──知ったような口を利かないで!」

 

 イリヤは叫んでセルカの手を振り払ったが、セルカはすぐにその手を捕まえた。

 振り解こうとするが、セルカはその細腕に反して異様に力が強く、できなかった。

 

「よく考えてみて。貴女がしようとしていることは復讐でも死者への手向けでも何でもない、ただの冒涜よ」

「うるさい!アイツはじいちゃんを殺した!私の師匠で──お父さんよりもお父さんみたいな人だった!そのじいちゃんをズタズタに引き裂きやがって、許せない!同じ目に遭わせて、バラバラにして森に撒いてやる!」

「その敬愛する貴女の祖父は貴女の立場だったらそうするのかしら?」

「ッ!」

 

 セルカの問いかけにイリヤは言葉に詰まった。

 

 いつかのボリスとのやり取りが頭を過ぎる。

 

『ねぇじいちゃん。じいちゃんはなんでそんなに山のことが分かるの?』

『──聞こえるんだよ。山の声が』

『えーそんなの聞こえないよ』

『そう簡単には聞こえんさ。邪念や俗念を払わんとな』

『じゃねん?ぞくねん?』

『余計な考えや感情のことだ。特に──怒りと憎しみは耳を遠くして目も曇らせる。絶対に捨てねばならん。難しいことだが、捨てねばいつかそれに殺される』

 

 ああ、そうだ。

 

 あの時は牛を襲った狼を駆逐して、それでじいちゃんは殺した狼を──

 

「思い出したようね。ならば貴女が何をするのが一番貴女の祖父への手向けになるか、貴女はもう分かっているでしょう?」

 

 それは──だけど──それじゃ私はどこに行けばいいの?

 

 もうじいちゃんはいない。

 何をしたってもう帰ってこない。

 一緒に狩りはできないし、教わりたかったことももう聞けない。

 じいちゃんみたいな狩人になりたいと思って生きてきたのに、進むべき道が案内役ごと消えてしまった。

 

 死んだのはじいちゃんだけじゃない。

 私の夢と未来もだ。

 

 それなのに今更何したって──

 

「大丈夫。貴女は大丈夫よ」

 

 セルカのその言葉に思わず顔を上げた。

 

 血のような赤い瞳に縋るような顔をした自分が映る。

 

「貴女の祖父の教えは貴女の中で生き続ける。貴女がそこから目を逸らさない限り、貴女が迷った時、自分を見失った時、必ず導いてくれる。だから、信じて。貴女の祖父と貴女自身を」

 

 彼女の言葉は不思議と心の奥深くまで届いた。

 

 その赤い瞳を見ていると、心の靄が晴れていくかのような不思議な感覚になる。

 

 いつの間にか、自分の目から涙が溢れていることに気付いた。

 

 ──駄目だ。

 こんなこと、もうやめにしないと。

 私が本当に完全にじいちゃんを殺してしまう。

 

「分かり──ました」

 

 洟声で何とかそれだけ言って、イリヤは泣き崩れた。

 

 その肩をセルカはそっと抱きしめて支えていた。

 

 

 

 熊の死骸に群がっていた遺族たちだったが、その中で妻子を全員失ったエルサの夫が遂に大型の鎌を持ち出した。

 

「クソッタレ!俺の家族を返せーッ!」

 

 そう叫んで熊の死骸に切りつけようとしたが──

 

「やめろッッ!!」

 

 イリヤの怒鳴り声が雪風を切り裂いて響き渡る。

 

「そいつは私が仕留めた獲物だ!それ以上触るな!」

 

 彼女の剣幕と手にした山刀に村人たちは一瞬凍りついた。

 

 だが、大鎌を持ったエルサの夫が顔を歪めてイリヤに反論する。

 

「何で止めるんですか!妻も息子も皆こいつに食い殺されたんですよ!死体でも八つ裂きにしてやらねェと気が収まりませんよ!!」

 

 彼の叫びに村人たちは無言で頷き、イリヤを睨みつける。

 

 だが、イリヤは全く怯まず、落ち着いた口調で彼らに語りかける。

 

「儀式をしなくちゃいけないの。獣を仕留めたなら必ず、その魂を森の神様の下に送る。その獣がどんな罪を犯していても、関係ない。魂が神様の下に行けないまま現世に残ったら、災いをもたらすんだよ。現に今この嵐でしょ?」

 

 村人たちの間に動揺が走る。

 

 既に雪が降り始めてから数時間が経過しているのに、その勢いは全く衰える気配がない。

 そして吹き荒ぶ風はまるで熊の唸り声のようにも聞こえた。

 

 ケルンドや他の街や村から来た者たちはもちろん、遺族たちも皆ちらほらと空や山の方を見て不安げな表情を浮かべる。

 

 エルサの夫はしばらく無言で佇んでいたが、やがて持っていた大鎌を取り落とした。

 そのまま地に両膝をつけて嗚咽を漏らし始める。

 

 イリヤは彼の隣に寄り添って肩に手を置いた。

 

「こいつが憎いって気持ちは分かるよ。私もじいちゃんを喪った。だけど──もうこれくらいにしてあげて。この雪と風に免じて」

 

 涙を浮かべながら最後の説得をするイリヤにようやく村人たちは折れた。

 

 村人たちが熊から離れると、イリヤは熊の正面に膝をついた。

 

「偉大なる森の狩人、山つ神の仔の末裔よ。その魂はエンテの下へ。肉体は──肉体はぁぁぁ──」

 

 また新たに溢れ出た涙を拭い、洟をすすり上げて、イリヤは祈りの句の続きを唱える。

 

「現世に残りッ──我らの、糧と、なりたまえ」

 

 直後、一層強い風が吹きつけて一際大きく不気味な音を響かせた。

 

 だが、それを最後に強く吹いていた風は段々弱まり、山の方で雲が僅かに切れて月光が差し込むのが見えた。

 

 イリヤは立ち上がり、熊の解体に取り掛かった。

 

 熊の身体が橇から降ろされ、雪の上に仰向けに転がされた。

 

 イリヤが山刀を熊の胸部に突き入れ、下腹部まで一直線に切り開く。

 

 分厚い皮下脂肪と筋肉を切り裂いて内臓を露出させると、食道と腸を縛って切断し、内臓を一塊に全て取り出した。

 

 胆嚢を切り取って雪を詰めた革袋に収めると、次に胃を切り開いた。

 

 中から取り出された犠牲者の衣服の切れ端や髪、骨片に村人たちが悲痛な顔をする。

 

 あちこちですすり泣きが起こり、地面に拳を叩きつけている者もいた。

 

 その光景を見て俺はセルカに尋ねた。

 

「なぁ、なんでわざわざイリヤに止めさせたんだ?あいつの祖父さんの仇でもあるんだから好きなだけやらせておけばよかったと思うんだが?」

 

 セルカはイリヤたちの方を向いたまま視線だけ俺の方に向けて言った。

 

「怒りと憎しみに身を任せてあの熊の身体を切り刻んだところであの娘の心は癒されないわ。そして荒んだままの心では持った才能は腐るだけ。それじゃ困るでしょう?せっかく引き抜こうとしているのに」

 

 その答えに俺は得心がいく。

 

「やれやれ。お見通しか」

「これくらい念話なんて使わなくたって分かるわよ。貴女顔に出やすいもの」

「そ、そうか──」 

 

 赤面する俺をセルカが微笑ましいものを見る目で見つめてくる。

 

 その間にも熊の解体は順調に進み、毛皮が剥がされて頭が切り離された。

 

 頭を調べた結果、熊に致命傷を与えたのはやはりイリヤが最後に撃った弾であり、眉間に命中して頭蓋骨をぶち抜き、脳を破壊していた。

 

 剥がされた毛皮は脂肪が取り除かれ、広げられて板に張り付けられた。

 この毛皮と胆嚢は熊を仕留めたイリヤが所有することになっている。

 

 残った内臓と骨と肉は森に還されることになった。

 動物や虫に喰われ、やがて朽ちて養分となり、巡り巡って森の恵みとなるだろう。

 

 熊の解体が終わった頃にはすっかり夜が更けていた。

 

 村人たちはそれぞれの家や宿泊場所に戻り、集会所でアッカとケルンドが使い果たした食糧と燃料に対する援助と被害者の葬儀について話し合いがなされた。

 俺はその場で消費した分の倍の食糧と物資を両村に送り届ける旨の書類を二つ作って片方をウルフに持たせた。

 

 民たちには一刻も早く日常生活に戻って経済活動に励んでもらわなければならない。

 

 そのためなら援助という名の投資は惜しまないつもりだ。

 

 

 

 翌朝、アッカに残された遺体の回収と犠牲者たちの合同葬儀が行われた。

 

 遺体は荼毘に付され、遺骨はアッカの共同墓地に埋葬された。

 その上に慰霊碑を建てることも決定された。

 

 葬儀が終わると、カルティアイネン家から派遣されてきた応援は引き上げていった。

 

 そしてイリヤ率いる数人のケルンドの男たちが熊の残骸を橇に載せて山に向かっていった。

 

 彼らがケルンドに帰ってきたのは昼頃だった。

 

 男たちに労いの言葉をかけた後、ボリスの遺品であるライフルと毛皮の帽子の前で佇むイリヤに声をかけた。

 

「イリヤ、お疲れ様。大変だったな」

「エステル様──お気遣いありがとうございます。討伐の際も助けられましたね。このご恩はいつか必ずお返しします」

 

 丁寧に頭を下げるイリヤの姿は昨日までとは別人のようだ。

 

「それはお互い様だ。私はあいつにやられるところだった。お前があいつを仕留めて、助けを呼んでくれたおかげで助かったんだ。しかし、見事な腕だったな」

「いえそんな。エステル様が奴を弱らせてくださったおかげです。私一人では絶対に仕留められませんでした。まさか本当に剣で熊と戦われるとは思いませんでしたけど」

 

 どちらからともなく微かな笑みが漏れる。

 

 そして俺は話すのは今だと思って切り出した。

 

「イリヤ──お前、これからどうする気だ?」

「え?」

 

 イリヤが顔を上げて俺の顔を見る。

 

 そして悲しげに視線を落として呟く。

 

「──分かりません。仇討ちで頭がいっぱいで考えていなくて。でも──きっともう狩りは続けられないと思います」

 

 拳を握り締めて唇を噛むイリヤ。

 

 やはり実家の家族との関係はあまり良くないようだ。

 ボリスは彼女にとって狩りの師匠であると同時に、他の家族の干渉から守ってくれる後ろ盾でもあったのだろう。

 

 その後ろ盾を失って狩りができなくなったイリヤの行くところといったら──限られてくる。

 

「ならさ、落ち着いたら私のところに来ないか?腕の良い射手は大歓迎だぜ?」

 

 イリヤが目を見開いた。

 

「それって──」

「お前の腕とタフさなら優秀な騎士になれるぞ。訓練を受けて、私直属の騎士になる気はないか?」

「私が──騎士に?」

 

 自分を笑わせるための冗談ではないのかとでも言いたげな目で俺を見てくるが、俺は本気だ。

 

 優秀な人材は見つけたらすぐに取り込むに限る。

 立場や身分などというくだらない理由で貴重な才能を埋もれさせるなど、計り知れない損失だからな。

 

 俺が本気だということは視線と頷きだけで伝わったらしい。

 

 昏く澱んでいたイリヤの瞳に再び光が宿る。

 

 出会った時の灼熱の炎のような輝きではなく、夜空の星のような優しく美しい光。

 

 そして、イリヤは目を潤ませて頷いた。

 

「はい!よろしくお願いします!」

 

 

 

 エステル・フォウ・ファイアブランド直属の護衛騎士【イリヤ・カルティアイネン】──後に三百を超える敵を射殺し、ファイアブランド軍の最精鋭【ナンバーズ】への加入を果たす女性騎士が誕生した瞬間だった。



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第三章
貯金箱


あっさり書けた──


 教育とは何だろうか?

 

 教え、育てるという字を書くが、それがどこからどこまでを指すかは千差万別だ。

 

 極端な話、読み書きを教えるだけでも教育と言えてしまうし、逆に十年以上学校に通って生涯使わないようなものも含めて知識をどっさり詰め込む制度が整っていてもなお、教育が不十分と見做されることもある。

 

 では何をもって教育とするか。

 

 俺が思うにそれはその社会で使える人間を育てることだ。

 どういう風に使える人間にするか、そのためには何が必要か、どれくらいの年月がかかるか、それらを明確にした上で教育内容を作り、学校をはじめとしたインフラを整えて、適切な人材を用意する。

 

 では、この世界の教育はどうなっているかというと──はっきり言ってゴミかカスのどちらかである。

 

 中世のような封建制が敷かれ、それぞれの身分がそのまま社会での役割に直結し、しかもそれが固定化されている世の中で、国民に広く教育を施すという発想自体ないのだと思われるが、それにしても公の教育機関が王都の学園一つしかなくて、しかも貴族家や騎士家の子女しか入れないとか、時代遅れもいいところだ。

 

 学園に入れない平民たちはほぼ無学と言っていい。

 平民たちの生活する街や農村に行けば字も読めない奴が当たり前にいる。

 彼らには生涯まともな教育を受ける機会が殆どないのだ。平民が受けられる教育は神殿が慈善事業として行なっている庶民学校に行くか、家庭教師を雇うしかない。

 そして当の平民たちも教育の必要性を認識していない。訳の分からない学問など不要、生活の知恵があればいい、勉強なんてしている暇があったら働け──って感じだ。

 

 支配する側にとっても、平民たちは無学でいてくれた方が反乱の恐れがなくて都合が良い、というのもあるのだろう。

 

 だがそれは結局のところ長い目で見れば大損だ。

 国力が上がらない、いや、相対的には下がり続けるのだから。

 

 下手に魔法なんて便利なものがあったり、滅んだ古代文明の遺物を調べて利用できるせいか、技術水準と社会構造が噛み合っていない。

 そのせいで知的労働に従事できる人材が人口に比して極端に少なく、あらゆる面において中央と地方の格差が酷い。

 

 中央、つまり王都と周辺にはいくつもの工場があって、色々な工業製品が作られ、港に道路、水道、電気などの社会インフラがばっちり整えられている。

 日本で言うところの大正時代から昭和時代初期くらいのレベルの近代都市がそこには実現している。

 

 翻って地方では多少差こそあれど、多くが産業革命前くらいのレベルである。

 一部の軽工業を除けば、工業は殆ど育っておらず、採れた資源は何らの加工もされずに中央に送られていき、あまつさえそれを原料として作られた工業製品を高値で買わされる。

 そうやって吸い上げられた富は殆ど還元されることはなく、そのせいで常に貿易赤字状態だ。

 社会インフラの整備は極めて限定的で、老朽化した部分の更新も、新たな拡充も、金がなくてなかなか進まない。

 

 ──これでは地方は植民地も同然ではないか。

 

 だから俺は領民の教育に力を入れると決めた。領地の地力を上げるには人材を育てなければならない。

 ダンジョンで見つけたりサルベージして財宝を手に入れても所詮は泡銭だし、採掘権が戻った資源もそう遠からず枯渇する。

 ならば今のうちから別の稼げる産業を育てておかなければならない。その担い手となるのが、教育した領民共だ。

 

 読み書きと足し算引き算くらいしか教えていなかった寺子屋じみた従来の学校をお払い箱にして、新しい学校を作った。全ての領民の子供が強制で入る義務教育の学校だ。

 彼らを相手に教鞭を執るのは、従来の学校で教えていた者に加えて、ファイアブランド家に仕える騎士家から選りすぐった者たちだ。彼らは学園を卒業しており、教養があるので、数学や物理化学から魔法や礼儀作法まで幅広く教えられる。

 

 学校は去年から開校しており、早速見込みのありそうな子が何人かいるとの報告も上がっている。

 

 ゆくゆくは理工分野や経済分野、医薬分野に教育分野まで教えられる総合大学のようなところも整備したいところだ。

 

 さて、領民の教育について考えている俺だが、俺自身もこれから教育を受けることになる身である。

 

 今年、俺はいよいよ王都の学園に入学する。

 正直、上り調子になってきたこのタイミングで領地を空けるのは不安だが、行かないという選択肢はない。

 俺が正式にファイアブランド領の領主として認められるには学園を卒業しなければならないのだ。

 

 学園に入ったら三年間は学園の寮暮らし。領地には長期休暇の時しか戻ってこられないだろう。

 

 ──それまでにまだやっておきたいことが色々ある。

 

「もう学園入学か。長かったようであっという間だな」

 

 呟くと、ティナが「そうですね」と返してくる。

 その優しい声と、肩を揉んでくれる柔らかい手が安心感をもたらしてくれる。

 

 しばらくティナのマッサージを堪能し、肩凝りもほぐれたところで俺は立ち上がって伸びをする。

 

「さてと、仕事もひと段落したことだし、”貯金箱“を割ってくるとするか」

「お嬢様、貯金箱を持っていらしたのですか?」

 

 ティナが若干驚いた顔をする。

 

「手元にはないな。だが、確かにあるぞ」

 

 そして俺は着替えとパイロットスーツの入ったスーツケースを手に執務室を出る。

 

「空賊狩りの時間だ」

 

 

◇◇◇

 

 

 空賊というのは実に厄介な存在だ。

 

 奴らは数隻の小規模な船団で活動する。そのせいで隠密性と機動性が高く、いつどこに現れるか予測がつかず、探してもなかなか見つからず、いざ姿を現しても、通報を受けて軍が駆けつける頃には奪るものを奪って逃げ去っている。

 

 そんな厄介な空賊に対して俺が取る対策は至ってシンプル。見つかるまで探し、見つけたら殲滅、だ。

 

 ファイアブランド領周辺及びその交易路上で略奪を行うことは即ち、ファイアブランド領に、その支配者である俺に損害を与えることを意味する。

 ならばその損害はきっちり賠償してもらわないといけない。彼らの命でな。

 

「目標確認!」

 

 見張り員が大声で報告してくる。

 

 双眼鏡を覗き込むと、小さな浮島とその周囲に群がる飛行船が見えた。

 

「奴らの情報は正しかったな。予定通り上陸戦の準備だ」

「はっ!総員、戦闘配置!直掩鎧部隊、発艦!」

 

 艦隊指揮官が命令を下し、艦隊が戦闘態勢に移行する。

 

 今回の作戦目標は先程見たあの小さな浮島を制圧すること。

 

 その浮島は地図に載っていない未知の浮島で、空賊共が基地を作り、拠点として使っている。

 

 二ヶ月前にうちの商船を襲ってきて返り討ちにしてやった空賊の生き残りを尋問して存在を知り、一ヶ月かけて探し出し、更に一ヶ月かけて攻略の準備をしてきたのだ。

 

「中型戦艦二隻を確認。その他改造砲艦四。全艦こちらに向かって来ます!」

「各主砲、射撃用意。指示を待て。管制室、照準を先頭の敵艦に。測的を開始せよ」

『了解。測的開始します』

 

 艦長の指示でマスト上部に設けられた射撃管制室が動き出す。

 

「さて、この艦の性能の初披露といこうか」

 

 今回の作戦の主力となるのが今俺が乗っている大型飛行戦艦【ヴァルキリー】だ。

 二年前に策定した艦隊整備計画に基づいて工廠に発注した最新鋭の主力艦四隻のうち、最初に就役した艦で、今年の初春にようやく乗組員の訓練が完了したばかり。

 ベテランを選んで配属したものの、艦自体が大きく、乗組員の数が多い上に、これまでにない新機軸もあってやはり慣熟には時間がかかった。

 この戦いがこの艦と乗組員たちの最初の実戦となる。

 

「取り舵四十。右舷砲撃戦用意!管制室、諸元送れ」

「了解!」

 

 ヴァルキリーが迎撃に出てきた空賊の飛行船に舷側を向け始める。

 その動きは二百メートルを超える大型艦とは思えないほど軽快だ。さすが最新鋭は違うな。

 

 そして、管制室から射撃準備完了の知らせが届く。

 

『目標、完全にこちらの有効射程に入りました。照準よし!』

「撃ち方始め!」

 

 艦隊指揮官の号令で舷側に並んだ主砲が一斉に火を噴いた。

 

 何発もの砲弾が赤い光を曳いて飛んでいき──全弾外れて手前の空中で爆発する。

 

 だが──

 

『修正。〇三七、〇二五』

『装填よし!』

「撃ッ!」

 

 すぐに次弾が発射され、今度は敵艦の上を飛び越えて向こう側で爆発する。

 

『修正。〇一九、マイナス〇一一』

 

 またすぐに次の砲撃が行われ、敵艦が爆発の煙に包まれた。

 どうやら散布界に捉えたようだ。

 

 煙の中から敵艦が姿を現す。

 そのうちの一隻が煙を上げていた。

 

「目標への命中を確認!目標、艦首付近にて火災発生の模様」

「よし、このまま距離を保ち、攻撃を続行せよ」

 

 三射目で早くも直撃弾が出たことに艦内は沸く。

 

 その勢いのままに放たれた四射目が煙を上げていた敵艦の艦橋を吹き飛ばした。

 

「目標沈黙!」

「よし、次、目標を後続の敵戦艦に」

 

 空賊の飛行船が一方的に攻撃を浴びて炎に包まれている一方で、こちらにはまだ一発も砲弾は飛んできていない。

 それもそのはず、こちらは空賊共の射程外にいるのだ。

 まさに一方的な蹂躙である。

 

 艦隊戦といえば至近距離まで近づいて撃ち合うのが常識なこの世界で、このような戦い方が可能となったのは新しい射撃の方法と、強力な新型砲によるものだ。

 

 ヴァルキリーでは従来のように各々の砲手が照準・発射を行う【独立打方】ではなく、管制室から送られる発砲諸元に基づいて一斉に射撃する【一斉打方】を行なっている。

 砲手たちは基本的に指示に従って砲を動かすだけで、照準は管制室の方位盤が、発射は司令室の射撃盤がやってくれる。

 当初は少なからず反発を生じさせた一斉打方だが、命中精度は桁違いである。

 作戦前に行われた演習では、一斉打方で戦ったヴァルキリーが独立打方で戦ったアリージェントの五倍もの命中率を叩き出して圧勝している。

 

 加えてヴァルキリーが搭載している新型砲は他の艦が搭載している砲よりも圧倒的に射程が長い。

 砲身が長く、初速が高いことによるものだが、これに加えて重い砲弾を使うことで威力もかなりのものになっている。空賊共が使うオンボロ船のシールドや装甲など簡単にぶち抜く。

 ──本来はその威力がその砲の売りであって、長射程はその副産物に過ぎないのだが。

 

 ともかく、よく当たる撃ち方と強力な主砲を併せ持ったヴァルキリーはアウトレンジから一方的に高精度の砲撃を浴びせて相手を殴り殺す凶悪な化け物と化している。

 

 そんなヴァルキリーに恐れをなしたのか、空賊共が逃げ始めた。

 

「敵が回頭を開始!浮島へ向け退却していきます」

「敵わぬと見て逃げ帰りましたかな」

「いや、誘い込むつもりだろう。おそらくまだ何か隠し玉がある。距離一万を保ちつつ追跡。グリーブス隊を先行させ、偵察を行わせろ」

 

 艦隊指揮官の指示に従い、鎧一個中隊が艦隊から離れて逃げていく空賊共を追いかけていった。

 先頭を飛ぶ黄色い鎧の背には漆黒の大剣が装備されている。

 

 その鎧のパイロット──中隊長には覚えがある。

 

「グリーブス──ダリル、だったか」

 

 三年前のウィングシャーク空賊団との戦いではあの大剣を敵に奪われ、その後のオフリー軍との戦いでは単独で殿を務めるという無茶をやらかし、二度とも俺が間一髪で助けたあの若手の騎士が、今ではパーソナルカラーで乗機を彩り、先行偵察隊を率いるほどのエースである。

 

 彼が率いる部下たちも精鋭揃いのようで、編隊にまるで乱れが見られない。

 

 優秀な手駒が育っているのは嬉しい限りだ。

 

 程なく、先行したグリーブス隊からの報告が届く。

 

「グリーブス隊より入電。敵浮島に偽装された砲台を発見とのことです」

「やはりか。オーブリー隊を増援に送れ。まず砲台を潰す」

「はっ!」

 

 直掩として張りついていた鎧がもう一個中隊、敵の浮島へと向かっていくが、彼らが到着する前に敵の浮島に巨大な火柱が上がった。

 

「グリーブス隊より入電。敵砲台の破壊に成功したとのことです!」

「何?早いな。よし、本艦も前進だ。砲撃準備!上陸前の地均しだ」

 

 ヴァルキリーが速度を上げ、空賊の浮島目掛けて突入する。

 

 その先では、先行したグリーブス隊と増援に駆けつけたオーブリー隊が迎撃に上がってきた空賊の鎧と空中戦を始めていた。

 

 数の上では空賊の鎧の方が多かったが、力の差は歴然だった。

 墜ちていくのは空賊の鎧ばかり。それどころか、一部の味方機が逃げ込んだ空賊の飛行船を攻撃して炎上させていた。

 完全に空賊共を手玉に取っている。

 

 おかげでヴァルキリーは何らの妨害も受けずに浮島に接近し、空賊共の基地を射程に収める。

 

「面舵いっぱい!減速開始!」

「グリーブス隊、オーブリー隊へ通達。射線上から退避せよ」

 

 ヴァルキリーが目標の基地に舷側を向け始めると、戦っていた味方の鎧部隊はさっさと戦闘を切り上げて再集合し、その場を離れた。

 

「砲撃準備完了。射線上に友軍機なし!」

「主砲発射!」

 

 左舷の主砲が一斉に火を噴き、空賊共の基地が爆煙に包まれた。

 

「敵飛行船に動きあり!中型戦艦一隻が逃走を図っています!」

「ガルムに対処させろ。絶対に逃すなと言っておけ」

「了解!」

 

 ズタボロになりながらも、ヴァルキリーが基地への砲撃を行っている隙に逃げ出そうとした空賊の飛行船だが、その針路上にこちらの中型飛行戦艦が立ちはだかり、猛攻撃を加える。

 

 ロクな反撃もできずに砲火を浴びて火達磨になる空賊の飛行船。

 

 味方を捨てて自分たちだけ逃げようとした卑怯者には相応しい最期だな。

 

「敵地上施設、壊滅した模様です」

「撃ち方やめ。地上軍の上陸を開始せよ」

「はっ!」

 

 砲撃が止み、後方で控えていた輸送船が護衛のフリゲートと共に浮島へと突入してくる。

 

「オーブリー隊より入電。上陸地点確保、です!」

「信号煙確認!一時の方向!」

「アンブローズより入電。上陸隊第一陣、発進したとのことです」

 

 見ると、兵士たちを満載した小型艇が六艘、赤い信号煙の上がる埠頭へと向かっていく。

 

 そして着岸した小型艇からワラワラと兵士たちが飛び出し、基地の方へと突撃していった。

 

 

 

「結局私の出る幕はなかったな」

 

 制圧された空賊共の基地に足を踏み入れた俺はそう呟いた。

 

 手強い敵も予想外の罠もなく、全てが上手くいってあっさり倒せてしまった。

 

「良いことではありませんか。あったら困りますよ」

 

 艦隊指揮官がジト目で言ってくる。

 

 分かっていないな。

 確かに作戦の大成功は喜ばしいことだし、ヴァルキリーの性能や部下たちの強さを確認できたし、戦利品として飛行船や浮島が手に入った。

 それはいいのだが──やっぱり物足りないのだ。見ているだけで終わってしまうというのは張り合いがなくてつまらない。

 

 こうなったら連中が貯め込んだ財宝に期待するしかない。

 宝探しができれば少しは楽しめるだろう。

 

 そしてちょうど良いタイミングでそういうことが得意な連中が現れる。

 

「エステル様。ウルフパック、到着致しました」

 

 振り返ると、灰色の軍服に身を包んだ六人の兵士たちが並んで立っていた。

 

 彼らは俺が新しく創設した特殊部隊だ。創設のきっかけは三年前のオフリー家との戦いで、屋敷に侵入した隠密部隊に番兵たちが大勢やられ、ティナたちが攫われかけた苦い経験である。

 今度またどこかと戦争になって、そんな隠密集団が現れた時の対処のため、ファイアブランド軍にも同様の隠密部隊が欲しい──そう考えた。

 生憎とファイアブランド軍には良い人材が見つからなかったので、セルカの提案で傭兵団をスカウトした。その傭兵団こそ、彼ら【ウルフパック】である。

 彼らはその少人数ゆえに奇襲攻撃、後方撹乱、破壊工作の類を得意としてきた傭兵団であり、当然それらへの対処も熟知している。

 

 そんな彼らを宝探しに動員しているのは、彼らが隠し部屋や隠し通路の類を見つけるのに長けているからだ。

 彼らも彼らで宝を見つければ追加で特別報酬が貰えるとあって張り切っている。

 

「来たか。では宝探しに行くぞ」

「はい。よし、気合い入れろ野郎共!」

 

 リーダーが檄を飛ばし、他のメンバーが応で答える。

 

 艦砲射撃で廃墟になってしまった空賊共の基地へ、俺たちは宝を求めて踏み込んでいく。

 

 こうして武力で叩き潰し、全てを奪い取る。そんな悪事を大手を振って働ける相手が空賊である。

 貯め込んだ宝も、飛行船も、鎧も、武器も、浮島も、何もかも──全てが俺の財産となる。

 

 空賊は俺の財布だ。

 

 

◇◇◇

 

 

「エステル様、空賊の基地を貯金箱呼ばわりするとは何事ですか!このサイラス、ティナから聞いた時は微笑ましい気分になりましたのに。基地を持つ空賊団相手に少数の艦隊で挑んだと聞いて腰を抜かしましたぞ!」

 

 執事のサイラスが小言を言ってくる。

 空賊討伐を終えて屋敷に戻ってきたと思ったらこれだ。

 

 こいつ、俺が領主として領内を仕切るようになってから明らかに小言が多くなった。

 

「それはお前の勘違いだろうが。それにちゃんと勝ってきたぞ」

「そのような問題ではございません。そもそも、貯金箱を割りに行くと言って艦隊を動かすとは何事ですか!」

「私の艦隊だ。私の力だ。私が必要だと思った時に使うんだよ」

 

 プイッと顔を背けると、サイラスはその先に先回りしてくる。

 

「もう充分過ぎるほどご活躍はされております。どうかお願いですからもう前線に出ることはお控えください」

「そんな心配しなくても来月には学園に入学だ。もう前線には出られねえよ。というか、今回だってブリッジから見ていただけで終わったし」

 

 それを聞いたサイラスが白いハンカチで目頭を拭う。

 

「エステル様も学園に入学する歳になられましたか。よくぞここまで──」

「ふん。精々三年間楽しくやってくるとするさ。ずっと領地から引き離されるんだ。せめて待遇は良くしてもらわないとな」

「と言いますと?」

 

 腑に落ちない顔をするサイラスに、俺はニヤリと笑って俺の悪巧みを教えてやる。

 

「賄賂をたんまり送ってやった。今回の空賊討伐もそれがあってちょっと懐を温めておきたかったのが理由だよ」

「エステル様、そこは賄賂ではなく寄付でございましょう」

 

 サイラスがツッコミを入れてくるが、「どちらも同じだろ」と言ってスルーする。

 

 学園は入学金や学費は必要ないが、暗黙の了解として家の格に応じた寄付をすることになっている。

 

 中には寄付金の額を多くして便宜を図ってもらう奴もいると聞く。

 ──そう、俺のようにな!

 

 学園に送った賄賂は新品の飛行戦艦が買えるくらいの額だ。

 

 それをファイアブランド家の私財から出したので、その埋め合わせという意味でも浮島を持つ空賊の討伐はやる必要があった。

 

 飛行戦艦や浮島を持っている強力な空賊団の討伐には大きな戦力が必要で、莫大なコストと損害の危険が伴なうハイリスクな事業だが、成功した時のリターンも極めて大きい。

 

 一つは戦利品。

 

 空賊を討伐した者は戦利品を全て自分のものにすることができる。

 鹵獲した飛行船や鎧も、奴らが貯め込んだ財宝も、降伏してきた捕虜も、全てだ。

 

 飛行船や鎧は修理や改装を施して戦力の頭数に加えるか、そうでなければ商船や作業用機として再利用したり、解体して資材や浮遊石を回収することができる。

 

 財宝は言わずもがな。売れば大金になるし、気に入ったのがあれば俺のコレクションに加えてもいい。

 

 そして捕虜は飯と寝床だけで扱き使える労働力として、北部での資源開発に投入できる。

 領民ならよほど待遇を良くしないと、いや、どんな好待遇でもやりたがらないであろう過酷な労働も、空賊の捕虜たちになら遠慮なくやらせられる。

 空賊たちは処刑されずに済み、こちらは資源で儲かる。まさにウィンウィンだ。

 

 今回はそれらに加えて浮島も手に入れた。

 しかも整備すれば良い港や発着場になりそうな地形を備えた優良物件である。

 ここ三年で軍艦も鎧も増えて基地が手狭になってきたところだし、この浮島に移設するのも良いかもしれない。

 

 二つは信用だ。

 

 強力な空賊の討伐に成功した、というのはかなりの栄誉であり、その実績があれば貴族社会のみならず、経済界でも名を売れる。

 評価が上がり、商人たちには信頼されて舞い込んでくる取引も増える。

 

 やがては信用が生まれ、人伝にどんどん情報が広がって取引相手も、動く金の額も増えていく、というわけだ。

 

 富と各種資源、そして栄誉と名声、 信用──それら全てをもってして領地を潤してくれるのが空賊討伐なのである。

 

「そう考えると今回は当たりだったな。けっこう貯め込んでいたし、ロストアイテムっぽいのもあった。査定が楽しみだ」

 

 良い気分で扉をくぐり、自分の部屋に帰還する。

 

「ただいま。ティナ」

 

 部屋を掃除していたティナは手を止めて優しい笑みで答える。

 

「おかえりなさい」



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投資

 エステルが空賊討伐から帰った日の夕方。

 

 埠頭には捕えられた空賊たちが集められていた。全員が全員、絶望の表情を浮かべている。

 

 両手を後ろ手に縛られたまま冷たい地面に座らされた彼らを前にして、セルカは口を開く。

 

「さて、まずはここにいる貴方たちに賛辞を送らせてもらいます」

 

 呆気に取られる空賊たちの表情を楽しんでから、セルカはつらつらと空賊たちを称える。

 

「我が軍が本気で殲滅するつもりで行った攻撃を生き延びた強運、勝てないと分かると頭を袋叩きにして降伏を選んだ判断力。実に素晴らしい。ただ罪人として始末するには惜しい資質です」

 

 セルカは満面の笑みで拍手をするが、空賊たちは誰も嬉しそうな様子を見せなかった。

 彼らの頭を占めていたのは「この女は何を言っているんだ?」という混乱と、「何なんだこの女、絶対ヤベェ奴だ」という恐怖だった。

 確かに笑顔を浮かべてはいるが、その笑顔が怖い。まるで人でないものが人の皮を被ってなりすましているかのような異質な感じがして気持ち悪い。

 

 冷や汗を浮かべる空賊たちにセルカは提案を持ちかける。

 

「そこで、その資質に免じて貴方たちにチャンスを差し上げます。我々の役に立つというのであれば、助けましょう。拒否するなら、この場で死刑を執行します」

 

 周囲の兵士たちが空賊たちに向ける視線が鋭くなる。

 今にも撃ちたくて仕方がないという表情だ。

 

「お、お役に立ちます」

「何でもしますから、助けてください!」

「俺もです!どうかお慈悲を!」

 

 空賊たちが口々に懇願するのを見て、セルカは満足げに頷き──指を二本立てて言った。

 

「では貴方たちには二つ選択肢があります。生きて役に立つか、死んで役に立つか。さあ、選んでください」

 

 空賊たちが迷わず次々に生きて役に立ちたいと叫んだが、一人の空賊は直感でそれが罠だと悟った。

 彼は空賊団で一隻の飛行船を預かる船長であり、その仕事柄、言葉の裏を読むこと、相手の真意を見抜くことには自信があった。

 

(何だこの二択──生きて役に立ちますと言質取りたいだけじゃねーか。い、一体どうやって、どんな風に役立てられるんだ?まさか──死んで役に立つ方がまだマシって思えるような酷い目に遭わされるんじゃ──)

 

 答えを躊躇っていると、それに気付いたセルカが彼の前にやって来た。

 

「貴方はどちらにするのですか?」

 

 そう問いかけるセルカは笑みを浮かべてはいたが、その目には光がなかった。完全に自分たちを人間ではなく、いつでも踏み潰せる瀕死のゴキブリのように思っている目だ。

 

(ま、まずい!どうする!?どちらでもない第三の道を──第三の道って何だよ!駄目だ駄目だ!そんなこと言ったら何をされるか──)

 

 必死で頭を回してこの場を切り抜ける方法を考える彼だったが、そんなものは全く思い浮かばない。

 周りを武装した兵士たちに囲まれ、両手も縛られている状況で、そんな都合の良い逃げ道などあるわけがなかった。

 

 だが──

 

(はっ!そ、そうだ。ここはまず質問で返して情報を──)

 

 絶体絶命のピンチで思いがけず天啓のような閃きを得た彼は、それで何とか起死回生に向けて布石を打とうと試みる。

 

「い、生きて役に立つ場合、どのように役立てられるので──」

「生きて役に立つか、死んで役に立つか、どっちがいい?あと五秒ね。四、三──」

(うわああああああああああああああああああああ!!)

 

 食い気味に先ほどと同じ無慈悲な二択を迫られ、更に拳銃を顎の下に突き付けられた彼は一瞬で絶望に叩き落とされる。

 今にも鼻と鼻が触れ合いそうな至近距離から光のない血のような赤い瞳に射竦められ──彼はとうとう観念した。

 

(もう駄目だ!どう足掻いても地獄だ!なら──ならせめて、生きて──生きてこの方のお顔を見ていられる方に──)

 

 そして彼は絞り出すような声で返答を口にする。

 

「い、生きて──生きて役に、立ちたい、です」

 

 拳銃が離れ、彼は咳き込む。

 

「よろしい」

 

 セルカは拳銃をホルスターに戻した。

 

「全員、生きて役に立ちたいとのことで承りました。ではこれから貴方たちにはこの島の北部で資源採掘に従事して頂きます。略奪しか能がなく、人を食い散らかして生きてきた貴方たちですが、これからは老いて死ぬまでひたすらに世のため人のために尽くす意義ある仕事をして生きていけます。良かったですね。労働環境についてはご心配なく。衣食住はきちんと保障致します。冬は少々寒いですが、暖を取るための薪には不自由しませんのでご安心を」

 

 この時、生きられるという希望に輝いていた空賊たちの顔から一気に光が消えた。

 

 

◇◇◇

 

 

 空賊討伐から戻った翌日、俺はとある人物を執務室に呼び出した。

 

 時間通りに扉がノックされ、そいつの声が聞こえてきた。

 

「エステル様。コーネリアスでございます」

「来たか。入れ」

「失礼します」

 

 ティナが開けた扉から入ってきたのはモノクルを掛けた学者風の中年男性である。

 名前は【コーネリアス・フレッカー】という。職業は商人兼電気技師兼発明家という一風変わったもの。

 発明家というと少々胡散臭く感じるが、実際にこいつは成果を上げている。

 

「してエステル様、()()()()の方はいかがでしたか?」

 

 単刀直入に質問してくるコーネリアスに俺は満面の笑みで答える。

 

「大成功だ。すぐにでも全艦分の生産に入りたいくらいだよ」

「おお!神よ!ようやく──ようやく証明できた。私の理論、私の戦術が──何と感謝してよいか」

 

 何かの信徒のごとく歓喜の涙を浮かべて祈りのポーズを取るコーネリアスこそ、ヴァルキリーに搭載された方位盤と射撃盤の製作者であり、それらを使った射撃システムの考案者である。

 

 何でも、昔空賊に襲われて応戦虚しく敗れ、身ぐるみ剥がれたことがあって、それがきっかけで考えついたらしい。

 そして商売で稼いだ資金を投じて自分で作った試作品を正規軍や他の貴族家に持っていって売り込むも、どこでも相手にされず、失意の中にいたところ、空賊と手を組んでいたオフリー家を倒したファイアブランド家のことを知って、売り込みに来た。

 それが去年のことだ。

 

 艦隊指揮官や艦長たちは疑っていたが、俺は連中の反対を押し切ってその試作品を買い上げ、更にコーネリアスをその場でスカウトした。

 契約内容は彼をファイアブランド軍の技巧部門──整備、改修、部品製造を行う部署だ──に顧問として迎え入れること、彼の発明した射撃システムをまず一隻の軍艦に試験的に実装し、その結果が良好であれば専用の研究所と更なる改良発展型の開発資金を用意することだった。

 

 空賊討伐でのヴァルキリーの活躍を見ると、改めて良い買い物をしたと思う。

 こいつを門前払いした正規軍や貴族家は先見の明がなかったな。

 

「約束通りお前には研究所と追加の研究予算をやろう。他にも必要なものがあれば遠慮なく言え」

「おお、ありがとうございます。エステル様。このコーネリアス、一日でも早く成果を上げるべく、粉骨砕身努力致します!」

「まあそう焦らず気長にやれば。変に急いで失敗されたら困るし」

 

 ついでに言うと、あまりにも高性能なものを作られたらますます戦場で俺の出番がなくなる気がする。

 

 そんな俺の内心も知らずにコーネリアスは歓喜に震えていた。

 

「もったいないお言葉!ご期待は裏切りません!」

 

 潤んだ目で見つめてくるコーネリアスに俺は若干引いた。

 これが美女にされるのであれば嬉しいが、中年の男にやられても何も感じない。いや、むしろ──ちょっと気持ち悪い。

 

「なら早速取り掛れよ。段取りについては技巧部門の連中に聞けば分かるから」

 

 そう言ってコーネリアスに退室を促すと、喜び勇んで飛び出していった。

 単純な奴は扱いやすくて助かる。

 

 そしてコーネリアスと入れ違いに入ってきたのはセルカだ。

 

「お疲れ様。良いお知らせを持ってきたわ」

「何だ?」

「捕虜たちが全員労働力提供に同意したわ。資源開発に新たに八十六人追加よ。」

「けっこう多いな」

 

 空賊討伐の事後処理は部下に任せていたので、そんなに捕虜がいたと聞いて少し意外だった。

 

「ええ。おかげで更に開発が加速できそうよ。あとこれ、預かった報告書よ」

 

 セルカが差し出してきた報告書を読んでみると、今回追加した八十六人の配属と支給品等の手配について、そして資源開発全体の進捗状況が記されていた。

 

 資源調査の結果、ファイアブランド領北部の森林地帯にレアメタルの鉱脈があることが分かり、去年の夏から採掘が始まっている。

 報告書によると採掘量は順調に伸びており、その伸び率は計画をやや上回っているとのことだ。

 森の木を切り倒して、その木で小屋を作り、夜はその小屋で薪を燃やして寒さを凌ぎ、そして毎日何時間もひたすらツルハシを振るう過酷な採掘作業を一身に引き受けてくれる空賊たちのおかげだな。

 

「順調なら何よりだ。しっかり働かせろよ」

「もちろん。今回の分も期待していいと思うわ。皆従順だったから」

 

 セルカがソファーで伸びをしながら言う。

 八十六人もの哀れな捕虜たちを地獄の強制労働に叩き込んでおいてこのリラックスぶりである。こいつも大概悪に染まってきているな。

 

「そうか。お疲れさん。ちょっとお茶でも飲んでいけよ。サイラスに淹れさせるから」

「やった!」

 

 そのくせ、美味いお茶とお菓子に子供みたいに喜ぶあどけなさも見せる。

 本当に面白い奴だ。

 

 狂信者じみた奴と話した後には良い癒しだ、と思いながら俺はサイラスを呼んだ。

 

 

 

「ね、そういえば制服が届いたんですってね」

 

 お茶を飲み終えたセルカが唐突に話題を振ってくる。

 

「ああ──まあな。まだ着てはいないけど」

「えーもったいないわね。ちょっと着てみてよ」

 

 期待に満ちた眼差しで俺の方を見てくるセルカ。尻尾があったら犬みたいにぶんぶん振っていそうだ。

 

「いや俺の制服姿とか見てどうするんだよ」

「だって見てみたいんだもの。きっとすっごく可愛いわ。ね?ね?」

 

 不味い。背中がむず痒くなってくる。

 もう「可愛い」なんて色んな奴に言われまくって慣れてきているが、こんな風に間近で目を輝かせて言われると何とも言えない変な気持ちになる。

 

「お、煽てたって無駄だぞ。俺は着せ替え人形じゃねーからな」

「えーいいじゃない。見せて減るものでもないでしょう?ここには私とティナだけなんだから」

 

 それはそうだが──駄目だ駄目だ。押し切られて言うことを聞いてしまっては悪徳領主としての威厳が損なわれる。

 いやでもこいつ相手に威厳なんてあったか?普段から甘えっ放しだし──

 

 言葉に詰まっていると、黙っていたティナが口を開く。

 

「お嬢様。ここは素直に着用なさっては?」

「──え?」

 

 思いがけない言葉に俺は一瞬呆然となった。

 

「ですから、学園に行かれる前に一度は試着された方がよろしいかと存じます。どこか不具合があれば出発までに直さないといけませんし」

 

 もっともらしいことを言うティナだが、その目にセルカと同じ輝きが宿っているのが分かってしまった。

 そんなに俺の制服姿が見たいのかお前ら。今見なくたって学園に通うようになったら毎日見られるだろうに。

 

 だが、実際試着は必要なことではあるから反論できない。

 何だか手の平で転がされているような気がするが、下手に意地を張ってヘソを曲げられても厄介だな。他の連中ならともかくこの二人には。

 

「──まぁティナがそう言うなら」

 

 渋々了承すると、二人の顔がぱぁっと明るくなる。

 

「はい!では直ちに用意致しますね」

 

 ティナが凄い勢いで制服を取りに執務室を飛び出していった。

 駆け出したのではなく、いつも通りに礼儀正しく一礼して扉を開け、そっと閉めて出ていった。ただその一連の動作が動画の早送りのようだった。

 ──ちょっと怖かったぞ。

 

 と思ったら、また扉が開き、カバーの付いたハンガーを持ったティナが入ってくる。

 

「どうぞ。お召し替えください。私たちは外に出ておりますので。終わりましたらお声掛けください」

 

 そう言ってセルカと共に執務室を出ていくティナ。

 

 取り残された俺は独り呟いた。

 

「またあいつの知らない一面を見てしまったな」

 

 ティナがアクロイド男爵領でしつこくナンパしてきた野郎に対して怒鳴りつけて手を振り払ったことを思い出す。

 普段はおっとりほんわかした雰囲気だが、稀に違う一面を見せる──それがティナだと久しぶりに実感した。

 今回のは──たぶん下の子を玩具にする姉のようなお茶目な一面が出たのだろう。実際俺のことを妹みたいに思っていると冒険の時言っていたし。

 

「妹ね──もう背丈だって追い抜いているんだけどな」

 

 着ていた仕事着を脱いで鏡で自分の身体を見てみると、そこには百七十センチ近い長身の女性が映っている。

 

 この二年半の間に怖いくらいに背が伸びていつしか周囲の男たちと遜色ない高身長を手に入れた。

 今やティナより頭半分ほどは高い。

 ──狐耳の分を除けばだが。

 

 やはり五歳の頃から面倒を見ているといつまで経っても妹みたいな存在のままなのだろうか。

 さながら親にとって子供は幾つになっても子供なように。

 

 それが少し、苦しい。

 ただ──それじゃあ俺はティナにどう思われたいのだろうか。

 

 答えが出ないまま制服に袖を通す。

 ストライプの入った白いシャツに赤いネクタイ、縁に白いラインと袖口に金色のラインをあしらった黒のブレザー、灰色のロングスカート。ちなみにスカートは通常より丈が長い特注品である。膝上丈で生脚が丸見えというのは抵抗感があった。

 さながら漫画で見た女番長みたいな格好だが、これはこれで悪徳領主を目指す俺には似つかわしいと思う。

 

「終わったぞ」

 

 言うや否や扉が開いて、ティナとセルカがまるで瞬間移動でもしてきたかのように部屋の中に現れる。

 

 二人して制服姿の俺に見惚れている。

 

「ど、どうだ?変な所とかないか?」

 

 着てみた感じでは特に違和感はないし、このままいけると思うが、一応訊いた。

 

 すると二人は一瞬顔を見合わせて──

 

「「写真、撮りましょう」」

 

 有無を言わさぬ圧を目に込めて言ってきた。

 

「え?ああ──うん?」

 

 なんで写真?

 

 その疑問を口にする前にセルカがどこからか小型のカメラを取り出した。古めかしい蛇腹式のやつだ。

 だがこの世界ではそんなものでも最新型である。

 ──いつ買ったんだ?

 

「はーい、ポーズ取って!」

「え?ポーズ?」

 

 セルカに促されるも、どうしたらいいのか分からずに右往左往する俺にティナが手を添えて、姿勢を変えてくる。

 

「このままじっとしていてくださいね。すぐ済みますから」

「いくわよ!」

 

 ティナが離れると、セルカがシャッターを切る。

 

 その後小一時間ほど俺は二人の褒め殺しに遭いながら写真を撮られ続けた。

 すぐ済むって言ってなかったか?とは突っ込める雰囲気ではなかった。

 

 ──美女二人に愛でられて威厳もへったくれもない、そんな学園入学まであと二週間弱の日だった。

 

 

◇◇◇

 

 

 王宮。

 

 その一室で、密かに会談が行われていた。

 

「これをどう見るかな。ヴィンス」

 

 彼が差し出した書類を受け取って、レッドグレイブ公爵家当主ヴィンスは目を細めた。

 

「これはまた──随分と積み上げましたな。賂にしても巨額に過ぎます」

「ああ。学園の連中が頭を抱えていたよ。額もそうだが、相手は()()()()()()()()()()だからね」

 

 名の知れた空賊団の討伐、聖なる首飾りの発見、そしてオフリー伯爵家との戦争での勝利と輝かしい実績を上げ、最近では衰退していた領地も回復しつつある──そんなファイアブランド子爵家が常識はずれの巨額の寄付を行なった。

 学園の運営に関わる誰もがこの不可解な行動の意味を測りかねている。

 

 その話を聞きつけた彼がこうしてヴィンスを呼び出した理由は──

 

「やはりあの娘でしょうな。このようなことをするのは」

「それは間違いないだろうね。今のファイアブランド領を実質的に仕切っているのは間違いなくあの娘だ。この寄付も彼女の差し金と見ていいだろう。だからヴィンス、お前の意見を聞いてみたいのさ。彼女はどういう考えでこのようなことをしたと考える?」

 

 その行動を指示したと思しきエステルと面識があるのが自分の他にはヴィンスくらいしかいないからだった。

 もう一人いるにはいるが、下手に話すと捕まって仕事をさせられるので呼ばなかった。

 

 そのことを察してヴィンスは内心苛立ちを覚えつつも努めて冷静に答える。

 

「──おそらくは二重の意味があるのでしょうな。【約束】はきっちり果たせ、という我々へのメッセージと、教育環境への投資の」

「投資だと?」

「ファイアブランド領では三年前から莫大な投資が行われております。その中でも教育分野への投資は目を見張るものがあります。人材を育成し、彼らを使って新たな産業を興して経済状況の抜本的改善を図っているようですが、調べたところでは新たに自前の学校も用意し、領民にも教育を施していると」

「──ほう。それはまた大胆なことをしたものだな。やはり私の見立ては当たっていたようだ」

 

 ヴィンスの説を聞いた彼は驚きつつも楽しそうな顔をする。

 

「ともかく、彼女は教育を極めて重視しているということです。自分が学ぶ場ともなれば当然しっかりした環境を望んでいるでしょう。それが今回の莫大な寄付の目的かと。──本当かどうかは本人のみぞ知るところですが」

「なるほどね。ならばそういうことに()()()おこう。ご苦労だった。ヴィンス」

 

 会談が終わり、ヴィンスが出ていくと、彼は窓の外──エステルのいるであろう北の方角を見つめて呟いた。

 

「斜陽の地に輝く希望の星か──それとも破滅の凶星か」

 

 

◇◇◇

 

 

 学園入学まで一週間となり、王都に出立する日がやって来た。

 

 港には俺を見送るために大勢の民衆が詰めかけていた。皆口々に俺の名を叫んでいる。

 

 この三年間ボロボロだった領地を豊かにするために奔走してばかりで悪政を働く余裕もなかった。

 そしたらいつの間にか英雄扱いが常態化していた。オフリー伯爵家を倒した立役者という評価に加えて、領地の景気も回復させた名君との評価も確立されたというわけだ。

 

 ──お前らのその顔は覚えておくぞ。いずれ恐怖で歪ませてやる。

 

 そんなことを思いながら家族と別れの挨拶をしてタラップを上り、アリージェントに乗り込む。

 この艦で王都に行くのは二度目だ。

 

 アリージェントが発進すると、ファイアブランド軍の艦隊が観艦式のように並んで道を作っていた。

 

「友軍艦より旗旒信号。旅の無事を祈る、です」

「粋なことをしてくれる。返答旗を掲げろ」

 

 見張り員と艦長のやりとりを聞いて、周囲の艦のマストを見てみると、確かに同じ組み合わせの旗が全ての艦のマストに掲げられている。

 

 こういう派手な見送りをされるのは嫌いじゃない。

 悪徳領主たる者、無駄に豪華で洒落たことをするものだからな。

 

 友軍に背中を押されたようにアリージェントは船足を速め、浮島と艦隊が小さくなっていく。

 

 これでもうしばらくは帰ってこられない。

 

 しばしの別れだが、その間に大きく肥え太った領地になっていてくれよ。

 

 

◇◇◇

 

 

「時は来た!」

 

 桟橋の端で大仰に両腕を広げて叫ぶのは案内人だ。

 

 小さくなっていくアリージェントを睨みつけて、口元には笑みを浮かべる。

 

「お前が学園に行くこの時のため、お前の家の悪評をたっぷり垂れ流しておいた。精々孤立し、疎まれ、追い詰められるがいい」

 

 その言葉通り、案内人は王国中に広がるファイアブランド家の情報の中に悪質なデマを大量に混ぜ込んでいた。

 ただでさえ人を経るごとに噂には尾鰭がつくものだ。ましてや情報源がそれこそ人伝の噂や新聞くらいしかない世界である。ファイアブランド家を直接知らない多くの者たちに信じさせることなど容易かった。

 

 おかげで王宮や学園はともかく、多くの貴族たちや騎士たちはファイアブランド家がオフリー軍の捕虜を拷問の末虐殺しただの、聖なる首飾りをダシに神殿を強請っただの、政策に異を唱えた家臣や領民たちを家族ごと鉱山での強制労働に叩き込んだだの、血の繋がった親類までもオフリー家に呼応して反逆を企てたと言いがかりをつけて処刑しただのといった悪評を信じ込んでいた。

 当然その悪評を信じる者たちはファイアブランド家に嫌悪感を抱き、学園にそのファイアブランド家の娘がやって来ることを恐れている。ファイアブランドの娘と関わるなと息子や娘たちに言い聞かせている。

 

 そして事実を知る者たちもその悪評を積極的に正そうとはしていない。

 彼らも一枚岩ではなく、ファイアブランド家の台頭を快く思わない者たちがいる。

 

 だから、学園に行ってもエステルは学生たちの間で孤立し、迫害されるであろう──と案内人は確信している。

 もしそれに対して報復などしようものなら悪評が事実だったという認識が広まり、迫害が勢いを増すだけ。

 楽しみで仕方がない。

 

「これでお前も私の悪意に気が付くだろう。今までの感謝の分と、蒔いた種を芽も出ないうちからお前の使い魔に摘み取られた分、必ず復讐してやる。覚悟しておけ、エステル!」

 

 そう言って高笑いする案内人を背後から小さな光が見ていた。




マキマさんみたいなハイライトない目好き


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入学

遅ればせながら明けましておめでとうございます。


 その情報を聞いた時、一瞬彼は耳を疑った。

 

「オフリー伯爵家が、なくなった?ってどういうことだよそれ!」

「え、どうしたんだ急に大きな声出して」

 

 思わず持っていた鍬を取り落として叫んだ彼に、その情報の発信元である彼の父親は怪訝な顔を向ける。

 

「あ──ごめん。伯爵家なんて大きな家が潰されたって聞いてびっくりしちゃって」

 

 謝罪し、取り落とした鍬を拾い上げる彼に父親が詳しい話を聞かせる。

 

「そうか。何でも空賊と連んで辺境の子爵家に戦争を仕掛けたらしい。でもその子爵家は攻めてきたオフリー家の軍を打ち破ったそうだ」

「子爵家が、伯爵家を?」

「よほど強い軍隊を持っていたんだろうな。オフリーの軍に攻められる前に大きな空賊団に領地を襲われたらしいが、これもあっさり倒したんだと。で、その空賊の飛行船からオフリー家と連んでいた証拠が見つかって、オフリー家取り潰しに繋がったってわけだ」

「へ、へぇ──凄いなその子爵家。何て家なの?」

 

 喉を引き攣らせながらも、感心したふりをしてその子爵家の名を尋ねる。

 

「ファイアブランド。ファイアブランド子爵家だ」

 

 

 

 その夜、彼はベッドの下から古ぼけたノートを取り出し、部屋の隅でこっそりと開いた。

 

 彼がこの世界に()()からすぐに書き出しておいた、この世界に関する秘密が記されたものだ。

 

 手燭の明かりを頼りに読み進めていくが、【ファイアブランド】なる家名は見当たらなかった。

 どの()()()にも、どの()()()()にも全く出てこない。

 

 となると、考えられる可能性は三つ。

 当時このノートを書いた自分が存在を忘れていたか、フィクションと現実の違いというやつか、あるいは自分と同じ存在なのか。

 

 どうであるにせよ、ファイアブランド子爵家の存在は看過できるものではない。

 やがて訪れる破滅からこの世界を救う者が大きく成長を遂げる重要なイベントが、始まる前からなくなった。

 それがもたらす影響はどんなものになるか、想像もつかない。下手をすればそれこそ彼の知る破滅の未来が現実のものとなってしまうかもしれない。

 

 とにかくファイアブランド子爵家について情報が欲しい。

 

 だがどうやって調べたものか──彼の暮らす領地には本土や他領の情報はあまり入ってこない。情報源は付き合いのある他の貴族家か、定期船でやって来る商人くらい。

 能動的に情報を得ようとすると人を送るしかないが、そんな金はない。

 

 自分で調べに行こうにも、移動のための飛行船や行った先での宿泊の手配、信頼できる情報源の確保、そしてそれらにかかる費用の工面に当てがない。

 正確に言うとあるにはあるが、彼はまだ十二歳である。知っていたところで活かせず、手に負えないことの方が多かった。

 

 それでも、何とかできることはないかと考えて──そして無理だと悟った。

 

 説明できないこと、話しても到底信じてもらえないようなことを根拠に領地を飛び出すなど、できるわけがなかった。

 それをやれば家族に迷惑がかかる。ただでさえ苦しい立場なのが更に酷くなる。

 

 それに行って調べて、それでどうするというのか。

 ファイアブランド家に()()()()が狂うから自重しろとでも言うか?

 頭がおかしい奴と思われて摘み出されるのが関の山、下手をすれば無礼討ちにされかねない。

 

 ──やめよう。

 どうせモブの自分にできることなんて高が知れている。

 それに()()が始まるのはまだ先のことだ。今から自分が動いたところでそれがまたどこかで影響を及ぼして、余計にややこしいことになったら目も当てられない。

 

 彼はノートをしまって、明かりを消した。

 

 

 

 ──後に彼はこの時動かなかったことを後悔することになる。

 あの時アレを手に入れていれば、こんなことせずに済んだのに──と。

 

 

◇◇◇

 

 

 三年後。

 

 麗らかな春の陽射しとは対照的に彼の心は重く沈んでいた。

 

 一つは今彼がいる学園の寮に漂う空気である。

 

 辺りを見渡せば、亜人種の奴隷を引き連れた女子たちや、大勢で連んで我が物顔にのし歩く上級貴族の子息たちが目に入る。

 実家の規模や権力がそのまま校内でのカーストに直結し、扱いにも明確な差が出る──そんな場所に来てしまったのだと嫌でも実感させられる。

 

 二つは同級生として入学してくることが判明しているファイアブランド子爵家の長女の存在だ。

 

 彼女については調べていたが、その調査結果は俄かには信じ難い内容だった。

 十二歳の時にオフリー伯爵家に嫁がされそうになって、家出する形で冒険に出て財宝を手に入れ、帰還後すぐに家の実権を当主から簒奪してオフリー伯爵家と戦争をし、それに勝利した。戦争が終わった後は事実上の当主となり、領地の立て直しと更なる発展に尽力している。そして学園卒業後には正式にファイアブランド子爵家の当主となることが内定済み。

 

 そんな彼女が同級生としてこの学園に入学してきている。その動向からは目が離せず、必要とあらば介入も考えなくてはならない──物語に関わることなく、遠巻きに眺めながら穏やかに学園生活を送ることができるかは怪しい。

 

 今後学園において難しい立ち回りを強いられることを予感して、彼は気分が沈んでいた。

 

 だが、今更逃げ出すことはできない。

 溜息を吐きながらも自分の部屋へと移動し、荷解きを始める。

 

『到着したのならさっさと解放して欲しいですね』

 

 鞄の中から聞こえてきた声に彼は忘れていたことに気付き、鞄を開ける。

 

 中から出てきたのは灰色の金属質な質感と赤い一つ目を持った球体だ。

 

「あ〜、悪い。忘れてた」

『──さすがはマスターです。称賛に値する記憶力ですね』

 

 彼の適当な謝罪に球体が皮肉で返す。

 

 球体はその見た目から分かる通り、人工知能を備えた機械であるが、生きた人間のような自我を持ち、更には皮肉屋という特徴的な性格までも形成していた。

 そんな球体は彼をマスターと呼び、常に側に付き従っているが、主従関係というよりは相棒と言った方が適切だった。

 

 球体が放った皮肉を聞き流して彼は球体に問いかける。

 

「それで、船旅はどうだった?」

『私の本体の方があらゆる面で優れていますね。船旅に感想はありません。魔法技術に関しては驚くしかありませんが、科学で再現可能レベルです。──魔法技術に関しては今後も調査を続けます』

 

 淡々としつつもどこかムキになっているようにも感じられる球体の答えに彼はふっと笑う。

 

「素直じゃない人工知能だな。ツンデレか?」

『おや?私に女性としての役割を求めているので?残念ですが、私には性別の概念がありませんのでマスターの気持ちには応えられませんね』

 

 その返しに彼は無言で球体を中指で弾いた。

 

 距離を取った球体から目を離して荷解きを再開すると、扉がノックされる。

 

 

 

 彼が先輩たちに連れて行かれたのは学園の外にある洒落た居酒屋だった。

 

「え〜、今年も同じ立場の新入生を迎えられ、誠に嬉しく思うわけでして──とにかく、乾杯!」

 

 男爵家の跡取りである上級生が歓迎の挨拶をし、全員でジョッキを掲げて乾杯して、新入生歓迎会が始まる。

 彼も隣に座っていた同級生と自己紹介を交わし、更にやって来た上級生も交えて自分たちの身の上話や学園生活や結婚相手探しについての話でひとしきり盛り上がる。

 

 そして話題は今年入ってくる二人の人物についてに移る。

 

「特待生ですか?普通クラスですよね?」

「上級クラスだよ。王太子殿下が入学するのに面倒だよね。その女子、平民でなんの伝もないって聞いているけど──実際はどうか分からないからね。皆気になっているの。何か分かったら教えてくれる?」

 

 上級生からの答えに驚く同級生たちに対して、彼は同調して驚くふりをしつつも落ち着いていた。

 彼は彼女を知っている。彼女の容姿も、血筋に隠された秘密も、やがて訪れる運命も。

 

「それともう一人。ファイアブランド子爵家の長女の子が来ているね。ほら、三年前にオフリー伯爵家と戦争をして取り潰しに追い込んだ」

「あ、そういえば三年くらい前に聞きました。その戦争の時にかなり大きな空賊団を倒して、神殿の宝を見つけたって。あの家の子が──」

「でも、その家結構黒い噂も聞こえてきてましたよね。火船の刑の話とか、聞いた時は寒気がしました」

「ああ俺も聞いた。降伏してきた相手によくそこまでやるなって。そんな家の子が来ているって──なんか気が重いよな」

 

 火船の刑──降伏したオフリー軍の兵士たちを飛行船に閉じ込めて火を放つという凄惨な方法で処刑したという噂は、数あるファイアブランド家に関する噂の中でも一際強烈なもので、それ故に同級生たちの間でも記憶に残っていた。

 

 だが、彼は思わずその噂を否定する。

 

「いや、あれはデマだって聞いたぞ?戦闘中に炎系の魔法攻撃をしたのとごっちゃになっていて、実際には捕虜は解放されたらしい」

「え?そうなのか?」

「どこから聞いたのそれ?」

「あぁ──ちょっとした伝があってな」

 

 彼は慌てて適当に追及をはぐらかす。

 

 別にファイアブランド家やその娘を庇おうとしたわけではない。

 ただ悪質なデマを同級生が何の疑いもなく信じているというのは気分がよろしくなかっただけだ。

 

「まあ、実際のところがどうであれ、悪評が既に広まっているという事実は変わりない。女子たちの評判も考えると、近づくには難ありと言わざるを得ないね」

 

 上級生の言葉に彼は口を噤む。

 この場で反論したところで意味はない。それに誰も近づかないのならむしろ好都合でさえある。

 他の第三者の目や耳があると、彼女がまた何か()()()()に影響するようなことをしでかした際の介入がしづらくなるからだ。

 

 そんな彼の内心は誰にも知られることなく、歓迎会は進む。

 

 

◇◇◇

 

 

 やはり世の中は財力がものを言うな。

 

 案内された寮の部屋で、俺はにんまりと笑っていた。

 

 多額の寄付金を納めたおかげか、俺の部屋は女子寮の中でもグレードが上の部屋だった。

 広くて、調度品も豪華で、備え付けの風呂まであり、まるで高級ホテルにでも来たかのように錯覚する。

 本来なら伯爵家以上の女子に当てがわれるそんな部屋を、子爵家出身の俺が使えてしまう──いきなりの超好待遇である。

 

 荷解きもそこそこにベッドにダイブしてみると、かつてないほど寝心地が良かった。

 実家で使っていたベッドはもちろんのこと、王宮の客室で寝ていたのよりも上等な品である。

 

「う〜ん、ふかふかだな」

 

 しばらく寝転がってベッドを堪能していたが、荷解きをしていたティナが呼んでくる。

 

「お嬢様、着いたんですからセルカさんに連絡を取りませんと」

「あ〜そうだった」

 

 ベッドにしばしの別れを告げて、持ってきたトランクを開ける。

 

 中には通信機が仕込まれていて、いつでもどこでも無線通信を行うことができる。

 それだけなら別にそう珍しいものでもないが、セルカによって改造が施されており、性能は桁違いに向上している。

 何せ、この王都とファイアブランド領との間でクリアな無線通信ができるのだ。しかもご丁寧に通話内容の暗号化までされている。

 大気中の魔素と電子技術の貧弱さのせいで長距離無線通信ができないこの世界ではまさにオーパーツと言ってもいい。

 

 受話器を手に取り、ダイヤルを合わせて発信する。

 発信先は三年前に滞在拠点にしていた屋敷。そこにセルカが同じ通信機を持って滞在している。

 

 現在は屋敷は俺のものになっている。

 オフィーリアや他の使用人たちはオフリー家への内通を理由に追い出した。

 それ以来、王都での情報収集拠点として活用している。

 

 すぐに聞き慣れた声が聞こえてきた。

 

『はーい。聞こえる?寮に着いたかしら?』

「ああ。さっきな。凄く豪華な部屋だ」

『そうなの?それは見てみたいわね。ちょっと視界を覗いていいかしら?』

「ああ」

 

 セルカがしばらく静かになり、そして感嘆の声を漏らす。

 

『本当だ。宮殿の中って言われても信じられちゃうわね』

「だろ?賄賂の効果は絶大だったな」

 

 少しずつ首を動かして、視界を共有しているセルカに部屋の様子を見せてやる。

 

『ん。もういいわよ。ありがとう』

 

 視界の共有が終わったらしいので、通信機に向き直り、セルカの方の状況を尋ねてみる。

 

「そっちの方はどうだ?」

『貴女の部屋に比べたら地味だけど居心地は良いわよ。専属使用人の部屋って客室よりも良い部屋なのね』

「よかったな。アーヴリルはどうしてる?」

『客室にいるわよ。あの娘ったら客室使うの遠慮しちゃって、説得するのちょっと大変だったわ』

「そうか。あいつらしいな」

 

 今後セルカとアーヴリルは王都の屋敷で生活することになる。

 専属使用人であり、俺の持ち物として扱われるティナと違って、セルカとアーヴリルは学園に入れない。

 だが、二人には何かあった時のために近くにいてもらいたいのでそこに置くことにした。

 

 ひとまず住み心地には問題なさそうで安心だ。

 

「見た感じ問題なく通じるな」

『ええ。私たちの間はね。後で実家にも通じるかどうか確認してね』

「ああ。さすがお前だな。良いものを作ってくれた」

『ありがとう。そう言ってもらえると頑張った甲斐があるわ。それより聞いて?さっき通りで大道絵を見かけたんだけど、その絵、動いてたの。貴女にも見せたかったわ。兎の絵が石畳から浮かび上がってぴょんぴょん飛び跳ねて──』

 

 セルカが三年ぶりの王都で目にした面白いことを楽しげに語り始める。

 

 あ、この感じ、覚えがある。

 時間を忘れて長話してしまうやつだ。電話には付き物だよな。

 呆れつつも、携帯電話があった前世を思い出すやりとりにどこか懐かしさを覚えて、俺はセルカの話に付き合った。

 

 ──そのまま一時間以上も話し続けてティナに窘められてしまったのはご愛嬌である。

 

 

◇◇◇

 

 

 入学式の日。

 

 彼は欠伸を噛み殺しながら講堂へと足を運んだ。 

 

「急ごう。早く行かないと入り口が混むよ」

 

 友人となった同級生に急かされて、足を早める。混むのは御免だ。

 

 その甲斐あって彼は殆ど待つことなく椅子に座ることができた。

 

「早起きは三文の徳ってやつかな。ちょっと違うか」

『ならば私に感謝して頂きたいですね。今朝起こしたのは私ですよ』

(腹の上に落っこちてきただけじゃねーか)

『最も効果的な起こし方を選択したまでです。以前アラームを鳴らした私を殴って二度寝したことを忘れていませんか?』

 

 誰にも気取られることなく相棒といつものやり取りをしているうちに、周りの席はどんどん埋まっていく。

 

 彼の知る入学式とは違い、席は学年ごとに分かれているだけで基本的には自由席だ。

 舞台に近い最前列にカースト上位の女子たちが陣取り、その後ろに他の女子たちが争うように座っていく。

 彼女たちの目当ては新入生代表として挨拶をする王太子殿下の姿を間近で見ることだろう。

 

 彼が友人と共に座っているのは新入生エリアの後ろの方──席を巡って争いが起きることもなく、上級生エリアに近くもなく、その他大勢の中に埋没できる場所であり、多くの新入生たちが前の方へ向かって通り過ぎていく。

 

 何気なく、通り過ぎていく彼ら彼女らの中に視線を彷徨わせていると──

 

 

「臭すぎ。鼻がもげるわ」

 

 

 ほんの小さな呟きに等しいその悪態は喧騒を突き破ってやけにはっきり聞こえてきた。

 

 その声に引き寄せられるように視線を動かした先に()()はいた。

 

 洒落たハーフアップにした絹のような白銀の髪、内に秘めた気性の激しさを窺わせるつり目気味の青い瞳、女子の中では頭ひとつ抜けた高身長──そしてくるぶし近くまであるロング丈のスカートに、首元にはリボンではなくネクタイと、他の女子たちとは微妙に違う制服──その全てが、大勢の学生たちが集まるこの場所で、彼女の存在を際立たせていた。

 

 そして彼は彼女こそが探していたファイアブランド子爵家の娘【エステル・フォウ・ファイアブランド】であると悟る。

 外見的特徴が調査結果と一致することはもちろんのこと、纏っている雰囲気が明らかに尋常ではなかった。

 今まで半信半疑だった彼女に関する調査結果も全てが真実であり、正しかったと、一目見ただけで納得できてしまった。

 

 彼女は視線を動かしたかと思うと、彼の座っている席の方に向かって歩いてきた。

 そして空いていた後方の一席に腰掛ける。

 

 退屈そうに背もたれに寄りかかる姿ですら、溜息が漏れそうなほどに美しかった。

 ただ──それは艶や色気や可愛さというのとは違う、よくできた彫像か人形でも見ているかのような、どこか空虚で冷たい感じがした。

 

 彼女は何者なのか──疑問は深まるばかりだった。

 

「なんだ、もう相手を見つけたのか?お、綺麗な子だな。あの子が好みなのか?」

 

 からかってくる友人の声もどこか遠く聞こえる。

 

「いや、そういうのじゃない。ただ──気になって」

「それ、好みってことじゃないのか?」

 

 友人のツッコミに一瞬彼女から視線を外し、否定の意味を込めてかぶりを振った。

 

 そして視線を彼女の方に戻した時──彼女と目が合った。

 

 瞬間、喉元に剣を突きつけられたかのような感覚が走り、彼は慌てて視線を逸らした。

 

 しくじった。失敗した。やらかした。目をつけられたかもしれない。

 この後校舎裏かどこかに連行されて「何ジロジロ見ていやがった?」とか言われたりしないか?

 

 冷や汗が玉のように噴き出してくる。

 背中にまだ彼女の視線を感じる。でも、振り返ることはできなかった。

 

 結局入学式が終わるまで彼はずっとビクビクしていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 講堂に入って、新入生の席に向かっていく途中で思わず悪態を吐いた。

 

 入学式の会場である講堂には学園の全生徒が集まっていて──酷い臭いだった。

 何百人といるであろう女子生徒たちの香水の臭いが混じり合って魔境と化していた。

 ここまで来るともはや香水ではなく芳香剤ではないかと思う。

 

 さっきまで桜に似た花が満開の並木道を歩いて良い気分だったというのに、全部台無しである。

 

 だが、それでも出席しなければならない。

 

 女子が座っていない席、香水の臭いが少しでもマシと思われる場所を探してそこに座った。

 それでも誤差程度しか違わなかったけどな。

 

(あーあ、ティナに会いたい)

 

 専属使用人は入学式の会場には入れないので、ティナは寮にいる。

 今頃部屋を整えてくれている頃だろう。

 

 部屋で働くティナに思いを馳せていると、何となく視線を感じた。

 

 ここに来るまでにもちらほら感じた好奇心と羨望が混じったチラ見程度の視線とは違う、じっと観察されているかのような、あるいは睨まれているかのような強い視線だ。

 

 ──俺にガン飛ばすとは良い度胸だな。どこのどいつだ?

 

 辺りを見回すとすぐにそれらしい奴が見つかった。

 目が合う直前で視線を逸らされたが、間違いなく俺に強い視線を向けていた。

 黒髪黒目の地味な容姿で、いかにも「モブ」といった感じの男子。

 

 視線を逸らしたそいつは、隣に座っていた小麦色の肌をした男子に向かって薄ら笑いを浮かべてかぶりを振っていた。

 

 何を言っていたかは分からなかったが、何となく貶されているような気がして思わず眉間に力が入る。

 

 だが、卒業後に正式に領主として認められるかどうかが懸かっている学園生活の初っ端から喧嘩などするわけにはいかないので、振り向いたそいつに軽く圧をかけるだけに留めておいた。

 

 それだけでビビって視線を逸らして、その後ずっと前の方に視線を固定していたのはちょっと面白かったな。

 

 ただ、一瞬見えたそいつの顔にはどこか見覚えがあったような気がした。

 ──どこかで会ったことがあるのだろうか。

 

 

 

 入学式が終わると新入生たちはそれぞれのクラスに分けられてホームルームに移る。

 

 黒板の前に立つ教師が自己紹介した後空虚な訓示を垂れる。

 国の次代を担う貴族となることを自覚し、日々切磋琢磨して己を高め、己の立場に相応しい振る舞いを心掛けて云々──欠伸が出そうである。

 

 退屈しのぎにそれとなく周囲の顔ぶれを見てみる。

 

 上級クラスで同い年ならこの教室にいるはずだ。公爵令嬢【アンジェリカ】が。

 

 彼女とは是非とも仲良くやりたい。

 オフリー家を追い落とす時に世話になったレッドグレイブ公爵の娘で、王太子殿下の婚約者。将来は王妃様だ。

 見たところ性格的には生真面目で自分にも他人にも厳しいタイプ──はっきり言って俺とは真逆に近いが、せっかくできた貴重な縁だ。大事にした方がいいだろう。

 

 視線を巡らせると、導かれるように特徴的な編み込んだ金髪が目に入った。

 間違いない。三年前に王宮で見た時からだいぶ大人びた雰囲気になってはいるが、髪型と凜とした佇まいは変わっていないアンジェリカが最前列に座っていた。

 周囲には取り巻きと思しき女子たちが座り、そこだけどこか雰囲気が違う。

 

 ──厄介だな。

 あれだけ沢山の取り巻きが常に周りを固めていては話しかけることも難しそうだ。

 かといって彼女のグループに入れてもらうというのも違う気がする。

 

 仲良くやりたいと思っていたが、いきなり目論見が崩れてしまった。

 

 ──いや、諦めるのは早計だな。

 学園生活はまだこれから始まるところだ。チャンスは巡ってくるだろう。

 将来に向けて人脈を作っておきたいのは彼女の方も同じだろうからな。

 

 そう思っていると、またしても視線を感じた。

 この感じ──またアイツか。

 ちょっと圧をかけただけでビビって目も合わせようとしないくせに後ろからまたジロジロ見ていやがる。

 見惚れているという感じではなかったし、一体何なのだろうか。

 

 ホームルームが終わったらちょっと問い詰めてやるか、と思ったが、ふと何か引っかかった。

 

 後ろから見られている──アイツが俺を後ろから見ている──後ろから──一方的に──

 

 そして俺は思い出す。あの妙な既視感の正体を。

 

 アイツが俺を見ているように、俺はアイツを見ていたことがある。

 冒険に出る前、案内人が見せてきた映像で。

 

 その映像で見て、聞いたそいつの名前は──

 

 

「リオン、だったか」

 

 



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出会い

 リオン──その名前を思い出して、ちょっとした懐かしさと妙な安心感が湧いた。

 

 あの時──案内人が見せてきた映像で初めてリオンを見た時、その境遇と運命に同情を覚えた記憶が蘇る。

 

 年端も行かない頃から意味不明な女尊男卑の価値観に支配された世で理不尽な仕打ちを受け、それに疑問を持ちつつも何もできず、二十歳までに結婚できなければ年増の女の後夫にされるかもしれないという恐怖に怯えながら劣悪な環境で勉強──前世の俺とは状況が違うが、ゴミ屑みたいな女のせいで苦労している構図が重なって見えた。

 

 そんなリオンが俺と同じ新入生としてここにいる──転校で別れた同級生と数年ぶりに再会したかのような、あるいは知り合いが誰もいないアウェーな土地で同郷の奴を見つけたような──そんな気分だ。

 

 俺のことをジロジロ見ていた理由は気になるが、いきなり詰ることもないか。

 それに苦労話の一つでも聞いてみたい。ゆっくりお茶でも飲みながら。

 

 そう思っていたらリオンからの視線は程なくして消えた。

 そして再び向いてくることはなかった。

 

 ホームルームが終わると、生徒たちは素早く帰り支度をしてそれぞれの帰路へと就く。

 寮の部屋の片付けがまだ終わっていないとこぼす者、腹が減ったから学食に行こうと友人を誘う者、王都に繰り出して美味しい店でランチにしようと盛り上がる者たちの声で教室は騒がしくなる。

 

 視線が来ていたと思しき方向を振り返ってリオンの姿を探してみたが、そこは既に教室の出口へと向かう大勢の学生たちでごった返していて、見つからなかった。

 魔力での空間把握を使ってみたが、やはり俺にはセルカのような個人の特定は無理なようだった。

 

 まあいいか。アンジェリカ同様、いずれ話せる機会を見つければ。

 

 それに今はティナを待たせている。

 

 出口が空くのを待って廊下に出ると、ティナが迎えに来ていた。

 

「お疲れ様でした。お嬢様」

「ああ。お前もな。じゃあ少し早いけど行くか」

「はい」

 

 入学式が終わった後は学食でランチだ。

 

 学食というとあまり美味しいイメージは湧かないだろうが、そこは貴族の子女が通う場所。毎食そこそこお高めの店で出るような美味い料理が無料で食べられる。そして有料オプションとして一流シェフが作る豪華な料理もある。

 

 俺たちが食べるのはもちろん豪華な方だ。

 

 どんな料理が出てくるか楽しみにしながら、食堂へと続く廊下を歩いていると──

 

「?」

 

 一人の女子がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 

 周りにちらほらいる他の学生たちが皆食堂の方へ向かっている中で、一人だけ反対方向に向かっている。

 それが気になって思わず視線が引き寄せられた。

 

 そしてすれ違った一瞬──時の流れが遅くなったような感覚に包まれる。

 

 ボブカットにした亜麻色の髪、やや緑がかった青い瞳、地味だが素朴で優しそうな顔立ち──そこに浮かぶ焦りの滲んだ表情と、額の汗が、彼女はどこかに向かっていることを物語っていた。明確な目的地があって、周りに目もくれずにそこへと急いでいる。

 

 完全にすれ違って、時の流れが戻る。

 彼女はそのまま足早に去っていったが、俺はその後ろ姿から目が離せなかった。

 

 なぜ彼女に目を奪われたのかは分からない。

 別に思わず振り返るような美貌だったわけでもないし、惹きつけられるオーラを纏っていたわけでもない。一言で言えば地味だった。

 何かに引き寄せられた──としか言いようがない。

 

「どうかされましたか?お嬢様」

 

 ティナが怪訝な顔をする。

 

「いや──何でもない」

 

 そう言って俺は再び食堂へと歩き出したが、不思議とあの女子生徒の顔が脳裏にちらついて離れなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 入学式の翌日からは学園生活についての説明が始まる。

 イメージとしては大学でのオリエンテーションみたいなものだ。

 上級クラス全員が教室に集められて教師や寮長から口頭と資料で校則や寮での規則、履修の仕組み、申請手続きなどについて説明を受ける。

 

 曰く、生徒たちに求められるは、王国の次世代を担うに相応しい貴族となること。故に三年間、寮での共同生活を通じて協調性や自己管理能力を磨き、勉学と鍛錬に励んで学力と武芸を徹底的に修得し、将来担うことになる役目──男なら領主として領地を治め、戦争とあれば配下を率いて王国軍の一員として戦う、女なら夫を支え、家を守り、次の世代の命を育む──を果たせる能力と精神を鍛えなければならない、とのことだった。

 

 言っていることは立派に聞こえるが、実が伴っていないな。

 

 三年という短い教育期間でそんなに色々な能力が身につくとは思えないし、精神なんて環境からして鍛える気があるとは思えない。

 協調性だの平等だの言っているが、身分で教室や寮を分けていては断絶しか生まないだろう。

 自己管理能力を鍛えるため全ては自分でやらなければならないなどと言っているが、ならば女子の専属使用人持ち込みが認められているというのはいかがなものか。

 学力と武芸の修得にしたって、婚活に明け暮れている現状ではとてもそんな時間は確保できないだろう。特に男子は。

 

 他にも挙げればキリがないが、とにかく矛盾だらけで酷く歪な場所である。

 

 ま、だからといって変えようとかは思わないけどな。

 俺は好待遇を受けているし、何世代にも渡って続いている仕組みを変えるなんて面倒なだけだ。

 得られるものは得てさっさと卒業して、領主として認めて頂く。それでいい。

 

 

 

 説明が終わると、昼食を挟んでからグループに分かれて学園の中を案内される。

 

 学園は王都のど真ん中にあるとは思えないほど広大だ。

 その広大な敷地にものを言わせた施設の充実ぶりは目を見張る。

 

 下手な城よりも大きく荘厳な校舎には百人は入れそうな広い教室が何十と連なり、奥には図書館と呼んだ方が良さそうな巨大な図書室が鎮座する。本棚ばかりか、見渡す限り壁一面に本がずらりと並んだ景色なんて初めて見た。

 他にも球技コートをいくつも備えた体育館に百メートルはありそうなプール、一面本物の芝生で覆われたグラウンド、極め付けにスタジアムのような闘技場まであった。

 

 さすがファンタジー世界だとひたすら圧倒されていた俺だが、一つの場所に目が留まった。

 そこは訓練場だった。丸太がいくつも並んで、それが障害物になり、登ったり飛び越えたり、ぶら下がったりと色々できるようになっている。

 ここなら毎朝のパルクールや剣の鍛錬にもってこいだ。

 

 プールや闘技場と違って説明らしい説明はされずに軽く触れられただけだったが、俺はその場所と配置を頭にしっかり刻みつけた。

 

 案内が終わると、俺たちは教室に戻され、色々な資料やら用紙やらが配られた後、履修計画の策定が宿題に出され、履修申請手続きの期限が告げられ、解散となった。

 

 昨日とは打って変わって多くの学生たちが教室に残り、グループで履修について話し合っている。

 彼らの話題は主に選択科目についてのようだ。

 

 学園の授業は大学のような単位制で、必修科目と選択科目が存在する。

 今話題に上っている選択科目は法学や経営、哲学、音楽、美術、外国語、外国史といった専門科目や教養の類である。

 どの授業を取るかいちいちグループで相談しているところを見ると、世界が違っても学生が取る行動は一緒なのだな、と思う。

 

 彼らの頭にあるのは単位が簡単に取れる授業はどれかということ、グループで履修する授業を揃えることで、自分の興味関心などない。あっても二の次だ。

 グループのリーダーの考えに他のメンバーが追従するか、声が大きい奴や多数派の意見でなし崩し的に決まるか──馬鹿馬鹿しい。

 

 どの授業を履修するかは俺が自分で決める。

 他の連中にとっては難解であろう卒業要件も履修申請の手続きも全部資料を見れば分かる。

 やはりグループになど入る必要はないな。メリットよりも煩わしさの方が多そうだ。

 

 俺はさっさと帰り支度をして教室を後にした。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌朝。

 

 履修計画の策定と申請手続きの準備を前の晩のうちにあらかた終わらせて、自由時間を得た俺はしばらくぶりに早起きして木剣を手に外へ出る。

 

 準備運動をしてから目隠しをして訓練場まで走り、着いたら訓練場の丸太でパルクール。それが終わったら基本の型を練習する。

 

「くそ、鈍っていやがる」

 

 思わず毒づいた。

 

 ファイアブランド領からの船旅と入学式までの数日の計一週間の間に僅かに反応が遅くなっていた。

 これは鍛え直しが必要だと思ったその時、背後から誰かの足音が聞こえてきた。

 

 こんな早朝に訓練場に来る奴が俺以外にもいるとはな。

 意外に思いながら目隠しを外して振り返ると、運動着に身を包んだ長身の男子生徒が訓練場に現れる。

 

 そいつは元男の俺から見てもかなりの美形だった。

 涼しげな青い髪と瞳に百八十センチ近い長身。眼鏡をかけていて、一見インテリ風の出で立ちをしているが、直感でそうではないと分かる。

 しっかりと鍛えられた体つきと安定した姿勢をしているし、眼鏡の奥の目は鋭い。

 

 俺に気付いた青髪の美形は一瞬嫌そうに目を細めたが、俺の持つ木剣を見ると、すぐに一礼して口を開いた。

 

「失礼。鍛錬の途中にお邪魔してしまったかな」

 

 容姿に違わぬ澄んだ耳触りのいい声でご挨拶をしてくる。

 存外殊勝なことをするじゃないか。

 

「いえ、お気になさらず」

「そうか。かたじけない」

 

 返事をしてやると、美形は俺から少し離れたところで木剣を振り始める。

 

 俺も練習を再開しようとするが、ふと気になって美形の動きを観察してみた。

 俺と同じように朝早くから鍛錬に勤しむようなストイックな奴だから、腕が立つのではないかと思ったのだ。

 

 その見立ては間違っていないようだった。

 やっているのはただの素振りだが、足捌きも剣捌きも実に流麗で無駄がなく、剣舞と言われても納得できる。あんな動きができる奴はファイアブランド領ではティレットくらいしかいなかった。

 きっと物心ついた頃から剣の道を歩んできたのだろう。

 

 目を奪われていると、美形が俺の視線に気付いた。

 

「何か?」

 

 鋭い視線を向けてくる美形。

 俺が言うのもなんだが、もう少し愛想良くしたらどうだ?せっかくの顔が台無しだぞ。

 

「そう睨まないでくださいよ。綺麗な動きだと感心していたんです」

 

 努めて柔らかい笑顔で言ってやると、美形は若干顔を赤らめて目を逸らした。

 

「──そうか」

 

 それだけ言って、美形は再び木剣を振るう。

 

 おいおい、クールな見た目のくせしてウブな反応だな。

 学園生活ののっけから面白い奴が見つかったじゃないか。

 

 ちょっとからかって遊んでやろうかと思ったが──ふと懐中時計を見ると、戻る時間を過ぎていた。

 いけない。朝の準備の時間が足りなくなる。

 

 心なしか木剣を振る勢いが強くなっている美形を後目に急いで寮への帰途に就いた。

 

 

 

 魔法で肉体を強化しての全力疾走で寮に戻ると、手早くシャワーを浴びて汗を流し、化粧水と乳液を使って、ティナが用意した朝食を食べて、髪を整える。

 

 もうかれこれ五年ほど伸ばしている髪はすっかり立派なロングヘアになっていて、洗うにも乾かすにもセットするにも時間がかかる。

 色々な髪型ができて楽しいことは楽しいが、やはり面倒臭い。

 

「ティナ、髪頼む」

「はい」

 

 だからいつもこうしてティナに任せっ放しにしてしまう。

 

 自分でやるよりティナにやってもらう方が仕上がりが良いし、何より気持ちいいのだ。櫛で梳かされている時なんて特に。

 

「今日は急ぎですから、簡単にしておきますね」

 

 そう言って手早く髪を梳かし、纏め上げてくれるティナ。

 この感じはポニーテールだろうか?

 

「はい。できましたよ」

「ありがとな」

 

 おめかしした自分の姿を鏡で見て気分が上がるのはもはや末期的ではないかと自分でも思うが、不思議とモチベーションが上がるのだ。

 カッコ良くて強力な武器を身につけているような感じだろうか。

 

 昨日のうちに準備しておいた鞄を手に取り、部屋を出る。

 

 今日から各授業ごとの説明が始まる。

 面白そうなのがあるといいけどな。

 

 

◇◇◇

 

 

『マスター。早速エステルに動きがあります』

 

 起き抜けに相棒から報告を聞かされて、彼は嫌な予感に顔を顰めた。

 

「何をやったんだ?」

『三十分ほど前に訓練場で攻略対象の一人【クリス】と接触しています』

 

 部屋の壁に投影されるのはドローンが録画したと思しき動画である。

 そこには素振りに精を出すインテリ風の美形と彼の動きに見入っているエステルが映っていた。

 

「え?どういう状況?」

『おそらくお互いの習慣が重なったために発生した事態でしょうね。以前報告した通り、エステルは毎朝決まったメニューでトレーニングを行っています。それがひと段落ついたタイミングでクリスが同様にトレーニングのため訓練場に来たというわけです』

「てことは意図的に接触したってわけじゃないんだな?」

『はい』

 

 彼はしばし悩んだ後、もう少し様子を見ることに決めた。

 別にまた重要なイベントを潰したというわけでもないし、接触したのは五人いる攻略対象のうちの一人、それも全くの偶然。

 気にはなるが、介入が必要とまでは思えなかった。

 

「取り敢えずは様子を見る。監視を続けてくれ」

『分かりました。それはそうとマスター、急がないと一限目に遅れますよ』

「あ、やべ」

 

 急いで相棒が用意した朝食のトーストをホットミルクで流し込み、彼は部屋を飛び出す。

 

 

◇◇◇

 

 

 入学してからの一週間で大体クラス内の人間関係は決まるというが、これはこの世界でも同じのようだ。

 

 教室内は昨日よりもはっきりとグループ毎に分かれていた。しかも何ということだ、後方の窓際が派手な女子の一団に占領されているではないか。

 

 やはりあの青髪の美形に構っていないでさっさと寮に戻るべきだったか?

 

 しくじったと思いつつ、空いている席を探して教室に視線を巡らせていると──

 

「クリス様、どこのお席になさいますか?」

「私は後ろの方がいいです!」

「どうせでしたら殿下たちと一緒に──」

 

 女子たちの楽しそうな声がして、あの青髪の美形が教室に入ってきた。

 

 ──あいつ同級生だったのか。体格からして先輩かと思っていた。

 

 やはりというか、人気者らしく、女子たちがさながらコバンザメみたいに美形の周囲を囲んで媚びた笑顔を向けている。

 一方美形はというと──人の輪の中心にいてチヤホヤされながら、無表情でどこか鬱陶しそうにしていた。

 黙っていても女子が言い寄ってきて面倒臭いってところか?今朝俺を最初に見た時一瞬嫌そうな顔しやがったのもそれか?

 

 ──なんて贅沢な野郎だ。喧嘩を売っているのか?

 

 思わず眉間に力が入ってしまうが、直後に美形がこちらを振り向き、目が合った。

 

 美形が目を見開く。

 

「君は今朝の──」

「おや、また会いましたね」

 

 話しかけられてしまったので、ちょっと嫌味を込めて作り笑いと敬語で挨拶してやると、周囲の女子たちがあからさまに警戒した視線を向けてくる。

 

「お知り合いなのですか?」

 

 女子の一人が問いかけると、美形はあっさりと正直に答える。

 

「いや、今朝訓練場で顔を合わせただけだが──同じクラスだったとは驚いたな」

「そうですね。私も驚きです。──随分とまあ、好かれていらっしゃるようで」

 

 コイツくらいのレベルの高い美形なら女尊男卑のこの世界でもチヤホヤされるらしい。

 何度も案内人に助けられておいてこんなことを思うのは罰当たりだろうが、こういう美形の男に転生させてくれたらよかったのに、とチラッと思った。

 そのせいで言葉にも棘が入る。

 

「いや、これは──その──」

 

 視線を逸らしてしどろもどろになる美形。

 

 ──おい、なんで不倫の現場を見られたみたいな反応するんだ。

 人気者なんだからそこはもっと余裕たっぷりに受け流すところじゃないのか。

 

「ちょっと、何その言い方」

「クリス様に向かって失礼じゃない?」

 

 周りの女子たちが俺を睨んでくる。

 

 この美形、クリスというのか。

 

「これは失礼。剣才に恵まれるのみならず人に好かれる才もあるというのは羨ましくてつい。見苦しいところを見せてしまいましたね」

「いや、構わないが──私は別に才など──」

 

 謙遜し出したクリスだが、女子たちがすかさず反論する。

 

「何を仰います。クリス様は凄いですよ」

「そうですよ。なんていったって剣豪様なんですからね」

「王国指折りの剣士で学業も優秀、まさに文武両道ですよね!」

 

 口々に女子たちがクリスを褒め称えるが、クリスの表情は優れない。

 元々いつも仏頂面で愛想がないタイプなのに加えて、明らかに自分を褒め称える女子たちを鬱陶しく思っているのが見て取れた。

 

 だがそれより奴の称号だ。

 剣豪──そんな風に呼ばれる奴はそうはいない。

 しかもこの年で──このクリスという男、やはりとんでもない技量の持ち主のようだ。

 

 稽古相手としてこの上なく適任ではないだろうか。

 手加減なしで全力で打ちかかれそうだし、もしそうでなかったとしても俺の力の証明になる。

 

「剣豪の称号をお持ちとは存じませんでした。ですが、毎日あのような鍛錬を積み重ねておられるならば納得ですね。もう何年も続けていらっしゃるのでしょう?」

 

 ちょっと持ち上げてやると、クリスは僅かに目を見開く。

 この反応は正解かな。表情に乏しいようで顔に出やすい奴だ。

 

「ああ、そうだ。物心ついた時から剣を振っていた。私の家は代々王宮で剣術指南役を務めてきた家系だからな」

「そうなのですか?道理で動きの一つ一つがああも無駄がなく美しいわけですね」

 

 クリスは照れ臭そうに目を逸らす。

 

「──そんなことを言われたのは初めてだ。その──ありがとう。えっと、君は──」

「私、ファイアブランド子爵家の長女、エステルといいます。貴方とは事情が違いますが、私も剣の道を歩んでいる身です。よければ一度お手合わせ願いたいですね」

 

 自己紹介ついでに稽古の誘いをかけてみると、クリスの眼鏡が一瞬キラリと光った。

 

「そうか。それは楽しみだな。私はアークライト伯爵家の長男クリス・フィア・アークライトだ」

 

 どこかぎこちないながらも微笑を浮かべるクリス。

 やっと笑ったなコイツ。

 

 思わずこちらも口元が緩みそうになるが、周囲の女子たちの視線がますます険しくなっている。

 そろそろ離れるとしよう。変に絡まれて喧嘩などするわけにはいかない。

 

 

 

 女子たちの鋭い視線を背中に受けながらクリスから離れ、前の方の隅の席に座った俺だが、さっきからこちらに向く視線の数が増えているのを感じる。ちらほら話している声も聞こえてくる。

 さっきのクリスとのやり取りが早くも噂となり、注目を集めたようだ。

 

 やっぱり下手にどこかのグループに所属していなくてよかったな。

 していたら今頃質問攻めに遭っていただろう。

 十代の学生というのは何でもかんでも色恋沙汰に結びつけがちだからな。

 

 胸を撫で下ろしていると、横から女子の声が聞こえてきた。

 

「あの──お隣いいですか?」

 

 誰だと思って声がした方向を見ると──

 

「ッ!」

 

 俺は思わず息を呑んだ。

 

 そこにいたのは入学式の日に学食に行く途中ですれ違ったあの不思議な女子だった。

 

 遠慮がちにこちらを見てくる青い瞳は一見儚げだが、その奥にはブレない芯が通っているのが見て取れた。

 

 ──なるほど。道理で目に焼き付くわけだ。

 この娘の目は深いのだ。澄んでいて凪いでいるのに底が全く見えない湖のような、そんな感じだ。

 

 こんな目をした奴は未だかつて見たことがない。

 一体何者なのだろうか。

 

「ああ。いいぞ」

「ありがとうございます」

 

 ホッとした顔でお礼を言う不思議な女子。

 

 隣に座った彼女からは他の女子と違ってドギつい香水の匂いが全くしなかった。

 それだけで新鮮に思えてますます気になってしまう。

 

 だから──

 

「そういえばさ、入学式の日に廊下ですれ違ったよな。覚えているか?」

 

 思わずそう問いかけていた。

 

 振り向いた不思議な女子は俺の顔を見て首を傾げ、一瞬記憶を探るような仕草を見せる。

 

 そして申し訳なさそうにかぶりを振った。

 

「えっと、ごめんなさい。慌てていて覚えていません」

「そうか。急いでいたみたいだったな」

「はい。迷ってしまって──」

 

 恥ずかしげに言うその仕草に思わず心がざわつく。

 

「ああ──学園は広いからな」

「はい。何もかも見たことない大きくて豪華なものばかりで。凄いですよね」

 

 疲れたような苦笑いを浮かべる彼女の内心は感嘆が半分、困惑が半分といったところだろうか。

 

 大きくて豪華な建物に馴染みがないということは地方の出身と見える。

 

「なぁ、名前何ていうんだ?私はエステルだ」

 

 名前を訊いてみると、不思議な女子はパッと顔を明るくして答える。

 

 

「オリヴィアです」

 

 



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剣豪と特待生

「オリヴィアか──良い名前だな」

 

 不思議とその名前は彼女にぴったり合っている気がした。

 

「ありがとうございます。エステルさんも素敵なお名前ですよ」

 

 オリヴィアがにっこり笑う。

 その笑顔がどことなくティナに似ていて、こっちまでつい口元が緩んでしまう。

 

「ありがとう。ところで、オリヴィアはどこから来たんだ?その感じじゃ都会の出じゃないよな?」

「はい。南の方の小さな浮島から来たんです。周りに畑と森しかないような田舎で、外との行き来も殆どなくて──私も生まれてからこれまで一度も島を出たことがなくて、この学園に入れるなんて思ってもいなかったんですけど、どういうわけか入れることになって」

 

 なるほど──娘を学園にやれないくらい財政的に厳しい田舎の貧乏領主の家の出身ってところか。

 上級クラスにいるのだから少なくとも男爵くらいの爵位ではあるのだろうが──爵位はあっても実はなし、というやつなのだろう。

 数年前までのファイアブランド家もそうだった。

 

「そうか。大変だったんだな」

 

 言葉だけの薄っぺらい同情をしてやると、オリヴィアはかぶりを振って力強く答える。

 

「家族がいて、優しい顔見知りの人たちもいましたから。私が学園に行けることになった時も皆すごく喜んで、応援してくれたんです。だから、ここでいっぱい魔法の勉強して、いつか故郷に帰ったらお返ししたいって、そう思っています」

 

 頑張るぞ!という気迫に満ちたオリヴィアの顔は見ていて眩しかった。

 

 暮らしは貧しくとも、周りの人間に恵まれて、愛情と優しさに囲まれて育ってきた──そんな感じがする善良で真面目な良い子ちゃんだ。

 

 見たことのないタイプだからどんな娘かと思いきや、こんな娘だったのかと失望感が湧き上がる。

 前世の何も知らずにまやかしの幸福の中で呑気に生きていた頃の俺を見ているようで、嫌になる。

 

 溜息を吐きたいのを我慢して、俺は心にもない応援の言葉を口にする。

 

「──そうか。その意気ならきっとできるよ」

 

 オリヴィアはそんな言葉にも喜んで満面の笑みを浮かべていた。

 

「ありがとうございます」

 

 その笑顔を直視していられなくて、俺は目を背けた。

 

 灼けそうなくらいに眩しくて、そしてどこまでも透き通った涼やかなその瞳の深さに呑み込まれてしまいそうな気がしたのだ。

 

 このオリヴィアという娘には何か、人を虜にして従わせるような力がある。

 それがただの人間的な魅力なのか、ある種の超能力のようなものなのかは分からないし、そもそも普通の人間には感じ取ることもできないだろうが──長年の鍛錬で研ぎ澄まされた俺の直感はそう言っている。

 

 これ以上話しかけられても面倒だと思っていたが、すぐに教室の扉が開いて教師が入ってきた。

 

 教室の喧騒が静まっていく。

 

 オリヴィアも正面の黒板の方に向き直って真剣な顔をしている。

 

 その横顔を見ていると、また嫌な気分にはなるが──なぜか嫌うとか憎むとか、そういう気にはならなかった。

 

 

 

 チャイムが鳴り、午前の授業が終わりを告げる。

 

 基礎科目の最初の授業だったが、殆ど説明だけで終わってしまった。

 

 学生たちはそそくさと席を立ち、食堂へと向かい始める。

 

 俺も混雑が収まるのを待って出ようとすると、オリヴィアが呼び止めてくる。

 

「あの、エステルさん」

「何だ?」

 

 話していても良い子ちゃんぶりに辟易するだけなら、無視すればいいはずなのに──なぜか、思わず返事をしてしまう。

 

「えっと、よかったらお昼一緒に食べませんか?」

 

 あざとく握った手を胸に当てているのは、狙って媚びているのではなく、本当に勇気を振り絞っているからだろう。

 

 人間不信の俺の心がざわつくほどのこの可愛さは裏表のない良い子ちゃんなればこそ──こういうのに弱い所はまだ男なんだな。

 そう呆れつつも、彼女に近づかれると突き放せない。

 

「ティナを待たせているから合流してからな」

 

 オリヴィアの顔がまた花みたいに輝く。

 そういう所、卑怯だと思う。

 

 彼女を連れて教室を出ると、廊下でティナが待っていた。

 

「お疲れ様でした。お嬢様。あら?ご友人の方ですか?」

 

 オリヴィアを見て生温かい目になるティナから目を逸らし、鞄を押し付ける。

 

「違う。席が隣同士になっただけだ。さっさと飯に行くぞ」

「ふふ。はい」

 

 心なしかいつもよりも嬉しそうなティナが後ろを歩きながらオリヴィアに話しかけている。

 

「エステルお嬢様の専属使用人をしておりますティナと申します。どうぞお見知り置きください」

「い、いえそんな。えっと、私はオリヴィアです」

 

 丁寧な挨拶をされて、慣れていないのかあたふたしているオリヴィアをティナが微笑ましいといった表情で見つめている。

 

 ──どうしよう。

 完全にティナに友達ができたと認識されている。

 俺からすればあんな良い子ちゃん、友達どころか邪魔者なのだが、かといって邪険に扱えばティナが怒りそうだし──どうしたらいい?

 

 こうなったら友達付き合いはしておいて、セルカみたいに悪に染めて仲間にするか?

 

 そんなことを考えているうちにティナとオリヴィアはすっかり打ち解けてしまったらしく、話が弾んでいた。

 

 

 

 食堂にやって来ると、オリヴィアは無料メニューの列に並びに行った。

 

 やはり実家が貧しく、小遣いもロクに貰えていないらしい。

 

 ま、学園の食事は無料メニューでもけっこう豪勢だから、彼女にとっては贅沢だろうけどな。

 

 そして俺は迷いなく有料メニューの方へ行く。

 

 慎ましく無料メニューを食べるオリヴィアの前で、更に豪勢な料理をこれみよがしに味わって食べて優越感に浸る、というのも悪徳領主らしかろう。

 

 思わず笑みを溢しながら食事を受け取り、席を確保してオリヴィアを待つ俺だったが、合流してきた彼女が持っていたメニューを見て衝撃が走った。

 

(何──だと?)

 

 オリヴィアの持ってきたトレーに載っていたのは魚料理。

 それも縞模様のある青魚の切り身にどろっとした茶色いソースがたっぷりかかったやつ。

 ──見た目が鯖の味噌煮に似ていた。

 

 思わず生唾を呑み込んでしまう。

 

 転生前の酷かった時期、仕事からの帰り道に定食屋の前を通りかかった時いつもその匂いに腹を鳴らしていた。

 だが、当時はコンビニの安いおにぎり一つ買えないような貧乏暮らしでついぞ食べられなかった。

 

 そんな鯖の味噌煮が今目の前にある。

 もちろん、見た目が似ているだけで実際には別物なのだろうが、それでもどんな味がするのか興味をそそられる。

 

 そんな俺の内心など知らずに、オリヴィアは目を輝かせて「いただきます」と言って、食べ始める。

 

 好きな物は後に取っておくタイプなのか、魚には手を付けずに周りの野菜から先に食べている。

 

 ──言うべきか?

 今、「ちょっとおかず交換しようぜ」とオリヴィアに持ちかければ、鯖の味噌煮のような何かを食べられるかもしれない。

 幸いこちらのおかずというか、メインは見るからに高級なサーロインステーキ。

 取引の材料には十分過ぎるほどだ。

 

 だが、今日席が隣同士になって知り合ったばかりの女子にそんなの持ちかけるのってどうなのだ?

 それに何だか俺が魚欲しさに頭を下げる物乞いみたいじゃないか。

 

 悶々とする俺を見て、テーブルの脇に立っていたティナが横に来て耳打ちしてくる。

 

「お嬢様。そうして物欲しげに見つめている方がよほど物乞いみたいですよ。分けてもらいたいのであれば、はっきりそう申されるのがよろしいかと」

 

 な、何だと!?

 そんな物欲しげな顔をしていたのか俺は?

 恥ずかし過ぎるだろうが!

 

「あれ?どうかしましたか?エステルさん」

 

 ショックを受ける俺をオリヴィアがきょとんとした顔で見ている。

 

 するとティナが「チャンスですよ!」とでも言いたげに目配せしてきた。

 

 ──やはり言うしかないか。既にティナに恥ずかしいところを見られた以上、他の恥は掻き捨てだ。

 

「なぁ、オリヴィア。おかず、ちょっと交換しない、か?」

 

 上手く言えたかどうか微妙だったが、オリヴィアは目を輝かせて快諾してくれた。

 

「いいんですか?ぜひお願いします!」

 

 ステーキを見て今にも涎を垂らしそうな顔になっているオリヴィアを見て、なんか犬っぽいと思った。

 尻尾があったらぶんぶん振り回していそうである。

 

「半分ずつでいいか?」

「はい!」

 

 頷いて魚を切り分けるオリヴィア。

 

 フォークとナイフを使い慣れていないのか、若干苦戦していたので、代わりにやってやった。

 

 そして俺もステーキを半分に切り、オリヴィアの魚と交換した。

 

 トレード成立である。

 

「よかったですね」

 

 ティナが可愛いものを見るような目で俺を見てくる。

 

 ちくしょう。これではますます妹扱いされるじゃないか!

 

 だがやってしまったものは今更仕方がない。

 

 そう思いながら食べた鯖の味噌煮みたいな何かは──見た目だけで味は全く別物だった。

 

 普通に美味しかったが、オリヴィアにあげたステーキの半分に見合うものではなかった。

 

 結局俺の期待は裏切られ、ティナに恥ずかしい姿を見られて、トレードは俺の大損に終わってしまった。

 

 こんなの酷い!

 

 泣きたい気持ちを堪えて鯖の味噌煮もどきを切り刻んでやけ食いする俺をよそに、幸せそうにステーキを頬張るオリヴィアが恨めしくて──やっぱり可愛かった。

 

 

◇◇◇

 

 

「おいおい──今度は主人公様かよ」

 

 人気のない中庭の一角で相棒の報告を受けた彼は顔を顰めた。

 

 早朝クリスと接触したエステルだが、その後あろうことか()()()とも接触してしまった。

 

「これ出会いイベントに影響あったりしないだろうな?」

『主人公と攻略対象が出会う強制イベントでしたか?』

「そう。何もしなきゃもうすぐ起きるはずなんだけど──オフリー家の件があるからな」

 

 意図してか、そうでないかはともかく、以前エステルの取った行動によって()()がいなくなり、それによって本来起きるはずだった重要な出来事もなくなった。

 

 その前例がある以上、彼女が主人公と接触したともなれば、その影響を疑わずにはいられない。

 また重要なイベントが潰れるのではないか、そうでなくとも時期や内容が大きく変化するのではないか、と。

 

『現時点ではその予測は情報不足により不可能です。警戒監視を続けるほかないかと』

「──そうだな」

 

 既に変化が起こってしまっている以上、自分が下手に首を突っ込んで更にややこしいことになるのは避けたかった。

 

 ただ──

 

「だけどもし影響があったら、あいつと一度話をする必要があるな」

 

 オフリー家を取り潰しに追い込んだこと、立て続けに主要人物二人と接触したことだけでも十分大きな変化なのに、この上出会いイベントまで潰れるようなら──エステルが自分と同じ存在で、意図的にストーリーを改変しようとしている可能性を疑わなければならない。

 そしてそうでなかったとしても、それ以上の改変につながる行動をやめさせなければならない。

 

 主人公と攻略対象の誰かがシナリオ通りに恋をして、それを実らせなければ、その先に待つのはゲームオーバー──世界の破滅だからだ。

 

『話──ですか。彼女に睨まれただけで震え上がるマスターが面と向かって彼女と話などできるのですか?』

 

 言外に消した方がいいのではないかと匂わせる相棒に、彼は溜息を吐いて釘を刺す。

 

「それはそうなった時に何とかする。だから勝手なことをするんじゃないぞ?」

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日。

 

 昨日と同じように朝の鍛錬をやっていると、訓練場に木剣を持ったクリスが現れる。

 

「おや、おはようございます。昨日より少しお早いですね」

 

 木剣を振る手を止めて目隠しを外して挨拶すると、クリスは恥ずかしそうに目を逸らす。

 

「君の剣を見てみたかっただけだ。──いつもそんな風に目隠しをしてやっているのか?」

「ええ。目にばかり頼るべからず、というのが師匠の教えでして」

「──聞いたことのない教えだな。鍛錬ならともかく、実際目隠しなどして戦えるのか?」

 

 首を傾げるクリスはきっと正統派の剣術しか知らないのだろう。

 王家の剣術指南役をしている家となると、有名流派の家元といったところか?

 流派を受け継ぐために純粋培養されたようなお坊ちゃん剣士なら、視界を奪われた時のことを想定して視覚以外の感覚を研ぎ澄ます訓練などされていなくても仕方がない。

 

 だが、だからといって忖度は一切しない。

 鏡花水月の力を疑うなど、不遜にも程がある。

 俺と師匠に対する不遜な態度には、相応の返しをせねばなるまい。

 

 ちょうど昨日ティナに生温かい目で見られて屈辱を味わったばかりだ。

 その分も叩きつけてくれよう。

 

「信じられないのでしたら、今ここで目に焼き付けて差し上げましょう。掛かり稽古で」

 

 そう言い放って、目隠しを着け直し、木剣を構える。

 

「準備はよろしいですか?」

「あ、ああ。だが──」

 

 クリスが何か言うよりも早く、地面を蹴って打ちかかる。

 

 避けるか流すかしなければ間違いなく脳天に直撃してノックアウト──そんな一撃をなんとクリスは防ぎやがった。

 

 そればかりか、体重をかけて押し込んだ衝撃力すら巧みに関節を駆使して殺し、少しずり下がっただけで完全に俺の勢いを止めた。

 

 こいつ──やはりできるな。

 剣豪の名は伊達ではないらしい。

 

 素早く距離を取って木剣を構え直す。

 

 こいつは思った以上に手強い。

 だが、肉体強化や鏡花水月を使うことなくこいつを下せるくらいになれば──それは魔力なしでは不利という俺の弱点の克服を意味する。

 

 さて、目標ができたのは良いとして、どうやって倒したものか。

 

 クリスはさっきの一撃を喰らって本気になったのか、その構えに隙はなく、全身から闘気が滲み出ているのを感じる。

 

 普通に斬りかかっても全て捌かれるイメージが浮かぶ。何ならそこからカウンターすら喰らいかねない。

 向こうから仕掛けてくるか、何かしら動いて隙が生じるのを待つしかない。

 

 自分で視界を封じてしまった以上、視線の向きから狙っている箇所を読み取ることはできないので、音と空気の流れと魔力に傾注する。

 僅かな起こりも見逃さないように意識を集中する。

 

 

 

 エステルと相対するクリスは驚き、焦っていた。

 

 先程まであった目隠しをして掛かり稽古など挑んできたエステルに対する疑念や不快感は消し飛び、代わりに恐怖が湧き上がっていた。

 

 こんな恐怖を感じることはそうそうあることではない。

 

 幼少期から剣聖の称号を持つ父に厳しく鍛えられてきたクリスは、誰が相手であろうと戦うことを恐れはしないし一歩も退かない、という自負を持っていた。

 実際、剣を握れば勝てない相手は殆どいなかったし、同年代などそれこそ赤子の手を捻るように打ち負かせた。

 

 それがどうだ。

 

 目の前の同い年の女子が先程かましてきた一撃は今まで相対した中で最も速く、重さも五指に入るほどだった。

 受けた時に一瞬手の感覚がなくなって骨が砕けたかと思ったし、その後の体当たりで吹っ飛ばされなかったのは奇跡とすら思える。

 

 しかも彼女は目隠しをしたままそれをやってのけた。

 自分には逆立ちしても不可能である。

 

(一体どうしたらそんなことができるんだ?古武術の一種なのか?)

 

 尋ねてみたいが、口を聞く余裕もない。

 ほんの少しでも意識を逸らせば、その瞬間にエステルは打ちかかってくるだろう。

 

 ただの掛かり稽古のはずなのに、まるで真剣での斬り合いをしているかのようだ。

 

 速さでは明らかにエステルの方が上で、力はほぼ対等。

 重さはこちらが上だろうが、速さと力で埋められている。そうでなければあんな一撃は繰り出せない。

 そして感覚において彼女は圧倒的にこちらを上回っている。目隠しこそしているが、間違いなくこちらが見えている。

 

 こちらから仕掛けても勝てない──直感でそう思う。

 どうにかして相手から仕掛けさせて隙を作るか、油断が生じるのを待つしか勝ち筋を見出せない。

 

 心臓が破裂しそうなほど鼓動が高まり、汗が頬を伝って流れ落ちる。

 

 そのまま永久に紛うような睨み合いを数分続けた後──

 

「お嬢様!遅刻しますよ」

 

 突然割り込んできた声によって掛かり稽古は中断される。

 

 声の主はメイド服を着た獣人の女性──専属使用人だった。

 

 専属使用人に呼ばれたエステルは慌てて目隠しを外し、一緒にその場を去っていく。

 

 取り残されたクリスはどっと息を吐いた。

 

(何だったんだ?あの子は──)

 

 エステルが去って恐怖から解き放たれた──そのはずなのに一向に動悸は収まらない。

 

 どこか、頭から水を浴びせられたように身体が冷えて総毛立っている。

 

 久しく出会わなかった、自分と同等かそれ以上に強い同い年の剣士──しかも女子。

 その存在がどこか澱んで湿気っていた心に強い風を吹き込んだ。

 

 ──負けられない。

 

 今度戦う時は必ず勝たなければ。

 彼女の剣を見て、対策を立てて、そのための鍛錬をして、そして再戦を申し込む。

 

 これまでクリスは剣の道に人生のほぼ全てを捧げてきた。

 

 その剣で負けることだけはプライドが許さない。

 

 

◇◇◇

 

 

「いやそれどうなっているの!?」

 

 映像を見た彼は思わずツッコミを入れずにはいられなかった。

 

 目隠しをした状態で木剣を振るい、あまつさえ剣豪と呼ばれるクリスと渡り合うなど、もはや驚きを通り越して何かのギャグではないかと思えてくる。

 

『おそらくですが、聴覚によるエコーロケーションと皮膚の感覚による空気の振動や流れの変化の感知、そして相手の魔力の変化の感知を同時並行で行なっているものと思われます』

「律儀な解説どうも」

 

 仮説を述べてくる相棒に投げやりな礼を言う。

 

 相棒の言うことが本当だとしても、あれはとても人間業ではない。

 自分は彼女の力を桁三つか四つほど読み違えていたのではあるまいか。

 

 クリスですら一撃喰らった後は勝ち筋が見えなかったのか、あるいは恐怖したのか、完全に動けなくなっていた。

 そこそこ鍛えているとはいえ、凡人の域を出ない今の自分ではとても相対して立っていられる気はしない。

 

 故に彼は祈る。

 どうかこれ以上のシナリオの変化が起こりませんように、彼女を止めるために介入する必要がありませんように、と。

 

 だが、彼はただ祈るだけでは何も変わらないことも知っていた。

 

 今更追いつけるとも思えないが、せめて鍛錬は怠らないようにしよう、と彼は決意した。

 

 そして思い立ったが吉日とはこのことか、その日は午後体育だった。

 

 

◇◇◇

 

 

 午後。

 

 グラウンドには運動着姿の女子生徒が整列していた。

 

 今日は午後いっぱい体育だ。

 

 冒険者によって建国され、尚武の気風が強い国の学園だけあって、体育はかなり重視されている。

 男子は戦うために、女子は丈夫な子を産むために、身体作りは必要不可欠という理屈だ。

 

 尤も、求められる程度や能力というのは男女で違うので、内容はまるで別だ。

 女子はスポーツや武芸、男子は実戦を想定した本格的な軍事教練。

 

 正直、俺にとっては女子の体育など準備運動くらいにしかならないだろうが、かといって男子の体育に入れてもらうのも無理だろう。

 身体能力的には余裕でついていけても、他に色々と問題がある。

 

 と、現実逃避はここまでだ。

 

 女性教師が点呼を取り、全員揃っていることが確認されると、教師の自己紹介と共に今後の授業内容が通達される。

 

 今日は身体能力測定を行い、次回からは何種類かのスポーツから選択することになるようだ。

 

 やはりというか、ヌルい。

 ヌルいならそれなりに勝負でもあれば面白いだろうが、そういう種目も殆どない。

 

「では二人一組になって準備体操からです」

 

 女性教師の号令で周囲が一斉に組を作り始めるが──困った。

 どういうわけか、周囲が俺を避ける避ける。

 

 声を掛けようと近づいたら急いで近くの奴と組んで露骨に安堵した顔をする。

 

 体格のせいか、悪人面のせいかは知らないが、口には出さないながら明らかに恐れられていた。

 

 おいおい勘弁してくれよ。

 恐れられるのは悪徳領主としては良いが、初回でいきなりあぶれてぼっちとか恥ずかしいだろうが。

 

 そう思ってまだ組んでいない奴を探していたら──

 

「あ、エステルさん」

 

 オリヴィアが駆け寄ってきた。

 

「ちょうど良かったです。よかったら私と組みませんか?」

「──そうだな。やるか」

 

 他に組んでくれる奴が見つかるとも思えなかったので、仕方なくオリヴィアの提案を受け入れた。

 

 で、準備体操を始めたわけだが──ここで問題が発生する。

 

「痛い!痛いです!」

 

「ん──うんんんんん!──すみません」

 

「あっ!ごめんなさい!痛かったですか?」

 

 ──オリヴィアは運動音痴だった。

 

 ストレッチではすぐに悲鳴を上げ、担ぎ合いでは俺を持ち上げられず、開脚跳びでは俺の横っ面に太ももを直撃させてくれやがった。

 

 ま、それはそれで役得なところもあるからまだいいが、周囲が俺たちを見てクスクス笑っているのは腹立たしい。

 

「すみません。私のせいで──」

 

 オリヴィアが耳まで真っ赤にしながら謝ってくるが、正直言って逆効果である。

 あの手の連中は下手に出たり卑屈になるとひたすら増長するのだ。

 

「謝るなよ。別に気にしちゃいない」

 

 オリヴィアには卑屈な態度をやめさせるために努めて優しく言ってやったが、それこそ真っ赤な嘘だ。

 本当は腸が煮えくりかえっている。

 

 覚えていろよ。この屈辱はいつか必ず晴らしてやる。

 

 歯軋りしながら準備体操を終えると、次はいよいよ測定だ。

 

 やることは短距離走、持久走、立ち幅跳び、そしてボール投げ。

 

 まず短距離走の測定が始まり、名簿順に名前が呼ばれていく。

 

 順番が回ってくるまで暇なので、グラウンドの反対側でやっている男子の方を見てみると、初回からいきなりグラウンドの周りを走っていた。しかも何やら大きな声で軍歌?みたいなものを歌いながら。

 

 あの中にクリスやリオンもいるのだろう。

 

 ──やっぱりちょっと無理言ってでもあっちに入れてもらえるよう交渉すべきだっただろうか。

 

 そう思っていると、聞き覚えのある名前が呼ばれる。

 

「次!アンジェリカさん、アナベルさん、アントニアさん、アリエルさん」

 

 見ると、やはり公爵令嬢アンジェリカが短距離走レーンに出て行くところだった。

 

 運動着だと余計に目立つ豊満な胸と、しっかりした安定感のある腰回り、そこから伸びる肉感的な太ももが目を惹く。

 オリヴィアも大概だが、アンジェリカはそれ以上にセクシーである。

 

 そしてそれがただ魅せるための身体つきではないことはすぐに分かった。

 

 実際、笛の合図で走り出した四人の中でアンジェリカはずば抜けて速かった。

 走る姿勢も動きも滑らかでしなやか、無駄がなく美しい。

 

 そして彼女が叩き出したタイムにどよめきが上がる。

 

 五十メートルを六・七秒。当然今の所一番だ。

 

「マジか。アンジェリカ凄いな」

 

 俺も思わず感嘆の声が漏れた。

 あんな二、三キロはありそうな大きな()()を抱えて六秒台は素直に驚きである。

 

「凄いですよね!あんなに綺麗でスタイル良くて、運動も──憧れちゃいます!」

 

 隣に座るオリヴィアも瞳に星が浮かびそうな勢いで興奮している。

 

 それを見てなぜか対抗心が湧いた。

 どうせ俺にとっては準備運動くらいにしかならないし、適当にやろうと思っていたが、気が変わった。

 魔法なしで出せる全力を出してやろう。

 元より負けるのは嫌いだ。どうせなら圧倒的トップを狙ってやる。

 

 そして何組かが走った後、俺の番がやって来る。

 

「次!エリスさん、エミリーさん、エノラさん、エステルさん」

 

 呼ばれた他の三人と一緒にレーンに入り、スタートラインに並ぶ。

 

「よーい!」

 

 女性教師の合図でスタートダッシュの姿勢を取り、笛が鳴ると同時に走り出す。

 

 鏡花水月の会得のために幼少期から厳しい修行を積んできた俺が本気で走れば、誰もついてこられないだろうと思っていたが、予想に反して並走してくる奴が一人いた。

 

 ダークグレーの髪を編み込んだ小柄な女子──たしかエリスと呼ばれていた──が前傾姿勢を保ったまま目にも止まらない速さで脚を動かして、俺の殆ど真横を走っている。

 

 負けじと俺もギアをもう一段上げるが、向こうの方が先にトップスピードに乗ったせいか、引き離せなかった。

 

 結局ゴールラインを越えたのはほぼ同時だった。

 

「エステルさん五・九!エリスさん六・〇!」

 

 辛うじて俺が五秒台でエリスが六秒ぴったりだが、誤差みたいなものだ。

 リベンジしたいが、残念ながら測定はやり直しなしの一発勝負。タイムはこれで確定だ。

 

 エリスが呼吸を整えながら話しかけてくる。

 

「いやー早いね君。私駆けっこには自信あったんだけどな」

「──それはどうも。そっちこそよく追いついてこられたな」

 

 驚愕と悔しさ、それと馴れ馴れしく「君」と呼ばれた苛立ちでつい口調が荒くなる。

 大差を付けて勝利して然るべきところで一般人に追いつかれるなど、鏡花水月の名折れである。

 

 だがエリスは気にする様子もなく飄々としていた。

 

「まあ昔から必死こいて足腰鍛えてきてるからね。君もそうでしょ?」

 

 ──ほう。只者じゃないとは思っていたが、やはりそうか。

 何かの目的のために必死に努力している奴は意外といるものらしい。

 このエリスという女子の場合は何を目指しているのだろうか。

 

「面白そうだし、また今度話をしよう」

 

 そう言ってエリスは去って行く。

 

 周囲から避けられていたと思えば、話をしたがる奴も出てくる──不思議なものだと思いながら俺も座っていた場所に戻った。

 

 

 

 身体測定が終わり、生徒たちは更衣室へと向かって行く。

 

 結局短距離走の後の三つは俺が大差でぶっちぎって、どうにか鏡花水月の矜持を守ることができた──と思う。

 オリヴィアがアンジェリカの走りを見た時以上に驚き、褒め称えてきたので気分も良い。

 

 ちなみにオリヴィアの測定結果は──まあ酷かった。

 どれも下から数えた方が早く、終わった後は息を切らしていた。

 持久走が終わった後なんてぶっ倒れそうになっていたので俺が介抱してやった。

 

 そして今は疲れ切ったオリヴィアに給水所で水をたっぷり飲ませている。

 

 今まで運動といったら、近所の子と川や野原で遊ぶのと畑仕事くらいしかしたことがなかったらしい。

 悪事を働くにも何をするにも資本となる身体が全然なっていないとは、これは悪に染めて仲間にするのも時間がかかりそうだな。

 

 ようやくオリヴィアが人心地ついたらしく、大きく息を吐いて礼を言ってきた。

 

「ありがとうございます。もう大丈夫です」

「そうか。ならさっさと着替えに帰るぞ」

 

 更衣室に向かって歩き出すと、オリヴィアは慌てて後を追ってきた。

 やはり子犬みたいだ。

 前世で飼っていた犬が、どこに行くにも後についてきていたのを思い出す。

 

 そしてオリヴィアと一緒に皆より遅れて更衣室に入った俺たちだったが、またしても問題は起こった。

 

 ロッカーを開けたオリヴィアが焦った声を上げる。

 

「あれ?どうして──」

「どうした?」

 

 声をかけると、オリヴィアは狼狽した顔で言った。

 

「スカートがないんです」

「──は?」

「ロッカーの中全部空けて見たんですけど、スカートだけ見つからないんです」

 

 その言葉通り、床にぶちまけられた制服と運動着入れの中にスカートだけがない。

 他の物は揃っていることからすると、誰かが間違えて持って行ったとは考えにくい。

 

 ──盗まれたと見るべきだろう。

 なぜかは分からないが、誰かに目を付けられたのかもしれない。

 

「取り敢えずロッカー全部開けてみろ。違う所に入っているかもしれない」

 

 オリヴィアが頷いてロッカーを片っ端から開けていく。

 

 そして俺はゴミ箱を探す。

 こういう物隠しには前世で遭ったことがある。

 筆箱から靴まで色々盗られたが、大抵の場合その行き先は近くの別の場所か、ゴミ箱だ。

 

 果たして、隅っこの方にあったゴミ箱を覗き込むと、オリヴィアのものと思しきスカートが捨てられていた。

 

 ──怒りが沸々と湧き上がってくる。

 

「あったぞ」

 

 声をかけるとオリヴィアは駆け寄ってきた。

 そしてゴミ箱に捨てられていたスカートを見て息を呑む。

 

 信じられない、といった顔をするオリヴィアに俺は問いかける。

 

「オリヴィア──お前、誰かに目を付けられるようなこと、したか?」

「え?──いいえ。心当たりがありません」

「──そうか」

 

 ならばこれは悪意を持っての嫌がらせで間違いない。

 

 別に俺がされたわけではないし、俺自身に実害はないが、それでも近くで見るとやはり頭に来るものがある。

 

 どうしてくれようかと考えていると、オリヴィアが言った。

 

「ただ──私、浮いていますから」

「──どういうことだ?」

 

 気がかりなことを言い出したので訊いてみると、オリヴィアは悲しそうな表情でとんでもないことを告げてくる。

 

「私、貴族じゃないんです」

 

 ──は?

 貴族じゃないって、どういうことだ?

 

 困惑する俺にオリヴィアは若干驚いた顔をする。

 

「本当にご存知なかったんですね」

「──何をだよ?」

 

 少し語気を強めて問うた俺に、彼女が明かしたのは──

 

 

「私、特待生──平民なんです」

 

 



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良い子ちゃん

「特待生?」

 

 聞き慣れない単語である。

 いや、意味は分かるが、そんな制度がこの学園にあったなど聞いたことがない。

 

「はい。今年から始まったそうで、私がその最初の一人なんです」

「──聞いていなかったな。そんな話は」

 

 王都での情報収集を王宮周辺に絞り過ぎていたか?

 

 いや、それより問題はこれからだ。

 オリヴィアをどうするか。

 

 正直平民の特待生であること自体は俺にとってはどうでもいい。

 むしろ彼女は王国がやっと時代遅れな公教育を変え始めたことの証左。喜ばしいくらいだ。

 

 だが俺にとってはそうでも、他の大勢の学生たちにとっては違う。

 つい去年まで貴族と騎士の子女たちの学舎だった場所にいきなり平民が入ってきたとなれば、不愉快に思う者の方が多いだろう。

 そして立場が弱くて、見た目も弱そうで、実際運動音痴な良い子ちゃんであるオリヴィアは──格好の攻撃の的だ。

 

 つまり今回のことは起こるべくして起こったことであり、なくなることはないだろう。

 

 そして彼女と一緒にいれば、いずれ俺にもその火の粉は降りかかる。

 俺だって周囲に避けられて孤立している身だ。今は恐れられていても、いずれ徒党を組んで気が大きくなった馬鹿が攻撃を仕掛けてくる可能性は十分ある。

 下手をすればティナまでそれに巻き込まれかねない。

 

 そうなったら、相応の仕返しをするまで──と言いたいところだが、無事卒業して領主として認めてもらうという何より重要な目的がある以上、その達成に支障をきたすであろう暴力での即時報復はできない。

 最も簡単かつ効果的な暴力を封じられては、金と権力を使った非常に回りくどい面倒なやり方をしなければならないし、それに大した効果も見込めない。

 

 そんなことになってまでオリヴィアと一緒にいて何の得がある?

 

 考え込む俺にオリヴィアがポツリと話す。

 

「私、昔から魔法が得意で、ずっと独学で勉強してきたんです。だけど独学だと分からないことも多くて、それで魔法のこともっと勉強したいって思っていたんです。ここに来れば思う存分学べるって──それだけなのに、どうしてこんな──」

 

 泣きそうな顔で運動着を握り締めるオリヴィア。

 

 理不尽に対して怒る気概はあるのか。

 ただ泣いて自分を責めるだけの弱虫ではない所に興味が湧いた。

 

「魔法が得意?言うだけなら簡単だが、何ができるんだ?」

 

 敢えて意地悪な訊き方をしてみたが、実際魔法が得意と自称する奴は割といる。

 そして大抵の場合、そいつは中級魔法の無詠唱発動程度もできない口だけ野郎である。

 

 もしオリヴィアがその類なら──自分の実力も認識できていない善良なだけの馬鹿ということだ。

 見捨てても心は痛まない。

 

「えっと、基礎魔法は全部の属性一通りできます。それと──治療魔法を」

 

 気圧されながらもオリヴィアは健気に答える。

 

 そして彼女の答えは俺の興味を引くのに十分だった。

 特に最後の治療魔法──その使い手は希少だ。まともに医者をやれるレベルともなるとそれこそ数万人に一人というレベルである。

 

「治療魔法を使えるのか?どれくらいだ?」

 

 思わず問いかけた俺だったが、オリヴィアの答えは更に俺の度肝を抜くものだった。

 

「そうですね──転んで擦りむいたとか、包丁で指切ったくらいならすぐに完全に治せます。腕とか脚の骨が折れちゃったのはさすがに一時間くらいはかかりますけど」

 

 開いた口が塞がらないとはこの時の俺のことだっただろう。

 

 骨折が一時間で完全に治るとか異常である。

 

 治療魔法自体、前世の現代医療に喧嘩を売っているとしか思えないスピード治療ではあるが、それでも骨折ともなれば完全に治るまでには一週間乃至一ヶ月ほどかかるのが普通だ。

 適性が高くて熟練した名医でも三、四日は要する。

 

 それを一時間だと?

 信じ難いが、オリヴィアが嘘を吐いている様子はない。

 

 剣豪クリスに引き続いて、またとんでもない逸材を見つけてしまった。

 どんな名医よりも早く治せる治療魔法の使い手、これは取り込まない手はない。

 

 決めた。

 オリヴィアは卒業後にファイアブランド家で召し抱えてやろう。

 そのために学園にいる間は友達として一緒にいてやろう。

 

 しかし、こんな人類の至宝と言っても過言ではない人材が、俺のような極悪人に取り込まれてしまうとは、何という悲劇だろうか。

 俺に出会わなければ彼女はいずれ名医として大成し、王国中の何千何万という人間の命を救えただろうに、その可能性は潰え、力は俺と俺に都合の良い相手のためだけに使われる。

 

 だが、これが現実だ。

 現実は非情なのだ。

 

「そうか──それは凄いな。本当に凄い。そんなことができる奴は王国中探したっていやしないだろう」

 

 オリヴィアが目を丸くして俺を見ている。

 さっきまでの卑屈になっていた状態よりもよほど可愛い。

 

 そんな彼女の手を取って、両手で包み込む。

 

「特待生だろうが平民だろうが関係ない。お前はこの学園の中で一番凄い奴だよ」

 

 間近でしっかり目を見つめてお前は凄いと言ってやる。

 アーヴリルを口説いた時と同じ手口だが、どうやらオリヴィアにも効いているようだ。

 

 頬を染めて、何か言いたげに口をパクパクさせているが、言葉になっていない。

 

「試すようなこと言って悪かったな。これからは仲良くやろうぜ」

「それって──」

「今日から私たちは友達だ。よろしくな、オリヴィア」

 

 にっこり笑って友達宣言してやる俺だが、その友達とは打算に満ちた薄っぺらい表面上の関係──オリヴィアが哀れだな。

 

「は、はい──よ、よろしくお願いします」

 

 絞り出すような声でそう言ったオリヴィアは耳まで真っ赤だった。

 さすがにちょっと顔を近づけすぎたか?

 

 なんかこっちまで恥ずかしくなってきたので、顔を離して話題を変える。

 

「さてと、あとはこれをやった奴をどうするかだな」

 

 誰がやったのか分からないが、セルカを呼べばサイコメトリーですぐ分かるだろう。

 

 この手のいじめはすぐに仕返ししなければ付け上がってエスカレートする。

 ま、仕返ししてもそうなる可能性もあるが、やらないよりはやった方が良いはずだ。

 

 だが、ここに来て急にオリヴィアが渋り出しやがった。

 

「え?どうするって──何をするんですか?」

「あ?決まっているだろ。やった奴を探し出して落とし前付けさせるんだよ。スカートだけ盗んでゴミ箱に捨てるとか立派ないじめだろうが」

「で、でもそんなことしたって何にも──まず先生に言った方がいいんじゃないですか?」

 

 仕返ししたって何にもならない、先生に言って解決してもらうべきだとでも言いたいのか?

 

 そんな考えこそが何にもならないんだよ。

 必要なのは行動を起こすこと、反撃すること、攻撃できることを見せつけてやることだ。

 動いてくれるかどうかも分からない教師に言いつけることではない。

 

「お前、先生が当てになるとでも思っているのか?先生だって貴族や騎士家の出だ。平民のお前のために貴族の子女を怒ると思うか?」

「それは──でも、仕返しは違うと思います」

 

 なんでこういう所だけ頑固なんだよ。その意地はやり返すのに使えよ。

 

 そう思ったが、説得するのも面倒臭い。

 

 どうせ現実から目を逸らして無駄なことをして、それで困るのはオリヴィアであって俺ではない。

 むしろ少しくらい痛い目を見させた方が、後で助けてやった時により強く深く依存してくれるだろう。

 

「そうかよ。ならさっさと着替えて行くぞ。ホームルームに遅れる」

 

 そう言って俺はさっさと着替えを済ませた。

 

 オリヴィアも慌てて後に続いたが、その顔は若干曇っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 それから三日ばかりが過ぎた。

 

 オリヴィアへのいじめはなくなるどころか激しくなっていた。

 

 わざと聞こえるように陰口を叩かれ、すれ違う度に睨まれたり舌打ちされ、グループ授業では他のグループメンバーから無視され、酷い時には事故に見せかけてぶつかられたり、足を踏まれたりもしていた。

 

 友人宣言した手前、学園では隣同士の席で座ったり、食事を共にしたりと、俺が側に一緒にいるようにはしていたのだが、授業選択の違いで教室が別れた時や登下校の時を狙った嫌がらせは続いた。

 

 その全てにオリヴィアは仕返しをしなかった。

 気にするだけ無駄だと思っているのか、じっと堪えていればいずれ飽きてしなくなると思っているのか、いずれにせよ、やられっ放しだった。

 

 そして俺も頼まれてもいないのに助けてやることはしなかった。

 だが、やった奴の顔と名前は残らず覚えた。

 

 オリヴィアがいよいよ耐えられなくなり、俺の言ったことが正しいと認めて助けを請うてきたなら、俺が纏めて代わりに報復してやるつもりだ。

 

 ──問題はその気配がまるで見えないことなのだが。

 

「また派手にやられたな」

 

 散らばった教科書やノートを拾い集めるオリヴィアを見下ろして声をかける。

 

 さっき机の脇に置かれていた彼女の鞄を蹴飛ばして中身を床にぶちまけた奴が仲間とクスクス笑っている声が出入り口の方から聞こえてくる。

 

 俺が提出物を教師に渡しに行った隙にやってくれやがった。

 ちょっと睨みつけただけでビビって専属使用人の陰に隠れるような臆病な連中のくせに、随分とスリルを楽しんでいるようだ。

 

 だがオリヴィアは悲しげな顔をして黙々と散らばったものを片付け、鞄に戻して口を閉めた。

 

 作業がひと段落したところでオリヴィアに問いかける。

 

「いいのか?今ならまだ追いつけるぞ。言いたいことの一つくらいあるんじゃないのか?」

「それは──でも、言ったところでどうにも──」

 

 ここまでされてまだ躊躇い、やらない理由ばかり探すオリヴィアに俺の苛立ちは募る一方だった。

 

「そうやって酷いことされても黙っているから、あいつらが付け上がるんだろうが。やられっ放しで悔しくないのかよ?」

「ッ!エステルさん!声が大きいですよ」

 

 オリヴィアが周りを見回して焦っている。

 

 殆どが出て行ったとはいえ、教室にはまだちらほら学生の姿がある。

 こっちを見ている奴らがいるのも分かる。

 

 だが、それが何だというのか。

 

「怒れよオリヴィア!黙って耐えていたって何も良くならない。嫌なことは嫌だって、今度やったら許さないって言えよ!そんなことも言えない意気地なしなんて連中からすれば玩具や家畜と同じだ。この先もっと酷いことされるようになるぞ!」

「ッ!言いましたよ!最初にされた時に!」

 

 俯いていたオリヴィアが顔を上げて言い返してきた。

 さすがに玩具や家畜と同じと言われたのは我慢ならなかったらしい。

 

「それは初耳だな。で、効果がなくてすぐに諦めたってところか?」

 

 図星だったらしく、オリヴィアが言葉に詰まる。

 

「──どうしようもないじゃないですか。平民の身分は変えられませんし、私なんかじゃ──とても敵いません」

「だから諦めるのか?ずっとそうやって虐げられる立場に甘んじて、傷付けられて笑いものにされて、都合の良い玩具でいるつもりか?敵わなくても立ち向かう意志があれば、まだやれることはあるだろ!」

 

 俺に助けてくださいと言えばすぐにでも馬鹿共は黙らせてやるし、友達として、将来の手駒として守ってやる。

 

 簡単なことだ。余計な気遣いやプライドを捨てるだけでいい。

 

 オリヴィアが再び俯き、スカートの裾を握り締める。

 

「何が────んですか」

 

 消え入りそうな声で発せられた言葉は途切れ途切れで殆ど聞き取れなかった。

 だが唇の動きで大体は分かった。

 

 本当に──

 

「何だと?」

 

 圧を込めて問うと、オリヴィアは一瞬身体を強張らせたが、すぐにキッと真っ直ぐ俺を見つめて言い放った。

 

「エステルさんに私の何が分かるんですか!身分であれこれ言われることなんてなくて、強くて、綺麗で、私なんかとは全然違うのに!エステルさんが思っているより私はずっと──」

 

 まくし立てるオリヴィアだが、ハッと我に返り、蒼褪めた顔で俺を見る。

 

 ここに鏡はないので、自分の顔を見ることはできないが、きっと殺気の込もった顔をしているのだろう。

 

「何だよ?続きを言えよ。私が思っているよりお前が何だって?」

 

 オリヴィアは涙目で一歩下がって、そして堪え切れなかったのか、走り去った。

 

 しまった。

 ちょっとプレッシャーかけ過ぎたか。

 

 驚き、嘲笑、哀れみ、その他色々な感情の混じった視線が周囲から飛んでくる。

 この場はさっさと離れた方が良さそうだな。

 

 オリヴィアの鞄を拾って教室を出ると、廊下で待っていたティナが怪訝な顔をして駆け寄ってきた。

 

「お嬢様、先程オリヴィアさんが──」

「ああ、分かってる。ちょっと不味いことになった」

「──喧嘩でもされたんですか?」

 

 心配そうに訊いてくるティナ。

 

 喧嘩と言えば喧嘩だろうな。

 イライラしてつい一方的な強い物言いをしてしまった。

 昔ニコラ師匠に振る舞いを窘められた時のことを思い出す。

 

 あの時の師匠と同じように、話を聞いて寄り添ってやるべきだった。

 

 考えてみればそんなにことを急ぐ必要などないのだ。

 急かして詰る必要など尚更なかった。

 

 言い返せ、やり返せ、俺に頼ってこい──色々と思った。

 オリヴィアが俺に言い返そうとしてきた内容には腹が立った。

 だが、それは自分の境遇にひたすら絶望し、今際の際で呪詛を吐く以外に何もできなかった前世の自分や、カタリナに手向かえずに俺に八つ当たりすることしかできなかった親父と重ねて、気分が悪くなっただけ──俺の個人的な感情である。

 

 アーヴリルをスカウトした時みたいに、計算された作り物の笑顔と涙で理解者を演じて、包み込むようにゆっくりと心を掌握する──それを感情が邪魔をして徹底できなかった。

 

 考え込む俺を見てティナは察したらしい。

 

「お嬢様、喧嘩ならすぐに仲直りした方が良いと思いますよ。せっかくできたご友人なんですから、大切にしてください」

 

 ティナの目はどこか切実だった。

 

 そんな顔で言われたら罪悪感で返事がしにくい。

 何しろ、俺は将来的に優秀な手駒にするためにオリヴィアを友達にしたのだ。

 

 顔を背けて俺の鞄を押し付ける。

 

「言われなくたってそうするつもりだ。これ持って帰っておいてくれ」

 

 そして俺はオリヴィアを探しに駆け出した。

 

 

◇◇◇

 

 

「私なんであんなこと言っちゃったんだろう」

 

 陽が傾いた校庭をとぼとぼと歩きながら、オリヴィアは呟いた。

 

 悪いのは全部何もできない自分で、エステルの言っていることは逃れられない現実だと頭では分かっていたのに、受け入れることができなかった。

 

 今も戻って謝らないとと思うが、足が教室に向かない。

 

 そしていつしか、中庭を抜けて【裏庭】と呼ばれる場所の入り口まで来ていた。

 

 存在は知っていたが、初めて来る場所だ。

 入り口から見ただけでも手入れされた美しい庭園だと分かる。

 

 戻るのはちょっと裏庭を見ていってからでもいいか、と思って足を踏み入れようとしたその時。

 

 

「そこに入らないで」

 

 

 背後から敵意を含んだ声がした。

 

 振り返ると、ふわっとした金髪の小柄な女子生徒が背後に立っていた。

 

 自分より頭ひとつ分くらいは低い背丈なのに妙な威圧感がある。

 

「最悪。早めに来たのに、なんでよりにもよってこんな所で鉢合わせすんのよ」

 

 彼女がボソボソと何か呟いたが、オリヴィアには聞き取れなかった。

 

「え?あの、私何か──」

「私もそこに行きたいの。だからあんたは入らないで。邪魔なの」

 

 一方的な物言いをする小柄な女子に対して怒りが湧き上がる。

 

 黙って従っていては駄目、納得できないならはっきりそう言わなければ──エステルの言葉が蘇る。

 

「ど、どうしてそんなこと言うんですか?私、何も邪魔になることなんてしませんよ」

 

 どもりつつも、恐怖を堪えて真っ直ぐに相手の目を見返して、言った。

 

 ──言えた。

 ちゃんと、言い返せた。

 

 僅かに安堵したのも束の間、小柄な女子は目線が険しくなり、声が一段と低くなる。

 

「私あんたみたいな女嫌いだから、存在自体邪魔なの。こうやって同じ場所で息吸ってるのも嫌。どこでもいいからここ以外のどこかに行って。今すぐ」

 

 小柄な女子の言葉が胸に突き刺さる。

 ここまでストレートに自分の存在を言葉で否定されたのは初めての経験だった。

 

 ──やっぱり駄目だ。

 言い返す言葉が思いつかない。

 

 ショックで固まるオリヴィアを見て、小柄な女子は目を逸らし、問うてきた。

 

「大体あんたファイアブランドと一緒じゃなかったの?ここの所ずっとくっついていたじゃない」

「え?あ──えっと──」

 

 オリヴィアは答えに詰まってしまう。

 

 小柄な女子はそれを見て鼻で笑い、オリヴィアどころかエステルのことまで扱き下ろし始める。

 

「あれ?もしかしてもう愛想尽かされちゃった?ま、しょ〜がないわよね。ファイアブランドって虐殺とか大粛清とかやるような家の子だし、そりゃあんたみたいな頭お花畑とは合わないわよね」

 

 小柄な女子の言葉にオリヴィアは思わず叫んでいた。

 

「エステルさんはそんな酷い人じゃありません!」

 

 小柄な女子は一瞬目を見開いたが、すぐに哀れみの込もった目で言った。

 

「あんた本当おめでたいわね。あいつのことは何回か近くで見たことあるけど、あれは本当にヤバいことやってきた奴の顔よ。色んな噂を聞くけど、たぶん半分以上は事実ね。だから誰も寄りつかないし、あいつもあいつで他と関わりなんて持ちたくないって思ってる。そんなところに何も知らずにノコノコ近づいてきて、良い子ちゃんしてたんじゃ、そりゃうざったくて仕方ないわよ」

 

 握り締めた拳が震える。

 

 実際に一緒にいて話したわけでもないのに、知った顔をして悪口を言うのは許せなかった。

 

「いい加減にしてください!エステルさんと話したこともないのに、見ただけで決めつけて、そんな悪口言わないで!」

「はっ、お馬鹿が吐く正論って痛々しいわね。そんなにファイアブランドのことが好きなら、さっさと土下座でもして謝って、またお友達にしてもらいなさいよ。ま、あいつと本当のお友達になるとか無理でしょうけど。ほらさっさと行っ──」

 

 その言葉を聞いてオリヴィアの中で何かがプツリと切れた。

 

 ヘラヘラした笑みを浮かべる小柄な女子めがけて大きく踏み出し、力の限り右手を振り抜く。

 

 パンッ!と弾力を帯びた音が響いて──次の瞬間には小柄な女子の握り拳が目の前に迫っていた。

 

「え?」

 

 面食らって身動きが取れなかったオリヴィアの顔面に拳が直撃する寸前──視界が遮られ、パシッ!と乾いた音が鳴る。

 

 焦点が合うと、見覚えのある大きな手が拳を受け止め、防いでいた。

 

「危なかったな」

 

 声がした方に首を回すと、いつの間にかエステルが背後にいた。

 

「ッ!ファイアブランド──」

 

 小柄な女子が目に見えて狼狽し、素早くオリヴィアから離れた。

 

「なかなか重かったぞ。今のパンチ。やるなお前」

 

 エステルが小柄な女子を称賛するが、その目は笑っていない。

 

「さ、先に手を出してきたのはそいつよ。おかげでここがすっごく痛いんですけど。しかも平民が貴族を引っ叩くとか、どう考えても無礼極まりないわよね」

 

 小柄な女子が冷や汗をかきつつも、オリヴィアに引っ叩かれた頬を指差して抗議してくる。

 

 だがエステルは涼しい顔で解決策を提示した。

 

「そうか、それは悪かったな。オリヴィアの()()として謝罪しよう。その傷はすぐに治させる。だからそれで手打ちにしろ」

「は、はぁ?何それ。そんな一方的な──」

「先に喧嘩吹っかけたのはお前だろ?」

 

 ハイライトの消えた目を細めて、小柄な女子を睨みつけるエステルは、ものすごく怖かった。

 だが、それが頼もしくも思える。

 

 自分が反応すらできなかった拳骨を何の苦もなく片手で受け止め、一歩も引かずに相手の女子と向かい合って、しかも雰囲気だけで圧倒している。

 

「分かったわよ。でも治療はいい。あんたらの手なんか借りなくたって自分で治すから」

 

 そう言い捨てて小柄な女子は裏庭の奥へと去っていく。

 

 我に返ったオリヴィアは慌ててエステルに頭を下げる。

 

「あ、あの、エステルさん。ごめんなさい。私、酷いこと言っちゃって。それに助けて頂いて──」

 

 エステルがゆっくりと手を上げる。

 

 一発くらい拳骨を貰うかと思って目を瞑るが──エステルの手はそっとオリヴィアの頭を撫でた。

 

「私の方こそ悪かった。周りが皆貴族ばっかりの所で、貴族に立ち向かうなんてそりゃ怖いよな。お前の立場も気持ちも全然分かっていなかった。ごめんな」

 

 思わず顔を上げると、エステルは優しい笑顔を浮かべていた。

 

「でも、さっきはよく言い返したな。本当によく頑張ったよ」

 

 そしてエステルは、教室に忘れてきたはずの鞄を渡してきた。

 

「ほら、忘れ物だ」

「あ──あれ?」

 

 視界が滲んだと思ったら、両目から涙が溢れてきた。

 拭っても拭っても後からどんどん溢れてくる。

 

 エステルがハンカチを差し出してきたので、鼻声でお礼を言って受け取り、目頭に当てた。

 

 泣きじゃくるオリヴィアを、エステルは何も言わずに優しく背を撫でて慰めてくれた。

 

 

◇◇◇

 

 

「何なの?何なのよアイツ!」

 

 裏庭を進みながら、彼女は毒づく。

 

 オリヴィアに引っ叩かれた頬は治療魔法を使って綺麗にしたが、まだズキズキとした痛みが残る。

 

 会いたくもなかった、これから蹴落としてやる予定だった女と鉢合わせした挙句、平手打ちを貰い、人の痛みを教えてやろうとぶん殴ったら、彼女から離れたはずのエステル──学園一の危険人物が出てきて、止められた。

 

 はぐれ者同士で傷を舐め合っているのかと思いきや、まるで物語のヒーローのように絶妙なタイミングでエステルは現れ、見事にオリヴィアを救った。

 

 あんなの想定になかった。

 

(ふざけないでよ!お花畑のくせにあんなのまで──)

 

 高まりに高まったと思っていた羨望と嫉妬がまた一段と強くなる。

 

 彼女はオリヴィアのことが嫌いだった。

 

 自分と違って周りの人間に恵まれて育ち、人間の醜さや恐ろしさを何も知らずに平和と博愛を信じて、しかもそれを周囲に()()する。

 恵まれない者、虐げられた者、失った者の気持ちなど想像もできないだろうに、無責任に喧嘩は駄目、暴力は駄目、戦争は駄目、愛がどうの、平和がどうの──虫酸が走る。

 あまつさえ、それが殺伐とした貴族社会に疲れ切っていた貴公子たちの心を掴み、やがては国のトップにまで上り詰めることとなる運命。

 

 ──ふざけるな。不公平にも程がある。

 

(絶対に──絶対にモノにしてやる)

 

 十年間持ち続けてきた決意を改めて奮い立たせる。

 

 彼女に成り代わって幸せを掴んで、()()()()輝く最高の人生を送ってやる。

 

 そして彼女は視線の先に最初のターゲットを捉えた。

 

 一旦立ち止まって呼吸を整える。

 猛獣のようだった顔を、素早くあどけない可憐な少女のそれに戻し、彼女は足を踏み出す。

 

 池のほとりに佇む紺色の髪の美男子に、何気ない風を装って一歩ずつ近づいていく。

 

 その姿が密かに捉えられていることに、彼女は気付かなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 数分間泣き続けたオリヴィアがようやく泣き止んだ頃合いを見て、俺はオリヴィアに提案する。

 

「なぁオリヴィア。今日は外に食べに行こうぜ」

「え?」

 

 どうしてですか?とでも言いたげな顔をするオリヴィア。

 

「気分転換だ、付き合えよ。奢るからさ。さっきの詫びだ」

「そ、そんなの申し訳ないですよ。私だって──」

 

 オリヴィアは両手をパタパタさせて辞退しようとする。

 

 殊勝なことを言うのは結構だが、人の厚意は素直に受け取れよ。

 

 そう思った直後、彼女のお腹が可愛らしく鳴った。

 

「ほら、腹減ってるだろ?気にするな。誘ったのは私だし、稼ぎもあるから」

「でも私、その──けっこう食べる方ですよ?」

 

 オリヴィアが恥ずかしそうに目を逸らして言った。

 

「それは私もだ。いいから行こうぜ」

 

 真っ赤になったオリヴィアの手を引いて、俺は歩き出す。

 

「うぅ──」

 

 オリヴィアは俯いて、空いた方の手で顔を覆っていた。

 

 だが素直についてくるあたり、食欲には勝てないらしい。

 

 そういう所、本当にあざとい。

 

 だけど──可愛い奴だと思ってしまう。




糖度低くしたつもりが──あれ?結局高まってる──?


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師匠の導き

なんか最近筆のノリがいい


「は?──え?待ってどういうこと!?」

 

 自室で彼は頭を抱えていた。

 

 原因は先程相棒に見せられた映像の内容である。

 

 彼の知るシナリオによれば、今日の放課後こそが、主人公と攻略対象の最初の出会いの時だった。

 

 エステルによって潰されるのではないかと危惧していたそのイベントは、少し違った経緯ではあれど、無事起こりそうに思えたのだが──

 

「誰だよあいつ」

 

 彼の知らない人物の乱入により、主人公は攻略対象との最初の出会いを果たすことはなかった。

 

 そればかりか、その人物は主人公を助けに入ったエステル共々追い払う形で裏庭に入り、攻略対象に接触したのである。

 しかもそこから先の展開も彼の知るシナリオに酷似していた。

 不機嫌だった攻略対象に声をかけて口論になり、平手打ちをかまして好感を抱かれる──事実上別の人物による出会いイベントの乗っ取りである。

 

 オフリー家を倒したエステルに続き、出会いイベントを乗っ取る人物まで出現──何がどうなっているのか。

 

『照合結果出ました。彼女はマリエ・フォウ・ラーファン。子爵家の出身ですね。マスターや攻略対象たちと同様、上級クラスの新入生です。彼女はマスターの言う乙女ゲームに登場するのですか?』

 

 相棒の質問に彼はかぶりを振る。

 

「いや、そんなはずはない。ノートにも──やっぱりないし」

 

 記憶にも、秘密のノートにも【マリエ・フォウ・ラーファン】などという名前はなかった。

 

『また存在しないはずの人物によるイレギュラーですか』

「そういうことになるな」

 

 問題はマリエという女子が何を考えて出会いイベントを乗っ取ったのかということだ。

 

 相棒が記録した映像には音声も含まれているが、自分と同じ存在──あの乙女ゲーを知っている者であると断定できる発言はなかった。

 

 ただ、それでも普通でないのは確かだ。

 まともな思考をしていたら人気者の男子に抜け駆けで近づき、口論の末平手打ちするなどという愚行には走らないはずだ。

 それに主人公が平民であることではなく、その人の良さを嫌いと言ったのも違和感がある。

 

「取り敢えず、あのマリエって女子について調べてくれ。もしかしたら俺と同じかもしれない」

『彼女も"転生者"である、と?また一つ妄言が増えましたね』

 

 相棒が溜息でも吐くかのようにそっぽを向く。

 

「うるさい。普通に考えて子爵家出の身で王子様に平手打ちなんかかますわけないだろ」

『それを言うなら平民の身で王太子に平手打ちをするという主人公はどうなのですか?彼女の方がもっとあり得ないのでは?』

「──主人公様のはもう見られないから確かめようがないな。でもマリエが主人公じゃないのは確かだ」

『マスターの思い違いである可能性の方が高いと思いますがね。では、調査を開始しましょう』

 

 相棒は周囲の景色に溶け込み、部屋を出て行く。

 

 

◇◇◇

 

 

 陽が暮れて空が黒に近い紺色に染まった頃。

 

 俺はティナとオリヴィアを連れて制服姿のまま王都へと繰り出していた。

 SPのような黒いスーツ姿のティナを加えれば、周囲には護衛役のついた貴族令嬢の二人組に見える。

 これで変に絡まれたりナンパされたりする心配はない。

 

 目指すは歓楽街の大衆向けな店だ。

 オリヴィアが食べる方だと言うので、釣られて俺もガッツリ食べたい気分である。

 高級レストランも良いが、たまにはお手頃価格でボリュームのある庶民向けのも食べてみたい。

 

 どこかに手頃な店がないか、通りを歩きながら探している。

 

 夜の王都は無数の電灯でかなり明るい。

 

 周辺の複数のダンジョンから豊富に産出する魔石をエネルギー源とした電力網が整備されているのだ。

 

 こういうのを見るとファイアブランド領なんてまだまだだと思い知らされるな。

 これだけの近代都市を築き上げるのに一体何年かかったのやら。

 

「すごいですね。こんなにお店がたくさん──」

 

 オリヴィアは広がる街並みと明かりにひたすら圧倒されていた。

 

 あちこちよそ見ばかりして本当に危なっかしい奴である。

 

 手を繋いでいなかったら、すぐに迷子になるか人にぶつかっているだろう。

 

 そう、今手を繋いでいるのはそういう事態を防ぐためであって、他意はない。

 

 ──でもオリヴィアの手の柔らかさは思わず意識してしまう。

 十年以上剣を振り続けてあちこち皮が分厚くなって硬くなった俺の手とは違う、柔らかくて吸い付いてくるような瑞々しい肌をした女らしい手。

 若さのせいか、ティナの手ともまた違う未知の感触である。

 

 鼓動が速くなってくるのを自覚した俺は意識を逸らすために、目を凝らして少し遠くの店を探す。

 

 すると、前世から知っているものが描かれた看板に目が留まった。

 

「ハンバーガーか」

 

 丸いパンに肉と葉物野菜とチーズが挟まったものが描かれた看板を掲げる店は随分と混み合っているようだ。

 つまりそれだけ人気店だということである。

 

「オリヴィア、いい店を見つけたぞ」

 

 指差して教えてやると、オリヴィアは目を輝かせる。

 

「あれ何でしょう?初めて見ます!」

「決まりだな。食いに行こうぜ」

「はい!」

 

 人混みを掻き分けてその店に辿り着くと、店員がすぐに席を確保して案内してくれた。

 

 店の外には大勢並んでいたが、貴族ということで優先してもらえたようだ。貴族制度万歳だな。

 

 オリヴィアは申し訳なさそうにしていたが、俺は悠々と彼女の手を引いて案内された席に座る。

 

 店員に手渡された分厚いメニューを開くと、何種類ものパンと具材の名前が所狭しと書かれていた。

 

「さてと。どれにするかな~?」

 

 前世のファーストフード店のハンバーガーと違って、自分で材料の組み合わせを指定できるのはワクワクするな。

 

「すごい沢山──どれを選べばいいか分からなくなっちゃいます」

 

 オリヴィアがメニューの多さに目を丸くしている。

 

「そういう時はな──」

 

 俺は店員を呼んだ。

 

「お、お決まりでしょうか?」

 

 やってきた小柄な女性店員は緊張を隠せない様子だった。

 なんでこんな店に貴族様がいるの?とでも言いたげだ。

 

「お任せで二つ頼む。一番美味いのを出せよ。ビッグサイズでだ」

「え?は、はい!」

 

 内容は丸投げにしておきながら、クオリティは最高を求める無茶振り。

 前世の職場でよくやられたが、やる側になってみると実に楽しい。

 

「あ、それと私はビールもだ。ティナ、お前はどうする?」

「私はフィッシュサンドを。クラシックで」

「はいただいま!」

 

 店員は急いで注文を書き留めて離れていく。

 

 程なく、串で固定された高さ二十センチはありそうな巨大ハンバーガーが運ばれてきた。

 

 肉汁がたっぷり詰まっていそうな極厚の肉、豪快に丸いのを上下真っ二つに切ったらしいチーズ、良い具合に黄身が溢れ出した目玉焼き。

 それらを挟むパンも分厚く、ものものしく黒光りしている。

 

「お、お待たせしました。当店自慢の食べ応え抜群スペシャルビッグクラシックでございます」

 

 予想を超える大きさに俺たちは揃って生唾を呑み込む。

 

「す、すごいですね。こんな大きなサンドイッチ初めて見ました」

 

 オリヴィアは巨大ハンバーガーに完全に気圧されていた。

 その横でティナも目を丸くしている。

 

 俺も多分同じ顔をしているだろう。

 さすがにこれはちょっと予想を超えている。

 前世でも見たことがないサイズだ。

 

 だが、お任せでと注文した手前、退くことはできない。

 

「やってくれたじゃないか。店の自慢だというなら、きっちり応えてやらないとな」

 

 そう言って俺は巨大ハンバーガーにナイフを入れる。

 大き過ぎて手掴みで食べるなど無理である。

 

 そして切り分けたバーガーをフォークで口に運ぶと、たちまち肉の旨味とチーズのまろやかさ、野菜の爽やかさとパンのさっくりした食感が混じり合って広がる。

 前世で食べたどんなハンバーガーよりも美味かった。

 

 たっぷりハンバーガーの味を堪能した後はジョッキに入ったビールで喉を潤す。

 

 うん、最高だ。

 

 オリヴィアも俺のやり方を見てハンバーガーにナイフを入れるが、やはり慣れていないのか切り分けたところがボロボロと崩れてしまう。

 

 必死で散らばった具材をフォークに突き刺して回収するオリヴィアの姿は、いじらしくてちょっと面白かった。

 

 そしてもはやハンバーガーの体を為していないぐちゃぐちゃになった具材の寄せ集めにぱくついて、幸せそうな笑顔を浮かべる。

 

「美味しいです!」

「だろ?」

 

 そのまま俺とオリヴィアの二人で競うようにナイフを入れて巨大ハンバーガーを堪能していると、周りが俺たちを驚きと好奇心の入り混じった目で見てくる。

 

 貴族令嬢がこんな下町の大衆店に来るだけでも珍しいのに、男でも食べ切るのが難しそうな巨大ハンバーガーをガツガツ食っているのが信じられないのだろう。

 それは仕方ないし、俺も咎めはしないが、まるでフードファイトでもしているような気分である。

 

 そして俺たちが巨大ハンバーガーを平らげると、店中から歓声が上がる。

 

「凄えな!お嬢ちゃんたち!」

「俺たちも完食したことないのに!胃袋どうなってんですか?」

「おいおい失礼だろ。きっと燃えて魔力に変わるんだよ」

「マジか!凄え!」

「いやあ快挙ですぜこれは!」

 

 酔っ払って勝手に盛り上がる客たちにオリヴィアがあたふたしている。

 

 顔を赤くして可愛い反応をしているが、あの巨大ハンバーガーをさほど苦しむ様子もなく平らげるとは、こいつ本当にとんでもない大食いだな。

 

 ハンバーガーのサイズに続いて、また一つ予想を超えられた。

 

「食べる方って本当だったんだな」

「あっ!うぅ──美味しすぎてつい──」

 

 赤くなった顔を更に赤くして茹で蛸のようになったオリヴィアが口元を隠して俯く。

 

「おいおい恥ずかしがるなよ。快挙らしいぜ。もっと堂々として、手でも振ってやれよ」

 

 そう言って、俺は手本を見せてやろうと周りの客たちに向かってサムズアップしてやる。

 

 また一際大きな歓声が上がり、それを見たオリヴィアもおずおずと小さく手を振った。

 

 その仕草が客の男共には刺さったらしく、歓声に混じって「聖女様だ!」とか「いいや女神様だろ!」とか、挙げ句の果てには「結婚してください!」といった台詞まで混じり出す。

 まあ冗談だろうが、オリヴィアは平民故かそれを真に受けて困惑していた。

 

 それを見かねたティナがパンパンと手を打って黙らせる。

 

「は〜い!皆さんお静かに~!あんまりお嬢様方を困らせないでください!」

 

 ノリが良さそうに言っているが、その笑顔にはどこか凄みがある。

 

 ティナの一声で客たちは騒ぎをやめて、口々に称賛の言葉を口にしつつ席に戻っていく。

 

 そして気分良く会計に移ろうとしたところで──外で悲鳴が上がったのが聞こえた。

 

 

◇◇◇

 

 

「あ〜腹減ったなあ」

 

 そうぼやきながらフラフラと歓楽街を歩く男がいた。

 

 衣服はあちこち擦り切れ、泥と垢で汚れてボロボロで、髪も髭も爪も伸びっ放し。

 もう何日もロクに食べておらず、空腹で身体に力が入らず、意識もだいぶ鈍っていた。

 

 薄汚い浮浪者のような格好で彷徨っているその男の名は【ニコラ】。

 かつてエステルに剣術を教えていた師匠である。

 

 だが、そのエステルの異常な成長ぶりに恐怖して、逃げ出してからはロクな仕事にありつけず、当てどなくあちこちの街を彷徨っていた。

 ファイアブランド家で稼いだ金はとうに底を突き、腰に提げていた剣も売ってしまった。

 

 そして同じように職と住処を求める貧民たちに混じってキャラバンをヒッチハイクし、王都へとやって来たのだが、やはり仕事は見つからず、僅かな手持ちもすぐに尽きた。

 

 にも関わらず、歓楽街に来てしまうあたり、駄目な男である。

 

「誰か、酒を奢ってくれねェかな~」

 

 そう呟いた直後、近くからゲラゲラと笑う声が聞こえてくる。

 

 ぼんやりとしたまま声の聞こえてくる方を見るが、どうにも焦点が合わず、目を細めてしまう。

 それが間違いだった。

 

 彼らの一人と目が合ってしまう。

 

「おい、テメェ、今睨んだよな?」

 

 目を細めて睨みつけてくる強面の男の姿に、ニコラは己の過ちを悟る。

 

(げっ!不味い!)

 

 逃げようとしたニコラだが、すぐに囲まれてしまった。

 相手は四人。しかも全員見るからに質の悪そうな格好をしている。

 

「おいコラ。何逃げようとしてんだ?あぁ!?」

 

 リーダーらしき男が凄んでくる。

 

 ニコラは恐怖で肩を震わせて、必死で言い訳をする。

 

「い、いや睨んだわけではない。ただよく見えなかっただけで──」

 

 だが、相手は取り合わなかった。

 

「いいや絶対睨んでたぞテメェ。喧嘩売っとんのかコラ!」

 

 胸ぐらを掴まれたニコラは「ひっ」と悲鳴を漏らしたが、周囲には助けに来る者はいない。

 

 むしろ変に絡まれないように遠巻きに見ながら離れていく。

 

「何とか言えやコラ!」

 

 男の拳骨がニコラの頬を直撃し、周囲から悲鳴が上がる。

 

「だ、だから、睨んでないし、喧嘩なんて売ってないと言ってるだろう」

 

 恐怖を堪えて言い返すが、それは彼らの神経を逆撫でしただけだった。

 

「言いたいことはそれだけか?これは痛い目見ねえと駄目みてぇだな」

「ちょ〜っとうちに顔出してもらおうか」

 

 ニコラは蒼褪めて地面にへたり込んでしまう。

 彼らに連れて行かれたら何をされるか、容易に想像がついたからだ。

 良くて人身売買、下手をすれば──惨たらしく殺される。

 

 そんなニコラに業を煮やした彼らはニコラの両腕を掴んで立たせようとしてくる。

 

 ニコラは必死で立たされないよう踏ん張って抵抗しながら、必死で助けを求めようとするが、喉が引き攣って声にならなかった。

 だが、内心では絶叫している。

 

(嫌あああ!こいつらマジだ!殺される!誰か!誰かぁぁぁあああ!誰でもいいから助けてえええ!!)

 

 すると突然周囲がざわめき始める。

 

 それにも構わず、彼らは抵抗するニコラの耳元で怒鳴ってきた。

 

「さっさと立てやオラ!」

「舐めた真似しやがって。ぶち殺すぞテメェ!」

 

 その直後──

 

 

「誰が、誰を殺すって?」

 

 

 ──周囲の気温が一気に二十度ほど下がったような気がした。

 なのに身体中から大量の汗が噴き出してくる。

 

 聞き覚えのあるその声のしてきた方を見ると、そこにいたのはニコラがこの世で最も会いたくない人物だった。

 

(神様あああ!!そいつじゃない!そいつだけはやめてえええ!)

 

 内心阿鼻叫喚のニコラを捕まえたまま、四人の男たちが振り向くと、学園の制服に身を包んだエステルが立っていた。

 

 以前よりも背丈が伸びて顔立ちが大人びており、街を歩けば十人中九人くらいは振り返りそうな美人になっているが、その顔は怒りに満ちている。

 

「あ?何だあんた?」

「よく見りゃその制服、王立学園のじゃねえか。学園の貴族令嬢様がこんな下町で何してるんだ?」

 

 男たちが怪訝な顔をするが、エステルは冷たい声で彼らに命令する。

 

「その方から離れてここから失せろ。今すぐにだ」

 

 男たちはその命令に──従わなかった。

 それどころか、顔を見合わせて一斉にゲラゲラと笑い出す。

 

「お嬢さん、慈悲の心は素晴らしいけどな、ここは俺たちの縄張りで、あんたの領地じゃねえんだわ。だからあんたに口出しされる謂れはねえ。引っ込んでな」

 

 リーダーが嘲笑を浮かべながらエステルにここから去るように言った。

 

 だが、エステルは怒気を一層強めて再度命令した。

 

「おいチンピラ。私は気が短い。さっさとその方を放せ。そして二度と絡むな。さもないとここで全員斬るぞ」

 

 すると、男たちは笑みを消して懐から武器を取り出した。

 

「人の話は素直に聞けよガキが。俺たちを舐めやがったらどうなるか──」

 

 拳銃を手にエステルを脅そうとしたリーダーだったが、その言葉は途中で途切れ──首がポトリと落ちた。

 

 いつの間にかエステルの腕には見覚えのある魔法陣が浮かんでいた。

 どうやら得意とする風魔法で不可視の刃を放ったらしい。

 

 目にも留まらぬ速さで、まるで腕利きの暗殺者のように静かに鮮やかに首を刎ねるその技量に、ニコラは背筋が凍る。

 

(ひぃぃぃ!あいつ魔法の腕上げてやがる!)

 

 風魔法一つでこれである。

 一体今どれだけ強いのか、もはや想像することもできない。

 ただ一つ確かなのは、関わってはいけない相手だということだけ。

 

 逃げ出したいニコラだが、腰が抜けて動けない。

 そしてニコラはとっくにエステルの間合いの中にいた。

 

(あ、俺──終わった)

 

 ニコラは自分の人生が終わったと感じて、死の恐怖で頭が真っ白になり──力が抜けて無表情になる。

 

 そんなニコラを残り三人の男たちは地面に放り出し、武器を構える。

 

「テメェよくもミンク・シンジケートに手ェ出しやがったな!貴族だろうとタダで済むとおも──」

 

 言い終わる前に彼らの首が飛ぶ。

 血が噴き出し、周囲で悲鳴が上がる。

 

 あっさりと四人の男たちを全員屠ったエステルはニコラの方へと近づいてくる。

 

(へへ、ろくな人生じゃなかったな)

 

 きっと自分の嘘を知ってエステルは怒っているはずだ。

 このまま自分もあの四人の男たちと同じように殺されると思い、ニコラは覚悟を決めた。

 自嘲からか、僅かに口角が上がってしまう。

 

 そしてエステルは──ニコラの前に膝をついた。

 

「お久しぶりです。師匠!」

 

 そう言ってエステルは頭を下げて礼をする。

 

 それを見てニコラは変な笑いが出そうになる。

 もはや恐怖で何が何やら訳が分からないまま、口だけが動いてエステルに言葉をかける。

 

「お久しぶりですね、エステル様。もう学園に通う年になられましたか──大きくなられましたな」

 

 その姿は傍から見ると本物の剣の師匠のようだった。

 先程までの薄汚れた無気力な流れ者の姿はそこにはなかった。

 

「は、はい!あれから休まず鍛錬を続け、師匠に追いつくために日々努力しています!」

「感心ですね。先程の魔法、以前見た時よりも上達していたのを感じました。頑張られたのですね」

「あ、ありがとうございます!」

 

 エステルの顔が大輪の花のように明るくなるが、ニコラはその笑顔が恐ろしくてたまらない。

 

 そして続く彼女の質問にニコラは震え上がる。

 

「ところで、師匠はここで暮らしているのですか?」

 

 何と返せばいいのか──下手なことを言えば、エステルに自分の居場所を教えることになってしまう。

 それは絶対に出来ない。

 

 ニコラは空腹で霞む頭を必死で回して、この場を乗り切るためのハッタリを捻り出す。

 

「実は、旅をしています。身一つで、王国の各地を旅して回っているのです」

「旅、ですか?失礼ながらどうしてそのようなことを?武器の一つも持たずに──危険ではありませんか?」

 

 ニコラは思った。

 

(金がないんだよ!剣ならもう売っちまったよ!って言えたら楽なのにぃぃぃ!!)

 

 だが、ニコラはそれをおくびにも出さずに即興の言い訳をする。

 

「──新しい弟子を探しているのです」

 

 するとエステルは笑顔で提案してくる。

 

「それでしたら、私の領地に師匠に相応しい道場を用意します。見込みのありそうな者も見つけて紹介しますので、そこで後進の育成に専念なさってください」

 

 その提案にニコラは血の気が引いた。

 

 エステルの近くにいれば、いずれ嘘が露呈してしまう可能性が高い。

 そうなったら今度こそ命はないだろう。

 

「いえ。それには及びません。それでは駄目なのです」

「え?な、なぜでしょうか?」

 

 エステルは「どうして駄目なんだ?」という顔をしている。

 

(うわあああああ!!天様神様聖女様ぁぁぁ!何か、何かお知恵を!上手い言い訳を考える知恵を付けてくださいいい!!)

 

 必死に祈るニコラの脳裏に一つの答えが過ぎる。

 

 その答えを必死にニコラは言葉に紡ぐ。

 

「私が探しているのは我が流派を継ぐに相応しい資質を持つ弟子です。この広い世界にはどこに大いなる才能が眠っているか分かりません。それを見つけ出すには、私自ら足を運んで探し回り、私自身の目で見極めなくてはなりません。エステル様、貴女を弟子に見出した時がそうであったように。それを曲げるわけにはいきません」

「師匠──私が愚かでした。浅はかな発言、どうかお許しください」

 

 エステルが深く首を垂れる。

 

(よ、よし。もう一押しだな。あとは間違ってもこいつが俺を探さないようにしないと──)

 

 ニコラは微笑みを浮かべたままエステルに向かって言い放つ。

 

「エステル様。これは流派を継承する者の義務なのです。私の流派には、免許皆伝を得た者は少なくとも三人は弟子を育てなくてはならない、というしきたりがあります。エステル様もいずれは弟子を取り、育てなくてはなりません。これは、と思う者に己が中にある剣を託す。これは剣の道を進むに当たって重要な課題だと認識しなさい。弟子を育てることでまた違ったことが見え、新しい見地から自分を磨くことに繋がります。これも全て修行なのです」

 

 それを聞いたエステルの目が泳ぐ。

 

「私が弟子を──できるでしょうか?」

 

 先程とは打って変わって弱気なエステルに、ニコラはにっこり笑って肩に手を置いた。

 

「何を仰います。エステル様はもう立派な剣士です。きっと立派な後継者を育てられますよ。己を信じなさい」

「師匠──!はい、お──私、やってみます」

 

 感極まったのか、エステルの目は潤んでいた。

 だが、ついさっき悪党とはいえ、四人も無慈悲に首を刎ねて殺したばかりである。ニコラはちっとも嬉しくない。

 

(嘘に決まっているだろうが!だが、これで何とか乗り切れそうだな。いやでも金がないのは変わりない。これではどこにも行けないじゃないか!くそっ!どうすれば──)

 

 悶々としていると、エステルが小切手とペンを取り出した。

 

「ですが、師匠がそのような格好でいるのを、弟子として見逃せません。少ないですが、私の方で路銀を用意させて頂きます。どうか、それだけはさせてください」

 

 自ら進んでお金を用意してくれると言うエステルにニコラは内心ほくそ笑む。

 

「それはありがたい。大事に使わせて頂きます」

 

 内心では「やった!これでここから逃げられる!」と叫ぶニコラだが、顔には微笑みを貼り付けたままだ。

 

 そしてエステルは小切手に金額を記入していく。

 異様に太い金属製のペンが小切手に押し当てられると、インクがペン先から染み出して数字が書かれていく。

 

(何だあのペン?インクに浸さずに書けるなんて──)

 

 物珍しさに思わず見入ったニコラだったが、エステルが書き終わった小切手を差し出してきたので、受け取る。

 

 そして血の気が引いた。

 

(え?何これ?桁が滅茶苦茶多いんだけど)

 

 小切手に記された信じられない金額を目にして、ニコラは内心を隠すのに必死になる。

 

「これはまた──大金ですね」

「色々と稼いでいますからね。それを冒険者ギルドの金融部門の者に渡してください。それで受け取れますから」

 

 そう言って、どこかの住所を記したメモを渡してくるエステルだが、直後に警戒した表情になる。

 

「騒ぎが大きくなりすぎましたね。じきに憲兵たちが来ます。この場は私に任せて、師匠は行ってください」

「かたじけない。エステル様もお元気で」

 

 それっぽい台詞を最後に吐いて、ニコラはそそくさとその場から逃げ出す。

 

「はい、師匠」

 

 見送るエステルは照れくさそうに笑っていた。

 

 

 

 程なく、派手な軍服に身を包んだ憲兵たちがやって来て、エステルを拘束した。

 

 そして──この事件はすぐに王都中を駆け巡り、そこかしこで影響を及ぼしていくこととなる。

 




どうでもいい?補足
この世界線のリオン君はエステルにビビっていたせいで入学式でマリエちゃんを見かけなかったのです


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邂逅

 悲鳴が聞こえてきた時、猛烈な胸騒ぎがした。

 

 その悲鳴の直前に微かに怒鳴り声らしきものが聞こえたからだ。

 

 気付けば俺は財布をティナに預けて会計を任せ、店を飛び出していた。

 

 そして遠くに人の流れが澱んだ場所を見つけて行ってみたら──

 

「さっさと立てやオラ!」

「舐めた真似しやがって。ぶち殺すぞテメェ!」

 

 両腕を掴まれて怒鳴りつけられていたのはニコラ師匠だった。

 

 その光景を見て一瞬で怒りが沸点を突破して、俺はその場に乱入した。

 

「誰が、誰を殺すって?」

 

 その場で即連中を斬り殺さなかったのは、武器を向けてきたのは向こうが先だと主張できる状況を作るため。

 どんなに怒りに震えていても、自分が決定的に不利になるような真似はしない。

 それが悪徳領主だ。

 

 だが、連中は思いの外馬鹿で助かった。威嚇一つで退散するような臆病で小狡い連中だったら斬り殺せなかった。

 最後に口にしたミンク・シンジケートとかいう組織の威を借りて気が大きくなっていたのだろうが、おかげで遠慮なく斬り捨てられてせいせいした。

 

 師匠が逃げて行った直後に現場に到着した憲兵に事情聴取のためしょっ引かれることにはなったが、師匠が困っていたところを助けられたのは弟子として誇らしい。

 

 ただ、置き去りにしてしまったティナとオリヴィアには申し訳ないことをしたな。

 

 そう思って周りの野次馬たちに目をやると、人混みの中に二人の姿を見つけた。

 オリヴィアは蒼褪めていて、ティナは「またやったのか」と言いたげな目をしている。

 

 そして俺の方に駆け寄ろうとするオリヴィアをティナが止めていた。

 そうだ。それでいい。俺は大丈夫だ。

 

 屋敷の者に知らせろとティナに目線で合図すると、ティナは頷き、オリヴィアを連れて離れていった。

 

 そして俺は到着した小型艇に乗せられ、憲兵隊の本部へと連行されるのだった。

 

 

 

「エステルさんが──どうして」

 

 狼狽するオリヴィアを引きずるようにして、ティナはファイアブランド家の屋敷に向かう。

 

「大丈夫です。ファイアブランド家と王宮とで話をつければすぐに釈放されますから」

 

 そう言うと、オリヴィアは黙ったが、それでもチラチラとエステルが連れて行かれた方角を振り返っている。やはりエステルのことは心配でたまらないのだろう。

 

 それはティナも同じである。

 

(お嬢様──王都に来たからには騒ぎは起こせないと仰っていたのに──何か余程の理由でもあったのかしら)

 

 十年以上も側で仕えてきたため、ティナはエステルの思考や行動のパターンをよく理解している。

 

 エステルは余所との揉め事を嫌い、領地の外では問題は起こしたがらない。

 だからこそ、外出もトラブルを予防できるよう学園の制服でしているのだし、自分が気に食わない程度で喧嘩になることは考え難い。

 

 なればこそ、今回の刃傷沙汰にはそうせざるを得なかった余程の理由があると考えるのが自然である。

 

 ともかく、今すべきはこのことを屋敷のセルカとトレバーに報告し、然るべき手を打ってもらうことだ。

 エステルの名に傷が付き、あまつさえ学園を退学させられるなどあってはならない。

 

 オリヴィアの手を強く握ったまま、ティナは屋敷への道を急ぐ。

 

 

◇◇◇

 

 

「何だと!?」

 

 ティナの報告を聞いたアーヴリルは立ち上がって叫んだ。

 

「側についていなかったのか!」

「申し訳ありません。私の落ち度です。お会計の時に騒ぎを聞いて急に飛び出されて。そして私が代わりにお会計をしている間に──」

 

 ティナが頭を下げる。

 

 その横でオリヴィアが蒼褪めた顔をして口元を押さえていた。

 

「そんな──エステルさんが──何かの間違いじゃ──」

 

 エステルが街中で人を殺した。それも確認できた限りでは四人も、風魔法で首を刎ねて。

 そんなこと信じられない、信じたくない。怖い所もあるが根は優しいエステルがそんなことするわけない──オリヴィアはそう言いたげだが、残念ながら彼女以外は全員心当たりがあった。

 エステルなら相応の事情があれば躊躇なくやるだろう、と。

 

 だが、実際に起こってしまっては大問題である。

 ここは王都であってファイアブランド領ではないのだから。

 

「まあ、あの人のことだから側についていても止めようがなかったと思うけれどね?王都で刃傷沙汰ともなると不味いわね」

 

 セルカが顎に手を当てて難しい顔をする。

 

「ええ。学園としても大問題でしょう。下手をすればエステル様が退学処分にされるやも──」

 

 トレバーもセルカに同意する。

 

 学園でのエステルの立場ははっきり言って不安定である。

 

 どういうわけか事実が意図的に歪曲された悪評が不自然なほどに浸透しており、露骨に危険人物扱いされている。

 捕虜虐殺や臣民の大粛清、残虐を極める拷問や、鉱山などの過酷な環境での強制労働、逃亡した罪人の逮捕と称しての他領の侵犯など、冷酷非道にして傍若無人な振る舞いをする、賊か蛮人のような家の娘──それが学園の生徒の大半とその保護者連中、及び一部の教師たちのエステルに対する認識だ。

 

 彼らがこのことを知れば、斯様な危険人物を学園に置いていていいのかと騒ぎ出すのは目に見えている。

 

 そして、その騒ぎはデマに踊らされた軽挙妄動として片付けられることはない。

 絶対に煽り、焚き付け、利用しようとする者が出てくる。

 エステルを疎み憎んで、隙あらば追い落とそうとする者は王国中枢にも少なからずいる。

 特にオフリー伯爵家が属していた派閥──彼の家と繋がって甘い汁を吸っていた連中だ。

 

 故にトレバーはすぐに行動を起こさなければならないと考え、指示を出す。

 

「二チームを出しましょう。ティナとアーヴリルさんは明朝私と一緒に王宮へ。至急、王妃様とレッドグレイブ公爵に面会を申し入れ、公正な調査と処分が為されるよう取り計らわねばなりません。セルカさん、貴女は直ちに情報部と共に現場検証と背後事情の調査に当たってください。皆さんよろしいですね?」

「「「はい!」」」

 

 ティナ、アーヴリル、セルカの三人が返事をすると、オリヴィアがおずおずと手を挙げ、か細い声で問いかける。

 

「あ、あの──私にも何か、できることありませんか?」

 

 

 

 その様子を案内人は天井から観察していた。

 

 天井に逆さまで立ったまま腕を組み、指で腕をトントンと叩いている。

 

「ふむ──これは面白いことになっていますね。私はまだ大して何もしていないというのに自ら立場を悪くするとは、実に滑稽。ですが──時期尚早ですね。このままでは吹っ切れて開き直るかもしれません。そうなれば今までの仕込みと投資が無駄になってしまいますね」

 

 案内人は腕組みをしたまま天井を歩き回り始める。

 

「やはりここは退学処分を免れさせて学園に留めておいた上で、殺人犯として謗りを受けさせ、精神的に追い込むのが効果的でしょうね。誰にも信じてもらえなかった前世のトラウマを多少なりとも刺激できるでしょうし。それで一年ほど時間を稼げば各地で蒔いた種が芽吹き、私も今より力を取り戻し、今度こそ確実に屠れるようになるはず」

 

 腹が決まった案内人は、駆け出していくエステルの家臣たちを見送りながら呟く。

 

「今回だけは貴女の有利になるよう助力してあげますよ。私の力が戻るまでせいぜいよろしくやっておきなさい」

 

 

◇◇◇

 

 

 その日のうちに憲兵隊から彼の所に報告が上がってきたのは、普通に考えればあり得ないことだった。

 

 だが、案内人の工作によって憲兵隊内部に潜む彼の内通者に情報が漏れ、彼女の名に聞き覚えがあった内通者が即座に彼へ報告したのだった。

  

 そしてその報告が彼に届いたのは、()()彼が夜の街に繰り出そうとしていた所を捕まり、残った仕事を片付けさせられているタイミングだった。

 

「やってくれたねお嬢さん」

 

 引き攣った笑みを浮かべて彼は呟いた。

 

 まさか彼女が王都で殺人事件を起こすとは思わなかった。

 

 彼の知る限り、彼女は妙な所で迂闊ではあるが、決して自制が効かない人物ではない。

 それこそ、殺されかけでもしない限り相手を殺しはしないはずだ。

 

 そんな彼女が人を殺したということは何かしらの事情があったのだろうが、それにしても重大なやらかしである。

 

 彼女自身のみならず、ファイアブランド家や繋がりのあるレッドグレイブ家、王宮にも影響を及ぼすだろう。

 

 すぐにでも彼女に事情を問い質したいところだが、彼女は憲兵隊に拘束されてしまっている。

 

 ただでさえ憲兵隊は部外者からの口出しを嫌う上、その上層部と彼は折り合いが悪い。

 彼女の身柄を引き渡すよう要求しても首を縦には振らないだろう。

 

 脅して言うことを聞かせる材料ならあるが、それは三年前に一度使ってしまった。今後を思えばここでまた使うのは悪手だ。

 

 どうしたものかと考えていると、今度は王宮の役人が報告にやって来る。

 

「陛下。王妃様より伝言です。ファイアブランド家の関係者の方に面会を申し込まれたと」

「──動きが早いな。よし、ミレーヌに彼らと面会の上で必要な措置を取るよう伝えろ。それとヴィンスを呼べ。二人で話すことがある」

 

 役人が命令を受けて駆け出していくと、彼は一つ溜息を吐いて呟いた。

 

「兎にも角にもまずお嬢さんの拘束を解かなくてはね。癪ではあるが──奴に動いてもらうか」

 

 

◇◇◇

 

 

 憲兵隊の本部は質実剛健という言葉が似合いそうな石造りの立派な建物だった。

 

 一応貴族令嬢だからか、それなりに豪華な部屋に通されて、簡単な取り調べの後、小綺麗な個室に入れられた。

 窓に鉄格子こそ嵌っているが、ホテルと言われれば信じてしまいそうなくらいには居心地が良い。

 

 今頃はティナから知らせを受けてトレバーやセルカが保釈のために動いてくれているだろう。

 

 それでも数日は拘束されるだろうし、それまで暇なので師匠に言われたことについて考えている。

 

「弟子を三人、しかもこれはと思った者、か」

 

 鏡花水月の継承と発展のため、俺も頑張らなくてはならないが、今のところ教えられるのは俺だけ。

 

 しかも、俺は今は学生で卒業すれば領主だ。

 道場を開いて広く教えるのは無理である。

 

「やっぱり俺自身で探し出してマンツーマンで鍛えるしかないか。武芸に見込みのありそうな奴はいたっけな──」

 

 ファイアブランド軍の新兵や、学校からの報告書にあった優秀な子供たちの顔を思い出していくが、めぼしい者は思い当たらなかった。

 

 なぜかオリヴィアとクリスの顔まで思い浮かんだが、すぐに駄目だと思い直す。

 オリヴィアは土台となる身体能力が低過ぎるし、クリスは自分の家の流派を継承する身だ。

 

「そう簡単には見つからないか」

 

 王国各地を旅している師匠でさえ三年以上探し続けてまだ二人目を見つけられていないのだ。

 そう簡単に見つかるものではないのだろう。

 

「地道に探し続けるしかないか。それにしても師匠の言葉はどれも重みがあるな。俺もあんな風になりたいよ」

 

 思わず乱入してしまったが、あの落ち着きぶりからすると、俺が助けなくても切り抜けていただろう。

 

 武器を持たずにあの余裕──きっとあれこそが真の強者の余裕ってやつだ。

 

 いつかその高みに至るためにも、師匠に課された課題には真剣に取り組まなければならない。

 

 差し当たり学園生の中から素質のありそうなのを探してみるか。

 同級生の中にはいなくても、普通クラスや来年再来年入ってくる後輩たちの中にもしかしたら──そんなことを考えながら、いつの間にか俺は眠っていた。

 

 

 

 明るさを感じて目を覚ますと、窓から朝日が差し込んでいた。

 

 毎朝の鍛錬のおかげでいつも同じ時間に目が覚める。

 とはいえ、狭い部屋の中では鍛錬もできないので、昨夜と同じように弟子について考えていた。

 

 そのまま数時間が経った頃。

 

 部屋の錠前が開く音がしたかと思うと、憲兵が一人と見かけない老紳士が一人姿を現した。

 

「こちらでお間違いないでしょうか?」

 

 憲兵が遜って問いかけると、老紳士は頷き、憲兵に頭を下げた。

 その所作は気品に満ちて、美しい。

 

 憲兵が渋々といった感じで俺に告げてくる。

 

「保釈です。出る準備をしてください」

 

 そして老紳士が俺に手を差し伸べてくる。

 

「貴女の身柄は私が預かります。行きましょう。ミスエステル」

 

 誰だっただろうかと思いながらも、老紳士が嘘を吐いている様子もなかったので素直に手を取った。

 

 連れ出されたそのまま俺は馬車に乗せられ、憲兵隊本部を出た。

 

 そして行き着いたのは王宮である。

 

 馬車から降ろされ、衛兵に連れられて行った先で、俺は見知った人物に迎えられた。

 

「また会ったね。お嬢さん」

「騎士──様?」

 

 忘れようもない。

 特徴的な仮面を着けた【仮面の騎士】がそこにいた。

 

「ざっと三年ぶりかな?随分美しくなられたね。見違えたよ」

「いえそんな。騎士様はお変わりなく──」

 

 あれ?なんでだろう。

 もう容姿を褒められるのなんて慣れてしまったはずなのに、どうにも照れる。

 久しぶりの再会で懐かしいからか?

 

「ふふ、まあ掛けたまえ。お茶を用意してある」

 

 促されてソファーに座り、紅茶を一口飲むと、仮面の騎士が問いかけてくる。

 

「制服、似合っているじゃないか。学園はどうかな?」

「楽しくさせて頂いていますよ。一人──いえ、二人だけですが、話し相手もできましたし」

 

 当たり障りのない答えを返す。

 別に嘘は言っていない。

 

「それなら良かった。実を言うと少し心配していたのさ。ほら、あまり良くない噂も広がっているだろう?」

「──ええ。全く誰が広めているのやら。ですが、特に不利益などは被っていませんよ。むしろ煩わしい付き合いをせずに済んで楽なものです」

「そうか。まあ、お嬢さんならそう言うと思ったよ。お嬢さんは強い娘だからね」

「煽てても何も出ませんよ」

 

 しばらく楽しくお喋りして、一息ついたところで仮面の騎士が切り出した。

 

「お嬢さん。貴女をここに連れて来てもらったのは他でもない。貴女の昨日の行動についてだ。貴女のような強く賢い女性がなぜ街中で魔法を使って人を殺めたのかな?」

 

 やっぱりそういうことか。

 こうも早い保釈はこの人の差金だったらしい。

 

 俺が憲兵に捕まったことをおそらくその日のうちに知って、翌日にはもう保釈に漕ぎ着けるとか、情報網と人脈どうなっているのだろう。

 

「奴らは私の師匠を手にかけようとしていたのです。私は彼らにやめるよう言ったのですが、聞く耳持たずでした。あまつさえ、銃まで向けてきたものですから、やむを得ず、斬りました」

 

 仮面の騎士は俺の弁明を聞いて、少し剣呑な空気を緩めた。

 

「──なるほどね。しかし、貴女の師匠か。どこかの剣士なのかな?」

「ええ。私が未だに全く勝てるイメージが湧かない最強の剣士です。才ある弟子を求めて各地を旅しておられる方で、ありがたくも私を最初の弟子に見出してくださったのです」

 

 師匠の話をすると、仮面の騎士は大袈裟に驚いた仕草をする。

 

「おお、最強とは大きく出たものだね」

 

 ──疑っていらっしゃるな。

 恩ある騎士様とて、ニコラ師匠のことを疑うのはいただけない。

 

「本当ですよ。いかなる剣士も──それこそ剣聖であろうと、あの方に刃を届かせることは叶わないでしょう。今の私があるのは師匠のおかげです。師匠に学んだおかげで私は冒険もオフリーとの戦も乗り越えられました。私にとっては大恩人なのです」

「──とても敬愛しているのだね。その師匠の方を」

 

 仮面の騎士が呟く。

 

「はい。私の──憧れです」

「──なるほどね。貴女の事情はよく分かった。貴女の家の者が持ってきた情報と合わせて得心がいったよ」

「と言いますと?」

「これだよ」

 

 仮面の騎士が数枚の紙を取り出した。

 どうやら俺がやった相手に関する調査レポートのようだ。

 

「貴女の家の者が今朝早くに王妃様に提出したものの写しだ。これによれば彼らはこれまでに何度も恐喝や暴行を繰り返していたらしい。詳細は目下確認中であるが、犯罪組織の構成員である可能性が高いとのことだ。ハッキリ言って捕まっていないのがおかしい連中だね。これから憲兵隊による大がかりな調査が行われるだろう」

 

 やはりセルカやトレバーが素早く動いてくれていたようだ。

 

 そして今回はやった相手が実は貴族の関係者だった、なんてことではなくてよかった。

 

「結果論ではあるが、住民の脅威となっていたならず者を成敗したのは貴女のお手柄だ。特に処分などはないだろう」

「そうですか。それを聞いて安心しました」

「しかし、お恥ずかしい話だよ。本来こういうのは憲兵隊や、王都の守護者たる私の役目だというのに、お嬢さんの手を汚させてしまったのだからね」

「気になさらないでください。今この王都は私の住む町です。自分の住む町の安全を守るのは貴族たる者の務めでしょう」

 

 上手いことを言ってやったと思っていると、仮面の騎士が苦笑する。

 

「実に頼もしいが、今後はこのような行動は控えてくれたまえよ?貴女は学園生なのだからね。変な所で恨みを買って他の学園生に危害を加えられでもしたら、貴女が責を問われることになりかねないのだよ」

「それについては反省しています。軽率でした」

「本当かな?」

「ええ、本当ですよ」

 

 しばらく腹を探るように見つめ合った後、仮面の騎士がふっと笑う。

 

「よかった。そうなったら私が全部叩き潰してみせます!などと言うかと思ったよ」

「私が何でもかんでも武力で解決するとお思いですか?さすがに自分の領地でもないのにそんなことはできませんよ」

 

 危なかった。

 一瞬心を読まれたかと思った。

 本音では面倒事になったらその元凶を叩き潰せばいいと考えていたのだ。

 口に出していたらどうなっていたやら。

 

 内心冷や汗を流した俺に仮面の騎士は思い出したように告げてきた。

 

「ああそうだ。王妃様との面会の際、貴女の友人が事件直前まで貴女と一緒にいたこと、その時間と場所に至るまで事細かに証言してくれたそうだよ。良い友人を持ったね」

「オリヴィアが──?」

 

 驚く俺に仮面の騎士はいいものが見られたと言わんばかりに笑い、席を立った。

 

「時間を取らせたね。学園に戻りたまえ」

「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。王妃様にもそうお伝えください」

 

 そう言って、俺は部屋を辞した。

 

 そしてまた衛兵に連れられて来た道を戻り、あの老紳士に付き添われて馬車で学園に戻った。

 

 待っていたティナとオリヴィアから涙交じりに迎えられ、しつこく事情を訊かれた上にティナにお説教されたのは取り調べ以上に堪えた。

 

 ──今後は気を付けよう。

 

 

◇◇◇

 

 

 歓楽街の一角。

 

 入り組んだ場所にあるその店は【ミンク・シンジケート】と呼ばれる犯罪ギルドが取り仕切るカジノであり、薬物の密売所だった。

 

 店の奥にある大きな部屋で、犯罪ギルドの構成員たちが店の仲間が殺されたと騒いでいた。

 

 皆口々に「ふざけやがって!」だの「このまま黙ってられるか!」だのと喚いているが、実の所分かってはいた。

 

 すぐに報復に出られるような案件ではない、と。

 

 下手人が敵対組織や一般人だったなら遠慮は要らないが、貴族ともなれば話は別だ。

 たとえそいつ自体は大したことがなくても、家にどんな繋がりがあるか知れたものではない。

 

 貴族に報復するなら、相手のことを入念に調べた上で組織のボスの判断を仰がなければならない。

 

 いつもならそう指摘する冷静な奴がいて、それで場の意見は収束していくはずだった。

 

「どぉ〜もこの部屋からチューチューチューチュー騒がしい鳴き声が聞こえるなあ。どデケェドブネズミ共の、よ」

 

 そんな声がしたかと思うと、部屋の扉が乱暴に蹴り開けられる。

 

 入ってきたのは異様な雰囲気を漂わせた小男である。

 

 ただでさえ背丈が低いのに猫背で余計に小さく見える。

 更に禿頭で目に生気がなく、一見すると死にかけの老人のようだ。

 

 だが、彼が入ってくるや、場は一気に緊張に包まれる。

 

「ぐ、グルムさん。これは──」

 

 声をかける構成員を無視して、【グルム】と呼ばれた小男は空いていた椅子にどっかりと腰を下ろす。

 

「殺されたって聞こえたぜぇ?誰がやられた?」

「へ、へい、ダックスとタルス、あとビリーとラゾが──」

 

 吃りながらも構成員が答えると、グルムはスッと目を細めた。

 

「あ〜あいつらか。可愛い奴らだったんだがなぁ。で?どこの誰がやりやがったんだ?」

 

 光のない瞳に射竦められて思わず姿勢を正した構成は、必死で視線を逸らさないようにしながら報告する。

 

「な、なんでも、王立学園の制服を着た背の高い銀髪の女だと聞き込みで──」

 

 瞬間。

 

 グルムがカッと目を見開く。

 

「何だとテメェ。もういっぺん言ってみろ」

「で、ですから、王立学園の制服を着た背の高い銀髪の──」

 

 言い終わらないうちにグルムが床を踏み鳴らす。

 

 そのままドンドンと貧乏揺すりをしながら床を踏み鳴らし、酒を要求する。

 

 すぐに酒が瓶で運ばれてくると、グルムは一気に半分ほど飲み干し、瓶をテーブルに叩きつけるように置いて、言った。

 

「決めたぜぇ。俺がその女に落とし前つけさせてやんよ」

 

 それを聞いた一人の構成員が慌てて割って入る。

 

「待ってくださいグルムさん。相手は貴族、しかも女ですよ。下手に手出したらどんなことになるか──」

 

 必死でグルムを止めようとする彼は、荒くれ者揃いのシンジケートの下っ端にあって比較的冷静で頭が回る方だった。

 

 彼にしてみればグルムが動くのは危険過ぎた。

 何せグルムは些細なことで後先も利害も考えずに暴れるため、シンジケートの上層部ですら持て余しているような人物なのである。

 そんなグルムが突っ走っては、非常に厄介なことになるという確信があった。

 

 だが、そもそも後先も利害も考えずに暴れるような男に事の危険性を説いたところで聞き入れてくれるわけもなく、節くれだった手が無慈悲に彼の頭を引っ掴む。

 

「あ?なァにウダウダ言ってんだテメェ?死人がどうやって告げ口すんだよ。そもそも、ここの皆男の子でしょーが!悔しかったら男の子はどうするんだ?あ"ぁ!?」

 

 グルムが怒鳴ると、血気盛んな若い構成員たちが声を上げてしまう。

 

「仕返しだ!倍返しだ!」

「そうだ!そうだ!」

「俺たちを舐めやがったツケを支払わせろ!」

「調子乗ったクソアマを八つ裂きにしろ!」

 

 勢いに乗せられた構成員たちが次々に声を上げる。

 

 それでも冷静な彼は必死で制止を試みた。

 

「皆落ち着け!まだ相手が誰かも分かっていないんだぞ!それにボスの許しだって──」

 

 言い終わらないうちに彼はテーブルに思い切り叩きつけられて気を失った。

 

 残ったシンジケートの構成員たちはグルムと共に雄叫びを上げ続ける。

 

 エステルの命を狙って犯罪組織が動き始めた。

 

 

 そして騒がしい部屋の片隅で犬の姿をした淡い光が彼らを睨みつけていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 結局、事件はエステルに喧嘩を売って武器を向けたならず者が無礼討ちにされたということで処理された。

 

 別に珍しいことではない。

 貴族の子女が王都の庶民と揉め事を起こすことは毎年のようにあるし、正義感や功名心に逸った学生──特に男子──がチンピラや犯罪者を勝手に退治して自慢することだってよくあることだ。

 

 だが、やった者が誰かで容易く世間の受け取り方は変わる。

 

 エステルがただ酔っ払っていただけの一般市民に因縁を付けて斬り殺した──そんな風に歪曲された噂が広まるのに時間はかからなかった。

 

 当然、噂は学園の中でも広がる。

 それは多くの者たちの中にあったファイアブランド家に対する恐怖や嫌悪感を確固たるものとし、その矛先をエステルに向けさせるに充分だった。

 

 案内人の目論見通り、エステルは学園の中で一層孤立し始めた。

 

 

 

 廊下を歩いていると、女子生徒が何人か話し込んでいた。

 

 別に盗み聞きなんてするつもりはなかったが、相手がわざと聞こえるように声量を上げたせいでハッキリと聞こえてきた。

 

「うわ、ファイアブランド来た」

「因縁付けて人殺したって。しかも笑いながら」

「ひゃあ、こっわ」

「ていうか、なんでそんなことしてここにいられるのかしらね」

 

 こちらをチラチラ見て陰口を叩いている女子たちに構わずさっさと通り過ぎたが、後ろからまだ視線を感じる。

 

 あの事件以来どこに行ってもこんな調子だ。

 学園全体が俺を殺人鬼扱いする空気に染まっていた。

 

「あ、あの、エステルさん、いいんですか?そんなことしてないって言わなくて──」

 

 隣を歩くオリヴィアが遠慮がちに訊いてくるが、俺はかぶりを振る。

 

「あの手の噂は否定すればするほど却って本当だと確信させるものなんだ。度し難いことにな。だから言い返すだけ無駄だ」

 

 前世でもそうだった。

 いくらやっていないと主張しても、周りは誰も信じなかったし、却って犯罪者扱いが加速した。

 

 それに今回は退学や謹慎といった処分をされたわけではないし、いじめなどの実害も今のところはない。

 

 なら、いちいち相手にするなど馬鹿馬鹿しい。時間とエネルギーの無駄だ。

 

 オリヴィアは黙ったが、納得しかねているようだった。

 

 事件以来、オリヴィアともどことなくぎこちない。

 相変わらずよく行動を共にはするが、一緒にいても会話が殆ど続かない。

 

 沈黙が流れたまま、俺たちは特別教室へと辿り着いた。

 次の時限、オリヴィアはここで授業だ。

 

「じゃ、私は教室向こうだから。また後でな」

「はい」

 

 オリヴィアは軽く頭を下げて教室へと入っていった。

 

 彼女の姿が見えなくなると、俺はさっさと踵を返して自分の教室へと向かう。

 

 ちょっとでも離れ離れになると、馬鹿共が待ってましたとばかりにオリヴィアに嫌がらせをするので、移動教室の時も送って行ってやらなければならない。

 そのせいでいつも休み時間が殆ど潰れてしまう。

 

 幸い、今回は少し余裕がありそうだ。

 

 気持ちゆっくり歩いて呼吸を整え、今にも爆発しそうな怒りを呑み込む。

 

 相手にしても無駄だと分かっていても、頭に来るものはある。

 

 オリヴィアが隣にいなければ陰口を叩いていた連中に詰め寄っていたかもしれない。

 

 深呼吸して、窓の外を見て、伸びをして、どうにか落ち着いたと思ったところで、ふと気配に気付いた。

 

「何だ?私に何か用か?」

 

 そう問いかけて振り返ると──

 

「ッ!」

 

 思わず息を呑んだ。

 

 そこにいたのは入学式で見かけて以来気になっていた男──リオンだった。

 

 やや緊張気味で表情を固くしつつも、リオンは笑顔を浮かべて会釈する。

 

「急にすみません。俺、リオン・フォウ・バルトファルトといいます」

「ああ──エステル・フォウ・ファイアブランドだ」

 

 自己紹介を返すと、リオンが一枚の紙を取り出して俺に差し出してきた。

 

 

「エステルさん、よければ俺のお茶会においでくださいませんか?」

 



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お茶会

 学園で開かれるお茶会というのは一般的なお茶会とは少し違う。

 

 建前上は社交の練習あるいはマナーの実践のための非公式な行事ということになっているが、その実情は男子生徒の婚活である。

 

 気になる相手がいれば招待状を書いて渡し、お茶会用の部屋を借り、茶器と茶葉とお菓子を用意し、当日はもてなしという名のアピールと交際の申し込みを行う。

 

 膨大な金と手間暇がかかる上、粗相があれば女子たちの間でその情報が広まってしまうため、誘う相手はきちんと選んだ上で入念な事前準備をせねばならない。

 

 その事情にも関わらず、リオンがエステルをお茶会に誘ったのはいよいよもってシナリオが妙な方向に行き始めたからだった。

 

 まず、最初の攻略対象である王太子殿下との出会いイベントを乗っ取ったマリエという名の謎の子爵家令嬢。

 彼女はその後他の攻略対象との出会いイベントにも立て続けに姿を現し、今や攻略対象五人のうち四人までもが彼女に好意を抱いている。

 つい先日も、友人たちと庭園で談合していたら王太子殿下が婚約者である悪役令嬢の小言を突っぱねてマリエをお茶会に誘う場面に遭遇したばかりだ。

 

 それらのイベントが起こっていた間、主人公──オリヴィアはずっとエステルと一緒で、出会いの「で」の字もない有様。

 

 唯一残っている攻略対象のクリスはというと──マリエからの接触こそまだないが、オリヴィアとも面識は全くなく、それどころか早朝の鍛錬を共にしているエステルのことが気になっている模様。

 

 このような状況に陥って、リオンは何とかシナリオの修正に繋がる糸口はないものかと必死で考えた。

 

 そして出た結論はエステルとオリヴィア、クリスの三人に対する介入だった。

 

 まずエステルに接触して交友関係を築き、彼女を通じてオリヴィアとクリスとも交流を持つ。

 その後はオリヴィアとクリスをくっつけるキューピッド役として立ち回る。

 

 クリスには婚約者がいるので気が咎めるが、世界の破滅を回避するためだ。

 簡単ではないだろうが、マリエに籠絡された四人よりは可能性はある。

 

 それとエステルが自分と同じ転生者なのかどうか、そしてその目的が何なのか、確かめたい。

 可能ならば、シナリオ修正への協力を取り付けたい。

 

 そんな思惑を胸に、リオンはお茶会の準備に取り掛かった。

 

 敬愛する師匠に相談し、落ち着ける空間を演出するように内装を整え、彼女の出身地である北方でよく使われている茶葉やジャムを取り寄せ、お菓子も過去の調査結果を考慮して甘さ控えめなもので揃えて注文した。

 

 師匠はリオンがエステルをお茶会に誘おうとしているのを知ると驚きこそしたが、特に止めようとすることも詮索することもなく、快く協力してくれた。 

 何でも、つい先日エステルの身元引受人となり、彼女と面識を持ったとのこと。

 そして事実無根の悪評が広がって孤立している彼女のことは教師として気にかけていたらしい。

 

「ミスエステルは世間で騒がれているような無分別な方ではありません。ミスタリオンには心配ないと思いますが、先入観を捨て、真心を持って接するのですよ」

 

 その師匠の言葉を肝に銘じ、エステルが一人になるタイミングを待って招待状を渡しに行ったのだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 リオンが差し出してきた紙は洒落たデザインの上質なやつで、達筆な字で宛名と署名が書いてあった。

 

 お茶会の招待状のようだが、一体どういう風の吹き回しだろうか。

 

 これまでさっぱり話す機会が訪れなかったのに、今になって向こうの方から声をかけてくるとは。

 

 しかもお茶会──その意味するところは知っている。

 

 多くの場合、それは男子生徒が意中の女子に結婚を前提にした交際を申し込むために設ける場だ。

 

 サイラスから聞いたが、親父も学生時代カタリナを口説くのにそれはもう何度も趣向を凝らしたお茶会を開いたらしい。

 

 リオンも男子ならお茶会の意味は俺以上に分かっているはず。

 

 なのに俺を──ただでさえ実家の悪評が立っている上に殺人鬼のレッテルまで貼られた段階で──わざわざお茶会に誘うというのは不可解だ。 

 

 俺に一目惚れして悪評にも構わず果敢に口説こうとしている──という様子でもない。

 もしそうならもっと前、事件が起こるより前に口説かれているだろう。

 

 だから、返事をする前に尋ねてみた。

 

「お誘いは嬉しいが──なぜ私を誘うのかな?」

 

 するとリオンは一瞬目を泳がせたかと思うと、わざとらしく頭を掻いて言ってくる。

 

「えーとその──ずっとエステルさんとお話ししたいと思っていたんです。エステルさん、色々凄いことされていると聞いていますので──」

 

 作り笑いを浮かべてはいるが、嘘を言ってはいない。俺と話したがっているというのは確かなようだ。

 

 ただ、そこにあるのは憧れや好奇ではなく、疑惑と警戒である。

 

 そして思い出すのは入学式の時。

 講堂でリオンが最初に俺に向けてきた視線はまさにこういう感じだった。

 

 ということはおそらく、リオンは学園に入学する前からファイアブランド家の娘として俺をマークしていたのだ。

 

 成り上がりと呼ぶにも烏滸がましい偽物とはいえ、伯爵家に勝ったともなれば、警戒する者も出てくる。

 リオンはそういう者たちの一人で、一般に出回っている根拠のない悪評ではなく、直接の対話による正確な情報収集のために俺に会おうとしている──といったところか?

 

 いいだろう。乗ってやる。

 その代わりそちらの情報も引き出させてもらおう。

 仲良くやれそうならそれで良し、そうでないなら妙なことを考えないように釘を刺してやる。

 

 そう考えて俺は返事をする。

 

「そうか。それなら──」

 

 姿勢を正し、礼儀作法に則って会釈を返す。

 

「ご招待、ありがたくお受けします」

 

 笑顔を貼り付けて招待状を受け取った。

 

 

 

 受け取った招待状を大事そうにしまい、歩き去っていくエステルの姿が見えなくなってから、リオンはどっと息を吐いた。

 

 彼女の近くにいるだけでとてつもないプレッシャーがかかり、背中が汗で濡れていた。

 

 これまで見てきた学園の女子たち──同級生の男子たちがお茶会の招待状を渡し、そしてそれを鼻で笑って断ってきた連中──に比べれば、にこやかで好意的な反応こそ返してくれたが、その笑顔すら何とも言えない凄みがあった。

 下手なことを言えば次の瞬間物理的に首が飛ぶ──そんな心配を大真面目にしたほどだ。

 

『浮かない顔ですね。ちゃんと誘えたではありませんか。これでマスターの希望していたお話ができますよ』

 

 隠れていた相棒が姿を現し、言ってくる。

 

 この時ばかりはオーラを感じ取れない機械である相棒が羨ましい。

 

「入学式の時も凄かったけど、間近で見ると迫力が違うな。心臓が破れそうだったぞ」

『ご安心ください。マスターは健康体ですので緊張程度で心臓破裂のリスクはありません』

 

 こういう回答をするところはやはり機械だなとリオンは思う。

 

 だが、それが安堵感を呼び、落ち着きが戻ってくる。

 

『それはそうとマスター』

「何だ?」

『間もなく授業開始時刻です』

「あっ!やべ」

 

 大急ぎで教室に向かったリオンだったが、疾走虚しく遅刻し、説教を喰らうのだった。

 

 

◇◇◇

 

 

「お茶会、ですか?」

 

 ティナが意外そうに目を見開く。

 

「ああ。正直招かれるとは思っていなくてさ。こういうのって準備とか要るのかな?」

 

 食堂で俺はティナに相談を持ちかけていた。

 

 貴族社会での礼儀作法の心得があるティナならお茶会に行く時の作法やマナーも知っているのではないかと思ったのだ。

 

 ファイアブランド家には学園でのルールや女子の作法について教えてくれる人がいなかった。

 お袋は普通クラスだったから上級クラスのことはさっぱりだったし、周囲の女子生徒は──気軽に相談できる関係の奴はいない。そもそもアイツら男子相手には横柄だったりいい加減な態度ばかりで、ちっとも参考にならない。

 

「そうですね──せっかくお相手の殿方がお金と手間暇かけて準備してくださるんですから、相応の格好で行かないといけませんね」

 

 ティナが少し考えて真剣な顔で言った。

 

「相応の格好?おめかしってことか?」

「そうです。服は制服で良いかと思いますが、髪のセットとメイクは必要かと思いますよ」

「メイクだと!?」

 

 思わず声が上擦ってしまう。

 

 メイクというのは今までどうしても越えられなかった一線なのだ。

 

 幸いにというか、俺の顔はメイクなしでもそれなりに綺麗に見えるおかげで今までやらずに済んでいたのだが──

 

「そうです。領地で家臣や商人の方々を相手にしていた時とは違います。お相手は他所の貴族家の方なんですから、相応の身嗜みが必要ですよ」

「そ、そう、なのか──」

 

 ティナの妙な迫力を前に言い返せずにいると、オリヴィアが何やら慌てた様子でやって来る。

 

「エステルさん!あ、あの、さっきこれ、貰ったんですけど──」

 

 慌ただしくトレーを置いて取り出したのは──お茶会の招待状だった。

 

 随分と装飾が多い高級感のある紙から、出した奴が只者ではないことが分かる。

 結婚相手の対象に入らないオリヴィアにわざわざこんな高級品を使ってお茶会に誘うとは、物好きな奴もいたものだ。

 

「お前も貰ったのか。誰に貰ったんだ?」

「えっと、紫色の長い髪の方で、名前はブラッドさんと──」

 

 オリヴィアから招待状を受け取って署名欄を見てみると、そこには流麗な続け字で【ブラッド・フォウ・フィールド】と書かれていた。

 

 フィールドという家名には聞き覚えがある。

 たしか、王国開闢期から続く名門で、代々ファンオース公国との国境を守っている辺境伯家だ。

 

 王太子殿下に公爵令嬢、剣豪に加えて、そんな名門中の名門の御曹司までいたとは今年の新入生はさながら綺羅星のごとしだな。

 

 だが、だとすれば重大な懸念がある。

 

「このフィールドって奴、王国でも五本の指に入る名門貴族のお坊ちゃんだぞ。このお茶会もかなり大規模だ。庭園一つ貸し切るくらいだから他の連中にもお呼びが掛かっているだろうし──はっきり言って危険だと思うぞ」

「え?危険って──」

 

 首を傾げるオリヴィアに俺は予想される事態を説明する。

 

「お前、ただでさえ平民だからって除け者にされているのに、そんな貴公子様のお茶会に出るとか他の招待客連中が許すと思うか?行ったところで間違いなく追い出されるし、嫌がらせが酷くなるかもしれないぞ」

「ッ!」

 

 オリヴィアが息を呑む。

 

 だが、顔を蒼褪めさせながらも、後ろめたい様子を見せる。

 

「でも、せっかく貰ったんですから──」

「そういうのは気にするな。どうせ大勢に招待状を出しているんだから、一人くらい来なくても気が付かねーよ」

 

 フォローしてやるが、オリヴィアの表情は優れない。

 

 全くしょうがない奴だ。

 

 俺はリオンから貰った招待状を取り出してオリヴィアに見せた。

 

「そんなにお茶会に行きたいなら私と一緒に来いよ。私もちょうど同じ日に招待されているからさ」

「え?でも、そちらは招待されたのエステルさんだけですよね?私が行っていいんでしょうか?」

「心配ならあいつに確認しといてやるよ。とにかく、そのフィールドって奴のお茶会に行くのはやめとけ」

「そうですか──分かりました。エステルさんが言うならそうします」

 

 オリヴィアはようやく折れた。

 

 

◇◇◇

 

 

 お茶会当日。

 

「へぇ──お前随分化けたなぁ」

 

 ティナにおめかしさせられたオリヴィアを見て、俺は思わず呟いた。

 

「こういうの、初めてで──恥ずかしいです」

 

 耳を赤くして俯くオリヴィア。

 

「そんなに恥ずかしがることはありませんよ。お綺麗です。自信を持ってくださいな」

 

 ティナが姿見の前にオリヴィアを立たせてその姿を見せつける。

 

 縦長の鏡に映し出されたのは明るく清楚な雰囲気の美少女である。

 良く言えば素朴な、悪く言えば垢抜けなかったボブカットが小さなポニーテールになって活発な印象を与え、トーンを揃えたメイクが透明感を醸し出している。

 

「綺麗──」

 

 オリヴィアが鏡に映った自分の姿に見入っている。

 よく見ると口角が僅かに上がっていた。やっぱり女の子だな。

 

「何だか──私じゃないみたいです」

「いいや。お前だよ。お前の素質が引き出されただけだ」

 

 前から磨けば光るタイプだと思っていたが、実際そうだったのが証明された。

 

「あ、ありがとうございます」

「さて、準備できたなら行くか。ちょうど時間だ」

 

 既にリオンの許可は取ってある。

 後から招待されていない者を連れて行くのは嫌がられるかと思ったが、懸念に反してリオンはあっさりと承諾してくれた。

 

 ティナの見送りを受けて部屋を出る。

 専属使用人を連れて行くのはマナー違反だと言うので、連れて行けなかった。

 仕方ない。彼女には帰ったらたっぷり土産話をしてやろう。

 

 寮を出て校舎に向かうと、休日だというのにそこそこ人がいた。

 理由は無論、お茶会である。

 

 五月は特にお茶会が多く行われる時期らしい。

 大方、新入生の女子目当てのお誘いが活発だからだろう。

 実際、見かけるのは女子ばかり、それも殆どが新入生である。

 

 彼女たちは俺たちを見ると次々にお喋りをやめて目を逸らす。

 そして俺たちが通り過ぎた後で奇異の目を向けてヒソヒソと話している。

 

「え、あれ、ファイアブランドだよね?」

「あの感じだとお茶会に行く雰囲気じゃない?」

「だよね。誘ったの誰だろ?」

「全然見当付かないけど命知らずだよね」

「本当それ。しかも隣の子平民じゃん。あり得なくない?」

 

 聞こえてくるその声に内心舌打ちしながら廊下を進み、招待状にあった部屋の前に辿り着く。

 

 ノックをすると扉が開き、満面の笑みを浮かべたリオンが出迎えてくれた。

 

「ようこそお越しくださいました」

 

 アイロン掛けしたばかりと思しきパリッとした制服姿と流麗な所作から、気合の入れようが窺える。

 

 案内されて席に座ると、早速リオンがお茶を淹れ始めた。

 

 どうやらお茶にはこだわりがあるらしく、真剣な眼差しで温度計を突っ込んだケトルを見つめている。

 よく見ると、お茶の道具も部屋の調度品も並べられたお茶請けも随分と良質なものばかりだ。

 

 ──妙だな。

 昔見たリオンの実家は辺境で爵位はおそらく男爵、おまけに金使いの荒そうな正妻もいて、同時期のファイアブランド家以上に貧乏な感じだった。

 とても学園に通う息子に多額の仕送りなどできるとは思えない。

 なのに一度のお茶会にこうも金をかけている──何か一山当てでもしたのだろうか。

 

「お茶請けはどれにしましょう?」

 

 リオンがにこやかに訊いてくるので、適当に甘過ぎなさそうなものを頼んで口に運ぶ。

 

「美味いな」

 

 思わず声が漏れた。

 ファイアブランド領のどの店のお菓子よりも美味い。

 

「それはよかった!良いお店で今朝作ってもらったんですよ」

 

 心底嬉しそうな顔で言ってくるリオン。

 

 その横でオリヴィアが冷や汗を浮かべている。

 

「あ、あの、そんなに良いもの私が頂いてもいいんでしょうか?」

 

 不安そうに訊くオリヴィアだが──

 

「もちろんですよ。お二人のために用意したんですから。遠慮なくどうぞ」

 

 リオンは爽やかな笑顔で食べるように勧めていた。

 

 心なしか涙を浮かべているように見える。

 まあ、リオンからすればオリヴィアに天使みたいな尊さを感じてもおかしくないだろうけどな。

 所構わず専属使用人という名の男奴隷を連れ回して男子に横柄な態度を取る学園の女子生徒相手に比べれば、まさに月とスッポン──いや、玉と石だろうか。

 

「だそうだ。遠慮しないでありがたく頂いとけよ」

 

 リオンに同調すると、オリヴィアは恐る恐るお菓子に口をつけた。

 次の瞬間、強張っていた顔が一気に綻ぶ。

 

「気に入って頂けましたか?」

 

 リオンが問いかけると、オリヴィアはリスみたいに口いっぱいに頬張ったお菓子を急いで呑み込んで頷く。

 

「はい!こんな美味しいお菓子、初めてです」

 

 その仕草がまた可愛い。

 こっちまで気が抜けてくる。

 

「よかったなオリヴィア。それとリオン、敬語なんていらないぞ」

 

 そう言ってやると、リオンは若干驚いた顔をする。

 

「私たち全員同級生だろ。堅苦しいのはなしでいこうぜ」

「あ、ああ、そう──だな」

 

 ぎこちないながらもリオンは敬語をやめた。

 

 そして砂時計に目をやり、急いでポットからお茶を注ぐ。

 

「どうぞ」

 

 そう言って出されたお茶の色に俺は見覚えがあった。

 実家でサイラスがいつも淹れてくれていたのにそっくりだ。

 

 一口飲んでみると、馴染みのある味が口の中に広がった。

 サイラスが淹れてくれたものとは比べるべくもないが、お茶の持ち味を引き出せていて、十分美味しい。

 

「この茶葉、私がよく飲んでいたやつじゃないか」

「そうなのか?口に合ったかな?」

「ああ。何か、懐かしくなっちまった。よく手に入れたな」

「ああ、師匠に選んでもらったんだよ」

 

 リオンがホッとした顔をする。

 

「師匠?」

「ああ。マナーのルーカス先生──って知らないか。俺たち男子にお茶会のマナーを教えている先生だよ。お茶の奥深さ、本物のもてなしってやつを教えてもらってさ、だから師匠って呼んでいるんだ」

 

 なるほどな。

 お茶へのこだわりと素人らしからぬ腕前はその師匠の影響なのか。

 

 しかも話している時の口ぶりからするとかなり心酔していると見える。

 

 ──親近感が湧くな。

 

「なるほどな。随分お茶にこだわっていたと思ったら、そういうわけか。はっきり言って学生のクオリティじゃないぞこれ」

「ああ。師匠に直接教えてもらったから手は抜けなくてな。それに個人的にお茶会の格が必要って事情もあるし」

「格?」

 

 リオンは少し考えてから、事情を語り始める。

 

「実は俺、実家から独立したんだ。ちょっと事情があって冒険の旅に出て、その時得た財でな。だからその実績に見合った格式高いお茶会をしなきゃいけないんだよ」

 

 溜め息混じりに話すリオンだが、聞き捨てならない言葉が混じっていた。

 

「冒険?お前、冒険に出たのか?」

 

 思わず前のめりになってしまった。

 

「あ、ああ。()()()の時にな。けっこう噂になっていたみたいだけど、聞いてない感じ?」

「十四歳の時ってことは一昨年か?」

「いや、帰ってきたのが十五歳になってからだったから去年だよ」

「去年──」

 

 記憶を探る。

 

 そして思い当たった名前とリオンの苗字が一致することに今更ながら気付く。

 

「幸運者バルトファルトって、お前のことだったのか!?」

「そうだよ。ていうか、幸運者って言い得て妙だな」

 

 リオンが苦笑しながら頷く。

 

 だが、俺はすっかり度肝を抜かれていた。

 十代で冒険に出て、しかも成功を収めた奴が俺以外にもいたことだけでも驚きだが、まさかリオンがそれだったとは思いもしなかった。

 しかも、俺が聞いた話では幸運者バルトファルトが見つけたのは財宝だけでなく──

 

「え、じゃああの話は本当なのか?未発見の浮島と、まだ動くロストアイテムの飛行船も発見したっていう」

「ああ、本当だよ」

 

 ──辺境伯家の御曹司の次は、俺以上の成果を上げた冒険者と来たか。

 今年の新入生は一体どうなっているのだろうか。

 

 俄然リオンへの興味が湧いた。

 

「その話、詳しく聞かせてくれよ」

「いいけど──あんまり楽しい話じゃないぞ?」

 

 そう前置きしてリオンが語り始めたのは、リオンの置かれたあまりにも理不尽な状況とそれに対する叛逆の物語だった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 一年半前。

 

 バルトファルト男爵家の三男にして庶子、【リオン・フォウ・バルトファルト】は激しい怒りと恐怖の中にいた。

 

 理由は先程当主である父親の正妻が持ち込んできた縁談である。

 

 正妻はわざわざ大金をかけて三男であるリオンを学園に入学させる意味などないと主張し、父親も家の財政状況が厳しいのは事実だと言っていたが、それにしても些か常識外れが過ぎた。

 

 学園の卒業どころか成人すらもしていない段階で縁談がやってくる時点でおかしな話だが、それよりも相手が問題だった。

 

 正妻曰く「歴史ある家の娘さん」とのことだったが、その人物自身は世襲できる家を持たず、おまけに年齢は五十歳過ぎ、結婚は今回で八回目。

 見るからに危険な気配が漂っていた。

 

 そして正妻が発した一言でそれは完全な確信へと変わる。

 

「成人後には軍人として働く道も用意しました。精々頑張るのね」

 

 彼女らの狙いは自身の戦死、それに伴い支給される遺族年金である、と。

 

 見れば、今まで結婚した七人の夫は全員名誉の戦死を遂げたと身上書に堂々と書いてあり、もはや隠す気もない。

 

 父親もそれを察しているのだろうが、止めるに止められない様子だ。

 

 このままでは人生が終わってしまう──足元ががらがらと音を立てて崩れていくような錯覚に襲われ、冷や汗が流れ出す。

 

 そしてなぜか思い出したのは、前の年に父親から聞いた話だった。

 

 

「何でも空賊と連んで辺境の子爵家に戦争を仕掛けたらしい。でもその子爵家は攻めてきたオフリー家の軍を打ち破ったそうだ」

「子爵家が、伯爵家を?」

「よほど強い軍隊を持っていたんだろうな。オフリーの軍に攻められる前に大きな空賊団に領地を襲われたらしいが、これもあっさり倒したんだと。で、その空賊の飛行船からオフリー家と連んでいた証拠が見つかって、オフリー家取り潰しに繋がったってわけだ」

「へ、へぇ──凄いなその子爵家。何て家なの?」

 

 

「ファイアブランド。ファイアブランド子爵家だ」

 

 

 そしてリオンは悟る。

 

 ──そうか。ファイアブランド家もこういう状況でこういう気分だったわけか。

 

 彼らの敵は圧倒的な戦力と家格の高さ、王国中枢への繋がりを持つ伯爵家。

 そして今自分を追い込んでいるのは、王国の制度と価値観に守られ、こちらの弱みに付け込んで好き放題狼藉を働く悪女共。

 

 抗ったところで到底勝ち目など見えない強大な相手ではあれど──

 

(この状況を打開できる武器は──ある!)

 

 今まで持っていながら特に使うこともなく、時と共に忘れていくに任せていたこの世界の秘密。

 今こそそれを使って抗うべきではないのか。

 

 攻め込んできた空賊を倒し、その時偶然手に入れた伯爵家の犯罪の証拠を活用して伯爵家を倒し、未来を掴み取ったファイアブランド子爵家のように。

 

 そう考えて、リオンは決断する。

 この理不尽を強いてくる者たちへの叛逆を。

 

 その意志を込めて、リオンは正妻に向けて口を開いた。

 

「──いいでしょう。ならその金は俺が自分で用意します。それなら、問題ないでしょう?」

「あら、金を稼いだこともない穀潰しが随分大きな態度に出たわね。このお見合いの話を断るのは失礼に当たるわ。入学費だけを稼げば良いなんて都合の良いことだけを考えているのなら止めておきなさい」

 

 鼻で笑って、聞いていない話を持ち出してくる正妻に腸が煮えくり返りながらも、リオンは努めて笑顔で言い放つ。

 

「そうですか。ならばその失礼とやらの補償も言い値で払いましょう。いくらですか?」

 

 正妻が額に青筋を浮かべて怒鳴ってこようとしたが、その前に父親が仲裁に入った。

 

 そして三人の間で後日正妻を通じて先方から提示された金額を支払えば縁談は取り消すとの合意が形成された。

 

 一先ずは怒りと悔しさは残りながらもその場は収まって、父親共々安堵したリオンだったが、彼はまだ知らなかったのである。

 

 縁談の裏にあった恐るべき事実と、これから待ち受ける悲劇を──




バタフライエフェクトでリオン君もハードモードになっちゃったのです。


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囚われた者たち

 運命というものは実に繊細で複雑なものである。

 

 それこそ蝶の羽ばたき一つが遠く離れた地で嵐を起こすなどという例えがなされるほど、ほんの些細な違いが大きな変化を生み出す。

 

 それは物理的な自然現象に止まらず、人の心にすら及び、その行動を違ったものにする。

 

 ファイアブランド子爵家によってオフリー伯爵家が倒された時、オフリー伯爵家と手を組んでいた、更に言えばそれによって制御されていた空賊や犯罪組織は抑えを失った。

 

 ある者は新しく手を組む相手を探し、ある者はタガが外れたように暴れ出した。

 

 そして後者への対処のために動員されるは王国の軍人である。

 

 戦いが起これば戦死者が出るは必然。

 戦死した者たちは更なる喪失と歪みを引き起こし、連鎖的に運命を変えていく。

 

 王国内の物流に欠かせない重要な航路の一つを脅かし始めた空賊団を撃滅すべく派遣されたとある艦隊では、まだ髭が生え始めたばかりの若い男が鎧を駆って戦い、そして奮戦虚しく撃墜されて死んだ。

 

 若い男の死によって寡婦になった女はすぐに知り合いに声をかけて後夫を探し始めた。

 

 そして知り合いの一人が自分の夫とその妾の間に生まれた三男坊を薦めたことで、彼の運命は決定づけられた。

 

 

◇◇◇

 

 

 鼻腔に侵入する饐えた臭いに思わず顔を顰めて目を覚ます。

 

 視界がぼやけているが、薄暗くじめじめしていて空気が澱んだ場所にいるのが分かる。

 ぼんやりと光っているのはランプだろうか。

 

(あれ?俺、なんでこんな所に──)

 

 辺りを見回そうとすると、首に激痛が走った。

 

 どういうことだ?一体どうなっている?なんで、いつから、俺はこんな所にいるんだ?

 

 頭の中が疑問符で満たされるが、身体のあちこちが痛み、頭の中で鐘が鳴っているかのような耳鳴りがして思考も覚束ない。

 

「お────た。──おるな────い──るか」

 

 耳元で誰かが囁いているかのような声が聞こえる。

 何を言っているのかは全く分からず、声自体にも聞き覚えがなかった。

 

 ふと、ぼんやりした視界を黒い影が遮る。

 声の主はその影のようだ。

 

(──誰だ?)

 

 必死で目を凝らして見ようとするが、なかなか焦点が合わず、すぐに眠気が襲ってきて瞼が下がってくる。

 

 駄目だ。眠っては駄目だ。

 ここで眠っている場合ではない。

 俺にはやることがある。何か、大事な使命が──

 

 なぜか、そんな気がして、必死で重い瞼と格闘する。

 

 そして──

 

「ぉい!!──かりしろ!」

 

 耳元で別の声が怒鳴り、リオンの意識は再び覚醒した。

 

「おお、目が覚めたぞ。よかった」

 

 徐々に焦点が合って、目の前で安堵する二人の人間の顔が見えた。

 

 彼らの顔には声と同様見覚えがない。

 

 一人は六十過ぎと思われる老人。

 白髪の混じった黒い髪と髭、日焼けして皺の深い肌、優しげな目つきと青い瞳。

 柔和な雰囲気ながら、どことなく貫禄のようなものも感じ取れる不思議な人物だった。

 

 もう一人は十代後半か二十歳くらいの若い女性。

 ウェーブのかかった臙脂色の髪に褐色の肌、オレンジ色の瞳を持った美人だった。

 

「ここは──」

 

 痛みを堪えて問いかけると、老人が口を開く。

 

「空賊船の中じゃ。半刻ほど前にお前さんはここに放り込まれてきた。酷い怪我じゃったが、どうにか峠は越えたようじゃな」

「空──賊?」

 

 老人の言葉にリオンは戦慄した。

 

 読んで字の如く飛行船を駆り、空で略奪を行う犯罪者集団。

 そんな悪党共に捕まって監禁されているという事実。

 その意味する所は容易に察しがついた。

 

 空賊に捕まった者は身代金を支払わなければ解放されることはなく、行き着く先は人身売買か、奴隷労働か──最悪の場合殺されることもあり得る。

 

 逃げないと。

 一刻も早く、ここから逃げないと。

 

 焦燥感に駆られて起きあがろうとするが、すぐに全身に激痛が走り、リオンは悲鳴を上げた。

 

 老人が慌ててリオンを止める。

 

「よさんか。まだ起き上がれる状態ではない」

 

 全身の痛みと老人の忠告にリオンは逃走を諦めた。

 

 だが、焦燥感は募るばかりだ。

 

 こんな所で寝ている場合ではない。

 早く脱出して、あの場所に行かなければならない。

 でないと──

 

「随分手荒くやられたみたいだね。こんなにボロボロになるまで拷問されるとか、アンタ一体何に目を付けられたの?何かよっぽどの物でも持ってたとか?」

 

 女性の言葉にリオンはふとあることに気付く。

 

(あれ?そういえば俺、どこに向かっていたんだ?)

 

 どこか、行かなければならない所があって、そこに向かっていたのは覚えているのだが──一体どこへ、何をしに向かっていたのだろう。

 

 とても大事なことのはずなのに、頭に靄がかかったかのようだ。

 

 そんなリオンを見て老人が困った顔で頭を掻く。

 

「覚えておらんようじゃな。頭を打って記憶が飛んでおるのじゃろう。まあ、時間が経てば思い出すじゃろうが──」

「貴族だからだろ」

 

 不意に軽薄な声がしたかと思うと、老人の後ろから大柄な青年が姿を現し、リオンの顔を覗き込んだ。

 

「やっぱりな。身なりからしてそうじゃないかと思ってたが、目見て分かったぜ。こいつ、どこかのボンボンだ。だからどこから来たかしつこく訊かれたんだろうよ。身代金の請求先を知るためにさ」

 

 青年がリオンを見る目には軽蔑が込もっていた。

 

「貴族?この子が?そうは見えないけど?」

 

 女性が疑問を投げかけるが、青年は涼しい顔で返す。

 

「お前の目は節穴かよ。こいつの服はけっこう上等な品だろうが。王都でもなきゃ庶民が着てるもんじゃねえよ。まあ、貴族っつっても大方辺境のなんちゃって領主貴族だろうけどさ」

 

 そして青年は踵を返して部屋の隅へと戻っていく。

 

「どうせ家出したか、何か一山当てようと思って冒険にでも出たんだろ。で、その結果がこれか。馬鹿だな〜。家族もきっと悲しんでんぞ〜」

 

 嘲笑う青年を老人と女性が睨みつける。

 

 だが、青年の発した言葉が妙に引っかかった。

 

 家族──両親がいたのは確かだ。

 顔だって思い出せる。最後に見た時は──不安そうな顔をしていた。

 

 なぜ不安そうに──不安──心配。

 そうだ。両親は俺を心配していたんだ。

 旅に出る俺を──旅に──飛行船で──たった一人でボートみたいな小さな飛行船で港を離れて──

 

「ッ!!」

 

 一瞬で全てが繋がった。

 

 小さな飛行船で冒険に出たこと、その飛行船に積まれていた特別な武器、その武器を使おうとしていた場所──そしてそんな冒険に出た理由も。

 

 たしか俺はこの間とんでもない縁談を持ち込まれて、それから逃れるために金を稼ごうとして──

 

 

◇◇◇

 

 

 大きな音を立てて倉庫の扉が開けられる。

 

 埃や蜘蛛の巣に塗れた倉庫から一番まともそうなライフルを取り出し、分解整備を始める。

 壁に飾られていた剣も抜き取り、切れ味を確かめる。

 

「お、おい、どうするつもりだ?」

 

 父親が不安げに声をかけるが、リオンは怒りを込めて叫んだ。

 

「変態婆に売られる前に、何が何でも金を稼ぐんだよ!嫌だぞ。俺は嫌だからな!」

 

 そう言って武装の準備を進めるリオンを両親は止められなかった。

 

 それもそのはず、リオンは一攫千金を成し遂げて生きるか、戦場に送られて死ぬかの瀬戸際だったのである。

 

 一週間前、正妻から急に持ち込まれた異常な縁談の理由を探るために王国本土の学園にいる次男【ニックス】に手紙を送ったのだが、先程届いたその返事の内容はリオンの予想を超えていた。

 

 縁談の相手は【淑女の森】と呼ばれる集まりを開催しており、婿に迎えた男を次々に戦場送りにして戦死に追い込み、遺族年金をせしめるビジネスを展開していたのだ。

 しかも真偽は不明だが、戦場に送られた男たちは戦死したのではない、淑女の森の手先によって殺されたのだという噂まであった。

 

 そんな極悪人であるが、身分だけは高く、金も持っている。

 正妻はリオンをそこへ売りつけて一儲けしようとしていたのだった。

 

 つい昨日までは何かビジネスをやって稼ごうと考えていたが、事ここに至ってはもはやそんな悠長なことはやっていられなくなった。

 一刻も早く大金が必要だ。

 

 そのためにリオンが選択したのは冒険者となることだった。

 

 この世界の誰も知らない場所にあるとんでもない宝の存在を彼は知っていた。

 

 もちろん簡単に手に入る代物ではないし、そもそも本当にあるかどうかも定かではないが、賭けてみる価値は十分過ぎるほどにあった。

 というか、それに賭ける以外に今の状況を打開できる道は殆どなかった。

 

 冒険者として旅に出ることに両親は難色を示したが、リオンは強引に押し切った。

 

 リオンの覚悟の程を見た父親は彼のために飛行船と特別な魔弾を用意することを約束してくれた。

 

 そして一ヶ月後、誂えた武器弾薬といくつかの道具、そして二ヶ月分ほどの水と食糧を飛行船に積み込んで、彼は故郷を離れた。

 

 

 

 更に一ヶ月後。

 

「もっと前から努力しておけばよかったな」

 

 飛行船の上でリオンは呟いた。

 

 これまでにも自分の持つ知識を使って成功を掴もうと考えたことは一度や二度ではなかった。

 のみならず、そのチャンスだってあった。

 

 一昨年のファイアブランド家によるオフリー家の取り潰し。

 あの時、本気でファイアブランド家に関する情報収集に動いていたら──定期船に密航するなりして領地を出て、秘密の知識を活かして金を稼いでいたなら──少なくともこんな切羽詰まった事態にはならなかったのではないか。

 

 当時の自分の年齢と能力、家族への迷惑を考えてやる前から諦めてしまったのは大いに悔やまれた。

 

 そして一頻り後悔に悶えた後、嘆いていても仕方ないと思い直す。

 船出してからずっとその繰り返しだ。

 

 そして今回も、未来のことに目を向けようと自分に言い聞かせて、双眼鏡を手に取ったのだが──

 

「──え?」

 

 全身に寒気が走り、冷や汗が噴き出した。

 

 双眼鏡に映ったのは黒い旗を掲げた飛行船の姿だった。

 

 ──空賊だ。

 

 大慌てで舵輪を回し、エンジンを全開にして逃走を図ったが、既に手遅れだった。

 ものの数分で刺々しい装飾の付いた鎧が三機、リオンの飛行船に群がり、銃口を向けてきた。

 

 それを見てリオンは抵抗を諦め、両手を頭の上へ上げた。

 

 空賊の飛行船がリオンの飛行船に横付けし、空賊たちが乗り込んできた。

 

「ちっ、シケた舟だな」

 

 その小ささ故にロクに奪るものがないことに空賊の一人が毒づく。

 

(そうだよ。水と食糧以外には何も積んでないシケた小舟だよ。だからさっさと失せろ。頼むからこのまま気付かないで見逃してくれ──)

 

 見張り役に剣を突きつけられて冷や汗を垂らし、心臓が激しく脈打ちながらも、リオンは冷静を装って内心祈る。

 

 空賊を振り切れないと分かった時、リオンは武器弾薬と道具類を飛行船の浮袋の中に隠したのだ。

 

 通常飛行船の浮袋には何も入っていない。空気より軽いガスか、熱した空気を充填して飛行船を浮かせる装備であって、物入れに使うものではないからだ。

 だからわざわざ中身を検めたりはしないはず──そう思いたかった。

 

 そして期待通り、空賊たちは忌々しげな顔をして臨検をやめた。

 

 だが、何があろうと手ぶらでは帰らないのが空賊である。

 

「ほーう?チンケだが、良い玉じゃねえか。コイツは貰っていくぞ」

 

 バンダナを巻いた空賊が飛行船のエンジンと魔石に目を付け、取り外しにかかった。

 

(くそっ!)

 

 リオンは内心舌打ちしたが、どうすることもできない。

 それに武器を奪われるのに比べればまだマシだ。

 

 そう思って抵抗しなかったリオンだが、それが完全に裏目に出る。

 

「あ?てめえ妙に落ち着いてやがるな」

 

 さっきシケた舟だと毒づいた空賊がリオンを睨みつける。

 

 思わず身体が強張る。

 

「抵抗もなきゃ命乞いも懇願もしねえ──そんな奴は何かある。おいガキ、てめえ何を隠してやがる?」

 

 間近で凄まれ、問いかけられる。

 

「な、何も隠してなんていませんよ?」

 

 引き攣った笑みを浮かべて言い訳するが、それが空賊の神経を逆撫でしたようだ。

 

 首を掴まれ、身体が浮き上がる。

 

 そのままリオンは空中へと高く持ち上げられた。

 身体の重みで首が千切れそうに痛い。

 それに加えて締め上げられてもいるので息ができない。

 

 声にならない呻き声を上げて苦悶するリオンを空賊は冷たい眼差しで見上げる。

 

「嫌なツラだな。ヘラヘラ笑いやがって、気色悪い。その頭かち割って海にぶちまけてやろう──か」

 

 空賊が目を見開く。

 

 次の瞬間、空賊は手を離し、リオンは船底に落ちて尻餅をついた。

 

「おい、浮袋の中に何かあるぞ!」

 

 そう言って空賊は剣を抜き、鋒を引っ掛けて荷物を引きずり下ろした。

 

「やめろ!それに触るな!」

 

 リオンは見張り役を殴り倒し、遮二無二荷物の方へと突進した。

 

 だが、不安定な小舟の上では思うように動けず、あっさりと捕えられてしまう。

 

「くそっ!放せ!それは──それだけはやめろぉぉぉ!!」

 

 暴れるリオンを空賊は殴りつけた。

 

 気を失って静かになったリオンを見て、空賊はこれは余程の価値がある荷物なのだろうと思った。

 

 そしてそれは間違っていなかった。

 

「こいつァ──なんだってこんな良い武器持ってやがる」

 

 出てきた高性能のライフルと高価な魔弾を見て空賊は訝しむ。

 コイツには何かある。もしかしたらどこか良い所のボンボンかもしれない。

 

 そう考えた空賊は仲間に言ってリオンを空賊船へと運ばせた。

 

 空賊たちが引き上げると、リオンの飛行船と空賊船を繋いでいたロープが外される。

 

 積荷はおろか、エンジンも魔石も浮遊石も根こそぎ持ち去られ、主人も失った小さな飛行船は力なく海へと落ちていった。

 

 

 

 空賊船に運び込まれたリオンは顔面に思い切り水を浴びせられて目を覚ます。

 

「起きろガキ。訊きてぇことがある」

 

 目の前にさっき自分を殴り倒した空賊の顔が迫る。

 

「お前、ただの旅人や冒険者じゃねえな。こんな洒落たモン隠し持ってやがって、どこで手に入れやがった?お前は何モンだ?」

 

 直感で正直に答えては不味いと悟った。

 三男坊の庶子とはいえ貴族だと知られれば、空賊たちは身代金を取り立てようとするだろう。

 そして正妻はともかく、父親と母親はそれに応じてしまうことも容易に想像できた。

 

 冒険に失敗した挙句、身代金という大損を拵えた自分がどうなるか──想像するだけで悪寒が走る。

 

 だからリオンは何を訊かれても、何をされても自分の素性は明かすまいと固く決意した。

 

 だが、答えないリオンに業を煮やした空賊が合図し、鞭が振るわれる。

 

 背中に走る鋭い痛みと衝撃にリオンは思わず悲鳴を上げた。

 

「もういっぺん訊くぞ。この洒落た弾はどこで手に入れた?お前は何モンだ?素直に答えた方が身のためだぜ?」

 

 空賊の問いかけにリオンはそれらしい嘘を吐く。

 

「冒険者ギルドで買ったんだ。コツコツ貯金して──俺はただの冒険者だ」

「嘘つけ。お前まだ十五にもなってねぇだろ。んなガキがこんな洒落たもん買えるくらい稼げるかってんだ」

「嘘じゃない!──たまたま運良く一山当てたんだ!それで次は未開のダンジョンを探そうと思って良い武器を買って、舟で出た!なのにお前らに──」

 

 言い終わらないうちに顔面に空賊の拳が直撃する。

 

「いい加減にしろよテメェ。俺たちがその程度の嘘も見抜けない間抜けだとでも思ってんのか?舐められたモンだな」

 

 額に青筋を立てた空賊の合図で再び鞭が振るわれ、リオンは苦痛に呻いた。

 

「どうやらまだ痛みが足りねえらしいな。おい、死なねぇくらいに徹底的に痛めつけてやれ」

「へい!」

 

 鞭が唸りを上げて叩きつけられる。

 何度も、何度も、何度も、何度も──

 

 そのまま夜になるまで背中に胸に腹に頭に数え切れないほど鞭を打たれて、息も絶え絶えになったところでようやく空賊たちは拷問をやめた。

 

 そして一晩の休息を与えるために牢屋に放り込んだのだった。

 

 

◇◇◇

 

 

「逃げないと」

 

 痛む身体に鞭打ってリオンは起き上がる。

 

「おい待て、よさんか。そんな身体では──」

「このままじゃまた拷問されるだけなんだよ!」

 

 魔力のおかげで多少は身体が回復している。

 

 空賊共が見積もっているであろう、また拷問に耐えられるようになる時間が来る前にさっさと脱出しなければならない。

 

 武器弾薬を回収して、適当なボートでもいいから飛行船を盗んで夜に紛れて逃げる。

 

 成功率はと聞かれたらまるで自信がないが、やらなければ人生が詰む。

 

 立ち上がろうとしたところで足の違和感に気付いた。

 

 見ると、頑丈そうな足枷が両足首を縛めていた。

 微妙な長さの鎖のせいで歩くことはできても走ることはできなくなっている。

 

「その鎖は鋼じゃ。千切るのも外すのも──」

 

 老人が悲しげな表情で言ったが、リオンは諦めなかった。

 

 辺りを見渡し、鉄格子の隙間に左足を捩じ込んで固定すると、魔力で肉体を強化し、渾身の力を込めて右足を蹴り上げる。

 

 弾みで足枷が皮膚を破って肉に食い込んだが、鎖は千切れて両足は自由になった。

 

「お前マジかよ」

 

 先程嘲笑っていた青年が目を見張る。

 

 青年を無視して、リオンは鉄格子の扉に向かい、錠前を魔力で強化した蹴りで破壊した。

 

 扉が開き、リオンは衝撃で受けた痛みが引くのを待ってさっさと出て行こうとするが、その手を掴む者がいた。

 

 見ると、臙脂色の髪の女性が真剣な眼差しで見つめていた。

 

「闇雲に逃げようとしたって駄目だ。ここは協力しよう」

「協力?」

「そう。ここから出たってアンタこの船からは出られないでしょ?ボートや鎧を奪ったところで追いつかれるか、陸に辿り着く前に燃料切れだ」

 

 女性の言葉は正論だった。

 ボートを盗むつもりだったが、逃げ切れるかどうかは賭けだ。

 

 だが、どうやら女性がその問題を解決する手段を知っているらしい。

 

「何か手があるのか?」

 

 女性は頷き、提案を持ちかけてくる。

 

「あーしの船がこの船の後ろに繋がれてる。それなら夜の間に振り切って陸まで行ける。アンタをそれに乗せてやる。代わりに回収に手を貸して欲しいんだ」

「回収?何のだ?」

「あーしが運んでた荷物だ。それがないと逃げても意味がない。別にそんなに嵩張るものじゃない。頼む。協力してくれ」

「──分かった。やろう。俺にも回収したいものがある」

 

 受け入れると、女性は笑顔になった。

 

「あーしはアラベラ。アンタは?」

「──リオンだ」

「じゃあリオン、よろしく頼むぜ」

 

 アラベラと名乗った女性がリオンの手を握る。

 

「正気かよアラベラ。こんなガキ一人の力当てにして逃げるとか、無謀過ぎだぞ」

 

 青年が苦虫を噛み潰したような顔で割り込んでくるが、アラベラはキッと青年を睨みつけて言った。

 

「ならアンタはずっとそこで大人しくしてなよランダル。どんなに小さくても道があるならあーしはそこに賭けるから。成功したら丸儲けできるしね」

「──チッ、わーったよ。おいクリアン爺さん、アンタも来い。こうなりゃ全員でやるぞ」

「──元よりそのつもりじゃったとも」

 

 ランダルと呼ばれた青年が舌打ちしつつも了承し、クリアンと呼ばれた老人も立ち上がり、扉をくぐる。

 

 四人は取り外したランプの明かりを頼りに互いに死角を補い合いながら暗い通路を進んでいく。

 飛行船の構造に詳しいアラベラとランダルが先行し、リオンとクリアンが側面と背後を警戒する形だ。

 

 時々通路にだらしなく寝転がっている空賊を避けながら、四人は貨物室や分捕り品置き場と思しき場所を探していく。

 

「ここが怪しい」

 

 ランダルが南京錠の掛かった扉を指差した。

 

 後方の見張りをランダルと交代し、リオンは南京錠を壊しにかかる。

 

 音を立てれば空賊共に気付かれる恐れがあるため、扉ごと蹴り壊すわけにはいかず、魔力で腕力を強化して掛け金の部分を捩じ切らなければならない。

 

 南京錠は思ったよりも頑丈で、力を込め続ける手と腕が悲鳴を上げる。

 

 体感で数十分は過ぎたかと思われた頃にようやく掛け金が捻じ切れ、扉が開いた。

 中にはたくさんの木箱や袋が乱雑に積み上げられていた。

 

「思った通りだ。俺たちのブツがある」

 

 ランダルが舌なめずりして、アラベラと二人がかりで荷物の山からトランクを三つ掘り出した。

 

「ついてるな。全部無事だぜ。んで、お前のは──あったか」

 

 リオンの方もライフルと魔弾の入った袋を見つけていた。

 どうやら売り物にするつもりだったらしく、手荒に扱われたり抜き取られたりした形跡はない。

 

「よし、ひとまずブツはクリアだな。問題は次だ。船に移るには甲板に出なきゃいけねえ。そこで見張りに見つかったら終わりだ」

「つまり、まず見張りをどうにかしなきゃいけないってわけか?」

「そうだ。リオン、またお前の出番だ」

 

 ランダルがリオンを指差すと、クリアンがそれを聞き咎める。

 

「待て。リオンは戦える状態にまではなっとらん。それはお前たちがやるべきじゃ」

「あ?寝言言ってんじゃねーぞ爺さん。俺たちは魔法も使えないし腕力だって大したことねえ。コイツにやらせた方が上手くいく可能性は高いって分かんねーか?」

「そう言って危険を押し付けてその隙に自分たちだけで逃げる気じゃろう。そんなことで協力と言えるのか?えぇ?」

 

 ひそひそ声で言い合いを始めるランダルとクリアンをアラベラが仲裁した。

 

「こんな所で言い合ってる場合じゃねえだろ。分かった。あーしらがやるから、アンタらはカバーしてくんな」

「なっ、アラベラてめえ──」

「ほら行くよ」

 

 抗議しようとするランダルを無視して、アラベラは歩いていく。

 

 

 

 後甲板。

 

 昇降口で身を屈めて様子を窺うアラベラが呟いた。

 

「いるね。一人だ」

 

 その隣でランダルが忌々しげに呟く。

 

「野郎、けっこうなデカブツだぞ。やれんのか?」

「──ランダル、アンタあいつに近づいて。交代だとでも言って気を逸らすの。その隙にあーしがやる」

「しくじったら承知しねえからな」

 

 アラベラが素早く作戦を立て、ランダルと共に忍び足で甲板に出る。

 その後ろにリオンとクリアンも続いた。

 

 そのまま物陰に身を隠しながら四人は見張りの空賊へと忍び寄っていくが──

 

「フネノイチイン!」

 

 不意にしゃがれた甲高い声が響く。

 

 声のした方を振り向くと、目が異様に大きなオウムのような鳥がじっとこちらを見つめていた。

 

「おい静かにしろ馬鹿鳥。お前には何もしねえから」

 

 ランダルが小声でそう言って離れようとするが、オウムは翼を激しく羽ばたかせて威嚇の姿勢を取る。

 

 その嘴が蛇のように大きく開き、さらに大きな声を上げる。

 

「フネノイチイン!!フネノイチイン!!フネノイチイン!!ヤロウドモ!!ホリョガニゲタゾ!!」

「てめえ!静かにしやがれ!」

 

 ランダルがオウム目掛けて飛びかかるが、オウムはひらりと躱して飛び立ち、甲高い声で喚きながら飛び去った。

 

 オウムが見えなくなった直後、けたたましい鐘の音が響き渡り、空賊たちがどやどやと昇降口から姿を現した。

 

 四人はすぐに見つかり、取り囲まれてしまった。

 

 

 

 甲板に縛られた四人が座らされる。

 

 周囲は武器を持った空賊たちに囲まれ、蟻の這い出る隙もない。

 

 そして現れたのは黒いコートを纏った船長である。

 その肩には先程暴れて喚いていた異形のオウムがとまっている。

 

「何事だ甲板長」

「捕虜が逃走を図りました。申し訳ありません。奴らを見くびっておりました」

 

 甲板長と呼ばれた空賊が頭を下げる。

 

「そうか。全く恩知らずな連中には困ったものだ。積荷と引き換えに命を助けて、陸に送り届ける保証もしてやったというのに、コソ泥を働いて逃げようとするとは」

 

 船長が大袈裟に頭を抱える仕草をする。

 

 それを見てリオンは内心毒づいた。

 

(何が恩知らずだ。いきなり襲ってきて何もかも取り上げて散々鞭をくれやがっただけのくせに。大体コソ泥じゃねーし。取られた物取り返しただけだし。ふざけんなよ!)

 

 そしてそれはアラベラとランダルも同じのようで、二人とも歯を食い縛っている。

 

 船長は溜息を吐くと、次の瞬間冷酷な犯罪者の顔へと変貌する。

 

「で、言い出しっぺは誰だ?」

 

 底冷えのする声で問いかけられて、ランダルが肩を震わせ──あっさりと口を割った。

 

「コイツだ!このガキが牢屋の鍵をぶっ壊して逃げ出そうとしたんだ。んで、この女がそれに乗っかった。俺は反対したけど、仕方なく従っただけだ!」

「なっ!?アンタ仲間を売る気!?」

「うるせえ!事実だろうが!」

 

 縛られたまま口汚く罵り合いを始めるアラベラとランダルをよそに船長はリオンの方へと近づいてきた。

 

「ほう?お前が牢屋を破ったと?それは本当か?──どうなんだ!?」

 

 リオンの首を締め上げ、怒鳴りつける船長。

 

 息が詰まり、首の骨が嫌な音を立てて、リオンは辛うじて動く目の動きで頷くしかなかった。

 

 それを見た船長は額に青筋を立ててリオンを甲板に叩きつけた。

 そのまま頭を踏みつけようとした所で──

 

「待て。その子は牢屋を破って、貨物室の鍵を壊しただけじゃ。言い出しっぺではない」

 

 船長を止めたのはクリアンだった。

 

 クリアンは訝しむ船長の顔をまっすぐ見つめて、言った。

 

「わしじゃ。わしがその子を唆した。この脱走は全てわしの企みでやったことじゃ」

 




カッコいい爺キャラの条件は老いてなお盛んってだけじゃないと思う

ちなみにオウムは船長の使い魔


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「ほーう?お前が言い出しっぺか?」

 

 船長がクリアンの目の前にしゃがみ込む。

 

「そうじゃ。制裁を加えるならわしにせい」

 

 クリアンが船長を睨みつけてそう言うと、船長は首を傾げる。

 

「あれれ~?おかしいな~?さっきそこの青二才君はそんなこと言ってなかったぞ?同じ牢屋の中にいて聞いてないなんてことはないはずだがなァ?」

「お前さん、船長のくせに頭が足りんのじゃな。その青二才が図太く眠りこけておったなら話し声は聞こえておらぬじゃろう」

 

 棘を含んだクリアンの言葉に船長は顔を歪める。

 

「そんな暴言を吐くとは勇敢だな。ええ?ならお望み通り制裁はお前にしてやろう。おい甲板長、この糞爺を鞭で百叩きにしろ。本気を出してもいいぞ」

「はい船長」

 

 甲板長が嗜虐的な笑みを浮かべて鞭を手にする。

 

 瞬間、リオンはたまらず叫んだ。

 

「やめろ!その人は関係ない!言い出しっぺは俺だ!」

 

 何をやっているんだと自分でも思ったが、口と喉が勝手に動いていた。

 鞭で百回も本気で叩かれたら死んでしまう。しかも無実の人が──それも瀕死の自分を介抱してくれた恩人が自分を庇ってそうなるなど、到底見て見ぬふりはできなかった。

 

 だが、船長は取り合わない。

 

「コイツが罰を受けることはもう決まってるんだ。もう誰がどうとかは関係ねーんだよ」

 

 直後、クリアンの衣服が引き裂かれ、露出した背中に鞭が叩きつけられる。

 

 クリアンは歯を食い縛って悲鳴一つ漏らさなかったが、その背中には大きな裂傷ができていた。

 

 流れ出る血を見てリオンは小さく悲鳴を漏らす。

 

 自分がされていた鞭打ちは死なないように加減されていた、本物の鞭打ちとはこうも強烈なのだと否応なく認識させられた。

 

「よぉく見ておけ。これが逃げようとした恩知らずの末路だ」

「やめろ!やめてくれ!その人は無実だって言っているだろうが!」

 

 リオンは諦め悪く船長に懇願するが、帰ってきたのは蹴りだった。

 

「ギャアギャアうるせーよガキ。せっかくあの馬鹿な爺のおかげで罰を受けずに済むんだから、ありがたいだろうがよ」

「この人でなし共がぁぁぁあああ!!」

「やめろリオン!」

 

 叫ぶリオンを遮ったのはアラベラだった。

 

「クリアンさんがなんで名乗り出たのか考えろ!その思いを無駄にするな!」

 

 悲痛な表情で叫ぶアラベラに──怒りが湧いた。

 本人の意思だからといって無実の恩人が身代わりに鞭打たれて死ぬのを黙って見ていろだと?ふざけるな!

 

 きっとそんな怒りで鬼の形相になっていたのだろう。

 

 アラベラは僅かに怯んだ様子を見せたが、主張を曲げることはなかった。

 

「あーしらにはもうこの状況を打開できる力も策もない。どうしようもないんだよ。これ以上無駄に血を流しちゃ、駄目だ」

 

 諭すようなアラベラに言い返す言葉が見つからなかった。

 

 自分たちは両手足を縛られていて、空賊たちに囲まれていて、武器一つない。

 

 肉体強化魔法を試してみたが、縄を千切ることはできなかった。

 

 仮に千切れたとしても、次の瞬間には周りの空賊共に撃たれて蜂の巣だろう。

 

 ──完全に詰みだ。

 

(違う!諦めたらそこで終わりだろうが!考えろ!何か、コイツらの注意を引けるようなこと──交渉材料!)

 

 そして思いついたのは、誰も知らないこの世界の秘密というカードを明かすことだった。

 

 他の人間には絶対に知られるわけにはいかない、ましてやこんなならず者連中には教えられない重要な情報だが、恩人の命には代えられない。

 それに上手く行けば失った飛行船の代わりの足が手に入る。

 

「お願いだ!その人を殺すのはやめてくれ!代わりに宝の在処を教えるから!」

 

 リオンが叫んだ直後、鞭打ちが止まる。

 

 船長がゆっくりと振り向き、リオンに近づいてくる。

 

「今宝って言ったか?」

 

 値踏みするような目で問いかけてくる船長。

 

「ああ、そうだ。俺が魔弾を揃えて探しに向かっていた宝だ。その在処に案内するから、その人を殺すのをやめてくれ。頼む」

「ほーう、あんな洒落た武器を持ってた理由はそれか」

「そうだ。場所を知っていなければまず辿り着けなくて、危険なモンスターもいる古代遺跡だ。たまたま流れ着いた奴の話だと見たこともないロストアイテムがゴロゴロあったらしい。攻略は難しいけど、できれば中のお宝は独り占めできるだろうさ」

 

 宝云々はほぼ出任せだが、嘘ではない。

 

 嘘を見抜くコイツらならそれが分かるはず、そして空賊なら宝と聞いて放っておくはずはない──そう読んでの賭けだった。

 

 実際船長は興味を持っているようだ。

 

「二つほど訊こうか。まず──場所を知っていなければ辿り着けないその場所をなぜお前が知ってる?」

「俺から取り上げたコンパスがあるだろう。あれが座標を示してくれたんだ。あれは持ち主の俺が今一番欲しいものの在処を示す。そういう魔法がかかってるんだ」

 

 遥か昔に見た物語の記憶からそれらしい設定を引っ張り出して、話に混ぜ込む。

 コンパスが目的地の方向を指すのは本当だから嘘にはならないだろう。

 

「そりゃまた随分と凝ったもの持ってやがるな。目的地を指すコンパスか──」

「言っておくけど、コンパスと魔弾だけじゃお宝は手に入らないぜ。その遺跡のある浮島の数少ない記録と伝承を掻き集めて、地形と敵のいる場所を頭に入れている俺がいなきゃな」

 

 畳み掛けると、船長はフンと鼻を鳴らしてまた質問してくる。

 

「じゃ二つ目だ。お前は何者だ?ただの冒険者がそんな年でそんな豪華な魔弾だのコンパスだの誂えられるわけねえ。誰かに貰ったんだろう?」

「だからそれは──」

 

 用意した答えを繰り返そうとしたリオンだが、それを見た船長が合図し、クリアン目掛けて鞭が振るわれる。

 

「嘘一つ。よって糞爺に鞭打ち五回追加だ」

 

 船長が冷たく宣告し、クリアンが遂に悲鳴を上げた。

 

 リオンはとうとう観念した。

 

「分かった!分かったからやめてくれ!俺は貴族だ!魔弾もコンパスも飛行船も全部親父に貰ったんだ!」

「そうかそうか。道理でな」

 

 そして船長は合図して甲板長を下がらせた。

 

「いいだろう。許してやる。その浮島とやらに案内してもらおうじゃないか。だが、もしこれが小賢しい罠だと俺が判断した時は、あの爺とお仲間の命はねえぞ。そしてお前は貴族の色ボケ婆共に売り飛ばす。よぉく覚えとけ」

 

 船長の言葉に空賊たちはざわめき出す。

 

「まさか、このガキの言うこと信じるんですかい?」

「宝だァ?吹かしやがって」

「ぜってぇ罠だろうが」

「黙れ!船長の決めたことだ!」

 

 最後は甲板長が一喝し、空賊たちは騒ぐのをやめた。

 

 リオンは賭けに勝った。

 

 

◇◇◇

 

 

 ブリッジ。

 

 返却されたコンパスとテーブルに広げられた地図を見比べながら、リオンは目的地までの航路と日数を計算していた。

 

 空賊たちの注文で正規軍や地方領主がパトロールしている空域は通れないため、遠回りを強いられる形となりそうだった。

 旅に出た当初乗っていた小さな飛行船に比べて船足が段違いに速いことを考慮しても、辿り着くまでざっと一ヶ月はかかる計算だ。

 

 その結果を聞いた空賊たちは長旅に備えた補給の算段を立て始め、リオンはブリッジを追い出された。

 

 扉が壊れた牢屋の代わりに用意された船室にはアラベラとランダルがいた。

 

「上手いこと取り入ったみたいだな。えぇ?」

 

 ランダルが軽口を叩いてくるが、リオンは取り合わずに寝台の方へ向かう。

 

 そこにクリアンが寝かされていた。

 

 その側に座るアラベラがクリアンの容態を説明してくる。

 

「さっきちょっと目を覚ましたんだけど、また眠っちまった。アイツら酒も包帯の一つもくれないから、傷が膿んでやがる。どう転ぶか分からない」

「──そうか」

 

 やり切れない気分でクリアンの顔を覗き込む。

 

 殺すのはやめさせられたが、手当てに必要なものの提供を引き出せなかったのは自分の落ち度だ。

 そう思って、思わず拳を握り締める。

 

「リオン、アンタも少し休みなよ。怪我まだ治ってないでしょ」

 

 アラベラのその言葉が正しいのは分かっていた。

 だが、クリアンの痛ましい姿を見て休む気にはなれなかった。

 

 その気持ちを察してか、アラベラはそれ以上何も言わずに寝台の側の椅子を譲った。

 

 腰掛けたリオンはそのまましばらくクリアンの様子を見ていたが、不意にクリアンが呻き声と共に目を覚ました。

 

「クリアンさん!」

 

 思わず椅子から立ち上がって、リオンは必死でクリアンに呼びかけた。

 

「聞こえますか!?俺です!リオンです!分かりますか?」

「ああ──リオンか。怪我はなかったか?」

「俺は──無事です」

「そうか。よかった」

 

 ほっとした表情を見せるクリアンにいくつか質問して記憶や認知に異常がないか確かめて、リオンは安堵の溜息を吐いた。

 

 そして──

 

「どうして、あんなことしたんですか?」

 

 目覚めたばかりで悪いとは思ったが、どうしても気になったことを訊いてみた。

 

 クリアンは苦痛に顔を歪めながらも、口元に笑みを浮かべて言った。

 

「孫が生きておればお前さんくらいだから、かのう」

「孫──?」

「昔──息子がわしから独立して別の商売を始めた。それはもう、凄まじい大喧嘩をしての。じゃが、十年近く経って子供が生まれたと言ってわしに見せに来たんじゃよ。その子供──孫の顔を見た時、怒りも心配も何もかも馬鹿馬鹿しくなって、息子とも和解したんじゃ」

 

 クリアンはそこで話を一旦区切り、流れ出た涙を拭った。

 

「じゃが──息子たちが帰りに乗った飛行船が空賊に襲われた。船は沈められ、息子は殺された。嫁と孫の行方は分からん。あちこち探し回ったが、手がかり一つ掴めなんだ。光が満ちたと思った瞬間、暗闇のどん底に叩き落とされた気分じゃったよ。あれからもう十年以上経つかのう──もうわしは何もかもどうでもよくなっておった。ここに捕まった時もひと思いに殺してくれたらよかったのにと思うた。じゃが、お前さんが来て、何かが変わったんじゃ。まだ、わしにやれることはある、息子と嫁と孫は助けられなんだが、お前さんは助けられる──いや、助けたい。そう──思うたんじゃ」

 

 リオンはいつの間にか自分の目から涙が溢れているのに気付いた。

 

 この世界ではよくあることなのかもしれない。

 だが、それにしたってあんまりだ。

 喧嘩別れしたまま死に別れるのも残酷だが、仲直りした直後に理不尽に未来を奪われるのはその何倍も辛く苦しいことだろう。

 

 再び眠ったクリアンを見て、リオンは涙を拭った。

 

 だが、拭った側から新しく溢れ出てきて、止まらない。

 

 ふと、肩に柔らかい感触を覚えたかと思ったら、アラベラが悲しげな表情で手を置いていた。

 

 軽口を叩いていたランダルでさえ、ばつが悪そうにその後ろに佇んでいる。

 

 それを見てリオンは決意を新たにする。

 

 絶対に()()を成功させて、皆で一緒に生きて帰る。そして全てが終わったら、クリアンの孫とその母親の行方を探すのに協力しよう、と。

 

 

◇◇◇

 

 

 数日後。

 

 船が燃えていた。

 

 群がる鎧から放たれる弾丸がエンジンを撃ち抜いて炎上させ、プロペラを吹き飛ばして推進能力を奪う。

 

 止まった飛行船に空賊たちが乗り込み、命乞いする船員たちを無慈悲に虐殺して船内に突入していく。

 

 そして始まるのは掠奪である。

 

 運び出された積荷が次々に空賊船へと運び込まれ、最後には船室に火の手が上がった。

 

 長旅の前の腹拵えと嘯いての蛮行。

 

 それを何もできずに見ているしかない自分が情けなくて、リオンは悔し涙を流した。

 

 もうこれで三回目だ。

 

「糞が。ふざけるなよ」

 

 遠ざかっていく飛行船の残骸を目にして拳を船室の壁に叩きつける。

 

 空賊たちの蛮行も腹立たしいが、それ以上に自分が許せなかった。

 

 クリアンを助けるために致し方なかったとはいえ、空賊たちに宝の存在と場所を教えたばかりに無関係の人々が犠牲になった──そんな風に考えてしまう。

 

 その度にアラベラは無言で肩に手を置いてかぶりを振り、落ち着くよう促してくる。

 

 彼女の手の温もりとベッドで寝込んだままのクリアンの顔を見てどうにか怒りと自己嫌悪を呑み込む。

 

 今抗議や抵抗などすれば、クリアンもアラベラも自分も破滅あるのみ。

 今は耐える時だ。

 どうせ()()の最後には空賊たちには報いを受けてもらうのだ。彼らの無念はそれで晴らす──そう自分に言い聞かせる。

 

 

 

「これだけあれば半年近くは持ちそうだな」

 

 船倉に溜まった分捕り品を見て船長が満足げに宣う。

 

 遺跡に辿り着くだけで一ヶ月、更に宝探しにどれくらいかかるか分からない以上、長丁場を見越して食糧と弾薬は多めに持って行かなければならなかった。

 

 そのために予定よりも多くの船を襲うことになったが、周辺の領主の軍が出張ってくる様子はない。

 

 その理由を船長は知っていた。

 

 彼らは貧乏なのだ。

 古くなった軍艦を買い替えることもできず、修復して改造して騙し騙し使っていて、そんなオンボロすら虎の子の戦力なのだ。

 

 だからこそ、そんな虎の子の戦力を失うリスクは冒せず、もっと大きな家や正規軍に頼ることになる。

 

 だが、要請を受けて彼らが駆け付けるのにはどうしても時間がかかる。

 

 それまでに逃げ遂せればいい──そのはずだった。

 

「船長ォォォ!てえへんだ!正規軍の船がいやがる!」

 

 息を切らして走ってきた空賊が蒼褪めた顔で叫ぶ。

 

「何だと?」

 

 船長の額に冷や汗が浮かんだ。

 

 それは完全に計算外だった。

 最寄の正規軍基地は足の速い飛行船でも二日はかかる距離にあり、どんなに早く知らせを飛ばしても到着まで一週間以上はかかるはずだったのだ。

 

「数は?」

「中型戦艦と多分フリゲートが一隻ずつだ!」

「戦艦だと!?」

 

 船長は今度こそ目を剥いた。

 

 今船長が乗っている空賊船は、大型とはいえ武装商船を改造したものに過ぎない。

 小型軽装のフリゲートならともかく、戦艦には到底太刀打ちできない。

 

「何だってこんな空域に戦艦がいやがる。とにかく離脱だ!」

 

 船長は急いでブリッジへと向かい、航法士に針路を指示した。

 

 雲の密集した場所や岩や小島の多い空域に逃げ込み、そこで夜闇に紛れて振り切る──運悪く軍に見つかってしまった空賊の取る鉄板の作戦だ。

 

 尤も、鉄板だからこそ対策も確立されているのだが。

 

「船長!奴ら鎧を出してきました!十機以上はいます!」

「やっぱりか!こっちも鎧を出せ!この船に近づけるな!」

 

 鎧部隊を先行させ、さながら猟犬が獲物の脚に噛みつくかのように、推進装置や舵を攻撃して飛行船の足を鈍らせる。

 空賊を追う側の基本戦術である。

 

 船長の命令を受けてすぐに動ける全ての鎧が飛び立ったが、その数は十数機──殆ど互角だった。

 

 そして数の上で互角なら、全体的な練度で勝る正規軍の方が有利なのは自明の理である。

 

 腕の立つ者が数機を撃墜するも、あっさりと迎撃網は突破され、十機近くの鎧が空賊船に接近してきた。

 

 正規軍の鎧が放った魔弾がシールドに当たって炸裂し、空賊船は揺れる。

 

「何をやってる!反撃しろ!」

 

 船長は伝声管目掛けて叫んだ。

 

 甲板上に設置された速射砲が対空射撃を開始し、数発の赤い魔弾が敵の鎧目掛けて飛んでいくが、一発も命中することはなく、続いて放たれた正規軍の第二射がシールドに穴を開けた。

 

 その穴からすかさず後続が炸裂弾を撃ち込み、船尾甲板で爆発が起こった。

 

「くっ!弾幕張り続けろ!」

  

 船長は叫んだが、正規軍はそんな猶予は与えてくれなかった。

 

『撃て撃て撃て!!穢らわしい空賊共は皆殺しだあああああ!!』

『オラァァァ!死ねェ!ケダモノ共ォォォ!!』

 

 口々に叫びながら魔弾を撃ち込んでくる正規軍の鎧によって速射砲は瞬く間に操作用員ごと爆砕された。

 

 そして反撃能力を失った空賊船に数機の鎧が乗り込んでこようとするが──

 

『調子こいてんじゃねーぞ王国の糞犬共が!!』

 

 背後から振り下ろされた巨大なハルバードが鎧の頭部を唐竹割りにした。

 

 足止めを喰らっていた迎撃隊が背後についたようだ。

 

「おお!いいぞギー!」

「やっちまえぇぇぇ!」

 

 乱戦になって空賊船への攻撃が止み、怯えていた空賊たちが一転して歓声を上げる。

 

 だが──

 

『はっ、ちょっとは骨があるじゃねーか』

 

 軽薄そうな声が響いたかと思うと、ハルバードを持った空賊の鎧が吹っ飛ばされた。

 

『ってーなテメェこの野郎!』

 

 すぐに体勢を立て直した空賊の鎧は、追ってきた青い鎧目掛けてハルバードを振るう。

 

 しかし、その刃は虚しく空を切り、直後にハルバードを持つ右腕が破壊された。

 

『なっ!?』

『はっ、遅ぇんだよ。ゴテゴテ余計な飾り沢山付けて、重たい武器持って。それで強くなったつもりかよ?』

 

 青い鎧が嘲笑いながら剣を振り下ろすが、すんでの所で空賊の鎧も左腕で剣を抜いて防いだ。

 

『舐めんじゃねーぞガキっころが!俺は不死身のギーゼル様だ!』

 

 ギーゼルと名乗った空賊は片腕だけで青い鎧を弾き飛ばした。 

 

 青い鎧のパイロットはそれでも余裕綽々で、もったいぶって名乗りを返してきた。

 

『へぇ、賤しい賊のくせにそんな大層な二つ名持ってんのかよ。んじゃ俺も名乗っとくぜ。俺はドルフだ。猟犬ドルフ。冥土の土産だ。覚えとけよッ!』

 

 ドルフと名乗った青い鎧のパイロットが再びギーゼルに斬りかかり、盛大に火花が飛び散る。  

 

 その一合でギーゼルは鎧の左腕の指を落とされた。

 

 保持できなくなった剣が海へと落下していくが、ギーゼルはなおも諦めずに破壊された右腕でドルフを殴りつけた。

 

 だが、ドルフもそれは予想していたのか、機体の角度をずらして最小限の動きで躱す。

 

『はは、鎧の拳でそれやるたァ品がねーな!得物を落とされたら潔く降参しとけばいいのにさ!』

『抜かせ糞ガキ!その口引き裂いてやらァ!』

 

 追い縋り、懐に飛び込んで拳打を叩き込もうとするギーゼルだったが、それは完全に悪手だった。

 

『だから遅ぇんだよ!』

『グァぁぁあああっ!!』

 

 魔力を帯びて切れ味を増した剣が胸部装甲を容易く切り裂き、コックピット部分を両断する。

 

 ギーゼルはその一撃で致命傷を負ったらしく、鎧は力なく海へと墜落していった。

 その寸前でまだドルフに掴みかかろうと手を伸ばしてはいたが、届くことはなかった。

 

『はっはァ!不死身とか抜かした糞雑魚ギーゼル、猟犬ドルフが討ち取ったぞ──!』

 

 ドルフの勝ち鬨に正規軍は士気を上げ、空賊たちは戦意を喪失する。

 

「こ、降伏だ!降伏する!」

「助けてくれえええ!」

「お、お願いです!お慈悲を!」

 

 残っていた空賊の鎧は揃って武器を捨て、空賊船の船員たちもシャツを白旗代わりにして頭上に掲げる。

 

 船長も苦々しい顔をしつつもそれを咎めることはしなかった。

 

 そして正規軍は──

 

『断る』

 

 一斉にライフルの引き金を引いた。

 

 咄嗟に反応できた三機を除いて空賊の鎧は全滅し、甲板上で白旗を振っていた空賊たちも炸裂弾で肉片に変えられた。

 

 そのまま追撃が来るかと思いきや、正規軍の鎧は空中集合して離れていく。

 

 そして現れるのは飛行戦艦である。

 鎧の攻撃によって推進装置が損傷し、船速が鈍ったことで追いつかれたのだ。

 

 既に舷側をこちらに向けており、射撃態勢を整えている。

 

「面舵いっぱい!!」

 

 船長が叫び、空賊船は必死で戦艦の射線から逃れようと転舵する。

 

 元が鈍足な商船とはいえ、機関に改造が施されて出力が向上している空賊船は、その外見と損傷状態からは想像できない素早さで向きを変え、戦艦が発射した砲弾の半分以上が外れた。

 

 だが、残りの砲弾は船尾付近に直撃し、船室をいくつか吹き飛ばして火災を発生させた。

 

「火を消せ!シールドを船尾に集中しろ!」

 

 船長はダメージコントロールを命じるが、それによって防御に隙ができてしまう。

 

『そりゃそうなるよなァ!』

 

 ドルフの嘲笑う声がしたかと思うと、左舷に再び正規軍の鎧部隊が現れ、丸裸になった側面目掛けて撃ち込んできた。 

 

 一斉射で甲板上の救命ボートと辛うじて生き残っていた船首付近の速射砲が破壊され、続く第二斉射で左舷の砲郭が全滅した。

 

 そして反対方向、右舷には先回りして距離を詰めてきたフリゲートが猛攻撃を加えてくる。

 

 右舷の砲郭に残った数門の主砲が懸命に応戦するが、シールドの守りがないという不利は覆せず、すぐに直撃弾を喰らって沈黙した。

 

 もはや死に体となった空賊船を正規軍は容赦なく打ちのめしにかかる。

 

 所構わず砲弾を撃ち込み、船内に残った空賊たちを無慈悲に殺傷して、嘲笑う。

 

 そして鎧が放った魔弾の一発がリオンたちの収容された船室に飛び込んできた。

 

 幸い魔弾は部屋を突き抜けて壁の向こう側で爆発したが、衝撃で部屋は大きく揺れた。

 

 リオンは寝台のシーツを剥ぎ取り、窓から突き出して、声の限り叫んだ。

 

「やめろおおお!俺たちは捕虜だ!捕虜まで殺す気かあああ!」

「リオン危ない!」

 

 アラベラがタックルでリオンを部屋の隅へと突き飛ばした直後、二発目の魔弾が部屋に撃ち込まれ、窓と扉が粉砕される。

 

 部屋のすぐ外で魔弾は爆発し、それによって鼓膜がやられたのか、耳鳴りがする。

 

 そして破壊された窓の向こうから鎧のパイロットと思しき声が聞こえてきた。

 

『なぁんか囀ってる奴がいたが、気にする必要はないぞ!空賊船に乗っているのは空賊だけ、白旗を振る奴は意気地なしの空賊だ!遠慮は無用!』

 

 リオンは目を剥いた。

 

 そんな馬鹿な話があるか。

 変態婆に売られて戦場で殺される運命から逃れようと、頼りない小舟で旅に出て、空賊に捕まって、散々痛めつけられて、最後には民を守るはずの正規軍に巻き添えで殺される──それが俺の運命だと?

 ふざけるな!そんなの、あまりにも──

 

「おい!さっさと立てお前ら!こっから逃げっぞ!」

 

 ランダルの怒鳴り声でリオンは我に返った。

 

 そうだ。

 絶望などしている場合ではない。

 

 俺には帰りを待つ家族がいる。絶対にここで死ぬわけにはいかない。

 

 それにどうせ空賊扱いされているのだ。

 ならばこちらが正規軍に弓を引いても空賊の仕業で済む。

 

 寝台に寝かされたままのクリアンを背負い、ランダルとアラベラに続いて破壊された扉から通路に出た。

 

 目指すのは格納庫。

 そこに小型艇でもあれば儲け物だったが、リオンは鎧を探すつもりだった。

 

 勝ち目は薄い──というよりないに等しいが、どうにかして戦艦の足を止めればあとは鎧だけ。航続力で逃げられる。

 

 空賊共を逃がすために戦うのは不本意極まりないが、命には代えられない。

 

 

 

 格納庫には鎧が四機あった。

 

 だが一機は整備中だったのか左手と右脚がなく、残り三機は満身創痍でパイロットたちは完全に戦意を喪失していた。

 

 クリアンを隅に寝かせ、アラベラたちに後を頼むと、武器になりそうなものを探す。

 

 そして見つけたのは思いがけないものだった。

 

(これは確か──)

 

 リオンはすかさず鎧の方へと向かった。

 

 パイロットの一人が気付き、前に立ち塞がる。

 

「おいてめえ、何する気だ」

 

 身体中から血を流しながら凄んできたパイロットを見て思う。

 まだ使える──と。

 

「鎧を借りる。そこをどいてくれ」

「はぁ!?テメェ逃げる気か。そんなの許さねぇぞ!こうなったらテメェを交渉材料にして──」

「無駄だ」

 

 この期に及んで自分を盾として利用して助かろうとする空賊の浅ましい企みを、リオンは一刀両断する。

 

「あいつらは降伏を受け入れる気なんてない。何があってもな。実際捕虜だと言って助けを求めた俺のことも空賊扱いして即座に弾を撃ち込んできやがった。あいつらの目的はこの船を沈めて空賊を一人残らず殺すこと。それだけだ。助かりたけりゃ、戦うしかないんだよ!」

 

 リオンの剣幕に気圧されたのか、凄んできたパイロットは黙ったが、別のパイロットが気弱な呟きを漏らす。

 

「む、無理だ」

 

その場の注目が集まると、そのパイロットはどもりながらも現状を説明し始めた。

 

「ぎ、ギーさんも、ジェイも、フィンチも、みんなやられた。十四人もいたのに、残ってるのは俺たちだけだ。敵はまだ、十機はいる。百数える間にやられちまうよ」

「誰が鎧なんて相手にすると言った?俺が狙うのは連中の母艦だ」

 

 今度こそ空賊たちは呆気に取られた顔をする。

 

「時間がないから手短に行くぞ。あそこにある武器で敵の飛行戦艦の推進装置を吹っ飛ばす。上手くいけば航行不能に追い込んで、その隙に逃げられる。お前ら三人は援護しろ」

「なっ!?おいテメェ何を勝手に──」

 

 一方的な命令口調に抗議する空賊をリオンは出せる限りの声で怒鳴りつけた。

 

「言い争っている時間はねーんだよ!!この絶体絶命のピンチをひっくり返す策を持っているのは俺だけ!それを実行できるのも俺だけだ!その俺を信じて戦うか、このまま船ごと沈められて死ぬか。簡単な二択だろうが。さっさと選べ!!」

 

 直後、爆発音と共に空賊船が一際大きく揺れる。

 

 そして──

 

「──あぁ。クソ、お前の言う通りだな。クソ。クソッタレ!!」

 

 凄んできた空賊が床を思い切り踏みつけて怒鳴った。

 

 そして自分の背後にある鎧を指差して道を空ける。

 

「コイツを使え。この中じゃ一番マシに動くはずだ。俺はそっちの整備中のを使う。だが忘れんじゃねーぞ。妙な真似しやがったら、即ブッ殺すからな。それと、あんなひょろいメイスでどうやって戦艦のケツ吹っ飛ばすってんだ?それだけ聞かせろ」

「物分かりが良くて助かるね。あれはメイスじゃねえよ。もっと強力で──非道いもんだ」

 

 それだけ言ってリオンは鎧に乗り込んだ。

 

 

◇◇◇

 

 

「いつまでかかっとるんだ」

 

 正規軍の中型飛行戦艦【レヴェナント】の艦橋で、艦長の【ヒース・フォウ・オスカー】は毒づいた。

 

 レヴェナントと護衛のフリゲート、そして鎧部隊で完全に空賊船を包囲し、全方位から攻撃を浴びせているが、未だに墜ちる気配はない。

 

 船体はとっくに原型を留めないほどにボロボロであちこちで火災も起きているが、機関部とブリッジはシールドで固く守られ、推進装置も五つのうち二つがまだ生きている。

 

 改造されているとしても、元が商船だとは思えない粘りだ。

 一昔前──王国が公国や神聖王国と戦争していた時代に造られた武装商船は軍艦としても使えるように造りが頑丈だったと聞くが、それなのだろうか。

 

 だとしたら──

 

「埒が明かん。真横に付けろ」

 

 ヒースが命令を下すと、レヴェナントは増速する。

 

 斜め後ろから安全に撃っていても沈められない以上、相手の射角に入ってでも真横から片舷の全砲門で集中攻撃を加える。

 

 幸い、鎧部隊とフリゲートからは見える限りの砲は全て破壊したと報告を受けている。

 今更隠し砲台の一つや二つあっても脅威ではないだろう。

 

 これで終わりだと内心嗤ったヒースだったが、部下が異変を察知する。

 

「艦長!敵船より鎧の発進を確認!数四!こちらに向かってきます!」

「直掩隊に迎撃させろ。全く、悪足掻きをしてくれる──」

 

 すぐにレヴェナントの周囲に張り付いていた直掩の鎧二個小隊が向かっていく。

 

 満身創痍の鎧四機に対して、こちらは無傷で武器弾薬の消耗もない十二機。

 あっという間に片が付くと思われた。

 

 だが──

 

「なっ!?」

 

 ぶつかる寸前で直掩部隊は三機が撃墜され、敵は一機も墜ちることなく迎撃を突破した。

 

 四機で密集して一つの弾丸のようになった空賊の鎧は、そのまま全速力でレヴェナント目掛けて突撃してきた。

 

 対空用の速射砲が攻撃を開始するが、照準が追いつかず、砲弾は後ろを掠めるだけだ。

 

「くそっ!ここ狙いか!シールドを艦橋に集中しろ!」

 

 向かってくる方向から敵の狙いが艦橋──即ち指揮官である自分だと判断して、ヒースは艦橋の防御を強化させる。

 

 だが、四機の鎧は艦橋に到達する直前で針路を逸れ、正面を横切った。

 

 向かった先は反対側──ただでさえ空賊船のいる左舷方向に集中していたシールドを更に艦橋に集中したことでほぼ無防備になっていた右舷である。

 

「いかん!」

 

 彼らの狙いを察したヒースは思わず叫んだが、遅かった。

 

 爆発音と共に艦尾の推進装置と方向舵が木っ端微塵に吹き飛ばされた。




共通の敵を倒すために敵同士で共闘ってやっぱり燃えるよね


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決死隊

遅ればせながら明けましておめでとうございます。


 圧倒的な質量と強固な装甲、大きな武器を持つ鎧相手に歩兵だけで対抗する──そんな無茶振りへの回答として作られた武器がある。

 

 爆薬槍という、文字通り槍の穂先の部分に指向性の爆発物を仕込んだもので、歩兵が手に持って鎧の関節部や装甲の隙間に突き刺し、爆破する──捨て身の肉薄攻撃に使われる武器だ。

 一応爆発物は穂先の方向へと威力が集中するように作られてはいるが、鎧を破壊するレベルの爆発が目と鼻の先で起きて無事で済むわけはなく、使用者はほぼ確実に死ぬ。

 しかもそれとて上手くいった場合の話であり、大抵は突き刺す前に迎撃されるか、弱点への刺突に失敗して返り討ちにされてしまう。

 

 当然そんなものが兵士たちに受け入れられるわけもなく、どこの軍隊も採用しなかったのだが、開発者たちは歩兵用が駄目なら鎧用はどうだとより大型かつ高威力の爆薬槍を作った。

 戦艦の主砲弾に匹敵する火力を鎧で発揮でき、それ一つで戦艦をも沈め得るという触れ込みだったが、結局生還が期待できない上に成功率も低いのは変わらず、あっさり廃れてロストアイテムと化した。

 

 だから空賊たちが使い方を知らないのも無理からぬことで、それを聞いて絶句するのも当然と言えば当然だった。

 

 だが、他に手があるわけでもなく、爆薬槍を突き刺す役を代わる度胸もない彼らはリオンの立てた作戦を全面的に受け入れた。

 

 格納庫に残っていた武装のうち二挺のライフルと一本の剣は空賊たちがそれぞれ一つずつ持ち、リオンは爆薬槍と盾を持って空賊船から飛び立った。

 

 空賊たちがリオンの斜め前と後ろを固め、Y字型の陣形を組み上げる。

 

 まだ砲撃を続けているフリゲートの後ろを通過して飛行戦艦の方へと向かうと、すぐに上空に待機していた鎧がこちらに向かってきた。

 

『直掩の奴らが来るぞ!ガキを撃たせるな!』

『ディー!焦んなよ!いつもの倍くらいの大きさに見えるまで引きつけてから撃つんだ!』

『わ、分かってるよ兄貴!』

 

 騒がしくなる空賊たちをよそにリオンは盾に魔力を流し込む。

 

 盾に仕込まれた魔法陣が反応して輝き、表面に防御シールドを展開した。

 

 これで一応鎧の弾くらいなら数発は防げるだろうが、実際にどれくらい保つかは分からない。

 

 よって可能な限り相手の攻撃は回避し、盾を使うのはどうしても避けようがない攻撃に限定しなければならない。

 

(頼むぞ空賊共。今だけはやられないでくれよ!)

 

 空賊たちが上手く援護してくれるよう内心で祈り、故郷で待つ家族の顔を思い浮かべる。

 

 自分を信じて送り出してくれた父、最後まで心配していた母、そして自分が死ねば身代わりになる弟──彼らのことを思えば力が湧いてくる。

 

 そしてついに前の二機と正規軍の直掩隊が接触する。

 

『あいつら突っ込んでくるぞ!』

『はっ!好都合だ!エンゲェェェ──ジ!!』

 

 雄叫びを上げて二機の空賊機が吶喊し、正規軍の鎧を二機撃墜した。

 

 そしてできた間隙にリオンは全速力で突っ込み、迎撃を突破する。

 

 まさか直掩が破られるとは思わなかったのか、対空射撃は後ろを掠めるだけで全く障害にならず、目標への道は完全に開けた。

 

 だが、念には念を入れて目標を偽装することも忘れない。

 

 それは確かに功を奏し、敵はブリッジにシールドを集中した。

 

 おかげで難なく船尾の推進装置へと回り込むことができた。

 

 目標は丸裸で、追いかけてくる直掩の鎧は空賊たちが足止めしている。

 

 今望み得る限り最高の状態。

 

『いけぇ!ガキィィィ!!』

『外したらぶっ殺すからなァァァ!!』

『頼んだぞぉぉぉ!!』

 

 空賊たちの罵声混じりの声援を背中に受けながら、リオンは戦艦の船体に降り立つ。

 

 狙うは方向舵のすぐ横、メインの推進装置。その装甲の継ぎ目目掛けて思い切り爆薬槍を振り下ろした。

 

 爆薬槍は狙い通りの場所に深々と突き刺さり、次の瞬間猛烈な閃光と衝撃が爆ぜる。

 

 全身に数百個のハンマーで同時に殴られたような衝撃が走り、一瞬視界が真っ暗になる。

 

 割れそうなほどの激しい頭痛と酷い耳鳴りが体感数分続いた後、徐々に視界が明るくなり、感覚が戻ってくる。

 

 平衡感覚が鎧が落下していることを告げていたので、慌てて操縦桿を引いて上昇に転じる。

 

 全身の痛みとまだ続く耳鳴りで今にも意識を手放してしまいそうだが、少なくとも手足はまだ動く。

 

 ──まだ、生きている。

 

 突き刺す時、気休め程度に盾を構えていたのが効いたのだろうか。

 

 何にせよ、五体満足で生き残れたのは幸運以外の何物でもない。

 

 見ると、飛行戦艦の船尾が炎に包まれている。

 

 空賊たちは歓声を上げ、正規軍は呆気に取られる。

 

 その隙に直掩機を振り切った空賊たちがリオンを見つけると、近寄ってくる。

 

『よくやったガキ!!さっさとずらかるぞ!』

 

 リオンを連れて空賊船へと引き返し始める空賊たちだったが──

 

『逃すわけないよねぇぇぇえええ!?』

 

 空賊船の左舷を攻撃していた正規軍の鎧部隊が立ちはだかった。

 

 先頭を飛ぶ青い鎧が凄まじい殺気の込もった声と共に空賊たちに斬りかかる。

 

『うるせぇ!テメエらの船はもう動けねえんだ!諦めて大人しくどきやがれ!!』

 

 格納庫で凄んできた空賊が鎧の隻腕に剣を握らせて激突する。

 

 青い鎧が拘束され、その隙に他の二人の空賊がライフルを撃ちまくる。

 

 正規軍の鎧は回避のために散開し、道が切り開かれた。

 

『開いたぞ!全速力で突っ込め!』

『オズさんは!?』

『何とかするだろ!とにかく急げディー!』

 

 青い鎧と剣戟を繰り広げる空賊を見捨てて先を急ごうとした二人の空賊だが、そうは問屋が卸さなかった。

 

『テメェ待てやゴラァ!!』

『逃さねえぞクソが!!』

 

 回避のために一旦はばらけた正規軍だが、すぐに体勢を立て直し、放たれた魔弾が先頭の空賊機を粉砕した。

 

『兄貴ぃぃぃいいい!!』

 

 目の前で兄貴分を撃墜されたディーが絶叫する。

 

 それが彼の動きを止め、致命的な隙を生み出してしまう。

 

 その隙を逃す正規軍ではなく、十発近い魔弾がディーの鎧目掛けて放たれる。

 どう動こうがどれかに当たる逃れようのない火線の檻。

 

 ──反射的に手が動いて、操縦桿を押し込んでいた。

 

 火線の一番薄い所目掛けてディーを吹っ飛ばし、飛んできた魔弾を盾で受け止める。 

 

 盾に当たった魔弾が爆発し、鎧は激しく揺れた。

 

『お、お前!?なんで──』

 

 面食らうディーをリオンは叱咤する。

 

「メソメソ泣き喚いている暇があったら戦えよ!兄貴の仇取りたくねーのか!」

 

 直後に飛んできた魔弾を再び盾で防ぎ──盾の表面に張られていたシールドが揺らぐ。

 もってあと一、二発といったところか。

 

 銃の弾倉を撃ち尽くしたのか、正規軍の鎧は剣を手に向かってくる。

 

 戦えと発破をかけておいて情けないが、怖い。

 

 相手は技量も経験も鎧の性能もこちらを上回っている。

 何とか盾で一撃受けて剣を奪えれば御の字だが、そう上手くいくとも思えない。

 

 操縦桿を握る手が震えている。

 

 もう接敵まで数秒もない。

 

 腹を括って盾を構えたその時──

 

『許さねぇ──許さねぇぞ!よくも兄貴をォォォ!!』

 

 ディーの鎧からマゼンタ色の炎が噴き出した。

 

 そして振り向きざまに最初に突っ込んできた一機を一撃で撃墜し、続け様にもう一機をライフルに付いたバヨネットで串刺しにする。

 

 串刺しにした正規軍の鎧から剣を奪い取り、魔力を込めて振るうと、また一機、コックピットを切り裂かれて墜ちていく。

 

 だが、ほぼ同時に振るわれていた正規軍機の剣がディーの鎧の頭を叩き潰し、バイザーを破壊していた。

 

『ぢぐしょう!!』

 

 ディーは毒づいて役に立たなくなった頭部とハッチをパージし、生身の上半身を吹き曝しにした。

 そんな状態で叫び声を上げながら残りの正規軍の鎧目掛けて突っ込んでいく。

 

「あのバカ──ッ!」

 

 兄貴分の復讐に囚われて突破という目標を完全に見失っている。

 

 リオンは全速力でディーを追った。

 頭に血が昇った彼を制止することはハナから諦めている。

 自分にできるのは彼を援護することだけだ。

 

 あの短時間で三機を葬ったあたり、戦力的には頼りになる──というか、オズが青い鎧に拘束されている現状、もはやディーが唯一の頼みの綱だ。

 彼がやられれば、自分もすぐに後を追わされる。

 

 ディーと正規軍の鎧一機が激突し、正規軍の鎧の腕が斬り飛ばされる。

 

 斬り飛ばされた腕がリオンの方に飛んできた。咄嗟にその手に握られていた剣を掴み取る。

 

 隻腕になった哀れな正規軍の鎧を滅多斬りにするディーを、横からライフルで狙う別の正規軍の鎧が二機。

 

(させねえ!)

 

 リオンはその二機目掛けて吶喊した。

 

 狙うは武器を持つ腕。

 コックピットや動力部がある胴体を狙った方が良いのは分かっているが、殺してしまう可能性のある選択肢は取れなかった。

 殺されるのは嫌だが、それと同じくらい殺すのも御免だ。

 

 正規軍の鎧がディー目掛けて引き金を引く寸前でこちらに気付き、ライフルを向けてきたが、構わずに懐に飛び込む。

 

 一機の左手をライフルごと切断し、もう一機が放った魔弾を盾で防ぐ。

 その一発で遂に盾の表面のシールドは消滅した。

 

 役に立たなくなった盾だが、左腕を斬られた鎧が残った右手で抜いた剣を防ぐという最後の役割は見事に果たしてくれた。

 剣が盾に喰い込んで一瞬抜けなくなった隙に右手も手首から切断し、相手はようやく無手となる。

 

 回り込んで撃ち込んでこようとしたもう一機はディーが倒した。

 

 残った無手の一機は全速力で逃げていく。

 

 空賊船への道が開けた。

 

 だが、ディーは空賊船に戻ろうとはせず、倒した正規軍の鎧から奪ったライフルを手にオズの方へと引き返していく。

 

「オズさぁぁぁん!!」

 

 叫びながら突っ込んでいくディーに気付いた数機の正規軍の鎧が向きを変えてライフルを構える。

 

 放たれた魔弾がディーの鎧を掠め、ポールドロンと片脚が吹っ飛んだ。

 

「クソがァァァアアア!!」

 

 ディーは激昂して撃ち返すが、弾丸は当たらない。

 

 完全に手玉に取られている。

 ディーはもう駄目だ。すぐにやられてしまう。

 

 助けに行ったところで盾を失い、量産品の剣一本になった自分に何かできるとも思えない。

 

 そもそもディーもオズも空賊だ。

 正規軍の飛行戦艦の足を止めるという目的を果たし、空賊船への道も開けている状況で助けに戻る必要性もない。

 

 そのはずなのに──気付けばまた操縦桿を押し込んで、ディーを追っていた。

 

 彼の後ろに付けようとしていた一機を見つけ、その更に背後へと回り込む。

 

 直前で気付かれて防御姿勢を取られはしたが、ライフルの銃身を切り裂き、破壊することには成功した。

 

 そして、他の正規軍の鎧もリオンに気を取られ、その隙にディーは突破に成功した。

 

「オズさんからぁ!離れろぉぉぉオラァァァアアア!!」

 

 オズと青い鎧の周囲を固めて隙を窺っていた最後の数機の鎧がディーの迎撃のために動き、包囲に穴が開く。

 

 千載一遇の好機をオズは見逃さなかった。

 

『オラァ!!』

 

 何度も切り裂かれ、ボロボロになった左脚で回し蹴りをかまし、青い鎧が回避した隙に離脱。

 

『テメェ!逃がすか!』

 

 青い鎧がオズを追うが──

 

 逃げたオズは鎧の背からマゼンタ色の炎を噴き出し、急激に減速した。

 

 青い鎧はそこへ勢い余って突っ込む形になり、慌てて回避しようとするが、それが彼の命取りとなった。

 

『死ねェェェ!!』

『ぐあああああッッ!!』

 

 オズの剣がドルフの鎧の胸部に深々と突き刺さる。

 

 青い鎧のパイロットが初めて悲鳴を上げた。

 

『ドルフ様──ッ!!』

『馬鹿な!馬鹿なァァァ!!』

 

 残った正規軍の鎧が明らかに狼狽する。

 

 オズは突き刺さった剣ごと青い鎧を放り出し、今度こそ離脱する。

 

「オズさん!無事で!?」

 

 合流したディーが声をかけるが、オズの鎧はボロボロで、オズからも応答はなかった。

 

 そして、鎧の背から噴き出していた炎が消え、鎧は力尽きたように落下し始める。

 

「オズさん!おい!しっかりしてくれ!船まで俺が連れて行くから、死なんでくれ!」

 

 ディーがオズの鎧を捕まえ、抱えて運ぼうとするが、すぐにディーの鎧からも炎が消え、出力が下がったのか高度が落ち始めた。

 

「クソが!こんな──こんなところでぇぇぇ!!」

 

 喚きながら落下していくディーとオズをリオンは捕まえた。

 

「こいつは俺が持つ!船に急げ!」

 

 ディーは一瞬迷ったが、すぐに手を放した。

 

 三人はなんとか体勢を立て直し、空賊船に向かって飛ぶが、そのスピードはどうしても鈍かった。

 

 それこそ、怒り狂った正規軍の鎧が容易く追いつけるほどに。

 

『テメエェェェ!!よくもやってくれたな!ゴホェッ、このドルフ様にこんなァァァ!!』

 

 コックピットを剣で貫かれたはずの青い鎧のパイロット──ドルフは死んでいなかった。

 咳き込み、おそらく血を吐きながらも殺意を激らせて追ってきていた。

 

『待ちやがれ!テメエの腸も!引きずり出してやるッ!!』

「いやそこは先に手当てしろよ!」

 

 リオンは思わずツッコミを入れた。

 

 腸が飛び出しているなどどう考えても致命傷かそれに準ずる重傷である。

 なのに母艦に帰って手当てするよりも追撃と復讐を優先するとか、戦闘狂にも程がある。

 

 だが、リオンの叫びは敢えなく聞き流され、遂に背後にまで到達したドルフの鎧が剣を振りかぶる。

 

 今からオズを放しても逃げられそうにはない。

 一撃は躱せるかもしれないが、それで諦めてくれるとも思えない。

 

 ──もう駄目だ。やられる。

 

 そう思った直後。

 

『死に晒せ青っ玉がァァァアアア!!』

 

 横合いから突入してきた鎧がドルフの鎧に思い切り体当たりして吹っ飛ばした。

 

 二機の鎧は取っ組みあった状態で数百メートルほど吹っ飛んだかと思うと、次の瞬間、ドルフの鎧は紅蓮の炎に包まれた。

 

「ギーさん!?あんた生きて──ッ!」

 

 ディーが驚嘆の声を上げる。

 

 そして援護に駆けつけようとするが──

 

『ギーゼルゥゥゥ!!死に損ないがぁぁ!邪魔ずんじゃねえええ!!』

 

 ドルフの鎧が炎に焼かれながらも剣を振るい、ギーゼルと呼ばれた空賊の鎧の頭部を叩き割った。

 

 一瞬でギーゼルの鎧も炎に包まれ、ドルフの鎧諸共凄絶な咆哮を上げながら落下していく。

 

『グゾ!グゾがァァァアアア!!俺はドルフだ!俺は猟犬ドルフなんだゾォォォ!!』

『うるぜえええ!!俺はァァァ!!うじい(不死身)()ーゼルザマ()だァァァアアア!!』

 

 そして二機の鎧は海面に突っ込む直前で大爆発を起こして木っ端微塵に砕け散った。

 

『嘘だ!嘘だと言ってください!ドルフ様ァァァ!!』

『あ"あ"あ"あ"あ"!!そんな!そんなあああ!!』

 

 残った正規軍の鎧が一斉に追撃をやめてドルフが落ちていった方へと向かっていく。

 

「ギーさん──すまねぇ。助かりました」

 

 ディーがギーゼルの鎧だった爆煙の方に向かって頭を下げ、戻ってくる。

 

 ようやくリオンは残った二人の空賊と共に空賊船へと着艦した。

 

 その報告を受けた船長が命令を下し、空賊船は離脱を始める。

 

 飛行戦艦は航行不能、右舷を攻撃していたフリゲートは飛行戦艦の救援に向かい、鎧部隊は追撃を中断。

 

 もはや追ってくる者はいない。

 

「全エネルギーを推進装置に回せ!振り切るぞ!」

 

 その命を受けて残った推進装置が唸りを上げ、空賊船は遂に正規軍の艦隊を振り切ることに成功した。

 

 

◇◇◇

 

 

 満身創痍の空賊船が流れ着いたのはグリッドレイという伯爵家の領地にある【ライネル】という港だった。

 

 ライネル港は良く言えば開かれた、悪く言えば良からぬ連中が流れ込んで溜まる無法地帯で、空賊や密輸業者御用達の秘密ドックまで備わっていた。

 

 空賊船の修理をするには打ってつけの場所だ。

 

 そして幸か不幸か、そこはアラベラとランダルが積荷を運ぼうとしていた目的地でもあった。

 

 アラベラにそのことを聞いた空賊たちは彼女のクライアントに積荷を引き渡し、代金を自分たちの懐に入れた。

 

 彼女は悔しげに歯を食い縛って仕方ないのだと言った。

 

 命より大事な商売道具である飛行船を失い、新しく買う資金もない状況で、今更積荷の代金程度に固執してもどうにもならない。

 

 それよりも──

 

「これでアンタの武器は売り飛ばされずに済んだでしょ。これでアンタの言う宝島で一儲けできる可能性は残った。あーしらはそれに賭けるよ」

 

 そう、空賊たちはあれだけの被害を受けてもなお、宝探しを諦めなかった。

 いや、あれだけの被害を受けたから、か。

 

 魔弾もリオンも売り飛ばして修理代の足しにという声もあったが、反対多数で退けられたと聞いている。

 

 正規軍との戦いで空賊たちのリオンへの信用はかなり上がっており、リオンの言う宝島も本当にあるのではないかという考えが支配的になっていた。

 

 飛行船の修理と旅費稼ぎが終わったら、また旅が始まる。

 

 アラベラとランダルは積荷の代金を手放す代わりに、財宝が見つかるまでの間空賊船の乗組員として旅に同行できるように話を付けていた。

 財宝が見つかったら分け前を貰い、それで新しい飛行船を買うという算段だ。

 

 ちなみにクリアンもそうしていた。

 しばらく生死の境を彷徨っていたクリアンだったが、グリッドレイ領に着いてようやく容態が改善し、旅に加わることになった。

 彼も飛行船と商品を失っており、金が必要なのはアラベラたちと同じだった。

 

 空賊たちにとっても彼らの話は好都合だった。

 正規軍との戦いで乗組員がごっそり減り、飛行船の運用に支障が出ていたからだ。

 

 今やリオンは空賊たちに加えてアラベラとランダル、クリアンからの期待も背負うことになった。

 

「ああ──すまないな。この借りは利子付けて返すから」

「言ったな?高くつくぜ?」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべるアラベラ。

 

 ──困った。

 

 ()()のことを思えば、彼女たちにはここで空賊船を降りていて欲しかったのだが。

 

 それでも、彼女らの抱えた事情を聞いてしまえば、今更反対などできなかった。まあ、反対したところで聞き入れてくれるとも思えないが。

 同じ理由で、逃げ出して一人で目的地を目指すこともできなかった。

 

 何とか計画を知られることなく、それでいて彼女たちを巻き込まない方法を考えなければならなくなった。

 

「はは──あんまり高いと財宝でも返しきれなくなるぜ?」

 

 苦笑いを顔に貼り付けて、密かにリオンは苦悩していた。

 

 

◇◇◇

 

 

 リオンが空賊たちと共にグリッドレイ領を出発したのは入港から約四ヶ月が過ぎた頃だった。

 

 空賊船の損傷は極めて深刻で、その分工期は長くなり、修理費用も高くついたのだ。

 

 空賊たちは焼け残った積荷の換金から窃盗、強盗、詐欺、ギャンブル、闇スポーツ、用心棒等々ありとあらゆる手段で金を稼ぎ、方々から借金もしてどうにか修復に漕ぎつけた。

 

 それでも、重要部分以外はジャンクヤードの安物資材で継ぎ接ぎしただけで、いい加減な間に合わせとしか言いようがないものだった。

 舷側は外から隙間風が吹き込み、内部は逆に換気が不充分でサウナ状態と居住性は大幅に悪化、破壊された推進装置は遂に直せず、速力も以前の半分以下に落ち込んだ。

 おかげで目的地に辿り着くまで二ヶ月はかかる見込みだ。

 

 ただ、今回は食糧は充分に積んであり、野営道具や武器弾薬などの装備は格段に充実していた。

 それらはほぼ全てライネル港で買い込んだものだ。

 

 最初から掠奪に走らずにライネル港に寄港しておけば正規軍と戦いなどせずに済んだだろうにと思うが、空賊というのはケチで怠惰なのである。

 稼いで買うより殺して奪った方が安上がりだと考えるような連中だから、空賊なんてやっているのだ。

 

 現に空賊の中に正規軍との戦いに懲りて真っ当に生きようとしている者はいない。

 宝が見つかったらどうする──なんて話で出てくるのは派手に遊ぶことか、もっと良い船や武器を手に入れてまた暴れ回ることだけ。

 

 そんな連中がこの世界の秘密を知り、その力を手にしたらどうなるかは容易に想像がつく。

 物語の本編が始まる前からゲームオーバー、バッドエンドである。

 

 なればこそ、早く上手い計画を考えなければならなかった。

 上陸してから目的地に辿り着くまでの間に空賊共を残らず始末し、それでいてアラベラたちを巻き込まない方法を。

 

 だが、いくら考えても理想的な展開は思いつかなかった。

 どこでいつ実行しようがアラベラたちを巻き込む可能性をゼロにはできない。

 かと言って計画のことを話せば、空賊たちに漏れかねない。

 

 必死に考えつつも平静を装っていたリオンだったが、彼は隠し事が下手な男だった。

 

 出航から四日目、リオンはアラベラに「後で話がある」と呼び出された。

 

 

 

 夜。

 

 日中他の乗組員たちと共に働かされてクタクタになり、熟睡していたリオンはアラベラに起こされて甲板に連れて行かれた。

 

 ちょうどアラベラが後方の見張りを担当していて、他の空賊たちは寝静まっている。

 

 開口一番、彼女はリオンを問い質した。

 

「リオン、アンタこの宝探しをどうやって終わらせる気なの?」

「どうって──普通に敵を倒してお宝を回収して、分け前を配って解散だろ?」

 

 アラベラは何か勘付いている。

 

 そう悟ったリオンは何とかはぐらかそうとするが、アラベラはその手には乗らなかった。

 

「とぼけないで。アンタあいつらにお宝を渡す気なんてないでしょ?」

「それは──でも仕方ないだろうが。船を持っているのはあいつらで、宝を見つけても船がなきゃ持ち出せないんだから」

 

 実際それはそうである。

 場所を知ってはいるが、本当にそこにあるのかどうかは定かではない。

 なかった場合、島を出て別の場所に向かうために飛行船は必要だ。

 

 だが、アラベラは苛立ちの込もった顔で溜息を吐く。

 

「アンタさ、嘘が下手って言われない?そんな風に割り切ってるんなら、そんな思い詰めた顔しないよ普通」

 

 そう言ってアラベラはぐっと顔を近づけてきた。

 

「アンタ、どこかのタイミングであいつらを始末する気でしょ?」

 

 ──顔に出てしまった。

 

 アラベラの目の色が変わる。

 やはり肯定と取られたようだ。

 

 不味い。

 このままでは計画が破綻してしまう。

 下手をすれば空賊たちに殺される。

 

 その前にいっそ──

 

「それ、あーしにも乗らせてよ」

「──え?」

 

 予想外の言葉に思わず間の抜けた声が漏れた。

 

 それを見てアラベラは僅かに表情を緩める。

 

「何か勘違いしてるみたいだけど、あーしが賭けてるのはアンタで、空賊共じゃないから。あいつらにお宝を渡したくないのはあーしも一緒。だからアンタに何か作戦があるなら、あーしも手伝う」

 

 月明かりに照らされた彼女の顔はとても頼もしく見える。

 

 自分一人でやるよりも彼女と二人でやった方がうまくいくかもしれない。計画を彼女と共有しておけば巻き込む可能性はほぼゼロにできるし、そうなれば空賊を討ち漏らす恐れも減る。

 

 でも──

 

「お断りだ。わざわざお前に手伝ってもらうことなんてねーよ」

 

 十中八九彼女の言ったことは本当だろうが、それでも彼女を計画に加えることはできない。

 

 それに、計画は大変な危険を伴う。不測の事態だって起こり得る。

 この世界の秘密を知らない彼女ははっきり言って足手纏いだ。

 

 危険を背負うのは自分だけでいい。

 彼女は──彼女たちは自分の身を守っていればいい。

 

「──あーしのこと、やっぱり信用できない?」

 

 アラベラが悲しげな顔で問うてくる。

 

 一瞬胸が締め付けられるが、情に流されてはいけない。

 生き死にが懸かっているのだから。

 

「そうだよ。お前にできることは何もない。自分たちのことだけ気にしてろ」

「──そっか」

 

 アラベラは小さく溜息を吐いて引き下がった。

 

 かと思えばあっけらかんとした笑顔で言う。

 

「あーあ、残念。媚売っとけば分け前が増えるかと思ったのに。フラれちった」

「お前な──」

  

 そんなことのためにあんなシリアスな顔をしていたのか?

 

 思わず気が抜けてしまう。

 

 だからこそ、ここで話を終わらせるのは違う気がした。

 

「──何か変な音がしたり、騒ぎが起こったら、とにかく伏せていろ。逃げようとするな。未知の島で迷ったりなんてしたら終わりだからな」

 

 そう忠告するくらいはしておかなければならないと思った。

 

「なんだ。やっぱり何か考えあるんじゃない」

 

 アラベラのその言葉には答えずに、リオンはその場を去った。

 

 ──昇降口から船室に降りる時、誰かの気配を感じた気がしたが、誰も見つからなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 出航から二ヶ月目。

 

 見張りについていた空賊からの報告でブリッジに駆けつけたリオンは遂に()()を肉眼で捉えた。

 

 巨大な白い雲とその真下の緑色に光る海面。

 

 間違いない。記憶にあるその場所の特徴と完全に一致する。

 当たりだ。その場所は実在していた。

 

「船長、あの海面が光っているあたりに行ってくれ。あそこが入り口だ」

 

 リオンの指示に従って船長が舵輪を回し、空賊船は光る海面へ向かって進んでいく。

 

 いつの間にか空賊船の周囲には強い追い風が吹いており、船足はどんどん上がっていく一方だった。

 

 初めて見る光景に空賊たちは皆圧倒されていた。

 甲板には珍しい景色を一目見ようと大勢が集まり、手摺りから身を乗り出している。

 

 あれでは危険だ。

 

「入り口に到達したら強い上昇気流が来る。何かに摑まった方がいい」

「分かった。野郎共!見物の時間は終わりだ!船内に入って何かに掴まれ!振り落とされたくなけりゃな!」

 

 船長が鐘を鳴らして拡声器で呼びかけると、空賊たちは渋々といった感じで船内へと戻っていく。

 

 ブリッジの空賊たちも各々手摺りや椅子の背に掴まる。

 

 見張りから空賊船が海面の光っている場所に到達したという報告が届いた直後。

 

 空賊船は大きく揺れ、猛烈な勢いで上昇し始めた。

 

 慣性で身体が下方向に押さえつけられ、立っているだけで精一杯になる。

 

「雲に入るぞ!」

 

 見張りの叫び声と共にブリッジの窓が白く染まった。

 

 上昇が止まり、今度は横向きの強い風が襲いかかってくる。

 

 空賊船はゆっくりとだが、確実に押し流され始めた。

 

「この先はどうするんだ?」

「風上に進むんだ。このままじゃ雲の外に押し出されてしまう」

「簡単にいってくれるぜクソが」

 

 毒づいて船長が風上へと針路を変えるが──

 

「駄目です!流されてます!」

 

 航法士の言葉通り、速度計は未だ後進を指していた。

 

「機関室!出力を上げろ!全速前進だ!」

『全速前進了解!』

 

 船長が命令を下し、エンジン出力を示す計器の針がどんどん動いていく。

 

 だが、速度は上がらない。

 

「フルパワーにしろ!」

『本気ですか船長!?このままじゃエンジンが焼けちまいやすぜ?』

「焼けたって構わん!出力を最大限まで出せ!」

『ッ!了解でさぁ!』

 

 遂に計器の針が赤く塗られた領域へと到達した。

 鎧の緊急加速と同様、通常出してはいけないとされる出力である。

 

 そうでもしなければ進めないほど、風は強く、空賊船はその大きさと重さに対して非力だった。

 

 だが、その判断は功を奏し、速度計がようやく前進を示す。

 

 非常にゆっくりとだが、空賊船は風に逆らって速度を上げ始めた。

 

 船長は計器と機関室からの報告に注意しながら細かく舵と出力を調整し、何とか風上へと船を進めていく。

 

 その操船技術にリオンは舌を巻いた。

 認めたくないが、この空賊船と船長の操船技術がなかったら──旅に出た時に乗っていたちっぽけなボートでここに挑んでいたら、とっくに沈んでいるだろう。

 

「風が弱まってきたな。そろそろ抜けるか?」

 

 船長の言葉通り、程なく灰色一色だった視界が明るくなったかと思うと、一気に開ける。

 やかましかった風の音が消え、無音になる。

 

 飛び込んできた青空の眩しさと耳鳴りに思わず目を細めた。

 

 目と耳が慣れてくると、リオンは思わず声を上げた。

 

「あった──やっぱり間違いじゃなかったんだ」

 

 さながら台風の目のように分厚い雲の中にぽっかりと空いた巨大な空洞。

 その中心部に浮島が浮かんでいた。

 

 巨大な樹木がそびえ立ち、その根が島の地表を覆い尽くして島の裏側にまで突き抜け、さらにその根の上に無数の植物が生えていた。

 

 その特徴を知ってはいたが、実際に見てみるとそのスケールの大きさに圧倒される。

 

「あれか?あれがお前の言っていた浮島か?」

 

 船長が問うてくるので、大きく頷く。

 

「そうだ。島の周りを回ってみてくれ。古い港があるはずだ」

「聞いたな野郎共!港を探せ!」

 

 船長の指示で空賊たちが窓や見張り所に張り付き、浮島の地表に目を凝らす。

 

 すぐに見つかったという報告があり、空賊船は浮島に向かって接近していった。

 

 やがて浮島から突き出た桟橋が見えてくると、空賊船は速度を落とし、ボートを出した。

 

 ボートの誘導を受けて空賊船は無事巨体を浮島に横付けした。

 

 舷側から縄梯子が降ろされ、数人の空賊たちが桟橋に降り立つと、もやい綱で空賊船を桟橋に繋ぎ止めた。

 

 続いて格納庫から鎧が発進し、積荷の揚陸作業を開始する。

 

 甲板長の指揮の下、降ろされた積荷の荷解きとキャンプの設営準備が行われ、リオンもキャンプ設営に駆り出された。

 

 モンスターや敵が襲ってこず、崩落の危険もない安全な場所を探し、そこにテントを張る。

 

 総勢三十人以上の空賊たちが寝泊まりできる拠点の設営はさすがに手間だったが、人数と鎧の力で数時間のうちにキャンプの設営は完了した。

 

 続いて行われるのは探索である。

 目的地までの安全なルートを探し、想定にない危険が潜んでいないか、チェックした上で計画を実行に移す場所を見極める。

 

 ここが勝負の分かれ目だ。

 

「じゃあ、案内頼むぜガキ」

 

 探索隊のリーダーに指名されたオズがにんまり笑う。

 その手にはリオンのライフルが握られ、肩には魔弾の弾帯が掛かっている。

 

 リオンは丸腰で、持たされたのは目的地を示すコンパスだけだった。

 

 正直不安で仕方ないが、今の所は差し迫った問題ではない。

 計画を実行する時に取り返しておければそれでいい。

 そのためにも、今空賊共に下手な疑いを抱かせるわけにはいかない。

 

「そっちこそ、ちゃんと守ってくれよ?何があるか分からないんだから」

「おうよ。任しとけ。あの時みてぇにな」

 

 オズは胸をどんと叩く。

 その目はすっかり戦友を見る目である。

 

 ──おめでたい奴だ。

 

 内心そう吐き捨てつつも、オズの顔を直視できずに目を逸らす。

 

「じゃ、行こうか」

 

 そう言ってリオンは森へと足を踏み入れる。

 



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破綻

 リオンが何か企んでいると勘付いていたのはアラベラだけではなかった。

 

 空賊船の船長はリオンがすんなり宝の在処に案内するとは最初から考えていなかった。

 

 鎧に乗り込んで正規軍に立ち向かったのは意外だったが、降伏しようとして認められず撃たれたのが理由だと聞いてさもありなんと思った。

 

 所詮彼は柔らかくて、甘っちょろくて、青臭い貴族のガキ。

 自分たちに心を開いているわけはないし、自分も彼とは根本的に相容れないと思う。

 お互い都合良く利用し合っているだけなのだ。

 

 だから、監視が必要だった。

 使い魔や部下の空賊が張り付いていては警戒されてしまうので、彼が仲間と見做している人物が望ましい。

 

 船長が白羽の矢を立てたのは密輸業者の青年だった。

 

「あのリオンってガキを見張れ。なんかおかしな様子があったらすぐに教えろ。そうすりゃ分け前を倍にしてやる」

「おかしな様子って、もう十分過ぎるくらいおかしいでしょうがアイツは」

 

 ヘラヘラ笑うランダルを船長は睨みつけた。

 

「茶化すんじゃねえ。アイツは絶対どこかで俺たちを出し抜こうとするはずだ。俺の読みじゃ、誰にも宝を渡す気はねェな。アイツに任せてたら分前もへったくれもねえ。下手すりゃ生きて帰れるかも怪しい。そうなる前に、何企んでやがるのか探らなきゃならん。お前が一番見込みあると思って話してんだぜ」

「なら分け前は三倍で頼みますよ。あんたらに壊された船と積荷の代金の分回収したいんで」

 

 吹っかけたランダルだが、船長は鼻を鳴らしつつも受け入れた。

 

「──まァいいだろう。しっかりやれよ」

「へーい」

 

 その密談から僅か三日後、ランダルは見てしまった。

 

 リオンを甲板に誘い出し、共謀を持ちかけるアラベラと空賊たちを始末する算段があることを曖昧ながらも肯定したリオンの姿を。

 

 ランダルから報告を受けた船長はリオンをアラベラたちから孤立させることにした。

 武器は持たせず、周りは空賊たちで固める。その一方でアラベラたちは自分の近くに置く。

 身を守り敵を排除する手段がなく、人質まで取られていては、何かしようとしても無理だろう──そう考えた。

 

 そして実際それは策としては当たっていた。

 武器を取り上げられたリオンは計画の実行タイミングを決めることが困難になり、アラベラたちを船長から引き離すための手も考えなくてはいけなくなっていた。

 

 ただ──策というのは少しの齟齬で容易く破綻するものである。

 

 不完全な情報に基づいた稚拙な策の代償を彼らはすぐに支払うことになった。

 

 

◇◇◇

 

 

 目的地の遺跡は浮島の中央にある。

 

 整備されておらず、植物や木の根に覆い隠されてはいるが、港から続く道があり、それを辿って行けば到達できるはずだ。

 

 今日は初日でキャンプから遠く離れるわけにはいかないため、次のキャンプ地を見定めたら戻る予定だ。

 

 そしてその次のキャンプ地こそ、リオンが計画を実行しようと考えている場所だった。

 

 戦闘パートに比べれば易しいが、初見では分かりづらいトラップがあり、装備や立ち回りを間違えると普通に死にかねない危険な場所だ。

 

 元々は迂回するつもりだったのだが、空賊たちを引き連れてきてしまった以上、行くしかない。

 三十人近くいる空賊たちを倒せる存在はそこにしかいないのだから。

 

 だが、そこまで他の脅威がないわけではない。

 

 不意に空賊の一人が悲鳴を上げ、剣を振り回し始めた。

 

 行軍を止めて何があったのか訊けば蛇に足を咬まれたとのことだった。

 

 毒は絞り出したようだが、咬まれた箇所がどんどん腫れ上がり、身体が痙攣し始める。

 

 オズの指示でその空賊はすぐにキャンプに戻されることになった。

 

 それからは毒蛇や毒虫にやられないよう、木の枝で地面の草を叩きながら進むことになり、行軍速度は大幅に落ちた。

 

 そして、それらよりも恐ろしいものが現れる。

 

「伏せろ!」

 

 空賊たちに合図すると、彼らは素直に草の中に身を屈めた。

 

 彼らの視線が森の中を漂うものへと向けられる。

 

 手足のない鎧のようなものがふよふよと浮かんで漂っている。

 

 時々機体全体を回転させて辺りを見渡し、ピー、ピピー、と妙な音を出している。

 

 初めて見る異形の怪物に空賊たちは皆一様に驚愕し、息を潜めていた。

 

 やがて鎧が去っていくと、その場から盛大な溜息が漏れた。

 

「あれがお前の言ってた敵か?」

「ああ、そうだ。見つかって襲われた時以外は絶対撃たないでくれよ。普通の武器は効かないし、魔弾の弾数には限りがあるんだから」

「そぉかい。慎重なこったな」

 

 嫌味を混ぜ込みつつもオズは了承する。

 

 そして再び歩き始めた一行は分かれ道に辿り着いた。

 

 最終目的地までは左の方に行くのが正しいのだが、リオンは右の道へと進む。

 

 程なく、植物に覆われた複数の窪地が目の前に現れた。

 

 古代の円形劇場のような窪地の間を縫って歩いていくと、巨大な建物の跡が見えてくる。

 

 殆ど崩れているが、一階部分がまだ健在で雨風を凌げそうだ。

 

「ここなら屋根の下で過ごせそうだな。ここを明日のキャンプ地にしよう」

「ん?ここがその遺跡じゃないのか?」

 

 ディーが訊いてきた。

 

「いや、違う。島の中央部にもっと大きな遺跡がある。ここは──ほんの一部だよ」

「一部でこれかよ──目的地まではどれくらいで辿り着けそうなんだ?」

「そんなにはかからねえよ。()()()()()()()明後日には辿り着けるはずだ。さっきの鎧もどきがあちこち彷徨いているからもっとかかるかもだけど」

「そうか──」

 

 先程見た不気味な鎧を思い出したのか不安げな表情になるディーを余所に、リオンは計画のトリガーとなるものを探す。

 

 記憶が曖昧だが、地下に通じる通路を通って近道しようとしたらトラップが発動したはず。

 

 念のためその場所が存在するかどうか確かめておこう。

 

 探索だと言って建物の中に足を踏み入れると、そこには見かけよりも更に広い空間が広がっていた。

 

 元々多くの部屋に分かれていたのが、所々天井や壁が崩れて一つの大広間のようになっているようだ。

 

 空賊たちは初めて見るらしい遺跡に興奮してあちこち視線を彷徨わせている。

 

「すげえ。こんなの見たことねぇぜ。お宝の匂いがするな」

 

 一人の空賊が壁の近くに置かれていた芸術品のようなものを手に取る。

 

 埃を被っているが、精巧なガラス細工のようだ。

 

 他にも──

 

「何だこの機械?ボタンもレバーも何にもねえぞ」

「おい、さっきの鎧もどきもいるぞ。動かねーのか?」

「光ってねぇから死んでんじゃねぇか?」

「これは──銃なのか?」

「おお?あれは何だ?トロッコみてぇなモンか?」

 

 建物のあちこちにあるロストアイテムを次々に見つけては眺め、手に取る空賊たち。

 

 彼らに混じって建物の中を物色するふりをしながら、リオンは地下への入り口を探す。

 

 空賊たちがトロッコと勘違いしている乗り物──地下鉄の乗り場近くにあったはず。

 

(──おかしいな)

 

 どうも記憶にある光景と合致しない。

 地下鉄の線路は水没なんてしていなかったはずなのに、今目の前にあるそこには水が溜まっていた。

 そしてそこだけやけに空気がジメジメしていて──

 

 不意に首筋に微かな痛みを感じて手をやると、ぬめっとした感触が伝わってきた。

 

「あん?なんだ?」

 

 他の空賊たちも口々に違和感を口にし、違和感の元凶を掴んでむしり取る。

 

「ひっ!ヒルだ!」

 

 誰かが叫んだ直後、天井から無数の羽の生えたヒルが落下してきた。

 

 咄嗟にローブを盾にして防いだが、空賊たちはそうもいかなかったらしく、悲鳴を上げて地下鉄乗り場から逃げ出す。

 

 そして頭に血が昇った一人の空賊が魔法を使った。

 

「クソが!これでも喰らえ!」

 

 放たれたファイアーボールが空中を舞うヒルを何匹か焼きながら天井へと向かっていき、着弾と共に広がって燃え上がる。

 

 まだ天井にいたヒルがたちまち黒焦げになり、空賊たちは歓声を上げるが──

 

 次の瞬間けたたましい音と共に赤い電灯があちこちに灯る。

 

(警報装置!?おいおい嘘だろ!)

 

 想定になかった方法でトリガーが作動してしまったことに焦る暇もなく、壁が開き、赤く塗装された鎧もどきが姿を現す。

 

『くぁwせdrftgyふじこlp!!』

 

 赤い鎧もどきが謎の言語で喚きながら赤い一つ目を激しく明滅させる。

 

 それを見て空賊たちは先程にも増して大混乱に陥った。

 

 てんでバラバラにやたらめったら魔法や銃撃を放つが、どれも鎧もどきを倒すことはできず、鎧もどきはどんどんこちらに接近してくる。

 

 だが、鎧もどきの手が空賊たちを捕らえることはなかった。

 

「喰らえバケモンがッ!」

 

 罵声と共にオズがライフルを発砲した。

 

 凄まじい発砲音と共に発射された弾丸は過たず鎧の赤い一つ目に命中し、青白い電光が迸る。

 

 鎧もどきは痙攣したかと思うと、歩みを止めて床に倒れ込んだ。

 

 しかし、警報は鳴り止まず、直後に地響きが起こる。

 

(不味い!完全に発動しやがった!)

 

 当初考えていた計画はもはや破綻した。

 動き出してしまった()()を止めることはもはや不可能である。

 

「隠れろ──ッ!!」

 

 ありったけの声で叫んで地下鉄乗り場に飛び込んだ直後、崩れかけの建物のエントランスを吹き飛ばして()()は現れる。

 

 太い四本の脚と鋏状のアームが付いた丸っこい胴体と、その後ろに付いた箱型の砲塔とコンテナ。

 昆虫の複眼を思わせる赤い一つ目。

 

 蜘蛛のような形をした大型の鎧もどき──多脚砲台とでも呼ぶべきものがリオンたちを無機質な眼で見下ろしていた。

 

 至近距離から射竦められた数人の空賊たちが後退りしようとするが、直後に多脚砲台の胴体下部のガトリングガンが火を噴き、一瞬で彼らを血煙に変えた。

 

 それを見た空賊たちが悲鳴を上げ、我先にと壁の崩れた所から建物の外に逃げ出す。

 

 だが、彼らを今度は砲塔から発射された榴弾が襲った。

 

 爆発音が轟き、空賊たちが宙を舞う。

 

「テメェよくも!こっちを向きやがれ!」

 

 オズが隠れていた物陰から飛び出してライフルを構え、赤く光る複眼に狙いをつける。

 

 彼の声が聞こえたのか、多脚砲台はオズの方に向き直る。

 

 すかさず放たれた魔弾は確かに複眼に命中し、レンズを幾つか破壊したが、それ以外に何らの損傷も与えることはなかった。

 

「マジかよ──」

 

 その呟きの直後、ガトリングガンの掃射でオズの頭は吹っ飛んだ。

 

 それを見てディーが絶叫する。

 

「オズさぁぁぁあああん!!」

 

 だが、多脚砲台は人間の感情などお構いなしにただただ音に反応し、無慈悲に砲口を向けて榴弾を撃ち込む。

 

「ッ!よくも!よくもオズさんをォォォ!!」

 

 幸か不幸か直撃は免れたらしく、爆煙の向こうから必死で銃を撃ち返すディー。

 

 多脚砲台は彼の姿を捉えられないのか、複眼をしきりにグリグリと動かしていた。

 

 それを見てチャンスは今しかないと思った。

 

 まだちらほら舞っているヒルが寄ってきて気持ち悪かったところだ。

 

 リオンは素早く地下鉄乗り場を飛び出し、多脚砲台の背後を回ってオズの遺体へと向かった。

 

 幸い気取られた様子はなく、多脚砲台はディーが隠れている方向に断続的に弾を撃ち込み続けていた。

 

 首なしになったオズの遺体から弾帯を外し、手に握られたままのライフルを回収しようとするが──

 

(くそ、固い)

 

 オズはライフルをきつく握りしめていて、指を一本一本離さなければならなかった。

 

 多脚砲台がいつ気付いて攻撃してくるか分からない中での手間のかかる作業に焦りが募っていく。

 

 ようやく最後の指を離し、ライフルを手にしたリオンは逃げ道を素早く計算すると、多脚砲台に後ろから魔弾を撃ち込んだ。

 

 多脚砲台がガシャガシャとやかましい音を立てて振り返る頃には、リオンは建物から逃げ出して森に向かって走っていた。

 

 複眼でその後ろ姿を捉えた多脚砲台はガトリングガンを撃つが、弾丸は当たらない。

 魔法で肉体を強化して全力疾走するリオンに照準が追いつかないのだ。

 

 距離を離されては仕留められないと判断したのか、多脚砲台は後を追って移動し始める。

 

 取り残されたディーは恐る恐る隠れていた物陰から出て、周囲の光景に絶句した。

 

 仲間たちは全員死んでいて、殆どが原形を留めていなかった。

 

 そしてディーは敬愛する先輩であり恩人であるオズのところに駆け寄って、目を見開いた。

 

 持っていたはずのライフルと魔弾がなくなっている。

 

 ということは──

 

 森の方から爆発音が聞こえてきて、ディーは様子を見に外に出た。

 

 見ると、森の木が次々に倒れていっており、多脚砲台が遠ざかっているのが分かった。

 

「あのガキ──!」

 

 混乱に乗じてリオンが逃げ出したのだと思い、怒りに震えるディーだが、不意に後ろから声をかけられる。

 

「俺はここだ」

 

 振り返ると、そこにはリオンがいた。

 

 瞬間、ディーはリオンの顔面に銃を突きつけた。

 

「テメエ一体何しやがった。オズさんからそれ剥ぎ取ってなにしやがった!?」

「──仕方なかったんだ。あいつをどうにかして誘き出さなきゃ、やられていた。何とか森で撒いたけど、あいつを放っておいたら皆あいつにやられる。止めないと。頼む、協力してくれ!」

「は?待て、待て。お前──お前があの化け物蜘蛛を誘き出したってのか?」

「そうだ。だから俺とお前は生きている。でもこのままじゃまたあいつに襲われる。その前にキャンプの所にいる連中と合流して止めないと」

 

 ディーは一瞬リオンの言うことを信じていいものか迷った。

 

 だが、もう一度森の方を見れば、多脚砲台はキャンプのある方向へと向かっているのが判り、四の五の言ってはいられないと思った。

 それに正規軍との戦いの時も、彼は空賊扱いされて殺されかけたという事情はあったにせよ、自分たちと共に戦い、決死の肉薄攻撃を敢行したし、その後も危険を冒してオズを抱えて飛んだではないか。

 

「──分かった!」

 

 ディーはリオンへの疑いを呑み込み、銃を下ろした。

 

 二人はキャンプに戻るため、元来た道を走り出す。

 

 

◇◇◇

 

 

 キャンプ地では、突然森の方で起こった爆発音に空賊たちが何事かと騒いでいた。

 

 そして先遣隊が探索に行った方角から黒煙が上がるのが見えて、アラベラはリオンの計画が発動したのだと思った。

 

 この浮島には何か恐ろしいモンスターか何かがいて、それに空賊たちを始末させる──リオンの企みはそんなところだと思っていたが、どうやら当たったようだ。

 

 そしてそれを確信しているのは空賊の船長も同じのようだった。

 

「あのガキ──やりやがったのか!」

 

 信じられない、と言いたげな表情を浮かべる船長だが、アラベラはさもありなんと思った。

 

 武器を取り上げようが、自分たちを人質に取っていようが、この浮島の情報はリオンしか知らないのだ。

 ならば主導権は彼にある。

 その彼を上手く利用して出し抜こうなどと考えた時点で負けているのだ。

 

 そして、彼は不用意に逃げようとせずに伏せていろと言った。

 じきにここにもその恐ろしい何かはやって来るのだろう。

 

 だから、船長が様子を見にテントの外に出て行ってもアラベラは逃げ出そうとはしなかった。

 

 騒ぎが収まるまで──リオンの企みが完遂されるまでどこかに隠れてやり過ごそうと思っていたアラベラだったが、その目論見はあっさり破綻した。

 

「野郎共!武器を持て!何かが来るぞ!ピンキー!ラゲット!空から見てこい!」

 

 船長の号令で空賊たちが呼び集められ、アラベラもランダルに捕まって駆り出されてしまった。

 いつも空賊に何か命じられる度にどうにかして手を抜こうとしていたランダルがいつから空賊の指示に迅速に従うようになったのだろうか。

 そんな疑いを深く考える暇もなく、槍を持たされ、クリアンと共に船長を護衛する配置に付かされる。

 

 森から断続的に続く地響きと木の倒れる音がどんどん近づいて来る。

 

 空賊たちは皆それぞれ愛用の銃や槍、剣を持ち、名指しされた二人のパイロットは鎧に乗り込んで偵察に飛び立っていく。

 

 だが、森の上空に到達した鎧は地上から発射された曳光弾のようなものに襲われ、たちまち一機が撃墜された。

 

 残りの一機が這々の体で逃げ帰ってくると、中から蒼褪めた表情の空賊が転げ落ちてくる。

 

「船長ォォォ!てえへんだ!な、なんか、でけえ蜘蛛みてえな鎧?か何かが向かってきてやがる!で、で、う、撃とうとしたら、ピンキーが墜とされたぁ!」

「何ィ!?」

 

 船長が目を剥いた。

 

 そしてズカズカとアラベラの方へ歩いてくると、胸倉を掴み上げる。

 

「おいクソアマ。テメエ知ってやがったか!?」

 

 リオンとの共謀を疑っているようだが、それは濡れ衣というものだ。

 

「知らない。アイツは何も教えちゃくれなかった。あーしだって何がどうなってんのか分かんねーよ」

「──チッ!」

 

 しばらくアラベラの目を見て嘘ではないと判断した船長は、アラベラを乱暴に放り出した。

 

 その拍子に取り落とした槍は船長が踏みつけ、取り上げる。

 

「おいランダル。この女見張っとけ」

「へい」

 

 冷たい目で自分を見下ろすランダルを見て、アラベラは彼こそが自分とリオンの密談を盗聴して船長に告げ口した犯人だと悟った。

 騙しと駆け引きが日常茶飯事の密輸業において信用できる目利きだと思って組んだのだが、実際には強い者に擦り寄って仲間を簡単に売る蝙蝠野郎だった。

 

 自分の見る目のなさを呪いつつも、アラベラは逃げ出す方法を考える。

 このままここにいたら殺されると彼女は確信していた。

 

 そして地響きが大きくなったかと思うと、目の前の森の木を何本か倒して巨大な蜘蛛のような物体が躍り出た。

 

「撃て!」

 

 船長の命令で空賊たちが一斉に発砲する。

 

 麻痺性電撃(スタンボルト)弾に焼夷弾、炸裂弾、高貫通弾などの魔弾が物体に殺到するが、そのどれも物体を傷つけることはできず、お返しに放たれたガトリングガンが前衛の空賊たちを薙ぎ払った。

 

 残った一機の鎧が対鎧用の大口径魔弾を撃ち込んだが、甲高い音と共に跳ね返される。

 

 そして物体の後部に載った砲塔が火を噴いた。

 

 鎧は素早く離陸して躱したが、外れた榴弾がアラベラたちの近くに着弾し、大量の土砂が撒き上がる。

 

 降り注ぐ土砂と破片から身を守るため、船長とランダルが身を屈めたその瞬間。

 

 アラベラはランダルの顔面に思い切り蹴りを喰らわせて持っていた銃を奪い取ると、ストックで船長の後頭部を思い切り殴りつけた。

 

 船長が倒れると、アラベラはクリアンに声をかけた。

 

「逃げるよ。クリアンさん」

「──あんたも大概向こう見ずじゃな」

 

 アラベラとクリアンは一目散にその場を逃げ出す。

 

 これは千載一遇のチャンスだ。

 あの物体に空賊たちがやられている間にこの場を逃げ出して、近くに隠れる場所を見つけ、そこで事が終わるまでやり過ごす。

 

 だが──

 

「いってぇな!テメエ待ちやがれ!」

 

 鼻血を垂らしたランダルが鬼の形相で追いかけてくる。

 

 年で足腰が弱っていて遅いクリアンを連れていては振り切れないのは明らかだった。

 

 打撃が足りなかったかと歯噛みしつつ、アラベラは足を止めた。

 

 そして追いついてきたランダルが伸ばした手を引っ掴み──思い切り投げ飛ばした。

 

 走ってきた勢いが乗っていたランダルはお手本のような動きで地面に転がされ、「ぐえっ」と呻き声を上げる。

 

 間髪入れずに腕を捻り上げて馬乗りになり、抵抗を封じる。

 

「て、てめえ──」

 

 押さえつけられたランダルがしぶとく暴れるが、アラベラは逃がさなかった。

 

 それどころか、ランダルの首に体重をかけて頭を押さえ込んだ。

 全力で体重をかければランダルの首は折れる。

 

「いい?一度しか言わないからよく聞いて。アンタが取り入るべきは空賊じゃない。リオンだよ。この島のことを知ってるのはあいつだけ。どこにどんな敵がいるのか知ってるのもあいつだけ。ここに辿り着いた時点でもうあいつの勝ちは決まってる。出し抜くなんて無理なの。だから空賊と一緒になってあいつからお宝を横取りしようなんて考えは今すぐ捨てて。でないとこの首圧し折るからね」

「ッ!?わ、わーった!わーったよ!だから首はやめろ!」

 

 慌ててランダルが命乞いしてくるが、アラベラはもはや彼の言動を信用できなかった。

 

「弾はどこ?」

 

 押さえつけたまま問いかけると、ランダルは怪訝な顔をする。

 

「は?タマってそりゃお前が乗ってる──おい待てお前まさか俺のタマ──」

「空賊から貰った鉄砲玉はどこにしまってるのか訊いてるの!どこ!?」

 

 ランダルの首にかける体重を少し強めると、ランダルは悲鳴を上げて白状した。

 

「み、右ポケットだ。ズボンの」

「クリアンさん、こいつのズボンの右ポケットに弾が入ってるから出して」

 

 クリアンが言われた場所を探ってみると、出てきたのは二クリップ計十発の通常弾だった。

 

 念のため他のポケットも探ってからようやくアラベラはランダルを解放した。

 

「とにかく、今はどこかに隠れてあの化け物をやり過ごす。その後リオンを探す。いい?」

「あ、ああ──でもよ、リオンを探すっつったって見つけられんのか?」

「あいつは戻ってくるよ。あーしらやクリアンさんのことは気がかりだろうしね」

「だといいけどよ──」

 

 本当に自分たちのことが気がかりなら攻撃に巻き込むか?

 

 ランダルはそう言いたげだった。

 

 その場に微妙な空気が流れるが、不意に近くの茂みがガサガサと音を立てたかと思うと、暗闇の中に赤い一つ目が光る。

 

 脚のない鎧のようなものがけたたましい音を立てながら飛び出してくる。

 

「うわわッ!何だよコイツ!来んな!」

 

 ランダルが逃げようとして転び、必死で後退りする。

 

 だが、それが却って鎧もどきの注意を引いたらしく、無機質な銀色の手がランダルに迫る。

 

「このっ!」

 

 アラベラは叫んで鎧もどきの手に横から銃を撃ち込んだ。

 

 だが、弾丸はガントレットに当たって跳ね返されてしまい、何らのダメージも与えなかった。

 

 そして鎧もどきは銃を持っているアラベラを脅威と認識したのか、向きを変えて向かってくる。

 

 アラベラは急いで次弾を装填しようとするが、銃を使い慣れていない彼女は排莢に手間取り、接近を許してしまう。

 

「アラベラ!逃げろ!」

 

 クリアンの叫びで間一髪逃れたアラベラだったが、銃を掴まれてしまう。

 

「くそ!離せよこの!」

 

 アラベラは銃を取り返そうと抵抗したが、押しても引いてもびくともせず、あっさりと銃身を捻じ曲げられてしまう。

 

 捻じ曲げられた銃身の先、銃口を突きつけられたアラベラはやむなく銃を手放した。

 これで武器はもうクリアンが持っていたナイフしかない。

 

 捻じ曲がった銃を放り捨てて迫ってくる鎧もどき。

 

 それでもアラベラはクリアンからナイフを受け取って徹底抗戦の構えを取った。

 

 直後、パン!と乾いた音が響いたかと思うと、鎧もどきが一瞬電光に包まれる。

 

 電光が消えると鎧もどきは地面に落ちて前のめりに倒れた。

 

 その背後からライフルと魔弾を持ったリオンとディーが現れる。

 

「リオン!」

 

 やっぱり来てくれた。

 彼を信じた自分の直感は間違っていなかった。

 そのことがアラベラには無性に嬉しかった。

 

「アラベラ?それにクリアンさんも?どうしてここに?」

「キャンプが怪物に襲われたの。銃も魔法も全然効かなくて、応戦した連中も船長もやられて。逃げてきたの」

 

 アラベラのその答えを聞いてディーがかぶりを振る。

 

「船長はそう簡単にくたばるタマじゃねえ!キャンプに急ぐぞ!」

 

 そう言って再び走り始めるディーを、リオンは追った。

 

 てっきり逃げるものだと思っていたアラベラは一瞬面食らったが、リオンとはぐれるわけにもいかず、後を追った。

 

 

 

 キャンプ地は地獄絵図と化していた。

 

 テントはことごとく吹き飛ばされ、弾薬が誘爆したのか集積されていた物資はあちこちに散乱し、炎上していた。

 

 そして怪物──多脚砲台は鋏状のアームで残った一機の鎧を捕らえ、ギリギリと音を立てて締め上げていた。

 

 鎧のハッチが開き、パイロットが転げ落ちた直後、鎧はバキン!と甲高い音を立てて上下真っ二つに切断された。

 

 脱出したパイロットは腰が抜けたのか、走れずにいる。

 

「う、うわぁぁぁあああ!!誰か!誰か助けてくれェェェ!!」

 

 パイロットは泣き叫ぶが、多脚砲台は容赦なく彼を踏み潰そうと脚を振り上げる。

 

 その前を白いものが横切った。

 

 肉体強化魔法を使って全速力でその場に飛び込んだディーが叫びながら手を伸ばす。

 

 パイロットも気付いて手を伸ばす。

 

 だが、その手が触れる直前で多脚砲台の脚がパイロットを無慈悲に踏み潰した。

 

「ッ!クソがァァァアアア!!」

 

 間に合わなかったディーは激昂しながら銃を乱射し、下部のガトリングガンが火花を散らして動かなくなる。

 

(でかした!)

 

 それを見たリオンはすかさず砲塔の死角に入り込んで鋏目掛けて魔弾を撃った。

 

 電光と共に鋏の動きが止まり、多脚砲台の下部──機体の裏面が無防備になる。

 

 そこに飛び込んで弱点に魔弾を撃ち込めば動きを止められる。

 

 一気に決めようとしたリオンだったが、突然多脚砲台から大量の煙を噴き出した。

 

 煙が入った目に鋭い痛みが走り、リオンは思わず跳び退く。

 

 隣でディーも咳き込みながら逃げ出していた。

 

「コホッ、コホッ!おい!誰か!生きている奴はいるか!?いたら返事しろ──!」

 

 ディーが周囲に呼びかけるが、返事は返ってこない。

 

 代わりに現れるのは脚を折り畳み、機体裏面を守る姿勢になった多脚砲台だった。

 

 ガトリングガンと鋏は機能停止し、赤く光る複眼は半分ほど欠けているが、まだ残っている榴弾砲の野太い砲身がこちらを狙っていた。

 

「避けろ!」

 

 咄嗟に叫んで姿勢を低くし、()()()()()()()突進する。

 

 榴弾砲は突っ込んでくるリオンに俯角が追いつかず、砲弾は彼の頭上を掠めて飛んでいく。

 

 そのままリオンとディーは多脚砲台の脇を走り抜けた。

 

 砲塔が旋回して追ってくるが、直後に複数の発砲音が響き、砲塔に小さな爆発が起こった。

 

 砲塔が向きを変え、発射地点を探してキョロキョロし始める。

 

「今のうちに隠れろ!」

 

 森の中からアラベラの声が聞こえてくる。

 先程の爆発は彼女たちの援護だったようだ。

 

 森に逃げ込んだリオンとディーは音を頼りに森の中を走り、アラベラたちと合流した。

 

 一先ずは隠れられたが、背後から木を倒す音が近づいてくる。

 ここに長くは留まっていられない。

 

「マジであんなのどうすりゃいいんだよ」

 

 怯えるランダルが弱音を吐く。

 

 魔弾含めてこちらの攻撃は効かず、空を飛ぶ鎧も撃ち落とす狙撃能力と一撃で十人は纏めて吹っ飛ばす火力を持ち、おまけに逃げても隠れても探知して追ってくるなど、もはや脅威どころか死神にしか見えないのだろう。

 

「どうにか船まで戻れんか?船に乗れれば逃げられると思うが──」

 

 クリアンの提案にリオンはかぶりを振る。

 

「それができたとしてもあの砲に狙われたらおしまいだよ。あの威力と精度じゃ間違いなく推進装置や舵を狙い撃ちされてやられる」

「──つまり倒すしかねーってことだな?ハッ、上等だ。オズさんや皆の仇を討ってやらァ」

 

 ディーだけが威勢のいいことを言っている。

 

 ギーゼルや兄貴分を失った時と同様、オズを失った怒りで蛮勇になっているようだ。

 

「何か方法はあるの?」

 

 アラベラが問うてきたのでリオンはそれらしい理屈を付けて作戦を告げる。

 

「あいつはさっき腹を庇った。ということは多分腹に何か撃たれたくないものがあるんだ。つまり、どうにかしてあいつの真下に潜り込んで撃ちまくれば倒せる──と思う」

「なんか分の悪い勝負みたいだけど、やるしかないみたいだね」

 

 アラベラが腹を括った表情で頷く。

 

「クソが。やってやらァ!」

「あーもう!後で覚えてろよ」

 

 ディーが毒づき、ランダルが自棄気味に叫ぶ。

 

「やるしかないのは同意するが、あの砲は脅威じゃぞ。潰せんのか?」

 

 クリアンは幾分か冷静だった。

 

「──さっき鋏を撃ったら止まったから、多分この魔弾を何発か撃ち込めば止められるとは思う。ただ、止まるまで注意を引きつけてもらわないといけないけど」

「なら決まりだ。俺たちが囮になってやんよ。その代わり絶対に止めろよ?」

 

 ディーの鶴の一声でリオン以外の全員が囮になることになった。

 

 

◇◇◇

 

 

 多脚砲台はセンサー類を総動員して闖入者たちを追っていた。

 

 長い年月を経て見る影もなく劣化したとはいえ、森の中に潜む生き物の体温や動きを探知する能力は残っており、逃げた彼らの位置は大まかながら把握していた。

 

 当然、彼らが分散して向かってくることにもすぐに気付いた。

 

 狙われると不味い歩脚制御装置の冷却器を守るため、脚を折り畳んで匍匐モードに切り替え、移動は脚の先端のクローラーで行う。

 

 踏破性が落ちるが、幸いこの周辺に険しい地形はない。

 

 闖入者の一人が発砲してきたのが分かった。

 

 自分への攻撃だと判断したが、すぐにそうではないと分かった。

 

 発砲の度に熱源が増えていく。

 更には煙幕のようなものまで発生していた。

 

 闖入者たちの姿が紛れて消えていく。

 

 多脚砲台は闇雲に動き回るべきではないと判断してその場で停止し、苛立つかのように動力部を唸らせて戦闘態勢を取った。

 



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命の代価

エ〇オノダイカって何か語呂がいいから使ってみたかったんだけどさすがにそのままは不味いと思ってこうなりました…


 熱と光を発する信号弾と探知魔法を阻害する効果のある煙幕弾をばら撒いて多脚砲台の目を欺きつつ四方八方から挑発と援護を繰り返して翻弄し、その隙にリオンが魔弾による狙撃で砲塔を潰す。

 

 それが多脚砲台との最終決戦における作戦の第一段階だった。

 

 撃ったら即移動、何なら走りながら撃ち、決して一箇所に留まらないことで榴弾の鉄槌をやり過ごす。

 それを砲塔が沈黙するまで続けるのだ。

 

「俺から行く!」

 

 まずディーが煙幕から一瞬飛び出して砲塔目掛けて炸裂弾を撃った。

 

 砲塔がディーの方へと向いた次の瞬間、リオンが撃った魔弾が着弾し、砲塔が電光に包まれる。

 

 だが、砲塔は何事もなくくるりと回り、リオンの方を向いた。

 

「させない!」

 

 すかさずその反対側からアラベラが撃ち込み、クリアンとランダルが続く。

 

 砲塔が右往左往している間に二度、三度、四度と魔弾は撃ち込まれ、その度に電撃が砲塔に降り注いだ。

 

 心なしか、砲塔の動きが鈍くなってきたように見える。

 

「効いているぞ!続けろ!」

 

 リオンが叫び、銃撃がそれに呼応して浴びせられる。

 

 だが、多脚砲台の方もやられっ放しではなかった。

 

 不意に右往左往していた砲塔がぐるりと一回転すると、ゆっくりと旋回しながら榴弾を乱射し始めた。

 

 爆発で木々は薙ぎ倒され、茂みは地面ごと掘り返され、煙幕は吹き飛ばされる。

 

「皆大丈夫か!?」

 

 かろうじて倒されなかった木の陰に隠れて生き延びたリオンは仲間たちの安否を問うたが、返事はない。

 

 だが、木々の向こうから赤い魔弾が放たれ、多脚砲台に着弾して爆発した。

 

 砲塔がそちらに向いた隙にリオンは五発目の魔弾を撃ち込む。

 

 直後、多脚砲台に動きがあった。

 

 伏せて砲塔だけ回すのをやめてクローラーで移動し始めたのだ。

 

 どうやら砲塔についていた目か耳だかは魔弾でやられて、半壊した複眼でしか見えなくなったようだ。

 

「脚の先を狙え!炸裂弾を使え!」

 

 リオンは力の限り叫んだ。

 

「──炸裂弾はあと二発しかねえ!お前らは!?」

 

 ディーの問いかけにアラベラとクリアンが答える。

 

「あと一発だけ!」

「わしのは売り切れじゃ!」

 

 合わせて三発。

 一発も外さなかったとしても四つのうち三つしか壊せない。

 

「ランダル!お前はどうだ!?炸裂弾はあるか!?」

 

 ディーが叫んだが、ランダルからの返事はなかった。

 

(まさか、さっきの砲撃でやられたか?)

 

 リオンはランダルが砲撃で殺されたかと思い、狼狽するが、アラベラの考えは違った。

 

「あの野郎、逃げやがった!」

「んだと!?クソが!!」

 

 アラベラとディーが忌々しげに喚く。

 

 その声の源を探るかのように多脚砲台は小刻みに動いて周囲を見回していた。

 

「とにかくやるしかない!一番近い脚先を狙え!一斉にかかるぞ!用意はいいか?」

「おお!!」

「よし!」

「よし!」

「行くぞ!三、二、一!!」

 

 合図で四人は一斉に隠れていた場所から飛び出して、多脚砲台の脚先目掛けて発砲した。

 

 戦果を確認する暇もなく、砲塔が火を噴く。

 

 だが、直接照準できないせいか、榴弾は明後日の方向へ飛んでいった。

 

 多脚砲台は遂に立ち上がる。

 

 機体の裏面が狙えるようになり、リオンは突撃の準備をする。

 ライフルのボルトを開いて一旦弾倉に残っていた魔弾を全て取り出し、代わりに新しいクリップを挿入。これでフル装填した分全て一気に叩き込む。

 

 準備が整うと、リオンは仲間に向かって叫んだ。

 

「援護してくれ!」

 

 その声に呼応して数発の銃声と挑発の言葉が聞こえてくる。

 

 反応した多脚砲台が向きを変えた直後、リオンは魔法で肉体を強化して走り出した。

 

 魔法による強化に加えてアドレナリンが出まくっているせいか、時の流れが遅くなったように錯覚する。

 

 あと十歩。多脚砲台はまだ気付いていない。

 

 あと五歩。砲塔が火を噴く。

 むしろ好都合だ。これで少なくとも一秒間、榴弾は撃てない。旋回にかかる時間も入れれば──完全に取った。

 

 世界から音が消え、何もかもが止まったように見える。

 

「リオン!右ッ!!」

 

 悲鳴のようなその声が静寂を突き破って耳に飛び込んできた。

 

 咄嗟に右の方を見ると──振り上げられた巨大な脚が眼前に迫る。

 

 あ、これ死ぬ──直感でそう判ってしまった。

 

 ──やっぱり俺のようなモブにはこんな奇策上手く行かせられるわけなかったということか。

 

 才能はない、金もない、家柄も良くない、無い無い尽くしながらも、自分と家族の未来が懸かっているとなって、自分に出せる全力で抗ったつもりだった。

 

 でも、どうやら力及ばなかったらしい。

 

 家族には迷惑をかけっ放しで結局何も返せなかったな。

 

 もしまた生まれ変われるとしたら、次はもうちょっとまともな世界だといいのだが──

 

 

「リオン!!」

 

 

 聞き覚えのあるしゃがれた声が響いたかと思うと、リオンの身体は突き飛ばされて前のめりに倒れ込んだ。

 

 直後に地面が爆ぜる。

 

 衝撃と共に撒き上がった土と生温かい液体がリオンに降り注いだ。

 

 ──生きている。

 何が起こった?なぜ生きているんだ?

 

 その疑問の答えを求めて後ろを見やるとそこにいたのはクリアンだった。

 

 その下半身は多脚砲台の脚に踏まれて完全に粉砕され、鮮血で染められていた。

 

「あ──な、何で──」

 

 頭の中の疑問の量に反して口が凍りついたかのように動かず、辛うじてそんな言葉しか出なかった。

 

 クリアンは血を吐きつつも微笑みを浮かべて言った。

 

「言ったじゃろ──お前さんを助けたい──そう──言っ──」

 

 言葉は途切れ、瞳から光が消える。

 

 クリアンは死んだ。

 またクリアンを身代わりにして生き延びて、今度は彼を本当に死なせてしまった。

 

 その事実に身体が動かなかった。

 

 固まったリオンをその場から引きずり出したのはディーだった。

 

「おい!さっさと立て!まだあいつは動いてるんだぞ!」

「で、でもクリアンさんが──」

「死んだ爺はどうだっていいんだよ!」

 

 ディーは叫んでリオンの頬を張った。

 

 一瞬視界がブレてぼやけ、焦点が合ってくると、頬に鋭い痛みが走る。

 その痛みと共に世界に色と音が戻ってくる。

 

 断続的に聞こえてくる発砲音はアラベラのものだろうか。

 だとしたら、彼女は今たった一人で多脚砲台を引きつけている。

 

 また多脚砲台の砲塔が火を噴く。

 

 薙ぎ倒された木々の向こう、まだ煙幕の残る場所で砲弾が炸裂し、炎と黒煙が爆ぜる。

 

 ──助けなければ。

 今はまだ絶望してはいられない。

 

 まだ救える命がある。

 

 リオンは歯を食い縛って立ち上がる。

 

 

 

 一方その頃。

 

「冗談じゃねえ。あんなのとやり合ってられっか!」

 

 ランダルは森の中を必死に走って逃げていた。

 

 向かう先は港に停泊している空賊船である。

 

 リオンたちが蜘蛛の化け物を引きつけている間に、空賊船に積んである小型艇で浮島を脱出する。

 それがランダルの計画だった。

 

 どう考えてもあんな馬鹿げた火力と装甲を持った化け物に勝てるわけがない。

 どうせ彼らは皆殺しにされる。

 巻き添えは御免だ。

 

 そう考えてキャンプ地に戻ってきたランダルだったが──

 

「は?おいおい嘘だろ──」

 

 赤く光る一つ目を持った鎧もどきが数体、焼け焦げたキャンプ地を漁っていた。

 

「くそっ!くそっ!なんでよりにもよってこんな時に来てやがんだよ」

 

 空賊船は見えているが、鎧もどきの群れを突っ切って辿り着けるとは思えない。

 

 ──そもそもその空賊船も放火されたらしく炎上していた。

 

 ランダルは地団駄を踏んだが、それが間違いだった。

 

 さっさと切り替えてリオンたちの方に戻っていれば活路はあったかもしれない。

 

 だが、彼が悔しがり、逡巡している間に背後に死が忍び寄っていた。

 

 柔軟だが硬質な手がランダルの首を引っ掴む。

 

「なっ!?このォッ!クソが!離じやがれェェェ!」

 

 ランダルは腰のナイフを抜き、鎧もどきの手に切りつけたが、傷一つつかない。

 

 そのまま鎧もどきは手に込める力を強めていく。

 

 グキリという音と共にナイフを振り回していた腕が力なく垂れ下がる。

 

 鎧もどきが去った後に残るは、首を折られたランダルの骸だった。

 

 

 

 ディーとリオンは一先ず多脚砲台の背後から銃弾を撃ち込んで注意を引こうと試みた。

 

 多脚砲台は砲弾を撃ち尽くしたのか、榴弾砲を撃ってこなくなり、不規則に脚を振り上げては振り下ろしている。

 

 裏側に潜り込もうとしたらその前に確実に踏み潰されるだろう。

 

「もう一度、陽動頼めるか?」

 

 リオンはディーに問いかける。

 

 多脚砲台の真正面に姿を晒して囮になり、踏み潰そうと多脚砲台が脚を上げた隙に後ろからリオンが潜り込む。

 

 それが最後の作戦。

 

「今度はしくじんじゃねーぞ」

 

 ディーはそう念押しして、多脚砲台の前に回っていった。

 

 そして弾切れになった銃を振り回しながら突進していく。

 

「オラァ!俺はここだ!かかってこいや!」

 

 銃のストックが多脚砲台の脚を打ち据え、甲高い金属音が響く。

 

 多脚砲台は唸りを上げて向きを変えたかと思うと、再び伏せの姿勢になり、ディー目掛けて脚を蹴り出した。

 

 だが、ディーは横に跳んで躱し、中指を立てて挑発する。

 

「けっ!何だそのへなちょこキックはよ!もっとわーって振り上げてバーンって落とせや!さっきの爺みてぇによォ!」

 

 貶し、蹴りつけ、石を投げつけ、親指を下に向け、尻を叩いて多脚砲台の注意を引こうとするディー。

 

 何度蹴りを繰り出しても紙一重で躱し、挑発を続けるディーに苛立ったのか、多脚砲台はとうとう脚を振り上げた。

 

 だが、それでもまだ一本だけ。

 胴体は伏せたままで、その裏側は狙えない。

 

 リオンは歯噛みするが、不意にディーの後ろから銃声が響いたかと思うと、多脚砲台の複眼近くに小さな電光が閃いた。

 

 リオンの持つ魔弾とは比べるべくもない低威力の麻痺性電撃(スタンボルト)弾。

 何らのダメージにもならなかったが、多脚砲台はそれがディーから放たれたものだと勘違いしたらしい。

 

 多脚砲台は再び立ち上がり、機体が地面から離れる。

 

 そのまま多脚砲台はディー目掛けて突進していく。

 

「今だ!リオン!」

 

 ディーが走りながら叫ぶ。

 

 だが、リオンは動かなかった。

 

 多脚砲台は何者にも邪魔されることなく、ディーに追いつき、脚を思い切り振り下ろした。

 

 ドン!という轟音と共に脚が地面に叩きつけられる。

 一度ではなく、二度、三度と連続して。

 

 そして地響きに混じってディーの悲鳴が上がる。

 

 多脚砲台はゴキブリを圧し潰すかのようにグリグリと脚を地面にめり込ませていた。

 

 それによって機体の前半分が沈み込み、機体後部が突き出される形になる。

 

 剥き出しになった機体裏面にリオンは装填された魔弾を撃ち込んだ。

 

 引き金を引いてはすぐにボルトを引き、また引き金を引く。

 多脚砲台が振り向く前に一発でも多く叩き込まなければ──

 

 機体の裏側が絶え間なく電光に包まれ、やがて一部が赤熱化して小さな爆発が起こる。

 

 多脚砲台が振り返り、リオン目掛けて突進してきた。

 

 リオンはありったけの魔力を脚に込めて走る。

 

 多脚砲台は派手に地響きを立てて追ってきていたが、やがて胴体部から火を噴き、直後に砲塔が爆発して吹っ飛び、空高く打ち上がった。

 

 巨体が火柱を噴き上げながら前のめりに倒れ、脚が力なく伸びて地面に投げ出される。

 赤い複眼から光が失われる。

 

 多脚砲台はようやく機能停止した。

 

 ──倒した。

 

 その実感が湧くまで数秒かかった。

 

 緊張の糸が切れて、リオンは思わず近くにあった木に寄りかかる。

 

 心臓はまだ早鐘のように脈打ち続け、呼吸は荒い。

 

 本当にこいつは完全に壊れているのか?

 もしかしたら、壊れたふりをしているのではないのか?

 

 その確認のためにもう一発撃ち込んでみた。

 

 反応はなし。

 

「はっ、手こずらせやがって──」

 

 嘲りというよりは意識を保つために無理矢理笑みを浮かべる。

 

 そしてリオンは急いでアラベラとクリアンを探しにもと来た道を引き返す。

 

 既に日が暮れ始めていて、森の中は暗かったが、すぐにアラベラの姿を見つけた。

 

 力なく木にもたれかかっていた彼女を見て、死んでいるのかと思い、冷や汗が噴き出る。

 

「おい、アラベラ!大丈夫か!?」

 

 呼びかけると、アラベラは目を開けた。

 

「──リオン?」

「よかった。喋れるな。怪我はないか?」

「ん?──何て?」

 

 どうやら榴弾の爆風で鼓膜をやられているようだが、見た感じではそれ以外に大した傷はない。

 

「怪我はないか?」

 

 念のためすぐ耳元で訊いてみたが、アラベラは頷いた。

 

「大丈夫。耳やられたっぽいだけ──」

 

 そう言ってアラベラは銃を杖にして立ち上がるが、リオンはその背中を見て血の気が引いた。

 

 彼女の背中は血に染まっていた。

 

 見ると砲弾の破片と思しき物がいくつか突き刺さっている。

 

 幸いまだ意識はあるが、早く手当てをしないと危険だ。

 

「アラベラ!血が出ているぞ!」

「──え?どこ?」

「背中だ。あんまり動くな」

 

 リオンはライフルを肩に掛けると、前に回し、アラベラに背中におぶさるように言った。

 

「はは、しくじったなぁ」

 

 アラベラは苦笑いしながらリオンの背中に掴まる。

 

 リオンはすぐにキャンプ地へと向かった。

 

 

◇◇◇

 

 

 キャンプ地に辿り着いた頃にはすっかり日が暮れていた。

 

 煌々と燃え続ける火に混じって、鎧もどきの赤い一つ目がちらほら光っている。

 

 それらを倒さなければアラベラの手当てどころではない。

 

 リオンは背負っていた彼女をそっと地面に下ろし、茂みの中に隠した。

 

「ちょっとだけ待っていてくれ。すぐ戻るから、ここを動くなよ」

「分かった」

 

 アラベラが頷いたのを確認し、リオンはライフルを手に取った。

 新しいクリップを装填し、キャンプ地を漁る鎧もどきたちへと近づいていく。

 

 一番近い一体を一発で倒すと、気付いた鎧もどきたちがふよふよと浮かんで迫ってくる。

 

 暗闇と炎の光でさながら幽霊のように見えるそれらをリオンは一体ずつ撃ち抜いていった。

 

 間違ってもアラベラの方に行かないように、逆方向に向かいながらの引き撃ち。

 鎧もどきたちは電子音で喚きながら追ってきたが、距離を縮める前に魔弾を一つ目に喰らって次々に倒れていった。

 

 最後の一体の一つ目から赤い光が消えたのを確認して、リオンは急いでアラベラのところへ戻った。

 

 途中で拾ったランタンに火を灯し、血に染まった服を脱がせて怪我の具合を確かめると、焼け残った物資から手当てに使えそうなものを探す。

 

 少し探すと、酒の瓶が見つかったので、それで消毒することにした。

 

 キツめの蒸留酒を口に含み、傷口に噴きつける。

 

 そして突き刺さった砲弾の破片を慎重に引き抜き、すぐに熱したナイフの刃で傷口を焼く。

 

 ロクな手術道具もなく、医療知識もないリオンにできたのはそれだけだった。

 

 錆びた鉄のような血の臭い、皮膚と肉の焼ける音、そしてアラベラの悲痛な呻き声が容赦なく飛び込んでくる。

 

 四苦八苦しながらも、リオンは手を止めなかった。

 

 クリアンが目の前で死んで、ランダルは逃げ出したまま行方知れずで生存は絶望的、この上アラベラまで死なせてしまったら、一生消えない後悔が残るだろう。

 それに比べたら、これくらい安いものだ。

 

 その一心で、リオンはやり遂げた。

 

 水を含ませた布を焼いた傷口に当てて冷やし、貧血を起こさないように寝かせた後、リオンはクリアンの遺体を探しに森に戻ろうとした。

 

 そしてその手前で見たのは、潰れた下半身を引きずって這ってきたらしいディーの姿だった。

 

 ディーはリオンに気付くと、憎悪の込もった目で睨みつけてくる。

 

「リオン──テメェ、わざと──わざと動かなかったな!」

 

 その言葉に身体が引き攣った。

 

 返す言葉がなかった。

 足が動かなかったと言い訳するのは簡単だ。

 だが、そうではないと、心の奥底では分かっていた。

 

 自分はディーを助けられなかったのではなく──見殺しにしたのだ。

 

 自分を庇って多脚砲台に踏み潰されたクリアンを「どうでもいい」などと言い放ち、更には挑発の言葉のネタに使った彼への怒りから、わざと──

 

「クソが。なんで──なんでだよ。一緒に戦ってきたんじゃねーのかよ。この──人殺しが」

 

 その言葉を最後に、ディーは地面に突っ伏して動かなくなった。

 空賊たちの最後の一人が、死んだ。

 

 それを見て指先から力が抜けて、リオンは持っていたライフルとランタンを取り落とした。

 

 両の膝を地に着けて、リオンは歯を食い縛る。

 

 だが、込み上げる吐き気を抑えることはできず、激しく嘔吐いた。

 殆どなかった胃の中身を全部吐き出してしまっても、まだ吐き気は治らず、なけなしの唾液を吐き出した。

 

 静かになったキャンプ地にリオンの咳と嗚咽だけが微かに響く。

 

「なんでって──こっちが聞きてぇよ」

 

 自分を捕らえて拷問し、無関係の多くの人々を殺戮し、宝を手に入れた後は更なる乱暴狼藉を働こうと企んでいた極悪人共のためにどうして自分が泣いているのか、分からなかった。

 

 最初から計画の最後にはこうなることは分かっていたはずなのに。

 

 今まで人を食い物にして生きてきた報いだと割り切っていたはずなのに。

 

 いざ彼の──彼らの無惨な屍を目にすると、かつてないほど激しい恐怖と罪悪感が襲ってきた。

 

 地面を掻きむしった指先に血が滲む。

 

 傷ついた手を握り締めて、何度も地面に叩きつけた。

 

 何度、叩きつけたか分からなくなり、傷だらけになった拳が不意に柔らかいものに包まれる。

 

 いつの間にかやって来たアラベラがリオンの手を弱々しく掴んでいた。

 

「駄目だよ。もうやめてよ。こんなこと」

 

 アラベラは悲痛な表情を浮かべていて、その身体は震えていた。

 

「気持ちは分かるなんて言わないけどさ、こんなことしたって何にもならないよ。アンタは──誰か守りたい人がいたんでしょ?だからこそここまでやれたんでしょ?」

 

 力が抜けていく。

 

 拳が開き、引き攣っていた喉が解れていく。

 

「俺は──だけど──こんな──こんなだなんて──」

 

 涙を流しながら途切れ途切れに言い訳のような言葉を呟くリオンをアラベラはそっと抱きしめた。

 

「──アンタは優し過ぎるのよ。こいつらは──してきたことの代償を払ったんだよ」

 

 違う。きっと代償を払ったのは俺の方だ。

 

 毎日必死で生きているつもりで実の所大した危機感も抱かず、せっかく持って生まれた武器も使わずに呑気に生きてきた結果が変態婆に売られる運命だった。

 そして、その運命を本来物語の主人公が手にするはずだった力を盗んで切り抜けようとしたがために、多くの犠牲を払うことになった。

 

 俺が頼った空賊たちに殺された無数の無関係の船乗りたちや正規軍の軍人、そして俺が死なせた空賊たちとクリアンの命。

 それが──俺の命の代価。

 

 リオンは泣きながら犠牲にしてきた彼らに詫びた。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日。

 

 リオンはアラベラと共に浮島の中心部に向かっていた。

 

 朝から数時間かけて空賊たちの遺体を可能な限りキャンプ地に運び込んで、途中で見つけたクリアンとランダルの遺体と共に荼毘に付し、そして焼け残った食糧と武器弾薬を掻き集め、今度こそ本当の目的地へと出発したのである。

 

 空賊船は鎧もどきに放火されたらしく、真っ黒に焼け焦げていた。

 島を出る手段はもはやなく、残された道は前に進むことだけだった。

 

 昨日右に進んだ分かれ道を左に進み、草に覆われた道をひたすら歩いていく。

 

 二人は無言のままひたすらに歩みを進める。

 炎と血と屍をあれだけ見て、昨日の今日で楽しく談笑しながら歩くなんてできるわけがなかった。

 時々足場の悪い場所や蛇に遭遇した時に注意を促したり、手を貸し合ったりするくらいだ。

 

 そうして数時間歩き続けた後、遂に巨大な木に屋根を貫かれた建物が見えてきた。

 

 記憶にある通りの場所だ。

 

「あった──」

 

 探し求めていた場所を目にした瞬間、様々な思いが去来した。

 

 自分の記憶がありもしない幻ではなく、自分はそんな幻を信じていた狂人ではなかったという安堵。

 ここに辿り着くまでに犠牲にしてきた無数の無関係の船乗りたちや正規軍の軍人、そして空賊たちへの罪悪感。

 残してきた家族への心配──もう故郷を出てから八ヶ月ほどが経つが、正妻が痺れを切らして弟を連れ去ってはいないだろうか。

 そして遺跡はあったが、目的のものはあるだろうか──もしなかったら永久に島を出られない──という不安。

 

 思わず立ち尽くしたリオンにアラベラが声をかける。

 

「ここがそうなの?リオンが来たがっていた場所?」

「──ああ」

 

 出てきたのは生返事だった。

 

「その割には浮かない顔してるけど?」

「いや、何ていうか──気持ちが追いつかなくて」

 

 アラベラは特に追及してくることもなく、屋根の下に腰掛ける。

 

「ちょっと休もうよ。歩きっ放しだしさ」

 

 その言葉でリオンは自分の足が棒になっていることに気付いた。

 

 アラベラの隣に腰掛けると、すぐ近くに水の染みがついた。

 

 見ると、空は曇り、ポツポツと雨が降り始めている。

 

 図らずも雨宿りの形になっていた。

 

 そのまま二人して無言のまま雨を眺めていたが、不意にアラベラが口を開く。

 

「ねえ、ずっと気になってたんだけど、リオンはなんでここのお宝を手に入れたいって思ったの?」

 

 答えていいものかどうか迷ったが、深く考えるのも面倒で答えてしまう。

 

「金が要るんだよ。縁談を断るために」

「縁談?」

「ああ。詳しく話すと長いんだけど──」

「いいよ。聞かせてよ」

 

 アラベラは身体を寄せてくる。

 

「俺は貴族っていっても辺境の男爵家の三男坊でさ。しかも妾の子なんだ。親父の正妻はそんな俺を学園にやる金が惜しいみたいでさ、五十過ぎの変態婆と勝手に縁談を進めやがった。後から知ったけど、結婚後には俺を軍人にして適当な所で戦死させて、遺族年金を手に入れようって企みだった。うちに寄生して王都で贅沢三昧のくせして、まだ金が足りないらしい。そんなやつの私腹を肥やすために犠牲にされるなんて真っ平御免だ。で、断るのに必要な金は用意するから縁談は取り消せ、って言ったんだ。言ったはいいけど、必要な金の額は魔弾を千発以上買ってもお釣りが来るくらいだった。そんな金を短期間で用意するなんて、冒険で一山当てる以外じゃ無理だ。だからこの島のお宝に賭けた。それがここを目指した理由だよ」

「──そんなことがあったんだ」

 

 話の重さが予想を超えていたのか、アラベラはドン引きしていた。

 

 ただ、リオンの方は僅かに肩の荷を下ろしたような安堵感を覚えていた。

 初めて自分の抱えていた事情を聞いてもらえて、嬉しかったのかもしれない。

 

「でもさ、そんな酷い話を振られたんなら、そのまま逃げてもよかったんじゃないの?」

「それも考えたけどな。俺が逃げたら弟が代わりに売り飛ばされる。さすがにそれを分かっていて逃げるなんて、無理だったんだ」

 

 リオンの答えを聞いてアラベラは合点がいったという顔をする。

 

「なるほどね。守りたかったのは弟さんだったんだ」

「──ああ。二、三ヶ月で帰るはずだった。なのにもう八ヶ月くらいだ。もしかしたらもう──」

「大丈夫だよ。きっと」

 

 アラベラは力強く弱音を遮った。

 

「大丈夫。そう信じるの」

「何だよそれ。それで大丈夫になるなら苦労しないだろ」

 

 何も知らないくせに何を楽観的なことを言っているのかという怒りから、思わず嫌味が込もる。

 

「いやいや、単に何とかなるって意味じゃないんだよ。挫けずに信じた道を進み続ければいつか必ず結果は出るし、良いこともあるってこと。アンタはあるかどうかも分からなかったこの島に実際辿り着いたし、生きてこの遺跡の前に立ったでしょ?それはアンタが諦めずに足掻き続けたからだよ。だから、大丈夫。最後には笑えるよ」

「──そうなのか」

「そういうものよ。あーしだって信じる相手を間違えなかったから生き残れたし」

「──そうか。そうかもな」

 

 ほんの少し、心の靄が晴れたような気がした。

 

 最初からお宝がなかった時の考えはあった。

 空賊船は焼け焦げていたが、救命ボートか最悪浮遊石だけでも回収できれば、それを材料に新しく飛行船を作れるかもしれない。

 この旅の結果がどうであれ、完全な詰みではない。

 

 高い代価を払って拾った命はまだ終わらない。

 

「よし、行くか」

 

 気合いを入れるために頬を叩いてから、リオンは立ち上がった。

 

 いつの間にか雨は止んでいた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「で、本命の遺跡にアラベラと二人で入って、ロストアイテムの飛行船を見つけた。その飛行船にも防衛用に鎧みたいなのがいたんだけど、これがめちゃくちゃ手強くてさ。魔弾を撃っても魔法を消すシールドみたいなもので防ぎやがるし、物理攻撃じゃ傷一つつかないし。最後は捕まって握り潰されそうになったけど、ご丁寧に頭のバイザーの前に持って行ってくれたもんだから、剣で穴開けて残りの魔弾と手榴弾を投げ込んでやったんだ。それでやっと倒れてくれて、それで後はその飛行船に乗って回収したロストアイテム持って故郷に帰った──ってわけ」

 

 リオンが話をそう締め括った時には日が沈みかけていた。

 

 時間が経つのも忘れて聞き入ってしまうくらい、壮絶で物哀しい冒険譚だった。

 

 オリヴィアなんて最後の方になると泣いていた。

 

 俺の心に湧き上がっていたのは同情心と──自分でも意外だったが、敬意だった。

 

 純粋にこいつは俺より凄い──そう思った。

 

 俺は前世の分を含めれば五十年近い人生経験があるし、幸運の守り神たる案内人がついている。

 

 でもリオンはそうではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 当然十数年分の知識と経験しかないし、鏡花水月のようなチート技もなく、危機に陥っても守ってくれる者はいない。

 

 にも関わらず、リオンは俺の冒険よりも遥かに過酷な旅路を知恵と度胸で乗り越え、俺よりも凄い成果を上げた。

 酒場の与太話でしかなかったロストアイテムを本当に見つけて、自分のものにしてみせた。

 

 俺が同じ立場だったら同じことができたかは怪しい。

 

 クリスやオリヴィアとは別の方向性の逸材──欲しいな。

 

「もう日が暮れちゃったな。ごめんな俺ばっかり話しちゃって」

 

 リオンが謝りながらお茶のお代わりを淹れてくれる。

 

「いや、聞けて良かったよ。想像の十倍は凄い話だった」

「そ、そうか?それは──うん、良かった」

 

 複雑そうな顔をしながらも照れているリオン。

 

 これは押せばいけそうだな。

 

「なぁ、よかったらまた誘ってくれよ。訊きたいこともあるしさ」

 

 ちょっと顔を近づけて言ってみると、リオンは気圧されながらも頷く。

 

「あ、ああ。俺でよければいつでもいい──ぞ?」

「本当か?楽しみにしているぞ」

 

 手を取ってがっちり握手してやると、リオンは耳を赤くしていた。

 

「わ、私も!よかったら遺跡のこととか、ロストアイテムのこと、訊きたいです」

 

 オリヴィアも遠慮がちながらもリオンの話を聞きたいと言い出す。

 

「う、うん。じゃあまた次の週末にお茶会の用意しておくから──」

「約束だぞ」

「──分かった」

 

 そう言ってリオンは笑みを浮かべる。

 

 ただ──その笑顔がどこか曇っているように見えたのは気のせいだろうか。

 



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幕間 ダフネス

外伝あるいは伏線のようなもの


 昔から愛想のない子だと言われて育った。

 

 専属使用人の出稼ぎで食っていた故郷の村は皆一丸となってその養成に取り組んでいたから、私のような無愛想な者には当たりがきつかった。

 

 物心ついた頃にはもう礼儀作法を徹底的に叩き込まれ、笑顔が可愛らしくなければ、お辞儀の角度が間違っていれば、言葉遣いが場に相応しくないと見做されれば、すぐに拳と蹴りが飛んできた。

 

 それが嫌で必死で作法と愛想を覚えた。

 

 たとえそれが男たちの育成のために付き合わされているだけだとしても、村という共同体で生きている以上、従うしかない。

 ましてや父親がいなくて、村の皆の厚意による庇護で生活できているなら尚更。

 

 冷めた本心をひた隠し、ミリ単位で調整した笑顔と何度も喉が枯れるまで練習した猫撫で声で、優しくおっとりしていておねだり上手な可愛げの塊みたいな女を演出する。

 

 それが私。それがグレースナイト(優雅なる騎士)専属使用人クラブ(奴隷商館)のトップエース【ダフネス】の真実。

 

 私のことを散々根暗と揶揄し、遠ざけ、馬鹿にしてきた男たちを専属使用人にするために延々と礼儀作法の練習に付き合わされるのが嫌で島を飛び出してからもう数十年が経つ。

 

 結局私は島の外で仕事を見つけられず、生きるためにやむなくこの奴隷商館に身売りした。

 

 皮肉なことに、嫌で仕方なかったはずの礼儀作法の稽古によって叩き込まれた技術で私はたちまち頭角を現した。

 

 女奴隷を求めてやって来る客なんて普通の客の百分の一もいない。

 チャンスはものすごく少ないが、私はそのことごとくをものにした。

 

 仕える期間は五年以内に留め、飽きられて蔑ろにされたり、私自身が媚びるのに倦んでボロを出す前に契約期間満了で惜しまれながらお別れし、新しい主人を探す──それを繰り返していつしか稼いだ金額は商館の中でも一位になり、トップエースなんて呼ばれるようになった。

 

 もう生きていくには充分過ぎるほどお金は稼いだ。

 

 でも、私は嫌っていたはずの専属使用人としての生き方を変えることができなかった。

 

 そもそもが嫌な場所から逃げてきただけの私には特に行きたい場所もやりたいこともなかった。

 

 家庭を持つなんてことも考えたが、自分が誰かと家族になって子供を作ってそれで幸せに暮らしているイメージは全く湧かなかった。

 

 私はエルフで、人間や獣人の男との間に子供は作れない。

 稀に例外はあるが、本当に稀だ。誰にでも起こることじゃない。

 それに寿命の差で必ず私が看取る側になる。

 

 そして同族の男はどいつもこいつも性悪ばかりだ。

 嘘と秘密で塗り固めた夢を男に見せて金を貰っている私が言えた義理ではないが、それでも仕えていた主人の悪口やら、自身のプロ意識の欠片もない悪行を大っぴらに口にして笑いのネタにするなど、性悪な下種以外の何者でもあるまい。

 そんな下種と懇ろな関係になるくらいなら独り身の方が百倍マシだ。

 

 だからいつかこの身が老いて売り物にならなくなるまではこの世界で生きて稼いで、引退したらどこか静かな所に家でも買って、ペットの一、二匹くらい飼って暮らそうかと漠然と考えていた。

 

 そんな風に澱んでいた私が久しぶりに心動かされたのはかつての自分によく似た後輩との出会いだった。

 

 綺麗な髪と可愛い顔、若く瑞々しい肢体、モフモフの権化のような大きな尻尾と耳を備えた獣人の少女【ティナ】。

 他人に話せない事情があって故郷を離れ、流れ着いた先で仕事にありつけずに身売りしてきた──境遇がかつての私にそっくりだった。

 そして私と違って根っこのところが冷めた嫌味な奴ではなく、素直で優しくて不器用な、本当の意味で可愛げのある子だった。

 

 人と接していてここまで良い気分だったのは初めてではないかと思うくらい、彼女との時間は楽しく心が温まった。

 

 ──私がそんなことを思う時点で、彼女は専属使用人に向いていないのは確かだ。

 

 でも、彼女には他に行くあてなんてない。

 だから教えられる限りの技術と知恵と心構えを教えてあげた。

 あとは彼女自身の気合いと運の問題だ。

 

 そして私に教えられることはもうないと判断したタイミングで、私はちょうどやって来た富豪の男に買われて商館を離れた。

 

 実を言うと私自身は多くの男が嫌う年増感を出し、逆にさりげなくティナのことを持ち上げて勧めておいたのだが、結局選ばれたのは私だった。

 商会の若旦那っぽい雰囲気に反して熟女好きとは、私の勘も鈍ったか。

 

 これまでと殆ど同じ内容、契約期間で待遇に文句はなかったが、ティナのことが気がかりなままだった。

 

 そして契約期間が明けて商館に戻った時、ティナはそこにいなかった。

 

 オーナーからは、私が買われてから三年ほど経った頃にどこかの貴族令嬢に買われていったと聞いた。

 

 逃げ出したとか売春宿に沈められたとかではなくて安心したが、それでもやはり心配は拭い切れなかった。

 

 あの子は不器用だ。

 素直過ぎて猫を被れないし、交渉事も無理。

 

 粗相をしていないか、主人から不当な扱いをされていないか、周囲の使用人や家の関係者から疎まれて嫌がらせを受けたりしていないか、契約内容はちゃんと詰めているのか──今頃になって、あのこと教えてたっけ、これまだ教えてない気がする、あれもそれも、と色々な考えが湧いてきた。

 

 専属使用人は酷い主人に買われるリスクから逃れられない。

 ティナの後輩のフィオナを買った奴なんて、刃物を使って傷つけ合うとかいう意味不明なプレイを散々強要した挙句、薬漬けにして廃人状態に追い込んだと噂で聞いた。

 普通そんな奴には商館側も黙ってはいないが、金と権力で揉み消されたようだ。

 

 ティナを売ったスタッフによれば、買ったのは五、六歳くらいの女の子だったらしいから、さすがにそんな酷い主人ではないと思いたいが──

 

 でも、いくら心配してもティナの消息は掴めないまま、私は新しい主人の下へ行くことになった。

 

 仕えることになったのはシェフィールド伯爵家の次女にして末娘である【ロイス】様。

 何気に貴族令嬢にお仕えするのは初めてだった。今までの主人は豪商やその関係者の男ばかりで、ある意味御しやすかったが、今回は勝手が違う。

 

 されるお願いや頼まれ事というのは殆どが一緒に遊んだりお話しすることで、身体を使ってご奉仕なんてのは皆無に近かった。

 媚態とテクニックで興奮させておけば勝手に言いなりになってくれて勝手にスッキリして割とすんなり終わってくれる男たちと違って、彼女の遊びやお喋りには脈絡も方向性もなく、終わりが見えなかった。

 こっちはもう六十代──人間でいうと二十代後半くらいだが──なのに、相手は十代前半。思春期真っ盛りの青春少女である。

 

 今まで相手にしていてここまで疲れる主人はいなかったと断言できる。

 ただ──今までにないくらい居心地が良いのも確かだった。

 

 自分に子供がいたらこんな感じなのかもしれない。

 

 段々とそんなふうに思えてきて、私はいつしかロイス様に娘のような情を抱くようになっていった。

 

 末っ子とあって上の子たちに比べると自由な立場にあったロイス様はお勉強やマナーレッスンなどそっちのけでスポーツにのめり込んでいらっしゃる。

 それはもう頻繁に転んだりぶつけたり泥だらけになったりなさるので、目が離せない。

 

 そんな煩わしさすらも愛おしいと思えてしまう。

 

 もしかしたらティナもこういう気持ちなのだろうか。

 

 ティナの主人がどんな人物なのかは知らないが、専属使用人に女性を選ぶという時点で普通の貴族令嬢とは違うことは察しがつく。

 

 ロイス様とそのご家族についてパーティーだの社交場だのに行って分かったが、貴族の女性にとって専属使用人はステータスだ。

 例えるなら高級アクセサリーとかブランド物のバッグみたいなもの。

 自分の身の回りの世話もさせるが、それ以上に連れ歩いて見せびらかし、同性からの称賛と羨望を得るため──あるいは貧乏だとか清純気取りだとか言われて見下されないために側に置いている。

 だから専属使用人は眉目秀麗な男に限るとされているのだ。

 

 にも関わらず、女性の専属使用人を雇うのは、言っては悪いが変わり者の類だ。

 純粋に世話役とか話し相手としての役割を求めるにしても、女性でなければならない理由はないからだ。

 

 ちなみにロイス様の場合はいつも側にいてくれて、一緒に遊んでくれて、何でも相談できるお姉ちゃんみたいな存在が欲しかったらしい。

 他人がどう思うかなどまるで気にせずに、自分が欲しいと思って買ったのが私だったというわけである。

 良い意味で周りの目を気にしない天然──それがロイス様だ。

 

 聞いた限りではティナを買った貴族令嬢はロイス様と年が近い。

 

 私とロイス様ほどの差ではなくとも、ティナの方がだいぶ年上であろう。

 

 ティナも自分の主人に対して娘か妹のような情を抱いているのなら──それはきっととても幸運で、私が彼女に色々教えたことは役に立ったのだろうと思う。

 

 もし──いつかどこかでティナと再会できたら、その時はゆっくりと話をしたいものだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 あれから時は流れ、ロイス様は学園に入学し、もう最終学年になられた。

 

 相変わらず天然で快活な元気娘でいらっしゃるが、どうも最近色恋沙汰に興味がお有りらしい。

 

 なんでも、同級生たちは殆ど婚約しているか、結婚を意識した交際相手がいて、ちらほら惚気話が聞こえてくるのだとか。

 

 それで自分も甘酸っぱく情熱的な恋をして結ばれたい──的な雰囲気を醸し出していらっしゃるが、ハッキリ言って遅過ぎたな、と思う。

 

 この二年間ひたすらご友人たちと冒険に明け暮れてお茶会やパーティーには顔も出さなかったのだから、今から恋人を作ろうとしても難しいのは当然だ。

 

 それに──多分ファンの連中はそれを許さないだろう。

 

 ロイス様は運動神経抜群で、おまけに下手な男子よりも背が高く、トドメとばかりに中性的な凛々しい顔立ちをしていらっしゃる。

 当然女子たちからカルト的な人気を博することになった。

 

 寄ってたかってロイス様を自分たちに都合の良い偶像に仕立て上げて、疑似恋愛にのめり込む連中をロイス様は単に懐いて良くしてくれる子たちだと思い込んでいらっしゃる。

 

 そしてわざわざ私もそいつらが本質的には現実と妄想の区別がついてない狂人だなんて指摘したりはしない。

 今更言っても何にもならないし、何かの拍子にファンの耳に入りでもしたら私の身が危ない。

 

 私にできるのは見守ることと、求められた時に助言することだけ。

 

 まあでも、学生生活はまだあと一年あるし、ロイス様が自分の力で障害を乗り越えられるなら、幸せな恋ができる可能性はあるだろう。

 売れ残った子や後輩の中からロイス様が気になる方でも見つけられたら、私は全力で応援するし、サポートもする。

 

 ──望み薄だけど。

 

 とまあ、新学期最初の授業の間、暇なので校内を歩き回りながら物思いに耽っていたわけだが、不意に視界に飛び込んできた懐かしい姿に目が留まった。

 

 絹のような白銀の髪、黒が混じった白い狐耳。

 そしてその横顔を見た時、私は確信した。

 

(ティナ!)

 

 ざっと十四年ぶりくらいか。

 

 久しぶりに見る彼女は随分と大人っぽく見えた。

 

 相変わらず童顔ではあるのだが、纏う雰囲気が前とはまるで違う。

 

 ──これは私の心配は杞憂だったかな。

 今の仕事に満足していなければあんな顔はできない。

 あの子はもうとっくに自分で自分の居場所を見つけていたんだ。

 

 授業中に廊下で専属使用人同士でお喋りはマナー違反故、声をかけることはできかねたが、また今度機会を見て話そう。

 

 私はそっとその場を離れた。

 久しぶりに心がほっと温かくなった。

 

 

 

 授業が終わって、ロイス様が教室から出てくる。

 

 きっちり時間通りに教室の前に戻ってお待ちしていた私の所へ小走りでやってきて甘えてくる。

 

「も~先生話長過ぎて疲れちゃったよぉ」

 

 私より頭一つ分ほど高いロイス様が私に寄りかかってくる。さながら大型犬にじゃれつかれているかのようだ。

 

「それは大変でしたね。では退屈なお話を頑張って耐え抜いたご褒美に壺プリンでリフレッシュしましょうか」

「うん!さんせーい!」

 

 スイーツの名前を聞いた途端に上機嫌になり、無邪気に抱きついてくるロイス様を見て周りからうっとりした溜息が漏れる。

 

 そして私に向けられるは羨望と嫉妬の混じった視線。

 

 そこ代われってか?お断りだ。

 

「あれ?ダフネスなんか機嫌良い?何か良いことでもあった?」

 

 ロイス様がはたと気付いて問うてくる。

 

 幼子のように無邪気なのに意外とよく見ていらっしゃる。

 なぜこの観察眼が厄介なファンの本質を見破るのに使われないのやら。

 

「──内緒です」

「え〜」

 

 頬を膨らませるロイス様にこっそり耳打ちする。

 

「後でお話ししますよ。きっとびっくりなさいます」

「本当?約束だからね!」

 

 すぐに花のような笑顔に戻るロイス様。

 

 ──いつか、色んなしがらみがなくなって落ち着いたら、互いの主人を交えてティナとお茶会でもしてみようか。

 

 ティナの主人はどうか知らないが、ロイス様とご友人方はきっとティナに良くしてくださるはず。

 

 孤独だったあの子は自分の居場所を見つけられた。

 なら、きっと今度は対等な友人になれるはずだ。

 

 私とティナと、ロイス様と、ロイス様のご友人とティナの主人と──契約期間が終わっても続く友情が築けたなら、それはきっといつまで経っても私の宝物になるだろう。

 

 そんなことを夢見ながら、私は今日も専属使用人として働き、生きる。



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慣例

 朝。

 

 いつものように運動着に着替え、木剣を持って訓練場に向かう。

 

 もうだいぶ馴染んできたいつものコースを外れて違うコースを試してみる。

 こうすることで新しい情報を身体に与え、創意工夫を課し、慣れによる怠け癖がつくのを防ぐのだ。

 

 訓練場に着いたら目隠しをして素振り。

 こちらも同様に自分が必要だと思うアレンジや新しいやり方を試すことは厭わない。

 

 基本の型を極めるというのがニコラ師匠の教えだが、それには自分に合った握り方や振り方、身体の使い方を見つけなければならない、とも言われている。

 だから常に考え続け、自分に必要だと思う鍛錬と修行をせねばならない。

 

 そして──そのヒントを得られそうな人物が、今この学園にいる。

 

「おはようございます。クリスさん」

 

 青髪の美形貴公子──剣豪クリス・フィア・アークライト。

 

 王家の剣術指南役を代々務めてきたアークライト伯爵家の跡取り様である。

 

「ああ、おはよう。エステル殿」

 

 相変わらず無表情気味で笑顔もぎこちないが、出会った頃に比べれば柔らかくなってきている。

 

「堅いですよ。同級生なのに殿なんて」

「そうか──では何と呼べばいいだろうか」

 

 クリスが訊いてくる。

 

 いきなり馴れ馴れしく呼び捨てにしてこない所がポイント高い。

 そんなことしやがったら木剣で思い切りぶん殴っていたところである。もちろん掛かり稽古の初撃でだけどな。

 

「呼び捨てで構いませんよ」

「そうか。分かった。私にも、その──さんは要らない。それと、敬語もなしでいい」

「よろしいのですか?──ではお言葉に甘えて」

 

 思ったより早くタメ口を解禁してくれたな。

 助かった。正直身分が上とはいえ同級生相手に敬語で話すのも疲れていたのだ。

 ──疲れは発散させないとな。

 

「じゃ、掛かり稽古しようか」

「──ああ」

 

 クリスの目つきが鋭くなる。同時に口角が少し上がって獰猛な笑みになる。

 ちくしょう、凛々しいな。

 

 二人して木剣を構え、打ち込むタイミングを探り合う。

 今まで見てきたクリスの鍛錬から得意とする動きや癖は見当がついている。

 だが、それは向こうも同じだろう。

 

 俺のスピードとパワーが勝つか、奴の精巧な体捌きと剣技が勝つか。

 それは実際にやって確かめる。

 

「はぁッ!!」

 

 掛け声と共に全力で地を蹴って打ちかかる。

 

 ごちゃごちゃ考えるのは稽古が終わった後だ。

 今考えるのは一撃で相手の頭をカチ割り、肩から心臓まで切り裂き、首を刎ねる──それだけ。

 

 無数の攻撃パターンを考えているようで、斬ることなど考えはしない。

 斬った後に起こることだけを強くイメージとして思い浮かべる──あとは型を覚えた身体が勝手に動き、最適な動作で剣を振るう。

 

 この前は肝心のイメージが湧かずに固まってしまったが、今回の俺は違う。

 見えないなら、飛び込めばいい。稽古なのだから。

 まだくっきりした景色は見えなくても、動き続け、進み続けた先に俺の求める景色があることを信じていれば、道は開ける。

 

 現に初動が殆ど見えないクリスの動きを捉え、最適かつ最小限の動きで防ぎ、流し、外し、攻撃に転用できているではないか。

 

 そして、クリスの水色の髪を木剣の先が掠める。

 

 一瞬目を見開くクリス。

 

 ──見えた。

 

 動揺によって生じた一瞬の隙を突いてクリスの首に刃を届かせた──と思ったが、そう甘くはなかった。

 

 俺の喉元に木剣の鋒が突きつけられていた。

 

「引き分け、か」

「──そのようだな」

 

 合図も何もなくほぼ同時に木剣を下ろす。

 

 クリスは少し考え込んでいたが、やがて顔を上げて質問してくる。

 

「前から訊きたかったのだが、エステルの流派はどこなんだ?」

「決まった名はないんだ。自分が決めたわけでもない名に縛られて囚われることがないようにな。私は鏡花水月と呼んでいる」

 

 俺の答えを聞いたクリスはそんな考え方聞いたことがないという顔をする。

 

「──そんな流派があるのか」

「ああ。なかなか理解されないけどな。でも、その強さは本物だ」

 

 また変な疑いを抱く前にきっちり断言してやる。

 

 さすがに実際に相対して見た後では反論の余地なしだったようで、クリスは頷く。

 

「そうだな」

 

 そしてしばらく掛かり稽古の復習を意識しながら素振りや打ち込みをして、朝の支度のために寮に戻る。

 

 もうすっかりルーティンと化した朝の日常である。

 

 

◇◇◇

 

 

「お嬢様、元気が戻られましたね」

 

 ティナが俺の髪を梳かしながら言う。

 

「そうか?俺は別に落ち込んだりしてねーだろうが」

「落ち込んではいらっしゃらなかったですけど──苦しんでおられたように見えました」

 

 ──言われてみればそうかもしれない。

 ここのところ腹の立つことが続いていたからな。

 

 オリヴィアへのいじめに始まり、チンピラがニコラ師匠に手を出し、俺のことも脅してきたのでぶった斬ったらなぜか俺が悪者扱い。

 

 むしゃくしゃする時は修行だと思っていたが、こちらも芳しくない状態が続いていた。

 

 そんな状態を切り抜けられたのは──

 

「なら、あいつに感謝だな」

 

 先週末のお茶会は俺の中で確かに良い影響を及ぼした。

 

 根も葉もない噂に惑わされる奴は多いが、そうじゃない奴もいる。それだけで前世とは大違いだ。

 行き詰まっていると感じるのは自分が恐れから目を閉ざしているせい──思い切って踏み込めばいい。

 それにあいつは気付かせてくれた。

 

「リオン・フォウ・バルトファルト様、でしたか?素敵な方だったのですね」

「ああ。でも、あのお茶会に行けたのもお前が色々助けてくれたからだ。ありがとうな」

「私は私の仕事をしただけですよ。はい、できました」

 

 ティナが鏡を見せてくる。

 

 アクセントに毛を一束入れ込んだローポニテ。

 シンプルながらも手の込んだ感じに見える仕上がりだ。

 お茶会の時ほど気合を入れている風でもなく、鍛錬の時の可愛げもへったくれもない実用性一辺倒でもない、ちょうど良いバランス。

 ティナはこういう見極めが上手い。

 

 礼を言って鞄を手に取り、寮を出る。

 

 向かう先は校舎──だが、その前に普通クラス用の女子寮である。

 

 平民であるオリヴィアは、上級クラスに所属していながら寮は普通クラスという扱いをされていた。

 他の学園生が不満に思うのを避ける意味合いがあるのだろうが、それならなぜ所属を上級クラスにしたのやら。

 

 寮の玄関から出てくるオリヴィアを見つけて声をかけると、笑顔を浮かべて走り寄ってくる。

 その笑顔は先週よりも自然体で可愛く見えた。

 

「おはようございます。エステルさん」

「ああ、おはよう」

 

 そのまま二人で並んで他愛ない話をしながら登校する。

 

 周りはそれを見てちらほら陰口を叩いているが、今はそれも聞き流せる。

 

 お茶会をきっかけにオリヴィアともまた以前のように話せるようになった。

 彼女は古代遺跡やロストアイテムに興味があるらしく、俺も十二歳の時に冒険に出たことを話してやったら、物凄い勢いで食いついてきたのだ。

 で、俺の冒険話を聞かせてやっていたら、いつの間にか話が弾むようになったというわけである。

 

 取り敢えずは繋ぎ止められたようで安心した。

 オリヴィアのことは卒業後に召し抱えてやる予定なのだ。怖がられて、それで疎遠になって自然消滅などあってはならない。

 

 だから、なるべくトラブルは避けるようにしよう。そう思っていたのだが──

 

 

◇◇◇

 

 

 食堂。

 

 俺は昼食のトレーを持ったまま数人の女子生徒と睨み合っていた。

 

 トレーに載っているのは有料メニューの豪華な昼食と──本日限定のスペシャルスイーツ、柏餅である。

 

 異世界に転生して初めて見た本物の和菓子だ。

 南方のカンナという浮島で作られる特産品で、五月にしか出回らないらしい。

 

 物珍しさもあって凄まじい人気ぶりであり、長蛇の列に並んでようやく手に入れたのだが──どうやら俺ので最後の一個だったようだ。

 

 一人二個までと決まっているのに、前に並んでいた連中が取り巻きや専属使用人の人数に物を言わせて十個も二十個も取っていきやがったせいである。

 

 なのになぜか俺が囲まれて因縁をつけられている。

 

 曰く、先輩であり、伯爵家の娘であるロイス様を差し置いてお前が取るとは何事か、と。

 

 ちなみにそのロイス様とかいう彼女らのボスは俺の後ろに並んでいた。

 

 俺は順番通りに受け取っただけだというのに酷い言いがかりである。

 

 それに──そのロイス本人はいいと言っているのに、取り巻きが勝手に気を利かせてゴネている。

 お前らボスの言うことは絶対じゃないのか。これではロイスは傀儡もいいところだぞ。

 

 なんだかロイスの方が見ていて可哀想に思えてきた。

 

 だからといって譲ってやる気はさらさらないけどな。

 異世界転生してからこの方日本食にはまるで縁がなかったし、この前の鯖の味噌煮みたいな何かはとんだ偽物だった。

 だが今度こそは本物──な気がするのだ。

 

 取り巻き共が渡せと言い、俺が拒否するのを繰り返しているうちにどんどん注目が集まってしまう。

 それで気が大きくなったのか、とうとう罵声が混じり出した。

 

「アンタいい加減にしなさいよ!自分が何をしているか分かっているの?」

「田舎者の野蛮人がロイス様に逆らうとか許されるわけないでしょ!」

「そうよ!アンタみたいなゴロツキにそれは不釣り合いなのよ!」

「ルール守りなさいよ!この下種!」

 

 口々に喚く女子たち。

 野蛮人だのゴロツキだの下種だのはともかく、ルールを守れとは何だろうか。

 ボスの意思と言葉に反して、お菓子を先に受け取った者から取り上げるのが正当化されるルール──生憎と覚えがない。

 

 今にも専属使用人をけしかけてきそうな雰囲気を感じ取ったティナが俺の前に出て守りにつこうとするが、向こうには見るからに屈強そうな男の専属使用人が複数人いる。

 多勢に無勢だ。

 

 これはさすがに看過できないなと思った直後、人混みを掻き分けてオリヴィアが飛び出してきた。

 

「もうやめてください!こんなこと!」

 

 オリヴィアは俺と女子たちの間に割って入り、懸命に声を上げる。

 

「エステルさんは順番通りに並んでいただけです!それなのに取り上げるなんて、間違っています!」

 

 ──ほう、言うようになったじゃないか。

 これだけの貴族の女子生徒と専属使用人に囲まれてなお、敢然と相手の非を咎めるなど、なかなかできることではない。

 

 感心している俺に対して、女子たちは額に青筋を立ててオリヴィアを睨みつけた。

 

「はあ!?アンタ何勝手に割り込んできてんの?」

「部外者は黙ってなさいよ!」

「ていうかアンタ特待生じゃない。身の程弁えなよ平民」

 

 平民という言葉にオリヴィアが一瞬たじろぐ。

 

 しかし、すぐに気を奮い立たせて反論した。

 

「で、でも──こんなの絶対おかしいです。エステルさんだってそのお菓子を楽しみにして列に並んだんです。抜かしたり、割り込んだりもしていません。何も間違ったことなんてしていないじゃないですか!」

 

 だが、周囲から湧き起こるのは失笑と舌打ちだけだった。

 

 そして女子たちの一人が蔑みの込もった顔で言ってくる。

 

「アンタらにとってはそうかもしれないけどね、ここはホルファート王立学園なのよ。学園には学園のルールってものがあるの。そこの野蛮人と平民は知らなかったみたいだけど、だからって守らなくていいって理由にはならないから。守れないんなら、アンタらこの学園にいられなくなっちゃうよ?」

 

 その脅迫を聞いて後ろでオロオロしていたロイスが目を見開き、女子に食ってかかる。

 

「ちょ、ちょっと!やめなよクリスティン。さっきからもういいって言ってるじゃないか」

「いいえロイス様。コイツらにはきっちりお仕置きが必要です。横紙破りを許せば学園の秩序が乱れます!」

「そうです!」

 

 周囲は口々にクリスティンと呼ばれた女子の言葉に賛同し、ロイスは言い返せずにまたオロオロし──後ろにいたエルフの専属使用人に泣きついた。

 

「ど、どうしようダフネス?これかなり不味いよ!」

「私に聞かれましても──」

 

 困惑する専属使用人はよく見ると女性だった。

 格好こそ他の男の専属使用人と同じだが、顎や首元が男性のそれではないし、声も高い。

 

 そして──どういうわけかティナの方をチラチラ見ていた。

 

 ティナと知り合いなのだろうか?

 でもティナは彼女に見覚えがないようだ。

 

「分かったらさっさとそれをロイス様に渡しなさい!」

「ほらそこどきなさいよ平民」

「ルドス、やっちゃって」

 

 女子たちと専属使用人が包囲の輪を狭めてくる。

 

 いよいよこれは()()()()しかないだろうかと思ったその時。

 

 

「何の騒ぎだ?」

 

 

 凛とした声が響き渡り、場が静まり返る。

 

 声のした方を見ると、そこにいたのは綺麗に編み込まれた金髪と紅玉を思わせる赤い瞳が特徴的な女子生徒──公爵令嬢アンジェリカだった。

 

 間近で見るのは久しぶりだが、相変わらず気迫が凄い。

 

 そして周囲にはロイスほどではないが複数の取り巻きがいて周囲を威圧している。

 

 アンジェリカは俺を見て一瞬目を見開いたが、すぐに剣呑な表情に戻り、取り巻きたちに囲まれているロイスを問い質した。

 

「ロイス、事情を説明してもらおうか」

 

 威圧感たっぷりの問いかけにロイスが一瞬肩を震わせる。

 先輩であることなど身分差の前には意味を為さないようだ。

 

「いえ、アンジェリカ様、大したことでは。ただこの者が不届きにも──」

「私はロイスに訊いている」

 

 彼女の代わりにクリスティンが話そうとしたが、アンジェリカはそれをピシャリと遮った。

 

 強気だったクリスティンがその一言で押し黙る。

 

 そしてロイスが専属使用人に促されて進み出ると、経緯を話し始めた。

 変に歪めたりせず、全て正直に伝えてはいたが、取り巻きを責めるような言葉は出てこなかった。

 やっぱりコイツ善良で駄目なタイプだな。

 

「なるほど。ファイアブランド、今の話に間違いないか?」

 

 アンジェリカが今度は俺に問うてきたので答える。

 

「概ねは。ですが、私とオリヴィアに対する謂れなき侮辱発言及び暴行未遂が抜けていますね」

「──そうか。話は後ほど詳しく聞かせてもらう。ロイス、ファイアブランド、特待生の三人は放課後私の所に顔を出すように」

 

 そう言ってアンジェリカは去っていく。

 

 残った彼女の取り巻きたちが人だかりを解散させ、俺たちはようやく席に着くことができた。

 

「あの、エステルさん。大丈夫ですか?」

 

 オリヴィアが心配そうな顔で訊いてくる。

 

「ああ、別に気にしていない」

「そうですか──怖い顔をしていましたから」

 

 指摘されて眉間に力が入っていたことに気付く。

 

「──ああ、正直滅茶苦茶腹は立ったけどな。公爵令嬢様に仲裁されたとあっちゃ、引き下がるしかねーよ。それより、お前はどうなんだよ?わざわざ首突っ込まなくてもよかったのに」

 

 オリヴィアがあのタイミングで乱入して女子生徒たちに啖呵を切ったのは意外だった。

 

 自分より小柄な女子一人に言い返すだけで精一杯だった彼女が、あれだけの人数相手に一歩も引かずに言い返すのは相当な恐怖だったはずだ。

 

 実際オリヴィアは震えていたが、気丈に俺の目を見つめて答える。

 

「それは──すごく、怖いですよ。でも、エステルさんは何度も私を助けてくれました。私のこと、友人だって言ってくれました。だから──エステルさんが、友達が困っているのに見て見ぬふりなんて、できなかったんです」

 

 まるで漫画の主人公みたいな正義感溢れる回答。

 

 ──反吐が出る。

 ちょっと優しくしてくれた奴にすぐ絆されて、自分の身を危険に晒してまでそいつのために尽くす──前世の俺とそっくりではないか。

 

 でも──やっぱり嬉しいという感情が微かに湧き上がる。

 

 こういう複雑な感情は初対面のアーヴリルに感じた時以来だな。

 

「そうかよ。まあ、その──ありがとう」

 

 気恥ずかしくてオリヴィアの顔を直視できなかった。

 

 顔を逸らした拍子に柏餅が目に入る。

 

 結局アンジェリカがあの場を解散させたことで取られずに済んだ貴重な和菓子──それを二つに引き裂く。

 

 ほぼちょうど真っ二つに別れた柏餅の片割れをオリヴィアに差し出した。

 

「半分やるよ」

「え?いえそんな、頂けませんよ。エステルさんのなのに──」

 

 オリヴィアは遠慮するが、無視して握らせる。

 

「いいから食えよ。その──迷惑料代わりだから」

 

 そう、これはしなくてもいい口論をさせて怖い思いをさせてしまったオリヴィアへの心ばかりの埋め合わせ──彼女を俺に繋ぎ止めておくためだ。

 友情につけ込んで何のお返しもなしに搾取していたらいつか離れられてしまうからな。

 

 ──おいティナ、さっきから微笑ましいものを見る目を向けるな。

 

 ティナの生温かい視線に顔を赤くしながら半分になった柏餅を頬張る。

 

 瞬間、懐かしい餅の食感とあんこの味が口の中いっぱいに広がった。

 

「これ、何だか不思議な味ですね。それにこの香りは──」

 

 一口齧ったオリヴィアが目を丸くしている。

 当然といえば当然か、彼女には馴染みのない味だったようだ。

 

 きっとこの美味しさは元日本人だからこそ分かるものなのだろう。

 

「その葉っぱ──柏の葉の香りだよ。新しい芽が出るまで葉が落ちないって性質にあやかって家の繁栄を願う縁起物なんだと」

「そんな意味があったんですか?エステルさん、物知りですね」

 

 オリヴィアが無邪気に褒めてくる。

 

 これ、間違っていたら恥ずかしいやつだぞ。

 

 どう返したものか分からなくて、柏餅の残りを頬張った。

 

 ティナが何やらオリヴィアに耳打ちしているが、聞こえないふりをする。

 どうせ照れ隠しだとか吹き込んでいるに決まっているのだから。

 

 

◇◇◇

 

 

 放課後。

 

 案内された部屋は随分と豪華だった。

 

 長テーブルの上座にアンジェリカが座り、その背後と部屋の四隅に取り巻きの女子生徒が侍っている。

 

 そして長テーブルの横にはロイスが座っていた。

 

 その対面に座るよう促され、席に着く。

 

「揃ったな。では改めて経緯を説明してもらおう」

 

 アンジェリカに促されて俺たちは改めて昼食時の騒動の経緯を説明する。

 

 主にロイスが話し、俺とオリヴィアがちょくちょく補足を入れて、アンジェリカが真偽を確認。その繰り返しだ。

 

 事情聴取はスムーズに進み、今後はこのような迷惑行為は慎むように、また取り巻きの生徒たちにもよく言い聞かせておくようにとの訓示がアンジェリカから垂らされる。

 

 これにて騒動は一件落着。

  

 だが、解放されたのはロイスだけだった。

 

 俺とオリヴィアにはまだ話があるから残れとアンジェリカが言ってきたのだ。

 

 去り際にロイスは俺たちに謝ってきた。

 

「私のファンの子たちがごめんね。たまに行き過ぎちゃうけど、悪い子たちじゃないから、許してあげてくれないかな?」

 

 ──こいつ色々と駄目だなと思ったが、その場はにこやかに返しておいた。

 

 所詮彼女は自由のない偶像──宝塚の男役みたいな容姿とお人好しな性格に生まれてしまったばかりに、狂信者に囲まれている哀れな籠の鳥だ。

 なら、一秒でも早くその狂信者たちの輪の中に送り返してやるのが最も残酷な仕打ちだろう。

 

 ロイスが部屋を出ていくと、アンジェリカは先程よりもほんの少し柔らかい表情で話しかけてきた。

 

「昼間は災難だったな」

「ええ本当に。ですが、仲裁に入って頂いたおかげで助かりました」

 

 頭を下げると、アンジェリカは鷹揚に頷く。

 

「生徒間のトラブルへの対処も私の役目だからな。確かにロイスのファンの行動は目に余るものがあった。しかし、だ」

 

 アンジェリカは真剣な顔つきに戻り、忠告してくる。

 

「そのような行動を取られる原因がお前にあったのも確かだ。スイーツの件は抜きにしても、お前はこの学園の慣例に従っていない」

 

 その言葉にオリヴィアが思わず聞き返してしまう。

 

「慣例、ですか?」

 

 取り巻きの視線が険しくなるが、アンジェリカは気にした風もなく続ける。

 

「そうだ。学園生たる者、慣例には従わなくてはならない。それが円滑な学園生活には必要だ。二人とも今回だけは大目に見るが、今後は気を付けることだ」

 

 ──正直言い返したいことや問い質したいことは山程あったが、今それをアンジェリカにぶつけたところで何にもならない。

 

 慣例だの暗黙のルールだのというのはなかなか変わらないし、無理に変えようとしたり反発すれば不利益になるだけだ。

 

 だから俺にできることは承知したと返すことだけ。

 彼女の言う慣例とやらの詳細は誰か他の奴から情報を手に入れるしかない。

 

「──分かりました」

 

 神妙な風を装って頭を下げると、オリヴィアも慌てて俺に続く。

 

「結構。では下がれ」

 

 アンジェリカの命令と共に取り巻きの一人が部屋の扉を開けた。

 

 一礼して部屋を出ると、ティナが外で待っていた。

 

「大丈夫でしたか?お嬢様。オリヴィアさんも」

 

 心配してくるが、「大丈夫だ」と返してその場から離れるために歩き出す。

 

 アンジェリカのいた部屋から十分に離れた所で、俺はティナに訊いてみた。

 

「なあティナ、この学園の慣例とか暗黙のルールって知っているか?」

「申し訳ありません。全く心当たりがありません」

「──そうか」

 

 駄目で元々だったが、弱ったな。

 

 他に相談できる相手といったら──

 

「クリスとリオンに相談してみるか」

 

 二人とも男子だから男子の慣例しか知らないだろうが、彼らの知り合いの女子に頼んでもらえれば女子の慣例やルールも分かるだろう。

 

 一先ず解決の目処は立ちそうだ。

 

 だが──

 

「よし、オリヴィア。今日は外食だ。気分転換するぞ」

「えぇ!?は、はい」

 

 驚き、そして申し訳なさそうな顔をするオリヴィア。

 

 奢ってもらってばかりで気後れするのだろうが、美味いものでも食わないとやっていられない。

 

 俺たちは校舎を出てその足で王都へと繰り出すのだった。



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相談相手

「今だ!リオン!」

 

「はは、しくじったなぁ」

 

「──テメェ、わざと──わざと動かなかったな!」

 

クソが。なんで──なんでだよ。一緒に戦ってきたんじゃねーのかよ。この── 人殺しが

 

「アンタ──何者?」

 

『──侵入者を確認。排除──排除──』

 

『我々の使命はまだ終わっていません。新人類の排除は最優先命令です」

 

「丸一年もどこをほっつき歩いていたのよ!この愚弟!!」

 

「やめろ!もう──無理なんだ」

 

「俺は──この家と家族を守らなきゃいけないんだ」

 

「アンタって奴は本当に──どんだけ生きるの下手なのよ」

 

「────リオン──にいちゃん?──そっか。僕、夢を見てるんだ」

 

「男が女の命令を聞くのは当然よ。新しい命は女からしか生まれないのだから。獣の雄でさえ雌に自らの価値を示すでしょう?命懸けで雌のために尽くすのが雄の仕事、これは自然の摂理なのよ!」

 

「死ね!死ね!──死ねって言ってるでしょうがぁぁぁあああ!!」

 

 

 

「ッ!」

 

 目を覚ますと、開いたカーテンから日の光が差し込んでいた。

 

 耳に残る夢の残響は今朝も内容が分からない。

 ただ、ぐっしょりと寝汗をかいていることからすると、思い出さない方がいい内容なのだろう。

 

 あの冒険以来、少なくとも週に一回はこうなる。

 

 一時期に比べればマシにはなったが、相変わらず寝付けないし、そのせいで朝にも弱い。

 ──こびりついた疲れが取れない。

 

『お目覚めですか?なら早く起き上がって朝食にしてください』

 

 相棒が赤い一つ目でこちらを覗き込んでくる。

 

 夢の中にも相棒が出てきていたような気がするが、やはり思い出せない。

 

 諦めてベッドを降り、着替えて食堂に向かう準備をする。

 

「あ、そうだ。昨日の騒動の後何か影響はなかったか?」

 

 相棒に問いかけたのは、昨日エステルが起こした──というよりは巻き込まれた柏餅を巡る騒動のことだ。

 

 この学園で柏餅なんて出ていたのかと驚いたが、それ以上に気がかりなのは彼女がオリヴィア共々悪役令嬢アンジェリカと接触したこと。

 

 本来であれば、王太子殿下に言い寄られるオリヴィアにアンジェリカが釘を刺すという展開があり、それが二人の因縁の始まりである。

 

 現状、オリヴィアは王太子殿下に言い寄られてはいない。

 いないが──今回の騒動をアンジェリカ伝に聞くなりして、王太子殿下や他の攻略対象とオリヴィアとの間に接点の一つでもできたなら、という期待がある。

 一応クリスとオリヴィアをくっつける方向で考えてはいるが、選択肢はあった方がいいからだ。

 

 だが、相棒の答えは芳しくなかった。

 

『いいえ。アンジェリカが昨日の件を他者に話した形跡はありません。そしてエステルの方ですが、今朝クリスに相談を持ちかけていました』

「相談?」

『アンジェリカに言われた学園の慣習についてです。良い情報は得られなかったようですが』

 

 相棒が今朝撮影した映像を見せてくる。

 

 数日前よりも距離が近くなったエステルとクリスがそこには映っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 前世でスクールカースト、という言葉を聞いたことがある。

 

 閉鎖的な環境である学校で生徒たちの序列が発生し、同じ序列の者同士でグループが形成される──だったか。

 

 だが、この世界ではそんな生温いものではなく、本物の身分制が存在している。

 

 建前上学園生は平等だが、そんなことは誰も信じてはいない。

 俺だって信じていない。

 

 だからこそ、学園に多額の寄付をしてやった。

 

 子爵家の出身である俺は学園内では精々中の上程度の序列でしかないが、金の力で上級貴族の待遇をもぎ取ることは可能だ。

 ルールや制度があったところでそれを運用しているのは人間。そして人間は金の力で容易く揺らぐ。

 実際良い部屋を当てがってもらえたし、外食による門限破りもオリヴィア共々見逃してもらってきた。

 

 しかし、どうやら俺は甘かったようだ。

 

 学園の大人たちを金の力でかしずかせたところで、生徒間のしがらみから自由になれるわけではなかった。

 というか、今の状態は大勢から反感を買っている──そうアンジェリカに指摘されてしまった。

 

 でも、俺は柔軟に対応できる男だ。

 そうでなくては悪徳領主などやっていられない。

 

 アンジェリカの言っていた慣例とやらの詳細が分かれば、いくらでも対策のしようはある。

 

 だからまずクリスに訊いてみたのだが──

 

「すまない。宮中のものはともかく、学園の慣例はあまり知らないんだ」

 

 クリスは申し訳なさそうな顔をして言った。

 

 まあ、こいつはカースト最上位クラス──忖度される側だからな。細かいルールなど知らなくても仕方ないか。

 

「なら女子の知り合いに心当たりないか?あればその子に訊いてみたいんだが?」

「知り合いか──」

 

 知り合いと聞いてなぜかクリスは考え込む。

 

「おい、あれだけ普段女子に囲まれていて、一人も心当たりないのか?」

 

 思わずツッコミを入れると、クリスは目を逸らして弁解する。

 

「あ、あれは──何もしなくても勝手に近づいてくるというか、追いかけられるというか──正直辟易していて──だから、親しい者などはいないんだ」

「あ──うん、すまん。私が悪かった」

 

 そうだった。こいつは寄ってくる女子を疎んでいるのだった。

 これではその追っかけ女子たちから聞き出してもらうのも難しそうだ。

 今回の件についてはこいつは使えないな。

 

 となると後はリオンか。あいつは逆に周りに女子が全然いなくて望み薄だけど。

 

 思案していると、クリスが問いかけてくる。

 

「何かあったのか?その、慣例絡みで」

 

 お、何だ?心配してくれるのか?

 普段は他人に無関心なオーラ出しまくっているくせに。

 

「昨日食堂でロイスって先輩の取り巻きに絡まれてな。仲裁に来たアンジェリカさんに言われたんだよ。慣例には従えって」

「アンジェリカに?──なぜそんなことに?」

 

 俺が昨日の経緯を説明すると、クリスは渋い顔をする。

 

「それは──酷いな」

「だろ?でも慣例に従わないと、そんな態度を取られるみたいでさ。これ以上厄介事は御免だから調べていたんだ」

「そうだったのか。すまない、力になれなくて」

「気にしないでくれ。何とかするから。それより鍛錬だ。見てくれよ。今日からコイツを使えるようにしたんだぜ」

 

 布を取ると、現れるのは木でできた練習用の人形である。

 訓練場の設備は確かに充実しているが、やはり思う存分ぶっ叩けるこいつがないと、どうにも打ち込み甲斐がない。

 

 設置の許可が下りるまで少々時間がかかったが、やはり入学時の賄賂が効いたようだ。

 

「これは──エステルが作ったのか?」

「ああ。昔からこいつに叩き込むのが私のやり方なんだ」

 

 木剣を構え、何本か叩き込んでみせる。

 

 面打ちに袈裟斬り、刺突、突進からの斬りかかり、抜剣からの斬り上げと一通り基本の動作をやると、感覚が戻ってきた。

 

 実際打ち込んだ所から微かに煙が上がっている。

 正しい太刀筋で力を集中しなければこうはならないので、上手くいったことを示すサインなのだ。

 

「なるほどな。据え物斬りのようなものか」

「いや、巻藁を斬るのとは意味合いが違う。どんな状況でも相手の身体を一撃で叩き斬れる身体を作るために骨から鍛えるんだ。こいつを打った時の強い反動でな」

「──手首を痛めたりはしないのか?」

「私は痛めたことはないな」

 

 クリスはまた口をあんぐりと開けていた。

 何なら、眼鏡がちょっとずれていて、漫画のギャグシーンのようだった。

 

 やはり鍛錬の方法としては珍しいのだろうか。

 

「ま、ものは試しだ。一回やってみないか?」

「あ、ああ──そうだな」

 

 クリスは眼鏡の位置を直し、木剣を構える。

 

 そして呼吸を整えて一撃。

 

 さすが剣豪とだけあって、一発で綺麗に当ててみせた。

 

 だが、反動はキツかったようで、手を気にしていた。

 

「こんなことを毎日していたのか」

「ああ。たしか六歳の時からな」

 

 それを聞いてクリスは更に驚いた顔をする。

 

「それは──凄いな」

「おや、剣豪様からお褒めを頂けるとはな。嬉しいぜ」

「わ、私は思ったことを言っただけで──」

 

 ちょっと笑顔を向けてやっただけで、クリスは顔を赤くして目を逸らす。

 

 普段愛想良くしてくる女子たちのことは疎んで冷たくあしらうくせに、俺にはこんなウブな反応──やっぱりこいつ面白いな。

 実にからかい甲斐があるというものだ。

   

 これがリオンだったらそうする気にはならないが、クリスは美形だからな。

 普段女子たちからの無条件な称賛と好意を──リオンや前世の俺のような普通の男が決して受けられない扱いを受けまくっているのだから、多少雑に扱ってやってもバチは当たらないだろう。

 それに媚びを売られるのはお嫌いなようだし。

 

 だが、クリスで遊ぶのにかまけていては時間がなくなってしまう。

 

「さて、お喋りは終わりだ。鍛錬再開するとしよう」

 

 そのまま返事を待たずに人形に木剣を打ち込む。

 

 その隣でクリスは素振りを始める。

 

 

◇◇◇

 

 

「おはようございます。エステルさん」

 

 いつも通りに普通クラス用女子寮の前で待っていると、オリヴィアが出てきて合流する。

 その彼女の顔が心なしか昨日より明るく見えた。

 

「ああ、おはよう。──何かいいことでもあったのか?」

「昨夜家族から手紙が届いていたんです。それに故郷の人たちからの寄せ書きも入っていて。元気貰っちゃいました」

 

 幸せそうな表情で語るオリヴィアを見て、領地のことを思い出す。

 

 そういえば通じるかどうかの確認以来、サイラスに連絡を取っていなかったな。

 セルカがかけてこないあたり、問題などはないのだろうが──たまには声を聞かせてやるか。

 あいつは心配性だからな。

 

 他には──そういえばお袋と弟から届いた手紙、まだ返事していなかったな。

 ここの所色々あって後回しにしたまま忘れていた。

 

「そうか。それは良かったな」

「はい!」

 

 オリヴィアの笑顔はいつにも増して眩しかった。

 

 故郷の家族や知り合いに愛され、応援されているが故の太陽のような笑顔。

 ──前世で俺が終ぞ向けてもらえなかった顔だ。

 

 また嫌なことを思い出してしまい、やや強引に話題を変える。

 

「そういえばさ、昨日言われた慣例ってやつ、そっちで何か分かったこととかあるか?」

「いえ──寮の先生や隣の部屋の人に訊いてみたんですけど、殆ど話も聞いてもらえなくて──」

 

 オリヴィアは一転して落ち込んだ顔をする。

 

 期待してはいなかったが、やはり駄目だったか。

 

 それにしても、知らなければ虐げられるのに知ろうとしても教えてくれないとは、理不尽なものである。

 

 これはますます解明を急がないといけないな。

 今日中にリオンを捕まえるか。

 

 

 

 昼休み。

 

 ティナとオリヴィアを席取りのために先に食堂に向かわせ、俺はリオンの姿を探す。

 

 そして、ちょうど友人たちと一緒に食堂に向かおうとしているのを見つけたので、急いで追いかけて声をかけた。

 

「リオン、ちょっといいか?」

「え?エステル?」

 

 リオンはもちろんのこと、彼の友人たちも驚いた顔をする。

 

「話がある。ちょっと来てくれ」

「ああ──うん、分かった」

 

 戸惑いながらもついて来たリオンを、俺は人目につかない空き教室に連れて行った。

 ここなら誰かに気取られる心配はない。

 

「急に連れ出して悪かったな。ちょっと相談したいことがあるんだ」

「俺に?なんで?」

 

 意味が分からないという顔をするリオンに事情を説明する。

 

「実は昨日上級生の取り巻きと一悶着あってな。アンジェリカさんが仲裁してくれたんだが、その後学園の慣例に従っていないからそんなことになったって言われたんだよ。それで今学園の慣例とか暗黙のルールみたいなのを調べているんだ。何か知らないか?」

「ああ、なるほどね。暗黙のルールか──」

 

 案の定リオンは難しい顔をするが、ふと思い出したように言った。

 

「一人心当たりがある。今度のお茶会に連れてくるよ」

「マジか!?助かる!」

 

 思わず彼の手を取って両手で包み込んだ。

 

 難しい状況を打開できる方法を用意してくれるのだから、これくらいのサービスはしてやってもいいだろう。

 

 ただ、リオンはクリスのようなウブな反応は見せてくれなかった。

 

 一瞬恥ずかしげに目を逸らしはしたが、すぐに呆れたような苦笑いを浮かべて言った。

 

「それにしても、アンジェリカさんってたしか公爵家のお嬢様だろ?よくわざわざ仲裁に来てくれたな」

「まあそれが自分の役目だって言ってたしな。あとここだけの話、顔見知りなんだ。だからかもな」

 

 その答えにリオンは大袈裟に驚いた仕草をする。

 

「顔見知り?アンジェリカさんと?」

「ああ。三年前に王宮で何回か会ってな。少し話もしたんだぜ。ここじゃなかなか近づけねーけどな」

 

 自慢しつつも溜息が出る。

 

 久しぶりの再会があんな形でになるとは思わなかった。

 

 同級生とはいえ、気安く話しかけられるような相手でもないし、何とか近づこうにも取り巻きが多過ぎてできなかった。

 そうして手をこまねいているうちに今回の柏餅騒ぎである。

 

 やっと話せたと思ったら諭されて頭を下げただけ。

 媚を売るにしてももう少しスマートにやりたかったな。

 

「ま、まあそりゃ住む世界が違うわけだし、仕方ないんじゃないか?俺みたいな底辺からすれば顔見知りってだけでも驚きだよ」

 

 リオンがぎこちないながらもフォローしてくれる。

 

 謙虚で実に結構なことだが、俺は格上の奴には媚びて便宜を図ってもらおうと考えるタイプだ。

 

 それに──あれだけの大冒険を成し遂げておいて底辺はないだろ。

 

「何シケたこと言ってんだよ。お前はそんじょそこらのボンボンよりよっぽど凄いだろ」

「いや、そうは言っても独立したての男爵だしさ。身分と立場的には──」

 

 なおも卑屈な物言いをするリオンに腹が立って、思わず語気が強くなる。

 

「そんなもん関係あるかよ。大体身分が高い貴族連中なんて、自分じゃ何もしないで先祖の功績で威張り腐っているだけだ。お前はそいつらよりデカいこと成し遂げただろうが」

「お、おい。その言い方はさすがに不味くないか?」

 

 リオンはたじろぎ、扉の方を気にしていた。

 誰かに聞かれたら面倒になると心配しているのだろう。

 

「言い過ぎたな。許せ。とにかく、私はお前を底辺だなんて思わねーよ。もっとしゃんとしてろ」

「──そうか。ありがとうな。そんなこと初めて言われたよ」

 

 そう言って笑うリオンの顔はやはりどこか曇って見える。

 一体何を隠しているのか気になるが、訊いたところで答えてはくれないだろう。

 俺としても無理に聞き出すようなことでもない。

 

「じゃあ、私は食堂に行くから。週末頼むな」

「ああ、うん。じゃあな」

 

 リオンの返事を聞いてから俺は空き教室を出た。

 

 

◇◇◇

 

 

 エステルが出て行き、静かになった空き教室に残されたリオンはそっと独りごちた。

 

「しゃんとしてろ──か」

 

 妙に胸に響いたエステルの言葉がまだ耳にこだましている。

 

『彼女の言ったことはなかなか的を射ていましたね』

 

 相棒が感心したように言っているが、リオンとしてはそれでうまくいけば苦労しないというのが本音だ。

 

「俺は全然目立ちたくなんかないんだけどな──」

 

 功績を自慢して威張り腐るのも疲れるし、そうしたところで周りには──特に女子たちには痛い奴だと噂されるだけだろう。

 

 悲しいかな、この世界では女子に嫌われたら結婚できずに人生が詰む。

 自分一人で済むならまだいいが、家族にも迷惑がかかるため、リスクは取れない。

 

 さっきエステルに連れ出されたことも友人たちの間で噂になっているだろう。

 どう説明したものか。

 

 彼女が自分と同じ転生者かもしれなくて、この世界のシナリオに影響を与えまくっていて、このままでは世界が滅ぶかもしれないから、いざという時止められるように交流を持っている──なんて言えるわけはない。

 

「結局分からないままだしな」

 

 そう、エステルが転生者であるという確証は得られていない。

 

 本当ならお茶会の時に()()()()()()について知っているかどうか訊きたかったのだが、彼女がオリヴィアを連れて来てしまったためにできなかった。

 

 冒険の話の中にそれとなく転生者なら反応するであろうワードを混ぜ込んだりもしてみたが、食い付いてこなかった。

 

 何とか二人きりになる機会を作って確かめたいが──

 

「ままならないな」

『ままならなくしているのはマスターでは?二人きりで話したいなら、わざわざお茶会など開かずにただ()()()()()()済む話かと』

「やめろよ?マジでやめろよ?それ拉致だから!そんなことしたなんて知られたら本当に俺の人生が詰むからな!?」

『知られなければよろしいのですか?ならば口を封じる手段はいくらでもありますよ』

 

 今日も今日とて物騒な提案しかしてこない相棒にリオンは頭痛を覚える。

 

「とにかく却下だ。そのうち機会を作ればいいだろ」

 

 そう駄目押しして、リオンは空き教室を出た。

 

 

◇◇◇

 

 

 週末。

 

 約束通りリオンが用意したお茶会にオリヴィアと二人で行ったわけだが、そこに先客がいた。

 

 濃い茶色のロングヘアをポニーテールにした生意気そうな女子生徒。

 ふんぞり返ってお菓子を食べていて、背後には猫耳を持つ獣人の専属使用人を従えている。

 

 見覚えがないが、彼女がリオンの言っていた心当たりなのだろう。

 

 彼女は俺を見てギョッとしたように目を見開き、リオンを呼びつけて小声で叫んでいた。

 

「ちょっと!聞いてないわよこんなの!あの子ファイアブランドじゃない!」

 

 声を抑えているつもりだろうが、この距離、茶会室という静かな環境では丸聞こえだ。

 

「言っていたら来なかっただろうが。いいからさっさと教えろよ」

「ッ!後で覚えてなさいよ」

 

 遠慮なしに言い争っているところを見ると、よほど近しい間柄なのだろうか。

 どうであるにせよ、いけ好かない女である。

 

「どちら様?」

 

 リオンに訊いてみると、慌てて俺の方に向き直り、紹介してくる。

 

「すまん。俺の姉貴だ。ジェナっていうんだけど」

「そうか。初めまして、ジェナ先輩。エステル・フォウ・ファイアブランドです。こちらは友人のオリヴィアです。今日はわざわざお越し頂きありがとうございます」

「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 

 不愉快な内心を押し隠してにこやかに挨拶する。

 そしてオリヴィアが俺に続いて頭を下げる。

 

 それを見てジェナは若干怯えながらも返してくる。

 

「え、ええ。知っているわ。二年生のジェナよ。それで、学園の慣例とかルールについて知りたいんですってね?」

「はい」

 

 ジェナは少し考えてから質問してきた。

 

「貴女たち、クラスのまとめ役の子に挨拶はしたの?」

 

 まとめ役というとアンジェリカのことだろうか。

 

「挨拶ですか?──いえ」

「ならすぐにするべきよ。本当は入学してすぐにしなくちゃいけないけど、今からでも遅過ぎることはないわ。とにかく、一番偉い女子に手紙を出して挨拶しておくのがルールなの。ああ、直接出すんじゃないわよ。まずは取り巻きの、それも重要なポジションにいる子に渡して仲介を頼むの。二人まとめてってのは駄目だからね。ちゃんと一人ずつ、本人の直筆で書くのよ。それと、手紙と一緒にお土産も必要ね。まとめ役の子の分と仲介役の子の分。両方とも相手の好みをちゃんと調べて塩梅に気を付けないといけないわ」

 

 長々と話すジェナにリオンが呟く。

 

「それって賄賂じゃないのか?」

「アンタは黙ってて。それで上手く行くんだから問題ないのよ。それでお土産だけど、お金をかければいいってものじゃないからね。格に合わせた相場ってものがあるんだから。無難なのは人気店のお菓子とか茶葉だけど──貴女の場合は中の上くらいの価格帯がいいかしらね。そっちの子は中の下くらいがいいと思うわ」

 

 リオンのツッコミをピシャリと遮って、また話し始めるジェナ。

 

 すると、メモを取っていたオリヴィアが恐る恐る手を挙げる。

 

「あ、あの──私、人気店のお菓子なんて買うお金が──」

「それは私が持つから心配するな」

「え?でも──」

「いいから。すみません。どうぞ続きを」

 

 話の続きを求めると、ジェナは一瞬リオンの方に向けて小さく溜息を吐く。

 

「手紙とお土産を渡したら、そのうち返礼の品が来るからそれでおしまい。直接会いたいって言われることもあるから、その時は指定された時間通りに会いに行く。で、何か言われたら『はい』か『分かりました』で答える。後は特に何か気に障るようなことしなければ大丈夫だけど──」

 

 ジェナは言い難そうに言葉を濁したが、やがて俺の方を見て言ってきた。

 

「この前みたいなことはしない方がいいと思うわ。限定品とか人気が高いのが出る時は、偉い子たちに譲って最初から並ばないものなの。どうしても欲しいなら自分で探して買った方が得よ。それと専属使用人だけど、男にしておいた方がいいわ。変に思われるから」

 

 ティナを手放して代わりに野郎を侍らせる?論外である。

 変に思う奴は勝手に思っていればいい。ただし何かしやがったら絶対に報復してやる。

 

「アドバイスには感謝しますが、彼女は私のお気に入りですので手放すつもりはありません」

 

 つい怒気が漏れ出てしまったらしく、ジェナが一瞬顔を引き攣らせた。

 

「そ、そう。なら言うことはないわね。それじゃ、私はこれで失礼するわ」

 

 そう言ってジェナはそそくさと席を立ち、部屋から出て行った。

 

 残ったリオンが謝ってくる。

 

「姉貴がごめんな。本当に自分勝手な奴でさ」

「お前が謝ることないだろ。こっちは助かったしさ。ありがとうな」

 

 あんな女が姉だとは、リオンも大変である。

 

「助けになれたなら良かったよ。また何かあったら言ってくれ」

「ああ、その時は頼りにしてるぜ」

 

 視線が重なり、同時にふっと笑みが漏れる。

 

 これは良い相談相手ができたな。

 

「じゃ、改めてお茶にしようか。ちょっと待っててくれ」

 

 そう言ってリオンはジェナが食べ散らかしたテーブルを片付け、お茶を淹れ直し始めた。

 

 砂時計を返すと、キャビネットを開けてケーキを二つ持ってくる。

 

「用意したお菓子殆ど姉貴に食べられたけど、これは取っておいたから」

「お前の分は?」

「俺はいいよ。気にせず食べて」

「そうか──じゃあ今度何か奢るよ」

 

 次の瞬間、リオンは固まった。

 

 そして彼の目に薄らと涙が浮かぶ。

 

「お、おい!なんで泣くんだよ?」

「いや、すまん。さっきの姉貴と比べたら、さ」

 

 ──なるほどな。

 こんな些細なギブアンドテイクですら尊く見えるのか。

 この世界の女尊男卑がいかに酷いかがよく分かる。

 

 ここは一つ、サービスしてやるか。

 

「なあリオン。明日お土産のお菓子を買いに行こうと思うんだが、一緒に行かないか?」




関係ないけどエスコンのBlurryは神曲だと思う


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