楽園の巫女様が根暗男に病む話 (足洗)
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楽園の巫女様が根暗男に病む話(博麗霊夢√)


 巫女(かんなぎ)の名は博麗霊夢といった。

 

 美しい人だった。その容姿が比類のない美貌であったことは事実だが、何よりその在り方こそが己の心を掌握して止まなかった。

 孤高。何者も捉えられぬ遥か彼方に佇むかのような。

 いやあるいは色即是空、そうした概念を体現するかのような。

 純一だった。不純物のない水。珠玉。大気。あたかも自然物の調和で存在する少女。

 時間を共にすればするほど胸の内より湧き上がる感情は、一種崇敬に近しいものだった。生物として同様のカテゴリにあることが信じ難い。それほどまでに彼女は完璧な―――――――馬鹿馬鹿しい。

 そこで俺はようやく、はたと気付く。

 それら全ては己が思い描く妄想だ。押し付けの憧れ、心象。あるいはそうあって欲しいという自儘な願望に過ぎない。

 身勝手ここに極まる。博麗霊夢という少女に対して俺は、あろうことか自己の作り出したイメージをお仕着せようとしたのだ。

 身の程知らずも甚だしい。

 そしてひどく、酷く穢らわしかった。精緻な硝子細工に薄汚れた手で触れるかの嫌悪感、背徳感、罪悪感。

 あわや軽挙妄動に走りかけ、しかしこうして我に返ることが出来たのは、自己嫌悪からくる自虐、自罰が功を奏したから……という訳ではない。

 何のことはない。ただ知ったのだ。彼女を。

 ほんの数ヶ月にも満たない時間、それでも現実の、実体としての彼女と言葉を交わし、その生き様を見てきた。

 霊夢という名の、あどけない少女を知った。博麗の巫女という責務(つとめ)の仮面の下に、年相応の、一人の少女の貌を見た。

 博麗の巫女として、魔を断ち、時に神すら屠る超人。

 己の拙い手料理に、ぶっきらぼうな言葉とは裏腹な綻んだ顔を覗かせる少女。

 どちらも同じ博麗霊夢。人を超えながら、人のままに在る。

 その在り方を尊いと思った。

 同時に、とても危うい、とも。

 幻想郷という一個の世界を護る巫女(かんなぎ)と、未だ年若い……幼い子供。その二つが奇跡のような完全性を以て均衡しているのが彼女だ。

 針の尖端で揺れ動く弥次郎兵衛を見るようだった。揺れ、傾くことはあっても、決して落ちることはないのだと知っている…………知っているのに、心持ちは泰然とは対極へ向かうばかりだった。

 彼女の超然たる精神とは真反対の、己が博麗さんと呼び慕う“人”の部分が、その内に倒れてしまわぬかと。

 凡夫並の、安直な危惧が胸を占めるのだ。

 そう、そうなのだ。この凡夫が最も惹かれたのは、人並外れて秀でた能力を備えた彼女ではなくて。

 

「家に帰った時、灯りが点いてるのって変な感じね……不思議と、ほっとする」

 

 ある日の、茜色に染まる境内で。

 それがほとんど無意識の呟きだったからだろう。彼女は夕空よりもなお一層顔を赤くして一度こちらを睨むと、そのままそっぽを向いてしまった。それは平素の泰然自若とした彼女からは想像し難い、ひどく不器用な姿だった。

 その不器用さを、愛おしいと思った。

 孤高でありながら孤独の寂しさを知っている少女が、労しかった。

 己が博麗神社において、召使い紛いを買って出たのもただそれだけが理由。ほんの僅か、寸毫ほどでもいい。彼女の寂寥、その一抹でも拭うことが叶うならば、何かをしたい。心ばかりの手助けをしたい。

 孤独という、胸に空いた虚穴の()()。その怖ろしさを、己は知っているのだから――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「別にそこまでしなくても……」

「住まわせていただく身ですから、これくらいは」

 

 拾い物をした、なんて。

 どんな面の皮で言ったやら。

 命を救った外来人を体のいい小間使いとして手元に置いている……そう思われても、まあ仕方ないのかもしれない。

 今のこの、博麗神社の様を見れば、人妖問わず口を揃えてこう言うだろう。

 家政婦でも雇ったのか? と。

 実際、似たようなものだ。厳密には家政“夫”。

 家宅に生じるありとあらゆる仕事をこなす、家の政の長。

 我が神社の、そんな地位に『彼』は甘んじている。

 

「なんか、矢鱈に手際いいわね」

「……生家では、家事は自分が請け負っていたので、多少手馴れているのやもしれません」

「ふーん……手馴れて、ね」

 

 埃一片、染み一滴ない部屋。綺麗に張り替えられた障子に、一枚残らず陰干しされた畳。

 毎朝火熨にかけられ、糊の利いた着物に袖を通す。

 そうして茶の間に向かえば、暖かい料理が自分を出迎える。朝昼晩、決まった時刻に食卓を彩る。それは、なんてことのない家庭料理。

 初めて彼が手料理を振舞ってくれた時、その味に驚いた。不味い、とは真逆の意味で。

 

「……ま、美味しいんじゃない」

 

 むっつりと、素直に感想も言えない。素直な言葉を使うのが悔しかった。照れ臭かった。

 ……幼稚というか不躾というか。自分自身のそういう、未成熟な情緒に呆れる。

 けれど彼は。

 なのに。

 こんな、悪態な小娘に微笑んだ。そして。

 

「よかった」

 

 心底嬉しそうにして、そう言うのだ。

 

「変なやつ」

 

 それが最初の印象だった。

 態度や言動が奇妙奇天烈だったから――ではない。その点で言えばむしろ、彼はこの幻想郷で出会ってきた誰よりも良識的であり、倫理を尊び、礼節を弁えている。本当に、稀少だろう。

 ただ、わからなかったのだ。

 

「いくら居候ったって気の遣い過ぎじゃない? ちょっと異常なくらい……あー、あんたってさ、働くのが好きなの? それとも媚びへつらうのが好きなの?」

 

 無礼な態度を崩さない自分に、それでも微かに笑んで、柔らかな物腰のまま接する彼が、私にはわからなかった。喜びさえ滲ませる青年が。

 

「どう、でしょう。家事を苦と感じたことはありません。なにせ自分にとってこれをこなすのは日常ですから。媚び……博麗さんに対してなら、そういった尽力も決して(やぶさ)かではありませんが」

「はあ……?」

「ええ勿論、御迷惑でなければの話で」

「馬っ鹿じゃないの。本気に取らないでよ」

「相すみません」

 

 理解できなかった。

 ……まあ、どうでもいい。所詮一時、軒を貸す程度の間柄なのだ。

 どうでもいい。興味などない。

 妖怪共、あるいは神を称する諸々に対し、接する時、自分はいつ何時もこの姿勢である。そうでなくとも一癖も二癖もある人外、ないし変人と対峙するならば、“我”を押し通すが至当。

 いや、そうした拘りも不純物だ。

 無関心、不干渉、囚われず、また捉えず、(くう)のように在る。私にとって他者とは慮外に置くものだった。

 そうしてただ一つの務めを果たす。幻想郷の均衡を守る。

 

「お出かけですか?」

「いつもの野暮用。調子に乗ってる新参妖怪に幻想郷(ここ)の作法を教えてやるだけよ」

「……いってらっしゃい。気を付けて」

「はっ大袈裟。ただの雑魚だから平気よ、多分。獣と同じ、羆の方がまだ迫力あるわ」

 

 その為ならば神も魔も諸共に調伏する。あるいは、神にも魔にも、人にさえ肩入れしない。

 それが博麗、博麗の巫女。

 

「これが私の御役目。あんたの言う日常ってやつ。だから、そうやって一々心配されると鬱陶しいのよ」

 

 孤独だった。孤独であるべきだった。

 でもそれを厭うたことは一度としてなかった。それが当然で、自然で、常態。

 紫などは完全性、だとか尤もらしいことを言いそうだ。

 だから。

 

「博麗さん」

「……なに」

「それでも、どうか……どうか気を付けて」

 

 青年の存在は、私にとってひたすらに疎ましかった。もっと簡単に、面倒と言い換えてもいい。

 妙に構いたがるのだ。

 寝てばかりでは体に悪いだの、衿が曲がっているだの、布団は日毎に干せだの、洗濯物はその日の内に出せだの。

 どこぞの庭師を上回る、あるいは自称仙人(もど)きとどっこいの口うるささ。

 お茶の温度は。味付けの好みは。

 風呂に入りなさい。夜更かしは程々に。

 夕飯は何が食べたい。茶菓子を作ってみた。

 花は好きか。団子の方が。

 何が好きなのか、どんなことでも。

 

 ――――よければ、教えて欲しい。貴女のことを

 

 鬱陶しい。煩わしい。

 今まで覚えたことのない、存在感。気配。

 そう、気配。自分以外の。

 誰かの足音。誰かの衣擦れ。誰かの、声。感情。

 

「おかえりなさい」

「……ただいま」

 

 でも、どうしてだろう。言葉で、態度で、不平不満を垂れておいて、それでも。

 

「夕餉の用意は出来ています。それとも先に湯浴みされますか?」

「お腹空いた」

「では、食事にしましょう」

 

 嫌悪は、湧いてこない。待てど暮らせど一向に。

 どうしてだろう。

 勿論、私の周りにはいつだって他者が存在していた。

 友人……というのも癪な、腐れ縁。頼みもしないのに神社に集り屯してくる妖怪共やら神々に悪魔輩。

 彼女らもまた立派な誰かだ。面倒事を持ち込んでくるという意味でも同じ。いやさらに厄介ではある。

 彼女らと彼と、一体何が違う。

 何も違いなど……ない、筈なのに。

 青年が格別に人の懐に入り込む技量に長けているとは思わない。いえむしろ、ごく普通の人同士が作る距離感の、さらにもう半歩外側に彼は立っているように感じる。

 

「というか、なんでいつまでも敬語なわけ? こういう口の利き方しといて今更だけど、あんたの方が年上でしょ」

「御不快でしたか」

「別に……そうじゃないけど」

 

 それが人見知りや人間嫌いから来る隔意ではなく、他者に対する思慮を巡らせた末の彼なりの間合い取りであることは理解できた。

 遠慮、という言葉を生き様そのものにしているような人。即ち、遠きより慮る。

 間合いの測り方を心得ている。さぞ気苦労とは縁遠い付き合いができそうだ。

 

「博麗さん。髪留めのリボンが少し、乱れています」

「え、どこ」

「左側の輪が緩んで……手を触れても、よろしいでしょうか?」

「へ? あ、うん」

 

 けれど、現実はこの有り様。今や私は彼に苦手意識を抱いている。

 苦手意識……本当に?

 ふとした時、胸の内に灯るこの、形も色も定かではないこの、“これ”は。

 彼の声を聞いた時。彼と相対した時。

 

「……はい。もう結構です」

「……ありがと」

 

 彼が、微笑んだ時。

 

「ああ」

 

 私は、不意に戦く。

 それの正体に気付いてしまう。

 彼が私に向けるこの――――

 

「とても綺麗だ」

 

 ――――■■

 

「…………ばか」

 

 綿や絹のような柔い手触りの、赤子の御包みのような。手放しの■■。

 

 ――――なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ

 

 うっかりとそれに気付いてしまった時、“なぜ”が私の頭を一杯にした。

 それが単なる恋愛感情だったら、こんなにも“私”が揺らぐことはなかったろう。下らないと一蹴するか、よくて笑い種。

 自分で言うのもおかしいが、私にしては実に年相応な話だ。惚れたの腫れたの里のうら若い娘達も喜びそうな、色のお話。

 恋だの、愛だのと………一笑にふしてしまえたなら。

 どんなにかよかったろう。どんなにか平穏であったろう。

 でも違う。違った。まるで遠い。

 色恋と、それ。人の心魂から造り出されるその情念。それなのにこの二つは天と地ほどに隔たりがあった。

 

 ――――なぜ

 

 そうしてまた、思考は同じ文言を繰り返す。

 彼にとって博麗霊夢という女が殊更に魅力的だったのか。それとも、実は生き別れの妹がいてその人と自分が瓜二つの生き写しの生まれ変わりだったとか。

 どちらかといえば後者の方がありそうな話だった。自分は出会って間もない男性を魅了し虜にできる女なんだと言い張るよりは余程に、現実的で、まともだ。

 

「居候? 主夫? いやいやあの兄さんの様子、ありゃまるっきり子離れできない父親だぜ。くふふふ」

「いやぁ日頃の甲斐甲斐しさはまるっきり母御のそれさ。おーいおっ母よーい。銀杏炒ってくーださーいなー! ケケケッ!」

 

 下品に笑いながらそう言ったのは魔理沙だったろうか。それとも萃香だったろうか。

 

「ゴシップなスキャンダル。あやや? 横文字はお嫌いで? なら色事と言い直しましょう。そういう香りがそりゃもうぷんぷんと……一切してこないのが残念でなりませんね、はい」

 

 下世話な文屋が言った。そういう下衆の勘繰りに誰よりも長けたあの鴉天狗が、色ではないと、そう言ったのだ。

 

「執着……いえ、依存かしら?」

 

 人形に執心する人形遣いがよく言う。その時は、そんな皮肉をアリスに返した気がする。

 

「そうね。確かに。私は人形に傾倒している。私“が”人形に執着している……なら」

 

 でもそれは、実のところどうでもいい。いや確かに疑問は尽きない。彼が私を……私にそんな感情を向ける理由。

 けれど違うのだ。この“なぜ”は、彼の慈愛の動機に対するものではなくて。

 

「本当に依存しているのは彼? 依存されているのは貴女? それとも――」

 

 気付いて、しまったから。

 

 ――――なぜ、私はこんなにも

 

 戸惑いはあった。驚きはあった。

 でも嫌悪は、どうしても湧かなかった。

 代わりに現れたのは真逆の感情。胸の内から火のようにじりじりと燃え広がる、熱。

 私は戦き、(わなな)く。不動による静謐にあった自身、その精神が、魂が揺らぐのを実感する。

 孤独であるべきと自ら口にして憚らなかった。だのに、それはあっさりと露見した。

 内奥にひた隠しにしてきた、自覚すらなかった願望……欲望が。

 こんなものがまだ、自分の中に残っていたなんて。こんな、如何にも人がましい、浅ましくも卑しい欲望が。

 そして彼は、それを叶えてくれる。屹度(きっと)、叶えてくれる。

 確信があった。無駄に正確無比な自身の“勘”が、その確信を告げていた。彼のそれは、真実のものだ。下に心を隠す恋とは似ても似つかぬ純性のそれだ。

 無償の――。

 言葉にするのはひどく、ひどく躊躇われた。自分は心からかの人に求められているなどと、改めて自覚するという行為そのものが厭わしく、恥ずかしかった。

 

「今更……」

 

 そう、今更だ。今更こんなものを求めるのか。それを与えてくれる人が現れたからって。

 それを与えてくれるのが、きっと……家族とやらなのだろう。生憎、自分にはない持ち物だった。

 父母など覚えてはいない。自分を創り、産んだというその誰かは、物心つく前には既にいなかった。巫女としての才覚を見出され、幼子だった私を八雲紫が拾い、そして先代巫女が育て鍛えた。

 もし、私に親と呼べるものがあるとするならそれは、彼女ら……なのかもしれない。

 けれど母と子である以前に、紫も先代も、私にとっては師であった。無論その関係性の価値を他人に評される筋合いはない。少なくとも、顔も知らない父母などより遥かにその繋がりは強く、重く、深い。

 だからこそ、私は知らなかった。ごく普通の、親が子に与える原石めいた、飾り気も(てら)いもない感情など。

 それを、彼が私に教えてしまった。

 幼い頃、埋めぬまま放置していた心の虚穴に、雨露のように浸み込み、満たそうとする。

 

「あぁ……」

 

 知らなければよかった。知ってはならなかった。

 だから。

 

「どんなことでもいい。自分がお役に立てるなら、なんでも言い付けてください」

「それは、私が恩人だから?」

「勿論。ですが、それだけでは」

 

 こんな。

 

「どうも俺は、貴女の役に立てるのが嬉しいだけのようだ。ほんの、僅かにでも、些細なことでも……我ながら単純で、お恥ずかしい限りです」

 

 こんなものに、これから先ずっと晒され続けたら、私は。

 私は博麗霊夢(わたし)でいられなくなる。

 

「はぁ……」

「? どうか」

「なんでもない」

「……しかし」

「なんでもないったら」

 

 満面に『心配です』なんて書いてこちらを見詰めてくる青年を、私はただ恨めしげに見返すことしかできない。

 それがなんだか無性に悔しかった。 

 悔しいくらいに――――ただ、嬉しかった。

 知りたくなかった。

 気付きたくなどなかった。こんな。

 

 …………■■される喜びなんて

 

 

 

 

 

 

 

 早朝の縁側に座り、寝間着も着替えぬまま呆と見るともなしに裏庭を見ている。胸の内には変わらず、いやに熱っぽい蟠りが居座り続けている。

 

「だからなんだっての」

 

 そう開き直る図太さが自分には……ある、はず。

 らしくない。こんなのまるで自分じゃないようだった。

 情けない。泣く妖怪を哭かせてなんぼの博麗の巫女が、この体たらく。

 腹が立つ。苛立つ。巫女としての面目は、立たぬどころか潰れそう。そんなものは端っからなかったなどと、腐れ縁共は声を揃えそうだが。

 

「あぁっもう……!」

 

 髪を掻き乱してみても、この妙な悩みが消えてなくなる訳もなし。

 一人悶々としていると、不意に。

 

「おはようございます」

 

 廊下の向こうから声が掛かる。低く、重い。男声らしい音域に、もう一つ、鋼のような硬さを備えた声。

 言うまでもなくそれは博麗神社は同居人が一人の、彼である。

 藍色の前掛けで手を拭いながら、そっと自分の傍らに屈む。こちらと視線を合わせる為なのだろうその所作が、なにやら子供扱いされているようで少し気恥ずかしい。

 

「……おはよ」

「今日は随分とお早い」

「人を寝坊助みたいに」

「……ここ七日の内、昼より前に起きておられたのは今日が初めてなのですが」

「昨日はちゃんと朝に起きたわ。その後改めて寝直しただけで」

「おはようございます、寝坊助(はくれい)さん」

「な、なんで二回言うの?」

博麗(ねぼすけ)さん、朝餉の用意が出来ています」

「逆だよね。読みと書き逆だよねそれ。いや逆でもないけど」

「折角の、珍しい早起きです。温かい内に召し上がってください」

「……小言に遠慮なくなったわよね、あなた」

「お陰様で」

 

 皮肉とも本音ともつかないことを言って、彼は微かに笑った。まるで幼子をあやすような、柔かな顔で。

 失敬なこと。このような所業には怒りを露にして然るべきだ。一端の淑女を捕まえて、なんて無礼な物言いだろう。

 

「……いぃーだ!」

 

 それはもう語彙の限りに青年を罵って、身支度の為にその場を離れた。

 ……なんか違う気もするけど。

 なんか盛大に自分(キャラ)を見失ってる気もするけど。

 仕方がない。本当に、どうしようもないのだ。

 過ちというのなら、それはきっとあの時。

 

 ――――ここに置いてください、どうか、お願いします……どうか……どうか

 

 気紛れに、その懇願を受け入れてしまった、あの日、あの時。

 たぶんそれが、私が犯した一番の大きな“あやまち”。

 

「……しょうがないじゃない」

 

 井戸底に向かって言い訳を落とす。

 今更、彼の処遇を投げ出すのは無責任で、あまりに理不尽だから。

 外来人の世話も巫女の務めの内……というような取り決めが特にある訳ではないし積極的に御免被るが、まあ、物のついでと呼べぬでなし。

 だから、そう、であればこそ、されど。

 

「…………もう少し、もう少しだけ」

 

 この、(ほの)心地良い日々に、浸っていよう。

 密やかに、密やかに。

 

 

 

 

 

 

 

「――えっ、出掛けるの?」

「はい、人里へ買い出しに」

「そ、そう……一人で?」

「ご心配有り難く。ですが霧雨さんが近辺まで同道してくださいます」

「ふーん……なら帰りは? 魔理沙は里に寄り付きたがらないでしょ…………わ、」

「ご安心を。帰路は、藤原さんが請け負ってくださいました」

「……そう」

「はい」

「…………いってらっしゃい」

「行って参ります」

 

 変わらないと思っていた日々。信じて疑わなかった平穏。子供のように無邪気に、ただ享受すればよかった甘い時間。優しい光景。

 変わる。

 それらは容易く変わる。それを知った。それを予感した。

 割れ鐘のように鳴り響く。頭蓋の内側を叩き砕くまでの強さで。

 第六感だの神通力だの無駄な工程を一切必要とせず発露するその予知。そう遠くない未来の有様を、五感ではなく、預言でもなく、託宣ですらなく。

 博麗(おのれ)の“勘”は告げていた。

 

 

 ――――あの人が奪われる

 

 

「……っ」

 

 この感情には名前がある。遥か昔から、人が言語を文化や学問として追究し始めるよりずっと以前から。

 なにせ処に因らず、これは人間が生まれながらに背負う原初の罪だから。

 嫉妬という名の罪の針。

 

「…………」

 

 あの人が人里へ出掛けてより半日。

 外はいつの間にか雨模様。しとどに濡れて滲む裏庭を、ひどくぼんやりと眺める。眺めている、つもりだ。眺め、見ている、この目に収めている、ような気がする。()()をしている。

 実際に見ているのは、過去。彼が、博麗神社の居候になってからのこれまで。

 見ないふりをしているのは現在と、未来。

 

「……………………」

 

 幻想の護り手、博麗の巫女、博麗霊夢には予知能力なる異能が――――備わっているわけではない。しかして、ただ研ぎ澄まされ、果てに超越した感覚と経験則に基いた“勘”が、時に不確定な未来すらを見通すのだ。

 だからこれも、一つの事実。千変万化の可能性の収束点。

 彼に惹かれ、寄り添う誰かの気配。影。誰かの。誰かの。誰かの。誰かの。

 

 自分ではない、誰か

 

「嫌ッ……それだけは、嫌……!」

 

 地を打つ雨が矢鱈に五月蝿かった。まるで急き立てるようにその音は心に波を広げた。

 幾重にも、幾重にも。

 

「………………………………」

 

 ()()()、針を砥ぐ。

 罪ではなく、実体の。鋼を延べて打ち上げた鉄の針を。

 妖怪変化を射貫く為の、巫女の為の武具。

 磨けば磨くほど針は砥がれ、尖り……水気を拭き取って先端を覗く。雨に滲む視界にその細い陰影が融けるほど、針の頂は細く、痛みを錯覚するほどに鋭い。

 針の先にそっと触れる。

 何程の抵抗もなく、尖端は皮膚を貫き小さな小さな穴を空けた。暫時、指先に出来た空洞を眺める。そうして見る間に赤い玉、血の紅球がぷっくりと膨れ上がった。

 それを拭いもせず、掌に握り込む。この雨模様と同じに血が滲み、指の隙間からそれらは零れていく。

 無手の拳を、なお握る。あえてその傷を抉るようにして。そうすれば当然に、傷穴からは血が流れ続けた。

 流れ、滴ったそれを、舌先で舐り取る。

 鉄錆めいた香りが鼻を抜けた。舌の根に広がるこの味こそは、嫉妬。

 何処ぞの橋姫の呪いなどは、これに比ぶれば全き児戯であった。

 嗚呼、嗚呼嗚呼、なるほど、喉は爛れ、胃の腑を焦がすまでの赤熱、これこそが、これだけが、真の……“憎嫉”。

 

「渡さない」

 

 針を(なげう)つ。

 雨中に消え、刹那それは庭木の桜の幹を穿った。

 

「渡すものか」

 

 雨はざんざんと空と大地を洗う。

 自分の心にあった迷いと惑いが、今のこの天地の如くに洗い流されたような心地がした。

 認めてしまえば呆気ない。自分に差し伸べられた手が、横合いから伸びてきた誰ぞに奪われる……その予感、否、想像だけで十分だった。

 取り澄ましていた理性とやらが融ける間もなく昇華し、本能共々焦がれるほどの切望へと合流する。

 

「……そっか。はじめから」

 

 ()()すればよかったのに。そうするだけの能力(ちから)は既に持っていた癖に。

 随分、時間をかけてしまった。

 でももう大丈夫。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仄暖かなこの日々に己は耽溺していた。そこに疑いはなく、言い訳の余地も絶無。

 昔で言うところの小姓のようにせかせかと家政に勤しむ毎日。それだけならば、現代での生活とそう大差もなかった。

 違う点があるとすれば……あるとすれば。

 社会生活を送る上で最低限の、一つの家庭内労働に過ぎなかったそれが、重大な意義を持った。

 重大な、大切な人。

 彼女に、かの少女の存在そのものに、己は執着している。傾倒している。依存している。

 果たして、その事由は――――分かっている。明白である。一言で済む。だが、その一言を口にすることはひどく、ひどく躊躇われた。それがどれほどに卑しいものかを、己は理解しているのだ。

 傲岸にも理解しながら、それでも辞められない。

 何かにつけて少女の世話を焼く。節介を働く。

 小間使いのような己の振舞いにしかし、彼女は悪態を吐いても嫌悪や拒絶を露わにすることはなかった。遠大な思慮によってそうした心情を巧みに隠し、この凡夫を気遣ってくれている可能性も大いに考えられる。

 けれど。

 けれど、これが徹頭徹尾手前に都合の良い妄想でないなら、少なくとも彼女は己の家事雑事への遂行能力に対しては、一定の評価を下さっている。時にはうっかりと、満足そうに顔を綻ばせてもくれる。

 その時、俺は一人、密かに喜びを噛み締める。

 かの人の安楽に、ほんの一抹、何かを寄与できたのだと独り善がりな己惚れを抱く。

 これをこそ、卑しいと言わず何と言う。浅ましいと断じず何を断ず。

 俺は、俺という人間を心底嫌悪する。

 だから。

 そう。

 ならば。

 然様に心得るならば。

 己はこの神社を去るべきだ。()っととかの少女の前から消えて去り、独り何処ぞで未だ長い、永い余生を浪費し潰すべきなのだ。

 最初の、あやまちがあるとすればそれは、あの日、あの時。

 

 

 現世を惑い、幻想に迷い込んで日も浅いある日。稀なることに人里へ妖怪が現れた。

 幻想郷の妖怪魔物の類は一様に人里が不可侵領域であることを重々了解している。そこが彼らにとって恰好の餌場に他ならぬと言えど、迂闊に手を出したならどのような報復が齎されるのかを骨の髄から理解している故に。

 それは、(すこぶ)る稀な出来事だった。

 人里に張り巡らされた石造りの外壁を踏み崩して現れたのは巨大な猿。猿に近しい形をした、猿にありえない巨躯(スケール)をした怪異(ばけもの)

 粉砕され、崩落する石材や瓦礫に巻き込まれた者がいた。逃げ惑う群衆に揉まれ打たれ、誰しもが混乱の渦中。

 親と逸れたのだろう小さな子供が地面に座り込み泣きじゃくっている。

 獣にとり、それは絶好中の絶好なる獲物だった。

 うっそりと子供を摘まもうとするその黒毛に覆われた腕。巨大なフキの葉めいた掌。

 幼子と、異形の凶手、その間に立ち塞がった己はおそらく、無上の愚物に他なるまい。何が出来るでもない。無力な人間の一匹に過ぎぬこの身。

 土塊よりも容易に砕かれ、熟れきった柿より敢え無く潰される未来が、その瞬間ばかりは予知能力の開眼すら必要とせず見通せた。

 それで良い。この五体が破壊される間だけは、確実に少年の無事は約束されるのだから。

 少年を救う……そんな高望みはすまい。その大望を叶えるには、この身はあまりにも天運なるものが不足している。

 延命でしかない。あるいは少年にとっては、無為に恐怖を延長させるだけに終わるのかもしれない。

 そればかりはひどく、申し訳なく思う。

 あわよくば、彼がこの場を離れるだけの時間稼ぎになれば幸い。

 甲斐の無い命の使い道としてこれ以上のものもなかろう。卑小な男の生涯の、なんて出来過ぎた、なんて素晴らしい最期か――

 

『莫迦じゃない』

 

 その通りであった。悲壮を気取った自己犠牲。これほど滑稽で、傍迷惑な行為はない。

 実際に、彼女はそう罵ってくれた。

 

『自殺がしたいなら(よそ)ですれば』

 

 自己犠牲という大義名分に飛び付き、命を軽々に扱おうとした男に――いやさその魂胆に、正しい言葉で冷水を浴びせかけてくれた。

 青空に踊る深紅。蝶より軽やかに、蜂鳥より鋭く少女が飛翔する。

 博麗の巫女の手で、猿の変化、山の化生経立(ふったち)は退治された。呆気ないと評するは弱者の戯言であろうか。しかしそれほどに、圧倒的な力の差を骨身に感じ入った。

 感謝を口にする間もなく、少女は飛び去る。疾風のように埃すら残さず。

 空に消える紅の残光を己はいつまでも追わずにはおれなかった。

 

 ――おそろしい

 

 その静寂を裂いて、誰かが言った。

 

 ――おぉおそろしや。あれが博麗じゃ

 ――博麗の巫女

 ――妖殺しの巫女

 ――人でなしの妖怪狂い

 ――あれは人よりも妖怪を好むとか

 ――気に入らねば人も妖もないのだ。見ろ、あの猿を

 ――あんな化物をいとも簡単に

 ――こわやこわや。ナンマンダブナンマンダブ

 ――まったく、どっちが化物やら

 

 口々の囁き、ざわめきが、ひどく無遠慮にこの背を突いた。

 理解は、出来る。おそろしい、畏ろしいというその心情。彼らも、己も、ただただ弱い人間なのだから。

 理解を示すことは出来る。彼らと己とに違いなどないのだと、知っている。

 だが。

 己は踏み出していた。背を突かれ、惹かれるままに。

 紅の光を追って、その日の内に里を出ていた。そして。

 

『ここに、置いてください』

『は?』

 

 その決断があやまちだったのか。もはやそれすら、蒙昧な己にはわからない。望むものとてもはやなかった。

 いや、望みはあった。ただ、それは今なお叶い続けているのだ。

 少女と過ごす代わり映えしない日常。穏やかな毎日が。

 欠伸を溢してしまうほど平らかで、根を張れるほどに静かな日々が。

 

『退屈。退屈ったら退屈ったらたぁいぃくぅつぅ~!』

 

 駄々っ子のように我が儘を言って、俺の肩を小突く少女。

 

『晩酌が美味しいのは知ってるわ。でもね、昼酒はそれに輪をかけて美味しいの。ふふ、知らない? じゃあ今から知ればいいのよ』

 

 そう言って酒瓶を取り出そうするのを宥め、代わりにと剥いた水菓子を悪態を呟きながら美味しそうに頬張る少女が。

 

 

 彼女が、安らかに、そこにいてくれるだけで。

 幸福だった。泣きたくなるほど、その一瞬一瞬が、幸福だった。

 ……一度、夢想と諦めた。夢か幻よりも儚く、朧で、希薄になった筈のそれ。縁が遠退き、遂には永遠に失ったと思ったそれ。

 天涯孤独の、芥のような男にそれは突如現れた。恵みのように。

 (つながり)が。

 それが少女からの、気紛れの憐れみであったとしても構わない。厭う理由などない。

 ただ、この日々に感謝を。

 少女の心遣いに感謝を。

 そうして、願わくば、ほんの少しでも長く、この時間が続いて欲しいと。

 己は常に、厚顔にも、願わずにはおれないのだ。

 

 

 

 

 しかし己の卑小な願望など嘲笑うかのように。

 “変化”はとても唐突に、なにより如実に表れた。

 

 

 

 

 



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注★

※イラストを挿入しました。

かけるたろう様本当に本当にありがとうございます。ありがとうございます。



 気付けば傍に彼女はいた。

 洗濯物を干す己を、縁側から。

 土間で調理をする己を、框から。

 境内を掃き清めている己を、鳥居に背を預けて。

 じっと見ていた。片時も目を離さず。

 無垢な瞳をしていた。物心もまだつかぬ幼児のような。

 

「何か、ありましたか?」

「別に」

「部屋で寛がれては」

「ここでいい。それとも邪魔? なんなら手伝おっか?」

「滅相もありません。しかし、これは自分にお任せくださった仕事です。叶うなら自分の領分として受け持たせて欲しい、と」

「真面目」

「融通が利かぬ性質で、はい。恥ずかしく思います」

「皮肉で言ったんじゃないってば……私は、その……あんたのそういうとこ、結構……す……気に入ってんの!」

「は……それは、恐縮です」

「……」

 

 ほのぼのとした日常の一幕。そのように深くも考えず構えていた。

 

「どこに行くの」

 

 勝手口の扉から外へ出ようとしたところを呼び止められた。

 否、()()()()、彼女は問うた。なんの事はない遣り取りである筈が、その語気は罪人への詰問じみて鋭い。

 

「……焚き付けに使う、手頃な小枝を拾いに」

「一緒に行く」

 

 身に覚えのない罪状に弁解をするかの心地で己がそう答えるや、語尾に重なる勢いで彼女は言う。既にして草履を履いて。

 

「いえ、ほんのすぐのこと」

「一緒に行く」

「博麗さん……?」

「…………ダメなの?」

 

 責め問うようだった声音が一変する。まるで叱責に身を縮めて怖々と伺うように、少女は言った。

 なによりその表情(カオ)があまりにも悲しそうで、反問を無用と飲み下すには十分だった。

 

「いいえ、駄目などとそんな筈がない。それはありえない。一緒に行きましょう」

「うん……うん」

「草履で林を歩くのは難儀でしょう。革靴を出してきます」

「ご、ごめん……面倒かけて」

「何も面倒なことなどありません」

「……えへへ」

 

 そろりと秋めいてきた空模様。幸いに、山の散策には打ってつけの日和であった。

 彼女がそれを望むというなら否やなどない。

 しかし。

 

「博麗さん」

「ん、なに?」

「…………いえ」

「んふふ、変なの」

 

 山林に敷き詰まった落ち葉を踏み、その感触を楽しむ少女に、曖昧な笑みを送る。

 彼女は朗らに無邪気な笑みを湛える。

 それが、どうしてか不穏だった。平穏の象徴のような光景であるのに、何か、何処か、致命的な歪があり、かつそれを見落としている。

 少女は笑った。それは安堵の笑みだった。

 幼子が親の姿を見付けた時に浮かべる表情をしていた。幼子……そう、それこそ、小さな子供のように。

 

「待って」

「はい」

「行かないで、遠くに。私もすぐ行くから……近くにいて」

 

 後追い。

 一人歩きを覚えた幼児が、常に目の届く範囲に親の姿を留めておこうとする。そして一度、少しでも視界を離れれば雛鳥のように何処へでも付いて行こうする。

 今の、彼女のように。

 

「……」

「傍に、いてよ」

 

 不安感、あるいは慢性的な無力感の再起を覚えた。

 少女の安息の為に微力を尽くしていながら依然何一つ――――報いることができない。できていないという、そんな焦燥。

 変化と呼ぶには些細な、油断すれば気にも留まらぬ、砂時計を落ちるただの一粒の時間。

 それでも、やはり、幸福に違いはなく。蒙昧で鈍愚なる男は、ただただ目の前の幸せを有り難がった。阿呆のように、白痴よりなお憐れなほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……書簡?」

「はい、人里の上白沢さんから」

 

 麗らかな日差しを障子戸から透かし見る。朝晴れの冷えた空気が清々しい。

 冴え冴えと薄明な食卓で、味噌汁が湯気を立てている。

 卵焼きはふっくらと仕上がり、フキの炒め煮も我ながら良い色が出ている。山女の塩焼きには酢橘を添え、さっぱりと。香の物は糠が良質であるからだろう、よく漬かっていた。

 手前味噌、もとい自画自賛甚だしい朝餉の膳。どれもこれもが彼女の好物。いつものすまし顔はそのままに、旺盛な動きを見せる箸に微笑んでいた。

 しかしてそれが、止まった。

 

「……お口に合いませんか?」

「へ? そ、そんなことない。いつも通りよ。いつも通りの味…………おいしいです」

「よかった」

「………………むぅ」

 

 懸念が外れたことに安堵の息を吐く。

 対して彼女は、異なる風合いで不満げな呻きを上げた。

 

「……内容は?」

「は」

「手紙の」

 

 つまり中身を今確認せよ、と少女は仰せであるらしかった。

 急ぎの用でないからこその書簡と、暢気に構えていた己をどうしてか彼女は急かす。

 封を切り、折り畳まれた紙片を開く。

 

「……近く、寺子屋で催しがあるそうです。教え子とその親御さんを交えて親睦会を開くと。ああ、どうやら参加のお誘いのようで……博麗さん?」

「……ふーん」

 

 ふと見ると、いつの間にか卓を回って少女が己の隣に陣取っていた。視線は文面に走り、かと思えば己の手から素早く書面を引っ手繰った。

 

「慧音とあんたと、そんなに親しかったっけ」

「幻想郷を訪れたばかりの頃は、人里で厄介になっていましたので。その折は、何かに付け気遣いをいただきました」

「……違う、かな」

「? は」

「文章は慧音……でも思惑を働かせたのは……別の、気配……人里で? 誰が? 誰誰誰誰誰誰誰……本じゃない、花でもない……抹香……近いけど違う…………炭の臭い。あぁ……」

 

 囁きは風鳴りのようで言語としての体裁は薄かった。なるほど聴き取ることは容易だが、理解するのは難しい。

 その瞳。黒々とした宝石のような。新月に似てそれは深く昏い。光を嫌う漆黒の、(ウロ)

 異様な、そう表するのが正しいのやもしれなかった。けれど、呆れたことに、まずなにより先に――己はそれを美しいと感じた。

 気付けば、耳に痛いほどの静謐が部屋を充満している。小鳥の囀りは、はていつから止んでいたのだろう。

 くしゃりと、紙片が少女の手の内で握り潰される。久方ぶりの音は思いの外に強く鼓膜を引っ掻いた。

 

「――――妹紅か」

 

 色のない声だった。好も悪も宿らぬ、無色透明に近しいそれ。

 温度というものを持たぬ音だった。怒りや憎しみの如き熱も、悲しみや辛苦のような冷気も帯びぬ、無機質なそれ。

 能面のような無感情の貌で、少女はおもむろに手紙を破った。千切り、千々に裂いて、紙屑へと変えた。

 

「なにを!?」

「妹紅とは親しいのね」

 

 己の戸惑いなど意に介さず、彼女は手紙を屑籠に放りながら言った。

 

「……良くして、いただきました。人里での生活に不慣れな己を、上白沢さんと共に気遣ってくださいました。頂戴した配慮には今も感謝しています。しかし……」

 

 不遜を承知で言えば、それはつまりその程度の間柄。特別な親しみなどない。上白沢さんは無論、藤原さんもまたその純粋な善意を己が如き男にも働かせてくれる人格者である。

 それだけの。

 

「嘘」

「嘘ではありません」

「ふーん……じゃあ、あんたは知らないのね」

「知らぬ、とは……」

 

 少女は即答せず、卓に頬杖を突いてこちらを流し見る。

 それはまるで、何かしら隠された本心が彼女にあるかの言い様。

 

「……博麗さんは、何かを御存知と仰るのですか」

「知らないけど、当てられるわ。どんな話をしたのか、とか」

「それは」

「両親のこと、訊かれたでしょ」

 

 まさしく虚を衝かれた。

 特別な交流はない、そう口にした舌の根も乾かぬ内に、そんな常にはない問答をした記憶が想起される。

 確かに、いつか、何時かの折柄。宴席であったかもしれない、ただ道々で擦れ違いにした世間話だったかもしれない。しかし確かに、彼女と話をした。家族の、話を。

 

「……藤原さんは、知己の方とは折に触れて家族の話をするそうです。専ら聞き役に徹されますが、家族に纏わることならどんなことでも感興を持って、真剣に聴き入ってくださる、と。人里でもよく知られたことです」

「聞き役、ね。根掘り葉掘り尋問みたいに話を訊き出すのが聞き役?」

「いえ……そのようなことは」

「聞かれたんでしょ。お父さんのこと」

「――――」

 

 今度こそ返す言葉を失う。辛うじて絞り出した反問が、気息と共に零れ出た。

 

「――何故」

「勘よ」

「か、勘、ですか」

 

 事も無げに少女は言い切った。会話の流れを思えばあまりに無体な返し。

 しかし、そう口にしてより、己は何一つ言い募ることが出来なかった。納得せざるを得ない。それほどの断言、疑う余地のない真理を、突き付けられた心地だった。

 博麗霊夢の“勘”は絶対なのだから。

 

「お父さんの、どんなことを訊かれたの」

「父のこと、というより、己の言葉遣いについて……」

「…………」

 

 無言は圧力すら伴って、強かにその先を促した。

 

「……何故、敬語なのかと問われ、父の真似事だと答えました」

「真似……?」

「父は昔から、こうした口調を使いました。誰にでも、老若男女を問わず。連なって父の人柄や、父母の思い出話を……ああ、確かに。殊の外に、藤原さんは喜んでくださいました」

 

 それがまさか彼女からの特別の懇意に繋がるなどとは到底思えぬ。

 あるいは、藤原妹紅という少女の生い立ちに、家族云々を求める何かしらの起因があるのやもしれぬ。だからとて気安くそれに触れることは躊躇われた。いや、禁じ得ることだ。己の如き凡夫には想像を絶する。

 彼女は紛れもない恩人。それに対する短慮は断じて戒めねばならぬ、と。

 そのような言い訳を、幾らも考えたろうか。

 

「――――私は、聞いてない」

「それは……」

「そんな話、私には教えてくれなかった。私が訊ねた時あんたは何も答えてくれなかった。理由も、思い出も」

 

 虚穴が己の目を覗き込む。少女の両瞳に、昏い深淵が開いていた。一片の光明も差さぬ無明の闇。黒曜石の如き眼球が。

 なにもかも吸い込まれてしまうような、浮遊感か、喪失感にも似た感覚が全身を襲う。

 それを――噛み潰して、少女の目を見た。丹田に気を練り上げ、今にもへたり込もうとする脆弱な心身に喝を入れる。

 口調も振る舞いも手前勝手な存念による投影……些末な、感傷に過ぎない。それを誰かに、誰あろうこの少女に、滔々と語って聞かせるという行為を厭うた故の端折だった。それを怠慢や無思慮と言われて弁解の余地などあろうか。

 ない。ないのだ。

 誠意を欠いた己に対し、少女は正当な怒りを発している。事実はそれ一つきり。

 

「申し訳ありません。あれは……」

「いいよ」

「は?」

「許したげる」

 

 無感情だった相貌に、ひどく優しげな色が戻った。灯のような暖かみが宿った。

 少女は柔く微笑む。とても愛らしかった。胸奥に激しく渦巻いた惑乱を一瞬にして忘れ去るほどに。

 

「……でも条件つき」

「条件とは」

「聞いてくれる?」

「自分に可能なことであれば、尽力を厭いません」

「そっか……やっぱり優しいね」

 

 見るからに喜びを滲ませて少女の顔が綻ぶ。

 そうして意を決して、というほどの気負いもなく彼女はするりと一言。

 

「どこへも行かないで」

「は……? しかし、それは」

 

 ここに置いてください――――。

 この地、彼女の家宅への滞在。それは誰あろうこの俺が、恥を忍んで彼女に願い出た儀である。

 

「もとより行き場の無い身の上。それは自分こそ、深くお願い申し上げねばならぬことです」

 

 なれば、それを少女の側に望まれるのではまったくの逆しま。

 

「うん、嬉しい。白状すると、そう言ってくれるの……期待してた」

「は……」

 

 少女は、謎めいたこと言って微笑を浮かべる。言葉それ自体の意味ではなく、意図が読み取れない。

 

「分かりにくかった?」

「……はい、恥ずかしながら、満足な理解が及ばず」

「いいよ。じゃあもっと簡単に」

 

 不出来な生徒に教えを呉れる教師、あるいは物分かりの悪い子供に優しい言葉で説き聞かせる母御めいて。

 慈悲の女神のような貌で少女は。

 

神社(ここ)から出ないで。もう二度と、一生涯、一歩も、永遠に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは夢なのだろう。

 過去の記憶の焼き直し。恥多き我が生涯の恥の一部。

 ただの夢。甲斐の無い男の、詮無い自分語りだ。

 

 

 

 

 火葬が終わってすぐに納骨をした。

 四十九日に合わせてはどうか、という葬儀社の方からの勧めを断ったのは、なにより早く養父母を引き合わせたい。そんな己の我儘だった。

 霊園までの道中、母の遺骨を抱えた時、そのあまりの軽さに思わず箱の中身を確認した。当然、白い壷はしっかりと木箱の中に収まっていた。

 重い石の蓋を戻せば、それで納骨は終了する。感慨を抱くには呆気なく、さりとて平常を貫けるほど己は死生を達観できない。

 墓前に蝋燭を立て、線香を上げる。手を合わせてみても、やはり。

 ああ、やはり実感など湧いては来ない。しかし事実は厳然と目の前に横たわっている。

 

 俺はその日、孤独(ひとり)になった

 

 日が暮れていた。空は赤黒く、夜の闇と茜の残光が混ざり、雲の灰色が漂うことでさらに淀み、ひどく薄汚い。

 燻る炭のような景色であるのに、風は無遠慮に冷たかった。

 

「……はっ」

 

 喉奥から漏れたのは嗚咽ではなく、どうしてか乾いた笑声。俺は笑った。俺自身を嘲笑った。

 肩が落ち、膝が笑う。背骨を喪失したかのように全身を脱力感が襲った。

 今にも倒れ、倒れたが最後二度とは起き上がれない。そんな懸念を抱くほどに。

 自分が、殊更に心弱い人間だということを知っている。

 事故で父を喪った日、骨の髄から思い知ったのだ。

 白い布に隠された遺体の前に脆く泣き崩れる母の体を支えることすらせず、小さく震える背中をただ見詰めることしか出来なかった。

 おそろしかった。おそろしかった。父の死を理解するのが、母の極大の悲しみを理解するのが。

 それを理解してしまったら、きっと俺の心は死ぬ。死んでいた。

 そんな下らない恐怖に俺は支配され、悲しみに蓋をした。人としての正しい感情を受け止めず、処置を怠り、必死で無視を決め込んだ。

 家は子一人、長男は自分なのだからと、父の葬儀はほぼ一人で段取りを付けた。遺品の整理、相続、保険や証明書類等の死亡後手続きなど、率先して、むしろ奪うように整理した。母が仕事に出るのだからと家事一切を請け負い、家計の足しにと続けていたアルバイトの量も増やした。反面というか当然、学業が疎かになったので、通信制か高卒認定試験の受講も視野に入れて準備を始めた。

 母が、その深く重い悲しみを咀嚼する傍らで、俺はそこから目を反らし、感情を忙殺した。

 そして今。

 今も結局、それは変わらない。変われなかった。

 病がちだった母が、父の死後みるみる弱っていき、遂に床から動けなくなったのが丁度一月前。覚悟する、そんな暇もありはしなかった。

 ただ、ただ母は病床から、何度となくこんな俺に謝り続けるのだ。

 

 ――苦労させてごめんね

 ――丈夫なお母さんじゃなくて、ごめんね

 

 何度となく、何度となく。

 

 ――ごめんね

 

 最期まで。

 

「……」

 

 真に、謝罪の言葉を口にすべきだったのは誰だ。あんな言葉を母に口にさせたのは誰だ。

 現実を受け止める強さはなく、耐え忍ぶ(つよ)さもない俺は、雑事に(かま)けて傍らのただ一人の家族を放置した。

 その結果がこの有様。

 そしてまた、繰り返している。俺はまた、同じことを。

 歩く。霊園の裏手の山道から雑木林を抜け、叢を踏み、道とも呼べない道を歩く。歩く。歩く。

 革靴が泥濘に噛まれそうになる。構わず歩く。

 太い木の根が足を掴もうとする。それでも構わず、歩く。

 何も学ばなかった。自分の心との折り合いの仕方。母が必死で堪えたものから、俺は逃げた。今も逃げ続けている。

 喪った現実から。

 謝り続けながら死なせてしまった、この最悪の不孝から。

 歩く。歩き、去る。

 孤独という無味乾燥な事実から。

 

「……帰れない」

 

 子供の駄々同然に呟いた。

 

「……帰りたく、ない」

 

 もう誰も居ない、あの家へは。

 

 ――――誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か

 

 俺は呼び続けた。誰ともなく、その“誰か”を定めることもなく、居もしない誰かを呼んだ。呼び、乞い、求め、(こいねが)った。

 助けて欲しかったのか、慰めて欲しかったのか。そんな都合のいい夢想も、微かに抱いていたかもしれない。

 しかし、違う。少し違う。これはおそらくもっと酷い。もっと醜い。もっと卑しい願望……欲望だという予感があった。

 逃避と後悔。それが頭蓋の内側で渦を巻く。脳漿がそういう汚らしい液体に成り果てる、きっと、もうあとほんの僅かで――――その瞬間。

 

「……あ」

 

 俺は現世から弾き出されていた。

 霊園の裏手に広がる山の、植えられた人工林とは明らかに異なる景色。

 墨汁を塗り込めたかのような純正の闇。濃密な闇。闇。闇。

 噎せ返る緑の臭い。其処彼処から捻じれ伸びた無数の木々が空を覆っている。けれどそれでも枝の隙間から、夥しい数の瞬きと、目を焼くほどの月光が降り注いでくる。

 

 『幻想郷』

 

 幽世の近縁。

 現世の外側。

 ここがそう呼ばれる世界なのだと後に教えられた。

 

 ――――貴方のような人間にこそ、ここは相応しいのでしょうね

 

 不意に、誰かが囁いた。

 そうして暗闇の奥の、そのもっと奥に、酷薄な微笑みが見えた気がした。

 

 

 

 

 

 

 これはいつかの、買い出しに出掛けた帰路のこと。

 

「ちょっと付き合わない?」

「は」

 

 人里の目抜き通りを離れて暫し、雨の道すがら、蛇の目傘の下から彼女はこちらに振り向く。

 白銀の髪が、微かに雨露を纏って煌めいた。

 藤原さんの細い指が差し示すもの。暮れも近い夕立の中で、赤々と燈る提灯。昔ながらの二輪屋台であった。

 

「……では一杯だけ、御相伴を」

「決まり」

 

 博麗神社から人里への道程は、武力に乏しい脆弱な人間にとって危険極まりない。

 それでもなお安全地を出、他所へ往き来したいと願うならこのように、何方か、種々数多の危険を退けるだけの力を持った誰か、その助けを請う必要がある。

 短く浅いその縁を、恥を忍んで手繰り引き寄せ、そうして依頼を申し込んだ相手が彼女――藤原妹紅さんであった。

 

「串二本と熱燗一本。お猪口は二つね」

 

 少女は実に馴れた調子で小気味良く注文を出す。己はともかく、彼女は間違いなくこの屋台の常連を名乗れよう。

 捌いた八目鰻を串に刺し、たっぷりとタレに浸して炭火で炙る。シンプルに、そして強烈に食欲をそそる香ばしい脂と醤油ダレの甘味。

 絶品を約束されたような蒲焼きの出来上がりを待つ。

 先んじて、熱燗の徳利が温まっていた。

 湯を拭き取って差し出されるそれを直接受け取り、そのまま藤原さんへ注ぎ口を向ける。

 

「ん」

「ありがとうございます」

 

 お返しとばかりに少女から御酌を頂戴し、猪口を掲げた。無言の乾杯。

 

「……ほぅ」

「……」

 

 酒精の香気を快いと感じるようになったのはいつからか。味の良し悪しを偉そうに講釈できるほどの舌も、知識もありはしないが。

 ふわりと全身を包む浮遊感にも似た熱。ほんの僅か、身から心から重みが消える。

 思うに、それは杯を交わす相手あればこそ。いや、紛れもなくそうだ。酒ではなく、この時間そのものを快いと感じられるのは、隣に座る彼女その人が快い人であるからに疑いない。

 

「……ふふ」

「? なにか?」

「んー? や……美味しいなって」

 

 なによりのことだった。

 彼女にとっても、そう悪くはない時の流れ方をしているなら……いや、そうであることを願うばかりだ。

 さて、こうして彼女と細やかな酒席を囲むのは幾度目か。

 偶の買い出しの度に彼女を頼り、帰路には必ず赤提灯を潜るのだから。多くはないが、少なくもないのだろう。

 

「ねぇ」

「はい」

「また、何か話して聞かせてよ。前みたいに。そう……貴方の家族の話」

「はあ……格別、面白い話はできませんが」

「いいよ別に。可笑しな笑い話が聞きたいんじゃないもの。私が好きってだけ。ダメ?」

 

 少女の紅い流し目と、細雪めいて囁かれては、断るのは如何とも難しい。至難と言って差し支えない。

 なにより、これまでに散々と御足労を掛けてきたのだ。酒肴にしては素朴に過ぎる味わいだが、己の細やかな思い出話一つ二つを披露することに否やなどない。

 細やか、そう、それはどこまでも細やかな。

 どこにでもある家族の風景。

 

「父は、誠実な人でした。誰にでも、老若男女の区別なく他者に敬意を以て接するを旨とするような」

「くふふ、それはまあ、貴方を見てると分かるね。堅物だった?」

「滅相もない。とても柔和で、道理を重んじても決して心理を蔑ろにはしない、柔軟な人でした。自分などとは違って」

「……」

「あの人を目標に、誠実でいようと努めてきましたが、なかなか上手くは行きません。この口調もその一環でした。しかし……所詮は真似事ということなのでしょう。内側に誠心も何も、宿してはいないのだから」

 

 誰かに優しく在ろうと努めた。けれどそれは、純粋な利他精神に基づく行為ではなかった。

 ただの模倣であり、一種の強迫でもある。

 父のように在らねばならない、と。

 

「その存念は、父が亡くなってからより顕著でした。そうすれは幾分かでも、母の助けになれぬものかと」

「……」

「しかし、自身の瑕疵に囚われるばかりで、肝心なことは何一つ、果たせない。果たせぬまま結局、母も……独り善がりにもならなかった……」

「私は」

 

 独白を遮るようにして少女が呟く。ふと気付けば、酒杯は乾いて久しい。

 彼女は自分の猪口を空にすると、自分とこちらとに酒を注いだ。

 

「私は確かに助けられたよ。貴方の誠意ってやつでさ」

「そのようなことは……」

「そのようなことがあるの。特にほら、毎回のお小言が効いたわホント」

「それは、なんとも……差し出口を申しました」

「ぷっふふふ! ま、だらしない生活してた私が悪いんだけどサ。『このだらしなさはもはや頑是無いと表さざるを得ません』なーんて。くふっ、頑是無い! 頑是無いだって! そんな文句、百年遡ったって言われた(ためし)ないよ!」

 

 噴き出して少女は笑う。揶揄いの色も少し。

 ……いや、気を遣われたのだ。刻一刻空気を重くしていくこの男に対して。

 思えば何を滔々と。手前勝手な自嘲か自罰を、誰を捕まえて語り聞かせているのか。

 聞くに堪えぬとはまさにこのこと。

 

「……申し訳ありません。御耳汚しを」

「どうして? 汚すも何も強請(ねだ)ったのは私なのに」

「しかしこれではただの愚痴か……」

 

 不幸自慢。他人の憐れみを強請る卑しさ。

 虫唾が走る。自己嫌悪という名の冷たい汚泥が背筋に流れ込んでいた。

 

「……あまりにも酷い。お聞かせするには忍びない……あぁ、やはりまだ、飲酒に慣れていないようで。酔いが回って……」

 

 己の感じる以上に肉体は酩酊しているらしかった。呼気に篭る熱が不快だった。

 

「結構なことじゃない。貴方はもっと楽に生きた方がいいよ。そりゃあ、生き方は自由だろうけど……御父君と貴方は違う。そこに血の繋がりの有無なんてのは関わりない。父と子は、ううん親と子は、違うものなんだよ。どうしようもなくさ」

「…………痛感します。どうしようもなく」

「でしょ。私にも……覚えがあるよ。痛くて痛くて、痛みで死にたくなるくらい」

「……?」

「……でもそれは悪いこと? 過去は離れていくほど綺麗になってく。熱砂の陽炎だ。追い付けるものじゃない。追い付く必要なんてない。貴方は貴方のままで生きていけばいい。少なくとも……私はそのままの貴方が好ましいよ」

「勿体ないことです。お心遣い、ありがとうございます」

「……」

 

 心ばかりでなく、軽くなったのは己の口先も同じということか。

 このままではまたぞろ何をとち狂って口に出すか分かったものでは。

 

「……その為に飲ませてんのよ」

「は……?」

「雨足、弱まりそうにないね」

「……はい、そのようで」

「じゃあさ、酔ってんならさ……うちで雨宿りしてかない?」

 

 今更に雨音の強さに気付く。今の今まで忘失していたけたたましい地面の連打。

 熱の篭った瞳。熱の浮いた頬。酒精がそうさせるのか。それとも別の要因か。

 提灯の淡い光の中で、彼女はひどく艶やかだった。

 

「……ありがとうございます。ですが、その必要はありません」

「……日も暮れてきた。雨の夜道は危険だし、一晩明かしてからの方が安全だと思う。それでも?」

「はい、それでも」

 

 至極正しい忠告を、しかし拒む。事もあろうに、その危険な夜道を護衛させようとしている彼女に対して。

 身の程を弁えぬ物言いであった。

 けれど。

 

「己なぞの帰りを、待ってくださる方がいますから」

「……………………そっか」

 

 重い、重い沈黙の後に、藤原さんはそれだけ口にした。

 代金を支払い席を立つ。

 

「行こう」

「はい」

 

 先程と同様に少女が道の先を歩く。己はそれに付いていく。

 先程と違うのは、傘越しに見る彼女の背中が、何故だか無性に寂しげで、雨までもが重みを増したこと。

 滲む帰路を行く…………その最中。

 不意に、頭上を仰いでいた。それは予感であったかもしれない。ただ何かの気配を覚えたのやもしれない。あるいは己のあまりの無思慮に仰天して。

 あるいは――――その視線が針となって、この身を刺し貫いたから。

 天高く真っ直ぐに伸びた大杉の、その頂に。

 佇む紅い姿を見た。

 鮮やかな紅、そして夜闇を退ける純白。華やかな巫女装束。

 そうして、彼女が見ていた。

 じっと、夜空より深い黒曜の瞳が片時とて離れず、こちらを見ていた。

 

「――――」

 

 これは夢だ。今度こそは明晰に自覚する。

 あたかも記憶の再現であるかのように流れゆく映像は、しかし現実に起きた出来事とはやや異なっている。

 雨の帰路、屋台の赤提灯、夕立と蛇の目、父のこと、母のこと、藤原さんとの酒宴、彼女の……寂しげな小さな背中。確かにそれらは紛れもない己の実体験であった。しかしてそれらは一連のストーリーではない。それぞれが個別に起こり、また時系列すら前後している。

 夢は記憶を無作為に抽出し貼り合わせた謂わば切り絵である。意味などない。少なくとも、異能持たぬ我が身が見る夢には、何の示唆も予兆もありはしない……筈である。

 兆しなど、なかった。

 この日この時、博麗霊夢がこの場に居合わせたなどという事実はない。夢特有の、記憶の混淆が起こしたこれは妄想の光景である。

 だから、その瞳の色にも意味はない。

 瞳に宿った――――憎悪の漆黒。

 

 おのれ、おのれおのれおのれ

 ゆるさないゆるすものか

 わたさないわたさないわたさないわたさないわたさないわたさない

 

 針のように、剣のように鋭く研がれた視線は、しかしどうやら己を射貫きながらもこの肉体を素通りしていた。ゆるさぬと静かな絶叫を刻む情念が真に襲うのは、彼女の燃え盛る憎しみに晒されているのは……あろうことか藤原さんだった。

 何故。疑問が脳内を駆け巡る。彼女らは、己がこの地を訪れるより以前から交流があったという。馴染みの旧さで言えば己など比べるべくもない。それなのに、何故。

 何故。

 俺は繰り返す。鈍愚らしい不敏さで何一つ気付けぬまま。

 分かり切っていたことだ。俺にそんな性能は無いのだと。備わっていないのではなく、育むことを怠ったのだ。感じ、考え、受け入れ、我が心身の一部と為す。

 心の育成とは外部からの干渉と内部からの反応、即ちその繰り返しに他なるまい。優しく暖かな触れ合いばかりでなく、痛みを伴う傷すら、その糧。

 俺は逃げた。

 人として当たり前の行為から。

 怖れから、悲しみから、寂しさから。全て受け止めず、知らぬふりをして、目を背けて。

 嫌だ嫌だと泣き喚いている。声も出さず身を縮め、心を石に変えて。

 孤独という一事実を、自身の傍に置き捨てたまま。

 故に、これはその()()なのだろう。

 

 美しい人だった。幾度目かも忘れてその思いは耽り、底を知らず深まるばかり。

 博麗霊夢という少女の在り方に、どうしようとてもなく心惹かれる。

 純粋な憧れ……そこからは遥かに程遠い、醜い感情を以て。

 俺は、彼女に。

 彼女に――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 板張りの、見知った天井を仰いでいる。

 つい昨日も梁に積もった埃を払塵(はたき)で落としたのだ。天井の細かな染みにすら見覚えがある。

 博麗神社には社とは別に住居の建屋が併設されている。当然と言えば当然だが。ここはそんな家宅の客間、それも今現在は己に宛がわれている一室であった。

 布団に寝かされていたようだ。

 

「……」

 

 掛け布団を退けて身を起こす。

 寝覚めは良好。微睡の名残すらない。意識は至極はっきりとしていた。

 裏腹に、判然としないのは記憶。経緯。

 己はいつ寝床に入ったのだ。障子越しに見える外光の明るさから今が睡眠を取る時刻としては甚だ非常識であることを窺える。

 覚えているのは。

 

「!」

 

 跳ね起き、居間へと向かう。

 いつの間にか、身に帯びていたのは浴衣であった。

 彼女が着替えさせてくれたのだろうか。

 彼女が……。

 記憶には、彼女の笑み。そして、己の額に触れる白魚のような細い彼女の指。

 その冷えた感触を最後に我が意識は暗転している。

 

「何故……」

 

 また繰り返す。無知な阿呆同然に。

 真実そうだ。己は無恥なる愚物に他ならない。

 縁側を巡り、居間に辿り着く。障子戸を開け放った先に、しかし少女の姿はない。

 次は神社の境内を目指す。別段、何か閃くものがあった訳ではないが。

 果たして、彼女はそこに居た。

 大棟の拝殿と朱の鳥居が見下ろす白い石畳の境内、その只中で。

 

「……」

 

 紅白の鮮やかな巫女姿が秋晴れの下で踊っている。

 舞っているのだ。現実に。その軽やかさを表した比喩表現などではなく。

 一歩、また一歩。足を踏み変え、くるりと転身し、また一歩を踏む。手にした白木の大幣で地を払い、天を払う。

 それは文化芸能的な舞踊ではなかった。

 神楽。神への奉納品(ささげもの)。あるいは神威の体現儀式。

 神道はおろか、あらゆる修道に造詣を持たぬ己には、その舞が顕すものなど理解できなかった。

 ただ感じ入るものはある。蒙昧な男は、ただただ舞の美しさに、荘厳なる有様に慄く。

 また、大幣が天地を払う。これで五度五ヶ所。そうして、少女はふわりと風のように浮き上がり移動した。彼女が飛翔能力を有していることは周知の事実。

 ふと、それを見て取る。まったく偶然の気付きであったが。

 少女が佇む位置。それは丁度、大幣が触れた五ヶ所の、中心に相当していた。

 

「はっ……!」

 

 一喝が大気を叩く。

 少女は白木の柄で石畳を打った。

 その瞬間。

 

「!?」

 

 境内に、突如として光が湧き上がる。赤い閃光。火よりもなお紅い光が線として地を奔る。

 それが形作ったのは星。巨大な紅の五芒星。

 巨大と、内心に驚愕した矢先、その光はさらに拡大し、肥大した。境内を越え、社を過ぎ去り、本殿と住居の建屋すら置き捨てて、光は容易く己の視界の遥か外へ行ってしまった。

 だが消え去った訳ではない。淡い紅の残光が今もって周囲を照らしている。

 五芒星は博麗神社はおろか、この神社が居を構える山を覆ったのだ。

 拡大を極めてなおその光は弱まるどころかさらに強まり、山を焼き尽くさんばかりに烈しさを増していく。

 これはなんだ。

 これはなんだ。

 これはなんなのだ。

 これは始まりなのか? それとも、何かが終わろうしているのか。

 光の中に全てが没する。山も神社も己の身体も。

 博麗さんは。

 かの少女はどこだ。

 湖に沈んだ羽虫めいて為す術なく、藻掻くようにして手を伸ばす。

 守るのだ。この身を潰してでも。命に代えても。あの子だけは。絶対に。

 惑乱の中で見当違いな使命感が暴走する。

 伸ばした手は届かない。少女はどこまでも遠い。鈍愚に掴めるものはない。

 ない。

 なにもかも、消えて失せ。

 

「つかまえた」

 

 その手を取られる。光の中から、光より眩い笑みが己を照らす。

 気付けば博麗霊夢はそこに、我が目前に在った。美しい顔に美しい微笑を湛えて。

 

「もう、大丈夫」

 

 それは救いの御手のようでもあった。

 

「もうどこへも行かせない」

 

 それは喰らい付いた龍の(あぎと)のように、あらゆる終焉(おわり)を想起させた。

 

「ずっと……ずっと一緒だよ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 そしてそれは――――ただの、泣きじゃくる迷い子だった。

 光が徐々に弱まり、霞のように五芒星は消失する。

 残されたのは俺と彼女。二人だけだった。

 二人、だけに。

 

 

 

 

 

 



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解(了)

※原作キャラに対する性的描写(R15相当)が含まれます。ご留意くだされば幸い。





「執着って感覚が私には解らなかった。何かひとつに心を縛られる。そのひとつだけを求めて、縋って、自分だけのものにしたいなんて、下らないと思った。独占(わたしだけのもの)っていうものが私にはなかった。うん、だから、その……えっと、ね……あんたが初めて。『欲しい』も『独り占め』も、あんたが最初で、あんただけ、そして……きっとあんたが最後。燻りはあったの。そう、出会ったときから。知らない感情だった。居ても立ってもいられないような、くすぐったいような。あんたと暮らして、同じ時間を過ごすことが、なんだか堪らなかった。平静でいられなくて、なんでもない小さなことに一喜一憂して。でもそれが……なぜか嫌じゃない。戸惑ってはいたけど、その変化を止めようとしなかったのは私の消極的な怠慢だったのかな。それとも、願望だったのかな……どっちにしたって、私はあんたとの今を選んだ。あんたがいる家、あんたと囲むご飯、あんたが私の面倒を見てくれることが恥ずかしくて、嬉しかった。幸せ、だった……けど、それは同時に恐怖の始まりでもあった。あんたとの日々が幸せで幸せで幸せなほど、失うのが怖くなった。堪らなくおそろしかった。想像するだけで体が震えるの。胸の奥が潰れそうになる。それで理解した。ああこれが執着なんだ。依存なんだ。私はもうあんたなしじゃ生きていけなくなったんだって。だから」

「……だから、こうした、と」

「うん! ()()したの」

 

 少女は言って、晴れやかに笑った。

 居間に少女と二人、膝を突き合わせて座っている。

 縁側から望む庭木から、褪せた葉が一枚、ひらりと落ちた。

 

「山頂から麓まで、山ごと空間を閉じて時間を封じたから、もう誰も入って来れない。萃香の霞も、紫の目でも届かない。ここは狭間の一番底だから」

 

 それはあたかも夏休みの課題である自由工作の出来栄えを誇るような純真さだった。

 

「二人っきりだよ」

 

 そしてまた、今度は蕩けるように笑う。取って置きのサプライズを。贈り物を差し出すかの。

 

「……」

 

 訊ねるべきことがある筈だった。それこそ山のように。

 眼前の少女の、一息に発した言葉の数々。満足に理解しているとは言い難い。いや、恥を捨てて言えば、己の脳髄の理解能力の遥か外側、地平彼方を飛翔した事柄であると断言できる。

 それでもどうにか散乱する事象から事実のみを抜き出すならば、現在ここ博麗神社は外界と隔絶されている。

 空間を閉じた、という。壁か膜か、イメージを働かせるなら何かしらの遮蔽物で土地全体に覆いをしたということだろうか。

 時間を封じた……そこに至ってはもはや想像することも困難だった。字義から類推したところで、それが到底正解とも思えなかった。

 

「……神社を出るな、そう仰いましたね」

「うん」

「つまり、この措置は、その為に……」

「そう。あんたと……」

 

 ふと恥じらうように彼女の頬が仄かに赤らむ。一度逸らされた目が、またこちらを捉える。

 伏し目がちに、少女は言った。

 

「あんたと私だけの世界が欲しくなったの。誰の邪魔も入らない。誰もあんたを奪えない。そういう場所」

「奪う、など。誰がそのような……」

「妹紅、慧音、幽香、阿求、聖、咲夜、棒手振りの娘、酒屋の女中、茶屋の店員、寺子屋の年長。ここ三月の内に、あんたに会いに来た面子。違う?」

「……は?」

 

 反問のような体裁であったが、それはただの間の抜けた呻き声だった。

 彼女が今、指折り数え上げた名前は、確かにごく最近対面する機会のあった人々である。彼女の言に、何の間違いもありはしない。

 間違いのないことがおかしかったのだ。

 

「いつ」

「だから、勘だってば」

「……………………」

 

 いくらなんでも、と。言い募ることさえ出来ない。

 そうなのだろう。彼女の言に嘘はない。まるで見てきたかのような精確さで、彼女は己の動向を完璧に把握していた。

 しかし……しかし堪えきれない反駁というものがある。

 

「確かに、御縁あって面識の叶った方々です。御世話をお掛けし、少なくない御厚意も賜りました。ですが、それ以上のものもまたないのです」

「今は、ね」

 

 またしても、両瞳に虚穴が空く。しかしそれが、激情のみが生んだ混濁の色でないことを知った。

 不安だと、おそろしいと、少女は己に全霊で訴えている。

 ならば、否、であればこそ。

 

「……博麗さん。貴女が自分を……必要と、自分などと過ごす日々を幸福だと、そう仰ってくださること、本当に嬉しく思います」

「! よかった……」

 

 表情に安堵は満ち、瞳には喜びの色が滲む。

 

「ですが」

 

 それが曇ることを覚悟の上で、己は首を左右した。

 

「これは、承服致しかねます」

「……」

 

 石を吐く思いで発したこちらの回答に、しかして少女は即時反応を示さなかった。あるいは激昂されることもあらんやと、身構えていた肩を透かされる心地。

 少女はひどく落ち着いていた。

 

「……どうして?」

「貴女は博麗の巫女です。現世から居所を逐われた幻想達の最後の楽園、その守護者ではありませんか。貴女には、務めがある。とても重要な務めが。それを投げ出されるお心算(つもり)か」

 

 それだけはあってはならない。この地こそ人妖、神魔の理想郷。安住の地に他ならない。

 しかしそれも、彼女が、博麗の巫女がその均衡を保てばこそ成り立つのだ。彼女が居なくなれば途端にその存続は危うくなろう。

 あってはならない。

 何よりも、こんな芥のような男がその銃爪になろうなどと、まさしく悪夢である。

 

「大丈夫だよ、錨は打ってあるから」

「錨……?」

 

 朗らかに少女は言う。

 

「今、幻想郷は固定されてる。この神社を使ってね」

「?? それは、一体」

「うーんとね。現世は謂わば大きな湖なの。そして幻想郷はその上を漂う泡。いつ漣に飲まれるかもわからない儚い場所。その泡を保護してるのが博麗大結界。まあ、泡が風船になる程度だけど」

 

 唇に人差し指を添えて虚空を見る。言葉通りの光景を頭の内に思い描いているのかもしれない。

 指が宙を弾く。湖に浮かんだ風船を爪弾いたのか。

 この世界そのものを。

 

「幻想を否定する現実が波になって襲ってくる。幻想郷はただそれに耐えるだけだった。ゆらゆら押し流されながら、現世と幽世の間をぷかぷか頼りなく浮いてる。今までは、ね? でも今はもう違う」

 

 指先が畳の目に這わされた。当然ながら指し示されているのは畳でも床板でもないのだろう。

 

「博麗神社、もっと言うとこの神社が建立してる山を()()にしたの。風船の紐の先に結わえるようにして。だから今、幻想郷は嘗てないほど安定している。たとえ一つ二つ異変が起きたとしても、大結界が揺らぐことだけはない」

「…………」

「ふふ、心配事は消えた?」

 

 少女は小首を傾げる。余裕すら浮かんだ笑みで。

 そんな彼女に比して己の精神は平静から益々に遠ざかっていく。

 

「し、しかし……しかし! 残された方々は!? 幻想郷には、貴女を慕う多くの方々がおられる!」

「ふーん、そんな奇矯なのがいたかしら?」

「はい、間違いなく」

 

 断言する。

 この地には博麗霊夢を慕う、否、愛する人々がいる。それは人間であり、妖怪であり、悪魔であり、神にさえ、確実に、深く深く彼女は愛されている。

 彼女のその、孤高にして空なる在り方に惹かれた者は、何も己だけではないのだ。己のみがその魅力に気付けたなどという妄想こそ思い上がりも甚だしい。

 

「彼ら、彼女らの想い。親愛を絶ってしまわれるなど、あってはならぬことです」

「どうして?」

「――は? ど、どう、とは」

「どうしてダメなの?」

 

 ひどく朴訥として少女は問うた。それはさながら幼児の口ぶり。大人が咄嗟の答えに窮する、純真に過ぎる疑問の発露。

 叡哲から遠く対極に立つ俺は、呆然と返す言葉を失くした。

 

「もう、要らない……師も、腐れ縁も、戯れの友も。あんただけでいい。あんただけが、私の“欲しい”だから。あんただけが私を……愛してくれるから」

「違う」

「何が違うの?」

「……違うのです、博麗さん」

 

 違う、とまた繰り返す。要領を得なかった。酔漢の戯言に近しい何かだった。

 けれど少女は柔く笑み、ゆったりとしてその続きを待っていた。慈母の抱擁を思わせる。ああそれこそ永遠にでも、待ってくれるに違いない。

 故に否定せねばならない。彼女の、間違い。勘違いを。

 

「自分は……俺には、貴女の執心を受ける資格などない。俺は、俺は貴女を……貴女のことを……」

「……」

 

 先の反駁など比較にもならぬ躊躇。その一言を口にするのが恐ろしくて堪らない。己の醜悪さを、この少女に知られることが、ただ恥ずかしかった。身震いする。震えがいずれ肉体を粉にしてしまうのではと愚昧な想像が浮かぶほど。

 ――――なればこそ。

 だからこそ言おう。そうすれば、彼女は屹度思い直す。この男がそのような想いを寄せるに値しない卑小な人間なのだと、真に叡哲な彼女ならば理解できる。今まで己が己自身に施していた欺瞞を看破し、齎された失望がその正気を取り戻す。そしてあるべき正しい嫌悪を、この身に呉れることだろう。

 

「俺は貴女を――――愛してなどいない」

「……」

 

 架空の石は食道を掻き毟り、遂に血反吐が喉を破裂させる……無論、幻覚である。そのあまりの怖気が、有りもしない愚想を呼んだのだ。

 しかし現実に、舌には鉄錆の味が広まっていた。どうやら無意識に頬の裏側を噛み切っていたらしい。

 皮肉を噛み潰し、言を紡ぐ。あるいは血反吐よりも汚らわしいそれを。

 

「俺は、貴女に、同情をしたのです」

 

 そう。それこそ己が彼女に、博麗霊夢に出会い、最初に抱いた感情。

 

「俺は貴女を憐れんだ。孤高であると同時に、どうしようもなく孤独な貴女に、共感し、同情を抱き……ああこの少女はなんて可哀想な人だろうと憐れんだのです!」

 

 楽園の巫女。泡沫のような幻想と津波のような現実を采配する均衡の女神(ユースティティア)

 凶悪な妖怪を、悪鬼を、荒御霊すら鎮め、退ける超人。それが博麗霊夢だった。条理を超えた高きところに坐す人だった。

 けれど。けれど同時に、彼女は……どうしようもなく孤独な人だった。高みに在るが故に? いや、現実はもう少しだけ悲愴であった。

 少女には家族がなかった。友は有ったが、友“人”と呼べる人間は殆どなかった。

 同じ種族である筈の人間達、幻想郷では格段に数も少ない彼ら彼女らは、一様に博麗の巫女を畏れていた。あるいは、彼ら彼女らにとっての脅威である妖怪と同一視する嫌いさえ見せて。その脅威から人間を護っているのは誰あろうかの少女であるにもかかわらず。

 山の頂に建つ古めかしい神社の一室で、独り座する少女の姿。

 誰とも交わらず、親しまず、何にも執着しないその生き様はとても美しい。優雅であり、風雅である。なるほど感嘆の吐息を禁じ得ない。

 ――――しかしその様は、どこまでもうら寂しかった。

 彼女がもっと、非人間的な、尋常の世界などに興味を持たない超然とした人であったなら、こんな感想は抱かなかったろう。浮世を捨てた仙人の有様をして、清貧と呼ばわりこそすれ貧婁(ひんる)とは看做さぬように。

 だが現実はどうだ。実体の彼女は……ただの少女だった。日常の些末事に一喜一憂し、家の灯に安堵を浮かべ、暖かな夕餉に心を綻ばせる。ただの、人だった。

 己と同じ、孤独という虚穴を胸に抱えた人――――

 

「クフッ、ハハハ、ハハハハハハッ、そんな願望を抱いたのです。貴女が、孤独で、可哀想な人であって欲しいと、俺は願ったのです! 俺と同じっ! 同じ……」

 

 同病相憐れむ。

 同じ痛みと寂寥と孤独、それを持つ誰かを己は求めた。現世での己の人生、その先に横たわる独りの人生が、あまりにも恐ろしくて、辛くて、惨めだったから。だから、現実を否定した。目を背け、逃げ込んだ。この幻想郷へ。

 そして、見付けてしまった。この少女を。

 乾いた笑声が漏れ出てくる。自己嫌悪が極まり、精神が()()したのやもしれない。もしくは何処かしらの理性(ネジ)が飛んだのやもしれない。

 

「……博麗さん、貴女の目の前にいる男とはそういう者です。自己の不幸を呪い、同等の不幸なる誰かの存在を願い、憐れみ、また憐れまれたいと(こいねが)う。そんな、ただの卑劣漢です」

「……」

「断じて、貴女の好意を受ける資格などない。唾棄すべき人間です」

「…………」

 

 静かな眼差しを彼女はこちらに注ぐ。

 身の置き所がなかった。今すぐにでも消え去りたかった。生きていることが無上なる恥であった。

 それでも、その視線を見返す。傲岸不遜に、厚顔無恥に、居直り開き直る。今この時この場だけは、それが正しい有様であるから。

 黒々と深い色をした瞳は、風のない湖面と同様の静謐を湛えている。

 ああ、理解してくれたのだ、この男の醜悪さを。彼女の聡明さあらばそれこそ自然。少しだけ時間は掛かってしまったが、全ては己の浅ましき妄念が招いたこと――――

 

「知ってたよ」

「…………………………え」

 

 間抜けに一音、そう口から零れて落ちた。

 目の前で、少女の顔が微笑で彩られていく。

 

「知ってたの。あんたが私に何を向けてるか。何を想ってたか。私が何を、望まれてるのか」

「――――」

「『何故』?」

 

 彼女は先んじて、己が口にしようとした文言を形にした。

 まあ実際のところ己はただぱくぱくと魚のように口唇を開閉していただけだが。それ以外に出来ることがなかったのだ。

 醜態を晒す己を、少女は依然優しげに見守って。

 

「嬉しかったから。憐れんでくれるのが。可哀想な子だって、優しくしてくれるのが。それが、私の望みだったから。同じ痛みに病んでる人と同じ痛みを労りあって、慰め合って、患ったところを舐め合うのが……そしてあんたは心から、全身全霊で同情してくれた! 辛かったね、苦しかったね、寂しかったねって!」

「……」

「それがどうしようもなく、本当に……嬉しかったぁ……!」

 

 語尾が滲む。その語気と同様に、少女の細い肩が震えている。目尻には珠玉のような涙の光が浮いていた。

 それを厭うように少女は俯き、膝の上で組んだ手の甲を見詰める。

 

「……私は博麗の巫女。それ以外の生き方は知らないし、知る必要もなかった。疑問すら持たなかったわ。迷いもなかった。誰の指図も受けない。何ものにも縛られない。空を翔ぶようにただ在るがままに在る。自由だった……でも同じくらい、空虚だった」

 

 面差しに陰が射す。闇と、言い換えて差し支えないほど、穿たれた無明は底が見えない。

 少女は苦笑していた。

 

「気付いてなかっただけなの。それを感じる為の器官をずっと眠らせてたの。孤独と自由をごちゃ混ぜにして、自分の胸に空いた虚しさを無いものみたいに扱ってきた……あんたが気付かせてくれた」

「……ち、違う」

「私はこんなに痛くて、苦しくて、寂しかったんだって。わかってくれるのはあんただけ。私と同じ(ところ)を病んだ、あんただけ」

「だ、駄目だっ!」

 

 悲鳴が聞こえる。慌てふためき狼狽えた震え声。今にも指を差して嘲笑いたくなる滑稽さだ。

 この情けない声の主は一体誰だ。この、愚か者は。

 それは俺だった。これは俺の声だった。

 俺は、幼児のように嫌々と首を振った。己自身にしてからが何を厭うているのか半分と理解せぬまま。

 

「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ、駄目だ駄目だ、駄目だ。それは、それは、それは駄目だ」

「ダメなんかじゃない」

「あってはならぬことだ!! 貴女が、俺如きの所為でっ!!」

「あんたのお蔭」

 

 そっと身を乗り出して、少女の微笑が近く寄る。

 反して己は身を仰け反り、そこから逃れた。

 美しく(かんばせ)を彩っていたものは安らぎだった。悦びだった。香り立つような幸福だった。己が望んで止まなかった博麗霊夢の幸福、安寧の表情が、それが今眼前にある。

 考え得る限り、最低最悪の方途を辿って。

 その笑顔を齎したのは、純正の善意からは程遠い、卑しく醜く邪なる我が身の偽善、独善だった。俺の欲望だった。

 それが、少女の在り方に決定的な歪みを生んだ。

 

「俺、が……?」

 

 博麗霊夢を、病に()けたのだ。

 不治の死病、名を孤独。独りではもはや生きられない。また、同病の罹患者を巻き添えにその生と有様を変質させる。

 楽園の巫女は自ら幻想郷(エデン)を捨てようとしている。美しい理想郷を過去に、この小さな箱庭の今へ全てを封じ込めようとしている。

 

「一緒に、いて」

 

 声音を震わせているのは何も己ばかりではない。

 少女とておそろしいのだ。その瞳の奥には、狂おしいほどの情熱と同じほどに強く、不安が渦を巻いている。己に拒絶されるのではないか、そんな恐怖を押し殺して、少女はその一言を口にしたのだ。

 切なる願い。あまりにも細やかな願い。そのいじらしさは容易くこの胸を潰した。罪悪の念は鋭く喉笛を射貫き、正常な呼吸を阻害する。

 ほんの一言でいい。ほんの一言、(うん)と口にするだけで目の前の少女の安堵の笑顔を見ることが出来る。いや言葉すらも不要。首を縦に振るだけでもいい。顎を数寸引くだけで、この少女の喜ぶ顔が見られる。それはなんて素晴らしいことだろう。この身に実現可能な最上至上の善行があるとすれば正しくそれだ。それ以外には無い。

 肯と、応えれば、彼女の幸せを――――あらゆる可能性を剥奪することになる。

 

「――――どうか許してください。どうか……どうか……」

 

 だから、断じて、出来ない。

 両手と両膝を揃え、頭を垂れる。少女の無垢な瞳から逃げ去る。

 この一事実は重過ぎる。楽園から巫女を奪い取るなど、この身には、その罪はあまりにも、重く、深い。両肩を圧し潰し背骨を粉砕し魂を破砕してなお余る。

 なにより、少女の、手にする筈だった数多の幸福を摘み取ってしまうことが。

 俺には、出来ない。

 彼女の自由を奪うことなど出来ない。その多様性に満ちた幸福の道を塞いでなるものか。そして、いつまでも、その瞳に幻想郷の未来を映し続けて欲しい。

 だから。

 俺に、出来ることは。

 

「……貴女の御多幸を、心の底よりお祈りしております」

 

 それ以外に、もはや望むものなどない。

 

「博麗さん、貴女は、貴女に相応しい明日を生きてください」

「!」

 

 その場を立ち退く。

 決意、というほどの気負いもなかった。ただそれ以外の選択肢を俺は俺自身に許せなかった。

 だから俺は、俺に相応しい末路を辿ろうと思う。

 方法設定――差し当たり舌を噛み切ることにした。

 現在己は無手。刃物か鈍器に類する物があればその使用も考慮の内であったが無いものは仕方がない。

 目的設定――自害。

 逃避。責任の放棄。あるいは妨害工作とも表現できる。少女の、一つの願いの成就を、否定するのだから。

 行動の端緒は実に衝動的であったが、頭は意外なほどに冴えている。思考に淀みはなく、目的達成の為の必要行動を瞬時に発想した。

 舌を噛んでの自害は、現実的にいって実現困難である。あくまでフィクションにおいて展開上の演出として用いられることの多い自殺方法であり、実例は過度に少ない。

 しかし、絶無(ゼロ)ではなかった。そして絶無でないなら不可能でもない。

 舌の切断から考えられる死因。その一つが、切断された舌の筋肉が激しい痛みによって痙攣を起こし、喉の奥、延いては気道を塞ぐ為に起こる呼吸困難であり、窒息であるという。

 喉を異物で詰める。実行は容易と言えた。食料品である餅でも蒟蒻でも人は窒息死できるのだから。

 容易ならぬのはやはり、切断工程であろう。

 繊維の塊である舌筋を噛み切る為に相応の咬合力を必要とするのは謂わずもがなであるが。なによりも、神経の束である舌を噛み千切る際に走る激痛は肉体に強い防御反応を起こさせるだろう。

 凡愚並の精神力しか持たぬ己では、肉体の本能を捩じ伏せることなど能うまい。

 工夫が要る。

 なにも大した工夫ではない。(すこぶ)る簡単だ。

 膝立ちになり、上下の歯で舌を挟み込み、そこへそのまま顎を打ち付ければいい。

 紙束を裁断器で押し切るようにざくり、と。

 いや、それこそ胡桃割り人形の要領である。

 以上要項。

 実行に一秒を数えず。

 

「さようなら」

 

 無責任に、無思慮に、卑劣に、醜悪に、独善的に、全てから。

 少女から、俺は逃げだす――――。

 ぎちりと、歯が舌の表層と裏面を抉る。あとは膝蓋に顎を落とすのみ。落とす、のみ。

 

「ッッ……!?」

 

 その、一挙動が、できなかった。

 瞬きはしなかった。視線は片時も離さなかった。にもかかわらず、俺は刹那、少女の姿を見失い。

 気付けば彼女は眼前に在った。

 黒い宝珠のような瞳が、視界の三分の一ばかりを占有するほど。視界一杯に、少女の美しい顔がある。

 今にも鼻先が触れそうなほど。今にも、唇が触れ合いそうなほど。その、桜色の唇が。

 開かれたそれが、己の口唇を覆っていた。

 

「んんっ!?」

「ん……」

 

 いっそ食らい付かんばかりに、少女の(あぎと)が己のそれを咥える。そして、彼女の暴挙はそれだけに留まらなかった。

 ぬらりと、上顎と下顎、歯と歯の隙間から滑り込むようにして侵入してくるものがある。彼女の舌だった。熱く濡れたそれが、己の口腔内を侵略した。

 

「ん、ぐっ、んん゛!?」

「っ、ぢゅ……ちゅる……っ……んっ……」

 

 その時点で舌を噛み千切るという試みは不可能になった。

 ならばと後ろへ逃れようとする――己の動きを即座に察知して、彼女はこちらの腕に自身の腕を絡めることで阻止した。さらに空いた掌を重ね、指の一本一本を強く握り合わせる。絶対に離さない。そんな意思を示すかのように。

 口内は、蹂躙の限りを尽くされた。

 絡め、巻かれ、なぞられ。時に上顎の薄皮を、舌の裏側の柔肉を優しく抉られた。

 

「ぐ、ぅ……」

「んぁ」

 

 そうしてとりわけ丹念に、執拗に、己自身が付けた傷を(ねぶ)られる。労わるようでもあり、責めるようでもあった。

 溢れ出る血を舐め取り、同じほどに溢れ出る唾液までも啜られる。

 

「じゅるる」

 

 下品な音色が居間に響いた。毎食を共にする場所だった。ここは少女の綻んだ顔を見ることができる部屋、細やかで、暖かな食卓。大切な空間。大切な……それを、淫靡な音色が凌辱した。

 触れ合うほどの距離にあるその瞳の色を直視できない。けれど目を背けることすらできない。だからとて目を瞑れば、抗おうとする意志を根こそぎ溶かされるだろう。ほんの一滴とて残りはすまい。

 己は見た。ただ見詰め返すことしかできなかった。

 濡れて蕩ける女の眼、そこに宿る艶熱が、この身の骨の髄までも()()()()()しまうのを自覚しながら。

 永遠にも思える数分間が過ぎ、ようやく占領下にあった口腔が明け渡される。

 唇との間に、赤い涎が糸の橋を渡していた。

 

「ダメ。絶対に許さない」

 

 未だ吐息のかかる間合い。少女は艶然と笑みを浮かべて言った。

 

「好きっ、大好き……!」

 

 鉄錆に交じって広まる甘露。彼女の唾液の名残も尽きぬ内に、また口付けられる。今度はほんの触れ合うばかりの。

 それこそが止め。致死の一刺し。殺しの接吻。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一ヶ月。

 己と彼女が、空間的孤島と化したこの博麗神社で暮らし始め、早それだけ経とうとしている。

 状況の異常さに比して、生活は驚くほど穏やかだった。代わり映えもない静かな日々。あるいは理想の安寧な日々。

 当初、当然の懸念であった食糧や燃料の確保について、彼女は事も無げに。

 

「言ったでしょ。時間を封じたって。使っても食べても燃やしても壊しても、夜に眠って朝目が覚めたら全部元に戻るわ」

「……」

「ふふっ、びっくりした?」

 

 悪戯の成功を喜ぶ幼子めいて、少女の笑顔は愛らしかった。

 庭先で、朽ち葉が一片、落ちる。

 同じ枝先から、同じ軌跡を描いて、同じ場所へ、同じ時刻に。

 ここ一ヶ月間目の当たりにしている。それは全く同様の光景。

 

 

 

 

 

 

 少女曰く、時を封じたというこの箱庭であっても、昇った日は沈み、月もまた同じ軌跡から(まろ)び出てくる。ただ、この一月の間、夜毎に浮かんだのは全て満月だった。

 

「っ……っ……」

 

 真円の蒼月、障子越しに差し込むビロードのような月光は比喩的表現を排してなお冴え冴えとした蒼。あたかも海中の様相の寝屋、そこには今、実際に水音が響き渡っていた。

 軽く、吸い付くような口付けの雨が降る。

 次に唇をそっと舌先がなぞった。自身のものではない、自身のそれよりずっと滑らかで、自身のそれよりも幾分小さな。

 上蓋、下蓋を、紅を差すような丁寧さで撫でられること幾度。

 

「ふっ、ん……」

 

 我慢できぬとばかり、舌鋒が唇を割り裂いて這入り込んでくる。

 唇の内側と歯列の合間を奔り、歯茎に至るまで余さずほじくり返す。自然、口の端から唾液が滴り顎にまで伝うが、彼女は一向気に留める素振りさえない。

 遂に、内部へ、口腔へと舌は進撃してきた。

 それは、まるきり獲物に喰らいつく蛇の挙動であった。

 

「ぁん、ぁ、ぇあ、ちぅ」

 

 彼女の舌が己のそれに絡み付き、丹念に舐め解す。味わうというより貪るように。

 一点に神経の集中を覚えた。舌などというものは元々からして敏感な部位。そこに極度の刺激が齎されれば他が疎かになるのは自然と言えた。

 自失したのはしかし、己ではない。熱に浮かされたように色を滲ませる少女の瞳。肌襦袢を纏った細い身体がこちらにしな垂れかかる。

 唇は片時とて離されることはなかったが。

 上体を胸板で支え、崩れかかる腰を腕で支える。するとなお一層に、彼女はこちらへと体重を預けた。

 

「ぷぁっ……はっ、は……はぁ、ふぅ……」

「……」

 

 ようやく、口唇が自由を取り戻す。一心地、そんな気色で。

 荒い息遣いは二人分。隠しようもない昂ぶった呼気。

 少女の上気した相貌に笑みが浮かんだ。

 

「気持ちよかった?」

「……」

「んふふふ」

 

 この場合の無言が千言に優ることは、さしもの不敏な己といえど理解できる。

 理解していながら、何も言い返せない。ただただ恥を忍んだ。

 

「……日課というなら、これで足りましょう」

「そう? そっか。じゃあいいよ。傷ももうないしね。ふふっ、ふふふ」

「……」

 

 唇を貪るような口付けの嵐。これをして日課と、最初に呼んだのは勿論のこと己ではない。

 己の自傷を確かめる為だと言って、一ヶ月間毎日毎夜欠かすことなくこの行為は続いている。

 しかし肝心の傷は、舌をどんなに動かしてみても確認することは出来ない。

 単純に治癒したのだろう……などと能天気な空言を吐けもせぬ。切断に至らぬまでも表層をクレーターのように抉ったのだ。湿潤な口内の傷であることを差し引いても、通常そう簡単には塞がるまい。

 しかして咬傷は、それを刻んだその翌朝には跡形残らず消え去っていた。

 それはつまり時間の巻き戻しが、土地や物体はおろか、我々生体にすら及ぶという何よりの証左であった。

 

「……どうする?」

「…………」

 

 上目遣いに少女が問う。その意図を、己は空(とぼ)けることも出来なかった。

 ()()()するのか、しないのか。彼女はそれを問うている。一種、挑発的とさえ見える。一種、殺傷力を伴う程度に蠱惑的である。

 襦袢の衿が(はだ)け、鎖骨、谷間、鳩尾と、それはもうあられもなく、露わになっている。透き通る白い肌は月光に青く染まり、この世のものではないかのようだった。

 この世のものとは思えぬほどに、美しかった。

 

「……いいえ。お休みください。夜も、随分更けて参りましたから」

「…………そ。じゃあ今夜も、勘弁してあげる」

「…………」

「でも、いつでもいいよ。我慢が利かなくなったら、その時は……ふふふ」

 

 妖しい笑みが己を撫でる。

 それが見えぬふりをして、少女の襦袢の衿を直す。手拭でその口元を清め、掛け布団を払って少女を横たえる。

 彼女は素直に、されるがまま従った。きっとそれは何をしようとも変わるまい。己が、何をしようと。

 

「っ……」

「ふふっ、辛そう」

「……」

「我慢なんてしなくていいのに。あんたのしたいようにしてくれれば、私は嬉しいよ?」

 

 床からこちらを見上げる彼女に、枕元で正座で向き合う。せめてもの抵抗の意思を示す……何の効力も、抗力も持ち得ぬそれ。

 虚勢と呼ばれるそれを、それでも己は張り続けた。この三十余日に亘って。

 そしてこれからの幾十日、幾年、幾十年。

 ……もし一度、その虚勢が敗れれば、もはや逃れられない。あとは真っ直ぐに堕ちるだけだ。溺れ、沈み、ゆっくりと溶かされる。少女の魔性を疑わぬ。彼女の持つ魔力は、己という矮小な精神を殺し尽くしてなお余る。

 故に奥歯を軋ませ、なればこそ拳を握り潰して、自我の存続に総力を掛けた。

 

「うん、そんなあんたも……好き」

「……」

 

 ――――再びの自害も、考慮の内ではあった。今更惜しむほどの命ではない。全てに優先するのは彼女の未来。それ以外にない。ないが。

 

 ……この子を独り、置いては逝けない

 

 そんな重い躊躇が心身を縛る。

 それは甘えか。それとも、覚悟の不足を欺瞞する言い訳か。

 いずれにせよ、己は今もって生きていた。

 生きて、今もって彼女の未来を剥奪し続けている。

 

「……ねぇ」

「は……」

「同情は、嫌い?」

「正しいものでは、ありません」

「誰かを憐れむことは悪いこと?」

「純然の善意には、程遠いものと考えます」

 

 この問答は、はて幾度目を数えよう。幾度も幾度も、繰り返してきた気がする。彼女が問い、己が答える。

 そしていつも、正答に届かない。平行線を辿るだけだった。

 また少女は笑み、穏やかな目で俺を見た。

 

「あんたは私を愛してない?」

「…………愛してなど、おりません」

「本当に?」

「……はい」

「んふふふふふふふ」

 

 彼女は笑う。優しく、暖かで、慈しみに満ちた、それは嘲笑だった。

 鈍愚な男のその根深い愚かさを、とてもとても愛おしげに彼女は(わら)った。

 

「同じ寂しさと、悲しさと、辛さと、痛みを、全部分かち合って、感じ合えた。同じ想いで、思い合ってる……ねぇ」

「……」

「あんたは、私を愛してない?」

 

 寝物語をねだる子供のように少女は問うた。

 俺は答えた。いつものように。

 

「――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よろしいのですか」

「いいんじゃないかしら」

「……」

「幻想郷は、嘗てない安定を迎えている。幻と実の境界は盤石、大結界に至ってはもはや神々にすら容易には貫けぬ鉄壁となった。博麗神社以外の制御を霊夢が欲しなかったことも我々には頗る好都合だったわ。さて、何か問題があるかしら?」

「……本当に、よろしいのですか。紫様」

「ふふ、貴女は良い子ね。藍」

「……」

「でも、いいのよ。あの子が心から望んだことですもの。あの子に私は、何もしてあげられなかった。ずっと何かを欲しいと、強請って欲しかったの……だからこれくらいは我が儘の内にも入らないわ」

「……はい」

「ありがとう」

「いえ……あ、いえ、一つ」

「?」

「問題が……なくも、なく」

 

 藍が道袍のゆったりとした袖口で空間を払うや、そこに瞼の形をした窓が開く。

 そこから覗いたのは、赤。

 赤、赤、赤。揺らめき広がり弾け散る。舞い踊り砕けて逆巻く、炎。

 紅蓮の炎が海となって、悉くを焼いていた。

 大気さえ貪り喰らう炎熱の地獄、あろうことかその只中で佇む者が在った。

 白銀糸の髪を振り乱し、白い肌を焦がし爛れさせながら、それら全てを意にも介さず双掌から火炎を巻き散らす人型。

 

 ――――何処だ

 

 皮が焼け、肉が焦げ、骨が炭に変わる。

 骨が生え、肉が生え、皮が生え変わる。

 焼死と再生を繰り返す人のような形をした何か。

 

 ――――何処に隠した

 

 少女の形をしたそれは阿鼻叫喚と化した世界の中心で叫んだ。

 

 ――――何処だぁ!!!

 

 頑是無い子供のように、少女は探し続けている。

 

「あらあら」

「……このままでは妖怪の山と魔法の森が焼失します」

「大丈夫でしょう。抑止力は何も博麗の巫女だけではないもの」

「ですが」

「ええ、そうね。対策は立てておきましょう。少なくとも、最悪が結実しないように」

「はい」

 

 言うや、金毛の九尾はそこから姿を消した。

 主人とは違って、彼女は実に真面目で働き者だ。

 

「にしても」

 

 扇子を広げ、口端に上った微笑を隠す。

 

「罪作りな男だこと。本当に、残酷なほど」

 

 この病は終わらない。

 皮肉な現実を、女生は心底嗤った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





ところでヤンデレに対しての最適解は心中か逆ミザリー(四肢切断ないし五感の喪失および供出)だと思う。
拙作オリ主はどっちもやってねぇけども。半端野郎が(雪車町並感)

今作はこれにて完結とさせていただきます。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。


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不死人の彼女が死人のような男にキレる話(藤原妹紅√)


妹紅×外来人の青年






 

 

 茜に燃える西空に目を(すがめ)る。薄闇の侵食が始まる夕暮れの帰路で。

 ふと、それが目に留まる。

 見知らぬ青年だった。

 農道からやや外れた林の傍に井戸が一穴掘られてある。その井戸端で大の男が一人、何かごそごそやっている。

 里の者らは大半が顔見知りだ。背中越しでも何処其処の誰ぞ程度、当たりを付けるのは造作もない。

 しかしてその背には一向、見覚えがなかった。

 興味本意に近寄ってみる。警戒の念は二分ほど。

 (けだ)し、逢魔ヶ刻に魔に行き逢うのは自然の摂理であるから。襲い掛かってきた暁には即時滅却せり、といった心備えを頭の隅に置いておく。

 幸か不幸か、その当ては外れたが。

 人間だ。里に住まう多くの彼ら彼女らと同じ。

 若い。二十の半ばか、も少し上か。しかし働き盛りのこの年恰好で見覚えがないとなれば。

 

「そこでなにしてるの」

「!」

 

 広い背中が微かに強張る。

 背後から、それも意図して足音を殺して近寄られれば然もあろう。驚きに声も上げず飛び上がりもせぬ胆力をこそ褒めるべきかもしれない。

 青年はこちらに振り向いた。

 白い開襟襯衣(シャツ)に黒い洋袴(ズボン)。だのに足元は草履。なんだかちぐはぐな装いだった。

 そうしてその顔立ちを見て取って、思わず首を傾げる。後ろ姿から二十代の後半と見立てたが、もっと若い。幼いと言ってもいいほど。

 短く刈った黒髪の下、平凡なカタチをした面相。精々が、鼻がやや高い程度だろうか。十代の後半といったところ。

 やはり、然程老けた容姿とも思えないが、どうしてか敵う齢の頃というものが分からない。大人びた、というよりも……老いた、奇妙な顔貌。

 しかし、何処かで。何時か何処かで見覚えがある。無論、知己の誰かという訳ではない。

 この印象を、何処かで感じたことが。

 

「こちらの、井戸の滑車を」

「滑車?」

「はい、修繕しておりました」

 

 青年は至極素直に問いに答えた。それもなんとも、堅く。

 外見年齢という意味では確実にこちらが年下であろうに、その口調はまるで貴人に相対する下人のようだった。

 無意識の内に片眉の端が吊り上がっていた。苦手な手合い。

 青年から視線をその後ろへ移す。

 そこには大振りな木材が幾らか地面に並べ置かれている。視線を周囲に這わせれば、井戸から少し離れたところに砕けた木っ端のような木切れが山と積まれていた。

 なるほど、あれが“元”滑車か。

 

「こんな時間から? ご苦労だね」

「ありがとうございます」

 

 労いの意味合いなど勿論一抹と含めなかった皮肉に、青年は(すこぶ)る生真面目に応じた。その場で腰を折って一礼までされる。

 口がへの字に引き曲がるのを感じた。

 こちらの不快感など知る由もないだろう青年は、今一度会釈をするとまた作業に向き戻った。

 手元を覗き見る。

 二本の太い木材は支柱だろうか。表面に寸法が書き込まれている。

 今青年は、そこに渡す梁と思しき木材に鑢掛けをしていた。

 

「里の大工にでも頼めばいいのに」

「日暮れも近いからと断られました。なにより、滑車の破損を招いたのは自分の不注意です」

「不注意、ね」

 

 元滑車の残骸を見るともなしに眺める。長く雨風に晒されていたからだろう、随所が斑模様に黒く腐っている。

 老朽化して寿命間近の滑車の、最期の使用者が偶さかこの青年だった。そんなところか。

 大工の棟梁とは顔見知りであるが、日の高い低いを理由に素人へ仕事を丸投げするような底意地の悪い親仁ではなかった筈だ。

 とすれば

 

(若衆の阿呆が、悪ふざけに無茶を振ったか)

 

 青年の手付きはそう不器用ではない。しかしだからといって大工仕事に慣れているようにも見えなかった。

 なにより、その手には白い布が巻かれていた。包帯、なんて上等なものではない。手拭を裂いて帯として用立てているだけだ。

 そして、本来は白かったのだろうそれは、今や赤黒く変色を来たしている。

 

「……悪いこと言わないから、明日にでも本職を呼びなさいな。そんな素人の手遊びじゃ、日が暮れるどころか夜が明けるよ」

「お気遣い、有り難う存じます」

 

 依然穏やかに青年は言った。こちらの忠告をある種、真っ向から拒みながらに。

 

「……そーですか。では、どうぞ御勝手に」

 

 言い置いて背を向ける。もとより帰りの途上で気紛れに道草を食っただけ。摘まんだ野草が口に合わないなら吐いて捨てるまで。

 歩き去る寸前、後ろを僅かに流し見た。

 赤橙と群青の狭間に、ぽつりと白い背中が浮かんでいた。

 

「……」

 

 それが妙に、後ろ髪を引いた。

 

 

 

 

 

 深海のような夜闇に沈む庵、明り取りの窓から一条、月明りが射した。

 見事な半月。憎らしいほどに美しい月夜だった。憎らしい、本当に、憎いほど。

 眠れぬ夜など常の事。一つ処に居を構えて床を敷く今こそが自分にとっては異常なのだ。

 囲炉裏に火も入れず行燈も灯さず、柱に背を預けたまま呆と闇間の中空を眺めている。月光の天幕には無数の塵が舞った。

 

「……」

 

 すっくと立ち上がり、後頭を掻き毟って溜息を吐く。

 ……さて、提灯は何処に仕舞ったろうか。

 

 

 

 

 

 蟲の合唱を聴きながら、竹林を出て田を渡り雑木林の方へ進む。そして。

 

「うぅわ」

 

 果たして、農道の脇の井戸端で、青年は未だそこに居た。傍には石で囲った薪が火を上げている。灯の準備も万端と。

 こちらの呻き声を聞き取った青年が振り向き、会釈を寄越す。今度こそ驚いた様子を見せて。

 

「こんばんは」

「こんばんはじゃないよ」

 

 陽が沈んでから随分と経つ。なんとなれば月すらも既に西に傾きつつある。

 

「いつまでやってんのよ」

「もう少しで組み上がります」

「んなこと聞いてんじゃ……もういいわ」

 

 薄ら呆けて物分かりの悪いことを(のたま)う。処置なしだった。ともかく、何を言おうがこの青年は手を止めはすまい。それだけははっきりと理解できた。

 道端の乾いたところを見繕って腰を下ろし、胡座を掻いて頬杖を付いた。

 

「……」

「……」

「あの、もし」

「なに」

「そこで何を為さっておられるのでしょう」

「見物」

「なるほど」

 

 言とは裏腹に納得した様子は欠片もなかった。

 

「夜も深まって参りました」

「朝の方が近そうね」

「今時分こそ闇が一等濃いと、聞いたことがあります」

「そうね。獣と蟲と、妖怪(ばけもの)共の本領よ」

 

 たとえ人里の中であっても、それは変わらない。不可侵の約定は暗黙のもの。それを解するだけの知恵を持たないケダモノには、意味などない。

 それを知らぬこの青年は、やはり。

 

「外来人」

「はい。皆さんからは、そのように呼ばわれております」

 

 こちらの独白に一々丁寧に青年は答える。

 案の定。

 外来人という者らは、どうしてこうどいつもこいつも不用心なのか。自分が知らぬだけで現世は余程に平和なのか。

 平和ボケの外来人は、またぞろボケたことを口にした。

 

「夜も深うございます」

「? さっき聞いたけど」

「はい、なればどうか、お家へお帰りください」

「……は?」

 

 頗る真面目な顔がこちらを向いた。

 

「お若い女性の、夜の一人歩きは大変危険と思われます。お早くご帰宅なさってください」

「………………」

 

 その時の心中の複雑さは近年類を見ないものだった。怒ればよいのか呆れればよいのか、もはや感心すればよいのかも分からず。

 

「ぷっ」

「?」

「ふふっ、く、ふふははははは」

「……自分は何か、頓珍漢なことを申し上げたのでしょうか?」

「あっははは、あぁ、まぁ、うん。そりゃもうすんごい珍奇。人の気も知らないでよく言うわ。くく、ふふふふ……!」

「申し訳ありません」

 

 青年は腰を上げてこちらに向き直り、深く頭を垂れた。真面目くさった態度がなお一層可笑しみを誘う。

 

「はいはい、いいからとっとと組み上げてよ。私はここで朝まで時間潰すから。ふふ、まさか見物料なんて取らないでしょ?」

「ええ、勿論」

 

 素直に頷いて、青年は作業を再開した。

 木を切る音。削る音。打つ音。真夜中の雑木林に木琴の楽が響く。時折、焚火が爆ぜて諧調を奏でる。

 半月が浮かぶばかりの、湖面のような夜空の下で聴く素朴な合奏は、悔しいかな、思いの外に……快かった。

 

 

 

 気付かない内にうつらうつらと微睡んでいたようだ。

 像を結び始めた夢に片足を踏み込んだ時、刃のような光に瞼を撫でられる。白んだ朝日はその程度の薄皮、容易く切り裂いてしまう。

 眩しさに耐え切れず、無理矢理に立ち上がる。それだけで――――体は原型を取り戻した。霞掛かっていた意識さえ明瞭に透き通る。

 

「ぁ」

 

 ふと見れば、そこには白い背中が立っていた。朝日を浴びた襯衣が光を纏ったようにぼやけて見えた。

 青年の前には、井戸。井戸穴の両端に寄り添うように支柱が屹立し、梁の中央にしっかりと滑車が吊られている。そして。

 

「……屋根なんてあったかしら」

「勢いで、つい」

 

 ぽつりと、彼は言い訳染みたことを呟いた。

 日の入りと同じほどに、日の出もまた影が色濃い。そんな暗闇に身を浸したまま、青年はこちらを振り返って。

 

「おはようございます」

「……おはよ」

「長らくお付き合いくださり、ありがとうございました」

「別に」

 

 気紛れ、暇潰し、物のついで……最後のは無理があるか。いずれにしても礼を言われる筋合いではない。

 衣嚢(ぽけっと)に両手を突っ込んで肩を竦める。

 用も済んだ。自分自身の用など何処にもありはしないが。

 

「一つ、お尋ねしてよろしいでしょうか」

「? なに」

「貴女のお名前を」

 

 彼は言って、すぐに名乗った。これでは誰何の礼節どうこうと難癖もつけられない。

 喉の奥で幾つか言い訳を考えてから……何故そんなことをする必要があるのだろうかと我に返る。

 どうしてだか。一向に理由は分からないが。どうにも。こいつに素直に名前を教えるのは癪だった。今更改まって。そう、何故今更こんな風に改まって訊ねてくるのか。

 たかが名前を口にするのが、どうしてこんなに気恥ずかしいのか。人見知りの童女(おぼこ)いガキじゃあるまいに。

 

「…………」

「御名を、頂戴できませんか?」

「………………」

「……重ね重ね御詫びいたします。不躾な物言いを」

藤原妹紅(ふじわらのもこう)

 

 ぶっきらぼうにそう告げて、屹度睨んでやる。

 刹那、青年の両目が僅かに見開かれた。出し抜けな返し、躾が成っていないのはどちらやら。気分の一つも害してくれればこちらもやり易い、が。

 

「ありがとうございます、藤原さん」

 

 日が昇り、影が引き潮のように去っていく。

 白光の中に青年の姿が現れた。だからこれも朝日の所為だ。そうに違いない。

 朝靄よりも微かなその笑みが……妙に、焼き付いて離れないのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 迷いの竹林の奥に庵を構えて幾星霜。自慢ではないがここに客が訪れることなど滅多にない。辛うじて皆無と言わぬまで。幻想郷に辿り着いてより云百年、その数は両手の指で事足りるだろう。

 これから先の幾百年とて、そう変わるまい。なにせ確実に、誰もが自分より先に逝くのだから。

 

「おはようございます」

「………………」

 

 だから玄関先で姿勢よく佇むこの青年は実に数百年ぶりの例外となるのだろう。

 

「…………えっ、なに、なんでいるの」

「上白沢さんに事情をお話ししたところ、こちらの御宅の所在を御教示くださいました」

「いやいやいやそうじゃなくて。何しに来たのよ」

「は、先日のお礼に参りました」

 

 迷いなく青年は言った。それこそ至極当然とばかりに。

 

「遅ればせながら、その節はありがとうございます。己の無知なるを見兼ねて御配慮を賜っておきながら、その場その時にすべき礼を失しました。恥ずかしく思います」

「…………」

 

 目の前に現れた青年の旋毛を無言で見返す。意図したことではなくて、本当に返す言葉が見付からなかった。要するに絶句である。なにやら馬鹿に丁寧な御礼の口上を長々と。真面目も過ぎれば胸焼けを起こすという良い例だ。

 しかしそこは藤原妹紅。永い永い人生経験が物を言う。次の瞬間には気を取り直し、この金剛石級の堅物を帰らせる返し文句を既に十通りから用意が出来ている。そこから最適と思しいものを一つ選抜し、舌に乗せて。

 

「お」

「ついてはこちらを。里の甘味処『茶虎屋』の栗羊羹です。お口に合えばよいのですが……失礼、遮りましたか」

「……お茶でも飲んでけば」

 

 舌の上で文句は転がり裏返り、想定とはおおよそ真逆の文言に変化した。

 なんたって女子は甘いものには弱いのだ。

 

 

 

 こんかんこん、炭に焼き上げる為の竹を蹴飛ばした。

 酒瓶を退けると、今度は茶碗とぶつかって甲高い悲鳴を上げた。咄嗟に手をやって検めたが、幸いに割れてはいない。

 

「あぁれ……っかしいな……この辺に置いた気が……おっ」

 

 唐櫃を開け放ってがさごそやると、ようやくに茶缶を見付けた。……何故衣類の中に紛れていたのかは定かではないが。

 蓋を開けて匂いを嗅ぐ。まあ平気だろう。

 

「あ、湯呑みどこやったっけ……」

「……」

 

 居間の隅に山と積んだ和綴じの書物をどさどさ払い除ける。

 湯呑みはないが、失くしたと思っていた白眉の筆が下に転がっていた。やったね、ついてる。

 

「じゃないや。湯呑み湯呑み……」

「…………」

 

 ……その無言の視線には気付いていた。

 居間に通されてからこっち、囲炉裏の前で行儀良く正座する青年が、火の加減を見ながらにこちらの様子を気にしている。

 まるで童児(こども)の危なっかしい動きに気が気でないとばかりの、そわそわと心配そうなあの顔。

 業腹である。

 

「……おっ、あった」

 

 湯呑みが丁度二つ、何故か格子窓の桟に並んで置いてあった。思うに、外を眺めながら茶を啜っていて、そのまま忘れたのだろう。

 

「…………」

「…………」

 

 まさかそのまま使おうと言うのではあるまいな――――視線はそのように訴えかけていた、ような気がする。

 湯呑みを水で洗い、タワシで磨く。折よく囲炉裏にかけていた土瓶が沸いたので、駄目押しに熱湯をぶっかけてやった。

 

「どうよ!」

「はい」

「……」

「……」

 

 青年が庵を訪れてより小一時間、いやそろそろ丸一時間に届いたろうか。茶を一杯淹れるのに掛かった時間がそれだった。

 

「……お噂は予々(かねがね)伺っております。主に上白沢さんから」

「何の噂よ何の」

 

 絶対にろくでもないことだけは確かだ。悪口陰口の類いではなく、お小言お説教的な意味で。

 

「何を吹き込まれたか知らないけど、お茶飲んだらさっさと帰ってよ。というか最初から不思議だったけど貴方……ここまでどうやって来たの?」

 

 迷いの竹林は名の通り、入った者を迷わせる。外に出ることも内側を自由に歩き回ることも並の人間ではまず不可能だ。

 竹林の奥深くに隠れるようにして建つこの庵を、青年が一人で探し当てたとは考え難い。

 

「イナバさんという方が、御親切に道案内を買って出てくださいまして」

「はあ? あの悪戯兎がどんな風の吹き回し……」

 

 いや、おそらく青年の気質から厄介事の臭いを嗅ぎ取ったのだろう。目的地がうちであると聞いて、それはもう嬉々として押し付けに掛かったに違いない。無駄に婉曲な嫌がらせを。

 そして、化け兎の思惑はまんまと成就する。

 誰あろう眼前の青年から、青天の霹靂で。

 

「藤原さん、本日こちらにお伺いしましたのはお詫びとお礼に加えて、他でもない上白沢さんからの御懇請を拝領してのこと。失礼ながら先程からお住いの惨じょ……ご様子を拝見させていただいておりましたが、どうやらかの御人の御懸念通り。自分も少々……いえ」

「……なにさ。今更言い淀まないでよ。男子(おのこ)ならはっきり言ったらどう?」

「汚部屋にドン引きです」

「はっきり言うなぁ!?」

 

 真面目くさった顔で酷いことを言ってくれる。事実とはいえ……事実とはいえ!

 唇を尖らせて目を逸らす。しかし逸らした目には、青年曰くの惨状なる室内が映し出された。使いっぱなしの食器、脱ぎ散らかした衣類、積み上がった書物に、酒屋を自称できそうな無数の和酒の空瓶。

 

「そんなに酷いかなぁ……」

「はい」

「ぐ、ぬ……堅固に断言しおる……!」

「故以て」

 

 青年は囲炉裏の前の茣蓙から離れ、床板に正座を改めた。両手を付き、頭を垂れる。

 私はただぽかんとしてその奇態を見ていた。

 

「本日これより、尊宅の家事一切を自分が代行させていただきます」

「――――は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 押し掛け女房とはよく言ったもの。その日からの、青年の振舞いはまさしくそれだった。

 炊事洗濯掃除、細々とした雑事諸々。御店の年季奉公というか、嫁ぎ立てほやほやの新妻というか。

 とにかくそれはもうなにくれとなく。せっせせっせと彼は働いた。

 

「……ホントに、慧音になに言われたのさ」

「生活態度があまりにもだらしない、と。何度注意しても治らぬようなので、ここは一つ刺客を立てて修正してくれようとの仰せで」

 

 確かに以前から何かと小言は多かった。

 生活態度ときたか。えらく、馴染みのない響きである。

 食べる必要も眠る必要もないこの身に、活計(たつき)についてあれやこれやと苦言を呈してくれるのは幻想入り以来後にも先にも上白沢慧音くらいなものだ。

 ――人間扱いしてくれるのは。

 

「……お節介だね、まったく」

(はばか)りながら」

「ん?」

 

 床板の雑巾がけから居直り、座の姿勢から彼は言う。ややも面を伏せ、言葉通り躊躇いがちに。

 

「御自身で赴かれず己如きを遣わされたのも、ひとえに藤原さんの、自由な御暮しを慮ってのことと愚考します。御自身の諫言が、あるいは藤原さんの御負担に繋がりはしないかと、上白沢さんは頻りに仰っていました」

「……わかってるよ、あれの心配性くらい。どれだけ旧い付き合いだと思ってんのよ」

「はっ、愚昧な差し出口を申しました。どうかお許しください」

 

 深々と辞儀して謝罪される。それがなんとも居心地悪い。ここは狭いながらも楽しい我が家なのに。

 

「慧音の心遣いはよーっく分かったからさ。貴方も適当なところで切り上げていいよ」

「そういう訳には参りません。上白沢さんの御要請に期限は設けられておりませんでしたので」

「はあ!? ま、まさか毎日来る気……?」

「いえ、七日の内二度か三度、お伺いさせていただきます。そして少なくとも、この惨憺たる有様が改善されるまでは」

「布切れ一枚歯に着せなくなったわね、貴方」

 

 こちらの嫌味に、憤慨どころか真っ直ぐ首肯で応えて、青年は居住まいを正しながらに。

 

「貴女の暮らしぶりはもはや、頑是(がんぜ)無いと表さざるを得ません」

「うっさい!」

 

 文句たらたら、いやいや文句以外に湧いてくるものなどあろうかい。

 なにせ口喧しいのが倍増したのだから。ちょっと散らかした程度でがみがみと。

 青年の参入によって、藤原妹紅の独り住まいにいよいよ以て静けさが失われたことは言うまでもない。

 ――――以前までは、たまの殺し合いを除けば植物のように動きのなかった日々に、突如波風が立った。

 血と痛みと夥しい苟且(かりそめ)の死から。

 陽の光と温かみと手触りのある生へ。

 然りとて……己にとってそれらはどちらが良いも悪いもない。

 ないのだ。どちらもこの身にとっては等価値。等しく、無価値。

 あってないようなこの命に、どうして値札が付けられよう。生きる命が素晴らしいのか? 死に逝くからこそ命は美しいのか?

 くだらぬ。

 この問答は既に飽いた。

 飽き果てて、在るように在ると決めたではないか。今までも、これからも、変わらず。不変(かわらず)に。

 だから今更こんな些少な変化に思うことはない。慧音には満足するまでやりたいようにさせよう。その程度には(ちか)しい仲だ。多少の横車、構いやしない――――

 

「……っ!?」

「どう、でしょう、お味は。合わせ味噌がお好みとのことでしたが……出汁は、霧雨商店出入りの商人の方から鰹節が手に入りましたので、それを取りました。海の無い幻想郷で海のものを食べられるのは望外の幸いです」

 

 青年の感慨深げな呟きを後目に、またも返す言葉を失くしている。

 いや、いやいやいや味噌汁一杯くらいで絆されるものか。嘗てない深味と旨味になんか脳内で至高だの究極だの至極の公私混同親子喧嘩が勃発したようなしないような気がしないでもないが、なんか今盛大に胃袋を鷲掴まれようとしている気配が強かにするけれども。

 

「揺らいでる、私の沽券……」

「は……?」

 

 くだらぬことに一喜一憂する。それはとても――――とても人がましい毎日だった。

 青年は善人だった。

 真人間、と呼び換えてもいい。

 真っ当で、普通、そういう並の、尋常の人間生活をきちんと営める人間。

 自分とは違う。

 生をありのまま受け入れ、死を信実に畏れることができる。

 生も死もペテンに過ぎないこの身とは違う。どこまでも、違う。だのに。

 

「人里の食糧事情は、喜ばしいことに安定しております。藤原さんも、三食をきちんと摂るべきです」

「いいよ私は。気が向いたらで」

「そう仰らず」

「……私の体のこと、慧音から何も聞かされてないの?」

「いえ……」

 

 明答続きだった口舌に濁りが混じる。

 それだけで、彼に慧音がどの程度語って聞かせたかは大体察しがついた。

 

「じゃあ話が早いや。そういうことだから――――」

「そうであっても」

 

 青年はこちらを見詰める。視線は真っ直ぐ、折れず、めげず、迷いなく自身を射す。

 

「食べてください。食べて欲しい。そうしてくださると……嬉しく思います」

 

 朴訥にそう言って、青年は目礼した。強引なようで、遠慮深げでもある。奇妙な、いや奇矯な振舞い。

 なんだっていうんだ。どうして。自儘に存在しているだけの自分を、何故こうも気に掛ける。構いたがる。まるで。

 

 ――――ああ

 

 そうか。慧音と同じ。

 この青年も、私を人間扱いするのか。

 

 

 

 

 

 

 青年は、うちへ家政夫として派遣される傍ら、里では大工の人足として働いているという。先日、彼が井戸滑車の修理を断られたあの大工組であった。

 あくまでも人足。現代人、外来人の素人が、建築の職人仕事など任される訳もない。荷運び雑用が、少なくとも当座の関の山となろう。

 けれど、そう悪いようにはされないだろうとも思う。

 組頭たる棟梁の親仁は頑固一徹の厳しい男だが、なんといってもあの青年もまた真面目一徹の堅物の権化である。

 骨身を惜しむ筈もなく、一を命ずれば十動こうとする。若造に有りがちな跳ねっ返った生意気さもない。黙々と働き、ひたすらに働き、身が粉になっても働いてくれようという気概で働く青年を、親仁は甚く気に入ったらしかった。

 里の普請場で青年を見掛けたことがある。

 汗水垂らして、それでも嫌な顔一つせず作業あらばそこいら中に駆け寄っていく。上機嫌な親仁に背中をバシバシ叩かれて恐縮した顔をする。意気地の悪い若衆も青年の生真面目さには毒気を抜かれたか、時には職人共が声を揃えて笑っていたりもした。

 

「……」

 

 青年は相変わらず、恐縮の体でひたすら目礼する。口に微笑の一つも浮かべやしない。

 無愛想ではあったが、誰区別なく、頑ななほどに礼節を重んじる男だった。そこに目上目下、老若男女は関わりない。

 個性の一つ、そう呼べぬでもないが。

 …………あの顔にはやはり、見覚えがあったのだ。あの、倦んだ貌には。

 飢饉の都、流行病に喘ぐ村々、戦の後の屍の原で。

 見飽きたものだった。遥か古から。人の世の常だった。人ある限り尽きぬ理だった。

 ()()()顔。親しい人、愛する人を亡くした者の、それ。あるいはその最中に、彼は居るのだろう。

 ……だからどうだと、思うでも想うのでもない。一々他人様の死に様を気に掛けていては、これまでの千年も、これからも往くだろう千年も立ち行きゃしない。

 喪に服し、その死を悼み、思い出に変える。いずれもまた自己の意思で行うこと。それしか、死別の痛みを和らげる術はないのだから。

 あるいは周囲を頼ればいい。真っ当な人間は、真っ当な人間同士で助け合う。健全だ。

 相談相手というならそれこそ慧音など打って付けだろう。親身になってくれるに違いない。慰めも励ましも、彼女のそれは真心だから。

 だからきっと、彼にも、また笑える日が来る。

 心から、笑える日が――――

 

「…………あ」

 

 朝日の白に霞むような、陰の色濃い闇に飲まれて消えそうなほど、儚い。

 微かな笑み。

 吐息するように弱弱しい笑みが……どうしてか忘れられない。

 どうしてか。

 

「はぁ…………まったく」

 

 困った話だった。

 こんな役回り、全く自分らしくない。

 

「おーい」

「はい」

 

 仕事終わり、帰宅の途についていたのだろう青年の背中を呼び止める。

 彼はこちらの姿を見て取って、僅かに驚いた様子だ。

 

「酒はいける口?」

「はい?」

 

 全く以て、らしくないことをしていた。

 

 

 

 

 

 

 少女に誘われるまま、己は赤提灯をぶら下げる屋台の暖簾を潜っていた。

 少女である。藤原妹紅という女性は、どこからどう見ても少女の容姿をしている。

 幻想郷という土地に現世の法が意味を為さぬことは先刻承知であるが、あどけなさすら覚える相貌の彼女と赤提灯で酒席を設ける……やはりどうにも、違和感を拭えない。

 

「? なによ」

「いえ」

 

 当の本人は微塵と気にする様子もない。ここではこれが常識、いや、今もって現代の常識を適用しようとする己こそが愚かなのだ。

 郷に入りては郷に従う。至言であった。

 日暮れも間近、天地は赤く染まり、否応なく一日の終わりを思わせる。河原の土手から望む夕暮れの里、暖かみと寂しさの同居するこの光景を、おそらくは望郷と呼ぶのやもしれない。

 熱燗の徳利を注意深く摘まむと、彼女は注ぎ口をこちらへ向けた。猪口を差し出す。何やら馴染みのない行為だった。

 とはいえ、酌をし返す程度の作法は知識だけ覚えがある。

 徳利を受け取り、彼女の酒杯へ溢さぬよう慎重に和酒を注いだ。

 

「ふふっ、ホントに馴れてないんだね」

「はい、恥ずかしながら」

「別に恥じることじゃないでしょ」

 

 些細な所作に、ふと自覚する。己の未熟、幼さを。そして実感する。少女のような彼女が、少なくとも確実に己などより遥かに永く生きてきたことを。

 恥じらい紛れに杯を飲み干す。

 

「っ」

「どう?」

「……甘いような、苦いような、不思議な味がします」

「あっははは、そっか」

 

 喉奥に肥大するように満ちた香気。噎せて咳き込むような真似だけはしなかったが。

 彼女には、己の戸惑う様がひどく面白かったらしい。

 無邪気に笑うその顔は、やはり頑是ない少女だった。

 要らぬ世話を焼き、節介を働き、彼女の抗議を押し退けてまで御宅の雑事を奪い、処理する。

 放って置けぬ。独りにできぬ。彼女を、どうしても、見た目通りの子供のように扱おうとする。扱いたがる。そうであって欲しいと、不遜な望みを抱いている。

 彼女を――――その思考を拭う。不意に表出した感情を鑢に掛けるように削り去る。

 心中の自己嫌悪が表情を歪ませる前に、口を動かした。

 

「本日はどういった趣向なのでしょう」

「べっつにー、働き者の青年を(ねぎら)ってやろうかと思っただけ」

「お心遣い、ありがとうございます」

 

 嫌味のような響きが乗らぬよう留意しながら、目礼と共々に返す。

 彼女の本音は、どうもそこには無いように感じるが。

 

「どうよ。ここでの生活には慣れた?」

「は、皆さんの御助力の賜物で、順調に生活を営むことができております」

「そりゃあ重畳」

 

 少女は猪口を一嘗めし、串に刺さった八目鰻を齧った。

 

「藤原さんにも、多分にお世話をお掛けしました」

「わらひぃ? ん、私はなんにもしてないよ。家事から何から全部貴方任せだし」

「自分が望んでお引き受けしていること。その点については藤原さんが御懸念持たれる必要はありません」

「いや持つわ。未だに家に帰ると片付き過ぎててちょっとぎょっとするし」

「それは単に、以前の有様が酷過ぎたのでは」

「す、住み易くはあったから……」

 

 目を逸らし空(とぼ)ける。こうした、彼女の一種幼稚な振舞いも、あるいは意図してのものなのか。

 もしそうなら、その意図は不敏な己にも汲み取れる。

 気遣われている。己の言動、行動に、彼女は何かしらの憂鬱を見出したのやもしれない。己の気質の薄暗さを、厭うのではなく心配してくれている。きっと彼女なりの、()()()としての配慮がこれなのだ。

 返す返す、己が未熟が恥ずかしかった。

 

「……お心遣い、ありがとうございます」

「……もう聞いたよ」

 

 溜息交じりに薄く彼女は笑う。呆れ、諦め、そうした色が顔貌に滲む。

 奇妙な意思の疎通感を覚えた。それは決してポジティブな気風を孕まなかったが。

 分かり合えたのかもしれない、錯覚のようなその肌触りが、なにやら無性に嬉しかった。

 

「はぁ、難儀な奴だねぇキミは」

「恐れ入ります」

「褒めてないって……ぷっ、ふふ」

 

 噴き出して、暫時彼女は笑い続けた。やはり呆れたような響きをした笑声は、鈴を転がす音に似て清澄で、美しい。

 熱燗の二本目を注文し、不意に会話が途切れる。

 この沈黙は苦痛とは縁遠かった。本当に、とても稀有な時間を享受して。

 

「私はこんな性格だから、あんまり他人に気遣いとかできないんだ。貴方は感謝してくれるけど……やっぱり慧音のようにはいかないね。うん、上手い話題選びってのは諦める」

「は」

「家族の話、聞かせてよ」

 

 気後れせず彼女は言った。視線は網の上で炙られる酒肴に注いだまま。

 その潔さは、快い。

 そうか……己は己で思うよりずっと見っとも無く、昏く打ち沈んでいたようだ。

 それを看破してなお、彼女はこうして話を聞いてくれようと言う。

 それが思慮でなくてなんだという。そう尋ねられて鬱々と暗む理由があろうか。

 

「はい、聞いていただけますか。俺の父母の話」

「うん」

 

 頬杖をついた彼女がこちらを向き、微笑する。夕焼けより赤い瞳を銀の睫毛が覆っている。

 なんて綺麗な女性(ひと)だろう。

 俺は今更にして、そんな事実に気が付いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 父の名誉を汚した輝夜を憎悪する。政務者として懸命に身を立てようと力を尽くす父の姿は、あの女に対する憎しみをより強くした。

 ……けれど。同時に思う。思わずにはおられないものが、ある。

 子があり、正室すらある身で、なおも若く美しい女に現を抜かし求婚にいそいそと赴くその様の愚かしさ。

 それは今更、成否を問えるものではなかった。当時と今とではあまりにも価値観が違う。恋に恋して死ぬことこそが雅やかと本気で考えられていた時代だ。

 あるいは、その美しさだけで数多の有力貴族からの懸想を(ほしいまま)にしていた蓬莱山輝夜。あの婚姻騒動も、陰には政争による謀略が闇色に渦を巻いていたのやもしれない。父は自ら布いた謀の責めを取り、報いをその身に受けたのやもしれない。

 心象だ。憶測だ。確かな事実は何一つとして己が内には無い。

 永く生き過ぎ、多種多様な価値観に汚染された自分には、あの過去の正しい善悪など定めることは出来ない。もはや、もはや。

 だからだろう。

 

養父(ちち)は生真面目な人でした。果物を落とした自転車を一駅走って追い掛けるほどの」

「くく、それは筋金入りだ」

「家族旅行から帰宅した時、空き巣に鉢合わせしたことがあります。父はすぐには警察に通報せず、空き巣犯を連れ出し、丁度ここのような赤提灯の屋台で、こんこんと話をしていました。その後、犯人は自ら出頭したそうです」

「美談だねぇ」

「自分にとっては、英雄的でした」

 

 青年の語る父親像は、自分には少し眩しかった。実直で、優しくて、我が子を心から愛するそんな父親は。白状するなら――――羨ましかった。妬ましくさえあった。

 彼は言った。自身の口調も振る舞いも、全ては父の真似事なのだと……もし、青年のその言葉が嘘でないなら。青年の有様が真実、彼の亡き父親の現身であるなら。

 この青年のような“父”がこの世には存在するのだ、と。

 そんな事実、知りたくなどなかった。

 もはや手に入らぬ宝物を目前にぶら下げられて、どうして平気でいられる。遠過ぎる過去の果てに、私の“それ”は消え去ってしまった。

 もはや手に入らぬ。もうどうしたとて、手に入れることなど――――

 

「俺は、成れているのでしょうか。父に」

「――――」

 

 その想像は怖気を伴った。自身の発想に耐え難いまでの吐き気を覚えた。

 自己嫌悪が心中から胸奥へ、そうして表情筋を歪み歪ませる。

 まさか、まさかだ。彼を、()()()に立てようというのか。

 巫山戯るな。馬鹿も休み休み言え。いや言うな。考えるな。その結論は罪深くさえある。

 自身の欠落を代替品を当て込んで埋めようなどと、なんという浅ましさか。それもあろうことか、他人の欠落に、この青年の孤独につけ込んで。

 己が思考の変転に戸惑った。

 自業自得が人生の伴であった自分が、他人の痛みで自身の心を慰めようとしている。

 つい数百年、あるいは千年少しと一月前までは、こんな考えはなかった。浮かびもしなかった。

 これが訪ねてきた所為だ。この青年と時間を共にしたことで、己の心がまた新たな色に染まろうとしていた。もうこれ以上混ざったところで変化など起きない、そう高を括って油断し、心を許し、享受したのが運の尽き。

 私は彼を無視できない。

 千余百の津波のような時間の中で、たかが一月ばかりの波濤がこの魂を揺さぶって止まぬ。

 ああ、人間というやつはなんて、なんて――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紫の花弁が五枚、五芒の星を形作る。

 桔梗(ききょう)だった。

 両手に収まる小振りな鉢に、鮮やかな彩でそれが植わっている。

 

「……これ」

「よろしければ、こちらに」

 

 日課の家政に、彼はそんなものを携えてやってきた。

 目の醒めるような濃紫、花弁はまるで染料にまるごと浸したが如く、灼然として美麗。

 加えて初秋も深まろうという季節、こんな見事な桔梗は今そうそう手に入るまい。

 

「……」

「?……お気に召しませんでしたか」

「えっ、う、ううん! そんなこと、ないけど」

 

 心配そうな真面目面に慌てて首を振り返す。

 その艶やかな色彩に見入って呆けていた……とは、言えなかった。

 綺麗だ。綺麗。とても。とても。

 

「なんで……」

「は」

「……なんで、この色を選んだの」

 

 家に花を飾り、華を立てる。別段奇異なところのない、それはありふれた心遣いだ。

 しかし、それが紫桔梗となれば。

 それを、彼は私に贈るという。

 

「……私にっていうなら、白か赤かと思ったけど」

「はい、藤原さんの御髪も、瞳も、とても綺麗だと思います」

「ふふ……分かり易いお世辞をどーも」

「しかし、貴女には紫がよく似合う。そうも思いました」

 

 にこりともせずに彼は言った。先刻から変わらない真面目くさった顔で。

 

「どう、して」

「上手くは、表現しかねます。ただ……貴女には()()気品がある。初めてお会いした時から、そう感じておりました。その印象に合う色はこれしかない、とも」

「――――」

 

 思い出す。思い出したくもないものが、思い起こされる。

 紫。ああ、こんな色を心底有り難がっていた時代も、あったのだったなぁ。

 

「受け取っていただけますか」

「……はい」

「よかった」

 

 差し出された鉢植えを抱え持つ。

 彼はまた仄かに笑んだ。瞬き一つずれていれば見逃してしまうほど、ほんの微かに。

 見るんじゃなかった。

 どうして見せる。私にばかり。

 これじゃあまるで、彼が私を。

 

「…………」

 

 彼がその日の家事を終えて帰宅した後、部屋の書棚の上に飾られた花を私はずっと眺めていた。

 茜の強烈な西日にも、青みを帯びた紫は一切劣らぬ。正反対の光の中に在っては、むしろその鮮烈な色をより一層際立たせているようにさえ見えた。

 美しかった。彼が、私に、見立てた花。

 

「……えへへ」

 

 うっとりと花弁を見詰めて――自分が今、凄まじく正気を逸していることに気付いた。

 

「うぅぐぅおおおおお……何がうっとりよ何が……!」

 

 乙女か! いや乙女だよ!

 紛れもなくこの身は女生だ。花を愛でて何を咎めよう。

 咎めるのは、結局、世慣れして世に汚れて、純粋であることに疲れた自分。後ろ指を差すひねくれ者。

 そしてなにより、贈り物それ自体以上に、贈ってくれた誰かを想う自分が。

 らしくない。らしくない。らしくない。

 

「ぬぉおおおおお…………お?」

 

 一人頭を抱えて奇声を上げていると、それが目に留まる。

 土間の隅にある物干し台、普段は布巾や雑巾を洗って干しておくものだが。

 そこに前掛けが一枚掛かっていた。黒地に白の染め抜きで、里の大工衆の組名が書かれている。

 

「忘れてったなあいつ」

 

 これは普請の時、職人や人足が必ず身に着ける仕事着の内の一つだ。棟梁の親仁はその辺り五月蠅い。忘れたとなればあの青年とてどやされることだろう。

 

「……ふふ、しょうがないな」

 

 前掛けを手にして、我知らずいそいそと玄関戸を出る。

 日没までにちょいと届けてやろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人里の南端、里と外の境界に近しい場所に、己が住まいは存在した。

 庵と呼ぶわるほどの趣はない。元は百姓家であるが、この辺りではもう田も畑も耕作されてはいなかった。

 曰く、恐ろしい何かが、ここより二里にも満たぬところに居を構えているのだそうだ。

 そんな場所に住まいを宛がわれる己もまだまだ余所者である――との証左かもしれない。

 土間と居間だけのシンプルな間取り。藤原さんの庵よりも、造りはより簡素であった。

 住環境に不満はなかった。沢は近く、頗る閑静、脱サラからの田舎暮らしを夢見る現代人垂涎な物件、と言えなくもない。

 沢で水を汲んでいる時、不意に背後で気配が立った。

 

「紫桔梗は喜んだでしょう」

「はい、気に入っていただけたようです」

「当然ね。私が見繕った花だもの」

 

 優美に笑んで、艶然と深緑の髪を掻き上げる。

 夕焼けの赤光すら切り裂く、紅の眼光。それはさながら大型の肉食哺乳類を彷彿とさせた。

 

「ありがとうございます、風見さん」

「お礼は口だけ?」

 

 風見幽香という女生はこちらを見下げながらに問う。

 日傘が作る影の中で、やはり瞳ばかりが妖しく輝いている。

 ――――返答を誤れば、解っているだろうな?

 その目はそのように物語っていた。

 

「茶虎屋の栗大福がお好きだったと記憶しておりますが、どうでしょう」

「かりんとうもね」

「承知しました」

「よろしい」

 

 喉奥でくつくつ笑声する。その妖艶さとは裏腹な無邪気さが、なにやら倒錯的だった。

 彼女とこうした交流を持つようになったのは、間違いなく奇縁の産物と言えよう。あるいは気紛れ、暇潰しによって齎された延命が、奇跡のように今もなお続いているとも。

 彼女にとって己が路傍に転がる石塊か、良くてのたうつ蚯蚓(ミミズ)程度の存在であることは疑いもない。

 いや……あるいは、花を愛し、生育する彼女に蚯蚓扱いされることは、土壌肥育という観点で無上の光栄と言えるのやもしれない……気がする。

 こちらの愚昧な思考など知ったところではない彼女は、しかしなにやら感興を映した目で己を見ている。

 

「ふふふ、おかしなものね」

「何がでしょう」

「貴方とあの不死(しなず)が」

 

 ぷ、と噴き出して、風見さんは笑みを湛えた。

 嘲弄と呼ばれる風味を、ふんだんに含めて。

 

「滑稽で。笑えたわ」

「……見ておられたのですか」

「まさか、私がわざわざあんな襤褸小屋まで足を運ぶ訳ないでしょう。見ていたのはあの桔梗よ」

 

 大妖・風見幽香。彼女はその能力によって花を操る。芽吹かせ咲かせるは序の口、花あるところ花を通して千里を見通すという。

 口端に皮肉げな笑みを刻んで、彼女は己を見下ろし続ける。

 

「不死といっても人間ね。人間同士、傷の舐め合いって楽しいのかしら」

「そのようなことは……」

「無いって?」

「…………自分は、ともかく」

「アハハ! あの顔でそれはないでしょう。喜色満面、まるで恋する乙女ってところかしら。でもまあ貴方があれに向けてるのは……」

「…………」

 

 とっておきの諧謔を聞かされたかのように、風見幽香は愉し愉しと。

 

「同情だものね。それとも憐憫かしらね。くっ、ふふふふふ」

「………………」

「可哀想な妹紅ちゃん。やんごとなき命脈から落伍した可哀想な子。独り寂しく千年以上も彷徨い続けた可哀想な娘。死んで楽になることもできない可哀想な人間。可哀想可哀想可哀想! アハハハハハハハハ」

 

 哄笑する彼女に、己は返す言葉を持たなかった。怒りだの羞恥だの、そんなものが一丁前に喉を塞いでもいたが。自己に対する憤怒、己が存続しているという現実の恥。それらはこの喉を掻き毟って引き裂いて詫びるに値する。

 だがなにより。なによりこの身に、一声とて上げる権利はない。

 彼女の言は全て……事実なのだから。

 己が藤原妹紅という少女に抱いたものを、風見幽香は代弁しているに過ぎない。

 

「ふふふ、なぁに? 本当のこと言われて落ち込んだの? いいじゃない。あの娘はそれで喜んだのでしょう。嘘と欺瞞の花を贈られて」

「……………………」

「紫桔梗の花言葉は“気品”だったわね。とんだ殺し文句だわ。“誠実”な貴方からの、最高のプレゼントね」

 

 日傘を閉じて、後ろ手に携えながら、彼女は己の顔を覗き込んだ。俯くことも逸らすことも許さぬと。

 紅の色が深まっていく。黒みさえ帯びて、底は無い。

 我が身の罪業の救いようの無さを、骨の髄から知らしめるが如く。刃で、この肉体で最も脆い部位を幾度も幾度も刺し貫いて。

 それを――見返す。片時と逸らさずに。逃げることなど許されない。許しはしない。

 この罪に、彼女は罰をくれるのだ。どうしてその両瞳を厭おうか。

 この罪を、藤原妹紅という少女に贖う術があるとすれば、それは。それは。

 

「……あっそ」

 

 愉快に彩られていた顔貌から色が失われる。感興も、愉悦も尽きたとばかり。

 ただ一つ、残影のように無表情の顔にこびり付くそれは、なんだろうか。

 

「……」

 

 心底つまらなそうに居直った風見さんは、こちらを見限って辺りに視線を這わせる。

 それが不意に、止まった。留まった。

 

「……クフッ」

「?」

「やっぱり、足りないわね」

「は」

「菓子折りだけじゃあ、あの桔梗には到底足りないわ」

 

 端整な顔がさらに美しい形に変わる。彼女は微笑した、極上に。それは慈しみに満ち満ちていた。

 悪魔とは往々にして天使以上に優しげな貌をする。

 悪辣な慈愛が、麻痺毒のように香り立つ。事実己の身体は、錆びたブリキ人形めいて挙動に支障を来たし始めていた。

 

「とりあえず、体で払ってくださいな」

「!?」

 

 その声の、あまりの近さに困惑した時には既に――彼女は面前に在った。吐息が口唇を撫でるほどに、近く。

 風信子(ひやしんす)の花弁のように淡い色をした唇が。

 己の口唇を、通り過ぎる。頬をめぐり、首筋をわたり。そうして、耳を、耳輪の上端をぱくりと食んだ。

 

「っ!? なにを」

「キヒッ」

 

 気息交じりの笑声。それが鼓膜を無遠慮に揺さぶる。

 次の瞬間、またも異音が響いた。がぢり、がり、がり――耳の軟骨を齧り取られたのだ。

 

「ぎっ、ぁ……!?」

「ん、ふ、ちぅ……んふふふふ」

 

 噛み痕に舌を這わせ、流れ出た血を舐め取り啜る。

 痛みは言わずもがなであるが、なによりその行動、暴挙に、心身から虚を衝かれていた。思わずよろめき後退る己を、彼女は追っては来なかった。

 口の中でそれを弄び、愉しんでいる最中なのだ。存分に咀嚼し、味わった後に、ごくりと飲み下す。これ見よがしに、嚥下の音さえ際立たせて。

 

「はぁ……美味しい……」

 

 唇に差された紅の如く付着した、血液。それを赤い舌が舐り取る。

 妖艶な笑みもまた己の顔を舐めるようだった。

 

「キスされると思った? ふふっ、えっち」

「……」

 

 右耳に触れる。耳の上側、集音の為の輪に当たる軟骨が三センチほど欠けていた。出血は思いの外に少なかった。

 

「何故、こんな」

「外じゃ、去勢した猫はこうするのでしょう。他の雌猫に悪さをしない証に」

「?」

 

 笑みが消え、視線が己を射貫く。眼光は依然として針のように鋭かったが、先の剣か鉾か矢のような、射殺すほどの苛烈さは内側へと納められている。

 その目が、己の背後へ流れた。

 

「言ってる傍から、ほら……もう寄ってきた」

「は?」

 

 彼女の視線を追い掛けて、後ろに振り返る。そこには己の侘び住まいが、広がり始めた薄暗がりに鎮座している。

 その壁際に、少女がいた。足元には黒い染め抜きの前掛けが落ちている。

 

「藤原さん……?」

「……」

 

 声を掛けた途端、少女はそのまま背を向けて足早に去っていく。全てを置き捨てるように、全てを見限ってしまうように。

 ――――その態度から、察することは甚だ容易であった。

 彼女に何を聞かれたのか。何を、見られたのか。

 

「藤原さん!」

 

 己は逢魔ヶ刻の闇間を、少女の背を追って駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翔んで去ればよかったのだと気が付いたのは、夜闇が我が物顔を晒す道の半ば。農道の名残であった。

 道端に目をやればそこには、真新しい滑車を取り付けられた井戸が一穴。

 彼と、最初に出会った場所。

 

「藤原さん……!」

「……」

 

 立ち止まったその背後で、青年の声がする。

 振り返りもしないこちらの背に、青年の視線が遠慮がちに触れているのが分かった。

 

「……自分は」

「帰れ」

 

 その次の一声を待ちながら、遮る。

 自分の声は、自分でも驚くほど冷えていた。

 

「藤原さん、自分は……」

「帰れ」

「しかし」

「帰れよ!」

 

 怒声は林を抜けて夜空に消える。蟲の声が一瞬、遠ざかった。

 声量は強かに鼓膜を震わせはしたが、それだけだ。虚しさばかりの、内に何も宿らぬ叫び。伝わるものなど何もない。

 必要がない。そうだ、自分には初めから、理解者などいない。慮り、思いを()()ことはできても、理解することなどできはしないのだ。

 

「それとも、また同情してくれるの?」

「…………」

「寂しく孤独に生きるしかない死ねない女に、憐れみで世話を焼くのはさぞ楽しかったでしょう?」

「っ、そんな、ことは……!」

 

 石でも吐くように言い募ろうとする青年に、その夜初めて振り返る。

 思惑通り、彼は言葉を失くし喉を塞いだ。

 きっと自分は、とても酷い顔をしていたろうから。

 

「自分の孤独の穴埋めに私を使ったわけだ。独りは辛くて、苦しくて、耐えられないから。死んだ家族の代わりが欲しかったんでしょう」

「……っ……!」

 

 言葉、のようなものを作ろうとして舌と喉を震わせるが、青年は短く気息を吐くことしかできなかった。

 滑稽だ。

 図星を突かれて言い訳一つ浮かばず慌てふためき惑乱する青年。

 ……自ら口にした言葉が事実であると確認して、勝手に幻滅し、勝手に失望し、自分を棚に上げる女。

 どちらも同じほど、滑稽だった。

 幻想を抱いた。希望を抱いた。その優しさが、あまりにも暖かだったから。

 ――――あの微笑みが、あまりにも眩かったから。

 

「穢らわしい……!」

 

 全てまやかし。純粋なものなど何一つない。純粋な感情など、彼は自分に何一つとして持たない。

 純粋な、愛情など。

 

「自分は……貴女に、貴女の助けに、成りたかった……少しでも、成れればよかった……」

「可哀想だから? 巫山戯るな。たかが十数年生きただけの小僧に、憐れまれて堪るものか! お前に……」

 

 欲しがったのはどちらだ。

 理解(あい)して欲しいと(こいねが)ったのは、果たしてどちらだ。

 

「お前に私の何がわかるッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから一週間が経過した。

 己が、独りの……一人の少女に自らの汚穢を晒した夜から。彼女の心を、傷付けた夜から。

 恥ずべき独善、世が世なら腹でも切って詫びねば、人間としての沽券も成り立たぬ。そんな自儘な自己嫌悪を弄ぼうとも、日々は過ぎていった。愚かな男の懊悩など知ったことではないのだ。それが自然(じねん)である。

 あの日以来、竹林の庵を訪ねたことはない……いや一度だけ、庵の玄関戸を叩いたが、彼女はそもそも一度も帰宅してすらいないようだった。

 上白沢さんには、包み隠さず事情を説明した。家事遂行は元々彼女達ての御要請、断りもなく職務放棄する訳にはいかない。

 上白沢さんは、己の卑劣さを責めなかった。彼女からは単純な優しさのみならぬ、培われた深い思慮というものを感じた。彼女は人間の愚かさを知っている。弱さを、知っている。

 暫く時間を置こう――――その言葉に、己が従わぬ理由はなかった。それ以外に出来ることとて、何一つないのだから。

 人里での人足の労役にも変わらず従事した。糧を得なければ生きてはいけない。労せずして食も居も住も成り立ちはしない。

 胸に残る鉛のような蟠りを忘れんと、己はただひたすら労働に没頭した。現実逃避と同義の、肉体の酷使に勤しんだ。

 

 ――――そんなある日の昼下がり

 

 石造りの壁を積み木のように打ち壊しながらに、ソレは現れた。

 羆よりも巨きく、獣にはない禍々しさ。幻想入りを果たしてより二ヶ月弱、己は未だ理解していなかった。異界の理を、ここが現世ではないということを。

 無知な己に分かったのは、それが妖怪(ばけもの)と呼ばれる存在であることだけだ。

 数多の人々が逃げ散り、惑う。

 その日は里の外縁、外壁の増築工事が始まる日。普請場には大工衆だけではなく、その家族、百姓、己同様の人足、少なくとも五十を超える人間が居合わせていた。

 餌場。

 かの化物、黒毛の化け猿にとってここはそれ以外の何物でもなかったのだろう。

 晴天の下で見るその姿は、恐ろしいと感じるよりもまず違和感を覚えた。こんな麗らかな日和で、伝承や創作にしか見聞きし得ないモノが、豁然と、憚ることも忍ぶこともなく存在する様。なにやらおかしな、滑稽さすら感じる。

 そんな感慨など、ソレの知ったことではないだろうが。

 化物は真っ直ぐに、一つ所を目指した。逃げ去る人々の背を……追うこともせず。

 子供、小さな男の子が一人、蹲って泣いている。

 その姿には覚えがあった。大工の若衆、その一人息子。今日は父親に連れられて、普請場に遊びに来ていたのだろう。先月の誕生日に八歳を迎えたという。神の掌中であった幼子が、ようやく親の元へ、元気に育ってくれたのだと――安堵と喜びを滲ませて、子に笑いかける父親の顔を覚えている。

 子供の泣き声に誘われるかの如く、のっそりとその巨躯が近付いてくる。

 逸れてしまったのか、父親の姿はない。あるいは、もう。

 

「……」

 

 迷いは然してなかった。

 走りながらに思考するのは方法。つまりは、如何にして少年を生き延びさせるか。

 難行である。

 なにせ己には武力も、逃走に活用可能な特殊な能力も持ち合わせがないのだ。

 妖怪を打ち倒すことなどは、万に一つも不可能である。空を自由に飛べたなら、少年を抱えて一も二もなく逃げ去るのだが。生憎ここには未来の猫型ロボットもその道具も存在しない。

 少年と妖怪との間に立ち塞がり、囮になる、ないし標的を変えさせるのはどうか。

 ……悪くはないが、あの妖怪の眼に自身が殊更魅力的な獲物に映るとも思えぬ。障害物として排除に動いてくれるならばまだいいが、完全に無視されてはそれこそ目も当てられない。

 その時。

 地面に転がるそれを見付けた。全長は五十センチほど。長方形の平たい刃から地続きに金属の支柱が伸び、柄は木製の握りが施されている。大工の普請場にそれはあって当然のもの。(のみ)だ。

 走り過ぎ様、拾い上げ、握り込む。よい手触りであった。柄はしっくりと掌中に収まる。腕の良い鍛冶師によって打ち上げられたのだと知れる。

 あとは何処を()()()、だ。

 頭は無理だ。位置が高過ぎる。あの巨躯の猿は、現れてから今に至ってなお常に二足歩行している。

 胴は、刃が立つまい。分厚い毛皮と筋肉に鎧われた体は、たとえ刀剣を用いたとして己のような素人が貫けるものではないだろう。

 ならば結論。

 狙える箇所はその一点。

 鑿を両手で、逆手に握る。

 走り走り、化物へ、こちらには見向きもせず少年に手を伸ばすその横合いに走り寄る。走る勢いのままに――――己は上体から倒れ掛かった。丁度ドミノがそうなるように。

 真っ直ぐ、一点、毛も生えぬその足へ。

 裸足の甲を、全体重を掛けて鑿で貫いた。

 ざくり、と。固い南瓜の表皮を、よく研いだ包丁で刺した時と似たような音と感触だった。

 赤黒い血が飛び散る。

 頭上でこの世のものとは思えぬ絶叫が鳴り響いた。

 企図、成就せり。

 跳ね起きて、化け猿を仰ぐ。痛みに苦悶に、その顔は歪み奔っていた。やはり猿、人と近縁であるからだろう。急所も同じで、かつ実に表情豊かでもある。

 黒々とした眼の奥で、燃えるような怒りすら見て取れた。

 怒り任せに巨腕が振るわれる。五指には短刀ほどもある鋭い爪。

 巨大さに比して、化け猿の挙動は、やはり猿と同様、それ以上に敏速だった。疾風が地を吹き払うより、あるいは速く。

 薙ぎ払われた。

 爆撃のような衝撃が、木っ端のように身体を吹き飛ばした。

 咄嗟に構えた右腕が消えた。右半分の視界が黒く消失した。左脇腹から右肩にかけて、火掻き棒で線を引かれたように、ひどく熱い。

 秋の、一等高く抜ける空を仰ぎながら、己は背泳ぎするように飛んでいた。青空に、薄汚れた赤が舞う。自身が撒き散らした血霞が。

 残った左半分の視界の中、ゆっくりと世界が過ぎ去っていく。永遠に続くように思われた浮遊感は、しかし突然終わりを迎えた。

 墜落した訳ではないようだ。体はしっかりと固定されている。

 何に。誰に。

 左目から色が消える。温度が消える。少し肌寒かった。いや、けれど、背中は少しだけ暖かい。じわりと、まるで人肌のような熱を感じた。

 それすら泡沫の夢のようだったが。

 よい夢だった。

 とても、よい香りがするのだ。

 花の、香。これは確か、たしか。

 

 ああ、桔梗のにお、い――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 青年は微笑んでいた。

 なにか、とてもよい夢を見ているかのように。

 じわりと浸み込んでくる血潮、熱。失われていく命の媒介物。

 まるで潰れた赤茄子(とまと)のようだった。熟れたそれを壁に擲てば今の彼と同じものが出来上がるだろう。

 ひどく簡単に。

 容易く。

 

「あぁ」

 

 人間とはなんて脆いのだろう。どうしてこんなにも壊れやすいのだろう。

 そんな単純なことを、随分忘れていたような気がする。

 なにせ自分は死なないから。傷ついても壊れても失くしても、一呼吸置けば全て、全てが元に戻るから。傷も痛みも、全ては夢か幻のように、消えてなくなるから。

 そっと彼を横たえると、今度は地面に赤い池が広がっていく。決して元には戻らずに、池は延々領域を広げるだけだった。

 目の前を見る。

 黒い化け猿、経立(ふったち)という獣の妖怪。ありふれて見飽きた怪異。山の化。人を食らうバケモノ。

 人を食らいに来たのだ。自然なことだ。

 子供を食らう邪魔をされたのだ。だから青年を()()したのだ。当然のことだ。

 

「殺してやる」

 

 人に害為す、それがバケモノ。妖怪が人を襲う、それが幻想郷の摂理。

 ならそうすればいい。ここにも一人、人間がいる。自分がいる。襲いに来ればいい。

 来るがいい。青年をそうしたように。青年をこんなにしたのだ。自分に出来ない道理はあるまい。

 来い。何故後退る。何故逃げようとする。何が、そんなに恐い。

 

「殺してやる」

 

 来い。こっちに。

 逃げるな。

 逃すか。

 

「殺してやるから」

 

 皮を裂いて肉を千切って骨を砕いて、全部を焼いてやる。丁寧に丹念に余すところなく焼いて焼き尽くして。

 灰にしてやるから。

 地獄へなど逝かせぬ。今、この場この瞬間に、阿鼻叫喚の業火で焼いて焼いて焼いて焼いて焼いてやる。

 だから。

 

「存分に――――死ねぇッッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識は、随分と深いところにあった。

 あるいは永遠に戻れぬほど深く、深く。深海の如き眠りの底のさらに奥に。

 しかし、己は浮上した。潮流の悪戯か気紛れによって。

 

「――…………」

 

 左目で、天井を仰いでいた。

 床に寝かされている。障子窓からは陽の光が射していた。

 時刻は知れない。時計は、生憎と眼球の可動範囲内には見当たらなかった。

 身動ぎしようとして、出来ないことに気が付く。身体を固定されている、などということはなかった。

 理由は二つ。

 肉体の反応が意思に反して極めて鈍重なことが一つ。

 もう一つは、己の左半身にあった。いや、居られた。彼女が。

 傍らに寄り添うようにして眠る少女の姿。大滝のように豊かな銀髪が畳の上を流れて広がっている。

 己が身を起そうとしたからだろう。少女の寝息がややも乱れる。

 そして。

 

「…………父さま……」

「……」

 

 口を開くことは勿論、考え巡らせることすら憚られた。

 けれど、それでも、己は、愚かに、卑しく。

 

「……」

 

 歯噛みし、気息を吐いて瞑目する。

 いや、せめて布団を掛け直そうと右手を出し――――現れた右腕に、それが無いことに気が付いた。

 

「ん……」

 

 微かに吐息を零して、瞼が震える。銀の睫毛が揺らめき、そっと開かれた目がこちらを見た。外界を認識するまでにはもう数秒を要したが。

 少女は身を起して、己の顔をじっと見詰めた。今見ているものが現か、夢の続きかを確かめるように。

 白い手が己の左頬に触れる。冷たい指は細く、掌は小さい。幼いとすら思う。どうしようもなく、思ってしまう。

 沈黙を嫌って、何か言葉を、頭蓋の内でうろうろと探し求めて。

 

「……おはようございます」

 

 如何にも気の利かぬ空惚けた言い様に、けれど少女は微笑んだ。

 笑いながら、目に涙を溢れさせた。

 

「っ、ぅ、ふ、く……あぁぁああ、うぅっ、あぁああぁぁああぁああ……!」

 

 首元に縋り、きつく腕を絡めて、少女は泣いた。

 声も殺さず、しゃくり上げ涙を滂沱して。

 

「いかないで……いかないでよ……いかないで……」

 

 藤原さんはただひたすらにそう繰り返した。他の言葉を全て、忘れてしまったかのように。

 頑是無い童女のように。

 残った左手で彼女の背中を擦る。労わり、慰め、詫びるように。今や役立たずのこの身体の、それは嘗てないほどに有意義な使い道だった。

 

「いかないで……!」

 

 彼女の涙は止まらなかった。

 それでもいい。構わない。全てこの身で受け止めよう。

 彼女が望んでくれるなら、この身など全部捧げてしまおう。

 命を賭けることで初めて気付けた。蒙昧と愚昧を極めてようやく男は、胸の内で密かにそれを想う。

 

 ――――俺はこの少女が、愛おしかったのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 ここが永遠亭と呼ばれる御屋敷であることを己が認知したのは、目覚めてよりさらに丸二日を床の内で過ごした後だった。

 別段、隠匿されていた訳でもなければ、所在の判らぬ己の慌てふためく様を愉しむ為などという意地の悪い話でもない。

 

「目を覚ましてくれたのが、その……嬉しくて……いろいろ飛んじゃったの。説明とか」

「……」

 

 元より不平も不満も一抹とありはしなかったが。恥じらいと、吐息のような安堵を滲ませてそう呟く藤原さんに、どうして迂闊な文句など吐けよう。

 普請場に現れたあの妖怪は、藤原さんの手で退治されたという。化け猿の標的とされた少年も怪我一つなく逃げられたそうだ。

 その事実に己もまた安堵の息を吐いたのは言うまでもない。

 

「……彼岸から帰ってきて最初に訊ねるのがそれ?」

「は……っ! 藤原さんは、お怪我などされませんでしたか?」

「なんで私よ!? ……してない。掠り傷一つ負わなかった」

「よかった……」

 

 彼女の肉体の特殊性は、それとなく上白沢さんから聞き及んでいる。

 しかし、だからとて傷付いてよいなどという理屈はない。

 無事でいてくれた。その事実が、ただ嬉しかった。

 

「本当に……よかった」

「…………」

 

 床の上とはいえ、こうして再会が叶ったこと。彼女と、話ができること。

 望外の幸いを得ている。身に余るほどの、幸いを。

 

「……体、拭こっか」

「は」

「意識が戻ったからって風呂に入るわけにはいかないでしょ……その傷じゃ」

「それは、まあ」

「待ってて」

 

 藤原さんはこちらの返答を待たず立ち上がり、部屋を出て行った。

 程なく、手拭と手桶を抱えて彼女は戻ってくる。置かれた桶の中には湯が張られていた。

 

「御造作を」

「怪我人がなに言ってんの」

 

 軽やかにそう呉れる彼女に今一度礼をして、左手を差し出した。手拭を受け取る為に。

 ややも伸ばした手を、しかし、藤原さんは片手で掴んで押し戻してしまった。

 

「?」

「ほら、脱いで」

「…………あ、いえ。そのようなことまでしていただく訳には」

「いーから。こんなことで駄々捏ねない。ほぉら」

「…………は」

 

 駄々……己の言い分の下らなさを、彼女は実に端的に表してくれた。

 傷病者に対する清拭の介助は何一つ間違ってはいない。

 右腕は、前腕の半ばほどから先が喪われている。片腕で患者用なのだろう浴衣を脱ぎ、片腕で上半身をほぼ隈なく覆う包帯を解き、片腕で桶の湯に手拭を浸し、片腕で余分な水気を絞り、体を拭う。

 手間を惜しむ気はないが、とにかく非効率、非合理的であった。そして彼女の申し出を固辞する合理的な理由が、一向に、見当たらなかった。

 

「重ね重ね、御造作をお掛けします……」

「造作もないこと。そう言ったらちょっとは気楽?」

「……ふ、そうですね」

「ふふっ」

 

 気を遣わせているのはどちらやら。それはもう、紛うことなく。

 浴衣を開け、とりあえず上半身を露わにする。といって、素肌が満足に覗いているのは左腕のみ。身体前面の巨大な傷口を覆う為、上半身はほぼ全域にわたって厳重に包帯が巻かれている。木乃伊男の様相であった。

 それをするすると藤原さんが解いていく。いっそ手慣れた様子で。

 己の物問いたげな視線に気付いてか、彼女は答えた。

 

「貴方、三日三晩眠ってたの。その間も体を拭いたり包帯を換えたり、床擦れしないように寝返りさせたり、私がやってたから。三日やれば流石に慣れるわ」

「………………」

 

 咄嗟には、言葉がなかった。謝罪、感謝、その二つを口にするのが今この場の最適解である筈だ。だのに。

 喉が塞がる。声帯が麻痺してしまったかのように。その毒の名は――――罪悪感。

 それでもなんとか舌を動かし、声を上げようと息を吸った時。

 

「要らない」

「――え」

「謝罪も感謝も、要らない」

 

 手拭いが湯に浸かり、絞られる。暫時、静かな室内に水のせせらぎだけが響いた。

 手拭いを持って彼女が背に回る。

 そっと、注意深く、濡れた布が肩甲骨の辺りに触れた。

 

「熱くない?」

「はい……」

 

 そのまま藤原さんは己の背中を拭き流した。肩に始まり、背骨を降り、脇腹、腰。丁寧に、丁寧に。

 柔らかな手付き、それが無性に心地好かった。

 盛んに背中全体を往き来していた手。それが不意に、止まる。

 

「……」

「……藤原さん? どうか、されましたか」

「謝罪も、感謝も、どっちも要らない……けど」

 

 突如、背筋に熱いものを押し当てられた。

 手拭いではなかった。そんなものよりも遥かに、桁違いに柔らかなもの。

 彼女の唇だ。視界外にありながら、それを知覚する。

 少女の両手は己の肩に掛けられている。上体をしなだれて、より一層体重を預けられる。

 

「ん、ふ……ちゅ」

「!?」

 

 首と背の合間ほどまで唇が這い登り、そっと吸われる。

 制止に呼ばわっても、彼女は止まらなかった。まるでその唇によって、清拭の続きをしようとでもいうように。

 

「っ、藤原さん、今、自分は不潔です。お止めください」

「ちぅ……いや?」

「否か応かではなく……とても臭いましょう」

「ふ、んっ、ちゅ、ふふ、そうだね」

 

 いくら濡れ布巾で体を拭いていたとしても、六日も湯浴みをしなければ皮脂や垢は落ちきらず溜まる一方だろう。

 身体の臭気には自覚があった。

 それを、嗅がれる。誰あろうこの少女に。その羞恥の烈しさは今だ嘗てない。

 

「後生です……! お止めを」

 

 右肩に置かれた手を払おうと、持っていった左手を捕まえられた。

 一本一本の指を絡め、強く握られる。

 さらに少女の左手が己の、胡座を掻く内腿を擦った。

 

「は、ぁ、すぅぅ……生きてる、匂いがする……」

 

 鼻から深く、肺を満たさんばかりに息を吸われる。

 まるで酒精に酩酊しているかの言い様。吐息すら熱を帯びていた。

 

「っ……藤わ」

「それ」

「は……?」

「ふじわらさん」

 

 奇妙に平坦な音程で彼女はそう繰り返す。

 意味を判じかねた。

 (すこぶ)る物分かりの悪い男に、彼女は焦れったそうにして。

 

氏名(うじな)で呼ばないで……貴方からは、特に、『藤原(ふじわらの)』姓を聞きたくない」

「……では」

「妹紅」

 

 一瞬、背中から唇が離れたかと思うと、今度は額を押し当てられた。

 はらりと背筋を撫でる、細く、絹のような髪。

 ひどく、怖々とした声音が遠慮がちに背骨を貫く。それは体内を反響した。

 

「妹紅って、呼んで」

「……」

「……そうじゃなきゃ止めてあげない。だから……だから…………お願い……」

「――――妹紅、さん」

 

 怖々と呟いたのは己とて同じだった。精緻な硝子細工を両手で押し戴くような心地で、彼女の名を呼ぶ。大切な、途方もなく大切なその音を、口にする。

 躊躇は絶大に立ち塞がったが、しかし、どうしてか、迷いは然程湧いて上ることがなかった。

 呼ばわりたいと、己は望む。望まぬなどという道理は、無い。

 

「――――」

 

 一刹那、呼吸の止まる気配を背中越しに聴いた。そうして浅く、深く、不規則なリズムを刻みながらに、少女の吐息が暫し背筋を撫でていた。

 何かを誤ったろうか……そんな小器に相応しい不安感が心中を満たす。

 無言の彼女に今一度声を掛けようとした、その時。

 

「んんっ……!」

「っ!? ふじっ、妹紅さん……!?」

 

 少女は、何を思ってか再び首へと()()()付いた。吸血鬼よろしく犬歯が皮膚に突き立つ、甘噛みであったが。

 ぞる、ぞる、と。ざらついた舌が思い切り首筋を舐め上げた。幾度も、幾度も。

 電流めいた刺激、誤魔化しようのない快感が神経を焼いた。

 

「や、約束が違うのでは……!?」

「ぷぁ……はぁ、ふ……はぁはぁ、はぁ……」

 

 荒く息吐く彼女から一向に返事はない。

 左手は握られたまま、丁度身体の袈裟懸けに固定されている。左の大腿にも手を添えられ、背中と少女の体が今やぴたりと密着している。

 華奢であるのに、灯のように熱い肢体。そしてそれは想像を絶して、柔らかい。

 見事に身動きが取れない。新手の関節技(サブミッション)に掛けられているようだった。

 

「ぢゅ……ちゅ……ちうぅ……んふっ、ぢゅ……」

「くっ、は……ぁ……!」

 

 一際に強く強く首を吸われる。頸動脈を流れる血潮までも吸い出されてしまいそうなほど。

 

「……はぁっ! ぁ、はぁ、はぁ、は……ふ……」

 

 首の皮に残響のような痺れを覚えた。吸引の痕跡は、きっと赤色灯のように赤々と自己主張していることだろう。

 

「……妹紅さん?」

「っ、くっ、ん、あぁダメ……名前言われると、我慢できなくなる……」

「……ならば呼ばぬ方が」

「それはもっとダメ」

 

 ぐ、と手をなお一層握り合わされる。決して離さぬように、離れてしまわぬように、強く。物心もつかぬ幼子のように、必死に。

 

「……そちらを向いてもよろしいですか」

「…………うん」

 

 不承不承、また不承といった気色で、少女は左手を解放した。

 床の上で身体の向きを180度変える。その際、胸の傷の縫い目が捩れ、炎熱めいた痛みを放ったが。顔にはおくびも出すまいと全神経を傾けた。果たしてその甲斐があったかは知れぬ。

 赤い瞳が、俯き加減にこちらを見上げている。叱られるのを予感した仔犬めいて、それは、殊更、あまりに……。

 

「あまり、愛らしい顔をなさらないでください」

「ど、どういう顔よ」

「そういう顔です」

「……」

 

 上気していた頬が、火入れした鋼のように赤熱した。

 先程までの淫蕩な……大胆な行為など夢か幻であっかのように、その様は無垢そのものだった。

 

「妹紅さん、自分の身体は今大変不潔な状態にあります。口付けるが如き真似は不衛生です。御自重ください」

「あ、そこまで戻るんだ……」

「それに……木石なりの、羞恥心がありますゆえ」

 

 少女を直視しかねた。

 大の男が恥じらいに身を縮ませる。見目良い様などとは到底言えぬだろう。

 しかし、再び視界に収めた彼女の顔は、苦笑ではなく、微笑で彩られていた。

 

「真面目だなぁ……」

「融通の利かぬ性質で、重ね重ね恥ずかしく思います」

「私は好きだよ」

 

 此度、呼吸を止めるのはこちらの手番であった。

 微笑のまま、真っ直ぐに、眩いほど純一に、妹紅さんは言った。それはあまりにも、美しく。

 

「……勿体無いことです」

「…………」

 

 微笑に翳りが差す。己の解答がとても無味乾燥で、偏に心ないものだったからだ。想いを口にされて、想いではなく社交辞令など返している。

 微笑には自嘲の色が波立った。彼女は心を痛めていた。

 真に、自らを嘲るべきは己である。

 

「妹紅さん、自分は貴女に、不敬を働いた」

「不敬って……ふふ、また大袈裟だね」

「いいえ、そうとしか表現できません。貴女の生き方を手前勝手に推し量り、浅はかな気遣いを、思慮だなどと思い込み、押し付けた……卑しい同情を貴女の心に(なす)って寄越した」

「…………」

「幾重お詫びしても、足りることはないでしょう」

「……いいよ、もう」

「いいえ」

 

 続けざまに己は否やを口にした。平身低頭に謝罪すべき対象である少女の文言を抑えてでも。

 

「申し訳ありません。お許しください」

「だからいいって……ちょっと、しつこいよ」

「執拗にでも、自分は弁解をせねばなりません」

「どうして……」

「これから申し上げることを、嘘や、まして憐憫などには、断じてしたくはないのです」

「?」

 

 身の内側より、湧水のように込み上げるものがある。いや、それは重く粘り、煮えて泡立つ、泥。

 恐怖が、血液に代わって肉体に充満する。

 これを口にすることを恐怖する。これを聞かされた彼女がどのような顔をするのか、想像することを恐怖する。

 彼女に、拒絶されることを心底より恐怖する。

 しかし、それでも、言わずに置くことは出来なかった。

 内奥で発露した感情は熱病に似て心身を焼く。炎は抑えも利かず、滲み、溢れるようにして口をついた。

 

「俺は貴女を愛している」

「――――――」

「孤独の痛みに向き合わず、石のように身も心も固め、悲愴を気取る情けないこんな男に、手を差し伸べてくださったことに感謝します。遠ざかるばかりの過去から、現実の今へと引き戻してくださったことに感謝します。父母の話を聞いてくださったことに、心から感謝します」

「………………」

「飾り気ない優しさを持った貴女が、俺は愛おしいと思いました」

 

 彼女の遠大な生涯を、永劫と呼ばれるその世界を、烏滸がましくも想像する。壮絶の二字。

 それを乗り越えて存在する今の、彼女の優しさを尊いと思う。敬服を禁じ得ない。

 俺は藤原妹紅という一人の人を尊敬する。

 だから。

 

「貴女の生き様に、一度泥を塗った……貴女の心根を履き違えて、己の性根の汚穢に曝した……それでも…………それでも」

「……うん」

「信じて、欲しいのです」

 

 虫のよい話だった。

 彼女の誠意に卑劣な報いを返しながら、己のそれは誠意であると、信頼を欲する。

 (おぞ)ましい。それは救い難く悍ましい、恥を知らぬ欲望だった。

 それでも。

 

「…………」

 

 遂に堪えきれず、己は下を向く。相対する少女から目を逸らす。

 自分は何故、あのまま死ななかったのか――――そんな甘えた思考に精神は躍起になって沈み込まんとした。

 己はただ無恥なる奴輩に相違ない。

 

「どう言えばいいのかな……どう言えば、貴方は安心する?」

「……」

「前にも言ったけど、私もそんなに口の上手い方じゃないから……アハハ、やっぱり難しいね」

 

 頬を掻いて少女ははにかんだ。やにわに愛だの感謝だのと、戸惑いを抱いて当然であった。

 当惑を示しながら。しかしながら。

 彼女は。

 

「嬉しい。すごく……すごく嬉しい」

 

 ――――胸を撃たれるとはこういうことなのか。

 それは生まれて初めての感触、経験だった。そしておそらくは、最後の。

 その笑顔は、陽の光がもたらす恵みに等しい。天上の女神とはきっとこんな尊顔をされている。

 阿呆のように、けれど確実なる事実だ。確信する。

 この人は俺にとってそういう存在(ヒト)なのだと。

 長く、少女の顔に見蕩れていたらしい。

 じっと見詰めるこちらに彼女は堪らずと顔を赤くした。

 

「……どうしよう」

「はい」

「ど、どうすればいいんだろう……」

「どう、とは。なにか為さりたいことがあるのでしょうか?」

 

 何やら落ち着きなく、妹紅さんは右往左往している。

 赤らむ顔はまるで限りなど忘れたかのように沸騰をより強めていった。

 

「したいこと……ある。あります」

「は、では何なりと仰ってください。このような身ですが、あらゆる尽力を厭いません。いえ、貴女の力に、なりたいのです」

「そ、そんな風にっ、言うからっ! また我慢が……利かなくなるのに……だ、大丈夫かな……傷が広がったり……や、私が上になって動けば……ッッ! うぅぅ……!」

「?」

 

 頭を抱える彼女に、首を捻り……それに思い至る。まさか、という我が理性から溢れた尤もなリアクションを、今ばかりは黙殺して。

 

「妹紅さん」

「……はい」

「どうぞ、為さりたいことを為さってください。この身を如何様にでも()使()()ください。貴女の望みは、自分の切望です」

「…………はふぅ」

 

 それは笑声とも溜め息とも排熱された蒸気とも聞こえる音色だった。

 どれ一つとっても、愛らしい。そうとしか感じぬ。

 熱に浮かされているのは何も彼女だけではない。己とても同じであった。

 下から赤い瞳が覗き込んでくる。怯えと期待。二つが絶えずその含有率を変動させながら光っている。

 彼女の両腕が首に掛けられた。シャツの内側にあるそれは、細く、しなやかで、水中を泳ぐ白魚のうねりを想起する。

 またぞろ細い後ろ腰に左手を添える。微かな震え、そしてじわりと肌の熱が掌を焼いた。

 

「ごめんね……こんな応え方しか、今はもう考えられない」

「綺麗です。妹紅さん」

「ッ……えへへ、ありがと……私も、貴方を――――」

「失礼しまーす。換えの包帯持って来ましたよーぉぉおお邪魔しましたーーー!!」

 

 襖が開いたかと思われた刹那に高速で閉じられる。

 廊下には包帯を手にしたブレザー姿の少女が立っていたような気がする。

 思えばここは療養所の一室。医師、あるいは看護を役目とする誰かしらが来てもおかしくはない状況であった。

 

「……」

「――」

 

 上半身裸の男と、それにしな垂れ腕を絡める少女。外聞を気遣うには少々遅過ぎた。迂闊なり。

 無言で、妹紅さんが立ち上がる。

 すたすたと早歩きに襖へ取り付き、開いたと同時に駆け出した。先程の少女を追っていったのだろう。横顔には羞恥と焦りと怒りと鬼気が満ちていた。

 逃げた少女を捕まえて、果たして妹紅さんはどうする御心算であろうか。それは(よう)として知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永遠亭からの退院が決まったのは、それから一週間後のことだった。

 医療行為に関して並以上の知識を持たぬ身であるが、療養期間としてそれが驚くべき短さであることは確かだ。胸と腹に走った骨まで達する裂傷、そして片腕の欠損。僅かに二週間足らずで全治に至るとは思えない。

 無論、ここは現代現世ではない。現代現世と同等の医療制度を求めることがそもそも間違いであり、なにより治療に当たってくださった医師の手腕を誹謗することとそれは同義であった。

 医務室で最後の検査を行い、カルテを書き込む医師――八意永琳先生。彼女には感謝以外に述べるべき言葉はなかった。

 短時日による退院が叶ったのも、ひとえに彼女の優れた技術の賜物に他ならない。

 

「感謝されるほどのことはしていないのだけど」

「まさか、そのような」

「止血と縫合を幾らか。あとはほぼ肉体の自然治癒力に委ねていたもの。まずもって驚くべき回復力だわ」

 

 八意医師は笑みを刻んだ。

 

「異常と表していいくらい」

 

 その顔には感興が見えた。好悪を分類するならば、間違いなく好意的な。しかし。

 ――――実験途中にケースの中で珍しい反応を示すマウスを見付けたかのような。

 決して人道的とは呼べぬ、人を人とは思わぬ顔。それは研究者の貌だった。

 

「お望みなら完治するまで入院を延ばしてもらっていいわ。万全のケアをお約束します。代わりに()()()()と、お手伝いしていただくことになるけれど……どうなさる?」

 

 いっそ艶やかに、一層に、女医は笑みを深めた。

 己は静かに首を左右した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 永遠亭の門扉を後にする。

 連れ立つ妹紅さんは己の右側に寄り添い、腕を絡めて歩いた。両足は健在であるので、介助の必要があるとも思えぬが。

 その心遣いそのものが有り難かった。

 

「……」

「? ……どうかされましたか」

 

 彼女は背後の邸を今一度望む。視線には、曰く名状し難い色が混淆していた。

 こちらの問いに少女は首を振る。

 

「こんなに静かにここを出たのが初めてだったから、ちょっとね」

「?」

「いいの」

 

 腕を取り直し、爽やかに笑う。

 

「行こっ」

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「実際のとこ、アレは何?」

「成りかけというところかしら」

 

 女医は手の中で試験管を振った。硝子の壁面にとろりと纏わり付く紅。黒みを帯びたような血液の水面が鈍く揺れる。

 

「薬はもうない筈よね」

「そうね。ここに落ち着いてからは、特に作る用もなかった。製法は私の頭の中、現物は全て廃棄済み。複製も不可能」

「じゃああの男、なんで生きてるの? あの重傷(ふかで)なら普通死ぬんじゃない? それとも、地上人って私が思ってるより頑丈なのかしら」

「それをこれから研究するのよ」

 

 新しい玩具を手にした子供同様に、女は顔を綻ばせる。

 優美な溜息が室内に響いた。姫御前は、呆れてその後姿を笑う。未知は歓待すべき刺激だが、その追究行為には微塵も興味がない。

 欲しいのは回答。アレの原理。

 

「仮説ならあるけれど」

「そうそう。それを聞かせて頂戴な」

「蓬莱人の不死性がその活き肝に宿るなんて噂があるでしょう」

「あったの?」

「あったの」

「あ、そっか。じゃああの男は妹紅の肝を食べたのね!」

「食べたかどうか、そもそも不死の付与が臓器の経口摂取程度で可能かどうか、甚だ疑問ね。もし成功していたなら、ここに担ぎ込まれることもなかったでしょうし」

 

 女医の滔々とした否定の論調に、姫は唇を尖らせる。

 

「もーじゃあどうしてー? なんであの男は()()()()()のー?」

「心肺停止、脳波消失。外界でも立派に死亡判定でしょうね」

「だーかーらーなーんでー」

 

 駄々を捏ねる童女のように姫御前は机を両手で叩いた。

 今度溜息を吐くのは女医の方である。

 

「そうね。考えられる要因は……」

「よーいんは?」

 

 そうして悪戯な――――皮肉気な笑みを口端に刻んで、八意永琳は言った。

 

「愛の力、ってところかしらね」

「はぁ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近頃、夢を見る。

 内容は常に同じ。

 色は一種。黒々とした赤。

 登場人物は二人。己と、少女……愛しい人。

 仰臥して空を見ていた。いや、空など何処にもありはしない。上空は無。虚。空などと呼ばわることさえ憚る黒だけの広まり。背景美術としてはとんだ手抜き仕事と言わざるを得ない。

 対して地上、こちらも単一色という意味では同じだった。

 赤い、それは液体であった。仰向けに寝転がり、後頭部から背中、足先まで。身体の裏、その半ばまでを赤い液体に浸している。

 耳に入り込んだ液体が音を遠ざけた。

 限りなく無音に近しい。風も、地鳴りも、心音すら無いかの如く。

 

 …………

 

 無言で彼女は俺を見下ろしていた。

 能面のような表情(カオ)で俺を見下ろしていた。

 すべてが抜け切った貌。すべてが、失われて。正常な感情(ココロ)とやらも機能不全を起こし、無機質の、人型の機械めいて虚ろ。

 虚ろな穴が二つ、彼女の目が、俺を見下ろしていた。

 

 …………

 

 彼女は呟いた。口唇が形を変え、言葉を形作ったように見えた。

 無論のこと己には何一つ聴き取れない。なにせ耳は赤い液体で満ち満ちている。耳の奥、鼓膜の裏側にまでも。

 全ては無音のまま進行する。

 彼女は無音のまま、おもむろに、その手を、指先を、少女自身の腹へ――――右の脇腹へ突き入れた。

 無音のままに、手が腹の内へと消える。シャツに赤く染みが広がり、程なく赤い液体が滴り落ちる。この大地を満たすものと同じ色をした液体が。

 手が引き抜かれ、掌に赤黒い物体が握られていた。粘り付くような糸を幾本も引きながら。片手では到底余るほどに大きな、てらてらと光沢すら放つ、それは。

 それに少女は、噛り付く。口に含める限り、頬張り、咀嚼し噛み潰し咀嚼しまた噛み締め咀嚼咀嚼咀嚼。

 血と肉と唾液の混合液が口端から溢れて垂れる。それでも彼女は止めない。噛み、千切り、潰し、均し、液状に成り果てるまで口内をミキシングする。

 

 そうして、少女の顔が落ちてくる。

 ゆっくりと、赤黒い液体に塗れた唇が、己のそれを覆い、ぞぶりと舌が掻き分け、暖かなものが流し込まれた。

 不快感は無かった。

 ただ、ひどく――――罪深い。この行為の禁忌を、魂が叫んでいた。

 

 …………

 

 熱いものが顔面に落ちてくる。しかしそれは、無色透明の、澄んだ滴り。

 少女の両瞳から、それは落ちてくる。絶えることなく、止め処なく。

 口内に広がる鉄の味。口移しにもたらされた口噛みの臓物。頑是無い少女の、彼女の、死に物狂いの……愛情。

 俺は、それが、やはり。

 己が思考に苦笑が上る。自嘲と、呆れ、僅かに得心。

 俺はそれでも、この人が、この人と共に――――

 

 

 

 

 

 悲しい夢だと思った。

 けれど、悪夢からは程遠く。

 それはどこまでも、愛しい夢だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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凌(了)

もこたんルートこれにて了




 

 

 目覚めは笹藪のざわめきがもたらした。

 風が幼子の頭を撫でるように、竹林を吹き抜け、涼やかな音色の尾を引いていく。

 迷いの竹林。その奥にひっそりと佇む小造な庵。己は今、そこで暮らしている。

 

「……おはよう、よく眠れた?」

 

 傍らに寄り添うその人を認める。己を覗き込むあどけない相貌。

 藤原妹紅、ここは彼女の家だった。

 

「おはようございます、妹紅さん」

 

 寝惚けることもなく明瞭に、朝の当然の挨拶を交わすことで、己は彼女の存在を実感する。

 愚昧な。

 幾度となく、そんな確認行為を繰り返している。彼女が自身の住まいに招いてくれた日から、彼此(かれこれ)一月も経とうというのに。

 

「……ずっと見ておられたのですか」

「うん。寝顔は案外齢相応だね。可愛いよ」

「御冗談を」

「ホントだってば。あぁ照れてんだ? ふふふっ」

「……」

 

 返しの文句は浮かばなかった。貴女の方が、余程に……などと歯の浮いた文言は幾らか過ったが。

 彼女にはもう、己が内心の機微を隠すことは難しい。

 

「朝ごはんにしよっか」

「では、今日は自分が」

「ダメ。刃物を扱う仕事は私がやる……めげないなぁ。この問答、毎日やってる」

「……は」

 

 彼女は笑んで、身を起こす。

 己もそれに倣って上体を起こし、床の上で胡坐を掻いた。

 不意に、彼女の左手が己の右腕に触れる。今も包帯を巻いた、前腕の先端に。露出していた骨も今や肉と皮が覆い、柘榴めいた傷口は蕾を閉じたかのように綺麗に塞がっている。

 撫で、擦り、労わる手付き。やや過敏になった皮膚感覚が、少女の指先の柔らかさを深く味わった。

 

「申し訳ありません……」

「いいよ。手料理を振舞ってくれようとするの、嬉しいから」

 

 耳元で囁くようにそう言うと、少女は立ち上がって土間へ向かった。

 その間、布団を畳み、仕舞い、囲炉裏に火を入れる。

 

「でも、私の料理の腕だってそう捨てたもんじゃないでしょ?」

「毎食を楽しみにしております。ですが失礼ながら、些か意外でした」

「ふーんだ! ずぼらでも独り身は長いんだから。家事の経験値はあるもん」

「はい、お見事な腕前です」

 

 危なげもなく包丁を掌中で回転させ、得意げな顔がこちらに振り返る。

 

「全部私に任せてよ。貴方は見ててくれればいいから」

「…………」

 

 これも果たして、幾度目かの遣り取りか。

 彼女は己に家事を任せなくなった。厳密に言えば、危険と思しい作業、重労働を禁じられた。

 里の大工衆にて就いていた人足の(えき)も、この身体では土台勤まる筈もなく御雇を解かれて久しい。

 ならばせめて、馴染んだ家事程度は請け負わん……そう息巻く己を、妹紅さんはやんわりと拒むのだ。自動機械などないこの土地で、家事は須らく肉体労働。手作業が主となるのだから片腕でそれらが捗るかと問われれば、否やと言わざるを得ない。

 己は晴れて、名実共に役立たずと成った。恥ずかしく思う。身の置き所がない。穴を掘り、身を埋めてしまいたいとさえ考えた。

 しかし今なお、己は生きている。

 

「それでもいい」

 

 彼女のその言葉に甘えて。

 

「生きて、傍にいてくれるだけで、いい」

 

 また、陽光の笑顔で妹紅さんは言った。

 秋が背を向け、冬の足音を聞くこの頃。その笑顔は心ばかりでなく、肉体すら暖めてしまう力があった。

 蕩けるように少女は笑う。夢見心地に、まるでこの今を、この時間をこそ――――歓待するように。

 

 

 

 

 

 一度、妹紅さんの言付を破ったことがある。

 いや言付などと、彼女は己に不労たれと強制している訳ではない。この身の障害を慮り、無理に作業をするなと、真っ当な理屈を示しているに過ぎない。

 それを破った。

 洗濯をし、掃除をし、料理を作ろうとして、案の定失敗を犯した。

 鉄鍋を囲炉裏の自在鉤に吊るそうと、片手でそれを致そうとして盛大に鍋を返した。天井から下がった鉤の支えに妙な荷重が掛かり、脱落したのだ。

 鍋の中身は、土間の竈で火を通した後の水炊き。それが囲炉裏の灰と床板に、そして己の足と右腕に浴びせ掛かる。咄嗟の時、やはり利き腕を出してしまうものなのだなと、阿呆のような感慨を抱いていた気がする。

 折が良いのか悪いのか、少女が帰宅したのはその直後だった。

 言葉と、顔色を失くして、少女は己の姿を呆然と見た。ほんの数秒、時間が止まってしまったかのように。

 もう一秒後、弾丸の如き素早さで彼女は玄関戸を飛び出し、水桶を手にしてすぐに戻ってきた。水を張った桶に己の足を浸し、己の腕を水布巾で覆う。

 いずれも、涙を流しながら。

 

『申し訳ありません。自分の、不注意で』

『いいよ。いいから』

 

 無色透明の貌、そこに空いた二つの虚穴から少女は涙を滂沱させた。いつまでも、いつまでも。

 それはまさしく、夢の再現だった。

 

『熱かったね……痛いよね……あぁ……ごめん……ごめん』

 

 胸を潰される。思い出すだに、この胸奥に埋まる心臓を握り潰したくなる。

 

『ごめんね……!』

 

 何故、謝るのか。何故貴女が謝らねばならぬのか。

 そんな必要は一分とてない。微塵とありはしない。そう言いたかった。しかし言えなかった。

 違うのだ。

 彼女の謝罪の言葉の行方は、ここにはない。ここではない何処かに向かっているのだと。

 何も言えはしなかった。

 しかし、それでも己には、彼女に伝えるべきことがある。

 断じて、告げねばならぬ言葉が……ある。

 

 

 処置が的確であったからだろう。煮詰まった出汁を浴びながら、手足に火傷を負うことはなかった。皮膚に奔った赤みすら、消えて失せた。

 初めから、そんなものは無かったかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 笹藪の(いなな)く音がする。

 目を開けると、明かりとりの格子窓から青白い月がこちらを覗き込んでいた。

 夜半のさらに深み。獣や蟲すらややも微睡む時刻。

 今時分、ここのところよく目が覚める。肉体には睡眠を()()()いるというのに精神はまるでそれを拒むかのように醒めていく。

 

「……」

 

 その原因は、分かっていた。知れたことだ。誤魔化しようもない。

 彼は今も自身の隣で静かな寝息を立てている。

 彼と一緒に暮らし始めて、九十回日が沈んだ。もうすぐ、九十一回目の夜明けが来る。

 それが。

 

「…………っ、は、ぁ」

 

 それがどうしようもなく嬉しい。喜悦に、熱を持った溜め息が胸奥から溢れる。

 その事実がこの全身を、全霊魂を歓喜させる。

 幸福とは今。今この瞬間こそが、私の、一番の。

 

「…………」

 

 我が身に降りかかっているこの幸いなるを自覚した――――その刹那。

 私は、思い出す。

 私というものを思い出す。

 いつものように。

 知らぬ存ぜぬと重ね塗り圧し潰しを繰り返して拵えてきた自己欺瞞に、罅が入るのがわかった。

 大年増の厚塗りの白粉めいて、それは醜い。見映えどうこうではなく、老いを必死になって隠そうとするその性根。

 歳を経て朽ちるその自然(じねん)に。現実に向き合わず、在るがままを受け入れられず、目を背け耳を塞ぐ逃避の思考が。

 無論、この身は老いなどしない。そんな尋常な、健常なる在り方は、もはや忘れた。肉体も、精神も、絶えず生き続ける。延々と、永遠と、存続し果てて、果てもせずまた在るだろう。

 潔さの対極へと進み続けるだろう。

 

 ――――この人を置いて

 

「――――」

 

 それは背骨を震撼した。骨の髄から発し、肉を叩き、皮膚を粟立てた。

 歯の根が合わない。身体は(おこり)を発症している。寒い。現実の外気が肉体より熱を奪うのではなく、幻想の、心の奥底から霊魂が凍てついていく。寒い。寒い。寒い。

 恐怖という病に、藤原妹紅(わたし)は罹患した。

 こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい。

 

「…………ぁ、ぐ、ぅ、う、あ」

 

 両肩を抱いて蹲り、苦悶を押し殺し、噛み殺す。

 賢しらに、自分は何と言っていた。彼に自分は何と言ったのだったか。

 喪に服し、死を悼み、思い出に変える?

 年長者面で大層な壮語を吐いたものだ。恥を知らぬ。

 とんだお笑い種だった。

 今や自身がこの有り様。

 今更、おそろしいのか。ひとりで行くのがおそろしいのか。ひとりで逝かれるのがおそろしいのか。

 

 ――――おそろしい

 ――――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!

 

 さんざ、見てきた。看取ってきた。送ってきた。

 姉にそうするように懐いてくれた者もある。慧音に因んで先生と呼び慕ってくれた者もいた。母のようだと言ってくれた者も。

 善き人々、親しんだ人々、大なれば小あらじ関わってきた誰も彼も。

 死んでいった。

 慣れきり、馴れ親しみ、飽ききったとさえ嘯いておきながら。

 

「貴方は……貴方だけはっ、いやぁ……!」

 

 どうしようもなくやはり、堪えることとて能わずやはり、恥知らずに口をつく。その拒絶。この不実。

 生と死は等価也などとさも達観に至った風を装っていた。

 声もなく喚く。彼の死がこわい。彼と別れるのがこわい。ひとり残されるのが、こわくてこわくて堪らない。この痛みは耐え難い。一瞬たりと耐えていられない。

 知っている。こんな我が儘は通らないと。いずれ死は、尋常に、彼の命を持ち去るだろう。なにせ死は、普く人々に平等。だからこそ人は葬儀を尊ぶ。別離の痛み、悲しみ、苦しみを、大勢が分かち合うことで、互いを労わるのだ。平等なる死に、人々が向き合う為の……。

 ……死が、平等? 馬鹿な。戯言を。死とは理不尽の別称だ。そんなものを分かち合ってどうなるという。分かち合えば痛みが和らぐとでも言うのか。そんな筈はない。そんなことはなかった。なかったのだ。数多の死に直面し、見送り続けて千余年。別離の痛みは、針と成ってこの胸を刺し続けている。死と別れの数だけ、針は増える。増えて増えて、もはやどこにも刺せない。藤原妹紅という名の(むしろ)はずっと血塗れだ。

 知って、知り尽くしたと思っていた。痛みも、悲しみも。

 でも違った。こんなものは知らなかった。嘗てない。

 知りたくなど、なかった。知らなければよかった。こんな、こんな気持ち。

 もう無理だ。もはや無理だ。

 お願い。お願いします。許してください。彼だけは許してください。

 

 ……一度、それを味わった。

 

 目の前で、血溜まりの中、ただの肉の塵屑に変わっていく彼を見た。喪う痛みを、死の針……否、剣がこの心の臓腑を抉り貫いた。新鮮な痛みを味わい尽くした。

 その結果はどうだ。

 ――――耐えられなかった。私は、耐えられなかった。

 今までのように、これからのように、できなかった。一人の、ただの親しかった誰かとして、数多の誰かのただの一つとして、彼を。

 思い出になどできなかった。

 できなかった。だから、()()した。

 

「は……はぁ……はっ……」

 

 浅い呼吸を繰り返す。肺に石でも詰まったように、吸えど吐けど空気は体に満ちてくれない。

 

「……」

「……っ」

 

 気息の乱れを聞き取る。今度のそれは、自身の喉からではなく、隣から。

 寝相も良く眠る彼の、左目の瞼が震えている。

 先程から自分の奇態は随分と喧しかったろう。意識が微睡の浅瀬へ浮上しようとしているのかもしれない。

 そっと、指先で青年の額に触れた。

 なるだけ優しく、丁寧に、穏やかに――――(しゅ)を掛ける。

 何も難しいことはない。意識を深みへ、眠りの深海へそっと沈める。児戯にも等しい術だ。

 これで、彼は朝まで、何があろうと目を覚まさない。何があろうと。

 何を、しようとも。

 

「――――」

 

 布団を剥いで、仰向けの彼に馬乗りになる。

 寝間着の浴衣の前身頃、その隙間に手をするりと忍び込ませる。胸板は適度な弾力があり、脇にゆくに従ってより筋肉の盛り上がりを感じられた。胸骨の内側、その下で、脈打つ心臓の鼓動を感触として覚えた。

 まるで生命の所在を、叫んでいるようだった。

 耳を押し当てる。その絶唱は言い様の無い安堵をこの身にもたらした。

 唇を、鳩尾に這わせる。肋骨の凹凸を唇縁の先に感じながら、ゆっくりと胸を登る。鎖骨を食み、一本の骨の形を粘膜で咥えて確かめる。

 喉仏は唇全体で覆い、すぼめるようにして吸った。喉を刺激された所為だろう。青年は僅かに鼻から吐息を零した。

 左手で鰓骨を下からなぞり、締まった頬肉を指の腹で撫でる。そのままさらに登って、耳たぶを弄った。その柔らかさを楽しんでから、耳輪の縁に指を這わせ――――

 

「…………」

 

 手を止めた。

 その、歪な感触に。

 耳の上端、その耳輪の三分の一ほどが欠けている。集音の為の薄い軟骨が、そこだけそっくりと失われている。

 噛み千切られたのだ。

 獣に、ではない。あの猿の妖怪でもない。

 あの女。妖怪の女に。

 

「あの女…………あの(アマ)ァ……!!」

 

 風見幽香。あれが為さしめた。この所業を、暴挙を働いた。

 彼の血肉を掠め取った。

 まるで取って置きの菓子でも摘まむように、彼は我が物であると(のたま)う傲岸不遜な様で。

 穢らわしいあの口が、歯が、舌が、彼の一部を削いでいった。

 よくも。

 よくも損なわせたな。よくも、彼の、代えの利かぬこの、唯一無二の、血と皮肉を。

 よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも、よくも!!

 

「く、あぁ、もう、こんなに、残り少ないのに……!」

 

 今や片腕は裁たれ片目は抉り取られた。彼を彼足らしめる物的正銘である五体は四割もの喪失を余儀なくされている。

 奪った。汚辱した。

 もはや消えない痕跡。彼は犯されてしまった。侵されてしまった。

 あの、女に。

 

「…………消毒」

 

 あの女の痕跡、形跡、残り香、全て消し去らなければ。

 微かにでも残せばきっとそこから彼が腐って落ちてしまう。ああそうだそうに違いない。

 

「消毒しなくちゃ……」

 

 ぢ、ぢ、指先から鈍い音が鳴る。空気が焦げ付き、僅かな塵や水気が炙られ煙を立てた。

 些細な手妻に過ぎぬ火術。

 左手の親指、人差し指、中指が、赤熱すら超えて白化する。

 これが一番。こうすれば、あの女の菌を滅却できる。

 炎熱する三指で、欠損部に触れた。

 先程とは比べ物にならぬ焦熱の音色。動物の肉の焼ける臭い。

 

「こうすれば大丈夫、大丈夫だから……大丈夫、大丈夫、菌も毒も消える。綺麗になる……綺麗に……」

 

 赤く皮膚が爛れ崩れ、血が泡立って蒸発する。鉄の臭いが彼の()()に混じって香った。

 ああ……なんて、(かぐわ)しいのだろう。幾度嗅いでも堪らない。幾度嗅いでも飽き足りない。

 生きている匂い。彼は今、この瞬間、確実に、生きているのだと、この世に在るのだと実感できる。

 彼の耳を焼いて夜毎九十一回を数えてなお、この実感に勝る悦楽はない。

 

「すぅ……」

 

 一息、彼の実存を認めた。

 そうして彼の耳から指を離して、もう一息分、呼吸した時。

 

「――――あ」

 

 気付けば香りは失せていた。鼻腔を掠めるのは庵に満ちる夜気ばかり。

 濃密に漂った彼の匂いはもはや無い。勿論、彼は今もって床の内で寝息を立てている。

 消えて失せたのは、匂いばかりでなく。

 耳には、火傷が無かった。爛れた皮膚の泡立ちも、裂け割れたそこから流れ出ては蒸発する血潮も無かった。赤みすら消えて無くなっていた。

 歪な形の耳が、ただそこにある。まるで、何事も起きていない、そう嘯くように。

 

「……は」

 

 なんのことはない

 ただ、元に戻ったのだ。

 見慣れた光景だ。もはや馴れ切り飽き切った。

 自分と同じ。同じ。

 

「おんなじだぁ……は、はは、あはっ……は」

 

 仄暗い悦びが胃の腑を満たしていった。

 火を吹くほどの酒精めいて、それは強い陶酔を心身にもたらした。

 

「は、はは、は……ぁ、あぁっ……あぁ……う、ぁ」

 

 躁病のような笑声に、汚ならしく混じる呻き、喘ぎ。

 笑いながら、両目からは涙が溢れた。笑いながら、喉奥からは嗚咽が溢れた。

 彼も同じ、私と同じに、同じ……この身と、同じに、してしまった。

 私が、変えた。そうさせた。

 彼から正しい命を、死を奪い去った。

 蓬莱の永久。終わりない牢獄。不滅(ほろばず)の呪い

 この罪を、咎を、業を――――心底思い知りながら!

 

「ごめん……ごめんね……ごめんねぇっ……」

 

 この謝罪の言葉に何の価値もないことを知っている。

 口で、涙で、免罪を請いながら、私はさらなる罪を重ねようとしている。

 毎夜毎晩、重ね続けている。

 そして、今宵も。

 

「……」

 

 こんなことはしてはならない……内なる理性は言った。良心は呵責され、我が身の不正義を声高に叫んだ。

 禁忌。間違いなくこれは、絶対の禁戒に処すべき行為。

 あるいは殺人に匹敵する大罪だった。

 この罪深さの最たる点、それは自分が()()を承知していることだ。

 死ねぬ、終われぬ、この地獄を、自分は骨身に、魂に、思い知り味わい尽くしているということだ。

 だのに、それを強いている。自分と同じ場所へ彼を引き込もうとしている。

 あまつさえ意識を奪い彼の認知を無視し自己一身の都合で。恐怖に、駆られるまま。

 

「……っ……っっ……!」

 

 何度も何度も止めようとした。何度も何度も。毎夜毎夜、彼と共に床に入る時、幸せを腹の奥底に受け取る刹那。一瞬一瞬に。これでよい。これだけで十分。そう言い聞かせて眠る。彼の寝顔に、万感の想いで胸を満たして。いや、満たされてしまうからこそ。

 駄目だった。諦めることが、どうしてもできなくなる。

 できない。できない、なら。

 いっそこの地を去ってしまおうかとすら考えた。

 彼の前から居なくなってしまえば、そうすれば、彼は、人としてその生を終えられる。真っ当な、ただの、普通の人として。

 そんな真似ができないことも、既に知れた話。

 眠る彼に跨り涙を流しながら耳を焼き不死力(リザレクション)付与の成功に歓喜し嗚咽し自己嫌悪にまた涙する……私は狂ったのだろうか?

 狂って、頭が捻じ繰れたからこんな所業を働いている。そうであったならどれほど良かったろう。

 でもそうではなかった。

 全ては私の意志、私の願望、私の蛮行。

 私は彼を喪いたくない。永遠に。

 ただ、それだけなのだ。それだけだったのだ。

 

「…………」

 

 そうして、帰結に至る。

 私は今夜も、罪を行う。

 帯を解き、肌襦袢の前を開ける。胸の谷間から臍の下までうっすらと汗を掻いていた。ひやりと夜気が素肌の熱を拭き去った。

 右の脇腹に指先を添える。爪が皮膚にめり込み、指の第一関節まで腹筋の隙間へ沈んだ。

 そのまま。

 

「……………………」

 

 そのまま突き入れればいい。簡単なことだ。躊躇いさえしなければ腹を抉る程度造作もない。それが素手であってもだ。

 そのまま、突き入れれば。

 

「……ッッ」

 

 今更。

 今更、躊躇するのか。

 散々、この奥に据わる臓物(はらわた)を彼に喰らわせてきた癖に。

 今更!

 …………けれど、けれどまだ、引き返せる。

 彼の不死は未だ不完全だった。

 彼は未だ蓬莱人に成りきっていない。

 肉体の再生能力は確かに、人外の領域に達しているだろう。しかしまだ、完全な不老不死には至っていない。

 これは蓬莱の境地に身を置く者にしか解らぬ感覚だ。蓬莱山輝夜、八意永琳、そして自分自身、この三者にあるものが、彼にはない。

 『永遠』という病に魂が罹患していない。

 ……厳密には、この表現も適確とは言えまい。というより表現の仕様がない。それを持つ者と持たざる者を自分達はどういう訳か見分けられる。ただそれだけ。

 今まで分け与えた血肉の量だけでは、彼を蓬莱人に転生せしめるにはまだ足りないのだ。あるいは……肝を食べさせるだけでは、届かないのか。

 ――――それはわからない。わからない。わからない。わからないわからない。わかりたく、ない――――重要なのは、彼がまだ真人間であるということ。

 今止めればそれで、彼は純粋な、死ぬ人間でいられる。

 その一事実。

 止めてしまえばいい。こんなことは、今夜限りすっぱりと。

 このまま、彼の隣に寄り添って眠りにつく。それは素敵だ。幸福の続きだ。彼の体温と匂いに包まれて、穏やかな夜を。

 静かで、麗らかな日々を、健やかな生を。

 このまま。

 

「……ごめんね」

 

 それでもなお罪を犯す私を、こんなにも愚かな私を、どうか、どうか。

 罪を知り、恥知らずに、この手が脇腹を破る――――破ろうとした、この手に。

 その手が重なる。

 

「――――へ」

「……」

 

 大きく分厚い掌が、私のそれを包み込む。

 間の抜けた声を漏らして、反射的に眼下を見やった。

 その左目と目が合った。

 昏睡のさらに暗闇へ押し沈めた筈の彼が、彼の目が開かれて。

 こちらを、見ていた。

 

「ひっ、ぃ……!?」

 

 彼の上から仰け反るように跳ね退く。

 尻から床にへたり込み、にじり下がる。

 まるきり恐慌の体で、みっともなく、情けなく。

 見られた? 知られた? 自分の、所業を、この罪悪を。

 

「ど、どう……して……なんで」

 

 疑問は当然に口をついた。問い質せるような立場にこの身がないことを忘れて。

 彼は起き上がり、正座でこちらと相対した。表情は、ひどく穏やかだ。いや、そうであって欲しいという卑小な願望がそんな幻覚を見せているだけかもしれない。

 彼の貌を直視できない。

 

「……妹紅さん」

「っ!」

 

 心臓が跳ね躍る。卑怯な手段で秘め隠してきたこの行為、そこに付随した(おどろ)のような後ろめたさがここぞとばかりに身も心も刺し苛んだ。

 自分の名を呼んだその口が、次に何を言うのか。それが怖い。どんな呵責だろう。どんな罵詈雑言だろう。

 石のように身を固める自分に、彼は。

 そっとこちらに手を伸ばし、襦袢の前身頃を寄り合わせようとする。

 見れば、胸も腹も、その下も露わにして、仰け反って座り込む自身の有様は、あられもないというより品がない。それを、彼は気にして。

 

「……」

「……」

 

 左手はともかく、無い方の右手では衿を直すだけのことが、やはりどうにも難しいようだ。

 す、す、と。幾度が丸い右腕の先端が肋骨のあたりを撫でる。もう数回ほど、それを繰り返した後。

 結局、彼は着物の乱れを諦めて、私の背中に左手を回した。

 ぐっと引き寄せられ、尻餅を付いていた身体を抱き起される。

 

「……」

「んっ……」

 

 この身が無事引き起こされても、彼は回した腕を解かなかった。

 それどころか、両腕はより強く、この身体を抱き締めるのだ。

 どうして。

 

「どうして……?」

 

 また、呆けたように呟いた。疑問の体裁をしていたが、実際のところ自分が何を問うているのかも定かではない。

 罪悪感と羞恥心でただただ胸が潰れそうだった。

 

「自分にも、自分の肉体の変化について正確な説明は叶いません。ただ……おそらく」

 

 彼は依然として穏やかに。

 

「力を帯び始めたのやもしれません。妹紅さんと、同じ力を」

「……っ」

 

 息を呑む。彼の胸の中で、肩身を縮める。

 己で犯した罪業を、事実として指摘されて、核心を衝かれて全身全霊を動揺させる。

 そんな甘え。

 

「それが抗力となって、呪術の類に耐性が生まれたのでしょう」

「いつ、から」

「……ここ一月ほど」

「ッッ!?」

 

 一月?

 一月もの間、私は、私は。

 彼を眠りの深みへ閉じ込めたと思い込み、その耳を火炙りにして、あまつさえ……あまつさえ。

 

「わた、し、私、あぁぁああぁっ、私は、貴方を……!!」

「よいのです」

「よくないっ!!」

「いいえ、よいのです。妹紅さん」

 

 加害者が、罪を棚に上げて厚顔無恥に喚き散らしている。

 被害者は、どうしてか静謐なまま、この罪科をまるで壊れ物に触れるかのように優しく包み、労り、撫でるのだ。背中を擦り、柔く叩く。赤子にするのと同じほど、それは優しく。

 やさしい声が降ってくる。

 

「それが自分の望みです。以前申し上げた通り」

「望み……」

「はい、貴女の()()()()()()()()。それが自分の切望です」

 

 気負いも(てら)いもなく、彼は言った。言い切った。

 

 ――――あぁ

 

 わかってる。

 それが。

 これは許されない。

 それが、けれど。

 こんな感情を今、この瞬間ばかりは、抱いてはいけない。

 どうしようもなく。

 これほど悪辣なことはない。我欲に大切な人を穢しておきながら、こんな、こんなものを。

 為す術もない。こんな喜びは他にない。

 慈愛に、抱き竦められている。どうしろというのだ。なにができるというのだ。

 

「……ダメだよ」

「自分は容認します。いえ、歓待いたします」

「貴方は……わかってない。蓬莱人に成るってことが、どういうことなのか……」

「確かに、己の理解は十全ではない。しかし、それでも構いません」

「不死がっ、死ねないってことがどんなにっ……どんなに惨いか……!」

「想像を絶するものと愚考します」

「絶対に後悔する! どうしてくれるんだって、なんてことしてくれたんだって! 貴方は私を憎む! 憎んで、憎み切った後に、殺してくれって! ……殺せ、って、懇願する……」

「あるいは」

 

 彼の胸板に爪を立てる。皮膚を裂いて、五つの傷から血が滲み出た。

 自分の仕出かしたこの有様に、何故か自分の方が彼に思い留まれと懸命に説得を重ねている。

 どうして、こうなったのだったか。それすらも曖昧になりつつあった。

 彼は離してくれない。私の身体を掻き抱いたまま。放せば最後、私が消え去ってしまうとでも思っているかのように。

 彼はきっと、もう二度と、私を離さない。

 それは私の願望?

 それとも。

 

「魂が病める時が来るやもしれません。悲しみ、心貧する時が来るのやもしれません。しかし……一つだけ、確かなことがある」

「…………」

 

 左手は背を昇り、私の頭をそっと撫でた。

 

「死が二人を分かつことだけは、永遠にない」

 

 彼は言った。そこにはやはり、気負いも衒いもない。それはまるで、とっときの冗句を口にするみたいだった。

 

「俺はその事実に心底、安堵します」

 

 ただの言葉遊びだ。

 私を安心させる為の、戯言。

 

「……バカじゃないの」

「そうでしょうか」

「バカだよ、貴方」

「そうかもしれません」

 

 私の為の、彼の誓い。

 

「ばか……」

 

 本当に愚かなのはどちらか。本当の罪人はどちらか。それはどこまでも明白だった。

 けれど、どうしようもないのは彼も同じなようで。

 救いようのないバカな私達は、きっと、初めから、お似合いだったのだ。

 そっと、頭を撫でていた手が頬に触れる。指先は丁寧に、私の両目の涙を順々に拭った。

 

「今夜も為さりますか」

「……」

「では一つ、お願いがあります」

「お願い……?」

「はい」

 

 彼の手が頬を滑り、首筋、そうして自身の右の脇腹を柔く撫でる。

 

「ん、ぁ」

「素手で肝臓を抉り出すが如き真似は、もうお止めください」

「で、でも」

「貴女に、どれほど優れた再生能力が備わっていようとも……その痛みは本物なのです。傷が消えて無くなろうとも、流れ出た血さえ消えて失せようとも……もう御自身を責め苦しめるのはお止めください」

「…………」

「約束していただけますか」

 

 真っ直ぐな左の眼差しが、私の奥底を縫い留める。

 それは、それこそ、懇願のように。

 

「……はい」

 

 痛みも傷も全てはペテン。血を流すという行為にいつからか慣れ切り、飽き切った。私のそれに価値などないのだと。

 ――――でも彼は、それに価値を見出してくれた。自分の痛みの如く、それを大切に、大切に触れてくれた。

 だから私には頷くより他に為す術はなかった。この目にはそんな力がある。いや、私が参ってしまっている。それだけのこと。

 

「……どう、したら、いいかな……包丁?」

「食肉解体用の小刀に、確か未使用のものがあった筈」

「じゃあ……それで」

 

 革鞘に納められた肉厚の小刀を彼は取り出し、熾した火で刀身を炙る。

 その程度の炎に刃金は当然ちらとも焦げず、鈍い銀に月光の蒼が纏い付く。

 彼は私の脇腹に刃先を添えて、止まる。

 

「…………」

「……大丈夫」

 

 その躊躇はただ、愛おしかった。

 

「ありがとう」

「……ゆきます」

「いいよ……来て」

 

 彼の左手に、今度は自分の手を重ねて、一緒に。

 刃が腹を切って裂いた。

 私と彼と、二人の手で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も高いというのに、風は肌を凍てつかせるほどに冷たい。足下から背骨を貫き頭の天辺へ、見えない氷柱を差し込まれたようだ。

 空は薄曇り。なるほどこれでは陽光も意味がない。

 羊毛で編んだ襟巻きに顔を埋めて背中を丸める。

 振り返ると、玄関先まで慧音が見送りに出てきていた。

 

「猫背は身体に悪いですよ」

「無理、寒い」

「まったく」

 

 呆れ深いその溜め息は白い。

 子の薄着に気が気でない母といった風情。

 

「何年経っても子供扱いだね」

「何年経っても子供のようなのでね」

「……ぐぅ」

 

 ぐうの音を漏らして見せると慧音は笑った。

 

「何か持っていきますか? 果物か、饅頭でも」

「いいよ。行き掛けに花でも買っていく」

 

 肩掛けを寄り合わせ、ふと物思うような仕草で彼女は虚空を見上げる。

 

「人の一生とは斯くも、短いものだな」

 

 そうして空模様を確かめるような口振りで呟いた。

 反駁は浮かばなかった。なにせ一言一句その通りなのだから。

 

「じゃ、また」

「ええ、また」

 

 軽やかに片手を振って、振り返りもせず寺子屋を後にする。

 いつもの風景。

 そしてこれも――いつか終わる風景。

 

 

 

 

 

 人里の西。紅も薄らいだ山の麓にその墓地はあった。石組みの塀に囲われた広大な土地、山肌の勾配にもたれ掛かるようにして段々と墓石が山を連なり登っていく。

 里で生き、里で死んだ者らは皆ここに眠る。幻想郷の未来に人が絶えないなら、これからも墓石は積み上がり、今望むこの山さえいずれは覆い隠してしまうだろう。

 人とは斯くも儚いゆえ。

 坂を上がった一等上、真新しい墓石がある。岩を削りだした荒い楕円。その前には花や酒、菓子が置かれ、線香は未だ赤く灯り続けている。燃え尽きた先端から糸のように煙が立ち上っていた。

 当然だ。今日が納骨なのだから。

 行き掛けに見繕った白椿を端に添え、手を合わせる。

 

「……」

 

 別れの言葉を幾らかと、先に逝った皆に宜しくを言伝てる。

 そして懐から一本、手製の紙煙草を取り出し火を点けた。これも香炉の、他の線香の端に埋める。

 

「禁煙、きつかったろ。あの世で存分に吸うといいよ」

 

 一吹き、木枯らしに紫煙が(くゆ)った。喜んでいるらしい。

 自身も一吹き笑って、立ち上がる。

 そうして今日もまた一つ、別離を済ませた。

 

「…………あ」

 

 墓石をただ呆と眺めること暫し、流れた煙越しにそれを認めた。

 眼下の坂を一人、上ってくる者があった。

 白い襯衣(しゃつ)に、黒い洋袴(ずぼん)。そして上から角袖の黒い外套を羽織った青年が、ゆっくりと歩いてくる。

 待ち受ける私を今度は彼が認めて……微笑む

 

「妹紅さん」

「遅かったね」

「申し訳ありません。昔話に、花が咲いたもので」

「ふふ、それじゃあ仕方ない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 線香を上げ、合掌する。今日はこれで二度目になるが、この墓の主は許してくれるだろう。

 傍らに同じく妹紅さんが屈み込んだ。消え掛かった蝋燭に指先の火で加勢しようとしている。

 

「九十八だっけ?」

「はい、大往生でした」

 

 亡くなった老爺は、先々月の誕生日で九十八歳を迎えた。

 晩年は認知症が進み、息子夫婦や孫らのことも随分と曖昧になっていたが。

 けれど老衰で碌々床から動けなくなった老爺を己が見舞うと、彼はとても無邪気にはしゃいだ。

 彼は盛んに『その日』あった出来事を語って聞かせてくれた。山で茸狩りをし、里で友人らと遊び回り、母の手料理の美味しさを自慢し、父の普請場で木工細工を作って褒められたことを喜んだ。

 そして。

 

 ――――ごめん、兄ちゃん

 

 沢山の思い出を語った最後、彼は必ず己に謝るのだ。

 

 ――――オレのせいで、ごめんね。手、痛かったよね。目、もう見えないんだよね。ごめんなさい。オレのせいで、ごめんなさい。ごめんなさい

 

 頻りに詫び言を繰り返して、涙を流して、病床を起き上がって頭を垂れようとする。

 それを柔く押し止めて、己は頷く。もうよいのだと。君は何も悪くないのだと。

 ふと見やれば彼は、あの頃のままの、在りし日の八歳の少年だった。

 父と同じ職人の道へ進み、遂には大工の棟梁にまでなった。立派に成長し、妻を娶り子を儲け孫まで授かった。

 彼は懸命に生き、生き抜いて、そして死んだ。

 その価値を誰が疑おう。その生涯を尊く思う。

 十分だ。十分過ぎる。その事実だけで、この身は十分以上に報われた。

 

「……」

 

 その時、右頬を(くすぐ)るその視線。少女の眼差しを右半分の闇の奥に感じ取った。

 彼女はひどく、躊躇いがちに。

 

「辛い……?」

「いいえ」

「…………後悔……してる……?」

「いいえ」

 

 はっきりと言える。否やと。

 彼女は、けれど、なお逡巡して。

 

「寂しい……?」

「……」

 

 即座には、言葉がなかった。否やとは、言えなかった。

 喪った人々を想う。

 何故なら彼ら彼女らは、確実に、切実なまでに、大切な存在だから。

 しかし同時に思う。彼ら彼女らは、それぞれの人生を懸命に、全力で生き抜いた事実を思う。その尊さを、己は知っている。

 辛くはない。後悔など微塵もない。けれど、悲しくないとは言えなかった。寂しくないと嘯くことはできなかった。だから。

 その場に立ち上がり、彼女へと向き直る。そして己に残された、遺された左の掌を差し出した。

 

「少しだけ」

 

 ほんの少し強がって、己は彼女に笑い掛ける。

 妹紅さんは笑ってくれた。いつかの、慈悲深い女神のような貌で。

 

 

 

 

 ――――貴方が完全な不老不死になった保証はない。蓬莱人の気配、それを纏っていたとしても、ね? 不確かな方法で成ってしまった貴方は、不確かな長寿を手に入れた。それは今から一年後かもしれないし、さらに百年後になるかもしれない。もしかしたら……明日にでも、貴方は死ぬかもしれない

 

 八意医師は、あの酷薄な笑みを浮かべて、また実験用鼠を吟味するように言った。

 不可視の死期。その鎌の刃先は常に、お前の首元に在るのだと。

 

 ――――ああ、もし死んだら、その時は遺体を引き取らせてくれない? 蓬莱人の肝を喰らって不老長寿を得た地上人。検体としてこれ以上に興味深いものはないわ。きっと幻想郷の医術の発展にも繋がる。どうかしら?

 

 研究者としての使命感と好奇心を溢れさせて、明日の夕食の約束でも取り付けるように訊ねてくる彼女に。

 迷いなく、己は首を左右する。

 

 

 

 

 

 

 墓地からの帰路。紅葉も落ち切った林道を二人、連れ立って歩く。

 不意に、妹紅さんは空を見上げた。

 

「あ……」

「……もうそんな時期でしたか」

 

 重く垂れこめた雲の合間から、ちらちらと零れ落ちてくる白の綿毛。

 彼女と望む、九十回目の初雪。

 

「帰ろう」

「はい、帰りましょう」

 

 帰路をゆく。彼女と共に。

 生きてゆく。彼女と共に。

 その右手を取って、永遠を目指して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 苔生した茅葺の屋根には所々に穴が穿たれ、降り頻る雪は吸い込まれるようにその伽藍洞に落ちていった。

 人気が失せて久しい屋内。人が住まねば廃れる家も、植物らにとっては良い風除けの籠。

 床板を、土壁を突き破って木々や草が生い茂っている。

 ――――異なる光景であった。

 今は冬本番。草木はよしんば枯れずとも息を潜める寒冷の時節。その最中に在って、ここでは全てが青々としている。

 花が、咲いている。

 色とりどりに咲き誇り咲き乱れ夥しくあらゆるものを覆い尽くしている。床であったもの壁であったもの机や棚や竈や柱。

 全て尽くに花が付き、そして憑りついていた。

 満開の花畑を収めた小さな空間、その中心に。

 その女生はぺたりと座り込んでいた。

 

「…………そう」

 

 色の無い貌。無感情な、能面のような顔で、瞳ばかり妖しく、紅く光っている。

 

「ここへはもう帰ってこないつもりなのね。ふふ、ふふふふ」

 

 約束をすっぽかされて待ち惚けを食った。そんな口調で呟いて、女は笑った。

 

「く、ふふふ、百年近く待ってあげたのに……わかってなかったのね。わからせないとダメなのね。貴方にも……あの女にも」

 

 ふわりと、風に乗った蒲公英(たんぽぽ)の綿毛めいて女が浮き上がる。

 空中から重みを忘れたかの軽やかさで着地し、おもむろに日傘を手にする。逆手に携えたそれの先端で、とん、と床板を叩いたその刹那。

 溢れ出す。

 深緑のうねり。膨張。拡大。爆発にも等しい破壊力で。

 植物が群体となって伸び上がり、小屋を粉砕した。

 その頂に立って、女は笑う。愉快の対極、あるいは急転直下を穿孔した感情――――憎悪を滾らせて。

 

「ソレが誰のモノなのか」

 

 冬空を望みながら、風見幽香は微笑する。

 

「丁寧に丹念に徹底的に教え込んであげる。私はとっても、親切だから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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花の君が愚劣な男に救いを伸べる話(風見幽香√)


ヤンデレ幽香×外来人の青年



 

 

 

 

「――――膝から下は要らないわね」

 

 向日葵が咲いていた。

 冬野に向日葵が咲いていた。

 黄金色の花弁が形作る円環の内側に、筒状花が中心から燃え広がる炎のように拡散し、そのさらに内側では雄蕊を包み込むように雌蕊がラッパ状の小さな花を開いている。

 無数に、夥しく。

 

「家の坪庭の花壇の、一番日当たりのいいところで、浅植えにしてあげる」

 

 間近にすれば殊更に、その構造の複雑さがよく解る。異なる形をした二種の花弁が、工業製品の如き均整で、人工物には非ざる美しい円環を描き、花として完成している。これは自然物の不可思議、自然界に数多存在する奇跡の産物の一つに他なるまい。

 向日葵畑であった。

 地上が、全てが、向日葵によって覆い尽くされてしまったかのような、そんな世界。

 

「朝顔や桔梗や、アネモネ、チューリップ、撫子、薔薇……それに向日葵。貴方の隣に、たっくさん植えてあげる。毎年毎年に色とりどりの子らで飾ってあげる。だから」

 

 頭上に広がる空と、眼下を埋める黄金色と焦土色。世界は二分した。向日葵とそうでないものに。

 向日葵達の顔全てが、日輪ではなくこちらを向いている。それは、この世界における紛うことなき異物たるこの身を責め苛む()()のようでもあり……世界と合一出来ぬこの身を、醜し痛ましと、憐れむようでもあった。

 その呵責と憐憫の花畑に、一輪、異なる形をした花が在る。

 深緑の髪をして、赤いチェックのジレと揃いのロングスカートを纏った、女性(ヒト)の形をした花が一輪。佇みこちらを見据えている。

 

「どこへも行かなくていいの。私の花園の中で、ずっと咲いていればいいの」

 

 紅い目が細められ、彼女はうっとりと笑った。

 喜悦を滲ませて、笑った。

 

「お前は私だけの花だから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 里の外れに位置する元百姓家。俺は今ここで日々生活を送っている。

 外来人。そう呼ばわれながら。

 行く当ても伝手も、金子に代わる蓄財とて持ち合わせの無いこの身に、里の上役方がここを宛がってくださった。取り分け、いやひとえに、誰あろう上白沢慧音教諭の……素朴に先生とお呼びする方が彼女の謹厳実直な為人(ひととなり)には相応しいやもしれぬが……かの御人からの御仲介あったればこそである。

 とはいえ、訪れた当初、小屋は忌憚なく言って荒ら屋同然であった。床板を張り替え壁の穴を塗り込め、屋根を葺き直し通り雨にさえ漏る天井と格闘を続け、打ち捨てられて久しい耕地の名残に鬱蒼と身の丈ほども生い茂った草を手鎌で刈る。

 現代では経験することのなかった重みの肉体労働だった。嘗てない疲労と消耗。泥のような眠りとはこのことかと驚いたもの。

 ……いや、これは弱音以外の何物でもあるまい。現代でも、農作業や造林業、所謂芝刈りさえ数は衰えども未だ産業として廃れていない。

 体たらくと揶揄されたとて反論の余地はなかった。

 秋口の空っ風に吹かれて己が非力を嘆くこの頃。茫漠とした枯木に賑わいなど覚えたろうか。しかして予兆など欠片すら覚えはしなかったが。

 思いがけず、己はその光景に出会った。

 

「……」

 

 小屋の裏手はすぐ林に行着く。そこからさらに、轍か、あるいは道の名残を踏んで奥へ進めば、叢を割るようにして小川が流れている。

 近く屹立した山の、頂から麓のここまで流れ落ちた湧水は実に清く、また澄んでいた。以前の住民も飲料を始めとした生活用水はここから汲み上げていたようだ。

 己もまたそれに倣うとしよう。そのような腹積もりを立てた、その時。

 

「! これは……」

 

 小川から程近いそこには、木々の枝葉が円く切れ間を作っている。木漏れ日と呼ぶには広く、拓地と呼ぶには猫額な。

 花だった。

 陽の光に白く淡く煌めき、その表面にほんの微かに薄い緑が階調(グラデーション)を吹いている。小造りな花弁、色合いも大人しい。花と茎と葉と根を全て取っても片手に余る。それは小さな花。

 けれど驚くほどに、美麗な花。

 一坪に満たないそれはそれは小さな花園が――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 住まいを整える為の悪戦苦闘も早半年前のこと。

 そこから今に亘って、我が家の住み心地は一向悪くない。いや、至って良好と言える。

 己の、日本史の資料集を流し見た程度の浅い知識に照らすならば、果たして。

 幻想郷の文明の水準(仔細には人間生活に介在する科学技術の水準であるが)は、日本の戦前、それも明治初期のそれに近しいと思われる。ふんだんに西洋の気風を取り入れられ始めた文明開化。この世界に広がる景色は、まるでそこから逃れ逃れて歴史のある一点を、一時代を固定化したかのようだった。

 炊事一つとっても勝手が違う。薪の用意から焚き付けに漕ぎ付けるまで半日かかった時もある。なるほど苦労が少ないと言えば嘘になろう。

 しかしそれを差し引いても、この地での暮らしを厭う心持ちは僅かにも抱かなかった。

 あるいは、この労苦が――――忘れさせてくれるのか。

 己の愚昧な、自己憐憫を。

 

 

 

 

 日没間際。

 茜が夜闇の黒で色彩を深く、血糊の如くに変える頃。

 

 

「……」

 

 竈に火を熾し、鉄鍋を置く。

 葱と牛蒡(ごぼう)をたっぷりと刻んで入れ、鮮やかな赤と桃色をした鶏肉を、昆布と鰹の合わせ出汁に、醤油や酒、味醂で味付けした。

 軍鶏鍋である。

 我ながらなんとも豪勢な夕食であった。

 独り身ゆえの財布の紐の緩さ、と。倹約家な人々からはそれこそ軽はずみな贅沢に眉をひそめられそうだが。

 今夜ばかりは御容赦願いたい。

 不意に、玄関戸が控えめに叩かれた。

 

「はい、只今参ります」

 

 手を布巾で拭って戸に向かう。誰何の必要はなかった。山陰に日が完全に隠れるこの頃合い、約束の時刻と寸分違わぬ。

 板戸を引き開ければ、果してそこに彼女は居られた。

 

「……こんばんは」

「こんばんは、博麗さん」

 

 赤橙色の名残見ゆる薄闇を背に、目にも鮮やかな紅白の装いで佇む少女。

 巫女衣は肩袖を落とされているが、肘から先にはきちんと振り袖がある。

 似た造りをしたものとして、水干と呼ばれる狩衣を思い出す。平安貴族の公服だったか……が、彼女のそれは寡聞にして己の狭域な知識には無い衣裳であった。そして実に、アバンギャルドな意匠であった。

 個性際立つ出で立ちに違いあるまいが、しかしそれは、彼女の見目麗しさを一抹とて損なうものではない。いやさ、むしろなお一層に華やぎ、映えさせている。

 現代人的に言えば、画面の向こう側で脚光を浴びて然るべき容姿。彼女に対する、至極控えめな評がそれであった。

 

「どうぞお上がりください」

「うん……お邪魔します」

 

 なにやら僅かにはにかんで、少女は敷居を跨いだ。

 

「ここのところは夜にもなると、随分と冷えます」

「そうね、季節の変わり目……あぁ節目はとっくに過ぎてるかな」

「そうやもしれません。日差しの有り難みを痛感いたします」

「ふふ」

 

 しみじみと頷く己は滑稽で、どうも可笑しかったようだ。

 くすくすと少女は笑う。

 牧歌的な、穏やかな光景であった。どこまでも快い一時であった。

 

 

 御近所付き合い。そう呼ばわるには、彼女の自宅であるところの博麗神社はここからあまりに遠過ぎるだろう。

 食事会。それも少し、仰々しい響きを覚えた。

 彼女には恩義があった。不幸にも、普請の最中(さなか)に妖怪の襲撃に晒された人里の外れ。そこで逃げ遅れた男児を助けようと――――試み、見事に失敗を果たした無様な己を、己の窮地を救ってくださった、大きな恩義が。

 何か報恩の術はあるまいかと探しあぐねた。支払えるほどの金銭も物品も持たぬ貧婁は今もって同じ。さりとて消え物を送り付けて仕舞い、ではあまりに粗略。結果、辿り着いた方途は……手料理を振舞おう。盛大に思索が捻転した感を否めない。

 そんな懇請が事の始まり。

 しかして今や、七日の内二日三日は、食事を伴にする間柄となった。

 所謂、一つの。

 

「メシ友というやつでしょうか」

「? なんのこと?」

「いえ、こちらの話で」

 

 空惚けたことを口にしながら、豆腐を裏ごしして刻んだホウレン草、人参、蒟蒻、最後に擦り胡麻と混ぜ合わせる。軍鶏鍋の副菜として白和えが合うかどうか。

 ふと、背中を擽る視線に気付く。

 囲炉裏に当たっていると思われた少女が、土間に腰掛けてこちらを見ていた。

 

「どうかされましたか?」

「んー? んふふ別にー。見てただけ」

「もう少々お待ちください。すぐに」

「いいよ。ゆっくりで……あんたが料理してるとこ見るの、好きだから」

 

 己の調理の様子に面白みがあるかは甚だ疑問だが……当の彼女自身が楽しんでおられる。それに越したことはない。

 

「鍋を移します。お座りください」

「はーい」

 

 少女は素直に頷き、茣蓙にすとんと納まる。

 くつくつと煮えた鍋の中、具材達は濃い醤油ですっかりと色付いていた。

 匙を使ってそれを碗に移す。湯気と共に出汁が香った。

 

「軍鶏は里の大工頭殿からの頂き物です」

「へぇ、気前がいいんだ。それとも、あんたの人徳?」

「まさか。返す返すに御厚意の賜り物なれば」

「そうかな? まあ、私は別に豪勢でなくたって構わないけど」

 

 碗を受け取って、その中を少女は見下ろした。見下ろしたまま暫時、彼女はじっと動きを止める。

 美しい彫像と化してしまったかのように。

 けれど、その瞳だけが微かに揺らぐ。

 

「あんたが作ってくれればなんでもいいわ」

「それは……勿体ないことです」

 

 料理の手腕など決して誇れたものではないが、彼女の舌の琴線に僅かにでも響いてくれるというなら、これ以上の冥利はない。

 

「そうじゃなくて……違うの」

「は……?」

「あんただから……あんたと一緒だから……」

 

 揺らぐは瞳ばかりでなく、声音をも震わせて少女はややも身を乗り出す。

 必死。まるでそれを全身に表すように。

 平素の泰然自若とした有り様から遠い、それはひどく(いたい)けだった。いや、いや、これでようやく歳相応なのだ。彼女の、博麗霊夢という少女の、これこそ飾り気ない姿。

 

「博麗さん……?」

 

 つっかえつっかえ、ただ一言口にするのさえ大変な気力を絞っている。

 見るだに柔らかな頬は紅を差したように高潮した。

 背筋を伸ばして正座で対し、傾聴の姿勢を作る。それ以外に、今の彼女に示せる誠意などなかった。

 

「あの、あのね……もし、あんたさえよければ……私と――――」

 

 決心の末に、とうとうその胸中が語られ――――ようとしたその時。

 玄関の戸板が叩かれた。

 

「…………」

「…………」

「…………はぁ、いいよ。出て」

「……申し訳ありません。失礼します」

 

 彼女にとって、今伝えようとした言葉が殊更に大切な意味を孕んでいたことは明白だった。

 己の無上なる不躾を申し訳なく思う。

 とはいえ、来客を放置もできない。

 このような僻地、そして未だ余所者の値札を脱却しないこの身を訪ねる誰か。知己といえる人物に心当たりは極めて少ない。その少ない交友の中からの、すわ訃報でないとも限らぬ。

 尚更に、無視するのは厭われた。

 土間に立って、戸に手を掛けながら四半ばかりの深さで吸気する。

 

「どなたでしょう」

「こんばんは、寺子屋の上白沢です」

「! 只今」

 

 開け放った先には名乗りに相違なく、蒼みを帯びた銀髪の、妙齢の女性が立っていた。

 白のパフスリーブシャツに藍色のワンピース。冴え冴えとした寒色的印象の中で唯一の赤である胸元のループタイが小粋に主張していた。

 柔和な笑みを浮かべて、彼女は実に丁寧な会釈をする。

 

「約束もなく、突然すまないね」

「滅相もありません。夜風が刺さりましょう。一先ず、中へ」

「ああ、有り難い。で、だ……」

「?」

 

 言うや、上白沢さんは自身の背後に首を巡らせる。

 

「こちらはそう言ってくれていますよ?」

「……」

「……あぁもぉ、だんまりを決め込んでないで、ほら入って。まったく、子供じゃないんだから、さあ!」

「ちょっ、わかったから。引っ張んないでよ……!」

 

 押し問答も束の間、上白沢さんがその少女の腕を取って玄関の敷居を無理矢理に跨がせる。

 室内灯の朧な光に揺らめく銀髪。それも上白沢女史とはまた異なる、色という色全てを拒絶したかの白。無垢な白糸の髪。

 後ろ髪を結っているのはリボンではなくどうしてか符呪の札。判読も判別もつかぬ紅い字、あるいは文様が描かれている。

 白の開襟シャツに赤いズボン、それを留めるズボンと同色のサスペンダー。上白沢さんとは正対照の色彩。

 揺れ舞う焔の表象に等しい彼女にこれほど似合いの色はない。

 藤原妹紅。大恩を賜るのと同じくして、奇縁によって巡り逢った御人でもある。

 

「こんばんは、藤原さん。御無沙汰しておりました」

「う、うん……久しぶり」

 

 伏し目がちにこちらを見上げる赤い目。行灯がそう見せるのだろうか。その頬や形の良い耳に、薄く血色が透けている。

 

「近頃、お部屋の様子はいかがでしょうか」

「うっ……顔合わせた最初にそれを聞くかよ」

「何分にも只事ではない()()()()()をしておられたので、心配の比重はやはりそちらに偏ります」

 

 縁の発端は上白沢さんからの御要請であった。曰く『妹紅のだらしない生活をなんとかしてくれ』と。

 独り身では、多事に追われ家事雑事が疎かになるのはごく有り触れた成り行き。家庭内で発生する仕事を外部に委託し、人を雇うなど珍しくもない話である。

 ただ彼女の場合、その『疎か』が並以上であったというだけの話で。

 丸一日掛けても庵の中での荷物の整理すらままならぬとは……いやあるいは己の家事遂行能力の瑕疵でないとも言い切れぬ……いややっぱりあれは酷かった。

 

「そら見なさい。日頃の行いとはこのように誰かの目につき、覚えられてしまうものなのですよ」

「自分としては、この微力が僅かにでもお役に立つならば、尽くすに一向(やぶさ)かではありません。しかしあれこれ何もかもとこちらが一方的に手を出すことが藤原さんの御為にならぬ、その程度の理解は自分にも可能です。余計なお世話、とも申しますゆえ」

「独身生活にずぼらは付き物だが、それにしたって限度がある。他人から借りた本をカビさせるなんて考えられない」

「洗濯が面倒なのは分かります。再生するからという合理性も理解はできます。しかし、下着を燃やして再生再利用するというのは人として如何なものかと」

「えぇい寄って集って説教すんな!!」

 

 知らずつらつらと言い募っていた己と、おそらくは承知で言い連ねる上白沢さん。

 藤原さんは激昂した。浴びせ掛けられるような羞恥にわなわなと震えて。

 

「ともあれ、御健勝のほど、嬉しうございます」

「……どーも」

「ふ、はは」

「笑うなし」

 

 鋭く射かかる藤原さんの睨みも、上白沢さんの忍び笑いを止める効力は持たなかった。

 気の置けない応酬が快かった。

 ちゃぽん、そんな水音を響かせ、藤原さんが片手に濃茶色の一升瓶をぶら提げる。

 

「お礼というか、お詫びというか……お土産」

「これは、御丁寧に。とんだお計らいを掛けまして」

「いいよ別に。そんな大層なもんじゃない…………ただ、その、だから……よかったら、ホントによかったらなんだけど……飲まない? も、もちろん慧音も一緒に!」

「私はお礼さえ言えればこのまま引き上げても構わないですよ?」

「け、慧音ぇ……!」

「ぷっ、ふふふ、はいはい」

 

 悲鳴のように呼ばわる少女を、上白沢さんはまた一吹き笑う。

 笑うままこちらに向き直り、小首を傾げて見せた。

 

「そういう訳なんだ。君さえよければ一席どうだろうか?」

「は、有り難きお申し出と存じます。ですが……」

「ん?」

 

 言い淀むこちらに、先程とは反対側に首が傾ぐ。

 彼女らと酒席を設けるに何程の否やもあらぬ。

 しかし今は。

 

「ああ、何か不都合があったかな? むしろ突然訪問されて無いという方が珍しいか。いや本当に不躾を……妹紅?」

「…………」

「?」

 

 猜疑に上白沢さんが呼ばわっても、藤原さんは反応を示さなかった。

 彼女の視線が、その意が一点に絞られているからだ。

 己の肩口を越えて、背後へ。

 火炎めいて空気を焦げ付かせる眼光に、隠しようもなく己が怯みを自覚する。

 そこから逃れるかの心地で後ろを振り返った。

 

「…………」

 

 少女が一人、土間の框に座っている。改めるまでもない。それは博麗さんだった。

 居間の灯が遠い為に、この土間は薄暗い。ともすれば相対する者の表情すら見落としかねぬ。

 だというのに、少女の両の瞳は。

 その黒は、靄の如き暗がりを容易く貫通する。二門の昏闇が砲声も上げず空間を穿っている。

 

「…………」

「…………」

 

 互いが互いを捕捉しながら依然として無言。無音。

 重い重い沈黙には、しかし言霊を伴わぬ無数のやりとりがあるように思われた。

 絶えず、激しく、少女らの眼膜から不可視の“何か”が応酬される。

 うっかりと触れてしまえば刹那、肉体は打たれ、斬られ、削がれ、夥しい血を見ることになる――――そんな想像を強いられるほどの、凶き何か。

 先んじて口火を切ったのは藤原さんだった。

 

「なんでお前がここにいる」

「夕食に招かれたの。()()()

「っ」

 

 不意に、音が走った。素早く鋭い。

 それは藤原さんの舌打ちであった。

 片目を眇め、追随して頬肉を歪める。忌々しい。少女の貌はそう吐き捨てていた。

 それを博麗さんは極めて完璧な無表情で迎える。

 対照的だった。しかし内包するものは近似している。いや同質と呼んでも過言ではない。

 敵意。

 研がれた刃を喉笛に突き付け合うが如き害心。

 

「随分とまあ恨みがましいわね。招かれざるはそちらでしょうに」

「あ?」

「妹紅……!」

 

 獰猛なその一声と踏み砕かんばかりのその一歩はまったくの同時であった。上白沢さんの制止を彼女は意にも介さない。

 鈍重を自認するこの身が、それでも反射的に身を押し出して彼女の進行を……進撃を阻めたのはほぼ奇跡に近い。

 

「藤原さん、どうか、どうか御寛恕を」

「どうして貴方が許しを請わなければいけない? 調子付いてるのはあれだよ」

「博麗さんをこの侘び住まいに招待したのは自分です。そして、藤原さん、上白沢さんに対する御礼を怠ったのは自分の不義理、不届きです。ならば貴女のお怒りを頂戴すべきは、徹頭徹尾自分に他なりません」

 

 博麗さんがこの場に居合わせている事実が、藤原さんにとって我慢ならぬほどの忌み事なのはその気勢からも明白。

 どうしてか、この少女はあの少女を、彼方は此方を、深く心底より憎んでいた。

 どうしてか――――どうして、だと?

 

 

 

 

 純朴げな無知を気取るつもりか。

 素知らぬ風で仲裁めいたことをして、御為倒(おためごか)しに酔っているのか。

 知らぬ、存ぜぬ、関わりなしと、自分は無実潔白で、彼女らの愛憎怨努こそが異常で不実なのだと決めてかかり、己こそは常識であり誠実なりなどと、まさか言うまいな。

 まさか、まさかまさかまさか。

 罪悪より逃れんとするその欺瞞は、救い難い。度し難く穢らわしい――――

 

 

 

 

 半ば忘我の地平にいた意識が立ち戻る。

 目前にて、限りを知らぬとばかり鋭利さを増していた藤原さんの目がゆっくりと我が身を捉え。

 ふ、と和らいだ。

 微笑が上る。儚げな微笑が。目尻に浮かんだ笑い皺さえ、なにやら無性に寂しげな。

 こんな表情(カオ)をさせたのは誰だ。こんな惨い思いを頑是ない少女に強いたのは、一体誰だ。

 ――――知らぬなどとは、言わせまいぞ。

 

「そんな辛そうな顔しないで」

「…………」

 

 何を言うのだろう。

 辛く苦しいのは、誰あろう貴女である筈なのに。

 

「今夜は帰るよ」

 

 酒瓶を差し出して彼女は言った。

 受け取りながら、当然の謝辞すら口に出来ず己は立ち尽くす。

 

「……」

「!」

 

 気付けば藤原さんは己の身体を躱し、横合いを摺り抜けていた。意表外の動き。足運びの妙技。己の如き凡夫には理解すら及ばぬ。

 跳ねるように振り返った己を微笑が振り向いた。

 

「大丈夫、何もしないから」

 

 すたすたと歩き、遂に藤原さんは博麗さんのもとまで辿り着く。

 依然、框に腰掛けたままの博麗さんを、藤原さんはポケットに両手を入れたまま見下ろし。

 上体を折ってずいと顔を近付けた。二人の美しい面相が、鼻先で向かい合う。

 

「間違ってもこの人に手ぇ付けようなんて思うな」

「盛りのついた雌猫じゃあるまいし。安心すれば? 私はあんたとは違うから」

「カマトトぶんのは巫女だからか? それともお前が処女だからか? 博麗」

「品性の方はちゃんと腐って朽ちるのね。あんたを見てると長生きなんてするもんじゃないって思うわ。蓬莱人」

 

 険ばかりが尖る。聞くだに胸の潰れる罵詈の(せめ)ぎ。

 紅蓮と漆黒。二対の彩。それが濁流となってぶつかり逆巻き混淆し、この狭い空間を縦横無尽に掻き回した。

 奥歯を噛み砕く心地で、その覇気に正対する。

 二色の氣に呑まれ、蹲り頭を抱えているのが相応の、芥のような男が。今更と、思う。

 しかし、そのような甘えは許されない。己という名の元凶が、怯懦などという安楽に逃げ込むなどあってはならないのだから。

 止めねば、ならぬ。断じて、止めねば。

 

「御両名――――」

「待ちなさい」

 

 背中にそっと手が添えられた。

 上白沢さんは、そのまま藤原さんに歩み寄りその腕を取った。

 

「今夜のところはお開き。貴女がそう言ったのでしょう、妹紅」

「……ああ」

「霊夢もだ。我々は退散する。それで納得できるな?」

「ええ」

 

 存外の素直さで二人は応え、藤原さんは上白沢さんの引く手に従う。

 

「はぁ、何かと慌ただしくてすまない」

「いえ……いいえ、そのようなことは。こちらこそとんだ不調法を働きました。恥ずかしく思います」

「……ふ、苦労性だな君も。日を改めてまた一献酌み交わそう。では」

 

 上白沢さんは軽やかに笑む。

 彼女の見事なお裁きで事は治められたのだ。己の出る幕など、一瞬とありはしなかった。

 玄関先で、藤原さんはこちらに向けて手を振った。

 

「またね」

「……はい、また」

 

 寂寥が滲み、名残を惜しむその顔に、今度こそ本来の意味で、胸が潰れる。

 提灯の朧な光が見えなくなるまで、己は一人その場で、阿呆のように立ち尽くした。

 小屋へと戻る。

 

「おーそーいー」

「!」

 

 博麗さんが土間に立ち、己を出迎えた。待ち受けていたかのように。

 

「は……申し訳ありません。お待たせいたしまして。今、鍋を温めなおします」

「だーいじょーぶ、やっといたから。さ、早く食べよ!」

 

 両手を取られて、居間まで連れられる。それはまるで無邪気な子供のようで。

 ……先刻までの有様が、夢か幻のようで。

 

「博麗さん」

「今はいいよ」

 

 呼ばわっておきながら、何を言うべきかすら定まっていない己に、少女は首を左右した。

 笑みを浮かべて、彼女は己を許す。

 

「今はこうして一緒にご飯食べたり、一緒に過ごしてくれるだけで、いい」

 

 この迷いを、惑いを、許してくれると言う。

 しかしそれでも己の喉奥にはなおも懊悩が蟠る。それを、不定形のそれを、吐き出してしまいたくなる。

 その時、煌りと、少女の瞳が妖しく光った。

 

「それとも――――あんたから手を付けてくれるの?」

「…………」

「ふ、ふふふっ……()()()。どっちでも、いつだって、急かす気なんてないから。今はいいよ」

 

 優しく、暖かで、慈悲深い、そんな嘲笑。

 少女は、巌のように凝固する男を嗤った。情けない、不甲斐ない己を、責めもせず詰りもせずに。

 できない。

 そう一言口にすれば済む。その一言で全ては完結する。

 それは博麗さんに対するばかりでなく、藤原さんにしてもそうだ。

 その想いには応えられない。伝えればいい。少女らの少なくない失望を獲得し、果てに平和はやってくる。

 憎しみが終わる。争いの火種が消沈する。

 この身の評価などどうでもよいのだ。いや、ようやく相応しい値札がこの首に掛けられる、ただそれだけのこと。

 あの方々から、情を賜るほどの価値は己にはない。断じてありはしない。

 事実が一つ確定する。それだけ。それだけの。

 事実を、言えばいい。ただの一つの、その事実。

 

 ――――自分には、お慕い申し上げている方が

 

「あ……?」

 

 ???

 今、己は何を思ったのだろう。

 何か、誰かを、想ったような。

 陰を落とす枝葉の隙間から不意に陽が差すように。記憶野に光が当たる。ほんの一瞬、像が形を結ぶ。

 ――――脳裏を過ったのは白い花だった。

 再思は電光の暇で終わり、今再び記憶の箱には重く頭蓋が覆い被さる。

 何を思い出したのか。何を忘れているのか。忘れたことさえ忘れて、己は現実に引き戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふ、どうかしたの?」

「は……?」

 

 明けてより幾つを数えたか。

 (ひし)めく緑葉から漏れ滴るかの如き陽光が気付けば、高く。

 真昼に差し掛かっていた。

 雑木林の只中は、風は少ないが空気が澄むゆえ、肌身に実際以上の冷えを感じさせる。

 せせらぎの()も、一役買っていようか。冴え冴えとして気色を洗われる。

 

「……よい、日和だなと、思っておりました」

「ふふっ、ええ、そうね。とても良い。日差しも、風も、水も、土も、良い具合。良い日和ね」

「それはなによりです」

 

 日輪がある。

 天へと、直向きに伸びた枝葉が、気紛れに作り出した日向の円。

 空と大地を繋ぐ、拓かれたその空間。

 燦々と降り注ぐ陽気を浴びて、白と緑の花弁は諧調された燐光を放つ。

 白翠の花園は、天上の光に輝く。

 

「あぁ」

「ふふ、なぁに?」

「はい」

 

 この世のものとは思えぬ景色。

 俺は溜め息を吐いて言った。

 

「今日も、貴女はよい姿をしている」

「ありがとう」

 

 花の女性(きみ)は、光るような笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 



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やっぱり切りのいいところで投稿しないと読みにくいしヒャッハー我慢できねぇ!!(投稿ボタンポチィ




 森の中で突如目の当たりにした花園をどのように表現すべきか。

 桃源の幽世とはこのような景色なのだろうと乏しい想像力が及ぶ。

 幻夢。少なくとも現実離れして、ここは美しい。

 浮世の辛苦を一時、忘れてしまうほどに。

 忘れてしまう。

 忘れて。

 

「…………」

 

 本来は、正常な感性なれば、きっとこの光景はただただ胸を衝くのだろう。

 素晴らしいと、夢見心地と。安息が喉奥から溢れ、感嘆に心は清められる。

 その筈だ。そうに違いない。

 だのに。

 白翠の花弁から、己が、俺が、想起したものは――――骨。

 母の骨だった。

 炉から帰ってきた台車に母の名残は無かった。

 長く病床に臥せっていた母の骨は脆く、千々に砕けてしまっていた。原型など一所も留めず、細かな骨片が台の上の灰に浮かんでいるばかりで。

 ただ、それが、ひどく白い。

 拾骨室に運び込まれた母だったモノ。その散逸する骨が、あまりにも白くて。

 散り落ちた花弁のように、儚げで、頼りない。

 母の残骸が。

 

「っ……ぅ……ぐ……!」

 

 膝を付き、地に伏す。我が身こそ骨を失くしてしまったかのように。

 立っていられない。立ち行かない。

 頭上の花園を直視できない。美しい花、光り輝く花、無垢な白を放つ花。この花が、思い出させる。まざまざと。

 

「あぁっ……!」

 

 弱り果て、果ててなお脆く崩れ砕けた母を。

 そうさせた。

 己がそうさせた。

 俺の不孝が。

 俺があの人を不幸なままに逝かせた。

 

「――――ああああああッ!!」

 

 花が、この美しすぎる白が、己の罪業を糾弾する。

 心の臓腑を抉り貫く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 花を愛でる。

 自分が行為するそれと、人間が口にするそれは意味合いが異なる。殊の外大きく、異なる。

 花を趣向として、娯楽として、有り難がる人間共。穢らわしい。

 生き物の中でもとりわけ、見えず、聞こえず、感じられない、鈍愚なる二本足。

 鈍い鼻を利かせて、蟲でもない癖に奴らは花に集る。花を前にした人間の反応はそれぞれだが、その彩は乏しい。皆、似たり寄ったり。

 花を見て笑う者がいた。

 花を見て安らぐ者がいた。

 花を見て、泣く者はいた。

 花を慰めに使う者も、いた。

 けれど。

 

「う、ぐぅ、ぁ、あぁッッ……!!」

 

 花を畏れる者を、私は初めて見た。

 その花園は、自分が戯れに“力”を与えたもの。妖怪変化を起こすような異能を与えはしなかったし、他の植物より()()生命力が強靭になる程度の手妻だ。

 この世に二つとない、この風見幽香が生み出した花。

 それを前にして、慟哭する男がいる。

 胸を鷲掴み、今にもその奥にあるものを抉り出してしまいそうな。

 花を通して男を……青年を観察した。見物と言った方が心象は近いか。

 森の淵で一人、苦しみ悶えのた打つ人間。滑稽だ。気でも触れたのか。あるいは元来の狂人が、偶さかここへ辿り着いたのか。

 眺めるに、どうやら狂い(びと)という訳ではないらしい。呻き声を幾らか漏らした後、青年は緩慢にだがその身を起こした。

 苦く歪んだ顔。そこに映るのは、倦んだ疲労感、後悔、戸惑い、自己嫌悪、そして罪悪感――――自身が生存しているという事実に対する後ろめたさ。

 目には確かな理性の光がある。なんとも暗々とした暖炉の残り火のようではあったが。

 とはいえ自己の奇行と乱心を理解している。そして、それを心底より恥じている。そんな目。

 

「…………」

 

 その日、青年はそのまま帰って行った。足を引き摺るように遠ざかる背中を花と共に見送った。

 妙な人間が奇妙な奇態を晒す。言ってみればそれだけの、一時の珍事に過ぎない。

 明日にもならず、そんなものは忘れ去るだろう。

 

 

 

 ところが次の日も、青年は花園に現れた。

 その次の日も。次の日も。また次の日も。

 決まった時刻、青年は花園を訪れた。

 ほんの小半時にも満たない時間。何をするでもなく、ただ呆と花を眺めていることもあれば、花園の周囲に散る落ち葉や朽ち木を掻いて掃除をすることもあった。

 花に着こうとした蟲を、強かに払うのではなく、憚りながらにそっと退()()()()

 青年は、いかにも弱々しい笑みを浮かべる。

 

「今日もよい姿ですね」

 

 愛でるでもなく、精神快癒の足しに使うでもない。

 こわごわと怯み、怖じ気を腹の底へ隠しながら、その全身と全霊で心の底から畏れながら……尊ぶ。

 そう、尊んでいる。青年は、この風見幽香謹製の花を頭上に戴くが如くに、尊んでいるのだ。

 まあ、悪くはない。

 人間風情にしては多少行き届いた心懸けだ。

 とはいえ、それだけだが。だからとて今更、人なる生き物に対する己が評が揺らぐことはない。

 むしろ、この青年こそは、その愚劣さを大いに体現しているではないか。

 花を見て、見ただけで心を掻き乱す。恐慌し狂惑する。それは確実に、明らかに、今昔にて何かしらのあやまちを犯した者の有り様。体たらくである。

 あやまちそれ自体はどうでもいい。然したる興味はない。

 気障(きざわ)りなのはただ一点、あやまちを悔いていることだ。自己嫌悪にのた打ち、苦悶する。いかにも人間らしい心根の脆弱さ。

 それが実に下らない。見るだに胸が悪くなる。

 どんな理由があるやら知らぬが、その劣弱さは罪でさえある。

 人の世の理どうこうなど妖怪(ばけもの)たる我が身にとっては徹頭の慮外事なれば。この身が関知するのは妖怪の理のみ。

 我らの摂理。俗に、弱肉強食とでも呼ぼうか。しかしこの呼称もやや正確ではない。

 力の有無、強弱は実のところ問題ではなく、肝要なのは勝を得ること。勝とは、生き続け、在り続けることだ。

 弱きは死に易く、強きは強さに準じた生き永らうだけの性能を有する。弱肉強食はその結果を表したに過ぎない。

 弱かろうが生きれば勝。単純にして明快。瞭然であり完然。生命の天道正理は唯一それのみ。

 それのみと、宣して何憚ろう。それが真実。間違いなどない。

 間違っているのはこの青年だ。

 あやまちを後悔し、あまつさえ自己の存在そのものを嫌悪している。否定している。

 摂理に合わぬ。

 それが、気に入らない。

 何故泰然としない。矜持を張れない。生きている今に向けず、その目は過去を遡っている。重大事は今。生存の今ではないのか。

 何故。

 ……理由。

 興味はないと吐き捨てたそれが、なにやら無性に好奇心を誘う。

 

 

 

 

 

 ――――放っておけばよかったのだ。

 理解不能な人間など、愚かの一言に捨て去ってしまえば、それで済んだのに。

 並べて世は事も無し。我が理に揺らぎ無し。私は、私のままでいられた。

 だが、そうしなかった。私は彼を“ただの人間”にできなかった。

 

 

 

 

 

 青年はなおも花園へと通い続けた。

 思えば奇特、いや奇嬌と訝しむべきか。

 花に過去の禍を見出す癖に、それでも日課のようにそれを眺めに来るなど。そういった被虐的嗜好を持っているのだろうか。それにしては彼の様は一向に悲愴である。

 喜びはなかった。笑みは浮かべても、そこには常に痛みが奔っていた。

 まあいい。

 それもすぐに判ること。

 趣向というなら、これこそ凝らしの一芸。

 今日も今日とて青年の清掃活動には余念がない。落ち葉が頓に地を覆う秋の中頃であるにもかかわらず、花園の周囲の土は整然と清らかだった。

 屈み込んだ背中に、音もなく歩み寄る。

 

「御機嫌よう」

「はい?」

 

 挨拶に対する青年の反応は(すこぶ)る鈍い。礼節の基本が成っていないようだ。

 なら、丁寧に教えてあげましょう。

 人差し指を爪弾く。ぴんと、それは空気を貫いて音を置き去る速度で真っ直ぐに飛ぶ。

 振り返った青年の右胸に。

 

「がっ、はぁっ!?」

 

 シャツを突き破り突き刺さる。皮膚を裂き、肉を抉り、肋骨の合間で止まる。

 これもまた些細な手妻。戯れの一品。

 種子(たね)。外見も、備わる能力も、植物らの放つそれと何ら変わりない。

 異なるのは根付く土壌。少しだけ手を加えたこの子は、生き物の肉を土として芽吹き、血を水として吸い上げ、骨を添え木にして張り巡る。

 生きた植木鉢といったところか。形は悪いが。

 

「養分にはなるわね」

「ぎ、ぃ、あがぁ……!!」

 

 先刻とはまた別の理由で地面をのた打つ青年に、微笑む。親しみを込めて。

 なにせ可愛い我が子を託すのだから。

 

「お前が尊んでいる花の苗床になれるのよ? もっと喜びなさいな。アッハハハハ」

 

 肉の筋を割り退けて根が身体の内側に伸び、這い回り、絡み付く。

 その痛みは控えめに言って凄絶だろう。

 神経を焼く痛みの衝撃で死んだりするのだろうか。それでは片手落ちで困ってしまうのだけど。

 幸いにして、青年は生死の境を此方側に転んだ。

 

「いい子ね。頑丈なひとって好きよ」

 

 気兼ねなく遊べるから。

 これであとは待つだけ。侵殖が身体の中枢にまで及べばこの男は晴れて花そのものに成る。

 そうすれば我が思いの儘。己が命ずれば青年は身も心もこちらに開け広げることだろう。

 その心根に隠した暗がりさえ。

 良い暇潰しができた。

 荒く息吐き地面に横たわる青年。開かれているその目は混濁して何も見えていない。

 それがなんだか可愛らしくて、また自然と笑みが零れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭上を数羽の烏が翔び去っていった。その鳴き声は夕空に殊更響き渡り、地上を這う己の鼓膜もまた存分に揺さぶった。

 がなり散らすかの激しい音声(おんじょう)は御世辞にも耳良い調とは言い兼ねた。

 呆けていたところに強かに聞かされ、胸骨の内で心臓が一段速く跳ねている。

 

「どうかしたかい?」

「は……」

 

 寺子屋の裏門近く。生徒らの見送り時である。

 上白沢さんは、心配そうな面持ちで言った。

 

「いえ……申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」

「はは、仕事帰りで疲れているんだろう。いやこちらこそ引き留めてしまってすまないな」

「滅相もありません」

 

 人足の勤めの帰り路、偶々行き合った女史との世間話の最中であった。

 

「もうすぐ妹紅が顔を出すから、よければ待ってやってくれ。というか、あれは君を逃すと後で機嫌を悪くするんだ」

「それは、光栄なこと」

「私にしてみれば堪ったものじゃあないんだがね」

 

 大袈裟に肩を竦めて見せる上白沢さんと、互いに笑声を上げた。

 

「よっ、けーね」

「こら! 慧音先生と……ってなんだチルノか」

 

 声に振り返る。いや、反射的に背後に向き合ってしまった。人間の常識に照らして、視界外から呼ばわれれば正面とは別方向に相手がいるものと判断する。固定観念である。己は声の主を捕捉し得なかった。

 その声は、頭上から降ってきたのだ。

 瓦屋根の上から小柄な影が飛来する。落下ではない。それは確かに飛翔した。

 茜の日を照り返す青い結晶が三対。氷の羽。

 青い癖毛の髪、青いワンピース。上白沢さんに比べてよりビビッドな色調であった。

 青色の少女が、真っ直ぐに、己の顔面へと突っ込んできた。

 

「そいや!?」

「!」

「わ!? だ、大丈夫か!? というかなんで今勢いをつけたチルノ!?」

 

 己の頭にしがみついた少女は、悪びれた成分をあまり含有しない声で。

 

「なんかつい」

「ついじゃないついじゃ!」

「いえ、どうぞお叱りなく、上白沢さん。自分は問題ありませんので」

「いやそうは言っても……」

 

 肩車の前後を間違えたような状態で、少女は左右に身体を揺らす。景色は一面青色に染まった。

 はしゃいでいる。無邪気に。

 首が少しだけ軋んだ。

 

「本当に大丈夫なのか!?」

「はい」

「おー背ぇ伸びたみたいだ。な、な、河川敷まで走ってみてよ」

「早く降りろ!」

 

 馬、ないし竹馬でも操るような調子でねだる少女を上白沢さんはすぐさま引き摺り下ろした。

 視界が回復する。

 少女は不満げに唇を尖らせた。

 その頭上に拳骨が落ちる瞬間を己の目はまたしても捕捉し得なかった。残像が過り、気付けば青い頭を両手で抱えて少女が地面に蹲っていた。

 

「ぐぉおおおお……!」

「危ないことをするんじゃない! 人間は妖精(おまえ)達ほど頑丈ではないんだ!」

「痛ったいなぁもう! こいつは大丈夫って言ってんじゃん!」

「そういう問題ではなぁい!」

「あだぁ!?」

 

 再び、その小さな青髪を打ったのは拳ではなく、上白沢さんの頭突き。満水のポリタンクを叩いたような鈍い衝撃が耳孔に響く。

 昨今では見られることの少ない、実に肉弾的な指導というか叱責であった。そして両者の様子を見るに、どうやらこれが日常茶飯事のようだ。

 

「チ、チルノちゃ~ん? 大丈夫~?」

「お、いたいた……ぁ」

 

 後方から、それも今度はきちんと地上から発した二つの声に目を向ける。

 側頭で結い上げた淡い緑の髪。青いワンピース姿は眼前のチルノという少女と似通っているが、彼女のそれはやや丈が長い。小走りになると、その背にある一対の白い羽が揺れた。

 上白沢女史の私塾は人妖の別を問わず、その門戸を開いている。彼女らも寺子屋に通う生徒なのだろう。

 

「大ちゃん! けーねったら酷いんだよ!?」

「酷いものか。頸を痛めていたら只事では済まないんだぞ」

「ご、ごめんなさい! 何をやったか知らないけどごめんさない! あの、チルノちゃんに悪気はないんです。ただちょっと考えが足りないんです!」

「大ちゃん!?」

 

 深々と御辞儀をくれる少女、だいちゃんさんに対して、こちらこそ恐縮に両の手を晒す。

 

「謝罪など御無用に。骨も筋も傷めず、身体は健在です。チルノさんが何ら悪意を持たれていないことは十分に伝わっております。どうかお顔をお上げください」

「はへ? は、はい」

 

 なにやら面を食らった様子で少女は己を見上げた。一度、だいちゃんさんに頷き、視線を隣に移す。

 チルノさんは仏頂面でそっぽを向いた。

 

「チルノさん」

「な、なによ」

「腕白の盛り、大変結構なことと存じます。自分個人といたしましては、貴女の気風はとても好ましい。しかし過ぎれば、やはり怪我や事故へと繋がる(おそれ)があります。そうなれば御友人は勿論、こちらの上白沢さんはじめ多くの方が悲しむでしょう。ゆえにどうか御自身の為と思って、今よりもほんの少しだけ、安全に気を配っていただけませんでしょうか?」

「お、おぉ? う、うん……わかった」

「ありがとうございます」

 

 若干の戸惑いを経て、しかしチルノさんは実に聞き分けも良く頷いてくださった。この少女が心根の真っ直ぐな子であることはすぐに感じ取れた。この不敏な男でさえ。

 

「このおバカにそこまで(へりくだ)ることはないんだぞ」

「バカってゆーな! ふんっ、ま、まあなかなか見どころのあるヤツね。なんなら私の子分にしてやってもいいわよ!」

「もう、チルノちゃんったら……」

「よろしいのですか?」

「案外ノリ気!?」

 

 強かに打たれた後にもかかわらず、少女の元気は欠片も削がれた様子はない。言動も然ることながら見上げた度量である。彼女を親分として己もそれを見習うべきかと、半ば本気で考えた。

 

「それにアンタ、なんかいい匂いがするし」

「?」

「は? 匂い?」

「え、なぁにそれ?」

「大ちゃんも嗅いでみなよ。ほらこうやってっ」

 

 言うや、チルノさんは己の腹に跳び込んだ。なかなかの強打に、僅かに呼気が腹腔から吐き出される。

 少女は顔を埋めて、そのまま思い切り深呼吸した。

 

「おぉ~、すごい……なんかすごい……」

「チルノちゃんっ!? ダ、ダメだよそんなことしちゃ」

「まったくこの子は……なにを言ってるんだか」

「……重労働の後で、汗も掻いております。チルノさん、どうか、離れていただけますか」

「えー……すぅぅうう……はぁぁああ……ちょっとくらいいいでしょ」

 

 ちょっと、との言い分とは裏腹に少女は依然顔を埋めたまま、深呼吸も継続する。

 くぐもった声が腹から身体の奥へ響いた。

 そっと両肩に手を置く。子供らしい小造りな肩甲骨、そして細い二の腕までが掌に触れられる。努めて控えめな力で少女を身体から引き剥がした。

 

「申し訳ありませんが、これにて御自重を。なにより不衛生です」

「ちぇー」

 

 不承不承ながら、こちらの腕力に従って少女は半歩退いた。やはり、聞き分けが良い子だ。

 上白沢さんの普段からの御指導の賜物であろう。

 

「そ、そんなにいい匂いなの?」

「うん。ふわふわーってなってね、なんかね、懐かしい感じがするの」

「……香油でも着けてるのか?」

「上白沢さん、鼻を利かせようとなさらないでください」

「あ……あははは、すまんすまん」

 

 無論、香油を嗜む習慣など自分にはないのだが。

 チルノさんの感性に照らして、自身の臭気が好みに合うのか。それは知れない。

 いずれにせよ、体臭を嗅がれて泰然自若とはしておられず。万一にも彼女らに不快な思いをさせることは、それこそ厭われた。

 身を退こうと、後方へ重心をかけた時。

 

「ね! リグルもそう思うでしょ?」

「…………」

「っ!?」

 

 振り返ったすぐ傍、もうあと僅かな身動ぎ一つでぶつかっていただろう。

 至近距離に、深い緑の髪。その頂からは二本、昆虫のような触覚が伸びている。チルノさん、だいちゃんさん同様の小柄な体躯。

 黒い燕尾状の外套を羽織った少女が、己の腰元に立っていた。

 物も言わず、その澄んだ(ひとみ)がじっとこちらを見上げて。

 

「リグル? どうしたの?」

「…………え、あぁ、うん」

 

 チルノさんの呼ばわりにも、リグルと言う名の少女の反応は鈍かった。

 なにより視線は片時もこちらを離れない。その様子には明らかな変調が見られた。

 上白沢さんが己が生徒の異変に気付かぬ道理はなく、傍まで歩み寄り、その額に手を添えた。

 

「ぼうっとしてどうしたんだ。熱は……ないか」

「えっ、いや、なんでもないよ。別に」

 

 それでようやくに、少女は己以外の存在を視界に収めたらしい。

 慌てて少女は己から一歩遠退く。

 目を瞬き、頭を振る。まるで微睡から今目醒めたかのような所作であった。

 

「変なの」

「う、うっさいな。ちょっと考え事してただけ……ごめん、びっくりさせて」

「己が大袈裟に驚いてしまったまでのこと。どうぞ、お気になさらず」

「調子が悪いのならすぐ(ねぐら)に帰った方がいい。なんならうちの客間に布団を敷こうか?」

「い、いいよっ。大丈夫だってば。もう帰るから、じゃ!」

 

 心配そうな上白沢さんを制して、リグルさんは宣言通りに背を向けて歩き出す。

 

「もう行っちゃうのかよぅリグルー。うし、あたい達も行こう!」

「あ、うん」

 

 それを見るや否やチルノさんは走り出す。気勢の移り変わりも目まぐるしい。即断即決であった。

 慣れているのだろう。さして慌てた様子もなく、だいちゃんさんが彼女に続く。

 

「じゃあな、けーね。そして子分一号!」

「先生、お兄さん、さよならー」

「さようなら」

「帰り道に気を付けるんだぞー」

 

 連れ立つ子供らの小さな背中。その頑是無い様に、なるほど人と妖の違いなどないのだと実感を伴って知る。

 

「……よい子らですね」

「騒がしいし悪戯は多い。それに行儀も悪いが……ああ、皆いい子だ」

「人の体臭を嗅ぐのはあまり褒められたことじゃないけど、ね」

「!?」

 

 声は耳元にて発された。

 背筋が強張るのを自覚する。

 跳ね返るように後ろを見やればそこに、白い髪、紅い目を向かえた。藤原さんが、先刻の少女と同じほどの距離に佇んでいた。

 

「妹紅、居たのなら声くらい掛けてください」

「ごめんごめん。ふふ、びっくりした?」

「……は、強かに」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべる様は、悔しくもないが実に愛らしい。それでもやや苦言の体で返すなら。

 

「今、嗅いでおられましたか」

「いやぁどんな匂いなのか気になって」

「褒められたことじゃない、ではなかったかな?」

「私は悪い子だからいーの」

 

 あっけらかんと、悪い子は舌を出して片目を瞑った。

 

「大丈夫大丈夫、私は好きな匂いだったから」

「この場合、臭気の良し悪しの問題ではないような気がするのですが」

「えー……じ、じゃあ、私のも嗅ぐ? ほら、ぎぶあんどていくってやつでさ!」

「お言葉のみ有り難く頂戴します」

「むぅ……」

「おバカなことを言ってないで、まずは彼にお礼の一つも言いなさい。ずっと待っていてくれたんですよ?」

「……すみません。ありがとう」

「いえ」

 

 上白沢さんの至極真っ当な言葉に藤原さんが肩を落とす。

 己は微笑を堪えられなかった。

 

「……だぁもぉ! 行こう! 飲み! 前の約束!」

「はい、お供いたします」

「あまり飲み過ぎないように」

 

 夕焼け色に染まる少女の後に続く。

 埋め合わせと言うにはあまりに些少だが、それでも彼女が己との酒席を約束と大切に呼ばわってくれたことを嬉しく思う。

 赤提灯の下で酌み交わす酒精の味は、己の貧婁な舌にも十分に旨かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜も更けて随分と経つ。

 送って行くという藤原さんの申し出をやんわりと断り、一人暗い帰路を歩いた。水の捌けた田を横目に小高い農道を行く。

 夜風は肌身に刺さるほどに冷たいが、酒精に火照った身体にはそれがむしろ心地よい。静寂な夜闇に対する恐怖感はなく、星と月の踊るような夜景には一種の荘厳さすら覚えた。

 提灯など要らず、幻想郷の夜空は煌々と明るい。

 

「……?」

 

 道の先を見通すことに何の支障もない。ないゆえ、己はその人影を遠目から既に見付けていた。

 影は小柄であった。子供の姿容をしていた。

 そうして、十歩ほどの距離に差し掛かった時点で、それが見覚えのある人物であることを覚る。

 

「こんばんは。リグルさん……でしたね?」

「…………」

 

 ほんの数時間前に面識を得た少女。

 深緑の髪は、夜の中にあっては黒以上の濃密さで深い色を持つ。燕尾状の黒い外套の下、白いブラウスは月光を照り返してか、まるで自ずから発光しているようだった。

 薄闇の路の先、少女は黙して語らない。こちらの誰何が聞こえていない訳ではないだろうが。

 

「どうされましたか。このような時刻に」

「…………」

「何か、自分に御用がお有りなのでしょうか」

「…………」

 

 少女は沈黙を貫いた。

 やや顎を引くように俯いた顔で、二つの眼は確かにこちらを、己を見ている。茫然自失したかのような風だが、その意識は確実に己を捕捉している。

 意志は感じられた。だが意図が、一向に読めなかった。

 そっと歩み寄る。

 夕刻も、彼女はどこか変調を来たしている様子だった。それは御友人ら、そして上白沢さんもまた指摘したこと。

 もとより無視するなどという選択肢はない。必要とあらば寺子屋へ送り届けよう。

 

「不敏な身ゆえ、御事情を汲み取ることが出来ず申し訳なく思います。もしよろしければ、これから上白沢さんの御宅へお送りしましょう。そちらでお話を伺えますか」

「…………」

「さ、ここではお身体を冷やし――――」

 

 声は途切れた。己自身のものである筈のそれが、どうしてか遠ざかる。

 声を置き捨てて、己の身体は宙を泳いでいた。

 

「――――」

 

 何が起きたのかを理解したのは、叢の中に突っ込んだ後だった。この身が無造作に投げ飛ばされたのだと。

 幸いに枝葉が良い緩衝材となって全身を受け止め、打撲や骨折は少なくとも自覚する範囲では負っていない。五体は満足。

 しかし状況認識は大幅な不満足を余儀なくされた。

 脳は悠長な混乱に浴し、数秒をかけてようやく上体だけ起こす。

 木陰と言えば可愛らしいが、この土地の天然自然の勢力は現世の比ではない。分厚い広葉樹が月明りを完全に遮り、一歩林に踏み入ればそこはほぼ無明の暗闇に支配されている。

 何も見えない。

 純粋無垢な闇が視界を覆ってしまった。

 ……いや。

 光がある。近寄ってくる。ゆっくりと、宙に浮いた二つの光球。

 眼。

 少女の眼が、蛍火のように輝いて、己を見下ろしていた。

 

「――――あぁ、この、匂い」

「リグル、さっ……」

「なんて、芳しい」

「!?」

 

 突如、腹の上に重みが圧し掛かる。荷重そのものは然したるものではなかったが、意表外のことに全身が硬直した。

 姿は見えないが、感触でそれを知る。

 少女が己に馬乗りになっている。

 二つの眼は、相変わらず己ばかりを注視した。碧く光る瞳が、妖しげに細められる。

 

「なにを!?」

「……あはっ」

 

 不意にそれが眼前に現れた。鼻先が触れ合うほどに近く、吐息が頬を濡らすほどに近く。

 彼女の貌容、とろりと蕩けたような表情さえ見て取れる。

 

「一体、これは、なんの」

「……んぇ」

「っ!」

 

 こちらの声など耳には入っていないとばかり。

 少女は己の頬を舐り上げた。暖かな舌が口端から目端までをなぞり、唾液の線が夜気に冷える。

 

「はぁ……おいしい」

「リグルさん! 気を、しっかり持って! 己の声が聞こえますか!?」

「ふっ、ん、ふぅ……においが……つよく、なってく……」

 

 夢見心地に少女は唄う。それは明らかに正気のそれではなかった。

 こちらの声、言葉にも無反応。無視ではなく、認識をしていない。

 彼女の精神が、此岸にいないのだ。

 少女の手首を掴む。肩に手をやり、力を込めて揺する。

 

「あぁ?」

「ぐっ!?」

 

 それを枝でも払うように片手で除けられた。肩に突っ張った腕は、小枝ほどの抑止力も発揮しなかった。

 腕力、体幹、いずれもこの矮躯には到底見合わない強力さ。人外の、それ。

 その差は大人と子供、あるいはそれを凌ぐ。

 彼女の唇が首筋に這う。喉を下り、シャツの襟にかかり、それが邪魔と知るや両手でそれを開け拡げた。ボタンが弾けて飛んだ音を聞く。

 少女の口が開かれ、熱い気息を浴びた。

 そして。

 

「か、ぁ」

「ぎっ……!?」

 

 その顎が、皮肉を抉った。

 

 

 

 

 

 



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あっという間の数か月。
話はほとんど進みません。
リハビリに近しい何かです。本当にすみませんすみませんすみません。




 

 

 彼女の歯は、己の首筋を食い千切った。

 堰を切ったように血が流出していく。頸の重要な管を、どうやら開いてしまったらしい。

 急激な体温の喪失を自覚する。しかし同時に、傷口からは燃えるような熱が発した。痛みはやや遅れてその後を追う。

 熱い。焼き鏝で皮膚を(なす)り上げられているようだ。炎熱は奥へ、肉のさらに奥へ這入り込む。

 びちゃびちゃと何かが滴る音がする。

 流れ出た多量の血液が地面を打って――いや、それだけではない。

 傷口に浴びせかけられているものがある。熱湯と錯覚するほどに熱い液体。

 それは少女の口から溢れている。溢れ、零れ、首といわず肩といわず、胸から腹へ、流れ流れ。触れた皮膚がびりびりと疼痛を発していた。

 唾液? 違う。もっと、別の、もっと危険な。

 どうしてか、閃くように思い至る。これは――消化液だ。

 肉を溶かす為の生体化学物質。

 脳裏を過ったのは、昆虫の狩り。獲物に溶解液を流し込みその体液を啜り食らう。

 少女の口の形状は、どんな風だったろう。人の形をしていた筈だ。吸収菅など生えていなかったし、顎が上下ではなく左右に開いていたなどということも、なかった、と思う。

 わからない。この暗闇の向こう側に居る少女、少女なるモノが、もはやわからぬ。

 わかるのは、己はこれより喰らい殺されるのだろうということだけ。

 化け蟲。この地にあって、その存在は然して珍しくもないのだろう。妖怪変化の楽園たる幻想郷で。

 そして、その妖怪に人間が喰われることすら日常。些末事。

 

「は、む、ふ、ちゅ、かふ」

 

 齧り取った肉を咀嚼している。夢中であり、必死な。空腹なところにたんまりと好物を振る舞われたかのように。いっそ、無邪気でさえあった。

 腹を空かせた幼子が、久方の馳走に、無邪気に喜んでいる。

 それだけのこと。

 それだけの。

 ……ああ、ならば。

 これで、よいのやもしれぬ。

 

「はぁ、は、はぁっ」

「……」

 

 荒い息遣いが、今再び皮膚を撫でた。今度は何処であろうか。腕、肩、胸、腹、臓腑(はらわた)、あるいはまた頸。

 何処が、この子の好みであろうか。

 今更惜しむほどの命ではない。幸いにして、(しがらみ)もまたごく少ない。この地で得た縁、恩へ、満足な報いを果たせたとは言えまいが。己の死などは荒野を転がる草屑程度に軽いものだ。価値の薄い、紙屑程度の。

 この生涯の幕切れがここであるというなら、それはそう、悪くはなかった。

 誰かの役に立って死ねるのだ。この少女の餓えと渇きを僅かばかりでも潤す助けとなれる。

 悪くない。

 そして、この子もまた何も悪くない。

 その生を、(さが)を全うしようする彼女に過失は皆無である。強いて言えば無力無能を自覚しながら夜道を一人歩きしていた己の罪科(とが)

 なるほど()()()()報いを受けるのは自然(じねん)だ。そして僥倖(ぎょうこう)

 子の糧となるのは大人の役務。まして芥の如きこの身が、少女の糧と、成れるならば。

 

「か、ふ、は」

「……ゆっくり」

「は、ぁ……?」

「ゆっくり、食べなさい」

 

 これ以上の幸いはない。

 これ以上の最期は、ない。

 これこそは出来すぎた、完璧な死だろう。

 不意に、光が差した。叢雲が気紛れにその身を引き、月の光矢に道を譲ったが為に。

 帯のような光明が林の枝間を縫って垂れ下がる。

 塵も浮かばぬ澄んだ美しい月光。それが照らしたのは無論のこと己などではなく、頭上の彼女を。そのあどけない顔を映し出した。

 赤く染まった口許は、人の形をしていた。一処とて異形に変じた箇所はない。

 とても愛らしい。

 口の周りをこんなに汚して、夢中になって肉を食む様が、なにやらひどく愛らしく。

 思わずそっと、親指で口許を拭っていた。

 

「あ、え……?」

 

 その程度でべったりとこびり着いた汚れを取り除ける筈もない。血の紅はただ無為に伸びて、少女の白い頬をさらに汚す。

 

「――――――――」

 

 少女の目が見開かれる。瞳に、この月明かりとは別の灯が点ったように見えた。

 それを確かめる時間は、もう無かったが。

 意識が沈む。月光が夜天の彼方へ遠ざかる。

 少し、寒い、か――――

 

 

 

 

 

 

 

 眼下には微笑。

 頬から落ちる掌。

 触れる肌身より刻一刻、失われていく熱。それはこの青年の命だった。

 蝋燭の灯火のように弱々しい。そよ風にさえ負けそうな儚さ。

 その火を吹き消したのは、貪り食い散らしたのは。

 

「な、なんで……」

 

 私だった。

 

「ち、ちがっ……わた、わたし、わたし、は、こんなこと、こんな、する、つもりなんて……」

 

 私が、この人を殺した。

 

「あ……」

 

 瞳が。色の抜け落ちた目が、私を見上げている。やはりどうしてか、そこには優しげな笑みがあって。

 

「どうして」

 

 顔に触れる。瘧のように震える指で、おそるおそる、まだ仄暖かな頬に。

 

「ねぇ……」

 

 どうして、と繰り返す。馬鹿の一つ覚えに、この口は同じ文言を吐き続けた。

 何故こんなことをしてしまったのか。

 あるいは、この所業は全く以て自分の意思に依らない無意識の、意表外の行為であったという言い訳。

 本当はこんなことはしたくなかったのに、こんな心算(つもり)は欠片もなかったのに、そんな自己弁護。

 どうして、どうして……。

 

 ――――ああ、違う。違うのだ。

 

 この、何故(どうして)は。口から零れるこの問い掛けは、そういう当然の疑問なんかじゃなくて。

 もっと、救い様のない。

 

「どうして……あなたは……」

 

 ゆっくり、食べなさい

 

 ゆっくり食べなさいと彼は言った。

 己の肉を、自身の頸の筋管を食い千切った化け蟲に向かって、青年はそう言った。

 幼い童に言い聞かせるような柔らかな貌で、捕食されることを受け入れた。

 許して、くれた。

 妖怪が人を喰らうのは自然の摂理。特にここ、幻想郷で人喰いは営みの一つに過ぎない。

 だから、人が妖怪を恐れるのも当然の心理。恐れて然り。いや、忌み嫌わなければならない。

 人と妖とは、そのように在るべきもの。いつからか薄らいできた恐怖を介した親交。今こそその重みを思い知る。

 自分は骨の髄から、魂の底から妖怪だったのだと、血肉を貪ることで思い出した。舌の根から胃の腑までを潤すことで理解した。まざまざと。

 …………なのに。

 私は()()してしまった、のに。

 

「どうして、そんなこと言うんだよぉ……!」

 

 血腥(ちなまぐさ)い私の肉欲を迎え入れたこの青年が理解できない。

 あるいは彼もまた人生に絶望した自殺志願者なのか。幻想郷において、そういった手合いは少なくない。まるで仕向けられたかのように外界から幻想入りする人間の大半はそんな奴らばかりだ。

 けれどそうは、思えなかった。いやそうであったとしても。

 あんな、あんなにも、慈しむようにして。

 堪らない。堪ったものじゃない。

 この罪悪感は未だかつて知らない。重い、痛い。

 通り魔同然に夜道を襲っておきながら、妖怪の人喰いの禁忌と恐怖を自然と嘯きながら、私は。

 

「…………ごめんなさい。ごめんなさいっ……ごめんなさい……!」

 

 もう無理だ。もう食べられない。殺せない。殺したくない。

 この人に死んでほしくない。

 

 

 

 

 

 

 草を踏むこちらの足音に、その小さな背中は過敏なほど反応した。

 震えながらに振り返った顔は溢れるような涙で濡れていた。

 

「幽、香……?」

「……」

 

 泣きじゃくるリグルの傍らに人の形をしたモノが横たわっている。

 モノだ。血と肉と骨で出来たモノ。あともう数分を数えることなく、それは生命ではなくなる。土の肥やしとなるだろう。

 そうなればいい。土が肥え草花が芽吹くなら、それが最上。最良。

 ああ、あるいはその方が。

 その方がこの男にとっては、幸せなのではないか。

 

「……」

 

 ふいと上ったその思考に、どうしてか虚を衝かれた。

 

「……くだらない」

「へ?」

「立ちなさい、リグル」

「で、でも……この人が……この人は、私がっ……」

 

 泣き顔が歪む。くしゃりと紙屑めいて。

 罪悪と悲愴がその小さな胸を潰すのだろう。

 リグルはひしと、両手で男に縋った。

 

「立ち去りなさいリグル。三度は言わないわ」

「…………」

「……悪いようにはしないから。さあ、早く」

「………………」

 

 長い長い沈黙、風もない夜の静寂は耳に痛い。

 その暗黒の中で、少女の感情が渦を巻いていた。

 

「……ごめんなさい」

 

 今一度、掠れる声で呟いて、少女は立った。

 ふわりと空中に身を躍らせ、枝葉の合間を抜けて夜空に飛び上がる。

 見えぬ筈の未練が、まるで残光のように尾を引いていた。

 不意に一吹き、風鳴りに急かされて、仰臥する男に近付く。血の匂いが、一塊のバターでも頬張ったかのように強く、濃く、ひどく香り立った。

 その強烈な匂いの中に、ほんの一匙、微かにだけれど確実に。

 芳しい花と蜜のそれを嗅いだ。

 

「はぁ、まったく」

 

 男の身体に植わるソレが、蟲妖の少女を惑わせたのだろう。蟲が花に誘われるは自然の有様。その点について自分が訝る由はない。

 ないが、しかし。

 頸の脈を切られれば人間は血を失って死ぬ。簡単に死ぬ。驚くほどあっさりと。

 この男が正真正銘、今まさに瀕死の際に在ってなお未だ虫の息で生きているのは、自分が植えたソレがその身を埋める()()を守ろうとしているからである。

 

「運が悪いのだか良いのだか」

 

 己が所業は棚に上げて、皮肉げに笑みを刻む。

 悪い。間違いなく。この男の運気はきっと最悪の最低だ。

 なにせこの私に拾われるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスファルトの焼ける臭い。

 蝉の声が、道々に響く。

 頬を撫でる熱気。シャツの下には汗が滲んでいた。

 盆の墓参り。父方の祖父母へ手を合わせた霊園からの帰り路。

 向日葵がこちらを見ていた。石垣の向こう側からひょっこりと顔を覗かせた背の高い向日葵が、歩けど歩けど途切れることなくこちらを見下ろしている。

 自分と、養父を見下ろしている。

 

 お昼は何が食べたい?

 

 父は言った。

 自分は何でも食べる、と答えた。

 父は考え込んでしまった。選択肢を丸投げするような応え方をしてしまったからだ。真面目な父は、己の好物を指折り列挙して悩んだ。

 母の好きなものを食べに行こう、己はそう提案した。

 父は頷いて、笑った。

 

 君は優しいな

 

 ひどく嬉しそうに彼は笑った。

 何故嬉しそうにするのだろう。その時は、父の笑みの理由を理解できなかったが。

 今ならば少し、わかる気がする。

 街路樹越しに陽の光が瞬いて、父の顔を斑模様にした。その笑顔には、陽光と同じ暖かさがあった。

 

 ――――劈くような、突き刺すような音を聞いた。足の裏から。

 

 音の塊は真っ直ぐに飛び込んできた。

 黒いワゴン車が縁石を乗り上げて、中空に踊る。車の下部(シャーシ)が、空を覆い隠すように視界一杯に広がった。

 

 気付けば、体は歩道から投げ出されていた。地面で擦り切れた肘が痛みを発した。遅れて胸に鈍痛を覚えた。

 身を起こし、それを見上げた。

 石垣に衝突して拉げたフロント。左側のライトは半ば石の中に埋まっている。

 潰れた車の顔と砕けた石垣の窪み、その合間に。

 それは、あった。モノがあった。

 肉と、血と、骨と、肉と、血と、石と鉄と、それを彩る紅。

 父だったモノ。父を構成するあらゆる部品がそこに、散逸している。

 ただ一個、生命だけがそこにはない。

 俺が父と呼ばわる人は、もうどこにもいなかった。

 

 くそ

 

 乱雑にワゴン車のドアが開け放たれ、中から一人男が転がり出てきた。若い、中年を未だ数えない程度の。

 男の口は吐瀉物に塗れ、顔は頬紅でも塗ったように赤い。車からぷんと、異臭がした。アルコール臭だった。

 

 最悪だ。くそ、くそくそ

 

 男はしきりに悪態を吐き、また反吐を道に撒いた。

 そうして、男は自身の車のフロントにある()()を見ながらに。

 

 汚ぇな

 

 きたねぇな。

 きたねぇな。

 きたねぇな、と。

 何を言っているのかわからなかった。何かを言ったのだ、と。聞捨てに出来ない何かを。脳を焼くような何を、口にしたのだと。それだけがわかって。

 そう言った後、男は胃酸交じりの唾を吐いた。

 そのまま覚束ない足取りでふらふらと歩いていく。

 それを、俺は追い掛けた。真っ直ぐに、早足に歩み寄り。

 男の肩を掴んだ。その時初めて、男はこちらの存在に気が付いたようだった。

 泥酔して前後不覚の人間を引き倒すのは然程に難しくはなかった。

 馬乗りになった己に見下ろされてなお、男の顔には状況を理解した色はない。ただ、不可思議そうにこちらを見上げるばかりで。

 俺は。

 そんな男の、首を。

 男の首を両手で締めた――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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細々と載せます。
すみません。量が書けん……。



 一息、吸い込んだ。

 それは痙攣のような呼吸だった。

 浅い息遣いで、吸い吐き、また吸う。心臓の鼓動が胸骨を存分に揺さぶり、耳孔を巡る血管へ出鱈目な量の血潮を送り込んでくる。

 像を結び始めた視界。木目の古い天井を仰ぐことで、あれが夢だったのだと思い至った。ようやくに。

 ベッドの上に横たわっていた。傍らの窓から白んだ光が容赦なく鈍った目を焼く。

 見知らぬ部屋。少なくとも己の侘び住まいではなかった。

 

「へぇ」

「……!」

 

 声を聞く。反射的にその方角へ首を巡らせた。

 部屋の中ほど、丸テーブルの席に着き、頬杖をつきながらその女性はこちらを見ていた。眺めやっている、と表した方が今少し適うだろうか。

 面白がるような風情で、その柳眉が上がる。

 

「死ななかったんだ? 思ったよりしぶといのね」

「ぁ…………貴女、は」

 

 第一声は紙屑を擦るかのような雑音であった。唾を飲んでそれを拭い、言葉と呼べる代物を口にする。

 

「風見幽香。花の妖怪。そしてこの家の主」

「は……お初にお目にかかります」

 

 実に端的な、無駄を削ぎ落された回答であった。少なくともこれで彼女の呼ばわり方と、彼女と己の間にある生物的強度の差を過不足なく把握できた。

 しかし、ふと。

 

「以前に、何処かで……?」

「さあ、会ってるかもね」

 

 肯定も否定もせず、応える気がそもそも無いといった言い様であった。

 問答をする内に、靄の掛かっていた意識が覚醒していく。

 意識は身体感覚へ繋がり、遅れて記憶野を刺激した。記憶、そう、眠る前、最後に見た光景を。

 

「! リグル、さん……ぐ、ぁっ……!?」

 

 ベッドに手をつき、起こそうとした身体がそのまま落ちる。

 掛けられた毛布を巻き添えに寝台から滑落した。

 

「な」

「動ける訳がないでしょう。どれだけ血を失ったと思ってるの」

 

 床に腕をつく。膝を曲げ、上体を持ち上げる。その試みは試みのままに終わった。

 軟体動物にでもなった心地だった。痙攣を起こすばかりで、足腰は文字通り物の役にも立たぬ。

 突き立てるようにして腕を床に叩き付けた。立てぬだと。そのような、言い訳、聞く耳はない。

 

「くっ、づぁ……!」

「……それに、今更のこのこと出向いて一体なにをしようって?」

 

 無様に足掻く男のもとへ革の靴音が軽快に近寄ってくる。

 ふわりとロングスカートが、床板の表面を払う。ひどく、花の匂いが香った。

 屈み込んでこちらを見下ろす赤。ルビーのような赤い瞳。そこに浮かぶ色彩の意味を、己は履き違えなかった。

 

「そんな体を引き摺って、今度こそ化け蟲の餌になるわよ。ああ、それとも」

 

 嘲笑、侮蔑、そして僅かに感興、好奇。

 

「それがお望みなのかしら? 喰い散らかされて無惨に死ぬのが」

「あるいは」

「……」

「そのような魂胆も、あったように思います」

 

 女の目が細く眇められる。美しい形状をした瞼や目尻は、いくら歪み、皺を刻もうと美しいのだと、阿呆のような感慨を覚えた。

 

「しかし、それは現在の優先事項ではありません」

「優先事項?」

「はい、っ……が、ぁ……!」

 

 地虫同然の様で床を這う。体中に鉛を巻いたかのような不自由。どうあっても立ち上がることは能わぬようだ。

 ならば致し方もなし。

 

「ふっ……ぐ、ぅ……!」

 

 このまま行く。

 だが匍匐前進にも技量が要る。そんな当然の事実を知った。今、まさに。

 

「……どうして」

「はぁ、づ……リグルさんに、過失はないことを。その行為は正当であったのだと、伝えねばなりません」

「――――」

「もとより、彼女の正気は失われていた。いや何らかの要因が()()()()いた。おそらくは……己の中にある何かが、そうさせた」

「……」

 

 彼女が、彼女の欲求、嗜好、意思によってこの身を喰らわんとしたのならば、いい。それは食物連鎖の中の一幕。失われるのは己が無為の身命一つ。帳尻は合う。

 だが、現実はどうか。

 リグルという少女は本当に納得尽くで全てを行っていたのか。

 わからない。かの少女とは道々にて行き会った程度の間柄。その為人(ひととなり)を推し量ることさえ難しい。

 しかし、困難なそれを敢えて断行するならば。

 

「彼女は、望まぬ人喰いを強いられた。だがそれは何一つ間違いなどではなかったと! それを、きちんと、くっ、知っていただく……はっはぁ、はぁ、ぎっ……!」

 

 如何ともし難い。この、屑鉄のような身体は。ベッドから散々に足掻き、藻掻いているというのに、部屋の中央にも到達していない。

 とはいえ強か手足を床板に打ち付けた御蔭で血の巡りは良くなっている。多少は、動いてくれようか。

 

「愚かしい」

「? っ!?」

 

 突如、身体が浮かび上がる。無論、超回復によって足腰が立ち上がった訳でも、この身が奇跡的に飛翔能力を開眼したなどという訳でも断じてない。

 風見幽香、彼女が己の胸倉を掴み、持ち上げたのだ。

 煌々と輝く赤い瞳が、己の眼球を刺突する。

 

「お前は頭がいかれてるのか。自分を喰らった妖怪(ばけもの)に、自分を喰らったことは正しかったと教えてやる? 血を失い過ぎて脳髄まで腐ったか、人間」

「っ……は、恥ずかしながら、健常健全であるとは、胸を張れません」

「……」

「何処かが、狂ったような気がする。そう……何時からか……」

 

 いつからか。

 また、脳髄に靄が立ち込め始めた。朦朧とする。気管支を圧迫され、酸素が欠乏し始めたのか。あるいは彼女の言う通り、己の脳髄はとうに腐敗していて今もなお頭蓋骨の内で腐った煙を発しているのやもしれない。

 だからこんなにも、視界が暗む。

 

「…………」

「はぁ、はぁ、ふ、はぁっ、はぁ……」

 

 それでも、行かねばならない。断じて行かねばならない。

 無辜の少女に、無実の子に、この男は無価値なのだという事実を伝える為。

 こんな男は、いっそ――――殺してしまえばよかったのだと、教えてやらねば。

 教え、て。

 

「――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 男の身体から力が抜ける。片手に掴んだ胸倉から、それはだらりと垂れ下がった。

 ベッドに横たえる。呼吸は、ある。目覚める前よりもそれは弱々しかったが。

 まだ、生きている。その内側に根差すもの共々に。

 

「…………」

 

 狂っているのだと、思っていた。

 尋常に生きていられないほど。浅ましく死を強請(ねだ)るほどに。

 けれど、違う、のだろうか。

 わからない。

 わからなくなった、この男が。この人間が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベッドの上でようやく身を起こせるまでに快復したのは、それからさらに一週間後のことだった。

 満足な医療器具も有りはしないこの土地で、それでもなおしぶとくこの身が生き永らえているのは、誰あろう風見幽香さんの御助力あって為し得ることであった。

 本来ならまず目覚めて何より先に、幾重にも謝辞申し上げねばならぬところを、己はといえば我が事我が都合を優先するばかりか、彼女には昏倒した己にさらなる手数と労力を割かせてしまった。

 返す返す、救い様がない。とんだ恥晒しであった。

 滔々詫び言を繰り返す己を、風見さんは心底うざったそうにあしらった。あしらいついでとばかり、彼女は興味の色も薄く言った。

 

「リグルには私からとりなしておいたわ」

「! それは」

「それでもまだ直に言いたいことがあるんなら、とっととその萎れた体をなんとかなさい」

 

 途端、湧き出るような感謝の言葉を、やはり彼女は鬱陶しそうに跳ね付けるのだった。

 軒どころか床を一つ占領する日々。

 

「ん」

「は……」

 

 匙すらろくろく握れぬ己に、彼女は何も言わず食事の介助をしてくれた。

 差し出されたスープに逡巡したのもほんの束の間。否だの応だのとこれ以上に余計な手間を掛けさせたくはなかった。

 彼女の気紛れな厚意、慈悲に、深く感謝する。

 

「……」

「くっ、ぎ……!」

 

 晴れた日は必ず外に出て身体の酷使に勤しんだ。

 リハビリテーションに対する専門知識など欠片と持ち合わせぬ身。賢しく効率的な運動など夢想するだけ時の浪費である。

 向日葵畑の只中に、そのコテージは建っていた。年季の入った木造の洋風家屋。正面玄関から広々としたウッドデッキが続く。

 そこに引き出された椅子へ、彼女の肩を借りて座る。

 ここをスタート位置に歩行訓練が始まる。

 歩行などとは烏滸がましい。訓練開始からの数日間は、椅子から立ち上がることすらままならなかった。

 椅子を転げ落ちる度に、彼女は黙って己を抱え上げ、また椅子に座らせてくれた。

 

「は、はっ、はぁ……ありがとう、ございます」

「……」

 

 彼女は何も応えない。ただ、日がな一日転げまわる己を、デッキの手摺に腰を預けて眺めていた。

 その静かな眼差しに、なにやら不思議な安堵を覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 震える手でパンを千切り、スープに浸して食べる。

 手摺に捕まりながら、産まれたての小鹿か死に掛けの老人のような覚束無さで立ち上がる。

 およそ一月かけて、青年は自らの肉体をその程度には復元してみせた。幽明境を彷徨ったにしてはよくもまあここまでと、皮肉の一つもくれてやれようか。

 必死。青年の有様はまさしくその二字を体現している。

 何故。

 勿論健康体を取り戻したいという欲求はごく当たり前のものだ。いつまでも介護老人のような地位に甘んじていられるほど泰然自若とした性質でないことも見て取れる。

 なればこそ、何故。

 自身を貪る化物に、あんな顔ができたのか。あの期に及んで自分が死なぬなどとまさか勘違いしていた訳でもあるまい。

 それなのに、親が幼子にそうするように、あの男は蟲妖を労って、慈しんだ。

 青年の方があの少女に気がある、という可能性……いや、その日がまったくの初対面であったという。一目惚れ、なんて薄ら寒い病の気配も特に感じられなかった。

 

 そのような魂胆も――――

 

 死にたがり。自殺志願。希死念慮。

 そういう救い難い、愚物。塵屑。存在するだけ目障りな、息をする死人。

 あれもまたそうなのか。

 ……そうなのか? 本当に?

 

 今日も、貴女はよい姿を――――

 

 あれも。あの言葉も、あの貌も、全ては自死への陶酔が(もたら)したものなのか。

 己自身を死すべきものと決めて掛かり、ただ卑屈に(おもね)(へりくだ)り、他の全てを拝し奉ずるかのように振舞う自己満足だったのか。

 本当に、そうなのだろうか。

 

「…………」

 

 本当の、あの青年の(のぞ)みとは。

 ああそう、そうだった。それを知る為、この好奇心を満たす為に私はアレをその肉に植えたのだ。

 何を(こまね)いているのだ。時は既に十分に満ちた。アレはとうに根付き、芽吹いている。今はただ茎と葉を大人しくその肉の下で折り畳んでいるに過ぎない。己が力を込めて一撫ででもしてやれば、アレは人の骸などズタズタにして辺り一面にその緑の体を広げるだろう。

 ……いや、そうまでせずとも。

 今ならば、アレを通して青年の心、記憶を覗き見ることさえ造作もない。

 それほどに深く固く強かに根は張られた。肉の土に骨の添え木、血の養水。あの青年はもはや動物でも植物でもある。つまりは、この風見幽香の虜。

 躊躇う理由などない。

 

「……」

 

 ない、筈だ。

 

「おはようございます、風見さん」

 

 その日の朝も、青年は早くから起き出し既にして戸口に立っていた。片手には枝打ちをした樫の荒削りな杖を携えて。

 背後のこちらに振り返り、その場で深く腰を折る。

 

「……おはよ」

「はい、今日もよい日和ですね」

 

 実に月並みで、朴訥な挨拶をして、笑む。

 青年は今一度会釈をすると、注意深く戸を開けて表に出て行った。その一歩一歩を踏み締めるようにして。

 

「…………」

 

 前へ、明日へ進もうと尽力するのと同じほど、その精神は死を憧憬している。

 矛盾。

 生と死の並立。生きながらに死を孕んでいる。生を象徴しながらに、死をも象徴するそれは。

 

「まるで……」

 

 花のよう。

 

 

 

 

 

 



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赦(了)

随分時間が掛かってしまいました。本当に申し訳ありません。

風見幽香√これにて完結でございます。




 

 

 

 一言、尋ねるべきなのかもしれない。

 どうして貴女はそうまで己をお(たす)けくださるのですか、と。

 見も知らぬ赤の他人を。己が身も字義通り立てられぬこんな不甲斐ない男を。

 リグルさんとは知己だという。なるほどならばその(よしみ)。縁に依って……それのみとは、思われない。

 何故(なにゆえ)にと、問いを投げ掛けることはできた。何時なりとできた。

 しかし、己はそれをしなかった。

 感謝と謝罪を繰り返して、それでも問うことだけはしなかった。

 問うことで、変わることをおそれたから。

 この日々が終わることを、おそれたから。

 ただの気紛れでいい。それが戯れでも一向に構わない。己にとってソレは間違いなく得難い奇貨であったから。

 ソレは花の君からの、慈悲であったから。

 

 ……だが

 

 何十日目かの朝。

 杖を突きながらであれば太陽の畑の南北を往き来できるまでに、この足が使い物になった頃。

 決断をせねばならない。誰に迫られている訳でもないが。何も決めず、何一つ負わずに送るには、この日々はあまりに穏やかで。

 幸福を貪る己という名の蛆を自覚せざるを得ないのだ。

 自覚したからには無視はできない。

 俺は彼女に、かの人が胸に抱く目的を問わねばならない。そして、その御返答の如何によって、この身の進退を決める。

 道は二つに一つ。ここを出るか、ここに留まるか。選ぶには知らねば。彼女の(のぞ)みを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 青年を引き倒し、床に叩き付けるのにさしたる力は要らなかった。

 妖怪と人間の膂力の差は絶対である。異能による反則でも用いぬ限り、この差は決して埋まらない。

 痛め付けるのが目的ではないから、要した腕力は余計に少ない。

 仔犬を悪戯で転がすように。

 

「わかってたでしょう。いずれこうなるって」

「はっ……」

 

 言葉を失くして、青年はこちらを見上げている。

 驚愕の色は、思いの外少ない。ただ身体が真実、室内空間を空転したことで脳が混乱でも起こしているのだろう。人間の三半規管の脆弱さに付き合ってやる気はない。

 

「私がお前を生かす理由。今、教えてあげるわ」

「……はい、それを、お尋ねせねばと、思っておりました。遅きに失しました。長く、躊躇するばかりに」

「あら、渡りに舟じゃない。感謝してくれてもいいわよ」

「ありがとうございます」

「……」

 

 皮肉の一つも通じない。いやそれと承知で、それでも礼節だのなんだを重んずる。自己の思い願い存念など慮外に置いて、他者のそれを押し戴くかのそれ。その態度が。

 苛立つ。業腹だ。

 どうしてか。どうしてだか。

 弱者が嫌いな訳じゃない。弱い者には弱いなりの生き様もあろう。尻尾を巻いて一目散逃げるもよし。無謀、蛮勇に闘い果てるもよし。弱さは盾にも矛にもなるのだから。

 卑屈が目障りな訳じゃない。己が賎しさを嘆く様は()なきだにこの目を潤すもの。我が嗜虐の欲心を満たす甘露であって、むしろ忌避せざるところだ。

 この男は、どちらだ。

 どちらであってもいい。どちらかで、あればいい。

 どちらかであってくれたなら、この胸に詰まる(わだか)りも失せる。

 

「見せなさい」

「っ!?」

 

 前頭を掌握する。文字通りに。

 今、男の肉体の至るところに張られた根とこの手を繋げる。同調、同期、彼我に根差した生命樹の、互いの蔦が絡み合う。

 その奥にひた隠されているその本性を、暴く。

 

 ――――憎い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思考は一色に染まっている。

 視界は色彩を欠いていく。白と黒。まるで意味すらも消え去るかのように。

 意味。意味は一つだ。残留する薄汚い染みのように、たった一滴。

 憎い、ゆえ、殺す。

 この男を殺す。必ず殺す。絶対に殺す。

 父の命を挽き潰した、父をこの世から損なわしめた、この男が憎い。

 憎い。

 憎い!!

 殺してやる!!

 

 

 

 

 ……憎しみ。そう、それがお前の

 

 

 

 

 首を両手で締め上げ、全体重を掛ければ、扼殺は勿論頸骨を潰し砕くことすらできる。

 できる。この激情あらば肉体の限界を打ち破り、常識外の膂力を発揮し得る。成人男性の強靭な首を素手によって破壊してみせる。

 今ならばそれができる。できるのだ。

 やらぬ理由などない。父を殺した男を殺さぬ道理など、ない。父を殺した。この一事実は殺戮行為に対する解禁の万の理由に勝る。

 殺す。

 立派な人だった。尊敬に値する人だった。愛すべき人だった。……愛してくれた人だった。

 それを、この男が、肉片と散らした。

 そしてあろうことかその亡骸をして汚いと言った。汚いと、言ったのだ。唾を吐き捨て、遥かな価値を有したその命を貶めたのだ。

 許さぬ。許せるものか。

 

 

 

 許せないなら、殺すしかないわね

 

 

 

 そうだ。殺すしかない。殺す以外の道はない。

 父の仇を討つのだ。

 父の。

 

 

 

 

 

 ――――君は優しいな

 

 

 

 

 

 次いで蝉の声がした。

 世界に色が戻ってくる。

 雑多な意味が帰ってくる。

 純一だった思考は混沌と搔き混ぜられ、ヘドロのように淀み滞り流れを失う。止まる。

 すっかりと停止した脳髄の中心で、しかし豁然と、あの人の姿は立ち現れた。父の微笑が俺を見ていた。

 優しいのは貴方だ。俺の為に多くのものを与えてくれた。たくさんのものを見せてくれた。知りたいことは何でも答えてくれた。知らねばならない大切なことを教えてくれた。

 貴方のような大人になりたいと思った。

 大人になって、貴方達夫婦の助けになりたいと思った。思っていたのに。

 その希望は潰えた。轢殺されてしまった。

 己が今組み敷いているものの所為で。だから。

 だから、これは貴方の仇だから――――これは父の為だ、と?

 ……あの人は、望むだろうか。

 違うこれは俺の望み。この男を殺すことに、父は関わりない……ない筈が、ない。

 父を理由に、人を殺す。それは青天の霹靂めいて赤熱した脳の裏側を急冷した。痛みすら伴って。

 ……あの人が望むのか。俺の殺戮、復讐を。

 あの人は死んだ。今まさに、俺の目の前で。死んだ者が想い願いなど口にするものか。そうできぬ場所に彼は逝ったのだ。望むも自分。行うも自分。父は、関係ない。

 ……父を殺されたその一事実を、殺戮解禁の言い訳にしておきながら。

 父の仇、父の為の殺人だと、(おまえ)は胸を張れるのか。

 俺が今生きているのは、あの人が俺を庇ったからだ。胸に走る鈍痛はあの人が俺を突き飛ばした時に出来たもの。気付いていた。ただ狂乱した思考の端にそれを追いやった。

 ……父に生かされた命で、俺は人殺しをするのか。

 殺したい。殺したいほどに憎い。この憎悪を晴らしたい。この男を殺すことで。

 殺さねば。殺す。殺せ。憎い。殺す。憎い。殺してやる。憎い。憎い。憎い。憎い。

 

 

 

 

 君は――――

 

 

 

 

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 雑音がする。叫びだ。獣の濁った吠声(はいせい)のような、聞くに堪えない絶叫。

 それを上げているのは、喉から血を吹きながらそれでも、吠え続けているのは。

 俺だった。

 アスファルトに拳を打ち付ける。何度も何度も打ち付け、殴り付ける。途端、皮は破れ肉が削がれ、地面と、眼下にある男の顔を赤い血飛沫で彩った。それでもなお、拳を振り下ろした。何度も、何度も。

 そうして何度目か、骨が肉を突き出た時、俺は警官二人に引き起こされた。

 救急車と数台のパトカーから人間が大挙する。

 男もまた警官に連れられ、パトカーへ歩いていく。男の顔に表情はなかった。表情と呼べるだけの色がなかった。ただ、俺を、歪な形に凍り付いた顔と昏く淀んだ目で見ていた。

 恐怖。それに凝り固まった貌で。

 

 

 

 

 ………………

 

 

 

 

 俺は起訴されなかった。

 当時十四歳、少年法が適用され、逮捕・拘留、後に家庭裁判所へ送致されるのが妥当な仕儀であろう。未遂とはいえ殺人を敢行しようと試み、またその現場は居合わせた警官が目撃もしている。

 しかし、俺はその日の内に解放され、母のもとに帰った。

 被害届は出されなかった。また状況の特殊性が常識的、司法的な判断を困難にしたらしい。

 生活態度や素行に特筆するほどの問題はなく、逃走の懸念もない為に、俺は自宅での待機を要請された。命令ではなく。

 一定期間の捜査は為されたが、結局、俺の行為は処罰の対象と看做されなかった。

 被疑者の男が何故、俺の罪を訴え出なかったのかはわからない。男の弁護人が反省態度の示し方として俺への酌量をレクチャーしたのか、それとも――――何かを怖れたのか。

 報復を、怖れたのかもしれない。

 俺の殺意を、怖れたのかもしれない。

 国選弁護人の怠慢か。男には危険運転致死傷罪が言い渡され、懲役刑となった。人生の四半世紀近くを塀の内で過ごすその決定を目の当たりにした時、あの男はやはり、あの恐怖の貌をしたのだろうか。

 それとも、安堵したのだろうか。

 もはや知る術はない。知りたいとも、思わなかった。

 

 

 

 飲酒運転による死亡事故。父を目の前で轢き殺された少年。

 その少年の、仇討ち。

 あの現場は撮影されていた。居合わせた野次馬の何人かは、俺が男に覆い被さり首を絞める様を携帯端末に収め、それらの幾つかはインターネットの動画サイトやSNSにアップロードされていた。

 数分にも満たない悲劇と復讐劇の凝縮された映像は一時期テレビや新聞、ネットで取り沙汰された。

 その復讐行為を称賛する声、短絡的で衝動的な行動に対する批難、法治国家における私刑の是非、人が人に暴力を振るう正当性……センセーショナルに、面白おかしく、勝手自儘に議論は画面と紙面の上で白熱した。

 当事者など置き捨てて。

 いや、置き捨てていてくれたなら、それでよかった。

 不要な注目は、俺と母の周囲から平穏を消し去った。

 学校の級友らが俺と距離を置いたことも至極当然で、妥当な行動である。彼らは迷ったに違いない。事故の被害者であり、事件の加害者でもある己の処遇を。憐れむべきか、忌み嫌うべきなのか。結果として、彼らは消極的排斥を選んだ。

 その判断を非情とは思わない。

 むしろ真逆。本当に申し訳なく思う。

 学校生活に無用な波風を立てられた、彼らこそ被害者に他ならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 母は、俺を責めなかった。

 

 ――――辛かったでしょう?

 

 安置室の、冷たいリノリウムの廊下で俺を出迎えた母は、俺を強く抱き締め、静かな声で言う。

 

 ――――よく、耐えたね。あなたは偉いよ。とってもすごいよ

 

 まるで、辛く苦しいのは俺ばかり、自分自身の悲しみなど捨て退けて。

 俺を労り、褒めて、慰めて。

 

 ――――ごめんね

 

 謝るのだ。

 心底申し訳なさそうに、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返す。

 罪人は、己である。

 一時の殺意に身を委ねようとした。それが全く、徹頭徹尾、正しい行為だなどと盲信して。父の死を名分に、この憎しみを晴らそうとした。

 それが独善でなくてなんだという。自慰行為とそれとにどれほどの違いがある。

 そんな(おぞ)ましい所業に手を染めかけた己を、己の無事をまず何よりも母は歓喜した。

 そして、当然に。

 父の死に全霊で悲哀した。納体袋の中に拾い集められた父、原形留めぬその亡骸に縋り、魂を吐くような嗚咽で泣き崩れた。

 ああ。

 俺は一人、愚昧に理解する。場違いで時期外れ極まる悟りを得ていた。

 人として正しい有様。母の悲しむ様に、人倫(ひとのみち)を見た。

 ケダモノに身を(やつ)した己の対極を。

 正常な人間が、大切な誰かを喪った時最初に抱くべき当然の感情を。

 

 ――――ごめんね

 

 何を謝ることがある。この人が何を悔い、改める必要がある。

 悔悟に呻くべきは己だ。罪を知るべきは己だ。

 俺は、危うくこの人を、人殺しの母親にするところだったのだ。なんたる罪業。なんたる軽挙妄動。俺は無知で、無恥だった。

 だのに母は悔いた。母こそが罪悪感に身を縮めた。

 俺の所業を、我が事のように悲しんだ。

 最愛の人を亡くした悲しみに胸を潰されながら、その細い両肩で俺の罪悪までも背負いこんだ。

 その報いは、如実に、無慈悲に、急速に現れた。

 その後、体質的に病弱な母が体調を崩したのは言うまでもない。喧騒から逃れる為に住処を移したことで、環境が大きく変わったのも確実に悪影響を及ぼしたろう。いっそ、自然の成り行きでさえあった。

 病床から立ち上がることもできなくなった母は、呼吸器でくぐもった声で、それでも、何度も。

 

 ――――ごめんね

 

 父が死んでからおよそ二年後。母もまた父と同じところへ旅立っていった。

 

 

 父の死が、母の精神を著しく弱らせたのは事実。それこそ当然の、極大の悲しみを母は受け止めたに違いない。

 だが、決定的だったのは。母の心身に致命的な負荷を強いたのは。母に、止めを呉れたのは。

 俺だ。

 俺の行為が、母を疲弊させ、苦悩させた。

 

 

 俺が……母を殺した。

 

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 現実への回帰は唐突だった。

 青年との同調が解かれ、肉体に精神が叩き戻される。立ち眩みにも似た視界の惑乱を歯噛み一つで捻じ伏せた。が、それでも、この胸には余韻が残った。

 それはひどく、鈍い。重い。あまりにも重く心臓を響く。

 悲しみ。後悔。罪悪感。

 自己嫌悪。

 自己(おのれ)を許せぬ。青年は怨念を籠めてそう念じていた。

 

「……それが」

「…………」

「それが、お前の“理由”? お前が、()()なった理由だっていうの」

 

 当初の目的は果たされた。望み通りの回答を得た。

 この男の、歪な生き様の出発点を、見た。疑似体験したとも言える。

 夏の盛り、向日葵の見下ろす石の道で、陽炎のように燃え盛る憎しみ。悲憤を。

 だが。

 なんだ。これは。この晴れぬ感情は。未だ残留する蟠り。苛立ち。

 

「後悔? 自己嫌悪? 罪?」

「……俺が、母を、死なせた」

 

 床板に視線を落とし、項垂れるままに青年は呟いた。

 それを聞き取った瞬間。

 

「違う。違う! 違う!!」

「……」

 

 胸倉を掴み上げ、無理矢理に立たせる。俯くその目を睨み付た。溢れ出るままに言葉を叩き付ける。咆哮の如くに。

 

「お前が悔いるべきはそれじゃあないだろう!?」

「……」

「お前が悔いて、恥ずべきは……父の仇を討たなかったことだ! 仇を、怨敵を、殺さなかったことだ!」

 

 それ以外にない。それ以外に何がある。

 愛する者を殺され、塵屑として扱った者を生かしたままにしている。それ以上の罪悪など、ない。ない……ない筈だろう。

 それなのにこいつは、この男はその行為を悔いている。恥じている。憎んですら。

 人の法か。人間の社会倫理、文化通念が報復殺人を禁忌と定めているからか。くだらぬ。くだらぬ。くだらぬ。そんなもの一撫での慰みにもならない。ならなかったではないか。司法の裁きは結局、被害者たるこの男を、この男の母を救い得なかった。人の法理など所詮は人間社会という枠組みを防衛する為の機構に過ぎない。

 理は一つだ。

 殺された、ならば殺し返せ。命を奪われた、ならば奪い返せ。

 それでようやく帳尻は合う。強奪されたマイナスを打ち消せる。喪われたものは戻らない、がゼロには戻る。ようやく開始点(スタート)に立てる。

 それが、それこそが正理(しょうり)

 同じ筈だ。人間だろうが妖怪であろうが、それだけは。

 そうでなくては。そうでないなら。

 この男は――――

 

「できない」

「っ、どうして!」

「父は、きっとそれを望まない」

「死人が望みなど口にするか!」

「母は」

 

 ゆるゆると、青年は首を左右して。

 

「望まなかった」

「ッッ! ……違う、そうじゃなくて……そうじゃ、なくて」

 

 死んだその誰かも、あなたの復讐など望まないだろう……そんな薄ら寒い定型句は、今更口にするのも憚る。

 しかし、青年の母は確かに、生きて彼に伝えた。そんなものは望まないと、彼が罪を犯すことなど決して望みはしなかった。

 それでも、納得できない。

 

「お前は!? お前はそう望んだでしょう? あいつが憎い。殺したいって!」

「………………」

 

 青年は、痛みを堪えるようにして表情を歪め、瞑目した。

 吐息するような、それは諦めだった。

 駄目だ。ああ駄目だ。そんなの。納得できない。認めたくない。

 この胸奥から溢れる感情は耐え難い。まるで自分のものではないかのように氾濫する。

 今、風見幽香という存在の狂乱を自覚している。たかが人間一人の、ありふれた不幸を垣間見た程度で。何故だ。この苛立ちは何だ。この青年の、一体何が風見幽香(わたし)をこんなにも乱すのだ。

 正当な殺意に、封をしようとする。苦悶を押し殺し、悲憤に身を焦がし、その苦痛を甘受する。ただそれだけの為に生きている。精神を拷問に掛けるかのようにして生きている。

 ――――生きてなどいない。

 それは断じて生などではない。死だ。この男は生きながらに死のうとしている。心を殺している。

 だったら。こいつが自分の心ばかりを殺すというなら。

 

「――――私が殺してやる。お前の、父の仇を」

「!?」

 

 青年を手放して玄関に踵を返す。戸を開け放ち、進む。

 太陽の畑を縦断する。一面の向日葵が、私を見ていた。

 

「風見さん!」

 

 声が背中に追い縋る。無視する。

 不揃いな足音が地を蹴り、苦しげに追い掛けてくる。それでも歩みは止めない。

 足音が乱れ、大きな音を立てて倒れ込む。歩みが、止まる。

 その直後、右腕を掴まれた。

 

「……」

「ぐっ、はっ、はぁ、はぁっ……」

 

 青年は這って、土に塗れながら自身に追い付いた。

 真っ直ぐにこちらを見上げる目を睨み返す。その理解不能の必死さが、さらに私を苛立たせた。

 

「放しなさい」

「できません」

「放せ」

「放します。それを断念していただけるなら」

 

 決然と青年は言った。それまでは断じてこの手は放すまい。そのような意思を露わに。

 何故。

 

「ッ! 忍耐して満足? 憎しみに蓋をして父母の望みを叶えていればお前は満足なの?」

「はい」

「嘘」

 

 男の望み。本当の希みはそこにない。ないから、こんなにもこの男は倦んでいる。

 

「お前が、私の花を尊んだのは」

 

 白翠の花。森の中に拓かれた小さな花園。

 青年が恐れ戦きながら、畏れ、尊んだあの花。花の白に、母親の骨を見ていた。それが不幸の記憶に繋がっていると知りながら、それでも、膿んだ傷口をなお抉るかのように毎日毎日その姿を目に収め、焼き付けるようにしていたのは。

 

「憎しみを忘れない為でしょう! それを糧に、今日まで生きてきたんじゃないのか……もし、そうではないと言うんなら」

「……」

「お前の本当の望みを言いなさい。私がそれを叶えてあげる」

 

 誰だろうと殺してやる。そうして初めて、ようやく、こいつの人生は折り合いを付けられる。始められる。

 人として、生きていける筈だ。

 

「言いなさい。言え! 言うの」

「俺の、のぞみ……?」

 

 まるで初めて口にするかのようにその言葉を呟く。青年は、自分自身の願望を今の今まで考慮していなかったようだ。

 おそらくは、父親の死んだあの日から。罪人が想い願いを口してよい筈がないと、思い決めて。

 青年の手が微かに震えていた。

 その目から、表情から、色が抜け落ちていく。

 代わりに奥底から、隠されていたものが表出する気配を覚えた。青年の、真意。意志を。

 

「そう。そうよ。お前の」

「俺は……俺、は……」

「本当の」

「俺は――――」

 

 浅く、一吸い、青年は息を呑み。

 そうして、その顔はくしゃりと、形を崩した。

 

「――――恩を、返したかった」

「え……?」

 

 震える声音で、彼は言った。

 目から堰を切ったように涙が溢れていた。

 

「こんな俺を、俺みたいなやつを拾って、育ててくれた……親孝行したかったっ、もっといろんな話をしたかった……お礼を言いたかった、たくさん、たくさん! ……大人になって就職して、二人を楽させてあげるんだって……今度は俺が、俺の番だから……!」

 

 さめざめと涙を溢し、青年はその場に泣き崩れた。

 嗚咽が混ざり、しゃくり上げ、言葉が言葉としての体裁を失っていく。彼はただ、泣きじゃくった。

 泣きながら、それでも言い続けた。希みを。心からの希みを。

 

「会いたい……また、もう一度、もう一度だけ……父さんと、母さんに……会いたいよ……!」

「――――」

 

 ふと見ればそこに蹲っているのは、十五、六の、ただの少年で。

 少年は純粋で当たり前の願いを叫んだ。両親に、会いたい。とても当たり前で、ありふれていて……二度と叶わない希みを。

 

 

 

 

 

 

 自己嫌悪(にくしみ)復讐心(にくしみ)を凌駕した時から、俺はふと道に迷った。行くべきところがわからなくなった。

 本当の望みは叶わない。もう決して、あの人らは帰ってこない。

 母への罪悪を背中に負って、燻るばかりのにくしみを抱えて、後悔と悲しみと孤独と絶望に目の前が昏くなった。

 自殺も、幾度か考えたが、それは安楽への道。死ねば確実に楽になれるとわかっていたから、しなかった。そんなことは許されない。俺は俺に許さない。

 なによりも父母がそれを望まない。

 生きなければいけない。ちゃんと、生きなければ。

 でも、いくら考えてみても、周りを見渡してみても、わからない。思い出せない。

 

 生きるって、どうやるんだったっけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうしようもない。救い難い。救えない。

 私にはこの青年を救えない。

 

「……」

 

 そうか。私は。

 このどうしようもなく愚かで、憐れで、惨めで、可哀想な青年を。

 痛くて苦しい癖に一声も上げず知らんぷりを決め込む青年を。

 救いたかったのか。

 

「ダメなのね」

 

 家族を失う悲しさなんて私にはわかってやれない。憎悪に勝ってしまう愛情なんて知らなかった。

 

「もう、一歩も進めないのね」

 

 この青年の心は、その二つで均衡してしまっている。憎いから殺しても、愛しい人らは帰らない。愛しい人らを想っても、その死に罪悪を覚えずにはいられない。

 生きているのは辛いのに、自分に死の安息など断じて許せない。

 自分自身をただただ責め苛むだけの人生。生きながら死ぬだけの停滞した時間。

 なら、仕方ない。ならせめて、ほんの少しだけ、手助けしてやろう。その苦しみが少しだけ紛れるように。

 

「眠らせてあげる。静かに、咲かない花のように」

 

 涙に濡れた顔が、呆然と私を見上げた。

 笑みを返す。なるたけ優しく、労わるように。

 

「膝から下は要らないわね」

 

 とっときの冗句を口にするみたいに、軽やかに。

 

「家の坪庭の花壇の、一番日当たりのいいところで、浅植えにしてあげる」

 

 安心させるように。

 

「朝顔や桔梗や、アネモネ、チューリップ、撫子、薔薇……それに向日葵。貴方の隣に、たっくさん植えてあげる。毎年毎年に色とりどりの子らで飾ってあげる。だから」

 

 寂しくないように。孤独の穴埋めに。

 

「どこへも行かなくていいの。私の花園の中で、ずっと咲いていればいいの」

 

 もう苦しまなくていい。心穏やかに、ただ眠るようにそこにいればいい。生きなくてもいい。死ななくてもいい。

 そこにいてくれさえすれば、それでいい。

 

「お前は――私だけの花だから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 よく晴れている。

 雲も疎らな秋空は、四季の中でも一際高く広い。庭の軒に四角く区切られた薄青。冷えて澄んだ空気そのものに、そんな冴え冴えとした色を見た。

 小鳥が囀ずっている。夜明けを言祝(ことほ)いで。

 

「いい日和ね」

「……」

「今朝は肌寒かったけど、霜も降りなかったし、陽が出てくると気持ちがいいわ。ねぇ?」

「……」

「ふふ、今日はローズヒップ。赤がね、今年はすっごく鮮やかだったの。煮出してもこんなに綺麗に色付くのよ? 貴方も飲む?」

「……」

「そう。じゃあ今度はカモミールにしようかしら。ふふふ、楽しみね」

「……」

 

 丸テーブルにカップを置いて、スツールを立つ。

 坪庭の中にそっと足を踏み入れ、その中央へ。一等に、日当たりの良いその場所へ歩み寄る。

 ロッキングチェアに座る彼に。

 背もたれや肘掛けや支柱、曲線を描く脚にまで絡み付く蔦。彼の体中から伸びたそれらが椅子を包んでいる。

 膝から下は根が生えている。樹皮に覆われた若々しい樹根が、幾本幾重にも分かれ広がり、庭の土に浅く植わっている。

 蔦と葉を掻き分けて、その頬を撫でる。ゆるく閉じられた瞼を見詰める。

 

「今日も、貴方は良い姿をしてるわ」

 

 眠りは穏やかかしら。いい夢は見られてる? どうか、それが優しい思い出でありますように。

 

 

 

 

 爆音。

 地響き。

 庭が上下し、テーブルから落ちたカップが地面で割れた。ぶち撒けられた野薔薇が香り立つ。

 

「……ごめんなさい。少しだけ出てくるわ。待っていて。すぐに戻るから。すぐに、ね」

 

 もう一度、その頬に指を這わせて、暖かな日向に背を向ける。日傘を手にして、外へと赴く。

 

 

 五行の相克を逆用して構築した大森林結界は炎すら退ける。たとえ鬼の金剛力を以てしても容易には破壊できまい。いや壊し薙ぎ倒したとて、瞬きの内に次々と生盛される大樹は何人も通しはしない。

 それが今、大火を上げて崩れていく。

 一面の炎、炎、炎。青空を赤く焦熱させるほどの大火の海。

 これは、火ではない。熱を発し空気を食らい尽くし物体を燃やす、火そのものであるが。似て非なるもの。呪いだ。火という現象に形作った呪いの瘴気だ。燃やすのは物体であり、生体、生命。命を焼く為の火。殺戮に特化した災火の呪詛。

 そのような外法は……おそらくこの世に数多数限りなく腐るほど存在するだろう。

 ただそういう違法行為には得てして代償が付き纏う。命とか。大抵の場合生き物が持つ命は一つなので、こうも景気よく呪いなど振り撒けるものではないのだが。

 こいつの場合はその限りではないのだろう。

 紅い目が凝然とこちらを睨み付けている。白銀糸の髪は先程から燃えて散って、皮膚は爛れ、手足は黒々と炭化して、次の瞬間には全て元に戻っている。一歩毎に藤原妹紅は焼滅と再生を繰り返す。

 そうして遂に少女は己の眼前に立った。両肩から呪いの瘴気を立ち昇らせて。呪いばかりではない。狂おしいまでの憎悪を、滾らせて。

 

「返せ」

「はぁい?」

「返せ」

 

 耳に手を添えてみたが、音程音量までも同じその二言目に肩を竦める。

 溜息を一つ吐いて。

 

「ここにある花は全て私のもの。あの男は私の花よ」

「かえせッッ!!」

「お前に返すものなど何もない。失せろ負け犬」

「風見ぃ!!!」

 

 少女の形をした砲弾が爆ぜる。突撃する。

 手掌には炎。赤熱から白化にまで至らんとする高熱を発して、それをこちらに振り下ろす。叩き付ける。

 斯くも単純な攻撃が実に厄介だった。なにせ触れれば全てが燃えて尽きる。

 馬鹿正直に受け止めてやる義理はない。ならば後ろか、側面に逃れればいい。逃れれば。

 

「あの人は一緒に行ってくれる私と一緒に行ってくれる永遠の未来に行ってくれる唯一のたった一人の人だから! だから!! だから返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せよぉぉおおおおおお!!!」

 

 ……逃げる? 逃げるだと?

 こんな、頭のおかしい勘違い女から、この私が逃げる?

 あの男の、血を吐くような苦悩を知らぬこんな女から。彼の何もかもを知らず理解せず、未来? 未来。未来!

 

「――ハッ」

 

 日傘を振り落とす。伸ばされた女の腕、肘へ。

 関節の可動域を無視して、内側にへし折る。骨が皮膚を突き破り、噴き出た血潮は熱で蒸発した。

 

「がぁッ!?」

「救いを強請るな、乞食」

 

 顔面を手掴みして引き倒す。地面にその銀色の頭を叩き付ける。

 

「私は、お前の知らない、あの男の本心を知っているわ」

「ッッッ!!? ッッ!! ッ!!」

「あの男が本当は何を望んでいるのかを、あの男の口から、告白されたの」

「――――」

 

 傲然と宣う。なるたけ悔しがるように。できるだけ憤怒を煽り立てて。

 この無知な女に思い知らせてやる。

 

「彼が選んだのは、わ・た・し」

「………………………………」

 

 沈黙の奥底で何かが点火していた。

 さながら噴火の前の富士の峰に立つかの心地。

 だからどうした。山が火を噴くというのなら、その山ごと踏み潰してやるまで。

 

「来なさいな、不死(しなず)。生垣にでも植えてあげるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一本松の天辺で一人佇み眼下を眺める。

 太陽の畑も随分と様変わりした。天地を覆い隠さんばかりに拡張した大森林、そして今、それは赤黒い爆轟に包まれている。

 騒がしいこと。

 これでは、彼が起きてしまうかもしれない。

 それはそれで構わない。目を覚ました彼が、あの花狂いと不死人を見限って自分のもとに来てくれるなら、それが最上。最高最大の喜び。

 そうなって欲しかった。

 彼に、選んで欲しかった。

 

「……しょうがないか」

 

 選ばれなかったのだから仕方がない。だから、私は強奪することにした。彼を、彼の心を。

 神霊(みたま)を降ろすは我が生業。人の霊などはそれこそ、空を翔ぶよりも容易な所業である。

 精々肉体(にく)を取り合えケダモノ共め。

 

「彼の霊魂(こころ)は私が連れて行く」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森が焼かれていく。獣も蟲も妖精も妖怪ですらこの災禍を前に皆等しく逃げ惑っていた。

 木っ端な蟲妖である自分もまたそんな大勢の一匹。

 

「……」

 

 戦っているのは幽香と妹紅だろう。戦いの理由はきっと、あの人なのだろう。

 あの人を取り合って彼女らは憎悪の限りに殺し合っている。

 大した力もない自分に、そこへ割って入るような真似ができる筈もなかった。私は何もできず、ただ事の成り行きを見守るしかできない。

 あの人にはもう、会えない。

 

「……」

 

 話をしたかった。謝りたかった。お礼を、言いたかった。

 許してくれたことが嬉しかったから。許してくれたのはあの人が初めてだったから。願わくば、もう一度だけ会いたい。あの人のことを知りたい。あの人に触れたい。声を聞きたい。匂いを嗅ぎたい。

 もしも、もう一度会えたならきっと。きっと。

 

「全部、残さズ、食ベテアゲルカラ――――」

 

 

 

 

 

 

 





 現在を閉じ込めて過去の罪も未来への絶望も亡きものにしてくれるのが博麗霊夢
 未来を永遠に別たれず共に歩んでくれるのが藤原妹紅
 過去に停滞することを許してくれるのが風見幽香

 かわいいリグル:かわいい

 幽香さん別に病んでねぇしもこたん便利にキレ散らかしてオチに使ってるし紅白巫女さん黒いよ巫女さんだしリグルはかわいいし。
 ヤンデレってなんだよ(唐突な賢者モード)

 このような拙作ですが、お時間を割いていただいて本当にありがとうございました。


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地獄編
糸(黒谷ヤマメ)


基本的に一話完結です。
話は繋がっているようで微妙に繋がっていないです。



 

 

 母の葬儀を終えた日。霊園よりの帰りの道すがら。

 

 俺は地獄に堕ちた。

 

 文字通り、真っ逆さまに。

 真っ当に、何不自由なく、なにより愛情をかけて育ててくれた両親に対するこの不孝を思えば、なるほどこの仕儀には格別の不思議もない。然るべき措置。当然の報い。自業に適する自得。

 俺は落ちるべくして落ちたのだろう。

 

 

 暗い暗い縦穴を垂直落下した。半秒後の墜死は確定的、その末路を疑いもしなかった。死への覚悟などは、無論なかったが。達観の境地に程遠いこの凡愚は、愚劣なりの鈍愚さで、不可避の死に諦めを抱いたに過ぎず。

 だのに、しかし己は生きている。

 気絶と呼ばわるほどの意識喪失ではなく、呆然と、思考停止に陥ること十秒弱。そこから最初に感じたのは圧迫感だった。身体を、五体それぞれを締め上げられているかの。

 その不自由の正体はすぐに知れた。

 糸。

 それは麻や木綿といった植物製のものでも、ウールのような動物由来のそれでもない。

 近似のもの上げるなら絹。蚕の繭を紡いだ繭糸であろう。

 だが違う。この質感は、今少し身近なものだ。

 独特の粘りと、その細さに反した強靭性。叢や軒下を潜れば顔に体にへばり付く、あの不快感。

 蜘蛛の糸。

 光の透過が遮られ、白くなるほどに夥しい束。それらが腕といわず足といわず、体中に巻き付き絡み付き、己を中空へ縫い留めていた。

 現状の理解は、実に困難である。

 いや、単純ではあるのだ。この身の置かれた状況を、簡潔な文言で過不足なく表現することは。

 己は、羽虫がそうなるように、蜘蛛の巣に捕まったのだ。

 問題は、人間一人を完全に拘束してのけるほどに巨大な蜘蛛の巣。そんなものが存在する現実。その超現実が、己の狭域な常識観を苛んで仕様がないこと。

 

「おやおや、お客かな」

 

 声を聞く。聞けども、その方向に首を巡らせることすらできない。

 仰臥した体勢のまま、せめて気配のある方へ意識を向ける。

 

「……“家主”の方と、()()()受けしますが」

「そうだよ? ようこそ我が家へ」

「は、御丁寧に。約束もなく、戸口でお呼び立てもせず、お邪魔しております……そしてこのような恰好で、大変失礼いたしております」

「いやいや、むしろこっちこそ悪かったね。なんせほら、うちはこの通り、散らかっててサ。だいたいのお客はアナタみたいなことになっちゃうのよ」

「なるほど」

「うん、だから気にしないで」

「重ね重ね、御寛恕有り難く存じます」

「ぷっふふ、うんうん、そりゃあもうゴカンジョしちゃう。じゃないとこっちが申し訳ないもの」

 

 笑い声が近寄ってくる。

 足音はなかった。身体に密着する糸越しに、振動さえ感じられない。

 しかし確かに、彼女は糸を伝って来ていた。

 糸を踏むその“脚”が見えたのだ。

 

「これから頂かせてもらうんだから」

「頂く、とは……何のことでしょう」

「わかんない?」

「一向に。知恵の巡りが悪く、申し訳ありません」

「ふむん、じゃあ()()ならどうかな」

 

 相も変わらず音もなく軽やかに、それは己が眼前へと躍り出た。

 鈴を転がすような声音から想像が及んでいた通り、それは少女の相貌をしていた。セミロングの金髪を大きなリボンで後頭に結い上げている。黒い開襟シャツの上から、キャラメルのサロペットスカートという出で立ちは、いかにも少女らしい愛らしさ。

 可憐だった。

 深く昏い穴蔵の只中であっても、いやこの場この空間こそが、彼女の晴れ舞台なのだろう。ここが似つかわしくないなどとは微塵も思わない。

 何故ならその巨大な――――三対の脚、蜘蛛の六脚と丸々とした腹、異形の下半身は、この暗黒の洞穴でこそ映えるのだから。

 

「おや、あんまり驚かないね」

「表情筋が惰弱なのやもしれません。身体の自由が利くならば仰天して泡を吹いたことでしょう」

「へー、ざぁんねん。それはちょっと見てみたかったかも」

「はい。自分も御期待に添えず、残念に思います」

「くっふ、ふふふ……」

 

 少女は口許に手の甲を当てて笑声を上げた。快活な口調とは裏腹に、所作一つにしてもやはり可憐な少女だ。

 そうとしか見えぬ筈なのだが。見えぬ筈のものが見えている。

 

「おかしな人だね」

「頓珍漢な物言いをしたのでしょうか」

「うん、してるしてる。面白いからいいんだけどサ」

「自覚する以上に、精神は混乱を来たしているようです。無礼な言動をお許しください」

「はははっ、なるほどねぇ」

 

 牧歌的な会話だった。なんとなればこのまま喫茶店にでも誘い合わせ、お茶と茶菓子を挟み、世間話に花を咲かせられるほど。

 しかし、そうはならない。

 柔らかな形に綻ぶ少女の愛らしい顔貌、そこに埋まった二つの眼。

 それらは、出会ったその時から常に、この身を射貫いて、縫い留めて、放さないのだ。

 捕えた獲物を吟味する眼。今に、賞味されるだろう。疑いなく、そう確信できた。

 

「へぇ、わかってて怖がらないんだ」

「いいえ、怖ろしいと、感じております。心底より、戦慄を覚えます」

「その割には饒舌だ。淀みもない」

「窮すれば如何に鈍麻な舌とて、このように働きましょう」

「そうかな。アナタのそれは、なんだか違うように見えるけど」

 

 覗き込むようにして、少女の薄い笑みが近付く。

 

「お兄さんは死にたくてここに落ちた口かな」

「……」

「恥ずかしがらなくていいよ。そういう人は多いから。というか、そういうのを選んでるんだろうね。八雲紫……ああこの土地の、幻想郷の世話焼き婆さんね。出入りするものの選別を仕組んでるのは多分そいつ。特に地底からこっちは人間が来ることなんてそうそうないけど、外からはわりと落ちてくるんだ。一月に二つか三つか。往生際の良い人もいるし、急に死ぬのが怖くなって暴れ出す人もいる。アナタは……ちょっと良すぎるかもね。あはは」

 

 嘲るでもなく、揶揄(からか)うでもなく、彼女は、そう、とても親切にそんな事情を通じてくれた。

 幻想郷というそうだ。その地底に、己は落ちてきたのだと。

 

「私は土蜘蛛、人喰いの妖怪さ。巣に掛かった獲物を食べてる。食事というか娯楽というか、趣味に近いけど」

「趣味……」

「気を悪くしないでね。人間(あなた)達をどうでもいいって言ってる訳じゃないの。ただ、生き物が生きる為に食うことと妖怪共(わたしら)が喰うことって根本的に違うのよ。存在理由、なんて言うと仰々しいなぁ。生き甲斐、みたいな!」

 

 ぱっと表情を明らめ、両手を広げて少女は言った。明答を得たとばかり。実際、的確な表現のように思われた。

 生きるだけならば必要もないが、無くてはただ生きるも儘ならぬ。

 

「御し難いよ。人間のあなたに言っても仕方ないんだけど」

「いえ……少しだけ、わかる気がします」

 

 ただ生きるだけの生は、あまりに永く、苦しく、それこそ甲斐もない。

 俺はその生き甲斐を失くしてしまった。どうすればよいのかわからなくなってしまった。

 だからここにいる。外界に見限られ、選別され招かれ、落ちた。堕ちた。

 

「……そっかぁ。人間もいろいろ大変だね」

「ふ、そうかもしれません。貴女方と同じように」

 

 神妙に呟く少女が、なにやら愛らしかった。

 そして我が身の不幸を嘆く己は、実に愚かしかった。

 その和みと自嘲が、役立たずの表情筋を僅かに働かせたらしい。

 

「お」

「?」

「初めて笑った」

 

 少女の顔が華やぐ。どうしてそんなにもと問いたくなるほど、無邪気な喜びを滲ませて。

 暗黒の洞の淵で一輪、光り輝く花を見付けたような心地がした。

 思えば不可思議な。

 自身を喰らおうと言う怪物の少女と、この男は何を暢気に談義しているやら。

 

「うーん、どうしようかなー。なんだかキミと話すのが面白くなってきちゃったよ」

「自分などとの語らいをお気に召していただけたなら、望外の幸いです」

「ぷっ、ふふふふ! それそれ。その喋り方がサ。大昔の宮仕えみたいで、おかしいやら懐かしいやら。調子狂うよまったく」

「それは……申し訳ありません。気配りが、足りず……?」

「いえいえ」

 

 見当違いを自覚しながら発した謝罪を、あちらもまた真に受けず軽やかにいなしてくれた。

 

「ホント、どうしようかねぇ。逃がしてあげてもいいんだけど……」

 

 不意に、少女が目を細める。口元には微笑。薄く、儚いが、優しげな慈母のように。

 

「キミはここで終わりたいんでしょう?」

「…………」

 

 まるで今日の天候を確かめるような気安さで、彼女は己の深奥の臓器を抉った。核心と呼ばれるそれを。

 

「何人も見てきたからサ。わかるんだ。ああもうこの人間は二進(にっち)三進(さっち)も行かない、行けないんだって。頑張りとか、ツキの巡るの巡らないのとか、そういうんじゃなくて、動けなくなっちゃったんでしょ? 真っ暗闇の中に立ってるみたいに」

「…………」

「不思議なのはさ、そういう人がまず真っ先に疑うのは自分の眼玉なの。自分が(めしい)て何も見えなくなったんだって自分を責めるの。昏くなったのは周りの世界なのに」

 

 含蓄のある評だ。少女の、多くの()()()を見てきたとの言に偽りはないのだろう。現実に、自殺にまで至る重度の鬱病患者の大半は自分自身を責め苛み、許容することを断じて良しとしないそうだ。

 己よりも以前に、ここへ行き着いた人々も、あるいはそうした苦悩を抱えていたのかもしれない。

 だが。

 俺は――違う。己に対する彼女の評は間違っている。

 世界は変わらず目の前に在った。すべき事、父母が何を望んでいたのかを俺は理解していた。

 ただ、その叶え方を、忘れてしまった。真っ当な、正常な生き方とか、そういうものを忘れてしまった。

 そして、一歩も進めなくなったので、俺は自らの手で自分自身の眼玉を抉った。この自己嫌悪(にくしみ)に堪えかねて。

 ……いや、それらも全て言い訳に過ぎない。

 

「俺はただ、盲目を騙っているに過ぎません」

「……」

「見えぬ、わからぬと、何もしない……生を全うしない大義名分を必死になって探していたように思います。ただ生きるには、人生は、人の心身にはあまりに永過ぎて……あの人達の居ない人生は……」

 

 もっと、ゆっくりと。もっと穏やかに過ごせていたら。もっと静かに、あの人達の死を迎え入れられていたら。

 あの人達との時間を、もう少しだけ多く。もう少しだけ、思い出を作ることができていたなら――――惰弱な甘えが、逃げ口上ばかりがこの胸に溜まる。

 そうはならなかった。現実はこうなった。なってしまったのだ。

 

「死ねば楽になることはわかり切っています」

 

 その安息を疑わぬ。自害の罪を地獄で呵責されるというならばむしろ願ったりである。それは全き正当な罰だから。

 俺の自罰に意味などないから。価値など、ないのだから。

 死に対する、この憧れ。それを否定できる舌を持たない。

 どころか殺してもらえるなどと。こんな。

 

「貴女のような、可憐な妖姫(ヒト)に……く、く、それではあまりに褒美が過ぎましょう」

「ふ……そう、かもね。ふふふ……」

 

 この鼻につく口説き文句だか世辞だかに、少女は愛想良く笑んでくれる。

 救いだった。生き甲斐の為に殺してくれるという。それは慈悲以外のなにものでもない。

 だから。

 

「俺は、死ねない」

 

 動かぬ四肢。きつく固く強かに糸は体中を縛り上げている。

 動く筈がない。だからどうした。

 無駄な足掻きである。だからどうした。

 (おまえ)にこのような最期は認めない。俺に斯くも幸福なる死など許さない。

 奥歯を嚙み砕くまでに食い縛り、全身の筋骨に命ずる。

 

「ぐっ、ぅ、ぁあっ、があぁああぁあああッッ……!!」

 

 一説に、蜘蛛の糸を鉛筆大の径まで束ねればジャンボジェット機を牽引できるほどの引張強度を発揮するという。

 凡百の身体能力と肉体強度しか持たぬ己が、そんなものをどうこうできる筈がなかった。万に一つも。

 事実この身を拘束する糸は、どんなに藻掻こうとも小揺るぎとしない。破断の兆しなど夢のまた夢。

 だが、この身は違う。この身は凡百の、タンパク質の複合体に過ぎない。わかり切ったこと。

 だから、()()できる。

 

「っ……!」

「おぉぉお゛おッ!!」

 

 強靭極まる糸に巻かれた腕を無理矢理に引っ張ればどうなるか。いや、どちらが先に破壊されるか。

 自明であった。

 肉が、糸に食い破られる。成形肉に紐の痕が残るように、手足の皮肉を糸が削ぐ。血が雨露のように滴っていく。

 

「や、やめなよ。そんなことしたら……」

「がっ、か、はっ、あぁああ……!」

 

 まず千切れるのは己の手足だろう。

 それでいい。昆虫は、天敵の接近を察知した時、自身の脚を自切して囮にし逃走するという。その例に倣う。

 今の俺は羽虫と同等なのだから。虫のように振る舞うことに何の違和があろう。

 手足を千切り、四半分でも自由を得たなら逃げる。逃げ、生き永らう。

 辛く苦しく孤独で昏いこの人生を生きる。生き抜いた末に死を遂げる。

 それが父母の望み。俺の義務だ。

 

「ぎぃ、あぁッッ!!」

「…………そう」

 

 無様に足掻く吊られた男に向かって、少女は静かに吐息した。それは呆れ深い溜息のようにも……どうしてか感嘆の気息のようにも聞き取れた。これは、錯覚なのだろうか。

 そうして、全身の血を今一度沸騰させる思いで力を込めたその瞬間。

 ぐるりと、天地が逆転した。

 

「!?」

 

 無論のこと回転したのは己である。そしてそれを為したのは己ではなかった。

 少女が眼前に在る。この表現に手心はない。鼻先一寸弱に少女の相貌が相対していた。

 

「ダメだよ、お兄さん。そんな健気なことしちゃ」

「な、にを」

 

 身動ぎしようと試み、それは無駄に終わる。完全な。先程までは抉れた肉の分、動く余地を生んでいた糸に、今は一分の隙もない。

 あの一瞬で彼女は糸を巻き直したのだ。

 それは、驚くに値しない。むしろ目の前で逃げようとする獲物を黙って放置する理由こそがない。彼女の行動に瑕疵はなかった。

 ただわからないのは、意図。

 上気しきった顔に切なげな表情(かたち)を浮かべ、少女は人型の両腕でこの身を抱いていた。

 

「せっかく、逃がしてあげようと思ったのに……」

「っ……!」

 

 突如、彼女は己の首筋を舐り上げた。そこに走った小さな裂傷、血の滴りを舐め取った。

 

「はぁぁあ……おいしい。格別だねぇ……命の味がする……」

「……」

「妖怪共が喰らうのは、肉であって肉じゃない。人の恐怖、死にたくないっていう意志(こころ)

 

 彼女はなおも講釈を披露してくれた。変わらない、その親切さで。

 

「でも、キミのは……不思議……死にたいと思ってるのに、同じくらい死を怖がってる……それを捻じ伏せて、生きようとしてる……義務感と罪悪感と、自己嫌悪……憎悪と、愛情……全部が、深いところで混ざり合って、熟れてる……甘く……あぁ甘いよ。たまらなく、甘いんだ……」

「それは、どういう」

「ふふふ、ふふ、アナタはね、妖怪(わたし)にとって絶好の獲物ってこと」

 

 人の両腕に加え、長く黒い脚が我が身に絡む。それは一級の刀刃のように鋭利であり、刀刃と同等の美しさをしていた。

 しなやかな白い手が己の頬を撫でた。

 恍惚とした顔で、上目遣いの瞳がこちらの両目に刺さる。

 

「ごめんね」

「っ!」

 

 最後通牒は、しかし、愛の囁きに似て、熱っぽく、柔らかく、問答無用であった。

 可憐であり妖艶な美しい少女。最期の光景がこれでは、やはり、褒美が過ぎる。愚昧なことを考えて、俺は両目を閉じた。

 

 

 

「おぅい、気を付けなぁ」

「え」

「は」

 

 そんな声を聞く。

 声は間近である。

 具体的にはそう、頭上数メートル。

 咄嗟に見上げたこの目が最初に捉えたのは、綺麗な形をした足の裏だった。

 それが迫ってくるのを自覚した直後、己の意識は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果から言えば、己は生き永らえた。

 偶然降ってきた星熊勇儀さんに蜘蛛の巣から蹴り落とされたことで、その捕食を免れたのだ。

 有体に言って墜落死、ないし蹴り殺されかけた訳だが。悪い悪いと明るく謝罪するその豪放磊落さには、非難の言葉も見付からない。いっそ清々しく、快いとさえ思う。

 高所から相応の速度で墜落したにもかかわらず、両足を粉砕骨折する程度で済んだのは運が良いのか、悪いのか。手放しに生還を喜べるほど真っ直ぐな意気地はしていない。お世辞にも。

 それゆえに、己が生存を実感したのは、むしろ。

 

「よかった……よかったよぉ……!」

 

 床に横たわる己に縋り、涙して、そう繰り返す少女を見た時だった。

 黒谷ヤマメ。化け蜘蛛の姫の、それが御名であった。

 何故と、俺は問うた。

 その問いの意味は今更口にするまでもなく。

 少女は涙に彩られた微笑を浮かべて。

 

「……気が変わっちゃった。眠ってるキミを見てたら、なんだかあんまりにも憐れに思えてきて……可愛く、想えて……えへへへへっ、は、恥ずかしいじゃないのさ! 言わせないでおくれよぅ、も~!」

 

 頬を押さえていやいやと身を揺する様は、外見同様の年若い娘のそれ。

 そうして、不意に。

 彼女は両手で己の頭を掴み、その顔を近付けた。あの時と同じ、鼻先一寸にも満たない距離。

 興奮と高揚に赤らむ顔。爛々と光る捕食者の眼で。

 

「それとも、今死にたい?」

 

 恍惚と、熱っぽい吐息と共に囁く。恋情のように艶やかな、肉と命と魂への欲求。慈悲に満ち溢れた殺意を。

 

「死にたくなったらいつでも言ってね。いつでも……食べてあげるから」

 

 一筋、宙に煌めくものがある。

 糸が一本宙を泳ぎ、己の首に絡み付いた。

 俺は一人、覚る。俺はまだ生還などしていない。俺はまだ、蜘蛛の巣の上にいるのだと。

 

 

 

 

 



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聲・上辺のそれ(古明地さとり)

一話完結形式と言ったな?
あれは嘘だ。


すみませんすみませんすみません。

前回から√分岐しています。
勇儀姐さんに蹴り落とされて、ヤマメではなく勇儀姐さんに回収された場合のお話。

姐さんに助けられると主人公は何故か両足を骨折しません。不思議だね!





 

 

 

 

「いやぁすまん。痛かったろう。まさか蜘蛛糸に中身が入ってるとは思わなくってねぇ」

 

 からからと笑い、彼女は指先で頬を掻いた。誰にせよ彼にせよ、悪びれた様にも性格が出る。彼女のそれは実に豪快であり、後腐れというものを感じさせなかった。

 

「あいや言い訳なんざ見っともないね。これこの通り、許してくれな」

 

 腰を折って頭を下げ、拝み手をその頭上に掲げる。

 そのようにされて、泰然としておられぬはむしろこちらの方である。

 

「は、謝罪の辞、確かに頂戴します。ですからどうか、頭をお上げください。こちらこそ身の置き所がありませんゆえ」

「そうかい! いやぁ寛容有り難い」

 

 居直るや口端に深く笑みを刻んで、その女性は己の肩を叩いた。ずんと、重く。それはそれは重く。米俵でも置かれたかと錯覚した。

 無論のこと彼女に、殊更にこちらの身体を痛めつけてやろうなどという腹積もりはないだろう。彼女にすればほんの挨拶。いや小鳥を撫でる程度の触れ方……なのやもしれない。

 怪力乱神。なるほど字義通りの、理屈など吹き払うような剛力である。

 彼女こそは鬼神。嘗て丹後は大江山千丈ヶ嶽にその名を轟かせた酒呑童子が配下、星熊童子……とはいえそれも、現世にて知られる伝承だが。

 瀑布のような金糸の長髪、藍色の着流しを肩まで着崩す美女。額から伸びた一角を見なければ、どうして彼女が鬼の四天王などと考え及ぼう。

 名にし負う鬼神に蹴られておきながら五体満足に生存しているのだから、我が悪運のしぶとさ、ないし彼女の仁徳には驚愕を禁じ得ない。

 いや、この生還はもう一方の力添え有ったればこそ為し得たものだ。

 黒谷ヤマメ、かの蜘蛛姫の糸が、この身をバンジーよろしく吊り上げていなければ、今頃は望むところへ逝っていたろう。

 

「……」

 

 それでも、生き残った。生き残ってしまったのだ。

 ならば生きる。義務を全うする。

 となれば差し当たり、身を立てる術を見付けねばならないが。

 

「困り事かい?」

「は、いえ……いえ、些末事ながら、一つ」

「なんだいなんだい水臭い。蹴って蹴られた仲じゃあないのさ。詫びのついでだ。話してみなよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――良い働き口がある

 

 美鬼は快活に言って、己をその城に案内した。

 本来は屋敷と呼ばわるのが正しいのかもしれない。しかしその外観、壮麗な石造りの尖塔の群れは、城砦の構えと看做さざるを得ない。

 屋敷の中は外観同様に大理石をふんだんに使用した西洋の風合い色濃いゴシック様式。市松模様の廊下を歩く。

 星熊さんは勝手知ったるといった風情だが、入城の断りもなく上がり込んでいるのだから、流石に彼女の自若ぶりを見習うのは難しい。

 

「……!」

 

 ふと背後に気配を覚え、振り返る。人影は形もなかったが、廊下の向こう側に一匹、黒い猫の姿を見た。こちらをじっと注視している。なるほど見知らぬ者が我が家を闊歩していれば然もあろう。

 そちらへ向けて会釈を送り、なお邁進する星熊さんの背を追った。

 

 

 ステンドグラスの光彩が、影すらも彩り豊かにする回廊を昇り、おそらくは最果ての一塔。城主の間に到着した。

 

「邪魔するよ」

 

 軽やかに言うや、星熊さんは黒檀の両扉を勢い開く。思い切りが良すぎる。あまりにも。この今更の感想を、城を前にした段階で伝えるべきだったと思い至ったのはつい数瞬前のこと。

 さても、書斎であった。

 壁という壁を覆い尽くして偉並ぶ背の高い書架。

 その中央よりやや奥まったところにダークブラウンの両袖机が据えられている。飾り気は極少なく、流麗な木目には年季を感じた。

 そこに、ぽつりと着席している。藤のそれより淡い紫の髪の。

 両側引出(ニーホール)があまりに立派な所為だ。華奢な少女が尚更に儚く見える。

 いや、あるいは、この儚いとの所感は、その矮躯を指すばかりではない。

 その存在感が、有り様がそう見せる。

 可憐な少女であった。間違いなく。

 しかし、虚ろであった。希薄ではなく、侘と寂の。

 動の対極。憂いや悲哀、そうした寒色の静けさ。

 そういうものを纏い、またそれそのものが形を成せば、かの少女のようになる。

 おそらくは、いや間違いなく彼女こそ地霊殿が主、古明地さとり。とても淋しげで、美しい少女だった。

 

「…………それは、はい、どうも」

「あん?」

「?」

 

 こちらを認めた淡紅藤(うすべにふじ)の少女が、なにやら不明瞭に呟く。戸惑って、というより、何かを恥じらうような。

 そんな彼我を交互に見比べ、星熊さんはさもニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。

 

「ははぁ、さてはお前さん、なんぞ迂闊なことを考えたろう。ぷっ、くふふふふ……」

「は……?」

「『してやったり』なものですか……その方に何の説明もしていないと? なんて意地の悪い」

「この(あん)ちゃんなら平気だと思ったからね」

「『私が驚く顔』を? 勇儀、少し見ない間にまあ、性格まで悪くなって」

「おいおい泣く子も黙る鬼さんが、云十年に一度有るか無きかの人助けをしてやってるってのに、そりゃ水差しってもんじゃあないかい?」

「『暇潰し』? それに付き合わされる身にもなってください」

「いやぁ暇してたところ丁~度この兄ちゃんが足の下にいてくれたもんだからさ。聞けば身寄りもないという。景気よく踏ん付けた(よしみ)も兼ねて活計(たつき)でも回してやろうと思ったのよ。でもいい場所がここしか思い付かなくってさー、ま、とりあえず連れてきた。世話してやってくれ」

「……」

 

 あっけらかんとざっくばらんに、乱暴極まるシンプルさで、鬼の姫御前は言った。投げ寄越したと表するが適切であろうか。

 しかし、思惑や言動はどうあれ、この御手配りが己にとって地獄の仏掌であることは疑いない。文字通りに。

 そしてその厚意に(もた)れるばかりでは、我が身にはそれこそ立つ瀬もない。

 

「お初にお目にかかります。自分は……」

「そう畏まらないでください。特にそちらの鬼には、感謝よりまず恨み言が先でしょうに……律儀な人ですね」

「だろぉ? 腹の底まで真面目一徹ってぇ面だぜこいつぁ」

「何が『人を見る目は萃香よりマシ』です……はぁ、どうして貴女が勝ち誇るの」

「……」

 

 どうも、奇妙だ。先程から、この会話には違和を覚える。随所に言葉が足りぬような言い合いが、しかしどうしてか()()()()行き交っている。

 

「……ふ、聡い方ですね。貴方は」

「は」

「ふふふ、教えて進ぜようお若いの。そこで椅子にふんぞり返ってるちんちくりんこそは、化生共も恐れ戦く心の覗き魔、覚り妖怪よ」

 

 さとりとはかの少女の御名……“覚”。浅薄な知識、記憶野の隅を掠めるものがある。正確な出自やエピソードは置いて、なによりポピュラーなのはその能力。

 人間の心を読む妖怪。

 つまり、今の今まで、そして今もなお。

 

「――――大変失礼いたしました」

「あぁ……いえ、その、お気になさらず」

 

 足を揃えて腰を折り、可能な限りに低頭する。他人の容姿への自儘な言及などは無礼千万。それも女性に対して。現代現世ならばまず間違いなくセクシャルハラスメントに該当する事案である。

 この身の雇用について先方の認否に関わりなく、当然に払うべき礼節を失したと言わざるを得ない。知らなかったでは済まされない。ここまで到来する間、星熊さんに尋ねられた事柄が一つと言わずある筈だった。己は知ることに努めるべきだった。

 己が浅慮が恥ずかしかった。

 

「…………ふふ」

 

 窮した己の様が滑稽であったのか、微かな笑声を頭上に聞いた。

 そんな無様を晒す己の肩に肘を掛けて、星熊さんの変わらぬニヤケ面が近寄った。

 

「なぁなぁなに考えたんだよぅ。助平なことか? 助平なこと考えたんか?」

「勇儀。貴女、酔ってるの?」

「ばっきゃろう、一時前の酒なんざとっくに消えて無くなっちまってるに決まってんだろう」

「了解しました。酔っておられるのですね」

「酔ぉってないってば。酒樽をほんの一本……二本? や、三本だったかなぁ」

「「……」」

 

 大虎、もとい星熊さんが、天井を仰ぎながらその長くしなやかな指を折り、折ること五本。

 何か曰く言い難い、乳白色な感情で以て星熊さんを見ていた。

 深酒の(へき)を持った家族に対する感慨とは、このようなものなのかもしれない。生憎と、幸いにも、俺の両親は嗜む習慣すら持たなかった為、無闇矢鱈に新鮮ではある。

 古明地さとりさん、かの少女と目が合う。

 今日が初対面にもかかわらず、また読心術など心得ぬ身なれど、その瞬間だけは彼女と同じ心持ちを共有できた……ような気がする。

 

「いいですよ」

「……は?」

「お雇いします」

 

 思わず発した反問の声に、古明地嬢は言葉を改め重ねて肯いた。

 

「それは、はい、真に願ってもないこと……ですが、よろしいのですか」

「ええ、人手が入用だったのは本当ですから」

 

 事も無げに少女は言った。突然押し掛け、強引に奉公を売り込まれながら、それを受け入れてしまうのは彼女の度量か。はたまた憐れみか。

 それにつけ込まんとする自身の生き汚さが厭わしかった。

 しかしこの身には活計も、往く当てすらももはや無いことは厳然の事実。

 ……そのお心遣いを、象皮の如き厚顔で笠に着ようと思う。

 

「……よろしくお願いいたします」

「はい、よろしく……とても難儀な外来人さん」

 

 

 

 

 

 

 

 ひどく、静かな“声”をした人。

 彼をこの眼が捉えた時、最初に感じた印象。扉が開け放たれたその時、顔に埋まっている両目は閉じていたから姿形などは正直記憶に薄い。けれど自分にとって、この眼にとって、実体の姿形などは些末な、生物の構成要素に過ぎない。

 肝要なのは、その中身。臓物よりもなお深いところ。

 魂の鳴動、心。

 思い願う、想い。

 それらは実に詳らかに、生きとし生ける者共を赤裸々にする。

 貴賤はない。皆等しく秘め事を持つ。千差万別の、(おびただ)しい心を私は見てきた。それらに一々好悪だのを思わなくなるほど。

 彼は特別だろうか。私は否と答えよう。

 思慮深い者はいる。利己よりも利他にその身を費やそうとする者は昔からいた。掃いて棄てられる程度にたくさん、いた。

 相対する誰かに、気遣わしげに思考を巡らせ腐心する彼の人柄は、なるほど世間一般に照らして好ましいものなのだろう。

 評価されるべきことだ。客観的にそう思う。

 主観(わたし)は何も思わない、ただそれだけの話。

 ただそれだけの。

 

 

 ノックの音にも性格が顕れる。

 お燐のそれは軽快だし、お空のそれは元気がいい。勇義はノックなどせず遠慮手心なく扉を壊す勢いで開く。こいしは……そもそも自身の来訪を告げない。

 青年のそれは、実に謹厳だった。そういう堅さ。音圧。自らを戒め戒め戒めて雁字搦(がんじがら)めにしたような。

 

「失礼します。お茶をお持ちしました」

 

 勿論、それは私の想像だ。私が聞いた彼の声によって、彼の行動にイメージのバイアスが掛かっているに過ぎない。

 どうぞ、と声を掛けると彼は慎重な所作で扉を開いて現れた。手には盆と、ティーセット。

 

「……今日はお燐ではないんですね」

「夕食の材料に買い忘れがあったとか」

 ――ローストビーフの香り付けに

 

「『香菜……迷迭香(ローズマリー)』? あの子ったら凝り性なんだから」

「細やかな方です。あの仕事振りは是非に見習わねばと思います」

 ――炊事洗濯掃除、建屋の修繕、庭木の手入れ……控えめに言って八面六臂の活躍である。本来なら買い出し等の雑務は己が請け負わねばらぬところを、軽妙に断られてしまった

 

「気紛れなのですよ。拘りには手を抜かないけれど、興味がなければ四半分も身が入らない。なにせ、猫ですから」

「……それでは致し方ありませんね」

 ――これは、どうやら気を遣わせている

 

 ……彼は非常に、機微に聡い人間だった。いっそ読心術の心得を疑うほど。恐縮する内心にうっかりフォローのような言葉を掛けたこちらが、その意図を自覚するより早く察されてしまった。

 当人の内心では自分のことを不敏だ、蒙昧だと評して憚らないが、それは過ぎた謙りというもの。

 

「貴方の仕事も、十分に細やかです。ペット達のお世話や屋敷のお手入れの行き届き具合、お燐達からもよく聞かされますから」

「滅相もありません」

 ――軒を借り受ける身なれば、当然に支払うべき労働である。こちらこそ、幾重にも感謝せねばならない

 

 いや、やはり、この想像は現実のものだ。謹厳実直が服を着て歩いているよう。

 彼はテーブルに盆を置くと、その場で深く一礼した。

 

「ありがとうございます」

 ――ありがとうございます。路頭に迷った身と心に、期せず寄る辺を与えられた。これに感謝を抱かずおられようか

「……大袈裟ですよ。私は単に、ペット達のことをあれこれやってくれる人型の小間使いが欲しかっただけです」

 

 なんだがむず痒いような心持ちがして、努めて声音を冷やし語気を尖らせた。

 彼は居住まいを正し、目礼と共に。

 

「はっ、拝領しましたる御役、骨身惜しまず励みます」

 ――なるほど、この方が火焔猫さん等の深い思慕を得る理由がよく解った。この少女は、深い慈悲と思慮を以て……

 

 露骨な咳払いで声は途切れた。それをしたのは私ではなく、当の彼。

 自嘲の色濃い苦笑が一瞬過り、今一度彼は会釈した。給仕か執事のような慇懃さ。いっそジレでも着せようか、なんて馬鹿な考えが浮かぶほど。

 幸い彼は覚りではなかった。本当に、幸いなことに。

 

「では、失礼します」

「……はい」

 

 戒め、そして戒める。彼はまた自分自身に鎖を巻くようにして思考を平坦化した。

 いかにも心を読まれることに慣れていない人間の、よくある反応。ありがちだ。ありふれている。

 思いなど、湧水のようなものだ。確固として構築する思考ならばまだしも、形なく湧き出る思想心象は易々と制御できるものではない。気にするだけ無駄だ。彼は無駄な努力をしている。

 くだらない。今更恥じらうことではない。

 今更、何を思われたところで。この身をどう思われたところで。

 

 ――ああ、この方はなんて……優しいひとなのだろう

 

「…………」

 

 静かな“声”をした人だった。

 この眼に深く沁み込むような、静かな。

 

 

 



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聲・中身のこと

短め。
ようやく病みはじめ。




 

 

 

 私にとって世界とは、まるで指揮者不在のオーケストラだ。

 人も妖も皆、心に一つ楽器を飼う。それらが大小、質も色も様々に鳴り響く。雑多で不揃い。膨大で不規則。一つとして同じものがない旋律の濁流。好悪だの快不快だの悠長な感慨を押し流す“声”達の氾濫。

 そんなだから、いつしか私はその内容に興味を失くした。一々一つ一つ吟味する余裕がなくなったというのも事実だし、注して(かかずら)うだけの価値あるものは極僅かであったことも真実だ。

 選別的な無関心を獲得してみると、この能力を厭う気も失せた。これは所詮顔に付属する目や鼻や耳と同じ、それをやや拡張する外付けの眼球でしかない。

 だから、あの娘はきっと――――こいしは誠実過ぎたのだ。一つ一つの声の価値を、信じ過ぎてしまったのだ。だから、だから。

 覚り妖怪としての自負、などと。そこまで大仰に構えている心算はなかった。ただ、この生まれと、生まれ持ったものに、そう悲嘆することはないのだと知った。

 私は覚り。心を読むが本分。獣化け、蟲化けが人間を喰らうように、鬼が武威を誇るように、心を覗き暴き晒す。

 厭わしかろ。忌々しかろ。それで構わぬ。それで正しい。

 誰かが何を想おうと自由。誰かに何を想われようと興味はない。

 

 

 そうしてまた一つ。鬼に伴われて新たな楽器が現れた。殊に多彩で、喧しい音色を持つ種族。

 人間。人間の青年。

 厄介な、と刹那に思ったものだ。

 人間の楽器の旋律の、その移ろい易さは妖怪など比べるべくもない。調律の狂った洋琴(ピアノ)の方がよほどに安定しているくらいに、人心とはとても脆く、斯くも爆竹めいて前触れがない。

 だから、彼の“声”の、そのあまりの静けさに私は密かに驚愕した。人にしては珍しい型の楽器だと。

 楽器だと、思っていた。

 しかし、彼が地霊殿に落ち着いて、彼の声を間近に聴く機会が日増しになるにつれ、私は大いに首を捻ることになる。

 彼の声は、静か過ぎた。人らしくなかった。いや、生き物らしさが不足していた。

 彼の声は楽器ではない。まるで、そう、タイプライターだ。

 正しい順序と規則的な文字列、整然とした行間隔。響くのは旋律ではなく、打鍵される文字盤(キー)と紙面を叩く印字判(ハンマー)。そして時折、改行レバーが引き戻される。

 非人間的、機械的に製造される声。

 けれど、硬質で色彩の乏しい、モノクロのような声は……不思議と、暖かだった。

 その理由はわかっている。私自らが特別ではないとの判を烙印したもの。思慮深く、利他的で、労しげなその思考。

 機械が人間のふりをするような、あるいは人間が機械を真似ている。

 思想、心情、それらを硬い鋼鉄で覆い隠し、想いも願いも圧し殺している。

 ……そうか。

 彼は、心を殺している。人間らしい心の生彩を、ほんの微かな望みを抱くことすら自らに許していない。

 彼の過去にそうした、一種強迫的ともいえる思考形態に陥るに至った原因があるのかもしれない。私の能力はあくまで心を読むのであって、過去の記憶まで読み取ることは困難だ。……不可能ではないが、うっかりと地雷(トラウマ)を掘り返して爆死させてしまいました、では幾らなんでもあまりに非道だろう。

 滅私と博愛の権化。

 ……流石に、これは言い過ぎか。

 あくまでも声を覚った私の印象である。まるっきり見当違い、勘違いの可能性だってある。厳密なところはよくわからない。

 そう、わからない。理解するにはもっと見聞きせねば。

 確かめるには、より多くの観察が必要だった。

 

 

 彼を眼で追うようになった。

 勿論それは視覚的な意味ではなく、この第三の眼(サードアイ)を通した心の聴取という意味で。

 能力の効果範囲内であれば、この眼は壁や床といった物理的遮蔽すら無視する。まあそれが厄介だから屋敷に引き篭もっている訳だが……。

 さても地霊殿の敷地内なら確実に()()に収まる。

 時刻はそろそろ零時を数えそう。青年は既に、宛がわれた自室に戻っていた。

 聞かせてもらおう。その心の根、彼の深層。

 

 ――霊烏路さんが、人参を食べてくださらない……

 

「…………」

 

 やにわに脱力感が全身を襲った。

 

 ――塩揉みして臭みを消し、食感が消えるまでみじん切りにした上でハンバーグに仕込んだものを、まさか見抜かれるとは……流石は鴉の化身。人間の嗅覚などは及びもつかぬ、か……

 

 なんだか物凄く馬鹿らしくなってきた。先程まで悲愴感たっぷりに繰り広げていたこの分析、まさか一から十まで全て勘違いだったのではなかろうか。

 

 ――火焔猫さんは既に諦めておられた。おそらく彼女も、幾度もの挑戦と敗北を経た上でその境地へと至ったに違いあるまい。先達の教訓に倣うべきか? いや、しかし、幼子の食育を軽々に投げ出す訳には

 

 お空は言動こそ幼いが、確実に貴方よりも長く生きているのだが。

 

 ――ここはあえて素材の味を活かし無理矢理にも舌を慣れさせてしまうという手も……いや、いやいや苦手克服にそのような荒療治は悪手である。苦手意識がより根付いては元も子もないのだ。やはり当初の手法、カレーのような濃く強い味付けの料理に密かに混ぜ入れるのが確実か。臭みを消すには熱を通す、あるいは酸味を加えて……チーズをふんだんに使ったグラタンという手も

 

「……はぁ」

 

 卓に頬杖をついて溜息を落とす。

 その後も彼はああでもないこうでもないとお空用人参レシピの構想を練り続けた。どうやらノートに書付までして。生真面目というか馬鹿真面目というか。

 

 ――次は、食べてくださるとよいのだが

 

「……ぷっ、ふふふ」

 

 静かな声はそう締め括り、レシピノートをそっと閉じた。

 今更人間の心なんて、覗いたところでどうとも思わない。想うことはない。

 想うことなんてないけれど。

 

「ふふふっ」

 

 私は一人、書斎の椅子でくすくすと笑った。

 優しいタイプライターだこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は自覚する。厭世観と無関心を標榜していながら。

 興味が湧いた。

 好奇心が疼く。

 私は観念して、彼に対して抱いたこの少なくない関心を告白する。

 

 

 

 

 

 ――洗濯物の乾きが良い。灼熱地獄が近いからであろうか

 

 それからはよく、彼の声に“眼”を合わせることが多くなった。

 

 ――ペットの方々も、己の存在に随分と馴染んでくれた様子。ひどく、有り難い

 

 静かな声、理路整然で丁重尊重を貫く言葉、機械の手触りとは裏腹に宿るその人肌の温度。

 不思議な日々。驚くほどに変化に乏しい日常の連続、そのさらなる続きでしかない毎日。

 

 ――霊烏路さん、転寝を……いや昼寝か? 確かに気候は暖かではあるが……何か掛ける物をお持ちしよう

「サボタージュですかお空。いえ、貴方もそこは起こしてください」

 

 けれど穏やかだった。そして以前よりもほんの少しだけ、暖かだった。

 

 ――あの猫車は、確か火焔猫さんの…………見てはならぬ。見る必要のない事柄というものがこの世にはある。当人に報告だけ差し上げておこう

「ふふ、そうそう。見ない方が身の為ですよ」

 

 彼の心を聴くことが、すっかりと日課になっていた。別にそのように取り決めた訳ではないし、要不要を言えば全く不要な行為だった。雇い入れた人足の素行を知る、そんな名目も宛がってはみたが。彼の為人(ひととなり)はもう既に地霊殿においては周知のこと。

 それでも毎日、彼の声を聴いた。彼の声をなんとはなしに聴き続けた。彼の声を――ただ、聴きたかった。

 

 ――あれは、古明地さん

「!」

 

 知らず知らず、窓辺に立って彼を見下ろしていた。胸の“眼”と、顔に埋まった両目で見ていた。

 中庭からこちらを認めて、彼はそっと会釈を寄越す。

 決して豊かとはいえないその表情に、柔らかな色が差したように見えた――それは私の願望だろうか。

 

 ――今日も、心健やかで在られるでしょうか

「ええ、お蔭様で」

 ――庭の椿が見頃です。散歩にはよい日和かと

「あら、それじゃあ後で、少し歩いてみましょう」

 ――予てより懸案しておりました霊烏路さんの好き嫌いですが、このほどキャロットケーキを試作したところ大変好評でした。よろしければ午後の茶請けにお持ちしたく

「まだやってたんですね、それ……」

 

 律儀過ぎてそろそろ失笑も出ない。こちらのこの呆れ顔を是非に気付かせてやりたいものだ。

 

 ――感謝を

「…………」

 

 今一度、その場で辞儀すると、彼は所定の仕事に戻った。

 私を見付け、こうして()()を交わす時、彼は必ずそう締め括る。なにくれとなく抱かれる私に対する全幅の、感謝。

 その時、私は気付く。気付いてしまう。

 機械のようだと。タイプライターと揶揄したその“声”の中に、微かに響く旋律を。ゼンマイの切れかけたオルゴールのように、ほんの一櫛分、弾ける鉄琴。あまりにも儚げな、しかし美しい音色が。

 

「…………」

 

 彼の心を凍て殺すものがなんなのか、尋ねることは躊躇われた。きっと問えば彼は答えてくれる。あの静かな声で答えてくれる。

 けれど、そんなものは聞きたくなかった。苦悶を、喘鳴を、人心を黙殺した機械音声など。

 聴きたいのは。私がこの眼で、感じたいのは。

 

「…………もっと」

 

 彼の声が聴きたかった。

 心の奥の、閉ざされたその肉の聲を。

 

 

 

 

 

 

 



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聲・下心のそこ(了)

古明地さとり√これにて完結

すごいスタンダードなヤンデレを書けた気がします。



 

 ノックの音にも性格が出る。はて幾度目かの感慨で、私は扉を見守っている。

 お燐、お空、勇義、こいし、それぞれに個性と癖と音色がある。

 その何れとも違うこの音の到来を今朝からずっと私は待ち侘びていた。

 誰何の必要はない。彼の“声”は、随分前から“眼”で追っていたから。

 温めた茶器が冷めてしまうのを嫌って、ほんの少しだけ気を逸らせる声が可笑しい。その些細で、ひどく繊細な心遣いが、嬉しい。

 

「失礼します、っ」

「はい」

 ――こんなにも間近におられたか

 

 出迎えた私の姿に、彼は驚いたようだ。

 なにせ声が掛けられたのとほとんど同時にこちらから扉を開いたものだから、無理もない。

 

「ふふ、ごめんなさい。びっくりさせて」

「いえ、自分が大袈裟に反応してしまったまでのこと。どうか謝罪など御無用に」

 ――しかし、扉の前に立っていたということは何か外出の御用向きがあるのやも……ならば時間を改めて

「ありません」

 

 さらに気を回そうとする声にぴしゃりと否を言い付ける。思いの外に、自分の声は刺々しかった。

 

「……他に用なんてないですから。入ってください」

 ――どうしてか焦りと、気の沈みが見えた……いや、これ以上執拗に言い募るが如きは配慮の二字に値せず。ましてや、御厚意により賜ったこの時間を

「……は、お邪魔いたします」

「……」

 

 なんとも遠大な想像を巡らせる彼に、内心で申し訳なく思う。そして呆れの成分もまた少々。

 ただ、行って欲しくなかっただけなのに。

 くすりと、気付かぬ内に笑みが溢れていた。

 カップとソーサーが二つずつ、テーブルに置かれる。

 

 ――やはり奇妙な光景に思える。この茶席は

「どうしてですか?」

 

 丁重な所作でポットを持ち上げ、まずこちらのカップに紅茶を注ぎながら彼の声は言った。

 午後の三時、この細やかなティータイムに彼を招待したのは誰あろう私。仕事の合間の休憩時間、手持無沙汰にする彼をこれ幸いと私室に呼び付けてテーブルを囲む。ここしばらくのそれだけの時間。ほんの一時、この声を……独り占めにできる機会。

 

「貴女と自分の間柄は、雇用者と労働者ではなく、謂わば主人と従僕が適しているように思われます」

 ――この場合の従僕とは隷属的な意味合いではなく、屋敷勤めの男性、古めかしく言えば人足(フットマン)のことだが

 

 如何にも形式を重んずる前置き、その註釈すら堅苦しい。また思わず笑ってしまうほど。

 卓上にソーサーを差し出された。それを持ち、紅茶が波打つカップに指を掛ける。

 

「従僕たるこの身が、主人の私室に上がり込み、あまつさえ席を同じうする……これは果たして正しい有り様なのでしょうか」

 ――正否を量るというなら疑いの余地なく否である。間違っている。主従関係における最適距離を逸脱した行為。とはいえ、そもそもの前提として、主たる古明地さんがそれほどの厳正さを求めておいででいない。しかしなればこそ、憩いの時間とは、大切な方々に費やされるべきだ。そう、お燐さんやお空さん――

 

 厳格かつ重厚な、静謐で暖かな言葉の海に浸っていた――――その時、見逃しにできない波が立つ。

 

「待って、ください」

「は」

 

 こちらの制止に彼が向き直る。座っていても上背は彼の方が遥かに高い。その目を、大型の草食動物のような目を見上げる。

 

「お燐とお空は、名前で呼ぶのですか」

「は? ええ、そう、ですね。以前にお燐さんが、火焔猫と呼ばわるのは好まないと仰られ、燐さん。お燐さんと呼ぶように。そしてその場に同席されていたお空さんも、同様に呼ばわれたいと御所望でしたので」

「………………」

 ――尊称として、不適切であったろうか。分際を弁えず気安く、軽率な行為であったろうか。古明地さんにとって彼女らは掛け替えのない存在。己如きが軽々にその関係性を斟酌することすら憚る。が、これは、どうか。わからない。己はまたぞろ何を、違えたのか

 

 途端に溢れ返る。彼の言葉、感情。こちらを慮る“声”でこの“眼”が眩む。

 けれど、それでも、満ちないものがある。不平不満を私は我慢できなかった。その思慮が全く以て見当違いだからだ。

 

 ――彼女の貌に浮かぶものが推し量れぬ。この表情の色は、辛うじて、わかる。読める。しかしその意図が、理解して差し上げられない

「理解しては、くださらないの……?」

「……申し訳ありません」

 

 着座のまま深く、卓面に額が触れそうなほどに彼は頭を下げた。

 

 ――斯くも悲しげな貌をさせた。その原因を推察できない。無能なこの男をお許しください。いや、許さないでいただきたい。許しなど乞える身の程か。否、否、否……

「っ、頭を上げてください。私は、ただ……」

 

 理不尽なのは、理解している。気に染まぬ物事に行き合ったからと勝手に気分を害し相手を戸惑わせ気遣わせて。

 幼稚だった。それはそれは幼稚で、くだらない……嫉妬だった。

 でも、それでも。

 彼のこの“声”で名前を呼んでもらえるあの子らが羨ましい。こうして彼の自由な時間の一部を接収してまで独占しようとしたもので。

 お燐が自身の名前の長々しさ、仰々しさを嫌っていたことは以前から承知していたことだし、お空は慣れ親しんだ相手に他意なくそうした要求をすることも理解できる。けれど、やはり。

 私のような女には、半歩の歩み寄りさえ大変な勇気を要するのに。あの子らは、こんなにも簡単に心通わせてしまう。いとも軽やかに心の距離を詰め寄らせる。

 

「ずるい」

 

 そう思うのは、至極当然の心の流れではないか。

 私のような、昏々とした女が、仄暗い羨望を抱くのは、当たり前じゃない。

 それなのに。

 この人は、理解してくれない。

 

「ずるい、です」

 ――狡い? 俺が、彼女らを名前で呼ばわることが……?

 

 ああ、ああ、口惜しや。

 心が見えるから尚一層に、その不理解が恨めしい。

 にわかに自身の感情が陽炎のように湧き上がる。心とはこんなにもあからさまなものなのに、貴方はどうしてわかってくれないの。

 口をついて叫び出したくなる。この手で直接、その(まなこ)を開かせたい。

 どうすれば、この想いを、思い知らせられようか。

 わなわなと心ばかりでなく体が震えた。それが手先の感覚さえ覚束なくした所為で。

 指からするりと、カップが落ちる。

 

「あ」

「っ!」

 

 彼の反応は間に合わなかった。テーブルの縁にぶつかり、跳ねて、床に墜落する。

 がしゃん、耳を劈く甲高い音色で、杯は白磁の欠片に解れた。

 

「ご、ごめんなさい」

「浴びてはおられませんか。火傷などは。いや拭くものをお持ちします」

 ――箒と塵取は隣室の物入れに仕舞ってある筈

「あ、いえ、私が……」

 

 即座にソファを立ち上がり、動き出そうとする彼への申し訳なさ。揺らめく感情も未だ御していない。

 だから不用心に、破片に手を這わせて。

 

「痛つっ……」

「古明地さん!」

 ――いかぬ

 

 見れば人差し指の横合いを、縦に半寸ばかり裂いていた。薄っすら走った切れ込みに途端、滲み出す赤の玉。思いの外、深く肉を切ったらしい。それはつ、つ、と指から手首まで帯のように落ちる。

 

「失礼」

「あ……」

 

 いつの間に移動したのか、呆とする私の隣には彼がいた。

 そう一言添えて、彼は手にしたハンカチで私の指を覆った。ぎゅっと力が籠められる。僅かな痛みと他人の手の感触、彼の手の、暖かさ。

 

「このまま圧迫し続けてください。少し、痛むでしょうが」

 ――まず、何より先に、その場に留まっていただくよう言い含めるべきだった

 

 深い後悔の念がこの胸に伝わってくる。胸に据わる臓腑のようなこの眼に。

 彼の自己嫌悪と罪悪への憎悪は、澄み渡る夜気に似て鋭かった。自分自身を射し貫く為だけに鍛え研ぎあげたが如く。

 

 ――切り口は鋭利だった。このまま止血し、丁寧に皮膚を保持すれば傷口も綺麗に繋がって……くれまいか。もし傷跡など残ったなら、己は幾重詫びようと申し開きが立たぬ。この腹を捌いても足りることはないだろう。こんなにも美しい指に、なんたる、なんたること

「……」

「申し訳ありません……」

「……どうして、貴方が謝るのです」

「自分の不注意です」

「私がぼうっとしていたからです」

「貴女の御心を此処に在らぬ様へと陥れたのは、自分です」

 

 彼が一度、奥歯を噛み締めるのがわかった。

 

「……痛かったでしょう。可哀想に」

 ――労しい。我が身の粗忽が厭わしい。労しい。可哀想に。痛ましい。申し訳もない。淋しげな、悲しげな貌をさせた。こんな傷まで負わせ。無能め。不敏の奴輩。この少女のお役に立ちたいと、さんざ夢想しながら、この為体(ていたらく)。感謝を抱きながら、無数の感謝が積み重なっていながら

 

 彼は無念を噛んでいる。

 たかがこんな、指を怪我した程度で。大袈裟だ。大騒ぎのし過ぎというもの。それにこの身は人ならぬ妖、鬼や獣化けには劣るといえど、傷の治りは人間の肉体など比較にならない。

 大真面目に憂いを発破させる青年は、いっそ滑稽だ。

 私の傷。私の痛み。私の悲しみ。それらを想ってその胸を自ら握り潰している。

 私のことで、私のために、私と同じ。心を感じて、痛みに胸を一杯にしている。

 それは、なんて。

 なんて――――素敵。

 

「お願いが、あります」

「はい、なんなりとお申し付けください」

 

 それは思考ではなく、心の、謂わば衝動の赴くままに口をついた。

 

「名前を呼んでください」

「は」

「さとりと、呼んでください」

 ――何故、突然そのような

 

 彼の惑いを見て取る。タイミングの逸したこの要求に、咄嗟に窮するのは必然。無理もない。

 けれど、じっと。私は待つ。反駁を許さず、反問も許さず。

 この目で彼の瞳を覗く。この眼で彼の深奥(なかみ)を覗く。

 応えるまでは、絶対に、許してあげない。

 

 ――突然、ではないか。何も不思議がるに値しない。話の成り行きは極めて自然なのだ。それでも今この状況で? と、思わぬではないが……血は止まってくれたか

「……」

「……そんな目で見詰めないでください」

 ――そんな、愛らしい顔で

 

 困ったように微笑んで、彼はハンカチを折り返し未使用の面で今一度傷口を覆う。

 今度は先程よりも、柔く、優しく、押し包んで。

 

「さとりさん」

 ――なにやらこそばゆい。さとりさん。さとりさん。さとりさん……今までそう呼ばわらなかったのは、結局は己の拘泥、主従関係に対する偏見に依る。当然ながら彼女に対する隔意などは微塵とて有らぬ。有ろう筈がない。さとりさん。妖怪の種を示す覚りと、さとり。同じ音、同じ字、同じ旋律、だのに、どうしてこうも(やわら)かな響きなのか。どうしてこうも愛らしいのか。己の主観、心象、思い込みがそう感じさせるのか。それだけとは思えぬ。心に聡い方なればこそ、心をさとる、悟る、方なればこそ、その御心が名に顕れるのだろう。そうだ。そうに違いない。さとりさん、よい響きであった。よい名であった。本当に。さとりさん、さとりさん、さとりさん

「…………………」

 

 心臓が一段、鼓動を速めていく。名が、自分のそれが、彼の中で響く度。一段、また一段と。

 

「さとりさん?」

「ッ! んっ、は、はひ……!」

「お加減が、優れませんか? 息が乱れております。一度深呼吸を……背中に触れます。御不快ならばすぐに申告ください」

「ん、ぁ」

 

 そっと背中を擦られる。彼の大きな手が、心臓と肺の裏側で優しく上下した。背中の皮膚が、触れられた端から熱を発し、甘く痺れていくのがわかる。

 じわりと内側に染み入ってくる。それは紛れもない悦び。そして……快楽。

 

「っ……は、ぁぁあ……」

 ――さとりさん、己はまた何か、その御心を惑わせてしまったのだろうか。それとも……あるいは、彼女も己と同じ、羞恥心を味わっているのかもしれない。なんともいえぬ、このこそばゆさを。不思議なほど不快からは遠い居心地の悪さ。落ち着きのなさ。もしそうなら、そうであってくれるなら

 

 そうに決まってる。いやそれ以上に、私はそれ以上を、想っているのに。

 やはり口惜しい。私はこんなにまでなったのに、貴方は随分余裕そう。

 

「さとりさん」

 ――さとりさん

「ッッ……!」

 

 なけなしの不平不満も敢え無く溶ける。蕩かされ、この甘い波濤に押し流されて消えた。

 眼が眩む。ぼんやりと、滲む。頭の中を彼の声が反響する。声に脳漿をどろどろに掻き回され、残ったのは煮え滾る熱。湯気を立ち昇らせるほどに上気(のぼせ)きった心。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も差し込まぬ地底の真っ只中に建造されたこの地霊殿。

 昼夜の別なく(まち)の灯は煌々と目にも明るい。私室の窓から望む旧都の朧な鬼火共。永く住まう内に感慨など、もはやなくなったが。

 壁の振り子時計の針が指し示す時刻は深夜。夜を好む動物を除けば、家人は皆床に着いた頃。あの人の声もまた眠りの中にある。

 部屋の灯りも点さず、窓辺に立って呆と外を眺めていた。茫然自失は外面ばかり。内面はその実、目まぐるしい混淆の最中にあった。

 それは反芻行為と呼ばれるものだった。

 昼間のことを、私は思い起こし、記憶の精度の許す限りに脳内で再再生(リピート)再再生(リピート)再再生(リピート)

 あの人の声。あの人が私を、さとりを呼ぶ声。この名を打鍵(タイプ)する声を、幾度も幾度となく幾度でも吐き戻す。押し戴き、咀嚼し舌の上で転がして口一杯に味わい、また吞み下す。

 胸を満たす。

 心を、満たす。

 

「ふ、ふふふふふふ……あははは……あはっ、はははははは」

 

 気遣わし、そして労しげに、私を彼は呼び続けた。

 ふと持ち上げた手の指先には、ひどく丁寧に綿布(ガーゼ)が巻かれている。たかが指の腹を裂いた程度の微細な傷を、大袈裟に、大騒ぎして、強迫されたかのような厳重さで。

 馬鹿な人。心配性なんだから。胸を潰して狼狽える様はある種滑稽ですら。

 

「あぁっ」

 

 それが、嬉しくて。涙が出てしまうほど、嬉しくて、嬉しくて。この喜びをどう言い表せる。こんな喜びは未だ嘗て知らない。

 彼に想われることが嬉しくて堪らない。彼の心を(さとり)が占領するこの、法悦。

 名前を呼んでくれた。あんなにも想いながら、真心を籠めて呼んでくれた。

 あの人の声が形作る時、さとりの三字は斯くも特別になる。

 

「……もっと」

 

 その欲望は極めて自然に鎌首を(もた)げた。

 

「もっと、呼んで」

 

 さとり、と呼んで欲しい。私を想いながら、私を呼んで欲しい。

 その心中を私で染め上げ満たし、その上で彼の心を、声を味わいたい。

 この法悦を今一度。いや、今以上の烈しさで。

 どうすればそうなる。どうすれば彼はそのようにしてくれる。

 欲望に衝き動かされるまま思考を回す。けれど容易には思い浮かばなかった。他者の心を読めても、所詮この身は覚り妖怪。忌み嫌われるばかりの己が生涯の中で、心の機微を解するだけの情操を育て上げる機会は少なかった。その少ない機会すら、愛する妹の心すら解してあげることはできなかった。

 私は彼とは違うのだと、嫌でも思い知らされる。

 

「……」

 

 自己嫌悪が差した。

 溜息と共に外界から視線を逸らす。床石を這い、そうして卓上に。

 銀色の光が目に刺さる。

 ペーパーナイフ。アンティーク趣味が嵩じて、柄の彫刻が気に入り長く愛用してきたものだ。

 そっと手に取る。あくまで文具であり、勿論、刃は潰されている。押そうと引こうと物を切断するような切れ味はない。

 しかし、その先端は鋭利で、柔らかなものならば容易に貫けそうだ。

 そう、たとえば。

 この手とか。

 この首とか。

 この眼とか。

 一生の、二度と癒えず、消えぬ傷が出来上がる。傷が深刻であれば治癒の難度に人も妖もない。それは永遠にこの肉体に刻まれ、残留し続ける。

 もしそうなったら、傷付いた私が痛い痛いと泣いていたら。

 あの人は私を想ってくれるだろうか。この指を裂いた時と同様に、いやそれ以上の烈しさで。

 きっとそうなる。きっと彼は私を想ってくれる。心配してくれる。ああなんて可哀想に労しい労しい愛おしいと! 庇護欲の限りに私を愛してくれるに違いない!

 素敵だ。素晴らしい。その悦楽、想像するだけで、()()()と身の内から溢れる。溢れてしまうほど――――

 

「っ!?」

 

 取り落としたナイフは石床に跳ね、甲高い音色で私の耳を貫いた。

 

「は、はぁ、はぁ、はぁ……私、な、なにを、考えてるの……」

 

 それはおそろしい想像だった。

 行為それ自体が、ではなく、もっと救い様のない部分で。

 彼の想い願いがそこには反映されていない。全ては私の心を満たす為の行い。独り善がりの暴挙。

 彼を見た。指先の浅傷(あさで)を当人以上の深刻さで痛み、悲しんでいたあの貌を。私はしっかりとこの眼に収めていた筈なのに。

 もし、私が自傷に走り、その傷を彼の眼前に晒したならどうなる。わかりきっている。

 彼は私を想うだろう。凄絶な痛みと苦悶で心を炙り、あまつさえその心臓を己自身に対する万感の憎悪で抉るだろう。私の浅ましい欲望に、聡い彼が気付かぬ訳がない。だのにそれを自分自身の悪因と決め付け悲憤し、自らを罰しようとする。

 そんなこと、望んでいない。そんな彼を見たいんじゃない。彼の悲哀の声など聴きたくない。

 

「どうすれば……」

 

 どうしようもない。ただこの欲望に封をして今まで通りの穏やかな日々に戻ればいい。平らかで、暖かな、静かな日常に。

 

「………………でき、ない」

 

 足りるを知らない。内側の小杯が満ちて溢れれば、その外側に広がる一回り大きな杯を満たさずにいられない。そしてその杯が満ちれば、また一つ大きな杯を。それが満ちればまた一つ大きな……際限はない。

 そして、私はこの喜びを諦められない。

 浅ましい。欲心を制御する理性を放棄して為すが儘にする。それを承知で無視するこの卑しさ。厚かましさ。

 

「どうすればいい……?」

 

 彼を悲しませずに、私の望みを果たすには。

 雌の味を知った(ましら)が求めるがまま快楽を貪る様に似て。

 今の私はまさしく、(さとり)の妖怪だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「祭、ですか」

「そう! お祭!」

 

 そのまま飛び立ちそうな勢いで、お空がわっと声を上げる。

 要約すると、旧都で祭が催されるのでそれに行きたい、とのことだった。

 

「ま、年中お祭騒ぎしてるようなここで、今更祭事も何もにゃいんだけどねぇ」

 

 お燐の言う通り。季節はおろか昼夜の別すらなく、旧都、旧地獄は乱痴気騒ぎが日常茶飯事。改まって祭を標榜することこそ違和感を覚える。

 

「騒ぐ理由になるならなんでもいいんだよ。大通りなんかは気の早い奴らが出した露店でもう(ひし)めいてるし」

「りんご飴! りんご飴が食べたい! すもも飴も! 綿飴も! べっ甲飴! 手鞠飴!」

「なんで飴ばっかだし……とまあお空がずっとこんな調子で、いいですか? さとり様」

「ええ、構いませんよ」

「やったー!!」

 

 言うや本当に飛び上がってお空は天井に頭をぶつけた。

 

「痛い!」

「なにやってんの」

「ごめんなさぁい……それより! 早く行こ!」

 

 立ち直ったお空は、そのまま彼の手を取った。

 

「お兄さんもほら!」

「は」

 

 微笑ましげにその様子を見守っていた彼は、まさか自身に声を掛けられるなどと思いもしなかったようだ。

 

 ――しかし

「どうしたの? 行こうよぉ」

 

 視線と、声がこちらを向いている。心を読む必要すらなく、その意図は知れた。

 だから私は首を左右する。

 

「いってらっしゃい」

「はーい!」

「ではでは、いって参ります」

「……」

 

 後ろ髪を引かれる心根がありありと見て取れる。彼は一瞬、目を伏せて。

 

 ――無理もないこと。彼女の能力を思えば、祭事の人込みなどは苦痛でしかあるまい……あるまいが

 

 お燐もお空もその辺りは先刻承知。今に始まったことではなく、気を遣い合う方がむしろ煩わしい……という私の我が儘を汲んでのこと。

 一昔前などは、そういう機微に疎いお空によく駄々を捏ねられた。

 彼の労しげな声が、そんな懐かしい光景を思い出させた。

 

「……」

 

 書斎が無闇に広くなったような気がする。錯覚である。

 心がそう見せている。寂寥が。

 今更、こんなものを抱くなんて。

 間違いなく彼の所為だ。慣れ切り飽き切った筈の感情(モノ)に鮮やかに色を蘇らせる。

 彼の優しさが今ばかりは、ひどく恨めしい。

 

 ――置いてなど行けない

「え」

 

 恨めしいほどに、彼は。

 

 

 

 

 

 

 結局、彼はお燐達と同道しなかった。お空の不満が制御棒ごと爆発しそうでなかなかスリリングではあったが。

 ペット達二人が出掛けた今。地霊殿は静かだった。他の動物達は心の声も微かで、人型になっても思考が明瞭なのはお燐やお空くらいだし。

 彼と二人、書斎で過ごす。ひどく静かな時間を共有する。

 

「……」

「……」

 ――少し、濃過ぎたか

 

 紅茶を注ぎながら、静かな声が呟いた。

 本を読むふりをしながら彼の心を聴いている。ばれやしない。ばれる筈がない、けれど。それがどこか後ろめたい。覚りが心を読むことに何の躊躇を抱こう。今更、何の。

 彼に対して、抱くものがあるから。覚り妖怪としての性質(さが)ではない。さとりとしての、欲望を隠している。

 私は諦められない。

 彼の声だけが今、地霊殿には響く。

 彼の声だけが満ちる。世界はひどく単純化した。私にとっての喜び、快楽、希望、安らぎ。

 彼の声だけの、場所。

 

 ――穏やかな時間だ

 

 この書斎が、世界から隔絶してくれればいい。そうなれば、私の望みは叶う。完璧に、一分の隙もなく、あらゆるものが十全する。身も心も。

 晴れて杯は満ち足りるだろう。だって、杯そのものを、杯である私とその中身である彼を内包する世界を手に出来るのだから。

 そんな方法はない。夢想だ。紛れもない、それは幻想だ。

 

 ――安息を覚えている。身に過ぎた、安息を

「……」

 

 同じ。同じ気持ちを抱いてる。

 私は貴方を想っている。

 では貴方は。

 

 ――この時間を好ましく思う。この方を……好ましく思う。随分前から

「――――――」

 

 そう。よかった。本当に、よかった。

 なら、もう、私は。

 椅子を立つ。歩みに淀みなく、自分でも驚くほど軽やかに彼の前に立つ。

 

「? どうされましたか」

「一緒に、来て欲しいところがあります」

 

 もう、我慢をやめます。

 こんな安息を知ったから。これを貴方は安息と呼んでくださるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 縦に半里も降りた頃、遂にその奥底に到達する。

 縦穴である。驚くほどに丸く、底は平らかに刳り貫かれた円筒状の空間。

 地霊殿の尖塔が一つ、軽々と収まるほどに広いその場所に、私と彼は二人立っている。

 ランタンの灯がなければここは無明、()()の光すら遥か頭上彼方。おそらく、旧地獄で最も地獄に近い場所がここだった。

 

「この空間は一体……」

「昔、お空がその能力をまだ制御し切れなかった頃に空けた穴です。掘り返すのはそれこそ一瞬でしたが、埋め直すとなると面倒で。何か使い道でもあればとあんな階段まで拵えましたが」

 

 今し方、彼と下ってきた螺旋回廊を手で示す。

 

「よかった。無駄にならなくて」

 

 翳した掌から光を打ち出す。弾幕と呼ばれる、美麗なばかりの光の珠。力そのものに近しいそれを身の内より放つという些細な手妻だが。

 弾丸としてこれほど使い勝手の良いものもない。形状、口径、弾速、属性すら思いの儘なのだから。

 そして肝心要の威力、破壊力であるが。

 金属で出来た階段程度粉砕するのは至極容易だった。

 

「!?」

 ――なにを、彼女はなにをしておられる

 

 直近の、地続きに繋がる部分から頭上高く地底に伸びる部分まで丹念に、丁寧に、壊して潰して、もう二度と復元など出来ないほどにばらばらにして、安心する。

 これでもう昇れない。登れない。

 

「……」

 ――戻れない。戻れなくなった……しかし、これは

 

 そう。飛翔能力さえあればこんなことをしても意味はない。

 事実、私自身は何の問題もなく地底に戻ることができる。

 戻れないのは。

 

 ――()()()()

「はい、貴方は戻れません。帰してなんてあげません」

「……何故」

 

 驚愕と戸惑いがその表情の中で明滅する。本当に意表外の出来事だったのだろう。

 確かに前触れなんてなかった。私が嫌っていた人間の爆竹めいた心の移ろいをまさしく体現している。私は今日つい先刻にこれを思い付き、然したる迷いもなく実行に移したのだ。

 

 ――考えられ得る可能性は二件。俺の抹殺、あるいは

「幽閉。監禁。拘束。禁固。投獄……は、そのままですね。ふふふ」

「…………」

 ――彼女は正気だ。これは理性に基づく行動だ。一個の決意の下に為された仕儀……なればこそ

「何故……」

 

 彼は否定しなかった。この行動の理不尽を承知しながら、それでもまだ私の理屈に耳を傾けようとしている。

 微笑んで、問いに応える。

 

「貴方が好きです」

「――――」

 ――――

 

 思考停止、本当に静謐になった声に、ますます笑む。

 言葉は潰えたけれど、その感情には色が溢れていく。どれもこれも激しい情動。弾けるような驚きの下地に、徐々に散見するのは……暖色の彩。

 

「貴方の声が好きです。貴方の静かな声が好きです。貴方の心が好きです。思慮深くて、自己犠牲的で、でも……甘やかさを捨てられない、脆くて優しい貴方の心が好きです」

 ――待て、待て、思うな、何も思うな、迂闊なこと、浅はかな、短慮を戒めよ。戒めよ。戒めよ。許さぬ。許すな。それは

「貴方が欲しいんです。貴方の声だけで満ちたいんです。貴方の心を私だけのものにしたい。だから」

 ――拒まねばならぬ。これは、つまるところ、終結。俺という人間の終着駅がここにて決する。この地の底深く、俺はこの甲斐もない芥のような生涯を終えることになる。間違えるな。俺は、(おまえ)は、拒絶せねばならない。この要求は受け入れてはならない。何故なら……駄目だ。考えるな。何故なら……ならぬ。駄目だ。やめろ、やめろ、やめろやめろやめろ

 

 乱れ散る思考の火花。彼は惑乱する。彼は彼自身を打ち据えるように、頭を抱え、心を殺す。殺そうと抗う。必死に。

 でも、無駄です。だって私はさとりですから。

 

 ――こんな幸福を、許してはならない!

「あはっ」

 

 わかっていた。彼が欲しているもの。彼が彼自身に許さないもの。

 相応しい終わりを求めて、それでも生きる、生きなければいけない彼に、私が与えてあげられるもの。

 

「ここに居てください。この洞穴で一生を終えてください。貴方の一生を、私にください」

「できないっ……そんな願いは、聞き入れられない!」

 ――安楽だ。安息だ。ここはまさしく俺が求めてやまなかった場所。相応しき末路。暗闇。けれど、一つだけ、相応しからぬ、分際を超えたものが、いみじくもここを、この場所を地獄と称すならば、存在してはならないものが、ある

「私も、一緒です」

「それは駄目だ!」

 ――さとりさん。このひとをこんな場所へは縛れない。俺如きに、この少女を。それではあまりにも

「あまりにも?」

「っ、不当だ。この仕儀は、容認できません」

 ――幸せで、安らぎだから

「あぁ、あぁ、好きです」

「お、俺は、その想いに応えられない」

 ――さとりさん、勿体ない。そんな想いは俺には、この身には過ぎたるもの。さとりさん、美しいひと。優しいひと。慈悲深いひと。俺には許されぬ。俺が手を触れることすら、触れたという事実すら厭わしい。さとりさん貴女を想う誰かは、たくさんいる。貴女が思う以上に、たくさん。俺でなくてもいい。俺などに御心を割かなくていいのです。さとりさん、貴女の心根の、儚さに惹かれた。違う。自儘な妄想だ。さとりさん。どうしてそんな顔で笑うのか。そんな愛らしい顔で。受け取れない。この人の、情を受けるに値しない。俺には、分不相応だ。さとりさん、俺も、違う、俺とて、否否否、さとりさん、貴女が

 

 満ちていく。彼の中が、(さとり)で満ち満ちていく。

 静かな暗黒の洞の淵、世界は結実した。彼と私、声と心、溶けあうように、同じに、一つに。

 同じ想いで向かい合う。

 

「好きです」

「………………………………………………………………………………はい。俺も、貴女が――」

 

 泣き笑いのような顔で彼は言った。

 自己嫌悪と罪悪への憎しみ。けれどそれらを押し退けて一片、響く。

 彼の楽器(オルゴール)が動き出す。ひどく静かで、不器用な、愛しいメロディを奏でて。

 

 

 

 

 

 

 



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嘘・青い意志(星熊勇儀)

この方はそもそも病まん気がする(本末転倒)




 

 

「あぁん?」

「だからさ、あの人間だよぅ。ほぉらあんた拾ったって言ってたろ」

 

 にやけた赤ら顔がずいと近寄り、そのようなことを(のたま)った。

 狒々のようなというか、助平爺のようなというか。顔だけは可憐な少女が如何にも下卑の下衆の下品面を浮かべている。

 伊吹萃香、猛々しくも鬼の頭を張った我が輩は今宵、なんとも鬱陶しい酔い方をしていた。

 その猫額を指で爪弾く。重い音と手応えが響いた。

 

「おぉ痛てて。まったくこの石頭は」

「ッッ、こっちの台詞じゃ!」

 

 今度は涙を浮かべ(にわか)に憤気立つ。立とうとして、手にした黒漆の酒盃の中、波立つ清酒を認めて慌てて止まる。

 ととと、ゆらりゆらゆら揺らめく水面を童女、のような見た目のそいつは一息に啜った。

 

「たはぁっ! 惚けやがって。この前なんか『若い燕捕まえてやったぜこれから毎晩ぴーちくぱーちく可愛く鳴かせてやるからなー待っててね小鳥ちゃ~んガッハハハ』なぁんて調子づいてたじゃないのさ」

「言ってないよ」

 

 言ったのは若い燕捕まえてやったぜ、までだ。たぶん。

 赤漆の大盃を呷る。一升分の酒精を胃の腑に落とし込み、灼熱のような息を吐いた。

 

「なんだいなんだい辛気臭い息吐いちゃって。上手くいってないの?」

「悪かぁない。寝床置いてるだけの長屋住まいが一つあったから、そこに押し込んだ。したらまあよく働く。掃除洗濯炊事雑事万事手抜かりってもんがない」

「? 悪く聞こえないね」

「だから悪かぁないんだって」

「?? あぁー、じゃあれか。モノっ凄い性悪だったとか? 根性ひん曲がってる天邪鬼が腐ったようなヤツだとかそういう」

「真面目一徹。含むところもねぇ一本気な野郎だ。今時見ないね、あんな堅物。少なくともここ十年はない。一言い付けりゃ十にも二十にもして返ってくる。機微に聡いっちゅうか、ありゃあもう覚り妖怪の類なんじゃねぇのかってくらいよく気が回る。特に、家事万能なんて言ったが、飯がな。美味いんだよこれが。いや、ありゃ(あたし)の好みの味を掴まれてるんだろうね。別に教えたつもりもないんだけど、どうやって調べたんだか」

「……なあ、もしかして、私は今自慢話だか惚気話だかを延々聞かされてたりするのかい? おい」

「そんなんじゃないよ」

「じゃあなんなのさ。一昔前の押し掛け女房かっての。待て、これ男の話だよな?」

 

 苛立たしやとばかり、萃香は新たな酒樽の蓋を拳で叩き割った。柄杓を突っ込み、そのまま呷る。手水じゃあるまいに。

 こちらも酒盃を差し出すと、柄杓でぞんざいに弾かれた。

 睨み付ける。睨み返ってきた。

 寄越せ。やだ。寄越せ。やだ。暫時、視線だけの攻防が続き。こちらの方が先に折れる。萎れた、といった心持ちだが。

 

「……あいつはいいヤツだよ。善人だ。いちいち慮りの深ぇ野郎で、心根の優しい(あん)ちゃんだ。ふふん、嘘も吐かないし」

「けッ! こんの性悪!」

 

 明け透けで捻りもないこんな皮肉が、この酒呑には覿面に効くから痛快だ。

 真っ正直なヤツは長生きしない。人間なんざ嘘を吐いてなんぼだろうに。なんせ脆弱なのだから、そのくらい多目に見てやらねば可哀想ってもの。それでもこの御頭様ときたら、未だに懲りず、人を諦められないらしい。

 しかし、愉快な心持ちもすぐに冷める。代わりに出てくるのは同じ、ここ暫く蟠ってる、燻ってる、虚しさ。

 胡座の膝に頬杖をついて、呆と見詰める。虚空に漂うその姿の幻。

 

「気に入らないんなら放っぽり出しちまえばいいじゃん。もともと面倒見てやる義理だってないんだろ?」

「怪我させた手前、ってのはあるね」

「そんだけ働けてんならとうに治ってるだろうさ」

「あいつ自体が気に入らない訳じゃない。むしろ逆だ……はっ、いい拾いもんしたと思ったよ。使い勝手のいい召し使いだってな。それにまあ変わってるが、いい男だと思った。ああ世辞抜きに、そう思う…………気に入らないのは、腑が煮えっちまうほど、イライラすんのは……」

「……」

 

 すっくと立ち上がって、酒盃ごと清酒の水面へと沈める。飛沫など無視して、盃の中身を飲み干した。

 この盃は特別製。中に注いだ酒を極上に変える呑兵衛垂涎の一品である。だのに。

 それが矢鱈滅多に辛かった。

 

「────あの野郎の生き様が気に入らねぇ。むかっ腹が立つ。ああ、大ッ嫌いさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今更。

 そうとも、今更だ。

 人間という生き物に、然程の興味はなくなった。昔はそうでもなかったが、今では感慨すら湧かない。

 まあ、愛想が尽きたなんて言えるほど親しんだこともない。萃香じゃああるまいし。

 弱いわりにしぶとい奴等。弱いから群れを成す。そして、数が多いくせに十人十色でどうも一様には数え難い。蟲や魚とは違う獣。獣にしては賢しく、しかして時に驚くほど愚かな。

 もう会うことはないだろう。向こうが勝手に来るってんならいざ知らず、少なくとも自分から関わり合いになどなるまい。

 だからこれは随分な例外だ。偶然でもある。恒例となった酒盛りの帰り路、旧地獄に堕ちる縦穴の只中でそれを見付けた。

 蜘蛛の巣に捕り込まれ、喰い殺されるを目前にした人間。

 無視してもよかった。他人様の飯種にケチを付けるというのは実に見っとも無い。なにより蜘蛛化けがその巣に掛かった獲物を喰らって何を咎めよう。どこぞの閻魔様だって殺しの罪を唱えはすれ妖怪の営みまでは弾劾すまい。

 だのに、それでも、見捨ててしまわなかったのは。気紛れに命を拾ってやったのは。

 

 ────俺は、死ねない

 

 白い糸を赤く染めて、反吐でもひり出すみたいにヤツは言った。

 岩壁を震撼するような、妙に物悲しい響きの声で。

 

「……おぅい、気を付けなぁ」

 

 糸塗れの人間を蹴り落とす。ヤマメの糸は鋼の粘りを凌ぐが、(おのれ)の脚力と怪力(りき)あらば千切るのに不足はない。むしろうっかり蹴り潰さなかったことが驚き……もとい、我が手心の絶妙さに拍手喝采が欲しいほど。

 とはいえ、早まった。

 勢いでやっておいて後悔するというのは如何にも、それこそ見っとも無いが。けれどやはり、思わずにはおれない。

 助けるんじゃあなかった。

 頼まれもしないことをやっちまった。

 そうだ。ヤツは無論のこと懇願などしていなかったしそもそもこちらの存在を認識すらしていなかったが問題はそんなことではなく。

 ヤツは、死ねない、と言った。『助けてくれ』でもなく。『死にたくない』でもなく。まして『生きたい』、でもない。

 死ねない──まるで死にたいのにできないとでも言うような。死にたいがそれは許されないと諦めているような。

 ああ、だから、ヤツのあの声はあんなにも物悲しく、うら寂しく、虚しかったのだろう。あれは全身全霊の、心の底から発したただの……慟哭(なきごと)だったんだ。

 くっだらねぇ。

 気に入らねぇ。

 そんな糞莫迦野郎を助けちまったことが……じゃあなくて。

 腹の底から糞莫迦だと罵ってやりたいような野郎が、あいつが、その糞莫迦さ加減に見合った糞野郎だったならよかった。そうなら、ぶん殴るか放り捨てるだけで済んだ。簡単な話。三歩と要らぬ、半歩で仕舞いだ。

 嫌なヤツであってくれたなら、よかったのに。

 そうじゃあなかった。そうじゃなかったんだよなぁ。

 

「かぁえったぞぉ~!!」

 

 上界で日はとっくのとうにとっぷり暮れて、真夜中と呼ぶのも烏滸がましい早も早明け方近く。

 酒焼けの臭い大声で戸を開けっ広げると、茶の間に座する青年の姿があった。

 行灯に照らされた文机には和綴の書物。しかし明らかに読み物をする時刻ではなかった。

 つまるところ、待っていたのだろう。

 誰を?

 

「おかえりなさい、星熊さん」

 

 ……そりゃ私だよな。

 

「……また起きてたのか。寝てりゃいいのに」

 

 寝てて当然の時刻に押し掛けておいてどの口が言うか。まあ旧都に昼夜の別などあってないようなものだが。

 

「お構い無く。うっかり読書に身が入りましたもので」

 

 見え透いた嘘、というかこちらを気遣った定型句(でまかせ)だ。

 ここを訪れた時、この男が寝床に入っていたところなど見たことがない。いつも起きて、なんとなれば張りのよい座布団まで用意されている。別に己とて毎日毎日顔を出す訳ではない。気が向いたなら気紛れに勝手気儘に、ふらりと現れて小一時間暇を潰すだけの時もあれば数日居座るなんて日和もある。

 通い猫よろしく来る日も来ぬ日も気分次第な己の来訪をまさか見越しているとも思えない。すわ、見張られているのではあるまいかと勘繰ったりもしたが、どうやら違う。ただ本当に、いつも、いつも、来客の用意を怠らないだけなのだ。

 私がいつ来てもいいように。

 

「…………」

 

 むず痒いような、(くすぐ)ったいような。

 どっかり腰を下ろした座布団の上で、妙に尻の据わりが悪い。

 だが不思議と、悪い気はしなかった。

 囲炉裏では既にして土瓶が沸いている。すぐに淹れたての茶が差し出された。

 

「今夜も大変召された様子で」

「ん……召した召した。存分に召させていただきましたよ~ぅ。なにさ、飲み過ぎるなってかい? そいつぁ到底無理な相談だね」

「いいえ、喫される酒量について己がとやかく申し上げることはありません。貴女方に人間のアルコール分解能力などはものの尺度にもなりませんゆえ。毎度見事な飲みっぷり、ただ感服を覚えます」

「そりゃどーも」

「ただ、お願いの儀が一つ」

「んん? なんだい。お願いと来たか。はは、お前さんにしちゃ珍しい言い回しだ」

 

 こっちがあれこれ言い付けることはあっても、あちらから何かを求められることなど殆んどなかった。そしてそれはそれで、なにやら寂しいものがある。

 己が度量に期さるるもの無しなど矜持に(もと)る。

 あとはそう……共にする時間は増えていく。一つ屋根の下、席同じうして幾度数えよう。席といっても食卓囲んでるだけだが。とはいえだ、この男からは一向に、素振りすら見えない。なんというか、いやそうあからさまにあってもらっても困るのだが、こちらとて(わり)無い仲を望んでいる訳では決してないが……ないが。だからとてこうも微塵も気配すら嗅げずとなると。

 

「肉体的に優れたりとはいえ、女性に、このようなことを申し上げてよいものか」

「ぉ、おう、別に気にしやしないよ。言ってみなよ」

 

 思わぬ話運びについ声がつんのめった。

 一応こっちは女な訳だ。日々平穏世は総て事も無し万事平和なりと続く。結構なこと。しかし、なれど、すると揺らいで来る訳だ。沽券的なものが。

 以上何一つ関わりなどないが、求めるというなら聞こうではないか。うん。話くらいは。

 

「お酒を召される時は、一緒に何か食べていただきたい、と」

「…………あぁ?」

 

 身構えたところに、石ではなく綿でも放られた心地だった。肩透かしというやつ。

 

「酒豪の方々にとって、酒肴などは清酒の味を損なう不純物なのやもしれません」

「いやまあ、そこまで言わないけど」

 

 実際、当てなどなくとも大いに飲むが。

 青年は目礼気味に顎を引き、恐縮した体を見せる。

 

「口幅ったいことを申しますれば、やはりお身体を労って欲しいと、そう思います。どれほど強靭で、限界が遠大であられたとしても」

「くははっ、確かにこりゃ口幅ったいね。小姑か女房(かかあ)かっての」

「失礼いたしました……」

「謝るこっちゃないさ。けど、いざ呑もうってたんびに食うもん用意するってなぁ、なかなか面倒なんだよねぇ……そうだ。お前さんが作ってくれりゃいい」

 

 わざとらしく手を打って、にやりと笑って見せる。さながら仕返しの心持ちで。

 

「おぉ我ながら名案だ。胃の腑も荒らさず酒も益々進む。しかし、くくく、いやはや残念。これじゃ本末転倒だね」

 

 無論、冗談である。日の二食、三食を飯炊きするならいざ知らず、鬼の酒盛りに人間を付き合わせるなど無茶な話。

 

「よろしいのですか」

「あ?」

「相分かりました。謹んでお役目拝領いたします。己の拙い手妻で、果たしてお口に合うものが用意できるか……精一杯、力を尽くします」

「おいおい真に受けるんじゃあないよ。二、三日なんてのは方便さ。実際はもっと長くなるし量だって樽酒が指折り消えてなくなるんだ。鬼の酒宴に人間が出しゃばって過労で死にました、なんて笑い話にしかならないよ」

「適宜に小休止を挟めば、二週間程度の連続労働は人間の身体能力でも十分に可能です。実際、現世でもそうした労働環境は珍しくありません。なお一層苛酷な勤務内容、拘束時間、数分の休憩すら与えられないなどという業種も、枚挙に暇なく」

「病んでんな現世」

 

 それは私でも鬼だと思う。

 

「人間の脆弱さを厭われる御心境は、少なからず理解及びます。しかし憚りながら、人間とはなかなかにしぶとい生物です。ですからどうか御遠慮なく、この身を御存分にお使いください」

「あのなぁ」

 

 謙り極まって、いっそ不気味なくらい、この男は自分自身の扱いが露悪だ。そうすることに悦びでも覚えている変態なら物笑いの種だが、こいつのそれはそんな血の通ったものではない。実に義務的で、機械的で、無慈悲。法の執行。処刑人の断罪めいて無機。それこそ閻魔の裁きが如く、非人間的なのだ。

 自縄自縛に自罰を科し、自己の悪性を妄信する愚か者。

 そんなものに付き合ってられるか。こいつの────思惑通りになどさせて堪るか。

 片膝立てて青年に向き直る。睨みを呉れて、この苛立ちを顕す。

 

「お前さんはどうも私に借りがあると思い込んでるらしいが、私の方にゃそんな鬱陶しいもん貸した心算(おぼえ)はないんだよ。一所懸命その返済を頑張ってやろうってぇ気概は買うがね、見当違いさ。義務だか帳尻合わせだか知らないが、そんな心持ちで何されたって……欠片も嬉しかないんだよ」

 

 ────そこにお前の意志(こころ)が無いなら、そんな献身は要らない。

 

「は……それは、大変な、御無礼を」

「ふんっ」

「ですが」

「?」

 

 今一度頭を垂れて謝罪を口にした矢先、青年はこちらを真っ直ぐに見返す。

 

「自分は決して、義務感からこのような申し出をしている訳ではありません」

「嘘は好かない」

「嘘ではありません」

「じゃあなんだってんだい」

 

 自分の声音の険に顔を顰める。何を独りで血を熱くしているのやら。

 しかし、譲れぬ。嘘だけは許せぬ。この身を鬼と知ってなお、虚実を口にするようなら。

 こいつとは、これ切りだ────

 

「……酒を、飲んでいる貴女が」

「あん?」

「御酒を召される星熊さんは、爽やかで、快く、そして幸せそうで……とても素敵だと、綺麗だと、思いました」

「………………あい?」

「その様、お姿を、傍近くでまた見られぬものか、と……望蜀(ぼうしょく)しました」

「…………」

「…………」

 

 暫時、時の移ろいが止まった。

 いや時間は動いている。確実に。現に外からは破落戸(ごろつき)妖怪共の喧しい騒音が遠く響いていた。

 青年は何も言わずじっと、恥じ入るように面を伏せている。

 己とても何を言えばいいやらわからぬ。

 悪戯に沈黙ばかりが部屋に落ち、時はただ過ぎていった。

 

「……そ」

「は」

「そういうことも言えるンじゃねぇか!!」

 

 べちん、とその左肩を叩く。

 すると青年は視界から失せた。左隣の襖が吹き飛び、どんがらがっしゃんと奥間の押し入れが弾ける。

 どうも、今度こそ手心を誤ったようだ。

 

「ぉ、おぉっ!? ごめん!? ごめんよぅ!」

「いえ……問題、ありません……御心配、なく……」

 

 歪んだ襖と家財の下から片手が出てきて左右に揺れる。とりあえずそれを引っ張り上げ、元の場所まで手を貸した。

 対面を改めて、しかし一向言葉は出ない。どうしてか酒精が沁みたかのように、顔は熱を帯びていた。

 

「……小腹が空いた」

「は」

 

 頭の中を探しあぐねて、結局胃袋と相談してそのような文句を絞り出す。

 青年の目が瞬く。しかしすぐに、そこには柔く笑みが浮かんだ。

 その微笑の、この手触りを何と呼ぼう。居もしないし見たこともないおっ母だかおっ父だかはこんな感じかなんて、愚にもつかない想像をしてみたりもした。

 

「冷や飯ですが、茶漬けにでもしましょう。作り置きの出汁もよろしければ。ミョウガ、大葉、野沢菜、梅肉……ええ、お好みの薬味があれば仰ってください。昼に煮染めた貝の佃煮もございます」

「なんでもいいよ。あぁ、でも」

「はい、山葵は多めで」

「……おう」

 

 先刻承知といわんばかり。実際、己の好みの味も食い方も、此奴には殆ど把握(にぎ)られているのだから。

 

 

 いいヤツ。優しい人間。自分以外の誰かを想い遣れる善人。世に呼ばわる鬼の像、その対極のような人物像。その癖、聖人君子ってほど潔癖でもなく、物腰は柔らかだ。堅物だが、穏当だ。

 小言が増えたのは玉に瑕だ。酒の飲み方にあれこれケチをつけやがる。鬼が酒浸って何が悪いってんだまったく。

 ああ、まったく。

 悪くない。こういうのは、嫌いじゃない。

 だからこそ、腑に落ちない。承服できない。

 そんなヤツがどうして────死にたがる。死にたいと希念するほどに、今生を厭う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 茶漬けというか冷や汁と呼ぼうか。残り物の有り合わせをそれでも三杯ほど平らげて、星熊さんは座布団を枕に転寝した。

 腹が満ちて眠気に負ける。まるで幼子のようだ。その居姿はどの角度から望めど絶世の美姫、美鬼であるのに。

 

「……」

 

 寝息は穏やかで、寝相も頗る静謐。一流の彫刻家が削り出した彫像のように彼女の寝姿は美しい。

 そっと毛布を掛け、囲炉裏に薪を加える。風邪どころか病と無縁の彼女に、暖かく、などという配慮はそれこそ余計な世話であろうが。

 豪気にして不敵、懐には深なる大器を持つ。その精神性は尊敬に値する。

 しかし同時にこのひとは、快活で、朗らかで、子供のように無邪気だった。その在り方に、思慕が募る。惹かれる心を自覚する。

 

「ん……」

「……」

 

 はらりと、その金糸の髪が女生の額を流れ落ちた。それを見て取ってほぼ反射的に、手櫛で前髪を払う。

 絹のような手触り。凡庸な感動が湧いた。

 望蜀。先程口にしたそれが今まさに(もた)げてくる。

 もっと触れたい。労わりたい。

 小動物に対する庇護欲に似ているか。いや、今少し、違う。

 愛欲と言うには力なく、恋情と嘯くには不誠実で。

 ただ、愛らしくて、俺は彼女の頭を撫でた。宝物でも手入れするような心地で。大切で、大切なものの実存を確かめるように。

 そうして、この手が幾度目かの往復を経た時。

 

「……ふふふ」

「っ!?」

 

 彼女と目が合う。赤い瞳が細く、こちらを見上げていた。

 

「なんだ。やめちまうのかい……?」

「失礼いたしました。本当に、迂闊な、不届きなことを」

「なんでさ。私は嫌がっちゃいないだろ。むしろ安心したよ。木石みたいなお前さんがこういうことしてくれるんだって。私の女っぷりも捨てたもんじゃあないねぇ。ふ、ふふふふ」

「は……」

 

 後方へ退こうとする己の手を彼女は握る。そのままそれを引き寄せ、再びその頭に置いた。

 

「いいから、撫でとくれよ。いい気持ちで眠れそうなんだ」

「……はい」

「んっ、ふふふ……あ、それとも」

「? っ!」

 

 言うや、彼女の手は己の二の腕に這い上り掴む。そうして何程の苦も無く、この身は引き倒された。膂力の差を実感する暇すらなく。

 

「一緒に寝る?」

「…………」

 

 囁きが耳を撫で、眼前には柔らかな微笑。横になって向かい合った彼女は、この上もなく蠱惑的で、この世のものとは思えぬほどに色と艶に満ち満ちていた。

 優しげな形に細められる目。薄く唇は開かれ、まるで何かを待ち受けているように見えた。それは己の錯誤であろうか。

 

「……いいよ」

 

 正気のまま魅入られていく。星熊勇儀というひとは、それほどに、あまりにも美しくて。

 髪を撫でた手が、白い頬へと落ちる。赤子めいて滑らかな柔肌に、筋張ったこの親指を這わせるのは罪悪感すら伴った。

 桜色をした唇。視界が狭窄し、ただそれだけしか見えなくなる。美しい色艶と形の、彼女の、唇だけが。

 

「っ」

 

 不意に、鋭く。

 それは指の腹を走り奔り、指の根元までを存分に裂いた。痛みが。

 切って裂けた親指から血が滴り、美鬼の頬に赤い玉を落とす。白い肌を、赤が穢した。

 

「! 今拭くものを」

「待て。見せてみな」

 

 即座に立ち上がろうとしたところをまたしても捕らえられる。

 掴まれた手首は無論のことびくともしない。こうなれば己などにそれを振り解く手段はなく、大人しく彼女の言に従う。

 座して、星熊さんはじっと己の手を見詰めた。新たに穴でも穿たれてしまいそうなほど、それは繁々と。

 

「……………………」

「星熊さん、お顔に血が付いております」

「ん? ああ……」

 

 彼女は無造作に手の甲で頬を拭った。しかしそのようなことをしても、血の紅は掠れながら伸び広がるばかり。

 頬紅というにはあまりに醜い汚れ、己が垂れ流したものが、美鬼を穢す様は心をざわつかせた。

 やはり手拭を。なんとなれば湯を沸かし、彼女に付着した汚物を洗いたい。

 こちらの慌てふためく心中を、あるいは察したのやもしれぬ。彼女は呆れたような笑みを浮かべ、次いでこの手を引き寄せて。

 

「ん、ちゅ」

「!? なにを!?」

 

 親指に、舌を這わせた。

 暖かで、柔らかで、ざらりとした感触が指の腹を舐る。丹念に、丁寧に。

 彼女の舌は長かった。指に巻き付いてしまうほど。

 

「星熊さんっ、いけません……!」

「は、ぁ、ん……ちぅ……んふ」

 

 こちらの抗議に、彼女は妖しい笑みを返すだけだった。

 流れ出た血を粗方舐め終えると、その唇が開き、指が没す。口の中はさらに暖かく、いや熱かった。火傷を錯覚するほどに、彼女の中は熱く。

 

「ち、ぅ、ぢゅる……」

「ぐっ」

 

 指が吸われた。舌が吸着し、頬が窄まり、口腔全体の肉が指を圧迫する。

 傷口が発する痛みなど僅かで、というよりそれ以外の刺激があまりにも強過ぎた。

 指先を支配する快感に、己はただ身を固めて堪えることしかできなかった。

 

「……ん、はぁっ。血は止まったかね」

「…………」

「……ははっ、ふふ、くふふ、びっくりした顔」

「至極、当然の反応かと思われますが……」

 

 非難がましいこちらの言に、美鬼は実に愉快げな笑みを見せた。

 

「ま、いいじゃないか。お互い様ってやつさ。それよりこの傷、何かで塞がにゃ」

「は、綿布(ガーゼ)がありますので……」

 

 久方振りに手首を解放され、奥間から救急箱と手拭を持ってくる。

 親指の切り口は広く、深い。いつ、どこで、どのようにして切ったものか、どうにも思い当たる節がない。

 

「……」

 

 星熊さんは白布で顔を拭いながら、やはりじっと己の手先を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その血は甘露であった。否応もなく、(ばけもの)の性を掻き毟られるほど。

 あるいはこのまま喰い殺せば、この男は幸福になるのだろうか。

 それは欺瞞だ。言い訳だ。

 これが、この血潮の味が気を迷わせる。違わせる。狂わせる。私を。

 

「……」

 

 あの傷。傷口の鋭さは、刃物のそれではない。ただ鋭利なだけの刃では、あのような()()()切り口をつけることは断じて叶うまい。どのような刀剣を用いても実現し得まい。

 もし、あるとすれば────糸。

 極細の糸でも滑らせたなら、斯くも精妙なる切断が能おう。

 

「…………まだ、諦めちゃいないってか」

 



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嘘・赤い嫉妬

地の文よりセリフを書く方が楽しい気がする(書けているとは言ってない)




 吹き染められた大根は、箸で苦もなく裂き割れる。

 新鮮な葛を使った餡は、ともすれば糸を引くほどに粘る。とろむ。

 醤油、酒、味醂、酢と生姜のしぼり汁、昆布出汁を少々。味付けは頗る素朴だが、それだけに出来に言い訳が利かぬ。

 固唾を飲むかの心地で、己は待った。

 囲炉裏の茣蓙に腰を据え、一人の少女が膳を前にしている。箸を手に一皿目、大根の葛餡かけを今、頬張る。

 

「あんむ」

「……」

「んむんむ」

 

 目を閉じ、頻りに頷く。左右の側頭部から伸びた樹木のような質感の角が、それに随って揺れた。

 味をより深く、検められている。その実感はこの身の緊張感をさらに高めた。

 少女は目を開き、こちらを見て、にっと笑った。

 

「美味い! よっく味が沁みてるよぉ。そしてなにより……」

 

 言うや、彼女は己が傍らの大きな瓢箪を掲げた。木栓(コルク)を親指で弾き、呷る。

 喉が上下して、これでもかと嚥下の音が響き渡った。ごぐり、ごぐり、と。

 

「だっはぁ! 酒に合う!! いいね! 合格! なっははははは!!」

「身に余る御褒辞。(かたじけの)う存じます」

「ふはははは! よきにはからえよきにはからえぃ! まむまむ……お代わり!」

「は、どうぞお好きなだけ」

 

 差し出された皿を受け取る。これほど気に入ってくださるならば、大鍋一つといわず拵えよう。

 ほくほくと綻ぶ少女、伊吹萃香さんの様子に、内心でそのように胸を撫で下ろしていた。

 ここは廃寺。どうしてか旧地獄を称するこの地底で、岩壁に埋もれるようにして建立された小さな御堂。そこに隣接する家屋の居間で今宵、怪奇な酒宴が開かれていた。

 ふと、囲炉裏のもう一角を見る。

 

「……」

「星熊さん?」

「ん……? ああ」

 

 なにやらぼんやりと火に目を落としておられた彼女は、こちらの声に気を取り戻す。

 彼女は手元の小鉢を一つ取り上げて示す。

 

「こいつは韮かい。かかってんのはいつもの辛子味噌だね」

「一通りの調味料と胡麻で和え、鷹の爪を刻み入れました」

「ほーん……んぁあ、こりゃ癖になる。うまい」

「それはよかった」

 

 星熊勇儀というひとは、ほんの一言にもその真心を顕される。彼女の「うまい」は、俺にいつも否応なく喜びを呉れた。大袈裟ではない。ただの真実である。

 

「いや大袈裟だよ。真実(マジ)に」

「んふふふふふふ。勇儀は辛いの好きだもんなぁ? え? なに? いつもの味なの? 女房(かかあ)の味なの? ん? ん~?」

「…………」

 

 抉り込むような角度で星熊さんを伊吹さんが覗き込む。瓢箪に頬擦りする赤ら顔は実に、実に愉快げであった。

 そして星熊さんの表情はどこまでも対照的であった。

 風を切る。残像が空気中に刻まれるほどの速度で走ったのは、星熊さんのその手掌。

 ぐわし、と。彼女は皿に盛られた車海老の素揚げを掴み取った。伊吹さんの膳のそれを。

 そして丸ごと五尾を全て頬張り、ばりばりと咀嚼する。

 

「あ゛ぁぁぁあ!?」

「……」

 

 絶叫する少女の傍ら、彼女は赤漆の盃を傾け、大量の清酒と共に口中のそれを腹に流し入れた。

 

「ふはっ、あぁうまかった。しかし地底(ここいら)で海老なんざよく手に入ったね」

「私のエビぃ!!」

「今日は折よく、外に交易を持つ行商が、旧都の市に食材を卸したばかりのところへ行き会いまして。まさかこちらで産地直送の車海老が店頭に並ぶ光景を目にするとは、自分とて思いもいたしませんでした」

「エビぃぃぃ……!!」

「またぞろ隙間妖怪の気紛れかねぇ。案外その行商ってのも八雲所縁の者かもしれんぜ。ゆかりだけに」

「あまり捻りがありませんね」

「うっさいほっとけ、ばぁか」

「ふふっ、失礼を」

「エビ……」

 

 平皿をわなわなと押し戴きながら切なげに伊吹さんは呟いた。意図して無視していた訳ではないが、小さな童が消沈する様は良心が痛む。

 少女の頭上に戴かれた皿を丁重に受け取った。

 

「海老はまだまだございます。揚げ物以外にお好みがありましたら、どうぞ遠慮なく仰ってくだ──」

「艶煮がいい! エビといったらこれよ! もう香りだけで一升いけちゃうもんね!」

「おい、調子こいてややこしい注文するんじゃないよ」

「いえ、問題ありません。承りました」

「そらみろ聞きなよ。受け賜るとさ! ならば()は急げだ。さあさあよよよいよよよい!」

 

 拍手を打って景気よく囃し立てる少女に笑む。どうやら己は此方の上機嫌を獲得できたらしい。

 

「つみれ鍋がそろそろ頃合いかと。山独活の天麩羅は熱いゆえお気をつけを。自分は一旦、厨房に戻ります。御用がありましたらお声掛けください。海老は少々お待ちを。先に鯉のあらいをお持ちします」

「鯉の……って、お前さんそんなもんどこで覚えてくるんだい」

「以前、小料理屋でアルバイト……一年ほど下働きを。ほんの、些細な手妻です」

 

 当時、己は中学生。求人募集ではなく、母の伝手を頼ってありついた仕事だった。

 江戸前の和食を饗する小造りで、本格派の古風な店構えであった。その店主がどうも、気前がよいというか変人気質というか……なんのかのと調理の手解きをしてくれたのだ。まるきり料理人の修行のような様相で。無論のこと、己はその当時も今も調理師免許など持ってはいない。今にして思えばなかなか、()()()()職場環境だったと言えよう。

 ふと見れば、赤い酒盃が乾いていた。傍にある徳利を持ち上げ、注ぎ口を向ける。美濃焼きの大振りなもので、どちらかといえば(かめ)と呼ぶ方が適している。

 

「どうぞ」

「ん」

 

 一升を注ぎ容れられるという星熊童子の大盃に、この程度の徳利ではまさしく雀の涙だが。

 清らかな酒精の瑞の音。

 それに一瞬、彼女の顔が綻んだように見えた。そうならいい。そうであってくれたなら、嬉しい。

 

「あんま無理すんじゃないよ」

「無理などと。拙い酒肴ではありますが、どうやら喜んでいただけたようで……己こそ嬉しうございます」

「……そうかい」

「では」

 

 会釈してその場を立ち、厨房へと出戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いひ、にひひひひひ」

「気っ色の悪い声出すんじゃないよ」

 

 盃を一嘗めして、片目で萃香を睨む。

 童は童らしからぬ助平面でなおも笑った。

 

「甲斐甲斐しいねぇ。えぇ? いやぁ正直言って話半分だったけどありゃ噂以上だ。イイの捕まえたねぇ勇儀ぃ」

「はんっ」

「ケケケ、私が持て成されてんのがそんなに気に食わないかい? いや困っちゃうねぇ。お兄さんったらあんな熱っぽい目で見てくるんだもん。あぁっ可憐すぎるのが罪なのかしらん」

「………………」

「黙って引くなよ。せめてなんか言え」

 

 決まりの悪さの誤魔化しか、萃香は山独活の天麩羅を頬張った。

 

「あぢっ、あぢぢぢ……うむん、芯まで柔らか。塩より汁かなこりゃ」

「……お前さんにはどう見えた」

「ん~? あの兄さんかい? 善人なんじゃない。あんたの言う通り」

「……」

「おや、そう答えて欲しかったんじゃあないの? くく」

 

 笑みが上る。少女のような顔貌に突如、千年樹の如き老獪さで。

 返す言葉はなかった。自覚はないが、どうやらそっくりその通りだからだ。

 萃香は瓢箪を一吸いして、酒臭い笑声を上げた。

 

「確かにね。ありゃ難物だ。おかしな歪み方したもんだ。死に損なった勢いの残った惰性でなんとか生きてるふりしてるって感じ。ホントならあんたが心底嫌う手合いだってのもわかるよ」

「悪い奴じゃねぇんだ」

 

 まるで言い訳のように、そんな譫言が口をついた。

 

「おぉ、そうだね。善い奴だね。優しい子だね。他人を慮って、他人をとっても愛してるね──自分自身を憎む分だけ」

「……」

「今時珍しいってのは私も同感。一昔前は結構見たよ。戦の時分なんかはそこら中で、親兄弟亡くしたガキがあんな目をしてたっけ。ふふふ、懐かしいねぇ」

 

 瓢箪の口の中に過去でも映ってるのか。鬼の頭領はいつかどこかを見下ろしながらに言った。

 その内、己の大盃の水面にも何かが映り込みそうで、それが無性に嫌で、酒を飲み干した。

 

「ふふっ、勇儀、勇儀よぉ。そいつは入れ込み過ぎってやつだよ」

「あ?」

「あんたの想い願いってなぁ、あの子にゃちょいと眩し過ぎるよ。陰気に陽気ぶつけたらそりゃ消えてなくなる。道理さね」

「知った風な口きくじゃねぇか」

 

 睨みを呉れると、笑みが返ってくる。それが無性にむかっ腹が立つ。

 訳知り顔で理屈を垂れ、こちらの反応を酒肴代わりにする肚か。乗らぬ。

 視線を外し、舌打ちで苛立ちを飛ばす。当然、無駄だ。この程度で鎮まるほど利口な生き方はしてこなかった。

 

「そんなに嫌かねぇ。陰鬱だけど真っ直ぐだよ? 真っ直ぐ地の底に向かってるけど。ひひひ」

「……あんただってそうだろ。人間に想うところ抱えてんのは」

「まあね。でも私はあの兄さん嫌いじゃない」

 

 嫌いなのはその生き様だ。あの青年を嫌っている訳じゃ……そう喉元まで出かかり、飲み込む。この言い訳は飽きた。幾度も繰り返した。口にするのも憚るほど。

 

「むしろ、いやぁかなり、ぐっと来てるよ」

 

 悪戯気なせせら笑いの中、不意の侘しさが顔に滲む。真剣(まじめ)がちらり抜き身を晒す。この少女の性質の悪さ。嘘を吐かない。

 冗談ではなく本気らしい。

 

「……なんでだ」

「嘘を吐かないからさ」

 

 柔らかな微笑で萃香は答えた。

 反問は浮かばなかった。

 これ以上の理由などない。伊吹萃香の願いの全てはそれに集約されているのだから。

 

「吐けないんじゃあない。吐かないんだ」

「同じだろ」

「いやいやこれが違う。嘘を吐けないってのは、そういう風に頭が使えない人間だからだ。ものが悪いって言ってんじゃない。嘘吐く()()をしてないんだ。勿論、私は正直者が好きだよ。なんせ失望せずに済む」

「……」

 

 失望。

 この少女が在りし日に抱えたそれは如何ばかりのものか。沼の淵に似て深く、昏かろう。

 そして昏々とした瞳の奥に、この鬼の大将は烈火を孕む。

 

「あの兄さんは嘘を吐ける人間だ。嘘ってやつの使い勝手を心得てる賢しい人間だ。騙し騙れば、安楽なのを知ってる。特に自分(おのれ)の心を欺けば、人間の生はわりと拓けるだろう? 力ある者には(おもね)り……あるいは口八丁手八丁欺き、殺す。己より劣る者から騙して奪い、なけなしの良心も道義も屁理屈こねて誤魔化して、まあこれも殺す。拘らず、意地を張らず、本心隠して抑して嘘で固め、我が身は高きから低きへ流るる水の如しってな具合にさ。あははははは、反吐が出らぁ」

「人間って生き物は元々そういうもんだろ。弱いなりの、相応の生き方だ」

 

 己の吐いた言葉だというのにそれはひどく不快な音色をしていた。白々しいと、お為ごかしなと。

 

「かもね。でもねぇ、ああいうのを見ちゃうと、期待しちまうじゃあないか」

「期待? あいつに今更、何を期待するってんだ」

「人間が捨てたもんじゃないかもって、思いそうになる」

 

 寂しげに少女は呟いた。口にしたそれが空言と、心底思い知っているから。

 しかし、それだけに留まらぬ熱が、残火が、そこには燻っている。それが見える。どうにも透ける。

 

「……」

「そんな顔しないでよ。だってしょうがないじゃない。苦痛を吞んで自罰を呑んで、それでも誤魔化さない欺かない、許さない。嘘で自分を慰めない。過去に何があったかは知らないが、楽になりたきゃ簡単だ。自分は不運だった、不幸だったって言い張ればいい。責めなんて取らず背負ってるもん全部放って、自分は何も悪くないんだって嘘を吐けばいいんだ」

 

 後ろを向いたままじゃ前には進めない。すッ転んで仕舞い。

 進まないならじっとしているしかない。

 あの青年は立ち止まったままだ。そうして見るのは前ではなく、背後の過去と、自分の傷口。

 腐って落ちるのを待っている。死人とそれと何が違おう。

 

「でもしない。吐かない。己が安楽こそは罪業と妄信する愚か者」

 

 そうだ。愚か者だ。

 あいつは糞莫迦だ。莫迦げている。そんなあいつの生き方を私は、私は。

 

「あぁ……(かな)しいねぇ。かぎりなく」

 

 酒精の香めいて熱っぽく、少女は妖しげに吐息する。うっとりと、虚空に想い人を映して。

 

「ふ、ふ、いっそ私が喰っちまいたいくらいさ」

「“(かしら)”」

 

 それはひどく低く、冷たい音だった。己の声が底冷えしていく。

 腹の底に、黒く溜まるものがあった。それが音声(おんじょう)に姿を変えて、この口から垂れ流れる。

 旧い呼び名は懐かしさではなく、あの烈しい日々の血の沸き立ちを思い起こさせる。麗しの、闘争の日々を。

 

「首と胴体が泣き別れるなんざ、一生に()()()()で十分。そうは思わねぇか」

「ほう……吹くじゃないか。二度目は手前(てめぇ)様がやってくださるってのかい」

 

 破裂間近なほどに空気の張り詰めを覚えた。想像上で膨張していくのは護謨(ごむ)風船、などではなく鉄の釜である。弾けたが最後何もかも巻き込んでずたずたにするだろう。

 手にした盃をゆっくりと、下ろす。もし、本当にやるなら、その必要がある。それだけの覚悟が要る。

 鬼の頭目と殺し合うならば。

 

「置くかよ星熊童子。その盃を。その意味わかってるだろうね」

「…………」

「私は構わないぞ。あんたと男を()り合うか。ふふ、フハハハハハハハハハハハハハハハ! いいねぇ、そいつは滅法愉しかろうなぁ!」

 

 ぎらぎらとその眼を灼いて少女の形をした鬼神が笑う。

 ああ、されど、やはり、どうしようとてなく、返す返すも懐かしい。暴れ狂う心の臓腑から、熱血が全身へと行き渡り、それに比して冷えていく脳味噌。肉体の芯が震える。悦楽に。殴る痛みと殴られる痛み、生の実存と死の肉薄を想像して、打ち震えるほどの。喜び。よろこび。よろこび。

 やってやられて、やり返しやり返されて、どっちの生命が、霊魂が頑強なのかを、石と石とをぶつけ合わせるようにして比べ合う。不毛。無為の極致。けれど、そここそは(われ)らの覇道楽土。

 対手は鬼の筆頭、悪鬼羅刹の名を(ほしいまま)にする修羅の申し子、称して酒吞童子。

 対手に取って不足は絶無。絶無だ。

 対手に取らぬ理由などあろうか。旧知の輩、その強さに一片の疑いもない。いわんや其の闘争の歓喜限りを知らぬ。

 挑まぬ理由など。武威を競い合わぬ理由など。

 理由、など。

 

 御酒を召される星熊さんは────

 

「────」

「……」

 

 硬直は半秒にも満たなかったろう。しかし、傲岸不遜に武を誇り驕るこの身にとって、その半秒は絶死と同義であることは言うまでもない。刹那に首を刎ねる達人が相手なら、刹那に全膂力を解放し得る剛の者が相手なら、己の死は確約されていたろう。

 惰弱。迷妄。覚悟無き半端者。そう罵られて然るべきだ。目の前の鬼神にはそう面罵する権利がある。

 だが、萃香は、罵倒の代わりに微笑と、瓢箪の注ぎ口をこちらに向けた。

 盃を持ち上げる。とくとくと波打ちながら、酒が赤い器を満たす。甘く、苦く、ひどくそれは香って。

 

「冗談だよ。ふふ、いやぁ久々にあんたの(おどし)を浴びたが、いいね。変わらないねぇ」

「…………糞ッ」

 

 まんまと揶揄(からか)われたのだ。あの青年を引き合いに、気を持ったような風情を見せて、己がどのように昂るかを。

 

「……嘘は蛇蝎の如しじゃねぇのか」

冗談(かたり)ならそうさ。でも冗談(はったり)は大好物だよ。知ってるくせに~」

「死ね」

「あらんひどい」

 

 なみなみ水面を湛える盃を一気に呷る。それこそ半秒で全てを飲み干した。

 無闇矢鱈に辛いぞ畜生。

 

「ま、ハッタリはハッタリだけどさ。あの兄さんが悪くないってのはホントさ」

「まだ言うかこの(アマ)

「いやいや聞きなって。焚き付けてやってるって言ってんだ。お前さんも気があるならとっとと手籠めなりなんなりしちまわねぇと、横から油揚げみたいに搔っ攫われるよ」

「大きなお世話だ!」

「誰かしら敵が居るんならまだいいさ。ぶん殴りに行けるんだからね。でも一番厄介なのは、独りで死んじまった時だ。あの兄さん独りにしてると手頃な橋でも見付けた日にゃ身投げしてそのままぽっくり逝っちまいそうだし」

「…………」

 

 自殺? そんな安楽をあの青年が自分自身に許すものか。許せるならば、とっくの昔にあいつはあいつ自身を救っている。もしそうなら、そもそもこんな地底(ところ)に落ちてくることもなかったろう。

 だが、もし。

 もしも、あいつが自身の命すら許せなくなったなら。生存すら、安楽と断じてしまったなら。

 

「人間は脆いよ、勇儀」

「…………」

「人間にとって嘘を吐かない人生ってのは…………苦しいんだろうよ。微塵もわかりゃしないが、そうなのだろうよ」

 

 ほんの一瞬だけ、萃香は苦虫を噛んで顔を歪める。理解に苦しんで、否、理解などしたくなくて。嘘の意義など、認めたくなくて。

 

「喰ってやるのがせめてもの……なんてな。ふ、ふふ、はははははっ」

「……笑えねぇよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 旧都とは、幻想郷は地底深くに存在する街である。

 そしてここは人ならぬひとびとの、妖怪達の街である。

 暮らし行き交う誰も彼も人間ではない。人間も絶無ではないそうだが、己がこの土地に居を与えられて早幾月、今のところ同族を目にする機会はなかった。

 しかし、人の居ないこの街での生活は、その実驚くほどに人がましい。不遜な物言いをすれば、妖怪達の形作る共同体は人間の形成する文明社会と何一つ遜色ないレベルを有している。

 現代的鉄筋コンクリートの建築物は勿論、影とてないが、木造瓦屋根と提灯の火が並ぶ明治かそれ以前の街景。そこに望郷とセピアの色彩を見出だすのは、現代人を称するゆえの驕りなのか。

 無論、十数年ばかりの浅薄な生涯で、かの時代を己が知り得よう筈もなく。それは遠い過去であり、今や失われて久しい。近代史の資料集の中でしか見ることはなかったろう。

 望外の、期せずして得た懐かしさの中、己は今再び生を営んでいた。

 

 

 

 地上へと続く縦穴を入り口と呼ぶならば、そこは旧都の奥深く、街の家々も途切れ、整地すら為されず岩土がその地肌を晒している。

 普請場である。それもその主たる目的は建築ではなかった。

 温泉を掘っている。

 ここは温泉街の果ての隅。新たなる温泉旅館開業の為、掘削工事の真っ只中であった。

 旧都は現在、温泉バブルに沸いている。文字通りに。とある事件(幻想郷において異変と呼ばれる)を経て発掘された源泉を皮切りに、天然資源活用による地場産業の拡大まこと著しく、交流を絶たれていた地上からは観光目的の来訪者が続々増えている。

 商業(あきない)を生業、もとい()()とする類の妖怪達の利潤追求への尽力も手伝って、排他と閉塞の旧地獄の様相は今や昔のこと。活気と流通の渦波が都を盛況にしていた。

 ……人がましいとの感慨は、どうもこの辺りに起因しているように思う。

 

 旧都において役夫人足の類は引く手数多である。あちらもこちらも妖怪手不足。使えるならば猫も人間の手も拘わりない。

 職人的な専門技能を持たないこの身が、それでも活計を持ち糧を得られるのもその御蔭。

 本日もまた、温泉掘削の普請に作業員として従事した。

 見渡せば人間種は己のみ。二手二足でない姿容も其処彼処に見られる。

 丸一日ほどを労働に費やした。日当を受け取る為に、普請場の入り口傍にある建屋へ赴く。

 奥座敷では、黒い留袖の姿が帳面をつけていた。留袖の姿、などと表したのは、それを人影と呼ばわってよいものか己には判断がつかなかったからだ。

 袖口から覗く五指が筆を実に達者に操っている。なるほどその筆捌きを為したるは人指に相違ないが、それにはしかし、ある筈の肉が無かった。皮が無かった。

 骨であった。黒い紋付の着物を身に纏った、人骨が、行灯に照らされながら金子を勘定している。

 この辺りの寄場を取り仕切る棟梁は、かの骨女なのだ。

 

「本日の業務、完了しましてございます」

「あぁい。今日も残業えらいはばかりさんどした」

 

 からからと軽快に鳴り響く形の良い顎骨。果たしてどのようにして声を発しているのか、皆目わからない。

 (あなぐ)り、見定めるが如き真似は慎んだが、やはり一向気にはなる。

 銭箱から紐に通された銭束を二本、そして文机の上に置かれたくすんだ銀を手渡される。

 思わずその白い面相を見返した。

 

「これは……?」

「残業代にちょいと色つけておきんした。あんさん、人間にしてはよう使えまっさかい」

 

 京(ことば)の和かな訛りで、皮肉気な言葉にさえ趣が出る。

 

「……恐れ入ります」

 

 思わぬ賞与に対して辞退の文句も幾らか浮かんだが、これはつまるところ雇用主からの先行投資。後々の働きによって返すべきであろう。

 日当諸共財布に仕舞い、辞儀する。

 鷹揚に頷きながら骨の女生は煙管を咥えた。

 

「ほんま、変わりもんおすな。こないな妖怪の吹き溜まりに、せっせせっせと。フフフ」

「……」

「よっぽど離れられへんわけでもあるんかいなぁ。可愛(かい)らし女妖でもおらはったん? それか、お(やかま)な女……プッ、クフフフフフフフ」

 

 口はおろか穴という穴、隙間という隙間から煙を吐いて、彼女は笑った。心底面白がっているようでも、厭味のようでもあった。

 その時。

 

「アァ?? ニンゲンだァ?」

「!」

 

 影が差す。広々とした玄関土間を丸ごと覆うような巨大さで。

 振り返れば、目玉がこちらを見下ろしていた。顔面にただ一つしかない眼球が。

 禿頭に襤褸切れを纏った大男。所謂、入道である。広義の、巨躯を有する化物の総称、俗称のそれ。

 

「ハッハァ! ちょうどイイ腹ァ減ってたところだ。おう牡丹屋! オレの給料はコイツでイイぜ!」

「っ!」

 

 言うや、丸太のような腕が横合いから伸びた。掌は己の胴体を掴み取ってなお余ろう。

 咄嗟に引き足を打ち、退いてこれを避けた。

 

「んアァ? 逃げるンじゃあねェよボケが」

「失敬。何分にも逃げる理由があります身ゆえ、この場は御容赦賜りたく」

「ハァ? ワケのわからねェことを言うンじゃ」

 

 かん、と。甲高い音の礫が室内を飛ぶ。

 煙管の雁首を灰皿に打ち付けたのだ。かの棟梁殿が。

 

「そのへんにしときぃ、でか物」

「邪魔すンな牡丹屋ァ!」

 

 ちなみに牡丹屋とは、かの骨の女生の経営する寄場の通称である。

 食欲に水を差され、巨躯がまた一回り身幅を増したかのような怒気を発する。

 しかし、骨の女棟梁は意にも介さず。

 

「うっとこの軒先汚すいうんなら、次からの仕事はなしやえ。その木偶使うてくらはるええ手配師はん自分で探せるんやったら、好きにしなんし」

「なんだァ……!」

「それとなぁ、そこなお兄はんは、あの勇儀の持ちもんや」

「ゲッ!?」

「それに手ぇ付けてあんたが無事で済むかどうか、見物やねぇ? フフフ……」

 

 隠しようもない怯み、いや怯えがその顔面全体で波立った。巨躯が縮む。無論、比喩的な有り様で。この一つ目の怪人は、見越し入道ではないらしい。

 見るからに鼻白んだ様で、入道は建屋を出ていった。

 

「フん、情けな。給金も忘れていきよったわ」

「危ういところ、ありがとうございました」

「べつにええよぉどうでも。腕っ節だけの木偶やったら、いつでも足りてますよって。あんさんの代えが出来たら次は見捨てまっさかい、よしなに。フフフ」

「……」

 

 気遣いのような心持ち微塵とて含まず、その言葉通り、掛け値なしの損得勘定なのだろう。当然であった。とはいえこの儀、助けられたという事実に一切の錯誤はない。

 こちらが感謝を示すもまた当然であった。

 腰を折り、頭を垂れる。

 

「……フぅ、これは純粋な忠告やけど、あんさんみたいな人間は、出歩かんでじぃっとしとる方がええんちゃいますの。せっかく鬼の()()()もついてあらはるんやし」

「無為徒食を貪る訳にも参りませぬゆえ」

「クフフ、ヒモはお厭かえ? あの鬼女かて女は女。そう満更でもなさそやのに、真面目やねぇ」

「……」

「せや。お兄はん、うっとこで養ったげよか? この辺りは物騒やでなぁ、牡丹屋の奉公人や言えばだぁれも手出しでけへんようなる。どや」

「は、いえ、自分は」

「給金弾みますえ。あぁ、それとも、見目のええのんがよろしぃんやったら」

 

 すると不意に、彼女は袖で顔を覆い隠した。といってそれも一瞬のこと。

 留袖の下より開陳されたのは、結い上げられた濡れ羽の黒髪、そして白い面相。骨のように白い、肌。新雪のような美相の中、牡丹の朱をした唇が艶然と映える。

 肉付いた、妙齢の女生がそこにいた。

 

慚無(ざんな)い姿で堪忍え。せやけど、どないどすか」

(けだ)し麗しき容貌(かんばせ)と、お見受けいたします」

「まあお上手」

「ゆえにそのお心遣いのみ有り難く、頂戴いたします」

 

 語尾を隠す無礼を承知で、そう重ね(のたま)う。

 

「あらそ。ざぁんねんやわ~」

 

 残念がった気色など微塵もなく彼女は言った。

 恐縮して顎を引く。詮無い気を回してしまった。

 

「……まあ、ええどす。けど気をつけなんし。鬼の威光もうちの屋号も、効くのんはその程度に知恵を持っとるやつだけや。言葉も知らん、勘も鈍い、獣以下のケダモノがここにはようさんおりまっさかい」

「御忠告、重々に承りましてございます。重ね重ねお心遣いありがとうございます」

「はいはい」

 

 ぞんざいに、人骨の手がかしゃかしゃと払われ退去を促した。

 従順に、己は会釈して踵を返す。

 

「ほんま、いけずやわぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──おい、見ろ

 ──人間だ。人間だ

 ──よせよせ関わらぬ方がいい

 ──そうともさ。ありゃ鬼の贄よ

 ──星熊の

 ──大江山から来た奴輩

 ──力の乱神の供物か

 ──酒吞の配下様は色もよくよく好まれると見ゆる

 ──あの、鬼の

 ──触れるな触れるな

 ──寄るな寄るな

 ──鬼一口よ、一呑みに喰われるぞ

 

「…………」

 

 潜めた囁き、聞こえよがしの呟き、背を打つ面罵の叫び。

 旧都での暮らし向きが軌道に乗り始めると、それら雑多な声がこの鈍い耳孔にまで届くようになった。

 当たらずとも遠からず。少なくとも、我が身を推し量ったとして、検出される利用価値は上述のそれと然したる違いはない。贄、供物……色、だけは過分としておこう。

 否やというなら、星熊勇儀というひとに対する彼らの評の全てに、己は否やと断言しよう。

 並みならぬ武力、武威を具えた鬼神。伝説に轟く勇名。戦慄くような畏怖禁じ得ず。しかし。

 しかし、己は知った。

 彼女の心根の優しさ。彼女の飾り気ない慈悲。彼女の、情の深さを。

 己は幸運にも、それらを知り得る機会を与えられた。これを奇貨と呼ばずなんと呼ぶ。これを僥倖と心得ずなんと(たが)う。

 今にも叫び出したい衝動に駆られる。彼女がどんなに尊敬に値する方か、一々列挙し語彙を重ね持論を披露したい。ただ純粋な事実を、知らしめたい。

 当然ながらそのような軽挙妄動は断じて容認できるものではない。

 なにより、我が身のこの分際で、何故そのような厚顔無恥な言動を許せよう。

 虎ならぬ熊の威を借る鼠に等しい有り様で。

 今この瞬間の、己が身の生存が誰の御蔭か、誰のお力の賜物か、まさか理解出来ぬではあるまい。まさか、まさか。

 恥を知れ。

 

「……」

 

 妄想に区切りを打つ。自己嫌悪と脳髄の腐蝕行為。時間の無駄以外のなにものでもない。

 一路、早足に長屋を目指す。星熊さん、今日はお帰りになるだろうか。いずれにせよ、いつ訪れていらっしゃろうともよいように、万端全て整えて置く。

 それだけが、今の、今生の、俺の存在する甲斐なのだから。

 

 

 温泉街から中央通りに戻る道すがら、橋に行き会う。巨大な地下空間に広がる旧都には、垂れ落ちた紐のように河川が蛇行し縦断している。これが地下水脈が空洞に流れ出したものなのか、あるいは己などには理解及ばぬ現世にあらぬ地獄にある超常の自然摂理なのかは判断もつかぬ。

 兎も角、旧都にはこうした橋が数多い。ここもまた、日本に古来から見られた所謂反橋、あるいは太鼓橋と呼ばわる木造の橋だった。橋面がアーチ状に勾配となっており、まるで坂を昇るようにして渡る。

 朱色の欄干を幾本と数え、そろりと橋の中ほど、アーチの頂点に差し掛かろうかというところで。

 一人、ぽつりと。

 少女が、欄干に腰を預けて立っていた。

 無意味を承知で、人間的な見立てをすれば年の頃は十代半ばか、やや上か。秋の稲穂のように美しい黄金色の髪は項が隠れるほど。かの骨の女生の化け姿に劣らぬ白い肌をしている。その眼窩に二つ、エメラルドの如き光輝を放つ緑眼が埋まる。耳輪の尖りを見れば、彼女が人ならぬ者であることは明白だった。

 装いはなお特徴的で、黒いワンピースの上から淡茶(カーキ)の羽織りを纏い帯を結わえている。襟の格子模様、青の差し色。この土地に居着いてあまり馴染みのない風合い。そう、それはひどくエスニックな印象を己に齎した。

 見目麗しい少女。日に二度も、美しい女性を目の当たりにできるとは、ああ眼福也と手放しに喜ぶべきか。

 それは一種、礼節でもあろうが……己の下らぬ妄言には内心で嘆息を呉れる。無力無能なるを自称するこの身は、この地底、ここ旧都において、一人歩きすら本来は戒めるべき。であるにも拘わらず無茶を押し、かのひとの勇名を笠に着てまで仕事にありついているのだ。妙な気は起こさず、早々に帰宅すべし。

 決心新たに、ひた、歩を進める。

 少女の正面を通り過ぎる。

 

「……へぇ」

 

 鈴を転がす音色で、それは感興の声を漏らす。

 

「いい匂いを辿ってきたら、まさか勇儀の……人間だったのね」

「……自分が、何か」

 

 無視を決め込み損ねた。少女の呼ばわった名が、己の後ろ髪を強かに引く。

 いや、呼ばわるだけならばまだいい。その声色、響き、明らかに彼女は星熊さんとは知己の間柄。

 向き直ったこちらの様子に、少女は笑みを深くした。

 

「染み付いて、こびり付いてるの」

「何がでしょう」

悋気(りんき)

 

 謳うように少女は言った。それを言祝ぐように、少女は笑った。

 

「貴方はきっと、きっと、嫉妬に殺されるのだわ」

 

 

 

 

 

 

 



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嘘・白濁の糸

あらすじに載せましたが、かけるたろう様にイラストを描いていただきました(※2021/3/12)
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https://www.pixiv.net/artworks/88385681

こちらから依頼差し上げて凄まじく素晴らしい絵を賜っておいて更新を一年弱腐らせる糞&糞&糞が私です。




 

 橋の頂点で二人、向かい合う。

 片や異国の風合いなお色も濃く、人ならぬ美貌の少女。

 常ならば、人間の人足風情が関わり合いになることなどあるまい。しかし奇縁が、引き寄せた。星熊さんの仁徳が幸か不幸かこの仕儀をもたらした。

 

「……申し訳ありません。一向に、貴女の仰ることの主旨を、理解できませず」

「難しく捉えることないわ。言葉の通り、誰かの嫉妬が貴方を殺すの」

「それは、また……剣呑な」

「ふふ、そうね。剣呑剣呑。でもとても自然なこと。嫉みと憎しみと殺意はグラデーションで繋がってるから」

 

 穏やかな微笑で、少女は実に危うげな条理を語った。条理、のような何かを。

 

「この身を何方(どなた)かが嫉み、殺すと?」

「ふふふ」

「それは、可能性として随分低いものかと思われます」

「あら、どうして」

「有体に申しますれば、我が身は嫉みとは無縁ゆえ」

 

 嫉むとは即ち、相手の心身、境遇、其が所有する有形あるいは無形なるものを羨み、その果てに憎悪を募らせるという精神の作用。

 俺が? この芥の如き男が誰かの嫉みを買うと?

 それは考慮にも値しない。可能性などと口にはしたが、絶無と言い切って差し支えない事実だった。

 

「その価値を認めません」

「貴方の価値を決めるのは貴方じゃないわ」

 

 こちらの断言をいともあっさりと覆されてしまった。

 確かに、その通りである。自己の価値とは自己一身の判断で決するものではなかった。残念ながら、それは他者の想い願いの介在なくして成り立たぬ。少なくとも社会、一定規模のコミュニティに属する限り、他己評価とは実存の一要因に他ならない。

 賞賛、嘲罵、憎悪……愛慕。この他にも多種多様、細分化され変質を繰り返して人は人を吟味する。人は人を己が想像の上でとある価値に置換する。

 

「……」

 

 価値の定義などと、どの口が言えたことか。己がどれ程その勝手自儘な思索を弄んできたかを全くもって棚に上げている。

 この自儘な想い。卑小なる……憧れ。

 己にとっての星熊勇儀というひとがある。

 片や、彼女にとっての己というものがある。

 そして、誰かにとっての己という、もの。果たしてその価値とは如何に。

 眼前の少女が見出し、予言しているのはまさしく、己が己では見付けること能わぬ己の価値。嫉妬、妬み嫉むあまりに殺害にまで至らねばならない何か。

 信じ難い。だが、可能性とは常にして百も絶無(ゼロ)もありえぬもの。

 

「御忠告、有り難く頂戴いたします」

「忠告だなんてとんでもない。橋占いとでも思ってくれればいいわ。当たるも八卦、なんてね……」

「活かすか無為とするかは己次第、との仰せですか」

「さあ、生憎だけど、私に貴方を助ける気はないわ」

「……」

「私はね」

 

 美しい。無慈悲なほどに。

 少女はうっとりと微笑んだ。

 

「憎嫉に焼かれて死ぬ者を見るのが好きなの」

「……」

「貴方は、ふふふ、極めつけ」

 

 忌憚なく言って、聞くだに悪趣味と断ぜざるを得ない。謂わばそれは他者の破滅を愉悦するが如き嗜好。尋常の精神性で求めるものではない。

 しかし、と。己は己の常識を疑う。つい今しがた、そんなものは何の頼りにもならぬと教えられたばかりなのだ。

 嫉妬に狂い、狂い切ったゆえの殺生。そこに一種の嗜好性を見出す。あるいは彼女なりの、彼女だけの……尊厳、なるものを観る。それも間違いなく、一つの価値。

 彼女は人ならぬ妖なればこそ。

 

「それが貴女の(さが)なのですか」

「性……そうね。そう。私は嫉妬で鬼になったんだもの。それが本分。それが本能。生き様。生き甲斐。生きる意味」

 

 (そら)んじるように囁いて、不意に。

 するりと、その白い手が伸びてきた。それはしなやかな軌道で、実に自然な所作で、己の肩に触れる。撫で、擦る。

 

「妬み嫉みはひとの業。原初の罪と呼ぶそうね。私に言わせればそれは間違いだわ」

「とは」

「愛よ」

 

 とっときの冗句を口にするように、桜色の唇は唄った。

 

「愛しているから妬ましいの。愛しているから憎らしいの。よく言うじゃない。好きの反対は嫌いじゃなく、無関心だって。すごいすごい、人間もよく解ってるのね」

「愛するゆえに妬み、殺す、と?」

「ええ、そのひと全部が愛おしいなら、そのひと全部を掌握したいと思うでしょう。想いも体も、優しい言葉も素気無い仕草も思い出も、視線さえ」

 

 翠の眼が、己を射抜く。その奥底に笑み。優しい色の情を映して。

 

「愛し、欲し、奪い、喰らう。骨まで舐ぶらずにはおけない。あなたは私のもの、その表明、宣言。嫉妬は切な願いの叫びなのよ」

「願い……」

「純な願い。まるで透き通るように綺麗な闇……あぁ」

 

 うっとりと少女は囁く。今まさに彼女曰くの純黒の闇に体を浸すかの、恍惚で。

 

「妬ましいわぁ」

「……」

「貴方に追い縋る闇。こんなにも、綺麗な闇を浴びることの出来る男……妬ましい。ふ、ふふふふふ、妬ましい妬ましい。あははっ」

 

 花が咲き乱れるような笑みと笑声。た、た、軽やかなステップで少女が橋板の上を踊る。裾をふわりと翻し、身をくるりと一転して、彼女は右手を掲げた。

 その白く細い指先に何かを、摘まんでいる。何か。目に見えぬほどに微細な、光の照り返しによって辛うじて捉え得るそれは────糸であった。

 

「蜘蛛の糸はしつこいわよ? 取っても取っても体中に纏わり粘りついて離れない。獲物を決して、放さない……ふふふふふふ」

「……」

「命が惜しいなら、とっとと地底(ここ)を立ち去ることね。そう……博麗の巫女辺りに泣き付けば()()を追い払うくらいはしてくれるんじゃない? いくらあれが世俗に無関心ったってそれが仕事なのだし。いかが? 今度こそ純粋な私からの忠告よ」

 

 そのように締め括り、異装の少女は小首を傾げた。

 答えなど決まりきっていよう。そんな言外の確信めいたものが見えた。

 然もありなん。勘案の余地もなし。彼女曰くの、憎嫉の有無はさて置いても、何者か……何方(どなた)かの積もり募った思惑がこの身に危機をもたらすとの予言はおそらく正鵠を射ている。そしてその誰かを、己は知っている。

 この地底で最初に出会った。誰あろうかの女妖、いや間違いなく恩人の、かの少女。

 蜘蛛の化生──黒谷ヤマメ御方。己の命を文字通り拾い上げてくださったひとだ。

 そのような方がいったい何故……などと。愚昧なことは言うまい。巣にかかった獲物を絡め捕らんと欲するは捕食者の摂理である。

 彼女は今なお諦めていないのだ。己という生餌をどうにも諦められないのだ。

 

「……」

「何を迷うの? 命が惜しくないの?」

 

 少女がなおも問うてくる。己の不明瞭なるを詰るようでもあり、それはひどく可笑しげでもあった。愉しげであった。ひどくひどく。

 己の去就それ自体というより、迷い惑うその無様を、少女は心から楽しんでいた。

 

「いえ……迷いは、ありません」

「へぇ」

 

 そう。己自身にしてからが不可思議を覚えるほど、迷いはなかった。

 迷いなく。

 

「自分は、地底に留まろうと思います」

「あら、どうして? ただ道端で行き会った橋占い風情の易はお気に召さない? それとも……死ぬのが怖くないのかしら」

「いいえ、霊験の有無はともかく、御忠告の内容に否やを差し挟む余地はありません」

 

 そして、死は恐るべきものだ。死を怖ろしくないなどと思ったことはない。己は超人でも、死生達観の境地に在る覚者でも、まして勇猛の二字からは程遠い紛うことなき弱者である。

 死ぬのは怖ろしい。死に……幻想(ゆめ)を見てもなお、この恐怖は厳然と変わりなく心胆を凍らせる。

 それでも。

 それを握り潰してでも、俺はここにいたい。そう願う。

 

「ここで……」

 

 あの方の傍に、いたいと願う。願える。()()()()()()()()()()

 

「卜占、いえ、頂戴した託宣を無為にする御無礼、申し訳ありません。ですが自分はここにいたいと思います。そう、願います」

「……ふぅん、愚かね」

「はい」

 

 反論の余地は依然として絶無であった。

 ここを危地と知りながら、私欲一念を以て居留に拘る。愚昧だった。自殺志願とそれとにどれほどの違いがあろうか。

 善し悪しを問えばこれは間違いなく悪しきことだ。生存の為の努力を怠っているのだから。

 けれど。

 けれど、正しいことだと思う。俺という存在が真実劣悪であっても、この願いだけは正しい。そう思える。

 今一度、橋占いの少女に向き直り、腰を折って辞儀する。

 

「ありがとうございます」

「お礼を言われる筋合はないけど」

「やもしれません。しかし、どうか御容赦願いたく」

 

 筋違いなのかもしれない。しかし、眼前の少女の易は確かに、確実に、俺に一つの悟りを与えた。迷い惑うばかりのこんな男に、一つの道が拓けたような気がしたのだ。

 

「感謝を。貴女の御蔭で、迷いが一つ晴れました」

「……あらそう。それはそれはお宜しいこと。ただの普通の下らない事実をほんの少し自覚した程度で心晴れやかになれるなんて、ひどく妬ましいわ」

「恐縮です」

「…………本当に愚かな男」

 

 先達ての愉しげな様は打って変わり、至極つまらなそうに少女は言った。こちらの愚物具合に、いい加減呆れを催したのだろう。

 ふい、と彼女は顔を背ける。その金糸の髪がまたぞろ実り垂れた稲穂のように揺れる。

 そのまま吐き捨てるように。

 

「妖怪の女の執着……侮らないことね」

「は」

 

 うんざりと、まるで心底から嫌気が差すとばかり、少女は呟いた。

 その時────天地が()()した。

 

「!?」

 

 天地などと表したが、ここは地底の深く、旧くは正真正銘の地獄であった地の奥底。つまるところ巨大広大な地下空間そのものが揺れているのだ。そう確信できるほどの地響き。

 川面は波立ち、橋が軋みを上げる。

 欄干に手を掛けどうにか身体を支えた。

 はたと、かの少女の様子に目を向けた。がしかしその可憐な異装の姿は既になかった。初めから存在などしなかったが如く。

 橋の頂で白昼夢を見ていたのだろうか。間の抜けた想像を弄ぶ。

 

「っ!」

 

 呆けの男を嘲笑うかのように依然として揺れは続いていた。揺れ、いやさ衝撃が。

 空間と身体を強かに打つ振動に、ふと奇妙な違和を覚える。有り難くもないことだが生まれ育った土地柄ゆえに地震には慣れ親しんだものがある。その経験則に照らして足下より伝う感触は、過去肌身に覚えたそれに合致しないのだ。

 これは、ただの地震ではない。

 その直感に裏付けが為される。いや、証左そのものが現れた。

 地下から。

 岩盤を突き破り、土砂を巻き上げ、空間にその姿を晒す。巨大な、長大なるそれ。

 ぎちぎちと顎肢の二本歯が開閉し、触覚がゆるく廻る。鈍くぎらつく複眼が旧都全てを睥睨する。

 その下、胴体と思しい長い体躯に連なる足、脚、(あし)、あし……無数の足。対を為す節足。幾重にも並び並ぶ無数の足。蟲の足だ。

 そしてなおも巨大であった。蟲の特徴を遺憾無く顕すそれは、ひとえに、常識外れに、馬鹿に全てが巨大な。

 黒い百足。それは巨威なる大百足であった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──ひっ、ひぃぃいいいいいい

 ──変化だ! 化け百足が出たぞ!!

 

 伝承に曰く、かの益荒男に退治されし大百足は、物語の舞台たる近江は三上山を七重半取り巻いてしまうほどの長大さを誇ったと。

 今立ち現れた化け蟲がその名にし負う怪物と同一のものかはさて置き、それに劣らぬだけの巨躯であることは確かだ。土中よりその体躯を晒しただけで周辺の家屋建屋一切を捲き込み地面ごと薙ぎ払った。まるで紙屑の如くに。

 そして、それはそこに住まう妖怪達とて例外ではなかった。

 のたうつ巨体が地表を一撫でする度に各所で絶叫と悲鳴が上がる。ほんの身動ぎ一つが地形を変え破壊を為す。

 

 ──ヒャハハハ! 死んだ死んだ! どんどん死ぬぞ!

 ──おい誰か止めろよ。俺ぁ御免だけどよぉ

 ──賭けだ! 賭けができる! 誰があのデカブツを殺すか当てようぜ!

 ──喧嘩にゃ酒だぁ! 酒持ってこぉーい!

 

 ……一部に、いや各所より囃し立てるかのような嬌声や怒鳴り声、笑声すら聞こえてくる。流石は旧地獄、荒くれモノ共の坩堝と呼ぶべきか。

 天象の如き怪物さえ、彼らにとっては乱痴気騒ぎの肴になる。

 とはいえ、被害は確実に広がってゆく。

 川の両岸に縫い糸めいて出入りする蛇体。地表を掃き払う様などもはや草刈り鎌の様相だ。見物客を気取った者らも堪らずその刃先より逃げ散っている。

 そして悠長に惨事を眺めやる愚か者は己とて同じであった。一刻も早く避難しなければ。

 あるいは今更に過ぎるこちらの内心をまさか読み取られたのでもあるまい。が、しかし、我が身の不運は常のことなれば。

 うねる百足、節足の一対が架橋の縁を掠めた。それで十二分だった。木製の欄干、橋板、支柱。太鼓橋の膨らんだ頂点が一瞬内側へ(たわ)んだように見え、そのさらに一瞬で弾け飛ぶ。四散する。粉々に。

 

「ぐっ、お……!?」

 

 そこに立っていた暢気者を巻き込み、諸共吹き飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッッ!」

 

 意識の喪失から立ち返る。そう長くはない。ほんの数秒程度だろう。節々に響く痛みが我が身の生存をがなり立てた。

 橋より投げ出され、河川敷の砂利の上に横たわっている。五体は満足。打撲はあるが骨折はない。架橋の頂点から落下したことを思えば奇跡的と言っていいほどの軽傷だった。

 頭上を足の群が流れる。今もなおここは危地。依然として安堵を弄ぶ暇など無い。

 立ち上がり、急ぎ岸辺から離れようとした。

 

「お、おぉい!!」

「!」

 

 不意に、背中を叩く声に振り返る。

 河川敷にはばらばらに破壊された橋の残骸が各所で山を作っている。

 その小山の一つから、一つの目玉がこちらを見上げていた。先刻、普請場で行き会った入道であった。

 

「おいニンゲン、助けろ! いや、た、助けてくれぇ!」

 

 七尺を優に超える大男が、涙を浮かべた必死の形相で砂利を掻いた。

 頭上すぐそこに蛇体のうねりを仰ぐ。あれがもう一撫でもすれば、積み上がった材木は勿論、その下に埋まるものとて原形を留めまい。

 駆け寄って状態を見る。端材が折り重なり、奇妙な噛み合い方をしていた。地面に突き刺さった支柱が合掌造りの様相で覆い被さっている。とはいえこの巨体にすれば重量は然程のものではない筈だ。

 突き刺さった柱の一本でも除けば、這い出る隙間が出来る。

 手近に転がっていた材木の棒切れを手に、残骸の山へ突き立て、梃子を加える。

 

「く、ぐぅ……!!」

「は、早く、早くしやがれ糞! もたもたすんじゃねぇ! ひ、ひぃ」

 

 暖かな声援に急き立てられながら、全体重と筋力を総動員した。すると、ゆっくりと、木片同士が軋み合う悲鳴を上げながらに、支柱が動く。まんじりと積み木細工の間から伸び上がる。

 僅かだが隙間が出来る。

 その隙逃すものかと、水から揚げられた鯉のように跳ねながら入道は砂利を匍匐した。全身が出る。

 筋肉が限界を訴え、作用点たる手を離す。それこそまさに積み木細工の如く端材の山が崩れ去る。

 

「はぁはぁっ、さあ急いで! あれに見付かる前に────」

 

 叫び、見やった先には入道の姿が…………なかった。

 より正確には視界に映るものがなかったのだ。黒く暗く、塞がれている。人間離れして巨大なその、手掌によって。

 頭を掴まれた。無造作に、御手玉でも扱うように。

 体が持ち上げられ、振り被られ、まさしく手玉に取って勢い、我が身は放り投げられた。

 人体各部の重量バランスの都合上、宙を踊った己は比重の寄った頭部から落下した。砂利を顔面で削り、肩口を強かにぶつける。

 瞬間的衝撃は並ならず痛みさえ出遅れた。平衡感覚が遠退き、三半規管が惑乱する。確実に脳髄が揺れていた。

 その千々に乱れた視界の端で、巨躯の黒い僧衣が背を向けている。一心不乱、走り去っていく。

 

「ひひゃははは! 馬鹿が! てめぇは百足の餌役だぁ!!」

 

 飛ぶような速さ。やはり人間とは物が違う。早くも入道は土手に差し掛かり、大きな歩幅で草地に足を掛けた。

 その足が、沈んだ。

 

「あ?」

 

 土中にすっぽりと足が膝まで沈んでいた。沈んだかに、見えた。

 違う。そうではない。

 入道の膝から下が失くなったのだ。

 泥中にずぶずぶと沈み込むかの様相で、ぐずぐずと()()(ほど)け、溶け散った。

 

「ぎ、ぎぇひぃ」

 

 頭上、広大な地下空洞の天井を覆い隠す巨大な影、黒い威容、百足の頭、複眼が。百足はとうに己が眼下でちょろちょろと動き回る矮小な者共に気が付いていたのだ。

 獲物、いやそこまでの価値すら認めているかも怪しい。ただ目障りゆえ、あるいは全き無邪気に、潰して楽しむ為だけの蝨か朝霜として。そのような認識が精々。

 そうして左右に開いた顎肢(あぎと)の合間から滝のように何かを吹き掛けた。液体である。粘性を伴い透明に近しい。

 その効能は、一目にして瞭然。

 触れたもの、肉、骨、衣類、土手に生えた草花、岩土さえも。

 全てが溶けた。それを頭から浴びせかけられた一つ目入道はその原形をどろりと失った。一瞬、一吹き、であった。

 死。こんなにもあっさりと、そしてひどくねっとりとした死が地面を今なおぐつぐつと煮立たせている。

 (おぞ)ましいまでに呆気なく、彼の生涯は終わりを迎えた。

 

「…………」

 

 恩を売るというような心積もりなどなかった。返礼などは望むべくもない。求められたので己に出来得るレベルの助勢をしたまでのこと。自己満足、この四字に納まる。

 仇で返されたとて恨み辛みも格別、湧いてはこない。ただ、虚しかった。目の前で甲斐もなく失われた生命が。

 己を囮にして逃走を図る、それもまた一つの生存戦略だ。非道ではあるかもしれないが、生き永らえる為の当然の、必死の努力には違いなかった。

 それが報われなかったことが、残念でならない。

 そして今、己もまた彼と同じように、巨大な死の影を仰ぐ。

 

「カロロロロロロロロロロ」

 

 外骨格に鎧われた蟲の姿。桁違いのスケールと、そして禍々しいまでの凶悪な造形に生理的な恐怖を禁じ得ない。

 先の彼同様に骨肉を溶解され死ぬか。はたまたごく単純に挽き潰されて死ぬか。あるいは喰われて死ぬるか。

 いずれにせよ、死ぬ。その近未来を疑わない。実にいとも容易く俺は死ぬのだろう。

 視界の右半分が赤く染まる。額から血が滴っていた。

 右腕が上手く動かない。肩か肘か、その筋か骨を傷めたのかもしれない。

 九死が揃い踏み、一生は遠退いていく。

 しかし、心は軽かった。現実が単純明快化してゆく。死という一事実に、ひた進んでゆく。恐怖が極大化する一方で些末な不安のほとんどは取り除かれていった。

 不思議なものだ。絶命を目前にした呆けは我が身の運命にほくそ笑んでいる。不遜に。無恥に。

 恥を知らねばなるまい。

 死に────安堵を覚えるなど。

 

「……」

 

 恥を知ろうと言うならば、今の己が為すべきことは一つ。

 抗うのだ。無駄であっても、不可能と理解しようとも。

 最期まで生きる。生きようとすべきだ。

 諦めなど俺には勿体ない。泰然と死を甘受するが如き高潔さは俺に相応しくない。

 最期まで生き足掻き、生き汚く、今生に執着し続けるべきなのだ。そうしなければならないのだ。

 あの方は屹度(きっと)、それを望むだろうから。

 

「くくくっ……」

 

 最期の最期まで情けなし。生きようする意志すらも他者のそれに仮託するか。嘲笑うより外にない。ひどく恥ずかしく思う。

 懐から匕首を取り出し、鞘を払う。血糊の一片も浴びぬ無垢な刃に唾を吐き付ける。

 俵藤太の逸話に(あやか)ればこれが正攻法だが、さて。

 

「お手向かい、ご容赦」

 

 そうお道化て笑い掛ける。

 果たして応えてくれたものか、百足は咆哮し襲い来た。

 左手に握った儚げな小刀を突き上げる。この命と同じほどに小さな、小さな反抗声明。

 

 星熊さん、俺は生きて、抗い、そして……死にます────

 

 負うべき責めを擲ち、心中に愚かな祈りを捧げる。届くことなき想いを唱う。

 想いは────

 

「莫ぁ迦」

「!?」

 

 それは空気を引き裂きながらに、撃ち込まれた砲弾さながらに、百足の頭を貫徹した。

 降り来たる。想いびとの彼女。

 落ちる。黒い(こうべ)が地面に刺さる。土砂を巻き上げ、岩盤を破砕し、地下空洞を鳴動震撼させ、堕する。

 蟲の頑強な兜を打ち破ったのはその拳。しなやかで優美な、武威の象形。鬼神の揮う武力の塊。

 一撃であった。巨大長大凶悪の権化たる大百足は、ただの一撃にて屠られた。

 塵埃の向こうで立ち上がる。青い着流しの姿、赤い一角に星型をあしらう美鬼。星熊勇儀が、化け蟲を踏み付けてそこに在る。

 期せず、伝説、武勇譚の一幕に立ち会っていた。こちらを見下ろすその方は、なんとも事も無げであったが。

 百足から跳び降りた彼女が間髪入れずこちらへ近寄り、己の右頬を撫でた。顔の半分近くを覆う血化粧でまたぞろ彼女の白い手が穢れた。

 

「額の傷は大したこっちゃない。頭の血は派手に出る」

 

 続いて右肩と上腕に彼女の手が触れると、電撃のように痛みが走った。

 

「腕は……あぁあぁ折れてるねこりゃ。まったく、無茶しやがる」

「はい、返す言葉もございません」

「お前さんに言ったんじゃあないよ」

 

 呆れに吐息しながらに優しげな笑みが湛えられる。

 優しげで……痛ましげな。

 幼子にでも戻ってしまった心地だ。彼女の目はまるで母御のそれであったから。母の……想像を、想起しようとした記憶を脳の奥深くへ仕舞い直す。彼女に対して、彼女の姿に、彼女の瞳にそれを見ることが、罪深く思えて、あまりにも破廉恥に思えて。

 逃げるように背けた顔は、しかし白魚の手によって捕まえられる。そっと顎を引かれ、己の右頬に彼女は自らの頬を寄せた。

 途端、美鬼の(かんばせ)は血に濡れる。早くも乾き、粘るそれを紅でも差すようにして顔に擦り付けるのだ。

 

「星熊さんっ……!?」

「暖かいねぇ。暖かい」

「汚れます」

「構わない」

「いや、しかし」

「これがいい。いいんだ。ダメかい……?」

 

 怖々と訊ねる声音は、さながら叱られやしないかと縮こまる童女だ。それが触れ合った肌の向こうから感じた印象だった。

 我が身の血と皮肉に宿る熱に彼女は今、安堵を覚えている。命に。

 己の命などに。

 

「……まだ動くか」

「!」

 

 彼女の背後に影が上る。黒い威容が身を擡げ、起き上がる。

 頭部外骨格を陥没させながら、大百足は絶命していなかった。

 

「存外に丈夫じゃねぇか。ああ、その方が殴り甲斐もある────」

「キシャァアアアアアアアアア!!」

 

 奇声を上げたかと思えば百足は口腔から溶解液を噴出させた。大量に、川辺全域に満ち溢れるまでの暴流を。

 気付けば、星熊さんは己を抱えてその場を跳び退がっていた。もう一瞬遅ければ彼女はともかく、己は溶け崩れていただろう。

 

「ちっ! 逃げるかよ!? 玉無しがぁ!!」

 

 彼女の小脇から眼下を見やる。百足は蛇体をうねらせ、大地を抉り、土中へ潜り込んでいる最中であった。先刻の入道に劣らぬ一所懸命さで逃奔せんとしている。

 川から脱し、安全圏と思しい土手に着地した星熊さんが己を下ろす。牙を剥き戦気を吹く様、追撃の腹積もりは疑いもない。

 巻き上げられた土砂が空を舞う。家々の材木、河川の岩石、周辺住人の死骸、それらが一挙に降り注ぐ。

 その一片、屋根瓦が一枚、ふと頭上に過った──そう認めた直後に衝撃。

 

「あ」

 

 目が眩む。視界が傾く。

 

「お、おい!? 大丈夫か!? ちょっ、おいってばぁ!?」

 

 常にない慌てふためき様で両手をおろおろさせた彼女が己を見下ろしている。

 それがなにやら無性に愛らしい。阿呆のように、ふと物思う。

 段々と遠ざかり、暗闇の向こう側に消えていく彼女の顔を、俺はずっと見上げ続けた。消えてしまうまで、ずっと。

 

 

 

 

 

 暗い。暗い穴倉の奥底で蠢く巨大な蛇腹。蛇、ではなく、無数の節足が対を為す虫体。蟲。巨大なる百足。

 それは明確に痛みに悶え苦しんでいた。頭部の外骨格を文字通り打ち破られ、内部の重要な組織が損傷している。死に至らなかったことが不可思議なほどの深傷であった。

 いや、真に不可思議なのはむしろ、深傷で済ませたあの鬼熊の方だ。称して怪力乱神。ただの一撃で殺し切るなど造作もなかろうが。

 そうしなかった。何故か。

 理由は知れている。わかり切っている。わからいでか。忌々しいほどに。

 あの人がいたからだ。だから加減した。大事に大事に、傷付けたくなくて。

 暗闇に降り立つ。蟲の巨躯を仰ぐ。

 

蛇神(りゅう)()いやったというからどれ程のものかと思えば、とんだ役立たずサ」

 

 百足は何事かを呻く。人語を解さない、本来解す要すらない太古の化け蟲の奇声は言い訳であり泣き言だった。

 耳に入れてやる必要もなし。

 

「ちょいと騒ぎを起こすだけでよかったものを。囮も足止めも満足にできない。鬼一匹殺せない。人一人(かどわ)かすこともできない」

 

 指を振るう。指先で揺蕩う“糸”を手繰る。

 右手の五指から伸びたそれらは洞の岩肌、岩土を支点として張り巡り、百足の虫体を押し包んでいる。包み、絞り、裂いていく。外骨格の隙間、露出した筋肉組織と神経節をじわじわと押し切る。

 悲鳴が木霊した。蟲の語彙で命乞いをしている。叫ばずとも聞こえている。蟲妖たる己に聞こえぬ筈もない。

 ただ、知ったことではないというだけの話。

 

「なによりサァ。お前……お兄さんを殺そうとしたろう」

 

 百足がのたうつ。巨躯が洞穴を叩き、打ち、揺らす。

 体を糸で縊り切り裂かれる痛み……だけではなく。

 顎肢が開き、口から煙が立ち上った。裂かれた傷口からも黒々とした瘴気が溢れ出ていた。

 

「私への意趣返しかい? やり口を間違えたネ。それも最悪の方法でサ」

 

 身の内から肉を内臓を()()()()にされる激痛。

 溶解した体液が熱気を放った。穴倉を悪臭が充満した。

 

「あぁ最悪」

 

 百かそこらに分割された百足が穴の底の暗がりにぐつぐつと沈んでいく様を見限り、糸の道に脚を掛ける。

 考えることは一つ。ここ数ヶ月考え続けていることはたった一つ。

 お兄さん。

 お兄さん。お兄さん。お兄さん。お兄さん。お兄さん。お兄さん。

 どうすれば戻ってきてくれるだろう。どうやって取り戻してくれよう。どうして────そんな女のところに。

 行ってしまった。奪われてしまった。

 許さぬ。

 奪い返さなければ。必ず、どうしたとて、何をしてでも。

 

「……お兄さん」

 

 呼ばわるほど、近頃は悲しみが募った。

 左手の薬指に結び付けた一本の糸。ただの蜘蛛糸に非ぬ特別性(とっとき)の、“(きよ)らかなる糸”。この儚げな一片の向こう側に在る生命を想う。今も伝い聞こえてくる鼓動を、そっと胸に抱き寄せる。

 遠い。ひどく。こんなに想っても、貴方は遠い。

 遠くへやられてしまった。横合いから、いやさ上から掻き攫われた。

 

「勇儀ぃ……」

 

 地の底から響かせる。愛しきを奪った憎き者の名を。

 万感の憎悪を込めて誓った。奪還を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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嘘・黒々の涙

 囁くような、轟くような、途切れなく続く音の川、音の瀑布。

 草木を打ち、地を跳ねる。水の音。雨の調べ。

 雨の匂い。嗅いだのはいつぶりだろう。いやに懐かしい。

 旧都にも雪は降る。それが如何なる事象によるものなのか凡夫風情の己には知り得ようもないが、地中深くにある筈のあの街には冬の訪れと共に雪がちらつくという。

 ならばここは地上であろうか。

 雨の打楽。思いの外、それに飢えていたようだ。水の流れ、せせらぎ、(はし)り、玉散る。耳孔に心地好くそれらは響く。沁み入る。

 ふ、と目を開いた先、見慣れぬ木目の天井を仰いだ。己が平素寝起きする長屋のそれではない。

 布団に寝かされていた。自ら床に入った覚えがないのだから、おそらく何方かがそう計らってくれたのだろう。

 視線を泳がせると、丸い格子窓の雨戸が上げられていた。窓の向こうには、しとどに降り頻る雨の戟。

 外はどうやら竹林であった。濃密な緑、噎せ返るような深緑の円風景をじっとりと雨が滲ませていた。

 厚く暗く注ぎ垂れ込める帳。濡れそぼった世界に独り、己だけが渇いていくような気がした。瑞々しく色を深める世界に独り、無彩色の中に取り残されたかのような寂寞を覚えた。

 孤独を、思い出した。それを一時とはいえ忘れていた自分に、愕然とした。

 

「…………ぁ」

 

 不意に気が付く。

 窓の傍らに人影が寄り添っていた。

 竹編み細工の椅子に座り、窓の縁に頬杖をついて、ぼんやりと雨空を見上げるひと。青い着流しは陰雨を映し藍よりなお暗い。視線さえ打ち沈んでしまいそうな深い色をしていた。

 星熊さん。

 どうして今の今まで、それもよりによって彼女の存在に気付かなかったのか。遂にこの脳味噌めは呆けが極まったのだろうか。

 金糸の艶やかな御髪に雨露の影が真実、濡れたように流れて落ちる。

 額の一角の赤は、群青の怒涛の中に陰っていた。

 寂の美しさ。いついかなる時も美しいひとだった。けれど今は、その精彩に変調が顕れている。どこか、その顔は物憂げに見える。どころか、その瞳は虚無を映すかのように深く、底知れない。

 常の、烈日のような力に満ち溢れた星熊勇儀とは違う。

 頼りなげで、儚く脆い。存在すら稀薄になってしまうほど。

 彼女は────本当に星熊勇儀なのだろうか。

 呆けは自問した。眼前の、歴然たる事実を疑った。

 星熊勇儀のようにしか見えないのに、星熊勇儀ではないかのようなひと。

 貴女は、何方ですか。

 問いが喉笛までせり上がった。その時、窓辺の君が雨模様から視線を切り、こちらを見下ろす。

 暗く深く虚のようだった瞳、その中心にふわりと灯が点る。熱が伝う。停滞した血が行き渡る。

 

「よう、目が覚めたかい」

 

 瞬きを一つ。そうしてそこに座する人影は、星熊さんただ一人だけだった。彼女以外の何者もない。彼女は初めからそこにいた。

 ずっと。

 

「……ずっと、そこにいてくださったのですか?」

「ん、まあね」

 

 美姫は微笑して、曖昧に(いら)う。気にするな、という言外の声が聞こえた気がした。

 その気遣いをしかし、押して。

 

「ありがとう、ございます」

 

 (しわが)れた音声を絞る。第一声から知れたことだったが、喉と舌はすっかりと(なまく)らであった。長らく整備を怠った蓄音機のように濁る。

 仰臥しているのも忘れ、会釈を送ろうとした時、右腕が動かないことに思い至った。

 見れば、添え木をされた腕は厚く包帯を巻かれ、床の傍らに立つ支柱に布で吊るされていた。

 

「莫迦、動くんじゃないよ。まあ動けやしないだろうが」

 

 素早く椅子から立ち上がった星熊さんが、その手掌を己の胸板に添える。身動ぎを封ずる。無論、圧し潰すが如き真似はなさらなかった。おそらくは蟻を指の腹の下に押さえ付ける行為と同じか、あるいは下回る程の力加減で。同じ程の、注意深さで。

 息を吐いて脱力する。彼女の言う通り、身体はろくろく自在にならない。皮膚の下を砂が満たしているようだった。ただただ重く、怠い。

 

「頭の方は軽い切り傷と瘤で済んだが、腕の方は折れた骨が肉を裂いて飛び出ちまってた。その上そっから毒が入り込んだらしくてな、傷口が腐るわ熱は出るわの大騒ぎさ」

「その、ような」

 

 しかし言われれば、確かに。炎で炙られるかのような苦痛にひどく魘された記憶が、朧気ながら過る。

 

「お前さんをここ、ああ永遠亭ってんだが。この邸に担ぎ込んでから三日二晩、ん……今は明け六つってぇとこか。ならそろそろ丸三日だ。よく寝たな。その珍しい寝顔、随分拝ませてもらったよ。ふふ、ふふふ」

 

 過る……こちらを見下ろす不安げな、焦燥に歪む、痛む顔が。

 今は、穏やかに微笑を湛えてこちらを見下ろす安堵の顔が、重なる。

 

「あぁ、よかった……よかった……」

 

 雨音に消え去るほど微かに、溜息を漏らすかの儚さで、彼女は呟いた。己に向けての言葉ではなかった。半ば独り言の風合いで。

 ならばこれも、雨の所為なのだろうか。

 彼女の瞳の深紅が揺れ、滲むのも。その肩身を子供のように震わせ、怯えを押し殺していることも。

 

「星熊、さ……」

「なんでだ」

 

 笑みが消え、代わりにその美相を彩ったのは辛苦。酷い痛みを必死に堪えた顔容で、彼女は繰り返す。

 

「なんで、だよ」

「……」

 

 返答は何一つ浮かばなかった。問いの意味をどうにか読み解こうとするのだが、思考を回す以前にその回路たる脳髄が一向に働かない。熱病の熱量が過ぎて脳漿を沸騰させ皮質までも()()()()煮溶けてしまったのか。などと、心底愚昧な想像だけは玩弄できる。

 お世辞にも聡明とは言えなかった己は、遂に痴呆を罹患したのだと説明を受ければ容易に信じたろう。

 それ程の不明。頭脳に霞がかかる。意識が理路を見失う。

 

「……痛み止めの所為だ」

「あぁ」

 

 得心いった。だからこんなにも酩酊するのか。夢と現の狭間のように、幻想の中で惑うが如く。

 それでもちらとも不安を覚えぬのは、ここに貴女がいてくださるから。

 

「すまん。すまない。今訊いたところで詮無いことさ。下らねぇ、愚にもつかねぇ話だよ……あぁ、下らねぇ……」

 

 片手で両目を覆って彼女は胡座へと俯いた。

 左手を床から這い出させる。そんな些細な挙動さえ満身の力を必要としたが、幸い彼女の左手はすぐ傍にあった。

 触れる。彼女の手は冷えていた。指も甲も芯から冷えて、凍えて。

 暖めねばならないと思った。筋違いの義務感が、己を急いた。

 

「っ!」

 

 触れ合わせた手先から震えが伝う。視線は虚を衝かれた驚きを映し、次第に和らぎ笑みを形作った。握り返された掌の、迷い子のような必死さが労しかった。

 喜び、綻ぶ彼女の面相、それが────崩れる。

 今度こそは見違えまい。彼女はその目に涙の兆しを浮かべていた。

 

「こんなっ、こんなことだって出来る癖に……!」

 

 強かに彼女の手が己のそれを握り締める。そのまま潰してしまいそうなほど、強く。事実、それは容易かろう。彼女にとり人体などというものは紙屑と同様の脆弱さしか持たぬ。

 今の彼女は()()()の扱いを忘れていた。

 忘れる、までに。

 

「なんでだ!? なんで……」

「は、ぃ」

 

 手骨が五本、一挙に軋む。罅くらいは入ったかもしれない。

 痛みは然程のものではなかった。痛み止めが覿面に効き過ぎているからか、あるいは。

 別の痛みが、遠ざけている。骨肉よりも、臓腑よりも深きところにあるものが。

 

「────なんで死にたがる!?」

 

 彼女は絶叫した。

 対して、俺は息を呑んだ。呻き声一つ吐けない。それが全く、寸分の誤りもなく過たずこの胸奥に据わる魂胆を、核心を、醜く浅ましい……欲望を抉っているからだ。

 

「何故……」

「……聞いたんだよ。野次馬連中ひっ捕まえてあの日の出来事子細に全部洗いざらいな。おかしいと思ったぜ。あの毒のえげつなさにこんな浅傷じゃ見合わねぇ。それで探ってみりゃ案の定よ」

 

 御白洲の沙汰めいて容赦なく、彼女は動かぬ証拠を突き付ける。言い訳も詭弁も黙秘さえ許さぬと、己の明白なる罪を列べ鳴らす。

 罪……そう。これは紛うことなき罪だ。

 

「普請場であの一つ眼があんたを喰らおうとしたことも、その後、性懲りもなくあんたを尾けてったところを百足(へんげ)の巻き添えを食って当の獲物(あんた)に助けられ……助けられたそいつを餌にして逃げようとしやがったこともな……!!」

 

 低く、雷鳴のような声で鬼が唸る。室内の気温が上がっていた。その赫怒が、肩から背中から立ち昇り、燃える。

 そしてやはりその覇気もまた雷光の速さで失せる。

 彼女は短い気息と共にそれを吐き捨てた。

 

「……あの外道は死んだ。相応の末路だ。死んだ奴なんざ今更どうだっていい。死人に口なしさ。死んじまえばそれで仕舞いなんだ。なにもかも。でもあんたは……生きてるじゃないか。生きてここで、こうして」

 

 こちらとあちら、握り合わせた左手を彼女は自身の頬に添えた。

 

「こんなに優しくしてくれるじゃないか。こんなに、暖かい……生きてるんだ。今も、生きてるんだよ」

「……」

 

 握り、包み、手触りで手応えで頬の皮膚感覚で、温度で匂いで霊魂の気配で。その存在を確かめられている。己の実在を。我が身の生存を。

 手の中で脈打つ俺の命の鼓動を彼女はひしと掻き抱いていた。逃すまいと、放すまいと。

 

「なのに」

 

 怒りと悲しみにもはや堪えかねて、彼女もまたその霊魂から噴気する。

 

自分(てめぇ)には優しくできねぇってのか。人間は皆自分が可愛いんだろ!? 自分の為に生きてるんだろ!? いや、いや……そう、そうだ、ヒャハハ、妖怪(バケモノ)だろうと変わりゃしねぇ。自分可愛さに平気で恩に仇で返せる……」

 

 仄暗い笑みと虚しい笑声。それは侮蔑であり、切なげな諦めだった。善因に対する絶対の善果はなく、悪因に対する不断の悪果もまたない。

 正道はややも踏み躙られる。邪道は往々にして安易であり安逸だった。

 この世の理とは、(けだ)しそうだ。そうあって欲しくはないという誰しもの願いとは裏腹に。

 この気高いひとの悲哀を置き去りに。

 

「そうだ。でも、そうだってんなら……あんたみたいな奴が生きなくてどうするんだ! 外道が他の者を贄に生き永らえ善人は粛々死出の山道か? っざけんじゃねぇ」

 

 苦悶にその美しい顔が歪んだ。この世の不条理を鬼神の姫御前は嘆き、悲しんでいた。

 

「そんなに自分が憎いのか。生きてるのが許せねぇくらい、憎いのかよ」

「憎い」

「っ……!」

 

 逡巡の間なく己は頷く。

 俺は俺の醜悪を疑わない。俺は俺の招いた悪徳を覚えている、断じて忘れまいぞ。

 向日葵の見下ろす歩道に乗り上げひしゃげる車と焼けたアスファルトに散逸する父だったモノ。そして俺は組み敷いた運転手の男の頸骨を縊る。殺す。殺してやろうと思った。殺さねばならないと信じた。殺してしまいたいと切望した。

 殺人未遂。復讐。報復。報仇雪恨の為の殺戮。俺の憎悪を晴らす為、あの日あの真夏日、突然に強奪された父の生命に対する贖いを。贖いを。贖いを!

 許さない。許すまい。心臓に灯った怨嗟の火。その鎮めを求めて。贄を求めて。

 つまりは私心。私欲だ。

 俺は俺の憎悪一念を満たしたいが為に他者の命を戮殺しようとした。

 なにより、なによりも、俺は父を、父の死を、殺人の正当化に、言い訳に使ったのだ。

 父の死と、俺の犯罪行為。それにより病弱だった母は心身を傷めた。事故の日、霊安室で父との無言の再会を果たしてから、母の肉体と精神は衰弱の一途を辿った。

 

 ────ごめんね

 

 母は、病床からずっと謝って、謝って、謝って、謝りながら逝ってしまった。逝かせてしまった。

 俺の軽挙が、妄動が、あの日あの時初めて抱いた殺戮衝動が……罪が、母を殺した。

 孤独(ひとり)になった己に残されたものは、自分自身への憎しみだけだった。

 俺は、俺が憎い。

 それはもはや揺るがし難い事実であり、歪曲し固着した信念だった。

 異音。ぎしりと鳴り響いたのは、彼女の喰い縛られた奥歯の軋みだった。

 認め難いものを見下ろして、星熊さんは眼を見開く。俺というもの。俺のこの、有り様を。

 

「あんたの過去に何があったかは知らねぇ。でも過去は過去だ。もうどうにもならねぇ。どうすることもできねぇ。そりゃ、儘ならねぇけどよ……だがな、(おんな)しように過去の方だってあんたをどうにもできねぇんだ……今なんだよ……あんたは今ここにいるんだ……」

「……変わらない」

「! そう、そうだよ。もう変えられねぇ。そして変える必要もねぇ。だから」

「俺の罪は、変わらない」

「つ、罪なら、償えばいい」

「母を死なせました」

「────」

「父はもう居りません」

 

 この世にはもういない。俺に相応しき罰を求刑し、糾弾する権利を有した人はそも、既に亡い。

 俺の罪は俺の中にただ死蔵され、ひたすらに腐っていく。この魂と共に、甲斐も価値もなく終わる。

 

「死に場所ならば何処でもよかった」

「……」

「死ぬ理由を、いつも探していました」

「…………」

「父母に会いたいと、ずっと思っています」

 

 しかし死後、彼岸の彼方に在るあの人達と俺はきっと再び出会うことはない。何故なら俺は地獄へ行くからだ。この、既に過去役目を終えた旧き都ではなく、正真正銘現行現役の地獄へ。

 かの地に、人殺しを夢見た業人への相応しき呵責が待ち受けている。

 それでいい。

 父母に会えぬことはひどく悲しいが、それで正しい。それこそが正しい末路だった。

 求めて止まなかった。正しさを。正しく在るということを。

 間違いばかりの人生だった。生まれてすぐ、生みの親により養育はもとより、身柄と親権を放棄されたのだから。生まれたことがそも間違いだったのだ。少なくとも、俺と血を分けた誰かにとって俺の存在は過ちだった。

 とはいえ自己の出生を嘆いたとて詮無いことだ。選べるものでもない。ただ、選ばれなかった、それだけのことなのだから。

 過失というなら、その後。今この瞬間までの、俺の生き様。恥の多寡で推し量るにはあまりにも罪深い生涯こそ。

 良い養親、良い教育、良い環境。与えられたそれら全て(ことごと)くを俺は台無しにした。

 父母亡き後、今も。

 生きるという、人として、生物として当然の義務から虎視眈々と逃げる道を探して探して探して、探し求めている。

 そのなんと、醜いことか。

 

「ち、違う…………あんたは、そんな……そんなこと」

 

 今ここにこうして、現に己は存在する。彼女がそう認めてくれた。誰あろうこのひとに、星熊勇儀に認められたのだ。それなのに。

 それでもなお、俺の性根は腐蝕を止めない。病み腐った魂は今以て死への逃避に腐心していた。

 嫌悪が募る。憎悪が深まる。しかしそれすら慰みだ。己を嫌い憎むという行為がそれ以上の価値を持たない。変性しないからだ。何一つ。死にもせず、況してや生きさえしない、ただそこに留まるだけの人形の肉と骨。それが俺だ。

 生ける屍。それが、俺だった。

 

「違うッ!!」

 

 咆哮は鼓膜を強かに叩いた。裂帛の音声はけれど、まるで子供の啜り泣きのように切ない。

 泣き崩れる寸前に押し止めた憤怒の面。鬼の貌を繕った彼女が己の上に乗り上がる。馬乗りになって己を睨み下す。

 

「う、嘘だ。欺瞞(まやかし)だ! 強がりだ! 悟ったふりして達観面してるだけだろう! そうなんだろ!? 人間だって妖怪だって命は惜しいに決まってる! そうだろうが! なぁっ……死にてぇなんて、嘘なんだろ……? 嘘なんだよな……?」

「……」

「ッッ……そ、それ、なら」

 

 彼女の右手が己の首を包む。しなやかに指が絡み付き、絞め上げる。きっと、茶巾を絞るよりもずっと柔らかな手付きで。

 なにせ首と胴が離別していない。あるいは力を込めるという意識すらない。

 それでも無意識の、惰性の握力だけでも気道と頸動脈を閉塞させる程度は造作もなかろう。己の素っ首の強度などは、鬼の前では赤子の手のそれを下回る。

 容易い。俺を殺すことなど、斯くも容易い。

 

「こうすりゃ、どうだ」

 

 だのに彼女の顔は、全身全霊で苦悶していた。行き過ぎた筋骨の力み、額には青筋が浮かび、血走った眼は爛々と光る。彼女は耐え忍んでいた。その身の内より爆ぜ飛ぼうとする感情と、その怪力(ちから)に、誰あろう彼女自身が。誰よりも。

 微かに、一瞬前よりほんの少しだけ、首が締まる。呼吸が十全の内の六割に縮減する。それだけで人体は悲鳴を上げた。脳髄ははっきりと死の肉薄を予感し、肺と心臓の総力で酸素の確保に励む。ただ、この魂だけが愚鈍だった。如何ともし難いほど。

 

「苦しいだろ!? 痛ぇだろ!? 恐ぇだろ!? 化物(わたし)が、心底怖ろしいだろう……なあ!?」

 

 苦痛は怖ろしい。苦痛は常に鮮やかだ。色褪せることがない。慣れもしない。己の生物的本能も理性もそれには決して抗えない。疑いなく怖ろしいと思う。

 死は怖ろしい。死を怖ろしくないなどと思ったことはない。あの橋占いの少女の予言する死、未だ見ぬ想像の死ですら心胆を震わせるほどに怖ろしいと思う。

 

「怖ろしいなら、言えよ……」

「は、ぁ、っ……」

「死にたくねぇ、って……生きてぇって、言えよ! 言えッ!!」

 

 指が、首筋に沈む。頸骨の接ぎ目が軋む。死がまた半歩、にじり寄る。

 そうして依然この男は鈍麻だ。首筋に掛かる死神の鎌、その刃先の冷えを肌身で感じながら、呆と見上げる。

 彼女を見上げる。揺れ動く深紅の瞳から目を逸らすことができない。

 

「さ、さもねぇと……てめぇ、てめぇ、こ、こ、こ、殺す、ぞ」

 

 瘧のように震える手先、唇。突発性の吃音症が彼女の舌を襲っていた。それを口にすることが、怖ろしくて堪らないのだろう。

 鬼の姫、力の星熊、酒呑童子が四将の一、武威の化身のようなひとが、それに恐れ慄いている。

 

「喰い、殺すぞぉ!?」

 

 殺意に。彼女は彼女自身の殺気にその一身で戦慄している。

 矛盾。

 為に、その武力の並みならぬは疑いもないが、脅しの言葉にも行為にも一向に真実味が乗らなかった。

 躊躇が、迷いが、はっきりと透けて見える。なんとなればその殺意すら彼女は自ら否定している。その揺れ動く瞳で、震える手で、掠れる声で。

 そうだ。虚実など、この方に許せるものか。このひとに嘘など吐ける筈がない。

 力ある者として、正しく在り、真っ直ぐに生き、純一を貫く仁。謂わば鬼仁(きじん)。それが星熊勇儀。

 貴く思う。その在り方。憧憬が止まぬ。崇敬がひたすらに募る。己には無いものを持ち、己の対極のさらに頂に立つ彼女は眩かった。とても、美しかった。

 今も、苦しげに己を見下ろすその顔、その姿すらも。

 あぁそうか俺は、どうも────このひとが好きだった。滅多に滅法好きだった。憧れに並び立ち、あるいは超えてしまうほどに、星熊勇儀というひとが好きだったのだ。

 己という奴はまったくもって愚昧で、心底の阿呆であった。今更に気付くとは。そんな不遜に、そんな当たり前に。

 だから、傍に居たいと願った。身の程知らずな望みを抱いた。死を希念(のぞ)んでおきがら、このひとの陽気に魂は絆され、心は暖められた。

 ()()()こそ。

 

「嘘、は、言えま、せん……」

「…………」

 

 貴女にだけは決して。

 それがどんなに矮小で取るに足らない、無価値な、無意義なものであっても。嘘は吐けない。真相は曲げられない。

 このひとにだけは、断じて、偽りたくない。

 徹頭徹尾の自己満足。これこそは紛うことなき我欲。いや、ただの我が儘だ。子供の駄々同然の。

 自業には自得が付き纏う。

 己の下らぬ拘泥に対する報い。

 

「く、か……がぁぁああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 救いようのない男のあまりの御し難さに、遂に鬼は憤怒した。

 阿修羅の形相。剥かれた牙が茎根よりさらに迫り出す。人のそれに近しい形をしていたものが変化変態する。まさしく鮫の乱杭歯。獲物の肉を殺ぎ取る為に最適化し特化した、捕食者のそれ。

 獣と化した女怪の(あぎと)は、己の首筋に喰らい付いた。床に抑え込まれ、その拍子に腕を吊っていた支柱が倒れた。

 そのまま存分に食い込んだ牙が肉皮を抉る。一級の刀剣の如くそれはいとも容易く繊維を切り裂き貫く。もう一噛み、それで骨に達する。彼女の首が、口唇が僅かにでも身動ぎすれば、血管は断絶し頸椎は破砕される。

 死が、もうこんなにも近しい。(ちか)しい。

 晴れて、冥府の戸口に佇立した己を、深紅の目が睨め上げた。

 どうだ。どうだ。どうだ、と。

 声なく問うてくる。必死に詰問する。今も握り合わされたままの左手が、ひしと己に掴まる。

 それを握り返して、その目を見詰め返して、俺は微笑んでいた。

 

「貴女にならいい」

 

 殺されるなら。殺してもらえるなら。

 その糧に、喰らってくれるという。なら。

 

「貴女がいい」

 

 他の誰でもない星熊勇儀にこの命を捧げられる。

 それに勝る喜びなどなかった。至上の。完璧な。最期。

 

「貴女が、いい……」

 

 絶大の威力を秘めた牙の下、死の淵で、今際の際に在ってしかし、不思議なほど()()()()()がした。心が安らぐ。暖かい。

 俺の幸福はここにある。俺は遂に見付けてしまった。

 ────好きなひとに喰われて死ぬ。

 そんなどうしようもない末路が俺の、たった一つの救いだったのだ。

 

「……………………」

 

 深紅の瞳が己を見下ろす。揺らぎすら消え、微動だにせず、静止画のようにじっと、魂が抜け出てしまったかのようにずっと。

 薬と失血が重なり、意識が遠ざかっていく。水底に沈んでいくような穏やかさで。これが死なのだろうか。こんなにも、優しいものが。

 色が消え失せ、あらゆるものの輪郭線がぼやける。刻一刻形を解かれていく景色の中で、二つ。彼女の両瞳だけが燦然としていた。

 そうして一筋、闇の向こうに流れて落ちる、光。

 それが何なのか確かめるより先に、俺の視界は暗黒に没した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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嘘・虹の別離

 

 

 耳につく。障る。

 雨音がやけに五月蠅い。

 

「……」

 

 首から血を滴らせながら目を閉じる男の寝顔は、驚くほどに稚気(あどけな)かった。一瞬前まで、鎮痛薬で酩酊し朦朧としながらそれでも取り払われなかったその堅い堅い謹厳さが、ようやく鳴りを潜めて。

 眠っている時だけだ。此奴(こいつ)が年相応の少年の貌を晒すのは。

 ふ、とその顔に伸ばした手先が、未だ小刻みに震えていることに気付く。慌てて引っ込め、力の限り握り込んだ。それでも止まない。爪で掌を抉っても収まらない。震えは、骨の髄から発していた。魂とかいうところから伝播していた。

 苦しい。苦しい。痛い。胸糞が悪い。畜生。畜生畜生畜生。

 金槌で殴られたような鈍痛と行く先知れずの罵詈雑言が頭蓋の内側を反響する。

 私は頭を抱えた。爪を立ててばりばりと頭皮を裂き、削り、(こそ)ぎ落すのだが、中でがんがんと跳ね回るものは出てこない。取り出せない。骨を刳り貫き、脳味噌を掬い取れば、あるいはこの苦しみも消えてくれるだろうか。

 額から頬から首筋へ顎へ血が滴り落ちる。頭の其処彼処を掻き毟った所為でその裂け目から鮮血が石清水の如く溢れ出てくる。

 ぽたぽたぼたぼた、それらは雨露めいて少年に降り注いだ。

 赤々と染まっていく。薄汚れていく。

 私から滲み出た私の一部が此奴に沁みつき、浸み込んで、侵す────犯す。

 じっとりと掌は真っ赤に汚れていた。それを呆と、見下ろして……そっと、少年の首に張り合わせた。己がつけたその咬み傷に。

 混ざる。交わる。

 赤黒い血と血。鬼と人の、相容れぬ筈のそれが、今だけは混淆する。早くも渇き始めた血と血は粘り、ぐちゃぐちゃと下劣な音を奏でた。

 なにやらひどく、堪らない。ぞくぞくと背筋から脳天、そうして肉体の芯を伝う電撃。甘い痺れ。

 この(ひと)(わたし)の血が侵蝕する光景が、事実が、身の内を熱する。とろりと蕩かせる。恍惚と。

 そうだ。此奴が言ったことだ。構わぬと。喰ろうて欲しいと。

 

 ────星熊勇儀(わたし)が、いいって

 

 そう言った。言った。確かに言った。言ってしまった。

 聞いた。確と聞いた。聞き違いなどではない。一言一句(そら)んじて言える。もう遅い。撤回など断じてさせぬ。

 その意味、違えたなどとは言わせぬぞ。鬼に身を捧ぐことの意味、知らぬとはもはや言い逃れできまいぞ。

 だから。

 

「ハァァァアア……ハッ、ハハハハ……」

 

 腑の底より熱気を吹く。焼けるような吐息で目の前の男を撫でた。

 口端から涎が垂れる。くちり、と舌を伸ばし、男の頬を舐め、首筋の血潮を(ねぶ)り取った。

 甘い。この世に、これ以上の甘露はない。これ以上の馳走はない。

 喰ろうてくれる。全てを。肉の一片、骨の髄まで、その魂までも余さず残さず。

 何故ならこの男は、この人間は。

 

 ────私のものだ

 

 誰にも渡さない。渡さない。触れさせない。

 あんたはもう。

 

 ────私のものだ

 

 わたしのものだ。

 わたしの、もの────

 寝顔に一滴、零れて落ちた。血の紅でない無色透明な水。

 雨であろうか。部屋の中だというに。

 一つ二つ三つ、雨垂れのようなそれは、己の眼玉から落ちていた。涙が。

 

「ぁ……」

 

 喰えば全てが終わる。此奴の望みを叶えれば、なくなる。

 なにもかもなくなる。

 此奴の苦悩も悪夢も……思い出も、果たしたかったに違いない孝心も。

 暗い絶望を伴にそれでも死を選ばず、生きて。

 流れ流され落ちて堕ちた旧都で生きて、私にくれたなけなしの優しささえ。

 消える。全部。

 化物の腹の底で溶けて、糧になる。

 私の欲望の贄になる。

 

 ────その様、お姿を、傍近くでまた

 

 ……あぁ、それはなんとも、ささやかな望みだった。思わず呆れてしまうくらい、下らなくて、取るに足りない。

 真心の。

 震える両手で男の頬を包んだ。安寧な眠りの中にある男の顔を正面に見下ろして、止め処ない涙を落として。

 私は気付く。気付かぬふりをして、見て見ぬふりをして、己を騙し隠し、胸に沈めたこの真。

 

 もう、喰えない

 

 鬼は、身の程を違えた。その本分、本能を否定した。人喰いを厭うてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 何時の間に、何処をどのようにして永遠亭から這い出たものか。

 ふと気が付けば雨の竹林の緑の中を、とぼとぼと歩いていた。足を引き摺るような鈍間(のろま)、行方など当然定めてはおらぬ。

 あそこには居られない。ただ、あの男の傍以外なら何処でもよかった。

 着流しを(はだ)けた肩にかかる氷雨が刺さるようだ。平素ならばこんなもの気にも留まらないのに。

 裸足で踏む枯れ笹すら凍て付いて、足先から熱を奪い取っていく。次の一歩が重い。凍った骨が自在にならぬ。

 遂には歩みが止まる。手近な太い竹に肩を預けて、ずるずると崩れて落ちた。

 雨は止むどころか益々に勢いを強め、地に(くずお)れた愚かな女をしとどに濡らす。正絹はぐっしょりと水を吸って帷子のようだ。

 昼時だというのに日暮れの暗色の空を仰ぐ。さて、どうしたものか、と。

 濡れ鼠の阿呆は考える。削れて足りぬ頭でそれでも考える。濡れて滲み、なにもかもに盲てしまった目の裏側で男を見て、想う。

 彼奴はもはや、死への誘惑から、いやその渇望から逃れられない。この地に在る限り、彼奴は容易く望み通りのものを得、絶えるだろう。現世より()われ、衰えたりとはいえ、この地は今以て人喰い共の巣窟だ。

 己から身を捧げる人間などあれば、化物共は喜び勇んで涎を垂らして彼奴を喰らおうとするだろう。

 

 ゆるさぬ

 

 無意識に掴んでいた傍らの竹を握り潰していた。

 赫怒が全身を焼く。雨粒が触れた端から蒸気に変わる。

 断じて許さぬ。許さぬ。許さぬ。許さぬ!!

 許さぬ────烈しい呪詛の唱いはしかし実にあっさりと、霹靂同様に消えて失せた。後に残ったのは筋違いの独占欲を滾らせる自身への侮蔑。

 つい先刻、涎を垂らして男に縋り付いていた女が何をほざく。それもただ喰らおうとしたのではない。私は、あの男を、あの男の。

 

「…………ハッ、ハハ……ハ………」

 

 乾いた笑声が雨音に浚われる。

 片膝を抱えて俯く。

 逃れられないのは、私だ。この獣欲、肉欲を抑えられない。耐えられない。我慢なんて、できない。

 あの男を傍に置いていたら、いつか、きっと、必ず私はこの衝動に負ける。理性は砂糖菓子より脆く溶け、私は下劣で淫らな怪物(ケダモノ)となってあの男を喰らうだろう。

 もし、そうなったなら。もし、そんなことをしてしまったら。

 もし────そうできたなら。

 どんなに楽だったろう。獣に身を窶し、理性など放り捨てて、ただ欲望のまま。

 できない。そんなもの、あの男の思う壺ではないか。あの男の望む卑小な死。

 駄目だ。許さない。そんな死は与えてやらない。殺してなんてやらない。

 

「許さねぇからな……」

 

 彼奴の望みを挫く。決意と呼ばわるほどの気負いはなかった。ごく自然と、宿命を胸に抱く心地で宣誓を唱えた。

 その為にはどうすればいい。

 あの男から安寧な死を遠ざけ、永く苦しく辛く暗い生に、ありふれた人並の凡百の(うつし)の生に縛り付けるには。

 どうすればいい。どうすれば。

 

「……」

 

 立ち上がる。潰した竹がめきめきと傾き、そのまま折れもせず倒れもせず間近な竹に寄り掛かって止まった。半端だ。死ぬでもなく、生きているとも言えない。

 あの男がそうであるし、今の私とてそうだ。

 今、ここに在る、ただそれだけのことさえ儘ならない。

 ()()に居られない。置いてはおけない。そうだというなら。

 方法は一つだった。

 

 

 

 

 

 

 

 俺が再び目覚めたのは、あれからさらに翌日のことであった。

 病床の傍らで折れた右腕を吊るす為にあった支柱とは別にもう一本、細い金属の柱にガラス容器が吊るされ、そこからゴムチューブが己の左腕まで伸びている。代用血液による点滴なのだと説明を受けた。

 

「雑な止血はされてましたけど、それでも失血が酷くて。でもこの土地だと輸血用に血を確保するのも難しいんです。特にほら、人間が少ないから。ああでも大丈夫ですよ、なんたってうちの師匠特製の人工血液ですから、大袈裟じゃなく本物と遜色ない効能なんです。ふふ、すごいでしょ?」

 

 お道化た調子で笑む。京藤色の長い髪、その頭頂で二枚、白い耳が揺れる。長く、そしてどうしてか草臥れ萎れている。兎の耳であった。

 濃紺のブレザー型のジャケットを着た少女。短いプリーツスカートも合わさり、さながら現代の中高学生服のような出で立ちである。しかし、この永遠亭と呼ばれる医院において、彼女は看護師の役割を担うそうだ。

 腕と額の包帯に加え、新たに首に巻かれたものを整え、軽い触診を受ける。てきぱきとした手際の良さからも彼女が紛れもない本職であることは疑いない。

 そんな医療従事者たる少女、鈴仙・優曇華院・イナバさんは、優しげな微笑から一転して赤い目を顰め眉根を寄せた。

 

「それにしてもあの鬼、どういうつもりなんでしょうね。重症人を、しかも自分で担ぎ込んできた人間をこんなにして……」

「あの方に非はありません」

 

 反射的に否定の言葉は口をついていた。

 

「で、でも、貴方死にかけたんですよ?」

「それでも、あの方には何一つ瑕疵はありません。全ては自分の不徳が招いたこと」

 

 招き、誘い、惑わせたのだ。かのひとの誠心を蔑ろに、慈悲に泥を塗りたくって。その何たる、冒涜であろう。

 仁術を心得とする少女の発する義憤は敬服に値する。当然の戸惑いを映す顔に、頭を垂れることができない代わりに目礼を返した。

 

「自分の業をあの方は、心から怒ってくださった。叱ってくださったのです」

「……変な人ですね、貴方」

 

 

 

 

 

 数日後、身体が起き上がれる程度に快復した頃、リハビリテーションの一環として邸の内外を出歩くように勧められた。

 寝た切りでは鈍るばかりで体調も整うまい。そんな医師の適切なアドバイスに従い、竹林の散策を日課とすることにした。

 当初は弱った足腰を慮ってか鈴仙さんが付き添いを買って出てくれたが、彼女は蓋し繁忙の身。些事に時を費やさせるのは如何にも心苦しく、早期から丁重にお断りを申し出た。

 本日も一人、笹薮の嘶きの下を歩く。邸を目印に外周を巡れば流石に迷うこともない。

 見上げれば鬱蒼とした竹林の密の隙間から曇天が覗いている。

 

「……」

 

 あの日、あの雨の明け方から、彼女は一度もこちらを訪れない。

 愛想を尽かされたというならば、それでいい。悲しみ、己が行いを悔い、心底より恥ずべきことだが、それは至極自然な成り行きでもある。己の如き愚物といつまでも関わり合いになることこそ時間の空費。

 むしろ、斯様に高潔な仁と己が一時でも親交を持てた事実。その奇貨に、感謝するべきだ。そして分際を弁えることを忘れた己自身を厳に戒めねばならない。

 分際。己が分、価値なるものとは如何に。

 そんなものはない……と、断ずるは容易い。しかしそれは、ただの思考停止だ。自己嫌悪など現実逃避の慰みに過ぎない。改めるを知らず現状に甘んじることは、度し難い卑怯でしかないと、思い知った筈だ。

 あの方の、涙に。

 

「……星熊さん」

 

 報いる術はあるのだろうか。あの貴い怒り、悲しみに、この卑小の身が応える為には何をすればいい。

 わかっている筈だ。もう既に回答は与えられている。それに対して恐れ戦き尻込みして石のように魂を閉じているのは俺だ。

 逃避し続けているのは俺だ。

 過去の傷を、罪を言い訳に、希死念慮に憑りつかれた。今もなお。

 今も、拭えない。

 あの日あの時、星熊勇儀によって齎される死、彼女に喰われて死ぬる未来を予見した時、この胸奥に湧いて出た歓喜。法悦を俺は決して否定できない。

 彼岸に、空虚という名の安息を求めている。

 しかし今、己が立っているのはここだ。ここは此岸なのだ。未だこの身は三途の川のこちら側に在る。

 お前はここに在る、そう言うてくださったのだ。あのひとが。

 ならば。

 ならば、俺に出来ることは、一つだった。

 

「……あ」

 

 深緑の景色に混じりもせず浮かび上がった異なる色彩を見る。

 赤い折り返しで縫ったちょうちん袖の白い襯衣。赤い縦格子の入ったロングスカートは如何なる素材を用いてか、薄紅藤の生地がまるで天女の羽衣のように透き通り、女生の脚の流線美を惜しげもなく晒している。

 旧都で見馴れた装いではないが見紛う筈もない。

 星熊勇儀そのひとが、己の目の前に佇んでいる。

 冷えた風が笹の叢の合間を抜ける。それは心胆を囃し立てるような騒めきであった。

 しかして、対する彼女の瞳は静謐であった。貌容、佇まいさえ、静。無彩色。

 掛けるべき言葉は幾らでもある。ある筈だ。だのに舌は凍り付いたかのように動かない。

 射竦められていた。全身、全霊を。その深紅の瞳が捉え、離さない。

 不意に、彼女が片手で何かを放った。

 反射的に胸と左腕で受け止め、どうにか抱え持つ。風呂敷包みであった。

 

「これは」

「あんたの持ち物だ。長屋に置き去りだったろ」

「は、それはなんとも、わざわざ」

 

 ありがとうございます、そう続けようとしたがそれは叶わなかった。

 口を開くより前に、身体が宙を舞ったのだ。

 

「お、ぁ……!?」

「……」

 

 地上が遠ざかる。瞬時に、高速で。

 腹這い。いや、彼女の肩の上にいる。まるで米俵をそうするように俺を肩に担ぎながら、星熊勇儀は空を跳んでいた。

 

「星熊さん!? なにをっ」

「黙ってねぇと舌ぁ噛むぞ」

 

 それは返答ではあったが応答ではなかった。有無を言わせぬまま、文字通りに空中遊歩を続ける。

 風を引き裂くような速度、然程の間を置かず彼女は降下し始めた。

 

 かん

 

 甲高く、下駄が石畳を打った。

 そこへ肩から放り捨てられる。実に気安く行われた重力に対する違法行為に、凡人たるこの肉体は大いに惑乱した。血が下がり、三半規管が揺れる。入院生活による衰弱もまた手伝って、立ち上がることさえ出来ない。

 まんじりと集結していく焦点。正常化した視覚がまず捉えたのは、赤く大きな鳥居だった。

 振り向けば拝殿があり、社頭から鈴緒を垂らした本坪鈴、そして賽銭箱。間違いなく、ここは神社であった。

 

「……その人?」

「ああ」

「!」

 

 声に向き直る。鳥居の傍らには星熊さん、そしてもう一人。赤く白く華美な、独特の装束に身を包んだ少女があった。色彩のイメージ、そして片手に大幣を携えていることからこの社の神職、巫女(かんなぎ)ではなかろうかと推察する。

 とはいえ依然として、己がこの神社に連れて来られた理由も、星熊さんの目的も、何一つ察し解することはできない。

 愚鈍の無理解を無視して、星熊さんが巫女に頷く。巫女の少女は特に返事もせず鳥居に向き合った。

 しゃらり、大幣が振るわれる。空気を払うように五つ。そうして仕舞いに一つ、鳥居の中央、その狭間、内と門と外の境に、その穂先を()()()()()

 瞬間、極彩色が広がった。

 

「!?」

 

 それは揺れ動く水面の様相で、鳥居の内部を。左右の支柱二本と、両の柱に渡された笠木に島木、そして石畳の地面、それらが区切る四角形の枠、今の今まで雄大な森の緑を望んでいた空間に、満ちる。

 光のようでもあり、気体とも液体ともつかない。鳥居の先が今やそんなもので満たされている。

 有り体に言って超常現象以外の何物でもない光景に、ただ呆然と見入る。己の狭域な常識観で量ることのできる次元を超えていた。

 次元を。

 

「……っ!」

 

 間抜けに忘我する己を、不意に星熊さんが掴み上げる。胸倉を握られたまま無造作に、何の苦もなく石畳を引き摺られる。

 

「ほ、星熊、さん!」

「……」

「一体、これは如何なる……どのような仕儀ですか!」

 

 己にしては強く必死な抵抗の意思表示であった。

 事態は一向に飲み込めない。しかし、なにか。鈍磨な脳髄で、頼りない勘働きで、それでもなにかを予感していた。

 取り返しのつかないなにか。後戻りのできない、なにか。

 もはや、決して────

 

「帰るんだよ」

「かえ、る……?」

 

 かえる。一瞬、字義すらも即座には理解しかねた。

 帰る。帰るとは。居所へ。己の住み処。家に、立ち戻るということ。

 一体何処に。俺の現在の住居は地下、旧地獄、旧都の西区四番街の裏通りに建ち並ぶ長屋の一室。

 そう、誰あろうこの方が。このひとが俺に与えてくださった、あの部屋。あの、暖かな場所が。

 ────違う。

 あぁ、そうか。そういうことなのか。

 突如、雷電の閃きで理解する。

 これは門だ。この世界の、この幻想郷と外界。幽世と現世を別つ境界。

 結界の果て。

 この果ての先にあるものこそ、人の御世。俺が生まれ育った世界。

 彼女はそこへ俺を帰す心算なのだ。

 

「外より来たる者。あんたの居場所はここじゃあない」

 

 外来人。そう呼ばれた。現に在り、幻でない者。今現在世界を占有している実在、概念の対極。幻想を駆逐した人類という名の主犯各、その一人に他ならぬ。

 異邦人。異()人。

 本来、ここに在るべきでない者。それが俺だ。

 ゆえに彼女のこの仕儀は、全く、徹頭徹尾の正当であった。

 だから……とて。そうであっても。

 

「星熊さん……俺は……俺は!」

「……うるせぇ」

「俺は、貴女と、貴女の傍にっ……」

「うるせぇ!!」

 

 片手に掴み吊るした己を烈火の眼が睨め上げる。

 背後には虹の壁。断崖絶壁のその際に追い詰められた。瀬戸際に。

 

「てめぇは現世に帰るんだ。てめぇの本当の居場所で、生きるんだよ」

「……!」

 

 伝う。感じる。彼女の手は震えていた。

 こちらを見上げるその瞳など、まるで、縋るようだった。

 泣きじゃくる寸前の童女はそのままくしゃくしゃに破顔する。不格好に、精一杯に、笑うのだ。

 

「生きてくれよ、なあ……頼むよ。後生だ……!」

「────」

 

 そっと手が離れ、指先が空を揺蕩う。背中から世界を落ちながら、彼女を見上げた。突き放つように冷徹で、追い縋るように幼気に、伸ばされた手。送り出す彼女の手が遠ざかる。

 幻想の世界が虹の向こうに覆われる。その果ての戸口に佇む姿、涙ぐむ瞳、泣き滲む(かんばせ)を俺は永劫、忘れないだろう。

 決して、決して忘れない。

 

 

 

 

 

 男は幻日の光を潜り失せた。いともあっさりと、向こう側へ行った。

 もう戻るまい。もう、二度とは。

 

「よかったの」

 

 鳥居に背を預けた巫女が言った。珍しいこともあるものだ。他者に根っから無関心の、現と幻の()()()をひらひら翔ぶばかりの娘がさも気遣わしげな文句を口にした。

 片側の口端を無理矢理引き上げて、鼻先で笑う。

 

「良いも悪いもねぇ。外来人を現世に送り帰した。それだけだ」

「ふぅん、そ」

 

 心底興味も薄く、博麗霊夢は肩を竦めた。

 それで用は済んだ、と背を向けた時。

 

「大事なものなら閉じ込めておけばいいのに」

「黙れ」

「傍にいるのが怖い? ふ、鬼って案外臆病なのね」

 

 どうしたことか、なおも娘は言い募るのだ。執拗に、逆鱗を爪弾き、神経を逆撫でて。

 

「捨てたものを惜しんで、捨てたことを後悔するのが人間。私にはよくわからないけど」

「…………」

「鬼はどうなのかしら」

 

 ただの皮肉が、刺さる。抉る。他愛もない戯言がまるで(あら)たかな預言のように脳髄を響く。

 巫女風情が。

 そんな罵声一つ、吐けない。ひたすら萎えていた。いつ何時であろうと腹の底で燻っていた化物としての激情が、今はふっつりと消えている。

 神社を一蹴り、後にする。もう帰ろう。なにやらひどく疲れた。

 

「……」

 

 でも、いったいどこへ?

 わたしはどこへ帰ればいいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




書きたいことを全部書いていると終わらない病。
もう少しだけお付き合いください。すみません。


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嘘・黄金の髪(了)

明けましておめでとうございます。
星熊勇儀√これにて完結です。


 赤黒く燻る炭のような夕空を仰いだ。

 いっそ懐かしくさえ感じる。この寒々しさ。あの折は初春、あるいは晩冬の残り香のような冷気の中を歩いたのだったか。母の遺骨を抱えて、麓の霊園を訪れた日。

 この……虚しさ。

 気付けば一人、逢魔ヶ時の山中に立っている。枯れ木も沈黙する静謐の世界。傾いだ木々と敷き詰められた落葉が音と光と生き物の気配を枝葉に孕んだ薄闇の中へと吸収している。己自身の呼吸だけがいやに煩い。己こそが場違い者なのだと周り中の全てが無言にて訴えている。

 あの日、納骨を終えて、帰り路ではなく山に分け入った山道のさらに奥。ここはそう、俺が現世から逃げ去った場所であった。

 そうして今、俺は再び舞い戻って来たのだ。逃避し続けてきた現実。現人(うつしおみ)の御世へ。今更、のこのこと恥知らずにも。

 

「……何処へ、行こうか」

 

 口にしたとて浮かぶものはない。ただ途方に暮れて零れ出た空言だった。

 仕様もなく、ほとほと手慰みの心持ちで抱えていた風呂敷を開いた。

 風呂敷包みには、己が旧都を訪れた時に身に付けていた物が仕舞われていた。財布、携帯電話、喪服と革靴。幻想郷(あちら)では無用の品々だが、人界(こちら)においては必要不可欠なものだ。とうの昔にバッテリー切れを起こした携帯はともかく、保険証等が詰まった財布が無ければ己はただこのまま路頭に迷うだけだったろう。

 星熊さんの計らいには、幾重にも感謝しなければならない。その術がもはやこの手にはないことを承知で。

 それでも想う。あのひとを想う。想わずには、おれぬ。

 

「……」

 

 左手で首に触れる。その表層を抉る咬傷に。あのひとが残したせめてもの────(よすが)に。

 甦る記憶は痛みだった。

 我が身ではなく、彼女の。彼女が被った痛み。悲しいまでに純粋な彼女の嘆きが、悲壮が、この胸を圧し潰して止まない。

 星熊さんは、俺をして優しいと言ってくれた。何を馬鹿な。真の優しさを備えているのは貴女だ。貴女なのだ。貴女こそが。

 俺如きに心を痛めて、涙すら零して、この上まだ慈悲を与えようとするのか。

 

「っ……」

 

 握り込んだ指が包帯の上から首筋を圧する。指先が濡れる。出血の兆し。傷口が捩れ、肉が捲れる。

 その痛みの、なんと矮小なことか。なんて無価値なのだろう。

 自慰と同義の自傷を止め、左手を引き戻す。引き戻そうとしたその時、違和を覚える。

 指の先、爪の際、渇き割れ裂け、ささくれ立った皮膚に引っ掛かり絡むものがあった。

 絡み付いたそれはするすると包帯の隙間から抜け出てくる。眼前に晒した手に綺羅、一筋煌めく。

 

「ぁ」

 

 暮れの闇間でさえ眩く光る黄金。金糸の髪の毛。

 包帯から抜け去った髪はそれは長く、その毛先は掲げた手から優に己の腰元まで届いた。

 そんな暁のような輝きに、ふと見れば薄く赤茶けた汚れがあった。乾いて固化した血の紅。己の血、そしておそらくは彼女の血。その交ざりもの。

 傷口の肉皮に紛れ、気付かれぬまま包帯の下に隠れていたのだろう。

 鬼の姫御の髪であった。あのひとの、あの美しい髪。

 

「……く」

 

 握り締めたそれを額に押し付ける。込み上げるものを圧し殺す。

 悔悟、悲憤、呻吟、煩悶、痛惜と、なによりの未練。

 それらは溶銅のように胸奥から流れ出、全身を焼く。血も肉も骨も焦げ付いて、後には空虚ばかりが残留する。

 妄想である。

 そんなことにはならない。都合の良い未来など起こらない。これもまた愚昧な、浅慮な自己憐憫なのだ。

 

 ────(おまえ)はここにいる

 

 手の中で燦然と黄金の輝きがそう告げる。決して甘やかなものではなかった。あの言葉は容赦のない現実を手加減なくこの身に知らしめた。

 逃げるな、生きよ、と。

 厳なる叱責であり……切な願い。

 あのひとの願い。心からの、涙ながらの懇願だった。

 それをどうして蔑ろになどできよう。無為になど、させたくない。させはしない。

 俺は俺に能う全てで星熊さんに応えたい。

 行く当ても覚束ないこんな俺が、ただ一つ明確に、すべきことを知った。心からの(のぞ)みができた。

 黄金の髪をそっと懐紙に包み、畳む。大事に大事に、この証を懐に仕舞う。

 この証があれば俺はもう大丈夫だ。希みを忘れずにいられる。辛くとも、苦しくとも、生きていける。

 生きるということを、諦めずに済む。

 星熊勇儀に願われた。その事実だけで十分だったのだ。俺には十分過ぎたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 霊園の西側、整然と並ぶ墓石の最後列、山際に葉の落ち切った桜木を仰ぐ。

 父母の墓はそこにあった。

 一年近く手入れもせず放置した当然の始末だが、雑草は伸び放題、枯れ葉、塵埃は積もり放題。薄汚れた墓石に手を触れ、呆れに頭を垂れる。墓守の役を怠った己の不明以外の何物でもない。

 霊園に備え付けの竹箒を借り、堆積した屑を払う。雑草を抜き、枯れ葉と共に掃き清め、水桶で墓石と踏み石を流す。

 雑巾などないので、それは喪服のシャツで用立てた。拭い磨くと途端に蓄積した雨風の汚れが白いシャツを黒くした。

 片腕の不自由も手伝い、粗方の清掃が終わる頃には完全に日は没していた。暗く澄んだ闇が霊園を覆っている。ここからは遠く入口の門扉に屹立した外灯の明かりだけが薄ぼんやりと夜闇に漂って見えた。

 しかし闇の濃さの所為だろう。半月が煌々と明るい。格別夜目の利く性質でもない身にこの青白い月光照明は有り難かった。

 お蔭できちんと向き合える。父母の眠る、この廟に。

 吊った右腕は僅かに持ち上げるだけで鋭痛を発した。粉砕した骨を接ぐ為に、現在この上腕には固定具が埋められているそうだ。

 喉奥に呻き声を呑み、時間をかけながらようやくに、両手を合わせる。

 

「不孝な息子でごめんなさい」

 

 与えてくれた愛情に、何一つ報いることはできなかった。迷い、惑うばかりで。

 育ててくれた恩を、ずっと蔑ろにしてきた。今ここに、こうして生きて、ここに在る命を、軽んじていた。それが父母のこれまでの尽力を嘲弄する行為であると気付きもせず、恥を知らず、親の心を知らず。

 あのひとが気付かせてくれた。

 

「とても、素敵なひとに出会えたんです。真っ直ぐで、純粋で、綺麗なひとです。叱られてしまいました。心から……だから俺、頑張ろうと思います。ちゃんと生きて、生きた人間になれるように、頑張りますから」

 

 どうか、見守っていてください。

 彼岸の彼方に逝ってしまった父母へそっと祈りを捧げた。心が痛む。心から悼む。

 その時、ふと胸に落ちる。

 

 あぁ……

 

 やっと、実感できた。理解、できたような気がする。

 父も母ももういない。もう決して還らないのだと。それだけのことを。ただそれだけを納得するのに、随分時間がかかってしまった。

 月明かりを仰いだ。眩い蒼銀は目に染みる。思わず涙が出てしまうほどに。

 声もなく、さめざめと、涙が流れてしまうほどに。

 

 

 

 

 

 

 夜が深まるにつれ山道の闇もまた濃厚に、濃密に満ちていく。暗中の下山はどう考えても無謀であった。

 山向こうの市街地へ辿り着く為には峠道を歩くより他ない。さりとて夜通しの強行軍でも到着は翌日の昼過ぎが精々だろう。ならば夜を明かし、始発の路線バスに乗り合わせる方が合理的だ。

 幸い、霊園には倉庫があった。先刻使用した掃除用具や水桶も普段はここに仕舞われている。

 木造、瓦葺、土壁と古色蒼然な佇まいの小屋である。霊園までの道中にも小規模だが田畑が耕されていた筈だ。おそらく元は百姓家だったのだろう。

 幻想郷にあってはむしろ馴染み深い。親しみすら覚えて、引き戸を開く。

 黴と土の匂いを浴びて奥へ。壁にも天井にも所々に穴が空いていた。為にというかお蔭というか、そこから月光が注ぎ、納屋の中は思いの外に明るかった。

 掃除用具、鍬や鋤、鎌を跨ぎ越え、顔にかかる蜘蛛の巣を払う。

 お(あつら)えなこと、奥は小上がりの畳敷きであった。中央の不自然な四角い板張りは囲炉裏を塞いだものだろう。

 風呂敷を置き、座敷に腰を下ろす。腕に絡んだ蜘蛛の巣を取りながら、湧き出るような疲労感に肩身はずしりと重みを増した。

 弱音など吐いている暇はない。母の生前、住居としていたアパートは長期に亘る留守となにより賃料の滞納で既に引き払われていよう。差し当たって住処を定め身の証を立てなければ働くことも出来ない。銀行口座の消滅時効は最短五年であったか。とはいえ口座が生きていることをまず確かめねばならない。いや、手始めに、己が失踪していたこの一年弱の間、怠ってきた私的・公的手続きを洗い出すべきだろう。

 やらねばならないことは山積みだ。一つ一つ虱を潰すように消化し、そうしたなら次は生活費の工面を考えなければ。未成年者が身一つで生きる為には、人間社会には通過しなければならない(しがらみ)が数多い。法や倫理と呼ばれる天網は集団を救うが一個人を然程に顧慮しない。

 全ては自己責任。独立独歩とはその繰り返しだ。天涯孤独ならばそれは尚のこと。

 

「……ふ」

 

 孤独を言い訳に逃げ続けてきた現実が一挙に襲い掛かってくる。全く以て、自業自得だ。笑うより他ない。指に纏わりついた蜘蛛の糸を弄ぶ。

 先行きの暗闇の深さに、心胆は軋む。不安が黒雲のように眼前を覆う。孤独(ひとり)で生きる。生きねばならない事実が、重い。

 辛いと泣き言を零しそうになる。苦しいからと心を閉ざしてしまいそうになる。

 けれど同時に、俺は安堵を覚えてもいた。

 何故ならこの辛さ苦しさを実感する限りにおいて、俺は生きているからだ。痛むなら、俺は生きている。生きて、この命に向き合っている。この痛みこそがその何よりの証明だから。

 あの方が知らしめてくれた覚悟だから。

 いつか……いつか、胸を張って、会いに行ける日を夢見ている。会いたいと希わずにおれない。

 会いたい、と。貴女を想うことを許して欲しい。

 目を閉じた。瞼の裏に艱難の明日と、想いびとを映して。

 目を開き、一吹き溜息を落として、草履を脱ごうとした。左手を伸ばす。

 伸ばした手が触れる。微かに粘り、擽る。蜘蛛の巣だった。

 

「え……」

 

 左腕を眼前に翳す。宙を泳ぐ白、白眉の束。月光に青白み、光る。

 蜘蛛の糸。大量の。腕を覆っている。分厚く。まるで一枚の布のように。

 これはなんだ。

 これは。

 

「やっと」

「!」

 

 絹を撫でるような声だった。高く柔らかく嫋やかな調べ。少女の稚気(あどけな)さを含む声音。

 誰かが。何処かから。

 己が声の主を探すより早く、彼女は目の前に、頭上より降ってきた。

 白い(かんばせ)、赤い唇、ライトブランの瞳が暗中に輝く。天地逆様に美相は笑んだ。少女は歓び綻んだ。

 

「会えたね」

 

 女が笑う。妖の一字に倣う。

 両手を広げて彼女は己を包んだ。人がましい両の腕と、爆ぜるように解放された人ならぬ六脚、それは蜘蛛の節足。

 彼女は遂に(きた)る。女妖は断じて獲物を諦めてなどいなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ただの獲物であればここまで執着しなかった。

 憐れな人間、そんなものは巣の外にも、地獄の底にも、幻想郷の内にも外にもゴマンといる。

 どうして追い掛けた。どうして、この人を追い求めた。

 この人は自らに対する憎しみで進退を窮め、行くも戻るも死ぬことすらも出来なくなっていた。巣に絡め捕られ雁字搦めになった憐れな羽虫と同様に。

 興味が湧いた。最初はその程度の細やかさだった。

 獲物を逃した口惜しさも、勿論あったけれど、それ以上に。

 死にこそ惹かれ、死に依って立つ癖に、理性と義務感で必死に生にしがみ付く様が、不可思議だった。理解不能だった。

 妖怪の有り様とはあまりに違う。人が持つ、理解及ばぬモノに対する根源的恐怖、死滅(ほろび)に対する純然の恐怖を、魂を糧に存在する自分には彼の魂は殊更異彩を放って見えた。

 聖人や覚者のように死生達観の境地に至っているか、といえばそんなことまるでない。

 彼は徹頭徹尾人間で、死を怖れ、痛みを怖れ、尋常ならざる怪異を怖れた。

 しかし同時に、彼は死を求めていた。死に安息を見ていた。死の果てにある虚無を心底から渇望していた。

 そして死を夢見る己自身を憎悪していた。

 生と死に揺れる魂。一時とて鎮まらぬ異彩、昏く眩く極彩色に移ろうその深層。

 知りたいと思った。

 その魂の在り様の原点がどこにあるのか。どうして貴方は絶望しながらそれでも自罰を止めないのか。終わってしまえば楽になるのに、それを選べない愚かな人。可哀想な人。可愛い人。

 貴方のことが知りたい。

 

「この“糸”はね、貴方の心の臓に繋がってるの」

 

 青白い光の差し込む古びた納屋、大黒柱と天井の梁に幾重にも幾束にも巻き付けた糸の中枢、吊り上げた彼の胸板に触れた。

 その中心、胸骨の合間から伸びた細い細い“糸”が、月明りに照らされて光る。

 私とこの人を結ぶ、(きよ)らかな糸が。

 

「ふふ、糸電話みたいなものだよ。心の声が伝わってくるのサ。魂の想いが響いてくるの。ずっと、いつも、毎日毎日キミの声を聞いてた。静かで優しくて、悲しくて切ない声……全部聞こえたよ! キミが現世でなにをしたのか。キミの両親がどんな人達だったか。キミがどうして、()()なったのか」

 

 気付けば憐憫は愛しさに変わっていた。

 どうしようもなく不器用で、優しいこの人の生き様が、妖怪(バケモノ)の私にはどうやら心底堪らなかった。

 生の葛藤、死への切望、それらが並列し均衡した彼の魂にどうしようもなく惹かれる。

 だから。

 

「私が救ってあげる。もう苦しまなくていいんだよ。私がキミを────生きたまま殺してあげるから!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 晴れやかな笑顔で黒谷ヤマメは言った。

 俺は返す言葉を失くす。彼女の宣言の剣呑さに、ではなく。その笑顔に。

 少女の表情(かお)には優しさがあった。憐れみがあった。そして心からの……愛情があった。

 彼女は一切の害意なく、徹頭徹尾の愛で己を救済する気でいる。

 愚鈍の極みのような己の目にさえ、彼女の瞳に曇りはなく、その情の浄らかなるを認めていた。微塵の疑いも湧かない。

 黒谷ヤマメは真心で、純心だった。

 彼女は俺の心の声を聞いたという。今、この胸倉から伸びる一本の糸。それがただの蜘蛛糸などではなく彼女自身の妖怪としての異能による手妻ならば、その言に偽りはないのだろう。

 彼女は確かに聞いたのだ。己の想念、汚らわしい妄念を。

 

「んっ」

「ッ!?」

 

 事も無げに、いや事も有ろうに、少女は不意に己に口付けた。

 咄嗟のこと。身体は硬直した。そもそも糸束によって雁字搦めになっている現状、逃げるも避けるも叶うまいが。

 少女は己の唇を啄ばんだ。時には舌先で舐め、裏側にまで侵入を図って。

 数分の後、少女の顔が離れる。青い月光の中、その白い頬は淡く朱に染まっていた。

 

「汚らわしくなんかない」

「!」

「キミの想いは優しくて、とっても穏やかで、綺麗だよ」

「……」

 

 ひしと、彼女の腕が己に縋る。胸に耳を寄せて、その奥に埋まるものの鼓動を聞かれている。

 

「自分を責めないで。自分を憎まないで。許してあげておくれよ。楽に、なってよ。もし、自分じゃできないんなら、私ができるようにしてあげる。私の能力なら、キミの苦痛を終わらせてあげられる。生きることも死ぬことも許せないなら、どっちも選ばなくていい。ただ、一緒に……私と一緒に、微睡んでて欲しいんだ。そう、そうだよ、私の作った糸繭の中で、ずっと、ずぅっと。それだけでいい。それだけを、ずっと夢見てた。キミと永遠に、私の糸に包まれて、私の腕の中で」

 

 縋る手は震え、怖々とした声は強かに胸を締め付けた。

 それはいつかの続き。紛うことなき彼女の慈悲。

 地獄へ続く洞穴の、暗黒の中で初めて出会った蜘蛛の化生の少女。

 その優しさを疑わない。安らぎを、救いの手を差し伸べてくれている。あの時と同じように。あの時からずっと、想い続けてくれたのだ。

 この愚かな男の懊悩を、心から憐れんで、慈しんでくれようとしている。

 感謝以外の何を思える。

 少女が顔を上げた。花咲くような笑顔が浮かぶ。

 

「ありがとうございます、黒谷さん」

「あはっ、なら……」

「ですが自分は応えられません」

 

 笑顔が、凍る。

 美しい少女の笑顔が、美しい彫像と化して、ただ内包するものだけが変転し混淆する。

 彼女は反問しなかった。何故、とは頑として口にしなかった。

 当然だ。彼女と己は今もなお異能の糸で繋がっている。

 彼女は聞いているのだ。己の声を。声なき想い。

 この胸に抱く、かのひとを。

 

「勇儀」

 

 少女は呟いた。想い人の名を。

 

「勇儀、勇儀ッ、勇儀ぃぃいイイイイ……!!」

 

 呼ばわるほどに、己は想う。想いは留まらない。湧き出る泉の如くに、俺は星熊勇儀への想いを止められない。

 残酷なほど。

 少女は聞くのだろう。こんな己を、愛を以て慈しんでくれる少女に、己は聞かせるのだろう。

 俺には好いたひとがおります。心の底から惚れ抜いたひとがおります。ゆえ。

 貴女の想いには、応えられません。

 

「知ってたサ。わかってた。ク、フフ、フフフフフフフ……でも、諦めるなんてできなかった」

 

 泣き笑いの顔で少女は己を見下ろした。

 慈愛の貌が歪む。それは初め瞳から顕れ、奥底から湧き出、顔面の半分を染めていった。憎悪が。

 

「あの女、あの女、あの女、あの女がぁ! 浚っていきやがった!! 私がッ、私が最初に見付けた! 最初に出会ったのは、私なのにぃッ!!」

 

 肥大する。サロペットスカートの下から這い出し、露わとなったのは丸々とした蜘蛛の腹。美しい少女の半身に、黒く光沢を放つ異形の下半身。

 まさしくそれは妖怪の、土蜘蛛の変化であった。

 

「ハハハハハハハハハハッ! でも間違えた! あの女は選択を誤った。馬鹿な女。現世に逃がせば追えないと、幻想郷の外ならば木っ端な妖怪は存在を保てないと勘違いした。驕ったのサ! 天下の星熊童子様が詰めを誤った! 土蜘蛛(わたし)は人であると、(まつろ)わぬ民草に列なるモノだということを忘れよった! アッハハハハハ! だから会いに来られたよ。こうしてこの人に……ザマぁ見やがれぇ!!」

 

 嗤った。彼女は声の限り、憎しみの限りに星熊勇儀を嘲弄し、罵倒した。

 化物は咆哮する。憎き女に、そして、愚かな男に。

 笑声はしかし次第次第に弱まり、切れ切れに掠れ、程なく喘鳴に変わった。

 

「あなたが欲しい……」

 

 涙を滂沱させ、瘧のように肩身を震わせながら少女は囁いた。

 

「歪で、優しくて、憐れで、綺麗なあなたの(ココロ)が欲しい……欲しかった」

 

 化物は、泣いていた。月光に青く光る涙を流して、己に縋った。

 

「お願い、お願いだよ……私と、一緒になっておくれよぉ……」

 

 彼女は知っている。知りながら、それでも求めて、欲して、手を伸ばさずにおれないのだ。

 その情の深さゆえに。真心の純粋さゆえに。

 俺はこの少女を嫌わない。厭う心持ちなど微塵と覚えない。どうして、こんなにも必死で、直向きな想いを否定できる。この少女は何も間違っていない。ただ慈悲をくれた。憐れな男に、優しくしてくれようとした。

 ただそれだけ。ただ、それだけなのだ。

 

「ねぇっ……嘘でも、いいから……!」

 

 真心であると、純心であると知っている。

 この少女の想いに一欠片の瑕疵もあらぬと確信する。

 だから。だからこそ。

 

「嘘は、言えません。決して」

「────」

 

 少女は項垂れた。

 沈黙が下りた。暗い納屋に重く垂れ込める。満ちる。

 その静謐、鉛のように空間を充満する、想念。

 愛憎、そう呼ばわれる呪詛(ノロイ)

 不意に持ち上げられた少女の顔、少女のようなモノの貌が、向き合う。虹彩のないライトブラウンの複眼が己を見た。見据え、捉え、捕らえ。

 

「わた、さない」

 

 止め処なく涙の溢れるその眼が、この身に縋り離れない。

 

「あなたガ、わタシのモノにならナイノナラ。あなたのココロがワタシのモノニナッテクレナイナラ」

 

 顎が左右に開く。鋏状の上顎、その奥に赤々と口腔を晒す。

 少女は異形に変じてゆく。その憎悪が彼女を彩っていく。止め処なく、終わりなく。

 

「あなたノ精モ肉モ骨モわたしガ貰ウ。わたしガ犯ス! わたしガ喰ラウ! 誰ニモ、誰ニモ渡スモンカッ!!」

 

 化物は吼えた。

 少女は泣いた。

 こんなにも細やかな願いが叶わない。叶えてやれない。

 しかし、嘘など吐けない。断じて。

 それは全てに対する裏切りであるから。この少女への。星熊さんへの。そして、己自身への。

 少女は己を喰らうだろう。骨も残さず、血の一滴も余さず。

 抗う術はない。ならば、命乞いでもしてみるか?

 それこそ、まさかだ。

 この直向きな少女が今更その程度のことで止まる筈がない。奇妙な信頼さえ抱いて。

 だからこれは、生存の為の努力ではなかった。

 左腕は糸の束が巻き付き、完全に拘束されている。びくともしない。初対面の際のような、身を捩る()()が一切ないのだ。

 それは残りの両足や胴回りも同じこと。

 絶対の絶命である。それは揺るがない。まあ今やそれはどうでもよいのだ。

 俺は、俺に能う全てで報いる。そう誓った。一方的で、自己満足甚だしい、当の彼女にしてからこんなもの望みはしまい。

 それでも。

 右腕は首から提げた布に吊られていた。元より折れた上、接ぎ目の金属板が馴染み切らない腕など何の役にも立たぬ。

 そう思った。黒谷さんは、そう思ったゆえ、右腕の拘束の糸を加減した。その手妻を(ゆる)めたのだ。

 慮ってくれたのやもしれない。怪我の具合を、己の苦痛を和らげようと。

 その優しさを利用する。卑劣に、卑怯に、醜悪に。

 

「ぐぉおお……!!」

「!」

 

 弛められたりとはいえ、蜘蛛の糸の強靭さは変わらない。隙間があろうと抜け出せるような代物ではない。

 抜け出す為には、こうする他なかった。

 身を捻る。上腕を胸倉に引き込む。

 すると、腕の外側で肉が()()()。骨と金具が肉を破って外に飛び出したのだ。

 

「アァ……モッタイナイ」

 

 蜘蛛の化生は言うや、傷口にしゃぶりついた。断面を覗かせる骨を頬張り、舌を出鱈目に突き入れる。

 痛覚神経に受容可能な刺激量を優に超える痛み、のような激流。

 脳の裏と表で何かが焼き切れたような気がする。鼻の奥で鉄錆の臭いがした。

 意識が流転する。覚醒と暗転と明滅。それが二周した時、右手は懐に届いていた。

 懐に仕舞った、懐紙を。

 まさぐり出し、口へ────

 

「……!」

「ちゅ、ぢゅ……ハァ」

 

 女怪は熱く吐息した。

 そうしてこちらを再び見上げる眼。獲物を品定めするような眼が、不意に俯く。

 縋るような瞳が俺を見上げる。

 

「……ダメ、なんだね」

「……」

「そっか…………そ、っか」

 

 涙は止まらない。もう永遠に、この少女は泣き止むことができないのではないか。

 筋違いな心配が過った。その悲しみを背負わせた張本人が。

 愚物は愚物らしい蒙昧さで最期を遂げる。

 そんな風に思っては────また、叱られるかもしれないな。

 

 莫迦者は最期まで莫迦なままのようです、星熊さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 報せは唐突だった。

 塒に濛々と立ち込めた霧より出で、鬼の頭目は冷厳と言った。

 

「てめぇの不始末の片をつけてこい」

 

 跳ぶ、跳ぶ、跳ぶ。足場とした岩を幾度、幾度にも踏み砕いて、穴の底へ。

 暗い穴蔵の奥底、蜘蛛の巣の只中へ飛び込む。

 白い糸が暗がりという暗がりに渡り、覆い尽くした暗黒の空間。

 その中心に、いる。鬼の凶眼には無明すら白日と同等だ。

 ゆえに見えた。

 それの色、形、有り様、全て、すべて。

 見えていた。

 

「ちゅ、ちゅ、ちぅ、ハァ……」

 

 蜘蛛の女妖が下品な音を立てながら一心に舐ぶり、啄み、口付けるソレ。

 腕に抱えた小さなソレ。

 黒い髪、精悍な(おとがい)、今は微睡むみたいに薄く開いた目。

 優しくて、優しくて、優しくて、優しくて優しくて、あんまりにも優しいから。

 莫迦みたいに、優しいその、目、が。

 あいつの、首だった。

 

「────」

 

 間境。空間を跨ぎ越し、蜘蛛は眼前。

 振り上げた拳を、腕を拘束する百ないし千あるいは万に及ぶ糸の束が撃拳の進行を阻む。皮膚を裂き、肉を潰し、骨に達する。鬼の肉体を抉るなど土蜘蛛如きの為せる業に非ず。

 何故か。

 答えはその腕の中に。

 喰ろうたのだ。男を喰らい、力を増したのだ。概念に依って立つ妖怪が、愛する者を喰らう。その行為、狂気、罪業が魂の位階を底上げした。

 目前の土蜘蛛はもはやただの土蜘蛛に非ず如何に伝承に名を列ねる童子といえども────しったことではない。

 蜘蛛の左顔面に拳が埋まる。頬骨を砕き、顎を抉った。

 その手より首を奪い取ったのと、化生が吹き飛んだのは同時だった。

 遠く、洞穴の崩れる音を聞く。興味はなかった。

 

「……」

 

 (かいな)に抱き寄せた男の頭を撫でた。

 額を撫で、頬を撫で、唇を撫でた。

 口が閉じたまま動かない。顎骨を食い縛り、噛み締めるあまりに歯の根がかち合ってしまったようだ。

 耐え忍んで逝ったのか。苦痛に、恐怖に、死に。

 それとも、またお前は莫迦な気を起こしたのではあるまいな。死に幻想を抱くあまり、かの女妖に、その身を…………。

 

「ぇ……」

 

 ふわりと柔らかに、男の顎から強張りが抜ける。鍵の掛かった箱のようだったその口が、開く。

 まるで見計らったかのように。

 口、口の中に何か。何かが。

 懐紙であった。小さく折り畳まれたものが、血反吐に塗れながら口腔に収まっている。

 取り出し、包みを開く。指先も、手も、震えっぱなしだった。

 中に入っていたのは髪の毛だ。黄金の、薄汚れた長い髪。

 震えが止まった。呼吸すら忘れた。

 こんなものを。死の際に、後生大事に、噛み締めていたのか。こんな、薄汚いただの、髪。

 

「はっ、はは、こんなことも……できるんじゃあないか……」

 

 男を胸に抱き締めて、その操を胸に(うず)めて、暗い洞の天井を仰いだ。

 

 アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア

 

「うるせぇぞ、蟲ケラ」

 

 土砂を巻き上げ、塵埃の帳の向こうから、巨大な蜘蛛の怪物が這い出す。言葉も、人の姿すら忘れた真性の化物。

 しったことか。

 

「来いよ、ぶっ殺してやる」

 

 暴れ川の如くに迫る蟲化。不動にて迎える。

 愛しきは腕の中に在り。

 そうして強く、拳を握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 地底の奥底から月を仰いだ。随分増えて、広がった穴から煌々と照り付ける。

 青白くて冷たい光。火照った体には丁度よい塩梅だ。

 

「けっ、蟲ケラめ、粘りやがって」

 

 ぐずぐずと煙を上げて溶けていく右腕。その上腕辺りを咬み千切り、吐き捨てた。

 左腕に抱えた首に頬を寄せる。

 

「やっとふたりだ」

 

 二人きり。他には何もない。

 そのことがひどくうれしかった。

 それだけで本当は十分だった。十分過ぎた。

 

「大丈夫。これからはずっと一緒さ。ずぅっと、ずぅ~っとな」

 

 はい、ずっと貴女のお傍に

 

「ははっ、ああ、そうだよ……」

 

 なんだかえらく満ち足りている。

 酒も飲まぬというのに愉快だ。暖かだ。

 お前と一緒なら、どこだって暖かい。

 暖かい。

 

「はぁ、あたたかいなぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼の胸元には髑髏(しゃれこうべ)

 そんな画図を最初に描いたのは、さて誰だったろう。

 

「勇儀、貴女はとっても幸せよ」

 

 武功を謳ったのか、それとも己の恐ろしさを標榜したかったのか。

 

「愛しい者に魂から愛されている。愛されていると知っている。まったく……」

 

 あるいは、死骸すら手放せないほどに愛しい者と、ずっと一緒にいたいから。

 

「妬ましいわぁ」

 

 太鼓橋の頂。赤漆の欄干から少女は唄う。想いの成就に言祝(ことほぎ)を。

 鬼の輩の愛を、心から祝福した。

 

 

 

 

 




やっとオリ主をぶっ殺せました(達成感)


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果敢無い噺
香気(十六夜咲夜)


「果敢無い」

身を結ばず終わる
長く続かず終わるの意

つまり短編
一話完結の話


 

 

「見合い、ですか」

 

 霧雨商店では(とみ)に古美術品を扱う。特に陶磁器、器は用途造形工夫流派を問わず取り揃えている。

 個人の好事家は勿論、里の御店(おたな)から見合う器を探しに来られることも屡々(しばしば)

 相対する酒屋の主人もまた、店で客前に出す器を求めてこの商店を贔屓にしてくださる御一方であるが。

 店の下働きとして雇われ早半年、手代にまで取り立てられ、何時からかこのように上客の相手を任されるまでになった。正直に言えば、名実共に分不相応の感を否めない。

 

 そろそろ身を固めちゃどうだい

 

 上がり框に腰掛けて開口一番、酒屋の主人は伝法な調子で言った。

 己が幻想郷に、延いてはこの人里に身を寄せたのはおおよそ一年前。手代待遇を拝命したりとはいえ、御店勤めとてもやはり所詮は半年程度。

 そろそろ、との副詞を戴くには重ねるべき時間も、この集落への親密も未だ到底足りない。己の所感ではそのように思う。

 やんわりと断りの文句を選ぶ己に、酒屋の主人はめげず、食い下がる。この種の問答は実のところ初めてではない。前回は古着屋の奥方に、己が独り身であると知るや齢の近い女性を紹介するからと頻りに勧められたのだった。

 あの折も、一席設けようという奥方の意気を宥めるのになかなか難儀したものだが。

 団子屋の娘さんだ、気立てが良く器量も良く愛嬌はなおよろしく、お前さんのことも憎からず思っていると零していた、その気ならば今晩いやさ今からでも、俺の店の奥座敷を貸そう、そうだそうしよう。

 打てば響き、響かば止まぬ。こちらが一言えば、十にも二十にもして返って来る。商談ならば今少し強く出よう。というより出られねばそれこそ仕事にならぬ。商売が成り立たぬ。

 が、しかし、これが私事に纏わるとなると。

 滅法弱った。

 なんともはや情けなし。内心で途方に暮れた、その時。

 

「“若手”さん、一つ見繕ってくださいな」

 

 横合いから声が掛かった。純銀の鉦を鳴らすような清らかな声であった。

 そして、その呼ばわりには覚えがある。

 振り向けば、白銀の髪が煌めいた。項を隠すほどのボブカット。頬の両側に結われた三つ編。

 洋装である。里にあってはそう見掛けない、いや以前の居所であった現世であってもそう目にすることはなかった。白い開襟シャツに濃紺のワンピースドレスを重ね、フリルをあしらった白い前掛け(エプロン)をしている。

 エプロンドレス姿。所謂家政婦(メイド)服であった。

 十六夜咲夜。少女は実に瀟洒な微笑を浮かべ、小首を傾げる。

 

「あら、お話中に(わたくし)ったらとんだ失礼を。とても良い色柄のティーカップがそちらに見えましたので、つい」

「いらっしゃいませ、紅魔の家政長殿。本日は食器をお求めですか」

「ええ、晩冬の冴えた月夜のティータイムにもう一揃え。当家の主人も霧雨商店様の品を甚く気に入っております。それもまた是非に若手さんに選んでいただきたい、との仰せで」

 

 正座を整え背筋を伸ばし、恐縮に顎を引く。

 ふと、完璧な微笑がそのまま酒屋の主人に向けられる。

 

()()()()、ね。よろしいでしょうか?」

 

 怜悧な流し目に、酒屋の主人の強面が引き攣る。彼は汗の浮かんだ作り笑顔で二、三早口に言い置くや否や跳ねるように立ち上がり、足早に店を出ていった。

 申し訳ないことをした。そう思う一方、助かったと感じている腹心を自戒する。

 さりとてまずは、傍らの少女に今一度辞儀した。

 

「とんだご配慮を賜りました」

「どういたしまして……ふふっ、なかなか見物でしたわ。けれどああいったことも軽くあしらえるようにならないと。いつまでも若手さん扱い、という訳にはいかないでしょうし」

「は、面目次第もありません」

 

 若い手代さん、それを略して若手さん、と。少女はいつからか己を指してそう呼ばわるようになった。

 少女がくすくすと手の甲に笑声を隠す。優雅な所作だった。

 框を降り、商品棚に少女を誘う。彼女とのこうした接客も随分数重なり、馴染み始めたと言えようか。渡来品の茶器類を開陳し、用途や季節、流行り廃りや、少女の仕える主人の時々によって変わる好き嫌い等々加味し吟味し、見合ったものを買い上げいただく。

 それに伴い、他愛のない世間話を交えたりもする。俄か商人とてそれが当然と言えば当然なのだが。

 殊の外、彼女は饒舌だ。お世辞にも弁舌達者などと言えない己と、それでも懲りずにこうして熱心に話を持ち寄ってくれる。

 

「すっかり寒くなりましたね。人里ではもう冬支度を終えたのかしら」

「はい、今年は霜の下りが早いそうで。綿入れが出番を早めたと、里の奥方らも頻りに仰っておられました。家政長殿におかれては……」

「そんな薄い恰好で寒くないのか、かしら?」

「は、いえ、これは、差し出口を」

「ふふふ! 冗談ですよ。心配してくださるのは嬉しいですわ。ふむ、肌はそこまで出ていないと思うのですけど、若手さんには寒々しく見えてしまうのかしら。やっぱりスカートが短過ぎるとか?」

「どうか、ご勘弁を」

 

 くるりと軽やかに、少女はその場で身を翻す。フリルスカートが花弁のように咲き開く。

 己は頭を垂れた。立派な敗北宣言である。

 見上げた少女の満足げで、悪戯な顔は、小憎らしいほどに可憐だ。

 

「ええ、勘弁しましょう。とはいえ仰る通り、そろそろ外套を出すか……あぁ、マフラーを新調してもよいかもしれません」

「御用命とあらば御召し物も幾つか取り揃えがございます」

「あら商売上手」

「これはしたり」

「ふふっ、では乗せられて差し上げますわ」

 

 あるいは多少なりとも、この時間を楽しんでくれているならそれに勝る幸いはない。

 奥の保管庫より襟巻や羽織り、その他着物の桐箱を取り出し、台に並べ置く。

 框に敷いた茣蓙に行儀よく腰を落ち着けて、少女はそんな己を見ていた。何が面白いものでもなかろうに。あるいは己の挙動がなにやら滑稽なのか。

 彼女は見ていた。ひたすらに。片時と、その視線は逸れない。

 それにやや擽ったい思いをしながら、一つの箱を開け、少女の傍へと滑らせる。

 

「こちらなど、いかがでしょうか」

「……まあ」

 

 少女はそのライトベージュの生地を手に取って広げた。

 山羊毛(カシミア)製のマフラーである。当たり障りのない選択だが、繊細で丁寧な仕上がり、手触りの滑らかさ、使い勝手、なにより保温性という点で間違いなく最善の品だ。

 勿論、最優先に考慮されるのは顧客にとっての最良である。

 十六夜咲夜という少女にとっての最良を、これより一つ一つきちんと吟味していくのだ。

 少女は暫時、マフラーを眺め、不意に。

 

「この色……」

「は、これは失礼を。まず先に色のお好みを伺うべきでした」

「いえ、そうではなくて」

「?」

「この色は、貴方が私に見立ててくれた色、なのでしょうか」

 

 少女がそっと、呟く。なにやら恥じ入るような遠慮深さで。

 むしろ羞恥を覚えるのはこちらであった。面を伏せる。

 

「とんだ無礼を。僭上な真似をお許しください。女性の御召し物に指図するなど、呉服屋でもない分際で」

「あ、ち、ちが、別に気に入らないとか文句があるとかそういうことでは……ああもう! 頭を上げて!」

「は」

 

 少女は羞恥を堪え、ぷんぷんと怒っている。

 愛らしい怒り顔でマフラー生地を持ち上げ、首筋に這わせた。

 

「……私のような女には、少し柔らか過ぎる気がします」

 

 色の印象、という意味だろうか。

 確かに、かの少女の面差し、纏う雰囲気は一廉のそれ。地味な装いならば際立ち、華美に飾ればなお華やぐ。衣装に負けるということだけはまず有り得ない。まず以て衣装“が”負け続ける。

 なるほど、それを思えばこの色は彼女にとり物足りないと感じるのやもしれぬ。

 しかし。

 

「僭上を、承知で」

「もうっ! いいですから、正直に仰ってください……」

「はい。家政長殿には、その……こうした優しい淡さが似合う、と。自儘に判じた次第で」

「……嘘。どうせ、紅魔のメイドには血腥い色がお似合いだ、とか思ってるんでしょう」

「滅相もありません。そのようなこと」

 

 紅魔館。吸血鬼の居城。名にし負う夜の王に従僕するメイドの少女。

 しかし風説は所詮風説。直に語らい関われば、十六夜咲夜という少女は実に快い人だった。ただの礼儀作法に留まらない、その思慮深い人柄は間違いなく好感に値する。主に対するその真っ直ぐな忠義の姿勢もまた、己はただ尊敬を注ぐばかりだった。

 

「お客様として迎えする以上に自分は家政長殿との語らいそのものを、日々楽しみにしておりました。言葉尻一つに伴われる気遣いも、紅魔の御当主を心より慮られた振舞いも、敬服を覚えます。勝手ながら、こちらの商店で接客を任ぜられるとなり、まずなにより先に参考とさせていただいたのが家政長殿、貴女です。そうしてなお至らぬばかりの自分に、根気よくお付き合いくださったこと感謝の言葉もありません。本当に」

「い、いいです! もういいです! わかりましたから……!」

「……またしても、不躾を」

 

 気付けばなにやら夢中で長々と言葉を重ねていた。己の必死さがひたすらに滑稽であった。

 見れば対する少女など、この身のあまりの見っとも無さにマフラーで顔を覆ってしまっていた。

 

「これ、頂きます」

「は、しかし」

「なんですか。似合うって言ったの、やっぱり嘘なんですか?」

「いえ、それは事実です。間違いなく。よくお似合いです。とても、お綺麗だ」

「…………」

 

 見たままの事実を告げる。美しい人を美しいと褒めている。語彙に乏しい己は実に愚昧である。

 

「よく回る舌ですこと。どこが口下手なのだか」

「世辞を申し上げた訳では……いえ、重ね重ね差し出口をお許しください」

「……しょうがないですね。許してあげます」

 

 鷹揚な言葉選びで、はにかんだ微笑を湛えて、少女は言った。

 怜悧な、時に冷厳とさえ映るその美麗な蒼い瞳が揺らぎ、新雪のような白い顔容が稚気(あどけな)く朱に染まる。

 胸奥に熱を覚えた。それは実に、身の程を弁えぬ感情であった。

 気付かぬふりをして、先刻少女が示したティーセットを箱に包み、風呂敷をかける。

 

「……マフラーは、このまま身に着けていくわ」

「承知しました」

 

 少女がライトベージュのマフラーを首に巻く。

 思った通り。淡い暖色は、この少女にこそよく似合う。

 

「やはり」

「い、言わなくてもいいです!」

「は」

「……? 代金はこれだけですか」

「はい、確かに」

「でも」

「いいえ、()()()()()()これにて全額となります」

 

 彼女が手ずから選び、購入を決めた物品の金子は過不足なく受け取った。

 そして己にしても、使い途のない給金に出来過ぎた使い途ができた。

 

「……」

「いつも御贔屓、まことにありがとうございます。どうぞ、暖かくして、帰り路にはお気を付けください」

「……ええ」

 

 風呂敷包みを抱え、少女が店を出る。表まで出向き、その姿勢の良い背を見送る。

 一瞬、少女がこちらを振り返った。

 少女は微笑んで────

 

 

 

 

 

 

 

 不動の彫像と化した彼に向き合う。

 優しい笑みで私を見送る、あるいは自分の気分次第では永遠に、見送り続ける彼を見上げる。

 

「……」

 

 陳腐な言葉は好きではないし、自分の行為を他者に斟酌されるなどは我慢ならない。

 ただ、そう、観念してそれを認めてしまうなら。

 私は恋をしたのだ。

 ありふれた恋をした。

 道具屋の手代の青年に。

 切欠や理由もまた、ごくありふれた細やかなものだ。

 彼は、十六夜咲夜という女の有り様を、ごっそりと、仔細なところを含め、掬い上げて認めてくれた。肯定し、見止めてくれた。

 私の忠節や厭世の葛藤を、なによりも救い難い“人間”十六夜咲夜を、尊んでくれた。

 それがただ嬉しかった。それは実に得難いものだった。

 私を、私の外見や造形や肉体を好む人間は居た。怖れ畏れる人間は居た。けれど、尊重してくれる人は、初めてだった。生き方を、有り様をして敬服を覚えるなどと口にされたのは、生まれてこの方初めてのことだった。

 見え透いた嘘、歯の浮くような世辞、そんなものはすぐに知れる。人間の虚言は見るも醜く酷く臭い立つ。

 逆に真心、などというものは、こんなにも胸を衝くものか。

 こんなにも、堪らぬものなのか、と。

 彼と面と向かって言葉を交わすのは、心身の気力体力を多大に消耗する。恋愛に現を抜かす小娘の戯言、そう言いたくば言うがいい。けれどそれと同じほど、心は踊った。胸は鼓動を早め、全身に血が走り熱を上げた。

 ああ、堪らない。やはりどうしても堪らない。

 だから、毎度このようにして自分の時間に逃げ込む。

 この中でならこんなにも自在だ。こんなにも簡単に向き合える。近寄れる。

 触れることさえ。

 

「……は、ぁ」

 

 ひし、と。その胸板に顔を埋めることさえ出来る。

 触れたそこからは匂いがした。青年らしい、若々しい匂い。男の匂い。

 じん、と。下腹に響く。

 私は淫蕩なのだろうか。

 これでも我慢しているのだ。

 朝、彼が御店に与えられた奉公人用の自室で目覚め顔を洗い歯を磨き清潔に身支度を整え朝餉を行儀よく食べ丁寧な手付きで食器を洗い飯炊きの下女に礼を言う様に歯噛みしナイフを握り締めて店の掃除の細やかさ行き届き具合に感心して店番の堂に入り様に少し呆れるやら誇らしいやら俸手振りの小娘の馴れ馴れしさに吐き気を覚えナイフを握り締めて上白沢慧音の世話焼き気取りの図々しさに苛立ちナイフを握り擲つ、までを耐え忍び卒のない仕事ぶりにやっぱり感心が募って昼餉をおざなりに済ませて仕事に戻ってしまう様子に怒って差し入れを持って行きこちらの来訪に驚きながらも喜んでくれたことが嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて日暮れまでずっと働き通しなことが心配で目が離せなくて夕餉を摂った後も帳面と商品と睨めっこで睡眠時間を削って勉学する貴方は素敵だけど歯痒くて井戸で体を清める姿に思わず、思わず、熱にうかされるように私は、私、私……ようやく床に入った貴方の寝顔のあどけなさにどきりと鼓動が早まる。

 貴方をずっと、暇さえあれば見詰め続けた。見ていたかった。

 流石に、(はばかり)に入るところは恥ずかしくて……。

 日に一度で我慢した。

 

「……意気地なし」

 

 自分を詰る。止まったこの時間でしか彼に向き合えない、惰弱な自分が呪わしい。

 いつか。

 いつか勇気を出して、この想いを伝えられたら。この想いのまま、動き進む時の中で貴方と触れ合えたら。

 とても素敵だ。とても、とても。

 それまで待っていて。どうか、どうか待っていてください。

 いつか必ず、貴方と向き合います。必ず。必ず。

 その為に。

 

「団子屋の娘、屠殺(つぶ)しておかないと」

 

 丁度、血のストックが心許ない頃合だ。処女ならばお嬢様もご満足いただける味を出せるが、男日照りの阿婆擦れのこと血の清らかさは期待できまい。

 誰の許しを得てこの人に、色目を、汚らわしい、見合いだと、ふざけろ、糞、糞、糞。

 

「っ!」

 

 気付けば彼の着物に縋り、きつくきつく握り締めていた。

 慌ててそれを整えて、人心地つく。いや、もう一度だけ抱き着き、匂いを嗅ぐ。

 

「……はぁ、大丈夫。これでまた、我慢できるわ」

 

 頬を撫で、その顔を見上げる。

 優しい笑みを形作る顔。

 恋しいその唇に、そっと口付けて────

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────歩き出した。

 少女のドレスの背中が街角に消える。それを見送ってから店内に戻ろうとした。

 

「……?」

 

 不意に、甘い香りがした。無論のこと香水など嗜まぬこの身に、その香りはひどく不似合いであった。

 しかし、奇妙なことだが。その香りはいつからか、どこからともなく香り立つようになった。己の周囲、時に、己の衣服に、いつの間にかその甘く艶やかな匂いは絡み付いている。

 不可思議な印象で、この身に纏わりつくのだ。

 

「いかぬ」

 

 ふと襟の乱れに気付き、整える。

 ぼんやりとしている暇はない。本日もまだまだ業務が立て込んでいる。

 己を包み、縋る香りを忘れ、己は今日も今日とて奉公に勤しむのだった。

 

 

 

 

 

 

 



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父娘(霧雨魔理沙)

霧雨商店周りの実に人間的な確執を妄想するのが楽しい。



 

「よくもまあ熱心に続くものじゃ。大商店ともなると財貨が余って仕様がないと見ゆる」

「霧雨の御当主は謹厳な御方です。どのような理由であれ不用意な支出を良しとはされません。その厳しさゆえに本心を、御家族についてを語られることも極々少ない。しかし、いつ何時であってもその心中で御息女を慮っておいでだ。間違いなく」

「ならば自ら出向いて行くのが道理であろう。店の手代を、それもただの人間をあんな場所に送り込む危険、わからぬ筈もなかろうに」

「己如きを遣わされるのは、御息女の機微を悟られればこそ」

父親(てておや)が実の娘と面と向かう度胸もないとは、嘆かわしい時代じゃのう」

 

 白銀糸の髪の下から、その深い青海色の目がこちらを流し見る。少女は呆れと侮蔑を隠さなかった。

 霧雨商店から程近い団子屋。店前の縁台に、物部布都(もののべのふと)さんと座を同じくしている。

 冬晴れの午後。納品を終えた帰り。いつからかこうして甘味処での休憩を()()()るようになった。

 店には必ず物部さんが待ち受け、世間話のついでにとある品の売買を行う。店の従業員には内密に、そう霧雨商店主人直々の言い付けで……と言って、半ば公然の秘密ではあるが。

 白い水干の袖口に、みたらしのタレが付かぬよう細心の注意を払いながら彼女は団子を頬張る。

 

「まむまむ……汚すと屠自古が怒るのじゃ」

 

 小柄な背恰好と幼気な面差し、なによりその所作が童女のようだ。しかし彼女もまた幻想郷の一廉の仁。断じて只人ではない。積み重ねられた歳月も、その力にしても。

 比類なき道術への精通。忌憚のない人物評を(うた)う古めかしい言い回しからも、それは窺える。

 

「甘々じゃ~」

 

 ……口の周りをべっとりタレ塗れにする様は、やはり童女の頑是無さだったが。

 懐紙を一枚差し出す。

 暫時、紙とこちらの顔を見比べ、気恥ずかしげに少女はそれを受け取った。

 

「……これでは、ぬしこそ父上様のようじゃな」

 

 少女は神妙に呟き、己の面相を見上げた。どうしてかひどく和らいだ視線で。

 無垢な瞳を前に、堪らず面を伏せる。訳知り顔で世話焼きを気取る我が身にこそ羞恥を覚えた。

 その時、ふと思い至る。

 

「もし、ご亭主」

 

 店主の老爺は、店脇の椅子に座ってのんびりと煙管を吹かせている。客は我々二人のみ。一日の繁忙の山を過ぎてしまえばあのように、かの老爺は優雅に構えて日暮れまで道行く人々や里の営みを眺めている。新参の己にとっても、すっかりと見馴れた姿だ。

 そしてもう一方(ひとかた)、この団子屋では見馴れた姿が────しかして見えぬ。

 

「今日は、お孫さんが居られぬ様子」

 

 平素、この店には老爺に加え、彼の孫娘が手伝いに駆り出されていた。覚えている限りほぼ毎日店に出て一所懸命に働いていた看板娘の姿が今日に限って見当たらない。

 

 ……

 

 問われた老爺は一瞬、声を詰まらせた。

 思わぬ反応にこちらが戸惑うのを察したのだろう。老爺は片手を上げ、待ったを掛けた。そのまま顔を俯かせ眉間を揉む。

 もう一瞬後、こちらを向いた老爺の目には、僅かに涙が滲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔法の森の瘴気は身体を蝕む。五感を惑わす。精神を侵す。

 まず以て人の踏み入るべき領域ではない。幻想郷に住まうなら、この地の理を弁える者ならばこの事実は常識以前のもの。

 無知は罪であった。人の法理を呑み下す神の原理を前にしては特に。知らぬ存ぜぬと嘯くは勝手だが、その教訓の代償は身命一つ。事程左様に、重い。

 それを承知で森を潜る愚物がここに一人。

 背負い葛籠(つづら)を担いで歪曲した木の根を踏む。うっかり気を抜けばそのまま足を取られ、側近くの奥深く密な草叢に身を呑まれたろう。その奥底で果たして何が待ち受けているのか。生命を脅かすナニかであることは疑いない。

 怪我など負ってはなお危うい。血の臭いを嗅ぎ付けた獣、化物(ケダモノ)が林の合間から木々の裏から、一気呵成に襲い掛かってくるやもしれぬ。

 幻想郷一との呼び声名高い薬師謹製の毒散らしを覆面に織り込み、特殊な火炎の術法にて燻した退魔の護符を体中に貼り合わせておらねば、森に分け入って十歩を数えずそうした末路を辿っていただろう。

 

「!」

 

 今ほど通り過ぎた草叢で音が立つ。枝を踏み折り、枝葉を掻いた残響。動くものの気配。

 

「……」

 

 こんなところで行き会うのだ。十中八九それは人ならぬ化生であろう。

 

「────」

 

 薬は無論のこと、護符にしても効能は永遠ではない。

 退魔の符呪術に秀でた物部さんによれば、札が十全に力を発揮するのは一両日が限度。それを過ぎれば鼻の過敏な獣化け相手であっても安全の保障はできぬ、と。

 往路はともかく、要件を済ませて復路を歩く時間までを念頭に置かねばならない。

 以上鑑みて、可及的に道を急ぐべきであった。

 

「────」

 

 こちらを見張るモノの影、有るか無きかも定かならぬ。人は怯えるべきなのだ。目に見えぬモノを怖れ、見通せぬ闇を怖れ、それでも一歩また一歩。注意深く、噛むような足取りで進む。命を惜しむほど磨かれる慎重さ。なるほどそれは実に健全だ。

 紛れもなく死の恐怖は生の実感を強める。己のような落伍者には、なんともはや身に詰まされる話だった。

 とはいえ、この魔の地を訪れたのは、なにも稀少な臨死体験を得る為ではない。

 不意に、木々の折り重なった帳が晴れる。

 その先で陽射しを浴びる一軒の家屋。煉瓦造りに漆喰の壁、硝子窓が嵌められ、石組みの煙突が一本伸びている。古風な西洋建築の小屋であった。

 そしてそれこそがまさしく目的地。

 前庭に入る。飛び石の両側の土は耕され畝が盛られ、整然と何かが植えられている。葉の形は南瓜に似ているが今時分に生長するものとなれば時期が合わない。

 ガーデニングというより家庭菜園といった牧歌的な風情醸す庭を通り過ぎる。

 玄関扉には鋲が打たれ、そこに木板が一枚ぶら下がっていた。

 『霧雨魔法店』

 屋号を記した看板であった。

 ノックをしようと腕を持ち上げた時、背後に足音が立つ。敷き石を革靴の踵で打つ硬質な音色には、はっきり覚えがあった。いつ耳にしても、それは少女の闊達さを顕すようで小気味良い。

 

「まーた来やがった。性懲りもない」

「こんにちは、魔理沙さん。本日はお日柄もよく」

 

 振り向いた先、噎せ返るほどの緑を背景に黒白(モノクローム)の色彩が穿たれる。エプロンドレスであった。しかし十六夜さんの装いがハウスメイド然としていたのに対し、彼女の纏うそれはより活動的(ビビッド)に映えた。黒地のワンピースと白い腰巻のエプロン。袖口、スカートの裾、エプロンの縁に繊細で精緻なレース編みが施され、衣装の随所にふんだんに白いリボンをあしらっている。

 黒い鍔広の三角帽子などは特に、丸く大きく()()()リボンを結び、少女にとってのトレードマークをそれは十全の愛らしさで担っていた。

 

「あ゛ぁーいぃいぃそういう時候のアイサツ。会う奴会う奴にやってんだろ? 体よく引っ張り込まれたとはいえ、商人の癖にいつまで経っても馬鹿みたい堅っ苦しいまんまだし。いい加減こっちの肩が凝っちまうぜ」

「商人なればこそ、礼節は重んずるものでは?」

「んなわけあるかい。あいつら慇懃無礼の権化だぜ。行儀のいいこと口から吐いて黒いもの腹に溜め込んでるのさ。勿論そいつを吹き出すのは、銭が絡む時だけだ」

 

 指で作った銭の輪を心底嫌そうに眼前で揺らす。

 威勢の良い口調も相俟って、まるで少年のような印象を振り撒く。当人の性質なのかあるいは、意図してのものか。

 否、霧雨魔理沙は紛れもない少女であった。白百合の花弁めいて可憐な少女であった。

 少女はぶっきら棒に鼻を鳴らす。

 

「お前さんに商人の才能なんてないぜ」

「ありがとうございます」

「……褒めてないっての」

 

 帽子の鍔を引き下げ、彼女は顔を隠した。

 

「ッ~! えぇい! 今日も掃除してくんだろ!? やりたきゃとっととやりやがれ!」

「はい、では早速着手いたします」

「ふんっ」

 

 少女の怒り顔に笑みと会釈で返し、玄関扉を開いた。差し当たり書棚の方から手を付けようか、などと思い馳せて、一歩。一歩も、踏み出す余地がなかった。

 壁があった。

 

「…………」

「あ」

 

 厳密には壁ではない。平積みされた本であり、薬瓶の詰まった袋であり、植木鉢を粉砕しながら生育する謎の植物である。

 玄関があり、扉がある。しかし、ここに入り口はなかった。

 ぽん、と魔理沙さんは手を打つ。得心の響きで。

 

「……そういえば最近は裏の窓から出入りしてるんだった」

 

 

 

 少女の一人住まいに、こうして家事代行サービス紛いを押し売るようになって早どれほど経とう。瑣末な荷役人足風情の身から、気付けば霧雨商店の末席をその身を以て汚していた。我が事ながら踏むべき段階と尽くすべき時間を逸している。

 新参、若輩、孺子。陰で実際に上役同僚からそのような謗りを受けていたかどうかは定かではないが、己自身にしてからが己自身をそう嘲罵せずにおれぬ。

 そうして現在。果たして如何様な値踏みの末の沙汰であろう。霧雨の大旦那は、出自の知れぬこの馬の骨にどうしてか特命を任ぜられた。

 

「今にして思えば、内々にとの仰せも頷けます」

「なんだよ」

「あまりに惨い」

 

 足の踏み場もない、とは言うが、まさか身を差し入れる隙間すらない部屋などというものがこの世に存在しようとは。いや、部屋と呼ぶことすら憚る惨状であった。

 

「うっせ」

 

 こちらと目も合わせず尖らせた唇の先から漏らす。どうやら多少悪びれてくれている。ならば己もこの上苦言を重ねるようなことはすまい。

 物の配置が乱雑煩雑複雑怪奇極まった有り様なだけで、たとえば飲食物をそのまま放置するような真似は決してしない。

 この少女なりの、線引きのようなものが確とあるのだ。

 

「……あいつの」

「は」

 

 羽織を脱ぎ袖を襷で絞る己に、少女は言った。

 

「雇い主の命令だからって、無理して来るなよな。め……迷惑なんだよ。こんな辺鄙なところに異能持ちでもない人間送り付けやがって……あんただって、ホントは……」

 

 半拍か、さらに刹那の間。彼女は躊躇を噛んでから。

 

「嫌々、来てんだろ……」

「自分の態度はそのように御覧じられるものでしょうか……?」

「や、そんなことないけど……ない、と思うけど……」

「こちらへの訪問を厭うたことはありません」

「……どうだか。異邦の土地でやっとこありついた勤め先の、その総元締の言い付けとあっちゃ、下っ端の首は()()()しか出来なくなるからな」

 

 切れのある皮肉だった。心底の嫌悪が言葉の刃先を研ぎ上げ、触れるだに肉皮を裂く鋭さ。

 そしてそれはきっと、彼女の胸の内に秘めたる恐れと表裏の感情であった。

 父親への失望を恐れ、なお募る期待すらも恐れ。

 ……心から労しいと思う。思わずにはおれない。

 

「大旦那様の御意向に対する顧慮も確かにあります」

「……」

「ですがそれのみで通いのハウスキーパーを請け負うには、ここは少々遠すぎる」

「命の保証もないときた。益々(いかれ)てやがる。なまじ金が余ると、奴さんには周りの人間が顎で使える奴隷に見えてくるらしいや。はっ、痴呆(ボケ)るのも大概にしやがれってんだ……糞」

 

 罵詈の限りの悪態は、しかしどこか必死さばかりが窺える。眉をひそめる代わりに、いつの間にか己は微笑んでいた。

 

「ご心配をお掛けします」

「別に……」

「しかしこれは自分が望んだ仕儀。御憂慮は無用です」

「望まされてる、の間違いだろ」

「いいえ」

 

 語気の強さとは裏腹に、少女は俯いたまま決してこちらを見ようとはしなかった。己の表情の中に、見たくはないものが宿るやもしれぬ、そう恐れておいでか。

 俺は肩を竦めた。努めて、お道化て。

 

「放ってはおけません。このような汚部屋を」

「ぐっ」

「蒐集家を自称なさるならば、是非とも物品の管理、整頓までを会得されるべきかと意見具申いたします。現状、他称の“号”を受けるのは大変難しい様子」

「う、うるへー!」

「前回から三日を空けずこの惨憺たる光景……まさか、この期に及んでまさか、異存がお有りと仰るか」

「ふ、ふぐぅ」

 

 ぐうの音なのか不平の鳴き声なのかもよくわからぬ呻きを上げながら少女は蹲った。その拍子に、不安定に積み上がっていた羊皮紙の束が雪崩を起こしてその身に降り掛かる。

 僅かに覗く三角帽の先端が、不満そうに自己主張した。

 

「……なんか最近お小言が増えた気がするんだが」

「森近さんより『どうか徹底的に、くれぐれも容赦なく』とアドバイスを頂きましたので」

「こーりんッ、あんにゃろう……!」

「魔理沙さんの気さくなお人柄が、あるいは己の口舌から忌憚を取り払ってくださったのやもしれません。他の何方かを相手取る際は、今少し慎みが働きますゆえ」

 

 少女の愛らしい発憤(リアクション)に冗句も思わず(まろ)び出る。迂闊なほどに。

 打てば響くようだった反応が、突如止まった。

 少し、調子に乗り過ぎたか。

 

「私、だけ……?」

「?」

「私は……と……さま……の、特別……?」

 

 折り重なった荷物書物の障壁が音を吸収する。少女の声はくぐもり、遮られ、とても満足に聞き取ることはできなかった。

 

 

 

 室内の清掃は約二時間で完了した。もともと多種多様多量の物品が整理されず放置されるままになっていた、言ってしまえばそれだけなのだ。

 床や壁に頑固な汚れが染みつき、塵埃が積もり、黴が侵蝕し、食べ物が腐り、鼠や黒蟲が無数に床を這い回っている……などということもない。

 形ばかり箒で板間を掃き、どうしたものかと逡巡する。

 魔理沙さんは窓際のソファに胡坐を掻いて、終始作業する己の様子を眺めていた。格別、提供できるほどの面白みもないのだが。

 彼女の視線は熱心だ。思えば、以前から。己の家宅訪問が始まってより、いつも、いつも。

 彼女は食い入るように、こちらを見ていた気がする。

 

「想定よりも手早く済みました。庭の方も少し手入れをしましょう。薪の備蓄を増やしても構いませんか?」

「ん……」

 

 少女は了承であろう頷きを呉れる。

 今度こそ玄関を通って前庭に出た。菜園の雑草を抜き、切り株を斧で細分する頃には、陽は完全に南の空へ昇り切っていた。

 

「物好きめ」

「は」

 

 嫌味と共に差し出された手拭を受け取る。冬の木漏れ日も馬鹿にならぬ。有り難く、額に浮いた汗を拭った。

 

「ありがとうございます」

「人の世話焼くのがそんなに楽しいかよ」

「是か非かでお答えするなら……(はい)、とても楽しんでおります」

「私には全っ然わかんない趣味だぜ」

「僭越ですが至極一般的、かつ真っ当な趣味かと思われます」

「あん?」

 

 腕組みしてこちらを胡散臭そうに見上げる少女に、したり顔の笑みを送る。

 

「手の掛かる子ほど可愛いものです」

「…………」

 

 少女は顔を赤くしてそっぽを向いた。

 宅に戻ると、魔理沙さんは茶を淹れると言ってキッチンへ入った。ソファから腰を上げかけた己に「大人しく座ってろ」としっかり釘を刺すことも忘れず。

 アンティーク調の丸テーブル。花のレースのテーブルクロス。キルトのソファカバーはどうやら手縫いであった。

 ソファに置かれた丸いクッションにも大きな白いリボンが結われている。

 ふと見れば随所に、少女らしい趣の室内。今更に、身の置き所をわからなくなる。

 ティーセットを携えて戻って来た魔理沙さんは、二つのカップにハーブティーを注いだ。

 ソーサーを受け取る。澄んだ赤橙色の水面。口にすると、ローズヒップの程よい酸味が疲れた体に沁みた。

 少女は己の隣に座り、同じくカップを傾ける。

 

「今年の白菜はとても甘く肉厚です。次回は鍋でも拵えましょう」

「ホント? やった。楽しみ……」

「綿入れはもう出しておられるでしょうか。本日は季節柄もない日和でしたが朝夕の冷え込みは例年に劣りません。もっと暖かくなさいませ。マフラーか、何か羽織るものを。そう、以前お贈りしたストールでも。如何な風の子とて風邪を召されては一大事」

「えへへ……」

「万が一体調を崩されるようなことがあれば、すぐにお報せください。いつ何時、どのような状況でもお召し出しくださって構いません。そしてその際こちらの都合を顧慮される必要もまた一切ありません。即時伺います」

「……いつでも?」

「はい。いつでも必ず馳せ参じます」

「………………」

「しかし、となれば……幾つか連絡手段を勘案せねばなりません」

「……うん……うん」

 

 清掃と雑務を終えた後、こうして彼女の淹れてくれたお茶を相伴する。世間話の一つ二つは交わすものの、大抵の場合、魔理沙さんは黙ってカップの水面に視線を落としている。ここ数ヶ月、同様の、近似の時間を繰り返してきた。

 今も、頻りに頷いていたかと思えば不意に、少女はどこか上の空になる。ぼんやりと視線は宙を彷徨っている。あるいは、まるで……うっとりと、夢を見るように。

 この、苦を覚えぬ沈黙は稀少である。少なくとも今、己にとってこの時間は得難く、穏やかだった。

 傍らの彼女にとってもそうであってくれたなら。それは無上の幸いなのだが。

 そうしてまた間を埋める程度の零れ話をする。

 

「────と、まだ年若い方ですが、職人としての腕前は当代一との評判で。ああ、そういえば」

「……ん」

「人里の団子屋をご存知でしょうか。商店から呉服屋へ、通りを真っ直ぐ行った途上にある。そこに勤める娘さんと」

「うん……」

 

 応えは曖昧で、声音はどこか舌足らず。眠気に抗う子供のようだ。話の半分も耳に届いているか怪しい。

 構わない。子守唄を聞かせるような心地で益体もない話をする。そうそれこそ、お話、寝物語で十分なのだ。

 どうかこの子が安らかに、眠りの世界へ行けますよう。

 そんな夢想を抱いた。

 

「祝言を上げるのです」

「────今、なんて」

 

 脱力弛緩していた仄暖かな気配が、その刹那、凝結した。

 気配の主たる魔理沙さんがカップの水面から顔を上げてこちらを見ている。見開かれた目は大きく、瞳の輝きは真実宝石のそれを凌駕するだろう。

 それが消える。

 欠片、粒さえ残さず、消える。光が消える。輝き、煌めき、明るみをもたらすあらゆる光子が、消失する。

 代わりに浮上したのは底の見えない黒。沼の淵のような闇の溜まり。光の消失は決して他のものの喪失を意味するのではない。そこには確かに満ちている。感情が、混淆の果てに色を失くす様に似て、渦巻いている。ただもう一つ、溢れてくる。それはどうしてか涙だった。おそらくこの世で最も清らかな液体を少女は無闇に費やすのだ。

 

「魔理沙さん……!?」

「ど、ど、ど、ど、どうし、どうして、どうして? ねぇどうして? しゅっ、祝言? なんで、なんでぇ!?」

 

 ソーサーを取り落とし、カップは転落した。中身がぶち撒かれ澄んだ赤色を浴びる。着物などどうでもよいが、少女手製のソファカバーが気掛かりだった。

 さても捨て置く。

 少女は両手で己に縋り、この目を見上げた。奈落の底から決して届かぬ天上界を仰ぐような、絶望が彼女の目には宿っていた。

 

「一体、如何されっ……いえ、はい、どうとは。何故、とは」

「はっ、はぁっはぁっ、わたし、だけ、はぁはぁはぁっ! わたしの……わたし、のぉ……!!」

「はい、魔理沙さんは、何をお尋ねになりたいのですか? どうぞゆっくり、お聞かせ願えますか」

 

 手を取り、肩を抱く。すると少女は己の胸に顔を埋めた。一心に額を擦り付けた。まるで胸倉を抉るように、胸骨を割り除け、さらに奥底へ這い入ろうとするかのようだった。

 背中を擦った。細い背骨の奥で、しゃくり上げ、乱れる小鳥の鼓動を感じた。

 

「やだ。やだぁ!」

「なにがお嫌でしたか。よければ、教えて欲しい。魔理沙さんの気持ちを聞かせてください」

「結婚、やだ……しないで、誰とも……いかないで……置いていかないでッ!」

「結婚……? あっ」

 

 文脈を顧みて、得心する。

 

「団子屋の娘さんと祝言を上げられるのは、里の大工組の若衆のお一人です」

「…………へ?」

「自分ではありません」

 

 先日の、麗らかな午後の出来事を思い起こす。

 団子屋の老主人は、孫娘の祝報に涙を流して歓喜していた。

 一時、かの女性との見合い話などが持ち上がったこともあった。持ち上がった、と言って酒屋の店主が一人盛り上がっていただけなのだが。そこへきてこの華燭の儀、見事な立ち枯れであり、蓋し幸いであった。

 罷り間違って縁談の運びとなり、良い仲の二人に水を差さずに済んだ。

 斯くありて、話半分が耳に入ったことによる少女の勘違いは、あっさり氷解した。

 胸板に拳が落ちる。二度、三度、然して痛みはないが、少女の怒りと烈しい羞恥が如実に響いてくる。

 

「べっ、べつに! お前さんがどこの誰と夫婦になろうが私にゃ関係ないけどなッ!!」

「はい」

「はいじゃねぇよ!!」

 

 真っ赤に燃える憤怒の形相を前に、それをどのようにして宥めたものか考えあぐねた頃。

 はっとして、魔理沙さんは己の小袖の裾を摘まむ。老松色の木綿地に赤銅色の黒々とした染みが出来ている。先程のローズヒップだ。

 眼下で、金色の形の良い旋毛がこちらを向いた。

 

「ご、ごめんなさい」

「どうということはありません。どのみち森を歩けばこれ以上に汚れるのですから」

「着替えないと……」

「いえ、放っておけばいずれ乾く」

「ダメ! 風邪ひいちゃう!」

 

 思いの外に押し強く語気の迫力なお増して、急き立てられながらソファを立たされた。

 帯を解かれ、小袖を脱がされ、魔理沙さんはそれを持って慌ただしく奥の部屋へ入っていった。股引に半襦袢という放置されるには少々見っとも無い恰好で約一分ほど待ち惚ける。

 そうして彼女は戻って来た。その手に黒い生地を載せて。着物であった。

 

「ん……」

 

 少女は着流しを広げ、掲げる。袖を通せということらしい。

 指図に従い、腕を入れ、肩身に羽織る。前を合わせて帯を結び、衿を正す。

 身幅も身丈も見事にぴたりと嵌った。

 

「これは……」

「……」

 

 見れば左肩から足元へ、衿に沿って金と白の糸が織り込まれている。墨か夜空のような黒地に走る流線は、空を真っ直ぐに飛翔するとある少女を想起させた。

 目の前の少女を。

 

「魔理沙さんが、これを」

「悪いかよ」

「……」

「日頃の、その、礼だよ。有り難く思えよな!」

 

 またしてもぶっきら棒に、仏頂面を作って悪態吐く様。それはひたすらに微笑ましい。事実、頬は笑みを浮かべずにおれない。笑っている、その筈だった。

 だのに、目頭が熱い。

 

「お、おい。なんだよ……泣いてるの……?」

「ふ、ふふっ……いえ、これは不覚……不意を打たれました」

「……もぉ、恥ずかしいなぁ」

「はい、申し訳ありません」

「いいけど……ぷ、ふふ、いいけどぉ」

 

 有体に言って感激であった。感無量であった。

 この娘の心優しさが、ただただ嬉しくて、心優しく在ってくれることが、喜ばしくて。

 

「ありがとうございます」

「どういたしましてっ」

 

 輝くような笑顔に、この胸は満たされる。身の程知らずに。分際を忘れて。

 ────本来、誰よりもこれに浴すべき人を、差し置いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の奥は寝室だ。ベッドがありサイドチェストがあり衣装箪笥がある。

 あるのはそれだけ。それだけだっていうのに、あの人は気を遣ってか、大掃除の最中でも決して無断でこの部屋の扉を開けることはしなかった。別に構わないのに。あの人になら、構わないのに。

 この家にはあの人に見られたくないものなどない。見て欲しい。全部、余すところなく。私を見て欲しい。ずっと見ていて欲しい。

 ただ、そう一つ。一つだけ、見られると困ってしまうものは。

 

「■■■」

 

 開錠の呪文を唱う。人語ではない、魔術の呪詞(コトバ)である。

 ベッドが空間の裏側に折り畳まれ、床板が丸く消失する。ふわりと湖中で水底に落ちるように、地下へ降り立つ。

 入り口に蓋をする。

 無明、闇黒の空間が居座ったのも一瞬のこと。

 入室と共に主の魔力を感知して魔石の灯が点る。照らし出す。

 あの人、あの人、あの人、あの人、あの人。

 無数のあの人、数多のあの人、万化のあの人。

 優しく微笑む顔が好き。お包みのようにやわこくて、暖かくて、切なくなるくらい、心地よくて。

 困ったように眉尻を下げる顔が好き。慮ってくれるから、呆れたり、叱ったり、どう言ったものかなんて逡巡するのも、私を想ってくれているから。その証のような苦心が、愛しかった。

 真剣に思い悩む顔が、好き。考えてるのは私のこと? それとも料理の出来栄え? それとも、私のこと? 私のこと。私を、想って。私だけを想って。もっと考えて。ずっと私のことで頭を一杯にして。して欲しい。してください。してくれなきゃ……イヤ。

 薄い色ガラスの表面に焼き写された画。あの人の画。

 理屈は念写に近い。違うのは、写し取るのが脳裏に映したものではなく、この目で実際に見たものであること。

 眼球に貼り付けた薄い硝子体(レンズ)が、肉視したあらゆる像をこの地下室にある石のフィルムに焼き付ける。任意に、いつ、どこであっても、いくらでも。

 傍らの書棚から一冊、アルバムを手に取る。

 開き、最新の項に、今日の日付に()()()を貼り付ける。

 ソファにあった。あの人の髪の毛だ。これで128本目。

 彼が口を付けた47杯目のカップを保管棚に仕舞う。

 彼が腰を下ろしていた丸クッションを胸に抱き、彼の汗が浸み込んだ手拭を口に含む。

 彼の小袖を羽織って床に蹲る。

 

「ふ、ん、ぐ、む……んんっ……」

 

 至福だった。安堵がじわりと胸に満ちていく。満ち足りていく。

 あの人の匂いで一杯だった。

 けれど。

 やっぱり。

 本物にはまるで、まったく、どうしたって敵わない。

 本物、本物の。

 

「父さま」

 

 私の父さま、私だけの父さま、本物の父さま。

 私を作ったあんな偽物とは違う。私を想ってくれる。私を心から、愛してくれるのは、あの人だけ。

 

「父さま……父さま……」

 

 この部屋の中のものは慰めに過ぎない。あの人が訪ねて来てくれるまでのただの繋ぎ。

 でもそれなら、できるだけ濃くて、強い方がいい。皮脂や垢でも、唾液や尿や血、それ以外でも、それ()()でも、イイ。

 より色濃くあの人を感じられるものがいい。

 いつか、本物を手に入れるその日まで、我慢する。いい子にして待ってる。

 だからいつか、“その日”が来たら。

 

「いっぱい褒めて、父さま」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の変調に、不安定な情緒に、気付かぬ道理はなかった。

 それが彼女の出自に関わるだろうことも。父と娘、親子の深い深い確執が。

 大商店の娘御に、御店の主が嘱望を抱かずにおれようか。それを家の都合の一語に断じてしまえようか。

 彼女が跡取りを設けてくれること、いやさ彼女自身が跡取りとなってくれること。

 しかし父御、それに留まらず膨らむ周囲の期待という重圧が、幼子にとって安らかであった筈がない。なにより少女には夢があった。魔道という一廉の道が。

 夢にひた向かう。夢の為にあらゆる努力を惜しまぬその姿を尊く思う。

 少女の夢が叶うことを、心から願っている。願うことしか、祈ることしかできない。

 だが同時に、少女が、彼女の父御と、再び解り合える日が来ることを己は(こいねが)っていた。親子なのだ。この世に一人と一人の、唯一の関係性。二つとない、絆なのだ。

 代わりなどない。

 喪われれば、もはや。

 

「…………」

 

 人里の夕空、物見櫓の落とす黒く長く深い影に埋まりながら、俺は夢想した。娘を想う父の心がいつか届く、その日を。

 

 

 

 

 

 

 

 



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虚実(射命丸文)

短くて恐縮ですが。



『人妖カップル遂にゴールイン! 里の道具屋勤め手代男性と鴉天狗女性、幻想郷初の異類婚姻』

 

 人里の霧雨商店勤務の一般男性(16)と妖怪の山は天狗衆広報所属鴉天狗・射命丸文(■)とが今月大安に入籍を報告した。

 射命丸文氏は「私事ではございますが、この度人里の一般の人間男性との婚姻をご報告させていただきます」と同氏が制作する幻想郷時事情報紙媒体、本紙“文々。新聞”にて発表。

 射命丸氏は今回の異類婚姻について、そこへ至るまでの経緯を語った。

 

「相手の男性とは、その勤め先である霧雨商店に客として訪れ、応対されたのが初対面でした。

 実はその数日前に(わたくし)ちょっとした失敗を犯してしまいまして、愛用の写真機が壊れてしまったのです。すぐさま知り合いの、絡繰に精通した河童に修理を依頼したのですが、彼女曰く修理には破損した部品を交換する必要がある、しかしこの部品というのが現在の幻想郷ではえらく稀少な素材で出来ているとかで、その素材が手に入らぬことには修理の仕様がない、と。ええそれはもう往生しましたよ。(おどけて笑う)

 

 報道記者として、勿論最重視すべきは記事の文面です。情報を幻想郷のあまねく人々に随時発信することこそ私の本分ですから。しかし、やはり光景をそのままに伝えられる写真は、その訴求力において人後に落ちません。紙面の完成度という点でも写真の掲載は不可欠でした。そしてもう一点、これは……純粋なジャーナリズムというより、全くの私心で大変恐縮なのですが、愛用する道具を失うという事実が殊の外に堪えてしまって。公私両方の部分で焦りを覚えていました。

 方々手を尽くしてその素材とやらを探し回りましたよ。珍品揃いの香霖堂さん、先端技術に明るそうな永遠亭さん、紅魔館の鬼姫さんも浪費家な方ですからもしやしたらと巡りましたが、無駄足でした。思えば本当に、精神的に追い詰められていたのでしょう。普通に考えて人里の道具屋なんかに写真機の部品に加工する為の稀少素材、なんてものが置いてある訳もない。藁にも縋る、というやつでした、ええ。

 その困窮がまさか、彼との出会いを私にもたらしてくれるなんて……まさに運命だったんですね。(顔を赤らめ)

 

 事情を説明すると彼はその足で無縁塚に向かいました。ええそうです。あの人妖共々から恐れ忌み嫌われるあの場所です。この世に縁を築けず、あるいはそれを失い死した者達の打ち捨てられる墓所。本来、生きている者が足を踏み入れるべきではないところです。まあ香霖堂の御店主などは、好き好んで入り込んでは廃品回収に勤しんでおられますが。

 だからこそだったのです。幻想郷外の物品を手に入れようとするなら、結節点であるあそこに探し求める他ないでしょう。

 絡繰やら工作に造詣の無い私では無理でも、彼なら見付ける目がある……そう易々と考えていたあの日の自分を殴りたいです。

 一週間が経ち、二週間が経ち、三週間が経っても目的のものは見付かりませんでした。当然でしょう。聞けばその素材というのがまた、外でも採掘が難しい金属なのだそうで。あったとしても木っ端な端材にくっついているのが精々だとか。

 時が掛かれば掛かるほど、彼は心身共に疲弊していきました。あそこは存在から死に寄っています。天狗のこの身であっても気分の良い所ではありません。たっぷりと冥界からの気が立ち込める空間ですから。生者の命と魂などはたちどころに蝕まれてしまう。

 すぐに探索中止を提案しました。いえ、制止しましたよ。当たり前でしょう!

 でも彼は、頑として諦めなかった。それどころか……彼、微笑んで言うんです。『ご配慮に感謝いたします。しかし心配ご無用。ここはむしろ自分のような人間にこそ相応しい場所です』って。

 堪ったものじゃないですよ。あんな優しい顔で、まるで老衰を待つ老人のような……穏やかな顔で。

 結局、彼はそこからも一月毎日、無縁塚に通い詰めた。里での勤めを終えてから、夜通しで、ですよ?

 私の為に……私の為に命を削って。(涙ぐむ)

 

 写真機ですか? ご覧の通りです。彼は成し遂げてくれました。あの時の感激と、なにより安堵は向こう千年忘れませんよ。本当に、感謝のしようもありませんでした。

 その後、時間を掛けて徐々に打ち解け親しみ、交際にまで発展して、今日の婚儀へ至ることになりました。不束の身ですがこれを捧げることであの時の感謝を表していこうと思っています」

 

 異種同士の婚姻については「反対が全くなかったかと言えば嘘になります。実際、直属の上役や妖怪の山の総頭領であられる天魔上子からは交際するに当たって良い顔はされませんでした。定命の彼と長命の天狗、生き方考え方の違いは数多いです。これから先ごちゃごちゃと意味不明な難癖をつけてくる“外野”も出てくるでしょう……でも彼は、苦難を共に分かち合って乗り越えてくれる方です。そう確かに信じられる、そんな人柄の彼だから、一緒になろう、一緒になりたいと思えたんです。(照れ笑いする)

 此度、きちんと筋を通して身を固めることの決心を伝えたところ、天魔様より暖かいお祝いの言葉を頂けました。いずれ誰もが認めてくれるでしょう。いいえ、認めざるを得なくなる」とし、この婚姻が妖怪の勢力内で広く()()()()()()()()()発表であることを強調した。

 

 最後に射命丸氏は「今は里の大店の手代勤めの人ですが、いずれは妖怪の山の天狗衆で広報や渉外のお手伝いをしていただこうと考えています。その際は、改めて妖怪の山に新居を設けて、そこへ一緒に移り住もうと。そうです、いわゆる愛の巣というやつです(笑)彼も概ね了承してくれました。そこで二人の将来について、じっくりと話し合っていきます」と締め括った。

 なお挙式は身内で内々に執り行う為、祝儀の類は無用、ただし祝辞の手紙ならば幾らでも、とのことである。

 続いて、今回の婚姻に当たって関係各所からはこのような意見が────

 

 

 

 

「…………」

 

 冬晴れの青空から里の通りへと無数に降り注ぐ紙片。

 霧雨商店前の路上に立ち、号外の新聞記事を手に、その文面を呆然と俺は見下ろしていた。

 言語的な読解は可能であった。文語として瑕疵の無い文章であった。

 ただ意味理解ばかりが困難だった。誤謬と呼ぶには大胆過ぎる。

 人里、霧雨商店勤務、手代の十六歳男性とは。氏名は明記されていないが、これは紛うことなく己という人間を指し示していた。

 道行く人が俺を見ている。近所住まいの顔見知りの方々などは、口々に祝いの言葉を投げ掛けてきた。

 覚えのない祝辞は、耳を素通りするだけだった。ただ通り過ぎ様、頭蓋の内に困惑だけを醸成して。

 

「これは、一体」

「あやや、どうされましたか」

「!」

 

 背中に掛かったその声に振り返る。そこには果たして、彼女が在った。

 黒髪に朱の頭襟、白いパフスリーブのシャツに黒いループタイ、黒いミニスカートに高下駄。山伏の装いを極限までファンシーに仕上げたならばこうもなろうか。黒翼を背に負うた鴉羽の少女。

 射命丸文。

 思えば己が手代に取り立てられてからの、初めてのお客が彼女だった。

 壊れた写真機を胸に抱き、軽薄を装いながら、瞳を不安に揺らがせる少女の姿は未だ瞼の裏にも新しい。

 念願叶って愛機を取り戻した少女の喜びに涙する様は己とても今なお喜びを以て思い出せる。だのに。

 

「この仕儀は、どのような」

「貴方が好きだからですよ」

「は」

 

 儚げに微笑んで少女は言った。

 己は思いも寄らぬその言葉に喉奥を塞がれ、二の句を失った。それでも惑乱する口舌をどうにか動かし働かせる。

 

「し、しかし、この記事の内容は」

「事実ですよ?」

「いいえ、これは……虚実です」

 

 確かに事実を含む部分もある。だが、己と少女との関係については全くと言っていい無根の作り事。

 であるのに、虚実と口にすることを躊躇ったのは……眼前の少女の顔があまりにも儚く、寂しげであったからか。

 

「いずれ事実になります。その為に幻想郷中に流布(こう)したのですから。他の痴れ女共がそろそろ怒り狂って出てくるでしょうが、それこそ私の思惑です。その顔面に肘を突き入れ、貴方が私と共に在るべき、在らねばならないただ一人なのだと知らしめてやる」

「なにを」

「事実と真実は同一でなくともよいのです。巷間と人心に蔓延し浸透してしまえばそれは立派な事実となる。私の十八番です」

「……それでよいと仰るか。貴女が、射命丸さんが自分に……自分などに好意を寄せてくださると言うなら、このような術策を用いて得た有名無実で、貴女は満足できるのか」

 

 一癖も二癖もある彼女の在り様には、己のような凡人はただ振り回されるばかりだったが。

 それでも、その一所懸命さを疑ったことはない。記者としてこの土地を飛び回り、多様な情報を発信してくれようという気概。報道という一路をひた飛翔し進む、一条の真っ直ぐさを。

 

「報道記者たる射命丸文は……!?」

「……意地悪ですね」

 

 痛ましげな笑みが浮かぶ。

 見るだに、胸にナイフを刺されたような心地だった。それをさせたのは他らなぬこの身である癖に。

 その、少女の姿が────消える。眼前より、陽炎の如く。

 

「だから、好きになったんです」

「!?」

 

 またさらに背後、耳元に囁かれた声に、しかし振り返るだけの暇は与えられなかった。

 気付けは地上は遥か眼下。身体は空にあった。

 少女の細腕に軽々と抱えられ、己は飛翔していた。

 

「だから、なにをしてでも覆させない。貴方と私が結ばれる────その“事実”だけは」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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漁夫(?)

大乱闘スマッシュガールズ。
ぽろり(墜落的な意味)もあるよ。


 落ちる夢、というものを見たことがある。

 それはただ階段や敷居といった段差を踏み外すような些末なレベルのものもあれば、断崖から奈落へ突き落されるような殊更心胆の冷えるものまで様々だった。

 とはいえ、夢は所詮夢だったのだと。今、それを思い知る。

 己が貧弱な想像力を凌駕し陵辱する現実。本当の墜落とは()()なのだと。

 雲すら掴んでしまえそうな高高度、空の高み。身体を下方から袋叩きにする暴風、否、空気にこの身自らがぶつかり、押し退けている。

 高速で。

 空から落ちて。

 墜ちて。

 

「く……ッッ!」

 

 姿勢制御は至難であった。スカイダイビングなど無論のこと経験はない。況して、空を翔ぶなどという行為は、尋常凡庸の只人に過ぎないこの身とは無縁の仕儀。

 錐揉みし、前転側転を繰り返した末、身体は裏返って気付けば上空を仰いでいた。

 背泳ぎでもするように、空を。身を切るほどに冴え、青々とした冬晴れを。

 その只中を舞い踊る影。彼女らが。

 光彩(ひかり)を纏いながら。

 

「人間が気安く空に上がって来るんじゃあない……!!」

 

 戦気を吹く。

 鴉の黒翼が開く。

 天狗の面目躍如、その手に握った五葉の羽団扇が一振りされた瞬間、風が吹き荒れる。明確な異能によって風が操作され、行使されている。質量を持つまでの密度で逆巻き、生まれ出でたるは竜巻。その数実に五柱。

 天象を、射命丸文は事も無げに放った。

 天地に亘って聳え立った風の柱が、削り取った地表の樹木や土砂、石礫を雲まで吸い上げる。そうして向かうは一目散。

 空を飛翔するもう一つの影へ。白と黒のコントラストを押し包むように。

 

「……しゃらくせぇ」

 

 霧雨魔理沙。彼女の手に器械が握られている。

 刻一刻落ち続け高度を減じていく己にはもはやそれが何かを確かめる術はない。しかし、その用途だけは、次の刹那に知れた。

 彼女は無造作に、その手掌を竜巻へ向けた。迫り来る暴風の渦へ。

 光が溢れた。

 極彩色の光流。光子の束。暴流。まるきり氾濫する河川が下流の全てを呑む様相で。

 それは明らかな砲火であった。膨大な熱量と暴虐な破壊力を有した、あれは射出兵器なのだ。

 光は竜巻を、天象を呑み下す。溢れ出るまま光線は軌跡を描き、野山の遥か向こうへ伸びる。果てしなく伸びる。

 それを少女は手繰り、残り四柱の暴風すらいとも容易く薙ぎ払った。

 現実離れした光景にただ呆然とするばかりの我が身に、不意に影が差す。

 上空から、こちらに追い縋って同じく墜落、いや高速で降下する存在がある。

 

「さあ、手をっ。こっちに……!」

 

 十六夜咲夜が、その手を伸ばして、己に手を。

 

「抜け駆けしてんじゃねぇぞメイドォォォオオオオオオオ!!?」

 

 烈火の如き怨嗟が天空に轟く。

 魔理沙さんの怒気が視線に乗って標的を、十六夜嬢を捕捉する。魔砲の砲門が彼女へ。

 

「い」

 

 いけない。発音すら許されなかった。

 魔理沙さんは躊躇しなかった。

 光が瞬く。さながらマズルフラッシュ。先刻の非常識な極大ビームとは異なる。

 八つの光流。八条に散華した光線が降り注ぐ。空中を空間を寸刻み、時に蛇行しながら、過たず十六夜嬢の背中に。

 

「ちっ」

 

 舌打ち一つ。それが耳孔に届いた時には既に、ハウスメイドの彼女の姿は眼前から消失していた。

 八つの光は虚しく虚空を過ぎ去り、己の横合いを擦り付け。

 

「!」

 

 光が。光は────突如屈折する。

 通過するかに見えたその寸前、軌道が変転する。明らかに不自然に。

 それは再び天へ昇り、魔理沙さんの至近へ迫った。魔理沙さんの近接に()()()十六夜嬢へ。

 十六夜嬢が消える。距離を置いてまた現れる。そしてまた消える。

 消失と出現を繰り返す少女の怪態、しかして八発の砲火は執拗にそれを追い掛ける。追尾する。

 

「小賢しい」

 

 冷厳とした悪態が針のように鼓膜を刺した。

 そうして瞬き一つ後────空には銀のナイフが満ちていた。

 目の前で起こったありのままの事実を己の脳は理解し得ない。大量の、無数の、ナイフの群が、前触れもなく突如空間に姿を現した。そのようにしか見えない。

 それらは明らかな指向性を持って魔理沙さんへ殺到した。

 

「鬱陶しいんだよ!」

 

 純銀の刃は一人の少女を筵として串刺しにした。しようとしたのだ。十六夜咲夜の意のままに。

 

「魔理沙さんッ!?」

 

 血達磨の赤と化す白と黒のエプロンドレスを覚悟した。その惨状を。

 そうは、ならなかった。気息を吐いて安堵に胸を撫で下ろす傍ら、その光景に唖然とする。

 星形の光が少女の体を四方八方で囲い、凶刃の到達を尽く防いでいた。

 先刻承知の、今更に過ぎる理解が脳裏を過る。

 即ち、魔法。そう呼ばわる異界の技術の実在を、ようやく目の当たりにした。

 少女がこちらを見下ろしている。嬉しげだった。名前を呼ばれたことが嬉しくて堪らないと。

 

「父さま……待ってて、今行くから」

「妄言を吐かないでいただける? 父性乞食(ファザコン)女」

「うるせぇ。奴隷(メイド)は帰って化物の世話だけ焼いてろ」

「帰るのは(うぬ)らだ」

 

 その時、天高くから高速で来る黒い機影。落下攻勢。

 射命丸さんは進突する。単身であり、()()である。彼女はその身に巨大な風を纏っていた。光の屈折率を変えるほどの濃密さ。風の鎧。否。

 城砦だ。

 

「ちっ!」

「糞!!」

 

 それぞれに怨嗟を吐いて、二人の少女が蹴散らされ、彼方へ飛ばされていく。

 その中央を突き破って鴉羽の少女は勢い、己を両腕に捕獲した。

 

「あ~やや危うい危うい! もう少しで地面に激突ですよ。はぁ、あの色惚け共、頭に血が上って貴方の身の安全なぞ度外視ではないですか。ま・さ・に、欲一念! 貴方を自己の満足の為の道具としか見ていない証拠。まったく救い様もありません。ねぇ?」

「……」

 

 明るく朗らかな射命丸さんの言葉に、即座返答はしかねた。残念ながら同意もまたしかねる。

 眼下には鬱蒼とした森の緑が広がっている。少女の言の通り、地表まではあと100メートルもなかろう。墜落は絶命と同義であった。

 

「さてさて、邪魔者が戻る前にさっさと」

「ッ! 射命丸さん!」

「え」

 

 彼女の反応は敏速を極めた。が、如何せん、その視線も意識も完全にこちらを向いていた。

 その銀鎖は彼女の真背後、死角から擲たれた。そうしてまるで意思を持った蛇の如き挙動で射命丸さんの細首に巻き付く。皮膚と首筋の肉を押し潰すまでの強さで鎖は食い込む。

 

「がっ、ふ……!?」

 

 空中に浮かぶ少女の身体、そしてそれに抱かれる己もまた揺らぐ。傾ぐ。

 苦しげな少女の呻き。焦燥する。内臓を掴み上げられるかの。

 

「お待ちを! 今……!」

「だ、ダメ、です……!」

 

 制止の声は意図して無視した。少女の後背から伸びる鎖を掴み引き付ける。力の限り。彼女の首を絞め上げる力に対抗する。

 それは拮抗、しなかった。

 

「?」

 

 あっさりと引き寄せることができた。鎖は撓み、だらりと張力を失い、しゃらりと音を立てて射命丸さんの首から外れ。

 次いで己の腕に巻き付いた。

 

「これ、は……!?」

「ぁ、あぁッッ!!?」

 

 腕を締め上げた鎖が、さらなる力で引っ張られた。

 はて、長竿で一本釣られた鰹の心持ちとはこのようなものであろうか。

 叫び縋ろうとする少女の腕を抜けて、山なりに宙を踊る。

 そう仕向けた釣り糸の主はすぐそこに。十六夜さんは銀鎖を巧みに操り、捕縛したこの無様な男を出迎える。

 その表情、平素は努めて無を演ずる彼女の顔には今、千秋の待望が湛えられていた。

 

「さあ、こっちへ……」

 

 光が奔った。

 それは一陣の閃光。そして熱量。

 純粋な光線熱によるヒートカッター。鎖が破断する。

 同時に我が身は浚われた。

 

「ッ! ちぃぃいッッ!!」

 

 物干しに吊られた洗濯物同然に去り行く己を、般若の形相で十六夜嬢が見送る。

 箒であった。木の柄にコキアの毛先。それが己の衣服を引っ掻け、それ単体で飛翔していた。

 誰の持ち物であるかは明白で、彼女が日頃これを愛用していることは周知である。

 とはいえ。

 

「そ、そろそろ、いい加減に、して、いただきたい……!」

 

 必死に箒の柄に手を掛け掴まりながら、精一杯に抗議を練る。誰も聞く耳を持つまいが。

 

「父さまは……私だけの! 父さまだぁっ!!」

「世迷言をほざくな妄想狂!! あの人は当館でお迎えする。貴様の出る幕などないッ!」

 

 再び赫怒も露わに対峙する両者。歩み寄りの余地は絶無。目的を遂げるまで、彼女らは断じて眼前の妨害者を許容しない。その存在すら。

 目的。目的とは。

 事ここに至っては阿呆に徹して知らぬ存ぜぬと嘯くような真似は叶うまい。あるいはその不遜で少女らが心底この男に愛想尽かしてくれるなら、幾らでもそうしよう。

 ……無駄だ。己の悪足掻きも、浅知恵も、全て。

 まさか。まさかだ。こんな、馬鹿げた話があるのか。

 あろうことか彼女らは。事も有ろうに彼女らは。俺を、この俺を? 俺如きを?

 こんな塵屑を取り合って────殺し合いを始めたのだ。

 馬鹿げている! 間違っている! 常軌を逸している!

 こんな、こんな割に合わぬ話があるか。芥の為に血を流し、埃の欠片で心を騒がせ、無価値なこの魂を懸けて、命を殺ぎ合うだと。

 狂っている。ここは今、なにもかも狂っているぞ。

 

「お止め、を……! やめ……」

「消し炭にしてやる……!」

「ずたずたに切り裂いてやる」

 

 憎悪の言霊が空を満たす。

 己の声など風に浚われた。届きはしない。そんな力は俺にはない。器ではないのだ。俺に誰かの心を平定する能力など、一片とてありはしない。資格が、ない。

 俺は弱者だった。

 何事かを為し、人心に感動と変貌をもたらすこと能うのは傑物のみ。彼女らのような。この地に在る、幻想の少女らのような。

 俺ではない。凡愚として埋没するより他ない己では、ない。己には、何もない。

 何もないのに。

 貴女達のような価値などないのに。

 そんなものの為に。

 

「ッ……やめろォ!!」

 

 声は消え去る。風に掻き消える。逆巻く風に。縒り集まる風に。収斂する(かぜ)に。

 颯が────

 

「戯言を……言うな」

 

 空が眩む。突如、黒雲が青空を覆う。

 風が束ねられていく。際限もなく。そしてその目、その中心には黒翼を広げた少女が静止する。

 嵐の主。

 

「事実は覆らない。もう、彼はこの射命丸文のものだ。もう遅いのだ。だから……お前達などお呼びではない!」

 

 大気が満ち満ちて、遂に許容し得る圧力の限界を超え、空間が爆ぜた。

 全てが。

 消え。

 失────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ!」

 

 急激な意識の再起動は脳の中枢を弾けさせた。

 立ち戻った筈の視界が白化し、身体はそんな宿主になど取り合わず正常な血液循環に躍起になる。

 酷い吐き気がした。

 全身が揺動するようだ。

 

「大丈夫か」

「ぁ……」

 

 違う。確かに身体は揺れている。

 誰かに背負われて、揺れながら進んでいる。

 誰かに。

 最初に目に入ったのは、その銀糸の長い髪。肩越しに見上げた美しい横顔は、よくよく見知った御方のそれ。

 

「上白沢、さん」

「ああ、気が付いてよかった。随分ぐったりしていたから」

「自分は……」

「あぁいや、無理に喋らなくていい。意識喪失は軽い脳震盪の為だとは思うが、足が折れていてな。そこから出血もしていた」

 

 足……なるほど。言われた途端、下腿(すね)の辺りで金属の反響めいた鈍痛が、上白沢さんの歩調に合わせて伝導してくる。

 

「もう少しの辛抱だ。じきに隠れ家に着く」

「は……」

 

 優しげな声は強かに瞼を重くした。頭を押さえ付けられるような眠気。痛みを忘れるには丁度良いが。

 

「申し訳、ありま……せん……」

「……いいんだ」

 

 最後の気力を謝罪に費やし、己の意識はまた暗転した。

 

「…………すまない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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姦悪(上白沢慧音)

慧音ファンの皆さんごめんなさい(糞遅自戒謝罪)



 

 子供の家出は世の常と言う。

 実際、反抗期に差し掛かった彼や彼女はその思いの丈を御しきれず、あるいは発散の機会を逸して、ある日突然に何処(いずこ)かへそれを求めて行く。

 突然に、というのは家出を知った周りの人間の所感に過ぎない。軽はずみな癇癪による突発的な事案などはかえって少ない。子供のすることには、いや多感な年頃であればこそ、そこには必ず一つ二つの理がある。

 その少年にもまた理があった。

 どうにも繊細で、重い理が。

 

 少年と少年の両親は、血の繋がりを持たない間柄だった。

 養母の(はら)は生来、子を成すことができなかった。養父は幼少の頃の熱病で胤が弱り、孕ませるだけの機能を失っていた。

 嘗てかの夫婦が、縋る思いで八意医師の診療を頼り……得られた結論がそれだった。

 その絶望、如何ばかりか。

 博麗神社の境内と麓を夫婦連れで百度参りする様を今でも覚えている。何度も、何度もだ。

 ところが転機は突如、神仏の利益(りやく)に依らず訪れた。

 里に孤児(みなしご)が生まれたのだ。その子の父親は母親が身重の内に妖怪に食われて死に、母親もまたその子を産んですぐ息を引き取った。

 それこそは巡り合わせ、字義通りの運命だったのだろう。

 夫婦は孤児を引き取り、目一杯の愛情で以て育て上げた。本当に、あっという間の十年だった。

 

 ────良い教えをくれてやってください、慧音先生

 

 そう言って確と、託された。七五三を越え、ようやく神の手から離れようという年頃の子を。だというのに。

 物心がつき始めた彼に、折悪く先の事実が知れてしまった。それも父母の口からもたらされた告白ではなく、級友の心無い揶揄によって。

 柔な幼心に、それは鑢を掛けられるに等しい痛みを伴なったろう。

 そして遂に少年は痛みに耐えかね、姿を眩ませてしまった。

 

 里中を隈なく周り、自警団や知己の親御らも総動員で捜索してなお、少年は見付からない。

 焦燥ばかり募る中で方々を探し尽くし、そしてようやくその姿を見付け出したのは、夜更けの森の奥深く。人間が生存を許された安全圏から出、妖怪(バケモノ)の跋扈する領域に。

 少年と、“彼”はいた。

 かの青年はその日、自警団と共に駆り出されていた。おそらく早期に、少年が壁外の森へ迷い込んだ可能性を模索していたのだろう。

 獣除けに焚いた火を、少年と彼は肩を並べて見下ろしていた。

 私はそれを遠巻きに見ていた。声を掛け、なんとなれば早々に森を出て里へ取って返さねばならなかったというのに。

 

 ……

 

 気付けば私は物陰に身を潜め、少年を、どうしてか彼を、見ていた。

 

「貴方は正しい」

 

 低く硬く、鉱石の振動めいた声が夜闇に響く。

 

「貴方の、不安や寂しさや恐れ……怒りは正しい。正しいのです」

 

 それは優しい声音だった。慈しみと労りに満ちた言葉の綿入れであった。

 そして、それは心からの────同情であった。

 

「生い立ち、血の繋がり……そういうことではないのでしょう。貴方はただそのことを隠されていたのが、悲しかったのですね。嘘を、信じてきたことが」

 

 しゃくり上げて泣く声がする。焚火の爆ぜに混じり、幾度も幾度も。

 それを包み込むように、一層の穏やかさで、彼が微笑する。

 

「間違ってなどいない。不安も寂しさも恐れも怒りも、貴方は想って当たり前です。ただ、その想ったことを抱えて、痛くても辛くても、何も言わずに消えてしまう。それだけは少し……いただけない。帰ったらそれを全てご両親に打ち明けましょう。隠さずに。己もお手伝いします。きちんと説明して、わかってもらいましょう。きっと、わかってもらえます」

 

 啜り泣きは、いつしか喘鳴に、程なくわんわんと大泣きに変わった。

 

「お父さんお母さんも貴方のことを愛しておられる。心から。心の底から。貴方は間違いなくご両親に()()()()子なのですよ」

 

 それがきっと、少年の欲した言葉だった。誰かに明らかにして欲しかったのだ。誰か、たとえ他人であっても。証し立てて、認めて、信じさせて欲しかったのだ。

 私では、与えてやれない。あの子の望む言葉を私はああも迷いなく紡ぎ得なかったろう。

 憐れむことはできても、()()()()()()までの同情と共感を抱いてやれない、こんな私には。

 そう、彼にしか。

 

 無事、里へ連れ帰られた少年を父母は涙を流して抱き留めた。もはや放すまい。離れまい。強く強く己を抱く二人の両腕から少年は存分にそれを思い知るだろう。

 一件落着に安堵する。

 傍らで同じようにして、親子三人を穏やかに見詰める青年を見やる。その時点で私の彼に対する評価はほぼ手放しに近かった。もともと謹厳実直な人柄には、自身の堅さ頑なさを自覚する身として親しみを覚えていたし、それが一個の人として純粋な好意に結び付いたとて、なんら不思議はなかった。

 快い青年を。青年の、その目を見て。

 

「────」

 

 あの時、私はそこに宿るモノを理解できなかった。いや違う。何故(なにゆえ)かが、どうしてそんなものが宿るのかが、わからなかった。

 しかし後に、彼の生い立ちと境遇を知ることでその不可解は実に円滑に氷解した。それは十分に理解の及ぶものだった。人として、瑕疵の無いものだと感じる。無理もないのだと納得できる。そう思う。一個人として、一教師として。そう……思うのに。

 それで済む筈だ。それだけのこと。それだけ。

 だのに私はひどく当惑した。

 彼を理解した途端、胸に湧き出た感情の色に。煮立ち泡立ち、甘く匂い立つ。

 その、淀みに。

 

 

 

 

 

 

 重い重い闇が眼球を圧している。

 沼の淵に、身を浸すような。

 目蓋を持ち上げても、見上げた頭上にはそればかりが覆い被さり、果たして目蓋が本当に開いているのかはたまた開いたつもりで実のところそれは閉じられたままなのか、一向に判然としない。

 愚昧な発想と、無意味な思考ばかりが巡る。

 脳は万全とは程遠かった。失血が予想より酷いのやもしれない。先生は確かそう言われていた。

 先生が────

 

「……!」

 

 泥土のように遅滞する意識が急速に回復する。

 意識喪失までの顛末が、早回しの活動写真めいて脳裏を走る。

 少女ら三人。激しい空中戦の末、射命丸さんの風力操作が戦場そのものを吹き飛ばした。

 その後、彼女らはどうなった。

 魔理沙さんの箒によって己は単身での墜落だけは免れたが、木々の枝葉末節に強か全身を打たれ、随分遠く飛ばされたように思う。

 それから、俺は、あの方に。

 そう、上白沢さんに背負われて。

 背負われて……どうしたのだ。

 一言二言を夢現に交わし、それから記憶は断絶している。またしてもこの劣弱な脳髄めは職務放棄(シャットダウン)したに違いない。

 ならばなおさらに状況の把握こそは急務であった。

 

「ここは……」

「おはよう」

 

 呟きに、まさか応えがあるなどとは思わず、驚きを以て声の方を見やる。

 そこには相も変わらぬ暗闇が広まるばかり。

 が、しかし、その只中に、うっすらと。

 闇に依らぬ陰影が、ある。

 それを確かめようと目を眇めた時、突如、光が眼球を焼いた。

 燭台に一本、蝋燭が立てられている。暗順応した視神経を直に炙る、灯。

 その傍らに彼女はあった。淡い橙の灯火(とうか)を受けてなお、群青のジャンパースカートが闇間に鮮やかで、緋色に染まった銀の長髪は得も言われぬ美麗さであった。

 畳に横座りしてこちら見下ろす白い(かんばせ)。紅い目、その目が笑みの形に細められた。

 

「上白沢さっ、ぐっ、ぉ……!?」

「あ、こら! 無理に動くんじゃない」

 

 反射的に仰臥から上体を起こそうと試み、それは見事に失敗に終わる。

 左下腿(すね)の激痛は言わずもがな、どころか五体何れも痛みを覚えぬ箇所がなかった。無数の打撲による鈍痛、寸刻みのような裂傷による鋭痛。おそらくはそんなところ。

 す、と頬に手が触れる。女生の冷えた指は、ガーゼ越しにも熱を持った傷口にひどく心地よい。

 

「気分はどうだ? 痛みは酷かろうが、吐き気や目眩はあるか?」

「いえ……」

「そうか」

 

 微笑する。彼女は実に、喜悦に満ち溢れた顔をしていた。

 頬にあった掌がそのまま額に当たる。

 

「ん……熱も下がったようだ。傷口はすぐに洗って処置したが、破傷風にでも罹ったかと心配したよ」

「お手数を、お掛けします」

「ふふ、したくてしていることが手数なものか。さ、喉が渇いたろう。少し水を飲みなさい」

 

 そう言うと、彼女は枕元の小抽斗の上から硝子製の急須……病人用の吸飲みを手に取った。

 

「い、いえ、そこまでしていただく必要は……そう、それより、なによりも上白沢さん! あれから彼女らは……!」

「まずはこれを飲みなさい。話はそれからだ」

「…………器を。身を起こす程度は可能です」

 

 痛みを無視すれば、少なくとも上半身は脳髄からの伝達指令に従う。

 掛布団を払い、軋む筋骨を引き上げ、彼女の手から改めて差し出された青竹の水筒を受け取る。

 心なしか、不満げな視線を頬に感じた。

 

「あの暴風……あれから彼女らは、皆さんはご無事なのですか?」

「……生きている。台風の目、というか張本人の文は言うに及ばずだが。咲夜の能力は逃げに徹して逃げ切れぬ道理はないし。魔理沙はまあ、多少手傷を負ったようだが、ぴんぴんしている。普段よりむしろ喧しいくらいさ。君がいないからな」

 

 どうしてか囁くようなその語気に、言い知れぬ険が孕んだ。刺の質感を覚えた。

 不可解な印象を、しかし一旦頭の片隅に退け、ともかくもその報に己は安堵した。

 最悪の事態だけは回避されたのだ。

 溜め息一つで胸中の含みを取り除いた上白沢さんは、柔らかな笑みを己に呉れた。

 

「安心したかい」

 

 その笑みにもまた安堵を、覚えて。

 ────しかし、これが完全な終結などとどうして迂闊に宣えようか。否である。断じて否である。

 

「行かねばなりません」

「……」

 

 布団から這い出て、手近な壁を支えに片足で立つ。乾き、ややも朽ちた土壁が掌にこびりつく。

 歩行に支障はあるが最低限の前進移動力があるならば問題ない。

 

「どこへ」

「十六夜さん、魔理沙さん、射命丸さん、各々方の許へ」

「行って、どうするんだ」

「話し合いを」

 

 女生は吹き出し、笑った。嘲弄の調べを隠しもせず。

 

「ふふっ、くふふふ、さぁて聞く耳を持つかな。あれらも余裕が無いゆえ、あのような騒ぎになったのだろう?」

「持っていただく、如何様にしても」

「どうやって」

「…………」

 

 試すように、あるいは揶揄すら込めて、彼女は問うた。

 (おまえ)などに何ができる。いじましくも我が身は無力無能を自称して憚らぬ。一廉の意志、なにより超常の力を有したかの少女らに対し、己風情の言葉が、行動が毛先一筋分ほどの役に立つとも、思えぬ。

 思えぬが、だからとて。

 何もせず、安穏を貪る権利とて、己には無い。断じて、ありはしない。

 

「話し合い、ね。奴輩がそんな行儀を弁えた連中かどうか、君とて容易にわかるだろうに」

「激しい血をお持ちなのだと、先達て痛感を得ました」

「なら」

「しかし幸いにも、どうやら己の手の内には有効な交渉材料が存在します」

「……それは」

「この身命を。物質(ものじち)(くさ)とせば、彼女らもきっと対話の座卓へ御出でくださる筈」

「…………」

 

 到底信じ難いことだが、かの少女らの求めるものとはあろうことかこの身である。ゆえにこそ先の折は、三者入り乱れての争奪戦が幕を開けた。

 もし、対話に応じられぬと仰せならば。

 

()()を破壊する。殺傷する。そう進言いたします」

「────」

 

 道義という観点でそれは卑劣を極めるが、方策としてこれ以上無く有用だ。

 争いを止める。その一点における最大抗力。

 

「君は……本当に、どうしようもないな」

「……申し訳ありません」

 

 返す言葉はなかった。

 現在進行形で上白沢慧音という女性は俺にとって命の大恩人。その厚意に泥を塗るが如き所業を働くと、己は厚顔にも今この瞬間宣言したのだ。

 忘恩の謗りは免れない。如何にしても。

 無責任な謝罪を言い置いて、己のすべきことを行う為に。

 俺は踏み出す。

 不恰好に踏み出そうとして、はたと気付いた。足を止めて、片足で立ち尽くす。

 

「どうやって?」

「…………」

 

 彼女は問うた。同じ文言、同じ調べ。試すように、それでいて子供を揶揄(からか)うように。

 最初から、そう。己がここで目覚めた時から。

 俺は、今更に過ぎる違和を覚えた。

 上白沢慧音、思慮深く、慈悲深く、生真面目なひと。だのにそれは匂い立った。そんな彼女にあるまじきものが、甘く、絡み付くように鼻腔を満たし脳を痺れさせる。

 この、姦悪。

 目を開き、彼女を見付けたその瞬間にも問うべきだった。遅きに失した。失念と呼ぶのも躊躇うほどの間抜け。

 

「上白沢さん」

「んふふ」

「お訊ねしても、よろしいか」

「どうぞ」

 

 背後より灯りが近寄る。

 手燭を携え、彼女はそっと己の背中に寄り添った。己の背筋に、おそらくはその額を押し当てて。

 横合いから蝋燭が差し出される。

 真なる闇の中では、その儚げな光さえ一際強く周囲を照り付けた。

 明るむ。目の前が。

 まず真っ先にこの目が捉えたのは、太い木枠であった。

 木製の格子が組まれ、それは壁と床と天井に刺さっている。内界と外界の往来を阻んでいる。とりわけ中から出さぬ為の、強固な遮蔽物。檻。

 牢。

 

「ここは何処なのですか」

「教えてあげなぁい。あはははははははははははははははははははははははははははは」

 

 教職を奉ずるその女性は、明け透けなまでの姦悪さでこの身に対する教授を拒否した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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姦悪・二の罪

 

 

 

「あははははははははははははははははははははははははははは」

 

 哄笑が耳孔を、鼓膜を(つんざ)く。

 己が嘗て知り合い、親しみ、畏敬した上白沢慧音という女性の在り様からは想像だにし得ない反応であった。

 振り返る。振り返ろうとした、が。

 それは実現しなかった。正確には、己の意思では為されなかった。

 肩を掴まれたと認識した時には既にこの身は宙を舞っていた。柔術的()()などではなく、それはもっと無造作な物体の投擲であった。

 先程まで横たわっていた場所に、まったく同じ姿で投げ出される。床への落下の衝撃が、破断した足の骨を軋ませ激痛を発した。眼球の神経網に紫電が走る。

 一瞬、呼吸さえ止まった。

 陸に打ち上げられた魚より無様に、のたうつことすらできずに仰臥する。その傍らに膝をついて彼女は、己を見下ろした。

 

「在処は教えない。君なら脱出の手掛かりにしてしまいそうだ。でも、ここが何かは教えてあげよう」

 

 面前に桜色の唇が近付く。

 まるで恋情を囁くかの甘やかさで、彼女は言った。

 

「ここは牢獄だ。罪人の為のね」

 

 それはこの場、この目に映るものをただそのまま言い表したに過ぎないようにも思えたが。

 いや、しかし、明白になった事実もある。建造目的と用途。ここは決して己を閉じ込める為だけに彼女がわざわざ拵えた()()ではないのだと。

 

「里の治安は常に平定されてきた訳じゃない。不埒な輩という奴は時と場所を選ばずまるで皰瘡のように吹き出てくる。あるいは()()の病原がその苗床を張る。放火、窃盗、暴行傷害、強姦……殺人。相応の処罰が必要だった。里という安全地帯から追放し、人喰い妖怪にその処断を投げるのが以前の通例ではあったが、軽い罪の者、事故や過失、加害者と被害者を明確に区別できない事案、それら全部に流罪、いや実質的死罪を下すなど思考停止の無道だ」

 

 紅い目は遠く過去を見る。そこには倦んだ疲れが揺らぎ、滲む。

 一朝一夕の事業ではなかったろう。人が人を裁くという機構、その構築は。

 

「禁固刑が、まあ無難な落とし処だった。過剰な体罰は科す側こそ心を廃らせる。酌量の余地が多大にあるなら、苦役に従事させる程度で事は足りた。本来は……本当なら、私が、この手で」

「……」

 

 白い手が、蝋燭の灯火を浴びて揺らめく陰を落とす。

 現実に、彼女の手は震えていた。苦心を噛み殺して、胸に悲哀を埋めて。

 震える手が己の頬に触れる。

 

「人は私を守護者と呼ぶ。人里、人の営み、人の生命、それらを悪害から護ってくれる、導きを呉れる賢人だと…………そんな筈がないのに。そんなこと、できはしなかった」

「上白沢、さん……?」

「ふ……ここは幾つか試作された獄の内の一処だ。結局、ろくに活用もされないまま二十年ばかり放置されていた。覚えている者は少ないだろうね」

 

 女生が笑む。その美貌が笑みに引き攣る。内面に浮かんだものとの相異が外面を歪ませていた。

 彼女は今明らかに自らを悪辣だと、騙っていた。

 

「私が、絶無(ゼロ)にした」

「……」

「ここの在処を、もはや誰も知らない。誰もここへは来られない。ふっ、ふふふふ、ふふふふふふ」

 

 彼女の能力を使えば、なるほど。旧く、況して伝承が途絶え掛けた情報を亡きものとすることなど容易かろう。連綿と受け継がれる情報記録の蓄積、つまりは歴史。その創造と破棄の能力を合わせ持つのが彼女、上白沢慧音であった。

 その半身に宿りし瑞獣の神威(ちから)

 太刀打ちなど、もとより寸毫の可能性もなくかなわぬ。存在の位階が違い過ぎる。人間としてすら劣悪なこの身には。

 だが、であればこそ募る。疑問、不可解が。

 そんな大人物が、何故。

 

「何故、俺如きを……」

「君が罪人だからさ」

 

 応えはまさしく明答の響き。誤解の余地は微塵もなかった。

 罪を犯したゆえ獄に繋ぐ。それはまったき道理の仕儀。

 しかしだからとて、唯々諾々頷く訳にはいかない。覚えのない罪咎は受けられない。それが冤罪ならば糺し、正さねば、里の後事に障りを起こそう。

 

「それは如何なる罪状で」

「人殺し」

「────」

 

 賢らに動かしていた舌が凍り付く。喉は石で塞がれ、五臓六腑は鉛で満ちた。

 それは、その罪は、俺の殺意、憎悪による明確な加害。殺人未遂。そして、そしてなにより────

 

「違うよ。私が言ってるのは()()じゃない。それは……私が量っていいものじゃない。だから君はそんな顔しなくていいんだ。そんな辛そうな顔、しないでくれ。ね?」

「…………」

「君が殺したのは、いや……殺そうとしているのは」

 

 彼女の指先が鳩尾を刺した。

 今度こそ女生は己の罪を鳴らして、痛ましげに瞳を揺らがせて。

 

「君だ」

「……それは」

「まさか言い逃れできるなどと思うのかい。つい、今さっき、君が自ら告白したことじゃないか」

「……確かに、事態収拾の一つの手段として、取り入れる用意があると申し上げました」

「いいや」

 

 鳩尾を刺す指が、埋まる。胸骨の合間、その中央を突く。深く、抉る。

 

「が、ふ」

「はっきりと言った。自分を、自分自身を破壊する。殺すと、君は! 言ったんだ!」

 

 己の目を睨め下ろす紅い目、それが赫怒に燃えている。

 罪を知れ、と。

 

「……私は、人が好きだ」

 

 燃え盛ればこそ火種たる感情もまた早々に燃えて尽きる。怒りの灰の下より覗いたのは、繊細で純粋な硝子質、脆いほどに優しい愛。

 気恥ずかしげに、ひどく怖々として彼女は愛を囁いた。

 

「人の営みが好きだった。人の悲喜交々の色鮮やかさが好きだった。人の愚かさが、弱さが、愛おしかった。だから私は人里で人を見守ってきた。その行く末を見届けながら、人の子らが歩んできた軌跡を編纂し、集積し続ける。彼ら彼女らとの日々、思い出を。随分長く、多くを、看送ってきた。子がこの世に産まれ育ちこの世を旅立つまでを、別離を、延々と数えてきた。歴史、私と人との大切で大切で大切な歴史だ……その歴史の中で不意に、君に出会った」

 

 紅い目は再び過去を見返った。深く、追憶に没する。

 この身を確と捉えながらしかし、過去と現在の己を、まるで見比べるように。

 

「君は歪だった。その振舞い方は実に非人間的だった。一見すれば真面目で、実直で、働き者の青年────そういう仮面を被っていた。機械のように善事を、利他行を遂行するのは、本当は自分を苛める口実だったんだ。過密に請け負った肉体労働や壁外の妖祓いの済んでいない危険域の開墾作業、薪拾いや些末な柴刈も、全部、全部」

「…………」

「霧雨商店に君を推挙したのだって、危険な仕事から遠ざける為だった。なのに……紅魔館の輩が気安く呼び立てればのこのこと出向くし、魔法の森を往き来してやることが小娘の世話係? 挙句に無縁塚でガラクタ漁りだ。天狗に自分でやらせればいい! なんで君がわざわざ!? 意味がわからない! この人間は死にたいのか!? …………あぁそう思い至って、すとんと、腑に落ちたよ。この人間は死にたいんだ、って」

 

 悲しげに落ちる呟きをただただ受け取る。何一つとして否定できない。全ては恥ずべき……事実であったから。

 

「許せなかった……人として生まれておきながら、人として生きようとしない君が、私の“人”が、半人の部分が許さなかった。人倫を尊ぶほど、君の在り方は到底見過ごせない。けれど、同時に、私は……私の“獣”は、君の歪さに惹かれた」

「……」

 

 白沢(はくたく)、人ならぬ神獣。本来、かの瑞獣は有徳なる王の資質を持つ者の前に現れ吉兆を報せるとされている。

 それを知ればこそ益々以てどうして、己などに心を寄せると言うのか。己のような死に魅入られた、生命に対する卑怯者に。

 

「仕様がないのさ。聖も邪も、善も悪も関わりなく、人の魂の臨界とは我々を惹き付けて止まないものだ。神であろうと、妖であろうとそれは変わらない。君の魂は歪で罅割れだらけで、それなのに美しい。湖の水底より深く、昏い群青。怖ろしく甘い毒なんだよ……」

 

 蕩ける瞳、痛みに歪む面相。人と獣が同居する貌で彼女は泣き笑いを浮かべた。

 

(わたし)が我慢すればよかった。そうすれば、(わたし)は君を遠目にでも見ていれば満足したろう。少なくともそう思い込むことはできた。そう思い込もうと努力した。頑張ったよ。でも、なのに、あの日」

 

 瞳が、遂に濡れ、光る。それは瞭然の涙の兆しだった。

 

「覚えてるかい。稲刈りの終わってすぐの頃だ、傘張の子が家出をして、それを君が助けた」

「……はい、覚えております」

 

 彼の事情に対し軽々に斟酌を口にすることは躊躇われた。彼の懊悩に共感を覚えるほど、肩身を縮めて涙を溢す様は胸を衝いた。

 幼くとも少年は実に賢明だった。ほんの少しの切欠で、自分の行いと、ご両親の心痛を、ご両親の無償の愛情を十全に理解した。きっと己の言葉などなくとも、時間さえあればそれは可能だったろう。

 そうして、無事両親の(かいな)に帰ることができた彼の姿に俺は深く安堵し、心から俺は────

 

「羨んだ」

「っ……!」

「父母に抱かれる少年に、父母に心から望まれた子に、あの時、君は羨望したんだ。君の目に、それを見た。嫉妬を……はっ、あはは」

「…………」

 

 弁解の語彙は一言とて浮かばず舌は徒に渇いていった。ぐうの音も出ぬとはこのこと。

 俺は俺の穢らわしさを臓腑の奥底へ隠すことさえできないのだ。

 こんなものを、幼気な少年に、少年の家族に差し向けていたなど。

 羞恥が物理的な作用をもたらしたなら、俺の脳に宿ったそれは脳髄を擂り潰し頭蓋を砕きながら、それでも肥大を止めなかったろう。今この場で自儘な自死を選んでしまいそうになるほど。

 俺という存在が、厭わしく、忌々しくてならぬ。

 骨身に沁みた。頭上で響く彼女の嘲笑が………。

 

「嬉しかった……」

「……は?」

 

 想像だにし得ないものが、己の頬を打った。

 彼女の涙が。清らかで澄み切った液体が、零れ落ちてくる。止め処なく。

 女生は歓喜していた。

 

「君の心がそこにあった……君の“人”はまだ、そこにあった。残ってた。それが……嬉しかった……!」

「……もとより、己はその程度の、ただの人間です。浅ましく劣弱な人間です」

 

 ゆえに彼女の歓びは全くの見当違いだ。俺は断じて、この女性の思慮を賜るに値する存在ではない。

 ────だのにこのひとは、どうしてこんなにも俺を慈しんで笑うのだろう。

 

「そうとも。私が愛する“人”そのものだ」

「…………」

「君が自ら恥じて厭うその浅ましさと弱さを、私は愛している」

 

 額を寄せて、彼女は繰り返した。愛している、と。

 それは皮膚を越え、骨を伝って響く言葉。違えようのない真心だった。

 閉じられた瞼を縁取る長い睫毛に、涙の雫が枝葉に垂れた朝露のようだ。ただ、ただ、美しかった。

 

「だから、許さない」

 

 瞼が開く。涙に濡れた紅蓮の瞳が、眼光が、己を()()()

 

「君は自分を、自分自身を殺すと言った。君の中に残る“人”を殺すと言った。私の愛する人を、君を! 厭うと、憎むと言った確かに聞いた! そんなの、そんなの許さないッ!」

 

 己の両肩を掴んだ手がきつく握り締められる。それは親に縋る子の必死さで、あるいは子を諭す親の懸命さで。

 情深き女の貌で、彼女は怒り嘆き、涙を滂沱した。

 

「だから……こうする」

「あ」

 

 不意に泣き顔が離れていく。彼女は上体を起こし、その右手を掲げた。握り込まれた拳を。

 拳が、落ちる。

 彼女の拳が真っ直ぐに、己の、折れていない方の膝を打った。

 

 ぐしゃり

 

 半月板が割れる音を聞いた。関節が砕ける感触を覚えた。足が膝から陥没し、V字に跳ね上がっていた。

 非現実的な光景に、暫時思考は止まる。もう一刹那の半の半に満たぬ間に、恐るべき痛みが暴虐となって神経をずたずたにすることを予感しながら。

 俺はただ、彼女を見ていた。俺の脚を破壊した美しい女性を。

 どうしてか、自分などよりも余程、痛そうに美貌を歪ませる上白沢さんを。

 

「殺させない。君の“人”は私が守る」

 

 俺はひどく、憐れに思った。

 

「君が君を殺せなくなるまで、絶対に、ここから逃がさない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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玩弄

ただちょっとえっちなだけの話。
話ぜんっぜん進まない。ホントすんません。




 

 

 おそらくは、四日目と思しい。

 己がこの暗い牢獄に閉じ込められたという事実を自覚した日から、入眠と覚醒を2セット、そして今、四度目の目覚めを迎えている。

 本日とて変わらぬものが頭上にある。梁で補強された土の天井。それを暫時、呆と仰いだ。

 行灯の朧な光が足許の傍で揺らいでいる。彼女曰く、夜明けの合図が。

 

「……」

 

 もとより自身が昏倒してから、どれ程の時間が経過していたのかも正確なところはわかっていない。怪我のショックも手伝い、体内時計などはとうに狂っていた。彼女の言によってしか己は現在の時刻を知り得ない。

 ……無論、このようなことで彼女が己に嘘を吹き込む道理はない。ないが、しかし。

 時間感覚を掌握され、管理される。それは確実な支配の為の一途だった。

 支配。上白沢慧音という女性には間違っても似つかわしくない言葉。そんなものを顧慮せねばならないほどに、かの御方は変質を来していた。あるいは、彼女は変わった訳ではなくて、ただ表しただけのか。今まで胸に秘めていた情動を、祈念を、願いを。

 己の軽挙がそれを目覚めさせてしまったのやもしれない。己の妄念が。

 

 ────愛している

 

「そんな価値はない……」

 

 己を見下ろす彼女の蕩けた瞳を思い出し、頭を振る。

 見誤っている。

 己の歪んだ生き様は、見掛け通りの醜さしかない。断じて彼女が見出だすような美点など一欠片も持たぬ。

 だのに、だのに彼女はそれを求めるというのだ。

 

「!」

 

 足音が近付いてくる。堅固な木製の格子の向こうから光源が揺らめく。

 布団から身を起こしたところで、灯りに浮かぶ女史の白い顔が見えた。柔らかな笑みと共に。

 

「おはよう」

「……おはようございます」

 

 朗らかな、そしてこの上なく場違いな挨拶を交わす。

 

「相変わらず早いな。夜が明けてまだ間もないのに」

「早起きは以前の生活からの癖です。思いの外、身体はそれを覚えているようです」

「感心感心。だが今の君は傷病人だ。睡眠を多く取るに越したことはないんだぞ」

「境遇はともかく、状況が許すならばそうしたことでしょう」

「ここには寝坊を咎める誰も居やしないさ。勿論、来させもしない」

「その御配慮こそがどうやら我が身の安眠を阻害する模様で」

 

 皮肉気なこちらの言い回しに、上白沢さんは気分を害する様子もない。なんとなれば、むしろその笑みを深めた。

 錠前を外し、小扉を潜って幾らかの荷物を携えて彼女は座敷に上がった。扉を閉めてから、彼女は忘れることなくしっかりと内側から掛け金に錠前を通した。

 楚々として床の傍に歩み寄り、持ってきた風呂敷包みを開く。それは蓋をされた土鍋だった。

 蓋を開けると、中では卵雑炊が湯気を立てている。鶏卵は滋養を、丁寧に刻まれた葱や人参、白菜等、緩めに煮込まれた粥は消化の良さを考慮して。

 彼女の気遣いが窺える拵えの料理。その優しさ、慈しみの深さがわかる。わかるゆえ、やはりどうしようもなく、この状況の異常さが浮き彫りとなる。

 牢獄の薄闇にある女生の美しい笑顔が、名状し難い妖しさを放つ。

 彼女は器に移したそれを匙で掬うと、ふ、ふ、と息を吹きかけてその熱を冷ます。

 

「はい、あーん」

「……いえ、両手は健在です。そこまでしていただかなくとも」

「そう言って、君はろくろく食べてくれないじゃないか。水と重湯だけでは体が弱るばかりだ」

「床から動けぬ身。然程に栄養を気にする必要もありますまい。幸いに食欲も湧きません」

「ワガママを言わないの」

「我儘ついでに提案がございます。この牢からの釈放を許してさえいただければ、減退した食欲が回復するかと思われます」

「……」

 

 匙が器に沈む。黙した女史は、静かな眼差しで己を見据えた。

 虜囚の反抗的な態度に対する苛立ち、あるいは辟易……そうしたものは生憎と見て取れない。そんな稚拙な支配欲のみが彼女の行為の源泉であったなら、どれほど事態は分かり易く、単純だったろう。

 そうして次の瞬間、女生の顔に表れたものは、喜悦だった。

 

「ここを出たい。そう言ってくれるんだな」

「失礼ながら至極当然の要求かと」

「だがそれは、まだ十分じゃない」

「……とは、どういう意味でしょう」

「君がここを出たいと言うのは君自身を慮っての願いじゃない。君はただ、外に捨て置いたもの……あの女達のことを気に掛けているだけだ」

「それは」

 

 それこそ当然の懸念ではないか。己という人間を理由に、少女らが相争うなどという悪変を起こした。その事件の収拾の為、元凶たる己自ら出向かねばどうする。

 事によってはこの腹を捌いてでも、争いに決着をつけなければならない────

 

「また……またぁッ! またそれだ!!」

 

 器が畳を転がり、中身が辺りに飛び散る。

 彼女は身を乗り出して己に掴みかかっていた。

 右肩と左の手首を取られ、いとも容易く床に押し倒される。彼女との膂力の差は歴然にして絶対だった。

 凝然と、鼻先三寸を互いにして目と目がぶつかる。紅く燃える瞳には今度こそはっきりと怒りが沸き起こっていた。

 

「やっぱり、あぁ君はまだそんな愚かなことを考えている。自らの身命で事を収めようなどと……ふ、ふふふ、なら駄目だ。絶対に駄目だ。出してなんてあげない」

「っ、しかし!」

「聞かない。君が、強いられたこの不自由に、理不尽に怒り、命を惜しんで、生きてここを出たいと……いや、ここを出て生きたいと願うまでは。心から死にたくないと言うまでは。絶対。絶ッッ対に!」

 

 (まが)く歪む。聡明な彼女の美貌は、儘ならない男の愚劣さを確かに憎悪した。

 だが同時に、そこには烈しい慈愛があった。命を尊ぶ切な叫びを聞いた。

 必死さを浮かべていた顔が、不意にまた笑みを刻む。

 

「足りないんだな。不自由さが、理不尽さが。ならもっと、もっと……」

 

 何故か、彼女は傍らの土鍋を鍋敷きごと引き寄せる。

 

「食べるとは生きること。生きるには、ちゃんと食べなきゃ」

 

 子供に言い聞かせるような甘やかな口調で彼女は口ずさむ。

 そのまま、鍋の雑炊を素手で掬い取った。手にしたそれを口に運ぶ。かぶり付くように口に含む。

 桜色の口唇が、白い頬が、幾度か咀嚼を繰り返した後、顎を鷲掴まれた。

 

「うぐっ!?」

「ん……」

「ッッ!?!?!?」

 

 それは凶暴な口付けだった。

 いや咬撃(こうげき)とすら呼べよう。

 唇を割って、舌が侵入する。そうして舌に乗った熱い液体、口食みされたどろどろの粥が口腔へと流し込まれた。

 

「んっ、ヴっ、ふ、ごふ……!」

「んふ、ちゅ、ちゅる、ぢゅ」

 

 口の端から溢れて落ちる。薄汚れていく。頬を流れ、首筋を下り、布団には盛大な染みを作ったことだろう。

 それは彼女の口周りも同じこと。

 垂れ下がったその美しい銀髪は、互いの唾液と雑炊の混合液で見るも無惨な有り様になっていた。

 それでも唇は離れない。塞がれ、密着し、口中の液体交換を続行した。

 飲み込まざるを得ない。彼女の()()()流動食を。

 時に、嚥下し切れず吐き出したものは、再び彼女の口内へ戻されるが、彼女はそれを舌で捏ね回し、三度こちらに押し戻すのだ。

 倒錯感で脳が焼けるようだった。

 口に満ちる熱と、拒み難いこの甘みは、粥のそればかりではないのかもしれない。

 

「んっ、ふ……ふぅ」

「はっ! はぁっ、はぁっ、はあっ……!」

 

 解放されたと同時に主が滞納した酸素を肉体が躍起になって徴収し始めた。

 惑乱の無様を晒す己に比して、頭上の女生は静謐だ。静謐、であるかのように外見的には振る舞えている。

 大きな瞳という名の窓から、その内奥の炎が覗いていた。熔岩の如き熱量が。

 

「……これ、悪くないな」

「上白沢さっ」

「まだこんなに残ってる」

 

 鍋に目を落として、うっとりと彼女は言った。己の声など一音とて届いてはいない様子で。

 汚れた口で華やかに笑む。

 

「そうだ。今日から食事はこうしよう。こうしなければ君は食べてくれないのだから、仕方ない。ああ仕方ないな。あはっ、ははは」

 

 名案だとばかり、無邪気に笑う。そのはしゃぎ様はひどく愛らしかった。危ういほどに幼気で、己は幾度目かも忘れて言葉を失くす。

 諫めの一つすら出来ぬ無力な男をさも愛おしげに彼女は眺めている。

 その時、下腹部に触れるものがあった。当然ながらそれは彼女の手、彼女の指先である。優しく撫で、擦る。官能的なまでに。

 

「く、はっ、お、お止めください!」

「全部食べたら、今度は出さなきゃ。そうそう、尿瓶を持って来たんだ。あと桶と、()()()用に綿布もたくさん。御不浄まで私が運んでもよいのだが、この方が君も楽だろうし」

「それだけは御免被ります……!」

「だぁめ」

 

 どろりと甘く、耳元で囁く。熱い吐息が耳孔と鼓膜と脳を揺さぶった。

 不意に、すんすんと吸気の音。彼女は己の首筋に鼻を押し付けた。臭いを嗅いでいた。

 この四日間、当然ながら風呂など入ってはいない。濡れた布巾で体を拭う程度が精々だった。

 体臭に自覚はあった。それだけに、その行為は耐え難い。

 火を入れられたように羞恥が全身を焼く。

 

「ふ、ん、ふんっ、んっ、んふ……」

 

 それなのに彼女は嗅ぐのを止めない。むしろより一層に深く、しつこく、ともすれば鼻で皮脂を削ぎ取るようにして。

 熱い吐息が、刻一刻と荒く激しくなっていく。

 女生は興奮していた。一嗅ぎごとにびくりとその全身に震えが走る。こちらに体を擦り付けて互いの臭いを混ぜ合わせる。それは発情期に入った獣を彷彿とさせた。

 

「あっ、は、ん……これ、すごく、いい……」

「上白沢さん! これは、貴女のような方の為さり様ではない! 本来の、貴女は」

「これが私だよ……ずっと、こうしたかった。ただ機会がなく、私に勇気がなかっただけだ。ふふ、私の本性などこんなものさ。幻滅するかい?」

「そのようなことはない。だが、如何に己とて許容しかねる行為はある……!」

「うん」

 

 彼女は己の頭を抱きかかえた。それはそれは優しく頭を撫でられる。

 まるで、母御のように。

 

「君は許さなくていい。許せないと、怒って、私の蛮行を恨むべきだ。憎まなければ、いけないのだ。なんてことをしてくれたんだ、と。私を悪と断じる時、君はようやく自分の正しさを肯定できる」

「そ、そんなことの為に……」

「君の言うそんなことの為なら、私は何だってするよ……そう、たとえば、君の膝を破壊したような暴挙を」

 

 頭を撫でていた手が、己の手首を掴む。

 手首の表面を彼女の親指が這う。長くしなやかな爪が、皮膚と筋、骨を横断する。幾度も、幾度も。

 

「腱を切ってしまえば、君は匙も握れなくなる」

「!」

「そうしたなら、君は君の身命を惜しんでくれるかい……?」

 

 爪が伸びる。猫が仕舞っていたそれを露わとするように、鋭利な天然の刃が。

 

「ふふふ、ふふふはははははっ、大丈夫。大丈夫だ。私がついてるよ! 君は死なせない! 君を生かす! 必ず、何をしてでも!」

 

 手首に爪先が沈む。血の珠が湧き出、横一文字に裂ける。肉の深く、手指の連結が、物を掴むという俺の自由がまた一つ消え────

 地が揺れた。

 牢獄全体が上下する。

 

「な」

「……」

 

 支柱や梁によって支えられた土壁と天井がぼろぼろと崩れ、無数の土の雨を降らせた。

 猫の俊敏さで上白沢さんは立ち上がっていた。彼女は天井を睨み上げ、先の地響きよりもなお低く唸る。

 

「泥棒猫が……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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永遠の時の中で(十六夜咲夜END)

牢獄脱出を分岐点にして、個別のルートでエンディングを書いていきます。




 

「っ!!」

 

 それはまるで墜落のような覚醒であった。

 意識を暗雲の彼方へ飛ばされたかと思えば、次の瞬間には現実という地表へ蹴り落とされる。

 現実、現在状況。己が実体の肉体は、固い地面で落下重力によって押し潰されるようなことはなく、暖かな床の中にあった。

 そして身体を包むものは座敷牢に敷かれた布団ではない。ベッドシーツとスプリングの埋まったマットレス、たっぷりと空気を蓄えた羽毛布団。

 居所は古風な洋室だった。

 紅い壁。紅い天井。カーテンすら暗く紅。まるで血を塗り込めたかの深紅が部屋中を彩る。

 暴力的色彩が眼球を滅多刺す。刺し貫き、視覚に相応の負荷を強いるだろうこの空間は。

 静謐だった。無音という意味合いにおいてこれほど完璧な静けさはそうあるまい。あるいは、かの地下牢をすらも凌ぐ。

 静かな……静かなだけ、なのか。

 違和を覚えた。名状し難い違和感。これは。

 

「ここは……」

「紅魔館ですわ」

 

 意図せず口をついた言葉に期せず、柔らかな応えがあった。

 ひどく近く、己が横たわるベッドの傍らから、その声音同様に(やわ)らな視線。蒼い瞳。深く、それは深い蒼。闇すら孕み、寒気を伴うほどにそれは美しい。

 純銀のボブヘア、両頬で三つ編みと飾りリボンが揺れる。

 可憐と瀟洒の化身のような少女が、完璧を体現したかの少女が、十六夜咲夜が己を見下ろしていた。

 うっとり、と。滴る蜜のように蕩けた目で。

 

「何故」

「森の奥の、あの廃棄された牢獄から連れ出しました。見付けるのはそれほど難しくありませんでしたわ。所詮は妖獣の浅知恵。あぁいえ半獣人だったわね。そういう人ならぬケダモノの巣を暴き出すのは得意なの。これも昔取った杵柄かしら」

「牢……彼女は、上白沢さんは、どうされましたか」

「…………」

 

 纏わり粘り、あるいは抱擁するようだった眼差しが、ナイフのように尖るのを見た。

 銀製の視線。暖かみを失くし、ただ鋭痛ばかりを湛える色彩。

 怒りではなかった。そんな熱を持ってはいなかった。ただ純粋に、認め得ぬものと定めて。存在を許さぬという意志。

 かみしらさわ、この口がそう発音することすら許さぬ。

 蒼銀の少女の瞳は冷たくそう物語った。

 しかし、それに尻込みして問わぬという訳にはいかぬ。問い質し、なんとなれば誤りを正さねばならぬ。

 俺は、取るべき責めを置いてきた。

 彼女ともっと、語らわねばならなかった。彼女の行為、あの仕儀へと至ってしまった思い……想いに、なにがしかの解答を導き、提出せねばならなかったのだ。

 

「家政長殿、いえ……十六夜さん。ありがとうございました。あの場から助け出していただけたこと。このような無様に成り果て、運ぶだけでもさぞご苦労をお掛けしたことでしょう。このようにして尊館の一室を占拠させてまで、匿ってくださった。重ね重ね感謝に堪えません」

「当たり前のことをしたまでです。私の願望を実行した。ただ、それだけ」

「ご恩を賜った。事実であり、それは己が自覚すべき当然でもあります」

「……恩に着てくださるの?」

「無論」

「なら、そのお返しを求めてもいいのかしら。意地汚いと、お笑いになる?」

「そのようなことがあろう筈もない。この報恩は必ずや、全霊を以て果たさせていただく」

 

 この役立たずの身体に、受けた感謝に見合うだけの価値を果たしてどれほど創出できるものか。絶望的と言って差し支えない。

 しかしそんな手前の実情など関わりなく、彼女に対する恩返しは己の生命の巨大な使途となった。必ずやの言に断じて偽りはない。

 だが、しかし、今は。

 

「今少し、この身にお時間をください」

「……」

「上白沢さん、そして魔理沙さん、射命丸さんに、己は釈明をせねばなりません。その御心を騒がせたこと。その末に無用の諍いを招いたこと。己に……この俺にっ、そんな価値は断じて! 断じてありはしないのだとッ!」

 

 なんとしてでも彼女らに理解させなければならない。

 大腿骨折と膝蓋骨の粉砕によって動かぬ両脚。幾日も寝たきりだった為に土嚢の如く鈍重な肉体。

 もはや無力無能の二語を冠して憚らぬ。

 ならば這ってでも行く。行かねばならぬ。もとより果報を寝て待つ分際にないのだから。

 掛け布団を払い除け、上体を起こす。たったそれだけの動作を終えるだけで体力と時間を蕩尽する。先が思いやられるとはこのことだ。

 鼓動が早まり増勢する血流が耳孔に喧しく響く。

 寝台で息を荒げる己はさぞ滑稽だろう。己のその無様を、瀟洒な彼女は見詰めていた。

 微笑。

 ひどく優しげな面持ちだった。眉尻がややも下がり、蒼い瞳はともすれば滲み、潤んでさえ。

 曰く言い表し難い、そんな表情(カオ)

 ああ、いや。これは、そうだ。知っている。見たことがある。忘れられるものか。この俺がそれを忘れてよい道理などない。

 病床。消毒液の臭い。白い白い部屋。青白く血管の浮いた細面。痩せ細り弱り果てた────母が。

 最期に浮かべた顔。あの表情を。

 憐憫。

 俺はこの少女に、憐れまれていた。痛ましいまでに。涙を流させるほど。

 どうして。

 そんな問いを口にしようとした、その瞬間。

 彼女はそっとそれを掲げた。

 細い鎖が腰元から伸び、それの頂点の()()()に繋がっている。

 銀時計。華奢な少女の掌に納まるような、小振りな懐中時計だった。

 

「時間を」

「は」

「時間をあげる。貴方の望み通りに。けれど、あげられるのは“これ”だけよ。それ以外は、駄目。もう駄目なの」

 

 首を左右して、刹那、彼女は目を伏せる。恥じ入るように、乙女の頬が赤らむ。

 

「貴方に捧げる、この“咲夜(わたし)の時間”を」

「それは、如何なる」

「ふふ、こういうこと」

 

 少女の手が握られる。握り、その指先は躊躇いなく懐中時計を、文字盤の硝子を砕いた。

 自然の仕儀、割れた破片が白い指を切り裂く。紅い血潮が銀を曇らせる。滴り、袖口を黒く汚す。

 

「なっ、なにを!?」

 

 悠長に驚愕の声を上げる己を無視して、いや依然として、慈悲深いその蒼い瞳は見詰め続けている。抱擁のような視線が、己の姿を撫でていく。

 彼女は割れた時計の文字盤から、それを摘まみ出した。

 黒い針。先端が(スペード)形に膨れた、ほんの数寸ばかりの短針。

 

「この部屋に貴方を閉じ込める。それだけで満足できると思っていた。お嬢様のお許しを……言祝ぎを、頂戴して、もうそれだけで十分、十分過ぎるくらい幸せだって……でも」

 

 彼女が身を乗り出す。その(かいな)を広げて、この身を今度こそは本当に抱擁する。

 花の香。甘く可憐な。どうしてか、それは官能的に記憶野を引っ掻く。いつか、どこかで嗅いだ覚えのある、ような。それに脳髄が陶酔しかける。

 戸惑いは喉奥の反問すら霧散させた。

 

「初めて会った日から感じてた。貴方と私は似てる、って」

「貴女と……?」

 

 この身が? 十六夜咲夜に?

 まさか。真逆(まさか)。生物として、存在そのものにしてからそこには極大の相違がある。

 価値の有無については論外のこととしても、この少女と我が身にほんの一欠片ばかりの相似があるとも思えぬ。罷り間違い思うことすら、身の程を知らぬ妄念。

 いったいどこが、いやなにが。己のなにをして、そのような。

 

「至上の価値を、自己ではなく外に置いている。私の主への忠節が、生命霊魂よりも高い、自己存在の頭上にあるように。貴方は自己以外を尊び、慈しみ……自己の無価値を妄信している」

 

 身体を包むその細い腕に、力が篭った。

 

(かしず)き、従僕することに喜びを見出す私を、私の在り方を、認める者はいなかった。隷属など愚かだと、間違いだと否定する者はいた。自由が無いと、剥奪されたと、憐れむ者がいた。そんな生き方だけが人生ではないと、訓示を垂れる者もいた。どれもこれも、くっふふ、見当違いもいいところ。別に理解者を求めていた訳ではないし、自分の生き方に今更迷いなんてなかったのだけど。そんなものは雑音と切って捨てられた。ただ自分だけが、それを忘れなければいい」

 

 お嬢様。レミリアお嬢様が、私の全てを捧げる対象であるというその事実さえあれば。

 

「いい、と……思っていたのに……」

 

 吐息が震えている。肌身を通して、少女の鼓動の高鳴りを覚えた。

 

「貴方は認めた。私を、私の価値を、認めてしまった」

 

 触れることを躊躇うほどに少女の体は小さく、軽く、儚い。

 しかし己にひしと縋る、その懸命さが、必死さが、なによりも健気で。

 到底、振り払えるものではなかった。

 

「単なる肯定でも、まして否定でもない。認めて、心から尊んでくれた。主従という在り方に身命を尽くす、その様を」

「……貴女の直向きな忠心に否定の余地などありましょうか」

「そう言ってくれる人が、心からそれを思ってくれる人が、他にいる?」

「居らぬ筈が」

「いなかったの。そして貴方は、初めての人」

「これから先、理解者が現れるやもしれません。むしろ今の今まで貴女の前にそうした者が現れなかったことこそが数奇だったのです」

 

 それこそ、己のような外来の、数多の価値観を培った誰かが。

 己などよりもっと叡哲で、思慮深い誰かが。

 彼女の忠誠の真なるを語ってくれよう。己は所詮、その真価に偶さか行き会ったに過ぎぬ下人だ。

 手代として紅魔館の外商を任され、少なくない機会、彼女の家政長としての、貴人に仕える従者としての振舞いを目の当たりにしてきた。

 主人を仰ぐ少女の背には純一の忠義心が宿る。卑屈も僭称もなく、ただ直向きにレミリア・スカーレット貴嬢を敬愛(あい)する従僕、十六夜咲夜。

 ただ後ろ暗い過去に怯み、ただ劣悪な自己を嫌悪するばかりの卑劣漢たる己が、彼女に畏敬を覚えるのはただただ自然(じねん)の仕儀だった。

 

「そうね。いるのかもしれない。そんな誰かも」

「っ、ならば」

「でももう駄目。言ったでしょう? もう駄目なの。貴方でないと駄目なの」

 

 俺は俺の愚劣を、無価値を疑わぬ。

 そして俺は、この、瀟洒で完璧で、幼気でいじらしい少女の尊さを知っている。ただ、誰かに褒められることに馴れていない。そんな愛らしい少女の、純な心の価値を。

 その事実はもとより不動。己でなくてもよいのだ。彼女は敬われるべき人物であり、その当然はいずれ、世の人々、誰も彼もの知るところとなる。そう確信できる。

 

「貴方がいいの」

 

 己なぞの出る幕はない。ないのだ。

 

「私を正しく見止めてくれたことが嬉しかった。私の在り方の、味方になってくれて、嬉しかった。自分自身を差し置いてでも大切にしたいものがこの世にはある。それを理解してくれたことが、嬉しかった」

「俺はただ、憎いだけだ……俺が存在することが厭わしいのだ……利他精神などはその欺瞞に過ぎない」

 

 上白沢さん、かの御人がそれを知らしめてくれた。

 

「貴女の真心(それ)とは似ても似つかぬ醜いものだ」

「それがいいの」

「共感ですらない! 同情にも値しない! 俺と貴女はまったく違う!」

「いいえ」

 

 驚くほどに淀みなく、ともすれば事も無げに、彼女は己の精一杯の反論を否定してみせた。

 そっと、少女は身を離す。二人分の醸成された熱が解け、消える。その名残を惜しむ我が内心を自覚し、ひどく羞恥した。

 彼女と相対する。

 虚無のような蒼と、相対する。少女の瞳のあまりの深さに、腹の底から慄いて。

 にっこりと花開くように少女は、笑った。

 笑っていたのだ。慈母の如き憐れみの貌で。

 

「自分の死を糧にしてくれる誰かを欲し求める貴方。自分の血を糧に君臨する主を奉じ愛する私。ほら、こんなに似てる。こんなにも度し難い。こんなに愚かで、滑稽で、まるで病のよう。ふふふふふふふ」

「…………」

「けれど、私の方が貴方よりもずっと欲深だった。お嬢様に全て捧げる筈だったこの血を……私は、どうしても」

 

 血。鮮やかな血潮は未だ、少女の白い手から流れ出、伝い落ちている。

 今も、その一滴が、床へ。ぽたりと。

 ぽたり、と。

 落ちて────いない。

 少女の手を離れた血の滴は小さな球形を為し、そのまま中空に静止した。

 

「!?」

「貴方に捧げずにいられなかった」

 

 すとん、と。何程の抵抗もなく。

 それは胸骨の合間、鳩尾よりやや下方から体内へ侵入した。

 手にした時計の針を、少女は刺し込んだのだ。己の心臓へ。

 

「が、はっ」

「時軸の針と私の血。これで貴方の時は止まる。厳密には、時間流の外に追い遣られる。もう戻れない。もう()()()()

「いざ、よい、さ」

「これで……貴方は咲夜の虜です。“咲夜の時間”の虜囚になった」

 

 遠ざかる。全ての色が、音が、事象が、世界が。

 俺を置いてゆく。俺一人を置き去りにして往く。

 灰色に脱色していく視界、己以外の全てが停止した光景。運河のように強烈に己が身を押し流していた“力”、ただ身を任せるだけでよかった揺り籠から弾き出され、居所を失う。

 想像を絶する喪失感と孤独感。

 時間に取り残されるという絶望。

 しかし、その手は差し伸べられていた。嫋やかな、精緻な芸術品めいて、美しい手。

 

「大丈夫。私がいます」

 

 美しい少女は、とても憐れみ深い微笑を湛えながら、言った。

 

「私だけが、貴方を見ることができる。私だけが、貴方と話ができる。私だけが、貴方に触れられる。そして……貴方が見られるのも、声を言葉を交わせるのも、触れられるのも、私だけ」

 

 月並みですけれど。少女はそう、まるでとっておきの冗句を口ずさむように。

 

「この永遠の時の中で、貴方を放しはしないわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






主人公の状態をざっくり言うと、キングクリムゾン発動したまま解除も外界への干渉も不能な感じ。



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夢の中へ、夢の中へ(霧雨魔理沙END)

行ってみたいと思いませんか(切望)



 

 

 声が聞こえる。

 無邪気な声が。木漏れ日に花咲くような笑声だ。

 森深くに佇む小庵の庭先を車椅子から望む。よく手入れの行き届いた芝と菜園。彼女が丁寧に育てたもの。

 不精なようで実のところ、娘はとても凝り性なのだ。興味さえ向けばとても細やかな仕事をする。

 緑の匂いが深い。

 午後は雨になるかもしれない。洗濯物はどうしようか。その前に、夕餉の献立を考えて、山菜取りにでも。

 なにはともあれ、あの子にも声を掛けておこう。何も言わずに出掛けると拗ねてしまう。

 勝ち気で自立心に溢れている子だ。だのに、寂しがり屋。それが、どうにも、可愛い。

 己などには勿体ない。勿体ないくらいに、良い子だった。

 良い、娘。

 

「魔理沙」

 

 呼び掛けると、娘は庭先からこちらに駆けてくる。まるで仔犬のような無邪気さ。

 車椅子に腰掛ける己の膝に両手を置いて、大きな瞳がこちらを見上げた。小造でビスクドールのように可憐な顔立ち。やや癖のある金髪は細く、柔く。

 血色の良い頬が笑窪を作る。やはり、それは、花弁が満開するように眩い。

 

「なぁに、父さま?」

 

 俺の娘。愛娘の魔理沙。

 

 

 

 

 

 

 この土地に越してきてどれくらいになるか。

 はっきりと年月を数えられないのだから、間の抜けた話だ。己の頭が他者より秀でているなどとまさか考えたこともないが、あの子に呆れられるのは流石に心苦しい。

 

「ふふ、私が父さまを? 呆れるなんてそんなの、あるわけないでしょ」

 

 なにより、あの子との日々をただ漫然と過去のものにしてしまうのは度し難い愚である。

 カメラでも手に入れた日には、それはそれは数多のデータカードだかフィルムだかを蕩尽して己は娘の記録を撮り続けていたことだろう。

 

「それはちょっと恥ずかしいかな……父さまがどうしても、って言うんなら、別だけど……や、やっぱりダメ!」

 

 今の今までそれをしてこなかったのが不可思議なほど。

 

「そんなことしなくたって大丈夫だよ」

 

 どうしてだったろう。

 年月を数えることを止めたことと、なにやら関わりがある。そんな気がする。

 

「気にしすぎだってば。もぉ、父さまは心配性なんだから」

 

 子育てに繁忙が付き物とはいえ、子供の成長記録を取りたがらぬ親がいるだろうか。人として劣悪であり、況してや親として不出来を恥じるばかりのこの身。せめて出来の良い、いや出来すぎたあの子の為に、思い出くらい残してやればよいものを。

 

「思い出ならあるよ。()()に、ぜーんぶある。だから大丈夫。心配ないよ。大丈夫。大丈夫だから」

 

 どうして、だったのだろう。

 思い出。あの子は、そう。己の娘。俺の娘。

 母親は────

 

「居ないよ」

 

 ────居ない。そうだ。居ない。離縁や死別ではなく、初めから居ないのだ。

 俺が? 俺が、孤児だったあの子を引き取った。嬰児だったあの子を。いやあの時にはもう五つか、七つだったか。

 寡男の分際で子供を育てようなどと思い上がりであり暴挙であった。

 

「父さまに出逢えたことは、私の一番の幸福だったよ」

 

 けれど己の不届きぶりとは裏腹に、娘はすくすくと育ってくれた。健やかに、活発に、よく食べよく眠りよく遊んだ。かといって勉強も疎かにはしなかった。むしろ学ぶという行為を心底楽しむことのできる気性なのだ。どこからともなく仕入れてきた分厚いハードカバーを読み耽り、羊皮紙やら巻物やら紙片やらに何かしらを書き殴り、その脳に直接刻むようにして知識を詰め込んでいた。

 そんな学者や研究者の如き熱量に、己は圧倒されたのを覚えている。

 頻繁に机上に突っ伏して転た寝するのを心配した。だが同時に、何か一つの物事へ熱中する姿。毛布を掛けながら、その小さな背中を誇らしく思った。

 尊敬が、胸に湧いた。年若い少女に、大の男が。

 

「えへへ、大袈裟だなぁ……でもうれしい」

 

 本当に彼女は直向きな求道者だった。ゆえにこそ、わかり合って欲しかった。

 

「…………」

 

 わかり合える筈だ。何故なら、こんなにも彼女と彼は似ている。片や魔法という道を邁進し、片や商人という営みを全うする。どちらも立派だ。その直向きさを尊いと思う。

 

「思わなくていい……」

 

 必要なのは時間と、言葉を尽くすを厭わぬこと。向かい合う機会。

 

「要らない。そんなもの」

 

 俺は、不遜にも願う。願わずにおれぬ。

 

「願わなくて、いいからっ」

 

 霧雨魔理沙、かの少女が生家の門扉を潜り、そして。

 父親(てておや)と再会できる、その時を────

 

「父さま」

 

 ふと気付く。

 頬に触れる暖かで、柔らかな手。そうして、娘が両の手で己の顔を包み、真っ直ぐな両瞳がこちらを覗き込んでいた。

 真っ直ぐ。真っ直ぐに。

 車椅子の傍近く、暖炉の火の中で薪が爆ぜる。カーテンの向こう、窓の外は暗い。夕餉を終えて、身支度を済ませた後、就寝までの静かな時間。いつもの、穏やかな時間。

 膝には袖や裾をカットした古着と糸の通された針。針仕事の最中だというのに呆けていたようだ。

 灯の色を映すまでもなく、娘の瞳は常に(きら)(きら)と輝きを放っている。イエローダイヤモンドのような黄金色。それがひた、と。己の両目を見詰めている。

 見詰めて放さない。離れない。

 彼女の視線は今、己の指に握られた針より直向きな形をしていた。攻撃的とさえ言える。

 逃がさない。獲物を前にした捕食者の本能に根差した思考。いやさ決意。

 そんな恐ろしげなものに喩えてしまえそうなほど強く、なにより強く。黄金の瞳は微動だにせず、ただ俺を見据えていた。

 それが、その様が、ひどく……憐れだった。悲しかった。無性に、この胸が(つか)えて止まぬ。

 針を筵に戻し、俺はそっと娘を抱き寄せていた。

 腕の中で、微かな吐息を聞く。

 

「父さま……どうか、したの……?」

 

 己の肩口に額を付けて、怖々と娘が問い掛ける。不安を圧し殺した声。今にも泣き出してしまいそうなほど、娘は小鳥のように震えていた。

 

「いいや」

「……どこかに、行っちゃわない……?」

 

 その問いが、まるで崩壊の序曲の最初の一音節であるかのように、娘はそっと口にした。

 強張るその体をさらに引き寄せ、背中を擦って、己もまた慎重に口を開く。小鳥が驚いてしまわぬように。

 

「どこにも行かない」

「魔理沙を置いて、どこかへ」

「お前を置いてなどいかない」

「ひとりぼっちに、しない?」

「手放しはしない。絶対に。あぁもし、お前が誰かの花嫁になってしまったとしても、手放せるかどうか」

「ならないよ」

「なら安心だ。花嫁姿を見られないのは、残念だが」

「じゃあ父さまのお嫁さんになる」

「ふふふ、それは嬉しい」

「魔理沙、本気だよ」

 

 声がむくれるのがわかった。調子を取り戻しつつある娘に、内心で安堵する。

 そしてその物言いがあまりに愛らしくて、堪えも利かず喉奥で笑声した。

 

「むぅ……父さま、信じてない!」

「そんなことはない。勿論。ええ。請け負いましょうとも」

「あぁ! 噓っぽいぃ~!」

「ふふふ」

 

 小さな拳で胸板を叩かれる。

 頭を撫でて、金糸の髪を指で梳く。すると娘はするりと猫のようなしなやかさでそれを逃れ、両手を後ろにして己の膝前に立った。

 悪戯っぽい微笑。十代の半ば。こんなにも大きくなったと、感慨のようなものが湧く。まだまだ幼気で、あどけないと思う。放っては置けないと。

 けれど不意に。

 この目に自身の両脚が映る。もはや能無しの役立たずの、自身の有り様が。

 こんなものが、この少女を縛り付けるのか。

 こんなものの為にこの少女はこの先、その前途有望な、長い長い未来を。少なからず費やす羽目になるのか、と。

 するりと口をついて、少女の名を呼ばわっていた。

 

「魔理沙……」

「聞きたくない」

 

 娘は俯き、前髪が顔に影を落とす。実体の作り出す影ばかりでなく、心中の翳りが現出する。

 絶望が。

 

「しかし、お前は────貴女は、俺などの為に」

「聞かないよ。そんな話、絶対に聞かない」

 

 車椅子に座る己の膝の上に、娘は跨り、背もたれに手を掛ける。

 少女の矮躯が、細く華奢な身体が、丸ごと己に覆い被さった。

 影より出でる。その顔。可憐な、少女の顔。様々な感情により彩られていく。

 怒り、悲しみ、切なげに笑み、そうして不安。

 瞳が揺れ動く。滲んだ光を宿して。

 こんな顔をさせたいのではない。ないのだ。

 

「一緒にいてよ。ずっと、一緒に、いて……いて、くれなきゃいや。いやだよぉ……」

 

 流れ落ちる雫をそっと、親指で掬い、拭う。それ以外になにができる。

 この俺になにができる。

 できることなどない。この芥のような心身に、できることなどない。

 ただすべきことがある。せずにおれぬことが、ある。

 この子を幸せにしたい。幸せに、なって欲しい。

 その為ならば、この生命を使い潰してもいい。それ以上の使い途などあろうか。

 その一事。それだけは、きっと、偽りない俺の本心。

 今の俺が抱ける唯一の願いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くは続かない、と。わかってた。そんなこと。

 自分に力はない。望むまま、(ほしいまま)にする能力(ちから)なんてない。

 全てを封じられれば、永遠の命があれば、妖怪のような異能が、空間や時間や事象そのものに干渉し、操るような、法外無辺の力があったなら。

 どんなに。どんなにか。

 そんなものはない。人間の愚昧さの極み。無いものを強請る。嘲笑と侮蔑、その恰好の的。

 欲さずにはいられなかった。あの人が、現れてから。

 あの人を欲しいと思った日から。

 あの人に、父親像(ゆめ)を見た。

 

 

 ────自分の夢、魔法の道、そして母との別離。実父との縁は絶えた。もう戻らない。戻せない。

 自分に父はいない。独力で道を進む。認められなくてもいい。援けなど要らない。褒めて欲しい訳じゃない。理解して欲しい訳じゃない。そうだ。そう決めた。そう……諦めた。

 それなのに。だのにあいつは、こんな人を私に贈り付けた。当て付けのように。贖罪という見え透いた魂胆で。

 こんな、こんな、こんなに素敵な人を。

 

「…………」

 

 小さな庵の窓辺の寝台に跪いて寄り添う。その寝顔を見下ろしながら、私は卑屈にほくそ笑む。彼が掌中に在る。そんな、ほんの一時の実感、他者の介入次第で簡単に吹き飛んでしまうこの今を。果敢無いこの時間を。

 私は愛おしんだ。

 愛おしくて、嬉しかった。

 そっと、私は彼の耳孔に指を挿し入れる。

 その奥に目的のものはある。

 やや粘り、抵抗感を覚えた。順調な生育の証だった。()()は脳の奥深くへしっかりと根付いている。

 特殊な培養と魔術式の応用によって作り出したこの“菌類”の機能……能力は、至極単純なもの。子株に寄生された宿主に対して、親株を通して望むままの記憶を植え付ける。ただそれだけ。

 ただそれだけのくだらない能力。菌類の培養などしなくとも、これと同等かそれ以上の効果を発揮する異能、巫術、妖術、仙術……魔法は、幾らでも存在する。この幻想郷ならば、幻想の存在ならば。

 只人には、非才を知識と鍛錬で補い、繕うくらいしかできない自分には、これで精一杯。

 でも、それでいい。

 父さまが私に優しく微笑んでくれる。父さまが私の頭を撫でてくれる。私を心配して、私を抱き締めて、慰めて。

 父さまが、私を愛してくれるなら。

 それだけでいい。そう思えた。

 

「……」

 

 長くは続かない。繰り返しに、思う。

 追手はすぐにも現れる。定命の人間を嘲笑う化物共が、彼に執着する女が、いずれ、確実に。

 奪われる。

 その、不可避の未来を想像して、胸の中心を空洞が抉った。

 いつしか雨が降っていた。窓硝子に雨水が伝い、落ちる。

 垂れ流れる雨水のような甲斐の無さで、両目から涙が溢れて垂れて落ちた。

 永遠。それは、ただの人には遠い言葉だった。人を超えたところにいる者なら簡単に手に入るのだろうか。幻想の守護者である友人とか。秘薬に毒された蓬莱人とか。吸血鬼に仕えるあの女とか。

 忌々しい。憎悪が募る。

 反吐が出るくらいに、羨ましい。羨ましくって仕方がない。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 渡したくない。

 奪われたくない。

 ようやく手に入れた。私だけの父。私を想ってくれる父さま。

 傍にいて欲しい。この手が触れられるところに、この目が見られるその場所に。

 

「一緒……ずっと、一緒……いっしょじゃなきゃ、やぁっ……!」

 

 彼の服に縋り付いて泣いた。赤子よりみっともなく泣きじゃくった。

 雨のように泣いた。泣くほどに雨音は強く、雨足は激しく、怒涛のように鳴り響いた。

 泣いて泣いて泣き抜いて。

 その瞬間、雨音の間隙。無音。耳から音が遠ざかる。音を感じ取るという機能が死ぬ。

 思考。それは変転して捻転して、現実を拒みに拒んだ末に果てた。

 

「そっか」

 

 それは壊れた発見(エウレカ)だった。

 サイドテーブルに置かれた木製のラック。そこに据えた一本の試験管を見た。そしてその細い硝子の管の中にあるのは。

 粘りを帯びた菌糸、その束。丸く、玉虫色の光を放つそれ。ただ一つの能を発揮させる為に自分が作り上げた生物。

 ただ一つの、能。ただ一つ。

 私の願い。

 気付けば試験管を叩き割り、その中身を手にしていた。

 親株と子株は繋がっている。親株を通して“思考者”の思い描く記憶を子株へ伝達できるように、子株から思考を受け取ることもできる筈だ。

 記憶を、思考を、脳を繋げられる。

 肉体や現実に永遠を得る術はない。この手には。

 でも、夢なら。夢の世界で繋がれるなら。

 

「ずっと、いっしょ……」

 

 涙に滲んだ視界の中心に、父さまの寝顔がある。

 それを見下ろしながら、私は、耳にそれを突き入れた。

 耳道を這いずり鼓膜を越えて脳に達する。あっさりと。頭蓋の内側、親株は冷たい硝子の管から暖かな苗床へ移住できたことに歓喜していた。

 脳幹に根を張られれば身体の操作は困難になる。どころか、人体を栄養源とするこの菌類は、いずれは自身を、そしてこの人すら食い付くし、成長しきって屍を這い出てくるだろう。

 そうなれば。いや、そうなった暁には。

 私はいそいそと布団を捲り、父さまの隣に寄り添った。

 腕に縋って、手を握る。すると。

 父さまは、私の手を握り返してくれた。

 

「すぐに行くね」

 

 夢の中で、逢おう。

 

「とう、さま……」

 

 最愛の人を最後に映して、視界は霞む。耳の奥から菌糸の束の触手が這い出てきたのがわかる。暫くその先端が中空を泳ぎ、何かを探す。同胞を、己の子供を。

 そうして、彼の中にそれを見付けた。

 触手が彼の耳孔にするりと侵入する。脳の髄の奥の、思考の海の源泉。心へ。

 

「あはっ、繋がった」

 

 鼓動が重なる。心が、魂が、貴方のところへ落ちていく。

 夢の底。

 和かな世界の中心で貴方は待っていてくれた。

 優しく微笑んで、両手を広げて、私を抱き締めてくれた────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ところで魔理沙さんは父親といったい何があったんだろう……。



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この部屋一杯の愛を 善編(射命丸文)

改竄VS捏造
ファイッ!




 

 

 ────聞きました奥さん

 ────えぇえぇ聞いてます。例の

 ────そうそう例の、霧雨さんのところの手代の

 ────突然でしたわねぇ

 ────ホントに。急で。あたしったらもうびっくり

 ────うちもですよぅ。うちの旦那なんて、あんな美人と羨ましいなぁんてバカなこと言ってましたわ

 ────こちとらに不満でもある? って話よねぇ。おかず一品抜いちゃえ

 ────一品どころか、口滑らせたその日は漬物と粟だけよ、旦那だけ

 

 けらけらと笑うご夫人二人。笠屋の軒先で、積まれた天水桶を背にして、井戸端ならじといえど女生らの会議に余念はない。

 子供が言うことを訊かぬ、旦那の稼ぎが少ない、姑と折り合いが悪いあの婆とっととくたばりやがれ等々、彼方へ此方へ話題は変転し、そうしてのたうちまた戻る。

 

 ────山神様をお嫁に貰うなんてねぇ

 

 好奇を含んで夫人方はまた一頻りに笑った。

 

 ────あら? でもあたしゃてっきりあの手代さんお婿に入ったかと思ってましたよ

 ────あらどうだったかしら。まあ、そうは言っても鴉天狗にお家もなにも、ねぇ?

 ────そうねぇ。婿養子としたって、入れる家とかあるのかしら

 ────連れ去ったからには、あるんじゃないかしら。天狗のお宿、ってぇいうの?

 ────あははは雀じゃあないんだから! ……えっ、なんて? 連れ去った? 連れ去ったってなんですの?

 ────そりゃああんたそのままの意味ですよ。まさにこの往来でね、こう、両手で抱えられて、飛んでっちゃったの、お空に

 ────あらまあ

 

 物笑いの種という意味で、この話題は彼女らにとって具合が良いらしかった。

 恐いわ恐いわ、うちの子も大丈夫かしら、取って食われたりしてるのかしら、やだわ奥さん変な意味に聞こえるわよ、そりゃあーたもちろんそういう意味だもの。

 けらけらけらけら。

 そうして三度、話が流転しかけた時。

 

「こんにちは」

 

 ────あら先生

 ────慧音先生

 

 蒼みを帯びた白銀の髪。燐光さえ放ちそうなそれを豊かに滴らせ、麗しい女怪が軒先に立った。穏やかに微笑して、人里唯一の寺子屋の教師、上白沢慧音が小首を傾げる。

 

「彼の話ですか?」

 

 彼女が問うと、夫人達は新しい仲間が加わったとばかり寄って集った。

 そうなんですよぅ。あのお兄さんが────

 

「いやお恥ずかしい。()()()、新居への引っ越しに随分手間取ってしまって」

 

 半瞬の間。彼女らは呆として蒼の女怪を見上げた。まるきり自失の様相で。

 それを蒼い女は、赤い瞳でじっと見詰めた。暗い赤、黒い赤、まるで鬼火のように朧な双眸。

 じっと。

 じ、っと。

 そしてもう半瞬の後。

 

 ────そうでしたわそうでしたわ

 ────やだもうあたしったら不調法で

 

 夫人二人、破顔する。

 

 ────改めて御婚姻おめでとうございます、先生

 

「ありがとうございます」

 

 にっこりと、女怪もまた笑った。

 

 ────でも恥ずかしがることなんてないのよ。なんてったって新婚さんだもの

 ────辺鄙なくらいで丁度いいのよ。気兼ね無く仲良くできるもんねぇ?

 

「それは……あは、あはは、否定は致しかねますが」

 

 羞恥で頬に朱を差して、乙女は素直にはにかんだ。

 女達は笑った。けらけらと笑った。下世話に笑った。目出度い目出度いと笑った。

 何も知らず、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 授業もない休日。寺子屋の庭先で火を焚いていると、通りかかった生徒の子供らが近寄ってきた。

 

 ────先生ー先生ーなに焼いてるのー?

 ────焼き芋? 銀杏?

 

「んー? いいや、食べ物じゃないぞ。なんだ腹でも減ってるのか?」

 

 興味津々と火を覗き込もうとする童をそっと制して、もう一掴み。

 丸められた紙片を放り込む。

 千千に裂き、握力の限りに潰し、地面を割るほどに踏み付けにした、それ。それら。やや粗いパルプ製紙と印画紙。その成れの果て。成れの果て達の山。

 

「ただの(ごみ)だよ……」

 

 全て塵だ。

 無価値な塵。その内容に一片の価値もない。そこに写し出された画に寸毫とて意味はない。

 ない。断じて、ない。ない。ない。

 ただ、ただ、ただ目にも穢らわしいだけだ。道端に放置された獣の汚物が視界を過った時と同じ。

 こんなものは燃やしてしまわねばならない。存在ごと滅却してしまわねば。

 

 

 忌々しい

 

 

 最も度し難いのはこれを作った者がこの内容をさも事実であるかのように、いや事実であると()()()()()いる点だ。

 救い難い勘違いだ。虫唾が走る。

 山怪風情が思い上がり、逆上せ上がり、果てにとち狂った。

 

 

 おのれ

 

 

 もう一掴み、紙屑を放り込む。我知らず奥歯をごりごりと噛み締めていた。

 血の沸騰に反して、脳髄はどこまでも冷えきっている。それにより冷やされた眼球で炎に呑まれゆく捏造を見下ろした。

 幸い、生徒は自身の変調に気が付かなかった。

 その時不意に、子供の一人が言った。

 

 ────先生! あのお兄ちゃんとケッコンするんでしょ!

 

 父母より聞き知っていたのだろう。あるいは子らが今程こうしてここを訪れたのも、その仕入れた情報を確かめる為だったのかもしれない。

 私は微笑んだ。男女の交わりなどまだまだ知るような年頃ではない。囃し立てるのは、きっとその内心に湧いたあやふやな気恥ずかしさを誤魔化す為。それでも親御の見様見真似で言祝(いわい)を口にしてくれる子供ら。

 嬉しかった。

 拙く、無垢な言葉がただ嬉しかった。

 そう。そうだとも。

 

「ありがとう」

 

 真実は一つだ。これ一つきり。

 祝福は彼と私、二人へ注がれる。結ばれるのは、否、()()()()のは私達だ。

 天狗(おまえ)などではない。天狗などであってたまるか。

 最後の塵の一山を焼却する。これで人里にばら蒔かれた記事と写真は全て消し去った。里中の家という家、土蔵から納屋に至るまで探し尽くし回収した。

 ……あるいは何処か、この目の届かぬところに隠れていたものが見付かったところで、どうということはない。

 里の人々にはもう既に“真実”が伝染している。この“歴史”は正しい道筋を辿っている。

 里の家一件一件、里の人々一人一人に、私自ら噛んで含めて教えて巡ったのだ。あくまでも私の能力が編纂できるのは記録であって記憶ではない。が、相対した個人、一対一ならばその限りではない。

 丁寧に丁寧に丁寧に教え込めば、人はそれを真の事柄であると信じてくれる。在るべき史実、記録は記憶にすげ変わる。

 私は教師だ。教えるのは、とても得意だ。

 これが人里の人別帳ともなれば返す返すに造作もないこと。そこには彼と私が正式な夫婦(めおと)である旨が既にして記載されている。私の能力のみならず、私手ずから書き加えた。決して決して間違いのないように。

 

「これからを彼と私と、生きて、生きて添い遂げる」

 

 これは確定した歴史だ。もはや覆らない。

 覆させない。

 

「お前達もどうか見守ってくれるかい?」

 

 舌っ足らずな祝辞をくれる子供達の顔を順に一人一人見返して、私は一つの決意を表明する。

 人として、彼を生かす。

 人生を彼に歩ませるのだ。ありふれた、他愛のない、穏やかで幸福な人生を。

 私が彼に(もたら)すのだ。他の誰でもない、私が。

 

「私、だ」

 

 彼と生きるのは私だ。

 私なんだ。

 私、なんだ。

 私……なのに。

 なのにどうして、彼はここにいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 某月初旬。晴れ。

 暦の上では春を数えようとも朝夕の空気は身を切るようだ。

 油断はできない。私はともかく、人間である彼は気を付けなければ風邪をひいてしまうかもしれない。

 玄関口から、いつもよりほんの少しだけ丸まった彼の背中を見送りながら思案する。襟巻か上着か、香霖堂さん辺りで見繕おう。

 寒いと言ってもここのところは澄んだ快晴が続いている。お出かけ(デート)には打って付けの日和だった。

 

 同月某日。晴れ。

 相も変わらず起床が辛い日々。けれど寒がる体とは裏腹に心は芯から暖かである。

 彼とのデートです。デート。予定通り香霖堂さんのところへ出向いて、春物の洒落た襟巻や着物を見付ける。

 瘴気の薄い路を選んだので帰りは彼と共に森林浴を楽しむ。深い緑の中を歩む彼の姿は実に実に画になります。

 フィルムを五本ばかり使い尽くす。

 

 同月某日。曇りのち晴れ。

 起床が辛いと駄々を捏ねる私などとは違って、彼の朝は早い。とても早い。布団から抜け出す時もそこには未練というものがないのだ。すごい。

 小間物瀬戸物呉服にその他諸々、手広いというかもはや節操の無い品揃えを誇る人里の霧雨商店は、それだけに常日頃繁忙だ。

 手代として立派に奉公を全うする彼の姿を私のファインダーが収めずにおられないことは言わずもがな、フィルムを七本消費してあらゆる角度で彼を撮り尽くす。

 ……しかし、彼の時間を忙殺するこの店、延いては店主の横暴に対してはやはり何らかの手段を講じるべきだろうか。彼の仕事風景は私の心身を癒すだけに留まらず、世の人々に謹厳実直とは何たるかの模範を示してくれる。価値がある。あるのだ。それをあの主人は半ば飼い殺しにしている。

 赦せぬ。

 どうしてくれようか。

 でも……彼の仕事を奪ってしまうような事態は本意ではない。

 ただの普通の他愛ない日常を過ごす彼が、私は(乱暴に塗り潰されている)

 

 同月某日。昼から雨。

 雨に濡れる彼もまた素敵だ。濡れ髪、重たげに体に張り付く袷。湿気と寒気で白い息を吐く様は私の胸を大いに躍らせる。罪な人。写真機越しにそれを実感する。雨を浴びて身体を冷やす彼とは打って変わって、私の心身は火照っていくのだ。

 ああ、それが紅魔館などという下劣な血吸い鬼の根城への遣いの道中でなければ、一飛び傍に行って傘の一本でも差し出すのに。私が。私がだ。

 その、彼の、隣に、我が物顔で傘を持って伴う吸血鬼の従僕(メイド)。あの女と彼とを同じ画角に収めるなどという埒外の行動を私が取る筈もない。フィルム三本を使い、彼だけの画を複数撮り終える。到底足りない。あの女の所為だ。

 けれど、けれど! 私は決して彼の仕事の邪魔をしたい訳ではない。

 仕事に従事する彼の素敵な姿を、懸命な様を、写真に収めたいだけなのだ。

 

 同月某日。朝から雨。

 繁忙な霧雨商店にあっては珍しく、彼にはお休みが与えられた。むしろ今までが過ぎて働き詰めだったのだ。店主の配慮の不届きが目に付く。

 それはそれとして、出掛けるにも雨足は強く、趣味と呼べるものを持たない彼は案の定時間を持て余している様子だ。霧雨の主人より宛がわれた私宅の居間で、彼は一人読書に耽っている。といっても、それは店の商品の目録であったり過去の帳簿であったり。世間的な読書とは趣が違った。家事をやり尽くした末の、手代としての手習いだ。そんな彼の生真面目さには尊敬が湧くし、好意とて深まるばかりだが、本音を言えばもう少し自分の為に時間を使うという習慣を身につけてもらいたいと切に願う。

 それでも私的に一日を過ごす彼は貴重だ。天井裏や軒下から、時に隣室から、貴重な彼を写真機越しに見守った。撮影はとても捗った。

 近頃手持ちのフィルムが不足気味。河童の勧めを聞き入れ、デジタルとかいうものを取り入れるべきだろうか。

 

 同月某日。薄曇り、時々晴れ。

 彼が話し掛けてくれた!

 彼とお話をした!

「新聞、いつも楽しく拝読させていただいております」

 だって!

 すごい。うれしい。うれしいうれしいうれしいすごいうれしいすごいすごい。

 あぁ、今日はなんていい日なの。

 

 同月某日。晴れ。

 昨日のことが嬉し過ぎて撮影が疎かになってしまった。

 本日は反省して、彼を撮ることだけに傾注する。

 起床から日中の彼の丁寧で細やかな仕事ぶりを細見し、食事中の所作まで写真に収め手帳に認める。

 寝顔は案外年相応で、とても、とっても可愛かった。口元に耳を寄せると、鼻呼吸の静かな寝息が心地よかった。肩幅や鎖骨の太さ、首筋の武骨さ、特にそう、喉仏の存在感が、彼の男性を強く主張していて、どきどきした。

 もっと見たい。

 もっと。

 触れたい。

 嗅ぎたい。

 味わいたい。

 つなが(文章が途切れている)

 

「本心ですよ」

 

 膝に乗せた分厚いバインダーから顔を上げると、少女の微笑が己を捉えた。捕らえて、我が身を射竦める。

 開け放たれた障子戸と雨戸、敷居を跨いだ縁側の向こうに雄大な山並みを望む。

 妖怪の山。ここはその山腹に佇む庵であった。

 射命丸文。ここは彼女の住まい兼仕事場である、と。ここを訪れた時……否、連れ去られてきた時、彼女からそう教わった。

 麗らかな初春の午後。白みを帯びた陽光を背にした少女の笑顔を、俺はどうしてか直視しかねた。眩い、それのみが理由ではなく。

 だから、うっかりと。

 俺は視線を逸らした。逸らし、這わせてしまった。

 室内に。室内の壁、天井を埋め尽くすそれ。それらに。数十、数百、数千に及ぶ紙片。

 それは写真である。様々な場所から撮られた写真である。

 場所、角度、時間を異にする写真。ただ、被写体だけが同じ。

 俺だった。

 それは全て俺だ。

 写し出された風景は一様に己の生活圏である私宅、あるいは仕事場たる御店、遣いにやられた道々やその先々。

 我ながら変わり映えというものに乏しい画の数々。偶の商品の買い付け等除けば、己の生活の極まった侘しさを窺える。見るだにつまらぬ、下らぬ、男の姿。なんとなればどれ一つとしてカメラのレンズに目線を寄越さぬ愛想の無さ。

 当然だった。写真の中の俺はカメラの存在など認識していないのだから。

 これらは全て俺の、盗撮写真なのだから。

 

「何故」

「大好きだからです」

 

 固形物を喉からひり出すかのような己の声に、溌溂と少女は応える。

 万感の想いを舌に乗せて。

 

「貴方が、大好きなんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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この部屋一杯の愛を 哄編(射命丸文END)

 

 

 晴れ空より降ってくる冴えた風の中に、懐かしい匂いを嗅いだ。一年前、一巡前の季節の変わり目、この幻想の御世へと逃げ込む少し前。現世で嗅いだものと同じ。夏の気配。夏の匂い。

 彼女の、鴉の濡れ羽色のような髪が風にそよぐ。

 俺はただ呆然と、その薫風のような可憐さを見上げていた。見上げることしかできなかった。

 穏やかな笑みを湛える射命丸文を。

 

「写真機」

「は……?」

「写真機を直してくれて、ありがとうございました」

 

 出し抜けな感謝の言葉を己は即座、理解しかねた。

 確かに以前、彼女のカメラが故障し、その修理の為の部品集めを買って出たことは記憶に新しく、実時間的に言っても決して遠い過去ではなかった。

 ほんの数ヶ月前。己が手代勤めを拝命してすぐの頃、彼女は来店された。

 言動は軽妙、笑みは不敵、腹心を他者に覚らせぬ術に長けた巧者。そんな印象を纏う女怪。

 しかし、店先に現れた彼女を見たその時、己が抱いたのは真逆の印象だった。所在無くぽつりと佇む少女が、俺には途方に暮れた迷い子のように見えた。

 そして、それは今もなお。

 彼女の潤む瞳にそれを見ている。迷い、揺らめく。

 

「うん。今にして思うと、写真機(これ)は切っ掛けに過ぎなかった。私みたいな鴉天狗の、難儀な女の、言ってしまえば駄々に付き合う奇特な人間が物珍しかっただけで。取材のつもりだったんです、最初は。ホントですよ? でも知れば知るほど……深みに嵌まっていった。貴方という沼に」

 

 彼女の、感情が。

 瞳を通じてどろりと流れ込んでくる。

 

「自分でも驚いてるんです。()()()()()をするなんて。ただ一人の人間のために。ただ一人の人間を……こんなに欲しいと思ったことはない」

「……」

「私の理由なんてその程度です。恋に現を抜かして、抜かし切ってこうなった。納得してくれますか?」

「容易には、致しかねます」

 

 石を吐くような心地だった。拒絶の意。彼女が己を、己なぞを……好いてくれている。その望外の事実を踏み付けにするが如き真似。

 許されない。(おまえ)のようなものが何を思い上がってそのような言動を恣にするのか。

 しかし、その思い上がり、埒外を己は為さねばならぬ。

 彼女の間違いを正さねばならぬ。

 

「貴女は間違っている」

「はて、私の何が間違っているんでしょう」

「俺にそんな価値はない」

「価値を決めるのは生憎、貴方ではないのですよ。ご経験がおありでしょう? 品物の値付けと同じです。私が目利きし、私が値札を付け、それに見合うだけのものを私は支払っている。ただそれだけ。世の誰彼がそれを無価値と決め付け、あるいはその品物自身すらも自らを無価値と断じたところで、揺るがない。“私にとっての貴方”は、もはや揺るぎない」

「……貴女が、自分如きを過剰に評価してくださることは、汗顔の至り。いえ……嬉しく、思います」

「はいっ」

 

 華やいで、笑む。少女は極上の笑顔を湛えた。

 奥歯を噛んでそれを見返す。純粋無垢な少女の喜色を打ち払うかのように。

 

「ですがそれによって、此度の争乱は幕を開けた。十六夜さんが、魔理沙さんが、上白沢さんが、射命丸さん貴女が、この塵屑の為に相争っている」

 

 それが間違いでなくて何だと言う。悪夢のような過ちだ。

 あるいはそれが単なる戯れ合いであったならどんなに、どんなにかよかったろう。子供が珍しい形の石塊を取り合う、その程度の気安さであれば。力ある幻想の少女達の、恋模様という名のごっこ遊び。

 そうならばよかった。そうならば、この身は真実路傍の石塊同然に振舞うだけ。

 だが実態は。

 

「殺し合いを、始めてしまった」

 

 禍。

 我が身に対して独自の価値を見出した少女達は、互いが互いを敵と定め、障害として排除せんとした。血を見ることすら辞さぬ躊躇の無さ。

 

「品物の値付けと、ただそれだけの行為と、そう仰せか。ならばそのたかが品物を奪り合い、奪らんが為に競合する他の者を害するなど愚行の極み……理性ある者の行いではありますまい」

 

 狂っている。言外に俺は目の前の少女の、かの少女らの狂乱を指摘した。

 

「御再考を、射命丸さん。貴女は理知に富んだ方だ。この行為が、この状況が、正常(まとも)ではないと理解されておいでだ。これが……恋であると、お、俺に、俺に好意を寄せてくださった結果だと言うなら、せめて……」

「……」

「せめて、手段をお選びください。この闘争が誤りなのだとお気付きください」

 

 この馬鹿げた闘争の果てに己以外の誰かが傷付くなど、それ以上の最悪がどこにある。ない。ありえない。あってはならない。

 せっせと口舌を働かせる己を射命丸さんはただ黙って見下ろしていた。

 応えはない。その意思すら。静謐な少女の瞳に、己はただ不安感を掻き立てられる。それを振り払う為に今一度俺は彼女の名を呼んだ。

 

「射命丸さん……!」

「酷い人ですね」

「!」

 

 ふ、と浮かぶ。それは散り際のハナミズキのような微笑だった。脆く、あまりにも儚げな。

 気付けば目の前には童女があった。今にも泣きじゃくってしまいそうな。

 一人の少女が悲しみの底へと突き落されていた。それを為したのは。

 俺だった。

 

「貴方はそうやって自分を蔑ろにするばかりで、私の……私達の望みを、決して許してはくれない」

 

 失望。いや、これは、この瞳の色には覚えがある。失望よりも悲惨なそれは、絶望。少女の望みを無惨に絶ち切る理不尽。

 俺という罪人を彼女が見ている。

 犯した罪を咎めるのではなく、罪に憑かれた男をどうしてか、憐れんで。

 

「ずっと、救われてきました。貴方に。貴方の言葉に。貴方の……厚意に。貴方と共にする他愛のない穏やかなだけの日常が、貴方から貰うあらゆるものが、私を救いました。私の心を癒してくれました。優しくしてくれたのが嬉しかったです。普段はやり過ぎなくらい遠慮深い癖に、こちらが思い悩んでいると知るや驚くほど無遠慮で、大胆に、踏み込んでくる貴方に、ドキドキしました。誰に対しても公正で、平等に、思慮を振り撒く貴方が嫌でした。その思い遣りに浴する他の者が心底妬ましかった。私だけを見て欲しかった。こちらを向いて、私だけを見て微笑む貴方の写真が欲しかった」

 

 視界の九割方を席巻する写真の群。けれどそこには一枚として、撮影者(こちら)側に目を向けるものはなかった。

 射命丸文を認めない。少女を見止めない、不敏で愚劣な男の姿ばかりが。

 

「救われてきました。ずっと、ずっと……そして貴方は、私を、誰かを救うばかりで────救われてくれない」

 

 微笑が崩れる。罅割れ、歪む。硝子片が飛び散るように、一滴。

 白い頬に涙が流れた。

 

「手を差し伸べてくれるのに、差し伸べた手を取ってはくれない。安らぎを与えてくれるのに、決して安らぎを得ようとはしない。救ってくれた、何度も、いつでも、私を。でも……貴方は救われない! 私だってっ、貴方を救いたいのに!!」

 

 一室に満ち、響く絶叫。少女からの全霊のそれは糾弾や罵倒ではなく、予想外の、批難だった。

 

「こんなにたくさんのものをくれた人に、何かしたい。してあげたいって思うのは当然でしょう? 貰ってばかりで、平気なままでいられるような恩知らずに見えましたか、私は」

「そ、そんな、ことは……」

「嘘。私はこんなに貴方が好きなのに、貴方は信じてもくれないじゃないですか。その価値を貴方に見る私達を、間違っている、って。そう言ったじゃないですか」

「それは……それ、は……」

 

 事実という急所を衝かれる。言い訳の余地などない。

 それでもなんとか譫言を吐きながら無様に狼狽を晒す己を、彼女はひどく弱々しい笑みで見下ろした。憐れみを深めて、悲しみに耐えながら。

 

「貴方の傷を癒してあげたかった……いいえ、違いますね。私“で”癒されて欲しかった。いつしかそれが私の欲望(のぞみ)になった」

「傷……?」

 

 反射的に疑問が口をついた。それはきっとある種の、後ろ暗さから。

 後ろめたいから、そう見えたのか。

 彼女の白い頬が、口端が引き上がる。逆月めいて。少女は突如としてたっぷりとした悪意をその笑みに滲ませた。平素にも見られる偽悪的なそれ。

 そうして事も無げに。

 

「調べたんです。貴方のこと、貴方の過去、貴方のご両親のこと」

「!」

「現世にも行きましたよ。貴方がいた乳児院。貴方が育った家。通っていた学校。下働きしていた小料理屋。引っ越し先のアパートメント……ご両親のお墓にもご挨拶に伺いました」

「────」

 

 悪戯っぽい笑みに映り変わる少女の顔を、言葉もなく見上げた。

 

「ダメじゃないですか。きちんと参らなきゃ。随分草が伸びて汚れていましたよ。あぁちゃぁんと清めて差し上げましたから、安心してくださいね」

「…………」

「ふふっ、驚きましたか? 幻想郷、実は出入り自体はそう難しくないのですよ。方法も一つではありせんし。まあ妖怪や神に関しては短時間なら、という条件付きですが」

 

 驚いているのだと思う。彼女の言う通り。ただただ、驚いているのだと思う。

 嬉々として解説を呉れる彼女の言はただ耳を素通りしていく。

 わからなかった。この思考停止は、果たして何ゆえか。

 罪悪の過去を知られ、醜く窮して。あるいは、彼女の行動の突拍子の無さに。

 

「好きな人のことを調べる。当然じゃありませんか。好きな人のことを全て知りたい。普通のことじゃないですか」

 

 普通。普通とは、なんだ。

 己のよく知る熟語と彼女の口にするそれはどうやらニュアンスを異にするものであるらしかった。

 くつくつと軽妙に笑ってから、す、と少女の顔貌から表情が消える。

 

「貴方が、他者からの救済を拒む理由……ほんの少しだけ、理解します。納得なんてしてあげませんが」

「……」

「どうあっても貴方は自分を赦さないのですね」

「はい」

「…………」

 

 己自身にしてから呆れるほどに迷いなく応え、そんなこちらに今度は少女の方が閉口した。

 この身が朽ちて、死を遂げたその後に、相応しき裁きが与えられるその時まで。

 相応しき罰で、この罪が雪がれるまで。

 俺は俺を赦さぬ。絶対に。

 確信する。妄信する。

 己のこれが、一種の精神病であることも自覚している。まるで他人事のように。

 

「……どうしようもないですね」

「……はい。まったくに」

 

 もはや傲然と、苦笑と共に肯く。

 少女の美しい顔が再び翳ることを承知で。

 

「どうしようもないので」

 

 翳る、気色すらなく、彼女は笑った。それは今までにない貌で。

 妖しく、艶やかに。唇を赤い舌が舐め、目は細まる。

 気付けばその指がブラウスの(ぼたん)を外していた。するすると淀みなく白い上衣が開け、薄い水色の下着が見えた。胸元のVライン、アンダーに掛けて花柄のレースが亘り、ベルト部分はシースルーになっており地肌が透けていた。

 それよりなお白い素肌が、豊かな乳房が、眼前に現れていた。

 

「荒療治が必要ですね」

 

 白いブラウスにこうした淡い色の下着を合わせるのは透けてしまうのを気にしてのことなのだろうなどと、粗忽な男には決して浮かばぬその配慮に、射命丸文というひとの女性的な面を垣間見た気がした。

 ────などという愚にもつかぬ思考に脳髄は捻転していた。

 

「………………なっ」

 

 さらにたっぷりと五秒。現実へ意識が立ち戻るまでに要した時間。

 その間にも彼女は動いていた。不動の彫像と化した己を軽々と押し倒した。天狗と人間、膂力の差は語るまでもない。

 そのまま馬乗りに、全身で圧し掛かる。

 女の肉の柔ら。嘗て触れたことのあるどんなものよりもそれは柔らかだった。そして、逃れ難く蠱惑的だった。

 火を入れたように熱が全身を巡る。しかしなにより堪らないのは、それが自分のものばかりでないことだ。

 彼女の熱。火傷しそうなほど、彼女の体は熱かった。彼女とても平静ではない。その事実にこそ、己は惑乱した。

 

「射命丸さん!?」

「っ、これは、意識があるとドキドキしますね……」

 

 言いつつ、彼女は己の袷に手を差し入れ、胸を擦った。

 首筋に鼻を押し当て、臭いを嗅いだ。

 この下腹部を、自身の()()と擦り合わせ────

 

「っ! このようなことが、治療であると!?」

「んっ、そう、ですよ。んぁ」

 

 役立たずの両脚に激痛の鞭を打って藻掻く。上体を捻り、両手で畳を掻く。

 無駄だった。彼女はまるで獲物に絡み付いた蛇のように剥がれない。

 放しはしない。そんな意志すら滲ませて。

 

「貴方の傷を癒す為なら、この体だって使います。肉欲は使い方次第では鬱病にも効くんです。ご存知ですか?」

「患者の病状や精神状態によってはさらなる悪化の原因にもなるとか」

「……意地悪ですね」

「無礼は承知の上で、御理解を賜りたく存じます」

 

 彼女の、このような行為への、覚悟を、現にこうして目の当たりにしながら、それでも。

 事実は告げねば。この男のくだらなさを、知っていただかねば。

 

「よしんば貴女と肉体関係を結ぼうとも……俺は、()()()()ですよ」

「……」

「貴女の尽力は、徒労に終わる」

 

 言を連ね言い訳を並べ立て逃げ口上に腐心して、制止を図る。

 男性としてこれ以下もなかろう最低最悪の所業、俺は極上の美姫を腹の上に置きながら、それを拒むのだ。

 この期に及んでなお選んだのは、自分自身の業なのだ。

 救い難い。愚劣ここに極まれり。

 ごく自然に俺は思った。俺のような男、とっとと死ねばよいのだ、と。

 こんな綺麗なひとの、想いを、決意を、踏み躙るような奴輩は、惨たらしく死ねばよいのだ、と。

 

「……ダメ、ですか」

「はい」

「本当に、本当に……私、なんでもします。どんないやらしいことだって。貴方の好きなこと、したいこと、全部、全部! していいんです。してあげます! だから……ねぇ、だから!」

「……」

「おねがい、です。ねぇっ……!」

 

 俯き、黒髪の下、少女は声を震わせた。こんなにも切に、こんなにも必死に、こんな俺を願って、望んでくれる。

 少女の求めをしかし、俺は。

 拒絶した。

 時が止まったかのような沈黙が空間に鎮座する。数秒か、数分か。遠く、何処か、風の唸りさえ聞き取れるほどの静寂の中で。

 

「ああ、そうですか」

 

 ひどく平坦な声が居間に響いた。一瞬、誰の声かもわからぬほど。

 無機質な。

 

「射命丸さん……?」

「はぁ」

 

 呼ばわりに返ってきたのは溜息だった。呆れと、深く深く沁み出すそれは諦念。

 どうしようもない、言葉なく今再び、彼女はそう言っていた。

 その肩が震える。()()つく。痙攣にも似た、それは笑声だった。

 

「く、くひ、くっふふふ、ひひ、ふひっ、いえ、いえね、予想はしてたんです。えぇえぇ、貴方ってそういう人です。色仕掛けで落とせてりゃ世話ないですよ。苦労はない。体で堕とせるなら、体を、私の体、貪ってくれるなら……」

「射命丸、さん……?」

「はぁぁぁああ、爛れた生活したかったなぁ。ちょっとね、憧れてたんですよ。一日中ヤるだけヤって、食べてヤって眠ってヤって、みたいな、ね。好きな人と、獣みたいに、ただ性交(まぐ)わうだけの毎日。下品ですか? でも純粋じゃないですか。小さな悩みなんて、本能の波で押し流してしまえる。貴方の傷を、快楽で覆い尽くしてしまえる。そんな風に思った、夢想しました。あぁでは逆に」

 

 耳に唇を寄せて、少女は、女怪は囁いた。

 

「獣みたいに犯してあげましょうか?」

「っ!?」

「くふっ、冗談ですよ。いや冗談じゃないかも。ふふ、ふふふふふふ」

 

 吐息は熱を帯びていた。沸騰した蒸気と何程の違いもない。

 どうしたことか。どうしたというのか。この、変わり様。

 俺は、戸惑う。それを見失ったゆえに。彼女の中に、先程まではしっかりとあったもの。見えていた筈のもの。

 理知、理性の灯。彼女と、まだしも対話を成立させていたそれが、今、どうしてか見当たらぬ。

 どこにも。

 

「射命丸さん、一体」

「あ、そうだ。これね、ちょっと前に撮ったやつなんですけど」

 

 問い掛けには一切応じず、彼女はスカートのポケットから一枚の紙片を取り出した。例によってそれは写真であり。

 そこに。

 そこには、色がなかった。いや、あるにはある。あるのだが、画面内に存在する色彩の種類が極端に乏しいのだ。

 あるのはほぼ一色。肌の色。白く透き通るような、少女の肌。対して浅黒い男の肌。

 裸身。そこには一人の女と一人の男の裸があった。

 射命丸文と俺。一糸纏わぬ男女が、確かに、確実に……交合する様が、写し出されていた。

 

「────」

「薬。永遠亭で貰った薬。薬使ったんです。お夕飯にちょこっと混ぜて、ばれないようにね、混ぜたらね、効き目ばっちりでした! 眠ったままでもちゃーんと勃ってくれましたし、ちゃんと中で、あぁ中に、貴方が、溢れ、あふれて……ふひっ」

 

 夢見る乙女のように、蕩けた瞳が己を見下ろす。上気し、涎を垂らして、女怪は、美しい女の姿をした獣は、笑った。

 

「この写真、今ばら撒いてるんです。聞こえますか? ほら、風の音。風に乗せて空に浮かばせてたんです。今の今まで。もし貴方が応えてくれていたら……こんなことしなくて済んだのに」

 

 言葉はなかった。まるでこちらの責任とでも言わんばかり。いや、あるいはそうなのか。そうなのだろう。乙女の情愛に応えなかった。それは罪業たり得る万の理由に勝る。

 後悔すら湧いては来ない。

 

「そろそろ人里にも届いてるんじゃないかなぁ。あの白澤、せっせと私の記事を隠滅してたようですけど、さてはてこれを見たらどんな顔するんでしょうか。白黒魔法使いさんは、まぁた殴り込んで来るんでしょうかねぇ厄介ですねぇ面倒ですねぇ。まあ返り討ちです。血吸い鬼の方々は、なんか主従とその他諸々引き連れて来そうなんですよね。あれで従者に甘いでしょ、あの姫御前。これから忙しくなりますよ、まったく。まずは天魔と大天狗連中を引っ張り出さないと、根回しはいろいろしてますが。ま、どうせこの山が戦場になるんですし、嫌でも戦力にしてやります。私ってばこれでも古参なんで、上役も無視はできないんです。天狗も面子ってものがありますから、静観はできないでしょう。というかさせません。何をしても巻き込みます。その後が問題です。新居を決めないと。私と貴方二人の新居。あやや! 新婚生活ってやつです。静かなところがいいですね。永遠亭のさらに奥地の森なんてどうでしょう。お医者が近い方が貴方も安心でしょう? もしかしたら、ね?」

 

 自身の下腹を擦って、少女は恥じらい歓びを滲ませ、上目遣いに己を見た。

 そうして笑った。極上に笑った。返す返すに笑った。狂ったように、笑った。

 

「くっひひゃはははははははははははははは!」

 

 青空の向こう。哄笑が遠く響き渡る。少女の失望と、新たな希望。それを自ら祝して。

 そうして遥か、幻想郷のところどころに。

 あるいは彼女の、あるいは彼女らの、轟くような、斬り裂くような、燃え盛るような。

 憎悪の足音を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




望み通り死ねましたねぇ(社会的に)


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嗤い噺
逃げる女/逝く男


時系列は果敢無い噺「玩弄」から地続きとなっております。解り難くてごめんなさい。




 

 

 

 

 引き裂かれた腹筋、腹膜、その下からそれらは盛り上がり、溢れ出る。思えば実物は初めて見る。

 人間の臓物。己の、(はらわた)

 鎌首を(もた)げた大蛇が跳ね上がったかの様。元来はきちんと折り畳まれ、腹の肉と皮で出来た空洞に行儀良く収納されていた管が、その窮屈な圧迫から解放されたのだ。

 無遠慮に、そして実に無造作に、肉と皮の蓋は引き裂かれてしまった。頭上より降ってきた鋭利な尖端が、あれは、そう、潰れ折れた牢の格子戸、材木だったような気がする。

 内側に閉じ込められていたものが、その押さえを無くしたのだから飛び出すのは自然の成り行きというもの。ならば己は蓋の壊れた容れ物か。

 空ではなかった。虚ろな人間性は否応無く自覚するところだが、中身は詰まっていた。些末な肉の筋管に過ぎぬが、それでも。人体の機能を存続させる為の諸器官。生体の部品。とすれば生物学的には確かに、己は生きていた訳だ。その実感に、なにやら奇妙な安堵を覚える。

 目前に広がり行く鮮やかな桃色と赤色のコントラスト。思いの外、己の中身にしてはそれは小綺麗だ。もっと黒く、薄汚いものと想像していた。己の内部に蟠る汚穢は、闇は、病は。

 そんなものは所詮、己の気鬱が患った幻夢(まぼろし)に過ぎない。嫌悪、憎悪、絶望、そうした語彙で飾った己の弱さ。

 期せず、それを見られた。己の逃避する現実が、地下空間の崩落による飛礫の雨霰によって、腑分けは為った。

 そうして望外の仕儀で今、どうやら俺は俺の宣言を履行している。

 割腹。

 俺の負うべき責め。考慮に上げ時には口にしながら今だ嘗て実行に至らなんだこの惰弱を、今この瞬間に、ようやくに、清算できた。

 少女らの争乱。衝突。殺戮。その終幕に。

 俺は苦痛と、己が命を贄として、この古式ゆかしい礼法に則り、完遂する。

 責任を。

 責。

 俺如きの為に御心を乱し、恐慌し凶行へすら走ってしまった少女ら。

 彼女らに罪はない。断じてない。議論も、考慮にも値せぬ。何条もってそんなものの実在を認められよう。よしんば、少女らの行動の中に罪と断ぜられるものがあったとして、糾弾すべきはその原因、その行動へと至らしめた元凶をこそ処断して然るべきだろう。そしてそれこそが己なのだ。全ては己という異物の業が歪めし災禍。

 この結論をして余人は言うやもしれぬ。行き過ぎた罪の意識と自己嫌悪が少女らへの過剰な擁護妄想を生んだに過ぎぬ、と。

 ……なるほど確かに。己の脳髄の正気ほど信用に足らぬものもこの世にはない。

 だが、しかし一つ。ただ一つ。揺るがし難い明白な事実は存在する。

 己さえ居らねば、彼女らは()()()()()をせずに済んだ。()()()()()を見ずに済んだ。

 そうだろうが。

 鬱々と倦み窶れ、心の病に精神を廃らせた男を当初、少女らはただ憐れんだ。その良識と倫理観に基づいて陰鬱な男に憐憫をくれた。ただそれだけだった。それだけでよかった。それだけで、十分だった。だのに。

 それは次第次第に、労りに、慰めに、果てには慈しみへ。この歪んだ心と魂に寄り添おうとさえ。

 してくれた。してしまった。

 そしてその報いは、斯くも醜く返還された。

 今こそ俺は思い知る。俺が少女らに与えたもの。なすり付けた穢れ。

 我が病は伝染する。

 この心の虚、孤独という死病、渇きは、他者を腐蝕し、同等の飢餓と渇望を植え付けるのだと、この機に至りてようやく理解した。

 こんな悍ましい話があるか。

 こんな度し難い(わざわい)があるか。

 恩を仇で返すなどという次元ではない。俺は俺に差し伸べられた救いの御手を汚れた手で取るどころか、我が身の浸かる泥沼へその救い主自身を引き摺り込んだのだ。

 その、なんたる。なんたる。

 ……もはや語るに及ぶまい。死すべき者は誰なのか。

 これを逃避と侮蔑されて、己に返す言葉があろう筈もない。死は安寧。我が身の安息はそこにあると己自身が一番理解している。そこへ逃げ込もうとする己はこの世のなにより卑劣で卑怯だった。

 同時にこうも思う。己の罪科の有意無意など勘定することに何程の価値があろうか、と。

 塵滓のような思索よりも、今為すべきは。この身命を賭して、果たすべきなのは。

 少女らの争いを止めること。それ一つきりではないか。

 きっとそれが、それこそが唯一、この命の使い途なのだから。

 

 

 

 燦々と陽の光が射し込んでくる。ここは地下牢であった筈だが。

 天井には大きな穴が穿たれ、そこから抜けるような青空を仰いだ。

 冴え冴えと青い。澄みきって青い。

 青い。空を背景にして。蒼い印象を纏う────美しい女性の顔がある。

 銀の髪が陽光の中に溶け、幾条もの帚星のように視界を降り注ぐ。

 一滴、星が瞬き、流れ落ちる。流れ星が。

 いや、これは水か。

 ああ、涙。涙が。

 上白沢慧音は泣いていた。さめざめと。

 色の抜け落ちた顔だった。それが茫然と己を見下ろす。

 汚らわしく血肉と臓物を撒き散らして無様を晒す己を。

 申し訳なかった。

 ただ、ただ、申し訳なかった。

 最期の最期まで彼女には世話を掛ける。

 

「上……白、沢……さ………」

 

 どうか、お願い申し上げる。

 

「これ、にて……御、寛恕……を……この、身命にて……」

 

 この死を以て。

 

「争い……おやめ……くだ……どうか……ど、う……か……」

「────」

 

 血の(あぶく)が喉奥から口腔を満たして溢れ、垂れ流れて落ちる。言葉は汚ならしい濁音に溺れゆく。

 それでも絞り出す。残り滓の命を声帯と舌の原動力として。焼べる。使い切る。

 遺言はこれ一つ。今際の際に浅ましく、それでも頑として差し上げねばならぬ願いの儀。

 我が身の死を以て。

 どうか。

 どうか。

 どうか────

 果たして、この言葉は伝わってくれただろうか。確かめる術ももはやない。

 ただ一点、気掛かりなのは、この芥のような男の死に彼女が責めを感じてしまわぬかということ。そんな必要は一欠片とてない。ないが、彼女は実に真面目な方なれば。

 そればかりが、心残りだった。

 

 

 

 

 

 

 地表と天井を岩盤ごと刳り貫かれ、全貌が露わとなった元地下牢。

 瓦礫の散逸する穴倉の底にそれはあった。

 それ。彼────だったもの。

 

「……」

 

 剥き出しの土に降り立って、瞬間。呼吸が止まる。

 その惨状に。

 赤い襤褸雑巾のような彼。腹は裂け、内臓(なかみ)が出ている、だけならばまだしもよかった。

 右の脇腹から脚にかけて、足りない。欠けている。そこには何もなかったのだ。土砂と建材の暴流が、事も無げに彼の臓器と四肢を殺ぎ取っていってしまったのだ。

 どうしてか、この光景には既視感を覚える。ああ、そうだ。そう、あれは、妹様の。フランドールお嬢様が、力加減を誤ってテディベアの手足を引き千切ってしまった時だ。大量の綿を溢して床に転がるあの縫いぐるみ。

 同じ。今の彼と同じに。

 吐息が乱れ、喘鳴と呼ぶには微かな声が喉奥で滞る。

 その時、上空から飛来するものがあった。箒に跨った白黒のシルエット、乱雑な着地でそのエプロンドレスが土に塗れる。魔理沙はそれを気にも留めず、あるいは気付きもせず進む。

 

「父さま……?」

 

 よたよた覚束ない足取り。何度も躓き、真っ直ぐに歩くことも儘ならない。右へ左へ揺れ動き、そうしてやっと、少女は彼に辿り着いた。

 少女にとっての父なるモノに。

 

「父さま」

 

 譫言はこれで何度目か。この場に現れてから繰り返し繰り返しにその口はそれを連呼していた。

 壊れた蓄音機。レコード針はいつまでも同じ音溝(フレーズ)でぐるぐると回り続ける。

 壊れた少女は、同じフレーズを発し続けた。

 

「父さま……父さま、父さま、父さまッ! 父さまぁ!!?」

 

 遂には盤面すら割れ砕け、叫ぶ。少女は()()()()という名の肉塊に縋った。ドレスの白が染まる。それは赤く黒く、暗く、汚れていく。

 中身のない腹に顔を埋め、額を押し付ける。途端、その顔は血か涙かもわからないもので濡れていく。

 

「あぁっ、あぁあぁぁぁああああああああああ!? やだ、いやだ、や、いや、いやいやいやいやいやいや!! 父さま! 父さま! 父さま!? 置いていかないで。私を、魔理沙を置いて……いかないでよぉッ!! あっ、あぁっ、あぁぁあぁあっぁ……!!」

 

 泣き叫び、喚き散らす。それはまさしく幼児の号泣だ。分別も我慢も知らない子供そのもの。

 不快だった。見るに堪えない。五月蠅(やかまし)い。その癇に障る音色は思わず手ずから鼓膜を剥ぎ取りたくなるほど。

 腹立たしい。

 なにより、なによりも、この女のその駄々が彼に許されていたのだという事実が。

 何を置いても呪わしい。呪わしくてならない。殺意を覚えるまでに────

 

「はぁ……」

 

 埒もない思考に溜息を溢す。この期に及んで嫉妬心を燃やすこの不毛さが、徒労感が。

 だってもう、この炎を受け止めてくれる人はいないのだ。

 虚しい自戒と共に、ふと。他所へやった視線がそれを捉えた。いつの間にやらこの場に立ち現れていたもう一匹。鴉天狗の女、射命丸文。

 奇妙なことに、鴉は彼の傍に近寄ることもせず、中途半端な距離を隔ててその場に留まっていた。両の手を中空でおろおろと彷徨わせ、時に頭を掻き毟り、次いで両の頬を包み込む。

 目だけは瞬きもせず彼を見ていた。いや、見ていると言えるのか。

 

「ど、どうしましょう。どうしましょう。え、どう、したら。どうしたらいいんですか。なんで、こんな、いや、だって、私はただ、彼を助け出したくて、だから、牢屋なんか、彼を閉じ込めるもの全部、全部、なくしてしまおうとしただけで傷付けるつもりは、っ、はっ、ぁ、はひっ、ひぇ、ちが、な、なおす、治さなきゃ、ち、ちりょ、そう治療、人間はお医者にかかって傷を治すんです。治すんですよね? え、そうですよね。医者に行けば治ります。ちゃんと、ちゃんとすれば、塞げばいい。傷、お腹、繕って……ああそうだ。足、彼の足、繕うのに、どっかいっちゃった……どこだろ。探さなきゃ、さが、さがして……どこに……」

 

 誰に対して、なにを言い聞かせようというのか。それはまるきり気狂いの様相。天狗はただひたすら狼狽し、合間に引き攣った笑声と風鳴りのような不規則な呼吸を口から響かせた。

 聞けばその寄る年波千余年、幻想郷でも古参に当たるだろう山神の化身は、意外なほど脆かった。あるいは、人外の想像を絶するほどに、人間(カレ)が脆かったからか。

 天狗は半地下の暗がりをただうろうろと歩き回った。彼の足を探しているらしい。あるいは、もっと別のもの。逃げ道。目の前に横たわる現実(モノ)以外の、この女にとって都合の良い彼を。生きている彼を。

 あまりの無様さに侮蔑の言葉が喉まで出かかり、そのまま消沈する。

 論ったところで詮無いからだ。

 言い負かしてまで奪い取るべき大切なものが、既に亡いからだ。

 返す返すにただ、虚しかった。

 

「父さま……とう、さま……」

「大丈夫、大丈夫です、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、だい、大丈夫、ですよね……? ねぇ……?」

 

 誰憚ることなく無責任に恥を知らず、思う様に、声を上げて泣きじゃくる幼児の姿。自分もあんな風に泣けたら、少しは気が休まるだろうか。この虚しさを拭えるのだろうか。

 現実逃避に腐心する女。彼はそこにいる。無惨な骸を晒している。それを受け入れもせず、かといって離れられもしない半端な有り様は滑稽を通り越して醜くすらあった。しかし、確実に、今の自分よりは奴の方が幸せだ。ありもしない希望でも縋っていられる内は安楽なのだから。

 そうできたなら、よかった。

 血腥いのには馴れている。人の死など、この世界、幽世でも現世でも何処にでも転がっている。

 純朴な生娘を気取れる時代は遥か過去の時の彼方。もう馴れ切ってしまった。理不尽も、慈愛の儚さも、血と臓物の臭いも、善い人の死も。

 頬にたった一筋、流れ落ちる。私の初恋の終焉は、最低にして最悪だった。

 だって貴方の為の涙さえ、私が流せるのはたったのこれっぽっち。

 彼の為に泣いてあげられない十六夜咲夜(わたし)こそが、この世のなにより呪わしかった。

 

「認めない」

 

 不意に、洞穴に響く。その囁き。

 それは彼の傍ら。彼の頭を膝に置いたその女が発したものだった。

 上白沢慧音。色の抜け落ちた貌、涙を滂沱した目で彼を見下ろして。

 それを見止めたその時、自分の胸奥に火が点るのを自覚した。赤々とした感情、実に単純明快な、赫怒が。

 

「今更どの口がほざく……もとはと言えばお前が盗人のようにその人を……お前……お前ぇ……!」

 

 達観を装ってはみてもこの様。やり場のない感情は火を得た途端に新鮮な怒りへと燃え広がっていく。

 それが己自身を棚に上げた自儘な憤りであると知りながら、それでも、晴らさでおくべきか。この恨み。この憎しみ!

 レッグホルスターからナイフを抜き、一路。淀みなく間合いを詰め。

 逆手に構えたその刃を、自失する女の白い項に。

 振り下ろす。

 その、刹那。

 

「認めるものか」

「!?」

 

 揺れる。上下する。回る。傾ぐ。三半規管、平衡感覚に対してあらゆる角度から暴虐的な刺激を加えられている。

 なんだ。

 なんだこれは。

 これは。

 まさか、これは。

 どうしてかこれを知っている。この()()行為。不可逆の事象に対する反逆は。まさか。いやそれ以上の。

 遠ざかる視界。消失する色と音。重力さえ流れを喪い。

 世界が、反転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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報われぬ女達

 

 

 

 

 目を開けばそこは闇の中であった。

 

「な……」

 

 濃密な、質量すら伴いそうなほど深く、粘る闇。暗黒の原液。

 今だ嘗て見たことのない純度の夜闇であった。

 

「俺は……」

 

 夜気は冷えている。肌寒さを覚えるほど。

 いや、冷えるのはなにも現実の気温の所為ばかりではなかった。

 耳を澄ませば、遠く近く此処彼処で虫の音が響く。鼻から浅く吸い込んだ空気は腐葉土と深緑のそれ。

 そうして次第に、鈍い夜目が緩慢に働き始め、己の佇むこの場所が何処であるかを明らかにした。

 鬱蒼とした森の、その只中。

 道はない。道らしきものすらも。革靴の底から感じる地面は凹凸が激しく、歪曲した木の根が夥しく這い回っている。反して土は軟らかだ。意図して踏み締めれば踵までも沈み込む。おそらく随所に泥濘もある筈だ。底が無い類いのものが。

 つまるところそれは、少なくとも今この身が立ち尽くすここが、人跡未踏の領域であることの証左であった。

 地面から生える草は背が低い。頭上を覆う分厚い枝葉の天井が日中の陽光を遮るのだろう。

 暢気に考察を弄ぶ。現実逃避と同義の。

 とはいえ立ち返った現実は相も変わらぬ闇。闇。闇。

 そも、何故己はこんなところに居る。

 俺は、どうしていた。先刻まで。

 無意識にも記憶を遡ろうとした脳の、その内側で、不意に、ノイズ。

 

「っ……?」

 

 麻痺か疼痛に近しい。頭痛、いやさ脳そのものに痛みを覚える。脳に痛覚はない、などという些末な蘊蓄を嘲笑うような、頭の芯を弄くられるかのような不快感。

 それはしかし、ほんの一瞬の後に消え去っていた。

 奇妙な。通りすがりに子供が悪戯でもして逃げて行った。そんな奇妙な印象。

 しかし不可思議な感覚が過ぎ去ってしまえば脳は正常に機能した。直近の記憶が呼び起こされる。己が直前まで何処で、何をしていたのか。

 

「あぁ、そうだった……」

 

 ────母の、納骨の帰り路だった。

 

「……」

 

 山腹に位置する霊園。その近く、偶さか踏み入った雑木林を当て所なく歩き続けていた。ような気がする。

 散策とすら呼べまい。そもそも喪服の背広姿で山歩きなどどうかしている。もはや徘徊の体で。

 何故こんなことを忘れていたのか。この頭がいくら愚鈍であるにしても、ここまで突発性の健忘症を患ったことはない。己の精神もいよいよとそのような域に達してしまったのか。

 救い様のない話だった。これから先の一生を独り、身を立てて行かなければならないというのに。

 独り……孤独(ひとり)

 その事実に、ありふれたただの現実に、足が竦む。

 真実、俺はその場を一歩も動けなくなった。この夜の闇があまりに濃いから、己の行く未来(さき)があまりにも暗いから。

 身も心も迷い、惑った。その時。

 

「……?」

 

 しん、と。

 静寂だった。気付けば無音が、辺り一帯に充満していた。突如として。

 虫の音が止んだ。

 いや、しかし、静寂の為に否応なく(そばだ)てられてゆく耳は、何かを。

 

 

 ほう

 

 

 無音ではないのだ。木々に厚く蓋された闇黒の中から、響いて来る。囁くような、儚げな音色。

 

 

 ほう

 

 

 唄。

 唄声が聞こえる。

 

 

 ほたるこい

 あっちのみずはにがいぞ

 

 

 少女の声。幼く、まさしく鈴を転がすように可憐な声。それがこんな夜半の、深い深い森の奥で響き渡って来る。

 そんな時刻、場所柄で、不意に視界を光が過った。ひどく朧な。電灯や松明のそれとは違う。やや暖色を帯びた淡い光。

 そうして程なく、闇をベールのように掻き分けて、一人の少女が現れた。緑の髪、白いブラウス、濃紺の男性用下穿(ブリーチズ)、赤い裏地の黒い燕尾のマントを羽織って。

 光を纏って。

 少女は、懐中電灯も燭台もランタンも、照明器具をなに一つとして携えてはいない。()()()()発光していた。

 そうでなければこの暗闇の中で己がその姿容を認識することなどできなかったろう。

 己は、幾度目とも知らず驚愕する。足場の悪い林の中を淀みなく苦もなく進み出てきた彼女。その理由を目の当たりにしたから。

 その少女は、浮遊していた。地に足を付けず、飛翔して中空を前進してきたのだ。

 

 ほう、ほう

 

 少女は唄う。朗々と、闇夜を舞台に。

 この世ならざるモノたる条件の、あらゆるを満たして。言葉も無かった。恐怖心すらどこか他人事だった。

 

 ほたるこい

 あっちのみずは

 

 吹き抜ける風のように木々の合間を摺り抜け、徐々に近付く。少女は間近。ほんの五歩、歩み寄るばかりの距離。その額から伸びた昆虫のような二本の触覚が見て取れた。

 思わず今一度目を凝らし、ふと。

 少女がこちらを見ていた。

 少女の目が、己の目を見ていた。

 少女が、にっこりと微笑んで────

 

「あぁまいぞ」

 

 囁きを聞く。耳孔と鼓膜を直に震わせるような、それこそ甘く甘く、甘い蜜のようにとろりと、密語を注ぎ入れられる。

 吐息も触れるほど傍らに、少女の白い顔があった。

 心胆とてまた震え、その場を跳び退く。案の定、足は木の根に捕られ、転倒を免れようと緩い土を踏み宙を藻掻いた。藻掻いた手に、触れられる。腕を掴まれる。

 小さな手。白く、見るからに華奢な。だのに前腕に覚えた感触は万力のそれだった。

 単純にして強烈なその膂力で、己はその場に引き戻された。

 少女の、眼前に。

 

「く、ぉ」

「あぁ、やっと」

 

 淡い光を纏う少女は、その目尻に光るものを湛えていた。

 涙。

 少女は泣きながら笑っていた。それはそれは嬉しそうに、万感に肩身すら震わせて。

 

「やっと、会えた。本当に会えた。お兄さん。ずっと、ずっと会いたかった」

「あ、貴女は、一体」

「やっと、やっと」

 

 ぽろぽろと涙を流す。それを白く光る指先で拭う。

 閉じられた瞼が再び開かれた。そこに埋まる。

 赤い複眼が、俺を見上げていた。

 

「ヤット食ベテアゲラレル」

 

 ひしと俺の身体に抱き着き、彼女は己の胸板に顔を埋めた。

 瞬間。

 

「ぎっ……!?」

 

 激痛が弾けた。胸の中心、丁度胸襟の縁の辺り。

 生温かにぬめる。出血していた。上着とワイシャツ、アンダーシャツを貫くものがある。

 歯だ。

 少女はあろうことか、己の胸の肉皮に噛り付いていたのだ。

 

「なに、を!?」

「甘イ。甘イ。甘イィ! 甘イヨウ!! 甘クテ美味シイ!! ヤッパリ美味シイ!! オ兄サンハ美味シイ!! アハハハハハハハハハハ」

 

 口をべっとりと赤く汚した少女が己を見上げて哄笑していた。

 唇を舌なめずりし、その度に血の紅を含んだ涎が溢れ返る。

 後退る。が、少女の腕は放れない。つい先程理解したこと。この正体不明の可憐な少女の腕力は己を遥かに上回る。

 逃れる術などなかったのだ。初めから。

 それでも痛みと出血と極まった混乱は肉体の自在性などというものを許さなかった。足が(もつ)れ、身体は傾ぐ。

 少女はそれに追随した。体を包む細腕はそのまま微動だにしなかったが。

 一本の木を背にして、気付けば俺は少女に押し倒されていた。

 腹の上に馬乗りになって、少女が己を見下ろした。少女の(かたち)をしたこの人ならぬ誰かは。

 赤い複眼が爛々と光っている。喜悦に全身を打ち震わせ、常に引き上げたままの口端から唾液が顎を、首筋を伝い落ちる。

 

「ハァ、アハッ、ハァハァ、ハァァア、ハハハハハ」

「……」

 

 どうしてか、不思議な心地だった。

 己はおそらく死の際に在る。なんとなれば人肉食を嗜好あるいは生態とした何かによって組み伏せられ、今まさに喰い殺されようとしている。

 恐怖はあった。この局面で無いと言う方が異常であろうが。

 こんなにも間近に死がある。しかし、これより以前にも死に触れる機会を己は一度ならず得ていた。だから、なのだろう。奇妙な馴れが己の内にあるのは。親しみが湧いてくるのは。

 死とは、こんなにも唐突に、理不尽に、実に気安く訪れるのだ。そういったことを思い知って来た。思い知って来たのだ。

 その意味で彼女が今この身に齎そうとするそれは、実に情熱的といえる。そこには明確な情がある。心がある。

 彼女は自己の嗜好、真実願望に基づいて俺を襲い、喰らおうとしている。上気し、涎まで垂らしている様を見るにそれは間違いない。それは、飲酒運転による過失致死傷や、外的な過度のストレスによる心身衰弱死とは違う。

 事故や災害のような無機の死ではない。父母を涅槃へと攫っていった、心無い死。あれとは違う。断じて違う。

 今、この時この場で、誰かの願いによって殺される。そんな最期。

 それは、なにやら、ひどく。

 ひどく意義を感じる。報われた気さえする。

 望まれて死ぬ。死ねること。それが、俺は。俺にとってこんなにも。

 

「残サズ全部食ベテアゲル。骨モ残サズ全部ワタシノ、貴方ハ、ワタシノ、ワタシノ」

「……」

 

 熱に浮かされた少女の顔を見上げる。闇間に光を纏って現れた時は情けなくも胆を潰し、碌々見られもしなかった。

 改めて目の当たりにした少女は、やはり可憐だった。第一印象と寸分違わぬ。

 好物を前にして辛抱堪らず口元を汚す様などは、なんと幼気なことか。ただの、とても愛らしい幼子ではないか。

 ならば仕方ない。子供が腹を空かせて、今ようやく食べ物にありつけたのだから。

 それはなんとも仕方ない。

 

「はい」

「エ?」

「どうぞ、召し上がれ」

 

 こんな男でも誰かの役に立てるのだ。誰かの役に立って死ねるのだ。

 これ以上の歓びはなかった。救いは、なかった。

 そのまま彼女の(あぎと)を待つ。迎え入れる心構えというほどのものもない。覚悟など、それこそ己には似つかわしくない。ただ、終焉を待った。己の甲斐も価値もない生涯の、その最後に意味をくれる少女へ。

 感謝を以て。

 待つ。待つ。

 待っている、のだが。一向に、食事は再開されなかった。彼女の牙は降りては来なかった。

 代わりに降って来る。熱い滴。

 

「違う」

「!」

 

 少女は泣いていた。二つの複眼が埋まっていた筈の場所には、涙に濡れた両瞳がある。

 悲しげに、彼女は嗚咽する。

 

「違うっ、違うの、私、こんな、こんなことしたいんじゃない! こんなことしたくてお兄さんを探したんじゃない! ないのに……どうして……私、ただ、お兄さんに謝りたくて、もう一度会って、話がしたくて……」

「貴女は、俺を知っているのですか?」

「……」

 

 無言で頷き、彼女は己の胸に手を当てた。彼女の歯が喰い破った傷を、そっと。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 幾度も、幾度も少女は言った。悲嘆に暮れた声が、さめざめと懺悔を繰り返す。

 それは今この時の罪ばかりでなく、己の与り知らぬ何時か、何処かでの罪にさえ。

 胸中に筋違いな憐れみを覚えていた。理解してやれないことが申し訳なかった。

 何も知らぬ愚か者には、誰かを赦すことすらできなかった。

 喉元にその一言が蟠る。口先だけの赦し。もうよいのだと。貴女に咎などないのだと。

 言ってしまおうか。言えば彼女は救われてくれぬものか。姑息な慰めを。

 卑劣でいい。もとよりそうなのだから。

 少女に一時、安堵を齎せるならば。そんな独り善がりな決意が過った────閃光が。

 

「な」

 

 過った。紅い光。

 それが、己の上に跨っていた少女を吹き飛ばした。

 光。目を焼く光。

 それは現実に、森を焼いていた。燃え盛っていた。炎。

 炎。炎。炎。

 闇を蹴散らし、木々を呑み下し、空間を侵食する紅の火焔。

 夜気を貪って熱気が充満する。肌身を炙る。

 起き上がって少女の姿を探した。一歩、焦げ付いた枝葉を踏み締めた。

 枝葉。

 あんなにも分厚く頭上を覆っていたそれらが、燃えて落ちる。落ちてくる。

 しかし、炎に包まれたそれらが己が身を襲うことはなかった。

 それらはまるで己を避けて散っていくのだ。炎そのものに意思が宿ったかのように。

 焼き拓かれた頭上に夜空があった。夜天に満ちる星々。眩いほどの月光。差し込む光条に乗って。

 

 見付けた

 

 ────彼女は降りてきた。

 紅蓮の翼が空を一掻きする度に火の粉が舞った。蝶々が鱗粉を纏うように。

 紅蓮を背負う少女。白銀の長い髪を呪符で飾り、サスペンダーで吊った赤いパンツは其処彼処に呪符が貼り付けられている。

 容姿や服装といった外見的特徴を一々列挙する己は愚昧であった。思考が低能化するほどに、この光景には現実感というものがなかった。

 非現実、幻想のような少女。おそらくはいや間違いなく、この空間の炎の主。

 彼女は舞い降りた。己の眼前に。

 彼女は見ていた。片時と、寸毫とて放さず、その紅玉(ルビー)のような瞳で、己を見ていた。

 目を逸らしたが最後、己が消えるとでも思っているのか。

 少女は、やはり笑った。それは業火のように熱く、(ほど)ける烈火のように、儚げな微笑だった。

 

「逢いに、来たよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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げに恐ろしきはその執念

 

 

 

 

 夕暮れの帰り道。

 赤提灯の暖簾。

 川のせせらぎ。雨の打樂。香る白酒。

 貴方は恥じ入るように、遠慮がちに、話をしてくれた。

 悔いるように、悼むように。

 (むご)い痛みを、堪えるように。

 

 

 優しかった。涙が出るくらい。貴方の優しさが堪らなかった。

 私を頑是無いと言って叱る貴方。

 私の苟且(かりそめ)の傷を、不死者の甲斐もない痛みを、本物だと言ってくれた貴方。

 永遠を生きる。その意味に寄り添おうとしてくれた貴方。

 一緒に、()()()()()()くれるって。

 一緒に生きてくれるって。

 こんな様の、こんな私の有り様を、在り方を、貴いと言ってくれた。

 貴方は切なげに微笑む。私の苦しみ、私の嘆き、私の諦め、私の倦み。正常な只人には理解し難いこの懊悩に、それでも、そっと。

 慈しみ、触れてくれた。歩み寄り、理解してくれようとした。

 そんな貴方に救いを見た。

 もはやそんなものはないと思っていたのに。諦めて、張りぼてのような納得で心を慰めていたのに。

 貴方は現れてしまった。貴方という人を私は見付けた。

 見付けてしまったから、もう戻れない。

 諦められない。放さない。誰にも渡さない。

 貴方が欲しい。貴方との未来が、欲しい。掻き毟るほど。

 

 

 ────欲しかった

 

 

 貴方は一人で、逝ってしまった。

 私を一人置いて、逝ってしまった。

 

 

 ────ゆるさない

 

 

 もう絶対に、喪くしたくない。誰にも奪わせない。死にすら。

 理を踏み付けにしてでも、貴方は嫌。貴方だけは、嫌。嫌。嫌!!

 貴方をゆるさない。貴方に死などゆるさない。

 だから。

 

「逢いに、来たよ」

 

 時を、次元を、世界と世界の綻びを引き裂き、踏み超えて、その先に。

 貴方はいた。私は来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 相好が崩れる。

 罅割れ、欠け落ちてゆく微笑。少女はぼろぼろと泣いていた。涙を滂沱していた。

 頬を伝い顎を落ちて、彼女自身が身に纏う業火に飲まれそれらは蒸発していく。次々と。体中の水分を今この時全て出し切ってしまうのではないか。そんな愚昧な懸念を抱くほど。

 少女が泣いている。鎮まらぬ燻りめいた悲しみと、溢れんばかりの喜びによって。

 わからない。

 この真心が。彼女は心の底より、それを想い涙している。どうしてか、理解不能な強烈さで、求めている。

 求められている。この、こんな、己が。俺自身が。

 何故にか。

 そして、それは先程の少女とて同じ。

 己自身には全く覚えのない情念を全力で注がれるというこの、困惑。

 なまじ俺という人間が人並外れて劣悪である為に、彼女らの振舞いの異常性をより際立たせている。

 俺のような人間に何故。

 俺のような人間が、何条以て。

 いや、あるいは。

 

「俺は……何か、重大な、忘れてはならぬことを忘れてしまっているのでしょうか。彼女や、貴女のことを」

「……そうじゃないよ。確かに、貴方とは……初めて会う、から……」

 

 今、目の前で、少女は胸奥に何かを呑んだ。途方もなく重く重く、感情を一つ、腑に仕舞い込んだ。そのように見えた。

 悲しみ。針のような辛苦を。

 奈落の闇にも似た、絶望を

 

「貴方に逢う為に私は来た。もう一度貴方に、貴方ともう一度、振り出しから始める為に……」

「……申し訳、ありません。その……とんだ御造作を」

 

 自分でも空惚けたことを宣っている自覚はあった。

 だが他に何と言えよう。おそらく、彼女はその言い様通り、己と“再会”を果たす為にここに来たのだ。俺にとってこれが初対面であるという事実を否定せずに、である。

 不可思議な、奇怪な事象が起こっている。時間や空間を実質では認識することのできない人間には遠く理解の難しい、おそらくはそんな事象が。

 非現実的と揶揄するならばそれこそ、火焔を操り空から現れた人間が目の前に存在することをこそまず否定しなければならない。そんなことはもはや不可能だった。

 己の常識観などここに至っては無用のもの。

 今、耳を傾けるべきはこの少女の言葉である。

 少女は今一度、弱々しく笑った。俺の返答があまりに滑稽であった所為か。それとも。

 

「あぁ、やっぱり。ホント、変わんないなぁ……ふ、ふふ、あぁ、あぁっ」

「!」

 

 震えるその声に、胸を衝かれた。

 瞬間、紅蓮の両翼が霧散する。散華する花弁のように。光の粒子が夜闇に溶ける。

 そうして気付けば、少女は己が胸の中に在った。

 両腕で強く、己を掻き抱いて、彼女は胸に顔を埋めて熱く吐息した。傷口ならずとも沁み込んでくる。極まった感情の発露。少女の心。

 違えようがなかった。そんな筈はない、などと言い訳や小理屈や自己の悪徳を並べ立ててももう遅い。否定の余地は絶無であった。

 彼女は俺に。

 こんなにも切なげに、焼き付けるように────愛情を注いでくる。

 愛を。

 心臓の鼓動が早まるのを自覚する。困惑と、身に余る重み、羞恥、なによりの罪悪感。

 

「俺は」

「嫌だ」

 

 続く言葉は胸を、皮膚を通して彼女の声に薙ぎ払われた。

 拒絶。許さずの宣誓。

 

「もう、嫌だ。嫌。貴方を、もう、もうっ! 喪いたくない! 見送りたくない! 一人になりたくない! 貴方だけは、あ、ぁ、貴方だけは……何処へも逝かせないッ!!」

 

 絶叫が炎すら蹴散らす。きつく、こちらの服を握り締めて、背中に爪が突き立つまでに、縋る。

 どうすればよい。どうすればこの子は。

 この悪辣なまでの無理解。焦熱するかのように烈しく乞い求められておきながら、俺は少女の言の何程も汲み取ってやれない。

 彼女が、賽の石積みの如くに育み、築き上げてきた想い、思い出を。

 労しいと思う。憐れでならない。しかし。

 しかし……応えることはできなかった。

 俺は、少女の求める“貴方”ではないのだから。

 この少女にとってそれが大切で大切で大切であればあるほどに。この胸を焼く熱の烈しさだけは、違えようのない真実であるからこそ。

 虚実は、断じて、口にできない。

 少女の両肩に触れる。その細さに、その儚さに慄いてしまう。

 それでもそっと、壊れ物をそうするようにそっと、彼女から身を離す。

 思いの外素直に少女はこちらの誘導に従ってくれた。

 相対して彼女を見下ろした。泣き腫らした目、潤む赤い瞳、壊れかけの微笑みはただただ痛ましい。

 それを傲然と、眼球に総力を結集して、見返す。

 話をしなければ。懇々と、丁寧に、言葉を尽くして、時間を掛けて。

 労わりたいと思う。ほんの僅かでも、その傷が癒えてくれることを願う。心から。

 だからこそ。

 

「話をしましょう。幸い、今の自分は暇を持て余す身の上」

「うん……」

「一先ず、この森を抜けましょう。このような時刻、お若い女性が出歩くものではありません」

「……ふふ、そうだね。そうだった、ね」

 

 少女は吐息するように笑う。寂しげな残響がひどく己の頭蓋を揺さぶった。

 頭を振り、周囲を見渡す。

 思えばそう、先程の、黒い外套の少女をずっと置き去りにしてしまっている。突然姿を消してしまったが、一体何処へ。

 

「でも、まず、その前に」

 

 べちゃり。

 突如、まったく意表外に、頬に浴びせ掛けられる。

 

「あ……?」

 

 液体であった。皮膚感覚はそのように物語る。

 それは暖かであった。未だ周囲の木々を燃やす炎熱に比べれば、その温度は優しくさえある。それは温もりであった。人肌の。

 人の、体内の温度。

 やや粘りがあった。水よりも濃い。炎によって照らし出されたそれは、黒々として、しかし赤い。深紅(あか)い。

 なによりこの臭い。鉄錆のような臭い。生命の匂いは。

 血。

 血が吹き出ている。

 少女の腹から。

 その白い開襟シャツをどす黒く染め上げて、鮮血を垂れ流しにして。

 少女が、その白い手を染めて。

 自分自身の腹を突き破っているのだ。

 

「な、ん」

 

 なんたる。

 脳髄の処理機能の不随。超越する。

 なにをして。

 その薄い腹を手先で破り、無造作に裂いて、さらに奥。奥へ入り込んだ手が今、引き抜かれた。

 なにを見ているのだ、俺は。

 粘り、赤黒い糸を引いて取り出されたもの。てらてらと光沢を放つ、丸みを帯びた紅。血よりも深い紅色の。

 臓物。

 人間の臓器のどれか。どれかなのだろう。そのなにかのどれかを取り出した少女は、どうしてかそれをこちらに差し出して。

 うっとりするほど美しく、微笑んで。

 

「食べて」

 

 慈愛に満ちた瞳で、俺を見て。じっと見て。

 

「食べて」

 

 繰り返す。

 それ以外の選択肢は眼前に存在しなかった。許されなかった。

 いや、そう、初めに、彼女は言った。とうの昔に宣言は為されていた。ゆるさない、と。

 

「食べて」

 

 彼女は依然として、この一瞬一瞬片時も、ゆるしてなどいなかった。

 “貴方(オレ)”をゆるしはしなかった。

 

「あ、口移しの方がいっか。あの時もそうだったもんね。あの時からずっと、そうしてきたもんね」

 

 言うや、刹那の躊躇もなく彼女は自らの臓器に噛り付いた。口に含み、咀嚼する。口端からややも血とそれ以外の体液、肉塊が溢れることも気に留めず。

 瞬きする間もなく、少女の腕に首を捕らわれていた。恋人に腕を絡める行為と同様の。

 接吻を強請る。そんないじらしさで。

 血みどろの唇が、己のそれに重なった────

 

「げあっ、か、ひゅ」

「!?」

 

 異音と血肉が吐き出された。少女の口から。

 そうして少女の身体は、藻掻き、苦しみながら、浮き上がっていく。

 度重なる異状。もはや言葉も出ない。

 離れ行く少女へと咄嗟に手を伸ばしていた。

 伸ばした手が、しかし動かない。それもその筈。己の腕、手首は縛り上げられているのだから。

 地面から伸びた、()()()によって。

 そして少女もまた縛られていた。その首を、手足を、体中を、絞め上げられていた。無数の蔦、無数の枝、夥しい植物達が、まるで意志を以て、自由を得て。

 軽々と吊し上げられた少女の足元に、人影を認める。果たしていつから、彼女はそこに佇んでいたのか。

 チェックのロングスカート、同じ柄のベスト、手には白い傘を、おそらくは日傘を携えて。

 深緑の髪の下、影と闇を貫いて己を射貫く視線。赤い眼光。獰猛なまでに美しい女怪。

 

「相変わらず愚かな男」

 

 優雅に、妖しげに、咲き誇る花のように彼女は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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地の底より来れり

 

 

 

 救い難い。救いようの無い男。

 かの男は平凡に、ただ平穏に生きる筈だった。出生の不幸は、養い親達の愛情によって概ね帳消しと言えよう。どこにでもいるありふれた、私曰くつまらない、面白味の欠片もない、ただの普通の幸福を享受する、筈だった。

 誰よりも当人が、それを、それだけを望んでいた。

 突然に来る。それは青天の霹靂めいて。

 通り(モノ)というやつはこちらの否応など斟酌せずある日ある時突如として向こうから意気揚々と駆け寄ってくる。

 そうして魔はいともあっさりと、男から幸福の象徴を摘み取った。

 平々凡々を心の底から切望するような凡夫が、その日、それはそれは愚かな、愚直なまでの憎悪と愛で歪み、狂った。

 その無様。滑稽だ。道化芝居の方がまだしも道理に添うている。

 人として異常なのだ。人であることがそもそもの間違いだったのだ。この男は、ただの鬼になればよかった。復讐の鬼に。親の仇を討つ。ただそれだけを(こいねが)う、そんな化物に。

 人間の尊厳だの矜持だの犬に食わせて、己の願いの為だけに生きる獣に身を(やつ)してしまえば。

 妖怪(わたし)と同じになってしまえば。

 どれほど、どれほどに、こいつは、幸せだったろう。

 そうはならなかった。こいつは己自身にそれを許しはしなかった。

 自分の存在を、存続を、いつ如何なる時も常に、その一瞬一瞬に、罪に問うている。己の罪業を盲信し、糺し続けている。

 

『己は生きていてよいのか。己は断じて生きねばならない』

『死は安息、死は逃避、死を選ぶことは最低最悪の卑劣。そんなものを自身に許せる筈がない』

『────死の先に父母は居ない』

『己は父母には会えない。彼らとは決して再会できない』

『何故なら己の彼岸、魂の行方はただ一つ、地獄であるから』

『希望はない。それでも生きねばならない。父母の最期の、たった一つ、己が受け継いだ願いを成就させる為に……』

 

 ────ちゃんと生きなければ

 

 男はそう唱え続けた。今の自身の生命の存続理由を。

 心の奥底深くで何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も。

 まるで呪いのように。

 呪戒(ちかい)を。

 

 救い難い。

 返す返すに思う。救いようがない。

 

 今にして思えば、私はお前を……救いたかったのだろうか。本当のところはさて、どうだったろう。

 お前の有り様があんまりにも滑稽で、愚かしくて、笑っちゃうくらい……憐れだったから。

 救われたお前が見たかったのか。

 それとも、あるいは、そう。

 

 ────私の手で救われ、微笑むお前を見たかったのか

 

 もうわからない。私の家の坪庭に、もう私の“お前”はいないから。

 だが、一つ。

 一つだけ、確かなことは。

 お前は、たとえ何処へ消え失せようと、その肉体が滅び、魂すら潰えてしまおうと。時間を、空間を、世界を、違えようとも。

 今も。

 お前は。

 そしてこれからも、ずっと。

 お前は。

 ずっと。

 

「私だけの、花なのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「まったく、境界(あわい)の壁を破るのにえらく手間取ったわ。魂だけならすんなり行くかと思ったけど。こちらから()()()()()()やったっていうのにあの女、本当に気が利かないわ」

 

 悪態さえも優雅に吐いて捨て、美しい女怪は歩み寄ってくる。淀みない。夜の深み、森の奥底の只中にあってさえ危なげない。迷いの欠片もない足取り。

 一路、彼女は来る。

 真っ直ぐに、赤い眼光は己だけを見据えていた。やはり彼女もまた、この場に立ち現れたその瞬間から片時と視線を逸らさず射抜く。この身を捉え、捕らえ、刺し貫き絡み付く。

 狂おしいまでの、執着で。

 事ここに至ってもはや、愚昧な疑問を口にすることさえできなかった。

 彼女達の行動原理。命題に、この身が選ばれた。選ばれて()()

 それが眼前の現実。

 認め難い。信じ難い。しかし、そんな己の些末な所感など、困惑と苦痛と驚愕などは全くの無価値だ。今この時にあっては。

 今、津波のような夥しい植物に絡め捕られ、縊り殺されようとする少女を仰ぐ、この瞬間は。

 なにもかも。

 

「っ!」

「動いていいと、言ったかしら?」

 

 美貌がある。目の前、ほんの僅か四半歩の極間近。長い睫毛、眼窩に嵌る宝珠の如き瞳。その赤が直に己の眼球を染める。

 心なしか腕に絡む木の根の()()が増したように感じた。

 妖しき微笑に手心はない。我が身の生殺与奪はかの手の中にある。

 存在の位階が違うのだ。象と蟻、あるいはそれ以上の差で。

 指先一つで彼女は俺を圧殺し能う。それでもなお、己が今生存している理由は。

 理由こそが。

 

「……貴女の目的は己の身柄、そう仰せなのですね」

「ええ、それ以外に聞こえて?」

「ならば」

「ダメだぁッッ!!!」

 

 闇夜を引き裂くような絶叫が森の彼方まで木霊する。

 樹上まで吊し上げられた少女。全身を容赦なく縊る蔦をその手で引き裂き、その歯で食い千切っていく。死に物狂いで。

 

「ぎがっ、ぶッ……!!」

「喧しい。百舌鳥の早贄がぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃない」

 

 先の十倍する量の蔦が少女を取り巻く。それどころか幾本かの蔦は直接少女の口内へ殺到し侵入し、文字通り塞いでしまった。

 

「!? お、おやめください! この身は如何様に為さろうと結構! こんな、これ以上の暴虐は……!」

「どうも、勘違いしているようね」

「は」

 

 女怪は静かに吐息した。それは実に呆れの色濃い溜息だった。

 

「お前の考えなど顧慮しない。分厚い地盤のようなその理性とやらが吐き出すものなど……自己犠牲? 自己憎悪? ハッ、知ったことではないわ」

 

 おもむろに胸倉を掴まれ、事も無げに彼女は己を、己の体躯を片手で持ち上げた。

 

「ぐ、ぉ」

「知っている。知ってるわよ。お前の求めるもの。お前の本当に乞い願うもの。私は知ってるの。私だけが知っていたの。今更隠し立てしたって遅い。もう遅い。お前がその理性の鉄面皮の下に何を抱えているか、私は見た。見て触れて感じた。お前の本性を味わった。くふふ、ふふふふふふふふふふ」

 

 真実、彼女の瞳は己の内奥を覗き込んでいた。そこに据わる、俺の、浅ましくも穢らわしい、その。

 彼女の腕を掴む。鉄柱のように強靭な感触。びくともしない。しかし、抗うことを止めたその時、俺はもはや。もはや。

 自分の足で立っていられなくなる。歩むこと、進むこと。

 生きる。

 父母の願いを、叶えられなくなる。

 そんな気がした。そんな予感が脳裏を過った。

 

「くっ、が、ぁ……!」

「……この“お前”は諦めが悪いみたいね。いえ……そうね。変わらない。あの頃と何も変わらない。愚かな男。本当に、馬鹿な男」

 

 ああ、そして彼女もまた。

 笑うのだ。こんなにも儚げに、寂しげに。

 俺に懐古を見て、俺に憐憫を見て、俺に────慈悲をくれる。

 

「わからせてあげる。また種を植えて、骨の髄から。お前という岩土を私の花の根で柔らかく解してあげる。お前の希望、安らぎと静寂の眠りへ、誘ってあげる」

 

 種子。彼女の白い掌に載った小さな粒。

 彼女はそっと差し出す。押し戴くかのように。屹度、彼女の言に間違いはない。彼女の真心に疑いはない。

 救済。

 この女性(ひと)はずっと、己の知らぬずっと以前から、こんな俺を救おうとしてくれていたのだ。

 

「幽香!」

「……」

 

 横合いから叫び。呼ばわったのは先刻の、蛍火を纏った外套の少女だった。

 見れば服の彼方此方が黒く焦げ付き、肌身には火傷と思しい赤みが散見する。

 痛ましげな姿で、しかしそれを気にも留めず少女はなお叫んだ。

 

「ダメだよ! それをしたら、お兄さんはもう止まっちゃう! なにもできない。口も利けない。私、を、こっちを見てもくれない。そんなの……生きてるなんて言えないよ!」

「それがこの男の望みよ。生も死も己自身に許せないどうしようもない人間の救い。私だけがそうしてやれる。咲かない花として、永久にそこに在る。在るがままでいさせてやれる。私だけが、この男に赦しを呉れてやれる」

「でも、でも……」

「そうなったら、貴女の望みだって叶うのよ? リグル」

「え……?」

 

 逆月のような笑み。口端が引き上がる。獣が牙を剥く様に似て。

 女怪は愉しげだった。

 

「この男が花に成った後なら、幾らでも食べていいわ。花に生った果実を齧るのと一緒よ。勿論、私が育てるのだから傷なんて残さない。そうね、手足くらいならいいわよ。ある程度待てるならその後もまた()()()()あげる。何度でも。何度でも、貴女はこの男を食べられる」

「は、あ、ぇ?」

「どう?」

 

 怪しげな密約が、眼前で、その当人を置き去りにして交わされようとしていた。

 迷い、躊躇い、そうして半歩爪先を踏み出し、よたつく足取りで蛍火の少女が、リグルと呼ばわれた少女が歩み寄って来る。

 呼吸は荒く、半開きの口からは大量の唾液を滴らせていた。その目は再び色を変える。形を変える。気付けば昆虫の複眼に変貌を遂げた。

 捕食者の眼。

 

「一緒に愛でてやるのよ。悪い蟲共を追い散らすの。その手伝いをして頂戴な」

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」

 

 甘い誘い水の言葉。荒い息遣い。微かに火の燻り。

 己の終わり。己という人としての生の終わり。彼女は迷うまい。

 リグルという少女は、抗えない。それは彼女の本能なのだ。逃れ難く魂に根付いた宿命なのだ。

 ここで終わり。俺は終わる。そうか。

 ならば、せめて。

 

「せ、めて」

「なぁに」

「せめて、仲良くお分け合い、ください」

「……馬鹿ね」

 

 呆れたように、優しげに彼女は笑ってくれた。

 

 

 

 ────地面が割れ、いや()()()()のは丁度その瞬間であった。

 大地が二つに分かれ、暗い暗い奈落が口唇を開く。

 目の前の彼女を、蛍火の少女を、蔦に巻かれた少女を、そして己を喰らい込める。

 その時、どうしてかはたと気付いた。暗闇の奥底深く。こちらを見上げるその両眼に。

 

「よう」

 

 金糸の豊かな髪、長身筋骨流麗な肢体、額より伸びる朱い一角。

 

「会いたかったぜ」

 

 無邪気に笑み。

 美しい鬼の姫が、己の足を掴んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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愛より歪み

 

 

 

 暗闇の中響くのは、激しくも荒々しい拳撃の打樂。

 裂け割られた大地の奥底。地底に広まる岩土の空間で、少女らの舞踊が、闘争が幕を開けた。

 白い日傘。深緑髪の彼女はその穂先を真っ直ぐに構え、空中から擲たれた槍の如く闇を貫徹する。

 それを一角の女怪は待ち受けた。あまつさえ両腕を広げて、歓待した。

 刹那、降り来る。白い尖端が鬼の姫御の胸に、心臓に────しかし届いていない。

 掴んでいる。鬼姫は日傘の鋭峰、その進撃を捕まえていた。

 

「……!」

「呵呵ッ! いいねぇ。殺意の一念直刀の如し。心の底から殺してぇって気迫がビリビリくる。いや一向に悪かねぇんだが」

 

 喜悦を溢れさせたような満面の笑み。

 闇間に陽炎を呼ぶほどの敵意を前にしていながら、であればこそ。

 

「ちょいと真っ正直過ぎらぁ」

「っ!?」

 

 左手に掴んだ日傘を無理矢理に引き込み、右手を。その硬く(つよ)く握り込まれた右の拳を。

 無造作に打つ。狙いなどは定めず。そも定める必要がないのだ。

 当たればよい。それで()()と。

 虚空が爆ぜる。音速を超えた打撃。拳に伴って衝撃波が周囲に撒かれる。

 爆音が耳孔に到達する前に深緑髪の彼女の姿が消えた。

 消えたと見紛う速度で打ち飛ばされた。

 

「気持ちはわかるぜ? 立ち位置が逆なら私もそうする。しねぇ理由がねぇよなぁ。えぇ?」

 

 鬼の女怪は首を巡らせこちらを顧みた。

 視線が合う度に、彼女は微笑む。安堵と喜び、灯火のような弱々しさ。

 貴女も、()()()()()()、それは宿るのか。

 胸中の惑乱は極点などとうの昔に越え、もはや己の理解能力では咀嚼不能だった。

 ただ。

 ただ目の前に厳然と、罪の実体が佇立する。少女の容を取って、我が身の罪業、その実在を証明する。

 岩壁の際に陣取った彼女は、一見すれば追い詰められたかに思える。しかし実態はどうか。彼女の背後に人質(おれ)が在るだけで、今や攻め手こそが窮していた。

 その時、宙に紅色が踊る。明けの色。闇色を薙ぎ払って炎が迸った。

 白銀の髪を緋色に染めて、右脚には真実緋炎を纏い、歯列から怨嗟を吹き少女が蹴り込む。

 

「死ィ……!!」

 

 蹴り足は、過たず鬼姫の腹に突き刺さった。火の粉が散り、炎熱が炙る。

 鬼は、笑う。

 

「ヒャハハッ」

 

 笑いながら、自身の腹を踏むその脚に、すとんと。

 手刀を落とした。友人同士の悪巫山戯にも似た軽々しさで。

 軽々しく、少女の脚は脛の辺りで破断した。

 

「脆いな不死人」

「くれてやる」

「あ?」

 

 断たれた脚を少女は頓着しなかった。

 どころか、置き捨てて、退く。

 

「爆ぜろ」

 

 閃光が視界を破壊する。色と像が瞬間、消えて失せる。

 そうして爆音。

 鬼の彼女が抱えた脚が、爆弾の如く炸裂したのだ。

 臭気が満ちた。それは血と肉の焦げ付く臭い。鉄錆の香。

 

「これで」

「温い」

「!?」

 

 濛々と立ち込める血煙から這い出るモノ。至近距離で爆炎を浴びながら、無傷。

 不意に、頓悟の閃きで己は理解した。角を戴くばかりにあらず。彼女は紛れもない鬼神であった。

 その踏み込みが地を激震させる。

 腕を振り被り、拳の尖端が弧を描いて振り下ろされる。たったそれだけの行為。素人目にもそれは武芸ではなかった。技巧などなかった。

 その大振りで、大雑把で、無造作な殴打が少女の顔面に触れ。

 

 ────ぱん

 

 風船が割れるように軽く、破裂音。

 少女の首から上は赤い霧になった。

 肉片も、骨片も、血飛沫さえ散らなかった。そこにはただ血霞が舞うだけだった。

 

「────」

 

 何かを叫んだのかもしれない。あるいは己のこの声帯とかいう器官は既に麻痺しており、この口はただ魚のように開閉していただけなのかもしれない。

 死。

 これ以上ないほどに一目瞭然の死が視界一杯に()()()()。俺にひた向きな、狂おしい愛慕を告白してくれた、名も知らぬ誰か。

 死、死、死、死、死、死、死んだ。死んでしまった。死なせて、しま────

 

「死に芸はお手の物ってかい?」

 

 鬼の彼女は言った。血の霞となった少女、その残った骸に相対して語り掛けた。

 物言わぬ骸に。今しがたその手に掛けた骸が、倒れず直立している。その場に、佇んで、いる?????

 

「……大丈夫、私は死なないから。心配しないで」

 

 気付けば白銀の髪の少女はそこに在り、こちらに向けて労しげな微笑みを浮かべていた。出会ったままの姿、一分の欠損とてなく。

 再生していた。

 

「そうとも。お前さんが心配してやるような手合いじゃあない。こいつらの死なんざただのペテンさ。在って亡きが如しってな」

「お前には関係ないんだよ」

「大有りさ。この男の慮りに浸っていいのは私だけだ」

「寝言は寝て言え、悪鬼風情が」

「寝かし付けられんのはてめぇだよ。この際だ。その死から逃れるしか能のねぇ“悖乱(はいらん)”、私が消し去ってやるよ」

「やってみろ……できるもんならなぁ!!」

 

 火焔のような音声(おんじょう)であった。燃え盛る怨念が少女の全身より立ち昇る。

 牙を剥く獣さながらに、乙女の美しい顔が歪んでいく。

 それを待ち侘びる鬼神は泰然。しかし口の端に刻んだ笑みの深さ、喜悦の色の救い様の無さ。

 心臓を寸刻まれている。無論幻覚だ。妄想だ。己の罪悪感が見せる欺瞞(まやかし)の心痛。無価値な、無意義な、この痛み。

 俺は何故生きている。のうのうと、他人の怨嗟と悲哀と、愛慕を、無闇に掻き立て駆り立てて。

 何故、厚顔にも生きている。今もって生きているのだ。

 こんなことを、殺戮を、誰かに強いていながら!

 

「何故だッ!!」

「お兄さん!」

「!?」

 

 黒い雲霞が視界を覆う。霞か霧か、靄と見紛うほどの密度。濃密な群体。きりきりと羽音を響かせるそれは無数の蟲。

 蟲を影のように身に纏った少女が、いつの間にか己の傍に現れていた。蛍火の少女が。

 

「もう間違えないから。私、私ね、あの時からずっと、お兄さんを助けたくてっ────ごふっ!?」

 

 弾け飛ぶ。

 蟲も、少女も。

 何事か。横合いから何かが彼女を打ち据えた。

 石塊。ビー玉サイズの石礫が少女の全身に殺到したのだ。散弾の如く。

 

「おい、なに触れてやがる。気安く、気安くよう。おいなあ蟲ケラ。おい、おい」

 

 憤怒が化身した。鬼神が(いか)っている。そこに在るだけでそれは天象、風雷の威力。

 肌身が粟立ち、背骨が震撼した。あまりにも隔絶した存在力の圧が、この身を紙屑のように圧し潰そうとする。

 

「私はよぉ、生まれだの種族だのでそいつを値踏みしたりしねぇと決めてた。んな肝っ玉の小せぇ真似誰かするかってよぉ……だがてめぇ、妖蟲(てめぇ)らだけは別だ。人喰い蟲、蟲ケラだけは……!!」

「人喰いの鬼が何を偉そうに!?」

「ヒャハッ、あぁまったくだ!」

 

 憤怒の形相のまま鬼姫は破顔した。皮肉気な嘲笑。眼前の誰かを、ではない。そう、自らを。それはどうしてか内側を向いた嘲弄であった。

 鬼の女怪が少女の腕を掴む。引き上げ、後方へ投げた。棒切れを放るようだった。

 後方から襲い来た、焔の少女へ投げ付けた。

 

「ちぃっ!」

「ぎ、ぁ……!」

 

 空中で衝突した少女二人が縺れ合う。

 鬼は容赦しなかった。間髪入れず、その手が足元の土を掻く。岩を素手で削り上げ、握り込み、擲つ。

 純然たる筋力による散弾。雨霰となってそれらは少女らを滅多打ちにした。

 襤褸切れになる。人の容をしたものが、赤い飛沫を上げてずたずたになっていく。

 いつからか、噛み締めていた奥歯が呆気なく砕けた。握り締めていた拳の中で生温かな血が吹き出していた。

 

「やめろ……やめてくれ!!」

「やめねぇ」

 

 鬼神が己を見下ろしている。切なげに、憐れみをその瞳に映して。

 どうして。

 貴女はそんなにも優しい貌ができる。俺を、俺などを、慮ってくれるではないか。それなのに。

 何故。

 何故。

 

「私がやめても、あいつらは止まらねぇ。あいつらが止まらねぇなら私もやめねぇ……お前さんを手に入れるまでは。()()()()()

「────」

「諦めてくれ」

 

 白魚のような手、あの頑強な拳を形作るとは思えぬほど美しい指先が己の頬を撫でた。労わり慈しみ、求めて粘る、それは愛撫だった。

 火柱が立つ。赤い竜巻が地下空間の天地を貫く。熱波は土を、岩を溶解した。その熱量は少女の心だった。

 土中より這い出る巨体。龍のような太く長大な体躯。蛇腹状の甲殻に鎧われた蠕蟲を従えて、ひたむきで幼気な目が、複眼が己を捉える。

 かつかつと革靴の音色がする。ゆっくりと、静かな歩みで、日傘を携え彼女は来る。無、その貌に感情と呼べるだけの色はなく、静謐。静謐の仮面、分厚い冷徹の皮膚の下にしかし、確実に、“それ”は内包されていた。

 少女達の総意。研ぎ澄まされ、精錬され尽くした、ただ一つの想い。

 愛。愛より生まれしその殺意。

 

「だがまあ、後ろを気にした大喧嘩ってのも片手落ちだ。しょうがねぇ、此度は日を改めるとするか」

「逃がすと思うか」

「お兄さんは渡さない」

「殺す」

 

 共通の理念。同質同量の意志。こんなにも似通っている。

 ただ、歩み寄ることだけはない。半歩たりとも譲らない。

 一つだからだ。この身は一つ。求めるものは、一つきり。

 喉奥に血の味を覚えた。俺は絶叫していた。

 しかしそれすら、闘争の熱波が掻き消す。敢え無く。

 いや、これは。

 この熱。この湿気。この独特の饐えた臭い。

 硫黄の臭い。

 

「温泉でもどうだい?」

 

 鬼の女怪は、背後の岩壁を殴り付けたのだ。

 壁は脆くも罅割れていく。潰没した拳を中心にして、亀裂は広がり、侵蝕し、遂には決壊する。

 間欠泉。

 熱湯が溢れ出す。

 噴き出した蒸気と、津波のような圧倒的湯量が地下空間を呑み下す。充満していく。

 鼻腔の粘膜と皮膚を焼く熱に立ち眩む己を、彼女は抱え上げて跳んだ。

 足下から追い縋ろうとする三様の狂おしい殺意を、第六感に依らず我が身とて感じた。質量すら伴って。

 しかし一歩、届かない。

 鬼姫は悠々と岩壁を粉砕しながら、沈みゆく地の底を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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夢のまた夢の夢

短いですが切りが良いので。



 

 

 

 

 板張りの本堂はひどく暗い。陽光など射し込みようがないのだから、それは当然であった。

 ここを訪れる少し前、彼女の肩に担がれながら望んだ地下の巨大空間には、街の灯が延々と建ち並んでいた。碁盤の目のように整然と通りが走るその様は、あるいは京の都の写しであった。

 潰れた球形を為す空洞、その岩壁にまるきり埋もれる建屋一軒。

 今、己が座り込む場所。

 正面奥に顔の欠けた観音像が屹立している。廃寺、であるらしい。

 

「ここはな、よく馴染みと酒盛りに使うのさ。そこの仏さんの顔が無いのをいいことにな。ハハッ」

 

 軽やかにそう言って彼女は笑った。

 

「あの時もそうだった。そう、体よくお前さんを駆り出して、酒の肴を作らせたり。そうそう小料理屋で下働きしてたんだったよな。妙に手際がいいんで、萃香の馬鹿があれやこれや調子に乗って注文つけるのを一々全部ご丁寧に応えやがる。そんなだから酔っ払いは益々喧しくなりやがるし、出る品出る品良すぎて酒は止まらねぇし」

 

 女生は天井の傷んだ梁を仰ぐ。彼女の目にはそれが見えるのだろう。懐かしさに思わず笑んでしまうような光景が、思い出が、過ぎ去った場所が。

 失った安息、喜び、切なさ、悲しさ、愛しさ。

 堪らない、そう愛しさを吐息する。その息遣いが俺の鼓膜を撫で上げる。

 

「旨かったよ。あんたの手料理、辛子蓮根、佃煮、軍鶏鍋。あとあれだ、鯉のあらい。あれも旨かった。あぁすげぇ旨かった。旨かったんだ、全部、全部私の好物ばっかでさぁ」

 

 す、と。その足音は実に静謐だった。彼女のこれまでの気性を鑑みれば異常なほど。

 

「旨かったんだよ、涙が出ちまうくらい」

 

 後ろ手をついて座り込んだ己に、その長身が覆い被さった。腹に馬乗りになり、甘く魅惑的な体重が己を床面へ磔にした。

 鋼の如き粘りの筋骨を内包していながら、驚くほどに柔い。柔肌。紛れもない女の肉皮。

 己のような木石にそれはあまりにも刺激が強すぎた。

 抵抗を試みようとして、その機先を封じられる。こちらの肉体が力むより早く、そも抗おうとする意思を気取られていた。

 無駄な抵抗であることは歴然。彼女と己との膂力の差などはもはや顧慮にも値しない。

 人間に山は動かせない。自然(じねん)であった。

 

「俺は、違う」

「……」

「違うのです。俺は貴女が仰るその男とは、貴女が……求める、その男とは」

「……」

「貴女のことを、俺は知らない」

 

 今まで出会った彼女らを含め、全員を。

 俺は知らない。俺には解らない。理解してやれない。

 この狂おしい凄絶なまでの愛が、何故。よりにもよって何故、この身を焼くのか。この芥のような男に向けられるのか。

 その無理解の罪は計り知れない。

 それでも、それでもなお、この女性(ひと)は。

 朱い一角が淡く夜景の灯を映す。血色に富んだ肌がしかし、この伽藍堂の中にあっては青白く、朧に光る。

 金糸の長い髪がしとどに己の頬に垂れる。赤い瞳が薄闇を裂いて欄と煌めく。

 人ならぬ美貌。それが己を見る。蕩けて、粘り、潤んで、熔ける。

 全てを溶解してしまえそうな熱い眼差し。

 泣いているような。泣いて、いるのだ。

 童女のように泣いてしまう。その兆しが瞳に覗いている。

 胸が痛い。痛くて、痛くて仕方ない。痛みの中枢、この心臓を掴み出してしまいたくなる。

 そうできたなら、無責任に、厚顔無恥に、そうしてしまえたなら。

 

「それでもいい」

「っ!」

「それで、いい。あんたがここで、こうして、私のところに居てくれるなら。私の腕の中で生きて、生きていて、くれるなら。それだけでいい」

 

 突如、両腕が己を抱き上げる。きっと赤子をそうするより容易く、軽々と。片手は頭を支え、片腕は背中を掻き抱いた。

 肺に残留した空気が押し出される。筋が、骨が軋む。茶巾でも絞るように、そして彼女の筋力にとり、確実にそれ以下の()()で。

 もうあと僅かでも力が込められたなら、あっさりとこの身は潰れ、手折られるだろう。

 彼女の自制、そのぎりぎりの際。

 それでも彼女は縋った。堪えなど利かず、俺という生命に縋り付いた。

 

「もう放さない」

 

 放したが最後、それで最期。彼女は妄信している。俺の生命の脆弱さを。声音で、その身の震えで、心底より怖れ慄いている。

 こんなにも(つよ)い人が、こんなにも、今にも泣き崩れそうなほどに、か弱い。

 

「どこへもやらない……誰にも、やらない……!」

「っ、ぁ……」

 

 瘧のように震えながら嗚咽する。

 

「あたたかい」

 

 熱を、鼓動を、その腕に、胸に受けて。

 

「あぁっ、あたたかいなぁ……」

 

 涙は止まらなかった。ここに生命が存続しているというただその一事実に。

 後悔と喪失の虚に、喜びと安堵が満ちていく。

 血の脈動が教える。心臓が生を叫ぶ。お前はここに。

 この手の中に。

 もはや渡さない。誰にも。

 お前を守るのは私だ。お前を守れるのは私だけだ。他の者にはできない。させない。

 そうだ。

 そうだろう。

 お前も、そう言ってくれるだろ。

 

「これからずっと────」

 

 このあたたかさは私の。

 私の。

 あたたかな。

 熱、熱い、熱いな、これ、すごく熱い、まるで熔けた銅みたいだ。ああ熱い。

 熱い、血。

 

「え……」

 

 熱血。鮮血。

 赤い。赤。赤。赤。赤。赤。

 腕の中に広がる血の紅。

 鼻腔に満ちる血臭。鉄錆の芳醇な香。命の残り香、残火。

 消え去った命。お前の命。目の前で貪られていった。

 どうしてだ。たった今。だって。

 どうして。

 ねぇ。

 なんで、お前、首だけなんだ?

 首だけしか、ないんだ?

 

「────」

 

 光を喪った目玉。半開きの口から舌を出したお前を両手に持って私は呆然と。

 血の滴るお前を。両掌に収まる小さなお前を。

 気付けば、お前の生首を抱いていた。

 どうしてだ。なんだ。誰がやった。誰だ!? 誰だ!!

 

「は、ぇ」

 

 血を滴らせているのは首だけではない。

 この血。この赤は。

 私の口から。

 舌先に広がる甘露。喉を潤す生き血。胃の腑に満ちる人の肉。生命の味。お前の美味。

 私が喰ったのだ。私が、お前を。

 殺したのだ。

 殺した。

 殺した。

 ころした

 

 わたしがおまえをころしていた

 

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蹲り、時に転げ回り、床板を引き裂き握り砕く。

 

「アァァア! アァア゛ッ!! アアァアア゛アァァアァアアアアア!!?」

 

 頭を抱え、その鋭利な爪が頭皮ごと掻き毟る。美しい金髪は赤黒く血に染まっていく。

 焦点を外し、白く眼を剥いて彼女は虚空を見た。眼窩からは壊れた蛇口のように涙が溢れ出ててくる。半開きの口からは涎が垂れ落ち、顎から粘り、糸を引く。

 色の無い眼。現実(うつし)ではない別の奈辺に、光ないその眼は釘付けとなっていた。

 鬼の姫は狂乱した。

 いや、狂わされたのだ。

 闇より出でし、その少女の異能(ちから)によって。

 

「良い夢を見なさい、勇義。身に過ぎた夢、その成れの果てを」

 

 狂した鬼姫の耳元にそっと囁く。

 少女は笑った。慈悲を装いながら、酷薄で、悪辣な、憎しみの象形のような笑み。

 淡い藤色の髪が闇に(そよ)ぐ。

 彼女は見ている。この場に立ち現れた瞬間から己を見詰めている。

 その顔に埋まった両瞳で……ではない。

 胸の中央、細い神経節に繋がれたその眼で。

 巨大な眼球で、俺を見詰めていた。

 

「ええ勿論です。この眼は貴方を、貴方だけを見る為にあるのですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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想い想われ

 

 

 地響きを立てて、穴蔵に建立した廃寺が傾く。

 鬼姫の怪力が、乱心、狂乱が、建物と地盤を諸共に破壊しようとしていた。彼女の膂力に掛かれば古びた建造物を崩落させるなど小枝を手折るように容易いのだろう。

 床を裂き、遂には柱を握り潰す。

 声が枯れ、喉から胃液と血を吐き、血の涙が垂れ流れては落ちる。彼女のパフスリーブの白いシャツはもはや赤黒く染まっていた。

 

「ここは少し騒がしいですね」

 

 世界を揺さぶるような力の爆発を事も無げに見限って藤色の髪の少女が言った。もはやどうでもよいと。

 今やその深い瞳に映るのは、無様に膝を屈する己の姿のみ。

 す、と細められた目は優しかった。いや、とても弱々しく、儚い。

 幾星霜、この時この瞬間を待ち望み、そうして窶れた心身でようやく、今。

 今、再会を果たした。

 少女の貌。泣き出す寸前の微笑が胸骨を抉る。

 幾人。あと幾人だ。

 俺は一体、どれほどの人々の心を冒涜したのだ。

 

「さあ、帰りましょう。地霊殿へ。あの温かな闇の中へ」

 

 差し伸べられた白い手、面前にある白磁のようなそれを見、また少女を見上げる。

 己の戸惑いすら、彼女は愛おしげに待つ。待ってくれる。

 だが。

 

「あぁっ、あぁぁあぁあ……!」

 

 とてものこと、すぐそこで頭を抱えて子供のように泣きじゃくる鬼の女性(ひと)を俺は看過できなかった。

 その長い爪を生やした手が、虚空に伸びる。何かを乞い求めて彷徨う。

 俺を掻き抱いて、いや童女のように縋った手。あの時彼女がまず真っ先に口にしたのは……安堵だった。

 ただ、ただ、あたたかい、と。涙を零すその姿が、あまりに憐れで、どうしようもなく労しくて。

 悪夢に魘され、苦しみ抜く彼女を放って去る訳にはいかぬ。

 彼女を助け────

 

「何を()()()いるんですか」

 

 視界一杯に満ちる美貌。少女の、白い顔。

 そしてさらにその三分の一ばかりを占めるのは、大きな紫紺の瞳。それが光を失くし瞳孔を眇める。

 

「どうして、()()()んですか」

 

 いや、視線はもう一刺し。彼女の胸元で経絡に繋がれた眼球からも。

 不可視の針、抉るように凄まじいまでの眼力。現実に、その視線には物理的な貫通力が伴っている。己の皮膚は確かにそれを感じている。

 その眼に、怒りが宿る。揺らめく光は狂おしいほどに熱い。骨の髄まで炙る、黒い炎が。

 ……なるほど確かに俺は、この身は責められるべきだ。責め苛まれ、適う限りの責め苦を味わうべきだ。

 しかし、彼女は違う。あのような苦しみに落される謂れなど。

 

「また考えた。また浮かべた。また、またぁ!! え、ははは、どうして考えるの。違うでしょう? 貴方が考えるべきなのはあの女じゃない。貴方が思うのは、心に留め置くのは、その想いで打鍵するのは、貴方に想われていいのは!!」

 

 己の両頬を包み、掴む柔手。その華奢な外見とは裏腹に、頭蓋を割れるだけの十分な握力を備えているようだった。

 骨の軋みが頭の中に響くのだ。

 

「……私だけ。ねぇ?」

「っ、かっ、は、ぁ……」

 

 眼球を囚われる心地。瞳と瞳が触れるほどの距離に在って、ただ心情ばかりが地平の彼方ほど遠い。

 少女の言わんとするところがわからない。

 理解できない。

 

「っ、む、無理もありません、ね。ええ、そう、そうですよ。貴方はこちらに来たばかりなんですから。理解なんて、でき、できないのは当たり前。今から、これから知ってください。知ってくれればいい。私のこと……」

 

 額を合わせ、少女は目を閉じる。祈るような、それは懇願だった。

 何を願われているのだろう。

 何故、こうまで、この少女は思い詰めて、悲しみに声を震わせて。

 

「古明地さとり。私の名前」

 

 頭の表層、皮下で血管が、骨の内で脳が圧し潰される。血流が停滞し、思考力が低下する。

 阿呆のように俺はただその音声を反芻する。

 こめいじ、さとり。

 

「は、ぁっ……! そうです。私、さとりです。さ・と・り」

 

 目前で喜悦が岩清水のように湧き出、溢れた。

 さとり、さん。

 

「あはっ、あははは、あははははは! はは、は、あ、ぁ、あぁっ……はい、はい、そう、さとりですよ。貴方の、貴方だけの……!」

 

 古明地さとり。淡い藤色の、儚げな少女。対面した当初纏っていた静寂はほどけて消え、今は無邪気な笑声を上げる。

 

「だって、また、貴方が想ってくれるんです。やっとこうして、触れて、感じて……貴方の“声”が今こんなに近くにある。もっと……」

 

 その細い両腕が首に縋り、我が身を包んだ。

 先程とは一転なんとも力弱く、まるで子供がぬいぐるみを抱くようだ。でないと眠れない、そう駄々を捏ねるような。

 

「呼んでください。忘れないように。私に刻み込んでください。貴方の“声”」

 

 さとり、さん。

 戸惑いながら無意識にも少女の名を思考はなぞった。

 その度、じわりと熱が首筋を濡らした。少女の涙は止め処なく溢れ返った。

 不理解は今以て極点に上り詰め、下がる気配もない。

 だが、一つ。たった一つだけ、理解した。自覚した。

 俺はきっと置き捨てたのだ。

 無情に無慈悲に卑劣にも。

 誰かの想い、誰かの願い、向けられ浴びせ掛けられそして……差し出された、無垢な愛から。

 逃げたのだ。

 だから、追われる。

 ならば当然ではないか。

 この少女も、かの人も、あの人もなにもかも。

 こんな俺を追って、ここに在るのだ。

 

「はい」

「…………」

「異なる御世の、異なる幻想郷から私は貴方を求めてここに来ました。私の元居た世界の貴方は、貴方はもう……」

 

 肩を掴む指が強張る。

 下を向いた少女の押し殺した嗚咽を聞く。

 

「っ、また一からやり直しましょう。私達。大丈夫ですよ。私、今度は間違えませんから」

 

 ひたりと、少女の左手が己の右手に合わさった。指を絡め、しっかりと握られ。

 水色のブラウスの袖口。そこからするりと何か、黄色の細長い触肢のようなものが伸びて────それは掌を貫いた。

 

「ぎっ……!?」

「これで」

 

 己の手ばかりでなく、触肢は少女の左手までも貫通する。

 するりするり、意思を持った生物のように触肢は我々の手に巻き付き、絡み付いてしまった。

 鋭い痛みが電撃めいて走る。中指骨の合間を抜けた触肢は血が通っているらしく時折微かに震え、骨を捩る。

 

「っ!」

「痛い、ですね」

「これ、は、一体……!」

「心が重なりましたね」

「心……?」

「はい、こうすれば」

 

 傷口で触肢がのたうつ。

 裂き開かれた肉と皮膚、骨が、体鳴楽器の如く激痛を震撼させた。

 痛い。痛い。痛い。

 

「ふふふ、私も。おんなじ気持ち、です」

 

 甘露を口に含むように少女は囁いた。

 その眼が滲む。光が遠退く。

 

「これからはずっと一緒ですよ。全て一緒に、心は一緒です。痛みも、快楽も、喜びも、愛しさも。私が貴方の安らぎになりますから、だから」

 

 触肢が伸びる。少女の衣服、身体あらゆる場所から無数に蠢き、鎌首をもたげて現れる。

 

「どうか、私の安らぎになってください」

 

 膨大な数の触肢、彼女の第三の眼、その大量の視神経が全身を覆う。

 それはもはや蚕の繭だ。

 幼体を保護する為の揺り篭。優しい牢獄。

 俺はもう逃れられ────

 

「!」

 

 その時、突如俺は足首を掴まれた。

 万力を思わせる強靭な握力。それは。

 

「いくなぁぁぁああぁああぁあっ!!!」

「ぐっ、あ、がぁっ……!?」

「!? 放しなさい! 放せ勇義!」

 

 実にあっさりと足首の骨は砕けて散り、程なく皮膚は裂け肉は千切れた。

 右足が破断する。

 ふと見れば、泣きじゃくる鬼姫の手に足首は黒い革靴ごと居残っていた。

 

「いかないで、いかないでおくれよぉ……」

 

 童の声がする。痛みも忘れるほど憐れな、悲しい声が。

 光に没する。

 紫紺色の輝きが無数の粒となり、垂れ桜が枝をもたげるようにして廃寺を払う。

 消し飛ばす。

 

「この人に想われていいのは私だけよ。わかる? わかりなさい。わかるのよわかれ勇義ぃ!!」

 

 怨念の声が響く。

 彼女の聖域を冒した者への赫怒が視界を焼いた。

 痛みが脳天を衝く。罪悪という名の痛覚が俺の罪を叫ぶ。(おまえ)の蒙昧がまたしても誰かを傷付けたぞ、と。

 情けないことに、鬼姫の無事すら確認できぬまま俺はそこで意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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