甘き夜明けよ、来たれ (ノノギギ騎士団)
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1年生まで
ヤーナム紀行[クィリナス・クィレルの手記]


ウィレーム先生は正しい。適切なタグ付けが無い作品など筆者の堕落だ。
【注意】この作品は、ゲーム・書籍・映画を参考に書いていますが、作品の都合上、あったものが無くなったり、無いものがあったりします。現在あるタグ以上に追加する予定は今のところありませんが、追加する場合は、本文のように作品の前書きに追加の旨を記載します。ご了承ください。


 ヤーナム。

 その名は、現在、わずかな書籍の中に数行存在するのみである。記述された内容も、いかほどが真実に触れているものか。好奇あるいは風説の類が多いだろう。しかし、それらの記述を集結させたとしても日刊予言者新聞の占いコーナーの文章量を遥か下回る。マグルの辺境の地方都市において過去の存在が忘れ去られることは、珍しいことではない。そう。決してヤーナムが特別では無い。珍しいことではない。

 

 私が『例のあの人』に関わる試みの前に、この辺境都市のことを思い出したのは『古い医療の街である』という情報の一片を手に入れたことがあったからだ。

 マグルが持ちうる情報を鵜呑みにするのは、リータ・スキーター女史が書くおべんちゃら記事を真に受けるようなものだ。けれど、魔法族に残る、古い伝承のいくつかは真実に触れていた。事実、私はヤーナムに辿りついたからだ。

 

 ヤーナムは、ロンドンから遥か東。人界から隔絶した境地にある。道中は検知不可能拡大呪文に似た呪いが重ねられているのだろう。何度となく道に迷いそうになった。これは数年で行われたことではない。驚くべきことに一〇〇年以上の重厚な呪いの産物と思われた。

 

 しかし、綿密で重々しい呪いなればこそ、護り隠そうとするモノの中核というものは時に鮮やかに理解ができた。検知不可能な領域のなかで、ことさらに検知不能な場所がある。そこが辺境都市ヤーナムだ。

 

 ところで。

 我ら魔法族は、国際魔法使い連盟の規約に従い、自らの社会をマグル社会から隠す必要がある。これはマグル学の教授であった私が記述するまでも無いことであるが、混乱と衝突を避けるためである。

 自然発生する魔法使いのコミュニティ──有名な観光地となっているゴドリックの谷やホグズミード村などは典型である──はマグルに対し、秘されるのが常である。

 

 これらの前提を鑑み、辺境都市ヤーナムを考えると奇妙な点がある。

 検知不能の全ては、マグル避けにしては過剰であり魔法族の来訪さえも拒んでいるように見えるのだ。

 

 街の中は、マグル文化でいうところの十九世紀程度の古めかしい建物が多く、これまた驚くべきことにマグルの街であるのにエレキテル即ち電気が無かった。ここには、フランス大革命を頂点とする十八世紀より十九世紀への一大転向の威光は届かなかったようだ。

 煙突やガス灯は立ち並び、屋内に入れば人々は燭台に置いた蝋燭で明かりを確保していた。住人は老人が多く、若者や女子供は少ない。私はガイドの先導を受けながら最も大きな街道を歩んだが、ほとんど見かけなかった。

 

 魔法族がいた痕跡は、一見するところ無い。ヤーナムは、マグルの街である。それが執念じみた検知不可能呪文のようなものにより隠されている。マグルの街がなぜ隠されているのか。滞在中にその理由は分からなかった。だが、不思議なことにマグルは街を異常なものとして捉えていないのだ。

 

 これが何を意味するのか?

 壊すことは護るより容易い。

 強力な忠誠の術を用いたとして、最後に頼りにするものが守人のささやかな良心であることからも秘密を秘匿することの難しさは分かるだろう。

 

 ヤーナムが隠されている理由は何か。

 少ない情報で確かなことを述べるとしたら、検知不能の効果を破ってしまいかねない、人々の往来はほとんど無い、ということだ。

 さて。

 これ以上のことを書き残す前に、街で雇ったガイドの青年を紹介しなければならない。

 ──やあ、旦那さん。ヤーナムは初めてかい?

 見慣れぬ銀灰色の瞳。黒い髪を撫でつけた若い男。ヤーナムの市井の人々に比べると顔立ちは、幾分あっさりとして印象に残らない。彼は異邦人で、いずこからヤーナムに移住したのだろう。

 

 彼は、自らを「月の香りの狩人」と名乗った。

 

 何度か尋ねてみたが、彼はその不思議な名称を名前として名乗った。深く聞けば、名前が無いのだと言う。しかもそれで困らないのだから、いよいよ名前が無いことの支障は無くなってしまった、とも。

 

 彼は(最終的に)数クヌートで街のガイドを引き受けてくれた。その道中、彼は私に「どこか病を持っているのか」と聞いてきた。

 私は、ヤーナムを探してうんざりするくらい長々と歩いてきたのですっかり忘れかけていたのだが、物事のはじめはヤーナムが『古い医療の街である』から来たのだ。私は「無い」と答えた。わざわざ聞いてくれたのだから「ある」と答えた方がヤーナム医療の何たるかが聞けたかもしれない。

 今にして思えば、少々真面目に答え過ぎた私は「昔見た本でヤーナムのことを知り、いつか訪れてみたくてここに来たのだ」と言った。彼は、ホッとした顔をした。

 

 ──それは結構なことだ。「何でも治る」だとか「不老不死になれる」だとか。突飛な噂を信じて来る人がいるもんでね。そんな人に真実を伝えるのは、夢の無い話だ。けれど、必要なことだろう? この仕事をしていて、唯一、気が滅入ることだ。

 

 彼は外でヤーナムのことが、どのように伝えられているのか興味深そうにしていたが、何も尋ねてくることは無かった。これは本当に幸いなことだった。私は今回の『旅行』についてもヤーナムについても、マグル・魔法族の誰にも訊ねて聞いたことは無かった。もし質問されたのなら彼の気分を害さない程度の嘘を吐くハメになったことだろう。

 

 彼は、ガイドとして優秀だった。

 それは紹介や解説の丁寧さ──ではない。

 彼は、魔法族の血を引く者だったからだ。

 

 ヤーナムが外との交流を絶ってしまった為、彼は私に教えられるまで『魔法族』の存在を知らなかったのだと言った。ゆえに、彼は杖を持たない。だが物に手を触れず動かすことをやってのけた。「仕事柄、のんびり死体漁りはできないからな」とはヤーナム風の言葉遊びであろう。

 教育を受けていない魔法族は真なる意味で「魔法族生まれ」という呼称が相応しい。もっとも、魔法界においても彼のように孤立した魔法使い・魔女と言う存在は珍しいだろう。

 

 彼は時おり、不可解な行動をした。聖堂街の古びた教会の近くで立ち止まり「あそこにいるものがみえるかい?」と質問された時は、何が何だかさっぱり分からなかった。教会の屋根にニーズルでもいるのかと目を凝らしたが、何もいない。彼は「ああ、そうなのか」と言った。その様子は、すこし残念そうであった。

 

(中略の概要:ガイドされて街を歩く様子が綴られていた。)

 

 食事休憩のため、立ち寄ったパブでは私が話をする機会が多かった。

 彼が特に興味を示したのは、私が勤めるホグワーツ魔法魔術学校だった。

 

 聞けば彼には四人の子供がいるのだと言う。(私より若いのに!)

 彼らの一部は職に就け、一部は孤児院に入れていると言う。けれど外で学ぶ機会があれば、その機会を彼らにあげたいのだ。

 そんな親心を──彼はシャイなのだろう──遠回しで濁しながら言う。だから私はフクロウ便を用立てる必要がありそうだと考えていた。

 

 入学者選定リストに漏れがあったことを皆不思議に思うだろう。

 

 だが、ここは古都。辺境都市ヤーナムだ。フクロウも行方を無くしかねない。

 ヤーナムは、イギリス魔法界の膝下にありながら秘匿された盲点なのである。

 

(中略の概要:一晩、宿泊後にヤーナムを発つ。その後、街道に出るまでのサバイバルライフについては流行の作家ロックハート並の論述であった。よほど刺激的な旅だったように見える。その後、彼はアルバニアへ旅立ったと綴られ、手記は終わっている。)

 

 

 

 

 

 

(最後の項の走り書き)

獣 血 蛇




【あとがき】

Q この作品は何?
A 最近、ブラボを始めた&Kindleでハリポタシリーズが読み放題。⇒書くしかない、と思い立ってしまった物語です。頑張ります。お楽しみいただければ幸いです。

Q ヤーナムがイギリスは無理ない?
A インタビュー記事やブラッドボーン作中においてガスコイン神父に異邦人設定がある限り、恐らくはイギリスではないと思われますが、本作においてはイギリスにあるということにしておいてください。(このような設定がタグの「独自設定」に該当します)

こんな感じで、本作の【あとがき】では、筆者の解説や考察をちょくちょく書きながら参りたいと思います。
きっと長い作品になると思いますが、メンシスの檻などお被りになって、気長に見ていただければ幸いです。
あとブラボ作品増えてくれ。

感想お待ちしています(交信ポーズ)


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幼年期の揺籃

狩人
明かすために夜を駆けた。
星幽、時計塔の麗人が願う恐ろしい死は、長い夜にあって、ただの友であった。



 夜が明けた。

 長い夜だった。

 長い、長い、長すぎる夜だった。

 最初に照らされたのは、高所にある聖堂街上層の尖塔だった。

 

 暗澹の空、一点に光が生まれる。

 一見して、悪夢的思索に囚われた者の見る幻かと思われたそれは、しかし幻覚ではなかった。

 

 焼き捨てられて久しい旧市街が照らされた時。

 隻眼の狩人の目にとって朝日の存在とは、新しい凶事の前触れに思えてしまった。

 けれど。

 次に『あの夜』が訪れることはない。やがて降り注いだのは、白く清らな──まごうことなき朝日だった。

 

 夜は、たしかに終わったのだ。

 

 ガトリング銃に腕を預けながら、来訪者を待つ。

 体はひどく疲れ切っていたが、梯子が軋む音が聞こえていたのだ。

 

「デュラさん」

 

 来訪者の顔よりも先に、枯れた羽根を模したトリコーンが見えた。

 最後の一段を上がった青年は、デュラの顔を見つけるなり血除けマスクを引き下げる。引き攣った顔で笑った。

 そして。

 

「おはよう、ございます」

 

「ああ、おはよう……」

 

 習慣とは素晴らしい。拙い抑揚で告げられた言葉に、隻眼の狩人も答える。そうしてありふれた挨拶を交わした。

 これが確認であることを彼らは言外のうちに理解していた。

 

「あぁ、ああ、あぁぁぁ、おはようございます……。おはようございます。おはよう、と……」

 

 ふらつく脚でデュラの前に立った青年は、膝を折ると屈んで我が身を抱いた。

 

「私は、私は……あぁ、俺は、この言葉が言いたくて、言いたくて、人を……生きている人を探して、ここまで……」

 

 彼の肩を叩いた。強すぎず、弱すぎず、労うように。

 彼の努力を認めるのに、言葉はあまりに無力だった。

 

 身を震わせる狩人が、すがるように石畳を掻いた。

 

 秘匿されていた赤い月は昇りあるいは降り、青ざめた血の空は破却した。

 記録される限りのヤーナム史において、最悪の獣狩りの夜は、とうとう明けたのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ガトリングが設置された高層で三人の男が石畳に座っている。

 最も年若く見える狩人は、しきりに鼻先に触れていた。

 鼻の奥が痛い。こすり過ぎた目が霞む。

 行儀悪くズビズビと鼻を鳴らしていると見かねたデュラの盟友が布をくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 黴臭いが、土や血やらで凝り固まっている手袋でこすり続けるよりマシだった。汗や涙でぐだぐだになっている顔を拭く。布巾の返却は拒否された。その間、デュラは朝靄が流れていく眼下の旧市街を見ていた。

 狩人が落ち着いて佇まいを直したところで、デュラがこちらを向いた。

 

「……結局のところ、何人、生き残ったかね」

 

「街の人は、片手で数える程度が正解に近いと思います。『生きている』だけならば、もうすこし多いかもしれません。両手くらい」

 

「旧市街と同じだな。赤い月になった途端、獣になるか狂ってしまっただろう」

 

 デュラの盟友は、俯いてフードを目深に被り直す。

 狩人は、頷いた。

 

「お察しの通りです。門扉が固くて、反応があった家の捜索もまだ」

 

「狩人は誰が残っているかね。捜索するならば……朝になったとはいえ単独行動は避けるべきだろう。これから先が長いのだから」

 

 すぐに答えられなかった狩人の反応が、彼らに全てを悟らせた。

 ただ「あぁ」とさまざまな感情が混ざり合った溜息が、古狩人から漏れた。

 

「全くいないワケではないです。鴉羽の狩人、アイリーンさんがいるハズです。大聖堂の近くで怪我をしていたので輸血液をありったけ置いて……でも、いなくなってしまいました。あの方、いったいどこに……」

 

「……鴉羽……彼女ならば、身を休める場所くらい把握しているだろう。そのうちひょっこり出てくるさ。他には心当たりないかね」

 

「説明省きますが、連盟のヴァルトールさんがいたハズなんですけど、彼もちょっと行方不明です」

 

 ちょっと、とは?

 デュラは聞き返した。

 衣嚢の中を探りながら、狩人は答えた。

 

「悪夢の中で鐘を鳴らしたら会えました。でも、悪夢の中は、もう死んだ人にも会えるところでした。だから……その……ここでは、あの人は、もう……心残りを無くしてしまったのかもしれません。張り切って虫潰さなきゃ良かった」

 

 狩人が腕に抱えたのは、連盟の長が被っていたバケツ──ではなく鉄兜だ。

 哀悼を示すかのように狩人は、しばしうつむいた後で左目だけが空いた鉄兜を被った。

 

「視界狭……。え。これで醜い獣討伐って……長、凄っ……恐っ……」

 

 いろいろと規格外だったヴァルトールを惜しみながら、狩人は兜を衣嚢にしまった。

 盟友と目が合った。

 

「医療教会はどうなっている? 奴ら、真っ先に動きそうなものだが」

 

 今日も今日とて、惨事など知らぬとばかりに鎮座する教会は、旧市街の谷合からよく見えた。

 

「教会を二分するひとつ。聖歌隊は、ほぼ全滅です。予防の狩人達もそこいらで死んでいます。確認できた生き残りはひとり、ビルゲンワースにいます。彼女は、まともでした。でも、街の掃除には手を貸してくれないでしょう。彼女は学舎の守り手ですから」

 

『全滅』という言葉の重さは、彼らにとって特別な意味を持つ。だから敢えて使った。

 実際のところ、街の現状を最も正しく伝えるために必要であり、最短の言葉でもあった。

 

「ヤハグルの気狂い共は?」

 

「獣狩りの夜が始まる前に全滅していました。今回の赤い月の『きっかけ』でもあります。──でも、近寄らない方がいいです。掃除も最後がいいと思います。だいぶ殺しまわってきましたが、まだ棺がうろうろしているかもしれません」

 

「──念のため聞くんだが、教区長は?」

 

 ヤーナムを統制する医療教会、そのトップとは──実態がどうであれ──教区長という地位が一般的らしい。

 狩人は、古い記憶を思い起こしていた。

 

「狩長共々獣になったので、私が狩りました。赤い月が訪れる前の話です」

 

 笑うことのない狩人の目が、まっすぐ盟友を見つめた。

 

「平たく言うと医療教会は組織として動くことができない程度に、何というか、全体的にもうダメです」

 

 盟友は、とうとう溜息を吐いた。感慨も意見も感想も何も無い。溜息しか出てこないのだ。

 話をまとめるように、デュラが手を一回叩いた。

 

「家の中に閉じこもっている民草でさえ生き残りがほとんどいないような夜だ。中途半端に神秘に傾いていた彼らなど真っ先に発狂したのだろうよ。──では、現状、この三人が狩人か」

 

「…………」

 

 否定したいが、否定できる根拠も何も無くしてしまった。

 街が、人が、夜で失ったものは多く大きい。

 考え込みそうになる頭を振り、狩人は立ち上がった。

 

「……私が来たのは、ただ人と話したかったからです。もう行きます」

 

「君、ヤーナムを去るのか?」

 

 狩人は首を横に振った。

 

「私は、どこにも行くところが無いんです。自分の病気が何だったのかも分からない。本当に治ったのかも分かりません。それどころか、この姿だって……。……ああ、いえ、関係ないですね。だから、ええ、つまり、結局のところ俺はヤーナムにいますよ、ずっと。……でも、まずは、街中の死体を片付けないと」

 

 デュラと盟友は、一度視線を交わした後で、立ち上がった。

 

「我々も手伝おう」

 

「いいんですか……? でも街は」

 

 旧市街の守人は、すっかり朝靄が消え失せた市街を見下ろした。

 

「……どうせ誰もここに来ない。また血の匂いでいたずらに刺激したくもないからな。作業するならば、早ければ早いほど良い」

 

「時間はかかるだろうが、夜に作業はできない。……急ぐべきだ」

 

 狩人は、デュラとその盟友に丁寧にお礼を言った。

 

「……しかし、休んでいてもいいのだよ」

 

「いえ。動いていた方が気がまぎれるので」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 それから三人で道順を確認した。

 夜の狂乱が嘘のような静かな日になりそうな予感があった。

 盟友に続き、鉄梯子を数段下がったところでデュラは狩人の呟きを聞いた。

 

「デュラさんは、街を出ようと……やはり思わないんですね」

 

 何を言うのか。

 デュラは彼がどんな顔でそんなことを言ったのか気になった。

 背筋を伸ばし高台にいる狩人の姿を見つめる。彼の顔は、逆光で見えなかった。

 

 だが、瞳が見えた。

 

 彼の銀灰の瞳は、深い海のように揺れていた。

 はて。

 デュラは、記憶を探った。知らない色だ。彼の目は、あんな色をしていただろうか。

 

「人間が、人間のまま生き、死ぬことのなんと幸いなことか」

 

 感情の宿らない声で彼は言った。大きな独り言だった。

 その声を聴いた時、デュラは、思い出したことがあった。ここへ辿り着いた彼が、あまりに悲しく哀れに泣いたから忘れていたのだ。

 何らかの感触を思い出すように、彼は右手を握っては開いてを繰り返した。

 

「鴉羽の狩人、アイリーン。あの狩人狩りは正しい。あれは確かな、あの夜で信じられる慈悲だった。……彼女自身が救われないと知っていただろうに。慈悲を施していた。彼女は正しい」

 

 狩人の腰にはノコギリ鉈があり、獣狩りの散弾銃が提げられている。

 彼が『その気』になってしまえば、一方的にデュラと盟友を殺せる状態にあるのだ。

 

「連盟の長、ヴァルトール。彼もまた正しかった。あれこそ長い夜を越えるための慈悲だ。たとえ同士以外に理解されなくとも、いつか夜は明けるのだと思わせてくれる。夜に月は要らない、だが、目指す光は必要だった」

 

「貴公、正気かね」

 

「私は正気です」

 

 夜は明けたのですから。

 狩人は、二、三の瞬きをした。

 

「貴方は良い人です。デュラさん。とても優しい人でもある。だから普通に生きて死んでほしいな、と思っているのです。普通というのは齢をとって老人になって……という意味ですけれど」

 

「……。貴公は知らんかもしれんがね。私はすでにそこそこの歳なのだよ」

 

 嘯く。冗談の類であると狩人は知っているだろう。

 ヤーナムにおいて狩人の願望を果たすことのなんと難しいことか。果たした時は、なんと幸いであることか。

 

「そうだ。そうですね。そうでしたね」

 

「……疲れているのなら本当に休むべきだぞ、君。これからが長いのだから」

 

「いえ、大丈夫です。ホントですよ。……人と話せることが嬉しくて、すこし気が高ぶっているのだと思います」

 

 その気持ちは、デュラにも思い当たりが多少ある。──同調などしなかったが。

 デュラは、疲れはじめた手を動かして梯子を昇った。

 

「……気に病むな、と言っても無駄だろうが、言っておく。君はヤーナムがまるで終わるようなことを考えているようだが」

 

「え、違うんですか」

 

「いずれ、人が来るだろう」

 

 狩人の顔が、ようやく見えた。

 ああ、そうだ。

 彼は実のところ、ただの人間だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「人? どこから」

 

「どこからでもだろう。今なら入居し放題だ」

 

「あぁ……そうか」

 

 デュラが投げやりに言ったので狩人は深く俯いた。

 今は廃墟同然のヤーナムであるが、人は集まってくることを思い出したのだ。かつての自分のように血の医療を求める巡礼者は至るだろう。新天地を目指す人も至るだろう。あるいは、上位者の噂が他方にも伝播していれば記録を辿り、至るかもしれない。忘れ去られた古都のはずが、呪われた町として知られていたように。これまでと同じように。

 

「そのうち新しい街ができる。下が見捨てられたようにな」

 

「…………」

 

 狩人は、唇を噛んだ。

 手足にはひどい疲労があった。今さらだった。

 

「また繰り返すのか」

 

 朝の風が攫っていった言葉は、誰にも届かなかった。だが、その感想は、上位者となったゆえの予知であったのだろうか。ともあれ狩人の漠然と頭に浮かんだ未来、しかもそう遠くないものを見て、失望に等しい感情を持てあました。

 

 謎を探り、明かし、解くのは人の業だ。それ自体は、進歩だ。否定されるべきではないのだろう。

 だが、ヤーナムは解くべきではない謎に触れた。上位者との出会いは、恐らく、人間には早すぎる邂逅であった。それは人間に上位者に過ぎた不幸を招き、ずっと先の赤子まで至る呪いを受けた。

 

「デュラさんは、これから──」

 

「弔わねばなるまい。人を」

 

「そうですよね……そう、なりますよね……」

 

 狩人は、それを手伝おうと思う。

 まずは手伝って、手伝って、それから──。

 気付いたら街中を歩いていた。

 夜のうちに殺せるものは殺しておいたのでノコギリ鉈と銃火器の出番は無かった。狩人は死体を拾い歩きながら、考える。

 かつて人だったことが伺い知れるのは分厚い毛皮の上に纏う、服の残骸だけだ。腕の長さが違う。人としての尊厳は、無残に引き裂かれている。

 街を歩き回り、数えられないほど見開かれた目を閉ざした。祈るように握られた堅い手を握った。

 

 デュラと分かれてから数時間後。

 死体を集めている広場の隅に、何体かの身体や部分を集めて整列させているとデュラと盟友が戻ってきた。破壊を免れた四輪車には、狩人が拾ったものより多くの残骸が積まれていた。

 

「……彼らの死に意味はあるんでしょうか」

 

 祈るように手を合わせる。作法など知らない。だから、かつて見たことがある処刑隊のアルフレートを真似た。

 デュラに溢した言葉について、返事はなかなかいただけない。狩人は、彼の気分を害してしまったことに気付き、しどろもどろな謝罪をした。朝日を見て考える余裕ができてしまったから、こんなことを考えてしまうのだ。

 隻眼の灰狼は、若者の肩を叩いた。殴るような所作だった。

 

「貴公、立て、歩け。死に意味を与えられるのは、生きている者だけだ」

 

 狩人は、血で濡れた手袋の中で手を握る。彼の言葉は狩人にとって一種、救済の標となった。

 彼らの死に意味を与えることができるのは、自分だけだ。

 ヤーナムに巣くう上位者を殺し、眷属を殺し、獣となった住民を殺し、狂人を殺し尽くした。死者という意味では、彼らも同じ位相に存在する。

 これは、彼らの死に意味を与えたいだけの意地だった。事実は、側面に弔いの色をまとっている。

 

「デュラさん、ありがとうございます。……どうか長生きしてください。ずっと。ずっと。いつか旧市街を訪れます」

 

 旧市街の住人は、ひらりと手を挙げた。

 

 顔を上げた狩人には、すでに悲嘆の色は無い。

 死を糧にするのは、これまでと同じことだ。

 これから目標へ歩くことも。

 きっと、長い道のりになるだろう。それでも決めたのだ。ならば、この試みが正しいことを信じて歩き続けるだけだった。

 

 

 ここは古都ヤーナム。

 遥か東、人里離れた山間にある街は呪われ、病が蔓延していた。

 病は、呪いと友であり、血は全ての母だった。

 悍ましき古都は、血を血で興し清め穢し廃れ、けれど途切れず続くのだろう。

 

 

 だからこそ。

 

 

「血がヤーナムの歴史であるならば、ヤーナムの歴史とは血によって作られるべきだ。ゆえに、血の遺志に依ってだけ」

 

 灰降りしきる街を歩む、感応した上位者の視界は鮮やかに色づいた。

 

 この日よりヤーナムの時間は止まり、昔日の一年を繰り返すことになる。

 また幼年期の上位者が棲まう揺籃となり、そして、現在まで二〇〇年以上、夢を見続けている。

 

 




【解説】
本話は、現在の時間軸に対して約二〇〇年以上前の話であり、ゲーム本編直後の話でもあります。
しかし、本作のヤーナムにおいて時間は大した問題ではありません。少なくとも狩人はそのように考えているようです。

【あとがき】
更 新 :ゴールデンウィーク中は毎日更新ができる見通しが立ちました。外にも出られないし新生活にブラボするのがお薦めの過ごし方ですね。ハリポタ要素は、もうすこし待ってください……。
誤字脱字:頑張っているんだけど無くなりませんね。ご指摘ありがとうございます。
交 信 :本作は、ブラボ本編の出来事について自己解釈を多分に含む予定です。話が見えてきたら、お気軽に感想ください(交信ポーズ)


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来訪者、ヤーナムに至る

ヤーナム
イギリスのどこかにある、人里離れた山間にある街。
忘れられ、呪われた街には古くから奇妙な風土病「獣の病」が蔓延っている
わずかな噂を辿る人々はやがて至るだろう。曰く──それでも医療の街であるから。



 狩人の夢は、変わらない。

 名も無き墓碑を囲って慕う、小さな白い花は変じることなく咲き続け、宙には古い遺志が漂い、夢の主が代わった後も夢現を繋いでいる。

 静かな祈りは、遺志の漂いに溶けて久しい。

 わずかに夢に傾いて存在する領域の主人は、赤い月が訪れぬ代わりだろうか。一年に一度しか眠らなくなった。

 

 夢を見る狩人達の拠点。

 そんな場所で。

 

「ワケが分からん。ひょっとして俺が赤ちゃんだからか……?」

 

 狩人は、悩んでいた。

 静かな狩人の夢は思考の場に最適である。だから、現実の世界から戻ってきたのだ。

 同じ場所を回ったり歩いたりしている狩人が立ち止まる。

 彼を見守っていた、麗人のごとき人形が小首を傾げながら狩人に問いかけた。

 

「狩人様? どうなさったのですか?」

 

「あぁ、いや、ちょっと話がおかしくてな」

 

「話がおかしい?」

 

「ああ、外から来た人の話を繋ぎ合わせると、どうにもおかしい」

 

 現在、ヤーナムは『やわらかな』閉鎖状態にある。

 一年間が二〇〇年以上続いていることに住民のほとんどは気付いていない。気付く『きっかけ』になりそうな外の来訪者の存在は、来訪者を元通りヤーナム外の世界に追放することで解決できるだろう。

 

 しかし、狩人は来訪者の存在が大事だとは考えていなかった。

 彼らがヤーナムの治安を揺るがすことは、この二〇〇年以上、無かったからだ。

 

 憐れなるかな。

 何も知らない来訪者は、夜間に外出して蕩けた瞳の住民に「ホワーイ(アウェイとも言う)」されたり、一般通行中の獣の食事になったり、上層の聖堂街に忍び込んで謀殺されたり、夜道を歩く人攫いに拉致されてしまっているからだ。実にありふれた末路であり、ヤーナムの健全な日常である。

 たまにアメンドーズと全身で握手したままどこかへ行って帰ってこない者は、最初から計算埒外だ。現在、狩人の悪夢や悪夢の辺境を閉鎖しているため、彼らが戻ってくる可能性は、ほとんど無いからだ。

 

 ヤーナムを揺籃としている狩人にとって重要なのは、そんな彼らが持ち込む知識だ。

 

「たしか前回は『大戦が終わった』という情報でしたね」

 

「ああ。国同士がいくつかの派閥に分かれて戦争をしていて……何と言ったか」

 

「『世界大戦』と名付けられた、と」

 

 そうそう。そんな名前だった。

 狩人は頷く。

 人形に促され、彼は古工房の椅子に座った。

 携行している手記を開き、過去の情報を確認する。

 

「ある人は、銃やヒコウキとかいう鉄の塊で空を飛ぶ機械が使われたと言い、ある人は杖やドラゴンが使われたと言う。……これは、おかしなことだ」

 

 銃は分かる。

 狩人は、旧市街でさんざん『お世話』になったガトリング銃を思い出す。あれが更に進化するのは、分かるのだ。恐らく、もっと小型になり、持ち運びが便利になって、威力が増す、という進化の方向性は想像がつく。あるいは獣狩りで使う銃が、貫通性を持って飛距離を伸ばし、さらに対人戦に特化したものになるという方向性も理解できる。ヒコウキというのがよく分からないが、大砲の爆風でも体が吹っ飛ぶのである。狩人の愛すべき『火薬庫』などの優秀な工房団体がヤーナム外にもあれば、百年のうちに鉄の塊を連続爆発で飛ばすくらいやってくれそうである。安心と信頼の火薬庫へ投資せよ。だから分かるのだ。

 

 だが、杖は分からない。

 とある来訪者は木の棒を見せてくれたが、あれは言葉の通り、物の例えだったろう。思考がヤーナム基準である狩人は、仕込み杖で戦う人々を想像した。観光客であり来訪者でもある彼らが仕込み杖型の武器を持ち歩くのは、ヤーナム外では、さぞ不自然だろう。しかし、それでは疑問が発生する。銃があるのに杖で戦うのだろうか? ただの人間を殺すのならば、銃で十分すぎる。わざわざ近接の殴り合いを行うのだろうか? 国の規模で?

 

 そして、ドラゴンはもっと分からない。

 ヤーナムの血の医療──得体の知れない何かの血を体に輸血する、まさに『人体』の蒙を開くかの如く! 素敵な治療法である──により、ヤーナムに来る前の記憶をまるまる喪失している狩人であるが、ドラゴンが空想上の生き物であること程度は分かる。ドラゴン討伐を成した者が聖人と崇められ、あやかった名前を持つ人々がいるからだ。ドラゴン=上位者説も考えついたが、来訪者の話を聞く限り、どうやら世界に根付いた生き物であり、なんと冒涜的な姿をしていないらしい。人々の理解が及ぶうちは、正しく生物で上位者ではないだろう。

 

「俺が世間知らずのヤーナム野郎だから、からかわれているのだろうか?」

 

「獣に襲われたところを助けた狩人様に向かって、嘘を吐く不誠実な人でしたか」

 

「むむ。そうは見えなかったが……」

 

 人形が運んできてくれたお茶を飲む。

 温かいお茶に「ほう」と息を吐いた。

 

 これらの疑問は。

 上位者の知恵を持ってすれば、数多の瞳で、耳で、過去も未来も見通すことができるかも知れない。

 だが、狩人はそれをしなかった。これまでと同じ手法で外の世界の情報を調べている。つまりは、人と出会い、話し、証拠と手記を集め、整理しているのだ。

 

「では『魔法』と何か関係があるのでしょうか」

 

 人形は静かな声で言う。

 

「魔法かぁ」

 

 狩人が頭を悩ませるのは、とある来訪者が話したことだ。

 曰く「自分は魔法使いである」と。狩人は、その言葉を聞いたとき「へえ。ヤーナムの外にも狂人がいるのかぁ。賑やかなことだなぁ」としみじみ感じ入ったのだが、それが数十人も続けば、さすがに認識を改める必要を覚えた。

 

「俺は神秘のことだと思っていたが、ひょっとして違うのか……? 『そもそも』が、違うのかもしれない?」

 

 狩人は懐から、一枚の金貨を取り出していた。

 指先で弾くには重い。これは『ガリオン金貨』と呼ばれる。獣に襲われた来訪者を助けた時にお礼として数枚もらったものだ。

 外界において通貨として使われる物である。

 しかし、狩人は、ある時、それ本来の使い方と道標以外の用途に気付いた。

 

「来訪者にも魔法を知っている者と知らない者がいる。知っている者は、ガリオン金貨を知っていた。見分けるアテになるだろう」

 

「……何かお考えがあるのですね」

 

「ああ、次の来訪者が来たら聞いてみよう。『知っている者と知らない者が、なぜいるのか』。……案外、簡単なことかもしれないが」

 

 人形は、再び小さく首を傾げる。

 狩人は、目を細めた。

 彼女ならば狩人が笑っていることに気付いただろう。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 さて。

 かつてのデュラや狩人の予想に反し、来訪者は頻繁にやってくるワケでは無かった。

 これは狩人の想像に過ぎないのだが、一年間を二〇〇年以上繰り返し続けている結果、現在のヤーナムは時空が激しく歪んでいるのだろう。ゆえに外界から来る『まともな人間』は、たとえヤーナムを目指してきても滲み出す異変を察知して避けているのではないだろうか。

 

 そのためヤーナムに来るのは決まって『ちょっとおかしい人間』と『勘の鋭い人間』、そして自称『魔法使い』達だった。啓蒙──世界の真実を理性の範囲で自然に見る力だ──高めの人間は年数を重ねるごとに減っている気がする。外界の人間が真実を見通す目を失いつつあるのか、上位者の揺籃となっているヤーナムがいよいよ狂気も極め、混沌めいてきたのか。いつか答えを知りたいと狩人は思っている。

 そんなことを考えながら、市街をぶらついていると幸運にも見つけた。来訪者は来訪者と一目で分かるのだ。

 

 例えば、あの男。

 

 きょろきょろと挙動不審に辺りを見回し、通り過ぎる住民の舌打ちに苦笑いと怯えで応じる旅客は、実に典型的な来訪者と見える。

 狩人は異邦の狩装束に身を包み、フードを外して笑みを作る。これは狩装束であるが、相手に警戒心を抱かせない恐らく最も優れた装束であると何度かの『接客』で理解していた。

 

「──やあ、旦那さん。ヤーナムは初めてかい?」

 

 できるだけ敵意を感じさせないように、努めて明るく声をかける。

 市街をさまよっていた旅人は、驚きに肩を跳ね上げて胸を押さえた。

 

「はっはいっ……!? あ、あ、あ、私は……」

 

 近くで見るとナヨナヨと頼りない青年だった。しかも顔色に感情がすぐに出る。

 困り顔の彼に、害意が無いことを示すように狩人は両手をひらひらさせた。

 

「おお、急に話しかけて悪かったな。私は街の案内をしている者でね。それで食ってるワケなんだが、どうだい? 案内するよ。一ガリオンで」

 

「い、一ガリオン?」

 

 反応があった。恐らく、彼は『魔法使い』だ。

 狩人は確信を得ると同時に彼には警戒された。顔色がすこし変わる。これは明らかに「高すぎる!」という顔だ。

 

 もとより話しかけるのは金策のためではない。貴重な情報源を逃したくもない。だから値引くのはやぶさかではないのだが、適当な仕事をしていると思われるのは困る。強気に出るか。値引くか。すこし迷う。

 

「悪い。ふっかけた。半額でいいよ。久しぶりのお客さんなんでね」

 

 結果として、狩人は情に訴えることにした。彼は魔法使いであり、ヤーナム基準では『かなり、まともな』人物らしいと察したからだ。

 軽薄なウィンクを添えると彼はホッとしたように肩の力を抜いた。

 

「そ、それでは、ぁ、お、お願いしても……?」

 

 つまづくようなどもり声は、たしかにそう言った。

 

「交渉成立だ」

 

 狩人は右手を差しだした。

 そっと、触れるだけの握手をした後で。

 

「た、助かりま、した……道を聞いても、答えてくれない人ばかりで、とっ途方に暮れるところでした……」

 

「ああ、この街の人間は外から来た人には特に冷たくてね。いやぁ、旦那は賢い、そして幸運だ。ヤーナムに来て身ぐるみ剥がされずに帰れるんだからな」

 

 安心させようと言った言葉は逆効果だったようだ。

 彼は不安そうな顔をして、どんよりした空を仰いだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 青年の名前は、クィリナス・クィレルと言うらしい。療養中であり旅行中であるという彼は、やはり魔法使いであった。

 しかし、何より狩人の興味を惹いたのは。

 

「ホグワッツ、魔法、魔術、学校?」

 

 狩人が彼の話をじっくり聞いたのは、酒場でのことだ。

 市街地を中心に当たり障りの無い『公に紹介できる範囲』の案内を終え、昼になったので食事をしようという話になった。

 クィレルには外装を見るに「パブですか?」と聞かれた。『街の社交場ですか』という意味に捉えた狩人は「そこまで立派なものじゃない」と否定した。とはいえ、騒がしいという意味では似たようなものと言えたかもしれない。

 

 昔日の賑わいと冷淡さを見せる、昼のヤーナムにある酒場は盛り上がっていた。それもそのはず。住民が夜間にできる事といえば、祈りながら厳重に封じられた家で朝日を待つことだけなのだ。そのため、酒を飲みたい人々は朝から昼の間に騒ぐしかない。

 

 誰にも注目されない店の隅で適当な注文をする。

 クィレルは、ぬるく薄いエールを呷るとむせた。

 

「大丈夫か?」

 

「えぇ、え、ええ。ちょっと、発音が違いますね。ホグワーツ、魔法、魔術、学校、です。わ、わたしは、そこの、教授です」

 

「教授……? つまり、先生?」

 

「え、ええ、そう」

 

 彼の言葉のどもりは、騙りというよりは、そういう癖の話し方だろう。そのように見当を付けると狩人は『これはアタリだ』という閃きを得ていた。

 

「知りたいことがあるんだ。教えてほしい、先生。あぁ、酒代は私がもつし、ガイドは更に半額でいい」

 

「えっ! えぇ、答えられることならば」

 

 彼は使命感を帯びた顔をした。先生という話は、いよいよ本物らしい。

 ──よし、乗せた。

 心の中でギュッと手を握りながら、狩人は言葉をまとめた。

 

「俺は、この街を出たことがないから変な質問をすると思うんだが……」

 

「え、え」

 

「魔法を使う人と使わない人がいるのは、なぜだ?」

 

「それは、種族が違うからです」

 

 どもりが嘘のように無くなった。

 自分が知ることを話す時、彼は流暢になるらしい。

 

「種族?」

 

「魔法を使う者を『魔法族』、使えない者を『非魔法族』、通称マグルと呼びます」

 

 はーん?

 物分かりの良さそうな顔で頷いて見せながら、心の中では盛大に首を傾げた。しかし、辻褄が合いそうなのだ。

 

『人間の姿形は同じでも血統によって魔法が使えるか使えないかが決まる』

 

 彼の言葉の意味とは、これだ。カインハーストに纏わる血族が上位者の赤子を抱く可能性があるように、魔法使いにも血統が重要なのだ。

 これまでの常識が揺さぶられる思いがして狩人は、自分に馴染ませるように何度か頷いた。

 

「なるほどな。では、杖を、旦那いや先生もお持ちで?」

 

「ええ、これ」

 

 そう言って彼が見せたのは、かつての来訪者が持っていた物とよく似た木の棒だ。

 

「二十三センチ、ハンノキ、杖芯はユニコーンの毛、しなりやすい。……飲み物は、な、何がお好きですか?」

 

「海水かな」

 

 突然に言われて考えもせずに答えた。

 海水。

 月の魔物を打ち倒した後、しんなりした軟体の上位者になったものの徐々に元気を無くす狩人の成れの果てに人形が海水をかけたら元気になったという。

 

 嘘か真か記憶も記録も無いが、人形が言うので「そうなのだろう」と信じている狩人は、それからしばしば海水を口にするようになった。体調は、まあまあ良い、気がしている。──という経緯など旅人にはまったく知る由も無いので彼は驚いた顔をした。

 

 クィレルは杖で狩人の飲みかけにしていたグラスを一度だけ叩いた。

 

「ど、どうぞ。……ほ、本当に、海水で良かったんですか? か、か、カボチャジュースでも」

 

「ん?」

 

 白い丸薬は手持ちにあったはずだと思い出す。

 恐れずに一口、グラスを傾けた。

 

「んっ!? 海水だ! なるほど。これが魔法か……!」

 

 まったく原理が分からない。啓蒙に値があったら上がりそうな事態に狩人は笑ってしまった。困ると笑う癖がある狩人であった。

 魔法とは、ヤーナムにある神秘とは違う方向性を持つ『神秘』らしい。

 驚き続ける狩人にクィレル教授は、怪訝な顔をした。

 ひょっとしたらマグルだと思っているのかも知れない。

 

「いや、悪いな。この街にも魔法があるが、もっと冒涜的──いや、攻撃的なものでね。このようなものを初めて見たものだから……」

 

「あ、あなた、魔法使いでは無い?」

 

 ついに決定的な質問が来てしまった。彼が、杖を握ったのが見えた。

 狩人は、堂々と答えた。

 

「……。魔法使いの血統ではあるが、ここには碌な教導者がいなくてね。魔法が使えようと使えまいと変わらないのさ。しまいには自分たちが何者であるかも忘れてしまった。この土地の呪いのようなものでね」

 

 血統の話は虚構だ。

 だが後半は真実の話だ。

 

「例えばの話だが。魔法使いの女が身分を隠してマグルの男の子を生んだとしよう。そして、子が年端もいかないうちに母親が死んだとしよう。子にとっても父親にとっても魔法使いという情報は、秘匿されてしまうワケだ。そういうことを数代も経れば、もう誰も過去を辿れないだろう? そして、外の魔法使い達は、この場所を見つけることができない。──とまぁ、このように見放された堕とし子が作られるわけだ」

 

 クィレルの話した情報を基に組み立てられた物語は、それなりの整合性を持ち得たようだ。

 彼は申し訳なさそうに、ちらちらと狩人の顔を見た。

 

「わ、我が、ホグワーツは……望む者に知恵を、授けます。も、もし、学びたいという子がいれば、必ず門戸を開くでしょう。私もかつてはそうでした」

 

「そうか。なるほど。いい話を聞けた」

 

 教育とは良い事だ。

 限られた者が知恵を持ち、独占し、民衆を従えるより、よほど良い。よほどマシだ。

 ひょっとしたら狩人が思うより、外の世界は「まとも」に成立しているのかも知れない。

 

 決して閉ざすことのできない脳の瞳は、にわかに蠢いた。

 仄かな期待に胸が高鳴る。

 

「ありがとう、先生。やはりお代は結構だ」

 

 彼は戸惑ったように財布を出した。

 

「そ、そんな、わけには」

 

「いい話が聞けたから、いいんだ。それより、まだこの街にいるつもりか?」

 

「えっええ、ひひ、一晩泊まっていこうかと……」

 

「そうか。……ところが違えど、好奇心の収めどころとは難しいものだな。しかし、忠告だ。夜の出歩きはやめたほうがいい。そもそも、この街に長居はおススメしない。あぁ、そうだ。最後にひとつ、聞いてもいいかな」

 

 狩人はテーブルに腕を置いて身を乗り出す。

 そして。

 真剣に問いかけた。

 

「──『生徒のアテがある』といったら、学校は本当に受け入れてくれるか?」

 




【解説】
本話は、ヤーナム紀行[クィリナス・クィレルの手記]において省略された内容を狩人の視点から構成したものです。
クィレルの人物考察として最も参考になるのは原作者書下ろしのショートストーリー集の内容でしょう。今回は『ホグワーツ権力と政治と悪戯好きのポルターガイスト』より人物を参照しています。
ところで、狩人にとって『好奇心』は、とある時計塔の貴婦人を思い出させる格別に印象深いものです。彼女は、遂に狩人に対して恐ろしい死をもたらしてくれませんでした。しかし、一般人ではどうでしょう。狩人は機会さえあれば『彼女の言葉が真実の一面であったのだ』と試してみたいとも思っています。そんな機会は、滅多に、そう滅多に無いハズです。安心ですね。


【あとがき】
ゲーム本編後だと狩人数名しかいないんじゃないか?と思えるヤーナムなのですが、他の狩人を出すためにどうすればよいか考えた末の時空間構造となっています。悪夢は閉鎖されているようですが、果たして。


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上位者的奇行の福音

聖杯
地下遺跡の封印を解く儀式の器となるもの。杯の形より、呼称される。
かつて助言者は狩人に告げた。
聖杯は神の墓を暴き、その血は狩人の糧となる。……聖体を拝領するのだ……
今や遺跡にもぐる者は、その目的の限りでは無いようだが。




 半年と三日前。

 狩人は分裂した。

 もし第三者が聞いたら意味が分からないと思うが、狩人も意味が分からなかった。

 事の発端は、いつものことであるが狩人の奇行だった。

 

「やっぱり相棒がいるといいと思うんだよ」

 

 しみじみと狩人は言った。

 そばに控える人形が頷いた。

 

「狩人様の相棒、ですか?」

 

「ヘンリックさんとガスコイン神父を見てると『相棒がいるといいなぁ』とね。……俺、赤ちゃんだし」

 

 連盟に名を連ねる古狩人のひとり、ヘンリックが異邦の神父と組んでいるという話はヤーナムの市街の狩人にとって、半ば常識とも言える程度には有名だ。

 かつて、その二人を殺してしまったせいで狩人は未だに彼らの顔をロクに見ることができないのだが、ある夜、遠目で見かけた姿には思うところがあった。

 

 狩人は両手に抱えきれる限界の仕掛け武器を持ち、自分の周りに置く作業をしつつ、続けた。

 

「陽動と攻撃を分担できるってのは、とても効率的だ」

 

 分散と集合を繰り返しては、獣を追い立て、追い詰め、殺していく。

 互いに獣の攻撃が集中しないよう絶妙な加減で放たれる銃器の牽制は、一目で熟練の業と窺えた。

 

「どなたかに交渉されたのですか?」

 

「してない。だいたい独りで戦ってきたせいだが……。相手に迷惑かけるかもと思うと申し訳ない。俺、赤ちゃんだし」

 

 狩人の言葉は、単なる独り言のようなものだった。発展性が無く、具体的に行動を起こそうというものではない。

 人形もそれを分かっているのだろう、静かに頷くだけでこの話題について言葉は無かった。

 しかし。

 

「狩人様、こちらは何を?」

 

「聖杯の中だけでも『上位者の姿で武器握れたら強くない?』って思いついたんだが、実際できるかどうか試そうかと。相棒がいなくても手数を多くする方法は、今のところこれしか思いつかない。……俺、赤ちゃんだし」

 

「なるほど」

 

 突飛な思いつきであるが、人形はさして驚くことなく、再び頷く。狩人の一見で奇行と思える行動に理由を探すことは無かった。高啓蒙状態の狩人が、時として奇怪な行動をするのは珍しくない。むしろ苗床頭ではないだけ、本日の『まとも加減』は高い。

 同じ理由で狩人が上位者になってから度々口にする「俺、赤ちゃんだし」という言葉にも反応は無い。それをすこし寂しいと思ったり思わなかったりする狩人だったが、今は目先の興味を見つめていた。

 

 狩人はウキウキと胸を弾ませながら──軟体に似た──上位者の姿になった。

 

 常人であれば、地上のどの生物にも当てはまらない名状し難きそれを見た瞬間、宇宙悪夢的恐慌に陥り矮小な脳髄を飛び散らせたことだろう。しかし、ここには血の無き人形しか存在しなかった。

 

 武器を握ろうとした。そして、握れた。

 

 そう。

 ここまでは良かったのだ。

 仕掛け武器の所以である『仕掛け』を起動させたところで狩人の悲劇は起きた。

 

 回転ノコギリという武器がある。

 工房の異端『火薬庫』産の武器の中でも「絶対に獣の肉を削る」という強い意志を感じさせるものだ。狩人の身近なところでは連盟の長、ヴァルトールの得物でもある。この武器には、先端に取りつけた円盤形の鋸を機構の回転で動かすのだが、伴って柄が激しく振動するという特徴があった。

 狩人は回転ノコギリを使ったことがあるので無論そのことを知っていたが、見込みが不十分だった。これは上位者のしっとり濡れた手、触手とも言える、それとの相性が非常に悪かったのである。

 

 その結果。

 

『おおぉぉぉっとおおっ!?』

 

 狩人は声なき声を上げた。

 つるりと滑り落ちた回転ノコギリは、土と石と噛み合い不協和音を上げた。音を立てて回転する刃の先には、ちょうど姿勢制御のために踏ん張っている脚、触手とも言える──それがあった。

 さして痛みは無かったが、それでも寸断される光景を見るとどこか躰が痛むような気がした狩人はすぐに武器を手放すと元の通り、人間の姿に戻った。

 

「狩人様……!」

 

 そして、すぐさま暴れ回っている回転ノコギリに飛びつき、仕掛けを止める。

 時間とすれば数秒に満たない出来事だっただろう。人形はハッとした顔をして狩人のそばへ早足でやってきた。

 

「お身体は……」

 

「大丈夫みたいだ。あー、びっくりした。そういえばあの姿で怪我したことなかったな」

 

 狩人の手足に異常は無かった。感覚もハッキリと明瞭にある。

 そのことを伝えると人形は心なしかホッとした顔をした。

 

「あまり良い試みでは、ありませんでしたね」

 

「そうだな……。驚かせてすまない」

 

 この事態を事前に予想できるかできないかと問われたらきっと「できる」と答えるしかないだろう。その点、狩人は反省した。

 狩人の周囲には散らばった武器と千切れた触手が転がっていた。

 武器は片付けるとして、問題は触手だ。

 人形と顔を見合わせて困惑する。手で掴める程度の大きな肉塊が四片ある。

 

「どうしようね、これ」

 

 聖杯の儀式素材になるだろうか。

 一片を掴み、にぎにぎと触れた。

 美味しそうには見えない。バターで炒めれば多少は──。

 

「籠を持って参ります」

 

「ああ、頼むよ」

 

 狩人の外套にはさまざまな物が入っている。

 輸血液から口にするのも憚られる物まで何でもござれだ。人形が籠への保管を進言しなければ、これらも狩人の衣嚢行きとなっていたかもしれない。

 

 結果として。

 そうはならなかったことで事態は急展開を迎えた。

 この三日後、ちょうど今から半年前。

 

 日課的に血晶石を求めて聖杯ダンジョンに立ち寄ったものの、その後、妙にハマってしまい聖杯にもぐりっきりであった狩人が、狩人の夢に三日ぶりに戻った。

 

「ただいま戻った……が……人形ちゃん?」

 

 狩人は人形の姿を探すがパッと見たところ見当たらない。

 工房を模した小屋の中だろうか。脚を向ける。

 扉を開こうと小屋の前に立つ。ふと人の気配がした。何なら話し声まで聞こえる。

 

 そして、それは人形のものではなかった。

 

 すぐさま銃を抜き、ノコギリ鉈を構える。そして踏み入った。その間、わずか一秒。

 銃口の先に人形はいた。しかし、見慣れぬ顔が四つある。

 

 ──狩人が相棒を持つべきではないと考える理由のひとつは、人形に話した通りのことがあるが、実はもうひとつあった。

 

 視界で蠢く全てを殺すことで身の安全を確保してきた狩人にとって、自分以外に動くものは、反射的に狩りの対象と見なしてしまうのである。

 殺気を迸らせる狩人は、未だ警戒を解けないままだった。見た目が子供だろうが、老人だろうが、犬だろうが、中身は凶暴な獣ということはよくあることで何度それに泣かされてきたか分からない。悲しく優秀な学習の成果であった。

 

 人形は近付くと彼らの盾のように狩人の前に立った。

 

「おかえりなさいませ、狩人様」

 

「退いてくれ。殺す。誰だ」

 

「小さい狩人様です」

 

 人形の言葉に嘘はないのだろう。

 だからこそ、狩人はたっぷり困惑した。

 しかし、人形も困惑しているようだった。どうして狩人が理解を示さないのか分からない、という顔をしている。

 ぎこちない動きで何とか銃を収めた狩人に、人形はもう一度言った。

 

「小さな狩人様です」

 

「意味が……分からないが」

 

 絞り出すように言ってみる。脳が震える。啓蒙の高まりを感じるのは気のせいだと思いたい。

 人形は、右手で彼らをさした。

 

「先日の狩人様の欠片が、このような立派なお姿に」

 

「……?」

 

 いよいよ本格的に混乱してきた狩人は首を傾げる。今は三六〇度くらい首を傾げてみたい。

 人形の指し示す先にいるのは、四人の少年少女だった。

 狩人はようやく『狩人様の欠片』とは『四片の肉片』のことを指すのだと理解したが、何の解決にもならず、むしろ謎は更に深まった。

 

「んんんっ!? ちょっと待て!? おかしくない!? 肉片から生き物ができるって、お、おかしくない?」

 

 待て。例はある。

 カインハーストに君臨する女王、アンナリーゼは手の平サイズのプヨプヨしたピンク色の肉塊から人の姿に戻った過去があった。

 しかし、これとあれは違う。違うだろう。違ってほしい。狩人は思考を否定した。

 

「狩人様は、上位者でもありますので」

 

 何が起きても不思議では無いでしょう。

 そう言いたげな人形の言葉には、頷かざるを得ない。理性では、頷くべきだと思う。

 だが、狩人はスッと体を動かして人形の後ろを見る。そして、頷いた。

 

「で、でも、でもね、俺から女の子ができるのは、やっぱりおかし──」

 

「狩人様は、上位者でもありますので」

 

 ぐぅの音も出ないとは、このことだった。

 人形がまれにみせる強烈な説得力により、狩人は四人を認知することになった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 人形が『小さな狩人』と呼ぶ、四人には数ヶ月名前が無かった。

 狩人自身、自分の名前がヤーナムの血に溶けて久しく、自称も他称も『狩人』あるいは『連盟の新人』と名乗り、呼ばれ、それでいて特に困りもしていなかったせいだろう。

 

 その必要に駆られたのは、今から数ヶ月前のことだ。

 

 狩人の夢にいてもやることは特になく、何より「狩りを」と彼らが望んだ為、彼らは各々、聖杯に身を投じていた。狩人も止める必要性をあまり感じていないため、流れ作業のように許可を出した。『狩人』が自力で狩りができなければ、犬の餌以下の存在価値になってしまうからだ。

 

 四人には武器の向き不向きこそあれ、ヤーナム初日の自分より狩りの腕は良かった。「狩人様の仔……のようなものだからでしょうか」との推測は人形の談であり、検証しようもないことだが、これにも妙な説得力があり狩人は頷くしかなかった。

 これまで夢に囚われた狩人がそうであったように、彼らもまた聖杯の中で死を繰り返し、着々と経験を積んでいた。

 

「あの小さい狩人様は……すこし狩人様と似ているように、見えます」

 

「そうかな。そうかも」

 

 先ほど狩人の回転ノコギリを借りに来た小さな背中を思う。

 人形の言う小さい狩人様の一人、黒い短髪で銀色の瞳をした少年だ。たしかに彼の容貌は──父と称してよいか不思議な関係であるが──狩人と似た色味をしている。もっとも、狩人の瞳はもう少し色味が濃い、銀灰であった。

 

「狩人様が若い時分は、あのようなお姿であったかと思うと……すこしだけ不思議な気持ちになります」

 

「……そうか」

 

 あの四人が来てから、人形はすこし楽しそうである。そのことを付き合いの長い狩人は知っていた。

 子供の変化は、目まぐるしい。例えそれが血を血で殺す、狩りの成果であってもだ。

 彼らに対し未だに距離感が分からないことだけが、この時分の狩人の悩みであった。特に少女のひとりには、どうしていいか分からない。

 

 軽い足音が聞こえた。狩人は、すぐさま書を離し、椅子から立ち上がると身を隠せる場所──即ち、人形の背後に避難した。

 扉を軽く開け放ち現れたのは、首元できっちり切り揃えられた金色の髪。藍の瞳の少女だ。ヤーナムでは生息しがたい美しい少女が工房に戻ってきた。

 

「まぁ、お父様。そんなところにお隠れになって」

 

 おかしそうにクスクスと小さく、しかし、控えめに笑う。

 彼女に対して、狩人はお手上げである。

 

 少女という姿が、そもそもいけない。

 終ぞ救えず、非業の死を遂げたガスコイン神父の娘を思い出させるし、リボンを欲し、けれど死んでしまった自称少女の姉のことも思い出してしまう。

 

 少女という存在は、狩人の後悔を形にして「これだよ!」と見せつけるようなものなのだ。

 対峙する少女は、果たして、便宜上の父に浮かぶ痛みに気付いていそうではあったが、それを斟酌するほど哀れみ深くないようだった。

 

「今度、お父様も一緒に聖杯に行きましょう? それとも、もう飽きてしまわれたの?」

 

「そういうワケじゃあないが……」

 

 今でもボーッとしていると死にかける。鐘を鳴らす女と無尽蔵に涌く赤い蜘蛛は、頼むから死んでくれ。

 これは上位者になっても変わらない摂理だ。最高品質の血晶石を狙う夢も諦めていない。目指せ「物理の攻撃力を高める+27.2%」はスローガンとしてこの小屋の壁に張り付けてある。だが、死ぬのはもちろん痛くて嫌なことである。

 

「では、ぜひ一緒に。どこだって構いませんからね」

 

「相棒は、持たない主義なんだ……当分は」

 

「そう。では、お気が変わりましたらいつでも。お父様」

 

 彼女には何度か誘われているが、狩人からの返答は同じだ。ちくりと罪悪感が胸を刺す。……ひょっとしたら、この罪悪感に耐えきれずにいつか頷くことを期待しているのかもしれない。彼女は、誘う口調こそ強いものの、引き下がり方は妙にあっさりとしている。

 

「小さな狩人様、お茶を淹れましょうか」

 

「ありがとう。人形ちゃん」

 

「私は、お世話をするものですから。さ、こちらに」

 

 ふたりは連れ添って工房の奥に行ってしまった。

 狩人にとって、これはちょっぴりショックな光景だ。

 

「人形ちゃん……俺、赤ちゃんなのに……」

 

 幼年期の上位者は拗ねながら、紅茶を飲んだ。

 まだ温かいのが幸いだ。冷たかったら泣きそうになっている。

 このような日常を送っていた狩人は、ある日、気付いた。

 

(……彼らの身体は、人間にかなり近いのか)

 

 すこしずつ彼らと言葉を交わすなかで、狩りや生活の常識は知っていることもあれば、欠けたり、抜けていることもあった。

 普通の人間と同じように学び、記憶する必要がある生き物らしい。まるでかつての自分だ。

 だからこそ、目が離せず、つい余計な口まで挟みたくなるのかもしれない。

 

「諸君、ヤーナムで生きてみる気は無いか?」

 

 四人が揃った。

 ささやかな茶を配し、卓を囲んだ際に狩人は提案した。

 彼の憂慮のなかには「このままでは夢と聖杯の往来を繰り返す悲しい生き物ができてしまうな」という素朴な危機感も多分に含まれていた。

 

 けれど。

 もしも、彼らが人間であることを選ぶならば、ヤーナムの街で生きるのもいいだろう。

 いまや揺籃の街だとしても、そこには人間の営みと文化がある。

 

 狩人には、小さな願いがあった。

 幼年期を終えた遙かな未来、ヤーナムの痕跡を誰かが覚えていることは、好ましいことであると信じたい。ヤーナムにあったものは、ただ罪と呪いだけではない。そこでの営みは、未来に遺す価値があるのだとも思いたい。

 そこにいた人々の姿と記憶を覚えておくことは、有意である。──そう断じてしまいたいのだ。

 

 狩人の言葉に、四人は顔を合わせることなく、選択した。




【解説】
思いがけない仔の誕生に驚愕の狩人ですが、人形ちゃんが喜んでいるので「まぁ……いいか……こういうこともあるだろうし……」とスルーすることに決めました。しかし、幼い自分を見ているようで、なけなしの人間性が疼きが止まらない。そのため、面倒を見ることに決めました。「さすが俺」とでも言うべきか。根が良いうえに物分かりの良い仔達なので、手放しで感心しています。
それはそれとして、たとえ自分から枝分かれした存在であれ、小さな女の子は苦手です。ヤーナム市街に暮らしているガスコイン神父の娘さんのことは、とても遠くから遠眼鏡を使って観察しています。──現在のヤーナムでは、成長はしないのだけど。

【あとがき】
ブラボと言ったら聖杯ダンジョンという風潮もゲームやりこみ界隈には、あるそうですね。ブラボに触れたことない方のためにちょっと砕いた言い方をすると『強い装備が獲得できる小ダンジョン』という括りになるでしょうか。やらなくともストーリーには(あまり)関わってきません。そのため、エンディング後でもダンジョンの進行状態が引き継がれます。しかし、周回を繰り返す度に敵は強化されていきます。その時、初めて聖杯に取り組むか……となるワケですね。
ちょっとブラボのことを聞きかじった人ならば「地底人」という名称を聞いたことがあるでしょうか。その名称は、聖杯の場所が地下遺跡であることから、そのように言われるようになった経緯があるようです。地理を考えれば言い得て妙──むしろ「それしかないな!」というネーミングですね。
ちなみに最高品質を狙う場合、確率上、分母が千万、億になる場合があります。ブラボ界隈において「地底人」とは、確率に負けない勇士の意もあるようです。
筆者は、ライトな地底人なので『妙な地形探索隊』を名乗るのがせいぜいですね。ロ、ロマ……? あンの蜘蛛のことは知りません……知りませんったら知りませんよ。な、何のことか……。
さて、プロローグが終了しました。以降は、主に学校(ハリポタ)、休暇中(ヤーナム)として展開していきます。


聖杯ダンジョンは、地底人の巣窟です
狩人なら知っているでしょう、ヤーナムの地下深くに広がる神の墓地
かつてダンジョンを踏破した何名かが、その墓地からある聖杯文字を持ちかえり
そして9kv8xiyiと、「物理の攻撃力を高める+27.2%」物理血晶石の救いが生まれたのです。──貴既狂の地底人


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小さな狩人達

小さな狩人
夢の主たる狩人から枝分かれした可能性の一端。
同性は、長い夜でありえた可能性。
異性は、長い夜ですり減らし、失った可能性。
血が定まらぬうちは、何者でもあり、何者でも無いのだろう。未だ、赤子であるゆえに。



 靴底が舗装されたコンクリートに擦れると耳障りな高音を出した。それは、周囲の雑踏に比べればとても小さい音だろう。しかし、神経質らしい少年は、音の度に顔をしかめている。

『連盟』に名を連ねる最も新しき狩人、クルックスは靴を脱ごうかどうか思案する程度には、精神的に追い込まれつつあった。それは隣を歩く医療協会の孤児、テルミには見られないものだ。

 

「順調、順調、実に好ましいくらいに順調ね」

 

 彼女の金色の髪は、光を受けると天使の輪のように光沢が現れた。

 便宜上の父親の形質を無視した艶やかな髪である。

 何となく悔しい気持ちが起きて、クルックスは自分の短い黒髪に触れた。

 

「……そうか」

 

「もう。そんなに疲れた顔しないで、クルックス。やっぱりアレなの。禁域の森に出入りしていると陰険になるのかしら」

 

「長はどちらかと言えば前向きな性格だから、関係無いだろう。俺が格別に陰気なだけだろうさ」

 

 あら。そう。

 彼女は話題を振っておきながら、興味無さそうに言って辺りを見回した。

 

「旅が概ね順調なのは俺が地図を読めるからだ。方向音痴め。ほら、次を左だ。チャリング・クロス通りの看板があるだろう」

 

「ああ、そうね。でも、わたし、こんなに方向音痴だとは思わなかったわ。すこし落ち込んでいるもの」

 

 クルックスは看板や標識を地図と照合し、目印にチェックを入れた。あとは道なりに進むだけだ。ようやく辿りつけそうだ。早めの安堵を覚える。

 地図を外套の衣嚢に納めていると指先に硬い感触を覚えた。

 引き出してみるとそれは真紅の蝋で封をされていた手紙だった。

『ホグワーツ魔法魔術学校』

 その文字を見つつ、テルミに歩幅を合わせた。

 

「孤児院では迷ったりしないのか? 東を西と間違えるのは、かなり『おかしい』と思うぞ」

 

「孤児院では、これまで集団行動だったから気付かなかったのね」

 

「……? 聖杯探索時はどうしていたのだ」

 

「壁伝いに探索するのよ。右回りの探索で打ち漏らしも取りこぼしも無いように。ええ、なぁに、貴公、違うの?」

 

 クスクスと彼女はおかしそうに笑う。

 その笑みの意図が分からず、クルックスは肩をすくめて手紙を元の通りポケットへ突っ込んだ。

 

「探索だ何だの前に、獣を全て狩ってからでないと落ち着かない。虫も潰さなければならない」

 

「そうなのね。気持ちは分かるわ」

 

「…………」

 

 彼女とは気持ちが分かり合えている気分にはなれず、クルックスはそれきり黙った。

 数日慣れない野宿をしたせいで身体が怠いのも、彼女に愛想を尽かすひとつの理由になるだろう。

 

「漏れ鍋、漏れ鍋、漏れ鍋? きっと、ここよ。クルックス」

 

 クルックスに先んじて歩を進めていたテルミが、とある一軒の店の前で脚を止め、振り返った。

 

「……趣がある店だな」

 

 ここはロンドン。チャリング・クロス通り。

 本屋とレコード屋に挟まれた『漏れ鍋』というパブは、小さく薄汚れた店構えだった。しかし、成果は得た。ようやく魔法の手がかりまで辿りつき、クルックスは一安心の息を吐いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

『魔法』という言葉は、クルックスはじめ同じ枝葉の存在である三人にとっても、身に覚えも無ければ聞いた覚えも無いものだった。

 ヤーナムにおける近似の概念は『神秘』であろうか。あるいは『奇跡』とも言えそうだ。

 鐘の鳴る音に導かれ、緊急的に招集された四人に告げられたのは、そのような知らない言葉と父の提案だった。

 

「外の世界で学ぶ機会を得た。俺は悪くない話だと思っている。ヤーナムを知る時間は多くあるが、外の世界を見聞する機会は、恐らく少ない。自分の可能性を広げると思って行ってみてはどうか」

 

 他の三人の思惑は分からないが、クルックスは彼の言葉通りにしてみようと思った。

 連盟の活動を中断せねばならないことは同士に対して申し訳ないと思うが、同じ一年を二〇〇年以上繰り返している現在のヤーナムにおいて七年は誤差だった。

 連盟の長、ヴァルトールに「留学で街を離れる」と相談したところ彼は、あのバケツを逆さまにしたような鉄兜のなかでたいそう驚いた風であったが、結局、快く送り出すことを約束してくれた。「若人よ、存分に学び、励みたまえよ」とは彼の助言である。クルックスにとって父の意向は何より大事だが、それはそれとして、一生この人についていこうと決心した。──連盟よ、永遠なれ。

 

「クルックス、やり遂げた顔している場合ではないわ。さぁ、行きましょう」

 

「すこし感傷に浸る時間も必要だろう。……ん?」

 

 陽が遮られたので顔を上げる。

 立っていたのは大男だった。

 すわ獣狩りの下男か。──思わず外套下の短銃に手が伸びかけるが、テルミが「きゃっ」と女の子らしい声を上げて飛びついてくる。クルックスの不審な動きを隠した。

 

「おっと。すまんな。お前さん達もパブに用か? ん?」

 

 髭もじゃの大男の隣には、クルックスやテルミと同じ年頃の少年がいた。よれよれのシャツが印象的だ。牛乳瓶の底のような丸い眼鏡の奥で緑色の瞳がくりくりと輝いている。

 彼は、ひょっとすると『魔法使い』だろうか。

 

 テルミがさりげなくクルックスの手を握り、別の手には彼女宛に来たホグワーツの手紙を見せた。

 

「そうなの。大きな御仁。扉の前で失礼しましたわ。けれど、お許しになって? 初めてだから、わたし達、すこし困ってしまったの。今日のうちに教科書を買わなくてはならないのに」

 

 クルックスが話す内容を考えているうちに、テルミは歌うように謝罪と控えめなお願いをした。トドメのように、いかにも「困った」と彼女は小さく息を吐いた。

 大男は、合点がいったように頷き、笑った。

 

「ちょうどええ。ダイアゴン横丁まで案内してやる。ああ、この子は同じだ。今年一年生になるぞ」

 

 大男に促されて、やせぎすの少年が自己紹介をした。

 

「は、はじめまして、僕、ハリー・ポッター」

 

「ご機嫌よう。わたしはテルミ。テルミ・コーラス=Bよ」

 

「クルックスだ。よろしく」

 

 握手を交わす。クルックスの予想に反して力の弱い握手だった。

 彼は知らなかったのだが、遺志の力を筋力に多く割り振っていた結果、彼の握力は年齢の平均的な数値を超越していた。

 クルックスは、そっと彼の手を握り返したが、ハリー・ポッターと名乗った少年は思いがけない力に驚いたようだった。

 

「よーし、ダイアゴン横丁はすぐそこだ。ついてこい」

 

「はーい。あ、大きな御仁、あなたのお名前を聞いていないわ。教えてくださる?」

 

「おれはハグリッドだ。ホグワーツの門番と森の管理人をしてる」

 

「そうなのね」

 

 テルミはさっそく情報収集のため話しかけている。

 歩き出した二人に倣うように、クルックスも歩き出した。

 

「ねぇ、君はどこから来たの?」

 

 ハリーが声をかけてきた。

 沈黙が耐え難いのかも知れない。

 クルックスは困った。四人のなかで底辺を争う程度に愛想が良くないという自覚がある。できるだけ、気の利く話をしたいところだ。

 

「俺は遠くの田舎だ。ヤーナムという……聞いたことはあるか?」

 

「ごめん。聞いたことないや」

 

「そうか。とんでもなく田舎なんだ」

 

 クルックスは、外の世界で調べたいことがあった。

 ヤーナムのことである。

 小さい街であるが、血の医療が発達した為、不治の病でも治せるという噂が伝播し、人を呼び寄せる性質を持つ街だったという。ならば、歴史の教科書の中や記録にヤーナムの痕跡があるのではないか。そして、それはどのように歴史から消えていったのだろうか。そこに父の影はあるのだろうか。

 果たして。年若い彼は知らないようだ。

 気長に行こうとクルックスは、肩の力を抜いた。

 

「気にしないでくれ。小さな街だ。……ポッターの家も魔法使いなのだな」

 

 漏れ鍋が視認できる時点で、この会話の意味とは皆無に等しいものであったが、互いに互いの状況を確認するために、この問いは必要だった。

 

「うん。そうなんだ。君もそう?」

 

「そのようだ。知ったのは、つい最近のことだが……」

 

「ああ、僕もなんだ。つい数日前、誕生日だったんだけど、その時に知ったんだ。ほんと、驚いてしまって……」

 

 漏れ鍋の扉をくぐると紫煙と人のざわめきが四人を迎え入れた。

 店主らしい男が、ハグリッドに声をかける。彼は、笑い混じりに何かの申し出を断った。

 外を歩いている人々とは風俗が違うらしい。クルックスは長いローブを見て思った。

 客を見ていたクルックスは、ふと、店内が静まりかえっているのに気付いた。

 

「お会いできて光栄です。ハリー・ポッター!」

 

 老若男女に握手を求められたハリーポッターは、目をぱちくりさせながら、ひとまず握手を受け入れ間もなくもみくちゃにされた。

 

 クルックスは一歩離れたところで周囲の様子を眺めていた。テルミはハグリッドのそばをするりと離れて店主の男へ情報収集へ行った。

 流石は「医療協会に巣食う権謀術策の蜘蛛網を泳ぎ切るのだって、わたしには容易いことですもの」と父に向かい、豪語しただけのことはある。どうにも人間関係の構築に物怖じしてしまうクルックスは、彼女の情報を待つことにする。ハリーといえば、何とか群衆と別れたらしい。ハグリッドに呼ばれ、カウンター近くにいるターバンを巻いた男性の前で対峙していた。

 ハグリッドが、その男性を「クィレル教授」と呼んだ。

 

「お会いできて、ど、どんなに、うれしいか……」

 

 ハリーに向かい、言葉に反して顔は引き攣った笑みを浮かべていた。

 クィレル。

 その名前には、聞き覚えがある。

 ハリーが彼に握手を断られるの様子を、ちらりと見る。その後、彼と目が合った。

 

「クィレル先生。遙か暗澹のヤーナムよりまかり越しました。月の香りの狩人が仔、クルックス・ハントです」

 

「同じく、テルミ・コーラス=B。お父様に代わり、あらためてお礼を申し上げますわ」

 

 二人は、狩人の礼をした。

 顔を上げた時、クィレルは話の半分も聞き取れていない顔をしていた。

 

「あ、ああ、君達が、そう。父君は? お、お変わりなく?」

 

「今日も元気に獣を殺し、虫を殺しております」

 

 あるいは聖杯を──。

 言葉を続けようとした彼は、テルミに脇を小突かれた。どうやら喋りすぎらしい。もう黙っていようとクルックスは思った。

 

「親元を離れるのは、すこしだけ心細いと感じておりましたが、先生が見守ってくださるのであれば、わたし達も心安らぐというもの。学校でも、よろしくお願いいたしますわ」

 

 テルミはそう言って、天使のような笑みを浮かべた。

 対するクィレルは、おどおどしつつも何度かコクコクと頷いた。

 礼儀上の挨拶はこの程度でいいだろう。軽く会釈をしてクィレルのそばを辞した。

 

 四人は店の奥に通され、中庭に来ていた。小さな箱庭である。崩れかけのレンガが壁に張り付いていた。ここで何をするつもりだろうか。クルックスは、ハグリッドの手にする傘を見ていた。

 

「お前さん達、クィレル教授と知り合いだったのか」

 

「ええ。あの御方が、入学までの段取りを付けてくださったの。それとお父様のご友人……にあたるのかしら」

 

「あの先生、今は闇に対する防衛術の先生だが、前はマグル学の教授でな。マグルのことには詳しい。分からないことがあれば、聞いてみるとええ」

 

 ハグリッドが話しながら、レンガを小突いた。するとレンガがひとりでに動き出し、アーチを作る。

 その奥には、もうひとつの世界が広がっていた。見渡す限りの人ごみががやがやとやかましい。

 

「……これは驚いたな」

 

「……あまり驚いて無さそうね」

 

「……獣がいないからな」

 

 二人は会話を打ち切った。

 テルミがハグリッドの腕をポンポンと叩いた。

 

「ありがとう、ミスター。最後に、もうひとつだけ伺いたいのだけど、換金所ってどちらにあるかしら?」

 

「グリンゴッツ魔法銀行だな。この先、あの真っ白な建物が見えるか? あれだ」

 

「ありがとう、親切な守人さん。ポッターさん、また学校でお会いしましょう」

 

「うん。またね」

 

 クルックスとテルミは手を振ると二人と別れた。

 

「さっきのハリー・ポッターという彼は何なのだ?」

 

「『生き残った男の子』なのだと店主のトムさんはおっしゃっていました。何でも『名前を呼んではいけないあの人』から生き残った、とね」

 

 どちらも聞き覚えの無いものだ。

 恐らく魔法界の常識なのだろう。

 それにしてもだ。

 

「たいそうな少年には、とても見えなかったがな」

 

 彼は、普通だ。

 クルックスをはじめ他のきょうだい達が、ついぞ持ちうる機会を得なかった普通だ。特別な『いわれ』には、所以となる異常性や特殊性があるものだ。ヤーナムではそれが普通であったので、クルックスは調子が狂う。常識の違いに内心穏やかではいられない。

 

「そうね。ええ。でも、だから相応しいのでは? 殺人か事故か分かりませんけれど『生き残った』がちょうどいい」

 

「……貴公が言うのなら、そうなのだろう」

 

「もう。クルックスは頭が固い! でもね。二つ名って格好良いでしょう?」

 

「はぁ? よく分からんな……」

 

「わたし、お父様の"月の香りの狩人"って格好良いと思っているの!」

 

 夢見る少女の瞳は、天上に銀灰の星を見ていた。

 クルックスを含む四人の──便宜上、きょうだい達──の中で、最も狩人のことを好いているのは、このテルミだった。だからこそ狩人は彼女に対し、しばしばたじろいでいる。

 狩人に幸いなことがあるとすれば、彼女がヤーナムにおいて過ごしている医療協会孤児院では『滅多に』死ぬようなことが無いため──実験という親元の里子に行って帰ってこない者はいるが──狩人の夢で出会うことが最も少ない、という点であろうか。

 

 テルミがクルックスを放っておかない理由の多くは、父と似通った姿にあると彼は確信している。……まぁ、悪い気はしないので今後も放っておく。

 

「では俺たちは、月の香りの狩人の仔、というワケだが」

 

「『の』が多い。少なくとも四人が該当するような通り名は嫌」

 

 いよいよもって分からない。唇を尖らせた同胞を見やり、宙を眺めては嘆息する。お手上げだ。

 しかし。

 

「貴公がよく話している黄衣の狩人の御方、静かな古狩人の御方、素敵な呼び名だと思うわ」

 

「理解した。やめてくれ。恥ずかしい」

 

 もうテルミの前で二度とスローイングナイフの練習はすまい。クルックスは心に誓った。

 

「急ぐぞ。はぐれるな」

 

「はぐれたら鐘を鳴らせばいいでしょう」

 

「貴公よりネフとセラフィが駆けつける方が速い。……予定の日数を超過している。首を長くして待っているだろうさ」

 

「そうね。結局、地図上でヤーナムがどこにあるか分からなかったものね。わたしも歩き疲れたわ」

 

 二人は純白な大理石の建造物を目指し、進んでいた。

 金銭的な余裕があれば、漏れ鍋あるいは他の飲食店で休むという手もあっただろう。しかし、彼らにはその余裕が無かった。

 

「ともかく、換金しなければ何も買えないからな」

 

 二人が先行隊として派遣された、大きな理由であった。

 

 父たる狩人は、ヤーナムで出回っている通貨が外の世界において遙か昔に存在した通貨ということを理解していた。

 狩人が狩人になった頃、ヤーナムは既に滅亡へ秒読みという時分であったらしいので彼自身、上位者になるまで『まともな』ヤーナムの経済活動を知らなかったのだと聞かされた。その結果。

 

『恐らく金銀なら価値の変動はあっても、まとまった金になるんじゃないか? ……たぶん、たぶんな』

 

 四人には、狩人が道すがら集めに集め山となった"輝く硬貨"の大袋数十個が譲渡されたのである。

 そのうちのいくつかの袋を外套に詰め込み──狩人の服はいずれも物理法則を歪めた収納力を発揮した──ここに至る。

 

「もし、これが石ころみたいな値を付けられたらどうなるんだろうな……」

 

「貴公は連盟の狩人になって、わたしは医療協会の孤児になるわね!」

 

「それは勘弁してくれ」

 

 長に「留学します」と言った手前、出戻るのはせめて学期が終わってからにしたい。

 白亜の大理石で構築されたグリンゴッツ魔法銀行が見えてきた。

 出入り口と覚しき門の付近に、小さい生き物がいる。幼児程度の身長だが、金と紅に彩られた豪奢な服を着ている。しかし、顔は老人のように厳めしい。人間には見えないが、人間の形をしている。正体不明の生き物を目撃してしまった二人は顔を見合わせた。

 

「あら、失敗したわね、クルックス」

 

「そのようだ、テルミ」

 

「もうすこしちゃんと話を聞いておけばよかったわ。『銀行には誰がいますか?』ってね」

 

 少々、はしゃぎすぎてしまったかも。

 テルミは反省を胸に秘め、正体不明の生物へ話かけた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ネフライト。

 

 幼年期の狩人から分離した存在のひとつに、その名が付けられた。

 四人の命名には、狩人の託す願いと祈り、何より重大な意味が──特にない。

 というのも、クィレルから「生徒の氏名、綴りを教えてください」と求められた際に、狩人は彼らに名付けていないことを思い出し、その場で慌てて考えたものだからだ。

 

 彼らの名の元となったのは、狩人がどこかで聞いたことがあるような人名であったのだが、彼の名前だけは、その出典が鉱物であることを記憶していた。

 

 それは、かつて治療に使われていた閃石の学名であり、ビルゲンワースの書架で読みあさっていた時に出てきたものだ。

 鉱物もそれが使われたという病巣自体も血の医療とはまったく関係が無いものだ。だが『石』を治療に使うという考え方が妙に印象に残った。それは狩人には縁遠い、東洋の神秘を感じさせるものであったからだ。

 

 石言葉は『知恵』と『平穏』らしい。

 名付けの影響があるのか無いのか。狩人にはさっぱり分からないが、四人のなかで最も大人しく、論理の明晰さを好む性質を持つ。すなわち、メンシスの檻が似合う仔であった。

 

「ネフ、休憩だ」

 

 輝く硬貨は金銀が入り交じって保管されていた。そのため、狩人の夢では数日前から分別作業が行われている。忙しくしている四仔の一、セラフィを除く、居残組がその任にあたっていた。すなわち狩人と人形、そしてネフライトであった。

 

 しかし、数は膨大であった。

 それもそのはず。落ちている硬貨を拾い続け、二〇〇年以上。賢人の至言は事実であった。塵も積もれば山となったのだ。

 

 狩人は、目がチカチカしてきて金と銀の区別がつかなくなってきた。

 ひとつ手を叩き、人形にお茶を頼んだ。

 

「お父様」

 

「……ん。うん?」

 

 狩人という名で呼ばれすぎたせいだろう。『お父様』と呼ばれると半拍反応が遅れてしまう。

 顔を向けるとネフライトは一枚の硬貨を持ち上げた。

 

「これは、私の見たうちで最も古い硬貨です」

 

「そうか。そうか……」

 

 会話はそこで終わってしまった。

 彼については、テルミとはまた違う方向で接し方が分からない。狩人はネフライトの着眼点がどこにあるのか、測りかねる時がある。

 

 人形がテーブルにお茶を置いた。

 礼を言った狩人の耳に、聞き慣れた音が届いた。

 

「鐘の音……」

 

『共鳴する小さな鐘』と呼ばれる物の音だった。地下遺跡で発見された、その古い小さな鐘は、音色は次元を跨ぐという。実際、狩人も獣狩りの夜の最中は何度かお世話になったことがある。理屈は分からないが、便利な物である。

 しかし、現在のヤーナムにおいては次元を超えることは能わず。ここ最近の用途と言えば、いくつかの鐘をビルゲンワースの学徒達に渡し、有事において狩人を呼び出すために使っている程度だった。

 ヤーナムの外に行くにあたり、連絡手段として持たせた物は正しく機能しているようだ。

 

「クルックスとテルミか。うまくロンドンに着いたらしい」

 

 ロンドン。

 狩人の記憶において、聞いたことが朧げにある気がする地名である。そして、ヤーナムの来訪者から聞いたことによると、現代では文化が進んだ都会だという。

 

 ヤーナムからの距離がどれほどか分からなかったが、彼らは数日で辿りついたらしい。戻ってきたら、ヤーナムが世界地図のどこにあるか聞こう。

 狩人は、好奇心に胸がざわついた。

 これまでは獣を狩りつつ来訪者を待ちわびるばかりの日々だった──それに不満も無かった──だが、この情報収集の方法は、能動的だ。狩りと同じ気配を感じずにはいられない。

 

「…………」

 

 我知らず、笑ってしまっていたらしい。

 ネフライトがジッと見つめていた。

 ごまかすように手を振った。

 

「気にするな。飴チャンよろしく」

 

「なに味ですか」

 

「任せる」

 

「いってらっしゃいませ、小さな狩人様」

 

 人形に見送られてネフライトは鐘を鳴らし、姿を消した。

 

「……人形ちゃん。それ、俺が飲んでもいいか」

 

「ええ、狩人様。小さい狩人様にはお戻りになってから温かいものを」

 

 人形がネフライトの席に置いたカップを受け取った。

 水も茶葉もいつの間にか、この夢の中に現れるものだったが無駄にはしたくない。

 

「ありがとう。……俺、赤ちゃんだしいっぱい食べないとな」

 

「…………」

 

「何か言って」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「こうも明るい街があるとは。ヤーナムの憂鬱が克明であるな」

 

 美しい銀色の髪を結った少女には、やはりというべきか、便宜上父親の形質は受け継がれなかったようだ。むしろ、彼女の横顔には人形の面影があるような、ないような。

 

「眩しい……」

 

 もうひとり。ヤーナムで、ごくありふれている暗い顔をした少年が現れる。ゆるい癖のついた栗色の髪の向こうで緑色の瞳が細められた。

 人が少なく、建物にほとんどの光が遮られた路地裏でさえ、ヤーナムに慣れきった少年少女達には刺激が強かった。

 

「貴公が現れる度に、檻を被っていないか心配してしまう。貴公も落葉など握っていなくて助かる。仕込み杖さえここでは過剰な武装であるようだから……全員、先触れも禁止だからな」

 

 鐘を懐にしまいながら現れたふたりの『きょうだい』達にクルックスは注意した。

 

「貴公は道ばたで祈ることはしないだろう。同じように、みだりに交信するものではない」

 

 ネフライトにまるで獣でも見るような目で見つめられて、クルックスは言葉が過ぎたことを知った。

 

「? ただの人間ならば素手で十分だろう?」

 

「うーん。俺は、正直なところネフより貴公が一番不安だよ、セラフィ。俺の知るところ、カインハーストは正しく貴族然として優美な存在であるはずだが」

 

 父は、カインハーストの女王アンナリーゼの覚えめでたく、また父もアンナリーゼに並々ならない恩義を覚えているようである──ということをクルックスは知っていた。アンナリーゼの肉塊をしばらく持ち歩いた程度には、という余計なことまで思い出してしまったが。

 

「なるほどな……」

 

 セラフィ・ナイト。彼女は神妙な顔で頷く。

 狩人によってカインハーストに送られた少女は、恐らく、誰よりも過酷な環境下にいる。そのため常識から最も遠いのが彼女だった。

 

「セラフィ! 我らきょうだいで最もお父様に近しい貴女! 何も知らないことを悲しむことは無いわ。これから何もかもを知っていけば良いのだから! ねえ、クルックス?」

 

「……あぁ、そうだな。とりあえず喫茶に行こう」

 

 クルックスは、四人の中で最も生真面目な性質を持つ。そして、父の目を最初に真っ直ぐに見つめたことから四人の代表者的位置にいる。そんな彼が突然言いだしたことに他の三人──普段、他者に興味が無いというネフライトさえも──見つめた。

 

「俺は、まぁ、テルミもだが……歩き通しで疲れている。とても疲れている。何でもいいから何か食べたい。買い物にどれだけ時間がかかるかも分からないのだ。それくらいいいだろう」

 

 反対意見は無かった。

 テルミも「素敵ね、そうしましょう。ね?」と他の二人をうかがう。やはり反論は無い。だが、確認のようにネフライトが口を開いた。

 

「構わないが、なぜ食べた後に呼ばなかったのか」

 

「そんなこと決まっているだろう。外の世界で食事したくはないか? 俺はしたいぞ。是非にな」

 

 食べ盛りの少年少女にとってヤーナムの食文化は貧相なものだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「あら、すごくふわふわよ。獣の毛皮を綺麗に洗って干して丁寧になめしたものより、もっとふわふわよ」

 

 やや興奮気味にパンを囓っていたクルックスは、獣のことを思い出してしまい、せっかく湧いてきた食欲を減退させた。クルックスより神経質なネフライトは「獣のことを言うのは止めろ」という目でテルミを睨んでいる。

 気にしていないのは、紅茶を飲んでいるセラフィだけだった。

 

「ひとつ、ふたつ、お父様に持って行くといい。きっと、驚かれるぞ」

 

「そうね。いい考えだと思うわ。ああ、そうだ。粉があれば人形ちゃんに作ってもらうことも、いつかできるかしら?」

 

「恐らくできるだろう。器用な人形さんだ。夢の中には火もあることだ」

 

 四人は、生まれて初めて食卓でまともな食事をしていた。

 ダイアゴン横丁にあるフロッグという名の喫茶店で、四人分のサラダとパンとスープ、そして紅茶を頼む。出来はたいそう良かった。

 

「ぐぅ、うまい」

 

 クルックスは、夢中になって食べた。

 皿はもう空に近い。

 

「美味しいな。食べたことがないものばかりだ。これは肉か? 魚か? ふむ。分からないが、美味いな」

 

 実のところ、四人は互いについて知らない。

 生まれたばかりの頃は自他の差など無かったし、聖杯内では個人探索が主であった。ヤーナムの街に降り立ってからは、自分の適性──そして父にして創造主たる狩人の直感と気分でそれぞれ組織や団体に放り込まれた。

 

 狩人ならば、何か知っているのかも知れないが……いいや。クルックスは、考えを改めた。一応、対外的には『連盟の新人の狩人』という体で通っている彼が、さまざまな派閥に顔を出しているという風聞があったらよろしくないだろう。

 放り込まれた先の三人の仔の実体は、各人しか知らないことなのだ。

 だが、放り込まれた先がどのような組織であるか、ということだけは狩人から聞いている。

 

「メンシス学派では何を食べているんだ。全然、食べるイメージが無いのだが」

 

 ネフライトは、ヤーナムを統括する医療教会――上位学派を二分する一翼、隠し街ヤハグルを拠点とするメンシス学派に放られたと聞く。

 地理的に閉鎖的なヤーナムにおいて隠し街と呼称されるほどだ。物理的にも閉鎖されている彼の地は、医療教会の祈りと実験の場になっているらしい。

 彼は、スープの中身をじっくりと観察しながら言った。

 

「ミコラーシュ主宰が考案した栄養ドリンク。一日一本十秒で全ての栄養が賄える優れものだ」

 

「あ、味気が無い……。学者先生はやはり違うな」

 

「我々は時間が惜しい。食事は必要最低限で十分らしい」

 

「そういうものか」

 

 クルックスは呟いた。

 ネフライトもスープの中の具材を検分しながら、訊ねた。

 

「貴公は、連盟の狩人なのだろう?」

 

「そうだ。現在の長はヴァルトール殿。……まぁ、理解者も協賛者も連盟員自体も少ない団体ではあるが、お父様も所属している」

 

「共に狩りには?」

 

「最初の数回だけ、共にしたことがあるが……遠くから見ているだけだった。何でも近くにいると反射的に撃ってしまいそうになるから、と。今はすっかり別行動だ。担当範囲は隣だが……でも、お父様の相棒の件は諦めていない」

 

「お父様は、おひとりが良いのだろう。今さら変えることは難しいのでは?」

 

 ネフライトは、狩人の相棒の件をすっかり諦めているようだった。そもそも目指してさえいないのかもしれない。当然、目指しているものだと思っていたクルックスにとっては驚きだった。

 

「それでも羨ましがっていた。俺は応えたい」

 

「……そういうものか。ところでお父様は連盟の皆さんに迷惑をかけていないのか? ほら、何と言うか、奔放だろう、あの御方は」

 

「長の目の前で虫を潰して『外でやれ!』と言われたくらいかな……。掃除するのは俺だったが。連盟の皆さんは、俺に狩りの話をよくしてくださる。たぶん、お父様の時もそうだったのだろう。互助の精神は、とてもありがたいことだよ」

 

 互助の精神。

 自分で言ったことに思うことがあり、クルックスはスープをわきに除けた。

 

「諸賢、本題としたいことがある。よろしいか?」

 

「なぁに。あらたまって」

 

 他の三人がテーブルにスプーンを置いたところで彼は話し始めた。

 

「皆の目的を確認しておきたい。俺であれば『お父様の相棒になる』ということが今のところ目標である、というように。目標が被っているのならば、各自修正が必要だろう。その確認の機会を持ちたい。レディ・ファーストの精神でいこう。テルミからだ」

 

 テルミは美しい金色の髪を揺らして笑った。

 

「わたしは、お父様の望むようによ。ずっとね。あの御方が、心慰められるものに殉ずるでしょう。そして、いつかお眠りになる時、歌うべき子守歌を……あら、あらあら、みんな違うのかしら?」

 

「い、いや、違わない……違わないが……」

 

 クルックスは、テルミから夢見がちな返答以外が戻ってくることをまったく想定してなかった。

 テルミは、ヤーナムに殉じたいのだと言う。つまり、父が『なぜか』手放しがたく思っているヤーナムそのものに。

 戸惑うクルックスの思考はネフライトが引き継いだ。

 

「ちゃんと考えていたので我らは感心しているのだ。聖歌隊直々の教育で頭が他界しているのではないかと心配していたので」

 

「まぁ。失礼なことを言うものでは無いわ。新興カルトの頭やわらか学生さん。気が変わった。言ってもいいわ。言うといいわ。言いなさいよ。神秘99のガラシャを教えてあげましょう」

 

 ふたりの間に、穏やかざる空気が一瞬だけ流れた。

 ネフライトが属するメンシス学派とテルミが属する聖歌隊は、同じ医療教会の上位学派でありながら本質は水と油である。どちらも医療教会の構成から飛び出していかない以上は、互いに『医療教会の威厳は守らなければならない』という最低限の了解はある。むしろ、この類の意見の一致のみしかない、という表現がやや適切かもしれない。仲が悪いので人や知識の往来は無い。互いに間者を放ち、隙あらば毒メスを差し入れようとしている現状を皮肉以外では、交流と呼ばないだろう。

 

「我々が争うことは全くの無益だ。すでに結論が出ているハズだ。挑発は、後ほど夢でやるがいい」

 

 クルックスは、二人を制した。

 テルミは小さく鼻を鳴らした。

 

「さて、貴公の目標は何なのかしら。せめて有意であってほしいものね」

 

 ネフライトは、温度の無い瞳で虚空を見ていた。

 

「私は、お父様が人間に幻滅した時の次善策を見出したい。全ての人に瞳を。余さず配るのだ。獣性を克服するために、あの瞳を。白痴の蒙さえ啓く瞳。お父様と話す私達でさえ思考の次元が低すぎる。正しく上位者であるお父様が常に『わざわざ』思考の次元を下げているのは、由々しき事態である」

 

「…………」

 

「ヒャッハ、アッハハハ」

 

 テルミは引きつけのような笑いを上げたが、それだけだった。ネフライトもわざわざ対応することが無かったのでその後の会話は成立しなかった。クルックスもまた応答を控えた。「がんばれよ」しか言えない低啓蒙な自分を恥じたのだ。

 

 最後はセラフィだ。

 三人の話を静かに聞いていた彼女が、何を話すのか興味があった。

 そして。

 

「我が同胞達、お父様を越える気概を持つ者はいないのか」

 

 四人の囲むテーブルに刺々しい沈黙が落ちた。

 構わずにセラフィは述べた。

 

「僕が目指すのは、それだ。お父様は現在に於いて最も完成された狩人である。我々は、その後継としてより上位的狩人にならなくてはならない。僕はそう考えている」

 

「あら。お父様を殺してしまうの? セラフィ?」

 

 感情をくすぐる不思議な声音でテルミが問いかける。

 一方で彼女に特別な感情は無い。ただの純粋な疑問のようだった。

 

「必須ではない。僕は、優れた狩人になりたいだけだ。……そうすればお父様の見ているものが分かるだろう」

 

 見ているもの、とは。

 言葉無き彼らの疑問に、セラフィは応えた。

 

「『なぜヤーナムの時を進めないのか』。実に気になる謎だろう?」

 

「それには……ワケがあるのだろう。……探るべきでは無い」

 

 消極的なクルックスの言葉に、セラフィは初めて笑った。

 

「そうとも。『秘密は甘いもの』だからな。──けれど、我々にはその答えこそが必要なのだ。それが、それだけが、我々が今後生きていくために最も重要な指標になるだろう。……同率で僕が大切にしているのは、女王様。カインハーストの女王、アンナリーゼ様だ。出自のみを頼りに赤子を抱かんとする姿勢。それは歴史と共にある素晴らしい行いであると思う。過去に殉ずるだけではない。未来への確かな萌芽でもあるからだ。お父様が女王様を気に懸けておいでなのは、あるいは、そのような理由かもしれないな」

 

「ああ、そうだろうな。後悔の種にもなるだろうが」

 

 ネフライトが毒々しく言う『後悔の種』というものにクルックスは心当たりが無かった。

 けれど彼は苦々しい顔をしている。父たる狩人とクルックス達にも影響が及ぶ種であると危惧しているようだった。

 たしなめるようにテルミが、クスクスと笑った。

 

「ネフ、そんなこと決めつけるべきではないわ。だってセラフィの目標は素晴らしいと思うの。そう。いつだって手段は多い方がいいものね。それに、わたし達は四人もいるのだし、たった三人くらい失敗しても一つの成功を遂げることが、きっとお父様のためにもなるわ」

 

「『たった』ではないと思うが。とはいえ、お父様の意向が正確につかめない状況で力になりたいと言っても困らせるだけ、というのは……想像に容易いものではある。ふむ。よって、諸賢、我々は各自の目標と共に『ヤーナム停滞問題』について互助協定を結ぶことを血に誓ってよろしいか。異議ある者、挙手せよ」

 

 手は挙がらなかった。

 クルックスは、手際よく議論をまとめた。

 

「よろしい。協力と貢献に期待する。さぁ、茶を飲んで買い物に戻ろう。……正直、錫製の鍋を四つも買わなきゃならないのは少々無駄に思えるが」

 

 ネフライトが書面をテーブルに放った。

 

「買い物の順番を決めなくてはなるまいよ。まずはローブの寸法を測りにいくだろう。それから二人ずつに別れて四人分の買い物をする、と。順路はこうだ」

 

「ならセラフィ、一緒に行きましょう! この街は、何だかよく分からない面白いものがたくさんあるの。お父様には、とびっきり難解な本も買っていきたいし」

 

「予算の許す限り付き合おう。テルミ。最もお父様から遠く、けれど愛すべき我が同胞よ」

 

「ありがとう! それじゃあ、クルックスとネフでペアね」

 

「構わないが、杖も個人で選ぶ必要があるようだ。他の買い物が終わったら合流だ。行くぞ」

 

 四人は席を立つ。

 カップは、ちょうど空になった。

 




【解説】
狩人が、四人を「ヘイ、パス!」した団体組織は以下の通り。
 [連盟]クルックス・ハント
 [医療教会(メンシス学派)]ネフライト・メンシス
 [医療教会(聖歌隊-孤児院)]テルミ・コーラス=B
 [カインハースト]セラフィ・ナイト
彼らの充実した生活は、後日、別の話が適切であるため、ちょっと後回しになります。
夢と現実の狩人に最も接点があるのは、クルックスのみです。もっとも、狩人は日中にヤーナムの外からの来訪者を探すため、あちこちをテクテク歩いているので四六時中、一緒でもない様子ですが。

【あとがき】
非魔法族出身の子供たちの買い物について先生同伴する、という記事を何かで読んだのですが、その書籍でのソースが見つからなかったのですよね。何かご情報ある方は教えてくださると幸いです。本話を書き直すことはしないつもりなのですが、その辺りの設定がどの本にあるのか知りたいのです。
本作は、登場人物達の都合上、群青劇の様相となってしまう予定なのですが、主観はクルックスとして書いて参りたいと思います。よろしくお願いします。
ところで、自狩人語りは、とても楽しいものです。皆さんもレッツ・トライ!


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ダイアゴン横丁

クルックス・ハントの手記
──正しき夜明けをもたらすために。
──狩りを尊び、それに殉じます。
──静かな夜を招くために。
──獣を殺し、虫を潰します。



『マダムマルキンの洋装店──普段着から式服まで』

 

 しばらく店先で様子を見ていたが、クルックス等と同じ年頃の子供が父母と共に出入りしている。ここならばよいだろう、と判断し四人は扉を開けた。

 

「こんにちはー。マダム? わたし達、ホグワーツの制服を揃えにきたの」

 

 物怖じしないテルミが先陣を切る。

 後ろで「はぁ」と溜め息を吐くと隣のネフライトが「何だ」という視線をよこした。

 

「よくも見知らぬ人に声をかける気になるものだと、感心しているんだよ」

 

「適性の問題だろう。私も、得意なワケでは無い」

 

 ただの適性の問題と切り捨てることは、残念ながらクルックスにはできそうにない。狩人としての意識が、妙なところで引っかかってしまうのだ。『目の前の人物が、次の夜には獣となっているかもしれない』。疑心暗鬼になりかねないヤーナムの狩人を蝕む思考は、クルックスの内側にも燻っている。

 

「気に病まないことだ。ここはどうやら獣の病とは、縁遠いところらしい」

 

 例えば。

 ヤーナムの町において無機物に染みついた獣除けの香は、平時においてもそよぐ風によって嗅ぐことができるのだが、それはこの通りの空気中に存在しない。

 

「あれを見ろ。血の医療の入り込める隙間など無いのだろうさ」

 

 ネフライトが、マルキン洋装店の硝子窓越しに向かいの店を指した。

 店先に釣り下げられた何らかの生物の干物。コウモリの翼。何となくヘムウィックの墓地街を想起させるのだが、気のせいだろう。あれは何だとクルックスは問う。

 

「『薬問屋』らしいな」

 

 医療とは、教会から施されるものである。専門的で特別な知識が必要だ。

 クルックスの、ひいてはヤーナムの常識ではそうだ。

 それが通りの向こうの景色を見て見事木っ端微塵に吹き飛んだので、クルックスはヘラリと笑った。

 

「ふっくくく、そうか……」

 

 ヤーナムにおいて、権威とは医療だ。つまり医療を施す者、医療教会こそが権威である。

 それがここでは金を積めばなせる『手段』に成り下がっているらしい。いいや、まだ分からない。かつてはそうであったのかもしれない。失墜したのかも知れない。歴史を辿ってみるのも楽しみになってきた。

 まあ、医療教会──ヤーナム外の世界にも『当然』あるだろうと思っていた医療者達──の影響に怯えながら学生生活を送ることを想像していたが、存外快適な生活を送れそうである。

 

「しかし貴公、あまり面白い話ではないのでは?」

 

 ネフライトが籍を置くメンシス学派は、医療教会内を二分する勢力の一翼だ。

 彼らは腐っても見習いだろうと『医療者』だ。彼は業を軽んじられたように思えたかも知れない。

 だが。

 

「我らメンシス学派における『医療』は既に肉体の治癒を重んじてはいない。私には関係の無いことだ。大抵の病ならば、輸血液をぶち込んでおけばいい」

 

「ふむ……たしかに……」

 

 父の狩人が懇意にしているギルバート氏も重病らしいが、輸血液で命を繋いでいる。

 どうにも『医療』という言葉の定義からしてヤーナムは、余所と違う気がする。

 恐らくヤーナム外のここでは、旧市街を焼いた例を皮肉以外で『医療』とは呼ぶまい。

 

「クルックス、ネフ。こっちよ」

 

「ああ」

 

 店の奥から現れたマダム・マルキンは藤色の服を着た愛想の良い魔女だった。

 人の好い笑顔には裏があることが常であるヤーナムのせいで警戒してしまったクルックスであったが、次第に警戒を解いた。自分に言い聞かせるように「普通に……普通に……」と唱える。

 

「さあ、坊ちゃん達。こちらですよ。まずは丈を合わせますからね」

 

「よろしくお願いします」

 

 そうして店の奥に通された。

 踏台に立つと、もう一人の魔女が長い黒いローブをピンで止めて丈を測りはじめた。

 

「…………」

 

 長い袖だ。クルックスはすこしだけ不満である。

 長柄の武器を持つとき、袖が引っかかって動きに支障が出そうだ。

 

「学徒の正装とすこし似ていると思わないか」

 

「むっ……」

 

 クルックスの様子を見ていたネフライトが、わずかに興味を惹かれたように目を瞬かせた。

 

「似ているな……。だが、フードが余計だ。檻を被るときに引っかかって破きそうだ」

 

「被るのか。アレを。え。ホグワーツで?」

 

 ネフライトが愛用している"メンシスの檻"は、その名の通り、ちょうど頭を納めることができる被る六角柱の檻である。

 多少の冗談と捉えていたクルックスは、決して笑わないネフライトの目を見て考えを改めた。

 

「ミコラーシュ主宰が考案した交信装置だぞ。合理的過ぎてあの形以外に存在しない代物だ。同じ思考に到達した者がいれば何もかもが、あの形になるハズなのだ。そもそも私があの檻を外すことが遺憾である」

 

「……そ、そう……。俺は啓蒙が低いから、分からん」

 

「さ、坊ちゃん。終わりましたよ」

 

 クルックスのローブを測り終えると次は、ネフライトだった。

 

「お願いします。ただ、すこし袖を短くすることはできますか」

 

「できますけどね、成長するんだから、すこし長めのほうがいいと思うけどね」

 

「……あぁ。そうですか。では、そのようにお願いします。きっと。そうですからね」

 

 人間なのだから、成長するのは当然のことだ。

 だが、ネフライトはそのことを忘れていて、いま思い出した。クルックスも同じだ。忘れていた。

 不可解そうな顔をするマダムだけが、取り残されていた。

 

 店の奥へもうひとり、通されてきた男の子がいた。顎の尖った男の子だ。

 クルックスはもう採寸が終わっているので、彼の邪魔をしないようにスッと体をよけた。 

 

「やあ、君もホグワーツかい?」

 

 男の子が声をかけてきた。

 クルックスは『余計なことを言わないように』と自戒しつつ、答えた。

 

「ああ。今は同郷の彼を待っている」

 

「同郷? どこの出身なんだい?」

 

「谷間にある田舎だよ。君もホグワーツなのかい?」

 

 クルックスは、質問をかわすよりも質問したほうが相手の口を塞げることに気付いた。

 

「ああ、そうさ。僕の父は隣で教科書を買っているし、母はどこかでその先で杖を見ている」

 

 彼は、気取った話し方をする。

 ネフライトの後頭部で跳ねている癖毛を見て鼻で笑った。クルックスから見ても少々手入れ不良に見える髪なので仕方が無い。

 

「君は? マグル出身なのかい?」

 

「身内に魔法使いはいる」

 

 これは、きょうだい達のことを指す。上位者を魔法使いの分類に加えるのは、乱暴な区分だと思ったからだ。

 

「ああそう。僕はこれから二人を引っ張って競技用の箒を見に行くんだ。一年生が自分の箒を持っちゃいけないなんて、理由が分からないね。父を脅して一本買わせて、こっそり持ち込んでやるさ」

 

「理不尽なしきたりはよくあるものだ。俺なら、規則が分かるまで大人しくしているがね。そのうち穴も見つかるだろう」

 

 口元でフフと笑うと彼は、眉を上げて「へえ」と言った。

 

「そうだ。君はどの寮に入るのかもう知っているの?」

 

「いいや」

 

 クルックスは、まったく穏やかでは無かった。

 寮とは何か。さっぱり分からない。とはいえ黙って首を横に振るだけでは話が進まないだろう。

 

「だが、落ち着いて勉強できるところがいい」

 

「それじゃあレイブンクローかな。ハッフルパフかもしれないが」

 

「どこでもうまくやっていきたいものだ。君は、分かっているのかい?」

 

「ああ」

 

 彼の気取った口ぶりのなかに、わずかに高揚が見えた。

 

「まあ、実際に行ってみないとわからないけどさ。僕はスリザリンに決まっているよ。僕の家族はみんなそうだったんだから。僕ならハッフルパフなんかに入れられたら即、退学するよ」

 

「そうか。それは」

 

 クルックスは『短い付き合いだったな』と言いかけたが、ネフライトの一瞥でやめた。

 どうやら我知らず、ヤーナムでよく聞くことができる『あからさまな悪態』が最後の一言に無いと会話としての物足りなさを感じているらしい。テルミのように言葉の扱いが上手ければよいのに。

 

「君のお父さんとお母さんは?」

 

「お父様は忙しい身の上だ。母はいない。……俺達は、あれこれ知らないことばかりで大変だよ。いろいろと知っている君が羨ましい」

 

 彼はフンと鼻を鳴らした。多少、愉悦の色があった。

 ご機嫌取りにしてはそこそこ良い言葉を選べたようだ。

 

「はい、坊ちゃん。終わりましたよ」

 

 ネフライトが礼を言い、踏台から降りた。

 

「じゃ、ホグワーツでまた会おう。たぶんね」

 

「ああ、その時はよろしく頼むよ」

 

 一足先に背を向けたネフライトが、彼にそうされたように鼻で笑った。

 俗世を達観し、自らを客観するための檻を被る彼にとって、あの少年は『俗世に塗れきった』ように見えているのだろう。

 それを非難することはない。クルックスとて同じだ。忌まわしき虫がその身のうちに見えるまでは、誰であれそこそこの付き合いをしてもよいと思うのだ。

 

 女性組の採寸には時間がかかるようなので、二人は先に買い物へ出かけた。彼女達には、後で杖を買う際に合流できるだろう。

 すれ違いに先ほど別れた少年、ハリー・ポッターを見かけたが、彼はひとりきりで緊張しているようだ。こちらに気付かなかったのでクルックスも気付かないふりをした。

 

 そして、ふたりは買い出しに出発した。

 それにしても買い物の内容は不可解だ。

 例えば。

 

「次は羊皮紙と羽ペンだ。文房具は良い。いくらあっても困ることが無い」

 

「しかし、羊皮紙とは? 紙ではダメなのか?」

 

「恐らく神秘、いや、魔法的な問題なのだろう」

 

「なるほど」

 

 あるいは。

 

「星を観測するのに望遠鏡が必要なのか」

 

「遠眼鏡とは違うのか。どこが」

 

 ぼやきながら購入し、いくつかは驚異的な収納力を納める異邦のズボンに納めた。

 杖を売っている店へ訪れる。今度は、女性組のほうが早かった。

 

「あら、来たわ。お姉様」

 

「あ? 『お姉様』?」

 

 クルックスは首を傾げ、ネフライトは「ヒャッヒャハ」と小さく笑った。

 

「何がおかしいか」

 

 お姉様と呼ばれたセラフィがネフライトを見つめた。

 

「いや、別に。そうだ、そういえば、我々の間に上下関係など無かったと思ってな」

 

 父たる狩人のなかでは順番が決まっていそうなものだったが、クルックスは黙っていた。

 テルミが、可笑しそうに笑った。

 

「『ぶっきらぼうな女の子』より『活発な妹に任せている姉』の方がいろいろとやりやすいの。ねぇ、お姉様?」

 

「貴公がそう言うならばそうなのだろう。任せる。妹よ」

 

「よぅし、妹様、頑張っちゃうよー!」

 

 お互いに姉妹役を楽しんでいるようなのでクルックスはこれで良いと思う。

 ただネフライトだけは呆れたように彼らを見やり、声をかけてきた。

 

「私達もやるか。愛しのお兄様よ」

 

「よせ、ネフ。舌を噛ませるぞ。語り明かすことも無いがな。……ただ。まあまあ。問題がなければ、それだけで問題は無いのだ。仲が良いのは、良いことだろう。ほら、次だ。杖とはここの店だろう」

 

 クルックスは、扉を指した。剥がれかかった金色の文字には『オリバンダーの店──紀元前三八二年創業 高級杖メーカー』と書いてあった。埃っぽいショーウィンドウには色あせた紫色のクッションに杖が一本だけ置いてある。

 

 扉をノックしてくぐる。

 店の奥でチリンチリンと涼やかな鈴の音が鳴った。

 もちろん、共鳴の鈴の音では無い。しかし、四人ともそろって扉の鈴を見上げたことに、誰からということもなく失笑してしまった。

 店長だろうか。老人がひとりの客と話している。客はハリー・ポッターだった。

 彼はちょうど杖を購入したところだったらしい。浮かない顔をしていたが、こちらを見ると覚えていてくれたのか顔を明るくした。

 

「あ、君は」

 

「また会ったな。どうやら縁があるようだ」

 

「ポッターさんは、どんな杖を買ったのかしら?」

 

 彼は、ネフライトとセラフィを見て驚いたようだったが、すぐに答えてくれた。

 

「『買った』というよりは、選ばれたみたい。ヒイラギ、不死鳥の尾羽……」

 

「不思議な組み合わせだな」

 

 そもそも、ヒイラギという樹木を知らないクルックスは「ふむふむ」と頷いた。

 

「君達も杖を買いに来たのだね? さあ、一番前の子から」

 

 店長は、ギャリック・オリバンダーと名乗った。

 オリバンダー老人は、銀色に光る目をさらに輝かせて手招いた。

 呼ばれたクルックスは、カウンターの前に立った。

 

「初めてのお客様だね? 私は自分の売った杖は全て覚えているが……どうかな、誰か家族で買っていった方はいるかね?」

 

「申し訳ない。お父様の記憶が定かでは無いため過去を遡ることができない。だが、恐らく一族では初めてだ」

 

「それは光栄なことだ。お名前は?」

 

「クルックス・ハントです」

 

 簡易な礼をする。

 オリバンダー老人が言った。

 

「ハントさん。我がオリバンダーの杖は、強力な魔力を持った物を芯に使っております。一角獣の毛、不死鳥の尾の羽根、ドラゴンの心臓の琴線。皆それぞれに違います」

 

「なるほど……」

 

「オリバンダーの杖にはひとつとして同じ杖は無い。もちろん、他の魔法使いの杖を使っても、決して自分の杖ほどには力を出せないワケだ」

 

 オリバンダーの巻き尺が肩から指先、手首から肘などを測った。

 さて、と彼は細長い箱を取り出した。

 

「トネリコとドラゴンの心臓の琴線、しなりやすい、二十八センチ」

 

「振ればよいのですか」

 

 言うなり、クルックスは振った。

 店の奥で何かが爆発する音がしたのでクルックスはそっと返却した。

 オリバンダー老は、すぐに別の箱を出した。

 

「スギとユニコーンの毛、やや曲げやすい、三十センチ」

 

「…………」

 

 クルックスは杖を振った。

 バン、という発砲音がどこからか響いた。

 何となく手に馴染むような感覚が無い。知らない狩人の銃を握った時のような違和感があり、再びクルックスは返却した。

 

 オリバンダー老が店の奥へ杖の箱を取り出しに行く間、クルックスはハグリッドを待っているらしいハリーを振り返った。

 

「ポッターさんもこんな具合だったのか?」

 

「……僕、もっと時間がかかったよ。でも、すごくいい杖が見つかるハズだ」

 

 オリバンダー老は戻ってきた。

 

「イトスギにユニコーンの毛、二十五センチ。良質でしなりがよい」

 

 手にした瞬間。この杖は、他の二本と違う気がした。

 クルックスは三度目の杖を振った。

 杖先に綺麗な花を咲かせたそれを見て、オリバンダー老は「ブラボー!」と叫んだ。

 

「素晴らしい。勇敢なお人柄にこそ寄り添う杖でしょう」

 

「勇敢……俺が……?」

 

 クルックスの杖は決まった。

 けれど、勇敢、という言葉はくすぐったい気持ちになる。

 自分は、父の狩人に及ばない。だから命を投げ捨てるような戦い方しか知らないだけだ。

 

 その後、すぐに店の外にハグリッドがやって来てハリーは去って行った。別れ際に「ホグワーツで会いましょうね」とテルミが声をかけた。

 

「次は、どなたが?」

 

「僕が行こう」

 

 セラフィが手を挙げた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ここは静かな狩人の夢。

 だが、耳の奥には未だ街の喧噪が残響のようにこもっている。

 ネフライトは再び狩人の夢のなかにいた。

 金貨と銀貨の選別作業のために戻ってきたのだが、持ち帰った修学道具一式に狩人は興味津々だった。

 

「これが杖?」

 

 ネフライトが購入した杖。

 黒檀にユニコーンの毛、三十一センチ。

 杖を狩人はくるくると手のなかで回して観察していた。

 

「木材の中に何かが入っていてそれが神秘を感じさせているのか。いいや、それだけではないのか……? しかし、ユニコーンと言ったか。冒涜的な気配がしないが、特別な生き物なのだろうな。ありがとう。また見せてくれ」

 

「はい、お父様。そして飴チャンです」

 

 ネフライトは頼まれていた飴を衣嚢から取り出した。

 

「『シャーベットレモンキャンディ』という物らしいです」

 

「レモン……?」

 

 硝子製のキャニスターに詰め込まれた紡錘形のキャンディをひとつ、つまんだ。口に含む。

 

「あ。酸っぱい。でも、ふむ。あ。甘い。なるほど。レモン……」

 

「狩人様、小さな狩人様、お茶です」

 

 工房の奥から人形が、木製のトレイに載せた茶を持ってきた。

 

「ん」

 

「ありがとう。人形ちゃん」

 

 狩人は、テーブルに積んだ本を一冊手に取った。

 それには『ホグワーツの歴史』と書いてある。

 

 ちらり。

 ネフライトは、興味深そうに前書きを読んでいる狩人に対し言葉を選んだ。しかし、とりとめのない質問をするようにさりげなく。

 

「お父様は、ヤーナムが外でどのように伝えられているか興味がありますか」

 

「うん? そうだな……。数は少ないが、来訪者は絶えることが無い。『どこかでどうにかヤーナムの存在が伝えられているのだろう』とは、思っている。……たしかに興味はあるが、別に調べてくれなんて思っていないぞ」

 

 君らの知見を広げるのが目的だからな、と狩人は言う。

 想定通りの言葉だった。

 

「では、自由研究ということであれば、調べても良いですか?」

 

「好きにしていい」

 

 彼の言葉は、放任ではなかった。

 調べても調べなくてもどちらでもよいことをネフライトに選択を委ねたのだ。

 狩人の本心はさておき、彼はそう受け取った。

 

「学業の片手間に分かる範囲で調べてみますね。……ああ、そうだ。最後にひとつ」

 

「何だ?」

 

 前書きを読み終えた狩人が、目次に進む合間に視線をよこした。

 銀灰の瞳に見つめられるとネフライトはなぜか身が竦んだ。

 

「お父様は、ヤーナムのことが外に知られることをどう思っているのですか?」

 

「……『どう』とは難しい質問だな。人は好奇心を抑えることができない。俺が言えることは『人間が啓蒙的神秘に触れることは、おおかた碌なことにならない』ということだけだ」

 

 狂気は伝染するし、獣が逃げれば獣喰らいと呼ばれた彼の二の舞が発生しかねない。

 そのように考える狩人は二〇〇年以上、獣をヤーナム外に逃がすことはなかった。

 

 さて。

 行動の結果を見れば、彼はヤーナムが外に露呈することを好ましいとは考えていないのだろう。

 結論づけたネフライトは、確認のために口を開いた。

 

「人付き合いをするなかで出身地のことは、必ず話題になります。カバーストーリーを用意するにも、私達は外のことを知らなすぎる」

 

 ヤーナムでは、最初に受ける輸血で記憶を無くすので過去のことなどほとんど問題にならない。だが、外では違う。『ホグワーツの歴史』の冒頭、四人の創始者の一人、サラザール・スリザリンは学徒に制限を課そうとしたことが述べられている。魔法族では、大多数ではないにしろ伝統的に血統を重視するらしいのだ。

 そのことを伝えると狩人はしばしの思案の末、対応方法を考えてくれた。

 

「谷間の田舎だと言っておけばいい。外からの人を拒む隠れた町だとな。魔法なんて神秘があるんだ。そういうこともあるだろう」

 

「分かりました。皆にもそう伝えます」

 

「臨機応変にな。……あぁ、そうだ。クルックスに会ったら『神秘に振れ』って言伝も頼む。あと、この本しばらく借りるぞ。出立前には返す」

 

 狩人は、飢えた顔をして本を読み始めた。時おり「脳が~震える~」と囁いていた。

 ネフライトは、頷き紅茶を飲みながら分別を続けていた金貨を積み上げた。

 

「聖杯のなかで血の遺志を稼いで使者の店で交換するのなら……ハッ……無限に生成できるのでは」

 

「需要と供給の関係が壊れます」

 

 分別した金貨を入れる袋を持ってきた人形が静かに声をかける。

 ネフライトは言う「たしかに」。

 それきり、狩人の夢は静まりかえった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナム市街。

 クルックスの夜は、長い。

 時間よりは感覚の話である。

 恐らくは、狩りに伴って集中力が緊張と弛緩を繰り返すせいだろう。

 

 辺りに獣の気配が無いことを確認して、ついさっき殺したばかりの罹患者の獣に寄った。

 携帯ランプの鈍いオレンジ色の光が、血だまりを照らした。

 

 にわかに水面が蠢いた。虫だ。

 忌まわしい淀みを象徴するそれは、まるで血から涌き出るようにして現れる。

 

「…………」

 

 肉では無い。血から現れるのだと気付いたのは、何度目の夜を越えてからだっただろう。

 連盟の古株に訊ねれば「そういうものだ」と言う。「なぜ」と問うことも憚れるほどの断言だった。

 いつか自分もそのように疑問に思ったことさえ忘れる時が来るだろうか。

 

「……っ……」

 

 虫を踏みつぶす。

 鳴き声も無く、潰れた。

 血除けマスクのなかで息を吐く。

 

「おい、気を抜くには早いぞ」

 

「お父様」

 

「…………」

 

 狩人は、あたりを見回すフリをした。

 

「あぁ、えーと、連盟の、あの、あれ、新人さん……」

 

 クルックスは「夢以外の場所ではお父様と呼ばないで欲しい」と言われたことを思い出し、訂正した。それにしてもハマらない呼び名だ。連盟に名を連ねた順で言えば、新人に相応しいのはクルックスなのだ。

 狩人は、肩をひょいと上げた。

 

「今の長に言わせれば、もう『連盟の幽霊と名乗れ』って許可くれるだろうさ」

 

「最近の会合に顔を出していないからですよ。気まずくなる前に行ったほうがいいと思いますけど」

 

「うーん……。しかしだな。私が優秀だと他の同士の活躍が霞むだろう」

 

 狩人は気が進まないようだ。

 しかも、本心であっても普通言わない冗談まで言っている。よほど気が進まないらしい。

 

「……いえ、俺が無理強いすることではありませんが」

 

 彼は、銃を握る左手をひらひらと揺らした。

 

「今日は天気がいい。ちょっと顔を出そうかと思っていたところだ。狩りが終わったら、長の意向をうかがいに行く」

 

「そうですか。……今夜はどこにいたんですか?」

 

「下水道」

 

「な、なんでそんなところに」

 

 今日の狩人は血除けマスク越しにでもハッキリと分かってしまう、血とは異なる不衛生な香りが立ち上っていた。てっきり、市街のどこかで獣を狩っているのかと思っていたクルックスは、すこし驚いた。

 船渠から数個の長梯子を降りてようやく辿り着けるあそこには、腐乱死体と遺跡鼠と人食い豚と烏しかいなかったはずだ。

 

「三日に一回くらい掃除したくなる。特に豚まわりはな」

 

「はあ」

 

 豚に関する狩人の並々ならない執着は、未だクルックスには理解ができていない。

 思いついたように彼はクルックスを振り返ると何かの束を渡した。

 

「好きに使っていいぞ」

 

「……? ああ、鼠の……」

 

 クルックスに渡されたのは、投擲用ナイフの原材料になる鼠の骨だった。

 それにしても多い。船渠の底に原材料の鼠はたくさんいるが、ナイフの使用に耐えうる物は少ない。狩人を見上げると彼はフイと視線を逸らした。

 

「数本なら外でもバレないだろう」

 

 外という言葉がホグワーツのことを指すのだと分かった。

 そして、クルックスはこれが餞別であることを知った。

 

「大切に使います」

 

「普通に使っていい。──そら、ぞろぞろ来た。やるぞ。くれぐれも私の前に立つな」

 

「──はいっ!」

 

 ヨセフカの診療所へ続く広場に、もつれるようにやってきた獣狩りの群集が各々の凶器を振り上げる。

 ふたりは、散弾銃を放った。

 赤い月が訪れる夜に限らず、ヤーナムの夜は長かった。




【解説】
とびっきり難解な本――数十年かかっても読破と理解をする根気のある狩人にとって、知識は新しい思索のアイディアになるかもしれないので概ね歓迎して受け入れられました。またビルゲンワースに残る学徒達は歓喜して睡眠を惜しんで議論し続けることになりました。いつものヤーナムですね。
クルックスにとって会話は、とても難しいことです。相互の意思疎通が必要な場に出て来てしまったため、きょうだい以外で彼が交わす会話のテンポは数拍遅れています。

【あとがき】
イギリス魔法界の最大の市場といっても過言ではないダイアゴン横丁。それ以外の市場については、あまり登場しませんね。せいぜいホグズミード村のあれこれが『アズカバンの囚人』から語られ始めるくらいでしょうか。ノクターン横丁についても原作での掘り下げが、一店舗くらいに限られるので、いろいろと想像の余地があるところです。


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1年生
出立と登城


ネフライト・メンシスの手記
──恩賜の瞳があれば、主宰の夢は叶うだろう。
──それでは、意味が無い。
──我らは我らの手段と思想により、階梯を昇らなければならない。



 ホグワーツへの出立の日は、あっという間に訪れた。

 狩人がそうであるようにクルックス達もまた『時間』の感覚が疎かった。そのため「早いな」と感じてしまったのかも知れない。

 間もなく四人で荷物を確認し、最後に人形がチェックリストを埋め終わる。

 

 くるくるとチェックリストの紙を巻き終えた後で、人形が四人の前に立った。

 

「狩人様から言付けがあります。……『血の加護がありますように』と」

 

 控えめで穏やかな表情を浮かべ、人形はこの場にいない狩人の言葉を告げた。

 

「行って参ります」

 

 異邦の狩装束のサスペンダーをしっかり肩にかけたクルックスは、代表して人形に応えた。この言葉は彼女から狩人に伝わることだろう。

 

「人形ちゃん、お父様のことよろしくねー」

 

 テルミが明るく言って手を振る。

 人形は同じように手を振り返した。

 

「その格好で行くのか」

 

 ネフライトがテルミを見た。

 彼女が着ているのは教会の狩装束だった。色は黒。即ち医療教会の中で予防を司る部のひとつ、下位の狩人が着るものだ。しかし、彼女は正式に洗礼を受けていないためであろう──教会所属の狩人達が着る装束との差異は、白と銀に輝く聖布が無いことだ。

 

「孤児院は決まった服が無いんですもの。けれど『所属の物を着ていくべきだ』と思って人形ちゃんに整えてもらったの。どう? 似合う?」

 

 いつもと同じ学徒の正装を着ているネフライトは「いや」と言葉を濁す。言いたかったことはそこではない。聖歌隊に憧れているらしい彼女が、堂々と聖歌隊の服を着て歩けるのは外の世界だけだ。だから、それでなくともよいのかと聞きたかったのだが、彼女と気の合わないネフライトは、もう話すのも面倒になってきたので会話を投げた。

 

「似合っているぞ。けれど、テルミ。聖歌隊の服でなくともいいのか?」

 

 セラフィがネフライトの言いたいことを全て言ってくれた。

 こういう時に同列の存在なのだ、と彼は同胞のことを思った。

 

「それはわたしがもうすこし大きくなってからね。ちゃんと聖歌隊に迎え入れられたら着ようかと」

 

「そうか。楽しみがあるのは良いことだ」

 

 セラフィは、騎士の装束──では無く都会の狩装束を着ていた。男性用のトップハットは置いていくことにした。「要るか?」と訊ねるようにハットをクルックスとネフライトに見せたが、彼らが固辞したからだ。

 

「人形ちゃん、お父様へ返しておいてほしい」

 

「はい」

 

「それとお父様に伝言を。──『女王様がお待ちである』と。くれぐれも伝えてほしい」

 

 クルックスは、その言葉に少々ドキリとした。

 連盟だけでは無い。こちらでも待ち人が発生していたようだ。人形は「分かりました」と言葉を受けた。

 

「それでは」

 

 四人は、外へ繋がる墓碑に手をかざした。

 間もなく、夢から醒めるようにその姿は揺らぎ、消えた。

 

「……狩人様、お見送りをしなくともよかったのですか?」

 

 そろそろ。

 聖杯の墓石の影から、這い出てきた狩人は曖昧な顔で笑うだけだった。

 けれど、その後、水盆の使者達へ何事か指示を出したことから彼なりに気にかけることはあったようだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 使者が灯に群がっている。

 

 今日は九月一日。

 イギリス。ロンドン、チャリング・クロス通りからキングス・クロス駅までは大人の脚で約四〇分であるという。十一時出発であるというホグワーツ特急に乗るため、念には念を押して三時間前に狩人の夢を出た四人は、当初の予定通り駅まで徒歩で移動していた。

 

 四人の中で最も目を引いてしまうのはセラフィだろう。端正な顔立ちもさることながら、彼女の感性は華美そして大袈裟な貴族趣味こそを尊しとするものだ。ゆえに。都会の狩装束は、騎士やカインの装束に比べれば地味だったが、そもそも比較対象が貴族が袖を通すに値する物である。平らかに言えば、都会装束さえ非魔法族の闊歩する平日の白日下では、風景に溶け込みきれていない。もっとハッキリ言えば目立つ。

 クルックスは、さっさと駅に行って目立たない日陰に座っていたかった。

 

「駅の……どこに行けばよいと書いているのか?」

 

「ちょっとまて。9と4分の3プラットホームと書いてある」

 

「そうか……ふむ」

 

 セラフィは納得した口ぶりであるが、どうにも釈然としない雰囲気を纏っている。

 何か気になることがあるのだろうか。クルックスが訊ねると彼女は「行き方の問題だ」と言った。

 

「入学案内が来た時、僕はそれだけで行けると思ったのだ」

 

「どういうこと?」

 

「『宛名の主だけが使うことの出来る許可証だ』と思ったということだ。わざわざこのような移動手段が必要だとは思っていなかった。『列車』というものは、恐らく相手を選ばない乗り物なのだろう?」

 

 彼女が『仕えている』カインハーストは、ヤーナムの中でも特異な──狩人曰く「ことさらに不思議な」──土地らしい。そのことをクルックスは、ぼんやりとした知識で知っていたが具体的に何がどのように不思議なのか聞いたことが無かった。

 彼女が感じた違和は、その土地で培われた体験から滲みだしたものなのだろう。

 

「……気になっていたのだが、セラフィはカインハーストで何をしているんだ?」

 

「騎士様と訓練している。僕は未だ勝ったことが無い」

 

「強いのか?」

 

 純粋な技量を競う場合、クルックスは『セラフィには勝てないかも』と思うことがある。内臓攻撃──通称、モツ抜き──で相手に与える損害が大きいのはセラフィの攻撃だ。

 力量を問う質問に、彼女は最も身近な存在を例に出して『騎士』の強さを示した。

 

「お父様が諍いを避ける程度には」

 

「……そんな人がいたとは」

 

 狩人は、基本的に敵に区別をしない。獣は勿論、動物も、狂人も、上位者も、血に酔った狩人も、等しく狩る。正しく狩人だ。手間を惜しまず、道具を惜しまず、労力を厭わない。そんな彼が避けるならば、その騎士は『真っ当に強い』という意味なのだろう。

 

「まぁ、今はそんなことはどうでもいい。問題は、ホグワーツだ。お父様の意向に逆らう気は無いが……無いがな……」

 

 セラフィは、わずかに顔をしかめた。

 彼女は『獲物を狩りに行くのに』という顔をしている。

 

「面白そうなところよね。みんな『ホグワーツの歴史』という本を見たかしら?」

 

「……さらりと」

 

 頷いたのはネフライトのみだった。セラフィなどは「そんな教本があったとは」とこぼす。前書きを読んだところで眠くなってしまったクルックスは、控えめな自己申告をした。テルミは楽しげに、その後の話を非魔法族に聞こえない程度の声でセラフィと話している。

 ようやく駅に着いたクルックスは、息を吐く。

 

「もう疲労困憊のようだ」

 

「獣を相手にしていた方がマシと思える状況があるなんて知らなかった。さて、次はホームだ」

 

「これだけ非魔法族とやらがいるのだ。恐らく、隠し道があるのだろう。同胞にしか分からないような」

 

「では頼むぞ、ネフ。恐らく、我々の中で最も啓蒙高いのが貴公だ」

 

「……アメンドーズではあるまいに」

 

 笑いながらクルックスは言う。

 四人が改札近くのベンチに腰かけて非魔法族のなかに『同胞』の姿を見出したのは、出発の一時間前だった。

 

「クルックス、見ろ」

 

 ネフライトが小突いた。

 非魔法族の旅客にまざり、革張りトランクを満載している親子連れがいる。しかもフクロウを籠に入れているのだ。

 

「あれは……」

 

 声をかけようと飛び出しかけたテルミを押さえる。

 

「な、なに? わたしが適任ではなくて?」

 

「今は違う。セラフィ、行ってくれ。理由は話せば分かる」

 

「承る」

 

 彼女の背中で結った銀髪が一房揺れた。

 驚いた顔をしたテルミとクルックスはネフライトと一緒に彼らの死角へ移動した。

 

「だいじょうぶ?」

 

「セラフィに行かせるなんて。絶対何かやらかすぞ」

 

 ネフライトは、確信を持って言い、嫌そうな顔をした。

 

「──アイツ、私達の中でも戦闘以外からっきしなんだから。しかも狩人狩りの方が上手いなんて狩人の風上にもおけないヤツだぞ」

 

「それでも、これでいい。魔法族は、血統すなわち伝統を重んじるらしいからな。格式張っていて困ることはないだろ」

 

 こそこそと話し、耳を澄ませる。

 やがて、「──お初にお目にかかります」とセラフィの透き通った声が聞こえた。

 

「私はカインハースト家の夜警。月の香りの狩人が仔の一、セラフィ・ナイトと申します。この先、特急までの道についてご教授いただきたく。貴公、名家の子息とお見受けいたした次第にて」

 

 形式張った言葉だが、滑らかに続ければ、妙な説得力を持つものだった。

 その説得力に触れた時、クルックスは父がカインハーストに跪いているのは、ひとえに自分が持ち得ることのない歴史に対してかもしれない、と思った。

 カインハーストで、いかな教育が行われているか。セラフィから窺える事情は少ないのだが、ひとまず彼らの足を止めることに成功し、なおかつ道を聞き出すことができた。

 

「ご教授、感謝いたします。良き学友と在れるよう尽力いたします。これにて失礼」

 

 クルックスは、掴んでいたテルミの腕を放した。ホッとしたように彼女も力を抜く。

 柱の陰に戻ってきたセラフィは、いつもの変わらない顔で「分かったぞ」と告げた。

 

「礼儀の分かる御仁で助かった」

 

「それで道は?」

 

 セラフィは、指し示す。

 プラットホーム上に「9」と「10」の案内板を下げた柱が立っていた。彼らが見ている間に、少年とその夫妻は柱の中に消えていった。

 

「隠し道はあれか」

 

「僕が行こう。テルミ、着いてこい」

 

「はぁい」

 

 セラフィはテルミを連れだって柱に歩いていく。

 ネフライトが「行こう」と視線を寄こす。

 

「すこし待ってくれ」

 

 クルックスは、手記を開き何事か書き付けるとそれを床に放った。地面に落ちる直前にわらわらと使者達が現れて千切れた手記をつかまえた。ネフライトが見れば『ローリングの時間だ』と書いてあった。彼は唇を歪めるだけの笑みを浮かべた。

 

「どうせ俺達以外は来ないだろう。目印にひとつ置いておいても悪くない」

 

「たしかに」

 

 二人は柱を越えた。

 ぶつかるか。暗いな。そう思ったのは一瞬で道は続いていた。

 雑多な音が聞こえて顔を上げた。

 

「これは……」

 

 紅色の蒸気機関車が、乗客でごった返すプラットホームに停車している。ホームの看板には『ホグワーツ行特急11時発』と書いてあった。

 

「ようやく着いた……これ非魔法族出身の魔法族は分からないんじゃないか」

 

 後続の邪魔にならないように柵から離れながらクルックスは独りごちた。

 三人は思い思いの方向を眺めている。ひとつ、手を打って彼らの注目を集めると彼は潤すように乾いた唇を舐めた。

 

「これからは単独行動だ。俺達が固まっていても仕方が無いからな。良い学びを。良い出会いを。月の香りの加護の下、祝福あらんことを」

 

 互いに祈りの言葉を告げ、彼らは散会した。

 機関車の煙がおしゃべりな人混みの中に漂っている。

 

(お父様は、このような風景があることを知っているのだろうか)

 

 まるで、正しく夢のなかの景色だった。色とりどりの猫が足下をすり抜けていく。昨日までヤーナムで獣を追っていたことが、まるで悪い夢の出来事に思える。

 ここにいる誰もが血に塗れ、罪に濡れた潮の香りを知らない。クルックスは、訪れたことの無い漁村の潮騒が聞こえていた。

 知っているワケがないのだ。彼らは、清潔な町で暮らしている。隣人が獣に変わっていく恐怖を、己が変態する恐慌を知らずに生きている。

 

 狩人がヤーナムに閉じこもり二〇〇年以上、その間に人は技術を発達させた。

 クルックスは、蒸気機関というものを初めて見たが四頭立ての馬車より速そうだと見ていた。

 

(──技術は、いずれ神秘に追いつくものだろうか)

 

 彼が外の世界に多少の興味を抱いたのは、クルックス達の存在がきっかけとはいえ、時間の問題だったのかもしれない。

 

「……お父様の苦悩が偲ばれる」

 

 クルックスは、人混みをかき分けて汽車に乗り込んだ。

 出発時間に余裕があるせいだろう。前方の車両内で区切られている室内──コンパートメントと言うらしい、席は空いていた。

 

「初めまして! わたしはテルミ・コーラス=B! 貴女のお名前は?」

 

 だが、テルミがいたので次の車両へ移動した。

 この辺がいいだろうかと二つ目の車両に移動すると席を探しているらしいセラフィとすれ違った。

 

「僕はこの辺りに座るが、貴公が座るというのなら譲る」

 

「俺はもうすこし車両を見て回りたい。好きに座るといい」

 

「そうさせてもらおうか……おや、ネフがいるか。では、向こうへ」

 

 セラフィは、右手をひらりと振った。

 その背を見送り、クルックスは後方車両までやってきた。人は、いよいよまばらだ。

 空いているコンパートメントに座る。時計を見れば、出発まであと四十五分もあった。

 

 感傷的な思考から逃げ出すようにクルックスは衣嚢から、作りかけの投げナイフと工作用のナイフを取り出した。手を動かしていれば気が紛れるのだ。

 投げナイフ。即ち、スローイングナイフだ。

 遺跡鼠の骨を投げやすいように加工して、最後にギザギザの刃を削る。

 狩人は、一般的に水銀と己の血を混ぜた銃弾を好むが、一方で投擲用の投げナイフを持つ者がいる。

 

 連盟の同士、ヘンリックは名手として狩人の間で知られている。「行動の起点にするのだ」と言葉少なに助言を授けてくれた古狩人は、その後、スローイングナイフが刺さった罹患者の獣に銃撃を喰らわせて足を寸断した。精密な投擲と射撃は職人技の域であった。凄い。スローイングナイフ、凄い。技術にも振らなきゃ。あと血質。以降、クルックスはスローイングナイフの訓練を始めた。命中率は五分五分。つまり、一か八か。実戦導入には程遠い。

 

 そんな経緯があり、スローイングナイフの工作はクルックスの数少ない趣味になった。ヘンリックがくれたナイフをお手本に削り続ける。狩人の夢のなかでは、たまにセラフィがどこかで手に入れた『匂い立つ血の酒』と交換する程度には形も整ってきた。

 カリカリ、ゴリゴリと削っているとコンパートメントを叩く小さな音があった。

 

「そこの席、空いているかしら?」

 

 顔を上げると栗色の髪がフサフサした女の子だった。

 テルミを思わせる、利発そうな子供の申し出を断るクルックスでは無く「ああ」と答えた。

 

「そう、ありがとう。……あなた、荷物は?」

 

 着替えが入っている手荷物を除き、彼女は荷物を持っていない。だが、対するクルックスは手ぶらだった。……もっともナイフは持っているが。

 

「収納しているだけだ。あるよ」

 

 彼女は「そう」と言う。けれど「どうやって?」と問いかけたくて仕方が無いのだろう。目がキラキラと輝いていた。

 

「私は、ハーマイオニー・グレンジャー。あなたは?」

 

「クルックス。クルックス・ハント。月の。む……」

 

 一瞬、セラフィの堂々とした名乗りを思い出し、そのように名乗ろうと思ったが、同じ二つ名で名乗る人物がふたりもいるのはセンスが問われる。今さらながらテルミの言い分が分かったような気がした。

 

「俺は、クルックスだ。そう呼んでくれ。君も一年生なのか?」

 

「ええ、そうよ。ねえ、あなたの家族は魔法族?」

 

「……。ああ、魔法族だな」

 

「そう。私の家族にも魔法族は誰もいないの。だから、手紙をもらった時、驚いたわ。でも、もちろん嬉しかったわ」

 

「…………」

 

 非魔法族が、魔法に触れることは嬉しいのか。

 クルックスは、上気しつつある彼女を見て意外に思った。生来、変化を求めない性質である彼にとって彼女の感性は不思議であった。父も「ただの人間が啓蒙的事実に近付くのは好ましくない」という旨のことをネフライトに言ったことがあるらしい。幸せにはならないだろうに、と思ってしまうのだ。

 

「最高の魔法学校だって聞いているし、教科書はもちろん、全部暗記したわ。それだけで足りるといいんだけど……。あなたは?」

 

「それは凄いな。俺は勉学があまり得意ではない……。君は、詳しいんだな」

 

「ええ。だって、知らないことばかり何ですもの。マグル生まれだからといって落第生になるのは悔しいわ」

 

「『ホグワーツの歴史』も全部読んだのか?」

 

 クルックスは指に積もった骨屑を一息に吹き飛ばした。

 

「もちろんよ。とても興味深い歴史だわ。ホグワーツの天井のことまで書いてあるんだから」

 

「あの中に『ビルゲンワース』という学舎の名前は出てきたか、覚えているか?」

 

「……ビルゲン、ワース? いいえ、無かったと思うわ。他の学校の話は、外国の紹介文がちょっと載っているだけよ」

 

「そうか。ありがとう」

 

「どうして、その学舎のことが気になるのかしら?」

 

「あぁ、近所の学校なのだ。もう何百年も前に廃校になっているが。その昔、魔法族と非魔法族の区別が緩やかだった頃ならば、文献が残っているのでは無いかと思ったが……図書館に期待するしかないかな」

 

「そうね。もし必要ならその時は手伝うわ」

 

「ありがとう。……互助の精神は大切だとも」

 

 独り言のようにつぶやく。

 クルックスが『留学』するにあたり、そのことを伝えたのは所属する連盟の長。そしてビルゲンワースを守る最後の学徒達だった。

「ビルゲンワース、最後の学徒。正気のまま襲ってくる数少ない狩人であり、生きている聖歌隊だった。最後の周回時に俺は彼女を殺さなかった。……本当のところ最初から殺す必要が無かったのかもしれない」──とは、狩人の言葉だ。

 

 そして、狩人がしばしば口にする『獣狩りの夜、最後の周回』時に何らかの条件を満たした狩人は、ヤーナムの現在の異常──『二〇〇年以上も同じ一年が繰り返されている』という状況を知っている。

 

 クルックスの把握する限り、旧市街のデュラとビルゲンワースにいる聖歌隊のユリエがそれに該当する。他にもいるのかもしれないが、クルックスは知らない。狩人がしばしば会っているのは、その二人だけのようだ。──連盟の長? 彼は狩人をして判断に迷うようだ。直接的な質問をはぐらかし続け、カマをかけてもいるらしいが、成果はさっぱりだと言う。煙にまき続けている長が凄いのか、狩人の問い方が拙いのかは分からない。そもそも狩人にとって長、ヴァルトールは相性が悪いようだった。

 話が逸れてしまった。

 ビルゲンワースを守るユリエに留学のことを告げると彼女は、目隠し帽の下で古びた書架を見たようだった。

 

『私の時代には、もうビルゲンワース自体は廃れていたけれど、かつては若人の学び舎として外との交流があったそうね。それこそ留学のような往来もあったと。そのような文献を見たことがあるわ』

『なかでも天文学。外では宇宙と天体に関することに傾注していたそう。そして神秘。あなたの話を聞く限り、恐らく「魔法」と同質のものなのでしょうね。もっとも「魔法」という言葉は秘されていたようだけど、それでも神秘の片鱗は窺えるものよ。……「宙は空にある」という気付きは我ら聖歌隊発だけれど、発想に至る苗床の一部は、あるいは外からもたらされていたものかもしれないわね』

 

 屋内で見えない空を仰ぐ美しい横顔を、クルックスはなぜか妙に印象的に覚えている。

 

「ところで。ねぇ、あなたのそれは何?」

 

「これはスローイングナイフだ。……ご、護身用のな」

 

 そういえば、ヤーナムの外の世界では仕込み杖さえ過剰装備だったことを思い出した。ナイフくらいは許されないだろうかと思っていたが、ハーマイオニーは、かなり怪訝な顔をしている。まさかナイフさえ過剰装備だと言うのだろうか。

 

「護身? 誰かに襲われるの?」

 

「君は襲われる心配が無いのか?」

 

「襲われるって誰に?」

 

「それは幸いなことだ」

 

 クルックスは、話をごまかすと作りかけのナイフをしまった。

 出発間近のコンパートメントが開いたからだ。

 丸顔の少年が所在なさげに立っていた。

 

「あ、あの、その席、まだ、空いているかな……」

 

「ええ。大丈夫よ。いいわよね?」

 

「ああ、どうぞ」

 

 丸顔の少年はネビルと言った。彼は座席に座るなり、落ち込んでいるようだった。

 あまりに暗い顔をしているのでハーマイオニーが、その理由を質した。

 

「んと……。トレバーって僕のヒキガエルがいなくなっちゃたんだ」

 

「ヒキガエル?」

 

 そういえば。クルックスは思い出す。

 ペットとして持ってくることを許されていた動物はフクロウだけではなかった。ヒキガエルもその対象だった。

 

「そのうち出てく──」

 

「それは大変ね。車両を探してみましょう」

 

 クルックスは「あ?」と口を開けたまま、彼女を見た。

 彼女は「困っている人を助けるのは当然でしょ」と彼を見返した。ただのカエルだろう。その言葉を呑み込むのには、苦労した。

 ようやく気分が落ち着いてきたクルックスは眠くなってきたのだ。昼夜逆転の生活を送っていた彼にとって、今の時刻は日中やるべきことを終えて眠りにつく時間でもあった。

 

「……俺はここにいる。駅までずいぶん歩いてきて疲れているんだ。荷物の見張りも必要だろう」

 

「あらそう。それじゃあ、これもお願い。三十分経ったらいったん戻るわ。ローブに着替えないといけないと思うし」

 

「了解した」

 

 クルックスはフードをかぶり、できる限り光を遮断すると目を閉じる。

 車内はくしゃくちゃと話す子供達の声を満載し、ゆるりとはしり出した。

 うっすら目を開けて窓の外を見る。

 あまりの速さに驚いた。同じ瞬間、同胞達も驚いている様子が目に浮かぶ。

 

(あぁ、そうか……人は、このような技術を)

 

 人の目は、馬より速く動くと景色が目に入らず、灰色に歪んで過ぎていく。お父様は知っているだろうか。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 眠っていた時間は二〇分にも満たない。

 けれど、頭の中がすっきりしていた。

 ハーマイオニーとネビルは、まだ戻ってきていない。手足を伸ばしてみると関節がポキポキと鳴った。クルックスは、目を擦りながら通路を歩く人々を見る。手にお菓子を持っていた。そのうちの何人かがホグワーツの制服を着ていたので到着前には着替える必要があることを思い出した。

 よっこいせ、と衣嚢から服を引き出してローブに着替える。やはり学徒の制服の方が動きやすい。しかも厚さでは聖歌隊の衣装を下回る防御力の低さだ。

 

「…………」

 

 しかし、ここには獣がいない。小さなナイフさえ過剰だ。

 クルックスはローブに納められた杖を意識した。

 

「…………」

 

 穏やかな暮らしがあり、困難にあっては手を差し伸べることを厭わない。

 ヤーナムからは失われていて久しい。いいや、そもそも、そのような光の時代があったのだろうか。そんな光景は連盟の同士の間でしか見たことがない。小さな小さな組織のなかでようやく見いだせる温かさが、ここではありふれたものとして施され、消費されている。

 

「……あなた、寝付きが悪かったの?」

 

「いや、別に、普通だが」

 

 クルックスは車窓から、コンパートメントに戻ってきたふたりに視線を戻した。

 どうして、そんなことを問われるのか心当たりが無い。

 

「何か?」

 

「何だか恐い顔をしていたわよ」

 

 ハーマイオニーは、不吉なものを見たように声をひそめた。隣でネビルも頷いた。

 

「……職業柄そうなるだけだ。気にしないでくれ」

 

「職業って? 何か仕事をしていたの?」

 

「お父様の手伝いで狩りをしていた。それ以外のことを、あまり、学んでこなかった。こうして席に座っているだけでも落ち着かないだけだ」

 

 生後半年にしては上手い言い訳だと思う。

 クルックスの脳裏で狩人が「俺も赤ちゃんだ!」と言ったが、忘れることにした。

 

「狩りって?」

 

「それは、ぁ──」

 

 前言撤回。失敗した。

 獣狩りのことまで話すハメになりそうだと思った矢先。

 天使が現れた。

 

「あら。ここにいたのね、クルックス」

 

 教会の予防狩人の黒服を着たままのテルミがやって来たのだ。

 汚れの無い真っ白な長手袋で菓子を抱えている。

 何をしに来たのかと見ていると、彼女はまずネビルとハーマイオニーを見つめて微笑んだ。

 

「みなさま、こんにちは。わたしはテルミ。テルミ・コーラス=Bよ。みなさまと同じ一年生なの。よろしくお願いいたしますね」

 

 クルックスは、顔を赤らめているネビル少年の臑を蹴り飛ばしたくなっている。テルミは、穏やかに微笑んだままだ。

 彼女の笑みに、騙されてはいけない。

 テルミ・コーラス=ビルゲンワース。

 四人の中で最も弱いが、彼女の想いは純粋だ。同じ枝葉の存在である彼らでさえ情という執着は、種類こそ違えど分散された。クルックスであれば連盟、ネフライトであればメンシス学派、セラフィであればカインハーストに。だが、テルミは違う。聖歌隊は『ただの』所属団体に過ぎず、彼女が真に跪くのは上位者のお父様だけだ。ゆえに苛烈でもある。お父様に懸ける情熱の粋は、決して他人に施されるものではない。

 よって。

 彼女が他人のために起こす行為に感情は何も無い。打算と利益追求の権化が、偶然人間の格好をして歩いているだけだ。聖歌隊の教育の賜物だろうか。高位の医療者が時おり見せる傲慢が、彼女にも見える時がある。

 誰の純情を弄ぼうと勝手だが、その誰かが少々可哀想だ。

 

「何をしに来た」

 

 さっさと出て行けとばかりに声を低める。しかし、彼女は頓着しなかった。

 

「お菓子を買いすぎてしまったの。だから、食べて欲しくって。次の食事まで時間があるようだし」

 

「……これは?」

 

「かぼちゃパイだそうよ。あとはチョコね」

 

 テルミは、クルックスに菓子を渡した。

 用件は本当にそれだけだったようだ。

 

「組分けの話を聞いたの。ええ。ええ。とても楽しそう。同じ寮になったら特によろしくお願いしますね」

 

 最後にそう言い残し、彼女は金色の髪を揺らして去って行った。

 

「──ところでカエルは見つかったのか?」

 

 テルミのことを話題にしたくないクルックスは、話題転換を試みた。

 けれど、空手で帰ってきた彼らを見れば気付くことだったことを思い出せば、途端に気まずくなった。彼らは肩をすくめた。

 

「あの子は?」

 

「親戚の、ようなものだ。……いろいろとキレているヤツだからな。万一、関わりになることがあったら気をつけたほうがいい」

 

「仲が悪いの?」

 

 おずおず。

 ネビルが初めてクルックスに向けて言葉をかけた。

 

「悪いワケではないが……突然優しくされると困るって感じだ。ロングボトムもグレンジャーも着替える前にパイを食べないか?」

 

「ちょっともらおうかな」

 

「私は歯磨き出来ない場所で食べないことにしているの」

 

「そうか。それは残念だ。……で、これはどうやって食べるんだ?」

 

 クルックスは包装を解き、ネビルと四苦八苦しながらパイを割き等分して食べた。

 その間、ハーマイオニーは『組分け』のことが気にかかるようだった。

 

「二人とも、どの寮に入りたい? 私、いろんな人に聞いて調べたけれど、グリフィンドールに入りたいわ。絶対一番いいみたい。ダンブルドアもそこ出身だって聞いたわ」

 

 寮制ということは、クルックスも知っている。けれど、具体的なイメージが無い。テルミの話に聞く聖歌隊直轄の孤児院のような有様を想像しているのだが、恐らく違うだろう。

 

「グリフィンドール、スリザリン、レイブンクロー、ハッフルパフ……四つだったか。何が違うのだろうな」

 

 ネビルが「あー」と小さな声を上げた。

 

「生徒に向いている寮に振り分けるんだよ……ってばあちゃんが言ってた。組分けの儀式があるんだって」

 

「さっきヒキガエルを探しながら、上級生に聞いてきたわ。グリフィンドールは勇猛果敢な騎士のような精神を重視するんだって」

 

 クルックスは「ほお」と相槌をうつ。ネビルはしょぼくれた顔をした。ひょっとしたら彼はそこに入りたかったのかも知れない。

 

「スリザリンは、一番所属する生徒数が少ないんだって。グリフィンドールの人は『アイツらは、狡猾で抜け目のないヤツらだ。何だってやるのさ』なんて言っていたけれど、つまり、とても頭の回転が良いってことよね。でも『ホグワーツの歴史』によれば、創始者はマグル生まれのことをあまり良く思っていなかったみたい」

 

「なるほど」

 

 ふむふむ。

 クルックスは、頷いた。

 

「レイブンクローは……グリフィンドール以外だったら次にここが良いと思うわ。一言でいえば……ガリ勉なのよ。発明家や研究者を多く輩出しているし、個性的な人が一番多い寮だって。話した人のなかだと、たしかに、ちょっと変わった人が多いかもね。もちろん、良い意味でね」

 

 説明された人柄でネフライトを思い浮かべたクルックスは、ここは彼に合っていそうだと思った。

 

「最後はハッフルパフね。他の三つの寮に比べて目立たないけれど、話してみると丁寧で優しい人が多かった気がするわ。特徴は、忍耐強くて、苦労を苦労と思わない大らかさみたいよ」

 

「いろいろな特色があるのだな。ふむ。グレンジャーはグリフィンドールかレイブンクロー……似合っていると思う。貴公は勤勉そうだからな」

 

「ありがとう。あなたは」

 

「俺はスリザリンだろう。話を聞く限り、性に合っていそうだ」

 

 とあるグリフィンドール生が話した内容には既知の情報と似ている。

「獣を殺せ。虫を殺せ。どんな手段を使っても殺せ。殺し尽くせ。狩りを成就させる、その日まで」──狩人の教導を思い出す。

 すると四人のうち三人は、スリザリンになってしまいそうだ。それは、面白みが無い。

 

 パイを食べ終えるとクルックスとネビルは、再びヒキガエル捜索に駆り出された。なぜクルックスも駆り出されたのか。ハーマイオニーが着替えるからである。「俺は気にしない」と言ったら「そういう問題じゃないよ」とネビルに言われてしまった。彼らの心の機微は、よく分からない。

 

「後ろの車両はほとんど見たから、前の車両だけ行こう」

 

「俺が話すのか? そうか……」

 

 先頭を歩かされていることでそのことに気付いたクルックスは「まぁ、いいか」と思う。獣に立ち向かう以外を大したことに思わないのだ。

 コンパートメントを片っ端から開き「ネビル・ロングボトムのヒキガエルが逃げた。見かけたら彼に教えて欲しい」と告げ続けた。「分かったよ」と快諾する声半々、鼻で笑う面子もいた。ローブを見れば蛇の紋章がある。

 次のコンパートメントには、セラフィだけが座っていた。けれど数分前は誰かいたのだろう。ほかに三人分の荷物がある。

 置物のように静かに座っている彼女に用件を伝えると、鋭い目でクルックスの肩越しに──ネビルを見た。

 

「『お願い』ならば、君が言うのが正しい形ではないのかね」

 

 まるで鞭で打たれたかのように彼は背筋をぴしゃりと正した。

 

「お、ぉ、お願いします……」

 

「機会があったら君に届けよう」

 

 セラフィとの会話はそれきりだった。ネフライトは前方車両には見かけない。恐らくもっと後方車両にいるのだろう。

 全てのコンパートメントに声をかけ終えた。

 

「いなかったな。残念だ」

 

「あぁ……うん……。あの、ありがとうね……」

 

「気を落とすな。乗りかかった舟だ。使い方が違うかな」

 

 コンパートメントに戻るとハーマイオニーが着替えを済ませていた。

 

「それじゃネビルが着替えたら、残りの後ろ車両へ行きましょう」

 

 クルックスは、席について待つことにした。

 本音を言えば、ヒキガエルは誰かに踏みつぶされたと思う。

 クルックスはナイフの工作に戻った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 小さく暗い停車駅に降りたとき、クルックスは衣嚢から携帯ランプを取り出した。

 禁域の森の比では無いが、足下が悪い。恐らく数日前に雨が降ったのだろう。

 

 辺りを確認すると人混みに外れた場所に使者の灯を見つけた。

 ふらりと近寄ると使者が手記を広げた。

『お前の後ろに』

 誰が手記を残したのかは分からない。『なんだこれ』と思って見ていると「何をしているの?」と声をかけられた。振り返れば見知らぬ上級生であり「ひ、人混みに酔ったんです」と言い訳をした。彼は「そう」と言い、去って行った。

 

(普通の人には見えないものだった。忘れていた)

 

 素早く灯を点すとその場を離れた。

 大きな声が聞こえた。ルビウス・ハグリッドだ。

 

「イッチ(一)年生! イッチ年生はこっちだ! さあ、ついてこいよ」

 

 生徒のなかでも小柄な人影がわらわらと大きな髭面の下に集まっていく。

 群集に警戒心があるクルックスは、それをやや離れた場所から見ていた。気のせいだろうが「ホワーイ」のかすれた声が聞こえる気がする。あぁ、病みそう。

 すこしだけ遅れて着いていく。同じ思考回路に至ったのか、ネフライトとセラフィに並んでしまった。

 テルミは、と首を伸ばせば談笑しながら群集に混ざり歩いていた。

 

「……適応力の高さは随一だな。ネフ、足下が滑るから気をつけろよ」

 

「あ、ああ。っうぁ! す、すまん……」

 

 興味深そうに辺りを眺め歩いている彼は途端に足を滑らせて、セラフィに支えられた。携帯ランプを腰に吊した彼女は表情乏しく「気にするな」と言った。

 

「照明使うか?」

 

「だ、大丈夫だ。クルックスの歩いた道を歩くよ」

 

 次第に生徒達の声は聞こえなくなった。険しく狭い小道で一列に歩かなければならないからだ。照明を持つクルックスとセラフィには大した苦難では無かったが、他の生徒は四苦八苦しているようだった。

 

「邪魔だな」

 

 セラフィが髪に絡まりそうになった枝を握り折った。

 彼女のすぐ後ろを歩いているのはドラコ・マルフォイだった。

 

「あぁ、まったくだ。こんな道を歩かせるなんて! 舗装路くらい作ったらいいだろうに」

 

「多少同意する」

 

 ぶつぶつと不満を言いながら歩いている。

 空が明るくなってきていることに気付けば、湖畔に出た。次はボートで移動するらしい。けれど、多くの生徒に映るのは湖の向こう。学舎、ホグワーツ城だ。

 

 湖。学舎。

 クルックスは、ホグワーツにビルゲンワースを重ねていた。

 

「あぁ……似ている……」

 

 城には橙色の明かりが灯り、温度を感じさせた。

 あそこには人がいるのだろう。自分でも思いがけなく感動してしまっている。心が震えた。

 

(かつてのビルゲンワースも、このような……こんな景色が、人が、学徒がいたのだろうか……)

 

 ヤーナムにいる若者は少ない。子供はもっと少ない。市井でもろくに姿を見ないのだから、どの団体も後継者不足だろう。裾野広い医療教会でさえ。

 目に見える明かりよりも多くの人がいることをクルックスは信じられない思いで見上げていた。

 

「貴公」

 

 セラフィの涼やかな声に岸部を向けば、最後のボートになっていた。慌てて乗り込む。

 ボートには、クルックスとネフライト、セラフィ、そしてマルフォイがいた。

 マルフォイは下僕的に付き合わせているクラッブとゴイルと共に乗っていそうなものだったが、彼らの乗った舟がぐらぐらと揺れたのを見て、一緒に乗るのを諦めたようだった。

 

「あぁ、明るい……明るい……なんて明るさだろう……きっと温かいのだろうな……」

 

 鏡じみた湖面をはしる波紋が、城の明かりを歪ませる。

 ネフライトが気が塞いだ声音で言った。身が凍えた者のような台詞だった。その後、彼の言葉は不明瞭で独り言になった。聞き取れたのは「ミコラーシュ主宰……嗚呼、ビルゲンワー……きっと……次元……源流……湖……秘匿の……潮騒は……ース、あるいは……」というクルックスには理解が及ばないものだった。

 クルックスは、彼が住まうヤーナムの隠れ街ヤハグルには足を踏み入れたことがない。けれど谷間のヤーナムにおいて、いっそう暗い街だということを知っていた。

 

 四人のなかでも特にネフライトにとって光というものは、眩いものなのだ。

 ぶつぶつと何かを呟くネフライトを軽蔑した目で見る者がいる。マルフォイだ。

 

「ネフ、すこし黙ってくれないか」

 

 セラフィが注意すると彼は我に返ったらしい。素直に「すまない」と言った。マルフォイが得意げに笑う理由に心当たりが無いのでクルックスは不思議に思った。

 

「私は何か話していただろうか……」

 

「話していた。気をつけろ」

 

 蔦のカーテンをくぐる。その先には、隠れた崖の入り口があった。明かりが無ければ、岩石の陰影と思えたかもしれない。

 城の真下と思われる暗いトンネルを抜ける。人工物が見えた。水路だ。

 ハグリッドのかけ声で順々に生徒達は下船し、岩と小石の上に降り立った。

 

「……カインハーストに灯がつけば、このようなありさまなのだろうか。転ぶなよ、ネフ」

 

「そ、そう何度も転ばない……あ、ひっ」

 

 最後に小舟を下りるネフライトは、ぐらりと動いた舟で片足立ちをしてしまった。

 にっちもさっちもいかない状態になったのでクルックスは岸辺に戻り、手を差し出した。

 

「あ、クルックス……」

 

「ほら」

 

「檻が無いと重心が違うんだ。テルミには内緒にしておいて……」

 

 医療教会の対立構造がきょうだいの仲で生きているとは思わなかった。けれど真剣な声音では無い。彼らなりの冗談の類いだと判断し、クルックスは頷いた。

 全員が降りた後でハグリッドが小舟を見回っていた。

 そこでヒキガエルは見つかったそうだ。踏みつぶされていないとは、幸運であり驚きだった。




【解説】
『最後の周回』を生きたまま越えた狩人は、現在のヤーナムが陥っている異常について知っています。
そのため、クルックスが挙げた「旧市街のデュラ」と「ビルゲンワースの最後の学徒ユリエ」のほか『幼年期の揺籃』内で登場した「デュラの盟友」も現在までの登場人物では知っている人物に該当します。連盟の長? 弁論で彼に勝ったことが無い狩人には、まだ分かりません。
『来訪者、ヤーナムに至る』において狩人が来訪者の存在について思考しているとおり(一年間が二〇〇年以上続いていることに住民のほとんどは気付いていない。気付く『きっかけ』になりそうな外の来訪者の存在は、来訪者を元通りヤーナム外の世界に追放することで解決できるだろう。)
しかし、後天的に気づくことも可能ではあるので、狩人はあちこちに出没して変わった様子が無いか散歩しています。
……気付いたからといって、何かをするワケではないけれど。

【あとがき】
ハリポタ二次を書くとは、原作1巻のこのあたりを書きたいがために書いているんじゃないかと思えるほど、この辺りのワクワク感は他作品では得難いものです。ひとまず、『賢者の石』まで書き終えたので、コツコツ投稿していきます。お楽しみいただければ幸いです。


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組分け儀式と秘匿

テルミ・コーラス=ビルゲンワースの手記
──わたしは、お父様がお休みになる時の子守唄。
──でもこれは、人形ちゃんの役割なのかしら。
──わたしに星の徴は要らないのに。



 ミネルバ・マクゴナガル。

 そう名乗った者は、背が高く、エメラルド色のローブを羽織る黒髪の魔女であった。

 

「ホグワーツ入学おめでとう」

 

 幻覚でなければ彼女は、かすかにニコリと笑った。大広間前、石畳のホールでそのように挨拶した彼女は説明を続けた。

 クルックスの聞くところ、席に着く前に所属する寮を決めるのだという。言動が寮の評価になる、という点は重要なことだとは思わなかった。四寮のどこに振り分けられようと狩人であるクルックスにとって仮初めの色分けに過ぎない。

 けれども。

 彼は辺りを見回した。『人生の重要な転換地にいる』と思い詰めた顔が多いことには驚かされる。一方で涼しい顔をしている者もいる。ドラコ・マルフォイなど典型であった。

 

「いったいどうやって寮を決めるんだろう?」

 

 ハリーが赤毛でそばかすの男の子に尋ねた。

 彼は鼻先の汚れを気にしながら言った。

 

「フレッドは、トロールと取っ組み合いさせられるとか言っていたけど」

 

「取っ組み合い……」

 

 途方にくれるハリー・ポッターのそばでは、ハーマイオニー・グレンジャーがどの呪文が試験に出るのだろうかと覚えた全部の呪文について早口で呟いている。

 

「…………」

 

 力で解決できる問題であれば大いにありがたいと思えるクルックスだったが、平穏な生活をしてきた彼らに課すには試練として適切な規模ではないだろう。恐らく、試験とは血液検査だ。ヤーナム基準の思考では、その程度が適当に思えた。血質が低いからと自棄を起こす者がいないことを祈るばかりだ。

 

「クルックス」

 

 そっと隣にやって来て名前を呼ぶのはセラフィだった。

 

「テルミから伝言だ。──『ビルゲンワースの名を呼ばれたら振り返れ』と」

 

「どういう意味か」

 

「さあ。だが、意味はあるのだろうな」

 

 ──ヤーナムの地名を知る者と学舎ビルゲンワースの名を知る者。果たしてどちらが多いのでしょう。

 ある時、狩人の夢でテルミが呟いた疑問だ。クルックスは「ヤーナムだ」と答えた覚えがあるが、彼女はそうは思わなかったようだ。ホグワーツの歴史を眺めていた彼女は『ビルゲンワースの息吹は失われていないのでは? まだヤーナムの外のどこかにあるのかも』と言いだした。

 

 実際、ホグワーツ城を見るまでは「まさか」と半笑いをした彼であったが、しかし、ヤーナムより古そうな城を見れば考えも改まるものだった。もっとも、彼の危惧とはヤーナムに脈打つ幾分かの思想が、魔法すなわち外来の神秘によりもたらされたものだったのではないか、というものであったが。

 

 さて。

 テルミからの協力依頼で彼女の立場が明らかになった。

 もともとはネフライトが自主的な課題として設定した『外界の神秘探索』に、テルミも乗ることにしたらしい。

 同胞の仲が良いのは良いことである。クルックスも協力を惜しまない心算だ。だからこそ、彼女の出方も気になる。

 

「それで貴公は?」

 

「僕は、アンナリーゼ様へ外の話を持ち帰ることを約定とした。楽しげな話だろう。阻む道理はない」

 

 準備のため姿を消していたマクゴナガル先生が戻ってきた。

 羊皮紙が乾いた音を立てた。

 

「さあ。行きますよ。組分け儀式が間もなく始まります。列になってついて来てください」

 

 緊張も最高潮の生徒の何人かは顔色を悪くしている。顔を見合わせ、お互いを先に行かせようと無言の小競り合いも起きた。

 順番が来たのでクルックスも列に加わった。

 背後に誰かがいる感覚に慣れず、振り返って殴りたくなったり、突然ローリングしたくなる衝動を抑えることに苦労した。テルミから鎮静剤をもらって予め服用しておくべきだったかもしれない。

 

 大理石の二重扉を抜けると大広間だった。四寮の長テーブルには多くの生徒が座っていた。その先、広間の上座には先生達が座る長テーブルがある。

 ヤーナムで近しい建造物と言えば、とある頭骨を祀っているヤーナム大聖堂だった。だが、天井だけは似つかない。ビロードのような黒い空に星が点々と光っていた。

 

(吹き抜け……? いや、違う、神秘──魔法か)

 

 クルックスは感心したのだが、狩人ならば児戯と気に留めないかも知れない。

 

「──本当の空に見えるように魔法がかけているの。『ホグワーツの歴史』に書いてあったわ」

 

 後方の列から、ハーマイオニーがそう言うのが聞こえた。へえ。心のうちで呟いてみる。

 ぞろぞろと長テーブルの間を進む生徒達は、学生と先生の席の間に置かれた椅子を前にして止まった。

 椅子の上には、古びたとんがり帽子が置いてあった。

 

「檻」

 

 ネフライトが、小さく呟いたのが聞こえた。

 彼には何が見えているのだろうか。低啓蒙のクルックスには分からない。

 帽子がピクピクと動いた。これは、一般的に驚くべきことであったらしい。

 

 つばの縁の破れ目が、口のように動く。そして、それは歌い出した。

 

 歌った内容は、組分けされる寮のことだった。

 グリフィンドールは、勇猛果敢。

 ハッフルパフは、忍耐強い。

 レイブンクローは、機知と学び。

 スリザリンは、狡猾。

 

 自らを考える帽子と歌った組分け帽子に各寮から拍手が注がれた。

 再び静かになったところでマクゴナガル先生が羊皮紙を広げた。

 

「ABC順に名前を呼ばれたら、前へ」

 

 アルファベット順であれば、最も早いのはテルミだ。コーラス(C)をとるか、ビルゲンワース(B)をとるか。どちらにしてもアルファベットの並びでは二番目か三番目だ。早いだろう。次は、クルックスだ。八番目のハント(H)。そして、ネフライトは十三番目のメンシス(M)。最後のセラフィは十四番目のナイト(N)だ。

 

「ハンナ、アボット」

 

 最初に呼ばれたのは金髪のおさげの少女だった。緊張で張りつめており、顔は耳まで真っ赤に染めている。

 彼女は促されて椅子に座ると帽子を被せられた。サイズはぶかぶかで目が隠れている。

 沈黙は一瞬だった。

 

「ハッフルパフ!」

 

 帽子が叫ぶと右側のテーブルから歓声と拍手が挙がり、少女は転がるようにハッフルパフのテーブルに着いた。

 

(なるほど。このような仕組みか)

 

 恐らく、あの喋る帽子には頭の中を覗く機能があるのだろう。実のところ高啓蒙な帽子かもしれない。ともあれ、狩人としてやるべきことは無さそうだ。クルックスは想像以上に楽な儀式であることが分かり、肩の力を抜いた。儀式と聞くと聖杯のことばかり考えてしまっていけない。

 

 次の生徒は「ボーンズ、スーザン」、ハッフルパフになった。次は「ブート、テリー」、レイブンクローだ。その次は「ブルストロード、ミリセント」はスリザリン。アルファベットのBが続いていた。

 

 組分けが何人が続くと妙なことに気付いた。

 ひとりひとり、組分けにかかる時間が違うのだ。適性を読み取り、判断を下すのに時間がかかるのだろう。

 

「コーラス=ビルゲンワース、テルミ」

 

 ネフライトとセラフィが素早く振り返る。ほんの一瞬遅れて、クルックスも振り返った。その視線の先は、四寮のテーブルだった。誰も驚いた顔をしていない。顔を正面に戻しながら、セラフィと目配せする。彼女はわずかに伏せることで同じく成果が無かったことを示した。

 

 ビルゲンワースの名を聞いて反応する生徒はいなかった。やはりテルミの考えは杞憂だ。クルックスは、胸をなで下ろしたい気分になっている。

 ヤーナムの民でさえ忘れ去ろうとしている学舎ビルゲンワースのことを外の若者が知っているハズがなかったのだ。

 

 組分け帽子を被ったテルミは口元しか見えない。

 ネフライトは集中して彼女の唇の動きを見ていた。

 

 ──わたしに相応しいところはどこかしら。

 ──永久の揺籃。我が故郷。ヤーナム。

 ──仮のものとて、その礎に相応しい場所へ。

 

 彼女の囁きを理解した瞬間、名状しがたい感情が胸の内に発生する感覚を覚えて困惑した。

 願いは帽子に届いたのか。それとも適性で判断されたのか。

 

「ハッフルパフ!」

 

 帽子がそのように叫んだので、テルミは帽子を外されると小走りで寮のテーブルに着いた。

 

(意外だ。てっきりスリザリンかと思い込んでいた。けれど。まあ……テルミの場合、忍耐は重要だからな)

 

 四仔のなかで彼女だけは、日常的に仕掛け武器を触る環境にいない。

 聖杯の中ではルドウイークの聖剣を振り回し、お父様が大事にしている火炎放射器で浄化をもたらす生粋の狩人でありながら、現実では守られる立場に甘んじなければならない。彼女は誰よりも慎重で心の抑圧に耐性があるのだろう。

 

 マクゴナガル先生は次々と名前を読み上げた。

 フィンチ-フレッチリー、ジャスティン。──ハッフルパフ。

 フィネガン・シェーマス──グリフィンドール。

 

「グレンジャー、ハーマイオニー」

 

 コンパートメントで一緒だった生徒だ。

 彼女は待ちきれないようにワクワクした顔で椅子に座った。

 

「グリフィンドール!」

 

 クルックスは心の中で「めでたいな」と思った。彼女の願いは叶ったようだ。

 隣のセラフィがブーツの爪先で靴を小突いた。まるで他人事のように──実際、他人であるが──組分け儀式を見ていたクルックスだったが、彼女のおかげで思い出した。そろそろ自分が呼ばれる番ではないか?

 

「ハント、クルックス」

 

 歩き出したクルックスは、手足が遠くにあるように感じられた。どうやら多くの人に見つめられる環境で自分も緊張しているようだ。

 椅子に座ると帽子を被せられた。それは、わずかに汗に湿りかび臭い。

 

(知っているかどうか知らんが。俺は狩人。クルックス。狩りの成就の果て、黄昏のヤーナムに真なる夜明けを迎えるために在る。──さあ、相応しい寮を選びたまえよ)

 

 帽子は、クルックスの頭上で「ふぅむ」と唸った。

 

「ほほぅ。珍しい生徒が紛れ込んだものだね。なるほど。なるほど。……君には素質がある。明かす者ならば──グリフィンドール!」

 

「──、…………」

 

 ひとつ息を吐き出した。

 帽子を取り上げられると同時に立ち上がり、拍手しているテーブルに向かう。

 順番を待っているネフライトとセラフィから一度だけ視線を送られた。

 マクゴナガル先生が、次の生徒を呼んだ。

 

「ロングボトム、ネビル」

 

 祝賀を受けながら席に着き、ハーマイオニーの隣で今後こそゆったりと儀式を眺めることができた。

 次は車両で一緒だった男の子だ。

 帽子は判断に時間をかけて「グリフィンドール」と叫んだ。マクゴナガル先生が何事か彼にだけ聞こえるように言って微笑んだ。あの厳格な女性でも笑うことがあるのかとクルックスは素直に思った。

 

「マルフォイ、ドラコ」

 

「スリザリン!」

 

 この組分けは興味深かった。帽子が頭に触れるか触れないかのうちに帽子が叫んだ。

 

「帽子が慣れている一族の子は、ああなるのさ」

 

 テーブルに着いた上級生がハーマイオニーに解説していた。

 それを聞きながら「へえ」と呟く。

 

「メンシス、ネフライト」

 

 ネフライトの番だ。彼は浅く椅子にかけると同時に帽子を被せられた。

 帽子の判断は時間がかかった。これまで長く時間をかけたのは、グリフィンドールに配されたハーマイオニー・グレンジャーの約四分間だったが、それを超したと思われた。

 組分けの儀式における最終的な結果だけを見ればネフライトの組分けは、最も時間がかかった組分けになった。あと十秒長ければ彼は組分け困難者、組分けに五分以上かかった新入生の通称である『ハットストール』と言われたことだろう。

 

「レイブンクロー!」

 

 沈黙を破り、とうとう帽子が叫んだ。

 ネフライトは面白くも嬉しくもなさそうな顔でスタスタ歩きレイブンクローの席に着いた。テルミからの依頼も終わったことである。心をメンシス学派に置いてきたネフライトはミコラーシュ主宰──クルックスは会ったことが無いが、父たる狩人曰く「ある種の狂気を乗りこなした天才」──の靴下の色についてなど考えていたのだろう。

 

 それから組分けは進んだ。

 ムーン……ノット……。

 

 そして。

 

「ナイト、セラフィ」

 

 いよいよセラフィの番だ。

 きょうだいのなかで最も人を見る目があるテルミ曰く『最もお父様に近しい』という彼女が、どの寮に入るのか興味を惹かれた。

 すらりと華奢な立ち姿は、人形を思わせた。狩人は、恐らく否定するだろうが、彼女の造形だけは狩人の何らかの意志が込められているとクルックスは思っている。

 

「……、……」

 

 帽子を被せられた彼女は何かを言っている。

 普段表情らしいものを作らない彼女が、微かに笑っているのが見えた。

 

「スリザリン!」

 

 ……あぁ、やはり。

 拍手を受けて彼女が席に着くまでをクルックスは、背伸びをして見ていた。

 その後の組み分けは特に面白みのあることは無かった。

 

 いいや。

 訂正する、ひとつだけあった。

 

 ハリー・ポッター。

 恐らく、今年一番の注目を集めた彼は、スリザリンに大いに迷われた後で。

 

「むしろ、グリフィンドール!」

 

 彼は弾けるように椅子から立ち上がり、グリフィンドールの席へ飛び込んできた。

 上級生が「ポッターをとった!」とはしゃいでいる。

 

(……特別というものか)

 

 クルックスは、人間の『特別さ』というものに興味が無い。

 出自ゆえの特別は、果たしてヤーナムに朝日をもたらしたか? いいや、彼らは上位者の赤子を授かる可能性を血に含んでいるだけだ。

 父がヤーナムに朝陽をもたらしたのは決して折れぬ意志を持ち、全ての遺志を糧としたからだ。重要なことは『生きている』という結果であり、どんな遺志を継ぐかという経過にある。

 

 よって。

 

(これからが何よりも重要だ。具体的には、食事だが)

 

 クルックスは、おざなりな拍手をしながら気持ちは目の前の金色の空皿にあった。

 マクゴナガル先生が羊皮紙をしまった。最後に呼ばれたのは「ザビニ、ブレーズ」という生徒だった。

 全ての組み分けが終了したところで教員テーブルの中央に座する白髭の老人が立ち上がった。

 

 アルバス・ダンブルドア。

 

 入学を知らせる書類に名前があったのでクルックスは彼の名前を知っていた。

 

「おめでとう! ホグワーツ新入生、おめでとう! 歓迎会を始める前に、二言、三言、言わせていただきたい──」

 

 重要な話なのだろう。

 クルックスは、彼を見た。澄んだ青い瞳がよく見えた。

 

「いきますぞ、そーれ! わっしょい! こらしょい! どっこらしょい! 以上」

 

「あの人……ちょっぴりおかしくない?」

 

 そばに座ったハリーが監督生のパーシーに聞いた。

 同感である。クルックスも彼を見た。

 

「あの人は天才だ! 世界一の魔法使いさ!」

 

 クルックスは、低啓蒙な自分を恥じた。何を言われているのか理解できなかったのだ。

 いつか使うハズだと啓蒙が溜まるたびに儀式素材を買い込んでばかりだったのがいけない。狩人の夢のなかで、いつも人形ちゃんが動くか動かないかの啓蒙しか持ち合わせない癖はもうやめようと思った。

 

「──けれど、たしかに、少しおかしいかな、うん。君、ポテト食べるかい?」

 

 クルックスは、空だと思っていた大皿が食べ物でいっぱいになっていることに気付いた。

 啓蒙は増えなかったが、腹が満たされる予感を得た。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 父たる狩人への報告書は、病的にペンを離さないことがあるネフライトが勝手に書いて提出することだろう。

 だからクルックスは彼に「食文化を充実させましょう」という提案をさせねばなるまいと思っていた。狩人は、主食が海水と輸血液と紅茶のせいで生態的に人間離れしてしまっている。これは父として贔屓目に見ても変わらない。狩人にとって、形式がよすがとして重要だと言うのなら、三食とは言わないが固形物を食べてほしい。そして、できればヤーナムの食文化水準を上げてほしい。それが無理ならば、せめて狩人の夢では何か美味しい物が食べたい。うん。人形ちゃんに頼み込んでみよう。

 

「……んー、まい……」

 

 ポテト。うまい。ビーフ。うまい。フライ。うまい。豆。うまい。ニンジン。うまい。

 結論、素晴らしくうまい。クルックスは、早くも入学の意義を見つけた。

 黙々と食べ続けるクルックスの隣でハーマイオニーが呆れたように見ていた。

 

「そんなにお腹が空いているの? かぼちゃパイ食べていたのに」

 

「そんなに素晴らしいのだ。見ろ、このポテトにかかる、名前が分からない……」

 

「グレービーソースでしょ。何だか初めて食事を見た人みたいね」

 

 ハーマイオニーは、ようやくベーコンに手を付け始めていた。

 それも美味しそうだな、とクルックスは横目で確認した。

 

「俺は、黴の生えそうな堅いパン以外を食べたことがない。……ああ、美味しい。素晴らしい。食事が人を満たすならば、何もかもそれで良かったのに」

 

「それは、その、大変な……家庭なのね」

 

 ああ、そうだ。

 ロクに考えもせずに返答しそうになり、ステーキを齧る口を閉じた。何かあらぬ誤解を招いた気がする。

 

「いいや、円満だ。母はいないが、お父様がいる。何も問題は無い。ただ、食事が貧相なだけだ」

 

「そう。こっちのテーブルで食べたいものがあれば取るけど」

 

「ありがたい。あの骨付き肉を頼む」

 

「ラムチョップよ」

 

「ラムチョップ。甘美な響きじゃあないか……」

 

 目の前のステーキを平らげた後でラムチョップをもらった。

 素晴らしい肉。肉を讃えよ。食べ給え。

 

「ああ、そうだ。君は見事グリフィンドールに入寮した。おめでとう、というべきなのだろう」

 

「ええ、ありがとう。帽子はレイブンクローとずいぶん迷ったみたいけど、グリフィンドールに入ることができて嬉しいわ。あなたは?」

 

「分からないな。だが、適性があると前向きに考えて──」

 

「ワッ!」

 

 近くのテーブルで誰かが騒いだ。ハリー・ポッターの隣に座った赤毛の生徒だった。

 何かと思って見ればゴーストだ。たかがゴースト。油断はできないが、あれらは殺せば死ぬので問題は無い。彼らが奇声を上げて刃物を振り回さない限り、クルックスのノコギリ鉈が刃を向くことはないし、水銀が血と交わることは無いだろう。

 傍から聞こえる会話を聞いていれば、ニコラス・ド・ミムジー=ポーピントン卿と名乗るゴーストは五〇〇年、何も食べていないらしい。

 クルックスは良いことを聞いた、と思う。

 五〇〇年前。ヤーナムがまだ隆盛を保っていた時代に何十年か何百年かは該当するだろう。あとで聞いてみる価値はありそうだ。

 

 多くの皿が空になったところで、間もなくデザートが現れた。

 その中でも興味深いものがあった。氷菓──アイスクリームと言うらしい。

 

「……アイスクリームも知らないのね」

 

「ああ。冷たいのに甘い。素晴らしいな。……。これは、一般的な食べ物なのか?」

 

 ハーマイオニーに疑わしい目で見つめられてクルックスは困った。

 わざと物知らずなフリをしているのではないかと思われているようだ。質問も悪い影響をもたらしたらしい。ますます訝しい顔をされてしまった。

 

「マグルでも買えるという意味ならそう。一般家庭にあるかと言えば、マーケットで買えばあるでしょうね」

 

「マーケット? 市場のことか?」

 

「いえ、コンビニエンスストアとか」

 

「? それは何の店なんだ?」

 

「いろいろな物を売っているのよ。あなた、本当に何も知らないのね」

 

 ばっさりと断言されてしまい、クルックスは唸る。

 同じ年ごろの子供であれば気を害する切れ味だったが、彼は怒りを知らない子だった。

 

「何も無い土地から来たからな。俺が過ごしているのは主に森と庭だったから……まぁ、この話はどうでもいい。それで。なるほど。これは、高価なのか?」

 

「子供の小遣いで買えるわ」

 

「そう……なのか……これが……? ほお……それは、それは……んー……」

 

 ハーマイオニーの疑問を解くよりも、甘味の素晴らしさが全てに勝る。

 ぱくぱく食べているクルックスだったが、周囲は満腹感が勝り始めた。聞こえる会話が多くなり、やがて家族の話になったのだ。

 

「僕は、ハーフなんだ。パパがマグルで、ママは結婚するまで魔女だとは言わなかったんだ。パパはずいぶんドッキリしたみたいだよ」

 

 シェーマスという同じ新入生が言う。クルックスは、エクレアの魅力に憑りつかれていたが、周囲のみんなが笑ったので手を止めた。

 赤毛の生徒──ロンと言うらしい、彼がネビルに話を振った。

 

「僕、ばあちゃんに育てられたんだけど、ばあちゃんが魔女なんだ。でも、僕の家族は、ずーっと、純粋マグルだと思っていたみたい……」

 

 ──二階の窓から落ちたが、ボールのように弾んで魔法使いだと分かった。

 彼のエピソードは興味深いものだった。杖で魔法が使えない幼い魔法使いの場合、そのような神秘が身に起こるのだ。

 

「えと。クルックスは?」

 

 たまたま目が合ったので、話題が振られた。

 クルックスはちょうどエクレアを一口サイズにナイフで切り分けている作業中だった。

 

「……。お父様が魔法使いの血を引いている。母はどうだろうな。いないから分からんな。周りに神秘──魔法を使える人も、少なかったので驚いたな。ああ、気にするな。お父様はお優しいからな」

 

 ネビルが「しまった」という顔をしたので言葉を付け加えた。そんなことよりもクルックスにとっては、エクレアが重要だった。中にクリームが入っていたようだ。皿にこぼしてしまった。スプーンで食べることで解決した。

 

「うーむ。素晴らしい甘味だと思わないか。なんだ。貴公ら、もういっぱいなのか」

 

「さっきからよく食べるね。僕はもう眠くなってきたよ」

 

 ハリーが皿を遠ざけながら言った。

 何人かの生徒も同じ状態のようだった。

 

「ふむ。そういうものか……」

 

 そういえば食べ過ぎるのは良くないかもしれない。

 これまでのように聖杯通いをするワケではないから応じた必要量があるだろう。このエクレアで最後だ。クルックスは、食べ終えた。

 

「うん。素晴らしい夕食だった……」

 

 時計を確認する。

 時間帯は、すっかり夜だ。クルックスは偽りの天上を見上げた。遥か遠くヤーナムでも夜であろう。狩人は獣狩りの哨戒を行っているハズだ。『獣狩りの夜』ではなくとも、悲しいかな、夜に蠢くものは絶えず存在するのだから。

 彼らのことを思うと心が痛む。せめて、学業に尽くさなければならないだろう。

 

 やがて、デザートが消え、ダンブルドア先生が再び立ち上がった。広間のざわめきが消えた。

 

「全員よく食べ、よく飲んだことじゃろうから、また二言、三言、新学期を迎えるにあたり、いくつかお知らせがある。まず、一年生に注意しておくが、構内にある森に入ってはいけません──」

 

 クルックスは城内の探索を終えてから森へ行くことに決めた。

 禁域の森が普通の森なのか。一般的な森の植生というものを知っておきたかった。また蛇玉はヤーナム特有なのか。連盟の長、ヴァルトールが「他所で見た気はしないがね」と言っていたので気になっていたのだ。

 

 その後の話は『授業の合間に魔法を使うな』や『クィディッチの予選がある』という話だった。クィディッチとは分からないが話を聞くに授業外に行われる余興のようだった。どこかの貴族のように怨霊を狂乱させて遊ぶ類では無さそうなのでクルックスは興味を持てなかった。

 だが、彼が最後に語る事には興味を持った。

 

「とても痛い死に方をしたくない人は、今年いっぱい四階の右側の廊下に入ってはならん」

 

 生徒の何人かが小さな笑いを零したが、絶対的な少数派だった。上級生においても神妙な顔をした生徒が多い。どうやら普通の警句ではないようだ。

 

(ふむ。これは。なるほど)

 

 そこに秘されているものは、学校が持っていなければならないもの。しかし、生徒に最悪をもたらすものらしい。

 なぜそんな危険物を、と思わないでもないが必要なことなのだろう。

 

(お父様ならば、どうされるか。いいや……この考えは無駄だな)

 

 明かすも明かさないも自由だ。

 クルックス達は、狩人から意志を委ねられている。

 あらためて判断を仰ぐまでもない。

 

 だからこそ。

 

 クルックスは、狩人の生きざまをなぞるだろう。秘されているのならば、明かさなければならない。

 ビルゲンワース最後の学徒、ユリエ曰く、かつて父は秘匿を破り、果てに夜明けを迎えたのだと言う。

 かの偉業に比べれば数段、いや、次元が足りない秘匿だ。それでも、死力を尽くそう。

 

 なぜならば。

 

(──俺が、それを見たいのだ)

 

 狩人によく似た銀の瞳は、標的を見据えた。

 

 

 




【解説1】
「ハーマイオニーがハットストールになりかけた?」
 四分近くかかったという描写を見て「おや?」と思った方がいらっしゃるかもしれないので、解説します。原作本(『賢者の石』)だとそのような描写は無いのですが(ハーマイオニーが帽子を被ってから決定まで数行程度)、本作においては『ホグワーツ不完全&非確実 Pottermore Presents』の原作者書下ろし『組分け困難者』の項で補足的に記載された内容に基づいて記述しました。ネット上で見つけることができる「ミネルバ・マクゴナガルとピーター・ペティグリューが組分け困難者である」旨の情報は、書籍においては上記本またはホームページPottermoreの記事の訳からの引用と思われます。

【解説2】
 組分け儀式。クルックスの予想に反し、全員がバラけました。
 テルミがハッフルパフに行ったことは、彼女を除く三人が意外に思いました。どちらかといえば彼女は誰かを手の平で転がす役割が好きなので「てっきりスリザリンかと」。同じスリザリンだと思っていたセラフィが一番残念そうです。言葉が拙いというクルックスより、更に壊滅的なコミュニケーション能力しか持ち得ない彼女は、そういった交渉事をテルミにぶん投げようと思っていたので予定は大いに狂いました。
 最も時間のかかった組み分けはネフでした。彼は超常思索のことを考えていて帽子が頭の中を探るのに時間がかかってしまったようです。セラフィが帽子に話しかけていたのは「脳みそはどこにある?」という疑問でした。結局、返答はいただけず寮名を読み上げられただけでした。機会があれば再度問いただすことでしょう。──誰であれ「二度、問うて答えなければ、即座に斬り捨てよ」と先輩の騎士達に命じられているので。
 ティルナノーグ。リップ・ヴァン・ウィンクル。浦島太郎状態のクルックス。聞かねば分からないが、怪訝な顔をされるので、マズイかな……と思い始めました。他のきょうだい達が何と言ってごまかしているのか気になります。
 常識とは、精神性と強く結びつくもの、本で学ぶことは難しい。彼が、ヤーナムで聞けそうな常識は、ヤマムラの日本(1700年代)やヴァルトールのチェコ語圏(1700年代)しかなさそうなことも一因になりました。父たる狩人は、狩人を狩人たらしめている礼節こそあるものの、常識はヤーナム基準なので「やっぱりヤーナム野郎じゃないか!」の誹りを免れない状態です。そのヤーナム自体が、クィレル先生の手記でツラツラ書かれたようにフランス革命はじめとする18世紀の威光が届かなかったので仕方ないですね。
 そんなヤーナムにおいて、ビルゲンワースに残る学徒達は二〇〇年以上かけて、血の医療や上位者、思索の探求を進めましたが、一般生活面のブランクは大きく埋めがたいようです。生態的に食事の必要が無い狩人や輸血液さえあれば死にはしないヤーナム人に合わせ、偏った進歩をしてしまった弊害です。
 さて、そんな狩人は、水盆を通して使者達に仔らの捜索をさせていますが、神秘違いのせいか、辿ることはできてもホグワーツの座標を補足できていません。「おかしいな。この辺のはずだが……?」

【補足】
 ユリエについて。
 地の文にてちょこちょこ話すものの「そもそも誰ですか」という状態の方もいるかもしれませんので、補足させていただきます。ゲームにおいては、ビルゲンワース内で襲ってくる聖歌隊服の女性狩人のことです。
 名は、海外の攻略本曰く「Yurie, the Last Scholar」であり、公式で日本語で書かれた名称は無い(はず。あったら、ごめんなさい。情報求ム)ので「Yurie, the Last Scholar」をユーリエとするかユリエとするか迷いましたが、いろいろな都合を鑑みて本作中においては「ユリエ」とさせていただきます。「Yurie, the Last Scholar」は訳的には「ユリエ、最後の学徒」となります。あるいは「ユリエ、最後の学者」(DeepLを使用した訳)も正しい訳となると思います。
 ただし、攻略サイト及び個人サイト等では「ユーリエ」と表記している場合もあります。海外の氏名については浅学のためどちらが語圏・文化的に正しいのか、筆者は判断できませんが、本作においては上記のように取り扱いますので、よろしくお願いいたします。(念のため)

【あとがき】
恐らく、多くの作者が一番楽しんで書く場面なのですが、この辺りは原作に忠実に書かないといけない場面でもあるので、原作や原作者書下ろしショート・ストーリー集とにらめっこして書いておりました。意外と補足的な情報がショート・ストーリー集に多く、迂闊に書けなかったんですよね。
魔法の杖を買う場面と組分けは、ハリポタ二次の醍醐味でしょう……!
次回より、楽しいホグワーツ生活が始まります。
ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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一週間と奇行

セラフィ・ナイトの手記
カインハーストに連なる者は幸いである。
人命を消費し続けるヤーナムにおいて、唯一、次代の何かを生み出す事業に参画できるのだから。
古くはトゥメル。遠くはローラン。
主を得た者は幸いである。



 ホグワーツで生活し始めて、そろそろ一週間を迎えようとしていた。

 クルックスはヤーナムが唯一優れているかもしれないものを見つけた。

 

「昇降機の時間だ」

 

 ホグワーツには一四二もの階段があるという。

 人力で駆け上がりながらクルックスは「ぐぅ」と唸っていた。疲労は苦ではないが、毎度の移動がこれでは辟易するものだ。方向音痴のテルミは目も当てられない事態になってはいないだろうか。心配である。

 階段にもさまざまある。動く階段など可愛いもので狭く震える階段、特定の曜日には違うところに繋がる階段──なぜこんな物の存在を許しているのかクルックスは理解ができそうにない。罠にしては幼稚である。殺意が足りない。

 

 なぜ存在を許しているのか分からないものと言えば、もうひとつある。

 

 ピーブズというポルターガイストも謎だった。

 ヤツが手を出して来た瞬間にクルックスの銃は火を噴くことになるだろう。うるさい存在というものはそれだけで目障りであり、存在の価値が無い。けれど周囲を見れば皆迷惑そうにするものの、死を願うほどに煩わしいと思っているのは、自分だけのようなのだ。こればかりは己の神経質な性質が災いしているのかもしれない。

 

「ねえ、クルックス。あなた、変身術の授業で燐寸棒が何に変わったの?」

 

「ナイフだが」

 

 正確には遺跡鼠の骨だが、似たようなものだ。むしろ原材料なので解答は誤っていないだろう。

 授業を終えた後、クルックスに話しかけてきたのはハーマイオニー・グレンジャーだった。

 

「針仕事は家人の仕事だったからな。どうにも見慣れない。だが、君は素晴らしい。針に変えただろう。先生が褒めていた」

 

「想像力の問題よ。慣れたらすぐにできるようになるわ」

 

「そうか。観察力の無さを露呈してしまった。恥ずべきことである」

 

「あ、ほらまた」

 

「む」

 

 生活をしていて、気付いたことはもう一つあった。

 クルックスの話し方は、たいそう気難しそうに聞こえるらしい。ハーマイオニーがそう言っていた。

 実際、指摘は正しいのだろう。礼節は保っているが、愛想が無いためクルックスには、友人らしい友人がいなかった。

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは、子供っぽく見えて仕方ない同期の生徒たちのなかで、まだマシに思えた。しかし、クルックスとある程度の話ができるということは、周囲から浮いている生徒であることを意味する。クルックスは、彼女に誰か友人らしい友人ができればよいのに、と思わずにはいられなかった。彼女は、ヤーナムでは聖母になれるだろう。とても良い人なのだ。

 

 クルックスは、言葉の扱いが上手ではない。

 それはヤーナムにいた当時から、分かりきっていたことだった。だが、問題にならなかったのはひとえに連盟の中であれ、ビルゲンワースの学徒達であれ、彼の話すべき相手が常に年上だったからだ。連盟の長の命令は、整然として常に命を懸けるに値するものであったし、学徒達の論理は常に明朗さを愛するものだった。1+1が2であるような、因果が明白である事実を話すことはできるのだが、それ以外の話となると難しい。「今日はいい天気だね」と言う挨拶であっても対応に窮する。自分に言葉をかけるのと同義であるきょうだい達との会話とは勝手が違う。適切な対応は、とても難しい。

 そんな言葉の環境から排出された人員が、同じ年代の少年少女達と話せるかと言えば無理であった。価値観の違いも相互理解を難しくしていた。

 

 テルミ? あの効率性の怪物の話はやめてほしい。彼女は数日のうちに同年代から上級生、果ては先生まで怯むことなく話すことができるようになっていた。意思疎通と状況判断能力は比べることが間違っている程度に卓越している。さすがは、父たる狩人から最も遠き仔だ。彼が長い夜のなかで失い続け、ついぞ持ち得なかった可能性の塊である。

 

「ミス・グレンジャー。気にかけてくれてありがとう」

 

「あら。孤立しているって自覚はあったのね」

 

 魔法薬学の初授業に向かいながら、クルックスは頷く。

 

「俺は、別に、鈍いワケではない。ただ、どうすればよいのか分からないことが多い。また、近くに同じ年の子供がいなかった。田舎から出てきたせいで共通の話題も無い。話すキッカケというものが、そもそも無いのだ」

 

「何だっていいでしょう。用事が無ければ話しかけちゃいけないなんてことないもの。……授業中以外はね」

 

「む。それができるなら苦労していない」

 

「でも、最近話している人がいるじゃない。レイブンクローの」

 

「……彼は、何というか、違うのだ」

 

 ハーマイオニーが言うレイブンクローの生徒とは、もちろんネフライト・メンシスのことである。

 彼の孤立具合とは、クルックスの比ではなかった。こちらも誰かと比べることが間違っている程度にぶっちぎっていた。

 

 四寮のなかで最も変わり者が多いというレイブンクロー寮であるが、この数日で『十年の奇人変人を過去にする』とまでに言われた今年の新入生とは誰であろう、ネフライトのことであった。

 

 帽子が長く悩んだ生徒というだけで──もちろん、ハリー・ポッターほどではないが──注目を集めた彼は、話しかける人々の事情を一切考慮しなかった。

 

 クルックスは生徒達との適切な距離と対応に四苦八苦しているが、ネフライトは交渉しないという対応策で問題を問題として取り扱わないことにしたらしい。

 彼は読書中と授業中以外は何かをしきりに呟いており、挨拶程度の意思疎通も同じ枝葉の存在であるクルックスらを除いて成立しない状態にある。

 

 また、クルックスだけが知っていることであるが、今後、彼の孤立は深まる予定である。「入学後の一週間はメンシスの檻を被るのを控える」という彼の事前の言葉が確かであり、予定の変更が無ければ、あと数日で生活に支障が無い程度に彼は檻中生活をすることになるだろう。

 その後、彼と進んで関わりを持とうとする人物がいるかどうか。──彼には悪いが正直なところ、クルックスはかなり興味がある。

 

 ハーマイオニーは、クルックスと話しているネフライトのことを話題に出したものの、ポジティブなことが話せないことに気付いてしまったようだ。目が泳いでいる。

 

「何と言うか、彼は、その、とにかく本物だわ」

 

「ハッキリ言いたまえ。気狂いだと」

 

「失礼なことを言うのね」

 

「一般的にそのような状態であることを理解しているから言うのだ」

 

 大真面目にクルックスは言った。

 無論、クルックスはネフライトの奇行が最適化された思考の産物だと知っている。彼から、廊下でのすれ違いざまに分厚い羊皮紙の束を渡されているので知っているのだ。彼から「誤字が無いかを確認してほしい」と頼まれて読み込むそれは、父に渡すための資料だった。

 彼は医学に始まり、薬学を食み、空を見上げ星を読み、獣の病を解する新しい思索を求めている。彼ほど勉学に向いていないクルックスは、彼の書き損じを訂正することで試みに協力することにした。

 

「彼は放っておいたほうがいい。……万が一、話しかけられたら優しくしてほしいが」

 

「ふたりは友達なの?」

 

「違うが」

 

 正しくはきょうだいなのだが、ややこしい話なので話すことを避けた。

 

「ところで。……薬学の先生は、スネイプ先生と聞いた。スリザリンの寮監だろう。なぜグリフィンドールとスリザリンは仲が悪いのだろうな?」

 

「自分の実力を重視するグリフィンドールと他人の力でも何でも使ってやろうと考えるスリザリンの考え方が合わないんでしょう」

 

「はあ。伝統というものかな?」

 

「スリザリンの女の子とよく話しているじゃない。価値観の違いがよく感じられると思うけど、どうなの?」

 

「セラフィのことか? か、価値観……」

 

 セラフィ・ナイトの価値観と言えば「貴公、我らが女王様のために死にたまえよ」に結実する。その言葉の直後に必殺の落葉──刀と短刀に分離する仕込み刀──が振るわれるのだから、交渉の余地がないことで狩人とも意見の一致を得ていた。

 テルミ曰く「お父様に最も近しい」とのことだが、それは技量に限った話だとクルックスは考えている。狩人が長い夜のどこかに置いてきてしまった帰属意識を過剰に持ち合わせる彼女は、とうてい一般通行スリザリン生徒の模範にはなり得ないだろう。

 

 そんなセラフィであるが──意外なことに!──友人が何人かできていた。スリザリン特有の団結意識だという。けれど「上級生の男子生徒何人かは腹に何か抱えているぞ」とクルックスは見抜いている。彼女と話す時、鼻の下を伸ばす輩が気になってしまって仕方が無い。

 

「…………」

 

 音も無く、彼は小さく息を吐き出した。

 狩人は、しばしば仔に聞こえていないと思い込んで人形に「俺、赤ちゃんだし……」と言うが、今はクルックスも同じ気分だ。対人戦闘なら悪夢の辺境で身に覚えがあるが、対人関係はよく分からない。……俺も赤ちゃんだし。

 クルックスは、半目で地下牢へ入った。時間を確認するとすこし早く到着できたようだ。生徒の姿は、まばらだった。

 

「生活に慣れれば、きっと大丈夫よ」

 

「だといいが」

 

「あぁ、魔法薬学……心配だわ。教科書を暗記した程度で足りるといいんだけど」

 

「だといいな」

 

「あなたは……ちょっと気になっていたんだけど、あまり良い成績を残すことに興味が無いのね?」

 

「そう見えるか。好奇心が先走っているのは自覚している。落ちこぼれない程度に頑張る予定だ。期待してくれてもよいのだぞ」

 

 ハーマイオニーは、小さく笑った。

 それは、気の抜けた年相応の女の子の笑みだった。

 

「…………」

 

 クルックスは、それを見ていた。

 

「なに?」

 

「いや、別に……」

 

 クルックスが連盟に名を連ねる理由は、単純だ。

 いつか獣も虫もいなくなったヤーナムが見たい。ヤーナムで暮らす人々を見たい。そんな未来が来ることを願ってやまない。父が獣狩りの夜を終わらせたように、いつかは人々の獣性は止み、虫のいない時代が来るのだ──と信じたい。

 

 だから、ハーマイオニーの微笑に幻視を重ねた。

 来たるべき普通の時代に普通の人間が浮かべる微笑とは、果たして、このようなものだろうか。

 クルックスは「むぅ」と唸った。困った時の癖だった。

 

「互助の精神とは素晴らしいものだと……考えていただけだ」

 

 連盟の長、ヴァルトールは正しい。

 人間は弱い。だからこそ、目標を同じくする同士だけは協力し合うべきなのだ。そうだ。「よく分からない」など泣き言で幼児退行している場合ではない。遥か遠方、血塗れの同士に報いるため、クルックスは教科書を開き授業に備えることにした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 魔法薬学の授業を担当するのは、スリザリンの寮監、名をセブルス・スネイプと言った。

 スネイプの目は、ヤーナムによくある目の種類であった。鬱屈と不満が色濃い。あれは純粋なストレスであろう。生きていて楽しいのだろうか。ところで白い丸薬でストレスは消えるだろうか。無理だろうか。

 

 出欠確認に応対しながらクルックスは、彼の目をよく見ていた。見ていて楽しい目ではないが、蕩けているより何倍もマシなので見ているのは苦ではなかった。もっとも、すぐに逸らされてしまったが。

 

 さて、そんな鬱屈したストレスをちらつかせるスネイプ先生であるが、彼はハリー・ポッターに並々ならぬ執着心があるようだった。

 

 出欠確認時に「我らが新しいスター☆」と言った際には教室、主にスリザリン席から冷やかし笑いが起きた。この点でクルックスは「ヤーナムではあるまいに。気になる言い方をする先生だな」と思った。決定的だったのは、その後、突然ハリーの名前を呼んだかと思うと執拗な質問を浴びせたことだった。呆れを通り越して「何だコイツは」という感想が発生したのも当然の帰結であった。

 その後、彼は口答えしたハリーに対し「無礼な態度でグリフィンドールは一点減点」と言った時は「ひょっとして、これが噂に聞く糞袋野郎なのでは?」と新発見を見出そうとしていた。

 

 授業は、まあまあ、面白かった。というのも杖を振るとか想像力を働かせるといった類の授業ではなかったからだ。

 ──干イラクサを計り、蛇の牙を砕き、角ナメクジを茹でる。

 ほとんどハーマイオニーと共同作成をしていたが、ナメクジには問答無用で殺意が湧いてしまうのでそれらを茹でる作業だけはハーマイオニーにやってもらった。ナメクジ。その存在だけで、もう、うんざりじゃあないか。

 

「あなたでもダメなものがあるのね」

 

「まあ、そうらしい……」

 

 殺す以外の対応ができないので仕方が無い。クルックスは頷いた。

 そろそろ完成だろうかと思える頃。事件は発生した。

 ネビルが、鍋を溶かしたのだ。おできを治す薬が石の床を伝わって広がり、近くにいた生徒の靴に焼けこげ跡を作った。穏やかな効能ではない成果物ということは一目で分かった。

 ハーマイオニーは素早く椅子の上に避難したが、クルックスは伝わって来た液体を指で掬いあげた。

 

「バカ者!」

 

 スネイプがネビルを怒鳴りつけた。杖を一振りして、あちこちにこぼれた薬を取り除いている。医務室へ行くように指示するかたわら、椅子から降りたハーマイオニーがクルックスの腕を掴んだ。

 

「クルックス! 何しているの! あなたも医務室へ──」

 

「うん、ああ、そのうちな」

 

 クルックスは、おざなりな返事をして指先を見ていた。

 溶液が触れたところには、赤い水ぶくれができている。力を入れるとブチと皮膚が割れる音が内側に響いて潰れた。溶液を舐めてみる。舌には痺れる感覚があり、間もなく舌の上に同じような水ぶくれができる感覚があった。味は酸味が強い。口に入れた瞬間、わずかにイラクサらしい植物の香りを感じた。

 

 怪我をする機会が無かったので試していなかったが、これはこれで良い機会だろう。

 ヤーナムの外でも輸血液で体の外傷がきちんと治るか試してみたかったのだ。

 スネイプ先生がハリーに言いがかりをつけ、グリフィンドールからさらに減点した。クルックスは、ヤーナムの罵詈雑言を思い出し、懐かしさにいよいよ笑えて来た。

 

(あの男、精神不安定だな。いや、逆に安定しているのか)

 

 そのドタバタの最中、ローブの衣嚢から注射器を出すと太腿に刺した。そして液体を押し込む。

 傷跡が熱く疼く感覚があり、水ぶくれは治った。舌の違和感も消えている。血の医療はヤーナム外であっても、まったく問題は無いようだ。では、青い秘薬などはどうだろうか。ヤーナムと同じ効果を発揮するだろうか。

 

「授業が終わったら、医務室に行ったほうが良いわよ。でも、見るからに失敗している薬をどうして舐めたりしたの?」

 

「気になることには手を出さずにいられない性質なのだ。ところで、何か宿題を出されたような?」

 

「え、ええ──」

 

 課題を手帳に走り書きしていると出入口でセラフィと出くわした。

 

「クルックス、これからの予定は空いているか」

 

 何人かのスリザリン生徒が『グリフィンドールの奴らと話すなんて!』という顔をしているのを見た。

 逆も然り。伝統とは、実に厄介なものだと思う。

 

「寮に戻ってから図書館に行く予定だ。何か」

 

「それは幸いだ。後ほど僕らも行くだろう」

 

「構わんが……」

 

 とはいえ「僕ら」とは気になる。

 スリザリンの誰かだろうか。

 

「仲がいいのね。安心したわ」

 

「……彼女は、何というか、違うのだ」

 

 うまい言い訳が思いつかず、セラフィは友達に分類された。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 グリフィンドール寮は、とある肖像画の裏にある穴から這い上がった先にある。

 螺旋階段のてっぺんには、天蓋つきベッドが五つある。そのうちひとつがクルックスの寝所であり、荷物置き場になっていた。

 談話室の自分の荷物の中、ネフライトから預かっている羊皮紙の枚数を数えて全て目を通したことを確認すると寮を出た。

 

(俺は鞄を買ったほうが良いな。……狩りの間、荷物は全て衣嚢に突っ込めば良いと思っていたが、集団生活だとすこし困る)

 

 せめて書類を入れることができる程度の鞄が必要だ。

 衣嚢に突っ込んでいても良いのだが、学用品と狩りの道具が同じ衣嚢にあることにクルックスは耐え難い思いがした。ここでも神経質な性質が災いしている。日常と非日常が交わることが、どうにも慣れない。

 

 この悩みを父たる狩人は解さないだろう。首を傾げられるかもしれない。けれど、とにかく嫌なのだ。

 

 本ならば手に持っていればいい。けれど裸の羊皮紙をテスト期間でもない時期に、しかも大量に持ち歩くのは、見咎められはされないものの怪訝な顔をされることがある。その煩わしい目からも逃れたい。

 

 放課後の廊下を歩きながら、クルックスは思い出すことがあった。

 

『──狩人にとって重要な性質とは、何だと思うかね』

 

 ある時。

 連盟の長、ヴァルトールが唐突に投げかけた問いにクルックスは自分でも平凡だと思う回答をした。

 

『冷静であること。迷わないこと。つまり、その場に応じた適切な対応ができることだと思います』

 

 長の反応は、いまいちだった。

 恐らく、クルックスの回答は四〇点以下だった。

 

『俺は「鈍感であること」だと思う。知らないことを知らないまま、気付かぬことに気付かぬように。狩人こそ、この性質を持ち合わせることが大切なのではないかと』

 

 これは啓蒙のことをおっしゃっているのか。

 それとも、連盟員以外には見えない虫のことを指すのか。

 あるいは、脳に瞳を得る意味を重ねたものなのか。

 クルックスは聞き返すことができなかった。たった今「鈍感であれ」と言われたばかりだ。言葉の先回りをすべきではないと思ってしまったのだ。

 

『心がけます』

 

『過ぎれば、ただの愚か者だが』

 

 バケツを逆さにしたような鉄兜の下、彼と目があったような気がした。

 

(やはり……)

 

 この人は狩人がもたらしている二〇〇年の安寧を知っているのではないか。そんな予感がクルックスに訪れたが、気付かないフリをした。理由は、分からない。分からないままでよいと思っている。つまりは、こういう気付きのことを彼は言っているのだろう。納得を得て、クルックスは頷いた。

 

『長、貴方の言葉をよく覚えておきます』

 

 左腕を曲げ、簡易な礼をとりクルックスは彼に敬意を示した。

 

 この時から、クルックスは考え続けている。

 神経質な性質は、きっと過ぎれば毒なのだ。ハーマイオニーの「生活に慣れれば、きっと大丈夫よ」という言葉を信じたい。

 クルックスは人の気配の少ない廊下を歩き、やっと図書館に着いた。

 

 司書のイルマ・ピンスは、マクゴナガル先生とは異なる厳格性を持ち合わせる人物のようだった。具体的に言えば、人間に対し手厳しい人物であり、本に優しい図書室司書であるようだった。

 本の山からネフライトを探さなければならないかと思っていたが、ちょうどよいことに彼がピンス司書と話している場面に出くわした。しかし、ロクな成果を得られぬうちに会話が終了してしまった

 どうしたことかとネフライトに聞けば「彼女は生徒に対し、協力的ではない」と呆れる返事をした。

 

「ホグワーツは獣性が高い」

 

「そういう真実めいたことを言うのはやめないか。俺のような低啓蒙なヤツは、それを真実だと思ってしまうんだ」

 

 本日、めでたくない糞袋野郎一号予定者を見つけてしまったクルックスは言った。

 鼻を鳴らしたネフライトが、ピンス女史の背中を睨んだ。

 

「嗚呼、お父様は嘆かれる。ヤーナムに非ずとも人は己の獣性を知らず、肥え太らせるばかり。獣になっていないだけの人でなしのなんと多いことか。彼らは、偶然にここが狂気と月に溢れていないから、獣になっていないだけなのだ。ヤーナムよりすこしばかり可愛い疑心と嘲笑が満ちている。思考の次元を高める方法を彼らは知らないか、忘れているか、失くしてしまったのだ。──恥知らず。嘆かわしいことだ」

 

「俺は……そ、そこまで感じていないが……」

 

 その辺りは、むしろ奇行で人を寄せ付けないネフライトの性質が災いしていると思う。あとはレイブンクロー寮の特色だろうか。

 ネフライトは、世界で最も不幸な者は自分だと言いたげに頭を振った。

 若干の被害妄想こそ見受けられたが、眼鏡の硝子の向こう、彼の涼し気な緑色の瞳に浮かぶ憂いは本物だった。

 

「本当に嘆かわしいことだよ。ヤーナムの解放は遠い。思考の次元が低すぎるのだ。この事態は予想外。魔法族は幸運だ。魔法と言う神秘にまみえたのだから。けれど、肉体が頑強でありながら、いや、であるからこそ? 精神が絶望的なまでに幼い。あぁ、ここは狭窄症的思想者の巣窟だ。ミコラーシュ主宰が瞳を得るほうが早いかもしれない。いいえ、絶対、早いぞ」

 

「主宰のことは知らんが、まぁ、解放が遠いのは同意だな……」

 

 図書室の奥の奥、埃ひとつ落ちていないが人の気配が遠い場所でクルックスとネフライトはひそひそと会話を交わした。

 クルックスは衣嚢に突っ込んだ羊皮紙を取り出した。

 

「資料を見終わったので渡しに来たのだ。問題無いと思う。お父様への提出はいつを予定しているんだ?」

 

「これから毎週だ。授業の程度が分かったので、今後、文量が倍増する予定だ。査読の時間を確保したまえ」

 

「……ぉ、おう……。というか、貴公、授業を聞いているのか?」

 

 ネフライトの授業態度は薬草学で見かけた程度だが、いつも視線を右斜め上に飛ばしており、辛うじて作業をしている状態だった。彼は傍目において「夢遊病患者です」と紹介されたほうが、納得できる所作が多い。しかし。

 

「聞いているとも。我らは生粋の狩人であるが、今は学徒。学業こそが本分だろう。──貴公、燐寸棒は針に変えたか?」

 

「ナイフに変わった」

 

 正確にはネズミの骨だが、絶対に言うまいとクルックスは心に決めた。

 

「裁縫を学びたまえ。私は数分で作業を終了させた」

 

「すごいな。グリフィンドールで成功したのは、ひとりだけだった」

 

「そうか。秀才でなくともマシな存在がいるだけで心が慰められる。今回は運が良かった。ああ、私はヤハグルで学徒の正装を繕うのが仕事のひとつであったから特に……誰か来た」

 

 二人は手近な本棚から適当な本を引っこ抜いて読むフリをして、すぐにやめた。

 現れたのは、ピンズ司書ではなくセラフィとテルミだったからだ。

 

「待たせたな」

 

「はぁい。みなさま、お元気かしら?」

 

 元気いっぱいのテルミが輝くような笑みを浮かべた。

 クルックスの陰に隠れながら、ネフライトは嫌な顔をした。

 

「元気だ。なんだテルミも一緒だったか」

 

「……何の用だ。私を笑いに来たのか」

 

 テルミは「違うわ」と小さなクスクス笑いをこぼして言った。

 

「聖歌隊は、メンシス学派のことを総じて日陰の黴臭い檻頭野郎だと思っているけれど、わたしは違うわ。お父様は貴方に期待なさっているもの。そうツンツンしないでね。……けれど、孤立し過ぎるのは良くないわ。魔女裁判は面白い歴史よ。ぜひ調べてみることをおススメするわ。人はいつでも羊を探しているの。だから森に棲む老婆は皆、魔女になってしまったのね」

 

「……同胞の言葉を無下にはできない。気に留めておこう」

 

 ネフライトなりの誠意ある言葉だった。

 テルミは、相変わらず中身の薄い笑みを浮かべていた。

 

「セラフィ、俺に用事があるのでは?」

 

「探索は進んでいるのか? それを聞きたくてな。ついでに皆の進捗を確認し合うというのも良いだろう」

 

 ふむ。それは良い提案だ。

 唇に人差し指を立てて、声をひそめるよう指示をする。

 レディ・ファーストだ。テルミに手を差し向けると彼女は、悲しそうに眉を寄せた。

 

「ごめんなさい。わたし、人脈作りが忙しくてほとんど探索できていないわ。でも、学校で話せない人はほとんどいなくなったからお許しになってね?」

 

「貴公にしかできないことだ。まったく問題にならないことを俺が保証しよう」

 

 セラフィは珍しく微笑を浮かべ、ネフライトでさえ何度か頷いた。

 次はセラフィだった。

 

「僕は森へ行った。構内は授業でも歩く場所も多いから『まずは外を』と思ってな。珍しい動植物が多いが、特筆するとすれば毒がある蜘蛛がいた。丸薬をいちおう持っていくがいい」

 

「素晴らしい知見を得た」

 

 クルックスは、蛇玉の謎を解くべく数か月以内には森へ入ることを決意した。

 ネフライトがごそごそと羊皮紙を探しながら報告した。

 

「厨房らしき場所を見つけた。だが、合言葉が分からない。情報を求める。場所はここだ」

 

 回覧された羊皮紙には、地図と絵画のスケッチが精緻に描かれていた。

 クルックスとセラフィは首を横に振ったが、最後に紙を受け取ったテルミはメモを見ると目を見開いた。

 

「あ、わたし知っているわ。寮の近くなのよ。果物が盛ってある器の絵の裏に隠し戸があるの。梨を優しくくすぐってね」

 

「そうだったのか。私、夜食がどうしても食べたくなってしまってな。あぁ、私……私……狩人が真っ先に厨房を探すなんて……恥ずかしいことを……」

 

 疑問が氷解すると共に、ネフライトはわずかに顔を赤らめた。

 彼の気弱な態度を初めて見たクルックスは、慰めの言葉が思いつかなかった。

 言葉に迷う彼らだったが、テルミは彼を励ますように肩を小さく叩いた。

 

「食べることは大切なことよ、ネフ。貴方が食事に興味を持ってくれて嬉しいわ。バタービールが美味しかったわ。きっと、ネフも気に入ると思う」

 

「なるほど……バタービール……」

 

「最高の発見だ。ありがとう」

 

 クルックスは糖蜜パイをホールで食べる夢が叶いそうだと思えてきた。

 さて、自分の番である。

 衣嚢から羊皮紙を引っ張り出し、隣のネフライトへ渡した。

 

「俺は校外へ出る抜け道をいくつか。今のところ使い道はないだろうが、いざという時には大切だろう? 手記を使者に頼んである。行けば分かるはずだ」

 

「素晴らしい探索」

 

 回覧後にセラフィが呟いた。

 それが他二人の意見でもあるようだった。

 

 探索結果を報告し合うのは互いの利益になりそうだ。

 クルックスは提案した。

 

「定期的に集まることは良いことだ。互助の精神は大切だとも。今後もこのような集会を持ちたい。諸賢、いかがか?」

 

「賛成だが、集会場所は狩人の夢で良いのでは?」

 

 聞こえる限界でのひそひそ声でネフライトは言う。

 四人は顔を寄せ合っている。毎度これではたまらない、という気持ちは同感であった。

 

「お父様は我々がヤーナム外での知見、ひいては学業に専念することを望まれているでしょう。死んだワケでもないのに夢に帰るのも……その……気が引けるというか、子供っぽくて嫌じゃない……?」

 

「は」

 

 クルックスは、テルミの言うことが分からなかった。

 思わずセラフィを見るが彼女は悟った顔をしている。ひとりで悟っていないで解説してほしい。訴えは通じた。

 

「分かる。分かるぞ、テルミ。僕もカインハーストに登城しない時間が長いからな。鴉羽の騎士様に顔を忘れられていないか心配になることが、ごく稀にある」

 

「は」

 

 何も通じていなかった。

 謎は深まり、さらには別な疑問の呼び水になってしまった。

 今度はテルミが「?」を頭に浮かべている。

 

「──鴉羽の? どなたですって?」

 

「えー、このような意見もあることだ。場所と時間は後で考えよう。一か月に一度は顔を合わせたいところだ。場所は、そうだな、授業後の空き教室とか、考えればいろいろあるだろう。諸賢も情報収集してくれ。ひとまず、今日は解散だ。解散。はいはい、さっさと行くぞ」

 

 三人は頷いて了解を示した。

 ネフライトは引き続き図書室にいるようだ。軽く手を振りながら言った。

 

「私は、放課後と休日は図書室にいる。用があるとは思わないが、何かあれば来ると良い。互助の精神は大切、なのだろう?」

 

「では、後で授業ノートを見せてくれ」

 

「考えておこう」

 

 ネフライトは、同胞に対しては真心から優しい少年であった。

 別れ際には、目を細めて薄く口を開いた。それが彼の微笑であることをクルックスは知っている。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 毎週水曜日の夜中は、天文学の時間である。

 夜中という時間帯は、ヤーナムにおけるクルックスにとって仕事時間にあたる。体調が最も上向く時間帯であった。

 天文塔の外で夜風に当たることもできるこの授業を、彼は気に入っていた。

 

 シニストラ先生による講義を受けながら、星の名前や惑星の動きについて観察を続けていく。天文学という分野において、一時間程度で分かることなどタカがしれている。そのため、継続した観察の重要性をクルックスは言外の学びで得ていた。

 

 まこと、継続は力なりである。

 

 そういえば、似たことを父たる狩人も言っていた。聖杯の中で、自分がいったい何をされたか理解もしないうちに死んでしまい、せっかく溜めていた血の遺志をどこかに落とした際にクルックスに放った「だから君、鎌貯金をしたまえよ」は至言である。この日より、クルックスは宵越しの血の遺志を持たなくなった。そろそろ、葬送の刃の収納場所に困るようになってきた。

 

 今日は、天文学において何か珍しい現象を見ることができる日だという。そのため、グリフィンドールとレイブンクロー、そしてスリザリンの三寮での合同授業となっていた。雲のない静かな夜だ。火星の明るさを確認したところで授業は終了した。

 生徒がぞろぞろと天文塔から出ていく間、流れを逆行する者がいた。ネフライトだった。

 

「シニストラ先生、お願いがあります。これから十分程度、この屋上で作業する許可をいただけませんか」

 

 ゆっくりと丁寧な言葉でネフライトはシニストラ先生に声をかけた。

 彼女は、生徒が望遠鏡の間違った収納をしていないか見守っているところだった。

 

「ええ、まあ、十分程度でしたら。けれど、何を?」

 

 シニストラ先生は、三寮の生徒が狭い階段を降りる時間を考慮したのだろう。とりあえずの許可を出した。

 今日は満月である。ネフライトが張り切るのも仕方が無い。

 クルックスは、収納し終えた望遠鏡を担いだ。

 

「ハーマイオニー、先に寮に戻ったほうが良い」

 

「え、ちょっ……」

 

 クルックスは、彼女の背を控えめに押し、戻ることができずに人混みへ流されていく彼女を見送った。

 

「今日は満月であり、交信の成功確率は欠月より比較的高いと学派において結論付けられております。ゆえに交信します」

 

 ネフライトがガチャと音を立てて取り出したのは、メンシスの檻だった。

 メンシスの檻。

 それは、頭がすっぽり覆われる六角柱の檻である。だが、その正体は上位的存在と交信するための触覚であり、さらに驚くべきことに──狩人曰く「実績がある」らしい。

 

 先生は「ワケが分からない」という顔をして檻をかぶったネフライトを見ていた。

 彼は、許可を得た以上は先生に興味を無くしたらしい。

 塔の上で最も月に近い場所に立ち、両手を伸ばしている。

 

 クルックスが、ネフライトの動向を見守ることに決めたのは、万が一、成功した場合に現れる上位者を狩るためだ。それがたとえアメンドーズであってもホグワーツに野放しにすることはできない。同じ方針を決めたらしいセラフィも望遠鏡をゆっくりたたみながら、目を細めて様子を見ている。

 

 そのほかに残った生徒達が失笑を隠しもしないで彼を見ている。

 滑稽に見えるのだろう。

 たしかに。ヤーナム民から見ても、あれは奇妙である。

 

「貴公ら、あれを見たことがないのか?」

 

 セラフィが尋ねた。

 相手は暗くてよく見えないが、恐らくは、スリザリンの生徒だろう。

 

「見たことがあるワケがないだろ。なんだい、あれ。傘立て?」

 

「家にある屑カゴがあんな感じだよ」

 

 それは、上位者との交信が檻を通して行われていないことを意味する。

 魔法族の一般的知識に、やはり上位者の影は見受けられないようだ。

 

「見たことが無いのか。幸いと思いたまえよ。儀式とは秘匿である。異常であれば、それは平常ではないのだから」

 

 まったく同意見だ。

 クルックスは、セラフィに内心で頷いた。

 

「──ゴース、あるいはゴスム、我らに瞳を授けたまえ。我らメンシスの徒に瞳を与えたまえ。脳に瞳を与え、獣の愚かを克させたまえ。我らの祈りが聞こえてはおられぬのですか。ああ、ゴース、あるいはゴスム──」

 

 祈りの言葉は繰り返し続く。

 はじめはゲラゲラと笑ってみていた観衆も次第に声が小さくなった。虚空に祈りを捧げ続ける生徒が、まったくの平常ではないと気付いたのだろう。ほとんどの生徒は気味悪がって足早に去った。

 

 セラフィがちらりと視線を寄こした。成功するかどうか。気になっているのだろう。

 クルックスは肩を竦めた。恐らく、失敗するだろう。

 

 ビルゲンワースから医療教会──聖歌隊、そしてメンシス学派に至るまで、上位者との交信はクルックスの知る限り、成功していない。

 最後の周回以来、父たる狩人が上位者狩りに出動したことがないとは人形が証言している。

 

 十分間に渡る交信が終わった。

 ネフライトが肩を落とした。どうやら成功しなかったようだ。

 

「戻るぞ」

 

 クルックスの声に、ネフライトは軽く右手を挙げて振り返った。

 

「あとひとつ。試したい思索がある。座標跳躍的試行だが、上手くいけば新しい思索の先触れとなるだろう」

 

「手早く済ませよ」

 

 ネフライトが右腕を伸ばし、頭上に掲げた。そして左腕を地面と水平に伸ばす。

 触覚たるメンシスの檻があるため、交信のポーズとは、ただのジェスチャー以上の意味を持たない。けれど、そのポーズは、父たる狩人から授けられたポーズだ。

 つまり、彼が交信しようとしている者は──。

 

「お父様……お父様……月の香りの狩人様……月の香りの狩人様……」

 

 クルックスは「これは無理だろ」と心の底から思った。

 狩人にとって満月の夜は、特に忙しい。晴天ならば特にもその傾向がある。人間も獣も月光のおかげで視界は良好だ。狩人の夢でのんびりしている時分ならば交信が通じそうなものだが、今日は無理だろう。聞こえていたとしても狩りの邪魔になりそうだ。そのような考え事をしていた、その時。

 交信のポーズを保っていたネフライトが、耳を抑えようとして檻を掻いた。

 

「あぁっ! 声、声が!? 瞳が──ああ、ああっ!」

 

 彼にしては珍しい嬉しそうな声に、クルックスは目を丸くした。

 

「え」

 

 クルックスは、思わず声を漏らした。そしてセラフィと顔を見合わせた。まさか成功したのだろうか。

 ワケが分からない顔で立ちすくむシニストラ先生は、実に健全な反応であった。

 

「あ! いいえ! 私はホグワーツに……! ちょっと超次元的思索のために……あ、はい……失礼しました……あの……その……では……また……血の加護のあらんことを……」

 

 もしも、ここに非魔法族の文化に精通した者がいるとしたら『相手の間の悪い時に電話して謝っている人』という喩えをしたかもしれない。けれど、実際にはいなかったので彼は虚空に向かってぺこぺこ頭を下げている人になった。

 

 交信のポーズを解き、メンシスの檻を外したネフライトが振り返った。

 とてもしまりのない、どうにもこらえきれなかった笑みを浮かべている。

 セラフィはもちろんクルックスも、彼がこれほど喜んでいるのを見たことが無かった。

 

「ひひっ、ふふふ……。やはりミコラーシュ主宰は正しい。メンシスの檻の有効性は証明され、お父様の瞳は我々の存在を通してホグワーツを捕捉した」

 

 彼は腕のなかの檻を大切そうに撫でた。

 これが手持ち人形であれば、まだマシな光景であったが、これも実際には檻なので彼の事情を知らなければ、余人は奇妙な印象を抱かずにはいられないだろう。

 

「あなたは、いったい何をしていたのですか」

 

 シニストラ先生が、やや怒ったように尋ねた。

 熱に浮かされた顔をしているネフライトは、首を傾けた。

 

「シニストラ先生、貴殿は夜空の瞳に見えたことが無いのですか? 宇宙に続く深淵の向こうから覗く瞳を見たことがないのですか?」

 

「瞳? 宙にあるものは星であり光であり熱です。何を言っているのか……」

 

「その通りです、先生。それらを理解するには、我々の思考の次元が低すぎるのです。だから我らには探求が必要なのです。ああ、聡明なるシニストラ先生。ご協力に感謝いたします。来週も同じようにお時間いただければ幸いと考えますが……今日のところは失礼いたします」

 

 ネフライトはテルミを彷彿させる流暢な言葉を操り、狩人式の礼をすると星見の塔を後にした。

 

「おやすみなさい、先生」

 

 クルックスとセラフィはそう言って同じように塔を後にした。

 階段を下っているとセラフィが窓を見上げていた。

 

「本当にお父様に通じたらしいな。ネフがあんなに喜ぶとは」

 

「満月の夜に繋がるなど、お父様の気まぐれだろう。……それとも、あの方は俺達のことを考えていたのかな」

 

「もっと簡単なことだろう。『呼ばれたから答えた』程度のものではないかな。お父様の耳は、よく助けを求める声を聞く」

 

「それこそ、まさかの話だ」

 

 二人の姿は橙の明かりを灯す城内に吸い込まれていった。

 

 

 




【解説】
 メンシスの檻──送信する物であり、受信する物であり、正しく伝わるように補正する物です。そして、上位者へのコンタクトに成功し、ヤーナム終末時計の針を23時59分59秒まで進めました。ゲーム内、主人公狩人が巻き込まれる獣狩り夜の直接的な引き金を弾いたと言っても過言ではないでしょう。
 そんなメンシス学派の徒であるネフライトですが、彼なりの愛着をメンシス学派に抱いています。ヤーナムにおいて「獣の病をどうにかしよう!」と考えて積極的に動いている唯一(かもしれない)の組織ですから、そこに置かれた自分は父から期待されているのだと自負していることも一因です。ホグワーツを捕捉できていない狩人にコールしたのは、外への興味を持ち始めた彼が気軽に覗き込めるようにするためです。……間は悪かったようですが。

【解説2】
「シニストラ先生って誰?」となった方も多いかもしれません。
 天文学の女性の先生です。原作本において女史個人の記述も少なく、また、天文学についての描写がそもそも少ないため、二次作品ではさまざま盛られている先生でもありますね。まともに描写されたのが『炎のゴブレット』にてムーディ先生(偽物)とダンスを踊っている旨の記述があった程度でしょうか。ショート・ストーリー集でも姿を見せない先生ですね。ポッターモアの方では何かあるのかしら。うーん。この辺りの検索は、また別の機会に……。

【あとがき】
 自分で書いておきながら何ですが、個人的に声に出して読みたい日本語の上位にランクインしました。
「聖歌隊は、メンシス学派のことを総じて日陰の黴臭い檻頭野郎だと思っているけれど(略)」


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四階の廊下探索

秘匿
秘されるだけでは足りず、隠されるだけでも足りはしない。
秘され隠されてこそ暴く価値が生まれるだろう。
とはいえ、幸があるとは限らないが。



 九月一日に入学して、約二か月が経とうとしている。

 十月三十一日、すなわちハロウィーンが近づいていた。

 上級生によればハロウィーンとは、お祝いの日であると言う。

 ハロウィーン。

 その起源は、古代ケルトまで遡れる。祭りの起源を考えると魔法族がお祝いとすること事態が不思議に思えた。英国が得意とする皮肉なのかと思いきや、そんな様子でもなさそうだ。学生は「いつもよりも豪勢な食事が出るだろう」と期待で胸一杯の様子である。

 祭事の中身を気がかりにして特別な礼装を用意しなければならないのか、と悩むグリフィンドール生はクルックスだけだった。周囲を見回して彼が出した結論は『祝祭本来の宗教的な意味合いは失せ、仮装して食事を楽しむ日になっている』というものだった。

 

 そんなハロウィーンを前日にした、今日。

 ──生徒が浮き足立っていれば、先生の監視の目に変化があるのではないか。隙があるのではないか。

 思い付きを確認するため、クルックスは前向きな計画を立てることにした。

 

 入学以来、夜ごと地道な探索を続けていた彼は、今日はいよいよ四階の廊下へ行ってみようと思った。入学から約二ヶ月も時が経ってしまっていることをやや反省する。しかし、仕方が無かったというものだ。宿題が多いことを言い訳にした。

 さて。

 件の廊下は、日中はもちろん平日・休日の夜間でも先生とフィルチ、ときどきピーブスが徘徊している。ある程度の規則性は把握できているが、祭日の陽気に当てられた生徒が廊下に突撃すれば、今日と明日の監視は変則的になるかもしれない。異常に対し、先生方がどのような対応をするのか気になる。何も起きなければ、それはそれで都合が良い。扉を開けて、秘匿を暴きに行こうと思う。多少の鍵は何とかなる。

 

(……最小の費用で行きたいところだが)

 

 テルミから購入した『青い秘薬』は、衣嚢にしっかりと納められていた。

 青い秘薬。──それは医療教会の成果物のひとつだ。脳を麻痺させることで自身の存在を限りなく薄める効果がある。しかし、狩人は確固とした意志を保つことで副作用のみを得るのだ。啓蒙高い人物が、注意深く観察しなければ彼がそこにいることは見抜けないだろう。

 クルックスは、ハッと息をのみ、首を横に振った。

 

(いけない、いけない。こういう、せせこましい考えの時に限って失敗するものだ。気を付けなければ……)

 

 彼は、数日前のことを思い出していた。

 湖を臨む岸辺で開かれた二度目の『きょうだい会議』のおり、テルミが言ったことだ。

 

「意外だわ。まだ誰も四階の廊下に行っていないのね。『誰も』というのは皆のことよ。生徒のことね」

 

「どういうことか」

 

 ネフライトが「察し悪いぞ」とクルックスを小突いた。

 

「『四階の廊下に近付いた生徒がいない』ということだ。興味本位であれ探索であれ、二か月も経てば興味本位で一人くらい行こうとするだろう。校長が秘したものだ。実に気になる。だから、もし、誰かが挑んだとしたら成功しても失敗しても、多少の噂になるに違いない。けれど、情報通のテルミでさえ、そんな噂を聞いたことが無いという。だから、本当に誰も行っていないと思われる。──ということだ」

 

 彼の解説は分かりやすかった。

 なるほど。クルックスは頷いた。

 

「ならば最初からそう言ってくれ、テルミ。適切な情報伝達を求める」

 

「あらあら。これくらい察してちょうだいな……。理解力が足りないのなら、お父様にお願いして瞳をおねだりしてみたらどうかしら」

 

 冗談めかしてテルミが言う。

 蛇が囁く様が思い起こされた。

 

「無茶言うな。お父様は瞳を授けるなんてしな──あ、あ、あまり、しない」

 

 あまり?

 耳ざといネフライトが聞き咎めて何かを言おうとしたが、遮った。

 

「気にするな! さて、各々探索の際は特にも気をつけるとしよう。まっとうな狩人を慰める程度の秘匿があると信じたいところだな。では、テルミ。青い秘薬をダースでくれ」

 

「はい。どうぞ。けれど、お支払いは結構よ」

 

 同じように彼女に頼もうと思っていたらしいネフライトが「おや」と言う。

 

「む? なぜだ」

 

「代わりにあとで聖杯探索に付き合ってね。人付き合いはお金がかかるのよ」

 

「ああ、そういうことか。了解した」

 

 クルックスは青い秘薬を受け取った。

 ネフライトは、すこし考え込むように視線を逸らし、やや間をおいて彼女を見つめた。

 

「……私は半ダースでいい」

 

「あらそう? 道具を惜しむとしくじるわよ」

 

「そんなヘマはしないっ」

 

 噛みつくようにネフライトは言い、青い秘薬を受け取った。

 青い、怪しげな液体が入る瓶を揺らしながらテルミは、セラフィにも入用か訊ねた。

 

「僕は以前買った物があるから必要ない。しかし、秘薬を使わずともよいのでは? つまりは、先生方がこちらを見た時に誰か分からなければ問題が無いのだ」

 

 セラフィが断言した。

 三人は顔を見合わせ、察しが良すぎたネフライトが彼らの心情を代弁した。

 

「君の発想が……もうカインらしくて聞くのも嫌なのだが……同胞のよしみで一応聞いておこう。何か策があるのか?」

 

「何と都合が良いことに、ここに偶然、カインの兜があるのだが──」

 

 これには他三人が声を合せて「結構」と告げた。

 カインハーストに仕える騎士達が被る兜。それは、銀装甲で頭全体を覆うものである。

 三人は、銀が光を弾くことを嫌がった。明かりを持って歩けば、必ず反射するだろう。それは暗い廊下で避けたい事態だった。

 

「そうか。良い案かと思ったのだが……ふむ」

 

 ちょっぴり残念そうにセラフィは衣嚢に突っ込みつつあった手を戻した。

 

「セラフィも探索の時は青い秘薬を使うことだ。──聞くところによると道具を惜しむとしくじるらしいのでな」

 

「奇遇だな。僕もそう聞いたことがある。テルミ、愛らしい妹。商売上手よ」

 

 からからと笑うクルックス。セラフィは口の端を上げる程度の微笑みを浮かべた。

 頬を紅く染めてテルミは「まあ」と口を押さえた。

 

「んーっもう、心配して言っているのに」

 

 ──分かった分かった。

 クルックスは、彼女をなだめた以上は「油断すまい」と気持ちを決めていた。

 ゆえに。

 青い秘薬をすぐに取り出せるように衣嚢に入れた。

 

 ホグワーツの制服の上から衣嚢を叩き、持ち物を確認する。問題は無い。たいていの問題には対応できるだろう。

 寝室を出て行こうとした時、ベッドの上に放られたままになっていたトリコーンが目に映った。そういえば、とクルックスは父たる狩人と青い秘薬のことに思いを馳せる。「これを飲むと目が醒める」と言い、ちょっとキツめの栄養剤のノリで飲む狩人はどうかしているとクルックスは思う。

 

(意識しかない状態で体を動かしているんですから、そりゃあ醒めるでしょうけれど)

 

 彼の狩人の特性なのか上位者としての肉体の作用なのか。はたまた彼の嗜癖以上の理由は無いのか。判断材料のアテも見つからない規格外だ。クルックスには真似できそうにない。

 父といえば、最後にもうひとつ。ネフライトに聞き忘れていたことを思い出した。

 

(お父様と接触したと言っていたが……?)

 

 基本的に誰かに頭を下げるを良しとしないネフライトが、思わずペコペコとしたのだから彼は怒られたのかもしれない。けれど、落ち込んだ様子も無かった。──ということは、怒られなかったのだろうか。まさか。

 

 クルックスは、すこし迷い、結局、トリコーンを手に取った。

 つい先日、伝統をくだらないと思ったこともあったが、訂正が必要になった。新たな地に赴く時は、伝統が心強いと感じられることもあるようだから。

 彼は、寮を出た。

 

 同じ部屋のハリーとロンがマルフォイが何やらと話し込んでいたが、気に留めなかった。

 彼らの企みが、結果として探索を中止に追い込むことなど考えもしなかったのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

ルーモス 光よ

 

 杖先に光が灯る。

 基本呪文集のなかで最も役に立ちそうな呪文は、このように役に立った。

 携帯ランプより優れていることは、三点ある。燃料を消耗しないこと。松明より周囲への影響が少ないこと。そして何より、明るいこと。

 

 残り火が燃える暖炉を過ぎ、談話室を出ると誰かの気配があった。それはネビルだった。

 午前中の飛行訓練において高所から落下したネビルは午後の授業に出席しなかったのだが、戻ってきたらしい。近寄っても気付かないので寝ているのだろう。騒がれると迷惑なので、このままにしておこう。

 クルックスは、歩き始めた。

 

(絵画の中の人物が動いている……。お父様が見たら何と言うだろうか)

 

 慣れた光景だが、まじまじと見れば未だに驚くことができる。

 階段を昇る。ギシリと鳴った。

 周囲を確認する生きている人間はいなかった。

 死んだ人間ならば、いた。視界の隅を半透明の光るものが過ぎっていった。こちらも慣れた光景だった。

 

「おぉ……グリフィンドールの……」

 

「『ほとんど首無しニック』、いえ、ニコラス卿とお呼びしたほうがよろしいか」

 

 礼儀として簡易な礼をした。

 何も無い空間に浮かぶニックと目が合った。

 

「こんばんは。グリフィンドールの一年生。ミスター・ハント」

 

「ええ。こんばんは。俺は、これから四階の廊下へ向かう予定です。……さて、卿は先生方へ告げ口なさる御仁であるか。ニコラス・ド・ミムジー=ポーピントン卿?」

 

 言いくるめられるか。それともこのまま引き返さなければならないか。殺しきれなくもなさそうではあるが、できる限り手荒な真似は避けたい。

 クルックスは、穏やかに問いかけた。

 

「いつもならば、そうするところです。しかし……」

 

 彼は、クルックスの帽子に目を留めた。

 

「これをご存じですか?」

 

「いえ、ただ、ずいぶん『古いな』と思って見ておりました。お気に障ったら失礼」

 

「古い?」

 

 ニックは小首を傾げ、顎髭を撫でた。

 

「ええ。そのトリコーン、いわゆる三角帽が流行したのは一八〇〇年代でしょう? 今では、そうですね、せいぜいが海賊帽として知名度がある程度でしょうか。それを被って来た生徒は、ここ一〇〇年見たことがありません。……今の時流では、何と言うか……えー……シャレ過ぎるでしょう」

 

 ニックが帽子を被る仕草をする。ひだ襟服の上で首がぐらぐら揺れていた。

 

「なる、ほど。俺の故郷では、一般的な帽子だが……。それで、告げ口するのか? 出直すか強硬するか。さっさと決めたい」

 

 周囲に他の気配は無いが、いつまでも駄弁ってはいられない。

 ニックは半透明の肩を竦めた。階段の手すりを透過し、彼はクルックスの立つ階段の数段下に立った。

 

「今年の一年生は『特別』が多いようですね……。ああ、ハリー・ポッターに限らずですよ。こうして私とばったり出くわしても慌てることなく、怯えることなく、まして悪びれることもない。あなたと同じように挨拶をして見せた子がいます。……何か使命を帯びているのでしょうか。同じ目をしているように見えますが」

 

「俺達は遙か暗澹のヤーナムより来た。血塗れの同士に報いるために俺も歩み続けなければならない。止めないのであれば、世間話は後日にしたい。……が、初めて会った時からうかがいたいことがあった。『ヤーナム』という古都をご存じか?」

 

「ヤーナム……? いいえ。聞いたことがありません」

 

「そうか。しかし、ありがとう。ニコラス卿。宮廷仕えだったという卿が知る由も無い、きっと田舎なのだろう」

 

 クルックスは事実を並べただけだが、ニックは違うとらえ方をしたようだった。

 階段を昇り始めた背に声をかけられた。

 

「以前! 同じことを聞かれたことがあります。普段、誰とも関わらない、檻を被ったレイブンクローの生徒に……」

 

「貴兄が騎士道を重んじるグリフィンドールに相応しいゴーストであると信じている。失礼」

 

 収穫は無かった。

 クルックスは、いよいよ文献の調査をしなければならないだろうか、と宙を見ながら考えていた。

 

 階段を昇り、廊下を渡る。高窓から清々しいほど白い月光が差し込んでいた。

 獣の臭いは無い。香炉の煙も無い。

 それだけでクルックスは、悪い夢のような気分になり頭を振った。

 

 目的の廊下には、すんなり到着した。

 事前に順路をさんざん確認した甲斐があった。

 

(それにしても警戒が緩い気がする……)

 

 右。左。クルックスは頭を巡らせて確認する。辺りに注意しても誰もいないのは確かだった。ハロウィーンを前日に控えた陽気は、禁じられた廊下まで届かなかったようだ。

 運が良い、と思っても良い状況にある。もちろん、油断はならないが。

 クルックスは帽子を目深にかぶり直すと衣嚢から針金を取り出した。

 廊下に面した扉。施錠されていることは分かっていた。解錠の必要がある。

 

「…………」

 

 まずは一本差し込んで状態を確認する。手応えを掴みながら調整した二本目を差し込み、更に感覚を研ぎ澄ませる。

 

(ぐぅ……いっそ壊したいが)

 

 鍵は古風で、ともすれば単純な機構である。開錠について手ほどきを受けたクルックスであれば、何とか突破できる程度だった。

 もっとも、後先考えずに破壊しても良いなら散弾銃を撃ち込んで扉の施錠部を壊したい。それか斧で扉ごと切り倒すほうが簡単だ。爆発金槌という手もある。けれど探索が何らかの理由で中断した場合に、後ほど扉が壊されたことが問題となって秘匿が場所を移動する可能性が排除できない。

 ──今回は運が良い。一度きりの探索で全て明らかにしてしまいたい。

 いくつかのピンが解錠の位置に近付いた。

 あとすこしだ。落ち着かせるように呼吸を繰り返す。

 

(俺はヤマムラさんのように器用ではないから時間がかかる……)

 

『四角の紙で何でも作れる』と言われるほど指先が器用な同士ヤマムラが、クルックスに鍵の開け方を伝授することになった経緯は、実に大したことが無い。

 

『ヘンリックから投げナイフを教わっているのか。そうか。励めよ。──さて、同士ヤマムラよ。手先が器用だったな。何かないのか?』

 

 クルックスは、その言葉を聞いた時、腹の底がヒヤリと冷えた。

 同盟の長、ヴァルトールの暴投気味のリクエストに対し「いいえ」を知らないように言わないサムライは恐らく反射的に「はい」と答えて立ち上がった。……クルックスの言うべきことではないので言う心算は無いが、ヤマムラは「いいえ」を言うべき場面で言うべきだと思う。東邦の男とは、皆こうなのだろうか。心配である。

 連盟の名誉を保全するために思考を逸らせるが、連盟はパワハラ・モラハラ・セクハラの無い、ヤーナム広し深しといえど比較的アットホームな協約だ。

 話を戻そう。

 東方から来た異邦人、ヤマムラが「昔……うん……いろいろあってね……」と語りながら教えてくれた技術は本物であった。鍵とは種類を知り、コツを覚えれば対処は難しいものではない。

 

 カチリ。

 針金とピックが噛み合う、良い手応えがあった。

 クルックスは乾ききった唇を舐める。──もう少しだ。

 

 その時だった。ドタバタと数人の足音が耳に届いた。足音は近い。廊下のどこかにショートカットがあったに違いないと思えるほどに、それは近い。

 クルックスは杖先の灯を消す。そして針金を鍵に差し込んだまま、死角になりそうな壁に張り付いた。そして、衣嚢から青い秘薬の瓶を取り出し、飲み干した。

 

「……っ……」

 

 脳が麻痺し、息が詰まる。次いで意識が遠ざかる感覚に陥りそうになるが、大きな問題にはならない。意識の輪郭を捉え、明晰を保つ。狩人の業である。そして、息を潜め、じっと来訪者を待つ。待った時間は、たったの二秒だった。

 走ってきたのは三人だった。強張った顔をしたハリー・ポッター、ロナルド・ウィーズリー、そして、クルックスはかなり驚いてしまったのだが──ハーマイオニー・グレンジャーがいた。

 クルックスが弄っていた鍵にロンが飛びついた。

 

「ダメだっ! 開かない! もうダメだ! おしまいだ!」

 

 さらに足音が聞こえた。

 生徒なら誰しも一度は聞いたことのある、ズカズカと響く足音──フィルチだ。

 まるで世界の終わりを見ているようにロンは、呻いた。

 

「ちょっとどいて」

 

 騒ぐロンの腕を引いて、ハーマイオニーが杖を持ち、扉に近付いた。

 

アロホモラ

 

 聞いたことのない呪文だ。しかし、効果はハッキリと分かった。

 カチッと軽い音を立てて鍵が開き、ドアがパッと開いたのだ。

 開いた瞬間に三人はなだれをうって扉へ飛びこんだ。同じようにクルックスもするりと中に入り込む。

 

 彼らによって扉が閉められると外では話し声が聞こえた。

 フィルチとピーブズが言い争いをしているようだ。「どうぞ」と言わなければ何も言わない、と言い張るピーブズにフィルチが渋々「どうぞ」と言う。するとピーブズが「なーんにも!」と答えた。クルックスであればノコギリ鉈の錆びにしている問答だった。

 からかい終わったピーブズが消えるとフィルチがミセス・ノリス──猟犬のような猫だ──へ扉を調べようと言いだした。

 

 その時になり、クルックスは自分が鍵に針金を差したままであることを思い出した。

 

(まあ、ただの針金だし……)

 

 何の変哲も無い針金なので問題はないハズであった。誰がやったか、管理人には分かるまい。しかし『扉を開こうとした生徒がいる』という情報を与えてしまうことになるのは、マズイことだろうか。

 クルックスが思案を始めようとした矢先。

 

 ──ウアアアアアアアアアアアア……。

 

 扉の向こう、さらに遠くから声が聞こえた。獣の鳴き声──を揶揄したような人の声だ。

 この声をクルックスは知っている。ネフライトだ。

 彼が「ダミアーンさんが『メンシス学派の忘年会でドッカンドッカンのネタだ』と言っていた。学派で聞いた冗談のなかでもキレキレだ」と言っていたので覚えている。また、それを聞いた狩人も「煽る時にいいと思う!」と青筋を立てながら言ったので、よく覚えていた。

 

「まただ! 夜に! 生徒が! 出歩いている! このっこのっ……!」

 

 怒り狂うフィルチは去ったようだ。

 きっとネフライトは、この辺りの廊下を散歩していたのだろう。彼には後日、礼をしなければなるまい。

 

 スン、と鼻を利かせる。

 どうしてコレまで気付かなかっただろうか。

 一ヶ月以上、嗅いでいなかった。獣の臭いだ。

 クルックスの目は醒めに醒め、右手はノコギリ鉈を探し、左手は散弾銃を求めて宙を掻いた。

 

 四階の廊下の先、閉ざされた部屋は、ただの広い空間の部屋ではなかった。

 

(……彼らを守れるだろうか)

 

 クルックスは飛ぶようにステップして、それと対峙した。

 これまでに倒した獣で最も姿が似ているのは、旧主の番犬だ。あれは強靱な顎を持ち、何より巨体な犬だった。だが、目の前のこれらと似ているのは図体だけだ。なぜなら、目の前の怪物の首は三つある。各々が黄色い牙を剥き出し、口の端からはよだれが垂れていた。

 襲って来ないのは、突然現れた姿に彼らも戸惑っているからのようだった。

 

 クルックスが衣嚢から武器を引きずり出す前に、緊張の糸は限界を迎えた。

 背後にいる三人が大きな悲鳴を上げ、弾かれるように部屋の外へ転がり出た。

 犬は消えた三人を目で追い、やがて、鼻をひくつかせてクルックスへ顔を向けた。青い秘薬は存在を薄れさせるとはいえ、まったく違和感無く存在を消す便利な物ではない。

 クルックスは、そろりそろり、と動く。犬は匂いがある姿の見えないものに困惑しているらしい、攻撃してくる様子は無い。それに乗じて、そっと退室した。

 

 三頭犬の足下に仕掛け扉があることを確認できた。

 それだけが収穫になってしまった。

 

(騒ぎすぎる……)

 

 クルックスは、扉の針金を回収すると来た廊下を歩き、談話室に戻った。

 談話室の塔を昇ると興奮した様子の三人が話し込んでいた。

 暖炉の火は、すっかり失せている。

 

「──仕掛け扉の上に立っていたの。何かを守っているに違いないわ」

 

 ハーマイオニーの言葉に、ハリーは閃いた顔をして、目を見開いた。

 

「ハグリッドが言っていたんだ。グリンゴッツは何かを隠すのには世界で一番安全な場所だって。ただし、ホグワーツ以外ではね……」

 

「隠し物? なんだってホグワーツに隠すんだい。グリンゴッツなら分かるよ。銀行だからね。でも、ホグワーツであんな怪物を閉じ込めておくなんて、連中はいったい何を考えているんだろう」

 

「──貴公ら」

 

 声を発したことで秘薬の効果が薄れ、彼らはクルックスの姿を認識できるようになった。

 突然、現れたように見えるクルックスに彼らは大いに驚いた。

 

「わっ。ハント、寝てなかったの? ……?」

 

「騒いで悪かったよ。……?」

 

 三人の意識は、クルックスの帽子に注がれていた。

 

「えっと。素敵な帽子ね。帽子を被って寝る癖が……あるのかしら」

 

 取り繕うとしたハーマイオニーを意に介せず、問いかけた。

 

「なぜ、四階の廊下にいたんだ?」

 

 帽子を小脇に挟み、質問すると三人は分かりやすく狼狽した。

 

「ずっと見ていた。四階の廊下。鍵のかかった扉を開けたのは、ハーマイオニーだったな。いや、別に告げ口などしないが。……情報交換だ。ポッター、貴公はあの部屋に何があるか、知っているのか?」

 

「──君は、どうしてそんなことを聞くんだい」

 

 知らない、と言いかけたロンを遮り、ハリーが尋ねてきた。

 

「秘匿は破らなければならない。秘されているのならば、暴くまでだ」

 

 クルックスは、そう告げてから、考え直した。

 三人の理解が追いついていない、ポカンとした顔を見てしまったからだ。

 

「言い直す。──俺は、あの部屋の中に、具体的に言えば犬の下にあった仕掛け扉の中に、何が入っているのか気になるのだ」

 

「か、怪物を見なかったのか? 頭がみっつ! あんなの敵うわけないだろ!」

 

「俺は強いので頭が三つあろうが、大きな問題ではない。……今日のように邪魔をしてくれるな。では、俺は休む」

 

 ひとこと言ったら、ささくれていた心が穏やかになった。忠告もできたので自分にしては、よく話した方だと思う。

 後ろで彼らが話す声が聞こえるが、螺旋状の階段を昇ると聞こえなくなった。

 制服を脱ぎ、軽装になると寮のベッドに身を横たえて目を閉じる。

 

 仕掛け扉の先を考えていた思考は、いつの間にか穏やかになっていた。

 今日の眠りは珍しく、這い寄るようにクルックスの意識を浸していった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 最初は、夢を見ていたのだと思う。

 夢。

 睡眠中に見る何らかの視覚像をそう呼ぶ。

 物知りなネフライト曰く悪夢とは異なる。ただ、自分の頭が見せる幻だという。

 

 青と灰と黒で満たされた空間に漂うクルックスの意識は、しばらくぼんやりとしていた。自分の輪郭を辿っては、集中が途切れて解けていく。観測する者がいなければ、穏やかに眠ることも出来る場所だった。

 しかし、ある時。クルックスの意識は、何かに見つめられたことで覚醒した。

 

 その瞳は万象を見通すことができる。

 けれど、普段は用が無いので閉ざされているはずだった。

 

 体に重力を感じて目を開く。

 暖炉の奥で生木の爆ぜる音が聞こえた。

 

「ハッ!」

 

 ビクッと体を震わせる。

 気付けば、狩人の夢のなか。椅子に座っていた。

 対面には父たる狩人がいる。

 

「あ? お、お父様? あれ……俺は眠っていた、ような……?」

 

「ああ、都合良く寝ていたな。俺が呼んだ」

 

 何も不思議は無いように狩人は答えた。

 彼は手紙を書いているようだった。几帳面な文字で細々と綴られていく様子をクルックスは事情が飲み込めないまま見ていた。

 

「小さな狩人様」

 

 人形がクルックスにお茶を運んできた。

 受け取る。それは仄に香る。これが夢では無く、現実であると告げていた。

 周囲を見る。同じ枝葉の存在の気配は無い。どうやらクルックスだけが呼ばれたようだ。

 

「あ、ありがとう、人形ちゃん。お父様が俺に用事とは──ヤーナムで何か緊急事態がっ!? 上位者襲来とか!?」

 

「ヤーナムは今日も平常通りだ。夜な夜な獣は出ているが……まあ、いつものことだな。医療教会の祈りを放置しているが、何か来ている感覚は無い。つまり俺の用事はヤーナムのことではないことが分かったな。用件は、大したことじゃない。実は、ホグワーツに手紙を届けて欲しいんだ」

 

「お、お手紙?」

 

 意外な用事だと思った。

 クルックスは、喉を潤すために茶を一口飲んだ。

 

「校長──ダンブルドア校長とか言ったか。彼宛の物だ。彼は、得体の知れない街から得体の知れない生徒を受け入れているからな」

 

 ずいぶんと手の込んだ。しかも普通の手段を使うのだな、とも思った。

 クルックスの夢に侵入して意識を引き寄せたように、彼がちょっと足を伸ばせば校長の夢に出現することは、きっと難しいことではない。

 

「入学して約二ヶ月だろう? 追い出される気配も無いのならば、俺からひとこと『お礼』申し上げねばなるまい──と思いついた。ちょうどネフの交信でホグワーツの場所も特定できたことだ」

 

「ああ、あの時。ネフの近くに俺もいました。お忙しい時間ではなかったですか。あの日は、そう、満月で」

 

「連盟の会合中だった」

 

「あ~」

 

「長に話しかけられている間にネフと会話したんだが、狩りの合間の休み時に『今、忙しいんだ』とか言ったから長に怒られて市街を駆け回るハメになった。間は、悪かったな」

 

「あっ」

 

「しかし、良い試みだった。夢を見る狩人である限り、皆の居場所を俺が特定することは容易いが……それにしても方向のアテが無いのでは手間がかかる。神秘が違うせいか、使者達の追跡も時間がかかりそうだった。後回しにしていたことがネフのおかげで片付いた」

 

「……場所の特定ができても直接伺わないのですね。いえ、行かないほうがいいと思うんですが、意外です」

 

 言葉がまとまらず、クルックスは手を振って「気にしないでください」とだけ言った。しかし、狩人はクルックスの言いたいことを察したようだった。

 

「ああ。俺が直接行かないのかと言いたいのか。外に出るのは億劫ではないさ。夢を経由して行けるだろうが、配慮も注意も払い過ぎるに越したことは無い。悪夢と上位者について向こうがどれほど理解しているかも分からないのだ。不用意に接触しすぎることもないだろう。発狂されても反応に困るし」

 

 彼の言うことは、もっともだった。

 ひとつ頷いてから、質問した。

 

「……お父様は、魔法界に対してどう思っているのですか?」

 

 手紙は、礼儀以上の意味を持つことになるだろう。クルックスに訪れた直感は、恐らく正しい。

 狩人はインクの裏うつりを確認しつつ「ふむ」と言った。

 

「ネフの報告を読む限り、彼らはヤーナムとは全く別種の神秘に触れたのだろうな。……それについて、思うことは特にない。あちらがヤーナムを放っておけば、こちらからあちらを構うことも無い。なんせ全く別物だからな」

 

「なるほど……」

 

 狩人は手紙を書き終えると封筒に入れた。封筒には『月の香りの狩人』と名が記されていた。

 蝋燭を小さなナイフで削り、スプーンの上に集める。彼は、それからしばらく暖炉の傍にいた。

 

「ええと……仮にですが、あちらが、その、好ましくない対応をした場合は?」

 

「ふわふわした質問だな」

 

 狩人が声をあげて笑った。

 言われてみれば『らしく』ない質問だったように思えて、クルックスは「いえ」と言葉を濁した。

 

「まあいいさ。好意には好意をもって応え、悪意には悪意をもって応えるべきだ。──とはいえ、原始的な疎通に次元を下げたくはないものだがな」

 

 温めたスプーンの上で蝋がとろけた。それを封筒のフラップに垂らし、スタンプを押し付ける。狩人の徴が、くっきりと刻まれた。

 

「これでよし」

 

「どんな内容が書いてあるか、教えていただいても?」

 

 受け取る段になり、クルックスは尋ねた。

 狩人は衣服に溢れた蝋の屑を払い落としながら言う。

 

「ああ、そうだな。ざっくり言うと『突然の申し出だったが子供を受け入れてくれてありがとう』と『ヤーナムは魔法界に対し、基本的に接触しない』という内容だ」

 

「了解しました。たしかにお届けします。あと、もうひとつだけ」

 

「ん? 何か?」

 

「ここに来るのが、どうして俺だったんでしょう。テルミのほうが人付き合いが良いし、ネフのほうが交信も容易でしょうし、セラフィのほうが礼儀をわきまえているでしょう……」

 

 狩人は、やはり『大した問題ではないのだ』という風に手をひらひらさせた。

 

「君がちょうどいい。あまり賢しい真似をして警戒されても面倒だ。テルミなど歳の割に頭も口も回りすぎるだろう」

 

「……そう、ですか」

 

「では、頼む。引き続き学校生活とか頑張りたまえ!」

 

 クルックスは茶を飲み干すと工房を出た。しかし、すぐに戻ってきた。

 困った顔をする彼を見て、狩人は「あっ」と声を漏らした。

 

「交信して意識だけ引っ張ってきたんだった。ちょっと待ってね。戻すから。──交信中──。ホグワーツはともかく、悪夢は不定形だからなかなか安定しないんだよな……。目指せバリ4交信!」

 

 狩人がわたわたと交信のポーズを取った。

 果たして。悪夢は遥か遠方のホグワーツとの接触を果たしたようだった。次第にクルックスの視界は歪み、揺れた。

 次に彼が気付いた時、ホグワーツのベッドで朝陽に照らされていた。

 

(あれは……夢だったのだろうか)

 

 平衡感覚のズレが落ち着くまで彼は横になっていた。

 不意に手に握っている物が目に入る。

 それは、狩人の徴──まだ封蝋やわらかな手紙があった。

 

 




【解説】
 きょうだい会議は、空き教室でやることもあります。涼し気な秋を満喫したいので今回は外でした。
 セラフィは、カインハーストで貢献することを最大の誉だと思っているのでぜひ同胞にも名鑑に名を記して欲しいと思っています。──同盟より、聖歌隊より、メンシス学派より、これは絶対的に有意であるから。

三頭犬について
 描写は、映画より若干原作寄りとしています。原作だと急に入って来た四人に対し驚いてしまい、すぐには襲い掛からないんですよね。番犬としてその辺、どうなんだ? 聖杯の番人の猟犬を見習ってほしい。2匹とブリーダーがセットで近付くとオートで襲い掛かってくるぞ。やめて……
 もしも、犬の頭がカラスであったのならネフライトは杭を持って出動しましたが、犬だったのでそうはならなかった。だからこの話はこれでおしまいなんだ。ブラボを知らない方々に解説するとブラボにはイヌヌカァ(頭部:犬、胴体:カラス)とカァワン(頭部:カラス、胴体:犬)が登場するんです。とっても憎たらしく、けれどメンシス学派が求めたものを示唆する悪夢的生物でした。

筆まめな狩人について
『基本的』など便利な言葉です。前例が無い現状に『基本』などない(せめて書くのであれば『これまでのように』や『従前』)でしょう。言葉の揚げ足取りを気を付けるようになったのは、女王様の教育の賜物です。クルックスの直感は正しい。
 女王様とは文通しているので、とても筆まめです。さすが女王様、便箋まで良い匂い(血)がします。カインハーストは辺境の地です。郵便が無いので彼自身が歩いてお届けにあがります。玉座の間で直接訪問することは礼儀に反するでしょう。ちゃんと欠けた橋から歩いて登城します。……その間に某鴉の奇襲に遭わなければの話ですが。

【あとがき】
ここ数日で評価・ご感想・誤字脱字修正をたくさんいただき、ありがとうございます。ひとまず書き溜め分は頑張って投稿して参ります。
ご感想はとても刺激になっています。やはりひとりで書くだけだと分からなくなってきますね。反応いただけてとても嬉しいです。補足的に付け足す本文や会話をよく見直すようになりました。
というわけで引き続きご感想お待ちしています。
ブラボのことをたくさん語りたい方。──さぁ、舌を噛んで、どうぞ(交信ポーズ)


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ハロウィーンの夜

トロール
脳は麻痺していない。
しかし、知性は怪しいものだ。
対峙するならば、用心すべきだろう。



 ハロウィーン。

 その当日、クルックスは学業に身が入らなかった。

 理由は二つある。一つは、昨日、父たる狩人に呼び出された際に探索の経過報告をしなかった。いま思えば悔やまれる。二つ目は、校長に接触する方法を知らなかったことを思い出したのだ。

 どうすればよいだろうか。考えた先で取るべき方法は、一つだった。

 変身術の授業の後、教壇に残り羊皮紙をまとめる寮長のマクゴナガル先生へ質問を投げかけた。

 

「先生、私用にて質問することをお許し願いたいのですが」

 

 狩人の一礼をした後でクルックスは魔女を見上げた。

 簡単な説明をすると彼女はクルックスが持つ封筒を確認した。

 

「校長先生へお手紙を?」

 

「はい。我が父からお預かりしているもので、叶うならば直接渡したいのです。我々は、これまで魔法界と隔絶していたヤーナムからこの度、数世紀ぶりに参りました。こちらには礼と今後のヤーナムとイギリス魔法界の関係について書かれているそうです」

 

 厳格な魔女は『イギリス魔法界の関係』という言葉が出た時、わずかに眉を寄せた。

 

「……ヤーナムのことは、私でも詳細を知り得ません。とても信じがたいことですが……イギリス魔法界が見落とした土地だと聞いています。最近、クィレル先生が再発見したとか。……。ええ。取り次ぐのは構いません」

 

「ありがとうございます」

 

「今晩はハロウィーンの食事会があります。その後に時間が作れるか校長先生へかけ合ってみましょう。後で声をかけます」

 

「はい。我が父に代わり、感謝いたします」

 

 マクゴナガル先生はひとつ頷き、退室を促した。

 クルックスは手紙を懐にしまい、一礼すると教室を出た。

 衣嚢に入れている時計を確認する。次は呪文学の授業だった。

 何とか目的までの道筋を立てることができ、彼は安堵の息を漏らす。そんな時。

 

「クルックス。はぁい。調子はどうかしら?」

 

「……まぁまぁだ」

 

 廊下を歩いていると呪文学の近くの教室へ行くというテルミと出会った。

 ネフライトなどはテルミの顔を見ると顔をしかめることを隠さないが、今はすこしだけ彼の気分が分かった気がする。彼女の満面の笑みを見ると気持ちが沈むのだ。特に彼女ならばもっと簡単にやり遂げるだろう、そう思えるような仕事を終えた後では。

 

「うふふ。何だか緊張しているみたい。何かありまして?」

 

「お父様から仕事を頼まれた。俺が適任らしいが……俺には、よく分からない」

 

「それは良いことよ。クルックス。セラフィもそうですけれど、これから知っていけば良いし、成りたいものになればよいのだから! それでお仕事って何かしら?」

 

「……手紙を校長に渡すというものだ。中身はヤーナムはイギリス魔法界に基本的に接触しない、という文言らしい」

 

「へえ。そうなんだあ。お父様がねえ」

 

 テルミが小さく呟いた。

 言葉の裏の裏まで読み取る彼女は、いったい狩人の言葉をどう解釈したのだろう。

 ころころと可愛らしく笑いながら、美しい少女の形をした同胞は目を細めた。

 

「『基本的に』なんて。まるでこれから『例外ができる』みたいな書き方ね」

 

 彼女の指摘でクルックスは初めてその可能性に気付いた。

 けれど、彼女が面白がる事態には成り得ないだろうと思っている。

 

「ヤーナムとイギリス魔法界の諍いなど不毛である。価値が無く、意味も薄い。お父様はご介入なさらない。ヤーナムの内でさえそうだ。メンシス学派と聖歌隊の紛争も放置している。それこそ二〇〇年以上も。止める機会などありふれて余るだろうに。ヤーナム以外のことは知識と技術以外に興味が無いのだろう」

 

「まるでそうあってほしいように言うのね、クルックス。お父様によく似た貴方」

 

 クルックスは、希望的楽観だと自覚があったので彼女の言葉を咎めなかった。常に最悪を想定すべきである狩人らしからぬ言動をしたとも思っていた。

 しかし『今のところ』は、それで問題が無いのだ。事実、ヤーナムとイギリス魔法界の間で不和は起きていない。

 彼でさえ思い至ることだ。テルミが気付いていないハズがなかった。

 

「つまり何だ。何が言いたい。俺は、貴公に『適切な情報伝達を求める』と言った覚えがあるがな」

 

 テルミには何が見えているのか。

 焦れたクルックスは、問いただした。

 

「多くの目を閉じ、多くの耳を塞ぎ、何とか人の形を留めているお父様は、けれど後手に回ることは少ないということよ」

 

 上位者たる狩人の瞳は、特別だ。宇宙的悪夢を得た瞳は『よく視える』のだという。「何が」と問うても彼には理解ができなかった。ビルゲンワースの学長ウィレームが、かつて喝破したように『思考の次元』に大きな隔たりがあったからだ。

 

「まるでこれから嵐が来るようなことを言うのだな、テルミ。お父様から最も遠い可能性の君」

 

「うふふ。わたしはさっぱり何も見えないわ。けれどね。お父様の方針は、とても良いものよ。あの御方はヤーナムの繁栄を望んでいらっしゃるもの。だから、あらゆる可能性を想定して、今のところ差し障りの無い対応をしているのではなくて?」

 

 そういうことだと思っておこう。

 クルックスは、手を振り別れようとした。その矢先である。

 

「あまり気に留めず、病まないことよ。クルックス。それはきっと貴公の役割では無いのでしょう」

 

 別れ際に告げられたことに一度だけ脚を止めた。

 再び歩き出した時、クルックスは彼女の言葉を考えていた。

 

(俺は今『愚かでいろ』と言われたのだろうか)

 

 誰かに彼女の言葉の真意を聞きたいと思った。

 ネフライトならば教えてくれるだろうか。

 

「…………」

 

 頭を振り、切り替えて授業に臨む。

 心的な切り替えはうまくできた。そのため、今日の呪文学の授業は興味深いものであると同時に実用性という観点からも必須に思えた。

 フリットウィック先生は、積み上げた本の上に立ち、呪文と杖の使い方を指示した。生徒は誰も彼もが早く試したくてうずうずしているようだった。

 

 一連の説明を終えた後、最も早く呪文を成功させたのはグリフィンドールの秀才、ハーマイオニー・グレンジャーだった。グリフィンドールに加点する声が高らかに響いた。

 

「ほう。スゴいな。そして面白い」

 

 彼女より上段のテーブルで、その様子を見ていたクルックスは大きく頷いた。

 隣でペアを組んでいるネビルが机上の羽根を振った。

 

「クルックス、感心してないで僕らもやらないと。君はともかく、僕はうまくできるとは思えないけどさ……」

 

「そんなことはない。ネビル・ロングボトム。諦めないことが重要なのだ。何事もそうだ。粘り強くいこう。──羽根よ、浮上したまえ。ウィンガーディアム・レビオーサ

 

 魔法のコツというものをクルックスは感じることがあった。呪文を唱えたら呪文の効果の通り現実が変わるのだと信じ込むこと。ヤーナム外において、人はそれを集中力と呼ぶのだろうか。

 果たして。羽根は杖の指し示す高さで浮上した。

 

「ふむ。できたな」

 

「すごくあっさりやるね……」

 

 ネビルが気落ちした声を出した。

 別の机から小さな歓声があがった。

 ちらりと見れば、スリザリンの席でセラフィが呪文を成功させたところだった。

 フリットウィック先生がスリザリンへ得点した。

 

「あの人もすごいよね。何でも出来るって感じだ」

 

「……そう見えるか」

 

 クルックスは杖先を逸らし、落ちてきた羽根をつかまえた。

 

「ロングボトム、貴公の番だ。あまり難しく考えないように。まずは羽根を浮かべることだけに集中しよう。……肩と腕に力が入りすぎている。もっと自然に」

 

「あ、ああ、こ、こう? ウィ、ウィンガーディアム・レビオーサ

 

 羽根はピクリとも動かなかった。

 

「ふむ。動かないな。発音は問題が無いだろう。自信を持っていい。だが、動きが硬い」

 

「そう。もっとこう、かな?」

 

 手首の柔軟が足りないのではないか。

 ふたりで試行錯誤している間に授業は終了してしまった。

 結局、最後までピクリともしなかったネビルを励まし、後日談話室で復習することを約束した。クルックスとしてもこの呪文は、ぜひとも習得しておきたい。練習の機会と考えれば良いものだと思う。

 

「何度か練習すればできるようになるだろう。間違いなく魔法使いなのだから。そう気落ちすることはない」

 

「……ありがとう」

 

 ネビルは肩を落としたものの、次の授業に向かう足取りは確かなものだった。

 教科書を抱えたクルックスが中庭に出た時、高く陽が昇っていた。

 

(ああ。空が高い)

 

 日中は夜に備えて寝ることも多い。晴れた青空は、いつ見ても気分が良いものだ。

 ヤーナムの空を思うと夜ばかりが記憶に残っている。

 底抜けに明るく青々とした空のもと、次の授業へ歩いているとやけに不機嫌なロンとなだめるハリーが隣を通り過ぎていった。

 

「──だから、誰だってあいつには我慢できないっていうんだ。まったく悪夢みたいなやつさ。いい? レビオーサよ。あなたのはレビオサーだって! あんなだから友達がいないんだ」

 

 ぶつぶつと最悪の機嫌にあるロンが言う。

 クルックスの敏感な感性が「悪夢」という単語に反応した。

 

「ウィーズリー、それは誰のことか」

 

 彼が何か口を開く前に、誰かがハリーとロンにぶつかり追い越していった。ハーマイオニーだ。

 

「いまの、聞こえたみたい」

 

 ハリーが横目でロンを見た。

 

「それがどうした?」

 

 言葉の強さの割に、ばつの悪そうな顔をしたロンは教科書を抱え直した。

 そういえば。クルックスは思い出す。ハーマイオニーのペアはロンだった。

 クルックスにとっては、ささやかな悪口だが、繊細な少女の内心は乱れているのかもしれない。それをなだめる術も知らないが、このままではいけないことだけは分かる。

 ハーマイオニーの背中とロンを交互に見たクルックスは歩き出した。

 

「何があったか分からないが、不満ならば正面から言いたまえよ」

 

「正面から言ったらもっと傷つくと思うけど……」

 

 ハリーは言う。

 クルックスは、そうかもしれない、と頷いて見せた。

 

「たしかに。では、陰でコソコソ言いたまえ。しかし、寮祖グリフィンドールが嘆くのではないかな」

 

 クルックスの言葉は嫌味では無い。ただの感想だった。

 彼女の小さくなった背中を追うクルックスは、建物に入る直前で彼女に追いついた。

 

「待て、ハーマイオニー」

 

「独りにして。あなただって、わ、私が目立ちたがり屋のお節介だと思っているんでしょう!」

 

 ヒステリックに上ずる彼女の声に、クルックスはどうしようもない語彙の少なさを痛感した。

 伸ばした手が熱いものに触れたように空中で跳ねた。

 

「貴公は、いや、君は努力家だ。俺から見える君は、ただのそれだ。優秀であることは良いことだ。それが咎められることなどあってはいけないのだ」

 

「私は、あなたみたいに独りでも平気だって思えないの。あなた、グリフィンドールに友達はいないけれど他の寮の生徒で話せる人はいるでしょう? 私とは違うわ」

 

「あ。い、いいや、あれは」

 

 誤解を解くには時間が足りない。語彙など更に足りなかった。

 しかし。

 振り返った彼女は、目を真っ赤にして泣いていた。それだけで彼に浮かんだ言葉は消えてしまった。何も言えずに、ただ彼女の背を見送った。

 

「きっと、これは俺の役割では無いが──」

 

 伸ばしかけた手を握っては開く。テルミのクスクス笑いが思い起こされた。

『あまり気に留めず、病まないことよ。クルックス。それはきっと貴公の役割では無いのでしょう』

 同胞の忠告を、彼は忘れることにした。

 

「さりとて、口を挟み、手を出して、目をかけずにはいられないのだ」

 

 彼女は、クルックスが思い描く平穏の風景のひとつでもあったから。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 その後、気を取り直してハーマイオニーを追ったクルックスであったが、その間には分厚い性別の壁が立ちはだかった。

 彼女がいるのは女子トイレだったのだ。

 

「……うーん……」

 

 無言で女子トイレの壁を眺めながら思う。

 ──たしかに俺の役割ではない。

 テルミかセラフィに依頼する必要があるだろう。

 

 テルミとセラフィを探している間に次の授業が始まる時刻になってしまい、クルックスは教室へ向かった。やはり、というべきか、当然というべきか、彼女は現れなかった。

 ロンを見れば、少々気がかりと思える顔をしていた。彼とて、ちょっとした愚痴だったのだろう。だが、間が悪かった。クルックスは、どちらにも同情した。

 授業が終わり、夕食の時間になった。

 ハロウィーンの飾り付けがなされた大広間は、いつもより華やかで入学時を思い起こさせた。千匹ものコウモリが壁や天井で羽をばたつかせ、くりぬいたカボチャの中では蝋燭の焔が赤々と燃えていた。

 

 クルックスはグリフィンドールの席に座るが、背を伸ばしてしきりにハッフルパフの席を眺めていた。テルミを探しているのだ。どうやらまだ来ていないらしい。

 

 セラフィは、大広間へ向かう道で見つけた。声をかけようとしたが、よくよく考えてみればセラフィに人を慰めるという高等な交渉ができるだろうか。自分以上の不適当に思えてきた。きっと彼女ならば「何をグズグズしているのか。さっさと生活に戻りたまえ。なに死ぬほどのことではあるまい」と尻を蹴飛ばすなどしそうである。自分以下の存在は、端から価値の頭数にも数えない性格なのだ。カインハーストは古代ギリシアのスパルタの流れを汲んでいるのだろうか。このような繊細な件で彼女に頼るのはやめよう。

 

 しばらく大広間の入り口を見ているとテルミがやって来た。彼女はハンナ・アボットと会話していた。

 近付いてくるクルックスに気付くと「なぁに?」と柔らかい笑みを浮かべた。

 

「話がある。付いてきて欲しいのだが。……すまないが、すこし彼女を借りていく」

 

 クルックスは、ハンナにひとつ断りを入れて大広間を後にした。

 背中に何やら面白がるキャアキャアと小さな声がかかった。

 

「そういえば、きょうだいであることを話したのか? 仲が良さそうに見えたが」

 

「えぇぇ、貴公。本気で言っているワケではないでしょうね? 話していないわ。だってまともに話すと母親が四人も必要になってしまうのよ? わたし達、とっても似ていないのだから。お父様だって、とんでもない人でなしになってしまうでしょう。とっかえひっかえなんて言われてしまうんだわ。可哀想なお父様」

 

 テルミはいつもと同じようにクスクスと小さく笑う。笑うことだろうか? 彼は疑問に思ったが、彼女なりの冗談なのだと思うことにした。聖歌隊のセンスは、悪趣味だということ以外、よく分からない。

 クルックスは大広間から廊下に繋がる二重のアーチを抜ける。

 通行の邪魔にならないところに立つと振り返った。

 

「お話とは? まさか世間話ではないでしょう?」

 

「女子トイレにグレンジャーがいる。慰めてほしい」

 

 端的に依頼を告げるとテルミは美しい金色の髪を耳にかけた。

 

「あの子? 何かあったの?」

 

 彼女は訊ねた。

 

「同じ寮生に悪口を言われて落ち込んでいる。午後の授業は見かけなかった」

 

「できるけれど。あははは。おかしいわ。とってもおかしいわ。貴方もそんなことを気にするのね。お友達だから?」

 

 テルミが面白がるように笑う。美しいが耳障りだった。

 彼は、しつこい猫を追い払うようにシッシと手を振った。

 

「俺は、平穏を望んでいるだけだ。早く行ってくれ。……宴が始まる。食事をすれば心の不調も直るだろう。温かい食事が必要なのだ。連れてきてくれ。後で聖杯のどこなりと付き合ってやる」

 

「その言葉、忘れないでね。イズ聖杯をたくさん調査するんだから!」

 

 テルミはハロウィーンの誰もいない廊下を走り去っていった。

 しかし、三秒後に彼女は戻ってきた。

 

「なんだ。どうした」

 

「わたし、道が分からないの……」

 

「やはり、その性質は致命的だろう」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 今日の諍いは。

 とても些細な事だと思う。普段であれば、何とも思わない──これは少々強がった──あまり気にしないことが、今日はなぜかとても堪えた。

 振り返り思えば、昨日の三頭犬との出会いから溜まりつつあったストレスが、今日、あの時に爆発したのだと言える。

 

 ハーマイオニーは、時計を見る。午後の授業は休んでしまった。もう夕食時だった。

 

 泣いて腫れた目を冷ましたら、せめてデザートはつまもう。ずっと、このままではいられない。

 ──君は優秀だ。

 引き留めるように告げられた言葉を思い出す。灰色の暗い目をした同期生は、ひどく口下手だ。その彼が追いかけて、必死で考えた慰めの言葉も無下にしてしまった。ほんのすこし自己嫌悪する。

 

 女子トイレの個室から出ると誰かの足先があった。足、胴、首とゆっくり辿っていくと金色の艶やかな髪を肩口で切りそろえた、藍の瞳の女子生徒が立っていた。

 

「こんにちは。あら。『こんばんは』だったわ。ご機嫌よう、ハーマイオニー・グレンジャー」

 

「……?」

 

 ハーマイオニーは、もちろん彼女のことを知っていた。

 一度はホグワーツ行きの列車の中で。二度目は授業の中で。

 

 ハッフルパフ生のなかでもひときわ社交的な彼女は、一年生のなかでも指折り秀才と言えた。けれど、そういえば自己紹介をしたことが無かった。

 いつも本に埋もれているハーマイオニーとは異なり、彼女には華があった。彼女の周囲には、いつも誰かが一緒にいる。そういう子なのだ。

 そして、合同授業になった時は驚いた。

 こうして軽やかに話しながら何でも無いことのように優秀な成績を残しているのだ。まるで人脈作りの片手間のように。

 

 何となく苦手意識を持つ子が待ち構えている事実にハーマイオニーは新しい涙が浮かびそうになった。なんでこんなことに。ぐるぐると思考が回る。

 

「わたしはテルミ。テルミ・コーラス=Bよ。グリフィンドールとの合同授業で何度かお見かけしたわね。列車でもお会いしたの、覚えていらっしゃるかしら?」

 

「ええ、もちろん。そう……。わたしはハーマイオニー・グレンジャー……どうして、ここに? 今日はハロウィーンでしょう。みんなパーティに参加しているんじゃない」

 

「クルックスに頼まれたの。貴女のことをとても心配していたわ。けれど、ほら、あの人は言葉が拙いでしょう。それに女子トイレには入れないから、とね」

 

 ハーマイオニーは、彼女の隣を通り過ぎて洗面台まで歩くと蛇口をひねった。

 冷たい水で手を洗いながら、鏡越しに彼女を見た。

 

「……ご心配どうも。でも、もう結構よ」

 

「そう。失礼なことをしてしまったかしら。でも、どうかお許しになってね? わたし、張り切ってしまったの」

 

「え?」

 

 彼女が悲しそうな顔をしたのを見て、ハーマイオニーは振り返った。

 

「『こんな時に何を』と軽蔑してくださる? でも、列車以来、お話しする機会も無かったから。こんな時でさえ落ち着いて話ができるなら、きっと貴女とお友達になれると思ったの……」

 

「あなたは……もういっぱいいるでしょう、友達」

 

 やや棘のある言葉を彼女は正しく理解しているようだった。彼女は、今回の顛末をクルックスから聞いて知っているのだ。

 テルミは、ハーマイオニーの隣の洗面台に立つと鏡を覗き込んだ。

 

「浅く広い交友関係で真実の友達と呼び合える仲がどれほどいるかしら? ハッフルパフは、みんなそんな感じなの。その点、グリフィンドールやスリザリン、ああ、レイブンクローでさえ、わたしは羨ましいわ。きっと人生の友となる交友が結べそうだもの」

 

「……私には、難しいわ」

 

「みんな、貴女の魅力に気付いていないのよ。とっても優秀な魔女になれるわ、貴女。グリフィンドールにいるのが不思議なくらい」

 

 ──あなたが何を知っているの?

 ささくれた言葉を言わなかったのは、単純に泣き疲れてしまったからだ。テルミの声が、優しげであることも強く拒絶することの出来ない理由だった。

 けれど『とっても優秀な魔女になれる』とは、まるで自分はそうならないとでも言いたげな響きがあった。もっと踏み込めば、まるで『違う世界の住人なのよ』とでも言いそうな。そんな色だ。どうして。どんな顔をしてそんなことを言うのか。

 

「ねえ? 勉強を教え合うとか、そういう関係から始めましょう? わたし、もっともっと貴女とお話してみたいの。お互いの損にはならないなら、貴女だってきっとお得だと思うの。どうかしら? どうかしら?」

 

 そう聞きながら、彼女のなかでは決定した事項のようになっているようにハーマイオニーは感じた。

 根負けした気弱な微笑みを彼女は了解としたらしい。

 

「まあ、嬉しい。とっても嬉しいわ。わたしのことはテルミと呼んでね。コールミー、テルミーってね。コーラスもビルゲンワースも、ちょっと他人行儀ですからね」

 

「ビルゲンワース……?」

 

 そうだ。

 ハーマイオニーは列車でクルックスに問いかけられた学舎の名称を思い出していた。その後の組分け儀式が衝撃的すぎて今まで忘れていたが、その名を持つ彼女ならば何か──。

 ハーマイオニーの問いかけは霧散することになった。

 

「──あら。何か臭うわ。下水の調子が悪いのかしら? 困りますね」

 

 そう言いながら。

 いつの間にかテルミは、銀色の霧吹きのような器物を左手に持っていた。

 それは何と問いかけたいハーマイオニーも異臭に気付いた。洗っていないトイレと汚れた靴下を三日三晩、高温の密閉空間で沸かしたような臭いが漂っていた。

 ドタ、ドタ、と鈍い足音。そして、ずるずると何かを引きずる音が近付いてきた。

 

「ハーマイオニー。そういえば、聞きたいことがあるのだけれど。さっそくいいかしら?」

 

「なっなに?」

 

 異臭はただ事では無い。

 それを理解していながら、普段と同じ調子で話しかけるテルミは左手に握る霧吹きをしきりに調節していた。

 

「クルックスから……うーん……何か聞いているのかしら? ヤーナムのこと」

 

「え? いえ? 谷間の古い街だと」

 

 それだけ……。

 ハーマイオニーの最後の言葉は、小さくかすれた。音はすぐそこまで近付いている。嫌な予感はひしひしと迫り、体が強張った。

 彼女は、ハーマイオニーの腕を引いて女子トイレの戸口から一番遠い場所へ歩き出した。ハーマイオニーは、ぎこちなく動いた。脚を動かす努力が必要になっていた。

 

「……きっとクルックスは残念に思うわ。あの人、お父様に似て潔癖症のようだから」

 

 悲しんだ声色をハーマイオニーは聞き取った。

 けれど、鏡が無かったのでテルミが笑っていることには気付かなかったことだろう。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ネフライトは、図書館から這い出てきた。

 司書のピンス女史に「ハロウィーンの夜に生徒がいるなんて!」とチクチクと小言を漏らされた経緯も理由のひとつにあるが、第一は、純粋に腹が空いたからだ。せめて夕食のポテトくらいは食べようと思い立った。

 

 メンシスの檻を被る影は、奇妙な生物のようである。

 ぶつぶつと祈りを諳んじていた彼は、不快な臭いを感じて廊下を見回した。

 

 ちょうど長い回廊を挟んだ向こう側に、獣狩りの下男のような大きな生き物を見かけた。

 今日はハロウィーンである。恐らく余興であろう。

 ネフライトは、大広間に向かいかけたが、方向を転換させた。不快な臭いで食欲が失せた。

 夜食までには食欲も回復するだろう。ひとまずサンドウィッチを厨房にもらいに行って、後ほど食べよう。

 なかなか妙案に思えた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 ネフライトが行くのを諦めた先の大広間は、大混乱にあった。

 大広間に駆け込んできたクィレル先生が報告と同時に倒れた。

 その直後からクルックスの周囲は大恐慌もかくやというありさまだ。

 

「『トロールが地下室に』──だからなんだというのか?」

 

 辺りを見回したクルックスは首を傾げた。誰も彼もがワア、キャアと喧しい。

 いつも疑問を答えてくれるハーマイオニーがいないので、食べ物を喉に詰まらせて静かになっているネビルをつかまえて問いただした。

 彼は、喉のつっかえを飲み下した後で答えてくれた。

 

「トロールだよ! トロール! でっかくて! すごく力が強くて……! もうめちゃくちゃなヤツらだ!」

 

「それは危険なのか?」

 

「そりゃそうさ!」

 

「どのように」

 

 クルックスとネビルのトンチンカンな話を聞いていたシェーマスが、顔を引き攣らせながら叫ぶように言った。

 

「話なんか聞きやしない! アイツらが話す言語なんてブァーブァーだ! それにアイツらバカだから人を襲うんだ!」

 

「人を、襲う。なるほど」

 

 つまり獣だ。

 クルックスは、標的を見定めた。

 

 生徒の狂乱は未だ鎮まらない。

 クィレル先生の証言ならば、地下室にいるのだという。彼らの説明は要領を得ないが、危険であることは確かのようだ。先生ともあろう人が思わず気絶する程度に、それは強いのかもしれない。速やかに排除すべきだろう。

 スリザリンの席を見ると一足早くセラフィが生徒の間をかき分けているところだった。レイブンクロー席には最初からネフライトがいないので確認するまでも無い。けれど、彼も異変を察したら行動するだろう。鐘を鳴らすまでもない。

 

 席を立つ。

 その時だった。

 

 教員テーブルに座っていたダンブルドア校長が杖から爆竹のような炸裂音を鳴らした。

 大広間は一転、静かになった。

 

「監督生よ。すぐさま自分の寮の生徒を引率して寮へ帰るように」

 

 重々しく校長は言う。

 弾かれたように監督生は次の行動に映った。特にグリフィンドールの監督生、パーシー・ウィーズリーなど水を得た魚のような活性ぶりだった。

 

「さあ、僕について来て! 一年生は固まって! 僕の言うとおりにしていればトロールなど恐るるに足らず! 道を空けてくれ! 一年生を通してくれ!」

 

 行動の方向性を与えられた生徒はパーシーに従うが、全寮に移動指示を出したことで入り口は押し合いへし合いの大混乱だ。

 

(そうだ。テルミは!? ハーマイオニーは──!?)

 

 まだ、戻ってきていない。ずっと入り口が見える場所で待っていたのだから間違いは無い。

 数秒、迷う。

 

(セラフィは、独りでも大丈夫だ。大丈夫のハズだ。血を狩る狩人が、そうそう……)

 

 敵が複数であってもセラフィが不覚を取るとは思えない。もし、何かあれば鐘を鳴らすだろう。

 だから。

 

(俺は、すこしの間、ここで彼女らを待っていてもいいだろう。この事態だ。何も知らなければ女子トイレから大広間を目指してくる。テルミならば、そうする。どうせ道も分からなくなってしまっているだろうから、ハーマイオニーも一緒に違いない。その時に、事情を伝える者がいたほうが──)

 

 席を立ち、何とか大広間を脱したものの行き先に惑う。

 女子トイレへ繋がる廊下──見つめる先で彼の目は捉えた。

 

 ハリー・ポッターとロン・ウィーズリーだ。

 慌てた顔で角を曲がって彼らは消えた。

 

 どうして彼らが駆けていくのか。

 推理するよりも早くクルックスの脚は駆けだしていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「トロールだわ!」

 

 ハーマイオニーが驚いて叫ぶ。

 女子トイレ、戸口に現れた巨人。

 テルミは『死体の巨人よりは小さいのね』と考えていた。足音から体重を推し量ることは、難しい。

 

「トロール?」

 

 テルミは、聞き返しながら決して目を逸らさなかった。

 聖杯に存在する死体の巨人にしては小さいが、人にしては大きすぎる。目測四メートルはある。禿げていて頭の上に申し訳程度の頭髪が生えていた。肌の色は灰色。臭いは更にキツくなった。

 手にした棍棒を見て、背後に庇うハーマイオニーがヒッと引きつけのような声を上げた。

 

「まぁ、何だって構いはしないわ。──さあ、死になさいっ!」

 

 テルミが左手に構えたロスマリヌスを噴射する。

 ロスマリヌス。

 ヤーナムにおける医療教会の上層に拠点を構える『聖歌隊』が用いる特殊銃器だ。血の混じった水銀弾を特殊な触媒として神秘の霧を放射する。

 トロールの呻き声に惑わされず、耳を澄ませば聞こえるだろうか。──神秘の霧が見える時、在りし日の聖歌隊の歌声が。

 

 扉をくぐり現れる存在が何であれ、ロスマリヌスで攻撃すると決めていた。殴る、斬る、潰す、燃やすより時間はかかる。けれど、ハーマイオニーに悍ましい光景を見せたくない。ゆえに確実な手段をテルミは選んだ。

 しかし。

 

「死になさいよっ!」

 

 ──あぁ、手応えが無い。

 テルミの額に初めて汗が浮かんだ。

 トロールは呻き、嫌々をするように手を振るがじりじりと距離を詰められている。テルミの想像を超えて皮膚が分厚いらしい。

 仕込み杖で削り取ったほうがよかったのかもしれない。けれど、ホグワーツで狩人の戦いをしたくないのだ。

 テルミは自分の築き上げた人脈に欠けができることを恐れていた。

 

 不意に同胞達を思い出す。

 どうやら忠告を真に受けるべきだったのは自分のようだ。

 せせこましい考えの時に限ってこうだ。今まさに窮地に陥りかけている。

 

「……ハーマイオニー。貴女、走れる? トロールの脇を通って扉まで走れる?」

 

 テルミの右手を握る彼女の手は、哀れになるほど震えていた。言葉を待つまでもない。無理だ。トロールという怪物は間抜けそうだが、狙うに容易い獲物ができたら、そちらへ向かう程度の判断力はあるかもしれない。彼女の命を賭けることは憚られた。

 

(今から火炎放射器に変えて──)

 

 テルミの金糸の髪に影が落ちた。

 トロールが棍棒を振り上げたのだ。

 

「っ!」

 

 テルミはハーマイオニーを抱えて横っ飛びに跳んだ。

 振り下ろされた棍棒はテルミが、先ほどまで立っていた場所に直撃した。これを体に受ければ粉砕は免れまい。トロールは相変わらず扉を背にしている。

 嫌がらせのようにロスマリヌスの噴射を続けながら、震えるハーマイオニーを支える。

 

「月の香りに瑕疵ができたら困りますもの。守ります」

 

「ううん。テ、ルミ……わ、私、走るわ」

 

 それは恐怖ゆえか。いいや、違う。テルミは握られた右手に意志を感じた。

 彼女がどうしてグリフィンドールに選ばれたのか。──その理由を、すこしだけ知ることができた。

 一瞬だけ、獲物から目を離した。

 そしてハーマイオニーを見る。彼女はしっかりと光を宿した目で扉を見据えていた。

 

「ええ、良い考えね。……わたしがトロールの気を引く。だから振り返らずに走って、先生を呼んで──さあ、行って!」

 

 ハーマイオニーの背を押す。彼女は一瞬だけよろめいたが、走り出した。

 テルミはロスマリヌスをトロールの顔面に浴びせかけた。

 空になった右手に衣嚢から仕込み杖を取り出し、トロールの腹に突き立てた。

 ハーマイオニーは見ていない。始末できるものならば、先生と戻ってくる前に処理したかった。

 

「死ね! 大人しくしろ!」

 

 手応えは硬い。分厚い肉だ。人喰い豚より筋肉質で硬い。歯噛みする。仕込み杖の貫通力とテルミの筋力では、胸に突き立てても心臓まで届かない。

 低音の呻き声を上げ、怯んだトロールの後方を見る。

 ハーマイオニーは扉まで辿りついていた。

 開いたままの扉に駆け込もうとした直前、女子トイレに入ろうとした二人組とぶつかりそうになった。

 

「なっ!? に、逃げなさいっ! 早く──」

 

 守るべき対象が増え、テルミはハッと目を見開いた。

 目の前でトロールが暴れ出した。

 めちゃくちゃに振り下ろされた棍棒を咄嗟のバックステップで避ける。最後の一歩は退くことができなかった。壁に背をついたのだ。

 

 あッ。

 思いがけず、小さい声が出た。

 狩人の業が右手を操る。トロールの脳天をめがけ、杖を構えた。

 しかし、振り下ろされる棍棒とどちらが速いだろう。──四仔のなかで最も父から遠い自分は、戦闘の才に恵まれなかった。

 

「お父様──」

 

 祈るように呼ぶ。

 夢の月の主たる狩人の加護は、遠方の地であっても有効だろうか。──あぁ、わたしは、まだ夢を見ることを許されるだろうか。

 トロールが吠える。だから、彼の呪文が聞こえなかった。

 カウンターを狙うテルミは、機会を逸した。棍棒が空中で釘付けになったのだ。

 

「逃げろ!」

 

 ロンが浮遊呪文を使い、棍棒が宙に浮いているようだ。

 ハリーとハーマイオニーが必死の形相で手招きしている。

 

 トロールが棍棒が手の中に無いことに気付き、頭上を見上げた。

 その時だ。

 呪文を使っているロンの集中が途切れ、棍棒は鈍い音を立ててトロールの頭に直撃した。

 

「っ!」

 

 テルミは素早くトロールの巨体を避けて、下敷きを免れた。

 このトロールは脳震盪でも起こして気絶したのだろう。

 

「はあぁぁぁぁ……。ありがとう、と言わなければならないわね……?」

 

 テルミは、いつものように穏やかに笑う。

 ロンが得意げに笑い返したが、テルミの内心は腸が煮えくりかえるようだった。獣性の高まりを感じずにはいられない。

 

 ──この場にいたのが、テルミひとりだけならば。

 ──ハーマイオニーがもっと速く走っていれば。

 ──自分が、獣狩りの下男にも劣る、醜悪な怪物に負けそうになることなどなかったのだ。

 

 テルミだから言葉を飲み込むことができた。セラフィやネフライトであれば無理だった。すでに分かたれた可能性ばかりが眩しい。

 ロスマリヌスと仕込み杖を衣嚢に収納した。

 その直後のことだ。女子トイレにクルックスが飛びこんできた。

 

「クルック──」

 

「この先、我らが使命あり! 同士よ、照覧あれ!」

 

 彼はテルミをはじめ、ハリー達に目もくれなかった。

 クルックスはうつぶせに倒れているトロールの頭部に目がけて、衣嚢から取り出した右手のパイルハンマーを射出した。

 くぐもった断末魔と共にトロールの脳髄が床一面にぶちまけられた。

 

 その光景を見ているとテルミのなかでスーッと獣性が鎮まるのを感じた。

 やはり敵性存在が沈黙する様は、いつ見ても気分が良いものだ。

 けれど。彼は間が悪い。

 ハリーとロン、ハーマイオニーは、突然の猟奇的光景を目の当たりにして声も出せずにいる。

 

「……おやめなさいよ、クルックス。ここで腑分けするつもりかしら」

 

 杭打ち機構を持つパイルハンマーが絶えず変形を繰り返してやかましい。こんな時でもガッション、ガッションと過剰に火花を散らして変形する。

 クルックスは、使命を宿した目でパイルを振り下ろしていた。

 

「コイツは、汚らしい糞のような糞袋だ! ああ、灰色の肌の下には虫がわんさか涌いているに違いない! 糞がッ! 虫がいるというのに! 生きていやがって!」

 

「……?」

 

 テルミは、ひとまずパイルハンマーを振り回すクルックスを止めなければならないと思う。

 しかし、テルミはトロールを知らなかった。トロールとは、果たして獣なのだろうか。どういう生物なのだろう。

 

 彼女の疑問は、おそらくこの場で最も賢い魔女が答えてくれるだろう。

 パタパタという足音が聞こえ、四人はトイレの入り口を見た。間もなくマクゴナガル先生が飛びこんできた。

 

「──ああっ!」

 

 ショックを受けた顔をしたマクゴナガル先生が胸を押さえた。その後から、スネイプ、クィレル、その他の先生が続いた。クィレル先生はトロールを見るとヒィと弱々しい声を上げて、腰が抜けたように座り込んだ。

 クルックスは、トロールの絶命を確認したものの相変わらずパイルハンマーを片手に血だまりをうろついている。

 

「これは、いったいどういうことですっ!」

 

 マクゴナガル先生の動揺とは、わずかに声が震えるだけだった。

 これは素晴らしい。テルミは感心する。肝が据わっている。

 ハリーとロンが顔を見合わせて事情を説明しようと中途半端に手を挙げた。

 

「──先生、トロールとは人間なのですか?」

 

 今は授業中だっただろうか。

 クィレル先生に質問したテルミは、回答を急かすように爪先で何度も床を踏んだ。

 

「トロールは、山野に住む魔法生物です。見ての通り、人間ではありません! ミス・コーラス=B、なぜあなたがここにいるのです? 寮に戻るように校長は言いましたよ」

 

 マクゴナガル先生から逆質問を受けてしまい、テルミは眉を下げた。

 

「あらら。そのような指示が出ていたのですね。知りませんでした。わたし、パーティーの前から──お恥ずかしいことにお腹を壊してしまって。けれど、こんなパーティーの日に大広間から近いトイレで誰かに出くわすのが、恥ずかしかったのです……。そんな時に、あの方、ええと、トロール? が来て、さらにはハリー・ポッターとロン・ウィーズリーが助けに来てくれたのです」

 

「そうです! 私はトロールを探しに来たんです……本をたくさん読んでトロールについて知っていたので……倒せると思って。でも、ダメでした。ハリーとロンが来てくれなければ、きっと死んでいました」

 

 ハーマイオニーが加勢した。ハリーとロンも頷いた。

 最後のひとりがやって来た。

 ぴちゃり。

 湿った足音を立ててやって来たクルックスは、いつものように暗い瞳をしていた。

 

「……おかしなことだと思ったのだ。カレルが反応しない」

 

「クルックス。トロールは人間ではないらしいわ。貴公の探しものは無くてよ」

 

「そのようだ。魔法界は分からんな。あのような穢れた存在に虫が見いだせんなど」

 

「啓蒙が低いのでは?」

 

 トロールの頭部を惜しみなく潰していたクルックスは、血みどろだった。

 しかし。

 スッと背筋をただすと左腕を曲げ、緩く腰を曲げた。狩人の一礼だ。

 

「トロールの駆除が終わりました。残りはどこにもいないのですか?」

 

「あなたは、何をしているのですか!? トロールを」

 

 マクゴナガル先生は、唇を戦慄かせて問いただした。

 クルックスの心が揺れることはない。

 

「危険な生き物です。そして駆除しました。先生、何を咎めるというのか。俺──私は、学徒である以前に狩人です。私は、夜に蠢く汚物すべてを根絶やしにする使命を帯び、狩りと殺しのため存在します。しかし、今は血塗れの同士に報いるため、学業に邁進しなければなりません。トロールは学業の邪魔です。だから駆除しました。何か問題が、ひょっとして、あの汚物はハロウィーンの余興だったのですか?」

 

 それは失礼をば。

 言いかけたクルックスにかぶせるようにクィレル先生が、震える足で壁を伝って立ち上がった。

 

「ト、トト、トロールは、ちち地下から入ってきた、だけです。余興など、ああああ、ありえませんっ」

 

「そのとおりです。ミスター・ハント。トロールを倒したことは、あぁ、そもそも危険な目に合う必要はありませんでした。トロールを発見し我々に報告する、という手段を選ばなかったことを──あなたを含め、ここにいる全員に強く失望したと言わせていただきます」

 

「なるほど。そのような処置が必要だったのですね。では、次回から人命に障りの無い場合に限り、そのようにいたしましょう」

 

「突然のことで思いも付きませんでした。わたしも反省いたしますね……」

 

 クルックスは右腕のパイルハンマーを外した。

 テルミもしおしおと表情を沈ませて頭を下げる。

 

「特にミス・グレンジャー。グリフィンドールから五点減点です。判断力が欠けています。未成年がトロールに立ち向かうなど……。命があったのですから、これからの授業で取り返すことを期待しますよ」

 

 手厳しい物言いに、萎縮するようにハーマイオニーは肩を丸めた。

 次は、ハリーとロンに矛先が向かった。

 

「あなた方の幸運と駆けつけた勇気にそれぞれ五点ずつあげましょう。くれぐれも! これを己の実力のように過信しないことです。怪我が無いのならば皆、寮へお戻りなさい」

 

 マクゴナガル先生が、それぞれの寮に帰るように指示を出した。

 テルミと共に女子トイレを出た。彼女は、普段よりいくぶん低い声で言った。

 

「クルックス、トロールを殺したことで加点を求めてみたら?」

 

「あまり侮辱してくれるな。テルミ、親しき同胞。俺は、永く君と付き合いたいと思っている。できる限りな。だから、医療者である君には、特別な敬意を払っている。察してくれないか。──俺の狩りは、同士に報い、汚物を根絶やしにするために殺すのだ。たかが寮の、ただの点数稼ぎで穢されてなるものか。二度と言うな。不愉快だ」

 

「獣性を鎮めるためのジョークよ。『ヘイ、貴公、血に酔ってる~?』のほうが良かったかしら?」

 

「高まりつつあるが?」

 

「連盟の人とは、分かり合えないわ。──それよりも。ねぇ、気付いた? ああ、貴公は、いま鼻が利かないのね」

 

 何の話か。目で問う。

 

「スリザリンの寮監、脚に怪我をしていたわ。そうね。鋭い何かに切り裂かれたように。……ねぇ。彼、何をしたのかしらね? 何と戦ったのかしらね?」

 

 目敏いテルミは、クルックスの知らないものを見ていた。

 トロールは、一体だけだ。

 では、彼はどこで何と戦って怪我をしたというのだろう。

 さらに問うクルックスに、彼女は笑うだけだった。

 

「ふふふ。まるで獣に襲われたよう。ここは、ホグワーツなのに。ねぇ? これって、とっても不思議で奇妙で可笑しな話よね?」

 

 耳に残る小さな笑い声をあげて、彼女は去って行った。

 一方のクルックスは、呼び止められていた。

 

「ミスター・ハント。校長室へ行きますよ」

 

「あ。ああ、お手紙の件ですか」

 

 きちんと服の内側に収納されていることを確認したクルックスは、普段の倍増しに厳しい顔をしたマクゴナガル先生を見て認識をあらためた。心の機微を読むことが得意ではない彼であっても「これは違うな」と察することができた。

 

 

「この件は校長、そして親御さんへ報告させていただきます。トロールを殺したことは──結果として──損害が最小に抑えられたかもしれません。けれど、ヤーナム、そして、狩人……私を含めホグワーツは、あなた方の『伝統』を知りません。事情の聴取が必要です。分かりますね?」

 

「ははぁ。事件の対処方法がマズかったのですね。ゆえに、聴取が必要と……。……。ちょっと待ってください。テルミを呼んでください。テルミを」

 

 ヤーナムと狩人の説明。

 言葉の取り扱いが上手くない自分が、しっかりと発言できるだろうか。

 父たる狩人から適任と言われているが、クルックスには全く自信が無かった。

 

「トロールを殺したのは、あなたでしょう。事件の当事者としてあなたがいれば充分と考えます。手紙を渡し、聞かれたことに答えればよいのですよ」

 

 難しいことではないでしょう。そう言われると彼も「そうですね」としか言えなかった。トロールを倒すことよりは簡単には違いない。

 マクゴナガル先生が杖を振ると臭い血糊が消えた。

 

「……ありがとうございます。便利ですね。これがあれば洗濯が楽になるのですが」

 

「まさかヤーナムでは手洗いを?」

 

「ええ。薬湯に漬けなければ再利用も難しいのです。布ではなく革を中心とした専用の装束ですが……はぁ……」

 

 これまでの労力とはいったい……。

 クルックスは徒労に思いを馳せた。

 ちょっとした逃避であった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 辿りついた先は、大きな鳥の石像があった。

 聞けば、ガーゴイルと呼ばれるものだという。

 

「レモンキャンディー」

 

 マクゴナガル先生が突然何を言うのかと思えば、合言葉だった。

 ガーゴイル像が道を譲り、壁が割け、奥に続く階段が現れた。

 

「こちらへ」

 

「失礼します」

 

 螺旋状の階段を昇ると奥には扉があった。

 中からは人が動く気配がする。校長先生だろう。

 

(人の匂い……)

 

 夜は感覚が研ぎ澄まされる。嗅覚もそのひとつだった。人間の匂い。この空間を出入りした過去、さまざまな人の匂いだ。

 父たる狩人が、そしてクルックス達が、ヤーナムの狩人達が、持ち得ない歴史の香りが、この空間には満たされている。

 

「校長、ハントを連れて参りました」

 

 その香りは、校長室を開けるとさらに強くなる。

 円形状の校長室の奥に老人が座っていた。

 ダンブルドア校長だ。礼儀として一礼した。

 

「ご苦労。マクゴナガル先生」

 

 校長はこのままマクゴナガル先生から、事の一部始終を聞き取るのだろう。そんなクルックスの予想に反し、彼は先生を下がらせた。

 クルックスは視線を斜め上に飛ばした。──ああ、これは一から十まで俺が説明しなきゃならないらしいぞ。

 しかし。

 

「事の概要は聞き及んでおるよ。君がトロールを殺したと」

 

「そうです」

 

 ──おや。耳が早い。

 トロールの後始末をクィレル先生に任せ、事件が起きた女子トイレからは直後とも言える時間に校長室にやって来た。それにも関わらず話が通っているとは。スネイプ先生などが話を通していたのだろうか。

 

「トロールは学生にとって、あまりに手の余る生き物じゃ。それを排除したことは、ひとつ礼を。ありがとう。本来であれば、わしをはじめとして先生が対処すべきことであった」

 

「トロールは初報の地下室から離れた場所で見つかりました。先生方が見つけるのは時間の問題とはいえ、力ある者が行うべきことであったでしょう。偶然対処できる私がいただけです。友人の命がかかっていたとはいえ出過ぎたことをいたしました」

 

 ──いかん。さっそく喋りすぎた。

 クルックスは、いつでも話題を逸らせるように手紙を取り出す準備をした。

 ダンブルドア校長は「ふむ」と鼻を鳴らし、青い瞳でジッとクルックスを見た。

 クルックスは何度かの瞬きの後、ちょうど彼の顎髭をみるようにした。

 彼と争っているワケでは無い。これはただの聴取なのだ。そう自分に言い聞かせているが、何故かとても『分が悪い』。そう痛感している。心の底まで詳らかにされてしまいそうな心地になっている。こうした直感はたいてい正しいことを知っていた。

 

(慎重に……慎重に……)

 

『言葉の扱いに長ける者には、注意することだ』。クルックスの脳裏に忠告が蘇る。

 それは連盟の最古参、ヘンリックの言葉だった。静かな古狩人と呼ばれる同士は、古狩人と呼ばれるだけあってよく物事を知っている。ではなぜ、現在の長、ヴァルトールが連盟の長として在るか。それは、ひとえにヴァルトールが言葉の扱いに長けているからだ。長の存在は、連盟の継続のために必要だ。担い手である狩人を勧誘する時に、言葉の扱いに長けていて困ることは何も無い。

 ゆえにヘンリックは若輩の同士に対し、丁寧に釘を刺した。クルックスがヴァルトールに対し「この人についていこう」と心に誓っていることを見透かしているのだ。たかが言葉の、ただの狂熱に煽られて、くたばった輩を彼は何人も知っているだろうから。

 

 クルックスは、静かに深呼吸をした。

 己を律し、熱量だけを糧としなければ獣と同じだった。

 

「謙遜することはない。君は素晴らしいことをした」

 

「どうも」

 

 穏やかな老人の声は、しかし、妙な障りを持っていた。

 ゆえに会釈のような礼をしたクルックスの言葉は短くなる。

 

 褒められたくて戦っているワケではない。ただ、綺麗で清潔で清浄なヤーナムを見たい。そこに暮らす人々を見たい。そして、願うならそこで穏やかな眠りにつきたいだけなのだ。トロールなどその道程の石ころに過ぎない。誰かが廊下のゴミを拾ったら、彼は同じ台詞を生徒に言うべきだ。クルックスはそう考える。

 

「さて。どこから話すべきかの。クィレル先生が、偶然に見つけたヤーナムというマグルの街。そこで、君のお父様が魔法使いであることが分かり、その子供たちが急遽ホグワーツ入学という運びになった。……しかし、何か特別な技能があるようじゃの」

 

「ヤーナムは病の街であります。そのため、非力な者、無力な者は命を落とす。ゆえに訓練を受けております」

 

「ミス・コーラス=ビルゲンワースは、君のように振舞わなかったようじゃが」

 

「彼女は争いを望まず、皆の退避を優先いたしました。道義的判断であると思います」

 

 ダンブルドア校長は、生徒を見つめた。

 クルックスは、部屋の天井の隅を見つめていた。

 

(焦れる……)

 

 校長が何を言いたいのか。何を言わせたいのか。意図がつかめずに苛立つ。しかし、短い会話の積み重ねで、ひとつだけ分かったことがある。

 告白にしろ、質問にしろ、校長は自分が言い出すのを待っているのだ。

 それを察知したからと言って駆け引きがうまくないクルックスが、この場で出来る事は実に大したことが無かった。身の回りにいる大人の真似をするだけだ。

 

「──校長先生の憂慮とは何でしょう? 私には分かりかねます。ただ、魔法も護身もほとんどできぬ子のなかに特異な異邦人が混ざっていることが不都合なご様子に見えます。ヤーナムのことを聞きたいのであれば、私だけでは情報が偏るでしょう。我が同胞を召喚することをお薦めいたします」

 

「わしは君も、君の同胞のことも大切な生徒じゃと思っている。しかし、力があるからといって矢面に立つ必要は、この学校では無いとも思っておる」

 

「なるほど。勇敢な生徒がいて優秀な先生方がいらっしゃる。なにより警備にも手が回っていないようですからね」

 

「これは耳が痛い」

 

 心は痛めないのだな、とクルックスは妙な関心を抱いた。

 

「──お父様から手紙を預かっております。お渡ししてもよろしいでしょうか」

 

 クルックスは、彼のテーブルに手紙を置いた。

 逆さ吊りのルーンが刻印された封書には『遥か遠きヤーナムより──月の香りの狩人』と署名があった。

 手紙は、封書のなかに二通あった。

 長い文書ではないとクルックスは見たが、しかし、校長の瞳は半月眼鏡の奥で長い時間をかけて読んだ。

 

「君は、これらを読んだかね?」

 

「いいえ。しかし、内容はうかがっております。入学についての礼とヤーナムは今後とも魔法界に基本的に接触しない、と」

 

「それは一枚目の手紙の内容じゃの。もうひとつは、狩人のことが書かれておる」

 

 いったいどこまで書いてあるのか。

 ヒヤリ。クルックスは、内心で慌てる。だが、テルミの言葉を信用すれば父たる狩人が後手に回ることは少ないハズだと思い直す。

 校長の、眼鏡のむこうで探る青い瞳と目が合った。

 

「『我らは狩人。狩人の業ゆえに学舎を血塗ることを許したまえ』」

 

「至言であります」

 

 校長にとって、これは『学校から父への報告は不要である』と宣言された事態に等しい。

 クルックスは、肩をすくめた。

 さすがは、我らのお父様。仔がやらかすことまで把握済みであるらしい。心強いことである。

 

「我らは狩人。しかし、狩るべきものがいなければ、ただの学徒。引き続き、在籍することをお許し願いたいものですが」

 

 軽く両手を広げてクルックスは言った。

 校長は、頷いた。

 

「もちろんじゃ。遥か遠きヤーナムの民。ホグワーツは助けを求める者には、常に助けが与えられる。君が学究を求めるのならば、きっとそれが与えられるじゃろうて」

 

「広き御心に感謝いたします」

 

「ヤーナムの興味深い話は、また後日うかがおうかの。クィレル先生から話を聞いた時から、ぜひ話をと思っていた。……ただ、今は寮へおかえり。まだ寮のパーティーには間に合うじゃろう」

 

「失礼します」

 

「ああ、最後にひとつ。狩人とは、何を狩る者なのかね」

 

 手紙の一文が気になったのだろう。彼は、テーブルに広がる手紙を見つめている。

 そして、退室しかけたクルックスへ疑問を投げた。

 

 クルックスは、目を細める。

 脳裏のカレルは沈黙を保ったままだ。

 どこにも虫の気配はしない。──今は、まだ。

 

 連盟が見出す虫もヤーナムの奇妙な風土病も、きっとヤーナム外の人々には理解はされないだろう。

 いいや。理解されてはいけないのだ。

 理解しないことが彼らにとってこの上ない幸いなのだから、月の香りの狩人の仔である自分は、彼らの無理解を祝福すべきだった。

 露悪的趣味も無いため、クルックスの説明とは簡略なものだった。

 

「ただの獣であります」

 

 嘘ではないから、この言葉も真実だった。

 事実の上辺を濾し取った、歪な一側面ではあったが。




【解説】
 減点について。
 偶然居合わせた(旨のことを言った)テルミの減点をどうするか。すこし悩みの種でしたが、マクゴナガル先生は、不運にまで杓子定規で点数を差っ引かないだろう──と考えたため、スルーされました。
 ハリー&ロンのトロールの対処は映画を準拠しました。原作は、閉じ込めた先が女子トイレだと気付かず、閉じ込めて鍵をした後に悲鳴で女子トイレだったと気付いた……というのがざっくりした流れです。つまりトロール君が素早くワンキルしていればハーマイオニーは気付かれずに嘆きのマトルっていたのかもしれません。危なかったですね。
 みんな大好きトロール。通称3デブである『残酷な守り人』よりは背が高いかなと思いますが、死体の巨人よりは小さいように見えます。ちなみに原作では4Mの記述があります。映画を見る限りでは、かなり分厚い体をしていますね。テルミの仕込み杖の貫通力では、突破しきれませんでした。

狩人「だから導きの刺突血晶を拝領したまえよ」
(訳:突き攻撃を強くするアイテムを装備したまえ)
クルックス「もう教会の杭で良いのでは?」
(訳:同じ教会武器ならば、リーチがあり同じ突き攻撃がある武器がよいのでは)
狩人「いーや、あれは様式美が足りないからな」
クルックス「壁に愛されるのも様式美なのですか」
(訳:仕込み杖は攻撃範囲が広いせいか壁や墓石などの障害物にやたら弾かれる傾向にある)
狩人「アメ腕が異常なんだ」
(訳:とある武器は、なぜか障害物に弾かれにくい。比べてはいけないのだ)


【あとがき】
 パイルハンマーです。皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。
「狩らせてもらうぞ!」と言いつつバックステップで落下していった某旧市街の先達の姿を。直前の手記に「散弾銃が有効」と書いてあって何でだろう?と思った記憶があります。あと、言われるほどバックステップしないので筆者は普通に殺されました。


【登場人物のビルド関連について】
 感想でご質問を受けたので、こちらで開示いたします。

クルックス・ハント
ビルドはいわゆる、筋力の偏重
得意武器:獣狩りの短銃、ノコギリ鉈、獣狩りの斧、爆発金鎚、回転ノコギリ
「殺される前に殺せばいいのだと気付くまでに、時間がかかった」
そのため、微妙に技術にも血の遺志を費やした。また蓄え過ぎた鎌貯金のため最近は神秘にも振っている。
「血の遺志に換えればいいのだが……その……なんだ……」
番号を割り振って管理している間に愛着がわいてしまった。

ネフライト・メンシス
ビルドはいわゆる、技神
得意武器:教会の杭、慈悲の刃、葬送の刃、彼方への呼びかけ、ルドウイークの長銃、教会の連装銃
「ヤハグルでは、人攫い──いえ、狩人やダミアーンさんもいらっしゃるので、私が出張るべき場面など無いのだが」
ヤハグルをうろつくアメンドーズは、実のところ好きではない。
だから、彼の地では教会の杭を手放したくないと思っている。

テルミ・コーラス=ビルゲンワース
ビルドはいわゆる、神秘
得意武器:ルドウイークの聖剣、仕込み杖、ロスマリヌス、彼方への呼びかけ、ルドウイークの長銃、教会の連装銃
「偏重? 一点特化といってちょうだいな」
神秘は好きだし極めたいとも思っているが、カレル文字『苗床』でもたらされる苗床頭だけは苦手意識が拭えない。
狩人がそれを装備している時は、いつもより遠くから話しかける。

セラフィ・ナイト
ビルドはいわゆる、技血
得意武器:落葉、レイテルパラッシュ、エヴァリン
「しかし、レオー様。血質を誇るのであれば、もっと別な仕掛け武器があると思うのです。そう、自らの血で殴る──そんな武器が」
先輩騎士らが猛反発したので彼女は市街で瀉血の槌を振り回すことはしない。血を狩る騎士達は礼儀を重んじる。
「『そもそも血族に流れる血に、悪い血があるワケがない。ゆえに瀉血は不要』――なるほど、もっともなお言葉です」
彼らはヤーナムの狩人よりも、礼節にはとりわけ熱心なのだ。病の隣人であったがゆえに。


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選ばれし者

過去(特別な生まれ)
不運に生まれ、幸運に恵まれた。
直観力に優れ、勇敢である。
額に仇の証は刻まれた。
生きる限り、試練は続く。



 寮への帰り道。

 クルックスは、ダンブルドア校長の一挙手一投足を思い出していた。──小さく鼻を掻く。手紙を撫でる。瞬きをする。

 何も不思議なことはない。どれも普通で大したことが無い、ただの動作だ。

 

 だからこそ、自分の腹の底にじんわりと広がる感傷の温度が分からない。

 

 クルックスは「どうやら自分は、校長が普通の人間ではないことに期待していたらしい」と自覚した。

 人間離れという点において、父たる狩人を超越することは人間である限り困難だというのに、どうして自分は今までそんなことを信じていたのだろうか。

 自己分析を繰り返しているうちに「ここが神秘の学び舎であるから」という答えを得た。ヤーナムでは、異常の最奥には最も極まった異常があるのが常である。

 また、ヤーナムの神秘の学び舎、ビルゲンワースにおける学長ウィレームは人間の枠を逸脱している。だから、ホグワーツの校長も──当然!──まともな人間ではないと思っていた。

 

 しかし。しかしである。

 

(所詮は半年ばかり生きた俺だ。見る人が見れば、彼も極まる異常を抱えた人物なのかもしれない)

 

 人間観察は、得意ではない。

 脳裏に刻まれた『淀み』の意味を持つカレル。それが反応しない限りは、敵ではないことくらいしか分からない。

 ふぅ、とクルックスは力の入りすぎた腕を回す。

 ダンブルドア校長が発した言葉のなかで気になるものが、ひとつあった。

 

『力があるからといって矢面に立つ必要は、この学校では無いとも思っておる』

 

 素直な聞き解きをするならば「困難があれば先生方が対処するから」だろう。

 だが、声音とは不思議なものだ。クルックスは「でしゃばるな」と受け取った。

 

(……目障りと言いたげでもあったように思うが……うーん……?)

 

 今のところ、クルックスにとってダンブルドア校長の評価は、よく分からないものだった。

 狭量な器ならば、イギリス魔法界が『見落とした』といういわく付きのヤーナムに関わろうとはしなかっただろう。けれど、見つけた生徒を彼は受け入れた。秘匿ゆえに学びの機会が得られなかった生徒を救いあげるだけの器がある。

 それは慈悲によるものだろうか。あるいは他の思惑があるのか。では、他の思惑とは何か。ヤーナムの何ぞを知っているのか。それはどこから知ったのか。クィレル先生か。いいや、彼は観光客程度の話しか知らないハズだ。他の情報源とは何か。誰か。何だ。

 

 このようなことをグルグル考えていると、クルックスは父に対して言った「直接伺わないのですね。いえ、行かないほうがいいと思うんですが、意外です」という言葉は、やや早まった判断をしてしまったように思えた。

『なぜ、校長はヤーナムの民を受け入れたのか』

 正しく上位者である狩人ならば、この問いかけだけで彼の嘘も真実も見通すことができるだろう。

 

(いや、しかし、お父様にお手数をおかけするワケには……それに)

 

 立場を明確にすることは、危なげな行為でもある。

 明らかにしてはいけないものを明らかにしてしまったら、無益な争いが起きるかもしれない。

 

 いくら考えてもクルックスの頭では解決できそうにない。そもそも判断する情報が足りなかった。同じ枝葉の存在であるネフライトやテルミに協力し、素直に成果を待とうと思う。それか、この問題は狩人のやる気が出て白黒ハッキリさせるまで、そっと蓋をしておこう。

 

 クルックスは、グリフィンドール寮への扉をくぐる。

 談話室は盛況だった。ハロウィーンのお菓子が運び込まれ、誰もが談笑に花を咲かせている。

 そのなかに、ハリーとロン、そして控えめに笑うハーマイオニーがいた。

 

 彼らの間に通う空気は柔らかい。

 過程がどうであれ、ハーマイオニーに友人ができたことは好ましい。クルックスは祝福した。

 

 彼らのそばを通り過ぎようとしてテルミを思い出した。トロールは死んでいなかった。テルミが止めを刺さず、ハリーやロンへ花を持たせた以上、トロールを気絶まで追い詰めたのは彼らの行動だったと推測できる。テルミは命を救われる立場にあったことも。だから礼をするべきだろう。

 小さな丸テーブルを囲み、食事をしている彼らのそばに立った。

 

「ポッター、ウィーズリー。──テルミを助けてくれたのだろう。ありがとう」

 

 彼らは、食事をする手をピタリと止めた。

 ハリーとロンは「ああ」とか「うん」とか言った。歯切れのよろしくない反応を不思議に思う。

 

「ねえ、クルックス。どうしてトロールを殺したの?」

 

「どうして?」

 

 思いがけないハリーの質問にクルックスは問い返してしまった。

 汚れた存在を殺すのに理由が必要とは考えていなかった。

 理由は、考えればたくさんある。動機の全てが理由になるだろう。

 

「俺は、連盟員。夜に蠢く汚物すべてを根絶やしにする使命を負う狩人だ」

 

「汚物って?」

 

「生きている価値が無く、存在するだけで他者を害するものだ。そう、俺が判断したものだ」

 

「?」

 

 ハリーは『意味が分からない』という顔をしていた。

 無理も無い。連盟の長、ヴァルトールも「同士以外に理解されないことだ」と言っていた。

 無理解は、歓迎すべきものだった。

 

「気にしなくていい。貴公らは命があったのだから、それでいいだろう」

 

「じゃあ狩人って? 魔法使いの狩人は、トロールを狩るの?」

 

「魔法界の狩人がいるかどうかは知らない。俺達の仕事は、獣を狩ることだ。今回はトロールが含まれたが」

 

「それってつまり、人を守っているのよね?」

 

 助け舟を出すようにハーマイオニーが言った。

 

「結果として、そうなることがある。今回は運が良かった」

 

 クルックスは、軽く手を振ると会話を終えて談話室を後にした。

 制服を脱ぐと簡易なシャツに着替え、ベッドに身を横たえた。本当は宿題に取り掛からなくてはいけないが、ネフライトから査読を頼まれていた資料の締切が早い。羊皮紙に手を伸ばして引き寄せる。読み終えてしまいたかった。けれど、思うように文字が頭に入ってこない。

 

(友か……友……ね……)

 

 何となくだが。

 ハリーとロン、ハーマイオニーの間に流れる空気のなかに、自分はいてはいけない気分になった。魔法界において、ヤーナムの民は血に塗れすぎていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「狩人なんて聞いたことないけどな。『闇祓い』って風じゃないし。よっほど田舎なんじゃないか? 自然いっぱいのさ」

 

 クルックスが去った後で、ロンがかぼちゃパイに齧りつきながら言った。

 彼の想像を聞いてハーマイオニーが考え込む顔をしていたが、ハリーはロンの語る『闇祓い』という職業に興味を覚えた。

 

「ロン、闇祓いって?」

 

「『オーラー』さ。闇の魔法使いや魔女を逮捕する仕事だよ」

 

「でも『狩人』と言っていたでしょう。森の話はよくするけれど、あまり楽しい思いはしていないみたい。苦ではないみたいだけど」

 

 クルックスは、毒とその対処法にやけに詳しい。

 彼が饒舌になる数少ない話題だった。

 ロンは『不吉なものを見た』と言いたげに鼻を鳴らした。

 

「そりゃあ楽しいだろうね! トロールの頭をミンチにするくらいだもの。結局、先生が来てもやめなかったじゃないか」

 

 思い出すと彼は「ウゲー」と声を上げた。

 ハリーもかぼちゃパイをつまみながら、不思議に思っていることを話した。

 

「あの子、慣れてたよね。ハッフルパフのテルミ。普通に会話していたし」

 

「テルミ・コーラス=Bね。同じ街から来ているみたい。彼は『親戚のようなもの』って言っていたけど。校内で話しているところをあまり見たことがないわ。苦手みたい」

 

 かぼちゃタルトを切り分けたハーマイオニーは、もそもそと食べた。

 紅茶を飲んで一息ついた後、ロンは言った。

 

「──ま、僕は今後、関わり合いになりたくはないね。いつも暗い顔しているヤツだし」

 

 それにはハリーも同意だ。

 彼はいつも、この世の不幸を見てきましたという顔をしている。

 しかも、口重でぶっきらぼうな物言いが多い。そして何より、気取った話し方をする。

 

「そ、そう悪い人ではないわ。親切だもの」

 

 ハーマイオニーはそう言うが、同じ境遇ならば、物腰柔らかなテルミのほうが仲良くできるだろう。

 

「うーん……」

 

 クルックス・ハントは彼らの認識のなかで、とんでもない田舎からやって来た、よく分からない人物として規定されていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 十一月になった。

『寒い』という感覚をクルックスは、初めて身に沁みて感じる。生まれて初めて見る冬が近付いていた。

 

 四階の廊下の探索は、思うように進んではいない。無論、後先考えずに進めるだけならば簡単だ。

 けれど、三頭犬を殺してしまえば校長は下手人が誰かを容易く察してしまうだろう。

 傷ひとつ負わせずに出し抜く方法について、きょうだい達に妙案が浮かぶことはなかった。──もっとも何人かは真剣に考えていないようにも見える。

 

(普通というものは、とても難しいのだな……)

 

 生徒に馴染めないクルックスはグリフィンドールのクィディッチ戦の今日、校庭のベンチに座っていた。

 寒風にそよぐ遠くの森を眺め、ときおり足元の蟻を見守る。煩わしい思考から逃れることができる穏やかであるが、生産的ではない時間だった。

 そんな頃。

 

「いつもに増して暗い顔をしているな。クルックス」

 

「セラフィ」

 

 歩く度に音を立てる枯れ葉の上、同じ枝葉の存在であるセラフィ・ナイトが薄く笑っていた。

 彼女の銀の髪は、曇天の下では真っ白に見える。琥珀色の瞳が愉悦を宿し、細められた。

 

「聖杯の番犬をいなし、守り人を恐れぬ貴公が凹んでいるとは、すこし面白くあるぞ」

 

「勝手に笑え、セラフィ。だいたい何の用だ。クィディ……? 何とかという競技は、スリザリンの試合だろう」

 

「クィディッチだ。グリフィンドールの試合でもあるだろう? 何を落ち込んでいるのか」

 

 セラフィの問いかけは、彼女の振るう刃のような鋭さがあった。冷たくあったが、真剣でもあった。

 ジッと二人は見つめ合う、先に逸らしたのはクルックスだった。

 

「俺は、孤独が苦痛ではない。けれど、悔しいのだ。普通というものに憧れているのに、いざ、その中に放り込まれると何をしていいのか分からない」

 

 血の女王への献身を是とする彼女にとって、目的以外のことは些事である。

 ゆえにクルックスは、セラフィに笑われるだろうと思った。笑ってほしいとも思った。くだらない感傷なのだと一刀に切り捨ててくれるのならば、さらに良い。

 しかし。

 

「それが平和というものだ。父が望んだ平穏だ。だから君、享受したまえよ」

 

 彼女が「まあ、いいじゃないか」と言うのでクルックスは、さらに落ち込んだ。肯定されることは、むず痒い気分になった。

 

「セラフィは、スリザリンでうまくやっているようだな。……なんというか、とても意外だ」

 

「ああ。見てのとおり野心の欠片も持ち合わせていない僕が、なぜスリザリンなのだろうと思っていたが、何とか馴染めている」

 

『見てのとおり』という言葉の意味が、クルックスには分かりかねた。父を越えたいという彼女の願いは、野心そのものではないかと彼は常々考えていたからだ。

 だが、質問には至らなかった。

 

「テルミが言っていたのだが、僕はミステリアスな存在なので意味ありげに微笑んでいるだけで相手は『壮大な計画を考えている』と勝手に思ってくれるらしい」

 

「美人はお得だな! くそ。俺の苦労は何なんだ」

 

「騎士に向かって『くそ』とは何事かね。連盟員」

 

「すまない。訂正する。羨ましい」

 

「よろしい。君が歯噛みする顔は、ふむ、胸がすくようだよ」

 

 クルックスは、顔を背けて足元の蟻を見た。

 父たる狩人はカインハーストの女性に対し、とても弱い。かの女王からのお願いならば何とか叶えようと奔走するし、来訪時に騎士に両断されようが手紙の返信は徒歩で渡しに行く。彼は「カインハーストに連なる女性は、魅力的で参る」とも「相性が良くない」とも言っていた。

 セラフィの微笑を見ているとクルックスまで毒されてしまいそうだった。

 

「……結局のところ。俺は、血に塗れていないと落ち着かないのだ」

 

「貴公、さては病気だな? 鎮静剤が入用だな? 血に酔っているな?」

 

 セラフィが、懐から鎮静剤をちらつかせる。クルックスは「要らない」ときっぱり告げた。

 彼女なりの冗談だと知ったのは、それからしばらくのことだ。

 

「しかし、気持ちはよく分かる。僕らはこの学校において異物だ。差別されているワケではないが、歓迎されているワケでもない」

 

 彼女はベンチの枯れ葉を払うと彼の隣に座った。

 キシリ、とベンチは音を立てた。

 

「そういえば、校長と話したぞ。ハロウィーンの日だ」

 

「あの日? 僕は地下室で無駄足を踏まされていたが、そんなことがあったのか」

 

「いろいろと、な」

 

 それを聞くと彼女は「ほう」と言った。

 二人が口を閉ざすと冬に向かう風に乗って、遠く離れたクィディッチ会場から声援が聞こえてきた。

 風が通り過ぎるのを待ってクルックスは、ぼんやりと暗い森の木蔭を見つめた。

 

「校長は『でしゃばるな』と言いたげであった……」

 

「ハッ、ククク……クハッハハ、ハハハ。年長者という者は、どうしても若者を手玉に取りたがるよなぁ」

 

 表情に乏しい彼女が愉快そうに肩を震わせて笑った。とても珍しい。

 カインハーストの夜警。セラフィ・ナイト。

 銀の兜で顔を隠す彼女は、兜を外した後も長らく表情を作る必要が無いと思い込んでいたらしい。最近はテルミに指導されて表情を作っている彼女が、自然とこぼす笑みは珍しいものだった。もっとも、今は多少邪悪な笑みであったが。

 

「覚えがあるのか」

 

「僕の上司がそう。騎士のなかで最も優れていらっしゃる、鴉羽の騎士様。お父様は『カインの流血鴉』と呼ぶが。──お父様の正体を知りながら、僕をお父様にけしかけようとしている」

 

「……? ……何で?」

 

 父たる狩人と血の女王、アンナリーゼの仲は良好と聞いている。その臣下たるカインの流血鴉と父たる狩人が敵対する理由は何も無い。

 意図が分からずクルックスは、首を傾げた。

 

「血の女王様が孕むものは上位者だ。ヤーナムの上位者はひとりでいい。支配者がふたりでは都合が悪い。そのための排除だ。全て整った後で、お父様の背中をザクリとやるなら僕がちょうどいいと思っているのさ」

 

 なるほど。

 動機がそれだとすれば、筋は通る。これまで友好的な関係を築いた相手に対し、まったく正当な暴力ではないが、そもそも歴史を繙けばヤーナムにいる貴族はやや傲慢な性格だ。ビルゲンワースが発見し、管理していた『禁断の血』を勝手に持ち出した時代から性根は変わっていないと見た。

 もっとも、セラフィが「鴉羽の騎士様」と慕う、彼の独断という線も色濃い。

 

「でも、お父様はそれくらいでは死なんだろう」

 

 クルックスは、まったく心配に値しないと思っていた。

 最近は「俺、赤ちゃんだし……」がトレンドの狩人であるが、夢を見る狩人の特性そのままに上位者になった彼を誰であれ一刀で殺しきれるとは思えない。最低限の準備として、特別な『手段』と『場所』と『機会』が必要だろう。

 無論、全てクルックスには必要の無いものではあるが。

 セラフィは、目を細めるだけだった。

 

「さて、どうだろう。僕の劇毒ましまし千景は良い線行くと思う。けれど、僕のことは問題では無いのだ。まったくね」

 

「はあ……?」

 

 彼女の語る企てに安心感を見いだせないクルックスは、この陰謀めいた思惑がまだ続くのかと驚いた。

 

「まあ、聞きたまえよ。ここからが一等面白いところなのだ。鴉羽の騎士様は、僕を隠れ蓑に最後は自分でお父様を狩ってしまいたいのだ」

 

「セラフィを本命の刃と見せかけて自分でお父様をぶっ殺そうと? その人、狂人じゃない? お父様の正体知っていて殺そうとか狂人じゃない?」

 

 正気の沙汰とは思えぬ行動があるものだ。

 クルックスは彼女の上司の思いがけない言動に戸惑った。

 

「だから僕は好きなのだ。お父様の死血は、人間と互換のある濃厚な上位者の『穢れ』となるだろう。騎士様は『女王様のご懐妊に相応しい』と思っているのか『私のほうが強い』とお考えなのか。さあ、どちらだろう? 僕は見極めきれずにいるが、どちらでも面白そうだし、女王様の利になるから騎士様の思惑に乗っている。……とはいえ、あの御仁は僕がこのことを勘付いていることまでお見通しのようだが、はてさて」

 

「…………」

 

 クルックスの所属する連盟に、このような後ろ暗い陰謀も企みも存在しない。

 ヤーナムにおいて『ことさらに不思議な』地にある、異文化を垣間見てしまった気分だった。啓蒙は得られなかったが、純粋にビックリした。

 セラフィは、忠義に一途な人物だと思っていたが──実際、その側面は間違いなく存在する──同僚と楽し気な関係を築いているらしい。

 彼女は思い出したように再び「フフフ……」と笑い、しかし、唐突に微笑みを消した。

 

「この学校において、我らの力は歓迎されない。ならば、ならばだよ、最もお父様に似ている君。問題を解決するのは誰だと思う?」

 

「先生だろう」

 

「本当にそう思うか?」

 

「どういうことだ。まどろっこしい問いかけはやめてくれ。もっとハッキリ、簡潔に答えを提示してくれ」

 

 ここに、と手を広げる。

 セラフィは、ゆるりと口を開いた。

 

「僕も確信なんて無いさ。よって提示する証拠もない。……しかし、僕はね。テルミの言葉を疑うワケではないが、実のところお父様に近しいのは君だと思っている。校長が『「でしゃばるな」と言いたげ』であったのなら、貴公がそう感じたというのであれば、それは真実に近いのだと思う。そして、それを真実だとするのならば辻褄が合いそうだ」

 

 でしゃばるな。

 それは、手出しをするな、とも言い換えられる。なぜ、手出しをしてはいけないのか。

 閃きは突然に訪れた。

 

「選ばれし者がいるというのか?」

 

「そうだ」

 

 セラフィは、考え事をするように美しい顔を撫でた。

 

「あぁ、秘匿の奥には秘儀があると相場が決まっている。『秘密は甘いもの』だから。そうそう、四階の廊下の話を聞いた時から不思議に思っていたのだが、わざわざホグワーツに留め置く理由があるのだろうか? 『グリンゴッツ銀行は安全だ』とみな口をそろえて言うのに。──誰が望まれているのだろうな? 校長は誰に期待しているのだろうな? 哀れな生徒にどんな責務を括りつけて湖に突き落とす心算なのだろうな? なぁ、我が同胞。教えてくれたまえ」

 

「それは……」

 

 言葉を失ったクルックスは腕を組み、校長とのやりとりを思い出していた。

 隣でセラフィが「クックック」と低く笑った。ちらりと見る。顔の造形は、狩人の夢にいる人形と同じだというのに、こういう時は人形と似ていなかった。

 凍える風が身に鞭打つように当たった。

 

「……このまま話してもいいのだが、すこし冷えるな」

 

「……ああ」

 

「……生の実感など血を浴びることしか知らなかったが」

 

「……普通に寒いな。何か、こう、防寒着が必要だと思う。実はカインハーストでも感じていたが」

 

「……防寒着。それは良い考えだ。せめて首に巻く何かが欲しい」

 

「……それだ。本格的に冬が来るまでに準備したいところだな」

 

 二人は、城に戻った。

 

 クィディッチは、グリフィンドールの勝利で終わったという。

 グリフィンドールの談話室でチームメイトに担がれているハリー・ポッターを見た瞬間、クルックスは肌にざわりと熱いものがはしった。

 

「…………」

 

 クルックスは思う。

 

(特別な生まれというものか)

 

 クルックスは、人間の『特別さ』というものに興味が無い。

 けれど、それが作れるのならば。

 

 誰が望まれているか。

 誰に期待しているのか。

 誰を突き落とそうとしているのか。

 

 ──なぁ、我が同胞。教えてくれたまえ。

 

 問いかけは、いまクルックスが誰かに言ってしまいたいことだった。




【解説】
 校長に対する、もやもやした気持ち。
「なぜ、『いまさら』ヤーナムの民を受け入れたのか?」
 これまでのように無視をしてもいいだろう。見落とし続けてもいいだろう。握り潰すこともできただろう。
 だが、そうはしなかった。
 これに対する何かしらの見解を持っていそうな仔は、ネフライトやテルミですが、藪をつついて蛇玉を出すこともないという判断をしているようです。クルックスが聞けば答えてくれるでしょうが、真実と確かめられないものについて納得するかどうかは別問題。出来る事ならば、そっと蓋をしておきたいものです。
 今のところ、クルックスの手持ちの情報では『ヤーナムを訪れたクィレル先生がダンブルドア校長へスペシャルなスピーチをして納得させた』というものしか思い浮かびません。まさか。
 しかし、誰かがヤーナムを利用しようとしているのならば覚悟すべきです。ヤーナムがもたらすものは、かつてギルバート氏が言ったことが真理なのでしょう。
この街で何を得ようとも私には、それが人に良いものとは思えません……


【あとがき】
 クルックスが、個人的に仲良くできると確信しているのは同じ男の子であるネフライトですが、相性が一番良いのはセラフィだと思っています。
 虫を潰す連盟員は、イカれた医療者を目の敵にしていますが、血の狩人は向こうが放っておけばこちらも無視できる存在なので、所属の属性として敵にはなりにくいからです。
 セラフィは、きょうだいのなかでは自分が一番強いと思っているのでわざわざ市街で連盟活動をしている間のクルックスを害そうとは思いません。僕は、僕より強い奴に会いに行く。
 また、同じ血の穢れならば、連盟よりも教会を害した方が歴史的にも善い行いなので、彼らの獲物はもっぱら教会の狩人です。



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クリスマス・プレゼント

クリスマス・プレゼント
クリスマスの贈り物。
善良な者にこそ、幸は与えられるべきだろう。
……拝領の歴史は、物を替え続いている……



 クリスマス。

 十二月下旬の行事である。

 待ち遠しい休暇のせいか。数人の先生を除く教師と生徒以外は、勉強に身が入らないようだ。

 

 ヤーナム内には無い行事だ。

 いや、探せばあるのかもしれない。けれど、異邦の病人が街に来てまず最初に捨てる物(医療教会調べ)の第一位が異教の聖書であるという話を聞いたことがある。異教のことは詳しくなかったが、ヤーナムにおいてクリスマスの知識がありそうな人物はガスコイン神父しか思いつかなかった。残念ながら、クルックスは彼と話したことが無いけれど。

 

 さて、行事を調べてみたところ、調べれば調べるほどハロウィーン同様に魔法族が祝う行事として不適切に思われたが、ホグワーツひいては魔法族は気にしていない様子だった。そしてやはり皮肉では無さそうだ。さては、鈍感なのだろうか。実に不思議である。

 

 そんなクリスマス休暇は、自宅に戻っても良い期間となっているらしい。

 

 クルックスは戻るかどうか迷い、父たる狩人に伺うため狩人の夢に一通の手記を放った。返事は翌朝、使者がクルックスの寝床に手記を運んできた。曰く『ヤーナムのことは気にするな。引き続き、勉学など頑張りたまえよ。風邪をひかないように』。憂いが無くなった彼は、ホグワーツに残ることにした。ほかのきょうだい達もそうするらしい。

 

 クルックスの周囲に馴染めないという悩みは、少々薄れていた。

 彼自身の努力も少々あるが、周囲の生徒が比較的素直であり、その性質に助けられていることが多々あった。また、数か月経ったことで「あいつはそういうヤツ」という理解が互いに浸透したことも彼を助けた。以前、ハーマイオニーが言った「生活に慣れれば、きっと大丈夫よ」という言葉は確かにその通りだった。

 

 唯一、交流に壁を感じるといえば、ハリーやロンだった。目の前でトロールを狩ってしまったことが影響していた。やや警戒されているが、クルックスは気に留めなかった。たとえ彼らが自分を忌避しようと彼らがクルックスにとって愛すべき日常にいることは変わらない。

 忌まわしき虫がその身のうちに見えるまでは、誰であれそこそこの付き合いをしてもよいと思うのだ。

 

 ところで。最近のハリー、ロン、ハーマイオニーといえば図書館に通い詰めている。ハリーやロンはともかくとしてハーマイオニーまでがそれに付き添うように歩くのは意外である。授業が難解で困っているのかと問えば、違うと言う。彼らは何らかの課題に取り組んでいるらしい。クルックスは、その課題を四階の廊下にいる三頭犬の出し抜き方ではないかと見当をつけていた。

 

 三頭犬の出し抜き方といえば。

 クルックスは『きょうだい集会』の度に話題に出して助言を求めたが、同じ枝葉の存在である三人は飽きたらしい。

 

「殺してしまったら? ほら、虫がいるかもしれないし?」とはテルミの弁。

「現行犯で捕まらなければ問題は無いだろう。殺したまえよ」とはセラフィの弁。

「このような思考に費やす労力がもう無駄で無駄。殺せ」とはネフライトの弁。

 

 三人の意見が一致してしまったが「じゃあ、殺そうか」となるクルックスではなかった。

 苦い顔をしている自覚があった。

 

「俺でさえ思いつく安直なことを言うんじゃあない。あれはきっと魔法生物だ。何か制御する術があるハズなのだ。たぶん。あと、テルミは虫のことを軽々と言うな」

 

「あら、連盟の狩人ったら恐いわ。お姉様」

 

 きゃあ、と可愛げな悲鳴をあげてセラフィにとびつくテルミ。

 セラフィは猫を撫でるようにテルミを抱きとめた。

 

「よしよし」

 

「教会の人間にとって血の狩人のほうが、よほど恐ろしいと思うがね。……。テルミ、君も聖職者の端くれなら振る舞いに気を付けたまえよ」

 

 ネフライトは、女子ふたりのやりとりを視界に入れないように明後日を向いていた。

 

「まぁ。お気に障ったら、ごめんなさいね? でも、真面目な提案をしている心算なの。貴公が本当に秘奥を見たいのならば、ね?」

 

 テルミがクスクスと笑う。相も変わらず感情をくすぐる声だった。今度はセラフィもネフライトも何も言わない。

 入学初日の自分であったら、その日のうちに殺しにいったかもしれない。だが、手早く凶行したとして、咎められなかったとして、校長と先生には誰の仕業か分かるだろう。その後の生活を彼らの監視のうちに過ごすのは、楽しいことではない。

 

 ネフライトの手助けを受けながら、調べ物をしてみよう。クリスマス休暇の過ごし方は決まった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「やあ! 同じ居残り組だぜ」

 

 休暇前、最後の授業が終わった夕方。

 トランクを持った生徒でごった返す談話室の隅で、ネフライトの資料を読み疲れてぼんやり人混みを見ていると声をかけられた。

 見れば同じ顔が二つある。これらは幻覚ではなかった。双子と呼ばれるものだと知ったのは、入学した次の日だった。

 

「ジョージ先輩、フレッド先輩。ええ。まあ。……。家人が忙しくしているもので」

 

 先日、マクゴナガル先生がクリスマスに居残る生徒のリストを掲示した際、最後に名前を書いたのがクルックスであったため、彼らウィーズリー三兄弟とハリー・ポッターが今回の休暇でホグワーツに残ることを知っていた。

 

「そうかい! ウチもそうさ」

 

「パパもママも旅行でね! ルーマニアに行くんだ。君は、行ったことある?」

 

 クルックスが、ホグワーツで一番最初に行ったことは世界地図を頭に叩きこむことだった。ひとまずヨーロッパ諸国程度は覚えることができた。そのなかにルーマニアもあった。

 

「いいえ。ルーマニアは……たしか……バルカン半島東部の国家、でしたか。外国はとんと行ったことがありません。どんなところなんでしょう?」

 

「トウモロコシが主食だな、あそこは」

 

「あとドラキュラだぜ、ドラキュラ。でも、ルーマニアで話す時は気を付けろよ。あそこで『この国の有名人は誰?』って聞いたらマグルでも十人に十人が『どうせドラキュラって言ってほしいんだろ!』ってキレるからね」

 

「トランシルヴァニアじゃなくてもキレるのかい!?」

 

 ふたりは大爆笑した。

 笑いどころが分からず、クルックスは「は、はあ」と曖昧に笑った。

 

「楽しい休暇にしようぜ!」

 

「お気遣い、ありがとうございます」

 

 彼らは、誰かを見ると構わずにはいられないということは、この数か月でも身に染みている。

 まどろみから醒めたクルックスは、ドラキュラ──ヴァンパイアのことを考えていた。

 

 三頭犬について調べている時に読み飛ばした記憶がある。

 人血を啜る、脆い生物だ。日光を浴びることができないとは、すこしばかり寂しい生態をしている。けれど、彼は輸血液をもって生の感覚を得るヤーナムの民のほうが、生物として上等だと考えているワケでもなかった。獣性を克服した結果、夜しか歩けなくなった──などの事実があったら、お父様も目の色を変えるだろうか、などと考える。

 

「うーむ……」

 

 どこもかしこも分からないことばかりだ。

 クルックスは、ネフライトの資料に赤を入れ終わるとわきに抱えて立ち上がった。ネフライトは疲れているようだ。今回は、誤字脱字が多かった。ひょっとするとメンシス学派製の栄養剤をキメていないのかもしれない。

 談話室を出ようとしたところで、ハーマイオニーを見かけた。

 

「あら。クルックスは、帰らないのね」

 

「……。家人が多忙でな。君は帰るのだな。良いクリスマス休暇となりますように。この城で祈っていよう」

 

「『祈る』は、ちょっと大げさだと思うけど」

 

「む。そうなのか。では、良い休暇を過ごしたまえ。風邪などひかないように」

 

「ありがとう。あなたもよいクリスマスを」

 

 彼女と別れると男子生徒の個室へ向かう。ネビルとばったり出くわした。

 

「ロングボトム、今度こそカエルは持ったか?」

 

「カエルじゃなくてガマガエルだよ! だ、大丈夫、ちゃんと持った……」

 

「では、良い休暇を」

 

「あぁ、うん……」

 

 妙に元気が無いが、家族に問題があるのだろうか。

 しかし、クルックスに気の利く言葉がかけられるワケもなく、励ますように軽く肩を叩くだけに終わった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クリスマス休暇が訪れた。

 当然のことながら、人が少なくなるだけで学校の機能としては何も失われていない。

 談話室の暖炉は赤々と尽きぬ火を継いでおり、そこでゆるりと眠ることが出来たら上等な平穏の過ごし方だろう、とクルックスは考えることがあった。今はそこで、ハリーとロンが大広間から持ってきた食材を串に差して炙って食べていた。

 

「──夕食は豪勢な物が出ると双子の兄君がおっしゃっていた。あまり食べ過ぎると悔しい思いをすることになるぞ」

 

 精一杯の軽口を叩いてみる。

 反応は良好で「大丈夫、大丈夫」と二人は口を揃えて言った。休暇の楽しみがクルックスへの警戒心を緩めたようだった。

 

 グリフィンドール寮を出ると図書館へ向かう。

 空き教室で誰かの話し声が聞こえた。

 

 テルミとセラフィだった。

 ハッフルパフとスリザリンが話し合っている様子を一般の学生が見れば「そそのかされている!」と思うだろうか。あるいは、都会の狩装束──屋内なので外套は脱いでいる──が、教会の狩装束──帽子とウィンプルは外している──から血の施しを受けているように見えるだろうか。

 そんな空想を描きながら、声をかけた。

 

「あら。クルックス。お元気かしら?」

 

「何も問題は無いが……何をしているんだ?」

 

 二人の間には、何かのカタログと氏名の書いた羊皮紙があった。

 羊皮紙は、スリザリンの学生達の一覧のようだった。

 

「セラフィに社交というものを教えているの」

 

「なるほど?」

 

 そのような座学があったら是非受講したいところであるクルックスは、食いついた。

 

「んー。たいていはお金で解決できるから、理屈が分かってしまえば簡単なのだけど……セラフィには細やかな対応が難しいから助言をしていたのね」

 

「まったくだ。人付合いなどくだらない」

 

 憮然とした顔で腕を組み、彼女は面倒くさそうに言った。

 

「まぁ! セラフィは分かっていると思うけれど、そんなことは心で思っても絶対に言わないでね。けれど、繋ぐべきパイプをちゃんと持っているから、セラフィはよくやっているわ」

 

「君の言葉に慰められるよ」

 

「あら。口説いてくれるの? 嬉しいっ」

 

「フフフ、心にも無い言葉など石ころの価値も無い。こんなもの欲しければいくらでもくれてやる。妹よ」

 

「サイコパスかしら。うふふ」

 

「君だけが特別だとも」

 

「あっ。せ、聖職者の端くれとはいえ、こんなことするなんて、いけない人だわ……」

 

 セラフィがテルミの腰に手を回した。

 何だか見てはいけない気分になったクルックスは、廊下に先生がいないかどうか気になった。

 

「……内臓攻撃ならよそでしろ、よそで」

 

「まあ、くだらない茶番は置いておいて」

 

「わたしは結構楽しいわ! でも、急ぐ仕事がありますからね。それでは、セラフィ。ご要望のとおりに処理を進めるわ。明日までには間に合うでしょう。ただし、特急便になるから金額はかさみます。……ひとまず、わたしが負ってあげますね。後で請求することでよろしくて?」

 

「『感覚麻痺の霧』をダースでくれてやる。だから少々まけたまえ」

 

「おあいにく。わたし、孤児院にいる間は狩りに出ていないから使い道のない物としてそれ、貯まっているの。わたしの代わりに赤蜘蛛の相手をしてくれる程度でいいわ。聖杯に付き合ってちょうだいね」

 

「……よかろう。今後も頼む」

 

「はぁい。同胞の頼みならば、いつだって粉骨砕身よ。では、わたしは失礼。フクロウ小屋に急がなきゃ」

 

 テルミは短く別れを告げると去って行った。

 セラフィが溜息を吐いた。とても珍しい。「してやられた」という顔をしている。

 

「何やら急ぎの取引だったのか。テルミに転がされたようだな?」

 

「まあ、な。けれど金額的にも妥当な取引だ。公明正大でもある。もっとも、我々の間で騙し合っても無意味ということもあるだろうが……ふむ」

 

「何だ」

 

「借り貸しを作るという点でテルミはうまくやっているな」

 

 それはクルックスも同意できる。

 テルミの手の平で転がされているとも思うが、こちらも便利に使っているのでお互い様だった。

 

「俺もネフも聖杯探索の手伝いを約束させられたからな。あいや、それくらいの働きをしているので不満は無いが」

 

 青い秘薬は校内外の探索において、念には念を押すためにどうしても欲しかった物だ。

 だから、彼女の提示した条件に文句は無い。

 セラフィは、彼女の去った後を眺めているようだった。

 

「機会があったら僕もやってみようか」

 

「手伝ってほしいのなら、素直に頼めばいいだろう。テルミにしてもそうだ。俺は助力を惜しまない」

 

「…………」

 

 セラフィの琥珀色の瞳が、ジッと見つめてきた。

 彼女の次の言葉には、長い時間を要した。

 言うか言わないか迷うような時間だった。

 

「セラフィ?」

 

「その優しさは身を滅ぼすだろう。クルックス。『我々は、常に打算で物を見、公算で動くべきなのだ』」

 

「しかし」

 

「では、お父様があちらこちらの組織に顔が出せる程度に知人がいるのはなぜだ? どこにも属さない連盟はよいとして、血族に名を連ねておきながら、処刑隊の一員と親しくできるのは何だというのか」

 

 クルックスは、何も言えなくなり口を噤んだ。

 彼女の言葉は真実で、彼の疑問でもあったからだ。

 彼女は、眉を寄せた。

 

「我々は、常に利用できるものを利用すべきなのだ。ただ、それだけではいけない……。ああ、貴公の考えも間違いではない。そう、間違いではないのだ……」

 

「セラフィ?」

 

 矛盾したことを言う彼女は、言葉を探すように教室の外を見た。

 

「先の言葉は受け売りだ」

 

 彼女は、無表情と見紛う薄い笑みを浮かべた。

 瞬きのうちに消えてしまいそうなそれは、今朝降った初雪のように儚い。

 

「鴉羽の騎士様の言葉だ。その信条に殉じていたのなら、ヤーナムの目障りな鴉は一匹になっていたハズなのに。あの御仁は、なぜ迷ってしまったのだろうな。……けれど、そこにクルックスと同じ思いがあったのならば……僕は、その心情が嫌いではない。優しさが身を滅ぼすならば、滅びてもいいと思う。そのために滅ぶ価値がある。お父様が尊ぶ人間性とは、きっと、そのようなものだろう」

 

「俺にどうしろと」

 

 クルックスは、自分の行動指針を見失ってしまった気分になり、咄嗟に問いかけた。

 

「僕の話は、聞き逃して忘れてしまえ。だが、ただ働きは気まぐれにしろ。優しさなど所詮は人間性の上澄みだ。何もしなくとも消耗するものを安売りすることはない。これは同胞の話だけではない。ホグワーツの誰に対してもだ。──では、失礼。夕食に会おう」

 

「俺もここに用はない」

 

 セラフィも去って行った。

 図書館に行くと奥まった席にいるネフライトがテーブルに突っ伏していた。

 クルックスは知らなかったが、メンシスの檻は即席の枕にもなったらしい。気配に気づいた彼がハッと顔を上げる。頬には格子の痕がついていた。

 

「あぁ……クルックス……おどかすんじゃあない……」

 

「寝るならベッドで寝ろ。書類を持ってきた。赤を直したほうがいいだろう」

 

 羊皮紙を置くと彼は眠そうな目をこすり、背伸びをした。

 

「ありがとう。私は、誰もいないと安心感から寝てしまうらしい……ふぁあ……」

 

「イルマ・ピンス司書はどこに?」

 

「彼女とて人間だ。生活に必須な時間は存在する」

 

「ああ、そういう」

 

 クルックスが、ネフライトに会いに来たのは書類を渡すためだ。

 よって、もうここに用事は無いと言える。

 

「なぁ、三頭犬のことだが」

 

「うるさいから本を探してやったぞ」

 

「さすがだ、弟よ」

 

「誰が弟だ。頭に爆発金槌食らわすぞ」

 

「え。すまん」

 

 彼は軽口として「お兄様」とか言うクセに、クルックスが「弟よ」と言うと怒るらしい。今日の凍った湖もかくやという冷たさが刺さって痛い。

 そんなことよりも。

 クルックスは思い返す。

 彼が爆発金鎚を使う姿を見たことが無い。ネフライトは常々「火薬庫の武器は、やかましくていけない。私の趣味に合わない」と言っていたのに。脅し言葉に使うということは、実は使っていたのだろうか。

 問いかけの機会を失ってしまったのは、その後、彼が三頭犬の話を続けたからだった。

 

「……こうして本を借りてきたワケだが」

 

 まだ眠そうにしているネフライトは、羽ペンを手の中で弄びながらぼんやりと言った。

 

「ああ、礼は後で。何だ?」

 

「解決策というか、妥協点を思いついたんだ。誰かが三頭犬を出し抜いたら、その後に忍び込めばよいのではないかと。……ああ、怒ってくれるな。いつも正面から堂々と獣に立ち向かう貴公が、好まない策だと私は知っていて、敢えて言っている自覚がある」

 

 クルックスが黙り込んでしまったのでネフライトが慌てて言葉を付け足した。

 しかし、彼が沈黙した理由は怒りではなかった。

 

「……ああ、気付かなかった。そうだ。その手があったな……」

 

 開きかけた本を閉じ、クルックスは頭の中で言葉と事実が繋がる先触れを感じていた。

 

「クルックス……?」

 

「ああ。そうだ。そうだ。なぜ俺は……ククク……。中に入ろうとした人物ならばいるじゃないか!」

 

 ハロウィーン。トロール。脚に怪我を負った寮監。

 思えば、ずいぶん作為的だったではないか。

 

 ハロウィーンという祭日に、見るからに知能の低いトロールが入って来た理由は何だ?

 スリザリンの寮監、スネイプ先生は脚に怪我を負った理由は何だ?

 負わせたのは誰か。何か?

 秘匿を暴こうとしている者は、誰か?

 

 閃きが訪れて、クルックスは目を輝かせた。

 

「ハロウィーンの日に、トロールが入ったのは誰かが手引きをしたからだ。その日、スネイプ先生は脚に怪我を負った。三頭犬にやられたに違いない。つまり、スネイプ先生こそがトロールを招き、秘匿を破ろうとしているのだ!」

 

「へえ。ふーん」

 

 ネフライトは興味無さそうにクルックスの回答に応じた。

 

「貴公、反応悪くない? 冷たくない? 衝撃的事実バァーンってしたのに驚かないの?」

 

「私には関係無いことなので特段……。分かった、分かった。拗ねるなよ。それで?」

 

「それで? とは?」

 

「告発でもする心算か?」

 

「俺は狩人だぞ。狩人は警邏ではない。ヤーナムには掃いて捨てるほどいるコソ泥の相手なぞしていられるか。けれど、犬を出し抜くのならば俺の役に立つコソ泥だ。生かしてやろう。授業も面白いからな」

 

 授業の後に「頑張ってくださいっ!」と一声かける必要があるだろうか。

 そんなことを考えるクルックスにネフライトは素早く釘を刺した。

 

「その思い込みで行動するなよ」

 

「なぜ? 俺は、犯人だと確信している」

 

「では聞くが、その情報をよこしたのは誰だ?」

 

「テルミだが」

 

 ハロウィーンの夜。

 女子トイレから出てきたテルミがそっと囁いたのだ。

 それを伝えたところ、ネフライトは険しい顔をした。

 

「却下だ!」

 

 彼は、読みかけの本を閉じてテーブルに指を立てた。

 研ぎたてのナイフのような鋭さで彼は告げた。

 

「彼女の証言は検討材料にすべきではない。せめて別の証拠で判断しろ。これは忠告だ。正しく、忠告してみせよう。クルックス。テルミの言葉を真に受けすぎるな」

 

「だが、彼女は確かに見たと。それに、俺に嘘を吐いたって仕方が無いだろう?」

 

 なぜネフライトが強硬に反対するのかクルックスは分からない。

 険しい顔のまま、しかし、ネフライトは痛いところを突かれたように目を逸らした。

 

「……正直に言えば『嘘ではない』と私も思う。貴公の言う通り、我々の間で『嘘を吐いたって仕方が無い』からな。互助の精神的にも間違った行動ではない。だからこそ、問題だ」

 

「すまない。本当に分からないから、教えてほしいんだが……どこが問題なんだ?」

 

 ネフライトが言葉を重ねる以上、彼なりの心配があり、読み切った思惑があるのだろう。

 そのいくつかもつかめないクルックスは首を傾げた。

 

「私の見るところ。テルミは、この学校において狩人であるよりも学徒であることを選んでいる。ハロウィーンの日、グレンジャーと一緒に女子トイレで会敵したのだろう? トロールを殺さなかったことが証拠だ。狩人ならばグレンジャーの退避より、何が何でも殺すことを優先するべきだった。我々の戦い方は、誰かを守りながら戦うには不向きだ。そして、攻撃は最大の防御でもある。だが、彼女はそうしなかった」

 

「攻撃はしていたが……ロスマリヌスで……」

 

「おぉ、そうか。だが、成果は上がらなかったようだな! 聖歌隊お得意の聖剣はどこに置いて来たのだろうか!? なあ、メンシスの徒に教えてくれまいか?」

 

「…………」

 

「では、さらに聞こうか。彼女が、きょうだい会議においてハロウィーンの日の顛末を君にだけ説明をさせて、寮監の脚の件に一言も触れなかった理由は何だと考えている?」

 

「……それは……何で、だろうな……」

 

 ネフライトは、瞬きの後でさらに声をひそめた。

 

「彼女が御しやすいと目をつけている同胞はクルックス、君だぞ」

 

「ほお」

 

「『ほお』じゃないが。『テルミにいいように使われている』と言っているんだぞ。分かっているのか?」

 

「いま完全に理解した」

 

 本当かなぁ……?

 ネフライトは、訝しそうにクルックスを見た。

 しかし。

 クルックスは、興醒めた顔でネフライトを見返した。

 

 ──誰かが三頭犬を出し抜いたら、その後に忍び込めばよい。

 ネフライトの案は、真っ先に思いついても良い出来のものだった。けれど、クルックスは思いつかなかった。無効化する方法ばかり考えていた。誰かが──同胞が、三頭犬に傷つけられる可能性を無意識で恐れたのだ。結果として、視界の狭窄を招き、彼に指摘されるまでそのことに気付かなかった。

 

「先ほどセラフィに忠告された。……俺が身を滅ぼすとしたら、優しさゆえなのだと」

 

 同胞に対する無条件の優しさが悪意の無理解を呼ぶのならば、たしかに、身を滅ぼすことになる。

 セラフィの言うとおり、優しさなど所詮は人間性の上澄みなのだから、有限のものを安易に使うべきではなかった。

 

「セラフィか。その忠告は恐らく、正しい。君は我々のなかで最も……いいえ、いいえ。そもそも君は、こういうことを誰かに話すべきではないのだ。そう。私にだって言ってはいけない。私が、君をそそのかして、何かをさせようなんて思う日が来てしまうだろう」

 

 そんなことはない。

 言いかけたクルックスを彼は右手を挙げて制した。

 

「自己理解が済んでしまったんだよ、クルックス・ハント。私は、骨の髄まで学徒なんだ。お父様の持つ、堅実性の一端を色濃く反映している。同胞のなかで最も信用ならないのは『最も遠い可能性』のテルミかもしれないが、最も信頼してはいけないのは、きっと私だ。──手段を得たらそれ以外の何もかも費やしてしまえる私を、君はあまり頼りにするべきではない」

 

「生まれは環境で変わると言ったことがあるだろう、ネフライト・メンシス。どうだ、矛盾したぞ」

 

 噛みつくようにクルックスは言う。

 狂犬になった気分だった。

 

「ああ、矛盾している。ひどい矛盾だ。けれど、私にとっては矛盾しないのだ。全て打算あってのことだ。君とは永く付き合いたいと思っている。君の本質は、お父様の理念に近い。君を理解することが、私の理解の次元を引き上げてくれるだろう。脳に瞳を得るために、ひとつ、こういう思索も必要だろうと思っているんだ……」

 

 ネフライトは、正体不明の笑みを浮かべてメンシスの檻を撫でた。

『骨の髄まで学徒』である彼は、普段人との関りを拒絶しているが、決して弁で劣るわけではなかった。むしろ、誰よりも巧みに言葉を弄することもできる能力があった。そそのかすこともできるだろう。その必要性があれば、だが。

 クルックスは、彼の『優しさ』によって拒絶されてしまったことを知った。

 今日は、もう彼と健全な話はできないだろう。

 クルックスは、一歩退いた。

 

「忘れてくれ。俺もそうする」

 

「忘れるとも。最も親しき同胞。最も親しき同じ枝葉の隣人よ」

 

「ありがとう」

 

「だから……君が、私に礼などすべきではないんだよ」

 

 かすれた声が聞こえた。

 悲し気に聞こえたそれは、メンシス学派の徒が吐くには人情があり過ぎるように思えた。

 もっとも、聞く者の心の問題だったのかもしれない。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クリスマス・イブの夜。

 クルックスは、ベッドの上でぼんやりとしていた。

 互いに協力すべき同胞が、実のところ、互いに反目まではいかないものの警戒し合っていたことが衝撃で眠気が訪れないのだ。

 

「…………」

 

 ヤーナムの悪しき風習をギュッと濃縮したような状況だ。

 いいや、訂正が必要だった。

 積極的な敵対心と悪意が無いだけマシだ。

 悲しい。

 虚しい。

 そのような感情が去来したが、クルックスは感情の名前を知らなかったので、自分の胸に穴が空いたような気分になった。

 

(──自立しなければならない)

 

 その穴を埋めるために漠然とした目的意識が芽生えていた。

 彼らの決めたことに口を出す権利は、クルックスには無い。

 全ての決定権は、父たる狩人とその本人にある。

 クルックスにできることは、彼らとの適切な距離を知り、そして道を違えた時は立ち向かう心構えをしておくことだけだった。

 

「……はぁ……」

 

 探索の準備でさえクルックスを慰めることはなかった。

 このような調子では、何をやっても裏目に出るような気がした。

 彼は、怪我を負った動物がそうするように寝床でジッとしていた。

 

(明日は……暖炉のそばで寝ていよう……)

 

 眠りが心を癒すと信じて彼は、目を閉じた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クリスマスの朝。

 クルックスが起きるとベッドのわきに小包が置いてあった。届け先を誤った誰かの荷物だろうか。

 辺りを見回していると離れたベッドで、もぞもぞとハリーが動き出した。

 

「クリスマス・プレゼントだ!」

 

 彼は飛び起きると足元にあった同じような小包を開けた。そして、ロンがすでにいないことに気付くと階段を下りて行った。談話室へ行くのだろう。

 

 ベッドのわきにあった小包は、ひょっとすると自分の物だろうか。

 クルックスは警戒しつつ、ナイフで結び目を切った。

 

「……?」

 

 それは、真紅のマフラーだった。端には狩人の徴があしらわれている。

 開封して間もなく、足元に使者が現れた。

 小さな手に、手記を握っている。

 

『クリスマスとは、親から子へプレゼントを贈る物だとテルミより聞いた。人形ちゃんに特別に作ってもらったマフラーを拝領したまえ』

 

 そして、白煙をまとう幻影が現れた。人形にマフラーを巻いてもらった狩人が喜んでいる。

 テルミからクリスマス・プレゼントの知識を得た狩人は、仔らに作るマフラーの『ついで』に自分のマフラーも作ってもらったのだろう。もちろん、彼にとってはついでが大本命であるに違いない。

 ともあれ、彼が珍しく嬉しそうなのでクルックスも嬉しい。クルックスにとって彼は、いつも気怠い顔をしているか、うつらうつらと船をこいでいるか。あるいは聖杯から帰ってくるなり「ちあきら! ちあきら! 温めるんじゃあない!」と叫んでいる奇行の印象が強すぎるのだ。

 

「ありがたくいただきます」

 

 クルックスは、丁寧にたたむと大切にベッドのわきのスペースに安置する。

 そして、異邦の狩装束に着替えてから首に巻いてみた。多少寒くても、これは仄かに温かい。

 階段を降りるとハリーとロンが、プレゼントの開封をしていた。

 

「おはよう。それは似合っているな」

 

 クルックスは、ロンの着ている栗色のセーターを指した。

 

「これ……『ウィーズリー家特製セーター』なんだ。僕はいつも栗色。今回はハリーもね。ハリーは、エメラルドグリーンだ。君のプレゼントは、マフラー?」

 

「ああ。家人がね。コートしか持っていなかったから、とてもありがたいものだよ」

 

「君も似合っているよ」

 

 ハリーが言った。

 クルックスは、何となく気恥ずかしい気分になって「ありがとう」と小さく言って鼻先を隠した。

 それからクルックスは、ハーマイオニーからハリー宛に来たと言う『蛙チョコレートの大箱』を開ける作業を見ていた。

 

「そういえば、この菓子の付録を集めている人が多いな。談話室の壁にも、たしか、交換会の案内が出ていた」

 

「愛好家が多いんだよ。ハリー、アグリッパが出たら僕と交換しよう。魔女モルガナなんかもう七枚も持っているんだ」

 

「これだけあるんだ。きっと、あるさ。最後の包みだ。……? 何だろう。すごく軽い」

 

 ハリーが開けると、そこには銀ねず色の液体のような布が出てきた。

 クルックスはケープのようなものだろうかと想像を巡らせていたが、ロンは違う物と見たようだ。大きく目を見開き、ハッと息を呑み込んだ。

 

「僕、これが何なのか聞いたことがある。もし、僕の考えているものなら──とても珍しくて、とっても貴重なものなんだ」

 

「何だい?」

 

 ハリーが包みから滑り落ちた布を拾い上げた。はたからは水のような手触りに見えた。

 

「これは透明マントだ」

 

「姿を隠すマントというワケか。しかし、どうして貴重なんだ?」

 

 クルックスにとって、姿を消すということは狩人である限り難しいことではない。したがって、魔法族にも似て非なる同じ効果の飲み薬や道具があると考えていた。それが目の前にあるマントのような物とは思わなかったが。

 

「普通は、効き目がイマイチになってくるんだ。ところどころ透けたり、ときどき透けなくなったりして……でも、これはそんじょそこらの透明マントとは違う気がする。だってほら、こんな水みたいなマント見たことない……! ハリー、ちょっと着てみてよ!」

 

 請われるままにハリーは鏡の前でマントを来た。

 すると驚くことにハリーの首だけが宙に浮いた。体が消えている。

 ロンが大興奮で何事か叫んだ。

 

 クルックスは、同じように感心した。

 しかし。

 足先をつついた紙片に、やがて心奪われていた。それには風変わりな細長い字で、こう書かれてあった。

 

 

  君のお父さんが亡くなる前にこれを私に預けた。

  君に返す時が来たようだ。

  上手に使いなさい。

  メリークリスマス

 

 

 

 なぜか、ひどく喉が渇いた。

 不意にセラフィの声が耳元で蘇る。

 

『──誰が望まれているのだろうな? 校長は誰に期待しているのだろうな? 哀れな生徒にどんな責務を括りつけて湖に突き落とす心算なのだろうな?』

 

 クリスマス・プレゼントが誰によってもたらされた物か分からない。魔法がある限り、筆跡鑑定は役には立たないだろう。口頭で問いただしても真実を見抜けないクルックスには無意味だ。何も証拠はない。けれど、彼は確信した。

 

 秘匿を破るため、校長から期待されている人物は、存在する。ハリー・ポッターだ。

 

『上手に使いなさい』

 

 今年の今。

 在校生がほとんどいない機会にそんな物を渡す動機は、クルックスにさえ分かる。

 それを察した瞬間に体を沸騰させる怒りが、視界を赤くした。

 豊かな白い髭をたくわえた贈り主は「心ゆくまで探索するんじゃよ」とハリー達の好奇心を焚きつけたのだ。




【解説】
 仔らはそれぞれ『最も新しき夜明け』を求める方法が違うため、利用したり、利用されたり、そんな関係があります。しかし、誤った情報を伝えることはしません。ただし黙っていることはあります。「だって聞かれなかったからね?」
 互助の精神は、とても素晴らしいものです。──各々、互助として許容する認識の範囲が異なるため、どこまで無償で行うのかは差があります。
 信じられるのは狩人と人形ちゃんだけってハッキリ分かりますね。

『透明マント』……ちょうどハーマイオニーから「禁書の棚を調べてね」と言われている頃に渡す理由は、クリスマス・プレゼントとしてのサプライズのみだったのでしょうか。ダンブルドア校長は、良いことをしたと思っていそうなのが、考察の余地を生みます。
 え? 自分の力を試したいと思っているのは、ハリー自身だからOK?
 それって帽子が勝手に言ってるだけですよね?
 開心術使える帽子だから、ほぼ本音? そっかぁ。

【あとがき】
 賢者の石も後半戦になってきました。
 もうちょっとだけお楽しみいただければ幸いです。


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みぞの鏡


自らの姿形などを映すもの。
ひとまず前に立つといい。
まずは、己を見ることだ。
それは古くより見つめられることでもある。



 ──むしゃくしゃする。

 興奮状態をクルックスは『怒り』なのだと学習した。

 冷静な頭は、どろりと赤く濁る鎮静剤を飲めと主張したが、彼は身を焼く感情に身を委ねて城内を歩き続けていた。

 

 不思議なことにクルックスは、これまで『怒り』という感情を知らなかった。

 

『苛立ち』は『煩わしい』であり、決して『怒り』の領分と接したことが無かった。理不尽がまかり通るヤーナムにおいて培われた彼の精神は、一般に言うところ沸点が高い。これは、彼としばしば接する人物が、特に物分かりが良いか、精神的に成熟あるいは老成した人物である環境の影響が大きかった。

 

『理不尽とは飲み込むべきものであり、逆らうべきはなく、まして理由など探してはいけないのだ』──これを信じることができるのは数刻前までのクルックスであり、彼はついさっき死んだ。

 

 我が身に起きる理不尽ならば、いくらでも許容できる。

 しかし、他者に降りかかる理不尽は許しがたい。許したくない。

 

 クルックスは、ハリー・ポッターの経歴を知っている。

 同級生を知らないのは問題であろうとハーマイオニーに訊ねて『近代魔法史』を読んだから知っているのだ。

 

 彼の両親は、狂人の手にかかり死んだ。

 両親の記憶は薄いだろう。しかし、記憶が無かろうと一生分の辛苦を味わったとして、だから、もう十分ではないか。そんな彼に探索をそそのかすのは、なぜだ。どうしても彼が負わねばならない責なのか。だいたい、何のために? それはどうして?

 

(『特別な生まれ』というものか。くだらん)

 

 犯罪に巻き込まれただけの少年に何の価値があるのか。

 ダンブルドア校長には、彼が特別なものに見えているのだろうか。

 痩せた丸眼鏡の少年の顔を思い出す。クルックスには、やはり分からなかった。

 

(彼には特別な血が流れているとでも? ヤーナムではあるまいに)

 

 無邪気に喜んでいる彼を見ていられず、クルックスは寮を飛び出した。

 大人の作為的な罠に飛び込む彼を説得できるほど、信用されていなければ信頼も無い。

 何より言葉が拙い自分にできるとは思えなかった。

 

「ぐぅ……」

 

 願えば視界のあちこちに虫が見える陰鬱な気分になり、クルックスは廊下の窓から空を見上げた。

 雪空を明るく照らす太陽がある。小さな救いだった。

 

「…………っ」

 

 行儀の悪い舌打ちをした後で、彼はガリガリと頭を掻く。

 今は怒っても仕方が無い。

 ようやく諦めに似た境地に辿り着いた。

 

 クルックスの帯びる使命とは、父の言葉に従い見聞を広めることであり、連盟の同士に報いるため虫を見出して潰すことである。

 それ以外のことに目移りする必要は無いのだ。無いハズなのだ。

 自分に言い聞かせるように、彼は無理やり自分を納得させた。

 学生の身分で校長に楯突くには準備が足りない。客観に立ち返り、認めざるを得ない事実もあった。

 

 その時。

 木製の扉が、キィと鳴る音が聞こえた。

 怒りのまま通り過ぎた扉が開いて、中からクィリナス・クィレル先生が出てきた。彼は『誰か部屋の前を通っただろうか』という顔をしていた。

 カツン、と踵を鳴らし振り返る。それからクルックスは狩人の一礼をした。

 

「クィレル先生、おはようございます」

 

「あっ、ああ、おおお、おはよう、ミスター・ハント」

 

「今朝は晴れましたね。冬とは、雪ばかり降るのかと案じておりましたが、時おり、晴れることもあるのですね」

 

「ええ、きょ今日は、さ散歩には良い日だ。ああ、あ朝から散歩かね?」

 

 いつもよりも激しい吃音に聞こえた。

 しかし、誰も廊下にいない休日では彼の声に集中しやすく、聞き取れた。

 

「はい。俺は常々、廊下の真ん中を歩いてみたいと思っていたのです」

 

「あ、あぁ、も、もし、そそれに飽きていたら、ど、どうかな、お茶など」

 

「……お言葉に甘えさせていただきます」

 

 独りで心を腐らせていても仕方が無い。

 しかも、相手は父たる狩人の頼みを聞き届けた恩人だ。

 クルックスは礼を欠くまいと誘いに乗った。

 

「失礼いたします」

 

 教室に入るとニンニクの強烈な匂いがプンプンと漂っていた。

 授業日でなくとも常にこのような状態だとは思わなかった。

 

「先生、お茶とは香りを楽しむものだと学びました。しばし換気してはいかがでしょう」

 

「あ、ああ、っそそうだね、そう」

 

 クィレル先生が杖を一振りする。

 部屋に数枚ある窓がパッと開いた。

 

 クルックスは勧められるまま席に着いた。

 このまま彼が教壇に立てば、いつもの授業風景になる。

 クィレル先生は、クルックスの隣の席を一席空けて座った。

 

 宙をゆっくり飛ぶティーポットが、やがてクルックスの前のティーカップに紅茶を注いだ。

 

「先生、ありがとうございます。……しかし、俺と話すのは、きっとつまらないし『ため』にならないでしょう」

 

 紅茶の香りは、部屋に染み付いたニンニクの匂いが混ざり異様なものだった。

 だが、カップの温かさがクルックスの心を和らげた。先ほどまで、怒りでささくれた心だった。

 

「ななぜ、きみは、そそ、そんなことを言うのかな」

 

「俺は、あまり人付合いが上手くできないんです。グリフィンドールの生徒はみな優しいので俺に声をかけてくれるだけで、俺から声をかけることは、ほとんどありません。人と話をするためには、まず互いに一定の知識が必要です。俺は、魔法族出身が持つ常識も非魔法族出身が持つ常識も欠けているのです。だから、うまく会話ができません」

 

「きき君は明晰に、はは話すこともできるのに」

 

 クルックスは、困ってしまい、ただ笑った。

 つられたようにクィレル先生も笑った。口の端がぴくぴくと動くことを笑いと呼ぶならば、だが。

 

「……質問してもよろしいですか。先生は、どうしてヤーナムに来たのですか?」

 

「わ私は、昔本を、よ読んでいつか来てみたいと思ったんです」

 

「どんな本だったか覚えていますか? ヤーナムは……先生もお分かりでしょう。人から遠ざけられた街です。そんなところに先生のような、立場のある立派な方が来たのが、本当に意外だと思っていたんです」

 

「さ、さあもうずっと古い、む、昔の本だったので……」

 

「思い出したら教えてください。お父様もきっと気がかりにしています。ヤーナムの存在が外に知られることを好ましいとは思いません。あそこは本来、閉ざされているべき場所なのです。しかし……永遠にあのままでは立ち行かないでしょう」

 

 クルックスにとってはあたりまえのことだが、父たる狩人は、上位者だ。

 彼は、一年を二〇〇年以上続けることに、いったい何の意味を見出しているのか。クルックスはじめ、仔らには分からない。彼は、ヤーナムの人間社会に積極的に介入していないようなのだ。現在、実生活における狩人は『狩人』の思考範囲で動いているように見えるが、これさえ上位者の『気まぐれ』かもしれない。

 いずれは外と交わる機会がやってくるだろう。これが何百年先か、千年先か。誰にも分からない。

 

「けれど、先生、マグル学の教授でもあった先生ならば……これからの魔法族の行く末も見通せるのでしょうか?」

 

「ま、魔法族の安泰は、こ、こ、今後とて、ゆ、揺るがないでしょう」

 

 彼はそう言うが、不思議なことに彼自身がそれを信じていないような口ぶりだった。

 だから、さらに問いかけた。

 

「蒸気機関、ガソリン──俺は、詳しくありませんが、エネルギー分野の非魔法族の進歩は著しいものです。『世界大戦』でしたか。たった半世紀前であっても、多くの屍を築いたそうですね。それでも、なのですか?」

 

「融和的交渉は、まま、『魔法族が』できないでしょう」

 

 ひたり。事実は体の温度を下げた。声音が冷たい。

 しかし、これまで彼が発した言葉のなかで最も信用に値する言葉のように聞こえた。

 

「なる、ほど。魔法族の構造的あるいは伝統的に難しいという意味ですね? 我々は、やはりもっと学ばなければならないのですね。先生」

 

「え、ええ、ええ」

 

「取るべき手段が多ければ多いほど良い。理解できた者ができなかった者を滅ぼす。よくあることです」

 

 獣と対峙する場合もそうだ。肉体の可動範囲と瞬発力を読み切り、先手を封じた者が勝つ。

 それが族の規模で行われていると考えれば、群体であろうとも理屈は成り立ちそうだ。

 

「ヤーナムの、おおお、君のお父様は、お、お元気、ですか」

 

「はい。元気です。今朝、クリスマス・プレゼントにマフラーを……何も返せないのが、心苦しいです」

 

「き、君が風邪をひ、ひかずにいれば、そ、それだけで、きっと、いいと、か、考えたほうがよいのではないかな?」

 

 彼の言葉は後半になるにしたがって早口言葉のように絡まった。

 けれど、彼の言う考えはこれまでクルックスには無かったものだ。

 

「それは、きっと、良い考えですね……」

 

 その一言は、クルックスの荒んだ心を大いに和らげるものだった。

 仔の身を案じる一般的な父親像が、彼にはとても尊いものに思えたのだ。

 お茶はいつの間にか空になっていた。

 

「……ミ、ミス・コーラス=Bへ、チョコの礼を伝えていただけませんか。わ、わたしは彼女からプレゼントをもらって、しまって」

 

「テルミが? それは、あ、いいえ、受け取っていただきありがとうございます。こちらから礼をすべきことです。彼女には俺から伝えておきます。紅茶、美味しかったです。いつかまた──」

 

 お話をしたいです。

 思わず願いそうになるクルックスは、引き攣る彼の顔を見て考えを改めた。

 今日のこの出来事も彼は無理をしているように見えたのだ。

 

「そ、そろそろ、朝食っの、じじ、時間だ、よ、呼び止めて、すすまなかったねね」

 

「いいえ、お気遣いありがとうございました。ご用があればいつでもお呼びください。クィレル先生。……礼を忘れはしませんので」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 大広間に向かった。

 いつも生徒が多く滞在しているそこに日頃の雰囲気は無い。まばらに座る人がいるのみで寮の長テーブルが、やけに広く長く感じられた。

 しかし、風景は豪華絢爛だ。どうやって維持しているのか見当もつかない霜に輝くクリスマス・ツリーが何本も立ち並び、ヒイラギとヤドリギの小枝が天井を縫うように飾られ、天井から暖かく乾いた雪がふっていた。

 

 教員テーブルを見ると、すでにマクゴナガル先生は椅子に座っていた。そっと目礼したところ、彼女は美しい微笑をたたえ、ひらひらと指を振った。クリスマスというものは厳粛な女性の心さえ柔らかにするものらしい。

 

 席に座ると間もなく、入り口にセラフィが現れた。

 ブラウスにベスト、首には白いジャボ。瞳の色と同じ琥珀色の小さなを飾りを襟首に巻いている。ストライプズボンに編み上げブーツを履いた、彼女にしてはラフな格好だ。

 彼女は大広間に入るなり、クルックスがそうしたように、足を止めて辺りを見回した。何も言わずとも彼女の言いたいことは分かる。生徒の数が少ないな、と思っているに違いない。そして、呆れてもいるはずだ。

 

 そのうちハリーやロン、ウィーズリー兄弟がやってきた。一団はお揃いのセーターを着ている。

 

(お揃いの物。装束は所属を現わす。ならば、それを着るのは家系の誇示……いや、そこまで考えて無さそうである)

 

 貰ったプレゼントの話に耳を傾けていると、教員テーブルでダンブルドア校長が隣のマクゴナガル先生へ話しかけた。それにひとつ頷く女史がグラスを鳴らした。

 

「──生徒の皆さん。先生も。おはようございます。さっそくですが、皆さん立って、中央のテーブルに移動してください。生徒も先生も数が少ないですからね。寮テーブルを使うまでも無いでしょう」

 

 それはそうだな、とハッフルパフの生徒二人やスリザリンのセラフィが立ち上がる。レイブンクローの生徒で着席している者は誰もいなかった。

 皆が腰を上げると、ダンブルドア校長が杖を振った。教員と三寮のテーブルは大広間の壁に立てかけられ、代わりに中央に近いグリフィンドールのテーブルが中央におかれた。

 

 皆が思い思いのところに座ったが、セラフィは皆が着席するのを待っていた。グリフィンドールの生徒は皆スリザリンを嫌っていることを彼女はもちろん知っているのだ。

 

「レディ、俺の隣に座ってくれないか。今日は、慈しみに溢れた美しい日だという。望める限りの美しいものを見ていたい」

 

「おや。僕を佳き日の添え物にするつもりかな」

 

 だが、セラフィは素直に誘いに乗ってくれた。

 今日が祭日であるのならば『望める限り』気心の知れた人々と過ごしたい。クルックスの小さな願いを彼女は叶えてくれるようだった。 

 

「そうすべき日だという。異郷の異教者でさえ慣習に従うべきなのだ。君はグラスに映る己の顔を眺めていれば良い」

 

「まぁ。対面のわたしでは足りないのね」

 

 ウィーズリー家の双子のどちらかの隣に座った──クルックスの対面にいるテルミは口を尖らせた。もちろん、これが冗談の類だと知っている。

 

「貴公と愉しむために必要なものは目ではなく、よく動く舌だろう」

 

「それもそうね。良いことを言うわ」

 

「──ハッフルパフの話好きカナリアだろう、君」

 

 ジョージが、ニヤッとしてテルミに話しかけた。

 

「あら。そういうあなたは、悪戯好きの双子さん、の、どちらかしら? あぁ、四人きょうだいは見慣れているけれど、双子を初めてみたの。お許しなさって?」

 

「僕がグレッド」

 

「僕がフォージさ」

 

 二人が代わる代わる言う。

 正直なところ、クルックスは双子のどちらがフレッドとジョージなのか分からない。

 しかし、テルミは違ったようだ。

 

「こちらの精悍なお顔がジョージ、そちらの鼻筋立ったお顔がフレッドかしら」

 

 フレッドかジョージのどちらかがヒューッと口笛を吹いて、手を叩いた。どうやら正解したらしい。彼らの歓談は続く。

 

「ねぇ、クルックス。君は、ナイトとはどんな関係なの? ほら、オリバンダーの店でも一緒だっただろう?」

 

「……と、遠い親戚だ」

 

 そういえば、オリバンダーへ杖を購入しに行った際に彼と出会っている。

 偶然出会ったという言い訳は、できそうにない雰囲気だった。そして思う。遠い親戚とは便利な言葉だ。真実ではないが、嘘でもない。隠すほどのことではあるまい。

 

「コーラスも?」

 

 ハーマイオニーから聞いたのだろうか。

 ハリーが訊ねるとテルミは頷いた。

 

「ええ。そうよ。似ていないでしょう?」

 

 ハリーが頷いた。彼が再び問いかけようとしたその時。

 最後の在校生が、大広間に入るなり足を止めた。

 

 学徒の正装に身を包み、メンシスの檻を被っているネフライトは、教員も生徒もひとつのテーブルに集っていること、そして自分が最後に着席する事態であることに気付き、今から引き返そうかどうか無言のうちに考えているようであった。

 彼の足がピクリと動く前に、フィリウス・フリットウィック先生が高い声を上げて手を振った。

 

「ミスター・メンシス! 待っていましたよ。さあ、こちらの席へ」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 彼は、ちっとも嬉しくなさそうに言った。

 帰る機会を逸してしまったネフライトは、渋々というように檻を頭から外すと杖で叩いた。それは、パッと消えた。マクゴナガル先生がハッと息を呑む音が聞こえた。

 

「見事な消失呪文ですよ、ミスター・メンシス。……。上級生から教わったのですか?」

 

 マクゴナガル先生にしては珍しいことに問いかけには、わずかな沈黙があった。その後の訊ねた内容は、彼女も愚問であると分かっているのだろう。

 ネフライトは授業で指名された時分以外は、ほとんど誰とも話さず、没交渉な生活を送っているのは教員の間でも知られた話だ。

 ネフライトは教員と生徒の席の狭間に座った。

 

「いいえ。マクゴナガル先生。図書館にある呪文集を読んでいました。呪文とは、現象を固定化する針であり鍵です。解が明確である以上、呪文を唱える過程は必要では無い、という理解をいたしました」

 

「ええ。そうです。無言呪文は六年生で学ぶ内容ですが。それは、あらゆる呪文の基本となる、良い理解です」

 

 ネフライトは、彼なりの愛想笑いであろう、薄く口を開き頭を小さく傾けるように揺らした。

 

「ありがとうございます。──先生、変身術の本を読んでいて、いくつか疑問がありました。変態する体内は、どのような処理が行われているのでしょうか。例えば、先生は『動物もどき』でいらっしゃるが、その間、人間から猫へ至る、また逆の過程において人間から猫への変質は生体内の形成が──」

 

 彼は、席に座ると周囲の先生へ疑問のことを話し始めた。それは単純な興味であったり、魔法族そのものの思考を問うような内容であったりした。ロンをはじめウィーズリー兄弟は、ガリ勉であるパーシーを除いて、その話をうんざりとした顔で聞いていた。

 

「僕、アイツがまともな言葉を話しているの初めて見たよ」

 

 まるで不吉な黒猫が喋った様子を見てしまった、とでも言いたげにロンが言う。

 そのヒソヒソ声を聞いたハリーが慌てて、唇に指をあてる。そして、クルックスを見た。

 

「ロン、ちょっと……!」

 

「気にしなくていい。彼が変わり者であることは俺も認めるところだ。見ての通り、悪いヤツではない。そう邪見にして欲しくはないが、まぁ、奇妙だと思う気持ちは分かる。分かるぞ」

 

 全員が席に着いたところで目の前に金色の皿が現れた。

 間もなく、食事は始まった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「……!」

 

 ハリーにとってこれまでのクリスマスは、苦い思い出しかなかった。

 たくさんの大きなクリスマスプレゼントをもらうダドリーを「羨ましい」とも言えずに見ていた。本当は、プレゼントが欲しかったし、美味しい物をお腹いっぱいに食べてみたかった。

 

 今日は、その夢がいっぺんに叶ったような気分だった。

 

 誰が贈って来たのか分からないが、ロンが羨むほどの価値があるマント。

 そして、目の前には素晴らしいクリスマスのごちそうだ。

 隣に座るロンも驚いている。

 さっそく大皿に乗ったチポラータ・ソーセージを取りよせた。

 

 斜め向かいに座るテルミが食器に手を伸ばさない。食べないのだろうか。見やると両手を合せて祈りを捧げていた。同じように祈りを捧げている者はもうひとりいた。ネフライトだ。

 

「──異教の祭日が、我らの血の糧とならんことを」

 

 テルミが両手を合せて祈りを捧げている。

 最後の句を終えたのだろうか。彼女はようやくナイフとフォークを持った。

 

「敬虔なことだ。感心しているのだよ、俺はな」

 

 七面鳥を解体しながらクルックスは言う。

 食欲より好奇心が勝っているらしい。ナイフをまるでメスのように使って肉と骨を分けている。フフッと鼻で笑う様子は、彼にしては楽し気だった。

 

「わたしが聖職者だということ忘れがちよね、貴公。さ、食べちゃうぞー! クルックス、そのローストポテト取ってちょうだいっ」

 

「うむ。うまいぞ」

 

 彼は手を拭うとローストポテトを山盛りにした皿をテルミの前に置いた。

 

「……え。こんなに要らない」

 

「半分、僕によこしたまえ。クルックス、加減しろ」

 

「はあ? 小食なのだな。祭日だというのに」

 

 クルックスが選り分けた肉ではなく骨から食べ始めたのには驚いた。バリバリと食べている。

 ハリーが、かぼちゃジュースを飲んでいるとふと気になったのか。彼はテーブルを見回した。

 

「葡萄酒は無いのか。クリスマスには付き物なのだろう?」

 

「驚くべきことに、どうやら子供は酒を飲んではいけないらしいぞ」

 

「そんな決まりごとがあるのか。それは校則か?」

 

「魔法使いもマグルでも同じだよ! つまり、法律って意味だけど」

 

 聞いていられなくなり、ハリーは口をはさんだ。

 ハリーでさえ知る常識を彼は知らなかった。

 それどころか。

 

「法律……?」

 

「だから国で定めた法だよ」

 

「国……?」

 

 ハリーは、隣に座る彼がいよいよ心配になってきてしまった。

 彼は何を見て育ったのだろうか。

 ンン、とテルミが頬を染めて咳払いをした。

 

「クルックス、わたし達まで世間知らずだと思われるから質問は後にしてちょうだい」

 

「分かった。しかし、つまらんな。味見してみたかったのだが」

 

 かぼちゃジュースを面白味が無いと一息に飲み干した。

 バター煮豆を掬っていたセラフィが、彼のために追加のかぼちゃジュースをグラスに注いだ。

 

「どうせ酔えないだろう」

 

「好奇心の問題だ。そうだ、セラフィは飲んだことあるか?」

 

「ある。特筆すべきことは無かったような。葡萄を潰した匂いと皮の酸味、それからアルコール。あとは、腹が熱くなるくらいだった」

 

「……お貴族様の御用達とあれば、さぞ美味だったろうな。ククッ」

 

 クルックスが、喉を鳴らして笑った。

 小さく呟いたことは隣のセラフィ、そして思いがけず聞いてしまったハリーにしか聞こえなかったことだろう。

 

「ハリー! 引いてみなよ!」

 

 ニコニコしたロンにズイと差し出しされたのは、クラッカーだ。

 フレッドと一緒にクラッカーの紐を引っ張った。

 

 大砲のような音が響き、青い煙がもくもくと周りに立ち込め、中からは海軍少将の帽子と生きた二十日鼠が数匹飛び出した。なかでも小さな鼠はテーブルを駆けていった。

 

「あら」

 

 煙に紛れて、テーブルを叩く音が聞こえた。

 ケホケホと咳き込みながら煙を掻き分けると険しい顔をしたクルックスがこちらを見ていた。

 

「大きな音を出すなら先に言ってくれ」

 

「ごめんごめん。こんな音がするとは、思わなくて!」

 

 ただし、フレッドは分かっていた風である。帽子を被り、カラカラと笑っていた。

 

「カトラリーが汚れてしまったな」

 

 テーブルを見るとナイフやフォークに刺された鼠が転がっていた。クルックスだけではない。テルミやセラフィの周りにもそれらはあった。魔法で造られたそれはフッと眩暈のように消えてしまったが、ハリーはその姿にドキリとして顔を強張らせた。

 

「いけない、いけない。爆発音もそうだが、鼠を見ると反射的に体が動く」

 

「食事くらい落ち着いて食べたいところだ」

 

「祭日の戯れなのでしょう。そう深刻な顔しないでね? ほら、七面鳥が冷めちゃうわ。クルックス、食べてしまって」

 

「む……」

 

 テルミが甘くクルックスに促す。彼は、黙々と食べ始めた。

 テルミだけが平然と隣のジョージと話を続けていた。

 教員が多く座る側でクラッカーの音が鳴る度に彼がナイフを握りしめる様子が見えた。

 

「……やっぱり、変なヤツだよな」

 

 ロンがこっそり、ハリーの耳元で言う。ハリーもそう思った。

 

 それからは、できるだけ彼のことを忘れてハリーは食事を楽しんだ。七面鳥を食べ終えたらブランデーでフランベしたプディングが出てきた。その一切れにシックル銀貨が入っていたので、歯が折れそうになったこともいつか愉快な思い出になるだろう。

 ハリーが席を立つ頃、クラッカーのおまけを腕いっぱいに抱えていた。

 

「クルックス、どれか欲しいのある? 置いていくけど」

 

「いいや、結構だ……悪いが」

 

 いちおう聞いたが、結果は分かりきっていた。

 彼も問われた以上は、おまけに目を留めたが、ほとんど用途が分からなかったのだろう。困ったように言った。 

 ハリーは、葡萄酒で顔を赤くしているハグリッドといつもより柔らかな顔をしているマクゴナガル先生に挨拶するとテーブルを離れた。

 

「じゃあ、お先に」

 

 クルックスは、ひらりと右手を挙げた。彼は、テーブルの上にある物をまだ食べ続けていた。

 テルミだけは、ジョージとフレッドと話しながら先にどこかへ行ってしまった。

 

「よっぽど貧乏なんだろうな。もうテーブルだって食べちゃう勢いだよ」

 

「育ちは悪くなさそうだけどね」

 

 クルックスが礼儀正しい人物であることは、知っている。

 けれど礼儀正しい貧乏が存在するのだろうか。ハリーは不思議に思った。

 だが、すぐに忘れることになる。最高のクリスマスを同級生の些細な謎に邪魔をされたくなかったのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「苦労するな」

 

「あ? なんだ、バカにして」

 

「バカになどしていない。努力のあとは見えるからな」

 

 バタービールを傾けながら、セラフィが言った。

 クルックスは、ようやくハリーやロン、そしてウィーズリー兄弟がいなくなったことにホッとしていた。短時間ならばともかく、長い時間彼らと一緒にいると馴染めないことが気になって、自分の口数は普段より少なくなってしまうらしい。

 

 広間は、いよいよ閑散とし始めた。

 まず酒の入ったハグリッドが帰り、それから同じくシェリー酒などが入った教員の何名かも帰ったようだ。

 生徒はクルックスとセラフィ、そしてネフライトしかいない。

 

「ミスター・ハント、ミス・ナイト。まだ食べるのであれば、こちらにおいでなさい」

 

 すこし離れた席からマクゴナガル先生が呼んだ。酒を飲みつつ食べていた教員席の周辺では、未だ手つかずの料理があるようだ。

 セラフィと共にネフライトに近い席に座る。

 

「ありがとうございます。──ネフ、食べているか?」

 

「見ての通りだ」

 

 彼も──彼にしては──かなり食べたのだろう。

 いくつかの深皿が空になっていた。

 

「おや、七面鳥がまだある」

 

「百羽用意したのでな。厨房で渋滞をおこしているじゃろう」

 

「百……」

 

 時間さえあれば十羽食べられるクルックスにとって、なぜか婦人用の帽子を被っているが──校長のひとことは良い報告だった。

 

「僕は、煮豆がいい。手軽で美味しい」

 

「バターがしつこくないか? まあ、旨いが」

 

「貴公ら、バタービールを拝領したまえよ」

 

 ドンッとおかれたバタービールをセラフィが一本取った。

 そういえば。

 ネフライトの周りにはバタービールの空き瓶がダースで置いてあった。彼は、よほど気に入ったらしい。

 

「──ネフ、ひょっとして酔えるのか?」

 

「酔えないが美味しいと思う。つい飲んでしまう。……私達には、やはりアルコールは効かないようだよ」

 

「そうか。まあ、そういうこともあるか」

 

 クルックスは、七面鳥の解体に勤しんだ。

 セラフィがレンズ豆をスプーンの裏で潰しながら聞いた。

 

「ネフ、寮に帰らないのか?」

 

「なんだ帰ってほしいのか?」

 

 ムッとした顔でセラフィを見つめた彼は、バタービールを一口で半グラス飲んだ。

 

「珍しいと思っただけだ。我らには、団欒の時間が必要だ。研究成果も聞きたい」

 

「意外だな。貴公、興味が無いのだと思っていた」

 

『きょうだい会議』において、ネフライトの報告をいつも眠たげに聞いているセラフィが「研究成果を聞きたい」と言うのは、彼の言う通り意外だ。意表を突かれた顔をしている。

 

「ああ、興味など無いとも。だが、貴人には娯楽が必要だ。享楽を独占するのは貴族の嗜みらしいのでね。僕には、よく分からないことだが知っておくべきだろう」

 

「そういうことか。まったく……。知識の結実を娯楽で消費するんじゃない。だが、共通認識は大事だとも」

 

 ネフライトは食事を終えたようだが、クルックスやセラフィがいるためこの広間に留まるようだ。

 彼は、杖を振る。メンシスの檻が現れた。

 

「被るのか」

 

「当たり前だろう」

 

「ふむ」

 

 彼は重々しい檻を被り、持ち込んだ羊皮紙を広げた。

 レイブンクローの寮監であるフリットウィック先生が、ネフライトの名前を呼んだ。

 

「ミスター・メンシス、以前より気になっていたのだが、その檻は何なのかね?」

 

 彼の疑問は、多くの教員の疑問でもあったようだ。

 耳目がネフライトの次の言葉に集中するのが分かった。

 彼は六角柱の檻に触れて説明した。

 

「これはメンシスの檻。我ら、メンシス学派の信徒が意志を律し、また俗世に対する客観を得る装置です。……皆さまの感覚で言うところの制服、その帽子です」

 

「君は、そこの生徒なのかね?」

 

「いいえ。メンシス学派は研究機関であり、教育機関ではありません。師弟関係はありますが、それは一個人の私的感情の枠を越えないものです。私は、学派の構成員であり学派付の使用人……のようなものです。私の姓がメンシスであるのも、メンシス学派に由来する者であるからそのように名乗っているだけです。ヤーナムの地において、私の姓はありません」

 

 ネフライトの説明に、興味を惹かれた顔をしているのは三人に馴染みのない先生だった。

 チャリティ・バーベッジ。三年次からの選択科目であるマグル学の教授だ。

 

「研究機関とは何の?」

 

「ヤーナムの風土病です。古くからの民間療法の弊害でヤーナムには奇病が蔓延しています。その解決のため尽力しています」

 

 クルックスは無心に七面鳥を解体し、セラフィは豆を食べていた。

 ネフライトの言葉は、嘘ではない。真実のごく一部ではある。

 

 古くからの民間療法。──つまり、血の医療。

 その弊害と奇病。──つまり、獣に変態してしまうこと。

 解決。──つまり、上位者に瞳を願い、高次元的視座を手に入れることで自らを客観視し獣性を抑えること。あるいは、獣となっても思考を維持するため上位者と首を挿げ替えること。

 

 メンシス学派の方針は、父たる狩人曰く「方向性は悪くない。むしろヤーナム広し深しといえど、前向きで評価できると思う。学長、ウィレームは嘆くだろうが。犠牲が大きすぎるのが残念だ」というものらしい。

 ネフライトが省略した説明は、どれもこれも彼らには理解されないだろう。

 ならば最初から奇病と紹介してしまうほうが良い。病の地だと知れば、近づく者はいないだろうから。

 

「──風土病と言っても、私達から皆さまに感染する類ではありませんからご心配なく。また、私達の故郷はヤーナムの地ですが、そのヤーナムにとって私達は異邦者です。私は学派の下働きであり、古い内実を知るほど馴染んではいないので詳しいことは分かりません」

 

 普通の先生ならば、説明はこれで終わった。

 現にバーベッジ先生は感心したように頷き、興味をひっこめた。

 だが、ほんのすこし論理的思考を持ってネフライトの説明を並べれば、納得できない者もいるだろう。

 例えば、顰め面でずっと食事をしていたセブルス・スネイプ先生などは、その典型だった。

 

「──客観性を得る檻と病。そこにどんな関係があるのかね?」

 

「ヤーナムの伝統として、探求と医療、哲学の三位は同一のものなのです。ゆえに、この檻は学派の理念を表現します。常に己を律し、客観する……という。皆さまが祭典の時に被る帽子にも、恐らく意味があるのですよね。それと同じです」

 

 スネイプ先生は、まだ何か言いたげにしていたが、ひとまず意見の収まりどころを得たらしい。

 ひとつ。

 呼吸を置いた後で、婦人帽をかぶるダンブルドア校長が訊ねた。

 

「ヤーナムが、秘匿されていることを君達は知っているのかね?」

 

「いいえ。私達は、ヤーナムの外に出たことがありませんから。知りませんでしたね」

 

 フリットフィック先生が不思議そうに言った。

 

「クィレル先生から聞いた時は、本当に驚いた! なんせ魔法省は魔法使いと魔女の登録を行い、大まかだが、居場所の把握ができる。だから古い街とはいえ『見落とす』なんてことは、ありえないハズなのだ。誰か魔法使いがいるのかね? 秘匿している魔法使いが……」

 

「魔法使いですか。いるのかもしれません。いないのかもしれません。少なくとも私は存じません。学派には存在しないことでしょう。けれど、秘匿など……先生は、大袈裟なことをおっしゃる」

 

 ネフライトは面白い冗談を聞いた、というように笑いかけた。

 やはり、薄く口を開けるだけの所作が彼の笑みだと知っていれば、だが。

 

「ヤーナムは、今、この現在において隠されてなどいません。辿り着ける者だけが、辿り着けるだけなのです。魔法族も非魔法族も、かつてはヤーナムへ至れる瞳を持っていたでしょうに、いつの間にか失ってしまった」

 

「では。なぜ、そんな仕組みになっているのかね?」

 

「……。分かりかねます。ご質問に答えられず、心苦しいところですが」

 

 議論の終わりが見えた。

 シェリー酒を傾けたダンブルドア校長が、問いかけた。

 

「ヤーナムは、現在、誰が統治しているのかね?」

 

「神です」

 

 クルックスは、相変わらず七面鳥をバラしていたが彼がどのような表情でそれを言ったか気になったので顔を上げた。

 いつものように事実を告げる、静かな顔をしていた。

 

「──そうなのかね?」

 

「え。うーむ……?」

 

 ダンブルドア校長の言葉に、クルックスはわずかに言葉を詰まらせた。

 考えたこともなかったからだ。

 唸っているとセラフィがサラリと議論を持っていった。

 

「いいえ、女王です。本来は領主である王が統治すべきところを教会が地権を巡り紛糾し、結果、簒奪しました。ゆえに本来の統治者は女王です」

 

「セ、セラフィ! 何百年前の話をしている──」

 

 そう言いながら、クルックスは時系列の整理ができなくなっていた。

 

(待てよ? 処刑隊がカインハーストに踏み入ったのは何年前なのだろう? お父様の時代には既にカインハーストは廃城であったと言う。ならば『獣狩りの夜』を起点に考えて数年から半世紀前? 一世紀前まで遡るか? しかし、処刑隊のアルフレートさんは、まるで見ていたように語ったと言う。ならば数十年前? しかし、地権で争ったならば遺跡の発掘調査に関わることだろう。ならばビルゲンワースが栄えていた、もっと古い時代で……?)

 

 ハッとしてクルックスは、セラフィへ向き直った。

 

「待て待て、現在の話をしているのだろう」

 

「だから現在の話をしているのだ。何百年前であろうと正統性が変わるものか。正統性とは、それだけが正統であるから、正統性と呼ぶのだ」

 

 その理論は一見したところ、それこそ『正統性』を持つように感じられた。

 振り返ることができないが、ダンブルドア校長がじっと見つめているような感覚があり、クルックスはセラフィを急かした。

 

「現状に則したことを話せ。この辺りは歴史を繙くと、何というか、ややこしい話だろう」

 

「その論ならば、教区長となる。ひいては、やはり神だ。……ああ、そうとも。実態がどうであれ、な」

 

 渋々といった顔でセラフィは、引き下がった。

 ネフライトも訂正しないところをみるとこれが正答で良いとしているようだ。

 

「無遠慮にも、繊細な問題を聞いてしまったようじゃの。失礼した」

 

 クルックスは、政治と宗教の話は歓談の場に適さないことを学習した。

 そして、同時に。それを口に出した彼の意図を理解した。

 興味に任せてヤーナムの内情を知りたかったのだろう。探りを入れられたのだ。

 

「いいえ、校長先生。事物の明確さを注視せず、時代錯誤な王に仕えている者がどうかしているのです」

 

「黙りたまえよ、ネフライト・メンシス。貴様の失言の数だけ、学派の首を減らす。夜闇に怯えたくないだろう」

 

「セラフィ、やめろ。ネフ、挑発するな。せめて場を弁えてくれ。ヤーナムが文化的に遅れていることを俺は認めたくないんだから」

 

「──さっさと食べ終われよ、クルックス」

 

 セラフィを諫めるつもりが手痛い反撃を食らい、クルックスは唸った。

 たった今、三羽目の解体を始めたところだったのだ。

 

「ど、どれだけ食べても、いいだろ、祭日なんだから……」

 

 校長が、ひとつ手を叩いて陰鬱なヤーナムに関わる話題を終わらせた。

 それから、一年分の七面鳥を食べたクルックスは談話室へ戻る予定だったが、どうしてもセラフィが気にかかり、姿を探した。

 

 外で雪合戦をするウィーズリー兄弟とハリーの遥か後方、禁じられた森の端を散歩しているところを見かけたクルックスは、談話室に置いたマフラーを巻いて外へ飛び出した。

 

「セラフィ、先ほどのことは──」

 

「芝居だ。うまくやっただろう。僕達は」

 

「は、は。え?」

 

 声をかけるなり、彼女は白い息を吐いた。

 クルックスは、緊張を解いてもよいものかどうか迷い、手を伸ばしたまま動きを止めた。

 

「校長はヤーナムのことを知りたいのだろう。なぜかは知らんが。だから、お望み通り真実らしき、分かりやすい対立構造を説明した。教会と地元貴族の確執。時代遅れの呪われた、しかも病んだ土地だと。それ以上の説明が必要かね」

 

「いいや……十分だ……なんだ。ああ、良かった。本気ではなかったのだな……」

 

 クルックスは、心底安心した。

 セラフィは、再び歩き出した。

 だが血の通わない冷たい顔をしている。

 これがカインハーストに仕える者の顔だとクルックスは感じた。

 

「それはそれとして、ネフに伝えよ。打合せよりも一言多かった。学派の腐れ脳みそを守りたくば言葉に気を付けろ。僕をこの学校で女王の名誉のために働かせるな」

 

「伝える。しっかりと伝える。約束しよう。だが、その、彼の名誉のために……。彼は心配症だ。話題の展開をみて、念には念を押したかったのだろう。どうか俺に免じて許してほしい。俺だって、知らされていなかったナリに良い反応をしただろう?」

 

 引き下がらず言ってみるもので、セラフィは緑色の色違いのマフラー、狩人の徴を撫でると森の端を道なりに去った。

 彼女は、何も言わない。これは不問にしたと受け取った。

 

 ふぅ、と溜息を吐く。

 

 空を見上げれば青い空はどこにも見えなかった。ただ、真っ白な雪雲が空をどこまでも覆っていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 遭遇と邂逅はよく似た言葉である。

 クルックスの頭は、まったく明後日のことを考えていた。

 どちらも思いがけず出会ってしまうことならば『遭遇』を不幸、『邂逅』を幸福と呼びたい。

 四階の廊下ばかりにこだわらず、城内を探索しなければならないと思い立ち、彼は歩いていた。

 

 その部屋を見つけたのは──無機物に対して言うには不適切かもしれない──遭遇だった。

 そして鏡を見つけたのは──これも無機物に対しては不適切かもしれない──邂逅だった。

 

 最初は、ただの姿見だと思った。

 狩人の夢に安置されている鏡は、くすんでいる。しかも顔が見える場所が割れているから役に立たない。けれど、それが姿見という名前の鏡台の一種であると知っていたクルックスは、この鏡も同じような代物だと思ったのだ。

 だが、認識は誤りだった。

 

「は?」

 

 鏡に映ったのは、自分──だけではなかった。

 背中合わせに父たる狩人が立っている。右手にはノコギリ鉈を持ち、左手には獣狩りの散弾銃を握っている。

 

 クルックスは、慌てて振り返る。誰もいない。

 しかし。再び鏡を見つめる。そこには、狩人の姿がある。

 

「……?」

 

 鏡に触れてみる。硬質な鏡面に指先が当たった。

 金の装飾豊かな枠──その上部に文字が彫ってある。鏡文字で書かれたそれによるとこれは『かお ではなく こころを うつす』とある。

 

「心……? 俺の、望み……?」

 

 これが、俺の望みなのか。

 ──ああ、そうだ。彼の相棒になりたいと望んだではないか。

 理解した時、クルックスは鏡に映る自分の顔がひどく強張り、そして怒りに歪んだのを見た。

 

「違う。違う違う。違う。違うだろう。違う。別のものを見せろ。俺は、俺の望みはこれだけではないだろう。清潔なヤーナムを! 虫のいない世界を見せろ!」

 

 果たして。

 鏡は、クルックスの次の望みを見せることはなかった。

 

 役立たずを一思いに割ってしまおうと破壊的な衝動に駆られたが、下手人の特定が容易であることに気付き、諦めた。

 彼はこの出会いを不運なものだったと決めつけて、忘れることにした。

 

 怒りに任せて談話室に戻り、暖炉のそばに置かれた上等なソファーに寝転ぶと目を閉じた。

 耳を澄ませば、乾いた薪が爆ぜる音と訪れたことのない海の波音が聞こえた。

 

(ままならない……どこもかしこも、誰も彼もが、ままならないことばかりだ……。俺が愚かだから、こうも手詰まりを感じてしまうのか? それとも、この状況が最初から……)

 

 考えることも嫌になり、溜息を吐いた。首に巻いたままだったマフラーに鼻先を埋める。

 今は狩人の持つオルゴールの音が無性に聞きたかった。

 狩人が大切にしている、誰かの思い出の品だというオルゴール。

 

 その音楽は、子守唄であるという。

 眠らない狩人に、わずかの間、微睡を与える。

 あの音が聞こえている間は、工房に近寄らず、工房にいても仕事をしないことが暗黙の了解となっていた。

 

 目を閉じて、脳を揺らす音に耳を傾ける。

 それでも、さまざまな人間の思惑が音に混ざり、頭の中がうるさい。

 

『淀み』の意味を持つカレルは、ホグワーツに来てから蠢くことはなかった。そのこともクルックスを憂鬱にさせた。ヤーナムにいた頃は、止まることなく虫を見せていたというのに、今では虫の気配が感じられない。これはヤーナムが魔法界より、遥かに汚れていることを意味する。

 それでも。

 クルックスは、認めたくないのだ。

 

 ──お父様が、ビルゲンワースの学徒達が、ヤーナムの狩人が、外の神秘に見えた人々より、淀んでいるなどと。

 

 獣を狩る。虫を潰す。

 単純で明確な目標がある、あの時間が恋しかった。

 




【解説】
 豚は食べませんが鶏は大丈夫です。いえ、ヤーナムのカラスは食べませんが。
 日本において政治と宗教と野球の話はタブーとされていますが、イギリス魔法界ではジャンジャンされていそうな気がします。どうなんでしょうね(歴史的なお国柄的に)もちろん、闇の時代はお口にチャックでしたでしょうけれど、平和になった今ならばタブーなんてそれこそ♰闇の帝王♰くらいなのではないでしょうか。古い時代では、グリンデルバルトでしょうか。しかし、彼の活動地は欧州一体のようなので、イギリスでの爪痕は、やはり♰闇の帝王♰が深いのか……その辺どうなんでしょうね。闇の魔術に頭からどっぷりだったスネイプ先生、ひょっとして♰闇の帝王♰について何かご存じなのでは?

 お悩みのクルックス。それでも、ほかのきょうだいに話すのは憚られます。
 人の多種多様な思惑というものは、彼にとって慣れないものです。大人の思惑など特に分かりません。彼の身の回りの大人は、祝福こそすれ呪いのような期待をかけることはしない人々なので。
 そんなことよりも。
 地底活動だ、血の医療だ、獣の病だ、神秘の探求だ、虫潰しだ、等の理由で忙しくしているので構いきれないという事情もあります。二〇〇年以上、休みなく活動し続けている人々の好奇心・探求心・使命感には某時計塔の麗人もうんざりしていることでしょう。

【あとがき】
 賢者の石のハリーは、純粋すぎて最終巻まで見てから見返すと眩しいですよね……ああ、こういう時代もあったね……
 最近、ブラボに関係する世間のネタがあって嬉しいと感じている筆者です。
 特にも弓に関わる話題!
 これは、アレでしょう!
 古狩人パイセンがまたシモンパイセンを「弓wwwwでwwww獣にwwww挑むwwwwなどwwwプフォwww(略」と言っているんだろうなぁと思っていたのですが、全然違う話題でした。いえ、実際のところ、流れ弾でシモンを思い出したハンターも多いようなので、あながち外れでもなかったのですが。
 弓剣は血晶石次第では大砲以上に火力が出るらしいですね。安定からか、愛用者も多いと聞きます。

 シモンを笑った古狩人パイセンらはもれなく血に飲まれたか獣にやられたかしたのでしょう。
 シモン「(あらゆる状況で矢をつがえ、急所を狙い撃つことができれば、人だろうが獣だろうが狩れるので)大丈夫だ、問題無い」
 それを言えて、できたのはシモンだけだったんだろうなぁ、とか。思いを馳せています。そもそも特注品ですしね。まあ、何を言っても予防の狩人の凄腕なんて皮肉にしかならないのでしょうけれど。


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ビルゲンワースの閉じた瞳

ビルゲンワースの閉じた瞳
上位者が聖歌隊、コッペリアの願いに応え、与えた瞳。
瞳は脈打ち、けれど閉じられている。
さして問題は無い。
目隠し帽子が頭蓋に替わっただけだから。


 ハッと我に返る。

 クルックスは、狩人の夢のなかにいた。

 再び父たる狩人が呼んだのだろうか。

 

 クルックスが辺りを見回しながら馴染みのある階段を昇り、古工房の扉へ手をかけかけた。

 その時だ。

 弾かれるように扉が開き、銃口が突きつけられた。

 

 クルックスは、この頃、すっかり忘れていたのだが、もともと狩人は動くもの全てを狩り尽くすことで安心していた人物なので物音には敏感だったのだ。足音で気付かれたのだろう。

 狩人が相手を認めるなり、銃口を下げ、ついでに肩を落とした。

 

「なんだ、クルックスか……」

 

「お、お久しぶりです、あの、お父様」

 

 工房の中を覗くと人形と、なぜか乳母車が置いてある。人形が「おかえりなさいませ」と挨拶した後、ガラガラと音の鳴る玩具──ラトルと呼ばれるそれ──を小さな木箱に片付けていた。

 狩人は、彼が室内を見ていることに気付き、肩を掴んだ。

 

「な、なななな、なぁ? 見た? のか? ひょっとして、乳母車プレイを──」

 

「プレイ? 何のことですか?」

 

 狩人に揺すられて頭がガクガク揺れた。

 実際、何も見ていないのでクルックスは彼の動揺が分からなかった。

 

「何でもない! 何でもないぞ! 忘れろ! 忘れたな!?」

 

「はいッ! お久しぶりです、お父様!」

 

「おう! 元気だったか!」

 

 お互いに、背中を叩き合いながら異様に元気の良い挨拶を交わし、ふたりは室内に入る。

 クルックスは、人形が乳母車を部屋の奥へ収納しに行く光景をできるだけ視界に入れないようにした。

 

「しかし、どうした? 何か問題でもあったか?」

 

「あれ。お父様が呼んだのではないですか?」

 

 てっきり、呼ばれたのだと思っていたクルックスは椅子に座りかけた中途半端な格好で固まった。

 狩人は、帽子を脱ぎ血除けマスクを外すと戻って来た人形に預けた。

 

「いいや、呼んでないが……そのマフラー」

 

 狩人が目にとめたのは、マフラーの狩人の象徴である吊り下げられた逆さまのルーンだった。

 

「無意識にこれを思い浮かべたんじゃないか? ほら、集中してこれを思い浮かべると血の遺志は失うが、戻って来られるだろう?」

 

「あぁ、そうか……。俺は、オルゴールのことを考えていたんです。すこしだけ、あの音が聞きたいと思って……」

 

 ここに来る直前の出来事を思い出せたクルックスは、納得を得た。

 すぐに戻らなければならない、と思う。

 だが、気分が進まず、体は勝手に椅子に座った。

 

「人形ちゃん、マフラーありがとう」

 

「初めて作ったので……ほつれたら持ってきてください。お体ご自愛下さいね」

 

 人形は、目を伏せた。

『照れてるんだ』と狩人が声を消して言う。彼は、とても嬉しそうだった。

 

「さて。良いものを見られたところで、オルゴールを鳴らしても構わないが、なんだか、やつれているな」

 

 いつぞやのキャンディーが、ひとつテーブルの上に置かれた。

 狩人は、ネフライトから届けられたのだろう、テーブルの上に広がる羊皮紙を片付けて収納した。

 

「学校生活……ハッキリ言うと……俺には、とても難しいです……」

 

「そうなのか。勉強? 人間関係?」

 

「に、人間関係……」

 

 弱音を吐くつもりではなかったが、良い助言をもらえるかもしれない。

 そんな思いで口にした言葉には、狩人の同感が返って来た。

 

「人間関係か。難しいな。狩人みたく皆が同じような境遇なら、話す内容も限られているし、わざわざ突っ込んだ話をする必要も無いから、ぼろも出ないが……。学校では、集団生活なのだろう?」

 

「はい。……一口で説明できないくらい、いろいろ、本当にいろいろありまして、もうすこし時間があれば、慣れる……とは思うんですが……はい……」

 

 本当にいろいろあった。

 学校まで。組分け。授業。ハロウィーン。トロール。箒。そして、今日のクリスマス。

 独りで抱える秘密が多いことは、少々辛い。

 これまでクルックスは、獣を狩って虫を潰すという──できるかどうかは、能力次第として──明確な目標しか持っていなかったのだ。

 

「俺も、お世辞にも『人間関係は良好です』なんてことはない。連盟に入ったのも、血族になったのも、とりあえず『まともそうな人』と繋がりを保っていたかった、という理由がはじまりだ。相手はそれを見抜いた上で、それなりの対応されただけだから特段、努力したワケでは……うーん。シモンはちょっと違うが、四六時中一緒だったワケではないから……すまん、やはり碌なことが言えないな」

 

「いえ、お父様が気にされることではありません。ただ、俺の素養の問題なんでしょう。テルミやセラフィは十分に、ネフライトは没交渉ですが、それはそれとしてうまくやっていますし……」

 

「狩人が平時で暇なのは良いことだが、それだけ頼りにしていた俺達にとっては、やや辛い世界でもありそうだ」

 

「授業は楽しくためになりそうなので、これからも学校生活は続けたいと思うのです。ただ、それ以外の学校生活がうまくいかず、恥ずかしいのですが……」

 

 クルックスは、何となく頭を掻いた。

 狩人が、彼によく似た顔で笑った。

 眉はやや下がり気味で、降参という風である。

 

「俺だって、突然十歳だか十一歳だかの集団に投げ込まれたら上手くやっていく自信なんて無いから咎めはしないさ。連盟の長と一緒に生活したほうがずっと気楽だと思うだろう。これからのことは、そうだな、時間が解決してくれるのなら良い。どうしても無理なら授業以外は夢に戻って来てもいいだろう」

 

「そ、それは……」

 

「最終手段だ。逃げ道というものは、いつでもどこだって必要なものだからな。聖杯……ウッ……頭が」

 

「はは……は……」

 

 クルックスは、肩の力を抜いて笑った。ずいぶん久しぶりに、心から自然体で笑った。

 それから、彼とはたくさん話をした。気付けば三か月以上経っている。──学校のこと。不思議な組分けのこと。魔法を使う授業のこと。

 学校のことを話していると、ふと思いついた。

 

「お父様、ビルゲンワースの学舎……あの、ユリエ様はお元気ですか?」

 

「先週、輸血液をもらいに行ったが元気だった。もう一人もな」

 

 狩人の言うもう一人とは、ビルゲンワースの学舎に住まうもう一人の学徒のことだ。

 名を、コッペリアという。

『最後の周回』時、獣狩りの夜が始まる前に姿を消し、そして生死・行方とも不明になっていた学徒は、古都ヤーナムが夢を見始めて間もなく、学舎へ舞い戻って来た。

 彼は、最後の周回となった獣狩りの夜を認識せず、また自分が行方不明になっていたことも知らなかった。生きているのか、死んでいるのかも自認しない彼は、ユリエに食料を持ってきた狩人を『いつも通り』強襲した。

 侵入者を殺すことが学舎の最後の学徒であり、守り手である彼の役割であったからだ。

 

 不意打ちを喰らい、三階相当にあたる高さから頭をグネりながら着地した狩人は普通に死んだ。しかし、夢の如く、死体は消えたという。

 再びビルゲンワースにやって来た狩人は、そこでようやく自分を襲った犯人を見つけた。

 

『──月の花の香り! 貴公、やはり夢を見る狩人だな! さあ、剣を握りたまえ。我、聖歌隊のコッペリア! そして、ビルゲンワースの名の下、僕は負けないぜ!』

 

 その後。

 彼の背後から毒メスを放ったユリエと協力し、縛り上げた。

 説得の甲斐あり、今では彼も良き協力者だ。狩人もクルックスも、夢の中で使者達から買う以外に輸血液を調達する手段とは、彼らから施してもらうしかない。ゆえに、とてもありがたいものだった。そして見返りに、狩人は彼らのいるビルゲンワースを全力で守護している。

 

「──あ。クルックス、そうだ。ユリエやコッペリアに話を聞いてきたらどうだ。集団生活のコツってヤツを」

 

 狩人の提案は、クルックスも良案に思えた。

 聖歌隊出身の彼らは、長い期間を孤児院で生活していたという。密室的な人間関係を円滑にする方法を知っているかもしれない。

 

「行ってきます。でも、ホグワーツに戻って、何かお土産のお菓子を持ってきてからのほうが」

 

「女性ウケがいいだろうな。あぁ、それにしても。誰かを羨ましく思うなんて、久しぶりかもしれない。聞くなり愉しそうじゃあないか。俺も外に行ってみようかなぁ……」

 

 狩人が、ふと虚空を見上げて目を細めた。

 隣に寄り添う人形が「ええ」と同調するように微笑んだ。

 

「俺に分かる範囲なら道案内もできます。きっと、お父様も知るべきです。外の世界は、本当に、いろいろなものがあって……悪いことばかりじゃないと思うんです」

 

「……人形ちゃん。そのうち、すこしヤーナムを留守にしてもいいかな?」

 

「ええ。狩人様。きっと、その目覚めは有意なものになります」

 

 すこし考えてみるかな……。

 狩人が思索に旅立ちかける。

 クルックスは立ち上がり、声をかけた。

 

「お父様、俺が戻ってきても、まだここにいらっしゃいますか? ユリエ様達にも会いたいんですが、お父様ともっと話をしたいです」

 

「ああ、見ての通りだ。急ぎの用もない。ここにいるさ」

 

 クルックスは、急いで碑石に手をかざしホグワーツの自室に戻るとハリーからもらった蛙チョコレートをつかみ、狩人の夢を経由してビルゲンワースに飛んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 かつて歴史と考古学を専攻するための学舎であったという、ビルゲンワース。

 だが、その学舎に遺るものは少ない。

 四階建てである学舎は、悪夢の干渉を受け内部構造が歪んでいる。また学徒と学舎の一部は、今も悪夢空間を漂っていた。

 

 クルックスは狩人の服に身を包み、ビルゲンワースの学舎の扉を開いた。

 

 そして。

 入るなり、そばの書架に寄る。そして本に隠された鐘を手に取った。

 小さなそれを七度鳴らす。これが狩人が来訪した時の合図だ。

 彼らは学舎の守り手であるが、常に出入口を見守っているほど暇ではない。普段は、とある一室で研究を続けているのだ。

 

 やがて、どこかで扉が開く音が聞こえた。

 ギィ、と錆びた蝶番が鳴る音も聞こえる。

 油を差さなければならないな、とクルックスは夏休みの予定に加えることにした。

 

「──どなたかな?」

 

 やがて、右手に槌、左手に短銃を持つ聖歌隊の白装束を着た男性が現れた。

 敵意が無いことを示すため、両手を挙げた。

 目隠し帽子の下、彼はフッと笑って警戒を解いたようだった。

 

「おぉ、クルックスじゃないか!」

 

 一九〇センチ近くある長身をかがめ、彼はクルックスの肩を叩いた。

 

「コッペリア様、お久しぶりです。ご無沙汰しております。……出発の前、ご挨拶ができず申し訳ありませんでした」

 

「構わないさ!」

 

 聖歌隊装束を揺らし、彼は小さく笑う。

 

「今は、頭痛は平気ですか? 他に痛いところは……」

 

「大丈夫! 快調さ! ああ、君、大きくなったなぁ。背が伸びたんじゃないか?」

 

 コッペリアは、武器を腰に下げるとクルックスを抱え上げた。

 床から足が離れてしまったクルックスは、あわあわと腕を彼の首に腕を回した。

 

「おぉっ! 成長が感じられるぞ!」

 

「……学校で、その、結構食べているので」

 

「君は食べ盛りだ。食べられる時に食べるべきだぞ。さぁ、来たまえ! 今日はどんなご用かな?」

 

「ご相談があってですね。ああ、お土産もあります」

 

 コッペリアは、クルックスを床に下ろすと手を引いた。

 ズンズンと進んでいくが彼は歩調を合わせてくれる人ではない。クルックスは早足でついていった。

 

「ありがとう! やや、これはヤーナムの外のお菓子だね? 実に興味深い!」

 

 クルックスは、何も言わずとも察してくれる彼のことが、実のところ好ましいと思っている。

 多弁ではないクルックスは、こうした察し良い人物に甘えてしまうのだ。

 しかし。

 

「蛙の形をして、しかも、動いている!? 神秘的な仕掛けだ。どういう仕組みなのだろう。んん~、実に気になる!」

 

 茶化すように彼は言う。明るい声だった。

 けれど。

 菓子の箱は、まだクルックスの手の中にある。

 コッペリアが彼のお土産を見破ることができるのには理由がある。

 

 ある時。

 コッペリアは、狩人に瞳を願ったのだと言う。

 そして。

 狩人は、コッペリアに瞳を与えたのだと言う。

 ゆえに。

 コッペリアは、時おり、目に見えない物を見、見えていないハズの物を感じ、見るべきではないものを直視する。

 

 神秘の探求者である彼は、常人とは異なる視座を欲した。

 

『そう悲しい顔をしないでおくれ。クルックス、最も狩人に似ている仔。何も遺すことができない僕は、神秘に見えることができなければ生きている価値が無いのだよ』

 

 初めて出会った時、クルックスは彼を哀れに思ってしまったらしい。

 自分では気付かなかったが、悲しい顔をしたようだ。

 

「──コッペリア様、本当に、体は大丈夫? 無理していないですか?」

 

「大丈夫だとも。過ぎた心配をしないでおくれ、僕らの可愛い子」

 

 彼の大きな手の平が、クルックスの黒い髪を撫でる。

 コッペリアは自分のことを大きな猫だと思っている節があった。

 

「あなたの大丈夫は、すこしだけ信用ならないのです。前だって鼻血が出るまで我慢していたではないですか」

 

 コッペリアは瞳を得ると同時に頭痛を患うようになった。

 クルックスが旅立つことを彼に告げられなかったのは、それが原因で臥せっていたからだ。

 突かれると痛いところであったらしい。彼は笑って逃げた。

 

「はっはっは。そういうこともあった気がするね! けれど、今は本当に大丈夫なのだよ。他人の心配ばかりしていないで自分の心配をなさい。君は、まだまだ子供なのだからね」

 

 黒手袋に包まれた大きな手が、クルックスの頬を撫でた。

 学舎の螺旋階段を昇り、隠し廊下を渡る。

 ノックを三回。コッペリアは扉を開いた。

 

「ただいま、ユリエ」

 

「おかえりなさい。あら。クルックス? ……あれ、学校では? えっ、もしかして、また一年経過しちゃったかしら?」

 

 慌てて壁に吊るしているカレンダーを見つめたユリエ。クルックスは両手を振った。

 

「い、いいえ、ユリエ様、現在は正しく十二月です。俺が休暇なんです。戻ってまいりましたのは、ええと、ちょっと、学校の人間関係について、ご、ご相談を、と思いまして……はぃ……」

 

 話しながら『あぁ、俺は賢人に向かってなんて思考の次元の低いことを話題にしようとしているのだろう?』という自己嫌悪に苛まれた。

 しかし、口に出てしまったものは仕方が無い。

 クルックスにソファーを薦めたユリエは、ポットの茶葉を確認する。

 コッペリアが隣に座り、クルックスの頬を突いた。

 

「ああ、相談ってそういうことかい。なぁんだ。年相応に青春しちゃって可愛いなぁ。このこの~」

 

「こら、茶化すのはおやめなさいな、コッペリア。小さな悩み事が、いずれ大きな苦悩の種になることがよくあるのだから。けれど、意外だわ。あなたは誰とでもうまくやるタイプだと思っていたから……」

 

「表立って喧嘩するワケではありません。ただ、同じ年頃の子供と接する機会がありませんでしたから、何というか、浮いてしまうのです」

 

 コッペリアとユリエは目隠し帽子の下で視線を合わせたようだった。

 やがて彼らは、声を揃えて「あぁ」と息をもらす。

 

「ヤーナムは、子供が少ないからねえ」

 

「私達もつい大人の目線で考えてしまうけれど、そうよね、ヤーナムのまともが『まとも』のハズが無かったのよね。……たしかに」

 

「クルックスは、かなり『まとも』だから──いいや、『まとも』だからお悩みなのだね」

 

「ご、ご助言をいただければ幸いです」

 

「そうね……」

 

 ユリエは、クルックスの前に茶のカップを置いた。

 

「相手の話をよく聞くことかしら。言いなりになるのではないわ。ただ、聞くだけよ。それだけで相手が感じる安心は大きなものになるでしょう。意見は……ふむ、クルックスの場合、あなたは言葉が足りなくて正論を言い過ぎるから、相手にはぶっきらぼうな物言いに聞こえてしまうのでしょうね」

 

「ぐぅっ」

 

 心当たりのあることを指摘されて、クルックスは呻いた。

 

「僕の可愛い子、そんなに思い当たる節があるのかい?」

 

「たとえば『今日はいい天気だね』という言葉に『そうだな。だから何だ』と返すのは適切ではないでしょう。でも、ものすごく重大なことを話す先触れなのかと思って、問い詰めたくなります」

 

「あぁ、君ってそういうトコあるよね」

 

「相手の出方をうかがってから行動しても遅くないと思うわ。戦闘ではないのだから」

 

「……たしかに、そうですね」

 

 クルックスは、頷いて頭の手帳に書き加えた。ぜひ試してみよう。

 

「あぁ、大事なことだね。本当に大事なことさ! それ、ヤーナムの民にも説法しておくれよ。……こちらの住民は、あまり人の話を聞かないからなぁ。つくづく疑問なのだがね。どうして武器を持っている狩人に罵倒なんて恐ろしい真似をするのか」

 

 コッペリアも同調した。

 前向きに考えられそうな気分になり、彼はお茶を飲んだ。

 それから穏やかな会話が続いた。クルックスは、それを聞いていた。

 彼らの会話を聞いているのが、彼は好きだった。

 

 それから再びクルックスが話す話題になったのは、三十分程度経った頃だった。

 

「外の世界はどんな様子なのかしら? ヤーナムとは、二〇〇年以上の隔絶がある。神秘に見えた民族とはいえ、きっと何もかも進歩しているのでしょう。あなた達の気苦労も多かったでしょうね」

 

 ユリエの言葉。コトリ、置かれたカップは小さな音を立てた。

 クルックスは、肩を落とす。

 そして、祈るように両手を合せ、目を閉じた。

 

「はい。外の世界は、ヤーナムとは全く違いました。魔法という神秘にまみえた彼らは知らない。己が変態する恐怖も隣人が獣になる恐怖も、罪の潮騒も知らないのです。何も誰も知らないのです」

 

「…………」

 

 コッペリアが、ごく自然な手つきで目隠し帽子に触れた。

 目を見開いたクルックスは、顔を上げる。思わず、声が上ずった。

 

「彼らは魔法という神秘を大した対価なく使用している。どうしてヤーナムだけが、病んでいるのでしょうか? ここに生きている人々は、ここにいるというだけで苦しまなければならない。なぜ。俺には、分からない。きっと同じ神秘であるハズなのに、こうも違う、違いが過ぎるのです」

 

 うつむく顔に、優し気な手が添えられた。聖歌隊の黒手袋は、ユリエの手の柔らかさを損ないはしなかった。

 目隠し帽子で見えない彼女の瞳は、きっと美しいのだろう。

 真実のみを見つめる目は、クルックスにとって眩しすぎる。だから目隠し帽子はありがたいものだった。

 

「比べてはいけないのよ。クルックス。辿った歴史が違うのだから、何もかもが違ってしまう。ヤーナムの苦しみは、ヤーナムが積み上げた成果であり、罪であり、今では祝福でもあるのだから」

 

「古くはトゥメル、遠くはローランから続くものだと? ええ、それはそうだと分かっています。理解もしています。けれど、考えて……しまうんです。どうしてヤーナムだけが、と」

 

 ヤーナムの外は、あまりにあっけなく平和だ。

 危険なものはあるのだろう。けれど、その辺に転がっているものではない。

 子供は保護者と学校に守られて生活している。

 

 啓蒙を得た瞳で見た景色が、啓蒙を失った瞳で見る景色と違わないのであれば、多くの人々にとって幸いだ。

 

「あまりに憐れではないですか、ユリエ様。狩人だけではない。民も学徒も医療者も全て。血から離れられない、ヤーナムの民に救いは無いのでしょうか」

 

「…………」

 

 賢人は、賢人であるがゆえに答えなかった。

 その代わりに、優しく頬を撫でてくれた。

 

「……それを考え続けることに罪は無いわ。けれど、それが羨みになり恨みになってしまわないようにね。あなたの心の法則は、万人が解するものではないのだから」

 

「はい」

 

 答える。

 ふわりと目の前が白く塞がれた。

 抱きしめられているのだと気付いて、クルックスは身を固くした。

 

「外の世界を知っても、あなたはヤーナムを惜しんでくれるのね。優しい子。そういえば、月の狩人とすこしだけ話していたことがあるの」

 

 何をでしょうか。

 問いかけは、吐息に消えた。

 

「ヤーナムの外のことを知って『彼らが向こうで生きることを選んだら背中を押そう』とね」

 

 クルックスは、おずおずとユリエの背に手を回した。少しだけ震えた。

 彼に似ない、柔らかい身体に驚いたからだ。

 

「ご不要です、ユリエ様。もしも、選ぶことが叶うならば、ここが俺の故郷です。ビルゲンワースを、お父様が頼りにする貴女を、俺も大切に思いたいのです」

 

 ギュッと抱きしめられる。やがて、離れた。

「んんッ」と大きな咳払いが聞こえた。何かと思って顔を上げれば、コッペリアが両手を広げて待っていた。

 

「もちろん、コッペリア様も大切ですよ」

 

「お気遣いありがとうね! さて、僕が授ける言葉は、ほとんどユリエ先輩が言ってしまったが、強いて言うならば、他者に寛容でありなさい。不寛容が疑心を呼び、狭心が狂気を招く。その果てのありさまを、君は狩人から聞いたハズだ。よいかね、クルックス。月の狩人の仔。僕らの可愛い子」

 

「はい。コッペリア様」

 

 自然に抱きしめられた。鍛えられた厚い体を全身で感じる。

 他人の温度は馴染みがないハズだが、不思議と安心を誘うものだった。

 父たる狩人の愛とは、鼠の骨を手渡す行為に代表される分かりにくいものだが、こうした直接的な表現も好ましいものだと思う。

 

(温かい……)

 

 寛容であれ、という意味はクルックスにとって重い意味を持つようになった。

 いま心に染み入るように感じる、この感情を慈しみとするならば、この十分の一程度は他者に抱かなければならないのだろう。

 

「ユリエ様、コッペリア様、ありがとうございます」

 

「うまくやっていけそう?」

 

 もちろん、何も解決していない。

 それでも気持ちが楽になった。

 独りで塞がり込み、小さな路地に追い詰められた感情は、湖に打ち寄せる波程度に穏やかになりつつあった。

 

「きっと。でも、もし、ダメだったら戻って来ても良いですか」

 

「もちろんだよ」

 

 ユリエとコッペリアは、穏やかに微笑んだ。

 それを見届けて『狩人の確かな徴』を使うと、クルックスは姿を消した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 彼が、去ってしまった後で。

 コッペリアが目隠し帽子に手を触れて、その内の目を閉じた。

 

「あの子は、素晴らしいね! 上位者から分かたれた枝葉なのに人間よりも純粋だ! おお、素晴らしい! 患っていない純粋な人間とは、あのようなものなのだろうか? 連盟員で虫が見えるというのに世の中が綺麗になると信じて、しかも諦めてもいないのだ!」

 

 純粋であるということは、時に単純であり、強い可能性を秘めるものだ。

 コッペリアの憂いを、ユリエは静かに肯定した。

 

「だから、あの子は連盟が相応しいのでしょう。望めば、尽きぬ使命を与えるのだから。……月の狩人は、適性を見抜き、正しい差配をしたわ」

 

「血に酔った狩人でも狩人には違いないって? 睨むなよ。そういうことだろう? しかし、そうだとしても、あぁ、クルックス! 僕の可愛い子! ……テルミ、ネフライト、セラフィ。四者四様で素晴らしいと思うけれど。僕はね、あの子が一等お気に入りだ」

 

 ソファーに深く腰掛け、脚を組んだコッペリアは唇に薄い笑みを浮かべていた。

 ユリエは、余ってしまったお茶を飲んでいた。

 

「そう。それはあなたの感性? それとも内なる瞳が囁くのかしら?」

 

「僕の意志だよ、ユリエ。この先。幸せになる未来があると良い。……あぁ、見えない。見えないんだ。僕の閉じた瞳には何も。何も」

 

「──それは幸いなことよ」

 

 ユリエは、ぴしゃりと言葉を叩きつけた。

 コッペリアは、ユリエの不機嫌の理由をもちろん知っている。

 とある学徒が『情けない進化』と呼んだ方法で瞳を得たコッペリアを、ユリエは軽蔑し、そして案じているのだ。

 ふぅ、と嘆息を吐いた後で彼はクルックスの置いていった土産を思い出した。

 

「チョコレートを食べよう、ユリエ。クルックスのお土産だ。僕らは、気の利いた感想を考えておかなくちゃあいけないだろう」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「なんか、癒された~って顔をしているよ」

 

「そ、そうですか。たしかに……癒されました。こう、ギュッとされて……」

 

「……ふーん」

 

 クルックスは、再び狩人の夢に戻って来ていた。

 父たる狩人は、ネフライトの報告書を読んでいたらしい。

 クルックスを認めると書類をわきに押しやった。

 何でもない様子を取り繕っているが、拗ねたように唇が尖っている。

 

「良いアドバイスをもらったみたいだな」

 

「はい。気分がすこし楽になりました」

 

「気負い過ぎるな、といっても真面目な君には無駄か。まぁ、気楽な学生気分を満喫してくれ。その時間は、ヤーナムのどこにも無いものだからな」

 

「……はい」

 

「学校のこと、聞かせてくれるか。……二〇〇年以上閉じこもっていたが、そろそろ、というか、いい加減に、外のことを知っておくべきだろうな。話を聞けば聞くほど、出遅れが痛く感じられる気がしてきた」

 

 狩人が片付けた書類には、細やかな文字が加えられていた。狩人のメモだ。

 熱心に読んでいることの証左だった。

 クルックスは、訊ねた。

 

「……あの、どうして外と接触することが、今なんですか。俺達が偶然、生まれたから……?」

 

「それも原因のひとつ。──俺には、いつだって新しい試みが必要なのさ」

 

「なぜ、ですか」

 

 この問いは、答えを得られぬだろう。

 しかし。

 クルックスの予想は、裏切られた。

 

「俺は、穏やかなヤーナムを見たい。獣も病も無い。頭のイカレた医療者もいない。大迷惑な上位者を一掃した後のヤーナムを見たいんだ。……君もそうだろう?」

 

 狩人は、ゆるりと思考に沈み込むように目を伏せた。

 彼から初めて零れた、ヤーナムに対する本音だった。

 大きく目を見開いて、クルックスは胸に手を当てた。

 

「はい! そうです、そうです! 俺は……いえ、俺も、綺麗で清潔で清浄なヤーナムを見たいんです。そこに暮らす人々を見たい。そして、願えるならば、そこで、ゆっくり眠りたいんです」

 

 今日の狩人は、わずかに疲れた顔をしていた。

 こめかみに指をあてて、見間違えのように笑いかけた。

 

「あぁ、そうだよな。分かるよ。皆ちょっと感覚がイカレているが、普通、夜という時間は眠る時間なんだ。いつか……そう、いつか……夜にゆっくり眠りたいな。狩人だけではない。ヤーナムの民、全てが眠れるように」

 

「そうですね。いつか……ええ、いつか……。そのためならば、俺は、何でも、何でもしますから」

 

「できることなら頼むさ。とりあえず『平和的学習』とかな」

 

「はいぃぃ……」

 

 目に見えて肩を落としたクルックスに、狩人は声をかけた。

 

「そう気落ちするな。俺にもいろいろと都合があってな。いや、俺が赤ちゃんだからかもしれないけど。ともかく、この二〇〇年は試行錯誤の連続だ。新しい思索の先触れだと思って、よく学びたまえ。きっと、お前自身の役に立つ。ひいてはヤーナムのためにもなる。ヤーナムには無い平穏を知るといい」

 

 狩人は。

 その平穏に自分の居場所が無いことを知っているのかもしれない。

 不意にクルックスは、そんなことを考えた。

 それは狩人の生業ゆえか。それとも上位者としての在り方が、そうさせるのか。どちらの理由か。それともまったく別の理由なのか。彼には、まだ分からない。

 

 それでも。

 手を伸ばさずにはいられなかった。

 

「お父様も。来年でも、再来年でも、何年後でも構いません。……でも、いつか一緒にダイアゴン横丁に行きましょう。そして、食事をしましょう」

 

「ああ、悪くない。そういう試行も必要かもしれない」

 

「きっと、有意です」

 

 クルックスと狩人は、握手した。

 この時、初めてクルックスは狩人の肌に触れた。

 温かな、ごく普通の体温だった。

 

「お父様、それから──」

 

 たくさんの話をした。

 他愛の無い話。

 興味深い話。

 知人の話。

 ビルゲンワースの学徒達と交わした話。

 クルックスのたどたどしい話題の連なりを、狩人は静かに聞いていた。

 

 狩人の贈り物には、形が無い。

 それが何よりの贈り物であり、狩人の夢を去る時にはマフラーと同じくらいに嬉しいものだった。

 

 




乳母車
乳幼児用の小さな四輪車。
肉体を箱に入れることは、仄かに死を連想させる。
だが生者であれ死者であれ、
揺籃を必要とする赤子に相応しい物だろう。

【解説A】
狩人「だから問題無い。そして、君は何も見なかった。いいな?」

【解説B】
 閉じた瞳のコッペリア
『綺麗なお姉さんがいるのならば、怪しいお兄さんもいるべきだ』という筆者の性癖上の理由で真面目に作成された、本作のオリジナルの登場人物です。 しかし、まったくのオリジナルではなく、発想の苗床は没NPC台詞である『君は偉大な宇宙を知っているか? 知っているのか?』を参考にしました。これ、たぶん、上層で生き残りの聖歌隊に会ったら言う台詞だったんじゃないかなと筆者は勝手に思っています。
 ……製品版にならなかった没ネタからの考察など考察者の堕落だ、とメモに怒られちゃいそうですね。

【あとがき】
 クルックスが狩人達のなかで比較的『まとも』なのは、守るべき人がいて、大事に思っているし、思われている感覚があるためです。しかし、「愛じゃよ」と言われたら否定します。――これは賢人が俺に下す恩寵なのだ。愛などという血と肉で繋がった薄っぺらで信用ならない情感などではない。

【ビルゲンワースの走り書き】
 ヤーナムが一年を繰り返し二〇〇年以上、狩人が知らない過去で生死不明になった人物でも『戻って来る』ことが確認された。

【登場人物紹介】
今さらですが、描いてみました。
筆者は小説系二次創作には作者が描いたイラストがあると最高に二次創作っぽいと信じているので頑張って描きました!(古の個人サイトではそうだったんだよ……)

【挿絵表示】


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聖なる日、夜警紀行

星幽、時計塔の貴婦人マリア
実験棟に繋がる時計塔に存在する狩人。
いまや狩人の悪夢は閉鎖されて久しい。
狩人ならば知るだろう。
漂う甘い血の匂いだけが彼女の存在した証だと。



 セラフィ・ナイト。

 カインハーストの夜警を名乗る美しい銀髪の少女は、校内の探検をしていた。

 昼夜問わず行われるそれは、例えば四階の廊下の秘匿を暴こうという好奇心に依存する──ものではなかった。

 

 ごく単純な目的だ。

 広い場所を探しているのである。

 具体的には、愛すべき剣を振り回せる場所を探している。

 

 セラフィの上司であり、血族に名を連ねた先達である『鴉羽の騎士』──狩人間での通称を『カインの流血鴉』と言う──から与えられた『落葉』という異邦の武器は、取り扱いに高い技量を必要とした。

 数日握っていないだけで落葉の機嫌を損ねたような気分になるというのに、数か月触れていない現在、セラフィの心配事とは三頭犬でも寮監の怪我でもなく、自分の技量がいかほど落ちているかという点にあった。

 

(今の僕では、鴉羽の騎士様に三〇秒も持つまい)

 

 きょうだい達がこれまでに経た死因とは、たいてい聖杯の中での出来事だったが、セラフィだけは違った。死因のほとんどを占めるのは、カインの流血鴉の殺傷によるものだった。常に真剣で行われる訓練は、瞬きの暇で容易く死をもたらした。

 

 他のきょうだいは、成り行きや性質によって所属が割り振られたが、セラフィは異なる経緯を辿った。

 カインハーストに行くことを選んだのは、自分自身なのだ。

 

「お父様。最も過酷な運命だけを僕に与えてください。『人間』の可能性が僕である。その完全なる証明をご照覧あれ」

 

 狩人は、面白いと笑った。

 ──良いセンスがある。俺が気まぐれにしか持ち得ないセンスだ。

 そして、問うた。

 

「狩人を、教会を、仇にする覚悟はあるか。全てに追われ、全てに拒まれ、全てに憎まれる覚悟があるか? ──最も俺に近しく、時計塔の番人に似ている君よ」

 

「僕は辛苦を母。苦難を友といたしましょう」

 

「その願い、叶えよう。上位者とはそういうものだからな。さて、お前のために井戸を塞いでおこうかね」

 

 狩人は、楽しそうに言った。何が彼の琴線に触れたのか。セラフィには、よく分からない。けれど、彼に期待されていることは理解した。

 同じ種類の期待は、流血鴉もセラフィに寄せていた。

 ヤーナムの地を離れると言ったところ、彼は遂に旅立ちまで言葉を交わすことは無かった。

 それを見た流血鴉と同じ先達で、彼よりも年嵩の騎士──レオーは、流血鴉のことを笑った。

 

「ククク、鴉め。アイツ、拗ねているんだよ。見込みのある新しい血族が、さっさと自分の手を離れていくことが気に喰わなくて仕方が無いのさ。帰ってくる頃には機嫌も治っているだろう。……そうでなきゃ俺が困るんだぜ……。まァ、だからつまりお前は気にしなさんな」

 

 でも。ちゃんと帰ってくるんだぞ……。

 レオーは、セラフィの冷たい兜を一度だけ撫でた。

 女王に連なる血族は、ほとんどが医療教会の処刑隊の粛清により絶えた。

 だから、騎士の数は少ない。

 狩人を除き、セラフィを含め三人しかいない。

 

 だが、カインハーストの首魁、血の女王アンナリーゼと親しい上位者がいる。

 カインハースト史上、もっとも恵まれた時間に相当するだろう。彼らの好ましい関係は、もうしばらく続く。つまりは、好機だ。

 

 人数。時間。どちらも貴重である。

 セラフィを含む騎士は、女王の求める『穢れ』を集めるため、そして限られた時間の限り、技術を高め続けなければならなかった。

 

 だが、お優しい女王は言った。

 鉄仮面の下、柔らかな女声で囁く。

 

「……学校……。いまや遥か昔となったが、私にも覚えがあるのだ。ヤーナムの外で、そうか、機会を得たのか。月の香りの狩人。今は、月の狩人か。よい。セラフィ、我が最も新しき騎士。よく見、よく聞き、よく学びたまえ。若き芽は陽の下でこそ育つものだ。しかし、いずれ戻りたまえ。カインハーストの名誉あらんことを」

 

 理解に難のある一部上司を除く先達と優しい主君に背を押され、セラフィは魔境たる魔法界へやって来たのだった。

 

 ふと満腹感に由来する物思いから醒めた。

 右手には落葉が握られている。殺しの業とは思えない、精緻な紋が這う刃は今日も綺麗だった。

 無人の、とある広い部屋に大きな姿見が鎮座していた。

 ──ここならばよいだろう。

 長剣を手に、型を確認する。

 

 カインハーストに見られる剣は、現代において遙か極東の刀とよく似た形をしている。いかな縁でカインハーストに流れ着いたのか、家系が求める必要性で招いた代物だったのか。それはセラフィにも先達にも分からない。

 これを忘れた弊害は、少々あった。

 騎士として最初に叩き込まれた型が果たして何のためのものだったのか、彼ら騎士達は理解が足りないのだ。

 

 内実を失い、辛うじて形ばかり残る型は、けれど、無心になるには良い扶けとなるものだった。

 

 礼節。儀礼。様式。──狩人が最も尊ぶべきそれらは、血を狩る騎士にとっても重要だ。彼らと等しく騎士もまた獣に近しい存在であるからだ。

 

 研鑽の果てに得られるものが、果たして、何なのか。

 セラフィは、女王を思い浮かべる。

 彼女だけではない。先達の騎士達も知りたいのだ。血を狩る度に得る『血の歓び』としか形容できない情感。いずれ訪れる絶頂は、女王の成果と共にあるのだと故も無く理解している。

 

 額に汗を浮かべる程度に動き、型を終える。

 同時にすり足でステップを踏み終え、鏡の前に立ってみた。

 

「……マリア様」

 

 名を呟いてみる。

 セラフィの顔の造形は、人形に似ている。

 人形の基となったマリアという女性に似ている。

 その指摘をしたのは父たる狩人だった。

 

「さて。何と言うべきか。何を言うべきか。どう説明すべきだろうな。……マリア。星幽、時計塔の貴婦人マリア。一応の敬意を払い、俺もマリア様と呼ぶことにしよう。恐らくヤーナム史上で指折りの優れた狩人、だった、だろう」

 

 狩人は、彼にしては珍しいことに言葉を濁した。

 その理由について彼は遠くを見る目をして言った。

 

「あの女性に何が起こったのか、俺は知らない。『こうじゃないか』と思うことはあっても真実はとっくに闇の中だ。セラフィが知る必要は無い。……だが、そんな狩人がいたことを覚えていてくれるのなら、嬉しいものだ」

 

 狩人の指は、セラフィの細い銀髪をするりと撫でた。

 彼の複雑な感情をセラフィは察することができなかった。

 それは海よりも深く、浅瀬に寄せる白い波よりも複雑で、砂のように脆い情感だったからだ。

 

 この顔について。

 妙な反応をした狩人は、もう一人いる。

 カインの流血鴉だ。

 

 それはセラフィがカインハーストに来て、数日での出来事だった。

 流血鴉は、ふらりと気まぐれに訪れていた狩人を見つけた途端に稽古を中止した。

 

 彼らは長い時間、言い争っていたように思う。

 

 セラフィの剣を納めさせたレオーは、彼女をそっと彼らから遠ざけた。

 その時になり、初めてセラフィは彼らの話題が自分であることを知ったのだ。

 

「……レオー様は、マリアという女性をご存じですか?」

 

 年中冬の景観であるカインハーストの城前、焚き火の前でセラフィは質問した。

 凍てついた兜を外した騎士は、思い巡らすように宙を見た。

 

「マリア? 知らんな。知らんが、恐らく俺より前の時代の狩人だろう。カインハーストの女騎士と言えば、俺の場合、エヴェリンだからな。今では銃の名前になっているらしいが、たしかに血の質に優れた甘い女であった。──マリアもその類いだろう。何だ、気になるのか?」

 

 ニヤリ。年嵩の騎士は、騎士らしくない笑みを浮かべた。

 これは人々の浮いた話が好きな、彼の好みの話題となるだろう。セラフィは首肯した。

 

「僕の顔は、その御方に似ているらしいのです」

 

 流血鴉はマリアを知っているのだろう。

 だからこそ、狩人と言い争いになるのだ。

 レオーは手を伸ばし、うつむくセラフィの顎を上げた。

 

「う」

 

「へえ。別嬪だろうな。お前もいい女になる。得をしたと思えばいい」

 

「得ですか?」

 

 レオーは、古い騎士だった。

 ヤーナム市街では、長く狩人をしている者のことを『古狩人』と呼ぶ風習があるが、彼もそれに該当するだろう。ゆえに物事をよく知っていた。

 処刑隊がカインハーストに連なる系譜を滅ぼす以前。貴族達の懐古主義と耽美、そして栄華に彩られた時代を生きた騎士は、セラフィが抱く負の感情を笑い飛ばした。

 

「おぉ、セラフィ。血族の新しい、可愛い夜警ちゃんよ。ククク、俺様がカインの騎士が最も尊ぶべき『価値』を教えてやろう。それは、強く美しくあることだ」

 

「強く美しく……?」

 

 彼の言葉を繰り返したセラフィは、落葉を握った。

 本来、刃を振るう域に達していないと思えてしまったのだ。落葉の美しさにセラフィの技術は追いついていない。

 しかし。──そうではないのだ。彼は丁寧に言葉を重ねた。

 

「ああ、力はよい。素性の差こそあれ、鍛えれば得られるのだから。だが美だけは、天恵だ」

 

「天恵?」

 

 セラフィの目の前には、兜を外したレオーの顔がある。顔の半分が焼けた男だ。彼が女王の御前であっても決して兜を外さない理由は、顔面に負った怪我にある。もとは精悍な顔立ちの男であったのだろう。──しかし、カインハーストの在りし日の栄華は遥か彼方。同じように彼のケロイドの半面は歪に引き攣っている。

 

「お前は美しい。自信を持て。そして励むがいい。女王のために。お前自身のためにも」

 

 霜に焼けたセラフィの頬を手甲が撫でた。

 

(冷気をまとう薄い銀小手が、その日、特に冷たく思えたのはなぜだろう)

 

 柔らかにレオーは、笑った。

 そう今、鏡に見える穏やかな顔で笑ったのだ。

 思考を過ぎる感想と目の前の光景が、奇妙な一致をみせた。

 

(? いま何かおかしくなかったか?)

 

 違和感を覚えて鏡をよく見る。

 巨大な姿見だと思ったそれは、しかし、異常なものだった。

 

「鴉羽の騎士様……!? レオー様!?」

 

 振り返る。セラフィの背後には誰もいない。

 鏡をよく見ればセラフィの姿も現実とは異なっていた。

 成長しているのだ。背丈は特に顕著だった。背は、狩人の夢にいる人形と同じくらい高い。流血鴉と並んでも劣らない。

 

 鏡に映るのは、カインの騎士として列席された自分だった。

 もはやただの鏡ではないことは一目瞭然だった。

 

「まやかしめっ!」

 

 セラフィは落葉を抜いた。

 その時だ。

 

「──やめろ!」

 

 後方からの声に、セラフィは素早く振り返りエヴェリンを構えた。

 声は、少年のものだ。

 クリスマス休暇に学校に残っている誰かの声だとすぐに分かった。

 

「姿を現わせ。五秒以内に現れなければ、カインハーストに対する敵対行為と見なし殺す」

 

 物思いに耽り、人の気配に気づかないとは、迂闊だった。

 セラフィは部屋の隅から銃口をゆっくり巡らせた。

 果たして。

 ちょうどセラフィの背後より後方に人は現れた。何も無い宙から現れたように見えたのは、ハリー・ポッターだった。

 

 セラフィはエヴェリンを下げず、問いかけた。

 

「いつからいた」

 

「つ、ついさっきだよ。君が鏡の前に立った時だ」

 

「……僕に用か? まさか、この鏡に用事とは言わないだろう」

 

 セラフィは、銃と剣を納めた。

 ハリーは彼女の顔と鏡を交互に見た。

 

「君には何が見えたの?」

 

「ハハ、言うと思うか? 児戯にも劣るくだらない幻だ」

 

 苛立ちのあまりセラフィの口は軽くなる。

 ハリーは「くだらない……」と呟いた。

 

「これは、見た者の心を惑わす魔法がかかっているのだろう。まんまと術中にハマっている愚か者がいるようだな」

 

 セラフィは心底くだらないと思いつつ、部屋を後にした。

 追ってくる足音は聞こえない。

 

(──あぁ、これは怒りだ)

 

 たかが鏡に自分の内面を映しとられたことにセラフィは煮えたぎる思いを持て余した。

 

 自分だけならまだ許そう。無礼として叩き割りたいが。

 だが、鴉羽の騎士とレオーを映したのは侮辱だ。自分は、破壊相当の正統性を得ていたと思う。

 

(……騎士は、口汚く罵らないものだが……)

 

 鏡のなかで、鴉羽の騎士は笑っていた。ただ、穏やかに。

 いつもセラフィを見ているようでその実、遠くの誰かに焦点を結んでいる目は鏡越しに、けれど自分を見ていた。

 

「……ッ……」

 

 並びの良い歯が、ギチリと嫌な音を立てた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 すっかり食事が片付けられた大広間にて。

 本や羊皮紙をばらまくように広げているネフライトは、眉を寄せた。

 現れたのはセラフィ。

 しかも不機嫌ときた。

 さっさと寮に帰るべきだったと後悔したが、もう遅い。

 メンシス学派における、さまざまな雑用を押し付けられるネフライトは人の心の機微というものがすぐに分かるのだ。すでにジタバタしても仕方のない状況だった。

 

「……それで私のところへ?」

 

 一方的に事情を話したセラフィの話を総括するとこうだった。

 ──『みぞの鏡』という、まやかしの鏡がある。それには未来らしきものが映った。不快である。

 

 学校にあるということは、学校の備品なのだろう。それを壊すワケにはいかないネフライトには、どうすることもできない事態だった。メンシスの檻をかぶっていても、困惑していることは伝わるだろう。

 

 テルミがいてくれたら、セラフィの世話など任せるのに──と思うが、いないものに乞うたところで無駄だ。それでもクルックスであれば「そうか。だから何だ」と火に油を注いて話題を燃焼させてくれるだろう。

 

「見ての通り、暇ではないのだが……」

 

 お父様のことを引き合いにだせば、引き下がるだろう。そのように目論んで話を切り出したが、セラフィはこちらの事情を頓着しなかった。むしろ。

 

「聞きたまえよ。一言多かったツケだと思えば安いものだろう」

 

「む」

 

 明らかな非を指摘されてしまい、ネフライトは思案した。

 ややあって本を閉じる。丸めていた背筋を伸ばした。

 

「カインハーストに連なる貴公と医療教会に連なる私は、こうして話し合いができるだけありがたいと思わないといけないのだろうな。まして諍いが話し合いだけで片付くのであれば、なおさら『得である』と──」

 

 不思議なことが起きた。

『得』という言葉に反応してセラフィの硬質な雰囲気が和らいだ。

 何が琴線に触ったのか。探り切れずにいると彼女が呼気と紛う微笑を浮かべた。

 

「フフ……。ネフは運が良い」

 

「そのようだ。さて、ご機嫌なセラフィの相談を受けようか。──いいえ、そもそも私は『きょうだい』のお悩み相談箱ではないのだが──ともあれ貴公は、その『みぞの鏡』だとかいう妙な鏡を見て、イラついているんだろう? ちょっと夢に戻って聖杯巡りでもしてきたらどうだ。点呼など取らないだろうからな」

 

「却下だ。八つ当たりで聖杯巡りなど豚の突進さえ見落としそうだ。──その鏡は、心のなかの望みを見せると言う。貴公には何が見えるのだろうな」

 

「ミコラーシュ主宰が瞳を得た光景だろう」

 

「貴公ではなく? 前から気になっていたのだが、瞳も智慧も何もかも、貴公『が』欲しいワケではないな? ゴースあるいはゴスムに瞳を願う言葉も『メンシスの徒』だ」

 

「狩人が上位者になるという可能性は、お父様が証明した。ならば、次は市井の、只人の、病み人の、ただの人間がそれと並び立つための証明をしなければならない。獣の病の根絶を私は願っている」

 

「人の獣性に歯止めが利くと思っているのか? 本当に?」

 

「だから。人間の機能として存在しないのならば『後付け』してしまおうと言っているのだよ。そのためにメンシス学派は瞳を欲している。『できる』『できない』など次元が低い。低すぎる。論外。私は、それ以外でそれ以上の話から始めたい」

 

「フフ、すこし面白い。面白い話ができるではないか、ネフ。きょうだい会議では、いつも眠たげな話ばかり寄こしているのに」

 

「私達は、お互いの持つ知識に差がありすぎるだろう。だから、共通認識の水準を上げようと思っている」

 

「理解が進んだよ」

 

 ネフライトは、喉を潤すためにそばに置いていた紅茶のカップを手に取った。

 彼女は、その間にとある羊皮紙に目を留めた。

 

「カインハーストの情報はあったか?」

 

「今のところ何も。まだ調べが済んでいない。お父様がお持ちの血族名鑑も私はまだ全てに目を通したワケではないから……詳しくは、いずれ。セラフィは引き続き、スリザリンでパイプ作りを励んでくれ」

 

 ネフライトへの依頼は、ホグワーツに来て数日で依頼したことだった。

 今年で調べが済むとは、もちろんセラフィも思っているワケではなかった。ただの話題作りだ。

 とはいえ、まったくの手つかずというワケではないらしい。

 折りたたまれた一枚の羊皮紙がセラフィに放られた。

 

「魔法族で有名な、貴族出身とされている一族の名前だ。カインハーストに戻った後でセラフィも調べてみてくれ。……私は、実のところヤーナムやビルゲンワースよりも個人の軌跡を辿るほうが情報が集まるのではないかと思い始めている」

 

「貴い御方は血筋を重要視するから個人の把握が市井の者に比べて簡単だから?」

 

「そうだ。やみくもに探すよりも『カインハーストに連なる女性が嫁に行った先の家を調べる』ほうが成果が上がる可能性が高い。きっと、一人はいるだろう」

 

 了解を告げながら、セラフィは内心の怒りが鎮まっていく感覚を得ていた。学究のようにある分かりやすい結果があるものは、達成感が得られて良い。

 彼の説明は続いている。何度か相槌を打ちながら話を聞いていた。

 

 ネフライトの整然とした論は、聞いていて心地が良い。

 一枚。羊皮紙を重ねた先をセラフィは見ていた。

 

「これは? お父様に提出している資料か。こちらの神秘は手がかりになっているのか?」

 

「収穫は無い。……いくつかの煎じ薬は、獣性を鎮める可能性がありそうではあるが私達しか作れないのであれば、意味が無いだろう。病に侵されているのは狩人を含むヤーナムの人々なのだから、もっと普遍かつ安易で簡便、なにより安全な方法でなければ」

 

「お父様の機嫌を損ねるだろうな」

 

 言葉を先取りするとネフライトは、渋々といったように頷いた。

 

「その通りだ。……いえ、お父様のご意向は何よりのものだが……私は実験の参加をできる限り控えるように言われているから、実地の知見が足りない。だから、必然と机上での実験となる」

 

「お父様が禁止したのであれば意味がある。恐らく、教会の実験は碌な役に立たなかったのだろう」

 

「多少の役には立ったと思いたいが……。いいえ。私が判断すべきことではない。ええ、きっと、すべきではないのだ」

 

「……続報を待つ。必要な物があれば」

 

「ではバタービールをダースでくれ」

 

「太るぞ」

 

 それでも、セラフィは厨房に向かった。

 酔えはしないが、甘い物は人の心を柔らかく変える。

 ネフライトの話は、もうすこしだけ長く聞いてみたかった。




【解説】
『星幽、時計塔の貴婦人マリア』
「──待て待て、どこにそんな言葉が出てきた?」となった方もいたかもしれませんので、ここで一つ。
 マリア様のエンドロールでの名称とは「Lady Maria of the Astral Clocktower」です。「Astral」は「星の」が一般的のようですが、他にも「星気体」とか「幽界的」あるいは、そのままカナで「アストラル」と訳すことができる言葉のようです。訳を考える時「星の時計塔、貴婦人マリア」とすべきなのかもしれませんが、本作では印象重視で『星幽、時計塔の貴婦人マリア』や日本語版でよく語られる「時計塔のマリア」と表記することにします。聖歌隊と関りがありそうな瞳のペンダントがある時点でシンプルに「星の時計塔、貴婦人マリア」と迷ったのですが「星幽」がカッコいいので、そうしました。

【あとがき】
 自分と同じ姿の誰かが存在して、その人のことを知っている人が何人かいるだけでセラフィの心は、実のところ穏やかではありません。時計塔のマリア……いったい何者なんだ……

 前話のイラストに意外なほどコメントをいただけてビックリしつつ嬉しいです。
 あまり容姿にかかわることを描写してこなかったのですが、すこし見直そうと思いました。ありがとうございます……!
 引き続きご感想お待ちしていますのでお気軽にお願いします(交信のポーズ)


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秘石と秘密


岩より小さく、砂よりも大きい、鉱物質の塊。
永遠に近しい存在より溢れた水を飲むことは、即ち境界を越え、不変を得るための儀式だったのだ。



『みぞの鏡』と呼ばれる不思議な魔法道具によって、もたらされた異変は長く続かなかった。

 クルックスもセラフィも不愉快な感情ばかり引き起こすそれの行方を探そうとはせず、また彼らは知らないことだったが──唯一求めていたハリーもダンブルドア校長の説得により、透明マントと共に忘れることにした。

 

 クルックスは、狩人の夢で父たる狩人が寛ぐように日がな一日、暖炉のそばでうとうとしていた。

 

 生まれて初めて貪る惰眠だった。これは人を堕落させる味わいがある。

 思考が鈍り、意識が溶ける。忘我は獣性が高まる感覚にも似て、抗い難いものだ。

 意識の深いところで聞く、暖炉の火音は心地が良い。

 

 飽きるほど眠った後は、宿題を抱えて図書館に行ったり、テルミのお茶会に誘われたりして休暇は終わった。

 振り返れば、安定し充実した休暇となったと評価できるだろう。その点、クルックスは父の理想に叶う時間を過ごしたと思う。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クリスマス休暇が明けた。

 まだ休暇が名残惜しそうな顔がちらほら見える。久しぶりに両親に会い嬉しそうな顔もあった。多くの一年生の生徒は、親元を長く離れた初めての期間となったことだろう。

 

「浮かない顔をしているな。ロングボトム。楽しい休暇にはならなかったと見える」

 

「えっ。そ、そんなことはないよ……」

 

 寮に戻って来た生徒は、誰であれ多少は浮かれた雰囲気をまとわせているというのにネビル・ロングボトムだけは沈んだ顔だった。

 否定されては仕方が無い。

 

「そうか。そうか……」

 

 クルックスは、それ以上の語る言葉を持たなかった。休暇前の彼であれば。

 今は、気まずい空気それきりで会話を終わらせる心算はなかった。

 

「俺に自分に他人より優れており、胸を張れることがあるとすれば、口が堅いということだ。秘匿を暴く者は、より多くの秘密を持つ者にほかならない。……話すことで心が楽になるのならば、俺が君の秘密をすこしばかり預かろう。いつか考えてくれないか」

 

「……あ、ありがとう」

 

「俺ができることは少ないかもしれないが、頼るべき時は頼ってくれ」

 

 クルックスは、ビルゲンワースの賢人を思い出す。

 コッペリアの言う慈悲とは、このような行いだと思いたい。

 ここで彼はニコリとでも笑えば良かったのかもしれない。ネビルは困った顔をした。

 

「そ、そこまで深刻なことじゃないんだ。まあ、深刻ではあるんだけど、その、家族のことだから……」

 

「……そうか」

 

 家庭の事情は難しい。

 ネビルは手を振った。

 

「でも、気持ちはありがとう……」

 

 彼は授業に向かって早足で去って行った。

 ふむ。クルックスは考える。

 善意とは空回りしてしまうものらしい。けれど、そういうものだと彼は知っていた。

 父たる狩人も「良かれと思ったことがトドメになることは、よくあるからな。ああ、実に、よくあることだ」と言っていた。

 

 新学期の授業が終わった放課後。

 宿題を済ませネフライトから依頼された文章に赤を入れていると談話室にネビルが倒れ込んできた。足でも怪我をしたのだろうか。頭を巡らせると「足縛りの呪い」をかけられたことがすぐに分かった。両脚は縛られたようにぴたりとくっついている。彼はうさぎ跳びで図書館から談話室までやって来たのだと言う。ハーマイオニーが立ち上がり、呪いを解いた。

 

 漏れ聞こえる事の顛末は、実に、大したことがない。

 スリザリンのドラコ・マルフォイに呪いをかけられ、やり返すこともできず逃げ帰って来たようだ。

 

 ロンが「やり返してやればいい」と言う。ハリーは、すこしだけネビルに同情的だ。彼が争い事に疎い性質であることは皆知っているところだ。けれど、ロンの気持ちも分かるのだろう。

 

(んー……呪いを受ける前に首を一撃で仕留められたら良い対応だろうか。呪いを受けてしまったら、距離を離されないうちに回転跳びで距離を詰めて、床に縫い付け、解くまでガラシャで口を殴り続けるのが最適解か……あ、口を壊したら呪文を唱えられないな)

 

 指先でペンを回しながら考える。ところで廊下で呪文を使ってはいけないという校則があったような気がする。クルックスの記憶違いだろうか。ひょっとして誰も真面目に守っていないのだろうか。

 うんうんと考えていると顛末を最後まで聞いたハーマイオニーがネビルの手を引いた。

 

「マクゴナガル先生のところに行きましょう。マルフォイがやったって報告するのよ!」

 

「い、いいよ! これ以上の面倒はいやなんだ」

 

 ネビルの顔は、彼の言う『面倒』より羞恥が勝っているように見えた。女の子に助けられたことが恥ずかしいのだろうか。

 

「でも、何もしないとマルフォイがつけあがるぞ」

 

「だって、でも、僕に勇気が無いのは、そんなの言われなくたってわかってるよ……」

 

 マルフォイだって同じことを言ったからさ。

 ネビルは声を詰まらせた。慰めるようにハリーが蛙チョコレートを渡した。

 

「君は、組分け帽子に選ばれてグリフィンドールに入ったんだろう? 自分を信じないと。マルフォイなんかどうだい、腐れスリザリンに入っているじゃないか」

 

 そこまで言うか。クルックスは、そう思ってしまう。しかし、一般的なグリフィンドールの生徒にとって常識的な感覚のようだ。周りの同級生の何人かは頷きを見せている。

 

「ありがと……ハリー。僕、もう寝るよ……ああ、これ、カードあげるね。集めているんだろう?」

 

 ネビルが寝室に向かう。

 クルックスは、片手を軽く挙げておやすみの挨拶をした。

 もうすこし気の利いた言葉が出ないものかと考えるが、妙案が浮かぶことは無かった。

 

 しかし。

 

「見つけた……っ!」

 

 小さく、けれどハッキリと輪郭のある声が聞こえた。ハリーだった。

 

「ニコラス・フラメルだよ。どこかで見たことがあると思ったんだ……!」

 

 やや興奮した声にロンとハーマイオニーが頭を寄せ合う。

 羊皮紙を執拗に角を合せるフリをしてテーブルに叩きつけ続けていると続く言葉が聞こえていた。

 蛙チョコレートのダンブルドアのカードには、フラメルの記述があった。そして、ハーマイオニーが図書館から借りてきた本の記述を併せると以下のようなことが分かる。

 

『ニコラス・フラメルはフランス出身の魔法使い。伝説の物質「賢者の石」の創造に成功した唯一の者として知られる有名な錬金術師。ホグワーツ魔法魔術学校の校長アルバス・ダンブルドアと親しく、錬金術の共同研究も行った。ダンブルドア校長の蛙チョコレートに名が載っているのもこの共同研究に由来する。フラメルと妻のペレネレは、賢者の石を用いて作られる「命の水」を飲み、昨年六六五歳の誕生日を迎え、デボン州で静かに暮らしている』

 

 クルックスは、なぜ彼らがニコラス・フラメルのことを調べていたのか分からない。しかし、彼らは三頭犬が守っている物は、この『賢者の石』であると確信しているようだった。

 

(『なぜそんなものがホグワーツに』という疑問は、もはや意味が無い。考えるのであれば校長はハリー・ポッターに『なぜそれを見せたいのか』だろう。そこから、考えるべきだ……)

 

 クルックスは、羊皮紙を小脇に抱え談話室を出て行こうとした。

 

「──ハント、もう遅い時間だぞ。どこに行くんだ」

 

 監督生のパーシーに声をかけられて、クルックスは脚を止めた。

 

「すこし分からないことがあったので、きょ、誰かに聞いて来ようと……」

 

 考え事に夢中で、あまりに苦しい言い訳だった。

 手招きされて仕方なく、彼の隣に座った。

 

「どこだい、見てあげよう。なになに。『高啓蒙状態における人体の苗床化と血の女王の受胎成否の関連性について』──は? なんだって?」

 

 パーシーは目に飛び込んできた言葉が理解できても意味ができなかったのだろう。見間違えを疑うように目を瞬かせた。

 クルックスは、見せるつもりがなかった。羊皮紙を外から見えないように裏返すと全て抱えて立ち上がった。

 

「んんんッ何でもありませんッ! 寝ます! おやすみなさいませ!」

 

 クルックスは寝所への階段を駆け上った。

 

(まずはネフに相談してから、と思ったが……)

 

 阻止されてしまったので仕方が無い。今日は諦めよう。

 クルックスは狩人の外套に羊皮紙を収めた。

 

「…………」

 

 窓を見つめ、彼は考える。

 もしも、本当に賢者の石があるとすれば、本の記述が正しいとすれば、長命を保証するものだ。『デボン州で静かに暮らしている』という事実が真実であれば、彼らは病とは無縁だ。

 

 ヤーナムの住民は、病み、救いを求めて血の医療に辿り着いた者だ。

 治療に使われる血が、別の物に代わったとしたらどうだろう。

 命の水は、輸血液の代わりにならないだろうか。

 

(賢者の石で獣の病を克服することができる? ……無理だ。長命になったとして、そもそもの原因である上位者はどうなる? それに医療教会の立場など形無しだ)

 

 ヤーナムが壊滅しない理由は夢の主たる狩人の意向も多分にあるが、ビルゲンワースの蜘蛛が未だあらゆる真実を秘匿し続けているからだ。だから高い啓蒙を保持していなければ、アメンドーズが見えない。そして市街の狩人達が夜明けまでに狩り切れる程度の獣しか出没しない。

 賢者の石を持ち帰ることは、ヤーナムに新たな刺激物を持ち込むのに等しい。同じ一年間が二〇〇年以上続いている現状にとって毒になるかも薬になるかも分からない。

 クルックスは自らの思い付きを改めた。

 

(──ダメだ。血で起きたものは、血で解決しなければ……別の因果を絡ませるべきではない)

 

 父たる狩人は、外の神秘に対して貪欲な好奇心を見せたことがない。

 彼は、ヤーナムのことはヤーナムの内側で解決したがっているように見える。

 だから、クルックスは自分の領分を超過する判断をすべきではなかった。

 

(俺は踏みとどまれる……だが、他のきょうだいはどうだろうか?)

 

 クルックスは、この知り得た秘密を誰にも言ってはいけないと思えた。

 テルミ。セラフィ。ネフライト。

 彼らは、彼ら思い思いの方法で夜明けを求めている。

『賢者の石』のことを知れば彼らは別の価値を見出すかもしれない。

 

「…………」

 

 かつて。

 誰かを救える『かも』しれない手段を持ったお父様は、迷われたのだろうか。

 クルックスは、細い月を見上げてそんなことを考えた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、クィディッチという競技に興味が無い。

 そもそも多くの娯楽に興味が無い性質だ。そのことはヤーナムにいた頃から分かりきっていた。

 唯一、トランプはいくつかのゲームについてルールを知っていたが、知識として覚えているだけで遊戯自体は興味を惹かれるものではなかった。狩人の仕事で命を賭け過ぎているせいだろう。取り返しのつく何かを失ったとして彼の心は、幼く湧きたちはしないのだ。

 

 ゆえに、スネイプ先生が審判を務めるというグリフィンドール対ハッフルパフの試合にも興味が無い。しけた面をしている観客がいては観客も競技者もつまらないだろう。そんな思惑で、彼は寮で唯一、競技場に行かずに学舎にとどまっていた。

 そして今は陽光を謳歌するため中庭のベンチにいて、足元の蟻を眺めていた。

 

「クックック。ずいぶんと悩み深そうな顔をしているな」

 

 編み上げブーツに気付き、見上げる。そこにはいつぞやのようにセラフィがいた。

 何だか『わるーい』顔をしている。

 

「いろいろあってな……いろいろな……」

 

 ここに現れたのがセラフィで幸いだった。

 テルミならば、クルックスの抱える秘密を読まれていたかもしれない。

 彼女はベンチの隣に座るとふたりの間に菓子を置いた。

 

「なんだこれは」

 

「同じ寮生から受け取ったクリスマス・プレゼントだ。僕には多すぎたからな。ちょうどいい」

 

 クリスマス休暇の間に開かれたテルミのお茶会においても、彼女は菓子を持ってきた。珍しいと思っていたが、貰い物だったとは。

 サクサクと食べる。細かな粒を地面にこぼして蟻を観察した。

 

「人間関係について悩むのは無益だ。所詮、我々は一時の宿としてここにいるに過ぎない」

 

「え。ああ、そうだな」

 

 クルックスの悩みとは、賢者の石について知ってしまったことであるが彼女は都合の良い勘違いをしてくれたようだ。

 

「──ところで。貴公、森に行ったか?」

 

「三頭犬についてかかりきりで後回しになっている」

 

 彼女は「そうか」と言ってクッキーを齧った。

 話を促すとテルミの話題になった。

 

「そのうち『きょうだい会議』でも話題になるだろう話だが、最近、彼女は森に行ったそうなのだ。そこでユニコーンが死んでいたらしい」

 

「ユニコーン? ああ、杖芯に使われる馬みたいな生き物だったか」

 

 それがどうして報告対象になるのか。彼は分からなかった。

 セラフィ曰く、ユニコーンとは希少な生き物であり、捕まえることは難しく、殺して血を飲めば呪われる。

 へえ。クルックスは、相槌をうった。興味が惹かれなかったのだ。

 

「貴公、ピンと来ていないな。問題は血の効果だ。『死にかけた命さえ蘇らせる』という。いったい誰が、何のために必要としているか。実に気になるではないか。ホグワーツは平和だ。何も不自由がなく、病み人もいない」

 

「……たしかに」

 

 最近、それと似た効果を持つ──しかも『呪われない』点で上位互換といえる──の代物の存在を知っているクルックスには胃が痛くなる話だった。彼女は実のところ賢者の石の存在を知っていて、かまをかけようとこの話をしているのではないか。疑いがちらりと過る。

 

「む……それで? 俺になぜその話を?」

 

「深い理由など無いさ。下手人がどんな奴か。テルミが気にしていた。──血について教会の人間が興味を惹かれることは分かるだろう? 呪いがどのようなものかも」

 

「呪いか……」

 

 ヤーナムに起こる呪いの全ては、上位者の怒りに触れた証である。

 では、ユニコーンを殺し死血を飲むことで起こる呪いは、ユニコーンの持つ神秘性によるものだろうか。それとも別種の統括的な生物、たとえば彼らは眷属であり、連なる上位者がいて、呪いとして干渉を起こすのか。

 ユニコーンの生態について調べる必要がある。

 クッキーを食べ終えるとセラフィに別れを告げて図書館に向かった。

 

 奥まったいつもの席に向かう途中、テルミと出くわした。

 

「はぁい。クルックス。お元気かしら?」

 

「まぁまぁだが。ネフと話していたのか? 珍しいな……」

 

 ネフライトがテルミのことを苦手に思っているのは最近に始まったことではない。

 一方、テルミはネフライトのことを便利な情報屋として使っている節があった。

 

「ちょっとした頼み事をね。ああ、そろそろ試験でしょう? 頑張りましょうね」

 

「まだ一か月先だ」

 

 試験の足音は、宿題が増えつつあることで自覚している。

 しかし、今日、今ここで彼女に出会うとは思わなかった。

 

「今はクィディッチの試合だろう。俺は興味が無いから行かないが、貴公は観なくてよいのか」

 

「んー、気になることができちゃったから、仕方ないことで妥協してしまったの。あぁ、もしよかったらネフを手伝ってあげてね。あの人、森を歩き慣れていないでしょう? だからね。ふふふ」

 

 テルミは、甘い声でクルックスの耳元で囁く。そして去って行った。

 頼み事とは何だろうか。珍しいこともあるものだ。

 いくつかの書架を越えた先でネフライトは苦々しい顔をしていた。

 

「ネフ。そこでテルミと会ったが、何か頼まれ事をしたらしいな」

 

「あぁ……」

 

 手伝おうか、と言いかけたが彼は話題にしたくなさそうに顔を背けた。

 そのうち、羊皮紙の束の端をそろえようとしてテーブルに叩きつけはじめた。

 

「私のことは気にしなくていい。用事があるのだろう。聞こうか」

 

「ユニコーンについて知りたいのだが」

 

 再び彼は「む」と声を漏らし、作業していた手を止めた。

 この時になり、クルックスはテルミがネフライトに頼んだ用事とはユニコーンにまつわることだったのではないかと思いついた。

 

「ネフ?」

 

「向こうの本棚だ」

 

 ポケットからメモ帳を取り出すと彼は本の場所についてサラサラと書きつけた。

 やはり手伝った方が良いのではないか。

 クルックスが言葉を選んでいる間に、ネフライトはメンシスの檻の中で目を細めた。

 

「君やセラフィには劣るが、私とて学徒である以前に狩人だ。手助け無用。君は君の探求に邁進するといい。……我々は、常にそうすべきなのだから」

 

「……情報、感謝する」

 

 クリスマス休暇に入ったばかりの頃を思い出し、それ以上の言葉はかけなかった。

 メモを受け取るとクルックスは、本を探し始めた。

 

(ネフはテルミと取引をしたのか? あの反応を見るにユニコーンの血か? けれど、何のために……?)

 

 彼が自分に不利な条件を簡単に呑むとは思えない。

 クルックスの知らないところで彼らの思惑が動いていることだけは、多少の理解が追い付いた。

 




【解説】
 ハリポタ原作的には、ようやくフラメルまでたどり着いて賢者の石の名前が出てきたところです。すなわち終盤ですね。
 さて、筆者は賢者の石は『命の水を生み出すための触媒なのだ』という認識で書いています。保持者が不死になる、というものではないんですよね。ということは、これ、水を出す方法を知らなかったらただの綺麗な石なのでは……?
 ネフライトはテルミの言葉をいつも半分くらい聞き流してますが、聞き逃せない言葉があった様子。またセラフィはしばし傍観することを決めたようです。セラフィは不死の女王を頂いているせいか、すこし時間感覚がフワフワしています。今が騎士にとって最も幸いな時間であるという自覚もあるのですが、それにしてもフワフワです。どうしてネフライトがいつも不摂生しているのか彼女は不思議に思っています。

【あとがき】
 書き溜めている間は「淡々と投稿していけばいいかぁ。賢者の石分はできているのだし」と単純に予定を立てていたのですが、皆さんからいただいた感想により、投稿前に内容を一部修正したり、加筆したりと充実した日々を送っています。ありがとうございます。だからもっと瞳が必要なんですよね。筆者が高次元的視座を得るために椅子をガタガタいわしながら脳液(感想)をお待ちしています。


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処罰と銃

禁じられた森
ホグワーツ構内に広がる深い森。
出入りを禁じていることには理由がある。
罰として使われている理由を知る者は少ない。


 ヤーナムにおいて、英雄とは誰であろう。

 

 クルックスにとって父たる狩人しかないが、古狩人は、古い住民は『聖剣のルドウイーク』と呼ばれ讃えられ、何度目かの獣狩り夜から姿を消した教会の狩人を覚えているかもしれない。

 

 彼が、聖剣と月光の持ち主の名前を思い出したのは最近のハリー・ポッターを眺めてのことだ。英雄の盛隆と凋落が数週間で見られるとは、自分はきっと貴重な経験をしている。

 

 つい最近、具体的に言えばクィディッチにおけるハッフルパフとの試合において、ハリーは最大得点を獲得して一躍英雄的扱いを受けた。グリフィンドール寮全体が熱狂した。そのように評しても過大ではなかった。七年近くスリザリンに取られっぱなしだった優勝杯がグリフィンドールの目前にあることに誰もが興奮しているようだった。

 しかし、その評価は後日、一変する。

 ハリー、ロン、そしてハーマイオニーが深夜一時に天文台の塔をうろつきフィルチに見つかった。その結果、一五〇点という点数を失うことになったのだ。これはクィディッチで英雄的賞賛を受けたハリーの立場を大きく揺るがし、今は凋落というに相応しい事態に陥っているようだった。

 

 透明になれる特別なマントがあるのにどうしてこのような事態になったのか。

 クルックスは理解に苦しむが、経験の浅さと成功体験が彼の気分を大きくしてしまったのかもしれない。

 

(俺も襟を正すとしよう)

 

 ハリーは腫物のように扱われていたが、ロンやハーマイオニーも似たようなものだった。授業では水を得た魚のように活き活きとしていたハーマイオニーは、どんな授業もジッと机にかじりつくようになり、黙々と勉強していた。

 一言くらい慰めたいと思うクルックスであったが、あいにく気の利いた言葉が思い浮かばない。しまいにはネフライトに「やめろ」と止められた。彼は、いつもの鬱っぽい暗い目で「優しげな善意のひけらかしはやめたまえ」と言った。『ひけらかし』という思いがけない言葉にクルックスは衝撃を受けてしまった。

 

(そ、そうか……ひけらかしに思えるのか……。俺は寮の点数がいくらでも気にしないが、彼らは違う。今は時間が必要なのかもしれないな……)

 

 何を言われても嫌みに聞こえるだろう。ひょっとするとそれはスリザリンが指を差し口笛を吹いてはやし立て大声で言う悪口よりも陰湿なものになるかもしれない。

 何でも構おうとしてしまうのは自分の悪癖になりつつある。狩人でさえ「善意ほどよく空回るものはない」と語るほどだ。もっと慎重になるべきだった。

 

 静観を決めたクルックスは『運の悪かった』三人を見守ることにした。

 四階の廊下探索は興味深い人間社会の観察のために後回しにした。しかし、狩人はきっと許してくれるだろう。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ハリーは、夜が憂鬱だった。

 点数の大損失の大騒ぎで忘れかけていたが罰則があり、それは今日だった。

 二十三時。

 ハリーとロン、ハーマイオニーは指定された玄関ホールに来たが管理人のフィルチはすでに待っていて、しかもニヤニヤと笑って待ち構えているのだから、これから行われる罰則がどんなに酷いものになるだろうかと考えていた。同じく処罰を受けるマルフォイでさえ彼のことを嫌そうに、そして不安そうに見ていた。

 

「あぁ、規則を破る前に、自分の行いをよーく考えるようになったろうねぇ。ええ? どうかね?」

 

 ランプを灯し、先導するフィルチはこれまで見たことが無いほど上機嫌だった。校庭を横切る一行は誰も口をきかず、彼の話すこれまで行われていた罰則について聞かざるを得なかった。

 彼の話を一通り聞いた後で、朗報と思えたのは何十年か前に『体罰が無くなった』ということだけだ。そのことについて彼はとても残念そうに語った。

 

「……?」

 

 罰について考えながら、真っ暗な校庭を見ていると森に近付く人影が見えたような気がした。

 満月に近い空の下、雲が無ければ木々や建物の輪郭がはっきりと見える。その人影も例外ではなかった。

 ハリーはフィルチに気付かれないようにチラリと後ろを歩くロンと視線を合わせた。校庭を指す。ロンもその姿を認めたのだろう。ハッと息を飲み込む音が聞こえた。

 

(スネイプだ!)

 

 ハリーは頭の中がいっぱいになり、罰のことを一時忘れた。

 目を凝らしてその人影を追いかけたが、雲がさっと月にかかり、視界が闇に満ちると見失ってしまった。

 

 興奮と疑問でいっぱいになる頭を持て余し、辿り着いたのは森の端にたたずむハグリッドの小屋だった。

 罰則はハグリッドと一緒なのだと知り、ハリーはホッとした。

 それを意地悪く見つけたフィルチが黄色い歯をむき出しにして笑った。

 

「あのデクノボウと一緒に楽しもうと思っているんだろうねぇ? 坊や、もう一度よく考えた方がいいねぇ。お前達がこれから行くのは、森の中だ……」

 

「そんな!」

 

 裏返りをした声でマルフォイが叫んだ。

 

「森だって! そんなところには夜行けないよ! それこそいろんなのがいるだろう……ッ……狼男とか!」

 

 まさにその時、狼の遠吠えが森の中から聞こえた。

 ハーマイオニーが「ヒッ」と息を詰まらせ、身を強張らせた。ロンも顔色を悪くしている。

 

「坊や、狼男のことは問題を起こす前に考えておくべきだったねぇ……!」

 

 嬉しくてたまらない、という風にフィルチは笑った。

 ハグリッドがそんな彼を軽蔑したように冷たく見て、手を払うように動かした。

 

「説教も叱責もお前の仕事じゃなかろう。お前の役目はもう終わりだ。ここからは俺が引き受ける。さっさと戻れ」

 

「夜明けに戻ってくるさ。こいつらの身体の残っている部分だけ引き取りに来る。……森で飢えた狼の餌にならなきゃだがね」

 

 たっぷり脅しかけたフィルチはランプをゆらゆらさせながら城への道を戻っていった。

 ハグリッドは石弓を持ち、肩の矢筒を確認した。犬のファングが忙しなくハグリッドの足元を歩いていた。

 

「よし。……それじゃ、よーく聞いてくれ。なんせ、俺達が今夜やろうとしていることは危険なんだ。みんな軽はずみなことをしちゃいかん。しばらくは俺について来てくれ」

 

 ハリーはバクバクと音を立てる胸を押さえて彼のあとに続いた。

 森は風をまるで呼吸をしているように、四人の姿を暗がりに吸い込んだ。

 先導に続き森の中を進むと月明りがよく差し込む、開けた場所に何かキラキラと光るものが横たわっていた。

 

「一角獣だ。この、銀色が見えるか?」

 

 四人は力尽き首を暴かれたユニコーンを囲むように立った。

 ハグリッドはそばに膝をつき、傷口を確認するように明かりを寄せた。

 

「ハグリッド、ユニコーンの血ね?」

 

 ハーマイオニーが恐れを滲ませて訊ねた。

 

「ああ。今週になってこれで二回目だ。水曜日に最初の死骸を見つけた。みんなでかわいそうなやつを見つけ出すんだ。助からないのなら、苦しまないようにしてやらねばならん」

 

「そりゃいい考えだ。ユニコーンを襲ったやつが先に僕たちを見つけたらどうするんだい?」

 

 マルフォイの質問にハグリッドは辺りを見回しながら答えた。

 

「俺やファングと一緒におれば、この森に棲むものは誰もお前たちを傷つけはせん。道を外れるなよ。二組になって別々の道を行こう。……血が光っているだろう。そこら中をのたうちまわっているんだ」

 

「僕はファングと一緒がいい」

 

 尖った顎を上げてマルフォイが言った。

 大きなランプをひとつ、ハグリッドはハリーに渡した。

 

「構わんが、そいつは臆病だぞ。ハリー、マルフォイと一緒だ。ロンとハーマイオニーは俺と来い」

 

 マルフォイはファングの牙に期待して言ったのだろうが、もう後悔した顔をしていた。

 ハリーはロンとハーマイオニーと顔を合わせ、特にロンは真剣そのもので頷いた。

 

 道が分かれ、ハグリッドの姿が見えなくなるとマルフォイとハリーは顔を見合わせた。

 停戦だ。

 お互いに、いくら気に喰わない者だとしてもこの森で余計な諍いはすまい。二人の間で無言の約束が成立した。

 

「……はぁ。こんなこと、お父様が聞いたら何とおっしゃるか。召使いの仕事だよ」

 

 血の跡を辿り、十分も歩くとマルフォイは余裕が出始めたのか、ブツブツと愚痴を言い始めた。

 心臓は相変わらずバクバクと震えていたが、ハリーも次第に緊張が解れていた。森は深く、そして広い。校庭で見かけた、森に入っていく影とばったり出くわす可能性は低いと思ったのだ。

 

 フゥ。ひとつ息を吐く。

 ハグリッドがそうしたように辺りを見回し、耳を澄ませる。聴覚が敏感になっているような気がした。

 再びマルフォイと目があった。彼は、ハリーに対して「君のせいでこんなことに」となじりたかったのだろう。そのために口を開いたが、突然響いた破裂音に言葉を詰まらせた。

 

 闇夜に高く響いた音。

 それはマグルの映画で見るピストル。その発砲音を分厚くしたような音だった。

 ハリーは身を固くしたが、マルフォイはピンと来ていないようだった。

 

「待てよ。ハグリッドは銃なんて」

 

 持っていなかった。彼が担いだ石弓を思い出す。

 では、銃を撃ったのは誰だ?

 もし森にスネイプがいるとして、どうしてそんなものを取り出す必要があるのだろう。

 

(ひょっとして……校庭で見た影は、スネイプではない?)

 

 また発砲音だ。

 風が吹いて頭上の木々がザァザァと音を立てた。

 

「行こう」

 

「っ……ああ」

 

 銃声は遠い──と思う。

 ユニコーンを見つけなければ朝まで帰れないのだから、進まなくてはいけなかった。仕方が無い。マルフォイもそれが分かっているのだろう。覚悟を決めたように後ろをついてきた。

 樹木に見える血の量は次第に多くなっていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 時間は、五分ばかり遡る。

 ネフライト・メンシスは、テルミと取引した『ユニコーンの血の採取』という役目を負って禁じられた森へ踏み入った。メンシスの檻を傷つけるワケにはいかないので、あればかりは自室においてきた。

 森を進む足は、おぼつかない。ヤーナムの禁域の森を自分の庭のように歩くクルックスに数段劣る。ネフライトの足取りは、決して歩き慣れているとは言い難いものだったが、今日は月が明るい。運よく獣道を見つけた。また人間よりも巨大な生き物が歩いていた形跡があった。

 

 嗅ぎなれぬ血の匂いに誘われ、ネフライトは方針を定めて風上へ進んだ。その先で、傷ついたユニコーンを見つけた。使い込まれた教会の連装銃を向ける必要は無かった。銀色に輝いた生物は、ある時、とうとう力尽きて倒れ伏したからだ。

 

 力なく投げ出された脚は惜しげもなく蹄を晒し、鬣は月光を受けて銀と白に彩られた。

 

 古の詩人が謳わざるを得ない、神話的光景であろうとネフライトの心が動じることは無かった。

 清潔と不潔。

 均等と比率。

 万化と普遍。

 それらをもって世界を定義したネフライトにとって死した生物とは、それ以外の何物でもなかったからである。

 彼が心を動かすのは常に『狩人』と『同胞』そして『信仰』だけだった。

 

 ゆえに。

 ネフライトは、自分とユニコーンとの間に現れた黒いローブの人物に対して、言葉のかわりに水銀弾を浴びせたのだった。

 けたたましい発砲音と共に黒フードの輪郭はパッと照らされた。ネフからは相手の顔は見えない。けれど、向こうは銃が上げた火花によって見えただろう。

 的中には至らなかった。

 ローブを着た人物は、背中に目が付いているとしか思えない動きで銃弾を避けた。身のこなしを見るに年若い男のようだった。

 次弾の装填しつつ、ネフライトは距離を詰めるため、駆けた。

 

(──テルミめ。こういう輩が出ることを察していたな)

 

 ネフライトが、役割を引き受けた経緯は、実に大したことが無い。

 

「ユニコーンを殺し、その血を飲んだ者は呪われる。なんて大袈裟な話と思わなくて?」

 

 疑問提起は、そのような言葉だった。

 血。

 その単語は、ヤーナムの民にとって特別な意味を持つ。

 だから、せめて話くらいは──後ほど忘れるとはいえ──聞いておこうとネフライトは思ったのだ。

 

「呪いの定義は、文化により異なる」

 

「では、根幹の神秘が異なったら呪いはどうなるのかしら? 物知りなネフライトさん、教えて下さらない?」

 

 ネフライトは、ジッとテルミを見つめた。

 緑色の瞳が、藍の視線とぶつかる。

 

「私は、驚いている。テルミ・コーラス=ビルゲンワース」

 

「あら。驚かせたつもりはないのですけど」

 

 彼女は、試すように微笑んだ。

 

「どうして君の口車に私が『わざわざ』騙されると思っているのか? ──クルックスならば分かる。彼は愚直だ。また、嘘とか企みとか無縁であるべき人だから。セラフィも分かる。彼女はズレている。カインハーストの価値観は我々とは馴染まない。また、二君に仕えて破綻しない人格でもある」

 

「素晴らしい分析。もっと聞きたいわ。聞かせてちょうだい」

 

「語るべき言葉は無い。君は、私をそそのかしてしまいたいのだろう? 断る。君の探求は君のものだ。己が道を往くといい。互いに交わるまで私は敵にも味方にもならない。お父様に誓ってもいい」

 

 ネフライトの提案は、クルックスやセラフィであれば二つ返事で回答をいただけて、それで終わったことだろう。

 だが、相手はテルミだった。

 藍の瞳は、いつも天上の銀灰を眺めていた。

 

「おかしなことを言うのね。ネフ。いけないわ。とってもいけない人だわ。だって『きょうだい』は協力し合うべきでしょう? だって、目的は同じなのですから」

 

「目的へ至る『手段が違う』と言っている。互いの干渉を避けるべきだと言うことは、ダイアゴン横丁でも話した経緯があったと記憶するがね」

 

「だから。その論は、おかしなものだわ。それはまるで、手段を重んじて目的を軽んじているように聞こえてしまうもの」

 

 ──話が通じないヤツだな。

 その言葉を言ってしまわなかったのは、ネフライトのなけなしの良心ゆえだった。

 メンシスの檻のなかで髪を掻こうとして指が届かないことに気付いてやめた。

 

「お父様のために考えた企画なのに、あなたは参加しないの?」

 

「気になるのなら、君が行けばいいだろう」

 

「誰が行くという『手段』の話をしているのではないのよ。だって、お父様のためなのに。あなた、何のために何をしにここに来ているの? あなたの、たかが信条のためにお父様の思索の先触れになるかもしれない素材集めを怠るの? ねぇ? どうなのかしら」

 

 ネフライトは、テルミに対する認識を改めた。──『お父様のため』に動き続ける彼女は、ほかの三人に対しても『お父様のため』が優先されると思っている節があるらしい。

 

 

 それから。

 結局、彼女の提案を受け入れたのは、論破するには準備も時間も割に合わないと判断したからだ。ネフライトはできる限り、彼女のことを頭から追い出してしまいたい。どうにも彼女の一途さというものは苦手だ。

 

 

(それにしても『貸し借り帳消し』に釣られた私も私だが。アシの出る取引だったか。……だが、いいだろう)

 

 ネフライトは挨拶を終えた銃を腰のベルトに差し、懐から剣を取り出した。

 それは『慈悲の刃』と呼ばれる狩人狩りに使われる剣だ。

 

 何度かフェイントをかけつつ、攻撃呪文の閃光をかわす。

 振るわれた刃は鋭く月光を弾き、男が咄嗟に挙げたローブの腕を切り裂いた。

 

(動きが鈍い。殺せる)

 

 悲鳴はどこかで聞いたことがある声のようだが、興味が無かったので通り過ぎた。

 邪魔者がいなくなったらユニコーンの血の摂取は十分にできるだろう。鬣もいく束か切り取ってもよいだろう。

 

(──お父様の興味を惹いたものだ。ぜひ、持ち帰ってしまいたい)

 

 だから、殺さなければ。

 左手で剣の柄を握る。

 

 慈悲の刃。

 歪な刃が二枚重なった仕掛け武器の骨頂は、二つの剣に分かたれることにある。

 展開の勢いのまま、両手に握る刃で不審者の首を狙う。

 

 しかし、ネフライトの狙いは外れた。

 闇の中で弦の弾ける音が聞こえ、瞬間、バックステップで身を引く。結果として、それは幸運な選択になった。 

 目の前で風を切り、闇を射抜いた矢は、ネフライトから遠い樹木へ突き刺さった。

 

 ここで敵か味方かも知れない第三者の介入に、ネフライトは行動方針を修正した。

 足音が複数聞こえる。

 

(運が悪い。撤退だ)

 

 ネフライトはすぐさま、森の闇の中に飛び込み、彼らから最も遠い方角へ全力で走った。

 

 利益の対価を考える時。

『きょうだい』で比べるとしたら、彼、ネフライトは損切が早い少年であった。 

 父たる狩人の堅実性を色濃く受け継いでいる、という自称は、正しい認識の結果だったのだろう。

 

(明日、テルミにチクチクと言われることだけが憂鬱だ)

 

 彼らから姿が見えない場所まで来るとネフライトは『狩人の確かな徴』を使おうと衣嚢に手を突っ込んだ。

 くらりと眩暈に似た心地、夢の片鱗を捉えようとした瞬間のことだ。

 闇夜に響く蹄音にネフライトは意識を取り戻した。

 

「何者か」

 

「禍々しい星の火が訪れることは星の動きから知っていた」

 

 カサリと音を立てて、木々を避ける。

 腰から上は赤い髪、赤い髭の人の姿。そして腰から下は栗毛に赤みを帯びた長い尾の馬。

 それはケンタウルスと呼ばれる種族だった。

 

「ほう。それは好ましい事態と言えましょう。ケンタウルスの賢者。しかし、私の見るところ。その星は、ケンタウルスに害を及ぼさないと見た」

 

「…………」

 

 瞬きもせず、そのケンタウルスはネフライトを見ていた。

 

「遠い、深い血の香りだ」

 

「静かな夜に森を荒らしたことを詫びましょう。我らの血と銀で森を汚したことも詫びましょう。しかし、より悪しき者を討ち滅ぼすためと理解されるがよろしい」

 

「今夜は火星が明るい」

 

「そうですか。ご機嫌よう」

 

 本で見た通り、ケンタウルスとの意思疎通は難しい。

 ──駄馬め。

 内心で毒づき、ネフライトは今度こそ姿を消した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、特に理由無く夜更かしをしていた。

 強いて理由を挙げるとすれば、今日は月が明るい夜だ。目が冴えてしまっていた。

 ゆえに。

 クリスマス休暇の暖炉の温もりが忘れられないクルックスは、足音を立てずに談話室まで降りてきたのだ。

 暖炉の前で寛いでいると聞き慣れた足音が三人分聞こえた。

 扉が開け放たれた時。先頭に立っていたハリーと目が合った。

 

「こんばんは。佳い夜だな。……そうか。罰則は今日だったか」

 

「ねえ、君──今日、森にいた?」

 

 開口一番。単刀直入。

 さまざまな言葉がクルックスの頭に浮かび、消えていった。

 森と一口だけ呟く。

 ロンとハーマイオニーは、恐る恐る反応を窺っているようだった。

 

「学校の森か? いいや。俺は行っていない。しかし『誰かと出くわした』という顔をしているな」

 

 クルックスはソファーの上でとろけながら訊ねてみた。

 図星のようでハリーは興奮したままに詰め寄った。

 

「『俺は』ってことは、誰か別の人に心当たりがあるんだね?」

 

 彼らからは、深い森の気配が漂っていた。

 懐かしくも狩人の本能を掻き立てるものに、クルックスは目を細めた。

 

「む。俺ばかりタダで話すのは、面白いことではない。だが、誤解は解かなければならない。……俺の関係者の誰が森にいようと学校の者を傷つけることはしない。学校に滞在を続けなければならない身ゆえに。その点、安心してほしいのだが」

 

「それって男性の……いえ、女性かもしれないけれど……大人の関係者はいる?」

 

 ハーマイオニーが、ハリーに視線を送りながら言った。

 確かめるように、ハリーも頷いている。

 

「……今は、いない、ハズだ」

 

 父たる狩人が上位者的思考の産物の『気まぐれ』を起こさない限り、彼が揺籃のヤーナムから這い出てくることは当面のところ無い。ビルゲンワースの学徒達をはじめ、他の関係者も同様だ。やわらかな閉鎖状況にあるヤーナムから彼らが出るには狩人の許可を得て夢を渡る必要があるだろう。そして、悪夢の主は遂に二〇〇年以上、獣の一匹さえヤーナムから取りこぼすことはなかったのだから、まさか人間を見逃すハズがない。

 唯一の可能性は、哀れなる堕とし子と呼ばれるアメンドーズ達──彼らは現実と夢の往来を可能としている──が誰かを『飛ばす』ことだが、この異邦の地でヤーナム産の濃密な神秘の気配があれば血が騒ぎそうなものだ。そもそも、可能性としてゼロではないだけで限りなく低い確率だ。まして、そんな者が森で人間と出会うなど。

 

「森に誰かがいたのならば……何をしていたのかによっては敵になるな。それで? ソイツは何をしていたんだ?」

 

「ユニコーンを傷つけて、たぶん、血を欲しがったんだと思う」

 

「……それはまた物騒な話だな」

 

 ネフライトではないだろうな。まさか。いや、彼ならばもっと上手くやるはずだ。

 一向に眠気が訪れない頭に、ふと考えが過ぎる。

 

「ただの疑問なのだが、答えてほしい。貴公らにとって『血』とは何だ」

 

 ハリーは苦々しく、嫌な物を見たという顔をした。

 考えたことも無いと首を振った彼らにクルックスは暖炉の焔を見つめながら言った。

 

「我らにとって、血とは『生きる感覚』そのものなのだ。それは意志と等しくあり、我らを人ならしめ、また留める軛であり、今は何よりの縁なのだ。……何が言いたいかと言うと、血の話をする時にそう嫌な顔をしてほしくない、という意味なのだが、通じているだろうか?」

 

「それは……あー……難しいかも。血で感染する病気もあるし……マグルは、という話だけど」

 

 ハリーとロンが『なに言っているんだ、コイツは』という顔を隠そうともしないのでハーマイオニーがフォローを入れた。とはいえ、絶妙にフォローしきれていない。

 しかし、クルックスは機嫌よく笑った。物事の真意を偶然にも言い当てた彼女の聡明さに驚いたのだ。

 

血液感染(ブラッドボーン)! あぁ、それには覚えがある。身に覚えがあるとも。血は全てを溶かしそこから全てが生まれ出でるのだから。果たして、ユニコーンの死血はどのような味がするのか。呪われても口にしたいという欲が理解できるよ。呪われるのだ。『呪われる価値がある感覚』が得られるのだろう」

 

 ひとり。

 喋り過ぎたと思ったクルックスは、灰の暗い瞳をハリーへ向けた。

 

「しかし、我欲は良くない。ユニコーンの血を徒に流したのであれば、それは敵だ。答えはこれでよいだろうか。では、俺からもう一つだけ質問を。それで? 『命を永らえさせるユニコーンの血を欲していたのは誰なのか』──推理を聞かせてはもらえないだろうか? ハリー・ポッター」

 




【解説】
 背中に目がついているような謎挙動で銃撃を避けられてしまいました。不思議ですね。まるでコマンド入力後に避けられたようだ。
 ユニコーンの血を聖杯素材に使いたいテルミ「だってヤーナムにおいて『対魔法使いに対する攻撃力を弱める』なんて意味が無いのだから、実質ノーデメリット血晶石が手に入る可能性があるんですもの!」
ネフ(『可能性』は広がるが、つまりそれぞれの入手率も下がるということで。新しい地獄の釜の蓋が開くだけなのでは……?)
 なんだかんだと言ってネフは相談役になってしまっています。何か言う度に「あぁ、また言ってしまった……」とちょっぴり後悔するのですが。


【あとがき】
 賢者の石も、もうすこしになってきました。
 加筆頑張ります。


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秘匿に挑む者

予言
未来の出来事を予測して伝えること。
物事の順序は時に逆転する。
聞いたがゆえに全てが始まったのだ。



 予言というものに、クルックスは馴染みが無い。

 

 ヤーナムで日夜問わず求められている超次元的思索へ至る試行は、人間より遥かな高みを見ようとするものであり、人界の先を見通すことを目的としていないためであろう。

 さて、問題はいつもハリー・ポッターだ。

 彼の結論は『ユニコーン殺しの犯人は、ヴォルデモートであり、スネイプである』というものだ。ロンは身震いして「その名前を言うなよ」と声をひそめるように言った。しかし、ハリーは興奮して彼の言葉を聞き逃したらしい。暖炉の前を往ったり来たりした。

 

「スネイプは、ヴォルデモートのために石が欲しかったんだ……! ハーマイオニー、ベインが怒っているのを見ただろう? 星は、ヴォルデモートが戻ってくることも僕が死ぬことも予言していたんだ……!」

 

「予言。そんなものが存在するのか?」

 

 ハリーが語ることにクルックスは首を傾げた。

 それでも、と言葉を続けようとしたハリーを横目に、ハーマイオニーが予言について教えてくれた。

 

「予言なんて……マクゴナガル先生が魔法のなかでも『とっても不正確な分野だ』とおっしゃっていたでしょう。占いみたいなものだと思うわ」

 

「占い?」

 

 力と技術と血による成果以外に判断の重きを置かないクルックスにとって、占いとは不正確を通り越して迷信の類に思えたが、ハリーは違うようだった。ケンタウルスの証言とは違う根拠、すなわち彼にしか分からない何かによって確信しているようだ。

 確実ではないのなら、判断を惑わせる情報にしかなりえない。

 クルックスは、占いと予言について言い募るハリーとハーマイオニーの議論を終わらせた。

 

「どちらでも構わない。賢者の石を盗もうとする人物が誰であっても同じことだ。今のところ筋の通る目的が判明しただけでも収穫としてはどうか。──しかし、命を永らえる、とは。そう魅力的なものかね」

 

「そりゃ死にたい人はいないからね」

 

 ロンが、初めて真っ直ぐにクルックスを見つめた。

 クルックスも彼を正面から見た。

 

「魔法界では、人が人のまま死んでいくことを幸いと思わないのか?」

 

「は?」

 

「賢者の石を作ったことは偉業であると讃えられているのだろう。知育菓子に資料として載るほどだ。だが、それは命に対する冒涜とは考えられていないのか?」

 

 どうしてクルックスが咎めるのか分からない、という顔が魔法界・非魔法族の価値観を語っていた。

 

「むぅ。度し難いが……まだまだ理解が足りないようだ」

 

「……あなた、賢者の石が欲しいの?」

 

 ハーマイオニーの言葉に、クルックスは仄かな怒りを込めて答えた。

 

「俺は永遠の命なんぞ興味は無い。人は、人のまま生き、そして死ぬべきなのだ。──あぁ、夜が明ける」

 

 クルックスの右目を差した白い朝陽が、やがて談話室に満ちた。

 それからの議論は起きず、三人はそれぞれベッドへ向かった。

 クルックスだけは、窓辺で空を見上げた。空には、未だ白い月が登っていた。血の抜けた骸のような色のようだと思った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 学校の暗部でどのような企みが蠢いていようと週が明ければ、いよいよ試験シーズンの到来だった。

 クルックスの試験対策は前日までは教科書を眺めることだった。

 談話室ではハーマイオニーが魔法史の年号と事件について覚えた内容を繰り返すので、いちいち試験の不安を刺激されるのだろう、暗い顔をした生徒も多い。

 クルックスは「まあ、何とかなるだろう」という心地で当日までやって来た。実際、知識の詰め込みは最低限されていると思う。実技についても発動しなかった魔法は無いので問題は無いと思われた。

 

 そんなことよりも。

 クルックスの勉強時間の大半を占めているのはネフライトの寄こす、父たる狩人宛て文書の添削だった。クルックスが、うっかり彼に漏らした「お父様はネフの資料を熱心に見ているようだったぞ」との言葉は、彼を大いに喜ばせてしまった。

 

 ──ハハハハ! さすがお父様、分かっていらっしゃる。分かっていらっしゃる。真に忠実な者とは誰か、分かってらっしゃるのだ。

 

 つまり、俺か。クルックスは照れた。

 さて。

 これまでネフが送り続けていた資料について、返事どころか何の反応も無かったらしい。片っ端から暖炉の焚き付けになっていたらどうしよう、と密かに気に病んでいたネフライトだが、クルックスの失言でめでたく全快した。そのため、クルックスの勉強時間はネフライトの作成した資料の読み込みに割かれることになった。

 狩人の名誉のため思考を逸らせるが、彼は無視をしていた訳ではなく「ネフが帰ってきたら、まとめて聞けばいいだろう」と思っていたのだろう。

 

(ネフも気に病むくらいなら、クリスマス休暇に夢に戻れば良かっただろうに)

 

 ネフライトは、探求のためならば自他を省みない癖に、妙に臆病というか、控えめというか。肝心なところで引き下がってしまう、女々しい性質があるようだった。

 試験の待ち時間に杖を弄んでいると、フリットフィック先生に呼ばれた。

 呪文学の試験の内容は、パイナップルをテーブルの端から端までタップダンスさせるというものだった。

 

 クルックスは、タップダンスというものを見たことも聞いたことも無かったので、そのことを質問してしまい余計な時間がかかってしまったうえに、結局、タップダンスを理解できなかったのでパイナップルは兎が飛び跳ねるようにピョンピョンと上下してテーブルの端から端まで移動させた。

 

 次の実技は、マクゴナガル先生の変身術だった。ねずみを「嗅ぎ煙草入れ」に変えることで、美しい箱であればあるほど点数が高く、変身が未熟で髭の生えた箱は減点されるという説明を受けた。

 クルックスの美醜の判定とは、清潔か不潔かという未熟なものであった。けれど、ここで問われている『美しさ』とは、そういう概念ではないことくらい彼にも分かる。

 すこし悩んだ末に、クルックスは聖歌隊のユリエやコッペリアのことを思い浮かべた。彼らが被る『目隠し帽子』、その目を覆う部分は銀製で精緻な装飾が施されている。その文様を思い浮かべながら、杖を振った。ねずみは「きぅ」と小さく鳴いた後で銀色の装飾が施された嗅ぎ煙草入れに変化した。

 それを見て「よろしい」とマクゴナガル先生は言い、羊皮紙に何やら書きつけると退室を促した。

 

 その次の実技は、魔法薬学だ。

 授業で習った「忘れ薬」は入れる手順を少々前後した気がする。けれど、最後は何とか液体状のものができたので問題無いだろう。スネイプ先生は「フン」と鼻を鳴らしただけだったが。

 

 最後の座学は、魔法史だ。これが最も簡単だった。教科書に載っていた内容をさらさらと書きつけて終了した。

 

 初めての試験の感想は「こんなものか」という程度のものだった。

 クルックスは、答案を書き終える。しばらくしてゴーストのビンズ先生が、試験の終了を告げる。彼は欠伸をして、教室を出た。

 

「くぁあ……」

 

 天気が良い。校庭は、さんさんと陽が差していた。

 ベンチに座って、日光浴をしたい。どこか空いているところは、無いだろうか。

 頭を巡らせてみるとすぐに見つけた。

 誰も近寄らないベンチに、ただ一人座って読書している生徒がいる。それは、メンシスの檻を被ったネフライトだった。

 

「珍しいな。図書館にいるとばかり」

 

「失礼なことを言うものではないよ──と思ったが、長居し過ぎた私の行動規範にも問題があるかもしれない。なに、私とて陽に当たりたい時はある」

 

 読書は物のついでだったらしく、ページをめくる動作は鈍い。終いには栞を本に挟んで閉じてしまった。

 メンシスの檻の中で、ネフライトはクルックスを見上げた。そして、クルックスが座れるようにベンチの片側に寄った。

 

「すまんな。それで、本当に気分の問題なのか?」

 

「ああ、気分の問題だけだ。試験が終われば学期末まで、あと二か月。私はヤハグルに戻る。そうなれば自由に陽を浴びることもできない。今のうちに日光浴も良いだろうとね」

 

 ネフライトがヤーナムで居住しているのは、隠れ街と呼ばれるヤハグルだ。谷合にあるヤーナムでもさらに谷底、地下に等しい場所に存在する。そこで学派に所属する信徒の身の回りの世話をしているネフライトは、毎日を忙しく過ごしている──とは彼の申告した生活だ。実態をクルックスは知らない。

 

「そういえば、よくメンシス学派から出てこられたな。どうやって誤魔化したんだ?」

 

 半年とは、ヤーナムに生きる人間の尺度において決して短くない。学派の中で過ごしていたネフライトが、どのように周囲を説得したのか気になった。ただ、同じことはテルミにも言える。孤児院の集団生活でどのような抜け道を使っているのか。実に気になる。

 ネフライトは、やや眠たげにメンシスの檻の中で瞬きをした。

 

「クルックスがいつか話した内容とそう変わらない。メンシス学派の第二席に、ダミアーンという古狩人がいらっしゃる。ミコラーシュ主宰の、広義上のご友人でもある方なのだが……その方に話してご理解をいただいたよ。かつては夢を見ていた狩人で理解の裾野は広い。私が街を出るにあたり、口添えをしてくださった」

 

「へえ。そんな人が……」

 

「我々の思っているよりも、かつて夢を見ていた狩人はいるのだろう。もっとも、啓蒙を得る機会が少ないか、失ってしまったか。現在のヤーナムの異常に気付いている狩人は少ないだろう。気付くとすれば──……ふむ」

 

「何だ?」

 

 考え込むように言葉を切ったネフライトを促す。

 彼は、言葉を選ぶようにゆっくり話し始めた。

 

「私達の存在だ。お父様と我々は本来の時間軸、つまり原点にある過去の『ヤーナムの一年』に存在しない者だ。ある程度の啓蒙を保持する人は、私達との接触で異常ひいては世界の真実を認識するようになるかもしれない。前例があるだろう。既に繰り返しから逸脱している、ビルゲンワースのコッペリウスとか」

 

「『コッペリア様』だ。違えるな。──しかし、その推理はお父様があちこちに出没している時点で破綻していないか? だって二〇〇年以上だぞ。毎日一分話したとして一年で三六五分、二〇〇年で七万三千分だ」

 

「時空が激しく歪んでいるヤーナムにおいて時間の影響とは、我々の想像より小さいような気がしている。もっとも私の所感でしかないが。時間の問題を差し引いても、会話の内容を考慮しなければならないし、もっと別の基準があるのかもしれないからな。それこそ、個人の感性と啓蒙的知識の保持する量とか。こればかりは比較が難しいものだ。だが、お父様は私達に人と交流するように推奨しているのだから、結局のところ、気付いても気付かなくとも大した問題ではないとお考えなのだろう……」

 

「もし、誰かが気付いたらどうされるのだろうか。お父様は」

 

 クルックスの疑問に、ネフライトは欠伸を噛み殺して答えた。

 

「どうもしないのではないかな。学派間の闘争にも干渉なさらない。誰が死んでも一年後には元通りだ」

 

「そうだが、そうだからこそ、目立つだろう。昨年までと違う行動をする者がいたら、お父様には真っ先に分かるに違いない。だとすれば秩序を乱す者を処断されるのだろうか……」

 

 そんなわけがない。

 ネフライトは、すっぱりと切り捨てるように否定した。

 

「お父様が、静かなヤーナムを望むのならば、そもそも最初から人間が存在する揺籃の街など呼び起こさない。気まぐれで作ったとして、夢から引き籠って出てこない。人形ちゃんがいる狩人の夢。あそこがお父様にとって一番安全で安寧の地であるのだから」

 

「じゃあ、どうすると。事情を話しに行くとか?」

 

「そうだろうな。相手が獣ではなく、血に酔っている様子もなければ『狩人』のお父様が、誰かと争う理由が無いだろう?」

 

「そうかぁ……そうかなぁ……そうだといいがなぁ……」

 

 クルックスの見るところ。父たる狩人は、日常生活においては穏当な人物だ。しかし、敵には容赦がない。言葉を尽くして分かり合えないと分かれば、彼の銃は躊躇いなく火を噴き、手指は内臓を引きずり出すことだろう。それが知人ではないことをクルックスは願わずにはいられないのだ。

 

「そう気落ちするな。コッペリ、アとお父様は仲が良いだろう?」

 

「『コッペリア様』だ。次に間違えたら肋骨の順番を入れ替えるぞ。──でも、コッペリア様は変わっていらっしゃる御方だから。神秘に見えなければ生きている価値が無いのだとおっしゃる。……そんなことはないのに。ただ、生きているだけで、それだけで心安らぐ人はいるというのに」

 

「私は、よく分からないな。……悪く言っているワケではない。聖歌隊にしては素直な人物であるとは思うが、どこを見ているか分からない、とでも言うか。いえ、ビルゲンワースの聖歌隊の二人に言えることだが」

 

「だが、お父様は試行の指針を必ずお二人に話している。頼りにしているという点で疑いようのないことだろう」

 

「そう思いたいところだが……」

 

「何だ。物が挟まった物言いをして」

 

 ネフライトは「うーん」と鼻を鳴らし、檻を掻いた。

 

「私は常々なぜあの二人なのだろうか、と考えているんだ」

 

 ヤーナムが揺籃の街になる以前、狩人が獣狩りの夜を終わらせた日。

 何らかの条件を満たした狩人は、ヤーナムの現在の異常すなわち『二〇〇年以上も同じ一年が繰り返されている』という状況を知っている。

 ユリエはその条件を満たし、コッペリアも後天的──言葉の便宜上、人為的に──瞳を得ることで他の人間とは異なる視座を得た。けれど、同じ条件の狩人はいる。例えば、旧市街のデュラだ。

 

「旧市街の灰狼は先達だ。それにセラフィの女王様だっている。なぜだろうな。……とはいえ、お父様のことだ。こうして気分の問題なのかもしれないな。ビルゲンワースは、景観もまぁまぁ良い」

 

 ネフライトは「くあ」と口を開けて欠伸をする。

 そして、ベンチの手すりに身を預けた。

 

「おい、寝るのか?」

 

「すこし休むだけだ。……やかましいのが来そうだからな」

 

 何だと?

 クルックスは、辺りを見回した。

 やや興奮した顔でこちらに全力疾走してくる三人組がいた。

 ハリーは、本を開いたまま寝たふりをするネフライトをチラリと見たが、彼について何も言わなかった。

 

「僕ら、ダンブルドアのところに行くんだ」

 

「言いたいことはいろいろあるが、まずは理由を聞こう。なぜ?」

 

「──フラッフィーの秘密が漏れていたの」

 

 ハーマイオニーは『これだけが重要なのだ』という真剣な顔で言ったが、クルックスには単語の意味が分からなかった。

 

「フラッフィー、とは?」

 

「犬さ、ほら、あの」

 

「あぁ。獣に名前があったのか。不思議な趣味だな」

 

 クルックスは、ふと聖杯の中にいる番犬を思い出した。彼らにも名前があったのだろうか。

 至極どうでもいい思考を断ち切る。

 

「なるほど。警備上の穴は、すでに穿たれていたと」

 

 クルックスの隣で、眠ったフリをしているネフライトが息を詰まらせて身震いした。失笑したのだろう。

 

「彼は、ぐっすり眠っている。試験で疲れたのだろう。幸いなことだ。──さて。それでも、まだ石は盗まれた気配が無い。奪っているのであればユニコーン殺しなどするハズが無いのだから。それで、ハグリッドの失態を告げ口しに行くのか。石のためならばやむを得ないと俺は考えるが」

 

「危険を知らせるだけだよ。ハグリッドのことは言わない。だって友達だもの」

 

 今度こそ、ネフライトが堪えきれなかった失笑で肩を震わせた。

 四人は、彼を見た。

 クルックスは、小さく咳払いをした。

 

「檻の中で楽しい夢を見ているようだ。試験の疲れもあるらしい。まったく幸いなことだな。──さて、俺も付き合おう。官憲の真似事ができる機会など滅多にないからな」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 結果として。

 ダンブルドア校長への告白は、成功しなかった。

 

「留守? お留守? こんな時に!?」

 

 怒り。嘆き。

 混然となった感情でハリーは歩き続けていた。

 校長へ取次ぎをお願いするためにマクゴナガル先生と話したハリー達に待ち受けていたのは、ダンブルドアが魔法省から緊急の用事で外出中であるという知らせであった。

 この知らせは、彼らを動揺させるには十分のようだった。

 

(俺が盗人ならば今日、盗むな)

 

 クルックスは、青い秘薬の在庫と夜明けまでの時間について算段を立てていた。

 出し惜しみをする必要が無いのならば、今日で輸血液も水銀弾も秘薬も使い込むだろう。準備が必要だ。

 

「では」

 

「ハント、どこに行くんだい」

 

 部屋に戻ろうと向きを変えたところでロンに訊ねられた。

 

「秘匿は今日、破られる。成果を横取り、いや、総取りするならば、今日動くべきだろうと思ってな。俺は石など要らないが……」

 

「夜に出歩いたら、罰則よ。……わ、私が言えたことではないかもしれないけど」

 

 クルックスは、ハーマイオニーの目を見つめた。

 しかし、色も判別し終わらないうちに目を逸らされてしまった。

 罰則がグリフィンドールの秀才に与えた心の傷は大きいようだ。

 

「俺には、罰則の重さが分からない。理解していたとしても俺は行くだろう。我々に与えられた時間は短い。人は、そうすべき時にすべきことを成すべきなのだから」

 

 では。

 短く別れの挨拶をするとクルックスは、一足先にグリフィンドール寮へ戻った。

 

 衣服を収納している箱を開ける。

 インバネスコートを外した狩人の装束を着こみ、鏡代わりの窓の前でトリコーンを被った。そこでは父たる狩人に似た、銀の瞳が鋭く見つめ返していた。

 思えば、入学式の最後に秘匿を破ろうと思い立ってから、ずいぶん時間がかかってしまった。だが今日、条件が揃った。

 クルックスは目深に被ると談話室を出た。

 

 四階の廊下へ赴くのは、賢者の石奪取のためではなかった。

 

(──俺が、それを見たいのだ)

 

 父たる狩人がそうであるように、彼もまた探求に命を賭した。

 彼らは、あるいは否定するだろうか。

 その姿勢は、正しくビルゲンワースの末裔であった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 四階の廊下に辿り着くのは、容易である。

 しかし、フラッフィーとかいう三頭犬を殺すことができず、黙らせる方法も知らないクルックスは、侵入者の先回りするワケにはいかなかった。とはいえ、扉の前の前の廊下で突っ立っているワケにもいかない。父たる狩人のように青い秘薬をがぶ飲みしつつケロリとしていられるほど、クルックスの胃は頑丈ではなかったからだ。

 

 廊下の先で夕食へ向かう生徒達の気配を感じる。

 クルックスは、各教室の奥にある職員室のそばで気配を探り、部屋に人がいるかどうかを確認していた。マクゴナガル先生など何名かの先生は、夕食に向かう姿を確認している。犯人が誰であれ、アリバイ作りのために夕食に出席するのだろう。すると犯行時間は、夕食後が最適だ。うかうかしていれば、せっかく遠ざけたダンブルドア校長が戻って来てしまう。夕食後、それも直後に動く人が怪しい。

 

 待ち時間ができてしまった。

 あと十分もすれば、夕食の時間は終わるだろう。

 クルックスは職員室の訪問を止めて、四階の廊下が見える対岸の三階廊下へ向かい始めた。

 コツコツと階段を昇りながら考える。

 

(犯人に興味は無いが、誰だろうか)

 

 答えは、あと数十分もすれば分かることだったが、空白の時間が思いがけない思考をはしらせた。

 ハリーは、スネイプ先生だという。グリフィンドールに手厳しい──というか、八つ当たりの風潮さえある──いかにも怪しげな人物だが、果たしてそれだけで疑ってよいものだろうか。クルックスは、あまりに彼を知らない。

 

(お父様も『いかにも怪しげな人物には、よく気を付けろ』とおっしゃっていたし……)

 

 クルックスは、知らない。

 その忠告は、お父様がいかにも怪しげな風貌の狩人狩り──アイリーンに対し、初対面で斬りかかってしまったことから得たものであるとは。

 彼は、青い秘薬を飲み干しながら考える。

 

(禁域の森に住んでいる『窶し』っぽい男も、なぜかまぁまぁ物知りだからな。けれど、ああいう人こそが、人は見かけによらないという一例なのだろう……)

 

 足音が聞こえる。

 クルックスは、階下から四階の廊下を見上げた。

 

(誰だ)

 

 その姿は、体の線が分からない黒いローブに覆われている。体の動きから判別することは不可能だった。けれど、想定の範囲内ではある。

 彼の武器は、泥棒に振るわれるものではない。

 しかし。

 

(人間が不死を求めることは、頭に虫でも湧いてなければ浮かんでこないだろうよ)

 

 まして生き物を、人間を、害してまで求めることは、病気である。

 それは『普通』ではない。

 普通でなければ、異常である。

 ゆえに、病巣たる血には連盟員だけが見る『虫』がいるかもしれない。

 

 魔法使いの内に虫がいる。それは、悍ましく甘美な想像だった。

 

(ヤーナムが他方に比べて特別に淀んでいると俺は信じたくないのだ。それは、お父様が、ユリエ様が、コッペリア様が、彼らより汚れているという証明になってしまう)

 

 ヤーナムに積み上げられた呪いは、上位者に至った狩人により──ビルゲンワースの学徒達は──祝福に変じたと言う。それでも、獣はとめどなく、虫は生じ、夜は終わらない。

 

「きっと、いえ、必ず! あの薄汚れて濁った血には、虫がいるのだ! 連盟の長は正しい! あぁ、人は、世界は、淀まずにはいられないのだから!」

 

 彼は、父にそう言ってしまいたい。

 ──同じ神秘を宿す人々が、ヤーナムに住まう人々よりも血が綺麗であると誰が証明できるだろう。

 今日で全てが解決できるとは思えない。

 それでも、答えの一片があることを期待してクルックスは、走り始めた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夕食に、クルックス・ハントの姿がない。

 彼は、あの謎めいた囁きの通り、『すべきことを成す』ために行ったのだろう。

 あの後、作戦を話し合う三人にとってスネイプと出くわしたことは、これまでの人生の中で最悪の思い出の一つとなった。

 

 ハリーは、今思い出しても心臓がバクバクと音を立てていることを感じていた。生徒の席に座っているのに、教員テーブルに座る誰かに聞こえるのではないか。心配するほどに胸の奥で震えていた。夕食の味は、もちろん分からなかった。

 食事を終える。大量に減点されてからハリー達、三人を好んで構いたがる学友はいなかった。

 そんな彼らが足を止めたのは「ポッター」と知らない声に呼び止められたからだ。

 

 頭に檻を被った同じ一年生。ネフライト・メンシスだ。

 その珍妙な姿から、ハリーはその人物の名前を知っていたが、まさか話しかけられるとは思わず、他に誰かがいるのではないかと辺りを見回した。

 だが、彼はハリーに話しかけていた。

 ニコリともしない顔。緑色の目は冷え冷えとしていた。

 

「クルックス──ハントはどこか。知っているか」

 

 たった今まで気がかりだった人について訊ねられて、ハリーは首を振った。

 

「さあ、知らない」

 

「どうして探しているんだ?」

 

 ロンがじろじろと彼を見て言った。

 六角柱の檻の中でネフライトは、目を細めた。

 

「……。彼にノートを貸している。テストが終わっただろう? だから返して欲しかったのだが……。貴公らが知らないならば仕方が無い。もし、会ったら『私が会いたがっていた』と伝えてほしい」

 

 伝えることを約束すると彼は去って行った。

 ハリーは、ハーマイオニーと目が合った。

 

「……ハントが、本当にノートを借りていたと思う?」

 

 ハーマイオニーもロンも『思わない』という顔で首を横に振った。

 

「探りを入れられたんじゃないかしら」

 

「探りって?」

 

 授業中の先生に対する受け答え以外は、挨拶程度の意思疎通さえ難しいと噂されるネフライトだが、例外があった。

 その例外こそ、ハーマイオニーの知る限りはハッフルパフのテルミ、そしてクルックスだった。

 

「彼は、その、クルックスの友達だから。……フラッフィーのことを話したのかも」

 

「話したって何もできやしないよ」

 

 ロンの言葉にハリーは頷いた。その通りだ。クルックスを含めて彼もフラッフィーの対処の仕方を知らないだろう。ならば近づこうとはしないはずだ。誰だって死にたくは無いのだから。──彼が『普通』であれば。

 

 談話室に戻り、三人はグリフィンドール寮生が寝室へ移動し、眠りにつくのを待った。

 やはり、クルックスは現れなかった。ひょっとして、石を盗りにきたスネイプと出くわしたのだろうか。そんなことを考えては、今すぐマントを被って駆け付けたい気分になった。

 談話室を最後に出たのは、リー・ジョーダンだった。彼が欠伸をして出ていくのを見送るとハリーは階段を駆け上がり、寝室の透明マントを回収した。

 

「ここでマントを着てみた方がいいな。三人全員隠れるかどうか確かめよう……もしも足が一本だけはみ出だして歩き回っているのをフィルチにでも見つかったら」

 

「──君達、何しているの?」

 

 部屋の隅から声が聞こえた。ネビルが、大きな肘掛け椅子の陰から現れた。

 三人は、とても驚いた顔をしてしまった。

 

「なんでもないよ、ネビル。なんでもない」

 

「また外に出るんだろ。ダメだよ。またグリフィンドールの点が減らされちゃう。もっと大変なことになるんだよ」

 

「ネビル、聞くんだ。君には分からないことだけど、これは、とっても重要なことなんだ」

 

 事情なら、後で話すから。

 ハリーの言葉を遮り、ネビルは道を譲ろうとしなかった。

 

「い、行かせるもんか。ぼ、僕、君たちと戦うよ!」

 

「そこをどけよ。バカな真似はよせ──」

 

 ロンがムキになって言葉を荒げる。

 その隙に、ハーマイオニーが杖を抜いた。

 

「ネビル、ごめんなさい。本当はこんなことしたくないけど……ペトリフィカス トタルス、石になれ!」

 

 その呪文をハリーは知らなかったが、劇的であることが分かった。

 ネビルの両腕が体の脇にピチッと張り付き、両足がパチッと閉じた。体が固くなり、その場でバッタリと後ろに倒れた。

 その様子をロンが、ショックを受けた顔をして見ていた。

 

「君って時々怖いって知ってた? すごいよ、でも怖い」

 

 じゃあ、他に方法があったかしら。

 ハーマイオニーが、今にも飛び出しそうな言葉を伏せた。

 

「ネビル、ほんとうにごめん。あとでちゃんと説明するから。──さあ、行こう」

 

 三人はマントを被った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 四階の廊下に辿り着くまでに、ピーブスと出会ったがハリーが演じる『血みどろ男爵』の声に驚き、そのポルターガイストは姿を消した。

 あとはフィルチやミセス・ノリスと出くわさなければいい。

 祈りながら進む先で、彼らは思いもよらない人物に遭遇することになった。

 

 転落防止のために作られたであろう廊下の柵に腰かけているのは、ネフライト・メンシスだった。

 数時間前に別れた時のように奇妙な檻を被っている。すこし違うのは、彼が身にまとっているローブがホグワーツの制服ではないという点だろう。

 学徒の正装に身を包む彼は、ある時、うつむき気味だった頭をゆっくりと上げた。

 

「誰か来るぞ」

 

 三人は透明マントをしっかりと握りしめて壁際に寄った。

 

「──ククク、夜歩きとはね。好奇心とは、やはり収まらぬものであるらしい」

 

 闇の中から、ひとり分の足音が聞こえる。やがて窓から差し込む月光が横顔を照らした。

 トリコーンを被り古風なマントを肩に負う、歳の割に背が高い女子生徒だった。

 時代遅れの姿は、ハリーにとって演劇の役者のようにも見えた。

 深紅の皮手袋が、わずかにトリコーンをずらし彼女の琥珀色の瞳を露わにした。それは猫のように細められて──楽しげに見えた。

 

「スリザリンのセラフィ・ナイトだわ」

 

 透明マントのなかでハーマイオニーが、ほとんど声を出さずに言った。

 どうしてここに。

 三人の爆発しそうな疑問は、誰も答えてくれなかった。

 手すりに座っていたネフライトが、ゆっくりと檻を被ったままの頭を傾けた。

 

「考えることは同じらしいな。我々は、遺憾の意を示すべきだろうか?」

 

 頭を動かしたのは、セラフィを見つめるためではなかった。

 ネフライトは懐から取り出した、歪なナイフを月光に照らす。

 宙に投げては落ちてきたところを掴まえる。物騒な手慰みだった。

 

「いいや、その必要は無いだろう。狩人の勘は誰一人鈍っていないと誇るべきだ。何分前に来たのか」

 

「三十分前だ。フィルチが一度、ここを通った」

 

「ほう」

 

「あと二時間は来ない。薬はいい。無駄にすることはない」

 

 ドン、と低い音がした。

 重く細長い金属の何かが床を突いた音だ。ハリーは見る。それは、鞘付きの剣であった。

 セラフィは、剣の柄を握り、辺りを見回しながら憮然と言った。

 

「コソコソできない性分の僕は、この学校にとことん向かないな。僕は夜警だ。夜歩きが仕事ゆえ咎められても困惑ばかりだというのに。しかし、今日の夜は短い。無駄口はこのくらいにしておこう。──テルミはどこだ?」

 

「知らないな。私が来た時には誰もいなかった。てっきり貴公と一緒だと……そうでは、ないのだな」

 

 ハリーは、ネフライトと目が合ったような気がした。気のせいだろうか。夕食直後に話した彼の目は、どこか遠くに焦点が結ばれている不思議な目だったが、今は確かにハリーの顔を見たような気がしたのだ。

 やがて檻の中で、彼は視線をセラフィに向けた。

 

「僕はテルミに『秘匿破りに失敗したら後を頼む』と言われた。今夜、ここから出てきた者を捕縛する」

 

「何を見返りに受けたのか聞いてもよいかな?」

 

「特別な輸血液をくれるらしい」

 

「……そう」

 

 ネフライトが、不機嫌そうに唸った。

 その理由は何か。彼女は訊ねた。

 

「たとえセラフィがしくじってもネチネチと嫌みを言われないのだろうなと思ったのだ」

 

「おや。貴公、何やらしくじったのか?」

 

「ユニコーンの血の採取を依頼されていたが、横やり──矢で邪魔されたので撤退した。私は挽回のために森中を走り回る羽目になった。鬣で何とか及第点だそうだ」

 

「テルミらしいな。では、貴公が今ここにいるのはクルックスからの依頼か?」

 

「私は、ただの興味だよ。しかし、こんな情勢であれば私も備えよう」

 

「では、加勢に?」

 

「いいえ。貴公と同じく、ここに控えている。一般論として戦力の逐次投入は愚策だが、狩人であれば乱戦は避けるべきだ。クルックスとテルミが先行しているのならば、なおのこと。あのバカげた回転ノコギリで削られるのも聖剣の錆にされるのも愉快なことでは無い」

 

「賢明な判断だ。では、狩りの成就を祈っておこうか」

 

 ネフライトはナイフを掴むと手すりから降りた。

 そうして、セラフィとネフライトは、扉から離れて、廊下を歩いて別れた。

 

「今だ」

 

 二人の注意が扉から途切れた瞬間に三人は息を合せて禁じられた扉を開けた。

 それが、すっかりパタンと閉じてしまった後で。

 セラフィが首だけで振り返った。

 

「──おや。ネフ、気付いていたのか?」

 

 長い廊下の先に立つネフライトは、腕組みをして言った。

 

「聖歌隊のロスマリヌスは、よく匂うからな」

 

 ──僕は、気付かなかったな。

 セラフィの言葉は独り言のように聞き流されて終わった。




【解説】
 ヤーナムに予言は予言として存在しませんが、先まで続く呪いを受けたことを一種の予言として見ることもできるかもしれません。
 ハリポタ世界の予言は、とても確度が高いものとして描かれています。ただし、その役割を受ける者は複数いる場合もあるようですね(ハリーとネビルの例)。確度が高いとは書きましたが、実際、確度を高めるためにダンブルドア校長はハリーを導いているので、予言の信憑性はどの程度のものなのか、これは大いに考察されるべき内容ではあるのでしょう。「闇の帝王が滅びる」という予言がなされたとしても、不老不死ではない限りいつか滅びるので、的中率100%となってしまう。だからこそヴォルデモートは支配と不老不死を求めたのですね(ろくろ回し)
 筆者が興味深いのは、予言に規定されていない第三者なりの介入があった場合はどのようになるかという問題ですね。二次創作でなくとも最終決戦でロンやハーマイオニーが飛び込んできたらどうなっていたのか。たとえばアバダをゼロ距離で撃っていたとしても闇の帝王にスパアマがつくことになっていたのでしょうか。Fateにおける人理定礎的考え方のように「それでもハリー・ポッターが闇の帝王を打ち倒した」という処理がされるのか。つまりハリーは石ころで闇の帝王を打ち倒すことができた可能性があります。次の周回では頑張ってほしいですね。杖縛り
 とまあ。これほど極端ではないにしろ、大きく既定の路線を外れると(外そうとすると)何が起こるのか。実に、興味深いところです。
 その博打をしなかったのがダンブルドア校長ですね。おかげさまでハリーは英雄ですが…………誰もが人の幸せというものについて、よく考えるべき事態であることは免れないでしょう。

 ヤーナムの民の血は汚れているのか問題
「こちとら古式ゆかしき聖体拝領だぞ」と医療教会は怒るかもしれませんが、実際、多くの人々が獣性を抑えきれず右回りに変態しているので──という理由もありますが「それってそもそも人間の血じゃないですよね?」と言われるとグゥの音も出ない大問題があります。しかし、多くの病人にとって(恐らくは、一定時間)生命力を与える点で、たしかに救いとなる面もあったのでしょう。ローランがそうであったようにヤーナムにおいても破滅の呼び水ともなりましたが、今回は、さて、どうなるのか。狩人がくしゃみをしそうな話題です。
 ネフライト曰く「ヤーナムの内部に起きている抗争などに狩人は介入していない」が、接触はしているのでいつかは誰かが気付いてしまいそうな状況ではあります。ひょっとして誰かもう気付いているのかもしれませんね。探求者にとって自分の寿命ほど強大な敵はいないですから『たかが、一年が二〇〇年以上続いている程度』の問題など放置している、とか。誰が最初に気付くのでしょうね。とても興味深いです。


【あとがき】
 ヤーナムへの貢献とユリエやコッペリアの血の清潔の証明と淀みを根絶する連盟の理念がぐちゃぐちゃになりがちなクルックスは、頑張り屋さんです。これからも頑張ってほしいですね。

【あとがきのおまけ】
──あんた最強の血晶石に、最高の火力に興味があるんだろう?
──だったらひとつ、忠告だ
──全ての血晶マラソンを再走したまえ
──その先にこそ、(ほぼ)ノーマイオプ血晶石が隠されている…

 ところで、書いておきながら疑問を思いついたのですが、やはり本物の地底人先輩らはテルミ案の魔法界産新素材聖杯が儀式として成立した場合、血晶石マラソンを再走するんですよね? ヒヒッ……

【あとがきのおまけ2】
──「筆者」の気付きは、かつて突然に訪れたという
──すなわち、賢者の石編が終わりそうということは
──そろそろ投稿分ストックが尽きるのではないか?



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騙し、陥れるもの。
かの狩人は後を歩く者に言った。
……罠に気を付けろ。踏むのは俺だが、当たるのは君だ……


 ハリーは先頭に立ち、禁じられた扉を開いた。

 誰もが先ほど見た二人のことを気がかりにしていたが、まずは眼前の光景に目を奪われた。

 フラッフィー、三頭犬の部屋は魔法のかかったハープの音が空間を満たしていた。三人の速い呼吸とは真逆に、フラッフィーは深く大きないびきを立てながら眠っていた。

 鼻の穴が大きく開き、生臭い息が吹きかけられると三人が被っていた透明マントが、吹き飛ばされてしまった。

 

(もう、スネイプは地下に行ったんだ!)

 

 ハリーは、犬の足下に扉があることを確認した。そして、二人と顔を見合わせて頷いた。

 三人で扉の上から足を除ける。そして、仕掛け扉の引き手を引っ張った。

 

「な、何が見える?」

 

 怖々と穴を覗くハーマイオニーが訊ねた。

 ハリーも同じように覗いていたが、何も見えなかった。

 

「何も。真っ暗だ。階段も無いみたいだから、落ちていくしかない。……ロン、ハーマイオニー、僕の身に何か起きたら、ついてこないでくれよ。まっすぐ、ふくろう小屋に行って、ダンブルドア宛にヘドウィグを送ってくれ。いいかい?」

 

「ああ、分かった」

 

「ハリー、気をつけて」

 

 二人がしっかりと頷くのを見てハリーは飛び降りた。

 気の遠くなるような長い時間、落ちた気がする。しかし、衝撃は一瞬後にやって来た。

 ドシン。奇妙な鈍い音を立て、柔らかい物の上に着地した。

 焦げた匂いがスンと鼻に刺さる。火があるのだろうか。ドキリと胸を押さえたハリーだったが、目に見える範囲は暗闇だった。

 

「オーケーだ。大丈夫だよ!」

 

 続いてロンとハーマイオニーが落ちてきた。

 

「あぁ、死ぬかと思った。うわあ、何だコレ……なんかグネグネしてる……」

 

「これって『悪魔の罠』だわ!」

 

 ハーマイオニーが、ヒステリック気味の高い声を上げたのでハリーとロンは驚いて、立ち上がった。

 暗闇に慣れてきた目が、ようやく身の回りのものを映し始めた。大小さまざまな太さの植物のツルの上にいるらしかった。

 

「ふたりとも暴れないで! ゆっくり、そっと、動いて」

 

 そしてジトッと湿った壁のほうへ移動した。

 三人はしがみつくように壁に寄りかかった。

 

「あ、あれは何?」

 

「授業で習ったでしょ。悪魔の罠って植物で、動くものに絡みついて殺すのよ」

 

「でも、そうならなかったのはなぜ?」

 

 ハーマイオニーも不思議そうにしていたが、やがて空間を満たす焦げ臭さに気付いた。

 

「先に来た誰かが火を使ったみたい。だから、罠も弱っていたんだわ」

 

 ハリーは、落ちてきた場所を見上げた。

 三頭犬の部屋の仕掛け扉の入り口は、切手サイズになっていた。

 

「行こう。こっちだ」

 

 奥へ続く石の一本道へ三人は進む。

 進むにつれて、羽音が聞こえ出した。ハーマイオニーが「何かしら」と音の正体を探る。

 

「鳥って感じではない、と、思うけど……」

 

「鈴みたいな音が聞こえないか? チリン、チリンって」

 

 三人は、できるだけ足音を立てずに、そして慎重に廊下を進んだ。

 通路の出口に出た。目の前に眩い部屋が広がった。宝石のようにキラキラと輝く無数の小鳥が部屋いっぱいに飛び回っている。

 

「見て!」

 

 ロンが真っ先に声を上げた。

 部屋の向こう側、分厚そうな木の扉の前に誰かが立っている。

 それは、クルックス・ハントだった。

 

「……む。貴公ら」

 

 鳥の羽を模した特徴的な帽子、ロングコートを着込んだクルックスは扉を壊そうか思案していたようだ。

 

「ハント!」

 

「待て、近付くな」

 

 駆け寄ろうとした三人に対し、クルックスが向けたのは左手に握る無骨な長銃だった。

 

「な、なに?」

 

「安心しろ。傷つける心算は無い。俺はな。──そこにいる四人目は誰だ?」

 

 目深に被り込んだトリコーンから、決して淀まない鋭い目が覗いた。

 

「四人目? 僕らは三人できたけど」

 

「足音は四人分だった。あのマントで隠れているんだろう?」

 

 ロンは「頭がおかしいんじゃないか」と呟く。

 ハリーも今回ばかりは同意見だ。

 寮を出てからここに至るまで三人は三人だけで行動してきた。マントも三頭犬の部屋に落としてしまった。四人目などいるはずがなかった。

 

 鋭い眼光で三人と虚空を睨みつけるクルックスは、今にも引き金を引きかねない危うさを持っていた。

 

「聞こえているぞ、ウィーズリー。俺に対して限らずだが、あまり礼を欠くことを言うべきではない。そもそも俺はヤーナムのなかで指折りの『まともな』人間で、いや、今はそんなことはどうでもいい。──姿を現せ、三秒以内に現れなければ月の香りの狩人の敵対者として、俺が貴公を狩る」

 

 獲物を探していた銃口が、ある時、ピタリと動きを止めた。

 その直後のことだ。

 控えめな、けれど大きな笑い声が聞こえた。

 

「クッフフフ、お呼びになって、こんばんは! 佳い夜ね。クルックス」

 

 何も無いと思えた空間から現れたのは、ハッフルパフのテルミ・コーラス=Bだった。

 見慣れない、真っ黒な上下のツーピースに身を包む彼女は、一度だけ中折れ帽子を手にとって挨拶した。

 

「君、どこから」

 

「ずっとあなた達の後ろをついてきたの。ええ、ええ! とっても楽しかったわ!」

 

 テルミは、ウィンプルに収めきれなかった金色の美しい髪を揺らして笑っている。

 長閑な日差しの下でこそ相応しい笑みだったが、しかし、ここはホグワーツの地下数キロ近い暗渠だ。

 まったく相応しからぬ笑みに、ハリーは初めて彼女に底知れない恐さを感じた。

 

「テルミ? ……テルミか」

 

 銃を下ろしたクルックスは、素っ気なく目を逸らした。

 

「なんでちょっと残念そうなの」

 

「え。いいや、そんなことはない。ただ、俺は、てっきりネフかと思ってな。まぁ、どちらでもいい。扉を突破するために壊そうと思っていたところだ。手伝え…………と言いたいところだが、そもそも何をしに来たんだ?」

 

 テルミは、てくてく歩いて大きな扉をコツコツと叩いた。

 

「ネフに頼んだ『ユニコーンの死血』が手に入らなくなってしまったのね。あの人、しくじったの。『ユニコーンの鬣』だけ土産にするには、何だか物足りないから魔法使いの『何か』……ええ。『何か』が手に入ったら、きっと嬉しいと思ったの。学校の先生を勤められる人物ならば、何にせよ、質に問題は無いと思ったの。貴公は?」

 

「秘密を暴きたくなっただけだ」

 

「素敵な理由ですね。だからほら、さっさと壊さないとね? 爆発金槌はどちらかしら?」

 

「たった今やろうとしたところに貴公らが来たんだ。急かすなよ。仕損じる……」

 

「待って、ハント。壊すのは最後の手段にしたほうがいい」

 

 ハリーの言葉にロンが頭上を飛び交う小鳥を眺めて同意した。

 

「扉に乱暴した瞬間、鳥が襲って来るんじゃないか?」

 

「分かった。やめよう」

 

 意見したロンが戸惑うほどの即断に、隣のテルミも首を傾げている。

 

「あら。やめちゃうの?」

 

「扉は固く閉じられている。だから、やめる。俺達が穴だらけになっても構わないが、彼らは違う。俺達は、できる限り彼らを守らなければならないだろう」

 

「貴公ったら真面目ね。感心します」

 

「は?」

 

 細やかな刺繍が印象的である、真っ白な手袋で口元を隠したテルミが、うっかり言葉を溢した。その後、手を振って「何でもありませんわ」と言った。

 

「扉は壊さない。だから代案を出したまえよ」

 

「できるだけ早い解決策が良いと思うわ。この人、こらえ性が無いの。困ったことにね。フフフ……」

 

 クルックスが何か言いたげに口を尖らせたが、結局、何も反論することはなかった。その代わり「早めにな」と念を押した。

 ハリーが扉に近付き、何かに気付いた。

 

「鍵穴がある。鍵があるはずだ」

 

「鳥よ。こんなところで飾りで飛んでいるはずが無いわ」

 

 ハリーの閃きは、類い希なる観察力によってもたらされた。

 

「あれだ!」

 

 銀色に輝く小鳥の正体が、鍵に羽を生やしたものだと分かった。テルミとクルックスの注文に応えたワケではなかったが、そこからは早かった。

 

「……なるほど、最年少シーカーの評価は伊達では無かったようだな」

 

 無数の似た存在のなかで異なるひとつを見つけ出す。その作業は、類い希なる集中力、そして観察力が無ければ為しえなかったことだろう。

 捕まえるための術はご丁寧なことに壁にあった。ハリーが立てかけられた箒を手に取った。

 

「クィディッチに興味が沸いた?」

 

 ハリーは飛び立つ前、クルックスにそんな声をかけた。

 

「優れた才覚を、俺は評価する。貴公の試合ならば……次は、応援に行こう」

 

「ああ。そうしてくれ」

 

 ハリーが石畳を蹴る。目指すは、古びた鍵。それは、くすんだ銀色に輝き、わずかに羽が折れていた。

 三分もしないうちに決着はついた。彼は、巧みに箒を操り、鍵を取り押さえた。

 

 鍵を捕まえた後、他の鍵鳥に襲われかけたものの何とか大きな怪我無く通過した。

 よろめきつつ飛んでいく鍵を見送り、彼らは次の部屋に進んだ。

 次は、大きなチェス盤だった。

 

「なるほど。ゲームに勝たないと進めないということね。知略が試されているのかしら。悠長な話ですこと。それで、どなたが指揮します?」

 

 テルミが、テキパキと訊ねた。

 チェスは、ハリーより、ハーマイオニーよりロンが強かった。テルミも他人に訊ねる以上、腕前はたいそうなものではないようだ。

 では、もうひとりはどうだろうか。

 

「クルックス、あなたチェスは得意?」

 

「色の違う駒で挟むとひっくり返るんだったな」

 

「ロン! 君だ! 君しかない!」

 

 ハリーは、安心した。彼は問題外だった。

 指揮はロンが取った。

 駒を取ったり取られたり、あわやハーマイオニーが敵の白駒に取られそうになっていたことは二回もあった。

 それでも、ロンが焦りを見せることは無かった。じっと考え込む目をして、指示を飛ばす。

 やがて。

 戦局は、黒に傾いた。

 

「ハリー、チェックメイトだ。頼んだよ」

 

「でも……!」

 

 次の一手で、ロンは敵のクィーンに取られる。

 そうしなければならなかった。

 確実にチェックメイトが取れる機会はここしかないと言う。

 

「スネイプに石を取られても良いのか!? この先に進むのは君なんだ!」

 

 ハリーは歯を食いしばりながらも頷いた。

 ロンがナイトを進めると予想通り敵の白いクィーンがロンの乗る黒のナイトを破壊した。

 悲鳴を上げながら場外に飛ばされるロンを見て、思わずハーマイオニーが駆け寄ろうとする。それを制して、ハリーは白いキングに触れた。

 

「チェックメイトだ」

 

 敵のキングが崩れ落ちる。

 ハリーとハーマイオニーはロンに駆け寄った。

 

「気絶しているみたい」

 

「仕方が無いけれど置いていきましょう」

 

 テルミが提案した。

 でも、と言いかけたハーマイオニーをクルックスが遮った。

 

「俺もテルミと同意見だ。この先、何があるか分からない。ポッターには君の知恵が必要だ」

 

 彼は、ロングコートを脱ぐと仰向けで転がるロンの上にかけた。

 

「……幸い、寒くは無いが、それにしても石の床は冷えるだろう。多少はマシのはずだ」

 

「ロン、必ず戻ってくるから」

 

 ハリーは、ロンの手を握って言うと立ち上がった。

 ロンがいなくなった心細さに憑りつかれないよう、ハリーは駆け足で次の扉に進んだ。




【解説】
 たぶん察しの良いハーマイオニーだと「これ、教科書で見たわ!」となったのではないかな、と思ったり思わなかったりする試練だと思います。
 チェスの光景は、クルックスは「何で駒を真っ直ぐに動かして取らないんだろうか(ポーン)」と思っていそうです。

【あとがき】
 やはり爆発金鎚! 爆発金鎚は、だいたい全てを解決する!
 かわけも~? お前も好きか~? そっか~、喰らえッ!
 古狩人パイセンだと一番は、加速赤目パイセンが好きなんですけど、二番目は爆発金鎚パイセンが好きです。でも、たまにちゃんと銃撃したら怯んでほしいなって思います。
 ギルバートさんは、わりと助言してくれるので好きですが「火炎放射器」なんて凶暴な物を渡してくるので「お、おう……」となった人も多いんじゃないかなぁ、と思います。赤い月の後、彼の家のそばに獣が出るじゃないですか。──ギルバートさん、見ててくれよな! 成長した俺の姿を!


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賢者の石

恐怖
かつて闇の帝王は、恐怖によって人々を支配した。
もっとも簡単で、原始的な手段だった。
それだけで十分だったのだ。



「あら。この匂い、わたし知っているわ」

 

「奇遇だな。俺もだ」

 

「本当に奇遇だよ。僕もだ」

 

「わ、私も……」

 

 胸にむかつく匂いにハリーは「うぇっ」と息を吐き出した。

 下水の汚水を濾して沸かした匂いを漂わせ、横たわっていたのはトロールだった。しかもただのトロールではない。ハロウィーンの夜に見たよりも更に二回り大きいトロールだった。

 

「き、気絶しているみたいね」

 

「いまこんなトロールと戦わなくてよかったよ。行こう」

 

 ハリーはトロールを避けて次の扉の取っ手に手をかけた。

 しかし、ハーマイオニーが来ない。

 振り返ると彼女が「待って」と小さな声で言った。

 

「どうしたの?」

 

 よく見れば、来た扉とこれから開ける扉を背にテルミとクルックスが立ち止まっていた。

 

「む。俺が行きたいところだったが、仕方が無い。先へ進むといい、ポッター」

 

 クルックスが肩越しに振り返った。

 彼の右手にはノコギリと鉈が合体したような歪な武器が握られていた。なぜを聞くより先に、地鳴りのようなブゥーブゥーという低い声が聞こえた。

 

「人の気配が多すぎたみたい。このトロールはもうすぐ目覚めるわ。でもね、そっちに進ませるワケにはいかないし、こっちにも進ませるワケにはいかないでしょう?」

 

 テルミが、いつの間に持っていたのだろうか──銀色に輝く剣を振りかざした。

 

「そういうことだ。コイツを黙らせたら俺も行く。ただ、無理はするな。全ての探求は命あってこそだからな」

 

 トロールがのっそりと動き出す。

 ハリーには、棍棒が床を引きずる音が聞こえていた。

 もう二度とハロウィーンの幸運は望めないことを知っているハリーは、クルックスの背中を見ていた。

 

「でも、二人でなんて無茶よ!」

 

 ハーマイオニーが悲鳴のような声を上げた。

 

「問題無い」

 

「大丈夫、大丈夫。わたし達、とっても強いから」

 

 ハリーとハーマイオニーが何とか彼らから視線を逸らした後で。

 足音だけが石の空間に大きく聞こえた。

 

「あなたは守ると言うから、てっきり彼らについていくのかと思ったのに」

 

 テルミが、ほんのすこし、驚きを帯びた声音で言う。彼女は、もうすっかりロスマリヌス入りの噴射機の調整を終えていた。

 クルックスもまた短銃へ水銀弾の装填を終えていた。

 

「『できる限り』だ。俺がそう面倒見の良い人に見えるか?」

 

「全っ然!」

 

 もそもそした動きのトロールが、テルミとクルックスを交互に見た。

 動きはとろそうだが、棍棒を握る手には確かな力が込められている。 

 

「自由意志あってこその人だ。お父様は、そうおっしゃる。ならば、これでいい。……すこし良くないな。修正する」

 

「あら!」

 

 テルミが、好奇に目を輝かせる。

 そして、クルックスがノコギリ鉈を収め、次に取り出したのが大きな鎌──『葬送の刃』であることに歓喜した。

 

「素敵! わたし、貴方のこと好きになってしまいそう!」

 

「……いちおう聞くが、なぜ?」

 

「お父様が振るう葬送の刃が好きなの! だって、あれは──わたし達を必ず朝日に導いてくれそうだもの!」

 

 テルミは、妙な確信を持っていた。

 葬送の刃と朝日。

 何ら関係の無い単語が、クルックスも不思議と重要な意味を持つように感じられた。

 だが、彼は、今考えるべき話題ではないと断じた。

 

「俺は相変わらず啓蒙が低いので何ともだ。しかし、なるほど。俺は二つ名の重要性を理解したぞ」

 

「ようやく?」

 

「今さらだったな。次回までに考えておこう。だが、今は──我らの狩りを知るがいい」

 

 戦闘の開始を合図するのは、いつだって獣狩りの短銃だった。

 真っ赤な火を噴き水銀弾──決して優れているとは言い難い血質ではあった──がトロールの肩に命中した。

 呻く小山のようなトロールに、テルミが容赦無く『ルドウイークの聖剣』を突き立てた。

 

「医療教会の名の下、穢れを拭い、払い、清め、殺すわ。さぁ、死ね!」

 

 棍棒を振りかざす。テルミは、素早くトロールの腹から剣を引き抜いた。そして、バックステップしながら目くらまし代わりのロスマリヌスを噴射する。棍棒の空ぶった攻撃の隙に、クルックスが両手に持つ葬送の刃がトロールの血肉を削り取っていく。

 トロールの体は分厚い。まずは足、胴体、首。殺しきるには時間がかかりそうだった。──彼らが、ただ戦闘能力があるだけの子であれば。

 

「テルミ!」

 

 トロールが無軌道に棍棒を振り回した。

 クルックスの声に応え、テルミの右手が懐から何かを取り出した。

 

「──星の娘(エーブリエタース)、我らに御手を授けたまえ──」

 

 花が開くように彼女の手の先に現れたのは、青白い上位者の腕だった。一見して軟体生物のように見える、長大なそれはトロールの体躯を軽くよろめかせた。

 その懐でクルックスの右手は、トロールの灰色の分厚い皮膚を突き破った。

 体内をまさぐり、血と共にいくつかの臓器が石床に転がった。

 だが、未だ倒れない。巨体のせいだろう。類稀なる体力を持っているようだった。身を起こしたトロールの目はギラギラと敵意に光っていた。

 

「む。しぶとい……!」

 

「だから技術にも振っておけば、と」

 

「これでいい。お父様は神秘に振れとおっしゃった」

 

「あらそう!」

 

 銀の剣と鞘を一体化させたルドウイークの聖剣を構え、テルミはそれを動きの鈍ったトロールの傷口に刺突した。

 呻くトロールの血肉をさらにクルックスが渾身の力で斬り飛ばす。血の遺志を費やし続けた筋力は、役に立っていた。

 トロールの手から棍棒が滑り落ちる。

 膝をつき、倒れかけたトロールの首をクルックスの刃が捉えた。

 

「──狩りの成就だ。恨みは無いが。アンバサ……!」

 

 雄叫びをあげ、振るう。

 鎌が、分厚い肉を切り裂き、骨を断つ。

 主を失い、永遠に切り離された胴体が音を立てて倒れた。 

 

「…………」

 

 呼吸を整えて、武器を変形した。

 血だまりに立つ。

 やはり虫の気配は無かった。脳裏のカレル文字も蠢きひとつしない。

 

「あなたって……」

 

 テルミが独り言のように言葉を漏らす。

 何か。問うように振り返ると彼女は呆れ顔をしていた。

 

「前々から思っていたのだけど、今日やっと分かったわ! 長柄の仕掛け武器を振るう時の体の動きが、ぜんぶ回転ノコギリなのよね!」

 

 クルックスは、もう二度とテルミの前で葬送の刃を振るうまいと心に決めた。

 

「やはり連盟員が適性を神秘に振るのは間違っている! 俺には似合っていない! 技術も分からん! 筋力だ! もう筋力でいい! 長も絶対、絶っ対! そう言ってくれるだろうさ! くそっこんな屈辱的な罵倒は初めてだ……! 反論が思いつかない……!」

 

 聖杯で筋力補正が高水準な葬送の刃が発見されるまで、彼の鎌貯金は貯金され続けることが決定した。

 わめき続けるクルックスの横顔を見て、テルミはひそかに息を吐く。──彼は敵を殺した後で思い詰めた顔をする。その姿は、父によく似ている。だからこそ、長く見つめていたいものではなかった。

 

「連盟員らしくって良いと思いますけどね。火薬庫武器は品が無くって、わたしは好きではないけれど」

 

「──好みの工房の話はしないと決めているハズだ。行き着く先は戦争だぞ」

 

 バッサリと会話をうち捨てたクルックスは、水銀弾の補充をした。

 

「獣が殺せるのなら、武器は何だっていいですけど」

 

「言ったな?」

 

 ──じゃあ、素手だ、素手!

 論理の飛躍を見せるクルックスは、すっかりいつもの調子が戻ってきたようだ。

 

「あなたが、アンバサなんて……。いつものようにアンバサでごまかすのね」

 

 テルミが、細い剣を振って血を払った。

 

「俺は君のように言葉の扱いが上手ではない。これから死にゆく者に他に何を言えばいい。……俺が殺めたのに」

 

「いつか相応しい言葉が見つかりますように慕いますね。さて」

 

 血に汚れた手袋が濡れて重い。

 クルックスは、テルミの視線の先にある扉を見た。

 しかし。

 

「──テルミ、ウィーズリーを回収して上に戻れ」

 

 クルックスの言葉に、テルミは聞き間違いをしたかのように繰り返した。

 

「回収? その提案は……悪くはないけれど、良くも無いわ。理由を聞かせてもらえるかしら」

 

「時が経ち過ぎた。校長は間もなく戻ってくるだろう。昼間から、もうじき真夜中だ。魔法界が俺達にとってどれほど非常識であっても、その時間まで用事があるということはないだろう。ここに君の姿があるのはよろしくない」

 

「今さらではなくて?」

 

 どこか小馬鹿にしたようにテルミが鼻を鳴らす。

 どうやら久方ぶりの探索が思いがけず楽しくなってきたようだ。血を浴びて、頬はほんのりと紅い。

 だが、クルックスは退かなかった。

 

「今さらであってもそうすべきだ。まだ数人の目にしか触れていないのだから。テルミ、俺は気を遣っているのだ。女子トイレで狩人の業を晒すのを嫌がっただろう? 当分は伏せていろ、と言いたい。魔法界であっても俺達は浮いた存在だ。お父様のためにもそうすべきだと考えているのだが、どうか」

 

「……あなたってわたしに『お父様のためだから』って言えば、たいてい頷くと思ってそうよね。実際、そのとおりなのだけど。ちょっとだけ悔しいわ」

 

 ジトッと湿度の高い瞳がクルックスを見つめた。

 それを呆れて見返す彼は、わずかな汗を逃すように帽子を被り直した。

 

「考えすぎだ。俺がそんな小難しいことを考えていると思うのか?」

 

「んー……全っ然!」

 

「それでいい。行ってくれ」

 

「もう。しくじったら神秘99のガラシャで殴っちゃうんだからね!」

 

「ああ、ああ、好きにさせてやる」

 

 勝手についてきたテルミであったが、引き際はあっさりしている。

 この点、損切りが早いネフライトに似ていた。そんなことを言えば、両者とも怒ってしまうだろうか。

 駆けていくテルミの足音を聞き、クルックスも扉の先に進んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「君がいなければ、ここで彼は手詰まりだっただろう」

 

 次の試練は、論理の問題だった。

 問題文を読んで、正しい薬を飲めばよい。

 だが、魔法族というものは何事も魔法で解決してしまうせいだろうか。論理思考が弱いとネフライトが言っていた気がする。

 ハーマイオニーは、正しき答えをハリーに渡した。そして、進んだのだろう。

 だが、ハーマイオニーは泣き出しそうだった。

 

「も、も……物音が、しなくなった……」

 

 直前に誰かの怒号と叫び声が聞こえたと彼女は言う。

 クルックスは、扉を見据え進んだ。

 

「俺が行く。どれを飲めばよいか」

 

「黒の瓶よ。でも、待って。何かあったら、どうすれば……」

 

 クルックスが進むと間もなく周囲を炎が包んだ。

 薬は補充されているようだった。

 一口に飲み、手袋の甲で唇を拭った。

 

「テルミがウィーズリーを上に運搬中だ。ハーマイオニーは、ここで待て。すぐに戻る」

 

「き、気を付けて……!」

 

 葬送の刃を持った手を軽く頭上で振った。

 ──そういえば。

 

(狩りを案じられたのは、初めてだな)

 

 悪い気分ではない。

 クルックスは、血除けマスクの下でわずかに微笑むことにした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「…………」

 

 決着は、すでに果たされていた。

 ハリーは倒れているが、呼吸は安定している。

 

(あれは──)

 

 クリスマス休暇に見た『みぞの鏡』が置かれた広い空間だった。

 彼の手から零れ落ちている、真っ赤な石こそが賢者の石だろうか。

 しかし、今のクルックスにとってそれは路傍の小石と大差が無かった。

 

「あなたであったのか。クィレル先生」

 

 緩い石段に散らばる砂に対し、クルックスは自分でも思いがけない弱々しさで声をかけた。

 身に着けていたであろうターバンやローブ、シャツは砂にまみれていた。

 その衣服は、不思議なことに、外から砂がかけられたものではない。人体が砂に変じたとしか思えないまみれ方をしている。

 クルックスの頭は、ヤーナムの貢献も血の潔白も連盟の使命も、ほんの一時だったが忘れていた。

 死体など飽くほど見てきたと言うのに、知人が変死しただけで心が乱される。心情の変化が存外、衝撃をもたらした。手足が遠くにある感覚がある。体が揺れた。

 

 彼と交わした話ばかりが記憶を繰り返し、過った。思い出す度に心の底の繊細な場所が、無遠慮に触れらたかのように騒ぐ。クルックスは葬送の刃を握る手に力を込めた。

 

「──幸いである。あなたの中から虫は出てこなかった。それは、幸いである。幸いである。ええ。幸い。幸いなのだ。人が人のまま生きて……っ……ああ、幸いだ! クソっ! 幸いだ! そうでしょう!?」

 

 クルックスは天上に向かって吠えた。

 父たる狩人は、果たして、クルックスの心情を解するだろうか。

 敵は、いない。

 葬送の刃を衣嚢にしまい込んだ。

 

「俺は狩人なのだから獣がいなければ、それでよい! 俺は連盟員なのだから虫がいなければ、それでよい! そして、俺は月の狩人の仔なのだから、ヤーナムへの献身を誉としなけばならない──!」

 

 自分に言い聞かせるために、クルックスは大声で、ゆっくりと声を上げる。

 それは拍を刻み、心によく響いた。

 クルックスは、衣嚢から袋を取り出すと石の床に広がるクィリナス・クィレルを構成していた砂とも灰とも言えない物をかき集めた。

 

「クソ……何が、何が、不老不死だ……! そんな幻があるから人が死ぬ……! こんな死に方をして何が……何だと言うんだ……!」

 

 クルックスは、テルミの願いに応えた。

 彼女は、父たる狩人への土産として魔法使いの何かが欲しいと言った。恐らくは、聖杯儀式に使うのだろう。魔法使いの遺骸の成れの果ては、十分な役割を果たすに違いない。その末路についてクルックスはできるだけ考えないようにした。思い出すことができたヤーナムへの献身の心が、辛うじて身を動かしていた。

 荒い息を吐き、手で回収できる限りの粉末を袋に詰め終わる。そして衣嚢に収納した。

 

 一仕事が終わるとようやくクルックスは、外でハーマイオニーを待たせていることを思い出した。──ポッターを連れ帰らなければならない。

 

「──っ!」

 

 人の気配がそばにあった。

 振り返るとそこにはハリーを抱え上げたダンブルドア校長が立っていた。

 クルックスは、素早く後退りした。

 

「これ、は、校長先生。お早い、お着きで」

 

 ──遺骸集めを見られただろうか。

 彼は、クルックスを透き通るような青い瞳で見つめるだけだった。

 

「いや、すこしばかり遅れて、その時間でハリーが全て解決してしまったようじゃ」

 

「……そうですか」

 

 努めて興味が無さそうに聞こえるようにクルックスは言った。

 ウィーズリーに気を遣ってテルミを帰してしまったことが悔やまれた。こういう時にこそ、彼女の機転は発揮されるべきだろうに、またしくじってしまった。

 

「……では、俺は失礼します。解決したのならば、もう用は無いでしょう」

 

 帽子を深く被り、彼の目を見つめないようにした。

 足早に彼の隣を歩き去ろうとした瞬間に声をかけられた。

 

「──待ちなさい。ミスター・ハント。君は、ここに何が隠されていたか。知っているのかね?」

 

「賢者の石と聞きました」

 

「然様。……ヴォルデモートとその信奉者は、それを永遠に失うことになるじゃろう」

 

 クルックスは、このまま立ち去ることもできる。

 そうしなかったのは、好奇が彼の冷えた心に火を灯したからだ。

 

「校長先生……ダンブルドア校長、長い命とは、永遠の存在であることは、魅力的なのですか?」

 

「左様。死を恐れる者には、甘露となるじゃろう」

 

「それは、身を粉にしても惜しくないほどに?」

 

「全てを引き換えにしてもじゃ」

 

「……俺には分かりません」

 

「ああ、分からぬ方が幸いなのじゃよ」

 

 無理解を祝福されることは、耐え難い思いがした。

 クルックスが解し得ない理由でクィレルは死んだ。それをそのままで良いと言われ引き下がれるほど彼は達観していなかった。

 思わず振り返った。

 

「ならば、なぜ賢者の石がこの学校にあった!? たかが石ころのために、要らぬ死者を、望まぬ死者を作ったのではないか!?」

 

「クィレル先生は、心の弱いところがあったのじゃよ。君の心にもある恐れが、他人よりずっと大きく、そして、勇気を持てなかったのじゃ」

 

「俺を語るな、宙の深淵を知らぬ者! 不死など俺は求めない! 人は、人のまま生き、そして死ね! 凶行の病巣を見抜いていたのならば、なぜ、見過ごしたのか。見通していたのならば、救えば良かっただろう。怠惰な賢者など愚者と何の変わりがあろうか!」

 

「世には、真に救い難き者がいる。かのヴォルデモートに憑かれた彼のように。朝陽は、時に……あまねく照らすことができないのじゃよ。そして友誼は何にも優る。わしは賢者の石を託された。あぁ、そう、フラメル、友の頼みを断ることはできんかった……」

 

「と、友……?」

 

 クルックスは、茫然と呟いた。

『友』は、未だよく分からない。理解が及ばない存在だった。だからこそ、その一言の回答を真とも偽とも断じることができなかった。

 喉の奥で曖昧に唸った後で、クルックスは帽子を手でおさえた。

 

「──しかし、要らぬ死者は、望まぬ死者は、君の糧ともなるじゃろうて」

 

 怒りという感情は、ある一定を越えると、凪の海になるらしい。

 クルックスは、今にも叫び出しそうな感情を抱えたまま、声をしぼりだした。

 

「クィレル先生のことは残念ですが、ポッターが無事で安堵しました。俺が言うべきことは以上です」

 

 彼は、今度こそ歩き始めた。外の部屋にハーマイオニーはいなかった。

 もう彼がすべき用事は何も無かった。『狩人の確かな徴』を使い、夢を捉える。

 グリフィンドールの自室のベッドの上で彼は朝日を見た。

 

「朝……」

 

 陽は、白く清らで──わずかに眩しい。

 クルックスは騒ぐ内心ばかりを持て余して外套を脱ぎ、薄着になるとベッドにもぐり込んだ。

 眠れるものならば、今は何も考えずに眠りたかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 賢者の石騒動は、クィレル先生とハリー・ポッターの不在が証明となり、瞬く間に広がった。

 噂曰く──野心を抱いたクィレルが、校長が隠していた賢者の石を盗もうとしたところ、ポッターとその仲間が阻止した。

 この種の噂にしては、とても珍しいことだろう。概ね正解である。クルックスは断定できた。

 噂の中核であるハリー・ポッターが医務室で休養中のため、ロンとハーマイオニーが代弁者として、噂を確かめようとする生徒達にもみくちゃにされたのが二日前まで。賢者の石防衛戦から数日が経った学年度末パーティーの今夜。好奇の目はあちらこちらで光るものの、生活はひとまずの落ち着きを見せていた。

 

 学年度末パーティーが始まる前。

 すこしばかり早く来たクルックスは、ちょうど同じ頃に大広間に入って来たテルミをつかまえた。

 

「噂とは、まるで野火のようだな。恐ろしい」

 

「あら。ヤーナムでの広がりは、もっと早いわよ。皆が皆、お互いを監視し合っているのだから。予防の狩人は大忙しですもの」

 

「俺は、そういうことを言いたかったワケでは……いや、そうでもあるか……。いえ、俺が話したかった内容は、そうではなく」

 

 クルックスは、テルミを見つめた。

 

「なぁに?」

 

「明日は、列車で帰るつもりか? それとも灯りで帰るのか?」

 

 使者の灯りは、夢と現実の境界だ。

 仔らの寮、それぞれの寝床近くに明かりが生えているとは各々から聞いていた。

 テルミは「んー」と人差し指を唇に当てた。

 

「お父様に、かぼちゃパイを買って行きたいと思っているの。だから、列車で帰る予定ね」

 

「かぼちゃパイを買わなければ、列車で帰る予定ではないのか?」

 

「え? まぁ、そう……あ、でも、友人関係のために列車で帰るべきかしらね。うん。やっぱり列車ね」

 

 クルックスは、優先順位の整理を終えると手帳を出して書きつけた。

 

「かぼちゃパイ購入の任は俺が受けよう。テルミは交友関係の構築に専念してくれ」

 

「よいけれど、どうしたのかしら?」

 

「俺は言葉が……テルミのように上手ではないから、よく景色を見たいと思っているだけだ。車窓からの眺めというものについて。行きは寝てしまったからな」

 

「あら。真面目ね。けれど、良いことだと思うわ。とっても良いことだわ」

 

「であれば幸いだ。では、いずれ」

 

 テルミと別れ、寮の長椅子に座る。

 隣は、ネビル・ロングボトムだった。

 

「年度の振り返りの時期となった。早く感じるものだな」

 

「そうだね。いろいろなことがいっぱいあって……あぁ、明日、試験結果が分かる日だよ。君、自信ある?」

 

 頭を抱えてしまったネビルに対し、クルックスは頭の中で言葉を吟味した。

 

「……うん……? 俺は、そうだな、魔法薬学で薬の順序を間違えたのが気がかりだ」

 

 クルックスは、ネビルへ対する会話について成功よりは失敗を語った方が、相手を安心させることに今学期かけて気付いた。

 

「そっかぁ。僕も……うーん……いろんなことが心配だよ。あんまり成績が悪いとばあちゃんに叱られそうだ……」

 

「夏休みに自分のペースで復習すれば良いことだ。貴公は、決して自堕落な人物ではないのだから、きっとうまくできるようになるだろう。……すこし緊張に弱いだけだ。俺も、言葉が上手ではない。人には向き不向きがある」

 

「でも、一生懸命、励まそうってしてくれるでしょ。それは、何だか嬉しいよ」

 

「…………」

 

 どういたしまして、という言葉は相応しくないだろう。考え込んでいるうちに分からなくなってしまい、彼は口を閉じた。

 ネビルもまた、彼が黙り込むのは考え事をしているからだと分かっているようで何も言わない。ただ、軽く肩を叩いた。

 ちょうどその頃、医務室から戻って来たと思えるハリーが大広間に現れた。

 

 シン、と大広間が静まり返る。

 彼が丸い目を大きく見開くのが見えた。

 

 数秒後には、全員がいっせいに大声で話し始めた。

 長椅子に座るロンとハーマイオニーが、ハリーを手招きしていた。

 彼らが二言、三言話を始める頃。

 ネビルが「はぁ」と大きく溜息を吐いた。

 

「どうした」

 

「すごいよね、あの三人。賢者の石……だっけ、守ったとか、君も噂を聞いたろ?」

 

「ああ、知っている。よく知っているとも。ネビルは、憧れるのか?」

 

 勇敢と無謀は違うものだ。

 そのように諭そうとしたクルックスにとって、意外な言葉が返ってきた。

 

「ううん。ただ、僕は彼らのようにはなれないと思うから、僕のできる限りで頑張らないと……って思うんだ。向き不向きってヤツだね」

 

 ネビルにしては前向きな決心のようだった。

 それに一つ頷いたクルックスは、教員テーブルを見た。

 ダンブルドア校長が現れて、ひとつ手を打ち鳴らすと生徒のガヤガヤとした声が静まった。

 

「また一年が過ぎた!」

 

 彼は、朗らかに言った。そして、年度末の挨拶で前置きした後。

 

「寮対抗杯の表彰を行うことになっとる。……点数は次の通りじゃ」

 

 四位、グリフィンドール。三一二点。

 三位、ハッフルパフ。三五二点。

 二位、レイブンクロー。四二六点。

 一位、スリザリン。四七二点。

 

 寮の名が、読み上げられる度に拍手が起こり、スリザリンの寮名が呼ばれた時には嵐のような歓声と足踏みの音が響いた。

 クルックスは分かりきった結果になぜこう時間がかかってしまうのか分からず、今にも終わらないかと目の前の金の皿を見つめていた。

 

「よしよし、スリザリン。ようやった。しかし、つい最近の出来事も勘定に入れなくてはなるまいて──」

 

 妙な言葉を聞いた気がする。同じ感想を抱いた生徒は多いらしい。

 部屋全体がシーンと静まり返り、スリザリン寮生の笑い声が消えた。

 クルックスは、金色の皿から目を離した。

 

「えへん。まず、駆け込みの点数をいくつか与えよう。ええ、そうそう……まず最初は、ロナルド・ウィーズリー君」

 

 彼は慈善事業をしたのだろうか。

 ぼんやり彼を見ると鼻先から耳先まで真っ赤にしていた。

 

「素晴らしい最高のチェス・ゲームを見せてくれたことを称え、グリフィンドールに五〇点与える」

 

 隣でネビルが、グリフィンドール生が、爆発的な歓声を上げたが、クルックスは言葉の意味を理解することで精一杯だった。

 加点の理屈が分からない。分からない加点を喜んでよいのか。

 寮対抗杯の結果について。

 クルックスは興味の無いことだが競技であれば、それは公平であるべきではないのか。だが、この寮においてそう考えているのはクルックスだけのようだった。

 

「──僕の兄弟さ。一番下の弟だよ。マクゴナガル先生の巨大チェスを破ったんだ!」

 

 監督生のパーシーが他寮の監督生に言うのが聞こえていた。

 再び広間が静寂を取り戻したところで校長は続けた。

 

「次に、ハーマイオニー・グレンジャー嬢。炎に囲まれながら冷静な論理を用いて対処したことを称え、グリフィンドールに、五〇点を」

 

 彼女は、ポッと顔を赤らめて顔を覆った。

 グリフィンドールの寮生が、テーブルのあちこちで我を忘れたように快哉を叫んでいる。

 

「三番目は、ハリー・ポッター君。──強大な悪に立ち向かうには、並々ならぬ勇気が必要じゃ。ゆえに完璧な精神力と勇気を称え、グリフィンドールに六〇点を与える!」

 

 大広間を轟かす、大歓声だった。

 ダンブルドア校長が、手を挙げる。すると広間は静けさを取り戻した。

 その頃、計算を終えたクルックスは、最下位だったグリフィンドールが、一位のスリザリンに並んだことに気付いた。

 

「そして、勇気にもいろいろある。敵に立ち向かっていくにも大いなる勇気がいる。しかし、味方の友人に立ち向かうことにも同じくらい勇気が必要じゃ。そこで、わしは一〇点をネビル・ロングボトムへ」

 

 驚きのあまり頭が真っ白になってしまったのだろうか。隣に座るネビルは声も出ないようだった。グリフィンドールの皆が立ち上がり、喝采を上げた。

 

「──飾りつけを変えねばならんのう」

 

 ダンブルドアが両手を広げると、次の瞬間、蛇色のグリーン垂れ幕が深紅に輝いた。

 ハリー、ロン、ハーマイオニーは皆から握手を求められている。ネビルもまた、もみくちゃにされた。「優勝だ!」と騒ぐ群集の中から、くしゃくしゃにされた髪のハリーが現れた。

 

「君にも加点があっても良かったのに!」

 

 群集の叫びのなかで、ハリーがクルックスに声をかけた。

 嵐のような喝采のなかで取り残されたように、ただ曖昧な表情を浮かべていた彼は、何度かの瞬きの後で言った。

 

「……悪気が無い発言であることを、俺は理解する……」

 

 ハリーは聞こえなかったのかもしれない。

 クルックスは、耐えられない苦痛など無いと思っていたが、世の中には存在に耐えられぬ空間が存在することを知った。

 

(あぁ、茶番ではないか)

 

 教員テーブルを見るとダンブルドア校長は金のグラスを掲げていた。

 優勝杯は、ハリー・ポッターにとってクリスマスプレゼントと大差が無い。

『ハリー・ポッターに栄光を』

 ダンブルドア校長が書いた筋書きの片棒を担いでしまったことだけが、悔やまれた。

 

 

 

■ ■ ■ 

 

 

 

「この先のことは、我々に関係の無いことだ。……物好きなことだな。連盟は暇なのかね」

 

 ネフライトとセラフィは早々に灯りで帰るという。

 実際、セラフィは試験結果を受け取るなり、姿を消した。

 しかし、ネフライトはどういう風の吹きまわしかプラットホームまでクルックスと共に来た。

 やはり情深い奴だ──と感心したのも束の間。

 

「何だ皮肉を言いにわざわざ来たのか? ご苦労なことだな」

 

「貴公は自分に関係の無い出来事を我が事のような考え方をするから、忠告しているんだ」

 

「ああ参考になった。最高に参考になった。ありがとな」

 

 図星を突かれると痛いとはこのことか。

 痛みなど無いハズの腹をさすり、クルックスは足早に列車に乗り込んだ。

 旅行鞄を乗せようと躍起になっている生徒たちの流れに逆らい、ネフライトはどこかへ歩いた。

 

「……君の感情は、多様で鮮やか過ぎる。連盟員のクセに……」

 

 彼の姿は瞬きの間に消えた。

 最初から夢であったように。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 車窓から見える風景を手記に書き留める。

 牛。田園。マグルらしき村の集落をいくつか通り過ぎた。

 テルミの依頼である、魔女のかぼちゃパイを購入することだけは忘れなかった。

 学校へ来た時よりも、帰り道が早いと思えた。距離に違いはないだろうに不思議なことだった。異邦の狩人服を着こみ、サスペンダーを肩にかける頃。列車はキングズ・クロス駅の9と4分の3番線ホームに到着した。

 手記だけ小脇に抱えたまま列車を降りた彼は、テルミと合流した。

 

「クルックス!」

 

 ハーマイオニーの声に呼び止められた。

 

「あら、ハーマイオニー。しばらくのお別れね」

 

「充実した夏休みになることを祈っている」

 

 クルックスは黒フードを外し、テルミは山高帽を取って挨拶をした。

 ハーマイオニーは嬉しそうに握手を求めた。

 

「ありがとう。あのね、お手紙を出すわ。ふくろう郵便を送ってもいいかって聞きたかったんだけど……」

 

 クルックスとテルミは顔を見回せた。

 先走ってしまい「無理じゃないか」と言ったクルックスを制して、テルミが眉を寄せた。

 

「それは、うーん、えぇと、わたし達の故郷は山間にあるんだけど、何と言うか、すごく辺鄙なところで他の魔法族も近寄らない場所だから……ふくろうが届くかどうか」

 

「えっそんなに? で、でも、入学のお知らせは届いたんでしょう?」

 

「そういえば、そうだな。その辺りはどうなんだ、テルミ?」

 

 テルミは、棘のある視線をクルックスに送った。

 

「貴公って結構、他力本願よね。わたしにも分からないことがあるわ。公式文書だけは違うのかもしれない。でも、今は……ごめんなさい、ハーマイオニー。無駄にフクロウを使い潰すことにもなりかねないわ。今年の夏休みで確認してみるわね」

 

「こちらこそ、無理を言ってごめんなさい」

 

「気遣いだけでも嬉しいものだ。ありがとう、ハーマイオニー。夏休み明けに会おう」

 

 彼女は最後に輝くような笑みを見せて去って行った。

 右手をふらふらさせるだけの見送りをした後でテルミが肩を落とした。

 

「実際のところ、まぁ、無理なんじゃないかしら……」

 

「しかし、入学文書が届いたのはどう説明できるだろうか」

 

 考え込むテルミは「うー」と小さな唇を尖らせた。

 

「お父様が一年に一度、お眠りになるでしょう? その隙を突かれたのではないかしら?」

 

「なるほど。お父様の目が届かない日に……」

 

 ビルゲンワースの学徒曰く「ヤーナムを揺籃とする幼年期の上位者にして夢の主たる狩人は、一年に一度しか眠らない」という。その眠りの間にヤーナムのあらゆる不可逆的事象は──夢を見ていたかのように!──無かったことになり、新しい一年が始まるのだ。

 

「この考察は後にしましょう」

 

 ビルゲンワースの学徒達のほうがまだ詳しそうだ、と結論付けてテルミが「帰ろう」と言う。

 クルックスは、手記を抱えたままテルミに衣嚢から取り出した荷物を渡した。

 

「かぼちゃパイだ。先に行ってくれ」

 

「? まだ用事があるのかしら」

 

「ああ、すこし……すこしだけだ」

 

「先に行くわ。あなたも早くにおいでなさいね」

 

 ホームを歩き出したクルックスは、手を挙げて応えた。

 間もなくテルミが音も無く消える。夢の気配がした。

 

「…………」

 

 まるで夢のような風景だ。

 振り返ったクルックスは、列車から降りたばかりの生徒たちが親類と抱擁を交わす様子を見ていた。

 

 彼が望み、やがて父たる狩人が齎すであろう平穏の風景は──あまりに眩しく、遠い。

 

 クルックスは背を背けてホームの先まで歩いた。屋根から先は、眩しく目を細めても物体の形が分からなかった。

 ホームに響く、フクロウの鳴き声も人々の話し声も距離を保てば心地良い雑踏だ。

 いつまでそうしていただろうか。

 呆けたように光を眺めた。絶えることのない思考は、何かを考えていたような気がする。いいや、何も考えられず変わらない風景を眺めていただけかもしれない。

 

「クルックス」

 

「っ!」

 

 この場で聞こえるはずのない声で名を呼ばれて、彼は我に返った。

 大きく目を開いて振り返る。

 

「明るいところね。驚いてしまったわ」

 

 ホームに舞い込む風が、彼女の白い装束と聖布を揺らした。

 口元しか見えない目隠し帽子を被るその人は──ビルゲンワースの最後の学徒、ユリエだった。

 

「ユ、ユ、ユリエ様っ!? な、ど、どうしてここに……」

 

 白昼夢を見ているのではないかとクルックスは辺りを見回した。

 その様子を見守っていたユリエは、明るく言った。

 

「狩人君に無理を言って外の世界を見たいと願ったの。あなたの迎えも兼ねてのことね」

 

「お、お手数をおかけします、しました! か、帰りましょう! 今! 今すぐに!」

 

 ヤーナムの外から帰りたくないから遅れているのだ──などと思われるのは耐えがたいことだった。

 クルックスは、ユリエに駆け寄った。

 しかし。

 

「あら。もうすこしだけ良いでしょう?」

 

 軽やかなステップでクルックスの手を逃れたユリエは、ホームの末端にある柵に寄り掛かった。

 

「意外と空気は良くないのね。機械油を焦がした匂いがするわ。けれど不思議。外は石炭の匂いが無いのね」

 

 列車は、黙々と黒煙を吹かしていたが、外は違う。

 車が排出する揮発油の臭気しかない。

 

「石炭は、石油に代わっているそうです。ユリエ様」

 

「石油? あぁ、あの黒い油ね。とっても不思議。植物油ではないのね。精製に時間がかかりそうなものだけど」

 

「その辺りはネフライトが詳しいところです。俺には、よく……」

 

 ユリエは、振り返って小さく笑った。

 

「いいのよ、クルックス。これから学んでいくことでしょう? ──ああ、思い切って外に出て来て良かったわ」

 

 ドキリと彼の心臓は不整脈を奏でた。

 

「ヤ、ヤーナムよりこちらが良いと……」

 

「ふふふ、そういうことではないわ。『知らないことを知るのは、やはり楽しいことね』って思ったの。外の世界は広いのでしょう? 良い発想が思い浮かぶかもしれないわ」

 

「し、失礼、しました……。俺は、どうも失言が多いようで」

 

 先走るどころではない言葉をかけてしまったことに気付き、クルックスは固く口を閉じた。

 それを見て再びユリエは笑った。

 

「良いのよ、クルックス。月の香りの狩人の仔。私達の可愛い子供。聞きたいことを聞きなさい。知りたいことを学びなさい。全ての探求に無駄は存在しないわ。良いことなのだから」

 

 ユリエは、狩人の一礼をしたクルックスの前に立った。

 

「さて。次は研究旅行で来たいところね。その時は、外を案内してくれるかしら?」

 

「喜んでお供いたします。ユリエ様、お手を……」

 

 クルックスは、手を差し出し、望んで進んだ。

 柔らかな彼女の手をクルックスは、ずっと忘れないだろう。

 一度だけ振り返る。

 ホームの先、光はもう眩しく無かった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「何だい、遅かったじゃないか!」

 

 聖歌隊の白い上衣を腕まくりしたコッペリアは、扉を開けるなりユリエとクルックスに声をかけた。

 

「ユリエ様はビルゲンワースに、俺は狩人の夢に戻るのでは?」

 

「今日だけは特別なのよ。さ、座って」

 

 いつも薄暗いビルゲンワース学舎の一室は、普段より多くの蝋燭が灯されていた。

 その部屋の中央、丸テーブルに着いているのは父たる狩人だった。

 

「久しぶりだな」

 

「お父様まで! これは?」

 

「そう気を張るな。ささやかな歓迎会というものだ」

 

 狩人は、分厚い外套やトリコーン、血除けマスクをどこかに置いてきたようだ。

 軽装だったので、肩をヒョイとすくめたのがよく見えた。

 

「そうそう。『一年間お疲れさま会』だよ。……ところで狩人君、サボってないで配膳手伝ってくれないかな?」

 

「え。俺も手伝うのか?」

 

「今日は、お皿が多いんだよ。ほらほら、行った行った!」

 

「……俺、お皿落としそうで恐いんだが」

 

「じゃあ、鍋をかき混ぜる役をセラフィと交換してくれよ。飽きているみたいだからさ」

 

 そう言うコッペリアは片手で三枚の皿を持ってテーブルに置こうとしたのでクルックスは慌てて手を出した。

 

「おぉ、すまない! ありがとう! お帰り、クルックス! 僕の可愛い子、元気にしていたかい?」

 

「もちろんです、コッペリア様。コッペリア様もお変わりなく?」

 

「あぁ、僕は平気さ。おぉ! やはり、すこし大きくなったようだ!」

 

 コッペリアは長身を折りたたむように身を屈め、クルックスの頬に優しくキスをした。

 クルックスもコッペリアに頬を寄せた。

 

「……ただいま、帰りました……」

 

 彼にだけ伝わる小さな声で言った。

 階下からネフライトの声が聞こえる。帰ってきたらさっさと手伝えと言っているようだ。

 今は、すこしだけ聞こえないフリをしていたかった。

 

 消化しきれなかった感情が、人の温度に触れて消えていく。

 温もりが、怒りも虚無も──全てを溶かしていった。

 




【解説】
「誰かを分かったつもりになることは危ないが、計算には加えられる」
 あなたの恐れていることが起きますよ。──そう言われて心当たりがないと言えるほど素晴らしい人生を送ることは難しいでしょう。ダンブルドア校長の言葉とは、そういう意味を多分に含んでいました。そのため多くの人が思い浮かべる模範解答は「自分の死」ですが、クルックスにとって「自分の死」は日常茶飯事でありふれているので、多分に含んでいたほとんどの意味は的外れになってしまったのですが、日常茶飯事に死んでいる人物だと前提したり見破るほうが「あたおか」なのでダンブルドア校長は正常だということが分かりますね。(ろくろ回しながら)
 ただし、ただの言葉であっても相手より上だと思い込ませるのには、一役買いそうな言葉です。実際に何か恐れたことが起きたとして、その時に、彼の言葉を思い出さずにはいられないでしょうから……ハッ……これがマウント……!? 心的な駆け引きはクルックスの苦手とする分野なので、多少の効果は見込めるかもしれません。
 彼は、いろいろと勘違いしたり未熟な感性をしていますが「やーい、君の動き方、回転ノコギリ~!」でショックを受ける程度には神経質なのです。

【あとがき】
 賢者の石編は、もうちょっとだけ続けて終わりになります。
 交信(感想)お待ちしています!


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時計塔の諫言

ウィレーム先生は正しい。適切なタグ付けが無い作品など筆者の堕落だ。
【注意】この作品は、ゲーム・書籍・映画を参考に書いていますが、作品の都合上、あったものが無くなったり、無いものがあったりします。『原作死亡キャラ生存』タグを追加したしました。ご了承ください。


悪夢
かつての神秘の探求者は、それを目指した。
上位者が見る夢にこそ神秘があると信じたのだ。
いまや、その在り方は変わってしまったが。


 無礼講の乱痴気騒ぎ。

『一年間お疲れさま会』は、そう評するのが適切だった。

 

 一年間の苦労を報う会食はハメを外しまくった結果、血の酒が飛び交い、互いに浴びせるように飲み、そしてほとんどが酔いつぶれた。かつての学徒がそうであったように。

 ソファーでは、睡魔に負けたユリエが酒瓶を抱いて寝ていた。その両隣でネフライトとテルミが彼女に寄り掛かって寝ていた。

 

 まだ起きているうちの一人、クルックスが狩人へ話を切り出したのは、賑やかな騒動がすっかり遠ざかった深夜だった。

 狩人は、そろそろ市街に戻ると言う。

 

 クルックスは『賢者の石』にまつわる騒動のことをできる限り、彼の耳に早く入れる必要があると思っていたが、言葉を選んでいるうちに今になってしまった。そのことをひとこと断ると賢者の石騒動を語った。その最後の段になった頃、静かに話を聞いていた狩人が初めて口を挟んだ。

 

「──クィレル先生が死んだ?」

 

 クルックスは、コッペリアの膝の上で彼の重い頭を肩で支えながら不自由に頷く。

 起きているのは、眠らない上位者である父と血の酒に耐性があったセラフィだけだった。

 狩人は、最後のひとくちを傾けようとしたグラスを置いた。だが驚いた様子は無かった。

 

「視えていたのですか?」

 

「視ようとも思わなかったが、そうか、ずいぶんと痛ましい死に方をしたのだな。クルックス、顔色が悪いぞ」

 

 自分の頬に触れてみる。

 会食中の陽気は、失せている自覚があった。

 

「その後、結果的に、彼を殺したことになったハリー・ポッターに話を聞いたところ。……愛によって、悪はひとまず滅びたのだと」

 

「愛? 愛だと?」

 

 狩人は、まじまじとクルックスを見た。

 居心地が悪かった。

 咄嗟に「いえ、俺は、ただ、そう聞いただけで……」と言い訳してしまった。

 

「いいや、クルックスを疑っているワケではない。気にするな。しかし。はあ。なるほど。愛……愛かぁ……愛ねぇ……」

 

 感心したように何度か頷いて血の酒を呷る彼に、セラフィは視線を送った。

 

「お父様は、慈悲深い。その情感は、もはや愛と同義でありましょう。劣るとは思いません」

 

「カインハースト仕込みの良いセンスのジョークだ、セラフィ。ヤーナムで真に『慈悲深い』と言えるのは狩人狩りだけだ。慈悲深く、報われないアイリーンさんだけさ」

 

「『過ぎた謙遜だ』と女王様はおっしゃるでしょう」

 

「……セラフィ、別に女王様が慈悲深くないとか、そういう意味は無いからな」

 

「当然です」

 

 ともかく。

 クィレルの野望と闇の魔法使い、ヴォルデモートの成れの果ては、ただの砂に変じたのだ。

 

「あの……お父様……申し訳ございません……」

 

「何がだ」

 

「賢者の石のことです。俺は、あの時、誰にも相談せずに判断してしまいましたが、でも、一度、お父様にお伺いすべきでした。ヤーナムの血の医療、その代替になった、かも、しれません……」

 

 あの時は、自信をもって「不要だ」と断じることができた。

 だが、顛末を話し続けるうちに分からなくなった。

 自分は、とてつもなく貴重な機会を捨ててしまったのではないか。今さら、怖くなったのだ。

 狩人の銀灰色の瞳が、クルックスを見つめた。 

 

「ああ、そのことか。気にするな」

 

「無茶をおっしゃる。俺は取り返しのつかないことを」

 

「──いいや、構わない」

 

 狩人は断言した。

 

「なぜですか?」

 

「ヤーナムに水は似合わないからだ」

 

 その一言は、あまりに明瞭だった。

 クルックスの抱いた疑問を全て平らげてしまった。

 言うべき言葉を失った彼は、ただ狩人の言葉を聞いていた。

 

「酒さえ俺達を酔わせてはくれない。水が代われる道理がないだろう? 民が、狩人が、どれほど忌避しようとヤーナムには血が相応しい。ヤーナムの歴史は、血に依って築かれている。人々の血の遺志に依ってのみ紡がれるべきなのだ。……君が病む必要は何も無い」

 

 発作的な笑いが訪れて、クルックスは口の端が震えた。

 狩人には困った時に笑う癖があったが、彼にもまたその癖があったようだった。

 整理しきれない感情のまま、伝えるべきことを思い出したので告げた。 

 

「……テルミの提案で、クィレル先生の、い、遺骸を持って来ました。狩人の夢の収納箱の中にあります。きっと、新しい思索の先触れ……に、して、いただけたら、俺は、とても嬉しいと思います。ヤーナムへの貢献が、俺の誉でも、ありますから……」

 

「テルミか。クルックスにしては、ずいぶん気が利き過ぎると思ったが……。まったく抜け目が無くて可愛らしいな。聖歌隊は、これだから好ましい。──では、さっそく使おうか」

 

 狩人は、一息にグラスの中身を呷ると席を立った。

 セラフィも続いた。

 

「僕もお供しましょう。どんな血晶石が出るか興味がある。『対魔法使いへの攻撃力を高める+14.5%』など出てくるのだろうか……。『対魔法使い』の負荷効果の血晶石であれば、ほぼ無条件と言える。ぜひ、イズ聖杯にふりかけましょう。魔法使いがトゥメルにいる光景は想像しにくいですが、イズならばいてもおかしくなさそうだ」

 

 クルックスも立とうと思ったが、椅子になっているコッペリアがズシリと重い。

 

「あ、コ、コッペリア様……ちょ、どいて、ぐぅ」

 

「寝かしておいてやれ。学徒らしく不摂生なんだ。──ああ、そうだ。クルックス、クィレル先生の最期について、彼からもうすこし聞いたか? ハリー・ポッターと言ったか」

 

「え、ええ、はい。体が崩れる理由が、分からず、ひどく恐れていた」

 

 ──恐怖していた、と。

 クルックスが口を閉じた時。狩人の瞳は彼を見て、そして、薄く口を開いた。

 彼らが初めて見る父の姿だった。

 狩人は、ひどく嬉しそうで楽し気だった。

 

「そうか、そうか! あぁ、そう。そうだ。俺は、ずっと知りたかったことがあった。数百年ぶりに思い出したぞ。セラフィ! 悪いが、探索は後の機会だ」

 

「了解しました。お待ちしております。お父様の疑問が綻びますように。カインハーストの名誉あらんことを」

 

 短く何かを応え、彼は壁にかけてあった外套を肩にかける。

 去り際、扉に一番近いクルックスだけが彼の呟きを聞いた。

 

「『時計塔のマリアは、正しい』──俺も、そう言ってしまいたいのさ」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「釈然としない風であるな」

 

「……ハリー・ポッター。校長は、何を見込んでいるのか。俺には、よく分からない」

 

 父たる狩人が去った後で、手持ち無沙汰になったセラフィが問いかけた。

 静かな琥珀色の瞳は、今日の月のように澄んだ光を得ていた。それが眩しいような心地がしてクルックスは落ち着かない。

 

「ヤーナムのように実を結ぶ日を待っているのかもしれないな」

 

「どういうことだ?」

 

「お父様が守り続けている、このヤーナムのように。いつか、いつかと、彼も──校長は、夢を見ているのかもしれない」

 

「…………」

 

「その果てに何が現れるのか。祝いか呪いか。どちらなのか。どちらも僕は見ていたい」

 

「他人事のように言うのだな」

 

「そうでありたいものだ。しかし……フフ、学校にいる以上は、そうさせてもらえないのかもしれないな。だから、あまり気に病むなよ、クルックス。最も親しき枝葉の隣人。僕らの大切なものはヤーナムだけなのだから」

 

「そんなことは、分かっている。だが、目の前の悪意を見逃すことが、俺には、時に……難しいことがある」

 

「ならば、それでもいい。言っただろう? 『優しさが身を滅ぼすならば、滅びてもいいと思う。そのために滅ぶ価値がある』と。僕は、そう信じてやまないのだ。きっとそれが、それだけが、僕らの人間性なのだから。しかし、我が身を愛せよ、君」

 

「……理解に感謝する」

 

 その後で。

 セラフィは「これ以上遅れるとカインハーストの先達が恐いからな。フフ」と冗談か本音か分からないことを言い、去った。

 眠気が訪れず、起きているのはクルックスだけになった。

 

(俺は……正しいことをしたのだろうか……?)

 

 三頭犬を越えること。賢者の石を欲さなかったこと。ダンブルドア校長の思惑に乗せられた──ように感じられた──こと。

 考えれば考えるほど分からなくなり、クルックスは頭が痛む気がした。

 

「お悩みなのだね。僕の可愛い子」

 

「わっ……コッペリア様……」

 

 ずっとクルックスを抱き枕にしていたコッペリアが、のっそりと頭を上げる。

 ようやく肩を解放された彼は、何度か肩を上げたり下げたりした。

 コッペリアは、寝ていたにしては輪郭のある発声だった。

 

「はあ。実は起きていたのですね?」

 

「いいや、話の半分は寝ていたよ。……しかし、困ったことだ。ヤーナムの外の世界は、ここほど君の心を悩ませることはないだろうと思っていたのだが、そうではないらしいねぇ」

 

 半分どころか九割は聞いていた。

 ならば話は早かった。

 

「……ええ。ヤーナムとは別の困りごとがあります。それさえ、ヤーナムでは贅沢な悩みかもしれませんが」

 

 黒い長手袋が、ゆるりとクルックスの瞼を押さえた。

 視界が塞がれる。コッペリアの穏やかな呼気が聞こえた。

 

「ユリエも言っただろう。比べてはいけないのだよ。僕の可愛い子。……悩みに軽重は無く、貴賤も無い。苦悩は祈りの苗床だ。尊びなさい。自分の感情を君自身が軽んじてはいけない」

 

「……俺は鈍感で、あるべきだと思うのです。目の前で何が死のうが、殺そうが、動じずに……そう在りたいのです。狩人とは、そういうものでしょう……」

 

 クルックスの言葉は、次第にかすれ消えていった。

 彼自身が信じていなかったからだ。

 

「恐れるものを正しく恐れなさい。痛みを忘れずにいなさい。そして、辛い時は泣くといい。──君のお父様が夜明けを迎えた時のように」

 

 ここは、ビルゲンワースの一室。

 二人の他は誰もが眠り静まっていた。

 

「あぁぁ……俺は、俺は…………」

 

 クィリナス・クィレルは、クルックスにとって特別に仲が良い先生ではなかった。

 それでも、喪失は彼に初めての傷をもたらした。

 

 目を塞ぐコッペリアの手に、自らの震える手を重ねた。

 

 情けない顔を、恐れている顔を、誰にも見てほしくなかった。何も見たくはなかった。

 次の朝が来れば、クルックスは元通りに生活を始めるだろう。

 月の香りの狩人に連なる者として。連盟員として。そして再び時が来ればホグワーツの生徒として。

 だからこそ。

 

「これは、今だけ、ですから……」

 

 わずかにコッペリアの手袋は濡れた。

 

「分かっているとも。僕の可愛い子」

 

 半月が、二人を照らす。

 嗚咽は、しばらくの間、寝息だけの空間に聞こえていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

『悪夢』とは何か。ヤーナムには、地上で最も多様な答えがある土地に違いない。

 例えば、医療者は『上位者が見る夢だ』と言い、狩人は『我が身を捕らえる忌々しいもの』と語り出すだろう。

 ヤーナム外と共通した価値観を得ようとするならば『夢としか思えないような、思い出すのも恐ろしいこと』──という一点のみが普遍的な感覚として人々に受け入れられるかもしれない。

 

 そして、今夜。

 

 かつてヤーナム外に存在し、いま古都ヤーナムに触れた彼にとっては『夢と思いたい、ありえないこと』も加わることだろう。

 

 

「──やあ、旦那さん。ヤーナムは二度目だな?」

 

 クィリナス・クィレルが意識を取り戻した時。

 途方も無く広い洞窟のような場所にいた。

 目の前には──見間違えでなければ──最悪の旅となったアルバニアへの道中、ヤーナムで出会った青年が立っていた。

 

「あ……?」

 

「待て。動くな。話すな。辺りを見回すな。今度は命を保証できない」

 

 彼はスッと左手を挙げて、クィレルの動きを制した。

『命の保証はできない』

 平時であれば大袈裟と思える言葉だったが、クィレルはピタリと動きを止めて食い入るように彼を見た。

 背後では、巨大で湿った何かが這いずる音が聞こえていた。

 

「久しぶりだな。ずいぶんと自業自得で痛ましい死を遂げたらしい。このような形で再会になって、とても残念に思う」

 

 青年──名は、そう。

 

「私は、月の香りの狩人。覚えているだろうか?」

 

 声を出してはいけないのでクィレルは何度か必死に頷いた。

 汗が顎を伝って落ちた。

 

 汗。

 

 肌に乗る水滴の感覚を、彼は信じられない思いで感じていた。

 ──なんということだ!

 自分は、いま、生きていた。クィレルは、信じられない心地でいた。驚きのあまり、ほかの感情が浮かんでこないのだ。

 

 闇の魔法使い、ヴォルデモートに唆され、乗っ取られて、強行した。

 ハリー・ポッターに触れ──焼け爛れ、膨れ、砕けていく手を見た時に、死ぬほどの後悔をした。

 何を投げ出しても勇気を振り絞り、闇の帝王を、ヴォルデモートを拒むべきだった。死の間際になってから、そう痛感したのだ。

 おもわず、後頭部に触れる。恐れていた感覚は、指先に触れることは無かった。ただのつるりとした頭皮だった。

 

 しかし。

 クィレルは困惑する。そして恐怖した。

 自意識では、間違いなく死んだと思っていた。

 

 それでも、死んでいなかった。

 

 けれど、やはり、自分は今日ここで死ぬかもしれない。

 それが容易く信じられるほど、背中に感じる威圧は尋常なものではない。

 得体の知れない何かが背後の、それもすぐそばまで這い寄っているに違いなかった。

 枯れた羽のようなトリコーンをかぶり、黒い血除けのマスクで顔を隠した彼は言った。

 

「幸運は二度で打ち止めだ。悲しいかな。ヤーナムに来て、三度も目覚めることはできない。夢を見る狩人でない限りはな。──だが、望むのならば」

 

 そう言って、狩人はゆっくりと薄ぼんやりと明るい洞窟の向こう、出入口らしい穴を指さした。

 

「二度目の幸運でモノにできることもあるだろう」

 

 彼はクィレルの黒いローブの胸を突いた。

 命を指差しているのだ。

 

「……決して後ろを振り返らずについて来てくれたまえ」

 

 ぎこちなく、鉛でも詰め込まれたかのような、重い足取りで歩く。

 永遠のような、長い道のりに感じられた。

 背中から圧し掛かるように感じられた威圧から放たれても彼は振り返ることはしなかった。

 洞窟のような空間を抜けると古めかしい昇降機が現れた。

 

「足元のスイッチには触れるなよ」

 

 先に乗るように促され、クィレルは昇降機に踏み入った。それはギィと嫌な音を立てた。

 狩人は乗り込むと雑にスイッチを踏んだ。

 服があおられるほどの勢いで、それは上昇し始めた。整備を怠っているのか時おり、ガタゴトと激しく揺れるのが堪らなく恐ろしかった。

 

 停止すると驚くべきことに人工物のなかにいた。

 蝋燭も無く暗い、板張りの廊下が続いている。大きな建物の中だということが分かった。

 

 横目で狩人を見る。今度は彼が先に降りた。

 そして、いつかクルックスがそうしたように左手を曲げて一礼をした。

 

「ようこそ、病の街、呪われた古都ヤーナムへ。月の香りの狩人が歓迎しよう。──あなたは賢く、そして幸運だ。ヤーナムに来て、どうやら、生きて帰れるらしい」

 

 何も言うことができなかった。

 生きていることを確認するようにクィレルは自分の頬を撫でた。

 

 その仕草が面白かったのだろうか。

 瑞々しい果実が弾けるように。狩人の嬉々とした笑い声が空間に響く。

 クィレルは、最後まで振り返ることはなかった。

 恐怖で強張った顔のまま、しっかりと狩人を見つめていた。

 

 

 

 かつて。

 星幽、時計塔の貴婦人マリアは言った。

 

 ──だからこそ、恐ろしい死が必要なのさ。

 ──愚かな好奇を、忘れるようなね。

 

 狩人はクィレルの姿から多くの学びを得ていた。

『命が得られるのなら、他の何を手放しても惜しくは無い』

 彼は、そんな恐ろしい死を知っているようだった。

 

(外か。外。ヤーナムの外。外来の神秘。魔法界。ホグワーツ。そうか。そこにはあるのか。──好奇を殺す、恐ろしい死が)

 

 それは。

 狩人が見る、宇宙悪夢的死相とは異なるものだろうか。

 どのようにもたらされ、そして、愛により滅ぼされたのだろうか。

 

 時計塔の番人は狩人に対し、恐ろしい死をもたらしてはくれなかった。

 しかし。

 彼女の遺した傷は、狩人の好奇を殺す恐ろしい死に『最も近かった』と証明したい。

 それは彼女が美しく、鮮やかで、何より強くあったことの証明にもなるだろう。

 

「あぁ、いいぞ、いいぞ! 悪くない。いいや、良い。とても良いぞ!」

 

 大きな独り言と共にクィレルの手を掴んだ。

 聖堂街上層に届く市街の銃声は、少なくなっていた。

 ビルゲンワースの学舎、禁域の森は遠い。

 狩人は、引きずるように彼を連れて歩いた。

 

「今日も悪夢は廻る! さぁ、目が眩むほどの悪夢を続けよう!」

 

 悪夢の主は、笑った。

 

 まだ。まだまだ。

 何も足りはしないのだ。

 

 ヤーナムの歴史とは、血に依って作られる。

 だからこそ、彼は集めなければならなかった。

 

「人の営みを歴史とするならば、人を規定する血より作られた歴史は、やはり人類史と相違ない。だから、クルックス。君は正しい選択をしたのさ! 水など似合わないし、そぐわないし、舌にも肌にも合わないだろう! ──ヤーナムには! 狩人には! 俺には! 血こそが相応しい!」

 

 空が白む。

 夜明けが迫っていた。

 




【タグ】
 後付けになってしまいました。申し訳ないです。

【解説】
 星の娘が祈っている場所──嘆きの祭壇には、不思議な機能があります。『時間を巻き戻す』なんて機能があります。ヤーナム七不思議のひとつですね。
 個人的な考察として、あれはロマ死骸の持つ固有の能力だったんじゃないかな、と思います。
 根拠はあまり無いんですけど、強いて言うならば、星の娘が持っている能力として戦闘にも見せなかったものが舞台装置として現れたのだとしたら、唐突すぎるんじゃないかな、と。……「まあ、相手は上位者なんだからそういうこともあるでしょ」と言われたらグゥの音も出ないんですが、それをひとまず置いておいてですね。星の娘戦でジョジョ3部のDIO戦のようなナイフのノリでメテオされたらたまらないです。
 ロマがテキストと戦闘で見せる能力には、まず『隠す』、『隠れる』、『移動(テレポート)』、『ロマ子蜘蛛の召喚』があります。「時間に関係する能力はどちらかといえばどっちにありそう?」と問われたら「まだ、ロマのほうかなぁ」という消去法でロマ(死骸)固有能力説を考えています。
 しかし、これにも問題があって、そうだとすると「時間を巻き戻す能力は湖にいる方のロマ(生身)もできるのか?」という論まで考え付きます。すると「ロマちゃん多才問題」が発生してしまい、これもちょっと似合わない感じもするのですが、そもそも『白痴』という言葉は、人間の杓子での話。ひょっとしたらロマちゃんは多才なのかもしれない。ということを書きながら思いつきました。
 あとは、瞳を得た人間が変態する形状として、よく見られるのがロマ=タイプ(仮称)であり、個々に能力を獲得する──という程度の話なのかもしれません。イーブイかな。もっと瞳を植えて確認しないといけませんね。もっともっと人間は結果にコミットしてほしいです。
 さて、本話においてはクィレルの砂っぽい身体を元に戻すために使われましたが、実際、ゲーム本編においては「不死の女王だから成功したんじゃないかな」という気がします。なんせ不死だしね。多少体がどうにか(肉片)なっても治るんでしょ、たぶん。そうでなきゃ、ヨセフカ医院の青キノコ(ヤーナムの少女)を上層まで護送しますよ。有識者血族の方、その辺どうなんですか。ご情報をお願いします。

【あとがき】
 筆者は、蛇に足を書いて靴まで履かせてから酒を飲みたいと思うタイプなので、賢者の石(後日談)が、あとすこしだけあります。
 本作は、〇年生まで(ヤーナム)、〇年生(ホグワーツ)構成なので、今後は、仔ら視点を中心としたヤーナムでの話が、約10話くらい続きます。
 筆者の書く1話が約1万字なので、10話(10万字)くらいはヤーナムの話が続くワケですね。そしてホグワーツが15~20話(15~20万字)の計算なので、しめやかに発狂。ちなみに現在は「2年生まで」の2話目を書いています。今後は、2年生(ホグワーツ、秘密の部屋編)が書き終わったら投稿する予定ですので、速やかに発狂。
 鎮静剤(感想)または輸血液(感想)お待ちしています。


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ヤーナムの日常

時間
時の流れのある一点を切り取ったもの。
だが、 前後関係を明示するための変数に過ぎない。


 ビルゲンワースの教室の一室。

 午前十時。

 珍しく晴れた空から、燦燦とした夏の日差しが差し込んでいる。

 そんな屋内で。

 

「──というワケで、死に戻りしたクィリナス・クィレル先生だ。みんな、イジめてやるなよ」

 

「はーい」

 

「分かったわ」

 

 一通りの経歴と事情を話し終えた後、教壇に立つ狩人の発言に対し、素直に返事をしたのはテルミとユリエだけだった。

 死んだ人物が存在している現象をすんなり受け入れるほうが、どうかしているのだ。

 だが、教会の黒服に身を包む人物は、紛れも無くクィリナス・クィレルだった。

 

 クルックスは、驚きのあまり固まって声も出ない。

 ネフライトは、品定めするように瞬きもせず眼鏡の向こうで見つめている。

 セラフィは、すでにカインハーストに旅立った後だ。

 そして、コッペリアはブルブルと身を震わせ、とうとう肘掛を叩き、学生席から立ち上がった。

 

「狩人君ッ! 君ってヤツは! 君ってヤツはーっ! クルックスが、ようやく悲しみを乗り越えて強くなったのに! 台無しに! 台無しにしてーっ! もーっ! 人の心が分からんヤツだな! さすがは上位者なので当然なのかね!?」

 

 地団太を踏む一九〇センチ成人男性を前に、既に怯えていたクィレルは「ヒッ」と声を上げ、泣き出しそうな顔をした。

 

「コ、コッペリア様! や、やめてください……! 俺は別に」

 

「──ねえ、クルックス。何の話かしら? わたし、とっても気になってしまったわ」

 

「テルミは黙っていろ! 俺は気にしてませんから……本当に……!」

 

 クルックスの不安とは、狩人とコッペリアが自分のせいで不仲になることだった。

 その事態が避けられるのであれば何でも構わない。

 クルックスは素早く立ち上がると今にも狩人に飛びかかってしまいそうなコッペリアをドゥドゥと押さえた。

 

「んん……? そう? 君が気にしないのであれば、僕も、まあ──やっぱり、よくないな! 後でじっくり教育方針について話し合おうじゃあないか、狩人君!」

 

「なぜそう怒るのか分からないな。経緯はどうあれ生きているんだぞ? 青キノコでもない。何よりギィギィ鳴いたりしないんだ。頭だって、たぶん正常だし、聖堂街上層から禁域の森の奥地のここ、ビルゲンワースまで歩いてくることができる健脚でもある」

 

 ほらほら、と狩人はクィレルを指差した。

 

「でも、僕は死んでいて欲しかったな!」

 

「コッペリア様! 本当に! 俺は! 気にしていませんので! いませんので! あなたが思うより大丈夫なので!」

 

 肩を怒らせる彼を座らせたクルックスは、自席に着いた。隣に座るネフライトが「聖歌隊が熱く語るものだ」と鼻で笑った。もう少しクルックスに心の余裕があれば、コッペリアを侮辱した彼の鼻柱をへし折るところだったが、今は父たる狩人がいる場であり、何より心の余裕が無かった。

 

「まあ、このような意見もあるワケだが。他はどうか?」

 

 狩人は、三人を見た。

 

「雑巾より役に立つでしょう。私は問題に感じません」

 

「わたし達が持ち込む知識より手早く確実にヤーナム外の神秘について知見を得られそうです。お父様、きっと良い試みですわ」

 

「私もテルミと同じ意見よ。……けれど、狩人君。事前に話してくれても良かったと思うわ。昨日、ほとんどの食料を調理してしまったから歓迎会ができないのに」

 

「思い付きで行動したのは悪いと思っている。あと食料は後で俺が調達する。心配しなくていい。では、先生、挨拶を」

 

 狩人が教壇を譲るとクィレルはヨロヨロと教卓の前に立った。

 死刑囚さながらの顔は酷いものだった。

 ビルゲンワースの溶けた学徒並に突然嘔吐するのではないか。狩人が憂うほどだった。

 

「み、皆さん、こ、ここ、こんにちは……わ、私は……クィリナス・クィレル。ホッホホ、オ、ホグワーツの先生……でした。何が、どういうワケか……わわ、私にも、分かりませんが、今、私はヤーナムにいます……わ、わた、しにできることは、な、な、何でもしますので」

 

「じゃあ、背骨出しなよ。あと血。バケツ三杯は覚悟しておくんだね」

 

「コッペリア様っ!」

 

 クルックスは、悲鳴のような声を上げた。

 言い募ろうとしたクルックスを制した狩人が、静かに言った。

 

「うーん。聖歌隊の黒服イジメの実態を見てしまったような気がする。……だが、コッペリア、それ以上の言葉は連盟的に『頭のイカれた医療者』と見なさなければならない」

 

「しかしだね、狩人君。彼は、貴重な外来の神秘の被験者だ。ヤーナムの血は、もう入れたのだろう? ならば手術台の栄誉を賜すことだって悪くは無い将来だと思うのだよ」

 

「『我々に』とって悪くないだけで、彼にとっては好ましい事態ではないだろう。そもそも血は入れていない。視点を外しているな、コッペリア」

 

「えっ!? 血は入れていないのか? ということは純粋な外来の神秘じゃないか! おぉ、異邦人が手術台の栄誉を賜れるなんてかつてない幸運だというのに!」

 

 話にならん、とばかりに狩人は顔を顰めた。

 

「コッペリアをはじめ皆にハッキリ言っておく。クィレル先生は五〇年ほどヤーナムに滞在して、それから外の世界に帰る予定だ。もちろん。その間、手術台に一切用事は無い」

 

 いくつかの口が「えっ」という言葉を漏らした。

 そのうちのひとつは話題のクィレルだったので狩人は首を傾げた。

 

「ん? 『しばらく』滞在するという話だったろう?」

 

「ししし、『しばらく』とは、せいぜい数か月のは、話では……?」

 

「だが、先生が生きていると都合が悪い人がいるのだろう? それが何歳か知らないが、五〇年もあればたいていの知人は死ぬだろう」

 

「五〇年! わ、私も死んでしまいます……!」

 

 狩人が「あー」と小さな呻きをこぼし、ユリエに助けを求める視線を送った。

 それに答えたユリエが咳払いをした。

 

「寿命については、あまり問題は無いでしょう。現在、ヤーナムの時空間は激しく歪んでいます。具体的に言えば、ある例外を除いて一年間が二〇〇年以上繰り返されていますから」

 

「街に訪れた時、や、やけに、古いと思った。じ、時間が止まっている?」

 

「それは異なる考え方ね。時間は緩やかに進み、戻り、重なり合って、縒り合い──」

 

「ユリエ、話し過ぎだ。彼は、僕らに従わない自由がある。だから僕らにもヤーナムの血を受け入れていない者に『語らない自由』だってあるハズさ。そうだろう? 狩人君」

 

「それが対等というものだ。まあ、つまりだ、先生。寿命はあまり心配しなくていい。それで五〇年でいいか? やっぱり百年くらいにしておくか?」

 

「ふ、増えてるっ! 十年くらいで……」

 

「ああ、そう。控えめなんだな」

 

 話の先を促されたクィレルは、挙動不審だったが、しかし、覚悟を決めたように顔を上げた。

 

「あ、あの、私は、ひとつ、み、皆さんに、謝らなければ、な、ならないことが……」

 

「生きていることを苦にして欲しくはないのだが、その件ならば──」

 

 狩人の言葉に、クィレルは首を横に振った。

 

「いえ、ま、まったくの、別件です……。闇の帝王のことです」

 

「誰かしら?」

 

 クィレルは深刻な顔をしているが、ホグワーツに通っていた三人を除く大人たちは首を傾げる事態だった。

 ユリエのもっともな疑問に答えたのはテルミだった。

 

「約十一年、イギリス魔法界で暴れまわっていた魔法使いの犯罪者のことです」

 

「そう。ずいぶん仰々しい名を呼ぶのね。本名が知られていないのかしら?」

 

「通名は、ヴォルデモートだそうです。本名は辿れませんでしたわ」

 

 ふぅん。

 三人の大人達は「それで?」と無言のうちに話を促す。

 憐れなほど震えるクィレルは血の気が引いているようだった。

 

「わ、わたしは、旅行中に手記を書いていて、そ、そのため、ヤヤ、ヤーナムのことが……その闇の、て、帝王に、し、知られてしまったのです」

 

 核心を話したところでヤーナムの民は、荒れた感情を見せることは無かった。

 誰も何も言わないので狩人が代表して彼らの内心を代弁した。

 

「ふむ。それの何が問題なんだ?」

 

「や、闇の帝王ですよ……! お、恐ろしい! あれが、ヤーナムに、く、来るかもしれないと──あぁ!」

 

 可能性さえ考えたくないらしい。

 クィレルが顔を覆った。

 

「来る? それはなぜ? 観光? 見てのとおりヤーナムは何の変哲もない、ただの病の街なんだが」

 

「ヤーナムが秘匿された、か、隠れ家に、なりうるからです……」

 

 隠れ家。

 言葉を繰り返した狩人は「ふむ」と顎に手を置いた。

 何事か計算を終えたユリエが彼に尋ねた。

 

「狩人君、ヤーナムの外から来る異邦人についてどれほど把握できているのかしら」

 

「俺は獣だって取りこぼしたことが無い。目覚めている間に入って来た者には目が届く」

 

「では、厳戒態勢は一日でよいとしよう」

 

 コッペリアが話をまとめ、狩人が頷く。

 対策は決まった。

 

「クィレル先生。あなたの危惧に対し、我々は『問題にあたらない』とした」

 

「……っ……」

 

 彼は、歯がゆい思いをしているのかもしれない。だが、言葉が足りなかった。

 ユリエが彼を落ち着かせるように語りかけた。

 

「あなたの死因になった恐怖を、理由を、我々は未だ解さない。再び議論を必要とする場合は、あなたが我々に理解できる言葉を用意してから話し合いましょう。ヤーナムの安寧を脅かす存在について今回は『問題にあたらない』とはしましたが、これは永劫に問題として取り扱わないという意味ではありません。子供たちとヤーナムの外との交流実験は、もうしばらく続きます。本件に関わらず、この類の議論は我々にとっても続けられるべきなのです」

 

「…………」

 

 狩人が軽く手を挙げてユリエを肯定する。

 彼女の言葉を最終結論として、クィレルの告白は終わった。彼の横顔には、わずかに安堵の色が見える。

 おぼつかない足取りで教壇を降りた彼にユリエとコッペリアが歩み寄った。

 

「月の香りの狩人が招いた客人、歓迎しましょう。私はビルゲンワースの学徒、聖歌隊のユリエ。月の香りの狩人の協力者よ」

 

「同じく僕はビルゲンワースの学徒、聖歌隊のコッペリア。いまや月の香りの狩人の協力者さ。よろしく。我欲に溺れて悪人に魂を売った挙句、年端もいかない少年にブチ殺された青年教授のクィレル先生」

 

「てて、敵意がスゴい! スゴいですよ!」

 

 握手しながらクィレルが助けを求めるように狩人を見た。

 ひとつ。欠伸をした狩人は、肘掛に腕を預けた。

 

「彼は初対面に噛みつかずにはいられないヤツなんだ。俺だって三階から背負い投げされたし」

 

 狩人は、クルックスにとってお腹がキリキリと痛くなる話題を軽く言った。

 その視線の先では。

 

「仲良くしようじゃあないか、異邦人。ぼかぁ、死んでも苦情が来ない人が大好きでね。君とは親友になれそうな気がするんだよ……」

 

 馴れ馴れしくクィレルの肩に腕を回したコッペリアが邪悪に笑った。

 ──うまくやっていけるだろうか。

 クィレルの顔は、青ざめていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 教壇には、ネフライトが立っていた。

 もともと狩人が皆をビルゲンワースの教室に集めたのは、彼が一年で集めたヤーナム外の神秘──すなわち魔法について知識の共有を行うための勉強会であったのだ。

 狩人とネフライトの間で行われる予定であったものを『一年間お疲れさま会』のおり「どうせなら僕らも聞きたい」とコッペリアが言ったことでこのような場が設けられた。

 ついでのついでとして、クルックスとテルミ、そしてクィレルが学生席に座っている。言葉を操るのが上手くないクルックスが補足説明をすることは無いだろうが、テルミは必要とあれば口を挟むだろう。

 

 最初の十分程度。

 クルックスは理解に努めたが、健闘虚しく気付けば寝ていた。

 ヤーナムで父と学徒達に囲まれる安心感は、ヤーナムの外のどこにも無い得難い感覚であったのだ。

 頭がカクリと揺れて目が覚める。

 ネフライトの説明は終わりが近づいているようだった。

 すでに議論の段階に移行し、質問と回答の応酬が繰り広げられている。隣に座るテルミが目を輝かせて楽し気にしていた。どうやらロクでもないことが起きているらしい。

 

 三方向から挙手が見える。

 

「素人質問で申し訳ないけれど──」

 

「ユリエ様……」

 

「聞き逃したのかもしれないがね──」

 

「……コッペリア様」

 

「えー、俺の知識不足が原因だが──」

 

「お父様まで! あなたが知識不足なら誰が博識だと言うのですか! くっ……!」

 

 普段は不気味なほど静かにしているネフライトが語気を荒げる。

 彼の頭のなかにどれほどの知恵が渦巻き、単語を整列させているのか。クルックスには見当がつかない。しかし、彼が現状、不利な状況にあることは理解が及んだ。

 

「劣勢だな、手伝おうか」

 

「口出し無用! メンシス学派は! 聖歌隊に! 負けないのだから!」

 

 追加資料を提示したネフライトは、活力が漲っている。

 いつもホグワーツの図書館で眠たげにしていたのが見間違いだったようだ。どうやら彼に真に必要なものは張り合いのある知識人であったらしい。

 

「いいね。メンシス学派が檻臭い学徒くずれではないことを証明しておくれ。彼らの賢い子」

 

 試すようにコッペリアが笑いかける。

 狩人が懐から羊皮紙を取り出した。

 それに何事か書きつけた後で、ひとつ手を叩いて議論をまとめた。

 

「メンシス学派。そういえば、今頃どうしているのやら。まあ、いい。──ネフ、面白かった。ありがとう。参考にもなりそうだ。外来の神秘──」

 

「狩人君、魔法ね」

 

「そう、魔法。杖はアレだ。つまり、ヤーナムで言うところの神秘の『先触れ』の存在なのだな。全てそれを触媒にして魔法という神秘を起こす……と。ふむ」

 

「引き続き調査を進めます」

 

「無理をしなくていい。勉強の片手間で十分だ」

 

 こっちで読み込むのにも時間がかかって大変だった。

 そう言った狩人に、ネフライトは珍しく力強く首を横に振った。

 

「いいえ。私は、獣の病に対する一つの解答を魔法界で作り出しましょう。メンシスに所属する者として、雲に紛れようと確かに月は解として正なのだと示してみたいのです。また、たとえ正しく発芽することのない苗床ができたとしても……それは確かな前進であると信じていたいのです」

 

 ユリエが、何か言いかけるように薄く口を開いたが、しかし、言葉は出てこなかった。

 その代わりのように狩人が笑った。

 

「いいだろう。面白い。良いセンスだ、ネフ。セラフィは俺に人間の証明を見せてくれるらしいが、君にも期待しようか。とはいえ、何より自分自身を大切にな」

 

「ご理解に感謝いたします。……私はこのままヤハグルに行きますが、ご用あれば鐘を鳴らしください。すぐに参りますので」

 

「エドガール君によろしく」

 

 ネフライトは『狩人の確かな徴』を使い、姿を消した。

 小さく控えめな笑い声が聞こえてクルックスは、テルミを見た。

 

「あーぁ、面白かったわ。ネフの顔を思い出すだけで、あと半年は飽きませんね」

 

 学生席を立ったテルミは、狩人達を見た。

 

「おや、テルミも孤児院に戻るのかい」

 

「ええ。そろそろ行きませんとね。名残惜しいですわ、コッペリアお兄様」

 

「僕もだよ。僕らの妹」

 

 コッペリアは、狩人に連なる四仔をそれぞれの変わった名で呼ぶことがある。

 テルミのことは『僕らの妹』と呼んでいた。

 彼女が聖歌隊に連なる点で所属の関係上、同じ存在であるからだろう。

 

「もうすこしゆっくりしていけばいいのに……とも思うけれど。あちらをあまり不在にしてもね。テルミ、次にホグワーツに旅立つ前に、あなたへ拝領の儀を行います。新しい聖布を用意しておくわね」

 

「もう? よいのですか?」

 

 意外な提案だったのか、テルミが目を丸くした。

 

「孤児院では十歳に済ませるんだ。君は、ようやく一歳と半年だが、利口な君は特別だよ。何より、君のお父様から許可をいただいたし」

 

「まぁ、ありがとう、お父様」

 

「おぉ、ぉう」

 

 ひどく動揺している狩人は決してテルミを見まいとしているようだった。

 微妙な空気になった。

 次に誰が何を話すのか。誰もが待っているようだった。

 隣に座るコッペリアが狩人のブーツを小突いた。

 

「……ちょっと。狩人君、練習したじゃないか……」

 

「……いざとなると緊張するんだよ……。あー、んんー、テルミ、その、無理は、するなよ」

 

 辛うじて聞こえる程度の声で言いきった狩人へテルミは輝いた顔を向けた。

 

「なーんにも! 無理で無茶で無謀なことはありませんわ! フフ、ウフフ、お父様に心配されちゃった……! それでは、お父様、お兄様、お姉様、クルックス、先生、ご機嫌よう!」

 

 黒い教会服をひらりと揺らしてテルミの姿も消えた。

 きょうだいで残るのはクルックスのみとなった。

 

「俺は、夕までここにいる予定ですが……。お父様は?」

 

「市街でギルバートさんの様子を見て来る。ユリエ、輸血液を用意してほしい」

 

「一時間で用意しましょう。──では、コッペリア、クィレルさんに学舎の案内をしてあげて」

 

 コッペリアは不承不承であったが、ひとまず頷いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 廊下は、教室と同じくらい燦燦と陽が差していた。

 ヤーナムにしては珍しい晴れた天気だったので、クルックスはホグワーツと錯覚しそうになっていた。幻を振り払うように彼は頭を振った。

 待ち時間は、一時間だった。

 どこかへ暇つぶしに行こうとする狩人の背に声をかけた。

 

「クルックス、何か?」

 

 言いたいことは山ほどあるはずなのに今日も口が重い。

 クルックスは、伸ばしかけた手を無意味に握ったり開いたりした。

 

「……疑問は、解決しましたか」

 

 絞り出すように言った。

 狩人は、昨夜のことを思い出したのだろう。

 

「ああ。とても有意なものだった」

 

「どうして、クィレル先生を……その……聞いてもよいでしょうか?」

 

「それを説明するには、まず最も新しい獣狩りの夜について話をしなければならない。つまりは最後の周回についてだが、一時間では足りないな」

 

 後で。

 そう言う狩人の姿は珍しいものではなかった。

 クルックスの質問の半分は、このような形で彼は答えてくれない。話したくないのか、それとも本当に時間を気がかりにしているのか、彼には今でも判断ができなかった。

 しかし。

 

「時計塔のマリア」

 

 背中を向けた狩人が、ピタリと動きを止めた。

 

「──とは、どなたのことですか」

 

 狩人は、ヒョイと肩を竦めて振り返った。

 

「まず誤解してほしくないのだが……俺は何も説明を渋っているワケではない。誤解無く情報を伝えるためには口達では不完全だと思ってな。特別な『機会』が必要だと思っているんだ」

 

「狩人の夢であれば」

 

「口達では不完全だと言っただろう? 固まらない血のように、記憶を保ち、遺志を伝える──ああ、やはり特別な物が必要だ」

 

「特別な?」

 

「だが、なかなか適切な素材が見つからなくてな。俺も少々困っている。質問に答えてくれない苛立ちというものは、痛いほど分かる。時間はかかるかもしれないが、いずれ用意する予定だ。クルックスに限らず皆にだが」

 

「い、いえ、別にイラついているワケでは……すみません。でも、ありがとうございます」

 

「二〇〇年以上のあれこれを一年で理解しろとは暴論だからな。分かっている。気にするな。……夜は市街だ。君も来るか?」

 

「は、はいっ! あの、珍しいですね……」

 

 狩人が誰かを狩りに誘うのは、本当に珍しいこと──稀だった。

 彼は、困ったように頬を掻いた。

 

「少しくらい俺も気をつかうさ。クルックスは、久しぶりの獣狩りだ。うっかり獣の餌になったら俺だって寝覚めが悪い」

 

「…………」

 

 本音は『大丈夫です』と言ってみたい。

 けれど、狩人から誘われたことが嬉しかったのでクルックスは、一礼した。

 

「……最後にひとつだけ。ホグワーツに旅立つ前、ネフへ『神秘に振れ』と伝言をしたでしょう。その真意とは?」

 

「『どうせ回転ノコギリでギャリギャリするんだろうから水銀弾も余るだろうし、怨霊と一緒に突っ込めば強いかなぁ』と」

 

「そ、そ、そ、それだけ?」

 

「──図体のデカいヤツには試してみる価値アリだろう?」

 

 狩人は目を細めた。それが不慣れな父親を演じる、彼の見せる微笑みだとクルックスは知っていた。

 何もかも彼にはお見通しだったような心地になり──すこしだけ、くすぐったい。

 

「湖にいる。ユリエの準備ができたら呼んでくれ」

 

「はい!」

 

 ひらり。彼は、右手を挙げた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ユリエの準備が整う間、ビルゲンワースの棟内を巡回にでかけたクルックスは、最上階の廊下の窓越しから湖の畔で佇む父たる狩人を遠くから見ていた。

 空に何かを探すように彼は仰いでいる。

 

(何が視えるのだろうか)

 

 同じように空を見上げても、薄曇りの明るい空しか見えない。

 だが、ヤーナムの宙にあるものは、知っている。

 一年を二〇〇年以上繰り返しているヤーナムには、古い遺志の漂いが大気に満ちているのだ。

 

 だが、クルックスは、それらを知覚できたことが無かった。

 狩人のような経験が足りないからだろう。

 彼は、階段を昇り、狩人に背を向けた。

 

 いまや血に依って作られる歴史の渦中。

 

 夜ごと悪夢から還る人がいるのも珍しいことではない。

 

 宙を眺める月の香りの狩人であれば、気付いていたかもしれない。

 それは、狩人の古い罪に近い。

 

 今日の風には、微かに、深い沖からの匂いが漂っていた。

 




【解説】
 古い遺志の漂い。
 海の香り。
 狩人の古い罪。
 血によって作られる歴史は、意志の歴史でもある。
 夜、悪夢に去った狩人がいるのならば。
 朝、狩人が悪夢から戻ってくることもあるだろう。
 仮初であれヤーナムの獣狩り夜は終わったのだから。

【解説2】
 ビルゲンワースの閉じた瞳、コッペリアは仔らを愛称で呼んでいます。
 下記は、その一覧です。
  僕の可愛い子:クルックス
  僕らの妹  :テルミ
  彼らの賢い子:ネフライト
  貴い御方の剣:セラフィ
 テルミが聖歌隊(の孤児院)所属になった時は、僕らは、とても嬉しくて泣きながら晩酌した。最後にして最新のヤーナム史において迎えた『獣狩り夜』に、僕ら聖歌隊は間に合わなかった。ついに僕らの瞳は、星の徴を見つけることはできなかった。それが時間の問題なのか。手法の問題であったのか。僕らは今なお理解が及ばない。また、あの悲惨な夜において月の香りの狩人が聖堂街上層で得た成果はほとんど無かったと言える。それは聖歌隊が、後世に遺せるものがほとんど何も無かったことも意味した。誰の記憶にも遺らないことは、遺志を託せず消えていくことと同じだ。……テルミは、僕らがようやく見出した、最初で最後の、最高の、全てを知った聖歌隊の後継になれる器なのだ。もっとも。あの子に、そのつもりは無いようだけど。【コッペリアの手記】



【あとがき】
 聖歌隊+狩人の質問の仕方は、絶対に聞きたくない言葉ですね。聖歌隊、たとえ相手が子供であってもメンシス学派には思うところがあるようです。
 根も葉もないけど聖歌隊って黒服イジメてそう。高飛車な聖歌隊しか得られない成分があります。素早く心に届くタイプの成分です。

 次話の番外を挿入話として、賢者の石編が終了となります。
 もうちょっとだけお楽しみいただければ幸いです。

 ご感想のご返信が遅れていますが、募集していますのでよろしくお願いします。
 指摘についていろいろと考えるのが楽しくなりすぎてきました。皆さまのロマ考察がとても興味深いのです。(もちろん、考察でなくとも大歓迎です)
 
 


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最も新しき獣狩りの夜(狩人の悪夢─地下牢)

狩人の悪夢
狩人の行き着く最後の地。
存在は罪の証であり、住民は罪人である。
戒める場所ではない。
ただ、罰する場所なのだ。



 狩人の悪夢。

 実験棟へ繋がる地下牢。その最下層にて。

 足音が響いていた。

 規則正しく階段を下る音だった。

 

 やがて足音が止まる。

 牢の覗き窓からは、枯れた羽を模したトリコーンが見えた。

 

「…………」

 

 最初に鍵を掛けられて以来働きづめであった牢の錠は、とうとう役割を終えた。

 

「……ほう、これはこれは……」

 

 思わず、牢の主は呟く。

 声は低く、そして嗄れている。

 

 現れた男を、彼は知っていた。

 地下死体溜りと呼ばれる血に溢れた大聖堂、そこで正気を失った獣憑きを打ち倒した後で、彼はこの地下牢を訪れたのだ。

 

『もし。そこに誰かいるのか? 生きているのか?』

 

 そこでは短い会話を交わした。

 牢の主が握る鐘の音は聞こえていなかった。だから、互いに敵でもなければ、味方でも無かった。

 だが、いまや敵同士だ。

 ほんの数分前は剣戟の音が鳴り響いていたのが嘘のような静寂の後で、狩人は然りと標的を認めた。

 

「獣の皮の殺し屋。シモンを殺したな」

 

 窶しのことならば然り。

 獣の皮を被った牢の主はそう告げようとしたところ、敵対者はルドウイークの聖剣──細身の銀の剣を握る右手を挙げた。

 

「返事は要らない。私は分かっていて、知ってもいる。教会の刺客、ブラドー。このやりとりも何百回目か何千回目だ。そして、私はあなたを殺す心算も無い。──あなたを殺したところでシモンは戻ってこない。そして、彼の願いを果たすこともできないだろう」

 

 不可解なことを言う狩人を彼、ブラドーはわずかに笑んで見ていた。狂気に中てられたか、正気を失いつつあるのだろう。気に留める必要が無いと知れたからだ。

 しかし。

 

「──願い? あの救世主気取りの下賎が、お主に何を願ったのかね」

 

「『あんまりにも狩人が憐れだから、悪夢を終わらせてくれ』と」

 

 聞くなり呵々大笑した。被る獣の皮がぶるりと震えた。

 

「狩人の悪夢に存在する狩人は、もうあなたしかいない。悪夢を終わらせることは……分からないが、ひとまず悪夢から目覚めることはできる。私は実験棟の先を見た。あなたの役目は、失敗という形で終わった」

 

「いいや。終わらぬよ。まだ。まだだ。何も終わってはいないのだ。その秘密、持ち帰ることあたわず。刺客はどこまでも、お主を追っていくぞ」

 

 ブラドーはそばに置いてある『瀉血の槌』を握る。狩人は剣を向けた。

 医療教会が作った武器だというのに、その性格は異なる性質を示した。同じものを見て、異なる感想を抱いた者がいるように。

 

「それは叶わない誓いだ。医療教会の鳴らぬ鐘の暗殺者。あなたが私を仕留めるより、私が悪夢を廻すほうが速い。何より、私のほうがあなたより強い」

 

「試してみるかね」

 

「それには及ばない」

 

 再び、狩人は右手を挙げて制した。

 それに従う理由も無かったが、彼の瞳を見て、動きを止めた。

 銀灰の瞳は、暗く輝き、深い海のように揺れていた。

 

「狩人の悪夢には、もう誰もいない。表のヤーナムにもほとんど人がいない。あなたは知らないだろうが、今回の獣狩りの夜は大きな赤い月が昇った。聖職者はことごとくが右に左に変態するか、医療者は血に溶けて久しい。……狩人は、私を含めて数人と市井の人々が辛うじて生きながらえている程度だ。そして、私を除く狩人は、悪夢に興味が無い。あなたは獲物を永遠に失した」

 

「信に値するものは?」

 

「何も無い。強いて言うならば私の言葉。そして、あなたが腸と一緒にぶちまけた、シモンの慈悲に誓おう。ヤーナムに戻るつもりはないか? 殺し合いはいつでもできるが、今はとかく手が足りない。使えるものは何でも使いたい」

 

 ブラドーは動かなかった。

 狩人は、入ってきてから今まで冷静のように見える。

 だが、語気はわずかに荒れた。

 

「もうじき狩人の悪夢は閉じられる。ここにいては取り残されるぞ。それとも。あなたの友が、ローレンスが、あなたの死を望むのか?」

 

「その名で騙ることを私は許さぬ」

 

 音の鳴らない割れた鐘が、手の中で強く軋んだ。

 狩人は、サッと頭を下げた。

 

「それは失礼を。罪人の最古参殿。……私は、ヤーナムの平穏を望んでいる。だから、もし、ローレンス教区長が人を越えた先、同じ平穏を見つめていたのならば……あなたが私に協賛する理由になりはしないか」

 

「ヤーナムが、狩人が、どうなろうと知ったことではない。私が私に課した役目は変わらぬよ。……鐘の音に怯えるがよい。秘密を暴いた愚か者」

 

 音が、彼には届いただろう。

 ゆるりと頭を上げて帽子を被り直しながら、目を細めた。至極、残念そうに。

 

「そうか。こんな問いかけは、初めてだったが、その答えを知っていた気がする。けれど、忘れないでくれ。次に会う時は、ゆっくりと話したい。友の罪を被る古狩人。異邦人同士、仲良くできると思うが……その時は、礼に彼の頭蓋をお返ししよう。ゲールマンには断られてしまった」

 

「ゲールマン? まだ、生きているのか……?」

 

 思わず問いかけてしまった。

 ハッとして口を噤むが遅すぎた。

 狩人は返事があったことを嬉しそうにした。

 

「生きているのか。生かされているのか。少々微妙なところだが、まぁ、いることには、いる。ただし、こことは違う、夢の中だが……あなたのことを聞いても答えてはくれなかった」

 

「…………」

 

「暗殺以外のことに興味を持っていただけて嬉しい。私は、多くの人々の幸せを願っているだけなので……ああ、そうだ。こういう状況のための、良い言葉があったな」

 

 そして。

 わずかな思案の果てに出てきた言葉は。

 

「大いなる善のために!」

 

「嘘にしても、もうすこしマシなことが言えないのか。最近の狩人は」

 

 殺傷力を持つ言葉の鋭さに狩人は、突然、帽子のほつれが気になってしまったようで枯れた羽を指でいじっていた。

 

「どこから受信してしまったか分からないが、やはりヤーナムには馴染まない言葉だよな。俺も常々そう思っていた」

 

 狩人は、外套を翻した。

 

「では、最も新しき夜明けが見たくはないか? 俺は見たいぞ。是非にな」

 

 階段を昇る足音は、途中で途切れた。

 ここは、狩人の悪夢。

 古い遺志の漂いの彼方に狩人は消えたのだろう。

 

「くだらん。くだらぬよ。夢を見る狩人。人の性を変えることが、できるものか」

 

 ──彼さえ、ついに果たせなかったというのに。

 

 ブラドーは被っている獣の皮を探った。

 ごわついた繊維が手袋に絡みついく。

 

「…………」

 

 音の鳴らない割れた鐘を揺らす。

 反響は、二度と返ることはなかった。




【解説】
 最も新しい獣狩りの夜とは、本作でしばしば語られる『最後の周回』のことです。これは、繰り返しの一年には、赤い月及び獣狩りの夜が含まれていないためです。
 狩人にとって、この時点で一年を二〇〇年以上繰り返すことは想定外でしたが、それにしても未来志向が前提にあったのは確かな様子。「使えるものは何だって使いたい」とは本音であり、勝算の見込みが薄い賭けであり、分かりきっていた結果を招いただけでした。
 しかし、夜は(ひとまず)明け、朝は来た。
 ダンブルドア校長は「朝陽はあまねくを照らしてくれない」と言ってはいましたが、まさかヤーナムにまでそれが適用されるとは、狩人も考えていないことでしょう。狩人達には、穏やかな夜も朝陽も必要です。
 そのため、彼が望まなくとも夜は日常を内包し、朝は全てを照らしてしまうのかもしれません。現在の、上位者の揺籃となっているヤーナムでは。

【あとがき】
 漁村ガイド兼脱衣系激重感情一方通行鉛ガブ飲み瀉血ブン回し属性過多おじさんことブラドーさんをよろしくお願いいたします。一言目から言いがかりです。しかし、獣になった友人の皮を剥いで被って腸ベルトしている人のなかだと一番カッコイイという言葉には、とても頷けるものがあります。暗殺者ですよ。怖いですね。戸締りしましょう。シモン君は間に合わなかった? うーん、でも無限リスポン相手じゃ仕方ないですよ。なお鍵。
 さて、巷のブラドーおじさん考察班ではよく知られた話なのですが、寝室で暗殺業に勤しむブラドーさんと狩人の悪夢のあちこちで襲ってくるブラドーさんは、被っている獣の皮の角の形状が異なるだけではなく、幻影の方が若いという特徴があります。どれくらい若いかと言うと白髭(寝室)→黒髭(幻影)くらいです。これが何を意味するかと言うと筆者は何かを意味していることが分かったのです。ついでの根も葉もない話ですが、ブラドーとシモンは同僚だったと思います。俺には特別な知恵があるから分かっているんですよね(ろくろ回し)

【次話投稿について】
 賢者の石編が終了しました。多くの評価、ご感想、啓蒙をいただいてしまいました。ありがとうございます。すごく嬉しくて毎日の活力になっています。
 さて。記録のある限りにおいて、本作を書き始めたのが今年(2021年)の1月からのようなので次回投稿までしばらく間が空くと思います。
 進捗についてはツイッターで進捗報告ノートを使ってお知らせを行っております。(筆者ページにあります)
 気長にお待ちいただければ、とても幸いに思います。
 みんなも! ブラボやろう! やって! お願い! そして小説を書こう!
 ……どこもかしこもブラボ2やブラボカートをやっている狂人ばかりだ……

 次回予告
 
【挿絵表示】



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2年生まで
ヤーナム紀行[筆記者Qの手記]


Qの手記
ヤーナムの外から来た異邦者が、ヤーナムについて書き綴った手記。
筆記者クィレルは、雲隠れした身の上のため本文中に名を残すことは無い。
破棄が約束された物であれ、気分転換になるのならば、まぁ、よいではないか。


はじめに

1 ヤーナムの近況について

2 ヤーナムの人々について

  月の香りの狩人

  学徒達

  月の香りの狩人の仔ら

  ・クルックス

  ・テルミ

  ・ネフライト

  ・セラフィ

 

 

 

 

はじめに

 

 ヤーナム。

 その名は、現在、わずかな書籍の中に数行存在するのみである。──とは以前の手帳に書き綴ったことであるから、話を先へ進めよう。

 

 まず最初に断っておかなければならない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、読む人に対し(私以外にいないと思うが……)説明するためのものではないということである。

 

 ヤーナムの秘に触れることを望んだ者は、ここで読むのを諦めたほうがよいでしょう。

 

 私が見て聞いたことしかここには書かれていない。真実か。虚偽か。私にはほとんど判断が及ばない。ヤーナムの秘匿も枢機も全ては闇のなか。果たしてヤーナムにおいても探ることができる人々はいるのだろうか? かつて秘匿した『誰か』──くれぐれも私の知人ではない──でさえ知らないのではないか。

 

 本書は、このような調子で続いていく。

 

 なぜ私は真実を確かめないのか?

 どうせ誰も見ない手記であるから、告白してしまおう。

 それは私に勇気が無いからである。

 名前を言ってはいけないあの人に立ち向かった少年のような勇気が無いからである。

 今後、振り絞る気も無いからである。

 なによりヤーナムの闇を明かし、積み上げられた屍を数え、異常を正し、イギリス魔法界に相応しい『普通の街』にするという真っ白な勇気を持てないからである。

 

 この種の勇気は、きっと尊敬すべきダンブルドア教授であれば当然持ち得ただろう。

 義を重んじるグリフィンドール生の多くも持ち合わせることだろう。昼行灯と揶揄されるハッフルパフの人々は温厚であり、心優しい。彼らも胸を痛め、きっと立ち上がったに違いない。スリザリンでさえ打算的に立ち向かうに違いない。我が母寮レイブンクローの生徒達も多めに見積もって半分くらいは憂えにより杖を取るだろう。

 これらを魔法界にいる我々は『勇気』と呼ぶ。素晴らしい勇気は、胸に使命の炎を灯し、鼓舞するだろう。

 

 しかし、無駄である。

 

 根っからの小心者であり道を踏み外してヤーナムに存在する私が言うのは我ながら「どの口を」と憚れることだが、少しばかりヤーナムのことを知ったこの私が言うのだからヤーナムの「ヤ」の字も知らない魔法使いが言うよりは、多少の信憑性があると自負している。

 

 それゆえ、断言しよう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ヤーナムにおいて一個人でなせることは限られている。人間の、例え魔法使いや魔女であったとしても、このヤーナムにおいては大河に落とされた一滴の雨粒に過ぎない。「たかが魔法使いが何をなせるというのか」──そう思い込んでしまうほどにヤーナムの闇は深い。深淵を覗き込んでも向こうから見つめ返す瞳も探せないほどに、深い。

 

 私の目的は、もう一度、イギリス魔法界の土地を踏むことである。

 そして、願わくば今度は、いいや、今度こそは正しく生きたい。

 例え大成しなくとも私は精一杯を生きたのだといつか自分に誇れるようになりたい。

 

 ……死の間際に、私は死にたくないと願った。

 身を焼く目に合うならば、なぜ死に物狂いの抵抗をしなかったのか。

 後悔をした。

 もう二度と惨めな思いは嫌だ。

 

 我が身に起きた幸運は、ただの偶然である。

 

 自らの行いによる原因と結果に基づく結果ではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 市街の上層から深い森のビルゲンワースに至るまでに、私は月を見た。

 いつかの月は、悪行の報いとして幽閉された人の姿に見えたが、その日は違った。

 

──月は微笑を傾けた!

──たしかに、私を見て笑ったのだ!

 

 

 

 

ヤーナムの近況について

 

 この街は、とにかく普通ではない。

 普通ではない点を挙げていけばキリが無い。

 けれど、何より()()()()()()一年が繰り返し二〇〇年以上続いているということだろう。

 

 今日日、イギリス魔法界のマグル世界に詳しい者ならば相対性理論というものを(私を含め、完全な理解はできないまでも)現代物理・古典物理の基本的な理論であるとかの知識を持っている。しかし──当然のように!──ヤーナムにおける異常は、マグルの知恵の範疇に収まるものではない。

 

「では、魔法ならばこの異常を解き明かすことができるか?」

 

 もしも、魔法の秘奥を探求する神秘部ならば異なる解答ができるかもしれないが、この問いに対し私のような一般魔法使いは「ノー」と言わざるを得ない。

 魔法界において。

 時間についての研究は、生涯を時間旅行の研究に捧げてきた神秘部ソール・クローカー教授が先駆けであり研究の体系を作った人物として知られる。だが、氏の有名な著作『時間旅行者の死因の最終結論』においてしばしば語れる「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()である」との言葉のとおり、魔法界は時間の支配──これは少々適切な表現ではないかもしれないが──総じて「時間の法則に干渉しよう」という試みを放棄しているのではないかと思われる。その理由についても氏は述べている。「()()()()()()()()()()()()()」損害が起きるからだ。

 

 彼の言葉は、真実の一側面を言い当てたと思える。

 実際にヤーナムの異常の原因にも解決方法にも妙案というものが思い浮かばない。

 ヤーナムの異常は、物理学でも魔法でも説明がつかない。

 時間旅行者がひとりふたりならまだしも、狩人や学徒達の話を聞く限り、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのである。しかも、この状態が二〇〇年以上も続いているのに、ほとんどの人々は異常を異常だと認識していない。認識もできないのである。

 

 この異常を解き明かすには、二〇〇年以上前に何が起こったかを知る必要があるだろう。

 私は興味が無いので調べるつもりはない。

 しかし、学徒達の話では()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言っていたのを聞いた。

 

 私には獣狩りの夜が何なのか、分からない。

 額面とおりに言葉を受け取ると、獣を狩る夜なのだろう。しかし、獣とは単純に毛むくじゃらの──マグルが考える狼男のような──モノだけではない。

 では、何を? それは分からない。私の想像を超えるようなモノを狩っているのだろう。何か巨大な質量が湿った地面を這いずる音を思い出してしまったので、私はこの項を書き飛ばすことにする。

 

 ともあれ、この獣狩りの夜を明かした──これも不思議な言い方である。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ギリシア神話において、太陽は天空を翔けるヘーリオスの馬車だと信じられているが、ヤーナムにも類似する言い回しがあり、そのような意味なのだろうか? 私には違うニュアンスに聞こえたものだが……。──とにもかくに()()()()()()()()()()()()()()()と私は聞き取った。

 

 時系列で考えてみよう。

 一、二〇〇年以上前に(なんらかの手段によって?)獣狩りの夜を明かした

 二、夜を明かしたことにより(何かが起こり?)一年が二〇〇年以上続く異常が発生した。

 三、(異常は発生し続け?)現在に至る。

 

 謎が多すぎて分からないが、書いている私も全然分からない。

 分からないが『誰が異常を起こしたか』ということは、恐らく、月の

 

 推測はやめよう。

 私にとってやはり無駄なことであるから。

 

 

 

 

ヤーナムの人物について

 

 分からないなりにヤーナムの現状について説明を終えたので、このようなヤーナムに『運良く』生きている私は、そこで生きている人々、繰り返し続ける時間の異常を知る者達について記さなければならない。

 最初に書くべきなのは、私をヤーナムで目覚めさせた張本人だろう。

 

 

 

 

月の香りの狩人

 

 この月の香りの狩人──失名の青年について、月の香りの狩人といちいち書くのが大変なので、以降はだいたい月の狩人と書き綴ることにする。実際のところ彼は「狩人」と呼ばれることが多いのだが、ヤーナムにおいて狩人は社会的な地位のある職業の名称でもあるらしい。滅多に呼ばれないが、彼のもう一つの名前である『月の狩人』とする。

 月の狩人は、他のヤーナムの人々とは違う……ような気がする。具体的にどこがとは言い難いのだが、どこか浮き世離れしたというか、つかみどころのない、不思議な人物である。

 私が生活している学舎、ビルゲンワースへはしばしばやってくる。数日に一度は見かける。滞在時間は半日いることもあれば会話を済ませて数分で出て行くこともある。

 背は……二人いる学徒のうち、一人、男性の彼は自分の身長を一九〇cmと言っていたから、彼と比較すると握り拳大程度小さい。だから一七〇cmから一八〇cmだろう。そういえば、彼らはブーツを履いているからプラマイ五cm程度の誤差があるかもしれない。

 

 ありふれた黒髪。

 銀灰色の瞳は、すこし珍しいかもしれない。

 

 口を開かない時の彼は、無愛想で近づきがたい雰囲気だ。何事にも丁寧で順序よく話す、明晰な人物であるが、それだけではないような……いいや、これ以上はやめよう。

 そんな彼と私が出会ったのは、ヤーナムに旅行に来た約一年前であるが、その時はニコニコと近寄ってきたのをよく覚えている。いえ、あれもだいぶ無理をした笑顔であった……。

 私がヤーナムで目覚めてから数日後のこと、彼と二人きりで話す機会があった。

 

 

 ──あらためて、ご挨拶を。先生。私は狩人。

 ──皆には月の香りの狩人と呼ばれている。

 ──幸いを貴方に手向けたい。幸運をモノにした貴方が無事に帰れる日を祈っている。

 ──ヤーナムに来て不安なことも多いだろうが、ここにいる限り安全を保証しよう。

 ──私と学徒達が貴方を守るからだ。

 ──不自由をさせるが、貴方は限られた自由のなかで自由に過ごせばよい。

 ──ここでは何が起きても悪い夢でもある。

 ──十年など蛍火が生まれて死ぬまでの話さ。

 ──貴方とは、友好的な関係を築きたい。

 ──ああ、それと。

 ──こども達のことを気にかけてくれないか?

 ──俺は、どうも、こどもというモノが……むぅ……だからさ。

 

 

 彼は困ったときに発作的に笑ってしまう癖があるようだった。

 私は彼と握手と約束を交わした。

 恩人に対し、得体の知れない何かと感じてしまうのは、本当に申し訳ないと思うのだが、しかし、どうしてもその感覚を振り切れない。

 

 彼は、謎めいて優しげな深い人である。

 

 

 

 

学徒達

 

 次に、私と最も接することが多い学徒達について綴ろう。

 二人いる学徒のうち先輩である女性だ。

 名をユリエと言う。

 いつも目を隠すための帽子を被っている。私は彼女が目隠し帽子を外す様子を見たことがない。

 

 

 ──月の香りの狩人が招いた客人、歓迎しましょう。

 ──私はビルゲンワースの学徒。聖歌隊のユリエ。

 ──あなた達風に名乗るとすれば、そうね、ユリエ・コーラス=ビルゲンワースになるのかしら。ふふっ、自分の名前を名乗るなんて、久しぶりだわ。きっと二〇〇年くらい。

 ──月の香りの狩人の協力者よ。

 ──あふふっ。外来の神秘があっても、ヤーナムのことはさっぱり分からないでしょう?

 ──理解しないほうが幸せなのよ。

 ──けれど、外来の神秘の話は、とても興味深いわ。

 ──たくさん話をしましょうね?

 

 

 すらりと細身の女性で、とても若い。恐らく二〇歳前後であると思われる。

 ところで魔法界での成人年齢とは、十七歳である。学校を卒業して数年後の若者が、異常極まるヤーナムで渦中の人物と思しき月の狩人の協力者をしている──と考えると私は何とも言い難い気分になり、酸っぱい顔をしてしまったと思う。

 また、ヤーナムの市街では若い女性は全く見かけなかったので私は彼女と出会った時に、とても驚いてしまった。

 

 彼女は月の狩人に学徒と呼ばれる。

 すでに師事を受けていたのは遠い昔の出来事──それこそ二〇〇年以上前!──だが、ビルゲンワースという学舎のなかで生活し、未だ研究を続けている人物であるから学徒と呼称されているようだった。

 

 しかし、彼女の社会的立場は聖歌隊と呼ばれる、ヤーナムの医療を取り仕切る宗教団体である医療教会に属する上位学派の一派であるらしい。

 

 私の知識を整理するために、以下の三点を記してみる。

 一、医療教会を統括するのは『教区長』であるが。

 二、そのほかに医療教会には、大小さまざまな会派がある。

 三、二大会派の一翼が『聖歌隊』である。

 

 ヤーナムを実効的に支配しているのは医療者ひいては医療教会である

 私は、ひとまずイギリス魔法界における魔法省のような存在だと思うことにした。

 実態は……悍ましいモノのような気がするが、知りたくないので詮索はしていない。

 

 さて、そんな彼女だが、立場だけを見れば魔法省高官的立ち位置にいると思える。

 

「そんな彼女がなぜ寂れた学舎にいるのか?」

「月の狩人との関係性はどのようなものなのか?」

 

 興味が無いと言えば嘘になるが聞いてみようとか探ってみようとか、私は考えないことにしている。この手の好奇心を持つ者は──ヤーナムでは特に!──長生きできないだろう。私は生きて帰りたい。再び忘れることにする。

 

 ユリエは、いつも杖を携帯している。

 

 杖といっても魔法族が持つ杖(ワンド)ではなく、足が不自由な人が持つ杖のことである。

 もっとも、彼女の足は野山を駆ける兎のような健全さだ。特に百合の茎のような足首などは思わず目を奪われる。無論、いつも眺めているワケではないことを言い訳として書き残しておく。私以外に見る人は以下略だが、いちおう、名誉のために。

 

 彼女が携帯しているのは仕込み杖と呼ばれる『仕掛け武器』の一種だ。

 武器にはさまざまある。それらについては私の心の状態がもうすこし落ち着いたら書き綴るとして今は割愛する。

 

 さて、武器を片時も手放さない理由は、ユリエ達が学舎の守り手であるからだ。

 ビルゲンワースが存在するのは、深い森を越えた先の湖畔に面している。道中の森は医療教会が禁域として指定している。人は滅多に訪れない。だが、訪れる者がいるとすれば友好的な存在ではないだろう。少なくとも医療教会が定めた禁を破った以上、医療教会の敵である。

 

 学徒達について、ここから先は私の想像だが……。

 

 立ち入りが禁じられた森にビルゲンワースが設立されたのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のではないだろうか。

 ビルゲンワースの書架には明らかに人体実験の記録と思しき書類や痕跡が──部外者の私が思わずつまずいて驚いてしまうほど──堂々と置いてある。だから「ここでかつて何をしていたのか」について、私は絶対に知りたくないと思っている。

 

 しかし、未だビルゲンワースに留まり、研究を続ける学徒達は、いったい何をしているのだろう……?

 

 

 

 

 背後が怖くなってきたので、次の人物について綴ろう。

 二人いる学徒のうち後輩である、男性だ。

 

 名をコッペリアと言う。

 ユリエと同じ所属である、医療教会の聖歌隊である──らしいのだが、彼は「除隊された」ということを一度だけ言ったことがある。そのときの彼の声色からは「自分から望んで辞めた」ではなく「辞めざるを得なかった」という意味合いがよく感じられるものだった。

 けれど。

 一見して同じ聖歌隊という所属にあるユリエからは、除隊についての言葉を聞いたことが無い。もし、彼女も除隊しているのならばコッペリアをなだめてもよさそうな雰囲気であったが、そうはしなかったのでユリエは、未だ正式な聖歌隊の所属であるのかもしれない。

 

 とても奇妙な状況である。

 

 除隊した聖歌隊が棄てられた学舎であるビルゲンワースに存在することが──ではない。

 

 むしろおかしいのは、正式な聖歌隊がここに存在することだろう。

 

 月の狩人が生活を支援しなければ、週をまたがずして干からびるのにここにいるのはなぜか。いいや、違う。彼女はなぜここにいなければならないのかを考えたほうが正解が近いだろう。

 

 私は怖いので考えるのをやめた。

 

 さて、この項はコッペリアを書く場所である。

 彼は、動く人形を作ったドクター・コッペリウスではない。

 名乗るのは、動く少女人形である『コッペリア』の名である。

 彼が『彼女』の名を語るのは、恐らく深い理由があるのだろう。

 

 月の狩人のこども達をまるで自分の子供のように扱っていることからは、彼の重々しい愛情らしきものがうかがい知れる。そういえば月の狩人は彼のことを「コッペリア、あるいはビルゲンワースの閉じた瞳」と呼ぶが、その意味はよく分からない。

 

 ところでヤーナムの民の彼らは『瞳』という言葉をよく使う。私が思い浮かべるのは眼球のことだが、物質的な意味の言葉として使われることは少ない。既存の言葉にするならば、心の目で見つめる、とか。そういった文脈で使う『目』のように感じられている。

 

 また話が逸れてしまった。

 

 彼との出会いは、最悪に類するものだった。

 月の狩人からは「これがヤーナム名物、典型的な医療者だ。高飛車で嫌みなヤツだが、しかし、彼はマシな医療者だ」と紹介された。月の狩人のこどもの一人、クルックスはそれを聞いて突然、喉を痛めたような咳を繰り返した。

 

 実際のところ。

 

 コッペリアは、やや不遜な人格であるが、親切である。もっとも私は月の狩人が招いた客人と言うことになっているので、その立場が加味された対応であるには違いないが。

 

 

 ──僕は、コッペリア。

 ──君たち風に名乗るのならば、コッペリア・コーラス=ビルゲンワースだよ。僕はテルミのお兄さんでもあるからね。それにしても……。姓が無かったので適当に名付けられたが、長い名前になってしまうのだねぇ。

 ──ユリエと同じ聖歌隊でビルゲンワースの守り手さ。

 ──もっとも聖歌隊は除隊されてしまってね。もはや道は違えたが、僕から捨てた覚えはない。だから、この名乗りは変わらないのさ。ハハッハッハ。

 ──ところで外来の神秘を宿す者。君は、冒涜を失ってしまったのだね。気配の残滓しか感じない。

 ──あぁ、死者を腑分けして弄ぶ類いの冒涜の気配だよ。それが君たちの神秘なのだろうか。なぁんだ、()()()()()()()()()()()()()()

 ──君を手術台に上げられないのが、とても残念だ。得難い治験になっただろうに……。

 ──まぁいい。

 ──外の世界の話を聞かせておくれよ。

 ──外の世界の神秘を語っておくれよ。

 ──人間は、己が右回りに変態する原因について究明と証明を終えたのかい?

 

 

 私は、コッペリアが語る内容について書き出した今なお理解が及ばない。

 彼は私が話していない事柄もまるで知っているように話すことがある。幾分かは月の狩人のこどもに聞いた話だろうが、それにしても察しが良すぎる。『閉じた瞳』に秘密があるのかもしれない。

 

 しかし、私が一番気掛かりなのは彼が患っている頭痛だ。私が傷病に関して素人であるからかもしれないが、何というか、とても酷いように思う。

 

 学徒達の間でしばしば語られる気の狂いというものについて、私が初めて目の当たりにしたのが彼の症状であった。

 

 気の狂いというヤーナム特有──と思いたい──症状について。

 

 まず、特徴的なのは一目でまともではないと分かることである。

 私が彼を見たとき、彼は何かを呟きながら書架に収められている本を一冊ずつ抜き出しては天地を逆にして収め直していた。耳を傾けてみれば、彼の言葉は支離滅裂であり、話す言葉に一貫性がないため傍で聞いている私は記憶に留めておくことができなかった。あらゆる単語を思い浮かべて無作為に並べ直したら、彼の言っている言葉に近くなるだろう。

 

 とにもかくにも神経科医に話すべきありさまであった。

 時おり内容のある言葉として捉えられるものもとんでも極まりない空想の類い──もっとも彼はそれこそが真実であり、現実だと思い込んでいるだろうけれど──が現実と交錯し、傍目には質の悪い白昼夢のようだった。

 

 このような気の狂いを目の当たりにして、私が驚いてしまったことは、もう一人の学徒ユリエが全く問題にしなかったことである。これはいわゆる交流を拒むための無視であるとか、諦念による放置ではない。単純に慣れていて、ありふれた症状ゆえに看過しているだけなのだ。しかし、そんな彼がいよいよ取り乱し──既に乱れているが──始めたら、ようやくユリエが鎮静剤──マグル世界や魔法界で見られる成分は一切入っていない──を持ってきて、赤く濁る液体を彼の口に押し込むのである。あれは、きっと錆びた鉄の味がする。

 

 常日頃から気の狂いに陥りがちな彼は、私にとってどうしても症状の印象が強いが、何事もない日常を送ることもある。

 

 体の調子が良いときは、私に学舎の外に出ないかと誘ってくれる。

 

 

 ──学舎は埃っぽいし風の通りも悪い。

 ──ずっといたら黴が生えてしまうよ。どうだい。散歩でもしないか。

 ──僕と一緒ならば大丈夫だ。狩人君ほどではないが、僕は強いからね。

 ──今日は頭も痛くないし、天気も、まぁいい。

 ──ここにはヤーナムでは数が少ない、綺麗な風景がある。

 ──分かりたまえ。僕らにも見栄というモノがあるのだ。客人には、綺麗な景色を見てほしいのだよ。

 

 

 月の狩人からも「いいだろう」とOKをもらえた。

 それから数日に一回、彼に誘われて学舎の外、湖畔に面した敷地内を一緒に歩いている。

 学舎のなかにいるのは苦ではないが、気が滅入る時もある。だから彼の誘いは本当に有り難いものだ。

 

 ビルゲンワースは、閉ざされた環境である。

 そこにある小さな集団とも言えない人間関係をコッペリアはこうして円滑に保とうとしている。

 

 発作が起きなければ彼は、温かな賢人である。

 もちろん。彼が心許す者に限定されるだろうけれど。

 

 

 

月の香りの狩人の仔ら

クルックス

 

 さて、次は月の狩人のこどもについて綴ろう。

 

 奇妙なことに月の狩人や学徒達は彼らのことを「仔」と呼ぶ。仔とは「動物の仔」に使う言葉で、人間に対し使うのは、正しい使い方とは言い難い。

 しかし、学舎のなかでこれを疑問に思うのは私一人だけのようであるから、これにも深い事情があるのだろう。学徒という探究の先端を歩む人々が誤るワケがないのだから。

 ──ここまで書いていて、私は、この疑問が──仮に──正しい場合にどう反応すべきなのか分からない。

「子」ではなく「仔」を使う理由が、本当に意味ある行いであるとして、それこそが正しい名称であるとして、では、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 私は、恐ろしくなり考えるのをやめた。

 

 とにかく手を動かすことにする。

 まずは最も親しい──と思いたい少年だ。

 月の狩人のこどもの一人、クルックスだ。

 

 

 ──改めて自己紹介する必要を感じないが……挨拶を怠るのは、よろしくない。狩人的によろしくない。たとえ、敵対者であれ礼は尽くすべきなのだ。死体の上で勝利を誇る飲酒をしてはいけない。……今の言葉は忘れてくれ。

 ──俺はクルックス。連盟に名を連ねる最も新しき狩人だ。

 ──連盟とは何か?

 ──世の中を綺麗にするために戦う狩人集団だ。この世界は、淀んでいる。淀まずにはいられないのだ。

 ──だから、我らがいる。淀みの無い世界を……俺は見てみたいのだ。

 ──お父様も所属している。

 ──つまり、ヤーナムで最もまともだ。

 

 

 ヤーナムの外においては、クルックス・ハントと名乗っている。

 ところで、学徒達もそうであるが、ヤーナムの人々には基本的に姓というものが存在しないのだという。ゆえに彼がヤーナムで名乗る場合は、ただのクルックスとなるらしい。とても不思議な風習である。

 また新しい団体組織の名前が出てきた。

 

 連盟

 クルックスと狩人の会話の端々から理解できることは『長』という人物を中心に、一つの信念のもとに狩りをする人々であるらしい。

 

 私はクルックスの話を聞いたときに『狩人という存在は、きちんと組織された人々の集団なのだな』と妙な感心をしたものだったが、その後──連盟について、そもそも学徒達の口にのぼることが少ないが──特にコッペリアが、狩人やクルックスのいないときに「ありゃなんだい。集団幻覚を見ている異常者だよ」と話していたので私は途端に不安になった。

 ヤーナムは大丈夫なのだろうか。

 いいや、そもそも一年が二〇〇回以上続いている時点で異常も極まっている。連盟が幻覚異常者集団だったところで「だからなんだ」と言うべきであり、今さらである。そもそもヤーナムを統べる医療教会の正体も、きな臭さを感じずにはいられないのに。私は街の人々の陰気な顔を思い出した。

 

 コッペリアは連盟を嫌っているような風であったので彼の言う「集団幻覚を見ている異常者」との言葉は、ややオーバーな表現だろうと思っていた──のだが、あるとき、クルックスが幻覚らしきものについて話していた。

 

 

 ──そういえば、貴方の中に『虫』はいなかった。

 ──いいえ、貴方の血は見ていないが……砂になってもいなかったということは、いないのだろう。

 ──幸いなことである。そう。幸いだ。……そう思うべきなのだ……。

 

 

 彼は、自分に言い聞かせるように言った。

 何が彼を苦しめているのか。

 私には分からなかった。

 聞くべき勇気を私は持てなかった。

 けれど。

 ホグワーツにおいてグリフィンドールに選ばれた彼に、多くの場合、助けはいらない。

 

 

 ──貴方を責めているワケではない。

 ──俺が、夢に憧れただけなんだ。

 ──だから貴方はこれからも血の淀まぬ生活をするといい。

 

 

 彼は、強い。

 私の助言が無くとも、悩んで時間がかかっても、自分の選んだ道を進んでいく。

 四人いる狩人のこども達のなかで最もこの傾向が強いのではないかと思う。

 

 クルックスは、こども達のなかで代表的な立ち位置にいる。

 しかし、真面目である以外に特徴があるワケではないように見える。

 

 聡明さではネフライトが上のように思われるし、機転の早さではテルミが上である。

 愛想の無さだけは、まるで私のことを存在しないかのように扱うセラフィといい勝負だ。

 しかし。

 

 

 ──貴方の悪行を俺は知らない。

 ──何の意味があったのか、俺は聞かないことにする。貴方は本来、死人であるから。

 ──だが、お父様が救った命でもある。

 ──今度は有意な人生を送ることを期待する。

 ──それから。もし、貴方が十年を経て再びヤーナムの外に出るならば、もうヤーナムに関わるな。

 ──ヤーナムに……貴方の幸せは、どこにも無いのだから。

 

 

 私が最も聞かれたくないと思っている、闇の帝王についてのあれこれを彼は詮索しない。

 人の心の機微について、彼は時にテルミより鋭い勘を発揮する。

 

 彼が中心的な人物として扱われるのはヤーナムに似つかわしくないことに、そしてグリフィンドールに相応しく、勇敢で善良な人柄だからだ。

 月の狩人が静かに彼を見守り、ユリエが人間を人間と思わない発言を控え、コッペリアが暴投気味の悪態を抑えるのは、全て彼のためなのではないか。

 私にはそうとしか思えないときがある。

 

 

 

 

テルミ

 次に、綴るべきは彼女だろう。

 月の狩人のこどもの一人、テルミである。

 

 

 ──まぁまぁ。ふふっ。死人が歩いている。面白いわ。

 ──ねぇ、地上を歩く御機嫌を聞かせてもらってよろしくて?

 

 

 最初に書かなければならない事実は、私は彼女がとても苦手だ、ということである。

 よってこれから綴られる文章の多くは偏見が含まれるだろう。

 何より底が見えない少女だ。

 私が綴れる内容は、とても不正確で少ない。

 

 しかし、私にも分かることがある。

 テルミは絶対に、女子トイレに入る前に女友達と一緒に入るタイプの女子学生だ。絶対に。

 そんな彼女の所属は──驚くべきことに!──ハッフルパフである。

 ハッフルパフの特徴とは『心優しく正直で、勤勉な者が集う寮』であるが、こればかりは組分け帽子が間違ったとしか思えない。……彼女は、ある意味で自分に正直と言えるのかもしれないけれど。

 

 テルミと話していると彼女の小さな手のひらで転がされる自分を自覚してしまい嫌になってしまう。

 この手の違和感は、彼女の父──月の狩人との会話でも感じられることだ。

 けれど、ホグワーツにおいて彼女と話したときはそんなことを感じなかったので実に上手く隠していたのだろう。

 

 

 ──あら。クリスマス・カードを交わした仲なのに、御挨拶が必要なのね。困った御方。

 ──ヤーナム風の冗談です。落ち込まないでくださいね? 慰められたいのなら別ですけれど。

 ──わたしは、月の狩人の仔の一、テルミ。そう。御存じ、テルミ・コーラス=ビルゲンワースですわ。

 ──コールミー、テルミーってね。……引きつけみたいな顔をなさらないで、普通に笑ってくださる? 潰れた鼠みたい。お上手なこと。

 ──わたしは聖歌隊のユリエお姉様やコッペリアお兄様と同じ聖歌隊……と言いたいところなのだけど、聖歌隊が運営する孤児院の子供なの。

 ──お父様がいらっしゃるのに孤児院にいるのはなぜって?

 ──あら。わたしの口からそれを言わせたいのね、非道い御方。

 ──お父様はわたしをそばに置きたがらないの。理由? お話しする義理は見当たりませんね。

 ──ともあれ、わたしは十歳になったら拝領の儀式を! 十五歳になったら聖歌隊の入隊式!

 ──聖歌隊きってのエリートになるの! だから、成長のお楽しみは目白押しなのです!

 

 

 それにしては、全然楽しみにしていない声音であった。

 テルミは、しばしば言葉と声色が合致しない。

 悲しげに笑っていたり、楽しげに怒っていたりする。

 学徒達は彼女の個性だと思っているようだが、実のところ彼女のこれは気の狂いの一種なのかもしれない。ヤーナム医療の専門性など──当然!──私は持ち合わせないのだが、不意にそう思うことがあった。

 

 テルミがビルゲンワースに留まる時間は短い。彼女は孤児院に存在しなければならないからだ。

 あるとき、珍しくビルゲンワースで出くわした時。

 真っ黒な祭服を着たテルミは、にこりと笑った。

 辺りはもうすっかり夏の暗闇だというのに彼女の藍の瞳は凍った湖面のように光り、煌めいているように見えた。

 あれは、私の錯覚だったのだろうか。

 

 

 ──ヤーナムを楽しんでください、先生。

 ──こんなに素敵で目の眩むような悪夢は、世界中のどこにもないでしょう。

 ──お父様が祝福した呪われた地を踏みしめて歩いてね?

 ──とても有意だと思うの。

 ──ヤーナムにとってね!

 

 

 私はテルミが苦手である。

 けれど、テルミが月の狩人を心から慕っていることは分かる。

 むしろそれしか分からない。

 彼女の考察は、お手上げである。

 別の誰かに預けることにする。

 

 

 

ネフライト

 

 こども達の紹介も三人目だ。

 ネフライト・メンシス。

 ホグワーツにおいては、私の母寮であるレイブンクローに所属している。

 すなわち、私の遠い後輩にあたる。

 

 

 ──私はネフライト。メンシス学派付の使用人だ。

 ──ネフと呼んでほしい。『ネフライト』は時間の無駄だから。

 ──使用人? そう、私は、ただの使用人。学徒ではない。学徒の服を着ているのは単純な所属を示すためだ。教会の黒服も白服も着たくない。

 ──メンシス学派は、ヤーナムで唯一、人々を救うことを考えている団体と覚えておくといい。

 ──つまり、ヤーナムで最もまともだ。

 

 

 私は困った。

 最もまともな集団がまた出てきたのも困った。

 何よりまともな学者集団が発明した最も優れた装置だという品が頭にかぶる、六角柱の檻であることに気付き、私はどうしようもなく困ってしまったのだ。

 

 ネフライトの所属するメンシス学派について分かっていることをまとめてよう。知識を整理するために、以下、四点を記してみる。

 一、医療教会には、大小さまざまな会派がある。

 二、二大会派の一翼が『聖歌隊』であるが。

 三、もう一翼が『メンシス学派』である。

 四、『聖歌隊』と『メンシス学派』は、とても仲が悪い

 

 ヤーナムは大丈夫なのだろうか。

 いいえ、そもそもヤーナムは一年が……以下略。

 

 そんなネフライトであるが彼は、テルミと同じくほとんどビルゲンワースにいることはない。

 その理由は彼がふだん過ごす『ヤハグル』という地区で使用人の仕事があるからだろうが、学徒達と仲が悪いことが、その理由の一端ではないかと思うことがある。

 

 聖歌隊とメンシス学派の不仲は彼らの関係にも影を落としているようだ。

 彼らは、互いに互いを見下しているというか……。

 交錯する感情には、刺々しいものがある。

 

 さて。

 ネフライトは、ホグワーツにおいて私が驚くほど──というより、余人を置き去りにするタイプの学生であり、ホグワーツではほとんど人と関わることがない。

 月の狩人に四人の学校生活についてコッソリ聞かれたとき、ネフライトについてどう話したものか私は困ってしまい、結局、見たままを話した。月の狩人は驚きもせず、紅茶を傾けながら「あー」と納得したように頷いた。

 

 

 ──ネフは四人の中で最も面倒見がいいヤツだが、ホグワーツの世話をする気はないのだろう。

 

 

 私は「そうだろうか?」と思ったが、面倒見がいい様子は、しばしば見られた。

 

 

 ──諸賢、宿題計画を立案した。

 ──各々、夏休みは連盟活動だとか孤児院生活だとかカインの使命だとか、さまざまあるだろう。私も下働きが忙しい。実に結構だ。

 ──そこで夏休みの終了日から逆算して十日で終わる計画を立てた。

 ──十日が長いだと? 夜の活動時間と聖杯マラソンと睡眠時間を確保した結果、このような計画となった。

 ──異論は代案を持って示すがよい。無いな。よろしい。

 ──では、充実した夏休みを送るといい。私は、三日に一度はビルゲンワースに立ち寄る。

 ──何事か相談があれば……聞くこともあるだろう。

 

 

 また、私が確実に困るであろう学徒達が実施している、外来神秘についての調査──という名の尋問──にも同伴してくれた。

 私の、きつ音でひどく聞き取りにくい言葉を辛抱強く待ち、ヤーナムの学徒達が理解できる言葉に置換する作業はネフライトでなければ、たいへん時間がかかってしまい月単位で拘束されてしまったことだろう。

 しどろもどろに礼を述べたところ、彼は「気にしなくていい」とぽつりと言った。

 

 

 ──それに、貴方はお父様の客人だから丁寧な取り扱いをしているだけだ。

 ──打算的な行いに対して礼を述べることを、私は適切と思わない。

 ──そのように軽々しく頭を下げることは避けるべきだ。……ヤーナムでは、特に。

 

 

 それきり彼は去った。

 檻を被る外見の奇妙さやホグワーツでの奇行が印象的だったが、彼に抱く感情は私の中で大きな変化を見せた。

 物言いほどキツイ声音ではない。

 彼を深く知らなければ気付けなかったが、意外なほど強い優しさをもつ人物のようだ。

 

 

セラフィ

 最後の紹介となった。

 ホグワーツにおいてスリザリンに配された彼女、セラフィである。

 なぜ最後になったのかと言うと彼女について私が書ける内容というものは、とても限られているからである。

 

 

 ──僕は、セラフィ。

 ──セラフィ・ナイト。カインハーストの夜警だ。

 ──貴方の名乗りは不要。

 ──せめて死人のように過ごすといい。

 

 

 他の三人に比べ、最も感情が揺らぎ見えない。

 表情らしい表情というものがなく、トリコーンを目深に被っているため目を合わせることも難しい。

 年頃にしては背が高い。身長が、ほとんど並んでいる他の三人に比べて拳数個分、成長が早いようだ。

 

 私のことをまるで存在しないように振る舞うので、興味もないのだろう。

 偶然、目が合えば最低限の礼儀として目礼をするが、それも私が彼女の父たる狩人の客人であるから行っているにすぎない。

 

 では、三人の『きょうだい』である彼らに愛想が良いのかと思えば、そうでもない。

 しかし、彼らが気を害することはないので慣れているのだろう。

 

 セラフィが所属しているのはカインハーストと呼ばれる、ヤーナムにある古い大家である。

 身につける装束を見ると貴族的な趣がある場所のようだ。

 むしろ、本当に貴族なのかもしれない。マグルの貴族文化は、私は詳しくないが……。

 

 月の狩人やクルックスが革や布の身軽な狩人服を着るのに対し、彼女の装束は──本物の銀だろうか──輝く金属の意匠が見て取れる。

 文化的な隔たりが大きいように見えた。セラフィの属するカインハーストの方が、市街を生活圏とする月の狩人より古いのだ。

 

 そういえば、マルフォイ家が王族と関わりがあったとか何とか風の噂で聞いたことがあるが、それも今は昔の話だろう。

 

 セラフィについて私が知っていることは、この程度だ。

 もしも、あと数年成長したセラフィがニコリとでもすれば、クラリとする男性は多いだろう。

 

 これは一般論だ。もちろん。一般論として書き綴っておくだけである。

 誰も見ないとは思うが、私のなけなしの名誉のため以下略。

 

 




【登場人物イラスト】
15話『ビルゲンワースの閉じた瞳』の後書きにおいてあります。


【解説】
筆記者Q……いったい何者なんですかね(前書き)


【あとがき1】
 ご感想でもいただいてしまったのですが、オリジナルの登場人物がどこの所属なのかが分かる話について、いつか書こうと思ってずっと先延ばしにしていたのですが、ようやく書けました。ちょっとホッとしています。
 長い本編を見るよりは、まとまっていると思います。こんな感じでどうでしょうか?

 ちなみに今後、主要人物達に近いオリジナルの登場人物は一人(教会の黒服君)くらいしか増えませんのでご安心ください。なぜこんな断りをするかと言うとオリジナルの登場人物が増え続ける二次ではない、という宣言でもあります。
 いえ、単純にね……筆者のスタミナがね……保たないんですよ……。


【あとがき2】
 リンク・太字・傍線を多用していますが、当分は本話限りのリスペクト表現です。


【次の交信はいつ?】
8月から9月頃ということで、ひとつ目安にさせていただいたら……(絶対しますとは言っていない)
ヤーナム編(約15話)、ホグワーツ編(20~30話)
予定なのですが、現在、ヤーナム編が6割進捗です。
正直、8月から9月も危ないかもしれないので気長にお待ちいただければと思います。
登場人物イラストが、ざっくり完成したのが幸いですね。
全然関係ないんですが、おじさんって何であんなに描くのが難しいんでしょうね。あとシモンって何で襟が多いんですかね。破廉恥ですよ。


【おめでとう、エルデンリング。ありがとう、エルデンリング】
 早く砕けてくれなんて言ってすまなかった。赦してくれ……赦して……くれ……
 トレーラーを見た不死人、ヤーナム民、葦名の民は沸き立ったことでしょう。
 筆者は、最近隻狼を買ったばかりだったので、とても嬉しかったです。
 あすこ、キャンプファイヤーがあるので実質ヤーナムでしょ。
 ところで、褪せ人君が墓場を歩くシーンで薄霧の向こうから三角帽とノコギリ鉈が見えた時には痺れましたね(粉末状の青い秘薬を吸いながら)


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悪夢より這い出でる

窶し
全てに見過ごされるように古狩人は身を市井に堕とした。
誰もが見落としたものを探り、見つけるために。


『カインハーストの夜』編は3話構成でお送りします。


 ──時計塔のマリアを殺したまえ──

 

 告げた時、対峙する狩人は、俺の目を見ようとしたようだった。

 生憎と包帯に阻まれて彼は捉えきれなかっただろうが、俺からはよく見えた。

 探るような、確かめるような──俺の中の何かを見つめたがっているようだった。

 

 星幽、時計塔の貴婦人マリア。

 

 悍ましい実験棟の患者達は言う。

 ──マリア様、手を握って。

 ──マリア様、助けて。

 ──マリア様、マリア様、マリア様。

 医療教会が見捨て、忘れ、その果てに打ち捨てた実験棟の残骸に存在する何者か。

 そんな場所に存在する以上、友好的な関係は結べないとは分かりきっていたのだろう。

 

 彼は視線を切り、実験棟を登っていった。

 そして、忠告のとおり。彼は、時計塔のマリアを殺した。

 

 扉の陰で一連の戦闘を見ていた俺は、その先へ進まない彼に声をかけた。

 そこで彼の顔を初めて見た。

 血除けのマスクを外し、深く呼吸をした。

 

「ひどく甘いな」

 

 思いがけない言葉に、俺は問いかけた。

 

「マリア、彼女の血の溶けた匂いがする。カインハーストに連なる一族は、血が甘いらしいな。……空気さえ甘い」

 

 深く息を吐いて、吸う。

 胸を切り裂かれ、内臓をまさぐり取られ、白昼夢のように消えたマリアの痕跡は、今や血の残滓である匂いしかなくなっていた。

 狩人の目は、その漂いを見ていた。

 その視線の先、黄昏の光が差し込む時計塔の一室は、舞い上がった埃が光っている。剣戟が遠ざかれば、不気味なほどの静けさがやってきた。

 

「……あんた、酔っているのか?」

 

 不意に危惧が思い浮かび尋ねた。

 彼は、ゆるく首を振った。

 

「とてもそんな気分にはなれない。──実験棟。ここは、医療教会の血の聖女を使った実験場なのだろう」

 

 狩人の話の着地点が見えない。

 黙っていると狩人は、何度か頭を振った後でマリアが座っていた椅子に触れた。

 

「私には、よく分からない。上位者だの血の赤子だの、さっぱりだ。だが、全ての鍵はカインハーストの血なのだろう? なら……マリア、時計塔の貴婦人には、ここがどう見えていたのだろうな……。自分の代わりの女。偽物の女。贋作。出来損ない。挙句の失敗作ときたものだ」

 

「ほう。冷血だと?」

 

「自ら望み、この悪夢に囚われたのであれば……そう断じるべきなのかもしれない」

 

 狩人は、マスクを元通りに着け直す。

 そして、シモンに顔を向けた。

 銀灰の瞳は、曇っても蕩けてもいなかった。

 

「彼女は熱い女性だ。血さえ燃えるほどだった」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 その男が、確かな記憶を辿り思い出せる最期とは、教会の暗殺者が振るった瀉血の槌により抉り取られた内腑が、漁村の湿り朽ちた床板に点々と散らばっていく光景だった。

 ──どうして殺されたか。

 その理由については、身に染みるほど理解していた。医療教会の恥部、隠匿された罪の核心に近付いたから追手が差し向けられたのだ。

 漁村での攻防は、悪夢に身を投じてから動き詰めであった心身の限界が訪れた瞬間だった。

 

 矢筒が空になり、彼はわずかに集中を乱した。

 

 常人であれば数度絶命に値する矢を受けた暗殺者は、心臓を射抜かれながらいつもより長く動き、目的を果たした。瀉血の槌は、遂に獲物の臓腑を抉り取ったのだ。暗殺者の執念が、彼の抱く慈悲に勝った瞬間でもあった。

 内臓をぶちまけてしまっては血の医療さえ追いつかない。手持ちの輸血液は、流し込むだけ無駄だった。

 

 死の淵での出来事は、思い出せないことが多い。

 記憶の混濁。

 拡散する思考。

 そして、鐘の音。

 彼が最期まで知覚できていたのは、潮騒の香りに混ざる月の香り、そして、誰かが左手を握っていたことだけだった。

 だが。

 

「……なぜ、俺は……ここに」

 

 彼は、節くれて『たこ』のある両手を開いた。

 たしかに腹を裂かれた経験も記憶もあるのに現在転がっているのは漁村の朽ちかけた家屋ではなく、ヤーナム市街の外れの路地裏なのだ。

 ──これまでの全ては夢である。

 そう言い切るには、確かな質量と記憶を保ち続けてしまっている。実は、自分が既に狂っていて妄想を事実と思い込んでいるという可能性も無きにしも非ずだが、こればかりは検証できない。

 やがて彼は、冷たい石畳を知覚した。

 

「どうなって……」

 

 街中から離れた路地裏。

 汚れた襤褸を纏う男の名は、シモンと言った。

 医療教会の初期からの狩人であり──かつて、医療教会がひた隠しにする罪を追うために身を窶した男だった。

 気付いたらここにいた。背中には負った弓剣がある。矢筒には銀の矢があった。

 窶しらしく誰からも見咎められることも、気にされることもなく路地裏に転がっていた彼は、何とか身を起こし、路地裏から這い出てきた。

 

「朝……? いや、夕か……?」

 

 厚く巻いた包帯越しに見える赤い日差しに驚く。

 ここは、ヤーナムだ。

 それも狩人の悪夢のヤーナムではない。

 ──いったい何十年ぶりだろうか。

 シモンは、現実世界のヤーナムに立脚していた。

 

「そこのお前、そんなところで何をしている?」

 

 カツカツと革靴が音を立てて医療教会、黒服の二人組が現れた。

 見るからに正気であるため、シモンは戸惑った。

 

「あ、ああ、どうもご苦労さま。休憩していたんだよ」

 

「休憩だと?」

 

 怪訝そうな顔をする。

 ランタンを持つ彼は、シモンの頭から足先まで見て顔を顰めた。

 汚れている自覚はあるが、近寄ることまで拒否されるのは衝撃だ。狩人の悪夢では、まったく気に留めもしていなかったことだ。人間社会をヒシヒシと感じた。

 

「あぁ何だ、連絡が滞っているのか? 『墓暴きの数が足りん』ってな、聖歌隊様直々のご命令で、ずーっと地下にもぐっていたんだよ。で、今日戻って来たんだ」

 

「は? イカれてるのか?」

 

 どうやら信用していただけないようだ。

 咄嗟の思い付きにしては良いことを話したと思っているのでシモンは貫き通すことにした。 

 

「何でそうなるんだよ……。俺だって狩人だってのに。ちょっと待ってろよ」

 

 シモンはうんざりした風を装いながら背中の荷をごそごそ探り、ある物を取り出した。

 そして、差し出した。聖布の切れ端だ。

 

「本物か?」

 

「本物に決まってるだろ。教会の黒服様に向かって偽物出すなんて恐れ多いことしないさ」

 

「あ。先輩、もしかして、これが『窶し』ってヤツじゃないですか」

 

 ヒソヒソと──ひそめる意味は特に無い──シモンに聞こえる声で黒服の一人が言う。

 ピンと来た風で先輩の黒服も頷き、聖布を返却した。

 

「そうか。……ところでお前、磯臭いな」

 

 二人はそこで息を合わせたように「あ。休憩ってそういう」と何かを察した顔をしたが、シモンにとってはどうでもいいことだった。

 

「磯臭い!? 本当か!?」

 

「うわっこっち来るな! お前、危ない奴だな!?」

 

 すまん、と言いつつ服をつまんで嗅いでみる。

 自分の臭いとすっかり同化しているらしい。残念ながら、シモンの鼻では嗅ぎ分けることができなかった。彼らは協力してくれないだろう。

 後輩らしき黒服の男が、辺りを見回しながら言った。

 

「……なぁ、あんた。予防の狩人で手持ちの輸血液が無ければ、急いだほうがいい。三つ街道を挟んだ向こうに小さな古教会があるのは知っているか? ああ、それだ。裏手に血の聖女がいて、今夜分の拝領を行っている」

 

「何だ、今日は『獣狩りの夜』だって言うのか?」

 

 獣狩りの夜。

 その言葉を聞いた瞬間、二人が「滅多なことを言うもんじゃない」と声をひそませつつ、しかし、強い口調でシモンを制した。

 ヤーナム一般において、獣が多く出現し特別に長い夜を意味する言葉は、たとえ狩人であっても不吉なものだ。

 だが、シモンがそう考えた理由もある。

 

「いや、しかし、血の聖女が、わざわざ? こんな街外れに? どういうことだ?」

 

 もう夕方、しかも夜が近いというのに火の灯らない家が多い。これは空き家が多いことを意味した。

 狩人は基本的に市街を巡回する。そのため、輸血液の需要も市街に集中する。供給もまた然り。

 血の医療、それを配布しているのは『血の聖女』と呼ばれる教会が抱える特別な尼僧達だ。人員と聖血は限りがある。獣狩りの夜ではなくとも、忙しい夜に市街外れのここにいるべき存在ではなかった。

 

「ああ。最近、出るんだよ」

 

「出るって何が? 獣が出るなんて今さらだろう?」

 

 シモンの疑問を答えようとした黒服の後輩が、先輩の溜息に反応して口を閉じた。

 

「……あんた、ホントに地下から戻って来たばかりなんだな。えぇ……墓暴きってそんなことばっかりなのか? ……どうしよ、異動届下げて来ようかな……」

 

「え。下げるなんてできるんですか?」

 

 後輩が思わず先輩を見た。彼はウィンクをした。

 

「ちょっと伝手があるんだ。差し替える程度なら血の酒一本でやってくれる程度の仲のな」

 

 彼らは夢を見ない狩人なのだろう。

 シモンは、小さくフゥと息を吐き出した。ひとまず誤魔化しきれそうだ。

 

「墓暴きは、間違いなく外れクジだ。ここだけの話。まともでいる自信がないならやめたほうがいいだろうさ。断言できるが、絶対に後悔する。最期に空が見えるかどうかは大切な問題だからな」

 

 実感のこもる言葉であることを彼らは知らないだろう。

 しかし、彼らは顔を恐怖で強張らせた。

 

「でも最近、市街もヤバイんだよ。まだ遺跡の中のほうが安全かも……」

 

「何が出るんだ?」

 

「カラスだよ」

 

 カラス?

 街中にいる太り切って飛べない屍肉カラスのことだろうか。

 追及しようとした、そのとき。

 

「お、遅れました。す、すみ、すみません……」

 

 教会の黒服を身に着け、丸眼鏡をかけた白い髪の男が駆け寄って来た。

 彼はゼイゼイと息を吐き、ゴクリと喉を鳴らした。夕暮れでも分かるほど血色が悪い男だった。

 彼は、先輩後輩コンビしか目に入っていなかったようだ。ようやく息を整えて顔を上げ、ようやくシモンがいることに気付いた。彼は飛び上がって驚いた。

 

「ひ、磯臭ッ! び、びっくりした! 先輩、この人誰ですか?」

 

 白髪なので年寄りかと思ったら、思いのほか若い男だった。

 三十の峠を越えるか越えないかという男は、シモンを見てじりじりと距離を取った。

 

「こちら、墓暴きをクビになって路上で身を窶すしかなくなった先輩だ」

 

「なんか情報増えたな。いやまあ、間違っていないが」

 

「あぁ、窶し、というヤツですね。そうなのですか。では、ちょうどよかった」

 

 そう言われて振られる仕事に良いものがあった経験がないシモンは、喉を詰まらせた。

 しかし、できるだけ情報は欲しい。さりげなく話を促した。

 

「懺悔室の密告箱がもう五箱目です。早く内容をあらためて始末してほしいです」

 

「それも窶しの仕事? そっかぁ」

 

 シモンが悪夢に身を投じて久しい。

 知らぬ間に医療教会の窶し達が抱えるべき仕事は増えた。医療教会には『仕事を減らす』という機能がまるでないようだ。

 

「我々は予防の狩人ですからね」

 

「……りょ、了解だ」

 

 それも心が死ぬタイプの仕事が山積みになっていた。相も変わらず、ヤーナムは気分が落ち込むネタに事欠かない。

 しかし、意外な言葉もかけられた。

 

「あなたが不在だったので、これまでは私が担当していました。今後も兼任させていただければ幸いです」

 

 耳を疑った。素直に「ありがとう」と言えない理由は、たくさんある。

 

「あんた、それ意味が分かって言っているんだよな……?」

 

 窶しそして黒服が司るのは、予防の役割だ。

 人の形をしたままの獣を狩ることもある。『瞳が蕩けているように見えた』──その主張だけで命を刈り取る役割だ。狩人は皆、己が獣と信じる者を狩る。たとえ、どれほど人間に見えたとしても。

 ピグマリオンからすぐに言葉を聞くことはできなかった。

 

「窶し、そいつのことなら心配しなくてもいい。──お仲間さ。窶しなんてやってるからには、殺しが得意なんだろ。似たようなもんさね」

 

 どこか蔑みを含んだ声音だった。

 黒服の先輩が口を歪ませて言う。後輩は、気まずそうに目を逸らした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 黒服の先輩後輩コンビから別れた後。

 シモンは遅れてやって来た黒服と同行することになった。全て流れで決定したことだったが、情報収集も行いたい。今のところ幸いだと言えた。

 

(やはり悪夢のヤーナムではない。どこからどう見ても、表の、外の、現実のヤーナムだが……)

 

 周囲を見回して市街の様子を確認する。

 ──なぜ、ここにいるのか。

 シモンの疑問とは、そこに帰結した。

 夢を見る狩人ではない自分は、死ねばそこで終わりの存在だ。だから、自分はあの漁村で教会の刺客に殺されて、終わってしまったハズなのだ。

 

 だが、現実はその認識と異なった。

 

『死ねば終わり』という前提が間違っていたのか。

 前提は正しいが、それを覆す何かがヤーナムの新たな異常として起きているのか。

 

(探さなければならない)

 

 先ほど荷物を探ったところ狩人の悪夢に入り込む時に使った『血に酔った狩人の瞳』は消えていた。今すぐに再び狩人の悪夢に行くことは難しい。

 ならば、今は目の前の異常を解明することから始めるべきだろう。

 そして、手がかりとなりそうな存在に心当たりがあった。

 

(──夢を見る狩人。あの月の香りの狩人を)

 

 シモンは、狩人の姿を思い浮かべた。

 銀灰の瞳の色ばかりが鮮やかに思い出すことができた。

 だが、背丈や相貌は特筆すべきことのない男だったとも記憶している。

 

 広い市街では、探し出すに時間がかかるかもしれない。

 インバネスの付いた狩人シリーズの狩装束など巷に溢れている。

 手がかりは、目の色とマスクを外した時の顔だけだった。

 それでも。

 

(悪夢を終わらせるために、まだ俺は戦える)

 

 シモンは、固く手を握った。

 松明を左手に持つ彼の数歩後を歩む。

 教会の石槌を持つ彼の歩みは、遅い。シモンは追い越さないように気を付けた。

 少ない相槌をうちながら、あれこれと話していた彼は話題が一周して別れた先輩達の話になった。

 

「先輩達の言うことは、ちょっと言い過ぎです。あなたも気を悪くしないでくださいね。我々は、きっと、殺しが得意なワケではありません。ただ、他人よりすこし手際が良すぎたのでしょう。気付けば、こんな仕事ばかりで……」

 

 見かけより若い声だと思ったが、顔の皺を見るに実際の歳にはそぐわない仕事をし過ぎたようだ。

 目に浮かぶクマは濃い。

 それでも、淡褐色の瞳は教会への失望に曇りきっていなかった。

 

「けれど、私はよいのです。私が、苦しい仕事をすることで救われる人もいるのでしょう。これでより多くの狩人が長持ちするのであれば、それはヤーナムにとって善いことだとも思いたいのです」

 

 その手の自己犠牲は報われないぞ。

 シモンは、よっぽど言ってやろうかと思ったが、やめた。

 彼の人となりを知ってからでも遅くは無いだろう。そう思い直した。

 

「ああ、そうだ。お名前をお聞きしてもよいですか?」

 

「あー……シモンだ」

 

 かつて医療教会の古い人間であれば、その名前にピンと来るだろう。

 だが、外の聖書から名に引用されることもある。ありふれた名前だ。

 そもそも医療教会初期の狩人がまだ生きているとは一部の事情を知る者以外は思わないだろう。

 

「シモンさんですね。分かりました。私のことは、どうかピグマリオンとお呼びください」

 

 了解を伝えながら、シモンはひどく戸惑う。

 

「……あんた、誰にもそうなのか? ずいぶん丁寧だな」

 

 シモンの記憶する限り。

 教会の黒服は、予防の狩人という点で窶しの狩人と役割・立場とも同等であったが、当人らの意識として、黒服は窶しを見下していた。こうして並んで歩くなどもっての外であり、かつて仕事を押し付けられた経験も一度や二度ではなかった。

 ピグマリオンは、慌てたようにシモンを振り返った。

 

「お気に障ったら失礼。……私は、実のところ、余所から来て日の浅い異邦人なのです。だから、ヤーナムの勝手が分からないということもあります。しかし、同じ仕事を頂く以上は身分のことなど気にしても仕方がないと思うのですよね。けれど、仕事の邪魔ということであれば、密告箱の任を解くように申し出てみますが──」

 

「い、いや、助かる。ただ、俺が、何というか慣れなくてな」

 

 淡褐色の瞳が、シモンを見た。

 好奇にキラリと光ったのを彼は見逃さなかった。

 

「ところで! 遺跡の調査をしていたと聞いていましたが、それは──」

 

「その話は後で気が済むまでしてやるから。あの先輩方が言っていたカラスについて教えてくれよ。何でカラスなんだ?」

 

「あぁ、カラス……。だいぶ前から噂になっていたと記憶していましたが、ご存じではないのですね。ええと、どこから話したらよいものか……」

 

 彼は、話を遮ったことについて気を害さなかったようだ。

 ヤーナムの黒服では通常、考えられないくらい心が広い。外から来た異邦人だという話は本当のようだ。

 

「『はじまり』が何年前なのか。私にも分からないのですが……医療教会の敵、罪人の一族、カインハーストについてはご存じですよね?」

 

「ああ」

 

 言葉少なにシモンは答えた。よく知っていた。

 後に血族抹殺の任を受けることになる処刑隊、先導したローゲリウスが教会の中で頭角を現したこと。処刑隊の設立から、栄光に彩られた出征。そして、孤児となったカインの末裔を家畜の檻に入れて持ち帰ったこと。そして聖歌隊が設立され──末路の果てまで知っていた。

 

 だが、なぜカインハーストが話題になるのだろうか。シモンには分からなかった。ひとことで言ってしまえば医療教会にとってカインハーストとの因縁は、さまざまあれど全ては過去の『終わった話』なのだ。

 

 カインハーストに由来する狩人がヤーナム市街で狩人を狩り殺していた時期は、確かに存在する。しかし、それはシモンが身を窶す前、医療教会に属するただの狩人であった時分、すなわち大昔の話であった。

 

「カインハーストは、滅ぼされて久しい──ハズだったのですが、ある時、カインの鎧を着た狩人が現れたのです」

 

「は?」

 

 間の抜けた声が出た。

 こんな反応に対してもピグマリオンは気を害した様子はなかった。

 むしろ「やはり、古い狩人の方々はそのような反応をなさるのですね」と言い、ぼんやり嘆くのだった。

 

 カインハーストの鎧とは、アレだろう。シモンは何度か狩人の悪夢で見たことがある姿を思い出す。

 カインハーストでは、銀は悪い血を弾くと信じられているため、全身を薄い銀で覆った狩人服が好まれた。顔まで覆う銀の兜、そして精緻な意匠が施された薄い銀鎧だ。

 狩人の悪夢の昼とも夕とも知らぬ黄昏に照らされた時、ギラギラと金に似て輝くのは、実に分かりやすい標的だった。だから、よく覚えている。

 

 だが、数が少ないはずだ。

 血の酔った狩人が最後に辿り着く悪夢であっても、カインハースト系の狩人服を来た者が現れたのは片手の指で済む程度の数だ。その遭遇数ゆえにシモンは「処刑隊は、確かに任を果たしたのだな」と独りごちたことがある。

 

 ピグマリオンは続けた。

 

「これが一度や二度であれば、大きな問題にはならなかったでしょう。酔狂な狩人の命がけの悪戯で済んだのかもしれません。無論、教会的には笑えない悪戯ではあるのですが。……しかし、彼らは何度も姿を現わし、その度に教会の狩人が犠牲になっています。彼らは過去の亡霊ではありません。確かに存在し、害を及ぼす存在なのです」

 

「それとカラスに何の関係が?」

 

「カインの狩人は何人かいるようなのですが、一番腕の立つと思われる騎士が鴉羽の装束をまとっているのです」

 

「鴉羽……」

 

 鴉羽といえば、真っ先に思い浮かぶ狩人狩りの姿だ。

 血に酔った狩人を殺めるため存在する狩人。その狩りは鳥葬を模しているのだという。

 ──何か関係があるのだろうか。

 問うと気の毒そうに彼は言った。

 

「無関係を装ってはいますが、姿が姿なので無関係にさせてはもらえないようですよ。教会から相当の圧力がかかっているようです。『どうにかしろ』とね。もっとも、医療教会もカインの狩人を『騎士』と呼称しても問題は無いハズですが、敵に対して『騎士』なんて肩書を与えたくないのでしょうね。あぁ、ちなみに教会での鴉羽を纏った狩人の通り名は『カインの流血鴉』なのだとか。だから皆、カラス──『鴉』と呼ぶのです」

 

「カイン系のセンスは、よく分からんな。なんだよ、流血鴉って。恥ずかしい奴だな」

 

 鴉と呼ばれる流血鴉が自ら名乗った二つ名でないことをこっそり祈りつつ、ピグマリオンの話の続きを促した。

 

「カインの狩人が現れるということで、この市街の区画は最近、危険地帯なのです」

 

 シモンは「そ、そうなのか」と言い切るのが精いっぱいだった。

 ──危ない。なんで俺はこんなところに寝ていたんだ。

 ピグマリオンが足を止めて、松明を寄こした。

 

「さて。我々も勤めを果たしましょう」

 

 彼は、右手で石槌に収められていた銀の剣を抜いた。

 そして、左手で明かりのついていない扉を叩いた。叩き慣れた鋭い音であった。

 

「おい。そこは……」

 

 ──空き家ではないのか。

 そう声をかけようとした瞬間、家の中から「ヒッ」と息をのむ音が聞こえてきた。

 

「さぁ、慈悲の時間ですよ。クランツさん」

 

 囁くような小さな声だった。

 それでも、家のなかの誰かには聞こえているようだ。今頃扉をしっかりと押さえ、閉ざしているのだろう。

 

「一度しか言いませんよ。子供が獣の病を発現している可能性があります。今すぐ家から、お出しなさい」

 

 懺悔室に置かれた密告箱──その情報だろう。

 滑らかに出てきた言葉に扉の向こうの人は「なぜ」も言い出せないようだった。ただ、混乱し泣き出した声を必死に押し殺す音だけが漏れ聞こえていた。気付いていながら、優し気に、けれど有無を言わせない声で彼は言った。

 

「──私は、明日の昼間にもう一度来ても良いのですよ。ええ、そう、明日の真昼間に磔刑の用意をして家の前でお迎えしたほうがよろしいか? 油と火を持ってきましょう。その時には『聖血の拝領証』も回収させていただきますが、いかが?」

 

 血の常習者であるヤーナムの民にとって『血の拝領証』を没収することは、医療教会が直接的に「死ね」と言うことに等しい。そして、ヤーナムを血の医療で牛耳る医療教会に背いた市井の人間は、まともに生きてはいけないだろう。

 時間にして数分しか待たなかった。だが、その時間は引き伸ばされたように長く、苦痛に感じた。

 

 突き飛ばされるように家の中から放られた少年は、すでに獣の兆候が見えた。

 瞳を確認するまでもない。皮膚は出来損ないの毛皮となり、左腕は歪み伸びきっていた。

 それでも。

 

「まって──」

 

 抑止を求める知性は、あったのだ。

 不退転の剣は、月の光を弾いた。

 

「アンバサ」

 

 剣は二度振るわれた。一度目で首を。二度目で腕を。

 

「あんた、死体を切り刻む趣味でもあるのかい」

 

「いいえ。……しかし、これでヤーナム葬を免れるでしょう」

 

 彼は扉の奥にひそむ家族に向かって言った。それから「ハァ」と息を吐き出す。彼のギラついた瞳は、陰を取り戻した。自分を落ち着かせるような呼吸だった。

 異邦者は、ヤーナム葬のことを冒涜的だと言う。

 獣を磔にして火をつけて燃やす。

 たとえそれが、かつて人であったものであったとしても。

 けれど、人であれば話は別だ。

 磔も火も使わない。

 ただ、土葬されるだけである。

 姿形が人間のままであれば、そうしたヤーナム葬を免れる。もっとも片腕がないことを指摘する聖職者がいなければ──という状況だ。

 

「それでもこれが……私のできる、せいぜいの慈悲なのです」

 

 絶命した、少年だったものの亡骸は、その家の裏に置かれた。

 ピグマリオンは胴体を丁寧に置いて、顔に飛び散った血を拭い、最後に頭を置いて目を閉ざした。

 手を組んで祈りを捧げる。

 やがて立ち上がり、シモンを見つめた。

 

「窶しの古狩人、私は善いことをしました。善いことをしましたね? 神の名の下、医療教会の剣は正しく振るわれましたね?」

 

「……ああ、そうだな」

 

 安心したようにピグマリオンが、頬を緩ませる。

 シモンは、ただ肯定した。

 彼ならば、そうすると思ったからだ。聖剣の英雄、ルドウイーク。

 ピグマリオンに松明を返すと彼は辺りを見回した。

 

「一度、大きな通りに戻りましょう。巡回の順路がありますから、今日はその道順を確認して仕事の勘を戻してくださ──」

 

 彼の言葉は、突如、闇夜に響いた警笛に遮られた。

 ピグマリオンが眼鏡の向こうで大きく目を見開いて、空を仰ぐ。

 

「ああ! そんな! いつもは、もっと夜が更けてからなのに……!」

 

 規則に従って笛は鳴り続けていた。

 音の信号は最初に方角と番地を告げ、それから助けを求めるものに変わった。

 

「シモンさん、行きましょう──」

 

 ピグマリオンは、かすかに笑っていた。なぜ笑うのか。予防の狩人はよく知っていたが、すぐに動くことができなかった。

 

 鳴りやまない。

 鳴りやまない。

 鳴りやまない。

 

 似つかない音は、シモンに鐘と漁村の波音を思い出させたからだ。

 




窶しのシモン;
ヤーナム編で登場する、ヤーナムの謎を追う人物。
どうやら過去に月の香りの狩人と面識があり、非業の死を遂げた経験がある様子。
獣狩りの夜の有無に関わらず、夜には獣が出るヤーナムにおいて野外生活をする人物が、まさか常人のワケがない。
ボロボロの服を着た、どこからどう見てもプロ窶しです。
なお、窶(やつ)しとは「見すぼらしく、目立たないように、姿を変えること」や「やつれて見えるほど思い悩む」とか「なりふり構わず、何かに熱中する」という意味があります。……なるほどね。


2年生までヤーナム編 登場人物一覧;
【挿絵表示】

Bloodborneに詳しくない方でも分かりやすいように、Bloodborneに詳しい方であれば更にお楽しみいただけるように、挿絵を作成いたしました。
筆者は、二次創作に筆者が書いたイラストがあることは健康に良いと信じているので、これからもいくつか掲載していく予定です。ご興味ありましたら、見ていただければ幸いです。メンシス学派のせいで画像を大きくする必要がありました。……ちょっと悔しかったです。


投稿を再開いたしました;
体力とストックの続く限り、投稿します。予定では「ヤーナム編15話」「ホグワーツ編24話」です。筆者は「一ヶ月間投稿してやるぜぇえ」と言うのが夢だったのですが、ちょっと間があく場合があるかもしれません。また休日の投稿は、0時投稿ではなくなるかもしれません。ご了承ください。
なお、本話投稿時点で話自体はホグワーツ編の24話以外の執筆を終了しています。


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教会の射手

さまよえる血の狩人、レオー
かつて聖杯に漂い、長い夢の果てに帰参したカインハーストの騎士。
倦怠と狂熱に突き落とされた彼は、いまやヤーナムにある。
温もりは遠く失せたが、血の紐帯は褪せることなく存在する。
……いつか彼女が、その手に血の赤子を抱くために……



「あぁ、煙草がうまい」

 

 ヤーナム市街、外れにて。

 紙巻き煙草が呼吸の都度に赤く灯る。

 虚空の月に吹きかけた紫煙が、笑い声と共に零れた。

 

「市街で死体漁りして出てきた煙草は、どんな味の、どんな階級の煙草より最高だ。クハハ、覚えておけ」

 

 カインの兜──銀で作られた兜のバイザーを上げて煙草を吸っていた彼は、ふと思いついたことがあり、隣に立つ少女に煙を吹きかけた。

 油断無く周囲を警戒していた夜警は、途端にムッと顔をしかめ、手で煙を追いやった。

 

「レオー様、煙い」

 

「煙らせてんだよ。可愛い子ちゃんの初陣だ。先輩様からの餞別ってヤツさね」

 

「これまでの騎士の方々がどうだったかは分かないが、僕なら水銀弾をくださったほうが嬉しい」

 

「その適任は鴉だ。アイツにあたるんだな。……。……。──っていうかアイツ、どこへ行ったんだ? 俺達に待機命令出しておいて忘れてんじゃないの?」

 

 騎士からぬ軽口で彼は言う。

 街の中心にそびえる聖堂、連なるように時計塔があった。数分おきに流れる視線は、かの時計を確認していた。

 カインハーストに名を連ねる騎士達の狩りには、定刻がある。限られた時間しか市街に留まらない。それは、彼らの狩りが必要な分を必要だけ狩り取る──正しく狩人であるからだ。

 レオーが言う鴉。巷を騒がせる『カインの流血鴉』とは、三十分ほど前に別行動になった。

 別れ際に「ここで待て」と命じられた二人は、従っていたのだ。

 

「狩りの始まりまで、あと五分。セラフィ、何か聞いているか?」

 

「レオー様が知らないことなら僕も知りませんね」

 

「えぇぇぇ、聞いておけよ。俺が聞いても答えてくれないんだからさぁ」

 

「きちんと聞いておられないのでしょう。僕の質問には、答えてくれる。わりと」

 

「そりゃ、お前は鴉のお気に入りだからだろ。かーっ。男の贔屓なんて下心見え見えで恥ずかしいったらありゃしない」

 

「その心の機微は、僕にはよく分からないな」

 

「男ってのは、そういうもンなの。鴉に限らないが、妙に親切なヤツがいたらお前の体目当てだ。絶対に近づけるなよ」

 

「はあ。でも僕は強いので心配はいらないと思う」

 

 分かってない。

 レオーはセラフィの頭にコツンと拳骨をおとした。

 

「お前は顔がイイんだから、ちゃんとしなさいってば。お得感を大事にしろよ。……うーん。なぁなぁ、ときどき忘れるんだけど、お前は一歳か二歳そこらの赤ちゃんなんだよな。上位者ってやっぱ頭がおかしいだろ。あの月の香りの狩人から、なんでこんなカインハースト系のいい子ちゃんができるんだよ。……俺の人生、狂っちまうだろうが……」

 

「さてね。僕は人間だから『よく分からないな』と言わせてもらう」

 

 打てば響くとは、まさにこのこと。

 レオーは、いつでもキレの良い返事をするセラフィのことを好ましく思っていた。

 

「お前は本当にいい子だなぁ。可愛い子ちゃんで俺も鼻が高い。先輩に従順な後輩は長生きするとカインじゃ相場が決まっているんだ」

 

「ありがとう」

 

 ──あぁ、もう半分かよ。

 レオーが惜しむように紙巻き煙草を味わっている。

 セラフィは、大剣と銃が一体になった仕掛け武器──レイテルパラッシュを鞘から抜いた。

 

「そろそろ、鴉羽の騎士様が戻られます」

 

「ほう。なぜ分かる?」

 

「勘です」

 

「勘ねぇ」

 

「他人を納得させるにあたり、判断には客観的な証拠が必要であるとは分かっている。けれど、僕には分かる。……なぜだろうか」

 

 レオーは兜の隙間からセラフィの横顔を見つめた。

 鴉が入れ込む理由も、レオーには分かる。

 

(いい顔をする)

 

 セラフィは、恐怖を知らない。

 恐ろしいものを『恐ろしい』と認識できず、理解ができないのだと言った。

 その言葉の真実を確かめる術を騎士達は持たなかったが、事実であるという確認はできた。

 訓練と称した真剣勝負で何度命を絶たれても怯まず挑みかかることができるのは、まさしく恐怖を知らないからだろう。

 

 だからこそ、騎士に仕立てるには都合が良い。

 

 闇夜を恐れるのは人の本能だ。

 出自の異常ゆえにそれを知り得ないならば、誰よりも深く闇夜に紛れることができる。闇夜は、セラフィだけが優位に立てる舞台となるだろう。

 レオーは、セラフィの肩を抱いた。

 体は強張ることがない。

 不思議そうに見上げる琥珀色の瞳が子猫のようで可愛い。カインハーストの未来の騎士は、良き後輩だった。

 

「いいや、悪くない。勘は良いものだ。頭の中で考えて弾き出した結果のうち、考えるまでもない速さで浮かんだものを勘と呼ぶ。それを信じることは、己と血肉を信じるに等しい。信頼に値するものさ。そら、おいでなすった。──鴉、遅いぞ」

 

「…………」

 

「ほらな? 無視するだろ?」

 

 一陣の風をまとって屋根に着地した鴉を見やり、レオーが空に煙を吐いた。

 鴉の左手には、白く細長い物があった。

 古狩人の遺骨だ。

 流血鴉──名の由来である、鴉羽の外套にそれを丁寧にしまい込んだあとで。

 

「何か変わったことは?」

 

 訊ねてきたのは若い男の声だった。

 彼は既に血に塗れていた。ほとんどは返り血であるようだ。

 濡れる屋根を見てレオーが言う。

 

「何にも無いさ。つまりは去年と同じ。それで五〇年前、百年前、一五〇年前と同じだ。ぐるぐる、ぐるぐる。同じところを何度も何度も。まったく見てて飽きないな」

 

 心のどこかすり切れたことを言うレオーに鴉は頓着しなかった。

 

「それは月の香りの狩人の戯言だ。油断するな」

 

「俺には同じに見えるがね。何か違うものでもあったか?」

 

「セラフィがいる。教会の狩人の動きは、少なくとも三分されるだろう」

 

 鴉が、三方を指す。

 事前に確認したとおりこれから三手に分れるのだが、聞き逃せない言葉があった。

 

「──少なくとも?」

 

「あの狩人は、何をしでかすか分からない男だ」

 

「おいおい、純な娘の前でパパの悪口を言うものじゃあない。嫌われるぞ」

 

 冷やかしの声には、セラフィが応えた。

 

「お気になさらず。注意しましょう。常に新しい思索を試している御方だ。『何かが起きてもおかしくない』だけは確かなことです」

 

 鴉は、セラフィのそばに来ると血に汚れていない左手の甲で頬を撫でた。

 

「市街での狩りは初めてだったな。夜は短い。存分に駆けよ」

 

「ありがとうございます、鴉羽の騎士様。御身に血の女王の加護あらんことを」

 

 流血鴉。

 カインの騎士は、くるりと身を反転させるとレオーの煙草をむしり取った。

 

「臭い。捨てろ」

 

「もう捨ててるじゃん。あーあ、やだやだ。あと数センチも我慢できないんだから。他人の物を勝手に捨てるなよ。世間じゃ喧嘩のネタだぜ。俺だから我慢できるだけなんだからな?」

 

 レオーが愚痴りながらも腰に帯びた仕掛け武器──極東においては刀と呼ばれる──千景の鯉口を切った。

 その直後のことだ。

 

「──熱ゥい!」

 

 三人の動きは、ピタリと止まった。

 声は、煙草を投げ捨てた屋根の下。すなわち路地だった。

 屋根上から放られた煙草が、通りすがりの女性に当たってしまったことは彼らにも容易に想像ができた。

 

「──誰かそこにいるのか!?」

 

 問いただす鋭い声に、ちょっと顔を出して「すまん」と言える状況ではなかった。

 そもそもカインハーストの騎士は市街に多く存在する、教会に所属する全ての狩人の敵なのだ。

 レオーは兜を被り直し、ヒソヒソと言った。

 

「おい、鴉。手前の売った喧嘩だろ」

 

「お前の煙草が原因だが?」

 

「では。間を取って、僕が参りましょう」

 

「待って待って」

 

「待て」

 

 二人がセラフィの腕を掴む頃、ヤーナムの中心にそびえる時計塔が定刻の鐘を鳴らした。

 弾かれたように流血鴉が屋根を蹴った。

 

「──散会。カインハーストの名誉あらんことを」

 

 レオーが手を伸ばすが遅かった。

 いいや、流血鴉が速すぎたのだ。

 古狩人の業、加速を使い姿を闇に溶かした流血鴉を認め、レオーは念のために背後を振り返った。もちろん、いなかった。

 セラフィが判断を仰ぐように一瞥をよこした。

 

「逃げやがったッ……! 信じられん……! あの野郎、責任って言葉を知らないのか……!?」

 

 それから間もなく。教会の警笛が鳴り響いた。

 

「あーあ、せっかく作戦立ててもこれなんだから。開始数秒で段取りがもうメチャクチャじゃん。作戦会議やる意味ある? 見つかるのが早すぎるんだよ。──くっ。セラフィ、持ち場へ行け。だが、忘れるな。定刻になったらヘムウィックに集合だ」

 

「了解。援護の後で向かいます」

 

 セラフィが腰に吊り下げていた『感覚麻痺の霧』が封じられた丸底フラスコを取り出す。

 それを放るのを見て、レオーが屋根から飛び降りた。

 

「いい子だ! この先の路地は行き止まり。──追い込んで殺すさ」

 

 警笛は鳴りやまない。

 血の狩人の狩りが始まろうとしていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ──退路を塞ぎ、輸血液での回復を阻害する。そして頭上からの不意打ち。

 レオーが負けることはないだろう。だが、無事を確認してから立ち去りたい。

 先達を案じる気持ちは、クルックスの慈悲のように無駄ではないのだと思う。

 

 セラフィは、屋根の上から先達の戦いを見ていた。

 

 敵対者は、トップハットを被り狩人服を着た女性狩人だった。教会の騎士でもあるのだろう。教会の石鎚を重々しく振るっているが、動きがぎこちない。見れば、足に負傷している。

 屋上から不意打ちの一撃は、彼女の利き足を貫いたようだ。それでも振るわれる石鎚は重く、脅威だった。まともに直撃すれば千景であっても折れそうなものだが、レオーの身のこなしのほうが速い。リーチも上だ。彼女にはレオーのマントの端さえ掴めはしないだろう。

 

(……レオー様は大丈夫。もうじき仕留めるだろう。僕は──)

 

 方角を確認しようとレオーから目を離した。

 その時だった。

 闇夜の奥から、細く縒った鋼鉄の糸が張りつめ──そして、弾ける音が聞こえた。

 それは、火薬を使う銃よりも音が小さく、何より無臭であった。

 

「レオー!」

 

 屋根から飛び降りる。遅すぎた。

 眼下を銀の光が翔け、金属が割れる高音が路地を満たす。銀の光が、レオーの兜を打ち砕いた。

 飛び降りた勢いのまま、レイテルパラッシュで狩人の頸部を貫く。

 そして胴体を路地の入口へ放った。

 再び、鋼鉄の弦が弾ける音が聞こえ、その遺体は銀の光を受け止めた。

 

(光──違う、矢だ!)

 

 ヤーナムの一般住民でさえ護身のための銃を持っている。

 そんな時世において時代遅れの武器を使うとは、相手は酔狂か手練れのどちらかだ。そして今回は後者であろう。セラフィの勘は告げた。

 

「見事であるな。──教会の射手!」

 

 レオーの体を持ち上げ、共に更に細い路地へ身を投じる。

 遺体に刺さった矢の角度から屋根の上からの射撃だと分かる。

 見上げる。

 細い路地だ。屋根と壁面の間隔は狭い。ここならば屋上から撃たれる心配は無い。

 

 セラフィは携帯ランタンに火を灯し、レオーの額を確認した。

 彼は、衝撃で気を失っていた。微かに目を開いているが、青い瞳が明かりを追視することはなかった。

 矢は、兜の側面を削るように割った。

 即死を免れただけ運が良い。

 

「だが、額が割れてる。血を入れる。レオー、聞こえているか?」

 

 最低限の血を入れたが、止血には時間がかかる。

 その間に教会の射手が距離を詰めて来る可能性があった。

 

「レオー、ここで待っていてください。先に射手を殺す」

 

「ばか。アヴ……頭出したら、ブチ抜かれるぞ……」

 

 立ち上がろうとした手を握るものがあった。

 レオーが、ぼんやりとした顔でセラフィを見つめた。

 

「血は入れた。お加減は」

 

「ダメっぽい……お前は、エヴェリンじゃあないのにな……」

 

 息が荒い。

 顔色が白く見えるのは三日月のせいではないだろう。

 セラフィは、レオーの手から千景を取ると彼の腰の鞘に納めた。

 

「伏兵か、つまらねえこと、しやがって……くそ、ヘタうった……置いて行け、セラフィ」

 

 彼は苦しげに息を吐いた。

 焦点の合わない、ぐらついた頭であっても話す言葉は真っ当だ。

 だからこそ。

 

「分かりました。担ぎます」

 

 レオーの右足と右腕を担ぎ上げ、セラフィは左手で長銃──エヴェリンを収めた。

 

「おい……先輩の……言うことは……」

 

「長生きすることに興味はない。──けれど、貴方が僕を愛おしんでくれるように僕も貴方を愛している。血族の夜は長い。誰も失いたくはない」

 

「…………」

 

 レオーの肢体から力が抜ける。

 本当に気を失ってしまったようだ。

 

「行くぞ」

 

 これからいくつもの路地を通り、ヘムウィックまで逃走する。

 屋根の上からの足音が聞こえる。追手は近い。

 

「狩人が狩られる側になるとは、こんな気持ちなのか。なるほど。──すこし不快であるな」

 

 だが、恐れはない。

 セラフィはランタンを消すと路地を走り抜けた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

(仕損ねたな)

 

 シモンは弦を弾き、調子を確認しながら屋根を駆ける。

 屋根の上に、もう一人の騎士がいることは分かっていた。

 襲われている教会の狩人の救命を優先しようとしたが、結果として彼女の死期を早めてしまった。屋上の騎士は、弦音が届いたとしか思えない判断の速さを見せて鎧の騎士を救い、その『ついで』に教会の狩人を殺した。振るわれる剣に迷いは無く、遮蔽物に隠れるまでの動きにも無駄が無い。相手を見くびってしまったようだ。

 

 死体の盾に阻まれて致命の一撃を無駄にした以上、こちらの居場所も勘付かれたかもしれない。少なくとも屋根の上にいることは露呈しただろう。

 だが、未だ有利なのはこちらだ。

 

「ピグマリオン、援護する。西に走れ!」

 

 地上にいる黒服、ピグマリオンが銀の剣を掲げる。

 月光を鋭く弾く剣が応えだった。

 

「本当にカインハーストの騎士がいるとは……どうなっているんだ……?」

 

 ピグマリオンの言葉を嘘だと思っていたワケではないが、信じがたいことではあった。

 しかし、目にしてしまったものは現実と受け止めるべきだった。

 視界にキラリと光るものがある。銀の鎧は、やはり目立つ物だ。

 矢を番えるより先に騎士装束の騎士は、路地を曲がり、姿を消した。

 驚くべきことに騎士装束の何者かは、手負いか死体であろう鎧の騎士を負って走っているようだった。

 

(あの騎士装束は……たしか女物だろう。じゃあ、鎧の騎士を背負っているヤツは女か? ずいぶん力持ちだな。ガラシャではあるまいに)

 

 剛勇で知られた女狩人を思い出し、シモンは笑う。

 ピグマリオンに地上を走らせてプレッシャーを与えつつ、機会があれば撃つ──彼女の消耗を待つ作戦に切り替えた彼は、さらに考える。

 かつて「カインハーストに連なる騎士を捕縛せよ」との命が下ったことがある。

 

(ありゃまだ有効だろうか? 期限が終わった命令であるとも破棄された命令であるとも聞かないが……)

 

 個人的な事情であるが、カインハーストを滅ぼされた彼らが『どこから現れたのか』は知りたいところだ。

 悪夢に身を投じる前に騎士の姿は失せていた。だが、今更になって現れた。そこには悪夢に身を窶した自分が戻ってきたような──因果関係があるかもしれない。

 

(血に酔っている様子がなければ、話をしてみたいが……)

 

 同僚を傷つけられて頭に血が上っているかもしれない。

 そうなれば冷静な話し合いは難しいだろう。交渉に応じさせる状況まで追い込みたい。

 彼女が向かっている方角は墓地街のヘムウィックだ。

 

(森がある。先回りして樹上から撃つか……)

 

 屋根を飛び移った先、路地に姿を消していた騎士と並んだ。

 ほんの一瞬の出来事だった。

 月明かりと街灯が、白い横顔を照らす。弓剣も光を弾いた。

 一心に前方を向いて駆けていた騎士が光に誘われ、ハッとした顔で屋根の上に顔を向けた。

 その顔には見覚えがあった。

 

(マリア──!?)

 

 見間違えるハズがなかった。あの顔は、鋭く冷たい目つきは、たしかに時計塔のマリアと呼ばれた女狩人、その人だった。

 思わず駆ける足が淀む。

 

 結果として、命拾いした。

 

 即座に彼女の剣先──レイテルパラッシュの銃口が屋上を差し、牽制の弾丸が飛んでくる。速度を落とさずに走っていれば利き足を射抜かれていた。

 騎士は再び姿を消す。

 シモンは地上を走るピグマリオンに声をかけた。

 

「──っ、反転した! 東だ!」

 

「了解っ!」

 

 虚偽を伝えた。

 悪いと思いつつ、シモンは追跡を再開する。

 今度は消耗を待つ心算は無かった。

 必ず足を止めて、情報を聞き出さなければならない。

 異常な光景を目の当たりにし、我知らず頭が沸き立つような心地だった。

 

(マリアは確かに狩人が殺した。俺も暗殺者に殺された。だが、生きている。その答えを持っているのか? カインハーストが)

 

 距離は確実に縮まっていた。

 身を隠せない通路に出た瞬間が狙い目だろう。

 

 彼女が路地から飛び出した。

 行く手には松明が見える。シモンは、すわ狩人かと目を眇めた。

 ゆらゆらと揺れるそれは、狩人のものではなかった。獣狩りの群衆、数人がたむろしている姿が見える。

 

 もし、ほんの数秒でも足を止めて彼らの処理をするならば、彼女を的にできる。

 走りながら矢をつがえ、やや弦を弾き始める。

 

 だが。

 彼女は脚を止めること無く、数発の発砲音が響かせて群衆の脚を撃ち砕いた。そして、崩れた群衆の隙間を飛ぶように駆けていく。

 ──手際が良い。

 血に酔っていないと確信しつつ、別のこともシモンは察することができた。

 眼下の獣狩りの群衆に視線を移す。彼らは、成人男性だ。

 

(背丈が違う。マリアではない? マリアは彼らに比べて、もっと背が高い)

 

 甲高い呻き声をあげる群衆は、後ほど教会の狩人が処理するだろう。

 時計塔で狩人と戦っていたマリアを思い出す。

 鮮やかに思い出せるその人は、狩人よりも背が高かった。

 

(ええと。だから。背丈からしてマリアではないことは確かだ。けれど、顔はマリア……)

 

 考えられることは。

 

「マ、マリアの娘? ……いやいやいや、そもそも誰とだよ……。今がいつかも分からないのに……」

 

 もしも、マリアの娘だとしたら幼すぎる。

 シモンは自分が悪夢でどれほど時間を過ごしたのか分からなくなっていたが、マリアに隠し子がいたとして、その子が成長できる時間がヤーナムに残されているとは思えなかった。ヤーナムは病と獣の街だ。まっとうな人間が、特に幼い子供が育つ場所ではない。

 

 情報収集のつもりが整合性の取れない情報ばかり集まる。

 そういえば、狩人の悪夢で出会った狩人曰く「今回の獣狩りの夜は、特別に長い夜らしい」──とのことだった。犠牲者も多く出ただろう。現状を見るに、彼の言葉は嘘であると言わざるをえない。

 しかし。

 

(月の香りの狩人は、嘘を吐いている風にも、気が狂っているようにも見えなかったが……)

 

 妙だ。

 嘘を吐く利など彼には何も無い。

 だが、彼の言葉が真実だとすれば、現実が嘘になる。

 どちらが偽りなのか。

 

(あまり考えたくないが……)

 

『現在のヤーナムあの世説!』という言葉が脳裏に閃く。

 まさか、と首を振るものの、肯定材料の自分自身が存在しているので否定材料は、今のところ見つからない。

 ぐるぐると脳が沸騰しそうになってくる頃、騎士が見えた。息が上がっているのか速力は落ちている。

 

「いかんいかん。今は目の前に集中──ってオイ!」

 

 シモンは矢をつがえると空に向けて放った。

 騎士に当てるつもりはない。彼女の視界上、遙か先に落ちたが牽制の役割は果たした。

 彼女はサッとマントを翻し、近くの路地に消えた。

 それから間もなく、彼女が進もうとしていた街路に教会の黒服を着た狩人が松明を掲げて現れた。

 危うく鉢合わせるところだった。

 

「さては方向音痴だな? それとも追っ手がかかってパニクってるのか? あっちは市街だぞ」

 

 再びヘムウィックに向けて走り始めた影を追う。

 目が離せないヤツだということがよく分かり、シモンは屋根を飛び越えた。

 

 




カインハーストの騎士達;
【挿絵表示】

(清書する体力はありませんが、没にするのはもったいないので掲載します)
狩人の血には『穢れ』というものが存在します。連盟の虫がそうであるように、血の女王と盟約を交わした狩人である彼らにしか見えません。
とにもかくにも、カインハーストの血族、血の狩人達が求める物はそれです。そのため、彼らは狩人が多く集まる市街で狩人を狩っています。しかし、血の遺志の常習者しかおとさないためドロップ率が低めです。彼らと出会った場合の市街在住狩人の死亡率は、高めです。
医療教会にとっては『「未だ正気で、獣を狩る役割を果てしている狩人」を殺す狩人』という存在なので頭が痛いどこか、頼み込んでも死んでほしい存在でもあります。
ちなみに『穢れ』は消費アイテムで使うと啓蒙を得ることができます。有識者血族の皆さまも首を傾げるでしょうか。なぜだろうね。不思議だね。しかし、謎を解く方法がありまして、ここに青い秘薬をお持ちしてそれを吸うとBloodborne追加DLC vol.2カインハーストの紋章編が始まります。だから君、強め幻覚を吸ってみたまえよ……。

レオー;
「誰?」となるBloodborne既プレイの皆さまへ説明すると聖杯で現れるカインの騎士一式装備の狩人です。「地上(ストーリー)を走りたくないけど流血鴉と戦いてぇ」という時のジェネリック鴉でもあります。
Bloodborneをプレイしたことがない皆さまへ説明すると敵NPCです。台詞・顔・口調・所属等が一切不明の敵NPCです。どうして敵対しているのかも分かりません。むしろ教えてくれ。
本編においてはセラフィにとってカインハーストの先輩騎士として登場しました。悪夢ですり切れそうな心を抱えた軽いノリのヤバくない方の先輩です。

鴉;
悪夢を堪能しているヤバい方の先輩です。
趣味を生き甲斐にした結果、最高に楽しい人生を送れることになりました。
父たる狩人があまり会いたくない相手です。



感想をお待ちしています(交信ポーズ)


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鴉呼びの警笛

聖血の拝領証
医療教会が与える病み人の証
全ての病み人にとって、血の救いは命を救われる事と同義である。
すなわち、神の御業だ。
ゆえに拝領は、教会の慈悲の証となったのだ。



 市街には「ピィー……ピィー……」という高音が、響き渡っていた。

 耳鳴りのようなそれが聞えた時、クルックスは父たる狩人と共に市街を哨戒していた。

 今日のクルックスは獣狩りの斧を負い、左手には松明を掲げている。

 隣では頭上を見上げ、立ち止まった狩人が「やれやれ」と呟いた。

 

「笛の音……ただの笛ではない。教会の警笛ですね?」

 

「そうだ。今では『鴉呼びの警笛』なんて呼ばれているな」

 

「鴉呼び?」

 

「獣の、あるいはカインの騎士の危険を知らせるための警笛だが、笛の音を聞いて駆けつけた頃には笛の主はとっくに殺されて、後には血塗れの鴉が立っているんだ。そんなことが何十回も続けば、それを見た狩人はこう思うわけだ。──『笛を吹いたから流血鴉がやって来たのだ』とな。原因と結果が逆転してしまったのだよ」

 

「因果が逆とは、そういう意味……。……。……ええと、人気者ですね、鴉」

 

 警笛は、鳴り止むことがない。

 そして、音は絶えず移動を続けている。

 彼は誰かの首を刎ねたのだろうか。断末魔らしき「ピュヨッ」という笛音も聞こえた。

 

「真面目なヤツではあるのだろう。隠れるのが苦手のようだが」

 

 狩人が、ややうんざりしたように言った。

 ピーピーと聞こえる笛が煩わしいのだ。

 

「……セラフィのことを考えています。大丈夫だろうか」

 

「大丈夫だろう。彼女は、頑張っている」

 

「頑張っている」

 

「自分が死ぬときは誰かを道連れにするタイプの狩人だ。つまり、しぶとい」

 

 クルックスには、どこがどのように大丈夫か分からなかったが狩人が「頑張っている」と言うので、そうなのだと信じることにした。

 再び歩き出した狩人の後をついて歩く。

 

 広い街路に出るとたき火を囲んでいる狩人達がいた。

 そのうちの一人、枯れ木を足している狩人は覚えがある。連盟の同士、ヤマムラだった。 

 もう一人は、教会の狩人だ。白く厚い教会服を着込んでいる。しかし教会の白服ではない。見慣れない装束だった。

 

「おや。珍しい組み合わせ。アルフレートさん、ヤマムラさん」

 

「あぁ、狩人さん。こんばんは」

 

 白い装束の彼が振り返って丁寧な教会式の挨拶をした。

 狩人はトリコーンをヒョイと上げて、それに応える。彼の後ろでクルックスは軽く頭を下げた。

 

「珍しいですね、誰かと一緒なんて」

 

 彼の足下に置いてある金色の車輪には見覚えがある。──ローゲリウスの車輪と呼ばれる処刑隊が持つ武器だ。

 すると彼は、処刑隊なのだろうか。

 何度か狩人から話を聞いたことがある。白い装束の彼こそ血族狩りの狩人、アルフレートだろう。

 

「私はこう見えて成長期なのでね。こちら、息子だ」

 

 むっ!

 アルフレートが大きく目を見開いた。

 クルックスは、狩人にハッキリと「息子」と言われたことがなかったので新鮮な気持ちになった。

 

「息子っ!? か、狩人さんにもいい人がいたんですね! おぉ、めでたい! あとでお祝いの品を持って行きますよ。お家はどこに?」

 

「え。いやいやいや、お、お気遣いはありがたいけども。誰かと結婚したワケでもなし、まあ、成り行きで出来たというか、回転ノコギリの事故というか──」

 

「子供の前で言うことではありませんよ!」

 

 アルフレートは、素早く狩人の首根っこを掴むと二人で路地へ入っていった。

 追いかける雰囲気ではなかった。

 彼らを見守っていたヤマムラと目が合った。

 

「あー、すぐに戻ってくるさ」

 

「そうですね。あの狩人の方は、医療教会の……親しいのですか?」

 

「そういうワケではないんだが、私も『成り行き』ってヤツだよ。最近、巷の噂になっている流血鴉のことは知っているだろう?」

 

「はい。この警笛の音を辿ると会えるらしいですね」

 

 夜に響き渡る警笛は、鳴り止むことがない。

 ヤマムラも帽子のつばを押さえ、空を見上げていた。

 

「彼、アルフレートと言うのだが……鴉が素早く、独りだと追いつけないらしい。耳目が多ければ有利だろう。そこで知人である私に声がかかったんだ」

 

「なるほど。一時的な協力というワケですね。……いえ、教会の人間にしては、良い人のようですが」

 

 クルックスは声を低めた。

 ヤマムラも「ああ」と答える。

 周囲に人の気配は無い。それにしても監視社会のヤーナムにおいて教会の悪口を言うのは憚られた。

 

「ところでヤマムラさんは鴉と会ったことがあるのですか?」

 

「あるけれど彼は私に興味が無いらしい。一礼して去って行った。一合くらい打ち合ってみたかったが」

 

「…………」

 

 クルックスは、ヤマムラが腰に帯びた刀を見た。

 カインの騎士達が使うという千景という武器。彼もまたそれを持っていた。彼が見逃された理由の一端かもしれないと思えた。またカインハーストを誅する命を担った処刑隊、その系譜を持つアルフレートが彼に声をかけた理由も。

 クルックスが千景を見つめていることに気づき、ヤマムラはたき火から離れると柄に手を置いた。

 

「カインの騎士とやらには、何か目的があるのだろうね。むやみに殺し回っているようであり、しかし、獣に襲われていた教会の狩人を助けるなんて気まぐれを起こすこともある」

 

「…………」

 

「市街は広い。だが、万一のために父君と離れぬことだ」

 

「……どうでしょう。あの方、長く独りで狩りを続けていたせいで周りに人がいると落ち着かないようですから」

 

「そうでもないさ。年長者というものは、後輩がいればそれなりの気を配るものだ。彼は、彼自身が思うよりずっと器用な性質のようだからね」

 

 気を遣われていると感じることは無かったのだが、けれど思い返せば、今日の彼に追いつくのは容易いことだったような気がする。彼がクルックスを意識していたかはどうか定かではないが、歩幅は普段より小さかった。

 

「ああ、きっと、そうでした」

 

 年かさの東洋人は、血生臭い夜に似合わぬ笑みを浮かべた。

 そして。

 

「息子の君に言うのは、自分でもどうかと思うのだがね……。もうすこし殊勝な態度だったら長も認めると思うよ。根は、とても真面目なのだし……」

 

 ヤマムラは、残念な生き物を見るような目で狩人が姿を消した路地を見やった。

 彼が心を痛めているのは、狩人が連盟の長に出会う度にチクチクと小言を受けていることだった。

 

「長って同士を大切にしているだろう。しかし、彼には妙にアタリがキツい。私が聞いても答えてくれないのだが……君は、何か知っているかい?」

 

「期待の裏返しということで俺は納得しています」

 

「だといいな……うん……だといいけどなぁ……」

 

 ヤマムラは、しみじみと言う。

 クルックスは突然不安になった。自分の不在の間に狩人は何かとんでもないことをしでかしたのだろうか。連盟の集会場所になっている禁域の森の風車小屋を聖杯チックに改造するとか……。

 問いかけようとした、そのときだ。

 隣の通りから、鋭い警笛が聞こえた。

 細い路地から、広い肩をぶつけながら、アルフレートが飛び出し、素早く車輪を拾い上げ、長銃を構えた。

 

「ヤマムラさん、行きますよ!」

 

「ああ。いつでもいい。……クルックス、狩人の指示で動け」

 

「了解。ご武運を」

 

「応っ!」

 

 ヤマムラの言葉を合図に二人は夜に駆けだしていく。

 足音が聞こえた。

 ようやくアルフレートから解放された狩人が、ヘロヘロになって出てきた。

 

「お父さ──狩人さん、加勢されますか?」

 

「したいところだがな。流血鴉とは、市街では『やむを得ない交戦』以外は、しないということで誓約を結んでいる。それにアルフレートがいるからな。そっとしておきたい。俺は遠慮する」

 

「では、俺も待機します。かの騎士は、積極的に敵に回したい人物ではない。それにセラフィの恨みも買いたくない。けれど、笛の音が……。狩人達は獣どころではないな。人狩りに夢中だ。はぁ……」

 

「賢い選択だ。もし、俺が君なら頭を突っ込んだことだろう」

 

 狩人の言葉に、クルックスは彼を振り返った。

 それを期待されているのだろうか、とクルックスは思ってしまったのだ。

 彼は否定するために右手を振った。

 

「『そうしろ』という意味ではない。俺の悪い癖なんだ。だから誓約を結び、できる限りそうした事態が起きないようにしている。……俺は、自分で何でも解決できると思い上がっていた。今でもそんな節があるが、まぁ、それはそれとして──驕りに気付かずに『良かれ』と謀って、結局、失敗した。最後の周回に、最悪の醜態を晒した」

 

「…………」

 

 狩人は、アルフレートの去った後を見つめていた。

 

「彼は処刑隊の亡霊に憑かれていて、俺は心底『かわいそうだ』と思ったよ。あんな夜に、もう『終わった』ことに固執して……。だから楽にしてやろうと思って女王様と一計を案じて、最悪を招いた。最後の最後で彼の何もかもを読み間違えたのさ。……俺は『よかれ』と何かをしようとする度にアルフレートの死に顔が過ぎる」

 

「でも、それは……間が悪かっただけでしょう……。誰かのためを思う気持ちは、決して、悪いものだとは思いません」

 

「そのとおり。悪くはない。あの時、ユリエは『地獄への道は善意で舗装されている』と言った。そのとおりだったさ。俺は悪化させる心算が無かったが、善意がトドメになったんだ」

 

 彼は、夏の夜に長く続く息を吐いた。

 

「──しかし、それだけだっただろうか。カインの女王と彼を引き合わせるために、招待状を渡した俺は……ほんのすこし、欠片ほどの好奇がなかったと言えるだろうか……?」

 

 狩人は何かを探すように宙を見上げる。

 答えは見つからなかったようだ。

 首を振るとクルックスに向き直った。

 

「ところで『間が悪い』って考えは良いな。その気持ちになるまでずいぶん時間がかかったものだ」

 

「…………」

 

「上位者の権能を使えば、彼の末路を変えられたのかもな。……だが、俺はそうしたくはなかったんだ」

 

 ──どうしてだろうな。

 狩人は、ひとつ息を吐いた。

 問いかけた彼は、すでに答えを得ているのだろう。

 だからこそ、彼はここにいる。

 何も言わずクルックスは彼の隣に立っていた。

 

 ふと、どうしてこの人は上位者なのだろう、と考えた。

 クルックスの見るところ。

 今日の夜のように、彼は本当にただの人間で、ただの狩人に見える時がある。

 

「いつか、いつかと……夢を見るだけならば、やはり罪はないでしょう」

 

「それは良い考えだな。願うだけならば人は自由だ。……そうだ。そうだとも。人間は自由だ。だから、上位者の思惑を越えていける」

 

 笛は鳴り止まない。

 短い言葉と火で充足を得た狩人は目を閉じた。

 だが、もうすこしだけ五感を研ぎ澄ませば、彼にも鳴らぬ鐘の音が聞こえたかもしれなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 松明を持たない狩人達が決して足を踏み入れようとしない細い路地裏にて。

 自分の荒い息使いばかりがうるさい。

 セラフィは、熱い息を吐いた。

 

 血の女王がそうであるように優れた血質は、体内に過度の血と熱を生んだ。

 高い技量があれどその血質のため、セラフィは長時間戦闘し続けることができない。カインハーストに連なる騎士達の狩りの時間が定められている理由の一端でもあった。

 

 武器に血をまとわせる千景。

 水銀と共に血を消費するレイテルパラッシュ。

 

 これらが好まれた理由も活動時間と無関係では無いだろう。

 彼らにとって血は誇りだが、同時に軛ともなり、今は障害となっていた。

 

(からだが熱い……)

 

 決してレイテルパラッシュを手放すことはなかったが、無意識に指は引き金から浮いていた。

 セラフィと同じ境遇にある他の三人の『きょうだい』にとって何の問題も無い全力疾走は、彼女の体を徐々に蝕んでいた。

 

「レオー様? ……反応がない。ダメか」

 

 それでも彼が頭を撃たれた後、多少でも会話ができたことは本当に幸運なことだった。

 そのおかげでセラフィは彼を負う覚悟ができた。

 

「もうすこしだ。市街を抜けたら、ゆっくり行こう……」

 

 市街の外は深い森だ。禁域の森の端を進み、ヘムウィックまで歩く予定だ。

 すでに走ることは難しい。

 辛うじて早足と呼べる速さで彼女は進んでいた。

 

(それにしても教会の射手)

 

 今の季節は夏。

 森まで行けば追手の目も木々で遮られることだろう。いくら彼が敏腕であろうと撒けるハズだ。

 

(先達の騎士様から聞いたことはなかったが)

 

 父たる狩人が願った、何かしらの成果なのだろうか。

 悪夢より人が戻ることは、現在のヤーナムにおいて珍しいことではない。

 鴉もレオーもその経緯を辿ったと聞く。またビルゲンワースの学徒、コッペリアもそうだ。例は、あるのだ。知識として覚えてもいる。

 だが、間が悪い。しかも相手も悪い。よりにもよって遠的可能な射手が這い出てくるとは。

 

(っ。速いな……!)

 

 セラフィをして知覚可能な足音を立てずに近付いてくる射手だが、屋根を飛び越えた時──受け身をとった際の鈍い音が聞こえる。

 距離は近い。すでに彼の射程内だ。

 息を整えて再び走り出そうとした、その先で闇が揺らいだ。

 一瞬、疲れた目の見せる幻かに思えたそれは、セラフィがわずかに落胆を覚えるほど現実の産物だった。

 

「新手か」

 

 今宵の月は高い。

 路地に差し込む一条の月光が、異形を照らした。

 最初に現れたのは、棘の生えた長柄の槌だった。それもただの棘ではない。

 

(獣と血の臭い。あれは瀉血の槌……?)

 

 セラフィは使用経験の無い仕掛け武器を思い出す。

 父たる狩人が四人を集めて仕掛け武器の説明を行ったことがある。初めて聖杯に挑む前に武器を選んだ際のことだ。

 そのなかで最も悍ましい変形をした武器だったので、よく覚えていた。

 

 ──瀉血の槌。

 ──とある男は、ひどく瀉血に固執したそうだ。心の底に溜まった悪い血を出せば……とね。

 

 狩人の言葉が蘇る。

 使用者には、ついぞお目にかかったことが無い。

 だが、それが教会の武器であることは知っていた。

 

「教会の者か」

 

「……教会『側』の人間ではある」

 

 持ち主の男は、闇の中でほんのすこし考えてから言葉を発したようだった。

 なるほど。

 セラフィはレイテルパラッシュの撃鉄を起こした。

 

「どちらであれ同じもの。名乗るがいい。──その首、刎ねてしんぜよう」

 

 本当は名乗らせるのも時が惜しいのだが、儀礼を忘れてはいけない。

 まるでセラフィの焦燥を見透かしたように男は名乗らなかった。

 ただ、コツリと革靴が汚れた石畳を踏む音が届いた。

 

「近付くな。次は撃つ」

 

「その顔の女ならば、すでに撃っていた。……ほう。お主は、違うのだな?」

 

 セラフィは、目の前の状況を忘れた。

 彼が、何を言っているのか分かってしまったからだ。

 それはセラフィがカインハーストに与した時から現在まで続く疑問であったからだ。

 

 星幽、時計塔の貴婦人マリア。

 

 周囲の大人は皆、セラフィを見て時計塔の主に「似ている」と言う。だが、それだけだ。

 セラフィにも似て、狩人の夢にいる人形にも似る彼女はいったい誰で、何なのか。何をして、どうなったのか。末路は。誰も教えてはくれない。それが彼女の心の内に巣くう、根深い疑問になるのに長い時間はかからなかった。

 

 異常な武器を持つその男は、姿容も異常だった。

 捻れた角が生える獣の皮をまとい、血に汚れた異邦の服に身を包んでいる。

 セラフィには顔が見えなかったが、声質からレオーと同じ程度であるとは予想がついた。つまりは壮年だ。

 

「……知って、いるのか……?」

 

 剣先が逸れた。

 冷静な知性は、狂人の戯言であり耳を貸すべきでは無いと告げる。

 けれど狂人の知性がマリアを仄めかす言葉を持ち得るだろうか。

 

「今、鐘の音が聞こえているかね?」

 

「鐘……? 聖堂街の鐘のことか? あれは、あと二〇分は鳴らないだろう」

 

「そうか」

 

 どうやら違う鐘のことについて聞きたかったらしい。

 では、旧市街の鐘のことだろうか。問う機会はなかった。

 

「先へ進むがいい。私は、お主の敵ではないようだ」

 

「たしかに。僕は強いので貴方など敵ではないが」

 

「そういう意味ではない。どうでもよいが、そうではない」

 

「あ、あの、獣の皮をまとう御仁、貴方はどこでその女性のことを」

 

 彼は、わずかに頭を上げた。

 屋根の上、人の気配が近い。

 

「こんな時にっ! 教会の射手、忌まわしいな──」

 

「射手……? ……先へ」

 

 男は身を壁に寄せ、静かに促した。

 二の足を踏んだのはセラフィだった。

 

 教会『側』の人間が、教会の者と争うのだろうか。

 それともこちらを騙す心算なのだろうか。

 

 暗闇のなかで、黒い瞳と目が合った。

 それは、深く昏い。引きずり込まれる夜の色だった。やがてその瞳は、逸らされ天上を睨む。謀る意図は、無いように見えた。

 

「行け」

 

「っ……ひとつ借りとさせていただく。失敬!」

 

 獣の匂いがした。

 彼の前を通り過ぎ、セラフィは細く長い路地を抜けた。

 

 その路地は、あまりに細かったので。

 ──お主、まだ聞こえているな? ならば生かすことあたわず。終わりなき死を。何度でも。鐘の音に、怯えるがよい。

 獣の皮をまとう男が囁くのが聞こえた。

 

 路地を抜けた先で、セラフィは森の端に辿りつく。

 視界の端にきらめくものが見えて振り返る。反射的にレイテルパラッシュの銃口を向けた。

 その射線上、やはり屋根の上には弓を構える男がいた。最大まで引かれた弓矢は、彼の指先の緊張が解けた途端、セラフィの頭蓋を貫いて余りある威力を発揮するだろう。

 セラフィの指先も引き金を引き……やめた。

 射手が未だ気付かぬ後方で、刺々しい血肉がぬらりと月光を弾いたからだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 森は近い。

 彼女の足は鈍っている。

 幸いなことに教会の狩人もそれ以外の狩人も誰もいない地区のようだ。目撃者がいないのであれば、口止めの対処も必要ない。

 シモンの遙か後方では、今でも鴉呼びの笛がピィピィとやかましい。だが、皆が彼にかかりきりになっているのだろう。

 

 珍しいほどの幸運だ。

 

 路地から出てきた瞬間を狙い撃つ。

 森まで逃げれば大丈夫だと思っているのだろう。

 普通はそう考える。

 そして大抵の場合、正しい。シモンもそう思う。

 

(だが、運がなかったな)

 

 手負いの騎士を担いだ身で予防の狩人から逃げられる者は、ヤーナム広しといえど滅多に存在しないだろう。彼女も数多のうちの一人だったというだけだ。深手を負っているか死んでいるか分からないが、同胞を負って逃げること事態は勇敢な判断であり、気高い精神を持ち合わせている証左でもある。しかし、結果は命取りの愚行であると断じなければならない。

 

「あとで血を入れるから許してくれたまえよ……!」

 

 これまでの速度から考える。彼女は、もうすぐ姿を現すはずだ。

 限界まで弦を張る。チラとでも見えたら指先の緊張は解けるだろう。

 だが、シモンを襲ったのは総身に漲らせる緊張とは、まったく別種の恐怖だった。

 

 知覚に訪れた其れは、不吉を識らせる鐘の音。

 かつて狩人の悪夢を満たしていた鐘は、今、現実のヤーナムの虚空に響き渡った。

 

「バカな──! どこに!?」

 

 シモンは、辺りを見回した。

 市街の屋根の上は誰もいない──ように見える。だが、あの鐘の音が鳴ったということは、思いがけないほど近くに教会の暗殺者が存在することを経験上、知っていた。

 あの禍々しい槌が、今にも闇の中から振るわれるかもしれない。

 恐怖が足を竦ませた。

 

「ええい、くそっ……こんなところで!」

 

 それでも。

 得物を握る握力は弱ることなく、瞳も恐れに曇りはしなかった。

 シモンは、騎士を狙うことは止めない。

 騎士を逃せば、彼らは市街に再び現れることだろう。だが、意表を突けたのは、今日の一度きりだ。二度目は、こうも易々といかないだろう。

 また、周囲に耳目があれば、彼らを殺すことを強いられるかもしれない。

 

(こんな幸運が二度あるものか!)

 

 手がかりをみすみす逃すワケにはいかなかった。

『またしても』自分の知り得ないところで何者かによる思惑が、ヤーナムを犯しているとしか思えない。

 路地から騎士が、現れた。

 結わえた銀の長髪が翻り、レイテルパラッシュが光を反射する。

 マリアの顔をした少女は屋上の射手を認めながら、しかし、水銀弾を放つこと無く剣を納め、背を向けた。

 まるで背中を撃ってくれ、と言わんばかりの逃走だ。思わぬ好機に矢を抓む指先が緩みかける。

 

(待て。あの女騎士は、なぜ撃たなかった?)

 

 女だから撃たないと思っているのか。否。牽制の矢は、確かに彼女を襲っていたハズだ。楽観的な性格だとしても、今さら誤解などしようがない。

 

 彼女が撃たなかった理由。

 鳴り止まない鐘の音。

 そこから導き出された結果を打倒するため、シモンは振り返り、的も見ずに矢を放った。

 唸りを上げて擦過する瀉血の槌は、再びシモンの腸を裂くことは無かった。

 

「教会の暗殺者ッ!」

 

 右胸に矢を受けてなお、獣の皮をまとった暗殺者が怯むことは無かった。

 彼は高らかに嗤う。

 嫌でも思い出されるのは漁村での攻防だ。

 現実で聞こえるのは、あの日のように充実して楽しげな哄笑だった。

 

「死だ! お主の死が来たぞ! さぁ、己が命で贖うがいい!」

 

「……頼んじゃいないがね。あんたがいるということは、夢も記憶も『ただの真実だった』というワケだ」

 

 瀉血の槌は、嵐のようだった。

 振るわれる度に屋根に敷き詰められた洋瓦は砕け、足下、屋内からは住人の悲鳴と怒号がくぐもって聞こえた。

 このままでは屋根ごと地面に落ちかねない。

 

 シモンは、屋根を転がり、受け身を取りつつ地面に着地した。

 そして。

 

「二度、終わるつもりはないんでね」

 

 張りつめた弦が弾け、矢は暗殺者の喉笛を貫いた。

 ほんの数瞬違えば、たった今地面に落ちた瀉血の槌がシモンの脳漿を地面の滲みにしたことだろう。

 逃げ場の無い宙で射られては、いかな頑強な暗殺者といえど絶命に値するに違いない。彼が喉を押さえたのは咄嗟の行動だったのか。

 今はうつぶせで横たわっている地面に突っ伏した彼の喉と胸から、矢を引き抜く。傷口から音が漏れた。血は石畳に染みこんで浅い溝に沿って流れていった。

 

 裸足の爪先で力の失った体をひっくり返した。獣の皮を除ける。男の顔を見た。

 

「あんた、悪夢の底に倦んだのかね」

 

「……、……、……」

 

 男は目を歪め、唇が言葉を作る。

 ──秘密を暴く、愚か者に、死を。

 現実のヤーナムにおいて。

 シモンが窶しであるように、彼の仕事も変わらないようだ。

 

「……そうかい」

 

 シモンの応えから間もなく男の体は霧散した。細かな血の霧が、わずかに彼の存在の名残だ。

 

 狩人の悪夢に存在する、獣の皮をまとった暗殺者。

 その名をブラドーと言う。

 

 医療教会が秘して止まない病巣にして恥部。そして、根源。

 悪夢の秘密を守るための暗殺者が、現実のヤーナムを徘徊している。

 

 これが意味する真相は不明だが、ただ事では無いことは分かる。

 

 ヤーナムの異常と言えば、長い夜。狩人達が恐れている『獣狩りの夜』だ。

 しかし目にした事象は、それともは違う類いの異常であると長年の勘は告げる。

 そして問題の根幹は、ヤーナムだけではないのかもしれない。次元を越えて存在する狩人の悪夢も巻き込んだ大事に発展している可能性が示された。シモンの想像を超えたかつてない異常がヤーナムに訪れている。

 

「ひとまず、ピグマリオンと合流を……」

 

 カインハーストの騎士達は、森の中。

 月は明るいが、緑深く生い茂る森の夜道は暗い。解毒の準備もなしに挑むほど彼は無謀ではなかった。

 本職に戻るため、方角と未だ聞こえる笛の音を頼りに戻ろうとした矢先。

 再び、頭蓋を揺らすような鐘の音にシモンは辺りを見回した。

 

「なに……ッ!」

 

 かつてシモンが暗殺者に破れた理由とは、実に明瞭だ。

 殺しにやってくる彼は、いくら殺しても死なないのである。

 

 鐘の持ち主を──どこかで鐘を鳴らしているブラドーを殺さない限り、秘密を暴く者は彼に狙われ続ける運命にあった。しかも、襲撃は昼夜問わず続く。

 

 シモンが悪夢に身を投じるまで医療教会の悪行とは、皆うすうす勘付いてはいたものの露呈していない状態だった。

 彼はこうして秘密を守り続けていたのだろう。勤勉態度は、医療教会が手放しで賞賛すると思えるほどに優秀だ。

 

 シモンは、ブラドーという男の信条がどのようなものか分からない。しかし、性格は『死ぬほど』知っている。

 獣の皮をまとう暗殺者は外見とは相反して理性的な男であり、愚直なまでに生真面目だ。要するにイカれている。

 身を窶し、悪夢に踏み入った時から覚悟はしていた。

 それにしてもだ。 

 

「またか……またか!? 何回やるんだ!? もはや現実だろうに!」

 

 シモンは、道の先に歪な角の生えた獣を見つけ弓を引いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夜が明けるまで、もう一息。

 

「……レオー様」

 

 割れた額の止血は終わったが、血が足りないため彼が目覚める気配は無い。

 胸に手を置いて鼓動と呼吸を確かめる。頼りないが、たしかに動いていた。

 教会の射手は追ってこなかった。

 獣の皮をまとった彼が、止めたのだろう。

 

(僕の顔を……時計塔のマリアのことを知っていた……)

 

 時計塔のマリアと呼ばれる人物は、古い狩人だ。──ということは、あの獣の皮をまとった男も古い狩人の一人だと察しがつく。

 

(お父様の企てが成功した?)

 

 父たる狩人は、古いものに執心である。

 カインハーストに入り浸る日のほとんどを書庫やレオーとの談義に費やす彼の姿を思い出す。

 

(古い遺志ばかり集めて、いったい何を……?)

 

 ──死者の楽園でも作るつもりだろうか。

 セラフィは、口先で笑った。

 長い夜を駆けた狩人が願う夢にしては随分と退廃の趣味だと感じたからだ。頭を振り、思考を振り切る。

 

「…………」

 

 セラフィは、レイテルパラッシュを抜いた。

 パキリ。乾いた細い枝が折れる音が聞こえたからだ。

 

「誰か」

 

 凜とした声で問う。カインハーストの先達からは「誰何に二度応答がなければ、即座に切り捨ててよい」と命じられていた。そうする心算で声を掛けたが、ふと獣の皮をまとった男のことを思い出す。マリアならば、もう撃っていたのだろうか。

 木々の梢から現れたのは、鴉羽をまとったカインの騎士だった。

 

 彼は銀の兜を押し上げ、素顔を晒した。

 セラフィの敬愛する鴉羽の騎士は、血に中てられ、普段より幾分血色が良い。

 彼は定刻いっぱいまで飛んで駆けたのだろう。鴉羽の先に膨らむ血は、彼の軌跡を露わにした。──これがカインの流血鴉、名の由来だった。

 カインハースト史上、傑作の騎士はセラフィを認めると一度瞬きをした。それを合図にセラフィはレイテルパラッシュを納める。鴉も銀のバイザーを下ろした。

 

「レオーを見かけないと思った。しくじったようだな」

 

「ええ……」

 

 彼がセラフィの隣を通る。ふわりと鉄の臭いが漂った。

 膝を着いてレオーの額の傷を確認する。

 

「……この男は、顔にばかり傷を作るな」

 

「罪な御方です」

 

 鴉は顔の見えない兜の下で笑ったようだった。

 そして。

 

「夜が明けるまで待つ。それまでに目覚めなければ首を刎ねよ」

 

「なぜ」

 

「もうすぐ狩人が悪夢を廻す。全てが元通りだ。レオーも目覚める。怪我も治るだろう」

 

「…………」

 

 セラフィは東の空を見る。

 明るい。

 間もなく夜は明けてしまうだろう。

 鴉は咳払いした。

 

「何か」

 

「言わないと分からないのか」

 

「残念なお知らせになりますが、僕は他のきょうだいほど察しがよろしくない。また余計な気遣いをして貴方の気を損ねたくもない。……ご下命を」

 

 鴉は「すでに損ねている」と言いたげな雰囲気だったが、それを口にすることはなかった。

 レオーの負傷は彼の吸っていた煙草が原因だと信じて疑わないだろうが、きっかけの一端を負っていることを少々気に病んでいるようだった。

 

「あれだ」

 

「これ?」

 

 セラフィは流血鴉に禍々しい手袋を差し出した。カインハーストの誇る秘宝のひとつ。処刑人の手袋だ。

 

「違うが?」

 

「……問答を続けても良いですが、夜が明けてしまう。お覚悟を」

 

 鴉は、とうとう根負けした。

 くるりと背を向けて彼はボソボソと言った。

 

「……私に『魔法』などと言うふざけたことを言わせるな」

 

「あ。名案ですね」

 

 セラフィはマントに括り付けていた杖を抜いた。

 

リナベイト 蘇生せよ

 

 果たして。

 レオーは、激しく咳き込んだ後で目を醒ました。胸が大きく膨らみ、身を丸める。

 

「頭ッ痛ぇ……! ンだよ……カチ割られたかと思った……」

 

「レオー様、良かった。お目覚めですね」

 

 セラフィの献身は報われた。

 レオーの指は火傷で色の違う顔を辿り、額の大きな傷に触れた。

 

「ぐぎぎ。また傷が増えた……はぁぁあ……ツイてないねぇ……。セラフィ、ああ、良かった。無事だな。良かったよ……」

 

 セラフィに騎士の心得を手ほどきした先達は、強さと美を尊ぶ。

 それに寄り添うことは、現在の否定を伴わなかった。

 

「僕はレオー様のお顔がどのようなものであれ大切に思っています。教えのとおり、美を尊びましょう。だから僕は貴方の心の美しさを愛しています」

 

「え」

 

 悩ましい頭痛に襲われているレオーは、セラフィの白い顔を見上げた。

 

「セ、セラフィ……」

 

 レオーが何かを言いかけた、その時。

 鴉が唐突な遺骨ステップで二人に迫った。

 

「な、何だよ」

 

「…………」

 

 鴉は、静かにレオーを見下ろした。鎧に覆われた脚は、今にも彼を蹴り飛ばしたくてうずうずしている様子だった。

 市街のカラスがそうであるように。普段は独りでも喧しい男が、セラフィの前では寡黙になる現象にレオーは未だ慣れない。

 

「何か言えよ」

 

「セラフィに感謝せよ。お前をここまで運んだ」

 

「どっかの誰かさんが、とんずらしたせいでな! あ、ダメだ、動けん。……ぐらぐらする」

 

「お労しい。肩を貸します。鴉羽の騎士様も、ぜひ」

 

「貸さないが?」

 

 鴉の説得は、一般的に至難の業だ。

 だが、セラフィならば彼は折れることもあった。

 例えば。

 

「鴉羽の騎士様、僕は貴方も大切なのです。血族の夜は長い。お独りでは、さらに長くなりましょう。ささ、再会を祝すると思って」

 

「…………」

 

 請われて渋々──といった具合の鈍い足取りで鴉はレオーの腕を取った。

 戦闘中に見せる動きとは比べものにならないほど雑な所作だった。

 

「歩け」

 

 行くは、ヘムウィックの辻。

 断崖を下り、洞窟を下り、深い地下を歩くことになる。

 その道程を思い出したのかレオーは、相変わらずグラつく頭で呟いた。

 

「もおやだ、なにコイツ……。そうでなくとも、いつも戦場をむちゃくちゃに食い散らかすんだから……」

 

「同じ血を紐帯としているから大丈夫、大丈夫」

 

 むずがる子供を宥めすかす、拵え事のように騎士達は聞き届ける。それでもセラフィの、彼女にしては明るい声音だけが二人を前向きな気分にさせた。

 月の香りのする狩人がもたらした朝。

 それを仮初めと知る血の狩人達だが、平等に照らす朝陽に安らぎを感じない日はない。

 

「……行くぞ」

 

 三人の姿は、朝に焼ける森の奥へ消えていった。

 カインの騎士達の夜は、こうしてひとまず終わったのだ。

 

 




月の香りの狩人とアルフレート:
なぜカインハーストへの招待状を渡したのか。
恥ずべき無知? 尊ばれるべき信仰? 間違いではなかった善意?
その理由について狩人は、正しく語る言葉を得ない。
……クルックス。君ならば、いつか分かるだろうか……

カインの流血鴉:
セラフィの発言ならば低確率で耳を傾けることもある……かもしれない騎士
レオーは「できるだけコイツのそばにいたくない」と思っているが、カインの騎士はほとんど二人なので約一五〇年ほど二人一組でやってきた。そのため、とても遠慮がない。しかし、先達として尊敬はしているのだが?


教会の暗殺者、ブラドー:
さる事情から教会の暗殺者をしている男。
獣の皮を被り、獣の腸をベルトにした、ひょっとしたらタイも腸かもしれない、激重感情が垣間見えるナイスミドルです。
かつて漁村という場所で見事シモンを仕留めた教会の功労者です。
狩人の悪夢、特に聖堂を越えた先は一部を除き、彼の縄張りでしょう。
唯一失態があるとすれば現在のヤーナムでシモンの前に現れたことで、ヤーナムと狩人の悪夢の異常を明らかにしてしまったことでしょうか。
しかし、彼は清く正しい医療教会『側』の人間です。医療教会が間違えるワケがないですよね(ろくろ回し)

セラフィ:
「僕は……すこし疲れました」

【挿絵表示】

悩み多きカインハーストの夜警。
カインハーストの一族には特別に甘く、優しい。……自分を殺してしまえるほどに。
どうしてマリアのことを知っているのか。獣の皮を被った男を追うことは、弓の男を追うことに等しいことです。もし、追うのならば結果的に四人のなかで最もヤーナムの謎に踏みいることになりそうです。


私事ですが接種2回目をしてきたので、今後数日体調不良により誤字脱字の訂正・ご感想への返信が遅れる場合があるかもしれません。ご了承ください。
なお、投稿自体は数話を予約済みなので順次0時投稿されます。お楽しみいただければ幸いです。

そんなこんなですが、ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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悪夢からの使者

メンシスの眼鏡
隠し街ヤハグルを主宰するメンシス学派の倉庫で見つけた、何の変哲のもない眼鏡。
それ以上のことはない。
ヤーナムの医療者ないし狩人は、隙間なく身を覆う装束を好む。
それは正気であるための実践的な試みであり神秘に対する備えは、全て己を保つための呪いだった。
やがて意味は転じ客観視の装置となる萌芽は、医療教会が育んだものだ
……ただ一枚の薄い硝子であれ、信じれば檻に等しい……
迷信だ。しかし、信じる者はいる。


メンシスの夜編は1話です


 暇さえあれば、眼鏡を磨いている。

 すでに皮脂の汚れのひとつないものだが、これがあれば小さな安心を手に入れることができる。

 ささやかな幸福をネフライトは大切にしていた。ありふれたものならば、失う機会も少なかろう。たとえ失っても惜しくはない。そう信じていたいからだ。

 

 

 ネフライトが、メンシス学派に入る『きっかけ』は、他の三人に比べ、やや強引な手段を取った。

 父たる狩人曰く「最後の周回、つまりは獣狩りの夜のことだが。メンシス学派は、赤い月を待たずに全滅していた」とのことである。

 最後の周回時に碌な生存者がいないのだから、穏やかな伝手も持ち得なかったのだろう。

 だからこそ。

 

 ──やぁ、エドガール君。初めまして。私は、狩人。メンシス学派の偵察は進んでいるか? 結構、結構。聖歌隊の間者の君に、ちょっとしたお願いがあって来た。あぁ、背後の毒メスは気にしないでくれ。……君が振り返らなければ、空気と同じものさ。

 ──『お願い』は難しいことではない。この通りを右に曲がったところに、少年がいる。彼をメンシス学派に入れて欲しい。被験者という意味ではない。くれぐれも間違えてくれるなよ。

 

 エドガールを恐喝した狩人の目論見は、結果だけを見れば正しかった。

 狩人と名乗る何者かに自分の正体を知られたと思い込んだエドガールは、自分の秘密を守る事と引き換えに、突如メンシス学派に現れたネフライト少年を学派に加入させるためにあの手この手で周囲を説得させた。もっとも説得力があったのは「腹違いの弟です」と紹介した一幕だったが、根本的な問題に対する回答を彼は持ち得ていなかった。

 

「しかし『どうやって』ヤハグルに?」

 

 ヤハグルが隠し街と呼ばれる理由は、いくつかある。

 その一つは、ヤーナムの外あるいは市街から来る人々が容易に訪れることのできない街という意味だ。実際に旧市街からヤハグルまでの門は閉ざされており、危険だ。聖堂街の大聖堂も然り。

 万事休す。

 さて、どのように切り返すのだろうか。

 見上げる先。エドガールは──流石は聖歌隊!──冷や汗ひとつかかず、柔和に微笑んだまま言葉を探しているようだった。

 致命的な沈黙になりつつあった空気を裂いたのは、意外な人物だった。

 

「……おや、部屋から出てしまったのかい。バレてしまっては仕方ない。私が招いたのだよ。といっても、もう数ヶ月前の話だが」

 

 メンシス学派における実質の運営を取り仕切る第二主席、古狩人ダミアーン。

 老年に差し掛かろうという学派きっての権威の彼が、そのようにスッパリと言い切ってしまったので周囲の学徒達の疑問のさざめきは小さくなった。

 しかし。

 

「なぜです?」

 

 不可解な行動に納得できないのは、真理を探究する集団のなかにおいて重要な要素であった。

 とある学徒が権威に屈せず、疑問を口にした点を褒めたあとで。

 

「単純なことさ。孫が欲しくなってね」

 

 学派内に突如現れた少年は、第二席の極めて個人的な事情で『人攫い』された人物であることが分かり、学徒達は一斉に静まりかえり、そして目を逸らした。最後の最後で冷や汗をかいたのは、エドガールだけだった。

 その後、学徒を散らし、作業に戻らせ、第一席ミコラーシュの注意を逸らす。

 数分後、ネフライトは彼の私室の椅子に座っていた。会話の席が設けられたのだ。

 

「言うに事欠いて孫などと口走ってしまったものだから、子供のことを思い出してしまったよ」

 

 枯れているが、穏やかな声音だった。

 夜。

 血の抜けた抜け殻のような白い月が昇る日であり、月光ばかりが眩しい。

 子供。

 思いがけない言葉にネフライトは視線を宙に泳がせた。彼は、子や孫がいてもおかしくない年頃だという常識は知識として知っている。しかし、ヤーナム全体がそうであるようにヤハグルもまた若者の数が少ないのだ。見かけた学徒の中に彼の親類がいるのだろうか。思いを巡らせるネフライトは、彼の言葉を待った。

 

「皆、私が教会で地位を得たのは『夢を見る狩人』であった功績と言うがね。あれは、事実の半分でしかない」

 

 ネフライトは、自らの影を見ていた。

 ダミアーンの持つ連装銃の影が、ネフライトの影と重なった。

 

「私の娘は──私に似ず、可愛い子でね。賢い子でもあった。そして血の質が良くてね。……あぁ、良すぎたんだ」

 

「…………」

 

「ずいぶん古い話だ。何年前かも分からない。顔も忘れてしまったよ。そして、もはやどうでもいい」

 

 何年。

 その言葉に、ネフライトは初めて視線を自分の影からダミアーンへ移した。

 月光が、深く刻まれた皺を浮き彫りにした。

 

「ヤハグルへようこそ。まるで現実のおかしな悪夢に囚われてから、初めての訪問者だよ。──さて。月の香りの少年、君は私の知りたいことを知っているだろうか?」

 

 学派の五本の指に入る碩学として讃えられる彼は、引き金に指をかけたまま問いかけた。

 四仔のなか、最も過酷な状況にあるのはカインハーストを選んだセラフィだろう。

 だが、最も穏やかざる歓待を受けたのは自分であろう。

 ネフライトは、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

(星が見えない夜だ)

 

 隠し街ヤハグルに来た当時のことを思い出してしまったのは、似た夜空を知っていたからだ。

 ヤハグルの夜は、長い。

 窓から見上げる空には白い月ばかりが明るい日だった。

 

 現在。

 ヤーナムは上位者の揺籃として柔らかな閉鎖状態が続いているが、ネフライトの見るところ、ヤーナム内部でも時間の進退が異なる場所があると感じられる。

 ビルゲンワースでの一日とヤハグルでの一日は、後者が数倍ほど遅い。

 

「時計は、役立たずだな」

 

 温めた山羊のミルクに蜂蜜を垂らす。数回かき混ぜると小さなカップに淹れた。

 物音が聞こえたので彼は蜂蜜の瓶を食器棚の奥に隠した。

 

「ネフ。……もう真夜中だぞ」

 

「エドガール、まだ起きていたのですか。珍しく静かな夜だ。眠ればよろしいのに」

 

 ネフライトの言うとおり。

 今日は、獣の叫び声ひとつ届かない静かな夜だった。

 市街では獣狩りが続いているのだろう。けれど、喧噪はヤハグルまで届かない。

 夏の今夜は、短いが穏やかな夜になりそうだった。

 エドガールと呼ばれた青年は、くすみがちな金色の髪を撫でた。

 

「しかしだな、君が働いているのに私が休むのも……。ダミアーンさんの所へ持って行く役、やはり私が代わろうか?」

 

「結構。私が呼ばれている。……エドガール、新しい生活に体が慣れていないでしょう。早くおやすみになったほうがよろしいですよ。……えぇ、そうしたほうがよい。お互いに詮索は無しでしょう」

 

 エドガールが眉根を寄せる。

 では。ネフライトは銀のトレイを片手に厨房を退室した。

 長い回廊を渡り、階段を登る。そうしてやって来たダミアーンの私室の扉を叩いた。

 

「ダミアーンさん、ネフです。飲み物をお持ちしました」

 

 入室の許可が下りて部屋に入る。

 部屋の主は整理整頓が苦手な様子である。本は今にも崩れ落ちそうに積み重なり、本棚からはちぐはぐなサイズの本が飛び出している。

 混沌とした部屋で唯一、聖域となっているテーブルと椅子──そこでダミアーンは待っていた。

 

「やあ、ネフライト。久しぶりだね」

 

 ダミアーンは書き物をしていたようだ。

 今日も初めて出会った時のような穏やかさで迎え入れてくれた。

 頭を傾けるだけのお辞儀をした後でカップをテーブルに置いた。

 彼も「よいしょ」とメンシスの檻を外した。

 メンシスの檻、六角柱の鉄檻は重量もそれなりだ。老体には大きな負担に違いない。

 

「お疲れのようです。肩を揉みましょうか?」

 

「それには及ばない。君が帰ってきてからすぐにでも話したいと思っていたが、いやはや、獣が多い夜が続いたからね。夜は出ずっぱりだ。……今回は学徒のなかでも獣に変態した者が出てね。檻を外した途端にアレだ。痛ましいやら、悲しいやら、悍ましいやら……まったく……いつもの面子だが、知人だった者を殺す感覚には慣れたくないものだよ」

 

 労りの言葉を告げると彼はゆっくりと瞬きをしてネフライトに椅子を勧めた。

 一口、カップを傾ける。

 彼は「おや」とミルクを見つめた。

 

「蜂蜜だね?」

 

「ヤーナムの外から持ってきました。舶来品より貴重品ですね」

 

「たしかに。ずいぶん久しぶりだ。甘いなぁ」

 

「私がヤハグルに戻ってくるのは約十ヶ月ぶりです。ダミアーンさんは?」

 

 彼は、クスクスと笑いながらカップをソーサーに戻した。

 そして、学徒の服をたくし上げ左腕を見つめた。その腕には、等間隔で切り傷が並んでいた。いくつかの傷を数えた後で、ダミアーンは悪戯っぽく目を細めた。

 

「驚きたまえよ。私の認識では、五ヶ月ぶりだ」

 

「時の進みは、二分の一と。では、蜂蜜は百年ぶりですね」

 

「そうなるらしいな。悪夢のなかで『よもや』など言うべきではないな」

 

 やや疲れの見える横顔は、連日の獣狩りの出動によるものだけではない。

 メンシスの古狩人、ダミアーン。

 彼はヤハグル、メンシス学派のなかでただ一人、悪夢を認識していた。その孤独を悟らせるものだった。

 

「これも悪夢の主の意図したことなのかね?」

 

 その言葉は、ネフライトに投げかけられたものではなかった。焦点を結び損ねた質問にネフライトは、答えず、ダミアーンを見返した。すぐに悪手に気付き、彼は発言を翻した。

 

「君の前で話すことは、良い試みではなかったな。気を悪くしないでくれ。君は、悪夢の主からの使者であり、銀の弾丸ではない」

 

「残念ながら、そのとおりです」

 

 ダミアーンは、眠たげにミルクを啜っていた。

 

「実のところはね、君が何も話してくれなくとも私は構わないよ。ヤーナムを捕らえる悪夢の主が『使者である君をメンシスに送った』という点のみを評価すべきなのだろう」

 

 初めて言葉を交わした日に出した結論に、今も彼は納得し続けていた。

 ダミアーン曰く「君は、悪夢の主がメンシス学派へ下した贈りものなのだね」との断定はネフライト自身にも、よく響いた。

 

「悪夢の主は、メンシス学派の運営に対し積極的に関与するワケではない。……だが、一種の期待を寄せているから自らに近しい者を下賜した、と。これは正解かな?」

 

 今度は明確な質問であった。

 ネフライトは頷いた。

 

「恐らく、概ね」

 

「ぼんやりした解答をありがとう。探りを入れる意図は、あまりないのだが、君、こういうことには答えてくれるのだね?」

 

「私の主観です。けれど、周囲を見ているとそうなのだと思えてきましたから。私なりの立場表明と受け取っていただきたいと思います」

 

 ネフライトの言葉に思うことがあったのか。ダミアーンは、カップをテーブルに戻した。

 

「周囲? ……あぁ、なるほど。姿を見せない悪夢の主だ。ご執心はメンシス学派『だけ』ではないということか。なるほど合理ではある。君は『一つのカゴに卵を乗せるな』という言葉を知っているかね?」

 

 リスク配分がなっている。彼は独り言をこぼした。

 長く生きる人はどうやら大きな独り言が多くなってしまうようだ。

 

「お察しのとおり。……ダミアーンさんは、話が早くて助かります」

 

「ははは。『下手な鉄砲も数打ちゃ当たる』という言葉を知っているかね。その類いだよ」

 

「ご謙遜を」

 

 ネフライトが情報開示を行わないのは、彼の個人的な信条ゆえだ。

 

 狩人が瞳を与えれば、学派の夢は叶うだろう。狩人に願ったビルゲンワースの閉じた瞳、コッペリアが心身の健康と引き替えに常人とは異なる視座を得たように。

 

 だが、かつて夢を見る狩人だった父が上位者へ成り上がったのは、メンシス学派が滅びたあとだ。

 

 順序が逆転している。

 

 メンシス学派が全滅した後に発生した成果物に、今を生きるメンシス学派が救われることはあってはいけない。

 結果だけ得ることにネフライトは意味を見いださない。

 それでは意味が無い。

 これまでの努力も、これからの努力も、まるで意味を無くしてしまう。……もっとも上位者好みの悪夢的結末ではありそうだが。

 上位者との接触によって獣性を克つ方法にしても、その過程に父たる上位者の介入があってはいけない。

 

 人は、人間が行える範囲の手法の果てに、獣の病を克服すべきなのだ。

 だからこそ。

 メンシス学派は、メンシス学派のやり方で全てに備え、全てを起こし、全てを果たし、そして、願いに届かなければ潔く滅びるべきなのだ──彼は、そう考える。

 

 ビルゲンワースの探求の結実を自称するメンシス学派。

 彼らが行き着く先こそ、ヤーナムの終末と称するに相応しいものであってほしい。

 

 多くの人々を救う可能性は、ヤーナムにおいてメンシス学派にのみ存在する。

 

 狩人が捨てきれず、手出しもできず、諦めきれない──ヤーナムに生きる人々の可能性をネフライトは見つめていたかった。

 例え、滅びるとしても、そこには何にも勝る納得があるだろう。

 メンシス学派が人々にもたらす光だけを、ネフライトは朝と呼びたい。

 

「私は、ネフライト・メンシス。学派に最も親しい賛同者。幸いに思います。貴方のような理解のある御方に巡り会えたのですから」

 

 ダミアーンは、フゥと小さな嘆息を吐いた。

 心底残念だと言いたげだった。

 

「夢を自覚したのが私ではなくミコラーシュであれば、もっと学派の役に立てたのだがね。せっかく諸々の糸目を付けずに研究に打ち込める機会だというのに……。夢のことを話してみても気付かない。かつて狩人の夢に囚われていた者と囚われていなかった者の差異だろうか」

 

「驚いた。ヤーナムの現状のことを主宰に話したことがあるのですね?」

 

「今から……五〇年ほど前かな……ああ、話したことがなかったか。悪夢を生成するどころか、悪夢に囚われていると告発してみたことがある。結果は、さんざんなものだった。学派の皆から狂ったと言われて、樽一杯の鎮静剤を飲まされたよ」

 

「想像に容易いことです」

 

「当時の私にとってはそうではなかった。私が気付けた程度なのだから、些細なことで気付くことができるだろうと思っていたのだが……」

 

 そうはならなかったのでダミアーンは鎮静剤を見ると今でも嫌な顔をする。

 

「──ヤハグルでは一年経過すれば何もかもが直ってしまう。時間は円環だ。不可逆的事実がなければ時間が認識できない私達が、悪夢に気付く方法とは、ふむ、やはり個人の啓蒙的知識の保有量なのだろうね」

 

 ダミアーンは自らの左腕を撫でて言った。時間の経過を確認するために彼はナイフで腕を自傷している。ヤーナムでは約一年が経過した頃、ある日突然、傷が消えるのだと言う。そして新しい一年が繰り返し始まるのだ。

 不可逆的事実である自傷が無ければ、時間の経過さえ曖昧になってしまうのだ。

 

「私も同じ意見です」

 

「やはり? ふむふむ……」

 

 ダミアーンは、何事かさらさらと書籍に書き付けるとそれをネフライトに渡した。

 本のタイトルには『実験日誌』と書かれていた。

 

「君が持っていてくれたまえ。ヤハグルに置いておくとまた白紙に戻ってしまう」

 

「分かりました。正しく時が巡るまでお預かりさせていただきます」

 

「ところで季節感を得るために催しをするのはどうだろうか。季節の変わり目で上層を焼くとか」

 

「それは良い考え……いえ、それは、それは……? うぅ……」

 

 冗談なのか本気なのか、いまいち判別のつきにくい顔でそんなことを言うのでネフライトも反応に困る。

 不思議な空気が生まれようとした時、突然扉が開いた。

 

「ダミアーン、資料を探してくれ」

 

 癖のある黒髪、陰りのある黒い瞳。

 メンシスの檻を被る壮年と思しき男性が、足音を鳴らして入ってきた。

 ネフライトは、無礼な侵入者がメンシス学派の主宰であるミコラーシュだと分かり驚いた。しかし、ダミアーンは驚いていないので彼がノックも無しに私室に入ってくるのは初めてのことではないようだ。

 

「ミコラーシュ、せめて声をかけてくれと──まあいいや。何の資料かね?」

 

 ミコラーシュが滔々と書籍の名前と内容を告げる。

 それをテーブルの上に散らばる書類に書き付けたダミアーンは、肩を竦めた。

 

「覚えがある本だ。だが、上層にある。すこし時間がかかるかもしれない」

 

「構わない」

 

「それも彼次第だが。ネフライト」

 

 ミコラーシュは、初めてネフライトの存在に気付いたようだった。

 

「おや。君は」

 

「ネフライトだよ、ミコラーシュ。ネフと呼ぶといい。小さいが賢い子だ。今回は、私の代わりに動いてもらおうと思ってね」

 

 心配と疑問がミコラーシュの深い瞳の奥にチラついた。

 しかし問うことはなかった。ダミアーンへの信頼が思惑を消し去ったようだった。

 

「主宰のために尽力いたします」

 

 席から立ち上がり、ネフライトは教会式の礼をした。

 ネフライトが顔を上げた時、ジッと見つめているミコラーシュと視線が交わった。

 粗相があっただろうか。──不安になりかけたが、まったくの杞憂に終わった。

 彼が、一歩踏み出すと両手でネフライトの頭を掴んだ。そして、窓際まで引っ張ると瞳を覗き込んだ。

 

「ネフライト。なぜ鉱石の名を持っているのかと思っていたが、目の色か。遙か東の大陸ではギョクと呼ばれる、緑色の価値ある宝石でもある。君はシェイクスピアを知っているかね。緑色の瞳は嫉妬を象徴する。また古くは不吉の前触れでもあった」

 

「……冒涜のなかでこそ見いだせるモノがあれば、不吉のなかでこそ見いだせるモノもあるでしょう。幸いなる災禍となることを祈っております」

 

 息の詰まる一瞬の後で。

 

「ハハハハハハ、いい! ダミアーン! 素晴らしい! いいぞ! 若い知性だ!」

 

 ネフライトの頭を離したミコラーシュは、やや興奮気味にダミアーンを振り返った。

 

「そうだろう? 私のお気に入りだよ」

 

「次の実験に参加させたまえ!」

 

「考えておくよ」

 

 彼は入ってきた時と同じ唐突さで退室した。

 ダミアーンは、長い溜め息を吐いた。

 

「ダメだ。君がいることにまったく違和感を抱いた様子が無い。……あぁぁ、ミコラーシュ、彼だけでも……いいや、彼さえいれば『聖歌隊に出し抜かれるかも』なんて悩まされなくていいのだが……。悪夢の主は、きっと聖歌隊にも使者を送っているだろう。二大会派だ。むしろ送らない手がない。……頼むから早く夢から覚めてくれるといいのだが」

 

「そのうち目が覚めますよ。主宰の慧眼を私は信じています」

 

「私だって信じてはいるがね。これから毎日、頭蓋を砕かせようか」

 

「それは良い考え……あ、いえ、それは、それは……? うぅ……」

 

 ダミアーンは精神的に参っているような具合だった。表情が硬く、疲れ切っている。

 もう一杯、ミルクか酒を持ってこようかと提案するが、断られた。

 

「しばし老いらくの歓談に付き合いたまえ。君が来るまでの百年かそこら、周囲とは普通の会話も難しい状態だった。同じ時間を生きていないということは、話が噛み合わないという次元ではないからね。自分が何を話したのか、話していなかったか。そんなことさえ分からなくなってしまっていた」

 

「私で良ければいくらでも」

 

「それから外の神秘の話も聞きたい。……新しい思索の先触れとなるかもしれないからね」

 

「ええ、ええ。話を。もっと話を続けましょう。メンシスの古狩人、ダミアーン。私達には、もっと会話が必要なのです」

 

 目を細めた彼は、ふと思いついたようにテーブルの上に安置していた小さな箱を手に取った。

 

「そうそう。君に渡したい物があった。君を部屋に招くにあたり、いくらなんでも散らかっているのはよくないと部屋を片付けようと思ってね。その時に見つけたのだが……」

 

「それは、鐘? ですね?」

 

 ダミアーンが取り出した箱の中には小さな鐘が入っていた。

 白銀色をしたそれは真新しいように見えた。月光に照らされて鈍く光っている。

 

「『聖歌の鐘』だ。知っているかい?」

 

「傷を癒やすものだとしか……これほど近くで見たのは初めてです」

 

 ネフライトは、聖杯探索において他の仔らがそうであるように単独行動をしていた。そのため協力者のためにそれを使ったことがなかった。だが、父たる狩人の収納箱にそれが入っているのは何度か見かけたことがある。

 

「これは医療教会の古い試みの副産物でね。脳に瞳を得る手法もさまざまなことが試され、ほぼ全てが失敗に終わった。音による上位者との交感実験もその一つだった。……発想は、今でもそう悪くないものだと思うよ。カレル文字とて表音を捉えたものだ。あれこそ上位者も人間と同じように音による交信を行っている証左だろう」

 

 話が逸れてしまった、とダミアーンは鐘を元どおり箱に収めるとネフライトの手に乗せた。

 

「はじまりは、そう、遺跡から見つかった鐘だ。音が世界の境界を越えるという話は知っているだろうね。それを模して作られたのがこれだ。越えることは遂に叶わなかったが、知ってのとおり、傷を癒やすことができる。私も持っているが二つは要らないからね。君が持っていなさい」

 

「ありがとうございます。大切に使いますね。人攫い──ではなく、学派の狩人もこれで多少は輸血液の節約になるでしょう」

 

「それもあるが、一番は君の周りの人々だよ」

 

「えっ?」

 

 思いがけない言葉にネフライトはダミアーンを見つめた。

 

「どのような関係か分からないが、君は心を寄せて大切に思っているのだろう。……こんな街だ。信頼できる人との関係は大切になさい。望んで孤独になることはない」

 

「私は……別にそんな……」

 

「百年の孤立を味わった私が言うことだ。年寄りの忠告は大人しく聞くものだよ、少年」

 

 含み笑いをした彼は、温くなったミルクを一気に呷った。

 

 温度のある感情の動きは、ネフライトに最も親しい枝葉の存在である、クルックスのことを思い出させた。

 強いクセに未熟で迷いと甘さばかりが目につく。

 もう自分には持ち得ない可能性であり、だからこそ眩しく──彼のようになりたくないとネフライトは常々思っている。

 

 温かいものは、それだけでたまらない気分にさせる。

 何度、流水で手を洗っても綺麗にならない血のようだ。

 

 学派はよい。

 狩人が見た未来では滅びることが確定しているのだから、覚悟のしようもある。

 

 クルックスが連盟に寄せる共同体意識もビルゲンワースの学徒に抱く思慕も、理解したくない。テルミが戯れに呼ぶ「お兄様」だとか「お姉様」だとか、あれは虫酸が走るほど嫌いだ。

 セラフィは、前の二人に比べるとすこしマシだ。女王と臣下。成り立つ関係は、理屈として理解している。

 しかし。

 ネフライトは、苦い顔をした。蝋燭の灯りではダミアーンに見えていないだろう。

 

 かつて領主であったカインハーストは、いまやヤーナムの民の救済をまったく考えていない。彼らは領地外で民が何万人死のうと一族の悲願が達成できればそれでよいと考えている。実際にその動機で二〇〇年以上も狩りを続けている狂人だ。血質を重視するあまり互いの血肉を交えた一族でもある。目的は理解はできるが、彼らの倫理観はもう何百年前に壊れている。価値観の共有すら困難だ。それに与するセラフィもまたネフライトは「頭がおかしい」と思うことがある。父たる狩人がご執心の、あの端整な澄まし顔は何を考えているのか分からない。

 

(だから、だから私が、しっかりしなくては)

 

 例え、理解が及ばなくとも同じ枝葉の存在だ。

 その事実だけを頼りにすべきだ。それ以外の感情は、たいそうなものは、抱くべきではなかった。

 ネフライトは、逡巡を悟られぬように顔を背けた。

 

「……私は、学派と共にあるだけで、ただ、それだけで良いのです」

 

「ふふっ。学派の歩みは、遅々たるものだが決して停滞していない。後悔が少ない選択であることを祈っているよ」

 

 賢人は、肯定も否定もしない。

 心のどこかで「それでいい」と言って欲しいと思っていた自分に気づき、ネフライトはそれきり口を噤む。

 その後は、ダミアーンの話の聞き手に努めた。

 

 夜の帳は深く、メンシス学派に訪れる夜は静かだった。

 長い蝋燭が燃え尽きるまで話は続いた。

 それでも百年の孤立を慰めるのに夏の一夜は、短いものだった。

 




悪夢からの使者

ネフライト・メンシス:
善いことをヤーナムの人に。全てのヤーナムの民が、幸福になれるように。彼が願う事とは、そんな些細なことです。口に出せば笑われる夢を実現するために、彼は知恵を積み上げる。手で救える人はわずかだが、知恵ならば──。そう考える狩人の仔。沈みきった天秤を持ち上げるため、努力を惜しまない。

ネフがメンシス学派に求めることについて、分かりやすい例を用意いたしました。
例1)月の香りの狩人が瞳を「ヘイ、パス」する。
解1)ダメです。上位者になったのは学派が滅びた後なので、貴方様は学派に関わることが許されません。また『今を生きるメンシス学派が、自力で獣性を克服する』条件を満たしていません。レギュレーション違反です。なおコッペリアは論外です。視界に入らないでください。
例2)次元の高みに至り、上位者に伍する視座を手に入れました。
解2)ダメです。『人間が可能な範囲の手段』の条件を満たしていますが、貴公は『今を生きるメンシス学派』ではないのでレギュレーション違反です。辿り着いた手法について大量の水の彼方に秘匿してください。けれど素晴らしい成果です。その調子です。頑張ってください。応援しています。
例3)メンシス学派です。集団で交感実験をしたところ、月とは異なる上位者との接触に成功しました。これから脳に瞳を願おうと思います。そして獣性を克服した場合はどうなりますか。
解3)セーフです。『今を生きるメンシス学派』・『人間が可能な範囲の手段』の条件を満たしています。素晴らしい成果です。頑張ってください。応援しています。

クルックス「どれも同じじゃないか」
ネフライト「違うのだ! これだから素人は!」


ダミアーン:
「一日経ったな、ヨシ」
「まだ傷があるな、ヨシ」
「傷が消えたっ! また一年経ったのか。私以外誰も気付いていないが……」
これを繰り返してヤハグル時間で約百年。稀にしか発狂しなかったのは学派の研究が遅々たるものであれ、進んでいたからです。
一年が二〇〇年以上繰り返されている──とはいえ、人々の行動は微妙に異なっている。
獣になる者は、なる年とならない年があることをダミアーンは発見した。現在は、ミコラーシュが目を醒ましてくれることを期待しながら、その差異について研究中。そんな時分にやってきたネフライト。「これはもう答え合わせじゃないか!」と悪夢の主(仮称)の存在を確定させ、精神状況が好転した。
……時間はたしかに止まっているが、そこに生きる人々や知恵は進展を見せることもある。だからこそ賢人は『繰り返される悪夢』という仕組みに気付くことが遅れた。まさか現実ごと悪夢に侵されているとは思わなかったからだ……
教会で地位を得たのは夢を見る狩人の功績が半分。ところで血の質が良い娘はどこに行ったんでしょうかね。不思議だね。

ミコラーシュ:
まだ夢を見ている。もちろん自覚していない。
しかし、毎年何かしらの研究成果を発表しています。
そのためダミアーンが悪夢に囚われていることに十年、二十年遅れました。

「ミコラーシュがバンバン仮説を打ち立てるから、その点、悪夢のことは全然気付かなかったよ。私がただの学徒で、彼だけ見ていたのなら今も気付かなかったかもしれない。しかし、私は狩人だ。そんな私は現役狩人の最高年齢(暫定)を更新している程度に健壮だが、体感で十年、二十年経っても足腰にガタがこないのはさすがにおかしいな?とね……」

|且_<交信をお待ちしています


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献身的な病み人

黒服のピグマリオン
黒服とは、医療教会の下位の狩人である。
獣の病の罹患者、その疑いのある者を病の発症前に処理する役目を負う、予防の狩人でもある。
希臘の王の名を冠する彼は、彼だけのガラテアを待ちわびている。



『暗殺者の朝』編は4話構成でお送りします。


 朝陽は、平等に全てを照らす。

 

 痛みを知らぬ医療教会上層。

 祈りを捧げるヤーナム市街。

 焼け焦げた旧市街。

 深い谷にある隠し街ヤハグル。

 

 夢を見る狩人が願った在りし日を再現し続ける街の片隅。

 疲れた男が地べたに座り込んでいた。

 

「シモンさん、あぁ、良かった。ご無事ですか」

 

 頭上から掛けられた声に、ビクリと震える。

 見上げると白い髪に丸眼鏡。

 やや疲れた顔のピグマリオンが立っていた。

 

「お怪我もなさそうですね。良かった」

 

「おかげさまでな。ああ、道中すまなかったな。俺も見失ってしまった……」

 

 ピグマリオンは、辺りを見回してから緩く首を振った。

 

「いえ、あなたが生きているのですから。それだけでホッとしましたよ」

 

「まだ墓暴き業のことも話していなかったからな。忘れていないさ。だが、すこし仮眠を取ってからでいいか……?」

 

 シモンが、くたびれている理由。

 さんざんブラドーに追いかけ回され、殺しては、追いかけられた。暗殺者は相変わらず底抜けの体力と気力で夜を駆け抜けた。

 夜が明けた後は、さすがに目立つのを恐れたのか、鐘の音は遠ざかり、襲っては来なかった。

 だが、朝になってもシモンは忙しかった。あちこちに射ってしまった矢を回収しに走り続け、予防の狩人として街中に散らばる獣や狩人の死体の片付けに駆り出された。

 ようやく戻ってきた市街外れの教会の裏。

 さすがに疲れたシモンに無理強いすること無く、ピグマリオンは穏やかに話しかけた。

 

「構いません。私もこれから大聖堂にお使いですから。ああ、でも、その前に……」

 

 彼が抱えるバスケットには書類が入っているようだった。

 それに隠された包みをシモンに渡した。

 

「きっと食事を摂っていないのだと思いましてね。ちょっとした軽食を」

 

「そりゃ……ありがたい……」

 

 食事にありつくことまで考えが及ばなかったシモンにとって、本当に有り難い贈り物だった。

 

「それから、もし食料が必要ならば、この教会に寄ってください。食事の提供ができるでしょう。厨房には話を通しています。……市街の外れと言いましてもね、ちょっと大っぴらにできない話なのですが……大聖堂にお勤めの白服の狩人の実家が近くにあるとかで常駐の狩人が何名か詰めているのですよ。だから多少、金銭の融通が利くというワケです」

 

「残菜であってもありがたい」

 

「お腹こわしますよ。窶しって大変なんですね……そう……窶しの人は……とても大変なのですね……」

 

 消える独り言にシモンは、思うところがあった。

 受け取り、開きかけた包みを閉じる。

 

「……なあ、あんた。何で他人にこんなことするんだ?」

 

 白皙の青年は、困ったように笑う。

 

「私がヤーナムの事情を知らない異邦人だからですよ」

 

「『事情を知らない異邦人』が居座れるほど医療教会がぬるくないのは、よく知っている。……何なんだ?」

 

 ピグマリオンは笑みを消した。

 

「そうですよね。私は、医療教会の古狩人を騙せるほどに医療教会の何たるかを知っているワケではない。けれど、誤解されるのは耐えられないので……」

 

 そして。

 シモンから離れた壁に寄りかかって座った。

 日当たりにいる彼は、ぽつりと言った。

 

「私が異邦人だというのは、本当のことです。また不治の病を抱えた病人でもあります」

 

「それは……まあ、見ればな」

 

 彼は、肌の色がどうという問題以前に血色が悪すぎるのは、黄昏時の初対面から分かっていた。

 だが、彼の献身的な態度といまいち結びつかない身の上話だった。

 続きを促すと彼は、ぼんやりと言った。

 

「不治の病なのですが、ヤーナムの血を……血の医療を受ければ、もうすこしだけ私は生きていけるのです」

 

「…………」

 

 シモンが、できれば避けたいと思っている血の医療行為は、たしかに人を救っている。そばにいる彼のように。

 望まぬ病人にとって、希望の標となりえる眩いものだと理解はしている。

 

「もちろん。教会が医療と言いつつ完治を目指していないことは知っています。といっても、医療教会の白服様や司祭様の思惑はさっぱり分かりませんけど……。ええ、それでも……私は病み人ですから、自分が内外から壊れていくのが分かるのですよ」

 

「……それで」

 

「私は、とても恐いのです。シモン。とても恐い」

 

「死が?」

 

「ええ、そう。とても、とても恐いのです」

 

「その気持ちは、わかるよ」

 

 彼は、朝陽の下で震えていた。

 誰もが謳歌するそこで彼は泣いていた。

 だからこそ。

 

「目が眩むような使命が欲しいのです。恐れを忘れるような使命を。だから、どんなに汚い仕事でもいい。どんなに傷ついても、誰かを傷つけてもいい。使命は私に勇気をくれる。それさえあれば私は、死の恐怖を耐えられる。……そして、私は、俺は、たしかにここに存在したのだと誰かに覚えていて欲しいのです」

 

「…………」

 

 祈るように固く握りしめた両手が、不意に解ける。

 彼の色の薄い瞳が、光を反射して煌めいた。

 

「そうして果てたのなら……この悲惨な人生も最期は、最期だけは! きっと幸福になれると信じているのです」

 

 医療教会の仕事に彼の望む使命は無い。

 それを断言できるのは、最も教会の内部事情に詳しいシモンだけだった。

 彼と街路を歩いている時にも抱いた忠告を告げるならば、相応しい機会だった。

 彼の人となりを知った今でさえ言ってしまわなかったのは、彼の目に、懐かしいものを見たからだ。かつてルドウイークが見つめていたものに似た光が宿っている。もうひとり、似た目をした男を知っている。処刑隊の長、ローゲリウスもそうだった。

 この手の人間は、身のうちに抱える恐れのために、恐るべきことをしでかす。彼に対し迂闊なことを言うべきではなかった。

 

「……その意気込みでよく教会の献体にならなかったな」

 

 生きている病人は大歓迎だろうに。

 シモンが独りごちるとピグマリオンはクスクスとおかしそうに笑った。 

 

「不治の病の感染症には、誰も近付きたくなかったのでしょう。ああ、今は大丈夫です。この病気は、日に弱いものですから。……それに普段から輸血液を体に入れている狩人であれば、大丈夫ですよ」

 

「……あんまり上手いことを言えないが……いつか使命が見つかるといいな。あんたが納得して死ねるような」

 

 自分がひどく残酷なことを言っているとシモンは自覚していた。けれど他人を思いやることができる、ヤーナムでは希有な感受性を持つピグマリオンならば、彼の言葉の裏を察することができたことだろう。

 

「ありがとう、シモンさん。ええと。その。そういうわけなので私の親切は、私が安らかに死ぬための駄賃なのです。だから、お気になさらず」

 

「理屈が分かれば、俺も多少安心して受け取れる。それに信心深いあんたには、前払いの報酬があったっていい」

 

「え?」

 

「不安も愚痴も吐き出して楽になるなら言えばいい。病気は……どうにもならんかもしれないが……話なら聞いてやる。俺なら、いつもこの辺の路地裏に転がってるだろうさ」

 

「ははは……それは、とても心強いことです。ありがとうございます」

 

 ピグマリオンは、立ち上がり細かな砂を黒衣から払う。

 ほんのりと赤い目が見えた。それに気付いた彼が、恥ずかしそうに笑い、眉を寄せた。

 ようやく彼は人間らしく見えた。

 シモンも微かに笑った。

 彼は、黒い山高帽を一度掲げて別れを告げた。

 

「では、シモンさん。昼過ぎには戻ります。お休みなさい」

 

 ひらりと手を振って応える。

 下り坂を歩く彼の姿は、すぐに見えなくなった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 教会の黒服、ピグマリオン。

 

 結果として彼は二度とこの古教会に戻ってこなかった。

 

 よってシモンの善意が役立つことはなかった。

 

 彼が帰還を告げた時分になっても音沙汰がない。

 黒服の先輩らがその行方を気にし始めた頃、大聖堂からの使いが「彼は異動になった」と簡易な通知文を持ち込んだ。

 

「異動? アイツ、あいや、彼が『どこ』に?」

 

 季節外れの異動だ。黒服の先輩が思わず口をついてしまったのも仕方が無いことだった。その先輩は「彼は異邦人で病人なのだから予防の狩人以外が務まるとは思えない」とも言った。

 シモンは彼らの会話を外の壁に張り付いて聞いていた。

 教会の使者は答えず、去った。

 ワケの分からない顔をした黒服の先輩コンビが残され、帰ってこないことになったピグマリオンの私物を片付けに部屋の奥へ向かった。

 

 その翌日のことである。

 教会の片隅に置かれた懺悔室の小さな木箱には、手紙が入っていた。

 

 曰く。

 

『私は特別な任に着くことになりました。お世話になった皆さまに、お別れを告げられなかったことが悔やまれます。特にも古狩人様。お気遣い頂きながら、応えられなかったことを惜しく思っています。どうかご自愛ください。どうかお幸せで。貴方の幸いを願っております。そして、どうか私のことを覚えていてください。最後まで貴方の慈悲をお頼りするしかない私をどうかどうかお許しください』

 

 走り書きで歪んだ文書に署名は無く、いくつかの癖字から辛うじてピグマリオンのものだと断定された。

 封書を手に取った時、微かな匂いにシモンは包帯の下、目を大きく見開いた。

 匂い立つのは、古く懐かしい月の香りだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 シモンは教会の裏手にやってきた。薪の蓄えが山積みとなって置いてある。恐らく在りし日のピグマリオンが作業したのだろう。キチリと並べられた山のそばには無造作にピグマリオンの私物が置かれてあった。夜が近付けば火を焚いて、薪と共に獣除けの燃料となるだろう。

 

 彼が突然失踪したのは間違いなく誰かの介入だとシモンは察している。

 月の香り。──怪しむな、というのが無理な話だ。

 しかし、念のため彼の身辺調査を行うことにした。

 過去に誰かとトラブルになった経緯はないか。あれば、それは誰との諍いだったのか。

 彼の性格と先輩の黒服二人を見る限り、その線は薄いように見えるが、何事も地道な確認が必要だった。

 

 燃やされる服に紛れて、表題のない本が置いてあった。

 手にとって中身を確認する。

 

「手記。あぁ、やはりあったな」

 

 軒下に座り、彼は最初のページから読み始めた。

 

 

 

──ピグマリオンの手記──

 

 私が目を醒ました時。

 貴重品はありませんでした。私は着の身着のままです。きっと身ぐるみを剥がされるように血の医療者へ全てを差し出してしまったのでしょう。

 輸血後の痛みのある腕と共に傍らにあったのは二冊の本でした。神話の本、そして医学書です。医学書のとあるページの端が折れていました。私の病とは結核だったようです。『ようです』とは、他人事のように思われるかもしれません。けれど、著しく記憶が混濁した私は、どうあっても病名が思い出せなかったので今でもそうなのだと思っています。

 

 それに、ようやく意識がハッキリした頃、息ができると激しく感動したことをよく覚えています。

 息が、できるのです。苦しくない。痛くない。私は、涙を流しました。嬉しかった。嬉しかった。生きていることが嬉しかった。生きている。とてもとても嬉しかったのです。病は治った。もう死の影に怯えなくてよい。それが私にどんな幸福をもたらしてくれたでしょう!

 

 しかし、私には帰る場所がありません。医学書は私の病を教えてくれましたが、私が誰でどこから来たのか分からなかったのです。行き場がない私はそのまま小さな教会の黒服に「ここで働かせてほしい」と頼み込むしかありませんでした。黒服のお二人は「治療と祈りが終わったら、出て行け」と何度も言いましたが、私はすがりつき、あらゆる言葉を重ねて結局、彼らから教会の黒のなかでも最も下位の下男として仕えることを許されました。

 

 その時のことは、いまでも印象深く覚えています。私は相変わらずヤーナムに来る前の記憶が戻らないままですが『お願い』のときに咄嗟に「外で医者をしていた」と言って彼らの失笑を買いました。けれどこうした言葉は、スラスラと出てきました。我ながら「詐欺師だったのだろうか?」と訝しく思えるほどです。

 

 今になって思うのですが私の本職は、きっと演者だったのでしょう。私は与えられた役割をすんなりと飲み込むことができました。きっと靴を舐めろと言われても、たいそうな屈辱を感じることなくできると思います。慣れない剣を握り、戦っている時は自分のことを「歴戦の勇士」だと思い込むことにしています。すると不思議なことに恐怖を感じなくなるのです。……我が事ながら異常な没入をしていると感じています。きっと私は優秀な演者であったのでしょう。また、私の体は年の割に柔らかい。これは本当に幸いな体質です。荒っぽい仕事も多いなか、怪我が少なく済んでいる理由でもあります。

 

 医療者として初めて死体と対峙したとき。私は吐き気と震えが止まりませんでした。私は、自分がすでにヤーナムの外で言うところの「医者」ではないことを悟っていましたが、それでも、一度仕えると決めた医療教会に背くことはできません。拝領の輸血液。あの効果は永続ではありませんでした。一週。二週。私は自分の体について詳細な観察を行いました。輸血液を絶ち、一ヶ月もすれば激しい咳と息苦しさに襲われます。ときに血痰も見られました。どんなに身の回りの環境が整っていたとしても、恐らく、血を絶って半年は保たないでしょう。一人で身動きができなくなれば、数ヶ月で死ぬでしょう。それも酷く苦しみながら。

 

 でも、あの輸血液があれば、私はまだ、もうすこしだけ生きていける。

 

 神話の本では『ピュグマリオーン王とガラテア』のページの端が折れていました。

 何となく拝借した名前を、今では気に入っています。無論、王の名だからではありません。

 死の恐怖を克つするため私が求めるものは、きっと、かの王にとってのガラテアに等しいと信じているからです。

 

 だからいつか私にも最期に一度くらい。良いことがあったって、いいじゃないですか。

 本当の私は強くもないし、賢くもない。

 ただの病み人で、ただの異邦人で……ただの、弱い、人間なのです。

 

 ヤーナム。血の医療が栄える、この街は不思議な街です。

 いつもどこからか視線を感じる。

 

 見ている。

 見られているのです。

 

 私の罪を。私の傲慢を。誰かの死の上に立って、辛うじて生きている我が身を見られているのです。

 

 それが私にはたまらなく恥ずかしい。もし、肉体が健全であればきっと感じないことです。けれど、私の体は病に冒されて、冒されて……もう血の医療だけが救いとなっているのです。

 

 けれど、私は、できるかぎり善い人間であろうと心がけてきました。

 ヤーナムにおはす神は、そんな私の事情を汲んではくれないでしょうか。

 

 ……血に溶けた私には、血に汚れてしまった俺には……もうそれしかないのですから……

 

 




献身的な病み人

ピグマリオンは語る:
 彼は狩人の夢に辿り着かなかった、ただの異邦人です。ヤーナムにおいて掃いて捨てるほどいる、ただの病み人です。つまり、主人公になれなかった病み人です。
 19世紀、現代より不治の病は多くあったことでしょう。
 通常の病進行であれば、余命約半年の彼の肉体はすでに身動きままならない状態ですが、血の医療を受け続けるならば、もう少しだけ生きることができます。重病人であったギルバートが獣となれば生き生きと人を襲うことができたように、彼の体も動きます。しかし、死が恐い。生きていたい。ありふれた願いが他者を傷つけてしまうので、彼は常に苦しんでいます。善人を演じるまでもなく、彼は善良だからです。
 その苦しみからの逃避として使命が欲しい。
 シモンは「医療教会に使命を感じられる仕事はないよ」と言うことはできませんでした。ピグマリオンにとっては使命探しが現在の心の支えなので、そんな残酷なことは言えなかったでしょう。
 しかし、真実を秘匿するとは、どこか見慣れた所行で嫌になります。
 手記は捨てられるところでしたが、このあとシモンの数少ない所有物としました。「誰かに覚えていてほしい」そう願った彼の人生とも言える手記がゴミのように燃やされるのは、良心が咎めたからです。


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暗殺者の朝

教会の暗殺者、ブラドー
とある聖職者の獣を剥いだ皮を被る男
およそ狂人の装いだが、そのなかで得られた智慧は彼だけのものだ
秩序を守るため、真実を求める者を追っている
鐘の音が聞こえたら……用心することだ……



 古教会の隣にある懺悔室。

 その小さな箱に手紙が投函される前日まで、時は遡る。

 

 ヤーナム各地に存在する医療教会の支部は、民に対し血の施しをするだけの施設ではない。

 

(あぁ、眠い。体も怠い……早く帰らないと)

 

 夜が明けても教会の狩人は身を休めることはない。支部に勤める狩人には、死んだ獣の数と狩人の数を報告する機能があり、大聖堂に勤める医療者達へ報告するのだ。

 その役割を果たすのはいつもピグマリオンだった。

 先輩の黒服達は、朝が明けたら茶でも飲んでゆっくりするため、面倒な外回りは彼の仕事だ。

 けれど、辛くなかった。今日は特に体が軽かった。

 

(シモンさんは、きっと、とても良い人だ……。それに、たぶん強いんだろうな)

 

 いろいろな仕掛け武器を使う狩人がいるが、彼が扱う曲刀のような武器は見たことがない。

 そういえば、どのような変形をするのか、ピグマリオンは知らなかった。

 

(けれどまあ、今夜にでも……)

 

 病を抱えた彼にとって。

 未来とは、決して明るいとは言えないものだったが、日々の小さな楽しみを忘れるほど心を磨り減らしてはいなかった。

 報告を終えた彼は大聖堂をくぐり、両手を伸ばしてグッと背伸びした。

 

(あぁ……空が明るい……)

 

 見上げれば、空は朱から白へ色を変えつつあった。

 空だけを見上げれていれば、地上の死体も、獣の臭いも何もかも嘘のようだ。

 

(あの人は、何を見てきたのだろうか)

 

 ピグマリオンは、ぼんやりと街並みを見た。

 あれも、これも。人も、物も。眺め見渡しては、考える。

 同じ予防の狩人で同じものを見ているハズなのに辿り着く先は違う。そんな予感が拭えない。

 

(何を見ているのだろう。人? 獣? もっと違う何か。『何か』とは何? なんであれ、あの人はそれを狩るのだろう。……私にはとうてい考えられないような手段で。きっと成し遂げるには難しい使命を抱いて)

 

 病んでいる者には、病んでいない者の心が分からない。

 シモンのことを考えれば考えるほど『全ては身を病んでいる自分が悪い』という帰結に陥ってしまい、彼は思考を手放した。

 

(シモンさんは、ヤーナムの地下に広がる神の墓地まで見てきた『古狩人』だ。私が推し量るなんておこがましいのかもしれない。……彼のなすことが正しいのだろう)

 

 シモンの善意に触れてみたい。

 ピグマリオンは喉が渇くような感覚があり、歩き出した。

 

 予防の狩人の周囲は、あまりに死に満ちている。だからこそ、他愛のない話をして笑ってみたい。そして、望めるならば、ほんの一時だけでいい。自分が救われぬ病み人であることを忘れたかった。あの優しい古狩人の善意は、ヤーナムにおいて希有なものだ。その時間を大切に思いたかった。

 

 帰り道を考える。ヤーナムには激しい高低差がある。また長い梯子を下り、坂道を登らなければならないことは憂鬱だ。けれど、できるだけ早く帰ろう。帽子を被り直した時、視界の端に何かが映った。

 

「……?」

 

 誰かの靴だった。

 使い古された革靴には、妙に黒い染みがある。

 ──まさか死体では無いだろうな。

 確認せずにいられないのは予防の狩人の性かもしれない。

 柱の裏を覗くと、壁に寄りかかり座っている人がいた。

 

 ひとまず生きている人らしい。

 呼吸の都度、広い肩は小さく上下した。

 

 一般のヤーナム民であれば聞こえよがしに舌打ちをし、教会の狩人であれば「ここはお前の寝所じゃないぞ」と蹴飛ばす場面であったが、ピグマリオンは異邦人のうえ病人であったので、すぐさま彼のそばに膝をつき、肩に手を置いた。

 

「もし。そこの貴方、ひょっとして異邦の御方ですか?」

 

「……っ」

 

 声をかけると彼はすぐに目を醒ました。

 昏い目をした男だった。

 彼はピグマリオンを見ず、森の遙か向こうから昇る太陽を見た。そして。

 

「朝……?」

 

 声はかすれ、驚きと惑いがあった。

 ピグマリオンは、初めて朝陽を見た人のような反応だな、と奇妙な感想を抱いた。

 

「大丈夫ですか? ええ、朝です。もし貴方が病み人であれば、残念ながら拝領の時間はまだですよ」

 

 大聖堂の拝領時間は、いつも午後ですから。

 男は、しばらく呆けたように青くなりつつある空を見ていたが、ようやくピグマリオンを見た。

 黒いざんばら髪には、いくつか白髪が混じる。髭をたくわえたその男の年齢は分からない。若い男ではないことは確かだ。

 ピグマリオンが勤める教会支部の男。とりまとめを行っている医療者と同じくらいの年齢だろうか。明後日のことを考えていた。

 そのため、彼が嗄れた声で告げた内容を理解するのに時間がかかってしまった。

 

「教区長を出せ」

 

「……? ……な、なんですって?」

 

「教区長に用があって来た。教区長を出せ」

 

「い、いえ、出せって、そう言われても、だ、出せ、ないですよ……?」

 

 ピグマリオンは、彼がとても『まとも』に見えていたのでとても驚いてしまった。

 ひょっとして自分は、かなり『まずい』ひとに声を掛けてしまったのではないか。遅まきながら震える。

 手遅れになる前に、もつれそうな舌を動かした。

 

「い、一般の人には、教区長は会いませんから、そ、そういうことであればお引き取りを……したほうが良いと思います……」

 

 言葉が小さくなってしまったのは、彼に見つめられたからだ。およそ人間味が感じられない曇り硝子のような目だった。この手の人間をピグマリオンは知っている。次の瞬間に何をしでかすか分からない種類の人間である。

 さらに嫌なものが目に入った。彼の大柄な体に隠れていて、こちらも気付くのに時間がかかってしまった。

 

(いッ! ルドウイークの長銃! 見たことがない武器がある……槌だろうか?)

 

 それら狩りの武器が、彼の所有物だとすれば。

 目の前の男は消去法で──。

 

「私は教会側の人間だ。ではピョートル司祭を出せ」

 

「はぃ、誰ですって?」

 

 ピグマリオンは、彼が正気かどうかますます自信がなくなり、会話に窮した。

 報告文書の配達が仕事の一つであるピグマリオンは、教会の役付の人々の名を諳んじることができた。ゆえに目の前の彼が滔々と言い連ねる人物の名前には聞き覚えが無かったのだが──最後の一人。彼が「まさか」と前置きして告げた名前だけは聞き覚えがあった。

 

「ヘルベルト司祭は、ええ、いらっしゃいます……」

 

「…………」

 

 彼の沈黙は「まだ生きているのか」という驚きを多分に含んだものだった。

 

「取り次ぎをしてみましょうか。貴方のお名前を伺っても?」

 

「ブラドー」

 

「分かりました。ブラドー氏、少々お待ちください。……けれど、まぁ、少々ではすまないかもしれません。私、黒服の中でも低位なので……」

 

 そう言いつつ、聖堂に戻ろうとしたピグマリオンの背中に声が掛けられた。

 

「これを」

 

 血濡れた黒い手袋が、割れた鐘を差し出した。

 それを受け取ろうとして白い手袋が汚れることに気付いたピグマリオンは、懐から布巾を取り出した。

 

「名とこれを見せれば分かる。もし、無言で失せればお主を殺す」

 

「え。そ、それは恐ろしい、ので、必ずや取り次ぎましょう……」

 

 そそくさと退散しながら、ピグマリオンは必死で考えた。

 ヘルベルト司祭かその近辺の人々に取り次いで判断を仰ごう。万が一──ピグマリオンは「まさか」と思っているが──本当にブラドーという男が教会の人間であれば、取り扱いは注意しなければならなかった。どう見ても表の人間ではない。いつも死にそうな目をしている予防の狩人達だって彼に比べれば、生き生きと輝いて見えた。あの目はいけない。恐ろしさに腹の底がゾッと冷える。

 

 大聖堂に戻り、ヘルベルト司祭の部屋へ向かう。

 ノックをするまでもなく、ドアは開けっぱなしになっていた。報告のため各支部から来た黒服が、途切れず往来しているのだ。

 その一群に混ざり、順番を待つ。

 人混みの隙間からヘルベルトが見えた。

 彼はヤーナム東部の総括者で医療教会の白服だ。

 

 聖歌隊を辞退したという噂がある彼は典型的な医療者であり、勤めも長く、エミーリア教区長の信も厚いと聞く。

 問題があるとすれば、好色であるとの噂を聞いたことがある。聞いた時は「聖職者がそんな」と思っていたが、介添の黒服の女性との距離が近い。近すぎる。この光景を見れば「噂は真実でした」としか言えなかった。

 ピグマリオンの番がやってきた。

 豊かな白髪を耳にかけた老人が、興味の欠片もないぞんざいな視線を寄こした。

 

「南区のピグマリオンです。大聖堂前にてブラドー氏が面会のためいらっしゃっています。至急、ご判断を仰ぎに──」

 

「はははッ、ブラドー! 懐かしい名前じゃあないか!」

 

 老人は、ケラケラと笑い、黒服の女性に笑いかけた。

 貼りつけた愛想笑いを浮かべる女性が「午後まで予定が詰まっています」と告げる。

 

「こちら本人証明になる『鐘』です。それから伝言をひとつお預かりしています。『教区長を出せ』とのことです」

 

 老人の笑いが止まったので部屋中が静まりかえった。

 廊下で状況を知らない黒服達が部屋に入ろうとうろうろしている足音だけが聞こえた。

 目を剥いたヘルベルト司祭は、すぐさま立ち上がった。

 

「全員、出て行けッ! お前もだ!」

 

 報告待ちをしていた黒服は皆、鞭打たれたように出口に殺到した。誰もが関わり合いになりたくないと必死だった。

 尻を叩かれた黒服の女性が驚いてペンを持ったまま、部屋を出て行ったのを最後に執務室にはピグマリオンとヘルベルト司祭が残った。鐘を差し出したまま「あの」と声を上げてみた。

 

「どこでその名を知った!?」

 

「──ご、ご本人から伺いました」

 

「その鐘は!?」

 

「──ご、ご本人から渡されました」

 

「どこにいる!?」

 

「──だ、大聖堂前にいらっしゃいます。ええと、あの、では、お呼びしてきてよろしいですか?」

 

「早く行けッ!」

 

 せめて鐘を彼の執務テーブルに置こうとするとヘルベルト司祭は拳を振り上げた。

 

「そんな物、置くな! 持って行け! 馬鹿者!」

 

「ええぇ……?」

 

 怒鳴られる理由が分からず、ピグマリオンは鐘を元通り布に包むと彼の執務室を出た。

 それから数分後。

 ひどく昏い目をした男──ブラドーは執務室に設けられた椅子に座り、ピグマリオンは置物のように壁際に立っていた。ブラドーを連れてきた際に、ヘルベルト司祭へ伺いを立てたが、なぜか退室は許されなかったからだ。

 

(割れた鐘。ルドウイークの長銃。それから槌。……槌は、どう見ても人血がこびりついている)

 

 入室と同時にブラドーに預けられた武器を手にしたまま、彼は会話の行方を見守った。

 ヘルベルト司祭は、嘘っぽい笑みを浮かべたり、苛立たしげに口を歪めたりと百面相で忙しい。

 

「や、やあ、ブラドー。久しぶりだ。本当に久しぶりだ。変わりがないようだな。出て行ったときのままの姿だ」

 

「…………」

 

「それで、ぇ、ご足労いただいてすまないね。ええと、いったいぜんたい何の要件だろうか」

 

「…………」

 

「後ろの男は気にしなくともよい。君の存在を知った者だ。後で処分して構わないぞ」

 

 はて。処分とは。

 聞き慣れた言葉だが、文脈として奇妙な状況で聞こえた気がする。

 ひょっとして処分されてしまうのは自分だろうか。

 ピグマリオンは、腹だけでなく舌根や背中が冷える。頭が真っ白になっていた。

 

(処分!? 私が!? 何で!?)

 

 どうすればよいだろう。逃げるか。咄嗟にピグマリオンは窓を見た。ここは地上三階だ。窓を壊して降りることはできるが、落下の衝撃で動けなくなる可能性がある。手持ちの輸血液は無い。では、廊下は。──そこまで考えて、ピグマリオンは抵抗を諦めた。輸血液が無ければ、病んだ体は保てない。そしてヤーナムでは医療教会に逆らったら生きていけないことは、よく知っていた。

 手足が遠くにある感覚に支配されているピグマリオンのことなどつゆ知らず、他方でブラドーは口を開く気分になったようだった。

 

「狩人の悪夢が閉ざされた」

 

 悠々と足を組んだ彼は、不可解な一言を告げた。

 ピグマリオンが解し得ない言葉だったが、司祭は特別な意味を見出した。

 

「悪夢が……!? まさか!? で、では、どうやって戻ってきた?」

 

「知らぬ。気付いたら外にいた」

 

 ヘルベルト司祭は、焦りながらも整理するようにいくつか質問をした。

 

「それは今日の話か? メンシスの妨害か?」

 

 ブラドーは答えなかった。

 その代わり。

 

「夢を見ている狩人は誰か。教会は今も把握しているのか?」

 

「いいや。最近はめっきり現れない。教会の狩人で夢を見ている者は、もういないだろう。市街の狩人は分からない。こちらも全てを把握しているワケでは──」

 

「全て調べろ」

 

「そう簡単に言うがな……」

 

 口ごもる司祭の事情を彼は酌むことはなかった。

 

「私は、教区長を呼べと告げた。早くしろ」

 

 司祭は、ついにカチンと来たようだ。

 傲岸に言い放つブラドーの背中を見つめるしかできないピグマリオンは、急な差し込みに見舞われた。

 

「教区長は多忙だ! 後で私の口から報告する。仕事に戻れ、ブラドー!」

 

「お主に命令権などない」

 

「いいや命じるぞ、教会の暗殺者。悪夢が開こうが閉じようが貴様のやるべきことは変わらない。さっさと仕事に戻るがいい。わざわざ顔なんぞ出して無駄な仕事を増やしおってからに……」

 

「……私は教会の維持に関与しない。言葉に気をつけよ。我が槌は正邪に関わりなく、賢愚にこだわりなく、真偽の差別なく振り下ろされる」

 

「ハッ、地獄の番人にでもなったつもりかね? 薄汚れた殺し屋風情が」

 

「その殺し屋がいなければ立ちゆかぬ秩序しか作れないのは、果たして誰か。忘れたようだな」

 

 ピグマリオンは、彼らの交わす言葉の多くが分からない。だが現実逃避するため真剣に思考を続けていた。その結果、いくつか分かったことがある。

 

(ブラドー氏は、街の治安維持に関して一枚噛んでいる? 不敬だが、それでも関与をやめない。やめられない? 消極的な協力関係? とても妙だ。教会に対して義理があるのだろうか?)

 

 彼がその後思いついたのはブラドーが病人であるという考えだったが、それにしては医療者に対し不遜が過ぎるし、忠節も見受けられない。

 それから彼らはしばらく言い争っていたが、やがてブラドーが会話を中断させた。

 

「話にならん。教区長に会いに行く。──来い」

 

「えっ、えっ、えっ」

 

 ピグマリオンに向けられた言葉だったが、その場で足踏みしてしまった。

 ヘルベルト司祭から凄まじい形相で睨まれたのも一因である。

 しかし、何より。

 彼は時計を見た。

 

「教区長は、い、今、お祈りの時間……ですよ……」

 

「というワケだ。諦めろ、ブラドー」

 

「──三日以内に会見の場を設けよ」

 

「分かった分かった、用意する」

 

 ブラドーなりの最大限の譲歩にヘルベルト司祭は頷く。

 彼にとって教区長の予定は、どうでもよいのだろう。

 たった今ブラドーが去るならば、頭を下げる以外の何でもしそうな勢いだった。

 立ち上がった彼は、そのまま部屋の外へ歩を進めた。

 

「ブラドー、どこに行く」

 

「悪夢に戻れぬ以上、こちらに居るしかあるまい。教会の工房の先、古工房は空だろう。使うぞ」

 

「ああ、空き巣防止になるだろう。存在を知っている者もいないだろうが。その男を始末しておけ」

 

「……ついてこい」

 

 ヘルベルト司祭に背を向けたブラドーは、執務室を後にした。

 彼の荷物を持ったままだったピグマリオンは、声がけにハッとしてすぐに彼の後を追った。

 

「あ、あの、お忘れ物です……」

 

 立ち止まり、鐘と槌を手に取った彼はルドウイークの長銃に手を伸ばし、止まった。

 

「お主、名は」

 

「ピグマリオンと申します。……あの、ブラドー氏、私は……どうなるのでしょう……?」

 

「始末する」

 

「あぅ。あの、どうして、とか聞いてもいいですか」

 

「言ったところで、納得するのか?」

 

「それは……たしかに、そう、なのですが……」

 

 ピグマリオンは黙るしかなかった。

 思索というものは、不思議なものだ。

 命が吹き消えそうな瞬間だというのに、ピグマリオンは仕事のことを考えていた。勤めていた支部への連絡は必要だろう。せめて遺書をしたためる時間がもらえないか交渉したい。また私物の書籍は開きっぱなしでベッドの上に転がっているハズだ。遺物を片付けに来た人に「故人はだらしない」と思われるのは、死んでも死にきれない思いだった。

 

 何と言って陳情すべきか分からず、おどおどとブラドーを見上げた。

 彼の昏い目は引き込まれるようで苦手になりつつある。しかし、絶望が見せた幻覚だったろうか。その目が、わずかに細められた。

 

「だが、時の定めがある話ではない。当分役立ってもらうぞ」

 

「は」

 

「それは持っていろ。行くぞ」

 

「は、はぃぃ……ははは、はひははは……」

 

 どうやらまだ殺されないらしい。

 ルドウイークの長銃を両手に抱えたまま、彼はヘラヘラと笑った。

 笑いたくて笑っているワケではなかった。安心と恐怖が交互にやって来て、ピグマリオンを情緒不安定にさせた。笑わずにはいられなかったのだ。

 

 そうして、彼らは大聖堂から去った。

 ヤーナムに十時を知らせる鐘は、同時に彼らの門出を告げていた。

 

「あぁ、朝ですよ……ブラドー氏」

 

 彼が空を見上げているのが分かり、ピグマリオンは呟いた。

 だが。

 

「まやかしだろう」

 

 教会の暗殺者と呼ばれる男は、数度の瞬きのあとで真意の分からないことを言った。

 




教会の暗殺者、ブラドー:
鳴らない鐘が鳴ったとき、教会の暗殺者がやって来る。
狩人の悪夢ではさんざん打ち鳴らして、真実を求めてやって来た哀れな狩人達を転がしまくっていたことでしょう。
鐘の反響は消え誰にも観測されず、狩人の悪夢に置き去りにされてウン百年。気付いたら外に放り出されていたあたりシモンと似た経緯を辿りましたが、即座に現場復帰しました。医療教会従事者の鑑ですね。
ヘルベルト司祭が「お変わりない」と言ったブラドーは、ブラドーおじさん(黒)の状態です。暗殺者として悪夢に突っ込んでかなりの年数が経っているハズですが、突っ込んだときのままの姿で現れたのでヘルベルト司祭は「おま、オッッフ」となりました。

どれだけ彼が主張しようとも、医療教会の罪を隠し続ける装置であることは変わりがない。
ところで、今年は鐘をBPM200で鳴らすことを目標とするブラドーおじさんの話を誰か書いてくれないか……ここはずっと、青白いんだよ……


狩人の悪夢:
現在、閉鎖中。
しかし、限られたひとしか「行けない」だけで「戻ってくる」ことはできるようだ。
もっとも、狩人の悪夢にいた時の存在のままとは限らないが。


たくさん評価をいただいてしまっています。
とても嬉しいです。
今年はハーメルン様に投稿し始めてから一番書いている年のように感じます。
これからも頑張りますね。

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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探求者

全盛り
ヤーナムの地下に広がる神の墓地。それに繋がる聖杯ダンジョンを生成する際に、特定の儀式素材を使い作成するオプション「死臭」「腐臭」「呪い」「不吉」のうち、「死臭」「腐臭」「呪い」を選択したもの
呪われてこそ生きる力もある
──がんばれ!──



 セラフィが狩人の夢に帰還したとき。

 父たる狩人は不在だった。

 人形が花壇の石積みに腰掛けてうつらうつらと眠っている。彼女にも用事があったが、急ぎではなかったので素通りして古工房の扉を開く。そして床に置かれた大きな木箱に寄った。

 父たる狩人とそれに連なる仔らの荷物を収納している大きな箱は、夢に存在する物らしく現実の物理法則を歪めて存在していた。

 

(教会武器の区分に弓剣──これだ。たくさんあるな)

 

 蓋を開き、武器が収納されている箇所をあさる。

 父が集めた武器が数多収納されており、弓剣は数え切れないほど収納されていた。葬送の刃は特に顕著だ。クルックスの分も加えれば、文字どおりの山になっている。

 

(これほどたくさんあるのだ。使うのに高い技量が必要とはいえ、珍しい武器ではないのだろう)

 

 セラフィは、ひとつ自分なりの納得を得て格納庫の蓋を閉じた。

 そして。

 工房を出ると墓石に生えている小人、悪夢の住人である使者達に話しかけた。

 

「お父様はどちらへ? 知っているか?」

 

 使者達の細い腕がわらわらと一つの墓石を指した。

 その先には儀式祭壇があり、ひとつの聖杯が置かれている。

 

「トゥメル聖杯? 『死臭』、『腐臭』に『呪い』? なんだいつもの全盛ではないか」

 

 聖杯の中身は、固まらない血やカビや手首や頭蓋でひしめいている。

 聖杯に手をかざそうとすると使者達が手記を広げた。

 

「なになに。『ただ今、テルミのお使いで探索中。鐘を鳴らす女、殺すべからず』……ははぁ、なるほど」

 

 使者達に了解を告げ、セラフィは聖杯に身を投じた。

 聖杯。

 それは、ヤーナムの地下に広がる神の墓地。

 滞留した空気に満たされ血とカビが溢れる地下世界は、悪夢の領域である。

 セラフィは左手に松明を持ち、右手で落葉を握り聖杯を歩き出した。

 

(教会が使役しているのは、トゥメル人だろうか。……似ているが)

 

 おとぎ話を思い出した。

 彼女はパン屑代わりの死体を辿った。

 

 生白い肌、立ち上がれば見上げるほど背の高い異形の人。

 古に神秘の時代を築き、今も墓を守るトゥメル人だ。

 

 歩いていると香が充満する部屋に出た。

 遠くから聞こえた鐘は、部屋の中央から聞こえる。

 

「ん、セラフィではないか」

 

 松明を揺らして出入り口に敵がいないかどうかを確認していると、ネフライトの声が香炉の奥から聞こえた。

 両手で教会の杭を持つ彼は「待て」とセラフィが口を開くより先に注意した。

 

「足下に罠がある。気をつけてくれ」

 

「壊せばいいだろう」

 

「いや、でも、しかし……」

 

 ネフライトにしては歯切れの悪い言葉である。

 理由は、煙の奥から狩人が答えた。

 

「『敵が殺到した時、すこしでも足止めになればいいなぁ』と残している」

 

「ああ、お父様の発案ですか」

 

 ネフライトが言葉を濁した理由も分かる。

 鐘を鳴らす女が、また赤蜘蛛を召喚した。

 すぐさまネフライトは教会の杭の四角錐で潰した。あの厄介な蜘蛛が「ピギュ」という断末魔を上げて死んでいく。いつ聞いても気分が良いものだった。

 

「セラフィがわざわざ聖杯まで来るとは珍しい。急ぎの用事か?」

 

 回転ノコギリの駆動を止めたクルックスが、尋ねた。

 

「お父様にご報告があります。──昨夜のことですが、いろいろありまして」

 

 いろいろ、とは。

 クルックスとネフライトがそろって呟く。そこは重要なところではないのでセラフィは気にせず省略した。

 

「獣の皮をまとった御仁に助けられました。礼をしたいのですが、お父様はその方をご存じですか?」

 

 ヤーナムにおいて獣は害であり、罪である。

 それを望んで被る者は、ハッキリ言って狂人の類いだ。

 しかし、真っ先にそれを口に出しそうな狩人が息を呑む音が聞こえた。

 

「獣の? っ! セラフィ! どこで見た!?」

 

「聖堂街外れ。ヘムウィックへ続く路地です。二言、三言の言葉を交わして追手を引き受けてくださった。教会の人間に借りを作ったままではいけない。……僕は報いなければ」

 

 セラフィは言葉を切った。マリアのことを話すのは憚られた。

 叶うならば、セラフィはもう一度、直接あの男に会いたかった。──彼は、マリアにつながる新しい手がかりだ。

 

「はははっ、素晴らしい知らせだ。セラフィ、ご苦労だったな」

 

 セラフィの肩を軽く叩き、彼は鐘を鳴らす女を囲む部屋から出ようとした。

 振り返り、その手を──彼女は掴んだ。

 

「お待ちください。あの男は誰? 名前は、せめて名前を教えてください」

 

「ああ、彼は──…………何か気になることでも?」

 

 一報で占められていた狩人の思考は、現実に戻ってきたようだ。静かな声音だったが、試すような質問だ。

 セラフィの頭を多くの言葉が過ぎる。

 嘘を吐くか。真実を話すか。あるいは核心を隠すか。

 ──いいや、無駄だ。

 恐らく、狩人は獣の皮をまとった人物に心当たりがあるのだ。

 

「なぜ獣の皮をまとっているのか知りたいと思ったのです」

 

「そういうことが気になる年頃なのか? では鴉の鴉羽装束の中身も気になるのか?」

 

「いえ見慣れているので特には」

 

 クルックスは何のことか分からずに首を傾げ、ネフライトは呪詛を吐きながら新たにやって来た赤蜘蛛を執拗に叩き潰した。

 狩人は、彼らをチラと見た。

 

「いま深刻な問題が発生した気がする。しかし、新しい試みということにしよう。その男には市街にいれば会えるだろうさ。その時によろしくすればいい」

 

「ご助言感謝いたします。……では、そのように」

 

 狩人は、数秒の時間も惜しいと回廊へ駆け出した。

 その背を何とはなしに見送っていたネフライトが鋭く息を呑んだ。

 

「お父様、足下っ!」

 

「え」

 

 重々しい仕掛けが作動する音が聞こえた。

 皆がその音を聞き届けた時は、もう遅かった。

 

「ああああぁッ! すまんっ!」

 

 火矢を発射する罠の射線上にいたネフライトが「だから私は壊すべきだとご忠告を申し上──!」と言い残し、側頭を撃ち抜かれた。墓を生やして消えた彼を横目にクルックスが回転ノコギリを駆動させた。

 鐘を鳴らす女が好機とばかりに握った鐘を打ち鳴らす。途端に地面を埋め尽くすほどの赤蜘蛛の大群が現れたのだ。

 

「セラフィ、来るぞ。剣を抜け!」

 

「抜いている。もう鐘女を殺してもよいのだな?」

 

「もう十二時間以上稼いだ。学費には十分。テルミも満足するだろう」

 

 獣狩りの短銃の発砲音を合図に、二人は駆けだした。

 赤蜘蛛と鐘を鳴らす女を一掃した後で。

 

「はぁ……」

 

 普段はため息の一つ吐かず、猫背にならない彼女が手に持つ落葉の重さに耐えきれないように背を丸めたのでクルックスが「何か」と尋ねた。

 

「君に僕の気持ちは分かるまい」

 

「突然だな。……分からないが、分からないなりに理解しようとしている。何があった? 獣の皮をまとった男とは何の話だ?」

 

「──クルックス、教会の人間が、同じ教会の狩人と争いになる理由は何だと思う?」

 

 唐突な質問にも彼は眉一つ動かさず、代わりに思考を動かした。

 

「む。信仰の方向性の違いではないか?」

 

「そうか。では、教会側の狩人が、教会の狩人と争いになる理由は何だと思う?」

 

「……いろいろ聞きたいことが多いのだが、まずは前提として教会『側』とは、どういう立場の狩人だ?」

 

「僕にも分からない」

 

「分からない?」

 

「獣の皮を被る御仁がそう言っていた。自分は教会側の人間だと。その御仁に会いたいのだ。もう一度……会いたいのだ」

 

「…………」

 

 クルックスが、考え込むようにうつむき──ある時、回転ノコギリの変形を解除した。長柄の鎚となった武器を手に狩人が去った後の廊下を確認する。そしてセラフィは、彼の振り返った顔に焦りを見つけた。

 

「……セラフィ、その狩人はお父様の反応を見るに夢から戻ってきた古狩人なのだろう」

 

「僕にもそれくらいは分かる」

 

 セラフィは噛みつくように言った。

 彼は懸命に言葉を考えているようだった。

 

「だから問題だ。探るべきではない。絶対に良いことにならない」

 

「ヤーナムで良いことのほうが少ないだろうよ。……君に、この気持ちは分かるまい」

 

「分からん。だが、案じている」

 

 心配する心から発せられた言葉が、いまはなぜか耳障りだった。

 余計な世話だ。セラフィは吠えた。

 誰にも譲れぬ一線というものが存在する。

 それは。

 狩人の場合、誇りであろう。クルックスの場合、連盟や学徒達の名誉であろう。そして、セラフィにおいては、己の探求に関わる全てだった。

 

「僕は、この顔をした女性が何なのか知りたいだけだ! レオー様にはエヴェリンに間違われ、鴉羽の騎士様は僕の向こうにマリアを見ている! この顔は、いったい誰で何なのか!? もし、お父様に獣の皮を被る御仁のことを聞いたのがクルックス、君であったのならお父様は話していたと思わないか!? 僕だから口を噤んだのだ!」

 

 クルックスは、口を閉じた。

 彼も思い当たることがあったのだろう。目を逸らした。

 

「この顔を火で炙ったなら! 僕は、今よりきっときっと幸せに生きられるだろう! 何もかも、この顔だ! この顔のせいで僕の人生が始まらない! けれど、あぁ、あぁ……僕がこの顔であるだけで先達の心が安らぐのであれば、それでもいいと……心から思っているんだ……」

 

 白い顔に赤い線を引いてセラフィの指先は頬から離れた。

 

 他者への善意が、心に無理を強いる。

 この顔が彼らの温かい思い出の何かであるならば、そうありたいと思う。

 未だ報われぬ彼らの献身が慰められるのであれば、個人の抱く不満は感傷に値しない。

 同胞に対する慈しみに限りはない。労りの情は真実だ。だからこそ、セラフィは息苦しい。

 

「君は分かるまい。分かるまいね。……僕の気持ちを分かってしまっては、あぁ、たまらないよ」

 

 聖杯を去ろうとするセラフィの背に思いがけない言葉がかけられた。

 

「お父様は、いずれヤーナムの過去を開示する。それまで待てないか」

 

 ──なに。

 セラフィは、空気を噛んだ。

 彼が言ったのはビルゲンワースで狩人と交わした言葉だった。

 特別な機会さえあれば、口達より確実な情報の伝授ができるという。

 嘘を吐く理由はないように思える。だが、真実であるという確証もなかった。

 

「真実を開示すると思うか? 本当に?」

 

「……俺はお父様を信じている」

 

 クルックスの返答は苦い。

 それしか言えない、という響きがあった。

 

「そうだ。教会側の人間が、教会の人間と争う理由について僕の考察を述べていなかった。──恥のためだと思わないか」

 

「教会は一枚岩ではない。ネフとテルミを見ればよく分かるだろう」

 

「そのとおり。一枚岩どころか、血の紐帯も怪しいところだ。そんな教会内で『恥』とは、どうしても殺さなければならない理由になると思わないか。『知られたら生きていけない』から殺すのだ」

 

「……俺にはよく分からない」

 

「僕にも分からない。だが、貴人はその節がある。誇りのためと言い換えてもいい。恥を知られ、誇りを失う。失ったものは二度と戻らない。固まった血が二度溶けてしまわないように。──僕は待たない。自分の目で確かめる。お父様の瞳も権能も頼らない。最も過酷な運命だけが僕に相応しいのだから」

 

「それもいい選択だとおっしゃるだろう」

 

「そして君が敵になるのか? 僕に勝てると思っているのか? 君ごときが本当に?」

 

 挑発のため二刀に分離した落葉が、青い蝋燭の光を反射した。

 彼は、悩ましげに唸った。

 

「俺の立場を明示しよう。俺はヤーナムの過去より現在を大切に思っている。つまり、連盟を、お父様を、ビルゲンワースのお二人を、客人を大切に思っている。秘匿された真実があることも、まぁ、気付いている。それらを知りたいと思う。狩人の最も新しい後継として知るべきだとも思う。だが……俺には彼らが何よりも大切なのだ。過去を知ることが現在のヤーナムの基盤を揺るがすことになるのならば、敵になる。そうなることもあるだろう。そうなってほしくないと思っているが」

 

「僕だって女王様や騎士の先達が大切だ。ヤーナムの治安を、拝命した任を越えて乱そうとは思わない」

 

「分かった」

 

「何が?」

 

「セラフィはセラフィで『時計塔のマリア』を追うのだろう。動機は何であれ好奇、そして探求には違いない。俺にそれを止めることは難しい。……お父様は、今のところヤーナムの過去を探ってほしくなさそうだ。意向に逆らう以上はテルミもネフもこの件に関して君の味方をしないだろう。だから、俺が味方になろう」

 

「……?」

 

 具体的に彼が何をするのか想像がつかない。

 しかし、セラフィの剣の切っ先は、地面を向いた。

 

「といっても俺にできることなど、たかがしれている。……苦しいことがあれば話せばいい。辛いことも聞こう。誰かに話して楽になることもあるからな。特に、その顔のことは誰にでも話せることではない。君の、甘い秘密のいくつかを俺に預からせてはくれないか?」

 

「……考えておく」

 

 取るべき選択肢は、多ければ多いほど良い。

 そう考えたセラフィの思考は彼にも察することができたようだ。

 ──それでいい。

 クルックスは頷き、血除けマスクの下で微かに笑いかけた。

 

「俺は黄昏のヤーナムに朝が来ればよいと思う。だが誰もいない街を照らす朝は要らない。俺はそんなものを朝と呼ばない。彼らがいなければ、俺の朝には何の意味もないからだ。誰も欠けてほしくはない。……君もそのなかにいる。くれぐれも忘れないでくれ」

 

「何度でも言うが、君の優しさは必ず破滅を呼び込むぞ」

 

「何度も聞いた。その度に君は『滅びる価値がある』とも言った。けれど滅びた程度で終わらない。ヤーナムが終わらないように。諦めない限り、人の意志は終わらない。終わることはないのだ。人は、だからこそ上位者の思惑を越えていけるのだから」

 

 クルックスは、潔い。こんなことを言う彼が滅びる時は、ほんの瞬きの間に消えてしまうのだろう。

 あまりにも断定した口調で述べるから、予感を覚えてしまうのだ。

 どうしても否定したい感情が止められず、セラフィは一歩を踏み出した。 

 

「君」

 

「どうした?」

 

「いや……」

 

 予感を言葉にすれば、いずれ形を得て、現実に不吉を呼び込むかもしれない。

 漠然とした危惧が、セラフィから言葉を奪い去っていった。

 伸ばしかけた指先を熱いものに触れたかのように引っ込めながら、視線を迷わせることしかできなかった。

 

「? 自分自身を大切にな。奥を始末してくる。外で会おう」

 

 クルックスは、背中を向けると歩きながら水銀弾を装填し、煙るダンジョンの奥へ消えてしまった。

 

(僕は……)

 

 恐怖を知らないだけの自分が、彼のようになれるだろうか。心強く在れるだろうか。

 

 ──もはや落葉を捨てる井戸は存在しないというのに。

 

 狩人の帽子を目深に被る。

 考えても、考えても、何も浮かんでこなかったので、やがてセラフィも姿を消した。

 




セラフィの願い:
 マリアではない自分が欲しい。
 けれどカインハーストの先達が自分のことを大切に思ってくれているのは、9割ほど顔のせいだと思っている。カインハーストは排他的だ。カインの血を引く者以外は、さほど重要視されない。本来であれば。
 セラフィは、父たる狩人の企てが成功して、古い狩人が早く帰ってくればいいと思っている。マリアも、エヴェリンも、皆帰ってくればいい。本物が帰ってくれば、きっと、いつかただのセラフィになれる。この、もう一つの願いを言い出せないのは、セラフィが注ぐ慈しみが真実であるように、彼らの慈しみもまた真実であるからだ。
……鴉羽の下で雨宿りした温もりは忘れがたく、失いがたい……


1P漫画(セラフィとテルミ)
死因「引き抜くタイミングが分からなかったので」

【挿絵表示】




筆者は最近ようやくトゥメル=イルに辿り着きました。
──テーマパークに来たみたいだぜ(暗黒視界数メートル先にデブ)

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啓蒙取引

啓蒙
知識寡少な民に智慧を与え、全体の水準を高めること
啓蒙思想。その革新的思想運動は16世紀より18世紀で起こった
余波はヤーナムにも押し寄せたが、伝統と偏見を打破する活動は、ヤーナムにおいて全て不発に終わり、弾圧された
それらこそヤーナムをヤーナムたらしめる負荷であったからだ



 医療教会の黒服、ピグマリオンは医療教会の工房の存在を知識として知っていた。

 黒服の先輩達が話していた「あの辺にあるらしい」程度の噂話だったが、実際のところ、それは真実であった。

 しかし。

 

「オ、オドン教会……うーん……」

 

 墓地広場を下った先、静寂のなか西から来る風音が、今は不思議なことに何かの唸り声にも聞こえる。どこから誰かが見つめているような視線が振り切れない。

 

 そんな気分になるのはピグマリオンだけのようだ。隣に立つブラドーは、まったく気にする素振りなくオドン教会の屋上を眺めていた。恐らく空を見ているのだろう。彼は朝にずいぶんと感動していたようだから。

 さて、問題は件のオドン教会である。

 異邦の神父──オドン教会の信徒ではない──が医療教会から管理を依託──「押し付けた」とも言う──されている教会は、曰く付きである。

 

「行くぞ」

 

「あ、ちょ、ちょっと、待ってください。こ、ここ、心の準備が……」

 

 オドン教会の信徒は、皆狂ってしまうのだという。

 理由は分からない。

 ヤーナムの医療者であれば口をそろえて「気の狂いは珍しい病ではない」と言うだろうが、異邦人の目線から言わせてもらえば、そもそも気の狂い自体が滅多に起きるものではない。

 それが例外なく発生するのであれば、オドン教会は医療教会の比ではなく『おかしい教会』だ。

 

「通り抜けるだけだ」

 

「そ、そうですか……」

 

「時にピグマリオン。昨夜、何か珍しいものを見なかったか」

 

「はぁ、珍しいものですか……?」

 

 ──世間話だろうか。

 それにしては妙な話題だと思いつつ、記憶を探る。

 

「ええと。そうですね。カインの狩人を見かけました」

 

「そうか」

 

 ブラドーの望む回答ではなかったようだ。不機嫌になってしまったので戸惑う。

 彼は考え事をすると前髪を掻く癖がある。

 しかし、触れては何か足りないものに気付いて指先が離れていく。

 

「ひょっとして……何かお探しなのですか?」

 

「肌身離さず持っていたのだが」

 

「無くしてしまったのですか。どうしましょう。心当たりの場所はありますか? 探してまいりましょうか?」

 

 彼は、うっかりさんなのだろう。

 伺うと彼は数秒の迷いの後で歩き出した。

 

「見つからないだろう。今はまだ」

 

「は、はあ?」

 

 まただ。

 ピグマリオンは思う。どうも彼は言葉が足りない。

 『まだ』とは、どういう意味だろうか。置き忘れた物に『まだ』なんてあるのだろうか。

 けれど機嫌を損ねたくもないので彼の長銃を持つピグマリオンは、黙って彼の後を追った。

 

 数分もしないうちにピグマリオンは泣き叫んだ。

 

 オドン教会は「通り抜けるだけだ」というブラドーの言葉は真実だった。ここまでは良かった。ここしか大丈夫ではなかったとも言うべきかもしれない。戦々恐々しながら入ったオドン教会は、盲人がいただけで見かけ上は普通の教会であったのも彼の警戒心を大いに解いた。

 

 また、ピグマリオンはブラドーの『医療教会の古狩人』という肩書き──暗殺者という追加職名は都合良く忘れることにした──を無意識のうちに信じていたことに気付かされた。だからこそ弛緩と緊張の落差に耐えきれなかったのだ。

 

「アウト! これはアウト! 無理無理! 私、高いところダメなんですぅぅ……! ひうぅぅ……!」

 

 オドン教会の内壁の一部は重々しい石扉になっていた。それを驚異的な怪力でこじ開けたブラドーに言いたいことはたくさんあるが、答えてくれないのでひとまず伏せた。

 

 問題は、その奥だ。

 

 ヤーナムでは珍しくない昇降機で上昇し、隣の建物へ渡る外回廊を往く。

 その先は黒服の先輩達が噂していた『医療教会の工房』の塔だった。工房道具が出しっ放しだが、人の気配は無い。職人達は、まだ寝ているのだろう。ブラドーが、そこで使い古されたロープを調達した。次に向かったのは、塔の階下だった。

 塔の内部に入ってすぐに気付いたのだが、老朽化した階段は崩れ、張り巡らされた板もところどころ壊れている。しかも塔の最下層は暗く、数メートル先も見えなかった。これは底も見えないほど深いということを意味する。

 ──そういえば、先ほど乗った昇降機はしばらく上昇し続けていた気がする。

 思い出せば、現在の高度がいかほどであるかまで思い至り、脚がすくみ、腰が引けた。

 

「ほんとに無理、無理無理! まだナメクジを生で食べるとか! 献血バケツ三杯のほうがマシです!」

 

「では私に殺されるが、どちらがマシかね」

 

「でも、でもね? ブラドー氏? 落ち着いて聞いてくださいよ? ほら、見てくださいよ。階段が壊れているじゃないですか? 無理なものは、無理だと思うのですよ。つまりその、物理的に、という意味ですが……」

 

 しかし、ブラドーの目は冗談や冗句、まして酔狂ではなかった。ピグマリオンは腹を括った。

 死期が身近な彼にとってこの種の覚悟は常であったからだ。健常者では、およそ耐えきれなかった。

 

「命綱はある。行け」

 

「貴方がロープの端を持っているだけじゃないですかっ! あと、ボロボロのそれを命綱と言い張るのは許されざることですよ!」

 

「使いたくないのなら、構わないが」

 

「しっかり結んでくださいよ! 死んじゃうじゃないですかっ! さぁ、お願いします!」

 

 黙々と結ぶ彼を見ながら、ピグマリオンは命の儚さに思いを馳せた。

 ブラドー曰く、塔を下る中途に医療教会の工房とは別の工房があるらしいのだが、そんな噂は聞いたことがない。事実とも考えにくい。上層に行くには切り立った崖があり、市街へ行くにも深い谷がある。立地条件が悪すぎる。

 自分は何だかんだと理由をつけて今日ここで彼に殺されてしまうのだと確信した。

 

「この先に降りれば足場がある」

 

「分かりました。……あの、ブラドー氏、お願いがあります。私が死んだら、そのことを南区の教会支部に伝えていただけませんか。異動先でもよく励んでいると。それから窶しの古狩人の方に──」

 

「結び終わった。行け」

 

 間の悪いブラドーは、ピグマリオンの勇気を全て聞き逃し、長い足で背を蹴った。

 心の準備もなく突き落とされた奈落は、どこまでも深く、暗い。

 

「あアぁぁあーッ! 死ぬぅぅーッ!」

 

「死なぬよ。……まだ」

 

 命綱は頼りない物だったが、確かにその役割を果たした。

 ロープが張り詰め、胸の空気を押し出す。慣性の急制動に抗えず、ピグマリオンは胃の中身を吐き出した。

 

「ぐぅぇ、かっフ……」

 

 吐瀉物が鼻腔を遡った。

 純粋に痛い。涙が出た。

 

「足場があるだろう」

 

「あ、し、ば……足場……ああぁ?」

 

 靴の先が、固いものに触れた。

 石壁に打ち付けられた板のようだ。

 

「たしかに……」

 

 暗くて一歩先も分からないが、ブラドーの言うとおりの足場があった。

 両足を着けると身を吊していたロープの緊張が解けた。

 ブラドーはどうするのだろうか。不安で見上げていると命綱無しで降りてきた。

 

「ひゃぁあっ!」

 

 一歩間違えれば、間違いなく死ぬ高さだ。

 今立っている板の間も果たしてどれほどの強度があるか分からない。──にも関わらず、彼は堂々としていた。

 まるで。

 

「ブラドー氏……恐くはないのですか? 落ちるかもとか、死んでしまうかもとか。考えないのですか?」

 

 窓のない塔の中は、朝であっても暗闇が支配している。

 だからこそ、より深く昏い闇が感じられた。

 

「私は何も恐れない」

 

「そう……ですか。お強いのですね……」

 

「……。あと二回ほど下がれば着くだろう」

 

「分かりました。大丈夫です。次は、自分で歩きま──」

 

「よし、行け」

 

「この野郎、押すなってばァぁああーッ!」

 

 次にブラドーが降りてきたら、自分で降りるとしっかり発言しよう。

 心に決めたが、その後、不意打ちの足蹴が二度あり、その都度、死ぬ思いをしたのでピグマリオンは彼に対し、一切の抵抗を諦めた。

 

 もし、月の香りの狩人がいれば興味深い事態に深く頷いたことだろう。

 ──やはり時計塔のマリアは正しかった。

 その証拠に、ピグマリオンの情緒は何度か死んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 医療教会の上位会派──かつての聖歌隊の気付きが突然訪れたように。

 ピグマリオンが、我が身を捕える長い夢を悟ったのも突然のことだった。

 医療教会の工房を下り、秘匿された古工房の扉を開ける。

 錆びた金属が甲高い悲鳴を上げ、軋んだ。

 

 長方形の外の世界には高く昇りつつある朝日、そして白い花弁が見えた。

 その瞬間、頭の中でありとあらゆる知が解けては広がり、新たな関連を得、視界には原色鮮やかな火花が弾けた。知に蕩ける快楽が脳をすみずみまで侵す。そうして彼が我に返った時、目の前の光景は、数秒前と変わらないものであった。

 

 それでも、何もかもが異なって見えるのはなぜか。

 ピグマリオンは、意味も分からずに笑った。理屈は分からない。けれど理解が及んだのだ。

 

 正しく、啓蒙を得た。

 

 工房の庭に足を踏み入れたブラドーが、ある時、制止した。

 辺りを見回していたピグマリオンは彼の背中に鼻をぶつけた。

 

「あぐぅ。す、すみません……。でも、急に止まらないでください。何事ですか?」

 

「月の香りの狩人」

 

「月の? 何ですって?」

 

 彼は答えてくれなかった。

 代わりに腰に提げていた槌を手に取り、握りしめた。

 

 その時だ。

 

 庭の先、古工房の扉がキィと小さな音を立てて開いた。そして足音。

 現れたのは、ヤーナムではありふれた狩人の服を着た男だった。

 トリコーンと血除けマスクで顔は見えにくいが、これといった特徴のない青年に見えた。

 だが、ブラドーはそう見なさない。

 

「お目にかかれて嬉しい。とても久しぶりだ。実に、二〇〇──ええ、何十年かぶりだ」

 

 口を開いた青年が、狩人の一礼をした。顔を上げる一瞬に彼の瞳が見えた。

 銀灰色の深い色だ。

 彼に気を取られていたピグマリオンは、やがてルドウイークの長銃の折りたたまれていた銃身を伸ばし、散弾を装填した。

 ここは立地が悪いのだ。そんな場所に待ち構えている人物がいる。これは異常な事態だ。理性が追いついたからだ。

 

「──狩人の悪夢を閉ざしたのは、お主だな?」

 

「いかにも。獣狩りの夜は、ひとまず終わり、形を変えて続いている。最初は鼻で笑っていたが『悪夢は巡り、そして終わらない』とは、たしかに真理の一側面を言い当てたものであったらしい。誰かの夢が終わったならば、次の夢を始めなければならなかった。呪いにしてもそうだ。悪夢の主が失せても呪いは続いている。……ご存じだろうが、ヤーナムの海にはどうも底というものがないらしい」

 

「…………」

 

「貴公とは、ゆっくり話がしたかった」

 

 その狩人は、両手の武器を地面に落とした。銃とノコギリ鉈が石畳で鋭い音を立てて転がった。

 取りこぼしではなかった。彼は、意志を持って手放したのだ。

 敵対を諦めた──とも見える。

 ピグマリオンはひとまず銃口を逸らした。

 

「今さら許しを請うつもりかね?」

 

「私は欲深なので、もっと別のものが欲しい」

 

「では『最も新しき夜明け』か? 笑わせる。ヤーナムのザマは何事だ」

 

 ピグマリオンは、初めて彼の声色に怒気が宿ったのを聞いた。

 言葉の意味が、啓蒙的真実を感じる今ならば分かった。

 

 ヤーナムの時間は、狂っている。

 

 この朝は、どんなに眩しくともブラドーの言うとおり『まやかし』だった。ヤーナムの時間は、進みながら止まり、止まりながら動き続けている。啓蒙が拡張した知識は、彼にも日常が異常であることを認識させていた。

 そして。

 会話を聞けば、その原因は対峙する彼にあるという。

 槌を構えたまま、ブラドーは彼を睨みつけた。

 

「血がヤーナムの歴史であるならば、ヤーナムの歴史とは血によって作られるべきだ。それは血の遺志に依ってだけ。私は、今のところ間違っているとは思わない。誰もいないヤーナムに、歴史の絶えたヤーナムに、いったい何の意味がある?」

 

「愚行の上塗りにもほどがある。恥知らずめ」

 

「貴公が言う恥には、実に深い味わいと重みがある。貴公は強い。医療教会の秘密を守り続け、呪いを甘んじて受け入れられるほど達観している。しかし、多くの人は違う。救われない病み人が『それでも生きたい』と求めた故郷がヤーナムだろう。望む声が聞こえる。ならば求める限り与えよう。──『導き』は、願う者の前に現れるのだから」

 

「ゲールマンは耄碌したか。狩りとは『継承』だと教わらなかったようだな。……狩人ならば、ただ獣を狩り続けていればよかったのだ」

 

「狩りとは『感傷』でもある。あまりに温かい、血の通う感情の動きだ。これを問いかけられて内臓が痛むのは、貴公ではないか? ご友人の姿が見当たらないようだが」

 

「…………」

 

 ブラドーは突然、笑うように頬を歪め、髪を掻き、不吉に指の関節を慣らした。

 狩人は、目を逸らした。

 

「まぁ、この話はほどほどにしよう。私は、争いに来たのではない。いずれ。おいおいな。……どうやら娘に会ったようなので、その礼と厚かましい依頼のために参上した」

 

「マリアの、マリアではないマリア。あれこそ何事だ」

 

「ああ、実は俺なんだ」

 

 ピグマリオンは、ブラドーの考えていることが分かった。

 文脈と現実。どちらが破綻しているか考えているのだろう。

 

「以前も言った気がするが──最近の狩人は嘘にしても、もうすこしマシなことが言えないのか? 二〇〇年の知恵を絞ってそれか? 本当の愚か者か? ヤーナムの夜明けは那由他の彼方のようだな?」

 

 狩人は、焦ったようにワタワタと手を振った。

 

「あれも嘘ではなく、これも嘘ではなくて! 彼女は確かに俺で、俺ではない。けれど失った素晴らしい可能性の一端だ! その怪訝な顔! じゃあ回転ノコギリの話から始めよう。忘れもしない。時を遡ること約一年と半年前、あれは俺が聖杯に挑もうと準備していた頃──」

 

「もういい」

 

 ブラドーは槌を下ろすと工房に向かって歩き出した。

 危うく素通りされそうになった狩人が行く手を遮った。

 

「いいや、聞いてもらうぞ! ずっと狩人の誰かに話したくて、誰かが悪夢から這い出てくるのを待っていた! 上位者を回転ノコギリで細切れにしたら、こどもができるのはおかしいだろうって! 相談した聖歌隊は、やっぱりちょっとズレて──」

 

「やかましい! 脳漿をブチまけたいようだな!」

 

 かなりイイ速度で槌を振ったブラドーだったが、彼の槌は狩人をかすりもしなかった。

 素晴らしい反射速度で避けた狩人は、肩をすくめると片手で工房の扉を開けた。

 礼儀をわきまえたドアマンのように彼は腰を折った。

 

「……極めて不本意だが。まったく存外のことだが。……一方的な約束であれ、果たすべきことは、果たされるべきだろう。悪夢より這い出た礼をもらおう」

 

「祭壇に安置している。ご検収いただきたいところだ」

 

 ブラドーが、薄暗い工房の中に入っていく。

 ひとり外に残されたピグマリオンは、彼に続いて入ってもよいものか迷う。そのうち狩人と目が合った。

 

「おや」

 

「私は南区の教会支部から来たピグマリオン。……貴方は、ただの狩人に見えるが」

 

 ピグマリオンは、ちらりと工房の奥で何かを探っているブラドーの背を見た。

 

「きっと、そうではないのだな。私には何が何だか分からないが、でも、何らかの事情を知っているのなら教えて欲しいのだが──」

 

「あぁ、教会の黒服だな。脳に瞳が欲しいのか?」

 

「ひぇっなに言って? この人なにこわ……」

 

 逃げるように工房に駆け込んだ。

 ブラドーと言えば工房の奥、祭壇に置かれた木箱の中をあらためていた。

 その背を叩きながらピグマリオンは、狩人が扉を閉めようとして「なんだか埃っぽいな……」と結局、開けっ放しにする様子を見ていた。

 

「ブラドー氏、あの人、頭がおかしいですよ……! 脳に瞳なんて意味の分からないことを言っていますし──ブラドー氏! ブラドー氏! 何してるんですか!?」

 

 獣の臭いに驚くピグマリオンは、自分の正気を疑った。

 ブラドーが白い獣皮をまとっていたからだ。

 頭には歪んだ角が生えている。規模は違うが、いつか見たことがある聖職者の獣にそっくりだ。

 

「あわあわぁっ! お願いですから、貴方まで頭のおかしなことをしないでくださいっ!」

 

「至って正気だ」

 

「正気の沙汰でやることではないから言っているんですよ!?」

 

 お願いだからやめて欲しいと泣きついた。

 だいぶ前から顔面はぐしゃぐしゃなのだが、それでもすがりついた。これから生活する立地条件最悪の住居において、同居人の正気は彼にとって重大問題であったからだ。

 

「諦めろ」

 

 すこしの会話で分かったことは、ブラドーは頑なであり自分の意見を翻すことは少ない性質ということだった。

 もはや諦めるしかなくなり、ピグマリオンは更に泣いた。

 いったい何が悲しくて、獣の似姿を見続けなければならないのだろう。しかも聖職者の獣なんて縁起でもない。

 

「まともなのは私だけか……!」

 

「じきに慣れる。そういうものだって最初の狩人も言っていた。ささ、座って、座って」

 

 狩人は助け船を出すような口ぶりで、いつの間に準備していたのだろう、お茶を小さなテーブルに配した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 後方の壁に立つ、ピグマリオンが居心地悪そうに身じろぎする、微かで忙しない衣擦れが聞こえる。

 暗殺者が交渉テーブルの椅子に座った時点で『敗北した』と言える。

 もっとも責める者は無く、まったく何に対し敗北したのかさえ判別しがたい。

 

「貴公とお話できて、私は本当に嬉しい」

 

 対面に座る彼──便宜上『月の香りの狩人』は、血除けのマスクを下げると朗らかに笑いかけた。

 

 医療教会、ヤーナムの真実の一端を知る医療者は『月の香りの狩人』と呼ばれる、夢を見る狩人の存在を知っている。

 ヤーナムに巣くう人間ではないもの。人間を越えた何か。それに魅入られた異邦者が囚われる夢の存在を認識している。

 紆余曲折、そして屍の山を積み上げて医療教会が手にした悪夢もある。医療者達は、狩人の悪夢に人員を送り込むこともできた。決して浅くない歴史、なにより実験棟で積み上げた知見もある。

 

 だが、こんなものは把握していないだろう。

 

 悪夢はすでに医療者達の視界に収まりきらない規模だ。

 悪夢は漁村で芽吹き、ヤーナムに根を張り──枝葉を伸ばし続けている。

 

 月の香りは、未だ存在する。

 だが、対峙する狩人がまとう気配は強すぎる。

 ありえない仮定だが、夢を見る狩人を何十人と集めても彼には敵わないだろう。

 

 まるで月そのものだ。

 

 ブラドーが席に着いた理由のひとつでもある。

 この狩人の正体や本質は見極めきれないが、ただちに殺しきれるものではないと判断せざるを得なかった。

 他の理由は、実に大したものではない。

 悪夢から這い出てきたせいだろうか。狩人の悪夢では当たり前にあった狂気が、現実のヤーナムではひどく薄い。また『悪夢より這い出た礼』である『とある聖職者の頭蓋』が気に入った──という即物的な理由も加味された。

 

「依頼と見返りを聞こう」

 

 単刀直入に尋ねる。

 想定内の質問だったようだ。

 狩人は人差し指でテーブルを突いた。

 

「この古工房を守っていただきたい」

 

 暗殺者への依頼にしては『らしく』ない。

 だが、自身は秘匿の防衛には向いているとも思っている。

 話の続きを促した。

 

「今の私は貴公と同じだ。余人に悪夢の秘密を知られたくはない。だから悪夢を閉ざしたが、閉ざすということは、開くこともできるということだ。私は常々思う。全ての秘密が、一カ所に秘匿されているのは好ましい状況ではない。私は、さんざんヤーナムを走り続けた。死因を網羅したと思えるほど労力を費やした。聖堂街上層からメンシスの悪夢に行くのに、どれほど邪眼が面倒であったか。最後には、もう『ヤーナムキャンプファイアーに上位者を並べておいてくれ』と思ったほどだった。いけない。愚痴になってしまいそうだ。忘れてくれ……」

 

「…………」

 

「見返りは、狩人の悪夢。その出入り口を進呈しよう」

 

 悪くはない条件──のように聞こえる。

 しかし。

 

「信に値するものは?」

 

「時計塔の麗人に誓おう。もっとも『血に酔った狩人の瞳』が必要だ。もし、手に入る機会があれば墓碑に触れてみるといい。貴方ならば、真偽が分かるだろう」

 

 一瞬、彼の視線が建物の外に動いた。

 捨てられた古工房、その小さな敷地には多くの墓石がある。そのうちのどれか一つだと彼は語った。

 

「沈黙は、了解と受け取らせていただく」

 

「……構わん」

 

 医療教会を裏切ることはできないが悪夢に戻れない以上、狩人の提案を受け入れざるをえない。また、彼の発言が真実であった場合、狩人の悪夢の鍵が握れるのであれば悪くない条件だ。

 教会から受けた任は「悪夢を探る者を誅せよ」だが、彼は既に悪夢を探してはいない。……我ながら小賢しい屁理屈を捏ねていると思うが『今の狩人』は対外的な理由として説明可能な「暗殺対象外」と言える。

 

「ありがとう。ひとつ、肩の荷が下ろせたような気がする。……いつも、彼女の墓を暴かれるのではないかと気がかりだった。現在のヤーナムには多くの試行が必要だが、教会には気付かれたくないことが多い──というか邪魔をされたくない。貴公が教会の動向に目を光らせているのなら、私も動きやすくなる」

 

 いったい何をしているのか。

 ブラドーも気がかりにすべきことだったが、いずれ分かるだろう。

 

「ところで、昨日は誰か知人に会わなかったか? ヘムウィック付近にいるとは意外だった。狩人の悪夢にいた誰か。古狩人には?」

 

「……。明言は職務に差し支える。話すことはできない」

 

「それもそうか。ふむ。すまない。貴公の信仰の邪魔をするつもりはない。非礼をお許し願いたい」

 

「最も多くの秘匿を破った者は、最も多くの秘密を持つ者と言える。……狩人。お主、マリアになったつもりかね?」

 

「まさか。それは傲慢が過ぎる。私は彼女のように座して待つ気概がない。性分か。じっとしていられなくてね」

 

「ほう、手駒もいるというのに」

 

 ──とっておきの。

 そう告げると狩人は、ほんの一瞬、目を瞬かせた後で気まずそうに目を逸らした。

 

「セラフィは、そういうものではない。彼女は彼女の価値判断で存在し、行動している。娘だが……どういう存在なのか、俺もいまいち定義し損ねている。しかし、まぁ、とても美しい、そして恐ろしい、何より心配な娘だよ」

 

「母親は誰か? マリアとは言うまいな」

 

「いやだから。生産者の顔が見えるだろう? つまり俺。あと回転ノコギリ──」

 

「餞別だ。健やかなる幸福を願って鐘を鳴らしてやろう。父子共々死ぬがよい」

 

「貴公の鐘は、どこからどう見ても暗い情念と呪いの類いだ。……あぁ、そういえば。セラフィが礼をしたいと言っていた。邪険にしないでもらえると助かる」

 

 ブラドーは鼻で笑う。

 狩人はヒョイと肩をすくめる仕草をした。

 二人のカップは、空になっていた。

 

「戸棚に小さな鐘を置いている。三度鳴らせば応えよう」

 

 交渉は成立した。

 もはや月の香りの狩人に告げることはなかった。鐘も使うことは無いだろう。

 そう思っていたのだが。

 

「あの、ヤーナムの異常が貴方のせいであるならば、なぜ、こんなことを?」

 

 ピグマリオンが挙手をした。

 狩人が「うん?」と目を向ける。ブラドーも振り返った。

 二人の視線を受けると彼は、その場で身震いし、両手を背にまわした。

 

「現在のヤーナムは、時間の流れが『おかしい』ことが私にも分かります。思い返せば、微々たる変化があれど、毎年同じ仕事をしていたように思います。クランツさんの息子の首を私は二百何回か刎ねたことでしょう。……これには、いったい何の意味があったのですか?」

 

「クランツさんの家のなかで獣が現れ、一家惨殺の憂き目に合わなかったことには意味があるだろうな」

 

「ご、ごまかさないでいただきたい……! 今日の私はクランツさんに恨み言を言われる日でした。歳を召してから授かった一人息子です。それを殺したことを私はひどく恨まれたのです! ヤーナムの異常を引き起こしている貴方ならば、きっとご存じだったハズだ。誰も彼も最初から救えたのではないですか?」

 

「ピグマリオン」

 

 黙れ、とブラドーは言った。

 

「けれど、ブラドー氏。でもしかし! 彼と貴方の言っていることが真実だとすれば、この先のことだって彼は知っているのでしょう!? 救うこともできただろう! 獣になったあの子だって! 病んでいる私だって!」

 

 一息で言い切ったピグマリオンは、肩で息をしていた。

 その彼が落ち着いた頃、狩人が言った。

 

「私は便利で万能な神ではない。そして、獣の病も君の病も完全に治すこともできない」

 

 ピグマリオンの顔は、紙より白くなった。

 

「そんな……。超常の力を持つ貴方は、街を狂わせるよりも病を治すことが難しいとおっしゃっているのですか?」

 

 狩人は、椅子に腰掛けたまま微かに眉を寄せた。

 

「ああ、難しいことだ。なおすことも作り出すことも難しい。……壊したり殺したりする方がよほど簡単だ。結局のところ、俺一人ではヤーナムを救えない。救えなかった。この先、時間を進めても最後の最後に残るのは俺一人だ」

 

「……そんな……」

 

「しかし今は協力者がいる。そして時間だけはいくらでもあるのだ。いずれ智慧も啓けるだろう」

 

「…………」

 

 ピグマリオンは、唇をかみしめた。

 しばらく経ってようやく「わかり、ました」と言って教会式の礼をした。

 

「貴方がヤーナムの平穏のために尽力しているのであれば……ブラドー氏が貴方を信じる限り、私も信じることにします」

 

「ご理解に感謝する。週に一度、輸血液を持って来よう。貴公が穏やかに過ごせるよう努力をする」

 

「ありがとうございます。それから、たいへん恐縮なのですが……お手紙を届けていただけませんか? 南区の教会支部まで」

 

 ピグマリオンが、上ずる声を発した。

『無視せよ』と狩人へ無言の伝言をしたが、彼は「まぁまぁ」と意見を退けた。

 

「彼は貴公の存在を知ってしまった。夢を知覚しているのならば、話も早い。時が巡ればいずれ忘れ去られる手紙とはいえ、さいごにひとつ願い事を叶えてもいいだろうさ」

 

「…………」

 

 そうした『さいごにひとつ』の願い事によって、漁村の秘密を暴かれた経緯を持つ者としては、とても不愉快である。

 ピグマリオンが表情を和らげ、手帳を取り出し何事か書き付けるとそのままページを破り、狩人に渡そうとした。

 

「待て」

 

 それを横から取り上げたブラドーは、内容を確認した。

 

「『人のお手紙を読むのは』と言いたいところですが、ブラドー氏のお仕事ですからね。し、仕方ありませんね……あぁぁ、恥ずかしい。ご感想は要りませんからね……」

 

 文面に個人を特定できることは何も書かれていない。

 またピグマリオンの署名も無かった。

 意図してのことか。忘れているのか。

 どちらでも都合が良かったので黙っていた。

 狩人にページを渡すと彼は「ふむふむ」と内容に目を通し、やがて懐にしまった。

 

「適当な封筒を見繕っておこう」

 

「はい。よろしくお願いします。投函場所なんですが、教会のわきに懺悔室があるのです。小さな箱がありまして、そこに」

 

「ふむふむ。分かった。たしかに届けることを約束しよう」

 

 狩人が笑う。充実して楽しげだった。

 何事か。ピグマリオンが問いかけた。

 

「いやなに。長い夜でいろいろな人から頼まれることがあった。できる限り応えてみたものの、結果は悲惨なことばかりだ。依頼者のことを考えれば、最初から応じなければよかったと思えるほどにな。だから……こうして何でもない『おつかい』ができることが嬉しいんだ」

 

「そうですか。……輸血液の件は、くれぐれもよろしくお願いします。私の体は……正直に申しますと、いつもあまり好ましくない状態なので……」

 

「分かった」

 

 狩人は、席を立つ。

 そして帽子を被ってから、何事か思い出して振り返った。

 

「……最後にもうひとつだけ。夜ごと悪夢より狩人が戻ってくるのは、珍しいことではない」

 

「古狩人を狩れと?」

 

「それは場合によるだろうが、そうではない。悪夢より這い出てくるのは、頭蓋だけではないという話だ。ローレンス初代教区長が悪夢から這い出てくれば私にとっても幸いだ」

 

 銀灰色の瞳が、ブラドーの被る白い聖職者の獣の皮を見ていた。

 古い人々が、戻ってくる。

 狩人は、小屋をぐるりと見回した。

 

「ここは、私にとって大切な場所だが……古狩人にとっては、特に、大切な場所だろう。普段とは違うものを見たら、いつでも鐘を鳴らして欲しい。私も必ず知らせよう」

 

「その言葉、違えることあたわず」

 

「肝に銘じておこう。古き狩人には敬意を払わなければ。……我々は、万が一に備えて、億の手を揃えるべきだからな。さて。今日は、貴公と話せてよかった。また次の夜に会おう」

 

 狩人の姿は、最初から存在しなかったように消えた。

 ピグマリオンが小さく呻き、その場に崩れ落ちた。

 

「何事だ」

 

 彼は、震えて泣いていた。

 涙声で訴えることは、あまりに痛々しい。

 

「あぁぁ、ああぁ……人ならざる者に救いを求めるなど教義に反することです! 病を治すことなんてもう諦めていたのに! ようやく諦めることができたのに! ……あの人に縋れば、治るかもしれないと思ってしまった……。お許しください、お許しください……うぅ、心弱い私をお許しください、誰か誰か、愚かな私を罰して……お許しを……お許しを……」

 

 虚空に祈りを捧げる信徒の存在は、真剣であればあるほど。医療教会の真実を知る者ならば滑稽で嗤ってしまう光景だ。だが、ブラドーは嗤う気分になれなかった。その理由を考える。きっと狩人の悪夢に比べて狂気が薄いせいだろう。

 

「ピグマリオン、働け」

 

「はい……はい……何でも、何だってします……そうです、私は正しき医療教会の狩人で信徒で、いまや罪人なのですから……」

 

「教会の定める罪など罪にはならぬ。ヤーナムに足を踏み入れた時からお前は罪人なのだ」

 

「ええ、はい、はい、そう、そう……え?」

 

 泣き濡れたピグマリオンは眼鏡をとり、ブラドーを見上げた。

 それから言葉にならない声で口を動かした。

 ──そんなことを言ってしまえば、ヤーナムの民は皆、罪人だ。

 面倒になったブラドーは、踵を鳴らした。ピグマリオンは足音に怯えた顔をした。

 

「グズグズするな。掃除をしろ。──見よ、ひどい埃だ」

 

 ピグマリオンは涙や涎でひどい顔を拭った。

 眼鏡をかけなおした彼は立ち上がり、背筋を伸ばした。

 

「あ、ああ、そうですね。かしこまりました、ブラドー氏。ええと、寝床の確保と戸も直さなければならないでしょうね。屋根は、後回しでもよいでしょうか……ふむ、水は……井戸が使えるか見てまいります」

 

 心なしか目つきも違う。……仕事を与えている間、ピグマリオンはシャンとするらしい。

 掃除をしながら、彼は尋ねてきた。いくぶん落ち着きを取り戻した彼は、穏やかな病み人だった。

 

「ブラドー氏……あの狩人は、何者なのでしょうか?」

 

「月の香りの狩人──だった何かだ」

 

「は、はあ……なるほど……?」

 

 その存在が知られたのなら、教会は頭を痛め、終いには叡智に耐えきれず破裂させることだろう。

 ピグマリオンは困惑し、ため息を漏らす。

 

「ヤーナムは不思議な街です。いつもどこからか声が聞こえる。そして視線を感じるのです。どこにも誰もいないのに。なぜ。人のちっぽけな理性では捉えきらない何かが存在するのではと何度も考えて、その度、ありえないと否定してきましたが……ひょっとすると、その考えこそが真理だったのでしょうか?」

 

 ブラドーは答えず、手の中に置いた狩人の礼である頭蓋を見つめていた。

 ピグマリオンは布巾を手に、大きくはない工房、部屋の隅で立ち止まった。そして何かに被せられた大きな白い布を持ち上げる。彼は驚いて半歩下がった。

 

「ひっ! な、なんだ……人形か……人形? なんでこんなところに。しかもこんな……。ブラドー氏、ご存じですか?」

 

 壁に背にもたれるように座っているのは物言わぬ等身大と思しき、灰の髪が印象的な人形だ。恐る恐る近付いた彼は「身長は二メートルはありそうだ」と不思議そうに言う。白い敷布をたたみ始めた彼は、この人形をどうするべきか迷っているようだった。

 

「知らん。愚か者のことなど忘れた」

 

「しっかりご存じですね!」

 

 つい数時間前。

 ブラドーにしたように彼は床に膝を着き、手を取った。

 

「美しい人形だ。生きてはいないのに、仄かに温かい。……人形なのに、どうして……? 私はおかしくなってしまったのだろうか」

 

 ──そのとおり。まやかしだ。

 そう言ってしまいたかったブラドーは口を噤んだ。

 頭蓋のざらりとした感覚のなかに同じ温かさを感じたからだ。




啓蒙取引
狩人、久しぶりのお使いにルンルンで素敵な封筒を見繕う:
 選ぶのは勿論手持ちで一等、上等な封筒だ。カインハーストの封蝋は綺麗に剥がれた。やや使い古された感があるが、紙質は歴史を経ても素晴らしい。
 ……クルックスが言い、狩人が認めたように「誰かのためを思う気持ちは決して、悪いものではない」。そう。間違いではないのだ。時にトドメになってしまう間の悪いことがヤーナムにおいて、しばしば、あるだけで。


ブラドー:
 シモンに会ったことは無論『ご存じ』だが、わざわざ狩人に知らせることもなかったので適当な言い訳で追求をかわした。ヤーナムには敵に呪いを送ることはあっても、塩を送る文化はない。そもそも(やむを得ないことだったが)交渉の席に着いただけで殺し合いし続けた仲にしては、十分すぎる歩み寄りであろう。誠意は十分見せた。
 ……それはそれとして。上位者と回転ノコギリの話は作り話だと思っている。ビルゲンワースの冒涜的神秘の話かと思ったら物理的すぎて、コイツをビルゲンワースの末裔だ何だと認めたシモンの目が節穴だったんじゃないかと思い始めた。射手で窶しのクセに人を見誤るなど古狩人の風上にもおけない。


ピグマリオン:
 いろいろありすぎて、今日になって二〇〇年以上市街にいて初めて出会った『窶しの古狩人』についての情報は誰にも伝えられていない。
 ブラドーには一応伝えたが、彼が聞き落としたのでノーカウントだし、その後、何度かバンジーをさせられて情緒が死んでいたのであらためて言うタイミングを逸した。
 月の香りの狩人には、そのことを伝えるより先に、自分の手紙と輸血液についての交渉をしてしまったので、やはりタイミングを逸してしまった。
(彼自身の努力ではどうにもならないが)体も悪ければ、自前の運も悪く、上司運もヤーナム最悪を引いたピグマリオンの今後にご期待ください。彼自身は、いつか神の恩寵たる揺り戻しの幸運があることを信じているようです。もし使命を見つけたらどこまでも堕ちていける人間性を持っています。天使なんて現れた日にはハードラックとダンス・ダンス・ダンス。可愛いですね。



 イラスト:ブラドーとピグマリオン

【挿絵表示】


 1P漫画
 黒服のピグマリオンは輝く剣の狩人に憧れていた

【挿絵表示】




 そういえばBloodborneのボスは、負けているときは「こいつ嫌い」と思うのですが、勝てると「また戦いたいな」と思う絶妙なラインのボスが多いです。ただし、恐ろしい獣。お前のズームパンチを俺は許さん。
 ところでBloodborneはめちゃくちゃセールをしているので定価がもう分かりません。きっと広報班に重度のBloodborne推しがいるのだと思います。
 だから君もヤーナムの血を受け入れたまえよ……


 本話で『暗殺者の朝』編が終了しました。
 次回より『学徒紀行~聖杯探索~』を2話構成でお送りします。
 最近、読み始めた人は「Bloodborneの話ばかりじゃないか!」と思っていらっしゃる方がいるかもしれません。次話より魔法界にちょっと触れていきます。今後ともお楽しみいただければ幸いです。

 ご感想お待ちしています。(ジェスチャー 交信)


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聖杯探索(上)

聖杯探索
聖杯とは、一般に奇跡が収束した器のこと。
聖なる者が使用者に選ばれる。だからこそ医療者は聖職者を兼ねるのだ。
ヤーナムの聖杯は、神の墓地たる地下から持ち出された。
旧市街では、聖杯を祀り、身を逆さまに吊り下げることで、悪夢に触れようとしたのだ


『学徒紀行~聖杯探索~』は2話、上下構成でお送りします。


 ネフライトが、数日ぶりにビルゲンワースに訪れた理由はいくつかある。

 父たる狩人のご機嫌うかがいだとか、テルミに頼まれた聖杯金策の息抜きだとか、クルックスの話し相手のためだとか、まあ、さまざまである。だが、身長一九〇センチの成人男性が小さな駄々っ子のように喚いている場面に出くわすとは思っていなかった。

 

「うぉおん……! 僕もヤーナムの外に行ってみたい! 行ってみたいんだよ!」

 

「はあ」

 

「クィレル君がずいぶんとお話してくれた。やっぱり外来の神秘をよく知りたい! 新しい思索になるに違いない!」

 

「はあ」

 

「反応が薄いぞ、クルックス!」

 

「え。そう、そうか……ううん……コッペリア様、お見苦しい真似はよしていただきたい……」

 

「ああああ! 新しい神秘に見える機会だというのに! なぜそうも淡泊でいられるのか!? 僕は神秘に見えなければ、生きている価値がないのに……!」

 

 学徒の部屋には、学徒であるユリエも異邦からの客人であるクィレルの姿も無い。

 だからこそ、コッペリアが安心して大声で泣き喚いているワケだが、クルックスは困り顔だ。

 

「あ。ネフではないか。おかえり」

 

「取り込み中のようだ。帰る。定刻に聖杯に集合せよ」

 

「そう急ぐな。お父様を説得する知恵を貸してくれないか?」

 

 ネフライトは、やはり飛んできた質問に苦い顔をした。

 知恵を貸す必要はなかった。当の本人が、すこし遅れて長い廊下を歩いて来たからだ。

 

「やあ、私が何だって?」

 

 父たる月の香りの狩人が、ひょっこりと顔を出した。

 弾かれたようにゴロ寝していたソファーから立ち上がったコッペリアが両手を広げた。

 

「狩人君! 僕は、ヤーナムの外に行ってみたい! 手を貸してくれないか!?」

 

「はあ」

 

 奇しくもクルックスと同じ反応をした狩人にコッペリアは詰め寄った。

 

「ユリエは外に出たじゃないか! 僕も行ってみたいんだ! なあなあ、狩人君いいだろう?」

 

「私は構わないが……同伴が必要だろう。道のりも分からないのだから。しかし、クルックスとネフはこれから聖杯に用事がある」

 

 素早くクルックスが挙手し、狩人が指名した。

 

「ネフにやらせます!」

 

「──やらないからな」

 

 そうなのか?と不思議そうな顔をされてしまった。

 なぜ聖歌隊の利となる物事をメンシス学派が引き受けると思っているのだろうか。クルックスは教会の対立に鈍い時があった。

 狩人もクルックスの提案を却下した。

 

「テルミとクルックスの約束だろう。君が果たすべきことだ。しかしだ。学業の資金でもあるから金策には私も手伝おう。時間が許す限りだが──というワケで、コッペリア。悪いが後日だ」

 

「そんなぁ……。まあ、仕方ないか……」

 

 ソファーに横になった彼がこれからの予定を読み上げた。

 いくつかの日に目星をつけてクルックスが同行を希望する。

 ビルゲンワースで学徒生活を謳歌する聖歌隊を野放しにする危険性を誰も考えていないようだったのでネフライトだけは考えていた。イギリス魔法界でヤーナムの民が目撃されるのは問題ではないだろうか。マグルの変わった人という認識で済むだろうか。

 

「お父様、私も本が欲しいので」

 

 聖歌隊に出し抜かれている気分になってきた。

 同行を申し出た、その時、一室の扉が開いた。

 

「──失礼、ノックを忘れた」

 

 セラフィだった。

 貴族の狩人服に身を包む彼女は仄かに血生臭い。

 まっすぐに狩人のところまで歩いてきた彼女は手紙を差し出した。

 

「女王様よりお手紙です」

 

「ありがとう。──ええと、女王様は何か言っていた?」

 

「『また戻りたまえ』と」

 

「お、おお……」

 

 受け取った手紙を狩人は眩しい物を見るように目を細め、あるいは腫れ物のように腕を伸ばして遠ざけた。

 

「お父様、連盟だけではなくカインハーストにも出向いていないのですか? ご事情如何によっては怠慢と捉えられかねないのでは?」

 

 ──やめてやれ、クルックス。

 ネフライトが制止するより先に彼は切れ味の良いナイフのような質問をした。聞いているこちらの腹が痛くなるような質問だった。

 

「いろいろあるんだ……いろいろ……。女王様に会いに行こうとすると鴉が……。いや、言い訳は見苦しいな。はあ、セラフィ。ご苦労だったな。返答は自分で届ける」

 

「女王様は、お待ちしていることでしょう」

 

 ソファーで猫のように伸びていたコッペリアが立ち上がった。

 

「セラフィ、貴い御方の剣の君! 今日、これからの予定は何かあるかね!?」

 

「特に急ぎの用事はありませんが……」

 

「狩人君! セラフィに同行を頼むよ! いいだろう? いいだろう?」

 

 コッペリアがセラフィを担いで外出の用意を調える。

 セラフィは何事か頼まれ事の気配を感じているのか父の言葉を待っている。

 

「セラフィの都合次第だ。──セラフィ、これからコッペリアがダイアゴン横町とやらに行きたいらしい。同行してくれるか?」

 

 コッペリアとセラフィの組み合わせは意外なほど見かけない。

 セラフィは自分よりもビルゲンワースに滞在する時間が少ないのだ。

 果たして。

 

「ティースプーンのひと匙、カインの血に由縁があれば僕は従う価値を見出すでしょう。拝命させていだきます」

 

 セラフィが微かに身を傾けた。

 彼女を知る人ならばそれが礼であると分かった。

 

「頼むぞ。セラフィ、見てのとおりの彼は暴れ馬だ。あまり目立ちすぎないようにな」

 

 了解を告げるセラフィへ、クルックスが声をかけた。

 

「俺の鞄を買ってきてくれないか。こう、羊皮紙が入るサイズの……」

 

「分かった。ネフは、必要な物はないのか?」

 

「……君に頼むことはない。あとで自分で行く」

 

 セラフィは了解を告げた。

 狩人が思い出したようにポケットを探った。

 

「あ。これはレッドゼリーだ。瞳のヒモでもなくて……ええと……ああ、これこれ」

 

 狩人は懐から手記を取り出すと紙片をセラフィに渡した。

 

「テルミからの要望を預かっていた。グリンゴッツ銀行の開設だ。銀行に口座があったほうがいろいろと都合が良いらしい。四人分開設するのは手間だから、代表としてコーラス=B家として開設してほしい。手続きが円滑に進むのならば、代理人としてコッペリアが手続きしてくれ」

 

「任されたとも! ああ、それと例の件、僕も探してみていいかな?」

 

「……そうだな。魔法界で探すという手があったか。ふむ。いいだろう。めぼしいものがあれば頼む」

 

 ──例の件とは何だろうか。

 クルックスが質問しないところを見ると彼は知っているのだろうか。

 セラフィが、懐中時計を確認した。現在の時刻は午前十時だ。

 

「コッペリア様、お手を拝借」

 

「ありがとう。夢を見る狩人って便利だよねぇ。──じゃあね、狩人君! お先に失礼!」

 

「気をつけてな」

 

 狩人とクルックスが手を振る。

 セラフィとコッペリアの姿がすっかり消えた後で。

 

「あの姿、目立つのでは?」

 

 セラフィは貴族の狩人服だ。これは、やや華美である。

 コッペリアは聖歌隊の白装束と目隠し帽子を着けていったが、これは魔法界においてどんな扱いになるのか分からない。マグルの変わった服だろうか。そんな疑問を口にしてみた。すると。

 

「あっ」

 

「あっ」

 

 そっくりの顔で狩人とクルックスは顔を見合わせた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 彼の名前は、コッペリア。

 ビルゲンワースの学徒にして、聖歌隊を除名された医療者である。

 ヤーナムの民らしく姓は存在しない。

 イギリス魔法界の風習にならい強いて名乗るのならば、コッペリア・コーラス=ビルゲンワースとなるだろう。

 

 いずれ月の香りの狩人と呼ばれる失名の青年がヤーナムを訪れる以前、コッペリアはビルゲンワースに存在していた。しかし『いつの間にか』としか形容ができないほど脈絡なく、唐突に彼は姿を消した。

 果たして彼は生きていたのか。死んでいたのか。

 コッペリアは自らの顛末を語らず、ユリエも黙していることから、月の香りの狩人とその仔らには『碌な最期は遂げなかったのだろう』と思われている。

 彼と最も親しく、可愛がられているクルックスでさえ彼の生死について深く問いただそうとはしない。

 

 ともあれコッペリアは、ヤーナムが夢を見始めて間もなくビルゲンワースに還ってきた。

 そして、上位者に見えて瞳を願った。

 かつて聖歌隊に所属していた身でありながら、その姿勢は袂を分かったハズのビルゲンワース的であり、対局に位置するメンシス学派的行動であったと言える。

 

 聖歌隊を除隊された理由は、動機にある。

 

 ──血の医療は頭打ちだ。行き着いた先は、左回りの変態。異形の星の子か? 奇形の星海からの使者か? どちらであれ、くだらない。

 ──神の墓地を荒らす教会の墓暴き達が、たった今! 神秘の礎たる次の上位者に見えなければ、血の医療の最終答案とは『人間が左回りの変態が可能である』という程度のハナシだ。

 ──星の娘と共に星の徴を見つける我らの道は、間違いではないのだろう。それはウィレーム学長から続く正しき探索の道だ。

 ──しかし、遅すぎる!

 ──そして、僕には絶対に間に合わないのだ! 僕の体は、君たちのように次の世代を作れないのだからね!

 ──我ら聖歌の鐘音は、遂に次元を越えることは叶わなかった。ならば、役立たずはお役御免なのさ!

 ──声変わりしたカストラートなんて肉球のない猫! 牙の無い狼! メスの無い医療者! ここに至って新たな神秘に見えなければ、生きている価値が無い!

 ──さらばだよ。妬ましき我がきょうだい達。そして呪わしき我らに血の加護があらんことを!

 

 彼は、聖堂街上層を去った。

 そして、今。

 イギリス魔法界、ダイアゴン横町の裏路地に存在した。

 

「さぁ、来たぞ。イギリス魔法界。ダイアゴン横町さ! いやー、ヤーナムの『ヤ』の字も知らない人々がいるとは……! 僕は、ちょっと感動しているよ」

 

「なぜ?」

 

「ヤーナムの医療者は、どいつもこいつもヤーナムが医療の最先端だと思っているからね。世界が広くて深いってことが嬉しいのさ。僕はヤーナムから出たことがなかったからね」

 

「…………」

 

「道案内をしてくれ、セラフィ。まずは銀行とやらに行こうじゃあないか!」

 

 ぐいぐいとセラフィの背を押す。

 コッペリアは、楽しげだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 セラフィ・ナイトとコッペリア・コーラス=ビルゲンワース。

 彼らは、狩人の仔らと学徒の組み合わせのうち、最も問題が無さそうに見えて実のところ大きな問題を抱えている一組であった。

 二人とも周囲に頓着しないからである。

 また、セラフィはコッペリアに対し、お目付役として機能しないからである。

 

 さて。

 聖歌隊にはカインハーストの血を引く者が存在する。

 いかな奇縁か。

 現在、ビルゲンワースに存在する学徒なりし聖歌隊の二人はカインハーストの血をわずかながら引いている。そして、セラフィはカインハーストの従僕である。その強すぎる帰属意識のためカインハーストの血を引く者には、よく従う性質を持ち合わせていた。

 

 グリンゴッツ銀行の開設を速やかに終えた彼らは、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店に向かっていた。昼食を摂る間も惜しいコッペリアが、特に書籍を欲したためである。

 通りすがりの耳目を彼らはよく集めた。

 クルックスであれば群衆に馴染めないことを自覚し最初から地味な服装をするだろう。ネフライトでさえ道端で祈るようなことはしない。テルミは地元住民かのごとく振る舞えるだろう。だが、セラフィは周囲に向ける注意というものが著しく低かった。カインハーストの女王と連なる彼らを認識の最上に置いた弊害だった。

 彼女の認識上、人間は三種類しか存在しない。

『カインハーストに連なる者』と『月の香りの狩人に連なる者』と『それら以外』である。

 

 セラフィが身にまとう貴族の狩装束は、魔法界においても時代遅れの華美な装束はマグルが嗜む時代劇ドラマの演者のようであった。コッペリアが着こなしている聖歌隊の装束は、ぎりぎり宗教者ということが察せられる。しかし、目隠し帽子は異様だった。そして、魔法界においても長身のコッペリアは、群衆から頭一つほど抜けていた。こればかりは服装に関係がなかった。背が高く、目立つのである。

 唯一、幸いがあるとすれば、セラフィはヤーナムで常に帯びているレイテルパラッシュも落葉も今は衣嚢に収納しており、コッペリアも仕込み杖を手に持っていないことだろう。

 

 フローリシュ・アンド・ブロッツ書店はコッペリアにとって宝の山のようだった。

 騒ぐことこそしなかったが、声にならない声で「~っ! ~っ!」とセラフィと書店を交互に見ていた。彼の興奮は極まっていた。 

 天井までギッシリと詰まった本棚を物色するコッペリアの後に続くセラフィは、左肩のマントがいくつかの本を崩しそうになっていることに気付いた。

 サッとマントを払う。

 ふと視線を感じて壁を見ると広告が貼り付けてあった。それは、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店の上階の窓に掛かった大きな横断幕と同じ文言である。

 

  サイン会

  ギルデロイ・ロックハート

  自伝「私はマジックだ」

 

 ぼんやりと文字を見る。

 セラフィは数週間後にホグワーツ魔法魔術学校で当の本人と出会うのだが、その頃にはすっかり彼の存在を忘れていた。

『きょうだい』であるネフライトは記憶に関して凄まじい能力を発揮することがあるが、セラフィは自分に関係する特定のものしか覚えていられない性質でもあった。

 

「ああ、これ全集だって。面白いね。そっかぁ。ここからここまで買ってしまおうねぇ」

 

「分かりました」

 

「あ、こっちは詩集だよ。はあぁぁ。文学は良い。心が豊かになる。狩人君の情操教育のために買っておこうねぇ」

 

「分かりました」

 

「わわっ。譜面まである。ユリエにソプラノを歌ってもらおうねぇ。きっと素敵な子守歌になるだろう。おっふ。面白い曲作りをするなぁ……!」

 

「分かりました」

 

 カインハーストの末裔が望むのならばセラフィは『きょうだい』の共有資産を湯水のように使うことに何の抵抗も無かった。せいぜい「後で充当分を魔法界の通貨であるガリオン金貨に換金しておこう」と思う程度であった。

 もしもテルミが見れば、複雑な顔をしただろう。

 この調子でフローリシュ・アンド・ブロッツ書店の本棚のいくつかを空にしたコッペリアは、ご満悦だった。

 

「僕、宵越しの本を持ったことがなかったのだけど……今日は……ふふふふっ夜更かししてしまおうか……!」

 

「知恵は貴人にとってこの上ない享楽なのでしょう。僕には、よく分からないけれど。どうかご自愛ください。コッペリア様。貴方の不調はクルックスが悲しみます」

 

 セラフィは、購入した本を全て衣嚢に収めた。

 ビルゲンワースに戻ったら一室は本で埋まることは確実だった。

 コッペリアは、目隠し帽子を被っていても分かる上機嫌だ。

 先ほどからしまらない笑みを浮かべている。

 

「気をつけるとしよう。うふふふ……! あぁ、そうだ。お昼がまだだったね。どこかいいところ知っているかい?」

 

「昨年、クルックス達と行った喫茶があります。軽食ならばそこで」

 

「よし、行こう。すぐ行こう。例の件の買い物もしてみたいからね」

 

 ──例の件。

 ネフライトが疑問に思ったことは、もちろんセラフィも気がかりにしていた。

 

 ダイアゴン横町の雑踏を抜け、フロッグという喫茶店でようやく席を得た。

 注文するためには何事か話さなければならない。そのことにセラフィが気付く頃、コッペリアが気を回してくれた。

 店員に「お腹が空いていてね、おすすめを頼むよ」と二人分の注文をし終えた。

 

「なるほど。そのように注文すれば良いのか。勉強になる」

 

「食べるものが決まっているのなら、メニュー表を見ればいいだろうさ。──と言いたいところだけど、君はヤーナムでも店に入ったことがないのかぁ」

 

「我々は教会の仇。お尋ね者なのであるから。……しかし、かつては先達が遊びに行っていたとも聞きました」

 

「ああ、そうだろうね。カインハーストと言ってもピンキリだったんだろう。貴族として羽振りの良い生活ができる者ばかりではない。男ならば、従僕くずれもいるだろう。女ならば市井に身を窶すのも悪いハナシではない。カインの女性、特に血の濃い者とは、すれ違うだけでハッとさせられる甘さが漂うものだ。うーん、モテるだろうね~」

 

 ──だからこそ、娼婦としての使い道もあったのだ。

 コッペリアはうっそり笑う。セラフィは察しなかった。

 

「そのようで。僕はカインハースト系の顔と言われているが、本当にカインの血を引いているワケではない」

 

「そりゃあね。君のママとパパは、狩人君だ」

 

「いつか『本物』に見えたいものです。先達の血もたしかに熱く、甘い。これ以上があるのか。僕は興味がある」

 

 にんまりとコッペリアは笑った。

 ──何か?

 問いただす前に彼は口を開いた。テーブルに腕を乗せ、身を乗り出した。

 

「そんな君に朗報だ。狩人君と話していた例の件でね。──まぁ、学者らしく結論から述べれば『空白の聖杯』を欲しているのさ」

 

「空白の、聖杯?」

 

 聞き慣れない単語と聞き慣れた単語の組み合わせは、セラフィを困惑させた。

 

「狩人君は、君たちにいろいろと教えたいと思っている。でも、言葉での伝達では不都合が多いと考えているようだ。そこで聖杯だ」

 

「……どこの悪夢に繋げようとしているのですか?」

 

「良い着眼点だ。けれど悪夢に往くための聖杯ではない。だからこそ、素材の選定が難しいのだよ。彼が作ろうとしている聖杯は、悪夢を形作るモノではなく、彼の記憶を再現したモノであるからね」

 

「…………」

 

 もしも、血を介して彼の記憶を見ることが出来るのならば追体験となる。

 これ以上ないと思える伝達の方法だ。しかし、前例はない。

 コッペリアは、やりがいのある仕事だと感じているようだった。

 

「触媒は狩人君の血と決まっている。これは決定事項だ。というかそれがないとハナシが始まらないからね。だから、問題は聖杯。その器となるモノなのさ」

 

「ただの聖杯に血を注いでも、意味がない……? 器そのものが、特別なモノでなければ……。……ふむ。コッペリア様、僕よりネフに聞くべき事柄だ」

 

 彼は口の端をヒクリと震わせた。

 

「そりゃあ分かっているさ。でも、メンシス学派を頼りたくないんだよ」

 

「僕から聞いておこうか?」

 

「いいや、そのうち狩人君が話すだろうさ。でもまあ、見てなよ。今日中にそれらしいものを見つけてやるさ。──魔法界に『記憶を再現する器』なんてモノがあったら放っておかないからね」

 

 コッペリアは、運ばれてきたパンケーキを前に手慣れたナイフを握った。

 

「そうそう。昼食を食べ終えたら、あっちの通りにも行ってみようか。ノクターン横町だってさ! ちょっと治安が悪そうなだけで大袈裟な名前じゃあないか!」

 

「お心のままに」

 

 セラフィは、一度だけ通りの向こうを見た。

 毒蝋燭の店の軒先に掛かった木の看板が『夜の闇横町』と古ぼけた名を示していた。

 

 

 




コッペリアが、コッペリアであり、コッペリウスではない理由:
脳に瞳を得る手法もさまざまなことが試され、ほぼ全てが失敗に終わった。音による上位者との交感実験もその一つだった。(メンシスのダミアーン『悪夢からの使者』より)

 コッペリアは、音による交感実験のため『少年の出す少女の美しい声』を望まれた。たとえ血族の血を引くとしても男性機能は求められず、女性でなければならなかった。そのために施された幼少期の教育は、彼の心身を歪めてしまった。
 また、カストラートならば変声期が訪れない──そんなことはなかった。
 実験の材料にもなりきれず、後継を遺すこともできなくなった彼が、それでも聖歌隊に留まる道とは神秘の探究しかなかった。それも限界が訪れる。星からの徴を探すため祈りを捧げる。素晴らしい。実にビルゲンワース、ウィレーム学長より続く思索探究の道だ。正しいのかもしれない。……それでも僕は、遠慮しよう。
 彼は月へ祈った。陰の太陽たる月へ祈りを捧げた。その祈りがどこへ届くか考えもしなかったのだ。



 コッペリアは、あまり認めたくないので口に出さないが「星海からの使者って上位者なんだよなぁ」と思っている。(トロフィー情報)


 Bloodborne DLCで聖歌隊を出してくれよ。
 勝利ボイスでクスクスと嗤って死体蹴する聖歌隊しか得られない啓蒙がそこにはある。

ピグマリオンの言葉:
ほとんどの教会の黒服は上層のことを知りません。……『聖歌隊』という名前すら知らない黒服も少なくないでしょう。けれど何者かによって秘匿されているのではありません。外に漏れないほど彼ら自身が秘し、情報が漏れ出さないだけなのです。私の記憶が正しければ、一度だけ、聖歌隊の人物とすれ違ったことがあります。うなじから思わず振り返りたくなるほど甘い香りがしました。微かに、ですが、目を見開く香りがあったものです。私は辛うじて耐えきれましたが、素早く振り返ってしまった同期は、声をかけられて帰ってきませんでした。ところで世には香で虫を引き寄せて食べてしまう花があるのだとか。ああ、関係のない話をして申し訳ありません……。


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聖杯探索(下)

ガリオン金貨
魔法界に広く流通している通貨。
硬貨はヤーナムにおいて道標に過ぎないものだったが、ひとまず夜は明け、貯められた硬貨は日の目を見、輝いた。月の香りの狩人の仔らは、ガリオン金貨にも等しく価値を見出すだろう。
……大切に使うことだ……



 イギリス魔法界に『世渡り上手』は多い。

 

 代表的な一族としてマルフォイ家は、五本の指に入るだろう。

 そして魔法界の中枢にいる者ならば、まっさきにその名を上げる点でも代表格だ。

 

 時には、自分自身、そして家までも駒にして常に時勢の優位に立ち回り続けている。

 血を枯らし、才を薄れさせる一族も多いなか、かの家は成功を収め続けていると言える。

 

 もし、この一族の玉に瑕があるとすれば『世渡り上手ゆえに己の才覚以上の地位を得てしまう』ことだ。とはいえ、家を傾ける危機にはなったことはなかった。時の権力者とのコネクションは、いつでも身を救うものだった。

 成果に紐付けられた不幸に出くわしながらも時代の荒波を乗りこなし、影の権力者として杖を振り続けた。一族の才覚には歴史に裏打ちされたモノが、たしかに存在する。

 

 当代、ルシウス・マルフォイも、虱ったかりのマグル贔屓ことアーサー・ウィーズリーを小うるさいと思っている以外には概ね順風満帆といえる人生を謳歌している。マルフォイ家の才覚は彼にも受け継がれ、目には光るものが存在している。──ひとまず、今は。

 そんな彼が息子のドラコと共にノクターン横町を歩いているのは、所用のためだ。

 

「──先にこちらを片付けてからだ。それから教科書を買いに行く」

 

「書店に行くのは早いほうが良いよ。あのバカげたロックハートのサイン会があるんだ」

 

「ドラコ、たしかにあの男はバカげているように見える。実際そうなのだろうが。人の心を集めている。おおっぴらにするものではない。言わずとも分かるだろう」

 

 マルフォイ家が目立つのは、まったく本意ではない。

 たしなめるように言い聞かせるとドラコは黙ったが、内心は穏やかではないようだった。

 ドラコ・マルフォイは、特別に目立ちたがり──ではない。人並みの自己顕示欲と承認欲求があるだけなのだ。

 

 お目当てのボージン・アンド・バークスの通りまで行くと先客が店の前にいた。

 暗幕のかかるショーケースを見ている。

 

「──面白い街だねぇ。さっきすれ違った女性を見たかい? 生爪だってさ。まるで魔女のようじゃあないか」

 

「──魔女です」

 

「──そう! まさしく魔女的、いや魔女だ。僕、感動しちゃったよ。──ん?」

 

 そこにいたのは、真っ白なローブに黒の聖布を巻いた長身の仮面男と時代遅れのトリコーンを被った少女だった。

 この時点では素通りできる雰囲気だったが、ルシウスの隣に立つドラコが「あ」と声を漏らした。

 

「む。ドラコ・マルフォイか」

 

 少女は目深に被った帽子をわずかにズラした。

 猫のような琥珀色の瞳が、ルシウスとドラコの間を往来した。

 

「ああ、そうか。では、こちらが君のお父様か。お話はかねがね。──僕はセラフィ・ナイト。ご子息のドラコさんとは共にスリザリンで学ばせていただいている。僕は世事に疎いので彼の話を聞くのがいつも楽しみなのだ」

 

 少女、セラフィ・ナイトは左手を胸に抱える見慣れぬ礼をした。

 ドラコがじろじろと彼女の隣に立つ人物を見た。

 

「──君の父上かい?」

 

「こちらは親戚のお兄様だ」

 

「はじめまして。ドラコお坊ちゃん。僕はコッペリア・コーラス=Bだよ。セラフィとご学友でいてくれてありがとうねぇ」

 

 ルシウスは、これまでの人生でさまざまな人との交流がある。

 だが、視線を隠す帽子を被っている人物との会話は初めてであった。

 薄い笑みを浮かべるコッペリアは、従容と身を傾げるような礼をした。

 

「父君にもご挨拶をば。マルフォイ氏はホグワーツの理事をお勤めと聞いている。……学年末の出来事には、スリザリンから多くの声が寄せられたのではないかと思う。特に上級生の心中は、本当に胸が痛むことですよ」

 

 彼は本当に辛そうに顔を顰め、肩をすくめた。

 

「──ダンブルドア校長とやらが土壇場で順位をひっくり返すなんて、聞くほどお人柄がよろしくないようで」

 

 これまで異様な人だと警戒していたドラコが尖った顎を上げて彼を見た。

 ルシウスもすこしばかり顎を上げた。コッペリアは背が高いのだ。

 

「僕としては学生の努力を無碍にする事態は、避けるべきだと思うのですがね。あぁ、理事会でもやはり議題に上がるのでしょうか? ──校長が特定の生徒を贔屓することについて」

 

「……学校の新しい秩序について、理事会ではよく検討されているとも。ご心配には及ばない」

 

「ああ、それは実に結構な話です。僕は父兄の立場でもある。こどもの成長には、いっとう気を遣いたいところでね。幼い子供達が、誤った大人の偏った思想の下で不健全な学びをしているのでは、と不安に思っていた。貴公のような人柄が理事にいらっしゃるのであれば、心強いことです。ええ。心強い」

 

 セラフィは静かにコッペリアを見守っていたが、会話が途切れたので口を挟んだ。

 

「──コッペリア様、マルフォイ氏はご用事がある様子。お話は次の機会に」

 

「おぉ、失敬。遠方の田舎者ゆえご無礼をお許しください。……ああ、そうそう。無礼ついでに、ひとつお願いしたいこともある」

 

「あー、なにかな?」

 

 手短にやり過ごそうとしたところ、コッペリアが一歩踏み出した。

 ルシウスが後ずさりそうになる。思いがけないほど近くにコッペリアの顔があった。

 視線の探れない顔で彼は言った。

 

「いやなに、ちょっとした探し物をしてましてね。記憶を留める。そう、いま貴公が懐にお持ちの『日記』のような。どうか見せてくれないかな? それがどうやって作られたのか。僕は、とても興味があるのだ」

 

「日記? 何のことかね?」

 

 ルシウスは、両手を軽く広げて袖にも懐にも何も隠していないことを証明した。

 セラフィの目から見ても物理的には存在しないように見える。ただし魔法を使えば別であろうとも思えた。

 とはいえ、両者とも争いごとにしたくなかった。

 

「コッペリア様」

 

 制するようにセラフィは彼の名を呼んだ。彼は、訝しげに首を傾げた。

 

「おや? 見間違えたかな? 今日は『瞳』の調子がよろしくない。うーん、後先を違えてしまったかも。……平にご容赦くださいな。僕らが求める物を貴方が持っているような気がしたのだが……気のせいだったようだ」

 

「ほう。探し物とは何でしょうかね。まして記憶など。ははは、こんなところにあるとは思えないが」

 

「ええ、お時間、少々よろしいかな?」

 

 ルシウスは頷く。

 闇の帝王より賜った物──学用品、それはまさしく日記帳だ──をルシウスは持ち歩いている。魔法省の抜き打ち検査が行われている昨今、屋敷に置いておくのは不安があったからだ。そして念のために持ち出した。

 だが、それに勘付いた者が目の前にいる。しかも用途である『日記帳』まで言い当てて見せた。すぐに勘違いだと思い直したようだが。

 彼が何を求めて何と見間違えたのか。確かめる必要があった。

 柔らかく問いただすとセラフィが応えた。 

 

「僕らは、記憶を保持するものを探しているのです。あるいは、再現するものを。……。非魔法族には、そのような物が存在しなかった。では、魔法界にはあるだろうか。そう考えてさまざまな店舗を巡っているところなのです。今のところ成果はないのですが……。名高いマルフォイ氏ならばご存じでしょうか? もし、ご存じであれば教えていただきたい。持っているのであれば譲っていただきたい。──無論、対価はそれなりに用意させていただく」

 

 ドラコが閃いた顔でルシウスを見上げた。

 顔に感情が出過ぎる息子を押さえつけるような視線で黙らせる。

 そして、述べた。

 

「ああ、知っているとも。──『憂いの篩』を聞いたことがあるかな?」

 

 憂いの篩とは、石やガラスで作られた浅い皿あるいは盆だ。

 使用者の記憶を再現する機能がある。永く人の記憶を留めることができるのだ。

 それを説明するとセラフィは感心したように「ほぅ」と声を漏らした。

 コッペリアは、うずうずと忙しなく身を揺すった。

 

「ど、どこで手には入るかなぁぁ、そそそ、それ、すごく欲しいなぁ」

 

「ああ、ちょうどいい。馴染みの店は……あー……古物商をしていてね。掘り出し物に目が届く。今すぐは無理だろうが、いつか入手できるだろう。頼んでみる価値はあると思うがね」

 

「ぜひ頼みたいところだ。して、その店はいずこに?」

 

 くるり。

 ルシウスは手にしたステッキを店に向けた。

『ボージン・アンド・バークス』

 隣で誇らしげなドラコが、にんまりと笑った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 ハリー・ポッター。

 親友、ロン・ウィーズリーと兄弟による劇的な救出劇を経てハリーは、夏休みの後半をウィーズリー家に泊まっていた。そして、教科書を買うために彼は初めて煙突飛行を試みたのである。しかし、初めての煙突飛行は失敗に終わったらしい。暖炉の熱い煤の粉を吸い込んだ口には、ざりざりと不快な感覚があった。

 

「うぅぅ……」

 

 眼鏡が壊れてしまった。ぐらぐらするブリッジをなんとか鼻に乗せることに成功し、ハリーは周囲を見回した。

 マグル育ちのハリーにでもわかる、明らかに闇の魔術の物と思しき魔法道具、また人骨が積み上げられた部屋の一角を見た。

 煤とヤニで汚れた窓から見える薄暗い通路は、ダイアゴン横丁には見えない。

 

 とんでもないところに来てしまった。

 今すぐにでもここを出たほうがいい。

 

 出口に向かおうとしたところ、汚れたガラス戸にいくつかの人影が見えた。

 慌てて身を隠す場所を探す。大きな黒いキャビネット棚を見つけた。彼は慌てて中に飛びこんだ。

 次の瞬間、ガラガラとベルが鳴り、目隠し帽子を被った白装束の男が入ってきた。

 

「やぁやぁ、どうもどうも」

 

 続けて入って来た人には見覚えがあった。

 銀色の長髪を結わえた三角帽子。スリザリンのセラフィ・ナイトだ。彼女は扉に取りつけられている、来客を知らせる鐘が気になっているようだ。琥珀色の瞳は扉の上部につり下がった鐘に釘付けになっている。

 

「入らないのか?」

 

「鐘の音というものに、僕は敏感なのだ」

 

 ややあって入ってきた。彼女の後ろにいる少年にハリーはギョッとした。最も会いたくない人物、ドラコ・マルフォイだった。最後に入ってきたのはドラコによく似た尖った顎、冷たい灰色の目、うり二つの面差しは父親に違いない。

 セラフィが店を見回しているとドラコがあれこれと商品について話を始めた。得意げな顔をしている。

 

「それにしても、君のお兄様は分かっているよ。ハリー・ポッター。依怙贔屓だって皆言っている」

 

「教育に一家言ある御方なのだ。気になってしまうのだろう。しかし……フフフ、僕にはスネイプ先生が君を可愛がっている程度の話だと思うけれどね。先生はずいぶん君に心を砕いているように見える。仲がよいのだね」

 

 ハリーを庇い立てする言葉らしく聞こえるが、彼女の声色はくすぐるような響きがあった。背中を向けているので彼女の目は分からないが、きっと対岸の火事を高層ビルから眺める目をしているとハリーは思った。

 

「校長と先生じゃ立場が違うだろ。学年末の大逆転なんて酷いものだった。上級生が泣いていたのを見ただろう?」

 

「ああ、驚きだった」

 

「もしも、クィレルをスリザリンの誰かがやっつけていたら加点したと思うかい? 思わないね。ハリー・ポッターだから加点されたんだ」

 

「さて、どうだろうね。けれど、あんなものが認められるのならば、次は三〇〇点ほど稼いでおかなければならないだろう。……僕は野心の欠片も持っていないが、スリザリンに配された以上は本気を出してしまおうか。もちろん、君がスネイプ先生から点数を搾り取るほうが簡単かもしれないけれど」

 

「先生に頼らなくたって僕はやれる」

 

「期待しているよ。……おや」

 

 セラフィが、ドラコを見てニコリと微笑んだようだった。ドラコは白い顔だったので、彼の耳の先まで真っ赤になるのがよく見えた。

 セラフィが店の奥から聞こえてくる足音に気付き、白装束をまとう男の隣に立った。

 店主は猫背の脂っこい髪を撫でつけてカウンターの向こうに現れた。

 

「マルフォイ様、ご足労いただきまして……うれしゅうございます。はて、ご友人の御方ですかな?」

 

「そんなところだ。ボージン君、私は売りに来たのだが……彼は遙々遠方から買いに来た。恐らく君のルートでなければ手に入りにくい物だろう。ぜひ相談に乗ってくれたまえよ」

 

 紹介を受け、薄く笑みを貼り付けたように浮かべるその人は、第一声。

 

「やあ、初めまして!」

 

 闇の気配がひしめく店内にそぐわない明るい声で挨拶した。

 

「僕はコッペリア・コーラス=B。東方で声楽の講師をしている者だ。マルフォイ氏から貴方は仕入れに関して目利きと伺っているよ。ぜひ、相談に乗ってほしいことがあるんだ。セラフィ」

 

 躾の良い犬のように控えていたセラフィがカウンターに革袋を置いた。

 

「これは、前金だ。ささやかだがね。……僕の数え間違いでなければ一〇〇ガリオンある。そして、こちら契約書だ。受け取ってくれるかな?」

 

 ボージンは、咄嗟に手を伸ばしそうになったが、寸でのところで手を止めた。そしてカウンターの汚れが気になったから手を伸ばしたのだ、とでも言いたげにカウンターの煤を抓んだ。店主の視線は忙しなく、コッペリアとマルフォイ氏、そしてセラフィを行き来した。

 

「アー、先に、ご用件を伺ってよろしいですかな、先に」

 

「おっと失礼。たしかに品物が分からないのに前金もないよな。僕らは────を探している」

 

 ハリーには肝心の言葉が聞こえなかったが、ボージン氏には分かったらしい。

 

「正確には、記憶を留めるモノを探しているのだが今のところ条件に一致しているものが────だからね」

 

 肝心の名称になると彼は声をひそめた。

 カウンターに腕を預け、ボージン氏の目を覗くように彼は顔を動かした。

 ボージン氏は、考え事をするように「ふぅむ」と唸り、前金を引き寄せた。

 

「心当たりは……ある。だが、そうそう出回る物でもないので……ミスター・コーラス、とてもお時間をいただくことになるでしょう」

 

「あぁ、構わないよ。五〇年程度ならば待とう。……ええと、本当は五年以内が好ましいんだけど」

 

 鋭い目を向けたセラフィに気付き、コッペリアは訂正した。

 

「そうお時間はかけませんよ……。して、納品時は本当にこの額を?」

 

 ボージン氏は、契約書にちらと目を通した。

 

「ああ。品物さえ納めてくれるのならばいいよ。詐欺、強盗、殺人──まぁいろいろあるだろう。手段は問わない。成果を示したまえ! ……ところでガリオン金貨さぁ、次は五〇〇だろう。重くて持ち歩くのが大変だから振り込みは君の銀行直通にしてもいいかな?」

 

「現金でお願いします。その方がアシがつきませんので」

 

「ああそう? 分かった。仕方ないね。では、品物の準備が整ったら、ホグワーツのセラフィ・ナイト宛てに手紙を送ってくれ。現物を確かめた後に金を渡すよ」

 

「……ひとつ、確認を」

 

 ボージン氏は、契約書に名前を書こうとしたその時、手を止めた。

 このまま自分に有利の交渉を進めてもいいが、多額が動く以上、誠意を見せるべきか迷っているような目だった。

 

「例のそれは、前の使用者の記憶が残ったままの物、いわゆる中古品が出回ることがあるのですよ。性質上、親族も処理に困ったものの、適切に処理する前に手放した、とかで。……新品と中古、どちらが都合よろしいので?」

 

「ふむ。そういう問題もあるのかぁ。……貴き剣の君、どちらがいいだろう?」

 

 問いかけた先はセラフィだ。数秒の逡巡なく彼女は答えた。

 

「手つかずのものが好ましい。しかし、中身を駆逐してしまえば新品同様になるのならば、中古でも気にしないだろう」

 

「やっぱりそうだよね。ふむ。ではこうしよう。ボージン氏、できれば中古と新品、二つのルートから探してほしい」

 

 コッペリアがピースするように二本の指を立てた。

 

「前金だ」

 

 セラフィが二つ目の革袋をカウンターに置いた。

 ボージン氏は『してやったり』の顔をしたが、すぐに顔をあらためた。汗でテカつく額は隠しきれていなかった。

 

「は、ははあ。急ぎます」

 

 彼はその後、契約書にサインをした。

 羊皮紙をくるくるとまとめたコッペリアは上機嫌に「ありがとう!」とお礼を言い、握手を求めた。

 そして。

 

「前金を受け取った以上、僕らをくれぐれも客として扱うことだよ。……君に『手段を選ぶな』と告げる僕らは、当然、手段を選ばないのだからね」

 

 凄味のある低い声でコッペリアは言い放った。

 杖を突きつけられたようにボージン氏は顔を強張らせた。

 

「ま、またのご利用をお待ちしてます……」

 

「ありがとう! ちょっと見つけにくいモノがあったら利用させてもらうよ。ああ、こども達が依頼することもあるかも。その時もよろしくね! そして、マルフォイ氏! 素晴らしいお店を紹介してくれてありがとう! とても助かりました!」

 

「……。ああ、ボージン君はいつも最高の仕事をしてくれる。大いに期待して良いと思うよ。……ミス・ナイト。ホグワーツではドラコとよく学んでくれたまえ」

 

「お気遣いありがとうございます。僕からもお願い申し上げます。では、ドラコ。学校で会える日を楽しみにしている」

 

 二人は揃って店を出た。

 その後で。

 

「あの白い旦那は、マルフォイ様の……?」

 

 友人なのかどうか確かめようとするボージン氏に、マルフォイ氏は答えなかった。

 しかし。

 

「彼は、この辺りのことに詳しくない。だから、どこの店に入ろうか迷っていたようなのだが……偶然、そこで出会ってね。それにあの娘はドラコと親友だ。助けないわけにはいかないだろう?」

 

「それはもちろん。もちろんでございます。旦那様」

 

 マルフォイ氏は、口の端で得意げに笑った。

 暗に『上客を紹介してやった』と言いたげなのは明白だった。そして便宜をはかったことで次に行う自分の取引を優位に進めたいと思っているようだった。実際のところ、彼に有利に進んだ。

 だが、多少の不利を呑み込むボージン氏は脂っこい顔でニコニコしていた。たんまりもらった前金の威力は覿面だ。

 ホクホクしているボージン氏はマルフォイ氏の『いわくつきの物品』を買い取る商談を手早くまとめた。一刻も早く金貨を数え直したいと思っているように見えた。

 

 すっかり話が終わるとボージン氏はカウンターから出てきた。不出来なドアマンのように腰を低くしてペコペコと頭を下げた。

 

「本日は、新しいお客様をご紹介いただけて、ええ、ええ、ありがとうございます。けれど旦那様も勿論! 昔からのお客様でありますから、今後も何事か売買のお話があれば、ぜひお勉強させていただいて……」

 

「ああ、頼りにしている。ではボージン君。明日、館のほうに物を取りに来てくれるだろうね」

 

「はっ。午前中に伺わせていただきます」

 

 マルフォイ氏は、ドラコに一言声をかけると店を引き上げた。

 

「ヒヒッ……」

 

 ボージン氏は、マルフォイ氏から受け取ったリストを抱えて店の奥に引っ込んだ。

 

 闇の物品に関わる取引を見てしまった。

 ハリーの頭に漠然とそんな言葉が思い浮かんだ。

 ボージン氏の物音がしなくなった頃、ハリーはキャビネット棚から抜けだし店の外に出た。

 

 

 それから、偶然通りがかったハグリッドに窮地を救われたハリーがウィーズリー一家と、もう一人の親友ハーマイオニー・グレンジャーに出会ったのはボージン・アンド・バークスから十分経った後だった。その間が、ひどく長い時間に感じたことは言うまでもない。

 ハグリッドにお礼を言い、別れるとさっき店で見たことをロンとハーマイオニーに話すべきだと思えた。

 グリンゴッツ銀行の階段を昇りながら言った。

 

「『ボージン・アンド・バークス』で誰に会ったと思う? マルフォイと父親、そしてナイトだった」

 

「ナイトって、あのナイト?」

 

 ロンが、彼女の被る帽子を揶揄するようにトンガリを真似した。

 ハリーが頷くのもそこそこにウィーズリーおじさんが問いかけた。

 

「──ルシウス・マルフォイは、何か買ったのかね?」

 

「いいえ、売っていました」

 

「ははは。やはり心配になったワケだ。しかし、ナイトとは? 聞いたことがないな」

 

「スリザリンのセラフィ・ナイト。すごく田舎の出身だって同郷のハントは言っていたけど。でも一緒にいたのはハッフルパフのコーラス=Bのお兄さんです。その人は、買う約束をして、ナイトに大金を出させていました。数え間違いでなければ二〇〇ガリオンだって」

 

 ──二〇〇ガリオン!

 金額にウィーズリーおじさんは驚いて目を見開き、金額に驚いたウィーズリーおばさんまでもが振り返った。

 ロンが金額に目を輝かせた。ハリーが重要な取引現場を見たと思っているようだった。

 

「去年のクリスマス覚えている? ハントもナイトもコーラス=Bも親戚だって言っていただろ。だから一緒にいるのは怪しくないけど、それにしても二〇〇ガリオンなんて! あいつ、何を買おうとしていたんだろう?」

 

「分からないけど、たぶん入手がすごく難しいものなんだと思う。わざわざ新品と中古を頼んだし店主に『手段は問わない』って言っていたし……」

 

「そんな! ただの珍しい物かもしれないじゃない……」

 

 ハーマイオニーが擁護するのは彼らと同郷のクルックス・ハントまで話が及びそうになっているからだ。しかし、声には威勢がない。

 

「でも、ハーマイオニー、よく考えてみてよ。あいつら、ホグワーツで刃物を持ち出すし銃を向けるちょっと、いや、だいぶ頭がおかしい奴らじゃないか。そんな彼らが今さら宝石だとかユニコーンの角とか、欲しがると思う?」

 

「そ、それは、でも、あの時は緊急事態だったでしょ! フェアな話じゃないわ!」

 

 ウィーズリーおじさんが仰天しているのを見てハーマイオニーは素早く反論した。

 

「──気をつけることだよ。危ない物には近づかないように。人にもね。自分から厄介ごとに突っ込んでいくことはない」

 

「あなたも。首を突っ込みすぎて火傷なさらないように!」

 

 厳しい声が飛んだ。

 ウィーズリーおばさんが、心配そうにウィーズリーおじさんを見つめた。

 

「なんだい、モリー! 私がルシウス・マルフォイに敵わないとでも?」

 

 挑戦的にウィーズリーおじさんは笑った。

 この後、まさか件のルシウス・マルフォイと彼が乱闘になるとは、誰も思わなかったことだろう。

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「いやー、楽しい買い物だった! 実になる買い物だったとも!」

 

 ビルゲンワースの一室には、大量の本が積み上げられていた。

 ユリエは、自身の仮眠中に勝手に外出したコッペリアに対し、怒り心頭で待ち構えていたが、その大量の本を見た瞬間に「も、もう、これっきりなんだからね? ね? いけない人!」と態度を軟化させた。犠牲になったのは月の香りの狩人と仔らが稼いだ大量のガリオン金貨だけだったのだからコッペリアにとっては安い話──どころか痛くも痒くもない話であった。

 月の香りの狩人は、本の山を漁り日刊預言者新聞の叢書を見つけ出していた。小脇に抱えて椅子に戻ろうとしたとき。色とりどりの薄い本を持ち上げた。

 

「お! これは、世界地図! うわ、スゴい。色付きだ。見ろ、クルックス」

 

「世界って丸いんですね」

 

 コッペリアに頼んでいた本や書類を入れる鞄。新品の金具の調子を確認するため開け閉めしていたクルックスは本を覗き込んだ。

 

「そそ、そそそ、そうだな」

 

「どうして動揺しているんですか、お父様」

 

「悪夢の構造というものは『基本的に』物理法則に逆らいやすい性質なのだが、なかでも球体という形は、悪夢には馴染みにくいものであるらしい。だからこそ、血晶石も円形のものは稀少なのだ。濡血晶など、なかなか手に入れたことがないだろう? 円。球体。どちらも悪夢には不慣れなものだ。……実のところ、ヤーナムが外の世界に繋がる地形になっているのか。俺にはどうも自信がない。そもそも悪夢は階層構造をしているようだし……」

 

「は、はあ。俺にはよく分かりません……。いつか外に歩いて行ってみましょうか? 境もハッキリするかもしれません」

 

「興味深い話だが、俺はやめたほうがいいのだろうな。観ることで定まってしまう事象がある。夢を介してイギリスに行くのとは別の危険性だ。俺がヤーナムの果てを見ることで現在のヤーナムの地理に深刻なエラーが発生しかねない。……ん? 深刻なエラーとは何だ?」

 

「あまり深く考えないほうがよいのかもしれません」

 

「ああ、変な交信を受信した気がする。──ええと、そう、だから全然、大丈夫だぞ。うん。ヤーナムが地図に載っていなくとも俺は落ち込んだりしないからな。むしろ詮索などされては、煩わしいことさ。おや。セラフィ、何か本を買ったのか?」

 

 一冊の文庫本を懐に入れて立ち去ろうとするセラフィは頷いた。

 

「極東文化の本を買いました。僕らカインハーストの騎士が忘れた精神が書いてあるかもしれないので……」

 

「あとで聞かせてくれ。極東とはヤマムラさんの母国だったか、母国の近くの話だろう。……あの人との話、いまだに異文化交流の気味があるんだよな」

 

 ──ケジメだとか、チギリだとか、ハラキリとか。

 難しい概念の話だと狩人は言う。

 セラフィは、マントを翻して歩き出した。

 

「僕はカインハーストに戻ります。お父様、女王様へのお返事はくれぐれもお忘れなきように。それからコッペリア様の領収書を確認したほうがよろしい。できるだけ早いうちに。そのまま僕らからお父様宛の請求書になるのですから。ネフやテルミが来る前がよろしいでしょうね」

 

「? ああ、分かった。ありがとうな」

 

 パタン。

 扉が閉まり、夕暮れの彼方にセラフィは去った。

 狩人は、本を開こうとして──妙な言葉を聞いたと思い、本を閉じた。

 

「ん? なんだ待て、おい、待て待て、領収書が請求書? 請求書って何だ!? 今年はカインハーストの納税だってまだなんだぞ!? ブラドーの黒服君に週一で輸血液も持って行かないといけない用事もあるのに──どこだ、コッペリア! 逃がすな、ユリエ!」

 

 コッペリアが一抱えの本を抱え、抜き足差しで部屋を出ようとしていた。

 ユリエが足止めをすると彼はじりじりと壁際に後退した。

 

「いやー! 楽しい買い物だった! 実になる買い物だったとも! だから景気よくお金使っちゃってさぁ! でもでも! 狩人君の聖杯のアテも見つかったし! 無駄遣いじゃないよ! 僕、除隊されたけど心根は聖歌隊だから、成果は出したよ! なんだよぅ、せ、聖杯探索に出費は付きものじゃあないか?」

 

「……いくら?」

 

「……いくらだ」

 

 コッペリアは部屋の隅に追いやられた。

 ユリエと狩人、そして悲しげな目をしたクルックスに追い詰められて、彼はとうとう観念した。

 

「えっと、これくらい」

 

 彼が懐から取り出した領収書は、本当に束になっていた。

 狩人は「ヒョッ」と変な息を吸い込み、ユリエは呆れた声で同胞の名前を呼んだ。

 

「当分、外出禁止よ」

 

「えーっ」

 

「『えーっ』じゃありません! もっと計画的に! そして事前の相談をちゃんとなさい! 狩人君がカインの納税と併せてお先まっくらな顔をしちゃったでしょう」

 

 コッペリアは渋々「ごめんね」と狩人に謝った。狩人は「いいよ」とかすれた声で言った。

 それから狩人は、とりあえず「クルックス」と名前を呼んだ。

 

「俺も夏休み聖杯漬けが決定した」

 

「全盛り一名追加──と。捗りますね」

 

「捗りまくりだ」

 

 クルックスの手記には、予定が書き込まれた。

 

 




マルフォイ家:
 個人的に『世渡り上手』としてのマルフォイ家が抱える問題とは、冒頭のことが挙げられるのではないかと考察しています。
 やはりコネと権力と金! これらは全てを解決する──!
 今のところ、うまく世間の荒波を乗りこなしているマルフォイ・プロサーファーですが、果たして。


共有財産:
 聖杯で得たものを輝く硬貨に変換して、それをさらにガリオン金貨などに交換しています。財産はネフライトが集計して出納簿を付けていますが、どう考えても出納に記録されていないのに物がある。
 ……どうやらテルミには私有財産とも言えるヘソクリがあるようだ。その額をネフライトは知らない。
 ボージン氏に支払った前金と受取金は、コッペリアのあてずっぽうな金額設定です。
 たまに巷で話題になります魔法界物価問題は、本作において、あまり触れないことにします。また金額を出す場合、原作小説の物の値段を指標とします。
 個人的に、本話で出した前金100ガリオンは微妙かもしれないと思っています。
 ボージン・アンド・バークスで売っている死のネックレスが1,500ガリオンなんですよね。これは宝石代金分もあるのかな、と考えると妥当な気もしますので、推測に使う指標としてはちょっとそぐわない感じがします。
 姿くらますキャビネットががいくらかによって物体の大きさによるガリオン推測ができるのでは、と思っていたのですが、キャビネット代金は原作小説に登場しない(ハズ……たぶん)ので、これも難しい。
 今度出るハリー・ポッターのゲームでアイテム物価が分かるかもしれないと筆者は期待しています。



『学徒紀行~聖杯探索~』が終了しました。
 次回より『夜歩き先生』を5話構成でお送りして『2年生まで』章であるヤーナム編が終了となります。今後もお楽しみいただければ幸いです。

 ご感想お待ちしています(ジェスチャー 交信)


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拝領の儀

聖液拝領
医療教会の権威の象徴たる聖血を拝領する儀式。
多くの宗教に不可欠な通過儀礼の一種である。
恩寵たる拝領は、消えることはない。
聖液を注ぎ、身を作り替える。
医療教会にあっては彼らの信じるものに身を捧げる事と同義であった。


 夏休みの間。

 月の香りの狩人の意向で魔法に関わる教科書類は全てビルゲンワースの一室に置かれることになっている。

 万が一の神秘の漏洩を防ぐためである。

 だが、各々の自主性に任されている状態なので本を一冊持ち出すことは容易いだろう。……ネフライトは今のところ、その必要性は感じていないが。

 

 ネフライトは、窓から外を眺めていた。メンシスの檻のなかで目を細める。

 蝋燭の節約のため日中は、日の当たるところで本を読んだり、書き物をするのが日課になっている。

 

 普段、隠し街ヤハグルで生活している彼がここにいる理由は、宿題を片付けるためだった。

 

 三日前、閉ざされていた扉は開かれ、各自思い思いの課題に取り組むことになった。

 ネフライトの計算では、一番勉学に不向きなクルックスが十日で終わる宿題計画を立案した。要領が良いテルミは、四日の猶予を残して終わりそうである。クルックスの次に心配な成績であるセラフィも、昨日からテルミのお茶会に顔を出すようになったらしいので全てを片付ける目処が立ったのだろう。

 

 ──残り七日で全て片付けなければならない。

 クルックスは獣と対峙するより真剣な顔で羊皮紙に向かっている。

 

「俺は、変身術が苦手だ」

 

「変身術の先生、ミネルバ・マクゴナガルは寮監だろうに」

 

「そうだ。だから、とても困っている。俺は、想像力というものが欠けているように思う」

 

 森からやってくる風によりキラキラとさざ波立つ湖畔を眺めていたネフライトは、やや薄暗い屋内へ視線を移す。

 クルックスの隣ではビルゲンワースの学徒、コッペリアが言葉遣いや文法にチェックを入れていた。

 

「形のないもの、その先の展開は無数に考えられる。どこまで考えればよいのか。俺にはよく分からない。ネフは、どうしているんだ?」

 

「質問が漠然としている。だが、言いたいことは分かる。あれもこれもと考えてしまって、終いにはとっちらかってしまうんだろう」

 

「それだ。まさしく、その状態だ」

 

「系統立てた思考は訓練によってのみ培われる。……自分でちゃんと考えることだ」

 

「ぐぅ……」

 

 何かコツが聞けるかもと期待していたらしい。

 しかし、彼は再びパッと顔を上げた。

 

「ネフは、もう出来ているじゃないか。俺ができないのはなぜ?」

 

「メンシス学派が素晴らしいからだろう」

 

 クルックスの隣でコッペリアが「グフッ」と笑った。遺憾である。

 彼の無礼に気付かなかったクルックスが質問を続けた。

 

「そういうことを聞いているワケじゃない。同じ出自なのになぜこうも違うのかと聞いているんだ」

 

「私は、元々頭が良いんだ」

 

「それは知っているが、じゃあ俺は──待て待て、お父様の名誉に関わる質問になってきた。慎重に答えてくれ」

 

「名誉ならば最初から大問題だ。結論は変わらんよ。私は、頭が良いんだ」

 

 話に割り込むようにコッペリアが「ふむ」と唸り、椅子の上で背伸びをした。

 

「僕も気になっている。ネフ。彼らの賢い子。君の賢さの秘密とは何なのかな?」

 

「コッペリア様、すでにお気づきかと思っていましたがね。……私は、ただ記憶力に優れているだけです」

 

「それだけなのか?」

 

 クルックスが首を傾げる。

 それだけが全てである。

 ネフライトは頷いた。

 

「私は、一度覚えたことを決して忘れない。だから二度同じ本を開く必要が無い。……私の頭の中には、いつもたくさんの言葉が浮かんでいる。色とりどりの温度さまざまだ。魔法史のテストなど大の得意だ。頭の中で教科書を開いて書き写す作業なのだから」

 

「そうだったのか。ネフ、すごいな!」

 

「経済的だ。……私は、私の特性を気に入っている。ミコラーシュ主宰の演説がいつでも聴けるからな」

 

 再び「グフぅッ」とコッペリアが失笑した。

 そろそろ主宰と学派の名誉のために立ち上がるべき時が来たかもしれない。背もたれから身を起こした。

 

「──コッペリア様、ネフの前でメンシス学派に対する無礼はやめていただきたい」

 

 輪郭が見えるようなハッキリとした声でクルックスは、コッペリアに忠告した。

 

「いや、すまない……そういうつもりでは……フフッないのだが……」

 

「ネフは貴方のいない場所でも『聖歌隊など磯臭い退廃主義者の愚患者だ』など言ったことはないのだから、貴方も礼を欠くことは避けるべきです」

 

「メンシス学派の悪口って直接的で僕は好きだよ。うん。直情的だ。いや、すまない。本当にすまない。クルックス、気を悪くしないでくれたまえよ。君に嫌われたら僕は悲しい。……ネフ、君は大人びているから心配なのだよ」

 

「心配はクルックスにどうぞ。私には足りている」

 

 ネフライトは、再び背もたれに身を預けた。

 

「いいや、心配だよ。一度見たことを忘れないということは、良いことでもあるが、悪いことでもある。──嫌な記憶でも、ずっと覚えていなければならないのだろう?」

 

「あ」

 

 可能性に気付いたようにクルックスは瞳を揺らした。

 その目が、ネフライトは苦手である。

 

「たしかに私は忘却を知らない。だが、知る必要もない。全てを忘れずにいられることを幸いに思っている」

 

「辛くないのか? 自分が死んだ時のことまで細かに覚えているんだろう? 俺なら……きっと足が竦む。すこしだが……」

 

「百の知識は、一の恐怖に勝る。知は人の営みだ。知識の伝達は、人のいる限り続く永続的なものだ。お父様が見つめる人間の可能性の一つだろう。──私を臆病者とバカにしてくれるな」

 

 話ながら、まるで恐怖に対する言い訳のように思えてきてネフライトは噛みつくように言った。

 噛まれたクルックスが目を丸くした。

 

「な、なぜ怒るのだ。尊敬しているんだ。自分が死んだときのことはできるだけ忘れるように心がけている……。君は俺より頭が良いから、いろいろと見えるものが違うのだろうな」

 

「…………」

 

 誰も同じ視座を共有することはできない。

 同じ色を見ているとは断定できないように。

 ネフライトは、再び窓の外を見つめた。

 窓ガラス越しにクルックスと目が合った。

 

「ところで、学校からの手紙は今日も来ていないのか?」

 

「来ていない」

 

「残り一週間。そろそろ……いい加減に来てもいい頃だろう」

 

 クルックスが「そうだな」と言う。

 コッペリアも目隠し帽子の下で壁に吊しているカレンダーを見たようだった。

 

「ふむ、そうだね。僕とセラフィがダイアゴン横町に行ったときは、すでに教科書リストを持っている子供がいた。いくら生徒の数が多いからといって『いい加減』に来てもいい頃だと思うね。……ふくろう便とやらで来るのならば、今日の夜から明日にかけてが狙い目かな?」

 

 今日は、月の香りの狩人の仔と学徒達にとって特別な日である。

 ヤーナムを揺籃とする上位者が一年に一度、眠りにつく日だ。

 

「十二時にテルミの拝領の儀を行う。それに参列したら狩人君は夢に戻る予定だ。君たちは外に出て、ふくろうが来るかどうか見ていればいい」

 

「そして、もしも来なかったら学校まで訪問すればいいと」

 

「それが一番、手間が少ないだろうね」

 

 ネフライトには、ふくろう便を待つことも無駄に思えたが彼らの間で話がまとまってしまったのならば仕方がない。

 また、ふくろう便での受け取りは魔法界の伝統かもしれない。

 

「あぁ、そろそろ時間だよ、クルックス。拝領の儀の準備を手伝っておくれ」

 

「はい。そういえば、ネフは拝領の儀はしないのか? 今回のテルミもそうだが、医療教会の礼典ではなく通過儀礼の一種らしいが」

 

「形骸化した儀式に何の意味がある。……私にはこれがある。勝手にやってくれ」

 

 ネフライトは、被っているメンシスの檻に触れた。

 

「分かった。終わる頃、月見台に集合だ。遅れるな」

 

「了解している」

 

 ぱたぱたと手を振ってクルックスとコッペリアを部屋から追い出した。

 いくつもの言葉が目の前を過ぎてゆく。

 自分の感情を表す言葉は、どれも相応しくない気がしてネフライトは目を閉じた。

 今日は、眠気を感じる日だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 医療教会における細かな刺繍は、使用者を守る呪いである。

 ならば、白と銀の聖布は何重の呪いをまとっているのだろうか。

 

 ビルゲンワースの学舎。

 その地下は、かつて聖杯儀式を行う祭祀場があった。

 

 可動式の天窓をわずかに開けば、地下にも光が降り注いだ。

 聖杯には、多くの学徒が身を投じたことだろう。

 神々しいと評してもよい空間だがヤーナムの祭祀場らしく、どこか血生臭い。

 

 学徒とは知の探求者である。

 すなわち、神の墓地たる地下を目指す墓暴きを兼ねた時代もあった。

 

 広い空間の端にクルックスと月の香りの狩人は立ち、拝領の儀を見守っていた。

 ビルゲンワースの学徒にして聖歌隊のユリエが歌うように聖句を詠み上げ、応えるようにコッペリアが聖布を広げた。そして、跪くテルミの頭と肩に聖布を巻いた。

 

「おめでとう、テルミ。血の加護──ではないな。君に、香る月の加護がありますように」

 

「ありがとう、コッペリアお兄様」

 

 医療教会、黒装束を身につけているテルミはウィンプルと帽子を被った。

 まばらな拍手が起きた。

 

「おめでとう、テルミ」

 

「あー、その、おめでとう、テルミ」

 

「ありがとう、クルックス、お父様。わたし、もっと頑張りますね!」

 

 テルミの背後でユリエとコッペリアが狩人に「頑張れ」のジェスチャーをしている。

 狩人は、テルミのことが苦手なのだ。テルミに原因があるワケではない。

 

 狩人にとって後悔は、常に少女の形をしているだけなのだ。

 

 しかし、テルミ自身には関わりの薄いことだ。意を決したように狩人はテルミと顔を合わせた。

 

「む、無理はしなくていい。ヤーナムの外との交流が続く以上、孤児院の場所を変えてもいい。そういう選択肢もある」

 

「いいえ、それには及びませんわ。わたし、ヤーナムが気に入ってますの」

 

「……そうか? ふむ」

 

「お父様のヤーナムなのですから、わたしに相応しいのです。これ以上の街はありません」

 

「では、まあいいか……。体に気をつけることだ」

 

「はぁい。お父様も今日は早くにお休みになってくださいね?」

 

「あ、ああ、限界が来る前に寝るさ」

 

 狩人がこれ以上の会話に耐えきれないとクルックスを見た。

 その意を酌み違えた彼は、力強く頷いた。

 

「お父様の安眠をお守りします。屋外の哨戒は、俺も加わりますので」

 

「ええ、狩人君。テルミと一緒に夢に戻るといいわ。学舎のことは私達に任せてね」

 

「お、おお……お気遣い、ありがとう」

 

 全然ありがたくなさそうに狩人は言い、テルミを伴って姿がかき消えた。

 彼らの姿がすっかり消えたあと。

 コッペリアがウキウキと楽しげに言った。

 

「さぁて、忙しくなるぞ!」

 

「そういえば、具体的に何をするのでしょうか。哨戒とは……? 敷地に迷い込んだ脳喰らいは今朝、ネフと始末しましたが」

 

「道々話すわ。まずは食事を摂ってからね」

 

 日が傾く。

 天窓は、ぼんやりとした光しか入らなくなった。

 

 ヤーナムが一年に一度、更新を迎える日。

 クルックス達、月の香りの狩人の仔らにとっては初めての時間が近づいていた。

 




拝領の儀

聖液拝領:
 ドキッとする名称なのですが、これはBloodborneの(解析により発掘された)没秘技の名称です。同じく『カインの衝撃』などの没秘技もそうですが、実装されていたらどのような秘技になっていたのか想像が掻き立てられます。
 ……筆者の私見では、聖血が聖血になる前の名前が聖液だったのではないかな、と勝手に思っています。聖液=聖血の扱いだったが、日本語的な言葉遊びとして「清潔【セイケツ】にしましょう(アルフレート台詞)」や「聖血【セイケツ】を求めよ(教区長エミーリア)」が面白いなとなって変わった、とか。などと考えつつ、じゃあ「賢者の血はどうなるんだ?」という問題が発生してしまうので、これはまったく私見の域を出ず、本作においても適用されないものではあるのですが。瞳をくれないか……足りないんだ……誰か……俺の目を見てくれ……。
 さて、本作においては拝領の儀式の正式名称として登場しました。
 拝領により受け取ったものは、消えてなくなることはありません。これは聖血を身に注ぐことで医療教会が神と呼ぶ存在により付与される概念だからです。本来であれば、輸血もセットで行う儀式ですが、テルミはすでに狩人なので省略されました。
 ……あぁ、君も血と獣の夢を見たのかい?……


本話について:
 本来『夜歩き先生編』は4話構成であり、明日投稿する話とガッチャンコしていた話でしたが、次話(37話『つきがなく』)がヤーナム編の最長になったので、やむを得ず冒頭を本話として分割しました。そのため、本話より始まる『夜歩き先生編』は5話構成となります。
 ところでヤーナムの夜を歩く先生って誰の話だろうね。危ないね。不思議だね。


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つきがなく

青ざめた血
はじまりの狩人の夢を生地に、異邦の狩人達をとらえた上位者の名のひとつ。
ヤーナムの神秘。その秘奥に存在する彼方の存在である。
ゆえに狩人は、医療者は、聖職者は湖を越え、求めたのだ。
いまや名の指すものは替わったが、形を変えて存在は続いている。
……青ざめた血を求めよ、狩りを全うする為に……



 ──さて。

 ──君は、我々に従わない自由がある。

 ──しかし、自由の行使の先には、相応の死があることを理解したまえ。

 ──学舎にいる限り、我々ビルゲンワースの学徒は月の香りの狩人との約定により、命を懸けて君を守る。

 ──だが、我々は『残念ながら』人間であるため、手が滑る時がある『かも』しれない。

 ──せいぜい守護に値する言動を心がけたまえ。

 ──十年とは、長くはないが短くもない時間だろう。

 ──互いに快適な生活を送るために。

 ──恐れたまえよ。外の神秘を宿す者。

 

 ビルゲンワースの学徒。

 コッペリアと名乗る目隠し帽子を被ったその人が最初に告げた言葉である。

 冷たい態度ではなかったが、厳しい言葉を使った。クィリナス・クィレルは、生涯忘れることはないだろう。

 

 敷かれた行動制限は、いくつかある。

『学舎を出てはいけない』という制限が最も強いものだ。その学舎の中にもいくつか開けてはいけない扉があるものの、学舎の中であれば自由に歩いてよいと言われていた。

 興味は惹かれない。

 制限を守れば生きていけるのだから、それ以上のこともそれ以外のことも考えるべきではなかった。

 とにかく生きてヤーナムを出ることが最も大切なことだった。

 

 闇の帝王のことを考えると朝も夜も無く取り乱しそうになるが、学徒達に「狩人」と慕われる彼のことを信じるしかなかった。……ヤーナムの現在の支配者とは、どういうわけか、彼のようだから。

 

 その彼は、一年に一度しか眠らないのだという。

 今日が、眠りにつく日だ。

 

 学徒達は午後から、閉じこもっている研究室から出て学舎周辺に広がる森と湖沼の見回りに出ていた。

 学舎の守りは、狩人の仔達であるクルックスとネフライトに任されているようだ。テルミとセラフィは最初から不在であると聞いている。

 

 微かに夏を思わせる、気怠い陽が照りつけていた。

 地上では、見ているだけで暑くなってしまいそうな装束を着て歩いている狩人がいる。クルックスだった。

 

 数日前に会ったとき、彼は思い詰めた顔をしていた。その理由を聞くとおもむろに懐からチョコレート板を取り出した。そして言うことは。

 

「貴方に助言を請うのは解答を覗き見るようで気が進まないのだが、それ以上に宿題が進まない。俺も背に腹はかえられないのだ……」

 

 板チョコ数枚の授業料でいくつかの授業の宿題について確認と助言をすることになった。そして二人で『ほどほどに頑張ろう』と約束した。

 たった数日前のことであったが、不思議なことに遠い日に思えた。

 

 理由について心当たりがある。

 ヤーナムにおいて現実とは儚いものだ。道を踏み外す気軽さであっけなく『現実』離れしてしまうものであるらしい。

 

 現在のクィレルは、ネフライトに促され湖を臨む月見台の石畳に座っていた。隣には、安楽椅子に揺れる老人がいる。

 ビルゲンワースの学長、ウィレームというこの老人はすでに人の言葉を失っている。

 

 ──意識のみが高次元へ至ったのか。あるいは、どこにもたどり着けず砕けたのか。どちらであっても観測できないことさ。

 

 そう語ったのは、学舎のなかを案内したコッペリアだった。

 彼は学徒で、この老人は学長である。

 敬意を払うべき対象であるべきだろうが、彼はただ唇で笑うだけだった。

 

 ウィレームから視線を移し、ネフライトを見る。

 彼が持つ、長柄の先に取り付けられた杭は刃のように鋭利だ。もし、振るわれたなら遠心力も加わわり、体に風穴が空くことは必至だ。

 杭を見つめていたので、彼が振り返っているのに気付くのが遅れた。

 

「ああ、ええと、何か?」

 

「先生、生活には慣れましたか」

 

「え、ええ、おぉ、おかげさまで」

 

 現在のクィレルの生活の中で最も言葉を交わす機会が多いのは学徒達だったが、次点は目の前の少年、ネフライト・メンシスだった。

 ホグワーツにおけるネフライトについて、知り得たことは多くない。『授業は真面目に聞いている。私生活は前代未聞の没交渉ぶりであり、奇妙な檻を被って図書館にいることが多い』。この程度の情報だけだ。

 

 しかし、ヤーナムに来てから知ったことだが、ヴォルデモートに命じられてユニコーンの死骸を漁っている時、背後から銃撃したのは彼だった。教員の目を逃れ、ヤーナムへ利をもたらすために暗躍していたのかもしれない。先日は、本音なのか冗談なのか分からない顔で「その節は仕留め損なって、どうも」と言った。何が『どうも』なのかは恐くて聞く機会を失してしまったが、拾うこともないだろう。

 

 彼は──意外なことに!──学徒達によるクィレルの聴取に同席することが多かった。

 

 ヤーナムには無い魔法──彼らの言葉を借りれば『神秘』と呼ぶ現象──について、クィレル独りならば学徒達へ伝達するのは困難を極めたことだろう。彼が互換性のある言葉選びをよく手伝ってくれたおかげで、学徒達が満足する程度の伝達を終えることができた。

 

 学徒達や狩人と話す様子を見ていれば彼は会話を忌避しているのではなく、ホグワーツとの交わりを拒否しているだけだと分かった。狩人の仔の中で最も社交的な振る舞いができるのはテルミだが、最も価値観の差異に注意を払ってくれるのは学者肌のネフライトだろう。

 

「……あなたが気を病む必要はないだろう。あなたは被害者だ」

 

 気付けば地面を見つめてしまうのは、イギリス魔法界きっての危険人物にヤーナムの情報を漏らしてしまったことだ。

『よりによって』異常極まるヤーナムの情報を漏らしてしまったことは、クィレルの小リスのような心臓をわしづかみにして揺さぶった。寿命は五年ほど縮んだと思う。感情の起伏がどうにも押さえられなくなってくる頃、ネフライトは、クィレルが数日前にぐずぐず泣いていた時と同じ言葉をかけた。

 

「例え入り込んだとしてお父様がいらっしゃる。長い夜の余興には、ちょうどいい」

 

「お、おお、恐ろしさを知らないから、そんなことを、言えるんだ……」

 

「私にはお父様より恐いものがない。出来れば会ってみたいものだがね」

 

 暢気にも聞こえる言葉についてクィレルが説き伏せることはできなかった。

 知る者と知らない者の埋めがたい差だった。

 

「い、異常は無さそう、ですか?」

 

「今のところは。……しかし今日はなぜか、ひどく眠い」

 

「彼も眠そうですね」

 

 地上で敷地内を哨戒しているクルックスも同じタイミングで欠伸をした。

 

「……夜に眠らないのはいつものことだが、それにしても……この、眠気は……?」

 

 檻を被る頭を振って眠気を追い出そうとするが、彼の瞼は重いまま、鉄檻に引きずられるように膝を折った。

 

「メ、メンシス! だ、大丈夫ですか?」

 

「私のことはネフでいい……。いや、そんなことは、どうでも……。あぁ……違う、違う……。これは私の、私達の眠りではない、のに……」

 

 ネフライトの檻を外し、いよいよ体の自由が利かなくなっている彼を安楽椅子の脚に体を横たえた。

 

「クルックスは……」

 

 目を閉じたまま、彼が言う。

 月見台から地上を見るとクルックスも頭をおさえて湖と陸を隔てる柵へ寄りかかっていた。

 地上へ向かおうとしたクィレルをネフライトが止めた。

 

「……地上は、いい……。学徒達が来る……」

 

「ぁ、ああ、ユリエさんが来たよう、で」

 

 クルックスを見つけるなり、彼女は武器ごと彼を抱えてすぐに学舎に入った。

 それを見てひとまず胸をなで下ろした。

 ネフライトが取り落とした教会の杭を拾い上げ、その重さにハッとする。

 

「……誰が泣いているんだ?」

 

 彼のそばに杭を置く。

 そのときだ。今にも寝入ってしまいそうな彼の言葉にクィレルは思わず「は、は、あ?」と聞き直した。

 

「こどもの泣き声……。さっきから、ずっと泣いているだろう」

 

「な、なにも、きこ、聞こえませんよ」

 

「……赤子の声だ……」

 

 悩ましげに呻く彼は、耳をおさえて蹲った。

 幻聴には違いない。

 問題は、病気なのか、学徒達によくある『気の狂い』なのか、クィレルには判断ができなかった。

 迷っていると月見台にクルックスを抱えたユリエとコッペリアが帰ってきた。

 

「おぉ、やはりネフも眠そうにしているね。するとテルミもセラフィもダメだろうか」

 

「例外で成立をした命よ。『当然ダメ』に決まっている。……大丈夫よ、クルックス。狩人君が目を醒ましたらきっとあなたも目覚めるわ。コッペリア、敷物を持ってきて」

 

「了解だ、ユリエ先輩」

 

 コッペリアが学舎に戻る。

 ユリエの腕に抱かれるクルックスが身動ぎした。

 

「……潮騒の。波の音が、どうして……」

 

「波? ああ、そう。あなたには潮の音が聞こえるのね」

 

 回転ノコギリを学舎の壁に立てかけた。

 そのうちやって来たコッペリアが広げた敷布のうえに浅い眠りに囚われた二人を横たえる。

 

「さぁ、眠っておしまい。目覚めたら全て元通りさ」

 

 コッペリアが、不思議なほど上機嫌で二人に言う。

 すでに応答は無かったが彼にはどうでもよいことのようだった。

 

「ユリエ、何が聞こえる?」

 

「湿った音よ。ゆっくり。滴る音。けれど不思議ね。宙へ昇っていく音でもあるの」

 

 二人を守るようにユリエもまた敷布に座る。

 仕込み杖と呼ばれる数多の剣が収納された杖は、決して手放すことはない。

 彼女は、うなされるネフライトの頭を優しく撫でた。

 

「ククク、啓蒙高き最後の学徒様は言うことが違う」

 

「あなたには何が聞こえているの? それとも、見えるのかしらね」

 

「ああ、今日は見える日だ」

 

 今日に限って、彼を悩ませる頭痛は失せているらしい。

 いつもより活力的に歩き回る彼は月見台の端に立ち、諸手を挙げて虚空に告げた。

 

「悪夢よ、来たれ! 今や夢も現もあるものか! 福音よ! 主の御業を知るがいい! そして見えよ! 彼方から夢幻の神秘がやってくる! 我ら学徒の、僕ら聖歌隊の、僕の神秘だ! アハ、アッハハハハ!」

 

 コッペリアの笑い声は、クィレルをたまらなく不安にさせた。

 ヤーナムは、病の街であると狩人は告げた。

 事実、街を訪れた際の見聞を思い出す。病人らしき顔色の人々が多かった。だが、病にもさまざまある。

 

 例えば、狂気というものについて。

 

 ヤーナムには実にさまざまな狂気の種類が存在している。

 いいや、忘れよう。こんなことは考えるべきではないのだ。

 祝福の聖歌ばかりが耳に届く。クィレルは、できる限りコッペリアを忘れようとした。

 ユリエが空を見上げた。

 ならうようにクィレルも空を見上げる。

 陽は傾きつつある。いつもと同じ黄昏の空だった。

 

「……、……」

 

 溜め息と共にユリエが噛みしめた言葉は、細かに咀嚼されて誰かの耳に届くことはなかった。

 

 ──嗚呼、青ざめた血がないている──

 

 

 

■ ■ ■

 

 

「止め!」

 

 レオーが鋭い声を飛ばした時。

 セラフィは奇跡的に弾くことに成功した千景の残光が、視界に無数見えていた。

 次の瞬間には天地が分からなくなってしまい、しりもちをついた。

 もう残光は見えない。だが、目を開けてもいられない。

 頭の奥から重々しい眠気がやって来た。

 

「ストップ、ストップ、鴉。……セラフィ、どうした? どこか具合悪いのか?」

 

 レオーがセラフィから落葉を取り上げる。

 年かさの騎士にとって、若輩が突然気の狂いに陥るということは珍しいことではなかったからだ。セラフィに限ってまさか、とも呟いたが。

 セラフィは、レオーに体を支えられて体を起こそうとして失敗した。

 

「……み、水たまりに」

 

「うん?」

 

「目玉を落としたと言っているのは誰だ?」

 

 騎士の手袋に包まれた赤の指先が、薄い雪の降り積もる石畳を掻く。

 

「誰かそこにいるのか……?」

 

 セラフィには、誰かが呼ぶ声が聞こえていた。

 頭蓋に反響して、次から次へと声が聞こえるのだ。

 どれもがマリアを呼んでいる。

 

「違う……違う……違うんだ……」

 

 弱々しく首を振る。

 

「僕は、違う、あの方ではない。……ア、では、ないのに……」

 

 どうして、マリアを呼ぶ声が自分に聞こえるのか。

 頭の上では珍しく取り乱したレオーがセラフィを抱き起こした。

 

「待て待て、ホントどうしちゃったの? なぁ、鴉、お前がさっき千景で頭叩き割った影響じゃないの、これ?」

 

 流血鴉が刀を納めかけ、不意に空を見上げた。

 

「こんな時に無視するなよ!」

 

「今は違う。月の香りだ。彼方に悪夢の霧が見える。たった今、狩人が悪夢を廻しているのだ」

 

 レオーが彼につられて空を見上げる。

 たしかに霧が空を覆っていた。

 

「ん? 『今は』って言ったな?」

 

「…………」

 

「あとで話があるから逃げるなよ! ええと、じゃあ狩人が寝ている影響がセラフィにも出てるって?」

 

「今のところそれしか考えられない。私の千景が原因ではない。私の千景が原因ではない」

 

「根に持ってんな、この野郎。しかし、じゃあどうしようもないな。狩人の夢には行けない。……辛抱しろよ、セラフィ」

 

 彼女を抱え上げたレオーが足を向けるのは、彼が住処にしている古城外れのカインハーストの工房だ。

 

「とりあえず安静にさせないとな」

 

「あのベッドに寝せるのか?」

 

「厩舎のごとき……」と流血鴉が言う。

 そのうち彼の長い脚はレオーを追い越し、セラフィの顔を覗いた。

 

「近衛騎士長様の部屋は氷室だろうが!」

 

 レオーが言うと流血鴉は自室のありさまを思い出したらしく、静かになった。

 永久凍土もかくやという万年雪のカインハーストにおいて、身を温める燃料とは貴重品だ。

 工房は、少ない燃料で屋内を温められるほど狭い。レオーがそこを住まいとしているのは趣味と実益と寂れた事情もあった。

 

「セラフィの世話は俺がやる。地下の倉庫から鎮静剤を持ってきてくれ。青い秘薬じゃないぞ。鎮静剤だぞ」

 

 無言のうちに流血鴉は去り、レオーは肩を落とす。

 いつもより数倍素直な後輩を思えば、事情の深刻さを覚えずにはいられない。

 セラフィの突然の不調に戸惑っているのは、レオーだけではないのだ。

 

「セラフィ……」

 

 何事か話しているが、血の引いた唇の奥で言葉になりきれずに曖昧な音になっている。

 ただ。

 マリア。

 乾いた唇は小さく、古い狩人の名を呼んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 その数時間後。

 生木の芯が爆ぜる音が聞こえる。

 

「むー……うー……」

 

 鎮静剤は結果としてセラフィにとって気休め程度の効果しかなかった。だが、世話をする騎士達の心の安寧には大いに寄与した。

 レオーは、鉄臭い水で濡らした布巾をかたく絞る。

 工房のベッドにいるセラフィはその後、寝苦しい夜にいるように額に汗を浮かべて唸るだけだ。

 忙しく動いていた鴉もやるべきことが無くなってしまってからは、ベッド近くに椅子を置いて彼女の様子を見守っている。

 テーブルの上には、それぞれ帽子や兜がテーブルに整列させてあった。この辺り、数分前に鴉が今の形に納めた。身の回りの物に目が届く程度には、鴉も落ち着いてきたと見える。

 

「なぁ、鴉。いつも狩人が悪夢を平定させるまでどれくらい時間がかかるか、覚えているか?」

 

「感覚が狂っていなければ一晩だ」

 

「長いだろうなぁ……可哀想に」

 

 セラフィのベッドに椅子を寄せて静かに見守っていた鴉が手を差し出した。布巾を催促されていると分かり、手渡した。

 

「顔の汗を拭うだけでいい」

 

 狩人が一年に一度眠り、ヤーナムを一新させる事象について。

 学徒達ならば「悪夢が眠り、悪夢が目覚める」と表現し、彼らカインハーストに連なる騎士達は「悪夢を廻す」と表現する。現在のヤーナムをとりまく異常に対し、彼らの認識の差異がよく見られる表現であった。

 そして。

 その現象の間、聞こえる幻聴についても認識は異なる。

 学徒達は「福音」と呼び、騎士達は「凶事の先触れ」と呼ぶ。

 

「……レオー、今年は何が聞こえる?」

 

「いつもの。聖杯のやかましい連中の叫び声だよ。あーあ、やだやだ。地下はうんざりだ! もう二度と行かねえよ、あんなところ!」

 

 女王は長い夜に倦んでいるだろうが、それは騎士達も同じこと、いいや、それ以上かもしれない。

 騎士達には、動機もある。誇りもある。義務も。情も。愛さえある。

 だが、一向に実を結ばぬ献身の果て、絶望を耐えるには限界がある。

 

 かつて多くの騎士達が、その限界を迎えた時期があった。

 

 また外的要因──処刑隊の設立、そしてカインハーストへの侵攻もトドメとなった。

 それらが偶然、レオーが存命であった時期に起きてしまったのが全ての運の尽きだった。

 

 ──血の赤子とは、すなわち上位者の赤子。

 ──夢を見る狩人から聞いた話がある。

 ──上位者が特別な意味を込めた指輪があるらしい。

 ──婚姻の。 

 ──それがあれば。

 ──それ『さえ』あれば。

 

 誰も彼もが正気を失っている夜に騎士達の狂熱に突き上げをくらったレオーは、夜ごと聖杯に放られた。

 カインハーストに遙か歴史で劣る医療教会でさえ聖杯の儀式ができるのだ。カインハーストに連なる者ならば儀式など文字どおり、朝飯前だった。

 他の騎士達の不安と不満を押し込める体の良い人身御供となった彼は、そのうち聖杯の中で正気を失ったか、侵入者に倒されたか、獣になったかどうかして自分自身を見失った。

 

 自意識が久しぶりに覚醒したのは、現在から約一五〇年前の出来事だ。

 

 ある日、突然、どういう理由かカインハーストに存在する自分に気付いた。

 しかし、変わり果てたカインハーストを見て、ちょっと心が折れそうになった。

 今なら暴露しても許されるだろう。っていうか許せ。

 

 貴族は、いない。

 騎士も、いない。

 いるのは敷地を徘徊する血舐め。

 城内で泣き叫ぶ女幽霊達。

 そして、女王の間を隠す処刑隊の長であるローゲリウスのみと来た。

 

 ──なんでアンタそこにいるの? 女王様に惚れちゃった? わかる~。頼むから死んでくれ。死ねよ。並みいる血族の首をさんざ刎ねて飛ばして、まだ殺し足りねぇのかよ。穢れた血はどっちだ。淀んだ血は誰だ。教会サマの血は綺麗なのか。それはカインを滅ぼすに足る理由になったかよ。死ねよ。殺すぞ。

 

 ブツブツ言いながら勝負を挑み、負け続けること数年。

 救世主がやって来た。

 そう、稀代の傑作騎士ことカインの流血鴉である。

 顔がイイだけでなく、むやみやたらに血質が高く、技量もある鴉の鮮やかなお手前により、かのローゲリウスは討伐された。

 

 ローゲリウスを退けた二人は、拭う血もそこそこに女王の間に向かった。

 二人で「女王がミイラになっていたらどうしようなぁ」、「どちらかといえば肉塊だろうな」、「ははは、言えてる。しかしだ。もし空席だったらどうする? お前、王様やる? 俺は臣下やってもいい」、「やらない。要らない」、「食い気味で言うかよ、フツー」などと軽口を言いつつ玉座への階段を昇った。

 その先では、在りし日の記憶のまま椅子に腰掛けた女王がいた。

 口まで酸っぱい胃液が押し寄せた。

 カインハーストの女王、アンナリーゼ。

 まさか不老不死が本当に不老不死だとは思わなかった。

 

 これでは医療教会の中でも過激で知られる処刑隊。その長であるローゲリウスでさえ殺すのを断念するワケだ。

 

 尽きざる命。

 真性の魔性。

 

 感動しつつ女王様にかしずいた。

 

 同盟者にして騎士である月の香りの狩人は、たしかに上位者なのだろう。

 だが、女王の言う「好ましい時期」を最早レオーは信じてはいない。

 

 この先の未来、女王が身ごもることが叶わなくとも自分は十分に戦い続けたと思う。

 新しい騎士が来たら騎士を引退し、彼らの世話をしつつ工房仕事をして、このままカインハーストと共に血族の果てを見守るのは良い選択のように思えた。己が血の源であるカインハーストは誇るべき家だ。愛憎で複雑な感情を持て余すが、離れることは考えられない。

 

 そんな未来予想図をあざ笑うかのごとく長らく後継者に恵まれなかったレオーに転機がやって来た。

 月の香りの狩人が女王に紹介──事実上、献上された──娘である。

 四仔の構成は男女二人ずつという話も同時に聞いたので「息子がいるなら息子をよこせよ」とよっぽど言ってやろうかと思ったが、彼の娘──セラフィを見て不埒な考えは霧散した。

 

 彼女はカインハーストに連なる女性の面立ちをしている。

 どことなく妹、エヴェリンによく似た彼女のことを一目で気に入ってしまったのだ。

 以来、レオーの人生は彩りを取り戻した。

 我ながら単純な男であるとも思うが、全ては長い夜のこと。

 たとえ実を結ばずとも、身を温める想いは必要だった。

 

 鴉にしてもそうだ。セラフィは鴉にさんざん殺されているが、彼とも実に上手く付き合っている。鴉も彼女に何か思うことがあるらしく、病んだ頭の調子が良いときは心を寄せることがある。鴉の世話を安心して押し付けられる点でも最高の後輩だった。

 

 だから、どうしても。

 セラフィの苦しむ顔は見たくないのだ。

 

 レオーは、工房の整理を終えると椅子から立ち上がり、セラフィの顔を覗いた。

 呼吸は乱れ、眉を寄せていた。

 

「ボタンをひとつ外してやんなよ」

 

「……いつもとは逆だ」

 

 起居を共にしている鴉が手こずりながらシャツのボタンを外した。

 ──いつもとは逆。はて。

 レオーは、腕を組んで考える。

 

「えぇぇぇ、自分の服くらい自分で着ろ。お貴族様かよ。お貴族様だったわ」

 

 鴉は「む」と唸って顎を上げた。

 自分が指示したわけではないと釈明したいらしい。

 

「うん。じゃあ、なんて言うワケないだろ。いい大人の分際で。ちゃんとしろってば」

 

「気をつける」

 

 あまり頼りにならない返事である。セラフィに「ぜひ」と迫られたら「好きにしろ」と結局、受け入れそうな未来が想像できる。

 そういえば。

 稽古の後、船をこぎながら読書する鴉の髪をセラフィが整えている場面に出くわしたことがある。あのときは微笑ましいと思ったものだが、実のところ自堕落な大人を作る過程であったかもしれない。

 

「けれど、まあ、分かるよ。セラフィは可愛いからな。甘えたくなる。……鴉は、いま何が聞こえるんだ?」

 

「ヤーナムの誰もいない街に吹く風の音」

 

 ──そりゃ静かでいいな。

 レオーは頭のなかで騒ぎ立てる聖杯の住人の声を煩わしく感じているので羨ましく思った。

 

「今晩の狩りはどうする?」

 

「取りやめる。女王には私から奏上する」

 

「了解。それがいい」

 

 レオーもセラフィの傍に来た。

 手首の脈を測り、指先の温度を確かめる。

 

「目覚めりゃそれでいいさ」

 

「そうだな」

 

 珍しく同意が得られた。

 レオーは、セラフィの銀の細い髪をひと撫でした。それを見てならうように鴉が指先で一房の髪をすくう。

 いつもは稽古の建前である真剣勝負の下、千景で斬って捨てる女だろうに。

 彼が稀に見せる、血の通う仕草を垣間見てレオーは、やはり肩をすくめた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ピグマリオンは思う。

 ブラドーという男と付き合うにあたり、重要な心がけは一つ。

 

 諦めである。

 

 ゆえにピグマリオンは、血塗れの異邦服も聖職者の獣から剥ぎ取った戦利品も「都会風のセンスなのでしょう」と思い込むことに成功した。

 日がな一日、音の鳴らない割れ鐘を揺らしているのは、ピグマリオンには理解できないが、それが彼の仕事なのだから早々に理解を諦めることにした。

 

 この種の諦めは、我が身の現状にも及ぶ。

 

 望まず啓かれてしまった知恵は、世界のありさまを彼の理性に正しく理解させた。

 月の香りの狩人と名乗る彼にどのような動機があったにせよ『二〇〇年以上、人間ではない何者かの手の平で病に苦しんでいた』という我が身の現状を『わからせられた』結果、三日ほど寝込む程度の不調で済んだのはブラドーの理不尽さに鍛えられたお陰だ。彼が背後に立つだけで腰が引けて足が竦む。トラウマである。

 そんなピグマリオンは、四日目にして啓蒙高き人々が最後に至る諦めの境地に指をかけた。

 

 恐らく。

 平凡な病み人の自分は、最も自由な人格であると自覚している。出自ゆえに失うモノが少ないからだ。

 ヤーナムの外に出ることだって、きっと、できるだろう。

 その先で生きていけるかは、勝ち筋の見えない博打であるが。

 

「教会に義理立てすることはあるまい」

 

 夢を見る狩人あるいは月の香りの狩人と呼ばれる彼から受けた施し──届けられた熱々のパンを切り分けているとブラドーが言った。

 暗殺の任を受ける彼は、常々教会のことを「くだらない」とか「頭のイカれたヤツら」と思っているらしい。そばに控えるピグマリオンにはそう見える。

 

「不敬ですよ」

 

「咎める者がどこにいる」

 

「私が咎めましょう。私は、善き信徒なので」

 

 ブラドーは嗤った。

 ピグマリオンも笑った。

 

「いまや貴方も善き信徒ですよ、ブラドー氏。私のような善き信徒が従事する仕事なのですから、当然貴方も善き信徒です」

 

 ピグマリオンは、自由だった。

 病が身を冒しきるまでならば、何でもできた。

 だからこそ。

 

「義理も人情も報恩もありません。ただ、病み人が救いにしたモノの末路を見届けたいのです」

 

「…………」

 

「私が、救われぬ病み人達が、溺れかけながら縋った手が何だったのか。その膿んで腐るまでを見つめていたいのです。いつかいつかこの命が尽きるまで」

 

 面白くなさそうな顔をするブラドーがパンを載せた皿を奪い取った。

 

「心せよ。探れば殺す」

 

「ブラドー氏のお手を煩わせるつもりはありません。私は善き信徒なので。しかし、隠すのは暴くより難しいと思います。……大変な仕事ですよ……ええ、そう……暗殺者は大変な仕事です。つまり、やりがいがありますね?」

 

「ハッ。価値などあるものか」

 

 投げやりな言葉にピグマリオンは首を傾げた。

 

「最も苦難な仕事は、最も大きな使命になりえるのではないでしょうか? 私は使命が欲しい。目の眩むような使命は私に勇気をくれる。……強くない私にとって、死を正気で受け入れるのは恐ろしいのです」

 

「お主が言う『最も苦難な仕事』。その任は私のものだ。お主の仕事にはなりえまい」

 

「え。では私はここで何をすればいいのですか? ここ数週間で花壇の整理が終わってしまいましたが……」

 

 ブラドーは「知らぬ」と言いたいに違いない。

 言わせないためにピグマリオンは、棚から古い紙を取り出した。

 

「さて、目の前で作業をしていたのでご存じかと思いますが、こちらシミだらけの古い地図──だったのですが、ただいま最新情報に書き換えています。きっとお役に立つと思いますよ」

 

「お主の手は借りぬ」

 

「ところで、ブラドー氏は鐘で誰かを探しているらしいですね。南区教会支部、隣に何があるかご存じですか?」

 

 ブラドーは、押し黙った。

 ピグマリオンは古い地図をテーブルに敷いた。

 ヤーナムの地名の由来となった聖堂をなぞり、指は南進した。

 

「どなたを探しているか私は伺いません。しかし、道と建物を知っていた方が有利ではないでしょうか。ささやかながら助力できると思っています。貴方の命令ならば、私は喜んで」

 

「……。それで?」

 

 ブラドーは広げられた古い地図を指先で叩いた。

 南区教会の隣には何があるのか。問われていることに気付いたピグマリオンは、微かに笑った。

 

「ああ、隣は空き地です。家屋がありましたが先日、獣が出たので焼き払い、ついでに打ち壊したのです」

 

 拍子抜けだったらしい。彼はパンを囓った。それから。

 

「……ゆめゆめ探ることなかれ。終わらぬ死など、まさに悪夢であろう」

 

 これが彼と交わした会話のなかで最も建設的な内容であり、印象深いこの出来事が数日前。

 まともな生活を諦めつつ、慣れてきた頃。

 

 異変は夕方に起きた。

 

 ブラドーが古工房の外に出て空を眺めている。

 彼が外に出るのは、珍しい。とても珍しい。

 遠目から眺めれば獣が空を仰いでいるようにも見える。

 

「ブラドー氏、何事ですか」

 

「獣の声が聞こえる」

 

「な、何ですって?」

 

 ピグマリオンは両手を耳に当てて外の音に耳を澄ませる。しかし獣の声は聞こえない。

 代わりに、こどもが泣く声が聞こえていた。

 

「いいえ。こどもの声しか聞こえませんよ?」

 

 あとは風の音でしょうか。

 そう告げた時、ふたりは顔を見合わせた。

 

「こどもの声など聞こえないが」

 

「え。で、でも私も獣の声は聞こえませんよ。まだ夜ではありませんし……」

 

「まやかしか」

 

「そうかもしれませんね。こわっ。とりあえず戸締まりしましょうか」

 

 ふたりは揃って古工房に戻る。

 扉を閉めようとするピグマリオンをブラドーが制した。

 

「……たしかに私たちの家に物盗りなど入らないでしょうけれど。聞こえるまやかしが不気味ではないですか?」

 

「よい。今宵は懐かしい匂いがする」

 

「はあ。では、そのように」

 

 ピグマリオンは、頷いて扉を開け放った。

 とにかく──諦めが肝心なのだ。

 そう自分に言い聞かせた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 シモンは猫しか通らない薄汚れた路地で転がっていた。

 海水が岩礁にぶつかって砕ける音が止まらない。

 この音の正体は知っている。

 漁村の灯台隣の小屋で聞こえた音だ。

 

 もちろん、幻聴の類いである。

 鳴り止まない鐘の音はいつでも悩ましいものだが、今際に聞こえていた波の音も精神に堪える音だと覚えつつある。

 

 行方不明になっているピグマリオンの行方を追わなければならない。

 彼は教会の不祥事を被せられたか。間の悪い現場に出くわしてしまったに違いない。

 今は何でも手がかりになりえる。この現状で彼を追わない手はなかった。

 しかし。

 

(なんだ、この音は……?)

 

 繰り返し、繰り返し、繰り返し、波が叩きつけられて砕かれる音が遠く聞こえる。時を同じくして聞こえる鐘の音は波音と同じ幻聴か、たった今鳴っている音なのかも分からない。

 狩人の悪夢の地下牢で見た連盟の男を思い出す。壁に頭を打ち付けたくなる気分が初めて理解出来た気がする。したくはなかったが。

 

 不安に駆られないように。

 何より狂気に陥らないように。

 シモンは、空を見上げる。

 その先。

 彼は包帯の下、目を瞠った。

 

「いったい何が……」

 

 時刻は、夕暮れ。

 季節外れの深い霧が市街を満たしていく。

 薄れた雲から黄昏の光が差す。

 ヤーナムの外では天使が掛ける梯子だと言うらしい。

 そんなことはどうでもいい。

 地上に満ちる空気は、なぜだろうか、月の香りをまとっている。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 いずれ市街に至る、禁域の森にて。

 兜──それは誤解を恐れず言えば、バケツを逆さまにしたような──鉄兜を被り、ヤーナムではまず見かけない青の官憲一式に身を包んだ男が、歩む足を止め、空を見上げた。

 

「ヤマムラ、今日は風がうるさいな」

 

 彼の数歩後ろを歩いていた男も立ち止まり、狩帽子を上げた。

 

「……? ああ、そうですね。市街の方向から獣の声が聞こえます」

 

 どこで聞いたのだったか。

 考え込もうとする東洋人、ヤマムラは声の正体を探すように虚空を睨んでいる。

 長と呼ばれる男は、乾いた声で笑った。

 

「同士、それは気の迷いと言うものだ」

 

「そういうことにしておきます。……あぁ、何だか頭も痛くなってきた。……? ヴァルトール殿?」

 

 兜に空いた穴。

 連盟の長、ヴァルトールの瞳が見えたような気がしてヤマムラは穴を見つめた。

 しかし。

 

「また厄介な夜が来る。さて、市街に急がねばなるまい」

 

「この声の主を?」

 

「……。ああ、これほど聞こえるのだ。淀みを飼い太らせた獣がいるに違いない。頭のイカれた医療者どもめ」

 

「ええ。ごもっともです」

 

 再び彼が歩き出したのでヤマムラは、応えた。

 間もなく宵闇に紛れた霧が二人の姿を飲み込んでしまった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 上位者の眠りとは、祀られるものである。

 トゥメル人は上位者との赤子を願ったというのに、その上位者には眠っていて欲しかったのだろうか。

 いいや、違う。

 眠り。そして、その先の夢こそが上位者と人間を繋ぐ唯一の交流できる場であった。

 だからこそ、眠らせておく必要があったのだ。

 ヤーナム医療教会において会派内でさえ統一の見解を得られていない問題について、テルミ・コーラス=Bが言えることは、ただひとつ。

 

「上位者の思惑を人間『ごとき』が考察できるなんて素敵な思い上がりね。けれど、どうか上位者の意を騙る狂言をお許しになって? 人間の傲慢さも極まれりって感じですから、特に『らしく』てとってもいいと思うの!」

 

 トゥメル=イルの大聖杯が語るトゥメル人の在り方は、嫌いではない。

『上位者の眠りを祀る』とは、決して消極的な祈りのありさまではない。

 上位者と人間の欲求が互いを傷つけず、互いの利を期待できる距離で出来る精一杯の行為だろう。

 妥協にして幸運な在り方であると思うからだ。

 ゆえにテルミはトゥメル聖杯が嫌いではない。

 

「もー。皆さま、お父様がお眠りだっていうのに学舎の守護なんて! ヤーナムの外から、学舎まで人が来るワケないでしょう」

 

 テルミは誰もいない古工房で父たる狩人がそうするように、大きな独り言をこぼし白い頬を膨らませた。

 愛すべきお父様は「眠い……限界……」と早々に大樹の根元に行ってしまい、人形もその後を追った。

 

 本当はテルミも行きたかったが、我慢した。人形の役割であり、彼らの伝統を尊重したからだ。

 あれこれと考え事は尽きないが、次の瞬間には薄く微笑むのだった。

 

「むうー、でも、セラフィはマシね。日がな一日、騎士見習いの稽古しているそうですから。けれど、あの子。騎士だ何だと言いつつ、まだ女王の穢れた血を啜っていないのは少々笑ってしまったけれど。……優しいお父様ですこと」

 

 未だセラフィが『夜警』どまりの理由を思い出す。

 カインハーストに送られた彼女が、来たるべき時まで選択できるように。

 狩人が祝福した経緯は、テルミにとって興味深い。

 

「お父様は、ああいう子がお好きなのね、きっと」

 

 狩人が四人に向ける目は、概ね平等である。

 テルミの孤児院にも時おり聖歌隊になりすました狩人が様子見にやってくる。

 並々ならない何かしらの感情があるのだろう。

 感情。

 それは、上位者らしからぬ情の動きだ。

 

「まあ、お父様らしくて素敵! とっても面白いし、どこにどう転んでも痛くはないから、なぁんにも問題ありませんけれどね!」

 

 テルミは、楽しげに笑って床につかない脚をふらふらさせた。

 だが、ある時。

 

「あら、あらあら」

 

 テーブルの木目が歪む。

 ハッとしてぶつかりそうな頭を押さえる。

 抗いがたい眠気で瞼が重い。

 

「なぁに……お父様の眠気ってわたし達まで及ぶ類いなのねぇ……あぁ、おやすみなさい。……いやね。やかましいオルゴールが聞こえるわ、忌々しい、いったい、誰の……子守、歌……?」

 

 木目が歪む。

 テルミはテーブルに突っ伏した。

 願わくば、父と同じ夢を見たかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 悪夢の主は、夢を見る。

 限界を訴える体を騙し騙し歩かせて大樹の根元までやって来た。

 そこに座り込み、ゆるゆると足を伸ばす。

 

 かつて最初の狩人、ゲールマンが座った場所に狩人はいた。

 花の香りに包まれて、彼の人は何を考えていたのだろう。

 一年に一度の思考をする。

 去年もこうしてここでゲールマンのことを想ったことがある。

 

 眠りから覚めた後は忘れてしまうことが多いけれど、ああ、考えがまとまらない。

 

「狩人様」

 

「すこし休む。ゲールマンだって眠っていただろう。そういうものだ」

 

「ええ。狩人様。おやすみなさい」

 

 狩人は、ひらりと右手を挙げて答えた。間もなく、深い寝息が聞こえた。

 そばに寄り添う人形が、花に埋もれた狩人の手を取り、胸の前に重ねた。

 

「また夜が来ますね。古い遺志が、あぁ、私の手から溢れて……」

 

 人形が宙を見る。

 優しい光を注ぐ白い月は、今や真昼のように明るい。

 細かな遺志は、宙を漂う。

 そして、狩人の夢から溢れ、悪夢の霧を通り過ぎていくのだろう。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 眠りとは、短き死である。

 ゆえに。

 目覚めとは、再誕である。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 全ての事態が急変したのは、悪夢の主の眠りから半日も経たない時の出来事だった。

 狩人の夢の扉が破壊的な音を上げて開かれたとき。テルミは夢うつつのまま「クルックスが、また火薬庫の武器で遊んでいるのかしら?」と呑気に考えていた。

 けれど、近付いて来る足音は、聞き間違えのできないほどに父たる狩人のもので。

 

「お、お父様?」

 

 彼は、いつもより大股で古工房内を歩き、カレル文字を脳裏に焼き付けるための儀式祭壇で作業を始めた。

 目をこすったテルミの見間違えでなければ、彼は内臓攻撃を高める『爪痕』をガン積みしている。その手つきは荒々しい。狩人の一挙手一投足をよく見ているテルミでも比較対象が思いつかないほど荒っぽい。怒っているのだ。

 誰に声をかけるのも臆さない性質のテルミであっても、恐いものは存在する。──例えば、怒り狂った上位者とか。

 

「あのぅ、お父様? どうかなさいまして……?」

 

「──テルミ、ビルゲンワースに飛べ。俺が戻るまで学徒達を部屋から出すな。それからクルックスを市街に戻せ。鐘を鳴らしたらネフを。セラフィには市街の怪しいヤツを片っ端から斬り伏せよと伝えろ」

 

「は、はぁい……で、でも、どうして……?」

 

「誰かが悪夢に入った。俺のヤーナムに」

 

「あぃ!」

 

 テルミは妙な声を上げた。

『まさか』が起きてしまった事態に心がついていけない。

 低い声で急かす狩人に返事をしたかどうか、意識は定かではない。

 

 テルミは、初めて狩人の夢から逃げ出すように地上の目覚めを促す墓碑に飛び込んだ。




つきがなく

狩人、寝る:
 ようやく来た一年に一度の睡眠時間。
 思えば、最初の狩人であり狩人達の助言者であったゲールマンはしょっちゅう寝ていた気がする。──全然、安らかではなかったようだけれど。
 眠らずとも活動し続けることはできるが、人間であったときの習慣を全て捨ててしまったら人間性を喪失しそうな気がするので、一年に一度眠ることにした。ついでにヤーナムの更新日もその日に定めた。目覚めたら新しいヤーナムが再誕しているのだ。悪夢は続き、悪夢は巡る。真新しいシャツに腕を通すような気分だ。──あぁ、血生臭い! だから俺に相応しいのだ!
……でも俺は成長期のアケチャンだぞ……? 幼年期のアケチャンなんだぞ……?

仔らの体調不良:
 自分の眠気ではないが、眠気にはどうも逆らえないので寝てしまった。

レオーの回想:
 7年生まであるからゆっくり進行してもよいのですが、設定より人物や話を見てほしいという筆者の下心があり挿入したエピソードです。
 謎解きを目的とした作品であれば、じっくり開示してもよいのかもしれない。けれど、本作はそういった目的は少ないため、実のところ、いつ開示しても変わりがなかったりもします。
 けれど想像以上に情報量が多くなってしまった。申し訳ない。


幻聴:
 悪夢を知覚する人々は、古い遺志に何かを見て、何かを聴く。
 人により異なるそれは、その年によって変わる。
 その音に、安らぎを感じるか。己が裂かれるような苦痛を覚えるか。
 ……どれも狩人が通りすぎた夢だ。けれど彼は覚えている。何も過去になっていないし、するつもりもないのだ。……

 クルックス:海の音
 テルミ:メルゴーの子守歌
 ネフライト:赤子の泣く声(メルゴー)
 セラフィ:実験棟の患者の声

 ユリエ:脳液のぴちゃぴちゃ音
 コッペリア:誰かが鉄格子を叩く音

 レオー:聖杯連中の声
 流血鴉:風の音

 シモン:海の音

 ブラドー:聖職者の獣の金切り声
 ピグマリオン:赤子の泣く声(メルゴー)

 ヴァルトール:?
 ヤマムラ:?

 ダミアーン:ミコラーシュのマジェスティック等(本当にミコラーシュが言っているのかと思って、資料室に確認に行った)


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夜歩き先生、来たる

ホグワーツ魔法魔術学校
歴史は古く993年に四人の創始者により開かれ、多くの生徒を輩出している。
その幾人かは優れた教師となり、これがイギリス魔法界の礎となるのだ。
神秘の種こそ違えど、ヤーナムには稀なる賢者ではあるのだろう。



 時は数週間、遡る。

 ヤーナムにおいてはネフライトが「ホグワーツから手紙が来ないのは、おかしいのでは?」と疑問を持ち始め、ヤーナムより遙か西方では、ウィーズリー兄弟がハリー・ポッターと夏休みを満喫している頃。

 

 その日、セブルス・スネイプは校長室にいた。

 

 部屋の主、アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア──この城、ホグワーツ魔法魔術学校の校長はスネイプが口を開くより先に「夜に呼び出してすまんのう」と謝罪した。現在時刻は午後十一時五十分。マグルであれば当然、魔法族であっても非常識な時刻であった。

 

 それほど急を要する出来事であれば嫌味も言うまい。

 用件をお伺いしたところ出てきたのは、四枚の黄色味がかった羊皮紙の上に、緑色のインクで宛名が書いてある封筒だった。

 

 遙か暗澹たる古都ヤーナム(月の香りの狩人宅) クルックス・ハント

 遙か暗澹たる古都ヤーナム(月の香りの狩人宅) テルミ・コーラス=B

 遙か暗澹たる古都ヤーナム(月の香りの狩人宅) ネフライト・メンシス

 遙か暗澹たる古都ヤーナム(月の香りの狩人宅) セラフィ・ナイト

 

 ──いったい、これは?

 目で問うとダンブルドアはテーブルの上に広げた封筒の一通を持ち上げた。

 

「全学年の教科書リストを送ったのは君も知っておろう。だが、何通出しても届かない学生宅があってのう。ヤーナムに向かわせたふくろうが、ほとんど帰っては来んかった」

 

「ほとんどは?」

 

「無論、帰って来たふくろうもいる。しかし、なぜか間もなく全身から血を吹き出してしまってな。ハグリッドが嘆いたものじゃ」

 

「そこで私にヤーナムに向かえと? それは良い考えで。学校のふくろうを買い足すよりは、安くあがるでしょうな」

 

「自らをそう卑下するものではない。セブルス。魔法界とヤーナムにおける外交の問題じゃ」

 

 外交とは、また大袈裟な話である。

 前年度、闇の魔術に対する防衛術の教授であったクィリナス・クィレルが発見した、ヤーナムという非魔法族の街。

 そこで偶然出会った魔法族生まれの男が希望したことで、その子供達が学校へ入学する運びとなったのが昨年度の話。

 しかしヤーナムは、現在までイギリス魔法界に認知されていない。

 

「これを」

 

 ダンブルドアが取り出したのは、赤い封筒に収められていた一枚の白い便箋だった。

 

 

 ──私、月の香りの狩人がヤーナムの名代として全てを定めた。私は今後ともイギリス魔法界及び魔法に関連する諸国が取り決めた、あらゆる事柄に対し基本的に接触しない。当分の例外として、ホグワーツ魔法魔術学校及び関連する事物についてのみ貴公らの定める規則等に従う。

 ヤーナムにおいてイギリス魔法界及び魔法に関連する諸国における全ての拘束は、効力を発揮しない。

 心苦しいことであるが、私は外交諸々の作法について明るくない。本約定もヤーナムの慣例に則ったものである。無礼を許したまえ。

 本約定又は本約定に定めのない事柄及び時勢の変化に伴う対応は、柔軟な構えである。ご相談は随時に。

 

 

 几帳面そうな細かな文字で綴られた内容は、およそ常識的ではない。月の香りの狩人は、殊勝なことに己が『井の中の蛙である』という認識をしているらしい。それでも多くの魔法使い達はこれを見て失笑するだろう。たかが一集落の代表者が立場を分かっていない、と。

 

「これは……条約ですらない。一方的な宣言でしょう。そうでなければ妄言に過ぎない。そして実情はこちらからの一切のコンタクトを拒むという意思表示ですかな?」

 

「しかし、昨年の入学通知書は届いたのじゃよ」

 

 ダンブルドアの言うとおり到達してなければ、四人の子供達は入学できなかったことだろう。

 一度は届いた実績があるため、他の生徒達と同様に教科書リストは発送された。

 今回の宛先不明事件は、ふくろうの消費と共に不可解な出来事としてダンブルドアまで報告が上がってきたのだという。

 

「『入学者選定リストに漏れがあった』とクィレルがわしに報告した時、彼は魔法省にも通達を送っていたようでな」

 

 はあ。

 スネイプは、青白い顔の青年を思い浮かべた。

 ダンブルドア曰く「好奇心に突き動かされた」彼だが、同時にそれだけではないことをスネイプは嗅ぎ取っていた。

 ──誰かに注目されたい。誰か私を見て欲しい。

 思い出すに嫌な男である。

 ただの自己顕示欲と引き替えに大きな代償を払った姿は、どこかの誰かとよく被る。

 

「ほう。動いた部署はどこですかな。まさか国際魔法協力部ではありますまい」

 

「魔法事故惨事部じゃよ。魔法省は我々と同じく、ヤーナムを把握していなかった。だからクィレルの報告を聞いたとき『ヤーナムとは、我々の把握していない魔法使いあるいは魔女が「隠蔽の呪い」を使っている土地なのではないか』と疑った。かつてアズカバンの礎となったエクリズディスのように。……もっともその仮定は三十分も保たなかったようじゃが」

 

 その仮定は、おかしな点が多い。

 子供達の父親である『月の香りの狩人』と名乗る男が、そのような呪いが使える魔法使いならば自分で子供達を教育すればよい。ホグワーツに子供達を送る必要はおろか、そもそも接触する必要が無い。──恐らく彼は知らないだろうが、イギリス魔法界では家庭教育も選択肢としてあり得るのだから。

 しかし、そうはならなかったので事態は急変を続けている。

 

「調査隊は?」

 

 クィレルは、外聞的に『ホグワーツに隠された賢者の石を盗もうとしたところ事故死した』ことになっているが、報告した時はホグワーツの教員という世間的に認められる立場の人間であった。

 魔法省は耳を傾けたハズだ。

 人狼が同じ報告をしても取り合わないだろうがマグル学教授でもあった彼の報告であれば、それなりの対応をしたのだろう。

 

「当然、向かったとも」

 

 ダンブルドアは、テーブルに置かれた一冊の手帳を取り出し何枚か項をめくった。

 

「『ヤーナムは、ロンドンから遥か東。人界から隔絶した境地にある。道中は検知不可能拡大呪文に似た呪いが重ねられているのだろう。何度となく道に迷いそうになった』──これと全く同じ状態に陥り、彼らは辿り着けなかった。危うく餓死者を出すところだったそうじゃ」

 

「…………」

 

 専門の調査隊が辿り着けなかったのに、なぜ、彼は辿り着けると思っているのか。

 無言で話の続きを促す。

 

「そこで最初の話に戻るのじゃが『彼らとの約定に則り、ホグワーツ関係者でなければ立ち入ることができない呪いなのやもしれん』とわしに問い合わせがあったのじゃよ」

 

「…………」

 

 スネイプは、つい疑わしい目つきで老体を見た。

 それでも理屈に合わない。ホグワーツからの通達である、ふくろうが届いていないからだ。どのような呪いか理屈か不明だが、単純に月の香りの狩人が門戸を閉じているから辿り着けない、届かないのではないか。

 疑問を口にすることはできなかった。

 

「昨年のクリスマスにメンシスが言ったことを覚えているかね?」

 

「『辿り着ける者だけが、辿り着けるだけ』でしたか」

 

「いかにも真理と見紛うほどに印象的な言葉じゃ。そのあとじゃよ。『魔法族も非魔法族も、かつてはヤーナムへ至れる瞳を持っていたでしょうに、いつの間にか失ってしまった』と」

 

「瞳……。何か、例えば『目』に関する仕掛けがあるとおっしゃるので?」

 

「ホグワーツ関係者よりは可能性が高いと思っておる」

 

「……分かりました。して、これだけですかな?」

 

 四人分の封筒を手際よく回収したところでスネイプは本題を切り出した。

 

「夏休みに入る前、わしはクィレルの足跡を追うと伝えたが……ひとつ特別な用事も済ませた。賢者の石の所有者、ニコラス・フラメル氏とも関わることじゃ」

 

 ダンブルドアは、立ち上がった。

 そして、ある戸棚を開いた。

 そこにあるものをスネイプは知っていた。

『憂いの篩』──ペンシーブと呼ばれる大きな浅い皿だ。

 それは、強力で複雑な魔力を持つ道具であり、記憶を再現する魔法がかけられている。

 

「先へ」

 

 ダンブルドアに促され、スネイプは渋々その皿を満たす液体に触れた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナム?

 ずいぶんと古い話だよ。

 ヤーナムとは……そうだな、ただの、辺境の、古い街だよ。

 私は……行ったことがない。

 しかし、いつの頃だったか、うーん、君と会うより前のことだったと記憶しているが……。

 突然、奇妙な噂が流れ出すようになった。

『何でも治る医療を行っている』とね。

 魔法族でその話を聞いた人は少ないだろう。

 噂の発端は分からないが、私の知る限りマグルの噂話で、そのマグルでも、何というかな、金持ちか運が良い人しか辿り着けない場所のようだった。

 そもそも帰ってくることができなかった。

 辺境だと言っただろう。

 当時は今ほど舗装もされていない。明日の天気も定かではない渓谷を、本当かどうか分からない地図を頼りに長々と歩かなければならなかった。食料は、あっという間に尽きたことだろう。山賊に襲われることもあるだろう。野生生物だって、マグルには大きな脅威だ。

 病み人に、それはそれは大きな試練を強いるものだった。

 だから『何でも治る医療を行っている』ヤーナムの話は、ヤーナムを目指すも諦めて帰ってきた人が『医療を受けて帰ってきた』と言って家族をぬか喜びさせた話がセットで広まるほどに度し難いものだった。

 しかし『火のない所に煙は立たぬ』とは、どうやら事実のようでね。

 ヤーナムは、実在する。

 このヤーナムの話は、百年のうちに私の母国のフランスでも聞いたよ。イングランド、ウェールズ、スコットランド……もちろん、北アイルランドでも。

 だが、一人だけ……恐らく、本当にヤーナムに行って帰ってきたと思しき男を見たことがある。

 チェコだったかな、あ、いや、イタリア……? 違うな、しっくりこない……。ロシアかも?

 えーと、すまない、本当にすまないと思うが……アルバス、忘れた!

 だが、その男のことは覚えている。

 私が外科に目覚めて、マグル向けの小さな診療所を開いていた時の患者だったから。

 妻のペレネレと店じまいをして、夕方の散歩をしていた時だ。

 どうにも通りがやかましいと思って見れば官憲隊と男が言い争いになっている。

 昼間から酒を呷っていた飲んだくれだろうと私達は気にも止めなかったのだが、よく見れば私の患者だった。

 彼は、薬で治る病だったが待ちきれず『まだ若く体力もあるから』と言って数ヶ月前にヤーナムに旅立ってしまった青年だった。

 音沙汰もないから死んでしまったのだろうと思っていたので私達は本当に驚いた。

 けれど、彼は前とは全く違ってしまった。

 病気が、ではないよ。瞳孔が蕩けて、獣だ何だと叫んでいた。お前達こそ獣なんだとか何とか。ほとんど叫び声で聞き取れなかったが。

 その頃には、私も「変だぞ」と思って杖を抜いた。正解だった。

 男は瞬きの間に、人狼よりもっと悍ましい獣の姿に変わってしまったのだ。

 けれど、あれは人狼だったのかもしれない。あの日は、満月の日だったから……。

 でも、彼は私の見るところ本当にマグルだったと思うのだよ。いや、スクイブだったのかもしれないが……ああ、ダメだ。確証が持てない。

 とにもかくにも彼は獣となってしまった。官憲隊の一人に組み付いて、頭を、こう、ガブッと食べてしまったんだよ。ガブガブとね。

 大通りは恐慌状態さ。

 だが、官憲隊の隊長だけは冷静だった。

 すぐさま銃を抜いて獣の首を撃ち抜いた。もっとも、死ななかったがね。

 二、三人が爪やら牙の餌食になったが、官憲隊の銃声が効いたのだろうか。獣が逃げ出した。

 官憲隊はそれを追って……誰も帰ってこなかった。

 衝撃的な光景だったが、この噂話は長く続かなかった。

 目撃者の数も影響しただろうが……何より外部的要因があってね。覚えているだろうか?

 ちょうどグリム童話が流行はじめた時期だったせいか獣の話と『赤ずきんちゃん』の狼の話が混ざってしまった。

 目撃者になりえた官憲隊が獣と一緒に姿を消してしまったことも拍車をかけたことだろう。

 結局、誰もいなくなってしまった。

 それでも不思議なことに、本当に不思議なことだが、ヤーナムについての話は、時おり聞こえてくる。

 少なくとも五〇年ほど前、付き合いのあったマグルの医療者は知っていた。

 私の知っていることは、この程度だよ。役に立ったかい。

 

 しかし、どうしてヤーナムの話を……今さら……?

 そう、か。

 ヤーナムの民が……。

 

 …………。

 気をつけたまえ。

 よく気をつけたまえ。

 アルバス。

 我が親しき友よ。

 

 人脈であるとか。経験であるとか。

 この件に関して、そういったものは、一切の役に立たない。

 私の知る限り、ヤーナムとはそういう類いのものだ。

 

 あそこは他とは違う。

 各国を巡った私が最期まで場所を特定できなかった街だ。

 異常性の説明なんて、それで十分だろう?

 

 何かを期待してはいけない。

 なぜか?

『火のない所に煙は立たぬ』からだよ。

 ヤーナムは存在する。

 ならば、きっと『何でも治る』ヤーナム医療も存在したのだと思う。

 賢者の石でもあるまいし、おかしな話と思うだろう。私もそう思う。

 けれど、けれどね。

 あの時代、そんな『おかしな』話でもなければ、辺境の一地方都市の話など口承であっても広まらない。何より私が記憶に留めようとも思わないのだよ。

 

 ヤーナムを知らない我々には『まるで最近発見された神秘』に思えてしまう。

 君も魔法省も、ヤーナムを未開の、文化的に遅れた土地のように考えていないか?

 だが、あれは恐らく違う。それは真実の歪な一面に過ぎない。

 その異常は、凡庸には見えず、賢者は見えていたとしても隠し、時の才人が触れず、誰もが見落とし続けた。

 

 ヤーナムの神秘は君より古く、私より古く、最初からそこにあったのだよ。

 

 注意することだ。アルバス。

 他国の魔法使いを相手にするより困難だ。

 なんせイギリス魔法界の膝下にありながら、今まで碌な発見もされなかった街だ。

 今回、そのクィレルさんとやらが見つけたという話だが、それも何度目の再発見なのやら分からない。

 マグルで言うところの宇宙人だと思ったほうが適切な距離を学べると思う。

 

 本当に、注意したまえ。

 彼らがどれほど幼く、穏やかで、賢く、美しく見えたとしても油断してはいけない。

 

 そして、くれぐれも何かを得ようとはしないことだ。

 等価交換法則とはいかない。

 手を伸ばしたら腕をもがれ、見つめた光彩は失われる。

 それでもマシだろう。

 

 本当は目を合わせてはいけないし、見つけても、見つかってもいけなかった。

 

 もう遅い。手遅れだ。

 好奇心の代償は、こうして誰かが払わなければならないのだ……。

 

 手紙を見たところ。

 彼は、ある程度の理非の判断力を持ち合わせる人物に思える。もっとも、そう振る舞っているだけかもしれないがね。

 彼らの正体をつかむまで彼らのルールに則り、行動した方がいい。

 一方的な宣言だとしても、君がこの手紙を受け取った時から始まる魔法契約のようなものだ。

 相手は、これらの宣言について『既に受け入れられたものだ』と思っているだろう。

 

 本当に。

 本当に本当に、注意してくれ。

 アルバス。

『どうしてこれまで誰も問題にしてこなかったか』をよく考えて行動すべきだ。

 

 あぁ。

 それは良かった。

 

 友よ。最期に会いに来てくれてありがとう。

 君の眠りも穏やかであることを祈っているよ……。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 長い夢から醒めるような感覚があり、憂いの篩から離れた。

 先ほど見ていたものは記憶だ。

 ダンブルドアがニコラス・フラメルから聞き取ったヤーナムの情報。

 彼の知識とクィレルの手記。

 これが地上で存在する、ヤーナムの近況に最も詳しい情報だろう。

 それでもフラメルの話は二〇〇年以上前の話だが、逆説的に二〇〇年以上地理的な特定は不可能であり、噂の内容は変わらなかったと言える。

 スネイプは受け取った手紙が重くなる錯覚に襲われた。──安心材料になるモノは何もなかった。空が落ちてくるような不安感だけが増した。

 

「──もしも、我々の知らない魔法を使う人々であれば『宇宙人』とは言い得て妙ですな。闇の帝王は多くの巨人を手なずけ、人狼を従え、闇の生き物を使いとした。しかし、そのなかに宇宙人はいなかったと記憶しておりますからね」

 

 スネイプには、黙っているダンブルドアの思惑が分かっている。なぜ依頼されたのだか理解していた。

 巨人であれ、人狼であれ、話が通じるのであれば交渉する。そして、ヴォルデモートの側につかないよう説くのだ。

 ヤーナムについても同様だ。

 ヴォルデモートはクィレルを介して既にヤーナムの神秘の何たるかを知っている可能性がある。

 だが、交渉はしていない。クィレルとヴォルデモートが出会ったのは、ヤーナムを出立した後の話だ。

 だからこそ未来の先制攻撃のために今、ヤーナムに踏み入る。

 そして、彼らが唯一交渉に応じる『ホグワーツ魔法魔術学校及び関連する事物』について用事を済ませる『ついで』にヴォルデモートの危険性を説明し、味方にしなければならない。

 いずれ来たる、決別の日のために。

 

 それでも疑問は残る。

 

「ここまでする価値が本当にあるのか……疑問ですがね」

 

 ヤーナムとヤーナムにまつわる噂話は、不気味である。それは認めよう。だが、今ならば不気味どまりの奇妙な話で終わってしまえるのだ。

 

 例えば、ヤーナムの彼らの方から、イギリス魔法界に現れないだろうか。彼らは、次年度で使う教科書リストが手紙で届くことを知っている。届かないことをおかしいと思って現れそうな生徒はいる。ハッフルパフのテルミは最たるものだ。だからダイアゴン横丁、例えばグリンゴッツ銀行の前などで彼らが現れるまで待つという手段がある。

 そして、彼らと接触できたら月の香りの狩人へ話をしたいと伝える。それから、ヴォルデモートの話をすればよい。

 これには魔法界からヤーナムを探る──少なくともそう見なされる危険を冒さないメリットがある。強いて挙げるデメリットは『来るかどうか分からず、確実性が無い』という点だが、それはヤーナムを徒歩で探すより遙かに小さなデメリットだろう。メリットを覆すデメリットになり得なかった。

 しかし、ダンブルドアは首を横に振った。

 

「月の香りの狩人。彼が、いったい何なのか。──君の目で、確かめてもらいたいのじゃよ」

 

 多次元で最も証明困難な課題と知らず、セブルス・スネイプは拝命した。

 そして、これは夏休みの終わらぬ課題となった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 現在、ヤーナムは柔らかな閉鎖中。

 すなわち、辿り着ける者だけが、辿り着けるだけの状況にあるが、唯一、綻びを見せる日がある。

 上位者の安息日とも言える、ヤーナムの一年が更新される日だ。

 人形は子守唄を歌い、遙か先の未来で『月の魔物』と呼ばれる幼体が真なる姿を見せる頃。

 

 日が沈み、月が昇る。

 やがて、光が街を差した。

 

 夜が訪れた。

 ビルゲンワースの蜘蛛は未だ秘匿を続けている。ゆえに昇る月は、赤ではなく青だった。

 しかし、月は雲より地上に近く浮かんでいた。

 

 月が近付くヤーナムでは、全てを隔てる境が曖昧となる。

 ゆえに夢が現実に、現実が夢に還ってくる。

 

 学徒達が待ちわびた、彼方からの神秘が降り注ぐ。

 

 長らく続いている夢を識った人々は、古い遺志を見聞きするだろう。

 宙は、古い遺志に満たされ、目を閉じれば、あるいは虚空に誰かの遺志を見て、声を聴く。

 

 今宵も、きっと、誰かが還ってくる。

 そしてヤーナムの歴史は紡がれるのだ。

 

 あぁ、なんと幸いなことだろうか!

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 結果だけを述べるとセブルス・スネイプは、数日間の放浪を経てヤーナムに辿り着いた。

 スネイプは、ヤーナムと他を隔てる重い鉄扉を両手でこじ開け、足を踏み入れた。

 これは正しく、そして幸運な結果だった。

 

 しかし。

 

 ……ひょっとして、聞き慣れない足音が気に障ったのだろうか。

 それは目覚めの先触れとなってしまったようだ。




夜歩き先生

ホグワーツ回:
 ダンブルドア校長のお願い。ふくろうより安いスネイプ先生、ヤーナム行きが決定する。渋りながらでも行くあたり仕事人ですね。何か事情があるのかな。不思議だね。

ニコラス・フラメル氏、語る:
 辿り着けない。魔法使いの勘がヤーナムを無意識に見落としているのか。それとも、ただ不運であるだけなのか。ろくなもんじゃないと語る内容は、ごもっともすぎて顎が外れそうです。

ペレネレ:
 ファンタジック・ビーストにて遂に登場したニコラス・フラメル氏ですが、妻ペレネレが不在(死去? 写真になっていたのは遺影ということなのだろうか?)でした。
 本作において『1年生』章の賢者の石に関する記述において、まだ生きているような書き方をしてしまったので生きている事として書いています。この辺り、原作と矛盾する描写ですがファンタジック・ビーストと賢者の石で矛盾してるように見えるので赦して……赦して、くれ……


……ところで息するように出てくる皮肉は、とても書くのが難しいです。
ご感想お待ちしています(ジェスチャー 交信)


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東の朝焼け(上)

夜明け
東の空が明るくなり、太陽が昇ること。
闇に深く沈んだヤーナムの民が、震えながら焦がれるものだ。
しかし、知の探求者は背を向け、暗闇を探すのをやめなかった。
最後にして最新に訪れた『獣狩りの夜』では一ヶ月夜が続き、甚大な被害が出た。
……悪夢のような話だろう。これが現実なのだから堪らない……



「お父様、怒ってます?」

 

「全然、怒ってないぞ」

 

「怒っているんだ。もうダメだ。おしまいだ。やっぱりヤーナムは遠からず滅ぶんだ。くぅ……せめてもう一度、七面鳥を食べたかった」

 

「怒ってない! 滅びないぞ! ヤーナムは永久に不滅だからな!」

 

「しかし……」

 

 ヤーナム市街。寂れた裏路地の一角。

 たむろする獣狩りの群衆を殺した後でクルックスは、回転ノコギリで狩人の影を差す。

 月に向かって影が伸びていた。

 しかも人の形をしていない。無数の触手が影のなかで月に手を伸ばしている。まるで慕うように。

 

「学舎に飛込んできたテルミが怯えていました。自分が死んでもケロリとしている、あのテルミが。よほどのことです。言い逃れは、俺の贔屓目をして不可避と言いますか……」

 

「ンンっ」

 

 狩人は咳払いをすると仕込み杖で自分の影を小突く。

 影は、素早く人の形を取り戻した。

 

「はい。忘れたな?」

 

「そのうち忘れます。ちょっとグルグルしてきたので」

 

 発狂の高まりを感じたのでクルックスは、鎮静剤を口に含む。

 発狂気味の場合、人血が美味しく感じるという。今日は、味わい深い感覚があった。

 身震いして口を拭い、血除けのマスクを鼻の上まで上げた。

 

「学徒達には内緒にしてくれ。とにかく私は怒ってない。いいや。正直に言えば工房でカレル文字を組み直していた時は怒っていた。ああ、鐘女に挟撃された並にイラッと来た。俺にも人並みの感情はあるからな。しかし市街を歩いているうちに思い直した。矮小の人間のしたことだ。怒っていたらキリがない。そう。私はいつだって話の分かる上位者というテイで生きていきたいのだ」

 

「じゃあ、侵入者に出会ったら?」

 

「命の覚悟をしてほしい」

 

「やっぱり怒っているんだ。もうダメだ。おしまいだ」

 

「だから終わらないって言っているだろう。とにかくだ。前向きに考えるとしよう。私は寝ていても侵入者に気付くということが分かった。これまで眠る日に入ってきた人間はいなかったから知らなかった」

 

「そうなのですか? それでは、これまでの人間はどうやって入ってきたのですか?」

 

「どうって普通だ。門を開けて入ってきたのだろう。ヤーナムは、まったく閉鎖しているワケではないからな」

 

「では、辿り着ける人と辿り着けない人がいる理由は何なのですか?」

 

「単純な運の問題だ。現在のヤーナムは過去のヤーナムと等しく、病を持ち、正しく、そして幸運な人間を迎え入れる。まれに啓蒙高い瞳を得た人もいたが、最近ではとんと見かけないな」

 

 二人は市街の哨戒を続けていた。一時間が経とうとしているが、外からの来訪者は見つかっていない。クルックスは、もう獣の餌になったのではないかと思っていた。

 

「異邦人は、お父様の目でも捉えきれないのですか?」

 

「お父様は市街で禁止だと言っただろう。──私は狩人も住民も監視していない。医療教会のように皆を管理しているつもりはないからな。どこで誰が何をやっているかまで分からない。人々の目的の大筋は変わらないが、行動動機はさまざまな要因で変わる。一概には──ダメだ。この通りにもいない。このままヨセフカの診療所まで行くぞ。南門をくぐってきたのならば、そこに出るからな」

 

「はっ了解!」

 

 今日は、市街のあちこちから銃声が響いている。

 月の明るい夜は、狩人も獣も視界が良好だ。必然、遭遇率も上昇する。

 銃声の一つ。

 甲高く尾を引く音が耳に届いた。

 カインハーストの狩人達が好んで使う、エヴェリンの音だ。

 

「セラフィの銃だ」

 

「だが、一発だ。それらしいものを見つけたら『連続で三発撃て』と言ってある。獣だろうな」

 

「……急がなければ」

 

 二人は、ヨセフカの診療所を目指し駆けた。

 

 ほんの四時間ほど前。

 クルックスは、突然の眠気に驚いたが狩人の影響であると分かっていた。

 意識を委ねて長い時間が経ったように思う。

 

 その間、浅い眠りのなかで波の音を聴いていた。

 寄せては返す、穏やかな浅瀬だった。

 橙色の淡い月が、波を黄金に染める。

 狩人がいつか見た記憶なのだろう。

 綺麗だ。

 

(けれど、いったい、これはヤーナムのどこなのか……?)

 

 そんなことを考えているうちに、意識が揺さぶられ、気付けばビルゲンワースで目を覚ました。

 そして、驚いてしまった。

 まだ夜だったからだ。月の香りの狩人が眠ったら次に目を覚ますのは、朝だと聞いていた。てっきり自分も朝目覚めるものだと思っていたのだ。

 

 ──何か異常があったに違いない。

 

 同じく考えた学徒達が、顔を寄せて相談をはじめた頃、狩人の夢にいたはずのテルミが飛び込んできた。

 そして、すぐに市街へ向かえと言う。

 言葉どおり、回転ノコギリを手に市街へ飛び……今に至る。

 

「──眠っている間、俺は海の記憶を見ました」

 

「海?」

 

「綺麗な、温かい色の月が昇って、波が黄金に輝いて、綺麗だった……でも海は、ヤーナムでは……あれは、いったい、どこの──」

 

 先を走る狩人が、ほんの一瞬、振り返る。

 そして。

 目を見開き、手を伸ばした。

 

「ほう、お主。……懐かしい海を見たのかね?」

 

 背後に広がる闇から聞こえたのは、知らない男の声だった。

 反射的に動いた手が回転ノコギリを駆動させた。応えた機構が火花を散らし、力任せで後方へ振るった。

 

 結果的に命拾いした。

 

 瀉血の槌──肉塊を歪に絡ませた仕掛け武器と激突する。

 弾き飛ばされた先で狩人が背を支えた。

 

「ぐぅっ……何者だっ!」

 

 回転ノコギリの柄を握る手が痺れる。

 対人戦において純粋な力負けをしたのは久しぶりだった。

 

「教会側の人間だ。もっとも、後ろの男が詳しいと思うが」

 

 教会側の人間。

 その言葉が最近、セラフィに聞いた記憶を呼び起こした。

 

 ──獣の皮を被る御仁。

 ──できれば、もう一度……会いたいのだ。

 

 その男は、正気とは思えない装束を身にまとっていた。聖職者の獣の皮だ。歪にねじ曲がった角は、聖職者が獣に変態する際によく見られるものだ。

 セラフィのことを思わず口にしかけた瞬間、狩人が二人の間に立ち入った。

 

「待て待て! 敵ではない! お互いに敵ではない!」

 

「それを決めるのは私だ。お主ではない。……そこを退くがいい、月の香りの狩人」

 

 瀉血の槌を構え直した男が、一歩踏み出した。

 

「──クルックス! 鐘の音は聞こえているか?」

 

「か、鐘? 定刻の鐘は十分前に鳴りました、が……?」

 

「裁判長、鐘の音が聞こえていないので敵ではないということで」

 

「しかし、先ほど『海』と聞こえた」

 

 狩人の強い視線を受け、クルックスは真っ直ぐ獣の皮を被る男を見つめた。

 

「ええと、ほおずきの間違いでした」

 

「ランランだよ、ランラン。ランラーン」

 

 クルックスの無茶苦茶な言い訳を受け、狩人がさらに言い加えた。破綻した援護射撃だった。

 しかし。

 

「ほ、ほお、ず……間違い……?」

 

 瀉血の槌がわずかに逸れた。クルックスは奇跡を目撃した。彼は知るよしもなかったが、悪夢に偏在する邪眼を有す生物『ほおずき』と海は、浅からぬ関係があった。即席の芝居が得意ではないクルックスと狩人の苦し紛れでお粗末な言い訳であったが──発言を深く勘ぐってしまったがゆえの躊躇だった。やはり奇跡だった。

 

 彼が気を取り直し、武器を構え直すまでの隙を見逃さず、狩人が彼の前に立った。

 

「この話は終わりだ、終わり! 閉廷! 散会! そんなことよりちょうどよかった。ブラドー、今日、何か妙な者を見なかったか? 外から来た異邦者だ。ほんの一時間前からヤーナムに立ち入ったと思われるのだが……」

 

「は……、知らぬ。先ほど獣の耳鳴りが消えたから市街に来た。そして『海』について聞こえ──」

 

「ああああ、ありがとうな! では、大聖堂方面はいなかったということだ。やはり、門と出入り口近辺を探したほうがいい」

 

 あらためて問いただされる前に、狩人はクルックスを急かして南へ向かおうとした。

 

「見えることあたわず。──私が殺すとも」

 

「せめて生け捕りにしてくれ。まだ何も探ってはいないと思うが、その人が消えたことで外の面倒な問題に発展しかねない。外から今以上に人が来るのは好ましい事態ではない。貴公も同じだろう?」

 

 獣の皮を被る男──ブラドーは、そのまま闇に身を溶かして消えた。

 その光景に思い当たるものがあったクルックスは喉の奥を詰まらせた。

 

「えっ? え……? そんな、あ、あの人も夢を見る狩人なのですか?」

 

「俺達とは理屈は違うが、ここでは似たようなものだ。そんなことよりマズい事態だ。暗殺者の追手がかかった。侵入者が誰であれ、あの様子では殺される。ヤーナムの外がどうなろうと彼には知ったこっちゃない話だからな」

 

「あの方は、……お父さ、狩人さんのお友達ではないのですか?」

 

「利害の一致で何とか交渉までこぎ着けた仲だ。狩人としては尊敬してもいいが友情を感じるには殺しすぎた。また殺されすぎたな。俺ではなく、シモンが……。急ぐぞ」

 

「は、はいっ」

 

 二人は、より下層の市街へ降りるため鉄梯子まで走った。

 遠くで再びセラフィの銃声が聞こえた。

 一発。

 距離は先ほどより遠い。

 彼女も成果を求めて探しているようだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 一時間前。

 セラフィがカインハーストで目覚めると騎士の先達が顔を覗き込んでいた。

 

 顔。

 顔だ。──この、顔のせいだ。

 

 騎士達の好む顔は、やはり落ち着かない気分にさせる。

 最悪の目覚めだった。

 

「起床。……あぁ、お恥ずかしい。寝顔など熱心に見つめられては……さしもの僕も、たまらない気分になる……」

 

 レオーが喜びつつ、慌てて顔を背けた。

 

「わ、悪い。鴉もほら、謝って」

 

「夢見が悪かったようだな」

 

「──俺の話聞いて?」

 

「ええ、はい、なにか……悪い夢を見ていた気がします。よく覚えていませんが……」

 

「あぁ、そりゃ幸いだ。忘れたことがな!」

 

 レオーがケロイドだらけの顔を歪めた。

 笑っているのだと分かり、セラフィも安堵する。意識を失う直前に彼が声を荒げているのを聴いたからだ。

 ──いったい何が起きているのか。

 身を起こすと鴉がジッと見つめていた。

 

「鴉羽の騎士様、ご心配をおかけして……? ……おや?」

 

 ベッドから足を下ろすと床から悪夢の小さな住民である使者達がわらわらとわき出た。

 

「…………」

 

「鴉羽の騎士様、使者達をいじめないでください」

 

『部屋に虫が出た』という風に使者達を踏みつける鴉を諫める。彼は小さくて無力なものが嫌いなのだ。

 使者達は、鴉から離れたところで手記を広げた。

 

『侵入者あり。市街哨戒急げ』

 

 セラフィに白湯のグラスを渡した後で。

 レオーが手記を見て「はーあ?」と声を上げた。

 

「つまりさ『月の香りの狩人が寝ている隙を突かれた』って意味だろ、これ」

 

「夜は、まだ明けていない。──時刻は?」

 

 鴉が立ち上がり、窓の外を確認する。

 空はくすみひとつない。

 宝石箱をひっくり返したような星々が輝いていた。

 レオーが首に提げていた懐中時計を開く。

 

「二時を回ったところだ。──鴉、行けるか? 俺は自信が無い」

 

「目的は狩りではない。哨戒だ。セラフィだけでよい。いいや、しかし。待て。これは……」

 

 思案顔でカーテンをゆっくり閉じた鴉は、振り返った先でレオーがニヤリと笑うのを見た。

 

「そうさ。俺の足じゃ市街に行く頃には朝だが、お前なら間に合うだろう。あの狩人に、貸しを作るいい機会じゃあないかと思うワケだよ」

 

「検討の余地がある」

 

 鴉は、テーブルに置かれたカインの兜を迷いなく手に取り、腰に連装銃を差した。

 レオーは手を叩き、いそいそと小屋の壁に吊していた鴉羽の外套を洋服掛けから外した。

 

「そうこなくては! セラフィ、休んでいいぞ。ぜひ休め。寝ろ。むしろ一緒に寝よう。いやぁ~お前のパパと楽しい一年を過ごせそうだぜ。鴉、お前の打算的瞬発力、最高に愛せる」

 

「──いいえ。それに及びません。レオー様、鴉羽の騎士様、僕が仰せつかった仕事です。僕が市街に行きます」

 

 兜を被ろうとした鴉が、眼だけをセラフィに向けた。

 心の奥底まで貫かれてしまいそうな眼光だった。

 だが、それに怯むようではカインハーストの住人は勤まらない。

 セラフィは、ベッドから立ち上がり作業台に置かれていた落葉を手に取った。

 

「ダメダメ。なに言っているんだ。稽古疲れもあるだろう。寝てろって」

 

「僕が行きたいと思っているのだから、どうか止めないでください」

 

「無茶な。市街なら鴉の方が詳しいだろう。大人しくして……」

 

 言葉を尽くそうとするレオーは、鴉が手を上げたので口を閉ざした。

 

「誰が入ったか。心当たりがあるのか?」

 

「はい。そろそろ学校から手紙が届いてもいい頃合いです。先日、すこしお話しましたが、ホグワーツ魔法魔術学──」

 

「セラフィ」

 

 鴉が兜を手放し、セラフィに手を伸ばした。

 男の手は、腕を辿り首に触れた。ほんの一瞬、驚いたセラフィの体が跳ねた。

 

「私の前で『魔法』などとふざけたことを言うのは、やめろ。前にも告げたが?」

 

「あ。そういえばそうでした。いえ、うっかり忘れて。あっ。これはまずい。申し訳あ──」

 

 レオーに、鴉の手元が見えなかったのは本当に幸いなことだった。

 小屋に、教会の連装銃の発砲音が響き渡る。間もなくセラフィの姿は、無数の血の残滓となって消えた。

 ようやくレオーは口を開く決心をした。

 

「あのさぁ。いちいち言いたくないから言わなかったんだが……そろそろノリでセラフィ殺るのやめない? このやりとり数日前も見たぜ」

 

「私はセラフィの口からその言葉を聞きたくないのだ。魔法だの、魔女だのと。我らは教会の仇であれ、民衆に石を持って追われる罪人になった覚えはない」

 

 気が塞いだ声で鴉は言った。

 

「だからって口に銃突っ込んで撃つのは八つ当たりだろ。あー、やだやだ。そのうちセラフィに『鴉羽の騎士様ったら野蛮! 嫌い!』とか言われたりするんだ。俺は忠告したからな? 見てろよ見てろよ」

 

 この顔だけ良い野郎め。

 レオーは彼から連装銃を没収し、鴉羽の装束を壁に掛け直した。

 気にした素振りなく、彼は頬に散った返り血が空気に溶けて消えてゆくのを見ていた。

 

「そんな未来はありえない。今は……ふむ……夢に帰る手間が省けたのだからよいだろう。私はむしろ礼を言われる立場にあるのだが?」

 

「その理由さっき考えただろ! 世の中は、お前の想像以上に過程も大事だからな!?」

 

 鴉は、元通り椅子に座った。

 誰もいなくなったベッドを撫でる。

 わずかな温もりが彼女のいた証だった。

 朝は、まだ遠い。

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナムの狩装束に身を包んだセラフィは市街を駆けていた。

 

 流血鴉の琴線に触れてしまったとき。

 セラフィはレオーほど上手く取り繕うことができないため、たいていの場合、死んでしまう。鴉は教育の手法を言葉に求めず、常に暴力的な実行力で示した。カインハーストでは日常茶飯事のありふれたことだ。だから気にしない。セラフィは死を夢にするための意識の断絶を乗り越えつつ、心機一転を心がけた。そして今回は、いつも以上にどうでもよかった。レオーを説得する時間の短縮になった。

 

(どうしても市街に来たかった。こんなに早く来る機会が得られるなんて侵入者、よくやった! いい仕事をしたな! もし、見つけたら最後に殺してやろう!)

 

 セラフィは、走る。

 流血鴉に反発してまでやって来たのは、父たる狩人に命じられた役割──それにかこつけて、教会の射手を、獣の皮を被った男を探すためだ。

 

「射手は──いや、獣の皮を被る御仁を探すほうが先か。彼は、射手は追っていたようだから……?」

 

 路地か。

 ひょい、と路地を覗くと路地をうろつく罹患者の獣と目があった。

 

「たしかに僕は獣らしき男を捜しているが、獣そのものではない」

 

 教会は何をやっているのか。きちんと獣を狩っていないのか。

 辺りを見回しても足音ひとつしない。周囲には、明かりのついた家もあるというのに。

 血族狩りばかりに熱心で獣狩りが疎かになっているのだろうか。

 

(それにしても)

 

 聖堂街への大橋以北に射手や獣の皮を被った男のそれらしい姿は無かった。

 また、侵入者が数時間で聖堂街上層や隠し街ヤハグルまで立ち入ることができるとは思えない。

 ──では、もっと南か。

 下の市街へ行くために、セラフィは落葉を分離させた。

 

「名乗れぬ獣には礼など不要だが、せめて弔いは必要だ」

 

 カインハーストは不死の女王が存在し、血を狩る騎士達がいる。貴族達も亡き今、騎士達の獲物は獣ではなく、もっぱら市街の狩人達だ。

 だが、過去の栄華を知る騎士がいる。

 レオーにとって古くから血を嗜むカインハーストの住人は、獣の病の隣人であり──獣となった貴人を狩るのは従僕たる騎士の役割だった。

 ヤーナムより古く、血に、獣に触れた人々でもある。だからこそ、息づく哲学があった。

 セラフィがカインハーストの騎士に最初に教わったことは、彼らの『慈悲』だった。

 

『獣を狩る時は、常に我が事のように思いたまえよ。そのものになったように。流される血を楽しんではいけない。ただし、悲しんでもいけない。血の温もりを知れ。亡骸の冷たさを知れ。ただ、心を寄せたまえ。それだけを人にとどめる縁とせよ』

 

 獣と対峙する度にレオーの諫言が蘇る。

 未だ手触りも知れぬ慈悲を胸にセラフィは、獣を見据えた。

 

「僕の慈悲は、等しく命を絶つだろう。苦しむ貴方と僕の心が触れる瞬間に。だから──僕の狩りを知るがいい」

 

 すでに間合いの内。剣は月光を弾いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夜にヤーナムを訪れる人は、多くない。

 それは単純に『夜は人間が活動する時間ではないから』という理由もある。

 だが、ヤーナムにおいては事情が異なった。

 

 夜は獣が闊歩する時間帯であるため夜ごとやって来た異邦者の末路は──たいていの場合──獣に襲われて丸ごと食われるか、食い散らかされるかして、存在の確かめもできなくなってしまうのだ。

 しかし、偶然に偶然が重なれば、市中の狩人に保護されることもあった。とはいえ稀なことだ。狩人より獣の数が多いため、数えられるほどの幸運な事例に違いない。

 さて、異常続きの夜。

 ここ百年で最も珍しい事例が起きようとしていた。

 

 セブルス・スネイプは、彼自身の努力と幸運により生き延びていた。

 

ステューピファイ! マヒせよ!

 

 狩人の間で『罹患者の獣』と呼ばれる生き物は、四つ脚の大柄な黒毛の獣だ。

 呪文が命中すると獣はわずかに怯むが、街灯を三つも過ぎないうちに再び追ってくる。効き目は薄い。そして無言で放った「アビフォース」。木箱を数羽の鳥に変化させ、気を逸らす作戦も失敗していた。獣は一心に人間を追っていた。

 

 クッと歯噛みをして街灯のある道を駆ける。満点の星空が見守る市街には、あちこちから銃声が響いていた。

 街に着いた最初の数十分は「銃撃だ。治安の悪い街に来てしまったな」と思ったが、この獣に出会ってからは認識が変わった。──こういった獣を殺すために彼らは銃を使っているに違いない。

 

 路地に転がる棺桶に向かい杖を振る。それらは、がちゃがちゃと重々しい鎖を鳴らして獣の進路を妨害した。多少の時間稼ぎになるだろう。

 スネイプは、額の汗を拭う。

 ほんのわずかな休息の間、彼はダンブルドアは放った別れ際の言葉を思い出していた。

 

 ──昨年、トロールを倒した後。クルックス・ハントと話す機会があったのじゃが……『月の香りの狩人』について、狩人とは何を狩るものなのか。聞いたことがある。

 ──何かを探すような目をしていた。開心術ではなかったが、彼は結局「獣」と言ってくれたのじゃよ。

 

 今は亡きニコラス・フラメルが見た獣と官憲隊とのやりとりは、真実だろう。

 そして、これはネフライト・メンシスがクリスマスの会食席で言った「ヤーナムで蔓延する奇病」なのではないか。魔法界においても、マグル世界においても異常な大きさの獣だ。

 

 ふと足下から視線を感じた。闇の中でガラス玉のような瞳が光った。月光に照らされ、羽毛の輪郭が浮かび上がる。思わず後ずさりした。それは、丸々太った烏だった。間もなくギャアギャアと啼き、翼をばたつかせる。去り際に「ラングロック、舌縛り」をかけて烏を静かにさせた。

 

「何なのだ、この街は……!」

 

 どこもかしこも異常な生き物ばかりだ。

 ネフライトの言う『ヤーナムの奇病』とは『野生動物が異常な変化を遂げる』ものではないか。スネイプが思いついた仮定は、ネフライトがヤーナムの奇病について話す数十秒前に話していた内容──古くからの民間療法の弊害で──という言葉を思い出せば、すぐに破綻するものだったが、街に入ってから今まで獣に追われ続けていた彼にとっては何よりの証拠に思えた。

 

 ──とにかく、朝まで逃げ回るワケにはいかない。

 体力を消耗しきる前に安全な場所を探さなければ。

 スネイプは辺りを見回した。

 

 彼は、ヤーナムの街の規模をせいぜいホグズミード村かそれより小さい規模だと想像していた。だが、立ち並ぶ軒並みと建造物の群れを見れば、認識を改めなければならなった。

 クィリナス・クィレルが書いた手記は、真実であった。

 ヤーナムには、激しい高低差を利用して建造された十九世紀程度の建造物がひしめき建ち並んでいた。いま寄りかかる街灯は、時代にすっかり乗り遅れたガス灯である。しかし、当時であれば最新の物であり、街だったに違いない。

 

 街灯のある道を行かなければならない。

 暗がりに獣が潜んでいたら対応できない。対峙した獣の俊敏さには、驚くべきものがあった。 

 視界の端、家から漏れ出る光が揺れた。カーテン越しに誰かがいた。

 

「誰かそこにいるのか?」

 

『おぉぉ、かわいそうに。病気を治しにヤーナムに来たのかい?』

 

「……。ああ、そうだ」

 

 実際は、もちろん違うが、そういうことにした。

 このまま避難所についての情報が欲しい。それか月の香りの狩人の手がかりを。

 会話の糸口をつかもうとして返ってきたのは嘲りであった。

 

『馬鹿め! 夜に教会様が拝領なんてしないよ。お前みたいな間抜けにお似合いの、股のゆるい娼婦なら買えるかもなあ! ヒヒッ、イヒヒッ……!』

 

「……っ!」

 

 およそイギリス魔法界では聞かない侮蔑である。

 頭脳明晰な教授は、理解に数秒を要した。

 ゲラゲラと不幸を笑う声音が耳について離れない。

 怒りよりも奇妙ゆえの畏れを抱き、スネイプは窓から離れた。避難所について聞き出すことなど頭から飛んでいた。

 

 街灯と方角を頼りに街の中心部らしき方角へ進む。

 幸いにして獣の姿はなく、松明を持った数人が道を歩むのを見つけた。

 手には、これまた時代遅れのマスケット銃を持っている。

 

 ようやく、武装をしたまともな人々を見つけスネイプは声をかけた。

 

「もし。そこのミスター」

 

 ところで。

 セブルス・スネイプは、人狼という存在について知っている。未だ身を焼く憎しみを思い出してしまうほど知っている。

 そして生い立ちからマグル世界の常識も知っている。

 だからこそ。

 ヤーナムというマグル世界において、松明を持つ人に話しかけようという選択肢を選ぶに至り、危機に陥った。

 

 毛むくじゃらの顔がこちらを見た。

 輪郭が崩れ、どろりと溶けた瞳孔に自分が映る。その顔は強ばり、声をかけた口のままだった。

 どうして気付かなかったのだろうか。スネイプはわずかに視線を逸らし、彼らの妙に長い腕を見た。

 

 ──人間ではない。

 

 感情のない獣の顔がスネイプを見返していた。

 彼らから離れようとする足が石畳にぶつかり、地面に腰を打ち付けて転がった。

 ハッと息を呑む。

 呪文を唱えるべきだと思った頭とはあべこべに口は、焦がれる女性の名を呼んだ。

 

「リリー」

 

 小さく名を呼んだのは、向けられた銃口の先で死を悟ったからだ。杖を振るには、あまりに遅い。

 しかし、銃声は背後から聞こえた。

 

「貴公。伏せていたまえよ」

 

 咄嗟に頭をかばい、身を丸めた。

 その頭上を無数の散弾が飛び、群衆をよろめかせた。

 間隙を見逃さず、一人の男が音もなく駆けてくる。わずかに鞘鳴りだけが聞こえた。

 

「っ!」

 

 頭上で重々しい鉄塊が振り下ろされ、骨肉が裂かれた。

 悲鳴とも断末魔の声ともつかぬ雄叫びを上げ、群衆が倒れ伏す。

 静かになった頃に頭を上げれば、返り血に汚れた顔の男が立っていた。

 

「異邦の方か?」

 

「……い、今のは……っ……」

 

 帽子を被った東洋人の男は、右手に構えた刀を振るい、血を払った。

 その一滴が、スネイプの靴に飛び散る。彼の足下には銃を向けた獣が、今は温い血肉を晒して転がっていた。

 喉の奥が焼けるように痛む。何とかせり上がる胃酸を飲み下した。

 

「見たところ。たった今、ヤーナムに来たばかりという風に見える。悪いことは言わない。帰り道が分かる間に帰るべきだ」

 

 手にした刀を鞘に収めた男が辺りを見回す。

 コツリ。

 杖を石畳に突く音が聞こえた。

 

「ククク、教会の黒服に見間違えたが。なんと。今さら、ただの異邦者とは……」

 

 その男について、誤解を恐れず言うならば──バケツを被った男だった。

 異様に目を奪われていたスネイプは、彼が身につける装束が現代において官憲に属するものだとは気付かなかった。

 

「行くぞ、ヤマムラ」

 

 青のケープコートを翻した男が背負った物を見てスネイプは口を閉ざした。金属の円盤に生えそろったのはノコギリ状の刃であり、チェーンソーの部類だと察したからだ。

 

 刀を持つ東洋人──ヤマムラは、渋った。遠回しのやや癖の強い口調であったが、この夜に放置は酷な仕打ちだということを言ったらしい。バケツ頭の彼は答えず、ただ杖で路地を差した。

 スネイプもその先を見た。街灯の無い路地から二人分の足音が聞こえる。そして、声。

 

「ヤ、マ、ムラッさーん! その人、殺すのはすこし待ってほしい!」

 

「──こ、殺さないが」

 

「まだ何もしていないからな!」

 

「──だから殺さないって」

 

「みみみ、見てのとおり、普通の人ですので! ですので!」

 

 これだけは聞き覚えのある声だった。

 駆けてきた二人のうち、後を走ってきた小柄な影。

 クルックス・ハントが口を覆う黒いマスクを外し、駆け寄ってきた。

 

「な。あ? もしかして、ス、スネイプ先生……!? な、何をしているんですか!?」

 

 こっちの台詞だ。

 喉まで出かかった言葉を言ってしまえなかったのは、血の臭いに辟易していたからだ。

 

「学校の先生ということか? はあ……何だ……」

 

 もう一人、クルックス・ハントと似た男が近寄ってきた。

 顔は帽子とマスクでよく見えないが、背格好や目つきがよく似ている。

 ──ひょっとすると父親だろうか。では、これが月の香りの狩人だろうか。

 彼は辺りに散らばる獣の残骸を避けて、スネイプに手を差し出した。

 

「ヤマムラさん、彼は私が保護します」

 

「あ、ああ、頼む。……私は、長と狩りに戻る」

 

「お気をつけて」

 

 クルックスが、ヤマムラを見送る。

 バケツ頭の怪人が振り返り、ジッと見つめてくる視線を感じたがヤマムラを伴い歩き始めるとやがて途切れた。

 だが。

 

「──同士よ、夜に戻りたまえ。連盟の狩りは何も終わってはいないぞ」

 

 命じることに慣れた声で男が言う。

 クルックスが不安げに隣に立つ男を見上げた。

 

「いまに戻るでしょう。連盟の誇りと共に」

 

 男の背に対し、彼は胸の前で固く手を握ると何かを掲げるように腕を伸ばした。それは男の姿が街灯の無い暗闇に溶けるまで続いた。

 クルックスが、咳払いをしてマスクを着ける頃。

 月の香りの狩人と思しき男が、振り返り、頭を傾げた。

 

「素晴らしい! 素敵だ! 魔法使いがヤーナムに通用するとは……ふむ……ますます外へ惹かれる!」

 

「月の香りの狩人か?」

 

 帽子を深く被り黒いマスクで顔を隠した彼は、質問を受けて握手のための手をゆっくり引っ込めた。クルックスが様子をうかがうように彼を見ていた。

 

「いかにも。私が狩人。月の香りの狩人とも呼ばれている。クィリナス・クィレルを介しヤーナムをホグワーツ魔法魔術学校に開示した。こども達の保護者だ」

 

 スネイプが懐から手紙を取り出そうとしたところ、二人から制止がかかった。

 

「お父様、避難を先に」

 

「分かっている。話は、全て後だ。これから先生を安全なところに避難させる。離れると命の保証ができない。ここで待て。路地を確認してくる」

 

 スネイプは埃を払い、立ち上がった。

 狩人が松明を片手に細い路地を獣がいないかどうか探りながら駆けていった。

 

「先生、杖をしまってください。お父様に当たると危ない」

 

 ──私の命は危なくないのか?

 よほど言おうかと思ったが、クルックスの瞳が妙に薄暗い。

 

「お早く。このとおりの血の臭いだ。獣が集まってくる」

 

 クルックスは、手にした長柄の鎚で背に負った円盤形のノコギリを駆動させた。

 見つめた先は、地面に転がった死体だった。

 

「前はお父様が、背後は俺が守る。ヤーナムを出るまで護衛しましょう」

 

「──こっちだ。来い」

 

 路地の先で狩人が松明を振って合図をする。

 歩き出した途端、置かれた木箱につまづいているとクルックスが腰に着けていた小さなランタンを渡してきた。

 

「夜目が利かないのか。そうかぁ」

 

 月の香りの狩人が言う。

 ──魔法族は大変なんだなぁ。

 そんな声が聞こえてきそうなほど場違いに驚いている風な声音だった。

 

 月の香りの狩人の先導で人通りの少ない路地を進み、何体かの──二足歩行をしていたが、あえて獣と呼称する──をクルックスが退けて一件の家に辿り着く。

 扉は蝶番が壊れているため開けっ放しだった。

 背中を押されるように中に押し込められる。

 

 腐った食物の臭いが鼻についた。

 つい先日まで誰かが生活をしていた空気があった。

 

「室内の確認をしてきます」

 

「屋上で三発撃て。ネフとセラフィを召集する」

 

「了解」

 

 テキパキとクルックスが室内の扉を蹴り開けて安全確認に行く。

 壊れた扉を持ち上げた狩人と目が合った。

 

「先生、手を貸してくれないか。ちょっと壊れ過ぎている家だ。窓と扉、直してくれるか? 閂があるだろう。私とクルックスは外で哨戒するから、先生は朝までこれをかけておくといい」

 

 望みのとおり杖を振る。

 砕かれた窓は月光に輝きながら窓枠に収まり、蝶番の部品が組み立てられ、扉は一分の狂いなく枠に収まった。

 

「素晴らしい。神秘、いや魔法と呼ぶのだったな。……ああ、面白い。興味深いな」

 

「月の香りの狩人、あなたに話が」

 

「先生にも事情があるだろうが、朝まで待ってほしい。ヤーナムの夜を見ただろう。我々、狩人は忙しい。……魔法界風に言えば『マーリンの箒は早いが、スピードが遅い』というものだ」

 

「初めて聞いたが」

 

「ヤーナム風のジョークだ。笑ってくれたまえ」

 

 彼は懐から鐘を取り出した。

 音の鳴らない、それを揺らしながら言った。

 

「屋内はネフが守り、セラフィは屋上を守るだろう」

 

 狩人が鐘をしまう頃、薄霧じみたぼやりとした煙が起こり、その霧が晴れるといつもの檻を被ったネフライト・メンシスが現れた。

 おかしな事態にスネイプは狩人が持っていた鐘を思い起こした。彼が魔法を使った様子はなかった。もちろん、呪文も唱えていない。

 

「メンシスの徒、まかりこしてございます、が──」

 

 ネフライトは屋内を見回し、スネイプと目が合うとわずかに目を見張った。

 言いたいことは開心術を使うまでもなく分かる。次の瞬間に彼は想定どおり「どうしてここに」と言った。

 

「ネフは屋内で待機だ。任せたぞ」

 

「は、はあ、あ、はい。お心のままに……。あぁ、困る。とても困る……」

 

 独り言にしては大きな声であり、一階の探索を終えたクルックスが隣室から顔を出した。

 

「ネフ。俺は哨戒に戻る。屋上はセラフィに見張らせる」

 

「勝手にしてくれ」

 

 答えるネフライトには、月の香りの狩人に対して見せていた丁寧さが失せていた。至極どうでもよさそうに言い放った。中途半端に開いていたカーテンを締め終わりテーブルに魔法の炎を作り出して照明にした。

 間もなくクルックスが二階に上がり、ガチャンと音がした。窓を壊して屋根の上に出たのだろう。そして、銃声が三発連続で響いた。

 音を追うように天井を見上げていたスネイプは、視線に気付き檻の奥にある緑色の瞳を見た。

 

「立っているのも落ち着かないので座ってください。なぜ今、ヤーナムに?」

 

「話は、父君が帰ってきてからのほうがよいと思うがね」

 

 ネフライトは答えず首に下げていた懐中時計を開き、時刻を確認した。

 スネイプは既に時間の感覚を失っていたが、それは午前三時を指していたらしい。

 ネフライトは先に椅子に座り、数えるように指を折った。

 

「説明は時間の無駄であるから結論から述べると、先生がお父様の機嫌を損ねればヤーナムから生きて帰ることは難しいでしょう。マグル世界では『治外法権』という法があるそうですね。そんな土地だと理解した方が適切です。……もし、先生がホグワーツからの手紙を持って来ていたのだとしても、私達は先生から受け取る必要はないのですから」

 

 スネイプは、無意識に彼の『受け取る必要が無い』という言葉について最悪の想定を避けた。彼らからホグワーツに出向くことを考えていた。まさか「死体を漁ればよい」と同じ事を言われているとは、頭に浮かばなかった。ネフライトの言葉は続いた。

 

「姿くらましやポートキー。移動魔法の行使は、やめたほうがいい。私見だがハナハッカでどうにかなる程度の『ばらけ』では済まないだろう。興味深い症例ではあるが……。いいえ。単なる注意事項ですよ、先生。脅かす心算はないのです」

 

「校長からの指示で教科書リストを届けに来た。ああ、それだけだ」

 

「……。それは、わざわざご足労いただき恐縮でございます」

 

 ネフライトの瞳は、すでにスネイプの嘘を見抜いていた。しかし『そういうこと』として受け取ってくれるようだった。

 ──月の香りの狩人の子供達、少なくともネフライトは、どうやら自分に生きて帰ってもらいたいらしい。

 ひとつの収穫とした。

 

「先生は、月の香りの狩人様が質問することに答えるだけでいいでしょう」

 

「そのつもりだ。しかし、メンシス、この街は」

 

 ──あまりにおかしい。あの獣は何なのか。獣だ。そう。人が、まるで。

 続くはずだった言葉は、彼の小さな笑い声で遮られた。

 スネイプの無理解を祝福するような、穏やかで冷たいものだった。緑色の瞳は魔法の炎の灯りに照らされて輝いて見えた。

 

「この街は、よそ者に語るべき法がないのです。ああ、それとも。──先生は、暗澹たるヤーナムに、魔法界の法を説きに来たのですか?」




東の朝焼け(上)

ヤーナム珍事:
怒ってます? ──怒ってないよ。
クルックスは「本当ですか」は聞けない。冒涜とは、上位者の怒りでもある。新しい災厄を自ら招くことは憚られた。とはいえ、テルミがビックリしている様子を見てクルックスもビックリした。


セラフィの日常茶飯事:
カインハーストに名を連ねなければ、生きていられた人間は多い。
しかし、ごく少数。
カインハーストに名を連ねなければ、生きていけない人間もいる。
カインハースト以外では生きていけない生き物。そう考えれば彼らは、ある意味で、か弱い生き物であるかもしれない。
鴉羽の騎士様の教育の基本は、言葉の通じない生き物を躾けると同じだからね。二度とやらなければよい話だから気にしていないよ。でも、僕だから耐えられるのではないかな。僕は恐怖を感じないからね。他の三人ならもっと酷いことになりそうだ。けれど、まあカインハーストに相応しいのは僕だけだから意味のない仮定だろう。鴉羽の騎士様は僕に期待しているからとても厳しいのだ。本当はお優しい方なのだよ。……それを伝える術が、長い夜のせいだろう、すこし歪んでいるだけで……(カインの夜警、セラフィ)
レオー「ただの趣味って言うとマズイ雰囲気だよな。なんか感銘受けちゃってるし」
流血鴉「実益を兼ねているのだが?」
レオー「お願いだから黙ってお前ホント頼むから」


スネイプ先生、ヤーナムに来たる:
病を持ち、正しく、そして幸運な人間を迎え入れる。(月の香りの狩人)
度の過ぎた執着は自他の認識がどうであれ一種の病である。
──何に対する執着か。
狩人達の首を刎ねる理由が、葬送を担う助言者にとってどうでもよかったように。
ヤーナムの地が病み人を迎え入れる理由もまた、何だってよかったのだ。きっと。
それでも学校の賢人は「愛じゃよ」と言うだろうか。



スネイプ先生、致命的見落としをしてしまう:
 フラメルの証言を知っている彼ならば、そして、ヤーナムにおいて公的な官憲が存在しないことを知る機会があったならば、官憲服の男が現れたことで『時間がおかしなことになっている』事実を察することができたかもしれない。もっとも発言の正誤を確かめることはできず、聖マンゴを受診することになったかもしれない。そもそも彼はサムライとバケツに驚いて、それどころではなかったようだ。


それはそれとして、ダンブルドア校長から課された宿題は果たせるかどうか怪しくなってきたことを賢い彼は察知した。


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東の朝焼け(下)

怒り
意に沿わぬものの存在により、起こされた感情のさざ波。ときに大波ともなる。
だからこそ、聖杯へ挑む狩人達は冒涜を尽くしたのだ。
深海の底をかき混ぜ、その果てを見るために。



 沈黙は、思考を強いる。

 ヤーナムの夜は、特にその傾向が強い。

 実際のところ。セブルス・スネイプは、小さな家のぐらつく椅子に座り考え事をしている。

 あと夜明けまで二時間も無いというのに時間の進みが遅く感じる。

 油っぽい髪が、魔法の光を受けて独特の光沢を放っていた。

 

(獣……人……あれは、たしかに、人のように見えた)

 

 道中、見かけた獣を思い出す。

 服をまとう獣が自然発生したとは思えない。

 魔法界で言うところの人狼であったとも思わない。そもそも、今日は満月ではない。

 

「先生、静かに」

 

 何も話していないが、注意を受けてネフライトを見る。

 彼は長柄の杭を持ち、腰に指していた銃を抜いた。

 銃口は、階段に向けられていた。

 耳を澄ませると微かに衣擦れの音が聞こえた。侵入者は、階段を降りる前に立ち止まったようだ。

 

「撃つなよ、僕だ」

 

「──セラフィです」

 

 ネフライトが銃口を逸らす。その後、階段から降りてきたのは、貴族風の華美な装束に身を包んだセラフィ・ナイトだった。

 銀色の絹のような髪が明るくなりつつある外の光に照らされて輝いている。

 反面、彼女の顔色は暗い。

 

「侵入者……はぁ……先生とは、なんたることか」

 

 顔を見るなり溜め息を吐かれてしまった。

 彼らはヤーナムの外からいったい何が来ると思っていたのだろうか。

 疑問を口にすることは叶わず、セラフィは階段の途中で天窓を見上げた。

 

「僕の担当の先生がヤーナムにやって来るとは……。あぁ、月の香りの狩人様は、僕をきっとお咎めになる」

 

「学校の用事を校長から承ったのが、偶然我輩だっただけだ。寮生がいるからと来たワケではない」

 

「では、その理解をいたしましょう。──そうでなければ、別の目的があるのかと疑ってしまうところだ」

 

 冷えた目が探るようにスネイプの顔を見た。

 セラフィの手は、東洋人の男が持っていた刀と似た物を持っていた。セラフィが脚を止めたので滴る血は滞り、床に黒い染みを作った。

 

「セラフィ、詮索は君の役割ではない。夜に戻るといい」

 

「言われずとも。ただ、朝陽と共に僕は去るよ。後は任せてしまうが……それでもよいかな?」

 

「彼の方は、それで十分だとおっしゃるだろう」

 

 セラフィが仰々しく礼をして階段を登っていく。再び窓を割るガチャンという音が聞こえた。

 

「……割るのはいいが、直しているのかな」

 

 スネイプは直していないと思った。

 

「まあ……いいや」

 

 わずかに考え事をしたネフライトは、結局、動かないことに決めた。そして眠たげに背を丸めた。

 屋外からは、銃声が聞こえる。

 それでも、いつか夜は明ける。

 夏の夜明けは、もうすぐだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夜が明けた。

 長い長い夜のような気がした。

 スネイプが溜め息を吐いた頃。

 外では、人の声と扉を叩く音が聞こえた。

 扉を封じる閂を外すためにネフライトが立ち上がる。つられるように立ったスネイプは手伝うでもなく、窓の外に映るトリコーンを見ていた。

 

「やれやれ。久しぶりに慌ただしい夜だった」

 

「ええ、本当に」

 

「まさか長に会うとは思わなかった」

 

「最近は、気まずくなる前に会合に顔を出してますか?」

 

「行ったとも」

 

「よかった」

 

「半年前に」

 

「──そろそろ本当に糞袋野郎の誹りを免れませんよ」

 

「早まるな。今日は天気が良い。顔を出してみよう」

 

「俺も行きます」

 

「長に立ち向かう勇気くらいある」

 

「いえ、監視のためです」

 

「……同士が真面目で俺も鼻が高いよ」

 

 扉が開いた。

 銀灰の瞳がそろって屋内を見た。

 月の香りの狩人が帽子を取り、家の中に入ってきた。

 

「ご苦労、ネフ。夜通しすまなかったな。先に学舎に帰って休むといい」

 

「先生とのお話。私も同席したいのですが」

 

「内容は後で伝える。学徒達とテルミを部屋から出してくれ。帰りがいつになるか見通しが立たなくなってきた」

 

「それでは……仕方が、ありませんね」

 

 ネフライトは、懐から短銃を取り出すと頭上で空砲を撃つ。

 ──くれぐれも。

 彼は、最後に声の無い警告を告げる。途端にその姿は霞みより儚く掻き消えた。

 

 月の香りの狩人が手を差し向けた。

 一足先に彼は椅子を引き寄せて座り、その後方にクルックスが控えるように立った。

 月の香りの狩人から目を離さず、スネイプは椅子に座った。

 

「さて。異邦より来る、ホグワーツの先生様。『遙か暗澹たるヤーナムへようこそ』と言いたいところなのだが……すでにご覧になったとおりだ。観光には向かない街だ。用件を告げたら去るといい。小難しい用件ならば返答は後日になる。その際は、こども達を介して伝えよう」

 

「長居はしない。本来、ふくろうが手紙を届ける役割であるが……なぜか届かなかったので、我輩が送り届けに来た」

 

 スネイプはテーブルの上に四封を出した。

 月の香りの狩人は、その一封を手に取り、懐から出したナイフで封を切った。

 

「……次年の教科書リスト? あぁ、テルミとネフが気がかりにしていた物か」

 

「ああ、やはり他の生徒には届いていたのですね」

 

 クルックスも手紙の内容を見て頷く。

 封筒を揃えた彼は、まとめてテーブルの脇においた。

 

「今からダイアゴン横丁で教科書諸々の道具を揃えるには時間がかかるだろう。授業開始から一週間、準備の猶予期間を設けることも併せて伝えさせていただく」

 

「心配無用。九月一日まで間に合わせる。……ます」

 

 クルックスの解答にスネイプは、長々歩いてきた体感を思い出した。数日は野宿をした覚えがある。彼らが子供の足でロンドンの町中まで来るのは時間がかかるだろう。

 そのことを言及しようとしたところ、月の香りの狩人が口を挟んだ。

 

「ご用件は以上か。これでおしまいならば、街の出口まで送ろう」

 

「手紙が届かない理由を聞いてよろしいですかな? 来年度もこのようでは、こちらも対応を考えなければならない」

 

「ああ、それは大事な用事だな。……ふくろう? ふくろう便とやらが届く場所に送付先を変更しておこう。クルックス、誰か郵便窓口になってくれそうな友人はいるか?」

 

「何人か心当たりがあります」

 

「よろしい。もし全てに断られたら、日時を定めてこちらの誰かに受け取りに行かせてもいい。先生がヤーナムに来る事態は避けるようにこちらも注意を払おう。この度は本当に不運な出来事だった。ああ、質問の解答は『ふくろう便は、運がなかった』とさせていただきたい」

 

「あと二つ質問がある。よろしいですかな。昨年、ヤーナムを訪れたクィリナス・クィレル元教授のことで」

 

「……。ああ、賢者の石とか岩とか塊とかの事故で亡くなられたと聞いた。とても残念に思う。こども達に多くの可能性を拓いた先生だった。彼が何か?」

 

「闇の魔法使い、『名前を言ってはいけないあの人』との関連についてはご存じですかな?」

 

「何でも取り憑かれていたとか。賢者の石騒動の概要はクルックスから聞いている。トロールとかいう巨人が入り込んだと。学校の整備した万全な防御態勢に感心したものだよ。私のこども達は問題にしないだろうが、他の子供はずいぶんと怖い思いをしただろうとね?」

 

 彼は目を細めた。

 馴染みの人間であれば、それが笑みだと分かるものだったが、スネイプにはただの嫌味に聞こえた。

 

「結論から申し上げれば、あの人は生きている可能性が高い。そしてヤーナムのことを知ってしまった。これはヤーナムを秘匿する貴方にとって、都合が悪いのではないかと校長は案じている」

 

「お気遣いありがとう。しかし、心配は無用だ。ヤーナムに踏み入った場合、対処の用意がある。ホグワーツ及び魔法界の手は借りない。それと一つ訂正させていただきたい。先生も知ってのとおり『ヤーナムは秘匿されていない』。辿り着けただろう? ……さて用件は、今度こそ最後かな?」

 

 早急に話題を終えようとする狩人に、スネイプは慎重に切り込んだ。

 

「『闇の帝王は、ヤーナムに危害を加えないだろう』。校長はそう見ている。ところでヤーナムは、魔法界において認知されていない土地というのはご存じですかな?」

 

「ああ、世界地図にも載っていない。最近、確認したところだ」

 

 ──もっとも『ヤーナム』だけならばインドにもあるがね。

 冗談めかして狩人は言った。その真偽は、さておき。

 

「闇の帝王は、ヤーナムにある何か──仮に秘密と呼ぶが──それを暴くまで友好的な態度を取る。校長は、それをたいへん危惧していらっしゃる」

 

「ほう。それはありがたいことだ。民が殺される心配ではなく、秘密が暴かれる心配でもなく、私が敵に回る心配を?」

 

 狩人の後方に立つクルックスは、たしなめるようにスネイプへ視線を送った。彼を刺激するな、と釘を刺すような目であった。

 だが、その釘はすでにネフライトから受けている。

 そして、ここに至った今、引き下がることはできない。何としてでもダンブルドアの望む言質を引き出さなければならない。

 狩人がギラつく目を向けた。

 

「何とか言いたまえよ、先生。ヤーナムの外の道理は知らないが、ヤーナムでは無言を肯定と受け取る」

 

 テーブルに、血濡れた腕を乗せる。

 むかつくような鉄臭さが鼻に届いた。

 

「……イギリス魔法界は、いまだ闇の帝王の脅威から回復できていない。魔法使い・マグルとも未確認の地であるヤーナムに対し、何の主張より先に『敵か、味方か』という判断を強いてしまう。そのことは、先に述べるべきだった。ゆえに回答は『お見込みのとおり』と告げなければならない」

 

 ひたり。

 こめかみに一条の汗が流れる。

 ──それでも、こちらが有利だ。

 自分が杖を振るうより、彼の持つ杖(ステッキ)を振るうほうが早いハズがない。

 

 狩人はスネイプの回答に瞬きをし、椅子の背もたれに寄りかかる。そして、鷹揚に両手を広げた。

 

「勝手に殺し合えばよい」

 

 月の香りの狩人は、微かに笑ったようだった。

 

「私は二度の世界大戦に参加しなかった。第三次の予定は決まっているのか。どちらでもよい。不参加だ。同じく魔法界の殺し合いにも興味はない。──今のところはな」

 

 彼は傍観を貫く姿勢を見せた。だが、闇の魔法使いとの戦いにおいてこれは無回答と変わりがない。

 味方になる可能性があるのならば、その言質が欲しい。

 

「では──」

 

 次の言葉を紡ぐ前に狩人は封筒を持ち、立ち上がった。

 

「ご足労いただいたところ失敬なことだが、これ以上の話し合いを私は望まない。いま口頭で交わす約束に何の意味がある。互いに文書を残したほうが後々の諍いが少なくて済むだろう。……前時代的で意外なことに感じるかもしれないが、ヤーナムには契約の文化がある。互いに申し込み、互いに果たし、互いが命を懸けて守る。その交渉の格式と伝統を私も重んじよう。交渉の門戸を閉ざすつもりはない。しかし、以前の手紙にこうも書くべきだった。『ご相談は、随意に。──だが、できれば書面で』と」

 

「…………」

 

「そもそもだ。闇の帝王とやらの脅威は遠いのだろう? それとも何か急ぐことがあるのか? 明日にでも闇の帝王が復活する予定があるとか」

 

「そのような予定はないが……」

 

「では今は十分だろう」

 

 彼はひとつ手を叩き、封筒をクルックスにまとめて渡した。

 

「──最後にひとつ。質問がある。これはクィリナス・クィレル元教授の疑問でもあるのだが」

 

「ほう。何か」

 

 スネイプは一冊の手帳を取り出した。

 

「それは」

 

 見覚えがあるのか。月の香りの狩人の顔色が、マスクのせいで分かり難いが、確かに変わった。

 スネイプが取り出したのは、クィレル元教授の手記だ。それを何枚かめくる。

 

「貴方は『聖堂街の古びた教会の近くで立ち止まり「あそこにいるものがみえるかい?」と質問』した。そこには何がいたのか。伺ってもよろしいですかな?」

 

「はてさて。何だったかな。しかし、何であれヤーナムに関係のない先生には教える法が──」

 

 帽子を被る瞬間、銀灰の瞳と目が合った。

 

 卓越した魔法使いにとって。

 その呪文は唱えるに値せず、杖を振る必要もなかった。

 

 開心術。他者の心に踏みいる魔法だ。

 

 逸る気持ちが思いがけず踏み込ませたのか。あるいは長く感じた夜への恐怖が薄れ、今さらになって好奇をくすぐったのか。術者であるスネイプ自身にも定かではない。

 しかし、結果としてスネイプは月の香りの狩人の光彩に飛び込むような感覚を得た。

 

「ところで、貴公。よく無礼だとか言われないか? 特に、慇懃無礼だとか言われたことはないか?」

 

 言葉はすでに鼓膜を振るわせる音ではなかった。

 記憶も感情も見えない。

 断片の一片も感じ取ることができなかった。

 ただ、気付けば対峙する月の香りの狩人の顔面には、大きな穴が空いていた。立ち上がった彼の後方にあるべき建物の内壁が見えない。どこに続くか分からない。深い。だが虚だった。

 

「やはり時計塔の貴婦人は正しい。秘密は甘いものだ。分かるとも。しかし、かなしいかな。深淵を覗くには瞳が足りないようだ」

 

 スネイプは、我に返った。

 月の香りの狩人の顔面は、正しく存在していた。

 けれど不快に歪んでいる。

 

「それ。たいへん不愉快なのだが、魔法界ではありふれた挨拶なのか? ならば私もガトリング掃射をお見舞いすべきだった」

 

「お父様。慈悲を」

 

 クルックスが厳しく、なだめるように月の香りの狩人へ声をかけた。

 

「……。さあ、もういいだろう。用件は済んだ」

 

 狩人が扉を開けて外にさっさと出て行く。

 

「先生、どうぞ」

 

 クルックスに促されてスネイプは外に出た。

 街を出るまで護衛すると言われ、迷路のような路地を歩いた。街の至るところに獣の四肢が散らばるが、中には狩人やクルックスと似た狩人服を着た遺体も転がっていた。

 

 遺体を運ぶ掃除をしているのは山高帽を被った黒装束の男達だ。沈鬱な顔をして馬車の荷台に乗せている。なかには目が合っただけで怒鳴りそうな顔つきをしている者もいる。スネイプは足早に狩人を追った。

 しばらく歩くと長い橋に出た。記憶にある道だった。

 

「ご足労ありがとうございました。道中、お気を付けください」

 

 クルックスが、場違いに思えるほど丁寧で礼儀正しい挨拶をした。

 それに答える気分になれず、軽く手を上げる程度に応じた。

 月の香りの狩人が「ああ」と呼び止めてきた。

 

「先生、クィレル先生の手帳を私にくれないだろうか? 先生方は、もう中身はすっかり見てしまったのだろうが……ヤーナムの情報が閲覧可能になっているのが、どうにも落ち着かない」

 

「……。これは彼の遺品だ。親族に返却することになっている」

 

「おっと。それでは取り上げられない。しかし、ありがとう。みだりに人目に晒されないよう祈っている。この先が出口だ。振り返らずに行くといい」

 

「失礼」

 

 ヤーナム。

 月の香りの狩人が「遙か暗澹たるヤーナム」と述べるのはもっともだ。望んで留まりたい土地ではなかった。

 ダンブルドアへ伝えるべきことは多い。

 スネイプは足早に歩き出した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「一件落着ですね」

 

「まったくだ。……ところでクルックス。俺……変なこと言っただろうか?」

 

「常識的な対応だったと思いますが……」

 

 そわそわと落ち着かない狩人は、無意味に枯れた羽根を模した帽子を指で弄っていた。

 

「大丈夫? 大丈夫だよな? 白黒ハッキリする言葉は使わなかったな?」

 

「え、ええ。『勝手にしろ』とおっしゃっただけと受け取りました。だからこそ先生も白黒つける話を続けたかったのでしょう。……な、何か?」

 

 結局、狩人が話を終わらせたので全ての話は『勝手にしろ』で終わった。

 眼前に迫る危機でもなし。

 そもそも闇の帝王だとか『名前を言ってはいけないあの人』だとかが、何をしたのか。狩人は、具体的なことを何一つ知らない。テルミからの情報では「ただの狂人で殺人犯」とだけ知らされている。それ以上の判断材料もないのに「判断しろ」とはヤーナム一般しか知らない彼にとって難しいことだった。

 狩人は、ようやく帽子から手を離した。

 

「実は……学徒達に口酸っぱく、ヤーナムの代表気取りであれこれを言うなって口止めをされている。カインハーストの女王様の面子もある。だから、先生が来た時からずっと『これはすごくマズい』って思っていた。学徒達を呼ぶにはもう遅すぎたし……しかし、大丈夫。乗り切った。よくやった、俺」

 

「人形ちゃんもきっと労ってくれますよ」

 

 狩人は、丸くなりがちな背中をピンと伸ばした。

 

「ああ、そうだ! 記念に新しい乳母車買おうかな!」

 

「乳母車。ははあ、なるほど。ガトリング付き乳母車を?」

 

 昨年のクリスマス奇行の謎が氷解する。

 クルックスにとっては渾身の思いつきであったが、狩人に激しく拒否された。

 

「俺の純真な夢を火薬庫と合体させるんじゃない! あー! 忘れてくれ! そういえば、そうだ、そうだよ、俺、赤ちゃんなのに何で政治しなきゃならないんだ……?」

 

「お父様は話の分かる上位者、のテイ、なので仕方がないですよ。でも、次は文書で来るのでしょうから、ユリエ様やコッペリア様の知恵をお頼りましょう」

 

「ああ、ぜひそうしよう。ぶん投げてやる。もう勝手に書いて出してくれって気分だ」

 

「人間、得手と不得手があると誰かが言っていましたから…………ん?」

 

 橋を歩むスネイプの後方に靄がかかる。

 朝の霧にしては濃い。何より局所的であり、敵対を示す赤をまとっている。

 特徴的な、ねじ曲がった角と獣の体表が見えた。クルックスは、叫ぶように狩人を呼んだ。

 

「お父様!」

 

 クルックスは橋を指差して狩人を見上げた。

 

「だから市街で『お父様』は禁止って言っただろう。さてはお父様大好きだな?」

 

「そうです! あ、いえ、今はそうではなく! で、でも! あれ、あれは! 夜の、教会側の……!」

 

 ──暗殺者ではないか。

 クルックスが再び橋を見た時。

 暗殺者は、瀉血の槌を自らの腹に突き立てた。

 引き抜いた時、それは名称のとおりの長柄の槌となり、刺々しい歪な血肉がぬらりと光った。

 

「争わないさ。介入もしないとも。──ああ『俺は』な」

 

「しかし……」

 

「俺は、安全に帰れる道を示し、礼を尽くした。咎められるいわれはない。天秤はこちらに傾いた」

 

「そ、そうかも、しれませんが、あの、死んでしまいませんか?」

 

「さぁ、どうだろう。彼は足が遅いからな。……振り返らなければ瀉血の槌も届かないのではないかな?」

 

 狩人は、まるで大したことがないことのように言う。

 けれど後方に気付かず歩き続けるスネイプと狙う暗殺者の間合いは、確実に狭まっていた。

 

「でも、先生はヤーナムのことは何も知らないでしょう。お、襲われる理由は……? いいえ、まったく公平では、ないと……」

 

「そうでもない。彼は『先生』で『教授』なのだから、ここ百年間に訪れた誰よりも考察を済ませて来ただろう。クィレル先生の手帳もある。魔法の知識もある。そして、幸運に恵まれ、準備する時間は十二分にあった。──ならば死の覚悟もできたはずだ。ヤーナムの情報が少ない理由に『見当もつかない』とは言わせない。まぁ、死体になれば喋れないワケだが」

 

 自分の言ったことが面白かったのか、狩人はクックッと笑った。 

 冷や冷やしながらクルックスは見守る。走ったところで槌を防ぐには遅すぎるのだ。

 スネイプが背後から近づく足音に気付かないことを祈った。

 

「血を受け入れないのならば、それもよい。コッペリアも言うだろう。人々には血を受け入れない自由もある。だからイギリス魔法界の常識でヤーナムを歩くことも自由だ」

 

 暗殺者の槌が、ゆるゆると持ち上がる。

 それに呼応するようにスネイプの足の速さが変わった。

 

「──覚えておくといい、クルックス。ヤーナムにおける彼らは、聖杯にとっての我々だ。ヤーナムに何も与えない盗人だ。そのくせヤーナムの秘密を暴きたがる。そして、好奇は血によってのみ贖われるのだ。血の遺志だけが彼らの痕跡となるだろう。私はそれに価値を見出す」

 

 果たして槌は振るわれた。

 紙一重でスネイプは橋を渡り終えた。

 

 獣の皮を被った暗殺者は、その先まで追うことはできなかったようだ。あるいは深い森のせいで見失ったのかもしれない。

 肩の力を抜いたクルックスは、再び父を見上げた。

 

「では、逆に……ヤーナムが、俺達が彼らに与えるものは何なのでしょう?」

 

「クルックス、君は時に面白いことを言う。古きはトゥメル。遠くはローランから決まっている。呪いのような祝福だ」

 

「俺にはまだ、よく分かりません。……でも、心温まるような何かを残せないことだけは分かる。それが、すこしだけ悲しい……ああ、きっと、これは悲しいという感情なのだ。……それを感じる時があります……」

 

 クルックスの視線の先。

 もう姿の見えないホグワーツの教授を思い起こす。

 彼でさえ、最期はきっと何か心が救われるものを遺していくだろう。

 だが、クルックスは自分自身にその救いが見えないのだ。空想すらできないのだから現実はもっと悪い結末になるだろう。

 

 狩人は橋の向こう、黒々とした森と霞む空を見上げていたが、やがて視線を落とし、血に塗れていない左手の甲でクルックスの頬を撫でた。

 

「呪いや冒涜のなかにも温もりはある。そう悲観することはない。人生とは……まぁなんだ……悪いことばかりではないから」

 

「お父様がそう言うのならば、俺も、ずっと信じていたいのです」

 

「だから、お父様は禁止だってば」

 

「そういえばそうでした。うーん。慣れない。お父様、怒ってます?」

 

「全然、怒ってないぞ」

 

「そうですか。よかった」

 

 橋の向こうで獣の皮を被った男の姿が朝霧に溶けて消える。

 同じように二人の姿もやがて朝靄に消えた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 浅い眠りの時に、手足が震える感覚を覚えている。

 あるいは、階段から落ちていく感覚のような、それ。

 白い獣皮がぶるりと揺れる。

 

「おや、お帰りですか。ブラドー氏」

 

 テーブルには、地図が広げられている。

 チェスの駒を弄んでいたピグマリオンは空想に耽りながら、彼の言葉を待っていた。

 音の鳴らない鐘を鳴らしている長い間、ブラドーの意識はどこかを彷徨ってしまうようだ。

 それを守ることをひとまずの仕事としたピグマリオンだったが、忘れられた古工房に敵対者など現れる由もないので、人間性を喪失してしまいかねないほどに暇だった。

 

 しかし、今夜は違った。

 赤子の泣き声が収まった頃。

 

 異邦者についての情報を得たブラドーの命令で、ピグマリオンは活き活きとしていた。

 市街の暗渠から下水道、細い路地まで歩き尽くした彼にとって、市街の迷い人など目を閉じていても──これはすこし話を盛った──高い確率で見つけられるのだ。

 

「逃した。あと数秒ほど早ければ殺せたが」

 

 節のある指が傍らの駒を取って地図に乗せた。

 ヤーナムの外へと繋がる大橋だ。

 

「どなたか先達がいたのでしょうね。夜が明けたばかりの今は、素人が歩くには早すぎますもの」

 

「月の香りの狩人がいたが」

 

「いたが?」

 

「遠目から見ているだけであったな」

 

「それは、ははぁ、なるほど、なるほどね、そうですか、そうですか。……あの狩人、一見は普通の狩人に見えましたが、ふむ、存外に人が悪いようですね」

 

 ピグマリオンは、善良である。

 その善良さによって死した後は自らを救おうと思っているため、自他ともに認める善良さを持っていた。しかし、それは他害性の賢しさを持つ事と矛盾しない。

 

「あの狩人、ひょっとしたら異邦者を貴方に殺してほしかったのではないでしょうか?」

 

「先ほどは『生け捕りにせよ』と言ったが。さてな」

 

 それが午前三時頃の出来事だ。

 そして見送ったのが今、午前六時。

 約三時間、彼らには猶予があった。

 

「──何事か、済ませるには十分だろう」

 

「そう、十分ですよね。だから彼は手出しをしなかった。しかし、貴方は面白くないのでは?」

 

「便利に使われるのは今さらのことだ。悪い手ではない。……当分は、という意味だが」

 

 橋の端に佇む駒を二つ並べてみる。

 そのうちの一つ、歩兵の駒を王の駒と取り替えながら、ピグマリオンが笑った。

 

「ええ、ブラドー氏。では、月の香りの狩人さんと仲良くしましょうね。彼が全ての鍵であり、錠なのですから! 我々は、医療教会の秘密のために彼を守らなければならないのでしょう。神の剣にして教会の槌ならば、正しく振るわれなければなりません。正義なので!」

 

「…………」

 

 ブラドーは、すごく嫌そうな顔をした。

 死にかけの小汚い猫を見るような顔だった。

 あるいは病に冒されてどうにもならない犬を見るような顔だった。

 

「ああ、もう。以前は『前向きに検討する』っておっしゃったのに。決心がどんどん後退しているじゃないですか!」

 

「知らぬ」

 

「僭越ながらご注意させていただきますが都合の悪いことを都合よく忘れるのは、やめてください。貴方の場合、狂ってしまったのか冗談なのか、私には判断が付かないからです。切実です。お察しください」

 

「……前向きに検討する」

 

「言質をいただきました。後ほど結論が出たら伝えてください。……私は貴方の意向に従いますから」

 

 彼は、ふいと明後日の方向を向いた。

 やがて大橋から数十分遅れ、捨てられた谷間の古工房にも朝陽が差し込んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 同じ朝陽は、森深くの学舎にも差し込んでいた。

 

「朝……?」

 

「朝だね、ユリエ」

 

 目隠し帽子のせいで気付くのが遅れた。

 ユリエが顔を上げて、窓を見る。膝には眠らせていたテルミがいたが、彼女も起きてしまったようだ。

 

「……ユリエお姉様?」

 

「おはよう。テルミ、新しい朝よ。……月の香りの狩人が欲しかったもの。どうしても、欲しかったの」

 

「それは、どうして?」

 

「『深い夜に沈んだヤーナムなのだから、朝陽は一等眩しくなければならない』とか何とか。あの時は、よく分からなかったのだけど今ならば分かるわ。朝陽は平等に注いでくれる。……探求者は皆、夜に探すばかりで朝を見つめようとしなかった。こんなに温かいものが、すぐそばにあったのにね……」

 

 ユリエが、テルミの頬を撫でた。

 柔らかな指先は、すこしだけくすぐったい。

 彼女の指に自らの指を絡めた。

 ずっと起きていたコッペリアが、勢いよくカーテンを引いた。

 

「だから、僕らは朝に往くのだ。僕らは最も古きを継いだ、最も新しき学徒なのだから! 辿りつく先は、きっと先人達とは違う。これから先、何百年かかろうと僕らはヤーナムの血の医療の果てを提示してみせる!」

 

 決意を新たにするコッペリアの背中では、ひそひそと女性達が顔を突き合わせていた。

 

「……でも普段の言動は、典型的なヤーナム医療者なのが残念ですね」

 

「……たまに狩人君から『頭のイカれた医療者』判定をもらっているのよ」

 

「黙りたまえよ! 特に僕に夢見るクルックスの前では、くれぐれも黙りたまえよ!?」

 

 コッペリアは、素早く釘を刺した。

 ふたりは「はいはい」と口を揃えた。

 

「僕は本気だ。医療教会の血の医療は頭打ちだ。行き着く先が、ギィギィ鳴く星の子。あるいはブヨブヨの星海からの使者。そんな果てはゴメンだ。……そうじゃあないだろう。初代医療教会教区長が目指した血の医療の行き着く先は、そんなモノじゃあないだろう。もっと素晴らしいモノになることを目指していたハズだ。もっと高きモノと伍することを目指していたハズだ。僕ら学徒が見るものは、人間が見る夢だ。──だから、僕は諦めたくないのさ」

 

「……お父様から授かった瞳を持っているのに、なんだか人間らしいことを言っているわ。ユリエお姉様」

 

「……こっちが心配するくらいに思考の次元が低すぎるのよね」

 

「こそこそ言うな! あと、ロマンチストと言え、ロマンチストと! 狩人君だって『夢を諦めない姿勢は良いと思う』って言ってくれたんだからな! 僕はやるぜ僕はやるぜ!」

 

「……毎年、こんな調子なの?」

 

「……そうね。三日くらいはこの調子よ。それで結果がでなくて落ち込むまでがワンセット」

 

「し、仕方ないだろ、狩人君が初めて作った瞳だから、いつも焦点が合わなくてぼんやりしているんだ! もーっ! クルックス! 早く帰ってきてくれーっ! 僕を慰めてくれるのは君だけだ!」

 

 朝陽に向かい、コッペリアは叫ぶ。

 教室にはささやかな談笑がこぼれ、市街ではクルックスがくしゃみをした。 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 セラフィは、足を引きずるように動かして小雪降りしきるカインハーストに戻ってきた。

 

(あぁ、うまくいかないものだ)

 

 射手の姿はなく、獣の皮を被った男の姿も見当たらない。

 完全な空振りだ。

 反発損とも言える。

 これならば鴉に出動枠を譲ったほうがカインハーストの利になったかもしれない。

 うつむいて歩いていたセラフィは、夢へ移動する灯のそばにレオーが立っていることに遅れて気付いた。

 

「あぁ、レオー様。……ぼんやりしていた」

 

「お前を待っていたんだ。大丈夫か? 顔色が優れないな」

 

 出迎えとは初めてのことだ。

 クルックスが自分の立場ならば素直に「ありがとう」と言うのだろうか。あるいは、マリアならば……? 彼女は何というのだろう。そんなことも分からないのだ。

 

「どうした?」

 

「……レオー様は、エヴェリン様のことを深く愛していらっしゃるのですね」

 

 セラフィは、トリコーンを深く被り直した。

 しかし、どうしても気になってレオーを見上げた。

 レオーがいつも被っているカインの兜はなかった。だからこそ、驚く彼の顔はよく見えた。

 

「いやいや! エヴェリンは関係ないぞ。同僚が同僚を撃ち殺したらフツー心配するだろ! 心配するんだよ! 怪訝な顔をしないでくれよ! ……あー、ちょっと待てよ」

 

 レオーは、なぜ突然エヴェリンのことを話題に出されたのか思い至ったようだ。

 

「セラフィはエヴェリンに似ているから大いに心慰められているけどな。だが、とっくの昔に死んでいるんだ。昔と今なら間違いなく今のほうが俺には大切だ。……だからさ、心配させてくれ」

 

「貴方の慈しみを、僕はちゃんと理解している」

 

「開口一番、エヴェリンのことツッコんでくるお前の『理解している』を信じるほど単純にはなれない。悪いな。……俺は、エヴェリンのことを抜きにしても本当にお前を愛しているんだ。『後輩だから』ではない。終わりきった俺にとってかけがえのない価値があるんだ。もっと自分を大切にしてくれよ」

 

「…………」

 

 レオーは、同族を見捨てきれずに損な役割を引き受けてしまうほど優しい男だと知っている。だからこそ、彼が『ただのセラフィ』として自分を見てくれないことが悔しい。そして、彼の真心を疑ってしまう自分を卑しいと感じる。

 セラフィは歩み寄り、そっと彼の手を取った。

 

「レオー様のことを僕も大切に思っている。……先日、長生きに興味がないと言ってみたが気が変わりました。僕は、エヴェリン様より長生きしてみましょう。僕の心は、変わるかもしれない」

 

「そりゃいい考えだ。いいぜ、いいぜ。前向きにいこう。どうせ時間はたくさんあるんだ。成長を楽しみにさせてくれよ」

 

 レオーは肩を叩き、共に古城までの道を歩いた。

 正門で二人を待っていたのは、カインの流血鴉こと鴉だった。

 

「鴉羽の騎士様、朝なのにお休みになっていないのですね。珍しい」

 

「なんだ。とっくに寝ているのかと思ったが」

 

 兜を外した騎士は、カインハーストに連なる血筋らしく涼しげで精悍な風貌をしていた。

 しかし。

 

「傷心の女に近づく男の魂胆など見え透いて言葉の裏まで見えるようだ。そもそも男の贔屓など見苦しい。恥を知れ、恥を。ところで騎士として恥ずかしくはないのか?」

 

 彼の言葉は、とある側面では事実だった。

 しかし、レオーは「お前が言うな」と瞬間的にキレた。

 

「その言葉、ぜーんぶそっくりそのまま返してやるよ、このクソ鴉! 慰めの一言でも言ってみろ、セラフィの死亡原因の九割はお前だろうが」

 

「私はセラフィを鍛えているだけなのだが?」

 

「『だが?』じゃねえよ! 血族の贔屓目で見ても、癇癪と八つ当たり時があるぞ」

 

「騎士たるもの常時戦場の心構えでなければ務まらない。この先、教育の問題だ」

 

「自前の教育論を語る前に、一般的な倫理観を大事にしてほしいぜ、俺は。どっちも語ってほしくないけども!」

 

 鴉は『理解に苦しむ』という目つきでレオーを見た。

 レオーは、ただ肩を落とした。

 

「俺さぁ前々からお前のことを実はヤバイ後輩だと思っているんだが……」

 

「よく言われる。その度に私は軽蔑しているぞ」

 

「しかし、ひとつだけ尊敬してやってもいいことがあって、それっぽい理由がペラペラと出てくるところだよ。──血質高すぎると頭までおかしくなるのか? ああ?」

 

「レオー。我が先達。騎士に厭いたならば言え。朝に夕に、殺してしんぜよう」

 

「おうおう、抜けよ。抜きなよ。インチキ血質の連装銃がなけりゃお前なんか恐くないぜ」

 

 腰に帯びた千景の鯉口をチャキチャキと鳴らしてレオーは応じた。

 だが。

 

「騎士たるもの、常に予備を携えておくべきなのだ」

 

 スッと鴉の懐から出てきた連装銃を見たレオーは真顔になり「お前のそういうとこ嫌い」と言った。

 そして、彼は抜きかけた千景を元通り収めようか抜こうか迷っていた。

 

「お二人とも。私闘は禁じられてる。仲間内での争いはいけない」

 

 セラフィは、それ以上の言葉を言えなくなり口を噤んだ。

 二人が争うのは悲しいことだと思ったのだが、それを言えば自分が脆くなってしまいそうだった。

 決して笑わない鴉の目がセラフィを射貫いた。

 

「杞憂だ。我々は、実は、仲が良い」

 

「それは……うーん……鴉羽の騎士様……」

 

 冗談でも千景を抜きかけた時点で説得力は皆無だ。

 実際、レオーは絶句している。

 小さく「……どの口で、おま」と言葉が漏れ聞こえた。

 けれど、セラフィには鴉なりの気遣いだとも分かるのだ。

 

「貴方のことも大切です。同胞に向かう、この感情こそが愛だとも思うのです。だから、争いごとは出来るだけ避けていただければ……嬉しい、ような。僕は、お二人の身を何より案じていますから」

 

「……善処する」

 

 両者の千景は収まった。

 視線を逸らし、鴉はカインハーストの外に広がる湖畔を眺め見た。

 照れ隠しのようなものだとセラフィは知っていた。

 

「ありがとうございます」

 

「さっさと休め」

 

 セラフィは帽子を取り、簡易な礼をした。

 その隣でレオーは目頭を押さえた。

 

「うぅ……いい子だ……。セラフィが嫁ぐまでは、おじさん死ねないな……」

 

 レオーの言葉は、一個人の感想に過ぎない言葉だった。

 しかし、それが鴉の逆鱗に触れた。

 

「は? セラフィは現在・過去・未来において、カインハースト以外のどこにもいかないのだが?」

 

「架空の将来設計してるっ! この後輩、怖すぎ。怖気。ワーッ! さっそく千景抜くなよ!」

 

 朝が訪れる。

 いつもの調子が戻ってきた。

 セラフィは、小さな声を上げて笑った。

 

「あははは……ははは……」

 

 問題は、山積みだ。

 また、解決の見通しもない。

 長生きをして、何かが変わるのを待つのが最も良い解決策なのかもしれない。

 だが、待ちきれない。

 これからも好機とみれば躊躇わず、進み続けるだろう。

 後悔は、きっとできない。

 最も過酷な運命こそが自分には相応しい。

 それでも。

 

「僕は、お二人を愛していますよ。何よりも大切です」

 

 二人が言い争いをやめ、顔を見合わせ、セラフィを見た。

 虚を突かれた顔は、隔世があっても不思議と似通っている。

 

 セラフィは、彼らの心中にある思い出には勝てない。

 でも、ここにいるのはセラフィだ。それだけを今は唯一の納得とすることにした。

 だからこそ。

 

「心から、お慕いしているのです」

 

 伝えることができた。

 ようやくセラフィは晴れ晴れと笑えたのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 朝陽は街を、谷を、森を、湖を、古城を照らす。

 夢を見る上位者の揺籃ヤーナムにて、再び一年が始まった。

 ヤーナムが平穏であった時間を繰り返し、細かな繰り替えりを起こしながら時は刻まれていく。

 止まり、しかし、滞りなく。

 




東の朝焼け(下)

ヤーナム珍事、終了:
 生きているので、ヨシ!
 終わり際にちょっとトラブったけど生きているので、ヨシ!


投稿について:
 本話で『2年生まで』章のヤーナム編が終了します。
 次話より『2年生』章のホグワーツ編を開始します。
 感想では、多くの方がピグマリオンについてコメントしてくださったのが、筆者的には意外であり、驚いたところです。ヤーナム編の聞き手役であり、救われぬ病み人のピグマリオンを今後もよろしくお願いします。可愛いですね。いえ、30越えそうな青年ではあるのですが。可愛いですね。
1Pイラスト:ピグマリオン

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お知らせ:
本日より数日間、いただいたご感想・質問等に対する返信が遅れる予定です。
小説は投稿予約済みなので順次投稿されます。お楽しみいただければ幸いです。

ご感想お待ちしていますのでお気軽に伝えていただけたら嬉しいです(ジェスチャー 交信)
匿名希望の方は、マシュマロ(https://marshmallow-qa.com/nonogiginights?utm_medium=url_text&utm_source=promotion)も開設しておりますのでポンポン投げてください。筆者は喜びます。

最後に:
どこに置くか迷った本編とはまったく関係のない1P漫画を置いておきます。ネフが啓蒙高い冗談を言う話です。
タイトル「連盟員は(根も葉もない噂に)めげない(違法なリークを見てしまっても)しょげない」

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2年生
出立と汽車


記憶
過去の経験や覚えた事柄を忘れず、心に留めておくことだ。
こと月の狩人の仔らなかでもネフライトが見せる記憶力は凄まじい。
異常に恵まれた出自であるが、ただ特性だけで学び続けられるほど知の探求は甘くない。生きる限り、研鑽は続く。その軌跡が他者に見えないのは、彼が見せることを望まなかっただけなのだ。



 九月一日。

 二〇〇年以上の期間において、ありふれた一日に過ぎない日は、月の香りの狩人の仔らのおかげでヤーナムにおいても特別な日になりつつある。

 朝も早くに召集され、持ち物チェックを無事クリアした四人はビルゲンワースの教室に座っていた。

 

 教壇に立つのは父たる狩人、月の香りの狩人だ。

 

「諸君、昨日まで学用品・教科書等の買い出しご苦労。数日前、私が眠る日に少々のトラブルが発生したが、大勢に影響はない。つまり、君たちに後顧の憂いはないということだ。安心して学んでくるといい」

 

 発言を終了しようとした狩人だったが、ユリエが口を挟んだ。

 

「狩人君、もうちょっと言うことがあるでしょう?」

 

「ンンっ。……大切なことを言い忘れていた。とても大切なことだ。俺は常々、考えていることがあるのだ。例えば、君たちが慕う『お父様』という役割についてだ。この呼び名はユリエやコッペリアが勧めたものだ。特に問題がないものとして今日まで使っていたワケだが……そもそも俺が『お父様』なのか、俺自身が自覚できていないことが実は大きな問題だった」

 

「…………」

 

 誰も呼吸をしていないのではないか。

 凍り付いた空気を変えるように狩人は手を振った。

 

「生産者という意味では、間違いなく俺である。これは間違いない。ただ……ハッキリ言おうか。『お父様』と呼ばれるのは、とても、その、こそばゆい。──どのように振る舞うべきか? それが問題だった。助言者としてあるべきか? 良き隣人としてあるべきか? あるいはヤーナムに棲まう上位者らしく在るべきか? 結論を先延ばしにするのは俺の悪い癖だ。そのくせ忘れそうになるのだから、本当に悪い癖だと思っている。結論は出ていないが、行動の指針を定め、覚悟を決めた」

 

 四人が食い入るように狩人を見つめた。

 

「今後も『お父様』は継続とする。そして、俺も皆の望む限り『お父様』として振る舞おう」

 

 だからこそ。

 言葉を一旦区切った狩人は、両手を広げた。

 

「君たちの存在に感謝をしている。多くの親が子に言うことを、俺も告げよう。ありがとう。最近、地上がとても充実していると感じている。百年ほど地底にばかりこもりきりだったことを反省もした。──さて。ユリエ、例のあれを」

 

 ユリエが小さな木の箱を持ってきた。

 狩人が木箱のなかに収められていた小瓶を四人に渡した。

 

「先日、スネイプ先生が来た時に緊急召集した分の手間賃だ。これは、俺の『特別な輸血液』だ」

 

「えっ!?」

 

 思わず声を重ねたのはネフライトとテルミだった。

 なぜ驚くのか分からないクルックスとセラフィだけが固辞した。

 

「ヤーナムの非常事態で我々が動くのは当然のことです。手間賃は……」

 

「僕など市街捜索は空振りだったのだから当然受け取れません……」

 

 狩人は手を叩いた。

 

「そう言うと思った。実は、誕生日のプレゼントでもある。ヤーナムらしい贈り物を真剣に考えたところ、やっぱり輸血液だろうと思いついた。──というわけで遠慮せず拝領したまえ。なあに、水銀弾五発程度分の小瓶だ」

 

「お父様の血でしょう? わー! おもしろーい! お守りにしましょうね。ところでこれ、血晶石にならないかしら」

 

「いや、これ消費アイテムだから。──はっ、俺はいったい何を」

 

「これをメンシス学派に持ち込んで……! いやいや、ダメだ。学派は学派の思想で辿り着かなければ……うぅ……」

 

「そういうブレイクスルーを進んで起こさないネフを俺は信用しているぞ。──というワケで諸君」

 

 狩人が咳払いをした。

 

「君たちの成す何もかもが、眩しく良い試みに思える。連鎖して起こる試みも俺は歓迎しよう」

 

 狩人は笑う。その瞳は、どこか遠くに焦点があった。

 

「ヤーナムの最も新しき夜明けを共に見よう。狩人に寄り添う助言者として、何より父として、成長を楽しみにしている。──狩りを尊び、慈悲を忘れることなかれ。諸君に青ざめた加護あらんことを」

 

 四人が立ち上がり、所属に拠る思い思いの礼をした。

 ほんの一瞬、遅れて礼をしたのはネフライトだけだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ネフライト・メンシス。

 ヤーナム、隠し街ヤハグルにて彼は教会を歩いていた。

 メンシス学派の古狩人、ダミアーンから預かっていた『実験日誌』と依頼されていた本を届けるためだ。

 それから彼に暇を告げて、イギリスのロンドンにあるキングスクロス駅へ夢を通って行く予定である。

 

「…………」

 

 彼の頭の中は言葉と音に満たされ、眠りのなかでさえ絶えることがない。

 もし、絶えるとすればそれは彼が夢から醒め、生命が終わる時だろう。

 今日は、父たる狩人の言葉が何度も繰り返し巡っていた。

 

(……夜明け、と言ったが、お父様は本当に目指しているのだろうか?)

 

 ネフライトにとって、彼の言葉はどこまで本気なのか分からない。

 ──もしも、必死に夜明けを目指しているのであれば二〇〇年以上の空白は何だと言うのか。

 彼と学徒の成果をネフライトは見たことがなかった。仔らには全てが秘匿されているのだ。それも疑いを助長させた。

 

(最も新しき夜明けとは……そうだ、お父様の夜明けとは何を指すのだろう? それは私達とどう異なっているのだろう? 定義が違う? ならば、求める結論が違うのかもしれない……)

 

 教会の鐘が鳴った。

 午前九時。

 必須の拝礼ではない。

 半端に開きっぱなしになっている扉を通り過ぎようとして、足を止める。

 礼拝堂には祈り続ける人影があった。

 

 その背は、見慣れたものでありネフライトが、メンシス学派を心を寄せる理由の一つでもあった。

 

 メンシス学派の主宰ミコラーシュ。

 彼はいつも真剣に祈っている。それは、初めて神の名を知った信徒がそうするように。

 何かに祈りを捧げる顔だけが彼の真実だとネフライトは信じている。彼は学徒の間で語られる──既存概念の破壊者でも、悪夢を語る狂人でも、生者をバラす医療者でもない。

 他人の情熱をネフライトは理解しない。

 だが、もし、この信徒が報われないのなら、彼の神など存在する価値がない。

 

 祈りの時間は終わったようだ。

 聖堂街の鐘が遠くで響いていた。

 ミコラーシュは跪いていた床から立ち上がった。

 そして、聖堂の出口にたたずむネフライトを見つけた。

 

「おや。君はダミアーンの……」

 

 名前を探すように彼は視線をさまよわせた。結局、言葉は見つからなかったようだ。

 無理もない。

 ヤーナムを揺籃とする上位者の眠りは、ヤーナム自体を一新させる。

 たとえ訪れたのが死であっても『なかった』ことになる。──悪い夢を見ていたかのように。

 

 ミコラーシュもまた夢を認識しない多くの人々と同じように、異物である月の香りの狩人や仔らのことは、ぼんやりとした記憶でしか残らない。ネフライトの存在は『ダミアーンの何か』という程度にしか認識できていないのだ。

 

「私は、メンシス学派の使用人です。ネフとお呼びください。ダミアーンさんから主宰へお届け物にあがりました。そして、主宰からぜひダミアーンさんへお渡ししていただきたい物があります」

 

 本と実験日誌を差し出す。

 

「ああ、この本、ずっと前に無くしてね。さすがダミアーン、気が利く。これは、実験日誌? 預かるが、君から渡してもいいのではないかね?」

 

「私はこれから別の用事をおおせつかってしまいまして。主宰、ミコラーシュ主宰」

 

 ミコラーシュの陰りのある黒い瞳が、本から移り、ネフライトを見た。

 

「貴方の見る夜明けが、私の夜明けでもあります。……いずれ戻ります」

 

「ああ、君も励みたまえ」

 

 日誌帳でネフライトの肩を軽く叩く。

 ミコラーシュは本を開いて礼拝堂を去った。

 

「……ダミアーンさんの苦労が忍ばれる」

 

 ネフライトは、メンシス学派の孤独な古狩人を思った。

 

(メンシス学派、我らの夜明けは遠い)

 

 やがて、狩人の確かな徴を使い、夢のごとく姿は消えた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 寒風吹き荒ぶカインハーストにて。

 敷地にある小さな工房には出立の準備を整え、都会の狩人服に身を包んだセラフィが立っていた。

 

「それでは、鴉羽の騎士様、レオー様。僕は行く」

 

「あぁ、うん……」

 

 セラフィは、レオーを見つめていた。

 その彼は、部屋の隅に置かれたベッドを占領している鴉を見ていた。

 ここ数日、鴉が不機嫌な理由はセラフィをカインハーストの外に出したくないという、極めて個人的なワガママである。だが、ワガママを唱えているのがカインハーストきっての騎士であるから、取り扱いは火薬より丁重にしなければならなかった。

 いつもならば一にも二にもなく反応するセラフィの声がけにも、今は無反応を貫いている。起きているだろうに、寝たふりを続けているので今日はもう起き上がってこないだろうと思えた。レオーは自分の寝床が勝手に占領された挙げ句、しばらく使えないことが確定したので実に面白くない。

 さて。

 寝るときも連装銃と千景を手放さない鴉の育ちが察せられる光景であったが、今日のセラフィの関心は別のところにあった。

 

「むっ……!」

 

 セラフィは床に落ちていた鴉羽を持ち上げた。

 鴉がまとう外套から落ちた一枚だった。

 珍しくキラキラした目でそれを見つめていたセラフィは、髪を結う革紐に結びつけた。

 

「……似合うだろうか?」

 

「お前は素っ裸だって綺麗だよ」

 

「……レオー様、あまり騎士らしくない発言に思える。訂正を」

 

「褪せた銀の髪に濡れた黒がよく似合ってる。綺麗だよ」

 

「ありがとう。これは鴉羽の騎士様からの誕生日プレゼントということにしよう」

 

「待って。おいおいおい、鴉、起きろ起きろ! お前からの誕生日プレゼントはその辺の落とし物になったぞ! それでいいのか、お前」

 

 鴉は、無反応だった。

 

「いいそうだ。……レオー様、ちょっと立って」

 

「ったく、いい大人がヘソ曲げてんじゃないよ。ええと、うん? ああ、こう?」

 

 よれよれのシャツをズボンに入れた程度のラフな格好のレオーをセラフィはつま先から頭のてっぺんまで見た。

 そして。

 

「抱きしめていただけますか? クルックスが学徒達にされていたのを見かけて、僕も……やって、みたい……ような……」

 

 セラフィは、もごもごと口を動かした。

 照れたのは彼女だけではない。

 

「え。俺? そういうのは若い男がいいだろ。か、鴉! おい、鴉、起きろ起きて! 後悔するぞ! この先、役得の時間だぞ!」

 

 鴉は、ピクリと動いたが不貞寝を続けた。

 レオーは、両手を上げたり下げたり忙しくしながら触れてもいいものか迷っているようだった。

 

「鴉羽の騎士様は、あのとおりなのだ。でも、もし僕が帰ってきたとき、抱きしめてくれたら……嬉しい、ような……」

 

「それは……そう、そうだな」

 

 レオーが覚悟を決めたように両手を広げた。

 そっと身を寄せたセラフィは、レオーの背に腕を回した。

 

「むむ……こう? こうしていたような……?」

 

 セラフィは、もぞもぞとした動きを止めた。

 レオーが抱きしめ返したからだ。

 

「形なんてどうでもいいのさ。体を大事にな。セラフィ……カインハーストの名誉あらんことを」

 

「はい。鴉羽の騎士様もレオー様も、血の女王の加護あらんことを。我が身は遠い地にあるが、お二人と共に夜明けを見たい」

 

 レオーの腕の中でセラフィの姿は、夢のように消えた。

 温もりを追いかけて手を握っては開く。

 そのうち彼は、元通り作業用の丸椅子に座った。

 

「はぁ。不覚にも感動してしまった」

 

「私は不愉快なのだが?」

 

 見れば、ベッドから身を起こした鴉が頬杖をついて連装銃をチラつかせていた。

 形相といい、やっていることがチンピラのそれである。

 セラフィの前では騎士らしく振る舞おうと努力している節があるが、いなくなった途端にこれである。レオーは内心「やだコイツ」と思っていた。

 

「勝手にへそ曲げたヤツが、なーに言ってやがるんだか。……セラフィって柔らかいだろ。……いや、変な意味じゃなくて、普通に年頃の娘なんだなぁと……思ってだな……。自分で気持ち悪いことを言っているのは、ああ、分かっているんだが……」

 

「貴様の顔と頭が残念なのは、今に始まったことではあるまい」

 

「お前に残念呼ばわりされるとは屈辱って思うんだけどなあ。他はダメダメ。顔は良い。だから許しちゃうんだよ。俺だから許せるんだからな? そのあたり分かってる? だが、鴉。分かるだろう。あの子、成長しているんだ。歳も取らず、死んでも死にきれなくなった俺達とは違って……成長しているんだよ」

 

 精神的に歳を取ったせいだろうか。このところ失ったものばかりが眩しいと感じる。

 

 セラフィは可能性の塊だ。

 

 カインハーストでの生き方しか選べないレオーや鴉と違い、彼女はどこにでも行ける。何にだってなれる。

 可能性は未来を感じさせ、レオーに仄暗い幸福をもたらした。セラフィの人生を、最早どうにもならない自分に浪費させるのは貴人に連なる者らしく、最高の娯楽なのだ。

 だが、不意に亡くした面影と重なり、不毛を悟る。それは苦痛だった。

 鴉には、そんな感情が無いのだろうか。返ってきた言葉は冷たいものだった。

 

「当然だ。女王のために狩人が献上したモノだ。──得体の知れぬ人らしきモノ。本人は人間だと思っているらしいが」

 

「あれだけ慕われてるのにツレないのなぁ、お前。ビックリするよ。まあ、だからこそ愛せるワケだが」

 

「何であれ私のものだ」

 

「──許されざる本音が聞こえたぞ、おい」

 

 この鴉という青年。

 実は、他人のものを取り上げることを生き甲斐としている破綻者である。しかもこの種の『難』は性格だけにとどまらない。血筋に由来する衝動性があり、カインハーストの外ではまともな社会生活を営めず、きっと三日と生きていけないだろう。──この対人関係の構築力のなさこそ、いまだにレオーが騎士を引退できない理由だ。ただし、体格も戦闘も言うことなしの優れた狩人だ。実力だけならば、ヤーナム末期のカインハーストが産み出した傑作なのだが。

 

「どうしてこう口を開くと残念なんだ? 今からでも遅くないから努力の配分をもうちょっと人間関係に割り振って欲しいんだが。なぁ、やればできる子なんだからさ。ビルゲンワース学徒達や狩人とだけでもまともな会話ができるなら俺も安心できるんだけど」

 

「不要だ。レオーがいるのになぜ私がやらねばならんのだ?」

 

「仕事なら俺がやる。これは当然さね。でも今は人間として最低限必要とされる能力のことをお話しているわけなんだが、そのあたりはお分かり?」

 

「不要だ。必要ない」

 

「要るって話をしてるだろ!」

 

 返ってきたのは、いつものごとく断りの言葉だ。

 そのうち鴉は白銀の長い髪を掻き上げ、ベッドから降りた。薄銀の脚甲を身につける。そして鴉羽の外套を着込み兜を小脇に抱えた。

 

「行くぞ。刀を持て」

 

「え。なに。急に果たし合いとかやめようぜ。外寒いし、観客もいないし。な? 暴れたいなら、ほら、地下聖杯を用意してやる。血族なら出るまで回せ、納税と同じくらい義務だぞ」

 

「セラフィが旅立った。女王へ奏上を。そのためには我らが仇、処刑隊のローゲリウスを殺さねばなるまい」

 

 処刑隊の長、ローゲリウス。

 彼は、どういう経緯か知らないが──レオーと鴉は『惚れたから』だと思っている──女王のおわす屋上の玉座の前にいるのである。何人も穢れた秘密に触れぬようにと女王の番犬よろしく近付く者を殺しているのだ。

 

 純粋な血族たるレオーと鴉にとっては、女王に謁見する前の邪魔者でしかない。

 

 そのため、月の香りの狩人が世界を塗り替える度、つまりは一年に一度、討伐しているのだが、今年はセラフィがいる。彼女が可愛いのでレオーはすっかり忘れていた。意図的に忘れていたくもあった。レオーは、鴉が悪夢より這い出る数年間、ローゲリウスに挑み破れ続けていた。独りで殺しきったことがない。彼のことはできる限り忘れていたいのだ。……その先にいらっしゃる我らが女王は、死なないので多少退屈が極まったところで大丈夫だろう。

 

「──なあ、来年からセラフィが行く前にやろうぜ、この仕事。毎年思うんだけど屋根の上での戦闘は、やっぱおかしいって」

 

 滑って死にかけたのも二度や三度ではない。

 一応、提案するものの受け入れられないことは明らかだ。

 なんせ、この男。八つ当たりのためだけに今日までローゲリウスを生かしていたのだから。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックス・ハントは、晴れ晴れとした気分だった。

 思わず微笑んでしまうのは、父たる狩人に認められたからだ。

 

 狩人を「お父様」と呼ぶと反応が鈍いのは慣れている。ただ、ほんのすこし悲しいことだった。

 しかし、今後はそんなことを考えなくともよいらしい。

 ユリエは「立派になって……!」と声を潤ませていた。コッペリアだけは「えーっ、僕がお父様の座を狙ってたのになぁ!」と不満の声を漏らしたが、彼には自称兄の座があるのでそれで我慢してほしい。──ともかく、学徒達にも狩人の変化は概ね歓迎して受け入れられた。「俺は万年成長期だからな」とは狩人の独り言だが、事実だったようだ。

 

 ロンドン、キングスクロス駅にて。

 プラットホームを歩きながら、クルックスは隣を歩くテルミに話しかけた。

 

「俺は気分が良い。母なる回転ノコギリを進呈しよう。どうか?」

 

 もちろん、魔法族の前で仕掛け武器をひけらかす真似はしていない。彼の手には鎚ではなく、真新しい鞄が握られていた。

 テルミはいつもの薄い笑みを浮かべていた。

 

「火薬庫くさい武器はやめてくださる? わたし、そんな物を持つくらいなら、両手でガラシャを持つわ」

 

「そ、そんなに嫌なのか? まぁ、冗談だ。笑ってくれ」

 

「アハッ。──ところでネフとセラフィがいないのね。ご存じ?」

 

「学派とカインの先達に顔を出してから行くと聞いている。だから列車にも乗らないのではないか? ホグワーツのホームにも灯があるところだ」

 

「ふぅん。いいですけれど。クルックスはどうするの?」

 

「汽車で行くからここにいるワケだが……」

 

 ホームはすでにトランクを持った生徒や保護者で溢れかえっていた。

 もみくちゃにされない、離れた場所でふたりは立ち止まった。

 

「お父様から依頼されていたことがあるでしょう?」

 

「郵送先を誰かの家に頼むという件だな。もちろん覚えている。誓約書も持っているぞ」

 

 古びた封筒──ヤーナムの物はたいていアンティークの趣がある──を衣嚢から引っ張り出したクルックスは、それをテルミに見せた。

 

「どなたに頼むつもり? ……わたし、非魔法族出身者の家は避けたほうがいいと思うの」

 

「ハーマイオニー・グレンジャーに頼もうと思っていたが、都合が悪いのか?」

 

「この前、ヤーナムに訪れたスネイプ先生のことを聞いて思ったの。ヤーナムは魔法族より非魔法族に親しみがあるのではないかな、と」

 

 それはつまり、どういうことだ。

 すっかり顔に出てしまっていたらしく、テルミはすぐに答えてくれた。

 

「だからね。魔法族はあまりにもヤーナムのことを『知らなすぎる』の。これはネフだって気付いていると思うけれど」

 

「……魔法使いはいないようだからな、ヤーナム」

 

 それは交流がほとんどなかったことを意味する。

 だから書影にも残らなかったのだろう。

 テルミはクルックスが終わらせた思考の先の『だからこそ』を考えているようだった。

 

「非魔法族の方が、ヤーナムに詳しいの可能性があるの。もちろん、ハーマイオニーが知っているとは思わないけれど。……ねぇ」

 

「何だ?」

 

「今さらですけど、ヤーナムのこと、あまり話してはいけないのよ?」

 

 とても心配な顔をされてしまい、クルックスは「うっ」と声を詰まらせた。

 

「そんなに話していない。話していないぞ。……たぶん」

 

「貴公、常識を話しているつもりでヤーナムのことを話してしまうから心配なの。──わたし達の文化が虫だらけと誤解されるのは嫌よ」

 

「虫のことは話していない。話していない……たぶん。俺はヤーナムが特別に淀んでいると認めたくないのだからな」

 

 ──いやまて、本当に話していないよな?

 自分の記憶を疑ってしまったが、やがて手紙のことを思い出した。

 

「分かった。分かった。ではウィーズリーに頼む」

 

「……うーん、彼、大丈夫?」

 

「誓約書には代金の話も書いていると聞く。渋ったら俺から多少金を積んでもいい。ひとまず一年、試してみてもよいだろう」

 

「その程度が妥協点かもしれないわ。それでは、よろしく頼みますね?」

 

「了解だ。──月の香りの加護の下、祝福あらんことを」

 

「貴公にも加護を。今年は、大人しくしていましょうね?」

 

「俺に言うべきことはあるまい。問題はいつもハリー・ポッターだ」

 

 二人は、短く抱擁を交わして別れた。

 汽車に乗る。

 しばらくして。

 非魔法族の世界からの通い路である9と4分の3番線へ至る道が閉ざされたのは、彼らには全く関係のないことだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは悩んでいた。

 どのコンパートメントを覗いてもハリー・ポッターとロン・ウィーズリーがいないのだ。

 つい先日、ダイアゴン横町で一緒に買い物をした仲だ。まさか突然いなくなるとは思えない。何か事故に遭ったのだろうか。そう思って見るコンパートメントにはロンの兄たちである双子やグリフィンドール監督生のパーシーがいるのだから、おかしな事態だ。

 

「やっぱりいないわ。……どうしたのかしら」

 

 車両を一巡りすると荷物を置いているコンパートメントに戻って来た。

 中では眠そうなクルックス・ハントと顔見知りになったジニー・ウィーズリー──ロンの妹だ──がいた。

 

「すこしくらい遅れても大丈夫だろう。ハリー・ポッターだぞ」

 

「……どういう意味?」

 

 ジニーが恐る恐るクルックスに尋ねた。

 彼女にとって、クルックスは恐ろしく映るらしい。

 彼の第一印象が良くないのはハーマイオニーも擁護できない。……あまり変化しない表情に暗い瞳。ぶっきらぼうな物言いは、簡潔にして明瞭と言い換えることができたが、冷たい物言いにも聞こえる。ジニーに対し「話せば意外と悪い人じゃないのよ」と言ったのが数十分前。彼は「意外と?」と聞き咎めたが、自分の愛想のなさに心当たりがあるのか何も言わなかった。実は気にしていたのかもしれない。

 そして、今。

 彼は眠たげに目を閉じた。

 

「丁重な扱いをされているだろうと思ったまでのことだ。駅には、隠れたつもりらしい魔法省の役人らが張っている。何かあれば助けるだろう」

 

「そうだけど。だって、あたしのすぐ後ろにいたのよ」

 

「前だろうと後ろだろうと間が悪ければ事故は起こりうる。今、ここにいないということはそういうことだろう。今さら騒いでも仕方ない。役人と先生方の仕事だ」

 

「冷たいのね。もうすこし心配してもいいのに」

 

「ぐぅ」

 

 クルックスは、少女の精神構造が分からないようだ。低く唸ったきり、眠れずにいる。

 ジニーはそんな彼を今にも「とんでもない人なのね」と言い出しそうなほど見つめていた。

 コンパートメントが開いた。

 丸い魔女のおばさんが食べ物を積んだカートを押してきたのかと期待したが、思いがけない人物が立っていた。 

 

「──私はネフライト・メンシス。ハーマイオニー・グレンジャー。君と会話をしたい」

 

 たった数秒で名乗りと用件を伝え終わったネフライト・メンシスは、クルックスの隣の空いている席に座った。

 彼を知っているハーマイオニーは名乗り以外の用件が辛うじて聞き取れたが、ジニーには彼の被る六角形の檻に目が奪われて、何の情報も聞き取れなかったに違いない。ポカンと口を開けていた。

 

「ネフ。……何だ、乗っていたのか」

 

「朝食を摂っていなかったからな」

 

 ネフライトはクルックスにビスケットを渡した。

 そして。

 

「課題だ。査読の時間を確保したまえ。締め切りは三日後だ」

 

「お、ぉ……早いな……。頑張るが……うん」

 

 ドサッと束になった羊皮紙を渡されてクルックスが顔を顰めた。

 ネフライトが対峙するハーマイオニーを向いた。

 

 彼と目を合わせて話すのは、初めてのことだ。

 ハリーと同じ緑色の瞳だというのに宿る光は凍てついた氷のように冷ややかだった。

 

「私のことはクルックスから聞いているだろうか?」

 

「え、ええ、親戚だと」

 

 彼はチラリとクルックスを見た。クルックスは『無罪だ』と訴えてビスケットを頬張ったまま首を横に振った。

 

「さて。ひょっとしてご存じかもしれないが、私は学年で最も成績が良かった」

 

 ネフライト・メンシスとは、昨年ほぼ全ての科目で最高点を叩きだし、堂々の学年トップに輝いた秀才である。

 だが、檻を被る姿とほとんどの学生からの交流を絶っており、独りでの奇行が目立つので変人扱いされている。──これが多くの学生に共有されているネフライトの情報である。

 

 その裏の顔をハーマイオニーは知っている。

 クルックスと同じヤーナムの出身で賢者の石の騒動においてはスリザリンのセラフィ・ナイトと共に四階の廊下を見張っていた。目聡く、腕の立つ人物なのだ。

 

「ええ、そうみたいね」

 

 声は自然と素っ気なくなった。

 ハーマイオニーは、トップを取るために勉強を続けていたワケではない。──けれど、ひょっとしたらこの科目は一番かもしれない。そう思う瞬間は何度もあった。だが、試験結果を開いてみたら、どの科目も二番かそれ以下だった。

 

「次の成績優秀者は、きっと貴公なのだろう。だから話しに来た。三年次の選択科目のことだ」

 

「選ぶのは復活祭の休暇だって聞いているわ」

 

「私は何の教科を選ぶのかを聞きに来たのではない。──いくつ選ぶのかを聞きたいのだ」

 

「今年の成績次第だけど……マクゴナガル先生に全科目履修したいと相談してみるつもり。留年しても学ぶ価値があると思うわ」

 

「そうか。私も同じような考えだ。では、頑張ってくれたまえ。優秀な者がいるというのは魔法界にとって良いことだ。私としても心慰められる。──クルックス、夕食会がある。あまり食べ過ぎないことだ」

 

 ネフライトは心にも思っていなさそうなことを言い残し、コンパートメントを去って行った。

 

「あの人、なに? ……なに?」

 

 ジニーは、緊張から解き放たれた。

 コンパートメントを開けて彼の後ろ姿を見ている。その後、彼が瞬きの間に消えてしまったことも大きな疑問になった。

 

「俺の親戚だ。ネフライト・メンシス。ネフと呼ぶといい。……会話になると思わないが」

 

「あ、頭の檻はなに?」

 

「帽子のようなものだ。気にするな。授業や食事では被っていない。代わりに眼鏡をかけているな」

 

「ぼ、ぼうし……? 眼鏡……? なんだか、偉そうな感じ……」

 

「偉そうではない。偉いのだ。賢いから。彼の言葉は傾聴に値する。俺にとっては常にな」

 

 ジニーの疑問に答え続けていたクルックスが、陰りのあるハーマイオニーの表情に気付いた。

 

「ハーマイオニー、彼に負けるのは全く恥ではないぞ」

 

「別に。悔しいなんて思ってないわ。競っていたワケではないから」

 

 クルックスが、拙い言葉で励まそうとしてくれていることをハーマイオニーは理解していた。

 しかし。

 

「彼は元々頭が良い。頭の作りが違うというべきか。出来が違うのだ」

 

 簡潔にして明瞭に伝えられた内容は、ハーマイオニーの頭にガツンとぶつかった。

 そのあとにクルックスが付け足した「俺とは」という言葉を永遠に聞き逃したのでハーマイオニーは、さらに落ち込んだ。




出発式:
 狩人からの挨拶で特別なアイテムが配布されました。内容物は赤です。青ではありません。不思議だね。


あとがき:
 現在パソコンを使える環境にないので、あとがきも短くなりがちです。

 ご感想お待ちしております!(ジェスチャー 更新)


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没交渉の日々

特別な輸血液
人ならざる上位者から採取された血液を精製したもの。
「輸血液」の呼称は便宜上のものであり、果たして悪夢由来の成分が血液と判じられるのか。学徒のなかでも認識が異なる。
とはいえヤーナムでは遺志が宿る液体であれば、血液とする。
……使えれば、それでよい……
狩人ならば、そう考えるべきだろう。たとえ陽に透かせば青ざめて見えたとしても。



 ネフライトにとって入学式を兼ねた新学期の歓迎会は、非常に退屈で苛立つものだった。

 

 昨年、学んだことであるが、ネフライトは集団生活に向かない性質だ。

 

 全てを記憶に留める性質を彼は誇りに思っているが、例えば、隣の生徒が話す父と母が喧嘩をして離婚しそうだという家庭事情から今年度入学した一年生の顔と名前と配された寮まで、見聞した全てを記憶してしまうのは無駄なことだと思っている。

 集団生活はメンシス学派にいた頃に送っていて慣れていると思っていた。だから、学校生活に放り込まれた時には本当に驚いた。

 ──なんと幼稚で、無秩序で、無意味な会話の多いことか。

 ヤーナムの組織・団体における子供は小さな大人と見なされる。メンシス学派の学徒集団の末尾にいる彼は、多種多様な人物が名を連ねている連盟よりも──多様性という点では──貧しい環境にいたのだとホグワーツに来て初めて知ったのだ。

 

(……いけない。頭が痛くなってきた……)

 

 人のざわめきに酔ってしまいそうだ。

 眼鏡を外して瞼を押さえる。目を閉じている間は、目に飛び込んでくる情報量が減るためすこしだけ頭が楽だ。

 食事が始まる前に彼は、すでに疲れていた。

 一年生の組分けは順調に進み、なかなかレイブンクローに配される生徒がいないので周囲は雑談をし始めた。教員テーブルにセブルス・スネイプがいないことがちょっとした話題になっていた。

 

(帰れなかったとか?)

 

 まさか、と思う。

 クルックスが見たという獣の皮を被った教会の暗殺者は、結局、仕損じた。死ぬ要因はないハズだ

 

(それにしてもだ。お父様も物騒なことをなさる。普通の人間は一度死んだら終わりだとお忘れなのだろうか?)

 

『うっかり』も多い狩人だが──そうではないとすると、どのようなお考えをしているのか。

 ネフライトは考える。

 

(『死んでも構わなかった』? だが、スネイプ先生はヤーナムの血を受け入れていないのだ。死んだことが夢になることなどないのに……)

 

 不可解だ。

 しかし、情報が不足している。『彼の気分』という平凡な案しか思い浮かばない。これは、いささか乱暴に過ぎる結論だ。

 ネフライトは結論を先延ばしにすることにした。

 

 まさかの話に戻ろう。

 スネイプ先生は、ヤーナムの外に出れば移動する魔法『姿くらまし』ができるのだから、やはり死ぬような目にあうことはないハズだ。そういえば、先ほど「ハリー・ポッターがいない」ということが話題になっていた。

 点と点が繋がる感覚を経て、ネフライトは目を開いた。

 

 

 

■ ■ ■ 

 

 

 

 ホグワーツの教授の間で『ラブ・レター』と呼ばれる物がある。

 差出人はいつもネフライト・メンシスだ。

 一般的に「愛を告白する手紙のこと」を指す語は、ホグワーツ教授陣の間では「果たし状」と同義であった。羊皮紙を開けば、レイブンクローの奇才からの質問がビッシリとしたためられている。迂闊な返事をしたら最後、倍の質問を受けてしまう。

 完全な回答の作成は多忙な教職員にとって大きな負担を強いるものだったが、教授に対し理解の反応が返ってくるのは嬉しいことでもあった。

 あまりに熱心な質問状なので、いつの間にやら、誰かが呼び始めたことをきっかけにそう呼ばれるようになった。

 

 さて、その差出人は問題児であった。

 

 問題児と言ってもさまざま種類がある。

 グリフィンドールのウィーズリー双子のように悪戯に由縁するトラブルを頻繁に起こすのも問題だが、一方で、授業で指名を受けた時以外はほとんど誰とも関わらない没交渉な生活を送る彼も問題であった。

 しかし、生徒の交友関係にとやかく口出しすることは──校則に触れない限り──先生から行うことはない。

 

 そのせいでしばしば学校を卒業してからも続く確執が生まれているが、要因は指導不足に加えて、寮対立の苛烈さにも求められることだろう。

 

 自己研鑽にしか興味がないかのようにネフライトは周囲に無頓着だ。

 普通の才人であれば気に病むであろう、後ろ指や聞こえよがしの悪口も彼は気にしない。これは『悪意に屈しない孤高な精神を持っている』と評しても間違いではないと思われたが、まったく意にも介さないので『感性の欠如が見られる』とも言えそうな生活態度でもあった。

 

 問題児の烙印が押されたままの原因は、質問の傾向にある。

 

 そこはかとなく感じられるのは「ネフライト・メンシスの倫理観は、とても緩いのではないか?」ということだ。

 

 彼の興味とは、人体に帰結することが多い。

 無論、学術的な興味に収まれば何の問題にもならない。

 しかし、一線を違えれば『闇の魔術』にどっぷりハマるのではないか、という想像が容易にできた。そして、想像を否定するだけの信用が彼には存在しなかったのである。

 

 学校とは単なる集団生活の場ではない。

 小さな社会であり、社会に出る前の訓練場でもある。

 ──彼には是非とも『人並み』に相互理解努力をする姿勢をみせてほしい。

 これは教授陣の間にある密かな願いであり、寮監であるフィリウス・フリットウィックのちょっとした悩みの種だった。

 

 九月二日。

 教員室の扉が開かれた。

 予告どおりの午後四時。

 現れたのはネフライト・メンシスだ。

 

 話す用件も決まっている。

 来年の授業選択についてだ。

 

 本来であれば復活祭の休暇に話すべき内容だったが、ネフライトからの要望でこうして特別な機会を設けた。

 だが話すべき内容は今日も復活祭の休暇でも変わりはない。

 だから「後で」と先延ばしにしても問題がないと思われたが、フリットウィック先生は『あること』を思いつき、今日話すことに決めたのだ。

 

 

■ ■ ■

 

 

「ネフライト・メンシス。まかり越してございます。……フリットウィック先生、ご多忙のところお時間をいただきありがとうございます」

 

「君はこの後も用事があるだろう。手早く済ませるとも」

 

 フリットウィック先生に椅子を勧められ、ネフライトは丸椅子に座った。

 呪文学の担当であるフリットウィック先生の部屋には、古今東西さまざまな本が置いてあった。

 彼の緑色の目が、ちらりと本へ移ったが──やがてまっすぐにフリットウィック先生を見た。

 

「先んじて送らせていただいた手紙のとおり。三年次からの選択授業について、私は全科目を選択したいと考えています。同時に開催する授業もあるため、出席数は半々となるのでしょうか?」

 

「そうする生徒もいる。あとは自学自習で試験を受ける生徒もいるが……」

 

「……?」

 

 ネフライトが探る目でフリットウィック先生を見た。

 

「特別な措置を講じる場合もある」

 

「はあ。なるほど。どのような場合か、伺ってもよろしいでしょうか?」

 

 フリットウィック先生は、この質問をしたいがためにネフライトがここにやって来たことを悟ったようだった。特別な措置とは「どのような措置か」ではなく「どのような場合」かを聞いたからだ。

 だからこそ、言い聞かせるように言葉を重ねた。

 

「検討要素は、さまざまあるのだよ。公平のために、その全てを生徒に教えるワケにはいかない。だが、多くの場合、生徒には求められる素質がある」

 

「素質……ですか。それは?」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

(協調性!)

 

 ネフライトは、鼻で嗤った。

 フリットウィック先生の授業準備室から出た後のことである。

 独りで嗤うのは良くないと分かっているが、廊下に誰もいないことをいいことに彼は薄く嗤った。どうにもこらえきれなかったのだ。

 

 協調とは、互いに協力し合うことである。

 時に自分の不利を飲みこみ、他利をもたらす姿勢のことだ。

 

 だが、ネフライトの見るところホグワーツの協調性は、ごく限られた交友関係にのみ存在している。

 ネフライトは「協調性」の言葉をフリットウィック先生から聞いたとき、心の底から『自分に求める前に他の生徒を指導せよ』と思ったが、言ったところで自分の立場を不利にするだけであるため控えた。

 生徒の多くができていないことなのに、まったくできていない自分に求めるのは、図々しいというか──的外れであると感じる。

 とはいえ、自分は彼らの信用を得るような行いをほとんどしていないことについては自覚がある。

 

(……分からないな。私ほど真面目に勉強している生徒など上級生でもいないだろうに。それではダメなのか。これだけではダメなのか)

 

 学校という仕組みをネフライトは理解している。

 一個人に多面的な成長を求めすぎると感じている。

 

(とはいえ、多くは己の才の在処を知らず、凡夫のまま一生を終えると聞く。とりあえず汎用な人間を作るために合理的ではある。私にとって不合理なだけだ)

 

 ヤーナムでは、このようなことはなかった。

 ネフライトは考えたが、暗澹たるヤーナムの暗澹の由縁である現状を再確認するだけに終わった。

 

 ヤーナムの組織・団体では、即戦力が求められている。これは子の成長を待つ時間と人員の余裕が無いことを意味する。──異常事態が長く続くヤーナムで大きな問題になっていないだけだが──もし、ヤーナムが夢から醒めて通常の時間が流れることがあるならば、人口の先細りは免れないだろう。最も権力が強く、人が多い医療教会でさえも獣性を抑制する画期的な手法が見つからない限り、百年は保たないように思えた。

 

 ヤーナムが夢を見始めた時点の西暦は不明だが、夢の中で二世紀ほど足踏みをしている。

 魔法界が迎えた二十世紀が、いまだ来ていないのだ。

 

 さて、困った。

 

 獣性の高いホグワーツ──とネフライトは思っている──において誰と交友を深めるべきか。

 同学年と上級生の名前と顔を思い浮かべて、これはダメ、あれはダメと思案した結果。誰もいなくなってしまった。

 

(私に瑕疵があるワケではない。そもそも、レイブンクローの生徒がダメなのだ)

 

 試験で競うために己の知を開示せず、あろうことか嘘を教え合うとまで言われるレイブンクローの特性は、ネフライトにとって本当に度し難いものだった。

 探求者が頼りにする知恵は、人間の善悪とは異なる次元になければならない。

 全ての患者が真実を話すという性善説によってのみ、医療者は正しい治療をすることができるのだ。──もっともヤーナムでは、必ずしも患者の口から聞くことを重要視していない。体は正直だし、病巣は誠実だ。それだけでよかったのだ。

 

 魔法使いとは、他人の知恵を拝領する慎ましさもないクセに自分だけが賢いと思っている節がある。

 思い上がり甚だしい。彼らと同類と思われることはネフライトにとって耐えがたい屈辱だった。

 

 これからの問題は、ホグワーツでどのように過ごすか。

 ネフライトは、数秒考え込むために立ち止まり、歩き出した。

 

 卒業後はどうせ魔法界との関わりがなくなるからと避け続けていたツケが今になってやってきた。

 だが、あえて問題ないと言ってみよう。

 

(私に都合の良い生徒がいないのであれば、作ればいい)

 

 ネフライトは、抱えていたメンシスの檻を被った。

 そして。

 

「そこな、君。どこへ行く。夕食の時間だ」

 

 声をかけた。

 濁った金髪の少女が、ふらりと廊下を歩いていたのだ。

 辺りを見回した横顔をネフライトは覚えている。

 

「君に話しているのだ。ルーナ・ラブグッド」

 

「こんにちは。素敵な檻だね」

 

 ルーナ・ラブグッドは振り返った。

 バラバラと広がるブロンドの髪が揺れる。夢を見るような銀灰の瞳がネフライトを見つめた。

 その色に一瞬だけドキリとした。

 瞳が父と同じ色なのは、クルックスと同じだというのに少々、心が揺らいだ。ネフライトは彼らの色が苦手なのだ。

 

「……ここで何を?」

 

 しかし、表情を変えるほど動揺していなかったハズだ。

 自分の頬に触れようとして檻に阻まれる。ごまかすように鉄の編み目を爪先で掻いた。

 

「散歩していたんだ。あんたこそ何しているの」

 

「フリットウィック先生と話していた。今は夕食の時間だ。大広間へ行くのならば同行しよう」

 

「……お腹すいていないんだ」

 

「では、談話室へ戻るべきだ。軽食がある。食事を欠かすことは良くない。来たまえ」

 

 ネフライトは、しばしば大広間の夕食の席を辞退している。

 その代わり、談話室でよく使っているテーブルの上に夕食時間になったら簡単な食事を置いておくように厨房と話を付けていた。

 ネフライトは、早足で歩く癖がある。

 ヤーナムの大人に追いつくためのものだったが、声をかけられた時に彼女が思いがけないほど遠くにいることに気付き、立ち止まった。

 

「あんたのこと知ってる。ネフライト・メンシスだ」

 

「いかにも。私こそがネフライト・メンシスである。気軽にネフと呼ぶといい」

 

「友達がいないって聞いたけど、本当?」

 

「一般的にそう言われる状態であることは理解している」

 

 まるで他人事のようにネフライトは言った。

 数瞬、クルックスを友として呼んでよいのではないかと思えたが、彼と了承の取れていないことだったので明言を避けた。

 

「あんた、友達いなくても大丈夫?」

 

「何も問題はない。……しかし君は、何か心配事があるらしい」

 

 ルーナの友人についての質問は、多くの人がそうであるように嘲りによるものではなかった。

 だからこそネフライトから踏み入った。

 

「うぅん……今日は、誰とも話していないんだ」

 

「それは」

 

 こうして話すことができるから彼女のコミュニケーション能力に難がある風には見えない。クィリナス・クィレルよりは上手に思える。

 では、なぜ話していないのか。

 

「ああ、なるほど。君には、変人の気味があるからな」

 

 彼女のふわふわとした口調は、相手に大きな戸惑いを与えるものだ。

 キョロリとした目がネフライトを見た。

 

「あんたに言われたくないな。私、檻を被っている人なんて初めて見たもンね」

 

「そうだろう。そうだろう。この素晴らしい檻が、外の世界にあってたまるものか。クッフハハ」

 

 ネフライトは、彼女が追いつくとゆっくりと歩いて西側の塔へ向かった。

 

「あんた、なんで私のことを知っていたの? ひょっとして十一年前の『ザ・クィブラー』を見たの? パパが編集長なんだけど、私が生まれたときに編集後記に写真を載せたんだ。……赤ちゃんの時の写真だけど」

 

「ザ・クィブラーとやらは知らないが、組分けを見ていた」

 

「レイブンクローの新入生はたくさんいたでしょ?」

 

「私は一度見たものを忘れない。例えば、君が組分け帽子を被っていた椅子から最初に歩き出したのは右足からだ。覚えているとも」

 

 ルーナは自分の足を見た。

 

「どっちから歩いたかなんて忘れちゃった」

 

「普通はそうだ」

 

 ネフライトは、ふと足を止めた。

 西側の塔。

 天文学を行う塔には敵わないが、ここでも星空がよく見えた。

 

「人は嘘を吐くまでもなく、そうして忘れてしまうものだ。なぜ神秘の探求を最も志さなければならないレイブンクローが疑心暗鬼の個人主義に陥っているのか。私は理解に苦しむ。君はどう思う?」

 

「よく分からないな。だって、ホグワーツ二日目だもン」

 

「それもそうだ。話す相手を……私は、間違える癖があるらしい」

 

 西の塔の扉をノックするとノッカーの鷲の嘴が開いた。

 多くの寮がそうであるように入寮には合言葉が必要だった。

 ただし、レイブンクローはちょっとしたクイズが出題される。

 

「不死鳥はどこから来る?」

 

 嘴が囀った。

 

「血だけが全てを定義し、そこから全てが生まれる」

 

「……貴方の答えは、いつも他の生徒とは違いますね。だからこそ、レイブンクローに相応しいのでしょう」

 

 ノッカーはパッと扉を開いた。

 

「適当に座って」

 

 談話室は、広い円形の部屋だ。

 壁のところどころに優雅なアーチ形の窓があり、天井はドーム型、夜なので描かれた星が煌めいていた。

 いつもの席にはサンドウィッチが置かれていた。ポットを沸かして適当なお茶を入れた。

 

「食べれる分、食べるといい」

 

 檻を外して眼鏡をかける。

 勧めながらネフライトもサンドウィッチに手を伸ばした。

 

「レイブンクローの人は、誰も手助けをしないのかと思っていた。眼鏡、似合うね」

 

 分厚いベーコンを噛み切ろうとして失敗したルーナは言った。

 

「皆、自分のことで頭一杯みたいだもン。でも、何人かはラックスパートが入り込んでいるんだと思う……」

 

「ラックスパート?」

 

「目に見えない、ふわふわした生き物だよ。耳から入って頭をぼ~っとさせるンだ」

 

「……?」

 

 目に見えない。

 それは啓蒙的な視座のことだろうか。

 

「次に見かけたら私にも教えてくれ。──話の続きだが、レイブンクローらしく私は奇特な人格ということになる。……とは私なりの冗談だが、打算あってのことだ」

 

「打算って?」

 

「私はホグワーツに互助的な学習の機会を作りたいと考えている」

 

「あんたが教えるの?」

 

「互助的なものだ。つまりは誰しも等しく教え、教わる関係になるというものだが」

 

 構想を話しているとルーナが、パチリと手を叩いた。

 

「あんたが話すなら面白そう」

 

「私が? 私が……いや、私は……目立ちたくない」

 

 ネフライトは、少人数であれ志す者が集まればよいと考えていた。

 しかし。

 

「もう一年生であんたのこと知らない人なんていないよ。ハッフルパフのコーラス=Bが『檻頭野郎』だって」

 

 ネフライトには、許しがたいことがいくつかある。

 その一つは、テルミによるメンシスの檻の侮辱だった。

 檻頭野郎とは、聖歌隊がメンシス学派を揶揄する時に使われる言葉だ。

 反射的にネフライトはテーブルを叩いた。メンシス学派らしくキレるときは速かった。

 

「聖歌隊! 聖歌隊はいつもそうだ! 陰険! 陰湿! 孤児院では『イジメはダメ絶対』と教わらなかったのか!? 裏工作ならばお手の物だな。なにが教会の剣だ。潮錆びだらけのメスで病巣の何が啓けると言うのか」

 

 そして、立ち上がった。

 お茶の入ったカップがぐらりと揺れた。  

 

「ああ、決めたぞ。ルーナ・ラブグッド。君は幸運だ。私が導いてみせるとも。暗澹の知が、ホグワーツにおいて燦然たる知となることを証明しよう!」

 

 ミコラーシュ主宰がそうするように、ネフライトは両手を広げる。大いなる使命感が湧き上がった。

 知識とは、人間が時を超えて積み上げるものだ。

 メンシス学派の主宰ミコラーシュが、学派を広げたのもきっとこうした考えだったからに違いない。

 

「なに教えてくれるの?」

 

 スンと鼻を鳴らす。

 現実に戻ってきたネフライトは着席して考えた。

 

「まずは……そうだな。図書館の使い方から始めよう。無知を知ることの一歩でもある。最近、イルマ・ピンス司書を『検索のため』に働かせる術を確立させたところだから」




没交渉の日々
ネフライト:
……もし、月の香りの狩人の仔らに寿命があるならば、活動限界が最も早く訪れるのは私だろう……
 ネフライトが急ぐ理由は彼にとって切実で、しかもどうしようもないものです。これが杞憂であればよい。大人になったら、現在のヤーナムで生活する人々のように、体の時が止まる──ならばよい。でも、そうはならなかったら? そもそも仔は狩人の奇行で偶然に生み出されたもの。狩人も学徒達も初めての試みのため、知見はゼロ。実のところいつ死んでもまったく不思議ではないことをネフは自覚して行動しています。
 サンドイッチはアボガドが好き。

ルーナ・ラブグッド:
 入学二日目。さっそく迷った。サンドイッチは卵が好き。



 2年生編は、たくさんネフとセラフィのことが書けて楽しい時間でした。
 作業環境が戻ったのでご感想の返信を始めます。
(ところでフロムテキスト風感想を書いてくださっている方がいらっしゃるのですが、その出来に筆者は嫉妬しています。……ギィ、ギィイイイ!(訳:ナメクジ、くらえ!)


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ギルデロイ教室

ギルデロイ・ロックハート
華々しい経歴を持つ魔法使い。そしてノンフィクション作家。
売上は彼の人気を現わし、一時の時勢を作る。すなわち今をときめく時の人でもある。
覚えているだろうか。
サクラの木、ドラゴンの琴線。己の持つ杖は、強い自制心を必要とすることを。
人心は移ろいやすい。ライラックの花の如く。




 九月二日。

 

 夏の日差しが天上から降り注ぐ。

 夏休みの間に、すっかり夜行性の生活に順応していたクルックス・ハントにとって最初の一週間は、眠気との戦いでもあった。

 先ほどの授業、スプラウト先生の「薬草学」ではマンドレイクの植え替えをしたが、気が遠くなるのが眠気のせいなのか、マンドレイクの悲鳴のせいなのか、クルックスは結局分からずじまいだった。

 

 マクゴナガル先生の「変身術」の授業は、シャッキリしていた。コガネムシ──くれぐれもクルックスの憎む虫ではない──を洋服のボタンに変える課題は、歪ながら平べったい物になったので、まあまあの出来だった。

 教室を移動する間に体を伸ばした。

 

「あぁ……清々しい……ここは血の臭いもしないのだ……」

 

 彼は教科書を抱える手を見た。爪先にこびりつく血の黒ずみは、あと数日もすれば落ちるだろう。

 狩人服を脱ぎ、仕掛け武器を置いたクルックスにとって己を狩人たらしめるモノとは、脳裏に刻んだ『淀み』のカレル文字と指先の汚れだけだ。

 連盟の誓いはいつも胸にあり、銀灰の夜空に浮かぶ月が天上にある限り、心細いと思うことはない。だが寂しいものだった。

 

 ヤーナムと言えば、ひとつ用事を済ませていないのが心残りだった。

 ロン・ウィーズリーに休暇中の送付先になってほしいと頼む予定だったが、ホグワーツ行の便に彼の姿はなく、夕方の新学期の歓迎会にも姿がなかった。ようやく現れたのは今日だった。話す機会をうかがったが、ハリー・ポッターと共に空飛ぶ車でホグワーツに来たという噂のせいか彼らは好奇心旺盛な生徒に囲まれていた。

 トドメは朝食時の「吼えメール」だ。

 ウィーズリー夫人と思しき女声の怒鳴り声が大広間一杯に聞こえたのでクルックスも噂の真偽を知ることになった。ロンはじっとするのも難しい気分になったのだろう。そんなことがあった午前中は、話しかける機会を完全に逸してしまった。

 

 今学期初めての「闇に対する防衛術」は、午後の最後の授業だった。

 

 クルックスが教室に入ろうとしたところ、テルミ・コーラス=ビルゲンワースに呼び止められた。

 同じ枝葉の存在であるテルミが、妙に慌てた様子で駆けて来る。彼女が慌てること自体、珍しい光景だった。

 

「闇に対する防衛術の先生、ロックハート先生だということは知っているわよね。後で説明するから、貴公は授業で指名を受けた以外に発言しないで」

 

 早口で述べたテルミは、クルックスの胸に指を突き立てた。

 

「は。それはどういう……?」

 

「と、に、か、く。一言も話しちゃダメよ。迂闊なこと言っちゃダメなの。……あのチャランポランは役に立たないけど、面倒事はしっかり起こすタイプなのよ」

 

 面倒事はごめんである。

 クルックスは避けられる危険には触れないことした。

 

「分かった、分かった。ひとまず言うとおりにしよう」

 

「ひとまずでは困るのですけど」

 

「大人しくする」

 

「ちゃんとしてくださいね? くれぐれもネフのようなことは……できないと思うけれど」

 

「はいはい」

 

 テルミは、念押すると手をひらひら振って別れた。

 彼女の様子からすると、たいていのことをそつなくこなすネフライトは、何かしくじったらしい。

 

 疑問は、授業を受けて氷解した。

 

 新しい「闇に対する防衛術」はギルデロイ・ロックハート先生が教鞭を執るのだという。

 ダイアゴン横町のフローリシュ・アンド・ブロッツ書店へ教科書を買いに行ったとき、『ここでサイン会が行われました!』という内容の日刊預言者新聞の切り抜き記事が掲げてあった。そのためクルックスは、彼の顔を知っていた。

 授業準備室から降りてきたロックハート先生は、拍手を催促するようにチョイチョイと手を振った。まばらな拍手が起こった。

 

「ああ、どうも! 皆さん温かい歓迎をありがとう!」

 

 クルックスは教本であるロックハート先生の著書『トロールとのとろい旅』の表紙を見ていたが、心ここにあらずの拍手と彼の嬉しそうな声を聞きつけて顔を上げた。

 真っ白な歯を見せて笑いながら、彼はウィンクをした。

 

 周囲を見れば困惑した顔がいくつもある。

 クルックスには、どう見ても『温かい歓迎』には思えなかったのだ。しかし、聞くところによるとヤーナムでは、異邦者が道端を歩いている際に、石と靴を投げることを『歓迎』と呼ぶ風習があるらしい。民度が高くて結構なことである。……嘘か本当か分からないが、それに比べれば『温かい』と言えるかもしれない。しかし、ホグワーツに通い多少の知識を得た彼は比較対象が『あんまり』であることを知っていた。

 ──恐らく、この想像は見当違いだろう。

 テルミの忠告を思い出せば、迂闊に言葉を発することは好ましいことではない。

 

 クルックスは、口を固く引き結んでロックハート先生の説明に耳を傾けた。

 

「私はギルデロイ・ロックハート。勲三等マーリン勲章、闇に対する防衛術名誉会員、そして『週刊魔女』五回連続『チャーミング・スマイル賞』受賞──もっとも、私はそんな話をするつもりではありませんよ。泣き妖怪バンシーをスマイルで追い払ったわけじゃありませんしね!」

 

 まばらな拍手より少ない笑い声が起きた。

 クルックスは、ロックハート先生が中身のない微笑を絶やさない理由が分からなかった。生徒に歓迎されていないという事実を彼は気付いていないのではないか。あるいは、まったく無視をしている状態に思える。

 

「皆さん、全員が私の本を全巻そろえたようだね! 大変よろしい!」

 

 クルックスは本の表紙で輝く白い歯を見せて笑うロックハート先生を見て、本を裏返した。今日だけでヤーナムにおける一年分の笑顔を見てしまった気がした。笑顔ばかりあっても食傷だ。彼は一つ賢くなった。

 

「さて。今日は最初にちょっとミニテストをやろうと思います、心配ご無用──君たちがどのぐらい私の本を読んでいるか、どのぐらい覚えているかをチェックするだけですからね」

 

 手元にやって来たテスト用紙。そして、三十分後に回収されたほとんど白紙の解答用紙。

 クルックスは悟った。ネフライトの失態。それは。

 

「──私の好きな色は、ライラック色だということを、ほとんど誰も覚えていないようだね。しかし……! おぉ! 素晴らしい! ミス・ハーマイオニー・グレンジャーは、私の密かな大望を知っていましたね! この世界から悪を追い払い、ロックハート・ブランドの整髪剤を売り出すことだとね! よくできました! しかも満点だ! グリフィンドールに一〇点あげましょう! 満点は二人目ですよ。レイブンクローのミスター・ネフライト・メンシス! 彼も満点でした。みんなもこれからも励むように!」

 

「…………」

 

 クルックスは額に手を当てた。

 これまでの一年と半年程度の──便宜上──『人』生において、クルックスがネフライトを哀れむことはなかった。彼の頭の出来はたいそう良く、数多の学生を凌ぎ、ビルゲンワースの学徒達とも討議に耐えうる頭脳を持っているからだ。

 今回ばかりは頭が良すぎるのも考えものだ。

 

(俺なら恥ずかしくて自害する)

 

 クルックスの脳内では、セラフィが「銃口を口に突っ込むのがオススメだぞ」とソッとエヴェリンを握らせてきた。

 自分のことではないのに消え入りたい気分になった。ネフライトが心配である。……意外と気にしていないのかもしれないけれど。

 

 名指しされたハーマイオニー・グレンジャーを見れば、「光栄です!」とポッと顔を赤らめている。

 あれが通常の反応なのかもしれない。

 

 気分は晴れないが、テストが終了した。

 まだ授業時間は数十分ある。

 しかし。

 クルックスは、手元の教科書に目を落とした。

 教材がこれでは何をさせられるのか分からない。まさか教科書の音読などさせられるのだろうか。

 

 期待せずに彼を見ていると教卓の後ろから覆いの被った大きな籠を持ち上げ、机の上に置いた。

 

「気をつけて! 魔法界の中でもっとも穢れた生き物と戦う術を授けるのが、私の役割なのです。この教室で君たちは、これまでにない恐ろしい目に遭うことになるでしょう!」

 

「…………」

 

 籠のなかからキーキーと甲高い鳴き声が聞こえていた。

 標的は小さい。

 懐からスローイングナイフを取り出そうとしたが、ロックハート先生が幕を開ける方が速かった。

 

「捕らえたばかりのコーンウォール地方のピクシー小妖精!」

 

 芝居がかった声は「どうだ!」と言わんばかりだ。

 ピクシー小妖精は、二〇センチくらいの群青色の体躯だ。籠のなかで数十匹にもなるそれが暴れ出した。

 多くの生徒にとって拍子抜けだったらしく、あちこちから今日一番の笑い声が聞こえた。

 

「チッチッチ。こいつらが『危ない』と皆さんは知らないようですね。連中は、厄介で危険な小悪魔になりえますぞ。さぁ、杖を持って! 君たちがピクシーをどう扱うのかやってみましょう!」

 

 彼はそう言って籠の戸を開けた。

 途端に数十匹のピクシーは四方八方に飛び散った。

 弾丸のように顔面めがけて飛んできたピクシーをつかみ潰す。紫色の体液が出てきた。

 

「なんだ。青ではないのか」

 

 周囲を見ると上から下への大騒ぎでピクシー小妖精がさっそく一匹死んだところで誰も注目していなかった。

 ピクシー小妖精も仲間のことなど知ったことではないようだ。頭上ではインク壺が飛び交い、羊皮紙がばらまかれ、本が引き裂かれた。

 最も危険判断能力に優れた生徒の何人かは、自分の荷物を鞄に詰め込み教室の外に繋がる扉に殺到した。

 

「授業どころではないなっ」

 

 懐のスローイングナイフでネビル・ロングボトムの体を持ち上げようと企むピクシー小妖精を打ち落とす。

 クルックスは、ネビルを急かしながら教科書を回収して外に脱出した。

 

 ちょうどよく終業を告げるベルが鳴った。

 ピシャリと閉めた後でロックハート先生が何やら叫ぶ声が聞こえる。

 どうやら逃げ遅れた生徒があれを捕まえなければならないらしい。

 クルックスは廊下の窓を開けると手の中で死んでいるピクシー小妖精を窓の外に捨てた。

 

「無事か。ロングボトム」

 

「ひ、酷い目に遭った……」

 

 ネビルは、ピクシー小妖精に捕まれていた耳先が真っ赤になっている。

 ヒリヒリ痛むという患部を確認しながらクルックスは、ぼやいてみた。

 

「『闇に対する防衛術』とは、ああいうものの対処を教わるべき授業だと思っていたが、どうやら俺の思い違いだったらしい」

 

「それ、間違っていないとは思う。というか僕もそう思っていたんだけど……」

 

「昨年度のクィレル先生は、まあまあ、普通の授業をしてくれていたように記憶するが」

 

「すごく聞き取りにくかったけど、たしかに。あんなのと──ファンだったらごめん──に比べれば『まとも』だった」

 

「まとも。まともね……」

 

 クルックスの脳内では再びセラフィが「まともであることのなんとくだらないことか」と鼻で笑った。

 しかし、初学習者に必要なものは、そのくだらない『まとも』さなのだと学んだ。

 

「ピクシー小妖精を俺は知らない。患部の腫れが続くようならば、毒を持っているものと推察される。一応、医務室に行った方が良いだろう」

 

「ありがとう。授業一回目からこれなんだから……はぁあ」

 

 ネビルは、とぼとぼと歩いて行ってしまった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 放課後になった。

 ロンと送付先の契約を取り交わすためには、学徒達が作成した契約書が必要だ。

 グリフィンドールの談話室に戻ると談話室は、盛り上がっていた。──新しい授業はどうだ。あの授業が難しい。蛙チョコカードの交換会はいつだ……等だ。

 

 その一角。

 見たことがない機械を抱えた少年が数人額を寄せ合って話し合っている。今年入学した一年生だ。

 

「──何をしている?」

 

 尋問するかのような声を出してしまった後でクルックスは、すぐに(しまった)と思った。

 テルミから、さんざん「貴公ってぶっきらぼうで損をしているのよね」と言われていたのを思い出した。ホグワーツは、ヤーナムの制圧的なコミュニケーションが求められる現場ではないのだ。とはいえ、他の言葉も見つからない。官憲でもあった連盟の長には、言い換える言葉があるだろうか。取り返しの付かない時間に遠い同士を思う。クルックスは話しかけながら困った。

 

「あ、あ、僕、コリン・クリービーです」

 

「何をしているのか。聞いてもいいだろうか」

 

 ──もう聞いているじゃないか。

 自分の不器用さに呆れるが、相手は自分以上にパニックになっているようだった。

 コリンはテーブルに置いた機械を大事そうに抱えた。

 

「写真! 写真が、僕は知らなかったんですが、でも、撮ったら、ちゃんとした方法で、魔法の薬で現像したら写真が動くんだそうです。だから、それを聞いていたんです」

 

「しゃしん……しゃしん……?」

 

 クルックスは、すこし考えて鞄のなかにあった『狼男との大いなる山歩き』を取り出した。

 表紙には登山服姿のロックハート先生が歯を見せて笑っている。

 

「写真とは、この、こういう、絵のことか」

 

「そうです!」

 

「そうか。それで?」

 

 再び鞄のなかを探りながら、クルックスは問いかける。

 自分のなかでは明確な質問であったが、言葉が足りないことに気付いたのは、財布をたぐり寄せたあとだった。

 真っ青な顔をした三人の一年生が口をパクパクさせていた。

 

「そ、そ、それで? 僕、コリン・クリービーです?」

 

「知っている。……すまない。俺はどうも言葉の扱いが……むぅ。いくらなのか知りたかったのだ」

 

「いくら!?」

 

 彼はますますカメラを大事そうに抱えた。

 

「俺は写真が欲しい。撮ってくれないか。……いえ、今ではない。土曜日の早朝、湖畔に人を集める。俺を含めて四人だ」

 

「ああ、いいですよ!」

 

 コリンは輝くような笑顔を見せた。

 

「お代は?」

 

「取りません、取りません。動く写真にしてみたいので」

 

「…………」

 

 このような場合について、どのような対応をすべきか。

 週末にテルミと相談しよう。

 コリンとの話をまとめたところハリーとロン、ハーマイオニーのいつもの三人組が寮に戻ってきた。

 

「ロ──」

 

「ハリーッ!? 元気かいッ!?」

 

 クルックスの声をかき消すほどの大声で叫んだのは誰であろうコリンだった。

 思わずコリンを見ると「もうハリーしか目に入らない!」と言い出しそうなくらい興奮した様子だった。

 ハリーは、明らかに迷惑そうな顔をしつつ律儀に「やあ、コリン……」と片手を上げて返事した。

 コリンは友人達と「やった……! 挨拶してもらえた!」と喜びを分かち合っている。

 

「……その。人気らしいな」

 

 ハリーと目が合った。

 沈黙が耐えきれずクルックスは言った。

 言ってしまってから再び(皮肉っぽいことを言う場面か?)と自問自答して難しい顔をしてしまった。

 

 彼は肩をすくめて螺旋階段を昇っていった。ロンも続いた。荷物を置きに行くのだろう。

 クルックスも彼らを追い、荷物から契約書の書類を取り出した。

 ローブを脱いで一段落しているロンの前に立った時、できる限りの『感じの良さ』を心がけた。

 

「な、なに」

 

 逆に警戒されてしまった。

 頑張るだけ無駄に思えてきたクルックスは、取り繕うことをやめた。

 

「ウィーズリー、貴公に頼み事がある。相談に乗ってくれないだろうか」

 

「……それ、僕じゃないとダメなやつ?」

 

「ぜひ貴公に頼みたい。無論、ただ働きなどさせない。それで用件だが……夏休みの間、郵便の預かり先になってほしいのだ」

 

 それからクルックスは、あらかじめテルミと学徒達と定めた設定を話し始めた。

 

「ふくろう便が届かないくらい遠方? 君、外国に住んでるの?」

 

「それくらい遠くのイメージだ。ふくろうが届かないので今年はスネイプ先生がわざわざ来訪してくださった」

 

「うえ~」

 

 ロンと隣で話を聞いていたハリーは、家に来たスネイプが突如、宅内に乱入し周囲を油だらけにした光景を思い描いているようだった。とても嫌そうな顔をしている。

 

「俺が週に一度、来訪して郵便物を回収する。期間中、十ガリオンでどうだろうか。つまりは一年、十ガリオンだが」

 

「十ガリオン!?」

 

「足りないのであれば交渉しよう。……ただし変更契約を作成する必要があるので、ひとまずこの書類にはサインをしてもらうのだが」

 

「十ガリオンあったら杖が買えるよ……!」

 

 ロンは惨めな顔でスペロテープで何とか繋がった杖を出した。

 彼は、空飛ぶ車で『暴れ柳』に衝突して杖が折れたと呪文学の授業でぼやいていた。

 クルックスも壊れているのは知っていたが、杖の壊れた状態は見たことがなかった。

 彼の杖は呪文を唱えてはいないのに緑色の煙を吐き出し続けていた。

 

「残念だが……支払い予定は、契約終了時つまりは次回の夏休み終了後となる」

 

「あ、うん。郵便の受け取りは、僕『は』いいけど。でも、受け取るのはママだと思うから……うーん、契約書、くれる? 送ってパパとママに聞いてみるよ。それで、パパとママがオーケーなら契約書にサインして君に返す。どう?」

 

「了解した。今、君の家人に宛てた手紙を書こう。……俺達が困っていることであるからな」

 

 契約書をロンに渡すとハリーが隣でその内容を見た。

 

「でも、郵便が届かないほど遠くに……ヤーナムだっけ……いるのに、一週間に一度、ロンの家にどうやって来るの? 煙突飛行?」

 

「いえ、普通に家の外の扉をノックするぞ。俺達が移動する分には問題が少ないのだ。現にロンドンまで歩いたことがあるし、スネイプ先生も来ることができる。……どうにも、ふくろうに問題があるらしい」

 

 設定では、ふくろうに問題があることになっているのでこのように話した。

 実際、ふくろうが辿り着かないのでまるきり嘘の話ではないと思っている。

 五分程度で簡単な手紙を作成し、ロンへ渡した。

 

「よい返事を期待している」

 

「ああ、うん」

 

「後ほど家人からお礼の手紙もある。俺からも、ありがとう」

 

 ロンはごにょごにょと「まだ決まったワケじゃないから……」と言った。

 

「すこしだけ肩の荷が下りた気分だ。……それでは失礼。返事があったら、いつでも言ってくれ」

 

 クルックスは、テルミに用事を済ませたことを報告するために階下へ向かった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「郵便が届かなきゃそりゃあ困るだろう。だって、ナイトとコーラスのお兄さんの買い物がいつ入荷したか分からないからね!」

 

 クルックスの足音が螺旋階段からしなくなったあとで、ロンは「ヒュー」と口笛を吹いた。

 

「ボージン・アンド・バークスなんて闇の魔法使い御用達みたいな店なんだ。尻尾を出したらパパがしょっぴくぞ!」

 

「…………」

 

 ロンはそう言って、ふくろう小屋に向かった。

 とてもではないが、ハリーは彼についていける気分にはなれなかった。空飛ぶ車がマグルに目撃された件で役場に尋問されたウィーズリーおじさんのことを思い出してしまい、複雑な気分になってしまったのだ。




ギルデロイ教室

ギルデロイ・ロックハート氏:
 皆大好きギルデロイ・ロックハート。
 正直なところ、筆者は彼のことをとても見ていられない。
 何というか……言語化し難いのですが、非魔法族でも実際にいそうな生々しい感じがあって……え? 彼には実在のモデルがいる? そっかぁ。
 彼は、ヤーナムに来ることができる人です。幸運です。可愛いですね。

 ちなみにDVDやBDの特典映像で小テストの描写(英語のみ)があります。
 持っている人はチェックだ!

ご感想お待ちしています(ジェスチャー 交信)


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記録写真

クルックスの光画
月の香りの狩人の仔が四人映っている写真。
それぞれの所属を表わす装束をまとっている。
未来で道が違えようと夢のような日々だけは手に留めようとしたのだろう。
瞬間を切り取ったとして、時が止まるハズもないのだけど。


 週末になった。

 クルックスは、夜型の生活リズムが抜けず、浅い眠りから起き出してきた。

 外では朝を告げる鳥がギャアギャアとやかましい。夢で太った烏が出てきたのは、きっとこの鳥たちのせいだろう。

 カーテンを開けると外はぼんやりとした朝焼けの様子だった。地平線が赤に照らされている。だが、空はまだ夜の気配があった。頭上の空の色は青紫だ。

 

 顔を洗って狩人服を着込んでいると螺旋階段を昇ってくる足音が聞こえた。

 現れたのはオリバー・ウッド──グリフィンドールのクィディッチのキャプテンである。

 

「おぉ、早いな!」

 

「早朝に用事がありまして。……オリバーさんは、まさか、練習?」

 

「そうだ! だからこそ、起きろハリー! ハリー・アップ! 練習だ! 行くぞぉおお!」

 

 ウッドは、枕に顔を埋めるハリーを叩きのめす勢いで肩を揺すっている。

 他の学生は、もちろん眠っていた。

 クルックスはクィディッチのことを詳しく知らないが、魔法界が目の色を変えて楽しむ遊戯だとは知っている。ウッドの目には、なるほど、尋常ならざる熱量の輝きがあった。こうなっては最早誰も止めることは出来ないだろう。

 クルックスは欠伸をひとつして螺旋階段を降りた。

 

 グリフィンドールの塔を出て歩いていると背後から足音が聞こえた。コリン・クリービーだ。

 

「ハントさんっ、ハントさんっ」

 

「おはよう。ちゃんと起きて来たのだな。結構なことだ」

 

 コリンはクルックスの着る狩人の装束を見て、驚いた顔をした。

 けれど、好奇心を上回る重要な用事があったようだ。

 

「おはようございます! さっき、そこでハリー・ポッターに会ったんです! クィディッチ? 練習だとか! あなたの写真を撮ってから、練習を見に行っても間に合うかな!?」

 

「練習は朝食の時間まで終わらないから大丈夫だ。あの様子では午前中いっぱいかかるかもしれない。……こちらの用事は、寝坊がいなければ数分で済むだろう。行こう。湖畔だ」

 

「はい! ねえ、その服って何ですか?」

 

「仕事服だ」

 

「仕事って何のお仕事なんですか? 学生なのに仕事しているんですか? ここでもお仕事で来たんですか?」

 

 クルックスは一度に質問を投げかけられて「むっ」と唸った。

 ハリーが彼を煙たがる理由がよく分かった。

 しかも。

 

「……?」

 

 キラキラした目で見つめられると無下にも出来ない。

 

「今は、ただの学生だ。夏休みの間、仕事をしている。これは伝統的な作業着だ。魔法界には、いろいろとあるんだ。おいおい学んでいけばいいさ」

 

 実のところ、学んでもヤーナムの『ヤ』の字も分からないだろうが、分からないということは分かるハズだ。つまり哲学だ。

 質問を避けて道案内を始めたが、すぐに湖畔が見えてきてしまった。校舎を離れて歩き出した。

 

「そうだ。──どうして写真を撮りたいんですか?」

 

 湖畔の水辺には、すでにテルミの姿があった。

 大樹に寄りかかっているのはセラフィだろう。

 

「む。……記録だよ、記録」

 

 今回の催しは。

 クルックスが、ただ四人の映った写真がほしいと思ったことから始まった。

 だから理由を問われたときには「写真がほしい」と言えば良かったのだが、なぜか口にするのは憚られた。恥ずかしいとも違う。もやもやとしてすぐに言葉に変換できない感情だった。

 

「記録って何の記録ですか? 背丈?」

 

「……。ああ、それだ」

 

 しっくりこないが悪い回答ではないと思い、頷いた。

 テルミがこちらに気付いて白い手袋に包まれた手を振る。白銀の聖布が風に翻った。

 セラフィはすでに察していたようだ。トリコーンの先を指先で弾いた。一瞬、琥珀色の瞳がこちらを確認した。

 

「どっちが彼女ですか?」

 

「ああ、そうだな。いや、違うぞ」

 

 頭の働かない返事をしかけたところ、とんでもない回答をしてしまうところだった。「彼らは親戚で」と言いかけたところ、すっかり離れた校舎から声が聞こえた。最後にやって来たのは──それでも予定時間より早いが──ネフライトだった。

 

「あ、四人ですもんね。本命が──来たっ!」

 

 素早くカメラを構えた先には、メンシスの檻を被ったネフライトがいた。

 突如、瞬いたフラッシュに彼は驚いてその場で小さく飛び跳ねた。

 

「な、何の話だッ!?」

 

「俺にも分からない」

 

 クルックスは「驚かせてすまない」と一言謝った。

 四人が揃ったところでクルックスは、ぐるりと三人の顔を見た。

 

「さて、諸賢。まずは、おはよう」

 

 口々に挨拶が返ってきた。

 正装で来るように指示を出したので、セラフィはヤーナムの狩人服を、テルミは教会の黒服を、ネフライトは学徒の正装に身を包んでいた。

 徐々に青を失い、白くなる空にヤーナムの服は恐ろしく不似合いだった。夜に馴染んでしまったせいだろう。

 

「急な呼び出しであったが、定刻前にそろってくれて嬉しい。今日の用事だが、写真を撮る」

 

「質問」

 

「何か。セラフィ」

 

 彼女は、挙手した指先をすりあわせた。

 

「『なぜ』と聞いてもよいかな? ああ、写真を撮ることに異存があるワケではないけれど……」

 

 セラフィは顔色を変えることはなかった。

 けれど、彼女が自分の顔の造形に関して悩みを抱えていることをクルックスは知っている。セラフィは、自分の姿が映る鏡も嫌いなのだ。

 

「……俺は、記録をしたいのだ。できれば、これから毎年撮りたい」

 

「何のためかしら?」

 

 テルミから質問が出た。

 

「成長記録」

 

「ふぅーん」

 

 テルミの蒼い瞳が朝日の湖畔を映すように光った。

 

「結構。良いことよね。ネフもよろしくて?」

 

「……私は最初から異存がないから来たのだがね。用件は知らされていたのだから」

 

 ネフライトは「さっさと撮れ」とばかりに急かした。

 その様子を見て観念したようにセラフィが肩を落とす。

 テルミが、その姿を横目で見ていた。

 

「皆が良いなら僕だっていいよ。……僕は堪え性がないからね。じっとしているのは、嫌いなんだよ。早く済ませてくれ」

 

 クルックスの予想に反し、撮影には二十分程度かかった。

 意外──などと言ったら失礼であるが──コリンは、凝り性だったようだ。

 

「ナイトさん、メンシスさんが端で。テルミさんとハントさんが並んで……はい、ストップ。そのまま。そのままですよ。そこ、もぞもぞ動かないで。メンシスさん、もうすこし顎引いて!」

 

「クルックス……」

 

 歯を食いしばった隙間からネフライトが恨みがましく名前を呼んだ。

 メンシスの檻は、六角形の鉄製の檻だ。重量もそれなりになる。そのため顎を引いた結果。首に掛かる負荷も、お察しである。

 

「あら? ひょっとしてわたしとネフなら聖歌隊とメンシス学派のツーショットが撮れてしまうのかしら?」

 

 図らずも隣り合わせになったテルミが、ちらっとネフライトを見た。

 クスクス笑いをこぼしたのでコリンが甲高い声でテルミを制した。

 そろそろ腹話術の域に到達しそうなネフライトが答えた。

 

「……ああ、それはいい。聖歌隊の死体の上でピースするメンシス学派のツーショットが撮れるだろうな。額に入れておこう。焼き増しをせねば。永久保存版だ」

 

「やだぁ、やっぱりメンシス学派は野蛮な会派ですわ。セラフィお姉様」

 

「それを言うなら僕と君は敵同士だ。困った。どうしようね」

 

 ちっとも困ってなさそうな、そして興味もなさそうにセラフィが言う。

 四人のなかで誰よりも背の高い彼女は、クルックスの隣に立っていた。

 

「過去の遺恨は水に流して新しい次代を築くとかどうでしょう?」

 

「被害者であるレオー様も女王様も存命中だから、それは難しい話であるな」

 

「それはカインハースト流の冗談だろうな? 一番の被害者は市街の狩人達だ。血に酔っていないのに通り魔的に殺されるのだから、まったく働き甲斐がある──」

 

 ネフライトが、ボソボソと言った。

 至極もっともな意見だ。頷きかけたクルックスはセラフィの目が恐いことに気付き、寸でのところで空咳に切り替えた。

 カインハーストが市街で何をしているか。その影響は気付いていて知ってもいたが、敢えて黙っていたことだ。

 しかし、この類いの話を聞き逃すセラフィではない。

 

「ネフ。失言の数だけ学派の首を上から順に飛ばす。愛しの主宰殿の首が惜しくなければ、その調子で話し続けろ。全て長い夜のこと。鴉羽の騎士様も時には遠征したいようだからな。ヤハグルなど夜駆けにちょうどいいと思うのだ。その時は、僕もお供したい。君がどんな顔をするか。僕は、すこし興味があるのだ」

 

 写真用に薄く微笑みながら彼女は言った。ネフライトはそれ以降、沈黙した。

 そして、ちょうどよい時にカメラの調整を終えたコリンの声がかかった。

 クルックスは素早く話題の転換を試みた。

 

「諸賢、静粛に」

 

「はい、撮りますよ! イチ、ニイ、サン!」

 

 バシャリと強いフラッシュが焚かれた。

 

「はい、お疲れ様でした! もう動いていいですよ! 僕、クィディッチの練習見てきます!」

 

 コリンは腕時計を確認し、クィディッチ練習場に走って行った。

 

「あぁ、疲れた……」

 

 ネフライトは檻を外すと首を回した。

 

「休日なのだから私は戻ってしばらく寝る。午後には図書館にいるだろう」

 

「まぁまぁ、お待ちになって。せっかくですし『きょうだい』会議しましょう? 『闇に対する防衛術』の小テスト満点だったネフさん」

 

「その話は、心の安寧が乱されるのでやめろ」

 

 クルックスはネフライトがメンシスの檻を掴み直したのを見て、今にもテルミを殴りかかるのではないかと思った。静かな怒りを浮かべる彼は、芝生の上をガツガツと蹴った。

 

「……本当にあの時間は無駄な時間だ。あんなものを読んでしまったことが悔やまれる。クィレル先生の方がマシだった。ニンニクときつ音がキツいが。あんなのが先生になれるなら、お父様は大先生になれるぞ」

 

「お父様は、楽しげに読んでいたよ」

 

 セラフィの発言に三人が注目した。

 

「なんだ。知らなかったのか。お父様は、哲学書のような難解な本も読むが、大衆向けの本も好きだ。『不思議の国のアリス』とか『ドン・キホーテ』とか。ロックハート先生の本も面白そうに読んでいた」

 

「へぇ。お父様ってそういうの楽しめるのね。『どうして、そこで斧を使わないんだ。回りくどい』とか言って放り投げそうなのに。ちょっと意外ですね」

 

「うーん」

 

 テルミのお父様像とは、血に酔った狩人の有様なのではないかとクルックスは思う。

 お父様は、そこまで血に酔っていない。血に酔っているかのような奇行は多いが。

 

「ああ、そういえば。授業の前にテルミが助言してくれて助かった。あの先生の前でヤーナムのことを口に出したら『もちろん! 行ったことがありますよ! そう、あれは私がまだ君たちのように若く、未熟な学生であった頃──』など話し始めそうではないか。……クルックス?」

 

「あの先生は、何なのだろうな? 本を……俺は全て読んだワケではないが……それと本人の印象が違うように感じられるのだが」

 

「ああ、クルックス。皆が分かってしまったことをあらためて確認するのね? フフフッ!」

 

 テルミは、楽しくて仕方がなさそうだった。

 何が楽しいかクルックスにはよく分からなかった。

 隣を見ればセラフィも不可解そうに眉を寄せた。

 ネフライトだけは「さっさと済ませてしまえ」と鼻を鳴らした。

 

「ギルデロイ・ロックハート。あんなの、詐欺師に決まっているわ。虚栄もコテコテで見苦しい。嘘つきが最初にしなきゃいけないのは『自分を騙す』ことでしょうに、あの男はたまに素が出るのだから二流、三流よ」

 

「お手厳しい意見だな。テルミ、可愛い僕の妹君」

 

「聖歌隊の前で下手な嘘を吐かないことね。五体満足で墓に入れる医療者ばかりではないの」

 

 毒々しい言葉にネフライトが「その辺りは学派も同じようなものだな」と同調する。

 ──下手な嘘つき。

 テルミの評は、初めて聞いたがすんなり頷けるものだった。例えば、ピクシー小妖精が思いがけない乱暴を働いてみせたあの時。驚いた瞬間のハッとした表情。ああいうものが、彼の素の顔なのだろう。

 

「ホグワーツの『闇に対する防衛術』の先生の職が呪われているって噂があります。誰も一年保ったことがないんですって。ダンブルドア先生も人手不足で困ってしまったのね」

 

「それでもだ。詐欺師が来たのは、なぜだろうな? 理由如何によってはお父様が乗り気になりそうな話ではないか。『呪い』など」

 

「お父様は、呪いが好きなワケではないと思う。本当に人手不足なのか? あるいは舌先三寸でダンブルドア校長を丸め込んだのか? ロックハート先生には、校長を騙しきる度胸がある男には見えない。……どう思う?」

 

 クルックスは「なあ」と発言の少ないネフライトに訊ねた。

 彼は元通り檻を被った。

 

「次に私の前でロックハートの名前を出したら挑戦と見なす」

 

「見なさないでくれ。意見を聞いているだけだ」

 

 とても不機嫌なネフライトは、適切な言葉を並べるために一呼吸置いた。

 クルックスは思う。……ひょっとしたら。テルミにからかわれるより前に、彼はさんざん周囲の生徒から声をかけられたのかもしれない。あるいはハーマイオニー・グレンジャーのように授業でロックハート先生から賞賛を受けてしまったのかもしれない。

 

「なぜロックハートが招かれたのか? ──役目は決まっている。反面教師だろう。一年間、生徒の前に『こんな阿呆でバカになるな』と実例を置いて学ばせるつもりなのだ。一年かけて化けの皮を剥がす。学期末までに名声を失墜させられたら大成功だ。……『そんなワケがない』とでも言いたいか、クルックス。だが、こうでも考えなければ差配をしたダンブルドア校長の瞳は『曇っている』と断じなければならない。ロックハートの虚飾とダンブルドアの慧眼は、絶対に両立するものではないのだから」

 

「ほお」

 

「……なんだか前もしたようなやりとりだ。私の説明、分かっているのか?」

 

「いま完全に理解した」

 

「不安だ……。とにかく。彼には今後、関わり合いにならないことだけを気を付けるべきだろう。──何か言いたいことがあるならば聞くぞ、テルミ? 遠慮なく言いたまえよ。ええ? 幸い、周囲に耳目は無い。貴公を湖に沈めるまで二分とかからん。大イカと遊んでこい」

 

「きゃー。メンシス学派ったら学徒とは名ばかりの乱暴者だわ。お姉様、こわーい」

 

 背にテルミを匿いながらセラフィは湖を見た。

 大イカが巨大な腕を湖面に叩きつけていた。

 

「ネフは学者らしく有言実行するタイプの狩人だ。勝算がないなら煽るのはやめることだ。──それはそうと僕なら三十秒で沈める」

 

「じゃあ、俺は一分半で」

 

「え。なんでわたしを沈める話で盛り上がっているの? 怖すぎ。なんて血のなき者かしら。……ああ、もう。ちょっとからかっただけじゃない。どうせすぐ皆忘れるわ。来週からクィディッチも始まりますし、ハロウィーンのイベントだってあるのですから。あら。そろそろ朝食の時間。わたし、待ち合わせしているの。ばいばーい」

 

「そのうち痛い目に合うぞ」

 

 いつもよりトーンの低いネフライトの声は、去り際のテルミに届いたらしい。彼女はサッと黒い法衣を翻して行った。

 ネフライトは忠告のつもりで話したようだが、クルックスとセラフィには決意表明に聞こえた。

 

「そうピリピリしないことだ。ネフ。テルミは長いこと孤児院にいただろう。俺達とじゃれ合いたいだけなのだ」

 

「では『わざわざ私に構うな』と言っておきたまえ。無価値な諍いにしかならないのだ。──私はこれで失礼。まだ、すこし眠いんだ……」

 

 テルミとネフライトが去った。

 セラフィと目が合った。

 

「その、なんだ。今日は、ありがとうな。気の進むことではなかっただろうに」

 

「いいや……分かるよ。君は皆を等しく大切にしたいのだ。よく分かるとも。いつか道を違えるのだとしても今だけは共にある……だから写真という形で手に留めておきたくなったのだろうね」

 

「まあ、そうだな。そうなる」

 

 ようやくしっくりくる感覚があり、クルックスは頷いた。

 

「……お父様がヤーナムを今の形に留めているのは、あるいは似たような理由かもしれないな。その情が愛であれば嬉しい。僕も同じ気持ちを知っている。戻るよ」

 

 踵を返し、去りかけたセラフィの背に声をかけた。

 

「一緒に、すこし歩かないか」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 二人は黙々と歩いた。

 誘ったものの話題は乏しく、そして、血生臭い。

 

「教会の狩人を殺したのか」

 

 獣の皮を被った男の話について。

 その夜の出来事を順を追って話すセラフィの話を相槌をうち聞いていたクルックスは、とうとう口を挟んだ。

 思わず足を止めてしまった彼は、追いつくために小走りになった。

 

「ああ。……何だ?」

 

「いいや。それが君の仕事であり使命なのだから、もちろん理解するが……辛くはないか? 大丈夫か?」

 

「殺したのは敵だ。……? 何を言っているんだ?」

 

 カインハーストの狩人達の敵は、獣ではない。同じ狩人だ。人間だ。

 ──知っている。分かっていた。カインハーストに仕えるとは、そういうことだ。それでも、クルックスは頭を殴られたような衝撃があった。

 

「俺は去年、しばらく落ち着かない気分だった。命は本来取り返しのつかないものだ。俺達は奪う者だ。そうでなければヤーナムでは生きていけない。戦えなければ俺達は犬の餌以下だろう。だが、ここは違う。夜に眠れる人々だ。……そう考えると俺は地に足がつかないと言うべきか。浮いている感覚があった。うまく言えないが……ヤーナムでは血塗れが普通なのに、どうして今は血塗れではないのか考えたり。どうしてここにいるのか、見失いそうになったり……」

 

「君、それは病気ではないのか? そういうことを考えるのは良くない」

 

「俺は連盟員だぞ。連盟員は病気にならない。あいや、問題は俺ではなくて。セラフィが殺しているのは人間だ。獣ではない。人間なのだ」

 

「ああ、だから敵だ。カインハーストの敵だ。クルックス、今さらどうしたんだ?」

 

 逆に心配されてしまい、戸惑った。

 ──噛み合わない。

 重大な、そして根底的な価値観の理解ができない。クルックスは自分の言葉が拙いのか、理解力が低いのか真剣に悩んだ。

 迷いに迷い、ようやく言った。

 

「ヤーナムとホグワーツでの、何というか気持ちの切り替えは……大丈夫なのか?」

 

「僕は、君が何を心配しているのか分からない。ここには僕の敵はいないのだから、君が血を見る機会はないだろう。僕らの女王様の名誉が穢されない限りは」

 

「いえ、そういうことを言っているのでは……。俺は、君の心を心配しているのだ」

 

「僕は、いつでも絶好調だよ」

 

「……そ、そうか。そうか……。君が苦しくないのなら、俺はそれでいい。強いのだな。俺はどうもホグワーツに来てしばらくは、自分が場違いに感じられて……すこし落ち込む」

 

 セラフィは、進行方向を見つめていた。

 きっとクルックスの言うことは解されなかった。

 

 ヤーナムとホグワーツでは、生命の価値が違うのだとクルックスは思っている。

 ヤーナムは、ホグワーツでは信じられないくらいに命が軽い。

 二つの価値観の落差によって、心が苦しい時がある。……慣れてしまえば大したことはないのだが。

 どうやらこの苦しみは自分だけのものらしい。クルックスは、ひとつの学びを得た。

 

「君の、連盟の使命……虫とやらは?」

 

 セラフィが連盟の使命に言及するのは初めてのことだったのでクルックスは驚いた。

 辺りを見回して変調がないかを確認する。見渡す限り、ただの朝だった。

 

「僕ばかり話すのは公平ではないと思ったのだ。だが君の使命を邪魔するつもりはない。話さなくともいい」

 

「ああ、そういうことか。大丈夫だ。何も問題はない。連盟の活動は続いている。俺も生徒である以前に狩人で連盟員だ。俺の『淀み』のカレル文字は昨年ぴくりともしなかった。ホグワーツは……概ね安全だ。どこにも虫の気配はない。どこにも」

 

「お父様はお喜びになるだろう。しかし、君は嬉しくなさそうだ」

 

「……俺は認めたくないのだ。お父様が大切にしているヤーナムが、ビルゲンワースの学徒達が、数多の狩人が……魔法族よりも血が汚れていることを。なぜだろうな。いつも考えている。同じ神秘なのに」

 

「その疑問について、ネフに相談したのか? テルミには?」

 

「伝えていない。学徒のお二方だけだ」

 

 クルックスは、なぜネフに相談しなかったのだろう、と今さら自分の行動に疑問を覚えた。

 いいや、彼だけではない。

 

「お父様に聞けばよいのに、そうはしなかったのだな」

 

「……臆病だと君は言うのだろうな」

 

「いいえ」

 

 剣のような鋭さでセラフィは断言した。

 

「それが君の探究なのだろう。その先の答えを僕も楽しみにしている」

 

「…………」

 

「僕は、すこし君が羨ましい」

 

「連盟員は随時募集中だ。セラフィが望むならば紹介しよう」

 

「連盟の使命のことは、正直なところ……うーん……君の名誉のためにこれ以上の明言を避ける。そうではなくてね」

 

 風が吹いて二人は帽子を押さえた。

 その時だ。

 視界で揺れる黒い羽に気付いた。セラフィの髪留めには、いつの間にか羽がついていた。

 

「セラフィ、それは鴉羽だな」

 

「ああ、先達がくださった。落とし物を拾ったとも言えるけれど……似合っているかな?」

 

「……よく分からない。オシャレはテルミの方が詳しいだろう。でも、リボン……白いリボンはどうだろうか……? お父様が大切になさっているような、あれ。ダメだな。君にはきっと地味すぎる」

 

 朝陽に照らされて輝くセラフィの長い銀髪は、クルックスの真っ黒な髪とは質が違った。『リボン』と言ったのは、それしか装飾を知らなかったからだ。

 思えばグリフィンドールの女子生徒にはカチューシャをした子もいた。後から思いついた別な提案が、良い案に思えてくるのはなぜだろうか。

 あまり真剣に考え込まないでほしい。

 クルックスはぼやいたが、セラフィは提案を聞いて「リボンね」と考え事をした。

 不意にセラフィが遠くを見つめて「僕はね……」と独り言を呟いた。

 

「世の中のたいていのことが、どうでもよいのだ。僕の目の届く範囲の、手の届く場所が『いつも通り』にあるのならば……本当は、きっと何も要らないのだと思う。僕は、レオー様と違って繰り返す時間が苦ではない。鴉羽の騎士様のように何かを奪うことに執着ができない。僕は強いのではなく、冷たくて無頓着なだけだ」

 

「では、どうしてヤーナムの外に出たいと思ったんだ?」

 

 クルックスは、父たる狩人の助言に従って外に出ることを選んだ。

 ヤーナムにいるばかりでは、外の世界を知る機会は少ない。得た機会を生かさない手はなかったからだ。

 だが、セラフィはどうだろう。

 本当は何も要らない彼女は、なぜ出たいと思ったのだろうか。

 

「好奇心だ。騎士の僕は、何も要らない。でも、私人の僕は見るべきで知るべきなのだ。どうでもいいけれど『どうもいい』と思う理由には『興味が無い』だけでは不十分だ。僕は僕の目で、僕が永遠に捨てる外の世界の価値を見定めなければならない」

 

「真摯だな。俺には『興味が無い』だけで十分に思える……」

 

「あらゆる生命に対して慈悲を持ち続ける真摯さを……僕は尊びたい。お父様の瞳は今のところヤーナムに向いているが、これが外に向かったとき。お父様はヤーナムの外の人々を等しく大切に想われるだろうか? スネイプ先生には『勝手に殺し合えばよい』と言ったのだろう。学徒達はともかく。お父様は、外の世界を大皿に乗った食材程度に思っていそうな気がする。書物の知識は前菜だ」

 

 ──まさか。

 そう言って笑い飛ばすことができないのは、彼が何をしでかすか分からない恐さがあるからだ。

 

 古くはトゥメル。

 遠くはローランから。

 人間が上位者の思惑を読み切ったことは一度たりともない。

 

 彼が人間を取り繕うのをやめたとき。

 誰かが彼に『呼びかける』だけで、あらゆる道理を『しっちゃかめっちゃか』にする危険があった。

 

「外の世界の価値について僕らは正しくお父様に伝えなければならないと思っている。僕にとってどうでもいいものだとしても、たしかに生きている人はいるのだから。……杞憂であれば、それが一番よいのだが」

 

「お父様は立派な自制心をお持ちだ。まったくの杞憂だ。それに連盟員だから大丈夫だ。もし違ったら俺を湖に沈めてもいいぞ」

 

 瞬間。

 クルックスの脳裏に突如浮かんだ乳母車に乗ってはしゃぐ狩人の姿は、数秒前のいくつかの発言について撤回させかねない威力を持っていたが、努めて忘れるようにした。心の気の迷いだと自分に言い聞かせた。

 砂利道が芝生に変わった。乾いている。日差しはやや熱いが、風は冷たい。夏の終わりの気配があった。

 

「セラフィはセラフィでいろいろと想ってくれていたのだな。……発言を修正した方がよいだろう。君は無頓着かもしれないが、決して冷たくない」

 

「必要に迫られたら修正する。おっと。クィディッチ競技場に着いてしまった。……僕がいるのはマズいのではないかな。あれはたしか、マーカス・フリント。スリザリンのクィディッチのキャプテンだ」

 

 トリコーンを深く被り、顔を隠しながらヒソヒソとセラフィは言った。

 見れば、たしかに緑色のユニフォーム──スリザリンのクィディッチ・ローブだ──を着ているメンバーがぞろぞろとピッチに入ってくるところだった。

 

「そんなハズは……今日はグリフィンドールの練習時間だ。今朝、オリバー・ウッドがハリー・ポッターを叩き起こしに来たのを見た」

 

 クルックスは衣嚢から遠眼鏡を取り出した。

 雲一つない晴れた空では、グリフィンドールのクィディッチ・ローブを来たメンバーが練習していた。観客席にはロンとハーマイオニーがいる。

 空で練習していたメンバーは、ピッチに入ってきたスリザリン・チームに気付き、ピッチ入場を阻止するように立ちはだかった。

 

「行こう」

 

「行くのか? 僕らには来た道を帰るという選択肢もあるワケだが」

 

「諍いになった場合、中立な者の存在が重要になるのではないかと思う」

 

「僕らが中立になり得るのかは、興味深い疑問だ。……ネフならば、そんなことを言いそうである」

 

 クルックスが遠眼鏡を収納したのを合図に二人は歩き出した。

 フィールドを歩いているとどよめきの声が聞こえた。

 

「──見ろ! 『ニンバス2001』だ!」

 

 フリントが高らかに言い、グリフィンドールの選手に見せつけるように自分の箒を突きだした。

 

「ニンバス・シリーズの最新作だ。先月出たばかりでどこも品薄状態だが──ドラコの父君がスリザリン・チームにくださった」

 

「ドラコ? クィディッチの選手になったのか」

 

 セラフィが足を止めて呟いた。耳聡く聞き付けたのは当の本人だ。

 高学年の選手の中と並ぶとドラコ・マルフォイは頼りないほど小さく見える。いつもの青白い尖った顔は、興奮でやや赤みを帯びていた。

 ちょうど観客席からロンとハーマイオニーもやって来た。なぜ練習を中止したのか見に来たのだろう。

 

「そうだ。僕が、スリザリンの新しいシーカーだ!」

 

「ほお」

 

 クルックスとセラフィは、声を揃えた。

 二人ともシーカーがクィディッチにおける花形であることを知らなかったからだ。

 自慢げなマルフォイに対し、ピッチに降りてきたロンは何事か言いたくなったらしい。

 だが、その口はあんぐりと開いたままになった。

 彼の目はマルフォイの持つニンバス2001に釘付けになってしまったからだ。

 時を同じくハーマイオニーも、スリザリン・チームが全員が同じ箒を持っていることに気付いた。

 

「グリフィンドールの選手は、誰一人としてお金で選ばれたりしていないわ。こっちは純粋に才能で選手になったのよ」

 

 ハーマイオニーの発言は、グリフィンドールの寮の風潮に相応しく勇気ある正論だった。

 だからこそ。

 マルフォイの顔色が変わった。

 

「誰もお前の意見なんか求めてない。生まれ損ないの『穢れた血』め!」

 

 何事か侮辱が行われたことだけは理解した。

 その次にグリフィンドールの選手が口々に非難する声は、雑音にしか聞こえなかった。

 

「穢れた血ね」

 

 隣で。

 深く被っていた帽子のつばを上げ、セラフィが薄く口を開いた。

 何の感情もうかがえない言葉は、クルックスに大きな不安を抱かせるものだった。




記念写真

月の香りの狩人の仔らの○○:
 今後、時折前書きに掲載する予定の仔らの名前入りテキストは『彼らを倒すと入手できるアイテム』という想定で書いています。つまり、NPCクルックスをころがした後は写真が手に入るワケです。ネフライトの場合は眼鏡が手に入ります。やったね。


噛み合わないセラフィ:
 医療者が「獣と信じて、人の形をした者」を斬ることはありますが、カインハーストは積極的に「人狩り」を行っています。カインハーストの騎士やセラフィがどう言い繕うと──彼らは罪だとも思っていないため、そもそも繕うことをしないけれど──医療教会そして市街の狩人にとって害悪以外の何物でもありません。だからこそ女王の血に執着を寄せるカレル文字『血の歓び』を刻み、儀礼遵守が推奨され、愛を囁く文化が花開いたのです。
 伝統による馴致は、騎士を長持ちさせるのに大いに役立ちました。


ネフライトの失言:
 朝、やや調子が上がらないのでカインハーストに喧嘩を売る失言をした。彼にも間違える時は多少ある。ただし彼の言うことは概ね正論だ。しかし、相手はその正論が通じない相手なのでこれには正論も分が悪い。……狂人め。


穢れた血:
 これを聞いた仔らは総立ちになることでしょう。すぐにニュアンスの違いに気付き、着席するのはテルミとネフですが……果たして。



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互助拝領機構

互助拝領機構
今年になって設立され、許可を得たクラブ活動名。
機構を主宰するのは一見にして怪しげな奇才ネフライト・メンシスである。
ヤーナムの外において聖体は、人の叡智が形を変えたものだ。
ゆえに拝領は時を超え、場所を選ばず続いている。
拝領は人の有意な営みであり、続くべきなのだ。彼はそう信じている。



 ヤーナムにおいて『穢れた血』とは。

 一般においてカインハーストの血を引く人々を指す。

 だがカインハーストの狩人であれば目を輝かせる言葉であり、教会の狩人であれば武器を握りしめる言葉でもある。

 

『穢れた血』が意味する『穢れ』について、クルックスが知っていることは多くない。

 

 ──舌に触れた瞬間に甘みを感じた。

 ──そして、熱かった。

 ──女王様もおっしゃったが、穢れた血は熱い。

 ──だからまぁ。

 ──普通、人間の扱うものではないのだろう。

 ──身に留めていて良いものでもない。

 ──普通の人間ならば、という話だが。

 ──神秘を求めるならば欲するべきだ。

 ──啓蒙的智慧と同じように。

 

 

『穢れ』とは啓蒙──世界の真実を理性の範囲で自然に見る力──の形状が変わった物質なのだ。

 啓蒙。

 それはヤーナムの神秘の探求者がこぞって求める瞳だ。

 理性は獣性に勝る。

 神秘の果てにいる異形の何者か。医療教会が『上位者』と呼ぶモノに見えるために。

 

 だからこそ女王は林檎の代わりに甘い血を舐め、神秘の智慧を得る。そして、それだけが一族の末席に最も優れた赤子を迎えるために必要なのだと騎士達を駆り立てている。騎士達も誉れと共に女王の血を啜る。人には熱い血だ。また狩人をも魅惑する甘さを持つ。まさしく魔性と称するに相応しい。血の女王だ。

 

 しかし、女王様お求めの『穢れ』を得るには、大前提がある。──『輸血液の常習者である狩人の死血からしか見つからない』ということだ。狩人曰く「例外は、今はない」

 クルックスは、そのように理解をしていた。

 

 さて。

 

 クルックスにとってセラフィは、最も本質的に近い狩人だと思っている。

 親愛に対する考え方が近いこともその考えを助長させたが、そう考えるようになった大きな原因は先日、聖杯のなかでセラフィの話を聞いたからだ。

 

 ──僕は、この顔をした女性が何なのか知りたいだけだ! レオー様にはエヴェリンに間違われ、鴉羽の騎士様は僕の向こうにマリアを見ている! この顔は、いったい誰で何なのか!?

 

 それを聞いたとき、クルックスは悲しみを覚えた。

 生きているだけで楽しいという感覚は、きょうだいに普遍のものだと思っていたが、セラフィは違う感想を抱いているようだった。彼女の人生は、まだ始まっていないのだ。

 セラフィは自分を憎みきれず、マリアも妬みきれず、父をも恨みきれない。

 クルックスが同じ悩みを持っていたら、きっと同じことを叫ぶだろう。彼は、自分が成長すれば父たる狩人と限りなく近しい容姿になるだろうと思っている。他のきょうだいのなかで、唯一──未来において──苦悩を分かち合えるかもしれない存在だった。

 

 彼女の内心の吐露は、クルックスを惹きつけてやまない甘い秘密になった。以前より力量という点で気になる存在ではあったが、つい目で追ってしまうようになったのは、秘密を預かるようになってからだ。

 

 セラフィをよく見るようになってから気付いたこともある。

 彼女が自覚しているとおり、世の中のたいていのことをどうでもよいと思っているのは本当のことらしい。

 だからこそ、彼女は目の届く範囲の、手の届く場所にある──例えば、カインハーストにまつわることに関しては、一切の妥協をしない性質があった。

 

 クルックスはセラフィの肩をつかまえて集団から引き離した。

 

「セラフィ、違うと思う。違う。絶対、違うと思う。カインは関係無いと思う」

 

「しかし、確かめなければ──」

 

 セラフィの琥珀色の瞳に剣呑な光が点った。

 クルックスは、数秒黙っていたら足蹴されそうな危険を感じた。

 

「マルフォイがカインについて知っているハズがない。ハーマイオニーがカインの血筋であるハズがない。彼らが、カインの夜警を自称する君の前でヤーナムの何かを知っている素振りをしたか?」

 

「していない……と思う。だが、僕が気付かなかっただけかもしれない」

 

 クルックスとセラフィの力量は拮抗している。

 しかし、それは殺し合いを目的とした場合だ。

 現状に求められている、相手を無力化する場合は技量で優れたセラフィの圧勝になるだろう。だから素早く制した。

 

「ここで直接質問することはやめてくれ。ヤーナムの情報が逆漏洩する可能性がある。人も多い。分かるだろう。頼む。俺に免じてどうか」

 

 マルフォイとハーマイオニーを見ていた瞳が、ゆっくりクルックスに戻って来た。 

 

「ん、分かった。君の頼みならば……結論をすこしだけ先延ばしにしよう。……すこしだけ。すこしだけね」

 

「それでいい」

 

 その時だ。

 バーンという大きな音が競技場に響き、グリフィンドールの選手達が悲鳴を上げた。

 何事かと振り返ればロンがナメクジを吐き出していた。

 

「……人間、思いがけない特技を持っているのだな」

 

「……僕もビックリしている」

 

 観客席から駆けてきたコリン・クリービーがその光景を激写した。

 

「おわあ! すごい! ハリー、隣に立って! ハイ、撮りますっ!」

 

「撮らないよ!? どいて! どいて!」

 

 ハリーとハーマイオニーがロンの両腕を抱えてピッチを出て行った。

 方角的に森番、ハグリッドの小屋に行くのだろう。

 

「行くぞ、クルックス」

 

「……俺達には、これから大広間に戻ってテルミに内偵を頼むという選択肢がある」

 

「『穢れた血』に心当たりがないか聞けばいいだけだ」

 

「聞くべきは、あちらではないか? ……無論、時と場所を考えて、という前提ではあるが」

 

 クルックスは、スリザリン・チームに囲まれて芝生を叩いて笑い転げるマルフォイを見た。

 

「あちらにはいつでも聞ける。逃げ場も与えない。先にグレンジャー達だ」

 

 セラフィはクルックスの手を引いた。

 ピッチを出るまで聞こえてくるスリザリン・チームの嘲笑だけが耳障りだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、てっきりセラフィが森番の小屋をノックして「血を出せ」と中にいるハーマイオニーにナイフを向けるのではと内心恐々としていたが、そんなことにはならなかった。

 ふたりでこっそり小屋の軒下に座って、漏れ聞こえる彼らの会話を聞いていた。

 

 ──んで。やっこさん、誰に呪いかけるつもりだったんだ?

 ──マルフォイがハーマイオニーのこと何とかって呼んだんだ。ものすごくひどい悪口で。みんなカンカンだったもの。

 ──『穢れた血』ですって!

 

 クルックスとセラフィは顔を見合わせ、ますます小屋に身を近づけた。

 

 ──そんなこと、本当に言うたのか!?

 ──穢れた血ってどういう意味?

 

 二人の知りたいことは、ハリーがズバリの質問をしてくれた。

 

 ──それは、あー、マグルから生まれたって意味の、ホント最悪の汚らわしい呼び方さ。つまり。おっぇぷ。両親とも魔法使いじゃない人のことだよ。魔法使いのなかには『純血』って呼ばれていて、みんながそう呼ぶものだから、自分たちが誰よりも偉いって思っている連中がいるんだ。マルフォイみたいなね。ムカつくよ。ゲェ。いま時、魔法使いはほとんど混血なんだ。そうでもなきゃ魔法使いなんて絶滅しちゃうよ。みーんな親戚になっちゃってさ。

 

 ロンが再びナメクジ生産作業に戻るとハリーとハグリッドがハーマイオニーを慰める言葉をかけた。

 クルックスは話の内容を頭の中で噛み砕いた。やはりヤーナムとは全く関係のない話だったのだ。

 ホッとしてセラフィを見る。

 

「そういえば、朝食がまだだ。……今日は輸血液でいいかな」

 

 明後日の方向を向いて彼女は立ち上がった。

 興味を失ってどうでもよくなってしまったようだ。

 

「ちゃんと食べないとダメだ。先達に心配されてしまうぞ」

 

「ん」

 

 仕方ないな、とセラフィが肩をすくめた。

 二人は、小屋の人々に気付かれないように軒下から立ち上がり、校舎への道を戻っていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 休日なので図書館へ行こう。

 

 授業が始まったとはいえ宿題は、生徒が追い詰められるほど多くない。

 そのため、現在。図書館へ向かおうという人は、急ぎの調べ物がある高学年か凝り性か変人か。たいていこの三種に分類されるだろう。

 朝食を済ませたクルックスは、再び合流したセラフィと共に図書館を目指していた。ネフライトに頼まれた添削を終えたからだ。

 

「ネフは真面目だ。俺は、勉学に向いていないので尊敬している」

 

「堅実の自認は確かなことだ。僕もさほど得意なワケではない。じっとしていられないからね。カインでは生死に関わる。寒いから。勤勉でもテルミとタイプは違うのは不思議だ」

 

「ネフは見たものを二度と忘れないらしい。記憶力がよいのだとか」

 

「ほう。……僕にその能力がないのは、本当に幸いなことだった」

 

 図書館に行き、いつもネフライトがいる奥の席に向かう。

 しかし、彼はいなかった。

 

「珍しいな。まだ寝ているのだろうか」

 

「まさか。もう昼だ」

 

「どうする? 待つか?」

 

「そうしよう。……暇つぶしには困らないからね」

 

 近くの本棚から何冊か本を取り出したセラフィと一緒に座った。

 三十分ほど呪文学の本を読んでいると本を返しに行くタイミングでセラフィが図書館を一巡りしてきた。やはりネフライトはいなかったらしい。

 

「しかし、珍しいな。ネフがここに来ないなんて。書類を渡すのは誰かに頼みたいことでもなし。俺は急ぎの用事もないから夕方まで待っても大丈夫だが……セラフィはどうする?」

 

「んー。僕も宿題は済ませたのだ。……校内探索でもしてみようか? テルミが言っていたんだが『あったりなかったり部屋』というものが存在するらしい」

 

「ほう。面白そうな話だな。隠し部屋か。これだけ広い城なのだからあってもおかしくない」

 

 クルックスが本棚に本を返すのを待っている間、セラフィは床を見ていた。

 

「おかしくない話といえば、スリザリン寮は地下にあるのだが……」

 

 適当な相槌をうちながら首を傾げる。

 ……寮の場所は、本来他寮の生徒に知られてはいけないと聞いたような。

 だが、セラフィは構わずに続けた。

 

「城の地下の入り口は、どこにあるのだろうな」

 

「地下が気になるのか?」

 

「我々ならば特に地下を気にするべきだろう。魔法薬学の授業は地下というか半地下というか、地表の下にはあるが浅い。スリザリン寮も浅層だ。けれど地下に空間を作る技術はあるのだ。どこかに入り口があると思うのだが……どう思う?」

 

「ありそうだな。地下に部屋を作り、緊急時に外へ出る抜け道を作っているのかもしれない。昨年封鎖されていた四階の部屋も地下深くの隠し部屋に繋がっていた」

 

 二人で図書館を出て校内を探索する。

 会話は弾まないが、気心知れた仲にある穏やかな時間を過ごすことができた。

 あれこれと相談しながら羊皮紙に地図を描いていくのは楽しいことだった。聖杯の探索がそうであるように狩人の戦いは孤独になりがちであるが、たまにはこうして二人で歩くことも大切かもしれない。

 

 呪文学の教室を通りがかったところ、聞き慣れた声が聞こえた。

 

「──整文の過程で失われる情報であっても価値がある。知識とは、これまで見て・聞き・考えたもの上澄みだ。自学者にとって整文は、さほど重要ではない。綺麗なノートは無価値であるし、その作成のために時間を費やすのはまったくの無駄である。優れた発想は、新しい奇想は、一見雑然とした書き込みのなかの異質の組み合わせによって導かれる──」

 

 扉を開けて教室を見るといつもフリットウィック先生が立っている教壇にネフライトが立っていた。

 真面目っぽく訥々と語っていた彼は、被っているメンシスの檻のなかで目を動かした。

 

「おや。クルックス。……セラフィまで。珍しいことだ」

 

「ここで、何を?」

 

 教室のなかには、一人のレイブンクローの女子生徒がいた。

 濁った金髪の小柄な生徒だ。今年入学したばかりの一年生のように見えた。

 

「互助拝領機構の活動中だ」

 

 聞き慣れない言葉のなかに聞き慣れた単語があった。

 

「ご? 互助? 拝領、き?」

 

「互助拝領機構。M.W.M.B──Mechanism of worship for mutual benefit(相互利益のための礼拝の仕組み)だ。……もっと分かりやすく言うと『自学自習の会』だ」

 

 クルックスとセラフィが無言になってしまったのでネフライトは最後に付け足した。

 

「じゃあ『自学自習の会(Self-study group)』でいいだろう。なんだその長い名前」

 

「互助拝領機構だ。これは、ホグワーツの意識改革の試みの一石なのだ」

 

「学者先生は志が高くて困る。意識改革とは? 具体的な活動内容によっては介入せねばならない」

 

「連盟員は血の気が多くて困るな。『ヤ』の字の地名も『メ』の字の学派も出てこないので安心してほしい。そも、私は学派のイメージアップを諦めている」

 

「殊勝なことだ」

 

 セラフィが「そのほうがいいと思う」と頷いた。ネフライトは檻の編み目に爪を立てた。

 

「単純に手遅れだからな、うん。それで何か用か? ……見てのとおり、活動中なので出て行ってほしいのだが」

 

 クルックスは添削が終了した書類を置き、退室しようとした。

 しかし。

 

「貴公の取り組みは、すこし面白い。その互助拝領機構とやらはレイブンクローの生徒でなければ加入できないのか?」

 

「拝領は求める者に与えられる。また互助の精神があれば、寮を問わない。──私は、君の信仰の邪魔をするつもりはない。けれど、ご賛同いただけるのであれば幸いに思うよ」

 

 やや含みのある話し方である。「君の信仰の邪魔をするつもりはない」は特に気になる。

 クルックスは、ネフライトがなぜ積極的に人と関わるようになったのか分からないうちは加わらないつもりだったが、セラフィは気にしないようだった。レイブンクローの一年生の隣に座った。

 

「俺は、セラフィの付き添いということで」

 

「そういうことにしよう。君は特別だからな。──座りたまえ」

 

 いったい何を話しているのかと警戒して聞いていたが、講義の内容は確かにヤーナムも医療教会も関係のない、それどころか魔法にも関わらない話だった。

 黒板には白いチョークで『初学者のための自学の方法』と書かれている。

『なぜ勉強をするのか』の疑問提起から始まり、ノートの取り方、メモの重要性、記憶することの意義と続く。

 今回は『分からないことが何なのか分からない』や『勉強の仕方が分からない』という生徒に対する学習回のようだ。

 彼の話は難しいが、内容の数割は理解できた。

 

 非魔法族の学校に通っていない場合、多くの魔法族が最初で最後に通う学校がホグワーツだ。

 そして、ホグワーツで行われる授業では授業の受け方など学ばない。家庭教育の範疇と考えられているのだろう。けれど、家庭学習で学ぶ機会のない人もいる。非魔法族の出身でホグワーツがどのようなものか知らない人は大いに困ったことだろう。

 周囲の見よう見まねで勉強を始めたクルックスのように、それで知識が身につけば問題がない。だが、勉強の心構えや基礎を学ぶ機会があれば不安も少なくなるだろう。

 

(今でも十分役に立つが、去年受けたかった)

 

 三十分程度で講義は終わった。

 パチパチと三人分の拍手が起きた。

 

「面白かった」

 

「タメになった」

 

「良かった」

 

 クルックス、セラフィ、レイブンクローの一年生が感想を述べた。

 突然、あちこちが痒くなったようにネフライトはそわそわ体を揺らした。

 

「私は。……おだてても何も出ないぞ」

 

「想像していたより退屈しなかった。しかし、話し方はいただけないな。もうすこし抑揚が必要では?」

 

「いいや、要らない」

 

 竿でも入れたみたいに背筋を伸ばしたネフライトがセラフィの助言を却下した。

 

「押しつけがましい教授は理解の妨げになる。良い教育とは、導きに留まるものだ。先回って答えを指し示すのは給餌的教授と言える。これは良くない。学習とは、結局のところ、個人の納得だ。個人の努力によって理解に辿り着かなければならない。だからこれで良いのだと私は考えている」

 

「失礼。そこまで考えがあるとは思わなかった。僕が口出しすべきことではなかったね。気を悪くしないでくれたまえよ」

 

「問題ない。私は、本を開いて十秒で見つかる答えであっても質問を受け付けている。君の疑問は皆の疑問でもある。……百回も同じことを聞かれたらさすがに対応を考えるが」

 

 クルックスは、実際に平坦に話し続けることについて──それでも魔法史のビンズよりはマシだが──なぜだろうと思っていた。

 納得を得て何度か頷いた。

 

「この話、皆も聞くべきだと思うなぁ。羊皮紙と羽ペンだけで最初から勉強できる人は少ないもン」

 

「ルーナ・ラブグッド、機会があれば誰か誘うといい。私が同じ話をしてもよいし、今度は君が教壇に立ってもよいだろう。互助拝領機構はそういうものにしていきたい」

 

 ネフライトはクルックスが添削した書類の束を鞄に入れた。

 

「では、また次の機会に会おう」

 

 檻を扉にぶつけないように体を傾げて彼は呪文学の教室を出て行った。

 レイブンクローの一年生、ルーナ・ラブグッドが去ろうとするところをクルックスが引き留めた。

 

「ルーナ・ラブグッドと言ったか。俺は、クルックス・ハントだ。ネフが生徒と話すのは珍しい。君は……特別なのだろうか?」

 

「運が良かったみたい。たまたま廊下を歩いていたらバッタリ会ったんだ。あんたのこと知ってるよ。ネフの知り合い」

 

 ルーナがまとう雰囲気は、なんとも形容しがたい。

 彼女が口を開くと捉えどころのない不思議な空気になる。

 この種の人には初めて会うクルックスは面食らった。

 

「知り合い……まあ、知り合いといえば知り合いだ。ネフと君のことは、よく分からんが『巡り合わせ』というものなのだろう。彼は賢いので良い学びの機会を作ってくれる。互助拝領機構に関わらずな。俺から頼むことでもないが、悪いヤツではないので仲良くしてくれたら嬉しいことだ」

 

「いいよ。面白いから。じゃあね。これから『チラシ』作らなきゃ。また来週」

 

「楽しみにしている」

 

 セラフィがヒラヒラと手を振ってルーナも教室を出て行った。

 

 

 次の日のことだ。

 

 

 クルックスは、授業の合間の移動時間に校内のあちこちでルーナを見かけた。

 決まって掲示板に向かい、何やら書類を貼り付けているのだ。

 とある廊下にある掲示板に真新しい広告を見つけた。

 

 ふと見れば『互助拝領機構』の開催日が書かれている。

 開催場所は……無い。

 書き忘れたのだろうか。

 気がかりに思って近付いた。

 よく見ると「場所:要相談」と書いてある。その隣には矢印が引かれ、六角柱の檻が描かれていた。

 




互助拝領機構

穢れた血:
 大前提なのですが、筆者の英語は「生まれるべきではなかった」「君には何もない。低能力者だ」レベルなので、引っ張り出した英語辞典と『※個人の感想です』でお送りします。
 魔法界の場合、穢れた血は英語だと「mudblood」と記述されています。「dirty blood」とも表記される場合もありますが、主としては「mudblood」のようですね。「mud」名詞だと「泥」。悪口や中傷の意味もあるようです。「(悪い評判を流して)……の名を汚す」とか、そういう場面で使われるようです。物理的な汚れではなく、名声を下げる意味でも使われることが分かります。この印象と合わせて考えてみますと。映画の日本語台詞だとカットされていますが「穢れた血め!」の前に「生まれ損ないの」という言葉が付くことを考えて、受ける印象とは『汚損された血を持つ者め』とか『お前たちの血って、泥みたいじゃないか?』というものになるのではないかと思います。
 続いてヤーナムの場合、穢れた血は英語表記「vileblood」です。DeepLで直訳すると、例えばカインハーストの血族=The Vilebloods of Cainhurstは「カインハーストの卑劣な血」となります。レオー先輩が「は?」と言いそうです。心外なんだが? 単語としての「vileblood」でようやく「汚れた血」の訳となりますが「vile」の単語自体は「不快」「下劣」「卑劣」の意味を含みます。
 カインハーストの穢れた血がそうなのか、人をたぶらかせるほどに顔がいいのか、はたまた医療教会の立場から敵を指した言葉だからなのか、作中でも売女呼ばわりされていたので、Bloodborneを知る人でも英語字幕やボイスに触れていない人であれば「あ、やっぱりそういう意味の『穢れ』なのね」という感想になりそうです。
 なお、ヤーナムの場合の穢れた血という言葉には上記の他にも『不浄な血』という印象を受ける人も多いのではないでしょうか。

 ここまでつらつら書きましたが、要するに同じ『穢れた血』でも元々の単語を知っている人であれば、同じ言葉の違う意味だということがお察しだった事と思うので、ちょっとクスッとできるというネタでした。

 カインハーストの女王様ことアンナリーゼ様は、いつでも謎めいて可愛く優しい女王様なのですが、自分の血のことを「祖先よりの尊い血」とか決して言わない女王様です。女王様自身が「穢れた我が血を啜るがよい」と言います。
 ゲーム作中で同じモノを指す言葉(この場合は「穢れた血」)を複数登場させることが避けられたから、と言ってしまえばそれまでなのですが、医療教会の立場であるアルフレートが敵に対し「穢れた血」を言う背景とカインハーストの女王様が自らの血について「穢れた血」と言う内心が同一だとは思えないため、実のところヤーナムにおいての「穢れた血」とは、単純な学名(学術的な呼称)に等しいものであるのかもしれません。
 本作においても適用するかどうか不明な考察ですが、現時点での筆者の考えとして置いておきたいものです。また皆さんの神秘探究の肥やしになれば幸いですね。脳液がほしいの……ピチャピチャ……。


互助拝領機構:
 イメージとしては、独学者が勉強するにあたり必要な心構えやコツを教える勉強会です。
「(点数は)このように稼ぐのだ」
 昨年、かなり真面目に授業に取り組んで点数稼ぎをしたネフライトだが、賢者の石騒動でひっくり返された心境になったのはスリザリンだけではない。今年は、ほどほどに控えている。そんなことより互助拝領機構に注力して協調性アピールをした方がお得に思えてきた。
……あとはラブグッドが参加者を連れてきてくれたらよいのだが……私? この私がなぜ頭を下げねばならんのだ?……
 ところで最近、互助拝領機構のことを聞き付けたテルミは「ネズミ」と「無限連鎖講」のことを誰かに話したくて堪らない。
……可哀想なものは可愛いからいじめたくなっちゃうの。抵抗してくれていいのよ。いじめられたいなら別ですけどね?……

「傲慢さ」はヤーナム医療者(神秘探求者)必須科目並の精神なので二人のなかにも息づいています。可愛いですね。

ご感想の返信が遅れておりますが全て目を通させていただいています。
ありがとうございます。
引き続きご感想をお待ちしていますのでお気軽によろしくお願いします
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赤文字と蛇

テルミの聖布
医療教会が祝福した聖布。
細かな刺繍は全て使用者の身を守る呪いである。
いまや呪われることも父の愛に抱かれる事に等しい。
ゆえに彼女は望んで月に見えたのだ。



 ホグワーツの生活は約二ヶ月経過した。すなわち平穏という温度に慣れた頃。

 凶事というものについてクルックスは深く考える機会があった。

 

 ヤーナムに訪れるあらゆる凶事は「負債のようなもの」と語ったのはビルゲンワースの学徒、ユリエであった。

 医療教会は怪しげな血を市井の肉に注ぎ、宇宙に触れようと交信を試みた。成功であれ失敗であれ、行動した以上は結果がつきまとう。

 

 長い長い時間をかけて、多くの人々の目に触れない場所で積み重なった因果が表出する。

 それがヤーナムに起きる凶事の仕組みだ。この仕組みは厄介だ。「解決しようとしても多くの場合、原因が分からない。どれがどれに対応した因果なのか、さっぱり分からない」とは父たる狩人の弁である。

 その因果が巡り巡って現在のヤーナムを形作っているのは、本当に度し難いことだ。──医療教会、初代教区長をはじめ最初の原因に心あたりがあると思しき当事者は、もうとっくに、そのほとんどが死んでしまっているのだ。

 現在のヤーナムは、最大の凶事の発露した時に偶然その場にいた狩人が成果物をかっ攫う形で成立したものだが、それはあらゆる因果を一身に引き受けたことに他ならない。だから乳母車が恋しくなるのも無理はないことだ。

 

 思考を明後日の方向に飛ばし、クルックスは壁に書かれた文字を見ていた。

 人混みは先生の指示によってそれぞれの寮を目指し、指針を定めつつあった。

 

(ホグワーツで起きる事件もヤーナムと等しい因果を持っているのだろうか?)

 

 全ては寮名となった四人の創設者が集ったときから始まる。

 そして、在籍した生徒が、あるいは先生が、積み重ねた行動の結果なのだろうか。

 

 事件は、いつもハロウィーンの日にやって来る。

 誰かが息を飲み込む音が大きく聞こえた。

 

 

  秘密の部屋は開かれたり

  継承者の敵よ、気をつけよ

 

 

 文字は赤いが、血ではない。油の臭いがする。塗料だ。しかし、赤は敵意を感じさせる。そこに文面も加味すれば殺意まで感じられた。そして極めつきは松明の腕木に吊されたフィルチの猫だ。

 

「継承者の敵よ、気をつけよ! 次はお前たちの番だぞ、『穢れた血』め!」

 

 静けさを破ったのは、マルフォイの高らかな宣言だった。

 誰よりも強ばった顔をしたのはハーマイオニーだ。

 

 不幸な発見者となったハリーとロン、ハーマイオニーはダンブルドア校長と何名かの先生と共にどこかへ行った。

 残った先生が急かすように生徒を残酷な光景から遠ざけていた。

 ……クス、クス。

 隣に気配を感じた。見ればテルミがおかしそうに笑っている。

 

「あまり楽しげにするな。耳目を集めたくはない」

 

 小さい声でクルックスは言った。

 テルミも声をひそめた。

 

「お許しになって? あぁ、残念。今年も大人しくできないようですからね」

 

「ずいぶんと嬉しそうに言うのだな。……学校で起きたことだ。その日、その時間にいなかった生徒を洗い出せばすぐに犯人が見つかる」

 

「そうだといいわよね。魔法が使われた犯罪において『どのように(ハウダニット)』が役に立つとは、フフ、思いませんけれど。……あぁ、お父様によく似た貴方。何かあったらわたしにも教えてくださる? 『互助拝領機構』なんて面白いこと、内緒にしているなんて酷いわ」

 

「……伝える機会が無かっただけだ」

 

「そういうことにしておいてあげますね」

 

 テルミはクルックスの腕をするりと撫でて生徒の群れのなかに消えていった。

 

 ──誰が、なんで猫を殺したんだろう?

 

 ざわざわとした足音に混ざり、そんな声が聞こえた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 セラフィはスリザリン寮のソファーに腰掛けた。

 柔らかいソファーは、今日はやけに沈み込むような気がした。それだけ疲れているということだ。

 

「…………」

 

 テーブルにある果物の皿から拳より小さい青林檎を手に取った。

 囓ると顎の付け根がじわりと痛む。そして林檎の酸味を味わった。

 

 ハロウィーンの日は、奇しくもグリフィンドール寮のゴースト、ニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿の絶命日パーティだ。

 誰に誘われたワケでもないが、ハッフルパフに住む陽気なゴーストの「太った修道士」が絶命日パーティのことを話していたのを聞いたので独り、出向いたのだ。

 各地からゴーストがやってくるのだという。多くの人が──すでに命を失っているとしても──いるならば、カインハーストに連なる貴人のゴーストがいるのではないか。そう考えたが、結果はいつもどおりの空振り。唯一の収穫は、ゴーストの食事として供されていたのは、腐ったり黴びたりした食材であるという程度だった。

 

 夕食の時間もすっかり終わっていた。

 そして、寮に帰ったらフィルチの猫──ミセス・ノリスが死んだらしいとの噂。そして、壁の血文字。

 セラフィがいつの間にか帰ってきたことも談話室の端に座り、林檎を食べていることもほとんどの生徒が気付かない。ひとりの例外を除いて。

 

「セオドール・ノット。浮かない顔であるな」

 

「これから我が家は大忙しだ。誰かのせいで」

 

 心底忌々しいといった口調で青白い顔の背の高い少年は言った。

 

「大変だな」

 

 カリリ。林檎を囓る。酸味に慣れてようやく甘みが感じられるようになってきた。無心に顎を動かしていると隣にノットが座った。

 セラフィに近付こうとする人物は、とても珍しい。

 

 誰かに気を遣うことも、へつらうことも、群れることもない。そのためセラフィはスリザリン寮において浮いている存在だった。それが他寮に悟られないのはスリザリンの特徴だろう。最も寮生の数が少ないスリザリンは、団結を重要視するのだ。

 

「僕に何か用事があるのかな。ご覧のとおり食事中なのだ。それとも、こちらに用事が?」

 

 セラフィはテーブルの上にある果物の載った皿を指した。

 

「──皆に聞いた。誰も君の家のことを知らない。だから訊ねに来たんだ」

 

「僕の血筋に興味があるのか? 詮索するだけ無駄だ。……むむ」

 

 魔法界の常識に当てはめようとすれば無理が生じる。やはり無駄だ。

 なんせ約二年前に発生した、左回りかもしれない何かから発生した右回りらしき生き物なのだ。自分自身、正体を探している最中だ。

 徒労をたしなめるように果物の皿を彼の前に押しやった。

 

「壁の文字──継承者の敵って意味は分かるか?」

 

「分からない。見当もつかない」

 

「……だろうな。君はマグル出身だろう」

 

「そういうことでいい」

 

「それでは困る」

 

 静かだが、強い口調でノットは言った。

 

「スリザリンにマグル出身はいないことになっている。……気を付けてくれ」

 

「ああ、そうとも。蛇には蛇だけだ。モドキのような蛇やトカゲのような蛇もちらほらと見える気がするが、どこからどう見ても蛇なのだろうね」

 

「……正確には『スリザリンにマグル出身を公言する生徒はいない』と言うべきだが、とにかく、そうなっているからそう振る舞うべきなんだ。君も」

 

 フッとセラフィは息をこぼした。

 ──くだらない。

 そう言ってしまいたかったが、価値観の衝突のため避けた。

 

 魔法界の純血には、魔法の行使における優位性が無いように見える。

 例えば、純血を誇るドラコ・マルフォイが、マグル出身のハーマイオニー・グレンジャーより魔法力に優れているという状況は見受けられない。能力に差がないのなら、純血を保全する価値が無いように思ってしまうのだ。

 セラフィは林檎を食べ終えると葡萄を一房、手に取った。

 

「セオドール・ノット、障りがなければセオドールと呼ばせてもらいたいものだ。君の事情は分からないが、この混乱の最中──しかも初期に貴公が動くとは思わなかった。もうすこし慎重な人物かと思っていた。何か急ぐ用事があるのかな」

 

「スリザリンがこの程度の混乱で済んでいるのは、純血と半純血しかいないスリザリンだからだ。……秘密の部屋。継承者。古い話だ」

 

「昔話は好きだよ」

 

 先達の騎士がセラフィの寝物語に聞かせる話は、いつも過ぎ去りし栄華の話でありセラフィにとっては未来の話でもあった。

 

「調べれば出てくる話だ。話自体は、隠されているワケではない。一週間もすれば君の耳にも届くだろう。──だが、継承者が現れること自体がありえないんだ」

 

 ノット──セオドール・ノットは手に持っていた一冊の本を出した。

 表紙には金色の流れるような文字で『純血一族一覧』と書かれていた。

 

「その本、執筆者不明で信憑性がイマイチと聞いたことがあるのだが……」

 

「俺以外の誰かが『この本は祖先が書いた確かなものだ』と言ったら容赦なく破ってもいい。だが俺は、聖28族を選定したカンタンケラス・ノットの子孫だ」

 

「ほう。では記述の赤も青もご存じなのだな。それで? 継承者様が純血様と何のご関係が?」

 

「結論から言えば『継承者』であるスリザリンの創始者、サラザール・スリザリンの血を引く子孫は在校生に存在しない──」

 

「ことになっている?」

 

 セオドールは挑戦的な目をした。

 だが、一時の感情より知性が上回った。

 

「そうだ。いない。皆、マルフォイがスリザリンの継承者と思っているようだが」

 

 セオドールは、ちらりとマルフォイを見た。

 取り巻きの女子生徒に何かを話していた。

 秘密は甘いものだ。──父たる狩人の言葉がセラフィの思考をかすめた。

 

「──マルフォイ家のルーツは他にある。この『純血一族一覧』……あえて『イマイチ』だと認めるが……実のところ、とっても癪だが……しかし、確かな記述もある。マルフォイは、スリザリンの系譜ではない。これは赤で書いてもいい確定事項だ」

 

「話の焦点が分からないな。『継承者は現れた』と血文字は語る。だが、一族一覧を作ったミスター・ノットの子孫は『在校生のなかに継承者の資格たる寮祖、サラザール・スリザリンの血筋を持つ人物は存在しない』と言う。困ったな。継承者が空白になってしまった。……? ああ、何だ。それで僕を疑っていたのか」

 

 ようやく話しかけられた理由に辿り着いた。

 セラフィは指先を舐める。黄色い葡萄より紫の葡萄が甘いことに気付いた。

 セオドールは首を振り『純血一族一覧』をポケットにしまった。

 

「逆だ。君であればいいと思っていた。だが君は隠そうともしないマグル出身でナイト家など俺の家が把握している限り、存在しない。状況は、とても良くないことが確定した。最悪だ」

 

「君の不安を教えてくれないか。期待を寄せられていた僕には聞く権利がある」

 

「『等しく危険だ』と考えているんだ。サラザール・スリザリンは、純粋な魔法族だけに魔法教育を受けさせるべきだと主張したが、少数派だったので排斥された。もし、継承者がいるとして、彼の意志を『正しく』継ぐ者だとしたら『継承者の敵』は『スリザリンの敵』だ。つまり、マグル生まれ、『穢れた血』が標的になる。マルフォイの言うとおりな。……だが……皆、暢気すぎる。彼らだって分かっているハズだ。純血を名乗る一族に、本当の意味での純血の一族なんて存在しない。スリザリンの寮生だとしても、どこかにマグルの血が流れている」

 

 ──ここにマグルどころか何の血が流れているか分からない存在もいるけれど。

 セラフィは内心で呟く。握りしめて白くなったセオドールの指先を見ていた。

 

「不思議だ。貴公は、純血主義者なのに穢れた血の心配をしている。自称、純血に列せられた一族の末裔なのだからドラコ・マルフォイのように振る舞えばよいだろう。『哀れ、穢れた血。運命の正しき車輪から逃げ惑うがよい』と」

 

「純血主義である前に、魔法族の血が重要なんだ。フィルチの猫の次は、スリザリンの誰かかもしれないってこと。皆、分かっていないんだ……。スリザリンの寮生だから安心しているのか。純血か半純血だからと自称しているから安全だと思っているのか。あるいは、両方なのか。分からないが……」

 

 セオドールは肩を落とした。彼はひどく焦燥していた。

 

「もし、僕が継承者だと言ったら君はどうしていたのか」

 

「決まってる。『外でマグルを襲え』って言うさ。マグル出身者は……気にくわないが、きちんとした教育を受けて魔法が使えるのならば手駒になり得る。家系のどこかに魔法族がいたという証拠でもある。スクイブだって純粋なマグルよりマシだ。……だが、スリザリンで唯一家系的背景が分からない君が継承者ではなかった以上、誰が継承者で何のために猫を襲ったのか。どうして今なのか。まったく分からなくなってしまった。いまさらスリザリンの血筋を探すなんて、どんな魔法を駆使しても追えない。手がかりなし。こうなっては継承者が、厳格な純血主義者でないことを祈るばかりだ。とても厳格な純血主義者なら、まっさきにスリザリンのマグル出身者を見つけ出して襲うだろう。君の言う、モドキやトカゲ達をね。彼らが純血主義を心から歓迎しているかどうかはともかく。打算でも歩調をそろえることができるならば、他寮の生徒より優れた存在だ。──そもそもスリザリンが優れた存在なのは言うまでもないことだが。彼らは真なる家族とは言い難い。でも、だからといってあの猫のように『死んでもいい』と思えるほど安くはない……」

 

「人道的な主張だ」

 

 かつてカインハーストに攻め入った処刑隊よりは穏やかな思想だ。

 セラフィは梨を手に取った。室温で成熟したようだ。柔らかい。

 ムキになったようにセオドールは顔を上げた。相槌が杜撰だったせいかもしれない。

 

「何をそう気負っているのだろうか。君に何かできることがあるとは思わない」

 

「ここ七〇年程度の純血主義の活動には『純血一族一覧』が付きものだった、らしい。主張の根拠を作った責任は、俺にも……。いいや、昔の話だ。済んだ話だ……。だから、俺個人が責任を感じることはないのかもしれない。だが、継承者を騙る誰かが現れた以上、無関係ではいられない──なんて、考えるのはバカげているだろうか?」

 

「スリザリンの生徒は、損得で動くと思っていた。どうやら貴公は違うらしい。祖先の罪に殉じる姿勢は好ましいものだ。僕も身に覚えがある。罪は消えないものだ。自らが起こした罪でなくとも、罪は罪。何をしても消えはしない。消えてはいけないのだ。──簡単に許されてしまったのなら、我々は永遠の権利としての『復讐』を保ち続けられない」

 

「…………」

 

 罪という言葉に、セオドールは「大袈裟だ」と呟き、顔を背けた。

 セラフィは最後の葡萄の一粒を飲み下した。

 

「とはいえ、僕の価値観は数世紀遅れている。時代錯誤の生き方だと知っているよ。今は自由とかいう風見鶏が幅を利かせているのだろう。好きに生きられる余地があるのならば、それも幸いなことだ。どうせ着るローブならば、誰かの中古よりも新品の方がいい。そういう考えも、分かるとも」

 

「……俺は、君ほど古くないと思うが……純血の魔法使いは、さほど自由ではない。『名前を呼んではいけないあの人』が倒れた今、純血主義は廃れる一方だ。それも時流かもしれないが……だが……しかし……それではダメなんだ」

 

「ああ、純血主義。純血主義ね。不思議な思想に感じるよ。純血でも半純血でもマグル出身者でも使える魔法の能力は変わらない。あ。それとも耐久に違いがあるのだろうか。なぁ、君。ナイフで刺されたことあるかな」

 

「『ある?』って何? ないよ?」

 

「そうか。残念だ。では、いつかナイフで刺されたらどのような痛みを感じるか教えてくれ」

 

「機会があればね。……純血主義は『必要な思想だ』と父は言っている。俺もそう思う。このままマグルとの混血が進めば、マグル社会との融和施策なんてモノが出てくるかもしれない。だが、マグルは──魔法族もそうだが……異質なものは決して受け入れないだろう。勝った方が負けた方を支配する。いくら魔法族が優れていて強くとも──とはいえ、戦えば間違いなく勝つと思うが、しかし、万一を考えて……。そう。マグルは、数が多い。科学だって進んでいる。そのうち魔法を上回るモノがでてくるかもしれない。だから、魔法族の利益を最も考える『純血』の人々の保全は、マグルの危機から魔法族を守る唯一の術なんだ」

 

「魔法族と非魔法族の争いに関しては、すこし頷けることもある。同じ問題を知っている。けれど、純血主義の思想は脆い鎧に感じる。薄氷のような鎧だ。裸ではないだけマシなのかな。『純血主義』が思想として存在することはよいだろう。二十世紀には思想の自由があるらしい。──だが、純血ではない者が純血を名乗る実情は、真実を歪めるものだ。純血の定義が厳密であればあるほど歪みは大きくなる。純血は減ることはあれど、増えることはない。自らの首を絞める主張だ。遠からず死滅に至るだろう。一年に何百と純血の家が再発見されるのなら、話は別だが」

 

「それでも『鎧がある』ことが重要なんだ。歴史を作るのはいつも勝者のペンで、家系図を作るのは我が家のペンだ。『純血』の定義を変えることだってできる。いや、そんなことをしなくても過去の闇は誰にも紐解けない」

 

「過去にも現在にも未来にも存在しないものを証明するのは、とても苦労するだろうからね。念入りに改竄されたのであれば、なおさらのことだ。怒らないでくれないか。事実を述べているだけなのだから。……さて、さて。どうやら僕は君のご期待には添えなかったようだ。どこかにいる本当の継承者を探した方が良いだろう。……今のところ危機を危機として真剣に受け止めているのは君だけのようだ」

 

 赤い林檎をセオドールの手に落とした。

 彼は手の中の林檎を見つめ、そして立ち上がったセラフィを見上げた。

 

「最後に確認するが……本当に、君ではないんだな?」

 

「僕なら、非魔法族の出身者を探すなんて迂遠はしない」

 

「そう、だな。違うよな。君は……何というか……すごく雑な時があるし」

 

 ──ああ、僕はたいていのことがどうでもよいからね。

 そう言おうと実際に口まで開いたが言葉は出なかった。

 雑、という評価がセラフィの心の繊細な部分をうっすら傷つけたからだ。

 

(……ひょっとしたら、僕は他人からとても無責任な人間に思われているのだろうか?)

 

 セラフィは魔法界のあれこれに興味はあまり持てない性質だと自覚があったが、無責任にはなりたくなかった。だからここにいる。クルックスも「冷たくない」と言ってくれたのだ。そのことを思い出すと自信を取り戻せた。

 セラフィは、セオドールの最終確認の質問に対し、誠実に考えた。

 

「だからこそ、無差別に襲うよ。純血主義を掲げる人々が、純血主義の執行のために死ぬなら本望だろう」

 

 赤い林檎が長毛カーペットの上に、ぽて、と鈍い音を立てて転がった。

 見上げたまま、セオドールは大きく目を見開いていた。

 

「信仰に伴う、ただの尊い犠牲ではないか。貴公らは、自らが標榜する信念のために他者を害そうとするのに、なぜ自分の番が来ただけでそのように怯えているのだろう。……それにしても、イギリス魔法界は大変なのだね。もうすこし真剣に隠れる方法を考えた方がいい」

 

「……そう……選択しないための純血主義なんだ」

 

「ほう。近頃の『正義』とは、もっぱら多数派が名乗るモノと聞く。少ない方は、はて……何と呼ばれるのだったかな」

 

 果物の皿から、最後に残った青林檎を手に取る。

 セラフィは立ち上がった。

 

「セオドール、面白い話をありがとう。貴公とは、時間のあるときにゆっくり話したいものだ。人間の社会と未来についてね。……しかし、今日はおやすみ。佳い夜を」

 

 細い銀髪を払い、セラフィは談話室を退室した。

 青い林檎は、酸味が強い。

 しかし、かすかな甘みが遅れてやってくる。これはクセになる味だ。

 

(よく考えているものだ)

 

 手の中で温めるように林檎をくるりくるり回しながらセラフィは思う。

 

(僕と同じくらいの子供が、魔法族の未来について真剣に話している。僕より、とても真面目に)

 

 これは『富んでいる』と言えるだろう。寝食がおぼつかない状態では考えることさえ難しい議題だ。しかし、豊かな生活の延長にある思想とはいえ、セラフィは不可解なものに思えた。──未来は常に大人が考え、作るものだ。

 

(そうだ。魔法界はどのように形作られているのだろう? 優れた大人が、優れた治世を行っているのだろうか? ……ホグワーツは、ダンブルドア校長の下で成り立っている秩序と言えるだろう。では外は……?)

 

 彼女は、夏休みの間でダイアゴン横町で出会った人物を思い出した。

 ルシウス・マルフォイ。

 ドラコ・マルフォイの父親でホグワーツの理事を勤めていると聞く。理事とは相談役のようなものだとセラフィは考えている。ダンブルドア校長もより良い秩序のために彼らと協力して励んでいるのだろう。同じように政治も頭数が集まればそれだけ知識は重なり、名案も生まれるだろうか。

 考えが至ったところ、途端にヤーナムの脆さが感じられるようになった。

 

「クルックスは、魔法界に虫がいればよいと心から願っているらしいが……なるほど。今はすこしだけ、君が分かるよ」

 

 林檎に歯を立てようとした寸前、青い匂いが感じられた。

 強い酸味に我慢できるのは、その先にある甘味を知っているからだ。酸味が欲しいワケではない。

 

(赤い林檎、譲らなければよかったかな)

 

 セラフィは、硬い林檎をベッドサイドに置いた。

 




セラフィは果物がお好き:
「凍土かな?」という程度に凍てつくカインハーストの地において、まず見かけない──そもそも、たいていの食べ物は存在しないが──それは果実です。クルックスは栄養のことを考えすぎて骨も残さず食べる悪食癖がありますが、セラフィは偏食の気味があります。好きな物を好きなだけ食べ続けてしまいます。
……どうせ滅多なことでなければ死なぬのだから、僕らは好きな物を食べて、好きなものを愛するべきなのさ……


『純血一族一覧』:
 セオドール・ノット。
「誰だっけ?」と思われた方のためにご説明をさせていただくと『謎のプリンス』でちょこちょこ出てくるスリザリン生です。スラグホーンのスラグ・クラブに誘われるところでしたが、いろいろあって結局誘われなかった人物です。映画ではたぶん出ていない。その後『呪いの子』でもちょっと名前が出てきます。描写がないので判断が難しいのだが、発明品の結果を考えると、とても頭が良い設定があるようです。
 ところでハリー・ポッター原作内で『1930年代にカンタンケラス・ノットが出版したと思われる純血一族一覧』を記述した場面はないと記憶しています。
 Wikiにもあるこの内容は、インタビューかポッターモアで語られた内容と思われます。日本語訳された出版物(書き下ろしエッセイ3冊)には掲載されていないものです。最も近い記述『1930年代に姓名不詳の著者によって「純血」に指定された名家のリスト』が『エッセイ集ホグワーツ権力と政治と悪戯好きのポルターガイスト』に収録されています。
 待て待て、ノットの名前はどこから出てきたんだ。──筆者も知りたいです。
 ともあれ。
 たとえ上記の内容が誤りであったとしても『純血一族一覧』まわりの設定は、本作においては、このような取り扱いで今後も書いていこうと思います。
 ──とか書いておいて、この辺りの設定についてお詳しい方がいたら(メッセージで結構なので)教えてくれるととても嬉しいです。まだ修正が効く範囲かもしれないのでね。うん。


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善意の使い道

善意
他者のためを想う心。
それは自らが果たす真心であり、彼らの内に秘める良心を信じることである。
彼の善意に果てはなく、容易く彼らを死地に追いやった。
「それでも」を唱えるために、彼は長い時間を要した。



 クルックスは、言語化できない悩みを抱えていた。

 フィルチの猫が吊された次の日の出来事だ。

 大広間の食事中は「猫は殺されたのではなく、石になった」という衝撃的な知らせと「でも、マンドレイク薬で治るらしい」という知らせが蔓延していた。

 それを聞いたときからクルックスは食事の味が分からなくなった。気になることができてしまったからだ。

 

(石になった。石化。石……。石か……。何か引っかかる。なぜ俺はこんなことを気にしているのだろうか……?)

 

 オートミールの滓を皿からすくいながら、疑問を分解した。

 ──マンドレイク薬を飲ませれば治るということは、生きているということだ。

 ──生きているが、石になっている間は動けない。

 ──動けないが、生きている。死んでいない。

 それは、つまり。

 クルックスは、ミルクのなかにスプーンを落とした。

 

(猫を石にした何者かは俺達、『夢を見ている狩人』の天敵なのではないか?)

 

 悪夢に生まれ、いまは夢を見る狩人であるクルックス達が『夢にできる』ことは『自分が死んだこと』だけだ。

 もし、石にされた状態が死でなければ『石になった』状態で固定化されてしまい、夢に還ることができなくなってしまう。石を砕けば死ぬのだろうか。仮定に意味はあったが、確認は博打だ。

 オートミールからスプーンを救出することを諦めたクルックスは、授業のため談話室へ足を向けた。

 その道中。

 

(あれ? これ。お父様でもマズいんじゃないか?)

 

 石になった状態では自害もできないだろう。

 もし、月の香りの狩人が石に囚われたらヤーナムはどうなるのだろう。

 連盟は──ビルゲンワースの学徒達は──市街の狩人達は──。

 知人の顔が次々と浮かび、消えていった。

 

(お父様が動けなくなったら、どうなるのだろうか?)

 

 クルックスは、黄昏のヤーナムに朝が来れば良いと思っている。

 いくつ屍を積み上げたとしても虫を潰すだろう。そして、最後にはヤーナムの人々が心穏やかに眠れる夜が訪れて、血の臭いがしない朝が来れば良い。

 だが、現在のヤーナムの根幹が揺らぐことを考えたことがなかった。まさか月の香りの狩人が『動けなくなるかも』なんて──彼は、まったく考えたことがなかった。生まれた時から存在する狩人は、クルックスにとって月なのだ。いつでもどこでも優しく見守ってくれる月なのだ。

 

(どうして今まで考えられずにいたのだろう。とても良くないことだ。死ぬよりも悪いことだ。──早く、早く、手を打たなければ、見つけ出さなければ排除しなければ)

 

 テルミの言った「今年も大人しくできないようですからね」との言葉は、クルックスも率先して呟くことになるだろう。──大人しくなどしていられるか。

 

「クソ、何が魔法だ……そんなものを隠し持っているなんて……あぁ、きっと仕掛けたヤツは、血が淀んでいるに違いない……糞袋野郎め……必ず見つけ出して殺さなければならない……」

 

 生物を石に変えてしまう何か。

 それが人であれ動物であれ物であれ、危険なものだ。何としてでも排除しなければならない。

『夢を見る狩人』の仕組み──ひいては上位者の悪夢に抱かれた存在であるという『タネ』が割れてしまえば、石化させる何かは実に有効な手段となってしまう。これは、ヤーナムを揺るがすものになるだろう。

 正体を突き止めなければならない。ヤーナムの安全と、ついでに学業の継続のために。

 

 殺気立てば自然と足は早くなる。談話室に辿り着く頃には全力疾走になっていた。

 生まれて初めて感じる激しい焦りのため、今日は何をしても失敗をする気がした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 朝に夕に自由時間のほとんどを校内の探索に費やしたが、成果らしい成果はなかった。

 それはきょうだい達も同様だった。真偽不明の噂の確認にテルミは忙しくしている。だが、彼女はこまめに連絡を寄越した。猫が石になってから数日後に使者が手記を持ってきた。曰く『手がかりなし』。夜間、出歩いているセラフィにも有益な情報はない。ネフライトだけは「そう顔色を変えるものではない」と表立つ行動を起こしていなかった。

 

「『脅威である』ことを否定する心算はない。対応策が思いつかない程度には脅威だ。認めよう。しかし、まだタネは割れていない。私達が血眼になってみろ、ヒントをやるようなものではないか。……それでも辿り着けるとは思えないが、探索は慎重にすべきだ。私は動けない。今は、すこし目立ちすぎているからな」

 

 彼と別れた後で「なぜ互助拝領機構を作ったのか」を聞き忘れてしまったことに気付いたが、廊下でスネイプ先生とすれ違ったので戻ることはできなかった。首を傾げるような礼をすると彼は黒々とした髪の隙間から温度の分からない目を向けてきた。ほんの一瞬、彼は獣の皮を被った男に追われたことを訊ねたいのではないかと思ったが何も言葉をかけてくることはなかった。

 

 進展のない平日を送り、休日がやって来た。

 

「写真がもうすぐできますよ! 今日、クィディッチの試合が終わったらまとめて現像を始めるので、明日にはお渡しできます!」

 

 コリンの報せは、クルックスの気分を上向かせた。

 現像が終わったら何枚か焼き増しをしてもらい、一枚の写真は狩人の夢に置こう。そして、いくつかの写真はきょうだい達に渡そう。

 写真の行く先を考えつつ、コリンに礼を述べた。

 土曜日の本日は、今年初のグリフィンドールのクィディッチ戦だ。

 恐らくハリー・ポッターは約束を忘れているだろう。彼はスリザリンの箒のことが気がかりであるようだから。

『賢者の石』騒動の際、機会があればクィディッチを見に行く約束をクルックスは覚えていた。そのため、彼は狩人の徴が刺繍されたマフラーを巻き、やや肌寒い外へ出た。

 

「僕、僕、試合初めて見ます!」

 

「俺もそうだ」

 

「去年は観に行かなかったんですか?」

 

「……まぁ、いろいろあってな」

 

 キラキラと輝く瞳の前で「興味が無かったからな」とは言えず、曖昧な物言いをした。

 でこぼこ道を通り、競技場へ続く道を歩く。隣でちょこまかと動き、写真を撮るコリンは自分の身の上から将来の夢まで一生懸命に語った。

 将来、大人になった自分の在り方を語れるのは、安全である証拠だ。大人になるまでの生存率という言葉が思考をよぎった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 初めて観戦するクィディッチについて。

 クルックスは、感想に苦慮した。

 

「俺は育った環境が環境なので暴力とか横暴とか、慣れている。だが、礼節を守ることに関しては人に留まる縁であるから特に大切に思っているのだ。また、出来る限り尽くしたいとも思っている。その俺が、こんなことを言うのは余程のことだが──クィディッチとは、野蛮な遊戯なのだな」

 

 クルックスは、フィールド上空を飛び回るグリフィンドールのシーカー──ハリーを見て言った。

 ブラッジャーと呼ばれる暴れ玉に追い回されるハリーは、必死の形相だ。なんせこのブラッジャー。激突したら頭蓋は砕け、手足は節を増やすことになる威力だ。風を切り、うなりを上げて追走する。

 

「違うよ! いつもはこんなんじゃないんだ……! 何かおかしいぞ!」

 

「ブラッジャーって皆を箒から叩き落とす役割なんだ。だから、あんなふうに誰か一人を狙い続けるなんてしないハズなんだよ」

 

 ロンは観客席で魔法を使っている人を探して教員席を見た。

 ネビルは見ていられなくなって顔を覆っていた。

 

「ほう。場外妨害。そういう作戦もあるのか」

 

「無いよ!?」

 

 ネビルが、隣で悲鳴を上げた。

 危うくハリーの頭があった場所にブラッジャーが飛んできたのだ。

 

「クィディッチでは選手に魔法を使っちゃダメなんだよ! でも、誰か、誰かが魔法を使っているんだ」

 

「止めなきゃ」

 

「大丈夫。僕が止めるよ!」

 

 ロンがハリーを追うブラッジャーに狙いを定めた。

 その杖を慌てて押さえたハーマイオニーが、声援に負けない声を張り上げた。

 

「あなた、ハリーを粉々にするつもり!?」

 

「あ、うん。僕の杖じゃ無理だ。ハント、どう?」

 

「俺は手先が器用ではない。……この場所からでは無理だ」

 

「場所の問題なの?」

 

「ポッターが挽肉になったあとで手段を選ばなければな。俺は間に合わん」

 

 きょうだいで最も技量が高いのはセラフィだったが、彼女は所属上の事情で弓剣を取り扱わない。彼女の次に技量があるネフライトならば、弓剣で射貫くことができるかもしれない。だが、クルックスは彼の技量の半分も持ち合わせなかった。弓剣を持ったところで矢で殴りつける方が強いし速いのだ。

 

 手をこまねいているうち、誰かが「やった!」と叫び、悲鳴が上がった。

 彼らの見ている先でブラッジャーがとうとうハリーの右腕を捉えた。

 彼はそれでも飛ぶのをやめず、痛みをこらえて伸ばした左手で黄金のスニッチをつかまえた。

 

「ハリー! あれ絶対に折れているわ。ロン、行くわよ!」

 

 ハーマイオニーとロン、そしてなぜかコリンがカメラを担いでピッチへ駆けていった。

 

「これで試合は終了か。ふむ。ポッターが気がかりで他の選手がよく見えなかった。どちらが勝ったんだ?」

 

「グリフィンドールの勝ちだよ。でも──ブラッジャーがまだ動いている!」

 

 ネビルが顔を覆った指の隙間からフィールドを見つめた。

 フィールドの砂地に転がったハリーが、スニッチを見てにっこり笑った。そこに暗い影が落ちた。ブラッジャーだ。

 その時。

 ハーマイオニーがピッチに間に合った。何か呪文を唱え、襲いかかろうとしたブラッジャーが、爆発四散した。

 

「お。凄い」

 

 観客席までブラッジャーの破裂音は聞こえた。

 新しい拍手が巻き起こり、スタンドは揺れた。

 

「命中した! ハーマイオニー、スゴいよ! ……あ、ロックハートだ」

 

 ネビルが、明るい声から一転。顔を曇らせた。

 グリフィンドールの選手達が見守るなか、彼は白い歯を輝かせてピッチに降りてきた。

 それから意識朦朧のハリーと何かを話している。

 場違いな登場で周囲の選手達も戸惑っていた。ビーターの双子は、心配そうな顔を隠さなかった。ウッドでさえにこにこ顔が引き攣っている。

 

「ところでネビル・ロングボトム。俺は人生経験が浅いのでよく分からないのだが……ロックハート先生は、良い先生なのか?」

 

「あー、その、僕からは……ちょっと……言えないっていうか。わからないなぁ。ばあちゃんは『ただの青二才だ』なんて言うけど、本を見たら、スゴいことをした人だと思うし……でも……うーん、あれを見ると……」

 

 あれ、とは。

 クルックスは遠眼鏡を取り出し、ピッチ中央の様子を見た。

 ロックハートがハリーの腕に向かって呪文を唱えている。

 

「ハッキリ言ってしまうが、俺には『役立たず』に見える」

 

「でも先生だから、僕より役に立つとは思うよ……」

 

 呪文を唱えた後、ハリーの腕は骨が消えてしまったように棒状の肉の塊になった。

 

「貴公は、何をどう間違ってもポッターの腕を消したりしないだろう」

 

「そう、だけど。それ何かの例え? それとも冗談?」

 

「事実だ。慎重であることに自信を持つべきだ。迂闊な善意は時としてトドメになることがある。ここでもそうらしい」

 

 クルックスは帽子を取り、髪を掻き上げると再び被った。

 クィディッチは彼の中で物騒な遊戯として記憶されることになった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 グリフィンドール談話室は、今シーズン初勝利に盛り上がっていた。

 金に物を言わせたスリザリンのニンバス2001を破っての大勝利だ。宴会場となった談話室では、勝負の決め手となったシーカーへ医務室の方角を向いて献杯した後、不在を感じさせない盛り上がりを見せていた。

 クルックスも珍しく盛況な談話室にいた。

 夜には重い菓子であるスコーンの皿を確保し、端の席で囓っている。

 

 ヤーナムから這い出て来て数ヶ月は、食事の機会があれば食べるようにしていた。かの地の食文化は、貧相だ。市井であっても「お腹にたまるから」と輸血液が施される街において、やや軽視されている。

 しかし、ネフライトは狩人やビルゲンワースの学徒達に対し、食文化について進言書を渡したらしい。今年は、痩せた土であっても食べられる何かが現れることを期待したい。

 新しいスコーンを手に取り、ネフライトから渡されている書類の添削をした。

 

「素晴らしきかな。バター。油分は富裕層の味がする」

 

「なに言っているの? あなた、そのまま食べているのね。ジャムを付けて食べるのよ。普通はね」

 

 やって来たのはハーマイオニーだった。

 対面の椅子に座った彼女はイチゴジャムの瓶とカボチャジュースを置いた。

 クルックスは眩しいものを見る顔をした。

 

「知っている。それは砂糖の塊。すなわちブルジョアの味だ」

 

「ブルジョワ……? 金持ちって言いたいのかしら。マグルの世界でもスーパーで売っているでしょう?」

 

「そうなのか。安くなったのだな。ああ、ブルジョアとは俺達の長。あ。先だっ、先ぱぃ、じょ、上司が言っていたのだ。バター、金持ちの味。実にブルジョア的だ!」

 

「はあ。歴史的用語よ。使っている人は初めて見た」

 

「ジョークのつもりだったのだが、俺のセンスは数世紀遅れているらしい。気にしないでくれ。それで何か用事か?」

 

 ハーマイオニーが、ネフライトから預かっている書類を見ようとしていたので手早くまとめて遠ざけた。

 かぼちゃジュースを一口飲んでみる。これもまたブルジョア的甘さだ。

 

「あの、互助拝領機構のことなんだけど」

 

「ネフの発案だ。彼の見かけで敬遠する者も多いだろうが、なかなかどうして講義の中身はまともで役に立つ。互助拝領機構の理念に理解を示すならば、参加をオススメするぞ。……何だ、そういう話ではないのか?」

 

 彼女は『それはもう知っている』という顔をしていた。

 得意げに話してしまったことが恥ずかしくなり、スコーンに齧りついた。

 善意の行動を起こそうとした途端にこういう目に合う。

 父たる狩人の気分が、よく分かる気がした。

 

「行ってみたいんだけど、メンバーからの紹介じゃないと入れないの。だから、あなたから紹介してもらえないかなと思って」

 

「ネフに話せばいい。俺を介するのは回りくどいことだ」

 

「言ったわ。でも『私は組織の魁であって長ではないから、加入を認める権限はない』って」

 

「そのような取り決めであれば仕方ない。ふむ。実は俺も加入しているワケではないのだ。スリザリンのセラフィ・ナイトかレイブンクローのルーナ・ラブグッドを頼るといい」

 

「セラフィ・ナイトもメンバーなの?」

 

「そうだが……何か気になることが?」

 

 ハーマイオニーは話をするかどうか迷うように視線をさまよわせた。結局は話すことに意志は傾いた。

 

「去年の『賢者の石』の騒動の時にね」

 

 彼女は声をひそめた。

 クルックスはジャムの蓋を開けた。固いジャムの蓋はバコンと音を立てた。

 

「私達は、あなたより数十分遅れて地下に向かったのだけど四階の廊下で二人が……メンシスとナイトが中から出てきた人を捕まえようとして待っていたの」

 

「ああ。そういえば、そうだったな、うん」

 

 テルミが後詰めとして二人に声をかけたという話を聞いたような、聞いていないような。

 数秒考え込んだが、クルックスには覚えのない話だった。

 しかし、テルミならば次善の策として準備をしそうだとも思ったので納得した。

 

「ジャムはすこしでいいのよ。いえ、好みだけどね。全面に塗る必要はないと思うわ。……ええと、それであなたみたいに武装しているのを見たのよ」

 

 やや恐れた顔をするハーマイオニーを見た。

 釈明するのもおこがましい。

 彼女の危惧は事実だったからだ。

 慣れた異物感をまた感じた。

 クルックスは、せめてもの和睦の印として彼女の前にスコーンを置いた。

 

「今はただの生徒だ。そう気にしてほしくはないのだが」

 

「でも気になるわよ。ふくろうは届かないし、どの本にもヤーナムは見つからないし、魔法界でも不思議な土地だと思っているの」

 

「……いろいろ事情があるのだ」

 

「いろいろね」

 

 じっと見つめられた。

 クルックスは飲みかけのかぼちゃジュースを置いた。

 

「……ふくろうが届かないのは、本当にすまないと思っている。今後、改善する予定だ。ヤーナムの件は聞かないでくれ」

 

「えーと、ヤーナムのことを調べているワケじゃないの。魔法省が突き止めきれないのなら私だって分からないだろうから。……だから、そうじゃなくて、セラフィ・ナイトのことなの。彼女ってマルフォイと親しいかしら?」

 

 マルフォイ。

 口の中で言葉を転がしながら、尖った顎の少年を思い浮かべた。思えば彼との付き合いは、ダイアゴン横町で偶然マダムマルキンの洋装店からはじまる。授業では何度か顔を合わせることがあるものの、クルックスは彼と親しくない。互いに興味がないので印象に残らないのだろう。同じスリザリン寮であるセラフィが彼と親しくしている様子もない。 

 

「セラフィには、特別に親しい友はいない。テルミ、いや、先達、いや、俺が最も詳しい」

 

「そ、そう。あの、フィルチの猫が石になったでしょう? その時にマルフォイが妙なことを言っていた。『次はお前たちの番だぞ、穢れた血め!』って。──この件について、マルフォイが何か知っているんじゃないかって調べようとしているの」

 

「……見て理解ができる分かりやすい苦難だというのに、首を捧げるように進むのだな」

 

 クルックスは咎めた。

 ハーマイオニーが挑もうとしているのは、底の知れない謎だ。

 

 猫が石になった事件の発生から数週間も経つのに、いまだ先生方も犯人を突き止めきれずにいる。

 分野こそ違えど一流の魔法使い達がそろってお手上げ状態だ。この事態は一般生徒にとって好ましいものではない。もし、犯人が魔法使いであれば生徒になりすましているのかもしれないのだ。

 

 すなわち、誰が敵か味方か、分からない。

 今は、そんな状態だ。

 

 異常な事態の真っ最中に得体の知れない地域から這い出てきた自分に対し、事情を打ち明ける行為は勇気がある。

 あるいは、昨年度で築いた信頼の証とも言えるかもしれない。

 しかし、クルックスには蛮行に見えた。

 

「先ほど『不思議な土地だ』と言ったな。とても曖昧な評価をしてくれてありがとう。だが『不気味な土地だ』とも思っているハズだ。魔法省にも見つけられないなど『ありえない』とも思っているだろう。俺が犯人であったらどうする? 探るべきではない。──命知らずの行いだ」

 

 彼の忠告はヤーナム風に歪んでいたが、善意だった。

 普通の人々は、死んでも死にきれない存在である『夢を見る狩人』と存在の根本が異なる。命の脆さを知るクルックスから見て、彼らはあまりにか弱い。それこそ夢のような、儚い存在だ。

 

 だから。

 彼はきょうだいを思った。

 

 彼らは幸いだ。声をかけたのが自分でなければ、不運に出会ったことだろう。

 例えば、テルミがハーマイオニーのような人と出会ったら嬉々として事態を転がすに違いない。

 

 ──貴公らこそ真実の探求者なのね!

 

 そう言って焚きつけるだろう。

 彼女が自ら動くよりも目立たない。

 おだてるだろう。煽るだろう。燃え尽きるまで。

 その先で誰かが失敗しても彼女は痛くないからだ。

 

 クルックスは、彼女のように他人を扱えない。

 扱えなくとも良いと思っている。

 なだめるために告げた。

 

「これは過ぎ去る嵐に見える。待つべきだ」

 

「待てないのよ。だって継承者の敵は『穢れた血』。それってマグル生まれの私みたいな人たちのことよ」

 

「襲われたのは猫だ。人ではない」

 

「ええ、そうね。惜しくも猫で『まだ』人じゃないって言うべきかしら。マルフォイがまったく関係無かったら、どうしてあの場であんなこと言ったのか。説明できる?」

 

「……。物知り顔でいれば、君たちが突っかかってくるからだろう」

 

 苦しい仮定であることは重々承知だ。

 クルックスは、つい視線を逸らした。

 状況だけ考えればマルフォイは、いかにも怪しい。

 しかし。

 

「マルフォイにできると思っているのか? 校長がすぐに治すことのできない魔法を使うなんて」

 

「マルフォイ『が』杖を振らなくたっていいのよ。物でも生き物でも、何だって考えられる。それに何かを知っているハズなのよ。問題の核心に近い何か。強気でいられる何かがあるハズなの」

 

 言葉は想定を並べたものだ。

 だがハーマイオニーにはマルフォイの謎めいた態度を暴くという決心があるようだった。その強い意志は、彼女をいつになく伸び伸びと自由にさせているようにも見える。

 クルックスは首を横に振った。

 

「どのような思惑があるにせよ。探るべきではない。悪意に対して君たちができることは限られている。本当に他者を害そうとする者がいるとして、その時に君は何ができる?」

 

「このままいつ襲われるか心配したくないだけよ。何があったって正当防衛だわ」

 

「ああ、そうだろう。攻撃は最大の防御でもある。襲われる前に襲ってしまえば問題はないだろう。殺せればなおいい。安心して眠れる。けれど、それができないだろう? 君は、君たちは、違う。……俺とは」

 

 ホグワーツへの特急便で伝え損ねた言葉は、いま届いた。

 ジャムが指先についてしまった。

 クルックスは指を舐めた。

 

「その理由を『優しさ』と呼びたい。犯人が誰であろうと望み進んで手を汚すことはない。じき片付くことだ」

 

「……。証拠を見つけて先生に突き出すだけよ。もしマルフォイが犯人ではなかったら、マルフォイの容疑が晴れるだけ」

 

 ハーマイオニーは腕を組んでクルックスを見つめた。

 

「だからあなたに頼みたいの。セラフィ・ナイトにマルフォイのことをコッソリ聞いてもらうように頼めない?」

 

 授業のおりたびたび見せる真剣な顔で、彼女は言った。

 同時にクルックスは気付いた。

 ──これまでの会話の全ては、この『お願い』のための長い前置きだったのだ。

 

「それは……断る。セラフィに密偵はできない」

 

 きっぱりとクルックスは言った。

 セラフィに何か頼み事をすること事態が危ういのだ。

 

 物事を真っ正面から捉えすぎるセラフィは、マルフォイから情報を聞き出す前に物理的に何かを引き出してしまいかねない。二度の誰何に答えなければ弾丸を食らわせようとする過激な教育の結果は、ホグワーツにおいてまったく改まっていないのだ。絡まった糸があれば、銃と剣で寸断して『問題は、最初からなかった』ことにするだろう。

 

「ダメ。……そう、それじゃ別の方法を考えるわ」

 

「深追いするべきではない。昨年の出来事は、何度か幸運に助けられたのではないか? 偶然を過信すべきではない。失敗すれば、敵が何なのか分からないが……きっと無事では済まないだろう」

 

「それは分かっているわよ。だけどマグル生まれの人を脅迫するより悪いことってある? もう片手で数えるくらいしかないと思うわ。それに『人は、そうすべき時にすべきことを成すべきだ』って思わない?」

 

 言うべきと思った言葉はいくつかある。

 それを一瞬にして全て失ったクルックスは、立ち上がったハーマイオニーを見上げていた。

 かつて彼らに投げかけた言葉が、今になって自分に降りかかってくるとは思わなかった。

 

「俺は……力には、なれない」

 

 ようやくそれだけを言った。

 

「そう。ごめんなさい」

 

「……いや、すまない」

 

 クルックスは、スコーンを食べる作業に戻った。

 ハーマイオニーが談話室を去った。ロンと合流したのが視界の端に見えた。

 

「……善意の使い道を、俺も誤ってしまいそうだ。もう誤ったかもな……」

 

 会話は、ハーマイオニーの意志をより強固なものにしてしまったように思う。

 すっかり彼女が去ったあとのことだ。

 

「心配だ。やめたほうがいい」と言えばどうなったのだろうか。

 彼は善意よりも遥かに使い道のない空想をした。

 

(──あぁ、お父様もこんなことを考えたのだろうか)

 

『もし』という仮定を抱え続けるのは、体のどこかが病んでしまいそうだった。

 頭の中からハーマイオニーとの会話を追い出したい。

 クルックスは、ジャムだらけの甘いスコーンを食べ尽くした。

 

 

 

 事態が大きく動き出したのは翌日のことだった。

 盛況な談話室から夜ごと葡萄を一房持ち出したコリン・クリービーが、石になって発見されたという知らせは、ハリーとロン、ハーマイオニーを女子トイレに駆り立てた。




善意の使い道:
 2才ちょっとのクルックスにとって、自分が放った言葉が巡りめぐって返ってくるということは少ない経験です。とても新鮮な経験でもあります。しかし、こんなタイミングで刺されるとは思っていなかったし、刺してほしくもなかったですが、かつて自分が言ったことでもあり納得するしかない言葉です。
 そして、納得してしまったのならば潔く彼女の背中を押すべきですが、それは結局できませんでした。

……しかし、テルミよりはマシな対応をしたハズだ。テルミよりはマシ……うん? 実際には起きなかったことを考えて心慰められた気分になるなんて。俺、最低なのでは?……

 翌日、身に覚えのないことで謝られたテルミは困った。





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見えない敵

『ホグワーツの歴史』
古城が精密に描かれた表紙の本。
読めば、かつて在籍した生徒の軌跡が見える。そして悟るのだ。
己が歴史の端に存在することを。



 第二の犠牲者は、コリン・クリービーだった。

 彼がいまや死人同然の静けさで医務室のベッドに横たわっているという噂は、瞬く間に学校中に広がった。

 猫から始まった奇妙な事件は、ついに生徒にまで魔の手を伸ばしたのだ。

 

 カメラ小僧の名を欲しいままにしたコリンは、クルックスにとって特別な存在だった。

 

「とても残念だ。俺は悲しい。きっと、これが悲しいという感情だ。写真が……俺の写真……皆の写真が……」

 

 クルックスは、写真ができあがるのを楽しみにしていた。

 それは鬱々とした日々に示された一条の光に等しい。

 クリスマスになれば写真を持って狩人の夢に戻り額をこしらえて、父たる狩人と人形ちゃんへの小さなプレゼントにしようと思っていたのだ。

 

 輝かしい計画は本日、頓挫した。

 ──犯人は覚悟の準備をしていて欲しい。

 図書館にて、計画の一部始終を聞いたネフライトが鼻で笑った。

 

「君は私のことを時おり『女々しい』なんて言うが、君だってささやかな幸せを大事にし過ぎる。三六五日ある、たった一日をどうしてそうありがたがるのか。理解に苦しむね」

 

「異教とはいえ祭日だ。開き直って楽しんでもいいだろう。斜に構えた態度で一日を過ごすより楽しいだろうと思うのだが」

 

「君は皮肉を言っているつもりではないらしい……。気に障ることだね」

 

 驚くべきことにネフライトは、祭日を楽しめないことを気に病んでいたらしい。彼は憎々しげに目を細めた。

 

「私は、そういうことが得意ではない」

 

「そういうこと?」

 

「皆で騒ぐというホグワーツの祭日様式だ。彼らは飽食と消費を目的としているように見える。……私はいつもより燭台を綺麗に磨き、蝋燭を一本多く灯せば、それだけで満たされる」

 

「そうか」

 

 ネフライトは、女々しいのではなく繊細すぎるのかもしれない。

『ささやかな幸せを大事にし過ぎる』とは、やはり彼にこそ相応しい言葉に思えた。

 

「メンシス学派にも祭日があるのだろう? 『今日は君が「医療教会上層を焼き討ちしたい」と言ったから、上層焼こう記念日』だったか?」

 

「人員と経費の削減のため却下になった。冗談のような話だが、却下になって本当に良かった。それでも主宰まで『お伺い』が回ったのはダミアーンさんの本気度合いを感じたが……。そんなことより、哀れなコビンだかコビーだかコピーだかという一年生を心配したらどうだ。君は、ほら、連盟員のクセに最も義理人情を重んじる人格であるから」

 

「それは先ほど談話室で済ませてきた」

 

「ああそう。結構なことだ。湿っぽいのは無駄なので嫌いだ。──それで? 私に何か?」

 

「用事がなければ来てはいけないのか?」

 

「テルミのように面倒くさいことを言うのはやめてくれ」

 

 メンシスの檻の中で日刊預言者新聞を眺めているネフライトは、コツコツと指でテーブルを叩いた。

 催促されているのだと分かり、クルックスは用件を切り出した。

 

「俺の四肢をくれてやるので犯人を探して殺す策を練って欲しい」

 

「無理だ」

 

 たいていの物事に二つ返事──これは少々甘い見通しだ──三言程度のやり取りで頷いてくれるネフライトにすげなく断られてしまった。

 思わずテーブルに身を乗り出して新聞に手を突いた。

 

「なぜだ?」

 

「手、邪魔。……君は私が何でもできると思っている誤った認識があるようだ」

 

 実際のところ、ネフライトの知恵はきょうだいのなかで最も頼りになると思っているので頷いた。

 対するネフライトは、悪い気はしないらしく新聞の上にあるクルックスの手をそっとどかした。

 

「理由はいくつかある。まず最大の問題だが私には犯人が分からないし、今後も見当がつく見通しがないからだ」

 

「どうにかならないのか?」

 

「どうにかできるなら、私はここでのんびり新聞を読んでいない」

 

「ごもっともだな。では、どうにかしようという気概はないのか?」

 

「あるから新聞を読んでいる。──今日もそうだ。新聞にはホグワーツの事件について何も書かれていない」

 

 ネフライトは、口の端を曲げるだけの笑みを浮かべ、それからクルックスにも見えるように新聞を広げた。

 ──石化は学校内の出来事であり、騒ぐことではないから記事にならないのではないか。

 クルックスはそう考えていたが、それでは辻褄が合わなくなる事情に気付いた。

 昨年は誰かが石になって授業を長らく欠席する事態は起こらなかった。

 石になった猫や怯える先生方の反応を見れば、今回が特に珍しい事態であることが分かる。

 

「魔法界は概ね平和だ。平和の最中に人が石になるのは、大事ではないのか?」

 

 クルックスは、世間の耳目がどの程度ホグワーツに向けられているか分からない。だが、ホグワーツはイギリスにて唯一の魔法学校と聞いたことがある。次世代を担う少年少女の育成機関で事件があれば、大なり小なりの問題となりそうだとも思った。

 

「平和など戦争の『繋ぎ』に過ぎないとよく分かる時代だ。学校が口止めしているのだろうな」

 

「ダンブルドア校長が? なぜだろう。『犯人が捕まりません』と記事が載るのは惨めかもしれないが、覆せない事実だろう」

 

「そうだな。管理者として報告する義務もありそうだ。……失態隠し以外の理由として考えられるのは『犯人をあぶり出そうとしている』だろうか。これは恐れで混乱する人々を見て楽しんでいる犯人ならば有効、かも、しれない」

 

 ネフライトが語る、犯人像の想定はクルックスが抱いていた不快感を言い当てるものだった。

 

「そうだとしたら──やり口はともかく──心情はナイフをちらつかせる暴徒と大差ない。誰かが仕掛けたことならば、いつか必ずボロを出す。それまで待つべきか。こんなのが『恐れ』など、それこそ恐れ多いことだ」

 

 姿が見えないだけの卑怯者だ。クルックスは吐き捨てた。

 だが、暴こうにも悔しいことに手がかりがない。

 ハーマイオニーに聞いた『マルフォイが怪しい』だけだ。

 それもいかほどが真実に触れているものか分からない。

 考え込んでも分からない。クルックスは新聞をたたみ、肩を落とした。

 

「恐怖。恐怖などと軽々しく言うが……恐怖は、いつも深淵からやってくるものだ。人は、魔法界は、知らないか……ああ、スネイプ先生はご存じかもしれない。あの人は、お父様の貌を見ようとしたからな」

 

「命知らずめ。運が良すぎたな」

 

 ネフライトは不快そうに言った。

 彼は、ビルゲンワースの学徒、コッペリアと同じようにヤーナムの外の人命の価値を低く見積もっているようだった。

 

 不意に父たる狩人の言う『盗人』という言葉を思い出した。

 あのとき。スネイプ先生の何が狩人の気分を損ねたのか。結局、彼は語ろうとしなかった。

 

 けれど狩人が『クルックスの父』という立場から『ヤーナムの狩人』として意識を切り替えるほど『秘密に踏み込まれた』と感じることがあったのだろう。

 

 しかし、ネフライトのこれは狩人とも異なる価値であるように思う。

 価値が低く、関心が無ければ顔を顰めることもしないハズだ。

 

「……ネフは魔法界が嫌いなのだな」

 

「ああ、嫌いだとも。こんな世界。こんな秩序。……私はヤーナムの外は、もっと進んでいると思っていた。無惨なるかな。ここは資源が有限なのに無駄が多い。彼らは魔法族という一個の群体であるという自覚がない。魔法族の存在はいずれ露呈する。次の二百年は保たないだろう。ならば付き合う価値もない。私達が彼らの知恵を平らげて終わりだ」

 

「では、我々が与えるものは?」

 

「耳を疑うことを言うなよ、クルックス。私達は『魔法を学ぶ見返りに神秘を差し出す』など契約をしているワケではない。学校は生徒を教育する場であり、私達は学びにきている。これは他の生徒と変わりない。関係は、これで完結しているのだ。例外はない。……君は多感だな。ただの教授に情を感じているようだ」

 

「そんなことはないが……」

 

「『ないが』何だ? そこは『違う』と言いきって欲しい」

 

「ネフのように冷ややか過ぎるのも考えものだと思っているだけだ。……聞いていれば、まるで敵のように語るじゃないか」

 

「ほう。では発言には気をつけたまえ。私には敵の肩を持つように見える。あぁ、お父様は分かっている。真に忠実な者が誰か、分かっていらっしゃるのだ」

 

「やはり俺だ。白黒つけない俺がちょうどいいのだろう」

 

 ネフライトが『何を言っているんだ、コイツ』という顔をしたのでクルックスは戸惑った。彼がそんな顔をするのは、ビルゲンワースの学徒、コッペリアがクルックスのことを「おぉ、僕の可愛い赤ちゃん!」と言って抱きしめたのを目撃した以来のことだ。つまり、よほどの出来事だった。

 

「ネフは真面目だから『勤勉な忠実』枠とか、狙えるだろう。そう気落ちすることはない。何だ?」

 

「い、いいや、自意識過剰だなぁ、と……まぁ、当人がそう思い込むのはいいことなのだろうなぁ」

 

「発言には気をつけた方がいい。俺を刺したつもりの言葉らしいが、俺には君に刺さっているように見えるぞ」

 

「そんなことはない。まったく。お父様は聖歌隊よりメンシス学派に期待なさっている。そう、テルミより私に。……もし、お父様が魔法界にやってくるならば是非ぐちゃぐちゃに掻き回していただきたいと思う。鍋の底をさらうような雑さで何もかもひっくり返ってしまえばいい」

 

「残念だが、お父様はそんなことはなさらないだろう。ところで互助拝領機構の正体も何やら分かった気がする」

 

 ネフライトが『互助拝領機構』を作ったのは、ヤーナムの外の人々に対する心情的な変化があったからではないか──等とクルックスは希望的楽観を抱いていたが、特にそんなことはなかったようだ。

 すると彼の目的は互助拝領の名称に背く、極めて利己的な機構なのだろう。

 彼らしく、メンシス学派らしいやり口に安心感さえ覚える。

 

「しかしだ、ネフ。魔法界は、そう悪いものでもないと思う。異なる神秘に触れ、大きな代償を払うことなく運用している。虫がいればよいのにと願うほどに『うまく』いっているように見える」

 

「そんなことを言えば、ヤーナムだってお父様が『うまく』やっている。二〇〇年以上、問題らしい問題はなかった。だからこそ、構築した文明の真価が問われるのは異なる社会との競合が起きてからなのだよ。古今東西、自滅するより攻め滅ぼされる民族の方が多い。魔法界の試練はこれから訪れる。第二次エネルギー革命後──燃料のアテが蒸気や化石エネルギーへ変わったあとの話だが──非魔法族の文化発展速度は著しい。進歩はすでに加算ではなく乗算の域だ。文化の発展は加速度的に……ええと、だな……とにかく、非魔法族は、とても技術が進んでいるんだ。もうすぐ労働の場に人間も必要ではなくなるだろう。人口比も大きく違う。魔法があっても優位ではない。『魔法族より、ずっとはやい!』とだけ覚えておくといい」

 

 あまりに間の抜けた顔をしてしまった。

 見かねたネフライトがとても簡単な言葉で言い直してくれた。

 

「解説ありがとう。そうなのか。……難しいことだな。俺には、うーん、よく分からない。でも最終的には、お父様が決めるのだろう。その判断を信じたい。悪いものにはならないだろう。たぶん」

 

「私とてそうするつもりだ。できれば腑分けしたいがね。けれど、ま、まぁ、食文化の発展だけは素直に負けを認めている。ヤーナムの食文化は、そもそも文化として、その、いろいろと問題が……。輸血液の煮凝りなど絶対に知られたくない。……あぁ、話が大幅に逸れてしまった。反省」

 

「事情が分かったのであらためて聞こう。──犯人を探して殺す策を練って欲しいのだが、いつならできる?」

 

 早ければ早いだけいい。

 このまま誰かが石に変わってしまう事件が続くことは、ネフライトも望まないだろう。

 しかし、彼は首を横に振った。

 

「私達の手元にあるのは、不確定な情報ばかりだ。曖昧なことは答えられない。テルミの情報待ちだ。何やら探っているようだからな。……今は、そうだな、せいぜい昔話など読んでおけばいい」

 

「昔話?」

 

「『ホグワーツの歴史』だ。ためになるぞ。今は特にな」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 現在のホグワーツは、ヤーナムと同じ臭いが漂っている。

 すなわち猜疑と鬱屈だ。

 

 とても気に障る。

 校内は、黒布が被せられてしまったように薄暗い。

 不似合いだ。

 

 昨年、ネフライトは「ホグワーツは、ヤーナムによりすこしばかり可愛い疑心と嘲笑が満ちている」と言った。クルックスも肯定する。

 だが、それがホグワーツという学校の在り方であり秩序であるのならば口を出してはいけないのだろう。

 だからこそ、現在の事態は看過しがたい。

 昨年は起きなかった事態が起きている。

 ホグワーツの外から持ち込まれた『何か』が悪い作用を起こしている。クルックスはそう判断した。

 学び舎の秩序が乱されるのは、健全な状況とは言い難い。

 放課後の廊下に人気は少ない。最近は廊下を独りで歩くことが珍しいと思われるようになった。

 コリン・クリービーが倒れた後は、特にそれが顕著になった。

 ネフライトから貸与された本を抱え、クルックスは誰よりも遠回りをしてグリフィンドール寮に戻る帰路にあった。

 

「ホグワーツの歴史。つまりは神秘の歴史である。……神秘。神秘か……」

 

 ──なぜ人は神秘に惹かれるのだろうか。たいていの場合、碌でもない事態ばかり引き起こすというのに。

 こんなことを思ってしまうのは何度か死を積み上げた今だから至る心境なのか、それとも元来の性質により啓けた思考なのか、クルックスには我が事ながら判断できなかった。ヤーナムを出て魔法界に触れるまで考えたことがなかったからだ。

 

 ──四人の創始者により、ホグワーツは作られた。

 ──うち一人、サラザール・スリザリンは魔法教育の在り方について他の三人と意見が大きく異なり、やがて袂を分かつ事態が起きた。

 ──だが、秘密を残した。

 ──学校のどこかにある『秘密の部屋』には、スリザリンの遺した怪物が眠り、継承者が現れたとき学校にそぐわないものを永遠に追放するという。

 

 なるほど。ネフライトの助言は役に立つ。

 姿の見えない何かに警戒し続けるより、正体不明の『怪物』という存在が念頭にあれば心持ちが違う。無論、それが気休めだとは知っていたが手がかりもほとんどないため、伝承の精査から始めるのも悪くないように思えた。──それしか思いつかない、という事情もあった。

 

「怪物? 怪物か。ふむ……? 既存の何かでは例えるモノがない概念だ。長生きだな。ひとり? ひとつ? 単体から増えることができるのだろうか。それとも同一の個体が生きていて……? これまで誰にも感知されずに……? ふむふむ……? ……分からん」

 

 今度は生き物の図鑑を見てみる必要がありそうだ。

 そういえばテルミが話していた『幻の動物とその生息地』は、タイトルだけで面白そうな本だった。

 今後読む本のリストに加えておこう。

 

「……分からないことばかりだ」

 

 知ることは多くある。

 クルックスは、なんとなく足を止めて窓の外を見た。

 どこまでも続くと錯覚してしまう森の向こう、太陽の沈む地平線が見えた。

 ハロウィーンも終わり、冬の足音が聞こえてくるようだ。曇りがちで寒い日が多くなった。

 夜がやってくる。

 

「…………」

 

 脳裏に刻んだ『淀み』のカレル文字は、ピクリとも反応しない。

 どこにも虫の気配はしない。虫は、人の淀みの根源がその形で表出する物であるから、怪物が人ではないのならばカレル文字による察知はできないだろう。

 

「でたとこ勝負だ。……分が悪い」

 

 最近、純粋な力負けをしたのは記憶に新しい。

 思い出深い夜に一時敵となった教会の暗殺者のことを思う。どこからどうやって現れるか判然としない彼であっても攻撃時には視認ができるようになった。

 

(そうだ。俺は敵が見えず、さっぱり分からないという状態に陥ったことがなかったのだな)

 

 狩人の自分が狩るのは常に獣であり、踏みつぶすのは虫だ。

 考え方を変えれば、今回の出来事は目に見えない脅威に対する対応について学べる事例になる。──石にならなければの話だが。

 

 

 




月の狩人にバジリスクの呪いは通用するか問題:
もし、石にされた状態が死でなければ『石になった』状態で固定化されてしまい、夢に還ることができなくなってしまう。石を砕けば死ぬのだろうか。仮定に意味はあったが、確認は博打だ。(『善意の使い道』よりクルックス)

 本作において、魔法と神秘は「よく似ている別種のもの」として取り扱っています。とはいえ、使い手(魔法使い)の互換性はある様子。
 そんな中、深い闇の魔法である『バジリスクの直視』はどのような判定になるのかといえば、月の香りの狩人であっても死んでしまいます。
 ヤーナムの狩人が取り得る対抗策として『青い秘薬』で認知され難くする方法が挙げられます。根本的に直視(死)を免れる方法は、ヤーナム神秘は広し深しですがありません。ご存じBloodborneには『デモンズソウル』における奇跡「一度きりの復活(死んでも一回だけ、体力50%回復した状態で復活できる)」やSEKIROのような「回生(死んでも約一回だけ体力が多少ある状態で復活できる)」もないので狩人達は「ハイ死にました。夢にしました。いざ、再走!」となります。
 避けられずとも撃退する手段として青いガラスを被覆した工芸の盾である『湖の盾』で、アーサー王伝説でキャスパリーグを倒した逸話に則り、バジリスクの視線を跳ね返すというワンチャンの可能性を探る価値はあるかもしれません。ダミアーンさんを酷使しなければなりませんね。(『湖の盾』はDLCで追加された装備であり、同時に追加された協力NPC『メンシスのダミアーン』の左手主装備であるため)
 ところで。
 カレル文字のなかでは、神秘の湖(ゲーム中、神秘ダメージカット5~10%)があります。
 もし、これがダメカ100%のものがあれば(魔法という名の)神秘を防ぐ効果が期待できたのですが──そんなぶっ壊れカレルがあったら秘技が諸々死んでしまうのでダメですね!
 一方で、石化による長期の身体拘束は狩人の意志にかかわらず、彼らを夢に引き戻します。高所から落下した場合と同様、落下して明確に死亡する前に『落下は夢だった』となるように。
 心の中に存在する狩人の象徴は、決して消えないものです。
 ただ狩人であるために。

 さて。
 たとえバジリスクの存在を知ったとして、月の香りの狩人のなかにクルックスが怯えるような感情は生じないでしょう。

──目を合わせなければ大丈夫なんて魔法界の怪物は良心的だなぁ!(ヤーナム在住の上位者)


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決闘クラブの変

決闘
勝敗を決する戦いのこと。
特にも格式ある戦いのことを指す。
現在では生命の危険が伴うため、儀式的に行われる。
彼らは定められた儀礼により、杖を握り、杖を構え、杖を操るのだ。
よって私的に行う場合、誇りと覚悟を懸けた争いになるは必然であろう。
天秤はどちらに傾くか。
3つ数えれば、わかることだ。



 十二月になった。

 まったく手がかりなしで二ヶ月経ったことになる。

 猫とコリン・クリービー以外の犠牲者は出ていない。

 だが、誰もが嵐の前の静けさというべき不穏を感じているようだ。

 その間、唯一、クルックスが面白いと思ったのはいかがわしい魔除けや護身用品が出回ったことだった。

 

「それ、よく見せてくれないか?」

 

 生徒の間で出回っているのは、神秘の欠片も感じさせないガラクタだ。

 なぜ「神秘が感じられないか分かるのか」と問われたのなら「生徒でさえ取り扱える程度の代物だから」と答えることができる。これにはクルックスも失笑もやむを得ない。神秘の専門家であるテルミやネフライトであれば──状況が許すのであれば──腹を抱えて笑うだろう。

 さて。

 この手の類いは、ヤーナムにもある。

 狩人の体験として、獣に対し多少の効果があると認められる物は真実、獣除けの香と火だけだ。

 

「これは……何だ」

 

「魔除けだよ。燻して使うんだ。すると危険なものを遠ざける」

 

 五年生のレイブンクローの生徒が得意げに『魔除け』と呼んだ黒く細い塊を木箱から取り出して見せた。

 

「どうしよう。買った方がいいかな?」

 

 買おうか迷っているネビルの手にある魔除けを見て、クルックスは鼻を鳴らした。

 

「イモリの尻尾。干物のようだが乾燥不十分で腐りかけている。非常食にはなる。しかし、俺ならば木の皮を食べるがね」

 

 クルックスは、ネビルの肩を軽く叩いた。

 彼は「ごめん、やっぱり要らないです」とレイブンクローの生徒にイモリの尻尾を突き返した。

 

「何だ、ククク、買わなかったのか?」

 

「よく見れば、ただのイモリの尻尾だからね……。分かっていたんだけどね……。うん……」

 

「君は賢く、そして幸運だ。あんなもの金の無駄遣いだ。談話室に閉じこもっている方が効果的だと思うぞ。それにロングボトムは純血なのだろう。襲われることはないだろう、と皆言っている」

 

 真偽不明、ほとんど偽物であろう物品の売り買いが行われているのは、夕食後の大広間だった。

 なぜ秘められるべき闇売買が盛んに行われているかといえば、これから第一回の『決闘クラブ』が開催されるからである。

 すでに食事用の長テーブルは取り払われ、金色の舞台が接地されている。

 ざわめきの中から声が聞こえた。

 

「まったく人混みは本当に参る……」

 

 聞き慣れた声に振り返れば、ネフライトがやって来た。

 

「ネフも来たのか」

 

「互助拝領機構の参考になるかもしれないからな」

 

 メンシスの檻の代わりに眼鏡をかけたネフライトは、雑踏のなか誰かに足を踏まれて顔を顰めた。

 クルックスの隣でネビルが「檻の人だ……」と呟いた。

 

「ネフ。こちら、ネビル・ロングボトムだ。グリフィンドールのなかでも指折りに真面目な人なのだ」

 

「知っている。努力が、やや空回りしているように見える」

 

 紹介を受けたネビルが「や、やあ」と片手を挙げて挨拶した。

 それに応え、ネフライトが折り目正しく医療教会式の挨拶をした。──こういう仕草に彼は使用人らしさが垣間見える。

 

「初めまして。私はネフライト・メンシス。彼、クルックス・ハントの遠い親戚だ。彼は世間知らずだから、迷惑をかけていないだろうか?」

 

「あ、あまり……」

 

「俺はまともに生活しているぞ」

 

「まともね。あるいは、なんとくだらないことか。彼らの唯一頷ける言葉だ。……おかしな行動をしていたら遠慮なく声をかけてやってくれ」

 

 ネビルは曖昧に頷いた。

 ネフライトはクルックスの隣に立った。彼は一人で来たようだ。

 

「誰が教えるのだろうな?」

 

「フリットウィック先生だろう。凄腕のチャーム・マスターらしい」

 

「ほう。それは、楽しみ。楽しみ……だったのだが……」

 

 黄金の舞台上に登ってきたのは、小柄なフリットウィック先生ではなかった。

 

「やあ、皆さん! こんばんは!」

 

 輝く歯のギルデロイ・ロックハートが現れた。

 ネフライトが、クルックスの陰に隠れた。

 彼がしっかりと「死んでくれ」と言うのが聞こえた。

 

「……クルックス、あの男を引きずり下ろしていいぞ」

 

「俺は物事の理非を重要視する。無茶を言うな」

 

「使えん」

 

「道具と俺は使い場所を選んでくれ。たいていの頼み事ならば検討するのだから。……そうやって露骨に嫌な顔をするからテルミにからかわれるのだ」

 

「連盟員にあるまじき正論。ぐうの音も出ない」

 

 ネフライトは黴の生えそうな失言を繰り返しているが、周りの反応は女子生徒を中心にキャアキャアと盛り上がっている。

 憧れの流行作家が、生徒に与える影響は大きい。彼女たちは、彼の授業を受けただろうにガッカリしていない。これには信仰を感じさせた。隣で渋い顔をするネフライトに言えば「一緒にするな」と怒るだろうか。

 彼に続き壇上に上がったのは、なんとセブルス・スネイプだった。

 

「んふっ」

 

 クルックスはこらえきれず笑った。顔色こそ変えなかったが、思いがけず声が出てしまった。隣でネフライトが脇腹を小突く。けれど、彼も口の端が怪しげに震えていた。

 ロックハート曰くスネイプは「模範演技のため勇敢にも名乗りを上げた」らしい。

 けれどスネイプが自ら名乗りを上げるとは思えない。「決闘ごっこなど勝手にやっていろ」と突き放しそうである。……ということは、彼は教授陣のなかで貧乏くじを引いたのだろう。

 ひょっとして、ヤーナムに来たのも同じような理由ではないだろうか。

 クルックスは一考の余地がある思考に思えた。

 

 彼らが行った模範演技は、見応えがあった。

 ロックハートがスネイプの武装解除の呪文を受けて壁に激突する瞬間は、特にも興味深いものだった。

 

「本来、杖を飛ばす呪文のはずだが」

 

「手元が狂わざるをえなかったのだろうな」

 

「痛そう……」

 

 隣で再び「やれ、トドメをさせ」と声援を送るネフライトの脇腹を小突き返す。

 模範演技が終了し先生が生徒を二人一組にした。それをみて自主的に固まる二人組もあった。

 スネイプが自寮の生徒をグリフィンドールの生徒と組にする指示を飛ばしている。セラフィがハーマイオニーと組んだのが遠目で見えた。

 

「俺達もやってみようか。では、ネビ──」

 

「すまないが、彼を借りるぞ」

 

 提案はネフライトの方が早かった。

 うむを言わせない強さでクルックスの腕を掴み、大広間の隅まで引きずっていった。

 

「何のために君に話しかけに言ったと思っているんだ?」

 

「俺達の会話に理由がいるのか?」

 

「質問を質問で返すなよ。学派内で人権を無くすぞ。気をつけろ。……そうではなくて……私は友人がいないのだ。本当に気をつけてくれ」

 

「おお、ネフでも『二人一組になれ』という指示に心痛める時があるのだな」

 

「ハア? この私が、メンシスの徒である私が、そんなことを気にすると思っているのか? 武装解除を受けて咄嗟にナイフを投げる誰かさんがいたら困るのだ」

 

「あぅ。ネフは視界が広くて助かる……」

 

 狩人の悲しい性質だ。

 咄嗟に体が動かないとは口が裂けても言えない。

 

「では、私から呪文を撃つからな」

 

「決闘はしないのか?」

 

「この活動の主旨は、勝敗を決めることではなく、武装解除呪文を学ぶことだと私が定めた。よって決闘のことは忘れてくれ」

 

「しかし、礼儀は必要だろう」

 

 クルックスは体の前で左腕を抱える、狩人の礼をした。それに応じてネフライトも体の前で両手を揃える教会式の礼をした。

 

「では、私が見本を見せる。杖を構えたまえ」

 

「ちなみにあの呪文を使ったことは?」

 

「無い。……エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 肌がピリピリと敵意を感じ、咄嗟にステップして回避した。呪文はクルックスの後方に立っていた誰かに当たり、杖があらぬ方向へ飛んでいった。

 その行方を確認していたクルックスは、途端に振り向くのが億劫になった。 

 

「避けるなっ。な、な、なあ、君? 私の話は聞いていたか? これは訓練だぞ? これは訓練だぞ? 何度も言うが、訓練だからな?」

 

「…………」

 

 獣に立ち向かうより勇気が必要だった。

 振り返るとネフライトはあきれた顔をして腕組みをしていた。

 

「『ナイフ投げなかったからいいじゃないか』って言いたいのか? バレバレだからな」

 

 クルックスは、降参を示して両手を挙げた。

 

「うーん、すまない。つい。もう一回、やってくれ」

 

「よろしい。謝れるだけテルミより上等だ。──エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 呪文は成功した。杖は生きた魚のように手から飛びだしていった。

 

「ほう。不思議な感覚だ。すっぽ抜けた感じ」

 

「では、次はクルックス。──この乱闘だ。誰でもいいぞ。やれ」

 

 ネフライトが軽く手を開いて雑踏を指した。

 

「それはいけないだろう。えーと。エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

「おっ……と」

 

 杖は、弾かれるようにネフライトの手から離れた。

 

「ふむ。たしかに不思議な感覚。面白い……」

 

「面白いな。ではナイフではどうだ? 打ってみてくれ」

 

 ローブの袖からナイフを取り出し、くるりと回して見せる。ネフライトは辺りを見回した。

 

「今はしまってくれ。飛んでいったナイフが誰に刺さるかまで計算したくない。……君、そんな顔をするくらいならば、立ち止まって五秒考えてから口を開いてくれ」

 

 ナイフを納めたクルックスは、杖を撫でた。

 

「すまない。つい楽しくなってしまった。……このところ、体を動かす機会が少なかったからな……」

 

 あと何度か練習をしようかとネフライトが提案したところ、ロックハートが終了の号令をかけた。

 周囲を見渡せば、武装解除に成功した組は少ないようだ。呪文の効果が弱く片方をよろめかせるだけだったり、杖どころか体ごと飛ばしている組もいる。

 ネビルは、ハッフルパフのジャスティンと組んでいたが白熱した決闘だったらしく二人とも肩で息をしている。

 最も悲惨だったのはロンと同じグリフィンドールのシェーマスの組だった。薄煙が晴れた後、紙のように真っ白になった顔のシェーマスが横たわっていた。

 

「折れた杖とは、危ないのだな。参考になる。シェーマス・フィネガンは死んで……は、いないようだ。興味深い症例!」

 

『ロンの杖が折れている』とはグリフィンドール生にはよく知られたことだったが、ネフライトはたった今気付いたようだ。

 ネフライトが熱心に頷き、シェーマスの現状確認にキビキビとした動きで歩いて行った。

 

「顔面蒼白に冷や汗。意識はあるようだ。ショック状態に見える。立てるか? 立てないな。よろしい。これより医務室に運ぶ。そこのグリフィンドール生、ディーン・トーマス! 手を貸せ、医療者の言葉は命令だ! さっさと手を動かしたまえよ!」

 

 ネフライトは活き活きして指示を出し、ディーンと共にシェーマスを運び出して行った。

 

(さすが、学派付き使用人。手際が良い)

 

 大きな咳払いが聞こえた。

 

「さて。……非友好的な術の防ぎ方をお教えするほうがいいようですね」

 

「おっしゃるとおり! さて、誰か進んでモデルになる組はありますか? ロングボトムとフィンチ=フレッチリー、どうですか?」

 

「ロングボトムは簡単極まりない呪文でさえ惨事を引き起こす。フィンチ=フレッチリーの残骸をマッチ箱に入れて医務室に運び込むのがオチでしょうな」

 

 ネビルが恥ずかしさのあまり顔をピンク色にしてうつむいた。

 

「ああ、それはマズイ!」

 

 ネビルはさらに顔を赤くして肩を落とした。クルックスは「気にするなよ」と彼の背を軽く叩いた。

 

「──マルフォイとポッターはどうかね?」

 

「奇遇ですね! 私もそう提案しようと思っていた! 二人とも、さあ、壇上へ!」

 

 指名を受けて手招きされたハリーがロックハートと話している。その最中、ロックハートは杖を取り落とした。取り繕うような笑みを浮かべ、彼は杖を拾い上げた。ハリーは終始不安な顔のままだった。

 

「……どっちが勝つと思う?」

 

 ヒヤヒヤして見守っているネビルがこっそり聞いてきた。

 

「マルフォイだろう」

 

 ちらりとマルフォイを見る。

 彼はスネイプと何やら話している。そのうちマルフォイはニヤリと笑った。策があるのだろう。

 

「……ポッターは、争いごとには不向きな性質に見える。それに正直すぎるというか……ふむ……」

 

 分析し終える前に開始の号令がかかり、二人は礼の姿勢を取った。

 そして。合図の前にマルフォイが素早く杖を上げた。

 

サーペンソーティア! 蛇出でよ!

 

 杖先から生まれ出たのは長い黒蛇だった。

 それはマルフォイとハリーの間にドサッと落ちた。

 蛇は鎌首を持ち上げ、周囲を威嚇した。観衆から悲鳴があがった。スリザリンとクルックスだけは「おぉ!」と歓声を上げた。

 

「面白い! しかし、一匹だけか? あれが普通? そうなのか……」

 

 ロックハートが何事かを叫んだ。

 蛇に向かって杖を振り回すとバーンと大きな音がして蛇が飛び上がり、床に叩きつけられた。

 怒り狂った蛇が、偶然壇上の近くで見ていたジャスティン・フィンチ=フレッチリーに向かう。

 クルックスは、しまい込んだナイフの柄を握った。

 狩人ならば常に先手を取るべきだが、蛇の俊敏さを侮ってはいけない。特に興奮状態の生き物は、何が次の行動のきっかけになるか分からない。

 すり足で動き、ネビルの隣からジャスティンの後方へゆっくり動いた。蛇が飛びかかった瞬間、ジャスティンのローブを引いて一撃から退ける。それから対峙すればいい。

 

 しかし、クルックスが対応する事態は起きなかった。

 

 空気が漏れるシューシューという音が聞こえた。蛇の数を見間違えたか、見逃したのか。クルックスが、思わず壇上を見上げるとハリーが蛇に向かい何かを話していた。すると不思議なことに蛇が攻撃態勢を解いた。

 ホッとしたようにハリーが肩の力を抜いて、ジャスティンへ笑いかけた。

 

「いったい、何を悪ふざけしているんだ!?」

 

 誰も声をかける間もなくジャスティンは、ほとんど真後ろにいたクルックスにぶつかりながら怒って大広間から出て行った。

 

(何か異常なことが起きてしまったらしい)

 

 クルックスがそのように認識できたのは、ロンとハーマイオニーが青い顔をしてハリーを引っ張って大広間から去って行った後のざわめきを聞いたからだ。

 

「聞いた?」

 

「聞いた」

 

「パーセルマウスでパーセルタングだ」

 

「なに? なに?」

 

「蛇舌で蛇語だよ」

 

「じゃあスリザリンの?」

 

「ああ、継承者だ」

 

「なら」

 

「やっぱりそうだ」

 

「ハリー・ポッターが」

 

 その先の言葉は、クルックスに聞こえなかった。

 ロックハートの場違いに明るい声と解散のため出口に向かう雑踏の音に紛れてしまったからだ。

 しかし、先の言葉は容易く想像ができた。

 

 ──スリザリンの継承者はハリー・ポッター。

 ──すなわち一連の事件を引き起こしている、犯人なのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ハリー・ポッターがスリザリンの継承者である。

 たった一晩で。

 この認識は、覆しようのない事実の顔をして学校中を席巻した。

 

(そんなワケがない)

 

 クルックスは、そう思っている。

 ハリーと授業のスケジュールが同じであるグリフィンドールの生徒は「彼にそんな暇はない」と断言できる。

 しかし、石化を起こす原因が自立する物であったり、生き物であれば彼がどこで何をしていようが関係がない。弁護しようにもこれでは片手落ちのありさまである。

 ハリーが犯人であるとして捕まっていない理由は、無罪である理由と同じだ。

 そして第一発見者でありながら、罰せられていない理由とも重なる。

 

 実行者である証拠が無いからだ。

 

 そして。

 状況はハリーに不利だ。

 

 決闘クラブの翌日。

 ジャスティン・フィンチ=フレッチリーと『ほとんど首無しニック』が石になって発見された。

 第一発見者は、またしても、ハリー・ポッターだった。




決闘クラブ:
 魔法界において決闘はどのような位置づけになっているのか。
 記述があまり見つからなかったので『儀式的』という曖昧な位置づけにしてみました。決闘を挑んで云々という描写が特になかったあたり、何か誇りを傷つけられる出来事があれば、魔法使いの皆さんは法に訴えるということなのでしょう。法治がなってますね!


バジリスク発覚RTA:
 秘密の部屋の怪物は、皆さまご存じのバジリスク。
 正体に気付いたハーマイオニーがどのような思考でその正体を導き出したのか思い出してみます。

 ハリーにしか聞こえない声→ハリーは蛇の声が聞こえる(話せる)→正体は蛇→蛇の怪物→(目に関わるもの?)→バジリスク!

 恐らく、このような思考過程を経たものだと推察されます。
 この場合、移動手段のパイプや被害者の状態(石化または死)は『バジリスクである』推測を後押しするであり『バジリスクだと分かること』自体には不可欠な要素ではないと思われます。
 よって、ハリーがパーセルタングだと分かった現在のタイミングでバジリスク発覚RTA的にはタイムストップが可能ですが、残念ながら発見力が足りている人は先生及び生徒にはいなかったため、この時点で気付く人はいませんでした。
「ネッフは退室しなければ気付けた?」
 これは『気付けなかった』が結論となります。発見に必要な「ハリーは2年生になってから幻聴(バジリスクの声)を聞いている」という情報は、ハーマイオニーとロンしか知らないためです。
 パーセルタング→バジリスクの発想ができる人は、サラザール・スリザリン現役世代ならばできる発想(アイツならやりかねない的な発想方面から可能)かもしれませんが、現代では発想が飛躍しすぎて学派内で人権を失うぞ。気を付けろ。そして、彼は『あること』が原因で滅多なことでは発見には至れない状況にあります。
魔法使いとは、他人の知恵を拝領する慎ましさもないクセに自分だけが賢いと思っている節がある。
彼らと同類と思われることはネフライトにとって耐えがたい屈辱だった。──(『没交渉の日々』よりネフライト)


 ところでネフライトの描写には、しばしば目の色(緑)と絡めて嫉妬の言葉が出てきます。
 劣っていると認めた瞬間に頭の中がその克服でいっぱいになってしまう彼は、優れていると思い込むことで出来る限り思考資源(リソース)を他に割り振っています。もし、ヤーナム外の人に『輸血液の煮凝り』など知られた日には檻が血に染まることでしょう。
 クルックスがたまに言う、ヤーナム外への羨望(「虫がいればいいのに」)どころではなく、「まずヤーナムが優れていることは周知の大前提なワケだが──」という自己暗示の認識からスタートしがちです。そのため「お前達のヤーナムって醜くないか?」など言われた日には、セルフ発狂します。



 ご感想いただきありがとうございます。
 鋭いご指摘にドキドキしながら日々の活力にさせていただいております。
 全て拝見させていただいておりますが、一部でご返信が遅れており、申し訳ないです。ひとまず直近数日のご感想について返信いたしました。
 今後ともお気軽にご感想いただければ幸いです!
(ジェスチャー 交信)


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クリスマス紀行

連盟
狩りの夜に蠢く汚物すべてを、根絶やしにするための協約。
名を連ねた者は脳裏に『淀み』の誓約カレルを刻む。
動かない風車の廃屋。そこが連盟の集会場である。

……同士よ、夜が来る。……
……耳を澄ませ! 目を剥け! 武器を握るのだ!……
……連盟の狩りは何も終わっていないのだから!……



 クリスマス休暇は、ほとんどの生徒がホグワーツを離れ、自宅で過ごすことを選択した。

 

『ほとんど首なしニック』とジャスティン・フィンチ=フレッチリーの一件が生徒に与えた影響は強いものだった。

 生きている人間を石にすることは、これまでと同じだ。しかし、今回は死んだはずのゴーストまでも石にしてしまった。これでは生きていても死んでいても危険である。そう感じてヒステリーやパニックを起こしてしまう生徒もいた。特に一年生の怯え具合は、隣で咳をしただけでも飛び上がりかねないものだった。

 

 そのため今年のクリスマス休暇の間、学校に生徒がほとんどいない現状は、当然の帰結だった。

 

 クリスマスの日。

 起床するとベッドの隣に小さく軽い木箱が置いてあった。

 顔をこすって身を起こすとクリスマス・カード代わりの手記が広がった。

 

『人形ちゃんが作った花の栞だ。ありがたく拝領したまえ!』

 

 手記と共に浮かんだ白霧の幻影が人形と父たる狩人を形作った。狩人が栞を手で包んだ姿が見える。その手つきは壊れ物を取り扱う慎重さだ。

 

(嬉しそうだな……)

 

 大切に使うようにしよう。ベッドサイドに置いた。

 足下に視線を移すと小包があった。両隣のベッドの主は、それぞれ実家に戻っているため、消去法でこれは自分の物だと判断した。

 包みを開くとチョコレートの特選集だった。クリスマス・カードも付いている。テルミからだった。

 

『祭日ですもの! ちょっぴりでもお楽しみは必要ですから、お茶会を催しますわ。開催の日取りはセラフィにお任せします。クルックスとネフにも手伝ってもらうことがあります。皆さま鐘の音に、ご注意してくださいね!』

 

 テルミからお茶会のお誘いだった。

 夏休み中、ビルゲンワースでは学徒やクィレルを招き何度かお茶会が行われた。

 クルックスは宿題に追われてお茶会どころではなかったがクリスマス休暇中ならば、赴くこともできる。

 今回は、ただのお茶会ではないだろうことも予想できる。テルミは学校中の噂を精査している。その結果も聞くことが出来るはずだ。

 異邦の狩人服に着替えて寝室を出るとハーマイオニーと出会った。

 

「むっ。ここで何を? この先、男子寮だぞ」

 

「そ、そうなんだけど、二人が寝坊しているんじゃないかって心配で……」

 

「……。そう。面倒見が良いのだな」

 

 二人は通り過ぎる。

 クルックスは談話室に降りかけた足を止め、閉じたばかりの扉にぴたりと耳を寄せた。

 

 ──一時間も前から起きて、煎じ薬にクサカゲロウを加えていたの。完成よ。

 ──ほんと?

 ──やるなら、今夜ね。

 

 扉からそっと体を離した。

 階段を降りると昨年のクリスマスプレゼントであるマフラーを首に巻き、暖炉のそばで身を温めた。

 彼らが何を企むにしても、その間に自分がいてはいけない。クルックスは漠然とした考えの理由を探していた。何度か考えるうちに父たる狩人の姿がチラついた。──善意がトドメになることもあるのだ。

 

(……口を挟むまい。だが……ほんのすこし。彼らの知らないところならば……)

 

 今夜の予定を立てる。

 暖炉の中で火花が大きな音を立てて爆ぜた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 朝食の時間になると大広間に向かった。

 ヒイラギとヤドリギの小枝が天井を縫うように飾られ、魔法の乾いた雪が降りしきっていた。

 

「面白いな……」

 

 手の平で温度のない雪を観察しているとネフライトがやって来た。

 彼はいつも片方の頬を上げる歪な笑い方をするが、今日は特に、その角度がキツいように見える。

 

「おはよう、クルックス。今日は異教の祭日だったな。ところでこの雪、温度がなければ埃のように見えないか?」

 

「情緒のないことを言うものではない。ぶち壊しだ。それが狙いだろうが。しかし今日は……生誕を祝う祭日だ。ちょっと浮かれてみたらどうだ?」

 

「これでも浮かれている。クリスマス・カードを見たか? テルミのお茶会が、私は楽しみで仕方がない。四ヶ月の聞き込み成果。さぞ核心的な報告が聞けるのだろうね」

 

 言外に「できるワケがないだろうが」と響きを滲ませて彼は一足先にひとつしかない寮のテーブルに着いた。

 座ろうと歩きかけたところ、次はセラフィがやって来た。

 

「おはよう、クルックス」

 

「ああ、おはよ──なぜ血生臭いんだ?」

 

 クルックスは、声をひそめた。

 荒事に慣れた人でなければ気付かない程度にだったが、今朝のセラフィには血の匂いが漂っている。

 セラフィは首をしきりに気にしていた。

 ボタンで留められた高襟の隙間から包帯が見えた。

 

「んん。なんと。連盟員は鼻が利きすぎる。シャワーを浴びてきたのだが……」

 

「食事が始まってしまえば、誰にも分からないことだろう。気にするほどではないが、ひょっとして、怪物と戦っ──!」

 

「いえ、僕の先達なのだが」

 

 まだ日も出ぬ早朝。

 夢を通ってヤーナムのカインハーストへ行ったことをぽそぽそと語る彼女は「大したことではない」と言った。

 

「祭日の挨拶に行ったら虫の居所が悪かったようでね。朝に弱い鴉羽の騎士様には、よくあることだが」

 

「よくあるのか」

 

「血筋ゆえの血質の高さとは、貴い御方を悩ませるもののようだ。……多血の病だ。お労しいことだよ。本当に」

 

 セラフィは目を伏せる。

 それからテーブルの席に座った。

 間もなくドラコ・マルフォイや腰巾着とも言うべきクラッブ、ゴイルの二人がやって来た。

 マルフォイと目が合ったので狩人の礼をした。

 

「おはよう。今日は祭日だ。……めでたい日なのだろう。学校に残る生徒も少ない。寮間の諍いのことは考えたくないものだな」

 

 肩をそびやかして歩いてきたマルフォイは、なぜか面食らった顔をした。

 

「僕から問題にしたことはないぞ」

 

「では、今日もそのようにありたいものだ」

 

 クルックスは、ネフライトの隣に座った。

 彼は分厚い本を読んでいた。

 題名は『近代防衛術の手ほどき』とある。

 

「互助拝領機構は、実践も取り扱うのか?」

 

「ああ。私は、闇の魔術に対する防衛術に幻滅している。……対抗手段というものは、覚えておいて損はない。そうだ。休暇中は暇だな?」

 

「君ほど忙しく過ごしていない」

 

「よろしい。いろいろと付き合ってもらう」

 

 断定されてしまったのでクルックスの休暇の過ごし方は決まった。

 

(まぁ、いいか)

 

 クルックスは知っている。

 ちょうど大広間に入ってきたグリフィンドール三人組をちらりと見た。

 ハリー達は、マルフォイへ聞き込みをするために女子トイレに忙しく通っているようだ。

 

(俺とネフが空き教室にいることで彼らが動きやすくなるだろうか。……俺もこれからヤーナムに行かなければならないし、今年こそは七面鳥を十羽くらい食べたいから)

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 クルックスがヤーナムで果たしたい用事とは、連盟の使命に関わることだ。

 

 かつてヤーナムの外から来た連盟の長であれば、ヤーナムの外に虫が見えない理由について知っているのではないか。

 

 昨年、ピクリともしなかった『淀み』のカレル文字。

 クルックスには、分からない。

 ヤーナムの外には虫がいないから反応しないのか、それともいまだ虫を宿らせた者に会っていないから見えないだけなのか。

 これらの疑問は、時間が解決する問題だとクルックスは思っている。

 だが、待てない。待ちたくなかった。

 ヤーナムが汚れていることを認めたくないのだ。

 

 さび付いた鉄扉を開けた。

 植物に絡みつかれた風車小屋が、連盟の集合場所だ。

 

「…………」

 

 埃っぽい。

 湿り気を帯びた空気を肺一杯に吸い込んだ。

 

「…………」

 

 連盟の長はいない。

 しかし、いつもならばそろそろ姿を現す頃だ。

 風車の主伝導歯車を納める台座に座って待つことにした。しかし、ふと視線を感じて部屋の隅を見た。

 そこには腑分けの面を被った男が座っていた。

 

「うぐ。わあぁっ! マダラスの弟、さん……!」

 

 連盟員であるマダラスの弟が、連盟の集会所である風車小屋にいることはまったくおかしなことではないが、まったく気付かなかった。自分の浮かれ具合を反省しつつ、挨拶を試みた。

 

「お久しぶりです、同士。クルックスです」

 

 彼は無言で目を逸らした。会話が成立しないのは、いつものことだ。

 嘘か本当か分からない話だが。彼は兄と共に蛇と育ち、やがてその蛇と兄を殺したのだという。

 その理由は定かではない。長ならば、知っているだろう。けれどやみくもに踏み込みたい事情でもない。クルックスが興味を惹かれたことはなかった。

 

 しばらく鉄扉が開く瞬間を心待ちにしていると音は意外な方向から聞こえた。

 

「む……!?」

 

 後方から昇降機の音が聞こえた。

 集合場所である風車小屋の奥には、崖下に繋がる昇降機がある。

 だが、それを使う人は限られている。

 連盟では父たる狩人しか使っているところを見たことがない。

 その先には、旧主の墓碑と呼ばれる巨石。

 そして人々が近付かない学舎ビルゲンワースしかないからだ。そして今日。狩人の夢にいる人形から「狩人はビルゲンワースにいる」と聞いている。

 

(連盟の隠れ家に侵入か。いい度胸だ)

 

 クルックスは、獣狩りの斧と銃を構えて侵入者を待ち受けた。

 現れたのは、いかにも怪しげな風体の男だ。

 バケツを逆さに被ったようなシルエットが見えた時点でクルックスは武器を下げた。

 

「長──!? あ、貴方が、あの昇降機を使っているのを初めて見ました」

 

「普通に使うぞ。散歩にはちょうどいい」

 

 悠々と歩いて来た怪人こそクルックスの敬愛してやまない連盟の長、ヴァルトールだ。

 だが、思いがけない場所からの登場に彼は戸惑った。

 昇降機の先にあるものを知っているからこそ、戸惑いは大きい。

 

「うーん。連盟員も豚が嫌いじゃないといけないのかな……」

 

 喉で低く笑いつつ、ヴァルトールは立ち止まった。

 何事か。

 周囲を確認したクルックスだが、人が歩いた分の埃が舞っているだけだった。

 

「いや、逆だと思ってだな。お前の──ま、敢えて父親と呼んでやる──彼がここに初めて来た時は逆だったのだ。俺とお前のいる場所がな」

 

 昇降機の入り口を指差して彼は言う。

 クルックスは彼の指差す方向を見ていたが、鉄兜に一つだけ開いた覗き穴は彼とは違う場所を見ていた。

 

「鉄扉の入り口は開けていなかったからな。彼が来るには昇降機を使う必要があった。そして来た。頼もしい新人だったとも」

 

「なぜ頼もしいと分かったのか、聞いてもよいですか?」

 

「ここに来たからだ」

 

 ヴァルトールの手にする白い杖が朽ちた床板を小突いた。

 

「血塗れのいい目をする狩人だとも。今は少々浮気癖があるようだが」

 

「連盟のことは忘れてはいないです、と、思います。はい……」

 

 たぶん、という言葉を飲みこむには苦労した。

 何度か頷いたクルックスの前でヴァルトールは腰を屈めた。

 

「とはいえ、あの男のことはいい。先日、ご機嫌伺いだとかでシレっとやって来たからな。半年ぶりに。問題は、若き同士。お前だ。俺の記憶が正しければ、お前はヤーナムの外に行ったハズだが……」

 

「休暇なので今朝戻りました。すぐに戻らなければなりませんが……俺は、長に質問があって……ですね……」

 

「父親にも聞けないことか?」

 

 おかしそうに彼は言った。

 グッと喉の奥が苦しくなった。

 そのとおりだった。クルックスは再び頷くしかなかった。

 

「けれど聞くことを躊躇う質問ではないです。我が父は、ヤーナムに来るまでの記憶をなくしているから……きっと意味がない。でも、長は、貴方はヤーナムの外から来た人だ」

 

 ヴァルトールは、ヤーナムにとって異邦人である。

 普段より青の官憲服をまとっていることからもそれは明らかだ。

 ただ、これが彼の厭う話題であるとは知っている。

 非礼を短く述べた上でクルックスは訊ねた。

 

「ヤーナムの外に虫はいないのでしょうか? 俺は、まだ見たことがない。もしかすると虫はヤーナムにだけ……? いえ、そんなことはないですよね?」

 

 鉄兜の奥で彼は瞬きした。

 

「……。ああ、虫は外にもいるとも。連盟に名を連ねし、最も若き同士。……お前にまだ見えないだけだ」

 

 連盟の長の答えは連盟の意向であり、連盟の真実だった。

 思わず口の端が上がる。

 だが、それを自覚した途端、不謹慎に思えて口の中を噛んだ。なおも隠しきれず顎が震えた。

 クルックスは心の底から「よかった」と言ってしまいたかった。言ってしまえない理由を深く考えたくなかったのだ。

 

「虫が。いえ、見えないのは、俺が、いえ、俺の……経験? 研鑽が足りないからでしょうか?」

 

「そうだ。何だ。……嬉しそうな顔をしたりやめたり」

 

 ついに指摘を受けてしまい、クルックスはトリコーンを深く被った。

 

「あ、い、いえ、汚れているのはヤーナムだけではないのだと思うと……なぜか、複雑な気分です。嬉しい。ああ、俺は嬉しい。たしかに、そう思うのですが、それだけではないような……自分でもよく分かりません……。長は、どう思っていらっしゃるんですか」

 

「はッ。俺はヤーナムが嫌いだ」

 

「え」

 

 調子が外れた声が出てしまい、クルックスは口を押さえた。もちろん遅かった。

 

「『え』とは何だ。『え』とは。お前は好きなのか? この病んで病んでどうしようもない、クソ溜めみたいな街が。外の世界を知っておきながら?」

 

「お言葉を返すようですが、そういうものだと思えば辛くはないです、俺は……いえ『俺は』ですけど」

 

「……そうか。いや、同士の嗜好に口を挟むまい。忘れろ」

 

 ヴァルトールは少々バツが悪そうに言う。しかし前言を撤回しなかったし、白手袋に包まれた指先はケープに引っ付いた小枝を摘まんで捨てていた。

 ヤーナムに対する認識について。

 深い隔絶があることを二人は知った。だがクルックスの抱く敬愛は変わらなかった。

 白手袋の大きな手がクルックスの肩を叩いた。

 

「連盟が見出す虫は、人の淀みの根源だ。虫は、汚物に塗れ、隠れ蠢くものだ。ヤーナムほど露骨な地は珍しかろう。外では、よく隠れ、よく潜んでいるだけだ。……若き同士に見つけられないのも無理からぬことだよ」

 

「これからも励みます。ええ、そうだ。やはりそうだ。人の世が淀まないハズがないのですから」

 

「ああ、存分に励みたまえ。彼方の同士に誇りあらんことを」

 

 ヴァルトールの手にした白い杖が、カツンと床を鳴らした。

 それを合図にクルックスは狩人の礼をした。

 

「ありがとうございます。長も、ご油断なさらぬように。連盟に誇りあれ!」

 

 連盟の誓いを胸に抱き、クルックスは風車小屋を出た。

 相変わらず湿り気のある風が吹く。

 笑い出したくなる気分だった。

 軽い足取りのまま、彼の姿は森へ消えた。

 

 その背を見送る目は、一つではない。

 連盟に名を連ねる黄衣の古狩人が、靴音も荒く風車小屋を訪れた。

 

「真っ昼間だというのに。最近の連盟は活気づいて俺も嬉しいぞ」

 

 ヴァルトールは、歓迎するように杖を持つ手を軽く広げて見せた。

 

「お前と話した後の若者というのはどうしてか二度と会わないことが多い。心当たりがないとは、まさか言うまいな」

 

 ヴァルトールは、風車の主軸台に座った。

 青いケープが揺れているのは決して風のせいではない。

 連盟最年長の同士が長に向ける目はいつも鋭いものだったが、今日は特にも鋭利である。

 

「年若い同士にあれこれと吹き込むな。……お前が虫が見えるようになったのはヤーナムに来てからだ。それからヤーナムの外に一度も出ていない。外の虫事情などお前は知らないだろう」

 

 言葉まで鋭い。

 だが、連盟の長は怯むことはなかった。

 

「いいや、分かるとも。同士、ヘンリック。俺は連盟の長だ。人の世などいつもどこも、何も変わらぬものさ」

 

 ヴァルトールは、鉄兜のなかで乾いた笑い声を上げた。

 否定できないのは黄衣の狩人、ヘンリックもまたヤーナムの外を知らないからだ。

 ヴァルトールは、不意に笑みをひそめた。

 

「さて。ヘンリック。俺もここで待ち続けるのに飽きてきたところだ。いろいろ試行が必要なのだ。そう目くじらを立てず、大目に見たまえよ。……ヤマムラもかえってきた」

 

 ヴァルトールは長い脚を組み、手慰みに杖を手の中で回す。

 ヘンリックは入り口を見た。

 頭上から微かな風を受けて風車が軋む音が聞こえるだけで周囲には人や獣の気配はない。連盟の同士ヤマムラは今頃市街で狩りの準備を整えている頃だろう。

 

「? なんの話だ?」

 

「──俺も風車を回してみたくなったのだよ」

 

「……?」

 

「そのうち分かる」

 

「お前の『そのうち』はアテにならん。私の生きているうちなら僥倖だがな」

 

 呆れたヘンリックが嘆息する。

 風車は変わらない。

 音を立てて軋むだけだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クィリナス・クィレル。

 ただいまビルゲンワースに存在する元ホグワーツ教授は、当然、今日がクリスマスであることを知っていた。

 

 とはいえ。

 神に見放された地とも言うべきヤーナムにおいて異教の祭日など碌に重視もされていないようだ。

 何の変化もない日々を過ごすことになるだろう。──そのハズだったのだが。

 

「メリー・クリスマス、先生。そしてこちらはチョコレート。あとで食べてください。授業料です」

 

 チョコレートボックス特選集を持ったネフライト・メンシスが現れ、クィレルは驚いた。

 

「諸用があってヤーナムに戻りました。一時間で去ります。しかし、その前に教授を依頼したいのでこちらに参上しました」

 

「へっ教授?」

 

 クィレルは、テーブルの上で広げていた手記を閉じる。

 チョコレートボックス特選集にはクリスマス・カードが付いていた。ネフライト宛てのカードで差出人はテルミとなっている。

 彼らの苦い事情が垣間見えてクィレルはそれを素直に受け取って良い物かどうか迷った。授業料にしては後が恐い。

 ネフライトが懐中時計を取り出してテーブルに載せた。

 

「闇の魔術に対する防衛術の先生だった貴方なら、さまざま呪文をご存じだと思いまして」

 

「あ、あぁ、そういうことならば……」

 

 クィレルは椅子から立ち上がった。椅子の上でジッとしていたせいか、手足を伸ばすとピキピキと音が鳴った。

 ──学校には新しい先生がいるだろうに。

 そう思ったが、ネフライトがわざわざ教えを請うことには理由があるのだろう。

 

「では、先生が役に立つと思う順から教授してください。時間は、三〇分でお願いします」

 

「三〇分で!? 授業を!?」

 

「お願いします。では計測を開始しますね」

 

「話が早い──!?」 

 

 たった三〇分の授業だったが、クィレルはひどく疲れた。

 そのうえ。

 

「まぁまぁ分かりました。ありがとうございます。では、次に六年分の授業計画を作成してください。期限は夏休み開始まで。呪文はお任せしますが、攻撃と防御を特に重視していただきたい。授業内容は、一回の授業で二つか三つほどの呪文を取り扱う内容のもので時間は三〇分。これは他の三人も受講しますので慎重な構成をしてくださいね。授業料は後ほど相談させてください。いまガリオン金貨をもらっても困るでしょう? それも考えていてください。労働には、望む限りの見返りをいたしましょう。──では、よき日をお過ごしください。異教の祭日とはいえ、きっと貴方には大切な日でしょうから」

 

 ネフライトからのクリスマス・プレゼントは、クィレルに『ラブ・レター』の存在を思い出させるものだった。

 

 




連盟:
 クルックスが箱推しするヤーナムイチまともな集団。ヤーナム各陣営の印象は下記のとおりです。


頭をひらいても目玉を調べても普通の狩人と変わらないのだが……彼らは何を見ているのだろうね?(メンシス学派、ダミアーン)


彼らの志は……わかりませんが、けれど夜に救いある果てがあるとよいですね。あなたに、血の加護がありますように。(血族狩りのアルフレート)


強めの幻覚狩人集団だよ。こわいね。戸締まりしなくちゃ。(聖歌隊、コッペリア)


腕は立ちますよね。腕だけは。有事の頼りには、あまりしたくないですが。(教会の黒服、ピグマリオン)


……。[軽蔑の眼差し](教会の暗殺者、ブラドー) 


連盟ね……。狩人の悪夢でも見かけた。血に酔った狩人が辿り着く、あの悪夢でも。だから、まぁつまり、そういうことさ。(窶しの狩人、シモン)


狩人の死血にあるのは『穢れ』だろ? 『虫』とか。なに寝ぼけたことを言っているんだろうな。(カインハーストの騎士、レオー)


月の狩人が好き好んで関わっている集団だ。ろくな最期を迎えないだろう。私に会わないことを祈るがいい。神の名も忘れただろうが。(カインハーストの流血鴉)


狩人「ひどい言われようだ。一番真面目に獣を狩っているのに」
クルックス「彼らは『正しさ』の外にいることが分かっていないのでしょう。せめて血の淀まぬ生活をしてほしいものです」


 こんなことをいう各陣営それぞれの印象も、ほぼ罵倒に等しい評価になります。
 そりゃあ「滅びるなよな」っていうか「滅びない方がおかしい」っていうか「滅びた事ごと夢に閉じ込めたので、まだ滅びてませんよ」としたヤーナムの今後にご期待ください。


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ポリジュース薬

ポリジュース薬
最も強力な魔法薬に属する薬。
望む者の一部を加えることで、一時的に望むそのものになる。
もっとも、人間ではないモノの一部を手に入れた場合は注意することだ。
……好奇は最も慎重に取り扱うべきなのだから……



 クリスマス・ディナーは、クルックスにとって数少ない楽しみの一つだ。

 豪華絢爛に彩られた霜に輝くクリスマス・ツリーが立ち並び魔法で作られた氷の彫像が輝いている。

 重要なことは、七面鳥だ。

 

「ぐぅ。美味しい」

 

 思うに、鶏の美味しさとはズバリ脂肪にあるだろう。それはそうと叉骨を噛み砕きながらクルックスは唸った。

 

「十回聞いた。骨まで食べるのはやめないか」

 

 五羽目の七面鳥を解体しているとネフライトが言った。

 

「あー。なんだ、ダメなのか?」

 

「隣でバリボリうるさい」

 

 かぼちゃジュースを傾けるネフライトが眉をひそめた。

 彼はすでに食事を終えていた。

 

「クルックス、まだ食べるの?」

 

「食べる」

 

「マッシュポテトがあるわ。たくさん食べてね?」

 

 ネフライトと時を同じくして満腹になったテルミが皿を寄せた。

 

「テルミ、自分の食べないものを押しつけるのはやめたまえ。こんなに美味しい芋なのに」

 

 テルミから皿を取り上げたセラフィは先ほどから梨を食べ続けている。ネフライトは、うんざりしたようだ。

 

「それも七回聞いたぞ。……いつまで食べる気だ?」

 

「必要なことなのだ。くれぐれも席を立たないでくれ」

 

 すでに生徒は団欒する四人とデザートを食べ続けているクラッブとゴイルしかいなくなっていた。そのスリザリン二人組も「カップケーキを寮で食べよう」という話になりつつある。

 横目で彼らを見ていたネフライトが「『豚どもめ』と言いたいところだが」と小さく呟いた。

 

「君がそう言うから、ここに留まっているのだ」

 

「仲良くするのも良いでしょう? アイスなんてどうかしら?」

 

「見るのも嫌だ。特に歯磨き粉の味がする、それ。正気を疑う」

 

「歯磨き? チョコミントのこと?」

 

「薬品臭くていけない」

 

「まぁ、良いことを聞いたわ。ミント栽培しましょう、ミント」

 

「冗談でもやめてくれ。あれは繁殖力がスゴいんだ。そこのポットを取ってくれ。冬だというのになぜテルミはアイスを食べているんだ? 体を冷やすのでやめろ。お茶を飲め、お茶を。……クルックス、もう骨を食べるのはやめないか」

 

 スリザリンの二人組がケラケラ笑って去って行く。

 ネフライトは手遅れだと知っていたが、注意した。

 

「あ。うむ。……仕方ない」

 

 噛みつこうとした骨を置いたクルックスはフォークとナイフを持った。

 

「噛み応えがあって楽しくなってしまった。今年は六羽にとどめておこう。美味しかった。さて、そろそろ事態が動き始めるようだ。」

 

「事態?」

 

 セラフィが訊ねた。

 すぐには答えず「まあ」と曖昧にごまかした。

 やがて。

 

「ポッター達には、マルフォイに仕掛けたいことがあるらしい。俺は三人にそれを邪魔してほしくないのだ」

 

 ほろ酔いの先生方がまばらになった頃合いでクルックスは言った。

 すでにテーブルには四人しかいなくなっていた。彼らは口々に「へえ」とか「そう」と言った。

 

「クルックス。貴公、同じ寮なのに消極的協力姿勢なのはなぜ? セラフィを足止めしておきたいのね。ついでにわたしとネフも。手を貸すにも中途半端ではなくて?」

 

「俺は君のように上手く立ち回れないからだ。下手にかかわって引き際を間違えたくもない」

 

「あら。お優しいこと。クルックスは心配なのね。心配で仕方ないのね。お父様のように『うっかり』『善意で』『トドメ』を刺しちゃいそうで怖いのね」

 

「違う。俺は、そうではなく」

 

 言い訳の暇はなかった。ネフライトが立ち上がり「では、もう済んだろう。済まなくとも勝手にやってろ。私は忙しい」と席を立ったからだ。

 セラフィだけが首を傾げた。彼女は、梨のコンポートにシナモンを振りかけ過ぎていた。

 

「僕らが探しても見つけられないモノをマルフォイが知っているとは思えない。ポッター達が見つけられるとも思えない。先生方でさえ困難だというのに。……君が期待する結果などありえないと思うが」

 

「だから『放っておけ』と言いたいんだ」

 

「では、そうしよう。──ところでテルミ。僕の寝室に青い林檎があるんだ」

 

「そうなのね。食べ物を寝室まで持ち込むのは良くないわ。早めに食べてしまってね? 食べさせて欲しいのならお茶会に持って来てもよいのですけど」

 

 テルミがセラフィの手からフォークを取り上げた。

 そして、コンポートを口に運んだ。

 

「はい、あーん、して?」

 

「ん。ひとりで食べられるよ。けれど、ありがとう。おいしいね。僕は果物が好きみたいだ」

 

「お」

 

 セラフィは、テルミが差し出した梨を食べた。

 ──俺だって出来る。思わずそう言いかけたクルックスは、セラフィが唇を舐めたのを見て目を逸らした。赤い舌が妙に印象に残る。禁忌を垣間見た気分だった。

 テルミは上機嫌でセラフィの手を握った。

 

「あら。去年は何を食べても変わらなかったのに。好きと嫌いが分かるようになったのね?」

 

「正確には『好き』と『好きではないもの』の違いだよ。僕には『嫌いなもの』がないからね」

 

「そうなの? わたしは? わたしのことは?」

 

「好きだよ」

 

 クルックスは喉の奥で何かが詰まる感覚があった。きっと鳥の骨だろう。

 

「どれくらい?」

 

「たくさんだね」

 

「大雑把すぎるわ。もうちょっと具体的に──あ。いえ、そうね。貴女の心を知りたいの。心の裾を慕わせていただけないかしら。夜警さま?」

 

「ふむ。そうだね。君がくれる洋梨をあと一口、二口、食べたいと……僕からお願いしたくなるくらい、かな」

 

「まぁ、わたしをくすぐるのがお上手ね。はい、あーん!」

 

「うん。おいしいね。──それで青い林檎のことだ。そのうち食べたいのだが、たぶん酸味が強くてね。どうしたら甘く食べられるだろうか」

 

「温めればいいと思うわ。それでも酸味が強いなら、お砂糖を入れたお茶と一緒に飲むといいかしら。そうそう、今日事態が動くなら、お茶会は明日がよいのでしょう」

 

「了解だ。僕が鐘を鳴らそう」

 

 クラッブとゴイルが大広間を出て約三〇分が経った。

 三〇分もあれば、ハリー達の用事も終わるだろう。クルックスは解散を告げた。

 

「念のため、僕は談話室に直接行く。……要するに今日彼らと出会わなければいいのだろう?」

 

 大広間を出てすぐ。周囲に誰もいないことを確認するとセラフィは夢に姿を溶かした。

 ひとつ大きな用事を終えてクルックスは肩が軽かった。対するテルミはクスクスといつものように薄く笑った。

 

「そうやって油断している時が一番危ないのよ。『ああ、良いことやったなーっ!』って時がね。お父様がおっしゃっていたわ」

 

「彼らがマルフォイからどうやって聞き出すにしても尋問は三〇秒あれば充分だ。時間稼ぎとしては上等ではないか。三〇分だぞ」

 

「順調ならね。それにしても、あの三人は思いのほか度胸があるのね。彼らが『グリフィンドール』として配された理由が分かるわ。ちょっと見直しちゃった。ウフフ」

 

「テルミは、何を知っているんだ?」

 

 彼女は、スリザリン寮がある方角を見つめた。

 

「あの子達、薬を作っているのよ。名前は聞き取れなかったのですけど、姿を変えるとか何とか? ゴーストが棲みつく女子トイレで。厄介な手順の面白そうな薬。どんな効き目が現れるのかしら? わたし、とっても興味があるの!」

 

「姿を変える薬……?」

 

 今朝の出来事を思い出した。

 ──一時間も前から起きて、煎じ薬にクサカゲロウを加えていたの。完成よ。

 

「薬効が切れる前にぜーんぶ終わっていればいいですね」

 

 途端に不安に陥り、クルックスはテルミと同じようにスリザリン寮がある方角を向いた。

 

「そ、それは、いや。いいや。時間稼ぎとしては上等だ。上等のハズだ。三〇分だ。俺が七面鳥を二羽食べてデザートを完食する程度の時間だぞ。しかも姿を変えるなんて難しい魔法だ。それに。そうだ。変装した本人に出くわす危険もある。ダラダラしているハズがない」

 

 ──だから大丈夫だろう。

 そう言ってしまいたいクルックスは、目を細めて楽しげにしているテルミを見てさらに不安が募った。

 

「わたしも祈っているわ。けれどセラフィって、ほら、間が悪い子ですから。わたしも心配なの。──セラフィは鴉羽の騎士様のことを敬愛してやまないけれど、しょっちゅう斬首されている理由って本当に彼の癇癪が原因なのかしら?」

 

 そこまで運は悪くないだろう。

 言えない理由には、いくつか心当たりがある。

 クルックスが寮に戻る足は自然と早くなった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 時間は、一時間ほど遡る。

 

「クラッブとゴイルの毛……毛かぁ……」

 

 ロンが一足先にオエッと吐く真似をするが、ハリーも内心は同じ気分だった。

 構わずにハーマイオニーは、指先を突きつけて言った。

 

「これから変身する相手の一部分が必要なの。絶対よ。はい、これ。簡単な眠り薬を仕込んだカップケーキよ。……やるの? やらないの? マルフォイを尋問するんじゃなかったの?」

 

 断固としたハーマイオニーの言葉にロンとハリーは顔を見合わせた。

 ──これ以上、マルフォイをのさばらせておくワケにはいかない。

 これ以上の被害を許してはいけないと思うし、継承者疑惑のヒソヒソ声を気にする生活はもう嫌だった。

『一時間程度クラッブとゴイルに変身すること』と『これから五年間、疑われて生活すること』を天秤にかければ、前者に傾くのは当然のことだった。

 

「わかった。わかったよ。やる。でも、君のは? 誰の髪の毛を引っこ抜くの?」

 

「私のは、もうあるの! セラフィ・ナイトの髪の毛よ」

 

 ハーマイオニーは、高らかに言った。

 

「うわっ。どうやって手に入れたの?」

 

 ハーマイオニーの手のひらにおさまる小さな小瓶には、キラキラ輝く銀の髪の毛があった。

 ハリーは禁じられた森の小枝に引っかかったユニコーンの毛を思い出していた。

 

「この前の決闘クラブの時に少しの間、お話したの。それで『ローブについてますよ』って言って取ってあげたの。そのまま失敬したけどね。──ヤーナムから来た四人組はずっと食事をしていて、食事が終わったあともしばらく懇親会をするとクルックスも言っていたから、鉢合わせる心配もなし。大丈夫よ。クラッブとゴイルが大広間から出てくるほうが早いわ」

 

 ロンにカップケーキを渡したハーマイオニーは、慌ただしげにポリジュース薬の様子を見に行った。

 覚悟を決めた顔でロンが頷いた。

 

「行こう」

 

 その数分後。

 クラッブとゴイルの驚くべき食い意地の悪さが二人を助けた。

 

 ホールの反対側にある物置に眠りこける二人を隠した。

 靴を抱え、引っこ抜いた髪の毛を握りしめる。

 それから「信じられないバカだった!」と二人で言い合いながら「嘆きのマートル」のトイレへ全力疾走した。

 

「ハーマイオニー、オッケーだ!」

 

 洗面台近くでポリジュース薬をかき混ぜていたハーマイオニーが顔を上げた。

 心なしか緊張しているようだった。

 

「やったのね。結構よ。順調、順調よ。薬の手順も間違っていないし、見た目も本に書いてあるとおり。ここに着替え用のローブをこっそり調達しておいたわ。男性用はこっち。すこし大きめね」

 

 ハーマイオニーが用意したグラスに大鍋の煎じ薬を三等分した。

 手渡されたグラスでハリーは始めてまじまじと煎じ薬を見た。

 

 感想は「煮詰められた泥」だった。

 顔を顰めたいがここまで来た以上、ジタバタしても仕方がなかった。

 

「髪の毛を加えてみて。色が変わるはずよ」

 

 煎じ薬は、ハーマイオニーが自分のグラスに髪の毛を加えた瞬間にヤカンが沸騰するようなシューシューという音を立て、激しく泡だった。

 次の瞬間、薬は透き通る赤に変わった。

 ハリーのゴイルの髪の毛を加えたグラスは、カーキ色。

 ロンのクラッブの髪の毛を加えたグラスは濁った暗褐色に変化した。

 

「おえー……。ねぇ、ハーマイオニー。僕のと交換しない?」

 

「え。嫌よ! でも、これ見た目は……その、悪くないんだけど……すごく血の匂いがするわ……」

 

「……おえー……」

 

 ロンはポリジュース薬の交換を諦めた。

 三人は顔を見合わせた。

 

「急ごう。それぞれ個室に入って『せーの』で飲むんだ」

 

「効果は一時間。きっかりよ。もう急いだほうがいいわ」

 

 三人は洗面台から、個室に入った。

 ハリーが呼びかけると二人から返事があった。

 

「せーの……!」

 

 鼻をつまみ、ハリーは二口で薬を飲み干した。

 煮込みすぎたキャベツのような味が口いっぱいに広がった。

 

 途端に体の中が溶けて捩れる感覚に襲われた。

 頭痛と吐き気がひどい。

 しかし、吐くことはできなかった。

 焼ける感覚が胃袋から全身に広がり、手足の指先まで届いた。

 

 骨や肉が音を立てて変化する感覚は、突然治まった。

 気付けばハリーは、うつぶせに突っ伏していた。

 

 丸太のように太い腕で体を支えて立ち上がる。

 サイズの合わなくなってしまった靴を脱いで個室を出る。そして、ひび割れた鏡の前に進み出た。

 

 ゴイルが見つめ返していた。

 冴えない目に見えるのは曇りきった鏡のせいではないだろう。

 

「二人とも大丈夫?」

 

 自分の喉から出たゴイルの低いしゃがれ声に驚く。

 クラッブの唸り声が聞こえた。

 

「ハ、ハリー? おっどろいたなあ……どこからどうみてもゴイルだよ」

 

「君こそクラッブだよ……あー、あー、……喉が変な感じだ」

 

 時計を確認していると最後の個室の扉が開いた。

 長い銀色の髪をまとめたセラフィ・ナイトが現れた。

 クラッブとゴイルより背の高い彼女は、当然ハーマイオニーよりも背が高い。

 視線の高さが気になるのかハーマイオニーは辺りを見回した。

 

「この体、何だかすごく軽いわ。五〇メートル走六秒を切れそうよ」

 

「それって、アー、すごいの? メートル?」

 

「マグルなら国の代表になれるわ。いえ、物のたとえだけど……なに?」

 

 ハーマイオニーは、じろじろ見るロン──外見はクラッブだ──に気が引けたように身を遠ざけた。

 

「……ナイトのこと実は近くでよく見たことがないんだけど、初めて見るんだけど……思っていたより、ずっと綺麗だ。ホグワーツでは見かけないタイプの美人って感じで……」

 

 ハーマイオニーが明らかにムッとした顔でロンを睨んだ。

 睨みつける程度の目が普段のナイトらしいとハリーは思った。

 

「あ、そう! ご存じないかもしれないけどホグワーツにも美人はいますけどね! 見とれている時間はないわ」

 

「そっちの目つきの方が、普段のナイトらしいよ。ロンは……もうすこしボヤッとした顔の方がクラッブっぽい」

 

 急いでローブに着替えながらあれこれと姿勢や表情を相談した。

 もう五分も経ってしまった。

 トイレの入り口をそろそろと開け、周囲に誰もいないことを確認して出発した。

 

「スリザリンの談話室がどこにあるのかわからないの」

 

「いつもは……あのあたり、地下から出てくる気がするな」

 

 三人は大理石の階段を降りていった。

 大広間からは、まだヤーナム四人組の話声が聞こえていた。

 

 あとは一人でもスリザリン生が来れば談話室までついていけばいい。

 だが、今年のクリスマス休暇は生徒の数が例年より少ないのだ。

 今日に限って誰も来る気配はない。

 

 ハーマイオニーは、ややパニックになり、しきりに時間を確認した。

 

「大丈夫。まだ薬の時間はあるよ……」

 

 ロンがなだめるが、焦りが滲んでいる。

 地下に入ると迷路じみた廊下に出た。奥へ奥へ誘うように学校の地下深くまで繋がるようだ。

 十五分も歩き、三人の間に無言の諦めムードが漂い始めた時。前方で誰かが歩いてくる音が聞こえた。

 ロンの兄でグリフィンドールの監督生であるパーシーだった。

 

 クリスマス休暇でグリフィンドールに残った数少ない生徒である。そんな兄に対しロンが「困難な時にこそ監督生は先生を支えなければならないと思っているみたいなんだ……」とぼやいたのは休暇に入った初日のことだった。

 

「こんなところで何をしているんだ?」

 

 ロンが思わず声をかけてしまった。パーシーは、冷たい顔で三人を見た。

 

「そんなこと、君の知ったことじゃない。クラッブとゴイル、それから……」

 

「ハー──ナイトで、だ」

 

 自分の名前を口走りそうになったハーマイオニーは、何とか取り繕った。

 

「それじゃ自分の寮に戻りたまえ。この頃は、暗い廊下をうろうろしていると危ないからな」

 

「自分はどうなんだ?」

 

 ハリーは「普段のスリザリン生ならば素直に引き下がるハズがない」と思ったので、ふてぶてしい態度で顎を上げた。しかし、ゴイルにしては機転の利きすぎた言葉だったかもしれない。

 

「僕は監督生だ! 僕を襲うものは何もない」

 

 今度はロンが言い返そうとした、その時。背後から「オイ!」と声がかかった。

 初めてハリーはマルフォイに会えて嬉しいと心の底から思った。それは他の二人も一緒に違いない。

 

「そんなところにいたのか。今まで大広間でバカ食いしていたのか? ナイトまで!」

 

「あー……帰ろうとしたところを絡まれてしまったの、だ。近頃は物騒だというのに困ったことだよ」

 

 ──セラフィは同郷であるクルックスと似たぶっきらぼうな話し方をする。

 ハリーの助言を思い出したらしいハーマイオニーが嘆息と共に肩をヒョイと上げた。

 

「ウィーズリー、こんなところで何の用だ?」

 

「監督生には敬意を示したらどうだ! 君の態度は気に食わん!」

 

 パーシーは早足で廊下を去ってしまった。それを見てマルフォイは鼻で笑い、ついてくるように合図をした。

 

「あのピーター・ウィーズリーのやつ、パーシー? なんでもいい。あいつ、どうもこのごろ嗅ぎ回っているようだ。何が目的か、わかってる。スリザリンの継承者を一人で捕まえようと思っているんだ」

 

 マルフォイの嘲笑を曖昧に受け流し、ハリーとロンは目を見交わした。

 やがて湿ったむき出しの石が並ぶ壁の前でマルフォイは立ち止まった。行き止まりだ。

 ──バレたのだろうか。

 ヒヤリとしながら黙っているとマルフォイが合言葉をロンに訊ねた。

 

「あー、えぇーと『穢れた血』? 『スクイブ』だっけ?」

 

「それは先月と先々月だ。ああ、思い出した。そうそう、純血!」

 

 壁に隠された石の扉がスルスルと開いた。

 スリザリンの談話室は、細長い天井の低い地下室にあった。

 壁と天井は荒削りの石造りだ。天井から丸い緑がかったランプが鎖で吊してある。

 暖炉には獅子と大鷲を絡め取った蛇の彫刻が施されている。すでに談話室に彼ら以外の人はいないが、暖炉は楽しげな火が弾けていた。

 

「ここで待っていろ。ナイトも。見物だぞ。父上が僕に送ってくれたばかりなんだ」

 

 マルフォイは得意げに言って──たぶん寝室だろう──扉をくぐっていった。

 

「……マルフォイを待ちましょう。ハリー、ロン、もうちょっとくつろいだ風に座ったほうが良いわ」

 

「ハーマイオニーは座らない?」

 

「このまま三人で行動するのは怪しまれるでしょ。だから、ある程度の話をさせて、私が核心を質問をする。その時は、マルフォイが答えても答えなくてもどっちでもいいわ。それから私は『用事を思い出して』先に談話室を出る。私がいなくなったあとで質問のことをもっと聞いて。腰巾着の二人の方が話を聞き出しやすいと思うの」

 

「それでいこう」

 

 扉がパッと開いた。

 三人は「すわマルフォイか」と思ったが、大間違いだった。

 

「林檎は、焼けばよいのだ。ふむ。たいていの物は焼けば食べられる。燃料の問題が解決すれば向こうでもきっと……」

 

 青い林檎を宙に投げて弄びながら、本物のセラフィ・ナイトが現れた。

 落ちてきた林檎をつかみ、手の中でくるりと回す。

 

 ふと彼女が林檎から視線を外す。

 その先には、まさにハリー達がいた。

 暖炉近くの椅子に向かった足が止まり、琥珀色の瞳が大きく見開かれた。

 

「父上がさっき送ってくださったんだ!」

 

 最悪のタイミングで現れた。

 すこぶる機嫌良さそうなマルフォイだ。

 

「──っ!」

 

 ハリーの隣ではロンが食いしばった歯の隙間から「もうダメだ。おしまいだ」と漏らした。

 ハリーも同じ気分だった。

 マルフォイの後方には──結果的に幸運なことに──足を止めてしまった本物のセラフィがいる。

 けれど、もし彼が振り向けばセラフィが二人いることがバレてしまう。

 

「あっ」

 

 取り繕ろうとしたハーマイオニーが思わず声を漏らす。

 マルフォイが首を傾げた。

 

「どうしたんだ? ナイト。『あ』って」

 

 マルフォイが三人の驚いた顔に気付き、視線の先を見るため振り返った。

 三人が思い思いに声を上げた瞬間。

 ハリーは気付いた。

 本物のセラフィの姿は消えていた。

 

「……? なにを見ているんだ?」

 

 三人はそろって首を横に振った。

 

「な、な、何でもない」

 

「は、腹が痛くて……」

 

「…………」

 

 ハーマイオニーは声を上ずらせた。

 ハリーは奇妙な心地のする腹をさすり、ロンはコクコクと頷いた。

 

「食べ過ぎだ。──見ろ、これは笑えるぞ」

 

 それは日刊予言者新聞の切り抜きだった。

 ロンは、マルフォイから記事を渡され、急いで読み、無理に笑って見せる。ハリーは彼の手から記事を取った。

 

 ──魔法省での尋問

 ──マグル製品不正使用取締局、局長のアーサー・ウィーズリー氏、マグル保護法の初適用!

 

 ハリーの肩越しにハーマイオニーが「あぁ……」と呻いた。

 

「はは、ははは……」

 

「傑作だろ?」

 

 マルフォイは待ちきれないように言って笑った。

 ハリーの気持ちは沈みきっているが、隣のロンの方が深刻だった。笑うしかない心境になっているらしい。最高にクラッブらしく笑っている。

 

 マルフォイは、新聞の切り抜きをポケットに突っ込み、くすくす笑う。

 それからテーブルに広がる誰かの日刊予言者新聞を叩いた。

 

「見ろよ。日刊予言者新聞が、これまでの事件をまだ報道していないのには驚くね。ダンブルドアの口止めだって父上はおっしゃってる。生徒が石になる一連の事件が終わらないとダンブルドアのクビも時間の問題だろうよ」

 

 鼻で笑うマルフォイは、楽しい未来の話をするように語った。

 ムカムカと胸の内が騒ぐ。反比例するように彼は楽しそうな顔だった。

 

「父上は、ダンブルドアがいることがこの学校にとって最悪の事態だっていつもおっしゃ──」

 

「それは違う!」

 

 マルフォイは目を見開き、ムッと顔を赤らめた。

 言葉を遮られた彼はソファーから身を起こした。

 

「何だい? じゃあ、ダンブルドアより最悪なヤツがこの学校にいるって言うのか?」

 

「ハリー・ポッターだ」

 

「たまにはいいこと言うじゃないか」

 

 マルフォイはゴイルを見直したように頷く。

 笑いかけた先はハーマイオニーだった。

 

「あ、ぁ、ああ、そうだな」

 

「へえ。ボージン・アンド・バークスでは違う意見だったみたいだけど変えたのかい?」

 

 恐るべき質問が来てしまった。

 

 隣でロンが体を強張らせる。

 ハリーは横目でチラリとハーマイオニーを見た。

 緊張のあまり顔が赤くなっている。

 

「あ。あぁ、ハリー・ポッターのせいで状況が目まぐるしく、か、変わっているからね」

 

 やや早口だ。

 しかし、マルフォイを納得させることができたようだ。

 彼の目が、好奇にキラキラ輝いた。

 

「そうだろうね。みんなハリー・ポッターが継承者だなんて考えている! ナイト、誰もいないんだから、そろそろハッキリ言ってくれてもいいのになあ」

 

「ほう。何を?」

 

 ハーマイオニーが腕を組み、目を細めた。

 その緊張した顔をどう見たのか。

 マルフォイはますます顔を輝かせた。

 

「君が継承者なんじゃないかって僕は出会ったときからずっと思っているんだ」

 

 ハリーはドキリとした。

 マルフォイはまさに問題の中核を訊ねた。

 しかし、ハーマイオニー=セラフィに質問するということは、つまり──ハリーは、あまりのことに唖然とした。

 マルフォイは、継承者ではないのだろうか?

 彼は、まったくとぼけているように見えない。まさか本当に知らないのだろうか。

 

 そのことにハーマイオニーも当然、気がついたようだ。

 授業中に見せる鋭い光が目に宿ったのが見えた。

 

「わた──僕こそ君だと思っているのだが? 君は、事件のことにやけに詳しいじゃないか?」

 

「いや、実は事件のことは僕もよく知らないんだ」

 

「で、でも誰が糸を引いているか知っているんだろう?」

 

 ハリーはすがるように聞いた。ロンも隣で激しく頷いた。

 ハリーはマルフォイが犯人か、その真相を知っていると思っていた。

 だが、知らないのであれば一連の事件は誰がやっているのことなのか、まったく分からなくなってしまう。

 マルフォイは投げやりに言った。

 

「だから知らないって言っているだろう。何度も言わせるな」

 

「父親なら知っているだろ? 聞かなかったのか?」

 

 ロンは言った。

 マルフォイは父親そっくりの尖った顎を上げた。

 

「だ・か・ら、何度も言っただろう。聞いたけど答えてくれなかったんだ。詳しく知っていると疑われるからな。それに父上も好きにやらせておけっておっしゃってる」

 

 ロンの顎がカクンと開いた。

 今日で一番クラッブらしい顔だった。

 

「しかし、ナイトではないのか? 残念だな。継承者が誰なのか知っていたらなあ。手伝ってやるのになあ。本当に残念だよ」

 

「…………」

 

 三人は素早く目を合わせた。

 マルフォイは気付かなかった。

 

「父上は前回、秘密の部屋が開かれた時のことも、まったく話してくださらない。でも、僕も一つだけ知っている。この前、秘密の部屋が開かれたとき『穢れた血』が一人死んだ。今回も時間の問題だろう。あいつらのうちの誰かが殺される。──グレンジャーだといいのに」

 

 ロンが思わず立ち上がった。

 

「お前達、どうしたんだ。何かおかしいぞ」

 

「腹が痛いんだ……」

 

「あ、えーと、じゃあ前に部屋を開けた者が捕まったかどうか、知っている?」

 

「ああ、ウン……誰だったにせよ、追放された。まだアズカバンにいるだろう」

 

「あ、アズカバン?」

 

「アズカバンだ。魔法使いの牢獄だ。ゴイル、お前……これ以上、うすのろだったら後ろに歩きはじめるだろうよ」

 

 ロンに「こらえて」と小声で言い、共にソファーに座った。

 

「父上は今、大変なんだ。ほら、魔法省が先週、僕たちの館を立ち入り調査しただろう? ……幸い、大した物は見つからなかったけど。父上は非常に貴重な闇の魔術の道具を持っているんだ。応接間の床下に、我が家の秘密の部屋があってさ……」

 

「ホ、ホーッ!」

 

 ロンが素っ頓狂な声を上げた。 

 マルフォイとハリーはロンを見た。髪の毛が赤くなっている。

 ハリーも自分の額に触れた。太い指先に傷を感じる。

 

 素早くハーマイオニーが一歩、足を引き、談話室の出口に駆けだした。

 ハリーとロンも駆けだした。

 背中にマルフォイの声が追ってきたが、もう構いはしなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「……何だったんだ?」

 

 それから数分経った後で生木が爆ぜる音が聞こえた。

 

「さてね」

 

 マルフォイは驚いて立ち上がり、暖炉を見た。

 暖炉の前では、セラフィが椅子で寛いでいるらしい。編み上げの革靴が揺れているのが見えた。

 

「君は、さっき外に……? だが、君はいつも思いがけない場所から現れるからな。どういう魔法なんだい?」

 

「答える義理はない。しかし、好奇とは、どうして愚かに見えるのだろう? 好奇とは、好奇心とは、きっと人間の輝かしい進歩の先触れであり、篝火だろうに。どうして僕には……。ふむ……」

 

 セラフィは、食べ終えた林檎の芯を暖炉に放り投げた。

 

「やはり酸味が強いな。僕の好みではない」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「マルフォイじゃないなんて! じゃあ、これまでのあいつの態度は全部、知ったかぶりの高慢ちき……だったってコト!? あと、絶対! ナイトは僕らに気付いたよ!」

 

「大丈夫! 変装は完璧だったもの! それにナイトがどうやって他人に説明するの? 『僕がもうひとり談話室にいました』って?」

 

「あ、うん、それは」

 

 ロンは、ちらりとハリーを見た。

 

「他の人には聞こえない声が聞こえるくらい、マズい話だよね……」

 

 三人でダボダボになってしまったスリザリンの制服を脱ぎ捨て、グリフィンドールの制服に着替え直しているとロンが「マルフォイ、あの野郎、信じられない!」と目を丸くした。

 トイレではときおりマートルがグズって泣き出す以外の声は聞こえない。消灯時間に間に合わせるため三人は大急ぎで着替えていた。

 

「むしろマルフォイも私達と同じ立場だったって分かったわ」

 

「え? 同じ?」

 

 個室で靴下を履き終わったハーマイオニーがようやく出てきた。

 

「スリザリン寮のマルフォイが『スリザリンの継承者を探している』ということよ。そして、マルフォイはセラフィ・ナイトがそうじゃないかと思っていた。だから……もし、セラフィ・ナイトが継承者じゃなかったら事態は最悪ね。──スリザリンには『継承者がいない』ってことになるわ」

 

「じゃあ、誰が」

 

 言いかけたハリーの肩をロンがつかんだ。

 思いがけない強さに驚く。

 振り返るとロンはあらぬ方向を向いていた。

 

「ノクターン横町!」

 

「な、なに!?」

 

「ノクターン横町だよ! ハリー! 夏休み! 一緒に教科書を買いに行った日にノクターン横町でナイトを見たって言ったろう?」

 

 ハリーは、ロンに言われてハッとした。

 ──そうだ。

 ノクターン横町のボージン・アンド・バークスという怪しげな店の中でハリーは彼女を見ていた。そして、彼らの商談はまとまったのだ。

 

「商品が準備できたら学校に連絡しろって言ってた……」

 

 ロンの閃きは、新しい光明だった。

 

「それが、学校に届いたら? それが、闇の魔術の品だとしたら?」

 




テルミの「あーん」:
 テルミは意外と──などと言えば失礼なことですが──とことこ歩き回って、いろいろな人のお世話をするのが好きな性格です。同時に医療者として周囲を侮りがちな性質を持ち合わせていますが、その性質も月の香りの狩人の関係者に対しては、すっかりかげをひそめる傾向にあります。
 セラフィの画一的な「好き」は、自分の「好き」とは違いますが、それでも温かい感情は彼女にとってもくすぐったい嬉しい感覚のようです。またクルックスがタジタジしている様子を見ているのは、とても愉しいことです。


それ……親和性が高いってコト!?
 ご存じの方はいるだろうか。
 かつてTwitterで賑わった「ちいかわBloodborne」という恐ろしいタグを──。


セラフィの銀糸:
 セラフィの髪を使って変身したハーマイオニー。
 猫マイオニーを期待していた方はすみません。映画で補給してください。筆者はコマ送りで見ました。尻尾まである!

 果たして他の三人の髪の毛を使っても同じ状態になったのかは不明です。
 セラフィは何度か作中でも口にしていますが、彼女の自認は「僕は人間」です。
 他の三人はあまり口にしない言葉です。唯一(かもしれない)クルックスは、地の文中の心情で「短い『人』生(略)」などの言葉を使いますが、テルミやネフライトは滅多に口にしません。
 存在を定義するのは血ですが、使われたのは髪の毛で厳密には液体の血ではないため、魔法界におけるポリジュース薬では通常処理がされました。これが生き血であったのなら、どうなったのか。その答えを知るべくビルゲンワースに存在するクィリナス・クィレル元教授にポリジュース薬の作成を依頼する学徒は存在することでしょう。

 四仔は使われたのが『ポリジュース薬』であるという名称を知りません。もし、知っていたらネフライトあたりは放っておかなかった出来事になったでしょう。


次回
 テルミのお茶会

「闇の魔術の品ですって、お姉様、こわーい」
「聖歌隊の目隠し帽子は怪しいから仕方ないね」
「カインの兜の方が不審者だと思うけれど……」
「ほう。君は湖の大イカとどうしても遊びたいらしい」
「やはり時代はカインハーストよね
 (月の香りの狩人も協賛しています)」


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テルミのお茶会

お茶会
広く、茶を飲みながら話を交わすのを愉しむ集まり。

狩人の仔ら、特にテルミは人と話すことを好む。
星の徴を得ようとした瞳の系譜は、人界において、よく見える瞳でしかない。
しかし人の顔から心まで見通すことは、彼女にとって本を開くことより容易い。

秘密を持つ者ならば、注意すべきだろう。
最も彼から遠い──それは、本質的なところ、正しき心からも遠いことを指すのだから。



 

 ポリジュース薬の事件の翌日。

 早朝、狩人だけに聞こえる鐘の音がお茶会の合図だった。

 十一時。

 昼食にもアフタヌーンティーにも該当しないこの時間は、ヤーナムの多くの狩人にとって起床時間にあたる。お茶会の中身は、すこし重めですこし甘めの食事会だった。

 

「楽しいお茶会! 素敵なお茶会! わたしもいつかお父様とお茶会したいわ!」

 

 すでに収穫が終わった四号温室には、沸騰を待つ鍋がかすかに「シュー……シュー……」と音を立てている。

 セラフィは椅子に座り、テルミの軽やかなステップを見ていた。

 

「しかし、温室でお茶会とは。面白い趣だが、よく借りることができたね」

 

「わたし、寮監のスプラウト先生のお手伝いをよくしているの。だから特別に──とは、理由になりにくいのでしょうね。『いまは学校の中の方が外よりも危ないから』と言ったら了解をいただけましたの。きっかり三時間! わたし、四人でお茶会をするのが夢だったの!」

 

「そうなのか。初めて知ったよ」

 

 セラフィから見ても今日のテルミの浮かれ具合は珍しく映る。

 セラフィはうっすら笑って見せた。

 

 学校で起こる怪事は、さておき。

 今日、テルミの小さな夢が叶うのであれば──まぁ、よいではないかと思うのだ。

 

「わたしね、四人で狩りに行ってみたいの。それから、それから……たくさん、いろいろなところに行ってみたいわ」

 

「テルミはどこか遠くに行きたいのかな?」

 

「いいえ、違うのよ。四人でいろいろなことをしたいの。見てみたいの。感じてみたいの。──だって『生きている』ってとっても楽しいことだもの。ジッとなんてしていられないわ!」

 

 テルミの笑顔は、セラフィにとって少しだけ眩しい。

 セラフィは深くトリコーンを被った。

 

「……そうか。そうだね。生きているのは楽しいことだ。死んでいるより、ずっといい。分かるよ。分かるとも。最もお父様から遠い可能性の君。それが君の愛なのだろう。だから触れて確かめずにはいられない。病的に。ゆえに君は医療者なのだ」

 

「そうなの。お父様の目は正しいのよ。適材適所というものね。──あら?」

 

 温室は、外気温との差で全てのガラス面が曇っていた。

 だから、テルミの目には何者かが温室の扉の前に立ったことは分かっても、誰かまでは分からなかっただろう。

 この場では、セラフィだけが知っていた。

 

「いいよ、僕が出よう。──テルミ、少し早いがお茶の準備をしてくれないか」

 

「でも、クルックス達がまだ来ていないわ。はじめてしまうの?」

 

「はじめてしまうのさ。話せば解ける疑問だ。足跡に真新しい雪が積もらないうちに済ませてしまおう」

 

 ノックより先にセラフィは扉を開いた。

 温められた空気が三人を出迎えた。

 グリフィンドールの三人がそろって顔を強ばらせて立っていた。

 

「待っていた。こんにちは。僕とお話がしたいのだろう。招待状は出していなかったが、構わない」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 最初に動いたのはハリーだった。

 招かれるままに進み、ついて歩くハーマイオニーは辺りを見回した。

 

「……ここで、あー、何をしているの?」

 

「お茶会だ。しかし、定刻まで時間がある。手短に済ませてしまいたいところだ。お互いに」

 

 セラフィは椅子を勧めたが、三人は座らなかった。

 意を決したようにハリーが口火を切った。

 

「ナイト──君が、スリザリンの継承者なのかい?」

 

「僕はスリザリンの継承者ではない。僕らには魔法族の親戚がいない。何より蛇とお話ができない。──状況から言えば、最も疑わしいのはポッター、君ではないか?」

 

「僕じゃない!」

 

 ハリーはカッとなり、怒鳴った。

 寮を問わず多くの生徒からヒソヒソと噂のやり玉に挙げられたことは記憶に新しく、生々しい。

 

「そうか。すまない」

 

 どんな意地悪な顔を浮かべているかと思い、ハリーはセラフィの顔をろくに見向きもしなかったが、この一言で初めて彼女の顔を正面から見据えた。誤解を謝ったのは彼女が初めてだったからだ。

 

「一連の事件の状況と蛇語を話せる性質を見積もって話したが、君の気分を害してしまったようだ。誤解してしまい、申し訳ないね」

 

「じゃあ、ノ、ノクターン横町で君を見た。コーラス=Bのお兄さんと一緒に買い物をしていただろう? マルフォイ親子も一緒だった。闇の魔術に関わる物を学校に持ち込んでいるんじゃないのか?」

 

「おや。見られていたとはね。迂闊だった。……残念ながら僕らが欲しかった物は、まだ見つかったという連絡がない。憂いの篩。貴重品のようだからね。そもそも欲したのは僕ではなく、故郷におわすお父様だ。もし、届いていたとして、それを横取りするのは命がいくつあっても足りない」

 

「証拠は? 君がやっていないって証拠はあるのかい?」

 

 ロンの言葉にセラフィは「ふーむ」と唸った。

 

「『無い』ものを出せとは、難しいことを言う。それにこの手の問いかけは、往々にして自らを貫くものだから控えた方がよいだろう。例えば僕が『先にポッターが無実である証明をしろ』と言ったら君たちは困るだろう?」

 

「僕らが証言するよ」

 

「君たちが四六時中一緒にいるのであれば証言として信憑性もあるのかもしれないね。けれどそれにしても証明の証明が必要になりそうだから、無駄な話はやめよう。証拠は出せないが、僕らも継承者を探している。だから僕が手にした情報を開示しよう。『この学校にスリザリンの継承者の血を引く者はいない』」

 

「それは……でも、そんなこと分からないわ。だって千年前の人なのよ?」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「子孫なんて、その間にたくさんいるわ。何人かスクイブだって生まれてしまうだろうし、昔だったら子供の頃に亡くなるかもしれない。だからあなたが子孫じゃない可能性なんて──」

 

「それは僕だけに限らない。魔法族の誰にでも言えることではないか? 先の言葉は『純血一族一覧』の著者、カンタンケラス・ノットの子孫が証言した。僕は本に描かれた系譜を信じていないが、純血主義者の彼の言葉は信用に値すると思っている。それから子供の数だが、面白い着眼だ。けれど君はすこしだけ彼らに対する理解が足りないだろう」

 

「それはどういう意味?」

 

「純血主義の魁である寮祖スリザリンの一族の子孫達は、非魔法族に交わることをよしとするだろうか? 己が血の細さを哀れんだとして、自らが『穢れた血』と唾棄する彼らと子を成したいと思うだろうか? 彼らの誇りが許すだろうか?」

 

「…………」

 

「血が穢れては二度と戻らない。恥のように。だからこそ尊くて悍ましいのさ」

 

 言うべきことを失い、三人は黙った。

 

「……さて、僕の想像以上に君たちはこの問題に向き合っていたようだ。真摯にね。だから昨日のことは忘れよう」

 

「それは、あー、何の話?」

 

「下手な嘘は自らの品位を貶めることになる。注意したまえ、ウィーズリー。僕が『忘れてあげる』と言っているのだから、君たちは幸運だと思えばいいだろう。それとも何か。怒って欲しいのか?」

 

「何もなかった、で、いいわよね?」

 

 引っかかった物言いでハーマイオニーが言い、ハリーとロンがそれぞれ頷いた。

 

「物わかりが良くて助かる。嫌なことは忘れるに限る。長い人生だ。忘れられない出来事は、増えていくことだろう。忘れられるものは、忘れていくべきなのだ。さて、有用な話は以上。──テルミ」

 

「はぁい。皆さま、お座りになって、怖いお話はやめにしましょう。茶菓子はないのですけど、素敵な香りの紅茶を準備していましたの。外は寒いわ。温まってからお戻りになってくださいね?」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 朝早く鳴り響いた鐘。

 クルックスに訪れた目覚めは、短い人生における最悪のものになった。

 明け方の浅い眠りのなかでクルックスは、ヤーナム市街の夜にいた。セラフィの鐘が鳴るのを合図にいつぞやのように背後から強襲され、しまいには死んでしまう夢だった。これは本当にただの夢だったのだが、しばらく暖炉でジッとしていなければ朝食に立つ気力もわいてこないほど生々しい夢だった。

 クルックスにも気分が落ち込む時分は存在する。

 

(……ただの夢だったのに、本当にただの夢なのに、なぜ俺はこうも立ち直れずにいるのだろう……)

 

 心折れたポーズで座り込んでいると急かすような鐘の音が聞こえた。

 リーン……と鳴り続ける音はネフライトに違いない。

 落ち込んでいても仕方がないのでマフラーを巻いて談話室を出た。

 冷たい空気に晒されて、鼻をマフラーに埋めた。そうしているうちに不意に思いついた。

 

(そうだ。俺は、なぜ鐘の音で獣の皮を被る男のことを思い出してしまったのだろう?)

 

 特に関連はなかったハズだ。

 不思議に思うが、思い当たることは特になかった。

 いつか分かる日を信じて疑問に蓋をすることにした。

 そうせざるをえなかった理由もある。

 大広間に至る廊下で待っていたネフライトはメンシスの檻を被っていたが手に見慣れぬ物を抱えていたからだ。

 

「おはよう。なんだ、それ」

 

「おはよう。これは『ティースタンド』と言う物だ」

 

「ティースタンド? 何だ。メンシス学派の新しい祭祀道具かと思った。それはネフの持ち物なのか?」

 

「テルミの物だ。これに菓子やパンを山盛りにして帰るのが私達の仕事だ。……そこは理解しているだろうね?」

 

 空っぽのティースタンドを受け取った。

 説明を続けたネフライト曰く、三段の円盤を貫く棒で構成されたトレイの一種だと言う。

 

 ヤーナムの市井では、見かけないものだ。

 優雅に過ごす医療教会上層にならば存在するかもしれない。

 

「何とも……洒落た物だ」

 

 クルックスの素朴な感想しか抱かなかったが、ネフライトはご機嫌斜めだった。

 

「わざわざ取り寄せたそうだ。聖歌隊は無駄遣いが過ぎる」

 

「構わない。正式な『お茶会』というものを知っておきたい。面白そうだ。それに人形ちゃんがこれにお菓子を山盛りにして待っていたら嬉しいだろう? ならば、悪い買い物ではないさ」

 

「私は、別に、人形に期待などしていないが……」

 

「では、お父様が喜ぶだろう」

 

 厨房は、大広間の近くにあるらしい。クルックスは行ったことがなかったのでネフライトが先行した。

 玄関ホールに続く大理石の階段を下り、左に曲がったところにあるドアを開ける。そこには石段が続いていた。さらに石段を下りると明々と松明に照らされた広い石の廊下にたどり着いた。

 

「この先が、ハッフルパフの寮だ。どうやって入るのかは分からないが、用もないからな」

 

 厨房の入口である果物皿の絵をくすぐると梨は身をよじり、大きな緑色のドアの取っ手に変わった。

 ドアを開けると天井の高い巨大な部屋が見えた。地下だが、上の階にある大広間と同じくらい広い空間だった。石壁には調理器具が並び、いくつかはクルックスに用途が分からなかった。

 

「驚いた。厨房というから、もっと狭くてこぢんまりしたところかと。ネフは毎日来ているのか?」

 

「そうでもない。このところは寮に夜食を届けてもらっている。今日はテルミが事前に話を通しておいたらしい」

 

 ネフライトが「仕事中、失礼する」と声をかけた。

 当然のように人間が出てくると思っていたクルックスは初めて見る生き物に思わず左手が銃に伸びた。

 

「クルックス、そろそろ慣れてくれ」

 

 現れたのは「しもべ妖精」と呼ばれる、人間より小さな生き物だった。

 クリクリした大きな目、尖った鼻、コウモリ耳、長い手足──それが無害なものであると確認ができるまでクルックスは「うぅむ……うん……」と唸り声を上げた。

 そのうち、ホグワーツの紋章が入ったキッチンタオルを体に巻き付けたひとりがやって来て会釈した。

 

「ハッフルパフのテルミ・コーラス=Bから頼まれて来た。これに乗せて、四号温室まで届けてくれるか?」

 

「ハイ! かしこまりました!」

 

 ちょこんと膝を折る礼をされたクルックスは「ご丁寧にどうも」と狩人の礼で応えた。

 

「お茶のご用意もできますが、いかがしましょう?」

 

 クルックスは思わずネフライトを見た。彼ならば適当な応答をしてくれると期待したのだ。

 

「……はて」

 

 すっとぼけた。

 よくよく考えてみれば聖歌隊の依頼を従順にこなすメンシス学派がいるハズがなかったのだ。

 

 ティースタンドを押し付けられた時点で気付くべきだった。

 クルックスは、しもべ妖精に向き直った。

 

「あ、ああー、えーと。それは、こちらでテルミが準備しているから不要だ。菓子だけでいい」

 

「かしこまりました!」

 

 しもべ妖精は床に頭を着けるかと思えるほど頭を下げた。

 

「──ところで昨日、レイブンクロー行のサンドを作ったしもべ妖精はいるだろうか?」

 

 まったく関係のない話を突っ込んできたネフライトは、この質問をしたいがために来たに違いない。

 

「はいはい! わたくしめです! ご依頼があってから毎日、わたくしめがお作りになってます!」

 

 部屋の奥にある暖炉から駆けてきたしもべ妖精は、ピタリと立ち止まり礼をした。

 ネフライトはポケットから羊皮紙を出した。

 

「いつもありがとう。夜が遅いので重宝している。……追加の要望だ。パンは、厚めでいい。具材は……肉は、豚肉以外で週に一度。できれば季節の野菜が好ましい。それから、できればスープを付けて欲しい。簡単な物で結構だ」

 

「わたくしめは、お分かりになりました!」

 

 心配になる返事だったが、ネフライトが「仕事中、失礼した」と一言断りを入れて厨房をあとにした。

 そのあとをついて行くクルックスは「そういうものか」と受け入れることにした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 マフラーをしっかりと結び直し、温室まで歩く。

 曇りがちなこの頃は、空が低く見えることが多い。

 振り返ると白い屋根になったホグワーツが見えた。

 

(カインハーストもこのような風景なのだろうか)

 

 白い息に気付き、フゥーと息を吐き出してみる。

 ビルゲンワースの学徒、コッペリアは稀に刻み煙草を吸うが、その時の煙ほど白くも長くも続かない。

 立ち止まってフゥフゥしているクルックスをどう見たのか。なぜかネフライトも立ち止まり雪の塊を踏みつけていた。

 

「冬になると」

 

「む?」

 

「メンシスの檻が寒い。かといって暖炉のそばにいると焼きごてだ。私は悩ましい問題を抱えている」

 

「そうか。すまない。……何と言ったらいいのか分からない……」

 

「冬は嫌いだと言っているのだ」

 

「そう言ってくれ。ん? 待て。その論では、夏は暑いから嫌いだろう?」

 

「そうなるな」

 

 ──まさか聖杯の中でしか生きられない悲しい生き物だったとは。

 思わず言いたくなったが、最も当てはまるのは父たる狩人だったので黙っていた。

 しかし、ネフライトには想定内の発想だったようだ。

 

「ヤハグルは他の地域より標高が低いから地下に該当する。隠し街の名の通り。そのせいだろうか。気温の変化が少ないな。空気も澱んでいるが……。四季は、私には刺激が強い」

 

「檻を外してもか?」

 

「私からメンシス学派の肩書を取ったら何も残らない。連盟員だってそうだろう。よってその仮定には意味がないな。行こう。テルミを焦らすのも飽きてきた」

 

 二人は歩き始め、温室に到着した。

 

「待っていた」

 

 扉を開けようとしたところ、先に扉が開きセラフィが出てきた。

 

「珍しいな。帽子を被っていないなんて」

 

「あっ。……温室は、意外と温かくなるのだよ」

 

 セラフィは普段より柔らかい表情に見えた。

 温室に入ると理由がよく分かった。

 テルミが両手で頬をはさみ、眉を寄せていた。

 

「温めようと思ったのだけど暑くなってしまったの! でも、ポカポカなのでお許しになってね?」

 

「…………」

 

 クルックスは何の問題もなかったが、隣のネフライトは耐え難いらしく「暑すぎるっ!」とフード付きの学徒の外套を脱いだ。

 テルミは、楽しげにペロリと舌を出していた。

 

 ネフライトの嫌がらせはたいていの場合、巡り巡って自分に降りかかる災いになる。

 クルックスは、その傾向を学習した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「お茶会を始める前にテルミから報告があるだろう。それを聞こうか」

 

 全員が席に着いた時点で会話を勧めるのは、いつものようにクルックスだ。「僕も聞きたいな」とばかりにセラフィがテルミを見た。

 いつもならばすぐに報告を始めるハズのテルミは、曖昧な笑い顔だ。

 

「あ、あーぁ、そうよね、気になるわよね。うんうん。分かります。分かります」

 

「テルミ、なぜそう視線を逸らすのだ。……あ? まさか、いや、そんな……四ヶ月だぞ。ひょっとして……」

 

 クルックスが危惧に思い至る直前、テルミがひらひらと手を振った。

 

「あ、えーとね。まず怒らないで聞いてほしいのだけど」

 

「──言い訳不要」

 

 煮え切らない態度のテルミに鋭い指摘が刺さった。

 見ればネフライトが両手をパッと広げた。

 

「さっさと言いたまえよ。学者らしく結論からな。ん? どうした? いつもの医療者らしい高慢さはどこに置いてきた? 今さらしおらしくしたところで、聖歌隊の磯臭さは消えまいに。ええ?」

 

 珍しくニヤニヤと笑い、目を細めるネフライトは、クルックスがこれまでに見たなかで最も楽しそうにしていた。

 いじめられているのがテルミではなかったら放置するところだが、彼女が「やっぱり来た」と顔を顰めたのを見てしまっては庇わずにはいられなかった。

 

「ネフ、まだテルミは何も言っていないだろう。それに話には順序というものがある」

 

「順序も何もなかろうよ。だって『何もない』のだからな?」

 

「うぅ……こんな時ばかり強気の貴方は、いい性格ですこと……」

 

 テルミが悔しそうに唇を尖らせた。

 

「せ、成果がないワケではないのよ。ええ、そう。ゼロではないけれど、きっと皆さんの望むような情報ではないだけで……」

 

「狩人に繰り言が必要か? 『聖歌隊のテルミ・コーラス=ビルゲンワースは、今回の事件に関し、全く手がかりが得られませんでした』と言え。言いたまえよ。クフフ、なぁ?」

 

 ネフライトが嬉々としてテルミに催促する。

 いつもテルミに何かと当てこすられている鬱憤だろう。

 見ていられなくなり、口を挟んだ。

 

「ネフ、そういう悪意ある言い方はやめろ。これは忠告だ。本当にやめた方がいいぞ。そのうち、絶対、自分が言うハメになるだろうから、絶対。そろそろ気付いたかもしれないが、君は賢いけれど残念なほどに運が悪いんだから……」

 

「ハァ!? 私はそんなヘマをしない! すると思うか!? 私が!? これだけ煽って、煽られ返すなど恥ずかしい真似をすると本気で思っているのか!?」

 

「む。いちおう、未来の我が身に起こる事として考えてはいるんだな。感心だ」

 

 セラフィが見直したように言うが、それは違うとクルックスは思った。

 

「いや、しかし、それでも煽るのは、もう愚かとしか……」

 

 世の中。

 例え、万人に愚かと誹られようとやらねばならないことがあるのだろう。

 それが同胞に対するこんな仕打ちであったことはクルックスも頭の痛い──どころか情けなくて父たる狩人に会わせる顔がない。

 

 ネフライトは昨年の知識共有会にて、聖歌隊の面々にたっぷり質問されたことがある。

 旗色不利な状況で助言のひとつも発さなかったテルミに対し、言いたいことが山ほどあったのだろう。テルミも困るネフライトを見て楽しんでいた節があった。

 

(自業自得とは、すこし違うが……)

 

 ネフライトが抱いた不満はその場で言わせるべきだったとやや反省する。

 彼の頭の作りは他の三人より厳格だ。

 ゆえに容赦がない。

 彼は自分がされた仕打ちを決して忘れない。忘れることができないのだ。

 

(とはいえだ)

 

 ネフライトの激情の引き金は思わぬところにあった。この事実は全員にとって不意打ちだったが、いつもならばケロリとしているテルミが今日に限ってやや弱腰なのも彼がヒートアップしてしまった原因の一つだろう。

 

「二人とも。人の失態をあげつらうことは良くない。そもそも自分にされて嬉しくないことをするのは、賢い行いではないと思うよ」

 

 セラフィの発言は、常であれば秩序をもたらすものであった。

 

「──し、失態ではないです! 失態ではないです! そこは訂正してくださいね!」

 

「やかましい! いいから言えっ! 『わたしはメンシス学派に負けました』と言えっ! 私はここで血酒を飲みながら見ているから!」

 

「要求がエスカレートしてるわ! やっぱりメンシス学派なんて野蛮だわ! 横暴だわ! 陰湿! 瞳狂いの檻頭は大人しく日蔭に引っ込んでいなさいな! あと、負けてません! 聖歌隊はメンシス学派に負けていませんからね。重要なところなので訂正してください。『失態ではない』って言ってるでしょう? あー、もー、ネフったらネチネチしているしカビ臭いし湿っぽい! お父様に言いつけてやりますからね!」

 

「ほほう。言ってみるがいいさ。正義は我にあり。だいたいお父様から碌に取り合っていただけない君が何を言おうと怖くないがね! 聖歌隊の脅し文句ならもっと賢い罵倒をすべきだ!」

 

 クルックスは、どうしても気になってしまったので「賢い罵倒なんて矛盾してないか?」とセラフィに聞いた。彼女は頷き「ああ、僕も気になった。きっとそういう言い回しが教会にはあるのだね」と明後日の会話をしていた。

 

「う、うーんとそうね。『ヤハグルも旧市街みたいに焼くべきよね』とか?」

 

「あ、うん、それくらいの傲慢さがちょうどいい──焼き討ちとか絶対に許さんぞ!?」

 

「さ、催促しておいて逆ギレするのやめてくださる!?」

 

 クルックスは右手を挙げて二人を制した。

 

「そこまでだ。これ以上の言い争いは許さん。文句あらばお父様の目下、決闘にて万事を平らかにするがいい。祭日の残滓が漂う今日を血のお茶会にはしたくない。──着席せよ」

 

 ネフライトは立ち上がりかけた腰を落ち着かせ、テルミを視界に入れないようにそっぽを向いた。

 その先で偶然、目が合ったセラフィが「わかるよ」と絶対に分かっていないことを言った。

 

「では、テルミ。できる限りの報告を」

 

「えー。こほん。怒らないで聞いてほしいのだけど。一連の犯人の特定は、不可能です。できませんでした」

 

 キッパリと言い切ってしまったテルミにクルックスは言葉を失った。

 情報が思うように手に入らないという状況だとは察していたが、それにしても女子生徒や男子生徒などの属性としての特定程度はできていると思っていたからだ。

 

「……それは……理由を、とりあえず理由を聞こうか」

 

「生徒は皆、一様に怯えているわ。中には自分だけは安全だと思っているスリザリンのおマヌケさんや監督生の勘違いさんもいますけど、あれらは根拠のない自信と裏打ちのない事実に基づく態度というだけです。次に誰がどこで襲われても、現状まったく不思議ではない」

 

「君は演技を見破ることができるのか?」

 

 ネフライトの投げやりな質問に、テルミの薄い唇は弧を描いた。

 

「わたし、目を合わせることができない聖歌隊のお兄様とお姉様に囲まれていますの。目が見える生徒の嘘なんて、アハハ、笑ってしまうほどお見通しです」

 

「テルミを疑うワケではないが……だが……?」

 

 テルミの言葉が真実であれば、自分は安全だと思い込んでいる生徒を含め、生徒の全員が犯人ではなくなる。

 だからこそ『犯人の特定は、不可能』と断言したのだろう。

 しかし、それでは一連の犯人は──。

 

「誰だ? 先生か?」

 

「当然の帰結で面白い着眼点なのだけど、残念ね。先生は、生徒より怯えているわ。あのスネイプ先生ですらね。もうピリピリよ。あぁ、あの役立たずロックハート先生は論外だけど」

 

「僕からも一つ情報提供させてもらおう。『この学校にスリザリンの継承者の血を引く者はいない』と」

 

 ──都合の悪い情報ばかりが集まる。

 クルックスは眉間に手を当てた。

 静かになったネフライトはテーブルのシミの一点を見つめていた。

 

「証言したのはスリザリンのノットだ。『純血一族一覧』の著者、カンタンケラス・ノットの子孫でもある。信憑性は、高いと見た」

 

「…………」

 

 生徒も先生もは皆、怯えている。

 スリザリンの血を引く者はいない。

 

 これらの事実が真実であったという場合、導かれるのは『生徒と先生が無実である』という事実だけだ。

 

 消去法では、外部から招かれる第三者が必要となる。

 

 だが、ここまでは周囲の状況を見てクルックスでも考えついたことだ。

 この思考の問題点は、肝心の『第三者の姿が存在しない』ことだ。

 存在しないのであれば前提が間違っていると考え直して、それからずっと疑問は疑問のまま進展がない。

 

 打破するためのきょうだい会議において、再び壁に遮られた。

 テルミは、普段とおりの明るめな微笑を浮かべていた。

 

「テルミ?」

 

「ここまで言えば十分でしょうね。さて、ネフライト・メンシス」

 

 テルミは三本の指を立てた。

 

「『生徒のなかに犯人はいないようにみえる』という私見。『この学校にスリザリンの継承者の血を引く者はいない』という純血一族一覧の著者の子孫の証言。『この学校で最も優れた魔法使いが、石になった生徒を魔法で戻すことができない』というダンブルドア校長の事実」

 

 三本目の指が折れた。

 軽く手を叩き、テルミは両手を開いた。

 

「以上、三点を真として、矛盾なく犯人を特定してください。できるでしょう。貴方ならば」

 

 ネフライトは、テーブルのシミから目を離し顔を上げた。

 正面にいるテルミの藍の瞳を彼は見ただろう。

 

「席を外す。……礼拝の時間だ」

 

「あ、ちょっとちょっと待ってよ」

 

「十分で戻る。そのあと私の見解を伝えよう。あと、お茶が飲みたいから準備をしてくれ」

 

「あ、はぁい。──そうじゃなくて、い、いま? 礼拝って、あとじゃダメ?」

 

「考え事を整理する時間でもある。当然ダメだ」

 

 ネフライトは、フード付きの外套をつかむと温室の外に行ってしまった。

 三人は顔を見合わせてから、茶を淹れた。

 そして定刻になるとテーブルに菓子やパンを載せたティースタンドが現れた。

 

 しかし、手を付ける者はいない。

 一連の結論が出るまで、許されないという暗黙の了解があった。

 

 短い準備時間を終え、三人は椅子に座った。

 

「……とりあえず、聞くが……テルミは犯人に心当たりはないか? 本当に?」

 

「えぇぇ、わたしにそれを聞いてしまうの? ネフが話してからでいいでしょう」

 

「いま話した方がよいと思うがな。ネフの話のあとで『わたしもそう思っていたわ』と負け惜しみを言いたいのならば、まぁ無理にとは言わないが……」

 

 クルックスはテルミを案じて助言したが、それが逆に彼女の気に障ったらしい。

 

「ピリピリしているクルックスは、とっても頼もしいわね! カインの納税に追われるお父様みたいで、わたし好きよ!」

 

「カインの納税は過酷ではないよ。お父様は、あれこれを先延ばしにする悪い癖があるから、滞納してしまうんだ。そろそろ女王様がお求めの『穢れ』を納品しないとレオー様か鴉羽の騎士様が取り立てに来てしまうだろうな。……すまない話の腰を折ってしまった。僕も早めに自分の意見を言った方がよいと思う。純粋に気になるからね」

 

「あぁ、ハイハイ、言います、言いますわ。分かりません。本当に分からないの。嘘をついている人は、誰もいないように見えるの。壁に文字が書かれた時点では、こんなに手がかりもない存在がいるとは思いもしませんでした。お手上げです」

 

「ふむ……。テルミが言うならば、そうなのだろう。情報収集、ご苦労だった。ありがとう」

 

「もー……素直にお礼を言ってくれるのはクルックスだけよ……」

 

「僕もお礼くらい言えるよ。ありがとう。テルミ。君の献身に感謝する」

 

「はいはい、どーいたしましてー……はぁー……」

 

 言葉を放り投げたテルミはお茶を一口飲んだ。

 その間に、セラフィに訊ねた。

 

「セラフィは犯人が誰か心当たりがあるか?」

 

「さっぱり分からない。とりあえず生徒ではないのだろう。僕らに見えない部外者がいるのだろう。学校は広い。森に住んでいたら僕らでも気付かないかもしれない。可能性としてはあり得る。──というか、そう考えなければ辻褄が合わない現状が今だ。そうだろう?」

 

「……たしかに。昨年もトロールが城内に入ってくることができる状態だったからな。ふむ。あり得るか。森……森か……」

 

 クルックスは、構内にある禁じられた森について詳しくない。

 昨年は赴く機会がなかった。

 だから今年こそは調査で向かってもいい頃合いかもしれなかった。 

 

「検討しておこう。では次に、襲われた猫や人から動機を解明できないだろうか? この際『どのように』という手法は棚に上げて考えるとして……」

 

 まず、フィルチ管理人の猫が襲われた。

 次はグリフィンドールのカメラ小僧ことコリン・クリービー。

 そして、ハッフルパフのジャスティン・フィンチ=フレッチリーとほとんど首無しニック。

 数え上げていくと共通点が浮かび上がってくる。それは。

 

「『マグル生まれが襲われている』と見えるが、魔法使いの血筋でマグルの血が流れていない者など稀少だろう。襲われた数が少ないから傾向からの分析は……? どうなんだろうね。テルミ」

 

「襲われた人の傾向? 犯人もあまり考えていないのではないかしら。強いて言うならば、猫以外はハリー・ポッターに関連のある人物ではなくて? ウィーズリーとハーマイオニーも同伴してましたが、コリン・クリービー以外では第一発見者でしょう? 偶然にしては出来すぎているわよね。まるでハリー・ポッターを継承者だと誤解させたいように見えます。第一発見者が怪しまれるのは当然ですからね」

 

「そこだ。そこが分からないのだ。犯人が、例え生徒にしても先生にしても部外者にしても、なぜハリー・ポッターが狙われるのか? またアレか。『生き残った男の子』だからか? それが何だというのか。彼は、ただの勇気ある善人ではないか」

 

「──と見るわたし達には分からない、計り知れない価値があるのでしょうね」

 

 議論は平行線を辿った。

 数少ない情報で導き出せる解答は少ないからだ。

 話題が三巡ほどしたところでクルックスは、温室の外をぼんやりと見た。

 

「ところで。ネフはまだか? 遅いな。礼拝とはいつもどれくらいの時間をかけるものなんだ?」

 

「メンシス学派の礼拝のことは分かりませんね。そもそも今は医療教会が定めている礼拝の時間ではありませんので……」

 

 三人は無言で顔を見合わせ、弾かれるように椅子から立ち上がった。

 

 最も真相に近い話をしようとしていた矢先のことである。

 ──遅すぎる。帰ってこない。

 この状況は彼らを温室の外へ駆り立てるには十分だった。

 

「まさか!」

 

「最近は、その『まさか』という出来事がよく起きますから」

 

「そんな、ネフに限って──」

 

 三人は温室を飛び出し、ネフライトの足跡を追った。

 心配は杞憂に終わった。

 温室の外でネフライトは交信のポーズをしていた。

 

 クルックスは安堵に肩を落としたが、セラフィが「待て」と声をひそめた。

 

「石になっていないだろうか。ピクリとも動かないが……?」

 

「はいはい、二人とも下がって。──わたしが行きますので」

 

「なぜだ。俺が先に」

 

「二人が一番と二番に強いのだから、いざというときに戦力を欠くことは賢い選択ではないでしょう。だから。はい、下がって。──下がりなさい」

 

 テルミは二人を温室の蔭に入れるとネフライトに声をかけた。

 彼は石になっているのか、集中しているのか。果たして反応しなかった。右手は地面と水平に、左手は天を指し止まっているように見える。

 

「ネフ、そろそろ時間よ」

 

 テルミの凜とした声が聞こえた。

 しかし、まだネフライトは動かない。

 

「まさか本当に……」

 

 クルックスとセラフィは温室の外壁にしっかり身を寄せて、耳を澄ました。

 それから五分経った。

 テルミのものではない衣擦れの音が聞こえた。

 

「──おや。何だ、テルミ。フフ、待ちきれないのか?」

 

「──まさか。逃げ出したのかと思って」

 

「──礼拝だと言っただろう! 君には信心というものがないのか? まったく……」

 

 そう言いながら戻ってきたネフライトは温室の外で待ち構えていたクルックスとセラフィを見て、時計を確認した。

 

「……あ、その、なんだ、長い祈りのときもある……」

 

「こんな事態だ。テルミを悪く言ってくれるな。心配していたのだから」

 

 ネフライトはテルミを見た。ニッコリ笑っていた。彼は不明瞭に「うぅ」と唸るだけだった。

 四人は肩に積もる軽い雪を払い、冷たい空気と共に身震いし、再び温室の椅子に座った。

 

「あぁ、寒い。私は寒さというものに慣れない……」

 

「貴公は、カインハーストは不向きだ。砂糖は?」

 

「もらおう」

 

 ネフライトはメンシスの檻を外すと衣嚢に収納した。

 お茶を飲みながら角砂糖をソーサーの上に三個置いたネフライトは、そのうち一つをフォークに差して食べ始めた。

 クルックスは砂糖の使い方が違うのではないかと思ったが、ひょっとしたらお茶に入れた自分が間違っていたのかもしれないと思い直した。

 冷気が温くなったところでネフライトはカップを置いた。

 

「さて、先ほどの課題について話そう」

 

 姿勢を正し、ネフライトは語り始めた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 以降、全ての証言が真実であった場合として論を構成する。

 よって。

 いずれかの証言が事実と異なっていた場合。

 この仮定は破綻する。

 これは三つの仮定に整合性を持たせただけの推論に過ぎないからだ。

 

 学者らしく結論から述べよう。

 

 まず、個人の特定はできない。しかし、生徒の中に犯人はいる。

 そして、犯人と石化させている何かは同一人物ではない。

 

 順をおって話そう。

 

 テルミの証言『生徒のなかに犯人はいないようにみえる』から検証を始めよう。

 

 犯人はいないように『みえる』。ああ、そう見えるだろう。見えはするのだ。外見上は。そして内心も怯えているだろう。その恐怖は真実だ。だからこそ見抜けない。それでも学校に棲まう誰か──その中に犯人はいる。だが、自分が犯人であることを知らないか、分からないか、忘れているのだろう。突然の第三者を考えるより、こちらの方が物事のとおりが良い。そしてタイミングよくポッターを嵌めることができる。

 

 次、ノットの証言『サラザール・スリザリンの血を引く者はいない』について。

 

 サラザール・スリザリンの血を引く者は、存在しない。ああ、そのとおり。そして重要ではないのだ。「物質的には存在しない」ということは。証言は有用だ。しかし、精神・魂・血・知識──媒体は何でも構わないが──それらの存在を否定できない。つまり、証言だけでは「神秘を継ぐ系譜がいないことまでは否定できない」という意味だが。『スリザリンと血が繋がらない』と自称するハリー・ポッターは、けれどたしかに蛇語を話した。その由縁は我らの知り及ぶところではないが──血を介さない伝達の方法は、確実に存在すると推定する。これは自称スリザリンの継承者であっても同じことだ。血の繋がりは必ずしも、継承者に必須ではないのだろう。

 

 最後に『この学校で最も優れた魔法使いが、石になった生徒を魔法で戻すことができない』について。

 

 これが、複数犯の証拠になるだろう。

 自称スリザリンの継承者と生徒を石にしている何者かは別の存在で、石化の原因は魔法使いではない。そして生徒ではない。先生でもない。スリザリンの怪物と呼ばれる動物か、物体だ。それが学校の中、どこかにいて何かを合図にして襲っている。生徒が扱うには強すぎる呪いをまき散らしているのだ。『最も高度な闇の魔術を持って初めてできることだ』とダンブルドア校長は言った。彼が解けないのだから、高度な闇の魔術を操る何か──恐らく、生き物だろう──が、いるのだろう。

 

 以上を持って、証言から考察を終了する。

 反論は、異論をもってのみ応える。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「うん……うん……。困る。とても困る。このような状態は、どうすればよいのだろう? 無自覚な継承者だと?」

 

「ネフ、人間の犯人は部外の第三者ではダメなのか?」

 

「ダメだ。タイミングが良すぎる。ハリー・ポッターが発見者となることが多い。これは偶然ではない。むしろ狙われているのかもな。そして、外からひょっこりやって来た部外者が、千近い生徒の中から特定の生徒を見つけるには手際が良すぎる。狙いもよい。犯人は、この城の構造をよく知り、時間割を理解する生徒だ」

 

「なぜ先生は除外されているのか聞いても?」

 

「『この学校で最も優れた魔法使い』が選んだ先生達だから除外した。ダンブルドア校長の目が曇っていたら、その時はそうだな。『ダンブルドア校長は賢人気取りのただの老人だった』というオチになるだけだ。昨年のクィレルと今年のロックハートを見れば、この線は大いにありそうだがね」

 

 口の中が砂糖でジャリジャリしているのかネフライトはお茶を飲んだ。

 彼はテルミに新しく淹れてもらったお茶に角砂糖を一個入れた。

 クルックスはホッとした。

 しかし、状況はよろしくない。

 

「石になった人以外は、誰もが怪しい状況だ。どうやって犯人を──継承者を特定する?」

 

「特定は……できないでしょう? ネフ。この状況では」

 

 テルミがうつむきがちだった顔を上げた。

 チョコレートケーキに手を伸ばしかけていたネフライトは宙をつかんだ。

 

「貴方が言わないということは、無いのでしょう?」

 

 ネフライトは、自分の課題がすっかり終わったので食事を始めたかったらしい。

 指先をすりあわせて時計を見た。

 

「そのとおり。無い。けれど問題ではない。先ほどの仮定が正しいとすれば、継承者の特定など些事に成り下がる。むしろ重要なのは、いつもどおり『どうやって怪物を殺すか』という一点だ。継承者から怪物を取り上げてみろ。どうして脅威になろうか?」

 

 ネフライトは、ふと宙を見た。

 

「──つい先日のことだ。私は何となく麻酔がほしくなって医務室に行ったのだが、ついでに被害者の状態を見てきた。猫とフィンチ=フレッチリー、あとゴーストはどうでもいいので割愛。そう、特筆すべきはコリン・クリービーの遺体だった」

 

「死んでいない。死んではいないぞ」

 

「私にとってはどちらでもいい。そのことは置いておく」

 

 彼は棚の上に物を挙げる仕草をした。

 

「近くにあったマダム・ポンフリーの手記によればクリービーは葡萄を持ち、腕の骨を抜き取られたハリー・ポッターの見舞いのため医務室に行きたかったらしい。石になった両手の形から察するに、カメラを構えた状態で石になった。これの意味するところは──石化の原因を『生き物だ』と仮定するが──会敵時、石になるまで多少の時間があったということだ」

 

 ネフライトは学徒のズボンの腰につり下げた銃を抜いた。

 そして、弾を詰め、撃鉄を起こす仕草をする。ついでに銃身を撫でた。

 

「もし、怪物がいるならば興味深い。ええ。ええ。私は知りたいのだ。闇の魔術を操る怪物とヤーナムの神秘。優るのはどちらだろうか?」

 

 そう言った彼は、うっそり笑って一本の細いガラス瓶を取り出した。

 光の加減によって、その内容物は赤くも青くも見えた。

 父たる狩人、そしてヤーナムに棲まう上位者からの贈り物を思い出し、クルックスは水銀弾をひそめた衣嚢に手を置いた。

 

「コリン・クリービーが、手から葡萄を落とし、首に提げたカメラを構え、ファインダーを覗き込み、敵を見るまで、短くとも数秒。──その間に我々ならば何ができると思うね?」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 穏やかなお茶会が始まった。

 朝食と昼食と軽食を兼ねたお茶会は、ヤーナムに連なる者らしからぬ温かい雰囲気に包まれていた。

 ──最近の授業はどうか。評価は。勉強方法は。

 ごく普通の生徒のような会話をしているとひょんなことからネフライトが言った。

 

「私は、別に、テルミが憎いワケではない。ただ、ヘマをした聖歌隊を見ると、なぜか、こう、虐めずにはいられないというか、むしろやるべきとか、やらないと損だよな……とか考えてしまってね。どうしてだろうか。不思議だ」

 

 テルミをネチネチ虐めていたが、彼自身なぜ楽しくなってしまったのか分からないらしく首を傾げていた。これには──当然だが──虐められていた方はたいへん面白くない。

 

「この人、病気! 病気よ! 今に瞳孔がドロドロになっちゃうわ! こわーい!」

 

「よしよし。だが、ネフはテルミを嫌いではないのだから、そこは認めてもよいのではないかな?」

 

「憎いワケではない。だからといって好きというワケではない。むしろ嫌いだ」

 

「お姉様、ネフがいじめるわ! 聖歌隊いじめよ! 酷いわ! 檻頭のクセに!」

 

 セラフィにしだれかかるテルミが「よよ」と泣き真似をした。

 それを適当にあやすセラフィは、妙に慣れた手つきだ。

 

「僕が思うにそういう罵倒がそもそも……。ネフも似たようなものだからいいのかな? よしよし」

 

「私がいつ聖歌隊の悪口を言ったのかな? え?」

 

「何だい、ネフも僕によしよしされたいのか? いいよ。よしよし」

 

「するかッ!」

 

 ネフライトは、セラフィの手を素早く振りほどいた。こういうときに技量の差を感じられる。

 しみじみと三人のやり取りを見ていたクルックスは、会話の帰結に思い至り、ハッと息をのんだ。

 

「え。では、お、俺がやろうか?」

 

「要らんわッ! そういう! 役に立たない、微妙な気遣いに! 腹が立つのだ!」

 

 フォークを突きつけながらネフライトが怒鳴った。

 

「えぇぇ……? やはり君は繊細すぎる」

 

 しかし、そのあと。

 ネフライトは菓子をたくさん食べたら機嫌が直ったので彼の『繊細さ』というものは、移り気なものなのだろう。

 お茶会は、さまざまな学びを得て終了した。




テルミのお茶会

セラフィの忘れてあげる:
なにもなかった。いいね? ──はい。
 セラフィ自身、自分の容姿は自分の心の問題で好奇心の問題なので、他者の誰が化けようと心配はしません。……いや、でもちょっとはビックリしたけどね。
 なお彼女が問題にしないのは『自分の問題』だけであり、『カインハーストの名誉』に関わる問題は別腹なので迂闊に言うと湖に三〇秒コースになります。
 憂いの篩はまだ見つかっていないそうです。新しい聖杯候補です。早く見つかるといいですね。


ネフライトの悪癖:
 自分のされた仕打ちを忘れず、あるいは施しを忘れない彼は、損得について厳密な帳簿を持っています。しかし、左と右の天秤を揃えるために報復するだけなので彼自身、好悪の感情こそあれ恨みはありません。その点、セラフィには理解しがたい価値観でしょう。精算を終えてしまえば、再び対等な立場での付き合いが始まります。
 それはそうと、クルックスには「どうしてそこまで……」と引かれます。ネフ本人的には十分な時間と動機がありますが、傍目には急に発火した恨み言に見えるのでどう見ても、その、愚かとしか……。
……テルミ? 査定落ちだ! 日頃の恨みをくらえ!……


映画では、そろそろ後半戦という頃でしょうか。
今後ともお楽しみいただければ幸いです。

感想お待ちしております。(ジェスチャー 交信)


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奇っ怪

宣誓
人の前で己を示すため誓いを立てること。
狩人の仔ら、特にもクルックスが自らに課す誓いは重い。
ヤーナムに希有たる善性は、だからこそ彼を苛むのだ。



 長いような短いようなクリスマス休暇が終わった。

 再び学校には生徒が戻ったが、相も変わらず冷え冷えとした学校生活だ。

 

 唯一、変化があるとすればネフライトが主宰する『互助拝領機構』だった。

 

「おい、何をしている?」

 

 放課後、日課となった廊下の哨戒をしていたクルックスは声をかけた。官憲仕込みの問いかけに自分でも「あぁ、またやってしまった」と悔やむ。

 廊下で出会ったルーナ・ラブグッドは、投げかけられた声に大きな目を見開いて振り返った。今日は、彼女の隣に列車で偶然一緒になったことがあるジニー・ウィーズリーもいた。ジニーがビクリと震えた。

 素早く「すまない。何か咎めたかったワケではないのだ」と釈明した。

 

「──ああ、あんた。クルックス・ハントだ」

 

「覚えてくれて話が早い。また互助拝領機構のチラシか。参加者は増えたか?」

 

「増えたよ。この子。ジニーだ!」

 

 ルーナは自信満々で紹介したが、一方のジニーは「ち、ちが……あたし、そんなつもりじゃ……」と言いかけた。

 気持ちは分かる。

 クルックスの目もつい遠くなる。変人グループに誘われたとあっては、他の交友関係にヒビが入ると思っているのだろう。クルックスは気にしないが、一年生の女子の微妙な機微で成り立つ交友関係は面倒だという程度は想像がついた。

 

「見学だけでもって誘われて……」

 

「今日は、決闘クラブでやった呪文を学び直すんだ! あんたも来たら?」

 

「廊下の見回りが終わったら向かおう。ネフにもそう伝えてくれ」

 

 クルックスは、ルーナが掲示板に貼ろうとしていたチラシを受け取った。

 チラシには大きな文字で『初★心★者★大★歓★迎』の文字がある。

 丁寧に折りたたんで外套のポケットに突っ込んだ。

 

「それじゃあ、またね」

 

「よい学びを」

 

 ヒラリと手を振って別れた。

 三十分もしない間に合流できるだろう。

 そういえば、どの教室でやるか聞かなかったが、校舎を一周する間に分かるだろう。

 

「…………」

 

 左手ですぐに銃が撃てるように歩くことが癖になった。

 放課後はローブを脱いで狩人の外套をまとうことにしていた。狩人の服は、物理法則を物ともしない収納力を秘めているからだ。獣狩りの短銃の銃把に手をかけて周囲の様子をうかがいながら歩く。

 とある廊下を曲がったところでスネイプ先生に出くわした。

 

「スネイプ先生、こんばんは」

 

「ああ」

 

 素っ気ない。

 通りすぎようとしたところ「待ちたまえ」と声をかけられた。

 

「ふくろう便の件はどうなったかね?」

 

「ウィーズリーに依頼しました。現在、ウィーズリー夫妻から可否の返答待ちです。返答あれば、次第を報告いたします」

 

「……年度末までに報告したまえ。寮監でも構わん」

 

「了解しました」

 

 会話はそれきり終わり、スネイプ先生は去って行った。

 ヤーナムのことはもちろん獣の皮を被る男のことなど話題にもしたくないように見えた。

 ──殺されかけたのだから、それもそうか。

 クルックスは再び歩き出した。

 

(お父様は……スネイプ先生に感心もしていたが、怒りもしていたな)

 

 武装した狩人でなければ生き残るのが難しいヤーナムの夜。

 そこで魔法使いが太刀打ちできるとは思っていなかった狩人は、来訪者であるスネイプ先生が生きていたことにとても驚き、感服した。

 しかし、夜が明けて会話を交わすうちにその心証は苦いものになった。

 クルックスは、スネイプ先生と狩人が会話を交わしているだけに見えたが、狩人は無礼だと感じる何かをされたらしい。終いにはガトリング掃射をお見舞いすべきだったと述べて会話を中断させた。普段は誰であれ、ひとまずは会話しようとする狩人がそのような態度を取るのは珍しいことだ。ビルゲンワースの学徒達がいない場所で物事を決められないという制約があるとはいえ、穏やかな会話の中断だったとは思えない。

 スネイプ先生が話題にしたくないのは、引け目があるからかもしれなかった。

 

 窓が多い廊下にさしかかった。ほとんど真横から夕日が差し、クルックスは目を細めた。

 足を止めて校舎の外を見ると森番の家とその奥に広がる禁じられた森が見えた。

 

「…………」

 

 怪物がいるとすれば、それは森ではないかと思っていた。

 マクゴナガル先生が変身術の授業で言った。

 

 ──歴々の先生、専門家が秘密の部屋の確認に挑み、そして見つからなかった。

 

 生徒より遙かに高度な魔法を操る彼らによって存在が確認できない以上、部屋自体はただのおとぎ話であり、怪物と切り離して考えるべきではないかとクルックスは思っていたのだ。例えば、秘密の部屋とスリザリンの怪物は元々別個に存在するおとぎ話で口伝のうちに両者は混ざり、同時に語られるようになった──とか。

 しかし、ネフライトはそれを否定した。スリザリンの継承者、秘密の部屋、怪物。三位は一体のものなのだ、と述べた。

 

(──怪物。果たして、いかほどの神秘があるものか)

 

 クルックスが銃把を撫でる。

 短銃に充填されているのは、特別な水銀弾だ。

 

(何であれ、打ち砕けるハズだ。殺しきれるハズだ。滅ぼせるハズだ。──お父様の血だ。まともな生き物であればあるほど効果的だろう)

 

 学徒が命名した『青ざめた弾丸』は、狩人の特別な血から作られた銃弾だ。その威力は試したことがない。

 しかし。

 

『いやあ、狩人君の血って無理に採取しようとしても消えちゃうんだよ。内臓攻撃した血もね。それに死んでも死体が残らない。血も残らないのさ。血の遺志は、厳密に血──実体のある人血という意味だが──ではないだろう。だからだと思うのだが……まあ、それも狩人君が献血する気分になれば僕らでも採取ができるけど。彼は、そういう気分になることが少ないからね。けれど『見てくれ』はどこからどうみても輸血液だ。水銀に混ぜ込めば使えるだろう。医療者として保証するよ』とは学徒コッペリアの談。

 

 狩人も水銀弾として使用することを推奨していたので威力に問題はないだろう。

 むしろ。

 

『俺が使っている、俺の銃の銃弾に入ってる、俺の血だ。当然、大丈夫に決まってる。カインの狩人達に匹敵する高い血質でもある。ただ、上位者の寄生虫は人に──まぁ気にするほどでもないな』

 

 とても気になる含みを残したことだけが気がかりだ。

 列車の時刻が迫っていたため、それ以上の追求はできなかった。

 とりあえず威力だけは保証されているので今回、クルックスは採用することにした。

 

「しっかりしろ。問題ない。……俺がしくじっても三人がいる」

 

 怪物だけを仕留めればよい。

 そのためには、これまでの被害者が襲われた廊下を歩き続ける必要があった。

 

 自らの命を的にして敵を誘き出すしかないのだ。

 

 再び歩き始めたとき。

 突如、脳裏に刻んだ、連盟の『淀み』のカレルが蠢いた。

 

 久しぶりの感覚だ。

 最初に訪れたのは驚きでも喜びでもない、違和感と異物感による吐き気だった。

 

 しかし、それが何によってもたらされたものだったか。

 理解した瞬間にクルックスは銃を抜いた。

 

「やはりそうだ! ハハハハッ! そうさ! そうなのさ! お前らも穢らわしい血なのだろう! 汚物の、糞袋がッ!」

 

 無限の高揚感に突き動かされ、クルックスは駆けた。

 目をあちこちに向けてカレルの反応の濃淡を探る。

 そして、導くようにカレルも蠢いた。間違えではない。確実な反応を示している。

 

「彼方のお父様、あぁ、栄えある連盟の同士! ご照覧あれ! 必ずや俺は虫を踏みつぶして、踏みつぶして──!」

 

 辿り着いたのは、一室の教室だった。

 ドアノブに手をかけ、ひねろうとしたその時。

 聞き慣れた人の声が聞こえた。

 

「──さあ、座学は以上だ。これから実技を始める。お互いに呪文をかけ合ってもらう。まずは武装解除の呪文からだ──」

 

 耳の奥で音を立てて、血の気が引いた。

 カレルの反応は明確に教室の中を示している。だが、この先にいる人物をクルックスは皆知っているのだ。

 頭の中で噛み合っていた重要なものが次々と壊れる感覚に陥る。

 クルックスはドアノブを握ったまま、そこから進むにも退くこともできなくなった。

 

(使命を果たさなければ。連盟の。俺は、連盟員なのだから。だが、この先はネフが、セラフィがいて──違う違う、彼らに虫がいるハズがないッ! では、ルーナか? それともウィーズリーの妹? け、獣ではないのに? まだ瞳孔の輪郭も明確な人だというのに? 数十分で変態が進み──違う違う、淀みなど無いはずだ──さきほど会ったとき、カレルは反応しなかった! ──では? 誰だ? 何だ? 『淀み』のカレルは、いったい誰に反応しているんだ?)

 

 考え続ける意味は薄い。

 扉を開ければ、答えがあることをクルックスは知っていた。

 

 躊躇が連盟の異議に悖ることを知りながら、それでも進めないのは、虫の存在が自分の見知った誰かにあると認めたくなかったからだ。

 忠と親愛の狭間ですり減りそうなクルックスを救ったのは、意外な人物だった。

 

「おや。チラシを見て、教室を探していたのですがね。どうやら先客がいるようだ!」

 

 チャーミングな笑顔と共に廊下の向こうからやって来たロックハート先生は、ニコッと笑ってウィンクした。

 そして、いつまでも教室に入らないクルックスを見て首を傾げた。

 

「えー、君、入らないの?」

 

「は……俺……いえ、俺は、俺は……」

 

「まあまあ、若人よ! 恥ずかしがることはない! 私と一緒に来たんですからね! むしろ、歓迎されることでしょう!」

 

 短いノック。

 室内からの応答を待たず、そしてクルックスからドアノブを奪い取るようにロックハートは握って、ひねった。

 

「ぃ……! まって──」

 

 扉が開き、背中を押された。

 開け放たれた扉を睨み、ネフライトが苛立たしげに教壇から振り返った。時を同じく、立ち上がろうとしていたルーナが目を丸くする。何か書き物をしていたジニーが顔を上げ、黒革の本をパタンと閉じた。

 

「おや──これは、ロックハート先生」

 

 セラフィが立ち上がって会釈をした。

 突如カレルの蠢きが消え、クルックスは辺りを見回した。感じていた虫の存在感が霧散し、今はどこにも感じられなかった。だが、何がどうなっているのか分からず、首を振った。経験上、カレルの蠢きは虫を踏みつぶした時に消えるのだ。

 足下を見る。ただの革靴が木目の上にあった。振り返る。どこにも血の跡はない。銃を衣嚢に突っ込み、手のひらを見る。どこも血に汚れていない。

 様子がおかしいクルックスを見て、ネフライトが教壇から降りた。

 

「クルックス、来たまえ。──先生、何か、何か? 現在、見てのとおり互助拝領機構の活動中だ。ロックハート先生、お引き取り願おう」

 

「まあ、そう言わずにミスター・メンシス。彼が活動に加わりたくて教室の外で迷っていたようですからね。背中を押してあげたのですよ」

 

「ええ、彼はこの教室に用事があったでしょう。そう。私にね。──クルックス、レポートの添削を持って来てくれたんだろうね?」

 

 ネフライトが強い口調でクルックスに言った。

 だが、クルックスには半分も聞き取れなかった。

 

「違う違う──どうして、なぜ消えたんだ──そんなハズは……どこかに──誰かに──たしかに、虫の」

 

「クルックス!」

 

 怒鳴ったネフライトが強引にクルックスの体を揺すった。ようやく目の前の状況が見えた彼は怒っているネフライトを見て驚いた。

 

「わっ。な、なんだ……」

 

「私のレポートは!?」

 

「あ、ああ……ここに。でも、まだ途中で……」

 

 クルックスは、ワケも分からず外套のポケットを軽く叩いた。

 ネフライトがパッと手を離し、椅子を指差した。

 

「よろしい。ここにいろ。そこに座って大人しくしているんだ」

 

「しかし……虫が──」

 

「座っていろと言っているんだ! いいな!」

 

「お、ぁ……うん……」

 

 ネフライトの剣幕に圧され、クルックスは近くの椅子を引き寄せて座った。

 

「よし。……では、気を取り直して講義を続けよう。さて、皆、杖を持っ──」

 

「よろしい! さあ、皆さん。私が模範を披露しましょう!」

 

「私が主宰する、私の講義ですよ。言葉を遮らないでいただけますか?」

 

 冷え冷えした声でネフライトは言った。

 辛うじて言葉の丁寧さを保っているように周囲は聞こえた。

 

「あー、そう怖い顔しないで。可愛い顔が台無し」

 

 それから「ハハッ」とロックハート先生は笑うが誰も笑う人はいなかった。

 クルックスは、まだ頭の中が虫とカレルの蠢きのことでいっぱいだった。しかし、目の前で今にも銃や剣を抜くのではないかと思えるほど怒っているネフライトを目の当たりにして、意識は徐々に逸れていった。

 ネフライトが怒ることは、とても珍しいのだ。

 ビルゲンワースの学徒に対面でメンシス学派のことを悪し様に言われても、ひとまずは受け流すことができる程度に許容の上限は高い。そのクルックスがこれまで見たことがないほど怒っていた。顔色は平常と変わらないのに檻の隙間から見える耳の先は赤くなっている。

 

「おい、ネフ……」

 

「──いいでしょう先生、そこにお立ちください。私と模範演技をしていただけますか?」

 

 きびきびとネフライトは距離を取るために歩き出した。

 丁重なお願いの言葉だったが、すでに彼のなかでは決定事項のようだった。

 

「いいでしょう! では三つ数えて、イチ──」

 

 距離を取った後に振り返るネフライトは、すでに杖を構えていた。

 

ペトリフィカス・トタルス 石になれ!

 

 結局のところ。ロックハート先生が「ニ」と唱えたかどうか定かではない。意表を突いた呪文は鋭くロックハート先生に突き刺さり、彼は目を見開いたまま石になって転がった。ネフライトは石と化した手から転がった杖を拾い上げ、おもむろに窓を開けると全力で外に投げた。杖は放物線を描き、中庭に飛んでいった。

 振り返ったネフライトは、やり遂げた顔をしていた。そして。

 

「諸君、見てのとおり。決闘に礼儀は必要だ。私も礼儀を重んじる。しかし、私が講義している『戦闘』は礼で始まり終わる代物ではない。時と場所を間違える愚者はこうなるのだ。──セラフィ、捨ててくれ」

 

「窓から?」

 

「……うーん……」

 

 ネフライトは沈思を要した。窓と廊下を見比べてどちらが彼の居場所に相応しいか迷っている。そのうちジニーが「か、かわいそう」と言った。

 まさかそれに影響されたワケではないだろう。やがてネフライトは「廊下へ」とセラフィを促した。

 

 ──この三〇分後に放課後の教室の見回りに来たマクゴナガル先生が、廊下に転がる石になったロックハート先生を見つける騒ぎが起きたが、彼らには興味が惹かれない話だった。

 

「では、教室が清潔になったところで実技を続けよう。──クルックス、せっかくだから参加してみるかな」

 

「え……いいのか?」

 

「落ち着いたのならば、ね。ウィーズリー、クルックスと組みたまえ。ルーナはセラフィと。あ。セラフィ、くれぐれも避けないでくれ。いいな?」

 

 ジニーが赤毛の髪をサッと払って立ち上がった。

 クルックスは催促するようにチョイチョイと杖を振った。

 

「どこか調子が悪いの? その、大丈夫?」

 

「……問題ない。今はな。……この先、武装解除の時間だ。先に唱えていいぞ」

 

 ジニーは頷き、杖を向けた。

 杖腕をまっすぐに伸ばし、ハッキリした発音で呪文を唱えた。

 

「エ……エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 ジニーの呪文の効果は抜群だ。握っていた杖は弾かれるように手から飛び出していく。

 

「おっ。いいぞ。これまでやったことがあるのか?」

 

「呪文は、この前の……ロックハート先生の決闘クラブですこしだけ。でも、成功したのは初めてよ」

 

「ほうほう。そういうものか。次は?」

 

「『ステューピファイ 麻痺せよ』……なんだけど、それを使うとしばらく動けなくなってしまうから、代わりに『インペディメンタ 妨害せよ』をやる予定。物の動きを鈍らせたり、吹き飛ばしたりする呪文なんだって。何か適当な物を投げつけて」

 

「よし、分かった。ナイフを六本ほど投げるぞ」

 

「よくない! どうして、持ち歩いているの?」

 

「あ。あー。えー。その。ネフに頼まれて」

 

「どんな頼まれごと……!?」

 

「せ、詮索は無用だ。分かった。分かった。では椅子を投げる」

 

 ジニーは憮然として腕を組んだ。

 

「もし呪文が失敗したら、あたしにぶつかることまで考えて提案してほしいけど」

 

「手頃な物か。俺は手ぶらで来てしまったからな……うーん……あ、この本はどうだ?」

 

 生徒用の長テーブルに置いてあった黒革の本を手に取った。

 その途端、ジニーが血相を変えて飛びついてきた。

 

「──やめてっ! 返して!」

 

「す、すまない……そんなに気に障るとは……思わなくてだな……」

 

 クルックスはすぐに手を離し、テーブルから離れたがヒステリックに叫んだジニーに全員が振り返った。

 

「何事だ」

 

「……その……分からん……本に触っただけなのだが……」

 

「妨害呪文の練習ならば、これを使ってくれ」

 

 手渡されたのは白くてふわふわした物体だった。

 

「なんだこれ」

 

「海綿だ。スポンジ。これは食器や窓ふきに最適なので大量に購入してヤハグルに──んんっ。ともかく」

 

 ジニーは鞄のなかに本を詰めるとパタパタと走ってきた。

 申し訳なさそうな顔をする彼女は、もごもごと口を動かした。

 

「ごめん。あたし、あの本のこと……ビックリしちゃって……」

 

「俺も無作法なことをしてしまい、申し訳なかった。……続けよう。さ、杖を構えて──」

 

 クルックスは海綿を投げた。

 それから概ね充実した時間を過ごし、約二十分ほど経って活動は終了した。

 

「じゃあね。また来週」

 

「ああ、楽しみにしている」

 

 ルーナとセラフィはすっかり打ち解けた様子だ。気軽な挨拶を交わし、セラフィはルーナを見送った。

 

「──ウィーズリー、来週も同じ時間にこの教室で行う。気が向いたら来るといい」

 

 ネフライトが去り際のジニーに声をかけた。

 

「え、でも、いいの?」

 

「互助拝領機構に参加する資格は、私が認めることではなく、現在の構成員に勧誘されることだ。だから、ルーナが君を連れてきた時から、君も新しい有資格者になっている。私はその仕組みの話をラブグッドにした心算だったが……ふむ。その様子では聞いていないのだな。どうりで構成員が増えないワケだ。……そういうことだ。気が向いたら来ればいい」

 

「……ありがとう」

 

「私に礼は要らない。知恵は望む者に与えられる。君の力になるだろう。寮が違えど決して変わらない価値だ。……拝領を尊びたまえ……」

 

 メンシスの檻のなかでネフライトは目を細めた。

 ジニーは頷き、手を振りながら去った。

 教室の扉を閉めたあと。

 部屋に残ったのは、クルックス、セラフィ、ネフライトの三人だった。

 

「突然のことで、すこし驚いた。虫が何かと言いかけていたが……な、なに?」

 

 ネフライトが振り返るとほとんど鼻がくっつきそうな距離にクルックスは立っていた。

 ジッと探る目で見つめられ、ネフライトは落ち着かない気分になる。

 父より薄い銀灰色の瞳は、彼にヤーナムの白霧に覆われた夜空を思い出させ、畏怖を喚起してやまないものだったからだ。

 

「ああ、そのことなんだが檻を外して服を脱いでくれないか」

 

「な、な、なんだって? なっあ、こら、ちょっと待て待って──」

 

 聞き咎めている間にクルックスは檻を持ち上げて隣にいたセラフィに渡してしまった。何だか彼らの手際がいい。

 ──ひょっとして、奸計に嵌められつつあるのだろうか。

 ネフライトの脳裏に予想が過ぎったが、しかし、彼らに不利益を与える何かを起こした覚えはないのだ。よって嵌められる謂われもない。言葉と行動の意図がつかめず混乱している間に、クルックスはまるで輪郭を確認するようにネフライトの体のあちこちを触った。

 ネフライトは扉に阻まれて後退できず、ドアノブに背中をぶつけた。

 

「あいたッ、クルックス、その、待て早まるな、私は使用人だが、そういうサービスはしてないし、したことがないし、する予定もないし、セラフィの前だし、そもそも医療者だし、だいたい私だって聖職者の端くれなので聖歌隊のような教義に悖ることはしちゃいけないってダミアーンさんが言って──」

 

「違う。やはりネフではないのだ。……セラフィ」

 

「どうしたのかな?」

 

 答えず、クルックスはセラフィの体をペタペタ触った。

 

「ヘエァッ!?」

 

 その光景に素っ頓狂な声を上げてしまった。しかし、取り沙汰されることはなかった。顔が真っ赤になっているネフライトは放置されたからだ。

 やがてクルックスは気が済んだのか「違うな」と言ってセラフィから手を離した。

 ネフライトは、床に置かれたメンシスの檻を持ち上げ、クルックスを殴りつけた。

 

「あッ、痛いッ!?」

 

「このっ! みさかいなし! は、恥を知れ! 恥を! 説明しろ! わ、私がどれだけ気を回していたのか考えもしないのか!? 頭まで連盟員なのかねッ!?」

 

「待て、ネフライト。きっと事情があるのだ」

 

「おぉ、そうだろうそうだろう! でなければただの狂人だ!」

 

「う……む……そうだな、は、話を、しなければならない……」

 

 セラフィがクルックスの背を押して椅子に座らせた。

 落ち着いたところでクルックスは、ぽつぽつと語り始めた。

 連盟のカレル。虫のこと。そして辿り着いた教室。

 

「…………」

 

 セラフィとネフライトは目を合わせて困惑した。

 教室にいたのは四人であり、最初から増えても減ってもいない。

 そして、誰も獣の予兆はない。

 ここは狂気とはほど遠い環境にあるのだ。

 

「言いたいことは分かる。ここに獣などいない。虫などいないと言いたいのだろう。……だが、カレルが間違えるワケがないのだ。必ず、どこかに誰かに虫が……虫が……いる。いたハズだ……」

 

「しかし、連盟のカレルは……君の信仰を邪魔する心算はないが……あれは」

 

 ネフライトが言葉を濁すのは、連盟のカレル『淀み』の所以にある。

 カレル文字とは、ビルゲンワースの学徒、筆記者カレルが人ならぬ上位者の音を記録し、カレル文字と称したことから始まる。それを脳裏に焼き付けた狩人は、上位者の音に由来する神秘の力を得ることができる。これは血に依らぬ進化として、かつてのビルゲンワースでは大いに期待され、研究されたものだが──『淀み』は異なる経緯で発見されたものだ。

 

「…………」

 

 伝承では『獣喰らいの内から見出された』と語られる。

 獣喰らい。──獣や『獣となった人間』を食べた人間から見出されたものだ。

 その行為は、禁忌を破り、冒涜の限り尽くすヤーナムにおいても特に忌避される行為である。筆記者カレルが遺した文字やその他の文字のように上位者から発せられる音を聞き、記した純粋な出のものではない。

 

 ネフライトの本音は「血の迷いに違いない人間から見出されたカレルなど信に値しない」と言いたいところだが、それを言えばクルックスと血を見る争いは避けられず、下手をうてば父たる狩人との諍いにも発展しかねない。だからこそ、彼は連盟とは関わり合いになりたくなかった。

 

 ちらりと隣を見ればセラフィは、相変わらず何を考えているか分からない顔で佇んでいる。

 端整な顔とは、このような時に感情が窺えないので嫌いだった。自分の次に「ヤーナムの外の世界がどうなろうと知ったことではない」と思っているだろう彼女がクルックスに何を語るのか。興味はあるが、迂闊に語らせてクルックスに同調させるのはよろしくない。しかし、強硬に否定すれば「ではこれから全員の腹を捌いて確認しようか?」なんて言い出さないとも限らない。

 

 連盟員としてのクルックスは、使命に忠実だ。

 

 彼には即座に教室に入らない程度の恐怖と躊躇があった。

 それでも踏み込むのは時間の問題だったとネフライトは思う。

 あの場でロックハート先生が来なくとも彼は必ず来ただろう。

 連盟の使命を全うするために。

 

(……連盟のカレルが反応した……誰になぜ……どうして消えたのか。納得させられる、合理的な理由……)

 

 ネフライトの頭には無数の言葉が浮かんでは消える。それでも、およそ万人が納得できる理屈は見つからない。

 カレル文字を人の身に刻む以上は絶対的な客観はありえず、主観は避けられない。なかでも『淀み』は、カレル文字を刻んだ者の意識を反映する。──願うものにだけ見え、尽きぬ使命を与えるのだ。

 

 ゆえに現状を極端に理解してしまうと「クルックスが望んだから、虫はいた」としか言えず、何をどう言い繕ったところで「君の気分の問題だよ」という結論になってしまうのだ。

 セラフィも『淀み』の効果や由来を知っている。隣に立つ彼女が迂闊なことを言わないかどうか、すでに気が気ではないというのにネフライト自身も注意が足りていないことを口走ってしまいそうだった。

 

 再び言葉を継いだのは、クルックスだった。

 

「やはり気になる。二人を調べてくる」

 

「待て、クルックス」

 

 セラフィが立ち上がった彼を椅子に押し戻した。

 

「待たない。虫は隠れ、蠢いている。カレルは反応しないが……それはヤーナムより隠れるのが上手なのだろう。そして俺が未熟だから見えないのだ」

 

 クルックスの言葉は、きっと誰かに言われた言葉だ。

 ネフライトは入れ知恵をした誰かを苦々しく思った。クルックスだけであれば何とか言いくるめて「勘違いだった」と言わせることができたかもしれないのに。しかし、ネフライトが新たに口を挟む前にセラフィが力強くクルックスを椅子に押し付けた。

 

「君の使命を邪魔する心算は、僕もない。──だが殺すのは善い行いではない。学校のなかでは特に。あらゆる方法で見つかるだろう」

 

「生徒が続々と石に変えられている状況を見過ごす先生達だぞ。生徒が一人二人減ったところで俺が犯人であることも隠した死体も見つかるワケがない」

 

「完全な証拠の隠滅は困難だ。斬って捨てることができるヤーナムではない」

 

「その証拠がなければ捕まらないだろう」

 

「今は狩人である前に生徒だ。己の生命を害されない限り、僕らが誰かを害することは許されない」

 

「俺は前提以前の話をしているのだ。生徒である前に虫が巣くう血を淀ませたヤツらだ。生きていることは許されない」

 

「それはヤーナムの価値観だ。僕らの目で彼らを裁定することは、善い行いではない」

 

「だが──」

 

「君の反論を、僕は許さない」

 

 研ぎ澄まされた鋭さでセラフィは断言した。

 

「いいえ。君も僕も、皆そうだ。この話は、ヤーナムとヤーナムの外の関係であり、お父様が決めることだ。ビルゲンワースの学徒達と共にね。僕らは魔法界ひいてはホグワーツの規則等に従うことを条件にここにいる」

 

「規則には人を殺してはいけないと書いていないだろう。さんざん破っておいてから、今さら何を言う」

 

「あまり愚かなことを言うな。すこし不愉快だ。『命は、本来取り返しのつかないものだ』と言ったのは君だろう。信頼も同じだ。僕らは個人として存在するが、ヤーナムの民としてここにいる。忘れることなかれ。……さあ、宣誓を」

 

 クルックスはセラフィとしばらく睨み合っていたが、やがて右手を挙げた。

 

「……今夜にでもお父様にお伺いを立てる。……しかし、許可をいただくまでは誰も害さないことを月の香りに、お父様に誓おう」

 

「その宣誓、違えることあたわず。たしかに聞き届けた。ネフもこれでいいだろうか?」

 

 セラフィが、さらりと同意を促した。

 ヒヤヒヤしながら会話の行方を見守っていたネフライトは頷いた。

 

「上出来だ。クルックス、状況は……まだ分からないことが多い。虫の件も我々の神秘との差異で反応しているだけかもしれない。差異の正体が分かるまでは、言動によく注意してくれ。……お父様に不利益をもたらした場合、我々の首が飛ぶだけでは済まないだろう。それに血が淀まぬ人々にまで害をもたらすのは、君も望むことではないだろう?」

 

「……分かっている。大人しくしている。君の手を煩わせないようにする。それでいいだろう。今は反応もないからな……」

 

 クルックスは頭を巡らせて周囲を警戒している。

 彼の感覚は、同じカレルを刻んだ連盟員でも同調するかどうか不明瞭だった。

 

「君が僕を案じてくれるように、僕も君を案じている。……夜明けは遠い。お父様も君も、使命を曲げることはできないだろう。それでも、しばらく穏やかな時間を過ごすことはできる。僕はそう信じているのだ」

 

 するり。セラフィの繊手がクルックスの肩を、そして首筋を撫でた。小さな子供をなだめるような所作だった。明後日の方向を向いていたクルックスの険ある目が和らぎ、平常を取り戻した。

 

(──おや。おや。これは、これは。これは……)

 

 ネフライトは廊下に誰もいないことを確認するフリをしつつ、彼らの様子を見ていた。

 クルックスとセラフィが親しくしている様子は、昨年まで特になかったと記憶している。

 

 しかし。

 夏休みかクリスマスの休暇中に『何か』があったのだろう。

 心の距離ともいうべき、他我の秘密を取り除く何かが。

 

 そのうち三人は別れた。

 

 ネフライトは考え事をしながら、メンシスの檻の目を掻いた。

 何度も。何度も。レイブンクローの寮に辿り着き、扉を開けるまでそれは続いた。




奇っ怪

楽しい互助拝領機構:
 クィレル先生は良い仕事をしてくれました。労働環境さえ整えれば(軟禁)仕事をしていくれるのだから、ダンブルドア校長は運用を間違っていたのでは? ネフライトは勘ぐった。


連盟の使命:
ヤーナムの外にも虫がいるじゃないか!
ハハハ、ああ、ああ、あぁ……どうして……
 普通、カインハーストの彼らが求める『穢れ』も連盟員が見出す『虫』も死血のなかに見られる特殊な成分(便宜上の表現)ですが、稀に生きている存在のなかにも見出すことができます。そう連盟員ならばね!


間の悪いロックハート先生:
 でも、悪い人じゃないんです。
 え? 本がどうやってできるか……?
 これは、悪人ですね。


ヤーナムの善性:
 ヤーナムにおいて絶滅危惧種的に優しい人格を形成しつつあるクルックスですが、これには狩人も学徒達も人形ちゃんもニッコリです。そのまま育ってね! ……どうしても困ったときは助言者を頼るといい……


セラフィが冷静だった:
 他のきょうだい達から「ヤバいヤツ」と思われているセラフィなのですが、実際、その予想はあたることも多いですが、同じ枝葉の存在を思いやることもあります。今回は抑えにまわりました。『穢れた血』騒動の時に即行動しなかったおかげで問題がまぁまぁ自己解決できたので、そのことが成功体験になっています。一回くらいは様子を見てもいいだろう。そんな気の持ちようです。


『淀み』のカレル:
 現在の連盟の長、ヴァルトールは獣をパクパクしたついでに自前で閃いたカレルかもしれませんが、医療教会が『見出し』て記録した『淀み』カレルって禁域──の集落。獣性を抑制するとかの目的で実験していた痕跡──あたりで腑分けして見出したものでしょ、俺は詳しいんだ。っていうか現在進行形で禁域の森は医療実験で事故った生き物の不法投棄場所になってるので見りゃ分かる!案件──でも、俺には特別な智慧が(略)


たくさんのご感想をいただいております。毎日の活力になっております。ありがとうございます。
私事でこれより数日、ご返信が遅れてしまいますので、ご了承願いします。
でも、引き続きご感想いただけたら本当に嬉しいのでよろしくお願いします。

また評価や紹介、お気に入りなどたくさんもらってしまい、筆者はビックリしています。挿絵を褒めてくれた方、とても嬉しいぞ。また睡眠時間を奪ってしまい申し訳ない。だいたい朝になったら投稿されていると思って夜はグッスリ寝てくれ!(0時に投稿しながら)
そして、本作に興味を持ったその君、地底人になれとは言わないからBloodborneをやろう! ガスコイン神父が君を待っているぞ! そしてハピエンルートのブラボを百万字書いてくれ。あと聖歌隊に拘束洗脳プレイされる病み人とか頼むぞ。筆者が切実に読みたい。頼む。お願いだ。ヒヒッ。

さて。あってないような定価でもう定価の時より特売価格の期間の方が長いという妙なことになっているBloodborneをよろしくお願いします。ところでホグレガの続報はまだですか? そうですかブラック家やレストレンジ家、はたまたどの時代にもいそうなウィーズリー家の活躍が見られるとかなり期待してプレステをスタンバイさせているのですがまだですか。そうですか。

ところで『2年生』章の投稿ストックも半分を割りました。
──まぁ、よい。もうしばらくの間、強めの幻覚をくらえ!

次回、箸休め回です。
お楽しみいただければ幸いです。


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とある日記、その持ち主の少女の心情

日記
事実を記録すること。またその記録のこと。
他人に知られたくないことでもペンを執るのは自己保存を願う現れである。
あるいは、忘れるに惜しい時間を留めたいと願う心の軌跡だろうか。

ともあれ少女はペンを執った。
何のことはない。
日記を記すのは、友に語りかけるより簡単だったからだ。



 ──今日は、楽しかった。

 

 ジニー・ウィーズリーは、誰もいない廊下を歩いていた。

 一緒に帰ろうと思ったクルックス・ハントは、ネフライトに用事があると教室に残ってしまったからだ。それでも一緒に帰ろうと三分程度待っていたのだが、とんでもない言葉が聞こえたから仕方なく歩いてきたのだ。

 

 猫が襲われたハロウィーンから今日まで気が塞いで仕方がなかったが、今日は、とても楽しかった。

 

 ルーナ・ラブグッドを思い出す。

 偶然、呪文学の授業で隣の席になっただけの、しかもレイブンクローの女の子だったが、同じ年の女の子と気の置けない話をするのは久しぶりだった。

 

 グリフィンドールにも話せる女の子はいるけれど、何でもかんでも話せる──というワケではない。

 考えることは皆同じだ。同じ寮の女の子同士には、どうしても見栄を張りたい時がある。男子にはそういう意識は薄いのだと思う。ペンの一本。筆記用具入れの一個。本の一冊。顔より先に持ち物にチラと流れる視線は、とても気に障る。女子同士だからこそ分かる。隔たりは大きく、深い。

 

 だから、今日はお古の教科書を出す心配をしなくてもよかったし、自分が着ているローブがお古のローブであることも忘れていた。

 

 一緒に教室にいた他の人たちの方がよっぽどヘンテコだったからだ。

 主宰は、頭に檻を被ったどこからどう見ても変人のネフライトで、教わる子もちょっと変わっているルーナ、なぜいるか分からないスリザリンのセラフィ・ナイトに、途中参加のクルックス・ハント。特にあとからやって来たクルックスは、活動後にネフライトに「服を脱げ」と強要していたのできっと訳ありなのだと思う。いたたまれなくなってここまで駆けてきた。聞いていたことはバレていないと思う。

 

 自然と笑っていることに気付いた。

 

 ──他の人が気にしていないことをあたしが気にする必要ってあるのかしら。

 

 彼らとの時間は、とても気楽だった。充実していた。

 紙の上のやり取りより、ずっとずっと楽しかった。

 

 ルーナは「また来てね」と言ってくれた。ネフライトも聞こえていたハズなのにそれについて何も言わなかったから、自分はまたここに来てもいいのだと思う。

 

 学校も上級生も先生も、冷たい人ばかりだと思った。

 けれど。

 ルーナに手を引かれ、思いがけない一歩を踏み出してみて、この考えは少し変わった。

 

 お古の教科書が悪い。

 お古のローブが悪い。

 からかう兄達が悪い。

 

 そう考えて、ずっと自分が悪いワケじゃないと思っていた。

 でも、きっとほんのすこし見方を変えて、そして、付き合う人を変えてみれば、これまで気にしていたことは大したことではなかった。

 

 ──人は、取り繕える外見より大切なものがある。

 

 今日は、もう、それが分かったから。

 わたしは、きっと、これからは大丈夫。

 この学校で頑張っていける。

 

 意外なところで得た小さな成功が、ジニーの背中を押した。

 

 だからこそ。

 左右を見て、廊下に誰も──猫一匹いないことを確認し、最寄りの女子トイレに駆け込んだ。

 誰も訪れない、女子生徒のゴーストの棲む不気味なトイレだ。

 ──ここならば誰にも見つからない。

 ゴーストが何か呟く声が聞こえる。それでも構わない。鞄の中から黒革の日記帳を取り出すと目を瞑って投げた。ゴーストが「ギャッ!」と声を上げた。

 

 ──ごめんなさい!

 

 心のなかで叫んで、ジニーは駆けだした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ハリー、危ないから拾っちゃダメだよ」

 

 フィルチが、堪忍袋の緒を切らして足音荒く去った頃。

 ハリー達は廊下の曲がり角から首を突き出して様子をうかがった。なぜフィルチが怒っているのか、一目瞭然だった。ミセス・ノリスが襲われたあと、フィルチがその廊下に陣取って見張っているのはこの数ヶ月、周知の出来事だったが、今日は襲われたハロウィーンの日のようにトイレから水が溢れ、廊下の半分が水浸しになっていた。

 立ち去ろうとしたがマートルの泣き叫ぶ声がトイレから響き、三人は興味を引かれてしまいトイレまでやって来たのだ。

 そこで。

 手洗い場に落ちていた黒革の本を拾い上げようとしたところ、ロンが止めた。神妙な顔で彼は言った。

 

「見かけによらないんだ。魔法省が没収した本の中には──あ、パパが話してくれたんだけど──目を焼いてしまう本があるんだ。それとか『魔法使いのソネット(十四行詩)』を読んだ人はみんな、死ぬまでバカバカしい詩の口調でしか喋れなくなったり、それにバース市の魔法使いの老人が持っていた本は、読み出すと絶対やめられないって。もう本を開いたらそれっきりさ。何をするにも片手でしなきゃならなくなるんだ」

 

 ゴーストのマートルがシクシクと泣く声をBGMにハリーは水浸しでぐちゃぐちゃの本を拾い上げた。

 

「もういいよ、分かったよ。でも、見てみないとどんな本か分からないだろう?」

 

「おい」と声を上げたロンの制止をかわし、ハリーは黒革の本を拾い上げた。

 恐る恐るロンも本を覗き込んだ。

 

「……何も書いてない。マグルの店で購入した物で……うーん。ちょっとしたメモも何もない。どうして流そうとしたんだろう?」

 

「ボロっちいからじゃない? まあ、今日、マートルにやられたのかもしれないけどさ」

 

 崩れそうな本のページを持たないように気を付けて表紙を見た。

 興味津々にロンが見つめ、マートルをなだめていたハーマイオニーがハリーの肩越しに本を見た。

 

「何? 何か書いてる?」

 

「表紙は……ンー……『日記』って書いてあるみたい。名前は、P? 違うな、I? あ、Tだ。──T・M・リドル──」

 

「僕、その名前知ってるよ。T・M・リドル! 五〇年前、学校から『特別功労賞』をもらったんだ!」

 

 ハーマイオニーがこれまでに読んだ本から名前を思い出す前。即座にロンが答えたので彼女は目を丸くした。

 

「ロン、すごいわ! どうしてそんなことを知っているの?」

 

「処罰を受けたときに──ほら、車を暴れ柳にぶつけちゃったときの──んんっ、フィルチに五〇回以上もコイツの盾を磨かされたんだ。ナメクジのゲップを引っかけちゃってさ。一時間も磨いてれば、そりゃ誰でも名前を覚えるってもんさ。うん」

 

 珍しく得意げなロンは肩をそびやかしたが、暴れ柳の話になった途端にマクゴナガル先生並の厳しい目つきをしたハーマイオニーに気付き、何でもないことのように言い繕った。

 

「……どうしてこれを捨てようとしたんだろう?」

 

 ハリーの疑問は、この場の誰にも解けなかった。

 ロンは肩をすくめ、ハーマイオニーも首を傾げた。




少女の日記

箸休め回。
日記を捨てる描写:
 本作においては上記のとおりですが、映画だと便器にシュートしているっぽいジニーが回想で描写されます。
 これは、マートルの発言とちょっと矛盾するのではないかと今になって思います。描写されている映画を基準とするならば、ジニーが投げ込んだ便器の中にマートルが詰まっていた、という状態になるしかないのでは? とか。
 劇中、マートルの発言が先にお出しされたので「あのジニーがマートル的当てゲームしたのか!? ……人は見掛けによらないんだなぁ」と勘違いした筆者がいました。あれは思春期で死んでしまったマートルのヒステリックな一面というだけの描写だったのかなと思っています。原作では、絶命日パーティーでハーマイオニー達と初対面の際に、悪口を言われていると吹き込まれて塞ぎ込む一面がありましたし。きっとそうだろうな。

幽霊(ゴースト)について:
 ところで呪いの子だとかなりはっちゃけたマートルが見れますね。
 ゴーストとなった人格は固定的で現世に焼き付いた存在だと思っていましたが、変わることもあるようですね。もっともマートルのあれは、見ていて不安になる明るさではありました。いえ、台詞だけなんですが、どうも……(大丈夫か?これ)という感じの感想を抱きました。周期的に明るくなるときと暗くなるときがあるのかもしれません。
 ゴーストにも病院とかあるんですかね。

 ちなみにBloodborneにも幽霊がいます。といっても「廃城の悪霊」になってしまっています。

……おぉ。エルゼ。エルゼ。何を嘆く。そうかそうか。お前の腹を裂いたヤツらが憎いのだな。……

……麗しのヘレナ。黄昏の髪の乙女。死してなお美しい貴女。車輪で潰された躯が痛むのだな。……

 カインハーストの城内で泣き叫ぶ彼女たちと建設的な話は成立しませんが、レオーはいつも愛を囁いています。そのため普段は飄々としている彼の刃には、いつも重く濁った憎しみが乗算されています。
 カインハーストの土地と共に悪夢の世界に悲しみと憎しみと恐怖で焼き付いてしまった彼女達は、カインハーストが終わるまで永遠に住人です。
……だからせめて俺が彼らの憎悪を汲んでもよいだろう。……
 カインハーストにおいて年長者は常に重責を負います。それが一族のためとあれば、全てが栄誉に転化するのです。
 悪霊について。鴉は興味が無いので語るだけ時間の無駄だと思っていますし道を遮れば抜刀します。セラフィは、レオーを真似て声をかけることもありますが、泣き叫ぶ彼女達に対し、できることもないのでそっと目を逸らして道を譲ります。


 さて、そんな彼女たちは、とびきりの美人です。アートワークスでは、設定画のなかでも気合いの入った綺麗な一枚絵で見ることができます。マリア様にも1枚絵をくれたまえよ。あ、いえ、トゥメル風マリア様もいいんですけど……あの……もうちょっと手心というか……お顔がハッキリ見えるものを……あ、いえ……何でも……。あとヴァルトールはバケツを脱いだ顔でくれ。あれで金髪碧眼の藤原ボイスなんてヤマムラが夜にありて迷わず、血に塗れて酔わず。


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春、お伺い

バレンタイン
かつてはとある聖人が殉教した日であり、いまは恋人たちが愛を祝う日とされる。
実を結ばぬ恋がある。一方で実を結んだ恋もあるだろう。

まずは恐れず、話しかけてみることだ。
すべてそこからはじまるのだから。



 ここは、ヤーナム。

 ビルゲンワース。早朝。

 

 ヤーナムの他の地域ではどうか分からないが、たいていの問題、特に議論とは早朝のうちに起こることが多い。

 もっぱら発端となるのは、月の香りの狩人と呼ばれる狩人だ。

 彼は夜間ほとんどの時間を市街で過ごす。そして、夜明けと共にビルゲンワースへやってくる。

 クィレルが暖炉のある部屋へ向かおうと足を向けたのは、彼が戻って間もない朝早い時間だった。決して姿の見えない不気味な鳥の鳴き声が響く、だだっ広い廊下を歩いていると半端に開かれた扉から声が聞こえた。

 

 ──それで? 君はどうするのかな、狩人君。僕としては、ぜひ連盟の使命など忘れて仕事に励んでもらいたい……ああ、この場合の仕事は『学業』の意味だがね。

 ──ふむ。……ところで、ヤーナムの外では人が死ぬのは、たいへんな労力が要るように思う。どうか?

 ──そうだねぇ。事故死でもなければ珍しいんじゃないか? テルミの話を聞くに僕が思いを馳せるところ。まあ、そうでなくとも子供は価値が高い。だから死ぬのは珍しいことだ。殺されるなんて滅多なことなんだろう。

 

 とんでもない会話が耳に飛込んできた。

 そして、嫌な予感がヒシヒシと心身に迫ってきた。

 こういうときに限って、まるで謀ったように間の悪い人物が現れるのだ。ヤーナムではしばしばそういうことがある。

 クィレルは覚悟を決めて振り返った。

 

「あら。おはよう。佳い朝ね。ご機嫌はいかが?」

 

 ──ああ、やはり。

 クィレルは朝から項垂れた。

 ビルゲンワースの学徒、ユリエが可笑しそうに「あふふ」と微笑んだ。

 目隠し帽子のせいで今日も彼女の目はクィレルには見えなかった。

 

「け、け、結構です……」

 

「あの人たち、いけないわね。『扉を開けっ放しにしないで』と言っているのだけど。効き目は薄いみたい。さぁ、中へ。先生。お茶があると思うわ」

 

 再び「結構です」と言いかけたクィレルは、そっと背中を押されて抵抗を諦めた。

 扉を開くとソファーに寝転ぶビルゲンワースの学徒、コッペリアが「おや」と顔を向けた。

 狩人は軽く手を挙げた程度でテーブルの上で銃を分解していた。

 

「──お、ぉ、おはよう、ございます」

 

「ご機嫌よう。君がやってくるのが見えたよ。もっと早くに声をかけてくれてもよかったのに」

 

 コッペリアが和やかに笑ってソファーから身を起こした。

 無論、二人の間にはビルゲンワースの厚い壁があるので直視はできなかったハズだ。

 寝ずの番をしていた彼は、生あくびを噛み殺しながら言った。

 

「ねぇ。先生、子供に囲まれるのってどういう気分なんだい? もちろん、自分の子供ではないが……しかし、それでも子供に囲まれることって幸せなことではないかと思うんだよ。それより大切なことってある? あったね。君は賢者の石とかヴォル、ヴォルデ、ヴォルフガング? あ、これは作曲家だったかな。えーと、何だっけ?」

 

「その話は、も、しないでください」

 

 喘ぐようにクィレルは言った。

 間延びしたコッペリアの声が「そーう?」と不思議そうに囁いた。

 

 コッペリアは、クィレルにとって悪癖を疑ってしまうほどに子供好きだった。

 

 彼は事あるごとに「クルックスやテルミがいなくて僕は寂しい」と嘆いた。そして子供の前の教壇に立っていたクィレルのことを「羨ましいなぁ」と言った。

 しかし、どうも彼の「好き」は小さい子供に向ける性質の「好き」ではない気がしている。

 カップに半分も注がないミルクで溶かしたココアのように甘ったるい感情の気配がするのだ。

 

 しかし、色の付いた感情の機微に鈍い狩人は「そうか」と何やら感心したように頷いている。

 しまいには「クルックスはしっかり者だけどな。ちょっと心配なところがあるから……」とコッペリアに見守りを頼むが、傍からは頼む相手を間違っているように見えて仕方がない。──心配なのは貴方と貴方の息子だ。もちろん、クィレルは命が惜しいので誰にも指摘する心算はないけれど。

 

「ちょうどいい。相談に乗ってくると嬉しい」

 

 ツンと臭いのするオイルを布巾──ヤーナムの物はたいてい使い込まれた風体である──に染みこませた狩人が、細かな部品を分別しながら言った。

 

 今日の話題の発端は、クルックスが送ってきた一通の封書だ。

 内容を要約すれば「所属上、殺すべき敵を見つけたので殺してもよろしいか」という物騒な伺いであった。

 

 それを聞いたクィレルは椅子に座っていなければ、腰を抜かすところだった。クルックスが戦っているのは獣だと聞いていた。主義主張が異なる人間を殺そうと決心する少年だとは知らなかったのだ。もし、褒められることがあるとすれば凶行に及ぶ前に事前に伺いをしたことだけだった。

 

「質問なのだが魔法界には、虫がいないのか?」

 

 ──またおかしな質問が飛んできたぞ。

 クィレルは、頭痛の発露を感じた。

 

 しかし。

 狩人は作業を止め、銃口を指に置いた。

 その目は真剣だ。

 

「望む者だけに見える虫の話を聞いたことはないか? 虫。見かけは……そうだな……百足の類いだ。血から沸いて現れる」

 

「私は、聞いたことが、あ、ありません」

 

 すこしだけどもってしまったが、ハッキリと告げた。

 狩人は「そう」と素っ気なく言った。

 

「よく隠れているのか。見落としたか。忘れてしまっているのか。けれど失って気付くこともある。外の世界では、どれだろうか? 本当にいないのであればよい。善いことだ。連盟員として断言するが、それは絶対的に『善いこと』なのだ。……しかしカレル文字を刻んだ連盟員の目は、誤魔化せない。虫はいた。世界は、どうしても淀まずにはいられないものらしい」

 

「あら。狩人君もヤーナムの外が羨ましいのかしら?」

 

 狩人の声音に物足りない思いを感じたのかユリエが問いを投げかけた。

 彼は古布にオイルを浸した。

 

「羨ましい? その言葉は当てはまらないな。『違う世界の話だ。比べることが間違っている』と感じている。私から言わせてもらえば、なぜ地続きのように感じられるのか。そちらの方がよほど不思議な感覚だ」

 

 ──断崖なのだ。決して混じらない境界がある。

 狩人は語る。音のしない空間がしばらく続いた。

 

 ユリエが部屋の隅に置いていたポットを取り上げた。

 そして、クィレルの近くのテーブルにカップを置き、注ぐ。「目が覚めるわ」と囁いた。

 狩人は作業を再開しながら言った。

 

「虫を見るのは、連盟の業だ。慈悲でもある。腕の立つ優秀な狩人であればあるほど『まとも』から遠ざかる。身に覚えて知っているが……なるほど……ヤーナムの外の平穏を知り、そこに情が生まれるとこうして酷いことになるのだな。それにクルックスは真面目だからな。俺も鼻が高い。だから心配でもあるのだが……ふむ……少々酷なことをしてしまったか。……獣を狩る経験は多くあれど彼は『まとも』に見えていた人間を殺した経験はないハズだから」

 

「人の形をしたものを殺すには訓練がいるからね。……興味深い。連盟の使命があっても心には抑制が及ぶのだね。なぜだろう?」

 

「クルックスは、とても優しい性格だからな。生徒の中に虫を見つけては心穏やかな狩りにはならない。そのあたり俺に似ていると人形ちゃんも太鼓判を押していて──」

 

「え? ごめん、何か言った? ユリエに僕の背中を毒メスで刺すよう命令した卑怯者とそっくりさんが誰ですって?」

 

「まだ根に持ってるのか。二〇〇年以上前の話だろう」

 

 苦い顔をして狩人はボソボソと言った。

 

「曇りの日とか、たまに背中が痛むのさ。……。しかし『優しい』とはねえ。狩人君、クルックスの優しさはヤーナムだけに向けられるべきだと思わないかい?」

 

 微妙な言い方で声音だったが、そこにはヤーナムの外について快いと思っていない心情がありありと感じ取れた。

 だが、狩人はその意見を退けた。

 

「それはクルックスの問題だ。彼が大切にしたいものを大切にすればいい。私達が強要するものではない。狩人に繰り言が不要であるように。その種の助言も要らないのだ。俺はそれを『導き』と呼ばないのだから。……とはいえ、今は苦しんでいるようなので手助けが必要だろう。ふむ。私も連盟の使命を蔑ろにしたくはない」

 

 狩人は、考え込む目つきになり単純な作業を繰り返した。

 やがて手を止め、汚れた布巾や銃の部品を置き、綺麗な布巾で手を拭った。それから取り出したのは古びた手帳だった。

 それに何かを書き付けて項を破る。床に放った紙は、落ちる前に消えた。まるで夢を見ていたかのように。

 

「たとえ『問題の先延ばし』と誹られようが迫る期限ある話でもない。虫の存在は、世界をどこまで広げてもカレル文字を刻んだ連盟員『だけ』の問題なのだ。長い夜に正しかった連盟の長も咎めまい。まずは身の回りのことからはじめよう。あるいは、見損ねた虫の正体をつかんでからでも遅くはない。──そんな内容だ」

 

 ユリエとコッペリアが、微かに頭を動かす。

 彼らが目隠し帽子の下で視線を交わしたのが分かった。

 

「……夢を見る狩人達に優れた点があるとすれば『時間だけは多くある』ということだ。躊躇は人の証でもある。深く淀んだヤーナムの虫を一掃してから、魔法界の虫の駆除に取りかかっても遅くはないだろう」

 

「それが最善でしょうね。実効性が無さそうなところが特に最高よ」

 

「僕もいい判断だと思うよ。連盟の使命とお父様の命令は、彼にとってどちらが重みを持つのか試そうというのか。ああ、どうなるのか興味深いものだね」

 

「え。いや、別に、そういうつもりでは……」

 

 三人の間に、不気味な沈黙が生まれた。

 強いて形容するならば「ちょっとマズいんじゃない、これ?」と言えるかもしれない。

 しかし、言葉にしてしまえば、それは何よりの脅威になってしまいそうで誰も口にすることはできなかった。言い出したハズのコッペリアさえ「ハハハッ」と笑った顔のまま硬直している。

 最初に動き出したのは狩人だった。

 彼は、調子外れの鼻歌を歌いながら汚れた布巾を手に取った。

 

「まあ、クルックスならばうまくやるだろう。真面目だし。真面目だしな……」

 

 ──だからこそ、最も心配だと言ったのは数分前の貴方じゃないか。

 もちろん、クィレルは命が惜しいのでやはり誰にも指摘する心算はないけれど。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 手記が届いた。

 クルックスは悪夢の使者達から手記を取り上げて読んだ。

 

『連盟の使命は、定めのあるものではない。世の「淀み」たる虫は、踏み潰さなければならない。だが、深く淀んだヤーナムの虫を一掃してから、魔法界の虫の駆除に取りかかっても遅くはないだろう。長も咎めまい。気負うことなかれ』

 

 頭の中で父たる狩人の声で再生された言葉は、クルックスにとって一つの納得となった。その納得が深く、理解し、実行しようと思うほど内心で膨らむ不安は無視できない存在感を得た。

 

 手記を手放した。

 使者達の細い腕は手記をつかみ、そのまま虚空に透けて消えていった。

 だが、クルックスはしばらくベッドの端から動くことができなかった。

 

(俺は……なぜ……安堵しているのだろうか?)

 

 連盟の使命は、いつもクルックスに勇気を与え、正当性を保証するものだ。

 苦に思ったことはなく、まして重荷に感じたことはない。

 

(連盟の使命は正しいものだ。絶対に、絶対的に正しいものだ。これが間違っていたら他の何も正しいものはないと思えるほどに。けれどお父様の言葉も正しいのだ。そうでなければ夜を明かせるハズがなかった。ビルゲンワースのユリエ様達が協力するハズもない。──正しい。どちらも正しいのだ)

 

 それぞれの指示は『殺せ』と『見逃せ』だ。

 両者の主張を矛盾なく成立させる理屈をクルックスは持たなかった。

 

 だから、虫の気配はない。カレルの蠢きもない。

 この現実をもって問題を棚上げするしかなかった。

 そして『いずれ時間が解決するだろう』。そんな楽観的な見通しを、未来の自分が抱けることを信じるしかなかった。

 

(……こんなことを考えてしまう俺がどうかしていて、きっと間違っている。連盟の使命を……お父様の言葉を……。いいや、やめよう。こんなことを考え続けるべきではないのだ……)

 

 視界に誰かの靴が目に入った。

 顔を上げるとロン・ウィーズリーが立っていた。

 

「……っ。な、なにか?」

 

「この前の、ふくろう便の件さ」

 

「? あ、ああ、そうか……」

 

 クルックスは「いったい何の話だっただろうか」と言いかけて、寸でのところで思い出した。先日、スネイプ先生とバッタリ出くわして件について話していなければ、そのままロンに質問していたことだろう。

 

「パパとママからオーケーの手紙が届いたんだ。これ、契約書。パパのサインが書いてある」

 

「ご快諾に感謝する。お父様にお礼の手紙を送るよう伝えよう」

 

「うん。……えーと、何かあった?」

 

「何もないが……何か?」

 

「顔色が良くないからさ。何もないならいいんだ」

 

 大丈夫だ。

 誰よりも信じたい少年は、そう呟いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 明るい季節がやって来た。

 暴れ柳が身震いして積雪を地に落とす。

 それを合図としたかのように分厚い雲と白い雪にふさがれた日は終わりを告げ、薄れた雲を透かし陽光が地を照らした。

 

 季節が変わる。

 時を同じくしてホグワーツの陽気も戻りつつあった。

 ジャスティン・フィンチ=フレッチリーと「ほとんど首無しニック」の事件以来、誰も襲われていない。

 

 また、マダム・ポンフリーがマンドレイクが順調だと報告したことも良い出来事として生徒のなかで大きな話題になった。

 

「もうまったく心配はないと思いますがね! ミネルバ」

 

 特に暢気なのは、誰の追随も許さないロックハートだった。

 ニコニコと彼は中身のない笑みを浮かべて語りかける先は、マクゴナガルだ。

 グリフィンドール生が変身術のクラスの前で列を作っていると彼は自信満々に頷いて見せた。

 

「今度こそ部屋は永久に閉ざされましたよ! 犯人は私に捕まるのは時間の問題だと観念したのでしょう。なかなか利口だとは思いませんか?」

 

 ところでロックハートは先日、廊下で石になっていたところをフィルチに発見され、すわ新たな犠牲者かと大きな騒ぎとなった。

 しかし、実は誰かが彼に「ペトリフィカス・トタルス 石になれ!」と呪文をかけたから石となって廊下で転がっていたことが分かった。不思議なことに犯人が探されることはなかった。とても不思議なことである。

 

「そうですか」

 

 マクゴナガルは常に厳格な女性であるが、度を超して今日は無愛想だ。

 

「そう、いま、学校に必要なのは気分を盛り上げることです。先学期のいやな思い出を一掃しましょう! まさにこれだ、という考えがあるのですよ」

 

 ロックハートは、笑いながら歩き去って行く。

 クルックスは、彼の背中をジッと見ていた。

 

(虫の気配は無い……無い……誰も……)

 

 あの一件以来、クルックスは周囲の人々をより注意して見るようになった。

 誰もが怪しく見えるなど、そんなことはなかった。

 

 誰もが普通だ。わずかに怯えつつも平穏に過ごしている。

 殺伐とした目で誰もを警戒しているのはクルックスだけだった。

 

「何だろうね気分を盛り上げるって」

 

 ネビルが変身術の教室へ歩き出したことも話しかけたこともクルックスは気付くのが遅れた。

 

「はっ!? 何だ?」

 

「ああ、うん、気分を盛り上げるって何をするんだろうねって……」

 

「……どうせまた突飛でもないことだろう。とびきりくだらない……」

 

 クルックスの予感は多くの生徒達が想像できることだったが、二月十四日にそれは決定的な出来事になった。

 

 その日。

 朝食に降りてきたクルックスは、信じられないものを見た。

 ネフライトが怒り狂った顔で大広間から出てきたのだ。

 

「ネ、ネフ!?」

 

「くだらん! 愚か者どもめッ! いつか見てろよ! 必ず、必ずや! 貴様らを冒涜の贄にしてやるッ!」

 

「ど、どうしてしまったんだ!?」

 

「あぁ!? 宗教上の理由だあああッ!」

 

 質問には律儀に答えてくれたが、その答えの真意はまったく分からない。

 彼の来た大広間を見たところ、その理由が分かった。

 四方の壁はケバいピンクの花で覆われ、淡いブルーの天井からはハート型の紙吹雪が舞っていた。

 

 ──昨年は、こんなことがなかったハズだ。

 

 混乱するクルックスは、後ろから来たハリーも困惑しているのを見た。小さな声がかかり、グリフィンドールのテーブルを見るとロンがいて手招きしていた。今にも再びナメクジを吐き出しそうな顔だった。

 

「バレンタイン、おめでとう!」

 

 多くの生徒が席に着く頃。

 教員席でロックハートが叫んだ。

 生徒のざわめきが収まった。

 

「今までのところ四十六人の皆さんが私にバレタイン・カードをくださいました。ありがとう! そうです。皆さんをちょっと驚かせようと私がこのようにさせていただきました。しかも、これがすべてではありませんよ!」

 

 生徒の反応は、喜びより戸惑いが大きい。教員席に至っては無表情な顔が多い。

 ロックハートの提案は聞くに及ばず、クルックスは手頃なパンをいくつかつかんでローブのポケットに突っ込むと席を立った。

 

「あ、あとは頼んだ」

 

 自分でもワケの分からないことを言っている自覚はあったが、ネフライトを放ってはおけない。

 クルックスは、そそくさと退散を試みた。大広間を出ようとしたところ小人をみてギョッとしてしまった。

 同じように大広間を出ようとした者がいる。

 

「あら。クルックス。おはよう。ご機嫌はいかが?」

 

 金糸に光沢を輝かせた髪が、はらりと頬にのる。

 それを細い指で払いながらテルミが挨拶した。

 ネフライトの乱心を彼女も見ていただろう。しかし、ごく普通に話しかけられてしまい、クルックスは面食らった。

 

「ネフほど悪くない。ネフはどうしてしまったんだ。あんな取り乱すなんて……」

 

 歩き続けてネフライトの跡を追う。

 テルミは困り顔だった。

 

「見たとおりよ。キレちゃったの。ロックハートが『四十七人目のバレンタイン・カードは、ファンクラブ名誉会員の君からでも構いませんよ!』とか何とか言って、即プッツンしたの」

 

「そ、それだけ? たった?」

 

「これが廊下での会話であれば問題はなかったわ。環境が良くなかったのよ。ほら、ネフの頭はちょっと特別でしょう?」

 

 テルミが自分の頭を指差しながら言った。

 ネフライトの知恵の根源は、優れた記憶力にある。

『見たものを記憶し続ける』という特異性は、狩人からの素晴らしい贈り物であり彼自身、誇りにしている性質でもあった。しかし。

 

「常に動き続ける紙吹雪が数え切れないほどあって、ああ、ネフの頭ならば全部処理していたのかもしれないけれど……頭がパンク状態というか……とにかく、おかしくなっていたところを悪意のない言動がトドメになってプッツンしたのでしょうね」

 

 クルックスは言葉にならない呻き声を上げた。──頭良すぎるのも考えものである。

 テルミは空き教室を覗き込みながらテクテク歩いた。

 

「幸い、殴りかからなかっただけ理性があったみたい。……うーん。いないわね。寮に行ったのかしら? 寮ならばよいけれど……うぅん、クルックス。一応、図書館に行ってくださる? わたしは中庭を見てきますから」

 

 テルミは、方向音痴だ。

 図書館に行く間に迷子になりかねない。そのための差配だろう。

 外に向かうことは図書館に行くほど難しいことではない。

 クルックスは踵を返した。

 

「了解だ。……見つけてたとして、くれぐれも喧嘩をするなよ」

 

「ネフが売らなければ、わたしも買いませんわ。需要と供給の関係です」

 

 テルミが、ひらひらと白い手を振った。

 

 ふと思い出すのは、聖歌隊の白い服だった。長らく学徒の二人に会っていない。

 ──悩み事を彼らは聞いてくれるだろうか。

 思い浮かんだ迷い事を振り切るように彼は走った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「まぁまぁ。幸運とお父様は、わたしに微笑んだのね。ネフ、ご機嫌いかが? ──ところで鎮静剤はご入り用かしら? 青い秘薬の粉末もありますの。血液注射で星に届く感覚とか。トべるともっぱらの噂です」

 

 クルックスから釘を刺された手前、中庭のベンチに座るネフライトに対し喧嘩を売るつもりは──お父様に誓って──無かった。

 けれど、自分の顔を見たネフライトが隠しもしない大きな溜息を吐いたのでつい口走ってしまったのだ。

 

「結構だ」

 

 むすっと不機嫌さのなかに刺々しい敵意を隠し持つネフライトは、すぐに視線を空に向けた。

 テルミは、ベンチの隣に座り、ポケットからパンを取り出した。

 

「食べます?」

 

「いらない。席を立つとき、いくつか持って来てさっきまで食べていた。……何をしに来たんだ?」

 

「景色のいいところで食事をしたくなったの」

 

「ほう。私を見て? なるほど。いい趣味だ」

 

 クッと彼は喉を鳴らして脚を組んだ。

 テルミは、ポケットの中からさらに瓶に入ったカボチャジュースを取り出していた。

 

「そういう喧嘩を売る言葉はやめてくださらない? さっきクルックスに忠告されてしまったの。貴方、彼に嫌われたくないでしょう?」

 

「私は……別にそんな……。……。彼を引き合いに出すのはやめないか。何だか卑怯な感じがする」

 

「あら。貴方は、誰と手を組もうが構わないと思っていたのだけど、きょうだいに関しては、違うのね。意外ね。とても意外だわ」

 

 ネフライトは、緑色の瞳を向けた。緑色を嫉妬の色としたのはイギリスが誇る劇作家であった。

 そんなことを考えながら微笑むと彼は「見てはいけないものを見た」と言い出しそうな顔をしてそっぽを向いた。

 

「無礼も非礼も、一時だけ忘れよう。はい。精算済み。これでいいかな?」

 

「気前が良くて結構なことです──ということは、何か企んでいるのね?」

 

 彼は答えず、ただテルミが差し出したカボチャジュースの瓶を受け取った。

 事実上の肯定であった。

 

「私は、いつかホグワーツに『ほおずき』を放って遠くから観察していたい」

 

 ネフライトの独り言は物騒だった。

 

 狩人の悪夢に存在する『ほおずき』と呼ばれる悪夢の生き物を彼らは狩ったことがない。邪眼を有する、聖杯にも存在しない特別な生き物だ。けれど狩人が、その危険性から唯一、座学の機会を設けて説明したことがある。そして話さずにはいられなかった理由は分かる。対処の方法を知らなければ、見える距離にいるだけで死んでしまうのだ。知っていて損なことは何もない。

 

 そんな『ほおずき』を野放しにしたいというネフライトの野望は、まったく友好的ではない。とはいえ。

 

「あら、素敵な夢。ええ、貴方とはこういう話題で盛り上がりたいわ」

 

「盛り上がっちゃダメだろう。これは冗談だ。本心から遠くないがね」

 

「ネフはホグワーツが嫌いなのね」

 

 パンをちぎって食べながらテルミは言った。

 ネフライトは、また答えなかった。

 ただ、言わずとも分かるだろう。そんな目でテルミを見た。

 

「魔法使いは、魔法使いであることに満足している。我々より…………神秘を持っているにも関わらずだ」

 

 ネフライトは言葉を詰まらせた。

 いつも諭すように話す彼にしては、とても珍しい。

 だから、彼の言いたいことがテルミにはよく分かった。

 きっと「優れた」とは認めたくなかったのだ。

 

「互助拝領機構のチラシ、見たか?」

 

「ええ。拝見しました。素敵なイラストが描いてあったわ」

 

 チラシは、ルーナ・ラブグッドが作成した。

 そのことを言ったあとで彼は口を噤んだ。なぜ黙るのだろうか。見ればネフライトは、唇を噛んでいた。

 

「あら。貴方、悔しいと感じているのね?」

 

「私が持ち得なかった発想だ。メンシスの檻は祭祀の道具であり、交信の装置であり、客観の概念であるから。けれど、彼女は私の知らない瞳を持っているようだ。広告。シンボルとしての活用。記号的認識に使えるとは考えていなかった。悔しい。認めたくないものだが。とても悔しい……」

 

 ──だから『ほおずき』を放ってぐちゃぐちゃにしたいのだ。

 

 テルミは、ほんのすこしだけ驚いた。

 彼は目的のために誰かを害することも厭わない思考を持っているとは知っていたが、手に入らないものを羨む場合は、壊してしまい最初から『無かった』ことにしたいのだ。

 

(なんと、まぁ、難儀な人よね)

 

 賢ければ賢いほどに、物事の底も天井も見えてしまうだろうに。

 当然のことながら彼もそのことを分かっていて、それでも智慧を食む手を止められないのだから『ヤーナム人らしく病んでいる』のだと医療者は同じ枝葉の隣人を見た。聖歌隊が彼の所属するメンシス学派の居所たるヤハグルに火を付けるよりも、彼が自己矛盾に陥って、火を使う日も遠くないかもしれない。

 

「そうね。作ることは壊すことより難しいことだわ。お父様がおっしゃっていましたから」

 

「……ヤーナムと魔法界。ひいては私達とホグワーツは、良好な関係を続けなければならない」

 

 ついさっき『ほおずき』を放ちたいと言った人物とは思えない慎重な意見だ。

 だからこそ、テルミは頷いた。

 ネフライトは一個人の感情よりもヤーナムの利を考えているとハッキリ分かったからだ。

 

「そこだけは、ええ、わたしと貴方でも意見が一致しますね」

 

「そうだ。次はそれを示さなければと思うのだよ。だから君に何事か起こった場合は、ひとつの手落ちなく状況を整えよう」

 

「──わたしに何かが起こることを決定的に語るのね? ひょっとして喧嘩売ってらっしゃる?」

 

「いいや、別に……そういうワケではないのだが……。心の準備だけは、互いにしておくべきだと言っているんだ。お澄まし顔のセラフィは何を考えているのか、私にはさっぱり分からない」

 

「セラフィは大丈夫でしょう。女王様に面白い話を届けないといけないお仕事があるのですから、大人しくできると思うわ」

 

「だといいがな。セラフィの差配について私は今でも納得がいかない。お父様はいったい何をお考えなのだろう。騎士など名ばかりの血狂い。狂人どもだ。セラフィもセラフィだ。──なぜ大人しく従っているのか?」

 

「貴方、わたしにこんなこと話していいのかしら。うっかり口が滑るかもしれませんよ?」

 

「滑らせてみるがいい。私は『テルミから持ちかけた話だ』と言うだろう。どちらを信じるか。見物だな」

 

「自分の方が信頼されていると思い上がっている貴方って可愛いですよね。この場限りの愚痴に留めてあげましょう」

 

 ネフライトは、鼻で嗤った。

 テルミはそれを聞こえなかったことにしたが、新しい噂のネタを仕込んでおこうと決心した。

 

「セラフィは、ほら、いい子ですから」

 

「ただの身内贔屓と道徳心の欠如だ。穢れた貴族どもの教育の賜だな」

 

「貴方が言うと説得力がありますね。あぁ、怒らないでくださいね。ただの事実ですから」

 

「どちらが? はぁぁ、まぁどちらでもいい。セラフィのことは出来れば考えたくない。操舵は任せたぞ。何があっても責任は君ということにしよう。私はクルックスを見なければ。どうやら自分のことで手一杯のようだから……」

 

「クルックスがどうかしたのかしら? 最近のあの人は、調子が良さそうに見えていたけれど」

 

「虫がいると言う。虫。連盟のアレだ」

 

 テルミは「へえ」と言ってみた。

 ネフライトはカボチャジュースを飲んだ。

 

「驚かないのだな」

 

「これでも驚いていますけれどね。もっとも『見つけるのが早かったなぁ』という感想ですけれど。魔法はわたし達の神秘とは違う種類の神秘ですが、それでも神秘には違いないのですから『何によってもたらされているのか』──その根幹如何によっては、血が淀むということもあるのでしょう。わたし達のような『血液感染』とは違うような気がしますが……。それにしても可哀想なクルックス! あの人、魔法界は綺麗だと思っていたのでしょうに。でも、ちょうどよかったのかしら? そろそろ進展が欲しいと思っていました。血の主は、きっと継承者かそれに近しい誰かなのでしょう。あの人も望むモノが見つけられてよかったですね。そして踏み潰すことだけが連盟の使命なのですから。──それで、虫は誰のなかに?」

 

「その情報は伏せる。クルックスにも聞くな。……彼にも分からなかったのだ」

 

「ふぅん。そうなの。不思議ね」

 

 テルミは、ネフライトの顔をよく見た。

 彼は、驚くべきことに嘘をついていなかった。

 

「よく隠れているのだろう。クルックスはそう言っていたが……それだけではないような。むむ、言語化が難しい。やはり連盟のカレル文字は信用したくないぞ、私は」

 

 それを聞いてテルミはつい笑ってしまった。

 医療教会の英雄が取り憑かれていた『導き』のカレル文字とどちらがマシかを考えてしまったのだ。

 

「とにかくだ。二人は使い物になりそうがない。正確には、有事だからこそアテにすべきではないと言うべきか。特に今のクルックスはヤーナムのことにまで気が回っていない。私達だけでも行動指針を定めておく必要がある」

 

「それは、そうですね。あ。──もしかして互助拝領機構って」

 

「私が慈善事業をしていると本気で思っていたのか?」

 

「心を入れ替えたのかと思ってましたの」

 

「それは君が宗旨替えするくらいありえないことだ」

 

 カボチャジュースが入っていた瓶を返却したネフライトは立ち上がった。

 

「有意な会話となった。感謝を。君のお父様に対する感情が──君のために『愛情』と呼ぶことにするが──ヤーナムに利益をもたらすことを期待する」

 

「貴方の献身も報われるといいわね」

 

 パンを食べきったテルミは言った。指先に付いたパン屑を地面に落とす。

 その行方を見ていたネフライトは、あるとき片方の口の端が歪に上がる、いつもの笑みを浮かべた。

 

「私は、いつだって報われたくて頑張っているワケではないのだよ」

 

 ──君とは違う。

 その響きがあることに気付いていたが、テルミは気に留めなかった。

 

「でも報われないことは、きっと悲しいことだわ」

 

「労りの情は、お父様にこそ相応しい。……その感傷だけを私は慈悲と呼びたいのだから」

 

 拒絶されてしまっては、触れることもできない。

 ネフライトはローブをはためかせて校舎へ戻っていった。

 

 春になった。

 

 誰もが陽気に感じる季節の訪れだが、彼の心は解かしてくれなかったようだ。

 あるいは。

 テルミは、落としたパン屑に虫が集っているのを見た。

 

 彼の目は、こうしたものばかり見つめてしまうのかもしれなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 バレンタインの夜。

 クルックスが談話室に戻ったのは、偶然だった。

 

 今年になり、しばしば服用するになった青い秘薬が尽きてしまったことに気付き、外套を取りに談話室に戻った。

 螺旋階段を昇っていると頭の中で何かが蠢いた。

 

 ──カレル文字だ。

 

 ここがどこか。忘れたクルックスは駆けだしていた。

 辿り着いたのは、寝室だ。

 

「はッ……?」

 

 クルックスは、ほんの一時、カレル文字の疼きも気にならなくなった。

 誰もいない。

 寝室には誰もいなかった。

 だが、カレル文字の反応は続いている。

 その反応の先で、クルックスは顔を歪めた。

 

「まただ! なぜ……問題は、いつもハリー・ポッターなのだ!?」

 

 彼の机に広がっているのは、黒革の本だ。

 最近、どこかで見覚えがあった。

 

 カレル文字の反応は──クルックスにとって信じがたいことだったが──この本が原因で発生しているように感じられた。

 

「何だ。どうなっている……? カレルは、文字は、人の淀みを見定めるモノのハズだ。無機物に反応するのか? いや、連盟の長が間違えるハズがない。……なぜ、本が……? はッ!」

 

 気配に振り返る。

 突然、ハリー・ポッターが立っていた。

 途端にカレル文字の反応が消えた。

 クルックスは額を押さえながら、一方の手でハリーの胸倉をつかんだ。

 

「何をしていたッ!?」

 

「わっ!? なに──」

 

「ここで何をしていた!? この本は何だッ!?」

 

「何もしてないよ!」

 

「言い訳は無駄だ! この本が、ただの本ではないことは分かっているぞ──」

 

「痛い! 離せよ!」

 

 声にハッとしてクルックスは手を離した。

 だが、落ち着かずグルグルとその場で歩き続けた。

 

「俺は誰も害してはいけないのだ。害してはいけない。いけない。いけない。俺は、正しい連盟員なのだから……お言葉に逆らってはいけない……。俺は、ただ……虫が……危険を……忠告で」

 

 ハリーは、日記を抱えると急いで階段を下がって行った。

「待て」と声をかけることができなかった。

 

 黒革の本。

 あれは、ジニーが持っていた物だ。

 

 クルックスは、よろけながら自分のベッドに座り込んだ。

 再びカレルが反応を無くしたからだ。

 

 立ち上がるには、気力と時間が必要だった。




学徒、コッペリアの悪癖:
『子供好き』の性質は、過去得られなかった、今後得られる未来もないモノを求める代替行為である。そのため、向ける感情は重々しく、甘く、爛れてしかも膿んでいる。
 彼は仔らを間違いなく愛している。その感情に嘘はないが「本当は自分の所有物ではない」事実を思い出すのは、彼にとって耐えがたいことだ。彼らの愛をうまく受け取れない時に、その情動はあふれ出す。傷つけたいワケではない。それでも、ほんのすこしだけ、本当にすこしだけだが……憎いと思ってしまうことがあるのだ。


狩人、語る:
 本文中の内容(たとえ「問題の先延ばし」と誹られようが迫る期限ある話でもない。虫の存在は、世界をどこまで広げてもカレル文字を刻んだ連盟員『だけ』の問題なのだ。躊躇は人の証でもある。長い夜に正しかった連盟の長も咎めまい。まずは身の回りのことからはじめよう。あるいは、見損ねた虫の正体を掴んでからでも遅くはない。)は、あとがき用に文章を書いている間にこっちのがいいな、と変更しました。変更前の文章は『深く淀んだヤーナムの虫を一掃してから、魔法界の虫の駆除に取りかかっても遅くはない』という短いものでした。


バレンタインの描写:
 映画では丸々カットされているものです。原作小説では『バレンタインイベント』と言うべきロックハート先生の話がありました。
 映画では、トイレで日記を拾ってから寮に戻り、すぐに日記に書き込みをはじめるハリーですが、時系列では日記を見つけたあと少々(それでも一週間程度だと思われますが)持っていて、本イベントが起きます。
 そこでハリーの教科書や筆記用具がインクまみれになってしまうのですが、唯一何の変化も無かった日記帳を見て「おかしいな?」と思うことがあり、やがて日記に書き込んでみようという流れになっていきます。
 けれど無いならば無いで違和感の少ないイベントなので映画版の省略と日記に引き込まれる流れは、とても好ましいものです。
 本作においては、前話でロンに「知らない本は危ないぜ」という話をさせたので、ちょっとした動機付けのためバレンタインイベントを挟みました。
 何が言いたいかと言うと、原作小説を知っているとちょっとだけ「あぁ、そういうこともあったよね」と頷けるかもしれないネタというだけです。
 皆も見よう、ハリー・ポッター! 本は鈍器だけど今は電子版があるからね! お手軽!
(筆者はKindleで閲覧しています。というのも定額サービスに入っていると追加料金無しで見られる「kindle unlimited」に該当する作品なのです。文字検索できるのは、本当に便利ですよ。そして、本より安いBloodborneは何なんだ……?)


ネフライトの乱心:
 キレた。前々からイライラしていたが、今日という今日はキレた。ヒラヒラした物は全部ゴミ箱に突っ込みたい。私は存在を許さん。
 でもテルミとまともに話ができたのでたまにはキレるべきだな、と思った。それはそれとしてロックハートの名前を出したら瞬間的に怒ることになったので、やはり今回のテルミは幸運に微笑まれていた。

ネフライトの嫉妬:
 ご感想でご指摘をいただいてギクリとした話でもあります。着眼点が素晴らしい! 瞳が足りています!
 メンシスの檻。それは六角柱の檻であり、上位者と交信するための触覚でもあります。ネフライトはそれを祭祀道具として捉えていたので、チラシで目印としての活用、そしてシンボリックな描き方をされているのを見て「その思考があったか」と動揺し嫉妬しました。一度その考えに触れたので「自分でも使えそうだ」と思う反面、だからこそ思いつかなかった思考土壌の浅さを思い知らされます。
 手に入らなければ、いっそ壊してしまえ。喰らえ、ほおずき!
 そんな感じで思い詰めることがあるネフライトが心寄せるメンシス学派。テルミは「焼き討ちするまでもなく滅びそうね」と思っています。ヨシ!


テルミ視点:
 ご感想でもご指摘をいただいていただいておりましたが、これまで意図的に書いてこなかったテルミ視点からの進行。今回はやっと書けたので、ちょっとホッとしています。
 なおテルミ章と言うべきテルミが主人公の話は、今後の『3年生まで』章で3~4話かけて書きたいと思っています。仮題『テルミの大冒険』。お楽しみいただければ幸いです。──え? いつ投稿するか? そう、そうね……


1P漫画「ネフライトの憂鬱」

【挿絵表示】



 最近一気に読んでくれる人が多いようで、筆者はとても嬉しいです。ありがとうございます。もうちょっとだけ続くのでお楽しみいただければいいなぁと思っています。
 ご感想お待ちしています(ジェスチャー 交信)


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ネフライトの大切なもの

 クルックスは、先日の一件以来、ハリー・ポッターと話していない。

 もともと会話が多い関係ではなかった。

 それにしても挨拶程度は交わしていたが、今はそれさえなくなった。

 

 それ自体は何も苦ではないが、黒革の本のことが気がかりだった。

 ハリーから人目を憚らず、本を取り上げるワケにはいかない。しかし、早急に対処が必要だ。

 その策をネフライトに頼む前に、最悪の事態が起きた。

 

 物盗り騒動が起きたのだ。

 

 ハリー・ポッターの寝室を荒らした誰かはお目当ての品を見つけたらしい。──例の本だ。

 こうなれば「怪しむな」ということが無理である。ネフライトに相談したが、結論は変わらなかった。

 

「──調べは進める。全員でな。だが、お父様のお心を大切にすべきだ。我々は、誰も傷つけてはいけないのだよ。……必要があるまでは」

 

 眼鏡の奥で、彼の緑色の瞳が警告するように輝いた。

 それに「分かっている」と噛みつくように返事をして肩を落としたのが今朝の話。

 

 復活祭の休暇は、できるだけ『きょうだい』の誰かと一緒にいようとクルックスは決めていた。できれば周囲をうまく取り直してくれるテルミが好ましいと思っている。それに彼女から香るロスマリヌスの匂いは、クルックスに聖歌隊の賢人を思い起こさせる。気休めだが、安らぎの残滓を感じていたかった。

 

「テルミ」

 

 声をかけたとき、彼女は外出の用意を調えて何人かの友人達と共にクィディッチ観戦に向かうところだった。クルックスは、すっかり忘れていたのだが今日はグリフィンドールとハッフルパフの試合だった。

 

「なぁに?」

 

「あ、いや……外出なのだな……すまない、忘れていた……」

 

 テルミは控えめに手を振った。

 人混みに流されて見えなくなった彼女を見送り、クルックスはセラフィを探そうと大広間に足を向けた。

 その矢先だった。

 

「クルックス、待ちなさいよ。もぅ、わたしが方向音痴だとご存じだと思ってましたけどねっ」

 

 帽子とウィンプルを外したテルミが駆けてきた。

 

「テ、テルミ、でも試合は……? いいのか?」

 

「どちら勝とうが構いませんの。もともと興味があるフリをしているだけです。そんなことより貴方に恩を売っておく方が楽しいかと思いまして。だからくれぐれも捨てられた犬みたいな顔してはいけないのよ?」

 

「俺は、そんな顔をしていただろうか」

 

「まぁ、知らないの? フフフ、お父様によく似た顔で、寂しそうな顔をしてはいけませんよ。これから春が来て、夏も来るというのに。秋の冷雨に当たった顔をしていたわ」

 

 クルックスは、自分の頬に手を当てた。

 テルミのくすぐるような言葉は、ときにどうすればよいか分からなくなる。

 父たる狩人が感じている戸惑いもこのようなものかもしれない。

 

「それでわたしをどこに連れて行ってくれるのかしら?」

 

「……休暇は、できれば一緒に過ごしたいと考えている。どことは考えていなかった。では、ええと、図書館に行こうか」

 

「え。そこにはネフがいるじゃない」

 

 彼女は、ムッと唇を尖らせた。

 クルックスは、テルミとネフライトの仲が悪いことをしばしば忘れてしまっていた。彼らのやりとりは『じゃれあい』の範囲で収まるように思うのだ。

 

「む。ダメか?」

 

「ダメとは言っていません。でも、女の子を誘うときにノープランは困ります。許されませんよ?」

 

「すまない。君と一緒の時間を過ごしたかっただけなんだ。本当はどこだって構わないと思っている。しかし……ええと、では、そうだな……どこに行こうか……」

 

 中庭と考えついたが、まだ春になったばかりだ。明るい時間もあるが、いまいち曇りがちな今日の天気では風も寒いだろう。

 困っているとテルミがそっと背を押した。彼女はなぜか笑っていた。

 

「いいわ。図書館に行きましょう。クィディッチに向かう集団にセラフィはいなかったので、きっとセラフィもそこに来るでしょう。全員が集まれば三年生の選択科目について情報提供ができますからね」

 

「……いろいろとすまない。君のように配慮できればよいのだが……俺には、とても難しい」

 

「経験の問題よ。大丈夫。クルックスもすこしずつ学んでいけばいいわ。貴方はもっといろいろな人に触れるべきなのよ。そうだ。今年の夏休みは、一緒にダイアゴン横町に行ってお買い物しましょうね」

 

「何か足りないものがあるのか?」

 

「うーん、そういうワケではないのだけど……ウィンドウショッピングって分かるかしら。いろいろなお店を見て回るの」

 

「買いもせずにか? テルミ、店を冷やかすのは善い行いではないと思うぞ」

 

「いえ、そういう意味でもなくて……うーん……貴方も難儀な性格よね。そこがいいのだけど。お店を見て回るのは、いざというときに必要な物がどの店に置いているのか分からないと困るでしょう? 事前に把握するために行くのよ」

 

「了解だ。同行しよう。初めからそう言ってくれ」

 

 二人は、並んで歩き出す。

 何でもない話を気兼ねなく出来ることが嬉しかった。

 会話が続くうちに今朝、渡された課題を思い出した。

 復活祭の休暇中に三年生で選択する科目を決める時期が来たのだ。

 クルックスは科目名だけを見るならば『魔法生物飼育学』が面白そうだと感じていた。

 

「そういえばネフは全科目取ると言っていたな」

 

「全科目? それはできるのかしら? いくつかの科目は、その裏。つまり同じ時間に授業があるのよ。出欠しなくとも課題だけやればよいのかしら?」

 

「さあ。何か策があるような口ぶりだったが……。そうそう、昨年度の首席はネフだったな。今年度も頑張ってほしいものだ」

 

「……誤解したままは嫌なので言っておきますけど、わたしだってその気になれば首席が取れますからね?」

 

「はぁ。しかし、実際はネフだろう?」

 

「頭が良すぎるのも警戒されると思って点数を控えめにしているの。わたしは、とても綺麗で素敵な可愛い女の子でいたいのです」

 

 窓の日差しが眩しい。

 テルミは、軽いステップでクルックスの前を先に行く。

 細い金色の髪は、光を受けるとキラキラと輪になって輝いた。

 

「……お父様が、なぜ君を避けるのか。君は気にならないのか?」

 

 廊下には誰もいないのでクルックスは聞いてみた。

 遂にセラフィは、自分の顔と同じ女性を探すことにした。

 テルミは気にならないのだろうか。それが気になってしまったからだ。

 振り返った彼女は、無邪気に笑いかけた。

 

「ええ。気にならないわ。わたしは、わたしだもの。お父様のお心は、お父様のものだもの。わたしが変わろうと、お父様のお心は変わらないわ。お父様のお心は、お父様の問題なの。だから気にならないわ。……それに戸惑うお父様って、たじたじしていてちょっと可愛いもの!」

 

「それは一般的に情けないと言わないか?」

 

 遙か東方。

 ヤーナムの地で月の香りの狩人は突然のくしゃみに襲われた。

 奇しくもカインハーストの女王への謁見中に起きた悲劇であった。

 しかし、彼らには認知しようのないことであった。

 

「テルミが気にしていないのならばいい。……おや?」

 

 クルックスが階下に見える廊下を見る。銀色の長い髪を鴉羽で結ったセラフィが見えた。

 彼女も視線に気付いたらしくトリコーンを被った頭が階段を見上げる。そして右手を挙げた。

 

「はぁーい、セラフィ、図書館に行っているわねー」

 

 セラフィは帽子を押さえて首肯した。

 

「やっぱり来てくれたから、きょうだい会議ができるわ」

 

「そうだな。テスト対策もしなければならないし……」

 

「何が不安なのかしら?」

 

「いろいろ、いろいろだ」

 

 復活祭の休暇は宿題が出された。

 テストも近い。

 課題の中身を見れば、復習も多いようだ。

 よく見て考えれば整理ができるだろう。

 だが、近頃は授業にも身が入らない。

 

「仕方ありませんね。明日にでも課題を見てあげます。できるところだけでもやって来てくださいね?」

 

「とても助かる」

 

 図書館が見えてきた。

 テルミはウィンプルを被り直し、帽子を被った。

 

「あと約三ヶ月。何事もなく過ぎればよいと思っているのだけど……」

 

「……?」

 

「何かが起きるとしたら『あと』約三ヶ月とも考えられます。皆さん、暢気をしていますけれど状況は何も変わっていないでしょう。……すこし呆れますね」

 

「敵の尾ひとつ掴めない俺達にも同じことが言えるだろう。いい加減に敵の影が見えてもいい頃だ。いずれ誰かがボロを出すだろう」

 

「ここまで誰にも悟られなかった継承者が『今さら』ボロを出すかしら。出したら、そうね、ラッキーと言ってみましょうか」

 

 テルミは笑いながら図書館の扉を開きかけた。

 ドアノブをつかんだまま前のめりになってしまったのは、扉の向こうで誰かが引いたからだ。

 

「きゃっ!?」

 

「ごめんなさいっ! テルミ? ちょうどよかった! 司書のマダム・ピンスが見当たらないし──私これをすぐに先生にお知らせしないと……!」

 

 ハーマイオニーだった。

 いつもにない慌て方をしている。

 

「何を知らせるんだ?」

 

 鋭く問うと彼女は答えた。

 

「怪物の正体よ! スリザリンの怪物は、バジリスク! 蛇の怪物よ。目を見ると死ぬわ! だからハリーにだけ声が聞こえた。蛇語だから! 今日も聞こえたの。大広間から外の競技場に行く前に──だから私、気付いて──とにかく! どこか廊下の角を曲がるときは鏡で先の廊下にバジリスクがいないかどうかを確認してから歩いて。そうすれば石になっても死にはしないわ。私、行くわね! 早くこの情報を誰か、先生に──ダンブルドア校長に伝えないと!」

 

 情報の真偽は分からない。

 だが、ずっと継承者と怪物を追っていたハーマイオニーがつかんだ情報だ。

 信じるに値する。

 駆けだしたハーマイオニーが隣を通りすぎていく。

 

「──テルミ、ネフに伝えろ」

 

「クルックスは?」

 

「セラフィが来た。俺はセラフィに話す」

 

 テルミとクルックスが別れて間もなく、セラフィが追いついた。

 挨拶を遮り、彼女に告げた。

 

「セラフィ、敵が分かった。蛇だ。目を見ると死ぬ」

 

「……たしかなのか?」

 

 セラフィは瞠目した。

 

「分からん。だが、ずっと正体を追っていたハーマイオニー・グレンジャーは確信して──」

 

 後方から、ゴトンと重々しい音が響いた。

 セラフィが目を見開いたまま、無言で衣嚢からレイテルパラッシュを取り出した。

 

「クルックス、真偽はあとだ。敵はすぐそこにいるぞ」

 

 振り返る。

 廊下の端、角にはハーマイオニーが転がっていた。床に落ちるべき手足が、不自然に宙に浮いている。

 手鏡が窓からの日差しを反射し、天井に丸い光を放っていた。

 

「あ──」

 

 手を伸ばす。あまりに遅すぎた。

 一瞬でクルックスは感傷を置き去りにした。

『人は、そうすべき時にすべきことを成すべきだ』

 かつて語り、ハーマイオニーに語られた言葉は、もう一度、自分のなかに還ってきた。

 手を握り、クルックスは歩き出した。

 

「視界のない戦闘だ。やれるか?」

 

「問題ない。聖杯の地下の暗闇より明るい」

 

 カインハーストに仕える者の平坦な声音と共にセラフィは銃──長銃、エヴェリンの撃鉄を起こした。

 クルックスは衣嚢から銃槍とガトリング銃を取り出した。

 

「ガトリング銃で掃射する。敵の規模が不明だ。だから。敵が悲鳴を上げたら僥倖! なければ片端から切り刻め! 我らに月の香りの加護あらんことを! ──行くぞ、殲滅せよッ!」

 

 クルックスはハーマイオニーを飛び越えて、廊下の正面に躍り出る。

 左手に握るガトリング銃の引き金を引いた。

 激しい振動と薬莢が転がる音、そして火薬の匂い。廊下を思い描き、その全面を舐めるように掃射は続ける。

 

 やがて、一発が何かに命中した。

 石壁では起きない反響音。

 

「十時の方向!」

 

「承る!」

 

 クルックスの痺れた鼓膜にセラフィの鋭い声が届いた。

 銃撃。そして、怪物の叫び声が響く。

 だが、セラフィが距離を取った。

 

「……! 大きい。感触では、禁域の森の蛇玉より大きいように感じる。しかも硬いぞ。だが、無敵というワケではない。僕の刃は濡れている。多少届いている。鈍器が有効だろう。しかし、殺しきれる!」

 

「的がデカいなら結構だ。仕掛けるぞ! ここで必ず殺す!」

 

 ガトリング銃を投げ捨て、銃槍の仕掛けを起こした。

 斬り込みながら、散弾の発砲が可能な槍だ。

 

 敵の目さえ見なければいい。

 攻略方法は簡単だ。これが体のどこかに刺されば、敵に頭を巡らせる隙など与えない。爆発金槌で死ぬまで叩き潰すだけだ。

 走りかけたクルックスを止めたのは、誰かに肩を引き留められたからだ。

 

「──彼方に届け、我ら聖歌の声──」

 

 透き通るようなテルミの声が聞こえた。

 

 合計四十八発。

 星の小爆発が発生し、全方位に雨のように降り注いだ。

 ヤーナムにおいて高位の医療者しか使うことのできない『彼方への呼びかけ』と呼ばれる秘技だ。

 いくつかは怪物にも命中したのだろう。再び奇声が聞こえる。

 そして、クルックスの背後では聞き慣れた声が命じた。

 

「──テルミ、月光でなぎ払えッ!」

 

「言われなくても! セラフィ、伏せてなさいッ!」

 

 続けざまに、空気が大きく震える感覚が届いた。

 空気のうねりを知っている。神秘で肌がざわついた。

 

「彼方の月よ、数多の血よ、導きを我に標せ!」

 

 テルミが高らかに掲げる長剣が、神秘をまとい光を収束させた。

 

「我、医療教会の名の下、邪悪を滅ぼさん! 輝け、わたしの──月光の聖剣よッ!」

 

 目を閉じていても感じる、青い月の光をまとった剣が空間を凪いだ。

 暗い光の波は、たしかに大蛇に届き、悲鳴が聞こえた。

 

「クルックス!」

 

「俺の四肢をくれてやる! 策をよこせ、獣を殺すのだ! 今! ここで! 殺すまで、滅ぼすまで、俺は撤退を許さんぞッ!」

 

 猛るクルックスの肩をつかんでいたのはネフライトだった。

 

「お望みどおり殺させてやる。そして犠牲は一人未満で済む。だから私の言うとおりに動くんだ。──ぐぅっ。いいな?」

 

 了解を告げると同時にネフライトの足下からメスを投げ捨てる音、そしてカツンと大きな音が鳴った。

 彼がいつも使っている教会の杭だ。

 

「これより私、ネフライト・メンシスが作戦指揮を執る! 本戦闘の主眼は、スリザリンの怪物を無力化することにある──」

 

「さっき殺すと言っただろうが!」

 

「結果的にそうなるので問題はない! そして我々が戦うのは狩人の誇りのためではない! 生徒のため、ホグワーツのため、彼らが積み上げた全てのために殺すのだ! 怪物よ、眼を剝け! そして、我らの神秘に見えるがよい!」

 

「──策があるならば急げ! 逃げるぞ!」

 

「──あ、壁よ! 壁から顔を出しているんだわ、これ!」

 

 セラフィとテルミが手探りで大蛇と格闘している。

 その時。

 頭の奥に響く、鐘が鳴った。

 

「私が二度鐘を鳴らす。一度目の鐘は、いま鳴らした。二度目の鐘でセラフィとテルミは退け。その間にクルックスが仕留める」

 

 セラフィとテルミから返事があった。

 それを合図にネフライトがクルックスの肩を叩いた。

 

「貫通銃に弾丸を装填。青ざめた弾丸だ。間違えるなよ」

 

「だが、貫通銃は点での攻撃だ。当たらなかったらどうする」

 

「それは君の心配することではない。弾丸は中たるし敵は死ぬ。そのために照準は私が務めるのだから。君は命じられた方向に撃てばいい。引き金を頼む」

 

「──ッ、了解だ!」

 

 すぐさま衣嚢から貫通銃を取り出し、特別な弾丸を装填した。

 

「……まぁ、なんだ。迷信も捨てたものではなかった。こんなところで役に立つとはな……」

 

 満足そうなネフライトの声が、クルックスにとって耳障りだった。

 

 

 

 青ざめた弾丸

 狩人の夢の主からもたらされた神秘の弾丸。

 上位者の寄生虫がそうであるように。

 深い神秘を宿した血は、通常、地上の生き物に馴染まないものだ。

 水銀と交わり、弾丸の形に固められたものには、殺意が宿る。

 ……敵対者よ、ヤーナムの神秘に見えるがよい……

 

 

 

 二度目の鐘が鳴り響いた。

 それを合図に、ネフライトは眼鏡の奥で目を開く。

 セラフィとテルミが床を蹴り、壁を辿って戻ってくる。

 

 そして、見た。

 廊下の奥。壁に開いた穴は閉じかけている──だが、銃弾の方が早い。

 

「十一時の、ほ──!」

 

 傷ついた蛇の頭部が、殺気に反応し正眼を得た。

 黄色の瞳と目が合った。

 その瞬間、ネフライトの全身は硬直した。

 

 

 指示を受けたクルックスは膝立ちで構えた貫通銃を放った。

 結果は確かめることはできなかった。

 怪物の悲鳴を背に、彼はネフライトを抱え上げ、廊下を曲がるまで決して振り返らなかった。

 

 

 クルックスがネフライトを抱え、テルミがハーマイオニーを背負い安全な廊下に待避する。

 やがて図書館から、爆発と奇声に気付いたマダム・ピンスが息を切らして飛び出してきた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 犠牲者は医務室に安置された。

 間もなくダンブルドア校長がやって来るという。

 その話の半分を聞き流したクルックスは、石になったネフライトの手を握っていた。

 

「冷たいのだな……」

 

「そうね。石だから。けれど視界の無い戦闘では、上手くやったでしょう。もし、噛みつかれていたらと考えると……」

 

 死は避けられないことだった。

 テルミの言葉は頷けるものだ。

 ネフライトは「犠牲は一人未満」と言った。

 その言葉の意味をクルックスは手のひらによく感じていた。

 

「素晴らしい成果だ。僕も何本かバジリスクの牙を斬り飛ばした。血も多くはないが採取できた」

 

 セラフィはマントに包んだ血濡れた牙を見せた。

 

「……それをどうするんだ?」

 

「ネフの名でお父様に献上する。僻墓が充実するだろう」

 

 普段であれば、思わず立ち上がる話題であっても今は喜ぶ気分になれそうになかった。

 小さく「そうか」と言ってベッド隣の椅子に座った。

 

 ネフライトの顔を見つめる。

 生きている時間の一瞬を切り取ったハズの光景は、写真と同じもののはずだが、冷たく悲しいものに思える。クルックスは沈む気持ちを抑えきれなかった。

 

「クルックス、自分を責めてはダメよ。皆ができる限りのことをやったのだから」

 

「しかし、もっと早く踏み込んでいれば誰も犠牲者を増やさずに出来ただろう。それか、すぐに二人を呼びに行って──」

 

「そうだとしても君の咎ではない。僕の責でもある。……しかし、バジリスクがグレンジャーに出くわしたあと。新たな獲物がいなければ、その場を去っただろう。あの瞬間に僕らが飛び出して、釘付けにできたことは幸いだった。何もかも自分だけで出来るとは思わないことだ」

 

 反論したくなりクルックスは顔を上げる。だが、誰も彼を見ていなかった。

 セラフィは聖歌の鐘を撫でて狩人服の内にしまった。

 テルミは先ほどからネフライトが握ったまま放さない教会の杭を何とか剥がそうと四苦八苦している。

 

「ああ……すまない……」

 

 ネフライトが目覚めるのは、遠い日ではない。

 マンドレイク薬は、そろそろできるという話もあった。

 

 ひとまず脅威は彼の導きで去ったのだから、今はそれだけを「よし」として納得すべきだった。誰より納得したいから、何度も自分に言い聞かせた。

 

「いいえ。ありがとう。……狩人であれば、このように言うべきなのだろうな」

 

 そうね。テルミの言葉が途切れた。

 医務室の扉が開く音に三人は出入り口を見た。

 

 ダンブルドア校長が四人の寮監とマダム・ポンフリー、それからクィディッチのユニフォームを着たハリー、そしてロンを連れて現れた。

 三人は椅子から立ち上がり、所属による一礼をした。

 

「スリザリンの怪物は、バジリスクでした。そして、偶然にも我々が会敵。致命傷を与えました。……ほんのすこし痛い犠牲でしたが、それに見合う結果を残せたと思いますわ」

 

「ひとまずは礼を。それから──」

 

 ダンブルドア校長は、手をネフライトに向けた。

 

「彼の勇気に賞賛をせねばなるまい」

 

「ええ」

 

 テルミは「ぜひ、そうしてくれ」と言いたげな、悲しみと誇らしさをない交ぜにした顔をした。

 

「──致命傷とは、どういうことか聞かせてもらえるでしょうね」

 

「ネフが照準を務め、俺が貫通銃で撃ちました。そう長くない命だと思われます」

 

「なぜ、そう言えるのかね?」

 

 踏み込んだ質問は、スネイプからだった。

 銃弾についての説明から始めなければならないらしい。

 クルックスは疲れた動作で衣嚢に手を突っ込んだ。

 

「ヤーナムの──」

 

「特別な毒を使っていますの。ですから、死ぬでしょうね。そう判断しています」

 

 言葉を遮り、テルミが答えた。

 ごく普通に「神秘」と言いかけたクルックスは、もう黙っていようと思った。

 スネイプは腕を組み、目を細めた。

 

「バジリスクは巨体だったとマダム・ピンスに報告したのは君だったか。ミス・コーラス=B。その毒は、バジリスクを死に至らしめるに十分な量だったと言えるかね?」

 

 この質問は、罠だろう。

 テルミは顔色を変えなかったが、すぐに答えることができなかった。その様子を見てクルックスは悟った。

 

 頷くことが真実で正しい応対だ。

 硬い体表を持つらしいバジリスクは、レイテルパラッシュの剣で傷つけることができた。そしてネフライトに指示されて使用した貫通銃は、貫通力を調整された長銃だ。そして弾丸は、ヤーナムの異常の極みである『青ざめた血』を混ぜ込んだ水銀弾である。

 彼は「弾丸は中たるし敵は死ぬ」と言った。それは異なる神秘に込められた殺意ゆえか、あるいは水銀による中毒か。分からないが、とにかく死ぬだろう。クルックスも同意する。

 

 そして、頷けば察しのよさそうなスネイプやダンブルドア校長は言葉以上の真実に辿り着くだろう。ヤーナムにはバジリスクを一撃で死に至らしめるほど強力な『何か』があることを。

 再びテルミを見れば、彼女はいつものように笑っていた。

 

「困ってしまうわ。困りましたね。そういえばそうです。わかりませんね。……ああ、失礼。ネフがやられちゃったものですから、わたし達もそれくらいの『見返り』がないと納得できませんでした。だからわたしもクルックスも先のような報告をいたしました。けれど思い込みはいけませんよね? 我々は常に客観的な真実を語らなければなりません。あるいは、真実だと思えることを。ええ、先生方が見つけられないくらいの脅威なのですから! ところで魔法薬学の先生? 神話時代から王の殺しには毒が付き物ですけれど、蛇の王を殺すために必要な毒はどれくらいかしら? どのように調査されたのかしら? どこの書籍の引用? 著者を指差してくださる? どうやら学習が足りないようですからね?」

 

 穏やかにテルミは言った。

 暗に伝えられた言葉は雄弁だ。──バジリスクを毒殺するために必要な量など、お前達も知らないだろう。

 

「……。巨体であればあるほど必要な毒は増える。致命傷と言い切るものから確認したまでのことだ」

 

 クルックスの見るところ。

 テルミは、とても怒っているようだった。何が彼女の気に障ったのか。気疲れしていたクルックスには分からず、そして聞き取れなかった。

 

 スネイプの声音には『バジリスクを殺すことを期待していた』色があった。

 それを四人のうちで誰よりも他人の心の機微を覚り、耳聡いテルミは聞き逃さなさかった。

 

 バジリスクという汚物の清掃を引き受けたことが、そもそもテルミにとって快い話ではない。ネフライトと共に──多少の打算があったが──多くの人々にとって『よかれ』と思ったことを尽くした。だからテルミも、わざわざ月光大剣まで持ち出したのだ。その仕事を後方から『不十分なのではないか?』などと言われたら、彼女も穏やかではいられない。誰が最も利益を享受するか。そこに思いを馳せれば尚更のことである。

 

 剣呑になりつつあるテルミとスネイプの会話に、セラフィが切り込んだ。

 

「バジリスクの毒耐性など僕らの知ったことではない。我々はネフと引き替えにして最大の攻撃を行った。バジリスクは早晩死ぬだろう。それが僕らの見解だ。そして見解を証明するものは僕らの経験だけだ。実地の検証をお求めならば、ぜひバジリスクをお引き留めしておくべきだったかな。先生自らバジリスクに引導を渡したかったように見える。さぞ見物だったろう。ロックハート先生と戦うより生徒の役にも立つ。惜しいことをした」

 

 どんな顔をして言っているのか。

 誰もがセラフィを見た。

 深く被ったトリコーンで目は見えない。

 そして、口元は決して笑ってはいなかった。

 

「バジリスクの存在証明であれば牙がある。これで足るだろう。『確認』など不注意なことをおっしゃってくださいますな。我々の命とて命が惜しい。人は一度しか死ねないのだから。いま生きていることを咎められているように聞こえたのは、きっと僕の気のせいでしょうね」

 

 ──そのとおりだ。

 スネイプはすげなく言って、それ以上の追求を避けた。

 

「わたし達は狩人ですが今はホグワーツの生徒でもあります。そして、作戦実行時にネフが宣言したことであり、きっとマダム・ピンスにも声が届いたことかと思いますが今回は『生徒のため、ホグワーツのため、彼らが積み上げた全てのために』戦いました。また我々がこれからも生徒でいるためにも。決して安くない代償を払った結果に関して、このように責められるのは本当に残念なことですわ。今後の役に立ちそうです。お勉強させていただきました」

 

「わしは誰も咎めるつもりはないよ。ミス・コーラス=B。他の二年生の生徒では、耐えられぬ苦難であったと思う。類い希な勇気と最善の判断を示してくれたことを感謝する。けれど、昨年──ミスター・ハントに伝えていたことでもあるが──力があるからといって矢面に立つ必要は無いと思っておる。あたら命を軽々に取り扱うものではない」

 

「いいえ、先生。見解の相違があることを悲しく思いますわ。力を持つ者が、苦難を享受すべきなのです。あるいは、その苦難を試練として耐えられる者だけが」

 

 ダンブルドア校長は、青いきらきら光る瞳で三人を見つめた。

 クルックスは、昨年の校長室で交わした会話がまざまざと蘇ってしまい、気まずくなって顔を逸らした。だから、テルミが校長の先を見たことに気付かなかった。彼の後方には、場違いに驚いた顔をしているハリー・ポッターがいることなどクルックスは知らなかったのだ。

 

「それに我々が特別な行動をしたとは思いません。ホグワーツの生徒も先生も優秀ですから。誰が出くわしてもきっと勇敢な行動をしてくれたと信じていますわ。今回のバジリスクの討伐は、ホグワーツのマイナスにはなり得ないでしょう。無論、生徒にとってもです。我々は魔法界の常識に欠けておりますが、それでも皆さまの顔を眺め渡してみれば、バジリスクが城内をうろついていることで学舎に箔が付く──なんてことはないのでしょう?」

 

「まったくもってそのとおりじゃよ。まさに『百害あって一利なし』と言える事態じゃ。だが、脅威は去ったワケではない。どうやって秘密の部屋を開け、そして怪物を引き出したのか。それが分からぬうちは引き続き警戒が必要じゃろう。そして一丸となって継承者と秘密の部屋を探さねば」

 

 ──怪物がいなくなっただけでは不満なのか。

 クルックスは、思わず問うような顔をしてしまったらしい。

 ダンブルドア校長は小さく頷いた。

 

「バジリスクは一匹だけなのか? これは継承者以外、誰も知り得ぬことじゃろう。バジリスクは闇の魔法使いに好まれた。しかし、使役するには難しい生き物じゃ。そう数は多くないと信じたいものじゃが」

 

「ええ、できれば二度と対峙したくはありませんね。たいそう面の皮が厚いようですから」

 

 会話は終了に近付いた。

 テルミはおかしそうにいつものクスクス笑いをこぼした。

 

「ヤーナムの子供たち。グリフィンドール、スリザリン、レイブンクロー、ハッフルパフにそれぞれ点を与えたいのじゃが、どうか?」

 

「不要だ。我々は、寮の名誉のために戦ったのではありません。我々が生徒であるために、そして、学校の継続のために戦いました。力は、権力とは別にあるべきだと僕は考えています。交わらぬ油水のように。……けれど点数を与えるとすれば、グリフィンドールが相応しい」

 

 セラフィが左手でネフライトの隣のベッドを差した。

 そこには冷たい体で横たわる。ハーマイオニー・グレンジャーがいた。

 

「グレンジャーだけが、稀なる洞察によりバジリスクに辿り着きました。我々の叡智は、彼女には及ばなかった。賢人が湖から汲むべき真理は他にある」

 

「あいわかった。近いうちにマンドレイク薬が出来るとは知っておるじゃろう。その時に、ミス・グレンジャーに点を与えるとしよう」

 

「ネフもそれを望むだろう」

 

 クルックスは、独り言のように囁いた。

 テルミやセラフィほど口が達者ではない彼は事の成り行きを聞き、そして定まったことを知った。

 

「……俺は行く。許しがあれば会いに来よう。君に尽きぬ加護あらんことを」

 

 ネフライトの指先を撫でるとクルックスはベッドから離れた。

 マクゴナガル先生が厳しい顔で立っていた。

 

「寮まで付き添います。……医務室の外で待っていなさい」

 

 他の二人も寮の先生に先導され、医務室を去って行った。

 医務室の扉を開くと足下に使者が現れた。細い手には手記を持っている。

 

『お父様への報告は、わたしがします。助けが必要な時は、鐘を鳴らして』

 

 ──あぁ。

 クルックスは思わず力ない呻きを上げた。

 

 お父様。

 遙か暗澹たるヤーナムに偏在する、月の香りの狩人。

 

(ネフの献身を、あの人は笑うだろうか。悲しむだろうか。あるいは、怒るだろうか)

 

 今回の出来事は。

 一夜を駆けるほどの労力も費やさなかったハズだが、クルックスは自分がひどく疲れてきっていることを自覚した。

 

 

 



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禁じられた森へ

アクロマンチュラ
魔法界のなかでも危険な魔法生物のひとつ。
群体社会を構成する知恵を持ち、人間とも友好的な関係を築くことがある。
難しいことではない。
ただ、時間が必要なのだ。

ほぼ全ての蜘蛛は八つの目を持つ。
瞳の多さはヤーナムにおいても重視され、ゆえに首をすげ替える素体に選ばれた。
瞳を求めながら、その頭を落とす様子を聖歌の間者は不思議に思ったものだが、全ては長い夜のこと。
檻のなかにいた夢の主には、あらゆる試行が求められたのだ。



 ハリーの見るところ。

 クルックスは最高に機嫌が悪く、そのうえ落ち込んでいるようだった。

 そんな彼に話しかけるのは、とても勇気が要ることだった。

 

 できるハズもないけれど、このまま真っ直ぐにハグリッドの小屋に行って五〇年前の日記の記憶で見た出来事を尋ねることの方が、やや難易度が低いかもしれない。そう見積もってしまえる程度に。ハグリッドは友達だが、クルックスは同じ寮で挨拶を交わす程度の仲だ。

 

 けれど、話しかけなければならない。

 そう腹を括ったのは、石になったハーマイオニーの姿を見たからだ。

 

 予定されていたグリフィンドールとハッフルパフのクィディッチの試合は中止となった。

 医務室から引率された三人が、満員の寮談話室に着くと間もなくマクゴナガル先生が全員に聞こえるよう連絡した。

 

 ──全校生徒は夕方六時までに、各寮の談話室に戻るように。決して寮を出てはなりません。夕方は一切のクラブ活動は禁止です。

 ──襲撃事件の犯人が捕まらないかぎり、学校が閉鎖される可能性もあります。

 ──犯人について何か心当たりのある生徒は申し出るように強く望みます。

 

 クルックスは、マクゴナガル先生の話を半分も聞かないうちに螺旋階段の人混みをかき分けて寝室へ向かった。連絡が終わり、大きな生き物のようにふくれあがった雑踏を抜けてハリーとロンは寝室にやって来た。

 

 ──お父様から手記を預かっていないか。……そうか。

 

 階段を昇っているとそんな声が聞こえた。

 登り切ると彼は分厚い外套を脱ぎ、衣装がけに突っ込んでいる最中だった。

 ベッドには、右手だけ金属の手甲が転がっていた。

 左手は取り忘れたのか、まだ着けたままだった。

 

「……ああ、ポッター、ウィーズリー。今回は、ハーマイオニーが不運だったな。心苦しく思う」

 

 これまで聞いたことがない声だ。

 ハリーは驚いた。

 まるで覇気が感じられない。

 

「ああ、僕らも……その……悲しい。でも、君も同じだろう? 君は、レイブンクローの彼と友達だった」

 

 一瞬だけ、クルックスの顔に痛ましい感情が浮かんだ。

 ハリーは、すこしだけレイブンクローのネフライト・メンシスのことを口に出したことを後悔した。

 

「……悲しくない。これは悲しみではない。お互いに犠牲を覚悟していた。彼が照準を務めると言った時から、分かりきっていたことだ。どうなるか知っていて俺は止めなかった。彼は俺の望む策を寄越したのだから、俺も彼の望むようにした。必然だ。必然だった。俺はやるべきことを果たした。俺は、正しい。正しいのだ。間違っているハズがない。だから、だから何も惑うことはない。必要は……ないんだ……」

 

 会話の半分は、独り言か自分に言い聞かせる言葉だった。

 衣装がけに頭を突っ込み、彼は肩にかけていたベルトを外した。

 ハリーとロンは顔を見合わせて、頷いた。

 

「バジリスクと会ったとき、近くの廊下に誰かいたかい?」

 

「……? いや、図書館までの道のりでは誰もいなかったと記憶している。だが、一方は分からないな。廊下は二方向が壁に囲まれた、つまりL形という意味だが……俺達は正面から仕掛けた。挟撃したワケではないから片方の道がどうなっていたのか……ふむ。だが、声や足音は聞こえなかった」

 

 もし、怪物をけしかけた犯人が犯行現場の近くにいれば、彼らは存在を感じることが出来たかもしれない。そして、日記の記憶で見たとおり。ハグリッドが犯人であれば、足音で分かったハズだ。

 

「なぜ、そんなことを聞く? 継承者を知っているのか?」

 

「ぼ、僕らにも分からない」

 

 ベルトをしまいかけた彼が、ピタリと動きを止めた。

 

「何か知っているのならば、言ってくれ。バジリスクという脅威を排除しただけでは学校側は不足らしい。……学校が閉じてしまえば、我々の努力が無駄だったことになる。ハーマイオニーとてそうだ。無駄に脅かされ、襲われた。それだけが残る。代償は払われた。ならば対価を求めるのは当然の権利だと思わないか。俺達は、もうしばらく生徒でいたい。だから、何か知っているのならば言ってくれ」

 

 ハリーは、言うべきか迷った。

 もしもハグリッドのことを言えば、彼はすぐにでも寮を出て行きそうだったからだ。

 ロンがハリーの腕をつかんだ。

 

「ちょっと待って」

 

 そして、螺旋階段の中程まで降りた。

 

「ハグリッドのところに行くなら……僕らだけじゃない方がいいと思う。つまり『僕らに何かあった場合に』ってことだけど……」

 

 いざという時に駆け込んでくれそうだと語るロンにハリーは「そんなっ」と言いかけた。

 

「ハグリッドは友達だよ! 秘密の部屋だって、あれは……たぶん、きっと、リドルが間違っているんだと思う……! ハーマイオニーだってそう言っていたし」

 

「僕だってそう信じてるよ……! でも日記だと怪物を逃がして、退学になったんだろう? 五〇年前に。違うならいいよ。うん。全然、問題ないと思う。でも、でもね? もし、もしもだよ? ……気を悪くしないでほしいけどさ、万が一のことがあったら、僕らじゃ勝ち目がないだろう」

 

 ロンの言うことは事実だった。

 ハグリッドの巨体が襲いかかってきた場合──ハリーには考えるのも嫌な想像だったが──自分達だけではどうしようもない。まだ悩んでいるハリーにロンは粘り強く言った。「考えてよ、ハリー。『エクスペリアームス! 武器よ去れ!』でハグリッドから巨大な鍋つかみを取り上げたところでどうなるっていうんだ?」──たしかに。彼の言葉に頷けるところがあったのは、間違いない。

 

「オーケー。わかった。……うん。今夜だ。行こう。彼を説得できたらだけど」

 

 ハリーとロンが階段を昇るとクルックスは長い外套を着て、帽子を抱えていた。外に出る準備は万端だった。

 

「作戦会議は済んだのか?」

 

「ああ。もう十分だ。だから、ハント。僕らの知っていることを話そう」

 

 情報提供はあっけなく済んだ。意気込んで臨んだのに肩すかしだった。

 日記という情報源についてクルックスは全くといっていいほど気にしなかった。

 彼が気がかりにしたのは、ただ一つ。

 

「五〇年前に怪物を解き放った者は、見つかった。それは森番のハグリッドだという。妙な話だ。怪物の正体は今日まで誰も知らなかった。逃がした張本人から何を放ったのか聞いてもよかっただろう。非魔法族に空飛ぶ車を目撃されたら尋問を受けるのに、女子生徒を殺した犯人は詰問の一つも受けなかったのか? まさか。そんなハズはないだろう。その情報があれば俺達は絶対に遅れを取らなかったのに……。もはやこれはいい。棚上げしよう。──おかしな話だ。出来損なった企み事の臭いがするぞ」

 

 クルックスの気がかりとは『ハグリッドが過去の犯人であれば、そのときの情報があっただろう』という疑問が出発点となっていたようだ。

 

「でも五〇年も前の話だ」

 

 ロンが言う。

 

「その間に誰もハグリッドが犯人であることも忘れてしまったのかもしれないよ。当時のディペットだって『学校に怪物がいて生徒が死んじゃった!』なんて言いたくないだろう。今だってそうだ。ダンブルドアも日刊預言者新聞に『生徒が怪物によって続々と石になってます!』なんて言っていないんだから」

 

「せめて口伝しておくべきだ。そうして二〇〇年以上、知恵を保っている地域だってあるのだぞ。城内の怪物と被害。それらの顛末はリドルの特別功労賞だとか何かより、遺すべき知識だったと思うがね」

 

「それは、そう思う……。五〇年前は、怪物を放したのがハグリッドだって決まっただけで中身は誰も知らないし、怪物を退治したなんてことはないし──秘密の部屋を開ける方法だって先生たちは知らないんだ。野放しだよ」

 

 五〇年間の話をロンとクルックスが話している間、ハリーは記憶で見たディペット校長を思い出した。

 

 スリザリンの怪物が見つかった。

 怪物を放した犯人=生徒は見つかった。

 だからリドルは孤児院に帰らなくてもよくなった。

 学校も続くことになった。

 学校に残りたかったのはリドルだ。……以前、ロンはリドルのことを「汚い告げ口屋みたいだ」と言った。ハーマイオニーもハグリッドを庇っていた。

 

 ──ハグリッドを疑いたくないからリドルの勘違いだと思いたがっているのだろうか?

 

 ハリーは、自信がなくなり彼らの投げつけ合うような会話を聞いていることしかできなかった。

 

「言い合っても仕方があるまい。すぐにでも出発しよう」

 

 急ごうとするクルックスをロンが引き留めた。

 

「僕らがいないとバレちゃうだろ。皆が寝静まってからだ。真夜中にしよう」

 

「ぐぅ……仕方ない」

 

 クルックスは帽子を脱ぐと枕元においてさっさとベッドに入って頭から毛布を被った。それから「あ。セラフィとテルミにも伝言しておこう……」という呟きが聞こえた。やがて夜になり、同室のネビルやディーン、シェーマスがやって来た。ハリーとロンはベッドのなかで静かに待った。

 彼が「秘密の部屋」の討論をやめ、寝静まったのは日付が変わりそうな時間だった。

 

「ロン、行こう」

 

 ハリーがゴソゴソとローブを着ているとクルックスがベッドから起き上がり、帽子を被って階下へ下がって行った。

 透明マントを抱え、螺旋階段を降りていくと先行する彼がいた。腰のベルトに付けたランプに火を灯し、談話室の扉を開けた。

 

「俺が先に行こう。マントを被ってくれ。──足音が聞こえる。大丈夫。まだ遠い。恐らく先生が見回っているのだろう」

 

「君もマントに入って、見つかっちゃうよ」

 

 思いがけない提案だったようで驚いたクルックスがハリー達をまじまじと見た。

 言葉に困ったらしい彼はフイと外を警戒しながら言った。

 

「俺のことは一切気にしなくていい。透明になる術もあるから問題ない。危険があれば二人で逃げろ。自分の命だけをしっかり見つめて走ってくれ。夜に誰かの面倒を看ることは難しいことを……俺は知っている」

 

 返事を待たず彼は寮を出た。

 そして、廊下の先を見ると指で○を作り、手招きした。

 

 暗く人気のない城の廊下を歩き回るのは、楽しいことではなかった。

 先生や監督生、ゴーストなどが二人ずつ組になって廊下のあちこちに立ち、あるいは学校中をくまなく歩き回っているようだった。

 寮から遠回りして正面玄関に辿り着いた頃には、日付が変わっていた。

 

「……鍵が開いてる……」

 

 樫の扉の鍵が開いていることにロンが驚き、悲鳴を上げずに固まった。

 扉の隙間から、夜空の色をした藍の瞳が見つめていた。

 

「遅かったのですね」

 

 小さくとも、空間によく通る声で誰が扉の先にいるのか気付いた。

 マントから顔を出すと彼女はニッコリ笑った。

 

「ハッフルパフのコーラス?」

 

「ええ。そう。話はおいおいね。早く外へ」

 

 ちょっと腰の引けているロンの背を押して三人は外に出た。

 

 雲一つない明るい夜だった。

 見上げれば満月だ。

 それに負けないくらい星も明るく輝いている。

 

「やぁ、お茶会ぶりだ」

 

 声に振り返れば扉に寄りかかったセラフィがいた。彼女は、風に弄ばれる銀色に輝く長い髪を肩から払った。深く被った帽子で目はうかがえないが、口元が微かに笑っているようだった。

 

「──なんでスリザリンがいるんだ?」

 

 ロンが警戒したようにじろじろとセラフィを見た。

 

「ネフに体を張らせておいて、学校がなくなってしまったらお粗末だからな。それからクルックスに頼まれてね」

 

 隣に立つロンは、まだ言いたいことがあったが何とか呑みこんだ。

 不気味に明るい夜だ。

 人手が多い方が心強いと思い直したのだろう。ハリーもまったく同じ気分だった。

 

「わたし達のなかで一番、腕が立ちますから! クルックスが保証しますよ」

 

「むっ……まぁな」

 

 ハリーは、クルックスは「俺の方が強い」と言いたかったのではないかと思ったが、結局、頷いた。

 

「ネフが寝込んでいる間に学校を閉じさせるワケにはいきません。起きたときに本当に寝込んでしまいかねないですからね」

 

「そうだね。それにスリザリンでも問題解決に心悩ませる人もいる。皆がマルフォイほど呑気なワケではないのだ。そう驚かないでくれないか。いくらなんでもスリザリンの全員が純血なワケがないだろう? 自分の出自を自覚する者ほど怯えているのだ。ああ、血に差異があるとは可哀想なことだね。色が違うワケでもあるまいに──」

 

 スリザリンのことを考えると一緒にマルフォイの顔を思い出してしまうハリーには信じがたいことだった。けれど、思い直せば彼女の言うことは真実なのだろうと思えた。グリフィンドールにいろいろな生徒がいるようにスリザリンにもいろいろな生徒がいるのだ。

 一致団結していることが多いスリザリン寮は、とても分かりにくいけれど。

 

 考え事をしていたハリーとロンは、クルックスとテルミが突然の咳をしたことで我に返った。

 

「すまない。もう黙っているよ。うん。僕のことは……そうだな……勝手に刺すナイフくらいに思っていればいい。誰よりも強い用心棒だとも。──さあ、急ごう。先生がベッドの見回りをしないとは言い切れない」

 

 ハリーとロンはマントを被り、校庭を突っ切って歩き出した。

 周囲を三人が歩いている音が聞こえた。けれど、姿は声を発する度に見えたり消えたりしていた。

 

「小屋は狭い。顔見知りのロンとハリーが行った方が刺激が少ないだろう。俺達は小屋の外で待機している。何かあれば──任せろ」

 

 小屋に着くなり、彼らは示し合わせたように小屋の周りに散開した。

 見回せばどこにも彼らの姿は見えない。けれどピリピリと肌を刺す視線があった。

 

「行こう、ロン」

 

 ハリーはゴクリと唾を飲み込み、息を整えると戸を叩いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 小屋の裏手。

 三人はぴったりと薄い壁に耳を寄せて彼らの会話を聞いていた。

 核心的な話題は、まだない。

 

 ──どうやって来た?

 ──それは何? 石弓なんか持って……

 ──……なんでもねえ。

 

 彼らの会話をこうして聞くのは、二年生になったばかりの頃だ。

 クィディッチのシーズン前の出来事は、遙か遠くの出来事に思えた。

 

「……なあ、ネフはどうしてバジリスクを突き止めきれなかったのだろう?」

 

 誰よりも知恵を食んでいた彼でも分からなかった。

 けれど、ハーマイオニーはバジリスクだと気付いた。

 

 そのことにショックを受けなかった、とは言えない。

 クルックスは──ビルゲンワースの学徒達や父たる狩人を除いて──ネフライトより賢い人を知らなかったのだ。彼の言葉は──メンシス学派のことを除いて──常に傾聴するに値するものだ。

 そして、ヤーナムと人の行く末を憂う目は、必ず彼にとっての正しさを見出すと信じている。

 

(そのネフが、彼が、彼が……)

 

 悔しいような、悲しいような、安堵するような。

 複雑な感情で落ち着かず、クルックスは無意識に足を踏みならした。

 テルミが慰めるように身を寄せた。

 

「それは誰も死んでいないからよ。『バジリスクと目が合ったら死ぬ』けれど『現状は誰も死んでいない』。だから、その条件を持つ生き物をネフは厳格に除外していたのでしょうね。『目を直接見なければ石になる』という情報があれば答えは違ったでしょう」

 

「……そうか……」

 

 何もかも情報だ。

 クルックスは、誰よりも貪欲に知恵を求めたネフライトのことを思った。

 彼は同じ枝葉の存在である自分達に比べ、寝食や娯楽を楽しむ性質ではないのだ。

 

(あれで足りなければ、あとは……どうすればよいのだ)

 

 ──私はいつもより燭台を綺麗に磨き、蝋燭を一本多く灯せば、それだけで満たされる。

 控えめに生きる彼が人より多く望むのは、知恵だけだ。

 

(だから報われてもいいではないか。しかし……ヤーナムは、こうした医療者の志に責任の一端が……)

 

 クルックスは頭が痛くなってきて思考を手放した。

 メンシス学派の姿勢は、根源となったビルゲンワースの息吹を感じる。

 

 それは、ヤーナムに不幸を招き入れた神秘の探求者の姿勢でもあった。

 彼の懊悩を知らず、テルミは隣でぼんやりと言った。

 

「……いえ、でも、変わらなかったかしら。どうやって移動しているかまでは分からない。それが巨体であるという情報があれば、やはり除外したかもしれませんね。……バジリスクと戦った手応えでは壁から頭を出しているように感じられたけど」

 

 言葉が途切れた。

 シッとセラフィが小さく息を噛む音が聞こえたからだ。

 校舎から誰かが歩いてくる。

 

「──誰か、見えるかセラフィ」

 

 三人は小屋の壁に張りつき、息をひそめた。

 

「一人はダンブルドア校長だ。……あとは分からない」

 

 彼らは何かを話しながらハグリッドの小屋をノックした。

 ハグリッドが何事か大きな声を上げ、それからもう一人の来訪者が扉を叩く。

 

「む」

 

 セラフィが、うつむきがちだった顔を上げた。

 何事かとヒソヒソと問えば、最後の来訪者を知っていると言った。

 

「ルシウス・マルフォイ。……ドラコ・マルフォイの父親で学校の理事をしている者だ」

 

 ますます壁に耳を寄せた。

 

 ──理事たちは、あなたが退く時が来たと感じたようだ。『停職命令』がある。すでに十二人の理事全員が署名している……。

 

「テルミ、停職とは何だ?」

 

「うーん、分かりやすく言えば『職場に来てはいけない』という命令ね」

 

「それは。いやいや、マズいだろう。マズいよな……?」

 

 ダンブルドアは、ヤーナムのことをつかみかねているが、間違いのない慧眼を持つ賢者であると思う。伊達に年を重ねていないのだ。

 そんな彼を職から遠ざけることは、良い判断なのだろうか。

 

 クルックスは分からず、彼らの会話に耳を澄ませた。ダンブルドアはわずかな意見を述べ、従容と停職命令の書類を受け取ったようだった。やがて、ハグリッドが「蜘蛛のあとを追え」と助言めいたことを言い残し、彼らは一団となり小屋を出て行った。

 彼らの姿が校庭から消えたあとでハリー達は出てきた。

 

「最っ悪……ダンブルドアがいなくなるなんて! 連中、何を考えているんだ……!」

 

 クルックスとテルミはすぐさま壁から離れたが、セラフィは立ち尽くしたまま、ぼんやりと芝生に落ちる影を見ていた。

 

「セラフィ?」

 

「あ……すまない。考え事を。何かな?」

 

 ロンは、スリザリンの生徒がいることを忘れていたようだ。小言は、もごもごと小さくなった。

 

「──蜘蛛のあとを追おう。ハグリッドが言ったことだ。何か意味があるんだろう」

 

「蜘蛛ならそこにいる。……列になっているのは珍しいことだ」

 

 蜘蛛。

 それは、小さな蜘蛛だ。

 松明に火を付けたクルックスが地面を照らす。

 蜘蛛は、木々の揺らぎと見紛うほど小さなものだった。

 

「行こう」

 

 ハリーは、ハグリッドの小屋からランタンを持ち出し、歩き出した。

 藪をかき分けて行く必要がある。

 

「……俺が先行する。ウィーズリー、しっかりしろ。セラフィとテルミは後背に気をつけてくれ」

 

「承る」

 

「はぁい」

 

 人は木々を避けて通る。けれど、蜘蛛にそんなものは関係がない。

 クルックスにとっては慣れた森歩きだが、後方を振り返ればハリーとロンが枝にローブを取られそうになっていた。

 四苦八苦している二人を待って足下を確認した。

 

「霧が出てきた。視界が悪くなる、気をつけてくれ」

 

「君、来たことあるの?」

 

 ゼイゼイと息をしながらハリーが訊ねてきた。

 

「ここは初めてだ。だが深い森ではない。魔法で拡張されているワケでもなさそうだ。……まだ城から一キロも離れていないぞ」

 

 ハリーは額の汗を拭い、頷いた。

 最も悲壮な顔をしているのはロンだった。

 

「ウィーズリーさんは、蜘蛛が嫌いなのね」

 

「あ、あああ……小さいときにぬいぐるみが、熊の、可愛い、テディベアだったんだけど……蜘蛛に変わっちゃったんだ……」

 

「まぁ、かわいそう! きっと可愛いテディベアちゃんだったでしょうに」

 

 言葉の表面は悲しげだが、どこか面白がる風のテルミがクスクスと笑った。

 ロンは「酷い話だろう。今だってそうだ」と言いたげだ。憐れっぽくヒンヒン鼻を鳴らしている。

 

「……この辺りには、ケンタウルスもいないみたいだ」

 

「ケンタウルス。獣の足を持つ人。けれど『ネフが手を出すな』と言っていた。今日は見かけても手を出すまい」

 

「それがいいと思うよ」

 

 セラフィが周囲を警戒しながら言った。

 クルックス達は先へ進んだ。

 

 地形は平坦だが、落ち葉や木の根があるため歩く道のりは凸凹だ。

 頭上を覆う木々が風で揺れた。隙間から差し込んだ月光が大樹の表皮を照らした。蠢いている。動く小さな粒が、全て小さな蜘蛛の瞳であることに気付いたロンが悲鳴を上げた。

 

 密度は森の入り口の比ではなかった。

 樹皮と地表を覆い尽くす蜘蛛の大群がいる。

 

「……近い。行くぞ」

 

 ハリーが杖とカンテラで光源を確保して着いてくる。

 視界のあちこちで白い糸が光を反射した。

 蜘蛛の糸だ。

 光の届かない茂みの向こうでざわざわと何かが動く音が聞こえてきた。

 

「クルックス、囲まれるぞ」

 

「八つ裂きにする速さならば、俺達の方が上だ」

 

 背後からも追ってくる気配があることに彼も気付いていた。獣に似た興奮の空気がする。獲物を見つけた獣の興奮だ。

 小高い丘を越えると窪地になっていた。なかでも大樹が倒れ、深く窪んだ地にそれはいた。

 蜘蛛の糸は靄のような巣の膜になっていた。

 獲物の足音に気付いたのだろうか。窪地の主が姿を見せた。巨大な胴体。長い脚。そして、鋏のついた頭に八つの白濁した目がある。

 

「あら。盲目なのね。そして、大きいのね」

 

 テルミがさり気ない動きでポケットに手を入れた。その左手は『彼方への呼びかけ』に使う精霊を握っているのだろう。

 

「ハグリッド?」

 

 嗄れた声。

 クルックスは松明を翳した。

 

「ほう。蜘蛛が……喋るのか。これはいい。手間が省ける」

 

 背負う鎚に手を伸ばしたクルックスをハリーが留めた。

 

「……待って」

 

 上ずった声だったが、しっかりとハリーは言った。

 それから、できるだけ大きな声で彼は蜘蛛に伝えた。

 

「あ、あの、僕たち、ハグリッドの友達です! あなたが、アラゴグ?」

 

 絶えずカシャッと鳴っていた大きな蜘蛛の鋏の音が消えた。

 

「そうだ。そしてハグリッドは一度もこの窪地に人を寄こしたことはない」

 

「ハグリッドが大変なんです。それで、僕たちが来たんです」

 

「大変?」

 

 アラゴクの鋏がカシャと鳴った。

 今度は気遣わしげな音だった。

 

「学校のみんなは、ハグリッドが怪物をけしかけて、生徒を襲わせたと思っているんです。だから、さっきハグリッドを逮捕して、アズカバンに送りました」

 

「ちがう。……それは昔の話だ」

 

 アラゴグが苛立ちと怒りを含んだ声で言う。すでに周囲の木々や頭上には無数の蜘蛛がいた。

 いつでも回転ノコギリを駆動できるようクルックスは準備を整えた。

 

「何年も前のことだ。みんながわしのことを『秘密の部屋』に住む怪物だと信じ込んだ。ハグリッドが部屋を開けて、わしを自由にしたのだと考えた」

 

「あなたが……。あなた『は』秘密の部屋から出てきた怪物ではないのですね?」

 

「そうだ。わしは、この城で生まれたのではない。遠いところからやって来た。まだ卵だった時に旅人がわしをハグリッドに与えた。……城の物置に隠し、食事の残り物を集めて食べさせてくれた。ハグリッドはわしの親友だ。いいやつだ」

 

「…………」

 

 クルックスは、ハリーの横顔を見た。

 アラゴグの証言が真実である場合。

 

 長年、真実かと思われていた一つの事実が覆ることになる。

 

 ハグリッドは、無実だ。

 そして。

 

「ハグリッドは『秘密の部屋』を開けていない。……嵌められたんだ」

 

 茫然と呟いたハリーの声は、数多の鋏を鳴らす音にかき消された。

 

「ハグリッドの名誉のために、わしはけっして人間を傷つけはしなかった。殺された女の子の死体はトイレで発見された。わしは自分が育った物置の中以外、城のほかの場所はどこも見たことがない。わしらの仲間は暗くて静かなところを好む」

 

「ねぇ、五〇年前に学校にいたならば、ひょっとして知っているのかしら? トイレの女の子は、どうやって殺されたの? いったい、何によって?」

 

 歌のように空間に響く声でテルミが訊ねた。

 質問者が変わったことにアラゴグは頓着しなかった。

 

「わしらはその生き物の話をしない! わしら蜘蛛の仲間が何よりも恐れる、太古の生き物だ。その怪物が、城の中を動き回っている気配を感じた時、わしを外に出してくれとハグリッドにどんなに必死で頼んだか、よく覚えている……! 決して、名前さえ口にしなかった! ハグリッドに何度も聞かれたが、恐ろしい生き物の名をハグリッドにも教えはなかった」

 

 アラゴグに問いかけた質問の答えをテルミを含め、ここにいる人間は知っている。

 だから、回答に意味はなかった。

 けれど彼女が「そうなのね」と答えた声音は手応えを得た様子だった。

 

「じゃあ、ええと、帰ります……」

 

「帰る? それはなるまい」

 

 白濁した瞳がピクピク動いてこちらを見た。

 カチリ、と後方から音が響いた。

 セラフィが先に撃鉄を起こした音だ。

 クルックスは、回転ノコギリを駆動させて両手で持った。

 

「も……騒いでもいい?」

 

 ロンが息も絶え絶えに言った。

 クルックスは頷いた。

 

「ああ、騒げ。急いで逃げていいぞ。殿は任せろ」

 

 周囲でざわめく蜘蛛の包囲網が一気に縮まりはじめた。

 ハリーは、鋏の音に負けず声を張り上げた。

 

「──でも、でも、ハグリッドが無罪だと伝えないといけません!」

 

「昔のことだ。昔のことだ。過ぎた日のことだ。終わったのだ。……わしの命令で、娘や息子達はハグリッドを傷つけない。しかし、わしらのまっただ中に、のこのこ迷い込んできた新鮮な肉をおあずけにはできまい。さらば、ハグリッドの友人よ」

 

「走れッ!」

 

 クルックスの号令でテルミがロンを引っつかみ駆けだした。

 一拍、逃げ遅れたハリーを守るため、セラフィがレイテルパラッシュの引き金を引いた。

 

「人の言葉を操るだけの獣かな。悲しいことだ。友誼とは、儚いものであるらしい」

 

「同感だ! 特に後半!」

 

 飛びかかってきた蜘蛛を回転ノコギリで叩き落としながらクルックスは叫んだ。

 腰だめに構えた獣狩りの散弾銃が火花を散らし、何体かの蜘蛛を怯ませた。

 後方を見るとテルミに先導され、ハリーとロンが走っていた。

 その先で場違いに明るい照明が見えた。

 そして、立て続けに甲高いブレーキ音が聞こえた。

 

「な、何だ……?」

 

「アレじゃないか。ほら、暴れ柳に突っ込んだとかいう」

 

「あ。クルマだったか? 馬車より速い四輪車の?」

 

「ああ、それそれ」

 

 ドリフト走行で蜘蛛をなぎ倒し、何匹かはタイヤの染みにしながら、その車は激しくパッシングして停車する。そして扉を開いた。呆気にとられる二人が立ち尽くしているとクラクションを高らかに鳴らした。

 

「ロン! 運転席に!」

 

 ハリーはファングを抱えて後部座席に放り込んだ。二人と一匹がとびこんだ瞬間、車は急発進した。

 

「コーラス!」

 

 爆走し始めた車だが、一人だけいるべき人がいない。

 ハリーは恐怖で顔を引き攣らせた。

 テルミは、ただ手を振っていた。声はドップラー効果で妙に歪んでいる。

 

「はいはーい、わたし達のことは気にしなーい、気にしなーい」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 車は小さな丘を越えた。

 すぐにヘッドライトが時おり宙を差す光しか見えなくなった。

 テルミはヒラリと白い手袋に包まれた右手を挙げ、衣嚢から取り出したルドウイークの聖剣を握った。

 銀の剣と長大な鞘が一体化した剣は、月光を受け、白銀に輝いた。

 

「そろそろ獣狩りから蜘蛛狩りに名称変更した方がよろしいかしら?」

 

「今年の夏で俺は赤蜘蛛狩りのプロを名乗っても良いと思えるようになった」

 

 蜘蛛を蹴散らし、紐付き火炎瓶を置き土産にしてきたクルックスが言った。

 いいことを聞いた、とばかりにセラフィが笑った。

 

「では、今後は全て一任しようかな」

 

 三人は背中合わせで各々の得物を握った。

 

「難しいことを言う。俺は鐘女に嫌われているらしいのでな。俺には、もっと単純に攻撃的な手段が相応しい。……さて、時間稼ぎは十分だろうか。車の速度と蜘蛛の脚、どちらが速いだろうか」

 

「ぎりぎり車かしら。噂のとおり空を自由に飛べるなら、なおのことね」

 

「ならば、僕らも散開すべきだ。夢を介して城に戻ろう。僕は長期戦には向かない。彼らが離脱したのであれば、お役御免だ」

 

「了解。その案で行きましょう」

 

「念のための援護射撃をしてもよいだろう。これを撃ったら撤収する」

 

「何かし──えッ!?」

 

 テルミが銀の剣で蜘蛛を突き刺しながら素っ頓狂な声を上げた。

 クルックスが衣嚢から引き出したのは、教会砲だった。

 

 教会砲。

 名のとおり医療教会が作成した大砲の類いだ。巨躯の男に持たせることを前提とした巨大な砲身であるため、適切に取り扱うためには要求されるものが多い。

 

 ──当たれば、人間は勿論、普通の獣。はたまたそれ以上のモノであっても無事では済まない。強いが、そもそも取り扱える人がいなかったのでお蔵入り──どころか悪夢入りしていた代物だ。曲射が好ましい。使っていいぞ。

 

 狩人はそう言ったが、テルミもネフライトも持ち上げることができなかった。

『きょうだい』のうちで扱えたのは、クルックスだけだ。

 そして、テルミもセラフィも彼が実際にそれを使っているのは見たことがない。

 セラフィが目を細めて笑った。

 

「──テルミ、クルックスを守るぞ」

 

「ええッ!? いいけど、いいけどね!? いえ、蜘蛛に人権を認めたワケではないけれど──」

 

 一応、あれは、アラゴグはハグリッドの友人なのでしょう。

 蜘蛛を斬り捨てながら言う。だが、クルックスは反論した。

 

「だからこそ蜘蛛でも分かる簡単な理屈で語ってやるのだ。善意には善意を。殺意には殺意をもってな!」

 

 クルックスが教会砲の準備をする間、セラフィとテルミの剣は絶えず蜘蛛を貫き、切り裂いた。

 

「砲弾装填! 砲身固定! 角度ヨシ! 狩人は、卑怯な蜘蛛を許しはしない!」

 

 ──ちょっと私怨が入って見えますねえ……。

 テルミの呟きは誰にも聞こえなかった。

 砲撃は明るい月夜に雷鳴の如く轟き、緩やかな放物線を描き窪地の中央に落ちたかに見えた。しかし悲鳴を聞くことはできなかった。

 

「いいね。僕も使えるようになりたいものだ。けれど先達はよい顔をしないだろうか」

 

「ごめんなさいっ! 何を言っているか分からないわっ!」

 

 鼓膜が痺れて音が聞こえない。

 着弾と同時に群れていた蜘蛛の動きが乱れる。

 その隙をついて三人は駆けだした。

 

「これより三方に別れる。総員散会! 月の加護あらんことを!」

 

 二人には、やはりクルックスの言葉を聞き取ることはできなかったが、言いたいことは分かった。

 夜の霧に身を溶かしたクルックスを認め、セラフィとテルミも森の暗がりに消えていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは迷いなく夢を介して学校へ帰ったが、テルミは違った。

 

(せっかく森に来たんだもの。何か面白いものが欲しいわ)

 

 だが、気を取り直したように猛然と追跡して来た蜘蛛の大群に追いかけられては、のんびりと採取もできない。

 そのため、テルミの手に残ったのは蜘蛛の頭部だけだった。

 

「でも、アクロマンチュラの毒がありますから」

 

「ああ、僻墓が充実するだろう」

 

 突然、声をかけられた。

 テルミは驚いて暗がりに連装銃を向けた。

 

「僕だ」

 

「あぁ、セラフィ。ごめんなさい。驚いてしまったわ」

 

「今度から歌って出てこようか。LaLaLan、栄えあるカインハーストの湖は清く輝けり、LaLuLa」

 

 藪をかきわけて出てきたセラフィは、舞台役者のようにマントを翻した。

 クスクスとテルミは笑った。

 

「……貴女、とっても音痴なのね。残念だけど聖歌隊では生きていけないわ。すぐに実験台の上よ」

 

「むぅ。どうせ、お呼びではないからいいのさ。それに子守歌の役割は僕ではない。ところでテルミは夢に戻るのか? もし戻るのであればお父様にこれを」

 

 セラフィが引きずっているのは脚をもいだ蜘蛛の胴体だった。

 それをポイと捨てた彼女は、外套に引っかかった小枝を外した。

 

「あら。わたしのものより状態がいいわ。きれいに取ったわね」

 

「捻ったら取れたよ。斬るより手間だがね」

 

 腹を見せる蜘蛛は、怒るように鋏をカシャつかせるばかりだ。

 せめてもの抵抗だろうか。脚の付け根が蠢いている。

 

「では、わたしが夢に戻りますので……今日の結果を話し合うのは明日にしましょう。お疲れさまでした」

 

「ああ」

 

 今日のところは、それでいいだろう。

 言いかけた二人の間は、突如、強い光に照らされた。

 ウィーズリーの車、それが送迎を終え森へ帰っていくのだ。

 

「テルミ!」

 

 呆気にとられるテルミをセラフィが押し倒した。

 車は低いエンジン音を響かせて森へ帰っていった。

 

 しかし、車体の下で何かが潰れる音が聞こえた。

 テルミは「あぁ……」と力の抜けた声を上げた。

 

「そのー……何というべきかー……むぅー……」

 

 セラフィは立ち上がり、テルミを助け起こした。

 轢死した蜘蛛の残骸を靴先でつつくと蜘蛛はヒクヒクと動いた。

 けれど、ただの反射であったかもしれない。

 

「まだ毒があるかもしれないので、ええ……一応、持って行きますね。ええ……一応」 

 

「一応、そうしたほうがいいだろうね、一応。うん。先に帰るよ、おやすみテルミ。佳い夜を」

 

 セラフィは帽子を深く被り直す。

 そして校舎へ向かう頃、テルミは深い溜め息と共に夢に姿を溶かした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ハグリッドは無実だった。でも、秘密の部屋は開かれた。本当の継承者が五〇年前に確かにいて、そして開けたんだ! だからバジリスクが動き出して、直接目を見た女の子が死んだ。やっぱり扉を開けた誰かがハグリッドに罪を着せたんだ!」

 

「物置小屋であんな怪物を孵しているのを見たら! 秘密の部屋をちょっと開け閉めしただけでとっ捕まるのは、なんてバカらしいって思うだろうさ! やっぱり、トム・リドルじゃないか!? その告げ口屋がハグリッドを嵌めたんだ! だからトロフィーをもらったんだろ! あのバカでっかいヤツ!」

 

「リドルのことは犯人か分からないけど……ロン! 女の子が死んじゃったんだぞ! 『バカらしい』なんて!」

 

 ハリーは、ハグリッドの小屋から透明マントを持ってきた。

 その間、ロンはハグリッドのカボチャ畑にゲロを撒き散らしていた。ハリーには、ささやかな抗議に見えた。

 

「分かってるよ! でも僕らは今、殺されかけたじゃないか!? 怪物はどうしたって怪物なのに! だからハグリッドはダメなんだ! アズカバンから出たらとっちめてやる!」

 

 ロンは、酸っぱい匂いを漂わせて口を拭った。

 一緒のマントに入り、校庭を突っ切った。学校はみるみる大きくなっていたが、気分が高揚することはなかった。

 

 この学校には、もうダンブルドアがいない。

 ハグリッドは「次は殺しになるぞ」と言った。

 

 けれど、クルックス達は「バジリスクは明晩死ぬだろう」と言った。

 

 もし彼らの話が本当だとしたら、バジリスクはいなくなるかもしれない。

 手下である怪物が死んだことを彼/彼女は苛立たしく思うのだろうか。

 いったい継承者は誰なんだろう。

 

「あッ」

 

 校舎に入り間もなく。

 ハリーが小さく声を上げ、立ち止まったのでロンの右足がマントの裾からはみ出た。

 

「どうしたんだ……! ハリー?」

 

「……アラゴグは、トイレで女の子が死んだって言っただろう。その子がトイレから離れなかったとしたら? まだそこにいるとしたら?」

 

「もしかして……まさか『嘆きのマートル』?」

 

 天恵的な閃きだったが、今日、確認することはできなかった。

 これ以上、先生やゴーストの目を盗んで行動することは不可能に思えたのだ。

 特に最初の犠牲者であるフィルチの猫、ミセス・ノリスが石になった現場のすぐ近くの女子トイレだ。

 

 作戦を練ろう。

 

 二人の意見は一致して、グリフィンドールの談話室に戻った。

 談話室の暖炉のそばでは、クルックスが帽子とコートを脱いで座っていた。

 

「遅かったな」

 

「……君、どうやって来たの?」

 

「いろいろあるのだ。いろいろな」

 

 秘密の抜け道があるのだろうか。

 じっと見ていたが、彼は答えず肩を竦めるだけだった。

 彼は暖炉に新しい薪を足しながら、言葉を濁した。

 火が再び、赤々とした炎を熾したのを確認して、彼は椅子に深々と座った。

 

「すこし眠い。話は明日、聞かせてくれ」

 

「ああ、おやすみ」

 

「あ、ウン……」

 

 二人は黙って螺旋階段を登った。

 

「不思議なヤツだよな」

 

「でも、悪い人じゃない。それに学校がなくなったら困るって言うのは、信じていいと思う。……たぶんね」

 

 パジャマに着替えた二人は、日が昇る頃にようやく眠ることができた。




アクロマンチュラ:
……ハリー、アクロマンチュラと友達になるのはそれ程大そうなものじゃあねぇ。アイツら、誤解されちょるんだ。……

 卵から孵化させることが条件のようです。恩を感じることはありますが、その人(今回の場合は、ハグリッド)だけに感じるものなので、友人は漏れなく新鮮なお肉と認識します。しかし、ハグリッドではないと分かった後でも会話しただけ『彼なりの礼は尽くした』と見るべきかもしれません。
 ヤーナムの狩人的に言えば、これから殺し合う前に一礼するノリだったのかもしれません。──え? あなた、お辞儀をしない!? 血に酔ってますね!?

 それはそうと襲われたのでクルックスのノールック教会砲が火を噴きました。殺意には殺意をもって応じないとナメられるから──っていうか、喧嘩を売られちゃったからね。大丈夫、気にするな。お互い正当防衛だ。転がすつもりなら、転がされることもあるだろう。

 ところで、アラゴクは歳を取り、盲目になっています。
 バジリスクの直視は、この場合、どのように作用をするのでしょうか? もちろん彼は本能レベルで恐がっているのでバジリスクをどういうする心算はないでしょうが……実際は、もう効かない状態になっているのではないだろうか?
 なんてことも考えられる気がします。
 このあたり面白い考察だとは思いませんか。

 近頃、僻墓が充実する予感があり、狩人はちょっと嬉しい。
 カインハーストで女王様への謁見中にドジッたのが慰められる気分になっています。
 あすこ、寒いからね。くしゃみがでるのは仕方ない……仕方ない……はっグシュッ!


野生化した車:
 魔法をかけられると意志を持つ様子。なぜ意志を持つと思わせる行動を取るのか。いつか書けたらいいなぁと思っています。


メンシス学派と瞳:
 邪眼にはじまり、邪眼に終わると言っても過言ではないメンシス学派inメンシスの悪夢では蜘蛛をたくさん見ることができます。
 蜘蛛の多くの種類は(本当でしょうか。99%らしいという記述も散見します)8個の目があります。ヤーナムの各陣営でしばしば語られる『瞳』のうち、メンシス学派は物理的な瞳(つまり、生体の眼球)にこだわる性質であったようです。
 それは外科的アプローチを目指していた痕跡であったのか。あるいはビルゲンワースの漁村蹂躙の系譜を引く、ウィレーム先生が嘆く系学徒だった証明なのか。はたまた上位者に「脳に瞳をくれ!」と言った結果、巨大な脳にたくさんの瞳が生えた、文字どおりの腐れ脳みそをもらってしまい「もう、これしかねぇ!」と開き直った結果なのか。または、メルゴーの乳母を模そうとした、上位者に見えることができた悪夢ならではの進展だったのか。
 本作なりの見解は、いつか語りたいと思います。



 本作の2年生部分はできあがっているのですが、加筆と修正が追いつかないところがあり、ご感想の返信が遅くなっております。たいへん申し訳ないです。
 でも、とても刺激になってペンが走っています。これからも募集しているのでよろしくお願いします。
 また、評価などと一緒のコメントも嬉しく拝見しています。
 お楽しみいただければ幸いです。(ジェスチャー 交信)




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消えた少女

ウィレーム先生は正しい。
時系列の錯誤など筆者の堕落だ……

56話『ネフライトの大切なもの』
ダンブルドア校長の台詞
(修正前)あいわかった。ひと月もせずマンドレイク薬が出来るとは知っておるじゃろう。その時に、ミス・グレンジャーに点を与えるとしよう
(修正後)あいわかった。近いうちにマンドレイク薬が出来るとは知っておるじゃろう。その時に、ミス・グレンジャーに点を与えるとしよう

今後の展開に関わるため上記のとおり修正しました。
「ひと月」と「近いうち」は受ける印象がだいぶ違います。また該当話のなかでクルックスが『マンドレイク薬は、そろそろできるという話もあった』という回想をしているので、やはり単話として見ても齟齬がある部分でした。遡及して修正させていただきます。
赦してくれ……赦して、くれ……


ジニー・ウィーズリー
ウィーズリー家。七人兄妹の末子であり、数代ぶりに生まれた女の子。一族の特徴的な赤毛は彼女の魅力を決して損ないはしない。
自らの魅力に気付くには、彼女はあまりに若すぎた。

「7」という数字は、魔法界において特別な意味を持つ。
かつて偉大な魔法使いを志した男は、それに固執した。
ゆえに若かりし日の彼も、未来と同じ「7」を選んだのだ。



 翌朝。

 

 ──秘密の部屋の怪物が、バジリスクであること。

 ──バジリスクは、討伐された『かも』しれないということ。

 

 この二点は、伏せられたままだった。

 バジリスクの存在証明は、毒に塗れた牙で足りる。

 だが、致命傷を証明するものはヤーナムの狩人達以外にいなかった。

 そして。

 万一、バジリスクが複数体いた場合のことを考えて、情報は秘された。

 

「フフフ、情報統制は、今さらのことですからね」

 

 大広間に入る前にバッタリ出くわしたテルミは、日刊預言者新聞をヒラヒラさせながら言った。

 

「事実をどう扱おうと構わないでしょう。真実は変わらないのですから」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 グリフィンドールの離れた席で眠たげに食事を摂っていたハリーとロンのそばに誰かが座った。

 

「おはよう。体調は万全か?」

 

 クルックスだった。

 三人で適当な料理をつまむ。

 そしてハリーとロンは分かったことを話した。

 

 ──五〇年前に嵌められたハグリッド。

 ──嘆きのマートルの推測まで。

 

「普通に考えるとトム・リドルが怪しく見えるな」

 

「スリザリンだし」

 

 ロンが、ぼそりと言った。

 ハリーにとっては驚くべきことだったが、クルックスは否定しなかった。

 あまりに露骨な顔をしてしまったらしい。

 

「寮とは、仮初めの色づけに過ぎない。ある程度の傾向を読み取り、あの組分け帽子は寮に配するのだろう。そう目くじらを立てるほどではないと思うが」

 

「そのうち君だって分かるさ。闇の魔法使いをバンバン卒業させた寮には、それなりの理由があるんだろうから」

 

「一理あるかもしれない。彼らと関わることがあれば楽しみにしておこう」

 

「楽しみ?」

 

「知らないことを知ることは、楽しいことだろう。さて。そんなスリザリンだが──実際のところ、いかにも怪しげだ。スリザリンの怪物。スリザリンの継承者。サラザール・スリザリンはパーセルマウス。関連付けるなというのが無理な注文だ。……だが、この件についてはマルフォイへの聞き込みで『さっぱり分からない』と議論は決着しているのだろう?」

 

「ああ、だから次はマートルのところに聞き込みにいかないと。五〇年前に開けたのが誰なのか。ヒントくらい知っていないかな? もし、顔を見ていて誰か分かれば、その子供とか孫とか、たどれるかもしれない」

 

 ハリーの言葉にロンが頷く。カボチャジュースでパンを飲み下したあとで言った。

 

「あと手がかりは、秘密の部屋じゃないか? ……どこにあるのか知らないけどさ。継承者は、わざわざ壁にメッセージを残すようなヤツなんだ。もし、秘密の部屋に出入りしていたら堂々と自分の名前を書くようなヤツだとも思わないか?」

 

 ハリーの感想は「ありうる」だった。そして秘密の部屋──内装はサッパリ分からないのでスリザリンの談話室を想像した──そこに継承者の銅像がいくつも並んでいる想像をした。そんなものがなくとも部屋には歴代の継承者の署名があってもおかしくないだろうと思った。

 

「あれば幸運。一網打尽だな」

 

 マートルのトイレに行く計画を立てていると職員テーブルでマクゴナガル先生が立ち上がった。

 ダンブルドア校長の代理として現在はマクゴナガル先生が校長代理という立場にいる。

 その彼女が決然と立ち上がったので周囲は静まりかえった。

 

「皆さんによい知らせがあります」

 

 静寂は勢いのよい喝采で破られた。

 

「──ダンブルドアが戻ってくるんですね!」

 

 どこかの寮の生徒が嬉しそうに言った。

 しかし、マクゴナガル先生は首を横に振った。

 

「──では、継承者を捕まえたんですね!」

 

 レイブンクローの女子生徒が声をあげた。

 また、マクゴナガル先生は首を横に振った。

 

「──クィディッチが再開するのですね!?」

 

 これはグリフィンドールのウッドが諸手を挙げて喜んだ。

 

「私もダンブルドアが戻り、継承者を捕まえたあとでそのように告げたかったですよ、ウッド。本当です。──さて、残念ながら違います」

 

 再び静寂が戻った大広間を一度見回してマクゴナガル先生は告げた。

 

「スプラウト先生のお話では、とうとうマンドレイクが収穫できるとのことです。今夜、石にされた人たちを蘇生させることができるでしょう。言うまでもありませんが、そのうち誰か一人が、誰に襲われたのか話してくれるかもしれません。私は、この恐ろしい一年が、犯人逮捕で終わりを迎えることができるのではないかと期待しています」

 

 爆発的な歓声が起こった。

 唯一、面白くなさそうにしているのはスリザリン寮のマルフォイを筆頭とするいくつかのグループだけだった。

 

 ハリーはマルフォイを見てしまう目をなんとか動かし、できるだけ背伸びしてスリザリン寮を見回した。

 何名かは明らかにホッとした顔をしている。

 

 そのなかで妙な顔をしている者がいた。──セラフィ・ナイトだ。

 

 目が合ってしまった。

 宝石のような琥珀色の瞳が、明確に震えた。彼女は素早く席を立った。

 

「ハント、ナイトが来るよ」

 

「む? 何だろうな」

 

 クルックスはパンをいくつかつかむと無造作にポケットに入れた。

 ハンドサインを出して彼らはそれぞれに大広間を出て行った。

 

「ロン、行こう」

 

 反射的にハリーは言った。

 

「えぇっ」

 

 ちょうどオートミールをお代わりしたあとだったが、ロンはしぶしぶ立ち上がった。

 大広間を出て最初の廊下を曲がったところで彼らが話し込んでいるのを見た。

 

 ──例の、聖杯の件だ。

 ──お父様の? ……それが今、何の関係がある。

 ──コッペリア様がお求めの品をマルフォイが持っていたらしい。

 ──君と外出した時に? ええと、何だったか。聖杯探索のおりに……?

 ──ああ。でも確証はない。僕は現物を見ていない。コッペリア様も肉眼では見ていなかったハズだ。それにマルフォイは「無い」と答えた。

 ──……分からない。君の不安は何だ? 俺に分かるよう教えてくれ。

 

 クルックスは、間が悪い時がある。

 暗号かと思える不可解な単語の羅列に困っていたハリーとロンが、まさに聞きたかったことを聞いてくれた。

 息を殺して、次にセラフィが口を開くのを待った。

 

 ──コッペリア様がお求めだったモノは、記憶を留め、その上、再生するような代物だ。そして『閉じた瞳』が正しかったとすれば、時系列が前後していたとしても本当にそこに『あった』のではないかと思えてきたんだ。僕は、うまく言えないのだが……それに、魔法界の神秘は僕たちには計り知れないから……昨日、ルシウス・マルフォイがダンブルドアの停職命令を持って現れたのは偶然なのだろうか? 過去を高度に保存する何かを彼は、いつかどこかで持っていた。それが学校に持ち込まれたとしたら……。現状の原因とは、それなのではないか? 僕は昨日からずっと考えている。

 ──一応聞くが、証拠は無いな?

 ──勘だ。

 ──記憶を保存するモノ。それを見た者に影響を与える。そんな神秘がないとは言えないだろう。

 

 ハリーは、マートルの女子トイレでロンが言ったことを思い出した。

 

『「魔法使いのソネット(十四行詩)」を読んだ人はみんな、死ぬまでバカバカしい詩の口調でしか喋れなくなったり、それにバース市の魔法使いの老人が持っていた本は、読み出すと絶対やめられないって。もう本を開いたらそれっきりさ……』

 

 これは本によって読者の行動を制限してしまう魔法がある、という証明になる。

 そして不思議な力を持ち──特に記憶を保存する──本について。

 ハリーには思い当たりがあった。

 

 ──つまり、お茶会でテルミやネフが言った『読み』は正しかった。「自分が犯人ではないことを知らないか、分からないか、忘れているのだろう」とネフは言った。そして、僕がノットから聞いた証言も正しかった。「この学校に継承者の血を引く者はいない」と。そう物理的、肉体的には存在しない。存在する必要がないのだ。その『何か』さえあれば──コッペリア様は他に何かおっしゃっていなかったか? いや、直接聞いてきた方が早いか……?

 ──そう思って僕も今朝、お伺いをしてきた。けれど今日のコッペリア様は、頭のご都合が悪い日だ。とても話せる状態ではない……。だが、思い出したよ。たしか『日記帳』とおっしゃった。

 

「あ」

 

 クルックスが思わず漏らした声。ハリーとロンも重なった。

 あまりにタイミングがぴったりだったので互いに悟ることはなかった。

 ハリーの思い当たること、それこそがまさに日記だったからだ。

 

 日記。

 

 トム・M・リドルの日記だ。

 そして、クルックスも日記の存在を知っている。しかも彼は何らかの異変を見抜いていた。

 

 ──クックッ、ハハハハッ! ……ハハハハ!

 

 耳を疑う笑い声は、どうあっても聞き間違えができない。

 クルックスのものだった。

 もし、大広間から出てくる人がいれば不審に思うほど、大きな声であり長々と続いた。

 

 ──ハハハ……! セラフィ、ありがとう。ああ、日記。黒革の日記帳。ああ、ああ、知っている、知っているぞ。クククッ、本でさえ淀むのだ。人血が、人心が、人の世が、淀まぬハズがないだろう。やはり、そうだ。淀んでいる。淀まずにはいられないのだ。ヤーナムが汚れているワケではないのだ。そうだ。お父様が……ユリエ様が……コッペリア様が……穢れているなど……そんなことは──。

 ──誓約は続いている。僕達は誰も傷つけてはいけない。

 ──死ぬ者はいない。日記は生き物ではないだろう? 何を躊躇うことがある。俺は連盟員。血塗れの同士にならい、使命を果たすまでだ。

 ──忘れ、違うことなかれ。……お父様が悲しまれる。

 

 

 二人の会話は、続いていたがハリーはロンの腕を取って大広間に戻った。

 何でもない顔でオートミールをすくいながらハリーは言った。

 

「日記だ。日記だよ、ロン。日記がどうにかして誰かを操っているんだ」

 

「でも、どうやって見つける? あれは盗まれたじゃないか、グリフィンドールの誰かに。それに……今夜にでもハーマイオニーが、戻ってくるよ。バジリスクの他に誰かを見なかったか聞けばいい。そして、名前が挙がった人の荷物を調べて日記を取り押さえる。日記を暖炉にぶち込んだら、ダンブルドアも復職して、ついでにハグリッドも帰ってくる。これで解決だ。どう?」

 

 ロンの言葉は「そうであってほしい」と思いたがっているように聞こえた。

 ハリーもできれば同意したい言葉だった。

 賛同しないハリーにロンは、声をひそめた。

 

「バジリスクはもういないんだ……たぶん。今さら継承者一人で何ができると思う?」

 

「そう、だけど」

 

 継承者が使えて、ハリー達が使えないものがある。

 その危険性について話すことはできなかった。

 クルックスが戻ってきたのだ。

 

「失礼、中座した。──ところでウィーズリー、妹はどこにいる? 今すぐ会いたいのだが、寮か?」

 

 スプーンを取り落としたロンの顔は、そばかすまで白くなった。

 クルックスがなぜ今、ジニーのことを話題に出すのか。

 ロンも気付いてしまったのだ。

 

 彼らの会話は、ハリーとロンが辿り着いた解答に迫っていた。

 だからこそ。

 ロンは、ほとんど口を動かさず曖昧に言った。

 

「……ジニー? ジニーが……ジニーが、嘘だ、何だって……?」

 

 クルックスの目は、何かに魅入られたように輝いていた。

 いつもの気怠げで薄暗い雰囲気を消し飛ばす、清々しい笑顔だった。

 

「ネフがはじめた事業は、俺が正しく引き継ごう。生徒のため、ホグワーツのため、積み上げた全てのために。だから、問おう。ジニー・ウィーズリー。先日起きた物盗りの犯人は、彼女なのだろう。問いたださねばならない。──淀む日記の持ち主は、どこにいる?」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ロンは答えなかった。

 答えられなかったのかもしれない。

 

 どちらでもよかった。

 すでに目的は定まった。

 

 クルックスは、足早に寮を目指す。

 その矢先のことだった。

 声をかけられて振り返る。手を振りながら駆け寄ってきたのは、ルーナ・ラブグッドだった。

 

「おはよう」

 

 短い挨拶を交わした。

 

「今日の夜にでもネフは戻ってくるだろう。テストも近い。互助拝領機構が君の助けになれば幸いだ」

 

「ううん。助けにならなくてもいいんだ。友達だから嬉しいよ」

 

 ルーナ・ラブグッド。

 いつも彼女の周囲だけ時間の流れが異なるように感じられる。

 彼女のもつ不思議な雰囲気に少々調子を乱されながら、クルックスは「そうか」と言ってみた。

 

「……ネフにも伝えてくれ。喜ぶ、かも、しれないからな」

 

「ネフが石になったとき、あんたも近くにいたの?」

 

「ああ、すぐそばにいた」

 

「どうして戦ったの?」

 

 なぜ、そのことを知っているのだろうか。

 クルックスが尋ねると彼女は「あの日、図書館に一緒にいたんだ」と答えた。

 

「ネフがマダム・ピンスに『外から声がかかるまで誰も図書館から出ないように』って言ったんだ。それから、あの人はすぐに廊下に行っちゃった。戦うのが分かっていて、決まっていたみたいだった」

 

「守りたいからだ。そして、戦えるからだ」

 

「互助拝領機構を作った理由もそれなのかな?」

 

 ──この人は。

 クルックスは、初めてしっかりと彼女と目を合わせた。

 ネフライト以外のレイブンクローの生徒と関わり合いのなかった彼は、かの寮の叡智を垣間見た気分になった。

 

「……。俺にネフの動機は計り知れない。俺とは見ているものが違うのだ。だが、皆のためを思う気持ちは真実だろう。彼は……きっと、沈んだ天秤を持ち上げてしまいたいのだ」

 

「沈んだ天秤?」

 

「彼は、どうやらまともであることは、くだらないことでもあると思っているらしいからな」

 

 キョトリとした目でルーナが見返した。

 それが、あるとき緩んだ。

 

「あの人。コーラスが来たとき、まっすぐマダム・ピンスに言いに行けばよかったのに。あたしを見つけて足を止めたんだ。『君はここにいてくれ』って」

 

「…………そうか」

 

「ネフによろしく」

 

 出会ったときと同じように手を振って別れた。

 その右手を握りしめた。

 

 熱に浮かされていた頭は、いまや平熱に戻っていた。

 気分がいい。手足に力がみなぎった。

 

(ネフは、きっと認めないだろう。けれど、そうか。守りたかったのか。あの子を。だから青ざめた弾丸を使えと……。急ごう。ネフが起きるまでに日記を破壊しなければ)

 

 大広間を出る。

 目指すは、グリフィンドール寮だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「なんでハントは、ジニーが日記を持っているなんて知っていたんだ!?」

 

「わからないよ! でも、確信しているって感じだった。……何か信じるものがあったんだろう」

 

 朝食後、生徒はすみやかに寮に戻り、教員が迎えにいくまで教科書を準備して待っていることになっている。

 当然のようにクルックスはいなかった。

 そして。

 

「ジニーがいない──!」

 

 まだ誰も気付いていないようだった。

 けれど点呼をしたら分かるだろう。時間の問題だった。

 たまらずロンがガヤガヤとうるさい談話室を抜け出した。ハリーもそれを追って飛び出したのだ。

 

 だが、二人ともどこに行ったのか分からない。

 状況を確認するように廊下を見回していると階段を昇ってきたマクゴナガル先生と出くわしてしまった。

 

「先生──」

 

「ポッター! ウィーズリー! ここで何をしているのですか」

 

 これ以上ない厳しい顔をしたマクゴナガル先生を前に二人は顔を引きつらせた。

 ロンが隣で喘ぐように息をした。ジニーのことを言うべきか、クルックスのことを言うべきか。迷っているのだとハリーには分かった。

 

「僕たち、僕たち──あの──」

 

「ハーマイオニーの様子を見にいこうと思って!」

 

「そうです! もうずっと見てないし……あの、マンドレイク薬ができることを伝えたくて……!」

 

 マクゴナガル先生は、小さく息を吐いた。それが緊張をほどいた音だと気付くのには、時間がかかった。

 

「襲われた人の友達が、辛い思いをしてきたことでしょう。ビンズ先生には私から、あなた達の欠席のことをお知らせしておきます。マダム・ポンフリーには私から許可が出たと言いなさい。……他の生徒には、バジリスクのことは伏せていますが注意し過ぎることはありません。気を付けてお行きなさい……」

 

 罰則覚悟の言い訳は、通じてしまった。

 ハリーとロンは、もつれそうになる足を動かしてその場を立ち去った。

 

「どうしよう……ハーマイオニーのところに行かなきゃいけなくなっちゃった」

 

「とりあえず行こう。それから二人のことを探そう。それからマートルのところにも……」

 

 医務室に行くとマダム・ポンフリーが渋々といった様子で中に入れてくれた。

 

「石になった人に話しかけても何にもならないでしょう」

 

 まったくもってそのとおりだった。

 ベッドに横たわる石になったハーマイオニーは冷たく、固いままだ。

 

「これからどうする?」

 

「ジニーやハントを探すなら、マントを持ってくるんだった……」

 

 ハリーは、ハーマイオニーの硬直した横顔を見つめたまま呟いた。

 その目は次第に彼女の右手に移った。何かを握りしめていた。

 

「ロン」

 

 握っていたのは紙切れだ。

 ロンがマダム・ポンフリーをいないことを確認しつつ、ハリーはそれを引っ張り出した。

 図書館の、古い本のページがちぎり取られていた。

 

 その内容を見ようとしたときだった。

 まるで計ったようにハーマイオニーのベッドとの薄い仕切りであった隣のカーテンが、小さな音を立てて開かれた。

 

「──あら? いけない子がいるわ」

 

 小柄で華奢なハッフルパフの生徒がそこにいた。

 切りそろえられた金色の髪は、病室の照明に当たるとキラキラ輝き天使の輪のようにも見えた。

 

 しかし。

 

「待っていましたわ! クルックスやセラフィのように歩き回るのは性に合わないもの。張っていて正解ね?」

 

 場違いに明るく彼女は言い、笑った。

 なぜ、マダム・ポンフリーは彼女に気付かなかったのか。

 きっとテルミ・コーラス=Bが見えなかったからだ。

 

 閉ざされたカーテンのなか、石になったネフライトの上に腰掛けた彼女が。

 

「──ご機嫌よう。ご存じ、テルミ・コーラス=ビルゲンワースですわ」

 

「ひっ!」

 

「ヒドいわ。可愛い女の子の顔を見て、怯えた顔をするなんて。ミスター・ウィーズリー、イジめたくなってしまうでしょう? あぁ、イジめられたいのなら別ですけれどね?」

 

「ここで何をしているんだ」

 

 大きな声を出してしまわないようにハリーはできるだけ感情を抑えて尋ねた。

 テルミはネフライトの着るローブのボタンを指でいじりながら答えた。

 

「クルックスに頼まれてジニー・ウィーズリーを探しているの。でも、ご存じではなさそうね?」

 

「僕らも知りたいところだよ」

 

「ええ。残念。わたしはハズレを引いちゃったみたい。もう行きますね。他を探してみます」

 

 テルミは、ネフライトの上から降りるとバイバイと手を振った。

 しかし。

 あるとき、ふと足を止めた。

 

「ジニーって可愛い子。ええ、可愛い子よね。クリスマス・カードをプレゼントしたの。小さなことを気にして可哀想な子だったけれど……最近は、ちょっと違って見えていたのに。残念ですわ」

 

「どういう意味? どこかでジニーと話したことがあった? ハッフルパフの君が……」

 

 ロンが聞いた。

 

「わたし、交友関係が広いの。それに女の子の社会ってフクザツなのよ。おさがりのローブ。中古本。継ぎ接ぎの鍋。新しい物は数えられるほどしか持っていない。あぁ、わたしは気にしませんよ。人間に大切なのは、いつも中身ですからね。けれど、普通の子は違います。とても素直で単純すぎて残酷です。他人と違うことが何でも目に付くわ。──えぇ、ハッキリ言ってしまうとジニーって集団のなかでは見劣りするのよね」

 

 テルミが述べたのは、現実の問題であり、明確な区別であり、具体的な差別だった。

 ロンは呼吸を忘れたようにテルミを見つめていた。

 目を細めた彼女は、ネフライトを一瞥した。

 

「誰が悪いという話ではないわ。誤解しないでくださいね? 悪意であげつらう人なんて、一握りです。皆、ただの好奇心で、ただの悪戯で、ただの冗談のつもりみたいですから。わたし達のネフが『バカげたヤツだ』と悪口を言われているように。最初から最後まで全部が悪いのですから、周りに期待することが間違っているのでしょう。けれど一番残酷なことは、ジニーが一番それを分かって恥じていることでしょうね。可哀想な子。だから、次に生きて会うことがあれば、たくさん優しくしてくださいね。『生きている』ってとっても楽しいことだもの。──世界が優しければ、もっと楽しいわ!」

 

 テルミは笑顔で去り、マダム・ポンフリーは彼女の存在に気付いていないように目の前の素通りを許した。

 ネフライトが横たわるベッドのカーテンを閉ざそうとしたハリーは、ネフライトの左腕に切り傷があることに気付いた。

 

 腕には、鋭い刃物の傷があった。

 

 たった今斬られたように見えるが、恐らく違う。

 触れずに観察した。血ごと石に変わってしまったのだ。

 

 傷口は語る。──秘密は地下。

 

 ハリーは、ハーマイオニーが図書からちぎった情報を開いた。

 それに全て目を通したハリーの頭のなかでは、誰かが蝋燭を付けていくような閃きが起こっていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ハリーが恐れていたことが起こった、そのとき。

 全てを告白するため先生方を待っていたハリーとロンは、咄嗟に飛込んだ職員室の洋服掛けにいた。

 

 彼の危惧は的中した。

 継承者が使えて、ハリー達が使えないもの。

 それは、秘密の部屋だ。

 

「──生徒が一人、連れ去られました。『秘密の部屋』そのもののなかに」

 

 ほとんどの先生が集まったとき、マクゴナガル先生が苦しげに、しかし輪郭のある声音で告げた。

 

「『スリザリンの継承者』がまた伝言を書き残しました。最初の文のすぐ下にです。『彼女の白骨は永遠に「秘密の部屋」に横たわるであろう』と」

 

「誰です? どの子ですか?」

 

 最も勇気が必要な質問は、マダム・フーチから寄せられた。

 フリットウィック先生はすでに泣き出していた。

 表情は変えていなかったが、スネイプ先生でさえ椅子の背を強く握りしめていた。

 

「ジニー・ウィーズリー」

 

 隣でロンが息を飲み込んだ。

 

「バジリスクがいなくなったとしても、このような事態が起きるようでは……全校生徒を明日、帰宅させなければなりません。我々は、ついに誰か分からなかった! ホグワーツはこれでおしまいです。あぁ、ダンブルドアはいつもおっしゃっていた……!」

 

 職員室の扉が再び開いた。

 誰もが、すわダンブルドアかと思い顔を上げたに違いない。フリットウィック先生でさえ泣き止んだ。ハリーも期待して洋服掛けの隙間から見つめた。

 

「失礼しました! ついウトウトとね! あー、何か聞き逃してしまいましたかね?」

 

 ハリーは、これ以上の憎しみのこもった沈黙を知らない。

 そろそろ殺意へ変じてしまいそうな息苦しさがあった。

 洋服掛けのなかでさえ、ピリピリと感じる。

 

 最悪のタイミングで現れたのは、ギルデロイ・ロックハートだった。




消えた少女
時系列:
 ハリー・ポッター原作小説をお読みの方であれば「おや」と思ったことでしょう。
 原作において、ハーマイオニーが石になってから森へ行くまでは数日内に行われたイベントですが、本作では(午後)石化事件(深夜)森へ突撃(翌日)本話、という過密スケジュールになっています。
「トム・リドルの日記が誰に関連するものか?」を知っているだけでショトカができてしまった例です。
 ──こんな感じでショトカができるので、さらにマンドレイクに栄養満点肥料を与える等の描写をすれば、収穫までの期間を前倒しに出来るでしょう。ぜひハリー・ポッターRTAを書く際の参考にしてください。
 え? 真の走者は図書館攻防戦で転がす? それは、まぁそうね……。


ジニーは7番目のこども:
 ビル→チャーリー→パーシー→フレッド・ジョージ→ロンときてジニー。たしかに。7番目です。
 そんな7という数字は、特別な数字だそうですね。さまざまな文化圏で7は、他とは違う数字として扱われることがあります。
 理由は諸説ありますが、個人的には天体に関連するものが7の倍数に多いから、という説を推したいところです。そうでもなきゃあちこちの文化で7が特別にならないだろうと考えたり……いいえ、いいえ。このあたりは、専門家に任せたいところです。
 さておき。
 ジニーが優秀であるという描写は、単純に才女である、というだけではなく、そうした背景もある「7」番目で特別な人間だから──という考察をどこかで見かけた覚えがあります。

 原作では7が特別という話が出てくるのは『謎のプリンス』の分霊箱に関わるところが最初だったかな、と記憶していますが、7という数字に注目すると遡ってこのように考えられるので面白いですよね。


スリザリンは怪しい:
 ヤーナムという真っ暗で右も左も分からず、ふくろう便も思わず発狂する場所から来たクルックスは、闇の魔法使いがなぜ毛嫌いされているのか、その歴史的背景に疎いです。知らないことを知る歓びは知っていますが、このことについては真面目に勉強したいような。したくないような。どうせ落ち込むことは確定しているのでせめて精神状態が良いときに学びたいものです。
……これが闇で悪ならば、ヤーナムはいったいぜんたい何だと言うのだ。……

 ところで使命を得たクルックスは、ニッコニコしています。いつもは不機嫌ではないのに「機嫌悪いの?」とネビルにビクビクしながら聞かれますが、今日ばかりはニッコニコです。やはり本に虫を感じたのは間違いではなかった! よかった!


テルミonネフライト:
 今回、仔らの大義名分はネフが言い出したことが大きな看板となりました。
……昏き人々は、正しい使命を与え教え導く医療教会を信仰するべきだということがよく分かりますね? フフフ……

 テルミがネフの上に座っているのは、近くに椅子が無かったので腰掛けただけで他意はありません。
 でも彼が起きたときに必ず目に入る場所に聖歌隊が辿り着いた真理である「宙は空にある」と書かれた手記を置くために来た理由が、待ち伏せの3割くらいを占めます。彼女なりに心配しているのです。見つけて二秒でキレる手記を準備しておこうと思うのも彼女なりの心配なのでしょう。お世話好きなので。



展開は、2年生終盤にさしかかりました。
もうちょっとだけお楽しみいただければ幸いです。



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サクラの木、ドラゴンの琴線

サクラの木、ドラゴンの琴線
自制心と精神力の高い使用者のみ扱うことができる
それ以上のことはない。



 ええ。

 まったく。

 悲劇ですよ。

 生徒が立て続けに石になり、そしてついには、連れ去られてしまうだなんて!

 

 思えば最初からダンブルドアの対応は、エー、あまりにお粗末でした。

 彼が停職に追い込まれるのも、当然だったと言うべきでしょう。

 

 いいえ?

 むしろ、彼はラッキーと思っているのかもしれません。

 

 生徒が連れ去られたとき、彼はこの学校にいなかったのですから!

 自分は「関係がない」、「責任がない」と胸を張って言えることでしょう!

 そして──ああ、この危険はびこるホグワーツから脱出できて良かったと!

 

 実際、彼は幸運だったワケです。

 学校内の誰もが疑わしい状況において。

 少なくとも、犯人ではないことがハッキリしたのですから!

 

 しかし、彼の最も幸運だった事とは。

 

 ホグワーツには、最後の希望!

 英雄! この私!

 ギルデロイ・ロックハートが存在していたコトでしょう!

 

 しかし、学校に残された先生方。同僚でもあった彼らは、愚かでした。

 あまりに愚かでした。

 

 つい先日のことです。

 ほぼ一年にわたる探索の結果。

 私はついにホグワーツの凶事の源!

 そして病巣とも言うべき、秘密の部屋の入り口を見つけていたのですから!

 私は自室で全ての準備を整え、怪物退治に「いざ出陣!」と廊下へ向かいました。

 

 しかし。

 ──あぁ、これから先は先生方の名誉のために、敢えて、その名を伏せますがね。

 けれど、あなたもきっとご存じのハズだ。

 

 ダンブルドア校長の不在を預かる重鎮であり、優秀な先生でもあった副校長!

 

 彼女は、残念ながら往年の叡智をその辺の廊下に落っことした有様でした。

 平たく言えば、そう、ヒステリックな状態でした。

 

 ええ、ええ、彼女をお責めなさるな。

 一年間続いた凶事で精神的に参っていたのでしょう。

 その判断能力の低さを責めることはできません。

 彼女は、それでも出来る限りのことを『果たしているつもり』なのですから。

 

 だが結果は、愚か。愚か。

 マグルが木の枝きれを振り回すが如き所行でした。

 彼女はなんと私を呼び止め(恐るべきことに!)クビにしたのですから!

 

 そのときの生徒の嘆きは。

 校庭を越え、湖を越え、駅のホームまで聞こえる有様でした!

 特にも石になってしまった生徒の友人の嘆きは、悲しいものでした……私の心は引き裂かれ! 血は涙となってこぼれました!

 友が物言わぬ石となり、辛いでしょう。悲しいでしょう。

 

 しかし、私は学校を去らねばなりませんでした。

 愚かといえど学校では権力者である校長代理の命令です。

 私は粛々と身支度を整え、こうしてホグワーツを去ったのです。

 

 戦えば、赤子の手をひねるように勝てたでしょう。

 

 私は決闘でなくとも礼儀を重んじます。

 秩序と善、そして法を愛する紳士です。

 どうして必死で学校を『守っているつもり』の先生に杖をあげることができるでしょう。

 

 …………。

 

 ──あぁ? 秘密の部屋の場所、ですか?

 残念ながら、ハハハハ、お教えすることはできませんね!

 私しか見つけることができない場所にありましたし、コレを見ている読者が次の継承者になってはいけませんから!

 

 ──え? 秘密の部屋のなかには何があったか?

 いえいえ、それはお教えできません!

 

 ──そこをどうにか、ちょっとだけ教えて欲しい?

 あぁ、どうかどうか。困らせてくださいますな!

 やはりお教えはできません。できませんけれどね。

 しかし、しかし!

 熱心なファンである、あなただけに──。

 

 ええ。

 ちょっとしたヒントだけなら(ウィンクする)

 

 もちろん。これは、まだ誰にも話していない話です!

 特ダネですよ。

 あなたの新聞社だけに教えるんですからね。

 秘密の部屋のなかは(キングスクロス駅に着くまでに考えておく)

 

 

(ギルデロイ・ロックハート インタビュー予行練習[脳内手記]より)

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ──こんなハズではなかった。

 ロックハートは声も出せずに言った。

 言った途端、情けなくて涙が出そうになる。そのことが分かるから言い出せないのだ。

 

 自分は、ヒーローだ。

 自称したのではない。

 読者が、そう言っている。

 まさに、マジックだ。

 これは自称だ。

 けれどすぐ他称になった。

 読者が、そう言った。

 

 どこで間違えたのか。

 どうして誰も助けてくれないのか。

 何も分からない。だが、分からないままでいい。

 それこそが、長くこれを続ける鍵なのだ。──そして、もうすぐこんな悩み事ともおさらばだ。

 

 本と鬘、写真に額縁。

 ありとあらゆる物を詰め込んだ。

 教室に自分のいた痕跡がひとつもなくなるまで全てを詰め込むつもりだ。

 

 時計を見た。まだホグズミードからの最終便に間に合う。

 それからダイアゴン横町のどこかで長い宿をとろう。

 次のタイトルは決まっている。

 『閉ざされた学校。ホグワーツの真実』だ。

 彼は首を傾げた。

 

 ──思っていたより平凡だ。

 もっと読者が期待してハラハラ、ドキドキするタイトルがいい。

 

 考え事をしながら無心に手を動かす。

 だから、ノックの音にも気付かなかった。

 扉が開いたことでようやく彼は、やって来た生徒二人に気付いた。

 

 彼は、ほどほどに優れた文筆家だった。そのため、ほんのすこし冷静であれば気付くことができただろう。しかし窮地における冷静さは持ち合わせがなかった。

 成功の秘密に気付いてしまった少年達に対し、ロックハートはいつもの手口で挑んだ。しかし。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 呪文を受け、手の中から杖が飛ぶ。

 その光景を受け入れられずに見ていたロックハートは、さらに杖を向けられた。ハリーの目には、激しい憤りがあった。

 

 ようやく我が身の惨状に気付いた。

 

 助けを求める少年達を丸め込もうとする自分は。

 これまで全ての著作でこっぴどくこき下ろした退治されるべき『悪役』であり、かつて滑稽なものとして嗤った存在──幸運を己の実力と勘違いし、落ちぶれた愚者だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ロン、杖を拾って。……さあ、歩いて。先生は運がいい。僕たちは秘密の部屋の在処を知っていると思う。誰がそこにいるのかも」

 

 ロックハートは、逃げることを諦めたようだ。

 ハリーは杖で彼の背をつついて促す。廊下に出ても往来していた先生やゴーストの姿は、一人も見かけなかった。

 廊下を歩き、階段を降りる。例の赤い文字の壁が近くにある女子トイレに向かった。

 しかし。

 

「女子トイレ!? ここ、女子トイレですよ!?」

 

「いいから行けよ」

 

 ロンが、乱暴にロックハートの杖で彼の尻を叩いた。

 ロックハートは震えながら進んだ。

 不気味に静まり返る女子トイレで「嘆きのマートル」を探していると、音を立てて扉が開いた。

 

「ハント!」

 

「俺達よりも辿り着くのが早いとは驚きだ。……やはり見くびってはいけないようだ」

 

 普段より、目に生気を宿したクルックス・ハントが乾いた声で笑った。

 ロンが思わず杖を向けた。

 

「俺と戦うつもりならば、無駄なのでやめた方がいい。そんなことよりもジニー・ウィーズリーが持つ日記を破壊しなければならない。ジニー・ウィーズリー自体には指一本触れない。──これでいいだろう? 君には、君の家族には、恩がある。決して傷つけはしない」

 

「絶対だぞ」

 

 ロンは、ゆっくり杖を下ろした。

 クルックスは「そうするとも」と言い、口の端を歪めた。そのあとで彼は杖を持っていないロックハートに気付き「ここで何をしているんだ」という顔をした。けれど口に出すことはなかった。彼も弾よけと理解したようだった。

 

「人手は多い方がいい。人を探すんだから……」

 

 ハリーは、個室をひとつひとつ開けていった。

 マートルは一番奥の個室にいた。

 

 そして、マートルの証言が最後の鍵だった。

 

 ──この小部屋で死んだのよ。

 ──オリーブ・ホーンビーがわたしのメガネのことをからかったの。だから、ここに隠れていたの。

 ──鍵をかけて泣いていたら、誰かが入ってきたわ。何か変なことを言っていた。外国語だったと思うわ。

 

 ハリーは『外国語』が蛇語のことだと分かった。

 

 ──とにかく、いやだったのはしゃべっているのが男子だったってこと。

 ──だから「出てってよ!」って言おうとして……死んだの。

 ──どうやって? わからないわよ! 泣いてたんだもの!

 

 癇癪を起こしそうになるマートルをなだめるのは、意外なことにクルックスが引き受けた。

 

「君の言うことはもっともだ。意味もわからず死ぬのは、驚きだ。そして恐ろしいことだったろう。……最期に覚えていることを教えてくれないか?」

 

 ──黄色い目玉がふたつ。あのあたりにあったわ。

 

 クルックスが丁寧な礼をする間、ハリーとロンは彼女が漠然と指差す手洗い台に近寄った。

 そこに秘密はあった。

 継承者以外の誰もが見つけることができなかった。秘密の部屋への入り口だ。

 

 手洗い台の仕掛けが動き、ようやく大人ひとりが入り込めるパイプが現れたとき、突如としてロックハートが逃亡を計った。

 最後のチャンスだと思ったのだろう。たしかにここを逃せば、生きて帰れるかもわからない。

 だが、彼を逃がすハリーとロンではなかった。

 

 二人でロックハートを押し返し、パイプの淵に足をかけさせた。

 

「先に降りるんだ」

 

 ロンが凄んで杖を向ける。

 それを見ていたクルックスが腰に提げた銃を取り出しながら「待て」をかけた。

 

「勢いで手を汚すこともあるまい。俺がやろう」

 

「いいや、僕がやるよ」

 

 ロンがさらにロックハートを追いやった。

 ギリギリのところに立つロックハートは、一度だけ暗く底の見えないパイプを見た。

 

「あー、ウン、どっちか先に降りたくな──」

 

 ロンは杖でロックハートを押した。

 尾をひく悲鳴を上げて落ちていった。それから数分後のこと。

 

 ──あぁ……こりゃひどい……。

 

 ロックハートは生きていた。

 声を確認したハリーとロンは頷きあった。

 しかし。

 

「待て。俺が行く。──壁に一文が増えていた。誰かが連れ去られたらしいが、一緒に連れ帰ってくればいいのだろう」

 

「僕が行く。連れ去られたのはジニーだ! 僕の妹だ!」

 

 クルックスは、知らなかったようだ。そう、と言いかけた音は小さな吐息になった。

 妙な光を宿した瞳が、いつもの薄暗い目に戻った。

 

「そうか。では止めない。……人は、そうすべき時にすべきことを成すべきだからな」

 

 クルックスは一度目を閉じた。

 祈りは数秒だった。再び目を開いたとき、彼には熱のある目で前を向いていた。

 

「先へ進もう。……全ては守れるほど強くはないが、手の届く範囲は努力する」

 

「ありがとう。心強いよ」

 

 ハリーはパイプの先へ足を踏み入れた。

 暗くて冷たくてヌルヌルする。そんな滑り台を急降下していくようだった。

 滑り降りるパイプが地面と平行になった頃、出口から放り出された。

 湿った地面に腰を打ち付けて着地した。

 

「ルーモス 光よ!」

 

 呪文を唱えると灯ができた。

 先に着いたロックハートがその灯を見てホッとした顔をしていた。

 やがてロンも同じように降りてきた。

 手に付いた泥をローブで拭き、ロックハートの杖で光を灯した。

 

「学校の地下、何キロもずーっと下のほうに違いないよ……」

 

「ハーマイオニーは大正解だ。パイプ。学校の地下にいるバジリスクがうろうろするにはちょうどいい」

 

 そして、サラザール・スリザリンは賢い。

 ハリーは上手いと思った。

 女子トイレの出入り口さえうまく隠してしまえれば、こうして蛇語を話す誰かが現れない限り、開かれることはない。

 そして、彼はそれでもよかったのだろう。

 継承者だけが開くことができれば、それだけでよかったのだ。

 

 ジニーの安否を思う不安とスリザリンへの苛立ちが同時に起こり、ハリーは足音も荒々しく進んだ。

 

「あ……」

 

 杖先の灯りが、蛇の鱗を照らす。黒々と脱ぎ捨てられていたのは、バジリスクの皮だった。

 バジリスクは毒蛇の王。そして、多くの蛇がそうであるように脱皮を繰り返して大きくなる生き物なのだ。

 

 だが、バジリスクは死んだに等しい状態なのだ。

 ハリーは恐怖を振り払うように頭を振った。

 ロンも生唾を飲み込みながら進んだ。

 

 

 

 彼らは勇敢だった。

 グリフィンドールが重んじた勇気を体現する存在でもあった。

 

 

 だからこそ。

 平凡で非才、そして勇気を振り絞れない男が取りかねない行動がわからなかった。

 

「あぁぁ……」

 

 気の抜けた声を上げるとまるで体の骨が抜けたようにロックハートは崩れ落ちた。

 ロンは容赦なく彼の背中を杖で突き「立て!」ときつい口調で言った。

 ──気絶してしまったのだろうか。

 ハリーとロンがそう疑って近付いた瞬間、ロックハートは向けられていたロンの杖を奪い取り、立ち上がった。

 これまで彼の写真では見たことがない、野望に満ちたスマイルを浮かべた。

 

「ハッハッハ! 坊やたち、お遊びはこれでおしまいだ。私は、蛇の皮をすこーし学校に持って帰り、女の子を救うのは遅すぎたと告げよう!」

 

 形勢逆転。

 そんな言葉がハリーの頭にポンと音を立てて浮かび、ハーマイオニーの声で再生された。

 杖を持ち、戦えるのはハリーだけだ。「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」は間に合うだろうか。分の悪い賭けに思えた。

 そんな計算を始めた頃。

 ロックハートの後方で近頃見慣れてしまった枯れた羽を模した帽子が見えた。

 クルックスだ。

 彼は、ロックハートに狙いを定めているようだ。転がったのは小石ひとつだけ。後ろから忍び寄り、機会をうかがっていた。

 ロンは、気付いていないかもしれない。彼は、口を開けてロックハートを見ていた。

 

「──君たち二人は女の子の無惨な死体を見て、哀れにも気が狂ったと言おう」

 

 ロックハートは、呪文を唱える前にペロリと唇を舐めた。

 ──どうかハントに気付きませんように。

 ハリーは杖を構えた。

 

「さあ、記憶に別れを告げるがいい! ──気付いているぞ! ハント! オブリビエイト! 忘れよ!」

 

 ロックハートは、素早く振り返り杖を振った。

 闇の中でクルックスは「オブリビエイト! 忘れよ!」の呪文をすり抜けるように駆け、飛び上がった。回転ノコギリを捨てた右手でロックハートの髪の毛を掴む。地を蹴った勢いのまま右膝をロックハートの顎にめり込ませた。

 素晴らしい膝蹴りだった。

 一撃で意識を刈り取り、白目を向いたロックハートの顔面ごと着地した。クルックスは襟首をつかまえると凶悪に歯を剥いた。

 

「こンの、卑怯者がァッ!! 人命救助に来ていることを俺より忘れているのか!? 教え、導く者の姿か、これが!? 教壇の風上にも置けないクズめ! 本日の糞袋野郎ッ! 好奇心を殺す死があるのならば、功名心を殺す死だってあるのだろう! それを教えてやろうッ! 俺という恐怖を知れ。二度と陽に晒せない体にしてやる──」

 

「もう気絶してるよ……」

 

「えっ。あ。本当だ。……ぐぅ。人間は脆くていけない。死んでいないだろうか……?」

 

 ……さすがに本当に殺すのは、ちょっと……

 もごもごと居心地悪そうに言うクルックスは、ピシピシとロックハートの額を叩いた。彼が着地したのは岩盤がむき出しになった露地だ。そこに擦りつけられたロックハートの顔面は血の雨でも浴びたように真っ赤だった。ハリーは、チーズ・グレーター──チーズをすり下ろすための道具──を想像した。かなり正確に想像できたと思う。ついでにそれで顔面を擦られた時の痛みも。

 彼らの頭上でロンは「フン」と鼻を鳴らした。いい気味だと思っているようだった。

 

「先に進もう、ロックハートはもう、どうでも──」

 

 投げやりなロンの言葉は途切れてしまった。

 低い地響きに何事かと見上げた三人は、その先を見て思わず声を上げた。

 

 ところで。

 ロックハートが意識と共に放り出した杖は、洞壁に当たって火花が散っていた。

 

 淀み、脆くなった洞窟には、それだけの衝撃で十分だった。

 それが引き金になり、トンネルの天井が崩落した。

 

「ロン──!」

 

 クルックスがハリーをつかみ、これから進もうとしていた通路へ駆けた。

 崩落が収まるとロンが呼んでいるのが聞こえた。

 

「ハリー、ハント、大丈夫!?」

 

「そこで待ってて!」

 

 ハリーは、咄嗟に言った。

 ここで三人で石を崩すだけで何時間もかかってしまいそうだ。

 ジニーが連れ去られてから何時間も経っている。猶予はなかった。

 

「ウィーズリー、ここで石を崩してくれ。もうすこしでセラフィとテルミが来る。長くは待たせない」

 

 隣でクルックスが言った。

 いつもぶっきらぼうに感じていた言葉に初めて安心を覚えた。

 

「頼むよ、ロン」

 

 返事があった。

 ハリーは、蛇の抜け殻を越えた。

 

「足下に気を付けてくれ。……君たちは、夜目が利かないのだろう」

 

 クルックスは、腰につけていた携帯ランタンをハリーに渡した。

 

「杖があるなら杖を灯りとすればいい。だが、呪文を唱えるときに灯りをなくして視界が暗くなるのはマズい。ないよりマシだろう。持っていてくれ。どうにもならなくなったら、敵に投げつけるのもいい」

 

「ああ……ありがとう」

 

 ガラガラと石を崩す音が聞こえる。

 ほとんど一本道だった。

 歩き続けると石を崩す音も、やがて聞こえなくなった。

 ヤスリで松明に火を付けたクルックスは、足下を照らすようにかざした。

 

「進もう。──継承者の顔を知りたくなってきた」

 

 彼は黒の血除けマスクの下で微かに笑ったようだった。

 まだ、問題は何も解決していない。

 それでも、ハリーは一人ではなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

『浅い昏睡』とは、一見にして矛盾する表現だ。

 しかし、文筆家であるギルデロイ・ロックハートの脳裏に突如として閃いた単語であった。

 ──ああ、次の本の書き出しは決まったぞ。

 一瞬にして指先まで満ちた気力は殴られるような頭の痛みで霧散した。

 

「手伝ったらどう!? ここまで来て!」

 

 ロンが悲鳴のような声を上げた。

 

「──わたし達、か弱い女の子なのに?」

 

「──この男を見張る役が必要だろう。テルミは手伝うといい」

 

「──わたしの手袋は土木作業用ではなくて、手術用なのですけど。……仕方ありませんね」

 

 岩石が人の手で取り除かれるガラガラという音が聞こえる。

 

「おや」

 

 鈍痛でひどい頭に呻いていると猫のような瞳が見返していた。

 

「目が覚めたらしい。もう一眠りしていてもらおう」

 

 セラフィがロックハートの首めがけて脚を振り下ろそうとした。

 ロックハートは、すがりつくように地べたを這った。

 髪を振り乱し、強ばった顔のまま「待ってくれ!」と叫んだ。

 

「何もしない! もう何もしない! だから……!」

 

「それを判断するのは僕だ。盾程度にはなるかと思ったが、この有様ではそれも期待できそうにない。何もしないのならば寝ていろ」

 

「分かった! 寝る! 寝るから!」

 

 ロックハートは即座に地面に横になった。

 

「ん。よろしい」

 

「寝るくらいなら! すこしでも! 瓦礫の撤去を手伝えよ!」

 

 ロックハートは、目をこらした。

 ──瓦礫。何のことだろうか。

 気絶している間に周囲は最後に見た景色とは違っていた。天井が崩落し、人の頭より大きな岩石があちこちに転がっている。

 地面に転がる瓦礫を飛び越えてロンがロックハートの胸倉をつかんだ。

 

「この役立たず! 起きろ! 起きろ! お前がウソだらけの全身タール野郎だってもう知ってるけど、石を退ける程度はできるだろ! 妹が! 死にそうなんだよ!」

 

「そ、そそ、その節は! 本当に残念だと思うよ。誰よりも私が残念に思ってる──」

 

「勝手に殺すな! 縁起でもないこと言うなよ! 何のためにハリーが行ったと思っているんだ!」

 

 ロンは、ロックハートの頬を思いっきり殴った。

 

「お。いいパンチ。今度は、この手頃な石を持ちたまえ」

 

「スリザリンはあっち行ってろ! なぁ、これでジニーが間に合わなかったら、僕は一生、お前を恨むぞ! ……なに笑ってるんだよ」

 

「は? ははは、はあはあ、ははは……え?」

 

 ロックハートは、自分の頬に触れた。

 たしかに笑っている。

 

「くそ!」

 

 ロンは彼を突き放した。

 力のない笑みがこぼれ、やがて止まった。

 ロックハートには、立ち上がる気力もない。

 

「あぁ、いつか、こうなると思っていた。私の嘘が剥がれて……それが、ようやく訪れたから、笑ってしまっただけなんですよ……」

 

「そうだな。貴方の所行は、そこのウィーズリーから聞いた。最初に誰かを陥れた時から決まっていた破滅だ。甘んじて受け入れるがよい。ジタバタするのは見苦しいことだ。……もっとも、それを楽しみたい人々が学校には多いだろうけれど」

 

 まさに切れ味の良い飛び出るナイフだ。セラフィの言葉が、胸を刺した。

 だが、次にいつ再び崩落するかもしれない場所で悠々と脚を組んでいられる自信をロックハートは理解できなかった。

 

「君には……分からない! 生まれ持った特別な才能を持つ人には、決して分からない!」

 

「──それが! いま! 手伝わない理由になるか!?」

 

 ロンがイライラと叫んだ。

 飛び跳ねたロックハートは瓦礫を両手でつかんだ。

 

「こちら、手伝ってくださる? わたしが石を退けますので」

 

 テルミが杖を振る。

 浮遊呪文で取り除かれた岩石が遠くに転がった。

 

「特別な才能? そんなものがなくとも人間は生きていけるのに、なぜ羨むのか? 十全に動く四肢があり、悪知恵を働かせるだけの頭を持ちながら、何が不満だというのか? 明日をも知れぬ病み人でもあるまいに。フフフ、分からないな」

 

 岩石を蹴飛ばしたセラフィにロックハートは大声で言った。

 

「私は、みんなに私だけを見てほしかったんだ! 誰にも負けない私を! 誰より優れた私を!」

 

 手当たり次第に石を退かした。

 次第に手が切り傷だらけで痛くなった。

 だが、胸の痛みに比べたらこんなもの──勝るものは何もなかった。

 

「本だってこんなに続けるつもりはなかった! 一度きりのつもりだった。たった一度だけ! 一冊だけ本を出したら──私は、やめようとした! でも、読者が! 読者が私に望むんだ! 『次の本はいつ出るの?』と! どんなことをしても応えないワケにはいかないでしょう!」

 

「……むむ? 最初の理由の方が素敵だな。読者からの応援は、貴方が誰かを傷つける理由になりきれなかった。貴方は化けの皮が剥がれて安心しているようだからね」

 

 テルミが「アハ、フフ」とおかしそうに笑った。

 楽しげだが、嘲るような響きだった。

 

 セラフィが言葉を続ける。

 彼女がここまで話すのは珍しいことだとクルックスならば言うだろう。

 琥珀色の瞳は、輝いていた。

 

「先生。貴方は、もっと利己的になるべきだった。そうなれないのならば、せめて利他的になるべきだった。『認められたいので騙し討ちした。後悔はしていない。今日もやるぞ』となぜ言えないのか?」

 

「は?」

 

 ロックハートの口から出るべき言葉は、彼の隣で岩を運んでいたロン・ウィーズリーから発せられた。 

 

「──君、なに言っているの? この大嘘つきの犯罪者に、なに言ってんだよ」

 

 セラフィ・ナイトは無視をした。

 答えることを期待して、ただロックハートを見ていた。

 ロックハートは振り返らず、石を握る手に力を込めた。

 

「これまでも続けていたことだろう? ならば、これからも続けることができる。諦めずに頑張ろう。いいや、頑張るべきだ。それだけが君の心を満たすのだから。僕は、野心がないから多くの欲望に理解がない。けれど、善悪と賢愚の話は分かるとも。嘘とは何か。己が嘘を嘘と思わなければ全ては真実だ。法が何だというのか。己が悪と断じなければ自分だけは悪ではない。それに貴方の欲は誰しも心に秘める欲ではないか? 果たすことの何が悪い。『自分を認めてほしい』。きっと、ありふれた願いだ。君とて分かるだろう、ウィーズリー」

 

「僕をハリーの添え物だって言いたいのか?」

 

 ロンは手に持った石を後方のセラフィに投げつけた。

 軽やかな身のこなしでそれを避けたセラフィは、小さく笑った。

 

「危ない危ない、獣性が高くて困るよ」

 

 今度はロンとセラフィが論争になった。

 ロックハートは石を握りしめ──隣で作業するロンを見た。そして、彼の腰に差している杖を見た。自分の杖だ。それから、ようやく自分がちょうどいい具合の石を握りしめていることにも気付いた。

 

 だからこそ。

 

 ロックハートは素早く立ち上がり、石をセラフィに投げつけた。

 素早く剣の柄で石を叩き落としたセラフィは、しかし、怒ってはいなかった。

 

「おや。貴方まで何のつもりかな。僕はたった今から君を応援している読者だぞ? 読者様だぞ?」

 

「やめてくれ! ……もう、やめてくれ……。私は、君の言うとおりだ。ホッとしているんだ……。もし、ここから生きて帰ったら、私は破滅するだろう。あぁ、恐ろしい。でも、それでも『私は、誰?』と自分に問いかけなくて済む。……母は……姉は……あぁ、ガッカリするだろうが……」

 

「…………」

 

 セラフィの瞳からは、光が消えた。

 ──つまらん。

 学生時代、真実を知った多くの人々が彼に対し、最後に向ける感情だった。

 

「セラフィ。人の心を知らない貴女。恋しい貴女。そろそろお喋りはおやめにしてくださる?」

 

「む?」

 

「はぁぁぁー、わたしの努力の七割で、皆様がお話している間に開通したようですからね」

 

 テルミがボロボロになってしまった白手袋で指さした。

 その先には、蛇の抜け殻があった。その頭の指す先は、奥へ繋がる一本の通路だ。

 

「ジニー!」

 

 小さな穴に頭を突っ込むようにロンが突撃した。

 セラフィとテルミは顔を合わせ、やがて、セラフィが歩み寄った。

 

「ロックハート先生、最後のお仕事だ。──さぁ、ご存分に戦うがよろしい。僕の杖をどうぞ」

 

 ロックハートは、断るつもりだった。

 他人の杖であるし自分の呪文の腕では、忘却呪文以外が上手くいくわけがないと思ったからだ。

 しかし。

 

「サクラの木、ドラゴンの琴線──三十五センチ、しなやか」

 

 杖の素材は、よく知っていた。

 愛すべき杖と同じモノだったからだ。

 ロックハートは震える手で受け取った。それから後ずさりして、テルミが作った穴をくぐって駆けていった。

 

 

 ──いったい何をしに行くのか。

 

 

 それはセラフィにもテルミにも、ひょっとしたらロックハートさえも理解できていないかもしれない。

 しかし彼は駆けていった。 

 

 

 テルミの見るところ。

 セラフィは、熱のある瞳で彼の背を見つめていた。

 

「貴女、どうしてあんなことを? 貴女はクルックスのように純情だと思っていたのだけど」

 

「僕はレオー様がご心配なさるほど純情だよ。……僕を咎めるかい? 君が?」

 

「あぁ、こわい顔をしないでください。それから冷静になって考えてくださいね? 勝てるワケない喧嘩を売るハズないでしょう? ネフではあるまいし」

 

「むむ。それもそうだね」

 

「けれど、ロックハートがクルックスの邪魔をするのなら背中からブスリとやる必要がありますね。それは貴女にお任せしたいのですけれど」

 

「承る。今回は僕の蒔いた種だから、言われずとも僕が刈り取ろう。……僕は鴉羽の騎士様より責任感を持ちたい」

 

「では、万一を防止するために行きましょうね!」

 

「そうだね。愛しい妹君。カインハーストがそうであるように僕らだけは常に『正しい』のだから」

 

「あら、カインハーストの辞書には『謙遜』の文字がないのかしら? でも貴女のカインハースト以外をクズだと思っていそうなところ、大好きですよ。純血主義がチワワに見えるくらい差別主義者だもの」

 

「差別ではない。互いに適度な距離でいるための区別だよ。それに今の僕はカインハーストの住人ではなく……個人的な問題でね」

 

「個人的な問題? とても気になるわ。わたし達は二年間でどれほどの差異を得たのでしょう?」

 

「……。いつか君にも話すべき時が来るだろう。今の僕は、ただ知りたいだけなんだ」

 

 トリコーンを深く被り直す。

 それは、すでに正面から見えないほどだった。

 

「自分を認めてほしい。……ありふれた願いだ。それは多くの人間にとって果たしたいことではないのかな?」

 

 そうね。

 続くハズだったテルミの言葉は、途切れた。

 

「たとえ誰かを殺してでも叶えたい。甘い願いではないかと思うんだ」

 

 声音は、淡々としたいつもの調子だった。

 しかし、テルミの隣を通りすぎるセラフィの瞳は、軽口も冗談も付けいる隙がないほどに真剣だった。

 




桜の木、ドラゴンの琴線:
『サクラは、西洋ではあまり人気のない材料です。けれど、日本では──国の花と言えば「菊」と並び、馴染みがあるためか──人気が高く、使う人も多い傾向にあります。極めて高い評価を得ている木材です。どの芯材を使っても、高い効果を発揮してくれるものですが、特にも、ドラゴンの心臓の琴線の芯材との組み合わせは、自制心と精神力を高度に必要とします。』
 本作において表現をすると上記のようになるでしょうか。
(原文はWizarding worldのWand Woodsのページをチェックだ)

 本作においては、まだパッパラパーになっていないロックハート先生ですが、原作のロックハート先生を見ると、本話程度の暴力行為に曝されただけでは、どうにもならない性質だと思われます。
 本話冒頭の脳内インタビュー予行練習の文章は、ロックハート先生が書いている想定で書いています。だんだんとエスカレートして、自分に都合のいいことを書き綴っているうちに本当に自分が迫害されて泣く泣く──ということを本心から思い込んでしまっている状態になっていくのだと思います。彼の中では真実なのです。
 本作においてネビルのばあちゃんは「ただの青二才だ」と言いましたが、やはりお年を召した方の目は、ちょっとばかり名の知れた人がどれほどのものなのか、顔を見るだけで分かるのでしょう。伊達に暗黒時代を生きてない。
 よって、恐らく彼はどこかで認識阻害系の神秘攻撃を受けたでしょう。間違いない。俺には特別な智慧があるから分かるんだ……騙されんぞ……!


セラフィの所属:
 セラフィの杖も「桜の木、ドラゴンの琴線」でロックハート先生と同じです。
 彼女はしばしば「僕には野望をもっていない」とか言いますが『マリアを探る』より以前に抱いた『父より優れた狩人になる』と掲げた目標は、父の打倒が必須ではありませんが、その領域に近付こうと試みるものです。それは、クルックスには不遜で恐れ多いことのように感じています。
……相棒も似たようなもの? いや、打倒は目指していないからな、俺は。君のそれを野望と言わず何という。──夢か。そうか。うん。ちょっと納得してしまった。……

 そんな時空間的に果てしない夢と深い愛が彼女がスリザリン寮に配された理由です。
 けれど、愛については。ネフライトに言わせれば「ただの身内贔屓と道徳心の欠如だ。穢れた貴族どもの教育の賜だな」という感想になるものです。
 とはいえ、組分け帽子は適性を見事に見て分けたと言えるでしょう。


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秘密の部屋

秘密の部屋
ホグワーツの創始者のひとり、サラザール・スリザリンが設けた特別な一室。
地下深くに存在するそこへ至れるものは、ごくわずかだ。
彼らが明かさないには理由がある。
……恐怖は、いつものそこから這い出てくる。……
サラザール・スリザリンはそれを知っていた。




 秘密の部屋。

 その最奥。

 淀んだ空気と水の気配。

 そのなかに──知っている血生臭さがある。

 

 

 トム・M・リドル。

 

 日記の持ち主と同じ名前を名乗る少年を。

 クルックスが認めるなり、回転ノコギリの錆びにしなかった理由はただ一つ。

 

(なぜだ。たしかに虫の気配がある。だが、妙だ。存在が薄い……。それはなぜ?)

 

 既存の感触で説明を試みるならば『獣の足跡』や『血痕』という感覚が相応しい。

 不可思議な感覚の正体がわかるまで彼の戯れ言に耳を傾ける。

 ハリーがいくつかの質問をした。

 そのなかにクルックスが知りたかった中核があった。

 答えは、トム・M・リドル自身が言った。

 

「──ゴースト? いいや違う。僕は記憶だ。日記の中に、五〇年間残されていた記憶だ」

 

 石畳のうえで冷たく横たわるジニーが抱いている日記帳。

 リドルの目はそれに注がれていた。それが、スッとハリーに移った。

 

「君にずっと会いたかった。ハリー・ポッター。君と話す機会をずっとずっと待っていた」

 

「いいや。ハグリッドを嵌めた君と話すことなんてない」

 

「すぐに話したくなる。いま、話すんだよ」

 

 リドルは、場違いに浮いた笑みを浮かべた。

 

「ジニーがどうしてこうなったか。知りたくないかい?」

 

 ハリーは、揺すっていたジニーの肩を放した。

 

 原因がわかれば処置のしようもある。

 クルックスは医療者ではなかったが、ヤーナムの民として多少の知識は持ち合わせている。傾聴の理由を見つけた彼も黙った。

 

「面白い話だよ。しかも話せば長くなる。ジニー・ウィーズリーがこんなことになった本当の原因は、誰なのかわからない、目に見えない人物に心を開いたせいだ。自分の秘密を洗いざらい打ち明けてくれた。バカバカしい心配事や悩み事をね。兄さん達がからかう、お下がりのローブや本で学校に行かなきゃならない。それに、有名な、素敵な、偉大なハリー・ポッターが自分のことを好いてくれることは絶対にないだろうとか。愚かにも日記に自分の魂をつぎ込んだ。……まったく愚かだよ」

 

「……いったい何を言っているんだ……?」

 

 彼は、冷ややかにジニーを笑っていたが、それはハリーにも向けられた。

 

「ハリー・ポッター、まだ気付かないのかい? ジニー・ウィーズリーが『秘密の部屋』を開けた。学校の雄鳥を絞め殺し、壁に脅迫の文字を書き、穢れた血やスクイブの飼い猫にバジリスクをけしかけたのはジニーだ」

 

「まさか……ジニーは蛇語が話せないだろう! 君は嘘を言っている!」

 

「そのまさかで僕は本当のことしか言っていないんだよ。バカなジニーのチビが日記を信用しなくなるまでに、ずいぶん時間がかかった。とうとう変だと疑い始め、捨てようとした。まさにこの上の女子トイレでね。そこへ、ハリー、君が登場した。ずっと会いたかった。最高に嬉しかったよ。こともあろうに君が拾ってくれた。それにジニーが日記を取り戻した後も君なら必ず継承者の足跡を追跡しているだろうとわかっていたよ」

 

「どうして僕に会いたかったんだ? お友達になりたかったワケじゃないだろ?」

 

 リドルは、貪る目でハリーを見ていた。額の傷痕をなぞるように。

 

「ジニーがいろいろと教えてくれたよ。その額の傷からはじまった君の素晴らしい経歴をね。いろいろ聞きたいことがある」

 

「何を?」

 

「これといって特別な魔力も持たない赤ん坊が、偉大な魔法使いをどうやって破ったのか。ヴォルデモート卿の力が打ち砕かれたのに、君の方は、たった一つの傷痕だけで逃れたのはなぜか?」

 

「どうして君が気にするんだ? ヴォルデモートは君よりずっとあとの人だろう?」

 

 リドルは『よくぞ聞いてくれた』と明るい顔をした。

 これを言いたいがためにここで会話を続けようとしているのではないか。

 そう思えるほどにさまざまな感慨が窺える顔だった。

 

「ヴォルデモートは、僕の過去であり、現在であり、未来なのだ」

 

 そして、彼は描いた。

 文字は語る。

 雄弁に。

 トム・マールヴォロ・リドルは、ヴォルデモートであると。

 

「世界で一番偉大な魔法使いになる日が来ることを僕は知っていた。誰もが恐れ、口にすることを恐れる名前となることをね」

 

「君が──……」

 

 ハリーがかすれた声で何かを呟いた。

 この孤児の少年がいずれヴォルデモートになるのだとしたら、ハグリッドを嵌めるのも、ジニーを騙し続けたのも、ダンブルドアを追放したのも、まったく疑問に思わなくなっていた。

 なぜならば、かの少年が大人になればハリーの両親を惨殺し、多くの魔法使いを殺し、決して消えぬ禍根を残したのだから『この程度のことは簡単にやってのけるだろう』と思える境地に至った。

 

 回転ノコギリの柄をしっかりと握り、クルックスは会話が途切れる瞬間を待った。

 意表を突くには遅すぎる。

 ならば先手を取りたかった。

 

 ハリーは、拳を握った。

 

「残念だけど君は世界一偉大な魔法使いじゃないよ。がっかりさせて、ほんと気の毒だけど。世界一偉大な魔法使いは、アルバス・ダンブルドアだ。皆がそう言っている。君が、強大だった時でさえ、君はホグワーツを乗っ取ることはできなかった。手出しさえできなかった。君のことは何でもお見通しだ。それに君も分かっている。君は、いつでもどこに隠れていようと、いまだにダンブルドアを恐れている」

 

「ダンブルドアは僕の記憶にすぎないものによって追放され、この城からいなくなった!」

 

「君が思っているほど遠くに行ってはいないぞ! いなくなりはしない。信じる者がいる限り!」

 

 音が、聞こえた。

 人の声ではない。

 

「新手か?」

 

 クルックスは獣狩りの短銃を構えた。

 

「違う──フォークスだ」

 

「ダンブルドアの不死鳥だな……!」

 

 現れたのは黄金の、クジャクのような長い尾をもつ鳥だった。

 どこからともなく聞こえていた音楽が、秘密の部屋に反響する。

 ただの歌ではない。

 クルックスの体は、神秘の気配を感じた。

 そして、それはボロボロの何かをハリーの足下に落とした。

 

「ダンブルドアが味方に送ってきたのはそんなものか! 歌い鳥に古帽子! 友達もいるとは、いやはや、これでハリー・ポッターはさぞかし安心だろうな!?」

 

 ハリーはワケも分からず古帽子──組分け帽子だ──を拾い上げた。

 もし、誰か、それこそダンブルドアが送ってきた物だとしたらクルックスに意図は計り知れなかった。

 それでも。

 

「ああ、ひとりだった君より、今もひとりぼっちの君より、ずっとずっと心強い。もうすぐ助けが来る。僕らがいないことを先生達は気付くだろう。秘密の部屋の入り口を見つけたら君は、もうおしまいだ」

 

 ハリーは帽子を握りしめた。

 リドルの顔色が変わる。

 端整な若者の顔は、醜い嫉妬の色に塗りつぶされていた。

 

 さて。

 クルックスは、回転ノコギリを駆動させた。

 

「これ以上の会話の継続を無意味と判断した。……どうせジニー・ウィーズリーの命を吸い取りきるまでの時間稼ぎだろう? バジリスクは俺が殺した」

 

「いいや、まだ死んでいない。お前達を殺しきる程度ワケないさ」

 

「そうか。スリザリンの秀才の作戦、お手並み拝見とさせてもらおう。俺の勘定では、そもそもバジリスクと戦う必要性はないのだが」

 

「ちょっと銃弾が掠っただけで何を偉そうに」

 

 憎々しげにリドルは言う。

 

「お前の過去は凄惨だったか? 捻れていたか? 暗澹であったか? どちらでもよい。血を淀ませた獣め。使命を帯びた連盟員はお前の存在を許しはしない!」

 

 クルックスはジニーの手から日記を蹴飛ばすと駆動させた回転ノコギリを振りかぶり、叩きつけた。

 目を疑った。

 鋼と石が激突し削れる激しい火花に彩られた日記帳は、健在だった。

 

「はっ!? これは面妖な! 虫の分際で──」

 

 日記帳は一枚も削れていなかった。

 リドルは、やんちゃな子供を見る目でクルックスを見ていた。

 

「言っただろう。日記に残された記憶だと。紙に記すより確実で厳重な方法で作られている」

 

「では、こちらは異邦の二〇〇年モノだ」

 

 獣狩りの短銃。

 銃弾を装填し、撃鉄を起こす。

 そして石畳に置いた日記に向けた。

 

「時代遅れの、たかが銃弾で何ができる。君たちが知るよしのない深淵の魔法だ。聞いたこともないだろうね。分霊──」

 

 何かを言いかけたリドルに対し、クルックスは聞く耳を持たなかった。

 だからこそ。

 

「神秘に見える者は幸いである。それは敵であれ変わらない。古くはトゥメル。遠くはローランより。──敵対者よ、我らの月に触れたまえ」

 

 果たして。がらんどうの空間に、銃声は高らかに響いた。

 日記からは黒い血が迸り、リドルは絶叫した。

 

「やったか!?」

 

 ほんの一瞬。

 喜色満面で手を叩いたハリーにクルックスは警戒するよう声を飛ばした。

 

「まだだ。そして運が悪い。四発。今のでカンバンだ。そして、ヤツは消えていない。──来るぞ」

 

 よろよろとふらつきながら、しかしリドルは立っていた。

 そして。

 クルックスの耳には、今際の時に漏れる呼吸に聞こえたがハリーには違った。

 

「──バジリスクを呼んでいる。来る!」

 

「幸運に見放されたな。偶然、生き残った男の子! ハハハッ! 僕を誰だと思っているっ!? サラザール・スリザリンの継承者、ヴォルデモート卿だ! たかが小童の、たかが小銃に負けるワケがないだろう!?」

 

 黒いインクに見える血反吐を吐き出して、リドルは嗤った。

 人の顔を象った石像の仕掛けが動き、口が開いた。

 そこから何か大きな生き物が蠢く音が聞こえた。

 

「そういうことは俺達を殺して下水にでも流してから言うべきだ」

 

 クルックスは「バジリスクをやるぞ」とハリーに囁いた。

 

「でも、僕は武器がないよ」

 

「ジニーを引っ張って行け。部屋を出ろ。そして、ロン達と合流してくれ」

 

「バジリスクは深手を負っているが、それでも時間稼ぎは十分にできる。そして、僕は体を取り戻す。今度は記憶ではない! ヴォルデモート卿は蘇るのだ! 現代に再び!」

 

 ハリーは、迷いながら一度は頷いた。

 しかし。

 その足がジニーに駆け寄ることはなかった。

 

「もうリドルの輪郭がハッキリしている……! きっともう時間がないんだ。逃げ出せないよ!」

 

 つり下げた携帯ランタンを壊れるほど握りしめ、ハリーは叫んだ。

 

「──君が、父さんと母さんを殺した! ここで倒れるのは君だぞ、トム・リドル!」

 

 ハリーが古びた帽子を握りしめた。

 その瞬間。彼は突然、帽子を取り落としそうになった。

 突然の神秘の気配にクルックスは、彼の握る帽子を見た。

 空気から生まれるように帽子の中から銀の剣が現れたのだ。

 

 外見は、教会の武器のなかで最もポピュラーな銀の剣に形は似ている。

 だが、最も目を引くのは柄にルビーが輝いていることだろう。

 ハリーは柄を握る。

 その重さにハッとして取り落としかける。

 だが、リドルを睨みつける目は鋭かった。

 

「かつてダンブルドア校長は言ったことがある。知っているか? トム・リドル。『ホグワーツは助けを求める者には、常に助けが与えられる』と。その言葉は真実だったようだ」

 

「ハハハッ。僕には何も要らない。僕は、特別だ。わかるだろう? 僕を見ろ! こうしてお前達を追いつめた! 誰よりも強かった!」

 

「それでも僕を殺せなかったじゃないか! あの日、君は誰よりも弱かった!」

 

 リドルが吼えた。

 蛇語の言葉が分からなくとも「殺せ」と言ったことが、クルックスには分かった。

 ──バジリスクが来る。

 殺気を感じたクルックスが回転ノコギリを構え、左手では火炎瓶を握った。

 

「蛇の皮は固い。目か口を突け。──踏ん張れよ、ハリー・ポッター!」

 

「ああ!」

 

 クルックスは目を閉じた。

 音に集中する彼が最後に見たものは、視界の端で赤をまとう不死鳥だった。

 

 攻撃はやってこなかった。

 

 しかし。 

 バジリスクはすぐそばにいるというのに、襲ってくる気配が遠ざかる。

 

「──フォークスが、蛇の目を潰した!」

 

 ハリーが大きな声で叫んだ。

 クルックスは目を開く。

 

 先日、廊下で放った『青ざめた弾丸』。

 その効果は絶大だった。

 

 バジリスクの体は内側から溶け出し、いまだ塞がらない傷となっている。ネフライトやテルミの見立ては正しく──致命傷だ。

 

 傷と盲目で混乱し、不死鳥を狙い空を噛み続けていた。

 クルックスは、火炎瓶を投げつけた。

 そのうちの一本が、バジリスクの口腔に飛び込んだ。

 

「そんな──」

 

 取り返しの付かない一瞬。

 声を上げたのは蛇語を忘れたリドルだった。

 重力に逆らえず、大蛇の頭が石の床に堕ちた。

 ピクリ、と焼けた口が動いた。

 

 ハリーが、剣を振り上げた。

 叫びと共に振り下ろされた剣は、まっすぐにバジリスクを貫いた。

 脳天に一撃。

 技量はない。だが剣の硬さがなした業だった。

 

「まだだッ! まだ終わらないぞ! 終わるものか、この僕が──!」

 

 誰にもリドルの声は届かなかった。

 

 バジリスクの頭蓋へ衝撃が重なった。

 その長い牙。うちの一本が宙を舞った。

 最初から、そこにあるべきペンだったかのように。

 日記の、すぐ隣へ。

 

「やれ!」

 

 クルックスは、迷いなく駆けた。

 杖を振り上げたリドルの前に飛び出し、胴体にめがけて回転ノコギリを振るった。

 

 だが、杖から発せられる防壁のようなものに阻まれて胴体を寸断することができない。

 構いはしなかった。

 

「邪魔だッ!」

 

 これがトム・リドルが最期に発した言葉になった。

 

「血塗れの同士よ、ご覧あれ! 我らの使命は何者にも阻めないッ!」

 

 両手で回転ノコギリの柄を握りしめ、駆動させる。

 再び杖を振るために防壁を解除した途端、リドルの中途半端の肉体は破滅することだろう。けれど、そうはならないことをクルックスは分かっていた。肉体を真っ二つにしてしまうより先に、彼という精神は破滅する。

 

「消えてくれ、トム。ずっと過去に!」

 

 ハリーが握ったのは、バジリスクの牙。

 銀の剣より扱いやすく危険な劇毒は、トム・M・リドルの日記の真芯に突き立てられた。

 

 その絶叫は。

 これまで聞いたどんな叫びよりも感情に響く憎悪があった。そして仄かな嫉妬があった。

 トム・リドルの姿は叫びが遠ざかると同時に火花と靄になり、消えた。

 

「終わった……」

 

 ハリーはバジリスクの牙を手放し、クルックスは回転ノコギリを収納した。

 疲れきって動けないかに見えたハリーは、それでも立ち上がりジニーに歩み寄った。

 それから間もなく、彼女が身震いして大きく息を呑むのを見た。

 

「ジニー!」

 

「あぁ、ハリー! あぁ、あぁ……わたし……わたしがやったの……でも、違うの、リドルが……リドルが、やらせたの……!」

 

 混乱しているジニーをなだめることは、難しいことだった。

 だから、ハリーはただぎこちなく抱きしめた。

 

「リドルは、おしまいだよ。もう大丈夫だ。見てごらんよ。バジリスクだって。……だから、ジニー、ここを出よう」

 

「あたし、退学になるわ……! だって、こんなこと……! パパとママがなんて言うかしら……!」

 

「僕が説明するよ。君のパパとママに、マクゴナガル先生にもダンブルドアにも皆に話すよ。『ジニーじゃない』って」

 

 ハリーは、ジニーの手を取って歩き出した。

 剣を拾い、杖を腰に差して、落ちている組分け帽子を拾った。

 ──日記はどこだろうか。

 辺りを見回したハリーは、どこかで誰かが足踏みをしている音を聞いた。

 

 振り返る。

 日記の周りに飛び散ったリドルの残骸とでも言うべきインクを踏み続けているクルックスがいた。

 

「……君……なにを?」

 

「虫がいる」

 

「……地下の水道だから。うん。鼠もいたし、虫もいるだろうね」

 

 ハリーは気付かなかった。

 クルックスが返した言葉が、あまりに短い言葉だったので彼の狂喜に気付くまでに時間がかかったのだ。

 それに気付いてしまったのは、バタバタという誰かの足音が聞こえてきてからだった。

 

「ジー! ニー!」

 

 土埃まみれでロンが叫ぶ。

 ジニーはその姿を見た途端、ビクリと体を震わせた。

 そして、見上げてきた。ハリーは、そっと背中を押した。

 

「ロン!」

 

 兄妹がボロボロと涙をこぼして抱きしめ合う隣を白銀の聖布を翻し、テルミが歩いてきた。

 

「──あら。終わってしまったの。また出遅れてしまったわ」

 

「おかげさまで」

 

 ハリーは、弱々しく笑った。

 彼女も笑い返した。

 それは、いつもの薄い笑みではなかった。

 

「あなたは、特別な剣を持つ人だったのですね。輝く剣って素敵よね。わたしも憧れます」

 

「僕のじゃないんだ。たぶん、ダンブルドアがくれたんだと思う」

 

「そうだとしてもですよ。正しい敵に、正しく振ったのはあなたでしょう? だからこそ、きっと剣の持ち主に相応しいのでしょうね」

 

 テルミは、ハリーの肩を優しく叩いた。

 それからインクの染みを踏み続けているクルックスに近寄った。

 

「見ろ、テルミ! ハハハッ! 見ろ、虫がいる! ここに! 蠢いて! 沸いて! 見たか! 見たか!? ほら、やっぱりここにもいたじゃないか!」

 

 クルックスは、嬉しそうに言った。

 こんなに嬉しそうな彼は見たことがなかった。

 人として大切な何かを踏み外した笑顔を見せる彼に、テルミはいつもどおり優しげに微笑むだけだった。

 

「そう、よかった! 貴方が嬉しくて、わたしも嬉しいわ! 貴方、わたしの愛しい人!」

 

「血も通わぬ小綺麗な顔をして! 潮騒さえ知らぬフリをして! 淀んで淀んで、仕方がないハズなのに──汚れていない! 穢れていない! そんなハズがないのに上辺ばかり整えやがって!」

 

「さぁ、わたし達も帰りましょう。ここは空気が悪いわ」

 

 耳元でそっと言葉を吹き込むようにテルミはクルックスの隣へ寄った。

 

「ああ! 早く早くご報告しなければ。お父様に、学徒の方々に! 長にもだ! クッハハハ!」

 

「ええ、ええ、そうするのがよいでしょうね。ネフの目も覚めるわ。一緒に行きましょうね?」

 

 狂喜は失せた。

 

「ああ、そうだ。そうだな。ネフに会わなければ。事態の報告をしなければならない。行くぞ」

 

 見ている誰もがついていけない速さでクルックスはいつもの薄暗い陰のある顔に戻った。

 そして、テルミを伴って歩き出した。

 日記を拾い上げると何枚かのページを無造作に裂き、ポケットにいれた。

 それから日記をハリーに渡した。

 

「俺が持っていってもいいが……これはジニー・ウィーズリーのものだろう。証拠物品だ」

 

「……僕が持ってるよ」

 

 日記を見たジニーが怯えた顔をしたのでハリーが受け取った。

 

「先に戻っている。できるだけ早く来た方がいいだろう。ハーマイオニーも起きるだろうからな」

 

 ハリーは、ロンとジニーの肩を叩いて「帰ろう」と告げた。

 

 不死鳥が歌う声が聞こえる。

 帰る時間がやってきた。

 

 そんな彼らの前に最後に、傍観者にもなりきれなかった人が残った。

 

「ロックハート先生も……助けに、来て、くれたんですか?」

 

 ジニーは──恐らく──心からそう思っていないことはハリーにも分かった。

 ロックハートが何を言うのか。

 ハリーとロンは睨みつけながら見ていた。

 

 そのロックハートの背後では。

 

「先生、最後の好機ではないですか? 最大の好機ではないですか? ……さぁ、躊躇いなさるな。何者かになりたい貴方が、果たしたいことなのでしょう。さぁ……さぁ……」

 

 彼にだけ聞こえる声で。

 彼だけをくすぐる声で。

 セラフィは囁いていた。

 

 ところが結局。

 ロックハートの舌から呪文が生まれることはなかった。

 

「私は……私は…………何を……しに来たんでしょう?」

 

 不思議な沈黙が生まれた。

 ロンは「知るか」と今にも言い出しそうに口の端をピクピクさせた。

 

「僕……ロックハート先生は、先生に向いていないんじゃないかと思います」

 

 ハリーが、ハッキリと言った。

 

「…………」

 

「惜しまれるうちに引退を考えた方がいいんじゃないかと思います。先生に向いていないと思いますし、えーと、そう、ハナがあるうちに。少なくともハーマイオニーは惜しんでくれると思います」

 

「…………」

 

 ロックハートは、呆然としていた。『そんなこと考えもしなかった』という顔をしている。

 彼の後方で──剣の柄に手を置いたセラフィが肩を震わせていた。

 何も言わないロックハートにロンが詰め寄った。

 

「いいか。二度と僕らの前に姿を見せるなよ。次に会ったときは、こうだッ!」

 

 ロンは、ローブから出した杖を出した。

 ロックハートは小さく「あ、それ、私の」と言いかけた。

 聞かなかったフリをして、ロンは両手で杖を真っ二つに折った。

 ドラゴンの琴線が二本になってしまった杖の間でプラプラと揺れていた。

 

「あっ──」

 

 まるで自分の腕がへし折られたようにロックハートは痛ましい顔をした。

 三人は不死鳥に導かれ、秘密の部屋を出ようとした。

 

「凍えている君にこれを」

 

 セラフィが肩に負ったマントを外し、ジニーの頭から被せた。

 

「好奇の目から守ってくれるだろう。さぁ、早く行きたまえ」

 

 ジニーが小さくお礼を言い、足音は遠ざかった。

 セラフィは、腰のベルトに差したナイフを取り出した。

 

「先生、あなたは呪文をかけなかったのだな」

 

 セラフィは、ロックハートを追い抜き死んだバジリスクの遺骸に歩み寄った。

 

「……どうしてかけることが、できるでしょう。命が救われたのに……」

 

「けれど、数時間前のあなたならどうしただろうか? 恐怖が、あなたの夢を殺してしまったようだ」

 

「……私は……ずっと……何者かになりたくて、歩いてきた。けれど、いつも見失った。いいや? そもそも、そんなものはなかったのかもしれない……私は、いったい誰になりたかったんだろうか……? 有名人……? 才人……? 最初は、誰を目指していたんだろうか……?」

 

 暗がりに人影を探す。

 ロックハートは辺りを見回した。

 どこにも鼠一匹いなかった。

 

「それは誰にも分からない。ただ自分自身を探して認めて欲しいと願う人は僕らは、現在の否定だけではダメなのかもしれない。ええ、きっと、たぶん……ですが」

 

 牙や血を回収し終えたセラフィは立ち上がり、ロックハートの正面に立った。

 年の割に背が高い彼女は、すらりとした腕を伸ばした。

 

「杖を返してもらおう。それは、僕の杖だ」

 

「ああ、そうだ……これは、君の物だ……どうにも、馴染まなくて、いけない、ね」

 

「そう死人の顔をするものではない。まだ生きているのですから。やり直すことはできます」

 

「……ペテン師を呼ぶ人なんていませんよ。……魔法界は狭い。噂はすぐに広まるでしょう。……ダンブルドアだって本当は分かっていたハズだ……私が、こんな、はははっ……役立たずだとはね。はぁぁ……もう誰も、こんな私を必要としないだろう……」

 

「あなたは大勢を見つめすぎる。群ではなく個を。読者ではなく、目の前の彼や彼女を見つめてみたらどうだろう? それに忘れていることは、いつか思い出せるものでしょう。あなたの夢。憧れたもの。素敵な自分。きっと素晴らしい夢だ。願いだ。落としたものならば拾い直せばいい。人の意志は消えないものです。ましてホグワーツでは──」

 

 遠くから。怒鳴り声が届いた。

 

 ──先生! さっさと来いよ! ジニーが心配してるだろ!

 

 がらんどうの空間に、その声はとても響いた。

 セラフィは控えめに笑った。

 

「助けを求める者には、常に助けが与えられるらしい。まったく間が良くて都合がよろしいことだ。僕はあなたが……すこし羨ましいよ」

 

 ロックハートは走り出した。

 地上に帰れば破滅が待っている。

 せめて自分の足で歩いて行きたかった。

 

 それだけが今、自分が抱えていられる勇気だった。

 常人に比べれば。

 小さく、些細で、見過ごすような勇気だ。

 

「ええ、死んではっ、め、名声も得られませんからねっ!」

 

 これまでどおりのもっともなことを言えただろうか。

 みっともない姿を晒すことで先生──教え、導く者として──最後の仕事が果たせただろうか。

 結果を知ることは、まだ恐い。

 

 それでも。

 

 彼女は素顔のギルデロイ・ロックハートを応援してくれた。

 その即席の読者が笑っていたので救われた気分になった。

 

 そして、彼は永久に秘密の部屋を去った。

 




秘密の部屋:
 一般生徒が秘密の部屋を見つけるのは恐らく過去数百~千年の間で、最も情報が出たハリー2年生時期であっても特定が困難であるため、多くの先生方が挑み、破れた探索なのも頷けます。


筆者の余談:
 前話と本話は、2年生章を執筆開始した時期に原型を作ったものです。
 2年生のオチを書いてから、これまでの話を書いていたことになります。
 結果として最終メンバーにテルミが増えたくらいで大きなプロット変更が無かったのは、とても筆者の学びとなることでした。


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秘密の部屋の外


慈しみあう心の動きのこと。
それは他者から得難く大切であることを多くの狩人達は忘れてしまった。




 ジニー・ウィーズリーを連れたハリーは「まずは校長室へ行こう」と言った。

 生徒が連れ去られた緊急事態だ。

 まさか『ダンブルドア校長がいない』とは考えにくい。きっといるだろうと彼は言う。

 全員がトイレから出たところでセラフィが列から外れた。

 

「──僕は、また大して働けなかったから失礼するよ。事情説明には君とテルミがいればいいだろう?」

 

「ああ、ご苦労だった。感謝する」

 

「君の頼みだ。剣が必要な時は呼ぶといい。……ジニー・ウィーズリー、自分自身を大切にすることだ」

 

 セラフィは一度だけ振り返ってジニーに優しげな声をかけた。

 銀色の長い髪をなびかせて彼女の姿は廊下の彼方へ消えた。

 セラフィから渡されたマントをしっかり頭から被ったまま、ジニーはうつむきがちに頭を揺らした。クルックスには、彼女が頷いたことが分かった。

 続いて列から外れたのは、ロックハートだ。

 

「先生、どこに行くんだ?」

 

 ロンが刺々しく言った。

 

「私は、もうお役ごめんでしょう。だから……ッ」

 

 彼は視線に圧されてジリジリと後退し、あるとき背中を向けて走り出した。

 

「あの人、もう戻ってこないでしょうね」

 

「ああ、来年はもっとマシな先生が来ることを期待しよう」

 

 テルミが、あっけらかんと言い、ロンが頷いた。

 それから十分もしないうちに泥まみれの全員が校長室の戸口に立っていた。

 

 校長室に入るのは一年ぶりだ。

 

 クルックスは、暖炉のそばで泣いている女性を見た。

 ウィーズリー夫人だろう。ではその隣にいる男性はウィーズリー氏だろうか。この予想は正しかった。

 

「ジニー!」

 

 彼らの抱擁をクルックスとテルミは離れたところで見ていた。

 テルミはすぐに目をダンブルドア校長に向けたが、クルックスは声をかけられるまで彼らを見ていた。子供を心配する親の姿を初めて見たからだ。

 

(普通は、あんな風に無事を確かめ合うのだ……)

 

 クルックスを抱きしめてくれるのはビルゲンワースの学徒、コッペリアだ。

 彼は、しばしば抱擁してくれるがクルックスの事情よりも彼の気分に左右されることが多い。目の前の光景と比べることは難しく感じる。こうした小さな家族の愛は、学徒達がクルックスに向ける感情と同じなのだろうか。確かめようがない。だから彼にできるのは信じることだけだった。

 涙にくれる彼らを見ていると血が淀むことはないだろう。日記帳の彼が格別に淀んでいたのだ。そんな根拠のない空想をした。それだけではない。

 

(虫を知らない彼らは、なんと幸いなことか。……どうして、きれいに思えるだろう)

 

 クルックスは黒い手袋に染みついた獣血を眺めた。

 彼らが清潔に思えるならば、真逆の自分は汚れているのだろうか。

 ──そんなハズはない。けれど否定すれば目の前が嘘になる。

 思考停止のまま、自分の手を見つめていた。

 

「……クルックス、疲れているのね」

 

「え、いや、大丈夫だ。ただ、すこし考え事を」

 

 隣に立つテルミがクルックスの手を握り、先生やウィーズリー夫妻に見えないよう背中に隠した。

 

「立っているだけでいいわ。お父様に報告することだけ考えてくださいね。だから大人しくしていなさい」

 

「ああ、わかった。すまない……」

 

 仕事があれば連盟の使命と現実の不具合について考えずに済む。クルックスはできるだけ集中した。

 ハリーが説明をはじめた。

 

 新学期がはじまり姿なき声を聞いた日から今日の秘密の部屋まで。

 

 それを静かに聞いたあとでダンブルドア校長はトム・リドルの正体を語り、ジニー・ウィーズリーに優しく語りかけた。

 

「ミス・ウィーズリーはすぐに医務室に行きなさい。過酷な試練じゃったろう。処罰はなし。……もっと年上の、もっと賢い魔法使いでさえ彼にたぶらかされてきたのじゃ。例えばクィリナス・クィレル元先生は記憶に新しい。……けれどもう終わったのじゃよ。安心して、それに熱い湯気の出るようなココアをマグカップ一杯飲むがよい。わしはいつもそれで元気が出る」

 

 ジニーと夫妻は何度も感謝の言葉を述べて退室した。

 そのあとをつい目で追ってしまうクルックスは、テルミに腕を撫でられた。

 

「さて。ハリー、ロン。わしの記憶では、きみたちがこれ以上校則を破ったら、二人を退校処分にせざるをえないと言ったが──どうやら誰にでも誤ちはあるものじゃ。わしも前言撤回じゃ」

 

 ハリーとロンが嬉しそうに、そしてなによりホッとした顔をした。

 ダンブルドア校長の隣でマクゴナガル先生がニッコリと微笑んだ。

 すこし遅れてダンブルドア校長は「君にこれを」と手紙を持ち、ロンに退室を促した。

 

「森番を戻さなければなるまい。ふくろう便で送って来てくれるかの。そして、医務室へ向かうといい。友達が目を覚ましているじゃろう」

 

「ハーマイオニーは、大丈夫なんですか?」

 

「マダム・ポンフリーは優秀な校医じゃ。回復不能の傷害は何もなかった」

 

 ダンブルドア校長は、ポンと彼の背中を押した。

 マクゴナガル先生も退室した。ダンブルドア校長に宴会の準備を厨房に頼むよう依頼されたからだ。

 

「さて、ヤーナムの二人の話を聞かせてもらいたい」

 

 テルミが半歩歩み出た。

 

「わたし達は、学校の存続のために戦いました。ご報告が遅くなったことは申し訳ありませんわ。ポッター達が先行してしまったものですから、それを追いかけることを優先しましたの。さらなる犠牲者が出て、手遅れになってはいけませんからね」

 

「結果として正しい判断となったじゃろう。ありがとう。ミス・コーラス=B。そして、ミスター・ハント」

 

 クルックスは頭を下げるだけの礼をした。

 ダンブルドア校長はテーブルに置かれた日記を取り上げた。

 

「記憶の器は完全に破壊されておる。トドメはバジリスクの毒牙。しかし、これは、この穴は銃痕じゃろう。……何を使ったのかね?」

 

 日記に空いた穴の向こう側にダンブルドア校長がいた。

 青い瞳は、やはり苦手なものである。クルックスはできるだけ自然に目を逸らした。

 テルミだけは、目を閉じるほど細めて微笑を浮かべた。

 

「それについてはお答えできませんわ。申し訳ありません。ヤーナム、月の香りの狩人様に直接お問い合わせになってくださいませ」

 

「では、お礼と共に書簡を用意しよう。君たちの父君に届けてくれるかね?」

 

「はい。もちろんですわ。ヤーナムとイギリス魔法界のより良い未来のため、我々は身を惜しみません」

 

「準備ができたら寮監を通し、渡せる事と思う。……君たちには多くの労を払わせてしもうた。今日は疲れたじゃろう。さあ、寮へお戻り」

 

「はい。失礼いたしますね」

 

 黒い法衣の裾をひとつまみしてテルミは礼をした。

 退室のためにテルミが振り返った。

 その時だ。

 

「──校長先生、ひとつ質問です」

 

 うつむきがちだったクルックスは、血のようなインクで汚れた手袋で挙手した。

 顔を上げるとダンブルドア校長と目が合った。

 

「なんだね?」

 

「日記は、どうやって作られたのですか」

 

「……深い闇の魔術を使って作られたものじゃ」

 

「なぜですか? 何の意味があるのですか?」

 

「トム・リドルは、自分に秘密の部屋を開く権利を持っていると考えた。じゃが在学中は二度と行使する機会がなかった。惜しくなったのじゃろう。『特別な力があるのに使えない。誰も知らず、認められない。それは不当だ』と。……どうして聞くのかね?」

 

 ──クルックス。

 テルミが隣で小さく名前を呼んだ。

 

「それでも俺はこの一件の原因を知りたいのです。『不当だから』? 不当とは? 人を傷つける行いは等しく不当でありましょう。罰せられて当然だ。彼は人を傷つけたかった? 己の欲望のために? それはなぜですか?」

 

「トム・リドルの暴力は、肥大化した自己顕示欲の現れじゃ。そうして人々に認めさせようとした。わかるかの。つまり、自分が強大で恐ろしく、そして誰よりも優れた存在なのだと他へ知らしめたかったのじゃよ」

 

「だから『なぜ』?」

 

「力に取り憑かれたから──じゃろうか。いいや、これは推測に過ぎない。トムと言葉を交わした君たちの方が、この頃のトムについて詳しくなったじゃろう」

 

 ダンブルドアの校長のキラキラした瞳の輝きに耐えきれず、クルックスは目を逸らし頭を下げた。

 

「……失礼しました……」

 

 二人は、揃って校長室を辞した。

 

「ところで……ハリー。ロックハート先生は、どこか知っているじゃろうか?」

 

「先生なら学校を出て行ったと思います」

 

「おぉ、ギルデロイ。トムや多くの生徒がそうであるように彼もまた、優れた生徒だったのじゃよ……。『かつて』の話じゃが」

 

 日記帳を再びテーブルの上においたダンブルドア校長は、そのページが不揃いになっていることに気付いた。

 

「……? ハリー、日記が欠けているようじゃが、これは?」

 

「リドルが消えた後、ハントが何枚か千切っていました」

 

「…………。そうか」

 

「先生、これをお返しします」

 

 ハリーは、ダンブルドアにルビーで彩られた剣を渡した。

 血を吸っても美しい剣が、傾きはじめた陽で輝いていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、廊下を歩く。

 普段どおり、午後の陽が差していた。

 思わず、足を止めた。

 

「クルックス? どうしたの? どこか痛いのかしら?」

 

「大丈夫だ。問題はない。ただ……テルミ、俺はあまり考えないようにしていたのだが……命がけで戦っても地上は変わらないな」

 

 泥だらけの体を除けば、目に見えるもの全てがいつもどおりだ。

 

「そうね。変わらないわね。それが痛いの? 苦しいの?」

 

「…………」

 

 テルミは、そっとクルックスの手を取った。

 剣を握る手とは思えない、柔らかい手だった。

 曖昧に唸るクルックスの手を引いて、テルミは抱きしめた。

 

「……汚れるぞ」

 

「汚れません。穢れません。貴方も。わたしも。正しき信仰がありますから。戦うのは無益ではないわ。学校は存続するでしょう。これまでと変わりなく」

 

「ああ。だが、いわばマイナスがゼロになっただけだろう。プラスに傾く行いではない。なぁ……そもそもだが……なぜ、こんなことが起きるのだろうか? こんなことをして何になる? バジリスクがいたこともそうだ。人が傷つくだろう? なぜ傷つけるのだろう? はじまりは何だ? 何のために? 誰に対する怒りや憎しみだったのか」

 

 華奢なテルミの体は、ユリエに似ていた。

 互いに軋むほど抱きしめた。

 高まっていた獣性が鎮まっていく。

 

「……悲しいのね。人が傷つくことがどうしても悲しいと感じてしまうのね。貴方の心は。お父様と同じね……」

 

 クルックスは、小さな声で言った。

 

「すまない……君に言っても、俺が考えても、どうしようもないことだと理解している。分かっているんだ……。それでも一人で考え続けるのは……頭が、どこかおかしくなりそうだ……」

 

「言ってしまいなさい。大丈夫ですよ」

 

「テルミは、大丈夫なのか?」

 

「わたしは大丈夫よ。だってお父様を信じているもの。いつも救われていますから。……ねぇ、クルックス。考えることは悪いことではないわ。けれどヤーナムがそうであるように、この世界は最初から最後まで全部が悪いのですから辛いことも多いの。貴方には不具合ばかりが目に付くでしょうね」

 

 クルックスは「ありがとう」と礼を述べて腕をほどいた。

 

「それだけではないことも学びつつあるのだがな……。……虫が……どうして……ここにも。日記でさえ淀む……。それを悲しいと……感じているんだ。ここは温かい場所なのに」

 

 クルックスは、衣嚢に放り込んだ数枚の日記を取り出した。

 インクとバジリスクの毒と血に塗れた日記はくたびれた風情があった。もはやヤーナムに存在する物として相応しい物となった。

 

 小さな笑い声が聞こえた。

 光り輝く湖面のように彼女の瞳は、煌めいていた。

 

「お父様に似ている貴方。わたしの恋しい人。今さらヤーナムをどうにかしようとしてお悩みのお父様のように、貴方はホグワーツをどうにかしてしまいたいのね?」

 

「そんなたいそうなことは考えていない……。俺は、俺の実力を知っている。取り返しのつかない人命が失われる状況を看過できないだけだ」

 

「優しい人ね。……自分自身も大切にしてね。貴方がいなくなったら、わたしは悲しい。それだけではないの。みんな、うまくいかなくなるわ」

 

「……俺はどこにも行かない。俺はヤーナムに。不滅のヤーナムに。お父様のヤーナムに。永久に」

 

「それが真実となることを祈っているわ。──さぁ、行きましょう。ネフだって起きているのですから、武勇伝を語ってあげなきゃね!」

 

「ああ、行こう」

 

 テルミに手を引かれて、クルックスは歩く。

 振り返り、窓を見上げた。

 

 陽は傾きつつある。

 生まれて三度目の夏が迫っていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 平時では静寂が好まれる医務室は、歓声と喝采に溢れていた。

 クルックスとテルミがそこに辿り着いたとき。

 つまらなさそうに生徒と先生の集団を見つめていた緑色の目が、わずかに見開かれた。

 

「──うまくやったようだな。私が指揮したので当然だがね」

 

 いつもならば歪に上がる笑みは、今日に限って穏やかだ。 

 

「ネフが動いている……!」

 

「ホントだ。動いてますね。お薬ってスゴいわ」

 

 クルックスは、駆けつけてネフライトの手を取った。

 温かい。

 たまらなくなってクルックスはネフライトに抱きついた。

 テルミは柔らかい頬を突っついた。

 

「……もうちょっと、こう、いま言うべきことなのか考えてから……。例えば、ほら、ここは労るべきじゃないのか? いや別に……期待などしていないが……うーん……いつもどおりが一番よいのかな……?」

 

 彼は呆れた顔をした。

 けれど今日だけは、声音も優しいものだった。

 

「おかえり」

 

「私はどこにも行っていないぞ。けれど、言われたからには応えねばなるまいね。ただいま、と」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 すべてが終わったあと。

 時間は夕方だった。

 スリザリンの談話室は、ざわめきが絶えない。

 そのため。

 朝から姿を消していたがいつの間にか寮に戻り、果実を食べているセラフィに気付く者は多くなかった。

 

 ひんやりとした窓からに寄れば、湖の様子が見える。

 最も遠くまで届くという夕日の赤い光は、湖の底にまでは届かない。

 硝子細工の皿で葡萄を食べていると誰かが林檎を皿に置いた。指先が葡萄ではない感覚に触れたことで気付く。見上げれば、セオドール・ノットが立っていた。

 

「こんばんは。ありがとう。……この林檎は、もらっていいのかな?」

 

「ああ。その辺から持って来たものだ。いろいろと聞きたいこともある。……君はずいぶんと遠出してきたようだから」

 

 遠出。

 どこかに秘密の部屋の泥がついているかと腕や足を見る。

 編み上げブーツの底に泥が着いていた。

 

「ふむ。注意が散漫になっていた。気を付けよう。──セオドール・ノット、君の情報はとても役に立った。感謝する」

 

「先ほど寮監のスネイプ先生が談話室に来て『明日のホグワーツ出立は取り消しになった』とおっしゃった。そして『ダンブルドア校長が帰ってきた』とも。──つまり、そういうことだろう? 犯人は誰だった?」

 

 そわそわと落ち着かない彼は対面の椅子に座ってからも体を揺らした。

 見ていると疲れる気分になったセラフィは、窓の外を見た。

 湖の底では水草が、輪郭の見えない影となってゆっくり揺れていた。

 

「記憶だ。そして死んだ。昔話は、ようやく昔話になるのだろう。あるべき形で正しく語られるために」

 

「だから、誰だった?」

 

「ただの記憶だった。これ以上は言いようがないほど継承者の正体とは、ただのそれだった。……魔法界には不思議なモノがたくさんある。おかしなものだ。すでに死んだ者がゴーストより物質的な形を得て、動き回っているとはね」

 

 セオドールは、まだ何かを言いたげにしていた。

 しかし、やがて口を噤んだ。

 ハリー・ポッター以外に蛇語を話す人物について思い至ったのだ。

 

「あぁ、その記憶は純血主義を気取っていたのだが、本当のお題目は何でもよいのだろうと思えた。純血主義という看板を下ろしてもやっていけそうだった。そして事実、やったのだろう」

 

「…………」

 

 彼は、セラフィが誰について話しているのか問うことはなかった。うすうす察しがついているようだ。

 スリザリン寮において同じ学年のなかでは、彼は頭の回転が速いとセラフィは知っていた。

 

「最近の『自由』という風潮が風見鶏であるように。勝った方が負けた方を裁くのは堪えがたい不条理なことだ。……純血にこだわり魔法界のことを思いやる人がいるとして、純血主義は一度はヴォルデモートという暴力に組み込まれてしまった思想だ。それを掲げる君たちは、辛い道を選んでいるように見える」

 

 ヴォルデモートと呼んだとき。

 彼はビクリと震えたが、唇を引き締めるだけだった。

 

「……誰がはじめたことであれ、家が与したことだ。俺もきっとそれに殉じるだろう」

 

 思想の是非をセラフィは、できるだけ語らない。善悪も。理非も。

 魔法界の思想に口を挟む権利は最初からないのだと思っている。

 しかし、魔法界にとっての異邦人は、ホグワーツにおける生徒でもあった。

 

「殉じる価値があれば幸いだ。君の心がやすけくあらんことを」

 

「……君は、魔法族もマグルも知らない土地から来たんだろう。誰も知らないし何も知らないとは、そういうことなんじゃないのか? それにときどき姿が見えなくなる時がある。何のために何をしているのか──敢えて聞かないことにするが──何かを果たせるといいな」

 

 セラフィは林檎を手に取り、懐から抜き出したナイフでそれを二つに割った。

 その片割れをセオドールに差し出した。

 

「僕は、たいていのことがどうでもよいと思っているが、スリザリンは居心地がいい。とても気に入っている。他寮との交流が少ないことは……これは、すこし直した方がいいと思うが……」

 

 セオドールは林檎を受け取った。

 

「いまさら無理だろうな。伝統だ」

 

「ああ。素敵な伝統になるといい。寮祖が願ったほど狡知を弄せずとも蛇に憧れるモドキやトカゲがいてもいい。ご覧よ、蛇ばかりだ」

 

 林檎に一口かじりついたセオドールは笑った。

 つい吹き出してしまった。そう言いたげな失笑だ。

 セラフィも林檎を囓った。

 

「純血も半純血も混血も非魔法族出身者も、非魔法族でさえ、何も変わらない。自分が大切にしたいものを大切にしている。対象の違いはあれ、価値の違いはないように思う。各々が尊ぶべきことだ。……そして相互の理解が難しいときは、距離を置いて生きていくべきだ。そのために僕らは知性がある。魔法族と非魔法族の間に越えがたい壁があるように。その壁を必要なものとして置くことも必要だと思わないか」

 

「……それを理解して壁を置くことができれば、幸いなことだ。けれど、多くの人々は違うだろう。壁を見たら、壊して、乗り越えずにはいられない」

 

「むぅ、そうか。うまくいかないことばかりだな。僕の発想では、これ以上のものがでてこない。誰かの知恵に頼りたいところだ」

 

「もし、よい案が浮かんだら──その時は、真っ先に君に伝えるよ」

 

「ありがとう」

 

 セオドールは、はにかんで笑った。

 

 祝杯。それを象った林檎は食べ尽くされた。

 

 窓の外は、もう何の形も見えない。

 一条の光も差さない夜が広がっていた。

 

 問題の種は、千年前に撒かれた。

 今なお人々のなかに根を張り、枝葉を伸ばし、最も顕著なものは各寮のしがらみとして居残り続けている。 

 だからこそ。

 

「セオドール・ノット。互助拝領機構に興味はないか? 来年度は、ぜひ参加するといい。僕からネフに口添えしておこう。言葉を重ね、分かり合う。最も人間らしい歩み寄りだと思わないか」

 

 セラフィは、緩やかに瞬きをした。

 ──やはり、最も過酷な運命だけが僕に相応しい。そう思えたからだ。

 

「お話を続けよう。僕らには時間が必要だ。異なる生まれの者が、分かり合うために」

 

 現状のヤーナムは、魂や記憶、人格に至るまで何もかもが元通りになってしまう。

 そこで忘れ去られているものにセラフィは気付いた。

 

 ──自分の目で確かめる。

 ──神秘の瞳も人知外の権能も頼らない。

 

(なんだ。こんなこと。ただ、それだけでよかったのだろうに)

 

 いつか永遠に分かたれるときが来るとしても。

 今は、こうして誰かと話したいと心から思える。

 

 過酷な道程だろう。

 それでも、セラフィは喜んで責を啜る。

 いつか喉が爛れ、身が焼けようと後悔はしない。

 

 見るべきものは多くある。

 聞くべきものも多くある。

 語るべきものも。知るべきものも。触れるべきものも。等しく、多い。

 

「魔法界に幸多からんことを。祈っているよ。──暗澹の地より」




秘密の部屋の外

ロックハート先生:
 セラフィの「頑張れ、頑張れ」に屈せず、地上に出てきました。荷物はまとめているので鞄をひっつかんで出て行きました。
 のちほどダンブルドア校長は、お祈り手紙を送りました。素早い対応。まるで用意していたみたいだ──ハッ。


ウィーズリー夫妻:
 クルックスは『普通の家族』を初めて見ました。
 魔法界広しかもしれませんが、ウィーズリー家は(ちょっぴり貧乏であることを除けば)概ね理想的な家族ではないでしょうか。
 ウィーズリー夫妻とハリーの描写は、この後の原作で語られるシリウス・ブラックと(ジェームズの両親の)ポッター夫妻と重なるところがあるのではないかと個人的に思っています。
 クルックスにとって学徒達の愛情に疑いはありませんが、ありませんが、ないのですが、何だろうな、この感情は、となっています。
 あと、あの淀んだ日記が特別おかしな存在だったのでは? いやいや、遭遇数が少ないからそう思うだけなのだ……ともなっています。


テルミ:
 きょうだいのことは等しく好きですが、クルックスはお父様の面影があるので特にも大好きで優しいです。でも、ネフが動き出したのは嬉しいです。
……ネフも互助拝領機構を頑張っているみたいだし、わたしも頑張らないといけませんね!……



ところでテルミに性癖殴られている人、多くなぁい?
大丈夫?


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狩人の助言

破壊されたトム・リドルの日記
秘密の部屋に棲むバジリスクの牙によって破壊された日記はアルバス・ダンブルドア校長が管理しているが、うちいくつかのページがクルックスの手に渡った。
やがてヤーナムに至るだろう。

すでに器として機能を失ったモノだが、強い闇の魔法には痕跡が遺る。
神秘の探求者ならば、そこから汲み取ることもあろうか。



 学年末について。

 クルックスが語るべき事は多くない。

 

『秘密の部屋』の秘奥は暴かれた。

 時を同じく、学校は遂に声明を発表した。

 

 ──ホグワーツに棲まう怪物とは、バジリスクであった。

 ──石になった生徒は元通り。

 ──死者は、いなかった。

 

 少ない情報から推理してバジリスクまで辿り着いた秀才ハーマイオニー、そして見事バジリスクを討伐したハリー・ポッター、ロン・ウィーズリーに多大な得点があり、今年もグリフィンドールが寮対抗杯の優勝に輝いた。また森番のハグリッドの名誉回復が成されたことも、めでたい出来事として付け足すべきであろう。

 

「加点を求めなかったのね、貴公」

 

 くすぐるようなテルミの声が届いた。

 左手でトリコーンを抱え、外套に右手を突っ込んでいたクルックスは「愚問だ」と目を細めた。

 

「俺は生徒であるために戦ったのだ」

 

「そういうと思いました。とても素敵ね」

 

 列車に乗るために並んでいる二人は、キングスクロス駅でそうしていたように人混みから離れた場所で彼らを見ていた。

 

「今年は周囲を警戒しているだけで終わった気がする」

 

「そうね。来年はもっと伸び伸びして、穏やかに過ごしたいわ」

 

「『二度あることは三度ある』と言うだろう。どうだろうな。問題は──」

 

「いつもハリー・ポッター?」

 

 トランクを引いたハリーを遠目に見てテルミは笑った。

 

「いいや、彼自身が災厄を招いているワケではない。賢者の石の騒動は自分から首を突っ込んでいた風に見えたものだが……しかし、今回のように普通に生活していても巻き込まれることもある。一概に、問題はハリー・ポッターと言えない事情を感じている」

 

「そう。では運命というものかしら?」

 

「そんなものあると思うか? 運命、それは定められた役割のことだろう」

 

「ヤーナムに無いことは確定ね。全てお父様の思し召しだもの」

 

 テルミは、天上を見ていた。

 今日の底抜けに青い空には、血の抜けた白い月が昇っていた。

 

「本当に恐いことがあるとすれば、自分で選んだつもりでも『そうなる』と定められていた場合だ。意志が先か? 運命が先か? それはどちらが優っている?」

 

「意志がいいわ。人間がすることだもの。自分で選んだことによって破滅するがいいわ。栄えるがいいわ。できるものならばね?」

 

「ああ、そうだな。そろそろ行くか。テルミはどうする。俺は汽車だ。今年も汽車で帰るのか?」

 

「ええ。今日は貴方と一緒にいるわ」

 

「……世話をかける」

 

 彼女に心配されていることが分かり、クルックスは肩を落とした。

 

「いいのよ。気にしないで、たくさん頼ってくださいね? 二度と立てなくても、わたしは貴方のことが大切ですから」

 

「それは冗談なのか?」

 

「どちらでもいいでしょう。どう転んでも痛くないのですからね」

 

 クルックスは外套に突っ込んでいた手を出して、テルミに差し出した。

 

「なぁに?」

 

「一緒の席に座るのだ。行くぞ」

 

「……。貴方のそういうところ。お父様に似ていなくて、わたしビックリしちゃうわ」

 

 けれどテルミは輝く笑顔を見せて、クルックスの手を柔らかく握った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ネフ。ネフ、ネフ!」

 

 ネフライトは考え事をしていた。

 父たる狩人へ釈明せねばならないことは多くある。

 特にも問題なのは『青ざめた弾丸』を使用したことだ。

 いいや、バジリスクに対する作戦は十全だ。

 その点の後悔はしていない。

 

(日記……。記憶の器)

 

 あの日、医務室で目覚めたネフライトは事の顛末を聞かされたとき、再び寝込みそうになった。

 

(日記に対し、お父様の弾丸を使ったのは迂闊だったかもしれない)

 

 クルックスから預かったのは生々しい弾痕と乾いた毒に彩られたリドルの日記。──その数ページだ。

 何らかの魔法により守護されていた日記は、回転ノコギリの直撃を耐えたが、青ざめた弾丸を耐えることができなかった。

 ヤーナムの神秘の深度あるいは濃度は、バジリスクを殺すには十二分。魔法界の深い神秘を打ち破るのに十分と見える。

 

(これも器になったかもしれない。……完全に破壊されている、ように見えるが……まだ使えるのだろうか? 中古どころか廃品にしてしまったのでは……?)

 

 とりあえず、ネフライトが管理して持ち帰ることにしたが、不安は尽きない。

 

「フッフッフ、などと策士面をして笑っている場合ではないな。テルミがお父様に何と言って報告したのか。如何によっては私の首が危ない。とても危ないぞ」

 

「──ネッフ!」

 

「聞こえている。何事だ。ラブグッド」

 

 振り返れば、荷物を両手に持ったラブグッドがザ・クィブラーを差し出していた。

 

「夏の間、手紙を送ってもいい?」

 

「手紙? さぁ、どうだろうな」

 

 ──私は、ふくろうが届かない場所に住んでいるから。

 そう言いかけたネフライトは、ルーナが差し出している雑誌を掴んでいる自分の手に気付き口を閉じた。

 

「あたしの住所、ここなんだ。編集部に出せば届くよ」

 

「……受け取っておく。宿題の進捗を確認したくなる日が来るかもしれないからな……」

 

「そう。じゃあね!」

 

 ルーナはホームを走って行く。そして赤毛の女の子──ジニー・ウィーズリーだ──彼女と一緒に歩く様子が見えた。

 ネフライトは檻に爪を立てようとして、今日は被っていないことを思い出し、耳に触れた。……妙に熱いのは、手が冷えているせいだろう。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 キングスクロス駅へ向かう汽車。

 そのコンパートメントの一室には、四人の狩人の仔らが集っていた。

 

「意外なことだ。セラフィ、ネフ。貴公ら、さっさと帰るのかと思ったが」

 

「あぁ、うむ」

 

「帰るべきなのだが、うむ」

 

 セラフィとネフライトは顔を見回せて、再び「うむ」と言った。

 

「学徒達が『一年間お疲れさま会』をやるだろう?」

 

 毎年の恒例になりそうな『一年間お疲れさま会』とは。

 仔らがホグワーツから帰ってくる日に行われる『ちょっとした食事会』なのだが、その中身は無礼講の乱痴気騒ぎである。かつてヤーナムの叡智を結晶したビルゲンワースの学徒達がそうしたように、酒を飲んで賑やかに過ごす時間になっているのだ。

 

「早く帰るとその手伝いをしなければならない。労働は嫌ではない。しかし、僕は数時間ずっと鍋をかき混ぜていた。さすがに……うむ」

 

「私はテーブルやら皿の支度をしていた。……うむ。労働は大切なものだ。だからこそ、ここは一つ。苦難を皆で荷担するのはどうだろうか?」

 

「構わないが、ネフ、顔色が悪いぞ」

 

 指摘するとネフライトは眺めていた本を閉じて顔を顰めた。

 そして、コンパートメントの外をチラと見た。

 

「列車は予想以上のやかましさだ。騒音。雑音がひどい。……先にお父様に挨拶をして、許しを得たらヤハグルに戻る。だが、定刻になればビルゲンワースに参上するだろう。先に戻る。魔女のかぼちゃパイ。買い忘れるなよ」

 

 ネフライトは早口で言うと『狩人の確かな徴』を使い、姿を消した。

 

「……ネフったら緊張しているのね」

 

「なぜ?」

 

「これからお父様に今年の出来事の顛末を語らないといけないのだから、頭もおかしくなっちゃうでしょう? 本を開いていましたけど、きっと見えていなかったわ」

 

 テルミは懐からチョコレート板を取り出すと膝の上で叩いて三等分した。

 一番大きい欠片をもらったセラフィは首を傾げた。

 

「事実を話せばよいだろう。何を畏れることがある」

 

「あまり酷なことを言うものではないわ、セラフィ。お父様に最も近しい貴女。ネフは、いつだってお父様が恐いのよ」

 

「なぜ? お父様なのに」

 

「あの人にとって理解できないものは多くあっても『理解できるようになる見通し』というものがあるのよ。だから恐くないの。本を見れば分かる、とか。知っている人に聞く、とかね。でもお父様にそんなものはないでしょう? いつも何も分からないから恐いのよ。お父様のことが恐いなんて、まるで後ろめたいことがあるみたい。隠すほどの過去も、隠せるほどの力もないのに。不思議ですね」

 

 クルックスには、よく分からない感覚だ。セラフィも分からないのだろう。

 無心にチョコレートを囓っている。チョコレートは黒い物体だったので警戒していたが、これは甘くて美味しいので仕方がない。

 しかし、あるとき。ふとセラフィが言った。

 

「ネフは今回、少々……何というか……大胆だったな」

 

 セラフィは、パキリと音を立ててチョコレートを噛み砕いた。

 どういう意味かと問う。彼女は車窓を見つめた。

 

「青ざめた弾丸。我々が持っている最大火力だろう。神秘という意味だが。賭けには勝ったが、手札を晒した。それも強力な鬼札だ。ネフが顔色を悪くしているのは、その件が主だろう。今頃こう思っているのかな。『やりすぎた』と」

 

「まあ、言い訳不能ですよね。そう悪い手ではなかったと思いますけれど。蛇は一撃で死んだのですから。……とはいえ今頃、どんな釈明をしているのか。思いを馳せるにワクワクしてしまうわ」

 

「ネフは悪くないだろう。俺が策をよこせと言い、彼は俺の望む策をよこした。咎められるべきは俺だ。お父様は誤解なさらないだろうか? 俺も行った方が……」

 

「あの人の頭は緻密なのですから、責任転嫁できることはちゃんと転嫁するので大丈夫でしょう」

 

 テルミは、小さく欠伸をしてセラフィに寄りかかった。

 

「ねぇ。わたし、すこしだけ休んでいいかしら。……最近、夜も歩き詰めだったの……」

 

「構わない。休むといい。お休みテルミ。僕の可愛い妹君」

 

 セラフィは自分のトリコーンを脱ぐとテルミの頭に被せた。

 

「むっ。枕役なら俺だってできる」

 

「男性の膝って硬いじゃない。クルックスと寝るならベッドがいいわ」

 

「ふむ。それもそうだな。汽車で寝るのでは疲れも取れないだろう」

 

 冗談のつもりが通じなかったのでテルミは嘆息した。

 

「まぁ呆れちゃうわ。悪い気分ではありませんけれどね?」

 

「そうか」

 

「うん。うん……?」

 

 もうひとり。

 冗談が通じていない人がいることに気付きテルミは体を起こした。

 

「え。ちょっと待って。セラフィ、まさか、そんなっ。カインの先輩達と一緒に寝ているなんてことはないよわね?」

 

「鴉羽の騎士様と共寝など、さすがの僕もやったことはないよ。あぁ、朝の弱いあの御仁を起こすため寝所には行くけれどね。レオー様は常々おっしゃる。『女性は女性であるだけで貴重なのだ』と。だからテルミも自分の体は大切にしないといけないよ」

 

「貴女に心配されるなんてビックリするわ」

 

「あ、レオー様のベッドはたまに使うけれどね」

 

「やっぱり寝たんだ──!」

 

 テルミはショックを受けた声を上げた。

 しかし「僕の部屋は地下だから。温かい場所で眠りたいこともあるのだ」と続いたのでクルックスはテルミの嘆きがよく分からなかった。

 

 その後、クルックスは鴉羽の騎士の寝所が氷室状態であることを知ったが、どう反応するのが正解なのか分からなかった。カインハーストは規律や誓約のさまざまが厳しいところだと思っていたが、自然環境も厳しいところであったらしい。テルミが「血の酒でも呷らないとやっていけないわ……」としみじみ言った。

 

「そういえば、セラフィ。遅ればせながら報告だ。──あったぞ。いつぞや君が言った『あったりなかったり部屋』を見つけた」

 

「ほうほう。実在するものだったのか。てっきり噂ばかりかと」

 

 頭上で交わされる会話を聞き付け、テルミが「ねぇ」と声を上げた。

 

「お二人とも人が『寝る』と言っている時に、眠気を吹き飛ばすお話をするのはやめていただけません?」

 

「すまない、テルミ。でも、俺は夏休みの間に忘れそうだからな……」

 

「そのお話は、そもそもわたしがセラフィに教えた内容ですからね。わたしにも部屋の場所を聞く権利があります。それでそれで? どこかしら?」

 

 テルミの食いつき具合は、いつもの比ではなかった。

 彼女が執心していたとは知らなかったクルックスは、すこしだけ驚きつつ答えた。

 

「ホグワーツの八階だ。今度、案内しよう」

 

 テルミは、嬉しそうに目を輝かせた。

 セラフィだけは、首を傾げた。

 

「『あったりなかったり部屋』の中身はどうなっていたのか。聞いてもいいかな?」

 

「女子トイレに繋がっていた。『嘆きのマートル』がいるトイレだ。明らかに構造を無視した部屋だったので異変にも気付きやすかった」

 

「むむ? 『あったりなかったり部屋』は、トイレに繋がる部屋なのか? 女子トイレに?」

 

「違うのよ、セラフィ」

 

 テルミは、セラフィの膝をぽんぽんと叩いて注意を促した。

 

「『あったりなかったり部屋』は『必要の部屋』とも呼ばれていて、その生徒にとって『必要なモノ』がある部屋になるの。クルックスの場合は『ジニー・ウィーズリーのいる場所』という望みの部屋へ変わった。けれど、完全には叶えられなかった。地下の秘密の部屋までは、その魔法の部屋の力が及ばずに繋がらなかったのでしょう。そのため最も近い二階の女子トイレに繋がったのだと思うわ」

 

「なるほど。面白い仕組みの部屋だね。では例えばの話だが、落葉の素振りが出来る場所と願えば、その部屋はどうなるだろうか?」

 

「恐らく……落葉を振り回しても問題がないくらいの広い空間になるのではないかしら?」

 

「ほう。それはいいことを聞いた」

 

「どうかしら。来年から選択授業もはじまるわ。昨年や今年のようにのんびりする時間があればいいですけどね……」

 

 隙間の時間を見つけて試してみよう、とセラフィは言う。

 クルックスはテルミに質問した。

 

「君は、何の部屋にしたいのか」

 

「それはもちろん『全て』よ。『お前が隠す全てを詳らかにせよ』と命じるのよ」

 

「……? それをするとどうなるんだ?」

 

「『誰かが隠した何かが全て』出てくるのではないかしら。何が出てくるかしら? 来年の楽しみにしましょうね」

 

 クスクスと笑い、テルミはセラフィの帽子を被って日を塞いだ。

 クルックスもまた窓のカーテンを締めた。

 

「今夜は、ちょっとした祝宴だ。話す時間は大いにある。すこしだけ眠るといい。……俺も魔女のかぼちゃパイを買ったら、眠ることにしよう」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 汽車は減速しつつ、駅に入った。

 周囲の生徒達が荷物の確保や別れを惜しんでいる。

 仔らの三人もそろそろコンパートメントを出ようと腰を上げた。

 そんなとき。

 

「あら……? えっ?」

 

「どうした、テルミ」

 

 寝起き顔で目をこすっていたテルミが車窓を見たまま、ピタリと動きを止めてしまった。

 セラフィとクルックスを見つめた彼女は、驚いた顔をしていた。

 

「え。いま。ホームにコッペリアお兄様がいたような気がするわ」

 

「なにっ!? どこだ!?」

 

 クルックスは車窓に顔をはり付けた。

 

「あ、でも見間違えかもしれないわ。いくらなんでもコッペリアお兄様を野放しにするほどお父様もアレじゃないっていうか、無謀ではないと思うし……」

 

「見えん! 降りて確認した方が早いな。先に行くぞ!」

 

 クルックスがコンパートメントを飛びだしていく。

 テルミとセラフィが身の回りの物を片付けて、追いかけた。

 プラットホームには、思いがけない人物が立っていた。

 

「──あら、おかえりなさい」

 

「──やあ、僕の可愛い子!」

 

 汽車が吹き出す白い煙が薄くなった頃。

 ビルゲンワースの学徒達がそろって出迎えた。

 今日も今日とて二人は聖歌隊の服に身を包んでいる。

 

「ユリエ様、コッペリア様……!」

 

 クルックスは二人に駆け寄ったが思うような言葉が出てこなかった。

 

 お揃いの聖歌隊の服一式に身を包み、目隠し帽子を被る彼らは、周囲から恐ろしく馴染めていない。

 けれど彼らは優しげに微笑んでいた。

 

「──あの、どうして、ここに? 俺達のためにお迎えしてくれて……?」

 

「もちろん。それもあるわ。けれど、一番はこちらのご夫妻に挨拶をするためよ」

 

 ユリエが、右手で夫妻を差した。

 そばでは赤毛の夫妻はニッコリと微笑んでいた。

 

「これは。これは失礼しました。ウィーズリー様」

 

 目に入らないほどクルックスはユリエやコッペリアを見つめていたのだ。

 サッと外套を払いクルックスは狩人の礼をした。

 

「校長室では失礼いたしました。先日、学友のロンを通し、依頼させていただきました。夏の間、郵便の受け取り窓口になっていただけるということで……了承していただけたことを我々は感謝しています」

 

「あぁ構いはしない。大したことじゃないからね。しかし、ふくろう便が届かないなんて! 今では超長距離便で外国にだって届くのに不思議なことだね」

 

「ハッハッハッハ、何やら古い魔法が悪さをしているようでしてね」

 

 赤毛のウィーズリー氏に対しコッペリアは、すらすらと流れるように語った。

 嘘でも堂々と言えば真実らしく聞こえることがある。

 まさにコッペリアはその手の達人とも言えた。クルックスは、ほんの一瞬、彼の言葉を真実だと思い込んでしまった。

 

「末娘ちゃんのことは、我々の妹からお聞きしました。私達が言うべきことではないかもしれませんが、どうかお大事に」

 

「ご丁寧にありがとうございます。……お宅の子にも助けられたようです。そちらこそお大事に」

 

 彼らの話が終わる頃。

 カートを押した一団が現れた。ウィーズリーの子供たちだ。

 

 聖歌隊の装束を着た見慣れぬ大人に警戒している。

 その後に見せる反応はさまざまだ。パーシーなどは露骨に顔を顰めたが、双子は顔を見合わせてクスクスと笑った。

 

「おぉ! 子供がいっぱいだ。可愛いねぇ!」

 

 コッペリアが声をかけたのは先頭にいたパーシーだった。

 彼は胸の監督生バッジを見せつけるように胸を張った。

 しかし、相手が悪かった。身長一九〇越えの青年の前では彼も少年だった。

 

「賢そうな子だ。ネフと気が合いそうだ。君、可愛いね!」

 

「エー、はい、それは……どうも……」

 

 そういえば。

 男の子に対し『可愛い』とは、あまり使わないものであるらしい。

 クルックスはそのことを思い出した。

 パーシーも慣れない褒め言葉に、調子が狂ってしまっている様子だ。

 

「コッペリアお兄様、皆さんビックリしていますから。そのあたりで」

 

 テルミがぽそぽそと言って、コッペリアを制した。

 彼は白い法衣を翻すと辺りを見回す。

 そして、ウィーズリー氏を見て一笑した。

 

「そう? いつかゆっくりお話をしたいものだ。魔法界はまだまだ珍しいものばかりだからね」

 

「さぁ、皆さん。帰りましょう。お父様がお待ちですよ。……それではお先に失礼。ウィーズリー様」

 

 ユリエが丁寧な会釈をし、コッペリアは彼らに「バイバーイ」と手を振った。

 

 ほんの一瞬で彼らの姿は、汽車から降りる雑踏のなかに紛れ、見えなくなった。

 ジニー・ウィーズリーにとっては、二度目の経験だった。

 

「また消えちゃった……」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックス達が汽車で移動を続けている頃。

 ここは仄かに月香る、狩人の夢。

 

 花は咲き乱れ、白い月が世界を照らしている。

 月の香りの狩人の居所。

 夢と現を繋ぐ生地に二人はいた。

 

「──テルミから顛末を聞いている。ご苦労だったな」

 

 狩人は簡易なシャツで椅子に腰掛けていた。

 そばには湯気を立てている紅茶がある。寛いでいたのだろう。

 ネフライトは教会式の礼をしてから答えた。

 

「はい。けれど賞賛はクルックスが相応しいと考えます。彼の判断がなければ、この成果はありえなかったことですから」

 

「成果ね。……座ってくれ。話をしよう。そう思い詰めた顔をせずに」

 

 狩人が椅子に手を差し向けた。

 再度頭を下げてからネフライトは椅子に座り、布に包んだ日記帳の切れ端を提出した。

 

「あぁ、これが噂の日記帳か」

 

 狩人は、切れ端を受け取るとそれをまじまじと見つめた。

 

「お父様の瞳には神秘の内実まで見通せるのでしょうか? ……。あの。あの、伺っても?」

 

 狩人は切れ端を指で突いたり、臭いを嗅いだりしていた。

 血で汚れていたそれは、もう乾いている。

 

「ああ、すまんな。目新しいものにはつい夢中になってしまう。これは誰かを材料に作ったのだな。冒涜の気配がする。しかし、弾丸の威力は十分だったな。何かが封じられていたようだが、残滓も感じられない」

 

「弾丸の件は……迂闊でした。ヤーナムの神秘。その粋を曝したことに等しいのですから。しかし、クルックスにそれを使うよう指示したのは私です。私をお咎めください」

 

「我々の銃は、正しき敵に向けられた。我々の剣は、正しき敵を滅ぼした。そろそろあちらも『生徒として過ごすことに執心している』と察する頃だろう。だから私は『構わない』と言いたいところだが、ネフは納得しないのだろうな」

 

「完全な独断専行です。誰であったとしても咎められるべきものだと考えます」

 

「ふむ。……よろしい考えておこう。しかし、その前に『なぜ使ったのか』聞かせてもらおうか」

 

「我らヤーナムの民が『正しき敵』を倒すことで役に立つ存在であることを証明できると思ったからです。そして、十分な利点を提示できたと考えます。向こうも最初からそれを期待して我々をホグワーツに招き入れたのでしょう。……ダンブルドアは明らかな異物だと『分かっていた』。昨年度はクルックスがトロールをミンチにしたのですから、やはり『分かりきっていた』。彼の期待どおりの異常性を見せつけた結果にもなってしまいましたが…………はい?」

 

 狩人が軽く手を挙げた。

 ネフライトは狩人が笑っていることに気付き、思わず言葉が漏れた。

 

「相変わらず君の説明は、出来がいい。それは学徒用に取っておくといい」

 

「は。それはそれは、どういう意味でしょうか……? 私が騙っていると……?」

 

「いいや、そうは思わない。語る内容は実際のところ、真実なのだろう。恣意の一面でもある。だが『それだけ』か? 『これだけ』か?」

 

 ヒヤリ。

 冷たい手で内臓をまさぐられた気分になった。

 ネフライトが何かを言うよりも先に、狩人は肩をすくめた。

 

「咎める心算はない。俺にも覚えがある。とびきり苦い思い出と一緒にな。だから分かるのだ。好奇心の匂いがする」

 

 上ずった声で、ネフライトは答えた。

 

「……ただの、嫉妬、なのです」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 この度の、石になる現象は。

 魔法界の優れた魔法使いが束になっても何が原因か探れず、元にも戻せない魔法でした。

 

 今世紀最も優れた魔法使いと讃えられるホグワーツの校長、ダンブルドアであってもです。

 

 闇の魔術であれ何であれ構いません。

 闇の深さでヤーナムに優る場所もモノも少ないでしょう。──あ、いえ。お父様のせいと言っているワケではありません。念のため。

 

 強力であればあるほど、惹かれました。

 神秘の汎用性は勝算皆無のヤーナムですが『攻撃性』では、どちらが優れているか確かめたくなった。

 

 我々の神秘は、魔法界の強力な存在を滅ぼせるのか?

 闇の魔術を操る怪物とヤーナムの神秘。

 

 優るのはどちらだろうか?

 

 そして都合良く、バジリスクが現れました。

 確かめずにはいられなかった。

 ……試せると思ってしまった。

 

 嬉しくて、楽しくて、あぁ、どうしても。

 

 堪えきれなかった。

 耐えきれなかった。

 

 そして、クルックスが「策をよこせ」と言いました。

 だからそれに乗じて──引き金を。

 

 的中を見ることはできませんでしたが、治癒不可能の呪いを帯びた致命傷と聞きました。

 

 我々の神秘は、種こそ違えど──決して劣らないという証左でしょう!

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 熱っぽい頭を押さえて、ネフライトは月の香りの狩人をまっすぐに見つめた。

 

「ですから、成果は私のものです。一方で好奇心で軽はずみな行いをしたと……反省……しています。よって咎も私のものです」

 

 認めがたい感情ではあったが、しかし過度な好奇心は諫められるべきものだ。

 その理解はあったのでネフライトは深々と頭を下げた。

 

「俺は反省しているなら『もうそれでいいだろう』と思うのだが、学徒達はそう見なさないだろうな。ふむ。やはり表向きの動機は先ほどの説明でいこう」

 

「はい……。それから、言葉を翻すようで恐縮なのですが私は、またやるでしょう。今回の試みは、とても満足しています」

 

「そういう試みがあってもよいのかもしれないな。……自己理解が済んでいて話が早い。沙汰は追って伝えよう。大したものではないが。それと質問があるのだが──」

 

「何なりと」

 

「石になるってどういう気分なんだ?」

 

 ネフライトは身構えて質問を聞いたが、答えに窮した。

 

「それは……それは石になっていたので分からないですね」

 

「そっか。いや、そうか。変なこときいて悪かったな」

 

「あ、いえ。こちらこそ気の利いたことが言えずに申し訳ないです。しかし何かありましたか?」

 

「実はセラフィから使者を通じて『バジリスクの牙』と『死血』が送られてきたのだが、使っていいものか迷っている」

 

「え……え? せ、聖杯に? バジリスクを投入しようと? それは……それは……? 異なる神秘であるとはご存じだと思っていましたが……?」

 

「まさにそれだ。異なる神秘を掛け合わせた場合、聖杯は正常に機能するだろうか? どう思う?」

 

 狩人の質問は、メンシス学派の主宰、ミコラーシュが学徒達へ質問する──「素人質問をしてしまい恐縮なのだが」──という言葉とダブッて聞こえた。

 ネフライトは、疼痛を感じ思わず胸を押さえた。

 

「み、未知数です。お父様の仔である私達が魔法を使えることから、異なる神秘でも『ある程度』の互換性はあるのだと思います。現在、ヤーナムにある神秘と類似するものが聖杯内にも散見されます。しかし、実験に意味はあっても──果たして価値はあるのでしょうか? 見出せる血晶石と敵の種類が増えるだけではないかと。お求めの血晶石を入手するための確率は、億と兆を容易く越え、そろそろ宇宙悪夢的確率に突入する可能性があります。お求めならば……ええ……計算してみますか?」

 

「急に知りたくなくなったから計算しても教えなくていいぞ。いや、くれぐれも教えてくれるな。やはりそうか。マラソンに近道はない。地道にはしるか……うん。迂闊に混ぜて目玉がたくさんあるバジリスクとか出てきても困る。おや? 逆にすぐ死ねるからいいのか?」

 

「我々の『狩人の徴』たるルーンがどのように振る舞うかによって問題の大きさが変わってくると思われます。……私は結局、夢に還ることができませんでした」

 

 このことを言うと。

 自分が月から見放された気分になり、ネフライトは感情を持て余した。

 だが、狩人は「大した問題ではないだろう」と前置きした。

 

「それには居場所の問題がある。ホグワーツ城は妙な場所にある。昨年のことだ。君から交信があるまで私はホグワーツ城の場所を特定できなかった。ヤーナム、そして聖杯内であれば違う結果が得られるかもしれない。それでも還ることができないときは俺が『視て』引き寄せてもいい」

 

「……私が石になったとき、お父様はそれを察知していたのですか?」

 

「あの日、テルミにも聞かれた。視なければ、私は誰のことも分からない。皆が期待するほど上位者は万能ではないからな。それに彼女から『たとえ呼べるのだとしても、体が消えたら問題になるのでそのままにしておいて』と言われてしまった。試してもいない。すまなかったな」

 

「いいえ、テルミの指摘は道理です。私でもそう進言したことでしょう」

 

 会話は終わりに近付きつつある。

 狩人は、ネフライトがこの一年で提出した書類の束を引き寄せながら言った。

 

「夢から醒め、いずれ旅立つときまで君たちは夢を見たままだ。好きに過ごせばよい。……特に、ネフはすこし肩の力を抜くといい。あれこれと気を遣わせている俺が言うのは、どうにも間の悪い話だが」

 

「いいえ。私は大丈夫です。気付いた者が、なすべきこともあるでしょう。それに他の三人ができることならば、私がなぞる必要はありません。私達は四人しかいないのですから、それぞれが果たせる限りの試行を。ヤーナムのために。貴方様のために」

 

「むむ……」

 

 狩人は、困った顔をした。

 ──クルックスとよく似ている。

 いいや、逆なのだ。ネフライトは思い直した。

 彼がこの人に似ているのだ。

 

「俺は何事も諦めないが、これは常人にとって通し難い信念であると知っている。『終わりがあるから、遂げられる』。そういう動機も分かる。だからこそヤーナムの復興は──はじめる前から分かりきっていたことだが──長い道のりだ。そう急くものではない」

 

 これは。

 ただの助言である。

 だから、だから。

 予言ではないのだ。

 

 ネフライトは、何度も自分に言い聞かせた。

 しかし。

 ああ、なぜだろうか。

 

 

「夢を見ている君は、どこにも行けないのだ。──だから、どうか気を永く保ちたまえよ──」

 

 

 銀灰の海に漂流する、小さな自分を感じる。

 妄想に違いないそれをネフライトは、どうしても忘れることができなかった。

 




狩人の助言

エスコートしてくれるクルックス:
 テルミは嬉しい。テルミがニコニコしているのでクルックスも嬉しい。幸せ空間。


魔法界でも謎の読み物ザ・クィブラー:
 ところで原作のハーマイオニーが言った「ザ・クィブラーってクズよ。みんな知ってるわ」という台詞には驚きました。ハーミーがそこまで!?
 そんなザ・クィブラー。
 ネフライトは夏休みをかけて解読に挑む──!


勝手に寝室事情をバラされる流血鴉:
 今後、クルックスやテルミと出会うことがあった場合、彼が何を言っても二人は(でも、この人って氷室で寝起きしているんだよな)となることは必至。でも性癖ではないのでセーフ。尊厳は守られた。レオー「よかったな(笑)」
 カインハーストの騎士達は──聖歌隊の二人もそうですが──長生きし過ぎて互いのプライバシーをいやというほど知っており距離感がバグりにバグりまくったまま仔らと接しているので、適切なプライバシー教育などはされないのである。そもそもプライバシー概念がヤーナムには存在しているのか。その真相を知るべく調査班はクィリナス・クィレル先生へ取材を敢行した──


あったりなかったり部屋:
 テルミが興味津々の必要の部屋。宝物が眠っているかもしれない。そう、誰かが隠した宝物とかね!


ネフライトの嫉妬:
 ヤーナムの神秘とは、上位者に近付こうとした結果で発生したもの(失敗作)であるため生活を豊かにしようとか、敵を安全にやっつけようとか、そういった用途ではありません。……本来の目的とは違うが、まぁ獣を殺すには使えるので使っている、その程度です。
 さて。ホグワーツで学ぶ魔法を理解するとその乏しさと技術の方向性の違いが明らかになりました。
 技術(神秘)ツリーと呼ぶのもおこがましいというか……その……輸血液の煮凝りと同じくらい知られたくない。
 また、ネフライトは「魔法がどんな起源で使われているのか」という疑問を最初に抱いていましたが、魔法族の誰もが理解していない事態は予想外でした。
 神秘を比べることについて狩人は消極的で「どうして地続きと考えるのか」と学徒達の意見を不思議に思っていましたが、それもこうした経緯の違いをうっすら感じていたからかもしれません。

 それはそれとして、どうしてもどうしても、ヤーナムが劣っていると認めたくなかったのはクルックスだけではなかった様子。
 結果として、ヤーナムの異常の粋である『青ざめた血』に由来する弾丸は、魔法界にあっても強固な存在を死に至らしめるに十分だと分かりました。


狩人の助言:
急がば回れ、とはいい言葉だ。
ヤーナムは本当に廻り続けているワケだがな!



お知らせ:
 2年生(秘密の部屋編)章が終了し、次の話より蛇に靴を履かせるパートに突入しました。また2年生まで章のヤーナム編を含め多くの登場人物を書くことができて充実してきました。ご感想で登場人物の名前が挙がることも多くなり、筆者的には意外で嬉しいと感じています。
 さて、以下にアンケートを設置しますので、推したい登場人物に「ポチッとな!」してください。これにより物語の展開が変わることはありませんが、描写が充実する可能性があります。

 ひとまず3年生まで章のヤーナム編を想定し、関係者を勢力ごとにざっくり分けて選択肢としてみました。
 熱い匿名メッセージでもいいですよ!
 2年生終了を機に、ご感想をよろしくお願いします!(マシュマロ→https://marshmallow-qa.com/nonogiginights?utm_medium=url_text&utm_source=promotion)

追伸:
 エルデンリングは発売延期しましたが大丈夫です俺特知


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旅立ち/犬と海岸線

はじまり
終わりと始まりは同一のものである。
誰かの終わりから始まることもあるだろう。

けれど始めた時と同じように終われないのなら、せめて夢を。
すべて命あっての物種なのだから。



 古びた扉がギィと音を立てる。

 オリバンダーは眺めていた新聞を置いた。

 新学期には、まだ早すぎる。

 すると客は──予想とおり、青年が立っていた。

 

「やあ、こんにちは。いらっしゃいませ」

 

「私……私は杖を、買いに来たんです」

 

 目深に被ったフードから上ずった声が聞こえた。彼は、ひどく緊張しているようだった。

 ようやく一言を言い切った青年は、昨年この先にあるフローリシュ・アンド・ブロッツ書店で大サイン会を実施した人物だった。

 

「ずいぶんお待ちしたような気がします。ああ、オリバンダーは売った杖を決して忘れない。買った人も然り。しかし、このところは杖よりペンを持つ機会が多かったようだ」

 

 叱られたように身を縮める青年は、居心地悪そうに身じろぎした。

 しかし、オリバンダー老が箱から取り出した杖を差し出したのを見て、ピタリと動きを止めた。

 

「ミスター、これを」

 

 震える手で杖を手に取った。

 初めて触る杖だというのに、仄かに温かい。

 青年は、オリバンダー老を見つめた。

 

「サクラの木、ドラゴンの琴線。ぴったり二十二・五センチ、わずかに曲がる」

 

「私は……まだ、持つことを許されるのですか?」

 

「いいえ」

 

 青年は、ショックを受けたように口を開けた。

 老人は、ただ微笑むだけだった。

 

「かつての杖もそうだった。この杖も例外ではない。どの杖も、いつもそう。この杖が、あなたを選んだのですよ」

 

 左手で、そっと杖を撫でる。

 木質。長さ。堅さ。杖を振る。杖先に、ライラックの花が咲いた。──何もかもが元通り、時間が戻ったようだった。

 初めて杖を手にした十一歳の少年を思い出していた。

 けれど、杖を撫でる手だけは見知った青年のものだった。

 

 あれからどこまで遠くまで来てしまったか。

 道を踏み外してしまったのか。

 

 それでも。

 サクラの木、ドラゴンの琴線。ぴったり二十二・五センチ、わずかに曲がる。

 この杖だけは、いつも傍らにあったのだ。

 

「これが私の……私の……あぁ……きっと……これが、導き……」

 

 身震いの後で青年は、泣き出した。

 

 次は。

 次こそは。

 今日、今からは。

 何にも恥じぬ生き方を。

 

 青年の名は、ギルデロイ・ロックハート。

 やがて涙を拭い、彼は店を出るだろう。

 馴染みのある新たな杖に誓う、新たな旅立ちだった

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夜の海は不穏に満ちている。ゆえに白々しい月の光が、黒々とうねる水面を照らす様子は儚い標のように感じられた。

 水の色は、暗い。これは緯度が高いことを意味する。南の海では、こうはならない。植物が生き、死に、沈殿し、果てに腐る──浜辺に満ちるのは、磯の香りだ。

 

 初夏の岸辺には、波が寄せる以外に動くものは何もなかった。誰かが息をすれば何者かに見つかってしまいそうな心地の夜だった。

 真夜中にさしかかる頃、鳥さえ寝静まったかに思えた岸辺に蠢くものが流れ着いた。それは毛むくじゃらの生き物だった。生きているのだろうか。明確な反応は見られない。

 やがて浜辺で波に洗われる脚が、ピクピクと動き出した。震えたのは犬の脚だ。

 立ち上がった犬は痩せ衰え、骨が浮いている。不健康な犬だった。その犬は、崖下に設えられた海小屋を目指すかのようにトボトボ歩き出した。

 そのとき、雲が月を隠した。

 次に月が現れたとき、犬の姿はどこにもなかった。

 月下、あの犬と同じように痩せた男が体を引きずるように歩いている。

 

 男が辿り着いた海小屋は、何度目かの嵐により大破しており、屋根が落ちていた。人の手から離れて久しいように見える。硝子を失った窓枠が、錆びた蝶番を得意げにギィギィと鳴らして揺れている。

 とうとう力尽いて朽ちた壁に身を寄せた。そうすると壁の隙間から、夏の海から漂う温い風を感じた。

 

 海の沖、それも遙か遠く遠く離れた絶壁の孤島から這い出てきた男の名は、シリウス・ブラックと言った。

 

 十五年前、マグルを大量虐殺した罪で魔法使いの監獄──アズカバンに収監されていた、そして脱獄した唯一の魔法使いだった。

 

「……休んだら、すぐに発たなければ……あぁ……あいつはホグワーツにいる……ホグワーツに……」

 

 深夜の静海を枕に彼の意識は眠りに落ちた。

 

 眠りは、夏の夜のように短い。

 目覚めれば、彼は北へ向かうだろう。

「あいつ」と呼んだ彼がいる懐かしき学び舎、ホグワーツへ。

 

 衰えた痩身に構わず、あらん限りの力をみなぎらせて進むのだろう。

 復讐とは、悪人を処刑するために行うのではない。

 最も信じていた死者のために生きている者が遂行すべき最善行なのだ。

 

 情は深く、義は重い。

 だからこそ。

 彼を南へ駆り立てた。





ギルデロイ・ロックハート:
 幸せな門出になるといいですよね。


さて:
 のこり2話となりました。
 もうちょっとだけお楽しみいただければ幸いです。


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誓約に基づく正当なる行為

誓約
誓った約束なれば、果たさなければならない。
それが己から申し出たことならば、なおさらのことである。

もしも、やむを得ず破ったときは誠実であるべきだろう。
おおよそ取り返しの付くヤーナムにおいて。信頼は、例外だ。




 ここはヤーナム。

 学舎ビルゲンワース。

 

 昨年を踏襲して行われた『一年間お疲れさま会』は、やはりハメを外した乱痴気騒ぎとなった。

 去年と違うことがあるとすれば、クルックスも血の酒で酔っ払い、深夜は眠ってしまったことだろう。

 

 しかし、習慣とは素晴らしい。

 

 ホグワーツでの授業時間を思い出し、クルックスはガバリと身を起こした。

 

「寝坊だ!」

 

 飛び起きたものの、ここがヤーナムであることに気付き、クルックスはゆるゆると枕に頭を戻した。

 

「うるさいわね……」

 

「すまない、テルミ。──ん? テルミ? テルミ!? なぜここに!?」

 

 腕に、温かく柔らかいものが触れた。

 それがテルミの腹部であることに気付き、クルックスは再び飛び起きた。

 

「ベッド揺らさないで……頭に響きます……んるさい……」

 

 テルミは朝陽から逃げるように薄い毛布を頭にかけた。

 

「すまない。しかし、あの、俺には大事なことなんだが……」

 

 腫れているような目と喉に違和感を覚えながらテルミに話しかけた。

 眠たげなテルミが話す昨夜の顛末とは、実に明朗なことだった。

 

「貴方、お酒を一気飲みして……そこで頭がパァになってしまったようで……水を飲ませたのはよかったのですけど……今度は吐いてしまって……貴方の部屋に一人で置いていたら、吐瀉物で死んでしまいそうだったので見守りを兼ねて……一番近い、わたしの部屋に……」

 

「喉の違和感はそれか」

 

「覚えていないのね……」

 

「俺は何か言っていたか? 聞きたいような、聞きたくないような……気分なのだが」

 

「『蛇と蜘蛛は生きている価値が無いよな』とか。そんなことを言っていましたわ……」

 

「そ、そうか。ならばいい。……もうすこし寝ているといい。誰も起きていないだろう」

 

「テーブルに水差しと薬があるので……テキトーに飲んでくださいね……」

 

 テルミは、むにゃむにゃと話してベッドの上で丸くなって寝てしまった。

 クルックスは、ズボンとボタンを掛け違えたシャツを着ていた。身だしなみを整えて廊下に出た。

 

 

 ヤーナムにしては、珍しく晴れた日だった。

 

 

 白い朝陽に誘われるようにクルックスは上階を目指した。

 やがて埃が動いているのを見つけた。

 風が吹いている。

 自分の足音以外、音のない空間を彼は歩いた。

 

 辿り着いた月見台には、学長のウィレーム。

 そして。

 月の香りの狩人がいた。

 血除けマスクを外し、トリコーンを胸に抱いた彼は湖を見ていた。

 

「……お父様、おはよう、ございます」

 

「おはよう。早いな。体調はどうだ」

 

 彼は振り返った。

 自分とそっくりの顔だ。

 

「すこしだけ喉が痛いだけです。今夜の狩りには支障ありません」

 

「昨日は一番早く寝たからな。しかし、ずいぶん酔ったな」

 

「そのことなのですが、俺は記憶がありません。昨日言ったことは全て戯れ言としてお忘れください……」

 

「ハハハ、そういう気分のときはある。皆、酔っていた。ネフもだ。夜の話は酒で飲み下すものだ。誰も聞き咎めやしない。お互いさまだからな」

 

 手招きされたクルックスは、彼のすぐそばまで歩いた。

 

「しかし、今年も苦労をかけたな」

 

 狩人の手が、目の下をなぞった。

 そこが熱を持っていた理由に気付き、クルックスは彼を見上げた。

 

「俺は……?」

 

 泣いていたのだろうか。

 狩人は、困った顔をした。

 

「夜の話はしないつもりだったが……しかし、それでは君が救われない。君は私に質問したな。『なぜ争うのか』と。君の問いに、私は未だ完全な回答ができない」

 

「…………」

 

 昨夜の出来事が、塩辛い感情と共に蘇ってきた。

 ──そうだ。

 昨日は、あの日校長室から出てきた時に、テルミに零した話を蒸し返してしまったのだ。

 

「夢を見るだけならば罪はない。罪は、叶えようとした瞬間からはじまる。好奇心や探究心は、夢が名を変えたものだ。……皆の夢は同時には叶わない。悲しむべきことにな」

 

「どうすれば」

 

 その後に続けるべき言葉は、クルックス自身が見失ってしまった。

 

 ──報われるのか。

 ──救われるのか。

 ──幸せになれるのか。

 

 言うべき言葉を知っていたかのように狩人は目を細める。

 彼の癖を知っているクルックスは、笑っているのだと分かった。

 

「最初から求めないか。最期まで求め続けるか。人が選べるのは、それだけだろう」

 

「お父様は、どちらを?」

 

「君もいつか分かる。そう遠い話ではないだろう。コッペリアが聖杯のアテをつけてくれたからな。さて、まだ湖は霧も晴れぬ朝だ。もう一度、寝るといい。学徒達は昼を過ぎなければ起きてこない。学舎の見張りは私がする」

 

「……ありがとうございます。お父様も」

 

「うん?」

 

「無理は……しないでくださいね」

 

「無理だと?」

 

「……ホグワーツで起こった石になる現象。その脅威を考えたときに何としても排除しなければならないと思いました。俺は、お父様が動けなくなることをまったく考えたことがなかったからです」

 

 クルックスは、狩人が見ていた景色を眺めた。

 湖は、今日も深く色づいていた。

 

「うまく言えないのですが……お父様がいないヤーナムに陽は差さないと思えます。変なことを言っているのは、分かるのですが……なぜだろう。夜……夜が、ずっと明けないような……まるで話に聞く『獣狩りの夜』のような……そんなことが起きる気がして……」

 

 狩人は、クルックスの背中を叩いた。

 

「ハハハ、俺の心配をするとは! ありがとう! こんなことを心配されたのは、あぁ、もう何年前だろうか!? 分からないな、ずいぶんと久しぶりだ! 心配はいらない。何が起きようが、ここでは悪い夢のようなものだ。揺籃に乗ったつもりでいるといい。難しく考えることはない。君は、ただ獣を狩ればよい。連盟の使命に殉じるのもよいだろう。あぁ、ヤーナム外での虫潰しは時と場所を選ぶがな。……ネフにも告げたが、どうか気を永く保ちたまえよ」

 

「はい。それでは昼に、また」

 

 クルックスは、狩人の礼をすると月見台を辞した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 月の香りの狩人は、クルックスが訪れる前までそうしていたように湖を眺める。弱い風に吹かれ、湖面は白く輝いていた。

 

「──クルックスは勘が鋭くて参る。ヤーナムの要は何を隠そう、特に隠れていない、この私だからな。俺は、あんなに察しがよかったかな? 連盟式教育の結果か? それとも早々に聖杯に放り込んだのがよかったのかな?」

 

 湖には、かすかに悪夢の霧が漂っていた。

 

 この湖の下には、上位者がいる。

 その名を『白痴のロマ』と言う。

 

 学長ウィレームが健全であった時代に存在したビルゲンワースの学徒。その成れの果てだ。

 彼あるいは彼女にある『隠し/隠れる』という権能。

 その力を借りて、現在のヤーナムは成り立っている。

 

「『最も多くの秘匿を破った者は、最も多くの秘密を持つ者と言える』とはブラドーの言葉だったか。……まったく古狩人はこれだから侮れないのだ。どこまで察しているのやら。……『最初から最期まで』なんて生ぬるい。死んで死んで、繰り返して繰り返して、ようやくの現状だ。獣狩りの夜は、形を変えて続いている。続けなければならない」

 

 朝陽が昇る。

 長い夜を過ごしている狩人は、ますます目を細めた。

 

「こんなに明るいのに……夜明けは、遠いな」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、テルミの部屋に戻ってきた。

 ほとんど私物のない部屋だが、今年になって増えたものがある。

 それはクルックスの部屋にも、セラフィの部屋にも、ネフライトの部屋にも増えたことだろう。写真だ。

 

 ホグワーツを去る日。

 朝食の席で、石から復活したコリン・クリービーが現像した写真をくれたのだ。

 

 湖を背に、四人が並んで立っている。

 緊張した顔をしているのは自分だけだった。

 

「……なんだ。みんな笑っていたのか……」

 

 写真を眺めているとベッドから自分を呼ぶ声が聞こえた。

 

「どうした、テルミ」

 

「寒いの……そばにいて……」

 

 ベッドの上で小さく丸くなっているテルミが、泣きそうな声で言った。

 

 季節は。

 夏に向かいつつある。

 

 湖畔に佇むビルゲンワースには、陽がよく当たる。だから、寒くはないハズだった。

 それでもクルックスは、ベッドに身を横たえた。

 

「ああ、いるとも。もうすこしだけ眠るとしよう」

 

「ねぇ、貴方……辛いことがあったら、ちゃんと言いなさい……」

 

「ん。ああ、そうだな」

 

「わたし……貴方のことが大切なの。ほんとうに。これだけは、ほんとうのことなの……」

 

「君の心配を杞憂にしてみせよう。だから、おやすみ。俺は寝るぞ」

 

「わたしだって、寝てましたもん……」

 

 テルミは、ほんのすこしだけ毛布を上げてクルックスの上にも被せた。

 

「ありがとう。苦労をかけるな」

 

「貴方は……いつも温かいから、特別です」

 

「そうか。そうありたいものだ」

 

 クルックスはテルミを引き寄せた。

 体温と鼓動を感じる。

 彼女がクルックスの胸に頭を寄せた。

 小さな仕草が、この上なく彼を安心させた。

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ぐぅぅ~、ダメだ……ダメすぎる……今日はダメだ……ダメダメだ」

 

「ネフ、しっかりしろ」

 

「僕も……悪酔いしたようだよ……。変だなぁ……カインの酒で酔ったことはないのに。聖歌隊貯蔵の血の酒だから何か混ぜ物でもしてあったのではないかな……? うぅ……。気付けに一杯必要だ、テルミ」

 

「トドメを刺して欲しいのかしら」

 

 時計は正午を指していた。

 クルックスとテルミは快調というべき体調だったが、他の二人は昨夜の深酒でちょっとした足音にさえ顔を顰める状態だ。何とか身支度を調えて教室へ来たことは、一種の奇跡だろう。

 ネフライトは特に深刻でセラフィのように椅子に座ることができず、椅子を三つほど占領して横になっていた。

 

「具合が悪いなら無理をするな。今日の発表は諦めたらどうだ。明日でもいいだろう」

 

「ダメだ……今日のうちに報告をして……私はヤハグルに……」

 

「その体調では無理だろう。セラフィも無理をするな。カインハーストで酔い覚ましに首を刎ねられるのがオチではないか」

 

「いいや、水があれば何とかなると思う。何とかする」

 

「気分で何とかなるものか?」

 

 しかし、ネフライトも「欲しい」と手を上げた。

 クルックスとテルミはちょうど教室の清掃を終えたところだった。

 

「お水を持って来ますから待っていてくださいね。クルックス、手伝ってくださる?」

 

「構わないが……。学徒のお二人も今日だけは無理だと思うのだがな……」

 

 学徒の二人は、起きていた。食事も摂った。

 しかし、クルックスには長年の習慣による反射的な行動の結果に思えた。声をかけてもぼんやりとした返事だったからだ。……たぶん目隠し帽子の下は目を閉じているだろう。

 

「わたしもそうは思いますけれど、お父様が『延期する』と言わない限りは予定どおりの行動をするべきでしょう」

 

 廊下を歩いているとテルミがそんなことを言った。

 二人で厨房へ行き、空の水瓶を抱えて外へ出た。

 

 陽が降り注ぐ中庭にある井戸の周辺には、学徒達が作っている畑があった。

 毎年、彼らは「雑草以上の作物未満」と自嘲する野菜を作っているのだが、今年は毛色が違うモノがあった。

 

「何だこれ」

 

「肥大化した頭部──のようなジャガイモね」

 

 テルミが近くに寄ってペチペチと叩いた。

 普通のジャガイモの大きさとは、こどもの握り拳程度だと知っている。

 一個が一抱えもあるジャガイモがあることをクルックスは学んだ。

 

「品種改良というものか。スゴいな」

 

「違うと思うわ。たぶんクィレル先生の太らせ呪文ではないかしら」

 

「ん? 魔法で食料を増やすことはできないのではなかったか?」

 

「ガンプの元素変容の法則というものね」

 

「そんな名称だった気がする。食料が無限に手に入ったら世の中のたいていの諍いがなくなるだろう。しかし、できないらしいな?」

 

「そのとおり。けれど『無い』を『在る』にすることはできなくとも『在る』を『増やす』ことはできるのでしょう」

 

「……それでも、そこそこの問題は解決できそうだがな。ところで輸血液は増えるのか?」

 

「増えるかもしれないけれど中身がどんなことになるのかしらね。含有成分が薄まるとか、そんな効果がなければいいけれど」

 

 学徒の二人と客人クィリナス・クィレル元先生はこれから約半年。

 ひたすら芋を食べ続ける生活が始まるのだが、それは別の物語となるだろう。

 井戸から水を汲み上げていると噂していたクィリナス・クィレル元先生がやって来た。

 

 昨日、彼はテルミがお土産と称して持って来たシェリー酒を飲んでいた。

 喉が渇いているのかもしれない。そう思っていたが、どうにも様子が違う。

 

 医療教会の黒服に身を包んだ彼は、慌てた様子で胸を押さえ、やって来た。

 

「はぁっはぁっ……あの、今日は誰か誰か、来訪の予定は?」

 

「ありませんね。クルックス、何か聞いているかしら?」

 

「聞いていないな。朝、お父様と会ったときも特に何も……。先生、何か見たのですか?」

 

「部屋の外、軒下を誰か歩いていました。人の足音だったと、お、思います」

 

「いつの話ですか?」

 

「たった今です!」

 

 クルックスは、水瓶を地面に置いた。

 

「──先生は、大教室へ行ってください。セラフィとネフにこのことを伝えて、その後はネフの指示に従ってください。俺とテルミが先行する」

 

 喘ぐようにクィレル先生は頷いた。

 

「いったい誰かしら」

 

「一番可能性があるのは連盟員だ。もっとも距離を考えれば、の話だ。今さら用はないだろう。可能性は高くとも妥当性が低い。これは二〇〇年以上起きなかった出来事だろう。もし、本当に人間であればヤーナムの夢を自覚した者に違いない。──お父様はどこに?」

 

「湖や森をお散歩しています。探す時間は──っ!」

 

 テルミの足が一瞬だけ止まりかけた。

 

「鐘の音……」

 

「? 俺には聞こえない。何の鐘だ?」

 

「学校の入り口、本棚の裏に隠している鐘よ。でもその場所は学徒達から教えられた人しか知らないのに……」

 

「お父様の友人か? それともかつての学徒か? 見れば分かるか。──テルミはここで待て」

 

 この先の角を曲がり、らせん状の階段を下れば学舎の入り口が見える。

 その角にさしかかったところでクルックスはテルミを制した。

 

「いいえ、わたしが先に行きます。わたしの方が弱いのですから」

 

「お父様の関係者ならば俺の顔に思うところもあるだろう。知人ならば僥倖。敵ならば秘技で奇襲しろ。俺が行くぞ」

 

 クルックスは、腰のベルトに銃を提げて先行した。

 金属の擦れる音が、侵入者の足音であるようだった。

 

「──カインハーストの……」

 

 呟いたクルックスは、銃把から手を放した。

 窓から差す正午の光に照らされ、その薄い銀鎧は白金に輝いていた。

 

 カインハーストの鎧一式を身に包んだ男が立っていた。

 兜の面覆いで顔を見ることはできないが、彼もこちらを見上げているらしいことが分かった。

 

「俺はクルックス。──カインの騎士が何のご用事か。伺わせてもらおう」

 

「…………」

 

 彼は無言で階段に足をかけ、腰の仕掛け武器の刀──千景──を抜いた。

 クルックスも銃を抜き、獣狩りの斧を携えた。

 

「何のつもりだ。……血に酔っているのか?」

 

 応えは、甲高い銃声だった。

 エヴェリン──カインハーストの狩人が好んで使う銃──が火を噴き、クルックスは階段を転がるように駆けた。

 助走を付けた斧の一撃は千景の刃に当たったが、切っ先を逸らされた。

 

「んッ!?」

 

 階段の段鼻に顔から飛び込みそうになり、クルックスは銃を手放して受け身を取った。

 

「──ちょっと直線的すぎるな。連盟員らしいと言えばそうだが」

 

 聞き慣れない男の声。騎士は、血に酔ってはいないようだ。

 だが、顔を上げた瞬間。クルックスは飛び跳ねて更に階段を下がった。

 追撃した銃口は白い煙が上っていた。

 

「動きはいい。市街で会ったらそこそこ面倒な手合い。まぁまぁだ。つまり俺様の敵ではないという意味だが」

 

「なぜ、こんなことを──」

 

 問いかけは虚空に消えた。

 階段の向こう、テルミが寄生虫を握りしめた。

 

「もう一人ね」

 

「──彼方に届け、我ら聖歌の声──」

 

 掲げた手から高次元暗黒が広がる。同時に周囲の温度が急激に低下した。

 その祈りは、宇宙の接触と同時に星の小爆発を招き、無数の礫が侵入者へ放たれた。

 

「おっと」

 

 テルミの目からは、激しい光の明滅により礫の到達前に騎士は螺旋階段を飛び降りたように見えた。

 だから、すぐさま手すりから身を乗り出すように階下を見た。

 

「えっそんな──っ」

 

 誰もいない。

 ハッとして階段の中途を見れば、右手で柵に掴まり、左手に握るエヴェリンの銃口は正眼にテルミを狙っていた。

 

「あっ」

 

 テルミは咄嗟に身を引いた。

 致命傷は避けられるが、どこかに弾丸は中る。

 そんな間合いで、引き金は、正しく作動した。

 しかし。

 

 カチ、カチカチ、と引き金が空しく音を立てた。

 

「──ん、ん? んん? あれ、嘘だろ、壊れた?」

 

 騎士は「えぇ」とか「マジかよ」とか言っている。

 クルックスは、階段を昇り側で膝を着いた。

 

「雷管不良か、森の湿気でシケたとか」

 

「あぁぁ、すごく心当たりある──!」

 

「クルックス、助言している場合ではないでしょう!」

 

 テルミの檄にクルックスは、立ち上がった。

 

「ハッ、すまん! ……何だか分からんが、落ちろ!」

 

 クルックスは、彼が支えにしていた握っていた手すりの子柱を斧で斬った。

 

「おうっ!?」

 

 一階程度であれば狩人にとって大した落差ではない。

 実際、騎士は軽い身のこなしで床に着地した。

 その間にクルックスとテルミは体勢を整えた。

 

「まぁいい。かかって来な! 銃が使えなくとも、女王の騎士たる俺が劣ることはありえないのだからな!」

 

「ほう。試してみたいものだ。──私が相手でこの状況からひっくり返せるならば、女王の最も優れた騎士に相応しいだろうな」

 

 階下の暗闇は、明瞭な死地だった。

 その騎士が立ち上がった時には既に、首に『葬送の刃』と呼ばれる大鎌が添えられていた。

 

「つ──」

 

「レオーだな? ノックにしてはずいぶん大きな音であり、敵意がある。何の用事か。聞かせてもらえるだろうな?」

 

 葬送の刃を構えていたのは、月の香りの狩人だった。

 いまや学舎の守護を役割の一つとした彼が、ここにいるのは何もおかしなことではなかった。

 

「お父様!」

 

 クルックスとテルミが階段を駆け下りてきた。

 騎士はそれを見て数の不利を悟ったのだろう。

 

「はいはい、降参、降参」

 

 カインハーストの騎士、レオーは左手のエヴェリンと腰の千景を床に落として両手を挙げた。

 月の香りの狩人は、しばらくジッと彼の背中を見ていたがやがて鎌を下ろした。

 

「あー、ここまで来るのに大変だったんだぜ。連盟員には絡まれるわ。蛇はうざいのなんのって。まったく陰気な森だ。銃も調子が悪くなるし……ツイてないねぇ。よい、しょっと」

 

 レオーは兜に手をかけると外した。

 豊かな銀髪を手ぐしで整えた彼の顔は、右半面が傷病らしくケロイドになっていた。

 しかし左の半面は怪我を負っていない。精悍な面立ちであり、眼には光るものがあった。

 まじまじと彼の顔を見ていたクルックスは、逆に彼に覗き込まれてしまった。

 

「何だ、火傷が珍しいか? 見世物じゃあないんだがな。──なんてな。気にするな、気にするな。これは三歳ぽっちのガキには珍しかろうて」

 

「こども達に会いに来たのか?」

 

「それもあるな」

 

 クルックスとテルミは握手を求められた。

 どうしようか迷っているとテルミが「大丈夫でしょう」と耳元でこっそり呟いた。

 狩人が腕を組んで唸った。

 

「……そういうことは前もって連絡をしてほしいのだが」

 

「この話はやめた方がいいと思うぜ。この先『最近、カインハーストに登城しないのは誰だ』って話になる予定だ」

 

「んんっ!」

 

 月の香りの狩人は、いかにも『痛いところを突かれた』と言いたげに咳払いをした。

 そして。

 

「ちょっとレオー、ちょっと来て」

 

「あ? なに?」

 

「いいからちょっと来て……頼むから……ちょっと来い」

 

「何だってんだよ……?」

 

 レオーの肩のマントを掴み、狩人は壁際まで引っ張って行った。

 

「……相談というか、お願いだ。こどもの教育に悪いから、そういうことはできるだけ言わないでほしいのだが……」

 

「……だって事実だろう?」

 

「……俺が時間感覚に疎くて、うっかりしているだけだから。そう、何というか、大事にしてほしくないんだが」

 

「……? 待って、待って。本当に分からないから教えてほしいんだが、なんで?」

 

「……この話をするとクルックスとか絶対『連盟にも顔出していないしカインにも顔出していないなんて、いったい何やっているんですか?』とか聞いてくるんだ。返事に困るから、その……今回のお仕事は散歩ついでにセラフィを迎えに来た程度の話で済ませてほしいなぁ……と」

 

「……うーん? いまいち分からんが、貴公を困らせても良いコトがないのはそのとおりだし、まぁそういうことなら……?」

 

「……よし、交渉成立だな」

 

「……一応聞くが、連盟にもカインにもほとんど顔出さずに何していたんだ? 俺も女王様に報告する手前、ちゃんと聞いておかないと鴉がうるさいからさ」

 

「……狩人の夢で火薬庫産乳母車の作成をしていたんだ。ようやく排莢が滑らかになったところだ。ガトリング付乳母車の完成も近い。つまり我らの夜明けは近いぞ」

 

「破却! 交渉は破却だッ! この魚介風ヤーナム野郎ッ! と、倒錯しやがって! お貴族様の専売特許侵犯するんじゃねえ!」

 

 突如、レオーは狩人の襟首を掴み上げた。

 

「お、男なら分かるだろう! すなわち包容力と火力、母性と父性の融合だ! やい貴公、約束を違えるとはそれでも騎士か!?」

 

「お前だってカインの騎士だろうがッ!? この浮気性! 女王様が暇すぎて肉塊になろうかとおっしゃっていたぞ! この人でなし!」

 

「上位者だ、文句あるか!?」

 

 狩人は逆にレオーに掴みかかった。

 

「いつだって『あり』よりの『あり』だ! さっさと過去の血族を今のヤーナムに呼び戻せ! 俺の超絶可愛いエヴェリンを至急蘇らせるんだよッ! 鴉のお守りはそろそろ限界だぞッ!? もう嫌だ、アイツ!」

 

「まぁ……それは、それだけは同情する。アイツの頭は、ちょっとおかしい」

 

 二人は、鴉羽の騎士に対する感情だけは意見の一致を見たようだ。

 互いに掴んでいた手を放し「すまん、ちょっと慌ててしまって」とか「気が高ぶっていたかもしれない、悪いな」とか言い合っていた。

 そんな融和ムードが漂いはじめた頃だ。

 

 破壊的な音を立てて扉が開けられた。

 

「──新鮮な侵入者! さあ、剣を握りたまえ。我、聖歌隊のコッペリア! そして、ビルゲンワースの名の下、僕は負けないぜ!」

 

「お、コッペリアじゃないか。元気にしてたか? 頭の調子はどうだ?」

 

「────」

 

 コッペリアは、酸っぱいモノを食べた顔をして振り下ろす場所をなくした槌をブンブンと振った。

 やや遅れて仕込み杖を持つユリエが追いついた。

 

「あら、レオーだったの。銃声が聞こえたから、てっきり鴉の方かと」

 

「アイツなら鐘も鳴らさないぜ」

 

「鐘を鳴らしたのね? 失礼、聞こえなかったわ」

 

「『聞こえなかった』? 聖歌隊が鐘の音を聞き逃すなんて何をしていたんだ?」

 

「僕ら! 二日酔いなのさ!」

 

「えっ?」

 

 レオーは、目を丸くした。

 一方のコッペリアは口を押さえて廊下を引き返していった。

 

「あー、声出したらもっと気持ち悪くなっちゃった……レオーならいいよね……。狩人君、ユリエ、対応お願い……僕、寝てるよ」

 

「後ほどお水を持っていきます」

 

 クルックスが伝えるとコッペリアはヒラヒラと手を振って暗い廊下へ消えていった。

 

「さて、ご用件を伺います。レオー」

 

「あぁ……そうだな」

 

 レオーは、チラリと狩人を見た。

 狩人は熱心に彼を見つめていた。

 再びユリエに向き直ったレオーは、貴族らしく愛想のない顔をしていた。

 

「簡単に言えば、督促に来た」

 

 督促。

 頭上で交わされる言葉が分からず、隣のテルミに訊ねた。

 

「うーん、そうね。『期限が過ぎてしまった約束を成立させるために急かすこと』かしら」

 

 残酷な解説となってしまったテルミの言葉を受けて狩人は、ますます渋い顔をした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ──立ち話も失礼ですからね。

 ──失礼なことが多くて本当に失礼なのですけれど。

 

 ユリエは、ほとんど口を動かさなかったが狩人のそばを通りすぎる時に「あとで話があるわ」と低い声で言った。

 

「あー、ユリエ、そのー、ユリエさん、あのー……これには深淵で温かい事情があるワケで……」

 

 釈明に追われる狩人を視界の端に置きつつ、ぞろぞろと教室へ向かう道中、テルミはレオーの手を握っていた。

 

「レオーおじさま、森を歩いてくるのは大変だったでしょう?」

 

「んー、まあな。でも慣れるものだ」

 

「わたし、方向音痴なの。それでも慣れますか?」

 

「大丈夫、慣れるよ。三年ちょっとで何でも十全に出来ている方がおかしいのさ。目印を付けてすこしずつ分かる道を増やしていくのがいいと思うぞ」

 

「やっぱり地道にならないといけませんよね……ええ……」

 

「頑張れ、頑張れ。あぁぁあ……! 若人が頑張っている様子を見るのは元気が出るなぁ……!」

 

 しみじみと彼は言った。

 教室に行くと未だに回復しないセラフィは机に突っ伏して寝ていた。

 ネフライトも相変わらず椅子を数席占領して寝ている。

 端の席にはガチガチに緊張したクィレル先生が座っていた。

 

「──あ。貴様が『ヤーナムの外から来た、不運な先生』というヤツか?」

 

「ぁ、は、はぃ……」

 

「ほぉ」

 

 レオーが、目を細めた。

 その目つきは、連盟員が獣の死血から虫を見出すものに似ていることにクルックスは気付いた。

 彼は優しげに笑ったつもりのようだが、クィレル先生がさらに顔を引きつらせた様子を見ると威圧的に感じたらしい。

 

「学舎から出ないことだ。ここより安全な場所は、もはやカインハーストしかありえまい」

 

「は、はあ」

 

「狩人の客ならば、俺様にとっても客人だ。しかし、時の定めがあるとも聞いた。しばしヤーナムへの献身を期待する。具体的には、こども達をよく見てほしいという意味だが──おぅん?」

 

 レオーがふと教室でピクリともしないセラフィを見た。

 

「おや、昼間までセラフィが寝ているとは珍しい」

 

「んん……レオー様の声が聞こえる……幻聴だ……まだ酔っているのだ、僕は……」

 

「こっちも二日酔いか! ガキにどれだけ飲ませたんだよ……」

 

「祝いの席だったから、つい、ね」

 

 ユリエが頬に手を当てて「うふふ、あふふ」と気恥ずかしそうに笑った。

 クルックスは思わずそれに見入ってしまった。

 

「聖歌隊の教育は普通じゃあないだろう。子供の頃から酒と毒と薬で耐性を作るとか何とか──」

 

「レオー様だ!」

 

 ようやく幻聴ではないことに気付いたセラフィが、板模様を頬に付けたまま大きな声を上げた。

 

「元気にしていたか?」

 

「はい! 僕は元気で──テルミ!」

 

 レオーのマントの下から顔を出したテルミがニコニコと笑った。

 

「レオーおじさまとお話しながら来たの。とっても素敵な騎士様ね。セラフィが大切に想うのも分かるわ」

 

「テルミ! レオー様は、ぼ、ぼ、僕の先達だ! 駄目だ、駄目だ! 君の先達は、あっち! あっちだぞ……!」

 

 セラフィがテルミに対して強い感情を向けることは、そう多くない。いいや、思えば初めてのことだった。

 剣呑な目つきでテルミを見るセラフィだったが、レオーがうまく取りなした。

 

「こらこら。『きょうだい』も『しまい』も仲良くしないと駄目だろう。テルミは、俺の後輩に向かないから大丈夫さ」

 

「あら、どうして?」

 

 テルミが、首を傾げた。

 

「俺の後輩は『鴉と上手く付き合うこと』って条件があるんだが、アイツ、教会の連中が特に嫌いみたいだからな。──というワケでテルミはカインには不向きな経歴だな。うーん、残念!」

 

「そうなの? では難しいですね。それにお話を聞いていると、うーん、セラフィほど鴉羽様と上手く付き合えない気がします。理屈もなしに癇癪を起こされるのは、ちょっと困ってしまうかもしれませんからね……」

 

 セラフィのささくれた敵意が収まった。

 テルミは、するりとレオーのそばを離れてセラフィの隣の椅子に座った。

 ネフライトだけは『世界一、どうでもいいものを見た』とでも言いたげに鼻を鳴らし、椅子に寝転がった。彼の中にカインハーストに払うべき敬意というものは存在しないようだ。

 

 簡易な応接場としてテーブルと椅子を用意した。

 椅子に腰掛けるとレオーは封筒を取り出し、狩人に渡した。

 

「狩人は、ちゃんと暦を見て生活しろ。あと、たまには外に出て日干しになれ。黴臭いぞ。これだから地底人は……。はい、これ」

 

 レオーは懐から古風な封筒を取り出した。

 狩人はそれを受け取り、一枚の紙を取り出した。

 

「督促状……『穢れ』の納品時期。もう過ぎていたかぁ……」

 

「思い出したか。おめでとう。とっくに過ぎた。三日前だった」

 

「お、おぉぉう……あの、つかぬことをお伺いするが……女王様、怒って……?」

 

「怒るワケないだろう。どうせ期限をぶっちぎるだろうと見越して俺を寄越したんだから。キレ散らかしているのは鴉だけさ。つまり日常だな。──市街では背中に気を付けることだ」

 

 月の香りの狩人に対し、周囲の人々からは温度の低い目が向けられた。

 もっとも良心的な存在であるクルックスでさえ「お父様……」と呟くなり、湿っぽい目で彼を見ていた。

 そのうちにレオーはもう一封を取り出した。

 

「そして、これは誓約書だ。内容は──まぁ、見てのとおりだが要約すると『諸事情で遅れておりますが三日以内に登城して納めます』。こんなものだ」

 

「三日!?」

 

 狩人は書類を受け取ったまま、ポカンと口を開けた。

 レオーは、ニヤリと笑う。火傷の痕が歪んだ。

 

「何だ? 女王様が定めた期限に問題があるのか? 明日でも構わないぞ?」

 

「あ、はい。三日で」

 

 狩人はペンを手に執った。

 しかし、署名できなかった。

 テルミが狩人のそばに来ると彼の手から書類を奪ったからだ。

 

「あー、テルミ、困る。とても困る。俺が社会的に死んでしまうので返して欲しいのだが……」

 

 テルミのことが苦手である狩人は、手出しができずに宙でペンを動かした。

 

「ええ、返します。勿論ですわ、お父様。けれど内容をキチンと読んでから署名しても遅くはないでしょう? ──あぁ、レオーおじさまも人が悪い。こちら、二枚目がありますね?」

 

 果たして。軽薄な口笛は誰のものだったか。

 肩で笑うレオーは、懐からもう一枚の紙を取り出した。

 

「ハッハッハ。テルミは耳聡く、目聡いのだな。聖歌隊ならばそうか。発見力の違いというモノか。まぁいい。うまく行き過ぎてこちらが不安になるところだった。狩人は、もうすこし警戒した方がいいだろう。雑に生きすぎだぞ」

 

「そんなに騙したいことがあったとは驚きだ。なになに──なにこれ?」

 

 クルックスは、狩人の背後にまわり二枚目の契約書を見た。

 難解な言葉が多くクルックスは理解に時間がかかった。

 誰かが簡単に言い直すのを期待しているとユリエがいち早く顔を上げた。

 

「ふむふむ。なるほど。……狩人君が次に滞納した場合は人質としてこどもを差し出せと言いたいのね?」

 

 だいたい、そういうことだ。

 首肯して見せたレオーに、セラフィが食ってかかった。

 

「なぜです? 僕に不満があるのですか?」

 

「まさかまさか。悲しいことを言ってくれるな、セラフィ。月の香りの狩人とカインハーストはこの先、長い長い付き合いになるんだ。そこは理解しているか?」

 

 そう言うレオーは、互いに顔を見合わせる仔らを見渡した。

 

「ユリエは『人質』なんて物騒な言葉を使ったが、ちゃんと賓客としてもてなす心算だ。狩人が納品──間違った。納『税』だ──すれば帰してやる。お前達が我らが女王様に拝謁する機会があってもよかろう。ちなみに発案は女王様で契約書を整えたのは鴉だ。だから俺に文句を言っても無駄だぞ。異議あれば奏上することだ。丁重にな」

 

 セラフィとて女王様の意向であれば、それ以上の口出しはできないらしい。言葉の圧に屈し「むむっ」と悔しそうに口を噤んだ。

 これまで黙って話を聞いていたネフライトが、突如、上体を起こした。

 

「申し訳ございません。私はヤハグルでの使用人生活が忙しいので、とても」

 

「わたしも登城したい気持ちはあるのですが、孤児院の生活がありますので。とても時期を選ぶことになるでしょう」

 

 素早くテルミとネフライトが『学生中は無理だ』と控えめな申告をした。

 ──俺も続かなければ。

 クルックスが「俺」と言いかけた瞬間、レオーが手早く議論をまとめた。

 

「偉いぞ、さすが連盟員。一番手は決まりだな。よーし、月の狩人。これから毎年滞納していいぞ。ぜひ滞納しろ」

 

 反論の隙はなく、クルックスは「あ、ちょ」と言いかけた。

 そんな彼に狩人は力強く頷いた。

 

「大丈夫だ、クルックス。できるだけ滞納しないからな」

 

「そこは『絶対しないから!』と言って欲しかったですよ、俺は」

 

 四人いて二人が行けない、そして一人はすでに住民扱い──となれば誰か一人は面子のために行く必要があったのだろう。クルックスは遅れてやって来た納得と共にこれからの覚悟を決めた。そう遠くない未来で行くような気がしたのだ。

 

 テルミから書類を受け取った狩人は署名をした。

 

「キリキリ働くことだ。──さぁて、俺の仕事はここまでだ。狩人が納めるまで数日、泊まらせてもらおうか」

 

「部屋の準備をするわ。いつもの部屋でいいかしら?」

 

「ああ、頼む」

 

「──テルミ、奥の部屋を準備してちょうだい」

 

「はぁい。それではレオーおじさま、くつろいでお過ごしくださいね」

 

 テルミは、黒の法衣をつまんでお辞儀をした。

 

「ありがとうなー、聖歌のお嬢ちゃん」

 

 数時間前に出会ったとは思えない親しさを見せつけたテルミは、とことこ歩いて去ってしまった。

 

「あー、私はヤハグルで緊急の諸用がありますので失礼します。お父様、何事かあれば鐘で呼びつけください」

 

「そんな機会はないと思いたいが、そうする。気を付けてな」

 

 ネフライトが厄介事の気配を感じて、そそくさと退去した。

 残ったのはセラフィとクルックスだ。

 

「レオー様、ご下命を。女王様へ契約書を届ける役を務めたいと思います」

 

「ああ、頼むぜ。……そうそう。鴉が殺気立っているから気を付けろ。いつものことだがな。なぁにが気に障ったのやら。俺にもさっぱりだ」

 

「『おかえり』は言ってくれそうにないですね。別に、悲しくありませんが……」

 

 セラフィは封書を受け取ると姿を消した。

 続いて狩人も外套を着込んだ。

 

「ちょっと行ってくる。──クルックス。これから三日間、日付が変わったら古狩人の鐘を三回鳴らしてくれ。悪夢はどうも時間感覚が鈍くなっていけない」

 

「分かりました。ご武運を」

 

 いよいよ残るのはクルックスだけだ。

 

「俺の仕事はありますか、ユリエ様」

 

 見上げると彼女は「うーん」と首を傾げた。

 

「そうね。お部屋に案内して……お茶でも出しましょうか? それとも血の酒の方がいいかしら? そうそう。せっかくだからクルックスは、お客さんの対応を練習してみましょうね」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ビルゲンワースの学舎。

 仔らが立ち入っては行けない部屋はいくつかある。

 そのひとつ。

 かつての仮眠室と思しき小部屋は、狩人の仔は立ち入り禁止となっていた。

 その理由をクルックスは知りつつある。

 

 鍵を使い開いた扉の先には、カインハーストの紋章が刻まれた作りかけの銃や工房道具が置いてあった。

 

「この部屋は、俺が使っている部屋。で、左が鴉の部屋だ。俺の部屋は、日頃も入っていいぞ。まぁ見ても楽しいモノはないだろうが。あーそうそう、夏の間だけでも換気してくれ。日蔭のせいか黴がさぁ……くれぐれも鴉の部屋は絶対に入るなよ」

 

「え、はい。入りませんが」

 

「アイツ、自分の所有物の認識が無茶苦茶だからな。椅子が数センチ動いていただけで殺しに来るぜ」

 

「まさか、そんな」

 

「その『まさか』を大真面目にやるヤツだから参ってるのさ。……主に折衝役の俺がさァ」

 

 レオーは、手甲や脚甲を外してテーブルに置いた。

 胴のベルトに手をかけたところでクルックスは水瓶やカップをテーブルの空いている場所に置き、手伝った。

 

「悪いな。柄ではないだろうに」

 

「いえ。俺は何でもやってみたいので構いません」

 

「そうか? ……ふぅん。お前、狩人に似てないのな?」

 

 背の高いレオーに見つめられた。

 その目は、クィレル先生を探っていた時と同じだった。

 

「残念ですか?」

 

「いや? 悪くないと思っている。──お、外れたな。ありがとう」

 

 鎧一式をテーブルに整列させ、肩や首を回すと彼はベッドに座った。

 クルックスは水瓶を傾けてカップに注いだ。

 渡そうとしたところ、レオーは椅子を差した。

 

「座れよ」

 

「いえ、俺は……下がらせていただきます」

 

「なぁにとって食いやしないさ。俺、連盟員は好きだぜ。狩りの腕がいい。そして真面目なヤツが多いだろう」

 

「誰かご存じなのですか?」

 

 連盟員の間でカインハーストについて語られることは多くない。

 ──西区で見かけたので気を付けるように。この程度の伝言が行われる程度だ。

 狩りの夜に悠長に言葉を交わすことがあるのだろうか。

 クルックスの抱いた疑問は、恐らく彼の想定範囲だった。

 

「ああ、たくさん知ってる。カインの騎士になったヤツらだからな」

 

 クルックスは、彼の言葉を理解するのに時間がかかった。

 理解した後も認められずに言葉を重ねた。

 

「……連盟員とカインの使命は違うものだ。いったい何を……」

 

「ああ、すまん。『元』連盟員と言った方が適切だったな」

 

「…………」

 

 向けるべきは敵意ではない。

 困惑が勝りクルックスは黙る。彼の次の言葉を待った。

 

「果ての見えない獣狩りに、虫潰し。そのなかで心をすり減らしたヤツらが最後に縋るのが慈愛のカインハーストの女王、アンナリーゼ様だ」

 

「かの女王は、貴方は、何と言って連盟員を──」

 

 言いかけた言葉は、侮辱になると思いすんでの所で飲み込んだ。

 しかし。

 

「『誑かしたのか?』」

 

 言い当てられてしまい、クルックスは「いえ」と言うのが精一杯だった。

 レオーは、ケラケラと嗤った。

 

「市井と狩人の間でカインハーストが何と呼ばれているか。ちゃあんと知っているさ。罪人の一族。医療教会の血の救いを穢し、侵す、許されない存在。ハッハッハ、笑うよな。嗤えよ」

 

「──事情があるのでしょう。俺はカインハーストに生きる人々の信仰を嗤いたくはない。他の連盟員のことは知らないが、俺には連盟の使命がある。勧誘であれば、お断りをさせていただきたい」

 

「そう頑なにならずに仲良くしようぜ。セラフィはお前を気に入っているようだ。同胞の信じるものならば、俺も等しく愛していたいのさ。狩人の思惑はさておき、新しい『何か』を生み出す可能性はヤーナムにおいてカインハーストにも存在する。お前のお父様も荷担しているんだ。そう考えれば、ヤーナムにしては良心的な誓約先に思えるだろう? ん?」

 

「……何をもって『良心』とするか。俺達の考えは、大きく異なっているように思う」

 

 苦し紛れに重箱の隅を突いてみた。

 クルックスは、早急に彼の近くから立ち去らなければいけない。そんな思いを募らせていた。

 彼は、二〇〇年近くカインハーストの騎士をしている。そしてカインハーストにおいては狩人や学徒と渡り合う折衝役であり、今のクルックスでは太刀打ちできないほど強い。口論と武力。どちらも負けているのだ。

 ──このままいけば丸め込まれるかもしれない。

 危機感を悟られたのか、レオーはパッと両手を広げ、議論を終わらせた。

 

「まぁまぁ、急ぐ話でもなし。夏休みは長いのだろう? ならば、考える時間も語る時間もたくさんあるというワケだ」

 

「いえ、考えるも語るもなく俺は連盟員で……!」

 

 その時だ。

 ふわりと鼻先に甘い香りが過ぎった。

 これまで嗅いだことのない、甘い、甘い血の香りだった。

 

「──なぁ、クルックス。楽しい休暇にしようぜ」

 

 目を見開いたまま固まる彼の肩をレオーが叩いた。

 ほんの一瞬だけだが、ひどく魅力的な誘いに思えてクルックスは口の中を切れるほどに噛みしめた。

 




誓約に基づく正当なる行為

テルミのおふとぅん:
 温かい人、募集中。


月見台の狩人:
 狩人がビルゲンワースを(狩人の夢以外で)本拠地にした理由でもある。
 補助輪的役割をしているロマが暴かれて殺されるのは、よろしくない事態となるだろう。
 ──それにしても、夜明けは遠い。
 狩人は、仔らの成長速度についていけない自分を感じて繊細になってしまっています。


二日酔い:
 ヤーナムの民は、酒に酔わない。血に酔う。
 普通、血の酒は狩りで撒き餌に使うものだ。
 だが、仔らが生まれるより前も年に一度だけ、学徒達は封を開けていた。

 酩酊。それは仮初めの忘却だ。

 明日には心身の鈍痛と引き替えに愚かさを二人で嘆く。
 すなわち伝統だ。
 そうして二人は生きてきた。
 終わりがあるから遂げられる。
 知性の在る生き物にとって、忘却は無くてはならないものだ。
 ……狩人もいろいろよく忘れる。
 やはり必要なものなのだ。

狩人の工作:
ガトリング付乳母車
ヤーナムの酔狂という酔狂が結晶した、冒涜的武装。
狩り武器ですらない。しかし、拠点防衛には向くはずだ。
……女王様に報告できるワケがない。俺の首が飛ぶ。レオーは速やかにキレた。……


【追記】
本話/zeroとして前夜の話(夜、一年間お疲れさま会)をソナーズ様にて公開しています。
筆者(ノノギギ騎士団@活動中@NONOGIGInights)フォロワー限定公開です。
読まなくても本話・今後の展開に大きな影響はないものですが、より楽しめるかもしれません。
以下、ソナーズ様リンクです。
→https://sonar-s.com/novels/982b8bc6-f935-401f-8b77-641832b78174


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最も新しき獣狩りの夜(狩人の悪夢─市街)

旧市街
現在のヤーナム市街は、旧市街の上に築かれた街である。
かつて旧市街は、獣が蔓延し医療教会は炎による治療を強行した。
それは多くの民、そして狩人の心が離れるきっかけにもなった。

焼き捨てられた旧市街には夜に必ず一本の煙が立ちのぼる。
古狩人ならば、旧市街の狩人を思い出すだろうか。
誰よりも優しく、そして愚かでもあった火薬庫の残り香をまとう狩人を。




 狩人の悪夢は、血で塗れている。

 その多くは医療教会の傾いた大聖堂から溢れ出たものだ。

 流れ出した血は河となり、場所によっては濁る毒ともなって時おり現れる哀れな狩人を苦しめるのだ。

 

 これは表のヤーナム、現実世界のヤーナムと変わらない。

 ──狩人の悪夢は『血の医療』の結末を明示しているのだ。

 月の香りの狩人がそう気付いたのは、狩人の悪夢に入り浸るようになってからしばらく経った頃だった。

 流れ出した血は医療教会が『医療』と称して輸血する血であり、濁る毒は病み人の身の内に起こることだ。

 

 河を越え、血だまりの聖堂を経て、やがて海に辿り着く。

 罪の源流を遡ってもヤーナムの民が、街が受けた呪いは解けることがなかった。

 結局のところ、狩人が何をしても右回りの変態──獣と変じる人々を止めることはできないのだ。

 ガスコイン神父しかり、エミーリア教区長しかり、重病者のギルバートしかり。

 

 だが、今回からは違う。

 これが最も新しく、最後の獣狩りの夜となるだろう。

 狩人の決意は硬く、殺意も同じように鋭いものだった。

 

 血の河を這いずる血舐め──やせ細った長躯で腹ばかりが肥大化した悪夢の生き物──を見かけた端から手足をもいで首を落としていく。囲まれなければ負けることはなかった。

 そして辿り着いたのは、洞窟だ。洞窟内は行き止まりだと知っている。

 彼と戦うのも何十回か、何百回ぶりだった。

 

 洞窟の入り口に立つ。

 敵には、存在が悟られただろう。

 

「貴公、デュラの仲間だろう! デュラ、旧市街のデュラだ! ガトリングのデュラだ! それから火薬庫の、たぶん友人だったんだろう。……そうだろう!」

 

 答えは無かった。

 しかし、代わりだろうか。ガトリングの掃射があり、狩人は近くの岩場に飛込んでかわした。

 

「ダメか。……まぁいい。気を取り直してやろう」

 

 体勢を立て直し、爆発金鎚の撃鉄を背に当てて起こした。

 赤々とした火が灯る。これが敵を打ち据えるとき、敵は火薬の威力を知ることになるだろう。

 

 敵。

 

 洞窟にいるのは、三人いるというデュラの仲間のうちの一人だ。

 デュラ曰く最も年若いという彼は、ある日、突然姿を消した。

 狩人が消えるのは、珍しい出来事ではない。特に我を無くした血に酔った狩人が消えるのは、ヤーナムにおいて自然の道理なのだ。

 

 ここは狩人の悪夢。

 祈りを知らぬ狩人が囚われる世界。血に酔った狩人が流れ着く、最後の世界だ。

 

「だいぶ痛いが、我慢してくれよ。……ははは。デュラさんに恨まれるだろうか」

 

 自らを奮い立たせるため、自分の太股を叩き、彼は立ち上がる。

 そして。

 

「貴公、火薬庫の男だろう! 炎と爆発に関して、きっと私より思い出すこともあるだろうなッ!」

 

 洞窟に踏みいる。

 標的を定めたガトリングが赤と白の火花を散らした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 男は、目を覚ました。

『我に返った』という表現が適切かもしれない。

 

 旧市街の時計塔は、強い風が吹く。

 

 瞬きしたところ目が乾いて痛かった。

 どうやら瞬きもできないほど真剣に虚空を見つめていたらしい。

 

 呻きながら何度か瞬きをした。

 頭が炎と爆発で満たされる夢を見ていた気がする。

 具体的には、自分の頭蓋が叩き割られる夢だ。

 夢の感想は、数分も抱いていられなかった。

 

 ──自分は、何かすべきことがあった。

 

 喉が渇く。

 頭の奥がひどく痛む。

 

 額に手を当てていると地上が見えた。

 薄汚れた襤褸の布を被った獣が歩いている。 

 

 ああ、そうだ。

 ようやく使命を思い出した男は、ガトリングを持ち直した。

 

「デュラさんは優しいから、獣を守らないと──オレがやらないと──オレが、ちゃんとしないと──そうだ。教会の奴らが来るかもしれないし──でも大丈夫。見ててくださいよ、デュラさん! オレが、皆を守りますから!」

 

 思っていたよりも大きな声が出た。

 頭痛が気にならないほど気分が良かった。

 

 彼は気付いていなかった。

 

 存在する場所が血と毒に塗れた洞窟ではなく、明るい夜空の下であることに。

 洞窟に長く居座り過ぎた彼は、空を忘れていたのだ。




最も新しき獣狩りの夜(狩人の悪夢─市街)

旧市街の狩人:
『N年生まで』章は、ヤーナム編となります。
 さて。2話『幼年期の揺籃』に出てきた古狩人、デュラ。
『3年生まで』章では、深く関わる登場人物になります。
 筆者としては、誰が行くのかお楽しみにしていただきたいですし、テルミに性癖を殴られている人は今のうちに脳の瞳を保護していただくか邪視を得てもらいたいと思っています。


素晴らしい読者:
 1年生章までで約23万字。(約22メロス)
 2年生章までで約39万字。(約35メロス)
 たくさん書いてしまいましたが、たくさんお読みいただけて筆者はとても嬉しいです。(ジェスチャー 簡易拝謁)


次回予告:
台詞をそのまま使えるか分かりませんが、大筋はこんな話になる予定です。

【挿絵表示】

使用したサイト:SS名刺メーカー(https://sscard.monokakitools.net/)様


進捗報告について:
 進捗ノート(https://shinchoku.net/notes/64609)様を使い、だいたい一日に一回、報告しています。
 下の挿絵は、筆者がTwitterで呟いた内容を4件ほどまとめた画像です。
 こんな感じで見ることが出来ます(例)として作ってみました。

【挿絵表示】

 報告自体は、筆者のTwitter(https://twitter.com/NONOGIGInights)からも見ることができます。しかし、Bloodborneゲームのスクショや呟きは、ノノギギ騎士団(@NONOGIGInights)のプロフィールページに別アカウントページの案内があるので、そこをご覧ください。最近はエルデンリングについて(主に嘆きを)呟いています。──皆も褪せ人になって狭間の地の王になろうぜ!

『進捗ノート』にだけおいている文章や設定集等特にありません。
 進捗を追いかけるにはTwitterフォローをしていただくのが簡単だと思います。
 Twitterでは進捗報告・マシュマロのご返信、創作全般、イラストの掲載、たまにポケモンについて呟いています。
 
 たくさんのご感想ありがとうございます(ジェスチャー 交信)
 刺激になりすぎて書き溜めていた話を毎回約2,000字ほど加筆して投稿していました。ご返信が追いついていないのは本当に申し訳ないです。でも、嬉しいのでたくさんご感想いただけると筆者は幸せです。
 また、アンケートのご回答ありがとうございました。結果は真摯に受け取らせていただきます。

 それでは『3年生まで』章で会いましょう。
 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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3年生まで
騎士と学舎(上)




長細く割った燃料用の木材。広葉樹が好まれる。
効率的な燃焼のためには乾燥させる必要があるが、
乾燥が過ぎれば燃焼時間は短くなる。



 古の神秘の学舎、ビルゲンワース。

 そこは、禁域の森と呼ばれる深い森を越えた湿地帯にある。

 

 日常であれば、人の気配は遠く、静まり返り、ときおり聞こえるのは姿の見えない不気味な鳥の鳴き声のみという場所であったが、今日に限っては事情が異なるようだ。 健全な人間の営みである薪割りの音がコーン、コーンと響いていた。

 

「ほいよ、次」

 

「はい」

 

 せっせと薪を割っているのは休暇中のカインハーストの騎士、レオーだった。

 丸太のそばで割った後の薪を片付けつつ、薪割り用の木材を設置しているのはクルックスだ。

 二人の共同作業はこの調子で早朝から始まり、最後の一つを真っ二つにした頃には、昼になっていた。

 

「お手伝いいただき、ありがとうございます」

 

 ヤーナムにありふれた木製の荷車に薪を乗せ、学舎まで運ぶ間、クルックスはレオーと話す機会を得た。

 

 連盟員のクルックスにとって。

 医療教会の宿敵であり、連盟員とも関わりがあるらしいレオーとの関係は、敵とも味方とも呼べない不思議なものだ。もっとも一概に敵味方に区別する必要はないハズだが、ここはヤーナム。身の振り方を気を付けなければならない土地において、互いの立場をハッキリさせておくのは重要なことだった。

 薪割りを手伝うと言ったレオーに対し、最初に投げかけた質問はそれだった。 彼は目を細め、薄く微笑みながら答えてくれた。

 

 ──見かけによらず、難しいこと考えるのな。そうさね。敵ってことでいいんじゃないか? 連盟員は『穢れ』をよく落とすからな。そっちの思惑は分からんが、俺は狩るぜ。なら敵だろう。

 

 しかし、こうも言った。

 

 ──とはいえだ。俺の楽しい連休中にお仕事の話を突っ込まれるのは、愉快なことではないな。特にお前の質問は、あまりに正々堂々としている。分かるか? 「あれはあれ、これはこれ」よ。お前だってここにいる間は連盟員のクルックスではなくて、月の香りの仔だろう? 血生臭い話は夜にしようぜ。そう、夜に。お前はどうやら歴史のお勉強がしたいようだからな。

 

 たしかに。彼は頷いて非礼を詫びた。

 月の香りの狩人の仔であるクルックスにとって。

 レオーとの関係はビルゲンワースの学徒と等しく『月の香りの狩人の協力者』という枠のなかにいるのだ。

 ならば礼を尽くすべきだった。

 

「構わん、構わん。お前達がいなかった頃は、俺があれこれ力仕事をしていたんだ。慣れているのさ」

 

「あっ……。お父様の滞納癖は、本当に……何というか……ご迷惑をおかけして……」

 

「ハハハ、ここに来る理由は取り立てとは限らん。ちょっとした旅行で来ていたのさ。学徒達は血縁的に俺の親戚にあたる。彼らの様子を見に来ていたんだ」

 

「親戚? なるほど……」

 

 クルックスは、近所付き合いも知らなければ親戚付き合いも分からなかった。

 だが、レオー曰く「そういうもの」だと言う。

 クルックスは大人になった自分を想像した──それは父たる狩人の姿だ──同じ枝の『きょうだい』達のため各組織を訪ねる。想像していると気付いた。魔法界、そしてホグワーツへ通うという事情がなければ、クルックスと他の三人が定期的に顔を合わせる機会は、狩人の夢で偶然出会うか出会わないかという程度になってしまう。

 クルックスの発見を知らず、レオーは言葉を続けた。

 

「二人が取り組んでいるのは神秘の研究らしいな。俺はあまり詳しくないがあの手の研究は、よく気が触れる。まぁ、二人ぽっちで長年やっていれば神秘の研究でなくとも気が触れるだろうが……。ともかく、いつもとは違う話し相手がいれば気分がすこし変わるだろう。そういう理由で来ていたのさだ」

 

「なるほど。そういえば、コッペリア様は体調不良でお休みですが、ユリエ様は楽しげにしていました。気分転換になっているのだと思います」

 

「だとすれば幸いなことさね」

 

 レオーは、肩を揺らし笑ったようだった。

 休暇を穏やかに過ごす彼は、草臥れた雰囲気をまとっている。

 

「お、いい感じの木の棒!」

 

 そう言って拾った木の棒を右手で弄びつつ荷車を押すクルックスをニコニコ顔で見守る彼がカインハーストの騎士であるとは、事情を知らなければ誰も気付かないと思われた。

 布の如き薄い銀製の狩装束を脱いだ彼は、品の良い黒のズボンとストライプのシャツ、リネンのベストを着ている。白銀の長い髪を背中で結い、傷病痕が残る右半面の顔を惜しげもなく晒していた。

 ビルゲンワースに休暇で来たとは本当のことなのだろう。遠慮も憚りもしない気安さが窺えた。

 彼は、不意に湖からやって来る風に誘われ遠くを見る目をした。周囲を見る目の鋭さと体幹の緊張は無意識の警戒を感じさせる。敵の多いカインハーストの狩人らしいとクルックスは思った。

 さて。カインハーストの恵体は古狩人においても顕然らしく、彼もまた見上げるほど背が高い。クルックスは、彼が話す度に頭を動かした。

 

「そういえばユリエ、ユリエか。──ああ、そういえば。ふむ。なぁクルックス、やや聞きにくいことだが」

 

「はい」

 

 荷車に山のように詰んだ薪を学舎の床下倉庫に通じる穴に放り込みながら、レオーがヒソヒソと声を低くした。

 

「お前だけでも、実は、ユリエが産んだ子だったりとかしないのか?」

 

「はい。はいッ!?」

 

 クルックスは薪と一緒に荷車を穴に放り込みそうになった。

 レオーは『聞きにくい』と言ったとおり顔を顰めた。顔の右半面を覆う火傷の痕は、引き攣った。

 クルックスの心臓がバクバクと音を立てて震えた。奇妙な動悸をおさえるため胸に手を当てた。

 

「お節介だと重々承知なのだがな。俺としては、若い女がいつまでもフラフラしている様子を見ていると、どうにも不安で。いっそ狩人が責任を取って身をかためてくれたら安心できるのだが……」

 

「ユリエ様はフラフラなど、し、していません、していません! ちゃんと自分の足で歩いています」

 

「いや物理的な話ではなく……。しかし、この反応を見るにどうやら違うらしい。お前は狩人とそっくりだしセラフィよりは期待したんだがな。ということは、お前も回転ノコギリ産か。いや、そもそも回転ノコギリ産って何だよ。どうして回転ノコギリでガキが出来るんだよ。こっちの頭が破裂するわ」

 

「…………」

 

「エッ。まさか、子供がどうやって出来るか知らないとか……ないよな?」

 

 レオーが、かなりギョッとした顔で口を押さえた。

 クルックスは慌てて手を振った。

 

「せ、生物の仕組みは、もともと知っています。俺達は別に『何も知らない』状態で生まれたワケではないので……いえ、それとして俺は特に他の三人に比べて知識が欠けていることも多いのですが……自分達が異常な出自であることは、ちゃんと分かっています」

 

「ふぅん、そんなものか。それも不思議な話だがな。辻褄が合ってるのか、合っていないのか。いやはや、いやはや」

 

 最後の薪の束を穴に放り投げて作業は終了した。

 だが、クルックスはまだ荷車の柄を持ったまま、レオーを見つめていた。

 

「辻褄ですか?」

 

「ん? ああ、いやなに。確信がある話ではない。しかし、物事というのは上手い具合に辻褄がついて、釣り合いが取れるように出来ているのさ。まったく因果なことにね。俺が言っているのは、つまりさ。──狩人が何かを生み出したということは、狩人の中では何かが減っているんじゃないかってことだ」

 

「何か……? ふむ……。お父様は怪我の直後、何も心身に変調は無いと人形ちゃんに報告したそうです」

 

「ああ、そう。なら気にするな。俺の勘さ。お前達は、悪夢なんざ現実の法則があってないような世界で生み出された、しかも元凶の上位者の生き物だ。常識の範囲外でもまったく不思議ではないが、それにしても『生き物』だ。しかも、かなり『まとも』ときている。セラフィも腹が減るし眠気もある。お前もそうだろう? 可愛いよな。俺は困らんが、悪夢の生き物としてのお前達は常識的で『まとも』が過ぎるだろう。これって悪夢が仕掛け武器や聖杯の儀式素材を生成する事とは『違う』と思わないか?」

 

「たしかに。言われてみれば……。出自の異常は理解したつもりでしたが、お父様の負担になっていたかも、とは考えたことがありませんでした」

 

「なったんだか、なっていないんだかさ。いつも何があってもケロリとしているヤツだからな。……よーし、荷車を戻したら、散歩するか」

 

「お供させていただきます」

 

「うんうん。お前みたいな後輩こそ俺が欲しいものだ。年上に従順なヤツは長生きするぞー」

 

 レオーは嬉しそうに笑って、クルックスの頭をくしゃくしゃと撫でた。セラフィもこうした待遇を受けているのだろうか。ふとそんなことを考えた。

 

「む。そういえば、後輩というと巷の噂である『流血鴉』と呼ばれる狩人もレオー様の後輩にあたるのでしょうか? それとも先輩なのでしょうか?」

 

「えー、アイツの話しちゃう?」

 

 その声は、冗談めかしたものだった。

 市街にいる狩人であれば一度は聞いたことがある『流血鴉』の噂。

 真偽が気になるのは分かる。理解を示す声音でもあった。

 

「あ、いえ。その、聞かれたくない話ならば……俺は」

 

 そっぽを向いたクルックスを見てレオーは笑った。

 

「いやいや、構わないさ。そのうち市街でバッタリ出くわすこともあるだろう。鴉は、俺の後輩さ。世代的には、うーむ、爺と孫くらい離れているんじゃないかな? 時系列が捻れていなければ三世代くらい。俺がカインハースト絶頂期の狩人なら、アイツはお前のパパと同じくヤーナム末期の狩人だ。傑作的騎士ではあるが、やはりちょっと無理が祟ったか。頭がおかしいヤツでな。そこが愛せるところでもあるのだが」

 

 レオーは自慢げに語った。

 湖面を凪ぐ風は、二人にも訪れる。

 レオーの白銀色の長い髪が、キラキラと光って見えた。

 だが、クルックスは見とれるより先に疑問を抱いてしまった。

 

「無理とは?」

 

「より優れた騎士を求め、血質を高めるためにヤーナム末期の血族達は互いに無茶をしたということだ。血が近すぎたんだろうな。そのおかげで多血の持病を持っているし性格も気性も実に良くない。癇癪持ちってヤツだ。良質の畑だとしても連作はいけないよなぁ」

 

「それは……ヤーナムにいれば性格も気性も荒れるでしょう。その、血に因らなくとも」

 

 クルックスは、カインハーストが抱える事情を多くは知らない。

 だが彼らが抱えていた騎士は、その多くが医療教会が派遣した処刑隊により粛正されたという話は知っている。それでも生き残った騎士達がいたとすれば、住人がいたとすれば、その復興のために何を努力するか。息苦しさと共にクルックスでも予想ができた。

 

「ありがとうなー。あまりに温かい言葉だ。血が通っている。鴉もビックリするだろう。……しかし、ヤーナムの民によって擦れた部分もあるだろうが、ほとんど持ち前の『難』だよ。とはいえ、不器用だが悪いヤツではない。会った時は最低限の礼儀は払って欲しいところだ」

 

「気を付けます。会う機会は……あまりないと思いますが」

 

「さーて、どうだろうな。案外、アイツから会いに来るかもな。セラフィのことはずいぶん気に入っている。そうそう。俺がここに来る前日、セラフィがカインハーストに戻ってきたんだがその時に光画を持って来たんだ」

 

「光画? ああ、写真ですね?」

 

「そうとも呼んでいたか。うんうん、それそれ。俺達は姿絵といえば、絵画しか知らないからな。『きょうだい』写真を見て、俺なんかは『へー』と感心していたんだが、鴉はずいぶんと気に入ったらしい。セラフィも『きょうだい』達のことはとても大切に想っているのだろうな。いろいろとお話をしてくれたぞ」

 

「ど、どんな話を?」

 

 クルックスは、平坦な道で躓いてしまった。

 

「警戒するような話は特に……? 普通、普通さね。まず名前だろ。あと所属。鴉は珍しく外にも興味を持ったな。行きたいとは言わなかったが。『きょうだい』のなかだとテルミが気になっているようだったな。聖歌の嬢ちゃん。医療教会には思うところがあるのだろうな。それに女性だからな。うんうん。健康だな」

 

「うん……? うん……?」

 

 どのあたりに健康な思考があったのかクルックスは考え込み、その結果、聞く機会を逸した。

 テルミは誰とでも良い付き合いができる優れた平衡感覚の持ち主だが、本人の与り知らぬところでカインハーストの流血鴉に狙われているとは、まさか思わないだろう。また、彼女がどうやって鴉を避けるのかクルックスは考えつかなかった。テルミは『きょうだい』の中で最も戦闘の才に恵まれなかったのだ。

 

「気難しいヤツだが、話せば低確率で話し合いが成立することもあるかもしれない。俺に何かあったら頼むぞ」

 

「レオー様に何もないように祈りたい気分ですね」

 

「セラフィはうまくやっている。お前も大丈夫だろ。しぶとそうだし」

 

「諦めは悪い方だと自覚していますが、俺は、人付き合いがうまくないので……」

 

「大丈夫、大丈夫。そのうち慣れるさ。……ヤーナムの夜は長い。気長にな」

 

 クルックスは、うつむきがちになっていた顔を上げた。

 

「お父様からも言われました。『どうか気を永く保ちたまえよ』と」

 

「む?」

 

「貴方は……長い夜は、辛いのですか」

 

 クルックスが見上げるとレオーは口の端を歪めて笑っていた。

 そして、またクルックスの頭をくしゃくしゃに掻いた。

 

「お前の質問はまっすぐすぎるのだ。あまりに『まとも』で、愚かで、眩しいことを聞く。……カインハーストには向かないな」

 

「それは、し、失礼しました」

 

「お前は悪くない。俺のワガママだ。口に出してしまえば、その感情を認めることになる。人間の心は意外と脆いからな。長い夜には、目の眩む大義と小さな意地が必要なのさ」

 

「……鴉は外の世界に興味がなさそうだと言ったそうですが、貴方は?」

 

 ヤーナムの長い夜を厭うならば、ここではない生き方を今とは違う生き方ができるのではないか。

 暗に伝えた言葉は、レオーに届いた。

 

「おいおい。俺はカインハーストの人間だぞ。カインハーストで生きて、いつか死ぬのさ。目下、彷徨う場所が聖杯かヤーナムかの違いだけだ」

 

「…………」

 

「お前も、そのうち分かるさ」

 

 レオーは、クルックスの頭をポンポン叩いてニヤッと笑った。

 湖を一周すると学舎の前に戻ってきた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

「クルックス。クルックス」

 

 名を呼ばれた彼は返事をした。眠気覚ましの茶を淹れたポットを持ち、ビルゲンワースの学徒、ユリエのそばに歩みを進めた。

 学舎にいる間だけでもお手伝いを──という志で始めたお茶くみは、現職の使用人をしているネフライトほどではないが、なかなかサマになってきていると感じている。

 クルックスにとって「これだけで褒められるのだろうか?」と驚きかけたが、まさかそんなことはなかった。

 

「コッペリアの様子を見てきてくれないかしら。静かすぎるわ」

 

 一瞥もせず──そもそも彼女の瞳は目隠し帽子に遮られ、クルックスには見えないものだったが──ペンをはしらせ続けるユリエの命令を受け、クルックスは数分後にはコッペリアの私室の扉を叩いていた。

 

「反応はない。どこか……お散歩しているのか」

 

 クルックスは、そのまま校内探索を始めた。

 校内にいなければ、さらに森を探すことになる。

 もし、レオーを見かけたらコッペリアについて聞くべきだろう。

 

 校内をくまなく歩いているとやがて学舎二階にある月見台に来た。

 学長ウィレームが乗る車いすが、ギィと軋む音に加えて、今日は二人分の話し声が漏れ聞こえた。

 

 ──アッアッアッ。コレ、阿片?

 ──ククク、似たようなもんさね。あまり一気に吸うな。イクぜぇ。

 ──すこしでも十分さ。世界がギラギラする。すごい掘り出し物だ。まだ市街にあったとは……。

 ──驚くことなかれ。ころがした教会の狩人が持ってやがった。これから毎年狩らなきゃな。

 ──悪いオジサン! そこが愛せる~!

 ──趣味悪いな。

 

 とんでもない言葉がいくつか聞こえた。

 クルックスは月見台が現在進入禁止になっていることを悟り、音もなく壁に張り付いた。

 わずかに空いている隙間から覗き見ればレオーとコッペリアが一本の煙管を吸いまわしていた。

 

 いつもは白い煙をくゆらせている煙管は、いまは毒々しい紫の煙を燻らせていた。鼻がツンとする奇妙な刺激臭。匂いも知らないものだ。記憶にある香りではない。

 

 ──あ、まーっ。これレオーの血も混ざってるでしょ。

 ──さァて。教えられんなぁ。その辺は血族協定の秘密事項なんだよ。 

 ──悪いオジサンだなぁ、ホント。

 ──たまにはいいだろ。あー。うま。

 ──良すぎるんだよ。これ、市街で売り出したら中毒者続出だろう。聖歌隊の僕だから気分よく吸えるだけでさ。

 ──ハハハッ、魅力的ってか?

 

 宙に紫煙を吐き出したコッペリアが、目隠し帽子に手を触れた。

 

「人間には甘い。甘すぎるんだ。堕落を招くほどに。だから君たちは根切りされたんだ。カインの血統を利用するとして『カインハーストの家』なんて、要らないんだからさ」

 

 ハッキリとした輪郭を持った言葉が耳に届く。

 クルックスは、冷たい手が内臓に入り込んだように感じられた。

 レオーが次の言葉を発するまで、彼は月見台に踏み込むべきかどうかの思考に数秒を費やした。だが、いつまで経ってもレオーが帯刀する仕掛け武器──千景の鞘鳴りが聞こえることはなかった。

 

「そこが限界だったのだろう。高いところにある林檎を囓ったビルゲンワースと禁断の血を啜り生まれた血族とのさァ。全ては優劣の話ではない。カインハースト側に論外の価値が生まれてしまったからな。同じ夢を抱いていられなくなった、と言うべきか」

 

「禁断の血を盗んだのが誰か知らないけど、もし、カインハーストがその血を啜らなければ、少なくとも殲滅までされなかっただろう。僕もカインハーストに生まれていたかもしれない……」

 

 コッペリアの声にはいつにない弱々しさがあった。

 並んで座るレオーに彼は寄りかかった。気疲れした動きだった。

 

「おい、湖に落ちるなよ。……血の女王が生まれなくとも、そのうちテキトーな理由をつけて焼き討ちされただろうよ。それこそ旧市街を焼き討ちしたように。殺すために殺すのだから、その時こそ火を使っただろうな。旧市街より早いか遅いかの話だったさ。……粛正など名ばかりだ。ガキどもを捕まえるための処刑隊だろう。ローゲリウスもわざわざご苦労なことで」

 

「ローゲリウスかぁ。処刑隊、ローゲリウス。彼さぁ不思議なんだよねぇ。記録も記憶も一切なし。彼って誰なのさ」

 

「俺も知らん。医療教会の内側と市街のことには詳しくない」

 

「娼館は詳しいのに?」

 

「あれは血族くずれの女もいるからで、俺の趣味じゃあ──ンなことはどうでもいいんだよ。医療教会の内情なら聖歌隊のお前らが調べられるだろう。もっと頑張って探せ。教会のお歴々とて、どこから来たか分からない誰かを処刑隊の長に担ぎ上げるワケがない。ルドウイーク以来の英雄になるかもしれんヤツだ。素性の調査は、その時代なりにしっかりやったハズだろう……」

 

 レオーが、来た理由がこれなのだろう。クルックスはますます扉に身を寄せた。彼の仕事は『月の香りの狩人への督促』だけではなかった。そして、これはきっと彼の個人的な依頼なのだと思えた。なぜなら。

 

「一応聞くけどさ、女王様は今年も黙り?」

 

「……俺がお前を催促したあたりで気付いて欲しいことだな」

 

「僕だって参ってるのさ。頑張っているよ。久しぶりに上層に遊びに行った先、同僚の聖歌隊員から怪しまれるくらいにはね。そろそろ紙の資料を探すのも限界なのかも……君の依頼。本当の本当に、お歴々は秘密を墓場まで持っていったのかもね。前後の文献を見ても、数十年分の情報が失われている可能性がある。それも極めて高い可能性だ。だから狩人君を強請る方が有意義かも。あるいは、ルドウイークが還ってきたら楽なんだけどな。それかローレンス初代教区長とか。女王様が黙りをきめこもうが、他の当事者に話を聞けば一発だろう……?」

 

「悪夢から還って来ていない人間をアテにするな。どんな状態で還ってくるか分からんぞ。馬面右回り変態野郎とか炎上系聖職者で還ってくるかもしれん。悪夢から還ってきた奴で、こうして会話が出来る状態の狩人は貴重だ。たいてい血にのまれたまま悪夢の徘徊ついでにうっかり這い出て来るだけなのだから。俺達がまともだから、相手もまともだろうなんて甘い考えだ。……そういう幸運を頼りにする思考は捨てろ。頭どころか心も病むぞ」

 

「そうだけどさぁ……」

 

 コッペリアは、また一口煙を吸った。

 会話の終わりが近付き、クルックスはそっと扉をから離れた。

 絶対にバレていないと思っていたが、一度だけ振り返ると細くなった扉の隙間の向こうでレオーが振り返り笑っているのが見えた。

 

(血の狩人、人の気配には特に敏感らしい──)

 

 後で釈明しなければならないと心に決め、今は辞した。

 最初の依頼のとおり、ユリエにコッペリアの消息を伝えるためだった。




騎士と学舎(上)
 ソナーズ様のサイトで先行公開していた作品を校正したものです。言葉の端々が変化している程度で、最終稿は本投稿分となります。
 レオーおじさんと行く楽しい夏休みは3話編成でお送りいたします。

親戚なんだ?
 現在『ビルゲンワースの学徒』と呼ばれるユリエとコッペリアは、医療教会の二大会派の一翼たる聖歌隊の流れを汲む人物達です。その聖歌隊がどこから発生したかを辿ると、かつて医療教会が処刑隊を使って壊滅『させた』カインハーストの血を引く子供又は子孫です。経緯はともあれ、カインハーストの血を引く存在が医療教会の中に生きている状態にあります。
 レオーはビルゲンワースの学徒に限り、親戚認定しています。もしも、カインハーストが市街で聖歌隊に出会ったら──高位の医療者が市街などという下界に降りてくることはほとんどありえませんが──念入りに解体することでしょう。医療教会の実験用ネズミに成り下がったカインハーストの人間は彼にとって解釈違いもいいところです。
 ところでビルゲンワースの学徒はカインハーストの血が流れているため、セラフィの『カインハーストに従う性質』を便利に使える人物達ですが、本当に使っちゃうと依頼内容によっては本家であるカインハーストの先達との諍いに発展するのでヤーナムにおけるお使いを頼むことは、まずないでしょう。親しき仲にも礼儀ありの精神なのでしょうか。

狩人様がどこか減っているのではないかというレオーの勘
 レオーが尊ぶ勘については、2年生まで章冒頭の27話『医療教会の射手』にて語られています。

アヘン
 普通に常習性のある薬物なのでアウトです。クルックスの情操教育に悪いので後にレオーとコッペリアが持っていた分は、ユリエに没収されました。薬物、ダメ、絶対。

ローゲリウスとは?
 かつて医療教会に存在した処刑隊の長の名で、今では辛うじて『ローゲリウスの車輪』という仕掛け武器の名としてあるため、狩人の記憶から消えていないだけの存在です。
 レオーは、カインハーストを壊滅させた処刑隊の長について知りたいようです。しかし、失伝した情報が多いため分からないことが多い。聖歌隊を離脱したものの、医療教会に深く身をおくことが出来る人物が探し続けても見つからない状態にあります。
 処刑隊の信奉者は存在しますが、その教義も活動内容も今では何も分かりません。ただ、殉教者ローゲリウスは言った言葉だけが伝わります。
「善悪と賢愚は、何の関係もありません。だから我々だけは、ただ善くあるべきなのです」

 この言葉を聞くと「だからァ?」とレオーおじさんも穏健ではなくなるのでコッペリアは自重しています。

今後の投稿
3年生まで(ヤーナム編)21話
3年生(ホグワーツ編) 29話 合計50話の投稿となります。
毎日投稿してやるぜ!と言いたいところですが、遅れる日もあると思われます。でも0時投稿を目指したいとは思いますので、筆者頑張ります、の気分です。
ま、致命的見落としがなければ大丈夫でしょ、大丈夫……たぶん……たぶんね……



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騎士と学舎(中)


レオーの煙管
刻み煙草を吸うための道具。吸い口と雁首は銀で作られ、三種の植物模様が美しく刻まれている。
長い夜あるいは聖杯でそれはエヴェリン亡き頃の彼を人に留める縁だった。
葉煙草が切れた時、彼は全てを手放した。



 依頼と言えば。

 クルックスは狩人からの依頼を忘れていなかった。

 日付が変わる頃に『古狩人の鐘を鳴らす』という仕事のため、普段であれば市街を哨戒する夜の時間であってもクルックスは学舎に留まっていた。

 再び伏せったコッペリアに食事や水を届けた後は、クィレル先生に昨年遅れた勉強を見てもらうため『授業準備室』と吊り下げられた彼の住まう部屋に向かう。

 昨年までは休暇前十日間で片付けていたホグワーツの宿題だが、クルックスが他の三人に比べ課題の解決に時間がかかることを考慮し、特別に三日間宿題計画を前倒しすることになっていた。

 

 月の香りの狩人の仔らが使っている部屋は、それ以前に仮眠や物置として使われていた部屋であった。

 現在、彼らが寝泊まりするための部屋は、瓶詰めの目玉や赤子の検体などのビルゲンワースの過去の遺物を片付け、ベッドを押し込んだ程度の小部屋になっている。この『授業準備室』も同様の経緯で生活に必要な物品が押し込められた部屋になっているが──狩人や学徒にはちょっとした見栄があったのだろう──ビルゲンワースの学舎において最も品の良い机である学長用の机があり、部屋の隅には天蓋付きのベッドもある。

 もっとも天蓋付きベッドは、狩人が『狩人の悪夢』からとても頑張って持って来た悪夢に存在する時計塔の患者用ベッドであることを学徒以外は知らない。いざという時は患者を拘束するために使われるベッドは仔らが使っている物よりも重く、堅牢な構造をしている。薬品と死の匂いが染みついているのはヤーナムにおいて最早特筆すべきことではないだろう。

 

 そんな『授業準備室』では、クィレル先生がカサコソと音を立てて歩き回っているようだ。

 ノックをすると入室の許可を得た。

 

「失礼します」

 

「やあ、ク、クルックス……」

 

「お時間いただき恐縮です。クィレル先生と──」

 

「よう」

 

「今日はどこにでもいらっしゃいますね。レオー様」

 

「月見台とかな。ククク……」

 

 ソファーで寛いでいるのはレオーだった。

 昼間と同じ軽装だが、腰には千景を帯刀している。それに目を留めていると「明るい夜だからな」と言って笑った。

 

「そのことですが、ユリエ様の依頼でコッペリア様を探していたところで……申し訳ありません。月見台で聞いてしまったことは誰にも口外しませんので」

 

「なあに狩人も知っている話さ。気にしないぜ。──さて、お暇するかな。舶来品より貴重らしいとの噂のシェリー酒をもらいに来ただけだからな。ああ、そうそう。クルックス。先生との用事が終わったら俺の部屋に来い」

 

「分かりました」

 

「うんうん。こどもは素直で可愛いな。──では、センセ。佳い夜を」

 

 グラスに輝くシェリー酒を持ってレオーはクルックスと入れ違いに部屋を出て行った。

 途端にクィレル先生は足腰がヘロヘロになって椅子に座った。

 

「お、おっかない人です……」

 

「脅されたのですか?」

 

「い、いえ、丁寧でしたよ……丁寧でしたけど……目が……怖い」

 

 ──人殺しの目です。

 吐息だけで言ったクィレル先生は黒いウィンプルを被った頭を振り、レオーのことを思考から追い出したようだった。

 

「さ、さあ、座って。勉強を見ていきましょう」

 

 彼は、ホグワーツで昨年度起きた事件はネフライトが学期末の片手間で作成した報告書により彼の目にも触れたらしい。ネフライトが提出した秘密の部屋の事件簿に彼は大いに驚いた。

 

 ──まさか生きているうちに謎が解かれるとは思っていませんでした。

 ──本では伝説と誇らしげに語られますが、それはごくごく一部の話。今を過ごす生徒の間では、噂話にもなりきれない『不思議な出来事』のようなものでした。

 ──先生方が夜歩きする生徒を脅かすために作った話かと思っていた人も多いのではないでしょうか。

 ──真実が……まさか、こんな事とは思いませんでしたが……。いやはや。

 

 そんな感想を述べた彼も一年ばかり就いていた『闇の魔術に対する防衛術』は、昨年度務めていたロックハート先生が辞職したことにより、再び空席になった。そのため、この科目について宿題がないことは幸いである。そう述べたところ、クィレル先生は書斎机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。

 

「残念なお知らせになるかもしれませんが、課題です。『闇の魔術に対する防衛術』ですよ」

 

「えっ!?」

 

「昨年度は『まとも』な授業を受けられなかったとネフライトから聞きましたので彼から依頼を受けて、よ、要点をまとめたものを準備していました」

 

「ネフは、本当に、どこまでも……気が利くな……。りょ、了解しました」

 

 がっくり肩を落としたクルックスをどう見たのか。

 クィレル先生は、取り繕うように「実技を多めにするので大丈夫ですよ」と励ました。

 

「ありがとう、ございます……」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 二時間後。

 魔法についての講義で頭をパンパンにしたクルックスは、レオーの部屋に向かった。

 時計を見れば、日付が変わるまであと数時間だ。

 ヤーナムで過ごす夜は、目が冴えており体の調子が最高にいい。気分が上向き、手足に力が入る。

 弾むような足取りでレオーの部屋までやって来た。

 

 ノックをして入ると部屋には紫煙が充満していた。

 数本の蝋燭と開け放った窓から差す月光を光源とする部屋はどこもかしこも薄暗く、家具の陰が奇妙に大きく見えた。

 

「ン。悪いな。カインハーストでは、うかうか吸えなくてね。鴉が嫌いなんだよなぁ、煙草」

 

 そう言いつつもクルックスが部屋に入ると煙管の火皿を空にした。

 

「何か飲む? 血酒しかないが」

 

「いえ、俺は遠慮します。……お父様からの言伝もありますので」

 

「そうか。真面目だねぇ」

 

 レオーは、棚に置いてある瓶を一本取り出した。

 

「シェリー酒も悪くはなかったが、やはり酔えないな。香りは、結構好きな部類だったが」

 

「魔法界には、見慣れない酒もありました。俺も詳しくはないのですが……蜂蜜酒とか」

 

「ああ、ミードな。作る方法は簡単だが、蜂蜜自体が手に入らないんだよなぁ。……蜂蜜酒、懐かしい言葉だ。もう何十年と存在を忘れていた」

 

「冬に蜂蜜を準備してみましょうか。俺がセラフィに渡します」

 

「あー、いや、気を遣わなくてもいいさ。カインハーストは、ほら、ちょっとな。返せる物もない」

 

 悪夢に閉ざされ、果てのない風雪と悪夢の生物が彷徨う異境の地だと聞く。セラフィから聞いた話は本当なのだろう。レオーは「物資が無いのだ」と煙管を袋の中に仕舞った後で言った。

 

「これからうかがう昔話のお代として、差し上げたいのです」

 

 クルックスはレオーから血酒の瓶を受け取ると封を開けてグラスに注いだ。

 グラスを揺らす彼は、ニィと笑った。

 

「ここ座れよ。なんだ? ユリエからそう言えって言われたのか?」

 

「いえ、俺の問題です。ヤーナムのことは、できるだけ広く、深く知っておくべきだと思っていますから」

 

 クルックスは、ほんのすこし逡巡したが断る理由がないことに思い至り、レオーの隣に座った。長らく使われていなかったソファーは二人分の重みでわずかに軋む音を立てた。

 

「ほうほう。殊勝な心がけだな。真っ先に死にそうだが」

 

 投げやりに嗤うレオーは、グラスの半分ほどを一気に飲んだ。

 しかし、目は酔いも淀みもしない輝きがあった。

 

「さて、どこからどう話したものか迷うものだな。……ふむ。そういえば、カインハーストのことは何を知っている?」

 

「血の女王をいただく一族で、女王に赤子をもたらすために狩りをしていると。医療教会と仲が悪いとか。……これくらいですね」

 

 レオーは「だいたいあってるな」と言って、グラスを揺らした。

 

「俺は年長面をしているが──実際、年かさではあるのだが──全てを知っているワケではないし、真実を知らされているとも思っていない。月見台で聞いていただろう。あらゆる物事の秘密、なかでも中核や神髄と呼ぶべきものは、当事者だけが知っている。しかも抱え落ちした状態で──有り体に言ってしまえば、死んで謎だけが遺っている状態だ。とても癪なことにな。この前提は、分かっているか?」

 

「そのことは、うすうす気付いています。お父様が全てを一度に解決できていない理由でもあるのだと思います」

 

「他にも理由がありそうだけどな。何だよ。ガトリング付乳母車って。ダメだろ。ちゃんと固定まで考えないと。衝撃で乳母車吹っ飛んじゃうだろ」

 

「俺は何も知らないことになっているので、その、何も知りません。でも伝えておきますね」

 

「……なぁ。お前のパパ、そういうのたくさん作ってるの?」

 

 レオーは、さりげなく聞いたが同じソファーに座っているクルックスには彼が気がかりそうにソワソワしていることに気付いた。

 

「いえ、たくさんでは……。あ、でも乳母車はたくさんあったような……?」

 

 クルックスが狩人の夢のなかで乳母車を見る機会は多くないが、いつも違う乳母車だということは知っている。

 レオーが楽しげに「そっかぁ~」と言うのでクルックスは慌てて彼を見た。

 

「あ、レオー様、これは内密のお話としていただければ……」

 

「言わねえよ。言えるわけねえだろ。俺の趣味も疑われるわ」

 

「『も』? 俺は口外しないので。絶対にしないので。心配しないでください、大丈夫です」

 

「……お前といると調子が狂うな。狩人と同じ顔なばかりに、つい口が軽くなる。しかも逸脱するんだから、手に負えない……」

 

 レオーは自省するようにグラスを傾けた。

 クルックスは血酒を足した。

 

「カインハーストと医療教会は、なぜ仲が悪いのでしょうか? 決定的なのは処刑隊の派遣でしょうが……そもそもの原因とは?」

 

 ビルゲンワースとカインハースト。

 ヤーナムの歴史を鳥瞰するならば、両者の影響力はヤーナムの民の末代を支配するほどに大きいものだと言える。

 クルックスの問いにレオーは、簡単に答えた。

 

「いろいろ理由はあるが、結局は『土地の奪い合い』だろうな」

 

 ピンと閃かない理由だ。

 クルックスは首を傾げた。

 

「土地、ですか? いえ古今東西、土地の範囲を争って戦争が起きることは知っています。けれどヤーナムにおいてそれが当てはまるとは思っていなかったので、意外な理由だと驚いています……」

 

「そうさ。冷たい水。肥沃な土地。民族同士の対立。異なる宗教の対立。争いの種はさまざまある。ヤーナムの場合は、地下墓地だ。土地の争いは、そのまま神秘の奪い合いになった。決裂が不可逆になった神秘のことは、聞いたことがあるだろうな。穢れた血を生み出すキッカケになったビルゲンワースの『禁断の血』。これが見出された時から争いは始まった」

 

 神の墓地たるヤーナムの地下から見出された『禁断の血』について、後世に残された情報は定かではない。

 現物はビルゲンワースに存在した裏切り者によって盗まれ、カインハーストに捧げられたのだという。それを啜った者に起きた効果は、ヤーナムが悪夢に深く沈んだ今なお絶大だ。

 

「禁断の血は古い上位者由来の何か、だったのでしょうか。寒く厳しいカインハーストにおいて、数百年、いえ、お父様の周回を含めれば千年近いかもしれません。血の女王は、まさしく尽きざる生命の源と言っても差し支えがない」

 

「中身はお優しい普通の淑女なんだけどなぁ。腰が抜けるほど魔性だぜ。──齧りつきたくなる、甘い、甘い、匂いがする……」

 

 レオーが耳元で囁くのでクルックスは、身震いした。

 それだけではない。レオーがまとう香りもクルックスには毒だった。それは華やかさの欠片もない、ただの煙草の香りなのだが、身を近付けた時に感じる苦みのなかにある甘い芳香はクルックスを落ち着かない気分にさせる。

 出来るだけ身を離しつつ、彼は質問を重ねた。

 

「そ、それで? 『禁断の血』を持ち帰ったのは、カインハーストだ。物の見方によっては引き金を引いたのはカインハースト、と言えるでしょう?」

 

「正論を言うな。逆上するぞ。いや、俺はしないが。──しかし、考えてもみろ。カインハーストはヤーナムの領主でもあるのだから『出土した神秘の遺物の持ち主は、我々だ』と言える。自分の敷地内で発見した物を自分の家に持ち帰って、自分で消費した。簡単で正しい理屈だろう? カインハーストの騎士としては、この論が間違っているとは思わない」

 

「……! 当時の正当性はカインハーストにあった、ということですか?」

 

 レオーは、クルックスの質問を見越したように小さく笑った。

 

「『そうだ』と言ってしまえないのが、カインハーストにとっても苦いことでもある。──さて、歴史のお勉強をしよう。まず禁断の血が見つかる以前、カインハーストとウィレーム学長率いるビルゲンワースは、悪い関係ではなかった。むしろ良好だ。互いに不利益が少ない状態だった」

 

「え? どうして?」

 

 現在の状態からは信じられない過去だ。

 クルックスが思わず口を開いた様子を見て、レオーはクルックスの肩に腕をまわした。

 

「カインハーストはビルゲンワースより先にヤーナムの地下に神の墓地があることを知っていた。むろん神秘の存在も」

 

「……なぜ?」

 

「さあ。そこは俺も分からん。だが、後々のビルゲンワースや医療教会と同じだろう。そして古くはトゥメルと同じだ。──上位者に憧れたのだ。人の先を見たい、なりたいと願ったからだ。果てを望んだからだ。それが脈々と受け継がれて数千か何百年。俺達は『何のために』は忘れたが、憧れだけは呪いのように遺っている」

 

 ──そして、現在。最も目的に近付いているのだ。

 レオーが伏せた言葉をクルックスは確かに感じ取った。

 

「ではカインハーストが地下調査をしていたのですか?」

 

「お前の想定していそうな組織としての調査ではないだろうが、多少はあったのだろう。今でも聖杯儀式の術式がカインハーストにあるからな。まぁ、いつの世もおおっぴらにやるほどカインハーストに力があったワケではない。お前のような月の香りの狩人の系譜はどうも忘れがちのようだが、神秘調査には死が付き物だ。一族がやるには、あまりに痛い損失だ。そこで考古学の学校だったビルゲンワースのパトロンをしつつ学徒達に調査を『させた』。ついでに年頃の一族を学徒として何人か入学させたかもしれんな」

 

 ──捨て石だ。

 クルックスは、誰かに冷たい手で背筋を撫でられたかのように感じられた。

 望まず得てしまった神秘の智慧は、しかし通常は人間が持つべきものではない。後に墓暴きとなるビルゲンワースの学徒たちは、元を正せばただのヤーナム市民だ。神秘への対策ができていたとは思えない。

 

「経験が蓄積されるまで、大勢死んだらしいな。あの地下墓地はいるだけで頭がおかしくなるだろう? 出口の見えない入り組んだ構成。しかも姿を変え、最奥には異常なモノが待ち受ける。その時は、言葉も知らなかっただろうが。まさに悪夢だな」

 

「そこに何があるのか、教えることはできたハズだ。カインハーストが神秘の探求者であったのならば──」

 

 レオーは薄く微笑んだ。湖で見た時と同じ笑みだというのに、月明かりのせいだろうか、心ない笑みに見えた。

 

「ククク、面白いことを言うのな。教えるワケがないだろう? 皆が神秘を使えるようになったら人は平等になってしまう。カインハーストは、お貴族様だぜ? 格差と不平等を愛する富の権化が、再分配なんてするわけないだろう。下々から碌な見返りも望めないってのに」

 

「貴方も過去の貴族と同じようなお考えなのですか?」

 

 言葉には、棘がある。

 クルックスがレオーを見つめる目も鋭くなった。

 

「クフフ、おいおい、怒ってるのか? へぇ。優しいのな、お前。セラフィとは違う。ああ、質問の回答はもちろん『違う』だ。現状のヤーナムで『お貴族様』だ何だって言ってられないだろ。まあ、どうでもいい過去の下々の犠牲は忘れるとしてだ。──ビルゲンワースの調査が何十年、何百年かかったか分からないが、神秘について理解し始めたし対策もできるようになってきた。発狂を鎮める鎮静剤とかな。そして地下から持って来た成果は、残念ながらカインハーストの総取りというワケにはいかない。ビルゲンワースとカインハーストで山分け状態だったのだろう」

 

「どうしてですか?」

 

「そこはアレさね。足下を見られたってヤツだろ、たぶん。それに実働はビルゲンワースだ。地下から地上に持って来て、カインハーストの手に渡るまでいくらでもちょろまかせる」

 

「それは、そうかもしれません。なるほど。そして禁断の血が見出されて関係は一変したと……」

 

「いいや、まだ。まだだ。カインハーストの誰かが禁断の血を持ち帰った時点では、致命的な不和ではなかった──と思う」

 

 クルックスは、すこし考えてレオーの言葉の意味を理解した。

 

「『まだ』ビルゲンワースとカインハーストの関係が悪化しただけ。カインハーストにとって致命的ではない。致命的だったのは──」

 

「医療教会の設立だ。ビルゲンワースから分かれた一派。ローレンス率いる医療教会。『聖血を求めよ』とは笑わせる。あぁ、忌々しいことさね」

 

 血の救いの根源であり、輸血液の原料でもあるとされる聖血。

 その源は、狩人にも市民にも明らかにされていない。

 聖血の源が何なのか。クルックスはいつか知りたいと思っている。

 

 とにもかくにも、決定的な決裂の『はじまり』は医療教会だ。

 

 ビルゲンワースから分かれた学徒の一人、ローレンスが興した医療教会が、市民そして病み人に血の救いを『拝領』し始める。そして奇妙な風土病である『獣の病』が蔓延し、獣に抗するため狩人達が現れる。

 時を同じく。

 血の女王の願いを果たすため、血を狩る騎士らが生まれ、カインハーストの凋落は加速する。

 

(彼らは、民を獣から守る役目を負う狩人を狩るのだから、民の心がカインハーストから離れるのは当然だ)

 

 さすがのクルックスもこの意見の発露は控えた。だがレオーはクルックスが口を開くのを待ち構えているような気もした。

 クルックスが沈黙を保ち続けるとレオーは「ハーッ」と息を吐き、白けた顔をした。

 

「変なところで空気読めるのな、お前。セラフィなら『そんなことをしているから民の心がカインハーストから離れるのだ。当然では?』とか言うぜ」

 

「セラフィ。なぜ言ってしまうんだ」

 

 ──俺でも惨い結果しか招かないと分かるのに。

 思わず痛ましい顔をしてしまったクルックスにとって、さらに驚くべき事にセラフィには、さらにその先があった。

 

「スゴいよなぁ。アイツの空気読めないところ大好きだぜ、俺。で、問題はその後。聞いてくれよ。──初対面でそれを言って、まぁ鴉が秒でキレるワケだ。でも鴉が抜刀するより先に『僕らが死に続けることで民に迷惑をかけずに「穢れ」を生産し続けられるのでは?』とか言って自分の首を落としたのを見た時は『ヤバいヤツが来たな』って思ったよ」

 

「どうして、そう、思い切りが良いんだ……」 想像に容易い行動にクルックスは右手で顔を覆った。

 

「さすがの鴉もビックリしたみたいで、千景を中途半端に抜いたまま、どうしよう、どうしようって死体のまわりウロウロしてるんだ。傑作だったな。ここ数十年で一番、笑った。最高だった」

 

「笑うところですか? お貴族様の感性はよく分からん……」

 

 レオーの思い出し笑いがひとしきり済んだところで、彼は疲れた人間がするように息を吐き出すと背中を丸めた。

 

「とどのつまりさ。最初は、ビルゲンワースとカインハースト──あいや、これはちょっと正しい表現ではないな。ビルゲンワースの一派で後に医療教会を設立する連中──と言うべきか。最初は、ソイツらとカインハーストの縄張り争いで、互いの正義の押し付け合いで、終いにはカインハースト絶滅戦争だったってワケさ。そこに神秘や血の医療が絡まり、加害者も被害者も多くなって後々複雑な問題として凝り固まった。……できるだけ話を簡単にするなら、こんな感じになるんだろうな」

 

「──カインハーストと連盟の関係は?」

 

「何もないさ。組織・団体としては、まったく。カインハーストの狩人にとっては良質な『穢れ』を落とす獲物さね。連盟に属しながら、たまにカインハーストに来る奴もいた。それだけさ」

 

「……積極的に勧誘していたワケではないのですか?」

 

「むしろ逆勧誘されたことがある。何だよ虫って気持ち悪いな。血中にあるのは血晶石と穢れだろ。気軽に倒錯するなよ。倒錯は、お貴族様の特権だぞ?」

 

「──この話は、お互い戦争になるのでやめよう。やめましょう。俺は連盟の誇りを懸けてカインハーストの貴方に挑みたくない」

 

「ああそう? まあ俺はどうでもいいんだけど」

 

 クルックスは、すっかり乾いてしまったグラスに瓶の底に残っていた血酒を注いだ。

 最後の血酒はドロリと濁り、グラスとの間に銀の糸を引いた。

 

「……カインハーストも医療教会も同じだ。被害者のまま加害者にもなれる。被害者の面で加害者を続けている。業深いことさね」

 

「カインハーストは血族を増やしたいのだと思っていました。違うのですか?」

 

「さてな。どう思う?」

 

 クルックスは、血酒で満たされていた瓶を置いた。その右手に、なぜかレオーの左手が触れた。

 グラスと間違えたのだろうか。

 クルックスは「失礼」と述べて手を引っ込めようとした。

 

「まぁ待て。そう逃げるなよ」

 

 その一言でレオーはクルックスの右手を捉えた。

 利き手を取られた事実に気付くのに彼は時間がかかった。

 そんなことが気にならない距離にレオーが顔を寄せたからだ。

 

「レ、レオー様……ちょっと……」

 

 クルックスは、腰を浮かせようとして失敗した。膝を割り、レオーが足の動きを阻んだからだ。

 端的に「近いです」と言ってもいいものか迷う。今更になってクルックスの脳裏にはユリエから言われた「失礼をしないようにね」の指示が思い出された。

 結局、抵抗らしいことはできず彼は、レオーの肩にやんわりと触れた。

 

「ところで話は変わるが、俺とお前は似てると思わないか?」

 

「……? いえ、俺は……貴方ほどしっかり生きてはいない。いつも自分のことで精一杯です。……連盟の使命と他の三人に支えられてなんとかやっているようなものですから、何も、俺は」

 

「そう卑下することはないさ。俺は十分やっていると思うがな。市街の狩人にお前ほどの歳で加わっている者はいないだろう? 俺も殺した覚えがないからな。立派じゃあないか」

 

 流血が必須である千景を握るレオーの手指はどこもかしこも硬く、決して肌触りの良くないものだったが、それが妙に自分と他人の境界をクルックスに意識させた。

 慣れない賞賛と握られた手の熱さは初めてのものだ。彼の知るコッペリアの手は、いつも手術用の手袋を付けている。伝わる熱は、これほど熱くない。頭と胸の奥が未体験の熱にざわついた。もうすこし気を抜けば、しまりなく照れ笑いしてしまいそうだった。

 

「……い、いえ、俺は……出来ることをしているだけですから……」

 

「死ぬのは気分が悪いだろう? 俺も知っている。それでも獣狩りを続けるのは何故だ?」

 

「虫のいなくなった綺麗なヤーナムが見たいからです。俺ができるのはそれだけです。それでいいとも思っています……」

 

 クルックス、と彼は何度か名前を呼んだ。

 呼ぶ度に頭の端から痺れていくような心地がした。

 レオーはクルックスの耳に口を寄せた。

 

「はぁ……。最も新しい月の香りの狩人。我らがヤーナムの夢、愛し仔よ。今のヤーナムは、上位者が気まぐれに見る泡沫の夢だ。『穢れ』を集め、女王が啜ることには意味があるが、獣狩りに意味はない。死んだものが元通りになるのだからな。ずっとそうだ。ずっとずっと。俺は一五〇年以上。最古参では二〇〇年以上そうらしいな?」

 

 穏やかに吐き捨てる口ぶりだった。

 ヤーナムが抱える問題だ。

 根本的な構造が崩壊している世界は、それを知る人間に計り知れない負荷をもたらしている。普段はできるだけ考えないようにしていて、話題にも出さないことを気をつけている。そのことを考えると頭の中の熱が引いた。

 悪夢に冒され、守られ、閉ざされた世界の歪な構造の真実を知る人々は、好機と捉えているのだろうか。それとも。

 

「さすがは上位者。まともじゃない。よって何もかも意味がないと言える。市街の獣狩りなど、まったく無駄だ。とっくに気付いているだろう?」

 

 狂気は、蒼い瞳の瞳孔の奥に黒々とあった。

 骨が折れるほどに手を握られながら、クルックスは彼を見つめた。

 

「いいえ。レオー様、それは違う。人には意志がある。意志は例え遺志と成り果てても、誰かが継いでいくものだ。そうでなければお父様が、一度でも夜を明けさせることは出来なかった。だから『何もかも意味がない』なんて言わないでください。……その言葉は、きっと、ヤーナムにとっても貴方にとっても悲しいことです」

 

 唐突に狂気は去った。

 見間違えだったように彼の蒼い瞳は明るく、しかも細められた。

 

「ふーん。あっそう」

 

「な、なにか?」

 

 ──ひょっとして、演技だったのだろうか。

 クルックスは、テルミほど人の顔色を読むのが上手ではない。そしてレオーは、クルックスの見るところ人の情に滑り込み、惑わせるのが得意であるかもしれない。

 セラフィがかつて口にした「年長者という者は、どうしても若者を手玉に取りたがるよなぁ」という言葉は、その後の会話の流れから鴉を指すのだと思っていたが、今思えば先達の両者のことを指していたのだろう。

 罠に嵌められた感覚に陥りながら、しかし、頭と胸の熱のせいで彼を睨むことが出来なかった。彼の掌は、熱い。そのくすぐったさに気を許してしまえばニヨニヨと笑ってしまいそうだった。

 

「お前は諦めないのなぁ。ふーむ。いいねぇ。素晴らしい。だからこそ若者は愛せるのだ」

 

 くすぐるように指を弄ばれてクルックスは「うっ」と唇を噛んだ。

 

「……け、軽々にそんなことを言うべきではないと思います」

 

「なんで? どうして言っちゃいけないんだ? んん?」

 

 聞き返されるとは思わず、怯んだ。

 互いの呼吸がハッキリと感じられる距離で囁かれ、呼吸が浅くなる。頬が赤くなる感覚があった。

 

「だから、その、あ、あ、あ、『愛せる』とか……俺にはよく分からない……でも、なぜか恥ずかしい言葉のような気がします……」

 

「えぇぇ? 別に? こうして愛せるからなぁ。俺様はお前のこと好きだぜ? ええ? お前は違うのか?」

 

 クルックスの膝に置かれていたレオーの右手が、するりと頬を撫でた。

 その途端に、獣や神秘の眷属達を恐れなかった自分の体がビックリして飛び跳ねた。

 

「ダメ……ダメですよ、何というかダメです。絶対ダメな気がします。……レオー様、俺は、どうしてもセラフィと争いたくないので、これ以上はご容赦を……」

 

「セラフィなら今頃カインハーストで鴉と遊んでいる。仲良くしようぜ。お前とは長い付き合いになりそうだからさァ」

 

「そ、それは、ぁ、そうかもしれませんが……っ!?」

 

 クルックスは、混乱しつつある頭でレオーを押しのけようとした。

 もっとも、コッペリアがそうであるようにカインハーストの恵体とは、そんなことで揺らぐものではなかった。

 

「あ──あ、そうだ! ユ、ユリエ様が『誰かの体に触れるのはダメよ』とおっしゃっていました。だから、俺には、禁止されていることですから……」

 

「さてはお前、真面目ちゃんだな? 貞操観念しっかりしていて先達は本当に嬉しいよ」

 

 レオーが呆れた口調で言った。

 

「いえ、ユリエ様の指示はいつも的確です。命令は傾注に値するものです。だ、だから……その……」

 

 レオーの左手は、銃を握る手である。右手ほど裂傷の痕跡は感じられない。だが、首に添えられると大きな存在感を感じた。当たり前のことだったが、大人の手は大きいものだ。クルックスの喉を絞めるには十分だった。今のところ、彼にはその気がないようだった。

 

「頑なにならずにさ。人助けだと思えばいいだろう。古狩人にも休息が必要だと思わないか?」

 

「きゅう、休息ならば、女王様に申請すべきでは?」

 

 自分が的外れなことを言っていると思うが、その弾みで会話の方向性が変わればいいと思った。

 

「うちの女王様そういうことしないからなぁ。余所で済ませてこいって方針なんじゃないかな。たぶん。知らないけどな」

 

 クルックスの頭のどこかに住み着くネフライトが「それ見たことか。カインハーストは碌なところじゃない。自爆営業を強いるなど!」とケラケラと嗤った。ヤーナムで過ごしていると罵詈雑言のバリエーションばかり増えていくが、いま最も必要とされるのは若者を手玉に取りたがって仕方のないレオーから逃れる術である。

 考えても考えても妙案は思い浮かばない。

 だからクルックスはソファーに押し倒され、アームに後頭部を打った。せめてもの抵抗で視線を窓へ逸らした。

 

「レオー様。俺は情というものがよく分からないですが……貴方の好意は、俺に不相応だと思います」

 

「ほう。謙虚だな。愚かしい。だが、愛そう。俺はお前を評価しているのだ。相応の価値を定めるのは、いつだって俺様だ。……ヤーナムに稀に見られる善性は、なんと長き夜の末、死に絶えていなかったらしいからな。祝福に値するだろう」

 

「善性?」

 

 クルックスは、自分自身がヤーナムにとって善い存在であらねばならないと思っている。

 敵対的な存在である獣や上位者・眷属を除き、誰に対しても、何に対しても『善いもの』でありたい。ヤーナムが迎える朝にとって相応しい存在でありたいからだ。しかし、全てのものに都合の良い存在などありえないとも思っている。そのため善性が好意を受け取るために必要な資格だとすれば、クルックスは進んで断るべきだった。

 

「俺は『善い』ものに憧れてはいますが、そのものではない。貴方の好意は、恐らく素晴らしいものだと思います。そして、価値あるものには限りがある。……お貴族様とは、誰にもこんなことをするのですか?」

 

「バカを言え。見境くらいある。気に入ったヤツとだけだ」

 

「セラフィとは?」

 

「おま、ばっか、鴉がいる前で出来ると思うか? 火薬庫に火炎瓶じゃ済まない。遺骨パンチで頭蓋が砕けるぜ」

 

「それでも貴方の好意は、貴方を慕うセラフィに与えてください。俺にはとても不相応なものです」

 

 常識として礼を知るものであれば舌打ちなど下品な行いはしないものだったが、レオーはまさしくそれをしてしまいたかったに違いない。火傷痕が痛々しい右半面を歪め、口の端を不快に上げた。

 

「……マナーのなっていないヤツだな。ここには俺とお前だけだというのに。なんだセラフィが恐いのか?」

 

「そういうワケでは……俺はセラフィを傷つけたくないだけです。セラフィはテルミに『僕の先達だ』と言った。彼女が声を上げるのは、これまでになかったことだ。レオー様が俺を特別扱いしたことが知れたら、彼女は穏やかではない」

 

「お前が黙っていれば、バレないだろうさ。嫉妬させたいなら別だがな」

 

「そうだとしてもです。俺は火薬庫が好きですが、見えている爆薬に火炎瓶を投げ込む趣味はないです。……『きょうだい』に対し、俺は常に誠実でなければならない。なので、そろそろ気分を変えていただけないかと思うのですが……」

 

 レオーの顔が不可解に曇った。そして、クルックスの脇腹をこすった。

 

「くすぐったいんですが」

 

「……はぁ? ひょっとして、お前にそういう知識はないのか? てっきりコッペリアとよろしくしているものだと思っていたが……」

 

「『無い』と表現して差し支えないです。俺達には知識が足りないんです。ユリエ様が、俺達の血はどんな内容になっているか分からないので『むやみに人に与えてはいけない』ともおっしゃっていました」

 

「ん? 血? なに?」

 

「えっ。え? エっ?」

 

「うん? ん? うーん? まぁいいかぁ! こういう時に細かなことを気にする俺ではないからな! しかし、しかし、手つかずかぁ。いいね、いいねぇ。思いがけないこともあるものだ。新雪を踏み荒らすのも楽しみの一つだ。『淀み』を『穢れ』で蹂躙するのも一興。──憎々しい連盟の狗め。脳裏のカレル文字が掠れるほどに調教してやろう」

 

 クルックスの顔を見つめる彼はうっそりと唇を濡らした。

 酔っ払っているような言動ではあるが、顔色には窺えない。困惑に目を白黒させるクルックスは、会話が噛み合わないことに気付いた。

 

「調教とは? 血の聖女のように血の質を変える方法のことですか?」

 

「──じき分かる。なぁに貴族の嗜みというものさね。悪いようにはしない。癖にはなるかもしれんが、それは世の中の楽しみが一つ増えたということでお得感が増すだろう。愛は人生を充実させるぞ俺が言うのだ間違いない」

 

 クルックスの口に指を入れてレオーは、笑った。

 まさか指を噛むわけにはいかず、クルックスは困った。

 

「うぁ、あうぅ、ぅ……」

 

「感心、感心。歯並びがいいのなァ。白くて綺麗な歯だ。あの狩人の顔だからと食指も動かなかったが、いや、むしろ好きになってきたな」

 

「ぐ……でも、お父様が見ていますから」

 

 レオーの目は、驚愕に見開かれた。

 そして、クルックスの手を掴んでいた指は何かに弾かれたように離れ、窓を振り返る。その瞬きの間に彼の右手はナイフを握っていた。

 それから数秒をかけてレオーは『お父様』が部屋を薄暗く照らす月を指すことが分かったのだろう。彼は、大きな声で笑った。

 

「ククク、クク、クッ、ハッハハハハハハ! うんうん、面白い! 面白い! いいぞいいぞ、面白いのなァ、クルックス! 気に入った! 好きだ! 愛せる! あ、ちょっと待て笑う。ハッハッハっ、ハハハ!」

 

 クルックスの顔を見るだけで笑ってしまうらしい彼は、最後には「ヒィー、ヒィー」と苦しげな息を吐いて顔を伏せた。

 その間にクルックスは、着衣を整えてソファーに座り直した。ぐらぐらする頭と胸の熱は、彼から離れると落ち着きを取り戻し始めた。

 互いに深呼吸した後でレオーが、一人分の空白を空けてソファーに腰を下ろした。

 

「いやぁ笑った笑った。こんなに笑ったのは……ハハっ……セラフィの就任以来だ。いや、萎えたけど……」

 

「ナイフをお持ちだったとは気付きませんでした。貴方は本当に優れた騎士のようだ」

 

「当然だ。カインハーストの騎士様だぜ。丸腰などありえないのさ。……しかし、お前……開口一番それなのな? 襲われかけたの分かってる? 襲った俺が心配になってきちゃったよ」

 

「カインハーストでは血を飲むのが嗜みと伺っています。なので、そういう行為なのかと思っていましたが……え? 違うのですか?」

 

「たしかにその習慣はあるが滅多にないぞ。あったとしてもごくごく親しい間柄だけさ」

 

「そうなのですか。では、えっ。何を?」

 

「……俺にまだ罪悪感とかあったんだなぁ。知らなかったぜ。そのうち大人になったら教えてやる。せいぜい体を鍛えておくんだな」

 

「はぁ。よく分かりませんが、体は鍛えてますので大人になる頃には大丈夫だと思います」

 

「わぁ~オジサンすごく楽しみぃ~。──違うわ。危機感が足りないんだ、お前は。いいか? 昼夜問わず酒飲んだ大人と個室で二人っきりになることは絶対に避けろ」

 

「で、でも、歴史のお勉強と言ったのはレオー様なのに……」

 

「かーっ。お人好し過ぎる。優しい通り越して愚か者だぜ。お前は契約書の二枚目を見せない俺を知っているハズだろうが。今日会ったばかりの、そんな大人を信用するんじゃあないよ」

 

「し、しかし、レオー様はお父様の同僚でもありますし、セラフィの尊敬する先達です。いったい何が起きると言うんですか?」

 

「何が起きちまっていたんだろうなー不思議だなー俺も知りたいところだぜ。いいか? 今回はたまたま未遂になっただけだから。今日が月のある夜でよかったな。ツキがあるってヤツだよ、ワハハ」

 

「は、はぁ。俺にはよく分からない言葉ばかりで困る。……でもセラフィのことを大切にしてください。セラフィは、貴方のことをよく慕っていますから」

 

「言われるまでもない」

 

 レオーは懐から一本の小瓶を取り出してテーブルに置いた。

 

「勧誘はやめだ、やめ。お前にはもっと楽しい使い道がありそうだ。それに見ていて可哀想になるほど騎士に向かないっぽいからさ」

 

「……それは?」

 

「血酒だ。俺と同じ匂いがするぜ」

 

 この言葉だけでクルックスは、血酒の中身の血が誰のものなのか察した。

 恐れるようにテーブル上の小瓶を見ていたが、レオーはそれを手に取るとクルックスに放った。

 

「これを飲ませながら血族の勧誘をするんだ。次第に飢えた目になるのが、まあ堪らないねぇ」

 

「……コッペリア様が、貴方を悪いオジサンと言っていたのは、正しいことだったようだ」

 

「そう言いなさんな。イイこともしてやっただろう。これが典型的な勧誘方法だ。俺様が『種明かし』したのだから、もう誰にも引っかかるなよ」

 

「ありがとうございます。勉強させていただきました。ええと。これは、どうすれば?」

 

 手の中で持て余す小瓶は、できれば返品したい物だった。

 しかし、レオーは受け取る気がなさそうにそっぽを向いた。

 

「お前のパパに納税記念品とでも言って渡してやれ」

 

「どうして直接渡さないんですか?」

 

 クルックスの言葉にレオーは、大いに呆れた顔をした。

 

「『どうして』って、そりゃあ、お前さん。なんで取り立て屋が記念品なんて出さなきゃならないんだよ。納税なのに」

 

「そういうものなんですか……?」

 

「お前のそういうところ、いやになるほど狩人にそっくりだ。もうすこし大人になったら酒の味を覚えておけよ。酔えなくとも場に酔うことを覚えておけ。──ヤーナムなんざ、狩人がどう足掻いても悪夢みたいな土地さ」

 

 それでも、と言葉を継いだクルックスは、その後の言葉が続かずうつむいた。

 彼の頭にレオーは手を置いた。千景を握る騎士の手は、やはり温かく歪に硬いものだった。

 

「いまさら、誰が悪いで済むハナシではない。まぁ騎士の俺は『ビルゲンワースと医療教会が悪い』と呪い続けなければいけない立場だが、それはそれとしてな。……病み人だった狩人がやって来るとっくの昔から詰んでいるのだ、この街は。昔々、それこそ成立から呪われていてもちっともおかしくない。真実を探るには遅すぎて、諦めるにはすこし早い。俺が生きていた時分でさえそうだったのだから、鴉が駆け、狩人が見た末期ヤーナムは暗澹たる有様だったろうな。そのせいか狩人はあまり最後の周回の話をしない」

 

 レオーの青い瞳は、長い夜に留まりすぎたのだろう。暗く、沈んだ色に見えた。

 

「お父様が続ける夜で、俺も獣を狩って虫を潰す以外の何かできればいいのですが……。そうだ。レオー様のために俺ができることはありますか?」

 

「おぉ? 俺の下で働きたいとか見所あることを言うな。早死にするぞ」

 

「そうなんですか?」

 

「そうそう。処刑隊を名乗る不埒な野郎の内臓を引きずり出して湖の魚の餌にしたり、車輪に手足括り付けて市街を引き回しにするのが最近の俺の生き甲斐だから危ないだろ」

 

 クルックスは、彼の言葉を理解するために時間を要した。

 カインハーストの騎士、レオー。

 現在のヤーナムの仕組みのなかで彼は特異な存在だ。年長者であり、カインハーストの古きを知り、情を知る人である。だからこそ、話せば分かる人なのではないか。そう思っていたクルックスは、自分の思い込みがまったく明後日の見当違いだったことを知った。

 

 月の香りの狩人たるお父様は知っているのだろうか。

 クルックスの頭に危惧が浮かんだ。

 カインハーストには、憎悪が和らぐどころか時が止まったまま、むしろ醸成された存在がいることを。

 

「カインハーストの騎士たる俺は騙らない。俺は今が大切だが今に続いた過去が、消え、忘れられてよいものだとどうして思えよう。カインハーストには苦しむ娘らがいる。美しい娘らだった。処刑隊に犯され、潰され、殺された。悔しかろうに……憎かろうに……。誰もあの娘らのために足を止めず、誰もあの娘らを覚えていない。命が絶えた今もなお救いは与えられず、悪霊となって夢を彷徨っている。鴉にもセラフィにも理解してほしいとは、願わない。それでも俺は、俺だけは、あの娘らのことを忘れてはいけないのだと思っている。血の紐帯は、褪せることなく俺の中にある。……穢れた、それでも愛しい、狂おしき我がカインハーストに」

 

「…………」

 

 この人は。

 とても、報われないことを願っている。

 クルックスは、ソファーに放られた彼の手を握った。

 彼自身が認めている狂気は、理解が及ぶほど温かいものだった。

 レオーが掬い上げようとしているのは、カインハーストにかつていた娘達の無念だ。

 彼の歩む夜の道程が、果てしないものであることだけクルックスは理解した。

 

「貴方の夜が明けることを……俺は祈っています」

 

「ありがとなー。そういうワケで娯楽はいくらでもあればいい。それは人に留まる縁になるからな」

 

 レオーはクルックスに笑いかけた。

 

「こんな世界だ。せいぜい自分の信じたいものを信じて、居心地が良いところにいればいいのさ。時間なんて持て余すほどあるのだから、人手不足なんて甘えなのだろうな。本音としちゃ俺は、いつだって新しい後輩が欲しいけど……」

 

 どうしてセラフィがいるのに欲しがるのだろうか。

 それを訊ねるとレオーはクルックスには理解ができないことを言った。

 

「セラフィはなぁ。後輩なんだけど、違うんだよ。大事な後輩でさ。俺が欲しいのは、もっと、こう、雑に顎で使える後輩」

 

「それはもう後輩ではなく使用人とか奴隷ではないですか」

 

「そうなんだけどね? そう言わないように頑張っている俺の努力を無かったことにしないでね? ああ、そうそう、狩りの腕は市街の狩人以上に欲しい。そしてできれば可愛い子がいい。またはクルックス」

 

 極めて高度な要求だ。

 クルックスは彼の後輩候補が見つかったら、その顔を拝みに行こうと思った。そしてもうひとつの選択肢はかなり難しい。

 

「俺は連盟の使命で忙しいのでカインハーストの騎士は勤まりませんね」

 

「分からないだろう。人の心は変わるものだ。しっかし、カインハーストってさァ。人間関係の調整が難しいよね? まず機嫌損ねた鴉に転がされるのがオチだろ。セラフィは……言葉にしないだろうが、拗ねそうだ。なぁ、俺は、いつになったら引退できるだろうか……?」

 

「うーん。あと五百年くらいを見積もってみては?」

 

「発狂するわ。今でもたまにするけど」

 

 それからクルックスは、しばらく愚痴に付き合わされた。

 結果、分かったことは『鴉はレオー泣かせの破綻者である』という事実だけだったのでクルックスにとって、とても参考になる出来事になった。

 

 後々の夜のことを考えれば特にも覚えておく事柄であったのだが、クルックスは酒ではなく場に酔っていた。

 レオーの話は『やや酒の入った親戚のおじさん』の話として半分ほど聞き流していた。

 

 そのことを彼は、遠くない未来でしっかりと後悔することになるのだが、全て月の照らす未来の話だ。




レオーの語る歴史
 語ったのは事実の一側面──どころかレオーの私見であるため、本当のところはどうなのか分からない実態があります。しかし、クルックスの考える材料にはなるので、レオーも自分の持っている情報を誰かに渡せてホッとしているかもしれません。形はどうあれ、これも狩人の継承にあたるでしょう。
 レオーが市街を徘徊する理由は『穢れ』を集める仕事にかこつけて、悪夢から這い出てきた古狩人をもれなくふん縛り拷問して情報を引き出すことにあります。鴉は気分が乗れば手伝ってくれますし、セラフィにも拷問の手技を教え込まないといけないのでレオーおじさんは最近充実した狩人生活を送っています。──これから毎日、人狩り行こうぜっ!

趣味や娯楽
 本作においては心のよりどころとしての重要な意味を持ちます。刻み煙草が無くなったことは平時において「仕方ねえな」で済まされる出来事でした。しかし、聖杯のなかでその事態に直面した彼は自分を見失いました。エヴェリンもいないし、きっかけは何でもよかったんでしょう。ただ、数少ない楽しみが永久に終わってしまったことを考えたときに偶然、狂ってしまっただけ。
 一方でクルックスによってうっかりバラされる狩人の性癖。まだ乳母車蒐集家程度ということしか露見していないため大丈夫でしょう。同時にレオーの少年愛の趣味も露見したことです。プラマイゼロ。クルックスがセラフィに背中を刺される日も近い。──まっ、相手が違っ

他人の温度に弱いクルックス
 生まれてから誰かと皮膚接触する機会が少ないクルックスは他人に温度にとても敏感で、テルミとの同衾後は特に温かいものに対して弱くなりつつあります。
 赤子として抱き上げられることもなかった彼にとって、他人に触れることは真新しい経験であり、忘れがたく強烈な体験なのです。


 月の香りの狩人の仔であるため、連盟員であっても明確で積極的な敵とはなり得ないクルックスに対して、レオーの好感度は元より高めでしたが、今夜でかなり高くなりました。反比例してセラフィからの好感度は低くなります。適切な対応をしてセラフィの誤解を解きましょう。
 ──え? セラフィの好感度を爆稼ぎしているのはエブリデイ暴力を振りかざす鴉? もうワケわかんねぇな。

余談
セラフィ「ねぇ、鴉羽の騎士様。レオー様がクルックスとイチャイチャしている気配がしますが、レオー様は僕のことが大切なハズなので鴉羽の騎士様も気のせいだと思いますよね? ねぇ、鴉羽の騎士様? どう思いますか?」
鴉「黙秘する」


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騎士と学舎(下)


時を告げる鐘
クルックスが、月の香りの狩人の依頼を受けて鳴らす鐘。
一度目は既に鳴らした。二度目は今夜。三度目は次の夜。
不吉の鐘を打ち鳴らし、彼は駆ける。
遙かなる悪夢の空の向こう、帆柱はまだ屹立している。



 日付が替われば鐘も鳴る。

 月の香りの狩人が血眼で『悪夢の辺境』にて不吉な鐘を鳴らしてやって来た同業の狩人達を追いかけ回している頃。

 クルックスはレオーと比較的、穏やかな時間のなかで日常を過ごしていた。

 そんな彼らを見守る者がいる。

 

「おや。クルックスはずいぶんレオーと仲が良くなったみたいだね」

 

 二日酔いの体調不良から復帰したコッペリアが研究室となっている教室でそう言った。教室の窓からは、彼らが剣の稽古をしている様子が見えたからだ。

 窓に背を向けて座っていたビルゲンワースの学徒、ユリエは立ち上がるとコッペリアと並び窓に寄った。

 

「あら本当ね」

 

「素直な性格のクルックスはともかく、レオーがちゃんと構ってるのは珍しいなぁ。カインハーストの血を引く人間以外は基本的にゴミクズだと思っているハズなんだけど」

 

「例外よ。月の香りの狩人の関連は、彼にとっても特別な意味を持つでしょうから。クルックスの人生経験が充実するのは良いことね。いろいろな刺激を与えてみないと分からないことも多いから……クルックスには頑張ってもらいたいわ。あ。カインハーストに心を移されては困るけれど」

 

「その辺は大丈夫だろう。なんせ連盟の使命があるからね。クルックスは可愛いし、頑張ってほしいよね。狩人君は言葉にしないけど、彼もとても期待しているみたいだ。……しっかし、レオーは人を誑し込むのが上手いから心配なんだよね、僕」

 

「レオーがそんなに上手だとは知らなかったわ」

 

「いやぁ顔がイイって得だよね。僕は、ちょっと背が高すぎてさ。ま、レオーも火傷のせいで怪人に片足突っ込んだ風体になっちゃってるけど。あの子は人の外見なんて気にしないからね。それが長所でもあり、短所でもあるワケだが──さて、今年はどっちに転ぶかな?」

 

 目隠し帽子の下で恐らくコッペリアは笑っていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 年齢の離れた大人という存在は連盟員にもいるが、異なる価値観を持つ彼との生活は刺激的で勉強になるものだった。

 特に貴重だったことは、レオーが『千景』を扱う狩人であったことだ。

 湖の畔に二人はいた。

 今日は森から風が吹いていた。鬱蒼とした禁域の森を通ってやってくる風は顔を顰めるほどの湿気を保ち、しかも森林の香りがした。

 

「狩人なんだ。見たことくらいあるだろ?」

 

 腰のベルトから鞘に収められた千景を外し、彼は両手で持った。

 

「お父様の収納箱にたくさん入っています。あと連盟員でも千景を持つ人がいます」

 

「ああ、連盟員にもいたか。それなら見覚えだけはあるワケだ。──仕掛け武器の内容は知っているか?」

 

「血をまとわせて使うとか……。でもヤマム、いえ、連盟員の方は頻繁に使いませんね。……あ。喋ってはダメだった。これ内緒にしてください」

 

「ゴミクズ並にどうでもいい東洋人のことで俺が心煩うことがあると思うか? いいや、ない。──仕掛け武器の『仕掛け』の内容くらいちゃんと覚えておけ。まぁ見るからに血質低そうだもんな。俺はお前の血と紅茶を間違えてしまいそうだぜ。では、次の質問だ。使ったことはあるか?」

 

「ないです。俺には回転ノコギリや斧が性に合ってますから」

 

 レオーは、嘆息した。

 明らかに失望が込められたものであったのでクルックスは戸惑った。

 

「命令だ。休暇中に全ての仕掛け武器を使ってみろ。いいか? これは『使いこなせ』という意味ではない。実際に使うことで見えてくることがあるのだ。武器のリーチを体で覚えていたら敵対時に有利だろう? また敵と対峙する時にどう動くか想像がつくようになる」

 

 ──だからこそ、対人戦においては常に心理戦が繰り広げられているワケだが。

 補説を挟み、彼の説明は続いた。

 

「例えば、ノコギリ鉈と斧では立ち回りが違うだろう? ノコギリ鉈ならば斧より距離を詰める必要がある。斧はノコギリ鉈より振りかぶる時間が必要だ。意味が分かるか?」

 

「なんとなく分かります」

 

「その顔は分かってないな。いちいち落ち込むな。『分からない』自覚は大切だ。セラフィなら、ここで『分かった』と言って自己解釈をぶちまけてくるが『俺が言いたいことはそうじゃない』と修正に時間ばかりかかる。鴉はもっと酷い。同じ言語を話しているハズがなぜかコペルニクス的転回をさせてくる。俺は天動説を否定したいワケじゃない」

 

「心中お察しします」

 

 レオーは話が逸れたことを反省するように銀色の髪を手櫛で梳いた。

 

「次の話題に移ろうか。狩人には反省が必要だ。なぜなら、狩人の業における失敗は大抵の場合、死に直結するかるからだ。では失敗を招かないように何をすべきか?」

 

「訓練を頑張る、とか」

 

 自己採点三〇点の回答を出したところ、レオーは頷いた。

 

「おめでとう。正解だ。『それだけ?』とでも言いたげだが、危機に際し出来ることは限られており、その限られた手段でさえ日々の積み重ねた鍛錬でしか得られない。昨日まで出来なかったことが今日突然できるようになるなんてことは、ない。分かったな?」

 

「なるほど」

 

「……いや、正確には上位者の悪夢由来のお前に当てはまるかどうか分からんが、俺含む普通の狩人はそうだ。この前提常識から始めるぞ。ここまでの会話で分からないことはあるか?」

 

「無い……と思います。たぶん。大丈夫です。よろしくお願いします」

 

「よろしい。手始めにこれを貸してやる」

 

「えっ。レオー様の千景ですよ。狩人は、他人の使う武器を取り扱うことを好ましく思わないとか何とか」

 

「市街の迷信に俺が動じるワケないだろう。気にするな。まず、基本的な握りと振り方を教えてやる。それで間合いの感覚を掴め。あとはステップだ。実際に千景を持って戦闘する場合にどう距離を詰めるか、学ぶことがあるだろう」

 

 クルックスは、千景を受け取ろうとして──手を引っ込めた。

 

「何だ?」

 

「貴方の技術は、俺には……ええと……合わないような気がして」

 

 遠回しにカインハーストの技術を指した言葉をレオーは受け取ってくれた。

 

「ああ、そうか。……お前、狩人狩りの経験は?」

 

「聖杯で少々。でも決して心地良いことでは──あ」

 

 クルックスは、自然に下がった視線を上げた。

 予想に反し、レオーは怒っていなかった。

 むしろ。

 

「構わないさ。市街の狩人がカインハーストの狩りをどう思うかは知っている。それも気にしなくていい。俺は市街で暮らす人間を人間とは思っていないから何の感傷もないが、お前にはどうしてもあれらが人間に見えるのだろうな。であれば、その感想は自然なものだ。辛いことだろう。分かるぞ。──で? 人間が獣になったり狩人が正気を失ったりしたら、そいつらを哀れんで殺されてやるつもりか?」

 

 レオーの目がスイッと細められた。

 距離を詰め寄られたワケでもないのに彼の体が大きくなったように錯覚した。クルックスは幻覚を振り切るように首を横に振った。

 

「それは、狩人を襲う──あ──いえ……」

 

 何も言えなくなり、口を噤んだ。内心では「狩人を襲う狩人など狂っていて血が淀んでいるに違いないのだから、それは連盟の敵です」と言葉が思い浮かんでいたが、まさに『狩人を襲う狩人』であるレオーが目の前にいるのだ。口に出せば血を見る争いは避けられない。しかし、迂闊な発言を差し替える余地は無かった。

 レオーは、息を吐いた。

 

「お前なぁ……。いろいろと顔に出る損なヤツだよな。何を言わんとしたか察しがつく。その上で言うが、それも気にしなくていい。連盟員ならばカインハーストの業に思うこともあるのだろうからな。では、答えやすいように二択にしてやろう。──お前は、殺されたいのか? 『はい』か『いいえ』で答えてみろ」

 

「いいえ、です」

 

「ならば、戦え。知を得るのだ。生きるために」

 

 クルックスは、両手で千景を受け取った。

 ズシリと腕に感じる重みは『これで人も獣も殺せるだろう』と確信するには十分の重量だった。

 

「抜いてみろ」

 

 筋力には自信がある。

 回転ノコギリや斧より重心の偏りが少ないため、振りやすいと感じた。

 鞘から抜いたところでレオーは口を「ヘ」の字にした。

 

「……薄々気付いてはいたが、木の棒を振るみたいに振るなぁ」

 

「『きょうだい』のなかで最も筋力があるのは俺でしょう。力には自信があります」

 

「それはいい。ついでに持久力もあればいいことだ。握り方を教えてやる」

 

 レオーはクルックスから預かった鞘を千景の柄に見立て、小指から順に握っていく。

 クルックスもそれを見真似て「こう? ですか?」と質問を重ねた。

 

「両手はそうだ。しかし、左は銃を持つから基本的に右手だけで扱うことになる。両手の時は、親指は添えるだけでもよいが片手の時は親指が起点になる。しっかりと握るためにな」

 

「……扱うには相当の技量が必要ですね。手に馴染まない感覚があります」

 

「技量は必要さね。ところで、短所のない仕掛け武器は無いとされる。短所が無いということは、長所も無いということだからな。それの短所は何だと思う?」

 

 レオーの問いかけは、実利を重んじる狩人にとって最重要と評してよい質問だった。

 狩人には、取捨選択が必要だ。必要な武装と不要な装備の選択はもちろんのこと。獣と対峙した場合に、いかに自分に有利な立ち位置を確保しつつ敵を殺すか。獣に慈悲は必要だろう。しかし、礼儀までは払っていられない事情は無数に存在する。多くの場合、獣の膂力に対し人間はあまりに無力なのだ。

 

「自傷が必要になることです」

 

 クルックスの自己採点五〇点の回答にレオーは「うーん」と悩み顔だ。恐らく、二〇点程度だった。

 

「千景は素晴らしき血の業で、狩りを彩る仕掛け武器である。刃に刻まれた波紋の構造により、継戦する能力は少々劣る。それでも青雷の奇人、アーチボルドのトニトルスほどではないがな。しかし、制約があるからこそ工夫が生まれる。そうして短所は、ようやく長所へ変わるのだ。……とはいえ、火薬庫や医療教会の工房をくまなく探せば、構造上の短所そのものを克服する方法というものが、あったかもしれない。カインハーストはそれを選ばなかった。ただ、それだけの話でもある。市街に長く留まれない理由は他にもあるからな……」

 

「そういえばそうです。日が昇るまで市街で警笛が鳴っていたことはなかったと記憶しています。……カインハーストの狩人は長く市街に留まらない理由とは?」

 

「血族になったら教えてやるよ」

 

 前向きな返答のように聞こえるが、クルックスが連盟を辞めることはあり得ないため彼は回答を拒絶したと見てよいだろう。

 

「──では、質問だ」

 

「はい」

 

 今度こそせめて五〇点の回答をしたいと思い、クルックスは更に真剣に考えようと思った。

 

「市街でカインハーストの狩人と会敵した場合、適切な対処方法は何か?」

 

「確認を。この質問は……あくまで仮定ですよね?」

 

「いいや、必要な諍いだ。お前が市街を歩く道で俺達とバッタリ出くわすことは、そう珍しいことではないだろう。……狩人がポカンと口を開けるな。マヌケめ。百年単位で考えてみろ。ほら、会いそうな気がしてきただろう?」

 

「たしかに……ごもっともです。想定しておくことは大切なことです。失言でした。では市街で会ったときは……うーん、千景の武器の特性を考えるとすれば出来るだけ近付いて剣戟し続けること──」

 

 クルックスはチラとレオーを見上げた。三十五点という顔をしていた。

 

「それと……えーと、えーと……狩人の頭数を用意して複数で襲う?」

 

「俺じゃなくても大抵の狩人は死んじゃうと思うぞ。だが対処法としては正しい。まぁ、俺が狩りをする時は単身で狩りをしている狩人が中心であり、助けを呼ばれる前に殺すけどな。鴉が遊んでいる時は死ぬまで笛を吹かせたりするけど」

 

 夜の市街に響く教会の警笛は、なぜ危機を知らせるのか。その理由をこんな時に知るとは思わなかった。

 なぜ世の中の衝撃的な出来事とは、何の気なしに話された会話のなかにしれりと混ざり込むのだろうか。クルックスは言葉が見つからなかった。黙り込んでしまった自分に気付いたらしい。レオーは見当違いの補足をしてくれた。

 

「あ、鴉の名誉のために言わねばな。別に趣味で半殺しにしているワケではない」

 

 ──あたりまえです。当然です。

 そう言いかけてしまったクルックスは、突然の咳で誤魔化した。

 

「鴉の統計上、ギリギリ生きている方が『穢れ』が見つけやすいらしい。俺は死んだ狩人のほうが見つけやすいと思うが……。それと騒がせておいた方が狩人が来るからな。探しに行く手間が省けるというワケだ」

 

「正解は『独りで行動しない』と『やられる前に殺す』」

 

「大正解だ。いいぞ。市街の狩人の獲物は獣だ。俺達の千景やセラフィのレイテルパラッシュの刃が鈍るまで打ち交わすことはできまいよ。血質と技量も違うのだ」

 

「獣と狩人は違うでしょう。俺は、獣狩りと狩人狩りの優劣を競う心算はありませんが……しかし対人戦の技術においては、カインハーストに一日の長があります。培われた経験も日々の積み重ねた鍛錬でしか得られない。そう学ばせていただきました」

 

「そのとおり。問答が済んだところで、次は体を動かしてみるとしようか」

 

 クルックスはレオーから鞘を受け取り、刃を収めた。

 

「具体的には何を? 俺は訓練といえどレオー様に刃を向けたくありませんよ」

 

「安心しろ、鞘に収めたままでいい。それでも打ち所が悪ければ互いに死ぬが狩人とはそういうものだ。むしろ死んだ方がよい。こんなこともできないマヌケはな。……それにお前も覚えておくべきなのだ。こんなご時世のヤーナムでは、獣狩りより狩人狩りの能力の方が重要だ」

 

「なぜです?」

 

「分からないのか? ……そうか。お前は愛されているな、月の仔よ。分からないのならば、そうさなぁ、上位者は恐ろしいものだが、生きている人間にとって本当に恐いのは何だって話だ。あるいは『できないこと』より『できること』が多い方が有利という観点だな」

 

 クルックスには、分からない話だった。だが、切り上げ口上で会話の終わりを悟った。

 

「さて。目的は、間合いの把握とステップの練習と心得よ。二日とは存外短い時間である。体にたたき込んでやろう」

 

 腰のベルトに括り付けていたナイフ──こちらも鞘に収められたままだった──それを宙に放り投げて弄んでいた彼の目がキラリと光る。

 勢いよく突きつけられたナイフと構えた千景が鈍い音を立てた。

 

「やはり反応がいいな、お前は。市街で出会って初撃を逃したら、まぁまぁ面倒な手合い。それでも俺の敵ではないがな」

 

「しぶとい自覚はあります。レオー様はご油断なさって怪我をする心配をした方がいい」

 

「ほう」

 

 レオーの瞳は、少年のように煌めいた。

 新しいことを発見した狩人の目だとクルックスは気付いた。

 

「鴉に同じ事を言ったセラフィは泣いて許しを請うまで湖に沈められたが、お前はどうかな?」

 

 恐怖に体が竦むことはなかった。

 持ち前の筋力でナイフごとレオーを押し返し、クルックスは千景を振るった。

 

「踏み込みが甘い。頭で水銀弾を食いたいなら別だがな」

 

 軽くいなされ、地面を転がった。

 体勢を整える前に長い足の蹴りが鼻先を掠め、帽子を後方に飛ばした。

 

「そういや市街の狩人は普通、格闘をしないものだが──お前の長はいろいろと知っていそうだよなぁ。市街の噂では、都の官憲サマだとか?」

 

「……。さぁ、俺はよく知りませんね。知っていたとしても利て……むぅ」

 

 つい『利敵行為』と言いかけて、口を噤む。

 レオーが「学習しないのな~、お前~、愛せる~」と小馬鹿にしたように笑った。

 

 迂闊に千景を振るえば、その隙を突かれる。

 しかし、振らないことには攻撃ができない。

 仕掛け武器の優位はクルックスにあったが、大人と子どもの体格の不利が有利を上回っていた。

 このような場合に攻撃の起点となりうるものは銃だったが、使用の許可は下りていない。

 

「銃の大切さが身に染みます」

 

「だろ? だからこそ『整備不良で死にました』は、不名誉なことさ。……昨日、ちょっと反省した」

 

 呼吸をひとつ。

 クルックスは千景を正眼に構え、踏み出した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 月の香りの狩人が、ビルゲンワースに舞い戻ったのは単純な気まぐれ──ではなかった。

 悪夢の辺境という毒と発狂に塗れ、常人であれば頭をいくつ破裂させても足りない悪夢に飽き飽きしたことがひとつの理由だ。最も大きい理由とは、カインハーストの女王へ誠意を示すため、せめてお目付役であるレオーに中間報告をしようと戻ってきたのである。

 

 侵入した狩人を追いかけ回していた狩人は、半日ぶりに外套を脱ぎ寛いで茶を飲んでいた。

 

「女王様には本当に悪いことをしたと思っている。期限を破る心算はなかったが……なかなかどうして最近は時間が流れるのが早い……」

 

「狩人君、時間の流れる早さは変わっていないよ」

 

「きっと違うわ、コッペリア。時間が経つのが早いという言葉は、子どもの成長は早いと同義なのよ」

 

「おっと、そうか。狩人君でもプレッシャーとか感じることがあるんだね!」

 

 コッペリアの言葉は、概ね正解だ。

 狩人は、また一口お茶を飲んだ。

 

「ところでレオーが見当たらないが、もしかしてまだ寝ているのか?」

 

 普段、学舎にやってくるカインハーストの騎士達の過ごし方は、レオーと鴉の両者では異なっている。レオーは学徒達と談笑することを望むことが多く、鴉は必要最低限の時間以外を宛がわれている自室で過ごすことが多い。

 これまでレオーを見かけないという経験が無かった為、狩人はユリエに尋ねた。

 

「ああ、彼ならクルックスと一緒にお外で遊んでいるわ」

 

「クルックスと?」

 

 ──何をしているのだろうか。

 狩人は外套を羽織り、トリコーンを小脇に抱えると学舎の扉をくぐった。

 舗装された学舎の周囲に姿は見えない。湖を見ていると小さな波が動いているのが見えた。風による波紋ではない。耳を澄ませると遠く水が跳ねる音が聞こえた。学舎からは林で見えない湖の畔からだ。水遊びでもしているのだろうか。レオーが子どもの遊びに付き合ってくれるとは意外な出来事もあるものだ。狩人は林の獣道を歩き、木陰からこっそり彼らの様子を覗いた。

 

「惜しかったな。まぁ、長い夜の途中だ。屈辱も一興だろう。……やはり民を虐げてこその貴族。ひょっとして俺様、今年最も貴族らしい行為をしているのでは?」

 

 レオーは湖の浅瀬に立っていた。

 そして、水の中でもがいている誰かは──消去法でクルックスだろう。

 その様子を認めるや否や、狩人は木陰から飛び出した。

 

「何をしているんだ、レオー! ユリエめ、『一緒にお外で遊ぶ』とはこういうことか」

 

「お。月の香りの狩人。進捗はどうだ?」

 

「それは順調、いいえ、今はそうではなくてだな。便宜上の父親が現れたところで息子に対する殺害未遂はやめてほしいんだが。カインハースト流のかわいがりなんて言わないだろうな」

 

 狩人が早口で指摘するとレオーはようやくクルックスを沈めていた足を退けて、首根っこをつかまえ湖から引き上げた。

 クルックスは、水と砂を吐き「し、死に、そ……」と呟いた焦点の合わない目で息をしていた。

 

「稽古さね。しかし、月の狩人。よその家の教育方針に口を出す心算はないが、もう少し助言者らしいことをしたらどうだ?」

 

「しているぞ。──クルックス、大丈夫か!? あっ。だいぶダメだな」

 

 陸に上がりクルックスには砂水を吐かせたが、消耗しきりぐったりしていた。しかも稽古はひどく疲れたようだ。彼は目を閉じて、気絶するように眠った。

 彼が回復するまでの数十分。

 狩人とレオーは木に寄りかかって座り、待つことにした。

 

「はあ。あれが稽古? いきなり厳しいことをするな。カインハースト流の育成術なのか? 私だって虐待だと思ったぞ」

 

「まさかまさか、そんな意地の悪いことをするワケないだろ?」

 

 狩人はレオーの顔をじっとり見つめた。

 紙巻き煙草をうまそうに吸っていた彼は「こっち見るな」と紫煙を流した。

 

「いやなに。思いの外ほかクルックスが頑張るものだから、俺も手抜きが難しくなってきてさァ。素直で上達も早い。連盟なんてワケの分からん連中に任せておくには惜しい。どうだ、お前と俺で女王様に話してさ。カインハーストの騎士に推さないか?」

 

「勝手にすればいい。俺は遠慮する。誓約は相手とクルックスが互いに納得して決めることだ」

 

「ふぅん。そういうことは放任主義なのな。……では、俺も当分は諦めておこうかね」

 

 見送るにしては未練がましい声音である。

 レオーが何かに執着を見せるのは珍しいことだ。

 彼を見れば千景に付いた水を払い、刃の状態を確認していた。

 

「カインハーストと女王様にはセラフィを送った。不満でもあるのか?」

 

「何もないさ。こどもは貴重品だ。分かるだろう?」

 

「……。身に覚えはないが、知っている……」

 

 狩人の微妙な物言いは、多様の意味を含めたものだ。

 そのうち幾分かを汲み取ったのだろう、レオーは紫煙をこぼして笑った。

 

「仔は我々が求める『赤子』でなくとも、それだけで価値がある。三年前に分配したのは賢い選択だったな。ひとりいれば十分と思い、我慢しようとも思っていたが……いざ触れてみれば、よその仔でも欲しくなる。奪えるならば尚のことだ」

 

「…………」

 

 レオーは、クルックスの濡れた髪に触れた。

 彼の気性は、鴉ほど激しいものではないことを狩人は知っている。

 時代が時代ならば、血の狩人として華美を尊ぶ、ただの騎士で終わっていた人物だ。抱く情は深く、だからこそ彼を復讐に駆り立てて止まない。

 

 しかし、今のヤーナムは夜ばかりではない。

 雨も雪も降り止むことがある。同じように仮初めでも朝はやってくるのだ。

 

 傷だらけの手指でクルックスの耳をなぞる彼は、慈愛に満ちた目をしていた。

 レオーが抱きがちな愛というものは、記憶の無い狩人には肌触りが分からないものだ。

 

 無論、彼も学習は好きなので言葉の意味は知っている。

 

 曖昧な情の発露もあるにはある。だが、よく分からないのだ。情の温度は『生きもの』を生み出したことに由来する造物主としての感情なのか。それとも、輸血を受ける以前から存在していた感情なのか。彼には我が事ながら判断が出来ていない。

 また、仔らが自分に向ける感情も受け取りが難しい。

 かつて人形は言ったことが思い出されてしまうのだ。

 

 ……わたしは、あなたを愛しています。

 造物主は、被造物をそう作るものでしょう?

 

 初めて聞いた遙か昔の夜のなかで「それは違う」となぜ自分は騒げなかったのか。答えは分かっている。その頃の自分には考える余裕が無かったのだ。巻き込まれた長い夜の中で右も左も分からず殺され続ける時間のなかでは、そんなことを考えていられなかったのだ。

 だが、彼女の疑問に答えなかった代償は大きく、こうして尾を引いている。いつまで続くか分からない気がかりを抱え、考えても分からないのに考え続け、いつか思考が理解に辿り着く日を年に一度の夢のなかで見ている。

 素直に愛せず、愛することも拒絶した狩人は仔らに愛の代わりを与え続けていた。仔らに手ずから与えられるものがあるとすれば、永続的な死から遠ざけることだ。それは死に続ける苦しみと狩人の業を負わせ、ヤーナムにおいて最も価値の無い命を与えることになったが、それでも彼らは祝福と呼ぶだろう。

 ただし、何も知らない彼らを夢に囲う行いは、かつての狩人の夢の主と被る行為である。そのことだけは、とても癪だと思っている。

 

 意識が薄いクルックスがくすぐったそうに身をよじった。

 

「可愛いものだな。……弱く在るのが許しがたいほどに」

 

「呆れた。それで殺していては世話のない話だ」

 

「鴉を見習うワケではないが最も効率的な手段を求めるとこうなるんだ。月の香りの狩人の系譜は諦めないからな」

 

「精神性をアテにされると困る。ときどきだが心折れるときもあるからな」

 

「クク、ハハハッ。それはいい。時には心折れるがよい。そうでなくば狩人は人でも獣でもなく英雄になってしまう。『失敗を記憶し、学んでいく』とは、なんてまともな人間の営みだったろうか? 俺はセラフィに会うまで忘れかけていた。こどもは白紙だ。鍛え甲斐があるな」

 

「否定できない。最近はクルックス達がいてくれて良かったと思うことがある。……彼らは刻々と変わっていく。昨日とは違う顔をしていることがしばしばある。私とは、とても似つかない。成長を……嬉しいと思うことがある、気がするんだ」

 

「ほお。魔物もいよいよ成長期なのか。これは重畳。女王様に報告しなければな」

 

「やめてくれ。あらぬ期待を持たせたくない。レオーのなかに留めておいてくれ。この頃は、いろいろなことを知り、焦りばかり感じている。ヤーナムの外、外界のことであるとか……」

 

「ほう。心変わりは早い方がいい。元のようにヤーナムの外から病み人を引き入れてはどうだ? 少なくとも俺達にとっては、長夜の退屈しのぎにはなる」

 

「門戸を広く開いたところで今さらヤーナムの噂を辿ってくる病み人などいない。外界の医療はずいぶん進んだらしい。少なくとも『得体の知れない血液をぶち込んで解決!』を信じる人は減ったようだ」

 

「それは困る。まるで血に依る俺達が愚か者みたいではないか」

 

「地元住民のレオーはともかく、俺は現代ならば確実に指差して笑われる愚者だろうな。血液型の概念など今年になって初めて知ったからな」

 

「はァ? 血液型? カインハースト的に受け入れ難い概念すぎるな。ダメだろ。お貴族様と下民は流れる血の色から違っていなきゃ」

 

「そのとおり。吹聴する必要はないと思っている。そもそもヤーナムでは医療教会の公式発表でさえ信じない人が多いから、広めたくても広まらない──が正しいが」

 

「足踏みも二〇〇年以上してみるものだな。外の世界は、よほど変わったらしい。興味はないが暇潰しにはなる。そういえば外から仕入れた本が大量にあるらしいな。何冊か持って行ってもいいか?」

 

「あまり好ましくないがカインハーストの工房小屋から出さないことを約束してくれるのならば」

 

「助かる。……それで浮かない顔の理由は? 今さら外の世界に迎合できないことを悲しんでいる──なんてことではないのだろう?」

 

「まさか。ヤーナムのものは何であれ外界に出すつもりはない。まぁ、例外はある。困った顔をしていたつもりはなかったが……うーん、強いて言うならば……外の神秘の話だ」

 

「ああ、魔法な。夢のある話だ。セラフィから何度か聞いたことがある。鴉のいない時にな。俺には……どうもお伽噺に聞こえるがね」

 

「その認識は正しい。ヤーナムしか知らない俺たちの理解のために、この後も敢えて、ヤーナムにおける近似の概念である『神秘』と換言するが、その実、魔法族の彼らにとってはただの『技術』だ。スープを飲むために木を削り出しスプーンを作り、使う。それと何ら変わらない。『秘儀の理屈は分からないが何とか使っている』程度の私たちとは異なるものであるらしい。科学の理論と同じように経験の蓄積も人は『技術』と呼ぶだろう?」

 

「歴史が違うからな。比べても仕方がないだろう。でもそんなことは分かっている、という顔だな。では何だ。心配とは」

 

「まず大前提があるのだが私は稀な機会を手に入れたから仔らに外を勧めてみた『だけ』で、それ以上もそれ以外も求めていなかった。せいぜい……何と言うべきかな……便利な道具を拾ったから、使ってあげよう……くらいの軽い気持ちだった。相変わらず上位者はうじゃうじゃ群れていることもある。またトゥメルやローランの文化圏がどこまで広がっているか悪夢の関連が分からないにしてもヤーナム周辺に収まる規模とは思えない神秘の人々だ。東方よりもたらされたそれ──千景の存在も俺は気がかりなのだ。だから有り体に言ってしまうとヤーナム程度の病の都は『ありふれた』異常だろうと思っていた。しかし……どうやら私の思い違いだったらしい。こんなに病んでいる街は、魔法族の間でも知られていないそうだ。……それでも『あちらがヤーナムを放っておけば、こちらからあちらを構うこともない』とはクルックスに言ったことだが、今もそう思っている」

 

「それはまぁそうね。お前、ヤーナム以外、どうでもいいものね」

 

「だが、すでに縁は生まれてしまった。そして向こうがこちらを認識した以上、誰かがヤーナムに行こうと思えば、来ることができる。これは証明されている」

 

 狩人は、学舎にいるクィレルの名を挙げた。

 そして、昨年訪れたセラフィの寮監の話を。

 

「へえ。異なる神秘だろうに互換性があるのか。では互いに根っこまで見えそうなものだがね。……しかし、そんな心配事なら杞憂だ。市街の異邦人を見つけ次第、俺が斬っておく。それで解決する手もあるだろう」

 

「それはそれで困る。野蛮な土地だと危険視されるのは避けたい」

 

「えぇぇ……本気で言っているワケじゃないだろうな? クルックスがトロールとかいう巨人にパイル射出した時点で、もうだいぶ手遅れじゃない?」

 

「トロールや巨体蛇は、あくまで害虫駆除が目的だから大丈夫だと思う。大丈夫だ。私が手紙を出してフォローしたからな」

 

「あ、そ。面倒くさ。何が言いたいんだ? 外から見えるヤーナムを取り繕いたいって?」

 

「いいや、違う。そこまで大がかりな欺瞞は必要ない。ロマを増やすのは冒涜だろう。外界からの目から見て最低限『変な風土だな』の評価に留めたい。具体的には、そう思われるような行動を起こすべきではないかと思っている」

 

「すこし面白いことを言う。上位者様が白旗掲げて握手しに行こうって?」

 

「簡潔に言えばそうなる。『危険な土地』と思われて無為な敵意を受ける事態は避けたい。神秘の争いは面倒だ」

 

「……いろいろと言いたいことはあるが、時間の無駄は同感だ。嫌だぜ。外の戦争なんかで更に二〇〇年以上足踏みするなんて。穢れも期待できそうにない。発狂するわ」

 

「発狂するな。それもひどく程度の低い」

 

「上位者様でもお外の神秘は脅威と見ているのか? 俺にはそうは見えん。厄介ではある。だが、扱うのは刃が届けば殺せる人間だ」

 

「レオー。私の憂慮とは力の問題ではない。まして神秘の浅深でも人間の数でもない。時計塔の貴婦人が倦んだものと同じだ。──好奇だ」

 

「好奇……? ああ、それは厄介。特に現状のヤーナムの脊髄である夢の仕組みが解体されたとして……しかし、お前を殺しきれるとは思えんが」

 

「……。死が些細な障害に変わるほどに魅力的なのだろう。そんな人々にとってヤーナムは宝の山や新天地なのかもしれない。底知れぬ力を持つ何かは確かに存在する。人は死から免れ、死者は蘇る。お伽噺の魔法のように。ヤーナムではありふれた神秘だ。ところが外の神秘はそうでもないらしい。人間は、魔法族は、まだ死を克服できていない。死を覆すのは特異なことなのだとか」

 

「ヤーナムも克服しているワケではないだろう。とはいえ夢だったことにすれば『見てくれ』だけは死を克服している……ように見えるか」

 

「ヤーナムと外では、生死の考え方に隔絶があるような気がしてならない。外では肉体が無くとも『遺志が存在する』という状態を生とするのだろうか?」

 

「ゴーストを生者とは呼ばないのだから死だろうな。俺達の尺度ではそれは紛れもない生だが。あっちは啓蒙が足りないんじゃないか? 魔法という神秘を手足のように扱っているのに瞳は衰えてしまっているのかね」

 

 狩人は「むむっ」と唸った。

 

「こうした思想分析も進めている。コッペリアの担当だ。平行して交渉の内容についてユリエと考えているところだ。──今後は、どうするべきか? このまま不干渉の態度を貫き、触れねば起きない獣と思われるべきか? それとも言葉が通じるナメクジと思われるべきか? カインハーストの女王様には後日奏上に伺うつもりだが……話す内容がまだ定まらない。私と学徒、そして学徒同士でも議論が割れている。今年の成果にはならないだろう」

 

「ナメクジ呼ばわりは抜刀モノだが個人的には後者を選びたいものだ。俺達は獣性を秘めているかもしれないが、まだ獣ではない。偏見などヤーナム内で腹一杯だ。──実際のところはどうだ。交渉は可能なのか?」

 

「テルミとネフライトならば、うまくやるだろう。もっとも情報は必要だ」

 

「あの二人か。狩人の仔だから俺は信用してもいいと思っているが……。医療教会の息がかかった者が二人きり、ね。カインハーストが頷くと思うか? 報告する俺の首をもっと真剣に思いやって欲しいものだな」

 

 狩人は、まさに「言うと思った」という顔をして、口に手を当てた。

 

「ヤーナム全体の問題だ。……目を瞑るという選択はないのか?」

 

「それができていたのなら、ヤーナムのあちこちにある火種は半分以下になっている。滅亡間際、いいや、滅亡が分かりきった最期でさえ結局、誰も手を取り合うことはしなかっただろう? 最期までそうだったのだ。民は不在の神へ祈り、医療者はくだらない神秘を信じた。狂うのは何も知らない哀れな狩人ばかりだ。だが、狩人でさえ同じ狩人を信じきれていない。人間は弱いからな。同じ人の手より、見たこともない救いの手を信じるものなんだ。ヤーナムの民はどうしようもなくそうなんだ」

 

「……でも俺はレオーを信じている。レオーだって俺を信じてくれているだろう?」

 

「ご信用いただいて光栄だ。俺も愛している。だが俺はカインハーストの人間で、しかも個人の意向はカインハーストにおいてさほど重要ではない。やはりお前の悩み事には、いつも力になれないようだ。……悪いな」

 

「レオーは悪くないだろう。私が人間の形にこだわっているからダメなのだ。正解だけを選ぶ手段はある。それを選ばないと決めているだけで」

 

「そのスタンス。学徒はいろいろ言うだろうが俺は好ましいと思っている。ヤーナムは人間の意志で栄え、滅びるべきなのさ。華やかに。そして悪夢的に。ついでに悪趣味ならもっといい。上位者にそそのかされた結果、血に溺れて滅べば……誰も俺達を知る者は、いなくなってしまうな……」

 

「……何にせよ間が悪い話だ。俺は、もう人間ではないからな……」

 

「そうか? ククク、俺には、まだ人間に見えるぜ。しょっちゅう人形に泣きついているらしいからな。ならば人間ってことでいいだろう。一年が二〇〇年以上続いているのは、まぁ、人間の進歩に期待する上位者が気まぐれに起こした異変くらいに思っておけば俺達の気分も大して悪くないものだ」

 

「…………」

 

「学徒達も、あの様子ではまだまだ耐えられるさ。人間は強かだからな。むしろ、足下すくわれないように気をつけるべきなんだぜ。上位者とて殺し尽せば死ぬには違いない」

 

「こわいこわい。気を付けるとしよう。……ありがとう、レオー。夢に戻る。クルックスは……まだ意識が戻らないようだな。学舎まで頼めるか?」

 

「ああ。いざとなったら夢に直葬するから安心しろ」

 

「さて、後半戦だ。期限までにはできるだけ納めるからな」

 

「『できるだけ』では俺が困る」

 

 レオーが煙草をもみ消したことを合図として狩人は立ち上がる。

 そして、背伸びをすると腕を回しながら学舎へ歩いて行った。

 それから間もなくのことだ。

 クルックスが深刻な顔で起き上がった。

 

「…………」

 

「せっかく寝ていたことにしてやったのに。台無しにするんじゃあないよ」

 

 レオーは狩人の会話の途中、気絶とも眠りとも言いがたい状態から覚醒したクルックスとうっかり目が合ってしまっていた。しかし、指摘して会話をやめるほどのこともあるまい。そう思って特に何もしなかったのだ。

 

「……お父様が、あんなことをお悩みだったとは、気付きませんでした……それが、悲しい……悲しい? 違う。これは悔しいという感情なのかもしれない……今すぐに、あの人の背を追いたい気分になっている……」

 

 狩人がそうしていたようにクルックスも木に寄りかかって座った。

 ただし、意識だけは狩人の後を追うように学舎へ向けられている。

 レオーは長々と溜息を吐いた。

 

「それはやめておいた方がいいな。狩人が独りで考える時間も必要だからな。こどもに心配かけていると察した大人の内心たるや。目も当てられない。情けないものさ。あまり追い詰めてやるなよ。上位者が皆の期待するほど万能なら失われた赤子だって、とっとと作っていただろうよ。知らないフリをしたこどものままでいろ。……面倒なことは他の大人に任せておけばいいのさ」

 

「レオー様は、どうすればよいと思いますか?」

 

「おいおい、俺に聞くかよ。復讐鬼に未来の話ができると思っているのか?」

 

「それは……やってみなければわからないと思います」

 

「正論を言うな。そのうち逆上するぞ。俺は処刑隊以外に怒りを向けたくないんだ。……お前はカインハーストには不都合すぎる存在だな。失うものの少ない若者には分かるまい。──さてさて、だ。お前は寝てた。いま起きた。はい。この設定でいくぞ」

 

「あ……はい。シナリオ、了解です」

 

「濡れたままじゃいけない。ほら、学舎へ戻るぞ。それから……そうだな。あ、本を選ぶのを手伝ってくれるか?」

 

「ええ、はい」

 

「うんうん。いい子だ。可愛がってやろうな~」

 

 レオーは、くしゃくしゃとクルックスの髪を撫でた。

 クルックスが思うにレオーはこうしてじゃれ合っている時が最も生き生きとして見えた。

 

「むぅ。セラフィにもこんなことをしているんですか?」

 

「できていると思うか? 遺骨キックで腰イクぞ」

 

「逆関節かぁ」

 

 クルックスはレオーに手を引かれて学舎に戻り、それから残りの一日と半分を有意義に過ごした。

 そのためだろうか。

 約束の期日、その当日。

 狩人が血眼になって掻き集めた『穢れ』を預かったレオーが狩人と学徒に別れを告げる。

 どうしても別れが名残惜しく思えてしまい、クルックスは学徒達の許可を得て、日暮れの森をレオーと歩いた。

 

「ククク……いいのか? 連盟員に見られたら面倒だろう」

 

 ──灯りはありがたいが。

 レオーは楽しげに笑って一緒に歩いてくれた。

 血除けマスクを鼻の上まで上げたクルックスは右手が空だった。

 

「その時は、貴方に脅されていたと言います」

 

「お、いいな、それ採用~」

 

「ありがとうございます。今日も市街に狩りへ行くのですか?」

 

「いいや、今日は狩りの日ではない。鴉は遊びにきているかもしれないが、セラフィは留守を守っているだろう。俺は市街の屋上を通り過ぎて、ヘムウィックへ行くさ。……その屋上も最近は物騒なんだけどな」

 

「え? 医療教会は、使いを屋根に出張させているのですか?」

 

「いいや、違う。教会の射手だ。何度かやり合ってるんだが、ありゃ相当なやり手だ。『窶し』なんてな。久しぶりに見たぜ」

 

 レオーは、呆れた口調だ。

 ──よくもまぁやってる。

 小馬鹿にするようでもあった。

 

「窶し。市井に紛れて獣を狩る、予防の狩人でしたか。でも俺は見たことがありません。本当にいるのですか?」

 

「いるさ。昨年初めて会って頭ぶち抜かれかけた。……あれが地底にこもっていた変人でもない限り、つい最近、悪夢から還って来たヤツだろう。惜しいヤツだよ。医療教会の窶しなんて仕事してなきゃ招待状渡したんだがな。つくづく残念なヤツさね」

 

 レオーはそう言って嘆息したが、クルックスは別のことを考えていた。

 

(『昨年初めて会った』? 一五〇年ほど夜の市街を歩いているカインハーストの騎士が?)

 

 悪夢から還ってきたヤツ、との評価は正しい見込みだ。

 ──ということは。

 

「セ、セラフィもそのことを知っていますよね?」

 

「もちろん。頭がパァになった俺を運んだのがセラフィだったからな。敵の姿も見ただろう。どうした?」

 

「……あ、いえ、よく、逃げおおせたものだと感心したんです……」

 

 セラフィが知っていることならば、父たる狩人にも伝えていることだろう。

 狩人は夢から還ってきた人々にどうやら接触したがっているようだ。獣の皮を被った男と同様に何かしらの接触をしているに違いない。

 クルックスは、どうしても肩の力が入ってしまうのを久しぶりの夜歩きのせいだと思うことにした。

 

 森が途切れる場所に来た。

 急斜面を昇れば市街、診療所の裏手に回ることができる。

 

 周囲を警戒するが、人も獣の気配もない。

 クルックスはトリコーンを軽く上げて別れを告げた。

 

「道中、お気を付けて。レオー様」

 

「ありがとな。お前も無理するなよ。……面倒なことは、あの狩人に任せておけばいいのさ」

 

「だからこそ俺は、あの人の隣に在りたいのです」

 

 レオーは顔の見えない兜のなかで、また笑った。

 

「そうかい、せいぜい頑張れよ。……ああ、そうそう念押しの忠告だ。もし狩人の背中を追うならば、どこにも所属しないことだ」

 

「どうして、ですか?」

 

 思いがけないことをレオーが言い出したのでクルックスは、疑問ばかり浮かんだ。

 彼は肩を揺らした。

 

「狩人だって最初から連盟の狩人だったワケではないだろう? 背中を追うならば徹底的にな。そして、お前は病んでいるワケではない。健全で自由だ。何をやってもいい。何もやらなくていい。好きなものを選んでいい。選ばなくてもいい。酸いも甘いも味わってから連盟の狗になったって遅くはないだろう。考えてもみろ、二〇〇年だぞ。ほとんどの出来事は些事、そして誤差だ」

 

「おっしゃる意味は何となく分かります。俺を心配してくださっているんですね。しかし、世界は綺麗にしなければなりません。連盟の使命は俺の願いでもあります。虫を潰し淀みを根絶したこの世界は、きっと本当はもっともっと綺麗です。その未来においてのみヤーナムは最も新しい朝を迎えるに値します。今も悪夢に魘されるカインハーストであっても。……お気遣いありがとうございます。レオー様も無理はなさらないように。信じる血の加護があらんことを」

 

「そうかい。……互いに、甘き夜明けを願いたいところだな」

 

「……? 甘き夜明け?」

 

「望む夜明けのことを女王様はそう呼ぶ。誰の望んだ夜明けなのか。誰にとって甘いものなのか。それは分からないが、祈るものが違う俺達が共通に祈れるものがあるとすれば血の他には夜明けだけだろう」

 

「なるほど……」

 

 カインハーストの言い表し方は、参考にすべきことが多くあるとクルックスは思った。例えば『甘き夜明け』は、魅力的で暗闇のなかでキラキラ光る言葉に感じる。

 

「さて。行くとするかね。俺も、また頑張る気力が出てきたからな」

 

 クルックスはレオーが狭い道を歩き始めて間もなく、その道の先に誰かが立っていることに気付いた。

 いったい何者か。

 目を細めたクルックスにレオーの鋭い声が届いた。

 

「ダメだぞ、鴉。あれは月の仔だ。──我らの敵ではない」

 

 彼の騎士がまとう鴉羽の外套は月の光を受けると光沢を放っていた。

 市街から流れてくる風は仄かに血生臭いのに今日に限っては、甘い。

 ──あれがカインハーストの流血鴉だ。

 クルックスは一瞬だけ体が固まったが、すぐさま狩人の礼をして敵意が無いことを示した。

 

 そっと見上げてみる。

 鴉はレオーが合流した後で外套を翻し、暗闇のなかに消えてしまった。

 彼から、ほんのすこし遅れて歩き出したレオーは控えめに手を振った。

 宙を掴むように手を握り、クルックスもそれに応えた。

 

 クルックスは空を仰いだ。

 市街を照らすガス灯の光は弱く、月の光ばかりが降り注ぐ。

 夏の夜は、短い。

 けれど。

 この土地で迎える夜は、どうしても『外』より長く感じた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「どうだった」

 

 鴉の質問は、いつも要領を得ないものだった。

 しかし、不本意なことであるが長年を共に過ごせば大凡言いたいことは分かる。

 例えば、今回の質問は「ビルゲンワースの月の香りの狩人及び学徒との定期情報交換は、どのような進行で行われたか知りたい」という意味だろう。

 それを理解した上でレオーは「最高だった」と告げた。

 

「セラフィの話を聞いていたから、彼は性格の穏やかな奴だと検討を付けていたが、いやはや、想像以上に良い奴だったな。──ほら、見送りに来てくれていただろ? 彼。光画にもいた」

 

 ヤーナム市街から遠く離れ、大小様々な墓碑が乱立するヘムウィック墓地街を騎士達は歩いていた。

 鴉と呼ばれる青年は顔の見えない兜のなかで本日の夜の始まりについて思い出しているらしい。

 次の言葉までには、やや間があった。

 

「クルッテル」

 

「混ざってる混ざってる。テルミと混ざってる。正しくはクルックスな。ぜひ会うべきだぞ。あれはヤーナムに貴重な善性だ。スレていないと言うべきか……。いやいや、悪意に悪意をもって返さないなんてヤーナムでは出来すぎた人格だ」

 

「死なぬゆえの余裕か?」

 

「そういう感じではないな。もっと自然で柔らかい。きっとユリエとコッペリアの教育が良かったのだろう。あるいは、あれこそ狩人の素に近いものなのか」

 

「珍しいだけだ」

 

「だから貴重でもある。恐らく、病み人ではない異邦人の善性に近い。お前も触れるがよい。カインハーストには存在しえない。新しい経験だ」

 

「セラフィがいる。必要ない」

 

「俺もそう思っていた。他の三人よりセラフィが優れているとな。だが種類が違う良さがある。クルックスは特にお薦めだ。単純に一緒にいると楽しいからな」

 

「狩人と同じ顔をしている」

 

「だから気に食わないって? まぁまぁ、そう言いなさんな。食わず嫌いはお前の悪い癖だぞ。中身はまったく違う。鴉を見かけた時もお辞儀しただろう。銃を抜くより先にお辞儀ができるなんて、果たして市街の狩人の何人が出来るだろう。とても可愛いぞ。あとは連盟なんて馬鹿な所属をやめてくれたなら言うことないんだが……」

 

「…………」

 

 鴉は珍しく呆れたように「ハッ」と息を溢した。

 ──それでもセラフィの方が優れている。そしてさっさと報告しろ。

 不機嫌な獣のように血濡れた鴉羽を震わせた鴉に応じてレオーはようやく口を開いた。

 

「なぁにも珍しいことはないさ。当分は、狩人も学徒もヤーナムの外のことにかかりきりだ。しかし、悪夢からフラリと戻って来ている狩人がいるらしいが、どこかの誰かが秘匿しているのか。それとも、自分を秘匿しているのか。何だか探し甲斐がありそうな話を聞いた」

 

「窶しの射手。獣皮の男。それから?」

 

「今のところ把握できているのはそれだけだが……どうにもクルックスの反応を見ると月の香りの狩人は射手について知らないらしい。まぁ、そのうち気付くだろう。大した問題ではないな」

 

「……そうだな」

 

 ぽつり、ぽつり、と。

 小さな疑問や発見を語り、二人の姿は朝焼けのなかに消えていった。

 レオーはいつもと比べることもできないほどゆっくりとした歩調だった。しかし、不思議なことに並んで歩く鴉との距離は変わらない。今日に限って鴉の足取りも鈍いのだ。

 時に態度とは、言葉より遙かに雄弁で優れていた。

 労りと呼べるほどもない気遣いを甘受し、レオーの短い休暇は終わりを告げた。




狩人君、喋る
『得たいのしれない血液をぶち込んで解決しようぜ!』という時代ではなくなったのは、ちょっと残念だが時間の問題で当然だとも思っている。しかし、まさかこんなに時代に取り残されるとは思っていなかったし、瞳が少ない時代になるとも思わなかった。けれど結果、人は多くの病を克服する術を身につけたようだ。病み人が少なくなったのはとても嬉しい。
 幸運な病み人を時折招きながら、今後は無用な敵意を招かないように握手のできるナメクジだと思われる方がいいかな、と思っている。ヤーナムで僕と握手!
 仔らを悪夢に繋いでいるのはせめてもの親心──なのだが、向けられる親愛には人形の言葉がちらつく。
 …わたしは、あなたを愛しています。
 造物主は、被造物をそう作るものでしょう?

レオーおじさんの休暇終わる
 3日でクルックスを堕とす自信があるため狩人をビル学から追い出したしコッペリアを薬でアヘさせたしユリエは放っておけば引きこもっているので下準備はバッチリ。肝心のクルックスは情報あげるよって言えば簡単に釣れた。──失敗する要素は無かったが、気まぐれによってクルックスの勧誘計画は凍結中止した。けれどまあ、狩人の悩み事には相談にのったしコッペリアには圧をかけてきたしユリエには花と言葉を贈り、クルックスは懐いたので、完璧な休日を過ごした。なのにどうして足が重いのか。レオーは認めないことで小さな意地を通しているのかもしれない。

この頃のセラフィ
 レオーが帰ってきたときに彼の寝床が寒くないように部屋を温めていたら眠くなってしまったので寝てました。

甘き夜明け
 本作のタイトルにもなっている「甘き夜明け」について、ようやく説明できて安堵している作者がいます。
 命名は、血の女王でした。信じるものが違うと相手の幸福を願う言葉にも苦労します。これは、その小さな悩みを解決してくれる言葉として現状のヤーナムを知る人々のなかで親しまれている言葉です。


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夏の海と記憶(上)



金属製の容器。材料により呼び名が異なる。
軽量そして長期の保存に優れる発明品は19世紀に現れたが、ヤーナムにおいては主流になる機会を逸した。
当時、硝子瓶による瓶詰めは重く、壊れやすかった。



『諸賢、お父様の命令で我々は旅行に行くことになった』

『〇七〇〇、狩人の夢に集合せよ』

 

 ネフライトより緊急の手記が届いた時分とは、日常を連盟活動に費やし充実した一日を過ごしたクルックスが(今日もよく働いた。よし寝よう)と一日を振り返りつつ寝床に向かい、ついでに寝間着に着替えた明け方の頃であった。

 

 文章を二度読むまでもなく、言いたいことや聞きたいことが大量に発生してしまった。

 その日のクルックスは遠足を前にした幼児のごとく、ジッとしていられなくなり、そのまま定刻を迎えたのだった。 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 早朝にキングスクロス駅から出発し、電車と地下鉄、それからバスを乗り継ぎ約五時間。

 彼らがニューカッスル中央駅に降り立ったとき、特にもクルックスは英ポンドを握りしめ、初めて駅ナカの売店に訪れていた。隣に立つテルミはレジバスケットを持ちクルックスに追いついた。肝心の彼は業務用冷蔵庫の前で右往左往していた。

 

「クルックス、あまり緊張しないで。普通にしてくださいね。……盗みだと疑われると面倒ですから……」

 

「分かっている。だがもうダメかもしれない。見ろ、缶がたくさん並んでる。これぞブルジョア。大量消費社会の末路なのだ。どれを買えばいいのか分からない。もうダメだ。おしまいだ」

 

「貴公の終末、早すぎです。ふむふむ。成分的にはジュースみたいね。かぼちゃジュースばかり飲んでいたから新鮮ですね。──オレンジと葡萄、どちらがお好き?」

 

「え、そうだな。ふむ……今日は葡萄の気分だ」

 

 テルミはガラスの扉を開き、ジュース缶を手に取るとバスケットに入れた。

 

「いいと思います。わたしも好きです。美味しいですよね、葡萄。ではオレンジはセラフィの分として……。あとはネフが飲むものを選んで下さいな」

 

「水がいいだろう。彼は俺達と違って味覚を楽しまない」

 

「その割にバタービールには目がないようですけどね。あ。この毒々しい缶にしましょう。面白そう。カロリーゼロだし」

 

「ん? カロリーゼロの食べ物が存在するのか? な、何のために……?」

 

 食事と言えば栄養補給と団欒の時間という理由しかしらないクルックスにとって『カロリーゼロ』の食べ物の存在は謎だった。食べる意味があるのだろうか。テルミも首を傾げている。

 

「さぁ? 喉ごしのためかしら? これ、ネフの分ね」

 

「なぜ金を支払ってカロリーゼロのジュースを飲まねばならないんだ?」

 

「それを理解するために買ってみるの。はぁい、レジに行きますよ」

 

 レジのおじさんは、二人をジロリと見ただけの愛想がない人だった。しかし、目が合っただけヤーナム基準では良い人物のように思えた。

 

 さて今日のクルックスは、狩人服のなかでも比較的、普通でまともである異邦の狩人服を来ていた。テルミはダイアゴン横丁で調達したらしきワンピースを着ている。すれ違う親子連れの女の子が着ているような普通の服だ。しかし、襟首に大きな白いリボンをあしらったワンピースは父たる狩人の顔を曇らせた。いつのかの夜の不幸な出来事を思い出したのかもしれない。

 そんな二人は──決して胸を張ることではなかったが──見かけ上は、不審だと思われる要素は無いハズだった。それに品物の金さえ受け取ってもらえれば何も問題はないだろう。クルックスはテルミが商品の入ったバスケットをカウンターに置くと彼に何かを言われるより先にポンド札をカウンターに置いた。

 店員は、ジュース缶を数えるとレジスターを操作して金額を表示した。

 ハッとしてクルックスは隣のテルミを見た。

 

「なぁ、ここで俺はチップを出すべきなのか?」

 

「無くても大丈夫ですが、あってもお釣りで足りる金額なので大丈夫でしょう」

 

 チップは不必要だった。

 クルックスは、ひとつ賢くなった。

 受け取った缶ジュースを鞄に詰め込んでいるとテルミがお釣りから数枚の硬貨をカウンターに置いた。

 

「わたし達、社会勉強中なの。お付き合い、ありがとうございますね」

 

 店員は、すこし驚いた顔をして「よき日を」と言った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「さて、なぜ私がここで強心剤ならぬ魔剤を飲んでいるのか。その説明からせねばなるまいね」

 

 電車の移動時間のほとんどを睡眠に費やしたネフライトは、カロリーゼロの炭酸ジュースを一口飲んだ。

 狩人の仔らは、駅からほど近い競技場隣の公園にいた。

 テルミはブランコに座って楽しげにしている。

 すこし離れたブランコの安全柵に腰掛けているクルックスとセラフィは、顔を見合わせてから「まあ、そうだな」とぼやいた。

 

「……しかしこれ、辛いぞ」

 

 カロリーゼロの魔剤をネフライトは律儀に飲んでいた。

 

「あー、これも舌がピリピリします。炭酸ジュースだったのですね。ねぇ、クルックス? わたしの舌、溶けてませんか?」

 

「どれ見せてみろ。……あ、いや、溶けてないぞ」

 

 クルックスはテルミの顎に触れたとき彼女の華奢な骨格にドキリとしてしまった。テルミは「でもヒリヒリしますね……」と呟いて舌を出した。チラリと見える赤い舌の印象が、妙に記憶に残る。

 

「へえ。メロンソーダ。メロンソーダか。どうやって作られているのだろうね」

 

 テルミのジュースを一口飲んだセラフィが身震いし、首を傾げた。

 

「スパークリングワインの亜種だろう。うぅ、度し難い。こんな娯楽に費やすならば、探究を──などと愚痴を言っても仕方がない。おぉ、カフェインが効いてきた気がする。──さて諸賢。突然の旅行だが、もちろん私の意志ではない」

 

 睡魔に打ち勝ち、気を取り直したネフライトが断言した。

 

「君がヤハグルを離れたくないことを俺達は知っている。お父様がこんな意向を示すとは意外だが……」

 

 ネフライトは語った。

 

「私は学期末の独断専行について罰を受けた。お父様は『四人で海にでも行って遊んでおいで』とおっしゃった。だから私は海へ行く計画を作成し、実行している。以上だ」

 

 クルックスは、簡潔に述べられた事情を頭の中で整理し、首を傾げた。

 ──そもそも俺が受ける罰ではないか。

 その思いは後ほど狩人に伝えるとして棚上げするとして。彼は、頭上に広がる夏の青空を見、首を傾げた。罰にしては罰らしくない仕打ちである。『遊んでおいで』とは、忠告にも聞こえない。隣を見ればセラフィも首を傾げていた。端整な顔立ちで何を考えているか分かりにくい。何も言わないところを見ると自分の真似をしている可能性が高いような気がした。

 テルミが、メロンソーダの缶ジュースを一気に飲み干した。

 

「わー。すごーい。お父様ったら咎める気ゼロなのね。でも、きっと学徒のお兄様やお姉様には『キツく叱った』なんて言っているに違いないわ」

 

「なぜそんなことを?」

 

「上位者の血がヤーナムの外で使用されたことに少々気に病んでいるのでしょう」

 

「その論で語るのならば、僕らが外でウロウロしているのは発狂モノだろうねぇ」

 

 セラフィが冗談めかして言う。

 テルミは応じて笑ったが、ネフライトは不快そうに鼻を鳴らすだけだった。

 

「お父様は、ある程度の露呈は許容するつもりのようなのだから学徒達も黙っていればよいものを。そもそもだ。ヤーナムのことをバラしたくないのなら、私達のことをヤーナムから出さなければよかっただろうに」

 

「そこはお父様と学徒達の微妙な関係の妙というものね。お父様ってときどき学徒達に相談せずに物事を決めてしまうことがあるようですから。結局、間違っていることは少ないから学徒達も問題にしていないことが多いのでしょう。けれど、お父様が旅行を薦めたのは仕置きのためではないと思いますね。お父様と学徒達には、じっくり相談したいことがあるから」

 

「何を?」

 

「ダンブルドア校長からのお手紙。返信を考えなきゃね」

 

 クルックスは、頭からすっぽり抜けてしまっていたことを思い出した。

 秘密の部屋にてバジリスク討伐の後、校長室で日記帳に使用した弾丸についてクルックスとテルミは質問を受けた。答えず「月の香りの狩人へ訊ねて欲しい」と告げたテルミに対し、ダンブルドアは質問状を用意した。

 

「まさか『上位者』の名前を出すワケにはいかないだろう。何と返事をするのだろうか」

 

「今頃、適当な言い訳を考えているでしょう。……心配しなくても大丈夫よ、クルックス」

 

「それは、そうなのだが……」

 

「大丈夫、大丈夫。『分からない』って答えたって上出来よ。『仕組みは分からないけど便利だから使っている』なんてモノありふれているわ。魔法を棚に上げてわたし達を責めることは『まとも』なら、しないでしょう」

 

 テルミは、飲み終えた缶ジュースを後方に放った。カコン、と空々しい音を立てて鉄のカゴの中に落ちる。

 軌道を見守っていたセラフィが言った。

 

「おや。すこし、お行儀がよくないな」

 

「今の十代はこんなものと聞いたわ。年頃のことをしてみたくて。家に着く前に缶ジュースを開けて、歩きながら飲んで、その辺に捨てる、とか? ゴミを散らかすのは性分ではありませんのでちゃんとゴミ箱に捨てましたからよいでしょう」

 

「僕らは三歳か四歳なのだから、十代の遊びは早すぎる」

 

「あら。火遊びはお好きみたいですけどね?」

 

「何の話か。心当たりがないのだが?」

 

「血族のおじさま、貴女にゾッコンのようですから。ウフフ、面白くなってしまって」

 

「ああ、レオー様? 僕も同じように大切に想っているのだから釣り合いはとれている。もちろん、同じ枝葉の君たちのことも大切だよ。」

 

 クルックスは突然尻の座りが悪い気分になり安全柵に座り直し、セラフィを横目で見た。彼女はいつものように超然としている。レオーは、あの夜クルックスとの間にあった出来事を話さなかったのだろう。当然なのだが、あらためて確認できてホッとした。

 ネフライトは、顔を顰めた次の瞬間に背中を向けて地面に転がる石を蹴飛す。ちょっかいをかけたハズのテルミが一番つまらなさそうな顔をしていた。

 

「もう、貴女って恥ずかしい顔もせずそういうこと言うのですから、トコトンからかい甲斐がありませんね……」

 

「そうかな? 僕にとっては普通のことなのだけど」

 

 ネフライトが凄まじい形相で振り返った。怒りと憎しみを煮詰めた顔だった。

 

「この会話、中止! 中止! やめろ。寒気がする。怖気! 情報伝達は終わったのだから、さっさと海に行くぞ! シャキシャキ歩け!」

 

「はぁい。ねぇ、ご飯はどこで食べましょう? クルックス、食べたいものはありまして?」

 

「道中、見かけた店で買えばいいだろう」

 

「ああ、いいですね。大きな通りのようですしお店には困らないでしょう」

 

 三人は公園を出て歩き出した。

 風景を愉しみたいので徒歩で海岸線まで歩く予定である。

 約一二マイル。一九・三一キロメートル。

 三時間程度の道のりだとネフライトは告げた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ニューカッスル・アポン・タインとは、北部イングランド最大の都市である。近代では、多くのイギリスの都市がそうであるように工業で栄えた。

 ネフライトが旅行先に選んだ理由は、実に大したことがない。

 たまたま開いた旅行雑誌にニューカッスル・アポン・タインの記事があり、それを覚えていたのだと言う。 

 

 クルックスは、テルミと共に歩いていた。

 

「……こうして君と二人で歩いているとロンドンに向かったことを思い出す」

 

「そうね。だいたい三年前になるかしら。野宿には懲りましたね」

 

「まったくだ。今ならもう少し快適な生活を約束しよう。それにしても……」

 

 町中の道を歩きながら、クルックスは隣を歩くテルミを見た。

 三年前のことを思い出してしまったのは、テルミと一緒に歩いているからだけではない。

 

「君は背丈が変わらないな。セラフィはもともと高めだったが、君も一年生の時はネフや俺と同じくらいだったのに」

 

 目線の高さが変わってしまった。

 テルミはクルックスを見るためにわざわざ頭を上げなければならなかった。

 

「成長が遅いのは、わたしも気がかりにしていましたけれど……そんなに気になります?」

 

「大きくても小さくても君は君だ。俺は気にしない。しかし、今後は目を引くことになるだろう。『発育が遅い』の言い訳も来年は、さらに苦しくなりそうだ」

 

 クルックスは、ホグワーツにてグリフィンドール寮で交わされていた会話を思い出す。

 曰く一年でもうローブが何センチも短くなってしまったから買い換えが必要だ、とか。

 その話をするとテルミは「むぅ」と困ったように唇を尖らせた。

 

「『まとも』な生育ではないことを怪しまれるだろう。お父様に相談してはどうだ?」

 

「ううん、難しいわ。お話をしたことは、ええ、あるのですけど。お父様は、ほら、わたしに対しては曖昧な態度ですから……すぐに逃げてしまって。そもそも、お父様に相談して、どうにかなる話ではないかもしれませんから別に気にしていないのですけどね……」

 

「そうか。お父様の望む事ではないかもしれないが、受ける影響は大きい。お父様の眠気が俺達にも及んだように。繋がりは深く、強いものだ。俺から相談してみようか?」

 

「こっそり聞いてくれますか。こっそりでいいの。わたしは、あまり気にしていないことだから」

 

「そうなのか?」

 

「ええ。体が小さいと大人は油断しますからね。悪いことばかりではないの」

 

 テルミが楽しげに歩く様子を見て「たしかに」とクルックスは唸る。

 小柄で華奢な少女が、まさか高位医療者も顔負けの神秘の暴力で隕石を降らせてくるとは思うまい。

 月の香りの狩人に連なる自分達の肉体は、見かけとおりの中身ではない。だが体格によるリーチの不利は存在する。

 

「路地には気をつけよ。君がヤーナムの市街を歩く機会は少ないだろうが万一のことを考えて、俺としては筋力に振っておくことをお勧めする」

 

「嫌よ。──なんて三年前は思っていたのだけど、使う仕掛け武器がネフと被るのはもっと気まずいので悪い選択ではないかもしれませんね」

 

「先日のバジリスク退治のおり、君の月光は素晴らしい働きをした。ぜひ筋力に振ろう。やられる前にやるために」

 

 テルミは「考えておきます」と気のない返事をした。

 

「ぐぅ。手応えがない。もっと火薬庫の素晴らしさを伝えなければ」

 

「貴方には、医療教会の素晴らしさを説いた方がよいかしら? いつか時間をとってお話しましょうか? カインハーストの騎士に何かを吹き込まれたのではないかとわたし、心配で心配で。カインハーストに行くならば医療教会に来たって同じことでしょう。ねぇ、クルックス?」

 

 テルミがクルックスの腕をするりと絡めた。

 温かく柔らかな手だった。ふりほどく理由が無いため彼は好きなようにさせた。

 

「君が心配することは何もない。レオー様とお話したが分かってくれた。俺は騎士には向かない性格だから勧誘は諦めたそうだ」

 

「とは言いますけれどね? 『押して駄目なら引いてみろ』という言葉もあることです。本当に諦めたのかしら?」

 

「え。それは……ど、どう、だろう……?」

 

 テルミの「それみたことか」という顔を見たくないクルックスは取って付けたように「俺は大丈夫だと思うがな……」と呟いた。

 やがて巨大な橋を渡っているとセラフィと並んで歩いていたネフライトが振り返った。

 

「これがタイン川だ。もうすこし歩けば海に至る。もう潮の匂いが分かるだろうか。この先、北海だ」

 

「北海」

 

 クルックスはネフライトの言葉を繰り返した。

 

「むむ、クルックス。まさか北海を知らないなどということはないだろうね?」

 

「ち、地図では見たことがある。北海。知っている。……たぶん、だが……」

 

「…………」

 

 ネフライトは、じっとりとした目でクルックスを見た。そして隣に立つセラフィを見た。

 

「北の海だ。知っているよ。北の海だ」

 

「換言すればよい話ではないのだよ」

 

「──わたしにも聞きなさいよ」

 

「君の無知を私が知って何の益があるというのだね? まぁいい。……さて。北海は地形的には、やや東だ。メルカトル図法で示された場合、イギリスが縦長にあるだろう。その大陸の右だ。右。古くはゲルマン海とも呼ばれた。今の要は、エネルギー源ともなっている北海油田と総称される油田やガス群だ。北は、ノルウェー海。東は、スカゲラク海峡とカテガット海峡、その他諸々。南は、ドーバー海峡・イギリス海峡、そして遠くは大西洋に繋がる好漁場でもある。水深は約九十メートル。潮流は左回りだ」

 

「ほう。さすがネフ。博識だな」

 

「褒めても何もないぞ。……しかし、図鑑や地図を見るよりも壮大だ。巨大構造物の趣はヤーナムにもあるが、これはこれで」

 

「利便性の向上は人の夢だ。より近く、より大きく、より簡単に。まさに我々が立脚するこれは立派な橋だ」

 

「ヤーナムには見られない進歩の仕方だ」

 

「夢を支えるのは人の願いだ。願うだけならば罪はないのだとお父様も言っていた」

 

「罪どころか私にはすでに形になっているように思うがね。……ハァ。あれもこれもヤーナムが地図上のどこに存在するか観測するためにいろいろと知識を仕入れたのだが、結局、分からずじまいだ。分からないほうがよいのかもしれないが……ふむ……」

 

 思索に沈んでしまったネフライトは、再び歩き出した。

 同じように歩き出そうとしたクルックスは、潮の香りを感じた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「わー、すごーい。海って感じですね」

 

 ようやく辿り着いた海は、青い海、白い砂浜──ではない。

 やや暗い海の色と灰色の砂浜が、北の海の色であるらしい。

 クルックスは、辺りを見回してその傾向を学習した。

 

 海を望む浜辺には、レストランがあった。

 駐車場で車を停めた何人かの客がパラパラと見える。

 海岸線を目で辿っていたクルックスは「ん」と気になる物を見つけた。

 

「ネフ、あれは? 変な色の崖がある」

 

 歩きにくい砂浜に立ち、感触を確かめる。

 そのうち視界に入った背後の崖を指差した。

 ネフライトは、一言で「地層」と言った。

 

「辞書的には層状の岩体というべきなのだが、この説明で分かるか?」

 

「層とは、薄いものを言うだろう。岩は薄くないと思う」

 

「岩の集合体を広く層と捉えて考えるのだが……分かる?」

 

「理解が足りない。どういうことだろうか?」

 

 ネフライトは「つまり。ふむ」と言い、ポケットから手持ちの手記を取り出したが、すぐに思い直して砂浜にしゃがみ込み、砂山を作った。

 

「この砂を山としたとき、このように半分に割る。すると断面が見えるとするだろう。この断面が、崖に見えるアレだ」

 

「では、アレは山が割れたのか?」

 

「そうとは限らない。風や海、いろいろと考えられる理由はあるのだが、恐らくアレは地殻変動と言ってだな……。海の底にあった地面が、まぁいろいろあって、地表にせり上がってくる現象がある。その影響で地上に露出して今のように見えるようになったのだろう」

 

「元々は海の中にあったのか?」

 

「そう。いいえ、冗句ではないが、んんっ。地層は、水の流れで運ばれてきた土砂や生き物の死骸が積み重なっていく。だから古いものが下に、新しいものが上だ。あの崖は、層ごとに色が違うだろう? あれは時代ごとの堆積物の違いなのだ。そして、生き物の死骸のうち骨格があるものは化石になる。ただ全てではない。化石になるモノもある、と言うべきだろうか」

 

「なるほど。とてつもない圧をかけられているだろうに、それでも生き物の骨は遺るのだな」

 

「いいや、骨そのものではない。堆積物に包まれている間にミネラルなどの鉱物に置換されてしまうこともある。また、遺るのは生き物ばかりではない。石炭は分かるだろうか?」

 

「ホグワーツに行く汽車を動かしているのは、石炭だと聞いた。黒い岩のような物だ」

 

「そのとおり。あれも大昔は地上に生えていた樹木だった。それが倒れた後、腐敗するより先に空気に触れない湿原とかの環境──例えば、完全に地中に埋まるとかした場合──変質して石炭になる」

 

「どれほどの期間で?」

 

「ざっと二千年から三億年ほどかかる」

 

「果てしない時間だな。想像も出来ない。……? 待て? すると……すると……聖杯はどうなる?」

 

 クルックスの質問に「へえ」とか「ふぅん」と軽い相槌を打っていたセラフィとテルミが視線を寄越した。

 

「聖杯?」

 

「聖杯はヤーナムの地下に広がっている。そこに骨があるだろう。人骨ではない。大きな生物の骨だ。しかし、生きている姿は見たことがない。見かけるのは全て骨だ。あれはかつてヤーナムも海の底であったことを意味する化石なのだろうか?」

 

 クルックスが言う「骨」とは。

 遺跡の中にうち捨てられた、長い頭と胴を持つ生き物の骨のことだ。暗がりでは、その肋骨部分に足を取られて転び、血やヘドロが溜まった浅池に頭から突っ込んだ経験がある。そんな苦い思い出を各々が持っていた。

 

「そういえば、あれは何の骨なのだろうね?」

 

「鯨だ」

 

 ネフライトは、浜辺に転がっていた手頃な流木を持って砂地に絵を描いた。

 

「骨とは、こういう物のことだな?」

 

「ああ、それだ」

 

 クルックスが指示するまでもなくネフライトは、思い描いていた骨格を描く。そして、もう一度「鯨だ」と言った。

 

「鯨にしては頭の質量が足りないのでは?」

 

 テルミが「鯨って頭が大きいと思っていたのだけど」と言い、宙に四角を描いた。

 

「鯨の頭は、ほとんどが油や脂肪だ。骨があるのは、歯の周辺と考えれば分かりやすいだろう。鯨の骨格構造は主に二種類だ。ハクジラ亜目とヒゲクジラ亜目だ。頭骨がある場合、見分けるのはそう難しいことではない。聖杯にいるのはハクジラ亜目だ。そして、ヒゲクジラ亜目の骨は弧状の骨と剣先のような骨が線対称に並ぶ。こういう形だ」

 

「鯨の骨がなぜ、聖杯にあるのだろう?」

 

「さあ、それは私にも分からない。古くはトゥメル。遠くはローラン。かの人々に鯨の骨を海から運んで遺跡に放置するなんて奇習がなければ『もともと、そこにあったもの』として考えるのが妥当だが……。テルミは、どう思うね?」

 

「不定形の悪夢に海も空もないと思います。だから鯨がいるのは『神の墓地に相応しいから』なのでしょう」

 

「……全然分からない。俺にも分かるように言ってくれ」

 

 神秘談義に足を突っ込むといつもクルックスは分からなくなってしまう。

 テルミが悩みつつ、言葉を重ねた。

 

「大量の水は神秘を守る断絶ですから、神秘の前触れでもあるわ。けれど聖杯のなかは、湿ってはいますが大量の水は存在しない。大量の水の先にある神秘こそが聖杯の中であり、鯨はかつてそこが水に浸かっていたことの証拠と捉えることができる、とか。……なぜかしら。我ながらめちゃくちゃなことを言っている気がするわ」

 

「聖歌隊がまともではないので今さら気にすることではないだろう。そのため、大量の水が海という考えは素晴らしい。そういえばそうだな。大量の『真水』とは言い伝えられていない。ヤーナムは海に面してはいないが──」

 

 ネフライトの話は続いていたが、クルックスの頭には、閃きが訪れていた。

 ヤーナム。海。大量の水。神秘。

 脈打つように記憶の彼方から単語が飛来する。

 ヤーナムの海を彼は知っていた。

 

 ヤーナムを揺籃とする上位者の夢で見たことがある。

 黄昏に光る海。降り止まない雨。そして、波の向こうの月を。

 

「あっ──」

 

 今さら思い至る。父たる狩人が、ただの時間つぶしで『海へ行くといい』など助言するハズがなかったのだ。

 地層から目を離し、クルックスは白波が砂浜を洗う北海を眺めた。

 つられて海を見たセラフィが、目を細めた。

 

「ネフ。もっと単純なことかもしれないよ」

 

「例えば?」

 

「流れ着いて来たのではないかな、鯨。体には脂肪が多いのだろう? ならば浮くハズだ。浜辺に流れ着くなんてこともあるかもしれない」

 

「海と聖杯が接続されていると? それは、やや突飛な考察に思える」

 

「そう結論を急くものではない。ただの連想だよ。それに接続されていると考えると聖杯の中身まで流れ着いてきたことになりそうではないか。ヤーナム女王が海を漂って来たならば、さぞかしゾッとする光景だろうね」

 

 恐怖を認識できないセラフィが「ゾッと」など言うのは、彼女なりに考えた冗談の極みだ。それを分かっているネフライトは、議論に水を差されたように感じたのだろう。やはり不快そうにフンと鼻を鳴らした。

 

「あとでレポートでも書いて提出してもらおうかな。テルミ、昼時間を過ぎてしまったが、食事にしよう」

 

「魔剤が欲しいの? カフェイン中毒者かしら。血の中毒より健康的ですね?」

 

「そうそう、これがないと昼間は眠くて──違う! サンドウィッチ!」

 

「何を食べます? オススメはジャムとイチゴのホイップサンドです」

 

「成分量とカロリー的にパンなのかケーキなのか曖昧すぎてイライラする」

 

 そんなことを言いながら、結局ホイップサンドをむしゃむしゃ食べたのでネフライトは甘いものが好きなのだろう。クルックスは、ひとつ学びを得た。




仔らの夏休み企画、第1弾!
 海に辿り着くことが目的なのでネフライトは移動時間に時間がかかるルートをわざわざ選びました。
 狩人は、仔らのことをあまり罰したくありません。言わなくても分かるだろう、という思いによるものですが、特にバジリスクに青ざめた弾丸を使用したことは結果として不可逆的な被害が出なかったので特に指導する必要もないだろう、という判断をしているからです。だいたい青ざめた弾丸が何を原料とするものなのかヤーナムの外の人物に分かるハズないので大丈夫大丈夫の精神。また、セラフィが冷やかしたように「そもそもね」という話にも繋がってしまいそうだからです。これが、ほならね理論……。
 それにしても、こども達に聞かれるとマズい話なのかな。

余談
 作中に登場した魔剤はモンエナを想定しているものですが、モンエナにはゼロシュガーがあり、それはカロリーゼロになっているそうです。
 しかし、モンエナは2002年から発売しているアメリカの飲料です。よってハリポタの時代(本話はハリー3年生なので1993年)考証的には存在しない物です。ご注意ください。(念のため)
 では、なんで登場させたって? 缶コーヒーよりカフェイン中毒者っぽいネフライトが書けるかと思ったからです。

余談の余談
 モンエナは、カフェインが多く含まれる飲料です。カフェインを摂取すると疲労感を軽減させ、長時間の運動が続けられることや、集中力を高める効果もあると言われています。※個人差はあります。
  筆者はコーヒーでさえ頭痛がするので常飲はしない。
  だが、修羅場の猛者には心身の栄養として重用される。
  所詮は気休めだ。だが、まあよいではないか。

現地をご存じの人へ
 Googleマップを参考にしている筆者を鼻で笑って下さい。
 聖杯の話をしたいがために欲を出してしまいました。
 赦してくれ……赦して……くれ……。

ここまでお読みいただきありがとうございます。
ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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夏の海と記憶(下)


ネフライトの休暇計画書
休暇を有効に過ごすためにネフライト・メンシスにより作成された計画書。
案であれば稟議されるべき書類だが決裁欄は空欄のまま実行に移された。
噂によれば、父たる月の香りの狩人の命令により作成された物だという。




 目で辿った海岸線を歩く。

 緩い扇状を描く陸と海の境界は、ここ数百年で次第に海の水量の嵩が増しているらしい。

 ここから、さらに南。

 南極と呼ばれる凍てついた大陸にて、太古の万年氷雪が融解しつつあるのだという。

 

 クルックスにとって想像が難しい、果てしない話である。

 

 ──マグル学では、地理を取り扱うのだろうか?

 三年生からの新たな科目を取らなかったことをクルックスは、少々後悔しつつあった。もっと早くに海を見てさまざまなものに触れていれば、選択は変わったかもしれない。

 

 足を止め、乾いた岩の上に腰掛けた。

 潮風を肌で受けるとザラリとした感覚があった。風に触れているだけで少しずつ体力が減っていくような気分になった。現在のヤーナムに海の風が流れ込んでこないのは幸いだ。これは病人の身には堪えるだろうと思えたからだ。

 ボウッと波の先にある地平線を眺めているとテルミが隣に立っていた。

 

「テルミ、どうした」

 

「ん……なんでも、ないの。なんでも……」

 

 彼女にしては歯切れの悪い言葉だ。

 取り繕う気も回らないようで不安げに立ち尽くしている。

 

「『ない』ではないだろう。どうした。何か見たのか?」

 

「ううん。違うの。ひとりで海を見ているのが、なぜか、とっても怖いの……。わかってくれる?」

 

「分からない。だが、君が辛いならば俺がそばにいよう。手を」

 

 クルックスは、手を差し伸べた。

 その手をすり抜けたテルミは、クルックスにしがみついた。

 

「おい、どうした」

 

 テルミの体を受け止めた。

 彼女の体は、小さく震えていた。

 

「海は怖いところよ。おしつけがましくて嫌い。底が知れないし、遠くから何がやってくるか分からないわ。鯨の話をしたでしょう? この大量の水のなかに得体の知れないモノが存在するなんて……わたし、どうしても怖いと思ってしまうの」

 

「……そうか」

 

「クルックスは平気?」

 

「ああ。……俺は、ヤーナムの海を見たことがある」

 

 テルミが不思議そうに蒼い目を瞬かせた。

 ヤーナムに海はない。

 彼女の言いたいことがクルックスには、よく分かっていた。

 

「お父様の夢のなかで海を見た。お父様の古い記憶なのかもしれない。降り止まない冷たい雨の降る、黄昏の海だ。……ずっと以前から俺は、波の音を聞いていた気がする。海など見たことがないハズなのに、漁村の波の音が聞こえていた。君に覚えはないのだな」

 

「ありませんね。お父様の記憶なんてわたしには何も、どこにも。……クルックス、海は好き?」

 

「好きも嫌いもないな。普通だ。今のところはな」

 

「そう」

 

「行こう」

 

 クルックスは、テルミの手を引いて歩き出した。

 藻類が生えた岩を飛び越えて、二人は浜を離れていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「海だ」

 

「海だな」

 

 セラフィとネフライトの組み合わせは、四人で行動するうちにしばしば見られるものである。テルミとネフライトが一緒になると互いの所属に対し絶え間ない批判を言ってしまうのだから、仕方のない組み合わせだ。

 もっともクルックスとネフライトが一緒の組になっても問題はないハズだったが、ネフライトはテルミに先を越されてクルックスに声をかけられないことが多く、今日も出遅れてしまった。

 

 靴と靴下を脱いだネフライトは、波打ち際を歩いた。

 波が引いていく。振り返ると歩いた足跡が小さな窪みになって見えた。

 セラフィは岩の上に座って、その様子を眺めていた。

 

「冷たいのかな?」

 

「冷たいが、我慢できる冷たさだな。……しかし、二〇時間ほど浸かっていたら死んでしまうだろう」

 

「そうか。ところで君、水遊びは楽しいのかな?」

 

「楽しいとは思っていないが、せっかく水辺に来たのだからこうして、年頃らしくちゃぷちゃぷしている。お父様が何の目論見もなく『海に行け』と言ったワケではないだろう……とはいえ、一見したところ何の益もない気がしてならない」

 

「お父様は海を見たことがあるのだろうね」

 

「ほう、なぜそう考えるのか聞かせてもらっても?」

 

「勘だよ」

 

「なんてアテにならない情報だ。一応聞くが、その勘はどこから?」

 

「それは君がさっき言った。『お父様が何の目論見もなく「海に行け」と言うワケがない』。これには同意だ。では、海とは何だろうね。ヤーナムに海はないハズだが……お父様には心当たりがあるのだろう。何か聞いた覚えはないかな?」

 

「海に関わる言葉? はて、記憶には……んん……ないが」

 

 ネフライトは目を閉じて記憶の検索を始めたが、有益な情報はなかった。

 セラフィは岩場から立ち上がると灰色の砂を掬い上げた。

 

「君が聞いていないのならば、誰も聞いていないかもしれないな」

 

「それは?」

 

「カインハーストの先達へのお土産だ」

 

 セラフィは衣嚢を探って出てきた革袋に砂を入れた。

 その様子を見ていたネフライトは、やや高い波に気付かず太股まで折っていたズボンを濡らされた。

 

「あッ! 服は濡らさないようにしていたのに……! 待て待て、セラフィ。お土産って砂? え、ホントに砂を!? もうすこし何というか海っぽいモノをだな……」

 

「では海水にしようかな。……でも鴉羽の騎士様が間違って飲みそうだよ」

 

「間違わないだろう! いくらなんでも! 海水だぞ! カインハーストは食糧事情が悪すぎ──そういう問題か? 潮水を飲むのはお父様だけにしてくれ。ちょっと待って」

 

 ネフライトは、海のなかで砂地を探った。

 やがて、目当てのものを見つけたのか砂にまとわりつかせながら、波がやってこない岩場にやって来た。

 

「ほら、これをお土産にするんだ」

 

「貝?」

 

「砂より海らしいだろう」

 

 ネフライトが手渡したのは貝だった。

 二枚貝の一枚だけだったが、たしかにそれは貝殻であり、砂よりも海を象徴するものに見えた。

 

「ふむ……。外は黒いが、内側は乳白色だ」

 

「これは真珠層と言ってだな。成長で生成される炭酸カルシウムの──ああ説明が面倒だ。とにかく綺麗なのだからこれでいいだろう。カインハーストには地味すぎるだろうか」

 

「僕は素朴なものが好きだよ。レオー様には、もっと着飾るべきだと言われるけれど……不相応に感じてしまうからね」

 

 セラフィは、髪を結びつけている鴉羽に触れた。

 再びセラフィがネフライトを見た時、彼はつまらなさそうな顔をしていた。

 

「私達は、誰とも血が繋がっていない。枝葉の我々だって完全な同一個体ではない。君が他人であるカインハーストに入れ込む理由について、私は理解できそうにないな」

 

「そんなことを考えていたのか。とても単純で、簡単なことだよ」

 

「……それは?」

 

 ネフライトは、本心では聞きたくないと思っているのだろう。

 それでも質問をしたのは、どうしても気がかりに思っているからだ。

 

「僕を愛してくれたから」

 

「ハァ……? 君は愛を知っているのか?」

 

「知っている。カインハーストの先達が教えてくれたからね。慈しみ合う心を人は愛と呼ぶ。……君も知っているだろう。メンシス学派は噂ほど気を迷わせていないらしい」

 

「私には不要だ。君たちができる程度のことをなぜ私がやらなければならない」

 

 鼻で嗤うネフライトをセラフィは見つめなかった。その代わり、手の中の貝を何度も撫でた。

 

「君が見下すそれに、いつかすくわれるのではないかと僕は案じているのだ。……それに僕らが人に留まる縁になるのだから無碍にするものではないと思うけれどね」

 

 ネフライトは岩に腰掛け、砂にまみれ濡れた足をポケットから出した布で拭いた。

 

「……君からの忠告として覚えておこう」

 

 貝の白い裏側を指の腹で撫でる。

 つるりとした感覚は水銀弾のようでセラフィは、とても気に入った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 嗅覚は、夜を歩む多くの狩人にとって敏感にならざるを得ないものである。

 獣の臭いは特に重要だ。風上であれば存在を確信できるだろう。その程度に、臭いに対する信頼は高い。

 また狩人を狩るカインハーストの騎士達にとっても重要だ。

 市街の狩人達が盾代わりに持つ銃、その火薬の香りは、彼らにとって道標のようなものだ。

 しかし、この匂いは知らない。異境の匂いがする。

 

「──海だと? そりゃまた遠く……? ん? 遠くだよな? 行ってきたものだ……」

 

 カインハーストの小さな工房にセラフィが帰ってきたとき。

 迎え入れたレオーも不思議な匂いを感じたのだろう。

 抱きしめたまま、セラフィの形を確かめるようにあちこちを軽く撫でた。

 

「海です。こちら砂です」

 

「え? 砂……砂? す、砂……!?」

 

 セラフィが小さな革袋を取り出し、得意げな顔で広げた。

 レオーは袋のなかを見て、指先で触れた。小粒で丸い砂が擦れる音が聞こえた。

 巷で流血鴉と呼ばれる騎士は、読みかけの本を閉じた。

 

「うん。どう見ても砂だな。まあ、これは置いておくとしてだな……。旅行は楽しかったか?」

 

「久しぶりに『きょうだい』水入らずの時間を過ごすことができました。学校では別々の寮ですから共に過ごす時間は限られているのです」

 

「うんうん。よかったな。家族の仲が良いことだぞ」

 

 レオーは猫を可愛がるようにセラフィの頬を撫でた。

 やがて解放されたセラフィが鴉のすぐそばにやって来た。

 

「鴉羽の騎士様へのお土産はこちらです」

 

「……?」

 

 大きな手のひらに落とされたのは貝殻だった。

 

「鴉羽の騎士様は、海を知っていますか?」

 

「……私は、ヤーナムから出たことがない。レオーもそうだ」

 

「そうですか。海は、とても広い場所でした。僕は大きな湖を想像していましたが、実際は違うそうです。目の前の海から、世界の他の大陸に繋がっているのだとか。僕には途方もない話です」

 

「そうか。……。……。来い」

 

 鴉は、貝殻を握ると立ち上がった。

 壁に据え付けていた仕掛け武器、千景を手に彼は工房を出た。

 

「おい、どこに行く」

 

 背中に投げかけられたレオーの言葉に「私の部屋だ」と返した。

 工房の外に出るとセラフィが衣嚢から落葉を取り出した。

 

 

 ──使うことには、ならないだろう。

 

 

 セラフィは、カインハースト城内を歩く鴉のあとに続いた。

 城内は、悪霊の悲痛な叫び声に満ちている。

 鴉は構うことなく彼女達の隣を素通りした。

 

 回廊沿いのとある絵画の裏。

 仕掛け扉を回し、螺旋状の階段を昇った先が近衛騎士長の私室である。

 

「…………」

 

 この場合、鴉に「何かご用ですか」と聞くのは、まったく得策ではない。

「用があるから連れてきたのだ」と言われ、機嫌が悪ければナイフの一本でも飛んでくるからだ。

 

「座れ」

 

「はい」

 

 指示された椅子に座り、待つ。

 彼が戸棚から取り出してきたのは、小さな木箱だった。

 カインハーストらしい精緻な意匠は、特にない。

 セラフィは、わずかに首を傾げた。

 木箱の出来はどう見ても『あり合わせの木材で取りあえず拵えました』と言うべき粗末なものだった。

 

 鴉の表情は乏しい。

 けれど彼と時間を過ごしているセラフィには、彼にとって木箱は大切な物なのだと察することができた。

 二人の間にある、小さなテーブルに木箱を置いたとき。水銀弾が互いにぶつかる特徴的な金属音が聞こえた。

 箱を開くと想像したとおり、水銀弾が入っていた。

 そのうちのひとつを取り出して鴉は言った。

 

「これは、これまでに私が狩った狩人から得た水銀弾だ」

 

「蒐集していたとは存じませんでした」

 

「教えていないからな」

 

「そうですね」

 

「最初は顔を覚えていたのだが、その顔を潰してしまったり首を下水に落としてしまったりと覚えていられないことも多いのでこうして水銀弾を集めるようになった」

 

「誰がどの水銀弾なのか覚えていらっしゃるのですか?」

 

「おおよそだ。私は狩人の名を記憶しない」

 

 木箱は二層になっていた。

 水銀弾が納められていた段を外すと、さまざまなものが入っている底があった。

 

「これは?」

 

「私が価値を見出したものが入っている」

 

 鴉が見せてくれたものは、セラフィにとって価値が計り知れないものばかりだった。

 

 鴉羽に似せた黒い布。

 精緻な彫りが施された柘植材の女神像。

 辰砂の朱紅。

 時間の止まった銀の懐中時計。

 

「光るものがお好きなのですか?」

 

「夜道では、よく見えるだけだ」

 

 さらに木箱の底をよく見れば、輝く硬貨が入っている。

 セラフィにとっては通貨として馴染み深いそれは、目の前の男にとって貨幣としての価値がない物なのだ。

 そのことに気付くとセラフィは、この人と明るい市街を共に歩く機会は、遠い遠い未来のことに思えた。

 やがて鴉は、木箱の底にあった硬貨を几帳面に重ねると空いた場所に貝殻を置いた。

 

「海の記憶はここに保存する。ヤーナムでは珍しいものだ」

 

「ええ、きっと」

 

「珍しいものには仲間がいたほうがよいだろう」

 

「はい、きっと」

 

 鴉は立ち上がった。

 

「どちらへ」

 

「地下へ」

 

「なぜとお伺いしてもよろしいですか」

 

「月の香りの狩人は、話していないのか」

 

 何のことだろうか。

 セラフィも椅子から立ち上がり、鴉の後に続いた。

 

 階段を下がり続けた先。

 地下は、空気が淀んでいるが気温が安定している。

 平均温度三度の地下は、セラフィにとって馴染みのある場所だ。

 薄い暗い廊下をセラフィは携帯ランタンに火を灯し進んでいた。

 

「レオーによれば、かつて侍従の控えの間だったと聞く」

 

「近くに拷問部屋もあることです。お仕事の内容も考えさせられます」

 

 地下はセラフィが住まいにしている拷問部屋があったが、彼はその部屋の前で一度だけ立ち止まった。

 

「レオーが……鍵のかかる部屋でなければ、お前をこの城に置いてはダメだというからここを宛がっただけだ」

 

「存じております、鴉羽の騎士様。レオー様のお心も分かります。僕は一人でお休みできますからね」

 

「……。この先だ」

 

 鴉羽を靡かせ彼は歩く。

 黒ずんだ廊下の先にあったのは、広い空間だった。

 嗅ぎ慣れた死血の匂いに気付き、セラフィは思わず立ち止まった。

 

 ただの広い空間ではないことにセラフィは気付いた。

 天井を仰ぐ。緻密に計算された部屋の天井には、わずかな亀裂があった。

 そこから差し込む空の光が、部屋の中央には鎮座する、くすんだ金の杯を照らしている。

 

 ──ここは古い祭祀場だ。

 

 携帯ランタンを腰に吊り下げたセラフィは、鴉を見上げた。

 

「……なぜ。聖杯の祭祀場が……」

 

「私が持って来た」

 

「聖杯を? いつの話ですか? 地上の聖杯は旧市街にあると聞きました。旧市街の聖杯教会に祀られていると……」

 

「それは二〇〇年以上前の情報だ。あれはすでに狩人が持ち去っただろう」

 

「……?」

 

「しかし、ヤーナムの街があの様子では聖杯も増えているのやもしれん」

 

「聖杯が増える? 自然に増えるものなのですか? 悪夢ならば分かります。でも、けれど、地上でも?」

 

 ヤーナムの地下に広がる神の墓地への接続を可能とする聖杯。

 かの聖杯は、夢のなかであれば血の遺志がある限り、無限に生成が可能である。だからこそ夢を見る狩人たちは、血晶石を求め阿鼻叫喚の聖杯探索を続けることができるのだ。

 しかし、地上で聖杯が使われているという話は聞いたことが──あった。セラフィは思い出す。他でもない先達から話を聞いたことがあった。では、この部屋にある、あの聖杯が、レオーが贄になったという聖杯だろうか。

 セラフィの緊張を隣に立つ鴉は悟ったようで彼は聖杯を指差した。

 

「あれは、レオーが彷徨っていた聖杯ではない」

 

 セラフィは『よかった』も『そう』とも言えずに、ただ強ばっていた肩の力を抜いた。

 

「レオーが、この城に戻ってきて最初にやったのは自分が入っていた聖杯を湖に投げ捨てることだったという」

 

「湖に……? どこぞに流れ着いていなければよいですが」

 

「…………」

 

「うーん。突然、だんまりされるとビックリします。僕は何も恐怖しませんが、不安にはなるのですよ」

 

 鴉は薄蒼の目をむき出しの露地へ逸らした。

 セラフィは、彼が考え事をする顔になったことに気付いた。

 

「カインハーストの物は、散逸する傾向にある」

 

 鴉は訥訥と説明した。

 彼が言葉を重ねるのは珍しいことである。

 セラフィは、耳を澄ました。

 

 ──女王の手紙が消える。

 ──手紙とは、カインハーストの招待状だ。

 ──それを使えばカインハーストに登城することができる。

 ──誰であっても。

 ──宛名が書かれていない物は、月の香りの狩人との談合で全て破棄した。

 ──私とレオー、女王そして狩人で全て燃した。

 ──残部など世界のどこにもないハズだが、存在が消えない。

 ──気付けば、女王の間に在る。

 ──何度捨てても燃やしてもそう。

 ──そして、それは放っておけば、消えるのだ。

 ──どこに行ったのか。

 ──誰も辿れず、誰も訪れはしない。

 ──しかし、散逸する。

 

「市街へ行くと貴方の姿が、ときおり消えます。招待状を探していたのですね。そして、ここでは来襲者を待ち構えているのだ。鍵のかかる部屋もそう。隠し部屋の近衛騎士長部屋も。そしてレオー様は、門番の役を兼ねていたのですね?」

 

「察しがよい」

 

 鴉は地面から目を逸らし、聖杯からも背を向けた。

 暗くて気付かなかったが、部屋の壁には大量の木箱があった。まさに鴉が抱えている物と同じ木箱。寸分違わぬ同じ物だ。手作りでそんなことがありえるだろうか。

 セラフィは近付き、とある木箱をよく見た。

 

「増える……増えるとは……まさか」

 

「悪夢が巡れば地上にある物は、増えることがある。これは増えた木箱の一つだ」

 

「どうして増えるのですか?」

 

「悪夢は法則が違うのだ。既存と認識する存在の在り方。恐らくは、その並びが異なる。稀に同一になることもある。その時は、我らの知覚の外で法則が動いているのだろう。……偏執の手で丁寧に作られたものが、最も整ったものに見える。自然に作られることなどあり得ないと知っているのだが」

 

 セラフィは、知識を常識として消化するために長い時間を要した。

 理屈はまったく分からないが、現在のヤーナムには『地上にあった物を地下に置いておくと、地上では物体が増える』という不可思議な現象があるらしい。

 

「なにかいろいろと間違っているような気がしますが、悪夢ですからね」

 

「悪夢だからな。何でもはないが、ほとんどはある。これも『辻褄が合う』というものだ」

 

「なるほど。含蓄の心を感じます」

 

「中身の整理を命じる」

 

「鴉羽の騎士様の所有物です。お確かめにはならないのですか?」

 

「不要だ。作業進捗の確認に来る」

 

「はい。分かりました。……整理は得意ではないですが、頑張ります」

 

 鴉は、地下を去って行った。

 セラフィは、足音が完全に聞こえなくなるのを待ち衣嚢からから杖を取り出した。

 なかなかに困難な仕事を受け入れることになってしまった。

 

 セラフィはこれまでの関わりのなかでうっすら気付いていたが、鴉は集めるだけ集めて整理をまったくしない性質だった。彼の興味や関心は、目的の物を手に入れた時点で次へ移ってしまうからだろう。

 私室で大切に扱っていた木箱は、地下の一角に放られてあった。その数は無数。一年に一箱中身を入れていたとすれば、ざっと一五〇になる。収集癖が波に乗ればそれ以上もあり得た。

 

「……僕の夏休みが終わらない気がする。逆に終わるのかな。……。まぁいい、頑張ろうかな。さて。──ルーモス・マキシマ! 光よ!

 

 セラフィは、照明代わりの光を天井に放った。

 空間で光の玉はふわふわと漂い、セラフィを照らした。

 

 何から取りかかるべきか。

 いろいろと考えてセラフィは目録から作ろうと決めた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 白い可憐な花が咲く狩人の夢にて。

 月の香りの狩人が工房でペンを奔らせている。その文字が綴っているのは、これまでに調査した聖杯文字だ。

 

「お父様、ただいま戻りました」

 

 工房を訪れたクルックスは、缶ジュースをテーブルに置いた。

 

「おかえり。これは?」

 

「これはブルジョアの、あ、いえ、オレンジジュースです。かぼちゃジュースではありません」

 

「ありがとう。あとでもらおう。……どうかしたのか?」

 

 いつもならば、用事が済んだら退室するクルックスがまだ工房に留まっているのを見て狩人は声を掛けた。

 

「先日のバジリスク騒動のことです。ネフに策を寄越せと言い、お父様の弾丸を使ったのは俺です。お父様は俺を咎めるべきではないでしょうか? まだお叱りの言葉を受けておりません」

 

「無いものを出せとは難しいことを言う」

 

 クルックスは「不可能ではないのだな」と場にそぐわない感想を抱いた。

 

「俺は誰も咎める心算はない。石になった者あれど死人はいなかった。そして蛇は狩られ、虫を潰し、私は元凶の残骸の一部を手に入れた。ダンブルドア校長からは丁寧なお礼の手紙を受け取った。めでたしめでたし。──ヤーナムの狩人の物語にらしからぬ結末で私は少々驚いている。もちろん我が事のように嬉しく、誇らしい。以上だ。何か問題があったか」

 

「あれ? ネフを咎めたのではないですか?」

 

「ネフは自主的に事情を説明しに来ただけだ。俺も学徒に説明する必要があったから、早いうちに来てくれたのは聴取の手間が省けたな」

 

「『独断専行で罰を受けた』と言っていましたが……」

 

「好奇心を諫めはしたが、旅行のことは罰ではない。お気楽な旅行をしてもらいたいと思ってな……。まぁ彼は俺のことを恐ろしいと感じているようなので、そう聞こえたのだろう。あるいは君達を動かすのにそう言った方が御しやすいと感じているのか。そんなところだろうな。気にするなと君に言うし、ネフが気に病んでいるようだったら気にしていないとそれとなく伝えておいてくれ」

 

「了解しました。ところでダンブルドア校長から送られたのはお礼だけではないでしょう。質問状があったのではないですか?」

 

「ああ、学徒が回答を作成した。バジリスクを殺したモノは何かとな」

 

「回答は……どのように……」

 

「『我々の秘宝ゆえに開示困難である』と。何の捻りもなく、ありのままの回答だな」

 

「その回答は、好奇を抱かせないでしょうか?」

 

「ヤーナムと君達が外の世界に露出した以上、今さらの話だ。気にすることではない。俺達に関わると碌なことにならないとは理解したことだろう。そのためにスネイプ先生を帰した」

 

「学徒のお二人の回答は妥当であると考えます。しかしお言葉ですが、先生を帰したのは結果そうなっただけでしょう。お父様は彼が生きても死んでも、どちらでもよかったのでは?」

 

「どちらにしても私達が厄介な存在だとは認知したことだろう。加えて、一枚岩でないことまで。……私は生きて帰って欲しかったとも。実際、生きているようだ。よかったな」

 

「本当ですか? お父様はあの時怒っていたようでしたが……」

 

「まぁ、死んでしまったら死んでしまったでヤーナムに漂う遺志が増える。俺のヤーナムが減ることはなく、損にはならない。とはいえ覆らないヤーナムの外の事実を話していても仕方ない。ちゃんと生きて帰ったことは、めでたいことだろう?」

 

「それは、そうです」

 

「では、この話は終わりだな」

 

「そう、ですね」

 

 ごく自然に話は終了した。

 狩人が話を避けるということは、好ましくない話題だということだ。恐らく、まだ。

 クルックスは、追求したくなる気持ちを抑えるのに苦労しながら旅行のことを語り、次第に不安は和らいでいった。ヤーナムの外の話に目を輝かせる狩人を見ているとスネイプ先生がヤーナムを訪れた日の不機嫌は気分性のものだと思えてきたからだ。

 ひとしきり話しきった後で彼に渡す物があることを思い出した。

 

「そういえば渡す機会を失念していました。こちら、レオー様からの納税記念品だそうです」

 

「の、納税記念品? なに、その……? これまで一度も受け取ったことない物だな」

 

「中身は、レオー様の匂いがする血の酒だそうです」

 

 クルックスは、手渡した瓶を見つめる狩人の瞳が喜色に光るのを見た。

 

「おぉ……! 狂気の地産地消が行われていると俺の中で噂のカインハーストの血酒!」

 

「珍しい物だと思いますが、お父様は飲んだことがあるのですね」

 

「以前、休暇でビルゲンワースに来た時に学徒と俺に振る舞ってくれたことがあってな。……そろそろ俺にも血酒の作り方を教えてくれてもいいのにな。俺も作ってみたい」

 

「青ざめた血酒ですか? お父様の血の無駄遣いなのでは、あ、いえ、俺が制止することではありませんが。かつてのビルゲンワースの学徒が見たら血の涙を流しますよ」

 

「工作といい、最近は自分でいろいろ作ることにハマりつつある。完成したときの達成感があるからな」

 

 クルックスは先日ビルゲンワースを休暇で訪れていたレオーとの会話で、父が乳母車を蒐集していることを話してしまったことを思い出した。そのことを白状しようかどうか迷っている間に彼は古工房の奥に行っていそいそグラスを持ち出してきた。

 

「さっそくいただこうかな。クルックスもどうか?」

 

「お、俺は遠慮します。お父様の労働の対価です。それに癖になると、その、困りますから……」

 

「うん? 癖? まぁ無理にとは言わないが……」

 

「では、俺は失礼します。お父様もそろそろ連盟に顔を出して下さいね」

 

「……同士が真面目で俺は本当に鼻が高いよ……」

 

「前向きな返答と受け取りますね」

 

 クルックスは、そう言って古工房を後にした。

 トリコーンを被ろうとして髪に触れる。狩人の夢に戻れば体のほとんどは万全の元通りになる。それでも、体は仄かに海の香りがする気がした。




夏の海と記憶(下)
ネフライトの休暇計画書
 前書きにある名前入りのアイテム風テキストは、彼らが殺された場合にドロップするアイテムを想定していますが、一部のアイテムはドロップに制限があります。つまり休暇計画書を入手するために夏休み行動中のネフライトをコロコロしなければなりません。トロフィー取得条件には絡みませんが、どうせなら一揃いを揃えたいスグラホーン先生のような人々には頑張ってコロコロしていただきたいと思います。

夏の海と記憶
 生命の故郷である海は、しかし、尋常ならざる生まれ方をした仔らにとって理解のしようのない存在である。
 多くの生物にとって母である海は、彼らにとって父の遠い母に位置する。
 特にテルミは、海が怖い。
 上位者(月の狩人)を脅かす他存在が、どこからやって来るか本能で理解をしているからだ。
 深海は何かが潜む。それが普通の生物であれ、異常に属するものであれ、怖いのだ。

ネフライトの手記
 漂着神信仰。寄神(「きしん」・「よりがみ」)信仰は、世界各地に見られるものだ。
 多くの神は『天から降臨する』という神話的形式を持つ。
 海は、水平線で天と繋がる存在であり、古来より同一視されてきた。
 風に流され、波に漂いやって来た浜辺の漂着物に人々は意味を見出した。
 古くは天の来現であり、霊魂の在処であり、今はただのゴミのように非魔法族は見ているようだ。
 科学により神の在処を求めた結果、物質世界において、彼らが願う神は存在しないと悟ってから長い時間が経った。
「世界には神が不存在のままに説明の付くことが多すぎる」
 現在の非魔法族は、そのように考える人々もいるようだ。
 見つめるべき神秘を見失い、終いには、瞳を失ってしまったのだろう。海は海。大量の塩水。

 私の瞳には、見えない。
 海は。
 暗すぎるのだ。
 深すぎるのだ。
 底のない悪夢のように。
 私の瞳には、まだ見えない。


狂気の地産地消
 自分の血で酒を造り、自分で飲む。──これぞ地産地消。
 鴉がレオーを生かしている理由でもあります。


夏休みヤーナム編のプロローグ(5話)が終了いたしました。
次回より『火薬庫の残り香』編(5話)をお送りいたします。
ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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旧市街の狼煙


オドン教会の地下墓
オドン教会は聖堂街の中心にあり、いまや寂れ、朽ち果てるままになっている。
地下墓を護るのは医療教会と袂を別った異教徒の神父である。
異端を差別することは、人の世の常でもある。
それでも弔いは必要だ。
ゆえに彼は任を受けた。



 ヤーナムの夜。

 中央市街眼下、旧市街には一条の細い煙が上がる。

 強い風が吹いているというのに不思議とその煙は真っ直ぐに立ち上るのだ。

 遠く離れた聖堂街へ続く大橋からも、煙はよく見えた。

 

 獣の首を断ち切った後で。

 クルックスは、大橋からその煙を見ていた。

 

 あの煙は、きっと医療教会からも見えているだろう。

 旧市街を焼いた炎は、かつて医療教会が放ったのだという。いま市街を歩く医療教会の彼らはそれを覚えているだろうか。

 物思いにふけるクルックスは、隣に並ばれるまで黄衣の狩人が歩いてきたことに気付かなかった。

 

「…………」

 

「おわっ。お、驚かせないでくださいよ。ヘンリックさん」

 

 黄衣の狩人は、連盟の同士でもある。

 名をヘンリック。

 古狩人の一人で投げナイフの名手でもある。

 クルックスは、彼に憧れて投げナイフを練習し始めるようになり、そろそろ数年が経つ。しかし腕前はさっぱりだ。

 憧れの古狩人は、石造りの欄干に腕を乗せた。

 

「ここからでも旧市街が見えるな」

 

「ええ、はい。俺は行ったことがありません。なんでも旧市街に続く道は全て封鎖されているとか」

 

「ああ、二カ所ある。聖堂街にあるオドン教会は分かるか?」

 

「古い、小さな教会でしょう。父から近付くなと言われているので知っています」

 

「……ほう。オドン教会にはいろいろと噂があるからな。警告は不思議でもない話だ。その教会の先、小さな広場を下っていった先に外れの聖堂がある。その地下から旧市街に降りる仕掛けがあった」

 

「あんなところに? ああけれど旧市街の地上に近いところでもありそうだ。もう一つは?」

 

「隠し街ヤハグルの外れだ。もっとも旧市街が市街だった頃から大きな門で閉ざされていた。いつの頃からか不死の黒獣が住み着いたからな」

 

「不死の黒獣……。話には、聞いたことがあります」

 

 ローランの聖杯で、よく見かけるアレだろう。

 厄介な青雷をまとう骨ばかりの黒獣を思い出し、クルックスは耳を澄ませた。

 風に紛れ、骨の軋む音に似た獣の叫びが聞こえないかと思った。

 しかし、拾えたのは隣に立つ古狩人のため息だけだった。

 

「珍しいですね。ヘンリックさんがため息なんて。どうしたんですか?」

 

「旧市街の噂は聞いたことがあるだろう」

 

「火薬庫? あるいは灰狼のデュラとか何とか」

 

 クルックスにとってデュラとは名前だけは馴染みのある人物だ。父たる狩人の口から何度か聞いたことがあるが、まだ直接会ったことはない。

 彼について市街で流れている噂はさまざまだ。

「もう死んだろう」

「まだ旧市街で生きている」

 市街の狩人達が旧市街の話題に触れるとき必ず話題に上がるのが彼の名前だった。

 

「彼とは旧友でな。……もっとも、あちらがそう思ってくれていればの話だがな。旧市街が閉ざされた日に……喧嘩して、もう、それきりだ」

 

 疲れた老人の顔をした古狩人は、まるで煙草の煙を吐き出すような息をした。

 

「俺がいつか伝えましょう。旧市街に行くことがあれば必ず。『ヘンリックさんが謝りたいとおっしゃっていました』とか」

 

「阿呆なことを言うな」

 

 おどけたクルックスの頭に一発の拳骨を落としたヘンリックは、黄衣の狩装束を翻した。

 

「謝るのはアイツの方だ! 『ずっと旧市街にいる』などガキみたいなことを言いやがって。市街には、一人でも腕のいい狩人が必要だと言ったのに」

 

「貴方がいるならば十分だと思ったのでしょう」

 

「ああ、十分だとも。あの阿呆みたいなパイルハンマーが目に入るだけで嫌になる。とんだ愚か者だ。──狩りに戻れよ、クルックス」

 

「同士もお気をつけください。夜は長い」

 

 市街の方面を見れば、医療教会の白服──副狩長の指揮の下、隊を組む狩人集団の松明が見えた。

 市街へ戻るために歩み出したクルックスは、どこからともなく視線を感じ、銃を握り辺りを見回した。人影は当然のように無かった。

 

(……? アメンドーズ? 啓蒙が低いからな、俺には見えないだけか……)

 

 たとえ直視できなくとも『見えざる上位者』について知識があったクルックスは、それ以降気にとめることはなく獣狩りに戻った。

 静かな夜だった。あまりに静かで喧噪の音が遠い。だからこそ、普段はやかましいほどに聞こえてくる教会の警笛──通称、鴉呼びの警笛──が聞こえなかったことに彼は終ぞ気付かなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 血生臭い夜が明けても、獣の臭いは染み付いたようにヤーナムから離れはしない。

 

 陰気な顔をした教会の黒服達が、獣の死体を荷車の荷台に乗せると彼らは自らも荷台に乗り、馬を鞭打った。

 新鮮な死体は荷台を新しい血で汚していた。荷馬車が転々と血を落としながら石畳の斜面を駆け上がっていく。クルックスはその後ろ姿を見送り、石畳に遺る死血を踏まないように飛び越えた。まだ朝日の届かない路地を覗き込み、人の姿がいないか確認する。

 クルックスが、朝早くから市街に存在するのは黒服達に紛れて仕事をしているであろう、『窶し』と呼ばれる予防の狩人を気がかりにしているからだ。

 

 恐らくは古狩人であろう人物だ。

 顔を覚えておきたいと思い探し始めたが、市街は広く入り組んでいることもあり捜索を初めて二週間が経とうという今も見つけることはできていない。

 

 クルックスの社会的な立場である連盟の狩人という肩書きも周囲に相談しがたい障害になっていた。連盟と医療教会は、仲が良いわけではない。連盟から向ける感情は無いが、禁足地に指定されている禁域の森を集合場所にしている連盟を医療教会は快く思っていないだろう。

 

 枯れた羽を模したトリコーンを深く被り、クルックスは朝靄に煙る街を歩いた。

 何本目かの路地を歩いている時だ。

 

「──おい、クルックス」

 

 呼び止められた彼は、声をかけられた方向を見上げた。

 三階建ての建物の窓が開いている。そこで手を振っていたのは、昨夜会ったヘンリックだった。

 

「ヘンリックさん、おはようございます」

 

「早いな。──上がってこい」

 

 彼は階下の扉を指した。

 

「…………」

 

 問答無用で呼ばれてしまい、クルックスは断る暇もなかった。

 ノックをしてから重い扉を開いた。

 人がやっと一人歩けるかという廊下にいくつもの扉が面している。その扉に番号が刻まれていた。

 

「アパート? ヘンリックさんってアパートに住んでいたのか……」

 

 しかも廊下には獣の臭いを一時忘れることができるほどのいい匂いが漂っていた。

 クルックスは外套のポケットをあさった。食べ物らしき物は何も持っていない。血の酒くらいしかない。

 三階に辿り着くと壁の扉の数が減った。個々の部屋が大きいのだろう。そのうちの一室だけ扉が開いていた。

 

(ここだろうか?)

 

 顔を出して覗くとヘンリックが「入っていいぞ」と言った。

 リネンのシャツ、毛織りのベストとズボンを着たヘンリックがお茶を淹れていた。

 その光景につんのめりそうになる。ヘンリックは狩装束を脱げば、品の良い初老の男性であるらしい。

 

「朝くらい寝てから動け。早すぎだぞ」

 

 椅子を勧められクルックスは座った。

 すぐにカップになみなみ注いだお茶が出てきた。

 熱々のそれを冷ましながら、手の中で回した。

 

「いえ、まあ、そうなのですが……」

 

「何か探していたのか? 路地を見ていたようだが」

 

「知人を探していました。父の知人です」

 

「新人の? お前とは関係無いだろう」

 

「そうなのですが、顔を知っておきたいと思ったんです」

 

「名前は?」

 

「分からないです」

 

「分からん? 父親に聞けばいいだろう。知人ならば」

 

 手っ取り早い方法は、そうだ。

 もちろんクルックスも分かっている。

 

「いえ、父に……こそこそ嗅ぎまわっていることを知られたくないんです」

 

「ハァ?」

 

「いくらヤーナム市街が広いからといって人捜しもできない無能だと思われたくないような気がして……。狩人ならば仕掛け武器を見れば分かるだろうと探し始めたのですが、手がかりは今のところ何も」

 

「狩人探しならば尚更だ。こんな時間の外にはいないだろう。日の出直後、いま出歩いているのは獣の死体を処理する医療教会の黒どもと──」

 

 その時だ。

 足音が聞こえた。かなり重い足音だ。

 

「ヘンリック、俺のシャツ知らないか~」

 

「ここにある」

 

 ヘンリックが椅子に掛けられていたシャツを投げた。

 現れた人はそのシャツを受け止めた。

 

「お、おぉ……」

 

 クルックスの短い『人』生において身近な生活圏において最も高身長である存在は、約二メートルある狩人の夢にいる人形だ。次点は一九〇センチはあるビルゲンワースの学徒、コッペリアや最近出会ったカインハーストの狩人、レオーだ。人形は話をするとき必ず屈んでくれるので背丈による圧を感じることは少ない。だが次点のコッペリアやレオーは、真っ正面に向き合えば背の高さやそれに見合った体格に驚くことがある。

 本日、記録は更新された。

 目測二メートル三〇センチ。

 クルックスは、彼を知っている。何度かの夜でヘンリックの隣にいる姿を見たことがある。

 

「ガスコイン神父……! 近くで見ると本当に大きい」

 

「ハッ、図体だけだよ」

 

 両目を包帯で覆い、白い髪でそれさえ隠すガスコイン神父は巨体だった。

 ガスコイン神父はシャツを着込みながら、お茶を飲んでそっぽを向いたヘンリックに噛みつくように言った。

 

「やめろよ、新人にそういう嘘吹き込むの」

 

「おうおう、私が援護しなきゃ昨日だってどうなっていたか」

 

「はぁ~? 水銀弾ケチッたジジイに言われたくないなっ」

 

「まだ見境なく獣の群れに突っ込む阿呆だとは思わなかったんだよ。狩り初日のクルックスだってそんな阿呆はしなかったぞ」

 

 水銀弾をケチったように、例え話もケチッてほしかった。

 思わぬ流れ弾を受け、クルックスは飲みかけのお茶を噎せた。

 

「ゴプッ。結果として生きているので、まあ、そんなに言うほどのことでは……」

 

 クルックスは、二人を宥めようとしたが当然のように無視された。

 

「ハァ? じゃあナイフは投げていいって言うのか?」

 

「ああ、バカにナイフは刺さらんとか言うしな」

 

「年寄りは嫌だね。若者に愚痴を言うしか娯楽がないようだからなっ!」

 

「言ってろ言ってろ」

 

 ガスコインは椅子に座ることなく部屋を出て行ってしまった。

 クルックスは彼が去った後を何度も見てしまった。

 

「あ、あの、ヘンリックさん。ガスコイン神父、行っちゃいましたが……?」

 

 二人とも悪態を言い合っていたが、本気で怒っている様子ではなかったと思う。しかし、ガスコインは去ってしまった。クルックスは不安になり声を上げた。

 

「ここは飯付きのアパートでな。一階が食堂になっている。飯を取りに行ったんだ。私がお茶を淹れて、ガスコインが食事を持ってくる。役割分担ってヤツだな」

 

 それから彼は、どうして彼の家となっているアパートにガスコインがいるのか説明してくれた。

 

「ここは水があるし飯もある。獣の血を落として一睡すれば、血の酔いも醒めるだろう。彼の家は知っているか?」

 

「ご婦人と娘さんがいらっしゃいますよね。娘は、こう、小さい」

 

「……彼女たちには、あまり血を見せたくはないだろう」

 

「……? あぁ、そうですね……」

 

 クルックスは麻痺しがちな感覚であるが、本来、他者の血は衛生的なものではないらしい。自分がとある上位者の肉片由来であるせいか忌避感が薄い。そのせいで反応が数秒遅れた。血とは、くれぐれも素手で触るものではない。──ということはビルゲンワースで最初に学んだヤーナムの外で通用する知識だった。まして、体に入れることは無知ゆえの暴挙であるらしい。

 ヘンリックの言いたいことは『ガスコイン一家の日常に狩りの気配を持ち込みたくない』という気遣いなのだ。クルックスは理解した。

 

「あ、そうだ。今は何も持っていないので……あとでお代を持って来ますね」

 

「要らんよ。二人分も三人分も変わりゃしないからな。ガスコインが私達と同じ量を食べると思うか?」

 

 曖昧に笑ったクルックスの感想は「思わない」だった。

 ガスコインが戻ってくると食事が始まった。抱えてきたのはバケット一杯のパンとチーズ、そして塩スープ。

 クルックスとヘンリックの食事は、ガスコインの食べる量に比べれば誤差だった。

 

 ガスコインは、ヤーナム広しといえど稀な巨体である。

 できるだけ背が高くなりたいと思っているクルックスにとって、彼の食欲はとても参考になるものだった。

 

「……やっぱり食べないと大きくならないんだなぁ」

 

 素朴な感想にヘンリックが小さく笑った。

 

「そりゃまあ。体が資本で……コイツは例外だけどな」

 

「私だって最初からデカかったワケじゃない。食って寝て働けば自ずとそうなるものだ。……連盟の、名前を聞いていなかったな」

 

「クルックスです。月、あ、いえ、連盟の『新人』のこどもです」

 

「よろしくな、クルックス。私はガスコイン。ガスコイン神父と呼ぶ者もいる。……しかし、こんな子供が獣狩りなんて連盟は手が早すぎるぞ」

 

「本人が『入りたい』と言い、長が認めた。私が嘴を挟む隙間などない。狩りの腕も、まぁ悪くないんだろう。こうして生きているからな」

 

 クルックスは照れてスープをかっ込んだ。

 しかし、頭上で聞こえてくる声は、厳しいものだった。

 

「子供は子供だ。夜は家に隠れているものだ。そのための狩人だろう」

 

「腕のいい狩人はひとりでも多く必要だ。文句なら新人に言え、新人に」

 

「おと──父も言われても困ると思います。俺が望んだことですから。狩人ならば使えるものを使うべきでしょう。なので問題はないと思います」

 

「はぁ、揃いも揃って狩人だな」

 

 ──心底、嫌になる。

 その言葉の意味を聞き返したくなったが、機会は失われた。

 ヘンリックが「シッ」と息を噛み、立ち上がった。

 何事かと耳を澄ませれば、階下から話し声が聞こえて来た。

 

「……私が行く。二人とも食べ終われよ」

 

 ヘンリックが言い、音も立てずに席を立った。

 クルックスは最後に残ったパンとチーズを食べ終えた。

 

 思えば。

 古狩人には、すでに予感があったのだろう。

 狩人であれば最も身近であり、夢を見る狩人である彼には縁遠い『死』という事象について敏感であるべきだったかもしれない。

 

 食器に触れる音が消えれば、階下の声も聞こえてくるのではないかと思うほどに静まりかえった。隣に座るガスコインは、身じろぎもしていない。耳を澄ませているのだ。やがて、階下からヘンリックが戻ってきた。

 

「ガスコイン、仕事だ。南区のクランツとかいう夫婦が来ている。誰か弔いたいそうだ。細かい話をしたいと下まで来ている。──今すぐに」

 

 事情の半分だけを聞けば単なる報告に過ぎないものだった。

 だが彼が声をひそめた理由には不吉なものを感じずにはいられなかった。不吉。たとえば『都合の良くないものを隠そうとしている』とか。

 

「分かった。すまないが、いざとなったら手を貸してくれ」

 

「私は構わん。クルックス、今日は手空きか?」

 

「はい。人夫が必要ならば、お手伝いします」

 

 ガスコインは短く礼を言うと帽子と外套を着込み、部屋を出て行った。

 

「朝の来訪も……そういう用件であれば頷けますが」

 

 身支度を調えるヘンリックの背からは、何度か同じ事があったのだろうと思えた。

 ヘンリックでは巷で『静かな古狩人』と呼ばれているが、それは正しい知見だったようだった。怒りの発露でさえ彼は静かであるらしい。

 

「普段は『神父サマ』だ何だと後ろ指を差す連中がこういうときだけ頼りやがって。卑怯者め」

 

 飾り羽を差したトリコーンを被る古狩人は、低い声で罵った。

 控えめな相槌をひとつ返し、クルックスは彼の後に続いた。

 

 部屋を出る頃になり、クルックスは思い出すことがあった。ここに来た時にヘンリックが話しかけていたことだ。

 ──日の出直後、いま出歩いているのは獣の死体を処理する医療教会の黒どもと──

 あの時は何を言うのか検討も付かなかったが、今ならば彼が言いたかった言葉が分かる気がした。恐らく、不都合な死を隠したい者とか、そういう意味だったに違いない。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 結果としてガスコインは依頼を受けた。

 

「体は後で私が持っていく。場を整えておいてほしい」

 

 ガスコインはヘンリックにそう言い、萎れた花のようなクランツ夫妻を伴って朝靄に消えた。

 指示は、死体を埋める穴が必要だということだろう。

 予想は、正解だった。

 クルックスとヘンリックはヤーナム中にある梯子を昇降し、オドン教会地下墓へやって来た。

 墓場を囲うように生えている木々。そのとある樹木の裏には、スコップが隠されていた。そのうちの一本をクルックスは受け取った。

 

「そういえばオドン教会に近付くなとか何とか父親から言われているんだろう? 付き合わせて悪いな」

 

「いえ、お手伝いできることが嬉しいので構いません。しかし、うーん……。なぜ近付いてはダメなのか聞いたことがありませんでした」

 

「噂を真に受けているんだろう」

 

「噂ですか? 『オドンの住人は皆、まともではなくなってしまう』とか何とか。まあ、何となく空気は悪いような気がしますが、ここは地上よりすこし地面の下がった地下墓ですし空気の通りが悪いのは、そういうものかなと感じます。おと──父は、どうして禁止したのか今度聞いてみようと思います」

 

「何だ、そういうことは聞くのか?」

 

「ええ、まあ。……あっ。仲が悪いワケではありませんよ」

 

「……ハァ。家庭の事情というものか」

 

 クルックスは誤解が生まれたことが分かった。

 しかし、この関係を他者に説明することは難しい。

 そのため「はい」と答えて土を掘り始めた。

 スコップを踵で踏み込み、土に食い込ませる。

 

「どれくらい掘ればいいのですか?」

 

 二人で黙々と土を掘り続けて、息切れしたタイミングでクルックスは訊ねた。ヘンリックも休憩していた。紙巻き煙草に火を付けて白い煙を虚空に吐いた。

 

「狂った犬に掘り起こされない程度だ。だから、一メートルは必要だな」

 

 彼は、腐葉土の香りのする土をガツガツと蹴った。

 

「棺ごと入れるのならば、もっと幅も広げないといけないと思いますが」

 

 クルックスは掘削作業の開始にヘンリックが目安として引いた線に従って掘っていたが、どうあっても一般的な棺が入らない大きさだ。

 

「棺桶──箱は入れんよ。体だけ土に埋める」

 

「……? そういう物なのですか?」

 

 クルックスは、葬儀を知らない。

 けれど、聖杯のなかでは宝飾された棺桶に入っている遺体もあった。だから棺桶とは遺体に入れて安置しておくものだと思っている。そして、それは地上でも地下でも変わらないものだと思っていた。

 

「……前々から思っていたが、お前はいろいろと物を知らないな」

 

「すみません。勉強不足です……」

 

「別に責めてるワケじゃない。新人のガキとは言うが、お前は養子か何かだろう。それも余所者らしい。よく似てはいるがな。別に悪いワケじゃない」

 

 彼は手を止めずに言葉を続けた。

 

「誰だって縁が必要なのさ。狩りの相性。宗教や思想、言葉、肌の色、気分。なんだっていい。共通しているものがあれば、それだけで救われる。同士だから教えてやるが、ヤーナムはだいぶ昔から資材不足だ。何度目かの獣狩りの夜がきっかけだったと思うが……。大きな獣狩りの夜の後は、大きな穴を掘ってそのなかに死骸を入れる。獣も人も一緒の共同墓地だ。いちいち棺桶を作って埋めていたらすぐに何もかも足りなくなる。それでも最初は獣狩りの夜の犠牲者だけ埋めるという分別があった。だが、そのうち普通の夜の犠牲者もそうやって葬るようになった」

 

「棺桶を再利用するために死体だけ土にということ、ですか」

 

「そういうことだ。それでも市民はマシだ。病死ならば特にな。獣に敗れた狩人の埋葬は、さすがに気が滅入る。考えてもみろ。食い散らかされたら、何が誰のどこかも分からん」

 

「…………」

 

 もし、そうなった場合。

 クルックスが掘る穴は、もっと小さくて済むだろう。

 労力の少なさは遺骸の少なさと比例した。

 

「狩人にとって最も慈悲深い死に方が、狩人狩りの手にかかることなど考えたくはないことだな」

 

「それは、そうですね。寂しいものです。何よりどちらも救われないでしょう。狩人狩りの鴉羽だって、そんなことは……」

 

 ヘンリックは吸い終わった紙巻き煙草を地面に落とすと靴先で消した。

 

「死ぬときだけでもせめて人らしくありたいものだ。人は当然、獣ならば尚のことだ。……望んで獣になるヤツはいないだろう」

 

「ええ、はい」

 

 二人は、それから作業を再開した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスとヘンリックは、墓地の隅で時間を潰していた。

 

 風に乗ってガスコインが詠み上げる死者への別れの言葉が聞こえてくる。

 彼らが数時間かけて掘った穴は、人が横たわれる大きさになっていた。

 その穴の手前には、棺桶が置かれている。

 言葉は、その棺桶の主に向けられたものだった。

 ガスコインの後方に立っているクランツ夫妻は、血の気のない青白い顔をしていた。ガスコインの言葉が耳に入っているか怪しいものだとクルックスは思った。

 

 ガスコインの言葉が途切れた。

 昼を目前に簡略化された葬儀は終わりを告げたらしい。

 最後にクランツ氏は、声を上げて涙を流した夫人の肩を抱いた。

 

 地下墓地に温い風が吹く。

 そのせいだろう遺体を土のなかに埋めるという段になり、クランツ氏が言った言葉が風に乗って聞こえた。

 

「神父様。急な申し出を引き受けてくれたことには、本当に感謝している。だから息子が死んだことも口外はしないでほしい。そして、もう私達には関わらないでほしい。わかるだろう?」

 

 それについてガスコイン神父が何と答えたのか彼の巨体からは窺えなかった。

 クランツ夫妻は墓地を去って行った。

 棺桶の中の遺体を土に埋めるまで家族は傍にいないらしい。

 これが普通のことか異常なことかクルックスには判断がつかなかったから二人を見上げた。ガスコインは咎めず、ヘンリックも新しい煙草に火を付けているところを見ると普通の対応であるようだった。

 考えれば当然のことかもしれない。

 

(きっと、見ていて気分のよいものではないからな)

 

 それでも去って行く両親の背中に一抹の寂しさに似た感情を覚えてしまうのは、死者に自分を重ねているからだろう。同じ枝葉の三人であれば抱かない感傷だとクルックスは感じていた。

 預かった仕事は終わらせてしまおう。そう思い、棺桶の前に立つ。蓋を開けるまでもない。むかつくような血の臭いがした。死血だが、真新しい臭いだ。それを感じつつ、歯を食いしばって重い蓋を動かした。

 

「……ああ、酷いな。煙草がなければ『えずく』ところだ。昼飯の前というのが、何とも最悪だがな」

 

「相変わらず察しがいい。中身も『お察し』なのだろうな」

 

 ガスコインが、やや枯れた喉で言う。

 それを聞いてヘンリックは目を細めた。

 

「察しも何もあるか。『医療教会と袂を別った異邦の神父に弔って欲しい』など重篤なワケアリしかありえないだろう。中身は自分で殺したガキか──」

 

 蓋を開いたところ、瞳孔の蕩けた瞳と目が合った。

 クルックスは呟いた。

 

「獣だ」

 

「だろうな。驚くことでもない。古狩人の眠る墓場をゴミ捨て場だと思っているのだろうよ」

 

「えっ。ここは、オドン教会の地下墓地でしょう? オドン教会の信徒の墓場ではないのですか? どうして狩人が……」

 

「そりゃどうしてってさあ──」

 

 ガスコインは大きな体が、ほんの少し縮んだと思えるほど肩を落とした。

 ヘンリックは長く続く白い煙を吐いた。

 

「お前、世間知らず過ぎるだろう。新人は何やっているんだ? 医療教会が狩人の存在を有り難がっていると思うか?」

 

「しかし民を守っているのは狩人だ。あ、いえ、医療教会の狩人達もいますが、でも数は市井出身の狩人の方が──」

 

「その市井の狩人が民を守っているからこそ医療教会は面白くないんだ。狩人は異邦人が多いのは、さすがに知っているよな? 一昔前民を守る者といえば、それは医療教会だった」

 

「そ、それは知っています。医療教会の英雄、ルドウイークでしょう。たまに白服の狩人がルドウイークの聖剣を持っているのを見かけますが……」

 

「当の英雄サマは行方不明。獣も消えない。そのうち民の心は医療教会から離れていった。ついでに輝ける象徴も失墜。当然、士気も落ちる。死者ばかりが増えた。ついでに医療教会の狩人の質もな。それを補うように台頭したのが連盟含む市街の狩人達だ。医療教会にして見れば『余所からやってきた病み人風情にお株を奪われた』と見えるワケだ。面白いハズがない。そんな医療教会が市街の狩人のために墓地を用意すると思うか? あいつらは『ちょうどいい。撒き餌にしろ』と言ってもおかしくないが、そうは言わなかった。もはや市街の狩人の協力なしに夜を越せなくなっているからだ」

 

「そうか。だから異教で力のないオドン教会に……。オドン教会は医療教会の管理下にありますが、噂のとおり、どうやら異質な場所でもあるようですから」

 

「そうだ。妙なところは理解が早いな」

 

 黄衣の古狩人は目を細めた。

 迂闊なことを言ってしまったかもしれない。クルックスはしどろもどろに「あ、いえ……別に……」と言葉を転がした。

 

「しかし、墓などもらったところでな。金のほうがまだ飯のタネになる。どうせ、ほとんどの墓は空だ。そうだろう? ガスコイン」

 

「……。さてな。私は、私が管理するようになってからの人々しか知らない。だが五体満足で納まるのは狩人狩りの手を経た者ばかりだ。まったく……実に……えずくことだな」

 

 三人は、棺桶から少年らしき獣を持ち上げると穴に向かって体を落とした。その体は、湿った音を立てて穴に落ちた。それから間を置かず、三人は無言で土をかぶせ始めた。顔に向かって土を被せる。そこをまっさきに埋めたのは誰もが瞳孔が溶け、濁った瞳をこれ以上見つめたくなかったからだろう。古狩人であっても心に堪えることは大いにあるのだとクルックスは学んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナムらしい、どんよりとした曇り空を三人は歩いた。

 

「ヘンリック、煙いぞ」

 

「死体の臭いよりマシだろうが」

 

 これにはクルックスも頷かざるを得なかった。

 しかし、ヘンリックより頭二個ほど高い場所にあるガスコインの鼻先には煙が流れてしまうのだろう。しきりにくしゃみをした。

 市街の帰り道を歩いているとうつむきがちな人々の群衆のなか、夫人と少女が歩いている様子を見えた。ヘンリックもそれが見えたのだろう。まだ半分以上ある紙煙草を路地の隅に放った。

 

「──ガスコイン、家に寄ってきたのか?」

 

「ああ。すこしだけヴィオラに顔を見せにな。あと聖書と……何だ、急に」

 

「いやなに、ヴィオラとお嬢さんが来たからな」

 

 ヘンリックが指さした先をガスコインは包帯越しの目で見たのだろうか。微かに彼は笑った。

 クルックスは立ち止まったが、ヘンリックとガスコインは歩き続けた。

 リボンを髪に結んだ少女がスカートを跳ね上げながら、元気よく走ってきてガスコインに飛びついた。

 

「お父さんっ! お母さんにだけ会ってお仕事に行っちゃったのね!」

 

「……それはー、ええと、まだ寝ていたようだからな」

 

「起こして欲しかったわ!」

 

 少女がそばにいるとガスコインの巨体さが際立った。

 クルックスとビルゲンワースの学徒、コッペリアの身長差がささやかな誤差に感じられた。

 

(……あの子がガスコイン神父の娘さん。今やって来たのは奥さんか)

 

 女性は揃いの金髪と蒼い瞳が美しい人だった。

 ガスコインの妻はヴィオラと言うらしい。ヘンリックと言葉を交わし、穏やかで控えめな微笑を湛えている。

 クルックスの関心は、ガスコインの娘にあった。

 彼女の背景が曇天の空であるせいだろう。白いリボンの少女は、クルックスにとって柔らかに光り輝いて見えた。

 

 見たところ年齢はテルミと変わらない。

 そういえば、テルミも同じ金色の髪に蒼い瞳をしている。

 テルミを思い出しながら、まじまじと少女を見つめていると目が合ってしまった。

 クルックスはトリコーンを上げて狩人の礼をした。

 少女は、礼を返さなかった。

 その代わり、キョトンとした顔をしてガスコインの外套を引っ張り、クルックスを指差した。

 

 

「ねぇ、お父さん。あの人、月の花の匂いがするわ。お花畑から来たの?」

 

 

 クルックスは、これまで恐怖で動けなくなるという体験をしたことがなかった。

 恐怖を認めつつ、どれほど強大な敵であれ、異常な現象であれ、武器を握れば進んでいけると思っていた。

 だからこそ、こんな形で月の香りの狩人の気持ちが分かる日が来るとは本当に夢にも思わなかったのだ。




旧市街の狼煙
数少ない最後の周回時の獣狩りの夜の生存者
 彼らはまだ旧市街で生きており、夜には獣除けのため火を焚いています。
 旧市街を愛した者、離れた者、燃やした者、棄てた者。それぞれか細く昇る火を見て思うこともあるでしょう。

ガスコイン神父
 Bloodborneゲーム本編でストーリーの最初に立ちはだかる強敵です。仲間NPCとしても呼べますが、同時に序盤の罠でもあります。ボスコインとチェンジ!

オドン教会地下墓には狩人達の墓があるの?
 念のために記しますが、これは正式な設定ではありません。もしあるとすればここしかないだろうなと思うので本作においてはここにあることにしました。ここを墓とする。なお中身。

クランツって誰だっけ?
 26話 悪夢より這い出でるにて医療教会の黒服、ピグマリオンが獣を匿っていた家人に向かって「クランツさん」と呼びかけています。ピグマリオンは現在捨てられた古工房で生活しています。彼が市街にいなくとも誰かに狩られたようです。不思議。

ヤーナムの少女
 正式名は「ヤーナムの少女」です。ただし本作においてはリボンの少女表記することもあります。本作のヤーナムには他の少女も少ないながらも生存しているので区別のために重要なアイテムであるリボンに着目し、リボンの少女と呼称する場合があります。
 本作の立場は上記の具合ですが、近年においては二次創作の影響でリボンの少女の名前が共通認識になりつつあるのかもしれないとも思っています。

 リボンの少女:pixivに投稿されているポテトルス氏のBloodborneとFate/GrandOrder(FGO)のクロスオーバー漫画作品です。筆者にとってとても印象深いクロスオーバー作品ですので、ご紹介:リボンの少女 上(https://www.pixiv.net/artworks/77331556)


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市街の硝煙


劇毒
血に宿る即効性の毒であり、蓄積により割合ダメージをもたらす。
毒の強さは血質に比し、かつて血の女王に最も近しい血の証明でもあった。
ゆえに誇る従僕は皆血に溺れた。




 クルックスは逃げ帰るように市街から姿を消した。

 それから、彼は夕暮れまでビルゲンワースの自室に籠もって武器の手入れをして過ごした。

 リボンの少女について、思い出す度に彼は言いようのない不安と恐れに囚われた。

 

 なぜ、あんなことが起きたのか。

 クルックスには、全くと言っていいほど理解できなかった。

 

 かの少女について何か事情を知っているかもしれないのは月の香りの狩人だが、彼は今日に限って狩人の夢にいなかった。昨日まで聖杯に入り浸っているのを見たから、いつでも会えるとクルックスは過信していた。そのため、これからの予定も聞いていない。

 夢のなかに手記は残してきたが、果たして彼はいつ見るものか。それさえ曖昧だ。せめて一日に一度は狩人の夢にいる人形に会うのではないかと思い、彼女にも伝言を預けてきた。とにかく、できるだけ早く『異常』として報告しなければならないだろう。

 自分でも説明が付かない感情によって焦りを感じているが、ビルゲンワースの学徒へ相談しようとは思わなかった。

 ──あの少女の存在は、できるだけ公言したくないのだ。

『秘密にしたい』とも違う動機に戸惑う。決して嫌いという意味ではない──むしろヤーナムの民のなかでガスコイン一家は、好ましいと感じるくらいまともで温かい家庭だ。──しかし、とにかく彼女のことは思い出したくない。一刻も早く頭の中から追い出したい気分になっている。

 彼にとって最も大きな問題とは、この衝動の理由が分からないことだった。悶々とした頭を振り、市街へ行くために装束を整えた。

 

(普段通りに過ごそう。いつものように。……妙に浮ついているような気がするから、いつもより慎重に)

 

 深呼吸をしてからトリコーンを被り、血除けマスクを鼻の上まで引き上げる。

 そして獣狩りの斧を右手に握り、彼は薄暗い学舎を発ち、再び市街へ向かった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ガス灯が明滅する路地をクルックスは歩いていた。ときおり、目眩に似た光の瞬きを受けると地面に自分の影がくっきりと浮かび上がった。

 異邦人ならば決して近寄らない夜の道を恐れることなく彼は進んだ。獣の気配は、今のところ少ない。市街には穏やかに風が流れているが、獣特有の臭いも風上から流れてこない。

 時折、早まりそうになる呼吸を押さえつつ彼は哨戒を続けた。

 

 父たる狩人は、市街にはいないらしい。彼がいつも哨戒している場所近くを歩いているが、姿はおろか銃声の音が聞こえない。珍しいことではない。どこかの悪夢を歩いているらしいので予想できた状況だが、今日ばかりは落胆した。

 

 見上げる空は、曇天だ。

 ときおり夏らしい厚ぼったい雲の隙間から三日月が鋭く月の光を差し込んでくる。

 

 何の気なしに水路を見た。ヤーナム市街に血管のごとく張り巡らされた水路は主に下水として使われているのだという。左手に持つ松明で照らせば、地下にあたる場所には淀み腐った底が見える──ハズだった。

 

「……ん? 蓋がしてあるのか?」

 

 クルックスが蓋と呼んだそれは正確には地上から地上十数メートル下に存在するであろう、下水と地上を遮る板だった。辺りをよく照らせば、ヤーナムにしては珍しくもない昇降機に似た簡単な鉄の滑車と縄が結んである。その縄の先は下水道空間と地上を遮る板に続いている。滑車があれば重い物も軽い力で動かすことが出来るとは知っている。試しに縄を引いてみると想像よりも軽い手応えで板が地下に向かって開き、虚ろで不潔な下水空間が現れた。血除けマスクではどうすることもできない臭いがする。汚物と腐肉と生活排水をよく混ぜた混合物の臭いだった。

 

「ぐぅ……。血の臭いへの耐性が役に立たない。違う種類の忍耐が必要なのだな……」

 

 この臭いに辟易した周辺の住民が設置したのだろう。医療教会が社会基盤整備に人員を回す余裕があるとは思えない。

 再び哨戒を始め、汚れて傷ついた石畳を街の端に向かって歩いていると獣の死骸を見つけた。俯せでいたので路地を曲がった瞬間は斧を構えてしまった。近付いて状態を確認する。この獣は、四足歩行をする二メートル近い黒い獣、狩人達の間では通称『罹患者の獣』と呼ばれるものだ。

 ブーツのつま先で死体を転がした。貶めるためではない。

 

(死因、急所を一撃で突いている。頸椎を正確に。素晴らしい腕だ。……ただの狩人の仕業ではない。傷口が小さすぎる。市街の狩人の武器ではこうはならない……)

 

 罹患者の獣は四足歩行をする。──ということは、その後頭部を攻撃するためには、当然敵対者は獣の位置よりも存在を悟られにくい風上の高所から攻撃する必要がある。

 長く硬い毛を探り、傷口を確認する。

 

(棒のようなもので突かれた後、引き抜いた傷に見える)

 

 周囲への警戒のため耳を澄ませたクルックスは、背後を振り返りざまインバネスコート越しに発砲した。

 

 ヤーナムの夜に。

 物音を立てず狩人の背後に立つ行為は敵対行為と見なしてよい。それは市街に生きる狩人達の暗黙の了解だった。だから引き金を引いた。

 足音が聞こえた。いいや、正確には。

 

「足音が聞こえた、気が、したのだが……?」

 

 振り返った先には、何も無かった。跳弾が消え残響がおさまれば、ただ静かな夜が残った。

 だが、足音は聞き間違いではないという確信があった。

 

 獣はまだ温かい。

 この獣を殺した狩人は、そう遠くない場所にいる。

 

 普通の狩人であれば、一声かけて射程外から声を掛けてくるハズだ。

 それをしないということは敵対の意志が窺える。

 

 クルックスは、銃を構えたまま路地を出て広い街路へ行くために走り出す。その瞬間に、その足をすくわれた。

 

「がッ!」

 

 何かに足を掴まれた感覚があり、クルックスは獣の血で濡れた石畳に額をぶつけた。

 異変を見つめれば縄のようなものが足に絡まっているらしいことが辛うじて分かった。

 

(罠だっ!)

 

 この夜に、狩人を罠にかけようという意図は不明だが、明確な敵対の意思表示には違いない。

 即座に右手の獣狩りの斧を握り直し、振り落としかけた。

 

「──釣れたっ! 上げな!」

 

 頭上から、つい最近聞き覚えのある声が聞こえた。

 思わず「えっ」と声を漏らし、見上げたのが間違いだった。縄が張り、足をつり上げられて天地が逆さまになる。ついでに慣性に抗えず、家屋の壁に頭を強打した。視界に毒々しい星が散り、手足の力が抜ける。痛みで麻痺しかける頭のどこかで「しまった」と思ったときには、手から斧を落としていた。

 頭は割れるように痛み、血の臭いで気が立った。

 

「こ──のっ! 糞袋ッ! 何だ! 連盟の狩人に喧嘩を売るとは──血に酔っているのかッ!」

 

 屋根の上に釣り上げられたクルックスは、人の手によって足を掴まれた。

 そして、月の光が照らした敵対者をよく見た。

 

「血には酔っていないが、酔っ払いたいくらいに困ってはいるな」

 

「その声、え、わっ──」

 

 すっかり見慣れてしまった銀の薄鎧が目に映る。カインハーストの狩人、レオーだ。

 しかし、叫びかけたクルックスの口に無遠慮な手甲が入り込んだ。

 

「おっと。シッ。いい子だ。静かにしてくれよ。騒ぐと月の香りの狩人との誓約により、やむを得ず殺さなければならなくなる。──鴉、クルックスが嘔吐いているからそんなに口に手を入れなくていいぞ。下ろしてやれ」

 

 クルックスは自分を路地から引っ張り上げた狩人を見た。片手で逆さ吊りにしているカインハーストの狩人、流血鴉と呼ばれる狩人だった。そのうち鴉はクルックスに興味がなくなったように手甲に包まれた指をクルックスの口から抜いて屋根の上に頭から落とした。

 

「うっ、おっ、おっ、おぇっぐ、ぎ、ぃ……っ」

 

 喉の奥まで手甲に包まれた指を突っ込まれていたクルックスにとって、痛みとは些細な問題になっていた。口の中が裂傷だらけだ。すぐに俯せになり腹の中のものから胃液まで吐きだした。痛みと苦しみで涙が出た。

 そんな彼の頭上では、暢気な会話が繰り広げられていた。

 

「……夜警ならば吐かなかったのだが?」

 

「セラフィは鍛えているし慣れているから騒ぐなんてヘマしないだろ。……いやいや、そうじゃあなくて……ダメだろ。友好的な関係を築かないといけないヤツに乱暴しちゃ。月の香りの狩人の仔だ。それに『こども』は大事だろう。ヤーナムの貴重品だ。くれぐれも丁重に顎で使って差し上げろ」

 

「叫ばれると困ると言ったのはレオーだ」

 

「それはそうなんだが、もう少し方法があるだろう。あると思わないか?」

 

「歯を全部折れば満足か?」

 

「不満足だよ。まぁいい。あとで勉強会だ。この調子ではセラフィも危ない。クルックス、大丈夫か?」

 

 レオーが跪いて布を差し出した。

 黒くてよく見えないがハンカチのようだった。受け取り、口を拭う。知らない家の匂いがした。

 

「だぃ、じょ、ぶです……何か、俺に、ご用ですか?」

 

 血で汚れている顔を拭い、痛む喉でクルックスは尋ねた。

 辺りを見回せば、屋根の上に人影はない。だが、高低差の激しいヤーナムにおいて人影が無いからと言って安全とは思い難い。遠くから見られている可能性があった。市街でカインハーストの騎士と話しているのを目撃され、それが医療教会の耳に入ったら──と考えると温厚な聴取では済まないだろう。

 

「すこし話を、と思ってな。時間は取らせんよ。だがアリバイは必要だ」

 

 クルックスの足に引っかかったままだった縄を解き、レオーはクルックスを縛った。

 

「物語としては『カインハーストの騎士によって捕まって丸腰にされ、脅されたので従うことになった』という体でいこう。どうだ。ついでに『騒いだら殺す』ってことで」

 

「シナリオ、了解です。では俺は虜囚なので質問しますが、何かあったのですか? レオー様、と流血鴉、いえ、鴉羽の騎士様は」

 

 後ろ手に縛られた状態になったクルックスは、さっさと用件を済ませることが先決だと考えた。彼らもその心算なのだろう。鴉は、周囲を警戒するためクルックスに背を向けて立ったままだ。そのため屋根の上で這いつくばるクルックスの問いには、レオーが答えた。

 

「うむ。セラフィが、いなくなってな」

 

「え……ッ……」

 

 大きな声を出しそうになったクルックスは、口を噤んだ。

 

「しかし、大したことではないと思っている。まあ? 反抗期というか?」

 

「は、反抗期?」

 

 クルックスの知識には、存在しない言葉だった。

 反抗期。音だけで考えるならば、極めて反社会的な行動に思う。

 

「セラフィがカインハーストに徒なすなど俺が連盟員ではなくなる程度にありえないことだと思いますが」

 

「いやいや、大したことではないと言っただろう。相応しい言葉ではなかったな。有り体に言ってしまえば……そう……これは家出?」

 

「家出。セラフィが家出。…………レオー様、俺が言うべきことではないのですが」

 

「ならば言わない方がいいぞ。お前の後ろの鴉は、その辺の冗談が通じないヤツだから」

 

 レオーは、鴉を方便に──真実に遠くない事実でもあるだろうが──クルックスの言葉を聞きたくなさそうにしていた。だからこそ、彼は言わなければならなかった。

 

「セラフィの名誉のために俺は脅しに屈するワケにはいきません。……俺達のなかで最優を争えるほど忍耐強いセラフィが耐え難いと思うのは、よほどのことですよ」

 

 顔の見えない兜の面覆いの向こう、レオーは苦い顔をしているような気がした。

 

「いったい何をしたんですか?」

 

「……話せば長くなる。言葉の弾みのようなものでな。そう、あれば、三日ほど前のことだ」

 

 それからレオーが語ったのは、カインハーストの奇妙な軌跡だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 三日前。

 カインハーストの回廊にて。

 

 何事にも『きっかけ』は存在する。

 今回は、セラフィの言葉だった。

 

「……市街には、千景の狩人がいるのですね。初めて見ました」

 

 カインハーストの首魁、血の女王ことアンナリーゼへの謁見後にセラフィが言った。

 ただの感想に過ぎないと思われたそれを聞き留めたのはレオーだ。

 

「何だ知らなかったのか? 市街の千景持ち狩人。あれは連盟の狩人だ。ヤーナムでは珍しい東洋人。肌の色が違うだろう? 暗くて分かりにくいか? 名前は……何と言ったか。クルックスが言っていたな。しかし発音が珍しくて覚えがたい。鴉、知っているか?」

 

「知っている。ナマムラと言う」

 

 眠気が訪れているらしい鴉は兜を抱えたまま、ぼんやりした顔で答えた。

 

「ああ、そうそう。そんな感じの名前だったな。処刑隊の後継というか信奉者というか、あの血族狩りを名乗る狩人と時々つるんでいるヤツだろう。ナマムラ。ナマ、ヤァマムア? あれなんか違う気がする。まあ名前はどうだっていいか。それで? ソイツがどうした?」

 

「僕はてっきりカインハーストの騎士だと思って声を掛けてしまったのです」

 

 カインハーストの先達の反応は珍しく一致した。

 鴉が眠気から醒めた顔をして困惑した。レオーに至っては、雪に足を取られて吹きだまりで滑りかけた。

 

「なんて?」

 

「千景はアンナリーゼ様の近衛だけに帯刀が許される仕掛け武器です。なのでワケあって今は市街にいる元騎士だと思ったのです。……違いましたけれど」

 

 セラフィが「例外は、よくない」と微かに苛立ちを込めて言った。

 

「鴉羽の騎士様、どうしてあの狩人を野放しにしているのですか? 全ての千景はカインハーストのものです。そして彼は騎士ではありませんでした。千景は回収すべきでは?」

 

「あの千景はいつぞの騎士より託された物だ。女王の命なくば我らが召し上ぐことあたわず。従前のとおり対応している」

 

「しかし、女王様は市街の狩人の事情をご存じない。命じる可能性はないでしょう?」

 

「無いとは言えないが」

 

 鴉は、可能性としてゼロではないこと厳密に表現した結果、曖昧な物言いになったことを自覚していたようだ。そのためセラフィは嬉々として──その顔は平時と変わりないが、スキップでもしそうなほどに弾みのある足取りで──言葉を返した。

 

「時には意を汲む必要があると思います。いかがですか? 僕が先駆けとなりましょう」

 

「不要だ」

 

「むむ。僕は要るのではないかという話をしているのです。なぜ不要なのですか?」

 

「狩人の遺志とは継がれるものだ。遙か先達が異邦人に渡した物であっても同じこと。そして我らが正しく血の狩人ならば、かつての先達の遺志を尊ぶべきなのだ。彼がいずれ手放す時まで傍観せよ」

 

「そう、ですか。僕は貴方の言葉を理解します。……しかし、託した遺志さえカインハーストに帰属すべきだと思いますが……」

 

「古きを尊ぶがいい。遺志とは、託された者が継ぐのだ。それが最も相応しい」

 

「むぅ。元はカインハーストの仕掛け武器なのに……」

 

 セラフィが、レオーや鴉が帯刀する千景に目を落とした。

 

「その辺は、故人の事情があったのだろう。分かれよ、セラフィ」

 

「僕は理解しています。せいぜい傍観するとしましょう。──けれど、もし彼が獣や血に酔った狩人に殺された場合は回収してもよろしいですね? 連盟や医療教会に回収されるのは、好ましい事態ではないと思いますから」

 

「いいだろう。鴉もいいな?」

 

 鴉は無言で頷きもしなかった。長い付き合いでレオーはそれを了承と受け取った。

 話がひとつ終わったところでレオーがセラフィに訊ねた。

 

「なぁ、セラフィ。なんだって騎士だと思ったんだ? 月の香りの狩人を除けばカインハーストの騎士は、俺達二人しかいないとは分かっていたことだろう?」

 

「ええ。もちろん。先達の数は間違えません。けれど千景持ちの姿を見かけて『先達にも話しにくい事情があるのかな?』とか。そも千景の窃盗犯とも考えられました。どうにも放ってはおけなかったのです」

 

 セラフィは、カインハーストの先達の騎士達をよく慕っていた。彼らの話はよく聞き、学ぶことも多くあった。

 だが、彼らの意向により市街に関わる情報は限定されていた。狩人ならば自らの耳目で知るべきだ。そんな方針があるからだ。そのため、セラフィは市街で比較的有名な狩人にあたる連盟の東洋人について知らなかった。

 

「それに……その……」

 

 セラフィが初めて口ごもった。

 いつも明朗に話す彼女にしては珍しい。

 レオーが続きを促した。

 

「昨夜、道に迷いました」

 

「それは人生とかそういう?」

 

「いいえ、昨日は空が見えない日でしたから、暗がりに入ると方角が分からなくなってしまったのです。僕の人生については、カインハーストと共にあるので明るいですよ」

 

「…………」

 

「え。あ、そう? うんうん、それでそれで?」

 

 レオーは、鴉が細い切れ長の眼でセラフィを見ていることに気付いた。その険のある眼はよく知っている。彼がよからぬことをしでかす前の眼だ。好悪どちらの感情を抱いても彼の表現は実に直接的であり、しかも血を求める傾向にある。無用な血を流さないようにレオーは、慌てて続きを促した。

 

「ええ。そこで通りすがったその狩人について行けば市街まで出られるかもしれない、と思って尾行したのですが、枯れ木を踏んでしまい……結局、バレて……道に迷っていたとは言えないですから、仕方なく千景の件を質問したという成り行きがあります」

 

「本当に成り行きだな、おい。もうすこしロマンチックな出会いかと心配したぜ。……しかし少々盲点ではあったな。俺達は市街のことは知り尽くしているからな、まさか道に迷う事態が起きるとは考えていなかった。さァて、どうしたものかな」

 

「地図はないのですか?」

 

「あるにはある。医療教会の狩人が持っていた市街図だな」

 

「では学習したいです。それは工房に──」

 

「屋上を飛べばよい。降りるのは殺すときだけだ」

 

 どこに仕舞っているか思い出そうとしたレオーに、鴉が口を挟んだ。しかし、その左手がしっかり千景の鞘を握っているのをレオーは見逃さなかった。今日はいったい何が彼の気に触れたのか。付き合いの長いレオーでさえ分からない。

 

「自分ができることをむやみやたらに他人に要求するものではない。夜のヤーナムを自由に飛び回って平気なのはお前くらいだろう。あいや、狩人狩りがいたな? ほう、お前も二番手に甘んじることがあるらしい」

 

「ヤーナムに鴉は二羽要らない。いずれ私が最優だ。──当分は足で覚えるしかないだろう。書物の知識など薄っぺらなものだ」

 

「夜に悠長なことはできないことが問題なのだ。それとも、お前が道案内でもするか?」

 

「悪い選択ではない」

 

 レオーと鴉が検討を始める頃、セラフィが輪郭のある声で告げた。

 

「いいえ、ダメです。鴉羽の騎士様、レオー様も。お二人にご迷惑をかけることなく、僕は果たして見せましょう。大丈夫ですよ。僕は独りでもちゃんと歩けますから。そうとなれば善は急げというもの」

 

「……?」

 

 レオーと鴉は顔を見合わせた。

 彼らが市街へ出向くのは、狩りのためだ。そのためだけに赴く。

 だからこそ、セラフィが意図することが思いつかなかったのだ。

 

「今年の夏の目標は決まりました。僕はヤーナム市街を迷わないように歩けるようになります」

 

「いやいや、待って待って。そう急がなくてもいいだろう。いいと思うなァ、俺は! 夜に少しずつ歩けば道は覚えるだろう! なぁ鴉! そうだよな!?」

 

「私はお前に地下の箱の整理を命じたのだが?」

 

「帰ったらやります。しかし、今年の夏の間に到底終わらない作業です。見通しが立つまで、お時間をいただきたいです。夏休みが終わる前に一次報告をしましょう」

 

「……ふむ」

 

「なんでこんな時だけお行儀良く引き下がるの? 俺の背中を撃つの大好きだよな、お前ってヤツは。心から愛せる。あー! な、なぁ、セラフィ、朝の市街と夜の市街では見え方も違うし、参考にならないと思うんだよ。だ、だからな──!」

 

「そうだとしても朝も夜もない下水などの地下には学ぶことも多くあるでしょう。そして、僕は市街の知識でもクルックスに劣るわけにはいきません。『きょうだい』のなかで最も強くあらねば! では市街へ行っていきます。目隠しをしても歩けるほどに覚えて参りましょう。失礼します! いざ行かんっ!」

 

 レオーが止めるが、すこしだけ遅かった。

 外界に面した石像立ち並ぶ回廊を歩いていたセラフィの姿が一瞬だけ吹雪に消える。

 雪に目を細めた彼が再び明瞭な視界を手に入れた頃、セラフィは夢に身を溶かしていた。

 

「ぐうぅっ。やってしまった。セラフィが市街に! あぁ、あぁ、ダメだ、ダメだ。連れ戻さなければ! 今すぐに! 行くぞっ、鴉!」

 

「私は眠いのだが? 何を焦っている……」

 

「心配しているんだッ! 明るい市街には誘惑がたくさんある! 悪意も! セラフィは箱入りどころか聖杯入りだったから善も悪も判断がつかないだろう。なんせ人生経験というものが全然無いのだからな! 医療教会に捕まったカインハーストがどうなるかまだ説教が足りなかったか!? あああっこうしてはいられないっ!」

 

「セラフィがカインハースト以外に心移すワケがないのだが?」

 

「明るい人生設計を教えてくれてありがとう! そうだ! そうだとも! だが若い心というものは俺達が思いもよらない無茶をやらかす。心当たりがないとは言わせないぞ」

 

 疲れたのだろうか。鴉は、ひとつ息を吐く。

 昼の日差しに輝きつつあるカインハーストの湖を眺めていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、セラフィがカインハーストで鍛錬に明け暮れながらも自由に過ごしていると思っていた。その認識は概ね正しいものだったが、ほんの少しだけ窮屈に感じることはないだろうかと疑問に思った。

 

「それを家出というのは言い過ぎではないかと……」

 

「だが、便りも寄越さないのだ。遠出するときはいつも日をまたぐことなく連絡を寄越すというのに。ここ数日、狩人の夢や市街でセラフィと会っていないか?」

 

「会っていないです。ビルゲンワースにもいません。……市街は広い。俺は街の中央にいましたが、地下や端の方から探索しているのかもしれませんよ」

 

「そう、か」

 

 レオーがガックリ肩を落とした。クルックスが願ったように彼はセラフィを大切に思っているようだ。ならばクルックスも彼に応えなければならない。

 

「そうだ。夢のなかに手記を置いておきましょう。武器の手入れで必ず寄るはずです。それにカインハーストにただちに戻るように書いておきます。もちろん、俺が会ったときはこのことを伝えましょう。……これで、いかがですか?」

 

「ああ、うん、それなら……。悪い。手間をかけさせるな」

 

「いいえ。大したことではありません」

 

 レオーがようやく了解を告げ、クルックスは微かに笑った。カインハーストの絆は重い。けれど、きっとセラフィにとっては窮屈ではないのだろう。そこには確かな情があると思えたからだ。

 

「セラフィは、一度熱が入るとどうにも冷めにくい質のようですね。市街のいろいろなものを見ているのでしょう」

 

「悪い輩に捕まっていなければいいんだがな。セラフィは、いつも帽子を深く被っているだけだろう。顔は割れていないだろうが……それでもな。目敏いヤツは気付くものだ。カインハーストにありがちな髪色でもある。金と銀は特に。まさかとは思うが、警戒しすぎることもない」

 

「…………」

 

 よくよく見れば、レオーと鴉は銀色の髪だ。

 もうひとつの『ありがちな髪色』とは金色であるらしい。その言葉にクルックスは、昼間に出会ったガスコイン神父の娘を思い出した。すぐに「ありえない」と首を振った。

 

「──どうした?」

 

「レオー様は市街にカインハーストの末裔がどれほどいるか、ご存じなのですか?」

 

「ん? ああ、それは…………──いや、なぜ聞く?」

 

 応えは鋭い問いかけに変わった。

 クルックスは首筋を刺すような視線を感じた。背後で鴉が見つめているのだろう。それは殺気が帯びてもおかしくないほどに強いものだった。

 

「金と銀の髪色が特徴だとおっしゃいました。……それはどれほどの割合で?」

 

 クルックスの質問にレオーは、わずかに沈黙を挟んだ。

 

(躊躇だろうか。──違う。そんな甘いものではない。右手は常に千景を抜ける場所にある)

 

 慎重に言葉を選び、クルックスは事情を話した。

 

「今日、出会った人が金色の髪でした。その人は狩人でもないのに俺の『月の香り』のことを言い当ててみせた。悪夢のことに勘付いたのかもしれない。その洞察はカインハーストの由来の血によるものだろうかと。俺は、気になっていて……」

 

「ほお。殺したか?」

 

「っ。いえっ、まさか。お父様に判断を仰いでから……と。敵にはなりえない。相手は、ただの市民です」

 

「どうせ夢が巡れば元通りだ。殺してしまえばよかったろう。疑問など後から拾えばよい。まぁ、殺さずとも夢が巡れば同じことだが。──そう恐れる顔をするなよ。種明かしをしてやるんだから」

 

「種明かし?」

 

「カインハーストのお貴族様が知りたがりの月の仔に教えてやろうと言っているのだ。結論から言ってしまえば、カインハーストの血縁とは限らん。そいつの傍にいくつかの夜『月の香りの狩人』だった者がいたのだろう。その香りを覚えていたのかもな。……狩人の生の痕跡が香りにさえ遺るとはロマンのある話じゃあないか」

 

 では必ずしもカインハーストに由縁があるわけではないようだ。

 クルックスは、強ばっていた肩から力を抜いて「ありがとうございます」と質問への礼を述べた。

 冷え冷えした声で笑ったレオーは、立ち上がった。

 

「さて、お互いに用件は済んだ。質問に答えたのだ。もはや『ただ働き』とは言わせんぞ」

 

「ああ、そういう理由で答えてくれたんですか。貸し借りを思ったことはありませんでしたがそういうことであればそのように。レオー様のお願いならば俺は必ず果たして見せましょう」

 

「大事だぞ、貸し借りは。ヤーナムでは特にな。狩人社会は意地と矜持で成り立っているから──というかさ、なんで俺が指導してるの? 月の香りの狩人の仕事だぞ、これ。助言者、しっかりしろ。……相変わらずお前といると調子が狂う」

 

 すみませんと言いかけたクルックスの頭にレオーは軽く拳を落とした。声は穏やかなものだった。

 

「またいつか学舎で会おう。それまで獣狩りでもしていることだ。せいぜい街を清潔にしてな。──鴉、やれ」

 

 レオーが命じる。

 解放されるのだろう。縄が解けないだろうかと身動きしていたクルックスは、突然、焼けるような胸の痛みに襲われた。

 

「えっ」

 

 三人の口から、それぞれの思惑による言葉が溢れた。

 

 クルックスは、胸を貫いた千景の切っ先を見ていた。

 頭が真っ白になるほどの痛みだった。

 痛みにもがき、仰け反る。そして鴉が被るカインの兜を見ていた。銀色の兜は、月の光を無情なまでに弾いていた。

 

「……ど、どうして? え? なぜ? 貴方……? 流血、鴉……」

 

 血除けのマスクは用を成さなくなっていた。

 なんせ血が内側から溢れているのだ。

 自分の血に溺れそうになりながらクルックスは、痛みのなか唖然とした。なぜ、この場で鴉に攻撃されるかまったく分からなかった。しかも、最悪な事態はまだ続く。

 なんと指示をしたレオーも予想外の鴉の行動であったらしい。

 未だ千景に貫かれたままのクルックスの体を支え、悲鳴を上げた。

 

「なっ何で刺してるのーッ!?」

 

「『やれ』とは『殺せ』という意味ではないのか……?」

 

 鴉は首を傾げていた。

 疑問を口にして首を傾げる行為は、テルミがするから可愛げのある仕草なのだとクルックスは心底思った。彼が同じ所作をしても不気味であり、何を考えているか分からない動機の不明さが現状の混沌に拍車を掛けていた。

 

「それは……そうなんだけど! 時と場合によるだろ!? コイツが殺していいヤツに見えるか?」

 

「ああ。夢に帰るのならば、これが一番早い」

 

 気の遠くなりそうな意識のなかで理解が及びそうで及ばないギリギリの動機だった。

 レオーにとっては思いがけない行動であるが、鴉にとっては道理ある行動であったらしい。それにしてもレオーは言葉を失っているようだ。それから言い返すことはなかった。

 

「──おい、しっかりしろ。輸血液はどこだ?」

 

 外套の裏を視線で伝え、場所を促す。

 しかし、急所を穿たれている今、輸血液での再生は怪しい傷だと頭の冷静な場所は指摘する。口を開く気力は痛みのせいで挫けていた。

 輸血液と注射器を見つけ出したレオーがコルクに針を入れた。

 

「いま血を入れる。目を開けてろ、寝ると死ぬぞ。鴉、まだ千景を抜くなよ。血を入れながら、ゆっくり抜いて──」

 

「いいのか? 私の千景は、高血質の劇毒だが」

 

「早く抜け、バカっ!」

 

 勢いよく千景が引き抜かれた。

 栓となっていた楔が抜けたことで止めどなく血が溢れた。

 失血と毒でクルックスの命は、さほど長くなかった。

 死期迫る脳内では痛みの感受性が麻痺しているようだ。

 生の実感は鈍い痛みと熱であり、死は冷感だった。

 

 今さら縄から解かれた遠くにあるように感じる手で、胸の空洞を指でなぞる。

 月の光で明るかったハズの視界が暗い。

 指先の感覚だけが明敏であり、ふと路地の獣を思い出した。

 

(あれは違う。あれは、千景の傷跡ではない)

 

 死んでいる獣は、その周辺に仕掛けられた罠から考えてカインハーストの騎士達が仕留めたものだと思っていた。

 だが、千景の傷跡は刃の形として線の如く細い長方形あるいは菱形となる。だが、獣の傷跡は──内側から引き裂かれた肉で分かりにくいが──きっと円形だった。そして、あの獣は、きっとまだ温かいだろう。

 

「レオー、さ……下の獣……獣は、誰が殺したんだ……?」

 

「は? 獣? 記憶が混濁しているのか? 動くなよ、いま針を刺してるから……」

 

 クルックスは、失いつつある五感で必死にレオーのマントに爪を立てた。

 

「狩人だっ! 獣を殺した、狩人が、まだっ、どこか、近くにいる──」

 

 息が切れる。

 もう指先一つ動かせないと思える肉体の限界だった。

 それでも意志は繋がった。

 

「レオー、我が先達。時間切れだ」

 

「なに──っ!?」

 

 鴉がクルックスを路地めがけて蹴り落とした。レオーが彼の暴挙に声を荒げる暇はなかった。クルックスの体を受け止めようと手を伸ばし、平衡を失って共に路地に落ちていくレオーは、空を見た。

 一筋の銀の光が、ほんの数秒まで頭があった虚空を貫く。

 間髪入れずに鴉が放ったカウンターの銃撃が、市街地に轟いた。

 

「光──違う、矢か! 医療教会の射手かッ!? くそ、こんな時に! いったいどこから──!?」

 

 闇夜の奥から鋼鉄の弦が張り詰め、そして弾ける音が立て続けに響いた。そして、それらを掻き消す重々しい銃撃音。

 クルックスを庇い半身を地面に打ち付けて着地したレオーは、痛みに怯む体を叱咤し立ち上がった。

 

 この夜。

 レオーは幸運だった。

 

「何者だっ!?」

 

 後方から声が聞こえた。

 振り返ったのは、互いに同時だった。

 

 死んでいる獣を調べていた狩人が振り返る。

 狩人の証を白く刻んだ分厚い白の法衣。闇夜にギラついて輝く金色のアルデオ。そして、血と怨念混じる車輪を握る──処刑隊の男がいた。

 

「──カインハースト!」

 

「おっと。動くな。コイツの中身が見たいのなら別だがな」

 

 クルックスの体を抱えたレオーが千景を抜いた。

 月光を弾く緩やかな曲線がクルックスの首筋に添えられたのを見て、狩人が足を止めた。

 

「っ! 卑怯な男ッ! 人質などと! まだ子どもですよ!」

 

 処刑隊。

 カインハーストと共に歴史の闇に消えた組織の名前を、ヤーナム広しと言えど名乗る者は、いまや一人しかない。

 ただ一人の処刑隊。

 ただ一人の血族狩り。

 熱狂的な信奉者、名をアルフレートと言う。

 

「人質!? 人質だと!? ククク、お前達の命には途方もない価値があるような言い方をするのだな。真価を教えてやる必要があるらしい。──お前達が、我が血にそうしたようにッ!」

 

 血を濃厚にまとわせた千景の刃は、クルックスの首を深く撫でた。

 致死に至る傷であり、彼の意識は血肉より先に途切れた。

 

 激高したアルフレートが叫び、レオーが狂気を得て嗤う。

 多くの血族を挽き潰した車輪は、新たな犠牲者を求め怨霊が溢れ出た。

 応じる千景は穢れた血に塗れ、それは毒となり敵対者を蝕むことだろう。

 

 一方では、弦が弾け、銃口は火を噴き、射線をかわしながら千景が青い火花を散らす。

 得物が振るわれる度に彼らは血を流し、あるいは肉を潰していくだろう。

 クルックスの首を切る直前、彼の最期にレオーは言った。

 

「あぁ、本当に悪いと思ってる。こどもは貴重品だ。だから、こんなに都合が良い。──愛してるぜ」

 

 あの日、ビルゲンワースで語り合った穏やかな口調のままに、そう言った。

 だから。

 闇夜に聞こえた彼の言葉は、全てクルックスの幻聴であったかもしれない。




市街の硝煙

因果は巡る
 ここで問題です。一番悪いのは誰でしょう。──これに関しては、クルックスの回答が気になるところです。
 それぞれの動機にあるのは同胞を思いやる気持ちなのですが、各々の所属の社会的立場と個人的な感情が何もかも台無しにした状況です。こんなんばっかりだなヤーナム。この間の悪さ、ひょっとして呪われているのか?

鴉の理屈
 鴉は時間に偏執的なこだわりを持っているので明確な時刻設定をしないと彼のなかでは「ただちにやります」の意を持つため、他殺RTAが始まってしまいました。これが一番早いと思います。
(誤)「夢のなかに手記を置いておきましょう」
(正)「夜が明けたら夢のなかに手記を(略)」
 この話し方ならば後ろからヤられることはなかったでしょう。セラフィは鴉のこだわりを知っているため、終了の時刻は設定せず、ひとまず報告時間だけを設定しました。しかもかなりゆとりをもって。中間報告ではなく一次報告すると述べたあたりも彼女の経験値がうかがえます。

幻聴?
 死の間際に聞こえた都合のいい言葉だったのかもしれません。あるいは実際にレオーが囁いたのかもしれません。とはいえ狂気と殺意で最高にハイになっているレオーが彼を気遣えたかどうかはとても怪しいところです。でも愛情深い男ですから本当に言ったのかもしれません。
 ところで愛しているのは本心らしいですが、クルックスを道具として使うには躊躇しませんでした。経験に裏打ちされた殺意はどんな輸血液よりも彼に生きる力を与えてくれます。レオーが長い夜で正気を保っている原因なのかもしれません。──貴公、よい狩人だな。

ガスコイン神父の娘
 狩人が少女を恐れる理由をクルックスはまだ知りません。まだ昔、何かあったのかな、と思う程度です。テルミのような少女が苦手なこと、それから少女観察日記を付けていることは知っています。

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理解のある犠牲者


狩人の夢のお茶
狩人の夢に置いてある茶葉。
ヤーナムあるいはヤーナムの外から集められた茶葉は、
ネフライトとテルミが集めた物だ。
彼らにとってお茶とは、喉を潤す飲料ではなく、
余暇を味わい尽す娯楽なのだ。



(ああ、情けない。死んでしまった)

 

 クルックスは思索のなか散らばった記憶を掻き集め、再構成した。

 どうも死んだ前後の記憶は、曖昧かつ物事の筋道を失いやすい。そのため記憶の整理には時間がかかるものだ。

 なぜ記憶の整理が必要なのかと言えば、反省するためだ。

 死を招くに至った行動が何であり、次はどう動けば免れるのか。または、敵を殺すことができるのか。

 

 セラフィが死んだ場合は数秒で現実に復帰するらしいが、クルックスは数分かかることがあった。ネフライトなどもっと時間がかかる。数十分戻ってこなかった時は、父たる狩人に三分ごとに「本当に大丈夫ですか?」とお伺いに走ったこともあった。

 

 そして、今回。

 

(獣の死体の罠にかかった後、レオー様に呼び止められて、話を聞いて、依頼を受けて……解放されると思ったら、鴉に後ろから刺された。あれ? 記憶はこれで正しいのか……? 行動を省みても鴉に後ろから刺される理由は特に無いような……?)

 

 記憶の細部が蘇ったところで目を醒まそうと思った。

 反省するとしたら罠にかからず、話を聞かない──という選択しか思いつかなかった。今後はもっと足下に気を付けることにしよう。

 苦々しい思いと共に目を開いた。

 

「え?」

 

 視界にはビルゲンワースの自室の暗い天井があるハズだ。

 しかし、彼が目覚めたのは大きな月が照らす狩人の夢だった。

 

「なぜ俺は、夢に……」

 

 かつて月の香りの狩人が、獣狩りの夜の狩人だった頃。死んだ時点まであたかも時間が巻き戻っていたように感じられたという。死んだことが夢になるのだ。ならば歩いた道も倒した獣も全て夢になるのだ。

 しかし、今は聖杯を除き、時間が巻き戻ったように感じることはない。これは獣狩りの夜の狩人であった頃の彼とクルックス達の明確な差異だった。

 レオーとアルフレートはどちらが勝ったのだろう。どちらがどちらを殺したのだろう。射手の妨害があったようだが、射手を追ったのは状況的に鴉だ。では、鴉は射手を殺しきったのだろうか。

 

(市街へ戻らなければ──)

 

 よろよろと立ち上がったクルックスは、首がしっかり繋がっていることを確認した。

 

「小さな狩人様」

 

 涼やかな女性の声に導かれ、クルックスは頭を巡らせた。

 

「あれ、人形ちゃん……?」

 

 同じ枝葉の隣人たるセラフィによく似た、とある麗人を模した人形がそばにいた。

 そして、彼女は跪くとクルックスへ趣のある封筒を差し出した。

 宛名には『クルックスへ』と書かれている。

 そして。

 

「狩人様からです」

 

「お父様から? むむっ。俺の手記を読んでのことだろうか? ……いいや、これは違う気がするな」

 

 クルックスは狩人にガスコイン神父の娘のことを報告すべく夢の中に手記を残していた。読んだ後の手記は消えるが、今も定位置に手記が置いてあったので狩人は夢に戻っていないのだろう。

 

「人形ちゃん、この手紙はいつお父様から受け取ったのか。あー。覚えているだろうか?」

 

 狩人の夢は、朝もなければ昼もなく当然のように夜もない。

 そもそも相手は人形だ。人間のように振る舞うことから、クルックスは彼女のことを器物と感じることは少ない。しかし、彼女が持つ感覚はしばしばクルックスにとって不可解を感じることがあった。

 

「とても最近のことです」

 

「そうか。ありがとう……」

 

 この手紙が書かれたのは昨日なのか、数ヶ月の出来事なのか、はたまた三年前の出来事なのか。やはり分からなかった。クルックスは中身を開けて確認してみることにした。

 父たる狩人からの手紙曰く。

 

 この手紙を読んでいるということは、君がヤーナムのどこかで『死んだ』ことを意味する。

 我々は忘れがちであるが、常識として、死者は蘇らないものだ。

 よって、狩人の夢で謹慎するように。

 

「ええっ!? そんなっ……!?」

 

 連盟の活動はどうなるのか。ビルゲンワースの学徒には、もう二度と会えないということか。

 混乱と呆然が交互に訪れて狼狽えるクルックスは、そのうち手紙の二枚目があることに気付いた。

 食い入るように文字を読んだ。

 

 君が死ぬということは、理不尽な目にあったか、自害せざるを得ない状況か、誰かを庇ったかだろう。

 その事情を俺はまだ理解しない。

 ともあれ、次の夢まで一回休み。

 

「あ、ああ……よかった」

 

 聖杯もお休みだ。英気を養うといい。

 ただし、何事にも例外は存在する。

 私は、3本目の四本目を忘れていない。

 

「あ、え? 何だ? 3本目の四本目? 何の何が何本で何本目が何本目だって?」

 

 クルックスは二枚の手紙の裏までめくったが、そこには何も書かれていなかった。

 どうやら永遠に狩人の夢に留め置かれるワケではないらしい。

 安心材料が与えられると最後には疑問が残った。

 ──3本目の四本目。

 ヤーナム広しと言えど難解な言葉だ。

 

 無理矢理に読解してみる。

 何かの3本目が四本ある、そのうちの四本目──という意味になりそうだ。

 しかし。

 

(3本目のなかに四本目の何かがある、と読め、なくも、ない、気がする)

 

 クルックスは唸った。推理には自信がない。

 狩人は、ときおり怪しげな言動をしている。その全てがクルックスには理解のできないものだ。

 

(その癖が文言にも現れたのだろうか。しかし、3本目……? 四本目……?)

 

 どこかで見聞きした覚えのある言葉だ。

 だが、本当に自分の記憶だったのだろうか。

 クルックスには、不整合な記憶がある。訪れたことのない場所の記憶を知っているのだ。

 

(例えばヤーナムの潮騒。黄昏の海は、俺の知らない記憶だ。では、この3本目の四本目もお父様の記憶。それによる既視感なのか? それともどこかで……? 俺が忘れているだけで……?)

 

 悩んだが果たして分からなかった。ネフライトのように完全記憶能力を持っていれば違う答えも得ることができただろうが、ないものねだりをしても仕方がない。しばらく、3本目の何かを見つけたらそれを覚えておこうと思う。

 クルックスは手紙を衣嚢にしまった。

 

「ありがとう、人形ちゃん。しばらく……そうだな……倉庫の掃除をしていよう」

 

「はい。工房には、小さな狩人様がいらっしゃっています。一番背の高い、小さな狩人様です」

 

「セラフィか。……セラフィがいるのか。そうか。そうかぁ……そっかぁ……」

 

 クルックスの頭には、無駄死、という言葉が浮かんだ。

 緩い階段を登り、古工房の扉を開く。そこには人形の言うとおりセラフィがいた。

 手記を開き、何事か書き込んでいた彼女はクルックスを見て手記を閉じた。

 

「やぁ、久しぶりだ」

 

「何をしていたんだ、貴公。カインハーストに戻らずに。レオー様がたいへん心配なさっていたぞ」

 

 そのせいで──など、愚痴になりかける言葉を何とか飲み下すためにクルックスは顔を顰めた。『おまけ』で殺されたとは言えない。クルックスはセラフィもレオーも憎みたくないからだ。彼は首を振ると何でもない風を装い、テーブル近くの椅子に浅く腰掛けた。

 

「レオー様が? ──しまった。お手紙を失念していたな。また鴉羽の騎士様に怒られてしまう。ああ、僕は僕でいろいろとね。独りで学ぶこともあるのだ」

 

「それはそれは結構なことだな。市街探索はもう満足したのか」

 

「レオー様に聞いたのだね? 市街探索は順調だ。しかし、テルミほどではないが、ひょっとしたら僕も方向音痴なのかもしれない。想定よりも時間がかかってしまっている」

 

 セラフィは「やれやれ」と肩を竦めた。

 だが、妙に話がすれ違っているように感じるのはなぜだろうか。

 

「市街では何を? 探索とは言ったが、ただ街を歩いているワケではないだろう。観光でもない──」

 

「ただ歩いているだけだよ。市街の町並みを覚えるという目的ならば、だいたい達した。カインハーストに帰れる程度には」

 

「……。そうか」

 

 セラフィは、嘘は言っていない。

 真実の全てを語っていないだけだ。

 

 さて。「世の中のたいていのことが、どうでもよい」と語る彼女が努力を惜しまない対象は二つほどあるとクルックスは感じている。それはカインハーストと自分の顔の由来らしい『時計塔のマリア』のことだ。そして今回は後者であろう。

 

「今宵、射手の狩人を見かけた。昨年から存在する恐らく悪夢から還ってきた狩人だ。──君は知っていたな?」

 

「ああ、知っているとも。レオー様と僕をうっかり殺し損ねた射手だ」

 

 ──やはり。

 クルックスは内心で歯噛みした。

 情報を丁寧に整理していれば、もっと早く気付けたことだ。

 

(いかな不意を突いたとして対人戦闘に優れたカインハーストの騎士を殺すことは難しい。可能性があるとすれば、そう、索敵範囲外からの射撃ならば、射手ならば、殺しきれた。あの弓剣の射程は銃より遠くまで射ることができる。同じ距離を銃で撃とうとすれば貫通銃しかない。しかも命中率は散弾銃より悪い。優れた射手ならば敵意を悟られるより前に射殺せた。それが悪夢から戻ってきた狩人であれば勝率は高い。昨年のレオー様や鴉は、まさかこれまでのヤーナムに存在しなかった射手に狙われているとは考えもしていなかっただろう)

 

 疑い深ければ、あるいは、察しが良ければ、最も早くて昨年の時点で気付くことが出来た。

 聖杯のなかでセラフィと交わした会話を、直前で罠にかかって死んでしまったネフライトが聞いていたら疑問を投げかけたことだろう。「『獣の皮をまとった御仁に助けられました』と君は言うが、何によって危機に陥ったのか聞いていない」など追求したことだろう。彼ほどの聡明さが自分にないことが悔やまれる。そして、セラフィは自分が持つ程度の謙虚を持つべきだと思った。

 セラフィは、クルックスを真正面から見つめた。

 

「彼を見かけたのか? どこで? とても気になるな」

 

 手記をしまった後で。

 姿勢良く座るセラフィは礼節を保っているが張りつめた雰囲気があった。

 それはクルックスが口を開かなかったことでいっそう強調された。

 

「おや? 君は、僕に教えるために戻ってきてくれたワケではないらしい。不本意な顔をしている」

 

「ああ、ヤーナム狩人社会の洗礼を受けたという気分だ。やはり敵対関係の隙間に入り込むものではないな。だが、そんなことはどうでもいい! このことをお父様は知っているのか? 報告は!?」

 

「していないよ。お父様は僕らに市街のあれこれを教授していないのだから、僕らも報告をする義務はないだろう。お父様は、僕に獣の皮を被った男の情報をくれなかったからね。与えられていないものについて返すのはおかしな話だ。これでは釣り合いがとれない。僕らは各々がそれぞれの耳目で探索を済ませるべきだ。そうだろう?」

 

「無責任だ! 急を要する案件だったらどうする!」

 

「今さらヤーナムに急ぎの案件があるとは思えない」

 

「その万が一が起きてはいけないから、俺は案じているんだ……!」

 

「そろそろ口を慎んだ方がいい、クルックス。僕も等しく君を案じているのだ。射手の存在は、お父様が平常通りに市街で狩りをしていれば気付けるものだ。──君こそ、お父様の怠慢癖を責めているように聞こえる。きっと僕の気のせいだろうね?」

 

 鋭い目で彼女はクルックスを見つめた。だが追い詰めたのはクルックスで、追い詰められたのはセラフィだ。その証拠に彼女の発言は、痛いところを突かれたという証明だった。

 論点のすり替え、そして責任転嫁。雑な物言いだったが、単純さは時に多弁に勝る。クルックスが冷静であれば、それを指摘して、この話は別の方向へ進むことができただろう。

 だが、セラフィの反撃はクルックスに効果てきめんだった。

 

「ち、ちがっ、違う、俺は……」

 

 クルックスは、目と言葉を迷わせた。

 怠慢癖とは酷い言い様だが、今日ばかりは否定できそうにない。むしろ彼は否定したくない気分に傾いていた。

 今夜のクルックスが哨戒していた場所は、狩人が普段歩いている区域の境界だった。もし、彼が平常通りの哨戒をしていたらカインハーストと処刑隊が出くわすなんて凶事は起きなかったかもしれない。そして、それさえ起きなければ今日自分がレオーに殺されるなんてこともなかったハズだ。

 

 あり得た可能性がチラと思考を過ぎる。

 すると、もう、ダメだった。

 クルックスは弱々しく顔を両手で覆った。

 

「違う、違うんだ。決してお父様のことを責めるつもりは……ただ……俺達はどうしても間が悪いことが多いから、だから、だから……些細なすれ違いが、最悪を招くような……そんな気がしている、だけなんだ……」

 

 セラフィは、薄く笑った。

 

「まぁ、君も好きにすればいいだろう。誰も咎めまい。このことをお父様に伝えて『恩を売って』おくのも悪いことではないだろう。僕は直接伝える方法を選ばなかったが、何もしていないワケではない。射手の存在を知る者は他にも存在する。獣の皮を被った男も知っていることだ。昨年、僕とレオー様をさんざ追いかけ回した追手を引き受けたのは彼なのだから。お父様が彼と交渉していて子細を聞けば、それで済む話でもある。医療教会『側』の狩人と友好的な関係を結べていれば情報交換程度はできるだろうからね。わかるかな? 射手の存在は、お父様が知らない方がおかしい情報だ」

 

「そ、そうか……! では、大丈夫。きっと、大丈夫だよな。……ああ、ブラドーは敵ではないと言っていたし……」

 

 クルックスは、そこまで考えるとようやく落ち着いて椅子に座り直すことができた。

 セラフィも同意した。

 

「……。大丈夫だろう。お父様も気を配っている類いの話だ。──それで? 今夜の射手はどこにいたのかな? 以前は屋根の上だったが」

 

「屋根の上。そうか。どうりで獣の後頭を射られるワケだ。しかし、凄まじい手腕だな」

 

「射手はどこに? どこで見たのかな?」

 

「ん、ああ。東の──」

 

 クルックスは、セラフィに住所と目印を伝えた。

 ふむふむ、と興味深そうに彼女は頷いた。

 熱心な彼女を見ているとクルックスは罪悪感を覚えた。

 

「……しかし、うーん、生きているとは、とても思えない。流血鴉が、鴉が、いいや、君に倣って俺も今後は『鴉羽の騎士』と呼ぶことにしよう。今宵は鴉羽の騎士が追った。だからとてもではないが生きているとは……」

 

「なんと。死ぬところを見たのかい?」

 

「そういうワケではないが……」

 

 その前にクルックスは死んでしまったので、見ていない。だが、市街で死んだことをセラフィに伝えるのはレオーのことを思うと気まずいものだった。

 

「……もし射手が逃げているならば、下水に逃げたかもしれない。正確には街の下方に広がる暗渠や下水、というか汚水溜まりなのだが……。鴉羽の騎士が屋上を飛ぶならば地下のことは詳しくないだろう。それに入り組んでいるから地形に詳しければ高低差で撒けることもある、かも、しれない」

 

「よし分かった。行ってみよう」

 

 もう言葉は不要になったようだ。

 彼女は椅子に掛けていた外套を掴むと目深にトリコーンを被る。そうして古工房を出て行こうとした。

 テーブルにはネフライトの報告書類と一緒に便箋が置いてあった。書き損じたいくつかを見れば、狩人がカインハーストの女王様宛に熟考を重ねた努力が見える。それを見て閃いた。

 セラフィを追うように扉を開いたクルックスは、地上への移動するために歩く彼女に声をかけた。

 

「セラフィ。探索するのは構わない。用件が済んだら必ず狩人の夢に戻って人形ちゃんと会ってからカインハーストに戻ってくれ。手紙を作って人形ちゃんに託しておく。忘れないで受け取ってくれ。──伝えたからな」

 

「あとで必ず果たすとも」

 

 セラフィは、去った。

 ただの古工房が残った。

 

「はぁぁ。すこし……疲れた、な……」

 

 クルックスは、疲れ切った体を自覚した。

 心の疲労とは、体にも現れてくるものだと知りつつある。

 

 初めてのことだった。

 少なからずの好意を抱いていた人物から殺されるなんてことは。

 

 今夜の出来事は『連盟員だから殺す』などのありふれた出来事であれば、胸のなかのもやもやとした蠢きも少なかっただろう。だが、現実はそうではない。

 偶然そこにいた処刑隊の狩人を挑発するためだけに殺された。

 レオーは市街の狩人ならば、誰でもよかったことだろう。──クルックスではなくとも。

 

(あの人は……俺のことが大切だと……思ったのに)

 

 息する死体程度の存在だった自分を蹴飛ばしてそれきりにすることも出来ただろう。どうせ内臓を貫かれていた。長くない命だった。だから、わざわざレオーが手を下すこともなかったハズだ。誰に殺されたかは処刑隊の彼にとって明白であり、わざわざ目の前で再確認させる理由は薄い。むしろ隙が出来る悪手だった。──あるいは、自分がそう思いたがっているのか。

 

 気付くとこのことばかり考えてしまう。

 彼と出会う前には存在しなかった思考に出会ってしまうと身動ぎする気力も起きなかった。

 彼は、父としての狩人や兄姉としての学徒ではない初めての大人だった。クルックスの出自や存在の秘密を知っている貴重な存在であり、初めて個人として見つめられたような気がした。長い夜の辛苦に寄り添うことが出来た気がした。──自分だけを見てくれた時間のことをクルックスは大切に思っていた。

 

 独りよがりな考えだったのだろうか?

 いいや、そもそも、たかが一度死んだくらいでいったい何を落ち込んでいるのか。

 自分に問いかけて奮起させてみようとしてもうまくいかない。

 

「…………」

 

 ──悲しい?

 ──痛い?

 ──苦しい?

 

 どれも相応しくない感覚だ。

 しかも混然としていて、ひとつも明確になっていない。感情の輪郭も分からない。それなのに存在感だけは排除しがたく胸にあり、体に重たくのしかかってくる。

 誰かのせいにできれば簡単だ。それでも、クルックスはレオーもセラフィも嫌いになりたくないのだ。

 レオーから受けた、くすみない好意は真実だ。彼を嫌ってしまえばあの時間まで嘘になるような恐ろしさがあった。

 だからこそ落ち込みは深い。

 彼は傷ついた獣がそうするように目を閉じて過ごすことにした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 じっとしてるうちに眠り込んでしまったらしい。

 狩人の夢は静かで暖炉は心地よい火をいつまでも焚いている。

 意識が浅層を漂う。眠気はないが、目を閉じて眠っているとややこしいことを考えずに済む。自覚して眠りに逃避しようと試みる。わずかに身動ぎし、すっかり固まってしまった首をほぐすように回した。

 その時だ。

 

「眠っていていいぞ。こどもは寝るものらしいからな。特に君は夜に働き過ぎだ。……働かせている俺が言うのは心苦しいことではあるがな」

 

 クルックスは、目が覚めた。

 

「お──と、う、さま!」

 

「結局目が覚めてしまったな」

 

 眠りで色褪せていた考え事は一斉に鮮やかな色彩を取り戻す。

 クルックスは何から伝えるべきか分からずにただ口を開閉した。

 セラフィが座っていた椅子には、父たる狩人がいた。彼の手にはクルックスが書いた手記を持っている。

 

「それは。そうだ! 俺は、ガスコイン神父の娘さんのことでお父様に──」

 

 彼女のことを口にする。その時。狩人が痛みを含んだ目をしたことにクルックスは気付いた。初めてではない。その目は知っている。テルミを見つめる目だ。そして、遠くからガスコイン神父の娘を眺める目である。

 クルックスは事情と経過の全てを話したが、狩人は多くを語らなかった。

 

「……放っておけ。ただの残り香だ」

 

「分かりました。これまでどおり。いつもどおり。……それでいいんですね?」

 

「私達が対処すべき事態は起きていない」

 

「では、俺もそのように。……ああ、よかった……」

 

 異常事態ではないと断言してもらえたのは、クルックスにとってありがたいことだった。

 

(レオー様が「殺しておけ」と嗤ったのは、彼にとってヤーナム市民の命はゴミクズ程度の価値しかないからだ。そうだ。そうに決まっている)

 

 カインハーストと月の香りの関係者以外には等しく価値が無いと思っているレオーが、今回ばかりは間違っていたのだろう。

 クルックスは、ひとつ問題が解消した気分になった。

 

「クルックス、報告ありがとう。私はガスコイン神父の娘さんを見守ってはいるが、いつも遠眼鏡越しだったからな。気付かなかった」

 

「これからも何事かあれば報告いたします。……ヘンリックさんから言われたのですが、俺はどうやら世間知らずのようです。お父様にとっては些細な問題を報告するかもしれません。ご容赦を」

 

「構わない。現在のヤーナムは何度も繰り返しているが時に変化がある。君がいることで変わることもあるだろう」

 

「……? お父様は変化をお望みなのですか?」

 

「時と場合によるな」

 

「…………」

 

 今夜聞いた、その言葉はクルックスにもう一つの問題を思い起こさせるには十分だった。

 狩人はテーブルに置かれたカップを手に取った。

 

「それで不貞寝の理由は? まだ地上は夜だろう。てっきり市街の哨戒に行っていると思っていたが」

 

「不幸な行き違いがあって……俺はあまり悪くないと思うのですが……」

 

「何があったんだ?」

 

「結論を先に述べると、俺は鴉の勘違いで殺されてしまいました」

 

「あー」

 

 狩人の反応は薄い。

 甘いハズの紅茶を啜っているというのに、彼はコーヒーを濃いめで飲んだ顔をしている。

 ──そういうことは、ままあるよね。

 彼は本音のところでは手っ取り早くそう言ってしまいたいのかもしれない。

 

「その後、この夢で目覚めたのでお父様に手紙を人形ちゃんから受け取り、待機していたところです」

 

 クルックスは握っていた手紙をヒラヒラと動かした。

 彼は「ああ、その手紙」と存在を思い出したようだった。

 

「君の感覚で三年ほど前に書いたものだ。いくつか条件があるが君の場合は人目のある場所で──例えば、市街とかな──死んだ場合、夢に直送されるようになっている。他の三人にも同じ手紙を作成している。文面は少々違う物だが、テルミならば医療教会上層、ネフならばヤハグル、セラフィは君と同じように市街で死んだ場合にこの夢に送られてくる。手紙は人形ちゃんに渡していたが……まさか、もう渡すことになるとは。ご苦労。大変だったな。……それで勘違いとは何だ?」

 

「事の発端は、セラフィがカインハーストを留守にしていたことです。それを心配したレオー様がセラフィの居場所を知っているだろうと期待して市街で俺を捕まえました。そして『セラフィを見かけたらカインハーストに顔を出せ』と伝言を預かったのですが、その後に、鴉から後ろからグサッと」

 

「ん? セラフィのことは棚に上げるとして。鴉は、レオーとクルックスの話を聞いていたのではないか? 直前に別行動していて……合流したとか?」

 

「そもそも俺を捕まえたのは鴉でレオー様とのやりとりを最初から最後まで聞いていたハズだったのですが、俺の縄を解くようにレオー様が『やれ』と言ったら、こう、グサッと」

 

「ああ、なるほど。曖昧な命令に対し自己裁量で判断した結果『ぶっ殺そう』ってなったのか。やるかやらないかで考えれば、やりそうだが」

 

「でも、トドメを刺したのは、レオー様でしたね」

 

「レオーまで何やってるんだ」

 

「偶然、アルフレートさんとバッタリ出くわしてしまって挑発のために俺の首をかっ切っただけです。恐らく他意はないかと」

 

「こっちもやるかやらないか考えれば、やりそうだ。だがアルフレートか……。処刑隊を前にレオーの殺意が振り切るのも無理はない」

 

 狩人を困惑させることは、誰にでも出来ることではない。

 まして付き合いの長いヤーナムの狩人であれば尚更のことである。

 

「クルックス、その、なんだ、『間が悪かった』というものだな」

 

「お言葉ですが、八割くらい鴉が悪いと思います」

 

 狩人も苦しい慰め方だと分かっていたのだろう。彼はソッと視線を逸らした。

 

「そうだな。すまない。間が悪いという考え方が便利すぎて最近は多用しすぎる気がする。しかし、どう考えても刺さないだろうって場面なのにいったいどういう了見で刺したんだろうな。レオーもビックリしただろう」

 

「指示を出した本人が俺よりビックリしてましたね」

 

「そんなことになったら俺だってビックリする。その後、自分が殺すあたりレオーも難儀なヤツだが……。ふむ。『気にするな』と励ましてもいいだろうか? 学舎ではレオーと仲が良かっただろう。顔色が悪いぞ」

 

 クルックスは、自分の頬に触れた。顔色は勿論わからない。

 労るように細められた狩人の目を見ると名前の分からなかった感情が薄まっていくのを感じた。

 

「すこし驚きました。……でも、レオー様の憎しみの一片が理解できました。俺には想像できない長い夜だというのに……とても鮮明な憎悪だと思いました」

 

 彼の言葉を信用すれば一五〇年以上、医療教会ひいては処刑隊を憎み続けていることになる。

 クルックスの貧弱な想像を軽々と超える精神だ。

 ほんのすこしでも心を通わせたと思えていたからこそ、彼の憎しみはレオーへの理解を失わせてしまうものだった。夕暮れは、どこから夜に変わってしまったのだろうか。クルックスにはまったく分からない。

 

「俺にもよく分からない。だが、それが彼の愛なのだろう」

 

「憎しみが? なぜですか?」

 

「俺に愛は、まだ難しい。しかし、あらぬ誤解や要らぬ不安を抱かせたままでは……いやいや、ヤーナムの過去を開示していない私が言うことはないが……」

 

「おっしゃってください。……俺は分からないままにしたくない」

 

 狩人は「ふむ」とひとつ呼吸を置いた。

 そして。

 

「俺が思うに彼の憎しみは、ただの結果なのだろう。……彼はすこし惚れっぽいというか。好きなものにはハッキリ好きと言う、愛情深い男だろう」

 

「ええ、それは……分かります」

 

 率直な好意を伝えてくる大人の人物は初めてのことだったのでクルックスは初めて会って大いに戸惑った。けれど、親愛に類する温もりは心地よいものだ。傷のある手のひら。穢れた熱い血の流れる体。何もかもが新鮮で、頭の奥が痺れる体験は初めてだった。夏休みの素晴らしい思い出の一頁として記憶は真新しい。

 

「そんな彼がこよなく愛するカインハーストの一族。彼らを殺した処刑隊を憎むのは当然だ」

 

「でも一五〇年以上です。ただ一つの信念が、今も駆り立てているのですか? それは……まるで囚われているようで……」

 

「実に心痛む話だ。そして耳が痛む言葉でもある」

 

 狩人は、目を逸らした。

 あまりに自然でクルックスは彼の言葉の意味を深く理解することが出来なかった。

 

「ただ一つの信念。たった一つの願いのために、数多の狩人は夜に駆けた。あるいは血に溺れたことだろう。辿った道こそ違えど俺もレオーもそれだけは違わないのだ」

 

「…………」

 

「俺にはレオーの気持ちがよく分かる気がする。自ら望んで愛に殉じているのだ。人の想いは、意志とは、遺志は、永遠だ。それが愛ゆえならば尚更のことだ。愛の生まれは古い。ゆえに常に新しい。血を流して愛し続ければ、憎しみも乾く暇がないことだろう。……私達には、まだ難しいことかもしれないな。クルックス。彼は憎悪に囚われているように見えるか? 俺には愛に囚われているように見える」

 

「……では、きっとあの人の憎悪は愛と等しく温かいものでしょう。それも甘いものに違いない」

 

 愛と憎しみが表裏ではなく、度合いの問題であるとクルックスは認められない。

 それでも、こうして狩人と言葉を重ねていると理解が及びそうになるのだ。

 きっと父たる狩人や『きょうだい』を誰かに奪われたら、その情が攻撃性を帯びることは幼い自分にも想像が出来てしまうからだ。

 狩人は、フッと薄い笑みを浮かべた。

 

「愛に囚われているのならば、それを解くのもまた愛なのだろう」

 

 クルックスは、彼の言葉について長く考え込まなければならなかった。

 やがて、ハッとして彼を見返した。

 

「──セラフィですか?」

 

 狩人は妙な顔をした。

 きっとクルックスの質問は予想できただろうに、いざ問いかけられたら驚いた顔をした。

 だが、彼はすぐに取り繕った。

 

「さぁ、分からない。しかし今のヤーナムに良いところがあるとすれば、こういう時だろうな。……彼がいつか自分を省みて自分を愛せるようになるかもしれない。セラフィがそばにいることで何かが変わることもあるかもしれない。それに鴉が突然まともになるかもしれない」

 

「願うだけならば自由ですからね。でも三番目は、ちょっと、たぶん、いえ、絶対ありえないと思いますが」

 

「でも人間だから上位者の想像を超えてくれるかもしれないだろう? 私は、だいぶ、いや、すこし、ちょっと、ほんのちょっと期待しているのだ」

 

 期待にしては値が小さすぎると思ったが、それでもゼロよりはマシな数字には違いない。

 クルックスは、ようやく椅子の背もたれに深く腰掛けることが出来た。

 

「最後に確認です。お父様。この件について、お父様は誰も咎めないのですね?」

 

「咎めるつもりはない。ただ、君が望むならば無いよりマシの書状を作成する。カインハースト宛てだ。作った方がいいだろうか?」

 

「いいえ。俺は事を荒立てたくありません。この話も内密にしていただけば……」

 

 今回の出来事が、月の香りの狩人とカインハーストの関係に悪い影響を及ぼすのではないかと思っていたが、狩人にそのつもりはないようだった。……鴉は悪いことをしたとも思っていないだろうから、こちらは問題ないだろう。

 

「ひと言くらい何かないのか? 今度、鴉に出会ったらチクリと言う心算ではあったが……」

 

「お父様の手を煩わせるほどではありません。俺がセラフィを介してお二人に伝えます。今は思い浮かびませんが、そのうち……差し障りのない言葉を添えて」

 

 クルックスは、あと数時間もすれば再び立ち上がれると思えた。

 今夜のうちに狩人に出会えたことに感謝したが、同時に思い出すことがあった。

 

「お父様、今夜はどちらに?」

 

「ああ。……すこし悪夢を見回りに、な」

 

「俺達がまだ行ったことのない悪夢があるとは知っていましたが、お父様が見回るほどの対応が必要なのですか?」

 

「『異常なし』を確認することも大切な仕事だと思っている。異常に気付くのには早い方がいいからな」

 

「……ここのところ市街で見かけませんでしたから、一通り見回った後はお戻りになる方がよろしいと思います」

 

「珍しい。勿体ぶった言い方をするのだな」

 

 クルックスが落ち着いたところで狩人は空いていたカップにポットの紅茶を注いだ。

 揺れる水面を見れば、曖昧な顔をする自分が映っていた。

 

「市街の『異常なし』を確認することも大切な仕事だと思います。……出過ぎたことを言っているとは、承知なのですが……」

 

「気にするな。そろそろ戻る予定だった。長のご機嫌伺いにも行かなければと思っていたからな」

 

「……ああ、それはちょうどよかった。いつ伺いますか? 俺も同行します」

 

「同士が真面目で俺の鼻はもう高くならないよ」

 

「いえ、長に報告をしないといけないことがあります。お父様にはもう報告していましたが、ええ、外の世界にも虫がいたのです! 長の言うことはやはり正しかった! まずはヤーナムを綺麗にしてからですが……いずれ外も綺麗にしましょう。人の淀みを根絶させ、綺麗な朝を迎えられるように。そうでしょう、お父様」

 

「ああ、君の手紙にあったな。……はぁ、世の中、どこもかしこも淀んでいるのだなぁ。ヤーナムほどの土地はないと思っていたのだが……なんとも気が滅入ることだ……」

 

「ええ。人心が淀んでいるのでしょう。ヤーナムだけが特別な土地ではないということでもあります。連盟員の仕掛け武器は血の乾くことを知りません。あ、手入れはしっかりしないと。それで、いつ行きますか?」

 

「待て待て。市街で死んだ人がうろうろしていたら問題だ。当分は夢で待機だ。武器の手入れと倉庫の片付けをしたまえ。後ほど君の学習道具を持ってこよう。三人より先に学校の課題に取りかかるといい」

 

「でも、でも、お父様、聖杯なら、聖杯はお許し願えませんか……? 今回は不慮の事故と言うことで……」

 

 クルックスは、言い募ってみることにした。

 死んでも市街ほど問題にならない聖杯ならば、と。

 そう思っての試みだったが、狩人は首を横に振った。

 

「狩りならば別の機会を与える。私が早く市街に戻るために君にはすこし働いてもらおう。それまでは夢で大人しくしていることだ。ビルゲンワースの学徒には俺から事情を伝えておく。狩人の休息は、瞬きの時間だ。せめて穏やかに過ごしたまえ」

 

「あぅ。俺に休息はいらないのに……」

 

「女王様が喜びそうなことを言うものではないぞ。特に今年の俺の前で言っていい台詞ではない。今年ばかりは、とっとと寝たい気分になっているからな……」

 

 狩人は、そう言ってお茶を飲んだ。

 クルックスは、この時になって初めてネフライトが夢に持ち込んだ眠気覚ましハーブティーであることに気付いた。




理解のある犠牲者
理解のある彼
 クルックスは、レオーもセラフィも嫌いになりたくないので事を荒立てることを望みませんでした。ほんのすこしの憎しみは、夏休みの温かい記憶を塗り潰すほどではありません。ただ、あまりにレオーに都合がよく、いい子ちゃん過ぎる思考に思わず狩人も気が咎めました。

セラフィの詭弁
 平時のクルックスであればセラフィの発言のさまざまなところを「それはおかしい」と指摘できたかもしれませんが、死ぬほどの苦痛と実際に死んだ後で心に余裕が無いので言いくるめられました。ちょっと理屈あることを話すと「そ、そうか……!」と言ってしまうクルックスは、こういう場合に特に危うい存在です。四仔の利用したりされたりの関係を考えているネフライトの厳密さを見習うべきなのかもしれません。

3本目の四本目
 英数字と漢数字が混ざっているのは仕様です。誤字ではありませんので念のため。
 ゲーム本編をやったことがある人はご存じ、ヤーナムにおいて3本目の○○○○は全部で四本あります。三本でも四本でも同じことならば必要な数は三本であったと言えるでしょう。ところで、本作において余剰の四本目はどこにいったのでしょうか。不思議。狩人君、知っている?

月の香りの狩人の悪夢めぐり
 悪夢の辺境やメンシスの悪夢に異常がないかを確認しているところでした。狩り尽くし、何もいないと思われていましたが、ヤーナム市民が存在するように悪夢にはまだ悪夢の生き物が存在しているのかもしれません。そんな彼は近いうちに市街に戻るためクルックスに何か依頼をするようです。

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旧市街の灰狼(上)


テルミのクッキー
テルミお手製のクッキー。
家庭料理が存在しない月の香りの狩人達にうまれた手料理のひとつ。
小さな手で作られたそれらには大きな愛が込められた。
願いが生の苦しみを招こうとも彼女は生を肯定する。
HPを回復し、一定時間、さらに体力・持久力・筋力・技術・血質を向上させる。



 呼吸を憚るほどの静穏に愛された狩人の夢には、古い遺志が漂っている。

 クルックスの目には見えない。

 遺志は実在しているが形を失って久しいものらしく、まだ何物にもなりきれていない。

 夢のなかに存在する人形は狩人達が集めた遺志を力に変えてくれる存在だが、彼女がどのような存在なのかクルックスは知らない。父たる狩人にとって大切な存在であるとは分かる。だが、それだけだ。

 

 ──遺志をあなたの力としましょう。

 

 人形が地に膝をつき、手をかざした。

 倉庫を整理していると探索中に発見したさまざまな死血が出てきた。

 小さなそれを握り潰して消費しているといつの間にか人形がまとめて力に変換できるほど貯まってしまった。

 

 クルックスは、人形を見ていた。

 

 遺志は血に宿るものだが触媒に過ぎない。──とは、狩人の言葉だ。

 血の遺志の本質は、遺志なのだという。

 誰かの死血を握り潰す度に彼は『自分のなかで何かが増えた』感覚を覚える。その『何か』こそ、狩人の業における遺志なのだ。

 

 遺志には、意志がない。今では狩人の力になる糧だ。

 既存の概念で近似を求めるならば『知識』と言い換えられるかもしれない。形は存在しないが、時間と共に積み重ねた成果を人は得る。存在の様式は似ている。

 

(遺志。意志。意思。それは、いったい誰の? どんな?)

 

 身に宿った遺志が報われるか、徒死するか。

 それは宿主となったクルックス自身の問題だ。

 肝に銘じて今後も歩かなければならないだろう。

 

 人形の仕事が終わった。

 クルックスが視認できたのは、血の霧。あるいは、赤い粒子だけだった。

 空っぽの器に何かを注ぎ込む感覚を覚えた。今回は、筋力が増したことだろう。

 ──果たして空想の器が満たされた時、自分はどうなるのだろうか。

 クルックスが人形と接する度に考えることだった。

 

「あと何度か頼むかもしれない」

 

「はい。何度でも。遺志を、あなたの力としましょう」

 

「ありがとう」

 

 クルックスは、倉庫のなかで大量に貯蔵されている『葬送の刃』を処分しようと決めた。

 血の遺志は夢のなかにおいて通貨に似た概念としても使われている。そのため血の遺志の貯蔵を目的に武器や道具に換えていたのだ。小まめに変換していたので本来ヤーナムにおいて希少な隕鉄──隕石から削り出したという鉱物──が大量に存在するというおかしな事態が起きているが、クルックスは気付いていなかった。

 彼にとって葬送の刃は独特な位置を占める仕掛け武器だった。貯め込むうちに愛着がわいてしまい「今は時間がないから、あとで整理しよう」と思いつつ約三年。貯まりに貯まっている。

 愛着を捨てきったワケではない。

 そのため。

 

「そうだ。レオー様が休暇の間に仕掛け武器を使ってみろと言っていたな」

 

 クルックスは、夏休みの心温まる記憶を思い出した。

 ──休暇中に全ての仕掛け武器を使ってみろ。いいか? これは『使いこなせ』という意味ではない。実際に使うことで見えてくることがあるのだ。

 気の進まない仕事をやらない言い訳があれば彼は望んで仕事を放棄した。もしもネフライトがいたならば「君もお父様の遅滞癖を咎められないぞ」と正論を述べただろう。その声なき声を聞いたのかクルックスは売買を行う小人──水盆の使者達へ向かう足を止めた。

 

「しかし、倉庫を圧迫しているので数は少しでも減らさないといけないな。半分、三分の一、五分の一、どれも中途半端だな。まずは……うん、様子見で十分の一ほど処分してみよう。車輪などの仕掛け武器を買わないといけないからな。古狩人の言葉は、いつだって傾聴に値する。『先達はあらまほしき事なり』とは、どこかで聞いたことがある言葉でもある。それ以上の片付けは……うーむ……まぁ後で良いだろう。急ぐこともなし。それに貯金と貯血は身を助けることがあるかもしれないからな……」

 

 クルックスは、葬送の鎌を束で抱えて換金ならぬ換『血』を行った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「あらあら。お父様かと思えばクルックス。珍しいですね。真夜中に夢にいるなんて。何かあったの? お父様の仕事の関係ですか?」

 

 ──仕掛け武器を一通り使って俺が学んだのは火薬庫の武器が最高であるという再確認だった。

 同じ枝葉の隣人に出会ったら、そんな名言をかまそうと待ち構えていたが一向に誰も現れず、眠ることにも飽いて、仕舞いには話のネタも忘れてしまった。

 そんな折、現れた同じ枝葉の隣人にクルックスは気のない返事をした。

 

「ん、あぁ……? テルミか。テルミかぁ……」

 

 クルックスは自分が人間性の限界という顔をしていることを知らなかった。そのためテルミは彼の身の上に何か良くない出来事が起きたことを察知した。

 

「久しぶりに会ったというのにガッカリさせてしまったようで失礼しましたわ。ご機嫌ナナメなのね?」

 

「ナナメではない。俺は、いったい何なのだろうな……」

 

「まあ! 思春期なのね? それとも成長期かしら? どちらにせよクルックスは、わたしの大切な『きょうだい』ですよ」

 

「ありがとう。自信が出てきた」

 

「ところで、どうして腐りかけたジャガイモみたいな顔をしているのかしら? この様子はお仕事って感じではありませんね?」

 

「ちょっとした事故にあってな」

 

「事故? 火薬の暴発とか、ですか?」

 

「カインハーストと処刑隊の抗争に首を突っ込んだ結果、首が飛んだ。……そんな感じだ」

 

 ヤーナムに流れる時間にして恐らく数日前の出来事をクルックスは、ようやく自分なりの言葉として吐き出した。言ってしまうとただの事実が残った。

 

「あらあら、まあまあ……なぁに? 冗談ではなく本当のことなのね?」

 

「セラフィには言わないでくれ。気に病まれると困る」

 

 テルミは「気に病むべきことに思いますけどね」と言ったが、クルックスは不要だと首を横に振った。

 

「俺は誰も恨まない。かなり痛い勉強代と引き替えに学習したところだ。──とまぁ、そういうワケで市街に帰れずここにいる。今はお父様の指示待ちだ。それもお忘れでなければ、だが……」

 

「では、クルックスと一緒にいればお父様に会えるかもしれませんね」

 

「待て。孤児院はどうした」

 

 テルミは普段、医療教会上層にある孤児院で生活している。孤児院というくらいなのでホグワーツ同様の集団生活を行っているハズだった。そもそもここにいてもよいのか。クルックスがそう訊ねると彼女は肩をすくめた。

 

「今日はもうベッドに入るだけですもの。夢を見るなら、夢にいても一緒ですよ」

 

「そういうものか?」

 

 クルックスはひどく退屈していたのでテルミが話し相手になってくれるのならば、とても嬉しいものだった。

 湯を沸かし、お茶を淹れて席に戻って来るとテーブルにはクッキーが置いてあった。

 

「たまには甘い物を食べてくださいね。血酒ばかりではいけませんよ」

 

「ああ。甘さならばこちらの方が俺は好きだ。血酒は嗜好品だろう。狩りで使うことを除けば『一年間お疲れさま会』で飲むくらいがちょうどいい。つまりは一年に一度だな」

 

「ええ、そうしてください。はい、あーん」

 

「むむ。ひとりで食べられる」

 

「ご存じなかったかしら? わたし、貴方のお世話するのが大好きなの」

 

 テルミはクスクスと小さく笑い、クッキーでクルックスの頬をつついた。

 

「それは知らなかったな。いつもからかっているのかと」

 

「まぁ、ひどい誤解をしていたのね」

 

 クッキーは、バニラの味がした。

 ヤーナムではあり得ない味だ。

 魔法界で買った物なのだろう。

 

「甘いな。美味しい」

 

「お好き?」

 

「ああ。……好き。それは好ましいという感情だ。学びつつある」

 

「素晴らしいわ。では『美味しい』と『好き』は何が違うの?」

 

「……? 『味がよい』と『嗜好する』だ。比べるものか?」

 

「『美味しい』ことを『好き』という言葉で語ることもありますからクルックスはどちらなのかしらと思ったのですよ。ちゃんと区別がついているのでよいと思います」

 

「ありがとう。……? ……?」

 

 テルミが手を止めてしまったのでクルックスはクッキーを食べられなくなってしまった。今さら手を伸ばしてよいものかどうか迷っているとお茶があることを思い出した。

 気付くとテルミはテーブルに頬杖をついてニコニコと笑っていた。

 

「好きに食べていいのよ? 可愛いですね」

 

「可愛い。それは、まだよく分からない感覚だ。可愛いは『小さい』? いいや、何かが違うようだ」

 

「ええ。違いますね。いつか分かるといいわ」

 

 テルミは、一般的に『可愛い』存在らしい。

 ヤーナムの孤児院でどのように言われているのか分からないが、ホグワーツではそうだ。

 背が小さく、見目がよく、利発で、優しい。

 医療者らしい傲慢を見せない時のテルミは好ましいとクルックスは思っている。

 

「──小さな狩人様」

 

 控えめなノックが聞こえた。人形の声だった。

 クルックスは椅子から立ち上がり、古工房の扉を開いた。

 

「狩人様からお手紙です」

 

「いらっしゃったのか? 聞こえなかったな」

 

「使者達が運んできました」

 

 クルックスは手紙を受け取った。

 使い古された趣のある手記の一頁は折りたたまれていた。

 テルミが隣にやって来てぴょんぴょん跳ねた。──こういう時に強く感じることだが、成長しない彼女のことをクルックスは悲しく思った。

 

「なんて書いてあるのかしら?」

 

 テルミが見えるように手記を彼女の目の高さに合わせて開いた。

 父たる狩人の几帳面で細かい字で書いてあったのは、思いがけない場所のことだった。

 

 

 人形から手紙を受領し、旧市街へ向かえ。ガトリングが設置された時計塔に古狩人デュラがいる。既知のことだと思うが、旧市街の獣には手を出すな。誓約に則り、殺すくらいならば死にたまえ。夜を避け、血酒を惜しむことなかれ。幸運を祈る。

 

 

 全てを読むとテルミは瞳を輝かせた。

 

「旧市街ですって!」

 

「……夜に行きたい場所ではないな」

 

「クルックス、あとでどんなところだったか教えてね?」

 

「ああ。ところで夜明けまであと何時間だろうか?」

 

「あと六時間ほどですね。クルックスが頑張っているのですからわたしも頑張らないといけませんね。それにしてもお手紙なんて。……お父様、ひょっとしてわたしが夢にいることが分かったのかしら?」

 

 クルックスは無言で懐中時計の鎖を手繰り、時刻を確認した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 時計の針が、夜明けの時間を差す。

 狩人の夢の景色は、朝夕で変わることはない。いつも白銀の大きな月が色白に世界を照らしているのだ。

 けれど今日は、すこしだけ異なる。クルックスには光を失っているように見えた墓碑が、ぼんやりとした明かりを取り戻した。

 

「人形ちゃん。デュラさんへの手紙を」

 

 クルックスは、人形が両手で差し出した手紙を受け取った。

 墓碑へ向かおうとした足を止めた理由について、クルックスはうまく説明できない。

 気付けば、手紙の宛名を指で擦り、尋ねていた。

 

「──人形ちゃんは、デュラという狩人を知っているのか?」

 

 人形は、一度だけ頷いた。

 

「はい」

 

 彼女は立ち上がり、狩人の夢に広がる墓碑へ視線を流した。

 

「……過去、多くの狩人様がこの悪夢を訪れました。ここにある墓石は、すべて彼らの……名残です。デュラ様もその一人。いつの夜からか『旧市街のデュラ』と呼ばれ、幾人かの狩人様がお世話になったと聞いています」

 

 そういうものか、とクルックスは何度か頷いた。

 いつもならば、会話の終わりに思えたが、今日は人形もすこしだけ異なるようだ。

 彼女は球体関節を静かに軋ませて両手を組んだ。祈るように。

 

「この夢は……かの狩人様にとって有意な目覚めとなったのでしょうか。それを確かめる術は、私にはありませんが……。狩人様がお話くださったので、私は今も生きていらっしゃることを知っているのです……」

 

「そうか。……その疑問ならば、俺が聞いてみよう。有意な目覚めだったのかと。俺も気になるのだ。夜を越えた狩人の話を知りたい」

 

「旧市街へ向かうならば、ゲールマン様のお言葉が役立つこともあるのでしょうか。──『獣の病が蔓延し、棄てられ焼かれた廃墟、獣の街である』と」

 

「ありがとう」

 

 クルックスは、墓碑に手をかざした。

 姿が揺らぎ、瞬きの間に消えた。まるで夢であったかのように。

 

 ──ゲールマンとは、誰のことだろうか。

 

 ふと人形の言ったことが気がかりに思えたが、ヤーナムで初めての場所へ向かう緊張がやがて忘れさせた。

 旧市街へ向かうということは、クルックスにとって狩人から託された重要な任務でもあったからだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナム旧市街とは。

 かつて狩人の助言者であったゲールマンが語り、人形が言葉を後世へ継いだように『見捨てられた』街である。

 多くの人々に見捨てられたのだ。それは現在の市街に住む住民から、あるいは医療教会の医療者に。そして、狩人に。

 けれど「見捨てるほかなかったのだ」と旧市街の悲劇を知る多くの狩人は言う。

 

「聞いたことがあるだろうな。──灰血病だ」

 

 クルックスに『灰血病』という言葉を教えてくれたのは、連盟員であり古狩人でもあるヘンリックだった。

 

「ヤーナムに病などありふれているが、なかでも灰血病は奇妙な病だった」

 

 どのように奇妙なのか。

 そのことについて質問はできなかったが、病名から異常の程度はうかがい知れた。

 

(血液が灰色になる病が流行し、赤い月が昇った。そして、人々は獣となり、医療教会に見捨てられ、浄化のため火が放たれた──とか)

 

 旧市街にまつわるこれらの言葉は狩人達の噂を総合し、時系列はクルックスが考えたものだ。

 恐らく旧市街で起きたであろう事実だけは、真実からそう遠くないものを推測できたと思っている。

 とはいえ「なぜ、そんなことが起きたのか」を考えた場合、クルックスもさっぱり分からない。ただし要因はいくつか思いつく。自然発生説というありきたりなものから、ヤーナムの外からやって来た病み人が灰血病を持ち込んだ説という人の往来に焦点を当ててみたもの。狩人の目線では、ヤーナムの地下にある神の墓地の不吉が地上に現れた説も捨てがたい。

 クルックスが最も有力だと思っているのは医療教会が病を撒いた説だが、このヤーナムにおいて迂闊に言うべきものではないため、この想像については彼が誰かの面前で話すことは当分ないだろう。

 

 クルックスが現実で目覚めた時、目を閉じても開いても真っ暗な場所にいた。

 空気の淀み具合から石造りの建物の地下室だと分かった。

 腰のベルトに付けた携帯ランプに火を灯し、ついでに杖を出した。

 

ルーモス 光よ

 

 白い光がぼんやりと周囲の暗がりを照らしていく。

 床一面に転がっているのはテーブルや壺、そして、獣除けの香炉だった。どれもどこかが欠け、壊れている。厚い埃が被っている様子を見るとうち捨てられて長い時間の経っていることが分かった。

 

「…………」

 

 やがて杖先の光のなかで細かな埃が動いていることに気付いた。

 密室に思える地下の空間には、風が吹いていた。

 壁伝いに風が吹いてくる場所を探していると壁と見紛う扉があった。明かりを持っていても注意深く見回していなければ見落とすこともあるだろう。そんな扉だ。

 固く閉ざされた扉には、張り紙が貼ってあった。

 曰く「これより先、旧市街。獣狩り不要、引き返せ

 扉を開けば、必ず知らせの紙を破くことになる。

 クルックスは、ためらうことなく扉に手を掛けた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 扉の先は、旧市街だった。

 空気は煤け、息をする度に喉の奥に燃え滓となった塵が張りつくような感覚があった。

 強い風が吹けば白い灰が、クルックスの黒い狩人の装束をまばらに汚した。

 血除けマスクを鼻まで上げて、クルックスは歩き出した。

 斧は持っているが銃は腰のベルトに差したままだ。

 

 旧市街の時計塔は、市街からも見える場所にある。そのため、道に迷うことはないだろうと思えた。

 道中の問題は、一つ。

 

(……獣の気配がする)

 

 それは燃え損なった家屋から。仕掛け武器を満足に振るえないような細い路地から。

 旧市街は医療教会が放った炎により獣を浄化したと言い伝えられているが、全てが焼け野原になったワケではないようだった。市街から見下ろした時の印象よりも石造りの建物群は獣の隠れ家として機能する程度に焼け残っている。

 

 明るいうちは獣の動きが鈍い。

 日の光は、獣の目にとって強すぎるものらしい。

 よって日の当たる明るい場所を歩いていれば、比較的安全に行けるだろう。狩人の夜を避けろとの助言の意味はこういうことだったのだ。

 クルックスは、時計塔を目指し歩き出した。

 だが、足取りは鈍い。

 

(──なにか。妙な匂いがする──)

 

 クルックスは、足を止めた。

 厳密には『匂い』ではない。正しくは気配と換言すべきだが、狩人の直感というものは五感に訴えてくる感覚なので彼は『匂い』と呼んでいた。

 そして、異変をクルックスは見つけた。

 地面や石畳において。

 灰は厚く降り積もっていたが、ところどころ欠けていた。

 獣の足跡ではない。まるで誰か、人間が、歩いた跡のように。

 

 クルックスは、咄嗟に瓦礫の陰に飛び込んだ。

 彼方から立て続けに射出されたガトリングの弾丸が礫に弾かれて耳障りな高音を市街に響かせた。

 

「ッ──! おい! 俺は使者だ! 貴公、デュラか!?」

 

 答えの代わり頭上に振ってきたのは、火炎瓶だった。

 即座に斧で顔を隠し転がる。

 目を保護したが、同時に視界を防ぐ悪手でもあった。

 

(しまった!)

 

 手持ちガトリングの斉射が身を掠める。クルックスは短銃を抜いた。

 ガトリングの重い銃身が正確に自分を捉える前に一発。

 賭けとなった一発は、ガトリングを持つ狩人の腕に命中した。

 

「グッ! くそっ」

 

 狩人がガトリングを離し身軽になった。そして右手で持っていたノコギリ槍を変形させ長柄の槍とした。

 殺すつもりならばここで距離を詰めてトドメを計るが、クルックスは地面に転がりながら装束に燃え移った火を消し、立ち上がった。

 

「待て! 俺は戦うつもりはない! 月の香りの狩人の使者だ!」

 

「月の香り? ──なおさら生かしておけないな。また獣狩りの夜が来るのだろう!」

 

「獣狩りの夜? 待て違う、何か、何かを誤解して……いや、デュラさんは──」

 

 そういえば隻眼だと聞いたことがある。

 対峙する狩人には一対の目玉がある。煤けた装束をまとう狩人だ。──デュラではない。

 敵対する狩人に銃を向けたままクルックスは叫んだ。

 

「誤解を解かなければ……! おい、デュラさんに会わせてくれ!」

 

 ──このまま旧市街の時計塔まで逃げるか。

 案が閃いたが、追いつかれる可能性の方が高そうだ。

 どうにかしてこの煤けた装束の狩人から逃れて、あるいは、無効化する必要がある。

 じりじりと円を描くように互いに距離を測った。

 

「デュラさんはお前なんかに会わない。もはや、この旧市街に狩人の言葉は不要なのだ!」

 

 彼が踏み込むと同時にクルックスは獣狩りの斧の仕掛けを展開した。それは長柄の斧となり、遠心力を利用し斧頭で彼の胴を凪いだ。

 

「なんのっ!」

 

 斧の特徴である重い一撃は、ノコギリ槍に受け止められた。

 殺さずに彼を止めることは難しい。ゆえにクルックスは、仕掛け武器の破壊を目論んだ。ノコギリ鉈とノコギリ槍におけるノコギリ刃は、折りたたみ式の構造となっている。その構造上、可動部である蝶番に脆弱性がある。だからこそノコギリ系を扱う狩人は可動部の手入れを特に怠るべきではないのだ。そして最も重要なことだが仕掛け武器は、防具にはなり得ない。

 曲がるべきではない方向に力を加えられたノコギリ槍の蝶番が嫌な音を立てた。

 

(もう一撃!)

 

 斧を握り、気の逸るクルックスの頬を煤けた装束の狩人が殴りつけた。ぐわんと頭が揺れた。視界が嫌な明滅をして天地が不明になる。一瞬の不覚だが、狩人にとっては命取りだった。

 

「がっ……!」

 

 地面に転がる。

 煤けた装束の狩人とはすでに至近距離。

 覆い被さるように煤けた装束の狩人が迫る。長柄でノコギリを受け止めたが、押し切られて顔面を割られるのは時間の問題だ。

 

「血に酔っているのか!? デュラの仲間だろう、貴公!」

 

「うるさい! 市街の狩人は死ね! さっさと死ね! オレがやるんだっ、オレが、オレが!」

 

 押し返しきれないノコギリの刃がクルックスの頬を刺した。

 力は互角だが体格の不利は、状況を傾けつつある。

 クルックスは、夢に戻ることも検討するべき事態であることを理解していた。だが状況は、狩人のルーンに集中するどころか銃を抜いて頭を撃ち抜く隙さえない。

 ノコギリ刃を押し返す両腕が限界を訴えた。そんな時だ。

 

「貴公ら、両者動くな! 散弾銃が二丁、お前達を狙っている! 水銀弾を食いたくなければ、武器を手放せ! 両手を挙げろ!」

 

 渋い声にしては、よく響き、よく通る声だった。

 クルックスは、屋上から見下ろす二人の狩人を見た。

 一人は灰色の装束、もう一人は煤けた装束だった。

 灰色の装束をまとう狩人は隻眼だった。

 

「あれが……旧市街のデュラ」

 

 深い皺が刻まれた初老にさしかかろうという男の狩人がいた。

 クルックスに馬乗りになっている狩人が声を上げた。

 

「デュラさん、でも、コイツは月の香りの狩人だ! 殺しておかないと、また獣狩りの夜が来る!」

 

 狩人が叫び、屋上を見上げた。

 クルックスは、屋上の二人が大きく目を見開くのを見た。

 そして。

 

「お前……還って、きたのか?」

 

 不可解なことを言った煤けた装束の狩人の隣で灰狼が深く帽子を被り直した。

 彼が、強く唇を噛んでいた様子がクルックスには印象深く見えた。

 




旧市街の灰狼(上)

クルックス、語る
 三日かけてレオーに殺されたことをさらっと話せるようになりました。けれどテルミだから話せたのだと思います。これがセラフィならば口を開くのにも気を遣ったことでしょうしネフライトならば「カインハーストってホントくず」と言って「そこまで言ってないだろう!」という喧嘩になるのでテルミが来て良かったのかもしれません。
 それはそれとして。クルックスにとって平時の会話相手SSRはネフライトです。同性で賢い彼は話しやすいからです。

灰狼ことデュラ
 クルックスは名前だけはたくさん狩人から聞いていました。実際に会うのは初めてです。
 ガトリング銃はクルックスも得意な得物です。重量があり射撃後の砲身を冷ますクールダウン時間があるため、素早い敵の場合、方向転換について行けないことを知っていました。バジリスク戦闘の時のように的がデカい場合には、かなり有効です。
 それはそれとして。ガトリングが3丁あればマリア様完封できるという動画を見てガトリングすご……となりました。(攻撃があたると敵に怯みが発生するため、協力プレイで同装備をする場合、敵に攻撃の機会を与えさせないプレイが出来るというもの)

テルミぃ
 食べて、食べて。クルックスに差し出すテルミは、給餌のように食べさせています。いっぱい食べる君が好きの精神。
 筆者のイメージには寺山修司氏の『- 人形劇 狂人教育 -』のなかのひとつ「ミルク ミルク ミルクをおのみ」から始まる詩がモチーフのひとつにあります。
 それはそれとして。テルミのクッキーはステータス上限を引き上げる物です。ELDENRING(エルデンリング:フロム・ソフトウェアの最新作)においてアイテム消費でほぼ全てのステータス上限を引き上げるルーン(Bloodborneだと盟約、他ゲームだと装備アビリティ的なモノかな?)が実装されていますが、合法的にステータス上限が上がると低レベルでも万能感がスゴい。何だかスゴい。これには不敗がなんぼのものよ、という気分になります。要するに、こ、壊れてやがる……。

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旧市街の灰狼(下)


デュラの時計塔
旧市街中央に聳える時計塔。
旧市街が焼かれ捨てられたなか
時計塔もまた例外ではない。
焼かれた巨大な時計塔が測ろうとしたものは時か。
あるいは獣狩りの夜の到来であったのかもしれない。



「まずは詫びねばな。……私の連れが失礼した」

 

「いえ、頭を上げてください。彼は……詳しくは分かりませんが、夢から還ってきた狩人なのでしょう。その存在は、おと──月の香りの狩人様から聞いて知っています。俺は間の悪い時期に来てしまったようですね」

 

 クルックスは、椅子に座りデュラと対峙していた。テーブルにトリコーンを置き、武器も壁に吊した。

 二人がいるのは時計塔だ。

 旧市街のほぼ中央に位置する時計塔は、現在、デュラの一味──といっても昨日まで彼含め二人しかいなかった──により、居住可能な部屋や工房道具を揃えた部屋など、あらゆる部屋が改造されているらしい。

 獣は、時計塔までやってこない。

 正確には梯子を登る程度の知能はある者もいるが、梯子を外したり板で道を塞ぐことで物理的に排除を行っているようだ。よって旧市街という獣の街で人間が人間らしく生活できる場所は、この時計塔をおいては存在しないことだろう。

 

「彼について教えていただけますか?」

 

 クルックスは、危うく殺されるところであった。そのため、これくらいの情報はいただけるハズだと踏んだ。デュラは快く受け入れてくれた。

 

「今は階下の別室で傷の手当てをしている。彼は、旧市街が焼かれる前からの付き合いだ。私は……もう狩人をやめてしまったが、それでも狩人であった時は四人で狩りをしていたのだ。彼はその中で一番年若く、火薬庫の弟子だった」

 

「火薬庫……? あの火薬庫ですか?」

 

「あの火薬庫だとも。火薬庫達はよく嘯いたものだ。『つまらないものは」

 

「それだけでよい武器ではあり得ない』──至言であります」

 

「そう思うかね?」

 

 含みのある言葉だとクルックスは受け取った。

 会話に一つの区切りがついた。

 クルックスは父たる狩人から預かっていた手紙を差し出した。

 

「月の香りの狩人様からお預かりした物です。返信があれば運びましょう」

 

「恐らく定期の報告書だろう。ならば返信は不要だ。……。ふむ。……なるほど。ああ、やはり不要のようだ」

 

「そうですか。……俺から個人的な質問をしてもよろしいですか?」

 

「ああ、構わん。何だね」

 

 狩人の手紙をテーブルに置いたデュラの許しを得てクルックスは問いかけた。

 

「月の香りの狩人様とは長い付き合いだと聞いています。彼には、相棒が必要だと思いますか?」

 

「ああ、狩人は誰であれ孤独に狩りをするものではない。相棒は、仲間は、必要だとも。……しかし、この質問をするということは君はそうなりたいのかね」

 

「いずれ肩を並べて戦えるように俺は目指しています」

 

「頑張りたまえ」

 

 デュラの言葉は、意外なことに温かいものだった。

 彼は獣狩りをやめてしまったという狩人なのだから、突き放す言葉をかけられることもあるだろう。そんな覚悟をして質問したが、空振りで終わった気分になった。

 拍子の抜けた顔をしてしまっていたのだろうか。デュラが隻眼をわずかに細めた。

 

「貴公、アテが外れたような顔をするものではない。……私は狩人をやめたが、上の市街に獣狩りが必要であることは分かっているのだ」

 

「貴方が獣狩りを止めた理由を俺はまだ知らない。もしよろしければ、教えていただけますか?」

 

「なんだ父親から聞いていないのか?」

 

「俺が聞いていないから教えてくれないのかもしれません。しかし、貴方のことは貴方に直接聞くべきことだと思っているので、これからも月の香りの狩人様に聞くつもりはありません」

 

「それはいい。今はこうして言葉が交わせるのだからな。ヤーナムにおいて口伝の信用のならない事といったら……実に気の滅入る話だ」

 

 デュラは、ひとつ息を吐いた。

 

「……狩人を止めた理由は言ってしまえば単純なことだ。なぜ獣が生まれるか。それは最早問うまい。だが『何が獣になるか』は知っているだろう?」

 

「人間です」

 

「ああ、人間だ。この街の獣は、かつてこの旧市街で生きていた人なのだ。だから炎から逃れた罹患者を狩っていた時に思ったことがある。──獣狩りなど、最初からどこにも存在しなかったのだ」

 

「…………」

 

「狩人にも告げたことがあるが……あれは、やはり人だよ。狩人狩りは忌まわしいことだ。ならば只人を狩ることは、もっと忌まわしいことではないのかね? だから、私は狩人をやめた。人を獣と偽って狩ることを……止めたのだ。彼らは、私達は、どうしようもなく人間なのだよ」

 

「しかし、獣は人間を傷つける。人間は、獣のために死ぬべきだとお考えなのですか?」

 

 クルックスの言葉は。

 極端に過ぎるものだと自覚があった。

 だが、デュラの信念を言い表す言葉として適切だとも考えている。

 彼は、ハッキリと言った。

 

「そうは言わん。狩人は、まだ必要な存在だろう。上の市街では特にな。だがこの旧市街には狩人が不要となった。『獣狩りは不要』。あの張り紙を見たかね? ああ、それは重畳。……ただ、それだけの話だ。上の人々に迷惑はかけない」

 

「獣の味方をするということは、人間を見捨てるということだ。俺は人間を守る。だから獣を殺すでしょう」

 

「貴公らは、そうだな。月の香りの狩人。獣狩りをすべき存在だ。ならばそうしたまえ」

 

「獣となり血を淀ませた者に咎はあるのか。俺は知らない。だが結果として血は淀み、虫を生じた。それは罪で……浄化されるべきものでしょう」

 

「それでも死んでいい人間などいないのだよ。これは獣化者であっても変わらない」

 

「でも死ぬべき人間はいるのではないですか。獣となった者は人間を害する『人間』だ。駆除に値するとはお考えにならないのですか?」

 

「その『死ぬべき人間』は誰が定めるのだね。旧市街を棄てた医療教会か? 狩人の不文律か? あるいは脳裏に刻んだ秘文字かね? 人は神にはなれない。法にもなれない。それ以外にも、なるべきではないのだよ」

 

 静かに。諭すように。

 古狩人は話した。

 彼が静かであればあるだけクルックスは語気を強めた。

 

「……狩人は人を守らなければなりません。獣を狩る能力を持った者が持たざる弱い者を守らなければ。そして、世界を綺麗にしなければなりません。『市街には、一人でも腕のいい狩人が必要だ』とヘンリックさんは言った。しかし、貴方は獣狩りを放棄した。上の市街では貴方がいたことで守れる人もいたでしょう。たとえ繰り返す夜だとしてもです。……市街の人々を捨ててまで、獣に溢れたこの旧市街に残る価値はあるのですか?」

 

「あるとも。私にとっての市街は、未だここなのだ。私もまた人を守っている。上で何年経ったのか知らないが、私はいつまでも変わらない」

 

 デュラに気の狂いは見受けられない。

 だからこそクルックスは、ビルゲンワースの学舎で聞いたカインハーストの騎士、レオーの言葉を思い出していた。

 ──こんな世界だ。せいぜい自分の信じたいものを信じて、居心地が良いところにいればいいのさ。

 旧市街のデュラは、彼が述べた極致に達しているように思えた。

 だからこそ。

 

「──あれを人間と思い続けることは、とても辛いことです……」

 

 燃え遺った廃墟の奥や白昼でも暗い細い路地から覗いていた瞳を思い出す。全て瞳孔がドロリと溶けていた。人間としての意思は窺えない。意思疎通は不可能だ。

 

(獣は獣だ。人間ではない)

 

 それでも人間だと言える理由があるのならば、それは何故だろうか。

 クルックスは、その答えをすでに知っている気がした。

 

「その気持ちも分かるとも」

 

「獣と割り切ってしまった方が楽でしょう。いいえ、むしろ必要なことに思えます。狩人ならばそうすべきだと思うのです」

 

「君は、若い。顔を知る者が獣になった時、私達の気持ちが分かるだろう。そうならないことを祈りたいところだ。……しかし、真実の姿がどちらであれ……私は彼らを人として愛するよ」

 

 クルックスにとって、デュラの全てをこの短い問答で理解することは難しい。

 獣となった知人がいるとして。

 自分に多少の迷いが生まれるかもしれないが、結局のところ、彼らの頭を落とす事になるだろう。

 獣の姿を晒し続ける恥を彼らは、きっと望まないと思うからだ。

 だからクルックスとデュラは分かり合うことがなかった。

 

「俺は、きっと、殺してしまうでしょう。愛──という感情を俺は、まだ完全に理解しませんが──慈悲ならば多少心当たりがあります。だって人間を人間たらしめるのは知性ではないですか」

 

「……。ああ。君は、そうしたまえ」

 

 デュラは、穏やかにそう言った。

 最後まで促すような声音は変わらなかった。

 会話の終わりの合図としてクルックスはテーブルのトリコーンを手に取った。

 

「最後に一つだけ。狩人の夢の人形からの質問です。よろしいですか?」

 

「あぁ、懐かしい。そうか……彼女もまた健在なのか。構わんよ。何かね」

 

「貴方のことを案じていました。『有意な目覚めだったのか』と気に掛けていました。伝言があれば、お預かりさせていただきます」

 

「そうか。……では伝えてくれるかね。君が願った優しい夢の前触れにはならなかった。それでも、私には必要な夢と目覚めだった、と」

 

「必ず伝えます。お体を大切に。旧市街の古狩人、デュラさん。今日は貴方と話せてよかったです。いつかまた会いに来ます。尊敬する古狩人」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「なぁ、盟友」

 

「何だ、火薬庫」

 

「オレには空が、空が見えるんだ」

 

「……ああ、そうだな」

 

「オレは、どこにいたんだ? いつの頃からか、ずっと空が見えなくて……でも、獣を守っていたんだ」

 

「……。夢を見ていたのだろう。旧市街が焼かれる前から、お前は夢見がちだったからな」

 

「夢、夢か……そうかぁ……夢だったのか。なら、あぁ、よかった。よかったよ。デュラさんを見失って……盟友もどっか行っちゃったし……ずっと独りで戦っていたんだ……」

 

「これからは、ずっと一緒にいるさ。お互い、な」

 

「ああ、それなら悪くないかもな。目を閉じたら、また洞窟で……これも夢かもしれない。……でも、ああ、嫌だ、嫌だなぁ……暗いのは嫌だ。暗がりにいるなんて、コソコソ隠れて暮らすなんて、まるで獣みたいで嫌じゃあないか。まだ、オレは、太陽の下で生きて、生きて……ここで生きて、いたいんだ……」

 

 クルックスは怪我の具合を伺うために、そして輸血液を差し入れるために時計塔の階下へやって来たのだが、声が聞こえて足を止め、会話を聞いてしまった。

 扉を開閉する邪魔にならない場所へ輸血液の入った瓶を置くと『狩人の確かな徴』を使い、彼は姿を消した。

 

 掠れた若い男の声は、忘れられない記憶として彼に遺り続けた。

 

「生きたい」

 

 その願いは。

 ヤーナムの現状を鑑みれば切実であり、クルックスも当然に抱く、ありふれた望みだったからだ。

 生き物が最初に願う最も純粋な願いだ。

 

 ならば。

 それは。

 ひょっとすると。

 獣も同じなのだろうか。

 

 その可能性は、恐ろしく、残酷だった。

 言葉を交わすことのできない獣の心情など想像するしかない。

 そして、想像は果てしなく広がった。

 余白の限り広がる想像の果てにクルックスは、デュラの優しさを知った。

 獣を守るなど市街では愚者や狂人と罵られる行為だ。

 だが旧市街に限り、慈悲に等しいように思えた。

 

 それでも獣から感謝されることはないだろう。

 ならば、一心に傾ける情熱は、正しく、見返りを求めない愛と言えそうだった。

 

 市街でリボンの少女に出くわしてしまった時のように彼は、姿を消した。

 曖昧でつかみ所のない感情が、ほんの数秒でさえ彼の足を止めさせてくれなかったのだ。




旧市街の灰狼(下)
古狩人問答
 ゲールマンが尊んだ葬送の狩り様式は現在のヤーナムでは少々存在感の薄いものになってしまいました。
 狩人の聖杯が出来るまでは当分、彼の葬送精神も夢のどこかに置き去りにされたままなのかもしれません。
 過去の多くが秘匿されているため、クルックスはゲールマンの名を知りません。だ、誰だ。古狩人だろうか。

優しさ
 デュラが優しいのは公式テキストにあります。
 なお初見時は狂人に見える。高台ガトリングは殺意高すぎる。え。警告を無視する方が悪い? だ、だってゲールマン老がゆったのに……!

火薬庫の男
 最も新しき獣狩りの夜(狩人の夢ー市街)にて登場したガトリングの狩人です。


さて『火薬庫の残り香』編が終了しました。
次話より『見慣れぬ女狩人』編を3話編成でお送りいたします。
ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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夜警紀行あるいは理解ある犠牲者の後で


黒染めのメス
黒く塗り潰されたメス。カインハーストの鴉が用いる劇毒にまみれている。
メスは元より武器ではなく、医療器具である。
それを使うとは、かつての名残だろうか。



 時はわずかに遡る。

 

 ──いったい、いつの頃からだろうか。

 市井の狩人達のなかに見慣れぬ毛色の女が現れたのは。

 

 妙齢の女子にしては、やけに背が高く肩幅も広い。銀色の長い髪を腰まで伸ばした女だ。

 ヤーナムにありふれた狩人服を着ているところ、医療教会の息がかかった狩人ではないらしい。

 いつもトリコーンを深く被っていることから顔色はおろか目の色も定かではない。

 市街の狩人にとって。

 狩人の女は女であるだけで目を引くものであるが、その女に近付こうと思う物知らずで命知らずな男はいなかった。

 

 彼女が握る得物が問題なのだ。

 

 古い狩人ならば、それが『落葉』と呼ばれるカインハーストの由縁の狩り武器だと知るだろう。

 だが市井のただの狩人は、その名を知らない。

『教会の杭』がそうであるように、使い手が消えた狩り武器の情報とは容易く失伝してしまっているのだ。

 それはそれとして。

 夜における狩人の連想は、正しく、思いがけず正答に近付くことがある。

 誰かが言った。

 

「あの女の仕掛け武器はカインハーストのものだ」

 

 実際のところ幸運な狩人は気付くこともできただろう。

『落葉』と呼ばれるそれが、夜な夜な出没するカインハーストの血の狩人達が振るう『千景』に似ていることを。

『気付き』は三度の夜も越えないうちに、市街の狩人に広がった。彼らは彼らの理屈で、その女とカインハーストの関係を察したのだ。

 

 ──アイツは、カインハーストの女だ。

 ──出戻りってところかな。

 ──近付くなよ。

 ──碌なもんじゃあない。

 ──生まれついての悪なのだから。

 ──呪われているのさ。

 ──いまに捕まる。

 ──なんで捕まっていないんだ?

 ──医療教会が泳がせているのだろう。

 

 かつてヤーナムの外からやって来た病み人由来の狩人であっても、陰険なヤーナム人らしい気質は、伝染するものらしい。

 事実を冷ややかに見たつもりで、彼らの目には不幸を期待する好奇がある。

 

 噂は、事実に掠りもしていない。

 それでも話せば何かしらのボロが出る彼女にとっては、渡りに船と言ってもよい幸運だった。

 

 カインハースト由来の落葉を振るう彼女の名前は、セラフィ。

 自分と同じ顔だという『星幽、時計塔の貴婦人マリア』。彼女の情報を追うために今は市街を歩いていた。

 そのためカインハーストの夜警は休業中だ。

 業務外なのでカインハーストに由来する仕掛け武器、大型剣と銃が一体となったレイテルパラッシュを置き、一介の狩人として、市街へ飛び込んでいる。

 

 今日も夕暮れが近付いた。

 どこから聞こえる獣の声は、そのときどきによって印象が変わる。

 セラフィが市街で過ごして知った数少ないことだった。

 夜に歓喜する鳴き声が聞こえたかと思えば、血を吐く悲痛な咆哮に聞こえることもある。

 石畳の隙間から生えた雑草を踏み、細い路地に入る。頭上のガス灯がジジッと音を立てて明滅した。集中が途切れてセラフィは息を吐き出した。

 

「…………」

 

 セラフィが市街にいる理由は二つある。

 まず一つ、レオーに伝えた市街探索は順調だ。もう一つの目的である古狩人探しはさっぱり成果が無い。獣の皮を被った男の姿はおろか教会の射手も見かけない。

 父たる狩人は勿論頼れない。

 唯一の味方と言えそうなのは、クルックスだ。彼ならば、彼らの行方を知っていたら教えてくれるだろう。教えてくれないのは、つまり彼にも情報がないのだ。

 さて。

 情報を得ようにもヤーナムの夜は土地勘の少ない自分には広すぎる。

 ──そろそろ後ろを付いてきている黒服の男達へ質問するべきだろうか。

 南区を歩き、血の染みが滲む路地を曲がった。

 

「……おや。なんだ行き止まりなのか」

 

 吹きだまりの路地に入り込んでしまったようだ。

 セラフィは、手記に書き込んだ。

 いつかの夜で体勢を整えるために死地に飛び込んでしまう危険はこれでひとつ減ったことだろう。

 来た道を引き返そうとすると松明を持った医療教会の黒服が二人、道にいた。

 

「医療教会の狩人? ……僕に何か用事かな」

 

 二人ならば始末することになっても問題はない。

 頭を打ち抜いて、胸を貫いて、下水道に捨てればいい。

 考えついたところで却下した。

 今はカインハーストの夜警ではないのだ。むやみに力を振るうべきではなかった。

 トリコーンに手をかけた。いつもならば深く被り直すところだったが、今日はわずかに庇を上げる。彼らには顔が見えたことだろう。

 

「噂より若いな。──ただの聴取だ。何度か医療教会の狩人が助けられたという話も聞く」

 

「ああ、そんなこともあったかな」

 

 心当たりがある。

 数日前、襲われていた狩人のそばを通りがかり、ついでに獣を殺したことがあった。

 

「しかし、聴取とはね。心証がよろしくないのかな? 善意を身から出た錆と言われるのは悲しいことだ。僕はこの街に来たばかりなのだ。輸血のせいか記憶も定かではない。だけど答えよう。何も得るものはないと思うけれど」

 

「聞きたいことはいろいろある。いろいろな。例えば、その仕掛け武器はどこで拾ったか、とかな」

 

「ああ、これ? ヤーナムに来る道中、落ちていたのを拾ったらしい。僕の日記に書いてあったよ」

 

「ほぉ。最近来たばかりにしては、ずいぶん使い慣れているな」

 

「体で覚えたことは忘れないものらしい。実に幸いなことだね」

 

 信用がないのだから、話の内容は嘘と受け取られた。

 セラフィは腰に差した落葉の柄に腕を置いた。

 

「ただの病み人ではないな。最近は市街をうろついている。何を探している?」

 

「人探しだ。僕より先にヤーナムに向かった親族がいる。女性だ。その人を探している。……僕と似た顔だ。ひょっとして知っているのかな?」

 

「知っている。聖堂街の娼婦と似た顔をしているな」

 

「……人違いの上に失礼なことを言う」

 

 セラフィは、トリコーンを深く被り直した。

 カインハーストの件を一時忘れるとしても、医療教会の医療者の高慢さというものは鼻につく。率直に言えば不快だ。

 思えば、不遜な態度とはテルミやネフライトだから許せていたのだ。

 見知らぬ男にされることは、このように不快なのだ。彼女は一つ学習した。

 

「目的は話した。僕は獣を殺しているのだ。咎める謂われはないようだがね」

 

 セラフィは、手記をしまうと歩き出した。

 彼らは行く手を遮ることなく見送るように松明を振った。

 間合い以上の距離を歩いたところで、これまで黙っていた黒服が声を上げた。

 

「人探しか……。俺達も探している。仲間だよ」

 

「ほう。同じ医療教会の狩人を?」

 

「ああ、妙なことに顔も名前も思い出せないが……たしかに、誰か、いた……気がするのだが、もう分からなくなってしまった」

 

「…………」

 

 彼には、思わず誰かに言いたくなるほどの違和感があるのだろう。セラフィにわざわざ話すということは、自分の身の内に留めておくには苦しい秘密だったと見える。

 黒服の記憶喪失がいったい何なのか。セラフィには分からない。

 しかし、勘は囁く。

 見逃すには惜しいことだ。

 

「ごく最近、知ったのだが記憶とは掠れても意志ある限りなくなってしまわないものらしい。いつか思い出すといい。貴方のために。彼らのために」

 

「思い出せたらいいんだがな。──あまり目立つなよ。余所者め」

 

「暗い夜では落葉を見つけられないよ。人の目に夜はあまりに暗いだろう」

 

 セラフィは、落葉を抜くと黄昏の街に消えていった。

 この夜にも収穫はなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 狩人の夢のなかで、薪がパチリと乾いた音を立てて爆ぜた。

 暖炉の傍にテーブルを寄せ、セラフィは薄い紅に色づいたハーブティーを一口含んだ。

 市街は、再び夜がやって来た頃だろう。

 

 セラフィは、明け方にカインハーストに帰るつもりである。

 そのため情報を整理していた。──ひとまず市街の地図情報があればカインハーストの面々には、申し訳が立つ。仕事を休止した成果として十分だろうか。

 打算的な思考に陥っていることを自覚して彼女は溜息を吐いた。

 

「いけないな。……僕は愛されているのに。騙し討ちのような言い訳を考えている……」

 

 けれど、けれど。セラフィは考える。

 決して口に出すつもりはないが、マリアのことを隠す先達にも問題があると思うのだ。そのくせ思わせぶりに遠い目をするものだからセラフィは気になってしまって仕方がない。彼らの瞳の先に何があるのか。セラフィはどうしても知りたいのだ。

 

(女王様にお伺いをしてみようか。でも、女王様は女王様だからな。僕がマリアを探っていることをお父様に話してしまうかも。しかし、獣皮の狩人も教会の射手も見当たらないのでは、僕の打つ手も限られる。時間をかければ……活路は開くだろうか? でも、女王様ならば……。カインハーストの血に関わることならば、やはり女王様が最も詳しいのではないだろうか)

 

 セラフィはカインハーストの女王アンナリーゼのことを敬愛しているが、レオーや鴉からは「ほどほどにしておけ」との助言を受けていた。彼らの言葉を「血を受け、血族に列せられるまで出しゃばるな」という意味として理解しているセラフィは、女王アンナリーゼと二人きりで会わないように気を付けていた。

 

(僕は、先達の言いつけを破りたくない。女王様へのお伺いは……今すべきではないな。僕がきちんと騎士と認められてからだ)

 

 ならば、手がかりは市街だ。どこかで誰かが見ている視線は感じていたので市街のどこかにいるような──気がするのだが。

 手記に地図の情報を書き込み続けていると衣擦れの音が聞こえた。

 見上げれば、よく似た顔の人形がそばに立っていた。

 

「小さな狩人様、お茶のお代わりはいかがでしょう」

 

「いただこうかな。ありがとう、人形ちゃん」

 

 実のところ。もうひとつ。手がかりはある。目の前にいる人形だ。

 だがセラフィは彼女に尋ねたことがなかった。

 彼女はきっと全て知っているか、何も知らないか、そのどちらかだ。

 また、彼女にとって無用の悩みであろうセラフィの苦悩を彼女には知られたくない。

 

 他者の悩み事とは、所詮他人事だ。

 どう悩んだところで、最初から最後まで問題と捉えた自分の問題だ。

 クルックスのように互いに秘密を預ける約束をするでもない人へ相談はできなかった。

 

 彼のことを考えていたからだろうか。

 ふと小屋の外に人の気配が生まれた。

 

「おや。誰か来たみたいだ」

 

 その言葉を合図にするように人形は古工房を退室した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 狩人における一流とは何を指すか。

 それはヤーナムに工房を抱えていた各団体内で異なる見解もあろうが、常に最前に立つ狩人が得る見解には、どの陣営・団体であっても共通するものがある。

 

 窶しのシモン。彼は一流の狩人だ。

 正しく古狩人と呼ぶに相応しい存在だ。

 

 決して準備を怠らず、最善を選び、努力している。

 そのため、この日も彼を危機に陥れたのは誰かを助けようとした行いだった。

 

 そして彼は、カインハーストの騎士達に捕まっている狩人を助けようと射った。

 その初手を躱されたのは、あまりにも痛手だった。それは屋根の上で隠れていた場所が露呈しただけに留まらない。

 二人いる騎士達を分断させることに成功したが、その後、追手となったのは巷を騒がせるカインハーストの狩人、流血鴉だった。

 

 古狩人に油断はない。

 だが、想定外は存在した。

 

 二の矢を番えたところで、彼は異常に気付いた。

 鴉の姿が消える。これは消えて見えるほどに足が速いことを意味するものではない。シモンは見たことがあった。もう失われていると思われていた、古い技術だ。

 

(『加速』! まさか、まだ使い手がいたとは──!)

 

 どうりで誰も彼を仕留めきれないワケだ。

 狩人殺しの業に長けたカインハーストの騎士が目にも止まらぬ速さで移動し、高い殺傷力のある千景を振るうのだ。

 間合いに入り込まれたら、まず勝ち目はない。

 シモンは射線を避けると素早く屋根を転がり落ちた。その頭上では数秒前に踏んでいた屋根が爆発音と共に爆ぜた。

 

「ぐっ……!?」

 

 着地で受け身を取る。路地に散らばる石の欠片が背中を刺した。痛みに怯む体を何とか動かし走り出す。

 そのすぐそばを銃弾が掠めた。

 どうやら銃の腕も確からしい。

 当たらなかったのは、ただの幸運だ。家屋の影に飛び込むと矢を番えた。

 家屋の剥げた壁板の隙間からチラリと空を見上げれば、彼が屋根の上で弾を込める様子が見えた。それが終わったのだろう。──標的は屋根を飛び降りた。

 その瞬間、シモンは影から飛び出し片膝立ちで弓を引いた。

 

 かつて医療教会の英雄と讃えられた聖剣のルドウイーク。

 彼と肩を並べて戦った医療教会最古参の狩人の経験は、時系列不明の現代ヤーナムにおいても当然通用した。その証拠に着地を射止める矢は鴉に届いた。

 しかし。

 狂気と混沌が手を取り合い乱舞したヤーナム末期において、強者として存在したカインハーストの傑作的騎士も決して見劣りはしなかった。

 

「な──ッ!」

 

 ただ、一振り。

 銀の矢と千景の刃が交錯する。

 その結果、鴉羽の後方に銀の矢が弾かれた。シモンは口を開き、信じられない気持ちで見ていた。

 血の滴る千景を構える鴉の姿が、再び消えた。足音は近付いている。行き先も見ずにシモンは駆け出した。

 

 獣にも負けない市街の狩人が彼には負ける理由が、よく分かった。──あれでは正攻法では無理だ。

 

 何度も角を曲がり、路地を越え、橋に出た。この先は水路だ。暗渠、下水道とも言う。

 逃走路の宛てがなければ売らなかった勝負でもある。

 

 ──いいや。ほんのすこし、本心には嘘が混じった。

 

 背中に冷えた汗をかき、粘つく唾液を飲み込む。

 

 ──たとえ逃走路がなかったとしても同じことをしただろう。

 ──狩人が犠牲になることをどうしても許したくない。

 

 橋に手をかけて一思いに飛び越える。

 その後、鴉が続いて橋を飛び越えた。

 

 だが、鴉は板に膝を突くことになる。

 橋を飛び越え、地下に続く下水道まで何もないと思えたそこには、実は足場があったのだ。

 顔の見えないカインの兜でもよく分かる。──彼は、明らかな動揺を見せた。

 

 彼が銃を手に振り返った時には、同じ板に伏せていたシモンが握った縄を力強く引いていた。

 騎士が膝をついていた板が開き、足場を失った彼は暗渠に落ちていく。

 縄に掴まり落下を免れながら、シモンは言った。

 

「見てのとおり、この先、暗渠もとい汚水溜まりでね。住民や教会にとってのゴミ捨て場でもある」

 

 千景を手放した騎士の手甲が何かを求めるように宙を掻く。

 月光を弾いた鈍い煌めきが、妙に印象に残った。

 誰にも聞こえてはいないだろう。だが、言いたくなりシモンは続けた。

 

「アンタは知らんだろうが、近隣の住民にとって死体の悪臭問題とは実に切実でね。普段はこうして蓋をしてあるのさ」

 

 そして、これは一度だけ使える搦め手である。

 これで騎士が死ぬとは思わないが、運が良ければあり得る話だ。頼むから死んでくれ。そんな気分で見下ろした。

 

 シモンは縄を便りに橋の欄干によじ登ろうとひとまず重い弓剣を地面に投げた。

 

 その時だ。悪臭立ち上る汚水溜まりから何かが空気を切る音が聞こえた。

 ──いったい何が?

 目をこらした先には何も見つけられず、その正体は左手の痛みで知ることになった。

 

 鋭い痛みに思わず呻く。手の甲に突き刺さっていたのは、たっぷりと毒を含む歪んだメスだ。

 通常、銀製に輝くそれは黒く塗り潰されていた。白日の下で投げられても視認には苦労するだろう。まして下水へ繋がる暗闇から投擲された物であれば、視認は不可能だった。

 

(悪あがきにしては的確だ。つまり悪あがきではなかったということだな……!)

 

 騎士が落ちる先の暗渠は深い。打ち所が悪ければ死地になるのは必至。──だというのに彼は自らに迫る危機の回避よりも敵意を優先させた。その事実は、メスからは嫌というほどに感じられた。

 彼らの執念を甘く見ていたワケではない。だが、シモンにとって衝撃だった。

 

(よくも、まぁ、腕の肥えた鴉もいたものだ!)

 

 すぐさまメスを抜き、掴まっている綱を手放さないように右手で掴み直した。

 

「ぐゥっ、うッ!」

 

 この時、わずかに呻き声を上げたのが良くなかったのだろう。

 闇の中で炎が瞬いた。

 照らされたカインの兜が閃光で赤白に染まったのが、目眩のように歪んで見えた。

 反射的にシモンは不自由に身をよじった。 

 弾丸は直撃こそしなかったが、跳弾が左脚を掠めた。巻き付けている襤褸や包帯が弾け、皮膚が焼けたように痛んだ。

 

 追撃は無かった。

 やがて、市街の狩人が『流血鴉』と名を呼び恐れる狩人狩りが、汚水だまりに落下した音が聞こえた。

 市街の一般的な狩人であればここで罵声のひとつでも掛けるだろうが、そんなことを迂闊にしようものならば声を覚えられてどこまでも彼が追いかけてくるだろう。そんな恐怖を抱いた。

 

(アレは関わり合いにならない方がいい手合いだな……頭がおかしいんじゃないか)

 

 カインハーストの狩人にしては奇妙なほど執着的だ。

 しかも殺意は、偏執的で冷酷な気配がある。

 思い込みは現実を歪ませるが、事実を理解するために予想は必要だ。

 シモンの経験上、彼は頭のキレている狩人に見えた。

 

 つまり、まともではない。

 

 頭を狙った銀の矢が、千景の刃で弾かれることなど狩人として生きた時間のなかで一度もなかった。

 反応速度が異常だ。

 薬や洗脳で人間の限界を超えているのかもしれないが、それにしては狙いが正確すぎる。そして、状況判断も概ね適切だ。

 それでも普通であれば『長持ち』しないタイプの狩人だ。ならば歯牙にかける必要はないのだが現在のヤーナムは常が異常だ。死ぬまで待つ──そんな選択肢は存在しない世界になっている。

 

(カインハーストの穢れた女王が、まだ健在だという証明だな。あれこそ秘蔵っ子。『とっておき』というものかね)

 

 シモンは努めて音を殺し、橋に足をかけると震える手で何とか欄干を掴み、地上に投げた弓剣を拾った。

 血を流し続ける左手は腫れ始めている。この時点で最悪なのに左脚の銃創も嫌な予感のする熱を帯びていた。

 毒が回りきる前に隠れ、身を休める場所が必要だった。

 弓剣を背負い、彼は壁伝いに進み、やがて暗がりに消えていった。

 




夜警紀行あるいは理解ある犠牲者の後で

話しかけてきた黒服
 昨年まで彼らのそばにいて、もういなくなった同僚のことをうっすらと覚えている様子。完全に忘れるワケではないようです。不思議ですね。

シモンvs鴉
 レオーがクルックスと話している間の周囲の警戒をしていた鴉がシモンに気付いたのは、今日が月の出ている夜だったからです。有効射程内において銀の矢が光を反射したので気付きました。それはそれとしてヤーナムの狩人で最も遠くまで攻撃出来るシモンの完全有利から始まった遠距離戦闘を超近接戦闘まで持ち込んだのは彼の力量と言えるでしょう。病があろうと頭がおかしかろうと傑作的騎士は傑作だったようです。ところでその銃、違法改造して──何でもないです。
「愛せるなぁ~」とレオーはニコニコしそうですし、セラフィは後方後輩面でニコニコしそうです。
 ここはカインハースト。アットホームな職場です。

 クルックスが見ていた下水道の蓋は、市街にいるシモンも知っていました。普段、ヤーナムの屋根にいる鴉は気にしたことのない機構です。機転により窮地を脱したシモンに一本取られた格好。それはそうと自由落下中に追撃する執念を見せました。汚物臭に気付き、頭にきたのかもしれません。

市街でも目立つセラフィ
 レオーが心配したとおりほどではありませんが、あらぬ注目を受けている様子。女性狩人はいないワケではないんですが、まぁ、それにしても目立ちます。穢れた血で娼婦をしている女性とどこか似た顔立ちも目を引いたことでしょう。まして銃をあまり使わない狩人なので、それはそれは目立つことでしょう。──音が出る狩りを厭うなんて何を標的としているか。考えさせられてしまいます。


ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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月の香りと窶しの古狩人


セラフィの保存食
小さな瓶に詰められた塩蔵品。
大量の塩により腐敗を抑制しており、
長期保存が可能になっている。
カインハーストにおいて血に浸されることのない
稀少な食料でもある。



 

 胸が高鳴る。

 銃を握る左手を何度胸に添えたくなったか数えるのも煩わしい。

 獲物を追う感覚とは、人間の原始に近い歓びがあるのではないかとセラフィは思う。

 

 場所が場所であれば、スキップしつつ向かうところだが、この汚水溜まりではそうもいかない。

 

 腰のベルトに吊した携帯ランタンの火が足下を赤く照らした。

 セラフィが歩くのは、ヤーナム市街の地下に広がる下水道だった。

 かつて暗渠に繋がる地下空洞だったが、人の手が入らなくなって久しい。地上の生活に伴って発生する汚水が排水される場所となり、やがて教会が処分しきれなくなった獣の死体の遺棄所となったらしい。

 今も汚物や油が編み上げブーツを汚している。トンネルとなっている下水道の隅には、ありとあらゆる腐肉が流れ着く。人間の大人ほどもある巨体な鼠が群がり、そうして流れ着いた人や獣を食べている。

 セラフィは、薄い唇を湿らせて先を急いだ。

 

 クルックスは、セラフィにとって素晴らしい情報を持ち込んできた。

 教会の射手の情報だ。

 喉から手が出るほどに──なんて使い古された言葉を思わず内心で呟いてしまうほど──欲しかった情報だ。

 

 セラフィは興奮という精神状態になることが少なかった。慣れない熱に内心を焼かれている。秘密に迫っている感覚が、無限の高揚感をセラフィにもたらしていた。

 

 時折、足を止めて自分のものではない足音が聞こえないかどうか耳を澄ませた。下水を歩けばどうしても水音を立ててしまうからだ。

 だからこそ。

 常では考えられないほど迂闊な過ちをセラフィは冒していた。

 射手を追っているのは鴉だと知っていながら、いざ彼に出会ってしまった時のことなど考えもしなかったのだ。

 当然想定して然るべき危険を忘れさせるほど、初めての高揚はセラフィを夢中にさせていた。

 

(ちゃんと僕に尋問できるだろうか? ああ、もっとレオー様にそういうことを聞いておくんだったな)

 

 何度か梯子を登り、緩い坂道を上ると頭をぶつけそうな天井の低い場所へ来てしまった。

 しかし、遠くで聞いた足音はこちらの方向から聞こえていた。携帯ランタンを腰から外し、辺りを隅々まで確認する。天井の一部が光る。金属の光沢が見えた。金網だ。

 重い鉄格子を持ち上げると人が一人通れそうな空間が出来た。

 

 そこを抜けると壊れた船が置いてある場所に出た。

 大きな窓から月光が差し込み、暗がりの中にあるさまざまな廃棄物を照らし出す。

 

 船渠だ。

 

 大きく目を見開き、セラフィは一時眺めていた。

 船渠。ドック。その場所の存在は、四仔のなかでセラフィは十分に予想できたものだった。

 セラフィは知っている。レオーが寝物語に語ってくれたことだ。

 カインハーストの小さな工房での、とある夜。ケロイドの少ない彼の左の顔が優しく微笑む。そして、痛んだ大きな手がセラフィの頬をそっと撫でる。とろとろした心地よい眠気のなかで彼の声を聞いた。

 

 ──昔は、フネがあってな。

 ──舟か。船か。

 ──どちらでも同じものだが。

 ──恐らく、イマドキのフネじゃあない。

 ──漁に使うようなフネ。だから、きっと舟だ。

 ──小舟さね。

 ──でも作られたフネのなかには……。

 ──ご立派なマストがあるものもあったとか。

 ──……ああ、マストって言っても分からないか。

 ──帆柱と言ってな。

 ──風を受けて進むために帆のあるフネがあるのさ。

 ──俺? いやいや、俺の時分には、もうなかったな。

 

 その理由に、セラフィは大いに納得したものだった。

 

「だってヤーナムにあるのは湖だけなのに」

 

 見上げれば三階に相当するであろう足場が見える、大きな船渠だ。

 不相応だとセラフィは思う。

 この船渠では、まるで大海に繰り出すために必要な──レオーの言う『ご立派なマストがある』──大きな船を作れることだろう。

 セラフィは、足音のことも忘れて船渠を見て回った。

 破棄された舟は、全て小さい。大人が三人乗れば、それで一杯になってしまうであろう小型だ。そして壊されている。

 ちぐはぐだ。能力に見合わないものを作っている。

 材料が少なくなってしまい小型化したのか。それとも、この船渠が使われていた末期には、この小さな舟しか求められなくなっていたのだろうか。

 ──船渠ならば、人がいた工場ならば、どこかに資料がないだろうか。

 目であちこちを探す。

 その時、小石が転がる音が聞こえた。

 

「──ッ!」

 

 なぜ自分がここにいるのかを思い出しセラフィは銃を抜き、撃鉄を起こした。

 頭や心臓を一撃で射貫かれない限り、時間はある。そして鴉が追っていたのだ。クルックスは死んでいることを心配したが、生きているのなら彼は傷を負っているだろう。手足の一本や二本欠けていても何ら不思議はなかった。

 セラフィは、足音を立てながら歩いた。

 

「教会の射手、そこにいるのは分かっている! 手を挙げて出て来たまえ」

 

 上ずる声でセラフィは告げた。

 物陰の存在は、獣ではありえない慎重さで隠れているようだった。

 

「女王の名に誓い、僕は貴公を殺さない」

 

 セラフィは宣告した。

 そして、待った。

 待ち続けた。

 それでも、物陰から返事はなかった。

 足音を立てないように誰かが隠れる戸棚の裏を見た。

 射手はそこにいた。

 しかし。

 手足の怪我を見てセラフィは「なるほど」と一つ頷いた。

 返事ができる状態ではなかったようだ。

 

 

 

■ ■ ■ 

 

 

 

 何度かシモンの意識が浮上したとき。

 湿った腐臭に心底うんざりしたことを覚えている。

 だが、潮の香りがないことにまずは安心した。そして鐘の音も。

 死因に近しい存在には敏感になってしまっている。

 そんな自覚はあるが、自覚があるからと言ってやめられるものではない。

 しばらくしてシモンの意識が完全に覚醒したとき、チリチリと肌を温める火の気配がしたことに驚いた。

 

 身を起こすと身のそばに焚火があった。

 そばで火を見守り、シモンの眼前に銃を突きつけているヤーナムの狩装束に身を包んだ女性がいた。

 肌身離さず持っていたハズの弓剣は取り上げられているのか、携帯していなかった。

 シモンは両手を挙げようとして左手に巻かれた包帯に気付き、さすった。

 

「──言うのもあれだが。アンタ、拾う男の趣味が悪いな」

 

「拾われた自覚があるのは幸いだ。脅すまでもなく貴公は僕に従うしかないのだ」

 

 トリコーンを深く被ったその女性の顔は見えない。

 だが、きっとよく見知った顔だとシモンは分かっていた。

 

「──貴公、この顔を知っているか?」

 

 彼女は銃を下ろす。そしてトリコーンを外した。

 銀の長い髪を払い、真っ正面からシモンを見る。

 

 やはり、その顔は見知ったものだった。

 

 時計塔のマリア。

 まるで生き写しのようだ。

 だが、目の色だけは違う。

 マリアの色は、青や緑のような色だったと思う。

 彼女は鮮やかな琥珀色だ。焚火に照らされた瞳には宝石のごとき輝きがあった。

 だが真実、シモンが驚いたのは顔でも目でもなかった。

 ふわりと腐臭のなかで漂ったのは、月の香りだ。

 潮騒の臭いにさえ決して紛れることのなかった香り。

 今さら、たかが肉の腐臭のなかで間違えるハズがなかった。

 彼女は、シモンの探し人──医療教会の黒服ピグマリオンが消えてから探し続けていた月の香りをまとっていた。

 こくり。口の中で粘ついた唾液を飲み込んだ。

 

「なぜ俺がアンタの顔を知っていると思ったんだ?」

 

「貴公は古い人なのだろう」

 

 マリアの顔が古い存在だと彼女は知っているようだ。

 

「弓剣なんて古式な仕掛け武器を使う狩人を僕は知らなかった。僕は貴公の質問に答えた。貴公は僕の質問に答えたまえ。怪我を治したのは貴公を生かすためではない。僕が貴公を殺すためだ」

 

「…………」

 

 ここで、すこし考えてみよう。

「知らない」と答えた場合。彼女には「嘘をついた」と言われるだろう。今もあってないような信用を失うかもしれない。最悪、殺されるだろう。

「知っている」と答えた場合。彼女は情報を引き出そうとするだろう。信頼はできなくとも互いに信用はできる関係を構築できるかもしれない。

 現状どういうワケか彼女に対し、マリアの情報は交渉のカードに使える状態にある。

 月の香りの狩人について情報取引ができる、かも、しれない。考え続ければ、言葉は慎重になった。

 

「ああ、知っている。古い話だがね。──しかし、アンタの方が詳しいんじゃあないか? アンタ自身がマリアを知らなくとも、アンタにマリアを教えた人がいる。そいつが知っている。わざわざ俺に聞くまでもないだろう?」

 

 シモンは緊張しながら、それを悟られないようにわざとらしいほど飄々とした風に言った。

 ──さぁ、どう出る。

 突きつけられたのは銃口だった。

 

「貴公は、聞かれたことにだけ答えればいい」

 

「まぁまぁ。落ち着きたまえよ。……脅されて本当のことを話すと思うか?」

 

「ほう? 自分の命以外に見返りが必要とでも?」

 

 撃鉄はすでに起きている。引き金に添える指は、今にも本気で撃ちかねない気迫があった。

 危機的なのはシモンだが、一方で彼女も事情も察せられる。

 それだけ彼女は追い詰められているのだ。わざわざ敵から情報を得ようとするほどに。

 厚く巻いた包帯の下で、しばらく銃口と琥珀の瞳を見ていた。先に根負けしたのは、意外なことに彼女だった。

 

「……。殺す前に死んでは困る。血は入れたが、傷に障る。さっさと寝ることだ」

 

「俺の弓剣はどこだ? いや、射る気はない。手がアンタの先輩のせいでこれだからな。射てないって言うべきだが……」

 

「舟に置いてある。その辺だ」

 

「それは助かる」

 

 彼女は銃を置くと焚火の傍から棒を取り出した。

 見れば、塩で防腐加工した肉を木に串刺しにして焼いていたらしい。串となっている木は、舟の木材を失敬した物だろう。

 

「すこし焦げてしまったかな。でも食べられるハズだ。鼠の餌が好きだと言うのなら構わないけど」

 

「……アイツら人間でも獣でもお構いなしだろう。俺はそこまで悪食じゃない。もらおうか」

 

 ここしばらくは残飯をあさる生活をしていた。

 ヤーナムにおいて、肉は貴重品なのだ。

 串を受け取ると肉がジー、ジーと音を立てて油を滴らせていた。

 思い切り噛みつくと強い塩味のなかに──辛うじてだが──肉の味がした。

 臭いは腐臭のせいで最悪だった。

 

「しかし、肉は美味い。……アンタ、カインハーストの人間だろう。いいのか? 教会の俺にこんなことして」

 

「……カインハーストの人間はここにいない。僕は、僕個人としてここにいる」

 

「それは悪いことを聞いたな」

 

 返答を受けて、シモンは考える。

 多くの狩人は、組織や団体に属している。

 そこから外れた存在になることの心細さをシモンは知っている。しかし、そうせざるを得ない事情にも心当たりがあった。

 組織の仕組みに囚われていては見えないものを見るために外に出るのだ。

 やはり彼女のそばにマリアについて語る人物はいないようだ。

 

「名前を聞いていなかった。俺はシモン。アンタは?」

 

「知る必要はない。……マリアと呼べばいいだろう。顔も似ていることだ」

 

「教えたくないって? 気持ちは察する。だがマリアの話をするのにマリアと呼んでいたら紛らわしい。偽名でいい。呼び名がないとお互いが困るだろう」

 

「『シモン』は……偽名なのか?」

 

「本名だ。俺を知っている人は、皆そう呼ぶ。なら俺は『シモン』なんだろう。そういうものだろう。名前なんて」

 

「ならば僕はセラフィだ。セラフィ。ただのセラフィ。……今の僕は……確かにそうなんだ」

 

 セラフィ。

 口の中で何度か呟いた。

 マリアにセラフィ。

 名前の関連性を期待していたワケではなかったが、まったく違う音の響きを持つ名前だ。それを意外に思った。

 肉串を食べ終えたところでシモンは火のそばで身を横たえた。

 身を起こしているとセラフィが案じたように傷が痛むのだ。

 

「さて、俺達は互いに利のある取引できると思うんだが……どうかね?」

 

「そうかな。僕はこのまま貴方を拷問したって構わないのだけど?」

 

「そういう手間ばかりかかって益のないことはやめたまえよ。俺はマリアの情報を渡す。知りうる限りの情報だ。代わりにセラフィには、聞きたいことがある」

 

「カインハーストのこと? 僕が話すと思うのか?」

 

「いいや、違う。……なぁ、アンタ。夢を見る狩人だろう?」

 

 彼女は深くトリコーンを被り直した。

 

「へぇ。月の香りを知っているのか。分かる人がいるとは知っていたけれど貴方は分かる人なのだね。……やはり古狩人は侮れないようだ」

 

「夢を見る狩人がいるということは、今夜は獣狩りの夜なのか?」

 

「さぁ? 月は赤くなかったと思うけど。貴方は、夢について知りたいのか。それはなぜ?」

 

「答えてもいいが、それは取引に同意するってことだ。どうなんだ?」

 

「むっ……」

 

 彼女の瞳には、さまざまな感情が浮かぶ。

 今からでも暴力的な手段に出れば取引に応じる必要は無いと考えているのが手に取るように分かった。だが、すぐさま行為に移さないということは迷っているのだ。

 

「……マリアなら、どうするだろうか?」

 

「そもそも選ぶ羽目になっていないだろうな」

 

 それはそうだ。そんなことを思っているのだろう。肩が小さく上下する。静かに息を吐く様子が見えた。

 

「……。取引は検討する。何を聞かれるか。それによって応じられないこともある。我々は平等ではない。ならば取引だって不平等になるだろう」

 

 シモンは「質問の如何によっては応じる」という意味に受け取った。この回答は、後ろ向きな答えに聞こえる。だが、答える可能性がゼロではない以上はどんな条件が付いたとしてシモンもそれを十分として頷くしかなかった。

 シモンが頷いたことでセラフィもわずかに肩の力を抜いた。

 どちらにとっても最善の条件ではない。だが妥協は必要だった。

 

「貴公は……いいえ……貴方は、僕に何を求める?」

 

「……南区の医療教会の黒服にピグマリオンという男がいた。白い髪で顔色が悪い病み人だ。失踪して一年が経つ。月の香りを遺してな」

 

「残念だが僕は知らない。調べてはみるが期待はしないでほしい」

 

 きっぱりと断言されてしまい、シモンは口を閉ざした。

 だが、調査してくれると言う彼女の誠意は期待すべきものだろう。

 

「彼とは親しかったのか?」

 

「それは……そう、だな。きっと、彼が最後にまともな会話をしたのは俺だったと思う。善い奴だよ」

 

「きっと生きているだろう。遠くに行ってしまっただけだ」

 

「そうだといいがな……」

 

 会話を通してシモンは確信したことがある。

 今夜、あるいは、この異常事態において『月の香りの狩人』が複数存在するということだ。少なくとも二人存在する。まずピグマリオンと関係している人物、そして目の前の彼女だ。

 そもそも獣狩りの夜でもないのに月の香りの狩人がいることは異常事態だ。

 だが、時間が巻き戻っているなどという最大の異常がヤーナムに起きている以上、たかが月の香りの狩人が複数存在することは、おかしなものではないかもしれない。そもそも医療教会が把握していること──例えば『獣狩りの夜』には『月の香りの狩人』が一人現れる──等の慣例に則った常識が誤っているだけという可能性もある。

 最大の異常は、最大の疑問でもある。

 シモンは、ハッとした。

 

「ヤーナムの異常を……アンタは知っているんだな? 繰り返す夜のことを……終わらない獣狩りのことを……」

 

「ああ、知っている。一年前のことを覚えているということは、貴方もそうなのだな」

 

「なぜこんなことが起きているんだ……!?」

 

「黙秘する。未知でも既知でも僕には話せないことだ」

 

 シモンは身を起こそうとしたが「……分かった」と述べて引き下がった。

 彼女は自分の認識について述べるが、自分以外の誰かが関わる話では黙秘することにしたらしい。

 譲れない境界が分かれば、質問の仕方もある。次の質問を考えているとセラフィからの質問があった。

 

「マリアとは、誰?」

 

 この質問をするために彼女が緊張していることが分かった。 

 実のところ、シモンがマリアについて知っていることは多くない。

 切り分けた肉よりも薄く、しかし、できるだけ大きく見えるように情報を提示する必要があった。

 

「さすがにこのことは知っているとは思うが、カインハーストの人間だ。最も古い狩人──その頃は、狩人なんて名称も定かではなかったが──ともあれ、その一団に属する狩人だ。ただし、狩人であった時分は短いものだったが……」

 

「貴方とマリアとの関係は?」

 

「古い知人。それだけだ」

 

「貴方は医療教会の狩人だ。──なぜカインハーストの人間を知っている?」

 

「今しか知らなければ嘘と思われても仕方がない。土砂降りもかくやの関係だからな。そう悪くない仲の時もあった。瞬きの間、ごく小さな関係のなかにおいて、だが」

 

「……それはとても古い話?」

 

「ああ」

 

「いつの話だ」

 

「分からない。アンタには悪いが本当に分からない話だ。ただし、処刑隊が動くよりずっと前の話だ。それだけは知っている。ところで今こそ何年なんだ? 俺の記憶が定かならば……」

 

 十九世紀のある年を伝えると彼女は目を逸らした。

 火を整えるためのごく自然な仕草だったが、都合が悪いことを聞いたのだとシモンには分かった。

 

「黙秘する。未知でも既知でも僕の話すべきことではない」

 

「そうかい。また悪いことを聞いたな」

 

 今回の月の香りの狩人は、てっきり一年が繰り返される異変を解決するために狩りをしているのかと思っていたが、そういうワケではないらしい。

 ──ならば。

 一つの疑問からは複数の疑問が生まれる。

 

(獣狩りの夜を明かすでもなく存在する月の香りの狩人は、いったい何のためにいる?)

 

 獣狩りの夜において異邦の狩人を捕らえる上位者の存在は、医療教会にも認知されている。そして彼らは、何かの目的のために狩人に狩りをさせる。狩人は、その目的を達成させるまで解放されない。上位者にとって都合の良すぎる存在である月の香りの狩人は、上位者の傀儡でもある。

 だが、セラフィは月の香りの狩人にしては、ずいぶんと自由に振る舞っている。

 もしも、月の香りの狩人の狩りの目的が曖昧になっているのだとすれば、あらゆる前提が覆り、無秩序に陥っていることになる。少なくとも医療教会が積み上げてきた前例という知見が役に立たないことは確実だ。

 シモンは仮定に仮定を重ねた事態を考え直した。もし、仮定が全て真実だとすれば、と思考を働かせた。結果としてそれは深刻な頭痛を招いた。セラフィが焚火に木を足したの音に気付き、見上げた。

 

「ところで、今夜はどうしてここに?」

 

「俺を追ってきたアンタがそれを言うのか? そういえばそうだ。なぜここが分かった? 俺こそ聞きたいものだがね」

 

「僕は……ただ……市街の狩人に聞いただけだ」

 

「ほう。周囲に人の気配は特に無かったように思うがね。まあいい。……ここは風雨がしのげる。しかも板が脆くなっていて歩けば必ず音が出る。身を隠して休むにはちょうどいい場所だ。……昨年の試行錯誤で地下なら追手が来ないとも分かったからな」

 

「追手?」

 

「…………」

 

 シモンは考える。ここで「悪夢を探っているから刺客が俺を殺しにやって来るのだ」と言ってしまうのは簡単だ。

 これまでにシモンが開示したのは『失踪した黒服の知人の手がかりである月の香りの狩人を探している』という目的だけだ。その先にある本当の目的、『ヤーナムの悪夢を終わらせること』を話すには、互いに信用が無い。

 ただし。

 

(もしも、味方に出来たら……前進できる)

 

 かつて月の香りの狩人である青年と手を組んだことが思い出された。シモンは手引きし、彼は果たした。彼は何度かの死を繰り返した後に、とうとう時計塔のマリアを殺した。

 彼らの好奇と無知につけ込み、同じことをしようとしている。その行いは良心を針のように刺した。だが、それだけだ。

 

「話せないのならばそれでもいい。深くは聞かない。……夜が明ける。僕は帰らなければ。今度は、月のない日に会いたい。ここで。独りで来てほしい。僕も独りで来る」

 

「月のない日?」

 

 新月は、当分先だ。

 明日にでもまた会いたい。

 どうせ怪我で大して動けないのだ。

 そのことを迂遠に告げると彼女は腰に吊した輸血液の瓶を投げて寄越した。

 

「解毒はした。こうして血も渡した。死にはしないだろう。引き続き貴方を尋問したいが、僕は忙しい。休暇も時間切れだ」

 

「……カインハーストは福利厚生がちゃんとしているんだな」

 

「黙秘する。お互いに立場があるだろう。貴方が日頃何を探っているのかは知らないがヘマをしないことだ」

 

「アンタの先輩にすこし手加減しろと伝えてはくれないかね。だいたい狩人一人に騎士二人がかりはどうなんだ? あれでもカインハースト騎士道に反しないのか?」

 

「むっ。そんな卑怯なことはしない。二人がかりなど」

 

 去りかけたセラフィが振り返った。

 シモンは蹴飛ばされるのではないかと思ったが、彼女は不満そうな顔をするだけで銃も落葉も腰に下げたままだった。

 

「いつもはそうだが、今夜は違ったぞ。そのせいで流血鴉に喧嘩を売ってしまった。後悔しちゃいないがね」

 

「そんなハズは……。ん、どうせ暗い夜に見間違えたのだろう」

 

 セラフィは、そのまま船渠の闇の中へ消えてしまった。

 最後の最後でヘマをしてしまったかもな、とシモンは反省する。

 だが、試金石にはなる。

 

「……俺にもツキがまわってきたか。それとも、いよいよ破滅の前兆というものかな」

 

 医療教会初代教区長、ローレンス。

 彼の存命中、大いに囁かれた流言がある。

 

 ──カインハーストの女には近付くな。

 ──呪われている。碌なもんじゃない。

 

 事実、マリアに触れたローレンスの末路とは、知人だからこそ直視に耐えがたいものがあった。だが、全ては無責任な他人の騙った結果論。迷信だ。──しかし、それでも信じるものはいる。そして、狩人には、その迷信こそ必要なのだ。かつて獣血が右足から這い上がると恐れ、自ら右脚を切り落とした狩人が多くいたように。

 

 古狩人であればこそ、迷信は──たとえ頭から信じないまでも──知っておくべきだった。

 シモンは陰りの見えない炎の傍にじりじりと寄った。

 

 果たして。

 月のない日に彼女はやって来るだろうか。

 

 きっと来るだろう。

 時計塔の麗人は斬り捨てきれず、ついに敗れた。

 人の好奇心とは、際限がないものだ。

 




月の香りと窶しの古狩人

ヤーナムの不思議建築
 下水の下にある(ように見える)旧市街とか旧市街から現在の市街まで貫いて立っている(ように見える)建築とか、じっくり見てみるとかなりおかしなところがあるのでヤーナムの街並みは本当に面白いものです。──そうだ。ヤーナムに行こう。

船渠
 ガスコイン神父宅に行く途中に必ず通る、下水道(?)に繋がる船渠です。
 個人的な考察になるのですが、なぜノコギリ鉈がノコギリと鉈を合体させているのか気になっていたのです。ヤーナムでノコギリを使う場面はどこだろうと考えると木材の加工をするのに使っていたのではないか、と思い至り、今は船渠と関わりがあるのだろうかと今は考えています。あるいはヤーナムのご家庭DIYの結果かもしれません。武器としてのノコギリは、血肉を削り、出血を強いるのに便利な代物です。悪い血は出さないと(瀉血精神)
 海が無いのにマスト付きの立派な船を作るなんて不思議な話です。彼らはどこに行こうとしていたのでしょうか。答えはDLCの内容だったのかもしれません。漁村が出てきた時に船渠のことを思い出す人がいたならば、あるいは、船渠が出てきた時に海のことを連想する人がいたのならば、きっと、リアル啓蒙が増えたことでしょう。羨ましいことです(ビルゲンワース学徒並感想)

セラフィとシモンの交渉
 お互いにとってゼロよりマシの契約である以上、win-winの契約と言えそうです。とはいえ、シモンの方が情報を得る量は多いでしょう。このあたりは人間経験の違いかもしれません。少なくとも獣狩りを目的としない月の香りの狩人というイレギュラーを確信したようです。

レオーの寝物語
 現在のカインハーストでは狩り時間以外は3交代となっており、活動と睡眠時間を互いにズラして生活しているためレオーが起きている間にセラフィと鴉が休息を取る、というようなサイクルが確立されています。なかなか寝付けないセラフィのためにレオーは工房仕事を片手間に昔話を語ってくれているそうです。彼にとっては過ぎ去った栄華の日々。彼女にとっては遙か遠き未来の話。セラフィは鴉にもお話をせがんだことがありますが、文脈無視のマシンガントークをし始めたので寝るどころではなくなった経緯があります。──私が話しているのに寝るとは、いい身分だな?
 カインハーストの愉快な3人組+ときどき女王様の小話は魁!連盟並にたくさん作れるのですが、本筋とあまり関わらないのでカット・カット・カットです

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白い朝


クルックスの手紙(1)
クルックスからカインハーストに送られた手紙の一通。
趣のある茶封筒は仄かに古の学舎、ビルゲンワースの
香りと月の香りが混然としている。

かすれた文字には一人の男の名が読み取れる。
それはレオーであろうか。



 カインハーストの四季は、あってないようなものだ。

 夏だというのに外は吹雪き、湖の端は凍てつく。

 

 隣接する土地であるヘムウィックへ渡るための橋は、破壊されており誰も渡れない。対岸は常に深い霧に包まれ、セラフィは勿論、レオーでさえ対岸の森が見えたことがないと聞く。

 

(一歩前進だ。けれどクルックスには悪いことをしてしまったかな。今日のことを話して情報を共有しておこう。そうして、すこしずつ時計塔のマリアに近付いていく。分かるハズだ。僕にだって、きっと……)

 

 霧が風に流され凍てついた湖面が露わになった。

 ──氷を渡って向こうまで歩いて行けないだろうか。

 そんな思いで湖面を見ていると俄に氷を割る音が聞こえた。

 

「ん──な、に」

 

 音は、橋の真下から聞こえる。

 覗けば湖の中に何かがいた。

 やがて凍てついた氷を肘で割り、湖面から這い出てきた人物を見てセラフィは橋から身を乗り出して危うく落ちるところだった。

 

「鴉羽の騎士様、何をしていらっしゃるのか」

 

 彼が銀の兜を外すと大量の水が出てきた。

 セラフィは、恐怖しない性質だが人並みに驚くことはある。

 例えば、凍てついた湖で着衣水泳している人がいれば、当然驚く。

 橋を飛び降り、積雪の上で受け身を取ると彼のそばに寄った。

 

「なに……なに。な、何事ですか……?」

 

「急を要することだ。……まだ、すこし臭うか……」

 

「におい? どこを歩いていたのですか?」

 

「おす、いいや、下水道だ」

 

 恐らく「汚水溜まり」と言いかけたのだとセラフィは思った。

「……もし射手が逃げているならば、下水に逃げたかもしれない。正確には暗渠や下水……というか汚水溜まりなのだが……」とクルックスは言った。そして射手こと窶しのシモンは暗渠に近しい船渠にいた。ならば、彼を追っていた鴉もそこか更に下層である下水道や汚水溜まりにいたのだろう。

 間が悪ければ、彼と出くわしていたかもしれない。

 セラフィは、今さらながら自分の軽率さを恥じた。

 鴉は、水を吐き出しながら銀の手甲と足甲を外した。

 

「油断していたワケではなかったが今宵は──厳密には昨日の話だが──射手が上手だった。板に仕掛けがあり縄を引っ張ると板が開いて、お、下水道に落ちる仕組みだったようだ。まだ臭う気がする……」

 

 額に張りつく銀の髪を払い、鴉は苦々しい顔をした。

 鴉羽の装束は、水を含み普段より数倍膨らんで見えた。

 

「鴉羽の騎士様……寒くないのですか?」

 

 浅瀬の水をすくうと指に刺すような痛みがあった。それだけ寒いのだ。だが鴉は震えていなかった。

 

「私は寒さを感じない。今とて熱いほどだ」

 

「対岸から泳いできたのですか?」

 

「それは以前試して失敗した。そこに潜ったときの穴があるだろう」

 

「あ。本当だ」

 

「汚れを落とすために浸かっていただけだ」

 

「溺れていたのではないのですね。安心しました」

 

「……。鼻が麻痺している。臭いが分からん」

 

「だいたい汚れは落ちたように見えます。臭いも……大丈夫。あとで薬水に漬けておきましょう。貴方の大切な仕事着です。僕がお預かりしますね」

 

 セラフィは、濡れた鴉羽の装束を受け取った。

 鴉は、睫に触れた水を切ると立ち上がり、目を細めた。

 

「お前はこれまでどこにいたのか。便りも寄越さないとは。レオーが余計な首を切ることになった」

 

「ええ、反省しています。僕は夢中になるとどうにも周りのことを見落としてしまうようです。ご容赦を。今日は夢にいましたよ。それから下水道にもいました。クルックスが貴方の居場所を教えてくれたのです」

 

「……私はお前を見なかったが?」

 

 すこし考え込む目をして鴉は昨日の記憶を思い出しているようだ。

 

「すれ違いになってしまったようです。射手には会いましたけれど僕も殺し損ねました。けれど傷は深い。死ぬほどではありませんが、しばらく何も射ることのできない体でしょう。手と足。手の傷はメスのように見えましたが……ひょっとして鴉羽の騎士様が?」

 

「私に刃を向けたのだ。殺し尽くさねばなるまい。そして私が仕損じた。お前を咎めることもなし。……それにしても近頃は射手といい、獣皮の狩人といい、視界にチラチラと煩わしい。特に獣皮の狩人。殺しても殺しても……。あれは月の香りの狩人と似た仕組みだとレオーは言う」

 

「では、策を講じなければなりませんね。作戦会議が必要です。まずは帰りましょう。鴉羽の騎士様には休息が必要です」

 

「手甲と足甲を持て。……夜が明けた。私達の時間は終わりだ」

 

 気が塞いだ声で彼は言う。

 そのうち濡れた袖と裾をぞんざいにめくった後で千景と銃をそれぞれに握り、彼は素足のまま歩き出した。

 

「そうだ。貴方を抱えてみましょうか? 筋力には多少の自信があります」

 

「女に背負われるなど騎士の名折れだ。昨年のレオーは行動不能になった時点で直ちに死ぬべきだった」

 

「貴方はいつも心にもないことをおっしゃる。そんな貴方を僕は抱いたって構いませんよ」

 

「お前は血の遺志集めよりも湖を赤く濁す仕事がしたいらしい」

 

 セラフィは、鴉羽の装束を両手一杯に抱えて彼の隣を歩いた。

 

「僕なりに考えた冗談なのに鴉羽の騎士様は笑ってくださらない。きっとセンスが悪いのだろうな。……おや? 言葉が多いことが気になるのですね。今の僕は気分が良いのです。明るいカインハーストを実は気に入っていますから」

 

 夜明けの光が、カインハーストの廃城を白く照らした。

 いつもは厄介な白い塊も、この時ばかりは花に似て美しく輝く。

 セラフィはこの時間が好きだったが、鴉の曖昧な曇り顔は変わらなかった。

 

「夜明けか。どれもこれも何もかもが煩わしい。……ヤーナムに夜明けなど似合わない」

 

「女王様の夜明けを信じていないのですか? あるいは、お父様の夜明けを?」

 

「言葉に気を付けよ。眠気がなければお前を五等分に腑分けるところだ」

 

「でも、夜明けは要らないとはそういう意味ではないのですか」

 

「『要らない』とは言っていない。『似合わない』と言ったのだ。軽率に聞き違えるな」

 

 なおも言い募ろうとしたセラフィの見上げる先で鴉は、空を見上げていた。

 

「……レオーが夢見る夜明けなど、月の香りが漂う夜明けなど、私には相応しくない……」

 

「鴉羽の騎士様は、何がお望みなのですか? そうだ。僕は知りません。女王様のことは大切に思っていらっしゃるのに、けれど、それが貴方の全てではない」

 

「私を殺せたら教えてやる。力無き者が知を求めるべきではない」

 

「後で教えてくれるのならば、今教えるのも同じではないですか」

 

 鴉は呆れたようだ。小さく息を吐く。それは白い呼気になった。

 

「結果だけ得て何になる。──いいや、違うのだな。そうか。お前は過程を経て生まれていないから分からないのだな。最初から欠けているのだから、いつも正しき形を失っている」

 

「それは『時間をかけて物事を成す』という意味ですか? ええ、僕には少々忍耐が足りないのかもしれません。テルミの辛抱強さを見習うべきなのでしょうね」

 

「そうしろ。生き急いで良いことなどなかろう」

 

「遅くて良いことも世間では見当たらないように思います。何かありますか? 僕にはまだ分からない」

 

「──お前は慎重さを身につけるがいい。恐怖を感じないということは、学習しないという意味ではないだろう。愚かなことを言って私を失望させるな」

 

「鴉羽の騎士様がおっしゃることは、いつも僕には難しい。すこし。ええ、すこしだけ、ですけれど」

 

「易しい人生に何の意味があるものか。存分に苦しめ。過酷な運命だけがお前に相応しいのだ」

 

「頑張ります」

 

「レオーも応援している」

 

「僕は嬉しい。鴉羽の騎士様は? 応援して下さいますか? いえ、応援して下さるからといって僕が特別に頑張るとかそういうワケではありませんが──」

 

「お前がどこぞ赤いシミになろうが私の知るところではない」

 

「……貴方はいつもそうだ。心にもないことをおっしゃる。僕でなければ危うく気遣いの言葉を聞き逃してしまうところです。ご自分の言葉の拙さを分かっていらっしゃるのですか?」

 

 挑戦者となったセラフィが駆けだしたのは、鴉の抜刀より速かった。そのため命拾いした。

 

「お前が私に求めるのは教育であるらしい。月の香りに連なる者に対し、私は常に高き壁として在ろう。やはりレオーの見る目はアテにならん。私だけが教育者に向いている」

 

 まともな狩人であれば、背後から聞こえた声にゾッとする状況であったがセラフィは振り返らなかった。

 

「あ。しまった。今日の鴉羽の騎士様は軽装だ。逃げ切れない。しかし、今日の僕ならばやれる気がするな……!」

 

 鴉羽の装束を担ぎ、緊急避難所であるカインハーストの古工房を目指し、セラフィは雪を蹴り飛ばし全力で走った。

 長い目でみればいつもどおりの日常だ。

 

 汚水溜まりに落ちて、気落ちしていた鴉の注意を逸らすことに成功したので戦果は十分だ。彼は落ち込むとひどく長引くのだ。それに対してレオーはイライラするか、煙草を吸う量が増えて更に鴉を苛立たせることがある。悪循環だ。鴉の機嫌が『普通』であるに越したことは何もないのだ。

 

(いつもならば、そろそろ追いつかれるような。いや、逃げきれるか。まだ追いつかれていないということは加速に必要な『遺骨』の触媒たる水銀は使い切っているのだろう。ならば──!)

 

 勝機を見つけセラフィは笑った。

 そして逃げ切ったと思った矢先のことだ。血濡れた千景の投擲が迫りつつあることを知っていたとしても、やはり笑みを絶やすことはなかっただろう。

 人も獣も、悪夢の生物たちですら未踏の白い雪に鮮烈な紅が咲く。

 それでも。

 

「朝から若者は元気だな。おい、この色男。女の尻を追いかけるのは楽しいか? 楽しいよな~わかる~」

 

 腕と脇腹に負った傷を庇いながらレオーは、ようやく古工房の扉を開いた。

 間の悪いことに、ちょうどセラフィの死体が消える瞬間だった。

 喜びも束の間。毎度のことながら辟易もする。うんざりした顔で、やって来た鴉を出迎えた。

 姿を見るなり、彼は思わず「えっ」と声を漏らした。

 

「なんで、びちょ濡れなの? うわっ痴情のもつれで朝帰りとか最高にスキャンダラス……!」

 

「汚水溜まりに落ちたのだが?」

 

「あっそう大変だったな。でもせっかく帰ってきたセラフィをさっそく殺してもいい理由にはならないけどね?」

 

「教育の結果なのだが?」

 

「お前が教育を語るなんて本当に悪夢だよ。何を教育したつもりだ?」

 

 鴉が千景を拾い上げ振ると真っ赤な血が円弧を描いた。

 思案顔の彼は、黙っていると知的な青年に見える。そう見えるのは、この世界が狂っているからだろうとレオーは信じている。

 

「ふむ。命の儚さというものについて理解が深まったことだろう」

 

「儚い命にしているのはお前だけどね? おぉ、ヤーナムの終焉は近い。明日のカインハーストは夏の日差しで燦々だぜ」

 

「──ところでレオー様、この鍋を使ってもよろしいですか? 鴉羽の装束を薬水に漬けたいのですが」

 

 工房の中からセラフィが鍋を抱えて出てきた。

 もう夢から這い出てきたらしい。

 レオーは彼女の手から素早く鍋を取り上げた。

 

「セラフィ! 俺様の可愛い夜警ちゃん!」

 

「ただいま帰投しました。市街探索に夢中になってしまい、便りが疎かになってしまいました。お許しください。……あと、その鍋を使いたいのですが」

 

「ハハハ、俺は怒ってないぞ! 全っ然、怒ってないし心配もしていなかったからな! サボタージュとは生意気だ! くれぐれも自惚れるなよ! おかえり! そして鍋で洗濯するのはやめようね!」

 

 レオーはセラフィの手の届かないところに鍋を置いてから、セラフィを抱き上げた。

 

「人間らしい生活をしているのはガワだけだったのか? 曲がりなりにも人間の食べ物を作る鍋で洗濯しようと思うお前に俺はビックリだよ。用途が違うのだ。洗濯用の器は、ンムム? どこにやったかな。しばらく使っていなかったから奥の方に──というか、セラフィがやっちゃダメだろ。鴉羽の装束なら鴉に洗濯させろ。こういう男はな、甘やかすと付け上がるんだ。俺が言うのだ間違いないぞ」

 

 当の鴉は「私は常にカインハーストの最高傑作なのだが?」等とのたまっている。

 

「うーん。僕には先達が自分を正しく認識できていると思いますね」

 

「言い忘れてた。これも付け加えよう。あの手の人間の断末魔は聞くに堪えないぞ。もうそりゃ酷い死に様を晒すことになる。グロい方向にヤバいヤツな」

 

「でも鴉羽の騎士様はお体を冷やしています。それにレオー様は怪我人のようだ。僕が働くべきでしょう。……帰参が遅れてしまいご心配をおかけしました。申し訳ありません。薬水の入れ物を探すより傷の手当てを先にした方がよさそうですね」

 

 いつもよりセラフィの体に触れる力が弱い。

 それだけ弱っているのだろう。

 レオーは、傷を負った脇腹を庇うように触れた。

 工房の小屋に戻りながら、セラフィの頭を撫でた。

 

「あ、あとでな。そうそう。お前が帰ってきたということはクルックスに会ったのか?」

 

「ええ。僕にカインハーストに戻るように言いました。貴方が僕を心配していることも教えてくれました」

 

「そうか。ふむ。クルックスは、えー、俺について何か言っていたか?」

 

「?……いえ、特には……いつもどおり丁寧でしたよ」

 

「『いつもどおり』ではないだろう。……嫌われちゃったかな」

 

「嫌われるほど彼と親しくなったのですか?」

 

「なったとも。三日かけて仲良くなったが三分で関係をご破算にしてしまった。かなり丁寧にヤったからさほど苦しまなかったハズだが……そういう問題ではないな。絶対に嫌われちゃったよなぁ。今度会ったら『レオー様、嫌い!』とか言われちゃうんだ。残念だ。俺は結構あいつのこと好きだったのになぁ。やっぱり処刑隊は滅ぼさないとなぁ。それから横やり入れた連盟の東洋人の中身を湖にぶち撒いて、教会には今日から毎日火炎瓶を投げ込もうな」

 

 セラフィはレオーがベッドに座るのを手伝った。彼は珍しいことにしょぼくれていた。

 

「僕はレオー様のことを大切に思っているのに……レオー様はクルックスのことを気に掛けていらっしゃるのだ……」

 

「可愛い嫉妬をするものではない」

 

 レオーは、セラフィの顎に触れると眦に口付けた。

 

「ん……レオー様……そうして誤魔化すのですか……」

 

「心が歪めば好意も受け取れなくなる。嫉妬などやめることだ。クルックスがお前の『きょうだい』だから俺は気に掛けているのだ。そうむくれるな。可愛いぞ」

 

「僕は……可愛くなりたいワケではありません。……。クルックスからお手紙を預かってきました。このまま暖炉に投げようかと思っていましたが、僕は嫉妬などしていないことの証明にレオー様にちゃんとお渡しします。こちらです」

 

 セラフィは、レオーにクルックスからの手紙を渡した。

 レオーが熱心に手紙を読んでいる間、鴉がセラフィの視界を通り過ぎていく。彼は煩わしそうに濡れたシャツを脱いだ。

 同じ程の背丈にある学徒コッペリアに比べ、すらりとした体つきの鴉だが、服を脱げば均整のとれた筋肉が現れる。

 狩人の体とは、仕掛け武器を扱う右半身ばかり鍛えられるものだが、カインハーストには例外があるようだ。

 ランプと暖炉の薄い光に照らされた若い彼の肉体は、廃城のそこかしこに置かれたどの彫像より美しい生を漲らせている。引き締まった体躯はしなやかで敏捷だ。触れるとその体は熱く、常人には毒に等しい血が流れていることをセラフィは昨年の異教の祭日から知っている。

 

(カインハーストの最も優れた刃は、どこもかしこも僕とは違うのだ……)

 

 もしも、自分が男性ならば彼のようになれたのだろうか。

 そんな感想を抱きながら自らの腕を揉み、何となく裸体の背を眺めていたセラフィはレオーに目をふわりと塞がれた。

 

「鴉、作業卓に膝掛けがあるからそれを羽織っていろ。若い女の前で恥知らずな真似をするものではない。下着くらい履いて歩け。──セラフィ、お前にはまだ早い」

 

「でも……んっ……。いいえ、レオー様がおっしゃるならそうします……」

 

「いい子だ。努力して年並みの羞恥心を持とうな。クルックスの方が恥じらいあるのはオジサンどうかと思う。……しかし、クルックス……意外と綺麗な文字を書くのだな。このあたり狩人に似ている。……内容は……ハハハ、可愛いことを言う。いいや、不思議だ。なんだって狩人からあんな仔が出来たのか。実に愛せる。愛せるなぁ……」

 

 ──む。

 セラフィは口を尖らせてレオーを見上げた。

 

「それは、僕よりクルックスの方が優れているという意味ですか?」

 

 嫉妬するなと言われた矢先だが、焦りがつい口をついた。

 

「答えを急くな。まだ朝だぞ。答えを急いでは昼になる。ただ違うだけなのだ。それは必ずしも優劣とはならない。特に『きょうだい』と比べるのは、やーめーろ。お前に愛すべき者がいるとすればカインハーストに連なる我らと月の香りに連なる彼らだけだろう。彼らがお前を愛おしむように、お前も彼らを愛するといい」

 

「それでも悔しいのです。……あまり僕の前でクルックス達を褒めることをおっしゃらないでいただきたい」

 

「ほう。心弱いことを言う」

 

 レオーの長い指がセラフィの髪をすくい、彼女のほんのり赤らんだ耳に掛けた。

 

「僕は、ほんの少しも彼らを妬みたくないだけです。だからこそ……。いいえ。お好きに褒め遊ばれるがよろしい。その試練、僕は乗り越えて見せましょう」

 

「……俺の持論だが、女性はすこし心弱いところがあった方が可愛げがあるように思える。たまには先達を頼ることだ。俺は頼られたいぞ」

 

「考えておきます。いえ、可愛くなりたいワケではないのですが……」

 

 セラフィの体を抱き寄せたレオーが優しく背中を撫でた。

 そして。

 

「お前のそういうところは好ましい。愛している」

 

 耳元で囁くのでセラフィも頷いた。

 

「ええ。はい。……。僕もですよ、レオー様……レオー様……僕の愛する先達……。お父様は皆のお父様なので、僕を抱きしめてはくれませんが……でも、貴方は違う。貴方は……貴方は、僕を……愛してくれる……」

 

 レオーが手紙を放り投げるようにテーブルに置いた。

 その雑な仕草に感じた歓びを誤魔化すように彼の体を抱きしめた。

 幸福の時間というものは、短い。

 

「──ところで私は空腹なのだが?」

 

 暖炉の前で火に当たっていた鴉が、小屋のなかで話すにしては大きな声で言った。

 

「おう。床の埃か椅子の脚でも食ってろ!」

 

 レオーが火傷痕を歪めて怒鳴った。 

 怪我のせいか今日のレオーは怒りの沸点が低い。

 抱きしめた時に初めて気付いたのだが、今日の彼はとても体が熱く呼吸が浅い、汗が見える。

 鴉よりもレオーの方が重傷のようだった。

 それでも、セラフィはいつもどおりの対応をすることにした。

 

「レオー様、いまの言葉は騎士として不適切です。訂正を求めます」

 

「あぁー……食料庫から肉を持って来ているのでテキトーに煮込んで三人で食べようなー……」

 

「はい。僕が作りますね。でも怪我の確認をしてからの方がよいと思います」

 

「……血は入れた。『穢れ』のカレル文字も蠢いてはいない。そのうち治るだろうさ」

 

 彼がチラリと見た作業用のテーブルには、使い終えた注射器が数本転がっている。

 セラフィは、レオーの手を取りベッドに横になるように促した。

 

「無理はダメです。先達は僕に比べれば、ずっと脆いのだ。傷が塞がるまで動かないでください」

 

「いや、しかしな……」

 

「必要なことは僕がやる。貴方が僕を憂うように僕の憂いを貴方は理解してください。それが愛というものでしょう。貴方が教えてくれたことです」

 

「しかしね、冷凍塩肉の輪切りを俺は料理と呼びたくないんだよ。人類の叡智はカインハーストにおいて後退の兆しがある。──おい鴉、元気だろ。着衣水泳できるくらいだもんな? 働けよ。この先、お前の大好きな労働の時間だぞ」

 

「髪が乾くまで動きたくない。食事くらい仕込んでおけ。貴様の計画性の欠如は私の瑕疵ではないのだが?」

 

「殺せるほど愛せるな。簡単に言ってくれる。お前は市井の主婦を全て敵に回したぞ。……やってみれば分かるだろうが、料理とは奥深いものだ。そう一朝一夕にな──」

 

 レオーはくどくどと鴉に説教をしているが、鴉にとっては暖炉が音を立てる乾いた木のパチパチという音の方が重要であるように見えた。

 彼らを傍目にセラフィは食料を一時的に置いている戸棚から塩漬けにされた肉の塊を取り出した。

 

「まるで僕に料理の才能がないようにおっしゃる。ただの経験不足です。教えてくだされば、きっと上手にできる」

 

 調理ができるように作業テーブルの医療器具を片付け、まな板を設置した。

 指示を仰ごうと振り返ったとき、レオーは限界を迎えつつあった。セラフィが帰ってきて安心したことも一因だろう。彼は辛そうに閉じかけた目を開けた。

 

「あぁそうだな。表層を切り取って肉を均等に切ったら、水を沸騰させた鍋に入れて、香草を入れるんだ。ときどき灰汁を取るんだぞ」

 

「もう一度お願いします。何の何を何で何です?」

 

「……お前は本当に可愛い。月の愛し仔よ。だからこそ、俺は深く愛せるのだ……」

 

 とうとうレオーには限界が訪れてしまったらしい。寝てしまった。

 鴉が体を震わせた。

 先ほど氷水に浸かった彼は、いま暖炉の火に当たっているのだから当然、震えているのは寒さではなかった。

 

「鴉羽の騎士様、いま笑ってますね?」

 

「お前は肉ごと暖炉にぶち込まれたいらしい」

 

「絶対笑っていらっしゃるのに。貴方は、そうして僕に微笑んでくれないのだ」

 

 セラフィは、ナイフを弄びながら料理を始めた。

 三人のうち二人は食事に頓着しない性格であることは、カインハーストにとって相対的に幸福なことであったかもしれない。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 セラフィが、レオーの期待に応えるため調理に躍起になっている間。

 置き去りにされた手紙は、いま鴉の手にあった。

 

 

 敬愛なるレオー様へ

 先ほど、貴方の憎しみの一片を俺は理解しました。

 譲れぬものがある時に誰かを傷つける必要性を俺も知っているように思います。

 先のことがあれど、今も変わらず貴方は俺の大切な古狩人です。

 我ら連盟の『淀み』が貴方の憎悪のなかに虫を見出すことがないよう祈っています。

 甘き夜明けよ、貴方に在れ。

 

 

 鴉は、手紙が収められていた封筒のなかに二枚目の手紙を見つけた。

 レオーが自身の怪我とセラフィの帰還の喜びで見落としてしまった追伸だった。

 

 

 P.S.

 また学舎でお会いしましょう。

 貴方とのお話は、とても楽しかった。

 今度はセラフィも一緒にお茶会を囲めると嬉しい。

 冬に蜂蜜を送ります。

 古狩人へ親愛を込めて。クルックスより。

 

 

 追伸の最後の一行を指でなぞる。

 それから、鴉は封筒と二枚の手紙を暖炉に放った。

 ポッと黄色の焔になり、それは燃えていった。

 

「セラフィ」

 

「はい、鴉羽の騎士様。食事の監督をする気分になりましたか?」

 

「いいや、違う。必要なものは『お茶会』だ」

 

 セラフィは目の前の鍋を見つめた。

 自分でもどう調理していたのか詳細は定かではないが、鍋の中身は全体的に黒っぽく濁っていた。

 鍋と鴉を交互に見てから、それでもセラフィは微笑んだ。

 

「鴉羽の騎士様がご所望ならば、お茶会をしましょう。ええ、お茶会。『楽しいお茶会。素敵なお茶会』。テルミのお陰で僕にも覚えがあります。『きょうだい』のお茶会はとても楽しいものでした。貴方とのお茶会もきっと楽しいものになる」

 

 セラフィは空想する。

 カインハーストのお茶会とは何だろうか。

 金の杯を血を満たし、小指の骨を囓るものであったとしても、三人で卓を囲むのならばきっと充実したものになるだろう。

 楽しげな予感に胸が高鳴る。

 

 だからこそ。

 彼女はいつの間にか作業台の上から手紙がなくなっていることに気付かなかった。

 長い時間の経った後で彼女は手紙の存在を目で探したが、いざ探そうと手足を動く直前、先達の言葉を思い出し、やがて気にしなくなった。

 

 悪夢に近い位相に存在するカインハーストにおいて、手紙は常に『散逸する存在』だったからだ。

 




白い朝

行水
 セラフィの前では汚水溜まりとは言いたくない鴉。臭いと言われたくないのかもしれない。セラフィを直葬したらレオーの前で「落ちたのだが?」と頑張ったアピールをします。何にせよ処刑隊、滅ぶべし。

可愛くなりたいワケではないセラフィ
「可愛いは弱い」という連想があるセラフィ。可愛いテルミが弱いため連想を補強してしまっています。ならば逆は「美しいは強い」だろうか。美と力を尊べと躾けられているセラフィにとって体現する鴉は強い憧れでもある。格好良くて強い。狩人として他に何を求めることがあるだろうか。セラフィが後に質問したクルックスは迷うことなく「人格」と答えました。つい最近出会った古狩人のデュラは理解できないまでも素晴らしい人格者だとクルックスは悟ったからです。MT5(マジで敵対する5秒前)
 お父様には憧れないのか? お父様は、強いよりも『死に難い』とかで……強さの分類が違うし……。啓蒙消費ビームなんて狩人様の戦い方じゃない……。
(注意:Bloodborneには啓蒙消費ビームはありません。ただし最新作ELDENRINGには発狂ビームと掴みかかり発狂着火があります。あまりに癖に刺さりますね直撃です)

手紙
 クルックスが古狩人を労った手紙は、当の本人まで辿り着かなかったらしい。
 セラフィが直接手渡ししたのに届かないとか想定外すぎてクルックスにはもうどうしようもない案件でしょう。
 さて。ヤーナムにおける手紙(招待状)は、それによって思いもしない人物がやってくることを女王様などはよく知っていますが、クルックスはまだ知らないようです。知識が無いのは彼にとって不幸なことに繋がるかもしれません。
 鴉はレオーに言われていた「病み人ではない異邦人の善性に触れるがよい」という言葉を思い出したのでしょう。あるいは、他人のものを取り上げることが趣味なので「親愛なる」言葉の群れを見て、やる気スイッチが入ったのかもしれません。
ついでに脳内辞書の名前も修正しました。
(誤)クルッテル(正)クルックス

次話テルミの大冒険
30話『献身的な病み人』から始まる暗殺者の朝編(全4話)を読んでいると更に楽しめる内容になっています。
 登場人物の復習がてら是非お読みいただき、脳の瞳を保護してお待ちを……と心弱いことを言ってしまう筆者を赦して……赦して、くれ……。


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上層から見えるもの


ピグマリオンの手記(1)
医療教会の黒服、ピグマリオンの自書。
夢を悟り、夜明けを待ちわびる病み人の記憶と事実を書き記したもの。
なんら技巧を用いず、平易な言葉で綴られた物は、故に彼の心を語る物である。
──誰かがこれを見る時、私はもうこの世にいないでしょう。



 医療教会上層。

 東西南北に広がるヤーナム市街を眼下に見下ろす高所は、彼らを統括する医療教会、その高位の医療者達の住まいである。

 医療教会の二大会派のひとつ、聖歌隊。

 彼らの居住区も上層に存在し、一角には私設孤児院を抱えている。

 

 医療教会上層、孤児院。

 月の香りの狩人の仔、テルミがヤーナムでの時間を過ごす場所であり、聖歌隊にとっては後進の育成するヤーナム屈指の教育機関であり、そして最も重要な機能とは秘められた実験場でもある。

 

「──さぁ、子供たち。夜の歌の時間は終わりですよ。皆、寝室に行きなさい」

 

 聖歌隊が管轄する孤児院の院長を勤めているのは、老年にさしかかりつつある聖歌隊の男性である。

 聖歌隊服の一式に身を包み、また頭には代表的な服装の一つである目隠し帽子を被っている。

 優しげな院長に促され、小さな音楽室にいた数十人の子供は二列になって部屋を後にした。

 

 時刻は夜。二一時を回っていた。

 市街で発砲する音は、上層にも細く甲高い音で届く。

 

 一番後ろを歩くテルミは、通りがかった窓の向こうに銃声を聞いて足を止めた。

 その音は、特にも高音で特徴的な銃声である。カインハーストの騎士達が好んで使うエヴェリンの音だ。

 

(下は、忙しいこと)

 

 テルミは、ほんのすこしでも市街が見えないかと背伸びをした。

 

「おやおや、テルミ。市街に行きたいのですか?」

 

「いいえ、院長先生。ただ……煙が見えるものですから」

 

 背伸びしたテルミに見えたのは、一筋の煙だけだった。

 院長も窓を見て足を止めた。

 

「本当だ。煙が見えますね。見回りの黒服が獣除けのついでに暖を取っているのでしょう」

 

「ええ。でも院長先生。あの煙、位置が……? 市街のものかしら?」

 

 立ち上る煙は、遠近の感覚がつかみにくい。煙は、炎の上にまっすぐ立つように見えて風の影響をよく受ける。テルミの目には、市街より近く、上層の地面より低い場所で焚かれている煙に見えた。

 

「むむ? たしかに。谷底から上っているように見えますね。方角的には医療教会の工房付近でしょうか……?」

 

「あら。教会工房は市街のなかにあると思っておりました。遠いと不便でしょう。市街の端にあるのですね」

 

「ええ。時の教区長が『威圧するのはよくない』と市街からすこしだけ離れた谷間に塔を建てたのです。あの火薬庫達もそうですが工房というものをよく思わない民が多いのですよ。特に教会の工房には神の剣の権威があります。市民はそれを恐れているのでしょう。また、彼らは火薬を扱っています。単純に危ないですからね。現に火薬庫は火薬庫しましたし」

 

「そうなのですか。民の心というものはわかりませんね」

 

「ええ」

 

 窓を離れ歩き出したテルミは、院長に肩を触れられた。

 不快だ。

 テルミは、困り顔で院長を見上げた。

 

「……うーん、院長先生?」

 

「教会の工房について興味があるのだね? 特別な講習をしてあげようか」

 

「いえ、わたし」

 

 院長は腰を屈める。

 小さな体のテルミは自分の影が大人の影と重なり、すっかり輪郭が見えなくなってしまったのを見ていた。

 

「先日聖歌隊に迎い入れられた子達は、幸せに暮らしているよ」

 

 年相応の低い声で彼は言った。

 ヤーナムにおける搾取は、多くの場合、大人の形をしている。

 

「賢い君なら分かるだろう。君は聖歌隊になるべくして生まれてきた子だ。君のためを想って言っているんだよ。評価には特別な色を付けてあげたいんだ。冷たい診察台は嫌だろう?」

 

「…………」

 

 テルミは、顔が見られないことをいいことに視線を斜め上に飛ばして肩の力を抜いた。

 それを了承としたのか院長がニコニコと笑った。

 笑顔を消し去るためにテルミは白い法衣のポケットに入れていた杖を抜き、院長に突きつけた。

 

「なにを」

 

コンファンド 錯乱せよ

 

 彼の目は見えないが、ポカンと開いた口から「あ~」と間の抜けた声が漏れ出した。

 テルミは、するりと院長の手から逃れて彼の背中を押した。

 

「さぁ、院長先生。お部屋に行ってお休みになってくださいな。大人なのですからひとりで『おねんね』できるでしょう?」

 

「あぁ……そう、しよう……かなぁ……」

 

「そうしなさい。触らないで。いいえ、こんなことでわたしは穢れませんけれどね? 単純にお父様以外の大人の男性ってたいていが不快な存在ですから」

 

 テルミは、ふらふらした足取りで暗い廊下へ去って行く院長を見送った。

 そして向き合ったのは窓だ。

 

アロホモラ 開け

 

 両開きの窓は、呪文を受けてパッと開いた。

 窓枠につかまり、呼吸を整える。

 やがてテルミは夜の上層地区に飛びだした。

 

「アハッ。魔法って便利。ヤーナムには効き過ぎる毒だわ。だって誰も想像さえしていないのですから!」

 

 地上二階。

 身を丸めて斜面に落ちる。衝撃は逃がしたが、痛みはある。それに耐えきり、テルミは聖歌隊孤児院服にくっついた小枝を手で抓んで払い、立ち上がった。

 

「クルックスもセラフィも頑張っているみたいだし、わたしも頑張らなくてはいけませんね。それに今日は月が綺麗。ちょっとした冒険をするには、きっと相応しい日になるわ」

 

 テルミは夜の上層を歩き出す。

 手にした仕込み杖は、すっかり使い慣れた。供歩きの頼もしい相棒だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 テルミは金色の髪をたなびかせ、上層を歩いた。

 市街への行き方は知っていた。

 上層から市街へ行く道は一つしかないからだ。

 

 風の強い道を歩く。

 市街へ行く先の門には、二人の黒服が門番として立っていた。

 

 背中に、そろりと近寄り杖を向けた。

 

ペトリフィカス・トタルス 石になれ

 

 バッタリ倒れた隣の黒服に気を取られ、もうひとりの彼はテルミに気付かなかった。

 

「──お前、ど、どうした!?」

 

コンファンド 錯乱せよ

 

 白昼夢をみているのだろうか。ぽやっと顔になった黒服の彼の脇を通り過ぎ、テルミは市街への門に杖を向けた。あっさりと鍵が開いた石扉だが開くのは容易ではなかった。とても重い。

 

「ンンっ? んむむ……!? クルックスなら、こういう時あっさり開けちゃうんでしょうけど……わたしには……お、重ぃっ……で、でも、ここまで来て諦めたくは……ないわね……!」

 

 テルミの細腕は見かけより力量があるものだったが、それでも重いものは重いと感じる。

 格闘の末、数分。

 ようやく頭が通れる程度の間隙を作ることに成功し、テルミは扉をくぐり抜けた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 誰かがこれを見る時、私はもうこの世にいないでしょう。

 この手記は医療教会の黒、ピグマリオンが見聞した内容を記憶の限り、記録したものです。

 

 ここまで書いたところで、私は手記を取り上げられ、この文書を便宜上の上司に見られました。返却される時、彼は小馬鹿にしたように鼻を鳴らしました。もういっそ「言いたいことを言ってくれ」という気分になりましたが、それで辛辣かつ真っ当な批評がされることは目に見えていました。……便宜上の上司は、賢く知性的な御仁です。とてもとても口論で勝てるとは思えません。病人だからといって手加減はしてくれないようです。私はそれが嬉しくもあり、悲しくもあり。私は、まだ相応しい感情を表す言葉を見つけることができません。

 

 そんな彼からの言葉を受けて正気でいられるほど私は心穏やかな人間ではないため、死ぬほど恥ずかしい思いをして、このように文字が震えるだけで済みました。傷は浅いですよ、私。

 私は、生きてさえいれば大抵のことはどうでもいいのですから、こんなこと別に、気にしないのですが……ときおり生きているからこんな目にあうんだよなぁ、と思ってしまうこともあります……。私の生活は溜め息ばかりです。

 

 さて、私の近況から記録を始めましょう。

 

 月の香りの狩人は、約束したように週に一度の輸血液を必ず持って来てくれました。

 このお陰で誰の手も借りずに生活が出来ていると言って過言ではありません。これがなければ時が巡る悪夢の日を待たず、私はベッドで寝返りを打つこともままならず血を吐いては上司に迷惑をかけていたことでしょう。

 

 ああ、悪夢の日とは、私が勝手に命名しました。上司も共通認識を持ってくれていたので二人の間で使う単語として問題はないと思います。

 

 生活はできていますが私の体は、あまり良い具合ではありません。

 呼吸もできます。生活もできます。戦闘だって可能です。

 

 しかし、どうしてもたまらなく息が苦しいことがあります。

 このまま死んでしまうのではないか。そう思ってしまうほどに苦しい時間です。この時間の訪れだけが、今も昔も私の悩みの種です。

 

 輸血液の効果が薄くなる日は特に、月の香りの狩人の足音が待ち遠しく思えます。

 

 とはいえ、仕方のないことだと理解はしています。

 輸血の医療を受けなければ半年を待たず朽ちる体を──医療──この言葉に思うことは多々ありますが他の言葉も知りませんのでこのように表現します──で無理矢理に延命させているため、いよいよガタがきているのでしょう。

 

 無理を通せば道理が引っ込むとはよく言ったものです。

 

 本来、生きていないハズのものを生かしているのならばおかしくなって当然です。私の中身はもはや道理などあってないものに成り果てているのかもしれません。

 

 それでも生にすがる我が身を私は愛おしく、忌まわしく思っています。

 人間として歪んだ生き方には違いありません。

 それでも……私は、まだ生きていたいのです。

 

 ここまで書いたところで、ふと思いついたのですが。

 獣とは、ひょっとして、こうした病み人の成れの果ての姿なのかもしれません。

 体の中身が、まったく違うものに成り果ててしまう。その変化の先が獣である、とか。

 

 そのことを上司にそれとなく話してみたところ。

 

 彼の趣味である瀉血を勧められましたが、私の場合、体力を徒に消耗するだけなので申し訳ない気持ちでお断りしました。

 まぁ実のところ書き残すほど申し訳ないとはちっとも思っていないですが、断るときにそのような態度を取ったので記録として書いておきます。そのため未来の私、忘れずに「瀉血する体力があればな~」という顔をしてください。頼みましたよ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 これまで書いた文章を読み返し、ピグマリオンはペンを取りかけ、手記を閉じた。

 

「……ッ……ッ……」

 

 立て続けの咳が起こり、左手で口を押さえた。ひどく苦しい。

 

 彼が座っているのは、市街と上層の谷間にある捨てられた古工房の外だった。

 

 便宜上の上司である教会の暗殺者、ブラドーは屋内で仕事中だ。

 ここ一年ばかりピグマリオンの仕事とは、市街の地図を作成しつつ彼を守ることだった。

 もちろん、これまで訪れたことがある敵対者はいない。

 夜は深まりつつある。

 今日も捨てられた古工房に訪れる人はいないかもしれない。

 

 できる限りの深呼吸を心がけ、ピグマリオンは胸に手を当てた。口の中に広がる鉄の味は、しばしば彼を動揺させた。肺の震えるような呼吸を繰り返し、ただ時が過ぎるのを待った。

 

 ブラドーは工房のなかにいても構わないと言った。夏とはいえ夜風は冷える。お主の体には酷だろう、とも。だが、ピグマリオンは固辞した。肺患いは感染するものだ。万が一のことがあればピグマリオンは責任が取れないのだ。そのため食事や睡眠以外のほとんどの時間を彼は工房の軒下に置いた椅子で過ごしていた。

 

 今日も市街以外は比較的穏やかな日で終わるのだろう。

 錫の鎖を手繰り、懐中時計を確認する。時刻は二十三時。

 

「日の出まで、もうすこし……もうすこしだ……」

 

 明日になれば月の香りの狩人が、輸血液を持って来てくれるだろう。

 それを拝領すれば、この体の軋むような痛みともしばしの別れができる。

 背もたれに寄りかかりピグマリオンは、ぼんやりと月を見た。

 

 血の抜けた青白い月だ。

 

 ピグマリオンは、古い記憶を辿る。

 彼は多くの狩人と同じく昨年まで二〇〇年以上、市街を彷徨っていた。

 毎年、概ね同じ行動をして、同じ結果を招き、同じことを感じていた。そのことに疑問を抱くことなく生活していた。疑問を抱く智慧がなかったからだ。

 しかし、この古工房に至り頭の中で何かが炸裂し知が蕩け、結びつく感覚を得てピグマリオンは我が身の置かれた現状を理解した。

 

 すなわちヤーナムが陥っている、まさしく悪夢の世界を識った。

 

 時間は進んでいる。だが一年経てば、進んだ分が戻る。そして、真新しい見慣れた一年が『また』はじまる。

 

 この繰り返される時間に月の香りの狩人がどのような意味を見出しているのか。ピグマリオンには理解が出来ない。ブラドーもまだ理解が出来ていないのだろう。しかし、ブラドーは都合が良いと感じているのかもしれない。少なくとも医療教会のお偉方に重大な問題として密告するつもりはないようだ。

 

 都合が良いと感じているのは、ブラドーだけではない。

 ピグマリオンもそう思っている。

 認めなければならない心情には気付いていた。

 

 時間が進まないということは、死ぬことがないということだ。

 こうして息苦しく苦しむことはある。それでも死ぬことはない。未来の生が確実に保証されているという点で、現在のヤーナムは「それでも生きたい」と願うピグマリオンにとって都合が良すぎるものだ。

 

 だからこそ、不安にもなる。

 

 すでに自分の体が『まとも』ではないように世界が、街がもはや『まとも』ではない。重篤な事態であると言える。

 

 今後のヤーナムはどうなるのだろう。

 ヤーナムにしては狂ったように穏やかな時間がこれからも続いていくのか。それとも、ある日を境にパッタリ途切れてしまうのだろうか。

 

 繰り返した時間の先、血の医療の果てを見たいと願っているピグマリオンだが体が持つかどうかは相変わらず分の悪い賭けだ。

 

 再び咳がこみ上げ、ピグマリオンは身を丸めた。

 呼吸は細く、喉の奥でヒュゥヒュゥと虚ろに鳴った。

 

 いつ終わるとも分からない咳を吐き出す。

 そんな彼には、ふと思うことがあった。

 

(……私は、どこで死んだのだろう……)

 

 ピグマリオンは、おかしな事態になる以前の出来事を思い出そうと眉を寄せた。

 

 彼の最も古い記憶にある月は、青白い月ではなかった。しかし、旧市街の浄化作戦を知る古狩人が言う『赤い月』を見た記憶もない。ということは赤い月が訪れたヤーナムの末期を見ることなく自分は死んでしまったのだろうか。それとも思い出すと正気ではいられないため我知らず理性が蓋をしているのだろうか。

 

 ピグマリオンにとっては、遙か未来の話。

 そして。

 月の香りの狩人にとっては、過去の話だ。

 

 全てを記憶することができない彼には辿れる記憶にも限りがある。考え続けていると頭がおかしくなりそうだった。ピグマリオンは思考を放棄した。

 

 やがて咳が弱まり、ふぅふぅ、と息を整える。

 椅子に座り直し、時計を確認する。たった三分も経っていない。

 

「今日は、やけに長い夜だな……」

 

 ところで。

 月の香りの狩人が巡った夜がそうであったように。

 格別に長いと感じる夜には、特別な出会いがあることを彼は知らなかった。

 

 自分の咳が治まったあとは、上層から吹き下ろす風の音が聞こえてきた。風向きが変われば、市街から銃声が聞こえる。ほんの一年前、自分はそこにいたのだ。思い出に浸り、彼は肩を落とした。

 だからこそ、古びた蝶番の音が聞こえた時、彼は耳鳴りだと思ったのだ。

 

 この捨てられた古工房までの道のりは遠い。

 聖堂街の外れにひっそりと佇むオドン教会の閉ざされた扉を越え、医療教会の工房塔を降りてようやく辿りつく。

 

 金具の軋みが耳鳴りではなく、いよいよ足音が聞こえる頃。

 ピグマリオンは、椅子の背もたれから身を起こした。

 月の香りの狩人の来訪にしては足音が小さすぎる。彼は救いの輸血液を持ってきてくれる狩人の足音をよく知っていた。聞き間違えるハズがない。

 

 ──いったい誰が。どんな人物が現れるだろうか。

 ピグマリオンは自分でも不思議なほど浮ついた気分で待った。墓所ともなっている敷地のゆるやかな斜面に影が見えた。しかし警戒を知る右手は、さらりと椅子の隣に置いてあった銀の剣の柄を握った。現れる者が誰であっても斬らなければならない。

 

 果たして。

 弾む足取りで、彼女は現れた。

 月の光を受け、金色にきらきら光る髪は軽やかに揺れ、白い法衣から伸びる肢体は細いが健康そのものという具合に生気が漲っている。

 初めて家の外に出た子猫もかくやにあちこち巡らせていた頭は、とうとう古工房を見つけた。そして、工房の扉の前に立ち塞がるピグマリオンを。

 凍った湖の色をした瞳と目が合った。

 

 

 

 ──天使が現れた。

 

 

 

 脳に甘い痺れが奔りピグマリオンは直感した。しかし、病んでいる我が身の勘ほどアテにならないものを彼は知っていた。すぐさま思い直そうとしたが、誤った認識を正すには現実は刺激的すぎた。

 

 翼もなければ、光の輪も浮かべていない。

 

 見間違えた。

 けれど、少女の姿には違いない。

 

 我に返ったピグマリオンは、受けてしまった衝撃を忘れようと努力した。

 

(ただの小娘だ)

 

 どうして、この少女を天からの恩寵と見間違えてしまったのだろうか。彼女の見目が整っているだけなのにひどく狼狽してしまった。ただ目が合っただけなのに。

 理由をさまざま考えた。──今日はこれまでと同じ夜だと思っていた。違うことが起きてしまったから動揺してしまったのだろう。そうに違いない。

 

(いけない。いけない。……私は善き信徒なのだから。そうあるべきなのだから)

 

 恩寵を見間違えるとは、神に対する背信である。

 そして、善き信徒を惑わすものならば総じて悪しきものだ。

 

(ああ、そう。そうです)

 

 そもそも、医療教会が隠しているこの古工房を訪れた時点で疑う余地のない悪しきものに違いないのだ。捨てられ、忘れられるべき秘密に近付く者であるならば、暗殺者の敵でもある。すなわち医療教会の敵だ。

 

(──あぁ、でも、惜しい……)

 

 美しい娘だ。

 ピグマリオンがどんなに真面目に生きていても、たとえ健康な肉体を持っていたとしても、まともな世界で彼女と出会うことはないだろう。遠目で見かけることさえありえない出来事に違いない。

 

 ここで手折るには惜しい少女だ。いつか彼女が大人になったら、きっと……。

 

 空想だけがピグマリオンに許されていた。

 妄想には歯止めがかかりそうになかったが、自分を傷つけるだけだったのでそのうち彼は止めてしまった。どこまで空想を広げたとして、病んだ身の上では決して混じり合うことのない存在であると気付いてしまったからだ。

 

 ピグマリオンは銀の剣を握った。

 思いがけず受けた衝撃は、容易く反転した。

 

「ああ……いけない……いけない女……信徒を誑かす女は総じて悪なのですから……私を誑かす貴女は、そう、魔女なのだ!」

 

 右手に握る銀の剣は、月光を鋭く弾いた。

 光の反射は少女の作り物めいた微笑を照らした。

 

「あら? わたしの正体をご存じなのね?」

 

「えっ。なんて。えっ……?」

 

 ピグマリオンは狼狽え、剣の切っ先が震えた。

 

「う、嘘だ、そんなっ、嘘だ嘘だ! 嘘ッ、嘘だ嘘だ! 魔女なんて嘘だ! 天使の如き貴女が、聖女の如き貴女が、あぁぁぁ!? 違う、違う、違う! 悪魔め、悪魔め! 悪魔憑きの小娘が──私は騙されないぞ!」

 

「……? 魔法族がいるかと思ったのだけどただの頭がおかしい黒服のようね。あぁ、この話が通じない感覚。ヤーナムに帰って来たって実感があります。思考が一周半ほどして平和ですね……」

 

 少女が握る仕込み杖が、カシャリと音を立てて変形し無数の鋭い刃を見せた。

 

「わたし、この先に何があるのか知りたいのだけど。ひょっとして通してもらえないかしら?」

 

「いいえ。いいえ。許しませんし、許されませんし、許されることもないでしょう。医療教会の名の下、我が不退転の剣は神の敵を討ち滅ぼします。だから、私があなたを──」

 

「あらそう。では押し通ることにしましょう」

 

 ピグマリオンは鈍く光る銃口を見て、微かに抱いていた「できれば逃げて欲しい」という願いが永遠に叶わなくなったことを知った。

 少女の声は、どんな歌声よりも高らかにピグマリオンを魅了した。しかも笑顔が素敵だった。

 

「──さぁ、月に祈りなさい!」

 

 楽しげな宣戦布告。

 だがピグマリオンは、彼女の言葉が耳に届かないほど夢中になっていた。

 




上層から見えるもの

テルミの大冒険編
 本話を含め5話編成でお送りいたします。

搾取
 月の香りの狩人の仔という特殊な存在であっても子供として存在する彼らも例外ではありません。むしろ死に難いため搾取向きかもしれません。もっともたかが一人の人生を使い潰したとしてヤーナムをどうにかすることは出来ないどころか、上位者を使い潰しても危ういのではないかということは、上位者人生を驀進している狩人が証明中です。
 鴉のように個人的な趣味と実利のために使うのが賢い搾取方法なのかもしれません。ろくな大人がいないのはヤーナムの内外に関わりがないようです。

ピグマリオンの手記
 仰々しいことを書いていますが、要するに彼の日記です。
 市街の地図を書き終えた彼はブラドーの護衛をしていますが、まずまともな狩人はやってこないので暇をしていました。病気のせいで他人と触れあう機会も少ないので突然現れた美少女に頭が沸騰してしまったようです。

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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病み人の信仰


テルミの仕込み杖
狩人が獣狩りに用いる、工房の「仕掛け武器」の1つ。
刃を仕込んだ硬質の杖は、そのままで十分に武器として機能するが仕掛けにより刃は分かれ、まるで鞭のように振るうこともできる。
テルミのお気に入りの武器の1つ。
様式の美しさを重んじるあり方はトップハットに見られるように血に抗う狩人の意志を示すものだ。



 

 ピグマリオンは、恋を知らない。

 

 多くの病み人がそうであるようにヤーナムに来てからというもの生きるのに必死で、それ以外の目的を持てなかった。余暇の少なさが原因の一つである。また、ピグマリオンの病にも原因があった。感染する病を持っている彼は人との接触を極力避けて生活していた。

 

 もし、誰かに感染させてしまえば存在を穢してしまうように感じられることだろう。後悔と同時に歪な感情を抱えることになるのは容易に想像できる。だからこそ、ピグマリオンは誰のことも欲しいと思ったことはなかった。病み人にとってはそれは当然で善い行いであると思っていた。今でさえ何ら行動を起こさなかったことについて、記憶にある限り惜しいと思ったことはない。『間違いを冒さないこと』は、絶対的な善行だからだ。

 

 手を伸ばせば触れることができる温もりは貴重である。

 ピグマリオンにとって最も身近な温もりとは、手触りのない朝の光だけだ。

 手のひらで感じるじわりとした感触。それは彼の唯一心安らぐ小さな歓びだった。

 

 だが、たった今。

 ヤーナムに来て以来、健康のほかに初めて欲しいと思えるものができた。

 

 喉が乾く衝動に突き動かされるまま言葉を交わし触れて、存在を確かめたいと思えた。

 彼女と自分は、髪も目も声も、何もかもが違う。

 

 至極普通のことが、とても素晴らしいことのように思えた。

 

 夜の工房での出会いからしばらく、少女に向ける感情の正体がつかめなかった。

 白手袋ごと左手を引き裂かれながら、彼女が振るう仕込み杖の刃を掴む。

 ──超近距離。

 互いに生死を分かつ間合いだ。

 

「は、ッ……!?」

 

 意表を突かれたらしい少女が、小さな声を漏らす。

 左手に握る教会の連装銃の銃口が正眼を捉えるまで、とりかえしのつかない一瞬。

 ピグマリオンの握る銀の剣は、少女の薄い胸を貫いた。

 骨肉を貫き、返り血を浴びたピグマリオンは柄を手放し、両手で少女の体を受け止めた。

 温かく、柔らかい。

 血の匂いまで他人とは違う香りに感じた。

 

 ようやく彼は自分の動揺が何であったのかを悟った。

 自分でも思いがけないほど熱心な執着の根源。

 

 目を奪われる理由は。

 いわゆる、きっと。

 

 ただの恋と呼ばれるものだ。

 

 それに気づいたときには手遅れなあたり、本当にヤーナムという土地は病み人を深く愛しているらしい。

 左手には未だ仕込み杖の刃が絡みついていた。

 剣が刺さったまま力の抜けた肢体は、しなやかだ。

 

 ピグマリオンは、我をなくした。

 ──治療をしなければならない。

 ──まだこんなに温かいのだから。

 ──きっと助かるだろう。

 理性はそう考える。

 また、工房の中にこもっているブラドーへ指示を仰がなければならないだろう。

 しかし、ピグマリオンは動けなかった。

 

「あぁぁぁ……!」

 

 肩で浅い息をして少女の顔を見つめた。

 

 夢のようだった。 

 欲しかったものが、手の中にある。

 これさえあれば何も惜しくはない。幸せで幸せで、もう、たまらないのだ。

 

 これまで得たことのない感動で動けなくなってしまった。

 

 丁寧に手入れされた細い金糸。痛みで細められた蒼い瞳は、潤み、一筋の涙をこぼした。

 ピグマリオンは、仕込み杖の刃でボロボロになった左手を伸ばした。

 

「……あら……」

 

 額に汗を浮かべた少女は、近づけた左手を見て吐息と一緒に一言を溢した。

 そして、痛みを堪える蒼い瞳と目が合う。

 瞳の奥。引き攣った笑いを浮かべている自分に気付き、ピグマリオンは少女から手を離した。

 

 自分が何をして、どう感じていたのか。

 俯瞰できてしまう程度に半端な理性を保っていたことは、彼にとって不幸な出来事だった。

 

 手を放したので彼女の頭が地面に落ちた。

 それは石畳にぶつかって鈍い音を立てた。

 その拍子に、血が出たのかもしれない。

 湿った音が聞こえた。

 

 立ち上がり、後ずさる。

 

 石畳に転がる少女を直視することはできなかった。彼女の影でさえ彼の心を乱した。小柄な肢体に十字が突き刺さっている様子が目に焼き付いた。

 彼は辺りを見回して誰もいないことを確認する。息苦しくなった胸を抑えて彼は呟いた。

 

「ち、ちが、違う……違う……! 俺は、私は、私は、違う、違うんです……! ただ命令を……! 貴女がここに来たから……でも、違う……温かくて……欲しくなって……あっあっあっ──」

 

 ピグマリオンは叫んだ。自分が恐かった。

 細い体を貫いた感覚がまざまざと右手に蘇る。

 

(どんな獣より柔らかで、素晴らしい感触だった……)

 

 刺した瞬間、失血と共に痙攣していた。

 味わうように柄まで深々と体に突き刺した。

 痛みに大きく見開かれた瞳が、天上を仰いでいた。

 ぎらつく月と星々を映す蒼い瞳は、夜空を写し取ったように輝いていた。

 死にゆく姿は、顔は、目は、あまりに美しかった。

 

 記憶は鮮明だ。

 思い出しては、身が歓喜と恐怖で震えた。

 

 ──若く、健康で、価値あるものが貶められていく感覚に自分は酔っていたのだ。

 

 懺悔する勇気はない。口にすることもないだろう。ブラドーにだって言う心算はない。

 だから彼は少女から離れたところで跪き無言で祈っていた。与えた傷は深い。治療も追いつかないだろう。ただ正視には耐えきれず、彼は確実に死んだと思える時間まで祈り続けていた。

 

 そうして、どれほど経っただろう。

 

 ずっとこうしてはいられない。

 ピグマリオンは、眼鏡を外し熱い目を拭ってから立ち上がった。

 誰も知らない罪と最初で最後の恋を手向けとして、せめて丁重に葬りたい。

 これまでの死者と同じだ。葬送の段取りを整えているうちに心の整理も付くだろう。

 しかし、勇気を出して振り返った先。

 少女の姿はどこにもなかった。

 

「は?」

 

 夜風が吹いた。

 血の匂いのしない風だった。

 

 手放した剣が、石畳に転がっていた。

 剣に刺さっていたハズの少女の姿は消えていた。

 どれほど辺りを見回そうと存在しない。

 まるで。

 

「……夢でも見ていたのか……? 私は……」

 

 ──病気が悪化したのだろうか。

 ──それとも、とうとう頭までおかしくなってしまったのだろうか。

 

 どちらにしても最悪な出来事である。

 彼は、現実を正しく受け止めきれなかった。

 次第に頭が冷え、目が回るような感覚に囚われて息苦しくなり、しゃがみ込んだ。

 肺が震えて咳が止まらず、喉を鳴らした。

 墓碑に縋り、口を押さえる。ひときわ大きく咳をした。墓碑に赤く飛び散った血を見て、ピグマリオンは口元を触れた。

 白い手袋には、血が付いている。舌の奥から錆びた鉄の味わいが広がっていた。

 

(あぁ、これは、罰なのだ)

 

 ピグマリオンは咳でひどく苦しみながら、ぼんやり考えた。

 遅すぎた後悔が、ようやく感情に追いつきピグマリオンは涙を流した。

 

(あの子を殺すくらいならば、私が死ねばよかったのだ……)

 

 どうやってここまで辿り着いたのかわからないが、隠された古工房を見出せる能力を持っていたと言える。自力で辿り着いた希有な存在でもあっただろう。未来ある子供を殺めたことで『子殺し』という言葉がピグマリオンに重くのしかかった。

 

 ──これでも、まだ生きたいと思っている自分は、なんと浅ましいのだろう。

 

 治まらない咳に彼は背を丸めた。

 咳が苦しいのはいつものことだが、今日は一段と苦しい。心臓が不規則に鳴っているせいだ。

 これが罰ならば、このまま死んでしまうのだろうか。

 それも悪くないと今日は思えた。しかし、彼女の死体が見当たらないことだけが気がかりだ。

 

(いったいなぜ──)

 

 苦しみにもがくピグマリオンの背中を小さな手が擦った。

 

「あら。あなたは病み人だったのね。苦しいのね? 痛いのね?」

 

 咳が止まった。

 息も止まった。

 ピグマリオンは、強ばる首を動かして背中を撫で続ける人を見た。

 

「は……」

 

「止まったのかしら? 大丈夫? 口に血が付いていますよ。うん? あなた……呼吸がおかしいですね? 肺を病んでいるのかしら?」

 

 そこには、殺したハズの少女が立っていた。

 彼は真っ先に幽霊という言葉を頭に思い浮かべ、あまりの質感に目を疑った。

 振り返ったピグマリオンの口を真っ白なシルクのハンカチーフで拭った後で彼女は優しげに微笑んだ。

 

「綺麗になったわ。でも、すこしだけ……うーん。ちょっと血の気が引いていますが、男前ですよ」

 

 少女の作り物めいた指先がピグマリオンの汗に湿る頬をペチペチと叩いた。

 誰にもこんな言葉をかけられたことのない彼は、驚くより先に戸惑った。

 

「あ。ありがとう、ございます。ではなくて。死んだハズでは? いえ、私が殺しましたよね? いまここで、さっき──」

 

「……。さあ? 夢でもご覧になっていたのではなくて?」

 

「いえ、確かに、私は、あなたを……」

 

 ピグマリオンは、自分の左手を見た。

 ジリジリと熱を持っていた左手は、先ほど仕込み杖で切り裂かれ、傷ついたままだ。

 ようやく気付いた傷だけが、夢ではなかったことを証明していた。

 だが、同時に矛盾も指摘するものだった。

 

(たしかに──殺したのに──なぜ)

 

 足下に落としたままの剣を拾い上げる。

 彼女も距離を取り、脇に抱えていたルドウイークの聖剣を向けた。

 だがピグマリオンは彼女ほど早く剣を向ける気分にはなれなかった。

 

「待って、待って、ください。なぜ、あなたは、どうしてっ、ここに」

 

「話す義理は今のところありませんので覚悟しなさい。さぁ、月に──あ、いえ。これはさっき言いましたね、はい。──死ね!」

 

 簡潔明瞭な殺意に応じ、ピグマリオンも剣を振るった。

 日頃、心身を病ませる咳はこういう時に限ってピタリと止む。

 そして死期は命のやり取りをする戦闘のなかでこそ、彼の勘を研ぎ澄ませた。

 

 ところで狩人同士の戦闘は、足を止めた方が負けである。

 射線上に数秒いれば動きを止めるには十二分な銃弾がお見舞いされるからである。

 互いに距離を取ったとき、腰のベルトに差していた教会の連装銃を抜いた。

 雨水よりマシな程度しかないピグマリオンの血質だが、二口の銃の威力は細い手足に穴を開けるには十分だ。

 

(できれば脚を狙い、動きを止めて事情を──)

 

 甘い目論見は、二発の弾丸であっけなく崩れた。

 古工房を囲むように存在する庭、そのなかには大小さまざまな墓碑が乱立している。少女が放った弾丸は、そのうちの一つに当たった。射線が変わった跳弾がピグマリオンの肩をかすめたからだ。

 

「ぐぅ……!」

 

 痛みに怯み、そして花壇の段差につまずき倒れ込んだ。

 それを好機と見た少女が目を輝かせて大きく踏み出す。

 あと一歩で剣の間合いという距離でピグマリオンは咄嗟に掴んだ花壇の土を投げつけた。

 まさか当たるまい。半ば自棄の抵抗は──思いのほか効果的だった。

 

「わ、わあっ!? あッ!? むぁ! め、目に──」

 

 一歩、二歩と後退る少女にピグマリオンは素早く立ち上がると体当たりした。

 傷口は熱を持っているが、戦闘の興奮が全てを塗りつぶしていた。

 好機を逃さず、首を掴んで押し倒す。銃を握る左手を掴んだ。

 

「ん、くぅっ──」

 

「武器を、す、捨てなさいっ! 捨てろ! さもなくば、この首、へし折るぞ!」

 

 右手に握る剣は、鞘と一体化した大剣の変形状態だ。肉薄してしまえば攻撃する手段はない。

 涙を流す蒼い瞳が、ギュッと細められた。

 

「む、むむ、ま、負けませんから──」

 

「負けだ、諦めろ!」

 

 ピグマリオンは、片手で少女の首を絞めた。そして全身の体重をかけて首を圧迫する。

 それでも抵抗は止まず、何度か腹を蹴り上げられながら必死の格闘の末、少女はついに銃を手放した。

 

「ようやく諦めて……?」

 

 銃を手放した黒い長手袋をしばらく見つめていた彼は、我に返る。

 少女は、右手に握っていた剣もいつの間にか手放していた。

 それからようやく彼は、ずっと首を絞めていたことを思い出した。

 

「あぁッ!?」

 

 武器を取り上げるのに夢中になって殺しかけるとは、あまりに恐ろしい出来事だった。最初から殺そうと思って挑む事とは、心の持ちようが違う。

 

「……っ……」

 

 かける声もない。

 肩をつかみ、必死で揺すった。

 据わらない首のせいで頭がぐらぐらと揺れるが、小さく呼気が漏れた。

 

「よかった。呼吸は止まっていないが……」

 

 今度は、温かい。

 生きているから、温かいままだ。

 ピグマリオンは、再び辺りを見回した。やはり誰もいない。

 白い長手袋の紐を解き、震える手で少女の体に触れた。

 

「違う……違う……身分を示す何かを持っているかもしれないので……だから……」

 

 誰に聞かせるワケでもない釈明をブツブツと呟き、ピグマリオンは見慣れない隊服を探った。少女の体の思いがけない細さと柔らかさにハッとする。そうしてときおり生唾を飲みこみながら──ではあったが。

 

 ポケットに、めぼしいものはなかった。

 これ以上は服を裂く必要があるらしい。脚のベルトからナイフを取り出したピグマリオンは、さて、どこから切ったものかとしばし迷う。この手の作業は初めてのことだった。少女の上で手を迷わせていると首に光るものを見つけた。

 何かと思いボタンを外して確認してみると華奢な鎖がついたブローチが現れた。

 夜空を写し取ったかのような暗い瞳を模したブローチだ。

 

「なんだ? なんだろうか。何か。これ嫌な予感が……」

 

 彼女が使っていた武器を見る。

 一度目が夢ではないとするならば、仕込み杖だ。医療教会関係者に多い武装である。

 二度目は、ルドウイークの聖剣だ。医療教会関係者以外が持っているのを見たことがない。それもそのはず。医療教会のなかでも限られた選良と言うべき『輝く剣の狩人証』を持つものだけが所持を許されている武装だ。

 

「あんなものよく振り回せるものだ。いや、そうではなくて……そうではなくて……」

 

 ピグマリオンはウンウンと唸りながら、状況の整理を試みた。

 所持品だけを見れば、医療教会の狩人のなかでも上位の狩人が持つものだ。

 そして、星空の瞳のブローチ。

 長い夜のどこかで聞いた話が思い出せそうだ。

 しかし、ピグマリオンは地面に転がる少女を見た。

 彼女が医療教会と関わりがあるとは思えない。病み人の相手も碌にしない医療教会が、少女と関わることがあるのだろうか。

 結局、ピグマリオンは結論を保留した。放棄したとも言える。どんな理由であれ、この少女と医療教会に関わりがあるとは思いたくなかったのだ。自らの所属する組織である医療教会だが、善い存在であるとは口が裂けても言えない。

 

「ん……うぅ……」

 

 少女の呻き声にビクリと震えた。

 ピグマリオンは、咄嗟に再び首を絞めるか花壇の煉瓦で殴るつけるか迷った。

 だが、殺すのはできるだけ避けたい気分になっている。

 慎重にブローチを外すと布に包んでピグマリオンは自分のポケットに入れた。そして、古工房の裏から縄を持って来た。

 

「…………」

 

 手を縛るべきだが、彼はすこし迷ってから両足を縛り上げた。

 少女がまったく抵抗できない状態になってしまったら、自分が道徳的な過ちを犯してしまいそうだった。

 そもそも──殺す必要はないのだ。

 ブラドーに指示を仰ぐまでに彼女が動けなければいい。

 自分の行動が十分に説明可能な行動であることを再確認し、ピグマリオンは少女が持っていた銀の剣を彼女から見えない墓石の裏に隠した。

 

「…………」

 

 近くの墓碑に腰かけ、ようやく余裕を得たピグマリオンは、落ち着いて少女を観察した。

 

(可憐だ)

 

 穢れた地上のなかでも外の神さえ見放したヤーナム。そこに遣わされた不幸な天使だろうか。

 外の信仰のことを聞きかじったことがあるピグマリオンは、空想した。

 

 若者が少ないヤーナムにも少女はいる。

 真っ先に思い浮かんだのは、ガスコイン神父の娘だ。大柄な神父の足下で子猫のようにチョロチョロと動き回る少女のことを風下の遠目で微笑ましく思ったことがある。あの少女に抱く感情とは、それだけだった。

 

 だから、だから。

 この少女だけが特別なのだ。

 悪い土地であるヤーナムで生まれた存在には思えない。

 

(きっと私の祈りが、どこかに届いたのだろう。想像していたどんな女性より素晴らしい造形だ。声はどんな小鳥より可愛らしいものだ。病んだ背を撫でてくれた。優しい……優しい人だ……)

 

 触れてしまえば彼女を汚すように感じられてピグマリオンは、近くでソワソワすることしかできなかった。

 

 ところで。

 月の香りの狩人は、ピグマリオンを概ね『まとも』な人間と見なした。

 実際のところ、それは正しい。

 

 普段の彼は、ヤーナム的常識人でありながらまともで、それゆえに半年の寿命をさらに短くする善良さを持っている。

 だが、彼はどうしようもなく病み人だった。

 肺を患う肉体は、半年がまともでいられる限界だ。

 血の医療は、たしかに彼を救い、延命させ続けているが、本来迎える寿命である半年を超えた時点で彼の思考力は自覚ないまま低下する。

 まともで善良だと彼だけは信じているが、傍目から見れば常軌を逸した思考に陥っていることがしばしばあった。病んだ彼の狂気は、意見を口にすることが少ないため気付かれていないだけであり、今のところ実害が起きていないだけでもある。

 

 そして、今も。

 病み人の空想とは恐ろしいものがある。

 時に現実よりも現実らしく振る舞うのだ。

 謎の少女について考えれば考えるほど、彼は何者かが自分に賜わしたものなのだと考えるようになった。

 それは極めて幸福な想像だった。

 

(拝領。拝領だ。きっと、これが、これこそが拝領なのだ!)

 

 大切にしなければならない。

 寒くはないだろうか。ああ、天使も風邪を引くのだろうか?

 黒いケープを外そうとした時だ。

 少女の色よい唇が、小さく開いた。

 

「んっ。いけないわ……わたし、また死んでしまって……あら?」

 

 ぼんやりした目が辺りを見回し、脚を動かそうとした少女が拘束に気付いた。

 外そう、と一瞬だけ彼女の手が動いた。

 それを制するため、ピグマリオンは銀の剣を少女の首に添えた。

 

「どこからいらしたのですか?」

 

「あなた、さっきの教会の黒? ……ええ、ちょっと上から」

 

「上? それはつまり天上から?」

 

「天上? 医療教会の上層よ?」

 

「? ああ、分かりました! 最初に降りたのが上層ということですね!」

 

 声は、やはり素晴らしい。

 蒼い瞳は、キラキラと輝いている。

 

「あなた、あなた……貴女の、お、お名前は? お名前は、あるのでしょうか?」

 

 いくつか案を考えているピグマリオンは気の利いた言葉を考えていたが、少女が口を開く方が早かった。

 

「わたしは、テルミ。あの工房のなかに何があるか気になっているテルミよ」

 

「テルミ? テルミ……テルミ……。素敵なお名前ですね。美しい響きです」

 

「ありがとう。気に入っているの。お父様が付けてくれたのよ」

 

「お、お父様?」

 

 ピグマリオンの幸福な空想に罅が入った。

 ──天使に父がいるとすれば、それは何だろうか。何だっただろうか。

 思考の綻びを自覚することは、ピグマリオンにとって苦痛を伴うことだった。

 

「気にしないでください。それより、あなたのお名前は? わたしが名乗ったのですから、あなたのお名前も聞きたいの。教えてくれますか?」

 

「私? ……ああ、私の名前?」

 

 ピグマリオンは、自分自身を不思議に思った。

 この少女に魅入られて仕方がないが、彼女に対し自分のことを知って欲しいとは思ったことがなかったからだ。それを自覚した後も、すぐに口を開くことが出来ない。気が乗らないのだ。誰かに自分を覚えて欲しいと今も願っているというのに矛盾した心境である。

 そのことに、ひどく戸惑った。

 

「名前……私は……」

 

「言えないのね。ええ、構いませんよ。あなたが言いたくなったら聞かせてもらいます。……さて。工房の守衛さん? これからどうするおつもりかしら? ずっとこのまま、ではないでしょう?」

 

「朝になれば分かります。それまでは、このままです。抵抗はよしていただきたい。……貴女の手足を切り落としたくはありません。大人しくしていただけますね?」

 

「はーい。仕方がないですからね。でも、お花の上にいるのは落ち着かないわ。木に吊しておくとかして欲しいわ。狩人ってそういうものよね」

 

「その望みを叶えることはできません。貴女を殺めたくはない」

 

 ピグマリオンは真摯に伝えたが、テルミは微笑を浮かべるだけだった。

 

「──さっきは嬉しそうに殺したでしょう? どうして気が変わったの?」

 

 ここ最近は都合のよいことを考え続ける思考をもってして、その言葉を聞き間違いとは認識できなかった。

 

「…………」

 

 ピグマリオンは、表情を無くした。

 自分の呼吸が分からなくなってしまった。

 

「さっき、わたしの胸を貫いたでしょう? 良い手際だったわ。市街で獣を狩っていた黒服は実戦経験が違うわね。だって、とっても痛かったもの」

 

 手足が遠くにあるように感じられた。もちろん錯覚である。

 左手の傷を負ったことが証明だ。何も夢でもなかった。

 喉の奥が乾く。彼女を殺めた自分は嬉しそうに見えていただろうか。

 

「ううん。怒っていないわ。大丈夫よ、こうして生きているのだから。そう自分を責めないでね」

 

 テルミは柔らかく微笑み、赦しを与えた。

 だからこそ。

 彼は耐えきれなかった。

 

「殺した。殺しました。たしかに、この手で……でも、でも、どうして、生きているのですか?」

 

「フフッ。もう一度、殺してみれば分かるかもしれませんね。さぁ、どうぞ?」

 

 テルミは身を捧げるように両手を広げた。

 ピグマリオンは剣を握り、迷った。

 見逃したが彼女は一度、蘇ったのだから、二度もあるだろうか。

 奇跡は、再び少女の身の上に起こるだろうか。

 

 ──しかし、もし奇跡が起こるとして、起きたとして、死から蘇った者を試すのは善い行いだろうか。神を試すことは赦されるだろうか? 以前にどこかで聞いたことがある。死んで生き返った男の信仰の話だ。あれは、いったいいつ聞いたのだったか。夜の中、それとも、輸血を受ける前? あるいは、あるいは……。

 考え続けていたピグマリオンは、あるとき切っ先にチラつくテルミの顔を見た。

 

「ヒッ!」

 

「……わたしを前に考え事かしら。ずいぶん余裕ですね? 狩人ならば獲物が死ぬまで目を離さないものでしょう。それとも貴方は狩人ではないのかしら?」

 

「狩人ですよ。まだ、私は……」

 

「あらそう? わたしには、早めにベッドで休むべき病み人に見えますけれどね」

 

 テルミが、いつの間に持っていたのだろう木の棒を向けた。

 取り上げようと手を伸ばした先、木の棒が光を放った。

 

エクスペリアームス 武器よ去れ

 

 ピグマリオンが構えていた銀の剣は、生きた魚もかくやという躍動を見せて彼の手の中から遙か後方に飛んでいった。

 

「はぁーっ!?」

 

 ピグマリオンは、自分の手と白銀の弧を描いて庭園のどこかに落ちた剣を交互に見た。そして、剣の落ちた先へ走り出した。

 その足下に杖が向けられた。

 

グリセオ 滑れ

 

 革靴で踏みしめる石畳が、突然、油が撒かれたように摩擦力が皆無の状態に変化した。ピグマリオンが靴裏の妙な感触に気付いた時には、視界に夜空が広がっていた。

 後頭部を強かに打ち付け、彼はほんの数秒、前後不覚に陥った。

 

「ぐあ、ぐぅ……! 頭が……! ……ああ、剣、私の剣は……!?」

 

 彼が苦痛により一時の正気を取り戻したとき、喉に差し向けられた刃に気付いた。

 

「はぁい。ここです」

 

 形勢逆転。

 簡潔明瞭な言葉が頭に浮かぶ。

 ピグマリオンは、思わず先ほどまでテルミを捕らえていた場所を見た。

 何もない。

 

「大人しくしてくださる? 実は黒服を殺すのは初めてなの。うまくできるかどうか心配ですし……放って置いても死にそうな病み人を殺すのは良心が咎めますから。ああ、縛られたいのなら別ですけどね?」

 

 ピグマリオンは毒々しい光を放つ視界で、月光を受けるテルミを見つめるしかなかった。

 もし、剣がこの手にあったとして、それを向けることはできなかっただろう。

 

「貴女は……いったい……何者なのですか」

 

 殺したハズの存在が、目の前にいる。

 縛ったハズの存在が、微笑んでいる。

 

 現実を否定する事実の連続に、彼は耐えきれなくなっていたからだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「それを説明するには二〇〇年以上経過がある話なので時間がかかってしまうわ。わたしがあそこの工房の中身を見てからでも構わないでしょう」

 

 黒服の両手をしっかり縛ってから、テルミは告げた。

 血色の悪い黒服の男は、そこで初めてテルミがここまで来た理由を思い出したようだ。

 途端に慌てて彼は道を遮った。

 

「ダメです! お願いです。帰ってください。お願いします。お願いします……。覗かないでください。暴かないでください。秘密を暴いて善いことなど何もないのですから……!」

 

「中には何があるのかしら?」

 

 テルミは黒服の胸に剣を食い込ませた。切っ先をほんの数センチ肉に埋める。痛みを教えるには十分のようで彼は素早く身を引いた。

 

「あぅッ痛い……! い、痛いですが……でも、本当に、何も、何も、ありませんから……」

 

「守衛を置いているのに何も守っていないワケがないでしょう。さぁ、守衛。わたしの先を歩きなさいな」

 

「わ、私に、何をさせようと? 盾にもなりませんよ……!」

 

「守衛さんには、あの扉を開けてもらおうと思って。弾よけにはなるでしょう?」

 

「ええええ……?」

 

 黒服は、色の薄い瞳を大きく見開いた。

 それからブツブツと「扉を開ける? 私が……私が」と不明瞭なことを言いだした。それから次第にガタガタと身を震わせ始めた。

 

「さっさと歩いてくださいね。背中に七つ星が欲しいのかしら」

 

「お、お、お考え直しを……! 美しいひと、どうか……どうか……!」

 

「わたしに口答えは許しません。時間稼ぎかしら? 早く歩けと言っているのよ、黒」

 

 彼の背中をテルミは剣で突いた。

 傷は浅いが、痛みに怯えて彼は歩き出した。

 

「本当にお考え直しを……あの……あの……」

 

 彼はチラチラと振り返り、再考を促した。

 もちろんテルミは斟酌しなかった。むしろ興味がわいた。

 

「貴方が恐いと思っている人がいるのね。男性? 女性? ああ、男性なのね。貴方より背は高いかしら? 低いかしら? 高いのね。へえ」

 

「ひぃッ!?」

 

 黒服は、顔を引き攣らせた。

 テルミも笑い返した。

 

「『人の心が読めるのか?』、『知っているはずがない!』、『考えていることが読まれている!?』。ええ、そう。わたしには恵まれない才ばかり溢れているわ。これもそのひとつ。人の顔を見ると何が考えているかわかってしまうの。そう怯えた顔をしないで下さいね? うっかり手が滑ってしまうわ。死ぬのが恐いのなら自分が何をすればよいのか。わかりますね?」

 

「そんなっ……ありえないっ……! アッ!」

 

「わたしが『歩け』と言っているのが聞こえないのかしら。頭まで病んでいるの? 仕方がありませんね。病み人を殺すのは気が引けるけれど」

 

「歩きます歩きます!」

 

 工房の小屋に至る、ゆるやかな階段。

 彼が反逆を企てるのは分かっていた。当然の反応でもある。彼は死ぬのを恐がっているが、それと等しく工房の小屋にいる何者かを恐れているのだ。

 階段をのぼりきる最後の一歩だけ重心が傾いた。

 

「……ッ!」

 

 恐怖に駆られた行動にしては、殺すにも止めるにも中途半端な抵抗だった。

 不自由に伸ばされた手をかわし、彼の側頭目がけて銃把で殴りつけた。渾身の一撃は、黒服の重い体を階段に転がした。

 

「はぁ。弾よけにもなりませんね」

 

 さて。

 テルミは気を取り直して古工房の扉に近付いた。

 古工房の中には、一人の男がいることが分かっている。

 扉をソッと開けるか、思い切って蹴破る勢いで開くか。あるいは、神秘の秘技で先手を取るという手段もある。

 

 テルミは、やや考えて懐から青白く光る寄生虫を取り出したが、しまい込んだ。もし、この先にいるのが父たる月の香りの狩人の知人であったら彼の立場を悪くさせかねないと思ったからだ。黒の守衛はどうせ代えのきく黒なので大した問題にはならない。

 

(今のわたしは医療教会の聖歌隊の孤児という立場ではなく、月の香りの狩人の仔としてヤーナム探索をしているのだから!)

 

 テルミはノックをすることにした。

 古工房は、夢の中とほとんど同じものに見えた。

 ところどころ違うのは、工房の守衛ともうひとりの人物が生活しているからだろう。

 ヤーナムにしては使用感の少ない食器。それから。

 

「獣の匂い……?」

 

 守衛は最後の最後まで中の人物に対して、ひどく怯えていた。自死を選ぶ勇気はないが中の人物を裏切ることもできなかった。

 工房のなかにいる誰か。獣の匂い。しかし、残滓のようなものだろう。獣がいるにしては静かすぎる。

 開けるとカーテンの隙間から幾筋かの月光が差し込んでいた。

 椅子には獣がいた。

 咄嗟に銃を向けるが、それは獣の白い毛皮であることに気付いた。

 

「か、皮……? 毛皮? 何かしら……? ──きゃッ!?」

 

 一歩だけ踏み出す。

 それが誤りだった。

 開けた扉の裏の闇、そこに潜む気配にテルミはようやく気付いた。

 

 振り返った先にいたのは、暗い瞳の男だった。

 テーブルの先の毛皮に向けた銃を反転させるのも剣を向けるのも遅すぎた。

 男の長い脚がテルミの腹を蹴り上げる。

 壁に置かれた戸棚に激突して頭を打ち付けたテルミは痛みで怯んだ。

 

(だめだめ! 仕切り直さないと──)

 

 相手は分かった。出方も分かった。

 ならば、今後はしくじりはしない。

 テルミは左手の銃の撃鉄を起こすと自分の首に当てた。

 夢への逃避を企てるテルミの耳に男の声が届いた。

 

「月の香り……」

 

「えっ……」

 

 ふたりは、しばし見つめ合った。

 男は、クッと歯噛みをした。

 

「そう。そうか。仔はマリアひとつではないということか。月の香りの狩人も余計な種を播いたものだ」

 

「えっ!? なに。だれ。どうしてお父様のこと……月の香りを……?」

 

「──表の男、殺してはおらぬだろうな」

 

 彼の興味はもう他に移ったようだ。

 誰よりも人の心の機微に聡いテルミは敵意が無いことが分かった。

 

「ええと。ど、どうかしら……? 力加減とかできないし……テキトーにやっちゃったものだから」

 

 男が踵を鳴らした。

 それは早く行けと催促していた。

 暗い瞳に耐えかね、テルミは古工房を飛びだした。

 

「もう! わたしを顎で使っていいのはお父様だけなのにっ!」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 気絶から目覚めたピグマリオンは、空を見上げていた。

 

「…………」

 

 意識は、だいぶ前から戻っているような気がする。

 しかし、指一本動かすのも面倒で気が進まない。

 いつも痛みだけが、現実を現実だと教えてくれる。

 ……特に今日は、いつものより顕著である。

 

 気怠く目を動かすと視界に細かくキラキラ光るものが見えた。ぼんやりした視界でそれを見ているうちに粉々になった眼鏡のレンズだと気付いた。今日はさんざんな日だ。感情の振れ幅が大きく、普段とは違う緊張と疲弊感がある。

 

 嫌と言うほど頭を打ったせいか記憶が曖昧だ。

 

 そうだ。どうして、感情の振れ幅が激しい日だったのだろうか?

 

 またブラドー氏に無茶なことを言われたのか。あるいは、輸血液が足りず取り乱してしまったのだろうか。唸る。どうにもしっくりこない。今日は、昨日とも一昨日とも違う。何か、もっと違うことがあったような気がする。頭の痛みのせいで思考が阻害されているらしい。思い出せない。

 考えても分からないことが多いので、彼はいつものように空を見上げた。

 

「ああ、あーあ……月……月が……あぁ、綺麗だ……」

 

 いつもは虚空に溶けて消える言葉は、今日に限って誰かの耳に届いた。

 拝領は、どんな空想より素晴らしい少女の姿をして、しかし、逆さまに表れた。

 

「ヤーナムの月が綺麗と言ってくれるのね、貴方。ウフフ、ちょっぴり気に入りました」

 

 記憶が蘇り、ピグマリオンは絶叫した。

 

 




病み人の信仰

ピグマリオン、会敵
 どうやら天使に会って恋してしまったようです。
 17分割はしませんでしたが、コロコロはしました。
 医療教会側の狩人であるブラドーを護るため侵入者は誰であれコロコロしないといけないので仕方ない。──オイ…なんで…生き返っている…?

月が綺麗
 意図せずテルミを喜ばせるクリティカル・ワードを言ってしまったピグマリオン。
 これにはテルミもニッコリです。お父様の信者が増えるのなら多少頭がおかしくてもOKです。

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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天使の鐘(上)


学徒の輸血液
ビルゲンワースの学徒が月の香りの狩人に施す輸血液。
より大きなHPを回復し、一定時間スタミナの回復速度を高める。
血の聖女に見られる調整された血を特殊な工程で精製している。
感覚効果が高く常習性があるため、病み人が使用するならば医療者の処置が必要となるだろう。



 

 ピグマリオンは少女に急かされながら、痛む体に鞭打って古工房にやって来た。

 ブラドーに謝罪するためであったが、思わぬ闖入者の対応でそれどころではなくなっていた。

 

「僭越ながら事情を整理させていただくと。テルミ様が、上層から散歩で市街で行こうとしたところ、途中でうっかりこの工房を見つけてしまった──と」

 

 事情とは、平らかにするとこのような説明に落ち着いてしまうらしい。

 ピグマリオンはテルミを見て、それからブラドーに視線を移した。反論も異論もない。どうやら正解のようだった。

 

「ええ。そう。上層から煙が見えたので探していたのです」

 

 煙とは、何だろうか。

 ピグマリオンが尋ねるとテルミは暖炉で赤々と燃える薪を指した。

 

「あぁ、なるほど。燃せば煙が出ますからね。上層から見えるのも道理というものです。そして、あなたは……あー……月の香りの狩人のお子さんでもあると……」

 

 ピグマリオンは、ブラドーの機嫌を損ねないように努めて「大したことはない」風を装った。

 そして事実を整理し終えたようだ。

 ブラドーは、もうすっかり興味を失ったようでテーブルを指でトントンと叩いた。ピグマリオンは「さっさと追い出せ」という指示として受け取った。

 

「いつまで立ちっぱなしでお喋りするつもりかしら?」

 

 腰に手を当てて小首を傾げたテルミは、微笑んだ。

 

「あ、ああ、申し訳ありません。しかし、我々も仕事がありますので……今日のところは、そのぅ、お引き取りを──」

 

 ピグマリオンの声をすべて無視してテルミは、ブラドーに近寄った。

 

「ねぇ! 獣の毛皮のおじさま? お名前を教えてくださる?」

 

「…………」

 

 ブラドーは、そよ風が吹いたほども反応しなかった。

 

「こ、こら! ブラドー氏は忙しいんですよ! 今日のところは……」

 

「ブラドー? ブラドーって言うのね、おじさま!」

 

 ピグマリオンは自分の失態に気付き額に手を当てて「あぃぅ~」と呻き声をあげた。背中がチクチク痛い。さっさとどうにかしろ、という視線を感じる。

 

「ブラドーおじさま、わたしはテルミ。聖歌隊のテルミ、孤児院の孤児ですよ」

 

 ブラドーは、聖職者の獣の皮を常日頃被っている以外は常識的で理性的な人である。

 その彼に睨まれピグマリオンは、小さく悲鳴を上げた。素早くテルミを抱え上げ「し、失礼しました!」と叫ぶと外に連れ出した。

 

「だ、だめですよ、テルミ……テルミさん。ブラドー氏はあれでいて繊細なのですから……」

 

「むぅ。だめ?」

 

 小さく首を傾げたテルミが『おねだり』した。

 市井ならば大抵の物事を素通りさせた仕草だが、残念ながら現在のピグマリオンに尊重できる命は限られている。

 

「だめなものは『だめ』とお答えしなければなりません。申し訳ありませんね。月の香りの狩人の仔」

 

「そう。では貴方とお喋りすることにしましょう」

 

 抵抗をやめたテルミをそっと地面に下ろす。

 ピグマリオンは傷ついた左手を背に回し、唯一の出口である市街へ繋がる石塔を右手で指した。

 

「いえ、私とお話など……つまらないものです。また、私からお話することは何もありません。ここではお茶なども出せませんし。どうかどうか、お引き取りを……」

 

「わたしは貴方とお話をしたいの。手を出しなさい」

 

 テルミは、近くの花壇に座ると左手を差し伸べた。

 言葉での説得は無駄になるだろう。

 ピグマリオンは工房をチラリと見てから「すこしだけですよ」と伝えて右手を差し出した。

 浮かれそうになる気持ちを戒めるように背に隠した左手の傷口に爪を立てた。

 

「違うわ。怪我をしている手よ」

 

「これは……いえ、とてもお見苦しいものですから」

 

 それでも催促されてしまい、ピグマリオンは渋々左手を出した。

 

「わたしはまだ幼いですが医療者で、ちょっとした魔法が使える魔女でもあります。じっとしてくださいね」

 

 左手は仕込み杖の刃を受け止めただけでなく、引き寄せるために強く握ったせいでボロボロだった。苦痛に耐えることができているのは何のことはない。精神力と戦闘の興奮で意識を逸らしていたからだ。傷を見ているとまったく今更であるが、じわじわと熱い痛みが増してきた。

 テルミは傷口の具合を確認すると傷ついた手指を杖で叩き、何事か唱えた。どこの国の言葉かピグマリオンには分からなかった。

 火で炙られたような痛みが一瞬あり、次には冷水に漬けられたように感じられた。ビクリと指が震えた。

 

「いい子ね。もうすこしだけ、じっとしていられるかしら。肩も治しましょう」

 

「け、結構──結構です」

 

 ピグマリオンの声は上ずる。そして、素早く後ずさりした。

 手指は完璧に治っていた。

 傷ついた肩の傷口は未だにジクジクと痛みを訴えているが、彼女の不可思議な技──彼女の言葉を借りるならば『魔法』とか言う──に任せるのは、憚られた。

 なぜなら。

 

「私は医療教会の教徒ですので、こ、こうした施しは遠慮、そう、異教徒の施しは教義に悖るので遠慮させていただいて……い、いえ、遠慮しなければ、いけないものですから……」

 

 テルミは、不思議そうな顔をしなかった。

 

「そうなのね。では、やめておきましょう。わたしはあなたの信仰の邪魔をしたくありません。お父様は気にしないでしょうけれど。……とは、言ってみますが傷ついたままではいけないわ。化膿すると処置が大変です。さぁ、ここに。近くに」

 

 テルミは杖を服の内に納めると代わりに銀色の鐘を取り出した。

 警戒している自分をどう見たのか、彼女はクスクスと小さく笑った。

 

「これはヤーナムの神秘であり医療者の秘儀です。だから安心してくださいね。けれど……貴方は見たことがないのね? 『聖歌の鐘』と呼ばれるものです。我々聖歌隊の試みの一端でもあります」

 

『聖歌隊』という言葉は知っている。

 医療教会をほとんど二分する会派の一翼が『聖歌隊』と呼ばれる上位医療者の集団である。

 彼女は、その団体が運営している孤児院の孤児だと言った。

 ──なぜ父がいるのに孤児なのか。関係性は何なのか。

 問いたいことはさまざまあったが、嫌な予感のする量まで失血していたピグマリオンは(医療教会のものであれば……)と心が動き、テルミのそばに立った。

 そんな彼にテルミは諭すように話しかけた。

 

「これは血の拝領に等しいものです。──さぁ、跪きなさい」

 

 すこし驚いてから彼は命令に従い、地面に膝をついた。

 

「ひょっとして。貴女は血の聖女様でもあるのですか?」

 

「いいえ。わたしは、わたし達の血は血の聖女よりも悍ましく、そして素晴らしいものですよ」

 

 悍ましいのに素晴らしい。──そんな存在は、ありえるのだろうか?

 疑問に思いつつもピグマリオンは頭を下げた。

 

「稀なる恩寵を、病み人に拝領させてくださいませ」

 

「稀なる月は、病み人を哀れむことでしょう。ええ、望むまま拝領なさい」

 

 鐘が鳴った。

 どこかで聞いた覚えがある。涼やかな鐘の音だ。

 考えてもいなかった拝領に思わず顔を上げた。その先でテルミは穏やかに微笑んでいる。

 鐘の音がもたらす効果は絶大だった。

 

「治ったようですね。よかったです」

 

 恐る恐る傷ついた肩に触れる。

 傷跡は跡形もなく消えていた。怪我を思わせるものは、焦げて破れた穴だけだった。

 

「医療教会の秘儀もなかなかのものでしょう?」

 

 医療教会のことであれば、ある程度のことを知っていると思っていたピグマリオンは自分の知らない秘儀の効果に驚き、戸惑った。それだけではない。期待もあった。怪我を治せる秘儀があるならば、病を治せる秘儀もあるのではないか。しかし、それを知るには、まず相手を知る必要があった。

 

「え、ええ……。貴女はいったい何者なのですか?」

 

 市街にいた予防の狩人に丁寧な言葉の持ち合わせはなかった。

 そのためピグマリオンは跪いたまま、テルミを見上げた。

 花壇に腰掛け、地面に着かない足を揺らしながら少女は小首を傾げた。

 

「『月の香りの狩人の仔』とはお伝えしましたが、それ以上のことを知りたいのですか?」

 

 ピグマリオンは、主に輸血液と食料の確保について月の香りの狩人の世話になっていると感謝の気持ちがある。

 しかし、正直なところ彼がヤーナムで引き起こしている異常──特に一年間が二〇〇年以上続いていることなど──については、意味不明で前代未聞の出来事なので考えたくも知りたくもないという気持ちがあった。なによりブラドーのご機嫌のことを考えれば、月の香りの狩人に必要以上の好感を抱くべきではないと思っている。月の香りの狩人の『仔』についても今のところは深入りしたくないという心情がとても大きい。なんせ、先ほどまで殺し合いをしていた仲なのだ。今こうして顔を合わせることも本心ではとても気まずい。

 

「いえ、そういうワケでは……。けれど医療教会の秘儀について貴女は詳しいのでしょうか?」

 

「それは『原理を知りたい』という意味かしら? それとも、この鐘が欲しいの?」

 

「……私は病み人ですから。何事にも救いの導きを見出さずにはいられないのです」

 

「ふぅん。そう」

 

 顔を伏せたピグマリオンの痩せた頬に鈍い温もりが触れた。

 テルミが触れたのだ。

 黒い手袋越しに伝わるのは、彼女のやや高めの体温だった。

 

「さぁ、いい子。わたしに顔を見せてご覧なさい」

 

「なっ──なにを……」

 

「貴方に鐘をあげてもよいのだけど触媒に水銀を大量に消費するものです。常用は難しいでしょう。それに貴方の興味は鐘ではなく自分の病のことね? ……わたしは全ての病み人が穏やかに過ごせるように協力してあげたいの。うんうん。瞳孔は正常ですね。でも血が薄いわ。失血のせいで貧血気味なのね。三日は安静に過ごしなさい。あら、血圧も高めね」

 

 相手を医療者と認めると何事にも従ってしまうのは、病み人の悲しい性である。

 唸ってはみたものの、テルミの助言に従うことになることだろう。

 そのうちテルミはポケットから小さな木箱を取り出した。

 

「貴方は肺を病んでいるようですね。本当は静かな屋内で診察すべきなのですけれど……あのおじさまの機嫌を損ねると厄介そうですし……聴診器は壊れていないわね。ベストとシャツのボタンを外しなさい。うん……うん……。とても苦しそうに息をするのね、貴方。いつも溺れているような苦しさでしょう」

 

 彼女が聴診器で拾った音は、水泡が弾ける昏い音が聞こえていたのかもしれない。

『溺れているような苦しさ』は、まさしくピグマリオンの呼吸の苦難を表現するのに相応しい言葉だ。テルミは、なだめるようにピグマリオンの肩を撫でて聴診器を耳から外した。

 

「手術ができない以上、経過の観察が必要ですね。輸血液は週に何度受けているのかしら?」

 

「週に一度です。月の香りの狩人……いえ、月の香りの狩人様が持ってきてくださっています……」

 

「まぁ、お父様が? そうなのね。……お父様は人間に期待していないと思っていました。ヤーナムの再生を人間に任せるのは、あまりに迂遠な試みですからね。それともお父様は貴方だから思うことがあるのかしら?」

 

 彼女の蒼い瞳に見つめられていると落ち着かない気持ちになり、呼吸が速くなる。

 得がたい温もりからピグマリオンは逃れられなくなっていた。

 だからこそ、口を噤もうとした矢先に舌が動いてしまったのだろう。

 

「いいえ、私は病み人です。ただの、病み人です。月の香りの狩人様の関心は全てブラドー氏に……。私は行きがかりのオマケで、かの御仁のご温情で何とか生きているだけです」

 

「そう。──ところで言い忘れたのだけど、貴方の肺ってほとんど空洞なのね」

 

「は?」

 

 ピグマリオンは、自分の耳を疑った。

 それから思わず、自らの黒衣を掴んだ。

 テルミは、今日の天気を話すように淡々と見える事実を語った。

 

「医療者が病み人に病状を伝えるのはヤーナムにおいて推奨されない行為ではあるのだけど、全ての病み人は自らの病状に限り、真実を知るべきだと思うのでお話しましょう。納得は、貴方の人生を幸福にします。幸福は、貴方の人生を豊かにします。啓蒙的真実により貴方の人生がより充実することを期待します」

 

「わ、私には、おっしゃる意味が、よく分かりません。あ、頭、頭が……あまりよろしくありませんので……」

 

 言葉はかすれ、しかも途切れていた。

 最後は吐息だけになったが、ピグマリオンは何とか伝えた。

 テルミは穏やかに、そして静かに告げた。

 

「病は末期も末期です。きっとレントゲンなど撮ったら肺組織がドロドロに腐って空洞になっている状態でしょうね。どうして生きているのか輸血液以外に説明がつかない状態です。聖布で隠れていますが、首もよく腫れるでしょう? ああ、もう腫れる場所も無いのかしら? 背中は痛くない? 背骨は? 骨は痛まない? 腕の関節は痛そうね? 皮膚の変色には気付いているのかしら?」

 

「────」

 

 輸血液がなければ半年を待たずに死ぬだろうと思っているピグマリオンにとって、彼女の指摘は何ら驚くべきことではない事実だ。

 それでも。

 医療者の言葉として語られる事実には、自分の直感と異なる恐ろしさがあった。ヤーナムという異常の街に生き、殺されぬ限り決して死ぬことはないと知っていたとしても彼女の言葉はまるで確定的であり、直視し難い現実だった。

 どんな苦痛にも耐えられる精神は、死の恐怖にだけは耐えがたい。

 

 次の瞬間。

 ピグマリオンは立ち上がり、両手でテルミの首を絞めた。

 

 ヤーナムの医療者が、病み人に真実を語らない理由の一片。

 失うものがない病み人は、しばしば見境のない行動をする。

 たとえば、事実を伝えた医療者を逆上して殺す、とか。

 過去の巷にありふれて欠伸が出るほど繰り返された凶行だった。

 

「嘘つきめッ! 嘘つき嘘つき……! あなたは、貴女は、おまえは、やはり私を誑かす魔女なのだ! 死ね! 魔女め! 死ねっ! 滅びろ! 黙れ! 黙れッ!」

 

 空気を求めて跳ねる体を押しとどめ、動かなくなるまで首を絞めた。

 細い首の内側で確かに脈打つ血管は生々しい。だが健康的な鼓動が手のひらいっぱいに感じられた。常ならば羨むそれは今に限り、気色の悪い虫の蠢きのように感じた。

 やがて美しい蒼い瞳から光が消えた。

 

 ピグマリオンは突発的に笑った。

 ひどく気分がよかった。

 自分にとって不都合な真実が消えていくのが心地よかった。支配的な暴力はピグマリオンを酔わせた。そのため理性が戻ってもなお、彼はしばらく細い首から手を離せなかった。

 

 その後、我に返ったことに関し特別な理由はない。

 単純なことだ。時間の経過が彼の酔いを覚ました。

 

「は……っ」

 

 冷静になり最初に考えたのは、月の香りの狩人の仔を殺してしまったことで、彼がもう二度と輸血液を持ってきてくれないのではないかという心配だった。

 自分が何を考えたのか理解してしまった後で、ピグマリオンはようやくテルミの首から手を離した。

 

「っ、ぃや……」

 

 後悔は先立ってくれない。

 

「……ち、違う……私は……」

 

 ピグマリオンの行動の結果に残るのは、いつも子供の死体だ。

 彼はテルミの体を持ち上げると古工房への階段を駆け上がり、扉を開けた。

 

「ブ、ブラドー氏……! あ、あ、あ、の、治療……治療を……!」

 

「私には死んでいるように見える」

 

 ──死んでいる!

 ピグマリオンは「それはそうです!」と声を裏返して叫んだ。

 

「でも、あ、あ、あ……わ、私、違う、違うんです! いや殺したのは私なのですが! でも、しかし、魔女が……魔女がいて……! 私は、ただ、善いことを……!?」

 

 もう一人では何も判断ができなかった。

 自分の頭がおかしいことは辛うじて理解していたが、これまで善い人間として生きていた自分にこんな恐ろしい本性があったことを認められなかった。認めてしまったらこれまで大切に抱えていた全てが台無しになる。そんな予感がした。

 ブラドーは一瞥した後で鳴らない鐘を揺らした。

 

「それは夢を見る狩人だ。じきにどこかで目が覚める」

 

「ど、どこに、お、置いておけばいいですか? 埋めましょうか? 穴を掘りましょうか? 掘った方がいいですか? 掘った方がいいですよね?」

 

「谷に捨ておけ」

 

「わ、わかりました……」

 

 質問も疑問もたくさんあったがピグマリオンはぎこちなく工房を辞し、階段を降りると、そのまま崖まで歩き、言われたとおりに少女の亡骸を捨てた。しかし、いよいよ頭がおかしくなってしまったのだろうか。崖下に放った体が底に落ちる湿った音は、いつまで経っても聞こえなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 月の香りの狩人が捨てられた古工房を訪れたのは、翌日の明け方のことだった。

 ビルゲンワースの学徒から提供されている輸血液を病み人へ配達するためである。

 週に一度訪れる古工房にいる病み人は物静かだ。日頃は、墓石が並ぶ庭にいて土を整えているような男だった。

 

 それが、今日は違った。

 彼は椅子に座って虚空を眺めていた。

 視線の先に何か浮かんでいるのかと思い、狩人は目をこらしたが、その先には夏らしい厚い灰色の雲が浮かんでいるだけだった。

 

「やあ、ピグマリオン。拝領の輸血液だ」

 

 いつものように声をかけると、彼は初めて階段を登ってきた狩人に気付いたようだった。

 彼は、ひどく怯えた顔をして椅子から立ち上がった。

 彼をよく見れば、黒衣のところどころに乾いた血が固まっていた。

 

「ピグマリオン?」

 

「あ……あ……月の香りの狩人……。私、こ、こ、ころ、殺してしまったんです……」

 

「えっ。ブラドーを?」

 

 彼は必死で首を横に振った。

 

「たしかに貴公が不意を突いて殴っても刺しても殺せそうにはない。それで、誰を? この工房にやってくる人がいるとは、まだ思えないが……」

 

 月の香りの狩人が『まだ』と言ったことには理由がある。

 医療教会の工房の先にある工房は、捨てられて久しい。よって、ここを知っている人は当然、古狩人だ。

 そして、市街にいる古狩人より古い時代を生きた狩人は『まだ』数が少ないハズだ。

 名前と顔を思い出しながら彼の言葉を待っていると彼は青ざめた顔をいっそう白くさせた。

 

「あ、あ、貴方の、お子さんです……。私に、優しく、して、くださったのに、どうしても……私……私……うわああああああッ!」

 

 膝から崩れ落ちたピグマリオンは、地面に頭を打ち付け始めた。

 長い夜のなかでさまざまな奇人変人狂人を見てきた月の香りの狩人としては「四人いるんだけど誰のこと?」とは聞きにくい状態になってしまった。

 ひとまず、自傷行為にはしるピグマリオンを止めるため彼の頭と両手を握った。

 

「ヤマムラさんもそうだが、なぜ発狂すると自傷するのだろうか。おい、しっかりしろ」

 

 ぐしゃぐしゃに泣いていたピグマリオンは、喘ぐように言った。

 

「私のっ弱さゆえに……あの、美しい人を……優しい人を……私なんかにっ触れてくれたのに……私は……。お許しを請うことも烏滸がましい……うぅぅ……罪深い……私は……もう、いったい、どうしたら……」

 

「殺したのはテルミか? ひょっとして」

 

 ピグマリオンは答えなかったが、嘆く声がよりいっそう大きくなったので当たりだろう。

 そして、彼は『月の香りの狩人』と呼ばれる狩人の存在について知らないのだ。

 ブラドーも人が悪い。月の香りの狩人は静まりかえっている工房をチラリと見た。

 ──事情の特殊性を鑑み話してくれてもよかっただろうに。

 しかし、疑問は解かなければならない。彼とは長い付き合いになる予定だ。

 

「ああ、ええと、その、なんと話したものかな。すこし長い話になるが……」

 

 話す内容には、気を遣う。だが、彼に話すことは市井の古狩人達が程度の差こそあれ信じていることでもあった。

 

「ヤーナムの異常のひとつに『月の香りの狩人』と呼ばれる存在がある。知る人にとっては、私の名前となっているが、元は違う。細かい理屈は省くが、死んでも死なない、ただの狩人を指す言葉だった」

 

「はっ……へっ……し……死んでも死なない?」

 

 しゃっくりで体を震わせるピグマリオンの背中をさすり、月の香りの狩人は言葉を考えた。

 月の香りの狩人にとって死も夢も当たり前でありふれた事象であるが、あらためて言葉にしてみると信じがたい事実だろう。

 普通の人間は一度死ねば終わりで、それ以上もそれ以外もないのだからもうすこし説明が必要だった。

 だが、ピグマリオンは「ああ」と呟いた。何やら思い当たりがあるような声音だった。

 

「あ、あれは、てっきり私の頭がおかしくなったものかと思っていましたが……」

 

 彼は、ポツポツと話し始めた。

 この工房へやって来た少女をまず殺したらしい。

 それから、すこし経って、同じ姿の少女が現れた。

 この時、すでにピグマリオンの頭は現実を受け止めきれなかったようだ。

 

「私……おかしなことを考えていて……あの子は、天が私に使わした拝領だと思っていたのです……。私の祈りが、どこかに届いたのだと心から信じられたのです……」

 

「そうか。その実、私の肉片なワケだが」

 

「え。それは肋骨から?」

 

「私は外の信仰のことはよく分からない。肉片だな。それで? 二回目に来たときに貴公は負けて話したのだろう。そこからいったいどうして殺してしまうことになったのか」

 

 月の香りの狩人の疑問とは、そこだった。

 ピグマリオンは、一度殺した人物が再び何食わぬ顔で現れたことについて、強い疑問を抱き、一回目と同じ敵意を向けられなかったようである。

 その状況から殺害に至るには、とても強い動機付けが必要になるだろう。

 このことについて、ピグマリオンは震えながら話してくれた。

 

「あの子は、私の体のことを気にかけてくれました……。病気のことも……医療者であれば見えることもたくさんあったのでしょう。だから診察の結果を話してくれたのですが……私は……恐くなり耐えきれなくて……気付いたら……こ、こ、殺して、しまって……」

 

 ピグマリオンは顔を伏せて泣いた。

 それからいくつか質問をして聞き出したところ、どうやらテルミはピグマリオンに簡単な診察を行ったらしい。そして、結果を余さず伝えたところ。彼は取り乱した挙げ句、テルミを殺してしまった、という顛末が分かった。事情を整理し終え背中を撫で続けているとピグマリオンは、ようやく顔を上げた。

 

「申し訳ない……申し訳ない……。ああ、ああ、私は……私は、俺は、どうしようもない人間だ……。死ぬのが恐いために……子供の未来を、う、奪って……」

 

「今回のことは聞く限り事故のようだが」

 

 もし、狩人自身の身に起きたことであったのならば「よくあることだ。気にするな」と言ってしまいたいところだが、今回の被害者はテルミである。彼女の内心を知らない月の香りの狩人は「事故のようなものだろう」と事実を再確認することしかできなかった。

 

「こ、恐いのです……月の香りの狩人。私は、死ぬのが、どうしても、どうしても恐くて……恐くて……。死んでしまったら人はどこにいくのでしょう? 何もかも消えてしまうのだろうか? 何も残せず、何も得られず……私は、いったい、何のために生きているのでしょう? 俺が殺すのは子供ばかりだ。なぜ? どうしてこの様でさえ『生きたい』と思ってしまうのか? この苦しみは、い、いったい何のために……うぅ、うぅ、うわああああぁぁっ!」

 

「…………」

 

 慰める言葉を月の香りの狩人は持たない。

 彼が苦しみ続ける仕組みの中核に存在する自分が、いったい何を告げることが出来るだろう。

 だから彼は、ただ嘆くピグマリオンのそばで背を撫でた。

 

「……市街での狩りは貴公の慈悲でもあっただろう。自らを責めることは善い行いではない。獣を人と等しく思うことは辛く苦しいことだ。まず自分を許したまえよ。誰も病み人に多くは求めまい。私も貴公に何も求めない。……病んで苦しんでいる貴公を俺の我が儘に付き合わせていることは悪いと思っている。……謝罪は今も未来もできないが。同じ病み人だった者として同情はする」

 

 狩人はピグマリオンの手を取ると立ち上がるのを手伝った。

 

「テルミは、また来るだろう。その時に自分のことを話してみるのはどうだろうか」

 

「私のことなど知っても何も役には……。もう大半死んでいるような身の上ですし……」

 

「それでもテルミは聞きたがるだろう」

 

「どうしてでしょうか? 病み人が穏やかに過ごせるように、とはおっしゃっていましたが……なぜ……?」

 

「それを聞いてみればいい。言葉のとおりならば貴公の助けにもなるだろう。テルミはどうやら貴公の役に立ちたいようだ」

 

 月の香りの狩人がテルミと直接話をすることは少ない。

 だが、学徒達の分析によればテルミはビルゲンワースの学徒や同じ枝葉の仔らを除く、ヤーナムの誰にも心を開いていないのではないかと思える時があるらしい。

 テルミが彼と積極的な関わりを持とうとした理由を父である狩人も知りたかった。

 ピグマリオンは自信なさそうに、けれど、頷いた。

 

「償えるとは思えませんが……謝罪ができるのならば、私は、そう、すべきなのですから……」

 

「ああ、そうするといい。何もしないより、きっと気分もいいだろうさ。──はい、これ。いつもの輸血液だ」

 

 ピグマリオンは、震える手で輸血液が入った木箱を両手で受け取った。

 

「月からの拝領に、心から感謝いたします」 

 

「あまり感謝されると気後れしそうだ。気を永く保ちたまえよ、貴公も」

 

 月の香りの狩人も気を取り直し、工房に足を向けた。

 

「さて、ブラドーに挨拶してこよう」

 

「ブラドー氏なら夜ごと私が喚き散らして仕事ができなかったので今ふて寝してますよ。ご機嫌はドン底なので気をつけてくださいね」

 

「突然急用を思い出したので地底に帰るよ」

 

「はい。お伝えしておきます。……あの。もし、テルミさんに会うことがあれば、こ、これ、返したいのですが……」

 

 ピグマリオンは、思い出したようにポケットを探り、微睡む星の瞳のブローチを取り出した。

 月の香りの狩人は、ピグマリオンの肩を叩いた。

 

「きっと自分で伝えた方がうまく伝わるさ。勇気を持ちたまえよ」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 死の足音を聞きながら、いつか朽ちる日に怯えるピグマリオンのもとに、月の御使いは三度現れた。

 病みつき狂気と共生する頭は、近頃都合のよいことばかり並び立てる。そのため頭には、やはり『拝領』の文字が浮かんだ。

 

(動いている! 生きている!)

 

 あの少女こそ。

 ──恵まれない私に。

 ──報われない俺に。

 月が賜わした、不滅の乙女なのではないか。

 

 月の香りの狩人にその正体について説明され、実際に目の当たりにしているというのに聖歌隊の白い孤児院服を翻して現れた少女を見たピグマリオンは感動した。

 

「こんばんは、守衛さん。今日も顔色が悪いですね。まるで死人に出くわしたかのよう。ウフフフ」

 

「あ……ぁの、あ……」

 

 聖歌隊の孤児、テルミ。

 金色の髪を夕暮れの風に遊ばせて、少女は黄昏の闇の彼方から現れた。

 ──謝らなければ。

 ピグマリオンは妄念を振り切り、立ち上がると必死で口を動かした。

 

「可憐だ……」

 

 ようやく出てきた言葉は、最も素直な心の声を象った。

 ずっと考えていた謝罪の言葉より先に感想が口を突いてしまった自分に失望した。

 呆然と立ち尽くすピグマリオンは、テルミが間合いの外で立ち止まるのを見ていた。

 

「ありがとう。お父様が作ってくれた体だから、とても気に入っているの! ちょっと小さくて幼いところも素敵でしょう?」

 

 両手でワンピースの裾を摘まむとくるりとその場で一回転してお辞儀をした。

 

「昨日から思っていたのだけど貴方は目の付け所が良いですね。フフフ。褒めてあげましょう。わたしは月の香りの狩人の仔の一、聖歌隊の孤児院に差配されたテルミ。二人の医療者のひとつ。四仔のなかで最も力劣る狩人です」

 

「…………」

 

「昨日は、ごめんなさいね。わたし、病み人の幸せのために頑張りたいのだけど、すこし頑張り方を誤ってしまったみたい。貴方を怒らせるつもりはなかったの。どうかお許しになってね?」

 

「そんなっ、わ、私こそ……あ、あなたに……貴女に、ひ、酷いことを……非道いことを……して……許されることでは、ありません……そうでしょう?」

 

「いいえ」

 

 屈託ない否定が、ピグマリオンの続くはずだった言葉を奪っていた。

 彼女の言葉を聞きたいような、聞きたくないような曖昧な興味を抱き、時ばかりが過ぎた。

 

「わたしは、お父様のヤーナムに殉じる仔ですから。貴方の好きにしてもいいの」

 

 軽く弾むようなステップでテルミは、ピグマリオンの周りをヒラヒラと舞った。

 白いワンピースの裾からチラと光って見えたのは大腿のベルトに結びつけたメスだった。

 つい追ってしまう視線を引き剥がすように彼は両手で顔を覆った。

 少女は、どんな空想よりも素晴らしく生き生きとしていた。

 手足を動かすだけで慢性の痛みに苦しめられる自分とは、まったく違う。

 健康な肢体はピグマリオンにとって常に羨望の眼差しを向けるものだったが、テルミを羨む気は起きなかった。むしろ、健全な体であることをどこかに感謝したい気分になった。

 

「しかし……ダメ……ダメです……そ、そんなことを言わないでください、身の程を知らない私が、思い上がってしまいますから……」

 

「でも残念でした。貴方の信仰の邪魔をしたくはないわ」

 

「あ、そうですか。……いえ、そうですか……」

 

 軽く跳ねてテルミは、階段の下に立った。

 距離ができて嬉しい反面、ピグマリオンは一抹の寂しさを感じた。

 時を同じく、テルミの薄く浮かべた微笑が、陰った。

 

「貴方が医療教会の教えに熱心だとは気付きませんでした」

 

「見てのとおり……私は、教会の黒服ですから」

 

 医療教会の下位の医療者であり、予防の狩人でもある。

 かつて人であった獣を殺すことには大義が要る。それがピグマリオンにとっては医療教会の威光であり教義であり、正義だった。

 しかし。

 

「いま、貴方に輸血液を渡しているのはお父様でしょう? 月の香りの狩人。わたしの愛しいお父様。貴方を生かしているのはお父様なのに貴方は医療教会の教えを遵守するのね? それってとっても不思議なことのように思うわ」

 

「そ、そうでしょうか? 月の香りの狩人様に恩義はあります。ええ。とても。……し、しかし、この輸血液は失礼ながら教会の拝領品の横流しでしょう……?」

 

 ピグマリオンは、椅子の下に置いてある木箱を見た。

 狩人から受け取った輸血液は、いつもならばすぐに消費してしまうのだが、今日だけはそんな気分になれず未だ涼しい場所に保管していた。

 

「ご存じないのかしら。お父様が拝領する輸血液は、善き協力者が提供している特別なものよ。血の聖女と聖歌隊の輸血液の区別もつかないのね?」

 

「いえ、それは……。え……そう、なのですか……?」

 

 ピグマリオンの信仰心は大いに揺らいだ。

 いま最もお世話になっている、どころか輸血液がなければ立ちゆかないピグマリオンの人生を支えているのは、月の香りの狩人だ。

 命が救われるものに信仰を捧げるのならば、自分にとって最も正しい信仰は何なのか。誰に祈るべきなのか。一瞬でも考えてしまったからだ。

 テルミが目を細めた。

 

「ああ、それと。魔女は死ぬべきでしたか? 貴方の信仰では。ならば、ほら、今日も祈らないといけませんね? 『私は、これから獣でもない人を医療教会の教義に基づき殺しますが、ごめんなさい、私だけは許してください』とか。祈りを捧げなさいな」

 

 初めて、テルミの声音に冷えた感情が込められた。

 肉体に受けるどんな痛みも心に負った傷を再現することは出来ない。

 彼女が次に何かを話すならば、決定的で不可逆的な決別の言葉となるだろう。

 その予感があり、ピグマリオンは跪いた。

 

「あ、貴女を殺すべき教義に……私は、信じる価値を見いだせなくなりました。月の香りの狩人様からは、貴女たち『月の香りの狩人』は死んでも元通りになる者だと教えていただきましたが……痛みは、苦しみは、その罪は、消えないものです」

 

 彼女の正体が何であれ構わない。だが手にかけた少女が、もう一度動いているのを見れば満足するだろうと思った。死がヤーナムの異常により覆ったことで、殺した事実が消えたように感じられるだろう。そんな後ろ暗い打算があった。

 だが。

 いざ見てしまえば、欲が出た。

 

「ですから、ですから……どうか、私に罰を……」

 

 ──もっと近くへ。手を伸ばしたい。

 ──会って、言葉を交わし、そして、できれば触れたい。触れて欲しい。

 そのためならば、何だってできた。何だって捨てられた。きっと他者は嗤うだろう。恋は、病み人を狂わせた。

 

「ああ、可哀想な人! いいえ、病み人はたいてい可哀想な人ですけれど!」

 

 薄情と聞き間違うほどの軽薄さで少女はピグマリオンの頭上で笑った。

 

「何かおかしなことがありまして? 言いつけを守れない子供なんて親に捨てられて当たり前ですから、貴方が神を捨てるより神から見放される方が早かったのかもしれません。結果は同じなので、どちらでもいいことね!」

 

 しかし、見上げる先の顔には、どこにも嘲りの色が見えない。

 テルミは石畳に跪くピグマリオンを慈愛に満ちた目で見下ろした。

 

「貴方が夜に迷わないように、貴方が夢に惑わないように、導いてあげましょう。さぁ、わたしの手を取って。大丈夫ですよ。今より悪いようにはしませんわ。最も新しく、最も素晴らしい月の恩寵をあなたに授けましょう。ええ。ええ。輝く剣の英雄が見出した『導き』など欺瞞の糸に過ぎないのだから……!」

 

「輝く剣の英雄……?」

 

「いいえ、貴方には関係のないことでした。さぁ、月に祈りなさい」

 

「月、ですか?」

 

 テルミは天上を指した。

 

「ええ、月に。ただ祈りなさい。それは懇願ではないわ。陳情でもないわ。拝領で距離を測る愚弄の信仰様式を、わたしは許しません。だから唇で触れるようにせめて心を込めて祈りなさい」

 

「月に?」

 

「月に」

 

 幼い子に言い聞かせるほど柔らかにテルミは、ピグマリオンに言い聞かせた。

 次に浮かんだ疑問は口にするまでもなく、すくわれた。

 

「『なぜ、私にそこまでしてくれるのか?』──貴方、致命を招きかねない疑問を抱くのね? いいえ、構いません。愚かですが許しましょう。わたしだから許すのですよ?」

 

 昨日、テルミは顔を見るだけで考えている事が読めると言った。

 それは事実のようでピグマリオンは心の内を見透かされた。

 だが、昨日と違うこともある。

 両手を胸に当ててテルミは目を伏せた。

 

「ヤーナムにいる全ての病み人は、お父様になれなかった病み人。月に選ばれなかった病み人。幸運だった病み人。自分の夜明けを迎えた病み人。……だからこそ。報われなくても愛されなくても、わたしはお父様を愛するように病み人を愛するのです」

 

 背伸びをしたテルミが、ピグマリオンの頭を抱き寄せた。

 それから耳元でソッと、月に届かない声で囁いた。

 

「ただ病んで死ぬだけの生にも月は等しく微笑を傾けることでしょう。わたしは、主の陪従。わたしは、夢の介添え。わたしは、月の帳。貴方のための小さなテルミ。ヤーナムの夜に逝くお父様達の一時の安らぎになりたいのです。……これまでたくさん苦しんで、よく頑張りましたね」

 

 開きすぎた目の奥が熱くて痛い。

 震える手で、ピグマリオンはテルミの背に触れた。

 

 これまでの夜のなかで決して得られなかった人の温もりは、彼にとってこの上ない慈悲だった。ただし、二度と手放すことは考えられない。

 

 重く、甘い、罰でもあった。

 




天使の鐘(上)

罰を求める理由
 予防の狩人で市街生活をしていた頃から、どんなに正義に目を曇らせても、殺した人(獣)の家族達には責められることをしている、という自覚が彼を苦しめていました。(実際、彼が市街にいた時に殺していた子のことでクランツ家の夫婦に「人殺しだ!」と二〇〇年以上毎年責められていた経緯があります。)
 そのため被害者に対し、彼は罰を求めましたが、テルミは許してしまいました。酷く罵ってくれた方が彼にとってどんなに救いになったでしょう。
 テルミは彼が苦しむのを分かっていましたが自分を偽ることをしませんでした。病状を伝えたのも「自分の正しいと思ったことをする」という思いからでしょう。
 気まぐれで残酷な言動がしばしばあるテルミですが、それはお父様たる病み人に対しては誠実でありたいと願う彼女の不器用さなのかもしれません。あるいは、お父様にこそ真実で傷つけ合う在り方を求めているのかもしれません。──わたしが傷つけるように貴方も傷つけて。
 閉鎖的で深度ばかりが増していく充足した在り方かもしれません。
 未来の2004年に発表された極東のポップ曲を歌いながら狩人君も皆の願いは一度には叶わないらしいので仕方ないねって頷くと思います。(処刑隊とカインハーストの抗争を横目で見ながら)

貴方のための小さなテルミ
 搾取は大人の形をしている事と与える事が支配の形をとることは実のところ表裏一体なのでしょう。テルミがそれを願っているかどうかは求める内容と人によるのかもしれません。彼女もピグマリオンから学ぶことがあるでしょう。まだまだ小さなテルミなので。

同情しない狩人
 カリフラワーになりたい気分の時もありますが、生き続けなければならない彼らのためにちゃんと受けとめています。

聖歌の鐘
 地底では賑やかしモーションと化していますが、HPを回復させて状態異常も回復できる代物です。え? 発狂は別腹? そんなぁ……

テルミ編の筆者の呟き
 テルミ編の話は、筆者がこの物語を書き始めた当初から構想していたものをいよいよ書き出した物なのですが、お出し出来たのがこの時期(3年生まで章)になってしまった為、ふあふあ可愛いご機嫌テルミーをご期待していた方には申し訳ないなと思う一方、テルミに弄ばれたい方にはお得セットな小章になっていると嬉しいなと思います。

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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天使の鐘(下)


テルミのカルテ
病み人の診察記録を記した、真新しい小さな手帳。
誰であれ興味で覗かないことだ。
身のうちに何が存在するかなど知らずにいた方がよい。
輝く剣の英雄でさえ真実、何も知りたくなかったのだ。



(……私は、報われてしまった)

 

 長いこと泣いていた。

 縋りつき、声を殺して泣いた。

 その間、頭に浮かんでいたのは、その感傷だった。

 熱に浮かされたように語った恐怖と孤独をテルミは静かに聞いてくれた。

 

「うんうん。体が痛いのね。心が辛いのね。けれど誰にも言わなかったのね、貴方。孤独だったのね。だから優しかったのね。病み人だから他人の辛苦がよく分かってしまって、誰にも言えなかったのね。立場と心情を、わたしは理解します。いい子。いい子ね。わたしとたくさんお話をしましょう。辛いことも、苦しいことも。今日からは、お話しましょうね」

 

 毛艶の悪い、白く乾いた髪を撫でてテルミは優し気に抱き留めた。黒い手袋がピグマリオンの目尻を撫でた。涙に暮れ、歪む視界にテルミは月光を受けて、より白く輝いて見えた。

 

「生は、死の逃避ではありません。死を恐れることは普通なのです。避けたい気持ちがあって当然なのです。……すこしずつ、心を整理していきましょう。焦る必要はありません。貴方の気が済むようにしていきましょうね」

 

 頭がぼんやりするまで泣き続けた。

 咳が出て、ようやくピグマリオンはテルミから離れた。

 

「あっ……あぁ、すみません、すみません……私は……とんだ恥知らずな真似を……」

 

「いいえ。構いません。お父様への感謝があれば、何も問題はないのですから。けれど、これで顔を拭った方がよいでしょうね」

 

 ピグマリオンは、テルミから言われるままハンカチを受け取った。

 それを受け取ってから、思い出したことがある。

 

「そういえば、昨日の……あの、いろいろあり言い出せずにいたのですが……貴女に、これを」

 

 ピグマリオンが衣嚢から取り出したのは、テルミから奪っていた瞳を象った宝石だった。

 それを見ると彼女は「まぁ」と嬉しそうに微笑んだ。

 

「貴方が持っていてくれたのね? てっきりどこかに落としてしまったのかと思って、あれから探していたの」

 

 手渡す時に、彼女の手が触れた。

 電気がはしったように甘い痺れが脳天から全身を駆け巡った。ウィンプルと黒帽子を目深に被り、ピグマリオンは赤くなった顔を努めて隠した。

 

「も、申し訳ありません。もっと早く言い出せばよかったのですが……」

 

「ううん。大切に持っていてくれたのでしょう。ありがとうね」

 

「あ、その、いえ……」

 

「さてと。ブラドーおじさまにご挨拶してもよろしいかしら?」

 

「あ、ああ、はい。ギリギリですが、まだ夜の鐘が鳴っておりません。仕事前です」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「また来たのか、月の仔。あるいは月の落とし子と呼んだ方がよいか?」

 

「先手必勝とばかりに罵詈を仕掛けてくるなんて半生が透けて見えるようですね。ヤーナム人らしくて安心しますけれど。それとも獣皮を被って悪辣に振る舞わなければならない理由があるのかしら? とっても興味深いですわ、ブラドーおじさま?」

 

 ブラドーは、舌打ちなど粗野な真似はしなかった。

 しかし、テーブルの下で組み直した革靴が立てたカツンという音は、どうしようもなく苛立ちを感じさせるものだった。

 テルミに手を引かれて入ってきたピグマリオンは、泣き腫らした目でブラドーを見た。目が合ってしまったとも言う。

 

「追い出せ」

 

「そう簡単におっしゃいますがね。月の香りの狩人様の子女を手荒に扱うことは……」

 

「お主、昨日殺しただろう?」

 

 ピグマリオンの内心に殺意が宿った。

 嘲笑であれば、どんなに気分が悪かっただろうか。しかし、ブラドーは事実を述べ確認したまでだった。

 真実とは時に何よりも心を追い詰めるものであることをピグマリオンは知った。

 するりとテルミがピグマリオンの手を握った。 

 

「ブラドーおじさまったら、意地悪なことを言うのね。貴方、気にしなくていいのよ」

 

「……あ、いえ……」

 

「もー、ブラドーおじさま。この人を責めてはダメよ。お仕事に熱心なだけだったのですから」

 

 ブラドーは「熱心」という言葉を繰り返し、嗤った。

 

「ピグマリオン、何を救われた顔をしている。状況はどこにも転んでおらぬぞ」

 

「そうなのですが……私は、もう……」

 

 ピグマリオンは、つい助けを求めるようにテルミを見た。

 彼女は、ピグマリオンの右手を握ってくれた。

 それだけで彼は、たまらなく幸せな気分になる。そして表情にも現れていたらしい。ブラドーは蔑んだ。

 

「ハッ。勝手に不幸になって勝手に救われたつもりになっているのだから、お主はまこと幸せな病み人と言えるだろうな」

 

「おじさま、あまりイジめないでください。それに彼は幸せになってなどいません」

 

「えっそうだったんですかっ!?」

 

 思わず尋ねたのは当のピグマリオンだった。さすがのブラドーも毛皮の下で瞠目した。

 

「ええ、これからわたしが幸せにするのですから! おじさまも一口、協賛いかが? わたしの愛と献身に掛け値はなく、貴方の良心を底値で買い叩きに参ります」

 

「囀るな。月の香りで吐きそうだ」

 

「ああ、それはずっと血生臭い毛皮を被っているからですわ。不衛生ですよ? おじさまも肺病には、くれぐれもお気を付けくださいね? ひとまず窓を開けて換気しましょう」

 

 テルミは懐から杖を取り出すとそれをヒョイと振った。

 途端に、パタンと音を立てて窓が開いた。

 

「ほう。……近頃の月の香りの狩人は、異なる神秘に執心のようだ。お主自体がその成果物というワケか?」

 

「いいえ、魔法は単なる付属品ですわ。しかも後付けの既製品。わたしは毛髪から爪先までメイドインヤーナムです。お父様から回転ノコギリのお話を聞いたことはないかしら?」

 

「またそれか。戯れ言を」

 

「真実は月のみぞ知るでもよいでしょう。さて。貴方、貴方、ピグマリオン?」

 

「はいッ!?」

 

 初めて名前を呼ばれた。

 ピグマリオンは、背筋をただした。

 

「いいお返事で結構です。ねぇ、ピグマリオンさん? お茶はこちら?」

 

 戸棚を開いて物色していたテルミが、手の平に収まる小さな木箱を取り出した。

 

「ええ、そうですが、あ、いえ、ご所望ならば私が……」

 

「いいの。お世話は大好きですから。間取りも分かると思うし、大丈夫。貴方はわたしの椅子になるか、椅子に座るか迷っていてくださいね」

 

「は、はい、はい、はあ……?」

 

 テルミは、茶葉の木箱をテーブルに置くと暖炉のそばに置きっ放しだった鍋を持ち、外に出て行った。

 男二人が暮らすこの古工房には、ポットという物は存在しない。お茶を飲むときは、いつも鍋で煮ていた。少ない食器からテルミは、その状況を察したようだった。

 彼女が小屋から出て行ったあとを熱心に眺めていたピグマリオンは、ブラドーに見つめられていることに気付くのにかなり時間がかかった。

 

「あ。ブラドー氏、何か? 目つきが、何と言いますか、やましいですよ」

 

「呆れておるのだ。小娘なんぞに絆されおって」

 

「ち、ちがっ、そんなつもりじゃ……! だ、だって、あの子は月の香りの狩人様の子女ですよ? 私が、どうこうできると思っているんですか? 頭が上がらないのは当然ではないですか」

 

 泣いてスッキリしたせいだろうか。我ながら真っ当な理由をひり出せたと思う。

 ブラドーは、呆れつつ大きな手の中に隠した割れ鐘を一瞥した。

 

「どうやら忘れているようだが、私もお主を殺せるぞ」

 

「それは知ってますが……突然恐いことをおっしゃいますね。……あの子の厚意は温かく、だからこそ私は無下にできないのですよ」

 

「くだらん。無償の厚意などあるものか」

 

「では稀なる月の例外なのでしょう。自分の目で確かめてみては? 『おじさまも一口、協賛いかが?』とおっしゃっていましたし」

 

 やや棘のある言葉で反論してみたが、ブラドーは口の端を歪ませて嗤うだけだった。

 

「ところで、ブラドー氏。すごく重要なことなのですが、聞きました? 『おじさま』ですって!」

 

「なんだと?」

 

「ええ、わかりますわかります、可愛いですよね」

 

「…………」

 

 ブラドーは白い毛皮の下で嘆息した。

 テルミの蒼い瞳を想起しているピグマリオンは、当然気付かなかった。そのうちテルミが軽い足音を響かせて戻ってきた。

 

「はぁい。お湯を持って来ましたので、お茶っ葉をくださいな!」

 

「こちらです。そうそう、これは月の香りの狩人様が持って来てくださったんです。ありがたいことです」

 

 ピグマリオンは、テーブルに置いていた木箱を開いた。

 中には小さなスプーンが入っている。

 

「いつもどれくらい入れているのかしら?」

 

「鍋一杯に対しスプーン山盛り三杯です。二人ですから、この分で三日保ちます」

 

「そうなのね。でも三日も保つのかしら? しっかり沸騰させたものを飲んでね」

 

 煮出したお茶をカップに入れたところでテルミはピグマリオンを見上げた。

 

「椅子になるか、椅子に座るか、選んだかしら」

 

「ああ、ええと、よく分かりませんので……」

 

 古工房には椅子が二脚しかない。

 選択肢の意図は図りかねるが、答えは決まっていた。

 

「テルミさんは、お客様ですし椅子に座っていただきたいですね。私はこちらに立っていますから」

 

「もう、わからない人ね。はい、座りなさい」

 

 テルミに促されてピグマリオンは尻もちをつくように椅子に座った。

 

「でも、悪いですよ。──オッ!?」

 

「悪くないでしょう? 落とさないでくださいね?」

 

 テルミはピグマリオンの膝にちょこんと座った。

 ──軽い。

 最初に思ったことは、それだ。

 ──あぁ、柔らかい。

 次に思ったことは、それだった。

 しかし、善良な病み人はブラドーの冷たい視線を受けて正気に返った。

 

「ハッ!? だ、だめですよ……こんなっ、近くに……肺患いが、伝染するとよくないですから本当によくないですから……」

 

 ──近い。

 膝の上にいる彼女の体温が、ハッキリと分かってしまう。

 小さな呻き声を上げた。彼女に触れたいと願う自分を自覚する度に浅ましく感じてしまい、ピグマリオンは苦しんだ。

 そんな彼を救うようにテルミはソッと寄りかかった。

 

「大丈夫ですよ。汚れません。穢れません。伝染しません。わたしには正しき信仰がありますから。安心してくださいね。貴方が触れても大丈夫なものが、ヤーナムにはあるのです。月の香りの恩寵ですよ。ありがたいことでしょう?」

 

「テ、テルミさん……!」

 

 テルミはピグマリオンの膝の上に座ったまま背伸びをして、ピグマリオンの唇を指で撫でた。

 乾きひび割れた唇から、悲鳴とも歓喜とも言える小さな声が漏れた。

 

「虫酸がはしる」

 

「ブラドー氏ったら、すこし黙っていることができないのですか!? 私の夢をぶち壊すのがよっぽど楽しいようで! ……お気になさらずテルミさん。本日のブラドー氏は瀉血療法が足りないのです」

 

「あら、そうなのね。お父様のご友人に悲しいことを言われたのかと心配しましたが、正気ではないのなら問題ありませんね」

 

「どこもかしこも愚者ばかりだ。……それで? お主は何をしに来たのだ。全ての狩人に言うべきことだが、獣はここにはいない。夜が始まる。己の狩りに戻るがいい」

 

「ブラドーおじさまは、会話を楽しむ性質ではないのですね。ええ、では単刀直入に言うべきなのでしょう。貴方は、お父様が懇意にしている人のようですから、ご挨拶に来たまでですわ」

 

「では、互いに顔は覚えた。疾く去れ」

 

「ええ、じきに去りますわ。長居はしません。けれど、病み人は放っておけません。わたしは医療者ですもの。血の医療あるいは代替医療による治療が可能かどうか、確かめる必要があります」

 

「ほう。なぜ? こんな夜だ。良くなることはないが、悪くなることもない。苦しくとも輸血している以上、死にはしない。死なないだけとも言えるだろうが、どちらであっても同じこと。無駄だろう」

 

「その論は、とても寂しいものだわ。『人間は必ず死ぬので医療の発達は不要』と聞こえてしまうのは気のせいと思いたいですね。いかなる生命にも終わりがあります。だからこそ生の苦痛を和らげることが、医療の本当の役目なのでしょう。──苦難は求める者だけが見えればよい。あるいは、その苦難を試練として耐えられる者だけが。……人間は脆いもの。放っておいても死んでしまうのに、どうして苦しむ必要があるでしょう? それにピグマリオンは善い人だわ。苦しい思いをしてほしくないの」

 

 ブラドーは、嗤った。

 彼の哄笑とは、たいていの場合、侮蔑の感情が込められているとピグマリオンは感じている。

 だが、今のこれはこれまでに聞いたことのないものだった。

 情熱が過ぎ去った後に残ってしまった、冷えた感情の発露のようだった。

 テルミもきっとそれを感じているのだろう。次に口を開いたとき、彼女はピグマリオンに語りかけたように柔らかに告げた。

 

「月に祈りなさい。信仰は、あなたの人生を充実させるでしょう」

 

「信仰ならば間に合っている。そして人生を充実させる手段ならばアテがある」

 

「そう。では、ご入り用になったら教えてくださいな。月がある限り、信仰は遍く病み人を救うでしょう。救世の導きです」

 

 会話は、ここで終了してもよさそうなものだった。

 それから、テルミはニコニコと笑いながら日常生活のことを語った。

 ピグマリオンの──そして、ブラドーすら──知らない、医療教会上層での生活だ。やれ小麦の値段が高い。孤児院は規則ばかり多くて参ってしまう。大人達はいつも忙しそう……だとか。

 

 我知らず、彼女の話を真剣になって聞いている自分に気付いた。

 上層に住んでいるのは、階級こそ違えど市街と変わらない人間だ。

 考えてみれば、当然のことだ。

 ピグマリオンは、上層に人間らしい生活をしている人々がいることを大して想像したことがなかった。これまでの人生に余暇がなかったせいだろう。

 しかし、今の上層は、ただの人間の住処ではない。

 

「あら、ピグマリオンさん。上層に興味があるの?」

 

「ええ、まあ、はい……」

 

 ──だってそこには、天使の寝床がある。

 

 孤児院に裕福なイメージはない。

 どんなベッドで寝ているのだろうか。柔らかいだろうか、温かいだろうか。それとも意外と硬く、冷たいベッドなのだろうか。

 真剣な顔でテルミの寝ているベッドを考えている自分をどう見たのか。彼女は「ふぅん」と鼻を鳴らした。

 

「ねぇ、ブラドーおじさま? この黒、わたしにくださらない?」

 

「ええ、うん、えッ。何ですって……!?」

 

 ピグマリオンは聞き間違いかと思い込んで相槌をうってしまったが、その後、ブラドーが思案顔をしたのを見て聞き咎めた。

 

「──よかろう」

 

「何もかもよくないですよね!? あなたの食事は誰が作るんですか!? 食器洗いは!? 洗濯は!? ひとりでお茶の一杯も淹れられない人が何をおっしゃってるんですか!?」

 

 思いつく限り喚いたが、ブラドーの思考は変えられなかった。

 一口、お茶を啜った後で彼は尋ねた。

 

「お主、今年でいくつになる」

 

「三歳です!」

 

 テルミが元気よく手を上げた。指は三本立っている。

 それを見た瞬間、ピグマリオンの脳は勢いよく破壊された。

 

「さ、さん、三歳なんですか!? わ……本物の幼女……? しかし、ワハハハ、聞き間違えでしょうね。十三歳とおっしゃったのですよね? 私の頭がおかしくて聞き間違えただけでしょうそうでしょうとも」

 

「わたしの言うことを疑うのね。悲しいわ」

 

「貴女は三歳です。そうです。貴女の言うことは全て正しい。ヤーナムの真理の一つです。ね、ブラドー氏?」

 

「あと二年経ったら、その男をお主にくれてやる。ビルゲンワースの学徒と共にせいぜい生きた病み人として使い潰すがいい」

 

「ありがとう、ブラドーおじさま! ところでピグマリオンさん。貴方ってブラドーおじさまに嫌われているの?」

 

「いえかなり尽くした気がしますけどね? あくまで個人の感想ですが」

 

 ブラドーは、ピグマリオンに対し、至極当然ことを話すように語った。

 

「咳の度に謝るお主はうるさい。狩人は狩りに戻るべきであるし、病み人はさっさと墓場へ行くべきだ。あるいは、ベッドへ」

 

 ピグマリオンは、日頃横暴な振る舞いのブラドーしか見たことがなかった。

 そのため彼がそっぽを向いて語ったことは、とても意外で嬉しいものだった。

 

「テルミさん。この方は決して悪辣ではないのですよ。とっても分かりにくいですのが」

 

「ええ、そうみたい。貴方もブラドーおじさまのこと大切なのね。ええ、ではこうしましょう。現行の治療方法を試してダメだったら、お父様とも相談してビルゲンワースに行きましょうね」

 

「月の香りの狩人様とブラドー氏がご納得なさるのであれば、そのように」

 

 ピグマリオンは、ビルゲンワースが何なのか分からなかったが、ひとまず頷いた。月の香りの狩人が関わってくれるならば、そう悪い結果にはならないだろう。

 パチリとテルミと目が合った。

 蒼い瞳だ。

 どこか懐かしさを覚えるのは、この蒼をどこかで知っていたからだろう。空ほど青くはない。しかし、どこかで見覚えがある蒼だ。 

 まじまじとテルミの顔を見てしまい、ピグマリオンは気恥ずかしくなった。

 

「えーえ、そういえば、あの……昨日、持っていた銀の剣。あれは、医療教会の輝く剣の狩人証を持つ狩人だけが持てる物でしょう?」

 

「ええ、普通はそうね。けれど、あれはお父様に火炎放射器と一緒にいただいた物ですよ。なぁに。気になるの?」

 

「い、いえ、大したことではないのですが……正直に言いますと、はい、気になりますね。しかし医療教会の狩人ならば皆、あれに憧れているでしょう。輝く剣の狩人証──聖剣の英雄。『ルドウィーク』の直系を示すものです。医療教会の狩人でも選ばれた白服しか──アイタッ!? 突然の暴力! 何か!?」

 

 椅子の下でブラドーに臑を蹴られてしまい、ピグマリオンは椅子の上で飛び跳ねた。

 

「お主……」

 

「ピグマリオン、もう一回言って欲しいわ」

 

「え? 医療教会の狩人でも──」

 

「その前だ、愚か者め」

 

「前ですか? ええと、輝く剣の狩人証、聖剣の英雄、ルドウィークの直系を……」

 

「ピグマリオンさん、よーく聞いてくださいね。ルドウィークの正しい発音は『ルドウイーク』です」

 

「ルドウイーク? ルドウィーク? え? 同じではないですか?」

 

「違うのだ。これだから教会の黒は」

 

 ブラドーの革靴のつま先が、ピグマリオンの臑を再び蹴った。先ほどと寸分違わず同じ場所だった。

 すごく痛い。先ほどまで抱いていた親愛の情が霧散するほどの痛みだった。ピグマリオンは涙を浮かべて「ヒィ、ヒィ」と泣いた。

 

「おじさま、ピグマリオンさんをイジめないでくださいってば。上司運も最悪なのね、貴方。苦労が多いでしょう。……それでね、綴りは、こう書くのですよ」

 

 テルミがピグマリオンの手のひらに一文字ずつスペルを書いた。

 ようやく納得して彼は頷いた。

 

「医療教会の最初の狩人の名前くらい覚えておけ。まったく」

 

「は、はあ……。え、最初の狩人? それって──」

 

 その時だ。

 誰かが外で走っている音が聞こえ、三人は即座に立ち上がった。

 そして各々が銃を構えた瞬間。

 

「開けろ! ルドウイーク官憲だッ!」

 

 扉を叩く音と共に聞こえたのは、すっかり馴染みになった声。

 声の主は、月の香りの狩人だった。

 もっとも扉を叩きながら叫んだ内容については、まったく理解が及ばなかった。

 ブラドーに対し『どうしよう、開けましょうか?』と視線を送ったピグマリオンは信じられないものを見た。──彼は、今まさに長銃の撃鉄を起こし引き金に指を添えたのだ。

 さらに悪いことが起きた。

 

「まあ! お父様!」

 

 テルミはパッと顔を輝かせると扉を開けようと鍵を弄りはじめた。

 ブラドーが構える長銃の銃口は、まだ扉に向けられている。

 

「ななな、何してらっしゃるんですかッ!?」

 

「退くがいい。今なら一撃で二人殺せる。夢に帰る手間も省けよう」

 

 銃を納めるという選択肢はブラドーのなかに存在しないようだ。

 ピグマリオンは咄嗟に銃を持つ彼の腕に組み付いた。

 ブラドーの怪力の前では一般成人男性の腕力など、熊と子鼠を競わせるものだったが時間稼ぎには十分だった。

 テルミが扉を開いたところ、訪問者は目を丸くした。

 

「こちらルドウイーク官憲で、アーッ!? テ、テルミ!? なぜここに、なッ──!?」

 

 扉の先には、やはり月の香りの狩人がいた。

 そして、彼は素晴らしい対応を見せた。

 テルミの首根っこをつかまえると素早く扉のそばの茂みに飛び込んだ。

 次の瞬間、散弾は月の香りの狩人の残像を容赦なく貫いた。

 鼓膜が痺れているピグマリオンは、大きな声で叫んだ。

 

「無茶苦茶するなブラドー氏! やっぱり暗殺なんてやってる人は頭がおかしいんだッ!」

 

「……ブラドーは、とても理性的な人だぞ。ヤーナム屈指の何とは言わないが優秀な狩人でもあるから」

 

「本当に理性的な人は知人に発砲なんてしないと思うわ、お父様。でも助けてくれたの、とっても嬉しい。さすがお父様! 素敵! 好き好き大好き!」

 

「あ、やめ、おッおッ、テルミ、やめ、アーッ!」

 

 茂みで狩人のブーツが激しく動いた。

 やがて狩人はテルミを放り出した。

 それからしばらくして狩人は枯れ枝を引っかけながら出てきた。

 

「テルミさん! 狩人様! 大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だ。しかしテルミがいるとは……ど、どうしたんだ、こんなところで」

 

「クルックスもセラフィも頑張っているようなのでわたしもヤーナム探索をしようと思ったのですが……歩いていたらビックリですね。この古工房を見つけたの!」

 

 月の香りの狩人とテルミは、驚くほど共通点がない。

 ピグマリオンは、耳の痺れが薄れてきたので彼らの様子を見守った。

 血の繋がりは一見したところ無さそうに見える。

 月の香りの狩人は、空の相槌をうちながらジリジリとテルミから離れていった。

 

「探索を? ほ、ほどほどにな。無理はしないことだ。しかし、ピグマリオンの様子を見るに彼とも十分な話ができたようだな。よかったな。──それでルドウイークの名前を間違えたのは誰だ?」

 

「はい、私です。先ほどテルミさんとブラドー氏から指導を受けました。申し訳ありません。先輩方が話す音だけを聞いていたものですから」

 

「分かってくれたのならそれでいい。私は現在ルドウイーク官憲としてルドウイークをルドウィークと言う狩人を正しているところだ」

 

「月の香りの狩人様って暇なのですか?」

 

 ピグマリオンは、無礼を承知で質問をぶつけた。

 月の香りの狩人は、辺りを見回して異常が無いことを確認したようだった。

 

「そうでもない。これから市街に戻る予定だ。本活動は連盟活動のオマケだからな」

 

 ピグマリオンは素直に「そうですか……」と呟いたが、テルミは違った。

 

「きっとロクな死に方をしなかった狩人のためにお父様は名誉回復運動をしていらっしゃるのね! 慈悲深すぎて悪夢的ですね!」

 

「違うぞテルミ。死に方で人の尊厳は変わらない。問うべきは『何をしたか』と『どう生きたか』であるべきだろう。彼の人生が悪いものだと決めつけるべきではないぞ」

 

「ふぅん。そうなのですね。学ぶところは多いようですわ」

 

 それから、ようやく月の香りの狩人はブラドーに向き直った。

 

「──という活動もしている。一口、協賛いかがだろうか?」

 

「仕事も間に合っている。不愉快極まる愚行だ」

 

「そうか。残念だ。気が変わったら言ってくれ。ルドウイークには世話になった。私も日々の小さな善行を積み重ねていきたいと思っている」

 

「愚行の誤りであろう。狂気に陥ってもお主の提案に乗ることはない。疾く疾く失せろ」

 

「ああ、退散するとしよう。──あー、そろそろテルミも孤児院に帰るべきだろう」

 

「ええ。帰りますわ。けれど、その前にこの人の体を診察してからでもよろしいですか?」

 

 月の香りの狩人はピグマリオンとテルミを交互に見て、考え込んでから「いいだろう」と許可を出し、ブラドーを庭へ誘った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 外では、月の香りの狩人とブラドーが何事か会話をしている。

 クルックスやセラフィであれば、聞き耳を立てる事態であってもテルミは変わらない。

 

 ヤーナムの医療者にとって。

 医療とは神秘の探求の『手段』だが、テルミにとってはすこしだけ違う意味を持つこともあった。

 

「ああ、そうそう。ピグマリオンさん、一応聞いておきますね。病み人の意志というものをわたしは尊重したいですから。──苦しみから逃れたいのならば、ずっと眠っていてもよいのですよ」

 

 白い長手袋を外し、厚ぼったい黒衣を脱ぎ、ベストに手をかけたところでピグマリオンは「眠る?」と聞き返した。

 

「状態的には、分かりやすく『死』という意味です」

 

 血色のよくないピグマリオンの顔は、いっそう青白くなった。

 

「『ヤーナムは一年を繰り返している』とは、お気付きでしょう? 死んだ人は元通り。殺したことも一見して『無かったこと』になります。まるで夢を見ていたかのように。この仕組みを知らない人にとっては二度と戻らない命と時間ですが、知っている人ならばただの『一回休み』と言えます。ブラドーおじさまがおっしゃる『無駄』という言葉も、これを指してのことかもしれません。知識の蓄積には願ってもない環境ですが、病み人にとっては辛い時間を長く強いることになります。だから……」

 

「お気遣いありがとうございます。けれど私が自ら死を選ぶことはないですよ」

 

「それは教義のため?」

 

「いいえ。生きていたいから自死を選ばない──という私の小さな意地です」

 

『救い甲斐がある』なんて言葉は、ヤーナムで使われなくなって久しいものだったが、今こそ使い時に思えた。

 テルミは、ピグマリオンの痩せた体に触れ、耳に息を吹き込むように囁いた。

 

「素敵な答えね。貴方の小さな意地は、ええ、いじらしくて好きになってしまいそうです。そうね。『生きている』ってとっても楽しいことだもの。死んでいるより、ずっといいわ」

 

「そうですね。苦しみを伴っていても、生きて……生きて……。時折、悪くないと思えることに巡り会えますから」

 

「わたしのことかしら? フフフ、いい子ね」

 

 ピグマリオンは、もにょもにょと口を動かした。

 

「あのぅ、その呼び方……『いい子』は控えていただきたいような……どうにも子供にかける言葉のようで気恥ずかしいのです」

 

「わたしにとって貴方は小さな『いい子』なので残念ですけれどこの呼び方は変わりません」

 

「さっき病み人の意志を尊重してくれるとかおっしゃったような?」

 

「あら、いけない子ね。医療者に口答えするなんて。消極的希死念慮があるのかしら? 所見に加えておきますね。──さて。意志を尊重する大前提として、あなたの体調とわたしの気分によります。ただし、貴方の体調は危篤状況でない限り重要ではないです。そして今日のわたしは、いい子をたくさん可愛がりたい気分なの。苦しくても辛くても生きたい貴方を『死ぬまで』応援してあげますのでこれからも頑張って生きましょうね?」

 

「はい……」

 

「ちゃんとお返事ができていい子ね。ヤーナムの病み人もこれくらい素直な人が多いと楽なのだけど」

 

「ああ、谷間の町のせいでしょうか。偏狭な人が多いですよね」

 

「貴方もそう思う? 鬱屈した彼らの気分は分からないでもないですが、医療者でも気が滅入ることがあるのですよ」

 

 彼の体は、冷たい。

 ヤーナムで蔓延する輸血液を知らなければ、多くの医療者は首を傾げるだろう。生きているのが不思議なほど冷え切っていた。

 

「ピグマリオンさん、寒くはない?」

 

「いえ、特に……。いつもと同じだと思います」

 

「わたしの手は、温かい? 冷たい?」

 

「あ、温かいですね……」

 

「……。子供の体って温かいのですよ。孤児院の先生がおっしゃっていました」

 

「は、はあ、そう、なのですか……」

 

 ピグマリオンは、両手で大事そうにテルミの手に触れていた。

 彼の手は、小刻みに震えている。こればかりは病気ではない。

 テルミにとっては、たいへん面白く、そして不思議なことに──どうやら彼は、自分に並々ならぬ感情を抱いているのだ。しかし、殺した後で気付くとは少々滑稽で迂闊で運の悪い男だとも思う。

 彼の薄い褐色の目には、炉の残り火じみた欲がチラチラと浮かんでは消える。

 

 いじらしいと言った言葉に、嘘はない。

 

 今も本当は手を握り、関節の一節一節が動くのか試してみたくてたまらない気分になっているようだ。それを堪えて唇を噛んでいることをきっと彼は分かっていない。

 

「──はっ。あ、し、失礼を。私などが触れては、よく、ありませんからね……ええ、はい、善くないことです……」

 

 彼の本質は、とても臆病な性格だ。

 ただし、もっと簡便に『優しい』とも言い換えられる。

 

「触れてもいいのに。貴方には資格がある。権利もある」

 

「っ。いえ……」

 

「遠慮なさらないで? わたしには何をしてもいいの。何でもしてあげます」

 

「な、何でも?」

 

「誰も咎めませんわ。お父様だって構いはしないでしょう。わたしが死んでも何もおっしゃらなかったでしょう? ならば、何も咎めるつもりはないのです」

 

「そんな、いえやはり、私には、ふ、不相応ですから……お体を大切に、っ、してください。何でもなんて……そんなこと言わないでください、誰にも、誰にもです……!」

 

「では、気が変わったらお好きなように。──もっともわたしの気分次第ですけどね?」

 

「もちろん。もちろんです」

 

「いい子ね」

 

 ──悪い男ではない。

 父たる狩人が目をかけている理由の何割かは彼の人格によるものだろう。

 ヤーナムに生きる病み人にしては、穏やかな気性である。ときどき正気ではない言動がある程度ならば、可愛いものだ。

 ベッドに腰掛けたピグマリオンは、着ていたシャツを脱いだ。

 

「お見苦しいものですが……」

 

「いいえ。働き者の体ですよ」

 

 昨日の戦闘の傷は、触れれば血が流れるほど生々しい。治療はおろか消毒した痕跡が見受けられない。

 テルミは医療器具を収めている箱から消毒液とピンセットを取り出した。

 

「傷をほったらかしにしていたのね」

 

「今日は何もしていません。椅子に座っているのが精一杯で……」

 

 傷口に絡まった服の繊維を剥がし、小さく千切った綿に消毒液を含ませて傷口を撫でた。

 

「じっとしてくださいね」

 

「はい。あっ! 浸みますね……」

 

「ええ。ただの擦過傷であれば水で洗い流すだけでよいかもしれませんが、これは銃弾による傷なので……傷口が焼けているようです。でもこれから輸血液を投与するので、すこしずつ回復するでしょう」

 

 しかし輸血液は、万能の薬ではない。そもそも治療薬としての使い方は効果の副次的なものだ。その効果の本質は『生きる力、その感覚を得る』ものだ。ゆえに彼のように資本となる体が蝕まれている場合、肉体の再生は遅々たるものになる。基本的な消毒は必要だった。

 

「はい。消毒は終了です。患部はガーゼで保護をしておきますから。触らないでくださいね。あと、激しい運動をしてはダメよ?」

 

「わかりました。ここには獣も来ませんから……おっしゃるとおりにいたします」

 

「そうしてください。いい子の患者は大好きです。はい。シャツを着ていいですよ」

 

 そばには輸血スタンドが置いてある。

 テルミは背伸びをして輸血瓶を設置した。

 チューブと針の具合を確認しつつ、彼がシャツを着終えた後でテルミはベッドに寄せた椅子に座った。

 

「仰向けは苦しいでしょう? 横向きになってください」

 

「はい。……貴女は、何でもお見通しなのですね」

 

「ええ。貴方が教えてくれますからね」

 

 彼は観念したように目を閉じ、左腕を差し出してベッドに横になった。

 

「苦痛ばかりは、きっとあなたでも量れるものではありません。絶対のものがあるとすれば神のほかに……病み人には、それだけだと思うのです。夢も幻も打ち消す苦痛のなかでしか見出せないものがあるのではないかと思うのです──」

 

 そう信じていなければ、挫けてしまうのだろう。

 人の心は、精神は、終わらない苦痛を耐えられるように出来ていないのだ。

 精神に異常を来さない程度に痛みを緩和することができれば幸いだが、恐らくどんな鎮痛剤も無駄だろう。輸血液で生きている多くの患者がそうであるように、たとえ致死の薬を投与したとしても効果が発揮されない可能性があった。

 常に求められるのは、変質だ。 

 狩人の業が、肉体をも変化させるように。

 

「……。ああ、良いことを思いつきました!」

 

「は、はあ……?」

 

「貴方にカレル文字を授けましょう!」

 

「かれ、かれる? なんですって?」

 

「夢を見ない貴方にとってカレル文字は、ただの印章。けれど正しく人ならぬ声の表音ならば、印章以上の効果を得るでしょう。貴方の『生きたい』という願いは偏執と呼ぶのにきっと相応しいものだわ。強い意志を保ちなさい。人の強さってそういうところにあると思うの! 覚悟してくださいね。脳裏に焼き付けてあげます」

 

「ありがとうございます……?」

 

「うんうん。楽しみにしてくださいね。焼きごて」

 

「焼きごて?」

 

「大丈夫よ。精神的なものですから」

 

「精神的焼きごて?」

 

「あら。物理的な方がお好きなのかしら。わたしは気が乗らないけれど、病み人の意志は尊重したい気分ですから…………しますか? 焼きごて」

 

 ピグマリオンは怯えた顔で不自由に首を横に振った。

 

「フフ、医療者ジョークです。笑ってね?」

 

「ワハハハ……いえ、笑いにくいですね……」

 

「素直でよろしい。腕を消毒しますね」

 

 冷たい腕に触れ、消毒をする。

 それから持って来た紐を駆血帯として腕を縛り、血の流れを滞らせる。浮き上がった血管に針を進めた。

 無事に輸血台に設置した瓶から血液が流れ始めた。

 

「滴下の計算は一時間で設定します」

 

「はい。……ああ、浸みますね……」

 

 効果は、覿面だ。

 ほんの数分でピグマリオンの体は湯に浸かった後のようにポカポカと温かくなり、呼吸も普段の浅く速いものから深いものへと変わっていった。

 ベッドの近くに椅子を寄せ、指先に触れていたテルミは次第に焦点を失っていく彼の目を見た。瞼は重そうだ。

 

「昨日から眠っていないのでしょう。ゆっくり休んで下さいね」

 

「でも、私は……もうすこしだけ、貴女の……そばに……」

 

「また来るわ。その時にお話しましょう。怪我の具合も見なければなりません。話す時間はこれからたくさんありますもの」

 

「…………」

 

 彼は頷いたが、テルミの指を握ったまま離さなかった。

 今にも泣き出しそうな顔で彼はテルミを見上げていた。

 

「慈悲を……どうか私に……不滅の、御使いさま……」

 

 病み人は、哀れだ。

 この病み人は、特にも哀れだ。

 こうして縋るしかできない。

 ほんのすこしだけ指に力を込めれば振り払うことができてしまうというのに。

 テルミは、彼を見下ろした。

 

(優しいのね。わたしの迷惑になるのが怖いのね。わたしに拒絶されることが恐ろしいのね)

 

 彼の目には、さまざまな感情が浮かぶ。崇拝。恐れ。歓び。動揺。そして、罪悪感。持ち得た善性により苦しんでいるように見える。今も激しい葛藤をしているのだ。

 

(この人の優しさは……この人を救わないのに)

 

 誰かを想う心が、無理を強いる。

 そうして摩耗し、壊れ、夜に砕けた狩人のなんと多いことか。

 この男だってそうだ。自分のことだけを考えていれば、彼はもっと簡単に幸せになれるだろう。

 大人の形をしながら彼は搾取を選ばなかった。優しいからだ。そして、自分のために誰かを積極的に消費することを選べないほど愚かだったからだ。

 

(病み人の優しさって、いったい何のためにあるのかしら?)

 

 基本的に無駄なものであり、より長く深い苦しみを招くだけではないかと思う。傷は浅いうちに治した方が良いことを彼は知らないのか、忘れているのだろう。けれど、この仕組みは父たる狩人がヤーナムに殉じる──テルミから見れば──無償の『優しさ』に通じるものがあるとも思える。または。彼女は考える。ひょっとするとカインハーストにおいては愛とも呼ばれるだろうか。

 テルミは、すっかり温かくなったピグマリオンの手を握った。

 

「ピグマリオン。わたしに象牙の服は要りません。アプロディーテーの哀れみもこの地には届かないことでしょう。けれど、もし、わたしを大切に想ってくれたのなら……その狂気に免じて、いつかの月は願いを聞き届けてくれるかもしれません」

 

 テルミの小さな手は、ピグマリオンの頬を優しく撫でた。

 

「わたしが貴方の望みを叶えましょう。そして貴方の狂気により、月の御使いはガラテアに変転するのです。貴方の意志が願う限り、そばにいますよ。さぁ、祈りなさい」

 

 右手で握る杖は「ルーモス 光よ」の呪文を受けて、杖先に光を帯びた。

 月光に似て清らかな白い光でテルミは宙に文字を描いた。

 

「いまや、お父様を指す表音だもの。月に祈るのならば、刻んでおくのも悪くないでしょう」

 

 ピグマリオンの瞳は光を追視し、その後、静かに閉じられた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 眠りは獣性にも似て、抗い難い。昨日から眠っていなければ尚のことであった。

 次第に深く沈んでいく意識のなかでテルミが握る手の温度だけが残った。

 閉じかけた瞼のなかにピグマリオンは、光を見た。

 それが幻なのか、本物の光なのか、彼には判別ができない。ただの直線や円に見えて、初めて見る不思議な形をしたそれは、やがて彼の脳裏に焼き付いた。月への祈りを経た啓示だった。

 

(拝領。ああ、きっと、私だけの拝領……はっきりと、歪んだ……月よ……)

 

 指先の感覚が分からなくなり、彼の意識は眠りに辿り着いた。朝まで目覚めることはできないだろう。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「月」

 ビルゲンワースの学徒、筆記者カレルの残した秘文字のひとつ。

 それは悪夢に住まう上位者の音を表音したもので「月」の意味が与えられ、更なる血の遺志をもたらす。

 悪夢の上位者とは、いわば感応する精神であり、故に呼ぶ者の声に応えることも多い。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「それで先日から上層にはビルゲンワースの学徒を──」

 

 ブラドーと会話を続けていた月の香りの狩人は誰かに呼ばれた気がして、振り返った。

 しかし、そこには誰もいない。

 おびただしい墓碑と白い花が咲き乱れているだけだ。

 

「? 風か……?」

 

「…………」

 

「あ、すまん。それで」

 

 どこまで話したか忘れかけている狩人の視線の先で、ブラドーが何かを思い出したように「ああ」と声を上げた。

 

「──ピグマリオンがこの頃、ひどく怯えていたのだ」

 

「アメンドーズでも見たのか? この付近では見かけたことは……あまりないハズだが」

 

 会話は、狩人が一方的に話す時間が長く過ぎた。

 そのためブラドーからの話は珍しく、貴重だった。『伝えておかなければならない情報』と彼が判断したという意味を含むのだろうと狩人は察した。

 

「今朝の錯乱時に、ようやく口を割った。聞けば、ここに片足義足の車椅子に乗った老人の幽霊がでるのだと言う」

 

「──ほう」

 

 血除けマスクの下で、恐らく自分は笑ったのだと思う。

 

「骸骨とは常に霊魂を誘うものだろうか? どう思う?」

 

「……。私はまだ見ていない。ピグマリオンは錯乱していた。妄言の可能性がある」

 

「信じてみようか。私も会いたいところだ。最初の狩人にな。──では、またいつかの夜に」

 

 来た時より軽やかな足取りで彼は古工房を去った。

 彼と彼女のまとう月の香りは、わずかに留まり、そして風にさらわれて掻き消えた。

 




天使の鐘(下)


ピグマリオンの上司です。真実をお話しします。
「信じて送り出した医療教会の黒が聖歌隊所属少女のガチ恋営業にドハマリして改宗するなんて……と思ったが、最初から期待も信用もしていなかったので、予定通り父娘共々殺すことにします」という特に隠していない本音があるので彼はピグマリオンがいてもいなくてもOKな心境です。ずっと独りでやってきたから孤独には慣れているのです。むしろピグマリオンの方が気位高い猫ちゃんみたいなブラドーおじさんが心配です。──だって、ひとりでお茶も淹れられないのにっ!(主夫ピグマリオンの感想)
 悪い大人ばかりのヤーナムの明日はどっちだ。

記憶
 ピグマリオンは工房に至り、うっかり啓蒙を得てしまったので昨年までのこと(シモンに初めて出会ったこと)を覚えています。テルミのことは二度と忘れることができないので安心です。記念のカレル文字も刻んだし。一度装備したら外せなくなるアイテムかな。

ルドウイーク官憲だッ!
 ウイーク! 開けろルド官憲だ!
 活動人数1名の細々とした活動ですが協力者ならば拒みません。──君もルドウイークがかつて願った教会の名誉ある剣の精神を守らないか? とりあえず名前を正しく呼ぶところからスタートです。

★4 テルミ・コーラス=B加入イベント
 一夜限りの期間限定イベントを開催。
 狂気ポイントを貯めて「★4 月の御使いテルミ・コーラス=B」を加入させよう!
 
 筆者は何度も思っているのです。
 Bloodborneがソシャゲじゃなくてよかったと。ゴーストオブツシマでコラボアイテムを配布する程度でよいのだと。
 おかげで★5の時計塔のマリア(剣)で財布を溶かさずに済みました。でも夏イベで★4配布になった漁村シモンのシナリオはすごく本編補完になりましたしヴァレンタインイベで★4配布になったチョコレート人形のサイドストーリーはスゴくよかったですよね青ざめたチョコからまさか学歴おじさんことアリアンナの家の向かいに住む偏屈な男が過去を遡って学歴をこじらせるきっかけになったビルゲンワースの意中の人に告白する展開になるとは思わなかったですし物語の終盤の展開は水たまりに落としちまったみたいなんだここはずっと青白いんだよ……

おまけの挿絵
テルミとピグマリオン

【挿絵表示】

ピグマリオンがデカい×
テルミが小さい○
ピグマリオン、眼鏡かけ忘れましたが……許してっ!

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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■■な病み人

 夢のような日々だ。

 私の辛苦は、全て貴女に出会うためにあったのだろう。

 心から、そう思えた。

 私は持ちうる限りの全力で、心の底から、少女の形をした月の御使いを愛していたのだ。

 

「夢はお嫌い? わたしは好きよ。時を経た嘘は、神話と同じになるの。心を耕せば生活も豊かになるわ。物語と同じ。──ねぇ、神話の王様。嘘はお嫌い?」

 

 花壇のなかに座るテルミが、優しく頬に触れた。

 痩せた体を労るように。

 温かい手だった。

 ピグマリオンは、彼女の細い脚に頭を置いたまま促されるように口を開いた。

 

「私も……好きです。ああ、嘘はいい。嘘は形がない。手触りは、貴女が大切にする夢に似ている。だからこそ、私も大切にしたいのです」

 

「そう。いい子ね」

 

 テルミのしなやかな指が、ピグマリオンの白い髪に絡まり、梳いた。

 ──ああ、幸せだ。

 目の奥がジンと痛む。潤んだ目で見上げたピグマリオンは、胸に温かいものを感じていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 テルミと話すようになり、彼女のことを多少なりと理解しつつあるピグマリオンは、ある日知った。

 彼女は見目の美しさほど、心清くないようだ。

 面倒くさいことは、ハッキリと「面倒くさいですね」と言って半目になるし、サボりたい気分の時は「抜け出してきちゃいました」と小さな舌を見せて笑う。しかもそれら全てが、少女らしく気まぐれだ。だが、欠点にはなりえない。

 完璧ではないからこそ親しみを感じる。もし、完璧であったのならそれを試した罪として、自分はただちに縊死すべきだろう。

 今夜の出来事とてそうだ。

 

「今日はわたしの気分が良いので、すこし甘やかしてあげましょう」

 

 本日の思いがけない提案はテルミから成された。

 ピグマリオンは当初断ったが、上機嫌から一転、つまらなさそうな目をした。

 

「なぁに。反論ですか? 遠慮なさらないで、わたしの可愛い人。あるいは弄ぶつもりなのね?」

 

「いえ、そういうワケでは、決して……」

 

 少女に縋る自分のことを客観視すると気恥ずかしさがある。

 理性は羞恥を乗り越えられずにピグマリオンは断った。

 だが、彼女はいつも彼の事情を斟酌しないのだ。

 

「では、貴方が甘やかしてくれるのかしら?」

 

 テルミは目を輝かせて言うが、ピグマリオンは曖昧に「いえ、それも……」と断りかけた。

 待ちきれなかった彼女は、椅子に座っているピグマリオンの膝に乗り上げると首に腕を回して抱きついた。

 

「テ、テルミさん……! 離れて、て、て……」

 

「んー。貴方って骨と皮ばかりだから抱き心地がよくないかも……。けれど、ああ、まだ、すこしだけ温かさが残っているわ。ウフフ、可愛い」

 

「可愛いのは貴女です……」

 

 少女の体は、膝の上にあっても軽いものだった。

 間違っても椅子から落ちないようにピグマリオンは緊張しながら彼女の背中を支えた。

 密着した体は彼女の小さな鼓動を伝えた。

 甘い少女の香りと花の香がまざり、椅子の上で彼はクラリとした。

 

「そう? フフ、わたしのこと『可愛い』って言ってくれるのね」

 

「貴女より可愛らしい存在を私は知りません。……あぁ、私の、美しいひと……」

 

「わたしはお父様のものなので勝手に占有権を主張されると困ります。わたしだから許すのですよ?」

 

「は、はい……。貴女の前では、どうも自制が働いていない気がします。きっと、私には貴女の『可愛い』が過ぎるのです……」

 

「自分に素直なことはよいことだわ。わたしは貴方とずっとお喋りしたいもの」

 

「……私など、ただのつまらない病み人です。貴女のお時間をいただくばかりで何もお返しすることができません……」

 

 本心だった。

 ピグマリオンは、何も差し出すものがないのだ。

 

「お返しなんて要らないわ。わたしはもう受け取っているもの。生きていることは楽しいことだわ。誰かと触れて、話せる。それだけでわたしは幸せなのです。わたしはずっとずっと誰かとこうしたかったの」

 

 テルミは、惜しみない賞賛をくれる。

 ──生きているだけで偉いのだと。

 純真な感謝に触れるとき、ピグマリオンは歯がゆくなる。

 白い長手袋に包まれた手指に、テルミの黒い手袋が絡む。

 白と黒が絡まり合う様子は、何だか目が離せない。

 

「そう、ですか……」

 

 気分次第で病み人の扱いを変えるとテルミは言うが、今のところピグマリオンの願いが却下されたことはない。

 どんな小さな願いだとしても、願えば嬉しそうに彼女は微笑む。

 その顔が見たいがため、ピグマリオンは頭を寄せた。

 

「……では甘やかしていただけますか? すこし。ほんのすこしだけ。私は貴女の時間ばかりではなく慈悲も……いただきたいのです」

 

 恐らく、自分は滑稽なことをしている。

 ピグマリオンは顔を上げる勇気が持てず、そんな考えで気持ちを逸らした。

 彼女の気を引きたいがために、こうして必死になって信仰している。

 

「ええ。叶えましょう。貴方にはその権利があるのですから」

 

 そうしてテルミに手を引かれて、墓碑と花が咲く地に身を横たえた。

 小さな恋人のように振る舞う彼女は、ピグマリオンの髪を手で梳いていた。

 月の光を受け、白い肌は輝いて見えた。

 ピグマリオンは、彼女の細い指を握った。

 

「このところ貴女に触れていると眠くなってしまいます……。ああ、まだ……もっと、お話をしていたいのですが……」

 

「子供は温かいものだもの。眠くなるのも無理はないわ。それにヤーナムの人々は忘れがちなのだけど、夜は普通眠るものよ」

 

「そうでしたね。……目を閉じると獣の声が遠く聞こえるようです。今日も市街は獣狩りでしょう……」

 

「本当の月は隠れて久しいと聞くけれど、人はやはり月の魅力には抗えないのでしょうね」

 

「…………?」

 

 テルミの言うことは、ピグマリオンにとって難しい。

 空想なのか。それとも、おかしくなってしまったヤーナムの真実の一端なのか。

 考え込もうとすると手袋に包まれた指がそっと瞼を閉じた。

 

「けれど獣はここまでやってこないわ。お眠りなさい、わたしの可愛い人。今日は呼吸が落ち着いているわ。いつもより深く眠れるでしょう」

 

「もうすこしだけ……あと五分……」

 

「ダメです。さぁ、お休みなさい。貴方、ね……」

 

 ピグマリオンは、テルミの言葉に従った。

 彼女の大腿に頭を乗せると繊手に促され、薄い体に額をすり寄せる。

 

(ああ、子守歌が聞こえる)

 

 歌に誘われ、意識は苦痛に苛まれる肉体から離れ、深いところに沈んでいく。

 

 ──人は、ちょっぴりの情と温もりがあれば、こんなにも救われるのに。

 ──なぜ、人は人以外のものになろうとするのだろうか。

 ──どうして、ここに至るまで気付けなかったのだろう。

 

 わずかに涙を浮かべる眦をテルミの指が撫でた。

 

「優しい貴方の悲しみが拭われますように。望む限り、そばにいますからね」

 

 遠く失せていた人の温もりは、一度慣れてしまえば、眠気さえ招くものだと彼は知らなかったのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 異変は、何でもない日常にこそ根付き葉を伸ばすものだ。

 そのため間違っても『悪い予感はありませんでした』とは、本日の手記に書けそうにない。

 

「貴方に、わたしの大切なものをあげます。もし、わたしの『それ』を知ったら皆さんが、こぞって欲しがるので内緒にしているの。熱心で敬虔な信仰をお持ちの、貴方だけ、ですからね」

 

 思えば、あまりに『うまい話』だった。

 今朝は眠ることができず、身の程知らずの快哉を叫んでしまったことが、遠い記憶のように回想できた。

 テルミに誘われるまま、古工房の椅子に腰掛け「目を閉じていてくださいね」という指示に従った結果、ピグマリオンは手足を拘束され、椅子に捕縛された。

 渾身の力を振り絞っても身動きが取れない。

 脱出不可能を悟ったピグマリオンは、近くのテーブルで作業しているテルミを見た。

 しかし言葉は、なかなか出てこないものだった。

 

 たとえば「私を騙したのですか?」と聞いてしまいたい気持ちは強いが「そうよ」と微笑まれたら果たして次はどう答えればよいのだろう。きっと「そうですか。困りましたね」と答えることしかできない。また「騙すってなぁに?」と聞かれたら「いえ」としか答えられない。さらには「わたしを信用していないのね。悲しいわ」なんて言われたら最悪だ。

 それに、ひょっとしたら、テルミは本当に『大切なもの』をくれるつもりなのかもしれない。最も気まずいのは「いったい何をされると思っていたの?」と聞かれた場合だ。自分はいったい何を期待していたのだろう。自分でもわからないのになぜか舞い上がっていたのだ。

 

「いい子ね。おとなしく座っていなさい」

 

 瓶が擦れる音が不安を掻き立てる。

 限界まで首を動かして見た瓶の中身は病の見せた幻でなければ、その内容物は黄色だった。

 輸血液の色は、いつも濁る赤だ。

 異常な光景を見てしまったピグマリオンは、ついに口を開いた。

 

「は、はぃ……あの、これは……どういう……?」

 

「ええ。貴方の好きな輸血をしてあげようと思ったの」

 

「けれど、その、いつもはベッドで行っていましたよね? 私の記憶違いでなければ……ですが……」

 

 テルミは、振り返った。

 手には、見間違えと思いたかった黄色の液体の入った茶瓶。そして、一本の注射器があった。

 

「ええ。今回の輸血液はヤーナムのなかでも特別な輸血液です。だから不備があってはいけないでしょう?」

 

「それは、もちろん。もちろんです。おっしゃるとおりです。でも、でも……私は、おとなしく座っていられますよ。拘束しなくとも……」

 

「念のためです。貴方を傷つけたくないの。それに『おとなしく座っていられる』のなら、そのままでも問題はないでしょう?」

 

 おとなしく座っていられる、とは。

 自分から言い出したことである。

 ピグマリオンは頷くしかできなかった。

 テルミは、優しげに微笑み対面に椅子を持って来て座った。

 こんな時でさえピグマリオンは、ワンピースの裾からチラリとのぞく小さな膝に目を奪われてしまった。

 

「……あらあら……」

 

「ひぃッ! ああ、あ、あ、あの。誤解を……しないでいただけると幸いなのですが……私は、決して、やましいことは──」

 

「わたしに触れられると思っていたのでしょう?」

 

 ──読まれていた。

 ピグマリオンは目を背けた。クスクスとテルミが笑う声だけが閑静な古工房に聞こえていた。

 テルミは、人の顔を見ただけで考えていることが分かると言う。

 彼女の前で隠し事をするのは、一般的に困難である。いいや。ピグマリオンは考える。万全な心身であれば自己暗示によって、ある程度の欺瞞は可能かもしれない。しかし、現在のピグマリオンは万全とはほど遠い心身だ。そして、何よりも。

 

「あぁ、どうしても、どうしても……私……私は……貴女を……貴女のことが……」

 

 テルミに心奪われていた。

 街の悪夢が始まる以前。ついぞ知ることはなかった恋は、ピグマリオンを狂わせた。

 一目惚れだった。

 テルミを一度殺したことが負い目となり何も断ることができなくなったのは、都合がよかった。もとより断るつもりなどなかったからだ。医療者と病み人の関係は幸福だった。もしも病を得ていなければ、彼女が訪ねて来てくれることはなかっただろう。彼女の優しさが心地よかった。気遣いが嬉しかった。言葉を交わせることが楽しかった。これだけが慈しみで愛だと信じられた。

 もっとも。

 彼女がどう思っていたのか分からない。しかし、打算的な動機があったとしてもピグマリオンは幸福だった。

 

 テルミの存在は、あまりにも眩しい。

 

 まず美しく、優しく、病を恐れることがない。──夜に迷い、血に溺れていくだけの自分にも朝は必ず昇るのだと信じさせてくれる存在だった。

 だからこそ、目が眩んだ。

 他者から見ればとうてい恋と呼ぶべくもない執着は、彼が大事に抱えていた信心さえ容易く捨てさせた。

 

「あ、貴女の、ことが……」

 

 目を合わせることなどできるハズがなかった。

 きっと自分が考えていることも見透かされている。

 ──何もかもが違う、美しいひと。影でさえ愛しい。

 ピグマリオンは、この人に触れてみたかったのだ。

 

「うんうん、好きなのね。わかっていますよ。けれど、わたしにもわからないことがあるわ。貴方、いったいどこに触れたかったのかしら? いつも見ている顔? これはちょっと面白味がないですね? いつぞや絞めた首かしら? きゅ~っ」

 

 ピグマリオンは耐えきれずテルミを見た。いったい何を言い出すのか。恐れ戦き、全身が震えた。彼の予想が当たったことはほとんどなかった。それでも見つめずにはいられなかった。

 両手で首を絞めるフリをする彼女は、かつてピグマリオンが失神を狙った手癖を真似していた。

 それから、すこし考えた顔をして、彼女はお腹を撫でた。

 

「それともここ? 肉付きは、あまりよくないのだけど……院長先生は、お好きみたい。貴方も? あとは、ええ、太股とか? ああ、ここなら一番柔らかいかもしれませんね。きっと触り心地がいいですよ。太いという意味ではありませんけどね?」

 

 言葉にならない呻きを上げ、ピグマリオンは必死で首を振った。

 テルミは自分の頬に触れ、首を、薄い腹を、太股の細さが分かるように撫でていった。

 最も耐えがたいことはピグマリオンが苦しむことを分かっていて、わざとこうして挑発的な振る舞いを見せているのだ。実際のところ効果的だった。嫉妬と怒りで狂ってしまいそうだった。

 

「お、お願いです……お願いです……! もう、な、何も言わないでください、何も、決して何も……! お願いです……お願いします……こんな辱めは、あまり……あ、あんまり、では、ないかと──」

 

「貴方の頭の中で辱めを受けているのはわたしの方ですけどね?」

 

 ピグマリオンの頭には「死」という言葉が浮かび、消えた。

 その後で呻き声は、引き付けになり、やがて不規則な呼吸に変わった。

 

「──あら。ごめんなさい。本当のことを言われただけで泣かないでくださいね? けれど、皆さんがわたしを見て考えることはだいたい同じなので貴方も恥を感じることはないでしょう。わたしの体は小さいですからね。どうとでもできてしまうのは、実際、そうでしょうし」

 

 もしも、手が自由に動いたならば耳を裂いていたかもしれない。

 ピグマリオンは、かつてないほど真剣に言葉を考えた。

 

「ち、違います……! 違うんです、信じてください……! 決して、貴女に害をなそうとは思っていません! 本当です、信じてください。私は、他の人とは違います。私は、私は、このピグマリオンは違うんです──!」

 

 テルミはどうでもよさそうに笑った。だからこそ慈悲深い微笑に見えた。

 

「ええ。わかっています。咎めませんよ。貴方も忘れてくださいね? そんなことより貴方とのお喋りは楽しくて、つい話しすぎてしまうの。私も貴方のことが好きですよ。ピグマリオン、わたしの可愛い人」

 

 しまりのない顔でピグマリオンは、力なく笑った。笑うことしかできなかった。見放されたと思った途端に救われる。繰り返される言葉は、甘く痺れるような多幸感を生んだ。頭がおかしくなりそうだった。彼女が微笑んでいるだけでピグマリオンも幸せだった。これは恋の作用なのか。はたまた他の仕業か。彼には、もう正常な判別ができない。

 

 ──どうして手が届くと思ってしまったのだろう。

 ──何もかも最初から、この子の掌の上だったのではないか?

 

 自分の思考の異常に理解が及んだ時には、遅すぎた。

 

 ──いやしかし、だから何だというのだろう。

 おおよその思考は現状を『問題なし』として判断しようとしていたからだ。

 彼女は近くのテーブルに置いていた瓶を手に取った。黄色の液体が入った瓶だった。

 

「よいしょ……と。お喋りはこのくらいにしないといけませんね。特別な輸血液を用意するのに時間がかかってしまって今頃になってしまったわ。ごめんなさい。本当はすぐにでも持って来たかったのだけど」

 

「いつもと色が、違うように見えるのですが……それは……いえ、異議を唱えるつもりは毛頭ないのですが……」

 

 話題が変わるのならば何でもいい。

 ピグマリオンは、興味がある風を装った。

 

「もともとは輸血液を調整して強い効果を得る実験の成果物なのですって。これ自体は高位の医療者であれば手法も知られているものです。安心してください。でも、持続性があるからきっと体が楽になると思うわ。ああ、ちょっと色が気になるのね? 中身は、ちょっと強めの輸血液と変わらないから安心してくださいね」

 

 それならば、と納得しかけたピグマリオンは、次に一本の注射器を見せられた。

 中身は、一見にしてただの輸血液に見える。

 指先でクルクル回して見せながらテルミは小首を傾げた。

 

「貴方は、月の香りの狩人様へ感謝をしていますね? 月への信奉を忘れてはいませんね? お父様の月から分かれたわたしにとって、その心はぜひ大切にしたいものです。貴方は善い人だわ。お父様が救い上げた理由も、きっと持ち得た善性によるものでしょう。そのお父様は誰にも何にも報わずとも頑張っています……けれど……けれど本当は……誰かが感謝することが、本当は必要だと思うの。だって報われないことは悲しいことだわ」

 

 指先でピグマリオンのタイを外した。

「むぅー」とテルミは反応の薄い彼の喉を爪で浅く掻いた。太股がビクリと震えた。

 

「あら? 反応が薄いですね。本当のことなのに」

 

「も、もちろんです! 分かっています、分かっています、ええ、はい、疑いなど何も! 貴女の言うことは、全て真実です!」

 

「うんうん、わかってくれて嬉しいわ。物わかりのよい子は好きよ。病んでいても、まだ生きていたいのでしょう?」

 

「そうです、私は、まだ……」

 

「ええ。とっても嬉しいお返事! そんな貴方に特別なプレゼント! ハイ、とっても特別な輸血液!」

 

 ピシリと注射針がピグマリオンを差した。

 どのあたりが特別なのか。外見からは分からない。

 質問のために「あの」と口走ったところでテルミは全てを察したようだ。すぐに「よくぞ聞いてくれました!」と楽しげに言った。

 

「これは、とーっても貴重で大切な輸血液なの。もし、聖歌隊や隠し街の会派に知られたら殺して奪い取る程度のね」

 

「そんな貴重品を、なぜ私なんかに……」

 

「このわたしが! この月の香りの狩人の仔の一のテルミが! 貴方の呼吸から信仰生活まで見守ることを決めたからです!」

 

 テルミは輸血液の瓶をテーブルに置いた。

 注射針を持ったまま、ピグマリオンの太股に乗り上げた。

 触れたいと願ったテルミが、吐息さえ交わせそうな場所にいる。

 だが、ピグマリオンの気分は上向くことはなかった。むしろ。

 

「ンむーっ!?」

 

 かたく口を閉ざし、顔を背けた。

 テルミは、そっと彼の頬に触れて顔を自分へ向けさせた。

 蒼い瞳には、恐怖に顔を引き攣られた自分が映っていた。

 

「貴方の病気なら、わたしには感染しませんから大丈夫ですよ。そう怯えないでくださる? 虐めたくなってしまうでしょう? 虐められたいのなら構いませんけれどね? 痛いのがお好き? それとも柔らかいの? 願えば『気持ちいいもの』という選択肢もあるかもしれませんよ? ウフフ……」

 

「ンンン──ッ!」

 

 首を横に振って拒否したつもりだったが、テルミに伝わったようには思えない。

 答えを催促するように繊手は、乾きひび割れた彼の唇を撫でた。

 

「あら、言わないの? こうして欲しかったのでしょう? 触れてほしいのでしょう? 何でもしてあげるのに。もちろん、貴方の体調とわたしの気分次第ですけどね?」

 

「え……あ……」

 

 テルミはピグマリオンの膝の上に腰掛けると彼の胸に寄りかかった。

 ──ああ、軽い。

 薄い肉付きの体は腰骨の形まで分かる。彼女の存在が身近にあると喉の乾きにも似た飢餓感ばかりが募った。

 白の長手袋が脱がされ、腕の血管がよく見えるように服をまくり上げたところ──テルミは口を尖らせた。

 

「刺そうと思ったのですが、やめました」

 

「やめたのですか。……ああ、そう、そうですか……」

 

「いえ、今日打ちます。でも、ピグマリオン、貴方……ちょっと興奮しすぎです。心臓がドキドキですよ」

 

「ア、ハイ」

 

 再びピグマリオンの頭には「死」という言葉が浮かんだ。

 居心地が悪い。彼は椅子に座り直そうとして縛られていることを思い出し、ベルトを軋ませた。

 

「時間は惜しいのですが貴方が落ち着くまで待ちましょうね。そうワクワクしないでください」

 

 するりとテルミの手が、黒衣の内を撫でる。

 それからあやすようにポンポンと優しく叩いた。

 

「ただの特別な輸血ですからね。はい、吸って。吐いて。いい子ね。吸って。吐いて。吸って。吐いて。あら? 誰が息を止めてもいいと言ったのかしら? もしかして、貴方の神様?」

 

「ご、誤解です! 緊張しているだけです!」

 

「ごめんなさい。緊張を解すための医療者ジョークのつもりだったの」

 

「そ、そうですか……! いえ、私は、いつも余裕がなく、ジョークを解する頭の持ち合わせもないので……」

 

「いいのよ。今度は病人ジョークを考えるわ。咳をして血を吐くとかね」

 

「やめて……やめて……おやめください……。私の命だけでは、とうてい釣り合いがとれませんから……」

 

 テルミは、あやすように呼吸を促した。

 どれほど混乱していようとも指先一つで従ってしまうのは、惚れた弱みだろうか。それとも。

 

「LaLa……Lulu、Lalula……」

 

 ヤーナムでは聞いたことのない歌のせいだろうか。

 

「それは外の歌ですか? ヤーナムに来てからというもの、歌は……とんと聞いたことがないのです」

 

「そうなの。外の歌。子守歌なの。どうして子守歌って小さな子供をおどかす言葉が多いのかしら。メロディーは素敵よね」

 

「ええ……とても素敵です。あ、あ、貴女の、こ、ぉ……」

 

「うんうん。貴方も落ち着いたみたいだし、輸血液の準備をはじめましょうね。消毒しますよー」

 

 ピグマリオンは『血管が火薬庫しないかな』と妄想したが、そんなことにはならなかった。

 テルミは膝の上から下りるとテーブルに戻って作業をした。

 

「はい、注目してください。ここに聖歌隊のお姉様とお兄様からご提供いただいた輸血液を精製したものがあります」

 

 テルミは、テーブルに置いた黄色の瓶を差した。

 

「そこに特別な輸血液を混ぜます」

 

 テルミは持っていた注射針を固く閉じられたコルクに差し込み、内容液を注ぎ始めた。

 その光景はピグマリオンにとって衝撃的だった。

 

「まままま、混ぜるんですかっ!? えっえっ? エッ? ……それは!? い、い、いいんですかっ!?」

 

「生搾り100%は、わたしには影響ありませんでしたけど、貴方にどんな影響があるか──あ。忘れてくださいね?──というワケで、こうして希釈するのです。輸血液自体はヤーナム最高品質ですからきっと大丈夫ですよ」

 

 黄色の液体に赤い血が混ざり合い、左回りに渦を描くように溶けていく。

 ──どこかで見覚えがある光景。

 ピグマリオンの頭には閃光のように鋭い痛みがはしった。

 

(あれは、不吉なものだ)

 

 病み人の直観は、ピグマリオンの直観は、死期迫る時こそ鋭く閃くものだった。

 それが告げる輸血液の中身は、黄色から鮮やかな赤へ変貌を遂げていた。

 

「よかった。ちゃんと混ざりましたね」

 

 テルミは背伸びをして輸血液を点滴スタンドに設置した。

 無機質な音の連なりが再び呼吸を速めた。

 動揺を悟ったようにテルミの指が、汗が浮かぶ額を撫でた。

 

「さぁ、治療をはじめましょう。……いい子ね。大人しくしていれば、すぐに終わるわ。なにも恐くありませんからね」

 

 ──この顔だ。

 輝かんばかりの笑顔で彼女は言う。

 どこか人形めいた少女が、血色の良い年頃の少女に感じられる瞬間が今だった。

 

 ピグマリオンが「生きたい」と願う度に、彼女はこの顔をする。

 何を言われても優しげな微笑を浮かべ、目の前を見つめているようでどこか先を見ている彼女と、本当の意味で目が合う、そんな心地にさせる。

 そして、彼女の表情がわずかに変われば、それを見る病み人は思わずにはいられないことがある。

 

(あぁ、この人だけが、私の命を尊んでくれる)

 

 ヤーナムに掃いて捨てるほどいる病み人の命を省みる者は少ない。

 自分のことでさえ捨て鉢な病み人もいる。

 ゴミ屑ほどの価値もない命を見つめ、救おうとしてくれる者がいる。

 どうして無碍にできるだろうか。差し伸べられた手を払うことができるだろうか。

 

 ピグマリオンにとってはテルミの優しさだけが全てに優先され、また信仰に値した。

 他者には明らかな破滅の兆しに見えたとして。

 血の医療がそうであるように。

 全てをなげうつ価値があると彼には思えたのだ。

 

「わたしに触れるより、もっといいものに、もっともっと大切なものに、素晴らしいものに触れさせてあげる。──さぁ、お父様の神秘に見えるがよい」

 

 甘い声が、耳元で囁く。

 決して衛生的とは言いにくい輸血瓶の水面が微かに揺れた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 たとえばの話だが。

 

「それでも私は、あなたに触れたいのです」

 

 そう伝えていた場合、テルミの対応は変わったかもしれない。

 もっとも。心の薄暗い場所を暴かれさらに抵抗する手足を封じられたピグマリオンには、思考する気力がなかった。

 何より遅すぎたと理性は悟る。

 初めて恋を自覚した時には、もう血染めにしていた。

 惹かれていた心に気の迷いだと言い聞かせ、信仰のために罪を重ねたのは、朝陽に憧れつつも目を背けた、かつての自分なのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 異変は、何でもない日常にこそ根付き葉を伸ばすものである。

 そして本日、開花を迎えた。

 

「待って、まって──! こんなっ! ぐっ……! おかしい、なぜ……! テルミさんっ、止めて、輸血を止めて! おやめ、ください!」

 

 輸血が始まった直後。時間にして十秒にも満たない。常とは異なる眩暈と動悸、そして悪寒に襲われ、ピグマリオンは力の限り暴れた。息はできる。けれど苦しい。肌の下を知らない熱が暴れ回っている。頭の後ろからやって来る寒気で舌根が震えた。

 テルミは、懐中時計を開いて時刻を確認した。

 

「滴下数の計算によれば、あと五十九分です。それまで頑張ってくださいね」

 

 ──耐えられない。耐えられるワケがない。耐えられる道理もない。

 理不尽な暴力にさえ耐えうる精神は、このとき悲鳴を上げた。 

 

「お願いします! お願いします! やめて、やめて、輸血を止めてください……!」

 

「うーん。『止めてほしい』ですか? でも輸血は始めてしまったし、わたしは貴方を幸せにしたいので止める理由はありませんね。瞳孔も正常です。いい子ね。問題はないでしょう。続行ですね、はい」

 

 死刑宣告だって今の彼女の言葉に比べれば慈悲ある言葉に聞こえたことだろう。

 テルミがテーブルに置いていた布でピグマリオンの汗を拭った。

 布はヒヤリとした感覚があった。水にも浸していない、ただの布だ。それだけ自分の体が熱いのだ。

 

「苦しいのです……! お願い、お願いします、何でもしますから、このピグマリオンにできることならば、何でも……!」

 

 心臓は、かつてこれほど速く動いたことはない。

 市街で丸腰のまま獣と対峙した時でさえ、今ほど苦しくはならなかった。身の震えが止まらない。針が刺さっている腕は直視するのも憚られた。

 

「『何でも』?」

 

「何でも、もちろんです、嘘ではありません、から!」

 

「へえ。では拝領なさい。天からおちた水が地に染みこむように。月から滴る聖液が血に溶けるように。その病んだ喉を鳴らしなさい。病んだ舌で言祝ぎ謳うことを許しましょう。赦しに歓びなさい。喜びなさい。啓蒙的真実による信仰は貴方の人生を豊かにするでしょう」

 

「は?」

 

 意識は、すでに定かではない。

 ここでどこで、今がいつで、自分はいったい何をしているのか曖昧になりかけているピグマリオンの前でテルミは、ニッコリと笑った。

 

「わたしは……お父様のことが一番大好きですが、貴方のことも好きですよ。ピグマリオン。ええ、本当に。ありふれた病み人の貴方。このヤーナムで生きたいと願う、貴方のことが好き。だからこそ、わたしもワガママを言いたくなってしまったの」

 

 ウフフ、と楽しげに笑う声が頭のなかで聞こえた。

 

「ヤーナムに相応しい『まともではない貴方』のことはもっと好き! 大好きなものと好きなものが一緒になったら、きっと素敵だと思うの。だから最も新しく、最も偉大な血を受け入れてくださいね?」

 

 遠近がおかしくなっている視界に輸血スタンドが見えた。

 つい先ほどまで赤に見えた輸血液は──幻覚だろう──夜空の色に変色しているように見えた。

 

「なぜ──どうして──そんなっ、さめた……青が……」

 

 自分は、どこかで何かを致命的に間違えたことだけが分かった。

 それがどこの何だったのか分からないうちに彼の意識は暗転した。

 

 間違っているようだが、それでも後悔のような後味悪い感情は残らなかった。

 持てる限りの情熱全てでピグマリオンは、テルミに恋をしていたのだ。

 熱い体と頭の奥からやってくる寒気が、奇妙な感覚として最後まで残り続けていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「やかましい」

 

 これだけを言いに来たブラドーが見たのは、失神しているピグマリオンとそれを甲斐甲斐しく世話しているテルミだった。

 

「ごめんなさい。ブラドーおじさま。患者が突然興奮したの。もう静かになったのでお許しになってね?」

 

 一時間が経過し、輸血が終わるとテルミはテキパキと器具を片付けた。

 ピグマリオンを拘束していたベルトを外すと倒れかかる彼を支えた。

 

「終わったならば、疾く失せよ」

 

「そうするつもりなのだけど、おじさまもピグマリオンをベッドに運ぶの手伝ってくださる? わたしもおじさまくらい背が高くなりたいわ」

 

「…………」

 

 小さな体のテルミでは、運ぶにも手間ばかりかかる。

 ブラドーはピグマリオンの首根っこを捕まえるとベッドに放った。彼の意識は相変わらず戻らないままだったが「ぐえ」と声を上げた。生きてはいるらしい。

 

「ありがとう。おじさま。目が覚めるまで見守っているわ」

 

「失せろと言うのに。まったく」

 

 汗の滲むピグマリオンの額を拭い、テルミは彼の目尻を撫でた。

 頬には乾いた涙のあとがあった。

 

「なぜ、そう入れ込むのかわからんな。月の香りの狩人もお主も。ただの病み人だ。救われぬ病み人だ」

 

 ──だからこそ、なのでしょう。

 テルミは静かに言った。

 眠るピグマリオンに寄り添う彼女はいつもより、とても小さく見えた。

 

「まともに生まれてこなかったわたし達が愛せるのは、まともに生きていない人だけですから。まともになれないこの人のことは、とても大切にしたいの。ふふっ。青ざめてる。可愛い」

 

「まとも。まともか……くだらぬ」

 

 彼は吐き捨てた。

 

「古い狩人は皆、その言葉を知っているのね。たしかに。まともであることは、くだらないかもしれないわ。単純に、予想が容易くてつまらないですからね。その気持ちも深くわかります。けれど」

 

 クスクスと小さな笑い声と共に彼女は振り返った。

 

「まともであることを捨ててもヤーナムの長い夜に耐え難かったように見えます。今は長い夜に変わりはありませんが、月が見ている夜です。すこしくらい失ったまともを取り戻しても悪くないと思います。夏の夜は冷えるわ。なのに人間性ってこんなに温かいもの」

 

 悪い夢に魘されているのかピグマリオンが苦しげに歯ぎしりした。

 ブラドーはテルミに背を向けた。

 納得したワケではない。だが、まともから遠い生まれの者が、まともさを説くとは少々皮肉がきいて愉快な話である。

 ただの楽観主義の小娘だと思っていたが、陰険で冒涜的なヤーナム人らしい性格でもあるようだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ……ぅ……さん……。

 

 誰かが呼んでいる。

 眠りは泥のように意識にまとわりつき、目覚めることが難しい。

 

「ん……ぐぅ、んんん……」

 

 わずかに身動ぎして眠りに集中する。

 

「寝ないでっ!」

 

 少女のキンキンと高い声が脳を貫通した。

 

「ハひッ!? ……?」

 

 ピグマリオンは、目を覚ました。

 気付けば椅子の上でうとうとしてしまったようだ。

 あたりを見回すと石畳の舗装された道を行く馬車がある。道を通行する紳士と目が合った。彼はクスリと笑って頭の上の帽子に触れた。

 明るい視界は、ゆっくりと巡り目の前の少女を映した。

 

「もう~。寝ぼけているの? 舞台に立っている時はシャンとしているのに、降りた途端にぼんやりしちゃう癖、よくないと思う!」

 

「ああ、すみません、すみません……?」

 

 咄嗟に謝りながら、自分はいったい誰に謝っているのだろうかと顔を上げた。

 ピグマリオンの目の前にいたのは、晴れた空に似た蒼の瞳、金色の柔らかそうな髪を肩の高さで綺麗に切り揃えた華奢な少女だ。

 彼女は、つまらなさそうな目をして頬杖をついていた。

 

「明日、わたしの誕生日なの。知っているでしょう?」

 

「ああ、そうでした。そうでしたね」

 

「……その顔。忘れていたの?」

 

 恨みがましい目から逃げるように彼はうろうろと視線を彷徨わせた。

 

「わ、忘れてなんかいませんよ。ええ。ただ、すこし、考え事をね。誕生日プレゼントは何がいいだろうとか……」

 

「お父さん」

 

 甘い声で、彼女は言う。

 家族だから聞くことの出来る、愛情のこもる甘えた声だった。

 彼らは席を立つ。指を絡め、先へ先へ歩く彼女を追いかける。

 

「誕生日だもの。特別な日にしてほしいわ」

 

「ええ、はい」

 

 ──そうですね。

 答えかけたところで、ピグマリオンは気付いてしまった。

 

『お父さん』

 

 その言葉はピグマリオンにとって特別なものだった。

 

 彼は誰かに愛されたかった。誰かを愛したかった。

 きっと誰もが抱く、ありふれた小さな願いだ。

 しかし、身に巣くう病が彼の全てを奪っていった。

 家族は、ひょっとしたら自分の健康よりも使命よりも欲しかったものだ。ずっとずっと欲しかった。

 

(あぁ、どうして……)

 

 だからこそ、気付いてしまった。

 

(私は。いま。永遠に手に入らないものを見ている)

 

 ピグマリオンは目の前の世界が、ただの夢だと悟った。

 夢には、手触りがない。重みがない。

 それは、嘘と同じだから。

 誰かと話した言葉が蘇った。

 

(それなのに……どうして幸せなのだろう)

 

 右手を握っていた娘の手がすり抜ける。

 

「お父さん?」

 

 不思議そうな顔をした彼女が振り返った。

 ピグマリオンは立ち止まった。

 彼女がいる日だまりの向こう側へは行けない。

 

「ああ。……月の御使いの貴女」

 

「……。月? どうしたの? お父さん?」 

 

「──私は貴女の父にはなれません。これまでも。これからも。ずっと永遠に。けれど貴女のために祈ることは出来ます」

 

 娘の顔は、突然の逆光で見えなくなった。

 

「優しい病み人の貴方、ここは夢なのに。悲しい病み人の貴方、せっかくの夢なのに。貴方は夢を嘘にしてしまう心算なのね?」

 

 ピグマリオンはその言葉に応えなかった。

 

「……どうか貴女が、甘き夜明けと共に健やかにあることを願うばかりです」

 

 彼女は笑った。

 

「不滅を知っていながら、わたしの健康を願うなんて! 貴方が絶対に得られないものをわたしに願うなんて!」

 

 これは嘲笑だろうか。それとも憎悪だろうか。あるいは悲哀だろうか。

 どれでも相応しい笑い声だった。

 

「病んでいない体。そして家族。……美しい夢をありがとうございます。あったかもしれない夢を見せてくれて……本当に」

 

 彼女の愛が本当であるのならば、その丈、苦しむ願いを込めてピグマリオンは祈った。

 

「どうか貴女の幸せを願う私の望みを叶えてください。叶うまで祈りを重ねましょう。──月の不滅の乙女よ、どうか甘き夜明けと共に健やかにあれ」

 

「身の程を知らない生意気な願いで、しかも懇願の気配がします。わたしだから聞くだけは聞くのです。月の恩寵に感謝なさい。──お父さんにもなれなかったお父様」

 

 悔しそうに彼女は言う。

 それがテルミの顔をした娘の言った、最後の言葉だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 いまや朝陽は、等しく深い谷にある古工房にも差し込む。

 白い光が瞼を通し、チクチクと意識を刺激する。光に誘われてピグマリオンは目を醒ました。

 

「あら、よかった。目が覚めたのね。──わたしのこと、わかるかしら?」

 

 椅子に座りながら目を覗き込んで確認した彼女は、次に指に触れた。

 今日は珍しくテルミの手の方が冷たく感じた。

 体調が良い時は、朝から体温が高い。

 ピグマリオンは気分が上向く予感がした。今日は活動的な日になりそうだ。しかし、解せないことがあった。

 

「テ、テルミさん……? 朝なのに、どうして、いらっしゃるんですか……?」

 

「貴方の目が覚めるまで待っていたかったの。昨日のことは覚えているかしら?」

 

「昨日……?」

 

 ピグマリオンが覚えている最も新しい記憶とは「貴方に、わたしの大切なものをあげます」と耳元で囁かれ、この古工房の扉をくぐったところまでだ。あれから何が起きたのか。彼には分からなかった。

 

「ええと……何と申しますか……あのー、そのー……」

 

 しかし、素直に『覚えていません』とは言えなかった。

『大切なもの』をあげたというならば、覚えていないことでテルミを落胆させてしまうだろう。それが彼には恐ろしかった。昨日、自分は何をしたのだろう。体は何ともない。ますます分からないが、頭のどこかで想像していた出来事が起きなかったことだけは確かだ。考え込んでいる間に不自然な沈黙になってしまった。ピグマリオンは観念してテルミに顔を向けた。

 

「あの……テルミさん……心苦しいのですが……」

 

「覚えていないのね。そう。いいのよ。輸血の前後のことは忘れてしまうことも多いのですから、人によって程度はありますけれど。では、夢は? 夢は見たかしら? 炎と獣の夢は見たかしら?」

 

「いえ……あ……」

 

 夢は見ていた。

 しかし、それはテルミの言う『炎と獣の夢』ではない。

 

「……貴女と外の街を歩く夢を見ていました。話の内容までは覚えていないのですが……何か温かい話をして……いたような。どうしてでしょう……おかしなものです。外の景色など……私は覚えていないのに……」

 

 テルミは、大きな目を丸くした。

 

「あら? 『願い』とは血にさえ宿るものなのかしら? お父様の望郷……? それとも貴方の……? あ。ううん。何でもないわ。いい子ね。幸せな夢だったのかしら。貴方の幸福は、わたしの喜びでもあります。よき夢が、よき導きとなることを祈っていますよ。体はどうかしら? 辛くはない? 今日は起きていられる日かしら?」

 

「ええ、今日は……大丈夫そうです」

 

 ベッドから身を起こし、深く呼吸をする。息苦しさはなかった。

 テルミは椅子から立ち上がった。

 

「大丈夫そうね。よかった。けれど、油断しないように。体調管理の記録は続けてくださいね」

 

「はい。必ずや……」

 

 もう行ってしまうのだろうか。

 ピグマリオンは、ベッドから下りると外套を手に取ったテルミの後ろをとぼとぼ歩いた。

 

「孤児院の朝礼が始まってしまいますから行きますね。……ああ、心配しなくともまた来ますよ。学校が始まる前ならば明るい時間にも来られると思います」

 

「そう……ですか……。いいえ、テルミさんのご都合もあるでしょう。無理はなさらぬように」

 

 ──もうすこしだけ一緒に……。

 気を抜けば願ってしまいそうな自分に気付き、ピグマリオンは口の内側を噛んだ。本来いないハズの人が今までいただけでも僥倖だったのだ。欲張ってはいけなかった。

 

「貴方は自分の心配だけしていなさい。わたしに無理なんて何もありませんわ。ああ、そう。──ピグマリオンさん、しゃがんでくれますか?」

 

 身を屈めたピグマリオンは、短い距離を小走りでやって来たテルミとぶつかった。「あ、失礼を……」と言いかけた彼は背中にまわされた腕でようやく抱きしめられているのだと気付いた。

 

「わっ……?」

 

「じっとしてくださいね」

 

 彼女は背伸びした。その時、頬に柔らかい感触が触れた。

 パッと離れたテルミは、明るく言った。

 

「お別れの『呪い』です。外の世界だと普通なんですって。ウフフ。おかしいですね」

 

「は、は、は……?」

 

 テルミの唇は、とても柔らかい感触だった。

 内緒と言うように人差し指を口に当ててテルミは笑った。

 

「もう行きますね。苦しくなったら、月に祈りなさい。願えば与えられることもあるでしょう。与えられないこともあるでしょう。それでも縋り、祈るのが人間というものです。信仰を尊び、月を慕いなさい。病み人には、ヤーナムには、それだけが相応しいのです」

 

 テルミは、そう言って朝の晴朗なる光のなか消えていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「……?」

 

 テルミは、孤児院のつまらない朝礼に出席しつつ考える。

 

(右回りや左回りに変態してしまうのかと思っていたのに)

 

 時間差があるのだろうか。それとも量の問題だろうか。

 

(一口だけと思って、お父様の血をつまみ食いしちゃった分が足りていないとか……?)

 

 あの古工房には優秀な狩人がいる。そしていざ彼が変態したとなればテルミも争いに加わるだろう。準備は万端だった。それなのに彼は変態しなかった。即効性があるという予想は見事に大ハズレだ。

 経過観察が必要だろう。結果が出たら狩人にも報告するとして。

 ひょっとしたら今の父たる狩人の血は、聖血の源に代わる『聖血』になるかもしれない。

 

「ウフ……フフ……」

 

 最も尊く偉大な血なのだということはテルミにとって疑うべくないことだが。

 ──お父様は、今よりもっとたくさんの人を幸せに出来るかもしれない。

 その空想は、テルミを楽しい気分にさせるものだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 いつ咳が出て苦しくなるか。

 ピグマリオンにとって朝も夜もなく、それは心配の絶えないものだった。

 

 テルミと出会ってからは、考え事に割く時間が減っていた。

 それが良いことであるのか。悪いことであるのか。判断を下すには早すぎるが、ここ二〇〇年以上、そればかりを考えていたことを考えるとそのほかのことを考えていくことも大切なのかもしれないと思えた。ただし、この考えは二〇〇年以上心配し続けていたことがまったくの杞憂であることを知って傷ついた事実も多少反映されている。

 

 ピグマリオンの日常は、テルミが行った『特別な輸血液』の輸血後でも大きな変化はなかった。

 数日、それとなくピグマリオンの容態を見ていたブラドーの目からも、やはり変化は察せられない。

 

 しかし、異変とはヤーナムの多くの異常がそうであるように、何でもない日常にこそ根付き葉を伸ばすものだろう。

 井戸から水をくみ上げ、手ですくい、花壇に水をまいていたピグマリオンは、視界の端に白い月を見て手を止めた。

 屈んだままだった腰を伸ばし、背中を伸ばした。

 

「あいたた……。椅子に座っているか、こうして腰を曲げているかの二択ですね、最近は。あぁ、それにしても月が……大きく見えますね」

 

 また夜が来る。

 耳を澄ませば遠く時計塔の鐘が物悲しげに鳴っているようだ。

 黄昏の風に当たっていたブラドーも白い毛皮の隙間から空を見上げているようだった。

 

「ただのまやかしだろう」

 

 庭の隅にある『使者の灯り』は、ぼんやりと光り出した。

 木々が陰を長くする度に、その光りは刻々と存在感を増している。

 そこはテルミや月の香りの狩人が現れる特別な場所だ。

 

「夜が、待ち遠しいと感じるのは初めてのことです」

 

「それもまやかしだ」

 

「そうかもしれません。けれど私は『それでもいい』としたのですから、とかく見咎めず、そう聞き咎めずに」

 

「…………」

 

 ピグマリオンほど月の香りの狩人やテルミに心を許していないブラドーには、不愉快な言葉であったらしい。

 ブラドーは革靴の踵をカツンと鳴らすと古工房に閉じこもってしまった。それを笑いかけながら見送ったピグマリオンも外に置いている椅子に腰掛けた。

 

 鼻歌を歌いながら彼は手足を伸ばした。

 

 長い夜も悪いことばかりではないかもしれない。

 その日の夕焼けは見慣れないほど赤く、すこしだけ煤けているように見えた。

 




ピグマリオンの手記(2)
 私は幸せな夢を見た。
 とても幸せな夢だった。
 残酷な、けれど素晴らしい思い出をありがとう。
 手に入らないからこそ、それは尊く。
 得られなかったものだけが、美しい。
 だからこそ。
 夢の未来は、私には眩しすぎるのです。

 ……あぁ、感謝します。
 ……私は獣ではない。
 ……まだ誰かの幸せのために祈ることが出来たのです。
 ……それがあの子であることが私は何よりも嬉しい。
 ……月の不滅の乙女。いいえ、テルミ……
 ……甘き夜明けと共に健やかにあれ……

■■
 これは幸運。それは不運。あれが幸福。どれが不幸。
 全ては月の思し召しで時々誰かとの巡り合わせ。
 彼らがどんな病み人か定義づけるのは、まだ狩人もテルミも早すぎる。
 ヤーナムにあるのは不幸と災いばかりに見える。とはいえ「それでも」を唱え続けたのが今。今日は昨日より善くなるかもしれない。今年は昨年より善くなるかもしれない。忘れても人の意志はいつかに繋がり、世界のどこかに遺り、巡っていく。人間性は、まだ暗く冷えて淀んでいないようだ。
 ピグマリオンが見つけた少女は病に食い荒らされたパンドラの箱に最後に残った希望かもしれない。
 夜明けを信じさせてくれる少女はいつか彼が願った健やかさを叶え、日当たりの向こう側へ旅立っていくだろうか? 彼はそう信じている。

青ざめた血(輸血液のすがた)+学徒の輸血液
 テルミにも何が起こるか分かりませんでしたが、青寒天のぷるぷる宇宙人になることはなく、獣になることもありませんでした。とはいえ、病がよくなったワケでもありません。
 ヤーナムを目指した人々がいつか夢見たように万能薬である輸血液になったのでしょうか。まさか。しかし、彼の幸福度が増したことは確実のようです。──まあいいか! よろしくなあ!

テルミ
 仔らのうち異性は『長い夜ですり減らし、失った可能性』ですが、そのうちテルミは狩人が早々に失った万人に対する慈愛や過激な残酷さを濃縮還元したものの一部を持っているようです。慈愛はともかく残酷さはしばしば間の悪い時と場所で発現します。特に彼女の気まぐれとワガママが起きた時にしでかすことはたいてい最悪になる傾向があるようです。ピグマリオンの内心を見透かし、辱めたのも性質の悪い残酷さです。普段は誰かのその感情に気付いても、言った方が品が悪くなるのでお口にチャックしていますが、彼を気に入りすぎて話しすぎてしまったようです。輸血については、お父様×お父様の可能性を探りたくなったのかな。
 とはいえ似ているとこもあります「自分が持っている物で最も良いものを貴方に与える」行為は狩人君が「仔らのためになるかもだし学校に通わせてみよう!」と思い立った動機と似ています。……慈悲も愛もここにある。ただし、深慮だけは留守になるようです。

第3シーズントップKill数を保守れるか
 ツキノコ(月の仔)狩りのKill数
 1位:ピグマリオン(2回)
 2位:レオー(1回)
 3位は無しですが、Goodアシスト特別賞に鴉が輝きました。カインハースト勢の躍進が輝きます。残りはメンシス学派、期待が高まりますね。……何だよこれ……。

更新について
 次話より『メンシス学派の夜2夜目』を3話編成でお送りいたします。

今後の更新について
 こちらのメンシス学派のネフライト編が終了次第、3年生章ホグワーツ編を投稿する予定でしたが、大幅加筆が必要になった為&毎日更新しながら加筆できる容量ではないことに気付いたのでしばらく投稿をお休みします。今のところ投稿再開の目安は1ヶ月後の程度を予定しています。
Q なんで投稿するまで気付けなかったんですか?
A 毎日数千字くらい加筆しているので今回もいけるかな、と思っていたのですが体力気力の低下により今回は頑張れないことが発覚してしまったのです。投稿作業で燃え尽きちゃうワケにはいかないので。……何とも情けない延期理由ですが、休んだらクォリティアップするんだな、という程度に見ていただければ幸いです。

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学会準備(上)


メンシスの学会
互いに学習するための会合のうち研修を兼ねたもの。
濃厚に高度で、ゆえに難度が高く理解できる者は限られる。

医療者であれ狩人であれ知を交わせる機会は貴重だ。
特に医療教会ことメンシス学派においては。



 

 ヤーナム市街のあるところに少年がいた。

 市街ではさして珍しくない、医療者に憧れる少年だ。

 家族は、父と母、そして妹に囲まれ、貧しいが穏やかな生活をしていた。

 ただ、早くに母親を亡くしたことが、彼の人生に大きく影響したのだろう。

 やがて彼は、父親より優れた医療者になることを夢にした。

 父親もそれを望んだ。

 少年は父親の『医療者』という職業を、ヤーナムに訪れる病み人を治す人と思っていたのだ。

 やがて、彼は父親の望んだ医療者になった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「めでたい話ですね」

 

 月の香りの狩人の仔のひとり。

 ネフライトは、薄い眼鏡の向こうで冷めた感想を述べた。

 

「私の昔話だよ。ところで、君は他人の感情に無関心なのかね?」

 

「学習しているので無関心ではありません。ただし詩歌の解釈は苦手です。ダミアーンさんがロマンチストであったとしても私は尊敬していますよ。物語は事実の再構成であり、理解の仕方の一つでしょう。神話が長い間、多くの人々に語られた理由でもあります」

 

「そうだね」

 

 老年にさしかかろうというダミアーンは、ネフライトがテーブルに置いたミルクティーを一口呷った。

 

「ときに。私が不在の間、学派に変わりはありませんか? 夜も近いというのに何だかバタバタしているような……」

 

「ん? ああ、君は初めてだったね。学徒達は皆、学会の準備で皆忙しいのだよ」

 

 ネフライトが所属するメンシス学派は、医療教会のなかでも神秘を探求する医療者の集団である。

 信仰団体の構成員ならば本来『信徒』と言うべき存在であったが、学派においては、彼らは『学徒』と呼ばれ、また自称している。信仰者であるよりも探求者の立場を他我に明示しているのだ。だからこそ、彼らは医療教会の装束ではなく、かつてビルゲンワースの学徒がまとった装束に身を包んでいる。

 そんな彼らにとっての一大イベントと称すべき出来事が迫っている。ネフライトは、肌で感じていた彼らの焦りの正体が分かった気がした。

 

「学会? ……研究発表会とは違うのですか?」

 

「数週に一度行う研究発表会は進捗報告に重きを置いているものでね。今回の学会は、成果発表と討論会を兼ねたものになる。三日後だ。これは一年に一度の特別なものだ。ああ、君にも働いてもらう。エドガールも一緒だが、夜詰めが必要になるだろう」

 

「問題ありません。何のお仕事でしょうか」

 

「本日零時。学徒達から資料原稿が上がってくる。発表の際に手元に置いて見る物だ。我々は『大要』と呼んでいるがね。それを学徒全員分に印刷する仕事だよ」

 

「印刷? 印刷機があるのですか?」

 

「ああ。活版印刷は知っているかね?」

 

「知識はあります。金属製の活字を並べてインクに浸して紙に押しつけるものですよね? はぁ、あるのですか、そうですか」

 

 ヤーナムが存在するのはおよそ十九世紀なのだから存在してもおかしくないのだが、いざ明言されるとネフライトは驚いた。

 そんなネフライトをどう見たのかダミアーンは、クスクスとおかしそうに笑った。

 

「零時が締め切りだが、まぁ、だいたいの学徒は期限を踏み倒すので君とエドガールには原稿の回収を頼もうかな。学徒は手負いの獣もかくやの荒れようだ。用心したまえよ、君」

 

「まさか。学徒ですよ。ハハハ」

 

 ネフライトは、学徒達のことを理性的な人々であると信じていた。

 まさかの出来事が起きようとは、夢にも思わなかったのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

 メンシス学派の夜は、明るい。特に今夜は明るかった。寝る間も惜しんで学会資料の作成に取り組んでいるのだろう。

 掃除の行き届かない建物の埃っぽい廊下を歩きながら、合流したエドガールと話した。

 くすんだ金髪を撫でつけた青年は、眼鏡の奥で興味深そうにネフライトを見た。

 

「ああ、そういえば学会のこと、ネフライトは知らなかったんだな」

 

「知っていたのならば教えてくれたらよかったのに。エドガールはどこのグループに属しているんですか?」

 

「僕は、まだ学徒の下っ端の下っ端だから、どこにも属していないよ。先輩方の資料を探す雑用係さ」

 

「そうですか。論文の出来を鼻で笑いにいこうと思ったのですが」

 

 ランタンに照らされるネフライトの横顔は、微かに笑っていた。

 

「僕は、ときどき君の自信がどこからやって来るのか不安になるよ。……はてさて。学会と言っても全てのグループが発表するワケではない。ミコラーシュ主宰から指名を受けたグループが発表する。カミラ、ブルース、ケンジット、スクワイア、ラッセルとまぁこんな感じ」

 

 エドガールは、学徒服のズボンから手記を取り出して代表的なグループ名を読み上げた。

 そのうちの一つ、興味が惹かれることがあった。

 

「ラッセル。そうですか。彼のグループも……」

 

「親しくなったのか?」

 

「私に夜食をせがむので知っているだけです」

 

「えっ。君、夜食なんて作っているのか?」

 

「食料庫から勝手に食材を持って行かれるよりマシです。人攫い、もといヤハグルの狩人達の軽食を作る必要もありますから」

 

 やがて二人は『カミラ研究室』と色褪せた板が張り付けられた扉の前で立ち止まった。

 まずエドガールがノックした。

 

「進捗いかがですか?」

 

 軽い調子で訊ねたが、なかなか返事が来ない。

 エドガールは半分開けた口でもう一度ノックした。

 

「ちょっと? もしもし? カミラ先輩? エドガールですが?」

 

「進捗、ダメです……」

 

 扉の向こうで切羽詰まった声が上がった。

 銃口を突きつけられたら、きっと、こんな声を出すだろう。ネフライトでさえそんな想像が働く声だった。

 

「ダメ!? 何で!? 締め切りは過ぎているんだぞ!?」

 

 扉をガタガタ揺らし脅迫しながらエドガールは言った。

 

「見れば見るほど論のアラが目に付くような気がして……いまグループ全員で推敲しているところです。頼む。別のグループを先に当たってくれ」

 

「一周終えたら戻ってきて、原稿を回収させていただきます。よろしいですね?」

 

「あ、ああ! 助かる! 最後に回してくれ!」

 

 ネフライトが、するりと言質を取ったのを最後に扉の向こう側はざわざわと口論が聞こえてきた。

 エドガールは困惑するばかりだった。

 

「ありがとう、ネフ。さすが機転が利くな。いや、そうじゃなくて。そもそも締め切り過ぎてるのに」

 

「あの様子では、説得は無理でしょう。まぁ熱心な学徒ぶりを見せたいエドガールがどうしても鍵や扉を壊して原稿を回収したいというならば、止めませんし協力しますが」

 

「……面倒だな。次行こう次」

 

 隣室の『ブルース研究室』は、流麗なカリグラフィー体で刻印された小さな板が扉につり下げられていた。ランタンで名を確認し、扉をノックしようとしたエドガールをネフライトが制した。

 

「どうした?」

 

「いえ、中に人がいる気配がしません」

 

「それって逃げた……ってコト!? まさか!?」

 

「仕事が増えましたね」

 

 原稿取り。行方不明になった学徒探し。

 かさみはじめた仕事を前にエドガールはうなだれた。

 ネフライトは、頭の中のダミアーンが「頑張ってね」とニコニコしている姿を幻視した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ラッセルのグループは、さすがに逃げてはいないだろう。ミコラーシュ主宰もダミアーンも言わないが、たぶん一番期待されているグループだ。──っていうか、そろそろ原稿が回収できなければ大問題だぞ。活字を拾うのも時間がかかるんだから……」

 

 エドガールとネフライトは、ブルースの研究室の後、ケンジットとスクワイアの研究室を覗いたが、どちらも思い出したくもないほど酷い有様だった。扉は──やはりというか、予想通りというか──開かず、ストレスとプレッシャーで情緒不安定に泣き出したり、怒鳴ったりする声が扉の内から聞こえていた。

 最後に残ったラッセル研究所はメンシス学派が所有する書籍を収めた一室に近く存在する。それは即ち、半ばそこの主と化しているミコラーシュのお膝元と言えた。

 

「ネフ、顔見知りだろう。対応を頼む……頼むぞ、本当に……」

 

 ノックを促され、ネフライトは扉を叩いた。

 

「もしも──」

 

「ひゃああぁあああ! ミ、ミコ、ミッミコ、ミコッ! しゅさ、主宰!?」

 

 扉は、ネフライトの右目を隠しがちな前髪を舞い上げるほど勢いよく開いた。

 

「人違いですね」

 

「ネフ!? あ、ああ、あああァ!? 資料の提出日って今日だっけ!?」

 

 取り乱して黒髪を掻き毟るラッセルのひと言は、今日巡ったどのグループの対応より疲れを感じるものだった。

 エドガールは、隠しもせず「本当にヤバいぞ、この学派」と毒を吐いた。

 

「てっきり主宰かと思って開けちゃった……! 資料は……半分できているが、でもでも、まだ完成には……」

 

 開け放たれた扉から中を覗くと学徒が五人頭を寄せ合ってあれこれと議論しているようだった。

 エドガールが強い口調で言った。

 

「活字を拾うのに時間がかかるので半分でも提出していただきたい。ダミアーンさんから急かされています」

 

「うっ。ダミアーンさんに……そ、そうか……半分、半分だが……」

 

 ネフライトは、資料を受け取った。

 ようやくの半分だ。

 

「ありがとうございます」

 

「締め切りを守れず、すまない……でも、妥協はしたくないと、とと、と……」

 

「ととと? トニトルスですか?」

 

 ネフライトは、手渡された資料をランタンの光で見ていた。

 類い希な記憶力を持つ自分にとって、一瞥で十分だった。

 

「モノ違いだな」

 

 キィと音を立てて隣の蔵書室が開き、ひょろりとした影──ネフライトは、檻を身長に見間違えた──ミコラーシュが出てきた。なぜか腐葉土の香りをまとっている。

 

「ギャ! ミコ、ミコ……主宰!」

 

「あぁ、学会。そういえば近々だったか。これは資料……? にしては少ないな」

 

「半分、半分ですので! ですので! 当日には完品で出しますので!」

 

 ラッセルは、泣きそうな顔で叫んだ。

 ネフライトの後ろではエドガールが「当日納品されても困るよ」とごもっともなことを言った。

 ミコラーシュは暗い目を資料に向けた。

 

「照明」

 

 誰がいったい何を指示されたのか。

 最も早く気付いたのはランタンを持つネフライトだった。

 ミコラーシュは腰を屈めて資料を見ていた。

 

「うん……うん……」

 

 ミコラーシュの反応は、いまいちである。

 ラッセルは今にミコラーシュに対し「どこが悪いんですか」と聞いてしまいたいのだろう。しかし「全部」と言われることを恐れて「あ、ひ、う、ひぃ……」と呻き声を上げていた。そもそも彼は緊張して「ミコラーシュ主宰」とさえ言えなかったのだ。

 ネフライトは、記憶した大要の内容を考えながら言った。

 

「悪夢領域へのアプローチの方法ですね。ミコラーシュ主宰が何年か前にお書きになった論文と同じ結論に至りそうなのは、学派の統一見解として良い傾向であると思います」

 

「よく知っている。ダミアーンの教育の賜かね」

 

 資料から目を離さず、ミコラーシュは訊ねた。

 

「主宰の論文から走り書きまで全て読みました。ダミアーンさんの書斎の蔵書の一つです」

 

「ああ、そこにあったのか。書いたのはもうずいぶん昔のような気がするが……? しかし、実験の基礎たる論拠としての強度はある理論だと思っている。だが古くさい代物になりつつある。代替または補強する論がそろそろ欲しいところではあるが……これでは、まだ至っていないようだな」

 

 二人の話を聞くエドガールだけが、ラッセルの異常に気付いた。

 ラッセルは、遂に泣き出した。

 

「あふ……! ふ……ぶ……!」

 

「ああもう、たかが先行研究が足りなかっただけじゃないか。主宰もネフもラッセル先輩をイジめてはいけないよ」

 

「……今後も頑張りたまえ。基礎研究はおざなりにしてはいけないものであるから」

 

 ミコラーシュは無感動にそう告げると猫背でヒョコヒョコと歩いて蔵書室にこもってしまった。

 

「あ。で、では、そういうことで」

 

 トドメを差してしまった気がするエドガールは、ネフライトの肩を掴むと足早にその場を立ち去った。

 彼らがすっかり去ってしまった後、グループが崩壊したのは言うまでもない。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 エドガールとネフライトは、ほとんどの原稿の回収を終えた。

 最後の原稿を手に入れる頃には、夜が明けていた。

 彼らが学んだことは、学徒達が泣いたり喚いたり叫んだりすることは『普通』の事象であり、なかには茫然自失や発狂もかくやという様子で資料を差し出すグループもあった。彼らの精神状態が心配である。

 

「学会なのだから賑やかになるのかと思ったが殺伐としているな。端的に言うとヤバいぞ。死人が出そうだ。皆、目が『血走った目玉』のようになっている。儀式素材がたくさん採れそうだよ……」

 

「何が恐ろしいのでしょう。ただの成果発表会なのに」

 

「ミコラーシュ主宰に質問されることが怖いのだろうね」

 

「ハァ?」

 

 古びたインクと黴の臭いが充満する印刷室は、隠し街の片隅に存在した。

 エドガールと共に戸棚から印刷に必要な活字を拾っていたが、思いがけない言葉にネフライトは手を止めてしまった。

 

「質問が怖い? 何ですか、それは?」

 

「ミコラーシュ主宰に他意はないんだろう。たぶん。ちょっと疑問に思ったことを何となく質問するんだろうが、それを答えられないと、衆目のなかでポツンと答えられない学徒だけが残る。考えるだに恥ずかしい。なにより、いたたまれない」

 

「知らないことや分からないことは、そう答えればいいだけなのに、どうして怖いと思うのだろう?」

 

「ネフは分からないだろうな。医療教会において、メンシス学派のやり方がとびきり奇妙なだけで、ここにいる彼らは医療者として選良だ。腕も確かだ。プライドもある。研究を続ける理由も。神秘を求める動機も人一倍ある。……答えられない自分を認められないほどにね」

 

「へぇ。そういうものですか」

 

「彼らは、大なり小なり犠牲を払ってきた。止まれないのだろう」

 

 ネフライトは活字を拾う作業に戻りながら、ダミアーンが話してくれた昔話を思い出していた。

 

「あ。そろそろ厨房に戻ります。整頓をお願いしますね。印刷は……」

 

「仮眠を取ってからでもいいだろう。夜通し催促に歩いたんだ。私にはもう『a』と『c』の区別も難しくなってきた。すこし休もう」

 

「分かりました」

 

 ネフライトは、教会式に一礼すると外に出た。

 隠し街に聳える建物は、規模こそ聖堂街や上層に劣るものの威圧的なまでに荘厳だ。

 隠し街の裏道を通り、ネフライトは厨房の扉を開いた。

 奥の食料庫からゴソゴソと人の気配がした。

 

「どなたですか」

 

「あ。ネフ。……悪いな、食料もらっているぞ」

 

 ヤハグルシリーズの狩人服に身を包み、鉄兜を被った男が振り返った。

 ヤハグルにいる狩人の一人、トニトルスという変わった仕掛け武器を使う男だった。

 ネフは腰に手を当ててこれ見よがしに溜息を吐いた。

 

「あまり持って行かれると困りますね。それに材料のまま持っていっても料理が難しいでしょう。いま料理しますよ」

 

「あー。すぐ食べられるものがいい。あと、持ち運びしやすいヤツ」

 

「貴方はいつもどこかへ持っていく話をしますね。……どこぞに猫を隠しているのですか?」

 

「…………」

 

 ネフライトは瓶詰めや肉の包みを受け取りながら彼が都合悪そうに押し黙るのを見ていた。

 

「言いたくないのなら構いません。けれど、私のように市街から連れてこられた人間だとしたら、あり合わせのモノばかりではいつか体を壊しますよ。栄養バランスを考えなければ。……この隠し街で医療者のお世話になることは避けるべきです」

 

「あー。うん、わかってるさ」

 

「学派の迷惑にならなければ、私はたいていのことを見過ごします。どうか、お忘れなく」

 

 水や炉の具合を調べているとトニトルスの狩人は、そばに椅子を持って来て座った。

 

「……ネフは誘拐されて来たにしては、物わかりがいいよなぁ」

 

「抵抗しても無駄ですからね。せいぜい愛想を振りまいているだけです。幸運なことにダミアーンさんに孫と思われていますし、ここでは食事も困らない」

 

「でも……きっと家族がいるんだろう?」

 

 トニトルスの狩人は、ガチャガチャと身にまとった鎖を鳴らし、被っていた兜を脱いだ。

 現れたのは黒い髪を短く刈り上げた、浅黒い肌の男だ。

 素顔を初めて見たネフライトは上の空で「ええ、まあ」と呟いた。

 

「帰りたいとか思わないのか? 帰れるかどうかは別な話だとしてもさ」

 

「私はここにいるように望まれたのですから、ここが私の家ですよ」

 

「望まれた? 誰に?」

 

「私が信じる唯一偉大なものによってです」

 

「……なんだ。お前もそういう手合いだったのか。たまにいるよな。そういう導かれちゃった系のヤツ……」

 

「私以外の全ては劣るもの。私だけが本物ですよ。自我という素晴らしき恩寵を与えた偉大なもの。最も忠実な私だけが、傅く幹に相応しい……」

 

「あっそ。啓蒙が高いってヤツか。何を言っているか分からん」

 

「でも手伝いはできるでしょう。お手すきならば芋の一つ、剥いてはいきませんか?」

 

 ナイフを手渡すと彼は素直に受け取った。

 食事を司っている者に対して逆らわないあたり、ヤハグル狩人がなぜメンシス学派に与しているかよく理解できた。

 ネフライトと同じように芋を剥きながら、彼は言った。

 

「細かい作業は苦手なんだが……いろいろ黙っていてくれるなら」

 

「ええ。美味しい見返りが貴方を待っていますよ。切ったら鍋にいれてください」

 

「まだ沸騰してないが」

 

「誤差です。誤差」

 

「意外とテキトーなんだな。──あいたっ!」

 

 彼は芋を取り落とした。

 見れば指から血が出ている。

 

「消毒して止血してください。芋は無事ですね。洗っておきます」

 

「芋より俺を心配すべきじゃないか? まぁ舐めときゃ治るだろう。芋って滑るんだな……」

 

 芋の代わりに肉を切らせることにした頃、厨房にふらりと学徒が現れた。

 ラッセルだ。

 

「ラッセルさん。申し訳ありません。まだ準備中です」

 

 ネフライトが厨房で声を上げた。

 たった今ちょうど鍋が煮えたはじめたところだ。彼も背伸びしてそれを見た。

 

「……ん、ああ、いい匂いがすると思ったんだが……気のせいだったようだ……」

 

 ふらふらと歩く彼は、来た時と同じように唐突に出て行った。

 

「ありゃ徹夜のしすぎだろ。目が真っ赤だった。先生みたいに……」

 

「ちょっとした不幸があって学会発表資料が全部パァになりましたし無理もないでしょう。私は早く次に取り組むべきだと思いますがね……ん? 先生? 学徒の誰かを先生と呼んでいるのですか?」

 

「……ぐ。口が滑った。何でもない!」

 

「ハァ……?」

 

 関心が薄そうな相槌をうちながら考える。

 ネフライトは、隠し街ヤハグルの全てを探索していない。

 どうやら彼には興味深い隠し事があるようだ。

 

「もう少し手伝ってくださったら、早くできますよ。皆さんが来るよりも先に裏口から食事を持っていくことも出来ます」

 

「仕方ない。うーん。手伝うか……」

 

「ええ」

 

 学徒が学会で気を病んでいても、ネフライトの仕事は減らず、やるべき日常の業務は多い。

 活字を拾い、学会に間に合わせなければならない。

 忙しいが充実していた。

 それは、燭台を磨き、いつもより一本多くの蝋燭に火を灯すよりも幸福を感じるものだった。

 

 だからこそ。

 彼の記憶は、些細な変化を見逃してしまったのだろう。




学会準備(上)

ネフライト編は3話編成でお送りいたします
『何を見て「やれ」って言ったんですか(困惑)』のクルックス編、『先達、好きですよ』のセラフィ編、『頑張れ♥頑張れ♥必死すぎ♥好き♥生きて♥死ぬかも♥生きて♥』のテルミ編をお送りして来ましたが、ネフライトくらいは平穏な日常を送って欲しいものです。


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学会準備(中)


ネフライトの懐中時計
ネフライトが持つ銀鎖に繋がれた小型の携帯時計。
ヤーナムと等しく、その時計は常に狂っている。
「時は巡っているか」
それが肝要なのだ。



 翌日も作業は続いた。

 学会まで、あと二日。

 ダミアーンが言った「夜詰めが必要」との言葉は本当のことだった。

 ネフライトとエドガールは日頃の全ての仕事が免除される代わり、狭い印刷部屋に監禁されていた。

 

 監禁とは、まったく誇張ではない。

 部屋の内外から鍵を掛けているのだ。

 半地下にあるこの印刷室が昔何のために使われていたのか。よく分かる象徴が扉の代わりに嵌まっていた。まだ試したことはないが、その鉄格子はネフライトの細腕では押しても引いてもビクともしないだろう。

 さて、この鉄格子。作業員の逃亡を防止する目的がひとつ。もうひとつの目的こそが最も重要で、それは学徒同士による大要の改竄防止のためだという。

 なぜ改竄が起きるのか。

 その理由についてダミアーンは呆れかえりながら教えてくれた。

 

 ──毎年いるのだよ。悲しいことだがね。

 ──貶しあいと罵りあいはヤーナムの常識みたいなものだから仕方ない。

 ──けれどね。大要を改竄することは、私論だが極刑に値すると考えている。

 ──そんな私情を差し引いても学派の健全な運営のために見過ごせない。

 ──まして他グループの足を引っ張ることは、許されないことだ。

 ──メンシス学派に権威主義は似合わないのだから。

 

 二人で「はあ、そうなんですか」と声を合わせたのが、半日前。

 メンシス学派は実力主義の傾向がある。

 年少の者が年長の者に口答えをした翌日、行方不明になることはない。ならば、実力主義は概ね健全に機能していると言えるだろう。

 とはいえ、問題が全くない──ワケではない。

 問題の表出の一角が、ダミアーンの言う改竄行為だ。

 行き過ぎた実力主義は容易く権威と結びつく。ともすれば足の引っ張り合いの成果主義になり、結果の捏造を招くものだが、メンシス学派において結果の捏造は困難だ。そのため最も簡単で浅慮な手段が求められる。改竄行為はその代表だ。

 

(人間の社会構造に見られる、よくあること。脆弱性とも換言できる。……レイブンクローにもあることだ)

 

 真面目に学習するよりも真面目に学習する生徒の邪魔をした方が自分の順位が上がるならば、そうする生徒もいるだろう。

 

「本当に大切なことは、自らの研鑽ではないですか」

 

 ネフライトがこぼした学徒への苦言にダミアーンは、ただ枯れた笑みを返した。

 彼らがダミアーンの研究室を去った後、そんな彼の下には虚ろな顔をした学徒が次々と訪れて「一生のお願いなので主宰の肩を揉ませて欲しい」とか「お願いです! 主宰に質問させないで! 死んでしまいます!」とか「主宰と実家の可愛い犬について話したいんですよ」とか言いにやってくるのも毎年の恒例行事と言えた。

 

 ネフライトとエドガールは作業を続けていた。

 そして、数時間の試行錯誤の末、活字を拾う作業と整列する作業で役割分担をした。

 終わるまで自室に帰ることも許されないが、疲れると無言で不機嫌になってしまうエドガールが、黄昏時の今にあっても他愛ないお喋りをする気力がある程度には順調である。

 

「前々から思っていたが、君の記憶力はどうなっているんだ」

 

 数秒たりと手は迷うことなく、戸棚に置かれた文字の金型を取り出しては並べていく。

 そんなネフライトを見てエドガールが言った。感心を通り越し、呆れた声だった。

 

「幸運なことに忘れられないだけです。……お気遣いなく。それを悲観したことはありません」

 

「昨日、ミコラーシュ主宰に渡した大要も一瞥しただけで内容を読んで見せただろう。文字なら何でも覚えられるのか?」

 

「何でも覚えられます。風景、人、物。何でもです」

 

「円周率の小数点以下、二〇桁目は?」

 

「六です」

 

「七日前、ミコラーシュ主宰が取り上げた本は?」

 

「ビルゲンワース元学長、ウィレームのカレル探求についてです。……私の頭の中が気になるのですか?」

 

「切開したところで分からないだろうね。しかし、便利だ。今度、書記の手伝いをしてくれ。議論の書き起こしにえらく手間がかかっている」

 

「私に手伝いが勤まるとは思いません。最初から私が書いた方が早いですから」

 

「体裁として僕が関わるのが大事なんじゃないか。君は知らないだろうが、ダミアーンさんから学徒に対して、君をこき使いすぎないようにお達しがでているんだ」

 

「どうりで。最近は夜食の注文が減ったワケです。ところでケンジットのグループの五十行目で『t』が足りなくなります」

 

「僕の作業待ちか。あいたたた。座りすぎて肩も腰もおかしくなりそうだ」

 

「作業が終わったら揉みましょうか」

 

「ありがたい……。えっ。君、そういうことするんだ? 大丈夫? ダミアーンさんに何か嫌なことされてない?」

 

「ただのお話の相手ですよ。特別なサービスはしていません。磯臭い方々は、なぜ皆そういう思考をするんですか?」

 

 磯臭い、とは。

 エドガールの体臭のことではない。

 

「シッ。よしてくれよ、そういう言いがかりは」

 

 白々しく言ってみせるエドガール。

 実のところ。この青年は、医療教会の二大会派の一派、聖歌隊からの間者。すなわち、スパイだ。それを知っているのはネフライトとダミアーンだけである。『泳がせている』と言えた。なんせ一年経てば何もかも元通りになってしまうここでは、いくら情報を探ろうが彼自身が覚えていないのだから無意味なのだ。

 時が違えば命より重い情報であっても、今は鴻毛より軽い。こうして軽口を叩くネタにしか使えない。

 

「君は、磯臭い団体のなかに百合か薔薇が咲いているように言うがね。そんなのは極々一部の先鋭化した関係のなかにしかないからな」

 

「……? 結局あるんじゃないですか?」

 

「そうなんだけど。そうじゃなくて。メンシス学派が総出でミコラーシュを担ぎ上げているのと同じ熱狂があるんだ。冷静に考えてみるといい。ミコラーシュ、だいぶオッサンだぞ」

 

「それが?」

 

「老いも若きもミコラーシュにゾッコンじゃないか。……まぁ、実際のところは彼のことは優秀だと思うよ。たしかに、悪夢に関する理論も容赦ない実験も知見を積み上げているが……オッサンだぞ」

 

「外見で判断しようというのですか? 聖歌隊が」

 

「シーッ! よせよせ、君を明日の検体に回したくないぞ! まったくもって学徒連中はいつでも猫の手も借りたいくらいに忙しいのに」

 

「でも、気になりますね。エドガール、貴方はミコラーシュ主宰のことをそんな風に考えていたのですか?」

 

「熱狂に乗り切れない人には、そういう風に見えているものだ。渦中の君たちには見えないだろうがね」

 

「ふむ。なるほど。記憶しました。貴重な意見です。ミコラーシュ主宰は、まぁ、外見は初老に足を突っ込んでいます。私としては、もう少し食事の量が増えたら若々しく見える時もあると思っています」

 

「ああ、それは僕も思うよ。髪が黒いせいかな。仕事柄よく喋るから顔の皺は少ないし」

 

「手が止まっていますよ」

 

「わかってるさ……。ああ、ブルースのグループだ。刷ってくれ」

 

「承りました」

 

 大要は四ページだが、五グループがあるため、最大で二〇ページもの作成が必要だ。

 印刷には、活字と呼ばれる金型で作られた文字を学徒達から集めた大要のとおりに整列させ、活字同士を数本の紐で結びつけ固定する。それを組版ステッキ上に並べ、数行ごとに刷っていく過程を経る。

 活字を選んで並べて結んで刷って、解いて並べて刷って。完成までそれを繰り返すことになる。

 通常であれば数日を要する作業だ。

 けれど、今年は二人の人足があり、さらに絶対記憶を持つネフライトの特性により作業速度は常に比べれば速い。大要原稿の徴収に遅くまで時間がかかったにしては幾分の余裕がある。

 

「今のところ誤字脱字はありません。念のために乾燥時間を設けても予定時間に余裕を持って配布できるでしょう」

 

「最っ高だ。これからぐっすり寝ても間に合うじゃないか。君が手伝ってくれてよかった」

 

「褒めても夜食しかでませんよ」

 

「十分だよ」

 

「今日は無理ですけどね」

 

「わかっているさ。なんせ互いに檻の中だ。……ああ、そういえば配給はまだかな。時間を確認できるかい? そろそろだろう?」

 

 ネフライトは懐中時計を手繰り、時刻を読み上げた。

 

「手間取っているのかもしれませんね。……どうしてもお腹が減っているというならば、手持ちの輸血液が小瓶数本。学派印の栄養ドリンクがありますが」

 

「どっちにしても嫌な選択だ。輸血液、飲んだことある?」

 

「興味本位で飲みました。『酔う』という感覚が知りたくて」

 

「どうだった?」

 

「美味しくありませんでした。あれを好んで嗜んでいるカインハーストの貴族共は頭がおかしいのでしょう。経口摂取には向きません」

 

「でも君はそれを僕に食べさせようとしたよね?」

 

 ネフライトは、さりげなく檻の外を見た。そっぽを向いたとも言えそうだ。

 

「はて。胃袋が空になる方が問題が大きいと判断しました。他意はありません」

 

「君はそう言うけれどね。……。しかし、本当に遅いな。何かあったのだろうか?」

 

 エドガールは身動きを止め、目を閉じた。

 遠くの音に耳を澄ませているのだ。

 しばらくネフライトも呼吸を止めて外に耳を澄ませた。特に変わった臭いもしない。

 

「そう、ですね。……多少気がかりに思える時間になりつつあります。しかし、この部屋には鍵が掛かっていますし奥のトイレにも格子が嵌められている。……エドガールが隕石の爆発を起こしてトイレごと爆散するという手もありますが」

 

「無いよ。君、マスターキーなんか持ってない?」

 

「ありませんね。私はダミアーンさんの孫という設定ですが、その正体は、市街から連れ去られてヤハグルにいる虜囚でもありますから」

 

「なんてダミアーンさんに有利な設定だ。クソ。ピッキング、僕は得意じゃないがやるしかないな……」

 

 エドガールが奥の戸棚をゴソゴソと音を立ててあさる。

 本日の作業が終了し、ネフライトは椅子に腰を落ち着けた。色彩に乏しい薄暗い屋内で彼の背を見ていた彼は、そのうち地上に意識を向けた。

 

「そんなに外が気になりますか? 食事が来ないのは気がかりではありますが、それだけだ。気が進まないでしょうが、栄養ドリンクもある。注射器もあります。必要であれば輸血液で活力を賄うことができる」

 

「どちらも君が使うといい。そして僕が出て行った後、もう一度、内側から鍵を掛けて閉じこもっていてくれ」

 

 エドガールは目当ての針金を見つけ出し、指先でクルクルと回した。謀ったように出てきた針金をネフライトはチラと見た。

 

「私は……前々から言おうと思い、機を逸し続けて今に至るのですが……私には貴方が聖歌隊の熱心な間者であるように見えません」

 

 彼の危惧する異常事態が起きている場合、外へ行くのは当然だが危険が伴う。

 その危険を受け入れる理由とは、彼の間者という立場を考えれば、聖歌隊への忠義と見えるだろう。

 だが、これは日頃の考察により否定されるものである。

 

「貴方はメンシス学派に余計な口出しが多すぎる。それは時に学徒への助言であり、医療者への諫言であり、危機の際に身を挺して主宰を守ることでもある。……間者にしては、ずいぶんと入れ込んでいるではないですか」

 

「それは自覚しているところだ。しかし、よく見ているな。記憶がいいのはこういう時に厄介だよ。本当に」

 

 エドガールの目にほんの一瞬、不穏な光が宿る。だが、すぐに消えた。

 

「記憶の問題ではありません。私は、磯臭い演技ならば鼻をつまむほどに見飽きている。だから貴方のそれが演技ではないことも知っている。……もし外で異変が起きているならば、貴方だって無事では済まない。冷静な判断力を欠いている。蛮勇です」

 

「自分でもそう思うよ。ちょうどキリがいいタイミングでゲラも終わったことだ。空きっ腹でもいい。このまま眠って、朝になるまで待ちたい。……でも、僕はヤハグルで起きる怪奇に慣れたくない。もしも、次に獣狩りの夜が現れるのならばその原因はメンシス学派だろう。確信がある」

 

 かつての未来において。

 エドガールの推測は当たることになる。

 

「……根拠は?」

 

「認めたくないがミコラーシュはある種の天才だ。そのうち悪夢にも手が届きそうだ。ひょっとしたら、その先にさえ……。……。いいや、そもそもね。狂気に混沌。ついでに冒涜の末子、ヤーナムであってもこのレベルの気狂い学派がそうそうあってはたまらない。……ところで君が手助けをしてくれるのならば、ぼかぁ手早く出て行くことができるんだが、どうだろう?」

 

「……。発言の意図が不明です」

 

 二人は睨み合い、互いに立ち尽くした。

 互いに丸腰で武器はない──ように見えるが、医療者たるもの毒に塗れたメスを携帯しているのは生活の常だ。

 ネフライトは、肩を竦めて両手を挙げた。争う気はなかった。

 

「磯臭いクセに察しの悪い人です。私は虜囚と言ったでしょう。──学徒のご命令ならば私は従うしかありません」

 

「鍵の形は覚えているだろう? 幸いにも君は何でも覚えていられるんだから。針金だ。鍵を作ってくれ」

 

「承りました。ただ、時間がかかります。その間、せいぜい耳を澄ませていることです」

 

「頼むよ。……君って意外とお願いを聞いてくれるよね?」

 

 針金を受け取ったので状態を確認した。

 指で曲げることが出来る程度に柔らかい。

 

「私は、ネフライト。学派に最も親しい賛同者。貴方がメンシス学派に明確に敵対しない限り、私は貴方の最大の味方となるでしょう。具体的に言えば、ミコラーシュ主宰に発砲などしなければ、大抵の場合、私は味方です」

 

「なんて僕に有利な設定だろう。捗るなぁ」

 

「そういえば貴方の弟とかいう設定もありましたね」

 

「そういえばそうだったような……? まぁ、あの黒髪のくしゃくしゃ頭に水銀弾を撃ち込むときは覚悟しておこう」

 

「そんな日が来ないことを祈りたいものです」

 

 針金を折り曲げて数分もしないうちに、壁に張りついて耳を澄ませていたエドガールが空気を噛んだ。

 

「シッ。──誰か来るぞ。学徒の足音じゃない。狩人だ」

 

 隠れる間もない時間だった。

 半地下にある印刷室の扉まで飛ぶように駆け下りてきた狩人が「オイ!」と大きな声で呼びかけた。

 

「はい。いますよ」

 

「──なっ。その声、ネフか? ここにいたのか。よし。じゃあ、ここは無事だな」

 

「トニトルスさん? 何があったのですか?」

 

 ヤハグルの鉄兜を被った男は、トニトルスの呼称に多少驚いたようだったが、答えてくれた。

 

「学徒の行方不明者が出た。ダミアーンが陣頭指揮を執って学徒隊と狩人が総出で探している」

 

「誰だ? そんな。いったい誰が……?」

 

 エドガールが鉄格子を握り、すこしでも外を見ようとつま先立ちで跳ねた。

 

「知っている顔だ。ラッセルだよ。昨日、目つきがおかしかったのは俺達の見間違いじゃなかったってコトだ」

 

 トニトルスの狩人は「ここにいろよ」と言い残し、去ろうとした。

 エドガールは慌てて鉄格子を叩いて大きな音を出した。

 

「待ってくれ! ミコラーシュ主宰は? ダミアーンさんはなんて?」

 

「さあね。何にせよ、誰にせよ、明け方には終わらせるだろうさ。ミコラーシュは……どうか知らないが、少なくともダミアーンはそういう指揮をしている。だからお前達もここにいろ。そこ、あれ、印刷室だっけ? 檻の中なら安全だ。蝋燭があるだろう。獣除けの香はないが火だって無いよりマシだ。燃やしておけよ」

 

「待ってくれ! 僕は戦えるぞ! ここから出してくれ!」

 

「たかが人攫いの俺が! 鍵を! 持ってると思うか!? ええ!? 学徒様よ!?」

 

 焦りのような苛立ちを浮かべたトニトルスの狩人は、鉄格子を蹴飛ばした。もちろん鉄格子はビクともしなかったが、威嚇的な音が出た。エドガールは素早く鉄格子から離れて「ドウドウ」と宥めるように両手を挙げた。

 

「……あぁ、うん、無いよね。知っていた気がするよ……」

 

「じゃ、そういうワケだから」

 

 トニトルスの狩人は右手に狩り武器を握ると半地下の階段を上っていった。

 その足音をネフライトは遠い場所で聞いている感覚があった。

 

「ネフ、急げ! まだ完全に変態していなければ獣化の部位切除で延命できるかもしれない。四肢のいくつかを失うとしても、最初の狩人も片脚だったという伝承もある。まして学徒ならば頭が無事なら生きている価値は十分に──……ネフ?」

 

「み、見落とした? 私が? この私が? 目の色は思い出せるのに……? 瞳孔の歪みは光の加減に見えていた……まだ崩れてはいない……獣化が進んだ……? こんな短期間に……? 進行が速すぎる……」

 

 ぶつぶつと呟き、考え事に沈んでいたネフライトはエドガールに肩を叩かれて我に返った。

 

「ネフ! 急ぐんだ!」

 

「ハッ。……出来てますが、もっと手っ取り早い方法があります。壁を向いて耳を塞いで大きな声を出してください」

 

「ああ、任せろ! ……ん? な、何だって!?」

 

「言うとおりにしてください。私がこんな物を使わなくてもいいようにしてやると言っているんだ」

 

 ネフライトは、曲げた針金を部屋の隅に放った。

 その軌跡を眼鏡の奥で追ったエドガールは、口が閉まらないようだった。

 

「マスターキー、持っていたのか!? なら早く開けてくれ!」

 

「私が『壁を向いて耳を塞いで大きな声を出せ』と言っているんだ。狩人に繰り言は不要なのでしょう。さっさとやってくださいませんかね?」

 

「正直、僕は君がさっぱり分からないときがある。まさにこういう時だがね。だが策があるんだな、信じるぞ。後で『ホントにやりやがったアイツ』なんて笑ったら黒獣の餌にするぞ。いい? いくぞ? ウワァアアアーッ!」

 

 同時にネフライトは、ベストの裏に納めていた杖を抜き「アロホモラ 開け」と唱えた。

 異なる神秘であれ、正しく機能したようだ。ガチ、ガチ、と硬質な音をたて二個の鍵が解除された。

 ネフライトは杖をしまい、まだ叫んでいるエドガールの背を突いた。

 

「もういいですよ。しかし、貴方の声はよすぎる。歌わなくとも出自がバレそうだ」

 

「ああ、どうも。……驚いたな」

 

 開いた扉を見てエドガールが眼鏡の奥で目を丸くした。

 二人で階段を駆け上がりながら、彼は溜息を吐いた。

 

「本当に開けるとは……。いったい君にはいくつ秘密があるんだ?」

 

「私は学派の使用人です。必要な時には閂に。求められれば鍵にもなりましょう。そういう設定でお願いします」

 

「なんて君に有利な設定だろう。……当分はそういうことにしておくけどね。いっそ君を上層に拉致ってしまえば学派の秘密を手に入れたも同然なんじゃないかと思う時がある。どう思う?」

 

 建物の影に身を潜め、周囲を伺う。

 ネフライトはエドガールとは反対側を警戒した。

 

「そんなことよりも、私は『はぐれ聖歌隊』がメンシス学派でどのように扱われるかの方が興味がありますね。やっぱり穢れた血の末裔ですから、生きながらに解剖されるんでしょうか? ……貴方がたまたま生きているのは私にとって優先順位が低い興味という理由だけですよ。お忘れなきように」

 

「ダメか。残念だよ。君なら上層でもいい医療者になれる。つまりは、腕の良い神秘の探求者という意味だけど」

 

「一種の褒め言葉として記憶します。貴方も私に劣らず、よい学徒になれますよ。果ては右回りの変態か、左回りの変態か。とろけた学徒の線もなきにしもあらずです」

 

「ハハハ。いいセンスだ。そういうセンスがヤーナムで最も陰気な隠れ街には相応しい。──生き物の気配はしないな?」

 

「ええ。しかし、どこか行く宛てが? 獣の隠れ家に心当たりでも?」

 

「無いよ。一旦、自室に戻って仕掛け武器を回収したい。メスだけで獣に会ったら最悪だ」

 

「ならば厨房の方が近い。床下に武器の貯蔵があります」

 

「それを早く言ってくれ。……どの道を通ろうかと計算していたのに」

 

 黄昏は、もう夜に変わりつつある。

 二人は周囲の警戒をしつつ、隠れ街の細い路地を歩んだ。煤け、汚れ、傷んだ石畳を二人は小石を転がしながら駆けた。息を切らし、汗を拭って走った。それでも間に合わないほどにヤハグルに訪れる夜は早かった。

 厨房の扉を蹴破り、エドガールが壁伝いにあちこちに触れた。

 ネフライトはすぐさまランタンを手に取り、マッチで火を点けた。

 指先で炎を消し、ランタンを頭上高く掲げると思わず息を止めた。

 

「武器は!?」

 

「待って。……エドガール」

 

 厨房から食堂へ繋がる扉は、わずかに開いていた。記憶とは異なることがネフライトにだけ分かった。

 細い隙間の向こう。

 輪郭もつかめない、ぼんやりした姿であってもそれが人だと分かってしまうのはなぜだろう。

 ──誰かいる。

 吐息だけになった言葉で、ネフライトはようやく、それだけを言い切った。

 




学会準備(中)

背中がガラ空きだぜ(公式)
 本作を書いている間にとうとうELDENRINGが発売されました。
 公式に背中を刺されたという感覚をまさかELDENRINGに感じるとは思いませんでした……とは口が裂けても言えないです。Bloodborneの漁村とSEKIROの水生村にあったナメクジ(魚)のような極端な例こそありませんでしたが、ゲームの世界観・大本は変わってもそれぞれのモノが象徴する哲学には一貫性を見出したくなるものです。今回はテキストがこれまでの作品とは比べられないほど多いだろうし、何かこれまでと関連する系のヤバいものが出てくるんだろうな、と思っていたです。
(もちろん、ELDENRINGが(具体的な作品)の続編だ!とか言いたいワケではありません。念のためにね。……もちろん二次的には夢のある話ではありますが)
 ネフライト編とテルミ編は特に刺された気分になりました。
 研究機関と権威主義の関係。知力と信仰、盲信の関係。被造物と造物主の関係。依存と忠誠の関係。……思いついたのはこの辺ですが、おぉぉ(驚愕)やってくれたね(嬉しい)の気分でいっぱいになりました。
 だから創作はやめらんねぇ……てやんでぇ……(どうしよう)

実力主義
 皆さんご存じ。ハリポタ原作本編においてレイブンクローが主舞台になることが無かったため──どころか主要キャラとして後半にルーナが出てきた程度でなかなか寮及び寮精神がどのようなものか掴みにくいものがあります。
 ネフライトは、レイブンクローに蔓延る成績主義をそのように捉えているようです。
 ──引っ張れるだけ引っ張って知らんぷり。
 ──騙されるヤツが愚者で優しい者が損をする。
 彼は開かれる予定の学会が目的とするように人間全体の底上げを目指している人なので、そんな生徒とはソリが合わないことでしょう。

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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学会準備(下)

 ラッセルという青年について。

 ネフライトが知っていることは多くない。

 約一〇〇人規模のメンシス学派にありふれた、ただの学徒である。

 ネフライトの頭の中にある情報は、それだけだ。

 

 だから。

 こんなときに何を話すべきか。

 ネフライトには、正しさが分からない。

 

「こんばんは、ラッセルさん」

 

「ああ、暗くなっていたのか。……気付かなかったよ。ここはずいぶん明るいから」

 

 ネフライトは、彼の顔色も表情も分からないほど暗い闇の中にいる。

 唯一の光源は、ネフライトが持つランタンだけだ。

 

「皆、貴方を探しています」

 

「ああ、そうなのか。どうりで外がうるさいんだ」

 

 まるで他人事のように彼は言う。

 声色は平坦だ。無感情で自棄になっているとネフライトは感じた。

 だが、夜の屋内に手元の明かりだけでは瞳の確認ができなかった。

 

 

 小さな食堂の椅子に佇むラッセルを見かけたネフライトとエドガールは一計を案じた。

 ──僕が背後をとる。君は注意を引いてくれ。

 ──もし、彼が獣になったとき?

 ──僕がラッセルを殺す。

 ──それまで君は、あらゆる手段で逃げてくれ。

 ──逃げられなかったらできるだけ時間をかけて死んでくれ。

 ──食べられている間に僕が仕留めるよ。

 ──僕らに幸運が傾くように祈ろう。

 互いに顔も見ずに、腕をぶつけて二人は別れた。

 相手を刺激しないためネフライトの武装は、腰のベルトに差した短剣ミセリコルデしかない。

 ある国の言葉では『慈悲』の名を得た短い剣だ。

 十字を模す剣が必要になるのは果たしてラッセルか自分か。

 分の悪い賭けを挑んでいると思う。

 クルックスではあるまいに。

 

 

 目標は、獣化の傾向があったとしてもラッセルを保護することだ。彼の処遇はミコラーシュとダミアーンが決めるだろう。

 ネフライトは両手を体の正面で握り、しきりに親指をすり合わせた。

 

「お疲れが見えるようです。寝所へ付き添いいたします。そして明日はお休みになるといい。……香りの良いお茶をお持ちします」

 

「明日、か……」

 

 まるで遙か遠い景色を見るような声で彼は言った。

 それから、暗い闇の中でラッセルと目が合ったような気がした。ネフライトは見つめられている視線を覚えた。この感覚はヤーナムの夜に生きる狩人にとって必須の勘だった。

 

「君は、いい子だね……。君のような子がいるのなら、ヤーナムもまだ棄てたものではないのかな……」

 

「何をおっしゃっているのか。私には……分かりかねます」

 

 慎重に半歩進んだ。

 途端にプンと鼻先に血の臭いが漂った。

 彼に気を取られて注意が疎かになっていたが、彼のいるテーブルには血の酒が転がっていた。瓶がランタンの光を反射し、鈍くオレンジ色に光っていた。

 ラッセルは、ひどく飲んでいるのだろう。

 よく聞けば、彼の呂律は甘かった。

 

「学派は、ほら、快いことばかりではないだろう。市街から人を攫って実験している。……僕は、もうずっと前から限界だったのかもしれない。……ここ数週間、実験なんてしていないハズなのに今も耳の奥で声が消えないんだ……」

 

「幻聴です。貴方に必要なものは睡眠なのですから」

 

「眠くないんだ。もう、ずっと、ずっと、眠っていない」

 

「ならば、貴方はここにいるべきではない。早く。立って。──立て、立て! 立って! 帰るんだ!」

 

 ラッセルは立った。

 ネフライトは、望んだことが起きたというのに恐ろしいと感じていた。

 やがて彼はネフライトがそうするように両手を組んだ。

 

「学派が視座高き叡智を得ることを祈るよ。願うならば、我ら学徒の智恵によって啓かれんことを」

 

「…………」

 

 ラッセルは力なく言った。

 

「実はね……。僕は悪夢だとか、上位者だとか。本当は信じたくなかったんだ。何も期待したくなかったんだ。裏切って欲しかったんだ。『人間よりも人間ではないモノの方がマシだ』なんて嫌じゃないか。とても空しいじゃないか。そんなもので作られた人生に何の価値があるのだろう? 人間の尊厳はどこにある? でも、主宰は、獣性を持つ人間に何も期待していないんだろう。だからもう僕は学派で生きていけなくなってしまったんだよ……」

 

 ネフライトは、最後に一歩近付いた。

 手元の焔が、闇のなかで疲れきった学徒を明らかにした。

 

「もし、君が学派に心寄せるなら……僕の代わりに頼むよ、君……」

 

 ネフライトは唐突に夏休みの初期を思い出していた。きょうだいで夏の海へ出かけた記憶だ。

 あの時、クルックスは、人の願いに罪はないのだと言った。父たる狩人もそれに同意したのだとも。

 あの時、聞き流した言葉には、たった今、異なる感想が生まれた。

 人の願いは、呪いと同じだ。

 

(そんな言葉で、私を呪わないでくれ)

 

 口を閉じたまま、ネフライトは噛みしめた歯の隙間から呻いた。

 その時だった。

 回り込み、背後から近付いていたエドガールがラッセルの背後で腕を取り、押し倒した。

 

「頼むから! 暴れないでくれよ! ……それだけで全部が済むんだから。ネフ!」

 

 ネフライトは記憶していたハズの作戦を思い出し、肩を跳ねさせた。

 エドガールがラッセルの体を確保したら、その瞳の確認はネフライトがする役割分担だったのだ。

 何かを叫び、暴れるラッセルと目が合った。

 

「あ──。崩れ、て、います……」

 

 狩人は言う。

 血に酔った瞳は、正気を無くした狩人の目だ。そしてそれは獣の兆候でもある。ネフライトにとっては聖杯の多くで見飽きた瞳の形だった。

 獣化とは、医療教会の研究の一説によれば『神秘』と『獣性』のせめぎ合いにおいて、獣性が勝る場合に引き起こされる変態なのだと言う。

 いまだDNAを解さない時代の人々であるヤーナムの医療者がなぜ自らに宿るものが、右回りの遺伝子だと知っていたのか。なぜ獣化を『右回りの変態』と呼ぶのか。

 その定説は明らかではないが、結果は目の前に顕れた。

 そして、ビルゲンワースに興り、後に継承され医療教会の研究となった一説がある。曰く「上位者とは、いわば感応する精神であり故に呼ぶ者の声に応えることも多い」

 

「ああ、こんなにも僕らは正気なのに! 彼方の神よ……! こんな、そんな、だって、ああ、どうして、なぜ、ヤーナムに生きる僕らを見棄てたのか!?」

 

 たとえば。そう。こんな嘆きのような祈りさえ、自らを呼ぶ声としてどこかの上位者は拾い聞く。

 それはある時は父たる上位者なのかもしれない。だが、彼はこんな声は聞かないだろう。まして滅多に願いを聞き届けはしない。

 だからこそ、今のヤーナムで応えるのは、いつもどんな時も人の心を知らない上位者と決まっている。

 ヤーナムのどこかにいる他の上位者。あるいは、ヤーナムの外のどこかにいる上位者。はたまた、地球上という概念の存在しない、狭間の地。認知外の上位者。外なる上位者。

 ──それらは、きっと応えるだろう。

 悪意なく、害意なく、助けを求められたことさえ理解せず、ただ感応する精神であったがために。

 敢えて近代的に言えば、機械的に。

 ゆえに人間には、まさしく悪夢的結果しかもたらさないのだが。

 

 エドガールがラッセルの腕を押さえつけながら、腰のベルトから銃を抜いた。撃鉄を起こす。引き金に指がかかる。照準はもちろん彼の後頭部。

 その動きがネフライトには、よく見えた。

 

「エドガール、まって──!」

 

 ネフライトが苦しげに言った、そのひと言が息を呑むエドガールをわずかに逡巡させた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ハハハ。酷いものだな」

 

 三階建ての建物に突き出したバルコニーから眼下を見下ろしているのはメンシス学派の主宰、ミコラーシュだ。

 六角形の檻の中、暗い瞳を嬉々と輝かせ松明が右に左に動く様を見守っている。

 無論、彼にとって特別楽しいことが起きたワケではない。

 ちょうど部屋へ入ってきたダミアーンは素早く扉を閉め、バルコニーに飛び込んだ。

 

「こんなところにいたのか!」

 

「ああ、特等席だ」

 

「笑い事ではないぞ、ミコラーシュ。君には私が付こう。早く安全なところに」

 

「旧き神の真上に作られた街で、今も上位者の腕に抱かれるヤーナムのどこに安全な場所があるというのかね? どこにいても同じだ」

 

「……それはそうだが、気分の問題だよ」

 

「今日は赤い月の昇る獣狩りの夜ではない。だが人は獣に変じるだろう。いつものことながら秘匿は完全ではないのだ。だからこそ人から獣性を取り除くのは初代教区長、ローレンスからの悲願であり、医療教会が頭を悩ませる最古の研究のひとつでもある。そういえば最近、聖歌隊に進捗はあったと見えるかね?」

 

「あれば間者など差し向けてこないだろう。今年も収穫はナシだ」

 

「そうか。残念だ。骨の比較による獣化の比較調査より、彼らはもっとマシな発想を持っていると思っていたが……そう、うまくはいかないものだな。我らが誰も諦めていないように、彼らも諦めはしないだろうがね」

 

 刹那。

 獣の大きな声が、聞こえた。

 銀色の月と宝石箱をひっくり返したように眩い星ばかりが輝く夜に、獣の声が隠し街に響いた。

 ダミアーンには、その声が不本意で驚きに満ちた声に聞こえた。ミコラーシュにはどう聞こえたのだろうか。見ると彼は獣の声に耳を澄ませていなかった。

 

「そういえば『聖職者こそが最も恐ろしい獣になる』と言ったのは、どこの古狩人だったかな?」

 

「さてね。オト工房か。火薬庫だったかな。どちらにしても懐かしい言葉だ。……かつてを思えば、聖職者の獣も今ではずいぶん小ぶりになったものだ」

 

「ああ。ふむ。『獣化した身体から上位者の影響を計る』とは面白い観点だ。学徒の誰かに研究指揮を執らせたまえ」

 

「それは構わないがね。君は?」

 

「私はいつだって上位者との交信準備に忙しいのだよ。──おや?」

 

 窓を壊して飛び出してきたくすんだ金髪の青年を見て、ミコラーシュは手すりから身を乗り出した。

 それを見てダミアーンが慌てて彼の学徒服を引っ張った。

 

「落ちるぞ!」

 

「エドガール? やればできるものだな、彼。感心、感心」

 

「そ、そうだな。うんうん」

 

 彼は聖歌隊きっての精鋭、しかも絶賛間者活動中だとは言えない。ダミアーンはできるだけ意外そうな声を作った。

 

「ダミアーン、君のお気に入りの小姓もいるようだが……」

 

「あの子もやればできる子なのだよ。君も是非、期待したまえよ。──ん? しかし、いやまて、何かおかしい気が──?」

 

 間者であることばかり気を取られてしまい、最も重要な「そもそも彼らは印刷室に閉じ込めており外にはいない」という前提をダミアーンは、すっかり忘れていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 メンシス学派の狩りは、狩人達にとって総力戦だ。

 なぜならば、メンシス学派に属する狩人達の日常的な獲物は市街で暮らす市民であり、獣を狩ってはいないからだ。

 数人で挑めばたちまち獣に食い散らかされてしまう。

 だからこそ、彼らに殺される獣はいつも猖獗を極める骸を晒すことになった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夜が明けた。

 そのことについてネフライトが、感謝する存在は少ない。

 暗澹たるヤーナムに仮初めであれ光をもたらした父たる狩人は、その少ない例外だった。

 朝が来て、ネフライトは心底安心している。

 

 あの時。

 食堂で獣に変態するラッセルを待たず、エドガールはネフライトを抱えて窓から外へ飛び出した。

 それから、獣は討伐された。

 ネフライトは十三歳という外見は、どうしようもなく子供であり、非戦闘員とされているためその様子を物陰から見ていることしかできなかった。

 全てが終わった後で、ダミアーンに呼ばれ、ネフライトは彼と獣の骸を眺めた。

 

 ──何でもいい。早く眠りたかった。

 睡眠はネフライトにとって唯一、何も考えずに済む時間であり、安らぎでもあった。今は何も考えずに眠りたかった。

 知人が獣になったことに多少なりとショックを受けている自分がいる──そのこと事態に彼はショックを受けていた。まるで自分が、情に左右される人間だと証明されてしまったようだ。

 

(私は、もっと理詰めで説明できるものだと思っていたのに)

 

 昨年、クルックスの情緒の浮沈に手を焼いたことから「ああはなるまい」と思っていたのに。

 今まさに制御できない感情を持て余しており、独りになりたかった。

 そんなおりに呼び止められてしまい、ネフライトは夢に帰ってしまおうかとも思っていた。

 けれど、ダミアーンが「話をしよう」と言った。

 彼が話すことは昔話の趣がある。今日もきっとそうだった。

 

「ラッセルのことは残念だった。私は彼の学会発表を期待していたのに」

 

「……ええ。そうですね」

 

「ひどく気落ちしているな。分かるとも。私も悲しい」

 

「……ええ。そう、ですね。……? ……え? え?」

 

 ネフライトは、たどたどしく言った。

 その後で。

 緊張で疲れきり、乱高下する感情を持て余していても彼が得た知識は、現状の不和を見出した。

 ──いま、自分はおかしな言葉を聞いた。

 じっと見ていた石畳を目で辿り、ようやくダミアーンを見上げた。

 

「いえ? 何ですか? 何がですか? いったい貴方の『悲しい』とは何なのですか? ダミアーン、貴方は知っていたでしょう? メンシス学派が辿る一年を知っている、夢を知る貴方なら、古狩人、ダミアーン」

 

「まあね」

 

「……なぜ、私に言わなかったんですか!? もし、教えていただいていたら彼は、こんなっ! こんなところで! ここで……! もっとマシな死に方をしたでしょう!」

 

「私が一度もそれを試さなかったと思うかね?」

 

 ネフライトは頭に冷水を掛けられた気分になり、開きかけた口を閉じた。

 

「いいや、私は怒っているワケではないのだよ。さぁ、話をしよう。ヤーナムらしい血生臭い話で、血は争えない話で、もう、ずっと昔の話だ」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナム市街のあるところに少年がいた。

 市街ではさして珍しくない、医療者に憧れる少年だ。

 家族は、父と母、そして妹に囲まれ、貧しいが穏やかな生活をしていた。

 ただ、早くに母親を亡くしたことが、彼の人生に大きく影響したのだろう。

 やがて彼は、父親より優れた医療者になることを夢にした。

 父親もそれを望んだ。

 少年は父親の『医療者』という職業を、ヤーナムに訪れる病み人を治す人と思っていたのだ。

 やがて、彼は医療者になった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ──先日も聞いた話だ。

 しかし、ネフライトには別の気付きが訪れた。

 

「それは、その話は、お話の彼は……」

 

 戯言のようにネフライトは呟いた。

 

「彼は知らなかったのだよ。そして、私は語らなかったのだ。ヤーナムにおける『医療』は最初から患者の治療など目指していない。ビルゲンワースの興りから今まで神秘探求の手段でしかないのだと」

 

「それ……。私は貴方の物語だと思っていました。でも違うのですね? 貴方にいたのは娘だけだと思っていた。これも違いますね? 彼は、少年は、その男は、貴方の」

 

 ──息子のことだ。

 彼が現在の地位を手に入れるために差し出したのは、娘だけではなかったことをネフライトは知った。ダミアーンの息子だ。医療者になったのであれば、さぞ優秀な息子だったのだろう。

 望ましいことが起きた昔話の結果、いまの彼は後悔しているらしい。

 遠くを眺める目をしていたダミアーンは、ゆっくりとした瞬きの後で地面に膝をつくネフライトを見下ろした。

 

「ヤーナムの医療者、そして神秘の探求者である君達は、まず、進んで患者になる覚悟を持ち、医療者になるべきなのだよ。ラッセルのこれは必然であり、彼は自らの覚悟を全うした。立派だね」

 

「…………」

 

 何も言えずネフライトは彼を見上げた。

 

「髪の一本。骨の一片。髄の一滴。血に宿る遺志に至る全てを学派の進歩のために差し出すのだ。やがて私達は生体の分類と神秘の体系に則り、埋葬される。棺桶は硝子瓶で墓標はラベルだ」

 

 言葉と色を無くしたネフライトに、ダミアーンは優しく微笑んだ。

 

「君はどうだい、ネフライト。君に、できるかね?」

 

「──貴方は自分の息子にもそう訊ねたのですか?」

 

 ネフライトは掠れた声で分かりきった質問をした。

 

「昔話のとおりだ。私は息子に騙し討ちを仕掛けたようなものでね。後戻りの出来ない道に追い込み、追い立て、そして……。……。総括すると彼にとって私はよい父親ではなかったね」

 

「では、なぜ私には訊ねるのですか? 私は貴方の息子ではない。孫でもない」

 

「今となっては悔悟の気持ちも薄れたが、それでも私は息子に……ずっとこの質問をすればよかったのかもしれないと思い続けているのだよ。老いたとしても誤りから学ぶことが出来たようだ。私情ばかりだが、若い医療者の君に問わせて欲しい。そして答えまで知りたいのだ」

 

「…………」

 

 ダミアーンは、惨劇の舞台となった石畳にある獣の体毛に塗れた頭蓋から溢れた脳の一部を拾い上げた。

 

「あるいは、君。……これに人間の知性が宿っていると信じるかね? この、ただの、肉片、白い、ブヨブヨに」

 

「……ダミアーンさんは信じているのですか」

 

 乾いた老人は、目だけでネフライトを見た。

 

「ヤーナムの医療者は皆、もうずいぶん昔から天動説さえ信じていないのだよ」

 

 不可解な笑みを浮かべたダミアーンの手の中で脳は、朝の明かりに照らされていっそう無能に見えた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 黒い煙が立つ。

 タンパク質の焼ける臭いとは生理的な不快感を伴う。──とある論文に書いてあった。

『まとも』な生まれをしていない自分にとってもそれは時に正論として頷ける場合があるようだった。その下で燃やされているのは、いつも何かの死体だとネフライトはもう知っている。上位者の躯の断絶という、ある種の死から生まれた自分にも生理的な忌避感が存在するのは不思議なことだった。

 汚れた石畳を歩き、火の管理をしているエドガールの隣に立つ頃。

 世界には昼へ向かおうとする日差しが差していた。

 ヤーナムの太陽は、まるで緊張感のない、間の抜けた光だと思う。

 けれど懐かしい光のようにも感じた。ネフライトは煙に誘われて空を見上げた。

 

「やあ、ネフ。……冴えない顔をしているな」

 

「ただの寝不足です。交代に来ました。エドガールも夜から働き詰めです。休んだ方がよいでしょう。判断力が鈍ります」

 

「そうだが……。君だって疲れているだろう」

 

「私は無理が利きます。若いですから」

 

「そう。……無理という言葉で思い出したが、学会は無期限延期となったそうだよ」

 

「了解です。……そうですか」

 

「何か悩みを抱えているように見えるな。さっさと話してしまうことだよ。……君も薄々気付いているかもしれないが、獣化は連鎖するんだ」

 

 エドガールは眼鏡を自分のベストで拭きながら言った。

 拒絶できなかったのはネフライトに悩みがあったからだ。

 すこし唸り、空に舞う白い灰を見た。

 

「顔見知りが獣になったのは初めてなんだな。……すこし意外だ」

 

「ええ。まあ……」

 

 ネフライトは言葉を濁した。長い時間が経った。

 どう切り出すか迷っている時間をエドガールは急かさなかった。

 

「ダミアーンさんが……ヤーナムの医療者には覚悟が必要だと言った。自ら進み患者になる覚悟が無い人間に医療者は務まらない。本当は、そう言いたかったのだろうと思います。──貴方も覚悟したのか? エドガール」

 

 ネフライトは、エドガールを見つめた。

 眼鏡をかけた後、くすんだ金髪を撫でつけて彼は肩を竦めた。

 

「覚悟なんて大したものは持っていないよ。……でも、そうだな。今日、隣でランチした友人が明日の検体だった。自分が選ばれなかった理由なんて大したことはない。ただ運が良かっただけだ。そういうことを繰り返していたら、自ずと気持ちは固まるものだ。医療教会が積み上げた知識。その代償のひとり、いいや、ひとつだと」

 

 聖歌隊の間者であるエドガールの話は、一般的なヤーナムの医療者には当てはまらないことだろう。

 それでも参考にはなった。頷いているとエドガールは鼻で笑った。

 

「しかしね、ネフ。その覚悟とやらはダミアーンやミコラーシュの優れた心がけだと思うか? 見てごらん、同胞の死体を積み上げても空に届きやしないじゃないか。そのくせ失ったものばかり固執する。……歩みを止められないだけの獣と何が違う」

 

「口が過ぎる。エドガール」

 

 止めるネフライトの言葉は、実に軽いものだった。

 咎める気はさらさらなかった。気力が無いとも言える。

 エドガールは苦い顔をしていた。

 

「メンシス学派の夜明けは犠牲ばかりだ。──君は聡い。分かるだろう? こんなことを続けては、狩人も街の人々も長く保たない。精神が疲弊する。学徒だって昨夜のように変態するのだ。神秘の探求に人員の消耗は避けられない。だが、メンシス学派は消耗が激しすぎる。もっと別の形を模索すべきだ」

 

「それは袂を分かった意味がない。思考の思索は聖歌隊の領分なのでしょう? だがメンシス学派の目指すところは、ビルゲンワースへの回帰、邁進、そして人の手で新たに作り出すことだ」

 

「そして医療教会が興った初期の思想に迫っているつもりなのだろう。病み人に触れ病巣に触れる。そうした実験により見出される知見こそ英知のはじまりだ、と。──けれどね。どうして現在の医療教会があると思っている? 過去があるから今がある。なのに学派は時代を逆走している。彼らは歴史に何も学ばないつもりだ」

 

「時代を新しく作っているつもりなのだろう。貴方が心配せずともメンシス学派は長くない」

 

「意外だな。君は学派を気に入っていると思っていた」

 

「ええ、気に入っている。だから与している。手を汚し、汗をかき、こうして死体の煤に塗れることも労と思わない。この学派は、ミコラーシュ主宰のものだ。きっと彼に後継など必要ない。また望まないだろう」

 

「もともとミコラーシュが主学派から飛び出したような形だからな。首魁がいなくなればあとはどうとでも──」

 

「いいえ、エドガール。優れた生物に後継は必要ない。そういう話をしているのです」

 

 エドガールの瞳が、鋭く細められた。

 

「……君はミコラーシュが悪夢に届くと思うのか?」

 

「私には未来の話です。今回は届くのだろうか。分からない。でも届けばよいと思っている。……学派の犠牲があったとしても、あの人の祈る姿は美しい」

 

「呆れた。君は、なかなかに激情家だったのだな」

 

「美しさとは、容姿ではなく内心にあると思っています。貴方はこの学派のなかで、よくご存じのハズだ」

 

「……君は、いろいろと知っているのだな。メンシス学派のことだけではない。聖歌隊のことまでよくも……」

 

「私は、ほら、ダミアーンさんの孫で飴玉代わりの昔話をよく聞く。そんな設定です」

 

「当分、そういうことにしておくけれどね」

 

 ──それだけじゃないだろう。

 咎めたい気分になっているらしいエドガールは、重い息を吐いた。

 

「お互い詮索はなしでしょう。明日の検体がお隣さんだとお互い気まずいものです。──さぁ、どうぞ休憩を。火は私がみています」

 

 指をヒラヒラと動かしてエドガールは去って行った。

 存在というものは、消えた途端に存在を主張するのだ。

 彼がいなくなると彼が言ったことをしきりに想起した。

 

『メンシス学派の夜明けは犠牲ばかりだ』

 

 犠牲を許容するか。

 許容するとすれば、それはどこまでか。

 ネフライトは、この先考える必要がありそうだ、と思った。

 しかし。

 

「何もない人間が強いのか? 強い人間には何もないのか? 『何もない』? そんなハズはない。主宰にさえ祈りがある。お父様にもいろいろとあるだろう」

 

 ネフライトは、ダミアーンのことを学派の一員として尊敬しているが個人的なトラウマに囚われているように見えた。しかし、それはダミアーンが心弱いことを意味しない。

 

「感情というものに私はどうやら疎いようだ。善し悪しや程度の判断など、今はとても……。……。こういうことは、クルックスの担当だと思っていたのだが……」

 

 ネフライトは、西の空を見上げた。

 うっすらと夜の赤を滲ませて、世界は次第に清澄の青に染まっていく。

 黒い煙が立ち上る向こう、白い月は素知らぬ顔で浮かんでいた。




学会準備(下)

メンシス学派ネフライト編終了
 呪い。この手の願いをクルックスとテルミはバフに出来るかもしれませんがネフライトとセラフィはデバフになってしまうことでしょう。心の持ちようなのかな。

お知らせのとおり次の投稿は1ヶ月ほどお休みいたします
 3年生ホグワーツ編は29話分投稿します。
 まぁちょっと増えたり減ったりするかもしれません。
 投稿再開時は活動報告及びTwitterでお知らせします。
 よろしくお願いします!

ヤーナム編、長かったね?
 かなりBloodborneに寄った話になってしまったので、やや反省しています。
 元々は『2年生まで』と『3年生まで』のヤーナム章は『2年生まで』の期間で起きることとして想定していたのですが、さすがに長くなりすぎる予想となった為、『2年生まで章』と『3年生まで章』に分割しました。
 それでも長くなったのは反省すべき点ですが、もうこれほどじっくりヤーナム内部の人の動きと会話を書く時間が──これは作中もリアルもです──なくなるかもしれないので念入りに書きました。──どうしてヤーナム内部の人々の話が詳しく必要なんだろうね。誰かお客さんが来るのかな?

ヒィ……ヒィ……
 本作を読んでBloodborneを始めましたとしばしばご連絡をいただきます。
 とても嬉しい半面、ここが入り口でいいのか、と心配になることがありますが、小指の先ほどしか心配していません。むしろぜひ手にとってプレイしていただきたいので、購入した方はぜひエンディング目指して頑張ってください。Bloodborneは試行錯誤を楽しめる人ならば、楽しめるゲームです。
 昨今に溢れる考察動画や解説動画は刺激を求めすぎて、センセーショナルな偏りが過ぎることがあります。自分の手で触れるということが大事だって医療教会も言っています。また、初見の楽しみを浪費してほしくないという極めてお節介な言葉も添えさせていただきます。プレステ的な環境があればぜひ触れてもらって……いつも何だかよく分からないセールやっていて……通常価格の時間の方が短いらしいので……(なんで?)

3年生まで(ヤーナム編)が終了しました
 本章においてたくさんのご感想・評価をいただいてしまいました。ありがとうございます。
 さて、キリのいいところです。
 さまざまご感想をいただけたら筆者はとても嬉しいです!(交信ポーズ)
 筆者の長文返信が怖い方や「匿名なら、まぁ書いても」という方は、こちらのマシュマロをご利用下さい。
 匿名で筆者(ノノギギ騎士団)に届くよォ!
https://marshmallow-qa.com/nonogiginights?utm_medium=url_text&utm_source=promotion

アンケート!
 四仔に関わる物語をそれぞれお送りしてきました。特に面白かった話や興味深かった話を選択していただければ幸いです。
 この後の物語はもうほとんど決まっているのでこれによる変更の余地は少ないのですが、参考にさせていただきたいと思います。


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3年生
オッタリー・セント・キャッチポール



オッタリー・セント・キャッチポール村
イギリスに存在する小さな村。
古くより幾家かの魔法使いが住んでいる。
豊かな自然に囲まれた長閑な土地には『隠れ穴』
そう呼ばれるロン・ウィーズリーの生家がある。
──『何でも』はないが『家族』がいる。
他に何を望もうか。



 悪夢は再び巡り、古い遺志の漂う夜は明けた。

 死んだものは夢のように消え、生きているものは見慣れた日常が再び始まる。

 そうして晴れてヤーナム市街を出歩けるようになったクルックスだが、今日は特別な用事のため狩人の夢の中で待機を命じられていた。

 

 用事とはオッタリー・セント・キャッチポール近郊への外出。

 すなわち、ウィーズリー家への訪問である。

 

 昨年度で学んだことだが、魔法界から放たれるフクロウはヤーナムを取り巻く異常のため、目的の主まで到達しない。

 しかし、例外はあった。一昨年の入学にあたり教科書リストや汽車のチケットが同封された手紙は届いたことがある。ただし、届いたのはこの例外一度きりだ。今となっては不運に愛されたフクロウが届けたのだろうとクルックスは思っている。対応として昨年度はわざわざ『魔法薬学』の教授であるセブルス・スネイプがヤーナムへ訪れた。

 異常はヤーナム側の問題であるため、狩人と仔ら、そしてスネイプと協議し今年からは特別な対応を行うことにした。今年は魔法界の誰かの家をポストとして使うことを学校とウィーズリー家に了解してもらっている。そして本日、届いているであろう手紙の受け取りのため、クルックスと父たる狩人はヤーナムの外へ向かうのだ。

 

「お父様、ご支度はよろしいですか?」

 

 クルックスは、鏡の前に立つ狩人に声を掛けた。

 狩装束を持っている彼は、念入りにブラシを掛けて獣の毛が一本も付いていない状態にしていた。そのうち狩人が「うん」と満足そうに頷いて、割れた鏡の自分を見つめるのを止めた。

 

「久しぶりの外出、しかもお世話になっている御仁の家に来訪するというのだから、しっかり整えなければな」

 

「はい。お父様は男前に見えます。いつもに増して男前です」

 

 狩人という男は容色優れた、いわゆる美男子の風体ではなかったが誠実を感じさせる顔立ちだった。つまり整っていた。

 いつも埃と血に塗れるのも厭わず無造作に掻き上げている黒い髪は久しぶりに洗って櫛を通したらしく、つやつやとして生気に満ちている。クルックスもついでに梳いてもらった。

 

「ふむ。こうして並んでみると、俺と君はそっくりだな」

 

 鏡の前に並んで立ち、狩人はクルックスの肩に手を置いた。

 黒く艶のある、跳ねがちな髪もそっくりだ。それを指先で撫でながら、割れた鏡の中で狩人がゆっくり瞬きをした。

 

「ええ、誇らしいです」

 

「そう思ってくれるか。君は」

 

 柔らかく頭を撫でられてクルックスは、父を見上げた。

 

「ええ、とっても誇らしいですよ」

 

「ふむ。上々だ。君もなかなかどうして男前だぞ」

 

「恐れ入ります。……言葉の使い方、あっていますか?」

 

「たぶんな。そんなにあらたまらなくていいけど」

 

 指の背でクルックスの頬を擦り、狩人は身を離した。

 

「さて。帽子はヤーナム帽は論外としてトリコーンがいいかな。それともトップハットか。……来訪ならばトップハットの方がよいかな?」

 

「俺はトリコーン無しで行こうと思います。顔がよく見えますから」

 

「まぁ、それもいいだろう」

 

「ところでお父様。オッタリー・セント・キャッチポールには使者の灯りはありません。伺うにはイギリスのどこかに現れた後で足で家を探す必要があります。最初は俺がロンドンから目的地に向かおうと考えていましたが、お父様が『策がある』とのことで、俺は何もしていません。どうやってオッタリー・セント・キャッチポールへ向かう予定なのですか?」

 

「ああ、そういえば話していなかったな。ビルゲンワースに行けば分かる」

 

 狩人は仕込み杖とトップハットを抱え、地上へ繋がる墓碑に向かった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夏の朝は、痛々しさえ感じる太陽が燦々と降り注ぐものだ。

 カーテンがひとりでにパッと開く。瞼に突き刺さる日差しに赤毛の少年──ロンは寝床で呻いた。

 

「夏休みだからと怠けていてはいけませんよ。部屋の掃除、庭小人の退治、天井のグールお化けを黙らせること、やることはたくさんあるわ! ほらほら、起きて!」

 

「起きたばっかりなのに……まだ……六時だよ……!」

 

 ロンは上体を起こしかけたが時計を見て枕に顔を埋めた。

 

「朝ご飯、冷めないうちに食べるのよ! ──ジニーも起きなさい! フレッド、ジョージ! パーシーはもう起きてますよ!」

 

「なんてこった」

 

「石頭」

 

「パーフェクト」

 

「パーシー……」

 

 だらだらと兄妹たちは起きだし、顔を洗い、リビングに現れる頃には。

 彼らの父親であるアーサー・ウィーズリーが、今朝の新聞を読みながら分厚いトーストを食べている時分だった。

 口々に「おはよう」の挨拶を交わし、ロンはチラと窓の外を見上げた。

 今日の日差しもうんざりするくらいに眩しくなりそうだ。元気なのは庭にいる庭小人だけだろう。

 

「あなた、パンを食べながら新聞読むのはやめてくださる?」

 

「ああ、でも、待て待て。今日は日刊予言者新聞ガリオン宝くじの抽選日でね」

 

 ウィーズリー氏は、壁掛けされたコルクボードに貼り付けた宝くじを見た。五枚の宝くじには、スポンサーである日刊予言者新聞の広告文字が次々と浮かび、変化していた。それを買ってきた日のウィーズリー夫人は、ご機嫌ナナメだった。それもそのはず。

 

「無駄遣い、ですっ!」

 

 今日のように人差し指をピンと立ててウィーズリー夫人はウィーズリー氏を叱ったのだ。

 

「けれど、私の、まあ、職場の付き合いというものがあってね。日刊予言者新聞の売り子が『このくじを全部売らないと帰れない』と泣いて言うんだよ。買うつもりはなかったんだがね。付き合いで……その……五枚だけ」

 

 日刊予言者新聞が夏に日雇いバイトを使うのは珍しいことではない。もっとも彼らが待ち受けているのは日当に合わない過酷なノルマであるのだが。

 今思えば、そんなバイトでもしてみるべきだったかもしれない。ロンは憂鬱にトーストを囓った。自分の浅慮ゆえに彼は昨年度中ずっと杖が折れている。そのことはすでに両親に伝えていて「次にダイアゴン横丁に行くまで待ちなさい」と言いつけられているが、自分の杖を持っていない魔法使いとは惨めなものだ。惨めさのついでにグリフィンドール寮付きのゴーストであるニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿こと『首無しニック』を思い出した。彼も杖を奪われ処刑されたのだと聞く。杖が無い心細さをロンはきっとグリフィンドールの誰よりも知っている。もうニックのことを笑えないだろう。また、何かにつけてからかってくる双子の兄についても悩みの種だ。

 

「ロン、宝くじを取ってくれるかな」

 

 まだまだ続きそうなウィーズリー夫人の糾弾を避けるため、ウィーズリー氏が妙に明るい声で言った。

 たまたま飲み物を取りに立ち上がったロンがコルクボードから広告付き宝くじを外した。十三桁の数字が並ぶ宝くじをウィーズリー氏に渡すとロンも新聞と宝くじを覗き込んだ。

 

「末賞でも一〇ガリオンだって。……せめて一枚でも当たっていればなぁ」

 

「杖のことは心配しなくても新学期までには買ってやるとも。……たぶん」

 

「たぶんじゃ困るよ……!?」

 

「自業自得です」

 

 ウィーズリー夫人の怒りが過去の大問題である空飛ぶ車に着火しそうな気配をいち早く感じたのは、誰であろう持ち主だったウィーズリー氏だ。「フン、フン」と宝くじの確認をし始めた。

 その横で、双子が寝ぼけた目をこすり、ポテトサラダに手を伸ばしていた。

 

「なぁ、一等は七〇〇ガリオンだ。七〇〇ガリオンあったら何する?」

 

「開発資金に開店の軍資金だ。……いや待て、うん? 七〇〇ガリオンで足りるかな?」

 

「店舗なら五〇〇ガリオンは必要だろうな。それより商品開発に……。ふくろう通販なら間に合うだろうけど……」

 

「──何の話?」

 

 やや目の覚めた顔をしているジニーが、訊ねると双子はそろって首を振った。

 

「なんでもない、なんでもない」

 

「なんでもないぞ、妹よ。ニンジンも食べな」

 

 不思議そうな顔をするジニーの隣で一番冴えた顔をしているパーシーが、一足先に食後のお茶を飲みながら言った。

 

「七〇〇ガリオンあったらたくさん本が買えるな。それからロンの杖を新調して、スキャバーズを買い替えた方がいいだろう」

 

 スキャバーズとは、ロンが飼っているネズミのことで、ロンが飼う前はパーシーのネズミだった。その彼が「買い替えた方がいい」と言ったのは一家にいる唯一のふくろう、エロールは老いた雄のふくろうで長距離の郵便配達はもうかなり難しくなっているからだ。

 

「スキャバーズはジニーが飼えばいい。僕は、もうすこしだけエロールに頑張ってもらうよ。うまく就職できれば初任給でエロールを楽にしてやれる」

 

「嫌よ、ネズミなんて」

 

 ジニーはハッキリと言った。

 

「だって女の子で誰も持っていないのよ」

 

「だからいいんじゃないか。ビスケットを食べている姿には小動物的な愛嬌がある」

 

 パーシーが真面目くさって言った。それを聞いて双子がクスクス笑う。ジニーは「話にならないわ」と言いたげに肩を下げた。食べる姿に愛嬌があるように見えるのは正面から見た時だけだと兄妹は知っていた。スキャバーズは、現在の飼い主であるロンでさえ時々靴磨きブラシと見間違える、やや肥満気味のネズミなのだ。つまりデカい。

 

「スキャバーズは僕のだ。ジニーは自分のふくろうを買ってもらえばいいだろ」

 

 ウィーズリー夫人が「誰もまだ買う話はしていません」と言いかけた。言葉を掻き消したのは、ウィーズリー氏の素っ頓狂な叫び声だった。

 

「な、なにっ!?」

 

「ワァ……あ、たた。あた、たた、た」

 

 ウィーズリー氏は、口をパクパク開けて新聞と宝くじをウィーズリー夫人に差し出した。

 

「びっくりさせないでちょうだい。まったく大袈裟な、ななな……!」

 

 宝くじと新聞を見た途端、まともな口がきけなくなってしまった両親の様子を見て、何かがおかしいことに気付いた兄妹たちは、誰からともなく宝くじと新聞をテーブルに広げさせた。

 

「えっえっ、う、ワアアアアアアアァァ!?」

 

 ジニーが宝くじの数字を一桁ずつ読み上げ、双子が新聞の数字を声に出して確認していく。

 そうすること三度。宝くじの数字は間違いなく新聞の数字と合致していた。

 

「当たってるっ! 当たってるっ!?」

 

「信じられねえっ! マジかよ!」

 

「一等! 一等だ! 七〇〇ガリオンだ!」

 

 手当たり次第に手を叩き、吠え、飛び跳ねた。これには石頭・パーフェクト・パーシーでさえ朝日に向かって諸手を挙げた。

 その時だ。

 

「──、──」

 

 木製のドアをノックする音が聞こえる。

 喜びの喧噪が数秒にしてシンと静まりかえった。

 舞い込む予定の七〇〇ガリオンの宝くじ。発覚直後、突然の来訪者。何も起きないワケがなく。──ウィーズリー家は上から下の大騒ぎ──それはパニックとも言う──になりかけた。

 

「ど、泥棒!? 泥棒かな……!?」

 

 ロンが不安げに椅子の背を掴む。

 

「早すぎるっ!」

 

 双子が声を揃えて新聞の下に宝くじを隠した。

 

「ジニーっ! こっちに!」

 

 パーシーがジニーを家の奥に誘導しつつ、杖を持ち出した。

 全員を制したのはウィーズリー氏だ。

 

「け、今朝の新聞で発表されたんだ。それに宝くじなんてどれが当たるか分からないから夢を売る宝くじなんだ。分かるワケないだろう。誰か、違う、用事だ──」

 

 子供達を落ち着けるように人差し指を立てて「静かに」と合図した。しかし、右手にはしっかり杖を握り、ウィーズリー氏はドアに近寄った。

 再びノックが聞こえた。

 

「あー、どなたですかね?」

 

 ドアの向こうで「おや」という若い声が聞こえた。

「除草剤の訪問販売かしら」と夫人が言う。もちろん誰もそれが正解だとは思っていなかった。朝が早すぎるのだ。

 応えは輪郭のハッキリした声が答えた。

 

「──私はハントという者だ。この近くにウィーズリーという家があるそうなのだが、どの家がそうなのか分からない。ご存じならば、道を伺いたいのだが……?」

 

 ウィーズリー氏は目を丸くした。

 

「ハント?」

 

 ロン以外の兄妹が「あの、ハント?」と顔を見合わせた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスと狩人の目の前でドアがパッと開いた。

 室内にはウィーズリー夫妻と彼らの子供、パーシーを筆頭とする子供達がいた。しかし、様子がおかしい。目を丸くして、著しい驚きようだった。クルックスは父の姿がひょっとしたら面妖なのかもしれないと見上げた。あるいは、彼の正体がバレているのかもとまで考えた。

 彼らの異様な態度を知らず、狩人が余所行き用のにこやかで爽やかなスマイルを披露した。

 

「ああ、よかった。アタリだったか。よかったよかった」

 

「アタリっ!?」

 

 変哲の無い言葉に過剰反応したのは、ロンだった。

 

「えっ、違う? ク、クルックス、どうしよう、お家間違っちゃった? 出直した方がいいだろうか?」

 

 クルックスは、スマイルを引っ込めてオロオロし始めた父の背を押して後退りを阻止した。

 

「いえ、ここがウィーズリー氏の邸宅で合っています。俺の友人のロンもいます。そこの彼です」

 

「お、おお。では、ここでいいんだな。初めまして、ウィーズリーさん。私はクルックス・ハントの父です。いつも息子がお世話になっています」

 

 トップハットを脱いだのを合図に揃って狩人の一礼をした狩人を見て、ようやくウィーズリー氏が強ばった顔を動かした。

 

「え、ええ、ああ、おはようございます。すみませんね、ちょっと、みんな寝ぼけて、えー、騒いでおりましてねっ、お恥ずかしい」

 

「ハハハ。にぎやかなのは良いことですよ。こちらも朝早く来てしまい申し訳ありません。なんせ馬車では、どれくらい時間がかかるか分からなかったもので……」

 

「では朝食もまだでしょう。どうですか、大したものは出ませんがご一緒に」

 

「いえ、ご家族の団欒を我々がお邪魔するワケにはいきません。私達の家がある場所は辺鄙な場所で、帰りにもえらく時間がかかってしまう。お手紙を受け取りしたら帰らせていただきますよ。どうかお気になさらず」

 

「せっかくいらしたんですから、お茶の一杯でもいかがです?」

 

 狩人は目をぱちくりさせてぎこちなく笑った。彼には困ると笑ってしまう癖があった。

 クルックスは狩人が曖昧に唸るのを聞いた。

 

「おぉ……し、しかし、俺のようなものが団欒にお邪魔するのは……その……」

 

 狩人の躊躇いはクルックスによく分かるものだ。

 血に塗れた業のなかにいると何も知らない彼らと触れるのが恐ろしくなるのだ。

 けれど。

 

「ご厚意に甘えてみてはいかがでしょうか」

 

「あ、ああ、うん。……ではお茶を……一杯だけ……」

 

 ウィーズリー氏が勧めた椅子に二人は並んで座った。

 クルックスは狩人が奇妙な言動をしないかどうか気になり、靴先で彼の靴を小突いた。

 

「ありがとうございます。実は、長く馬車に揺られていたものですから喉が渇いていました」

 

「馬車で来たとおっしゃったが、馬車とはマグルの馬車ですか?」

 

 狩人は「ええ、はい」と人好きのする笑みで答えた。

 しかし。

 

「マグル……って何だったかな?」

 

 クルックスにだけ聞こえる小さな声だったが狩人の疑問に今すぐ答えることは出来なかった。

 

「あ、後で説明しますから。──ともかく馬車で来たんです。ええ。お日柄もよく。夏の素晴らしい日です。素敵な庭ですね」

 

「まあ、そう? ありがとうね」

 

 ウィーズリー夫人がニッコリ笑う。

 二人はやって来たお茶のカップを受け取った。

 

「おぉ、これが二〇〇年──」

 

 クルックスは狩人の靴を強く蹴った。

 

「ああ! お父さん、お父さん、美味しそうなお茶ですねっ!」

 

「おっ。あ、ああ、ふむ、自分で淹れるのとは違うものだなぁ」

 

「そうでしょう! ……すみません。大きな声を出して。あの、俺達は、その、とっても田舎者なので……」

 

 気まずい空気になる前にウィーズリー氏が素早く質問した。

 

「えー、ハントさんは? ご職業は何を?」

 

「私は狩人をしています。人々のために獣を狩る仕事です。私には、それしか能がないもので……。ウィーズリー氏は魔法省勤めであると息子から伺いました。魔法族の安全を守るご立派な職業なのだと──」

 

 狩人の言葉を聞いて、双子がクスクス笑いをした。

 前年の彼は空飛ぶ車を所持していた。その息子が車を実際に飛ばし大問題になったのは彼らの記憶にまだまだ新しい。

 

「ええ。マグル製品不正使用取締局と言いましてね。魔法のかかったマグル製品がマグルの手に渡った時の問題を解決するのが主です。やりがいのある仕事ですよ」

 

「やりがいのある仕事ならば、打ち込む甲斐がありますね。私はどうも空振りと徒労が多くありまして」

 

「やや、自然相手ではそういうこともあるでしょうな。魔法省には野生の魔法動物に関わる部署もあるのはご存じですかな? ひょっとしたら──」

 

 クルックスは軌道に乗り始めた会話を横目に、口を挟みたそうにしているロンを見つけた。その間、双子は狩人の姿を見て「めっちゃベルト付いてる」、「何本ある?」、「五本? 六本?」とコソコソとした会話で盛り上がっていた。

 

「ロン、ご兄妹はよい夏休みを過ごされているだろうか?」

 

「まあ、見てのとおりそこそこさ」

 

「そうか。……馬車で来たと言ったが、実は庭小人を何人か轢いてしまったかもしれない。人家近くに住み着く魔法生物だという程度の知識は持っているが……もし弁償が必要な時は言ってくれ」

 

「数が減って助かるよ。念入りに轢いてくれ」

 

「そうなのか? そ、そういうものなのか? 人の形をしているものだったので気が引けていたんだが……。ま、まぁ、そう言うならそれでもいいんだが……」

 

 クルックスは、さりげなく首を回すように家をぐるりと見渡した。

 

「魔法使いの家に初めてお邪魔した。……とても素晴らしい家だな」

 

 台所ではカチャカチャと音を立ててお皿が洗われているし、ソファーの上ではかぎ針が編み物をしている。他にも何の魔法がかけられているのか、分からないものがあちこちに置いてあり整然と動いていた。非魔法族が絵に描いたような実に『魔法使いらしい』家だと思ったからだ。

 それを聞いたロンは鼻の上を掻いた。

 

「ロン、あの、あれについて聞いてもいいだろうか? あの時計のような物」

 

 クルックスが指したのは一見時計のような外見だが、九本の針が存在していた。家族ひとりひとりの名前が刻まれた針はほとんど「家」を示す場所に重なっていた。

 

「ああ、うちの時計。皆がどこにいるか分かるようになっているんだ。他の家でああいう時計を見たことがないから、珍しいと思うよ」

 

「面白い時計だ。興味深いな……」

 

 クルックスは『きょうだい』でああいった時計を作ったとしたら、死と夢の間を勢いよく往復する時計になるのだろうと考えた。

 そのうちカップが空になるとウィーズリー夫人が、窓辺に置いた籠を持って来た。籠のなかには紙紐で綴られた手紙がある。束となったそれを狩人に手渡した。

 

「はい、これがお手紙ですよ。学校から私達宛にも四人分は特別に早い手紙だと書いてましたわ」

 

「ありがとうございます。これはお約束の礼です」

 

 狩人はそう言ってガリオン金貨が入った革袋を差し出した。

 

「これくらいなんてことないんですから、受け取れませんよ」

 

「いいえ、契約は絶対です。ふくろう郵便を受け取ることは貴公らになんてことないことでも我々にとっては至極難しいことなのですよ。ですから、受け取っていただきたい。これは私達の感謝の気持ちでもあります。契約通りですが。──さて、契約は自動更新だとはご承知だと思いますが、念のためお聞きしますね。こちらとしては来年もお願いしたいものです。よろしいですか?」

 

「ええ、もちろん」

 

 ウィーズリー氏は、控えめに言って差し出された革袋を受け取った。

 

「ご快諾、ありがとうございます。本当に助かるものです。来年は私の家人が来ると思います。どうぞよろしくお願い申し上げます」

 

「よろしくお願いいたします」

 

 狩人が流れるような礼をしたのでクルックスも頭を下げた。

 

「ご丁寧に、こちらこそ」

 

 空気が柔らかくなったところでロンが恐る恐るといった顔でやって来た。

 

「えーと。ごめん。本当は今日来るの忘れていたんだ。しかも僕、パジャマで……」

 

「なに休暇中だ。俺も普段は身軽な服装で歩いている。気にしないでほしい」

 

 二人のやり取りを見ていた狩人が目を細めて笑った。

 

「貴公がロナルド・ウィーズリー? あらためて、私の息子と仲良くしてくれてありがとう。親子共々、見てのとおり時代遅れで、しかも世間知らずときている。この子には、いろいろと教えてあげてほしいものだ」

 

「えーと、は、はい」

 

 狩人が差し出した手をロンがおっかなびっくりの握手をする頃、家の奥からやって来たジニーが夫人の持つ紙袋を見た。

 

「ママ、ママ、準備していたあれは?」

 

「ここに。さぁ、ちゃんとお礼しなさい」

 

 狩人がパタパタ駆けてきたジニーにギクリと身を動かした。クルックスは、彼がこれ以上下がらないように再び背中を支えた。

 ジニーの前で狩人は、クィレルを彷彿とさせる挙動不審を見せた。

 

「な、なにかな……?」

 

「スリザリンのナイトからマントを借りたんです。秘密の……あの、あれのときに。これ洗濯しました。だから、お返ししたくて……ありがとうございました……」

 

 尻すぼみになる言葉と共にジニーは緊張で顔を真っ赤にした。

 紙袋の中からマントを受け取った狩人は、たしかにカインハーストの紋章を確認した。

 

「セラフィが? はあ、セラフィが……セラフィがなぁ……。ほう、あの子が他人を気遣いするなんて」

 

「先達の薫陶でしょう。そもそもセラフィはお父様の想像以上に優しい、いえ、優しい時もあります」

 

 クルックスはセラフィの優しい顔を知っているが、狩人は知らないのかもしれない。そういえば、と思い出す。クルックスの知る限りセラフィと狩人が長々と話をしている場面に出くわしたことは、テルミと同じくらい見ていない。すなわち、皆無だった。

 

「あの子も成長したのだな。自らに使われない優しさなど先達らが聞けば快く思わないだろうか。けれど俺はとても嬉しい。我々は他人にこそ寛容になるべきなのだから。──お礼の言葉は、あの子に伝えておこう。君も辛い思いをしただろう。まずは自分を赦したまえよ」

 

 狩人はクルックスにマントを渡すとトップハットを被った。

 

「さて、朝から失礼してしまった。来年訪れる家人には、あまり朝早くない時間に……そうだな……十時頃に訪問するように伝えましょう。それでは、これにて失敬」

 

「はい。では、ロン、ご兄妹方々、ダイアゴン横丁か学校で会おう。充実した休暇となるよう祈っている」

 

 黒ずくめの二人の姿は強すぎる夏の朝日の下、どこかへ歩いて行った。

 ウィーズリー氏は、ドアから首を出して左右を確認した。もう誰もいない。

 

「たしかに。以前ロンの言ったとおり……変わった人だ。マグルなのかね?」

 

「クルックスは『父親は魔法使い』って言っていたけどマグルの仕事をしているんだと思う。マグルの狩人なんじゃないかな。クルックスは魔法界のこと何も知らないんだ」

 

「口数少ないけどいいヤツだな」

 

「めちゃくちゃ食べるヤツだな」

 

「近くで見てビックリした。お父さんと顔がそっくりだったわ」

 

「ええ、そっくり。そのまま小さくしたみたいだったわ。若いお父さんよね。ご兄弟なのかしらと思ったわ」

 

 ひとしきり感想を述べ合った後で。

 家族は、宝くじに目を戻した。

 

「モリー母さんや。今日の仕事は休もうと思う」

 

「なんですって、アーサー!?」

 

「もし、この一等宝くじが夢ではなかったら──」

 

 眩しいものを見る目で宝くじを掲げながら、ウィーズリー氏は目を輝かせる家族に向かって伝えた。

 

「ビルのいるエジプトに家族旅行で行ってみてはどうだろうか? もちろん、ロンの杖を買った後でね」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「何だか間の悪い時間に来てしまったようですね」

 

「まったくだ。俺達はこんなことばかりだな」

 

 狩人とクルックスは、ガタゴト揺れる二頭立て箱馬車のなか向かい合わせに座り、手紙をあらためていた。

 

「『本来であれば、まだ教科書リストを発送する時期ではないが地域の特殊性を鑑み送達する』旨が書かれていますね」

 

「ホグワーツの方々には余計な手数をかけてるのだろうな。獣狩りの要があれば俺が特別に承ろう。機会があればダンブルドア校長先生へ伝えておいてくれ」

 

 クルックスは、顔を曇らせた。

 言いようのない不安が形を作るまで彼は、馬車の揺れとは別に体を揺すっていた。

 

「それは、お父様、それは……今年のホグワーツに関わるお話なのですか……?」

 

「恐れた顔をするものではないぞ、クルックス。答えは、もちろん『いいえ』だ。俺が未来のことを語る時は、ただの予想だ。予言ではない。俺は出来る限り君達の選択を奪う真似はしたくないからな」

 

 クルックスは小さく「そうですか」と伝えた。狩人の言葉が真実だと信じたいのは誰よりもクルックスだった。

 

「はい。そのように思うことにします。……あ、手紙に続きがありました。『闇の魔術に対する防衛術』の先生は未定ですが、三年次の教科書はすでに決まっているのでそれを買えばよいそうです」

 

「ほう。『闇の魔術に対する防衛術』の教科は難儀なものだな。もう三人目の先生になってしまった」

 

 そんな会話をするそばでオッタリー・セント・キャッチポールの風景が遠ざかっていく。夏の青い草木の香りは、どうしても嗅ぎ慣れない。けれど心地良い香りだ。目を閉じると今日一日が充実したものになりそうな予感がした。そのため、血と硝煙と獣避けの香の臭いが絶えず、しばしば獣に出会うヤーナムに帰るのが彼にはほんのすこし億劫だった。

 

「ヤーナムの外は良いところもある。外では鶏を飼っていたな。人の健全な営みを感じる」

 

「……俺は、すこしだけ」

 

 ──こんなに明るい世界が羨ましい。

 そう言い切れず、意味もなく手紙に爪を立てた。ヤーナムのことが大切な父の前で言うべき言葉ではないだろうと思い直したからだ。何でもかんでも話してしまうのは父に節操が無いと思われそうだった。

 

「うん? 何か?」

 

「俺はヤーナムのことが好きです。お父様のいるヤーナムが大切です。きっと、どこに行っても変わらないと思います」

 

「そう。いつか君に誇れる世界にしてみたいものだ。ヤーナムは、俺も驚くほど悍ましいなぁって時があるからな」

 

「二〇〇年以上経っているのに、まだビックリすることがあるんですか?」

 

「残念ながらいっぱいあるんだ。その辺り、例の聖杯が完成したら分かるだろうな」

 

 また『おあずけ』されてしまい、クルックスはただ頷いた。今はこれでいいのだ。そう信じていたいのは、やはり誰よりも彼だった。

 車窓を眺めていたクルックスは、空を見上げた。

 

「あ、見て下さい、お父様、飛行機、飛行機です!」

 

「なに? 第三次世界大戦は、もう始まっていたのか? し、知らなかった。世間話をしなくてよかった。俺の世間知らずがバレるところだったな」

 

「戦争ではないと思います。あれはきっと旅客機です」

 

 クルックスは、白い尾を引いて飛んでいく飛行を見上げている狩人の常識を訂正した。

 

「旅客機? 人はあれで旅をするのか。……そうか。飛行機。素晴らしい。人間は空を渡る翼を得たのだな。俺が人間だった時よりも強かで自由な翼を。……それはいい。海の底を目指すより、良い試みなのかもな」

 

 狩人は硝子に頬を押しつけて飛行機雲が消えるまで「お~う」とか「ほ~お」とか言って眺めた。こんなに好奇心旺盛な人がよくヤーナムに二〇〇年以上も拘泥しているものだとクルックスは不思議に思った。

 

「──ところで、ヤーナムにはいつ着くのですか?」

 

「奇遇だな。俺も気になっていた。馬に聞いてくれ。冗談だ。まあ、そのうち着くだろう。オッタリー・セント・キャッチポールにもこうして着いたからな。来年はもっと楽になる。使者の灯りを点けてきた。外に出たがっているコッペリアと一緒に訪問するといい。ああ、テルミに任せてもいいな」

 

「了解です。……あの、気がかりにしていたのですが、この馬車にはカインハーストの紋章がありました。お父様はこの馬車を借りるためにカインハーストと取引をなさったんですか?」

 

「それはもちろん。女王様への上納金──おっと──上納『穢れ』をいくらか増すことで拝借した」

 

「今度の契約書はキチンと裏まで読みましたか?」

 

「ああ、反省を生かして今回は口約束とした。なので大丈夫だろう」

 

 クルックスは、彼のまさかの選択を聞いて顎が外れそうになった。

 

「やっぱり俺が歩けば良かった! レオー様が相手なら十割増しになっていても驚きませんよ!?」

 

「大丈夫だ。今度の商談──おっと──談合相手は鴉だ。彼はレオーより利息が低いから」

 

「結局、増えるんじゃないですか!?」

 

 クルックスは後悔した。

 そのうち風景は霧がかかり、白んで何も見えなくなった。

 ゆらゆらと揺れる馬車は、道無き道を奔る。

 ──そこにあるならば、どこにでもいける。

 現実と夢の境界を越えるカインハーストの馬車は、そうしてヤーナムという夢に帰って行った。

 




ホグワーツ編は全40話でお送りいたします。

オッタリー・セント・キャッチポール
 映画では単語すら出てこない(恐らく)ので、映画のみ知っている人は「どこそこ?」となるかもしれません。
『秘密の部屋』にてハリーを空飛ぶ車で回収した後、ジョージが「僕らの家は」「オッタリー・セント・キャッチポールっていう村から少し外れたとこにあるんだ」と語っています。
 村には非魔法族(マグル)も住んでいるハズですが、彼らとウィーズリー家の交流が語られる場面はとても少ないものです。双子がトランプの手品を見せに村に行くような話がチラッと語られるくらいでしょうか。
 ウィーズリー家的には、用事があれば煙突飛行ネットワークでダイアゴン横丁にひとっ飛びできるのでわざわざ異なるコミュニティと交流して生活用品を揃える必要が無いということなのでしょう。
 ……いえ、そうでも考えないとマグルへの無知がちょっとヤバ──おっと、何でもないです。

狩人君の外出
 ヤーナム以外を歩くのはかれこれ二〇〇年以上ぶりなので、何も不足は無いように、何も憂いはないように、かなり奮発して馬車を借りました。約三年前、クルックスとテルミをロンドンめがけてGO!した時にあまりの音沙汰の無さに心配になってしまった反省が、彼の中に爪の欠片ひとつくらいあったのでしょう。


アンケートありがとうございました
学会準備(下)にて、3年生まで章(ヤーナム編)のアンケートを取っておりました。
1位:テルミ編(61票)
2位:クルックス編(60票)
3位:夏休みプロローグ編(50)
 本投稿時点で以上の結果となりました。
 これによる物語上の進行変化はありませんが、今後の制作の参考にさせていただきたいと思います。


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少年と青年


住み着いた場所を離れ、一時、外なる土地を歩くこと。

人生は旅だと詩人は謳う。
旅の果てを見るための足跡は
もはや数字と成り果てたが
軌跡を見て歩み出す者もいるだろう。



 ここはヤーナム。学舎ビルゲンワース。

 埃と書籍に埋もれるばかりの建物内に、今日はそぐわない少女の声が響いていた。

 

「お父様とデート! とっても素敵! ねぇ、クルックス? これは新しいワンピースなの。どう? 可愛いかしら?」

 

 クルックスは女性の被服について詳しくないためレースとフリルがふんだんにあしらわれたワンピースは、ネグリジェなどの寝間着とは何が違うのか分からずしばし答えに窮した。しかし、着ている人物のことを知っている彼にとってはたとえ着ているのが寝間着であったとしても最後に浮かんでくる感想は変わらなかった。

 

「君に似合わない服などない。俺達のテルミは、きっと、可愛いのだろう。俺はまだ『可愛い』を解さないので何ともだ。整っていることは分かる。けれどそれは『可愛い』ではないのだろう? 理解にはまだ時間が必要だ。ふむ。──ところで、ネフ。デートとは俺の認識では男女二人で行うものだが、三人以上の場合は何と言うのか?」

 

 このところ機嫌が良い日がないネフライト──そもそも彼には機嫌が良い日などヤーナムの晴天と同じくらい少ないものだったが、それにしても──彼は、ムスッと不機嫌な顔を向けた。

 

「ただの『お出かけ』でいいだろう。まったく。浮かれるなよ、テルミ。実の父親とデートで喜ぶ娘など君だけだろう。聖歌隊の日頃の教育が透けて見えるようだ。お父様が心優しいから咎めないだけなのだよ。君は恥を知りたまえ」

 

 ネフライトが噛みつくようにテルミに言った。それを聞いて「まぁまぁ、そこまで言うことはあるまい」とクルックスは仲裁に入ったが、テルミはネフライトの言葉を最初から最後まで聞いていなかった。

 

「あぁ、お父様? ご準備はよろしくて? あら、いつものトリコーンではないのですね?」

 

「あれはひどく時代遅れなのだろう。トップハットがよい。ウィーズリー氏のところにもこれで行った。これは年代を経ても変わらぬ紳士の装い──そう見えるハズだ」

 

 狩人は、ソワソワとした足取りで姿見の鏡台前を行ったり来たりしていた。

 普段着ている狩人服だが、どこか違うように見える。何が違うのかとクルックスは彼の服をよく見た。装束のあちこちにあった、獣との戦闘で作られたほつれが修繕されている。手先が器用なネフライトの仕事だろう。

 ソファーに座り、彼らのやりとりを眺めていたユリエが「素敵よ」と狩人を励ました。

 

「いいなぁ。僕も行きたいなぁ。お外は楽しいじゃないかぁ。気分転換にさぁ。ねぇ、狩人君、狩人くぅーん?」

 

 コッペリアが大きな図体をできるだけ小さくして狩人に強請った。

 狩人は、チラチラとユリエを見た。

 

「俺は良くても、ああ、その、な?」

 

「ダメよコッペリア。昨年、抜け駆けした貴方は留め置きです」

 

「ええぇ~。本、買ってきたんだからもうチャラじゃない?」

 

 軽い口調で彼は言う。

 だが、クルックスは隣にいるネフライトが不吉に目の下をピクリと動かしたのが見えた。

 

「そうそう。『私達』の貯金に手を付けたことについて、私はいつか貴方とキッチリお話したいと思っておりました。主に返済計画について、とかね。──ああ、しますか? ぜひ、今?」

 

 ネフライトが顎を上げて背の高いコッペリアを見た。

 目隠しで隠されたコッペリアの表情とは、頬のあたりによく見られる。

 それは明白に「マズい」と形を作っていた。

 

「ネ、ネフ、やめないか。コッペリア様の出費は研究のための必要経費だった。それに減った分はお父様と俺が補填したのだから、それでいいだろう」

 

「原資は私達の貯金だった。自分と他人の金の区別も付かない学徒を野放しにはできない。いいか。これは信用の問題だよ」

 

「それは……そう、かも、だが」

 

 口論においてクルックスはネフライトに敵わないことを知っているので、コッペリアを見上げた。

 彼は腰に巻いた銀鎖に繋がっている懐中時計を開き、よく通る声で「おぉ」と驚きの声を上げた。

 

「我らが狩人君! もうこんな時間だ! 出発してくれ! ハリー、ハリー・アップ!」

 

 コッペリアは狩人の背中をバシバシと叩き、教室から追い出した。

 その後をテルミが楽しそうにトコトコ歩いて行った。遅れずに行こうとクルックスも続いた。

 

「えー。では俺も二人と一緒に行くが、ネフは別行動だったな?」

 

「ああ、同じダイアゴン横丁にはいる。けれど私は人と会う予定がある。……くれぐれもお父様から目を離さないでくれ」

 

 メンシスの檻を外し、眼鏡を掛けながら彼は言った。

 

「善処する。だがテルミが一緒だからな。難しいだろう」

 

 狩人がテルミを苦手としているのは周知の事実だった。

 それは今さら意外も驚きもないことだったが、ネフライトは愉快そうに口の端を上げて鼻を鳴らした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ねぇ、お父様? 何のお店が好み? 書店を巡りますか? それとも腹ごしらえから? ええ、ええ、どれでもなんでもお好きなようにお望みのように。いくつかはお父様も気に入ると思いますから。──あら」

 

 イギリス、ロンドン。

 そこに密かに存在するダイアゴン横丁のなかでもいっとう人通りの少ない路地に設えた灯りの下、彼らは現れた。

 テルミは、引いた手が想像よりも一回り二回り小さいモノであることに気付き、小首を傾げ、振り返った。

 繋がる手の先、当惑した顔のクルックスも首を傾げている。

 二人は並んで顔を見合わせた。

 

「む。俺はお父様ではないぞ」

 

「ええ、知っていますけれど。──なんで!? お父様は!? さっきまで隣にいらっしゃったのに──」

 

 身代わりにされたクルックスは、テルミの遙か後方、路地の端でトップハットがヒラヒラと振られたのを見た。

 テルミが振り返る頃には、明るい通りのどこかへ行ってしまった。

 

「聖杯と同じだ。お一人で探索したいのだろう」

 

 長いこと独りで過ごしていた狩人にとって、誰かと共通の時間を過ごすことは難しいことなのだと言う。

 今回は、新しい土地に来た。これは彼にとって探索に近いことだ。今は誰に気を遣うこともなく歩きたい気分になっているのだとクルックスは考えた。

 テルミは悔しそうに「むーぅ」と唇を尖らせて、その場でピョンと一度跳ねた。地団駄を踏んだつもりなのかもしれない。

 

「君がすでに知っていることを俺は念のために言うのだが、誰と一緒に来ていたとしてもお父様は同じことをしたと思うぞ」

 

「そうですね。もー。お父様ったら、そういう自由なところも素敵よね! 好き好き、大好き!」

 

 テルミは一転して明るい顔になり、手を叩いた。

 こうした切り替えの速さにクルックスはついていけないときがある。彼は「お、うん」と曖昧な顔をして頷いた。

 

「お父様は成長期なのだからいっぱい食べて遊んで楽しまれるといいわ。でも一緒にお食事できないのは残念ですね。お父様、放っておくと塩水と紅茶と血酒しか飲まないのですから……」

 

「そうだな。食事を一緒に楽しめないことは少々残念だが、お父様のことだ。意外と何でも食べてみようと……思っている、かも、しれない……だといいな、と俺は思っている、気がする……」

 

「最後までちゃんと言えばいいでしょうに。どうして自信がなくなるの?」

 

「むむ。いろいろあってな」

 

 クルックスは『世界の奇妙な食卓』という本のなかでレッドゼリー──その正体はヤーナムの常識であっても口に憚る、なり損ないの何かである──の項目を探していた狩人のことを思い出してしまい、今からでも追いかけるべきだろうかと今さら考えた。その時、テルミがハッと口を押さえた。

 

「そういえば。お父様ってお金を持っていらっしゃるのかしら?」

 

「問題ない。先ほど俺の財布をスっていったので大丈夫だろう。あ。原資は俺の鎌貯金だから安心するといい」

 

「わたしはネフほど心配していないわ。どうせヤーナムでは使えないお金です。ここでパァーっと使ってしまうのが一番よいのですから。では、わたし達は買い物を一緒に済ませてしまいましょうね?」

 

「ああ。ひとまず立て替えてもらいたい。荷物持ちを務めよう。まずはインクや教科書などの学用品と服、それから昼食にしよう。……そうだ。君は、ほかにユリエ様から依頼を受けていたようだな」

 

「ええ、コッペリアお兄様からもね」

 

「コッペリア様からも? ……ぐぅ。コッペリア様はどうして君に。俺がいるというのに……」

 

「人には向き不向きがあります。適材適所というものね。けれどちょうどよかったのかもしれません。貴方も知っておくべきでしょう」

 

「何を?」

 

「それを教えてあげますからね。まぁ、おいおいですけれど。では、気を取り直して二人でデートしましょうね?」

 

「なるほど。了解した。デートだな」

 

 クルックスは、テルミに手を引かれて隣を歩いた。

 体の小さいテルミは必ず彼を見上げる形になる。

 クスクスとおかしそうに笑う声を聞き、彼はテルミを見た。

 

「何か」

 

「一緒に歩くと歩調を合わせてくれる貴方のこと、わたしは好きですよ」

 

「そうか。俺も君と一緒に歩くのは、嬉しい」

 

 クルックスがテルミと一緒にいて感じる『心地よさ』とは、好意を率直に伝えてくる明瞭さである。

 いまだ人の情動に疎いクルックスにとって、意思表示してくれる彼女はありがたい存在だった。

 これが気の置けない『きょうだい』であればなおさらのことである。

 

 医療教会の事柄が絡まなければ、特にもそれは感じられた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 月の香りの狩人達が去った後。

 ビルゲンワースの居残り組は、本を放り出し、緊張感も何もない弛んだ時間を過ごしていた。

 学徒達はその筆頭であり靴を脱ぎ、互いにソファーに寝そべっていた。

 

「ふわああ。ネフったらキレてるなぁもう。何が気に食わないんだか」

 

 ──恐らく全部。

 その言葉を飲み込み、ユリエはソファーに身を伸ばした。

 

「そう? 私は無神経な発言だったと思うけれど」

 

「はァ? まぁいいや。クルックスと狩人君が穴埋めしてくれて、その件は済んだことなのだから。そんなことよりテルミさ。彼女には僕の用事を頼んでいる。例の聖杯の件でね。年に一度くらいはボージン・アンド・バークスに催促しないとセラフィが僕のことを信用しなくなっちゃうだろう? ちゃんと手は打っておいた。……新しい手がかりになってくれたらレオーにも良い報告ができる。ああ、儀式の準備も地下聖堂に済ませてあるんだ。あとは聖杯が手に入ればという段階でね」

 

「『憂いの篩』でしたか? 貴方はそれにご執心ね。私の考えでは聖杯なんて何でもよいと思うわ。例えば略式聖杯の器は汎用のガラス製ですからね。血が特別なのだもの。肝要なのは血に堪えうる器であれば、何であれ構わないということね。必要とあれば、私の頭蓋を提供してもいいくらいよ」

 

「ハハハ……──なぁに。冗談じゃあないのか?」

 

「こどもができると不思議な心境の変化が生まれるとは本当のことみたい。子が仔であれ、できる限り身を尽くしてしまいたくなるのね」

 

 うふふ、あふふ、とユリエは優しげに笑う。

 気楽な口調で彼女は言うが、コッペリアは長い付き合いであるため「そう。いいんじゃない」と同調したが最後、ユリエが『ユリエの頭蓋骨』の世話を自分に押しつける未来が見えていた。

 

「かーっ。レオーもユリエもパパやママになっちゃって。もう嫌になるぜ。だが僕は永遠のお兄様に終身就任すると決めたんだ」

 

「それもよい選択でしょう。クルックスが喜ぶわ」

 

「その彼を喜ばせたくて君が頭蓋骨になるのはくれぐれもやめてくれよ。狩人君が帰ってきた時にユリエパイセンの頭が『病める聖杯』になっていたら僕『が』ヤバいだろう。ヤバヤバすぎて却下だよ、却下。ヤーナムで他の材料を探すなんて無理だろうさ。そんな都合のいいものがそうそう──せめて、他の──市街の聖職者はどうかな? エミーリア教区長はどう?」

 

「あの女性は、瞳が暗いもの。だから教区長程度が限度だったのでしょう」

 

「そっか~。どこかにちょうどいい医療者はいないかな? そこそこに瞳があって血筋がいい人がさぁ。レオーに聞いておけばよかったかな。心当たりはないかって……」

 

 実は。

 部屋にいるのは学徒二人だけではない。

 空気のように静かに、違和感なく、そして馴染んでしまった彼がいる。目隠し帽子の下からの送られた視線を感じ、クィリナス・クィレルは本から顔を上げた。

 

「おっと。僕らのお喋りは内緒にしてくれよ。でなければ君のお口で裁縫の練習をしなければならないからね」

 

「何も、聞いて、いませんので……」

 

 クィレルはそっと目を逸らした。ヤーナムの外から来た書籍の活字以外何も見たくはない。それが彼の本音で全てだった。

 

「それはいい。長生きするコツだよ。……ああ、そういえば。僕ねぇ。婚活話だと聞いていたら人身売買の話だったことがあってさぁ」

 

「あらまぁ」

 

「嘘かホントか。血族の末だとかの話でね。顔立ちを見ると、たしかにそれらしい面影があるものだったよ」

 

「それで? 貴方、どうしたの?」

 

「どうもこうも。未来が無い僕にそんな話を持ちかけてくるなんて性格悪くて頭も悪いじゃないか。だから処刑隊の彼にチクったよ。いやー、あんなに感謝されたの久しぶりだったなー」

 

「何も聞かなかった。私も何も聞かなかったわ。間違ってもレオーや鴉に言わないでね。嫌よ、今さらカインハーストを敵に回すなんて」

 

「分かってるとも。市街に遊びに行くときはせいぜい気を付けるとしよう。──そういえばクィレル先生もネフに何か頼み事をしていたようだったね。何を頼んだのか聞いても?」

 

「た、大したものではありません。食料品を……少々」

 

 ヤーナムに十年間の滞在を予定しているクィレルは一年目の終了時点で、ほぼ毎日食べている芋に限界を感じていた。

 たかが芋。

 されど芋。

 切実な現実だ。

 毎日、寝ても覚めても食事は芋ばかりだ。近頃は限界も近く、夢にまで出てくる始末である。せめておかず的存在になればマシなハズだ。そんな期待を込めてネフライトには食料を依頼した。

 

「ああ、故郷の味というものかな?」

 

 コッペリアの誤解はありがたいものだったのでクィレルは「ええ」と軽く頷いて見せた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 月の香りの狩人には、放浪癖というものがある。

 彼自身はそれを自覚していて、その理由の分析も済ませている。

 病み人、そして狩人として上位者の夢に縛り付けられていることが長かったせいだ。

 ヤーナムは広い。

 けれど限りある土地だ。

 何百、何千年か繰り返した夢のなかでヤーナム内で彼はヤーナムで行かなかった土地はないし、踏まなかった地面も等しくないだろう。もっとも、どんな理屈か何をしても開かない扉や登れない崖というものは存在したが。

 

 広い密閉空間に長らく閉じ込められていた反動は、放浪癖となって発露した。

 知らない風物。

 知らない風俗。

 彼は興味の赴くまま、それらに触れることをよく好んだ。

 

 昨年の夏休み。

 学徒コッペリアは、月の香りの狩人とその仔らの財産と言うべきガリオン金貨を大量に消費した。

 そして買い込まれた本は月の香りの狩人にとっても大切な宝物になっていた。

 

 仔らは勿論、学徒も知らないことがある。

 彼は、朝に夕に世界地図を抱きしめて空想に耽り、地の果てを思い浮かべた。

 狩人は楽しい気分を存分に堪能しつつ、そんな自分自身に感心した。

 

(どうやら俺はビルゲンワースの学徒が期待するほど人の心を失っていないようだな)

 

 この時、彼の瞳の輝きようといえば、宇宙悪夢的確率を乗りこえた果てに理想の血晶石を手に入れた地底人のそれと勝るとも劣らないものがあった。

 ヤーナムのことは大切だ。抱える思いも多様に存在するが、きっと愛している。慈悲もある。過去を糧によりよい未来を作る歩みを止める心算はない。

 しかし。それはそれとして。

 

(人間がたくさんいる)

 

 田舎者のようにキョロキョロと辺りを見回したい衝動をグッと堪え、彼は慎重に道を歩いた。

 彼には、外の世界を知りたい欲もまた存在する。

 航海記や旅行記が愛読書となっているのは、決して一時の熱ではなかった。

 

『仔らにヤーナムの外へ行くことを勧めたのは、本当に彼らのことを想ってのことだったのか?』

 

 もし、誰かにそう問われたとしたら、狩人は苦い思いをすることだろう。かつてアルフレートに対しカインハーストへの招待状を渡したときと同様に。動機には好奇心が爪の一片たりと無いと胸を張って言えるかどうか。その答えはヤーナムの闇のなかにいつまでも葬っておきたいことだった。

 とはいえ、アルフレートの末路に比べれば、今回は遙かに善い出来事になりそうな予感がある。

 

(クルックス達は、今のところうまくやっているからな)

 

 ネフライトの報告曰く周囲との不和は少ないらしい。

 ヤーナム外の子供社会のことは狩人にとってまったく未知の世界だったが、仔らは何とかやりくりしている。最も心配なクルックスが大丈夫なのだから他の三人も大丈夫なのだろう。

 

 杖売りのショーウィンドウの前で立ち止まる。

 狩人は紫色のクッションに置かれた商品を眺めた。

 その時、カランコロンと鐘が鳴り、親子が嬉しそうな顔をして店から出てきた。

 

 今後のヤーナムと魔法界の関係は悲観することばかりではない。

 仔らのホグワーツ在籍中に必ず片を付けなければならない案件でもないから、丁寧な対処ができるだろう。

 魔法界という存在について仔らを通して情報を蓄積しつつ、理解を深めれば穏当な道筋も現れてくるに違いない。レオーには今年の成果にならないと伝えたが、来年の成果にもなりそうがない。だが、現在のヤーナムについて優れた点があるとすれば、時間だけは常人の気が狂うほどにあることだ。

 気長に分析していこう。

 狩人は気楽に考えようと試みた。

 今は学徒達もいる。

 集う頭が増えた分、一人で考え込むよりマシな結果が得られるだろう。そんな確信も手伝った楽観だった。

 

 判断を急いで誤るのは懲りた。

 長考により誤りが減るのであればそうしよう。

 素直にそう思えるのだ。

 

(もっと早くこうしていれば……善かったのだろうか?)

 

 心に余裕がある自分に気付き、狩人はそんなことを思った。

 ある日、相棒が欲しいと思ったことが全てのはじまりだ。

 その果てに生まれた存在は、狩人にとって心躍る結果を齎している。そして善い影響は狩人だけに留まらない。

 

 レオーは『こどもは貴重品だ』と言った。狩人も同意した。

 かの騎士が「クルックスが欲しい」と言ったことには、とても驚いた。

 今でも狩人は独りになって考える暇がうまれると不意に彼の言葉を考えてしまった。

 

 カインハーストの騎士にして使者であり対外的な仕事を担うことが多いレオーであるが、あの時の口ぶりは使者の仕事をしている際の熱量と比べても決して劣るものではなかった。彼がセラフィに並々ならぬ思いを寄せているのは察していたが、それは彼の懐古主義的な性癖であるとかカインハースト系の風貌であるセラフィだからこその執着だと狩人は思っていたのだ。

 

 狩人は店から出て来る人々を眺めていた。

 彼らは紙袋に不可思議な、恐らく魔法の道具の類いであろう、品を持って両親や友人と歩く少年少女がいた。

 ヤーナムでは、最も希薄な年齢層の人々である。

 

(上位者の赤子は論外として。人間の赤子さえまともに生まれない土地になっているのだから、仔らが物珍しく見えるのも当然だな……)

 

 レオーが棲まうカインハーストは、ヤーナムの土地のなかでも地上にあって悪夢に等しい位相に存在する、格別に異常な土地である。

 上位者や人間の赤子が時間に支配されず存在できるとすれば、あそこだけだろう。カインハーストの女王、アンナリーゼが懐妊する様子は今のところない。しかし、赤子が生まれる可能性と受容する下地はヤーナムのどの土地より存在する。わずかな可能性があるため彼らは諦めるに諦めきれず、かといって実現する見通しは見果てぬ那由他の先にある。だからこそレオーはときおり発狂してしまうのだ。

 そこまで考えたところでレオーと同じ境遇にあって発狂したことがない鴉の存在を思い出し、狩人はげんなりした。あの男は人間であった時分の狩人より、そしてレオーより遙かに異常者なのだ。

 

(そうだ。セラフィがカインハーストに赴いてからは、レオーが発狂したとは聞かないな)

 

 セラフィの存在が、レオーにとって善い影響を及ぼしているのだろう。セラフィもレオーや鴉のことを慕っているようだ。

 狩人には、どんな苦難な状況でも夢に帰れば人形がいた。そして言葉少なに癒やしてくれたものだが、思えば彼らには永らくそんな存在はいなかった。省みると長い時間のなかで残酷なことをしていたかもしれない。女王様は女王様なので彼らの献身に応対しているかどうかはとても怪しい問題であり、狩人は考えついたことさえ忘れたいと思った。

 

(レオーが繊細なのではなく、俺が鈍感なのだろう。もっと目配りをしなければな)

 

 狩人は、気付きをひとつの自戒とした。

 放浪している最中でも彼はヤーナムのことを考えることが多かった。存在の空白が、彼にヤーナムのことを思い出させずにはいられないからだろう。

 聖杯に赴くまでが最も期待が高まって楽しい。──とは聖杯に入り浸る別な世界で遭遇した狩人の言葉だったが、その気持ちはよく分かる。

 

 だが狩人はヤーナムの外に出たら『ヤーナム』という単語を頭から小半時程度でも追い出し、ただの異邦人の気分になって街を散策しようと決めていた。

 そして、今こそ実現の時だ。

 むしろこれをやらなければ何のために仔らを撒き、クルックスの財布をスッたのか分からなくなってしまう。

 それから大切な用事もある。

 雑踏の歩調に合わせ、彼は目的を持って歩き出した。

 

「そうそう。ダンブルドア校長へお手紙を出さなければならないからな」

 

 やがてトップハットの古風な紳士の姿は、夏の日差し降り注ぐ人並みに消えていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ハリー・ポッターは自由を謳歌していた。

 数日前からロンドンのパブ『漏れ鍋』の宿で寝泊まりしている。

『漏れ鍋』は、ただのパブではない。

『漏れ鍋』の裏庭の秘密の扉をくぐれば、そこは魔法界へ繋がっている。魔法界への入り口なのだ。

 

 いつもの夏休みの間、一緒に暮らしているダーズリーの家ではなく『漏れ鍋』で生活しているのには事情があった。

 

 ハリーの母の姉のペチュニア、彼女の夫バーノンには姉がいる。

 とある田舎にある、庭つきの家に住み、ブルドッグのブリーダーをしているマージという人物で、ハリーと血の繋がりはなかったが、ずっと「おばさん」と呼ぶよう言いつけられており、ハリーは今もそれを守っていた。

 彼女とハリーの間には、大きな問題があった。

 それはダーズリー家の人々にも当てはまることだったが──できるだけ、穏やかで婉曲な表現を使うと──ソリが合わないことだった。

 

 彼女がダーズリーの家で過ごした一週間の滞在時間の苦痛と同等の苦痛を探すことは難しい。

 ホグワーツの時間割が朝から夜まで全てスネイプの魔法薬学になったら、こんなストレスを感じ続けるかもしれない。

 ハリーはおもむろに今朝の日刊預言者新聞を開いた。

 

『生き残った男の子、キレておばを膨らませる!?』

『マグル一〇〇人に目撃され、事故惨事室が緊急出動!』

『ハリー・ポッター、逮捕!? 嘆くダンブルドア校長! マクゴナガル教頭「いつも挨拶をしてくれる良い子だったのですが」』

 

 そんな見出しになってもちっともおかしくない出来事が起きたが、世間はシリウス・ブラックの脱獄ニュース一色だ。

 ハリーが、咎められることはなかった。

 むしろ。

 

「──やぁ、ハリー。君が無事でよかった」

 

 おばを膨らませた夜。

 辿りついた『漏れ鍋』で待っていたのは店主のトム。そして魔法大臣だった。

 魔法大臣、コーネリウス・ファッジ。

 イギリス魔法界の政を執り行っている人物である。

 マグル界で言うところの国務大臣に相当する人物だ。

 

 実は、ハリーは彼に会ったことがある。

 昨年、ハグリッドが不利な過去を持っていたことから『念のために』移送されたバジリスク事件のおり、彼の小屋にファッジがやって来たのだ。ただし、その時のハリーは透明マントを被っていたのでファッジは知らないだろう。また、ハリーの身近なところでは、親友ロン・ウィーズリーの父親が魔法省に勤めている。そのボスとも言えた。

 

 さて、魔法大臣の登場にハリーは大いに驚いた。

 もちろん、普通のことではない。どんなに気の良さそうなオジサンに見えても彼は魔法大臣だ。一介の生徒の前に、まして事故処理の報告のために現れるべき人物ではないことは魔法界の常識に疎いハリーでも分かっていた。

 ハリーは、そんな異常を理解していたが「どうして魔法大臣がわざわざ?」と聞くことは出来なかった。唯一の血縁であるいとこのダドリーの家を飛びだしてしまったのだ。魔法界以外に行く場所はなく、そして、魔法界の無法者として爪弾きにされてしまえば、この先の人生は想像もしたくない。できない。これまで手に入れた素晴らしい友人やこれから学ぶこと全てが永遠に手に入らなくなることが確実だということくらいしか分からない。

 だから、魔法大臣が「君は……アー……退学になりたいワケではなかろう?」と言った時、激しく頷いた。

 

「ならばよろしい。状況は変わるものだ。そう、刻々とね。川の流れのように緩やかに、そして時に激しく。昨年とは違う状況なのだよ。魔法大臣として考慮すべきは、いつもそこでね。──退学になりたいワケでないのなら、つべこべ言うものではないよ」

 

 大臣の言葉に爪の隣に出来たささくれのように引っかかるものを覚えたが、まったくそのとおりだ。やはりハリーは頷いたのだ。

 彼の行動の一端を理解しはじめたのは、ほんの数日前だ。

 世間はシリウス・ブラックのことで毎日、目撃のニュースが更新されている。

 買い物に来る魔法使いや魔女達の間では、必ずと言ってよいほど話題に上がる。

 だから、きっと魔法大臣は嫌がったのだろう。

 シリウス・ブラック脱獄は不祥事として一級品だ。

 さらに『生き残った男の子』が良くない話題で世間に現れることは、魔法省が引き起こした不祥事ではないが、さらに民衆の心を揺るがすことになるだろう。

 彼はそれを望まなかったのだ。そして、ハリーも望まないことだった。

 

 ぼんやり三日前のことを思い出しながら、夏休みの間にすっかり不足した栄養を摂り、学用品の買い物を終え、今は燦々と日の差す屋外を歩いている。

 こから二週間、学校からたっぷり出された課題をこなさなければならない。

 昨日からダイアゴン横丁にある喫茶店を何件かハシゴしながら、居心地のよい場所を探している。

 ──できるだけ夏の陽気を感じることができる場所で、ダイアゴン横丁に買い物に来た人々が眺め渡せるところがいい。

 ハリーは、熱心に喫茶店を探した。

 

 魔法界への入り口である『漏れ鍋』に訪れる人々は、さまざまな職業の人がいるようだった。

 学術論議を交わす魔法使い。

 田舎から出てきたどこか滑稽な魔女。

 同胞に矢継ぎ早に今朝のガリオン取引について話し続けているゴブリン。

 こうした人々を観察するのは、魔法界にまだまだ疎いハリーにとって貴重で、何より面白い経験だった。

 

「──次はオリバンダーの店よ。イギリスで一番の杖なんだから──」

 

 ハリーの傍を栗毛色の髪をした母親と子供が歩いて行く。その数歩後ろで荷物を持った父親が「やれやれ、ようやく最後だ」とぼやきながらついていく。ひときわ明るい顔をして真っ先に先頭を走って行ったのは、きっとホグワーツに入学する一年生だ。

 

 昨年は、煤を思いっきり吸い込んでしまったせいで煙突飛行に失敗し、ノクターン横丁に出てしまったハリーにとって、このダイアゴン横丁は一年ぶりの世界だった。昨年は、ゆっくり観察する余裕もなかったが、こうした光景もこのダイアゴン横丁ではありふれたものなのだろう。

 

 店先をぶらぶらした後。

 ハリーは、今日のカフェ・テラスに腰を落ち着けた。

 名を『フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラー』という。

 天気が良い。夏のギラつく日の光であっても、日傘の下にいればそれは柔らかく感じられた。

 

「やぁ、こんにちは。天気がいいね。ブラックのことがなければ、気楽なお散歩日和さ」

 

「ええ、それと課題がなければ悪くないかも。アイスをください。味は……チョコレートで」

 

 店主のフローリアン・フォーテスキュー氏は、柔らかな金の髪を頭の後ろで結った四十代くらいの男性だった。ハリーが財布のシックル銀貨を数えている間に、フォーテスキュー氏はリクエストに応えアイスをテーブルに置いた。ただし、アイス球体は二つだ。注文を伝え間違ってしまっただろうかとハリーは彼を見上げた。

 

「ひとつサービスだよ。今日は暑いからね! あとこれ新味でね。ハナハッカ味なんだけど、どう思う?」

 

 ハリーはスプーンを手に取り、食べた。

 

「これは風邪の時に飲む……ンー……シロップの風味みたいな」

 

「次回も食べたいと思う?」

 

「五回に一回くらいなら」

 

「どうりで売れないワケだよ。先ほどダンブルドア校長にもサービスしたんだが、さては気を遣わせてしまったかな。ワハハハ。気にしないでくれ。サービス品だからさ」

 

 フォーテスキュー氏は、人好きのする顔で笑った。夏のようにカラリとした清々しい笑顔だった。

 これから漏れ鍋に滞在する二週間。

 ハリーは明るい日差しの入る、このフローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーに通い、彼に手伝ってもらいながら宿題を仕上げることになるのだが、それは人々を見渡せる立地のほかにフォーテスキュー氏の朗らかな人柄にもよるところが大きいものだった。

 課題に取り組みながら、今日のこれからの予定を立てる。

 教科書はすでに買い込んでいるので、買い物の必要はなくなってしまっている。

 頭の冴えている午前中の間に今日の分の課題を終わらせて、午後はまだ行ったことのない区画に行ってみようか。

 

 そんなことを考えながらチョコレート味のアイスクリームを食べる。

 おばを膨らませた時のことを思い出していた。いとこのダドリーが食べていたアイスは、同じような色をしたチョコレート味のアイスクリームだったからだ。

 

 ──こないだも言ったけれどね、やっぱり犬は血統だよ。

 ──コイツは出来損ない、生まれ損ないの顔だ。

 ──犬にもこういうのがいる。ああ、ファブスター大佐に処分させたよ。

 

 マージおばさんの声も思い出した。

 思い出す度に胃の中が熱く、腹立たしい気分になる。

 けれど、ハリーは違うことも思い出そうとしていた。

 マージの隣に座ったペチュニア──ハリーの母の姉にあたる女性だ──彼女は、その言葉を聞いたときに唇をキュッと引き結んだ。

 

 ──ただ、あんたの妹は出来損ないだった。

 ──いやいや、ペチュニア。

 ──あんたの家族の事を悪く言っているわけじゃない。

 ──どんな立派な家系にだってそういうのがひょっこり出てくるものさ。

 

 その言葉を初めて聞いたとき、ハリーは妙な耳鳴りがした。そして『自分でできる箒磨きガイドブック』の二〇ページを思い出そうとしていた。けれど、チラリと話し込む彼らを見たとき。ペチュニアおばさんは同調するでもなく、唇を引き結んでいたように見えた。

 やがて怒りで見境がなくなり、仮にも家と呼ばなければならない場所を飛び出したハリー・ポッターは、プリべット通りを離れ、結果として、自由な生活を手に入れて初めて振り返ることができた。

 

「…………」

 

 ハリーは、ペチュニアおばさんが妹、つまりはハリーの母親について話すことを聞いたことがなかった。──長いことハリーに対し交通事故で死んだと言い聞かせてきた、これまでの出来事を除いて。

 

(両親のことを……いつかよく知る誰か、例えば友人や他の親族から聞くことができるんだろうか?)

 

 ハリーが自分の父母のことで知っていることは、両手の指で数えられるほどだ。そもそも両親について知っている人について、ハリーの知る心あたりは少ない。長らくホグワーツに務めている寮監のマクゴナガル先生、それから同じく長く在職しているダンブルドア校長ならば知っている、かも、しれない。それからハグリッド──けれど二人に比べて、知っていたらもう教えてくれているような気がする。彼とは友達だから。

 ──これからも機会があれば聞いてみよう。

 思うに留めて、ハリーはふとテラス外の通りを見た。

 そこはガヤガヤと人々が話しながら通り過ぎていくが、その雑踏のなかで黒い陰がひとつ動いていなかった。

 明るい日当たりである通りを見ると目の奥がチカチカと痛んだ。それでも目を細めて向こう側を見ているとトップハットの紳士が足を止め、パーラーの看板を眺めていることが分かった。

 

 ハリーには、魔法族の大人に知り合いが少ない。彼とは当然初対面だったが、顔に見覚えがあった。もちろん指名手配の写真ではない。その顔は、同級生で同じグリフィンドールのクルックス・ハントだった。

 彼は、とびきりのハンサムではないが整った顔立ちをしている。もっとも、やや陰りのある暗い銀灰の瞳のせいで、ロン──ハリーの親友だ──には根暗に見えるらしい。けれど、彼はどちらかと言えば前向きで積極的な性格だとハリーは感じる。ただ、すこしだけ自分のことには気が回らない性格でもあるようだ。それは髪によく見られる。いつもぞんざいにオールバックにしているせいで跳ねた前髪がちょっとだけ額にかかっているのだ。

 彼が成長したら、きっと、こんな顔や姿になるだろう──そんな人物が看板を見上げていた。

 

「おや」

 

 目が合ってしまった。

 今さら目を逸らすのも不自然であり、ハリーは座ったまま会釈をした。

 クルックスの顔をした紳士は、そばまで来るとハットをひらりと上げて「こんにちは」と言った。

 彼と同じようにぞんざいなオールバックは跳ねた前髪がちょっとだけ額にかかっていた。挨拶を返すと彼は、微笑んだ。

 

「挨拶は良いものだ。実に人間らしい礼節の現れ方だと感じる。──ご機嫌よう。初めまして。おはようございます」

 

 クルックスだってもう少し人間味のあることを言うだろう。

 外見だけではなく中身も彼の親族を感じる言葉だった。

 

「ええと。じろじろと見てすみません。友人に似ていたものですから」

 

 けれど、似ていないところも見つけた。

 笑顔に対し、こんなことを思うのはどうかしているとハリーは思ったが、浮き世離れした夢っぽい笑顔はクルックスには見られないものだ。

 

「うん? ああ、クルックスを知っているのか? あの子を友と呼んでくれるとは。嬉しいものだ。父としてお礼を言わなければならない。ありがとう」

 

『父』という言葉が引っかかり、ハリーは、まじまじと彼を見た。

 トップハットの影に隠された顔は、若い。クルックスと年の離れた兄弟だと言っても頷けるだろう。

 

「ああ、貴公。隣の席、座ってもよろしいかな? 他の子から学校のことを聞く機会は貴重でね。いろいろと教えてくれないか? もし時間があれば、だが。誰かと待ち合わせをしているのだろうか?」

 

 丁寧にハント氏は申し出た。

 

「ええ、いいですよ」

 

 羊皮紙を片付けながらハリーは空いている席へ促した。

 

「ありがとう。昨年度は大変だったようだな。災難と言うべきか。穏やかに暮らしたいものだな。争いなく、諍いなく、穏やかに、な」

 

 彼は、クルックスから昨年度に起きた話を聞いているのだろう。

 質問に答えていくと、校長室で昨年度話した内容の繰り返しのようになった。

 事件終了直後の語りより、物事を整理して話すことができたと思う。

 

「大変だったな」

 

 最後に彼は軽く言った。

 ダンブルドア校長が労ってくれたことを思うと、彼のこれはただの感想に思えた。

 

「貴公は『どうして自分だけが』と思うことはあるのか?」

 

 ハリーは、そんなことを訊ねてくる人がいなかったので驚いた。

 

「思わないことは、ないですけど。……自分には、どうしようもないので。トラブルのほうが飛び込んでくるものですから……」

 

 両親の事と同じように。なぜ、トラブルに巻き込まれるのか。

 その理由を分かる時が来るのだろうか。

 うっすらと考え事をしたハリーの向かいで、ハント氏は薄く微笑んだ。

 

「ああ。そう。懐かしい気分を思い出したよ。『どうしようもない』。そう思うこともあったか……。うんうん。ありがとう。世の中、当事者はいつだってそんなものらしいからな。トラブルは、まぁ大抵楽しいことではないが、そのなかにさえ輝くものがある。それを見つめ、悲観しないことだ」

 

 ハリーはパチパチと瞬きをした。

 会話が終わりになる気配があり、ハリーは手の中で温めていたスプーンを持ち直した。

 

「ところで、君が食べている……それ、その白いの、何だろうか」

 

「アイスクリームです」

 

「アイス、クリーム?」

 

「あのこれサービス品なんです。食べますか?」

 

 テーブルの上にある半ば溶けかかったハナハッカ味のアイスクリームを差し出した。

 未使用のスプーンをテーブルから取り、彼はアイスクリームを食べた。

 

「うわ。冷たい……え……え……?」

 

「他の味、フレーバーもあるんですが」

 

 彼は目を丸くしてあっという間に溶けかかったアイスを食べてしまった。

 

「スゴイな。氷だが氷ではない。舌触りが滑らかだ。味付き氷。素晴らしいな。これがクルックスの言うブルジョアというモノか……」

 

 ──あっちで売っています。

 ハント氏は即座に立ち上がった。

 

「今日はお話できてよかった。また話したいものだ。ありがとう。──買い占めてこよう」

 

「ええ、また」

 

 ハリーは、手を振ろうと上げかけたがもう彼は見ていなかった。

 立ち去る後ろ姿を見る。動作はキビキビとしている。やはり行動の節々に若々しさを感じた。 

 

「あら、ポッターさん?」

 

 また通りで誰かが立ち止まった。

 不思議とよく響く幼げな声。

 そこにいたのは、テルミ・コーラス=Bだった。

 

「まあ、こんなところでお目にかかるなんて。お元気かしら? んー、ちょっと痩せたみたいですね?」

 

 約三年前、初めて出会った時と同じように見える彼女は、柔らかく微笑んだ。

 彼女の隣には荷物の袋を抱えた本物のクルックス・ハントがいた。

 いつもの薄暗い瞳だが、明るい夏の日差しのせいだろうか、やや生気が宿っているよう見える。

 父親のほうが瞳の色が濃いのだな、とハリーは思った。

 

「あれ、ついさっき──」

 

 ハリーはフォーテスキュー氏を振り返ったが、何やら充実してホクホクした顔の彼がいるだけだった。

 クルックスは挨拶もせずに明後日の方向を向いていた。

 

「クルックス、どうかしまして?」

 

「近くにお父様の気配があったのだが、消えてしまった」

 

 野生の勘、いや、親子の絆というものだろうか。

 やがてクルックスはハリーを見つめた。

 

「失礼。挨拶が遅れてしまった。こんにちは。ご機嫌よう。……挨拶は大切だ。礼節は守らなければならない」

 

「君のお父さん。さっきまでお話をしていたんだ」

 

「おと──父に会ったのか。……俺は心配で貴公に聞くのだが……あの人から、何か物をもらったりしていないだろうか?」

 

 非常に微妙な言い方だった。

 クルックスは、テルミをチラチラと確認しながら言った。

 彼らは身長差があるので視線を合わせることはできないが、クルックスがテルミの様子を伺っている様子だった。

 もらっていないよ。そう伝えると彼は、一つ息を吐き出した。

 

「そうか。ならばいい。お礼で物をあげたがる節があるのだ。たいてい間の悪い贈り物になってしまうからな……」

 

「どうして一緒に買い物していないの?」

 

「我々の買い物なのだ。計画から実行まで我々で出来る。大人とて気楽に歩き回りたい時もあるだろう。その程度の話だ」

 

 親ならば、一緒に買い物をして歩くものだと思っていたハリーにとっては、意外な返答だった。

 次にクルックスは「次は学校で」と言いかけたが、それをテルミが止めた。

 

「これから最後の用事で、すこし変わったお店に行くの。……昨年度の疑問に完全な回答ができると思いますわ。いかがです?」

 

「何の話か」

 

 クルックスがテルミに訊ねた。

 彼女は首を傾げた。

 

「あら、伝えていなかったかしら。ごめんなさいね。あまり重要ではないから忘れていました」

 

 本当に忘れていたのかどうか疑わしいとクルックスも思ったようだ。

 油断なくハリーとテルミを見た後で、彼に問いかけられた。

 

「昨年度、実はノクターン横丁に出入りするコーラス=Bのお兄さんを見て、何をしていたのかって質問したんだ」

 

「……それだけか?」

 

 クルックスは、テルミに詰め寄った。

 

「ええ。わたしは知らなかったのだけど、ノクターン横丁とは少々後ろ暗い商店の集まりのようなの。だから昨年度のバジリスク騒動の時にセラフィが疑われてしまったのね。コッペリアお兄様もセラフィも迂闊だったわ。それで、ええ、もちろん、やましいことをしていないことの説明はしました。けれど、実際に見てもらえばもっと納得していただけると思いまして。……ね?」

 

 控えめだが試すように誘うテルミの言葉にハリーは腰を浮かしかけた。疑ってかかった手前、その検証ができるのならばすべきだと思ったからだ。また、ノクターン横丁で怖い思いをしたことは確かだが、まったく何物にも興味が惹かれなかったかと問われたら嘘になる。

 しかし。

 

「俺は許さん。貴公がトラブルに自ら頭を突っ込むことはない。もう散々だろう? 脱獄したシリウス・ブラックとかいう犯罪者も出歩いている。暗い場所をうろつくべきではない」

 

 クルックスが強い口調で言った。

 ハリーは浮かしかけた腰を誰にも気付かれないうちに着席した。

 

「……。ああ、そうでした! クルックスの言う通りですね。ごめんなさい、ポッターさん。せめて脱獄囚が捕まってからね──」

 

「いいや、捕まったとしてもダメだ。『疑われるようなことをする方が悪い』と言われたらそれまでなのだから。彼は、俺達よりもっと慎重になるべきだ。魔法界は狭いのだろう。身の振り方をよく考えるべきだ」

 

「珍しく真っ当なことを言うのね、貴公。すこし見直してしまいますわ。──では、ポッターさん。誘っておいて失礼なお話になってしまいましたけれどクルックスの言うとおり、この話は『無かった』ことに。よろしくお願いしますね?」

 

 テルミは美しく笑い、手を振って去っていった。

 ハリーは「これでよかったのだ」と心の内で呟いた。

 今、魔法大臣の寛容さを試すべきではないだろう。

 ファイアボルト──新製品の競技用箒だ──でグリンゴッツ銀行の口座を空にするよりも、もっと迂闊なことをしてしまうところだった。

 

「俺も買い物に戻る。──では、次は学校で会おう」

 

 テルミを見失わないように目で追いながら彼も去って行った。

 彼らが去ってしまった後で。

 フォーテスキュー氏がサンデーを片手にやって来た。

 

「ハナハッカ味が全部売れてしまったんだけど、もしかして、彼に薦めてくれた?」

 

「ええ。あの人、たぶん、すごく気に入ったんだと思います」

 

「……懐かしの味ってことで製品化してみようかな。ああ、このサンデー。ちょっとしたお礼だよ」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 白髪交じりの鳶色の髪が夏風に揺れる。草臥れ、継ぎ接ぎも擦り切れたコートを翻し、彼は歩いた。その姿は、ともするとギラつく夏の日差しに負けそうになる貧相な印象を抱かせた。やがて彼は早足で日陰に駆け込み、店の扉を開けた。

 店をぐるりと見渡して彼は、待ち合わせをしていた人物を見つけた。長い銀色の髭に半月の眼鏡。往年とまるで変わりがない。雑誌をめくっていた彼もこちらの視線に気付いたようだ。右手を軽く挙げ、ニコリと微笑むのが見えた。

 混み合った店内の椅子をいくつか越えた先で、彼は老人の対面にある椅子に座った。

 注文を伺いに来たウェイトレスに彼は困ったように微笑み、ようやく「では、コーヒーを」と告げた。長い髭の老人に何やら話す機会がやって来たのはそれが到着した後のことだった。

 長い銀色の髭の老人はホグワーツ魔法魔術学校の校長、ダンブルドアと言う。そして、向かい合う人物は、リーマス・ルーピンと言った。ダンブルドアにとって彼は覚えている教え子の一人であった。

 

「──若い頃は厚手のウールの靴下が何足あろうが数えもしないものじゃったが、自分で買うようになってようやく数を覚えたのじゃよ。冬に向けて厚手のウールの靴下を三足ほど買おうと思ってのう。これで夏と冬、あわせて十五足じゃ」

 

「なるほど。ならば端にあるニコラスの雑貨屋がオススメですよ。あそこは品揃えがいいですから」

 

「おぉ、それは良いことを聞いた。近頃は、大陸からの輸入品が多くてのう。鍋底も薄ければウールも薄いようじゃ……」

 

 二人で「ハハハ」と軽い談笑をした後で。

 本題を切り出したのは、ダンブルドアだった。

 

「リーマス・ルーピン。さて君にひとつ、お願いがあるのじゃ。次学期の『闇の魔術に対する防衛術』の教職を引き受けてはくれまいか」

 

 ルーピンは、痛みのある顔をした。

 

「……ダンブルドア先生、私には無理ですよ。とても……相応しくない。私のことは……。よくご存じのハズだ」

 

「もちろんじゃ。能力は十分じゃとな。そして予防措置を取れば、君が生徒として通った時よりも快適に過ごせるじゃろう。リーマス、トリカブト系の、例の薬の話は耳に入ったかね?」

 

「ええ。けれどあれは腕の良い魔法使いや魔女が手間暇を惜しんで惜しんで、ようやく作れるものです。……私には難しいものでした」

 

「学校にはセブルス・スネイプがおる」

 

 お互いにこれまで一分の隙も見せないよう見つめ合っていたが、先にルーピンが目を逸らした。

 

「話には聞いています。風の噂でしたが」

 

「君も知るとおり、魔法薬の腕はたしかじゃ。もし、君が学校に戻ってくれるのであれば、月に一度、脱狼薬を煎じることを約束してくれた。どうじゃろうか」

 

 優れた軍師に手際よく外堀を埋められてしまった情景が目に浮かぶ。

 用意周到だ。それだけ必死ということなのだろうか。ルーピンはテーブルの下で親指を擦り合わせた。

 

「『闇の魔術に対する防衛術』は、私の在学中から先生が長続きしていませんね。話に聞くところ、一昨年は、事故死。昨年は、自主退職と聞きました」

 

「ああ、近年引き受けてくれる人がすっかりいなくなってしまってのう。本当に、参っているのじゃよ。……君に断られたら、そうじゃな、わしが『闇の魔術に対する防衛術』をすることも視野にいれなければならん」

 

「それでは校長職が空席になってしまう。マクゴナガル先生を変身術の先生から欠くワケにもいかないでしょう。そして、万一のことが先生に起きては……」

 

 これ以上の言葉を紡げば、悪い影響を招くような気がして彼は曖昧に濁した。

 ──きっと、後悔するのは自分だ。

 ルーピンは再びダンブルドアを見つめた。

 

「ご依頼、引き受けます。ありがとうございます、先生。……私を気にかけ、また取り立ててくれる人は、少ない。貴重な機会をありがとうございます。全力で勤めさせていただきます」

 

「こちらこそお礼をせねばならん。リーマス。できる限り君が穏やかに、そして教育に専念できるよう力を尽くそう」

 

 固い握手が交わされる。

 コーヒーのなかで溶けかけた氷が、小さな高い音を立てて割れた。

 




学徒のメモ
 鴉がセラフィを使って実験した例の件の五番ですが、二ヶ月ほど生命維持限界の栄養だけで体が成長することが分かりました。このことから栄養状態と成長は関係無いことが予想されています。一方で成長に必要な諸々の閾値が著しく低いことも予想されていますが、鴉から実験背景等の詳細情報を受け取っていないため最終結論は保留とします。しかし、レオーから受け取った速報値を見るに我々も同様の結論に至ることが推察されます。速報値の原本はいつもの場所に置いている『湖水水質記録No.3』に保存しておいて下さい。複写分は確実に焼却処理して下さい。追伸。レオーは子細を知り得ないため質問等は一切しないで下さい。また、この件に関する全てについて狩人に報告は不要です。


外出用狩人様のイラスト
挿絵

【挿絵表示】

 クルックスは今でも狩人とそっくりの顔をしていますが、この調子で成長するのか、狩人は心配したり期待したり不安になったり、成長を見つめるのが眩しくなっています。まるで人間だった自分にあり得たかもしれない成長を見ているようで。


四仔の私服姿のイラスト

【挿絵表示】

 ホグワーツは1年生が11才で入学しますから、3年生は13才。日本マグルで言うところの中学校1~2年生ですね。
 セラフィ(170cm)、テルミ(145cm)、クルックスとネフは160cm……くらいのざっくり感で描いています。

狩人様の突撃イギリス訪問
 ヤーナムからようやく離れたのにヤーナムのことを考え続けてしまうのは今の彼にとって職業病かもしれません。でも空白は存在の輪郭を強調してしまうので致し方ない側面もあるのでしょう。終盤、彼は一般旅行者のフリをして人混みをうろうろするように心がけてからはアイスも見つけて楽しそうです。


デート
 クルックスとテルミはデートしています。正確にはテルミがデートと言い張るお買い物なのですが、クルックスはデートを男女が連れ添って歩く行為(そのためお父様とテルミでもデートは成立する)という大いに誤った認識をしているので彼らにとってはデートなのです。ネフライトは認識の誤りをキチンと把握していますが、学徒のいる空間が嫌いなので修正は別の機会となりました。


 ご感想返信は、うっかりネタバレしてしまいそうなので、後ほどご返信させて下さい。
 でも、とても励みにさせていただいていますので、ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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青年と老人


アイスクリーム
牛乳と糖、香料を主とするものを凍らせた菓子。
口の中に広がる味は初めて嗜むのに懐かしい。

乳のなかに感じる薬の味は不味いのに癖になる。
そうして彼は消えるまでの時間を楽しんだ。



「…………」

 

 クルックスがローブを新調したところ、身長がかなり伸びていた。

 人差し指と親指を広げると成長した証をよく実感できる。

 テルミに報告しようと店を出て彼女を探した。

 

(おや……)

 

 人混みのなかで、テルミを見つけた。ちょうど横顔が見える。

 夏の日差しは歩いているだけで仄に汗を感じるほどだというのに、その下にいる彼女にはまるで陽光が差していないようだった。クルックスは、彼女を見ているとヤーナムの冷えた夜の気配を思い出した。

 

 ここ二年間の彼女の変化は、微々たるものだ。

 クルックスと同じように、知らないことを知り、他者と自分が異なる存在であることを理解しても、彼女は大して変わりにくい性格のようだった。

 人混みに抗うように立ち止まっていると、やがてテルミが気付いた。

 

「おかえりなさい。どうでしたか? 貴方の身長は、昨年に比べるとずいぶん高くなりましたから」

 

「ん。ああ。袖が七センチほど必要になっている……」

 

 ──君は?

 そう言いかけたが、彼女の身長は昨年とほとんど変わっていないことをクルックスは既に知っていた。

 テルミは、その内心を見透かしてしまったようだ。薄く微笑み、クルックスの隣に来て手を引いた。人混みにまぎれ、彼女は言った。

 

「フフフ、気にしないでくださいね。わたしもローブを新調したわ。複数枚で着回していますが、一年間着ているとさすがにヘタってきますから」

 

「そうか。……君の体のことをお父様に話したが、あまり色よい返事はいただけなかった」

 

 小脇に抱えていたトリコーンを被り、クルックスは歩調を合わせた。

 

「ええ。そうでしょうね」

 

「……もう少し時間がほしい。話をしてみよう」

 

「いいえ、一年に一度くらいにしましょう。お父様を急かすとよくないことが起きそうだわ」

 

「よくないこと?」

 

「わたしを成長させるために学徒に相談して輸血してあれこれ、とか」

 

「学徒お二人は君に無理強いすることはない……と思いたいが」

 

 ビルゲンワースの学徒は父たる狩人と歩幅を合わせることが出来る人間だ。つまり、思考が超越する時は飛ぶのだ。その結果、無茶を起こすことは容易に想像できる。だが彼らが大切に思っている聖歌隊の後継であるテルミに無体を働くとは考えたくない。

 

「ええ。そうだといいですね。お父様の血を輸血したことはありませんけれど、きっと、わたし達には過ぎた左回りの──あ、クルックスは輸血したことありますか?」

 

「渡された時に教えられた用途以外で使う考えがなかった。試そうにも、もう使い切ってしまったな。昨年度のバジリスク騒動の時に」

 

 テルミは「へぇ」とか「ふぅん」と相槌をうった。

 ──君は?

 再び言いかけたクルックスの言葉は音にならなかった。

 

「わたし、飲んでみたの。一匙」

 

 なに、とクルックスは思わず雑踏からテルミに目を移し、宙を噛んだ。

 テルミが隣を歩いている以上、特筆すべき異常は無かったのだろう。

 それにしても。

 

「君は俺の想像を超える行動力を見せる時がある。……それで、その、味は?」

 

「舌が蕩けるような甘みのなかに思索が迸る宇宙を感じたわ」

 

「そうか」

 

 これだけしか言えない。

 クルックスは、その後の言葉選びに困り「俺はどう言うべきか戸惑っている」と素直に伝えた。

 

「それだけが正解でしょう。わたし達にとっても刺激が強いのです。あれは薬にもなるでしょうし毒にもなるでしょう。けれど、どちらとしても使うべきではないのです。お父様がそう望まない限り」

 

「あの輸血液、君はブローチにするものだと思っていた。血晶として加工してな」

 

「わたしもそう考えていたのだけど『特別な輸血液』として賜ったのだから、そう使うべきと思いまして残りは病み人に拝領してしまったの」

 

「それは……それは……大丈夫なのか?」

 

 クルックスの言葉には、さまざまな意味が含まれた。

 上位者の生血をただの病み人に注いでもよいものなのか。病み人の同意を得ての医療行為だったのか。

 彼女は何でもないことのように言うが、クルックスは心配だった。

 

 テルミは医療者らしく傲慢な節がある。

 

 それは他人を手玉に取りたがるクセに扱いは気まぐれな手腕に現れるようだった。

 先のハリー・ポッターに話しかけた件にしてもそうだ。クルックスは何も聞いていなかったし、事前の相談もなかった。

 怪しまれる場所に有名人を連れ込むならば、その先で不要な人目を引くことになる。そんなことはテルミだって当然理解しているだろう。だが、彼女は彼を誘った。不毛な諍いが起きる率の上昇よりも、そして彼の身の安全よりも、『何かが起きたら面白そう』という気分を優先したからだ。

 テルミのこうした好奇心は『悪』として語るべきだとクルックスは思っている。彼女の悪は、性質が悪い。自分の好奇心や快楽のために──結果として──他人を苦しめてしまう事態が起きるだろう。そして、当の彼女はそれを罪悪に感じるどころか、気にもとめず、きっと翌日になったらさっぱり忘れてしまうのだ。加えて、気まぐれなのは、ただちに矯正すべき性格だ。予測が立たず、庇うにも庇いきれないからだ。

 ただし。

 

「ええ、経過観察中ですよ。興味があるのなら紹介してあげましょう。クルックスなら、わたしも安心です。彼の良いお友達になれると思うわ。病み人の夜は長いもの。あの人にとって生きていることがすこしでも楽しくなるように……わたしもいろいろと頑張りたいのです。これは、きっとお父様のためにもなると思うの。お父様は頑張っていらっしゃいますから。誰かに感謝されることも大切でしょう?」

 

 時に、好奇の矛先は柔らかで、棘を棘と感じさせない温かさがあった。

 その度にクルックスは言うべき諫言を都合良く飲み込んで、忘れることを心がけた。

 

「……ああ、そう、だな」

 

 注がれた輸血液を止める手段をクルックスは知らない。

 テルミの優しさは真心によるものだ。ならば行いは正しいものであるハズだ。

 それなのに、飲み込んだ言葉が胸のどこかに滞っていた。

 

 気まぐれだが、嘘ではない。嘘だけではない。

 その言葉をしばらく自分に言い聞かせた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 テルミはクルックスと手を繋ぎ、とある店を目指してダイアゴン横丁を抜けた。

 その先に広がる暗い路を先導するのは彼だ。理由は簡単で自分はひどく方向音痴なのだ。

 テルミが渡した簡単な地図を見て彼は「こっちだ」と手を引いた。

 

「クルックスも行ったことはないのですよね。ボージン・アンド・バークス」

 

「昨年、セラフィとコッペリア様が『憂いの篩』とやらの注文で行った店だな。ああ、休暇中は夢──あ、工房──から出てはいけないことになっていたからな。そうでなければ、数日ほど通いたいと思っていたが……」

 

「あら。何かお求めの品が?」

 

「ああ、すこしな……」

 

 見上げた先、父そっくりの思案顔で彼は地図と周辺の店を照合していた。暗い瞳が周囲を油断なく見張り、存在を確かめるように手を握る。握り返しながらテルミはそっと目を逸らした。

 護るべき者がいるとき彼は強くなる。

 その警戒心の強さがテルミは──奇妙なことにたとえようもないが──好きではない。きっと逆の立場であったのならば、彼も自分を嫌うだろうとテルミは思う。

 

「あっちだな。行くぞ。……ところで話の続きだが」

 

 探索中の会話に埋没させてしまうだけだと思っていた話題は、クルックスが拾い上げて続けた。

 

「俺の用事とはネフから頼まれた物だ。別に口外を禁じられているワケではないから言ってしまうのだが『タイプライター』なる機械と付属品を購入して欲しいという頼みを受けている。知っているか?」

 

 クルックスが衣嚢から取り出したのはネフライトからの依頼文書だった。文書は──クルックスが完璧に理解できるように配慮したのだろう──タイプライターの手描き挿絵が付いていたし使用に必要な付属品のインクリボンの説明があった。

 

「文字を書く機械でしょう。上層で見たことがあります。ボタンを押すと文字を印字するとか何とか」

 

「知っているなら幸いだ。それらしい物を見かけたら教えてくれ」

 

「それも店で頼んでしまった方が簡単かもしれません。コッペリアお兄様が『他に欲しい品物があれば頼むといい』と言っていましたから。──あら?」

 

 テルミはクルックスの手を引いた。知っている顔があったからだ。

 クルックスも気付いたのだろう。傷んだ石畳の路地のなか風を切って歩く人物、それは。

 

「ドラコ・マルフォイ。こんな薄暗い場所にいるべき人物ではないような気がするな」

 

 プラチナブロンドの髪。白い肌。尖った顎。

 ホグワーツ城では自信に満ちた顔をしていたが、今はそうでもないようだ。しばしば周囲を見て歩いている。

 

「父親は『死喰い人』の活動をしていたことがあったようですから、ハリーがいるより問題は少ないと思いますね。あれは誰かを撒いて冒険中という顔に見えます」

 

「『死喰い人』とは何だ? 『活動をしていたことがあったらしい』とは?」

 

「『死喰い人』は、名前を言ってはいけないあの人ことヴォルデモートの配下ですよ。わたし達の言葉で分かりやすくいうのなら『従僕』でしょうか。自分の意志で活動していたのではないとヴォルデモート死去後に否定したそうです。なので無罪になりました。──ということをわたしは、同じハッフルパフ寮のスーザン・ボーンズから聞きました。ご存じかしら? あの子のご親族の一人が魔法界の司法を司るウィゼンガモット──つまり、裁判所ね──にいるのだとかで」

 

 クルックスは不快そうに眉を寄せ、頬をピクリと動かした。

 獣が歯噛みするような仕草であり、父である狩人ならば絶対にしない顔だとテルミは見ていた。

 

「罪を償っていない人間が日差しの下を歩いている社会は、獣が昼夜問わず闊歩している世界と同じくらい間違っているとは思わないか?」

 

 テルミは、すこし笑った。

 

「む。何がおかしいのか」

 

「貴方があまりにまっすぐで……ウフフ……ごめんなさいね。貴方は正しいわ。でも魔法は便利であるだけではなく恐ろしいものですから。ヤー……ではなく、故郷の誰も想像していない力を持っている、特別な神秘。人を意のままに操る魔法もあるの。本人の意志とは無関係なままにね。ヴォルデモートが闊歩していた時代、魔法省はそれにずいぶん手こずったみたいですよ」

 

「それを掛けた術者共々罰するべきなのだ。魔法省はそうしたのだろうな?」

 

 当然だが、と言いたげなクルックスは潔癖にすぎるきらいがあるようだった。

 

「藁の中から針を探すような仕事を、わたし達はあまりにやり過ぎているのかもしれません。見つけた頃には縫うべき布を失っているかもしれないのに」

 

 クルックスは再び歩き出しながら「君の言うことは、よく分からない。説明を」と続きを求めた。

 

「罪の証明は、本人の証言のみで全て終わってしまったのです。マルフォイ家は魔法界に多額の寄付をしているという話も聞きますね。魔法省としてはマルフォイ家の当主をつるし上げて辱めるよりも金を搾り取る方を選んだのかもしれません。残酷な話です。『金があれば全ての扉は開く』ということね。……もっとも、わたし達ならば諦めないでしょう。なぜなら時間があるから。そのうち『無い』ことの証明さえ出来てしまうかもしれません。けれど、彼らには生きる限りがあります。時間は有限で貴重なもの。人々は罪にも罰にも永遠に付き合ってはいられないのですよ」

 

「意志が伴っていないから罪ではないなど言い逃れではないのか? そもそも本人の証言だけで無罪となるのはおかしいだろう……おかしくないか? いや待て、俺がおかしいのか? それから『金づるになるから』で解決するなど魔法界がそんなことをするワケがないだろう? 司法の存在が危ういヤー……俺達の故郷なら分からないが……こんな理由は前時代的だと俺にも分かる。被害を受けた者は泣き寝入りか? 許されるのか? そんな不条理が」

 

「許されちゃったのでわたしには何も言えませんね。限りのある生だからこそ罰という洗礼が必要だと思うのですが、魔法界はそうではないようです。非魔法族に比べて魔法族は数が少ないものだから身内を罰することに抵抗があるのかしら? 殺し合いは出来るのに罰することには罪の意識があるなんて不思議ですね」

 

「おかしな話だ。──見よ、脱獄犯は血眼で追っているのに」

 

 そう言って彼は薄汚れた壁に打ち付けられた指名手配のマグショットを見た。

 

『危険な大量殺人鬼、脱獄犯のシリウス・ブラック』

 

 同じものを見てテルミはクスクス笑った。

 

「殺した人の数の違いなのかしら。面白いですね。ああ、ですから理解を試みるのも楽しいかもしれません」

 

 テルミはするりとクルックスの手を手放して道を駆けた。

 

「おい待て!」

 

 背中から追ってくるクルックスの声に止まらず、テルミは暗く細い路地の向こうでプラチナブロンドの輝く頭を見つけた。

 

「マルフォイさーん、マルフォイさーん」

 

 誰もいない路地の向こうで彼が驚いた顔をして振り返った。

「こんにちは」と挨拶すると彼は、警戒するように周囲を見た。

 

「こんなところで何をしているんだ?」

 

「ボージン・アンド・バークスに行きたくて探していたら貴殿がいらっしゃったので、つい声をかけてしまったの。こんな場所にこんな時ですが、セラフィがとてもお世話になっていますから、そのお礼もしたくて──」

 

「テルミ!」

 

 追いついたクルックスが路地から飛び出してきた。

 

「方向音痴なのだから俺を置いて行くんじゃない。帰れなくなったらどうする。……むむ。貴殿はドラコ・マルフォイ」

 

「こんなところで何をしているんだ?」

 

 マルフォイは、不思議なことにテルミが一人ではなかったことに安心したようだ。

 

「ああ、ボージン・アンド・バークスにな。そういえば昨年は店を紹介してくれてありがとう。もし、父がいたらお礼をしたことだろう。僭越ながら俺が代わりに述べさせてもらうが──」

 

「どうしてセラフィとコーラス=Bの兄上に紹介したことで、君の父親からお礼を受けることになるのか分からないけどね」

 

 尖った顎を上げてマルフォイは言った。

 彼の指摘はもっともだ。セラフィとクルックスの関係は一般に親戚ということになっている。そして、コーラス=Bすなわちテルミとの関係も親戚だ。一見にして血と事情の繋がりは小さく見える。

 クルックスもすぐ言葉が過ぎたことに気付いたようだ。「あ、それは、ええと」と言葉を濁す。

 

「ウフフ、彼のお父様から依頼された品物でしたからお礼をしたかったの。そのボージンさんとは五年の猶予をもって契約を行いましたが、毎年進捗を確認しに行こうと思いましてね。前金は払っていますもの」

 

 テルミは、マルフォイが自分を見る目が変わったのに気付いた。

 

「……セラフィが君の話をする時には、決まってただの『お話好きのカナリアではないのだよ』と語るが……なるほどね。金を出したことに目敏いのはいいことだろうな。それでボージンの店に行くのか? 道に迷っているようだが」

 

「あ、ああ、生爪を持った魔女とかいう目印があるハズだが見当たらなくてな……。しかし、貴公は何か用事を果たす途中なのではないか」

 

「そういえばどうしてドラコさんはこちらに? 最近はとっても物騒なのだとか。──シリウス・ブラックのこと。ご存じかしら?」

 

「シリウス・ブラック?」

 

 小馬鹿にしたようにマルフォイは言った。

 

「さあ、報道されている以上のことは知らないな。吸魂鬼と魔法省が総出で探しているんだ。すぐに捕まるさ。……さて、僕が何をしていようと君達には関係ないだろう」

 

「それはその通りだな。すまない」

 

 あっさり引き下がったクルックスにマルフォイは虚を突かれた顔をした。グリフィンドールの生徒があっさり謝罪したことに驚いたのかもしれない。

 

「俺は要らない心配が多すぎるのだろうな。それはそうと貴殿も早めに明るい道に戻るべきだと思うが……。むむ、言い過ぎた。貴殿の夏休みがよい休暇となるよう祈っている。──テルミ、行くぞ」

 

「はぁい。では、ドラコさん。次は学校でお会いしましょうね」

 

 テルミは手を振った。

 二人の背中に。

 

「その道を左だぞ!」

 

 マルフォイの声が掛けられた。

 二人は振り返り、手を振って応えた。

 

「──テルミ、勝手に歩くな」

 

 左に曲がった直後、クルックスがテルミの手を掴んだ。

 

「あら、怒っているの? 道が分かったのに」

 

「それは……そうだがおおよその道はあっていたんだ。うろうろしていれば分かった。マルフォイにこちらが認知されることはなかっただろう」

 

「けれど収穫がありました」

 

「何の?」

 

「マルフォイがシリウス・ブラックを恐れているということね」

 

 クルックスは「ああ、恐ろしいな」と心にも思っていないことを言った。

 

「世間的には恐るべき存在だろう。なら恐れるのは当然のことだ。それがどうして収穫になるのか」

 

「いくつかの仮定が重なることになりますが……。ドラコ・マルフォイの父親が、アズカバンに収容されるほどの忠誠心を持ち合わせていない程度の情熱を持つ死喰い人だったとします。もし、シリウス・ブラックが死喰い人の仲間だとしたら、マルフォイはどう思うかしら?」

 

「それは……そうだな。きっと懐かしい仲間が出てきて嬉しいだろうな」

 

 テルミは彼が冗談を言っているのかと思い、顔を見上げたが残念なことに本気だった。

 

「……クルックス、前向きですね。貴方のそういうところ、わたしは大好きですが心配よ」

 

「お父様にも言われた。ということは何だ。マルフォイにとっては不都合なのか?」

 

「憎しみというものは、時に敵よりも裏切った味方に対して苛烈になるものです。シリウス・ブラックは非魔法族に対しての脅威に留まらず、死喰い人だった者に対しても牙を剥く存在となっているのかもしれません。深読みのしすぎかしら。けれどマルフォイの顔には少々気がかりな怯えがありますね」

 

「その仮定が正しいとすれば自分の生命が脅かされるのだ。怯えもするだろう」

 

「いいえ、彼が恐れているのは自分の命の怯えではなく、もっと漠然としたもののようです。……たとえば、家計の中心たる父を亡くしたら彼も今ほどは威張って歩けなくなるかもしれません。ウフフ、こんな日陰の道をネズミみたいにうろちょろするマルフォイなんて面白い光景でしょうね」

 

「……君のそういう嗜癖はいずれ自分に返ってくるからやめたほうがいいぞ。本当にやめたほうがいいぞ。俺達は、お父様が白目を剥きたくなるほどに間が悪い存在なんだ」

 

「それも一興です。わたしは遊ぶ時に遊ばれることを覚悟して遊んでいますから構いませんよ。──ええ、話をまとめてしまうと。マルフォイ家としては、シリウス・ブラックはさっさと捕まってアズカバンに収容されるか、見つけたらうっかり殺してしまいたい存在のように見えますね」

 

「もし、テルミの推測が正しいとすると何だか空しいな。かつての仲間だろうに……殺し合うなど」

 

「人間の命は短いものですから利害関係を天秤にかけ、殺した後で発生する『害』を上回ると判断すれば、ひと思いに殺してしまうことも善い選択なのかもしれません」

 

「そんなものが善い選択であるものか。人間の賢さとはそんな勘定に使うものではないぞ」

 

「ついでに人間のとっておきの発明思想価値である『善悪』をひとつまみ天秤の上皿に載せてしまいましょう。するとあら不思議。善の利に傾く天秤の多いこと多いこと。……人間は弱いですから、誰かを信じて助けるよりも信じず傷つける方が被害は少なく済みます。顔見知りで不意打ち出来るなら尚更のことです」

 

「どこもかしこも淀んでいる。淀んでいるな。……あぁ、うんざりする……。俺にも『うんざり』という、呆れたり驚いたりする感情はあるのだ。早く魔法界も綺麗にしなくては……。綺麗に……綺麗に……何もかも……」

 

 クルックスは低い声で言うとテルミの手を強く握り、薄暗い路地を早足で歩いた。ボージン・アンド・バークスの古びた看板が目に入ったからだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 狩人は、ダイアゴン横丁を楽しく散策していた。

 結論から言えば、お目当てである郵便は見つけられなかった。

 

「なんということだ。彼らの生活には当たり前のものすぎてここでは商売として存在しないのか?」

 

 あるのはふくろうを売るペットショップだけだった。

 ふくろうを買うことも検討したが、どの種類がよいのかふくろうに詳しくない彼には分からない。もしも買うならば、クルックスやテルミに任せた方がいいだろう。

 

「期限が定められていることでもなし。追伸も必要ないだろうが……大人しくクルックスに頼むべきだったかな」

 

 趣のある封筒を外套にしまい込みながら、独りごちる。

 けれど、口実にあちこちを歩き回れたのは幸いなことだ。

 狩人はこのまましばらく徘徊しようと決意した。

 

「しかし……なんとまぁ明るい世界だ」

 

 狩人は、歩いているだけで気分が上向いた。

 夏の陽気を受けて天気が良い。人々は明るい。活気がある。

 憂鬱になる要素は、ここに存在するほとんどの人々にはないようだった。

 ヤーナムの外に出たクルックスは、しばしば気が塞ぐことがあったとコッペリアから聞いた。その理由を狩人は知らなかったが、なるほど実感した。いつも陰気で薄暗いヤーナムには存在しない『明るさ』に直面するのは、クルックスにとってさぞ気落ちすることだろう。虫の気配もすっかり失せている。

 

「陽気。陽気か。ヤーナムには足りないな。明るさ──そうだ、明るさが足りないのか」

 

 狩人は空を見上げた。

 

「太陽を増やしてみるか。均衡をとるために月も増やせばいいだろうか。学徒達に相談してみよう」

 

 これはそう遠くない未来において却下される提案なのだが、天候により気分が上向くのは実感済みなのでいつかやってみようと狩人は決心した。

 人の流れに従って歩いているとビルゲンワースの学舎で別れたネフライトを見つけた。彼はまだこちらに気付いていないようだ。とある喫茶店の隅でタブロイド判の雑誌を逆さまにして読んでいる。

 彼が誰と会うのか特に聞いていなかった狩人は、近くの書店で雑誌を手に取った。編み物に関する雑誌のようだが、内容はさておく。ネフライトがどのように他人と関わっているか興味が出てきた。

 数分後、ネフライトは本を置いて腰を上げた。

 

 ──こんにちは。フリットウィック先生。 ──お休みのところご足労いただき、ありがとうございます。

 ──君こそ、遠くから来たのだろうね。

 ──大した労ではありません。先生とのお話は、私にとってたいへん勉強になるものですから。

 

 甲高いキーキーとした声が聞こえるが、人の姿が見えない。

 背伸びしたところでネフライトと目が合ってしまった。

 彼は、ほんのすこし目を瞠り、そっと下に視線を移した。狩人は彼の視線の先に小人がいるのを見た。それから、ごく自然にネフライトが「ここへいらっしゃるおつもりならば、こちらへ」と空いている椅子へ掌を向けるのを見た。

 狩人はヒラヒラと雑誌を振って行くつもりがないことを伝え、雑誌を書架へ戻した。

 その時だ。

 

「今月の編み物雑誌の付録は、かぎ針なのじゃよ」

 

 横から出てきた手が、つい先ほど置いたばかりの雑誌を持ち上げた。

 

「お手本ガイド付きかぎ針でしてな。かぎ針がパターンを記憶しているのじゃ」

 

「…………」

 

 付録。かぎ針。お手本ガイド。パターン。

 長い髭の老人の言葉に狩人は困惑した。

 ヤーナムの狩人の生活圏には、およそ存在しない言葉の群れだったからだ。唯一親近感を覚えたのは「パターン」という言葉だけだった。ヤーナムの地下にある神の墓地、その接続を可能とする聖杯から発生する地下空間には儀式素材の種類によってパターンが見られるという研究がある。──そんなことに思考を飛ばしてしまい、出るべき言葉が出てきたのはずっと後だった。

 

「陽光に警戒心を剥奪されてしまったらしい。ああ、私は普段なら絶対に気付いたのに。俺は事前に仔らと打ち合わせをして目立たない装束を選んだのに。こんなところで声を掛けられてしまうとは予想外だ。──私は貴公を知っている。そう。付録。思い出した。貴公をお菓子の付録で見たことがあるのだ」

 

「蛙チョコレートの付録カードの肖像に選ばれたのは、わしの人生の中で指折りの幸運な出来事であり誇らしいことじゃ。それは恐らく二年前に、そして今も役に立ったようじゃのう」

 

「そのようで」

 

 狩人は、白い髭の老人──アルバス・ダンブルドアがそうするようにできるだけにこやかに笑いかけた。

 

(ああ、よくない。これは、実に、よくないぞ)

 

 ヤーナムの外、魔法界の陽気には陰がない。

 ──自分の間の悪さもここでは通用しないだろう。

 勝手な思い込みは、このように思いがけない不意打ちの事態を招いた。

 

 たとえ、たった今、死角から聖杯を徘徊する守り人の狂人が出てきたとして、こうも苛立つことはなかっただろう。

 

 彼は忘れていたのだ。

 長い長い夜の末、常人の気が狂うほど得た時間は、ヤーナムの外に出てしまえば途端に猶予を無くしてしまうものなのだ。

 彼は当然のことを忘れていた自分に、ひどく幻滅した。

 狩人は、姿勢を正して一礼し「ご機嫌よう」と挨拶をした。

 

「初めまして。よいお天気ですね。……今の私は休暇中のただの父親です。ヤーナムの者として交渉ができると期待してほしくはない。ヤーナムから這い出てきたのは何のことはない、返信のお手紙を出しに来ただけなのですからね」

 

「ほう。それは重畳。ここで会えたのは、やはり幸運なことだったようじゃ」

 

 趣のある封書を取り出し、狩人は差し出した。

 

「これは我々なりの誠実です。受け取っていただきたい」

 

「深い感謝を。月の香りの狩人殿」

 

「今後も私の仔らをよろしくお願い申し上げる。暗澹の地に棲まう私達にとって仔らは血を流して可愛がるのも惜しくない、呪われた末だ。しかし、彼らもイギリス魔法界では小さな子供。他の子と比べて変わらない──そう見えるハズです」

 

「ホグワーツは助けを求める者には、常に助けが与えられる。夏休みが明けたら、またホグワーツでお預かりしましょうぞ」

 

 トップハットを脇に抱え、深い礼をした狩人は頭を上げた。

 

「ご厚意に感謝いたします。それぞれの仔の保護者各位を代表してよろしくお願いしたい。ああ、それから。クルックスから伝達させようと準備しておりましたが──もし獣狩りの要があれば特別に承りましょう」

 

「……。ほう。獣、狩りとな」

 

「イギリス魔法界に対し、ささやかな社会貢献をしたいのですよ。我ら、狩人。それしか取り柄がないものですから」

 

「そう卑下されることもありますまい。……獣狩りの要は今のところ無いようじゃのう」

 

「おぉ、それは素晴らしい。平穏無事が何より、そして狩人が暇なことは善いことです。今後、学び舎を綺麗にしたい時あらばぜひお声がけ下さい。──さて。おっと。待ち合わせていたクルックスが来たようです。失礼、校長先生。次は、いつか素晴らしい夜に」

 

 影も形もないクルックスに向かい、狩人は書店を去った。

 当てずっぽうに歩き出したその先はノクターン横丁だ。

 その先で本当にクルックスとテルミに出会ってしまうあたり、狩人はダンブルドア校長に出会うまでに感じていた気分の上向きが、ただの気分の問題だったことを嫌と言うほどに理解した。

 

「あら、お父様! 月の運命は決してわたし達を見放さないということかしら。ちょうど買い物も交渉も済んだところです。これからお食事でも、と思ったのですけれど酸っぱい顔をなさっているわ。わたしと一緒にいるのはお辛そうですね……」

 

「そういうワケではない。そういうのではないんだ。今日は。……さっき、そこで君たちの校長先生に会ってな。ビックリした。ほとんど逃げ出す格好で店を出てしまった。ちょっと意味深なことを言ったので十年くらいはその考察に費やしてほしいと思っている」

 

 クルックスとテルミは似ていない顔を見合わせた。

 それから。

 

「校長? ダンブルドア校長に会ったのですか。なるほど。すると手紙を渡す用事や獣狩りを請け負う話が済んだということですね。いろいろ省けてよかったのではないですか」

 

「ああ、よかったとも。それだけはな。しかし、あの青いキラキラした目は良くない。あれは良くない目だ。昨年やってきた先生の目とも違う。しかし、何が良くないのか分からないが、とにかく良くないものだ。いてもたってもいられなくなった。むむっ。俺はテルミのように人の心を読むことが上手くない」

 

「俺も得意ではありませんから、そう落ち込まずに。お父様、人には向きと不向きがあるのでしょう。テルミが言っていました」

 

 突然、話の矛先を向けられたテルミが「言ったかしら。言ったわね。そんなこと」と小さく呟いた。

 狩人は肩を落とした。

 

「上位者にあるのはいつだって左回りだ。クルックスのように前向きになるのは難しい。俺はどうしようもなく万年ナメクジでヤーナム野郎なんだ」

 

「そういじけないでください。左回りにも曲がり角度とかあるのだと思います。とにかく気にせずに。今のところヤーナムの外の人と話す機会が少ないだけですよ。時間をかけてすこしずつ話し合えば、活路は拓けるものでしょう。人は、獣とは違うものです。知性ある限り、何事も可能性があると信じたいのです」

 

 ノクターン横丁の細く薄暗い路地は、ヤーナムの路地を思わせる。

 そこでおよそヤーナムに相応しからぬことを聞いた狩人は、クルックスを見下ろした。

 

「俺は、君が前向きすぎていつの間にか後ろ向きにならないか心配だよ」

 

「心配ならば全て杞憂にしてみせましょう。大丈夫ですよ、お父様。俺やテルミ、ネフとセラフィもいます。何もかも悪くはならないでしょう」

 

 狩人はトップハットを衣嚢にしまい、いつもの枯れた羽を模したトリコーンを取り出した。そして、薄暗いカーテンが落とされたショーウィンドウの前に立ち深く被った。

 

「一理ある。それに、いつまでもウジウジしていたらウミウシになってしまうな。お互い不意打ち気味に出会ってしまったようだし、仕切り直す機会はあるだろう……。次の機会までに上手く話せるように練習しておこうか」

 

「……けれどお父様。お言葉ですが、正式な対外交渉ならば学徒の方々に任せればよいのではないですか?」

 

「任せたいが、それではカインハーストの女王様はいい顔しないだろう。レオーを困らせたくもないからな。──さて、反省会は後ほどにしよう。買い物は終わったのか? では帰ろうか」

 

 鈴を鳴らすような声が聞こえた。彼女を見れば「あっ」と声を出したことに自分で驚いた、という顔をした。

 

「お待ちになってください、お父様。あのね。あのね。とっても美味しいパンケーキのお店があるの……もし、これからお時間があれば……一緒に……行きたいのです。せっかく遠出したのですしクルックスも一緒ですから、いいでしょう……?」

 

 狩人は、自分に対してうんざりしてしまった。

 テルミに気を遣わせてしまっている自分は、なんと情けないのだろう。

 強大な敵に立ち向かう方がずっと簡単だ。

 

「すまない。本当に俺は巡り合わせが悪くって仕方ない。実は、先ほどフォーテスキュー氏からアイスをバケツで買ってしまったところだ。急いで帰らないと溶けてしまう」

 

 テルミが薄く口を開いたまま、目を彷徨わせた。

 

「あ。い、いいえ、お父様。気になさらないでくださいな。事前にお話をしなかったわたしが悪いのですから……」

 

 シュンと肩を落とす。テルミは、いつもよりもさらに一回り小さくなってしまったようだ。狩人とクルックスは大いに慌てた。いつも笑みを絶やさない彼女が落ち込むのは、よほどのことだと彼らでも分かるからだ。

 

「こ、今回は無理だが、次の機会には君たち四人と一緒に食事をしよう。約束する。だから、その時に行く店は任せる。あ。いいや、任せてもいいだろうか?」

 

「ええ、はい、素敵なお店を探しておきますね」

 

「ああ。頼む。では次の機会を楽しみにしよう。……不思議と、そう遠くない気がするがね」

 

 狩人の言葉にテルミの顔色は、パッと花が咲いたように明るくなった。

 

「あら。とても嬉しいことですわ」

 

 テルミがクルックスに笑いかけ、彼も見つめ返した。

 言葉を交わすまでもなく「よかったな」と言っているのが狩人には分かった。

 

「…………」

 

 狩人とてクルックスに話すようにテルミと会話をしたい。

 だが、長い長い夜の記憶が脳裏をチラつく。

 ──クルックスのように前向きになるのは難しい。

 自分の言葉が古い傷口に浸みた。

 心の傷など時間が解決するだろうと思っていたが、そんなことはなかった。

 呼吸をひとつ。そして狩人達は姿を消した。

 




飲み込む
 クルックスは、しばしばテルミに言うべき言葉を飲み込んでしまいます。
「やめろ」、「考え直せ」、「それは違う」、「俺は反対だ」、「すべきではない」
 あれもこれも彼女の行動の根幹にあるものは、いつも温かいものだということを知っているからです。
 一方で、善意が他人を傷つけ、向上心が思わぬものを殺し、愛が破滅を招き、躊躇いがトドメになったのは一夏の思い出です。

テルミは方向音痴
 テルミの致命的な特徴のひとつです。
 これのために彼女が独りで行う探索はいつも命がけで、自分がどこにいてどこに向かっているのか、自分自身を見失う節があります。ただし、地図が読めないというワケではないので知識で補える範囲であれば行動することが出来ます。道標として輝く硬貨──ヤーナム内の通貨──を地面に撒きながら行動することもあります。
「テルミさんは地図なんて望んで見ないワケですが」とは市街地図を作成しているピグマリオンの談。
 出来るけどやらない。これも彼女の気まぐれなのでしょう。可愛いですね。

狩人君、背中を取られる
 状況が状況ならば、ダンブルドア校長にバックスタブを取られていました。(背面内臓攻撃を食らう音)
 普段ならば血の狩人並の警戒心で間合いに入った人物の挙動を決して見逃さない狩人ですが夏の麗らかな気分で楽しくなった結果、うっかり会いたくない(会いたかった)人物と出会ってしまったようです。心臓ドキドキでノクターン横丁に駆け込んだ先「用事が済んでよかったですね」とクルックスに言われて「そうなんだけど……! それは、そうなんだけど……! そうじゃあなくて……!」となりました。

ハナハッカ味のアイス
 不味い! でも癖になる……。もう一個!
 ちょっぴり薬っぽいフレーバーはヤーナムの彼らにとって初めてなのに親しみのある匂いで、冷たい食感と併せて楽しんで消費されました。
 狩人は学徒に対し「お土産くらい買っていかないとな……」と考えていた様子。漁村の魚卵並の素敵なお土産になったことでしょう。

赦して……赦して、くれ……
 前話にてペチュニアとリリーの姉妹を誤って表記していました。※ご指摘いただき修正済です。
 正しくは、ペチュニア(姉)、リリー(妹:ハリーの母)です。
(わたくしは何年経っても最初に見た情報の更新ができない頭よわよわ作者です、の看板を首に下げる図)

ホグワーツに旅立つまで、あと1話
 次更新でヤーナムに関連するお話は一旦終了となります。


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ホグワーツまでの前夜


睡眠と夢
内的原因によって周期的に起こる状態。
近頃の学者によれば眠りに際し起こる夢は、脳が記憶を整理する折りの幻覚だという。

浅い眠りのなかで彼は夢を見た。
懐かしい香りのなか白い腕に抱かれる揺籃の夢を。




 ホグワーツでは。

 三年生になると校外の街ホグズミードへ外出することが許される。

 それについて思うことは「ふらりと散歩するにはよかろうか」という程度だ。そのためクルックスは重く意識することはなかったが、テルミやネフライトは興味津々であれこれと関連図書を読みあさっていたようで、今もテルミは夢中になって雑誌を読んでいる。

 クルックスは、頭上で交わされる彼らの会話を流し聞きながら宿題に取り組んでいた。ほとんど終わりかけているが、油断はできない。

 

「四人で一緒に行くお店を決めないとね。カフェ、レストラン、雑貨屋……あら、バーもあるのね」

 

「くだらない。三人で出かけてくれ。私は欠席だ」

 

 ネフライトは気の塞いだ声で言う。先日、ダイアゴン横丁でクルックスが買い込んだ手動式QWERTY配列タイプライターを彼は朝早くから起きて念入りに調整していた。父たる狩人とクルックスが物珍しさに心負けて触ろうとしたら静かに怒られたので彼の調整が終わるまでは、こうして遠くから眺めているだけだ。

 その彼はタイプライターの打鍵から目を離した。

 

「──ところで許可証に署名はもらったのか? それが無ければ話にならないぞ」

 

 テルミは衣嚢から一枚の紙を取り出した。

 

「ユリエお姉様に今朝サインをもらったわ。セラフィ、貴女は? お父様にお願いしたのかしら?」

 

 めでたく一日の余裕を残して宿題が終わったセラフィはテーブルの上で愛銃を分解して掃除している。作業の手を止めず、彼女は答えた。

 

「僕はレオー様にサインをもらったよ」

 

「あらそうなのですね。お父様でなければ鴉羽の御方かと思いましたが、違うのはちょっぴり意外だわ」

 

「最初はお父様にお願いしたが『レオー様に頼め』と言われてしまった。……鴉羽の騎士様はヤーナム外のことがお嫌いだから、お願いする気分にならないな。僕は恐怖を感じないだけで痛覚はごく普通に存在するからね」

 

「ふぅん。そうなのね。ネフは? お父様にサインをもらったのかしら?」

 

 ネフライトは嫌な顔を隠さなかった。

 

「冗談で言っているのだろうね、それ。お父様の偽名にも程がある名前でフィルチさんと諍いになりたくない。学派のダミアーンさんからサインをもらっている。クルックスは誰に頼んだのかね?」

 

「俺はまだ誰にも頼んでいない。宿題が終わらずそれどころではなかった。今もそれどころではないと言いたい。ふむ。けれど行って見聞を広めるべきだなのだろうな。お父様にお伺いを立ててこよう。きっとコッペリア様に頼むことになるだろうが……」

 

 クルックスは、宿題をキリのよいところで切り上げると狩人と学徒達がいる部屋へ向かった。廊下の壁面に隠された階段を下ると学徒の部屋がある。ノックすると入室を許可する声が聞こえた。今日は、ユリエの声だった。

 

「失礼します。ご相談がありまして参りました。お父様よろしいですか?」

 

 父たる狩人はソファーに寝そべって『吟遊詩人ビードルの物語』という子供向けの書籍を読んでいた。昨年、コッペリアが買い込んだ図書の一冊だった。

 

「俺? ああ、何かな。そうそう、俺からも一つ二つ、君に話すべきことがあった。この本の事と旧市街へのお遣いを頼んだ諸々の手間賃についてだが……あ、採血の準備を忘れていたな……。あとでな」

 

「了解です。俺の用事はホグズミードへの許可証の件です。先にセラフィがお訊ねしたようですが、保護者の署名をいただきたいです」

 

「ああ。なるほど。俺の名前は避けた方がいいだろう。コッペリアかユリエ、頼めるだろうか?」

 

「署名なら僕が書くよ! 狩人君の名前は、ちょっとねぇ。そうそうサイン用のペンがあってさ。……ん。あれ? どこにしまったかな?」

 

「では、よろしくお願いします。俺は宿題が、かなり、アレなので作業に戻ります」

 

 クルックスは、許可証を近くのテーブルに置いた。

 狩人がうずたかく積んだ本の向こう側で手を振った。

 

「追い込み頑張りたまえ。俺は納税したから当分大丈夫だ」

 

「それは昨年の話だろう。今年の納税分はコツコツ頑張りたまえよ。つい最近『納期限の最終日まで血眼で鐘を鳴らすのはもうしないぞ!』と決意したばかりじゃあないか」

 

「だが一年はまだ始まったばかりだ。俺にも休暇があってもいいハズだ。このように!」

 

 狩人は、悠々とソファーで体を伸ばし、ついでに両手を広げた。

 それを知ってか知らずか、コッペリアは鼻で笑った。

 

「それが結局自分の首を絞めるんだから世話のない話だよ」

 

 狩人は何を言われても気にしないことを決めているようだ。彼は軽く笑ってソファーでゴロゴロしていた。クルックスはいつか見たことのある猫の写真集を思い出した。 

 

「コッペリア、他人事のように語っているけれど、貴方もレオーから依頼を受けているのでしょう。天気が崩れないうちに用事を済ませてしまった方がいいわ。明日にでもね」

 

「あぁ~、忘れてた。近々、医療教会上層に行かなきゃならないなぁ」

 

 うっかりしていた、とコッペリアはペンを探していた手で目隠し帽子をおさえた。

 三人がそれぞれ今年の予定を話し合い始めたのでクルックスは一礼して退室した。

 

(学徒の方々はいつもお忙しくしているが……コッペリア様が受けた仕事はヤーナムの過去を繙こうという試みだ。レオー様の話が本当ならば、秘密は当事者の死と共に葬られているが、それさえ覆すご心算であるのか? いまだ悪夢を彷徨っている古狩人から聞き出すとして、戻ってこない古狩人が大半なのに)

 

 だが、これまで成功していないということは異常を通常とする現在のヤーナムにおいても困難なことなのだろう。

 手伝いを申し出なかったことを少々気に病みながら、彼は勉強部屋に戻ってきた。

 部屋には、テルミがソファーに寝転んでいるだけでセラフィとネフライトはいなくなっていた。

 

「ん? 二人はどうした?」

 

「セラフィはお仕事ですってカインハーストに向かいました。何でも整理整頓の任務とか。ネフはなにも言わなかったけれど、外だと思うわ」

 

「ネフが外に? 珍しいな。しかし最近、何やら鬱屈気味だったのでちょうどいいのかもしれない。散歩しているのだろうか」

 

 彼のタイプライターはテーブルの上に置いてある。好奇心に負けた誰かが手を触れることを見越したように『全員接近禁止!』と書かれた置き手紙があった。

 窓に近寄って外を見るとすぐに彼を見つけた。彼は、水辺で弓を引いていた。ますます珍しい光景だ。

 

「……彼は医療者だが狩人でもあるので鍛錬の方が気分が晴れるのかもな」

 

 テルミが寝そべっていたソファーから身を起こした。

 

「貴方は知っているのかしら? ネフがずいぶん落ち込んでいる理由について」

 

「知らない。興味はあるが話してはくれない。そういう情報収集は君の得意分野だろう」

 

「ネフは用事が無ければ、わたしと口を利いてくれないの。わたしはもっとお話していたいのだけど」

 

「時間が解決するだろう。あまり茶々をいれないことだ」

 

 クルックスは、彼に気付かれる前に窓から離れ元通り、長椅子に腰かけた。

 羊皮紙のインクが乾いたことを触れて確認しつつ、重ねていく。

 

「自分でどうにもできない問題を抱えて身動きが出来なくなるほど彼は不器用ではないだろう」

 

「そうだとよいのですけれど。あら。怪訝な顔をしないでね? わたし達は幼いのですから失敗することもあるわ。その時の傷は浅く済ませたいものね」

 

「そうだな。……何だ」

 

 クルックスの隣に来たテルミは、ちょこんと座った。

 

「暇なので課題を見てあげようかと思いまして。わたしも成績は良い方ですから。例えば『ベゾアール石はどこにあるか』の質問の答えは『スネイプ教授の薬品保管庫の三番目の棚』ではないことを指摘できるわ」

 

「とても助かる。実のところ、なぜ個人の薬品保管庫のなかにあるものを俺に聞くのだろうと疑問だった試問だ。そうか。産出場所のことを質問していたのか」

 

「うーん。貴方の宿題は総点検した方が良さそうな気がしてきましたね。わたしは心配です」

 

「ああ。頼みたい。宿題と言えば、クィレル先生は?」

 

「自分の部屋で調理をしています。ネフが調味料とお肉を買ってあげたの。一年間芋を食べ続けて食傷気味なんですって」

 

「なんと。学徒のお二人は二〇〇年以上芋を食べて続けているのに。一年で飽きてしまったのか?」

 

「学徒のお二人を引き合いに出すのは残酷なことです。あまり食事にこだわるお二人ではないし、クィレル先生はお菓子を知っていますから。病み人のように生きていることを唯一の娯楽にして欲しいですね。ウフフ、フフフ……」

 

「何だ。ずいぶんと楽しげだな」

 

 テルミはクルックスが書いた『変身術』のレポートを眺め、ついでに彼に寄りかかった。大した重さではないので彼も好きなようにさせた。

 ──そういえば。

 テルミはすっかり宿題を終えてしまったのに雑誌をめくり始めるまで書き物をしていたようだ。何を書いていたのだろうか。

 

「一生懸命に生きている人は可愛いわ。つい助けてあげたくなりますね。お父様がクィレル先生を助けた理由も、あるいはそういう気持ちだったのかもしれません。わたしにとって小気味よい想像なので、つい笑ってしまったの。わかるかしら?」

 

「よく分からない。彼にとって良いことであれば、俺は奨励すべきなのだろう。けれど、君の善意は少々極端に過ぎる。ハリー・ポッターをノクターン横丁に連れ出そうとした件にしてもそう。あのまま連れ歩いていればきっと騒動を起こしてしまっただろう。あの提案は好ましいことではなかった。マルフォイに突撃したこともそう。俺達は──お父様がそうであるように──どうしても巡り合わせが良くないのだから『よかれ』と思って何かすることは、慎重に、そして、できるだけ控えた方がよいのだ」

 

「ウフフ、自分に言い聞かせているといいわ。わたしの正しさとは異なるようです。ええ。咎めませんよ。控えめな干渉を心がけることは、貴方の美徳ね」

 

「『心がけ』か。明日から始まる新年度にあっては是非とも実践に移していきたいところだ。……さて。魔法薬学はこの程度でいいだろう。いいと思う。いいとする。いいとしたい」

 

「残念ですけれど出来具合を決めるのは貴方ではなくてスネイプ先生なのよね。はいはい、嫌な顔をしないで。ちゃんと見てあげますからね。教科書を見て書いているのならば、そうそうトンチンカンなことを書けないハズです。すこしの修正で済むでしょう。わたしがチェックする間、お菓子を食べて英気を養っておいてね」

 

「助かる。……はぁ……新年度の授業はもっと難しくなるのだろう。俺はついていけるだろうか。授業のスピードに。……体を動かすことならば、誰にも負けないのだがな……」

 

「そうですね。体を動かすといえばクィディッチですが、貴方は飛行訓練はお好きなのかしら?」

 

 飛行訓練。その名の通り、箒による飛行、道具の取り扱いを学ぶ科目であり、ホグワーツ魔法魔術学校においては必修科目にも設定されている。

 だが、クルックスは飛行訓練が好きではなかった。

 

「ネフは常々言う。『我々の体は四次元にすら対応できていないのだ。なぜ三次元に堪えうるというのかね?』。至言だ。箒は苦手だ。地面から脚を離すという行為が、もう、何というか、ダメダメだ。恐怖とは違う。ただの違和感なのだが、それが凄まじくて、堪えられない」

 

「あらあら。ネフが唯一首席を逃した科目とは聞いていたけれど、貴方もダメなの。とっても意外ね。セラフィは簡単と言っていたけれど」

 

「技量の差だろう。彼女は器用だからな」

 

 クルックスは、テーブルに置かれたクッキーを食べた。

 バニラ味のクッキーは口の中で柔らかく砕けた。

 

「美味しい」

 

 食事に関する語彙は、増える傾向を見せない。それもこれも大抵のものは「美味しい」のひと言で済んでしまうからだ。感動を一口で言い表してしまうのは、勿体ないと感じることもあるが、感動を伝えたい時は大抵、目の前に美味しいものがあるので語彙の貧弱さに彼が困ることはなかった。

 

「そう? 嬉しいわ。お父様の夢のなかで人形ちゃんと作ったの」

 

「ああ、素晴らしい。食事を作れることは幸運なことだ。そして美味しい。バニラ。恐らく、ブルジョアの味。富裕層の香りがする」

 

「何を言っているか実はよく分からないのだけど、お気に召したのならよかったわ。次の夏休みにまた作ってあげましょうか?」

 

「頼む。俺も何か手伝おう。買い出しとか」

 

「ええ。一緒に行きましょう。わたしも作っていて楽しかったわ。──では。はい。修正箇所です」

 

 テルミが羽根ペンを動かしていた手を止めた頃、クルックスもクッキーを食べ終えた。

 

「ありがとう。──いや、待て待て。結構あるじゃないか」

 

「どんな問題であっても、ひとつずつ片付けていけば、巨大な障害にはなりえないのです。なので、さっさと手を動かして直しましょうね」

 

「ぐうぅ……。あまりの正論に言葉も出ない。……しかし……人には向き不向きがあるハズでは……?」

 

「今どき汎用性のない狩人になっても仕方がありません。今年のスローガンは『目指せお父様!』でいきましょう。獣をねじ伏せる手段は筋力だけではないでしょう? わたし達は臨機応変に適切な対処のできる狩人になるべきなのです」

 

「お父様はいつもノコギリ鉈を使っている……」

 

「あらあら。言い訳ばかりの困ったさんになってしまったのかしら。……フフ、そうイヤイヤという顔をするものではないわ。考え方を変えてみましょう。これだけが人を救う術だとしても貴方は手抜きをするのかしら?」

 

「ぐぅ……。君の言いたいことが、何となく分かる。『たかが』と思ったことに足下をすくわれると言いたいのだろう」

 

「違いますけど似ているのでヨシとしましょう。けれど、そういうことなのです。死の間際に『もうちょっと知力に振っておけばよかったなぁ』とは思いたくないでしょう? ましてこれから行くのはホグワーツです。大抵のことは何でも取り返しのつくヤーナムとは違います。わたし達にはまだ想像もつかない、限りある命を抱えて生きている子供のなかに飛び込んでいくのです。……そして、わたし達も幼いのですから」

 

 ──傷は浅く済ませたいものね。

 テルミが言わんとする言葉を悟り、クルックスは羽根ペンを取った。

 

「貴方には何かご褒美が必要ね。何がいいかしら? 夕食まで時間があるのでクッキーをまた焼いてみましょうか?」

 

「勉強に褒賞があるべきではない。これは俺のための勉強なのだから」

 

「そう言って一週間も缶詰なのですからご褒美には何かあってもいいと思うわ。頑張っている人は報われるべきなのです。何か欲しいもの、あるかしら。青い秘薬のダースはいかが?」

 

「それは後ほど君から購入する。無償、無料はいけないものらしい。『ただ』のものに人は敬意を払わず、結局、高くつくとレオー様は言う」

 

「あらそう? 『きょうだい』の仲ならば、わたしは気にしませんけれどね。けれど気が進まないのなら仕方がないわ。他には? 何かしてほしいことないかしら」

 

 クルックスは羽で顎の下を掻きながら考えた。そして閃いた。

 

「では、夜は寝ようか」

 

「んぇっ──ビックリして噎せちゃったわ──なぁに?」

 

 テルミは目をぱちくりさせた。

 彼女は表情をころころ変えるが、これは珍しい顔だった。

 いつも人を手玉に取りたがる彼女にそんな顔をさせたことは、何だか気分が良い。クルックスは小さく笑った。

 

「『一年間お疲れさま会』の後、俺はひどく酔って寝てしまったのだろう。君に世話をさせてしまった時のことだ」

 

「わからないわ。わたしは貴方を甘やかしたいのよ? 貴方に世話をされたいワケではないの」

 

「まぁ待て。急くと秋となるぞ。──君と眠るのは充実していた。夢も見なかった。ぐっすり寝た。温かさがあると眠りの深さが違うのだろうな。君は、俺へのご褒美に何かしてくれるらしい。今夜、どうだろうか。学舎で過ごす最後の夜だからユリエ様もきっとお許しになるだろう」

 

 羽根ペンのふさふさした羽でテルミの顔の輪郭を撫でる。すると宙を泳いでいた彼女の視線が、ふらふらと落ちてきて、クルックスと目が合った。

 

「そういうことなら、そういうことなら仕方ないわ。ええ、そう、仕方ない、仕方ないわ。わたしは貴方のお願いを叶えたいのですから! いいですよ。いいわ。貴方がわたしの部屋へ? それとも貴方の部屋に行けばよいのかしら?」

 

 するりとクルックスの左腕に身を寄せてテルミは囁くように言った。

 

「別の広い部屋だ。あとで伝える。コッペリア様に申し出てベッドも準備しておこう。倉庫にいくつか在庫があったハズだ」

 

 テルミは幸せな気分で浮ついた。暢気にも「夜は何を着て行こうかしら」と考え始めた。そのため、その後クルックスが言った「だが仲間はずれは良くないな。ふむ」という言葉を聞き逃した。

 

「さて、宿題の修正を頑張るとしよう。それから学徒のお二人にお伺いだ」

 

「ええ。頑張りましょうね! ううん、頑張って! 頑張りなさいね!」

 

 クルックスが宿題に取りかかり始めるとテルミは隣で助言をした。

 夏休み最終日は、二人にとって穏やかな午後の時間となった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夜。

 市街で獣を追っているであろう連盟の同士に思いを馳せながら、彼はビルゲンワースの廊下を歩き、目的地に到着した。

 扉はわずかに開いている。すでに来訪者がいるらしい。蝋燭と魔法の光が空間に浮いている。光源が豊富なので中の様子は窺えるが、礼儀としてノックした。すると「いいですよ」と上ずった声が聞こえてきた。

 部屋の主はクィリナス・クィレル。彼と話していたのは、父たる狩人だった。テーブルには二人分のティーカップがあった。

 

「お父様、こんばんは。クィレル先生にご挨拶に来ました。明日、ヤーナムを離れますから」

 

「ああ、良いことだな。俺はすこし歓談をね。……俺にも学ぶことは多くある。先生と話していると時間を忘れそうになるほどだ。今は『吟遊詩人ビードルの物語』についてな。知っているか?」

 

「いえ、知りません。あとで読んでみますね」

 

 クィレルは恐縮したように肩を竦めた。

 二人の間ではテーブルの上に置かれたテーブルランプがあった。しかし、照明としての役割は求められていないようだ。立ち上る焔の上には網が置かれ、薄く切られた燻製肉がわずかな油を音立てていた。酒こそないが、これも話の『つまみ』なのだろう。

 

「夏休みも最終日。お、おも、思えば、早かったような、短かったような。あ、新しい学校生活に心弾むものですか。それとも、ゆ、憂鬱になるものですか」

 

「心配なこともありますが、概ね楽しみです。新しい教科も増えますから、学ぶことも多くあると思っています。先生もお体に気を付けてください。……食事は大切なものです。気が回らず失礼いたしました。芋ばかりは大変だったのですね」

 

 クィレルは「そんなことはない」と言いかけたようだが、肉が焦げないようにサッと網の上でひっくり返す動きは真剣そのものだった。

 

「俺達は豚肉を食べない。いいえ、先生が気にされることではない。俺達は、お父様の真似をして食べていないだけですから。しかし、先生が芋に食傷であれば……俺もすこし融通しましょうか。今年からホグズミードに行くことが出来ますから、多少の食料を買っても怪しまれることはないと思います」

 

 話を聞いていた狩人が「おお」と色よい声を上げた。

 

「禁域の森の豚を狩ってこようかと算段していたところだが、手に入るのならばそちらの方が良いだろう。……こちらの豚は餌がな……衛生的に……。あぁ、嫌なことばかり思い出してしまう」

 

 半分は独り言になった狩人を横目に、クルックスはクィレルに提案した。

 

「お父様からもお許しが出ましたから、今年はご期待ください。できる限り快適に過ごせるよう努力します。金で買える快適さならば安いものです」

 

「それはどうも、あ、ありがとう……けれど気を遣わないでください……ええ」

 

「健康! 病み人だった俺は、すこし気を配るべきだったな。失礼をしてしまった、先生。栄養バランスという概念が、ここには存在していなかった。実は食事という概念さえ皆、怪しいところだ。──クルックス、長期保存できるものが好ましいだろう」

 

「了解しました」

 

「充実した生活となると、い、いいですね。今日は早く休んだ方がいいですよ」

 

「そうですね。……それではお父様、クィレル先生。先に休ませていただきます」

 

 二人はそれぞれに労いの言葉をかけてクルックスを見送った。

 その後で。

 椅子に座り、膝の上に手を乗せたクィレルは、対面のソファーで寛ぐ狩人を見て言った。

 

「……彼は、一夏の間に、す、すこし貴方に似てきましたように見えますね」

 

「そうか」

 

 狩人はテーブルランプの硝子に映る自分を見つめ、それからクルックスを思い浮かべた。

 

「残念なことだ。私に似た顔になるということは、苦労が多いということだからな」

 

「こ……子供が子供らしく過ごせる時間は短いものです。……もうすこしだけ、彼らにもゆっくりする時間が必要だと思いますが……」

 

「それは出来ないな。狩人が狩人を止めてしまえば、我々はただの豚の餌だ。はじめた時と同じように終わることは出来ない。目につくものを狩り尽くして明かす夜は終わった。だが、まだ『狩り』は必要だ。純粋に、自分や誰かを守るためにもな……」

 

 狩人の言葉は。

 クィレルにとって理解が困難なものだった。それゆえ彼の危惧は、狩人には理解されないものだということも分かった。

 それでも、見てしまったものはある。

 

「わ、私が起こした賢者の石の件、クルックス達から聞いて、貴方はすっかりご存じでしたね」

 

「概要は、と前置きを付けるべきだが、それが何か?」

 

「ここは考え事をするには十分な時間がありました。自省するには十二分な時間、そして後悔するには余りあるものです。ホグワーツ地下、『みぞの鏡』の間でヴォル──闇の帝王と私が謀をしている間。……きっとやって来るのはダンブルドアだと思っていた。次点でスネイプ教授。闇の帝王が警戒していたのは彼らで、しかし結果は違いました」

 

 狩人もその話は知っていた。

 今から約二年前になる。顛末は簡単だ。

 ハリー・ポッターが全て終わらせた。

 クィレルは、震える手を隠すように握った。

 

「もしも、彼がやって来たのはダンブルドアの差配であったのなら、もしも、あそこでの出会いが偶然ではなかったのならば、彼は策士だ。最も効果的に、確実に我々を滅ぼした。……しかし、それでも……彼は? ハリー・ポッターは? 私が今さらあの子のことを心配するのは筋違いなのでしょう。けれど、彼のことを思えば不安なのです。闇の帝王と会っただけで、子供の心には恐ろしい出来事だったに違いない。まして、例のあの人は、ハリー・ポッターにとって親の仇です。とても、とても、恐怖を感じたことでしょう」

 

「『大人の都合でこどもを振り回すな』と言いたいのかな、先生?」

 

「いいえ。貴方や学徒の都合だけならばよいと思いますよ。『お使い』の範疇でのことならば社会の訓練として子供には必要でしょう。そ、それに貴方は、何でも、どうとでもできるのでしょうから。……私が心配してしまうのは、他の大人の影響です。彼らは、あの子達をあまりに『子供』として扱っていないのではないかと……気がかりなのです」

 

「そうか。ふむ。ヤーナムでは、あれくらいの年の子になれば、恐らく何らかの仕事に従事している頃だろうから気にしたことがなかったが……。学生をしている子は、学生をしていない間、何をしているんだ?」

 

 狩人は、オッタリー・セント・キャッチポールの『隠れ穴』にあるウィーズリー家に行ったときに話を聞いてくればよかったと思った。

 クィレルは、すこし考えて込んでから答えてくれた。

 

「遊んでいますよ。いえ、私は友達がいなかったので遊べませんでしたけど」

 

「すまない。悪いことを聞いた。悲しい子供時代を掘り起こすつもりはなかったんだ」

 

 網から肉を下ろし、近くにあった皿に取ると部屋の中には何とも言えない肉の香りが広がった。

 

「え、ええ。自分でも思いがけないダメージを受けていますが、そ、その、気にせずに。……ともかく、もうすこし穏やかに過ごす時間が必要なのではないでしょうか? 学校が終わってしまえば、四人ともずっとヤーナムにいるのでしょう。ですから、学生の間だけでもせめて子供らしくあっても……など……私は、思うのですよ……」

 

「ふむ」

 

「ネフは、よく私の話し相手になってくれていますが……さ、最近はとても参っているように見えます。もちろん彼は決して悩み事を口にしませんが……子供が負うには重い荷を持っているのではないですか?」

 

「放任も過ぎれば毒なのだろうか。……ふむ。先生の言うことならば検討してみよう。日帰りで実施した旅行企画は、まぁまぁの出来だったようだからな。……学徒はよい顔をしないだろうか」

 

 狩人は、そう言って思案顔になった。

 その顔は、やはりクルックスとそっくりなものだ。つまり、苦労が多いのだろう。

 

 クィレルは、カーテンに遮られた窓の外へ意識を向けた。

 空には『いつものように』満月が浮かんでいるのだろう。

 狩人は立ち上がり、部屋の壁に掛けていたトリコーンや外套を抱えた。

 

「さて、明日の十時までには戻るだろう。──先生も夜はお休みになるといい」

 

「え、ええ……ありがとう、ございます……」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

(これはもう完璧と言ってもいい出来でしょう!)

 

 ビルゲンワースにあるテルミの部屋は、一見したところ私物が少なく実に簡素なものだ。

 なんせ彼女が私有する物のほとんどは服であり、洋箪笥に納められているからだ。

 レースに彩られたワンピースは現代においてベビードールと呼ばれるネグリジェの一種だ。

 肌着として求められる機能より、視覚の栄養に富む衣装となっていることをテルミは知っていたが、面白いことに使えそうなので先日ダイアゴン横丁で買ってきた。

 クルックスに荷物持ちをさせて買いに行ったものだ。

 つい最近の温かい思い出も彼女にこれを手に取らせた。

 姿見の前でクルリと回ると白い裾が広がった。

 

「赤とか黒とか、濃い色の方が良かったかしら……?」

 

 凹凸の少ない体を見下ろし、テルミはレースの裾に触れた。

 真新しいネグリジェは──ヤーナムのあらゆる衣類がそうであるような──ほつれのひとつもない。

 けれど、白はいくらなんでも地味すぎるかもしれない。

 

 ──おや、素敵なお召し物ですね。

 ──縫い目が細かい。

 ──刺繍は、まあまあ。

 ──繊維が……人の手によるものなのでしょうか?

 ──なぜでしょう……。

 ──途方もない時代の流れを感じます……。

 ──はっ、失礼。ご相談は色でしたね。

 ──テルミさんならば、次回は濃紫などいかがでしょう。

 ──いえ、私の趣味ではなく性癖でもなく。

 ──はたまた嗜好でもありませんよ。

 ──瞳の色に相応しいかと思っただけなのです。

 ──そ、そう疑わずに。

 ──ところで、どなたのためのお召し物なのでしょう?

 ──いったいどこの馬の骨なのか伺っても……?

 ──あう。な、なんでもないです。

 ──私は幸福です。

 ──耐えられないほどの幸福のなかにいるのですから……。

 

 美的センスは医療教会の黒、ピグマリオンの方が上だ。病み付いた言動はあるものの彼の審美眼の正しさは、多くの場合で認めなければならないだろう。次回の反省は心に留めつつ、これ以上のものはないので袖を通した。

 そうして自室を出てスキップしながらクルックスが示した部屋に向かう。

 微かに笑う横顔は、幸せの色をしている。しかも、ヤーナムに誤って咲いた花の如く開いた少女が満月に照らされたのなら、恋するピグマリオンがうっとりと溜息を漏らすほど殊更に白く輝いて見えるのだった。 

 

 快活と信仰を矛盾なく持ち合わせ、純情に他人を慕い弄ぶ少女の形に惑わされた者の末路は、つい最近、ピグマリオンが証明してしまったことをまだ誰も知らない。

 彼女の内面にどんな思惑が渦巻いているのであれ、見目はヤーナム内外の美しさの指標に高くかなうものだった。

 ──たとえクルックスが『可愛い』を理解できなくとも今日、具体的には、今夜に知ることになるでしょう。

 テルミはそんな確信を持って部屋の扉を開いた。

 そこには挨拶回りを終えたクルックスが市街の狩人を案じて窓のそばに立っている──ハズだった。

 

「まったく、こんな時間に私を呼び出すとは。君だから応じてやったんだ。しかも時間に遅れてくると、は──ヒッ、う、ワアアアアッ!」

 

 部屋の中、窓のそばにいたのはネフライトだった。

 テルミも驚いたが、ネフライトの驚きようは比ではなかった。

 口をぱくぱく開けたり閉じたりしながら、数歩下がった拍子に頭を窓枠に打ち付けてしまった。

 

「ぐぅうぅぅ、痛い!」

 

 それはそうだ。聞いているこちらも痛くなりそうな音を立てた。

 いつもならば「あらあら」とでも言うところだが、意表を突かれたのはテルミも同じだ。

 

「きゃっ! ネ、ネフ、な、なによ……」

 

 ネフライトは我が目を疑うようにパチパチ瞬きをした。

 

「テル──テルミ! な、なんだ……! その格好は! 破廉恥! 破廉恥な紐! 破廉恥が歩いている! は、恥知らず! 恥を知れ! この、このっ、この~っ!」

 

 気を取り直して怒り狂うネフライトの手から逃げながらテルミも混乱していた。

 

「な、なんでネフがいるのっ!? クルックスに呼ばれたのはわたしなのに──!」

 

「ハァ!? クルックスに呼ばれたのは私だ! そしたら君が破廉恥してきたんじゃないか! やはりそうだ男を誑かすのは女だと決まっているな!」

 

 テーブルを挟んで睨み合いながらネフライトが強い言葉で言った。

 内臓に手を突っ込む気安さでテルミはネフライトの心を読んだ。普段、テルミに対しては嫌悪以外の感情を露わにしない彼の珍しい姿に魔が差したのだ。

 

「ウフフ、ネフったら自分がわたしのように可愛い女の子の形ではないから怒っているのね?」

 

 朱が差したネフライトの顔は、ほんの一瞬、青ざめた。

 

「ばっ……かを、言うんじゃあないっ! そんなっこと! あるワケないだろうがっ! 学派では女性など目も当てられん扱いをされるのだからなっ!」

 

「もうっ、ネフったら。これ以上は神秘99のガラシャでパンチしますわ。でも、そんなことよりクルックスを探しに行かないと──」

 

 その時、扉が開き、ふたりは「すわクルックスか」と思い、争いを止めた。

 

「深夜の呼び出し。理由は聞かずとも分かるとも。決闘とは気高いものだ! いよいよ君と僕のどちらが優れているか白黒つけようと言うのだね?」

 

 およそ考えられる限りの最高の武装をしたセラフィが現れたのでテルミは絶句した。

 ネフライトは一足先に「もうダメだ」と呟き、視点を天井に向けてこれ以上の視界情報の理解を拒んだ。

 

「セラフィ! 貴女……あの、どうしちゃったの……?」

 

「クルックスから依頼を受けて来た! 何でもこの部屋に来いとね。レオー様に伺ったら『夜の決闘でもするんだろ』とのことだったので僕はこのように狩装束で来たのだ。それで君たちが決闘立会人か?」

 

「違うわね」

 

「違うのか。では、なぜここにいるんだ? おや? この部屋、ベッドなんてあっただろうか……?」

 

 ネフライトとの騒動でテルミは気付かなかったのだが、部屋には大きな寝台が二台置いてあった。それは天蓋付きの立派なものだった。

 

「だが、枕がないね」

 

 セラフィの指摘通り、寝台にはあるべき枕がなかった。

 するとクルックスのいない理由にも思い至る。間もなく、ノックの音が聞こえた。

 

「両手が塞がっている。開けてくれないか」

 

 再び気を取り直したネフライトが扉を開くと両手に枕を抱えたクルックスとコッペリアが立っていた。

 

「この時間までに枕が乾いてくれてよかった。これはネフの分だ」

 

「ああ……そう……」

 

 ネフライトは受け取ってしまった枕を手の中で形を確かめるように触った。

 

「セラフィの分だ」

 

「ありがとう。ところで、これから決闘するのかな?」

 

「その予定はない。君も武装を解くといい。今夜は休むべき日だからな。──これはテルミの分だ」

 

「ん……あ、うん……」

 

「ずいぶん薄着だな。ヘソが見えているぞ。しかも尻の半分が隠せていない」

 

 それを聞いたコッペリアが三人の頭上で盛大に吹き出した。

 彼は励ますように震えるテルミの肩を優しく叩いた。

 

「ファー! じゃ、じゃあ、ファフッフフッ、プフ、うん、ウフフ、プフォッ! 年寄りはこのへんで。いいかい。ンッフ、クフフ、四人ともくれぐれも仲良くするんだよ!」

 

「分かりました。お休みなさい、コッペリア様」

 

 唇が緩い弧を描き、彼はヒラヒラと黒い長手袋に包まれた手を振って部屋を出て行った。

 最初に動いたのはネフライトだった。コッペリアの足音が聞こえなくなるやいなや枕をベッドに投げつけてテルミを指差した。

 

「そうだな!? 破廉恥だな!? 破廉恥だと思うんだな!? 破廉恥だよなぁ!? 許せないよなぁ!? クルックス!?」

 

「ネフ、俺は君が何に興奮しているのか理解しかねる。テルミは何を着ても、きっと、可愛いと言われるのだろう。しかし、腹を冷やすなよ。明日はずっと列車に揺られることになる。トイレとの旅は楽しいものではないだろう」

 

「あら、心配してくれるのね! わたしは貴方がわたしとの約束を忘れてしまっているのではないかと心配なのに! いいえ、この際、セラフィがいるのは許しましょう」

 

「メンシス学派差別か!? ええ!?」

 

 今にもテルミに食ってかかりそうなネフライトを止めたのはセラフィだった。「まぁ、落ち着きたまえよ」と言って脇腹に銃口を押し当てたので彼は以降、静かになった。

 

「どうしてネフがいるの? わたしと貴方だけの予定だったのに」

 

「二人で眠るのは充実していただろう。だから四人で寝たらきっともっと充実するだろうと思ったので呼んだ。……すまない。てっきり話をしたつもりだったのだが、その様子では俺は話し忘れてしまったらしい。……先日は、独りでは得がたい眠りだった。君は、俺にご褒美をくれるらしい。今夜は期待したいところだが、どうか?」

 

 彼にしては珍しく機嫌を取るようにテルミの頬を指で撫でた。

 予定とはずいぶん違うが、求められたからには応じることもやぶさかではないのだ。

 

「し、仕方がありませんね……。わたしだから許すのよ?」

 

 結局、テルミが部屋を去って行くことはなかった。

 クルックスとテルミの話が一段落したところでセラフィも肩の力を抜いた。

 

「そういうことであれば話は単純だ。親睦を深めることもよいだろうね。僕も先達とゆっくり休みたいものだよ。……今晩は特に。カインハーストを離れがたい夜だった」

 

 行儀悪くネフライトは舌打ちをした。

 

「まったく結構な提案だ。親睦と共に溝も深まった気がするがね。──君は、さっさと銃をしまいたまえよ!」

 

「今夜の寝台は、僕らの揺りかごだ。何人も争うことあたわず。ここを出て行くか、不戦を誓いたまえ」

 

「今夜だけはテルミを蹴飛ばしたりしないと誓おう。クルックスのために。そして許可したお父様の為にも。……実はとっても癪だが」

 

「よろしい。では寝ようか」

 

「ハァ? 誰が君と──あ、力強い……!」

 

 軽々とネフを寝台に投げ込んだセラフィは部屋にある洋箪笥のなかに狩装束を納めた。

 身軽になったところでネフライトもベッドの上でシャツのボタンを二つ外した。ついでに眼鏡を外し、サイドテーブルに置いた。

 

「私だって聖職者の端くれだ。……くれぐれも触らないでくれよ」

 

「それでも触れることから愛は始まるものだ。僕らの間柄で忌避することはないだろう」

 

「知っていた気がするが、君と私は根本的に相容れないらしい。もういい。寝る。……明かりを消してくれ。すこしでも明かりがあると眠れないんだ。だから私は隠し街のヤハグルで掃除用具箱のなかでバケツを被って寝ている」

 

「肺に黴が生えてしまうよ」

 

 彼女が呆れたように言った。

 

「眠れないよりいい。……どうした、セラフィ?」

 

 てっきりすぐにでも身を横たえると思っていたセラフィが、軽装になったにも関わらずいつまで経ってもベッドのそばで立ったままだったのでネフライトは声を掛けた。柄にもなく緊張しているのだろうかと疑ったがそんな殊勝な風ではない。言葉に急かされたように彼女は動き、促したとおり広いベッドに横たわった。それからネフライトにだけ聞こえる声で呟いた。

 

「僕はもう十日ほど寝ていないんだ。眠り方を忘れてしまっているかもしれない」

 

 冗談ではない響きがあった。

 

「……なぜそんなことに? 私達にも眠気はある。空腹があるのと同じように」

 

「ううん……。レオー様の看病で朝も夜もそばにいた。眠くなったら自分の頭を銃で撃ち抜くんだ。すると万全だった時の自分に戻る。それを繰り返していたら、眠り方を忘れてしまった。お父様が眠って夢が巡り、レオー様の怪我は治ったけれど……肉体と精神は、どうしようもなく違うものなのだね。そして自分の感覚と実態は違うものだ。今は消えた傷の痛みにひどく苦しんでいらっしゃる。僕に寝物語を語れないほどに」

 

「ああ……? ああ、そうか。なるほど……なるほどな」

 

 要領を得ないセラフィの話を聞き、およその事情は察した。

 市街で怪我を負った後、その傷が完治する前に上位者の眠りが起きて、世界の一新に巻き込まれてしまったのだろう。そして先達は、記憶と肉体の差異に苦しんでいる。セラフィの困り事とは、そんな事情のようだ。

 一般的に肉体の傷ならば輸血液を使って回復が見込めることだろう。しかし、治療すべき傷はもう夢の如く『無かった』ことになっているのだ。

 

「恐らく、幻肢痛のようなものだろう」

 

「げんしつう?」

 

「慢性的な疼痛。君の言った症状の病だ。『無いハズの傷が痛む』というものだよ。『痛み』は、必ずしも傷があるから痛むのではない。正常だった時の体と現状の齟齬によっても引き起こされる。神経の混乱とか何とか。私も専門ではないが……ヤーナムの外では交通事故などで四肢を欠損した際に見られる症状の一つらしいがね。……それにあの古狩人ならば顔も火傷か塩酸で痛めているだろう。きっとそれにも苦しんでいるのではないか?」

 

「その通りだ」

 

「ふむ。……なるほど。現在のヤーナムでは『夢を見る狩人』でもない人間が、まるで『夢を見る狩人』のように振る舞っているように見えるが、似ているだけで根本は違うものなのだろうな。夢を見る狩人の我々とは違い、彼らは死んだら一回休み。お父様の夢が巡れば、直前の記憶を保持したまま死んだことが『無かった』ことになる。彼が苦しむ他方で君が何度頭を撃ち抜いても平気なように。過去の出来事を覚えているからこそ感覚の狂いが出ているのか……? 考察が足りない。情報が不足している。……残念だが、外的に治すことはできない。鎮痛剤も果たして効くものか。外傷ではないから」

 

 セラフィは、自分の痛みのように苦しそうな顔をした。

 

「……心配なんだ。レオー様は僕のことを愛してくれているのに僕は何も出来ない……」

 

「君までおかしくなってどうする。さっさと寝ることを思い出すことだ」

 

「きっと僕は今夜も眠れない」

 

「では目を閉じてジッとしていることだ。……君の先達は、君の健康を害してまで回復を望まない。だって、愛が、あるんだろう?」

 

 ぎこちないネフライトの言葉は、投げやりなものだった。

 それでも。

 嘆くばかりだった美しい顔が、わずかに人の血の色を取り戻した。

 

「ああ……そうだった。そうだったね。うん。きっとレオー様は大丈夫だと思う。僕より強いからね。……きっと、起きたら、僕に寝物語を語ってくれるのだろう……僕が眠る時のために……僕らの、未来の話を……そう、きっと……きっと……」

 

「眠ってしまうといい。夢の中ならば……私達は自由だ」

 

 ごく薄い毛布を掛けるとネフライトはセラフィに背を向けて目を閉じた。

 明かりの消えた部屋ではクルックスとテルミの内緒話が聞こえるような気がしたが、そのうち彼も眠ってしまった。背中に感じる温もりが今日の夢の入り口だったことに気付いたのは、抗いがたい眠気が訪れた後だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「くぁ……眠いな。俺は寝るぞ」

 

「ええ。どうぞ」

 

 横臥したクルックスは小さな背中を向けたままのテルミに話しかけた。

 眠るのならば、気分よく眠りたい。

 それにベッドに横になった時点で彼女も異議はないハズだった。

 

「なんだ、拗ねているのか? 充実した眠りは狩人の悲願だ。少なくともお父様の願いの一つでもある。狩人が夜に眠るときこそヤーナムの朝は訪れる。……本当は、俺は今日も市街に行くべきだが……お父様の厚意には甘えるべきなのだろう。だから休むことにしたんだ」

 

 振り返ったテルミが「むぅ」と唸った。

 

「怒っていないわ。いいえ、怒っているわ。貴方が全然甘えてこないので拗ねているわ。ご機嫌とりに甘えてご覧なさい」

 

「難しいことを言う。ご褒美が過ぎるのだ。……こうして皆のそばにいるだけで俺には十分だ。幸せとは、こういう時間のことを言うのだろう。四人揃って何かをするのは充実感がある。何もしなくとも、ただ寝ているだけだとしてもだ。あるべきものが、あるべき場所に収まったように……不思議と気分が落ち着く」

 

「……欲のない人ね。けれど、貴方がそれでいいなら、わたしもそれでいいの。押しつけがましいことは嫌いです。何も望まないことを望むことを許しましょう」

 

「君は、たまにややこしい言葉を使う」

 

 ちょうどクルックスの鎖骨のあたりにテルミが頭をすり寄せた。

 

「いつもそう。貴方は温かいのね」

 

「俺達も休もう。共に夜明けまで……あぁ、惜しいな。日中に比べれば今日の夜は瞬きの時間に感じる」

 

「ええ、そうね……」

 

 壊れ物を扱うかのように優しくクルックスの腕がテルミの背を抱えた。

 それから額を寄せ合って二人は目を閉じた。

 

 

 

■ ■ ■ 

 

 

 

 恐らく、真夜中。

 テルミは目を覚ました。

 真夜中に起きる習慣はない。どうして目が覚めたのか。それは部屋の外の扉の向こう側から聞こえた。

 

「ぐっすり寝ているようだね」

 

「ええ、眠るといいわ。仔らの仲が良いことは良いことね」

 

「争うよりは?」

 

「そうね。ヤーナムの各組織や団体は簡単に争ってしまう。夢の生地を掌握したのだから、我々が争う必要はカインハーストの動機や処刑隊の主張を除いて無くなっている。──しかし、人々は瞳が暗で、耳は衰え、脚も萎えている。もう限りあるものは無くなってしまったのに」

 

「そのうち気付くさ。ビルゲンワースの蜘蛛の秘匿も十分ではない。狩人君もよく言うだろう。『皆が期待するほどに上位者が完璧なら、ヤーナムは滅びることはなかった』とね。滅びが綻びになっているだけで上等だと思わなければ……」

 

 足音は遠ざかっていく。学徒達の夜の見回りだったようだ。

 寝付けなくなってしまったテルミは頭を上げて部屋を見渡した。

 ベッドの端でうつ伏せで寝ているネフ、その隣にいるセラフィは左手で顔を覆って寝ている。

 クルックスは、と探す。やがて暗がりの中でチクチクした髪に触れる。それから、ふすふすという呼吸がテルミの薄い腹部をくすぐった。

 

「んっ……ぁ……」

 

 テルミが身動ぎすると引き寄せるようにクルックスが腕を回した。

 ──あら。

 深い眠りで声が嗄れていなければ、そう呟いたところだ。それから「ウフフ」と笑ったことだろう。

 ちょうどテルミの腹部にクルックスは頭を寄せていた。裾が開いているので腹が寒いだろうと考えたのだろうか。それとも単純に柔らかいところに行き着いたのだろうか。クルックスの鼻先はテルミの肌を柔く擦った。微かに感じる寝息がくすぐったい。

 

 いつも無造作に髪を上げて額を露わにしているクルックスだが、乱れた髪が額を隠すと途端に幼い印象になるのが妙におかしい。

 ──いい子、いい子ね。

 彼の頭を抱きしめた。より深い眠りが訪れるように何度も何度も抱きしめた。その度に胸が苦しいような、熱いような、そして目の奥が疼いて涙が出そうになる。この感情の高ぶりが何なのか、テルミは知らない。けれど、この時間がとても貴重でクルックスの言う「充実」に相応しいと感じていた。

 先ほどユリエは「もう限りあるものは無くなってしまった」と言う。

 その通りだと思う。

 この感情に『限り』があってはたまらない。

 人の意志とは永遠だ。狩人は言う。

 ならばこの感情も、きっと永遠なのだ。

 

(生きているのはこんなに楽しい)

 

 だから夜は深く、ずぅっと深くなるといい。

 ねぇ、お父様。

 もうすこしだけ夜に浸らせて。

 まだ明かさないで。

 わたしは貴方の夢に溺死していたいのです。

 

 お眠り、お眠り。

 わたしの恋しい人。

 

 ここには子守唄がないけれど。

 わたしは母になれないけれど。

 貴方が慕う誰よりも、貴方を大切に想っています。

 だから、今は眠っていて。

 新しい朝が来て、夢から醒めるまで。

 

 恋しい貴方は、わたしのもの。

 




クルックスの提案
 狩人が夜に眠れるのは貴重なことです。獣と遭遇する夜ばかりではありませんが、普段の夜も市街を哨戒しています。
 夏休みに四人で行動したのが彼にとってとても楽しい思い出になったから出た提案なのかもしれません。テルミとネフライトは何を期待していたのか、お互いに爆発しましたが、結局、どちらも部屋を出て行くことはしませんでしたし、何を期待していたのかも取り沙汰されませんでした。コッペリアだけは何か察する事があったのか「ファーッ!」と笑い転げました。また、セラフィは「夜の決闘(意味深)」の意味を理解せずに一張羅と最高装備でやって来ました。レオーおじさんの心身の調子が悪くて言葉足らずだったからでしょう。決して鴉が病人を血質99の腹パンで黙らせたワケではありません。

テルミの服イメージ
テルミの下着
本人は地味すぎると感じているようだ
破廉恥な紐、とはネフライトの言
とはいえ異なる視座を得たならば、見えるものも違うのだろう
一部の男性には大いに評価されているらしい
──病み人ならば医療者の長手袋に思うこともあるのだろう

【挿絵表示】

 ピグマリオン的には長手袋なのが清楚ポイントが高いそうです。

原作冒頭の思い出
 ホグズミード村は、ハリー・ポッター原作をお読みの方ならばご存じ。ハリーがマージおばさんの暴言に耐えるとき、心の支えにするほどの価値あるイベントです。
 筆者は初めて読んだ時に、魔法使い無しの村とはそれだけ不思議に満ち、開放感がある場所なんだなぁ、と思うことがありました。
 また、ハリー・ポッター原作3巻で束の間の一人暮らしをすることになった『漏れ鍋』ハリーの日常描写がとても気に入っています。ダーズリーの家にいないハリーが手に入れた自由に戸惑いつつ、楽しそうにしている様子が見られて当時は新鮮だったのです。
 今でこそ『ハリー・ポッターと呪いの子』や『ファンタジック・ビースト』等で魔法界のさまざまなものが見えるようになってきましたが、本で追っている頃は、ダーズリー家とホグワーツのこと以外は魔法の世界に何があるのか、なかなか見えてこなかったのも思い出です。

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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列車は午前十一時発


狩人の栞
『しおり』は古くにおいて木の枝を折り、道しるべとすることであり。
転じて、読みかけの本の途中に挟むしるしとなった。
いつ、どこで、何を、どうして見誤ったのか。
見返すにはいくつあっても足りはしない。



 

 ビルゲンワースの学舎。ほとんど晴れることのない空は、今日も曇りの様相だ。

 

「諸君、おはよう。今朝はよく眠れたかな?」

 

 教室の一室にて。 月の香りの狩人の問いかけに仔らは、口々に肯定を述べた。クルックスやテルミは元気に答えた。日頃、眠りが浅いというネフライトでさえ「ええ、まあ、すこし」と述べる。セラフィは「十日ぶりに眠りました。睡眠はよいものだね」とネフライトの視線の先で薄く微笑んだ。彼は嫌な顔をした。

 

「それは結構。狩人ならば、休めるときに休むべきなのだ。さて、思い思いに休んだ君たちには当分ヤーナムの外で生活してもらうことになる。……ところで普通の親ならばこういう時にこそ君たちの体調のことなど気に掛けるべきなのだろうか……未だ親心の片鱗を解さない私には、よく分からないところだ。それに夢に捕らえた君たちのことを私は心配しないことにしている」

 

 彼は話題を変えるように小さく手を叩いた。

 

「さて、今年こそは穏やかな日々となることを祈っている。そして、学び多き一年となることを期待する。新しいもの、珍しいもの、懐かしいもの、さまざまあるだろう。ここにはないものをよく学び、楽しんでくるといい」

 

「はい。分かりました。行ってきます」

 

 クルックスが代表して答えた。

 それに対し、狩人は頷きをひとつ返し、今年の別れの言葉は終了した。

 学徒の二人は目隠し帽子の下で目を押さえた。

 

「最近の狩人君、仔らの前で話すのが板に付いてきた気がするよ。くぅ、立派になっちゃってさ……ッ!」

 

「目頭が熱いわ」

 

「磯臭い演技はやめてくれ。俺も頑張れば人前で話すことができる。そう、成長期だからな」

 

 狩人は珍しく立派なことを言った自覚があったので胸を張った。

 

「お父様はいつでも頑張っています。なのでお休みがあってもいいと思います。カインハーストの納税も終わったことです。しばらく俺達の見守りもお休みできるのではないですか。狩人の夢で一息入れることも大切だと思います。今日は人形ちゃんとゆっくり過ごしてはどうですか? きっと人形ちゃんも喜ぶと思います」

 

「ありがとう、クルックス。俺には早急にしかも長期の休暇が必要だ。実は、まだ作りかけの椅子があってね」

 

「椅子? 椅子って何だい?」

 

「あっ……」

 

 狩人は明らかに「失言をした」という顔をした。

 クルックスは狩人の言う『椅子』とは、大砲を搭載した車椅子であることを知っているが、それに言及したところで現状が好転することはないので黙っていた。そのうちに学徒は誤った答えに辿り着いた。

 

「ああ、ひょっとして懲罰椅子?」

 

「ああ、うん、それだ。クィレル先生の椅子が最近ガタついているとか何とかで、作っていたんだよ、ねぇ、先生?」

 

「懲罰椅子を? 何でしたっけ、魔法史の授業で習ったような、習わなかったような……?」

 

 十数年前のことを思い出そうとウンウン唸っているクィレルの肩を叩いたのはコッペリアだ。

 

「先生のための懲罰椅子か。いいねいいね。尋問が捗るね。全然関係ない話なんだけど水責め好き? 僕は好き」

 

「泡頭呪文──な、何でもないです。嫌い、ですね……っ。……されたことはもちろんありませんが」

 

「そっかぁ」

 

 クルックスは、咳払いした。

 それに気付き、コッペリアは悪いことを思いついた顔をひそめ「僕の可愛い子、どうしたんだい?」と優しく訊ねた。

 

「先日の許可証のことです。ホグズミード村へ行くための許可証。セラフィとネフライトはもう夢に消えましたが、あれをいただいたら俺も出発します」

 

「あれ、僕、受け取ったっけ?」

 

「え……ッ」

 

 狩人とユリエ、クルックスとテルミ、コッペリアとクィレル。

 全員の間に気まずい沈黙が生まれた。

 クルックスは目をぱちくりしながら額に手を当てた。

 

「お、俺は、たしかに、昨日渡して……? コッペリア様がペンを探すとおっしゃったので俺は学徒室のテーブルに置いたような……」

 

「あー? あーッ、言った気がするよ! そうそう! あの後、ペンが見つかって、せっかくだからと部屋の掃除をしたんだよね!」

 

 コッペリアの言葉を反芻したクルックスは、いつまで経って彼のポケットから許可証が出てこない理由にとうとう思い至った。

 

「まさかとは思いますが……掃除のついでに捨てました? 俺の許可証、捨てました?」

 

「捨て、て、て、は、いないと思うなぁ! していないといいなぁ!」

 

 コッペリアが、希望的観測を述べたところで。

 誰からともなく全員が扉の外へと走った。

 

「マズいんじゃないか? いま何時だ」

 

「はーい、お父様! テルミがただいま十時五十分をお知らせします!」

 

「お、おおう、ありがとう。──では先生、列車の時間って何時?」

 

「ま、毎年十一時です! 魔法省とホグワーツの取り決めでもうずいぶん昔からそう決まっていますので……」

 

「十分あれば探せると思います。……たぶん」

 

 クルックスは三〇秒あれば列車に駆け込めると算段した。

 テルミがクスクスと笑った。

 

「線路を爆破してきましょうか? 多少遅れても大丈夫になりますよ」

 

「いま君の面白くない冗談に付き合っている時間はない。いざとなればホグワーツのホームの灯りに飛ぶことができるから、君は何もしなくていい。ただ、俺は列車で行きたいと思っている。俺は大鍋ケーキが食べたい。──あっ。いえ、これまでもそうしてきたので列車で行きたいです」

 

 クルックスは狩人の顔色を窺った。彼は気にしていないようだった。

 

「君は食べ盛りの育ち盛りなのだから隠すこともないだろう。ところでコッペリア、何を捨てたか覚えているか?」

 

「だ、だから捨ててないってば! 書架から出しっぱなしになっていた本を戻しただけだよ。ついでに書き物が散らばっていたからテーブルの上に片付けた。君こそクルックスが許可証を置いた場所の近くで読書していただろう? 何か覚えていないのかな」

 

「うーん。君が本を片付けるから手伝えと言ったから、手伝ったな。読書はそれっきりだ」

 

 狩人が学徒の研究室を開け放つ。

 室内に広がる光景に全員が息を呑んだ。

 

「うわ。すごく片付いている」

 

 クルックスの感想が全てだった。

 乱雑に散らばっていた本はテーブルにある一部を除き、あるべき書架に納められていた。

 

「一見したところ床には落ちていないようですね。では本と本の間に挟まってるとか……」

 

 壁の四面に納められた書架にはギッシリと本が詰められている。自然とクルックスの声は小さくなった。

 

「コッペリア、本棚に戻した本はどれだ?」

 

「おいおい狩人君、僕がいちいち覚えてるワケないだろう? ネフじゃあるまいし。片付けにやる気が出ちゃってさ、本を分類ごとに並べ直したんだよねぇ!」

 

「こんな時に限ってやる気を出さないでくれ。まずどこから手を付けるべきか」

 

「──クィレル先生?」

 

 テルミの甘い声にクィレルが大袈裟に後ずさりした。

 

「捜し物に便利な呪文はないのかしら?」

 

「あ、あ、ありますが、今はうまくいけないと思いますよ。念のため、やってみましょうか。──アクシオ 許可証よ、来い!

 

 どの書架からも許可証が飛んでくることはなかった。

 そのためクィレルは「ほらね」という顔をした。

 

「先生の杖って壊れてるんじゃない?」

 

 責任転嫁を試みたコッペリアがニヤッと笑った。

 

「イメージが出来ていないのでうまくいかないのだと思います。私は、きょきゅ、許可証を見ていませんでしたから」

 

「うまくはいかないものですね。さて、テルミが皆様にただいま十時五十五分をお知らせします」

 

「ワーッ! もう、あと五分じゃないか!」

 

 狩人が近くの書架から本を取り出し、一冊ずつ調べ始めた。

 クルックスもそれに倣った。

 とはいえ。

 

(これは間に合わないな)

 

 冷静に考えた結果、クルックスは列車に乗ることを諦めた。

 奇跡的な出来事が起きない限り、許可証が見つかることはないだろう。

 そのため、クルックスはまずテルミに指示を飛ばした。

 

「君は先に行ってくれ。俺に付き合って君まで遅れることはない。列車に乗ることは諦める。もし、俺に関して何か聞かれたら誤魔化してくれ」

 

「そうするしかなさそうね。ホームの灯りで会いましょう。──では、お父様、学徒の方々、先生。行って参りますね」

 

「ああ、学び多い時間となることを期待する。だが気楽にな」

 

 狩人が不自然に高い声で言い、控えめに手を振った。

 それを丸い目で見たテルミが微笑んだ。

 

「まあ、嬉しいお言葉です。お父様、愛していますわ」

 

「ああああ、わっ、おっ、うん、あ、ありがと、う、ね!」

 

 身震いした狩人の尻をコッペリアがつねて、ユリエが脇腹に鉄肘を喰らわせた。完璧な攻撃で気を取り直した狩人が何とか言葉を紡ぐ。幸いテルミにはうずたかく積まれた始めた本に阻まれて見えなかっただろう。クルックスにはよく見えたので、その後、溜め息を吐いた。

 

「さぁて。何だか期限がなくなったら気が軽くなってしまったな。とりあえず皆お茶にしない? 何か思い出すかもしれない」

 

 コッペリアが明るい声で言った。書架から本を取り出したばかりのクィレル先生が「とんでもないことを言いだしたぞ」と恐々とした顔で彼を見上げた。

 

「──湖の水でも啜っていなさい。こうなったら総当たりよ。書架を片っ端から調べるわ。狩人君も本を持って来てちょうだい」

 

「厚い本に挟まっているんだろうかね」

 

 テーブルに置かれた本を抱え、狩人は一冊ずつ本を取り上げた。

 

「本のなかということも考えられるわ。書類を捨てていないのは私も見ていたから、この部屋のなかにあるハズよ。確認した本は向こうのテーブルに。まだの本はこのテーブルに載せなさい」

 

「ユ、ユリエ様、そこまで……」

 

「クルックス、何事も息抜きは必要よ。あなたの充実した休暇を私達は応援しているわ。ね、狩人君」

 

「ああ。狩人は休めるときに休むべきだからな」

 

「ほとんど寝ていない狩人君が言うと説得力が違うねぇ」

 

「あなたは責任を取って人一倍働きなさい!」

 

「はぃっス……」

 

 結果として。

 許可証はこの学徒の研究室で発見された。

 ホグワーツ到着五分前。

 狩人が「許可証はカインハーストの招待状の如く消えたのではないか」と疑い、主張し始めた矢先。

 

「あっ」

 

 探す人々が絶対に聞きたくないと思っている種類の声を上げたのは、昨日まで読んでいたテーブルの本を何気なく開いた狩人だった。

 彼らの視線を受け、ぎこちない動きで、しかし覚悟を決めたように彼は振り返った。

 

「すまない。あった。本の栞に使っていた……」

 

「お父様……」

 

「狩人君……」

 

「おめでとう僕! 僕は無実だった! いや、でも実は、てっきり食べちゃったかと思っていたよ……」

 

 全員が多いに時間を費やした捜索は、こうして幕を閉じた。

 大人達はそろって脱力して、だらだら歩くとソファーや椅子に深く座った。

 その日はもう誰も立ち上がれないと思えた。

 

「では、ええと、俺は行きますね」

 

 クルックスは出発前からすでに気疲れしていたが、ともかく見つかったのだからと気を取り直した。

 出発の挨拶に対し、大人達は「ああ」とか「いってらっしゃい」と力なく言い、彼らはぶらぶらと手を振った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 時は、遡る。

 クルックスがコッペリアに対し、許可証の受領を申し出ている頃。 

 セラフィはホグワーツ特急列車の後方車両を歩いていた。

 カインハーストの豪奢な狩装束を脱ぎ、今はごく標準的なヤーナムの市街で狩人達が着る装束に腕を通している。父たる狩人と同じ枯れた羽を模したトリコーンだけは変わらない。

 まだ発車しない車両には、久しぶりに出会った友人とぺちゃくちゃとお喋りする生徒で溢れかえっている。

 通路から車両の窓を見る。セラフィには、もうもうと上がる蒸気しか見えないが、その向こうにはホームで別れを惜しむ人々を眺められることだろう。

 窓際が空いている席を探して歩いていると先頭車両から歩いてきた一年生か二年生の小さな男子生徒が見上げていた。

 

「わっ」

 

「背が高いっ」

 

 たしかに。

 セラフィは自分の背丈が同じ学年の男子生徒より高くなりつつあることを自覚している。

 だが、まだ大人ほどではないと思う。

 何と答えるべきか分からずトリコーンを深く被り、彼女はすれ違った。

 

 ──あれくらい背が高くなりたいよなぁ。

 ──でも女の子なら、もうちょっと小さい方が……。

 ──見下ろされるのは嫌じゃない?

 ──そうかなぁ。

 

 彼らの声を拾ってしまうのは、未だ停車した列車だからだろう。

 セラフィは「なるほど」と独りごちた。

 背丈と共に伸びる手脚の長さは、狩人にとって重要な要素だ。リーチの長短が生死の別れとなる場合があるからだ。しかし、平穏な世界においては女性の背の高さを疎む人もいるようだ。

 とはいえ。

 セラフィは、対極に位置する体格のテルミについて「小さすぎてちょっとな」という否定的な声を聞いたことがあった。

 そういうワケで。

 

(個人の好みの問題だろうな)

 

 身内と認めた人以外の意見とは、彼女にとってそよ風のようなものだ。

 背の高さで困ることは今のところスリザリン寮のベッドが手狭に感じられることだけなので、やはり気にすることではなかった。

 列車を見回っている間にちょうど窓際が空いている席を見つけた。約四人が座れるコンパートメントだが、そこは通路側を熱心に見ている一年生と思しき女の子が座っているだけだった。

 

「その席、座ってもよいかな」

 

 コンパートメントが開いてようやく彼女は相席となる可能性があることを思い出したように見えた。ハッとした顔をあらためると手を濃紺のスカートの上に行儀良く揃えた。

 

「え、ええ、どうぞ」

 

 斜め向かいの席に座った。

 眺めの良い窓際の席だ。

 トリコーンを脱ごうと思ったが、窓は燦々と夏の日差しを注いでいる。もうしばらく被っていることにした。窓の向こうからは、カートを引きずるくぐもった音が聞こえてきた。見たところクルックスとテルミは、まだ到着していないようだ。

 時計を確認しようとして視線を感じる。コンパートメントに注意を戻せば、斜め向かいの女の子と目が合った。まじまじと互いに見つめる時間が訪れた。

 青白い顔、ブルネット色の髪の女の子だ。

 気の弱そうな青い瞳がセラフィを見つめている。

 

「こんにちは」

 

「あなたは、スリザリンの人?」

 

「そうだよ」

 

「よかった」

 

 おや、とセラフィは内心で呟く。

『スリザリンでよかった』とはホグワーツにおいて、滅多に聞かない言葉である。

 ホグワーツでは、近年──具体的に言えば十数年前の暴力的な歴史によって──スリザリンは他寮にとって嫌われ者の寮であるからだ。

 そんな事情を汲めば、彼女の立場も見えてきた。

 例えば。

 

「アストリアには姉さんがいるの。姉さんはダフネ・グリーングラスよ」

 

「アストリア……ダフネ? ああ、知っている」

 

 緊張した面持ちが、ふわりと和らぐ。

 セラフィはダフネ──それはギリシア神話の美しいニンフにして『月桂樹』の名に冠する──同級生の顔を思い浮かべた。

 見つめる少女をよく見つめれば、彼女の面影があった。

 

「そうか。君は彼女の妹なのか。ダフネには、とても世話になっているよ。僕は見てのとおり世間知らずだからね」

 

「そのようね。その恰好、とっても田舎者だわ」

 

「数世紀の溝は埋めがたいようだ。野暮ったい恰好なのは認めよう。けれど普段の僕はもう少しだけ華やかな恰好をしているんだ。……誰か僕にファッションを教えてくれると嬉しいものだね。それとも背が高すぎて僕に似合う服はないかな」

 

「雑誌をめくることをお薦めするわ」

 

「雑誌……なるほど。そういうものもあるのか」

 

 都会育ちの余裕が出てきたのだろう。

 青白い頬は朱が差し、ツンと尖った顎を上げた。けれど体は前のめりだ。

 

「アストリアはダフネ姉さんに聞いたわ。同じ学年でとっても田舎から出てきた子がいるって」

 

「そう。きっと僕のことだね」

 

 薄く笑うセラフィは、アストリアを可愛い生き物だと思った。

 セラフィが何事も注視するのは彼我の力量だが、この尺度を理解するのはヤーナムの狩人である『きょうだい』達以外に存在しない。これはクルックスならば心を病む想像だったが、同じ『きょうだい』でも発生する感情の受け取り方は異なる。

 

「どんな顔の田舎者かと思ったけれど、顔はそこそこ──」

 

「君、可愛いね」

 

 上機嫌で顔面評論をしていたアストリアが意表を突かれた顔で「ふぁっ?」と高い声を上げた。

 

「君たちの幸せな姿を見ることは僕にとって幸運なことだ。もっと僕に話しかけてほしい。笑顔を見せてほしい。君の笑顔も、とても素敵だ」

 

 アストリアは、自身の長い髪を両手でギュッと握った。

 その心の中は「この人、ひょっとしてアストリアのことが好きなのかしら?」と考えていた。

 アストリア・グリーングラス。

 彼女はセラフィのことを田舎者と侮ったが、とある理由で虚弱体質ゆえに彼女はセラフィに負けず劣らず箱入り娘だった。

 衝撃が過ぎ去った後の理性はやや鈍い。次の言葉を考えようとしたアストリアのすぐそばでコンパートメントが開いた。

 

「あらあら。ウフフ、夜警様の甘い言葉が聞こえたわ」

 

 現れたのは姉妹という設定になっているテルミ・コーラス=Bだ。

 セラフィはさして驚きはしないが、月の光もないのに煌めく蒼い瞳は淡い好奇心を浮かべている。

 

「やあ、テルミ。遅かったね」

 

「ええ。コッペリアお兄様がクルックスの許可証を無くしたようで今頃は大騒ぎして探していますわ」

 

「ほう。それは大変なことだ」

 

 セラフィがあまりに軽く言ったのでアストリアは、書類の重要性を理解していないことを察した。

 だが「実は君が隠し持っている、なんてことはないのだね?」と問い詰める声には妙な迫力があることに気付く。そのため、ただの田舎者という印象はやや陰りを帯びた。

 

「まあ、怖いわ。許可証を隠すなんて意味がないのでやりませんよ。本当に。単純にまったく意味がないですからね? ホグズミードのお店を探すためにここ数日ぱたぱたしていたわたしをご存じでしょう?」

 

「そういえばそうだった。では違うのだろう。クルックスには頑張って失せ物探しを頑張ってほしいね。この列車には間に合うだろうか」

 

「間に合わないでしょうね。ですからこれを貴女に」

 

 セラフィはテルミから小さな包みを受け取った。

 小さいが重量が感じられる。

 

「小腹が空いたときに食べてください。本当は、クルックスのために作ったのですが」

 

「ありがとう。いただくよ」

 

 テルミは、ひとつ頷きを返した。

 そして。 

 

「ご機嫌よう。ご挨拶が遅れてしまいました。貴女はグリーングラスさんの妹さんかしら。わたしはテルミ。コールミー、テルミーってね。気軽に呼んでくださいな」

 

「ええ、お見込みのとおり。アストリアはダフネ姉さんの妹よ。あなたは……この……この人の……ええと」

 

 セラフィは自分が名乗っていないことを思い出した。

 動き出した列車のなか窓の日差しが弱まった為、彼女はトリコーンを脱ぎ、長い銀色の髪を払った。

 

「僕とテルミは姉妹だ。僕が姉。君たちほど似ていないけれどね。こういうこともあるのだ」

 

「テルミは今年入学するのかしら?」

 

 クスクスとテルミがおかしそうに笑った。

 それから「ごめんなさいね」と眉を寄せて困った顔をした。

 

「テルミは僕と同じ、そして君のお姉さんと同じ三年生だ。僕らは双子──のようなものなんだ。恐らく、分類上は」

 

「でもっ、アストリアと同じくらい小さいのに」

 

 アストリアがショックを受けた顔でテルミを見つめる。つま先から頭のてっぺんまで見た。

 アストリアの顔は驚きの他に恐れが多分に含まれたものだったが、人間経験が少ないセラフィは察せず、テルミは察していても優しげに微笑むだけだった。

 

「だから可愛い妹なのだよ。僕にとってはね。──さて」

 

 まだ何かを言いかけたアストリアは、テルミが挨拶した先を見た。

 

「ダフネ姉さんっ」

 

「──あなた、先に席を取っていたのね。ずいぶん探してしまったわ」

 

「アストリアはちゃんと姉さんに『先に席を取っておくわ』って言ったわ。……なのに姉さんはお友達とばかり話して」

 

「当然よ。家でずっと話していたあなたと外でまで話すことはないでしょう」

 

 ぴしゃりとダフネは言う。叩かれたようにアストリアは肩を跳ね上げて「あうっ」と呻いたきり、肩を落とした。

 

「おやおや、ダフネお姉さんは妹君に手厳しいようだ。──テルミ、僕もそうするべきなのかな。一般的な姉妹ならば」

 

「わたしは、食傷するほど甘い方が好みですね」

 

「では引き続きそのようにしよう」

 

 ダフネはコンパートメントの入り口に立ったままのテルミに席を薦めたが、テルミは断った。ハッフルパフ寮生が集まるコンパートメントに席を取っているのだと言う。

 

「残念ね。あなたの夏休みが充実していたかどうか聞きたかったのに。新しい授業のことも」

 

「ええ。授業で一緒になったらお隣の席に行きたいものだわ」

 

 テルミは去った。

 ダフネはコンパートメントに入るとアストリアの隣に座った。

 そして。

 

「では、アストリア。このコンパートメントを出て行きなさい」

 

「えっ!? な、な、どうして!?」

 

「同じ一年生を見つけて友達を作ってきなさい。年上にばかり甘えていてはダメよ」

 

「でも、でも、アストリアはスリザリンだもの。他の寮の人なんて関係ないわ──」

 

「そんなことはないわ。さっきまでいたテルミは学校の誰とでも話せるくらい人脈が豊かよ。どちらが優れているかなんて言わなくても分かるわね? 閉じこもってばかりではいけないわ。さ、行きなさい。……大丈夫。最初から全部上手く出来る子なんていないもの。失敗してきなさい」

 

「ひどいわ。失敗を薦めるなんて」

 

「リラックスさせてあげようと思って言ったのよ。成功させたっていいのよ、別に」

 

 アストリアは、どうするだろうか。

 興味深く見ていたセラフィと彼女は目が合った。

 

「自己紹介がまだだったね。僕はセラフィ。女王様の夜を守る忠実な僕だよ。セラフィ・ナイト。今やただの学徒でもあるのだけど」

 

 余裕がすっかりなくなってしまったアストリアの顔に『ワケが分からない』という色が浮かぶ。

 セラフィの発言の意味不明さは、彼女に外への交流を決心させた。彼女の言動を解明するよりも恐らく楽だったからだろう。

 

「次はスリザリン寮で会いましょう、夜警さん。その時までご機嫌よう」

 

「頑張るといい。僕もそうやってダフネお姉さんと出会った」

 

「『お姉さん』だなんて。馴れ馴れしいわ……!」

 

 それを捨て台詞にアストリアは去って行った。

 彼女が去った途端、ダフネは心配そうに目をうろうろさせた。

 

「アストリアは体が弱くていつも家の中にいる子なのよ。でも、ホグワーツの長い生活のなかで友達は必要だわ。だから今日が一番のチャンスだと思うの。どの寮の人でもいいわ。上手く出来るとよいのだけど……。そうだ。あなたに失礼しなかった?」

 

「楽しいお話をさせてもらったよ」

 

「あなたに聞いたのは失敗だったわ。パンジーにからかわれても同じことを言うのだから……」

 

 ──信用できない語り手ね。

 セラフィは薄く微笑むだけだった。

 

「君の姉らしさに僕は驚いている。彼女にとって良い経験になることを祈りたい。対して僕は飴ばかりだ。鞭は使い慣れない。厳しくすべき場面だろうかと思うことはあっても結局は何もできないことが多い。きっと鞭を使われている側だからだろう」

 

「そう。夏休みは楽しかったかしら?」

 

「ああ、充実していた。君は?」

 

「いつも通り。すこしの旅行、そして休養ね。高原の静養地に行っていたの」

 

「それは素晴らしいことだ。高地は涼しいのかな。寒かったかな」

 

「ちょうどいい感じかしら。温度も湿度も。あなたは……寒いところから来たのね」

 

 革と厚手の布で作られた狩装束は、通気性を考慮した結果に見えない。

 今どきの魔法界も誰もが、ジーンズや化成繊維の大量生産の成果物であるそれらの服を着ている。それらに見慣れているとセラフィの姿はいっそう浮いて見えた。

 

「ああ、万年氷と風雪が僕の故郷だ。けれど、温かい場所は好きだよ。高原、きっと素敵なところなのだろう。いつか僕も行ってみたい。そうだ。旅行と言えば、家族と海へ行ったよ。砂浜を歩いただけだが海は不思議な場所だった。また行ってみたいものだ」

 

 セラフィはテルミから受け取った包みを開いた。

 重量感の中身はクッキーだった。

 

「……なるほど。僕に投げて寄越すワケだ。とても固い」

 

 会話の片手間につまむ程度の固さではなかった。

 膝の上で割ることでようやく口の中に収まる大きさになった。

 

「味は……まあまあだ。むぅ、お茶の味がする。テルミは料理が上手なのだな。僕も教えてもらおうか、どうしようか……」

 

 ひとつの欠片を食べ終わり、ふと視線を感じて顔を上げるとその先に意を決した顔のダフネがいた。

 

「──ねぇ、セラフィ。あなたの妹のことなのだけど……。昨年度から気がかりにしていたわ。だって、成長、していないわよね?」

 

「ああ、そういう体質ということになっている」

 

「それは何かの病気ということ?」

 

「さて……」

 

 セラフィはテルミが成長しない理由について、うっすら勘付いていることがある。

 彼女が『成長したくないから成長していない』という極めて単純な動機だ。

 テルミが焦っているように見えない理由もネフライトが原因解明に躍起にならない理由もクルックスが頭を悩ます理由も、それが原因ならば説明できそうだ。

 学徒は来年から調査を行うようだが、原因が明らかになる可能性は低いだろう。上位者の願いから生まれた生き物に通常の生き物の定規を当てようとするから狂うのだ。

 セラフィは、カインハーストの女王と騎士の先達に望まれているので成長している。

 クルックスは、人間は成長するものだからという思い込みで成長している。

 ネフライトは、成長した方が生活も研究も捗るので成長している。

 テルミは成長してしまえば、孤児院にはそぐわなくなってしまうので成長していないのだろう。

 しかし、この場合、正直に生態を話すべき場面ではないことは、セラフィにも分かる。

 そのため。

 

「病気だね。きっと僕らのことだから血の病、血の呪いなのだろう」

 

 テルミには『セラフィの妹』の設定に加え『呪われた病み人』の設定も付与された。

 後ほど報告しておかなければ、と思う一方。ダフネの顔色は、深刻なものに変わった。

 

「血の呪い……そう……家系には、少なからず存在するのね」

 

「君は、いや君たちは……? まさか──」

 

「わたしの家のそれは珍しい話ではないの。純血の人々の間ならば、特に。ことグリーングラス家において古い言い伝えは、ただの事実なのよ。血の呪い。……家が、血が、呪われているの。だからアストリアは体が虚弱なの。そう。今代の呪いは……全部あの子に」

 

「そうだったのか。……他の子に比べてやけに体が小さいと思ったが……なるほど。呪いか……」

 

 期待を込めた目に気付き、セラフィは考え込むように顎に手を当てた。

 

「ん? ああ、テルミの体もそういうものの一種なのだろう。傍目から見れば、やはり『呪い』だろうか」

 

「どうして?」

 

 傍目から見るまでもなく当人にとって重い呪いだろう、とダフネは言う。

 セラフィは首を横に振った。

 

「呪いとは、何かの怒りに触れた時に引き起こされる。……人間が自分に都合の良いものを『祝福』と呼び、悪しきものを『呪い』と呼ぶ。だが、最後は本人の気の持ちようだ。成長しない体をテルミは呪いだと悲観しない。『するべきではないのだ』と言うだろうね」

 

「そう。強いのね。……わたしなら成長できないなんて気が狂いそうよ」

 

「おや。年を取らないのを羨ましがると思っていた。不老不死は人間の夢だと聞いた」

 

「そうだとしても小さいままは嫌よ。……わたしは、早く大人になりたいもの」

 

「ああ、それには同感だ。分かるよ。僕も早く女王様の騎士に列したいからね」

 

 ダフネの細く整えられた眉がピクリと神経質に動いた。

 そして、彼女は肩を竦めて窓枠に寄りかかった。

 

「……その設定、まだ続けているのね。もう三年じゃない。かなり、ビックリしているわ……」

 

「うん?」

 

「あなたの『自分には仕えるべき女王様がいて先達の騎士の下で鍛錬している』という設定のことよ」

 

 セラフィは、スリザリンの女子のなかでは特異な存在になりつつある。

 一年生の時分、組み分けが終わり迎えた最初の夜。

 彼女は将来の夢を語り合う少女達を図らずも笑いの坩堝に突き落とした。

 

『僕はセラフィ。セラフィ・ナイト。女王様の夜を守る夜警だ。そして学徒でもある。ひとまず今は。だが、僕は必ず先達に並ぶ騎士となり、最も優れた剣としてかの女王様に仕え、名誉と共に永遠の繁栄の礎となるだろう。魔法界を訪れたのは、唯一偉大なる父がそれをお望みになったから、そして君主たる女王様が盟約によりお許しになったからだ。よって僕は外なる神秘に見え、早晩上奏するだろう。──君たちと善い関係が築けると嬉しい』

 

 魔法使いに憧れるマグルの十歳児でも考えつかない、盛りすぎた素性の設定だと笑ったのはパンジー・パーキンソンだった。彼女の失笑をきっかけにスリザリンの女子の間で彼女は空想家で夢見がちな人──これはやや優しい表現だ──と言われるようになった。

 実際のところ、魔法界の常識的に考えて『空想』と呼ばざるを得ない事情があった。

 魔法界に自称王族のブラック家はいるとして、実態としての王はいないからだ。それでも存在するのならば、彼女の頭の中に存在するモノとして取り扱うしかない。頭のおかしな生徒として排斥されなかったのは、彼女の所属する寮が身内の情に厚く、そして打算的な交流も厭わないスリザリンだからだ。多少のイレギュラーがあったとしていつか使い道があるだろう。──スリザリンの生徒には、そんな考え方をする者もいる。

 

「──設定?」

 

「なんでもない、なんでもない。忘れてちょうだい」

 

「ではこれも引き続きそのようにしよう」

 

 ダフネが、セラフィを気に入っている理由はまさにこれだった。

 彼女は、たいていのことがどうでもいいのだ。

 そのため、古くから続く魔法族が縛られがちである、様々なしがらみなく話せる。誰かの悪口を言って団結を深めて盛り上がるような湿っぽさや秘密主義が存在しないところも好ましい。常に泰然として、集団の価値観から浮いている彼女と話すのは楽だった。この会話は未来のどこかで面倒なことにならない──そんな確信を持って話せる人は、ダフネにとって多くない。

 この手の人間は集団生活において必要だ。

 人間関係に気疲れしているらしい生徒が、セラフィと話している様子も談話室では珍しい光景ではなかった。空想家に思われているセラフィだが、短所と言えば魔法界の常識に欠けていることがとても目立つだけで基本的には誰に対しても礼儀正しく接することができた。ドラコ・マルフォイの腰巾着のように振る舞っているクラッブやゴイルに挨拶をする人物は、彼女のほかに存在しているかどうか怪しい。それから、とても重要なことだが──頭の回転は速い方だとダフネは見ていた。

 

「穏やかな生活になるよう祈っている。昨年は随分とハラハラしてしまったからね」

 

「もうちょっとバジリスク騒動が長引いていたらわたしは家に帰ることになっていたわ」

 

「純血なのに?」

 

「純血だからこそよ。どんな手段で生徒が石になっていたか分からないけど、手違いで死んでしまったら堪らないわ。けれど今年も……物騒な話が聞こえているわ。脱獄囚だとか。毎年毎年これだもの。嫌になるわ」

 

「そうだね」

 

 毛ほども脅威だと感じていないセラフィは、適当な相槌を打った。

 空返事よりはマシな返答にダフネは気持ちが楽になって話した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 汽車は午前十一時きっかりに出発した。

 スリザリン生が集まるコンパートメントが嫌になって、お手洗いのついでに抜け出した生徒がいる。やや筋張った青白い顔、グレーの髪、彼の名前はセオドール・ノットと言った。

 大して重要でもないのに大量に詰め込まれた情報で頭の中がガンガンと痛む。

 スリザリン生の話は、牽制と見栄ばかりだ。やれ外国に行ってきただの、魔法省の高官と何回パーティーをしただの、高価な何を買っただの。

 

(どいつもこいつもくだらない)

 

 何よりも面倒なことは、彼らの口から出る名前を頭に叩き込まれた家系図といちいち照合して勝手に疲れてしまう自分だ。

 通路でバッタリと同じスリザリンで同級生のパンジー・パーキンソンと出会った。

 

「マルフォイのいるコンパートメントが空いたぞ。俺は列車酔いしたのでその辺をぶらついてくる」

 

 パンジーは嬉しそうな顔をして、急ぎ足で駆けていった。

 これで席に戻らずに済む。

 途中でお菓子のカートを押す魔女に会ったので蛙チョコを購入した。セオドール自身、付録のカード集めに興味は無いが、これは生徒間の交渉に使える場合がある。特急列車内においていくつか常備しておくのは良策だろう。

 通路を歩いていると後方車両のコンパートメントにダフネ・グリーングラスがいた。

 彼女の生家であるグリーングラス家は「間違いなく純血」である『純血一族一覧』にも記述されている聖28一族の一つで──。

 セオドールは頭の中にある『純血一族一覧』を閉じた。こうして姓から純血かどうかを考えてしまうのは、思考の癖になっている。 二年間の付き合いで知っていることは、彼女とは格別に気が合うほどではないが、悪気の無い付き合いが出来る魔女だ、ということだけだ。

 対面にいるのは誰だろうか。歩みをゆっくり進めた。

 

(セラフィ・ナイト。昨年度『たいていのことがどうでもいい』と言ったな)

 

 座席は空いているようだ。

 ノックして開けると彼女はクッキーの屑を頬につけたまま「やあ」と言った。

 

「頬に、ついているぞ」

 

「ん。本当だ。恥ずかしいな」

 

 ──絶対に恥ずかしいとは思っていないだろう。

 けれど、たいていのことがどうもいい彼女にとっては自分の指摘もどうでもよいのだろう。

 

「隣、座っていいか?」

 

「ええ、どうぞ。でも、あなたはマルフォイのいるコンパートメントに座っていると思っていたけれど」

 

「クラッブとゴイルが黙秘を貫くから、マルフォイが俺にばかり返答を求めて来て困っている。代わりにパンジーを座らせたので今頃楽しくやっているだろう」

 

「黙秘だなんて。話す頭がないだけでしょう。『グウ』とか『ブウ』なら言えるかもしれないけれど」

 

 冗談と愛想笑いを交わしながらセオドールはセラフィを窺う。

 

「なるほど?」

 

 拳でクッキーを砕いた彼女は「そういうこともあるのか」という感じだ。

 

「夏休みのお話をしていてね。君の休暇は充実していたのかな」

 

「俺は……まあまあだ。旅行は面倒だし欲しい物も大してない。日がな一日、土いじりだ」

 

「そうか。羨ましいな」

 

「何だと?」

 

 もしも、マルフォイに同じことを聞かせたら鼻で笑われる趣味だ。

 

「自分の食べるものを自分で作ることは素晴らしいことだと思う。土いじり。いいと思う。花でもジャムを作れると聞く」

 

「ああ、そういうものじゃない。魔法薬に使う薬草畑だ。雑草がすごくてな。肉食ナメクジなどは駆除剤で何とかなるが、雑草は除草剤を使うと魔法薬で使う薬草までダメになるし……」

 

「大変なのだね」

 

「大変なのだよ」

 

 ズキズキした頭痛は気付けば鎮まっていた。それからセオドールは日常の小さな出来事を話した。

 それはホグワーツへ向かう道程の途上、招かれざる看守の訪問が来るまで続いた。




忘れ物
 出掛ける直前で「あれが無い!」ということに気付いてしまうのは幸か不幸か。
 いざ出発時間に間に合わないと分かったらお茶を飲もうとするコッペリアはなかなかの根性をしています。クィレル先生は「ひょっとして人でなしなのかもしれない」と思い始めました。安心して下さい。正解です。

セオドール・ノット
 誰だっけ?という人は、『純血一族一覧』で記される聖28一族を定めた人を先祖に持つ男子生徒ということで覚えていただければよいかな、と思います。なので『純血の一族について詳しいし気にしてしまう』という要素は本作の設定であります。
 原作の彼はダフネもですが……出番があまり……ごにょごにょ。

アストリア
 表記に揺れがあるようなのですが、本作では『呪いの子』準拠の『アストリア』とします。
 また、年齢については、ハリー三年生時に一年生(ジニーの一学年下)と設定しました。


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登城


馬車
ホグワーツの送迎馬車は、骨と皮、翼のある馬のような生き物が牽くのが慣例となっている。
それを知ってもなお、見える者ばかりではない。
彼らはそれを知らなかった。
知らぬ方がよい。そう考えることもあるだろう。



 霧の立ちこめるホームに突入した真紅の列車が、減速しつつある。

 ギィ、ギイィというけたたましいブレーキ音が、明かりの少ないホームに響き渡った。

 

 例年、ホームでその音を聞いているのは森番のルビウス・ハグリッドだけだが、今年ばかりは異なった。

 ホームからすこし外れた林の中には、薄青い光を帯びた灯りが存在している。ヤーナムに属する狩人達に『使者の灯り』と呼ばれる、神秘の光を視認できる者は月の香りの狩人に関わる者だけだ。

 森から流れる霧に紛れ、空間が歪んだ。

 次にハッキリとした景色が現れたとき、そこにはローブ姿のクルックス・ハントが立っていた。そのまま木陰に潜み、列車から出てきた生徒に紛れるタイミングを窺っている。

 

(ちょうどいい時間だったな。ギリギリとも言うが、こうなれば遅れなかっただけよかったとすべきだろう)

 

 一年生を誘導するハグリッドの声を背景に聞き、生徒の顔を見ているとおかしなことに気付いた。

 列車から降りてくる生徒は、そろって青ざめた顔をしている。だが、妙な興奮も感じられた。嵐の前に伝染する、常ならぬ雰囲気と似たものだ。つまり不穏である。

 これが一人、二人ならば気にも留めなかっただろうが、テルミまでそんな顔をして列車から降りて来たのでクルックスは木陰を離れ、生徒の群れに加わった。

 

「ああ……クルックス……はぁ……」

 

「何かあったのか。妙な顔をした生徒が多いが」

 

 ちょうど視線の先、クルックスはいつもより硬い表情のハリー・ポッターを見た。

 クルックスにとって最近のハリーとは、ダイアゴン横丁で見かけた夏の日差しがよく似合う少年だった。それが今はどうだろう。墓場から這い出てきたような顔をしている。彼の身長が、もう少し高ければ聖杯の中身の人ならざる人々に見間違える面影になっていた。

 

「歩きながら話すわ……はぁ……」

 

「何だ。随分参っているな」

 

「参りもします。ネフは大丈夫かしら?」

 

 テルミからネフライトを心配する言葉が出てくるのは意外なことだ。クルックスは驚いた。そして尋常ではないことが起きたことを察した。

 

「……わたしは医療者ですから、穢らわしいものには耐性があると思っていました。けれど、アレは想像以上です。吸魂鬼、と言うそうですね」

 

「きゅうこんき? ディメンター?」

 

「どちらでも同じものです。それが列車のなかに来て、シリウス・ブラックを探していたようね」

 

「なんだか分からないが、君の気分が悪くなった理由がそれなのか?」

 

「ええ。そう。アレは存在してはいけないものだわ。わたしの中からお父様が溢れてしまいそう。生きていることは幸せなことなのに、それを──ううん、考えるべきではないわね。だからネフが心配だわ。あの人を見つけて、一緒にいてあげて」

 

「分かった。あとで手記を送る」

 

 奇妙な皮と骨のような馬のような魔法生物が引く馬車に乗り、彼女は他のハッフルパフ生徒と一緒に登城の道へ行った。

 テルミは別れ際にクルックスの手を握った。その力は想像より小さく、弱いものだった。かなり参っているようだ。

 微かに温もりの残る手をギュッと握り、ネフライトを探した。その途中でセラフィを見かけた。普段と変わりない顔をしている。だが周囲が沈んだ顔なので相対的に明るい顔に見えた。

 多くの生徒を見送り、最後尾に近付いた頃に彼はやって来た。

 ハンカチーフを口に当てて、目を細めている。隣をとことこ歩いているのはルーナ・ラブグッドだ。

 テルミが心配したとおり、ネフライトの顔からはすっかり血の気が引いていた。恐らく生まれてから過去最悪の体調を更新していることだろう。隣を歩む彼女もまたいつもにまして白かった。

 

「──遅かったな」

 

 声色は、彼の心情を雄弁に伝えた。とても攻撃的で不機嫌だった。

 

「ああ、まあ、いろいろあって。君も……ふむ……いろいろあったらしいな」

 

「吸魂鬼だ。……忌々しい、汚物、汚物だ……」

 

「口が悪いぞ」

 

「見ていないからそう言うのだ。私だってそうだった。……近寄らないでくれ」

 

 隣を歩こうと歩調を合わせようとしたが、拒絶されてしまった。

 ネフライトは顔色も体調も悪いが、機嫌も最悪だった。

 

「さっきまで吐いていたんだよ、この人」

 

 困惑するクルックスを見てルーナが伝えた。

 ネフライトがハンカチーフの下で口を歪ませるのがクルックスには分かった。

 

「世の中、言わなくてもいいことがある。そうは思わないか、ラブグッド」

 

「責めるな。君を案じてのことだろう。俺は気にしない。……ルーナ・ラブグッド、君に感謝を。この状態のネフを放っておけないからな」

 

 クルックスはネフライトの手を掴み、歩き出す。彼は嫌そうにしていたが振り払う気力もないため、されるがままになっていた。

 仄かに漂わせる酸っぱい匂いは、歩き続けていれば気にならないものだ。

 馬車に乗り込むとネフライトがぐったりとクルックスに寄りかかった。

 

「私の記憶は、たいていのことを覚えていられるが、その時の気分だけは覚えていられない。紙に書いておけば別だろうが……。今回に限っては幸いだった。吸魂鬼の精神汚染は凄まじいぞ。私は例え三百体の検死に立ち会ってもこんな無様を晒さないと言うのに……」

 

「あーっ。ところで吸魂鬼とは、幽霊のようなものか? ……無理に返事をしなくていいぞ」

 

 ネフライトが周囲を憚らないことを言うので、よほどの出来事だとクルックスは思う。ネフライトは昨年度ルーナの前では『ヤ』の字の地名も『メ』の字の学派の名前も出さないように気を付けていたのだ。

 ガタガタ揺れる道でネフライトは再び気分を悪くしてしまった。彼の丸くなる背中をさすった。

 ずっとこの調子なんだよ、と言いたげなルーナと目が合った。

 そして数秒。まだ気遣いの言葉でもあるのかとクルックスが訝しむ頃、彼女は首を傾げた。

 

「──あんた列車に乗っていなかったよね。どこから来たの?」

 

 いま聞かれるとは思わず、クルックスは「君は目敏いのだな」と率直な感想を伝えた。

 ネフライトは息を止めたようで丸まった体が緊張で固くなった。

 

「ラックスパートを探しているんだ。列車の中は全部見たもン」

 

「素晴らしい探究心。だがネフの言葉を借りれば、世の中、詮索しなくてもいいことがある。そう思いたまえよ、ラブグッド──とでも言うのだろう。俺のことは気にするな。君とて男子トイレをずっと見張っていたワケではないだろう?」

 

 彼女は見回っていない場所があることを思い出したようだ。

 フーン、と軽く鼻を鳴らし、以降の追求はなかった。

 彼女のまとうフワフワとした奇妙なペースに引きずられないようにクルックスも口を噤んだ。

 ──どうやら引き際もわきまえているようだ。

 ネフライトが関心を寄せる人物だ。油断できるワケがなかったのだとクルックスは心底思った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 城へ向かう長い上り坂が終わり三人は馬車を降りた。

 集団から遅れてホグワーツ城に到着するなり、クルックスは足下がフラフラしているネフライトの腕をまだ掴んでいた。

 

「医務室に行くぞ。このまま人混みに行ったら、いつぞやのバレンタインデーのようにキレてしまうぞ」

 

「ぐうぅ……うぐぅ……」

 

 ネフライトは、渋々ながらクルックスの提案の妥当性に頷き、ルーナに弱々しく手を振った。声が出れば恐らく『君はさっさと行くといい』と言いたかったのだろう。けれどルーナは「また後でね」と軽く微笑み、石の階段を上り人のさざめきが聞こえる大広間に向かって歩いて行った。

 彼女とすれ違うように校医のマダム・ポンフリーが気忙しく小走りに石の階段を降りてやって来た。

 

「吸魂鬼を学校の周りに放つなんて。繊細な子ならば体調を崩すのも当然です。さあ、医務室へ行きましょう。ハッフルパフの子達と同じように今晩は泊まっていった方が良いでしょうね──」

 

 クルックスが事情を話すまでもなく、マダム・ポンフリーはネフライトの顔を一目見て診察は終了してしまった。

 とても早口だったので、吐き気のためいつものように話すことができないネフライトが「私は繊細ではなく……ただ、厳密であるだけで……」と言いかける暇もなかった。マダム・ポンフリーの肩越しに彼はクルックスを一瞥して瞬きをした。彼なりの礼だと分かり、手を軽く上げて応えた。

 石の階段を登り、大広間へ向かうとほとんどの生徒は着席していた。

 魔法で姿を変えた天井は夜空を映し出し、千を越える蝋燭が眩い星のように光っている。そのせいだろうか。新しい一年生を迎える雰囲気にわく人々の顔は輝いて見える。眼前に開けた苦もなく明るい世界を前にクルックスは立ち止まった。

 

(俺は、ほんの十分前にはヤーナムにいたのだ)

 

 暗澹のヤーナムから這い出てきた自分が場違いに思えてしまい、そのことに戸惑いを覚えた。

 

「入らないの?」

 

「──あ」

 

「どうしたの?」

 

 クルックスに声を掛けたのはネビル・ロングボトムだった。

 同じグリフィンドールで同級生である。

 夏休みで見ない間に彼は背が高くなったように感じられた。やや見上げる格好になってしまった。

 

「あ、ああ……そう、だな」

 

「君も吸魂鬼にやられたの? 落ち込むよね……何か、こう、ずっと幸せになれない気分になるような……」

 

「ああ、そうなんだ……だが、もう大丈夫だ。ありがとう」

 

 ネビルに背を押された気分になりクルックスは大広間に足を踏み入れた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 一年生の歓迎会とは毎年のことだが、その内容は年々変わるものだ。

 全ての組み分けが終わり、レイブンクローの寮監であるフリットウィック先生が組分け帽子と丸椅子を片付けた後でダンブルドアが立ち上がった。

 昨年度までならば、簡単なひと言の後で夕食会の食事が現れるタイミングであったが、今年度は異なった。

『変化』とは、不思議なものだ。

 ヤーナムでは変化があるものが少ないため、昨年度と違うことはより強く感じるのかもしれない。

 クルックスが知りたかったことに言及したのはダンブルドアだった。

 

「我が校は、ただいまアズカバンの看守吸魂鬼、つまりディメンターたちを受け入れておる。あの者達がここにいる限り、はっきり言うておくが、誰も許可なしで学校を離れてはならんぞ──」

 

 青い秘薬を試す好機だろうとクルックスは算段を立てかけたが、この話をするダンブルドアの顔は昨年度までに見せたことがない真剣で切実なものだったので考えをあらためた。万が一にも諍いとなることは避けるべきだろう。特に今回は。

 

「さて、楽しい話に移ろうかの。──ルーピン先生じゃ」

 

 ダンブルドアは半月形のメガネの奥を優しく細めて、掌を教職員の席に座る男性に向けた。

 

「今学期より空席になっている『闇の魔術に対する防衛術』の担当をお引き受けくださった」

 

 気のない拍手が起きた。

 今日は一年生の歓迎会だが始業にあたる式典でもある。そのため一張羅を着込む先生達の列に座る彼、ルーピンはいっそうみすぼらしく見えた。

 しかし、組分けが終わった後にやって来たグリフィンドールの席のハリー・ポッターと何人かは熱心に拍手をした。彼らは面識があるのかもしれない。拍手がまばらになる頃、ひそひそ話が聞こえてきた。

 

「見ろよ、スネイプ。残念そうで嬉しいよ」

 

 ロンとハリーがクスクスと笑った。

 彼らがスネイプとソリが合わないことは同じ学年のグリフィンドール生にはよく知られたことだ。

 実際、スネイプは嫌そうな──というよりは、憎悪に煮えた──目でルーピンを睨んでいた。拍手はほとんど音の出ないものを三回ほどした。

 

「もう一人、新任の先生がおる。皆もよく知っている先生じゃ。『魔法生物飼育学』のケトルバーン先生は、残念ながら前年度末をもって退職なさることになった。手足が一本でも残っているうちに余生を楽しまれたいとのことじゃ。そこで後任者じゃが、うれしいことにルビウス・ハグリッドが森番に加え教鞭を取ってくださることになった」

 

 ウオォォ、という喝采がグリフィンドールから上がった。

 ルビウス・ハグリッドは、クルックスにとって魔法界で最初に出会った人物である。

 彼にとっては栄転と言うべき事態だ。喜ばしいことだと彼もたくさん拍手をした。その拍手の何割かは『魔法生物飼育学』で噛みつく本を教科書指定した人物について納得できた歓びもあった。

 拍手がひとしきり済んだところで、ダンブルドアは一呼吸おき両手を広げた。

 

「さあ、宴じゃ!」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 歓迎会が終了し、談話室へ向かう頃。

 クルックスは数ヶ月ぶりの満腹感を覚えていた。

 食事中、隣に座っていたネビルに心配されるくらいに食べてしまった。ハリーでさえ「そんなに?」と言われてしまった。

 

 ヤーナムの貧相な食糧事情を考えれば、こうしてヤーナム外の世界の食事を知っているクィレル先生の忍耐は、賞賛に値するものだろう。きっと今日も瓶詰めの肉と主食の芋と副菜の芋を食べているに違いない。どこもかしこもビルゲンワースの食卓は芋ばかりだ。

 最初の夏休みからネフライトが提案し続けているヤーナム土壌改良作戦の進捗はよろしくない。ビルゲンワースの学徒とネフライトの観測によれば、朝と夜が交互にやって来るビルゲンワース周辺と禁域の森周辺だが、見た目どおりの日の進みではないらしい。四季が変わる様子もないので、この説はとても信憑性のあるものだとクルックスも思っている。

 

 グリフィンドールの寮の出入り口へやって来ると『太った婦人』の絵画の扉は開いていた。一年生達を率いて扉のそばに立っているのはパーシー・ウィーズリーだ。クルックスの同級生のロンの兄で彼は今年で七年生、すなわち最上級生となった。胸には首席を示す、輝くバッジを留め付けている。

 入り口の邪魔にならない場所に立ち、クルックスはパーシーに話しかけた。

 

「全校首席は名誉なことであると聞きました。おめでとうございます」

 

 パーシーは角縁のメガネの向こうでかなり驚いたようだった。

 賞賛の言葉ならば飽きるほど聞いただろうと思っているクルックスにとって、彼の意表を突かれた顔は思いがけないものだった。

 

「あ、ああ、ありがとう。成績と日頃のことを思えば、きっと当然のことだったが」

 

「学力もさることながら、昨年の秘密の部屋の件において寮生の先導や見守りを率先して行っていたことが評価されたのでしょうか。何にせよ、寮の代表としてあなたがいることで安心する生徒も多いと思います」

 

 やや肩に力が入りすぎるきらいがあるように見えるが、まとまりきらない寮生を束ねる努力を──それは徒労かもしれないが──続けられる忍耐力を彼は持っている。右も左も分からない一年生は、彼に感謝することだろう。クルックスも一年生の時は、何度か道を聞いたことがある。

 

「それでは、先に休ませてもらいます。失礼」

 

 丁寧な挨拶をしてクルックスは談話室を通り過ぎ、寝室の塔へ向かった。

 他の生徒の部屋は大きなカバンや他の荷物でごった返していたが、クルックスのベッドの周辺だけは何も置いていなかった。

 ローブの下に着込んでいた異邦の狩装束の衣嚢から、普段ヤーナムで着ている狩人の装束を取り出すと衣装箪笥にしまい込んだ。そして、教科書が収められている鞄を取り出してベッドの隣のテーブルに置いた。

 

「…………」

 

 疲れていないため眠気は訪れない。普段ならば市街の狩人達に混じり、外を歩いている時間なのだ。

 クルックスは、狩人の装束から手記を取り出した。

 

『きょうだい会議の日取りを定めたい。休日、早朝いかがか。併せて写真を撮る』

 

 手記を床に放る。床はにわかに白い靄を沸き立たせ、小さな悪夢の使者達が手記を受け止めた。

 

「ネフとテルミ、セラフィに見せてほしい。頼むぞ」

 

 何人かの使者達が親指らしき指を上げた。声はないが「任せろ」と言っているようだった。

 彼らの姿が手記と共に完全に消えるのを見送り、クルックスはベッドに身を横たえた。

 

(さて。今年は、何が起きるのか、起きないのか。俺は、どちらでもよいが……)

 

 吸魂鬼という存在は気がかりだ。




吸魂鬼
 きゅうこんき。ディメンター。
 原作において『誰も経験したことがない恐怖』を持っている場合、吸魂鬼は特に影響を受けやすい旨のことをルーピン先生は語っています。ハリーに影響が大きかったのは、ハリーの過去に最悪の経験(両親が殺される&自分も殺されかける)があったからです。
 そのため、本作においては仔らにも「こうかばつぐん!」です。
 繊細なネフライトは嘔吐。テルミでさえ冗談を言ったりからかったりする余裕はありません。重傷です。セラフィだけ顔色が変わらないのは、何か秘密があるのかもしれません。
 クルックスはまだ吸魂鬼に直接であっていないため、あの底冷えするように這い寄る恐怖を知りません。出会ったら殴ってみたい様子ですが、常識を鑑みて無茶な行動はしない方針のようです。


ルーナ・ラブグッド
 鋭い。クルックスは、彼女のふわふわした印象と言葉のギャップに戸惑っています。ネフも時々戸惑います。しかし、彼女の本質とは具合の悪い人を気に掛けてくれることに代表される優しさなのでしょう。
 原作のハリーとの関わりを見ると、そんなことを考えます。


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授業(上)


マグル学
非魔法族の文化を広く学ぶ学問。
非魔法族は、古くより魔法族の隣人である。
一人では非力なマグルは、しかし、集団的知性により複雑緻密な文明を作り出す。
とはいえ、今や魔女狩りも過去の物語。非魔法族について関心がある者は少ない。
とあるマグル学の学者は嘆いたという。
「彼らが文明を築く速度に最早我らがついていけないのだ」



 翌朝。

 クルックスは、浅い眠りから這い出てきた。

 自覚はなかったが眠りが浅い時の自分は、とても人相悪く、威圧的であるらしい。

 朝食の席で『カメラ小僧』といろいろな人に呼ばれているコリン・クリービーを見つけた時、その顔で寄ってしまったものなので彼の隣に座っていた二年生の友人達は「ヒッ」と息を呑んで身を強ばらせた。

 

「おはよう」

 

「わっ。ハントさんっ。僕、何もしてませんよ」

 

「ん……? いや、構わないが、食事は摂るべきだろう。俺は、写真のことで話をしたかったのだが」

 

「写真、ああ、今年も撮るんですね!」

 

「週末の予定は空いているか。早朝、湖畔に人を集める。撮影を頼みたい。お礼は……昨年は何を渡したか忘れてしまったな。そもそも渡したのだったか……? 今年は百ガリオンほど用意しておこう」

 

 あまり頭の動きが良くない今朝のクルックスは金銭感覚がヤーナム基準だった。すなわち、ガリオン金貨であろうと路傍に置く光る道標程度の認識だった。そのため、コリンの友人は目の前の皿にオートミールを吹き出し、さらに近くに座っていたロンは噎せた。

 

「そんなに、いりません……」

 

「しかし、お礼をしないというのは俺の信条に悖る。金でも物でも何か礼たりうるものはあるだろうか」

 

「それは……。あっ。そうだ。三年生はホグズミードに行くと聞きました。魔法使いの村なんだって聞きました。ハニーデュークス! お菓子の店もあるとか!」

 

「菓子が欲しいのか。ああ、甘い物はいいよな。それはブルジョア、上層または富裕層の味。分かるとも。では、百ガリオン分買ってこよう」

 

「そんなに、いりません……!」

 

「そうなのか。控えめだな。ふむ。他の三人と相談して報酬を用意する。期待してほしい」

 

 クルックスは、そう述べてすこし離れた席に座り、トーストを手に取った。

 冷たいかぼちゃジュースを一口飲んだところで糖分に思考が冒され、また鈍くなってきた。

 

「あなた、写真が好きなの?」

 

 新しい授業で使う参考書──『初学者のためのルーン文字』──を開いているハーマイオニーが朝の挨拶もそこそこに質問してきた。

 

「その『好き』が『親しむ』という意味ならば違う。慣習だ……」

 

「ひゃ、百ガリオンは?」

 

 やや喉を詰まらせながらロンが訊ねた。

 

「魔法界の金を持っていても仕方ないからな。使えるときに使っておくのがよいのだとテルミが言っていた。心ばかりのお礼だ。……断られてしまったが」

 

「どうしてそんなにお金を持っているの?」

 

 ハリーがまさにロンが聞きたくてたまらないことを訊ねた。

 

「古い財産を換金している。財産は仕事の対価。最近は交換レートが悪くはないらしい……」

 

 目を閉じながら、むにむに、と柔らかいトーストを食べる。

 寝ぼけの一歩手前にいるクルックスは、テルミが背中を突くまでやって来た彼女の存在に気付かなかった。

 ハリーやロン、ハーマイオニーにも彼女は朝の爽やかな挨拶をした。

 

「おはよう、クルックス! まあ、冴えない顔をしているわ。朝が辛いのね」

 

「ん。テルミか。気分はどうだ。昨日よりも顔色は良いようだな……」

 

「おかげさまで。貴方こそ、しゃっきりなさい。ほっぺたにパン屑が付いていますよ」

 

 テルミは、そう言ってクルックスの頬を撫でた。

 

「週末の写真の件、わたしの予定は問題ありません。ただ、ネフは例のクラブ活動がありますから彼の予定を先に埋めた方が良いでしょうね」

 

「ああ……──待て、早くないか? クラブ活動とはアレだろう。『互助拝領機構』だろう」

 

 半分ほど寝ていたクルックスの頭は、冷水を浴びせられたかのように冴えた。

 

「ええ。そうです。昨年より精力的に取り組むようですよ。もうチラシが貼ってありましたもの」

 

 テルミは『お知らせ』の心算で来たのではないだろう。

 メンシス学派の徒であるネフライトの応援をする彼女ではない。では何をしに来たのか。決まっている。釘を刺しに来たのだ。

 

「分かった。だが、案じることはないだろう。俺も手伝うことにする」

 

「ええ、お願いね」

 

 テルミは、周囲に微笑みを振りまきながら去って行った。

 彼女が去った後でハーマイオニーが顔を向けた。

 

「ねぇ、クルックス。……あの子、テルミは成長していないわよね?」

 

「そのようだな。本人は気にしていないようだが」

 

「でも、不思議よね? とっても不思議だわ。……病院には?」

 

「彼女の親族に医療者がいるが、所見はない。テルミは、人を外見で判断すべきではないという標本になるだろう。……誰にも迷惑をかけないのだ。気にしないでもらえると助かる」

 

 クルックスは、ハーマイオニーと他の二人が顔を見合わせているのをチラと見たが、彼らはそれ以上追求してくることはなかった。

 そのうちトーストを三枚ほど食べて、かぼちゃジュースを飲んでいるとスリザリンの席からセラフィがやって来た。

 

「やあ、おはよう。昨日の君は、幸運な君。遅れてきたのだね?」

 

「……ああ。すこし。すこし、な」

 

 クルックスは、列車に乗っていなかったことを伏せるため目を細めた。

 セラフィはクルックスの顔をじっくりと眺めた。

 

「む。何か」

 

「お茶会」

 

「え? 何だって? お茶会?」

 

 セラフィが、妙に湿った目をして呟いた単語をクルックスは繰り返した。

 彼女はやがて言い間違えたことに気付き、小さく手を振った。

 

「ああ、気にしないでほしい。僕は君と一緒でも気にしないのだから」

 

「そう。なんだかよく分からないが。ひとまずな……」

 

 追求したいが、周囲の目が気になってしまう。『きょうだい会議』に質問の時間があると思いたい。

 セラフィは、肩をすくめて「昨日の手記のことだ」と話題を変えた。

 

「僕は構わないよ。予定もないからね」

 

「テルミも問題ないそうだ。ネフには俺が伝える。早朝くらい時間は作れるだろう。──そうだ。君は『互助拝領機構』の一員だったな。今年はどうする?」

 

「もちろん参加するよ。ネフのお話は楽しいからね」

 

 本音かどうかクルックスには判断ができなかったが、セラフィはお世辞を使う人ではないのでこれはきっと本心なのだろう。互助拝領機構は活動の内容を知る人にとって、充実度が高い活動になっているらしい。

 セラフィが去ると入れ違いにジョージ、フレッドの双子のウィーズリーがやって来た。

 

「ヒュー、朝からお熱いな」

 

「俺は平熱です。セラフィもたぶん平熱ですよ」

 

 ジョージとフレッドは爆笑したのでクルックスは狼狽えた。

 

「おい、ジョージ。お前の冗談が通じないヤツがグリフィンドールにいたとはな」

 

「ああ、力不足を感じるぜ。去年の期末試験で努力さえしなかったらなぁ」

 

 ジョージとフレッドの漫才にグリフィンドールの席は沸いた。

 クルックスは、何がおかしかったのか分からなかったので曖昧に笑った。

 

「──ほら、マクゴナガルから頼まれた。三年生の時間割だとさ」

 

 時間割が手渡され、クルックスは眺めた。

『占い学』、これは新しい学科だ。次は『変身術』、寮監であるマクゴナガル先生の授業だ。その次は『魔法生物飼育学』、ハグリッドの授業だ。他にも『闇の魔術に対する防衛術』、『魔法薬学』、『呪文学』──見慣れた文字が並ぶ。

 

「僕たちも行ったほうがいい。『占い学』は北塔のてっぺんでやるんだ」

 

 ロンの声にグリフィンドールの三年生は時計を確認しながら椅子から腰を上げ始めた。

 

「忙しくなるな」

 

 かぼちゃジュースの瓶を置くとクルックスは時間割をローブのポケットに突っ込み、歩き出した。『占い学』の授業は北塔のてっぺんで行われる程度は知っている。

 途中、ネビルの背を叩いた。力は思いがけず強かったらしい。彼は「モッ」と喉から妙な音を出した。

 

「あ、すまない。……実は道中は俺も自信がない。急いだ方がよいだろう」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスが北塔のてっぺんに向かい階段を上ったり下りたりしている頃。

 ネフライトは『マグル学』の授業に向かっていた。クルックスへ手記を送ったので彼がグリフィンドールの談話室に戻った頃、回答に気付くだろう。

 階段を登り教室へ向かう途中、踊り場で足を止めた。

 やや視点が高くなった場所からは、新しい学科へ向かう生徒達で混雑する様子がよく見える。同じ寮のカラーを見つけて群れを作る一年生。慣れてきた二年生も久しぶりのホグワーツで感覚が鈍っているのだろう、指差しで教室の方向を確認しながら歩いて行く。教科書の束を片手に角を曲がったと思ったら、慌てて戻ってきて逆方向へ駆けていくのは三年生だ。

 いつもならば頭痛を覚えて目を逸らす場面だったが、今日ばかりは異なった。

 

「あなた、『マグル学』を取ることにしたのね」

 

「ああ。時間の許す限りだが」

 

 ネフライトは、階段を上ってやって来たハーマイオニーを見て歩き出した。

 自然と並んで歩く形になったが、彼は歩調を合わせなかった。

 

「『マグル学』ってとても面白いと思うの。でも、グリフィンドールの三年生で選ぶ人は少ないみたいね」

 

「そのようだな。多角的な視点を得るべきだと人々は知らないか、分からないか、忘れているようだ。けれど君はマグル出身だろう。マグルのことは『ご存じ』と言える」

 

「マグルのことを魔法的視点から勉強するのってとってもおもしろいと思うわ。そう思わない?」

 

「理解を武器にするという発想は知っている」

 

「……。あなたは違う動機みたいね」

 

「『占い学』よりは事実について学べそうなのでこちらを選んだ。君は『占い学』に出たんだろう。感想を聞きたい」

 

 ハーマイオニーは視線をサッと周囲に配った。誰も彼も次の授業で忙しくしているのでネフライトの発言の矛盾を聞く者は誰もいなかった。

 ネフライトの矛盾。

 それは『占い学』と『マグル学』が午前九時の同じ時間に行われる授業であるということだ。

 

「さぁ? 控え目に言えば『不確か』で、大胆に言えば『インチキ』ってところかしら」

 

 ネフライトは、今年度学校に着いてから初めて声を上げて笑い、歩調を合わせた。

『マグル学』の教室に着くと人はまばらだった。ネフライトは一番後ろの席に座ろうとしたが、ハーマイオニーが颯爽と教室の一番前の席に座ったため、前に進んだ。

 隣に座ったのは、事情がある。

 

「──先ほど踊り場にいたが、階段と廊下で君を見た。ちょうど『占い学』に向かうところだったのだろう。……ギリギリの移動時間だ。もう少し時間をズラしたほうがよいだろう」

 

「ご忠告ありがとう」

 

 大して感謝の念は感じられない。

 ネフライトも期待はおろか返事も期待していなかった。

 しかし。

 

「あなたも『時計』を持っていると思っていたわ」

 

「私は幸いなことに君ほど先生方から信用されていないのだ。……それに時間が常より進む時計ならば、もう持っている」

 

 銀の細い鎖を手繰りネフライトは常に身につけている懐中時計を開いた。手回し式の懐中時計が差す時刻は狂っている。彼は教室の壁に立つ時計を見て正確な時刻に合わせた。

 

「時間は大切なものだ。これは金の問題ではない。概ね取り返しのつかないものであるから、という意味だが。今年は君の方が授業が充実する。私の方こそ教えを請いたいものだな。ついでに『互助拝領機構』にも参加していただければ幸いだ」

 

「会員は増えたの? レイブンクローの不思議ちゃんだけだったように見えるけど」

 

「ウィーズリーの妹が参加している。なので私を含めて三人だな。だが、フリットウィック先生の支援を得られた。これまでは招待制だったが初回限定で門戸を解放し、広く参加者を募る予定だ。開催予定は最初の休日だ。……これはチラシ」

 

「ありがとう。……。カリキュラムまで作ってあるのね。フリットウィック先生は、どこまで関わっているの?」

 

「求めれば答えてくれるだろうが、今のところ助言は受けていない。私と外部講師で作成したカリキュラムだ。作るのはとても──」

 

 ネフライトは言葉を切った。

 彼が費やした作成時間は、実のところ少ない。

 なぜならば。

 

 ──クィレル先生、クラブ活動用のカリキュラムの作成をお願いします。活動は一ヶ月週二回です。昨年度の活動実績と活動理念は、こちらの資料にまとめてあります。

 ──締め切り? 先生は仕事がないのですから三日あればできるでしょう。

 ──期待していますよ、先生。

 

 そうして出来上がったものをクィレルに返却したこと三度。

 

 ──先生ならば、もっと良いものができるハズです。

 ──頑張ってください。

 ──進捗はいかがですか?

 

 問うこと四度。

 最終稿を受け取った時の彼のホッとした顔は記憶に新しい。

 よって、ネフライトはしみじみと言った。

 

「時間と労力をかけた」

 

「あ、実技もあるのね」

 

「昨年度はラブグッドが『決闘してみたいな』と言ったのでそんな機会を設けた。今年も会員からの希望があれば内容は変わるだろう。皆の興味がないものを取り上げても仕方がないからな……。ともかく、初回限定だ。最初の休日ならば宿題もさほど出ないだろう」

 

「気が向いたらね」

 

 気のない返事だが、目はしっかりとチラシに細々とした文字で書かれたカリキュラムを見つめていた。

 参加の是非は彼女の気分ではなく、いつも一緒にいる男子生徒二人の問題になるだろう。ネフライトはきっと参加しないだろうな、と算段をつけて会話を終了した。

 ちょうど先生がやって来たからだ。彼女は自分をチャリティ・バーベッジと名乗った。

 

(時計。時計ね……。そんなものなくとも、私は──)

 

 不思議な魔法道具『逆転時計』のことを思い、ネフライトは教科書を開き、目を細めた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 時は一週間ほど遡る。

 ダイアゴン横丁にて月の香りの狩人とダンブルドアが不運にも出くわした頃。

 ネフライトは、『呪文学』の教師であり、レイブンクローの寮監であるフリットウィックと面談していた。

 内容は、恐らく三年次の授業に関してのことだろう。

 時候の挨拶を終え、生活のことへ話題が移るにあわせてネフライトの視点はフリットウィックから微妙に外れ、彼の後方にいる狩人達を見ていた。

 しかし、ハッと気を取り直したようにネフライトは目を瞬かせた。

 

「い、え、何でもありません」 

 

 先ほどまで視線の先では、父たる狩人とダンブルドアが何事か話をしていた。

 自分を呼び出したフリットウィックを放って、まさか狩人のもとに馳せ参じるワケにはいかず、見守るしかない状態だった。

 彼らは一体何の話を。どうしていつも嫌なタイミングで最悪の出来事は起きてしまうのか。そんなことを思考の端で考えたりもした。

 

「それで、ええ、お話とは?」

 

「君は今年度、全ての科目を履修する予定だね? そのことで君に注意と……誤解をしないよう話をしたいと思っているのだよ」

 

「ハァ、なるほど。注意とは?」

 

「君と同じく全科目を履修する生徒は、ホグワーツの近年を見渡しても珍しいことであるが、ないワケではなくてね。例えば、グリフィンドールのパーシー・ウィーズリー。今年度の首席の彼だが、そうした生徒の一人だ。やや遡ればバーテミウス・クラウチ。私が知るのはジュニアの方だがね。普通魔法レベルいわゆるO.W.L──学生や先生の間では広く『ふくろう』と呼ばれているものだ。それを十二『優』でパスした秀才だった。……私の知る限り、並々ならぬ努力をした結果の人々だよ」

 

「覚悟はしています。持ちうる限りの全てを傾けることでしょう」

 

「よろしい。期待するよ。さて、今年の話をしよう。そして注意の話を。全科目履修生は君の他にもう一人いる」

 

「グリフィンドールのグレンジャーですね。昨年話したので知っています」

 

「それは話が早い。新しく始まる学期から、彼女には『逆転時計』が付与されることになった」

 

「逆転時計……?」

 

 単語の意味を理解した時、ネフライトはとても驚いた。「ほう」と「ハァ」を交互に言い、明敏な頭脳から記憶を取り出していた。

 

 逆転時計。

 それは、文字のとおり時間を逆転させる代物である。厳密には『魔法の対象となる人物を過去に送る』魔法が掛けられた代物というべきだが、もし、ネフライトがクルックスに理解させるために説明する場合は『限度はあるが、時間を遡ることができる代物』と言葉を選ぶことだろう。

 存在は知っていたが、やすやすと手が出せる場所にはない。金を積んだとしても無理だろう。製造から使用まで全て魔法省が管理しているのだ。合法的に手に入れる手段とは限られている。非合法であれば、収集家が規制が始まる以前の物品を隠し持っている場合か、天才的発明家が自分で逆転時計を作ってしまった場合に限られるだろう。どちらの場合でも使用にあたっては何かが起きても起きなくとも危険な代物となりうる。

 そのため、ネフライトは入手をほとんど諦めていたものだ。それが。

 

「正直、驚きました。厳重に管理されるべき魔法の物品の一つでしょう。それを学生の手に渡すなど……よくそんなことができましたね? マクゴナガル先生はずいぶんと奔走したのではないですか」

 

「昨年度末から先週にかけて夏休みを返上するほど精力的に働いていたようだね」

 

 沈黙があった。

 ネフライトは感想を述べた後、会話が進まないことに首を傾げそうになった。

 

「どう話を切り出すか、迷っていたのだがね……学年トップの君を差し置いて二位の彼女に『逆転時計』が渡されることに、君が……気を悪くしないかと私はすこしだけ心配だったのだよ」

 

「ああ、そういうことですか。……『逆転時計』は実に魅力的です。私の手元にあれば、今年は充実した時間を過ごすことができるでしょう。しかし、便利すぎるのも考えものです。定められた時間。有限の資源のなかで人間は生きるものです。そのため『逆転時計』は私の信条的に使えない代物です。もし、選択肢があったとしてもお断りしたでしょう」

 

「要らない物としてくれるのであれば、私も安心だ。ああ、もちろん、この話は内密に。君は優れた記憶力を持っている。もし、あの学年でグレンジャーが複数いることに気付くとしたら君だろう。くれぐれも内密に」

 

「注意と誤解の話はこのことでしたか。全て承りました」

 

 会話は終了した。

 そして、二人は別れたが『逆転時計』のことは、ぐるぐると思考の外周を巡った。

 

 彼がフリットウィックに対し『逆転時計』は信条的に使えない代物であると述べた。それは真実だった。考え続けても自分の信条を曲げてまで欲しいと思う代物ではなかったが、その存在はネフライトにある種の夢を見させた。

 

(時間と空間は密接に繋がっているものだ。『逆転時計』。今ではない時間。ここではない場所。グレンジャーが持っているのは、ただの小さな時間の塊に過ぎない。だが、もっと大きなものならば、巨大なものならば、魔法族は作り出せるのかもしれない。悪夢とは異なる領域、理想の世界を)

 

 だが、往々にして夢とは叶わないから甘いものだ。

『マグル学』のはじめ。

 

「初学者となる三年生は、マグルについてまずは生活に関する授業から行います。マグルの衣食住、自然環境というところね。それから来年度の四年生はより深く専門的に取り組みます。マグルの秀でたところ、すなわち『なぜ魔法がなくとも生活できるのか』という視点から工業について広くを学びます。五年生は歴史を。これはイギリスにこだわらず人類史を俯瞰した観点からね。そして六年生は──」

 

 冴え渡る頭脳は、彼女の言葉を一語とて聞き違えることなく追っていたが、魔法界とヤーナムの格差ばかりではなく非魔法族とヤーナムにある隔絶を感じてしまい、彼の精神は次第に繊細なものに変わっていた。また、落ち込む理由は、孤立感だけではなかった。吸魂鬼の精神汚染からまだ完全に復帰できていなかったことを自覚するのは、今の彼にとって苦しいことだった。




写真撮影を行います
 クルックスの提案する写真撮影は、これで2回目となります。
 昨年より成長が見られる写真となることでしょう。──三人にとっては。
 昨年度の写真は、成長の記録として各々の私室に飾ったり仕舞い込まれたりしています。クルックスの分の写真は狩人の夢に飾られています。ネフライトとクルックスは所属団体の面々に写真を見せていませんが、テルミはピグマリオンとブラドーに見せていますし、セラフィはカインハーストの先達に見せています。今のところ問題はないそうです。今のところは。


12科目の受講
 原作では、パーシーとビルがO.W.L(ふくろう)で12ふくろうを取った、ということが語られています。(秘密の部屋)
『ホグワーツの不完全&非確実』において、逆転時計は「初めてホグワーツで使用された唯一の『逆転時計』」とされています。ということは、これまで12ふくろうを取った生徒は、通常の時間割で科目を受講していたということになります。
 たとえば「週3回開かれる授業のうち1回は別の授業と被っていて行けないが、残り2回は出席する」という形でも日々の授業の受講が認められていたのかもしれません。あるいは、O.W.L試験は日頃その科目を受講していない生徒でも受験で出来るということでしょう。その場合、受験する生徒は完全な独学となるのでかなりハードな学生生活になりそうです。
 もっとも、受講とO.W.L及びN.E.W.Tの受験は必ずしもイコールではないかもしれません。
 もし、イコールの場合、転職時に「在学中の五年前のN.E.W.Tで『魔法薬学』の優が必要だった!」という取り返しが付かないことになるかもしれませんので。
 このあたり設定が明言されていない(ハズな)ので、本作においてはそういう取り扱いなんだな、と見ていただければ幸いです。
(でもパーシーがハリーに選択科目の助言をしているときに『魔法生物飼育学』について自分の体験ではなくチャーリーの例を出しているんだよな……。将来どっちに進みたいかを話の前提としているから、おかしな話の流れではないけど……もしかして授業を取ってなかったのか……?)
 個人的にパーフェクト・パーシーを信じて全科目履修していた説を推しています。


ネフライトとクィレル先生
 容赦ないノルマを課すネフライト。それに応えるクィレル先生。クィレル先生にとって、久しぶりに使う頭の箇所なのでカリキュラム作成には戸惑いましたが、最後にはやってくれました。
 今回は話の流れ的にダイジェストとなってしまいましたが、彼らの物語については『四年生まで』章で掘り下げたいです。



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授業(下)


まね妖怪
形態模写妖怪またはボガートと呼称される。
幽霊に似ているが、しかし過去・現在において生きていたことはない。

『まね妖怪』の生態を知った者たちは皆、薄ら笑った。
たかが恐怖を見真似るものを、どうして恐れるものかと。



 三年生となり新しい学科が始まったが、新しいことはそれだけではない。

 新しい先生による授業も始まった。

 今学期、最も人気のある授業になったのは『闇の魔術に対する防衛術』だ。事実だけを羅列すると昨年度までは考えられない事態だろう。

 

 一年生の時、担当はクィレル先生だったが彼の授業内容は特に頭に残っていない。現在より激しい吃音と常に漂う謎のニンニク臭の記憶ばかりが思い出される。そして、記憶に新しい二年生の時、担当はロックハート先生だった。彼の授業は彼が主演の演劇か、または著書を繰り返し読むことだった。やはり『闇の魔術に対する防衛術』として何かを学んだ記憶は薄い。

 一年生と二年生がこんな調子だったので、三年生になり新しく授業を担当するリーマス・ルーピン先生のことをほとんどの生徒は期待していないようだった。顔の血色が悪く、どこか病気を疑いたくなる顔。すり切れたローブ。新任の先生の姿は、生徒の期待よりむしろ哀愁を誘うものだった。

 クルックスは、授業の初回でピクシーを解き放つような無茶な真似はしてくれるなよ、という気分で臨んだが、半面、今になり振り返れば、あれはあれで面白いものだったかもしれないとも思っていたので彼が何らかの闇の魔法生物を持ち込むのならば──例えば、吸魂鬼とか──それは楽しめそうだとも思っていた。

 

 そのため。

 

 今学期最初の『闇の魔術に対する防衛術』のスリザリンとの合同授業にて。

 教室に置かれた古い洋箪笥がわなわなと揺れ、内側からガタゴトと音を立てる様子をクルックスは楽しく見つめていた。

 

「……な、何が入っていると思う?」

 

 恐々とネビルが訊ねた。

 

「分からないが、できるだけ凶悪なヤツがいい」

 

「……あの箪笥は、去年の籠よりもたくさんピクシー妖精が入りそう。もう嫌な予感がしているよ」

 

「また照明にぶら下げられたら助けを請け負おう」

 

 話をしている間にも古い洋箪笥は恐ろしげに揺れ始めた。

 偶然に洋箪笥のそばにいたラベンダー・ブラウンが「きゃっ」と声を上げて、教室の壁にぴったりくっついた。

 

「恐がらなくていい。心配も無用だ。なかにボガートが入っているんだ」

 

 生徒の何人かが顔を見合わせて箪笥から距離を取った。心配するべきことだと思ったらしい。クルックスは、彼らとは異なる意味でネビルを見た。

 ──『ボガート』とは何か?

 彼は「どうして僕が知っていると思ったんだろう」と言いたげな顔でクルックスを見つめ返した。

 彼らの疑問は、指名を受けたハーマイオニーが答えた。

 

「『ボガート』は形態模写妖怪です。私達が一番怖いと思うものに姿を変えることができます」

 

「私でもそんなにうまくは説明できなかったろう」

 

 ルーピン先生はそう言ってニッコリ笑った。ハーマイオニーは頬をわずかに赤く染めた。

 

「さて。そんなボガート、まね妖怪は、あの箪笥のなかでまだ何の姿にもなっていない。まね妖怪がひとりぼっちのときにどんな姿をしているのか、誰も知らないからね。しかし、私が外に出してやるとたちまちそれぞれが一番怖いと思っているものに姿を変えるだろう。ということは、初めから私達のほうがまね妖怪より有利な立場にあるワケだ。──ハリー、なぜだかわかるかな?」

 

 指名を受けたハリーは、他の生徒と同様に洋箪笥を不安に見ていた。

 彼は驚いたように目を瞬かせ、隣で手を挙げて爪先立ちでぴょこぴょこ飛び上がっているハーマイオニーをチラリと見てから、思い切ったようにルーピンに向き直った。

 

「ええと。人数がたくさんいるので、まね妖怪はどんな姿に変身すればいいのかわからない?」

 

「そのとおり。まね妖怪退治をするときは、誰かと一緒にいるのが一番いい。向こうが混乱するからね。わたしは一度だけ二人の人間を驚かそうとしたまね妖怪を見たことがある。とても恐ろしいとは思えなかった」

 

 ここで察しのよい生徒の何人かは気心知れた仲間や友人と磁石になったようにピッタリくっついた。ルーピン先生はその光景に気付いているようだったが、微かに笑っただけだった。やがて杖を取り出し、杖先で自分の手をトントンと叩いた。

 

「まね妖怪を退散させる呪文は簡単だ。しかし精神力が必要だ。こいつらを本当にやっつけるのは『笑い』なんだ。まね妖怪に、君達が滑稽だと思える姿を取らせる必要がある。初めは杖なしで練習しよう。私に続いて言ってみて。……リディクラス ばかばかしい!

 

 ルーピンの後に続き、全員が一斉に唱えた。

 

「そう。とっても上手だ。ここまでは簡単だ。呪文だけでは十分じゃないんだよ。──そこで、ネビル、君の登場だ」

 

 突然名前を呼ばれたネビルは、本当に自分が呼ばれたのだろうかと周囲に目線を送って確認した。クルックス含む何人かのグリフィンドールの生徒が頷いて前に進むよう促した。

 洋箪笥のまね妖怪は危機を悟りつつあるのかもしれない。何度目かも知れない激しい震えが洋箪笥をガタつかせた。

 

「よーし、ネビル。ひとつずついこう。きっと、君が思うほど難しくないハズだ。……君が世界一怖いものはなんだい?」

 

「スネイプ先生……」

 

 か細い声は、数秒だけシンと静まりかえった瞬間に聞こえた。

 途端にほとんどの生徒が笑い、ネビルもつられるように、けれど申し訳なさそうにニヤッと笑った。ただしルーピンは、真面目な顔をして「スネイプ先生か……」と呟いた。

 

「フーム、よし、ネビル、君はおばあさんと暮らしているね?」

 

「でも、ばあちゃんに変身するのもいやです」

 

「いや、いや、そういう意味じゃないんだよ。ネビル、いいかい? 私が合図したら、まね妖怪が洋箪笥から出てくるね? そうしたら君は……」

 

 ルーピンはネビルに何やら対処法を助言した。

 ネビルは相変わらず不安げだったが、すこしだけ自信を持ち直したようで杖を抜いて腕まくりをした。

 

「さあ、皆も。ネビルが首尾よくやっつけたら、次々に君達に向かってくるだろう。ちょっと考えてくれるかい。『何が一番怖いか?』、『どうやったらおかしな姿に変えられるか?』。想像してみてくれ」

 

 ──なるほど。

 クルックスは、未だガタガタゆれる洋箪笥を見た。

 ルーピン先生の話をまとめると、洋箪笥を開く。まね妖怪が出てくる。呪文を唱える。まね妖怪の姿を変える。笑う。──こんな経過となるらしい。

 しかし『笑う』という行いに本当に妖怪を退散させる力があるのだろうか。つらつらとヤーナムと魔法界で見聞した話のことを思い返していると「泣き妖怪バンシーをスマイルで追い払ったわけじゃありませんしね!」とのたまった昨年度の『闇の魔術に対する防衛術』の教授だったギルデロイ・ロックハートのことを思い出し、ルーピンが与えた準備の時間を浪費してしまった。

 

「皆、杖を出して!」

 

「あっ……早い……」

 

 ネビルは、イメージトレーニングをすっかり終えたようで勇気が宿っていた。

 出遅れたクルックスは必死で考えた。

 生まれてから現在まで約三年六ヶ月が経過した。そんな自分の『怖いもの』は何だろうか。

 ──虫? いや、違う。あれは踏みつぶすものだ。お父様? 大切に思われているのに恐怖するなどあるハズがない。聖杯に存在する上位者? 殴れるうちは怖くない。

 

(ひょっとして俺には『怖いもの』が無いのでは?)

 

 ほんの数秒だけ素晴らしい発想に思えたが『こういう時に限って間の悪いことが起きるのだ』と頭が冷える。つまり、これから想定外の『怖いもの』が現れるのだ。クルックスは未だ分からない『怖いもの』の遭遇に怯えた。──なるほど俺にも確かに『怖い』が存在する。それがなんなのか分からないのは、緊急の問題だ。

 

 周囲を見れば、ほとんどの生徒が準備を終えて杖を抜いていた。

 もう待って欲しいとは言える状態ではない。同じように周囲について行けない生徒がいた。クルックスにとっては意外に思えたのだが、それはハリー・ポッターだった。彼の怖いと思うものは何だろうか。クルックスは思いを馳せる。両親の死の原因となった例の魔法使いだろうか。

 準備不足の生徒の存在は彼を勇気づけた。

 

(何があっても死ぬようなことにはならないだろう)

 

 楽観はしないが気楽な気分を心がけ、クルックスは杖を取り出すと肩を回した。

 通常、人はそれを蛮勇や無謀と呼ぶのだが月の香りの狩人の仔にとっては、死ぬこと以上に悪いことはないため、深刻には捉えられなかった。

 ルーピン先生のかけ声で、洋箪笥とネビルの周りからみんな離れた。ぽつんと残されたネビルが杖を構えた。

 

「ネビル、三つ数えてからだ」

 

 ルーピンが自分の杖を洋箪笥の取っ手に向けた。

 

「いーち、にー、さん、それ!」

 

 洋箪笥がパッと開き、果たしてセブルス・スネイプが現れた。

 怒りとも見える不機嫌な顔でネビルに向かい、ローブの懐に手を突っ込みながら歩いてくる。

 ネビルは強ばりながら杖を構えた。

 

「リ、リ、リディクラス ばかばかしい!

 

 パチンと鞭を鳴らすような音がして、まね妖怪のスネイプが躓いた。白いレースで縁取りした緑色のドレスを着ている。高い帽子の天辺には虫食いのあるハゲタカを付け、首には猫とおぼしき襟巻きを巻いている。ローブから慌てて取り出された手には、真紅のハンドバッグを握っていた。

 皆がどっと声を上げて笑った。ネビルはもちろん、ルーピンも思わずといった風に吹き出した。

 

「さあ皆、一列になって! 順番だよ」

 

 ルーピンの指示で我先に列を作っていく生徒達を見て、まね妖怪は、本物のスネイプならば滅多にしないであろう驚き戸惑う顔をして、立ちすくんでいた。

 クルックスは列に紛れ込んだが、思いの外、前方の列に入ってしまい抜け出せなくなった。

 列の先頭は、パーバティだった。

 彼女が数歩進むと新しい標的を見つけたまね妖怪が、またパチンと音を立てて姿を変えた。スネイプの立っていたあたりに血まみれの包帯をぐるぐる巻いたミイラが立っている。目のない顔をパーバティに向けて、足を引きずり手を棒のように突き出して彼女に迫った。

 

リディクラス ばかばかしい!

 

 ミイラがほどけた包帯に絡まってつんのめり、頭が転がり落ちた。頭を探して四肢をばたつかせるミイラはますます包帯に絡まった。またドッと笑いが起きた。

 

「シェーマス!」

 

 毅然とした顔のシェーマスが進み出るとミイラのいたところに黒い長髪、緑がかった色の女が立っていた。口を大きく開くと、酷い声が部屋中に響いた。嘆きの悲鳴。バンシーだ。

 

リディクラス ばかばかしい!

 

 シェーマスが叫び、バンシーの声は重い風邪をひいたようにガラガラとなり、喉を押さえて咳をした。

 次はスリザリンの女子生徒でバンシーはネズミになり「リディクラス!」の呪文で自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回り始めた。次はスリザリンの男子生徒でガラガラヘビとなり「リディクラス!」の呪文でのたうち回り、しまいには太い散水ホースになった。

 姿が変わる度、笑いが起こった。

 

「ロン! 君の番だ」

 

 パチンの音で血走った目玉になっていたまね妖怪が毛むくじゃらの大蜘蛛になっていた。口の鋏をガチャガチャと音立てる蜘蛛には見覚えがある。禁じられた森に住むアクロマンチュラだ。

 

「リ、リディクラス ばかばかしい!

 

 ロンが大声で叫ぶと蜘蛛の足にローラースケートが現れ、木目の床の上でツルツルと滑り出した。

 ロンが大声で笑った。次はクルックスだった。

 

(何が現れるだろうか)

 

 クルックスが杖を握り、見つめるなかパチンと音を立てまね妖怪は彼の上司とも言える、連盟の長ヴァルトールの姿を取った。

 

「長?」

 

 怖くも何ともない。ついでに「リディクラス」を唱える前だというのに生徒の間では爆笑が起こった。連盟の長の鉄兜は見ようによっては穴が空いたバケツに見えるのだ。

 クルックスは困惑が勝った。

 

 彼の前で立ち止まった連盟の長=まね妖怪は連盟の杖を持たない左手の親指で首を切るような仕草をした。

 首を切る。即ち、クビだ。

 

「そんなっ……!」

 

 獣を殺し虫を潰すのは夜を明かす必須の手段だと信じているクルックスにとって、連盟を除名されるということは狩りをする目的を失うことを意味する。

 釈明の言葉を考えるが、心の端から恐怖で凍っていき思考まで阻害されるようだ。思考だけではない。心まで準備不足だったと悟ったのは今さらのことだ。

 

「──クルックス、相手は本物ではない。まね妖怪だ!」

 

 ルーピンの叱声にクルックスは我に返った。

 

(見かけに惑わされるなど! しっかりしろ、俺は連盟員。獣を殺し、虫を潰し、黄昏のヤーナムに夜明けをもたらす──)

 

 もうすっかり聞き慣れてしまった「パチン」という音が妙に浮いて聞こえた。

 ハッと息を飲み込んで顔を上げたクルックスの前に連盟の長は存在しなかった。

 その代わり。

 

 連盟の長がいた場所には、金色の柔らかそうな髪に可憐な白いリボンを結びつけた、ガスコイン神父の娘が立っていた。

 少女は、何かを伝えるために唇を動かした。

 

『ねぇ、お父さん。あの人、月の花の匂いがするわ。お花畑から来たの?』

 

 声なき声をクルックスは、たしかに聞いた。同時に頭の中が真っ白になった。

 ──まね妖怪を侮っていた。

 クルックスは、夏休みにリボンの少女と出会った時のことを思い出した。

 かつてあれほど恐怖したものを、なぜ忘れることが出来たのだろう。小さな疑問がポンと胸の内に浮かび上がるほどに思考は飛んだ。

 

(そうだ。あの時、俺は、恐怖したのだ──)

 

 違うことがあるとすれば、あの時の意識では茫然が先にやって来たが、今は不可解の恐怖が先立っていることだけだ。

 引き攣った喉でクルックスは杖を向けた。

 

「リ……リディ──」

 

 クルックスには自信がなかった。

 ──そうだ。滑稽。滑稽とは、何か?

 問いかけに答えは出ない。我が身を省みれば『面白いこと』の基準さえ自分は理解し難いものなのだ。

 

「いいよ、僕が請け負うとも」

 

 輪郭のある声が、クルックスを救った。

 彼の肩を掴み、後方の列に下がらせたのはセラフィだった。

 パチンという音と共に少女の姿は掻き消え、まね妖怪は対峙するセラフィと同じ姿になった。違うものは、まね妖怪はセラフィがヤーナムでいつも着ている貴族の狩人服を着ていることだろう。正眼では顔が見えないほどに深くトリコーンを被り、技量を感じさせる滑らかな動きで仕掛け武器の落葉を分離変形させ、歩を速めた。

 

リディクラス ばかばかしい

 

 これまでの生徒に比べると静かな呪文の唱え方だった。

 再びパチンという音でトリコーンがはじけ飛んだ。セラフィ=まね妖怪の額から赤い液体が流れた。クルックスには見慣れた銃創だ。彼女は流れた液体を驚きの目で見て、突然に背後を振り返った。その瞬間、鋭い光の一閃が起きて、まね妖怪の胴体と首がズレを起こした。断ち切られたのだ。恐らくは、先達の千景によって。

 女子生徒の何人かが悲鳴を上げて口を押さえる。

 血は噴水のように溢れる──そんなことは起こらなかった。ぼんやりとした赤い霧が吹き出すだけだった。

 首の上で頭がぐらぐら揺れて、ついに落ちた。それを両手で抱えたセラフィ=まね妖怪は、頭を片手に肩を竦めた。

 

「ハハハハッ」

 

 笑ったのはセラフィだけだった。

 それが気に障ったように、まね妖怪がセラフィの形をした頭を列でたむろする生徒のなかに放り込んだ。

 悲鳴を上げて人垣が下がった。

 だが偶然に彼女の頭の前に立ってしまった人物がいた。ハリー・ポッターだ。

 

 パチンと音を立ててまね妖怪は、吸魂鬼の姿になった。

 ハリーが杖を向けるが、表情には余裕がない。傍目からでも恐怖し「どうやって滑稽だと思える姿に変えられるだろう」と困っている様子が見えた。

 

「こっちだ!」

 

 吸魂鬼がハリーに覆い被さろうとした時だ。

 割り込んだルーピンの前で吸魂鬼=まね妖怪は、白銀の球体となった。

 

リディクラス ばかばかしい!

 

 パチンと空気の抜けた風船に姿を変えられてしまったまね妖怪が最後に辿り着いたのは、最初と同じネビルだった。

 

「ネビル! 前へ!」

 

 前回よりも自信に満ちたネビルが前に進み出た。

 

リディクラス ばかばかしい!

 

 呪文によってドレスとハゲタカ帽子のスネイプの姿が見えたが、教室全体が大声で笑うとまね妖怪は破裂し、細い煙の筋になって消えた。

 

「よくやった! 健闘した皆に拍手を。まね妖怪と対決した生徒は一人につき五点やろう。ネビルは十点だ。──二回やったからね。ハーマイオニーとハリーも五点ずつだ」

 

「でも、僕は何もしませんでした」

 

「クラスの最初で私の質問に正しく答えてくれた」

 

 さらりとルーピンは言ってのけた。クルックスは目を彷徨わせるハリーと目があった。「当然だ」とクルックスは頷いて見せた。それでも彼は納得していないようだった。

 

「──よーし、みんな、いいクラスだった。宿題だ。ボガートに関する章を読んで、まとめを提出してくれ。月曜までだ。今日はこれでおしまい」

 

 ちょうど授業の終了を告げる鐘が鳴った。

 ほとんどの生徒は返事をしつつ興奮して友達とお喋りをしながら教室を出た。

 クルックスは、教科書の入っている鞄を引っつかむと同じ寮の女子生徒と話しながら出ていくセラフィを呼び止めた。

 

「セラフィ、情けないところを見せた。……すまなかったな。手間を掛けさせた」

 

「構わないよ。恐れる君は、可愛いね」

 

 ──何だと?

 喧嘩を売られているのだろうか。クルックスは、セラフィに詰め寄ったが彼女はそっと視線を逸らした。

 

「羨ましい。僕にとってカインハーストをクビになることは恐怖になりえないらしい。それが、僕は、きっとすこし悲しいのだと思う。……また休日に会おう。僕の大切な君」

 

 小さな声でセラフィは告げる。

 それから彼女は銀の長い髪を翻し、長い廊下を去って行った。




プロフィールが更新されました
名前:クルックス・ハント
性別:男性
所属:連盟
一人称:俺
得意武器:獣狩りの斧、獣肉断ち、回転ノコギリ
苦手武器:仕込み杖、寄生虫
趣味:読書、武器の整備、本棚の整頓、哨戒、学徒の世話
好きなもの:家族、甘いもの
嫌いなもの:獣、虫、蜘蛛、苦いもの、痛いこと
夢:狩人が眠れる夜が訪れて、綺麗な朝を迎えること

まね妖怪:ヤーナムの少女/連盟をクビになること
みぞの鏡:狩人の相棒となった自分


傷は浅く済ませたいもの
 準備不足が祟ったクルックス。「死ぬことはあるまい」という生命として最底辺のラインを保守できればヨシ!の環境に慣れすぎて基準を間違ってしまっていた結果、招いた失敗でした。真剣に取り組まないと傷を浅くすることも出来ないというあたりまえの確認になったことでしょう。


原作? 映画?
 本作は基本的に原作(書籍)を主としての参考としていますが、映画の描写も参考にすることがあります。(今回の場合、ロンのリディクラス後の描写など)ご了承いただきますようお願いします。


ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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記録写真Ⅱ


ネフライトの光画
月の香りの狩人の仔が四人映っている写真。
未来で道が違えようと夢のような日々だけは手に留めようとしたのだろう。
瞬間を切り取ったとして、時が止まるハズもないのだけど。

聖歌隊の後継と隣り合い、メンシスの檻を被る少年が映っており、薄く口を開いている。
いったい何人が気付くだろう。
それが彼の笑みなのだと。



 

「大活躍だったな」

 

 ネビルは、誰が誰に話しかけたのだろうと不思議に思ってあたりを見回した。次の教室移動の群れの最後尾近くを歩いているためハリーとロン、ハーマイオニーしかいなかった。その彼らは自分たちの活躍について話している。そこでようやくクルックスから自分宛の賞賛であることに気付いた。

 

「あ、ありがとう。君は、ええと、何だかおっかないものだったね」

 

 ネビルが見たのは、逆さまのバケツを被った青い服を着ている怪人と大きな白いリボンを付けた少女だった。

 

「バケツの人は……んー、何だか威圧的だし……」

 

「バケツの人は俺の長、いいや、地元の職場の上司だ。クビと言ってきた。ここにいるハズがないのに姿を見て動揺するなど恥ずべきことだった」

 

「マグルのホラー映画かと思ったよ。仕事の上司なんだ……大変そうだね……。その後の女の子は……あの……亡くなった人? ああ、ごめん……答えなくてもいいよ……」

 

「健在だ。あの女の子は……知り合いの子供だ。……女の子と俺は、何というか、相性が良くないのだろう。大切だが……怖いのだ」

 

「大切なのに怖いなんて、そんなこともあるんだね」

 

 昨年度、人やゴーストを石にさせる怪物が校内を闊歩──怪物の正体はバジリスクという蛇なので足は無いのだが──していた時でさえ彼は一度も恐れた顔をしなかったのに、とネビルは思う。

 

「そのようだ。俺も初めて知った。もうすこし早く気付いていれば……醜態を晒さずに済んだだろう。己の未熟さは、恥ずべきことだな」

 

 そんな彼が少女に恐れを見せる理由について、ネビルはうっすらと分かったことがあった。

 恐怖とは、必ずしも強い力や恐ろしい生き物によってもたらされるものではない。失うことの恐怖。それをまね妖怪は読み取ったのではないだろうか。

 クルックスは、気恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「滑稽な発想は、まだ思い浮かばない。……何か案はあるか?」

 

「バケツの人が出てきたら、また僕のばあちゃんの格好をさせればいいんじゃないかな。ばあちゃんの格好、ちょっとお笑い草だって実は分かっているんだ。あ、内緒だよ。……それから、女の子が出てきたら足元に蛇がいて驚いた顔をさせればいいと思う」

 

「いいな、それを採用したい。蛇か。心当たりがある。ヤー……俺の故郷の蛇は、基本的に四、五匹がグチャッと一体化している。毒がこれまた厄介で人を見かけると吐き出してくるんだ」

 

「なにそれこわい」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 怒濤の平日が終わると週末、最初の休日がやって来た。

 闇を溶かした真っ暗な夜は徐々に薄まり、鳥の鳴き声が夜に満ちていた静寂を破っていく。朝の気配に敏感なのは森の生き物ばかりではなかった。

 

「むぅ……」

 

 のっそり冴えない顔で談話室を起き出したクルックスは、半分ほど開いた目でズボンを履き、シャツを着て狩人服を小脇に抱え、寝室から出てきた。

 顔を洗い、腕を回しながら談話室に辿りつくと間もなくコリン・クリービーが降りてきた。カメラを首からつり下げ、両腕で三脚を抱えていた。

 

「おお……。おはよう。コリン・クリービー」

 

「おはようございます! 眠そうですね!」

 

「ああ、すこし、な」

 

 クルックスは生あくびを噛み殺し、狩人服の衣嚢を探った。眠気覚ましが必要だが、特に食べ物はない。

 

「そうだ。夏休みは楽しかったか?」

 

「ええ! 実は弟も魔法使いなんですけど杖を振りたがるのなんのって。来年の入学まで『待て』って言ってやりました」

 

「杖を振るとダメなのか?」

 

 コリンがキョトンとした目で、冴えないクルックスを見上げた。

 

「マグルの世界で未成年魔法使いは魔法を使ってはいけないことになっているんですよ」

 

「そういえばそういう話もあったか。どうにも神秘の秘匿に俺は鈍感であるらしい……」

 

「あ、家庭に大人の魔法使いがいる場合は『監督者がいる』ということで罪にならないそうです」

 

「ふむ、なるほど。しかし、未成年魔法使いが魔法を行使した場合、魔法省は把握できるのか? どうやって見つけるのだろうか」

 

「それ僕も気になってマクゴナガル先生に伺いに行ったんです。魔法省には分かるそうです。マグルの世界で魔法が使われると発見できて、先生から『もし、使ったらあなたの杖は真っ二つですよ、お気を付けなさい、ミスター・クリービー』と言われました」

 

「そうなのか」

 

 魔法界を信用するならば、ヤーナムは魔法使いの杖があったとして場所の把握はできないことになる。夏休みの最中にクィレルの教授を受け、多くの魔法を使ってみたが魔法省から警告がやって来たことはなかった。ネフライトやテルミはそれぞれの居所で魔法を使っているらしいが、彼らのもとに警告がやって来たとは聞かない。やはり、来ていないのだ。

 クルックスは、やや頭の冴えを取り戻した。

 

「そうだ。コリン、君には弟がいるんだな」

 

「はい。来年入学するんです。デニスって言うんですよ!」

 

 二人は校舎を出て数十分前より明るくなった校庭を歩いた。

 鳥の声は遠く、清々しい朝だった。

 

「『きょうだい』とはいいものだ。頼りになる。……それに温かい」

 

「そうかなぁ。悪戯ばかりのやんちゃな弟ですよ」

 

「いつかお互いを頼りにする日がくる。特別な結びつきは固く解けない。そう邪険にしないことだ。……それにしても非魔法族生まれ──世間ではマグルと言うが──その家庭から二人も魔法使いが出るとは珍しいことではないか? 先祖に誰ぞ魔法使いがいるのか。それとも突然変異なのか」

 

「突然変異がいいなぁ。『特別』ってそれだけで素敵ですから!」

 

 コリンはカメラの調節をしつつ、クルックスに先を歩かせた。

 

「クルックスさん」

 

 呼びかけに応じてクルックスは振り返る。バシャリ。明るい閃光が彼を照らした。

 

「なんだ練習か? 俺だけ撮っても仕方ないだろう」

 

「いいえ? そうとも限らないかもですね」

 

 煙に巻くような回答を問いただすことはできなかった。

 クルックス、と名を呼ばれて彼は振り返った。教会の黒服をまとったテルミがやって来た。

 

「おはよう、クルックス。ご機嫌いかが?」

 

「問題は何もない。君は?」

 

「絶好調ですよ。コリンさんもおはよう。今日はよろしくお願いしますね」

 

 朝陽に輝くテルミの笑顔に対し、コリンは小石に躓き、つんのめるように頷いた。

 

「ネフとセラフィには会ったか?」

 

「いいえ、まだ時間が早いもの。わたしと貴方の二人きり。先に一枚、写真を撮ってもらおうかしら」

 

「欲しいのか。構わないが誰に見せるんだ?」

 

「ピグマリオンよ」

 

「ピグ……? 誰だそれは」

 

「あら、お話していなかったかしら」

 

 テルミはクルックスを手招きして耳元で囁いた。

 

「お父様が飼っている医療教会の黒よ。ピグマリオン。医療教会の工房を下りた先にある捨てられた古工房で暮らしているの。貴方に友人として紹介してあげようと思いまして。顔を覚えてもらえば話も早いでしょう」

 

「写真は彼の地に親しみのない物だ。みだりに持ち運ぶことは感心しないな」

 

「ご心配なく。お父様と学徒のお二人にちゃんと話を通してから持ち出します」

 

「む……。ならば構わない。ではどこで撮るのか決めてくれ。城の壁を背にしてもよいだろう。湖でもいいな」

 

 テルミとコリンがあれこれと被写体の場所を決めている間、クルックスは樹に寄りかかり、湖の大イカが悠々と腕を湖面に叩きつける様子を見ていた。朝の心地よい静けさは眠気を誘うが、空腹は無視するのが難しくなってきた。

 

「クルックス、湖を背に撮りますよ。はい、シャンとしてくださいね」

 

「目線の違いが気になる。抱えようか?」

 

「あら」

 

 テルミは目を輝かせたが、クルックスが彼女の脇を両手で掴み上げたので「想像していたのと違います」と不服を申し出た。

 

「普通に並んで撮りましょうか」

 

「君がそれでいいなら、俺も構わない」

 

 立ち方の指導を受け、コリンが満足する結果となった頃。予定していた待ち合わせ時刻に近付いていた。

 校舎から出てくる二人の姿が見えた。

 片や左肩に負ったマントを翻し、片やローブをまといメンシスの檻を被っている。

 

「やあ、おはよう」

 

 昨年より明るい声音で挨拶をしたセラフィが、赤い長手袋に包まれた手を挙げた。

 写真について。

 彼女は自分の姿を映すものを好まないハズだが、この顔色を見るに写真に係わる良い出来事があったのかもしれない。

 ネフライトは相変わらずで挨拶はしたが、セラフィを横目に「さっさと済ませろ」と言いたげな顔をしている。

 

「諸賢、おはよう。予定通りに集合してくれて嬉しい。これよりコリン・クリービーへ助力を乞い撮影を行う。昨年の写真と比較すると成長を感じられることだろう。──ゆえに我々は写真を見る度に思い出すのだ。一年の間に得た遺志と出会いを。また、我々の健勝を認め合う機会として各々大切にすることを望む」

 

 クルックスの言葉に三人は各々深浅はあるものの頷いた。彼にはそれで十分だった。昨年と同じ並び順に立ち、コリンが指示を飛ばし三脚にカメラを置いた。

 

「皆さん、笑顔、笑顔ですよー」

 

「はい、撮りますよ。イチ、ニイ、サンっ!」

 

 フラッシュが瞬き、四人は一斉に一息吐いた。

 

「終了ですっ。僕、クィディッチの練習を見てきますねっ!」

 

「ありがとう。お礼は後ほどな」

 

 三脚を担いで大急ぎで駆けていくコリンの背中をすっかり見送った後で。

 

「昨年と今年分について彼への礼をせねばなるまい。ハニーデュークスのお菓子のリクエストを受けているが、それ以外にも何か送りたい。誰か妙案はあるか?」

 

 世間で聞こえるプレゼントの定番とは、チェスやゴブストーンセットらしい。だが、既に持っていることも考えられる。

 

「お菓子のほかに? 筆記用具は、たとえ多くあっても困らないけれど、ありきたりかしら」

 

 テルミが、提案を求めるようにネフライトとセラフィを見た。

 

「本でいいだろう。私が見繕ってもいい」

 

「僕らは彼の好みも分からないのだから謝礼としていくらか渡して、好きなものを買ってもらえばよいのではないかな」

 

「ふむ。提案を求めたが決定の仕方を決めていなかった。どうすべきか」

 

「うーん。けれど今必ず決めなければならないこともないのでしょう。写真の現象には時間がかかるとも聞いていますし、ホグズミードであれこれを品定めしてからでもよいと思います。ただ予算は決めておいた方がよいでしょう。そうですね……。十ガリオンくらいでいかが?」

 

「了解した。では、各々ホグズミードを見回って選んでくれ。俺からまとめてコリンに渡す」

 

 三人がそれぞれ返事をして、この話題は終了となった。

 パチとテルミが小さな手を叩いた。

 

「『きょうだい』会議もしましょうね。授業はいかがかしら?」

 

「俺は『占い学』と『魔法生物飼育学』を取っているが『魔法生物飼育学』でハグリッドは災難だったな。ヒッポグリフは礼を失すると怒ると言われていたのだが、お辞儀をせずに向かった愚か者がいた」

 

「誰か死んだのか?」

 

 ネフライトが妙に期待を込めていったが、彼の望む回答はできない。

 

「マルフォイがかすり傷を負った。セラフィも見ていただろう?」

 

「あれはよくない行動だった。彼が素手で立ち向かうのは準備不足だ。せめて『ガラシャの拳』を装備すべきだった」

 

「そういう問題ではないだろう……。ともかくハグリッドは災難だった。最初の授業で張り切っていた。ヒッポグリフも普通の生き物だったので俺はもう少し勉強していたかったのだが……」

 

「『数占い』は、どうなのかな?」

 

 セラフィが、唯一授業を取っているネフライトへ訊ねた。

 

「論理的なものだ。『占い学』よりは私に向いていると思う。『占い学』は……直接的に言うとインチキに見える。厄災と不吉ばかり紡ぐ予言者は、かつて餓死させられたものだが……いいや、これは英国の話ではなかったな。十六世紀のアステカ帝国だ」

 

 ネフライトの話を黙って聞いていた三人は顔を見合わせた。突然どこにあるのか分からないアステカ帝国の話は、やや突飛なものに思えた。

 

「ネフ、どうした」

 

「朝なので言葉が不足したようだ。いま私は『予言とは慎重に取り扱うべきなのだ』という例え話をしているつもりだ。予言の内容如何によって予言の紡ぎ手たる予言者が不幸に見舞われることは、歴史的に決して珍しくない。そもそも言葉にすることで事象を固定させようという試みは、その後の影響を考えると良し悪しの判定が難しいのだ。茶の葉に何かを見ても教科書で語られる以上のことを述べるべきではない。よいかな?」

 

「なるほど」

 

「本当に分かっているのか? 昨年も聞いたことだが」

 

「完っ全に理解した」

 

「ホントかな?」

 

「理解したとする。したい。茶の葉などふやけた屑以外見えたことがないからな。しかし、トレローニー先生は本当の予言者だと思う」

 

 テルミが驚きのあまりしゃっくりのような声を出し、目を丸くした。その隣ではネフライトが「ああ?」と檻のなかで妙に低い声で呻いた。

 

「クルックス、貴方、大丈夫……? どうしちゃったの……?」

 

「君、怪しい壺を買い込んだり、危ない聖杯文字とか使ったりしていないだろうな? 詐欺とかペテンとか引っかかってしまいそうで、何というか、ハッキリ言って、すごく……ヤバいぞ」

 

「な、なんだ。そんなに言うことか?」

 

 同じ授業を受けているセラフィに助け船を求める。彼女もテルミやネフライトの例に漏れず、不思議そうな顔をしていた。

 

「どうしてクルックスはそう思うのかな?」

 

「トレローニー先生は俺が夏休みの間に死に瀕したことを言い示してみせたのだ。これは予言者の力の一片ではないのか?」

 

「それだけ?」

 

「ああ」

 

「なるほどね。僕にもそれらしい予言をしてくれたのならよかったのに」

 

 ネフライトは「ハア~」と長々溜め息を吐いた。

 呆れ果てた彼は早々に匙を投げた。

 

「テルミ、彼を説得してくれ。君の得意分野だろう」

 

「言われなくてもしますわ。あのー。あのね、クルックス、落ち着いて聞いて欲しいんだけども、トレローニー先生がヤーナムでの貴方の事情を知っているワケがないわよね? 当てずっぽうで話したことだとは思わないかしら?」

 

「では、なぜ俺に話すのか。他にも生徒はいるのに、なぜ俺だったのか」

 

「貴方がいつも暗い顔をしていて、自分に自信が無さそうで、ホラ話でも真に受けそうな真面目に見える生徒っぽいからでしょう」

 

「そうなのか?」

 

「そうなのよ。貴方と同じようなことを言われた人は、各教室で三人はいるわ。『あなたのおばあさんは元気なの?』とか『妹さんが怪我をしますよ』とか『可愛そうに! これまで大変な目にあったでしょう!』とか」

 

 クルックスは「それも聞いたぞ」と思い起こした。

 

「誰にでも死にかけた経験は──ないかもしれないわね──けれど『あわやの大惨事』と言える記憶はありそうよね? そうした誰でも一つは当てはまりそうな経験をふんわりとした表現で大袈裟に伝えるとクルックスみたいな単純な人は」

 

「た、単純?」

 

「わたしも朝なので言葉を間違えたわ。純粋な人は引っかかってしまうのね。お分かりですか?」

 

「そうだったのか……!」

 

 こうした話を聞いて素直に頷いてしまうところが、まさに彼の危うさである。それを知っているテルミとネフライトは互いにサッと視線を交わした。

 

「私は、いつだって君の頭の具合を心配している。なぜロックハートの詐術は見抜けてトレローニーのデタラメは見抜けないんだ?」

 

「『あなたは死ぬような目に何度も遭ったでしょう?』と強い口調で言われたから……勢いに圧されて……」

 

 ヤーナムの夜で培われたクルックスの警戒心はホグワーツに来る途中で落としてしまったようだ。

 ネフライトはこめかみに頭痛を覚えつつ明確に伝えた。

 

「今後、あの女の言うことは全部デタラメと思って聞いてくれ。いいかな?」

 

「で、でも半分くらいは真実かもしれないだろう……」

 

「君には脳を洗う必要があるようだ。これからの予定は? 時間があるかね。私は多忙だが時間を割こう。君のために」

 

「わ、分かった、分かった。デタラメと思う、ことにする」

 

「ホントかな?」

 

「ああ、君の心配すべきことは何もないことを証明しよう。他の授業の話を聞きたい。『マグル学』はどうか? クィレル先生がいらっしゃるから優先順位を低くしてしまったが、面白い話が聞けるのだろう」

 

 少々強引に話題を変える。

 授業を選択しているネフライトとテルミが応えてくれた。

 

「バーベッジ先生ね。とても面白いと思うわ。ヤーナムの外の歴史を学ぶのは良いことよ。彼らが積み上げてきたものが、お父様に結実したのだと考えると温かい気持ちになりますね」

 

「なるのか?」

 

「血生臭さという点では君の心が慰められるほどの歴史だ。私は温かい気持ちにはならないが……過去から学ぶことは多くある」

 

「上位者が世界の実権を握った歴史はあるのか?」

 

 クルックスは、真剣に問いかけた。

 

「ヤーナムのようなことがそうそうあってはたまらない」

 

 ネフライトは、まだクルックスの頭の具合を調べたそうにしていた。質問は慎重にしようと彼は思った。その隣でセラフィが訊ねた。

 

「では血の女王が実権を握った歴史はあるのか?」

 

「知らん。トゥメル人に聞け!」

 

 ネフライトはおざなりな回答をした。

 

「残念だ。女王様ほど慈悲深い御方はいないのだが……」

 

「慈悲というものについて見解の相違がある気がするが、確認する必要が感じないのでそっとしておこう」

 

 ンン、とクルックスは咳払いをした。

 テルミが「今の、お父様に似ていたわ」とクルックスの隣で笑った。

 

「えー。今年度最も期待できそうなのは『闇の魔術に対する防衛術』ではないかと俺は思う。ルーピン先生の授業は面白いものだった。まね妖怪は何に変身したのか聞いてもいいだろうか? 俺の八割は連盟の長だった」

 

「私は、ミコラーシュ主宰だった。『メンシス学派、解散!』と言っていた。私の主宰は絶対にそんなことを言わない。遺憾である。セラフィは?」

 

「僕は僕だよ」

 

「? それは知っているが……まね妖怪が何に変身したのか知りたいんだ」

 

「僕だよ」

 

「……もしかして、自分自身に変身したということか?」

 

 ネフライトが確認するとセラフィは「遺憾だ」と言いつつ首肯した。

 

「僕に恐怖などないけれど、乗りこえるべきは常に自分ということだね。まね妖怪が僕らをきちんと読み取れたことにも驚きだけど。テルミは?」

 

「わたしは……その、海、だったのだけど」

 

「おや。お父様ではなかったのだね。意外だ」

 

 テルミは、いじいじと指を組んだり離したり、視線が落ち着かない。

 クルックスの前に現れたまね妖怪がそうであったように、途中から変化したのだろうか。

 

「なんだ。ただの『海』だけではなかったのか。実は俺も──ん? いや待てよ……?」

 

 そもそも、まね妖怪が『海』を模倣するとはどういうことだろうか。

 クルックスが知っている、テルミが恐れた海とは『大量の水』のことだ。再現できるのだろうか。再現したとすれば、教室は海に沈んでいることまで考えられる。しかし、そんな話は聞いたことがない。するとテルミは回避したのだろう。

 

(いったいどうやって?)

 

 クルックスの疑問はそれを察したテルミが答えてくれた。

 

「どのクラスでも冒頭で先生が説明したと思うけれど、模写の対象が複数いる場合、まね妖怪の模写が失敗することがあるの、例えば」

 

 テルミが例として挙げた話は、クルックスにも聞き覚えがあった。

 二人を驚かそうとしたまね妖怪の話だ。

 首のない死体に変身すべきか、人肉を食らうナメクジに変身すべきか、悩んだまね妖怪はどちらも驚かそうとして半身ナメクジに変身してしまい、対抗呪文を使うことなく、二人の失笑を買ったことがあるらしい。

 

「わたし一人だと大海が出来てしまうでしょう。それは良くないと思って、先生に飛びついたの。そうしたら、大量の月が出てきたのです」

 

「月? あれは天体の月だったのか……? 白くて丸いから水晶かと思っていた」

 

「切れた雲間から顔を覗かせた満月でした。月が恐い人がいるなんて不思議ですね」

 

 クルックスは「そんなこともあるのか」とルーピンに興味が沸いた。彼は月に関して、恐い思いをしたことがあるのだろう。その内容を訊ねたい気持ちはある。

 ただし、真正面から聞いたとしても答えてくれないだろうと思った。

 

「ハリー・ポッターがまね妖怪と対峙した時、あれは吸魂鬼となったのだが……先生は対決を止めたな。そのあと、ポッターの追求を躱した」

 

「月のこと調べてみましょうか」

 

 どうする、とネフライトの意見を伺うと彼は檻の目を爪で掻きながら言った。

 

「急ぐものではない。それにヤーナムとは関わりのないことの可能性が高い。だからこそ、私達には心掛かりにしてしまうものなのだが……ふむ……いつもよりいっそう君が慎み深く探ってくれるのならば任せたい」

 

「ええ、素直にお話ししてくれそうな先生ではありませんからね」

 

「それもある。だが、最も私達が恐れるべきは……月への執着を他人に悟られることだ。変人の私やメンシス(月)の私ならばともかく、君まで執心していると悟られるのは、あまり良いことではない。お父様がとっくに『月の香りの狩人』と名乗っているとしてもだ」

 

「はぁい。注文が多いのですね」

 

「ついでに俺の疑問も解いてほしい。……ルーピン先生は何かペットを飼っている気がする。何だろうか」

 

「どうしてペットを飼っていると思ったの?」

 

「先日、廊下ですれ違う時に……そこはかとなく獣の匂いがした……気がする。自信がない。連盟の長の姿を見た後だったので過敏になっていただけなのかもしれない。虫の気配はなかったが……」

 

 落ち着きなく檻の目を掻いていたネフライトが指を止めた。

 彼は何かを考え込む目で虚空を見上げ、やがて首を横に振った。

 

「それは……? いや、まだ確証がないな。数ヶ月様子を見よう。──テルミ、君はルーピンに関して探らなくてよくなった。私がやる」

 

「何か分かったのなら教えて欲しいのだけど」

 

「まだ確証がない話だ。それに付随して話すべき事柄が多くある。朝から歴史の勉強をしたいか? クルックスの腹は『したくない』と言っているようだ」

 

 クルックスは腹を押さえて咄嗟に「いや、これは、違うのだ」と釈明したが、くぅ-、と音を鳴らす空腹の方が雄弁だった。

 

「あらあら。お腹が空いてしまったのね。軽食を持ってくるべきでしたわ」

 

「有益な情報交換は以上だ。私は準備があるので先に戻るよ。クルックスとセラフィ、私を手伝ってくれるのなら朝食後に『呪文学』の教室へ来てくれ」

 

「了解した」

 

「分かったよ」

 

「ネフ、わたしの名前が聞こえなかった気がしたわ」

 

「見たければ一般席に座りたまえよ」

 

「お父様にチクッてやります。メンシス学派の支部を作ろうとしていまーすって」

 

「テルミ、前々から言いたいことを敢えて言わずに留めていたんだがね。そういえば君は生まれた時から姿形が変わらないが、もう進歩をやめてしまったのか?」

 

 彼女がほんの一瞬、呼吸を止めた。

 

「……。お父様が創りたもうた完璧な肉体ですもの。お父様の許可なく成長している人に咎められる謂われは見当たらないようですけれどね」

 

「そうか。私には寵愛を失って久しいように見える。拝領を請うてみてはどうかな? 君の言葉ならば取り沙汰されることもないだろうが。では、失礼するよ。私は忙しいのだ」

 

 ネフライトはローブを翻し、去って行った。

 残された三人は珍しく抱く感情が一致した。

 

「どうしたのだろうか。ネフはイライラしているようだね。何か気に触るようなことがあったのかな」

 

 心当たりのないクルックスは「分からない」と言った。

 そして。

 

「何かしているとしたらテルミだが……本当に心当たりはないのか?」

 

「ありませんわ。わたしはヤーナムの時間のほとんどを孤児院にいましたし、ネフは隠し街のヤハグルで学派の使用人をしていたことでしょう。ヤーナムにいる時間のわたし達には、そもそも接点がないのです。考えられるとすればお父様に難しい宿題を出された、とか?」

 

「お父様絡みの悩み事ではないと思うよ」

 

 セラフィがキッパリと断言したのでクルックスは理由を訊ねた。

 

「僕の勘だ」

 

「ああ、そうか、勘か……勘なぁ……」

 

「勘で納得してくれるのは僕の先達だけかもしれない。理由を考えてみようか。……お父様は僕らに情報を伝えるために聖杯を求めるような狩人だ。不完全な情報しかない今、彼に対し特別難しい宿題を課すとは思えない。『遊んでおいで』と僕らに旅行を勧めるようなお父様だ。それに慕う夢の主からの宿題だったのならば、彼はもっと楽しげにやるだろう。……あんなに思い詰めた顔をするとは思えない。だからお父様の頼み事の線は消える。だから学派に関することではないかと思うのだが、どうかな?」

 

 消去法により導かれた結論を後押しする証拠は、特にない。

 テルミは顎に手を当てて小首を傾げた。小首を傾げる仕草にクルックスは流血鴉のことを思い出してしまい、死に至る傷を受けた胸の辺りがしくしくと痛む気がした。

 

「二大会派の一翼とはいえ、実のところ、メンシス学派のことには明るくないわ。聖歌隊の兄様や姉様は皆、小馬鹿にする時しかメンシス学派のことを話さないので……」

 

「俺も詳しくないな。まれに市街で人攫いの狩人を見かけるが、それ以外は特に……」

 

「僕も詳しくない。人攫いは『穢れ』を落とす確率が低いらしい。先達が積極的に狩っていないから僕の情報もクルックスと大差ない。カインハーストは、神秘研究には興味がないからね。手がかりがない。ちなみにネフには直接聞いてみたことは?」

 

「いいや、ヤーナムにいた時は特に聞かなかったが……。本当に悩み事があるならば誰かに相談するだろう。彼は賢い」

 

「賢いからこそ、愚かに見える僕らに相談しないのかもしれないね」

 

「……まぁ小生意気ですこと」

 

「僕も本気で思っているワケではないよ、テルミ。愛しい妹君、時間が解決することかもしれないからね。今年はネフを刺激し過ぎないことだ」

 

「はぁい。今日の勉強会に行こうかと思いましたが、精神状態があまりよくないようですからね。無用な刺激は避けるとしましょう。……本当はね、ちょっぴり楽しみにしていたの。ネフが他の生徒と関わってみようと心変わりしたのは良いことだと思うわ。あの人にとっては、ほんのすこしも楽しくない、煩わしいことでしょうに」

 

 テルミは礼儀正しく両手を体の前に重ね、シュンと肩を落とした。

 

「それがよいだろう。何かあれば俺が君やお父様に伝える。よいかな?」

 

「ええ。そうしましょう。では、先に戻っていますね。そろそろ約束の時間なの」

 

 テルミが手を振って去って行く。

 残ったクルックスとセラフィは、しばし見つめ合った。

 ここに残ると言うことは、セラフィには話したいことがあり、それは他の二人に聞かれたくない話なのだろう。

 彼女の秘密を預かっているクルックスにとって、彼女の話は自分の空腹よりも優先すべきことだった。

 

「陽が高くなってきたな。一緒に、すこし歩かないか」

 

 クルックスは、手を差し伸べた。

 セラフィは手を取らなかったが、彼の手を見つめた。

 それから静かに告げた。

 

「ありがとう」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 朝の風は水と深緑の匂いを運んでいる。

 湖の輪郭を辿るように二人は歩いた。

 湖を離れれば校庭の端にハグリッドの小屋があり、校舎に辿りつく。二人がややゆっくりと歩めば約三十分の道のりだった。

 来年もこうして歩く機会を作ろうと思う。その時は、厨房に軽食を頼もうとクルックスは考えていた。

 一歩だけ先に歩むセラフィが、ぽつりと言った。

 

「僕は、医療教会の射手に会った。話した。時計塔のマリアのことを」

 

 彼女の話す内容は、予想はできた。

 ヤーナムのとある夜、射手の居場所を話したのはクルックスだったからだ。

 

「会ったのか。それは……良かった、と言ってもいいのだろうか……」

 

 ──では俺は無駄死にではなかったのだな。

 彼は戸惑った。仕事を果たした達成感とは異なる気持ちの充足が起きたからだ。これまでの夜、あるいは聖杯のなかにおいて『死に甲斐がある』と思ったことはなかった。死んでも果たせることがあることを彼はひとつの学びとした。

 そして。

 

「君の知りたいことは、知り得たのか?」

 

「まだだ。けれど彼はマリアについて本当に知っていると思える。満月の夜、僕は一度ヤーナムに戻るつもりだ」

 

 それから彼女が語ったことは部分的に既知の事柄もあったが、未知の情報もあった。

 例えば。

 

「シモン? 本当に彼はそう名乗ったのか?」

 

「ああ、たしかに。それが何か」

 

「お父様が時々口にする古狩人の名前だ。お父様と共に狩人の悪夢を探り、そして果てた古狩人だと。医療教会の設立初期に存在した狩人でもあるらしい」

 

「古狩人のなかでも『古い』狩人ということかな。……レオー様とどちらが古いだろう?」

 

「くれぐれも質問なんてしようと思わないでくれ。レオー様なら、きっと勘付くぞ」

 

 そして彼は排除するだろう。前々回は、不意打ちを受けて後手に回った。前回は、処刑隊の横やりを受けた。そして次回があるとすれば、残酷に殺すだろう。『穢れ』の有無など関係なく、ただ、セラフィの興味を奪うために。

 クルックスの想像だったが、彼やカインハーストの先達は、セラフィのマリア探索を歓迎することはないだろう、と考えていた。

 セラフィは、好奇心に揺らいだ顔をしていたが、すぐに改めた。

 

「控える。控えるとも。でも、医療教会の設立が何年なのか分からないけれど……よほど『古い』狩人なのだろうな。だって……そうだろう?」

 

「それは、まあ、そうなるな。たぶんだが。……しかし、マリアも古い狩人だとすると『古さ』とは、どこまで遡るのだろう? まさかカインハーストとビルゲンワースが仲良くしていた時代まで遡ってしまうのか? ではシモンは、学徒であり墓暴きを経て、その後に成立した医療教会の設立時点で存在した人物ということだろうか?」

 

「医療教会の最初期の狩人は、ビルゲンワースの学徒だったと?」

 

「……分からないが、ビルゲンワースの学徒だったローレンスが興した医療教会だ。排他的なヤーナムの権威主義の医療教会で、教会設立後にひょっこりやって来た病み人が──初期とはいえ──表沙汰にしたくないことを夜に紛れてコソコソ処理する狩人に抜擢されるとは思えない」

 

「彼に聞いてみようか?」

 

 この誘いにはクルックスも心揺らいだ。

 しかし。結局は頭を振った。

 

「必要ない。君が彼に深入りする必要はないだろう。お父様の聖杯作成が上手くいけば情報は揃うのだから……。君はマリアのことだけ聞けばいい」

 

「分かった。分かっている」

 

「彼との話はそれだけか? 怪我につけ込んだとはいえ、互いに取引めいたことをしている。……彼が口を開く気にさせるために何を条件にした?」

 

 セラフィは、クルックスの数歩前で立ち止まり振り返った。

 風が彼女のマントや長い髪を揺り動かす以外に時間を感じさせるものは何もなかった。

 やがて。

 

「彼は『獣狩りの夜』を調べているようだ。僕が現れた時、月の香りがすると言った。そして『夢を見る狩人がいるということは、今夜は獣狩りの夜なのか?』と」

 

「…………」

 

 シモンがしたという、この質問にはおかしな点がいくつかある。

 まず、父たる狩人が彼と出会っていれば質問しない類いのものだ。なぜなら今や彼の探し人である『夢を見る狩人』は上位者と等しい。彼自身が現在のヤーナムの異常、繰り返す年の原因の一つなのだ。また、窶しの狩人が『夢を見る狩人』を探しているという状況に首を傾げざるをえない。彼の本来の仕事は医療教会の黒服と同じ任務をいただく予防の狩人でもある。市井に潜む獣を探し出す任を負った狩人が『夢を見る狩人』を追う理由は仕事柄存在しないハズだった。

 

「なぜだ? 死んだ時の記憶が欠けているのか? それとも、死んだ時のことを覚えている? ……もともと悪夢を探っていたような人物だから、お父様を追うのはさほどおかしなことではないのか? ──いや待てそんなことより。やっぱりお父様はシモンさんのことを把握していないんじゃないか!?」

 

「さあ? お父様も距離を測りかねているのかもしれない。悪夢を探ることは果たして彼の意志なのかな? 医療教会からの刺客ということも考えられる。なんにせよ、誰にせよ。お父様を害せるとは思えない。今は、まだ。……お父様はお忙しそうだ。悪夢の階層が何とか。だから獣の皮を被った医療教会側の彼と十分に話せていないのだろうね」

 

「それについて控えめな進言はした。もうそろそろ気付く頃だろう。獣の皮で思い出したが……セラフィ、シモンさんの身のまわりは危険だ。接触時間はできるだけ短い方がいい。気を付けてくれ」

 

「身のまわりの危険とは?」

 

「獣の皮を被った男、ブラドーがシモンさんを追っている。なぜ、とか、どうやって、とか、分からないが……」

 

「それは僥倖だ。情報を引き出したらブラドーに通報しようかな。誰かの狩りの獲物ならば、僕は喜んで譲る」

 

 ──どこにいるか知らないけれど。

 セラフィは、提案に共感を求めるようにクルックスを見た。この意見に同意は出来なかった。

 

「感心しないな。古狩人には敬意を払うべきだろう。使い捨てることを前提に付き合うものではない」

 

「いくら敬意を払ったとて相対する両者を立てることはできないのだ。ならば僕は利を取るよ。それに医療教会の人間なのだから彼も同じことを考えているだろう。最後の密会の後で教会の黒が大挙してやって来ても僕は驚かない」

 

 クルックスは、言うべき言葉をなくした。

 夏休みのビルゲンワースでレオーに問われたことがある。

 ──人間が獣になったり狩人が正気を失ったりしたら、そいつらを哀れんで殺されてやるつもりか?

 クルックスは質問の後ただちに「いいえ」と答えることができなかった。けれどセラフィは言えるのだろう。どちらが優れていて善い判断とされるのか考えたくなかった。

 そのため。

 

「いつでも決して礼を失することのないようにするべきだ」

 

 ありきたりなことを言い、柔らかに諫めることしかできなかった。

 

「君の言葉を無下にはしない。──市街の船渠跡について知っているか?」

 

「ああ、下水道に繋がる船渠だな。知っている。鼠狩りをするからな」

 

「僕は彼と一人で会うことになっている。君が同席する必要はない。……でも君だけには、会合場所を知っていてほしい」

 

「分かった。……俺からも細々したことを聞くが、カインハーストの先達には知られていないんだな?」

 

「ああ。知らない」

 

「本当に?」

 

「ああ。……どうして重ねて聞くのかな?」

 

「君はカインハーストの従僕だ。先達に問いかけられたら、君は嘘をつけないだろう。悟られていないのならばいい。今後も言動には用心することだ」

 

「ありがとう。射手を探し出せたのは君のお陰だ。いつかきちんとした礼をしたい」

 

「君の苦悩が消えるのなら、それが何よりの礼になる。俺のことは構わない。油断なく事を運ぶことだ。……もし、誰かにバレたら快く思われないだろう」

 

 セラフィは「そうだね」と同感を告げて黙った。

 満月まで、あと数日だ。

 クルックスが言えることは多くない。

 

「シモンさんと君がよい関係を築けることを願う。お父様と彼の付き合いもある……のだと思う。顔見知りの古狩人が増えることは、お父様にとって善いことだ。……うまく言えないが……」

 

「そうだね。……珍しいものには仲間がいたほうがよいだろう」

 

 彼女にしては不思議な言い回しだ。

 どうしたのかと問うと彼女は、どこかを遠くを見る目をして微笑んだ。

 

「鴉羽の騎士様が、そうおっしゃっていた。僕もそう思う。お父様にも誰か秘密を分け合える人が増えればいい。君と話すと、よくそれが感じられる。……秘密を全て抱え、独りでやり遂げるのは、とても難しい。今日は、お喋りに誘ってくれてありがとう。僕は君と話せることが、とても嬉しい」

 

 生まれてからこれまでの間、時間は等しく過ぎた。

 陽が差した。セラフィの白い肌を日差しが柔らかく照らした。

 クルックスは、今日小さな変化を見つけた。それは、道ばたに生えている草花には実は名前があり、しかもクローバーであることを初めて知った時のような、本当に小さな小さな変化だった。

 

「……君」

 

 セラフィは、よく笑うようになった。

 思えば、誰かと話す時の彼女は笑うようになっていた──気がする。

 いつの間にかセラフィは呼吸をすることと同じくらい自然に笑えるようになっていた。

 

「帰ろうか。ネフを手伝わなければ」

 

 クルックスは頷いた。

 どちらも手を差し伸べることはなかったが、並んで歩くことが何より互いの為になると感じられた。

 




プロフィールが更新されました
名前:セラフィ・ナイト
性別:女性
所属:カインハースト
一人称:僕
得意武器:レイテルパラッシュ、落葉、千景
苦手武器:教会武器全般、寄生虫
趣味:先達のお世話、生態観察、睡眠、読書
好きなもの:カインハースト、家族、果物
嫌いなもの:ぬるぬる、横暴、整理整頓
夢:優れた狩人になること/女王様を幸せにすること。

まね妖怪:乗りこえるべき自分
みぞの鏡:騎士として列せられた自分


クルックスがテルミを持つイラスト

【挿絵表示】

テルミ「……あのねぇ。ネコちゃんではないのだから……」


セラフィとクルックス
 セラフィは、クルックスにとって(損得勘定をあまり考えずに)同じ目線で話すことが出来る数少ない『きょうだい』です。セラフィもクルックスのことを親身な存在として見ています。
 テルミは『きょうだい』関係の外の話となるとすぐに人を弄ぼうとする悪癖があります。クルックスは正直なところ、このモードのテルミは話していて疲れるので苦手です。また、ネフライトも厳密な損得と賃借勘定ゆえに嫌がります。彼自身、付けいる隙を見せませんし、クルックスにも見せてほしくないからです。……どちらも本当に困っているときは、助けになってくれるのですが。

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


ファンアートをいただきました!
attoクロスオーバー様からファンアートをいただきました!
ありがとうございます!
テルミ「おはよう、クルックス。ご機嫌いかが?」

【挿絵表示】


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互助拝領機構(Ⅱ)


互助拝領機構(2年目)
機構を主宰するのは一見にして怪しげな奇才、ネフライト・メンシスである。
ヤーナムの外において聖体は、人の叡智が形を変えたものだ。
ゆえに拝領は時を超え、場所を選ばず続いている。

──学び得る。理由は、まぁ、なんでもよい。
──いくら得ても足りはせず、満ちることはない。
──「それでも」を唱え続けた今。
──全ては貴公の糧となり、貴公は私の糧となる。
──知識とは、まったくそれでよいのだ。



 校庭から大広間に戻り、軽い朝食をつまんでから『呪文学』の教室に向かうとすでにネフライトは教室にいて『互助拝領機構』についてのパンフレットを腕に抱えていた。

 

「ああ、クルックス。セラフィも。……てっきり来ないかと思っていた」

 

「なぜそう思ったんだ? 君との約束を違えたことは、今のところないだろう」

 

「テルミにあれこれと言われたのではないかと今さら心配になっていた。──来てくれたのならば幸いだ。手は多くあるに越したことはない。これは資料だ。来た生徒に渡してほしい。残部は向こうのテーブルにある。時間になったら君達も椅子に座ってくれ。君達の席はあちらだ」

 

 ネフライトはてきぱきと指示を出した。

 休日のクラブ活動がどのように行われているのか。クルックスはクラブや同好会に属していなかったので知らなかったが、誰も彼も「休日にクラブ活動するなんて!」と言わないので活動としては珍しい形態ではないのかもしれない。

 来た生徒は、右も左もまだ分からない一年生が多く、その次に二年生、三年生と四年生は「暇なので来てみた」という顔の数人、五年生と六年生はレイブンクローの生徒が二人来ていた。ホグワーツにおいて最高学年である七年生では意外な人物が来た。

 

「パーシーも。忙しいのではないですか。でも来てくれて幸いです」

 

 クルックスは、ネフライトが作成しルーナが夏休みに刷ったという資料をパーシーに手渡した。

 彼は、冊子状の資料を一瞥した。

 

「ああ、主席監督生だからね。一年生の何人かに聞かれたよ。『このクラブってどうなんですか?』って。昨年度から出来たクラブだとは知っていたが、実態は……監督生として知っておく必要があるだろう?」

 

「ごもっともだと思う。自由席になっている。お好きなところにどうぞ」

 

 彼は教壇から近い最前列に座った。

 主席の監督生の仕事とは、具体的にどのようなことをやっているかクルックスは知らなかったが彼以上にこの仕事に熱心な監督生はいないだろう。

 もう一人、やって来た生徒がいる。ひょろりとした体つきで青白い顔をしたスリザリンの生徒だ。

 

「やあ、セオドール。昨年度の僕の言葉を覚えていてくれたのかな。嬉しいことだ」

 

「そんなところだ」

 

 セオドール・ノットという三年生だ。灰色の髪色、筋張った顔の彼は何度かスリザリンとの合同授業で見たことがある。クルックスは思い出した。

 彼も冊子を受け取った。胡散臭いものを見る目を隠そうともしなかった。

 

「……君がこれに参加しているのは、正直に言うと不思議だ」

 

「そう見えるかい。でも校内を散歩する以外に趣味もない僕には、ちょうどいいのだよ。いろいろ知ることができるからね」

 

 次にやって来たのは、グリフィンドールの三年生。ハリー・ポッターといつも一緒の二人だった。ただし、今日の先頭は肩で風を切るハーマイオニーだ。

 

「むむ、こんにちは。互助拝領機構の説明会はこちらだ。そしてこれは資料」

 

「ありがとう」

 

「自由席になっている。好きなところに座ってほしい」

 

 ハーマイオニーは着席するなり真剣に冊子を読み始めたが、ハリーとロンはパラパラと冊子をめくるだけだった。彼女の付き合いで来たのだろう。彼らはすでに座っていたロンの妹、ジニーの隣に座った。ロンはジニーがいることにショックを受けたようだった。責めるように質問しているのがボソボソと聞こえた。

 最後にやって来たのは、フリットウィック先生だった。

 まさか先生もクラブ活動するのだろうか、と何人かの生徒が怪訝な顔をした。

 

「顧問ですからね」

 

 集まった生徒に聞こえるようにフリットウィック先生は言った。

 教壇に立っていたネフライトが教会式の挨拶をすると彼は小さな体を揺すって頷いた。

 

「君がやる気になってくれて嬉しい。私のことは気にせず活動を続けて」

 

「ご配慮ありがとうございます」

 

 ネフライトは日頃、授業以外は檻を被ってブツブツ独り言を話している怪しい奴なので長椅子に座っている生徒の何人かは丁寧な対応を見て、ささやかな衝撃を受けているようだった。

 フリットウィック先生の後に来たのはルーナだった。

 

「ネフ、あたしが最後尾みたい」

 

 鐘が鳴った。

 ネフライトは自分の時計の時刻を調整をした。

 

「よろしい。君も座ってくれ。クルックス、セラフィ、資料はそこに置いていい。諸君、定刻となった」

 

 クルックスはセラフィと長椅子に座った。

 

「互助拝領機構へようこそ。本日は『互助拝領機構』の初回の活動のため簡単なガイダンスを行う。私は『互助拝領機構』の主宰、ネフライト・メンシスだ。この檻は、私の信条で、また、宗教上の理由だ。己を客観視するためのもの。導き。そして実績でもある」

 

 ネフライトは両手を広げた。

 

「さて。『互助拝領機構』は招待制であるが年度初回の本日に限り、参加希望者を受け入れることにしている。詳細の規約は二ページに書いているので後ほど見ておくように」

 

 次いで「資料をお開きください」とネフライトは言った。

 教壇の上でネフライトは、背筋を正した。

 ひとつ呼吸をして、それから話し始めた。

 

「私の目的は、魔法界に利益をもたらす人材を作り出すことにある。参加する人々にとっては『生活を豊かにするため』、『名誉を得るため』、『自分の力を試すため』。理由は何でもよい。我らは──いいえ──人間は、人間の持ちうる手段と思想により進化の階梯を昇らなければならない。私は期待する。魔法界がこれから直面する危機に際したとしても速やかに対応し、危機さえも跳躍の機会へ変えることを。そして人間の不可能とは、深き彼方の果てにあるのだと信じていたいのだ」

 

 ハリーの見るところ、集まった生徒のうち八割くらいの生徒は、ポカンと口を開いていた。

 頷いているのは高学年の一部とフリットウィックだけだった。

 彼は反応が少ないことに気付いたようだ。咳払いをひとつ。

 

「──というのが私の個人的な最終的な目標だ。しかし、賛同していただけたら嬉しい。この信条のもとささやかながら『互助拝領機構』を作った。ゆえに『互助拝領機構』は、参加する同志の学びの一助となるだろう。どんな目的があったとして、それは高ければ高いほど、独りで学ぶことは難しい」

 

 そして、こうも言った。

 

「『互助拝領機構』は、授業ではない。個々が取り組みたいものに取り組む機会を提供し、互いに成果を発表する。自分の知っていることが誰かの助けになるのならば、人々はそれを伝えるべきなのだ。知り、学び、考えることは孤立した営みではない。……昨年、私はほとんど唯一の会員だったルーナ・ラブグッドの宿題の助言を行っていた。そして、彼女から私は魔法界の常識について学ぶ。これはあくまで一例だが、互助そして他者への利に理解ある人々による自学自習の会とも言える」

 

 彼は言葉を切った。

 

「ここまで私の説明を聞いて『それくらいならばもうやっている』と言える人もいるだろう。素晴らしい。しかし、高い才知に基準を合わせることの意味は少ない。限られた知恵を限られた者だけが持つ。構造の歪さは、獣ならばよい。だが社会的生活を営む人間ならば、その状態に甘んじるべきではないのだ」

 

 ネフライトは、杖を振った。彼の背後にある黒板で数本のチョークが音を立てて絵図と文字を書いていく。

『マズローの欲求五段階説』と書かれた言葉と共にピラミッドを書いていく。それは下から順に「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」となり、さらに五段階を積み上げた。

 

「君達がマグルと呼ぶ人の哲学には学びが多い。だから私も引用する。他者の不幸に罪悪感を抱き、創造的で謙虚で聡明、多視点的な思考力を持ち合わせ、また批判を受け止めることができる──そういう人間の晩年は幸せだ。持てる知恵を授けることを厭う者がいるとすれば、哀れなことだ。彼らは知恵柄の美しい毛皮をまとったつもりだろう。しかし、時を経れば色褪せ、毛艶は凝り固まり抜け落ちる。知識さえ古びるのだ。……例えば天動説は、この頃すっかり廃れているらしい。私がこのことを知ったのは三年前のことだ。私にとって常に最新の学説ではあるのだが──話が逸れてしまった。修正。協調性ある人々であるホグワーツの生徒であれば、概ね同意いただけると思う」

 

 役目を終えたチョークが元の位置に戻った。

 

「──計画から実行と評価そして改善まで、独りでやり遂げられる者は少ない。寮の隔たりなく『互助拝領機構』を活用してほしい。貴公の学びは、皆の学びとなる。互いを助け、拝領を得るといい。皆にとって善い仕組みであることを私は願っている」

 

 両手を祈るように組み、ネフライトは説明を終了した。

 

「さて、活動の説明は以上となる。活動に同意する者は、このまま。興味のない者は離席して構わない」

 

 クルックスは、それとなく首を回すフリをして振り返る。友人の付き添いできていた生徒──ハリーやロンなど──と興味半分で来た生徒が席を立った。パーシーは着席したまま規約のページを読んでいた。

 ネフライトは教室中を見回して誰も立たなくなったことを確認した。女性の割合がやや高いようだった。

 そして。

 

「諸君、『互助拝領機構』は新たな同志を歓迎するだろう。早速、クリスマスまでに取り組む課題を各々決めて欲しい」

 

 そう言って、テーブルに置いてあった紙に向かって彼は杖を振った。

 目の前に来たそれを手に取ると『課題設定』と書いてある。

 

「目標は低くても高くてもいけない。探索は自由でなければならない。個人的興味で結構。高学年の諸兄はどうかな。授業に関することや進路に係わることでもよいだろう。自分の興味のあること……己の知るべきこと……」

 

 高学年のほとんどの生徒は、ちょっと悩んだもののそれぞれ目標を書き付け、目標設定の次の項目である研究過程の予定まで書いている。

 クルックスは『虫を探す方法』と書いたところでチラリと隣のセラフィの研究予定表を見た。彼女は『スネイプ先生の髪について』と書いていた。

 

「それはダメだろう」

 

 つい口をついた言葉は、ごく小さいものだった。セラフィが身を傾けて「ん?」と小さく鼻を鳴らす。クルックスは、次の言葉と彼女を説得させる方法が思いつかないことに困ってしまい眉をギュッと寄せた。

 

「何というか……研究しちゃいけない研究だろう。近年の概念の、プ、プラ……? あ、プライバシーとか何とかで」

 

 二人は額を付き合わせヒソヒソと互いの書類を見た。

 

「僕なんか水で洗っていてもこれなんだ。どうしてかの先生がいつもベルベットの黒いカーテンのような光沢なのか気になるだろう?」

 

 セラフィはそう言い、対照的な細くサラサラした髪を手で梳いた。

 

「──君の課題こそどうなんだ。カレル文字以外で虫を探す方法があるとして信用するのか?」

 

「うーん。……しないな」

 

 クルックスは二重線で消した。

 

「ではお互いに研究設定として適切ではないのだろう。授業に関わることにしよう」

 

「それが無難だな。では、何か。……俺は思いつかない。例えば?」

 

「むーぅ。僕も思いつかない……」

 

 手が止まってしまった生徒を見やり、ネフライトが一度手を叩いた。

 

「さて。一度ここで解散とする。来週の同じ時間に再会できることを祈っている。次回は、課題の発表と進捗について報告してもらう。助言できる人がいれば、話に耳を傾けることもよい刺激になるだろう。それから、まだ何も思いつかない人は、これから私やルーナが付き合おう。図書室の使い方と共に勉強の手ほどきをしていく」

 

 とてもありがたい申し出だとクルックスは思う。隣に座るセラフィは「助かるね」と言って筆記用具を片付け始めた。

 高学年のパーシー含む何人かとジニーとハーマイオニーは「また来週」とネフライトに声を掛けて教室を去って行く。残った学生もインクやペンを鞄に片付けて教壇に立つネフライトの前に集まった。

 

「前提の知識について説明が必要かどうか判断するために聞くのだが、非魔法族の家の出身の者は手を挙げてほしい」

 

 クルックスとセラフィを除き、残った学生は男子生徒一名と女性生徒三名の計四名だ。そのうち二人が手を挙げた。どちらも女の子だった。

 

「了解した。これからさまざまなことについて説明するが、魔法族の家族がいる人にとっては退屈な時間であるかもしれない。そういう時は、私のあら探しでもしているといい。私は魔法族の出身ではないのでたくさん修正することがあるだろう」

 

「えっ。マグル出身なの?」

 

 ──そんなおかしな檻を被っているのに!

 疑問が飛んできてもおかしくない驚きようをしたハッフルパフの男子生徒にネフライトは平坦な声で答えた。

 

「信条や宗教上の理由と言っただろう。世界にはいろいろあるのだ。魔法界のいろいろも私は知っていきたい。……諸君、忘れ物はないかな? では、図書室に行こうか」

 

 教室を出る段になり、これまで見守っていたフリットウィック先生がネフライトに声を掛けた。

 

「では、この後もしっかり頼みましたよ」

 

 ネフライトがお辞儀をするとフリットウィック先生は教室を去って行った。

 

「ついてきて、図書室はこっちだよ!」

 

 ルーナがブンブンと手を振る。ネフライトの機嫌はいつもどおりに見えるが、彼女は『互助拝領機構』の活動が楽しくて仕方がないらしく先を行く足取りは軽いものだった。

 

「動く階段があることは、もう知っている? 目的地は、一階だよ。あの階段を渡ることができれば早いけど、うーん、いつも気まぐれみたい。次に動くのに五分以上かかる場合があるンだ。すこし遠回りになるけど、こちらの道のりの方がいい──」

 

 へえへえ。ふむふむ。

 低学年の三人が話すなか、一年生の女の子がそろりそろりとセラフィのところにやって来た。クルックスが資料を渡した生徒の一人でネフライトの質問に手を挙げなかった生徒の一人でもあった。つまり、魔法族出身の家柄だ。

 セラフィが気付いた。それから「おや」と小さく声を出した。

 

「こんにちは。ア、アストリアよ」

 

 小綺麗な天鵞絨のワンピース。絹の靴下。歩幅の小さな歩き方からして気品を感じる。そして華奢な骨格であるせいだろう。クルックスは、か弱い少女である印象を受けた。テルミより細い手足は、小枝のようで見ていて心配になるものだ。

 セラフィは、図書館までの道のりを彼女の隣で歩いた。

 

「ダフネの妹君。こんなところで会うとは嬉しいものだ。可愛い君」

 

 セラフィは、もう『可愛い』という感情を理解しているのだ。クルックスは、聞き慣れない言葉にやや目を見張った。

 

「クルックス、こちらは同学年のスリザリンのダフネ・グリーングラスの妹君でアストリアと言う」

 

「クルックス・ハントだ。俺は、セラフィの親友だと思う」

 

 クルックスは自分の顔は表情が硬いせいで威圧感を与えることを思い出し、ニコリと笑ってみた。とってつけたような笑みになってしまったので効果のほどは怪しい。

 異邦の狩人服を着ているクルックスのつま先から頭のてっぺんまで見て、アストリアは「ふぅん。田舎者みたいね」と言った。

 

「でも、セラフィ、あなた……友達がいたのね」

 

 とてもさりげないものだったが、ほんのすこし傷ついた心から出る言葉だとクルックスには感じられた。しかし、セラフィは気付かなかったようだ。

 

「親友だが、遠い親戚でもある。君にとっても善い隣人となるだろう」

 

「……でも、グリフィンドールだわ」

 

 ぽそぽそと呟かれた言葉を聞き取ってしまったのは、クルックスが特別に耳がよいからだ。

 それとなく親しみやすいと感じられるような言葉を選ばなければいけない。──クルックスの脳みそは、ヤーナムの地では使わなかった箇所を稼働させた。

 

「たかが組分けと色の違いだ。それでもこだわるならば……そうだな……狡知のスリザリンならば、利用する付き合いもできるだろう」

 

「それは、冷たい付き合いだわ」

 

 内心でクルックスはテルミの名前を叫んだ。少女の心情を理解できるほどクルックスは柔軟な思想を持っていなかったからだ。テルミならば、これから会話をどんどん広げていけるだろう。けれどクルックスは分からないので「そ、そうかもな」と肯定するのがやっとだった。

 ホグワーツにおいて、口重でぶっきらぼうな物言いをしてしまいがちなクルックスは同じ寮以外の生徒と話す機会が少ない。経験不足を痛感した。今後、『互助拝領機構』の活動を通して普通に会話ができる程度に親しみたい。目標が一つ出来た。

 

「彼は善い人だ。口も堅い」

 

 セラフィの評価を聞くアストリアは「フーン」と小さな鼻を鳴らして値踏みするようにクルックスを見上げた。気付いていないフリをすべきか、気付いたフリをすべきかどうか迷いに迷い、意を決して彼女を見つめた時、ちょうど図書室へ到着してしまった。

 図書館は人がまばらだった。それもそのハズ。新学期が始まって最初の休日であるし、宿題で喘ぐ生徒は高学年であってもまだ少ないせいだろう。

 ネフライトはついてきた生徒に向かって指示を出した。

 

「気になった本を三冊選びたまえ。タイトルが気になった本。挿絵が気になった本。内容を知りたいもの。何でも構わない。それらを持って奥のテーブル席に来ること。それから課題設定について私と小声で話をしよう。時間は十分だ。──ああ、図書室内は走ってはいけないことに注意。話す言葉は少なく、小さい声ですること。さぁ諸君、気を付けて歩きたまえ」

 

 時間を確認し、四人の生徒はパッと散っていった。

 クルックスとセラフィが、どの棚から当たろうかと小声で話をしているとネフライトに呼び止められた。

 

「君達は、最初から私と話した方が簡単だろう。けれど何事か書いていたようだな。紙を提出したまえ」

 

「いや、その」

 

「請われては仕方がないな」

 

 裏紙を使おうと思って持っていた紙は、セラフィにヒョイと取り上げられてしまった。彼女の分と二枚合わせて、それらはネフライトの手に渡った。そして、彼は見てしまった。彼は見てしまったことを心底後悔した顔をして奥のテーブルへ誘った。

 

「何も言うまい。君達は『互助拝領機構』に相応ではないことを自覚しているようだから。では、私と楽しいお話をしよう」

 

「そのとおり。君は分かっているな。俺達は考え直す心算でここで来たんだ」

 

「当然だ。胸を張って言う言葉ではない」

 

「そ、そのとおりだ……」

 

 ネフライトが指差す席に二人は座った。

 彼は学徒のローブの衣嚢から羊皮紙を出した。

 

「さて、君達の興味のあるものを選んでいい。私が課題を渡してもいい。どちらでも私は構わない。『ヤ』の字の地名も『メ』の字の学派も、当然『連』の字も『カ』の字もない」

 

「興味のあるものか。うーん……。昨年の決闘の訓練は、とても勉強になるものがあったが……」

 

「ああ、楽しかったね。僕の優位性が揺らぐことがないところは、特に良い」

 

 セラフィの言葉には気になることがあったが、クルックスは聞き逃すことにした。ネフライトが口を開くところだったからだ。

 

「ふむ。なるほど。実践的なものはよいだろうね。特に君達は座学が難しい──」

 

「エッ?」

 

 クルックスは耳を疑った。ネフライトは、平日に二人がホグワーツで授業を受けていることを知らないのではないだろうか。彼は手に抱えた羊皮紙を無意味にテーブルに叩き付けて角を揃えた。

 

「おっと。失言。得意ではないだろう? そこで二人で共同研究としたらどうだろうか? 一人より捗るだろう。ああ、けれど場所の問題があるな……」

 

「どうか、セラフィ。俺は共同研究となっても構わないが」

 

「僕も構わない。ネフ、場所については少々アテがある。僕は行ったことがないが、君の迷惑にならないところだ」

 

「うん? まあ、アテがあるのならばいいだろう。私は箒置き場を提案しようと思っていたが。目標が定まったところで、研究の予定は書けそうか?」

 

「埋めることはできると思う。クィレル先生と行った自習の知識が役に立つだろう」

 

「よろしい。期待する。……だが、その名前は気を付けたまえよ、外では、特に」

 

 最後に忠告を添えたネフライトは、羊皮紙に何事か書き付けると退室を促した。

 来た道を戻っていると本を抱えたアストリアに出会った。まだ十分も経っていないが、奥のテーブルに行ってもよいか迷っているようだった。セラフィが「ネフは、きちんとお話を聞いてくれるよ」と小さな背を押した。

 

「それとも僕が隣にいた方がよいかな?」

 

「アストリアは、ひ、ひとりでもお話できるわ……!」

 

「そう。ご機嫌だね」

 

 セラフィは言葉の使い方を間違っていると思ったが、当のアストリアは問題にする注意力も割けないようだったので問題にはならなかった。

 アストリアは緊張した足取りでネフライトの待っている席に向かって歩いて行った。

 

「……君が誰かに気を配ることは珍しい。彼女は特別なのか?」

 

「特別ではない。けれど姉のダフネと共に僕に話しかけてくれる人だ。無下に扱いたくない」

 

 なるほど。クルックスは頷いた。

 スリザリン寮における彼女の人間関係を垣間見た気分だった。

 

「あれくらいの女性は、とても脆そうだ。見ていると不安になる。同じ年の頃に見えるテルミの手足でさえ、俺は時に心配になるのだ」

 

「そうだね。僕らに比べるとあらゆるものは脆く見える。僕らも死が遙か遠くあるだけで、心身が頑強であるワケではないが。そういえば一年生の時、ネフは僕らと先生以外の誰ともほとんど話をしなかったそうだが、あれは力加減の分からないうちに限っては正解だったのかもしれない。今はだいぶ理解が進んだので言動に気を配ることができる。僕らは、かなり自然な振る舞いをしている自信がある。……ネフの心境の変化は先生からの助言もあるだろうが、擬態するために必要な知識が集まったからなのだろうね」

 

「ふむ。そうかもな。彼は心配症だから。──ところで、どこを目指して歩いているんだ?」

 

「僕たちの共同研究室となる場所だ。おや。そう怪訝な顔をするものではないよ。君が見つけた場所だろう?」

 

 はて、何のことだったか。

 クルックスが階段を昇りつつ、昨年度の帰りの列車内でテルミに聞いたことを思い出したのは八階にやって来た後だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 互助拝領機構が解散した後で。

 ハーマイオニーとジニー、そしてパーシーは、グリフィンドール談話室に向かい歩いていた。途中でパーシーはガールフレンドでレイブンクローのペネロピー・クリアウォーターを見かけたので別れた。

 談話室に戻ると先に戻ったハリーとロンがソファーに腰掛けて話をしていた。

 

「──君達、本当に、最後までいたの?」

 

 ロンが残念そうに訊ねた。

 

「ええ。要するに自学自習の会なのよ。途中で進捗の発表会があるだけのね」

 

 ハーマイオニーが勉強好きなことは周知の事実だったのでハリーは正直なところ『互助拝領機構』とやらに参加するのは、珍しいとは思わなかったがジニーまで参加していることは驚いた。

 

「檻を被ったヤツがまともに見える?」

 

「檻のことは言わないで。あの人、本当に親切で物知りなんだから。教え方も丁寧なのよ」

 

「二人だけで勉強した方がずっとマシだろうよ」

 

 ジニーがネフライトを庇うようなことを言ったのでロンは気を害したようだった。

 

「檻はともかく。理念には共感できるわ。『知り、学び、考えることは孤立した営みではない』ってところは特にね」

 

「それらしいことを言っているだけに聞こえたけどな」

 

 ロンは、すっかり飽きて彼の口述の後半は、ノートに落書きをしていた。

 ハリーの時間の過ごし方も似たようなものだったが、耳を通り過ぎていく言葉ばかりではなかった。

 

「──『魔法界がこれから直面する危機』って何?」

 

 マグルのなかで育ったハリーにとって知らないだけで魔法界には彼の言う危機に関する常識があるのだろうか。

 そう思って訊ねたが、マグル生まれのハーマイオニーは勿論、ロンもハッキリしたことは分からないようだった。

 

「危機なんて考えつかないけどなぁ。ママとパパが言うには、あの時代が一番最悪だったって。でも今はほら、『例のあの人』は、その、いなくなっただろ」

 

 ロンが言いにくそうにした言葉にハリーは素直に頷くことができなかった。そのために両親は死に、自分は額の傷を受けたのだ。

 不安を抱かせる話をするのは、トレローニー先生と同じだが──あの先生は率直に死の予言をするが──彼女とは違う種類の不安の掛け方に思える。

 ハリーは、ネフライトのことがどうにも好きになれなかった。彼とほとんど面と向かって話したことがないせいかもしれないが、この印象が変わる日が来るとは到底思えなかった。

 

「でも問題を起こそうとすれば、何でも問題になるよ。この前、穴が空いたんでとうとう買い替えた鍋があるんだけど、輸入品のせいか薄いってママがぼやいてて──」

 

「あの人が言っている危機は、たぶんそういうものじゃないわ。『魔法界に利益をもたらす人材を作り出すこと』が目的なんだから、魔法界の存続と発展を心配しているんでしょう。ああいう人ほど魔法省に入るべきなのよ」

 

 魔法省に関するハリーの思い出は、良いものとはいえない。

 一年生の時、ハグリッドに訊ねたことがある。魔法省は何をするところなのか。その質問に対し彼は「一番の仕事は魔法使いや魔女があちこちにいるんだってことを、マグルに秘密にしておくことだ」と答えてくれた。だから当然、マグルのニュースキャスターは「シリウス・ブラックが魔法界の刑務所、アズカバンから脱獄しました。アズカバン始まって以来、初めてのことです」なんて報道しない。ハグリッドがハリーの十一歳の誕生日を祝いに来るまで魔法について知らなかったのは、魔法省がそうして隠していたからなのだ。

 二年生の時はダーズリーの家にやって来たドビー──マルフォイ家の屋敷しもべ妖精で現在は自由の身になっている──が魔法を使ったせいで退学勧告処分を受けたことは記憶に新しい。そして、今年はあろうことか自分が魔法を使ってしまい、犯罪者になる寸前で魔法大臣に会ってしまった。次はもう考えたくない。

 

「アイツ、パーシーみたいに魔法省に入るのかもな」

 

「パーシー、魔法省を目指しているの? ウィーズリーおじさんと同じ」

 

「将来は魔法大臣じゃないかな。フレッドやジョージと比べてさ、わかるだろ」

 

 ハリーにとって監督生のパーシーは規則に厳格な人だと思っているが、弟のロンに言わせてみれば「野心家」なのだと言う。

 

「今日は参加してよかったわ。魔法界の存続と発展は、重大な問題でしょう。それに対して彼の解決策は個人の知識や経験を高めるということよ。志を同じにする人達がその力を高めるために集まって勉強するのが、あの『互助拝領機構』ということね」

 

「ええっ、君、まさか来週も参加しようなんて考えていないだろうな。君の時間割を見て! 飲んだり食べたり寝たりする時間もないのにクラブ活動なんて無茶苦茶だよ! 宿題だけでもうパンパンだっていうのに!」

 

 ロンの言うことはもっともだった。

 三年生になり高度な知識が要求される場面が増えてきた。三人はそれぞれ宿題で手一杯になりつつある。ハーマイオニーはたくさん授業を受けているし、ハリーはクィディッチの練習が始まった。私生活が忙しすぎて、三人はまだハグリッドにも会いに行けていないのだ。

 

「週に一度、休日にあるクラブ活動よ。それくらいの時間なら作れるわ。それに、自学自習会なんだから好きなことを勉強していていいの。マグル学に関連するものを課題設定したから、授業の内容を深く掘り下げるだけでとってもタメになる時間になると思うわ。それに上級生の話を聞けるいい機会だと思う」

 

 鞄から筆記用具や羊皮紙を広げ始めたハーマイオニーを見て、ロンは「付き合いきれない」と言いたげに口角を下げた。その時、オレンジ色の毛玉──ハーマイオニーの飼い猫のクルックシャンクスが四人のそばにやって来た。匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせて、誰かが声をかけたり、手を伸ばして撫でる前にクルックシャンクスは再びピョンと跳ねて談話室のどこかに行ってしまった。

 

「君の猫、どこかに閉じ込めてくれよ。ここのところスキャバーズが骨と皮ばっかりになっているんだ。ストレスで!」

 

「ね、猫はネズミを追いかけるもんだわ!」

 

 強い口調でハーマイオニーは言い返した。

 しかし、彼女の目はクルックシャンクスを探して談話室のあちこちを泳いでいるようだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ふぅ……」

 

『互助拝領機構』の第一回の会合が終了した後。

 ネフライトはルーナと一緒にレイブンクローの談話室に帰ってきた。

 レイブンクローの談話室はホグワーツ城の西側にあるレイブンクロー塔にあり、最上階は学校を一望できる窓があちこちにある。

 円形ドーム状の青を基調とした落ち着いた談話室の一角。とある窓の近くの席はネフライトとルーナのお気に入りだった。

 

「どうだったかな、今年度初の『互助拝領機構』は」

 

 檻を外して首を回し、ネフライトは収納していたタイプライターを取り出した。

 今年度から狩人への報告はこれで書くことにした。昨年、文章量が多くなりすぎて手首を痛めてしまったのが原因だった。

 

「よかったと思うよ」

 

 インクリボンの状態を確認してネフライトは頭の中にある文章を打ち込んでいく。その度に「ピシ、パシ」と特徴的な打音が人気のない談話室に響いた。彼は天井を見上げた。音が響くのはドーム状の形状のせいだろうか。それとも天井までの高さが原因だろうか。勉強する人々でごった返す時は迷惑な音になるかもしれないと思う。

 ルーナは窓の外を眺めていた。昼に近い外は、まだまだ夏の気配が色濃い。

 

「第二回では決定したテーマについてお互いに意見交換するが……先に君のテーマを聞かせてくれ。手直しできることがあれば直しておきたい」

 

 ネフライトは思考のいくつかをルーナの会話に裂くことにした。 

 

「あたし、レイブンクローの髪飾りを調べようと思っているンだ。──レイブンクローの髪飾り」

 

「あれは失われて久しいと聞く。どのように?」

 

 ネフライトは、談話室に佇む女性の彫像を見た。いつの間にかルーナも同じものを見ていた。

 談話室に鎮座する冠を被った女性像こそホグワーツ魔法魔術学校の創始者のひとり、ロウェナ・レイブンクローだ。

 

「パパがレイブンクローの髪飾りの複製を作ろうとしているんだ。知ってる? 被ると知力を高めるんだ。パパの役に立つかも」

 

「複製は夢のある話だ。とはいえ私見だが『頭冴え薬』の風呂に入った方が効果的だと思ってやまない。しかし……私は君の意志を尊重したいので『テーマを考え直さないか』とは言わない。どのような調査をするつもりか。考えているだろうね?」

 

 パチパチとタイプライターを叩きながらネフライトは話を促した。

 

「あの彫像とレイブンクローの絵画から身長を割り出して、髪飾りのデザインを模型として作ろうと思うんだ」

 

「それは面白い考えだ」

 

 ネフライトは、自分でも驚くほど素直な感想を表明した。

 想像上の何かを作り出すのであれば止めようと思っていたが、存在する資料から探してみる手段ならば止める必要はないだろう。

 

「工作は得意なのか?」

 

 ネフライトの言葉に応えず、彼女は突然立ち上がると女子寮へ駆けていった。ルーナにはよくあることだったのでネフライトは気に留めなかった。彼女を待つ間、夏休みに使用した聖杯文字と聖杯ダンジョンの階層ごとの特徴について打ち込み続けた。

 

「──得意かどうか分からないけど、パパがいろいろ作るのを見てたから作れるよ」

 

 テーブルにドンと置かれた物にネフライトはチラと見て、タイプライターに差し込んだ紙に視線を戻した。直後、ルーナの成果物に目を奪われた。

 

「…………」

 

 それは一見にして『メンシスの檻』だった。しかし、細部が違う。

 

「檻だと面白くないからチェスのルーク」

 

 格子構造だが、チェスのルークすなわち城を模した物だった。

 ネフライトは、ショックを受けてタイプライターを打ち込む手が止まった。

 

 ネフライトには苦手なことがある。

 あらゆることを記憶することが出来る能力を彼は誇りに思っているが、その蓄積を新しい発想として生み出すことが上手く出来ないのだ。彼のやること、なすことは全て得た知識の応用に過ぎず、それを超越することは今のところ出来ていない。

 彼女と出会ってから初めて得た敗北感を彼は真新しく覚えている。それはチラシにおいてネフライトが私用で被っている『メンシスの檻』を『互助拝領機構』のシンボルとして活用するという発想だった。

 二度目の敗北は、あまりに軽快で何の気なしにやって来た。

 

「チェス、の、ルーク」

 

 呆けた声でネフライトは呟く。自らの被る檻の目に爪を立てた。

 ──なるほど。見る者が見れば、そう見えるかもしれない。

 この思考を奔らせるのは二度目だ。いままさに敗北感に襲われている。接地している床が消えるような敗北感だ。ネフライトは立てなくなっていた。立つ用事がないことは幸いなことだった。

 ──コロンブスの卵という言葉がある。

 ネフライトの思考はあらぬ方向に発展した。言葉の由来となった例え話そのものが身の上に起こるとは想定していなかった。

 コロンブスの卵とは、どんなに素晴らしいアイデアや発見も、こうして一度触れた後には単純で簡単に見えるという成句だ。

 彼女がネフライトにもたらす敗北感とはまさにこれだった。

 ──得てしまえば何のことはない発想、いいや、むしろ陳腐だ!

 だからこそ、思いつかなかった自分が恨めしい。

 

(ぶっ壊してしまいたい!)

 

 強烈な破壊衝動を抑えるためネフライトは目を塞いだ。指は檻に阻まれてうまく届かない。

 

「うん。並べてみると、うまく出来ていると思うな」

 

「あ、あ、あ……そ、そう、だ……な。……そ、それで、ぇ、それは……」

 

 ──何のための工作なのか。

 そう訊ねるのは早くも三度目の敗北を招くことになる。

 ──後先考えずに話し始めた我が身よ、いっそ死ね。

 彼は自分を呪った。そして必死に考えた。チェスのルーク。しかし、形状は檻。一見にして頭を通す穴はない。そして重量から置物だと判断した。

 

「傘立て?」

 

「これはトロフィーだよ」

 

 ネフライトは三度目の敗北に「ぐうっ」と唸り、口の内側を強く噛んだ。たった今、嫉妬しないためならば彼はどんな自傷行為もやっただろう。眼球に指が届かないことは幸いだった。

 

「そうか。トロフィーか。トロフィー。トロフィーなのかぁ」

 

「昨年度やった決闘の練習を、ちゃんとやりたいんだ」

 

「ハァ。やるのは構わないが、昨年度のように差し迫った脅威は何も無いように見えるがね。シリウス・ブラックのことで心配なのか?」

 

 ネフライトは捨て鉢に言った。今回ルーナが提示したメンシスの檻を模したトロフィーを視界に入れずに済むならば、七年間の『闇の魔術に対する防衛術』の呪文を全て完璧に履修することなど大した価値にないと思えてしまったからだ。

 

「杖を構えて皆が同じことを考えているのは、とっても面白いと思うんだ」

 

 彼女の言葉の意味が分からない。

 ──早すぎる。

 ネフライトは四度目の敗北の予感に震えた。

 

「それは……ぁ……どういう意味かな」

 

 ルーナは「なぜわからないのか」と言いたげにキョトンとした。

 

「決闘じゃ杖を構えて皆が『相手をどうやって打ち負かそうか』って考える。いつも皆バラバラのことを考えているのに。じっと相手のことを見つめて考えているンだ。ホグワーツにはもっとそういう時間が必要だと思うな」

 

「相互理解のための決闘……?」

 

 全ての思考資源を使ったネフライトはようやくルーナの発言の意図を自分なりに解釈した。彼女は『お互いにどういう人間なのかを知るために決闘という手段を使えばいい』と言いたいのだろう。

 

「ふむ……」

 

 片方の眉を上げてネフライトは考える。

 決闘の舞台を整えることはやぶさかではない。運営として労力をケチることもしないだろう。実技を取り入れるのは『互助拝領機構』で活動する人々の団結力が深まるので、よい考えだ。どのみち『闇の魔術に対する防衛術』で学ぶことだとしても誰かと真剣に決闘する経験は得がたいものだろう。勝敗はどうあれ、参加する生徒は勿論、見ている生徒、そしてどの学年の生徒にとってもよい経験になる。

 

「では、次回の『互助拝領機構』で検討してみようか。フリットウィック先生に相談して場所の確保と許可を得て、ルーピン先生に監督をしてもらうとして……昨年と同じクリスマス前の休日がよいだろうな。ついでに満月の日を指定日にして……ああ、いい考えかもしれない……私にはルーピンの様子を探る口実になる……」

 

 ネフライトは衣嚢から手記を出し日程を確認した。

 

「今回は『互助拝領機構』の人達だけじゃないよ」

 

 ネフライトは立ち上がる気力さえあれば『メンシスの檻』を振り上げて展望窓を破壊していたことだろう。

 

「なに。え。なに。なん、何だって?」

 

「ううん。『互助拝領機構』の名前でもいいンだ。『第一回互助拝領機構杯決闘大会』なんて、どうかな?」

 

「……いいだろう。ああ、最高だ。それで決まりだよ」

 

 ネフライトは、それによってルーナからメンシスの檻トロフィーを奪えるのならば、全力を賭すことを決めた。

 メンシス学派がようやく辿り着いた狂気の思索の果てに生まれた檻──それを模した物であれ──衆目の目に晒され自分ではない者の手に渡ることがどうしても耐えられそうになかったからだ。

 というのは表向きの感情の話だ。

 本音のところは。

 

(私の物にしてからぶっ壊そう!)

 

 彼は決意した。

 幼い彼にとって、発想の違いとは自分の敗北をまざまざと見せつけられているようで辛かったのだ。

 




ネフのクラブ活動
『互助拝領機構』は仰々しい名前ですが、その実態は途中進捗発表がある自学自習クラブとなっています。個人の質を高めて、生産力を上げて、全体として豊かに。そんなビジョンを思い描いているのでしょう。
 少なくともネフライトは、その予定でときどき実技を挟みつつ通年の活動をする予定でしたが、メンシスの檻トロフィーを合法的に奪取するため冬休み前に決闘大会イベントを主催する立場となりました。──ぶっ壊してやる!
 自分が持ち得ない感性を目の当たりにしたとき、情緒の発達が未熟なネフライトは爆発しがちという傾向があるのかもしれません。
 彼とテルミのプロフィールは別の機会に公開いたします。彼らの夢についての展開はもう少しだけ先なので……。


魔法界がこれから直面する危機
 ネフライトは、魔法界の存続と発展に関わる危機を想定しているようです。
 魔法界の存続と発展。
「やっぱり成熟した社会、生き物は人口の先細りという困難にぶち当たるんだな」と考えているネフライトは乳母車DIYのお父様を見たり見なかったりしています。
 ところで、マルフォイ家の二次創作を拝見させていただいた時によく考えるのですが、原作での彼の家はもっときょうだいがいてもいいのに、とかつい考えてしまいます。「優秀さ」を保つにはマルフォイ家レベルでも一人が限界ということか、あるいはポッター家のジェームズがそうであったように遅くに授かった子なのか……むむ。
 金持ちの一人息子属性そのものに魅力を感じます。ロンとの対比もあるのでしょうが、そのものズバリなキャラクターであるドラコは好ましいですね。


追記
本日(令和4年12月9日)フロム・ソフトウェア最新作のELDENRING(エルデンリング)が「The Game Awards 2022」ゲーム・オブ・ザ・イヤーに選ばれるというめでたいことがありました。めでたいですね。血の女王はいませんが血の君主はいるエルデンリング。ビームが出せるエルデンリング。楽しいですよ……!

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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ハロウィーン前夜


寝袋
羽毛または綿を入れた袋状の携帯型寝具。
……場所を選ばず、良質な眠りを。……
願われ作られた寝袋は、過酷な環境へ赴く人々を一時休ませる。
だが快眠には程遠い。
それでもよいのだろう。帰る場所があるのなら。



 

 ハリーは眠れない夜を過ごしていた。

 もう日付が変わろうとしているのに『魔法史』の授業では抗えないほどに襲ってくる眠りは、今となってはちっともやってこなかった。隣のベッドで寝ているロンのイビキがグゥと響いている。何度目かもわからない寝返りをうつ。

 それもこれもハリーは明日、三年生以上の生徒がほとんど外出するであろうホグズミードへ行くことが出来ないからだ。ダーズリーおじさんから許可証にサインを得られなかったばかりに。

 

「──君、どこに行くの?」

 

「起きていたのか。俺は相当浮かれていたらしい。秘密の会合だ。フフ、来るか?」

 

 ほんの一瞬、ハリーは行きたい、という気持ちが強くなった。けれど瞬きの間だけだ。明日、二人と一緒にホグズミードに行けない。その事実だけで何もかもやる気力が起きなくなった。完全な無気力状態だった。

 

「遠慮するよ」

 

 横になったままハリーは言った。

 

「それだけが正解だ。では、おやすみ」

 

「ゴーストに気を付けて。おやすみ」

 

 クルックスは、いつも休日に羽織っている厚手の外套を肩にかけ、教科書をいっぱいに詰め込んだ鞄を持ち、寝室を出て行った。

 ハリーは、溜息を吐いた。

 もし、これから残りの四年間をホグズミードに一度も行かずに過ごすとしたら、どうだろう。いったい学校でクィディッチ以外の何を息抜きに過ごせばいいのだろう。

 ハリーは、寝返りをうった。

 透明マントの存在を思い出したが、やはり追いかける気分にはなれなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 新学期が始まって早二ヶ月が経とうとしている。

 新しい先生による『闇の魔術に対する防衛術』や今年度から受講をはじめた『占い学』の授業にも慣れてきた。宿題が多くなっていることの負担は大きいが、今年は気晴らしを手に入れた。

 

 ホグワーツ城には『必要の部屋』というものが存在する。

 最初にその存在を噂で知ったのはテルミだった。世間話のついでから情報はセラフィに渡り、昨年度当初にクルックスも知った。

 

 なぜ噂になるのか。

 真実と知っていれば誰も噂にしない。ゆえに噂になるのは──『秘密の部屋』の存在がそうであったように──真偽の確認ができない話が元になっていることが多い。

 

 生徒の間で『あったりなかったり部屋』と呼ばれる場所は、ホグワーツ城の八階の廊下にある。

 クルックスがこの城の『どこかにあるらしい』という知識でしか知らなかったこの部屋を見つけたのは偶然だった。

 昨年度、彼は秘密の部屋を探す途中で八階を訪れた。秘密の部屋の存在の確証は得たものの肝心の入り口が分からなかったのだ。

 結果として、彼は最短の道を見出した。

 八階の廊下に現れた『必要の部屋』は秘密の部屋の入り口である二階の女子トイレへ導いたのだ。

 

 翌日、クルックスは八階の廊下を訪れた。

 二階の女子トイレへ繋がっていた扉は消えていた。

 方向音痴のテルミならば「気のせいだったかしら」で済ませる出来事だったかもしれない。だが、クルックスは自分がどこを歩き、どこへ繋がったのか理解していた。

 彼は、時間が許せば城内の全ての壁を点検するため殴り続けることができる忍耐力をもっていた。しかし、現実はそうはならなかったことはホグワーツ城にとっても彼自身にとっても実に幸いなことだった。

 

 さて。

 始祖たる四人の創設者がどうしてこの部屋を作ったのかそれは不明だが、部屋の仕掛けを考えれば彼らなりの遊び心だったのではないかとクルックスは思う。

 

「ぐぅ。談話室で勉強するより捗ってしまうな」

 

 ハロウィーンの前日、クルックスはセラフィと一緒に『必要の部屋』にこもっていた。

 二人とも何のことはない。宿題を片付けるためである。

 ハロウィーンである明日は、今学期になって初めてホグズミード行きの許可が下りた。

 明日はさまざま店を見回らなければならない。コリン・クリービーへの謝礼、狩人から頼まれたちょっとした食料も入手する必要があるだろう。それに楽しい場所だとも聞く。明日は宿題のことを一切考えない日にしたいのだ。

 そのことをセラフィに話すと。

 

「では、僕も頑張るとしよう」

 

 前向きな反応があったので消灯過ぎの深夜に『必要の部屋』に集まることになった。宿題を片付けるならば、二人のほうが一人より捗るだろう。

 夕食後、誰よりも先にベッド入ったクルックスは日付が変わろうという深夜に目を覚まし、こうして八階へやって来た。

 杖灯りもない廊下で人の気配が動いた。

 

「むむっ……君、そこにいるのか? 俺は瞳が昏い。『青い秘薬』を飲まれると、ほとんど見えないのだ」

 

『青い秘薬』とは、ヤーナムの一部の医療者と狩人が用いる麻酔薬の一種だ。かつて「説明しよう! 常人が飲めば脳が麻痺する代物だが、狩人は遺志により意識を保ち、その副作用だけを使う。すなわち、動きを止め己の存在そのものを世界から薄れさせるのだ!」と父たる狩人に説明されたが、実のところクルックスやセラフィ、ひょっとしたら他の狩人達も正しく理解して使っていない。『あらゆる目から逃れることが出来る』。飲んだ効果は、こんな説明で十分だ。使えるから使っている。

 そういえば、とクルックスは思い出す。

 ハリーが使う透明マントは音を消せない。しかし、怪しげな──いかにも健康を害しそうな青色の──薬を飲むより楽そうだ。クルックスは透明マントの存在を思い出し、いずれ買い漁ってみようと思う。

 

 手を伸ばせば触れることができる距離に人の気配を感じた。足音の感知も難しいが、セラフィがやって来たようだ。

 

「念のために飲んできたが、誰とも会わなかったので飲み損だった」

 

 彼女が話し始めると闇の中から姿が浮かび上がるように見える。しかし、注意を逸らすと姿はフッと消えてしまう。クルックスにはそう見えるが、これがネフライトやテルミであれば異なっただろう。

 

「来てくれたのならば幸いだ。片付けてしまおう」

 

 クルックスは『宿題を片付けるために必要な部屋になれ』と念じながら、廊下をうろうろした。彼が『三回往復するだけでいい』と知るのは、ほんのすこし未来の話だ。

 二人がこの部屋が『必要の部屋』だという認識の下、使用したのは互助拝領機構の活動初日だった。

 クルックスは昨年度自分で見つけた『必要の部屋』のことを夏休みの間、すっかり忘れていた。しかし、セラフィは昨年の帰りの列車で話したことを覚えていたらしく互助拝領機構で行う課題のための場所として提案した。これは素晴らしい提案であり、何度かの試行錯誤の末、クルックスとセラフィは思う存分体を動かせる空間──『気晴らし』を手に入れたのだ。

 そして今、『必要の部屋』はクルックスの願いに応えて勉強部屋になろうとしている。

 

「見る度に思うのだが、どんな仕組みになっているのだろうね」

 

「ああ、俺も不思議に思う」

 

「条件が達成されないと出ることができない部屋というものは作れるのだろうか」

 

「例えば『宿題が終わらないと出られない部屋』ということか?」

 

「そうだ。もちろん、僕ら二人だと永久に脱出不可能な部屋になりそうなのでやめておいたほうがいいが、出来るのだろうか」

 

「必要な物が出てくる部屋なのだから、そういう条件があるだけの部屋にはならないと思う。むむっ。ネフなら違う見解があるのかもしれないが……」

 

「不思議だ。魔法というものが僕らとは異なる根の神秘であることを強く感じる。……ああ、そうだ。外から人が入ってこられない部屋にした方がいいだろう」

 

「了解した」

 

 念じるのをやめ、徘徊の足を止めると廊下を作る石壁から樫の扉が浮き上がった。石から木材が出てくるという光景は、ヤーナムにも見られる。しかし、あれは悪夢と現実が混ざり合い、物理現象をはじめとする世界の根幹がおかしくなっていることによるもので目の前の現象とは似ても似つかない。

 セラフィも感心して見ているようだ。長い溜息を溢している。

 

「さて、夜明けまで約六時間だ。全ては終わらないまでも、ほとんどは終えられるだろう。頑張ろうか」

 

 扉を開けた先、そこは誰かの書斎のような静かな空気が満ちていた。部屋全体が落ち着いた青を基調として、壁には書架が整然と並び、部屋の中央には四角い大きなテーブルが置いてある。二人で座り、教科書や参考書を広げるには十分の広さだった。

 

「なかなかいい部屋だ」

 

 セラフィが感想を述べるなか、クルックスは部屋を見回し彼女に鞄を渡し、衣嚢から銃を取り出した。

 

「確認する。念のためだ」

 

「君のそういう用心深さは好きだよ」

 

 クルックスが壁を叩きながら歩き、異常がないことを確認した。

 銃を仕舞うのを見届けてセラフィは鞄を返した。

 

「いい部屋ではあるんだが……やはり不思議な部屋だ。以前、雨が降ってグリフィンドールの談話室がガヤガヤとうるさかった日に勉強のため、ここに来たことがある。そして同じ内容で部屋を作るように頼んだが、違う部屋が出来た。……この部屋は人数を理解しているのかもしれない」

 

「加えて時間帯まで考慮しているのかもしれない。見て、寝袋がある」

 

「寝袋?」

 

『寝袋』という存在をクルックスは知らなかった。

 非魔法族のアウトドア文化に詳しければ、異なる反応ができたかもしれない。

 安眠はおろか睡眠の概念も少々怪しいヤーナムで育った彼には、寝袋とは得体の知れない存在だった。

 人がすっぽり入ることができる、大きな封筒の形をした寝袋をセラフィと広げた。その拍子に白い毛が寝袋から出てきた。

 

「……むむっ? 知らない羽毛だ。アヒル……いや、ガチョウ……? 分からん。しかし、ふわふわだ」

 

「ひょっとしたらヤーナムでの僕らの寝床より上等かもしれない」

 

 ──僕の部屋はすこし温かい氷室なのだし。

 セラフィが気になることを言ったが、カインハーストはだいたい寒いところであると聞く。そういうこともあるのだろう。

 

「何か時代を感じるものだな。しかし、寝具を持ち歩くとは……。寝る間もなく働く人々もいるのだな。きっと魔法界でとても忙しい人々はこれを使って寝ているのだろう」

 

「なるほど。でも僕は眠るのならマットレスが氷のように冷たくて堅くてもベッドの方がいい」

 

 それにはクルックスも同感だ。

 とはいえ、一度寝袋で寝てしまったら意見を翻すことになるかもしれない。二人は寝袋をたたみ、部屋の隅に置いた。

 

「睡眠は、僕らにとってあまり大切ではないと思う」

 

「どうしたんだ、急に」

 

「夏休みの間、十日ほど眠らなかったことがあるのだが──」

 

 セラフィの言葉は続いていたが、クルックスは思わず「何だって?」と聞き返した。

 彼女は同じ事を繰り返した。残念ながらクルックスの聞き間違いではなかった。

 

「僕らは死ぬと『死んだこと』が夢になるだろう? それまでどんなに体が傷んでいても元通りになる。だから、その仕組みを利用して眠くなったら頭を撃ち抜いて、万全の体調に戻す。そうして連続十日間ほど活動してみたことがある」

 

「……お父様はそういうことをさせるために俺達を夢に留めているワケではないと思う……。やめた方がいいぞ。絶対やめた方がいいぞ。うまく言えないが……俺は聞いているだけで精神が参ってしまいそうだ。そ、それで……どうなったんだ?」

 

 恐る恐るクルックスは訊ねた。

 セラフィは、インク壺を開きながら教えてくれた。

 

「睡眠は僕らにとって必須ではないけれど、眠れないと疲れるので出来るだけ眠った方がよい」

 

 その後に続く言葉はなかった。

 

「えっ。まさか……それだけ?」

 

 言うべきではない本音が出てしまい、クルックスは口を押さえた。

 当然遅すぎるのだがセラフィは気を害した様子はなく「うん」と続けた。

 

「睡眠は、僕にとって無駄な時間だと思っていたのだが、いざ無くなると大切だと思い知った。意識がある状態が長く続くことは、とても辛いことだ。たとえるならば……そう……よそ見をできない状態と言うべきだろうか」

 

「なかなか想像し難いが……大変だったな」

 

「ええ、とても。……僕にとって苦い夏の思い出となりつつあるが、けれどやってよかったと今では思う。お父様のお気持ちがすこしだけ分かった気がするよ」

 

『占い学』の教科書を広げたところでクルックスは手を止めた。

 セラフィが父たる狩人のことを話題に出すのは珍しい。

 狩人はテルミほど露骨にセラフィを避けてはいないが、それでも会話の節々にぎこちない時があるとクルックスは感じている。

 

「お父様は一年に一度、一日か半日程度しか眠らないだろう? 本当は体も頭もお辛いのではないかと思う」

 

「むむっ。なるほど。人間の限界はとうに越しているからな。今度聞いてみようか。お父様の苦労を肩代わりすることができるのなら……俺にとっても幸いなことなのだがな……」

 

「君、目指すのかな。上位者の道を」

 

「ああ、そうそう。いいや、そうではなくて、相棒の話だ」

 

「消去法で君でいいだろう。僕やテルミ、ネフはそれぞれの仕事や役割で忙しい」

 

「消去法は嫌だ。だいたいお父様が認めなければ、俺は相棒ではないだろう……」

 

「では、お父様の成長を待つことだ。もう二〇〇年ほど独身貴族を謳歌したいと考えていらっしゃるのかもしれないからな」

 

 セラフィがやおら立ち上がり、書架から抜き出してきた本は、星座について書かれたものだった。

 項を開くなりセラフィは「おや」と困ったような声を上げた。

 

「何だ」

 

「星はテルミの専門分野だろう? レポートと星座図は、教科書と資料を見て……僕らでも書けるだろうが……テルミの解説があった方が後学のためになると思わないか?」

 

「テルミの休日は友人付き合いで忙しいのだろう。テスト前以外で呼び出すのは感心しない。ひとまず俺達で頑張ろう。困ったら『火星が明るい』と書いておこう……」

 

「むぅ……そうだね。事前に話もしていないし今日のところは諦めよう。それにテルミを呼ぶのならネフも呼ばなければ不機嫌になるだろうね。彼はあれでいて皆で一緒にいるのが楽しいと感じている」

 

「そうなのか? テルミのお茶会は一年に一回しか参加しないのに?」

 

「それはテルミが主宰だからだ。君が誘うなら十回に十二回くらい来るだろう。レポートが危なくなったらお茶会を餌に誘ってみるのもよい手だ」

 

「付き合ってくれるだろうか。試してみる価値はありそうだが……。ふむ。覚えておこう」

 

 それから、四時間後。

 二人でぽつぽつとレポートや作画のことを話しながら作業を進めた。

 そして、宿題は概ね完了した。特に『闇の魔術に対する防衛術』で最近習った河童と赤帽鬼(レッドキャップ)についてのレポートはよく書けたと思う。

 

「どうしてヤーナムには赤帽鬼がいないのだろう? 他の魔法生物にしても同じ疑問を抱いてしまうのだが……。この二〇〇年ほど魔法使いは数こそ少ないが出入りしていたとお父様は言う。ならば、魔法生物の入る隙間くらいあると思わないか?」

 

「隙間から入ってきたが淘汰されたのではないか? アイツら、自分以外のものなら何でも襲いかかってくるだろう。犬とか犬とか犬とか」

 

「でも魔法生物の発生は必ずしも個体数が必要なワケではない。どこにでも存在できる可能性がある。例えば、まね妖怪は退治方法は知られていても彼らがどこから来て、どこへ行くのか、何が欲しくて、何を嫌がるのか。生命の根幹が、どういったものなのか分かっていない。少なくとも僕が見た教科書と図書館の資料には書いていなかった。ポルターガイストのピーブズはホグワーツの設立以来、憑いているのだと言う。古くから存在するのに。ヤーナムでは出自明らかな霊しか見かけたことがない」

 

「うーん。分からないが、もし、俺がポルターガイストならヤーナムは近寄らないと思う」

 

「どうして?」

 

「混沌を引き起こすなら獣が担当していそうだし、目に見えないのが標準の認知外で暮らしている生き物がうじゃうじゃいるから、だな」

 

「そう? そうなのかな? むーぅ。僕は恐怖感情が欠けているせいか君が危惧しているものがよく分からない。でも、人間以外の何かがいるから、というのは良い観点かもしれない。レポートには書けないけれど」

 

 セラフィがクスリと笑う。つられてクルックスも笑った。

 

「ああ、そうだな。──さてさて、宿題は目処がついたな。良い調子だ。明日は気がかりなくホグズミードへ行けそうだ。君はどうか」

 

「僕もまぁまぁだ。……ふむ。クルックス、僕は前々から思っていることがあるのだけど」

 

 セラフィが前置きをすることは珍しい。

 クルックスは関心を抱いて次の言葉を促した。彼女はインク壺の中身を確認しつつ話した。

 

「僕らは夜の方が体調がいい気がする。最初は、昼夜逆転状態の生活をしているヤーナムから這い出てきたせいだと思っていたのだけど……勉強でも集中の保ちようが違う」

 

 日中では「これほど頑張れない」とセラフィは言う。

 

「俺も体感しているところだ。……ふむ。俺達は夜歩きが多いからな。夜に目も体も慣れてしまうのだろう。しかし、あと数週間もすれば──」

 

「貴公、夜は恐ろしいか」

 

 真っ正面から問いかけられた。

 夜に相応しく空気がピンと張りつめる気配がした。

 

「夜は、いまやお父様の夜だ。俺の足は恐れないが、心は……恐れなどないと言いたいところだが、断言することは……きっと出来ないな。出来ない方が、よいのだろう」

 

「そう。僕は恐くない。夜の方が好きだ。……適応するまでの時間には差があるようだ」

 

「君が俺と同じである必要はない。朝に慣れず弱くてもいいだろう。こうして夜に勉強会を開いてもいい。だが、ホグワーツにいる間は規則正しい生活を心がけることだ」

 

「やはりそれしかないのかな。すこしずつ慣れていくことにしよう。授業中に眠くなる事態は避けたい。……都合のいい部屋も手に入れたので前向きに考えるべきか」

 

「そうだな。さて朝食まで眠るべきだ。それとも寮に帰るか?」

 

「寮に帰るのは……気が進まない。君と一緒の夜は貴重だ」

 

 セラフィには一切触れていないのにクルックスは不思議と夏休みにレオーと触れたことを思い出していた。彼にも感じた、温く湿った感情の雰囲気が似ているからだ。

 

「寂しいのか?」

 

 なぜ彼は自分に触れたくなったのか。

 あの時には分からなかった動機が、今ならばすこしだけ分かる気がした。確かめるためにセラフィに訊ねると彼女は戸惑うように目を彷徨わせた。

 

「寂しい。それは僕のまだ知らない感情だ。けれど僕が寒いと感じているから、君のそばにいたいワケではない。君と……温かくなりたいからそばにいたい。うまく言葉に出来ない。君は、僕の言葉を理解できる?」

 

「……確かめるには及ばない。君が寂しくないのなら俺はそれでいい。一緒にいよう」

 

「ありがとう。さて、せっかくなので寝袋を使ってみよう」

 

 セラフィは荷物を片付けると勉強に取り組む前に部屋の隅に置いていた寝袋を手に取る。そして「どちらがよいか」と両手に持って振り返ったが、クルックスは部屋の他の隅を見て、目を剥いた。

 

「セ、セラフィ、ベッドがある! 部屋に入った時にはなかった! なかったのに……!」

 

「なんと。部屋が出来た後でも変化するのか? ……驚きだ。とはいえ良かったね、クルックス。寝るなら使うといい。僕は寝袋を使ってみたい」

 

「いや、俺も寝袋を……。あ、いや、しかし俺が寝袋を使う機会などないから、練習しておかなくともいいか……」

 

「迷っているのなら寝袋を使ってはどうだろう。またヤーナムからロンドンまで歩く機会があるかもしれない。次回の参考になるだろう」

 

 寝袋を受け取り、足を突っ込んだクルックスは、杖を振って蝋燭を消した。

 ただ一本。二人のそばでオレンジ色の焔が灯っていた。

 

「そうだ。ヤーナムからロンドンまでの話が聞きたい」

 

「こ、これから寝るというのに……?」

 

 封筒の形をした寝袋にすっぽり入ったクルックスは「明日にしよう」と言いかけて、もう四時間も前に話題の『明日』がやって来ていたことを思い出した。

 セラフィは寝袋で居心地のよい場所を探しているらしく、ぼんやり薄暗い部屋のなかでもぞもぞと動いていた。

 

「僕は寝物語が好き……なのだと思う」

 

「先達の話すことが好きではなく?」

 

「それは勿論、好きだ。けれど眠るときに誰かが話をしてくれると一人で眠るより、いろいろな夢が見られる……ような気がする。だから好きだ。その気持ちが大きい」

 

「はあ。俺はそうした経験がないので……よく分からない感覚だ」

 

「テルミに頼んでみたらどうか。よく一緒に寝ているとネフに聞いた」

 

「歪んだ意思を感じる。『よく』ではない。二回しか寝ていないし、今後も多くて年に二度だけだろう。学校から帰った日と学校へ行く前日。寝物語か。試してみてもよいかもな。気が向いたら、だが。……ええと、どこから話すべきか。……うーん。では、三年前にヤーナムの鉄扉をくぐったところから始めるべきだろうか……ヨセフカの診療所の屋根を渡って……」

 

 約三年前のことを思いだし、ぽつぽつと話し始めた。

 

「テルミと一緒にまずは川の流れに沿って歩き下っていった。獣道を見つけて歩いて行くと道が分かれていた。一方は獣道、もう一方には人工物の石畳があって……明るくなってから分かったのだが、そこは昔の街道らしいものだった。風化や土砂崩れでところどころ壊れているところもあったが……」

 

「うん、うん……」

 

「古い街道を探しながらできるだけ高所を選び、進んだ。振り返るとヤーナムには霧がかかり、遠く霞んで見えた。その頃には、かなりの距離を歩いていたハズだが、霧の向こうに見える時計塔は陽炎のように揺れて……距離を違えるほどに、近く見えた。それからヤーナムを背に歩いた。道の続く限り途切れた後は、道なき道を……南へ、南へ……南へ」

 

 話をしていると──とても不思議なものだ──ヤーナムを発ったのが、ほんの数日前のように思い出され、忘れかけていたものが細部までハッキリ見えてきた。話し足りない気分になり、思い返した出来事のために指を折った。

 クルックスは、もうしばらく話すことができたが、セラフィには十分だったようだ。

 

「う……ん……っ、ん……ん……」

 

 意識の半分ほど眠りの世界にいるセラフィは、目を閉じてコクコクと小さく頷いた。

 先達の話もこうして聞いていたのだろう。察せられる姿を見たクルックスは、上体を起こし床に置いていた唯一の灯りを吹き消した。

 

「話はここまで。続きは、いつかの夜に。……さぁ、眠ろう」 

 

 第一回、学習会は充実した夜となった。

 寝袋の寝心地も確認できたことは、一つの学びとなった。

 寝袋があれば、かつて味わった野宿もたいへん楽になっただろう。少なくとも寒さから身を守るために外套を被るか、寝心地のために枕にするかを悩むことはなくなっていたに違いない。

 

 そんなことを考えているとおかしくなり、クルックスはすこしだけ笑った。

 ホグワーツにまで来てヤーナムのことばかり考えている自分は、もっと目の前のことに集中すべきなのかもしれない。

 学校に来て一ヶ月は血肉溜まりから這い出た自分が明るい世界にいることにひどく戸惑ってしまう。今年は列車に乗って来なかったせいか慣れるのに時間が掛かっているような気がした。

 

(目が覚めたら、新しい場所に行くのだ。……ちゃんと見てこなければな……)

 

 クルックスは目を閉じると数秒で寝た。





Q.3年生編寝るシーンが多くないですか?
A.夜の時間を共有する『特別な扱い』の象徴が睡眠です。夜の時間は仕事柄、彼らにとって特別な時間でもあります。決して少年少女がスヤスヤしているシーンを書きたいがあまり混入させている等の、筆者の趣味趣向の問題ではありません。ありませんったらありません。こんな冗談抜きに展開と筆者の体力・気力の問題で余計な話を書いている余力がないので恐らくもう書くことがないセラフィの睡眠シーンとなりました。
 なお、ねむねむセラフィの横面を突きながら「私が喋っているのに寝るな」と言う寝物語詠唱中鴉は存在する概念であることをお知らせします。
 ところで、スリザリンのセラフィはブツブツと寝言がうるさいそうです。恐怖を感じないだけで頭のどこかに負荷が掛かっているのかもしれません。


ホグワーツはダンジョンだらけ?
 ゲーム系の展開を見ているとあちこちにダンジョンがある(ように見える)ので石造りの建物とはいえ穴だらけになっているのではないかと心配に思うことがあります(杞憂)。謎地下室なんかもっといっぱいありそう。その確認のために、そろそろPCとPSで出していたゲームをPS4やPS5でやりたいので復刻してくれ……の気分です。
 さて、熱心なファンの方々ならばご存じ。来年にとうとう『ホグワーツ・レガシー』が来ますね。舞台は、1800年代のホグワーツのゲームです。46分という長めのプレイ動画が公開されているので見逃している方は要チェックでしょう。スタイリッシュに呪文を使う姿が見られます。また、「ハリー・ポッター 魔法の覚醒(ハリポタ覚醒)」というスマホゲームも来年に登場するようです。舞台は、第二次魔法戦争の数年後ということなので、ハリー・ポッター原作後の時系列上に存在する最も新しいゲームとなることでしょう。ただし、原作者の関わりが報道されないので、ほとんどのゲーム作品がそうであるような派生作品という位置づけと思われます。カードゲーム形式ということですが、筆者はさらにダンジョンが増えるのかなと楽しみにしています。ゲーム情報で何より知りたいのは薬の種類と物価です。楽しみですね。


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ハロウィーン(上)


ホグズミード村
イギリスにおいて唯一、魔法使いまたは魔女だけが暮らす村。
薬問屋からイタズラ専門まで軒を連ねている。
──自らが何者であるかを隠さなくてよい。
その考えは、1930年代に最も栄え、英雄とその仲間によって閉じられた。
とはいえ、この村で得られる心安らかさは若い彼らの心を躍らせることがあろうか。



 

 翌朝。

『必要の部屋』は、その名の通り、必要なものを全て揃えた。

 数時間の仮眠から目覚めたクルックスは、半覚醒の意識のなかで寝起きの冴えない顔で廊下を歩くのが億劫だと感じていた。すると部屋にはいつの間にか洗面台と姿見が現れた。

 すぐそばに必要なものがあるというのは素晴らしい。寝起きの気怠い体を奮い立たせ、体の清拭を行い、顔を拭くことができた。セラフィも長い髪を梳かして結び直すことができたし、二人であれこれと話しつつ身だしなみを整えることができた。

 そして、教科書と筆記用具が全て入った鞄を片手に部屋を出て、セラフィと共に朝の大広間へ降りて来たのだった。

 クルックスが食後の紅茶を啜っているとハリーとロン、ハーマイオニーが寮からやって来た。

 休日なので彼らは私服だ。ハリーはカーキ色のズボンに紺のパーカーを着たラフな格好だ。ロンやハーマイオニーも似たようなものだ。

 

「君、今朝は早起きだったね?」

 

 すっかり朝食を食べ終えているのを見てハリーが言った。

 周囲を見れば、食事にようやく手をつけ始めた人が多数だ。休日なので生徒も教員も全体的にゆっくりと食事を楽しんでいるようだ。

 

「ああ。ホグズミードが楽しみで、早く目が覚めてしまった。それに今日はハロウィーンだろう。異教の祭日は、いつも興味深い。晩餐も楽しみだ」

 

 前もって準備していた言い訳は、言い訳として機能した。しかし、ロンやハーマイオニーはクルックスを咎めるような目で見た。

 

「素晴らしい一日になることを祈ろう。──と言いたいところだが、落ち込んでいるな。ポッター。そういえば、そろそろ俺もハリーと呼びたいところだが」

 

「ああ、うん、好きに呼んで。僕はホグズミードに行けないんだ。叔父が……マグルなんだけど……許可証のこと、よく分かっていなくて」

 

「あ。……な、なんと。それは不幸なことだな……」

 

 クルックスは、知らなかった。

 ハリー・ポッターは、三年生のほぼ全員が楽しみにしているホグズミードに行けないのだ。

 

「きっと三年生で行けないのは僕だけだよ。でも、宿題を進められるし……楽しんできて」

 

 ハリーをよく見ると、かなり気落ちしていることが分かった。

 上辺は普段どおりに取り繕っているため、クルックスは気付くのが遅れた。

 彼のためにいくつかお菓子を買ってこようと思った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 朝食が終わった後。

 玄関ホールに行くとすでにホグズミードへ向かう三年生が集まっていた。

 マクゴナガル先生が見守るなか、管理人のフィルチが生徒から許可証を受け取り、生徒の顔をジロジロと見た。

 クルックスがフィルチに許可証を渡すと彼は呼び止めた。

 

「おい、待て。このコーラス=Bの名前は他の生徒でも見たぞ」

 

「俺はテルミ・コーラス=Bの親戚で、後見人の一人がコッペリア・コーラス=Bだ。親戚筋が保護者ではいけない話はないでしょう」

 

 フィルチはフンと鼻を鳴らすと「あっちへ行け」と言いたげに顎をしゃくった。

 それからクルックスの後ろに並んでいた生徒から許可証を受け取った。

 

「おーい、居残りか、ポッター?」

 

 クラッブとゴイルを従えてやってきたマルフォイが、周囲の生徒に聞こえるように大声で言った。

 

「吸魂鬼のそばを通るのが怖いのか?」

 

 ハリーは玄関ホールまでロンとハーマイオニーのために見送りで来ていたが、相手にすることもないと思ったのだろう。言い返すことなく、そのまま無言で城内に引き返していった。

 

「許可証のある者だけついてこい」

 

 フィルチとマクゴナガル先生が先導し、生徒はぞろぞろと後に従い、ホグズミードまでの二人が歩ければいっぱいになってしまう細い道を歩いた。

 秋へと傾きつつある日は、風が吹くと肌がヒリつくようだ。鼻先までマフラーを上げ、目を細めた。その目は、校門の両脇にゆらゆらと黒くて長い存在を見ていた。

 

「あれが吸魂鬼だよ」

 

 クルックスの隣を歩くネビルが恐れるように言った。身を竦めたのはネビルだけではない。前をぞろぞろ歩く生徒の何人かが、道が急に細くなってしまったかのように一緒に歩く生徒との距離を縮め、早足になった。

 

「血の通った生き物には見えない。まるで地上を動く影のようだ」

 

「遠くから見ればね。でも近くに行ったら分かると思うよ。ずっと、幸せになれないような……。そんな気分になるんだ」

 

 ネフライトがひどく影響を受けたことを思えば、油断はできなかった。気を張り、列に遅れないようクルックスも歩調を早めた。

 門のところではマクゴナガル先生とフィルチが両脇に立ち、生徒を見送っていた。どちらも厳しい顔をしているが、マクゴナガル先生は吸魂鬼のそばを通る生徒が不始末をしないかどうかに気を尖らせているようだった。

 

 門が近付くと空気が冷えた。

 もし、吸魂鬼のことを事前に知らなければ霜が降ってきたのだろうかと足を止めてしまったと思う。

 

(なるほど。……気分が悪い。啓蒙低い俺でさえこうなのだ。テルミやネフライトが気分を害するのは、よく分かる)

 

 手を握り、痛みでしっかり自分を保ちながらクルックスは歩いた。隣でネビルが肩をギュッと上げて首を縮めた。

 吸魂鬼のそばを通過するのは一瞬だけだ。その一瞬でクルックスは黒いフードを被った姿を見上げた。

 

(穴……?)

 

 体の熱を奪われていくような感覚と腹の底まで冷え冷えとする気味の悪さを味わい、彼は通過した。

 隣でネビルがブルブルと震え、力の入っていた肩を上げたり下げたりした。

 クルックスも腕を回し「嫌なものだな」と感想を呟いた。

 

「君、顔が白いよ」

 

「えっ。そうか?」

 

 クルックスは、手を握りしめたままだったことに気付き、ゆっくり手を開いた。指先まで真っ白になっており、それはしばらく戻らなかった。血の気が引いているのだ。

 不思議だ。彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

(俺達が、ああも影響を受ける生き物は……そういないのだが)

 

 ヤーナムは広く深いものだが、クルックスがその存在を目の当たりにすることで体調を崩したのは一度きり。父たる狩人が上位者の姿でのたうちまわっている時だけだった。しかし、あれは冷気を伴う『気持ち悪い』ではなく、目の前の現実が理解できなくなる発狂を伴うものだったので異なる種類の脅威だ。どちらがマシということはない。そういえば、と彼は不快な吸魂鬼から意識を逸らした。なぜ父たる狩人がその状態でしかものたうちまわっていたのか思い出せなくなっていることに気付いた。何か事情があった──特に深い理由なく発狂を振りまいていることはないと信じたい──と思うのだが、あまりの不快さに記憶が色褪せてしまっていた。

 種類は違うが、最終的には行動不能に至りそうな脅威は珍しい。

 

(吸魂鬼……足は無さそうだが実体は存在する。殴り続ければ死ぬのだろうか?)

 

 しかし、試すことは当分ないだろう。クルックスは吸魂鬼に対する思考を棚上げにした。

 当分挑むことはあるまい。そう思い直したからだ。

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ホグズミード村、ハニーデュークスにて。

 ツンと澄まし声で小さく話す声が聞こえる。

 

「糖蜜パイは好きだけど糖蜜って甘すぎると思うのよ。同じ甘味なら、ただの蜂蜜の方が好きだわ。知っている? 蜂蜜って蜜を集める蜂が選ぶ花で味わいが変わるの」

 

 ダフネ・グリーングラスが隣にいて商品棚を見ているセラフィを見た。

 彼女は、いつものならば「そうなのか。知らなかった」と言うことだろう。そんな反応を待っていたが、いつまで経っても返答がない。

 

「セラフィ?」

 

 籠いっぱいに菓子を盛っているセラフィはしきりに数字を呟いていた。

 

「八ガリオン、十二シックル。十七シックルで一ガリオンだから……。ええと……。あと、一ガリオン五シックルで……」

 

 セラフィは眉を寄せて考え込んでいたが、やがてじっと見つめるダフネに気付いた。

 

「ああ、君、何か言ったかな。すまない。今、計算をしていて……」

 

「そんなにお菓子を買ってどうするのかしら? 一年分買い込むつもり? あなたは食いしん坊だけど果物ばかり食べているから、こういうお菓子はてっきり嫌いだと思っていたわ」

 

「僕は好き嫌いをしない。これは贈り物だ。あと一ガリオン五シックル分の──ええい、面倒だ。レオー様も『お貴族様が貧しい発想をしちゃいかんのさァ。金は使えるだけ使え。いや、マジな話。使い時が投げ銭アタックしかないからな』と言っていた。うん。──あと二ガリオン分ほど購入する必要がある。適当に選んでくれないか」

 

「ええぇ、わたしが? でも贈られる人の好みも知らないし……」

 

「何でもいいよ。僕も高い順から籠に入れているだけだ」

 

「そ、そう? お金の使い方まで設定されているの筋金入りね……。じゃあ、長期間でも保存が出来るからチューンガム。いくら美味しいお菓子でもこれだけあれば一度に食べきれないと思うし……あ、これはアストリアに買っていこうかしら。歯磨き粉味。他には、じゃあ、これとこれと……」

 

 ダフネは棚から一つずつ菓子を取って籠に入れた。

 

「そういえば誰への贈り物なの?」

 

「グリフィンドールのコリン・クリービー」

 

「と、年下趣味!? ──と思ったけどあなたに限ってそれはないわね。どちらかというと年上のおじさんが好きそう」

 

 いつも瞳に情熱がないセラフィの目が突然、光を取り戻したのでダフネは驚いた。

 

「先達はおじさんではない。おじさんではない。そう自称してらっしゃるが、自称はあくまで自称でまだ四十手前でいらっしゃる」

 

「ビックリした。設定のことになると急に早口になるじゃない……。それで、クリービーとは何があったの?」

 

「彼はカメラを持っている。だから彼に頼んで毎年写真を撮っているのだ。だから、そのお礼として、これを。そういえば、魔法族は一般的に写真を撮るものなのか?」

 

「そうねえ……。クリービーが持ち歩いているのを見れば分かると思うけれど、元々はマグルの発明品で、けれど魔法界において買えない物ではないし……我が家も探せばあるのかも。そうでなくとも最近は廉価の、使い捨てカメラ、なんてものもあるらしいし。でも頻繁には撮らないわね。探せば一枚くらいどこかにあると思うけれど……でも、あら、記憶にないわね……」

 

「そういうものか。惜しいな。写真は、毎年撮ると成長が感じられて楽しいものだ。これは大人になってしまったらなかなか感じにくいものだと思う」

 

「それは……そうかもしれないわね。クリスマスで帰ったら、わたしも撮ってもいいのかもしれないわ。アストリアが入学した年の記念に」

 

 だいたい十ガリオン分となった菓子を抱え、会計を済ませるとセラフィは別れを告げた。

 

「わたしはもうちょっと選んでいくけれど。……大丈夫? あなた、顔が白いわ」

 

 店内の明るい照明に照らされてダフネは気付いた。これまで気付けなかったのは、他の生徒がそうであるようにハニーデュークスの店に辿り着く前に皆、頬が赤くなっていたからだ。

 セラフィは寒気を感じたように身震いした。

 

「狭い場所にこうして人が集まっているのは苦手のようだ。早めに寮に戻っているよ。君も吹雪に気を付けて」

 

「ええ、ありがとう……。本当にひとりで大丈夫?」

 

 セラフィは、ひらひらと手を振った。

 購入したものを全て衣嚢に収納するとハニーデュークスの店を出た。

 寒さは相変わらずだが、肌を刺す空気は懐かしさを感じる──もののハズだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ホグズミードに到着したクルックスは、成り行きでネビルと行動を共にすることにした。二人とも『ホグズミードには皆行くようなので行ってみようか』という軽い気持ちが動機の大半を占めており、何より今日は吹雪いているので観光に歩き回る気力が大してなかった為である。

 ついでの用事としてクルックスにはコリン・クリービーの謝礼を買う都合があり、ネビルは『ばあちゃんに手紙を出す』という用件を語った。

 

「学校のふくろうを使っても良かったんだけどせっかくだからホグズミードから出そうと思って。郵便スタンプを押してもらえるんだ」

 

 そうして二人は「寒いな」と言い合いながら、まずは郵便局を訪れた。

 

「──写真を撮っているんだ。毎年? ワォ、いいね。きっといい思い出になるよ」

 

「そうなると俺も嬉しい。魔法族は非魔法族の技術を取り入れることは少ないような気がするが、写真は取り入れられた文化なのだな。すこし意外だ。絵もあるのに」

 

「そうだね。僕はマグルの写真の方が好きだよ。絵は、喋るだろう。あれ……本当は僕、好きじゃないんだ」

 

「ほう。なぜか。動く絵は、魔法族の人々にとって面白い存在なのかと思っていた」

 

 ネビルは「あー」とちょっぴり舌を出して考え込む顔になった。

 

「絵の人物や動物は、その、何て言うのかな、その人がよく使う言葉や仕草や行動を『らしく』見えるように真似しているだけで、その人そのものではないことは知ってる?」

 

「ああ、それは知っている。最初は絵の中に人が閉じ込められているのかと思って驚いたからな」

 

 初めて見た時に衝撃を受け「魔法界の人々は自らの同胞を絵の中に閉じ込める精神性なのだ」とクルックスは入学から数ヶ月の間、勘違いしていた。

 郵便局で数え切れないほどのふくろうを見上げながら、二人は話し続けた。

 

「その人がそれらしく動いていたら、すごく奇妙な気分になるんだ。それが死んでしまった人だとしたら……とても。悲しんで、きちんと別れたのに、とかね」

 

「絵が死者を愚弄していると感じてしまうのか?」

 

「そ、そこまでは言わないけど。でも……お別れの仕方ってあると思うんだ。いなくなった後の考え方、みたいな……ごめん変な話をして、うまく言えないや」

 

「いいや、ネビル。君は強い、と思う。別れを想定することは、悲しいが、善いことなのだと思う。俺は本当の死を知らないが……」

 

「でも、君のお母さんはもういないんだろう……?」

 

 控えめにネビルは言った。

 いったい何の話か分からずクルックスは、かなり怪訝な顔をしてしまった。

 やや間を置いて思い出した。

 一年生の入学した日のパーティーで家族の話をしたことがあった。

 

「ああ、母、母な……。いないことが普通だったから、悲しいとか空しいとか、そういう感情とは縁遠い存在だ」

 

「そ、そう……ごめん。嫌な話をして。僕の両親は……あんまり……なんて言えばいいかな……元気じゃない。だから……どうしてもこういうことを考えちゃうんだ」

 

「……そうか。すまない。慰める言葉を俺は持たない。……だが貴公は、善い人だ。あまり苦しんでほしくない」

 

「ありがとう」

 

 二人は、しばらく同じものを見ていた。

 数百羽のふくろうが常に羽を揺すっているので見飽きることはなかった。

 

「母とは、どういうものなのだろうな」

 

 出し抜けにクルックスは言った。

 

「僕も、あんまり……。ばあちゃんはいるけど、たぶん、違うと思うから……。でも、お母さんは温かいとか、安心するとか……そういうものだったらいいと思う」

 

 ふくろうが止まっている棚には、風雪を避けるために屋根が取り付けられている。

 二人は揃って見上げた。看板は謳う。『地球の裏側まで、どこでも配達します!』

 

「そこにいるのならどこにでも届けられるらしいが、いないのではな」

 

「そうだね」

 

 ネビルは、郵便局の職員と話をして、二〇センチくらいのコノハズクの『普通便』を頼み、シュッと音を立てて灰色の空に飛び立つまで見送った。

 互いに、微かに笑みを交わして二人は郵便局を離れた。

 次はクルックスの用事だった。コリン・クリービーへの謝礼を用意すべくお菓子を売っているという『ハニーデュークス』へ歩いた。生徒は、三年生は勿論、上級生でさえもキラキラした顔であちこちの店を行ったり来たりした。道中、テルミがハッフルパフの女子生徒達と一緒に『三本の箒』に入るところを見たし、ネフライトが魔法用具店の『ダービシュ・アンド・バングズ』で望遠鏡を品定めしているのも見た。『ハニーデュークス』では、ばったりセラフィと出くわした。

 

「おや、貴公」

 

「『貴公』!?」

 

 ネビルが「初めて聞いた!」と言いたげに繰り返した。

 彼女はトリコーンを深く被っていたが、琥珀色の瞳がクルックスからゆっくりとネビルに移るのが見えた。

 クルックスにとって見知った白皙の面が、なぜか無機質なものを感じさせた。セラフィが他人に見せる顔は、このようなものなのだな、と彼は明後日のことを考えていた。今朝のクルックスよりも遅く起きて、服を着るのも一人で出来ずに「もう午前中は寝ていようよ」と気弱な提案した人物とは思えない。セラフィが朝に弱いと語ったのは本当のことだった。

 

「ご機嫌よう。ネビル・ロングボトム」

 

「ああ、どうも……」

 

 そっと目礼したセラフィにネビルは警戒と恐れを交互に顔に浮かべた。

 クルックスは一歩先を歩いた。

 

「一年生の時に列車で会った気がするがちゃんとした紹介がまだだったな。彼女は同郷の俺の親戚で、今はスリザリンのセラフィ・ナイトだ。──セラフィ、こちらはネビルだ。今日は、俺の買い物に付き合ってくれている」

 

「クルックスと仲良くしてくれて嬉しい。僕らは世間知らずなところがあるからね。いろいろなことを教えてくれるといい。これは、お近づきの印に」

 

 セラフィは衣嚢から蛙チョコレートを一個出してネビルに手渡した。

 

「あ、ありがとう……?」

 

 困惑しながら受け取ったネビルは、しかし受け取ってしまってから罠の可能性を思いついたらしい。ハッとして身を強ばらせた。しかし、受け取ってしまってから返すのも変な話となりつつある。そうして身構えているネビルの代わりにクルックスが訊ねた。

 

「なぜ蛙チョコレートなんだ?」

 

「セオドールが『持っていろ』と──あ、いいえ、いいえ──彼はカエルを飼っているだろう。だからカエルが好きなのだと思って蛙チョコレートを選んだ」

 

「カエルをペットにしている人にカエルのお菓子をプレゼントするのか」

 

「変かな。では百味ビーンズの方が──」

 

「あ、ありがとう、もらっておくよ……?」

 

 スリザリン生との付き合いで良い思い出がないネビルは、まだ困惑していた。

 

「もしも、僕が他のスリザリン生と違うと思っているのなら──」

 

 ネビルのぎこちない態度により、疑問に思い至ったのだろう。セラフィから切り出した。

 

「それは幸いなことだ。スリザリン生の全てが、貴公をこき下ろすことを楽しんでいると思わないでほしい。主にスネイプ先生の大人げない態度やマルフォイの心ない言葉のことだが。……同じ寮生を止められないのは、スリザリンの弱さでもあるのだろう。マルフォイを諫めたり矯正したりすることで利を得る存在がスリザリンにはほとんどいない。『せいぜい調子に乗らせて金目の物を寄付させるよう』──昨年の箒なんて最たる物だった──そう考える者が多い」

 

 ネビルは何と返事をすればよいか分からなくなっているようで口をパクパクさせた。

 セラフィは返事を最初から期待していないようだった。

 

「これも『そう見える』だけの私見だ。スリザリンにもいろいろいるのだ。貴公の敵は、そう多くない。」

 

 彼女は再びクルックスに視線を移した。

 

「君、体調はどうか」

 

「……ああ。これからバタービールを飲んで温めようかと思っている」

 

 クルックスは頷き「よい選択だ」と伝えた。授業がある日であれば、授業に集中しようと努力しているだろうが休日で何もすることがないとなれば、夜に最適化されてしまった彼女の頭は、ぼんやりしてしまうのだろう。

 

「セラフィ。『三本の箒』というパブを知っているか? 十分経ったら向かう。席を取っていてくれ。それから『お茶会』の段取りを考えていてくれ。後ほど会おう」

 

「ん、ああ。お茶会……お茶会……ああ、お茶会ね」

 

 セラフィの目が、夜に見せる冴えを数割取り戻したことを確認し、クルックスは別れた。

 

「お茶会って?」

 

「クリスマスに同郷の者が集まってお茶会をするのだ。ささやかな、しかし大切な時間だ。俺にとってはな。──さて、美味しいお菓子を教えてくれ。たくさん買うことになる」

 

 ネビルは、まだ何か聞きたそうにしていたが『ハニーデュークス』の色とりどりな広告と甘い香りの魅力には抗いがたかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「お礼は十ガリオンまで」と告げたのはテルミだ。

 コリンへの謝礼である、十ガリオンきっかり購入した山盛りのお菓子は、異次元の収納力を秘めるクルックスの衣嚢に押し込められた。それからヤーナム、ビルゲンワースにいるクィレル先生へ大板のチョコレートを購入した。

 そして、店を出る段になり、まだ迷っているネビルと別れた。

 

 風は強さを増すばかりだ。マフラーに鼻先を埋め、クルックスは外套に手を突っ込んで歩いた。

『三本の箒』は、パブ即ち小さな居酒屋だ。中に入るとガヤガヤと人の声に満ち、うるさくて温かい。カウンターの向こうで利発そうな女性がいた。名物店主のマダム・ロスメルタだと言う。

 店内をざっと見渡すと末席でセラフィは待っていた。

 銀色の長髪が見えたところでクルックスは席に向かったが、彼女がいるテーブルに一ダース分のバタービールのジョッキが並んでいるのを見て脚が止まりかけた。

 

「やぁ、クルックス。待っていた」

 

「バタービールは……ど、どうした……君、そんなに好きなのか?」

 

「ああ、これ」

 

 セラフィは、反応が薄い。

 周囲は生徒ばかりでクスクスと笑われている。気にした様子なくセラフィは、最も近くに置いてあるバタービールを一口飲んだ。

 

「うん。どうやら一本と一ダースを言い間違えたらしい。先に店を出たテルミに頼んで、ネフにも来るように頼んでいる。一人ノルマ四杯だ」

 

「一本と一ダースを言い間違えるのは普通ではないと思う。大丈夫か、君。すまない。やはり午前中は寝ているべきだったな」

 

「温かいところに来て気持ちが緩んでしまっただけだ。心配は無用だ。……ここに来て良かった。珍しいものがたくさんある。僕は楽しい……」

 

 言葉の半分は自分に言い聞かせるような響きがある。

 それに気付いたが、ズラリと並ぶバタービールに圧倒されているクルックスは軽度なことだと見逃した。

 

「そう。ならばいいが……。お、ネフだ」

 

 マフラーで鼻先まで埋めたネフが足早に店に入ってきた。

 手を振って合図をすると彼は、テーブルにやって来た。

 

「ご機嫌よう」

 

 教会式の挨拶をする彼は、温かいところに来てホッとしているようだ。冷たい風に晒されていた頬に朱が差した。

 

「やあ、君。助けてくれ」

 

「やぶさかではないがね。吸魂鬼のことを考えれば、すこし英気を養っておくべきだからな」

 

「バタービールで吸魂鬼に立ち向かおうと?」

 

 クルックスは、自分が思慮深い発言をしていないことを自覚している。しかし、どうしても気になってしまい質問した。勿論、ネフライトは否定した。

 

「バタービールの瓶で殴る蛮勇を試すべきではない。だが、バタービールは気休めにはなる。私達は、どうやら影響されやすい性質であるようだから」

 

 まだネフライトの言葉の意味が分からず、質問を重ねた。

 彼は周囲を見て誰もこのテーブルに注意を払う者がいないことを確認してから話し始めた。

 

「君も吸魂鬼のそばを通ったので分かると思うが、あれは精神に影響を与えるだろう? 一般的な影響として、軽度であれば気分が落ち込む程度だが、重度になれば血の気が引いて気絶してしまうことがある。あれは、もっとも穢れた場所にはびこり、凋落と絶望の中に栄える生き物だ。魔法界も面白いものが存在している。よかったな、クルックス。あれほど穢れた存在はヤーナムでも珍しい」

 

「え。それは……そう、だな」

 

 やはり魔法界も穢れたものは存在するのだ。

 その確認は常に喜ばしいもののハズだったが、自分でもよく分からない感情に邪魔されてネフライトほど喜べなかった。

 彼は、セラフィを一瞥してからバタービールのジョッキを手元に引き寄せた。

 

「さて、私達の話をしよう。セラフィがぼんやりしているのは体調もあるだろうが、おおかた心の防衛機制だろう。感情を麻痺させて精神状態の悪化を防いでいるようだ。これ以上、傷つかないように。穢れないように」

 

 思えば、朝食を摂りに行くため一緒に階段を下がってきた頃のセラフィは、今より遙かに頭がシャンとしていたように見える。あの時の彼女ならば、一個と一ダースを間違えることはなかっただろう。

 当のセラフィは反応が鈍く「うん」と困ったように頷くだけだった。クルックスはセラフィを早急にテルミ・コーラス=メンタルクリニックに放り込む必要を感じた。

 

「だが不思議だ。なぜ影響が大きいんだ? 穢れたものに接する機会が多い俺達は、むしろ慣れていて──医学の単語で何というのだったか──あ、『免疫』がありそうなものなのに」

 

 ネフライトは、バタービールを呷りながら興味深そうにセラフィを観察していた。

 

「吸魂鬼の存在は絶望と憂鬱を与えるものだという。そして、吸魂鬼は非存在だ。肉体の概念が希薄な私達に影響を及ぼす時、その影響は魔法族などに比べて著しいのだと思われる」

 

「肉体の概念が希薄とは、どういう意味だ」

 

「言葉のとおりだ。私達の体は、物質世界において必ずしも物理的に存在するものでは──すこし待て──君に分かる表現を探している。ふむ。例え話をした方がよいだろう。肉体の概念が頑強であったのなら『青い秘薬』を飲んで、遺志により意識を保ち、自分の存在を薄れさせることは出来ないだろう。ただの人間が飲めば、脳の麻痺で終わる代物だ。けれど、私達は違う。私達の肉体は、特別だ。物質としての肉体に依存しない部分が多くある。……この説明で分かるかな」

 

「ぼんやりとだ……。夢で生まれた俺達は、非実在のものの影響を受けやすいということか……?」

 

「その理解でもよいだろう。しかし、まぁ、吸魂鬼の件はともあれ普段は気にしないことだ。こうしてバタービールもうまいのだからな」

 

 ネフライトは、ジョッキを一息に飲み干した。

 

「くぅ~、うまい。まろやかな味わい。ヤー。失言。これだけで故郷から這い出てきた甲斐があるというものだ。山羊の乳ではこうはならない。さぁ、どんどんいこう」

 

 熱々で泡立つバタービールだが、ネフライトは気にならないらしい。

 クルックスもジョッキに手を伸ばし、一口飲んだが想像より熱かった。温くなるまで手の中で回すことにした。

 

「それで吸魂鬼を倒すにはどうすればいい? 俺達に有効ということは、お父様にも有効だ。むしろバジリスクがそうであったようにお父様にこそ致命的なのかもしれない。対抗策を見つける必要がある」

 

「答えは、さほど難しいところにあるワケではない。具体的に言えば、図書室の本に書いてある。ちょうどいい。そのうち互助拝領機構で取り上げてみたまえ。……念のために言うが、実技で吸魂鬼に手を出せという意味ではないよ」

 

「それは分かっている。俺から諍いを起こすことはない。図書館か。分かった。探してみよう」

 

「あ~あ、うまい。うまい。私が味覚や触覚まで精密に記憶が出来ないのは残念だ。……出来たら何度でも繰り返して楽しめるのに……」

 

 ノルマは一人四杯。

 ネフライトはハイペースに呷っているが、今日のセラフィは行動のいちいちが遅かった。

 

「セラフィ、せめて美味しいものを食べて、体調を整えたほうがいい」

 

「僕は恐怖を感じないが……感じていないだけで、他の感情は鈍磨してしまうのだね。初めて知ったよ。頭の回転が鈍くなったようでこの感覚は好きではない。早く人目のないところに行って体を元に戻したい。そろそろ僕のレイテルパラッシュに血を吸わせてあげないと」

 

「うーん。これはダメそうだ。──ネフ、どうにかならないのか?」

 

「ならないな。彼女の心は『恐怖に対し健全な防衛を行っている状態』であるから。──ほんの一時、気分が落ち込む程度で医療者の手を患わせる患者は、もれなく手術台に直行されるべきなのだ。もれなく『楽しくなってしまうクスリ』をブチこまれたくなければな……。まぁ、内面のことは私の専門ではないので診断もテキトーだ」

 

「専門なんてあるのか? 君の専門は何だ」

 

「外科だ。体の外部のことだな。この説明で分かるかな?」

 

「完っ全に理解した。──ネフ、ノルマ倍だ」

 

 セラフィは、飲み物を飲むのもままならないので彼女のノルマをネフライトに押しつけた。

 

「他のノルマならば突っぱねるところだが……バタービールだけは別腹なので許すとも。もうこれだけ飲んでいたい。食事は全部これにしよう。決定」

 

「こっちもダメそうだ。バタービール中毒になっている」

 

 クルックスは、ノルマとなったバタービールを飲み干した後でセラフィの手を引いた。

 

「口の中だけでなく、腹まで甘ったるい気がする。帰るぞ、セラフィ」

 

「──クルックス、どうしてもダメならばテルミに頼みたまえ。認めるのは癪だが、彼女は精神の問題をよく扱える」

 

「ちょうどそれを考えていたところだ。……そうだ。お父様の使者に頼んで、どこかに『灯り』を作ってくれ」

 

「承ろう。君のために」

 

 ネフライトは、楽しげにジョッキを呷った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 店の外に出た時。太陽は薄い雪雲に隠れていたが、窓を叩き続けていた吹雪はわずかに勢いを落としていた。

 これ幸いとクルックスは踏み固められた道を歩み出した。

 

「……すまない。クルックス……。君のせっかくの休日を……こんな形で潰してしまうなんて、迷惑をかけている……。昨日、頑張って宿題をしていたのに……」

 

「君の不調に気付かなかった俺が悪かった。さっさと城に帰りたいところだが、門ではフィルチさんや先生が出入りをチェックしているのだろうな。夢を経由するとまずい。……もう一度、吸魂鬼のそばを通ることになる。耐えられるか?」

 

 精神の調子に関わらず、吸魂鬼の見張る門を通らなければ出入りは出来ないのだからクルックスの問いは無意味とも言えた。

 だが、聞かずにはいられなかった。

 セラフィはコクコクと頷いた。顔色は、いつも以上に白い。

 

「クルックス……どうして僕は心弱いのだろう……。ほかの皆は、これほど引きずらないのに。僕だけ……どうして……」

 

「君は弱くない。君には休息が必要なだけだ。カインハーストでも働き詰めだったのだろう」

 

「考えるべきではないのに……気分が落ち込む。嫌な思い出ばかりが……。ああああ、僕に嫌な思い出は無いハズなのに……」

 

 クルックスは、無言で彼女の手を引いて城へ引き返した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「あら、セラフィ──」

 

 ダフネは買い物袋を腕に提げてハニーデュークスの店を出た。

 声を掛けようと思ったのは、これからダフネも城に戻るからだ。しかし、彼女を引っ張って行く者がいる。それを見てダフネは声を掛けるのをやめてしまった。

 いつになく頼りない足取りのセラフィを伴って歩くのに自分には荷が重いと思ったからだ。

 




ホグズミード村
 活気ある村ですよね。マダム・ロスメルタのママさんの女将さん雰囲気が好きです(唐突)。どっかの陰気で鉄格子のついた窓越しでしか話せない街とは違いますよ、ここはぁ……。


バタービール
 最初に見た時はこどもビール的な物かな、と思っていましたが、その後4巻(『炎のゴブレット』)にてアルコールが入っていることが言及されました。これによりメニューを想像していたファンがマイ・レシピの書き換えにはしったとか何とか。懐かしい思い出です。


ネフライトの記憶力
 目で見たものは完璧に覚えることが出来ますが、触覚を記憶することや味覚を記憶することは出来ないようです。ついでに、その時の感情や気分も。情報量で脳がパンッしちゃうので視覚情報だけの記憶が限界なのでしょう。それにしても情報過多を搭載し続けているとロックハート先生のバレンタインイベントの時のようにプッチンしちゃうのですが……。


セラフィの耐性
 苦しいことや辛いことがあった時、彼女の精神は基本的に避けることをしません。──なぜなら、僕はそれに耐えきれるハズだから。


呪いのホグズミード村
 ところで『ホグワーツ・レガシー』ではPlayStation限定クエストで『呪いのホグズミード店』が配信されることが決定しているんですが、ホグズミード村出身魔法使いの二次が増えるんじゃあないかと今からワクワクしています。


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ハロウィーン(下)


不調
整わず、治らず、おさまらないこと。
たった一歩が羅馬に通じ、たった一噛みで國は崩れ去る。
いかなる小さな事とて軽んじるべきではない。
致命を招く事態は、大抵そこから始まるのだ。



 

 夜。

 城の中は、ハロウィーンの賑やかさで輝き、天井は深く青い夜空を映し出していた。

 これまで経験したハロウィーンは、各年で印象深い出来事が多い。

 一年目は「トロールが入り込んだ」と大騒ぎになり、二年目はバジリスクの痕跡である初めての石化者──対象は猫だった──が出た。

 今年度こそは穏やかな異教の祭日となるだろうというクルックスの見込みは外れた。

 身近に起きた厄介な出来事ならば、今年が最も厄介だ。

 心の問題とは、目に見えないからだ。

 

 クルックスにとって。

 セラフィは『きょうだい』のなかで最も気の合う存在だと思っているが、その内面の理解は難しい。

 彼女を引っ張ってくるために彼は、あれこれとその理由を並び立てた。だが半日ぶりに『必要の部屋』に戻ってきた本当の理由は、彼女を寮生のなかに戻すことに危険を感じたからだ。

 何をしでかすか分からない恐さというものにクルックスは敏感になるべきだと思っている。

 最も『故郷』と呼べそうな、狩人の古工房に似せた小さな部屋に姿を変えた『必要の部屋』にてセラフィは、椅子に座り、背を丸めると両手で顔を覆った。

 

「心弱い僕など……存在すべきではないのに……僕には、価値がない、価値がない……ああ……嫌、嫌……鴉羽の騎士様……心弱い僕を、お咎めください……」

 

「誰も君を責めない。君は心弱くない。吸魂鬼のせいだと言っているだろう」

 

 このやりとりは、かれこれ十数回目になる。

 向かい合い、椅子に座るクルックスは堂々巡りになる会話に手詰まりを感じていた。テルミに手記を送ったので、もう一時間もなく来るだろう。

 しかし、セラフィの様子は気になることが多い。

 たとえば。

 

(こんな時に罰を求めるのは、なぜだ? しかも罰を与えるのは、仕えている女王様ではなく古参のレオー様でもなく、鴉?)

 

 本当は「なぜ鴉羽の御仁が君を咎めるのか」と質問したいところだが、この質問が引き金となって突然自傷することも考えられるためクルックスは迂闊に言葉を話せなかった。そもそもこの八階まで辿り着くまでの間も気が気ではなく、クルックスは絶対にセラフィの手を離さなかった。二階程度でも頭から落ちれば人は死ぬ。そしてホグワーツにはなんと便利なことに動く階段なんてものがあらゆるところに存在している。突発的に自殺しそうなセラフィから目が離せなかったのだ。

 

「……ヤーナムで気落ちしたときは、どうしていたんだ?」

 

『気落ちしたことはない』という返事が来ると思っていたクルックスは、問いかけた。

 セラフィは、白い指の隙間から疲れた目を向けた。

 

「レオー様が……いつも僕を慰めてくれた。僕から望んだことは、なかったけれど……」

 

 ──僕を膝の上に乗せてね。

 ──膿んだ傷口を開くように、お話をするんだ。

 躊躇いがちに語られた言葉は、クルックスでは真似しようがないものだ。

 

「そうか。……夏に共に時間を過ごしたが、あの御仁は言葉を操るのがうまいな。言葉を知らなければ頭も足りていない俺は違う。同じことは出来ないが、君の秘密を預かる仲だ。もうすこし預かろう。俺に出来ることならば、全て」

 

「んっ……嫌……。君にこれ以上、情けない顔は見せられない。僕を見ないでくれ……」

 

 どこかへ去ろうと腰を浮かしかけたセラフィの肩を掴み、クルックスは元通り椅子に座らせてから手を握った。

 

「君の矜持は、俺に心の裡を話すことで損なわれはしないだろう」

 

「……僕を甘やかさないでくれ。僕は辛苦を母。苦難を友とすると決めた。もう、そう決めている。心の不調はそのうち治るから……」

 

「ならばいい。『きょうだい』は別だな。乗り越えるための試練には、身の丈に合ったものがあるのだろう。辛い時は、苦しい時は、言うといい。望む限り、そばにいよう。いいや、君が望まずとも俺が必要だと認めた時は、そうしてくれ。君を案じている。俺に案じさせてくれ。そして俺が困っている時は助けてほしい。──これでお互いに釣り合うだろう」

 

「…………」

 

 セラフィは相変わらず疲れた目でクルックスを見つめ返した。

 無機質で、無感情で、何をするのにも億劫で、心が落ち込んでいるのだと分かった。そして重傷だとも。

 捕らえた指を撫でながらクルックスは考える。

 

 恐らく、セラフィは。

 抱える信念ゆえに人に寄りかかることが、とても苦手なのだと思う。

 普段は、それでもいい。

 精神に強度があるとすれば、持ち前の性質も相まって彼女はひどく打たれ強い。

 たとえ心折れようとも、折れた心を継いで立ち上がる気概がある。

 だが、一方で。

 吸魂鬼のようにじわじわと──喩えるならば、布を泥に浸していくような──精神の汚染に弱いのだ。

 気概を挫き、心を腐らせる毒から立ち直る術を彼女はまだ知らない。知らないことは、できないからだ。

 手探りはお互い様だ。

 

「俺が落ち込んだ時は……こうすると、元気が出る、な」

 

 クルックスは、セラフィの手を離すと腕を背に回した。

 自然と縮まった距離。クルックスは椅子に浅く座った。

 セラフィの様子を伺うと白銀の長い睫が微かに光っていた。

 目を閉じて、何かを堪えるように唇を噛んでいる。

 

「君は……強いな。認めるのは本当に癪なのだけど……」

 

「そうか。それでもいい。ユリエ様やコッペリア様、あとテルミにも、ときどき世話になる。当然、お父様にも。……もしも、俺が強く見えているのならば多くの人に支えられているからだろう。俺も君にとって、そうありたい」

 

「…………」

 

「それから……落ち込んだ時は、すこし先の未来の話をする」

 

「……僕に優しくしないでくれないか……。きっと僕は君の優しさに報いるものが、何もない。……不思議とそれが分かるんだ」

 

 ──返さなくていい。

 それを伝えてしまうのは簡単だ。

 だが、誰に寄りかかることも良しとしない彼女が休めるのは、貸し借りが存在するときだけだとクルックスは理解していた。

 だからこそ、告げる。

 

「いいや、君は俺に報いるのだ。君には元気になってもらわなければならない。お茶会をするのだろう。二回だ。テルミのお茶会と君が望むお茶会を」

 

「あ……」

 

 失意と絶望のなかに淀み、忘れていたことを彼女はようやく思い出したようだ。

 思わず開かれた琥珀色の瞳は蝋燭のオレンジ色の光を受けていくつもの光が輝いていた。

 眦の水滴を親指で拭い、クルックスはセラフィの顔をよく見た。

 

「ん……そうだ……そうだったね。あれは……本当は……鴉羽の騎士様の提案なんだ。君とあの人と、僕と。それをしくじるワケにはいかないね……」

 

「そ──エッ!?」

 

 クルックスは、無いハズの傷が痛み、空っぽの胃が喉までせり上がってくる錯覚を得ていたが、セラフィは気付かなかったようだ。

 セラフィは、彼がそうしていたように、背に腕を回して頭を寄せた。

 

「……ありがとう。すこしだけ上向いてきたような気がする。未来の話はいい。心が弾むね」

 

 セラフィはクルックスより背が高く、体格に伴って腕が長く、手も大きかった。

 テルミとは異なる感覚は新鮮で、けれど同じように温かい。

 クルックスはしばらく互いの肩口に頭を預けて『大切』を感じたかった。

 

「今年度は、吸魂鬼に近付かないように気を付けよう。君とホグズミードに行けないのは残念だが、こうして『気晴らし』もある。それに吸魂鬼による防衛も永遠ではないだろう。ホグズミードには来年度もある」

 

「ありがとう……。……。僕のこと、先達には内緒にしてくれないか」

 

「誰にも吹聴しない」

 

「いつか……君の不安も話してくれ。僕ばかりでは心苦しい」

 

「そうだな。そう遠くないうちに話すことになる。必ず。必ずな。しかし、セラフィ、本当に聞きにくいのだが……絶対に言い間違いか、聞き間違いだと思うのだが……鴉羽の御仁ではなくレオー様とセラフィと俺で囲むお茶会だろう? そうだろう? 頼む、そうだと言ってくれ、頼む」

 

「え? どうしてレオー様が出てくるのかな?」

 

「おお、やは──なに、なんだって──え? なに、どうし、えッ?」

 

 クルックスは混乱した。

 そもそも、レオーとセラフィとクルックスのお茶会を提案したのは他でもなくクルックス自身だ。まったく関係のない鴉からなぜお茶会の誘いが来るのかさっぱり分からない。

 

「──セラフィ、セラフィ。落ち着いて聞いてくれ。夏休みに俺は君に手紙を渡したな? それはレオー様に渡してくれたな?」

 

「もちろんだ。レオー様は君のことをずいぶん高く評価していた。……僕は鼻が高いよ。本当に」

 

「何だか気になる言い方をする。と、ともかく、渡したということは、レオー様は内容をお読みになった、ということだよな?」

 

「もちろんだよ。どうしたのかな?」

 

「……い、いや? なんでも? それより君への相談事が出来た。後ほど仕切り直して相談の機会を設けてもらいたい」

 

 話すことは決まっている。鴉とのお茶会の件だ。

 クルックスは流血鴉に呼びつけられる理由が無い。そして、時間の短縮で同僚の仔を殺すような彼が、まさか不幸な殺傷事件について謝るなんてことはないだろう。そのため、いつか開かれるお茶会の開催時間ギリギリまで辞退及び破却のための努力は惜しまない心算だ。

 

「分かった。落ち着いたらね。それにしても君、血族の甘い匂いとも違うが……。ん。んっ。お父様に似た匂いが……」

 

「そうか? まあ、顔も似ていることだしな。──あ」

 

 口を滑らせたと思った時には、遅かった。

 セラフィの気分が上向いて、つい油断してしまった。『顔が似ている』というセラフィにとって繊細な問題に不用意に触れてしまいクルックスは狼狽えた。

 

「す、すまない……迂闊なことを言った」

 

「大丈夫だよ。大丈夫。気にするほどではない」

 

 そう言いつつ、セラフィはクルックスの背中に回していた腕を解いた。

 謝罪を言い募ることは、失言を『無かった』ことにしたいセラフィの気持ちを蔑ろにするように感じられてクルックスは何も言えなくなってしまった。

 膝をぶつけるほど近くにいるのにもう一度手を伸ばすことは難しい。二人は、言葉なく見つめ合った。

 そのうちセラフィの琥珀色の瞳が、部屋の外へ意識を向けた。気付いたクルックスもそちらへ目を向ける。その瞬間、扉が開いた。

 

「あら。呼び出しのご注文は、二人がイチャイチャしているのを眺めてろってことかしら?」

 

「混ざってくるといい。私はここで血酒を飲みながら見ているから」

 

「素敵な趣味ね。わたしは逆でも構わないのだけど。あ、さては貴方、お呼ばれしていないのに来たので気が引けているのね?」

 

「ハァ? 自己主張の少なさを人は貞淑と呼ぶのだ。爛れた性根の君でも聖職者の端くれならば慎みを持ってだな──」

 

「ごめんなさい。わたし、貴方のことを誤解していました。聖職者なのに特殊な性癖を拗らせていて難儀なのですね。ウフフ」

 

「君の歪んだ常識の誤りを正す術を私は知らない。治療不可能な病。私はいつだって君の手足を千切って獣の餌にしてやりたいのだ。恥じたまえよ」

 

 テルミとネフライトが言い争いながら入ってきた。

 セラフィがおかしそうに失笑した。

 

「いつものとおりだね」

 

「……そうだな」

 

 二人を見るセラフィは、すっかり元通りだ。テルミを召集した意味は失われつつある。しかし、物事が良い方へ転んだと考えれば、何の損失にもならないだろう。

 テルミとネフライトは、互いに噛みつきそうな顔で言い争いを続けていた。

 

「もうネフったら。明け透けで露骨です。破廉恥な頭をしているのはどちらか、そろそろ疎いクルックスでも分かってしまいそうよ」

 

「そりゃあ分かるだろう、明白だからなぁ。君は、またあの破廉恥な紐を履いているんだろう」

 

「きゃっ。どうして分かったの?」

 

「エ──っ」

 

 テルミが、制服である紺色のスカートを手で押さえた。

 ネフライトは一瞬だけ茫然とし、視線が下に動いたのをクルックスは見た。

 

「あら、カマをかけただけ? なーんだ。紛らわしいこと言わないでください」

 

「バッ……バカじゃないのかっ!?」

 

「さっき空いている教室で着替えたの」

 

「理解不能! このっ! こいつめっ! 聖歌隊は頭が沸騰しているのかっ!? 信じられないっ! 私と一緒なのは分かっているのに!」

 

「でも貴方には関係無いので取り乱す必要はないですよね?」

 

「いや──でも──」

 

 ネフライトは狼狽えた顔で、なぜかクルックスを見た。

 

「きょ、教育に良くないし──あ、聖職者としても良くないだろう! 良くない、良くない、全然良くないっ! 捨てろ、捨てなさいっ、あの紐!」

 

「ユリエ様はもっと過激なの持っていらっしゃるわ」

 

「忘れろ、私! 聞くな! 忘れろ!」

 

「獣性高すぎです。けれど貴方の場合、啓蒙が下がってよいのかしら? 冗談なので忘れて下さい。ああ、忘れられないのでしたっけ? あらあら、困った困った、ウフフ……」

 

 耳を塞いだネフライトの脇腹をツンツンし始めたテルミは、調子に乗りすぎている。

 クルックスは、二人の間に割って入った。

 

「そこまでだ二人とも。いったい何をしに来たのか、そろそろ分からなくなってしまいそうだからな」

 

「そうでした。セラフィが元気ないと聞いて──あら?」

 

「元気になったよ。ありがとう」

 

 テルミは「んー」と鼻を鳴らして立ち上がったセラフィの周りを一周した。

 もう一度、正面に来たときにセラフィはテルミを抱え上げた。

 

「うん。大丈夫。元気だ。僕は」

 

「そう? 貴女がそうなら、わたしもいいの。顔色がいいわ、貴女」

 

 セラフィはテルミをギュッと抱きしめた。クルックスにはセラフィの背中しか見えないが、テルミの脚が床に届かずにプラプラと揺れているのが見えた。セラフィは『きょうだい』のなかで一番背が高いのだ。テルミとの身長差は頭一つ分ほど異なる。

 やがて満足したのかセラフィがテルミを床に置いた。ネフライトが大儀そうに息を吐いた。

 

「吸魂鬼にはチョコレートが有効だとマダム・ポンフリーが言っていた。念のためだ。食べるように。『ハニーデュークス』の板チョコだ。君のために買ってきた。とても美味しい。私は毎食でも食べたい。だから、君も全部食べるんだぞ」

 

「ありがとう」

 

 恩着せがましく「やれやれ」と言って大きな板チョコレートを差し出したネフライトは、自分よりセラフィとの付き合い方が分かっているようだとクルックスは思った。ヤーナムでの二人は一緒に行動するからだろう。

 

「ワッ!」

 

 セラフィの手は、板チョコではなくネフライトの手首を掴まえて、あっという間に抱き寄せてしまった。

 

「おい、離したまえよ」

 

 慌ててネフライトが言う。大きな板チョコレートが行き場所を無くして揺れた。

 

「君には苦労をかけるね。……僕も好きだよ」

 

「エッ!?」

 

「チョコレート」

 

「あ、うん。美味しいからな。うん」

 

 短い抱擁の後でネフライトはセラフィに大きな板チョコレートを押しつけた。

 

「元通りになったのならばいい。今年はやることが盛りだくさんだ。──たとえば、この『必要の部屋』の事とかな」

 

 ネフライトの言葉に全員が注意を向けた。

 すっかりいつもの調子を取り戻したセラフィが衣嚢から一枚の羊皮紙を取り出し、彼に渡した。

 

「そうそう、君から頼まれていたことを果たそうか。はい、これ」

 

「ああ、素晴らしい。君は、やれば出来る人だと前々から思っていた」

 

「──なぁに? なぁに?」

 

「──知らん話を進めるな。何の話だ」

 

 テルミとクルックスが説明を求めるとネフライトは、薄く口を開く。『きょうだい』である他の三人には、それが彼の笑みだと知っていた。

 

「『必要の部屋』! 実に不思議だ。とても不思議! この部屋は何を叶える? この部屋は誰のどんな望みまで叶えてくれるのか。把握してから使う必要があるだろう? 『使えるから使う』という思考はヤーナムの狩人的には正しいが、それは吟味も研究もする暇のない場合にのみ許されるべきである。ゆえに今の私達は、きちんと調べてから使うべきなのだ」

 

「もう使っているけれどね?」

 

 テルミの発言に華麗な無視を決めたネフライトは、報告書の羊皮紙をクルックスに投げた。

 ネフライトは一度見たものは忘れない記憶力の持ち主なので一瞥で十分だったのだ。

 

「というワケだ。これまでに何度か使っているというセラフィに依頼して、使用時に『どのような願いで、どんな部屋になったのか』という記録を取ってもらっていた。これは、今後も続ける必要があるだろう。そのため記録帳をこちらに用意した。使ったらキチンと書いておくように。そして、私達が使う時は『部屋の中身が継続して使える状態』であることが好ましい」

 

「継続して使える? どういうことだ」

 

「今日クルックスが入った部屋に明日のテルミが入れるとよい、という意味かな?」

 

 クルックスの問いをセラフィが換言してネフライトに訊ねた。彼は「そのとおり」と頷いた。

 

「部屋の中身が増えることはよい。けれど、減らないように。──私達だけが知る合言葉を設定し、それを唱えるだけで我々にとっての『必要の部屋』となるように出来れば便利だな」

 

「合言葉か。9kv8xiyiとか。または8ewm2xxxや5p6rzey7、dppxirth」

 

「あ、最近dppxirthは消えたようですよ。いくら調べても繋がりませんでしたから。yaxanc5iとか、いかが?」

 

「y592byzaはどうかな。wyknbf8iは赤蜘蛛がいないところがいいね」

 

「有名な聖杯文字を列挙しろ、とは言っていない! あまりに予測が容易い! 言う前から分かっていた! ──はい。諸賢、そ・こ・で!」

 

 ネフライトは突然声を大きくした。

 

「私からの提案だ。お父様がよく呟く、『かねて血を恐れたまえ』にしたいと思う。諸賢、いかが?」

 

「異議なし」

 

「はーい、賛成でーす」

 

「僕は『カインハースト万歳』がいいと思う」

 

「多数決により『かねて血を恐れたまえ』になった。よいかな、セラフィ」

 

「いいよ。……いいえ、僕にも一応の立場というものがあるので言っただけだ。本気だけど、本気にしないでくれ」

 

「忠信厚いこと! 涙が出そうだ。『きょうだい』に対する献身もそうであるように望む。──さて。諸賢、一度外に出てくれ。さっそく実験してみよう」

 

 ネフライトは、クルックスに『必要の部屋』に関する本を渡した。罫線だけが書かれた白紙の本だった。表紙には、何の懐疑も抱かせないであろう文字、『宿題計画』と綴られていた。

 なるほど。クルックスはネフライトの行き届いた配慮に頭が下がる思いがした。

 誰が持っていても表紙は不自然ではないし、中身も部屋を使用した目的と使用時間、ついでに勉強の進捗を書いておけばバレない。素晴らしい体裁だ。

 

 四人は部屋の外に出た。『必要の部屋』は退室から間もなく石壁に吸い込まれるようにして消えていった。

 ハロウィーンの祭日ということもあり、ゴースト一体なく、人の気配はない。テルミとセラフィが廊下を見張り、ネフライトに合図を送った。

 

「それで、最初は何と唱えるんだ」

 

「『あらゆる活動を行う場合に求められるモノを全て備える空間、且つ、それはクルックス・ハント及びネフライト・メンシス、テルミ・コーラス=ビルゲンワース、セラフィ・ナイトのみが入退出できる空間であり、先の名の者が「かねて血を恐れたまえ」と言った時に常に作られ、開かれる空間を望む』だな。何をするにしても『あらゆる活動』という文言でまかなえるハズだが、もし、何か条件を付け足したくなったらこの言葉の後で『且つ、あれこれが必要』と加えればいい。……とはいえ、そもそも条件の長いこの望みが聞き届けられるかどうか疑問だ。これまで使用した部屋の成り立ちにおいて、これほど条件を付け加えたものはなかったようだから……」

 

 うむ。クルックスは頷いた。

『必要の部屋』に願ったことはこれまで短い願いだ。たとえば昨日の勉強部屋を作るときは『勉強が出来て、休める部屋が欲しい』と念じながら石壁をうろうろした。

 

「取りかかる」

 

 ひと言、ネフライトは呟いた。

 彼が往復するのは『バカのバーナバス』が、トロールにバレエを教えようとしている絵が描いてある、大きな壁掛けタペストリーの向かい側。一見にして何の変哲もない石壁だ。部屋の前を行ったり来たりし始めた。石壁の前を通り過ぎ、窓のところで折り返し逆方向に歩き、反対側にある等身大の花瓶のところで再び折り返す。ネフライトが眼鏡の奥で目を閉じているのが見えた。

 

「あら!」

 

 嬉しそうなテルミの声でネフライトが目を開いた。

 セラフィもテルミも石壁に近寄った。みるみるうちに石壁は消え、代わりにヤーナムにしばしば見られる両開きの扉が現れた。

 

「何度見ても不思議だね」

 

 しみじみとセラフィが言った。クルックスも同感だった。

 ネフライトが樫の木で出来た扉に手を掛けた。その時だった。

 

『……あいことばだ……』

 

 扉の内側から声が聞こえた。

 

「えっ?」

 

 ネフライトが振り返り、三人の顔を見た。全員がここにいた。

 クルックスはネフライトの肩を押さえて下がらせた。

 

「俺が最初に行こう。『かねて血を恐れたまえ』」

 

 果たして。扉は開かれた。

 クルックスは、扉の先へ衣嚢から取り出した銃を向けたが、その先にはうずたかく積まれた本の上に骸骨の模型が置いてあるだけだった。

 銃口を向けたままクルックスは呟いた。

 

「……この光景は前に見たことがある、ような……。俺の記憶……? いいや、前の記憶だ……。ずっと前……これは……お父様の……」

 

 クルックスにとって未知の記憶だが自分でも探り得ない、もっと深いところでは、目の前の光景とよく似たものを知っているようだった。

 

「不思議だね。今さら骸骨ひとつで驚きはしないが……。ああ、でもこの骸骨は作り物のようだ。不思議だね。誰かがわざわざこれをこの部屋に持ち込んだのだろうか……?」

 

 セラフィの声で思索から戻ってきたクルックスは「ああ」と頷いて銃をしまい込んだ。

 部屋に入り、まず目に入ったのは、四人が広々と座れる大きなテーブルと椅子だ。窓のない部屋だが、天井に釣り下がったシャンデリアに灯る焔と暖炉で躍る炎のおかげで部屋全体が明るい。

 

「棚があるのはいい。いろいろと私物を置けそうだ」

 

 壁際にカーテンのかかる場所があった。

 テルミがカーテンを引くと簡易なベッドがあった。

 

「ひとつしかないようですね。仮眠する程度には、よさそうですが。残念ですね、ネフ」

 

「私は花壇がなくて残念だよ、テルミ。そろそろ君を埋めたいと思っていたんだ。墓碑の文字も考えてある。『死ぬべきものが死んだ。めでたし』。冗談はさておき。あとで花壇を作ろう。医療者として魔法薬というものを真剣に作る必要がある」

 

「ええ。そうですね。身を癒やす術を学んでおくことはよいでしょう。ハナハッカなどは、輸血液の節約にもなりそうです。あ、輸血液と言えば──見て、ネフ! 採血用具の一式があるわ! 注射器はいつものガラス製ですね。熱湯で消毒すればよいですが……あら、魔法界には非魔法族のディスポーザブル(使い捨て)の考えは到達していないのかしら……?」

 

「後ほど限界を調べる必要がありそうだな。──諸賢、注目」

 

 ネフライトが両手を叩き、部屋や物品の確認をしているクルックスとセラフィの注意を引いた。

 

「概ね目的が達せられる部屋が出来たと思う。仕掛け武器を使いたいときは、このテーブルを端まで動かして空間を確保してくれ。四隅に寮色の間仕切りがあるだろう。その先を、それぞれの個室とする。互いに許可なく入ってはいけない。本は読んだら書架に収め、ビルゲンワースの学徒のように散らかさないこと。……それから、これが最も重要なことだが入り浸りになってはいけない。周囲に怪しまれることは避けなければならないからな。深夜に廊下を歩く時は、青い秘薬の常備を忘れないことだ」

 

 三人が口々に了解を告げ、ネフライトはひとつ息を吐き出した。

 

「このような便利な部屋があるのならば、もっと早く使いたかったものだ」

 

「仕方ない。噂はあれど、多くの生徒は特定まで至らなかった。昨年、俺も偶然見つけたものだからな。……ああ、そうだ。事前に伝えておく。俺は休日前の深夜に宿題の片付けのためここを利用する。参加希望者は大歓迎だ」

 

「早めに宿題を片付けるのね。いいと思うわ。わたしも来ようかしら。交友関係の進展は真夜中に期待できませんから。貴方の宿題も見たいです」

 

「助かる」

 

「私も来るだろう。……教育の問題がある」

 

「いいと思う。今後『きょうだい会議』もここで出来そうだ。聞かれて憚ることは少ないが、念のため、聞く人はいない方がいい」

 

 次に会う日を確認し、四人は廊下へ出た。

 木製の扉は人が外へ出るなり、石壁の中に吸い込まれるように消えた。セラフィは再び「不思議だね」と言った。

 階下に向かって廊下を歩きつつ、ネフライトが言った。

 

「最後にひとつ。クィディッチ開催初日の多くの生徒が城を離れる機会に、あの部屋の本格的な調査を行う。朝食を摂ったら集合してほしい。ヤーナムに関係のあるものがこの城のどこかにあれば、部屋の中で発現させることが出来るのではないかと私は疑っている。期待値は高くないが確認は必要だ」

 

「ああ、それは大切だな。了解だ。──では、本日は解散と、むむっ、何だ……?」

 

 ハロウィーンの晩餐において。

 例年ならば生徒がぼちぼちと各寮に帰る時間帯に差し掛かっていたが、大広間には人がごった返している。全寮の生徒が停滞し、しかも奇妙な興奮がさざめきのように広がっていた。

 四人の知らない間に何事か異常事態が発生したのだと分かった。

 

「……寮のテーブルに戻った方がよさそうだな」

 

 四人は互いに視線を交わし、今度こそ解散した。

 監督生と先生が余裕のない顔で忙しく駆け回り、ただごとではない雰囲気である。

 さも手洗いから戻ってきた風にクルックスは取り澄まし、寮生の集団のなかに加わった。

 

「席を外していた。何があったんだ?」

 

 大広間に「寝袋を配ります」というマクゴナガル先生の声が響く。

 クルックスは、グリフィンドール寮生のなかで奇妙に落ち着いた顔をしているハリーに声をかけた。

 

「……たぶんシリウス・ブラックが、グリフィンドール寮に入ろうとして『太った婦人』を襲った」

 

 クルックスは訊ね返した。むろん人混みの騒音のなかで聞き間違えたワケではない。

 知る人は皆、今年のホグワーツ城の警備は完璧だ、と言う。

 それが一夜のなかで音もなく破られたことは、彼にも大きな衝撃をもたらしたからだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「やぁ、君。大変な騒ぎだね」

 

「情報が錯綜していて何が何だか分からないわ。校長から待機指示が出たからこうして留まっているけれど……。『グリフィンドールでシリウス・ブラックが大暴れ!』とか──とにかく、シリウス・ブラックがいるとかいないとかで大混乱していて……セラフィ!?」

 

 ハロウィーンの宴に影も形もなかったセラフィがひょっこり現れたのでダフネはその場で跳び上がった。

 

「シリウス・ブラック? なぜ? 巷の殺人鬼はホグワーツが懐かしくなってお礼参りに来たのかな」

 

「たぶんだけど違うわね確実に」

 

「発言に矛盾が生じているようだ。どうして違うと思うのか」

 

「闇の魔法使いが最も恐れているのは、ダンブルドアよ。シリウス・ブラックだって彼は怖いでしょう。近付きたくないハズよ」

 

「けれど彼は来た、らしい。困ったな。また矛盾が発生したが?」

 

「ダンブルドアは怖い。けれど来なければならない理由、それは──」

 

「またハリー・ポッターか」

 

「もう。どうして先に言っちゃうの? ……というか、例の事件のことを知っているってことは、あなた、新聞とかちゃんと読む人だったのね……」

 

「僕はたいていのことがどうでもいいけれど無知を誹られるのは不本意だ。ちゃんと読んでいるよ。『日刊予言者新聞』は、一クヌートの新聞だ。金額も覚えている。一ガリオン払おうとしてふくろうと揉めたことがあるからね」

 

「あのふくろうと金額で揉めることが出来る魔女はそういないでしょうね。とにかく、ハリー・ポッターが狙いだったに違いないわ。だからグリフィンドールに入ろうとしていたのよ。今日がハロウィーンでなければうまくいっていたのかも……。でも、問題はそうではなくて、一番大事な問題はシリウス・ブラックの目的なんてことではないのよ」

 

「と言うと?」

 

 セラフィは回答を先取りしてしまわないよう相槌をうった。

 ダフネはポンと手を叩いた。

 

「皆が不愉快な思いをして吸魂鬼をうろつかせているのに今回も役に立たなかったのは大問題だわ。それを許可しているダンブルドア校長にとってもね」

 

「それはごもっともな話だ」

 

「だいたいアズカバンの看守をしている吸魂鬼に城を見張らせるってことが間違いなのよ……。ブラックがアズカバンを破ったのは『幸運』でも『まぐれ』でもなかったって、生徒の命を危険に晒して再確認しただけじゃない」

 

「ふむ。何か吸魂鬼を無効化する手段があるのだろうね。その方法は、僕も気になる。シリウス・ブラックは、たとえば……そうだな。吸魂鬼を畑の案山子に変身させる術でも持っているのかもしれない。ご教授願いたいところだよ」

 

 セラフィの言葉は。

 シリウス・ブラックの真実における『方法』の面から見れば、正解に近いことを口にしていた。そのため、ダフネは長々と息を吐き、彼女の常識外れを指摘した。

 

「亀をティーポットに変えるのだって一端の魔法使いでも苦労するのに、吸魂鬼を案山子にするなんて出来るワケないわ。そんなことをするくらいなら──」

 

 その時、寝袋を配布するというスリザリンの監督生の声に二人の意識は逸らされた。

 ダフネが口にした『そんなことをするくらいなら』に続くべき言葉は、『闇の魔術に対する防衛術』に精通した先生であれば詳しく語ってくれたのかもしれなかった。

 




セラフィは元気になった!
 出自の異常のため、そもそも不調になることが少ない仔らは不調からの立ち直り方を学習することから始まります。セラフィは自分が不調であることを認めつつも同時に「自分にそんな事態は起こりえない」とも自分の精神について過大評価していました。なぜなら「心弱い僕は存在しない」から。思考と心と体の状態がバラバラになった為、不調が長引きました。今回は、たまたまセラフィに起こりましたが実のところ誰でも起こりえることです。自分では大したことがないと思っていることに心乱される。そんなことが多いためです。失ってから気付くこともあるのでしょう。自らの血が甘いことに気付くように。ただし、今回は何も失わないうちに気付くことが出来たようです。──未来の話はいい。心が弾む。


便利な部屋を手に入れた!
 後日、聖杯文字を入力したらどうなるのか調べるネフライトは存在し「なんの成果も得られませんでした」と後にレポートされます。父たる狩人は「だろうねぇ」と言ったそうです。──だろうねぇ。


クルックスの手紙の末路
 夏休みに送り、レオーに届けられた手紙です。──レオー様が読んだのに、どうして鴉が中身、知って、え、お茶会するんですか!? 俺と貴方とセラフィで!? なんで!?
 圧迫面接の茶会が始まる。


シリウス・ブラックのお礼参り
 原作を読む限り、たぶん一番頭のネジがパピヨン飛んでいた時分のシリウスなんじゃないかなって思います。『太った婦人』の襲撃は後にダンブルドアがハリー達に言いますが「無実の人間らしい振舞いをしなかった。」の例の筆頭に上げるくらいの暴挙で、しかも『太った婦人』がどういう性質のものか、当然、シリウスは知っているワケですから……精神アズカバンされた魔法使いってコワー。やっぱりマンティコアを自由行動させているドイツのアークスタークの方がよっぽど人道的に(ランプの消える音)。


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ハロウィーンは去れり



人、動植物に宿り心の働きを司り、生命を与えている原理。

古くより魔法族は魂の存在を認知していた。
『神秘』に属する多くを知る必要はない。だが、感じたのだろう。
彼らを死に至らしめた時に引き裂かれるような苦痛を。



 十月三十一日。

 ハロウィーンの宴の会場となった大広間では、全寮の生徒が就寝することとなった。

 寝袋のなかでクルックスは犯人とされるシリウス・ブラックのことを考えていた。

 考えているのはクルックスだけではない。周りでも皆が同じ事を話し合っていた。

 

「いったいどうやって入り込んだのだろう?」

 

 ──『姿くらまし』を使ったんだと思うな。

 そう話すのはすぐ近くで寝袋を広げ始めたレイブンクロー生だ。

 それを聞いて、腹立たしそうにハーマイオニーが「『姿くらまし』は校内で出来ません」と解説した。

 

「『ホグワーツの歴史』に書いてあるわ。ホグワーツを守っているのは城壁だけじゃないのよ」

 

 クルックスは『姿くらまし』の原理が分からない。現在の夢を見る狩人達が移動するときには必ず狩人の夢を介すが、魔法使いはそれを経ずに、しかも好きな場所に現れることができるらしい。移動中の肉体がどのような状態になっているのか。ネフライトは気になっているらしいが、クルックスも気になっている。

 だがハーマイオニーの言うとおり、学校の敷地内にかけられた魔法のため『姿くらまし』の可能性はない。また、『太った婦人』の絵画は切り裂かれていたそうだ。切り裂ける刃物を持っていたということは『杖を持っていない』という可能性があり得る。魔法の行使は現実的ではない。

 だからこそ、多くの人々には疑問なのだ。

 どうやって入り込んだのか。──クルックスは、眠気がやって来た頭で考える。

 目を閉じて、脳裏に刻んだ文字に集中する。

 連盟のカレル文字『淀み』に反応はない。

 距離が遠いせいだろうか。それとも、たかが犯罪者に虫は宿らないということなのか。しかし、大量殺人犯だとも聞く。魔法界ではいったい何人殺せば虫が宿るのか。数か? それとも殺人の質だろうか? ……ここまで考えが至ったところで『質』という考え方は、クルックスの心にどんよりと暗いシミを作った。ヤーナムで獣となり、虫を宿した人々の全てが殺人を犯しているハズがないと信じていたいからだ。

 

(魔法界で虫を宿した人は、自らの人心の淀みから発したものなのか? ヤーナムに関係ある人物という線もなきにしもあらず。お父様は二〇〇年以上、獣を外に出したことはないとおっしゃった。しかし、人は? 出入り出来た人物はいる。魔法使いは、数こそ少ないがしばしばヤーナムを訪れたと聞く。ヤーナムの輸血液は、水より手に入れるのが易い。魔法が使えれば、その辺の市民から巻き上げることもできるだろう。水と等しく必要で、時に硬貨より価値を持つのがヤーナムの輸血液だ。……しかし、訪れた魔法使いがキッカケだったとして、彼らが百年以上生きるのは稀だ。となればヤーナムの輸血液ないし『何か』が子孫に受け継がれて……?)

 

 消灯のため大広間の蝋燭の炎が一斉に消えた。

 それからしばらく、まだお喋りをしている生徒を静かにさせるため生徒の間を監督生が歩き回り注意する声が遠くに聞こえた。

 

 クルックスも寝袋にすっぽり頭を埋めて考え事をしないように努力した。

 慣れない環境でしばらくそうしていた。朝方になりようやく浅い眠りを得ることが出来た。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 翌日、シリウス・ブラックの話で城内は持ちきりだった。

 クルックスは、朝方まで寝付けなかったせいで日の光を見るだけでガンガンと頭が痛い。加えて、今日ばかりは女子生徒の高い声がキンキンと耳を刺激した。どうやら自分は寝不足になると神経過敏になる節があるらしい。

 

「どうやって入り込んだと思う?」

 

 周囲の話題に触発されたネビルに訊ねられる。

 クルックスは昨夜から用意していたことを話した。

 

「校内に入ったのならばナイフ一本あれば城壁を上ることができる。つまり非魔法族でも出来ることだ。だから城に入った方法より、吸魂鬼を出し抜く方法に注目した方が良いのだろうな。その方法は、アズカバンとかいう監獄を脱出した時と同じだろう。……シリウス・ブラックには他の魔法使いにはない、何か『とっておき』があるのだろうな」

 

「吸魂鬼を出し抜くってどうやるの?」

 

「さぁ。分からない。こういうのはルーピン先生の専門だろう。俺が思いつくのは、せいぜい、そうだな。ものすごい速さで移動する、とかどうだ? 箒とか」

 

「吸魂鬼は箒より速いと思うわ」

 

 そばで朝食を食べていたハーマイオニーが、山のように抱える本の中から『世界で最も穢れた魔法生物全集』を取り出した。

 ──誰も吸魂鬼の体重を量ったことはないが、彼らには脚が無い。人体でいうところ約三〇%が存在しない。胴体が欠けていればさらに二〇~四〇%存在しないことになる。

 

「だからたぶん、とても軽いのよ」

 

「でもハーマイオニー、フーチ先生が言っていたけど授業用の箒でも時速一一〇キロ出るんだ。ニンバス系の競技用の箒ならたぶん時速一五〇キロくらい出るだろうし、世界最高峰のファイアボルトはたった十秒で時速二四〇キロまで加速するんだ。吸魂鬼を振り切れるとは思わない?」

 

 サンドウィッチを囓っていたハリーが早口でクルックスの『箒で突撃説』を支持した。

 ハーマイオニーは鼻で軽く笑った。

 

「吸魂鬼が『ヨーイ、ドン』で競争してくれるなら、ほんの数秒勝てるかもね。でも相手は学校の周りだけでも百体以上いて、水も食べ物も要らない生き物ということをもっと真剣に考えるべきだと思うわ」

 

「なるほど。飲まず食わずではこちらが干からびるな」

 

「だいたいシリウス・ブラックが店頭に並んでる箒を買えるとは思いません。吸魂鬼も空を警戒しているハズよ。ふくろうが飛ぶより目立つでしょうし」

 

 まるでマクゴナガル先生のようにキッパリとハーマイオニーは言い切り、ベーコンサンドウィッチを食べた。正論である。

 

「じゃあ、変装とか?」

 

 ネビルが言った。それを聞いて周囲のほとんどの生徒は小さくクスクスと笑った。『まね妖怪』でスネイプをハゲタカの剥製付の滑稽な姿にしたことを皆が思い出したからだ。ネビル自身「おかしなことを言っただろうか」と不思議そうに周囲を見たが、ややあって彼も『まね妖怪』事件を思い出し、申し訳なさそうに笑った。

 

「変装は意味がないでしょうね。ホグズミード行きの時に校門を見たでしょ。ああやって吸魂鬼たちの警備が入り口全てを見張っているの」

 

「『見張る』? 吸魂鬼には瞳があるのか?」

 

「それは……さあ……?」

 

 吸魂鬼が厳密に視界だけで生活しているとは思えなかった。暗い世界の生き物には灯りが必要ないのだろうか。それとも月の光だけで十分なのか。

 

「どうして気になるのさ」

 

 ロンが眠たげに訊ねてきた。

 今度の質問は、クルックスにも答えることが難しい。感覚的なことだったからだ。

 

「吸魂鬼はボロボロのローブのようなもので全身を覆っているだろう。目があるにしては不自由な格好だ。だから、彼らにはもっと原始的なもので生物を感知しているような気がする……。なぜ吸魂鬼は、特に影響の受けやすい人を見つけ出すことができるのだろうか? 視覚に頼らない特別な感覚器官があるのかもしれない」

 

「それはあるかもね。フードの中身がどうなっているか知っている人は少ないでしょうけど……」

 

「どういうこと?」

 

 ハリーが手を止めて訊ねた。

 

「吸魂鬼の顔を見た人は、もうまともじゃなくなっているの。悍ましいものだわ。……魂を吸い取るなんて」

 

「たましい!?」

 

 クルックスは、声を裏返して繰り返した。

 

「ひょっとして魂があると信じているのか? 魂? そんなものが存在するのか?」

 

『魂』という概念は知っている。しかし、それは言葉の意味を知っている程度のものだ。人の肉体に宿るとされる霊魂。似たような概念をヤーナムでは遺志と呼ぶ。決して魂とは呼ばない。同一視されていないからだ。

 

「魂が、本当に? 君達にも?」

 

 クルックスは隣に座るハーマイオニーを見つめた。

 

「魂はどこにある? 君の、君達の──」

 

「ちょっと」

 

 ハーマイオニーは分厚い本でクルックスの視線を遮った。クルックスはハーマイオニーのスカートを熱心に見つめていた自分に気付き「すまない」と目を逸らした。

 

「し、失礼した。だが、俺は──死体でも、あ、いや──魂なんてものを見かけたことがない。君達は見たことがあるのか?」

 

「ないわよ。でも実際にそれを吸い取るモノがいるなら、あるんでしょう」

 

「おいおい、吸魂鬼の吸『魂』鬼を何だと思っていたんだい?」

 

「ものの例えかと思っていた……。魂は実在するのか……? なんということだ。では、ひょっとして、ひょっとして、魂は、俺にもあるのだろうか……? いや、まさか……そんなハズは……」

 

「吸魂鬼に聞きにいかないでくれよ」

 

 ネビルが、かなり心配そうに言った。

 ばたばたと気だるい朝食を終えると半日ぶりに寮へ戻った。教科書を取りに行くためだ。

 昨夜、切り裂かれたという『太った婦人』の肖像画は取り外され、代わりにずんぐりしたポニーに跨がった『カドガン卿』の肖像画が掛けられた。

 これには寮の全員が大いに困った。合言葉は複雑になり、少なくとも一日に二回は合言葉を変えたからだ。

 それから数日後。

 とある夕食後、寮に出入りする生徒が減った頃を見計らいクルックスは談話室を出た。

 インク壺を持ち、ペンを咥え、小脇には手記を持って『カドガン卿』の前に立った。

 

「ええい、卑怯者! 戦え、若人よ! これは互いの名誉ある決闘ぞ──」

 

「キリがないのだ。合言葉がこうも変わるのでは。……まあ、一応の礼は尽くさねばな」

 

 狩人の一礼をしてから、クルックスは勇ましく宣戦する『カドガン卿』の言葉を遮った。

 

「ドウドウ。騎士なる御仁、今週使う合言葉を全て教えてくれ」

 

「汝、知を求めし者であったかっ! よいぞ! しかと我が言葉を聞くよい『秋に寄せる、ヒバリの囀り。君を鳥と呼ぶ、思われ人よ』」

 

「秋に寄せ……ん? ちょっと待ってくれ、カドガン卿。これは四日分か?」

 

 フンフンと鼻を鳴らし、手記に合言葉を綴り始めたクルックスは目を瞬かせた。

 

「おおっ若人よ! 明日の午前中の合言葉である! 明日の午後の合言葉は『湖の畔、イカの──』」

 

「待て待て、まだ書いていないぞ! ヒ、ヒバ、ヒバリの囀り……うん? ヒバリって何だ?」

 

 クルックスは三〇分かけて今週の合言葉を聞き取り、書き上げた。

 えらく手間だが、聞いておいて良かったという気持ちだ。知らない間に合言葉が変わって授業に遅れそうになったことが何度かあった。

 

「ふぅ。ご協力ありがとうカドガン卿。次回はもう少し短い合言葉にしてくれ。俺にはとても覚えられない」

 

 すぐに「軟弱者めがっ!」という叱責が飛んでくる。

 この調子でクルックスはカドガン卿が壁に掛かっている間、休日明けに一週間の合言葉を聞き取ることになった。

 いちいち反論するのも煩わしくなり「俺は貴公のように勇敢ではないからな」と下手に出てみた。

 

「ハハハ! 役に立てたのであれば騎士の誉れであるっ! いざ行かん、若人よ!」

 

「ああ、はいはい。おやすみだ」

 

 クルックスは手を振った。自分で書いた長い合言葉の群れを見て「一刻も早くネタ切れになってほしい」と強く思った。

 寮へ戻ろうとしたところでネビルが階段を昇って来る様子が見えた。

 

「入らないの?」

 

「ああ、今週使う予定の合言葉を聞いていたんだ」

 

 ネビルと共に寮に入ってから彼に頼まれた。

 

「合言葉、写させてもらえないかなぁ……あんなに長い合言葉、覚えられないよ」

 

「構わないぞ」

 

「ありがとう!」

 

 ネビルが羊皮紙に合言葉を書き写している間、クルックスは談話室のソファーに座ってネフライトから頼まれていた父たる狩人へ提出する書類を読んでいた。夏休み中にダイアゴン横丁で購入したタイプライターで書かれた文章はブロック体の視認性の高い文字で綴られていた。

 ネフライトはどのような時間の使い方をしているのか分からないが、毎週決まった文章量の論文を書き上げていた。彼の頭には、いつも色とりどりで温度さまざまな言葉が飛び交っているらしい。異なる神秘に対する興味のネタには尽きないのだろう。クルックスも彼の興味がどこにあるのか、いつも気になっている。

 今週の論文も興味深い。ちょうど『闇の魔術に対する防衛術』の授業で取り組んだものだった。

 

「人狼か……」

 

「人狼がどうしたの?」

 

「『闇の魔術に対する防衛術』のルーピン先生の代わりにスネイプ先生が来て授業をしただろう。興味深い話だった。人狼とは、人間と狼を行き来する存在だと聞く。──『人間になり損った獣か? 獣に堕ちた人間か? どちらで認知されているのか?』」

 

 ネフライトの論文が投げかけた疑問を、クルックスはネビルに提示した。論文はその後、人狼の定義からはじまり社会的な存在の考察まで行っているようだ。それはそれとして、実際に魔法界で生きる人々の認識はどうなっているのか、こうして聞き込みをすることは貴重な情報となるだろう。

 ネビルは曖昧に唸り、何と言うべきか言葉を探しているようだった。

 

「どちらでもない、かな。可哀想な人たち……だと思う」

 

 可哀想、という感想は、どう扱ってよいものか。

 彼は聞いておきながら持て余した。

 

「……。人狼は、人狼となった者に噛まれることで伝染するものだとも聞く。……血液感染。身に覚えのあることだ。ここにもあるのだな」

 

 半分ほど独り言だったが、それを聞いたネビルはギョッとした顔で身を引いた。

 クルックスはすぐに言葉足らずだったことに気付き「俺が人狼に噛まれたことがあるワケではなく」と言い募ろうとしたが、やがて口を閉じた。

 誰しも命の危険がある存在に近付きたくはない。

 その心理はクルックスにも分かる。死にきれない身を持つ者といえど見え見えの罠に飛び込んでいく愚は、ごく少ない。彼の反応が特別に異常や臆病だとは思わなかった。

 危険を恐れる時、人は無意識の心で危機の先にある死を見つめている。そのため危機に対し身構えるのは、あまりに普通で正しい反応だ。クルックスは衝撃をもってその事実を受け止めた。狩人は、しばしば危険を危険と認めつつそのなかに飛び込んでいく必要があるからだ。危険の前で立ち止まることが、いかに『まとも』であるか思い知らされた気がした。

 

「よく考えてみたら、君がいなかった日はないから人狼ではないよね。ああ、ビックリした」

 

「ネビル、君は、とても素晴らしい。……俺は魔法族の常識が欠けていることが多いが、実は、人間としても早熟なのだ。知らないことがたくさんある」

 

「ほ、褒めてるの?」

 

「褒めていない。事実を述べているだけだ。──さて、問題は人狼だ。まあ、言葉にしてもらわなくとも人狼がどういう扱いの存在であるかは分かった。つまり狼人間とは『できるだけ死んで欲しい生き物』ということだな」

 

「そ、そこまでは言わないよ」

 

 ネビルの否定をクルックスはグリフィンドール生らしい良心溢れる態度と受け取った。

 そのため。

 

「遠慮することはない。そして良心の呵責も不要だ。なぜならば、人の命を脅かす獣は全て死ぬべきで殺すべきなのだからな。当然の帰結だ。そうだとも。君は俺と同じくらい正しい。自信を持つといい」

 

「危険だけ考えれば、そういう意見もあるんだろうけど。でも、ばあちゃんが言うには『あの時代、先頭に立って戦ったことで噛まれてしまった人がいる』って。勇気と名誉の負傷だから人狼を全部ひっくるめて、そんな、できるだけ死んでほしいなんて言えないよ」

 

「……では人狼は隔離されているのか?」

 

 クルックスはヤーナムの旧市街を思い出している。

 消えることのない炎から煙が漂う、捨てられた町だ。あそこでは、ヤーナムでは唯一──と言って差し支えない──獣が人間の数より多く闊歩する街だ。旧市街へ続く市街や隠し街からの道は通行不可能な場所となっており、且つ、旧市街を守る狩人が旧市街までの道を時計塔に設置されたガトリングで四六時中狙っている。不自由な地理と古狩人の命がけの献身により、ようやく存在は黙認される。獣の脅威を医療者から市民の全てが知るヤーナムにおいてはそうだ。

 

「危険な人狼といえど殺せないのなら管理されていなければならない。しかし、そのような噂は聞かないな?」

 

「管理は……されていないと思う。……人狼には、ああ、ええと……人権があるから……」

 

「じん、け……人権? 人権……? 待て。言ってくれるな。それくらい俺にも分かる。恐らく『人間であるための権利』というものだな?」

 

「違うよ!?」

 

 ネビルにまじまじと顔を見つめられた。どうやら質の悪い冗談を言っていると疑われたらしい。

 

「──たぶんマグル学の先生にそれを言ったらトロール並って言われるよ。人権って、えーとえーと、なんて言うんだろうな。人間なら、当然持ってるモノ、みたいな……?」

 

「なんと。正しく啓蒙的発想だな。……さすが二〇世紀だ」

 

 クルックスが隔世をしみじみと感じている傍らで。

 これまでの彼らの話を聞いている者がいる。テーブルいっぱいに広げた宿題片付けつつあるハーマイオニーは、鼻先がムズムズと痒くなる思いをしていた。

 ──とても会話に割り込みたい。

 まず「人権の興りとは、一八世紀に国家権力からの自由を意味するものとして出発していて、ネビルが言った当然に持っている権利という考え方は細かくは社会権の役割で……」と話に割り込みたい。そして次に人狼に対するクルックスの思考の歪みを指摘したい。親を獣に殺された過去があるのだろうか。だが席を立ち上がって聞きたい気持ちをまだ堪えていた。なぜなら、ハーマイオニーの予想が正しければ、人狼の存在は彼らが思っているよりも身近に存在するのだ。

 

「人狼が非魔法族を噛むと、噛まれた彼らは失血で死ぬらしいな」

 

 クルックスは、鞄から教科書を取り出して後ろの項を読み始めた。

『動物もどき』と人狼の違いについて書いてある。そのなかのひとつに発生方法があった。

 

「魔法使いであれば、銀粉とハナハッカによる特別な対処が必要だが生き延びることもできる。もっともスネイプ先生に言わせれば、人狼になることを拒み『死なせてくれ』と嘆願する悲話もあるそうだが」

 

「つまはじきにされるのに耐えられないんだろうね。……家族があれば家のなかにいても周りの目が、きっと気になってしまうだろうから……」

 

「……?」

 

 クルックスはビルゲンワースの学舎という禁域の森の中に住んでおり、実感し難いことのため理解に時間を要した。

 さまざまな理由で孤立した場所に住む人々は、魔法族にも非魔法族にも存在する。使う技術の系統が違う彼らには、共通する問題がある。人間が生きていくために必要な要素。即ち、衣食住だ。特にも生命維持に必要な『食』に関することは、大切だ。

 水と輸血液と芋だけで二〇〇年以上もの時間を人間が暮らすことを可能にしたヤーナムは、魔法族と非魔法族のどちらの尺度で測っても狂っているため、こうした問題を論じる場合は、常に論外としなければならないことをクルックスは意識して実行しなければならなかった。普通ではない状態が普通であった環境にいた彼はしばしば、この手の思考の切り替えを求められた。

 ネビルの言いたいことはつまりこういうことだろう。──一般的に食料を完全に自給自足することは難しく、人間はどこかで他者と接点を持ち、交流をしなければすぐに乾き、飢えてしまうのだ。

 

「なるほど。道理だな。人間は、人間同士の関わりがなければ生きていけない」

 

「だから狼人間は、狼人間同士でまとまって生きてるとか何とか。僕の家の近くにはいないと思うから詳しくは分からないけど……」

 

「それは幸いだ。狼人間など根絶やしにすべきだからな。獣が人間の形をすることがあるのは、お互いにとって不幸なことだ」

 

「望まずにそうなったんだから、やっぱり悪くは言えないよ……」

 

「害あるものに必ずしも敵意があるとは限らない。だが、害は害なのだ。危険を予め摘んでおくことに何の躊躇いがあるだろう? お互いに傷つけたくないのなら、せめて隔離すべきなのだ。彼らには、その理性があるのに──」

 

 ヤーナムは、棲まう上位者の思惑により二〇〇年以上そうしてきた。

 けれど、まあ──クルックスは想像力を働かせた。

 街であるヤーナムは空間的な閉鎖が可能であるが、魔法界ひいては魔法族は一カ所に集中して住んでいない。ホグズミードが唯一の例外である集落だと聞く。多くの魔法使いや魔女たちは、小さな小さな集団で生活しているのだ。そんな小さな小さな集団からも爪弾きにされ、狼人間同士の集団で生活しているとすれば、魔法省が号令を掛けたとして素直に従うとは思えない。

 やはり根絶やしが確実だ。次の被害を生み出さないためにも。──クルックスは、結局その結論に辿りついた。

 

「隔離……うーん……難しいと思うよ。危険な魔法動物は狼人間に限らないから……危険の隔離を目的としてしまったら、たぶんキリがない」

 

「それもそうだ。魔法界も危険がいっぱいだな」

 

「そうなんだよ。危険がいっぱいなんだ。正直なことを言うとヒッポグリフも僕はかなり怖い。あんなに大きいんだよ? マルフォイなんか丸呑み出来そうじゃないか」

 

 話の結末を聞いてハーマイオニーが教科書に突っ伏したのを二人は知らない。

 クルックスはネフライトからの依頼に目を戻し、やがて仕舞った。

 明日はクィディッチ初戦、グリフィンドール対ハッフルパフが行われる。即ち、ネフライトが提案した『必要の部屋』の調査日だ。

 しかし。

 

「嵐が来るな。雨はどうも好かない。目も耳も鼻も火も役立たずになる」

 

 冬に向かうにつれ、天候は崩れ始めている。

 肌と髪に感じる湿気にクルックスは目を細めた。

 





魂があるのか
 クルックスは魂のことをこれまで「あー、あの、アレ、遺志に似た感じのアレだろう」とぼんやり考えていました。実在することを皆信じて疑わないのでビックリです。ま、まぁ、魂がなくても遺志があれば何でもできるし(筋力99)。けれど、でも、皆があるものを自分が持っていないのはすこしだけ悲しい。


人狼
 子供でも噛みついて人狼にさせるフェンリール・グレイバックとかいう真性のテロリストが存在することを知ればクルックスは一気に人狼根絶過激派になるかもしれません。え、連盟の時点で過激派? そんなっヤーナムいちまともな組織団体なのに──!?


魔法省と人狼
 このあたりの歴史については旧ポタモアのエッセーが本になっているので……読もう!
 どうせ差別されるならわざわざ名乗り出るなんてアホらしいよなァ!(人狼並感想)


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嵐のクィディッチ戦の裏側で(上)


『必要の部屋』
あったりなかったり部屋とも呼称される。
使用者が必要とする物を揃えるが、食料など『ガンプの元素変容の法則』の例外とされるものは現れない。
部屋が物質を新たに作り出すことはない。
かつて誰かがここに置いたのだろう。



 翌日。

 グリフィンドール対ハッフルパフは、最悪のコンディションと言うべき雷雨のなかで行われることになった。

 対戦カードではない寮生徒の行動はさまざまだ。クィディッチは、学校生活で数少ない娯楽である。雷雨など何のその。そんな心意気で寮を出て行く者がいる。

 

「ダフネの妹君、アストリア。君も行くのか」

 

「ええ、そうよ」

 

 青いレインコートを着込み、姉と一緒に寮を出ようとしているアストリアを見て、セラフィは腕を組んだ。

 

「風邪を引いてしまうぞ」

 

「余計なお世話です」

 

 彼女はサッとコートを翻すと寮を出た。ダフネは彼女が出ていった途端に困り顔だ。

 

「行くつもりはなかったのよ。今日は本でも読んでゆっくりしていたかったわ。わたしはね。でもアストリアが心配だから……」

 

「雷には気を付けたまえ。……僕にとっては天敵なのだよ」

 

「だから、あなたは行かないの?」

 

「……そういうワケではない。先約があるだけだ」

 

 二人は別れた。セラフィは懐中時計を見る。ネフライトが示した集合時間には、やや早い。

 立っているのも不自然なので談話室の空いているソファーに座る。 

 

「すこし早いのだ」

 

 セラフィは懐中時計を閉じた。

 テーブルを挟んで座っているのは、セオドールだった。

 彼は『実戦魔法薬』──魔法薬の学術書だ──から、目を上げた。その視線の先をセラフィはさり気なく確認した。いつもの大柄な取り巻きを二人揃えて彼は出ていった。

 

「ハリー・ポッターの一挙手一投足が気になって仕方がないらしい。スリザリンにコリン・クリービーのようなファンがいるとは驚きだ」

 

 ファンとは熱心な信仰者に対して使う言葉だ。視線の先にいた人物にはそぐわない。そのためセラフィは同意を求めるようなセオドールの目を見て、トンチンカンなことを言った。

 

「誰のことか。アストリア?」

 

「アストリア? ダフネの妹か。いいや、彼女はどちらかというとドラコに──あ、答えを言ってしまった。つ、つまらんことをするなよ」

 

「よく言われる。僕は間が悪いのだ。しかし、ドラコがハリー・ポッターのファンだとは初めて聞いたな。粗探しのためだと思っていたが、物は言いようだ」

 

「お貴族様が何かに固執して身持を崩すのを我が家はずっと見てきた。ドラコは、もうすこし賢い奴だと思っていたがな。御当主様も教育の匙加減を間違えることがあるらしい。マルフォイ家なんて『ブランド』があるのにポッターにこだわるのは意外だ」

 

「僕の見るところ。君のように欲しがらない人は珍しいと思う」

 

「歴史を反面教師にしているからな。手に入らないモノは何であれ最初から縁がなかったと思うべきだ。欲を掻くとたいていのことが裏目に出る。……『生き残った男の子』なんて今さらどうしようもないものにこだわるなど時間の無駄だ」

 

「なるほど。……ああ、ああ、けれど……尊い方は、満ち足りているからこそ他方が気になるのかもしれない……」

 

「おい。いま、ドラコが尊い方と言ったか? 聞き間違いだろうな。純血の度合いだって俺の方が──」

 

「僕と女王様の関係のことだ。尊い方の考えることは理解が難しい。けれど、足りないものはあっても心が満ちているから刺激が欲しくなるのかもしれない。愛すべき女王様……。ところで『純血の度合い』という考え方はすこし面白い。君達の言葉で言うところの……ええと……『六つと半ダース』。そんな言葉の使い時なのだろうね」

 

「六つと半ダース?」

 

「ああ、ちょうどいい時間になったようだ。それでは失礼するよ。──佳い日を」

 

 セラフィは立ち上がり、手をヒラヒラ振って去って行った。

 六つと半ダース。

 一ダースとは十二である。六は半ダースで、半ダースは六だ。

 

「『どちらを選んでも変わらない』。いや。『選ぶ価値はない』。違うか。『僕は選ぶ価値を見出さない』か。……相変わらず血に疎い女だ。いったいどんな泥から這い出てきたのやら……」

 

 暗澹たるヤーナム。

 彼女が故郷を語る時に謳うように出てくる言葉。その地名は、気がかりだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 八階までの廊下はすっかり歩き慣れてしまった。

『必要の部屋』までの道中でバッタリ出会ったテルミと窓から外の荒れ模様を見たクルックスは「中止にならないとは驚きだな」や「ねー、ヒドい天気よねー」と言い合いつつ八階の廊下にやって来た。間もなくネフライトとセラフィもやって来た。

 

「諸賢、定刻前に参集するのは善い習慣だと俺は思う。さて、生徒や先生の目がクィディッチに向いている間に片を付けてしまいたい。クィディッチは、あと一週間ほど続いてほしいものだ。金のスニッチを取るまでは終わらないという不自由な遊戯のようだからな。この天気ではきっと俺でも見つけるのに苦労する。──おっと。話が逸れてしまった。では、ネフ。作業手順の説明をしてくれ」

 

「承ろう。では手短に。──まず、目的は『必要の部屋』の調査だ。何が可能で何が不可能なのか。これを調べることが主題だ。次に安全性だ。各々よろしいか?」

 

 彼らは口々に了解を告げた。

 ネフライトは手帳を掲げた。

 

「では手段の話をしよう。私はこれから『必要の部屋』に対し、さまざまなことを要請する。テルミは記録係として私の助手を勤めたまえ。セラフィとクルックスには周辺の哨戒を行ってもらう。何かあれば鐘を鳴らしてくれ」

 

「意見あり。記録係は俺がやろう」

 

 クルックスは、テルミとネフライトの相性があまり良くないことを危惧した為、提案を行った。しかし当のネフライトがすげなく却下した。

 

「私達のなかで最も目がいいのはテルミだ。『発見力』という意味で、だがね。彼女には部屋を確認する作業をしてもらう。……案じることは何もない。今日は、私から仕掛けることはないとお父様に誓おう」

 

「求められるのであれば応えましょう。ええ、もちろん。喧嘩なんてしませんわ。お父様に誓って、ね」

 

「本当に?」

 

「ホントホント」

 

 テルミがニッコリ笑って言うのでクルックスは意見を取り下げた。

 

「哨戒を行うことは了解だ。通行人がいたら鐘を鳴らせばよいのかな?」

 

「生徒ならば鳴らす必要は無い。先生が来た時だけ鳴らしてくれ。何も咎められることはしていないが、ここにいる理由をいちいち話すことは煩わしい。鐘を合図に私とテルミは青い秘薬を飲んで姿を隠すだろう。そして私達から君達を召集する時も鐘を鳴らす。君達の警告は二度鳴らしてくれ。私達は三度鳴らそう」

 

「了解した」

 

「──試行をはじめる前に、よろしくて?」

 

 テルミの涼やかな声が、六角柱の檻の中にいるネフライトを振り向かせる。彼は、白い手袋に包まれた手を挙げる彼女を指名した。

 

「『必要の部屋』についての予想が聞きたいわ。貴方は、何か予測できることがあって部屋を試そうとしている。無作為に願いをぶつけ続けるわけではないでしょう?」

 

「答えよう。私は、この部屋がホグワーツの創設者ロウェナ・レイブンクローによって作られたものだと思っている。根拠は、いろいろと考えている。ホグワーツはさまざまな防護がされているのは知っているな? 知らないのならば『ホグワーツの歴史』を三回声に出して読むことだ。ともかく。城は勝手に改竄改築されないように魔法が掛けられている。最も分かりやすいのは城全体に防火の魔法が掛けられていることだろう。たまに生徒の不始末で小火が起きるのは、厳密には城の内部に存在する本の問題なので省略する。外からやって来た不逞の輩が放火しようとしても防護魔法に阻まれて『出来ない』という結果になる。延焼による城構造の改竄を防御の魔法が許さないワケだ。そして内部に至っても──」

 

 ネフライトは『必要の部屋』が存在する壁面を指差した。

 

「勝手に『部屋を作る』ということが出来ないようになっていると思われる。……もっとも校長の権限があれば違うのだろうが、それはそれとしてな。『必要の部屋』が作られた理由だが、本当は何かを隠すための部屋なのではないかと思っている」

 

「それにしては用途が広い。便利すぎないか?」

 

 セラフィが訊ねる。ネフライトは否定しなかった。

 

「よい着眼点だ。だが、多機能性を持たせることで『隠す』という目的自体を隠しているのかもしれない。つまり、この部屋の真の目的が隠し部屋であることを悟られないようにするための機能かもしれないということだ。多くの人は、この部屋を必要に迫られて、あるいは、ただ便利だからという理由で使うだろう。やがて、この部屋が作られた目的だと誤認する」

 

「美味しい話には裏がある……とかそういう類いの勘ぐりか?」

 

「そこまで疑ってはいない。あくまで予想だ。レイブンクローが作ったという予想にしてもそう。私がレイブンクローの遺した言葉『知は力なり』を体現する部屋だと思っているだけだ。この部屋の使い方を知っていることは、他者にはない強みになる。これもまた知るが故の力と言えるだろう。とはいえ、真相は不明だ。お人よしのハッフルパフが作った究極の善意かもしれないし、はたまたグリフィンドールの遊び心かもしれない。スリザリンではなさそうだ。地下に大きな空間をこしらえていたのだからな。こんな廊下の一角を陣取った程度で満足するまい。──予想はこんなところだ。満足したかな?」

 

「すごく満足よ」

 

「質問は以上だな。では各自、持ち場へ。散会」

 

 調査はクルックスの号令で始まった。

 雨が、外の窓には激しく打ち付ける音が妙に大きく聞こえた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「く、ぁ……」

 

 クルックスは、大きく口を開けて欠伸をした。

 雨の音ばかりが響く廊下は、人っ子ひとり、猫一匹、ゴーストの一体もいない。

 手すりに寄りかかり、遠くの足音に耳を澄ませている。

 見張りを疎かにするワケにもいかないのでこうして時間を浪費しているが、きっと反対側の廊下を見張っているセラフィも似たような時間の使い方をしていることだろう。

 

(土砂降りだな。屋根の下にいる観客は大丈夫だろうが、選手達はこの嵐のなかを飛んでいるのか)

 

 平日は学業に忙しい生徒の学校生活の息抜きとして、目まぐるしく攻防が入れ替わるクィディッチの刺激は楽しいものだと昨年度観戦したので知っている。しかし、もうすこし天候は選ぶべきだと思う。風邪をひく生徒がいなければよいのだが。

 暇を持て余すのは落ち着かない気分になる。何か有意義なことがしたい。

 思いついたことがあり、クルックスは手記を開いた。

 ヤーナムから持ち込んだ数少ない私物である手記にはクルックスが生まれてから現在までの間で学んだことを書き留めてある。ちょっとした走り書きから、父たる狩人の言葉までさまざまだ。

 最も新しい出来事は、満月の後にセラフィと休日前の勉強会をした時のことだ。

 満月。それは、セラフィがヤーナムで窶しの古狩人と会う約束をしていると言った日だ。

 クルックスは、手記をめくる。

 

 結果として、彼らの約束は果たされたそうだ。

 

 窶しの古狩人──手記を開いたところでクルックスは棚上げにしていた悩み事を思い出してしまった。

 彼が探しているという医療教会の狩人、ピグマリオンの行方をクルックスは知っている。

 医療教会の古工房を下りた先、捨てられた古工房にいるのだとテルミが言っていた。クルックスはテルミの言う古工房に行ったことはなかったが、父たる狩人が「あの辺にある」と市街を歩いているなかで指差したことがあるため、おおよその方角を知っていた。彼が指差した先は、谷だ。恐らく底にある。さして探す手間はかからないだろう。

 

 教えることは簡単だ。クルックスがセラフィにそれを話してしまえばいいのだ。

 だが、クルックスはどうしてもその気分になれず、『きょうだい』で写真を撮った日から今まで誰にもそのことを話していなかった。

 古狩人、シモンがなぜ月の香りの狩人を探しているのか分からない。ピグマリオンと会って彼は何をするつもりなのか。なぜ月の香りの狩人はピグマリオンを幽閉しているのか。テルミにだけそのことを明かした理由もクルックスにはさっぱり分からない。シモンは同じ医療教会の獣の皮を被った暗殺者にも追われている。いったいどういう立場の狩人なのか。

 父たる狩人も彼のことを放置しているようだ。いよいよ触れてはいけない問題なのかもしれないとクルックスは慣れない弱気に冒されている。

 もし、彼のことを狩人に尋ねるとしたらセラフィの用事が粗方済んでからの方がよいだろう。そうしてクルックスは問題を先送りにしていた。

 

 何かを『しない』ということは、『する』ことによって発生する問題が一切起きない、ということである。

 

 クルックスは当然のことに気付くのに三年半も掛かってしまった。そして、狩人が問題を棚に挙げて先送りし続ける理由にも。

 なるほど。何かをすることで「悪くなるかもしれない」と思えば、何をするにも億劫になる。それが善意や『よかれ』と思ったことであれば尚のことだ。

 しかし、永遠に先送りというワケにはいかないだろう。……人間を逸脱してしまった狩人ならば出来るのかもしれないが、クルックスはしないつもりだ。クリスマスまでに事態が動いていなければ、覚悟を決めて狩人にお伺いを立ててみようと思う。その先で彼がどんな判断をしても従おうと思う。

 

(……狩人同士で争わなければ、俺は、それだけでいいのだが)

 

 幼年期の上位者の揺籃の街において、全ての生死は些末な現象に成り果てている。かつて夢を見る狩人の死が、些末な問題であったように。そんな世界で命のやり取りほど不毛なものは無い──のかもしれない。それでもクルックスは獣狩りを続けることでいつか世界が好転することを夢見ている。狩人とてそうだろう。穏やかなヤーナムを見るための試行ならば、流される血は少なければ少ないだけ善い。

 

(信条の違いで、人はどうしても容易く殺し合ってしまうから……)

 

 それを防ぐための手段として、昨日、自分が言った「隔離」という言葉が思い浮かぶ。

 ──いいや。いいや。

 クルックスは緩く頭を振った。

 

(そんな……傷つける獣のような手段ではなくて、もっと人間らしく品位のある方法で……狩人らしく信条ある様式で……)

 

 この考え事も堂々巡りだ。

 そもそも狩人や学徒でさえ頭を悩ませ、現状維持に努めている問題を一気に解決できる策が浮かぶハズがない。

 自分にガッカリすることも、もう何回目か分からない。狩人の気持ちがクルックスにはよく分かる気がした。焦って手を誤るならば──とまた先送り。

 この先のクリスマスでは、いろいろと話すことがありそうだ。

 クルックスは手記に話すべきことの整理をしようと思った。

 

 ──セラフィ。満月。隔離。狼人間。ルーピン先生のお休み。

 

 細やかに綴った文章のなかで、いくつかの単語が妙にハッキリと見えた。そのため一瞬だけ目を留めたが、なぜこの文字に惹かれるのか、彼にはまだ分からなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 テルミの見るところ。

 恐らくここ十年で最も『必要の部屋』の検証が行われていることだろう。

 たとえば、ここからキングスクロス駅に繋いで欲しいと願っても『必要の部屋』は応えることがない。これは、遠方に繋ぐことが出来ないことを意味するだろう。──実験するより前に結果が分かりきったものであっても確認作業は必要だ。お手洗いを願った場合、男女で部屋の内容は変わるのか。ネフライトとテルミが試したところ、部屋は変わっていた。そんな確認さえした。

 単純な作業の繰り返しだが『必要の部屋』がどこまで応えてくれるだろうかとネフライトとテルミは、お互いに好奇心で弾む胸の内を感じていた。

 

(ネフがわたしと一緒にいて機嫌が良いなんて、悪い夢みたい)

 

 後付けの知識であるメンシス学派や聖歌隊の宗教や信条どうこう以前に、二人は生まれた時からどうにもソリが合わない。

 テルミはソリの合わないところこそがネフライトの美点であり、お気に入りの由縁なのだが、ネフライトはそう思ってくれない。テルミが稀に見せる気まぐれで──「遊び心がある」と言って欲しい──薄情で──「気負わない」と言って欲しい──何より失敗を悪びれない性根──「前向きな性格」と言って欲しい──が許せないのだそうだ。そんなネフライトこそ、テルミにとっては小さなことばかり気にする可愛い性格だと思っているが、そういう評価の仕方も彼は嫌いなのだ。

 けれどテルミは気にしたことはなかった。これからも気にすることはないだろう。なんせネフライトが嫌いなものは好きなものよりずっと多く、彼は世の中のほとんどのことが気に食わないヘソ曲がりの『困ったさん』なのだ。

 互いに持ち得た性質のせいで反発しがちな二人だが、こうして目的に向かって淡々と作業をこなすときだけは良い関係を築けることを学びつつあった。共同作業をすることは昨年度のバジリスク騒動の時以来だ。あの時は『きょうだい』総出の戦いだったが。

 

「──現れないな。テルミ、『自殺したい』に適う部屋はないようだ。思想的な限界はこの辺りだな。『拷問したい』にも適う部屋はなかった。次『医療を受けたい』だ」

 

「はいはーい」

 

 ネフライトに渡された手帳には、すでにどんな願いをするつもりなのかは書き込まれており、テルミはチェックするだけで良かった。

 彼が気に食わない相手をわざわざ助手に選んだのは、発見力の話も本当だろうが、恐らく──。

 

「ネフ、鐘が鳴ったわ」

 

『きょうだい』のなかで最も聴覚に優れているからだろう。

 

「むぅ……貴方はわたしを呼び鈴代わりに使うつもりだったのね?」

 

 ツンと口を尖らせたのを見てネフライトは薄く笑った。

 

「君を顎で使う機会を私がどうして見逃すと思ったのかね。君は、私とはまた違った目立ち方をするんだ。特に今日はハッフルパフのクィディッチ戦でもある。薬で隠れている方が怪しまれずに済むだろう」

 

「ええ。お気遣いありがとう。わたしはバタービールの飲み過ぎで、お腹を壊して寝ていることになっていますから」

 

 二人は各々衣嚢から青い秘薬を取り出した。

 ネフライトは、テルミが瓶に口を付けたところでまた衣嚢をあさった。

 

「実は下剤を持っているのだが。ここで使うか? それとも大広間で?」

 

「社会的に抹殺したいのね。必死すぎて面白いわ。だって、貴方なりの冗談だとわかるもの」

 

 テルミは両手をそろえて手を叩いた。黒い手袋に包まれたそれは音こそ鳴らなかったが、ネフライトは不愉快そうに眉を寄せて、衣嚢から手を出した。

 

「やはり君で試すのはやめよう。体重の差がありすぎて参考にならない」

 

「提案する前に気付くべきでしたね。それ、クルックスに頼めばよろしいのに」

 

 やがて予想通りに青い秘薬を服用した二人の前をフィルチがブツブツと言いながら通り過ぎた。

 すっかり通り過ぎた後で。

 

「私は……いや、クルックスには、そういうことをしたくないのだ。……お父様と諍いになりたくないので……」

 

「ええ、そうね。お父様と争うのは悲しいことよね」

 

 ネフライトの思いつきで付け足された言葉に浅い同意をしつつ、テルミは手帳を見た。次に行う作業を確認していると視線を感じた。この廊下には二人しかない。もちろん彼だった。

 

「クルックスとずいぶん仲がいいよな、君は」

 

「あらあら、嫉妬かしら?」

 

 人の心に聡いテルミは、ネフライトの寄せる感情が嫉妬だけではないことを知っている。むしろ嫉妬など爪の欠けらほどで、感情の大きな割合を占めるのは強い好奇心だ。

 

「何か彼にやらせたいことがあるのか?」

 

「いいえ? ありませんわ」

 

「甲斐甲斐しく世話を焼いているから見返りに、何かしてもらいたいことがあるのかと思っていたのだが……」

 

「わたしはクルックスのことが好きですし、クルックスもわたしのことが好きですから」

 

 ネフライトから首を突っ込んだ話題のハズが、彼は「ゲッ」と心底嫌そうな顔をした。

 

「我々は誠に遺憾なことながら『きょうだい』だぞ。血は繋がっていないが、たしかに同じ夢の樹から生じた枝葉だ。節度ある関係を求めたいものだな」

 

「羨ましいのなら羨ましいと言うことも必要だと思うわ、ネフ。お父様と同じでクルックスは敵意と殺意以外に鈍感なんですから」

 

「ハァ。君というヤツは……そんな……はしたないことを言うものではない」

 

 ネフライトは呆れ果てた、と言いたげに肩をすくめた。

 内心に秘めたことを話すのは、ネフライトにとって難しいことなのだ。

 

「誰も咎めたりしません」

 

「お父様の瞳が見ている。……私は、いつでも恥じない姿を見せていたいのだよ」

 

 ──君とは違って。

 言外の言葉まで聞き取り、テルミは「ふぅん」と鼻を鳴らした。

 ネフライトの厳格さは、一般的に好ましい性格と評価される類いのものだ。けれど『きょうだい』としては、その心根がいつか折れてしまいそうでクルックスに向ける心配とは別の気がかりでもあった。

 

「作業再開だ。次は──」

 

「『最も価値のあるモノが必要』? あら。これまでの願い事に比べるとずいぶん抽象的な願いですね?」

 

「ああ、この部屋に判断を委ねる裁量が大きいだろう。あるいは私の頭の中を読み取るのかな。──『最も価値のあるモノ』について」

 

「貴方の場合、主宰でしょう。ミコラーシュ主宰」

 

「そうだな。その場合、次に価値あるモノを『最も価値あるモノ』として判定するのだろうか。それとも魔法に関することで……」

 

 思索の海に沈んでいくネフライトは『必要の部屋』が現れる廊下を往復し始めた。

 テルミは現れないだろうと予想していた。これまで部屋が応えた傾向を見るに『○○が必要』や『○○をしたい』という願いにはよく応えるが、この願いは抽象的過ぎるからだ。また、その時彼女の耳は、更に勢いが増す雨音に気を取られていた。

 

「アッ」

 

「なぁに? 可愛い声、が──」

 

 テルミは笑いながら振り返った。予想は裏切られた。ネフライトの驚いた顔を見るに彼も裏切られたのだろう。

『必要の部屋』は曖昧な願いに応えたのだ。

 テルミはネフライトのそばに立った。ネフライトもテルミの顔をジッと見つめていた。

 

「まさかと思っていたが、まさかな」

 

 石の中から姿を現しつつある、樫のどっしりした造りのドアを見て二人は顔を合わせた。

 

「そのまさかね。どうしましょう。召集をかけましょうか?」

 

「現れた物は危険物とは限らないだろう。それに危険物だとしたら尚更だ。四人まとめて夢に直葬されるワケにはいかない。まず私と君で現状を確認する。いつでも鐘を鳴らせるようにしておいてくれ」

 

「え、ええ。……ネフ、開ける前に心の準備をしましょう」

 

 ネフライトは、空気を噛むように「なに?」と言った。檻の中の顔は『扉を開けたいのに邪魔をされた』と言いたげだ。

 

「そんな顔してもダメです。予想することは、この扉を開けてしまえば出来なくなる楽しみです。聖杯で宝箱を開けるときに何が入っているか予想してワクワクしなかった者だけがわたしを押しのけて扉を開けなさい」

 

 ネフライトはほんの数秒間、テルミを脇に退けてから扉を開けようと思ったようだが、会話を選んだ。

 

「思えば目の前に興味深いものがあったから飛びつくなど、墓暴き時代のビルゲンワースの学徒に等しい暴挙に出るところだった。反省。予想か。そう、だな。魔法界基準で発生した『最も価値のあるモノ』の部屋と思われる。だから魔法に関する貴金属ではないだろうか? いや、学舎にそんな高価な品を持ってくる生徒がいるだろうか……? 創設者の縁の物という線もあり得るか……? ──ハッ、ところで今日はなぜ予想を聞きたがるんだ?」

 

「ネフがわたしと一緒にいても楽しそうにしているから、たくさんお話をしたいと思ったの。貴方のお話は、いつも難しいですが興味深いものですから」

 

 ネフライトはまた心底嫌そうな顔をした。しかし。

 

「昨年も言ったことだが、私は、別に、君のことが憎いワケではない」

 

「ええ、知ってます」

 

「それはそれとして。君は『きょうだい』であることが疑わしいほどに性格が悪く──」

 

「えっ?」

 

「性根は腐っているし──」

 

「えッ?」

 

「優しげに見えて私達のなかで最も残酷なので──」

 

「エッ?」

 

「目を合わせたくないほど、私は君のことが嫌いなのだが」

 

「んっん~っ! 人のこと言えない貴方が言うと最高に面白いわ。神秘99のガラシャでぶん殴るわよ」

 

 鉄の塊の気配を感じたワケではあるまいに。

 ネフライトは嫌そうな顔をあらため、背筋を正し、檻の目を掻いた。

 

「君とて私のことが好きではないだろう。わざわざ話したいなど、とんだ物好きだ」

 

「訂正してもいいかしら。わたしは貴方のことが好きですよ。嫌いだなんてとんでもない。大切な貴方、自分を遠ざけないで。貴方が思うよりずっとわたし達は近く、親しくあるべきなのです」

 

「ハァ? 遠慮する」

 

「だから『きょうだい』ならば、そういう遠慮が要らないと言っているんですっ!」

 

 ネフライトは、小汚い猫が足下に寄ってきたのを見たように顔を顰めた。

 

「私に向かって磨いた林檎を投げつける暇があるのなら、お父様の聖杯のことでも考えておくんだな。バターをべたべた塗ったパンが好きなのはクルックスくらいだろうさ。……まあ、話ならいくらでもネタがあるのだ。君が伏して請うなら話してやらんこともないかもしれないな」

 

「──ねぇ、早く扉を開けてみましょう? 何が入っているか気になってきました」

 

 頭を下げるのは『きょうだい』に対する親愛の情とは根本が異なる問題である。それは誰かの世話を焼くのが好きという嗜癖と持ち前の矜持に何ら矛盾を生じさせなかった。

 お喋りもそこそこに二人は互いに教会の連装銃を抜くと目を合わせ、頷く。

 事前の取り決め通りにネフライトの前に立つと彼は右手をピクリと動かした。彼は、さり気なく体の前で指を組み、考え込むようにテルミを見つめた。その後、取り決めを覆す言い訳を思いつかなかったようだ

 

「いいだろう。いいだろう。君の役目だったな。……念のため青い秘薬を飲んでくれ。それから何があっても、まず反応するようにしてくれ。たとえば私が『呼んだら応える』とか。それから、どんな些細なことでも異常を感じたらそう伝えてくれ。すぐに君を連れ出して扉を閉める」

 

 テルミは、了解を告げて扉に両手を掛ける。扉は、軽々に開いた。

 最初に思いついたのは『闇の魔術に対する防衛術』の教室だ。

 壁面の高所に取りつけられた採光窓から入った光が幾筋も注いでいる。部屋の中央に佇むのは四本足の小さな丸テーブルだ。その上に濃紺の箱が置いてあった。

 

「テルミ、進捗は」

 

「あ、報告ですね。ええと、小さな箱が置いてあるわ。箱……小物入れのような……?」

 

「分かった。手で触れずに開けてくれ。くれぐれも教会手袋の呪いを過信するなよ」

 

「はぁい。開けるのは構いませんが、このまま部屋で開けますか? 部屋から取り出してもよいでしょう」

 

 ネフライトは、物品が見つかったことで少々冷静さを欠いていたようだ。

 

「……そう、だな。ふむ。……ここまで来てくれ。何かあれば部屋の中に投げ入れて、扉を閉める。どうかな」

 

「賛成です」

 

 テルミは杖を振り、箱を宙に浮かべると箱を伴い、部屋の出入り口に立った。テルミは一歩で部屋に出ることができ、ネフライトは一歩で部屋に入ることができる。そんな距離だった。

 

「神秘について、何か感じるか? 私には何も見えないが」

 

「医療者としてのわたしは、貴方と同じ意見です」

 

 ネフライトは物欲しそうな顔をしていたがテルミの気になる言い方を質した。

 

「何だ」

 

「異常は無いように見えます。見えるだけ、ですが。……でも狩人としてのわたしはセラフィとクルックスを呼ぶべきだと思っているわ」

 

「異常があるのか? 分かるのか?」

 

「直感です」

 

 ネフライトはテルミが何を言い始めたのかと疑い、不理解という顔を惜しまなかった。

 

「ちょ、直感?」

 

「弱気だと責めてくれて結構です。けれどせめてクルックスを呼ぶべきだと思っているわ」

 

「……なぜクルックスを?」

 

「彼がわたし達のなかで最も敵意に敏感ですから」

 

「出来る限りの言語化を試みてくれ。その箱の何が危険なのか? 君の『瞳』のカレル文字は蠢いているか?」

 

 質問をしながら彼はローブの袖から鐘を出して、三度鳴らした。

 テルミの優れた耳は、彼らの足音をとらえた。

 

「うーん。カレル文字の反応はないようです。危険は無いと見えるわ。ええ。何も。本当ですよ? けれど、まったく安全と言い切ることはできないような気がしています。そして、わたしの直感を貴方には軽視してほしくないわ」

 

 テルミは杖を動かしてネフライトの手の届かない距離に箱を動かした。彼は今にも手を伸ばしそうだったからだ。すると彼は傷ついた顔をした。

 

「私は君を見くびりこそすれ、軽んじたことは一度もない。お父様に誓ってもいい言葉だ」

 

「あらあら、まあまあ。次のお茶会が楽しみになりましたね?」

 

 二つの足音が到着した。

 

「何かあったのか?」

 

「ああ、実験中だ。ここに箱があるだろう。……クルックス、何か分かるか? 中身ではない。神秘の話だ」

 

 クルックスは、父そっくりの銀灰の瞳で箱をじっと見た。

 

「虫の気配はしない。だが、あまり良い気分ではないな。何と言うべきか。ただ……良くない感覚がある。殺意ほど鋭くなければ、敵意ほど棘もないが」

 

 続いてクルックスがどんな条件の部屋を作って出てきたものなのかと質問をしている間にセラフィが宙に浮いている箱を指先で突いた。厚手の皮の手袋なので問題は少ないだろうが、テルミは「ちょ、ちょっと待ってね」と早口でセラフィに伝えた。

 

「曰く付きなのか? これが?」

 

 テルミが「ええ、恐らく」と告げる。

 そのうちセラフィが衣嚢から取り出した落葉の先で突いた。

 

「えい」

 

「え? ウ、ワァアアアアアアア! セラフィ!? な、なんっ、なんで!? 何をするんだ!?」

 

 ネフライトが素っ頓狂な声を上げて、隣に立つセラフィの腕を両手で押さえた。

 

「危険物ならば、ただちに破壊すべきだ。お誂え向きに箱の形をしているのだから、箱ごと壊してなかったことにしよう。目撃者もいない」

 

「何か宣言してから壊してくれ! いえ、壊して欲しいワケではないが!」

 

「──セラフィ、浅慮なことをするものではない。迂闊に箱を壊したら呪いが噴出するとか、そういう罠の可能性を考慮すべきだ」

 

 クルックスが至極もっともなことを言ったが、セラフィはネフライトの腕を振り払って今にも箱を串刺し刑を再開しそうだった。

 

「『だからこそ』だ。僕らが揃っていて対処できないことがあるだろうか?」

 

「むむ、ああ、それもそうか」

 

 一旦はセラフィの浅慮を諫めたクルックスが納得して引き下がってしまったのでネフライトはギョッとした顔をした。

 テルミは二人を制するように杖を持たない左手を挙げた。

 

「『待て』ですよ、ふたりとも。壊して証拠隠滅するのは穏当な手段ではないでしょう。中身をお父様とビルゲンワースの学徒に見せるまでに廃品にしてしまってはいけません。昨年の日記帳のことをコッペリアお兄様は嘆いていましたわ」

 

「──セラフィ、やめよう。すぐやめよう。やめよう。ダメ、絶対」

 

 クルックスは、素早く意見を翻しセラフィの押さえに回った。ネフライトが「よくやった」とテルミに視線を送った。

 

「でも危険物なのだろう? 神秘の根は深く、殺意も敵意もうまく隠している。君がすぐに判断できないということは、そういうことだ。危険度が高いと判断した。僕は壊したい」

 

「今回に限っては危険物と貴重品は両立してしまうようだ。まあ、なんにせよ俺が見てみよう。万が一、俺に何かあったら全て頼む。ネフもテルミもそれでいいな?」

 

「ええ」

 

「もちろんだ」

 

 セラフィは、意見が三対一になってしまったので落葉を引いた。しかし。

 

「……君が言うから僕は剣を収めるのだ」

 

「ありがとう。それで十分だ。今はな」

 

 クルックスの答えでセラフィが落葉を納めたが、ネフライトはまだ不意打ち気味に斬りかかるのではないかと気が気ではなさそうに彼女をチラチラと見ていた。

 

「──それで話の途中だったが、何の部屋を作ったのか。ヤーナムに関係のある条件を試してみると言っていたが、それか?」

 

「今は違う。ここは『最も価値あるモノ』の部屋だ」

 

「価値のあるモノ、か。最も大きい物。最も小さい物。最も多い物。最も少ない物。何が出てきてもおかしくない。それに善悪も勘定に入っていないだろうな。ネフとセラフィはすこし離れていてくれ。テルミは万が一の時、俺と一緒に死んでくれ。では始めるぞ」

 

 セラフィとネフライトが廊下の端まで距離をとったのをテルミ達は見届けた。

 クルックスは、床に置かれた箱を持ち上げた。

 

「重くはないな。……いや待て、俺は筋力が高いからテルミには重いかもしれない。それから、うーん……?」

 

 彼は持ち上げた箱を上下左右に振った。それはカラコロと音を立てることはなかった。

 

「重さが……? 重心が偏る感覚がない。恐らく固定されているか嵌まっているか。そういう代物なのだろうな。……ところでテルミ」

 

「はぁい。なぁに?」

 

「コ、コッペリア様が日記帳のことを言っていたのは、具体的に何ておっしゃっていたか教えてほしい。俺に幻滅されただろうか。俺は役立たずだと思われていないだろうか……?」

 

「あらあら。貴方が弱気なことを言うなんて珍しいことですね。あれはお父様も興味が惹かれたようです。だからコッペリアお兄様も興味を持ったみたい。冒涜の気配がするとおっしゃっていたけれど、廃品なので分かったのは気配だけです。再現は勿論、用途の予想もままならない状態でした。今はお父様の保管庫にありますね」

 

「お父様の保管庫なんて物品の墓場だろう。俺達の正しき居場所かもしれないが……。しかし、あれは価値のある物だったのか? トム・リドルの日記帳、あれには虫が……虫が蔓延っていたのに……!」

 

「クルックス? 今は目の前に集中してね?」

 

 暗い情動が過るクルックスの瞳をテルミは自分に向けさせた。

 

「あの時の貴方は最善を尽くしたわ。ですから、ほら、誰も咎めなかったでしょう? むしろ賞賛を受けたハズです。日記帳は、次に似たようなものを見つけたら、出来るだけ完品でお父様に届けるよう努力しましょう。その時は、わたしも手伝いを惜しみませんから。けれど、今のお父様のお心は、わたし達が楽しい学校生活を送ることが何よりの喜びでしょう。ですから、気負わずに楽しみましょうね。…………?」

 

 テルミは「あら」と小さく呟いた。とても珍しいことが起きていると気付いたからだ。

 いつもの彼ならば人の淀みの根源たる虫のことで興奮しても、事実の確認と次回の行動計画、そして狩人の意向を言い聞かせれば落ち着かせることができる。同じ医療者のネフライトであっても同じことをしただろう。そして、テルミには彼以上の実績と理解があった。

 連盟員としての彼は、使命に輝く明るい瞳をしているか堕ち淀んだ暗い瞳をしているかのどちらかで、どちらか一方になれば激しい気分の浮沈は起きないハズだが、今は高揚したり消沈したり、異様に感情的が荒んでいるようだった。

 

「クルックス? クルックス? どうしたの? 何か嫌なことがあったの?」

 

「あ、ああ……すまない。すこし感情的になってしまった。彼方の同士に報いるためには、これではいけない。自分を律しなければ、連盟の長のように、俺は律しなければ……」

 

 言葉は、平素でも話しそうなものが出てきたが目のうろうろとした動きや体の緊張は常のものではない。どうにも様子がおかしい。

 変化はいつから始まったか。テルミは最初の質問を思い出していた。思えば「幻滅されたか」とか「俺は役立たず」と言うのは、いつものクルックスらしくない。心の中で思っていたとして、それを話すタイミングとして適切ではない。二人きりの静かな夜の淵でようやく話してくれそうなことだ。

 

「クルックス、それを渡してください。気になることがあるので」

 

「ん、ああ。君の方がよく見えるだろうか。俺は瞳が昏いからな」

 

「ええ。任せてください」

 

 クルックスは、あっさり箱を渡してきた。

 ──重い。

 最初に思ったことはそれだ。テルミには「んっ」と唸る重さがある。けれど、それは感覚的なものだ。

 

「あら。奇妙ね……?」

 

 箱を軽く振る。やはりクルックスの言ったとおり重心の偏りはない。彼がなぜ箱を開く手段を経ずに、内容を気にし始めたのだろうと不思議に思っていたが、今ならば分かる。感覚の重さと筋肉への負荷が一致しないのだ。まとわりつくような重さがあった。

 

「クルックス?」

 

「む、何か」

 

 もっと不思議なことが起きた。

 テルミは、クルックスを見つめた。

 突然、彼は平静に戻っているようだった。どうして見つめてくるのか分からない顔をしていた。

 

「……? あ、いえ。男前だと思いましてね。素敵よ、貴方」

 

「ありがとう。お父様にも伝えておこう。そのまま持っていてくれ。俺が開く」

 

「気をつけてね」

 

 クルックスの気分が好転した。あまりに分かりやすい変化だ。テルミは自分の持つ小さな箱を見つめ、すぐに目を逸らした。あまりにおかしな空想だと自覚しているが、この箱に関心があることをこの箱自身に悟らせてはいけない気がした。箱に人格があるように考えている自分に少々の驚きを感じる。

 テルミは目を背けたまま、クルックスが箱を開けるのを待った。

 

「開けた。宝石が入っている。鳥の意匠がある。猛禽類だな。それから中央に大きな青い宝石だ。この形状の貴金属は、頭に付ける、女性の、何と言ったか……」

 

「リボン?」

 

「さ、さすがに俺だってリボンかそうでないかくらい分かる……。形状は冠のようだ」

 

「冠? 女性のティアラ? それは『髪飾り』ということかしら。ともあれ目視の危険は、ないようですね。確認はもうよいでしょう」

 

 クルックスも同意した。

 射し込んだ陽に反射して銀翼と中央にある大ぶりなサファイアが輝いている。テルミは杖を出して箱に向けて振り、服さえ直接触れないように宙に浮かべた。

 途端に、テルミは体が軽くなったように感じられた。

 

「……妙ね。クルックス、さっき気持ちがとても落ち込んだでしょう? どうして?」

 

「分からない。ああいうことは、普段からあまり考えないようにしていることなのだが……ふむ? なぜだろう?」

 

「わかりました」

 

「何がわかったんだ?」

 

 そんな話をしているとセラフィとネフライトがやって来た。

 

「進捗は?」

 

「結論から話しますが、この髪飾りは精神に影響する作用があります。善くないものです。だからこそ高い価値がある物のようですが……。あ、壊しちゃダメよ? 目で見る分に危険はありませんが、直接触れることは避けたほうがよいでしょう。クルックスが不調になりました」

 

「本当か? 不調とはどういうことだ?」

 

「気分が落ち込む感じだな」

 

「吸魂鬼の影響と似ているか?」

 

「いいや、違う……もっと自然に落ち込むような感じだ。悪い方向に順調に進む気分……。うまく言えない」

 

 ネフライトがクルックスの目を覗き込んだ。

 ほとんど同じ身長である二人なのでネフライトはつま先立ちになっていた。

 その隣でセラフィは身を屈めて髪飾りを見た。

 

「綺麗なティアラだ。カインハーストには相応しくないが」

 

 髪飾りに伸ばしかけたセラフィの手を止めたのはテルミだった。

 

「だーめー。です。めっ。『めっ』ですったら。『待て』ですよ」

 

「え? あ、ああ、すまない。なぜか触れてみたくなったんだ。どうしてだろうね?」

 

 二人が不可解に顔を見合わせる隣で。ネフライトは、クルックスに異常が無いことを確認した。

 それからようやく宙に浮かぶ髪飾りを見つめ──凝視したまま身を固くした。

 

「えっ……?」

 

「どうした、ネフ。……おい、君?」

 

「これは……これは、ここにあってはいけない物だろう……」

 

「知っているのか? さすが博識だな」

 

 ネフライトの反応は、驚きより呆然が勝った。

 傍からは突然のことにどうしていいか分からなくなった様子に見えた。

 

「知っている。知っているとも。レイブンクローの生徒ならば、皆知っている。これは創設者の一人、ロウェナ・レイブンクローの所有物だ。レイブンクローの失われた髪飾りだ」

 

 セラフィとテルミ、そしてクルックスは「失われた?」と言葉を繰り返した。

 

「『失われた』のになぜ形を知っているのか」

 

「レイブンクローの談話室にロウェナ像がある。髪飾りには刻まれているハズだ。亡きレイブンクローの言葉が、レイブンクローの誇る心が──『計り知れぬ叡智こそ、われらが最大の宝なり』」

 

 クルックスが浮かぶ髪飾りに目を近付けて文字を確認した。

 

「あ、本当だ。……なるほど。創設者の持ち物であれば、たしかに『最も価値のあるモノ』と言える、かも、しれない」

 

 四人が価値を認め合ったところで、沈黙が起きた。

 創設者の持ち物の一つをクルックスとテルミ、セラフィは見たことがあった。グリフィンドールの剣だ。まず煌びやかで刃はゴブリンが鍛えた優れた鋼で出来ているという。同じ創設者の宝物ならば、きっとこの髪飾りも歴史に愛され、栄誉に彩られた品である──ハズだった。

 

「精神の不調。それが偶然ではないのなら『呪いの品』と見るべきではないだろうか? 悪霊が憑いているのかな。血塗れの舞踏が見られるのなら僕が欲しいけれど」

 

「悪霊。呪いにはそんな形式もあるのですね。けれどわたし達では、何が善くないかまではわかりません。そもそも呪いかどうかも定かでは……お父様ならばわかるかしら……?」

 

「お父様に渡すのならば、俺が持って行こう」

 

 再び箱に手を伸ばそうとするクルックスの手をテルミが止めた。

 

「『待て』ですよ。わたしが持ちましょう。医療教会の手袋の呪いには実益があるようですから。ネフ、これはお父様に持って行きます。よろしくて?」

 

「それも『待て』だ。これは……しかし、今は……」

 

 彼にしては珍しく曖昧な顔だ。

 

「問題があるのか?」

 

「持ち主に関連する人物が、まだこのホグワーツ城に存在する。──『灰色のレディ』だ」

 

「ネフ、君は持ち主に返すべきだと言いたいのかな? 灰色の彼女に、あるいは創設者の子孫を探して返すべきだと」

 

 セラフィが腕を組み、不可解そうに眉を上げた。ネフライトにしては感情的な意見だと思えたらしい。彼はすぐに手を振った。

 

「君達が私を勘違いすることに、私は耐えきれない。いいか。私はヤーナムに持って行くことに反対しているワケではない。ただ、私達は狩人で、その狩人はビルゲンワースの墓暴きの末裔に起源を持つものだ。その旧神と呼ばれるものやトゥメル人にとっては私達、狩人は盗人同然だろう。……持ち主の関連する人物が存在し、私達と共通した言語を有するのだ。私達まで盗人の歴史をなぞることはない。ヤーナムでは今さらだとしても、ここホグワーツでは……。それに、彼女はここに納められていることを知っているだろうか。なぜここにあるのか。その質問のためにも『灰色のレディ』と話をすべきではないだろうか?」

 

 テルミは「ええ」と頷き、まっすぐにネフライトを見た。

 

「わたしは反対です。彼女の肉体は、すでに死んでいます。在りし日の意識ばかりが地上に焼き付いた影法師。虚像に話をして何の益になるのでしょう。鏡に向かって話した方が建設的だわ。『何も面倒が起きないから』という意味ですけれど。──そもそも何を話すというつもりかしら? 『これからお前の目の前で祖先の髪飾りを盗む。冒涜にまみれ、永遠に呪われるであろう』とでも? ……ゴーストをからかうのはつまらないわ。生きていないものはつまらないの」

 

 ネフライトとテルミが互いの意見を主張している間、クルックスは考え込むようにうつむきがちになった。それから、彼は話を始めた。

 

「昨年、ヤーナムにスネイプ先生が来た時の話だ。お父様は彼のことを『ヤーナムに何も与えない盗人だ』と言った。その時は、単純にヤーナムのことを知り得たまま去ったから、そう評しただけだと思っていたのだが……お父様は『聖杯にとっての我々』とも言った。墓暴きの過去は、末裔の仔である我々も忘れてはいけないのだと思う。現状、最新の墓暴きである自覚くらいはある。しかも墓の中身に一喜一憂する質の悪い狩人だ。……ここではそういう振る舞いをしたくない、というネフの意見には賛成だ。そもそも人間は他者に対し誠実であるべきなのだ」

 

「それはお父様の感傷と言葉遊びだ。僕はテルミに賛成だよ。話してどうする。灰色のレディが『この城に置いておけ!』と言ったら? 元通りに収めるのか? 盗人の汚名など僕らが頓着することはないだろう。ホグワーツで清廉潔白を主張するのならば、僕らはホグワーツにやって来たその日のうちに自首しに行かなければならなかった。夜歩きの罰を償うために」

 

 セラフィの指摘を受け、クルックスは淀みなく答えた。

 

「決定は変わらない。これはヤーナムに持ち帰る。だが、我々は灰色のレディと話す。我々が魔法界と魔法を解するために必要な物だと言うつもりだ。──魔法界の呪いの正体について上位者の瞳ならば何か得ることもあるだろう。ただ、どのような物に成り果ててもいつか返却することだけは約束したいと思う。諸賢、どうか?」

 

「……『いつか』とはいい。お父様の気分次第だからな」

 

「……お人好しですこと。今回は、素直に折れてあげましょう」

 

 そう言いながらセラフィとテルミは了解を告げた。

 

「理解に感謝する。──ネフ、君も構わないか」

 

「ああ……構わない。私も君に賛成だ……」

 

 じっとネフライトは髪飾りを見ていた。

 彼は一瞥で全てを覚えていられる。それなのにしばらくの間、彼は見ていた。

 まるで目に焼き付けるように。

 




嵐のクィディッチ戦の裏側で(上)
 皆楽しいクィディッチ。目が少なくなるタイミングで調査が実行されました。お目当ての品は見つかったようです。


墓暴き
 ヤーナムの地下空間にて、地下墓地や遺跡と呼ばれるものを作成しているトゥメル人にとって墓暴き、そして狩人は歓迎したい人種ではありません。盗人はトゥメル人ひいては寝所としている旧神から見た感想となります。一般狩人は思いついても気にも留めないでしょう。──これは窃盗ではない。これは「拝領」だから。


ネフライトと髪飾り
 彼にとって髪飾りはすでに偉人の所有物の認識はなくなっています。『互助拝領機構』の参加者が学習のテーマに考えている物でもあります。じっくり見ていたのは、彼女への思惑もあるのかもしれません。


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嵐のクィディッチ戦の裏側で(下)


レイブンクローの髪飾り
ホグワーツ四寮のうちレイブンクローの創設者、ロウェナ・レイブンクローが遺した髪飾り。
歴史から長く失せていたが、ある日、人知れずあるべき場所へ戻された。即ち、ホグワーツ城へ。
髪飾りにはレイブンクローの言葉が刻まれている。

『計り知れぬ英知こそ、われらが最大の宝なり!』



 

 ここは、アルバニアの森の中。

 あの日も雨だった。雷雨は勢いを増し、一度雷が奔れば雨は矢のように宙を冷たく貫いた。

 

 倒れ伏した体は、もう眼を動かす力さえない。

 狂った男爵の怒号が割れ鐘のように響く。ほんの数分までうるさいまでに聞こえていた森のざわめきや驟雨は、もう聞こえない。死は、虚を掻いた爪先からやって来た。

 

 ──ああ、ああ、どうして。

 

 私は落葉の茂る林に倒れているのだろう。

 刺されたからだ。やや鈍い頭が嫌々に状況を理解し始めた。この、恐ろしい現実を。

 

 ──どうして。

 

 あんなに空は遠いのに。

 私の指は黒ずんでいるのだろう。

 

 ──どうして……。

 

 母よりも賢く、母よりも重要な人物になりたかったのだろう。

 母に背き、裏切って、逃げて、母の物を使ってまで、私が果たしたことは何だろう。

 

 ──どう……して……。

 

 無性に母に会いたかった。顔も見たくなかったから家を出たというのに。たった今、母に会いたかった。そういえば、母は病に冒されているのだと言う。

 もう一度会いたい。会いたい。嗚呼。死ぬのは嫌だ。母に会いたい。死にたくない。もう一度、母と呼ばせて欲しい。死にたくない。もう一度。たった、もう一度だけでいいから。

 

 ──……。

 

 朽ちるに任せるばかりの肉体は、いつまでも秘密を隠した木の虚を見ていた。

 

 ──ねぇ、お母様。

 ──どうして髪飾りにそんな大きな石を使うのですか。

 ──お母様に似合わないわ。

 ──見せびらかすような大きい石はよくないわ。

 

 無機物は、変わりにくい。

 宝石に相応しい姿になるには、より堅い石を使って削る行程を経るのだと言う。

 

 ──計り知れぬ英知こそ、われらが最大の宝なり!

 

 虚に隠された翼の文字は高らかに謳う。

 そして、聞いた。

 

 ──これは象徴なのだよ。

 

 失血により、まとまりのつかない私の頭は、今さらになって気付いた。

 なぜサファイアのような大きな青い宝石を使ったのか。

 母は魔法族、自らの後継に対し魔法族の知の研鑽を望んだ。そして事実、母は生涯を通して実践した。

 願ったのだ。

 自らが信じるものが永久に輝き続けることを。どこにいても、いつにあっても、たとえ失われたとしても、輝き続けることを願ったのだ。

 しかし。

 

 ──ヘレナ。ヘレナ。

 ──おいで、私の小鳥。

 

 在りし日。

 そう言って小さな私を抱き寄せ、額に唇を寄せた母を覚えている。

 

 ──ヘレナ。我が娘。

 ──英知に等しく。

 ──私には、お前が宝なのだよ。

 

 まだ幼い私は、その言葉の意味を理解しなかった。

 もはや永遠に手に入らない温もりだと知る由もなかった。

 

 なぜ、気付かなかったのだろう。

 なぜ、気付かずにいられたのだろう。

 

 ──ああ、母よ。我が母、ロウェナ・レイブンクロー。

 ──貴女が、貴女だけが、正しくレイブンクローだった。

 ──小鳥には貴女の姿さえ本当は見えていなかった。

 ──ならば、どうしてその御心が分かったことでしょう。

 

 雷が森のどこかに落ちた。

 その光がにわかに窪んだ木の虚を照らす。

 力なく閉じかける瞳が最期に見たのは、叡智を象徴する青い光だった。

 

 ──貴女は、偉大すぎた。

 ──私は死に至り、ようやく貴女に愛されていることに気付いたのです。

 

 若い娘は事切れた。

 ここは、アルバニアの森の中。

 雨が降っている。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ホグワーツ。

 灰色のレディを見つけるために彼らは時間を費やした。

 城内には濡れた服を引きずった生徒が見える。クィディッチは終了したのかもしれない。だが、窓から飛び込んでくる雷の轟音はとどまることを知らないようだった。

 テルミとクルックス、ネフライトとセラフィと二人一組で城内を駆け回り『灰色のレディ』を探した。髪飾りの入った箱はテルミが抱えていた。

 ようやく出会ったのは、西の塔だった。ネフライトから以前、レイブンクローの談話室が近くにあることを聞いたことがある。

 

「灰色のレディ、貴女と話したい」

 

「…………」

 

 灰色のレディ。

 かつては艶やかな黒髪、輝く灰色の目だったのだろう。いまやゴーストの彼女は真珠色にくすんでいた。

 だが、今なお変わらないものもある。気の強そうな目でテルミとクルックスを見下ろした。

 

「俺はクルックス・ハントと言う。初めまして。魔法界の外、ヤーナムよりやって来た狩人だ。魔法界の厚意によってこの学校に通っている、ただのグリフィンドールの生徒でもある。……俺は貴女と話したい。しばしお時間をいただいてよろしいか」

 

「いいでしょう」

 

 無愛想な答え方をしたが、答え自体が不承不承だとテルミは見抜いた。

 テルミは、レディと目が合った。髪飾りの箱は後ろ手に隠したまま、ニコリと薄く微笑んで見せたが、すぐに目を逸らされた。

 

「灰色のレディ。その真名をヘレナ・レイブンクローと聞いた。レイブンクローの貴女にお願いしたいことがあって来た。レイブンクローの失われた髪飾りのことだ」

 

「そのことには答えません」

 

 灰色のレディは、分厚い石壁の向こうに消えようとした。

 クルックスは追いかけることをしなかった。

 

「いいや、答えるのだ。それは俺の手中にある」

 

「つまらない嘘を吐くのですね。グリフィンドールが嘆くでしょう。それは失われたのです。ああ、髪飾りを欲しがった生徒は、あなたが初めてではない。何世代にも渡って、生徒たちがしつこく聞いたものです」

 

 しかし、レディは壁を背に振り返った。

 

「では、これまで生徒にしなかった話を貴女にはしてほしい。──テルミ」

 

 クルックスの合図を受けて、テルミが後ろ手に持っていた箱を差し出し開いた。

 

「確かめていただきたいですね」

 

 雷の光が明滅する。光が、廊下を宝石の青に染めた。

 レディが箱の中にある髪飾りに吸い寄せられるように音もなく近付いた。

 

「これは……これは……そん、な……いったい、どこで……?」

 

 たおやかな指が箱の中の髪飾りを掬おうとして、すり抜けた。

 ゴーストは物に触れることはできないのだ。

 恐れた顔でレディは、ふらふらと後退った。

 

「『必要の部屋』はご存じか?」

 

「……ええ。あったりなかったり部屋とも呼ばれていますね……。けれど、まさか……」

 

「貴女の驚きようは意外だな。寮祖、ロウェナ・レイブンクローが望み『必要の部屋』に置いたものだと思っていたが、違うのか?」

 

「あなたに話すことは……ありません」

 

 驚愕と恐怖から立ち直り、レディは唇を固く引き結んだ。

 

「それでは困る。話を続けてほしい。俺達は髪飾りを見つけたが、呪いが掛かっている。その様子では『ご承知』というワケではなさそうだな?」

 

「呪い──?」

 

 灰色のレディに二度目の衝撃がもたらされた。

「まさか」とか「そんな」といったことを彼女は囁いた。だが、やがて「ああああ」と言葉にならない嘆きで顔を覆った。何かに気付き、絶望した声だった。クルックスは、それを静かに見つめた。

 

「俺達はこの『呪い』を調べたい。異なる神秘から来た我々には必要なことだ。そのためこれをしばらく預からせて欲しい。どんな形になっても最後にはお返しすることを月の香りに誓おう。いかがか? 沈黙は肯定と受け取らせていただく」

 

「呪いは……解けないでしょう」

 

「ほう。なぜ? 心あたりがあるのか?」

 

「それは……それは……。それを呪ったのは、自らを『卿』と呼ぶ、あのヴォルデモートという魔法使いなのですから」

 

「なるほど。それはそれは、ほうほう、難解だ。実に難解な闇の魔術に違いない」

 

 テルミは、クルックスが狂喜していることを察した。テルミは小さな靴でクルックスの靴をコツンと突いた。レディに悟られないように彼は咳払いをした。代わりにテルミが訊ねた。

 

「レディ、教えていただけますか? なぜ呪ったのがヴォルデモートだと分かるのでしょう」

 

「……最初から『必要の部屋』にあった物ではないとだけ伝えましょう。これ以上のことを話すつもりはありません」

 

 その言葉から推し量れることは多くある。

 元は別のところにあり、その場所をレディは知っていた。そして、レディが知っていたということは『母の所有物を彼女が持っていた』ということでもある。

 

「髪飾りを預かることをお許しいただけるのですか?」

 

 クルックスの問いに灰色のレディ──ヘレナ・レイブンクローは嘆くのを止め、背を向けた。

 

「もはやレイブンクローの手を離れた物です。私には、もうどうすることもできない」

 

 その肩は、小さく震えていた。

 

「ええ、触れることも被ることも……壊すことも出来ない」

 

「壊す? なぜレイブンクローの貴女が壊すことを望むのか。これは宝だろう?」

 

 彼女は、ほんの一瞬、痛ましい顔をした。だが、背筋を正してクルックスに言い放った。

 

「その髪飾りの本当の所有者は永遠に失われ、髪飾りも長く失われていました。それでもレイブンクローの精神は今も息づいています。その間、髪飾りに頼ることなく魔法族は自らの英知を磨き続けました。かつて、きっと、レイブンクローが望んだように。……ですから、髪飾りが果たす象徴の役割は、もう千年も前に終わりました」

 

「なるほどな。全て了解だ。俺は、その願いを聞き届けた」

 

「え?」

 

 声を重ねたのはレディとテルミだ。クルックスが右手を差しだし、握った。

 

「レイブンクローの貴女が壊してほしいのならば、俺はそうしよう。英知が呪いに蝕まれることが耐えられないのならば、貴女達レイブンクローの誇りのために、我らはこれを破壊しよう。完膚なきまでに有意に壊そう。そして、貴女の前に持ってこよう。──とても時間が掛かるだろう。しかし、いつかの未来で約束を果たそう」

 

 灰色のレディはクルックスを見つめたまま、姿を空気に溶かすようにして去った。

 テルミは手の中にある箱の蓋を閉じた。

 

「用件は以上ですね。……ええ、想像以上に有意義でした。呪いをかけた者が分かるとは嬉しい誤算で──クルックス?」

 

 クルックスは、テルミの手を取って歩き出した。

 歩幅を考慮しない歩き方でテルミはつんのめり、駆け足になった。

 

「クルックス、貴方──」

 

「フッ、ククク、フ、フフフ、ハハハハハッ!」

 

 廊下に誰もいないことは幸いだった。

 楽しげに笑ったクルックスは、テルミを引き寄せた。

 

「お父様は、お喜びになるだろうか!?」

 

「え、ええ、もちろん……。不思議な呪いには違いありません。そして、ヴォルデモートの痕跡であるならば尚のことです」

 

 クルックスは話の半分も聞いていなかった。

 鐘を鳴らし、ネフライトとセラフィに事態の終了を告げると衣嚢から古びた紙に刻まれた『狩人の確かな徴』を取り出した。

 

「さぁ、お父様の夢へ帰ろう。陳情しに行くぞ! ヤーナムの冒涜の限りを尽くし最後には破壊して欲しいと! ああ、そうだ。コッペリア様にも弁明を──」

 

 ひょっとしたら。

 テルミは腕の中にある箱を意識した。

 これは触れるだけではなく、近くにあるだけで精神に影響を及ぼすのかもしれない。

 そんな危惧が浮かんだが、クルックスがいつになく楽しげで嬉しそうに屈託なく笑っているので。

 

「いい子ね。ええ、ほんのすこし帰りましょう。夕食には城に戻りましょうね?」

 

「ああ!」

 

 二人の姿は夢に溶けた。

 テルミの言葉に、クルックスはやや平常を取り戻したようだった。そのことにテルミは「むぅ」と唇を尖らせた。狂喜のクルックスは、いつもに増して素直に感情表現をする。テルミは、それをとても好ましいと思っていたのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ここは静かな狩人の夢。

 古い夢の生地にして上位者の揺籃、その中枢である。

 クルックスとテルミがやって来た時、夢の主人たる父たる狩人は不在のようだった。

 細かな古い遺志が漂う空間に佇んでいるとクルックスは、自分の不調さの客観視が出来た。

 

「なにか……さっきもおかしくなっていた気がする。その箱のせいか?」

 

「そうでしょうね。距離を取った方がよいのかも」

 

 クルックスは、たかが小さな箱に自分の気分が妙な高揚や不快に左右されるのが気に食わずテルミの持つ箱を睨み付けた。

 

「ハッ、テルミは何ともないのか?」

 

「ええ、まあ、今のところは、ですが」

 

「そうか。俺が影響を受けやすいだけなのかな。……さて。見たところお父様はいらっしゃらないが、髪飾りから目を離すのは憚られるな。呪われているのは確実だと分かったのだし……」

 

 狩人は、聖杯に潜っているのかもしれない。

 とある聖杯を設置している儀式祭壇が微かに光を放っている。二人は、儀式祭壇で聖杯の使用中と見た。

 

「ビルゲンワースに持っていきましょうか。お兄様やお姉様ならば」

 

「却下だ。……お父様がいらっしゃる前にあれこれと手出しをするだろう。それで怪我をされたら俺は……」

 

「ああ、ごめんなさいね。やめましょう。では──あ、人形ちゃん」

 

 微かな足音を立てて、背の高い人形がゆっくりと歩いてきた。

 

「おかえりなさい。小さな狩人様。狩人様は、まだお帰りになっていません。……お荷物ならば、預かりましょうか」

 

 球体関節を軋ませて人形が大きな手を開く。

 クルックスは、テルミと顔を見合わせた。

 人形に持っていてもらえば安心だが、精神に不調を与える物を人形のそばに置いておくのは不安が残る。

 折衷案を思いつき、クルックスは手を叩いた。

 

「人形ちゃん、これを見守っていてほしい。実は、呪いが掛かっている代物なんだ。人形ちゃんにも害を及ぼすかもしれない。だから直接手で触れないようにしてほしい。お父様ならばきっと大丈夫だろうけれど、人形ちゃんは念のために」

 

「呪い?」

 

「うん。そうなの。……もしかして、何か、わかる?」

 

 テルミは箱を差し出した。

 人形は、クルックスの言葉を受けて手を引いていたが、腰を屈めて箱をよく見たようだった。

 

「遺志の塊を魔法では呪いと言うのでしょうか」

 

「遺志の塊? 人形ちゃんは遺志を俺達の力に変えてくれるがそれと同じものなのか? では俺達がたまに拾う死血は、血の遺志の塊と言えるだろうか……?」

 

「力に変える遺志とは違うようです。まだ、この遺志は生きているように思えます」

 

「それは……ええと」

 

 クルックスは、理解が難しくテルミに解説を求めた。

 

「新鮮な呪いということでしょう。形骸化した呪いではなく、惰性で取り憑いている呪いではなく、誰か被った人を苦しめるために手ぐすね引いて待っている呪い──という意味ではないかしら。だから遺志なのに生きている」

 

「なるほど。ではやはり直接触れない方がいい」

 

 クルックスは、いつも人形が立っている花壇のそばを指差した。

 

「あそこに置いておこう。人形ちゃん、お父様がお戻りになったらこれを見るように伝えてほしい。ヴォルデモートが手ずから掛けた呪いが掛かっていると思われる。それから、くれぐれもご注意あれ、と。書き置きもしておこう。…………こんなところだな」

 

 クルックスは人形に手記の一部を渡した。人形が「分かりました」と静かに言い、テルミが人形の定位置から少し離れた場所に箱を置いた。途端に箱を囲う青白い小人がワラワラと現れた。

 

「──お父様の使者達。これに触ってはダメですよ。近付いてもダメよ。危ない物ですからね?」

 

「では俺達は学校に戻る。またクリスマスの休暇に戻ってくるだろう。しばらくお別れだ」

 

「はい。有意な目覚めでありますように」

 

 クルックスとテルミは手を振り、外なる辺境の墓碑に触れた。

 それから。

 狩人のいなくなった夢のなかを人形は長い時間、主人にして赤子である狩人を待っていた。しかし、現れない。数日現れないのは珍しいことではなかった。もっとも人形は一日という単位の存在を知らなかったが。

 

 狩人がようやく夢に姿を現した時。

 クルックスとテルミが髪飾りを夢に置いてから五日が経っていた。

 彼が帰ってきたのは、定期的な輸血液配達の任務を思い出したからだ。

 その時、人形は花壇の縁に座り、眠っていた。

 人間と異なり休憩を必要としない人形だが、どんな不思議か、彼女はたまに眠ることがある。狩人にとって珍しい光景ではなかったが、誰かが眠っている光景を見るのは彼にとって楽しいことだった。

 もう彼女を縛るものは何もない。だから、彼女がもしも夢を見ることができるのなら、せめて幸せな夢を見ていて欲しかった。

 

 眠っている彼女に声を掛けることは憚られる。そして彼女の前に立って待つのも落ち着かない。

 結局、いつもそうするように彼は人形からすこし離れた場所で座って待つことにした。

 すこし離れた場所。それは奇しくもテルミが髪飾りを安置したレンガの上だった。

 外套を払い、座る──着地と同時に飛び跳ねた。尻に何か固い物が触れたからだ。

 

「おうっ!? な、何だ──っ!?」

 

 ついでにバキッと嫌な音を聞いた。

 うつらうつらと舟を漕いでいた人形が目を開けて立ち上がった。

 

「あっ狩人様」

 

「ああ、人形ちゃん。起きてしまったのか。起こすつもりはなかったんだ。すまない。まったく誰の悪戯だ? こんなところに置きっ放しにして、もう……」

 

「…………」

 

 人形の薄い青の瞳が、狩人と腰掛けてしまった箱を行き来した。

 

「あの……」

 

「どうかしたのか、人形ちゃん? あ、歪んでしまったな。蓋が開かない」

 

 狩人は壊れてしまった箱をあらためていた。

 

「それは小さな狩人様からお預かりしていた物です」

 

「クルックスから? ほう、珍しい。食べ物かな」

 

「『呪いが掛かっていると思われる代物で、くれぐれもご注意あれ』と」

 

「の、呪い──えっ、触っちゃったぞ!?」

 

 狩人は両手で掴んだまま、上下左右に振った。

 

「魔法界の呪いの品物というワケか。いえ、何ともないが……? 俺には関係ないのかもな。んん、開かん……! 中身は何か聞いているか?」

 

「いいえ。ただ『ヴォルデモートが掛けた呪いだ』と」

 

「なるほど」

 

 狩人は頭の上に振りかぶると箱を地面に叩き付けた。壊滅的な音を立て、箱は破壊された。

 箱から飛び出して来たのは黒ずんだ古い髪飾りだった。墓碑に当たって弾かれたそれは咲き乱れる花のなかに紛れた。

 拾い上げた狩人は、まじまじと髪飾りを観察した。傷は無いようだった。かなりの勢いで墓碑に当たったように見えたが、見た目通りの銀製ではないのかもしれない。

 

「しかし、髪飾りを呪うとは、ヴォルデモートは暇だったのかな? それとも髪に恨みがあるのだろうか?」

 

「いいえ。特には聞いておりません……。こちらを」

 

「クルックスからの手記か。なになに……『「最も価値のあるモノが必要」と願ったところ出てきた物品。呪われているが術者以外の詳細は不明。不可解ゆえにヤーナムに資するものと判断。また、所有者に連なる者から許可を得た為、お送りいたします。詳細は休暇で帰った際に。代表クルックス』──ほう。なるほど。なるほど。クルックスが俺に寄越したのは……ははあ、分かってきたぞ」

 

 狩人は血除けマスクを引き下げると笑みを深くした。

 青い宝石は、白銀の月の光に照らされている。

 狩人は腕を伸ばして髪飾りを持つと人形と並べた。

 

「しかし君には、あの小さな髪飾りがある。これは少々派手かな。特にこの青い大きな宝石。サファイアだろうか。瀟洒ではあるが……」

 

「狩人様、呪いがわかるのですか? まだ生きている遺志の塊が」

 

 狩人は手の中で髪飾りを弄びながら答えた。

 見たことのないもの。知らないもの。糧となるもの。狩るべきもの。

 それらを求めて悪夢に踏み入った者の末裔らしく、狩人は久しぶりの充実感を得て笑った。

 

「ああ。『日記帳』の欠片と同じ気配がする。あれはどうしようもなく壊れてしまったが、これは違う。──もっと話をしてみたいものだな」

 

 月の光に透かした宝石のなかで、暗い影が泳ぐ。

 手中に収める狩人の瞳は、何も見逃さなかった。

 




レイブンクローの髪飾り
ホグワーツ四寮のうちレイブンクローの創設者、ロウェナ・レイブンクローが遺した髪飾り。
歴史から長く失せていたが、ある日、人知れずあるべき場所へ戻された。即ち、ホグワーツ城へ。
髪飾りにはレイブンクローの言葉が刻まれている。
『計り知れぬ英知こそ、われらが最大の宝なり!』

盗みを犯した娘は、多くを求め、全てを失った。
裏切りを知りながらロウェナは罰することなく真実を秘した。
私の小さなヘレナ。
それを伝えた日から賢人は些かも変わらなかった。
罪まで愛していたのだろう。


髪飾りテキスト
 条件によるテキスト変化があるといいなと思ったのでおまけです。
 ハリポタは全編を通して偉大な(困った)親を持つと大変という話は、形を変えてあちこちに出て来るように思います。これはヤーナムの彼らにもかなり直接的に、そして容赦なく突きつけられるものでもあります。


灰色のレディ
 彼女だけで一本作れそうなほど好きなキャラクターです。カッとなっちゃった『血みどろ男爵』は書けませんでしたが、たぶんピグマリオンがテルミをやっちゃった時みたいに衝動的にやっちゃったんだと思います。だといいな。


髪飾り
 ヤーナム直通便で出荷されました。


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クィディッチが明けて


ラブ・レター
一般的に艶書を表す言葉。
学究の間では、用例の限りではない。



 

 クィディッチ戦は、グリフィンドールの敗北だったそうだ。

 クルックスは、事の顛末をディーンとシェーマスから聞いた。

 

「あれは、本当に仕方のないことだったよ」

 

「フィールドに吸魂鬼なんて。誰が予想できるっていうんだ。ハリーが真っ逆さまで空から落ちてきたときは、目を覆ったよ。ダンブルドアがいなかったらどうなっていたか!」

 

 吸魂鬼の乱入により大荒れとなった試合を決着させたのはハッフルパフのシーカー、セドリック・ディゴリーがスニッチを掴んだからだという。

 

「むむっ、キャプテンのウッドは試合中止を申し出なかったのか? 吸魂鬼の乱入は中止に値する珍事だろう?」

 

「ハリーが落ちた直後にディゴリーがスニッチを掴んだから、もう中止にする時間がなかったんだ」

 

「フェアだった。ウッドも認めたよ」

 

「そうだったのか。負けたのは残念だろうが、命に別状がなくてよかったと思う。それに、まだ優勝杯の敗退というワケではないのだろう?」

 

「ああ、ハッフルパフがレイブンクローに負けて、グリフィンドールがレイブンクローとスリザリンに勝てば、あるいは……」

 

「あとは点差も重要だよ」

 

 ディーンとシェーマスが点数差を議論している後ろで、ロンとハーマイオニーがずぶ濡れの雨合羽を抱えてやって来た。

 クルックスは彼らの議論から抜け出すと暖炉の前で身震いしている二人のそばに立った。

 

「やあ、ハリーは起きたのか?」

 

「ええ。なんとか」

 

「ハリーの前で箒の話をしないでくれよ。ニンバスが折れちゃって落ち込んでいるんだ」

 

「ああ、気を付ける」

 

 二人は、水気の一滴もないクルックスを頭の上から靴先まで見た。

 

「クィディッチの観戦に来なかったの?」

 

「ああ。宿題が……うん……俺は遅いからな。ほら、『闇の魔術に対する防衛術』で代わりに来たスネイプ先生が課題を出しただろう? あれは手こずりそうだからな」

 

 正確には、取り組んで終わった課題だった。

 平日の最終日、深夜の勉強会で『きょうだい』が集まった時にほとんどの時間を費やして片付けた課題だった。

 

「もう書いた?」

 

「なんとかな」

 

「ちょっと見せてほしいなって……」

 

 ロンは、チラッと隣のハーマイオニーを見た。ハーマイオニーはまるで聞こえなかったよう振る舞い、濡れた髪に引っ付いた小枝を暖炉に投げ入れた。

 今学期が始まって数ヶ月が経つ。その間、昨年には見られなかった彼らの不仲をクルックスは目の当たりにすることが増えた。論争のほとんどはハーマイオニーの飼い猫、クルックシャンクスがロンのペット、スキャバーズを襲っていることについてだった。

 

「貴公らは、猫とネズミのこと……まだ喧嘩をしているのか?」

 

「クルックシャンクスは、女子寮にいます。ネズミは安全でしょ。飼い主がキチンと管理していればね」

 

 ロンが反論しようとしたが、クルックスが気付く方が早かった。

 

「──君の猫、そこにいるぞ」

 

 談話室のザワザワとした人の動きが気になったのか、クルックシャンクスが女子寮から音もなく忍び下りてくるところをクルックスは指差した。

 

「クルックシャンクス! どうして出てきちゃったの?」

 

 顔面にパンチを食らったように潰れた顔面をもつオレンジ色の猫は、すぐにハーマイオニーの両腕に捕まった。

 

「早く野蛮な獣を連れてってくれよ」

 

「待て。猫は野蛮な獣ではない。聞けば猫は元は愛玩用で、食料庫に発生するネズミを狩るために人間が飼い始めたものだと聞く」

 

「野蛮じゃないか!」

 

「野蛮ではない。猫がネズミを追いかけてしまうのは本能的なものだ。狩人が獣を狩るのと同じくらい普通のことだろう」

 

「じゃあ諦めてスキャバーズをクルックシャンクスの夕食にしろって?」

 

「まさか。猫の本能とはいえ食事に困っていなければ餌にはならないだろう。だから互いに慣れる時間が必要なのかもしれないと思ってだな。……とはいえ、食べる。その手もあるか」

 

「ないよ!」

 

 ロンは肩を怒らせて男子寮に去って行った。

 残されたハーマイオニーが責めるようにクルックスを見た。

 

「すまない。猫とネズミの関係を伝えたかっただけなのだが……。俺はきっと余計なことを言ってしまった」

 

「あなたって本当に……タイミングが良くないわ。言われなくたってロンも分かっているわよ」

 

 ハーマイオニーは腕の中でもがき始めたクルックシャンクスを抱えて女子寮の階段を登って行ってしまった。

 ロンも分かっている。──猫がネズミを追うことを、という意味だろう。

 クルックスは、近くのソファーに座り、溜め息を吐く。猫がネズミを追う理由が常識として知られた事実だったとは知らなかった。クルックスは猫という存在を今年になって初めて間近で見聞したのだ。ネズミには並々ならぬ因縁があるのだが。

 金輪際、もう何も言うまい。そう出来たらどんなにいいだろうか。ネフライト並の天才的頭脳の持ち主でもなければ、寮生活では必須のコミュニケーションは存在することを彼はもう嫌となるほど知っていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 休日が明けた。

 クルックスは出来る限り学業に打ち込んだ。もとより意識していなくとも増え続ける課題に目を回していたこともある。だが、辛くはなかった。同じように宿題にネビルと苦しみを分かち合うことが出来た。──今年になり実感を深めたことだが、ネビルは『薬草学』に対して並以上の成績を持っているようだった。緑の草は全て同じに見えてしまうクルックスにとって彼の知見は、とても参考になるものだった。

 クィディッチに負けた影響は、生活の端々に現れた。

 

「──やめないか。見苦しい。純血の御曹司にしては品位に欠ける行いではないのかな。ホグワーツまでの列車の中では君に笑ったり泣いたりする余裕はなかったと聞いたが?」

 

 たいていのことがどうでもいいと言って憚らないセラフィがマルフォイに対して放った言葉に『魔法薬』の教室の約半分が振り返ったと思われた。

 ヒッポグリフの一件で怪我をしていたマルフォイはとうとう全快した。包帯を取り去り両手を完全に使えるようになった彼は、この時、ハリーが箒から落ちる様子を嬉々として真似していた。まさか身内の寮から口撃されるとは想定していなかったのだろう。かなり驚いた顔をしていたが、その後、すぐに気を取り直した。

 間もなく吸魂鬼を真似し始めたマルフォイにキレたのはロンだった。咄嗟にテーブルの上にあったワニの心臓を握り、投げつける。それは──ヌルヌルする心臓のせいで手元がおかしくなったのだろう──マルフォイの一列前に座っていたセラフィの横面にぶつかり、パァンと小気味よい音を立てた。

 ──これにはスネイプ先生が黙っていないぞ。

 一部始終を見てしまった多くの生徒が、そう思い一斉にスネイプ先生を見つめた。クルックスの見間違いでなければ、かの先生はセラフィに直撃する瞬間を見届けた後、わざわざ背中を向けた。そのため多くの生徒は、数秒間壁際で横歩きの奇行をするスネイプ先生を目撃した。

 壁から生徒へ視線を移したスネイプ先生は、それから教室をズイと見渡して言った。

 

「グリフィンドールの品位欠ける振る舞いに対し、五十点減点する」

 

 何人かの生徒が妥当だと頷いた。

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ビックリしたなぁ」

 

『魔法薬学』の半地下の教室から解放された後は『闇の魔術に対する防衛術』の授業だ。

 その道中、シェーマスがスリザリンの集団をチラチラと振り返りながら言った。セラフィは教科書の詰まった鞄を友人に渡し、すぐに手洗いに行ったようだ。魔法を使う方法もあるだろう。けれど、水でさっぱり洗い流したい、という気持ちは多くの女子生徒に理解されたようだった。

 

「スネイプの教室で、いつもよりも調子乗ったマルフォイにあんなこと言えるなんて。話したところをあまり見たことなかったけどイカしてるね」

 

「彼女は、吸魂鬼が好きではないからな」

 

 たまたまシェーマスとディーンの後ろを歩いていたクルックスは、コメントを差し挟んだ。

 二人は教科書を抱え直し、振り返った。

 

「そういえば、クルックスと友達だろう? なんで?」

 

「な、なんで? それはだな、俺と彼女は親戚の間柄だから何でも何も、だ。ちょっと、いいや、かなり手段を選ばないだけでまともな女性なのでぜひ話をしてみてほしいものだ」

 

 クルックスの隣でネビルがコクコクと頷いた。

 

「この前、ホグズミードでチョコレートをもらったよ。そういえば蛙チョコレートのカードでカーミラ・サングイナ婦人が出たんだけど、彼女は蛙チョコレートを集めている?」

 

「集めていないから貴公が持っていて構わないと思うぞ。不要なら、交換会に出しても構わない。ところでカーミラ・サングイナ婦人とは誰だ」

 

「カード裏の説明によると『若さと美しさを保つため、命を奪った相手の血を満たした風呂に入った』女性の吸血鬼だって」

 

「血を風呂に? はぁ? ずいぶんと無駄なことをするのだな……? お貴族様ではあるまいに……」

 

 そんなことを話しているうちに『闇の魔術に対する防衛術』の教室に着いた。

 グリフィンドールの生徒が皆教室の前で立ち止まり、教室のなかを見ようと首を伸ばしている。

 誰かが「大丈夫そうだ」と言った。

 何が大丈夫なのだろうかと不思議に思いつつ、教室に入ると理解した。

 

「やぁ、皆」

 

 ルーピン先生が復帰していた。目の下にくまができて、雰囲気が全体的にくたびれていた。

 ──本当に病気みたいだ。

 人混みのざわざわしたなかでそんな言葉が交わされ合った。いくつかはルーピン先生にも聞こえたようだが、彼は「まぁね」と曖昧に微笑んだだけで取り上げることはしなかった。そんなことよりも彼には重要なことがあった。

 

「スネイプ先生がヒドいんです!」

 

「狼人間について! 羊皮紙二巻なんです!」

 

「代理だったのに宿題を出すなんて!」

 

 誰かともなくルーピンが病休の間、スネイプが教室でどんな態度を取ったか不平不満をぶちまけた。

 

「君達、スネイプ先生にまだそこは習ってないって、そう言わなかったのかい?」

 

「言いました。でもスネイプ先生は──」

 

「耳を貸さないんです!」

 

「羊皮紙二巻なんです!」

 

「よろしい。私からスネイプ先生にお話しておこう。レポートは書かなくてもよろしい」

 

「そんなぁ。私、もう書いちゃったのに」

 

「なんと、なんと」

 

 がっかりした顔をしたのはハーマイオニーとクルックスだけだった。

 授業は、病休前と同じくらい楽しく興味深いものだった。

 ルーピン先生はガラス箱に入った『おいでおいで妖精』(ヒンキーパンク)を持って来ていた。一本足で鬼火のように幽かで、儚げで、害のない生き物に見えるが、旅人を迷わせて沼地に誘う魔法生物だという。ガラス箱の中に入った『おいでおいで妖精』はピョンピョンはねてそのうちガラス箱のなかでぶつかった。

 終業のベルが鳴り、荷物をまとめて出口に向かう皆の流れに逆らう者が三人いた。ハリーとハーマイオニー、そしてクルックスだった。ハーマイオニーはせっかく書いたレポートを提出したいのだろう。クルックスも同じ用件だ。ハリーだけは先生に呼ばれたので教室に残った。彼は、なぜ呼ばれたのか分からず怪訝そうな顔をしている。

 

「先生、スネイプ先生が出した課題のレポートです。先生に見ていただきたいので提出します」

 

「ああ、構わない。ただ返事が遅くなってしまうよ」

 

 ハーマイオニーは「問題ない」ことを伝えるとぱたぱたと忙しく教室を出ていった。

 クルックスも教壇にレポートを提出した。

 

「俺もハーマイオニーと同じですが、狼人間について本で調べただけだと分からなかったことがあります。出来れば、お返事をいただきたいです」

 

「ああ。あわせて返事をしよう」

 

 クルックスは一礼すると鞄をつかんだ。

 

「ハリー、この前のクィディッチの試合のことを聞いたよ。箒は修理できないのかい?」

 

「はい。出来ないくらい砕けて……。暴れ柳にぶつかってしまいましたから」

 

「そうか──」

 

 彼らの会話を背中にクルックスは教室を出た。

 

 

■ ■ ■ 

 

 

 

「ラブ・レターかな、それは」

 

 高いキーキー声に訊ねられ、ルーピンはいつの間にか近付けすぎていた羊皮紙から顔を上げた。

 ──ラブ・レター?

 いつもよりすこしだけ高い声になってしまったルーピンは、言葉を繰り返しながら紅茶を一口飲んで喉を潤した。ルーピンの知るラブ・レターの定義の場合、放課後の職員室にそぐわない単語だった。

 

「おや、違ったかな。我が寮のネフライト・メンシスからの果たし状かと思ったのだがね」

 

 ルーピンはフリットウィックに詳しく事情を伺った。この時まで彼は知らなかったのだ。ホグワーツの教授の間で『ラブ・レター』と呼ばれる物があることを。

 差出人はいつもネフライト・メンシスだ。

 一般的に「愛を告白する手紙のこと」を指す語は、ホグワーツ教授陣の間では「果たし状」と同義であった。羊皮紙を開けば、レイブンクローの奇才からの質問がビッシリとしたためられている。迂闊な返事をしたら最後、倍の質問を受けてしまう。

 あれはそういうことだったのか。なんら疑いなく授業への質問だと思い、回答し続けてきたが他の先生にも同じような質問状が届いていたとは。

 

「ああ、でも今日は彼ではないですよ。グレンジャーとハントです。……彼らは、どういう生徒ですかね」

 

「グレンジャー、あぁ、グリフィンドールの誇る優秀な生徒ですな。もっとも、最初の一ヶ月ですぐに分かったとは思いますがね」

 

 まるで自分の寮の生徒であるようにフリットウィックは嬉しそうに頷いた。

 

「もし、総合的な学年の主席を決める機会があれば四寮一致で彼女に決まりでしょうな。ハントは……真面目は真面目だが、あまり印象に残らないね。トロールをミンチにすることにかけては学年トップになれるでしょうが──」

 

 ルーピンは再び聞き返した。

 自分がホグワーツを卒業して何年か経った、現在のホグワーツの教授職の間では『トロールのミンチ』を意味する暗喩があるのだろうか。そんなことを疑問に思ったからだ。

 

「いえ、いえ。言葉のとおりです。『ヤーナム』という、どこにあるかも知れない片田舎から出てきた彼は、あー、ちょっと特殊で、うん、鉄棒一本あればトロールに引けを取らない力を見せますよ。それ以外は誰ともトラブルを起こすこともなく静かな生徒ですな。後は校内をパトロールでうろついている以外は特に……。小テストの回答は、ときどきトンチンカンな回答もありますが」

 

 もしも、フリットウィックから話を聞かなければ、悪い冗談だと思ったかもしれない。

 

「『ヤーナム』とは聞いたことがない街の名前ですね。……いったいどこの街です?」

 

 その質問をしたときフリットウィックの目が、ほんの数秒、数メートル先のスネイプの背中を見た。それを見てしまったルーピンは、彼に悟られないようにあたかも紅茶の水面に浮かんだ茶の葉の屑が気になっていたように振る舞った。

 フリットウィックは目だけで左右を確認し、周囲の先生が小テストの採点や明日の授業の準備で忙しいことを確認した。

 

「……二年前に『闇の魔術に対する防衛術』の担当をしていた人は知っていますね?」

 

「ええ、クィリナス・クィレル。仕事を受けるときに彼の来歴から彼らの末路まで、校長先生から聞いています」

 

「ヤーナムは、今は亡き彼が見つけた秘匿の街です。住人の彼ら曰く『秘匿されていない』とのことだが、魔法省は辿り着けなかった。誰も。今のところ辿り着いて帰って来たのは二人。そのうち生きている者は、ただ一人だけ。イギリス魔法界の膝下にあって見落とされた街なのかもしれませんね。熱心に興味を持って調べているのは『マグル学』のチャリティ・バーベッジ先生らしいですが──」

 

 意味ありげなフリットウィックの視線の意味をルーピンは理解した。情報を並べてみるとヤーナムという存在は、得体の知れない謎めいた気配があった。けれど、謎めいた気配の奥にある不穏をフリットウィックは、ぼんやりと分かっているのだろう。不思議だ、と感想を述べるだけでそれ以上を踏み込むことはしていないようだった。ルーピンもそれに倣うことだろう。しかし。

 

「──獣に何か恨みがあるのだろうか?」

 

 ルーピンは、クルックスの提出用紙を見た。羊皮紙に綴られた言葉の端々には憎悪を感じる。

 ただの独り言だったそれにフリットウィックは答えた。

 

「さあ。古くからの民間療法の弊害で奇病が蔓延しているそうですな。マグルの病気と言えば媒介はネズミと相場が決まっている。……総じて獣は嫌いかもしれませんな」

 

 ルーピンは、彼の質問文を見つけた。

 

『人狼とは、人間ですか。獣ですか。私は獣だと見なします。異なる価値観があるのならば知りたいです』

『知ることは、狩人の私を鈍らせるかもしれません。狩人の私は知るべきではないのかもしれません。それでも、私は知らずに敵対したくないのです』

 




誠実に
 クルックスは、出来る限り誠実であろうとします。それは獣であっても、獣だからこそ、変わらないものなのかもしれません。


ルーピン先生の返答
 いつか相応しい時期に答えることでしょう。それにはまず、彼らがどんな価値観を持っているのか知らなければなりません。……しかし、それを知る機会はいつになることやら。気を長くして待ちましょう。


次回より『互助拝領機構』回となります
 本編にしては珍しくハリー視点が多くなります。本編のハリー主観がどのような感じなのか、見ていただければ幸いです!
 

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互助拝領機構杯準備(上)


匿名希望の檻頭からの依頼
大広間外廊下の掲示板に張り出された正四角形の依頼書。
──手に入れば、それでよい。
学徒には、そう考える者もいる。



 

 クィディッチで負けようと箒が折れようと日常は続く。

 ハリーはルーピンが吸魂鬼防衛術を教えてくれる約束をしたので、やや気分が明るくなってきた。いつか寝室に収めている今は亡き戦友ニンバス2000を葬ることができるかもしれない。そう思える程度には。

 その日の夕食時のことだった。

 ハリーとロン、ハーマイオニーが玄関ホールを通りがかると掲示板の前に人だかりが出来ていて、彼らは羊皮紙のチラシを見ているようだった。一目見てそれが新しいクラブである『互助拝領機構』のものだと分かったのは珍妙な格子状のシンボルが見えたからだ。ハリーの隣を歩いていたロンがプスッと気の抜けた笑いをこぼした。つられて笑いかけたハリーだが、すぐに奇妙さよりも不思議に思う気持ちが上回った。

 今の時期に『互助拝領機構』がチラシを作るのは、かなりおかしなことだ。

『互助拝領機構』の第一回の集会冒頭に参加したハリーとロンはその理由を知っていた。主宰、ネフライト・メンシスの言葉が今も正しいとすれば、彼らの活動は初回のみ新規参加者を受け入れ、後から参加する際は加入者の紹介制という、やや変わったルールを設定しているクラブなのだ。

 

「何の掲示?」

 

 そのことをロンは忘れているのかもしれない。面白がるような顔で背伸びをしてチラシを見た。ちょうどチラシの前に立っていた生徒が興奮気味に友人の背を叩きつつ退いたので、ようやく見ることができた。

 

『「第1回互助拝領機構杯決闘大会」開催のお知らせ』

 

 遊びのないカッチリとしたブロック体の太字で描かれている言葉にハリーとロンは口を開けた。彼らのすぐ隣を一年生や二年生の生徒が「決闘だって! 決闘!」と言い合い、大広間の道に戻っていった。

 二人はすぐに隣にいるハーマイオニーを見た。

 

「ハ、ハーマイオニー、これ知ってる?」

 

「当然、知ってるわ。第二回の集会の時にアナウンスがあったの。『互助拝領機構』では希望者のみ実技を取り扱うカリキュラムがあって」

 

 ──私は行ってないわ。とっても忙しいから。

 話の半分はペチャクチャとおしゃべりする生徒の群れのなかに消えてしまったが『決闘』という言葉には、興味を惹かれる生徒が多いようだった。同じ気持ちを昨年度のハリーとロンも抱いたものだった。言葉をきく度に、あの出来事は思い出さずにはいられない。昨年十二月に行われた『決闘クラブ』のことだ。それは決闘の練習をする活動だったのだが、最中にハリーが蛇語を使えるということが分かり、決闘の練習も何もかもがうやむやになったのは苦く、驚きに満ちた経験だった。

 

「『互いを高めるため、競い合う試みは一〇世紀以上行われてきた。ゆえに「互助拝領機構」は寮間の相互理解努力を促すため、新たな活動を提案する。異寮結束による決闘大会である』。……異なる寮の結束?」

 

「あれにルールが書いてあるわ」

 

 人だかりが出来ている理由がまさにそれだった。

 掲示板に紐付けられた冊子がルールブックになっているらしくチラシを読み終わった生徒は『互助拝領機構杯決闘大会の規則及び運営について』と冊子を読んでいるようだった。

 

「じゃ、読んだのは君だけだ。どういうこと?」

 

 ロンが手早くハーマイオニーに聞いた。ハーマイオニーは「冊子を読んだら?」と言いたげな雰囲気だったが、その冊子はいま集まった生徒の手の中でもみくちゃにされているところだった。

 

「出場するのならちゃんと読んだ方がいいわ。いろいろと細かいルールを知っておいた方がいいから。けれど大枠を説明するとしたら、違う寮の人とペアを作って二対二で決闘するのが、この大会のルールで異寮結束の重要なところなのよ」

 

「どうやって選ぶの?」

 

 もしも、同じ寮でペアを挑むことが可能だったらハリーはロンを誘ってみたかもしれない。昨年のうやむやになった決闘の練習時間のことを新しい出来事で塗り潰してしまいたい気持ちが多少あった。

 

「抽選よ」

 

「抽選? じゃあひょっとするとスリザリンと組まされるなんてことがあるんじゃないか? 三分の二じゃないかっ!」

 

 ロンの声が玄関ホールに大きく響いてしまったので周囲にいたスリザリン生──恐らく五年生か六年生だ──の男子が厳しい顔をしてロンを睨んだ。押さえつけるような目だった。

 

「ペアを組んだ人に魔法をかける必要はないんだから、どの寮でも問題ないように思えますけどね」

 

 勝敗だけを考えた場合は当然ハーマイオニーの言う結論になるため、スリザリンの生徒は気にしないだろう。しかし、ハリーの見る限り、そのルールを知ったグリフィンドールの生徒はロンと同じく「三分の二か」という思案顔を隠していなかった。

 

「よう!」

 

「見たかよ、決闘大会!」

 

 ハリーとハーマイオニーを押しのけて、ロンの両肩をがっしり掴んだ手が二本ある。彼の双子の兄、フレッドとジョージだ。

 

「出るよな?」

 

「五〇ガリオンだぜ」

 

 笑いを堪えたジョージの声にロンが目を見開いて「はぁ!?」と言った。

 ハーマイオニーが「そんなばかな」という顔をして、チラシを見るためにピョンピョン跳ねた。

 

「賞金が出るなんてどこにも書いてないわ! ルールブックの『互助拝領機構杯決闘大会の規則及び運営について』やメンシスだって言っていなかったし……だいたい賞金付きの大会なんて学校で認められるワケがないわ! 優勝者にはトロフィーが贈呈されるだけよ」

 

 ハーマイオニーは、『「第1回互助拝領機構杯決闘大会」開催のお知らせ』のチラシに描かれたトロフィーを指した。ハリーにはどこからどうみても格子模様のチェスのルークに見えた。そして彼女の言うとおり、目を皿にして見つめたが、お知らせには賞金のことはひと言も書いていない。

 

「まさにそれだぜ、ハーマイオニー」

 

「やっこさんとうとう気が狂ったみたいだぜ」

 

 二人はにんまり笑い、『「第1回互助拝領機構杯決闘大会」開催のお知らせ』の下に打ち付けられた四角い羊皮紙を指差した。

 

 

 匿名希望の檻頭からの依頼

 人生にチェスのルークが足りていないようだ。

 解決すべくチェスのルークを緊急買い取りする。

 金50ガリオン即金可(グリンゴッツ魔法銀行振込対応可。同額物品引替可。要相談)

 

 

 ハリーは、ハーマイオニーがあんぐりと口を開けたのを見た。

 

「な?」

 

「『な?』じゃないよ! なんだよ、これ!」

 

 ロンもワケが分からず双子に噛みついた。

 

「三点方式ってヤツだ」

 

 事もなげにフレッドが言った。

 

「さ、三点方式ってなに?」

 

「ハーマイオニーにも知らないことがあるんだな。良いことだ、若者よ!」

 

「トロフィーの作成者はルーナ・ラブグッドだ。レイブンクローの変わり者の女の子だな。その子が『チェスのルークの形をしたトロフィー』を作成。それをどういう理由か分からないが手に入れようとしている『互助拝領機構』の主宰、ネフライト・メンシス。本人は大会がすっかり終わった後、偶然『チェスのルーク』を持っていた通りすがりの決闘大会の優勝者から買い取るだけなので、大会とは何ら関係のない、くすみひとつもない、クリーンな、輝くガリオン金貨が手に入るというワケだ」

 

「こんなの先生に見つかったら、大変よ!」

 

「ところがどっこい。匿名希望の檻頭なんて誰のことか分からないだろうなぁ……」

 

「マグルみたいに筆跡から特定する必要があるだろうなぁ……」

 

「そんなの詭弁だし不健全だわ!」

 

 ハーマイオニーは双子を睨んだが、当の本人達は「文句なら匿名希望の檻頭に言えよ」の構えだ。これもまた正論だろう。

 ハリーの隣でロンがお知らせチラシを見ながら腕を組んだ。

 

「五〇ガリオンか……ペアだから半分でも二十五ガリオン……」

 

「本当に賞金が出るの?」

 

 ハリーは双子に尋ねた。

 ハリーの知るところ、五〇ガリオンとは大金だ。これまで三年間のホグワーツの学生生活のために使った学用品、ペットのふくろうと杖を合計すれば同じくらいの額になるだろう。ホグワーツの授業料は無償だが、学業に付随する貴重品と消耗品が三年分まかなえる金額と考えれば、一般的な感覚でも大金と言えそうだ。それをトロフィーと言い張る鉄の塊のためにネフライト・メンシスは「出す」と言っている。本気だろうか。どうしても信じがたいと思ってしまったからだ。

 

「主宰のメンシスに訊ねたが返事はハッキリとは言わない」

 

「じゃあ、やっぱり誰かの冷やかしなんじゃない?」

 

 ハーマイオニーの考えは真っ当だ。

 五〇ガリオンで買い取ると書いたのはネフライトではないかもしれない。

 

「書いたのは『匿名希望の檻頭』と名乗っている」

 

「そりゃあハッキリとは言えないよな?」

 

 つまり『書いたのは私ではない』とネフライト・メンシスがハッキリと発言しなかった時点で彼が書いたと認めたようなものだと彼らは判断したようだ。

 

「それに前例が無いワケじゃない。──同郷のクルックス・ハント。コリン・クリービーに四〇ガリオン分の菓子をポンと気前よくプレゼントするヤツだ。同郷の変人が五〇ガリオンを積んでもおかしくないと思うね。それに、俺達の親父にふくろうの郵便の受け取りだけで十ガリオン気前よく払うような人が連中の保護者代表だ」

 

 ジョージから最も説得力のある話が飛び出した。これにはハーマイオニーも反論が見つからなかったようだ。

 十月の末。一回目のホグズミード行から帰ってきたクルックスが、談話室にいたコリン・クリービーに対し「写真のお礼だ」と言って、ハニーデュークスの棚をまるまる買い占めてきたのかと思えるほどの菓子を謝礼として渡したのは、寮でちょっとした話題となった。その後、コリンは同級生の二年生と後輩の一年生達にその大量の菓子を振る舞い、ハニーデュークスに夢を見る生徒が増えたのは言うまでもない。

 ロンは「うーん」と唸り、ハリーを見た。ハリーもロンを見ていた。

 

「──もし、僕が二十五ガリオン持っていたら」

 

 ハリーは、そう言って、ニヤッとロンに笑いかけた。

 

「持っていたら?」

 

 ロンは、つられて笑った。

 

「『ハニーデュークスの店のお菓子を全種類二個ずつ買ってきて!』って君に頼むよ」

 

「……うーん。決闘の練習にもなるだろうし、やってみてもいいかもしれないな……」

 

 全員がどんな呪文を使って決闘するかをお喋りしながら、夕食の席に行くとクルックスが食事をしているところだった。いつものように彼の前に置いてある皿は何もかも量が多い。

 暗い目はいつものとおりだったが、彼がただ暗いだけの人物ではないことをハリーとロン、ハーマイオニーは寮の誰よりも知っていた。

 

「──やぁ、クルックス。ちょっといい?」

 

 互助拝領機構杯決闘大会のことについて訊ねると彼は皿に山盛りにしたポテトを食べる手を止めた。

 

「おお、大会に参加してくれるのか。参加者が増えるのはよいことだ。ネフもきっと喜ぶだろう」

 

 ──そんなことはないと思う。

 ハリーはなぜか確信を持ったが、それはさておき、互助拝領機構杯決闘大会の詳しいことを聞きたかった。

 

「互助拝領機構杯決闘大会──長いな──決闘大会と呼称する。ルールは簡単だ。二人組のタッグで戦い、杖を取り上げた数が多い方が勝ちだ。二対二、トーナメント制かつ時間制限がある。お知らせチラシのとおりだな」

 

「時間制限あり? じゃあ攻め得だな?」

 

 ミートボールを取っていたジョージが訊ねた。

 クルックスが「そう」と頷き、ポテトを一口食べた。

 

「呪文の手数がものを言う。その側面はあるだろう」

 

「じゃあ『武装解除呪文』を連発すれば勝てるってこと?」

 

「理論上は。当然、相手も妨害する。『盾の呪文』は知っているか?」

 

「知っている」

 

 そう答えたのは双子とハーマイオニーだった。

 クルックスは三人を見て「ふむ」と言ってから、ハリーとロンを見つめた。

 

「『盾の呪文』とは一時的に自分の周りに見えない壁──つまり盾だ──を作る呪文だ。弱い呪いなら呪文を跳ね返すことも出来る。武装解除の呪文と盾の呪文が出来ることが決闘で善戦するための条件になるだろう。敵の攻撃を『盾の呪文』で防ぎつつ、隙を突いて『武装解除呪文』で杖を取り上げる。これが基本だ」

 

 自信がなさそうな顔をしているロンを見て、クルックスが励ますように「あ、でも」と言葉を付け足した。

 

「ジニーはとても上手になった。同じ学年で彼女ほどうまく出来る学生はいないだろう。君も練習すれば上手に出来る」

 

「ジニーが?」

 

 ロンが、そして双子の二人が「信じられない!」という顔をして、長テーブルの離れた場所で同級生の女の子達とお喋りしているジニーを見た。

 ハリーは兄妹の関係でも知らないことがあるのだな、と不思議に思った。

 

「それとチラシに書いてあるが……大事なことがひとつ」

 

 クルックスはそう言ってポケットをゴソゴソ探り、折りたたまれた互助拝領機構杯決闘大会のお知らせチラシを出した。

 

「ネフがルーピン先生の協力を取りつけた。先生が事前講習の監督をして下さることになっている。決闘大会で死傷者を出すワケにはいかないし、昨年のように何だかよく分からない間にうやむやになってもいけない。特に今回は『大会』なのだから。粛々そして整然と行わなければならないとネフは考えている。運営の『互助拝領機構』は当然努力するが、参加者側の生徒にも協力してもらわなければ大会は成り立たない。参加者側の協力として、決闘大会に参加する生徒は必ず講習会に出なければいけない決まりになっている」

 

 人混みでよく見えなかったお知らせチラシには、たしかに事前講習会の日付と時間が書いてあった。

 事前に練習する機会があると分かり、ロンの顔色がすこし自信を取り戻した。

 

「事前講習は誰でも受けれるってことは、ジニーも出られるってことだよな?」

 

「まさか一年生も出られるのか?」

 

 双子は「高学年だけだと思っていた」と言う。

 

「事前講習さえ受ければ誰でも参加できる。だが、俺達が一年生や二年生と組む確率は低いだろう」

 

「それはなぜ?」

 

 これはハーマイオニーも知らなかったようだ。

 クルックスは、ハーマイオニーがポテトにケチャップを掛けているのを見て目を丸くしていた。

 

「調味料。それはきっとブルジョアの嗜好品。──え、ああ。組み合わせは抽選を行うが、それにしても学年による実力差は存在する。その格差是正のために一年生や二年生は七年生や六年生と組み易くなる仕組みを取り入れる予定だと言っていた」

 

「つまり?」

 

「組む相手によるが、ジニーは強敵になるかもな。あとスリザリンのアストリア・グリーングラス。彼女もなかなかだ」

 

 クルックスの言葉に双子は手を打った。

 

「石頭・パーフェクト・パーシーを引っ張ってくる必要がある。全員で山分けして五ガリオンになってもいい」

 

「ああ、ゼロより確実な五ガリオン。これで決まりだぜ」

 

「──ねぇ、三点方式による賞金が出るらしいって話だけど主宰はあなたに何て話をしているのかしら?」

 

 ハーマイオニーが咎めるような目をしてクルックスを詰問した。

 ハリーは彼が「知らない」と空とぼけると思っていた。しかし、彼は真面目なのだろう。あっさりと答えた。

 

「『クルックスとセラフィのどちらかが勝てば何も問題はない』と言っているな。『匿名希望の檻頭』の依頼は万が一の時の保険だ。ネフが本や役に立つ道具以外で何かを欲しがるのは珍しいことだ。──俺は彼の願いに応えよう。誰にも容赦はしない」

 

 彼が本気になった時の強さをハリーはよく知っていた。昨年はバジリスクに恐れなく立ち向かい、一昨年はトロールをミンチにした。だが、今回は杖による決闘だ。知らない呪文や呪いがあれば、彼でも後手に回ることがあるだろう。

 改めてお知らせチラシを見ていたロンが首を傾げた。

 

「待てよ。『組み合わせは抽選で行い、一年生や二年生は七年生や六年生と組みやすくなる』ってことは、三年生や四年生は同じ学年の違う寮の生徒と組みやすくなるってことだよね?」

 

 ロンの確認にクルックスは静かに頷いた。

 

「それってつまり……」

 

 ジニーやアストリアのように決闘に役立ちそうな呪文を使える低学年の生徒は稀だ。そんな彼女達が上級生と組んだら厄介な相手になることは確実だ。けれど、逆に考えれば脅威はこの二人だけ。他の一年生や二年生と組む確率が少ないということは、足を引っ張る相手と組む確率が低いことを意味する。そして、主宰は本心のところガリオン金貨の手出しなくトロフィーを回収してしまいたいのだ。

 

「三年生や四年生は、同じ実力程度の相手と組めるってことは……安定感のあるチームが出来る?」

 

「そのとおり。七年生や六年生は一年生や二年生を守る必要があるだろうな。守るものが多くなれば、隙も生まれる」

 

 このところロンは落ち込んだり元気が出たりと忙しいが、今が最もやる気に満ちた顔をしていた。

 クルックスはポテトのケチャップをかけ過ぎて狼狽えた顔をした。

 

「お、おぉ。や、やってしまった。ま、まあ、ともかく、そんな感じなのだ。──興味があるのだな。談話室に戻ったら一足先に『盾の呪文』の練習をしてみようか」

 

 夕食をかき込むように食べ終わるとハリーとロン、クルックスは談話室に戻り、寝室のある塔を昇った。談話室は食後で寛ぐ生徒が多くいたからだ。

 

「最初はこれでいいだろう」

 

 ベッドに腰掛けるとクルックスがスポンジで作られたボールをハリーにポーンと投げた。

 小さな子供がキャッチボールする時に使うボールのようだ。軽く握るだけでふにゃりと形を変えた。

 

「じゃあまず見本を見せよう。俺に投げてみてくれ」

 

 数メートル離れたところにいるクルックスは杖を取り出していた。ハリーは言われたとおり、クルックスに向かってボールを投げつけた。

 

プロテゴ! 護れ!

 

 ボールはクルックスの体の前で見えない壁にぶつかったように、あらぬ方向に飛んでいった。

 ロンが拾ってきて興奮気味に「すごい!」と言った。

 

「魔法に大切なのは集中力だと言う。──君達は傘を使ったことがあるか?」

 

「傘って雨の日に使う傘?」

 

 ロンが「あるけど」と言う。ハリーも頷いた。

 

「そうか。俺は使ったことがないのでイメージし難い。でもジニーはこの話を聞いてから上手くなったから、君達にもきっと効果があるだろうと期待して話をする。傘は手で、こう、開いて使うものらしいな。『盾の呪文』で作り出す盾は、そういうイメージが大切なのだと言う」

 

 話を聞くとハリーは自分が作り出そうとしている盾のイメージがわいてきた。

 敵の呪文にあわせて、手にした傘をパッと開く。『盾の呪文』で防ぐ。──そんなイメージだ。

 

「呪文は『プロテゴ 護れ』だ。じゃあハリーからやってみよう。ボールを投げるぞ。それ!」

 

 緩い放物線を描いたボールは防がなければ、ハリーの胸のあたりに当たる。ハリーは杖を上げて傘を開くイメージを集中した。

 

プロテゴ! 護れ!

 

 呪文はきちんと発動したようだ。ボールがハリーの前で屈折して不自然に床に落ちた。

 

「やった!」

 

「最初にしてはなかなかだと思う。じゃあ次」

 

 ロンが杖を取り出して「んっ」と咳払いをした。

 ハリーはボールを拾い上げるとロンに向かってポーンと投げた。

 

「プ──プロテゴ! 護れ!

 

 ロンは呪文をつまづいてしまった。ボールは、ロンの前で一瞬だけ動きが鈍くなったが結局ロンのお腹の辺りにポンと当たった。気落ちしたようにロンはボールを拾い上げてクルックスに投げ返した。

 

「もう二、三回やれば上手く出来るようになるだろう。発動は何回かやれば皆出来るようになるんだ。問題は、たいていの呪文はこのボールよりよっぽど早いということだ。試しにハリー、俺に『武装解除呪文』を撃ってくれ」

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

プロテゴ! 護れ!

 

 ハリーは一瞬、クルックスが確実に『盾の呪文』を成功させるより前に『武装解除呪文』が到達したのではないかと思ったが、『盾の呪文』が間に合ったようだ。クルックスは体勢を崩したが、手の中から杖が飛び出す程ではなかった。

 

「とまあ。このようにタイミングを誤れば『盾の呪文』は隙になってしまう。もし、決闘中でハリーのペアももう一人が『武装解除呪文』していたら今度こそ俺の杖は飛んでいただろう。『盾はよい。だが、過信することなかれ』とは、ヤーナムでもよく言われる言葉だ。避けることが出来るなら避けた方がいいだろう。俺なら避ける」

 

「僕、『盾の呪文』を練習したいな。ボール貸してくれる?」

 

 ハリーはそれからロンが『盾の呪文』を練習する様子を見守った。

 クルックスの言うとおり、二、三回繰り返す頃には『盾の呪文』が安定して出せるようになっていた。

 

「いい感じだ」

 

 クルックスがハリーをチラリと見た。

 

「すごくいい感じだと思う」

 

 ハリーも同意した。お世辞ではなかった。実際、十回ほど繰り返すとほとんど失敗することはなくなっていたからだ。ロンが自信を得た顔で頷いた。

 その時、誰かが階段を登って来た。ネビルだった。

 

「さっき呪文を唱えている声が聞こえたからもしかしてと思って……決闘大会の練習?」

 

「ああ。ネビルも出るのか? 危ないんじゃないか?」

 

 クルックスは、ハリーもロンも思っていることを率直に告げた。二人がそれを伝えるとしたら、遠回しにそれとなく伝えたことだろう。ネビルは「ぐっ」とちょっと苦しそうな声を出した。

 

「でも……頑張りたいからさ……」

 

 ハリーは、クルックスを見た。彼は一人で歩いていることが多いが、移動が必要な教室へ行くときはネビルと一緒に歩くこともあった。たぶん、一番長い時間を過ごしている友人はネビルだろう。彼はどうするだろうか。

 

「『薬草学』では助けられている。だから貴公に……いや、君に付き合おう」

 

 クルックスはまたポケットからスポンジのボールを取り出した。ロンがまだ持っていたボールについては「あげる」と言った。

 

「現状に甘んじず、新しいことに取り組むことは良いことだ。……きっと、な」

 

 そばにいたハリーだけが彼の言葉を聞き取った。

 いつもの暗く沈んだ目が微かに光っているように見えた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 翌日になると互助拝領機構杯決闘大会の噂は、瞬く間に生徒の間に広がった。

 昨年より生徒の期待を高めているのはお知らせチラシに書いてあった『特別指導:フリットウィック先生』と『事前講習指導担当:ルーピン先生』という文言だろう。昨年度のロックハート先生主導のイベントとは異なり、半ば学校公認のイベントということで見なされているようだった。そんな彼らにとってはイベントの主催が『互助拝領機構』という、まだまだ得体の知れないクラブ活動であっても誰も気にしていないようだった。むしろ普段はしきりに独り言を呟き、視線を斜め上に飛ばしている『互助拝領機構』の主宰、ネフライト・メンシスが物事の表に立つということで注目する人も多いようだ。

 ハリーは『呪文学』までの廊下で歩く彼を見つけた。同郷のクルックスよりも遙かに暗く沈んだ目をしていて、神経質そうに眉を寄せている。ハーマイオニーが「ハリーと同じ緑色の瞳なのに受ける印象はずいぶん違うわ」と彼には聞こえない場所まで歩いた後で呟いた。彼は、いつも湿った日陰にいるのがよく似合う人物だ。もし、パーシーのような人格であったら『互助拝領機構』の主宰らしいと思う。けれど、傍目から見る限り彼はとても人の前に立つのを好む人物には思えず、また、「決闘大会をやろう!」と思い立って実現までこぎつけるような人物には見えない。人は見かけにはよらないものだ、とハリーは心底思った。

 午後の最後の授業となった『呪文学』の授業は、ハッフルパフとの合同授業だった。授業開始を待っていると後ろの席に座った誰かがハリーの背を叩いた。

 

「やあ、久しぶり。ちょっといいかな?」

 

 誰かと思えば、ハッフルパフのジャスティン・フィンチ=フレッチリーだった。彼とハリーの関係は複雑だ。彼は昨年、ハリーのことをスリザリンの継承者だと思い込み、しばらくぎくしゃくした関係が続いた。年度末に誤解は晴れたが、彼はバジリスクによって石になってしまい散々な目にあった。

 

「決闘大会のこと。君は出るの?」

 

 ジャスティンは、教室の壁に貼っている『「第1回互助拝領機構杯決闘大会」開催のお知らせ』を指差した。

 

「出るよ。君は?」

 

「僕は出ないよ。五年生や六年生には、とても敵わないからね……。でもハッフルパフは手強いからな」

 

 彼はちょっとだけ得意げに笑った。

 クィディッチでハッフルパフがグリフィンドールを破ったという事実を思い出し、ハリーは胃に重石を突っ込まれたように沈んだ。

 

「最近、よーくわかったよ」

 

 ハッフルパフは温厚柔和な寮だ。そんな寮が他寮から注目される機会は多くない。二年前から負けなしだったグリフィンドールの連勝を止めたとあってハッフルパフが大いに盛り上がったことは想像に難くない。クィディッチに続けとばかりに、ハッフルパフは決闘大会でも活躍を目指しているのだろう。

 間もなく『呪文学』のフリットウィック先生が現れた。

 いつもならばすぐに授業に入るのだが、フリットウィック先生はニコニコ笑って教室を見渡した。

 

「十二月上旬に互助拝領機構杯決闘大会が開催されます! 皆さん、もうお知らせチラシは見ましたね?」

 

 先生がキーキー声で言った。

 

「昨年は、非常に残念な、アー、決闘練習しか出来ませんでしたが──」

 

 先生がロックハート先生のことを指していると分かり、何人かの生徒がクスクスと笑った。

 

「今年は違いますよ。キチンとした決闘になることでしょう! 腕に自信のある生徒は是非参加すべきですね。参加することに意義があります。勝っても負けても真剣勝負です。学ぶことは大いにあるでしょう。そして『呪文学』の呪文のいくつかも役に立つでしょう。三年生からも多くの参加を期待していますよ!」

 

 席に座った友人同士が互いに小突き合い、囁き合う声がさざ波のように広がった。

 そんな時だ。

 

「──フリットウィック先生も参加なさるのですか? お知らせチラシには『生徒だけ』なんて書いていませんものね?」

 

 銀の鈴を鳴らすような声に教室にいる生徒の半数が振り返ったように思えた。

 この教室で最も小さな体の生徒、テルミ・コーラス=Bだ。ハリーは思わずクルックスを見た。離れた先に座っていた彼は振り返らず、フリットウィック先生をじっと見つめているだけだった。

 

「いえ、いえ。今回は、指導と解説の立場で参加しますよ」

 

「あら。とても残念ですわ。先生はお若いとき決闘チャンピオンだったと聞いておりました。いつか先生のご活躍が見たいものです」

 

「大会冒頭に模範演技を行う予定です。そこですこしお見せできると思いますよ、すこーしだけですがね!」

 

 前列に座っていたハリーには、フリットウィック先生の尖った鼻の穴が大きく広がる様子が見えた。

 ひょっとするとフリットウィック先生は、昨年ロックハート先生が決闘のあれこれで注目された時、誰よりも歯がゆく思っていたのかもしれない。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 授業が始まった。誰もが目当てのページを目指し、教科書に目を落とした直後。

 教室を一枚の羊皮紙の鳥が飛んだ。それはヒラヒラと舞い落ちて、とある女子生徒の手の中にやって来た。

 

『決闘大会には出るのかしら?』

 

 手紙を受け取った生徒は、スーザン・ボーンズ。

 彼女はハッとして手紙が飛んできた方向を向いた。

 窓際の席に座る彼女は金糸の髪が午後の光に照らされて、輝く輪のように見えた。

 

 ──ねぇ。

 

 声なき声が、答えを誘う。

 テルミ・コーラス=ビルゲンワースは、出会った時と同じ顔で微笑んでいた。

 

 





互助拝領機構杯決闘大会
『互助拝領機構』ネフライト主宰の主催イベントとなります。
 Q どうして裏でガリオン金貨が動くんですか?
 A この大会はフリットウィック先生がウキウキで協力しているお墨付きの大会ですよ。謂われのない誹謗中傷はやめていただきたいですなぁ。

クルックス「俺達がいるのにガリオン保険を掛ける君はどうかしていると思う」
セラフィ「そうだぞ」
ネフ「君達だから信用ならないんだよ」
テルミ「わたしに声かけなさいよ」
ネフ「魔法界で信じられるのはガリオン金貨だけだ」
テルミ「わたしに声をかけなさいよ」
ネフ「やかましい! 君を頼るくらいなら私は真っ昼間の女子寮に突撃する!」
※こんな内容で漫画を書こうと思っていましたが、時間が足りず断念。時間さえあれば毎日挿絵付きで投稿したいです。


原作の決闘クラブ
 原作ご存じの方は(恐らく生徒で構成されている)『決闘クラブ』が存在することをご存じかと思いますが、名前だけで実態はよく分からない、というのが原作出典情報となるでしょうか。一方で、ホグミス(スマホゲーム)で少し触れられたとか何とか。とはいえ、筆者はホグミスは未プレイなので……未プレイで作品要素に触れるのもどうかと思いましたので今回の決闘に関してホグミス要素はありません。ごめんネ。
 さて『武装解除呪文』は攻撃なのでともかく。防ぐことを目的とした『盾の呪文』は、判断速度が求められるものとなるでしょう。相手が腕を上げた瞬間に(無言呪文を使わない限りは)すぐに詠唱を始めないと間に合わない素人戦がありそうです。攻め得です。
 しかし、ここに速度も威力も確実な短銃がありまして──えっ、銃弾の装填が必要? そっかぁ。こういう点は、近代兵器の長所であり短所でもあるのでしょう。


思い出深い小章
 本互助拝領機構のイベントは、ヤーナム編の投稿を終える頃に書き始めました。現在投稿しているホグワーツ編の終盤に書き上げた話になります。
 本作の各編を書き始めるとき、筆者は序盤を書きつつ、終盤を書き上げてから中盤に取りかかっています。そのため、本日から投稿し始める話は最近書いた話なので、約1年前に書き終えて塩漬けになっている物語最終話周辺を考えると「もうこの話を投稿しちゃうんだ!?」という妙に落ち着かない気分になったりします。
 つまり、この小章はわりと新鮮! 面白いものになっていれば幸いです。
 ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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互助拝領機構杯準備(下)


挑発
刺激して、そそのかし、けしかけること。
自らの行いは、事前に注意すべきだろう。
その気がないのなら尚更だ。



 

『呪文学』の授業が終わる。教科書を全て鞄に入れる。同時に、スーザン・ボーンズは走り出した。

 

(何をしているんだろう。私は)

 

 どこに行こうと思って足を動かしているのか、よく分からない。けれど、ここにはいられない。一秒だって同じ場所の空気を吸っていたくない。 彼女、テルミ・コーラス=Bのそばにはいられない。

 

(嫌いではない。嫌いではない、のに)

 

 去年までは。

 いつも明るくて、優しくて、白くて、綺麗で、誰にでも寄り添ってくれるあの子に憧れていた。好き。好きだった。きっと。たぶん。

 

 誰もがテルミの特別になりたがっている。

 一緒にいると自分も彼女のように楽しくなれるような気がする。

 一緒にいると自分も彼女のように優しくなれるような気がする。

 そんな予感──何割かは本物かもしれない──を抱かせるのが、彼女はとても上手かった。

 ──彼女は何が欲しいだろう?

 ──何を求めているのだろう?

 皆が彼女の気まぐれな頭の中を縋るように考え、振り向かせる機を窺っている。

 今年の夏休みまではスーザンもそうだった。

 

 彼女のことが知りたかった。

 どうしても知りたかった。

 

 彼女は完璧だ。気分屋の性分は決して彼女の『完璧』を損ないはしない。なぜなら、彼女の『気まぐれ』はそれ故に彼女の魅力を完成させているからだ。

 昨年、誰かに話していた言葉は、耳に入れてしまったことを後悔した。

 

「これから、一緒にお散歩に行きましょう。コリン・クリービーが石になった廊下を巡って、校長室の前のガーゴイルをからかって、フィルチさんのお部屋をノックしに行きましょう!」

 

 忘れもしない。

 彼女がそう言ったのは、コリン・クリービーが石になった翌日だった。常識的に考えられないくらい危険な提案は、だからこそ、ひどく魅力的に聞こえた。周囲は冗談だと流した会話だったが、たまたますこしだけ離れたところにいたスーザンには分かってしまった。 ──彼女は冗談のようなことを本気で言っている。

 彼女にまとわりつく謎と疑念は、今年の夏休みのスーザンにある行動を起こさせた。スーザンは試みた。魔法省に勤めているボーンズ家の伝手を使い、調べた。彼女のことを。

 その結果、スーザンは知るべきではないことを知った。

 

「『何も無い』って何なのよ……!」

 

 ──何も分からない。

 ──記録が無い。

 ──『何も分からない』ことが分かった。

 

 スーザンは駆けた。校舎を飛び出す。握った羊皮紙だけが汗で湿っていった。

 

 ──コーラス=ビルゲンワース家は存在しない。

 ──マグルの伝手も当たってみたが、やはり存在しないようだ。

 ──ただし。魔法事故惨事部には『ちょっと』の情報があった。

 ──その年のホグワーツ入学者選定リストを見ると四人分書き足されている。

 ──二年前に『事故死』したクィリナス・クィレルの申し出によってね。

 ──報告した本人がどういうワケか死んでいるので、詳細は不明。

 ──彼らが、どこから来た誰なのか。

 ──本当のところは誰にも分からないのだよ。

 

『マグル生まれ』でも追跡する手段はあるのに「何も分からない」とはおかしな話だ。依頼を受けて調べてくれたおばも首を傾げていた。

 ボーンズ家の人々は代々、魔法省の職員として、時に事務員、時に闇祓いを排出している家だ。家の情報網を駆使しても正体が分からなかった。

 その事実は、スーザンの思考に罅を入れた。

 

 ハグリッドの小屋が見える。

 スーザンはとうとう息が切れて城壁に寄りかかった。

 

『分からない』

『ありえないことが起きている』

 

 それを理解した瞬間、目が覚めた気分になった。

 彼女に出会ってから、いつも思考のどこかが彼女のことをずっと考え続けていた。もうこれが憧れなのか他の感情なのか分からない。ただひとつハッキリしているのは、もう何も知らなかった頃のように彼女が話しかけてくれることを期待したり、笑いかけてくれることを心待ちにしたりすることは出来ない。だから、スーザンは夏休みが明けてから彼女とはうまく話せていなかった。

 

 ふぅふぅ、と息を整えていると自分が何をしているのか分からなくなってきて座り込んだ。

 その頭上に。

 声は、慈雨のごとく降り注いだ。

 

「──こんにちは。あら。もう『こんばんは』かしら。挨拶は素晴らしい習慣ですね? 心が弾みます」

 

 自分はたぶん「ヒィン」とか「キャァ」とか叫んだのだと思う。

 驚いて飛び上がり、スーザンは城壁にいやというほど頭を打った。

 目の前にテルミがいた。

 蒼い大きな瞳が、驚愕する自分を眺めていた。

 

「夏休みが明けてからお話をする時間がなくて残念に思っていました。だから来ちゃいました。お手紙の返事も聞きたいですからね」

 

「あ、あぁ、これ──」

 

 ずっと握っていたせいで汗でくしゃくしゃになった羊皮紙を広げてスーザンは文字を見た。

『決闘大会には出るのかしら?』

 ──出ようと思う。

 そう言おうとしたスーザンは、テルミの目を見てしまった瞬間に自分でも思いがけない言葉を発した。

 

「それだけでは、ないでしょう?」

 

 あまりに正直な言葉は刃物に似て、取り扱いには注意すべきである。

 それを三年生までの複雑な女性同士の友人関係でスーザンは知っていた。それでも衝動的に使ってしまったのは、そうでもしなければこの得体の知れない同級生の心を揺るがすことが出来ないと感じたからだ。

 彼女を知る多くの生徒がそうであるように、どこか遠くにある彼女の心を引き寄せたいとこの期に及んで思ってしまったことにスーザン自身が驚いた。

 

「あらあら? あなたはわたしのことが恐ろしいのね。去年にはなかった恐怖があるもの。ウフフ、悲しいわ。まるで『知っている顔の知らない知人』に出会ったように怯えているのですね」

 

 スーザンの試みは、失敗した。テルミは指で自らの頬を撫でて、薄い笑みを崩さなかった。

 彼女はどこからどう見てもこの状況を面白がっているように見える。

 

「私はあなたのことが……」

 

「ふぅん?」

 

 伏せた顔を覗き込むようにテルミは身を傾げた。

 何もかも見透かすような瞳に魅入られる。隠し事は無駄だろう。そんな諦めが心に浮かび、スーザンは訊ねた。

 

「知りたくて、でも、分からなくて……。あなたは……どこから来たの?」

 

 ウフフ、とテルミは笑った。

 

「……。あなたは、もうわたしのことを調べるだけ調べたのね。魔法省高官の権力を侮ってはいけないようです。では今さら取り繕う理由は特にありませんね。ええ、ええ、話しましょう。わたしは暗澹の地、ヤーナムから──あ、インドのヤーナムではないですよ。──イギリスのどこかにある、けれど地図にはない、病蔓延る不思議な街からの来訪者なのです。クィレル先生の再発見とダンブルドア校長のご厚意でここに」

 

 ──本当だろうか。

 いまだ魔法省が認知できない街が、それもマグルの街が存在するだろうか? 答えは否のように思う。

 佇まいを正し、テルミは両手を重ねた。

 

「ダンブルドア校長に尋ねても同じ話を聞くことが出来るでしょう。校長先生がお認めになったのですから。今のわたしは、ただの生徒。そう見えるハズです。だから……だからね……あのぅ……」

 

 テルミは重ねた指をしきりに組み直した。

 

「これまで通り、仲良く、して、欲しいなぁ……なんて」

 

 ──私は。

 スーザンは、テルミをまっすぐに見つめた。

 

「身の程知らずのことを……考えているのですよ……ええ、本当に」

 

 照れ笑いのように口をふにゃふにゃ動かしてテルミはようやく言った。

 ──何に怯えていたのだろう。

 会えない夏休みの時間が、抱えた恐れを彼女の見た目より大きな存在に育ててしまったのかもしれない。

 出会ってしまえば、ただの可愛い小さな人物だということを忘れていた。

 

「わたしは家族や出身地の話を避けていましたから、あなたが秘密に気付いて探してみようと思うのも無理のないことです。他の生徒だって手段さえあれば同じことをしたでしょう。けれど、認知できない土地の話をどう話してよいか分からないし、出身によって差別されるのは嫌ですから」

 

「さ、差別なんてしない。誰にも言わないわ」

 

 慌てて手を振った。

 テルミは安心したように小さな肩をすくめた。

 

「そう。それは嬉しいことです。……わたしの故郷は、人間にとって善い場所ではないかもしれませんが、住んでいる人々にとっては悪くない場所にもなっているのです。今はね。だから──わたしから言うのも気が引けるけれど──『気にしないでほしい』と言いたいですね」

 

「…………」 

 

「けれど、わたしが魔法界から大きく離れた存在であることを知ってしまったのなら、それは仕方ないことね。こうして気を遣わずにお話出来るなんて! 楽しいことだわ! それに決闘大会のことも! 『互助拝領機構』の主宰、ネフライト・メンシスはわたしの『きょうだい』ですから彼の主催イベントを楽しんで参加してくれるのなら嬉しいわ──」

 

「なんですって?」

 

「あっ……? わわ、忘れて下さいね?」

 

 明らかに『口が滑った』という顔でテルミは今日一番、余裕のない顔をした。

 

「……うん……?」

 

 ネフライト・メンシスと『きょうだい』。

 その言葉は、スーザンが抱いていた彼女の謎のひとつを解明するものだった。

『互助拝領機構』主宰、ネフライトのことをテルミの周りの誰かが話題にする度に嫌って欲しいのか嫌わないで欲しいのか、よく分からない弁護をする理由だ。普段は「黴臭い檻頭」と揶揄するクセに、いざ誰かが非難を始めれば冷淡な意見を述べる。彼のどこが彼女の気持ちを惹くのだろうと思っていたが『きょうだい』で特別な結び付きがあるのならば納得だ。身内が嘲笑されそうな時は庇い、尊敬されそうな時は卑下するのだ。

 それは複雑で、彼女にとっては自然な感情のように思える。

 テルミは大袈裟なほど手を上下させた。 

 

「こ、細かいことは気にしない精神で寮に戻りましょう。寛容って大事よね! ああ、暗くなってきたわ! 狼なんかこわくないけれど! 寮に荷物を置いて夕食に行きましょう。──あら」

 

 テルミが森の木陰を見つめた。

 その先に何があるのかスーザンには見えない。

 森は既に黄昏を越え、夜が訪れていた。テルミが指差した方向は、一面の闇だった。

 

「……珍しいわ。犬がいる。黒い犬よ……」

 

「犬? ペットの持ち込みは許されていなかったハズ……でも猫が大丈夫なら犬もいいのかしら……? 私には見えないけど……」

 

 テルミは悪戯を思いついた顔でスーザンを見た。

 

「ねぇ、これからあの犬が実在するかどうか確かめに行きましょう! ただの見間違いかもしれないわ。野犬かもしれないわ。でも、ひょっとすると通りすがりの死神犬かもしれないわ!」

 

「行かないっ。絶対に行かないっ。ほら、夕食に遅れちゃう!」

 

 スーザンはテルミの手を引いて校舎のなかに戻っていった。

 楽しげなテルミの声が、石造りの廊下に高く響いていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 セオドール・ノットとセラフィ・ナイトが、大広間に向かうホールに張っているお知らせチラシと同じものをスリザリン寮の掲示板にも貼っていた時だ。もう夕食を終えたらしいドラコ・マルフォイと取り巻きの二人がやって来た。

 

「──『互助拝領機構杯決闘大会』。ぜひ参加をするといい。真っ向からハリー・ポッターをぶちのめす機会だ」

 

 足を止めたドラコに向かい、セオドールがニヤリと笑い、そう告げた。

 

「互助拝領……? まだルーニーズと話しているのか? あの変人集会に?」

 

 一見にして奇抜な『互助拝領機構』のシンボルはお知らせチラシに描かれている檻だ。私的な時間にはそれを被っている主宰の彼も一般生徒から変人と見られている。

 実際のところ。

 セオドールはちょっとだけ考える。人とは違った思考回路を持つ彼は変人であろう。とはいえ、ある一定の基準、特に学校生活を送る上で『成績』という基準で彼の障害になるものは何もないようだった。グリフィンドールのグレンジャーでさえ。

 そのため。

 

「ドラコがメンシスより成績が良ければ、君のいくつかの発言にも頷けるんだが……。残念ながら彼はめちゃくちゃに頭が良いからな。君ほど彼らを悪く思えないし、言えないな。『まともであることの、なんとくだらないことか』というヤツだな」

 

 ドラコは、久しぶりに同調以外の意見を受け取ったのかもしれない。彼は面食らった顔をして立ちすくんだ。

 

「君の品位のことを心配しているんだ。あんな連中と付き合うなんて」

 

「ご心配痛み入る。……だが、俺は使えるものは使う主義だ。しかも君ほど選り好みしていられなくてね。今のところ、まぁ悪くないと思っている」

 

 セオドールはお知らせチラシを張り終えて出来映えを眺めているセラフィの背中を見て、それからドラコに視線を移し、ついでにクラッブとゴイルを見た。

 使えない純血より、使える混血。

 セラフィの背中を見てフン、とドラコが鼻を鳴らした。その時だ。空気を読まずセラフィが振り返り、熱心に見つめるドラコに気付いた。そして何を思ったか余ったお知らせチラシの一部を渡した。

 

「イベントの主体が何であれハリー・ポッターと腕比べ出来る機会ならば君は逃さないだろうね。ちょうど君の腕の怪我も治ったことだ。まぁそれでも僕には敵わないだろうけれど参加するのなら、すこし期待しているよ」

 

 ──やめてやれ、セラフィ。

 セオドールは慌てて小突いたが年齢にそぐわない美しい恵体は動じなかった。どうにもこの同級生は、自分の力を過信する癖があるらしい。会話のフォローを入れる間もなく、みるみるうちにドラコが顔を赤くした。

 

「いいだろう。出てやろうじゃないか」

 

「二対二、異なる寮の生徒と抽選でペアを組んで決闘することになる」

 

「異なる寮……? 三分の二じゃないかっ!?」

 

 昨日の今頃。

 玄関ホールで同じことを大きな声で言い、騒いでいたのはハリー・ポッターの取り巻きの一人、ロン・ウィーズリーだったな、とセオドールは思い出した。

 

「貴公はグリフィンドールの生徒と同じことを言うのだね。たしかロン・ウィーズリーだったと思うけれど。なるほど。嫌っている者同士は似たもの同士で実は気が合うのかな?」

 

 ──やめよう、セラフィ!

 セオドールは「事前講習が必要だぞ!」と言い残してセラフィを引っ張り、談話室の外に退散した。

 

「どうかしたのか、貴殿」

 

 宿題のついでに呪文の練習に付き合ってもらいたい。

 セオドールは教科書が詰まった鞄を寮に忘れてきたことを思い出したが、セラフィは微かに笑って「いいよ」と応えたので何も問題はないように思えた。

 




テルミの言葉
 彼女の言葉が真実なのか、それとも警戒心をなくそうとするための甘言なのか、クリスマスの頃には分かるかもしれません。彼女のプロフィールにも関わることです。


3分の2じゃないか!
 こういう時に、ハーマイオニーがロンに素早く言った「隣の人に呪文をかける必要はないのよ?」をマルフォイに言ってくれる人がスリザリンにいればいろいろと原作と変わった学生生活を送る事が出来たのかな、と思ったり思わなかったりします。マルフォイ周辺を書いているとこういったことをしばしば考えさせられます。


『記録写真』の後書きに追記しました
attoクロスオーバー様から95話『記録写真』の場面の一幕の挿絵をいただきました! この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます!
(該当話の後書きから挿絵を閲覧することが出来ます)



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第1回互助拝領機構杯(開催)


期待
心を寄せ、アテにすること。
ことネフライト・メンシスは他者からの期待に敏感だ。
誰よりも己こそが忠実だと信じるがゆえに。



 

 怒濤の数ヶ月が過ぎていた。

 その間、ハリーの気持ちは徐々に上向いていた。

 不穏なものといえば、ときどきシリウス・ブラックの目撃情報が朝食時に話題になるだけだった。

 やがて十一月の終わりに、クィディッチでレイブンクローがハッフルパフを大差で負かしたことでグリフィンドールはギリギリのところで優勝争いに加わることができる点差状況となった。これにはグリフィンドールのクィディッチメンバーが手を振って喜んだ。キャプテン、ウッドなどはファイアー・ウィスキーを大樽で飲み干したような情熱を取り戻し、煙るような冷たい雨のなか、クィディッチの練習にもますますの熱が入った。

 宿題とクィディッチの練習の合間を縫ってロンやハーマイオニーと互助拝領機構杯決闘大会の練習をするのは、とても良い気張らしになった。ハリーとロン、ハーマイオニーにとって『武装解除呪文』は二年生の夏休み休暇前に何度か練習していたこともあって同学年の中では、かなり上手い方だった。

 

 互助拝領機構杯決闘大会の出場に必要な事前講習が行われたのは、学期が終わる二週間前だった。その日の明け方に目覚めると校庭が霜柱に覆われていた。冬の到来だ。城は一気にクリスマス・ムードで満ち溢れた。

 昼食後に講習会の時間が近づき、ハリー達はぞろぞろと会場である『呪文学』の教室に向かった。今日は休暇前の数少なくなってきたホグズミード行の日であるため、参加者は少ないのではないかと思っていたが教室に着いて驚いた。ざっと五〇人はいる。

 

「一対一にしないワケだよ。まともに決闘していたらトーナメントでも時間がかかりそうじゃないか」

 

 どこへ行けばよいか迷っているとロンが教室の前方にある受付を指した。

 

「受付はこちらに。こちらに。二列になって下さい」

 

 近付くとペチャクチャお喋りする生徒の列を整頓しているクルックスを見つけた。彼はすぐにハリー達に気付くと手を振った。

 

「おお、来てくれたのか! 俺はとても嬉しい。まず受付で名前を書いてくれ。指導を受けたいなら、あそこに立っているルーピン先生のところに行ってくれ。もう呪文が使えるのならネフのところに行ってくれ。──はい、並んで。そこ、人を押すな! この糞袋野郎ッ! 危ないだろうが!?」

 

 彼は慌ただしく列の整頓に戻った。

 順番に並びながらルーピン先生を見ていると生徒が数人集まると呪文の指導を行っているようだった。

 教室の隅の方で立っているネフライトは檻を頭に被った、おかしな格好をしていた。いつもの休日の姿だ。彼の隣に置いたテーブルには校庭に落ちているような木の枝が大量に置いてある。彼の足下にも木の枝が散らばっていた。何をしているのか分からずただ眺めていると五年生くらいのハッフルパフの生徒がやや距離を取り、彼と向かい合った。そして、礼をする。

 

 ──エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 構えた途端、ネフライトの持っていた木の棒が手の中から飛び出した。

 それから彼はテーブルに置いていた自分の杖を持ち、逆に呪文をかけた。今度はハッフルパフの生徒が見事な『盾の呪文』で武装解除呪文を防いだ。それからネフライトは「以上で終了です」ということを言ったのだろう。ハッフルパフの生徒は彼に手を振って教室を出て行った。

 

「うわあ……」

 

 ロンが感心したように見ており、列に並ぶ前の生徒が数歩進んだことに気付かず、彼の後ろに並んでいるハーマイオニーに背中を突かれた。

 

「もう出来るならルーピン先生の指導は受けなくて良さそうだね」

 

 受付にはルーナ・ラブグッド──ハリーは初めて彼女を間近で見た。──カブのピアスをしているレイブンクローの二年生がいた。もう一人はセラフィで「所属と学年と名前を書いてね」と羽根ペンを差し出した。

 

「自信があるならルーピン先生の指導は受けなくていい。ネフのところで実技をして問題がなければ登録になる。見たところ四年生以上で指導を受けている人はいないようだね」

 

「もし、実技で失敗したら?」

 

 ロンが「念のために」と前置きして訊ねた。

 

「僕が君の名前を斜線で消すことになるね。実技は一度きりだ。頑張りたまえ」

 

 ハリーとハーマイオニーは、それを聞いてもルーピン先生の指導を受けないつもりだったが、ロンは気弱な顔になり「やっぱり受けるよ」と言ってルーピン先生のそばでたむろする集団に加わった。

 

「前々から思っていたんだけど」

 

 ハーマイオニーは神妙な顔をしていた。ただし、目だけは指導を受けに行ったロンの背中を追っているのだと何となく分かった。

 

「なに?」

 

「……ロンってとってもあがり症よね?」

 

「神経質と自信喪失の癖があるのは、たしかだ」

 

 ハリーなら「最初から上手く出来るなんてことないさ」と思うような出来事だとしても、ロンは一度の失敗で途端に調子を崩してしまうことがあった。それでも練習ならば気を取り直して頑張る事も出来るのだが『実技が一度きり』と言われてしまったロンは不安定になっているようだった。

 

「君は先に行っててくれ」

 

 ハリーは実技の順番を待っている列から外れるとロンのそばへ行った。

 

「ロン、あんなに練習したじゃないか」

 

「でも──」

 

 最悪のタイミングで人混みが切れて、ロンとハリーにはネフライトと対峙するハーマイオニーが見えた。

 抜群のコントロールでハーマイオニーがネフライトの持つ枝を飛ばし、また、ハーマイオニーは完全に防御し、わずかにネフライトを怯ませた。

 しまった、と思ったが遅かった。ハリーはロンが顔をくしゃくしゃにしているのを見た。

 

「僕、あんな風にできないよ……! やっぱり出るのやめる……! 僕……僕……気が迷ったみたいだ……!」

 

「あんなに練習したのに!?」

 

 ハリーが一生懸命に励ましているとルーピン先生が手招きした。見れば指導していた数人の友達グループは実技の列に移動していた。

 

「やあ、二人とも。君達も出るんだね。さぁ、呪文は知っているね? やってごらん」

 

 ルーピン先生が指差したのは等身大に削られた木製の人形で右手に杖を持っていた。

 ロンはぎこちなく歩き、咳払いをした。

 

「肩に力が入りすぎているね。深呼吸してごらん。……深呼吸……。そう、落ち着いて、焦らなくていい」

 

 ルーピン先生の指導は、かなり効果があった。

 今にもヒステリックに騒ぎそうだったロンが次第にいつもの調子を取り戻し、杖を構えた。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 人形が持っている杖が飛び出し、天井に当たって跳ね返った。

 

「上出来だ。次は『盾の呪文』だ──」

 

 見慣れたスポンジのボールがルーピン先生のポケットから出てきた。これにはロンも自信が出てきたようで完璧な『盾の呪文』でスポンジボールを跳ね返した。

 

「さぁ、ロン。実技に進んでも大丈夫だろう。大丈夫。君は『まね妖怪』もうまくやった。──次はハリーだ」

 

「僕──」

 

 もう出来ます、と言おうとしたが、その前にルーピン先生は「あっ」と何かを思い出した顔をした。

 

「『まね妖怪』のことで君に伝えたいことがあった。吸魂鬼対策のことだよ」

 

 ルーピン先生は声を落とした。それはとても幸いだった。その頃ハリーは、名簿に名前を書く待機列にドラコ・マルフォイといつもの取り巻き二人が並んでいるのを見つけた。

 

「昨日、ようやく『まね妖怪』が調達できたんだ。フィルチさんの書類棚の中に潜んでいるのを譲ってもらってね。約束通りクリスマス休暇が終わったら吸魂鬼対策の訓練ができるだろう」

 

「はい」

 

 出来るだけ、とっても嬉しいです、という顔でハリーは返事をした。

 

「しかし、目下はこの決闘大会だね。君は是非──おっと──先生が誰かを応援するのはいけないね。だが頑張って欲しいものだ」

 

 ハリーは結局、指導を受けた。ルーピン先生の「大丈夫そうだね」という言葉で背中が押された気分になった。

 実技の列は、指導の列よりサクサクと進んだ。

 ハリーとロンの見ている間で上手く出来なかったのは二年生のスリザリンの生徒と四年生のハッフルパフの生徒だけだった。二人とも呪文の発音が甘く、武装解除を上手く出来ずにネフライトを数歩退かせるのがせいぜいの威力だった。

 

「まだ早いようだ。来年出直してくれたまえ。──名前、消しておいてくれ」

 

 ガックリと肩を落とす彼らの名前を記録しているのはロンの妹、ジニーだった。

 次はスリザリンの一年生だった。

 ネフライトは杖を構えず、床に散らばった小枝を呼び寄せ呪文で一斉に集めた。

 

「アストリア・グリーングラス。君の実力は知っている。私は免除しても構わないと考える」

 

「決まりは決まりでしょう?」

 

 ならば仕方ないか、とネフライトが杖を置き、小枝を構えた。

 

「頑張って!」

 

 手帳と羽根ペンを握ったジニーが応援した。ハリーは奇妙なことに自分にも同じ応援をして欲しくなった。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

「はいはい。次は『盾の呪文』だ」

 

 ネフライトの手の中から小枝がきりきり舞いをして飛び出し、彼はテーブルの杖を持ち上げた。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ

 

プロテゴ 護れ!

 

 呪文は完璧に発揮された。

 ハリーは、実力を見てようやく思い出した。クルックスが言っていた、ジニーと一緒に名前の挙がった人のことだ。スリザリンの一年生、アストリア・グリーングラスだ。

 

「あの子と組める七年生は強敵だね」

 

 ハリーは何気ない感想を言ってしまった後でロンが気分を急降下させてしまったのではないかと焦った。

 しかし、ロンはジニーの手前、やる気が出ているようだった。

 

「じゃあ次は僕だ」

 

 ハリーの心配は、すっかり杞憂になった。ロンは練習の成果を発揮し、見事ネフライトの持つ小枝を弾き飛ばした。列から離れて見守っていたハーマイオニーは小さく拳を握って「やったわ!」と言ったのが見えた。しかし次の『盾の呪文』は唱えるのがギリギリで、ロンはよろめいた。それを目敏く見つけたネフライトが「うん?」と檻の中で思案顔をした。

 

「参加には見合わないと私が決めてしまってもよいのだが……まぁいい。採決をしようか。ジニー、グレンジャー。今のはアリかな、ナシかな。私はナシだと思う」

 

「アリよ」

 

 二人とも声を揃えた。

 

「杖は飛ばなかったわ。ちょっとだけよろよろしたけど、いつもよろよろしているから誰も気にしないわ」

 

「もう一回やればハッキリするわ。いつもならもっとうまくやっているんだから」

 

 ジニーとハーマイオニーの発言を受けて、ネフライトは両手を広げた。降参、という感じだった。

 

「では、私は意見を取り下げよう。参加資格を得たので退室してよろしい」

 

 ロンは晴れやかな顔をして順番を待つハリーを振り返った。

 ハリーは五秒かからず『武装解除呪文』と『盾の呪文』をやって退けた。

 

「こちらは問題なし。退室してよろしい」

 

「ポッター、本番もうまく出来るかな?」

 

 聞き慣れた声がツンと鼓膜を刺した。

 見ると実技の列の後方にマルフォイがいてケラケラと笑っていた。

 ハリーが言い返そうとしたその時、ネフライトがマルフォイに向けて言った。

 

「貴公とペアを組むかもしれない相手を挑発するとは理解に苦しむ。それともこれがスリザリン流の『ご挨拶』というものなのかね?」

 

「ハッ。ポッターと組むことになったら僕は参加を取り消す」

 

 唸るようにマルフォイは言ったが、ネフライトはまるで取り合わなかった。むしろ嘲るように彼は薄く笑った。

 

「いざとなったら貴公は逃げる? ほう、私の知る限りスリザリンとは『狡猾さ』を大事にする寮だったと思うが、いやはや。策を弄することなく尻尾を巻いて逃げ出すとは、さぞ芸術的で狡知的な撤退方法を見せてくれるのだろうね? ──互助拝領機構杯の目的は寮間の交流だ。理念に納得できないのなら去りたまえよ。時間の無駄だ」

 

 ネフライトの冷え冷えした緑色の瞳がハリーを見た。退室するように、と言っているような気がして「行こう」と二人に声を掛けた。その後、マルフォイが教室を飛び出してくることはなかったので彼は残ったのだろう。

 廊下を振り返るとロンがニッコリしていた。

 

「どうしたの?」

 

「マルフォイをやっつける自信が出てきた」

 

「あなたねぇ……。いい? そもそも今回の決闘大会は──」

 

 ハーマイオニーが互助拝領機構杯決闘大会の趣旨を長々と話しはじめたが、ロンは嫌な顔ひとつしなかった。この調子で本番まで過ごして欲しいとハリーは心の底から思った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 翌週の週末。

 お知らせチラシのとおり『互助拝領機構杯決闘大会』は、昼食後の大広間で開催された。

 この週末は本格的な冬の到来となり、歴史的な大雪でホグズミード行の許可が下りなかったせいか、ほとんど全校生徒が集まっているような混み具合だった。

 食事用の長いテーブルが取り払われ、見物用の長いすがあちこちに並べられている。大広間の中央にはレイブンクローのシンボルカラーである青を基調とした長方形の舞台が出現していた。大広間の注目を集める舞台を見てロンがちょっとだけ顔を蒼くした。

 

「見て、ダンブルドア校長がいる」

 

 ハーマイオニーが目をぱちくりさせた。

 壇上にある教職テーブルにはダンブルドア校長とマクゴナガル先生が食事を終えた後でも座っていた。手には見開きの羊皮紙を持って、何やら楽しげに話している。

 

「参加者はこちらへ。こちらへ! 受付で番号札を受け取って」

 

 誘導をしているクルックスのそばを通り過ぎ、受付に行くと再びルーナとセラフィがいた。

 

「おや、来たのだね。ハリー・ポッターは……赤の六番だ。──ルーナ、渡してくれるかな。──それから、ロン・ウィーズリーは赤の七番。ハーマイオニー・グレンジャーは赤の八番だ。全員が番号札を受け取ったら抽選をするよ。……ちなみに僕は緑の一番だ。ルーナは青の一番だ。もし、ペアになったらよろしくね」

 

「よろしくね」

 

 夢を見るようなフワフワした顔をしてルーナが言った。

 三人は曖昧に頷いて番号札を受け取った。

 ハーマイオニーが番号札を握りしめて肩を上げたり下げたりした。

 

「実戦と練習は違うもの。緊張しないように……深呼吸、深呼吸」

 

 ロンもハーマイオニーの真似をして深呼吸をしたが、息を吸うばかりで過呼吸になりかけてからは、突然肩をぐるぐると回す運動を始めた。

 十五分もすると参加者全員に番号札を配り終えたようだった。互いに番号札を見せたり、隠したりしていた。ハリーが大広間全体を見回したところ三年生以上が多いようだった。

 

「──ネビル!」

 

 ロンが驚いて名前を呼んだ。

 人混みのなかに見つけた人物は、とても意外だった。

 ネビルはおどおどして立ちすくんでいたが、知っている人を見つけたようでホッとした顔をした。

 

「僕、赤の十五番だ。あれからクルックスが付きっきりで練習に付き合ってくれて……実技も何とかパスしたんだ」

 

 ネビルは照れた顔で頭を掻いた。

 ロンは大いに勇気づけられた顔をしていた。

 

「頑張ろう」

 

 ──誰と組むことになるんだろうか。

 そんな話題で盛り上がっていると壇上に『互助拝領機構』の主宰、ネフライトが登壇した。

 

「諸君、注目を!」

 

 金属製の筒状の拡声器を持ち、ネフライトは声を張り上げた。

 大広間が静かになり始めた。生徒の何人かは、彼の被る檻を指差して友人達に揶揄するような仕草をしている。そんなやりとりが視界のあちこちに見えるだろうに彼は頓着していないようだった。

 

「静粛に感謝を。互助拝領機構杯決闘大会へようこそ! 開催にあたり、主催たる『互助拝領機構』主宰、私ネフライト・メンシスが短くご挨拶を申し上げる──」

 

 ネフライトは大した緊張もせず、まるで台本を読んでいるかのように淀みなく挨拶を述べた。

 内容は、ハーマイオニーが言ったことと大きく変わらなかった。互助利益を目的とする『互助拝領機構』は寮間の積極的な交流を図るため実施する、という内容で締めくくりの言葉は「健闘を祈る」だった。

 

「では抽選を実施します。──フリットウィック先生、ご登壇を!」

 

 小さな背丈のフリットウィック先生が「よいしょ」と言いたげに壇上に登り、方々に手を振った。

 

「そーれ!」

 

 フリットウィック先生が杖を振ると番号札の何も書いていなかった裏面に文字が現れた。──黄色の九番。

 

「僕のペアは黄色、ハッフルパフだ」

 

「私は青、レイブンクローみたい」

 

 ──ロンは?

 顔色を悪くしているロンが弱々しい声で言った。

 

「最悪だ……緑だ……スリザリンだ……」

 

 恐れていたことが起きてしまった。

 三分の一の確率をロンは引き当ててしまったらしい。

 ハリーとハーマイオニーは素早く視線を交わした。

 

「えーと、だから、隣の人に呪文をかける必要はないのよ?」

 

「それくらい、分かるよ……!」

 

 最悪な慰め方をしてしまったハーマイオニーは八つ当たりされる前に「それじゃペアを探すわ」と足早に雑踏の中に紛れていった。

 

「もし、ペアが上級生だったら勝てる確率が高いってことじゃないか。ラッキーだと思ったら……」

 

 ハリーの慰めはほとんど効果が見られず、ロンは哀れっぽく呻きながら人混みのなかに行った。

 ハリーもペアを探しに行かなければならないと思い、辺りを見回した。大広間全体でペア探しが行われているようで右にも左にも行けない。そんな時、どこからか「赤の六」という声が聞こえた。

 

「赤の六番の人ー? 赤の六、赤の六ーっ!? 君?」

 

 目が合った。やはりハッフルパフの生徒だった。

 逞しい五年生の男子生徒。ハリーは珍しく他寮の生徒であっても名前を知っていた。

 

「セドリック・ディゴリー?」

 

「ハリー!? 驚いたな。君だったか! クィディッチで君の反射神経は見ている。これはもしかすると、もしかするとだ!」

 

 なぜ他寮の生徒でも名前を知っているのか。

 それは彼がハッフルパフのクィディッチのメンバー、そしてハリーと同じポジションのシーカーだったからだ。

 彼を見ているとクィディッチで負けたことがチクチクと思い出され、ほんのすこし悔しい思いが胸にこみ上げた。けれどクィディッチ以外でクィディッチの勝負の勝敗を持ち出すのは子供っぽいことだとハリーにも分かる。こちらは今回、敗北側でもある。すすんで口に出したい話題ではなかった。

 しかし。

 

「良い選手だって僕もよく知っている。心強いよ」

 

 ハリーは絞り出すように伝え、二人はガッシリと固い握手を交わした。

 彼がどう思っているかは分からないが、ハリーとしてはかなり良いペアを引いたのではないかと思った。少なくともスリザリンではない。その一点だけでハリーはロンに優ってしまったように感じられた。

 

「あ、ハーマイオニーは……?」

 

 ハーマイオニーのペアは青と言っていた。すなわち、レイブンクローだ。背伸びをしても人混みの中では見つけられなかった。

 そのうち人ごみを整理しているクルックスが指示を飛ばし始めた。

 

「選手はこちらへ。こちらへ! ──おい、押すなと言っているだろうがッ! この糞袋女! 怪我をしたらどうする!?」

 

 怒鳴りつけられた女子生徒──たぶん上級生だ──が「キャッ」と騒いで足早に立ち去った。

 

「こっちへ移動しよう。作戦会議をしないと」

 

 セドリックに肩を叩かれ、二人は見物用の長いすの前列に座った。長いすの前列は、選手席を兼ねているようで、もう何組かのペアが座って熱心に話し込んでいた。

 大方のペア探しが終了した頃合いをはかり、フリットウィック先生が空中に大きな紙を提示した。

 大きな文字で『互助拝領機構杯決闘大会』と書いてある。その文字のすぐ下に現れたのはトーナメントの対戦表だった。

 

「僕らの一戦目は……」

 

「エロイーズ・ミジョンとグラハム・モンタギューだ」

 

「ミジョン? ああ、知っている。同じハッフルパフでね。ちょっと、あー、ニキビのある──」

 

 ハリーと同じ学年なので顔だけは知っていた。

 しかし、あのニキビ面を『ちょっと』と表現するセドリックはかなり平和を好む性格なのだと感じた。

 

「うん、まあ、僕の記憶ならそんなに要領の良くない子のハズだ」

 

 セドリックは「君より早くはないと思う」と感想を述べた。

 

「もう一人のモンタギューはスリザリンのクィディッチ・チームのチェイサーだ。反応は悪くないだろうね」

 

「こっちも同じ学年だから知っているよ。チェイサーをやっているくらいだ。そう、反応は悪くない。だが、せっかちな性格だ。こっちは『かなり』ね。何か上手くいかないことがあるとすぐ苛立つな。それで魔法薬の授業中はずっと足を揺すっているんだ。でも実技を突破したってことは呪文を使えるってことだから油断できない──」

 

 分析するセドリックをよそにハリーはトーナメント表をじっくり見た。ハーマイオニーの名前の隣に書かれているのは、レイブンクローのアンソニー・ゴールドスタインだ。やったぞ。ハリーは我が事のように嬉しくなった。ハリー達と同学年のレイブンクローの生徒だ。ハリーは、彼が授業中にヘマをしているのは見たことがない。そしてハーマイオニーの性格からもレイブンクローの生徒と組むのは悪くない選択だと思う。

 ロンは──。

 探して見つけたハリーは、顎が外れそうになった。

 

「ドラコ・マルフォイ!?」

 

 念のためセドリックにもトーナメント表を見てもらったが、どこからどう見てもロン・ウィーズリーとドラコ・マルフォイはセットだった。

 

「ロン? いつも一緒にいるウィーズリーの兄弟の下の彼? スリザリンのことが嫌いだろうに……うーん、これは……難しいかもね……」

 

 セドリックは「お気の毒さまに……」と小さな声で言った。もしも、彼が真剣に優勝を目指す人であれば「敵が減るぞ!」と喜ぶ場面だったかもしれない。しかし、そんなことをしない公平な人物であることがとても好印象だった。

 壇上のネフライトが再び拡声器を持って「静粛に」と呼びかけた。

 

「抽選結果はいかがだっただろうか? 各々作戦を立てて最後まで諦めず戦ってほしい。相手の脳を垣間見るように真剣に。けれど礼節を忘れることなかれ。礼節の無い争いなど獣の争いに等しいのだから。──さて、これから場を温める短い模範演技を行い、終了の五分後に第一戦の開始とします。模範演技には『互助拝領機構』の監督を快く引き受けて下さったフリットウィック先生がお相手になって下さいます。諸君、先生に敬意と感謝の拍手を!」

 

 大広間にいる全員が拍手を送り、ダンブルドア校長やマクゴナガル先生も拍手を送った。

 拍手が終わると途端に水を打ったように静まりかえり、二人は距離をとって長方形の舞台の端に立った。

 フリットウィック先生が会釈のように軽く頭を下げ、ネフライトは体の前で手を重ねた丁寧なお辞儀をした。

 

「二年生以上の生徒は昨年の決闘練習で知っていることでしょう。決闘は、まずは礼。そして三つ数えて、最初の術をかけます」

 

 解説を終えたネフライトが、舞台の中央そばの床にひとり立っていたセラフィへ目配せをした。合図を受けた彼女が「一、二」とカウントを始めた。

 

「三!」

 

 声と同時に二人の杖が、肩より高い位置で素早く動いた。フリットウィック先生の目にもとまらない杖さばきから放たれた『武装解除呪文』がネフライトの『盾の呪文』に弾かれた。

 その時だ。ネフライトが左手の袖を振った。左手に隠れていたそれらは彼の頭上でヒラヒラと漂った。魔法ではない。だがフリットウィック先生は、攻撃してもよいものかどうか迷っているのが杖先のブレで分かった。

 

「模範演技は『派手に』とのご注文、承りましょう。このネフライト・メンシス、ご期待には全力で。しかし、どちらが勝つのか決めていませんでした」

 

 宙を舞う紙切れ──ハリーはようやくその正体が分かった。トランプカードだ。──それを一枚、宙で掴みフリットウィック先生に向かって投げつける。それはたちまち黒い鷲になり、一声鋭く鳴いて飛んでいった。

 

ディフィンド 裂けよ!

 

 鷲は紙の断面を覗かせて真っ二つになったが、裂けた途端、二羽の小さい鷲に変身し、今度はフリットウィック先生の後頭を狙った。

 

インセンディオ 燃えよ!

 

 フリットウィック先生が呪文を唱え杖を頭上で回すと炎に触れた鷲は半分ほど切られたトランプカードになり、燃え尽きた。

 

「ですから。──私が勝っても構わないのでしょうね?」

 

 ネフライトが檻の中で値踏みするような目でフリットウィック先生を見ていた。

 トランプカードは規則正しくネフライトの前に並び、撃ち出される弾丸のように静かに時を待っていた。

 

 大広間では。

 ──ひょっとすると、かなり珍しいものを見ているのかもしれない。

 そのことに気付いた生徒が戸惑いのざわめきの後で応援の歓声をあげ始めた。

 




開催を宣言する!
 始まりました。第一回互助拝領機構杯決闘大会。長い。決闘大会。
 ネフライトは模範演技にかこつけて、ルール違反を取り繕うことなく全力でフリットウィック先生に勝ちにいっています。
 なぜ?
 ──だって知りたいじゃないか。これまで学んだことでどこまで先生に通用するか。
 気になってしまったらネフライトの思考は病みつきになり『きょうだい』のなかで最も過激な手段を取ってしまうことがあります。
 全て費やしてしまえる。かつて彼がクルックスに伝えたのは、自分の抱える真実の一側面であるのでしょう。
 そんな彼に付き合ってくれるフリットウィック先生は、彼の危うさにトコトン付き合うことで昇華を図っているのかもしれません。


名前あり生徒がいそうでいない問題
 出来る限り、名前がある生徒で本イベントを構成しました。この話を書くためにさまざま原作やウィキを駆使した結果、ハリー達の2学年上、つまりウィーズリー双子やセドリック世代のことですが、ハッフルパフの名前あり生徒がいないということに初めて気付きました。そ、そういえば特にハリー達に絡まなかった、か……。


先生達がニコニコしている理由
 教職員用にペアとトーナメント表が先に配られていました。
 ダンブルドア校長とマクゴナガル先生は「この生徒は、どうかの」、「こっちの生徒も負けてはいませんよ」、「ホホ」、「フフ」、と最近の生徒の状況をお話ししています。そのうち寮監の先生達が賑やかな声に惹かれてやって来るかもしれません。マクゴナガル先生「どんどん実っていきますね」


インセンディオとかいう炎魔法
 人体に向けて撃つ魔法じゃないよな、とゲームのPVを見て思いました。人体ボンバーダとかどうなっちゃうの。やはり人道的配慮からアバダ採用を検討するべきじゃないかと(ろくろを回す)


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第1回互助拝領機構杯(機転)


互助拝領機構杯決闘大会
『互助拝領機構』の主宰、ネフライト・メンシスが主宰する決闘大会。
──勝敗に意味はない。
──ただ、経験を提供する。
──せめて有意であれ。主宰はそれを望む。



 

 時は半年ほど遡る。

 ビルゲンワースの学舎にて。

 

「──ネフ」

 

 名前を呼ばれ、ネフライトは「はい」と応えた。

 名前を呼んだのは父たる狩人だ。

 ビルゲンワースの一室でネフライトが調整したタイプライターを見つけた彼は、使い方の説明を受け、たっぷり楽しんだ。

 

「ありがとう。とても面白い。そして便利だ。これからの報告書はこれで書くとよいだろう。新しい発明品を使うのは、楽しいことだな」

 

「はい。見所があります。楽しい。ええ。楽しい」

 

「ああ、楽しいな。さて、楽しいことのお礼をしなければ──」

 

「いいえ、いいえ、お父様。お父様がお楽しみになったのならば、私にはそれで十分です。私の全てはお父様のためにしていることなのですから……」

 

「それでも礼は必要だ。君にはいろいろと気遣いをさせてしまっていることだしな……」

 

 狩人は衣嚢から、手のひらに収まるほどの小さな木箱を取り出した。

 

「ダイアゴン横丁は素晴らしい街だった。これは、とある雑貨店の割引ワゴンの中にあった。君にあげよう」

 

 ネフライトは箱を受け取った。小さな木箱を開くとトランプカードが収められていた。カードを手に取り、ススと開いた。

 

「鬼札、ジョーカーが欠けています。割引の理由はこれですね」

 

「トランプとは不思議なものだ。どのカードも同一のものはない。唯一のものだというのにジョーカーが欠けてしまうと途端にトランプとしての価値を失うような感覚になる」

 

「独特な絵柄ですから使用者の印象に残りやすいのでしょう。しかし、なぜこれを私に?」

 

「君が一番上手くトランプを使いそうだからな」

 

「は、はぁ……? 分かりました。使い時を探してみましょう」

 

「一枚引いてくれ。占ってみよう」

 

 再び狩人の手に渡ったトランプは細かく、パラパラとシャッフルされた。そうして彼はカードの背を扇のように広げて見せた。

 

「では、これを」

 

 ネフライトは、たまたま正面にあったカードを引いた。

 

「スペードの六です。……ところで何を占ったのでしょう?」

 

「幸運とかラッキーナンバーとか。六か。俺達は、まともではない数字に縁があるようだな」

 

 狩人は微かに笑った。

 トランプカードをネフライトに渡し、指の数を数えた。

 

「俺の手の指は五本。君の手の指も五本。カードは六。──フフ、おかしいな?」

 

 ネフライトは彼の言うことが理解できなかった。また彼も理解を求めていないようだった。

 

「も、申し訳ありません。まだ瞳が足りないようです」

 

「謝ることはない。楽しい学校生活を送りたまえ。クルックスにも伝えたことだが……ヤーナムには存在しない平和。それは束の間かもしれない。しかし、得難い時間だ。人々を尊ぶことだ」

 

 狩人はネフライトの頭をポンポンと軽く叩き、手をヒラヒラさせて去って行った。

 彼が去った後、ネフライトはタイプライターに遺された文字を見た。

 

 

 「青ざめた血」を求めよ。狩りを全うするために

 Handwritten scrawl: Seek Paleblood to transcend the hunt.

 

 

 この言葉の真意は、父以外誰も知らない。

 しかし、捨てることは躊躇われ、ネフライトは紙を取り外すと衣嚢にしまい込んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「なんだ、スゴいじゃないか」

 

 平凡な感想だが、それを話すセドリックの目の輝きは憧れを見上げる眼差しだった。

 壇上のネフライトはフリットウィック先生の杖の動きに機敏に反応した。もはや誰の目から見ても疑いようがない。最初に呪文をかけたフリットウィック先生の『武装解除呪文』を防いだのは『まぐれ』ではない。『まぐれ』は五度も起きないからだ。

 

 ──エンゴージオ 肥大せよ!

 

 放り投げたカードに呪文が当たると途端に大きくなり、ネフライトとフリットウィックの間に壁のように立ちはだかった。

 

「フリットウィック先生を壇上から押し出す気だ……!」

 

 フリットウィック先生が杖の一振りでカードを真っ二つにした。だが、その手はネフライトに読まれている。視界が開けたと思った瞬間『武装解除呪文』が飛び込んできた。フリットウィック先生が初めて無言で『盾の呪文』を使った。

 

「すごい……! 先生、呪文を唱えなかった!」

 

 ハリーが言った事と同じことを見ている生徒は一斉に話し出し、興奮気味にフリットウィック先生を応援した。

 フリットウィック先生を応援しているセドリックがフリットウィック先生の口に注目するように指を差した。

 

「あれは無言呪文と言って六年生の『闇の魔術に対する防衛術』でやる内容だよ。あそこまで完璧に出来るのは大人でも少ないと思うけどね。いや、彼も使っているか──」

 

 女子生徒の悲鳴が上がり、その声を聞いた他の生徒が何事かとハリーの周囲では何人かが跳び上がった。彼女達が指差す先を見れば、床に散らばり欠けたカードがひっくり返るなり、大小さまざまな大きさの蜘蛛になり、フリットウィック先生めがけて行進を始めた。もしも、舞台の近くに立っていたらカサカサという足音が聞こえたかもしれなかった。

 蜘蛛が苦手なロンは大丈夫だろうか。ハリーが見るとロンはダメになっていた。嫌悪そのものの顔をしている。けれど勝負の行方は気になるらしく、薄目で舞台を見ていた。

 

「魔法とは、想像力だ!」

 

 オーケストラの指揮者のように杖を振り、ネフライトが拡声器を使わず声を張り上げた。

 宙を漂うカードのせいで『武装解除呪文』は彼まで届かなかった。

 大広間の全てに向かい、彼は言った。

 

「魔法はどこからやって来る!? 呪文の発音か! 否! 杖の振り方か! 否! そんなものは技術の小手先、補助輪に過ぎない。人の願いを杖は伝え、魔法は起こる! 願え、想像しろ! 魔法という人知により魔法族は進歩する! 望みより遙か高く、想像の果てまで! さぁ、信じさせてくれ。私にさえ疑いようのないほどに。──オパグノ 襲え!

 

エバネスコ 消失せよ!

 

 まったく信じがたいことが起きた。

 フリットウィック先生の呪文を受けた蜘蛛が瞬きの間に消えた。

 

「消失呪文だ! 生きているものを消失させるのはスゴく大変で、実は僕はまだ出来ていない。無脊椎動物なら脊椎動物より簡単だけどあの数は、さすが先生だよ。刻んでも吹き飛ばしても今より小さい蜘蛛になって襲ってくるのなら完璧だ。あれ見なよ、マクゴナガル先生が大興奮だ──!」

 

 五年生の『変身術』で学ぶという消失呪文は、OWL──五年生で受ける普通魔法レベル試験だ──でも頻出の呪文らしい。マクゴナガル先生が教職員用テーブルで立ち上がり拍手をしていた。

 ネフライトが「チッ」と言いたげに口の端を歪ませた。

 大広間に風が吹く。彼は緑色の瞳を動かして状況の把握に努めているようだった。

 フリットウィック先生の杖の動きに合わせ、砕けたカードの残骸が二人の頭上に渦を描くように集まり、一斉にネフライトに向かった。

 たぶん、一般的な学生なら『盾の呪文』で防御を試みるだろう。だが、彼は咄嗟に避けた。

 

「──ぁ」

 

 自分では避けるつもりはなかったが、咄嗟に体が動いて避けてしまった。そんな目をした。だが、彼はすぐに気を取り直した。もう『盾の呪文』で防ぐ余裕は二人にない。一直線上に並ぶ二人が、同時に唱えた『武装解除呪文』は、果たして、ネフライトの杖だけを弾き飛ばした。

 すると彼の周囲をくるくる回っていたカードが大広間の床にカタカタと音を立てて落ちた。

 その直後。爆発的な拍手と歓声があがった。

 ネフライトの杖を拾い上げたのはルーナだ。

 

「ぐぅ……。ちゃんと制御が出来ていたのに……! 勝てたのに……勝っていたのに……! 消失呪文を受けたら十倍に増える呪文を下地に使っておくべきだった。炎対策は万全で燃えると三倍速で動く呪文を使っていたから『インセンディオ』を使わせる手を先に打っておくべきだった……!」

 

「反省会は後だよ」

 

「ぐぐ。その通りだな。後で考えよう。こうして私の思考課題は増えるのだ。ハァ。──レパロ 直れアクシオ 来い

 

 トランプカードは全てネフライトの手元に戻った。

 

「模範演技はここまで。なお、杖以外の持ち込みは禁止だ。今のは、持っていたトランプをうっかり溢してしまっただけなので何の問題もないのだ。不意打ちにも負けないレイブンクローの寮監、フリットウィック先生がスゴいことがあらためて知れ渡ったので私はとても嬉しい──」

 

 ネフライトは悔しそうな顔をした。ハリーは突然、彼に奇妙な親しみを抱いた。

 彼は、いつでもどんな時でも落ち着き払った人物であるという印象が強かったせいだろうか。

 それが今。

 

「派手にというご注文は果たせたようでよかった。──諸君、先生へ喝采を!」

 

 拍手を受けて、フリットウィック先生は軽く一礼した。

 それから。

 

「ミスター・メンシス」

 

 名前を呼ばれたネフライトが腰を折った。

 差し出された手を彼は軽く握った。

 

「貴方も健闘しましたよ」

 

「けれど、先生は本気ではなかったでしょう」

 

「本気でしたとも! 半分ほどね!」

 

 ネフライトは目を細めた。

 

「ではフリットウィック先生は私と解説席へ。第一試合は間もなく始まる! ──さて、参加の生徒は参列を! 観客の生徒は着席を! 礼節を保ち、粛々と進めよう! ……全ての企み事をね」

 

 ネフライトは始めた時と同じように丁寧な礼をした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 互助拝領機構杯決闘大会とは。

 十六チーム。計三十二名が争う決闘大会である。一度の試合毎にチームは減っていく。

 

「それじゃ優勝までに必要な回数は?」

 

「四回だ。どう、やれそうかい?」

 

「やるだけやるよ。セドリックはどう?」

 

「こういうとき、目標は高くなくちゃいけない。目指すは優勝さ」

 

 二人は作戦を立て終わるとお互いの友人に呼ばれて一旦分かれた。戦いの時に会おう。約束を交わした。

 ハリーはロンのことが気がかりで探そうとしたが、先にハリーを見つけたのはハーマイオニーだった。

 

「ハリー! セドリック・ディゴリーとの作戦会議はどうだった?」

 

 観客席に座れなかった生徒は立ち見で大広間の四方の壁に寄りかかり、いよいよ決闘大会が始まった舞台を見ていた。

 口々に「今の技はいい」、「よく防いだ!」、「ハッフルパフもなかなか」と評論を交わし合っている。

 

「ハーマイオニーは、アンソニー・ゴールドスタイン? 僕は話したことないな。どんな人?」

 

「いい人よ。ユーモアのセンスは無くて、ちょっと理屈っぽいけれど」

 

 ハリーは、似たもの同士なのかな、と思ったが何も言わなかった。あるいは、ハーマイオニーにとってセンスあるユーモアに求めるレベルがロン並になっていてセンスの基準が高すぎるのかもしれない。

 

「──あ、ロンだわ」

 

 人混みのなかで観客席のなかに行こうとするロンをハリーはつかまえた。

 

「ロン、どうだった──」

 

 振り返ったロンはひと言で言ってしまうと悲壮だった。

 夕食時に皿いっぱいのドラゴン糞の大盛りが出てきたってこんな顔はしないだろう。ハリーはてっきり怒っていると思っていたので「どうしたの」ともう一度問いかけた。

 

「あいつ、棄権するんじゃないかと思っていたんだ……」

 

 あいつ、とはもちろんロンのペアであるドラコ・マルフォイのことだ。

 

「あいつだって僕と組むのは、そりゃあ嫌だろうって。でも──」

 

 ロンとマルフォイは、誰しも想像したとおりに言い争いになった。その諍いを止めたのは隣にいたスリザリンのセオドール・ノット──ではなかった。ハッフルパフのテルミ・コーラス=Bだ。小さな体の同級生はロンの兄の双子の一人、ジョージ・ウィーズリーとのペアでもあった。

 

「──ウフフ、あなたのこと、セラフィがよく話すので知っていますわ。ミスター? ドラコ・マルフォイ。誇り高い純血のお貴族様だって。小市民相手に尻尾を巻いて逃げ出すなんてことないのでしょうね?」

 

「当然だ」

 

 そう言ってしまってから、マルフォイはちょっとだけ後悔しただろう。

 悔しそうな顔で彼は言った。

 

「今日の君の敵は、あっちだ。僕じゃない。いいか。間違えるなよ!」

 

「間違えるワケないだろ! 隣に攻撃する必要はないんだからな……!」

 

 こうしてロンとマルフォイは、本日のみ不戦の約束をすることになった。

 

「え? それだけ? 作戦は?」

 

「なーんも」

 

「今からでも遅くないわ。時間はまだあるから作戦を立てるのはどう?」

 

 ハーマイオニーの提案にロンは「とんでもない!」という顔をした。

 

「いいかい? 僕は一回戦で負ける。そして君達とフレッド、ジョージ、ジニー、ついでにパーシーを応援する。これで決まりだ。……うん。ゼロより確実な一ガリオンでいこう……」

 

 ハリーは「オーケー」と応えた。マルフォイと共闘が約束できただけ良かったかもしれない。ハリーは心配しているハーマイオニーの脇腹を小突いた。ロンが緊張や神経質でピリピリしていないのでハリーの気分は楽だった。

 

「えーと、ハリーの方はどう? セドリック・ディゴリーだって? パパから聞いたことがあるよ。父親が魔法省の……なんて言ったっけ……事故……いいや、違うな……えーと『魔法生物規制管理部』に勤めていて、ウチとそう遠くないんだ」

 

「セドリックってオッタリー・セント・キャッチポールに住んでいるの?」

 

「まあ、隣の家ってワケじゃないけど。半日も歩かない距離にあるんだってママが言っていた。ひとつ村を挟んだ向こう側らしい。行ったことはないけどさ。どんな人? ハッフルパフのシーカーだろ。ウスノロじゃなさそうだけど」

 

 お互いのペアについて話をしているとあっという間に時間が過ぎた。

 舞台の上でハッフルパフのアーニー・マクミランの杖が天井まで高く飛んでいった様子を見て、ハーマイオニーが立ち上がった。

 

「そろそろ行くわね」

 

「あー、相談なんだけど、ハーマイオニーも『山分け』しない?」 

 

 もしも優勝したらトロフィーを換金するという話は、ハリーはもちろんジニーとパーシーも最終的には同意したが、ハーマイオニーだけはその話題になると決まって唇を固く引き結び、マクゴナガル先生が不適切な生徒に向ける「破廉恥な」という目をするのだった。当日の熱気がハーマイオニーを変化させるのではないかと期待してロンは声をかけたようだが、ハーマイオニーは振り向きもしなかった。断固拒否。そんな言葉が背中に書かれているようだった。

 大広間には解説の声が響いていたが、そのうちのひとつが突然耳に飛び込んできた。

 

「──グリフィンドール、ジニー・ウィーズリー選手の杖さばきは上級生にも劣らないものと見ていますが、フリットウィック先生の評価はいかがでしょう?」

 

 ハリーとロンは、すっかり始まってしまった試合を見た。

 

「ええ、彼女には若い魔法使いにありがちな杖を大袈裟に振り回す仕草が全くない。スマートかつエレガントな速射ですな。『闇の魔術に対する防衛術』という教科は、低学年のうちは実技の機会が少ないため、実戦経験においては高学年に劣るというのが一般的です。だが、ここに例外が存在する。──あああ! 見ましたか、今の! 見事な『足すくい呪い』で相手の機動力を削ぎました! 棒立ちを強いられるミスター・カーマイケルには、奮起して欲しいところです」

 

「本決闘大会は『杖を飛ばせば勝ち』ですが、行動を阻害する呪文を活用することで健在なペアの集中力を削ぐことが出来るのは、これからの決闘で注目すべき戦術でしょう。おっと。ミス・パーキンソンが集中力を乱したところにミス・ウィーズリーとミス・クリアウォーターの『武装解除呪文』。二本の杖が飛んだところで試合は終了。両者、礼をして──観客の諸君は拍手を!」

 

 グリフィンドールとレイブンクローの生徒が「ウオォっ!」と足踏みしながら喝采を送った。

 

「ジニーが一勝だ!」

 

「やるなぁ……!」

 

 次に登壇したのはハーマイオニーとゴールドスタイン、対戦はミリセント・ブルストロードとハリーの知らないレイブンクローの四年生だった。対戦表を見るとマリエッタ・エッジコムと書いてある。

 

「リベンジマッチだ」

 

 ハリーとロンはニヤリと笑った。

 昨年度行われた決闘練習においてハーマイオニーはスネイプによってスリザリンのミリセント・ブルストロードと組を作って練習を行ったが、最終的にハーマイオニーはヘッドロックをかけられ、痛みでヒーヒーと喚いていた。体格が大柄で四角張り、がっちりした顎が戦闘的に突き出しているブルストロードは、たとえ同学年であってもハーマイオニーにとって脅威だった。しかし、今回は皆が見ているなかで行う決闘大会だ。今回ばかりは彼女もいきなり杖を捨てて、ヘッドロックもローキックもスリーパーホールドも出来ないだろう。たとえその方が勝率が高くとも。

 

「一、二、三!」

 

 ハリーの目で見たものが正しければ、三つ数えていたネフライトが「二」と唱えた時点でブルストロードは「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」の呪文を唱えていた。

 ──フライングだ!

 ハリーはそう思ったが、ハーマイオニーは想定内だったようだ。『盾の呪文』を唱えて鼻先で防御したが、仰け反ってしまった。

 ここぞとばかりに攻勢を仕掛けようとしたブルストロードを狙い澄まし、ゴールドスタインの『武装解除呪文』が命中して彼女の手から杖が吹っ飛んでいった。

 

「ミス・ブルストロードは、控えめな表現をすれば、やや焦ったようですね。それもミス・グレンジャーにはお見通しだったようですが」

 

「慎重かつ大胆な作戦ですな。決闘とは呪文の速さがものをいいますからね。『勝ちたい』人の心理を突いた作戦に賭け、そして彼女は見事、勝ったのですよ。呪文を唱えた後の隙を逃さなかったミスター・ゴールドスタインも素晴らしい──!」

 

 観客席に座るレイブンクローとグリフィンドールの生徒からしきりに「やれ!」とか「そこだ!」とか声が上がった。

 

「が、頑張れっ!」

 

 ロンが息を詰まらせながら叫んだ。

 魔法界には『杖の数で勝負が決まる』。

 そんな諺があるとロンが言っていた。その常識に則れば、二対一という状況は好ましい。勝算が高い。

 しかし、非魔法族には『終わるまでは分からない』なんて言葉がある。

 ハリーは、どこでその言葉を聞いたのか思い出せなかったが、ゴールドスタインが「やったぞ!」と唇を動かした時に嫌な予感がした。

 

「エクスペリニァ──!」

 

 ゴールドスタインが思いっきり舌を噛んで呪文に失敗した。これにはハーマイオニーも思わず視線をエッジコムから離した。ハリーは目を覆いたくなった。

 ハーマイオニーは知らないのだ。

 勝負の時に相手から目を離すのは、たいてい悪い対応だ。ハリーの経験から言えば、バジリスクを除くけれど。

 パチンと音がしてゴールドスタインの杖が飛んでいった。

 一対一。数の有利はなくなった。

 

「極限の状態にこそ人間の真価は現れる。とっさに取り繕うことのできない癖が出てしまうように。これは私の持論ですが決闘においてはどうでしょう、先生?」

 

「コメントを考える暇も惜しい展開です。──大広間の観客生徒諸君、目を離さないように!」

 

 睨み合いの続く状況は、そう長く続かない。

 解説席に置かれた時計はチクタクと時を刻み続けている。大広間は水を打ったように静まりかえり、やがて痺れるほどの沈黙に支配された。

 その空気を読まず。

 

「では、せいぜい期待させてもらおうかな」

 

 ネフライトは挑発的に言い放ち、椅子の背もたれにのんびり寄りかかった。

 残り十秒。ロンは目を大きく見開いて息を止めた。

 残り一秒。両者は同時に動いた。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 エッジコムの呪文は──狙い過ぎたのだろう──ハーマイオニーの右腕の一拳分上に逸れた。対してハーマイオニーの呪文は、正確にエッジコムの杖を飛ばした。

 ワアッと大広間が沸き立った。

 

「ほお。なるほど。頭だけではないようだ──」

 

「ミス・グレンジャー、素晴らしいコントロール! ミス・エッジコムも腕の振りは良かったですね! ただ、思い切って踏み込むべきでした……! 両者の健闘に拍手を!」

 

 授業中なら両者にそれぞれに二十点は振る舞っていたに違いない。フリットウィック先生は頭の上で拍手した。

 次の試合が始まる頃にハーマイオニーが戻ってきた。

 

「やったわ!」

 

 この頃のハーマイオニーは、宿題に追われて疲れた顔やビックバークの裁判の件で追い詰められた顔をすることが多くなっていたが、ハリーは久しぶりに見る晴れ晴れしい笑顔だった。けれど、全力で廊下を走った時よりも顔を真っ赤にしていた。

 

「君、スゴいよ!」

 

 ほとんどの生徒が集まる場においてハーマイオニーがこんなにも注目されたのは、きっと組分け帽子以来だろう。そのため、ハーマイオニーの手は微かに震えていた。

 ハーマイオニーは頬にかかった髪を払おうとして上手く動かない指に気付いた。

 

「ああっ、やだ。……全然、緊張しなかったのに……今になって……」

 

「休んでいて。そろそろ僕の番だ」

 

 ハーマイオニーはロンと一緒に観戦に戻った。ロンが興奮気味に試合運びについて聞いている。二人の周囲の生徒も耳をそば立てているような気がした。

 決闘の舞台袖は次の選手達の待機所になっていて、ハリーが到着するとすぐにセドリックもやって来た。

 

「どう? 緊張しているか?」

 

 ハリーはどう答えようか迷った。「緊張している」と答えれば、頼りないと思われるだろうか。

 

「えっと……」

 

 返事にまごついているとハリーは初めてクィディッチの試合に出た時のことを思い出していた。一年生の十一月──今からもう二年前のことだ!──クィディッチのフィールドに向かう途中、キャプテンのオリバー・ウッドにも似たようなことを聞かれた。

 その時の自分は「うん」とか「まあまあ」とか答えたと思う。朝食さえ喉に通らない緊張だったせいか。うまく思い出せない。

 

「僕は、すこし緊張している」

 

 ハリーはセドリックを見上げ、何と言ってよいか分からなくなった。

「僕も」と言うにはわずかに遅かった。舞台上でペアの杖が飛び、試合が終わってしまったからだ。

 セドリックがハリーの肩を叩いた。

 

「でも、これまで練習してきたんだろう? 悪い結果にはならないさ。さぁ、お互いベストを尽くそう。礼儀を忘れずにな」

 

「僕も頑張るよ」

 

 ハリーは早口で言った。けれど内心は驚くほどホッとしていた。セドリックが決闘舞台の前に声を掛けてくれたことは、ハリーの緊張でさざ波たつ精神を鎮めてくれた。

 彼の前向きで公平な態度は安定感がある。

 ハリーは、ほんのすこしだけ考えた。

 五年生になれば自分より年下の生徒に同じような安心感を与えられる先輩になれるだろうか。うまく想像できない自分は、いつまで経っても彼のような人物にはなれないような気がした。ハリーはさらに考える。きっと自分の身の回りにセドリックのような人物が少なかったせいだろう。

 舞台を駆け上るとハッフルパフの生徒から大きな声援があがった。

 

「セドリック、頑張って!」

 

 ハッフルパフの生徒に混ざり、レイブンクローの女子生徒──チョウ・チャン、クィディッチのシーカーだ──からの声援にハリーは驚いた。しかし、考えてみれば彼のような人柄が他人から支持されるのは当然のことだ。ハリーはチラリとロンを思い出した。ロンが兄達に向ける憧れと嫉妬に似た感情をハリーは今ほんのすこし理解した。

 突然、チョウ・チャンと目が合った。彼女はニコリと笑った。クィディッチの試合でスニッチを見つけた時のように彼女の笑顔はキラリと光り輝いて見えた。なぜか、笑うと浮かび上がる頬のえくぼが奇妙にくっきりと見えた。

 

「──ハリー、作戦通りに」

 

 ハリーは我に返り、杖を抜いた。

 舞台の反対側を見ると臨戦態勢のモンテギューとエロイーズが杖を握ってこちらを睨み付けている。まだ杖を抜いていないのはハリーだけだった。

 

「オーケー、セドリック。……思いっきりやろう」

 

 二人は姿勢を正し、礼をした。モンテギューとエロイーズも礼をしたが、ハリーとセドリックより浅かった。

 

「一、二、三!」

 

 開始の号令と同時にハリーとセドリックは『武装解除呪文』を放った。

 まず、ハリーの呪文はビックリした顔のエロイーズの杖にあたり、真上に吹き飛んだ。モンテギューは、と目を向けると彼はすっころんでいた。ハリーはてっきりセドリックの呪文が当たったと思い、杖を下ろしかけたが、二人の顔を見るなり違うことが分かった。

 

「あと一人──」

 

 セドリックがさらに杖を振る。

 二対一は、やや卑怯ではないか。ハリーの思いはモンテギューを見て消し飛んだ。

 

ルーモス・マキシマ 強き光よ

 

 二人に向かって強烈な光の玉が飛んできた。それは恐らくテニス・ボールほどの大きさの光の玉だったが、太陽のように眩しい。目を見開いてモンテギューを見ていた二人は思わず呻いて顔を背けた。セドリックが当てずっぽうで「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」と叫んだが、杖が飛んだ音は聞こえなかった。

 代わりにモンテギューが「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」と叫ぶ声が聞こえたのでハリーとセドリックは同時に「プロテゴ! 護れ!」と唱えた。呪文はハリーを狙ったものらしい。『盾の呪文』に奇妙な手応えがあった。

 光が徐々に弱まり、チカチカと黒かったり白かったりする視界が収まってきた。ハリーは杖を構えた。目を開けていられなくても声を聞き逃さないようにしっかりと杖を握った。

 そんな時。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 セドリックが力強く呪文を唱えた。ワァッと歓声が上がる。

 ハリーは未だチカチカする視界でしきりに瞬きをしていたが、その歓声でどうやら勝ったということが分かった。

 

「やったぞ、ハリー!」

 

 目の前にセドリックの顔がアップになり、ハリーは何もよく分からないまま「やった!」と言った。

 解説席のネフライトの声が聞こえてきた。

 

「──光で目くらましとは考えましたね。単純に松明やランタン代わり、つまりは『灯り』の代替として使っている人にとっては、発想するのが難しい呪文の使い方だったことでしょう。ええ。難しい。とても、ね。さて、いかがでしょう、フリットウィック先生?」

 

「魔法使いや魔女ならば『灯り』として使うだけではいけませんね。さて、この分野の話は、ルーピン先生やスプラウト先生が詳しいと思いますが──」

 

 フリットウィック先生は、キーキーとした声で前置きを話した。

 

「光を苦手とする魔法生物はいますね。なかでも『悪魔の罠』と呼ばれる植物は有名です。撃退するには、ああした強烈な光を放つ呪文が有効でしょう。知っていれば助かるでしょう。しかし、知らなければ命の危険があります! 呪文を学ぶ時は、その効果だけではなく使う状況についても広い知識が必要ですよ。こういうことがテストに出るかも知れません!」

 

「実に勉強になります」

 

 ハリーは勝利の感覚がつかめないまま、セドリックと一緒に舞台から下りた。

 グリフィンドールやハッフルパフの生徒が口々に「よくやった!」とハリーとセドリックを褒め称えた。ハリーは不思議な気持ちになった。クィディッチが顕著だが、勝負の勝利とは、ハリーにとっていつも自分でつかみ取るものだった。杖を飛ばした本数は同じなのにセドリックが勝負を決めてしまったせいでハリーは勝利の実感がわかなかった。ただ、足の裏がフワフワと柔らかいマシュマロになってしまった感覚があり、歩くのがやっとだった。

 

「ハリー! やった!」

 

「『武装解除呪文』、完璧だったわ!」

 

 ロンとハーマイオニーが駆け寄ってきてハリーの背中を叩いた。ようやく床にきちんと足の裏がくっついた。

「まぁ」──ハリーはハッフルパフの友人に囲まれるセドリックを見た──「ほんのちょっとね」と早口で言った。

 

「すごかったよ! 見たか? エロイーズの顔! どうして杖が飛んでいったのか分かっていなかった──」

 

 ロンがひとしきり話し終えた後でハーマイオニーが言った。

 

「あなたでも緊張するのね。もうすっかり慣れているのかと思っていた」

 

「僕もそう思っていた。そんなことはなかったみたい」

 

 ハリーは閃光の混乱の最中、ズレてしまった丸眼鏡をかけ直した。

 手が震えている。もちろん、十二月の寒さが原因ではなかった。

 それを見つけたハーマイオニーはニッコリ笑った。つられてハリーも笑った。

 




模範演技
 模範(にならない)演技でもありました。
「杖は一本しかない。効果はたいてい一対象物に対するものだ」
 そこでネフライトは考えた。
「数で倒せばよいのでは?」
 しかし、優れた魔法使いは、当然そんなことは対策している。切ったら増え、燃やしたら灰が襲いかかる。そんな敵に対する戦術構築を咄嗟に実力の半分以下でやって退けた先生方はやはり侮ってはいけないようです。
「今度は脊椎のある蜘蛛を作り出せば、そう簡単に『消失』させることはできないハズ」
 ネフライトが使用人をしているメンシス学派外科部門の出番かもしれません。脊椎構造のある蜘蛛になら心当たりが──頭メンシス学派かよ。


魔法は想像力
 変身術では特に必要だと考えられていそうですが、魔法全般に対して大切なものだとネフライトは理解しているようです。持ち前の記憶力のせいで想像力に枷がついているネフライトにとって、一般的な魔法族が持つ想像力でさえ彼には永遠に手に入らないものです。だからこそ、彼は憧れ、見たいのでしょう。これからも魔法『技術』によって発展していく魔法族の未来を。
 絶賛神秘に彩られた時代のヤーナムにいるネフライトは、しばしば人体図を見ながら「そこには横隔膜がある! 内臓に『心』なんて入り込む隙間があるワケないだろうがっ!?」と怒っています。脳に瞳はある。けれど心はないようです。


大会開始!
 ハリーは誰かに助けられることは多くあれど最後には勝利をいつも自分の手で掴み取ってきました。自分以外の要因で勝敗が決まるのは、足マシュマロになるくらい初めての経験のようです。


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第1回互助拝領機構杯(盾)



手に持つ防御具。
ヤーナムにおいて盾を持つ者は、嘲笑される。
獣の膂力に対し、それはあまりにも無力なのだ。

魔法界においても『盾』は主流な存在ではない。
強力な呪いの前では役に立たず、ゆえに淘汰されたのだろう。

盾はよい。だが、過信することなかれ。
幸いなことだ。
ヤーナムの常識が、魔法界にも通じるとは。



 

 休日の大広間は私服の生徒が多いため、彩り豊かな景色となっている。

 空間は、言葉として聞き取れない声から誰かが走る足音までさまざまな響きで満ちている。決闘大会の熱気に当てられて城全体が沸き立っているような印象だ。立っているとその熱に伝染しそうになる。落ち着かない気分に飲み込まれる前にセオドール・ノットは観客席の椅子を目指した。空いている席を探していると同じ年頃の少女にしては背の高いセラフィがヒラヒラと右手を挙げて手招きをした。

 

「待っていたよ、君。……テルミ、すこし席を空けてくれるかい」

 

 セラフィの隣に座っていた小さな彼女のことは知っている。

『双子の妹』だと他でもないセラフィ自身から聞いた。顔はもちろん髪や目の色、姓まで違うので真偽は分からないが、彼女との距離感は誰よりも近い。

 たとえば。

 

「そこでいいのかい?」

 

「ええ。貴女のそばにいたいですから」

 

「そう。座り心地は良くないと思うけど君がそれでよいのなら」

 

 テルミは躊躇いなくセラフィの膝の上に座り、彼女の長い髪を弄び始めた。

 見渡す限り他に座れそうな椅子がなかったので仕方なくセオドールは彼女の隣に座った。

 

「お疲れさま、と言うべきなのだろう。お疲れさまだね」

 

「負けた。終了。気が楽になった」

 

「残念でしたね。ペアはチョウ・チャン。レイブンクローのクィディッチのシーカーですね。けれど相手が悪かったのでしょう」

 

 テルミが形の良い眉をシュンと下げて、セラフィの胸を撫でた。

 セラフィは琥珀色の瞳を舞台から外し、セオドールを真っ直ぐに見た。

 

「僕とクルックスが相手なのだから君は善戦したと思う」

 

「お褒めいただき感謝だ。まったく。とにかく手早くやってくれて助かった。……人の前に立つのは嫌いだからな」

 

「そうなのか。ではどうして参加を?」

 

「政治力学の問題だ。ドラコを焚きつけた手前、こちらが出ないワケにはいかない。対等でありたいからな」

 

 テルミは「むっ」と目を見開いた。お腹に力を入れなければ吹き出してしまいそうだったからだ。

 

「あちらも一回戦で落ちるだろう。ペアがウィーズリーでドラコは俺より早く舞台から降りたいだろうからな。そうすれば結果は横並び、トントンだ」

 

「男の子なのに控えめなのだね」

 

 妙な言い方だ。

 セラフィの膝の上でテルミがクスクスと笑った。何かと思って見ていると彼女が答えた。

 

「ウフフ、ごめんなさいね。この人の周りでは控えめな男の子がいないから、きっと意外に思っているのですよ」

 

「そうなのか?」

 

「謙虚さは美徳であると僕はきちんと心得ている。だから君のそれは恐らく美徳なのだ」

 

 セラフィの言葉はしばしば回答として要領を得ないことがあるが、今回はまさにそれだった。

 端正な顔のせいで何を考えているか分からない。それでも答えを探そうとすれば、その整いすぎた顔は見る者にとって都合の良い顔に見える。セオドールは目を逸らして舞台を見つめた。

 何となく会話を反芻していると別の考えが胸中をもたげた。セオドールもセラフィに出会うまでは彼女のような女性が存在するとは考えたこともなかった。身の回りに存在しない人格に対する想像力とは実のところ大したことがないのかもしれない。

 

「あら、次はマルフォイさんですよ。これはこれは。見物ですね? セラフィ」

 

「ウィーズリーでもある。さて、グリフィンドールとスリザリンの組み合わせは他にもあるが、ここまで険悪な二人が組むのは最初で最後だろうね」

 

 もしもウィーズリーだけならば、あるいは、マルフォイだけならば対抗する各寮生から野次が飛んでもおかしくないものだったが、ざわざわとした好奇のさざめきが両者の関係性を知る生徒から起きるだけで声を荒げる者は誰一人としていなかった。前列に座るグリフィンドールの生徒の何人かがロンに応援をしているが、髪の毛と同じくらい真っ赤な顔になってしまっているロンには、どれほど届いているか怪しいものだ。セオドールは彼を見ていた。

 

「前々から気になっていたのだけど。どうして彼らは仲が悪いのだろうか?」

 

「マルフォイ家は由緒正しい純血の家系だ」

 

「それはウィーズリーも同じでしょう?」

 

 テルミが小さなクスクス笑いをしながら言った。小馬鹿にしているのかと再び舞台から目を離す。しかし、テルミの笑みとは、深い理由なく他者に振る舞われる無差別な親しみであるらしい。特段に貶す目的はないようだった。セラフィも特に気にしていないようだった。

 

「ウィーズリー家は──実際には本家と称した方がよいのかしら?──純血の名家とされる家と婚姻関係を多く結んでいます。彼らに『非魔法族の血が流れている』と仮定して家系図を遡れば、英国魔法界の純血はほとんど存在していないことになってしまう程度に純血なのだとか。ウフフ、おかしい話ですね?」

 

 テルミの言うことは、ほとんど真実であることを純血を自称する人々は知っている。ゆえにウィーズリーの血筋は、純血一族が口を噤む話題でもあった。

 

「『マグル贔屓』と言いつつ実に上手く世の中を漂っている。それも処世術なのだろうな」

 

「純血家系が辿れる範囲だとすれば……するとセオドール、たとえば君の婚姻の相手は決まっているのか?」

 

 セラフィの質問は、テルミさえ目を瞬かせる真っ正直さでセオドールを驚かせた。

 普通のスリザリン生ならばこんな質問の仕方はしない。婉曲に婉曲を重ね、間接的にさりげなく、物のついでに聞くものだ。いいや、それでも本人に直接尋ねるなんて彼女はあまりに常識を知らない。知識不足も度が過ぎる。

 

「────」

 

 何を、とか、馬鹿なことを、とか。セオドールは言いかけ、実際に息まで吸い込んだが言葉が出てくることはなかった。首の付け根からこみ上げた知らない熱がみるみるうちに頭まで昇ったことが一因だ。だが、最たる原因は『たいていのことがどうでもよい』と憚らない彼女がなぜわざわざそれを問うのか考えてしまったからだ。

 純血や半純血という血統にはこだわらないクセに血に関することに彼女は敏感だ。

 

「セラフィ、貴女、失礼なことを訊ねるものではないわ。『いる』と答えるのも『いない』と答えるのも、どちらも気まずいことです。まして相手のある話なのですから……」

 

 テルミがやんわりとセラフィの興味の矛先を収めた。彼女はあっさりと引き下がった。

 

「そう。貴い血の人々にとって気にすることではないと思ったのだけど。それとも、ああ、これから選定するのかな。それなら決まっていないのだろうか。仕方のないことだ」

 

「……君は……?」

 

「僕は女王様に仕える従僕なのだから生まれた時から用途として想定されていない。縁のない話だ」

 

 ──女王様。従僕。

 およそ聞き慣れない言葉の群れにセオドールは、しばし戸惑う。やがて思い出したことがあった。

 

「そういえばダフネが言っていたな、君の妄想癖。設定を貫徹できる君はなかなか見所がある。……俺もそう思うぞ。ホントにな」

 

「……? よく分からない言葉だ。しかし、純血の保全を行うなら純血の一家は努力すべきだと思う。減らすことは出来ても増やすことは難しい。けれど魔法界のことだから一人でも増えることが出来る魔法があるのだろうね?」

 

「一人でも増えることが出来る魔法? あるのだろうって何だ。ないぞ。何を言っているんだ?」

 

 怪訝な顔をして二人は見つめ合い、やがてセラフィが困惑した顔でテルミに「そう?」と訊ねた。テルミはプルプル震えて頬が風船のようになっていた。ほんのすこしでもつついたら今にも吹き出しそうだ。セラフィはテルミの両頬を指で挟んだ。ぷふゅ、と空気の抜けてしまったテルミは失笑した。

 

「ふむ。そう……そうか。ではもっと真剣になった方がいいと思う。純血と言えば、そうそう、裕福なものだと思っていた。血が長く続くということは、それだけ一族に属する人数が多いということだ。彼らには財があるだろう。一族の末は富みそうなものだが……ウィーズリー家はいつかの時代で淘汰されてしまったのかな?」

 

「彼らの持ち物が古そうなのは単純に子供が多いからだろう。七人だぞ、七人。俺の家でもそれだけ人数がいれば、このナリでいられるとは思わない。マルフォイ家ほど大きければ別だろうが」

 

「そういうものか。人間をひとり育てるのは、大変なのだね」

 

「衣食住に教育費。本だって冊数が増えればバカにならない額になる。これはマグル社会でも同じ──……いいや、待てよ。世間知らずの君でもそれくらいは分かるだろう?」

 

「ああ、とても大変だということが分かるよ」

 

 セオドールは彼女が「分かっていない」と確信した。しかし、すぐに(あり得るだろうか)とも考えた。これまで十三、四年生きてきたなかで生活に関わる出費をまったく把握せず、人間一人を養うのにどれほどの労力と金が掛かるか。そんなことが想像できないらしいセラフィの人生は、何なのだろうか。セオドールの知る限りセラフィは決して頭は悪くない。だが、金の使い方は分かっていないようだ。

 セラフィは膝の上に乗せたテルミの頬を手の甲でスリスリと撫でていた。

 いよいよ登場したマルフォイは尖った顎をすこし上げて大広間をぐるりと見た。一方、彼の後ろを歩くロンは何もないところでつまずいた。

 

「あっ。そろそろ始まるわ。レイブンクローのスーザンが出るの。応援してね」

 

「敵じゃないか! 普段ならそう言って笑うところだが、ドラコのために応援するかしないか迷うな。ウィーズリーと肩を並べて競ったとマルフォイ氏が聞いたら嫌な顔をするのだろうな。あの御仁は……」

 

「ドラコの父親がウィーズリーを嫌っているから、ドラコも嫌っているのだろうか。けれどウィーズリーの方も元々マルフォイ家に対して良い印象を持っていないような口ぶりをする。人を嫌うには強い動機が必要だろう。過去に何か……ああ、『例のあの人』絡みの出来事か。なるほど。因縁には事欠かないようだ」

 

「……。他家の繊細な事情に首を突っ込んだ経緯を持つノット家出身の俺がわざわざ忠告してやるが、他家のいざこざに興味を持つものではないぞ。当時のことは伝聞でしか知らないが、プルウェット家のことは両陣営にとって大きな出来事だったんだ……」

 

 セラフィは「ふむ」とひとつ頷いた。

 

「君の助言だ。聞くことにしよう。……ひとまずはね」

 

 決闘が始まる声が聞こえて、セオドールは舞台に集中した。

 そのためテルミの可憐な大きな瞳がキラキラとした好奇に光ったのを誰もが見落とした。

 解説席の声が聞こえる。

 

「──さて、ミスター・ロングボトムとミス・ボーンズはともかく、ミスター・ウィーズリーとミスター・マルフォイとは意外なペアとなりましたね。フリットウィック先生の厳正かつ公平な組分けによるものですが」

 

「『互助拝領機構杯』の開催における精神性に賛同してくれた、ということで前向きに見ていますよ、私は」

 

「なるほど。私もそろそろ口先だけではないところを見てみたいところですよ。せいぜいカッコイイところを見せてほしいですね。お菓子でもつまみながら見ていましょう。お手並み拝見ということで」

 

 ネフライトは懐から板チョコを出し、小さなハンマーでガンガンと割り出した。

 セオドールはそれを見てかなり驚いた。

 

「──待て、さっきからあいつ何か態度悪いな? 悪すぎるだろう。学年首席の姿か? あれが」

 

「ネフは鏡であり、天秤なのだよ。ドラコは日頃の態度が悪いから彼の態度も悪いのだろう。礼節を持って対すれば彼も応える。君には普通に接するだろう?」

 

 セオドールは『互助拝領機構』において丁寧な会釈をして穏やかに話しかけてくる彼の印象が強いが、どうやらお互いに稀な対応であったらしい。

 

「おかしいだろう」

 

 セオドールの呆然と出た嘆きは、ネフライトを軽んじる全てに向けられた。

 三年間学年主席を維持し続けているだけでも彼が秀才であることは明白だというのに。なぜ他者は不利を招きかねないことを平気でしてしまうのだろうか。自分が出来ないことでも彼は出来てしまうという嫉妬のせいだろうか。いいや、嫉妬があったとして──セオドールも教科においては多少妬むところがある──しかし、利用できるかもしれないのに、どうして表向きだけでもとり繕うことが出来ないのだろう。

 

「ウフフ、打算で仲良くできる人は素晴らしいわ。何でもかんでも曝け出してしまうなんて裸で歩くようなものだもの。それに気付いていないのなら、もうすこし楽園で林檎を囓っておくべきでした」

 

 テルミはくすぐる声音で小さく笑みを溢したが、セラフィは取り合わなかった。

 

「僕に言わせてもらえば、礼を欠く人に対して同じ態度を取るのはかえって品を落とす行為だと思う。彼の価値観では『釣り合っている』として気にしていないようだが。……僕らと違い、見下されることが嫌いなのだろうね」

 

 セオドールはセラフィに「見下されること」が分かる感性があることを意外に思った。

 そんな解説が流れるなか、舞台の上で四人は杖を構える。

 礼。そして、開始の号令。

 先に仕掛けたのはマルフォイだ。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 だが、素早くスーザンが『盾の呪文』を唱え、どの杖も飛ばなかった。

 そこからは激しい攻防戦が始まった。生徒は口々に声援を送り、テルミも「いっけー! スーザン! やっつけちゃえー!」と小さな手を挙げる。声援で大広間が震えるようだ。

 

「──ウィーズリー! このっ! 何とかしろ!」

 

 ロンはジッと杖を握ったまま堅く口を閉じていた。緊張で呪文はおろか喋ることが出来なかったのだ。その彼に叱咤したのは誰であろう、ペアのマルフォイだ。『盾の呪文』を唱える合間に、マルフォイが叫ぶ。ネビルとスーザンの二人はマルフォイに対し集中的に呪文を浴びせかけていたのでロンは舞台の上で何もしてなかった。

 しかし、マルフォイの声でようやくロンは決闘に参加しなければならないことを思い出したようだ。

 ネビルの『武装解除呪文』はだいたいが不完全で、当たっても杖がピクピクと手の中で動くか怯ませるだけだったが、当たれば数秒身動きが止まる。そうすればスーザンが完璧な『武装解除呪文』を放ってくるだろう。

 前列に座るハリーとハーマイオニーが「ロン! 杖を使うんだ!」とか「ロン、魔法を使うのよ! ロン、魔法よ、あなたは魔法使いなの、わかる!?」とか声を掛けている。

 急かされた顔でロンは振った。

 

ウィンガーディアム・レビオーサ 浮遊せよ!

 

 この呪文に。

 最も早く反応したのは決闘を見守る小さな背丈の一年生たちだ。ワァッと黄色い声をあげ、顔を明るくした。

 杖をヒューン、ヒョイと振る挙動には皆、覚えがあった。『呪文学』で習う印象的な呪文と共に誰もが練習したことだろう。そして魔法使いらしい魔法に胸躍らせたに違いない。『浮遊呪文』だ。

 魔法は的中し、まるで杖だけを空中にピン刺したように制止させた。

 手の中から杖が突然消えたように感じられたネビルが慌てて辺りを見回した。周りの生徒が指差す場所、ちょうど自分の頭の上に浮かぶ杖に気付き、ネビルが腕を伸ばしピョンピョン跳び上がった。大広間の多くの観客の目には、やや滑稽に映ったようでドッと笑いが起きた。

 杖はネビルがギリギリ届かない宙に浮かんでいる。必死で跳び上がるネビルは焦りと恥ずかしさで顔が真っ赤になっていた。

 

「うわぁ」

 

 ネビルが必死になればなるほどセオドールは見ていられなくなり、目を閉じて心の底から「早く終われ」と思った。

 

「どうしたのか」

 

「共感性羞恥心というものですよ、人の心を知らない貴女。恥ずかしい目に合っている人を見ると我が事のように恥ずかしくなってしまうの」

 

「なるほど。想像力が豊かなのだね」

 

「場合による。──どうだ。終わったか?」

 

「もうすこしで終わりそうです。──マルフォイさんは普通の学生以上の腕前のように見えますね。自宅で練習しているのかしら?」

 

「おや。未成年は魔法を使ってはいけないのでは?」

 

「魔法使いの大人の監督があれば良いとか何とか。それも何か特別な条件があるらしいですが……」

 

 スーザンとドラコの攻防は、なかなか良い勝負でお互いに狙い澄ました呪文がバチバチと音を立てていた。やがて鋭い閃光が奔り、ドラコの呪文がスーザンの杖を飛ばした。

 ワァッと今日何度目かの喝采が上がった。

 

「終わったよ。マルフォイ・ウィーズリーペアの勝ちだ」

 

「はあ。先を越されてしまったな。……悔しくはないが」

 

 目を開いたセオドールは、彼らの次の対戦相手を確認して何でもないことのように言ってのけた。

 ハーマイオニーとアンソニー・ゴールドスタインだ。 

 彼らならば遅れは取らないだろう。

 

「おめでとうのスピーチを考えておくべきかな?」

 

「たかが一勝です。貴女から話すには気が早いでしょう。さて、わたしはスーザンに会いに行きます。あとはお菓子でもつまみながら観戦しているわ」

 

「君の勝負はまだ終わっていないだろう。君も頑張るといい」

 

「ウフフ、フフ、フフフ。皆が必死になっている様子を見るのは楽しいわ。その渦中にいて逆にかき混ぜるのが楽しいの。それがネフの企みならば尚のことね」

 

 セラフィはテルミの手を取り、膝の上から彼女を下ろした。

 

「誰も困らせない範囲ならば全て余興だ。君も好きなように遊ぶといい。僕の可愛い君」

 

「ええ。貴女も」

 

 テルミはそう言って人混みのなかに去って行った。

 

「君の妹、さてはアレだな?」

 

「何だろう?」

 

「小さく可愛い顔をしているが、君と同じくらい、何もかもどうでもいいな?」

 

「どうだろう?」

 

 質問する相手を間違えたセオドールは、彼女の内側に回答が存在しないことに気付いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ロンは舞台を降りるなり、反対側に駆けていってネビルに平謝りしてからハリーとハーマイオニーの隣に戻ってきた。

 何キロも全力で走ってきた後のように息が切れて、顔はそばかすまで真っ赤に染まっていた。

 

「笑い者にするつもりなんてなかったんだよ。ホントだぜ。でもすぐに思いつく呪文があれしかなくって……」

 

 ハーマイオニーは歯が痒くなった顔をしながら「まあ」と言って視線をたっぷり泳がせた後に。

 

「呪文の出来は良かったと思う。──今回はトロールじゃなかったけど」

 

 そう言って、控えめに笑った。ハリーもつられて笑った。どうして目が泳いだのかハリーはようやくわかった。ネビルがいないかどうか探していたのだ。

 自信を取り戻したロンがようやく勝利を味わっていると勢いよく背中を叩いたグリフィンドール生が二人いた。ロンの兄、フレッドとジョージだ。

 

「よくやった! まずは一勝だな!」

 

「ああ、ひょっとしたら俺達生き別れた兄弟だったかもしれないぜ!」

 

 ロンが「なに言っているんだ」と言い返したが、その顔はどうみても嬉しさを隠せていなかった。

 二人が気合いを入れるようにロンの肩を叩いた。

 

「次も頑張れよ!」

 

「山分けだからな!」

 

 ハリーは、双子の激励でまたロンの不安定な神経質がぶり返すのではないかと思ったが、そんな素振りは見せなかった。

 次にやって来たのはクルックスだった。

 いつもの暗い目で周囲を警戒していた彼はロンを見つけて手を挙げた。

 

「ん、お疲れさまだ。ああいう呪文の使い方は意外だった。単純な魔法に見えて奥が深いな」

 

「まあね」

 

 ロンはすこし得意な顔で笑った。

 

「次はハーマイオニーとゴールドスタインだ。手強そうだな」

 

 ロンの笑った顔が凍り付き、ハーマイオニーを見つめた。

 ハリーはいまロンが思っていることがはっきりわかった。

 ──次があることをすっかり忘れていた。

 しかし、ハリーもそれは同じだった。

 

「俺だ。……俺とセラフィだ。手加減はしない。存分に戦おう」

 

 ハリーに向かい合い、クルックスは挑戦的に薄く微笑んだ。

 クルックスが去った後、ハリーはハーマイオニーに声を掛けた。

 

「どうなの?」

 

「何が?」

 

「クルックスって強いの? 鉄の棒を握らせたらトロールはミンチだけど」

 

「あと馬車で庭小人を轢くよ」

 

「冗談でもそういうこと言うのは……冗談ではないからやめて。──ロン、庭小人の話は何?」

 

「夏休みに馬車でウチに来たんだ。庭にドリフトした跡があったよ」

 

「……? 私の知っている限りでは、そうね、『互助拝領機構』の活動だと『闇の魔術に対する防衛術』で学ぶような呪文を自分たちで試しているみたいよ。だから、そうね、手強いでしょうね」

 

 ハリーはピンと閃いたことがあった。

 クルックスが毎週金曜日の深夜は必ず、そして休日の夜でもしばしば出掛ける理由だ。

 

「待って。自分たち?」

 

「『互助拝領機構』ではクルックスはセラフィ・ナイトといつも一緒なのよ」

 

 その言葉に感じたことは、ロンが代弁してくれた。

 ハリーとロンは解説席の頭上、空中に浮かぶ対戦表を見た。

 

「じゃあ、ねえ、このペアってインチキ──」

 

「フリットウィック先生の組分けよ。滅多なことを言うものじゃないわ」

 

 ハーマイオニーがロンに全てを言わせないように早口で言った。

 

「でも、そんな活動をしているなら明らかに有利じゃないか。誰だって考えればわかるだろ。あの檻頭は金まで出して優勝トロフィーが欲しいんだ!」

 

 金を出さずとも優勝トロフィーを回収する機会があれば、それに全力を傾ける方が安上がりだ。

 ネフライトが同郷の──ひょっとしたらテルミも噛んでいるのかもしれない──彼らを勝たせたいと思うのは自然な流れのように見える。

 

「そうとなりゃ、僕がマルフォイと組んだのもやっぱりインチキ──」

 

「もし、彼が真剣にインチキするなら僕とセドリックは組ませなかったと思う」

 

「あ……まあ、うん……そうだろうな……そうか……」

 

 ロンは静かになった。しかし、ハリーはそうは言ったものの、たとえば一組くらい──まさにクルックスとセラフィを──ネフライトがフリットウィック先生に嘆願して組ませてもらったのではないかという疑いは抱いた。

 

「でも、あなたとセドリックは強いペアよ。他のペアを見ていたけれど優勝候補だと思うわ。インチキするならもっと別のところでしょ」

 

「君とゴールドスタインほどではないよ。僕ならブルストロードのフライングの呪文をあんなにうまく防げなかった」

 

 ハリーは謙遜ではなく心から思ったことを言った。

 参加する生徒は誰であれ、号令を聞くまでは呪文が飛んでこないと思っている。その前提を覆すような場面で適切な反応が出来たハーマイオニーをもっと賞賛すべきだとさえ思った。

 

「そんなことないわよ。あの人、目がぎらぎらしていたんだから。そのうち号令がなくてもヘッドロックをかけられそうってくらいにはね」

 

 三人はすこし笑って解散した。

 それぞれのペアのもとで作戦を練ったり確かめたりするためだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 決闘の二回戦、すなわち二巡目がやって来た。

 ハリーは待機している間に舞台の向こう側の袖にいる人物に目を留めた。三年生になってから初めてまじまじとセラフィを見たのだ。

 きりっとした顔だが表情が硬く、恐らく最も気心知れている仲であろうクルックスに対する顔であっても冷え冷えとしたもののように見える。そして、彼女を遠目で見ていると不安定な印象を受けた。

 彼女の立ち方は堂々として「我が身に何も恥じることはない」と言いたげなものなのに、なぜそんな印象を抱いてしまうのか。ハリーはしばらくダフネ・グリーングラスと会話する彼女を眺めて気付いた。

 体が奇妙なのだ。

 背丈ばかりが高く、体の成長と共に備えそうな胸の膨らみがない。隣に立つクルックスと同じくらい平らな胸をしている。腰のくびれと大腿から辛うじて女性らしい柔らかさが想像できた。だが、それもズボンを履いているからだ。もしも、制服であるローブとスカートを履いていたらそれにも気付かなかった。きっと肩と喉と服で隠せば男性のように見えることだろう。

 

「あの子、どんな人なんだ?」

 

「えっ」

 

 あまりに熱心に見ていたようだ。

 セドリックに訊ねられてハリーは言葉に迷う。

 

「えーと、たぶん強いよ」

 

「そうなのか。意外だな。それに背が高い。とても三年生には見えないよ」

 

 先の決闘であるアンジェリーナ──グリフィンドールのクィディッチのチェイサーだ──とハンナ・アボットのペアがパーシーとアストリア・グリーングラスのペアに敗れ、二本の杖が飛んだところで終了した。

 健闘を讃える喝采と解説が入り、それらが済んだ時、セドリックとハリーは再び壇上に立った。

 

「──さて、これから二回戦となります。出たとこ勝負だった一回戦が終わり、各々勝利のためには戦法や癖といった分析が必須になってくるでしょう。フリットウィック先生、どう見られますか?」

 

「決闘には多くの場合、心理戦が絡みますね。これは必ずしも『言葉で挑発する』という意味ではありませんが、自分がいかに強いか。それを誇示していくのも相手へのプレッシャーとなるでしょう。うまくすれば、あらぬ方向に警戒させて意表を突くことが出来るかもしれません」

 

「高度な話です。とはいえ何度も同じ手を使うなんて安直なことはしないと期待させていただきたいところですね」

 

 舞台に上がったハリーは初戦ほど緊張しなかった。

 相手が油断ならない力量だと知っているので観客の生徒がぺちゃくちゃ話す声も気にならないくらいに集中できていた。

 ネフライトが拡声器で号令を掛けた。

 

「一、二、三!」

 

 三の声と同時に、セドリックとハリーは打ち合わせ通り「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」と唱えた。

 ネフライトが軽視した「何度も同じ手」は、実のところ有効な場合がある。

 セドリックとハリーが実戦する開幕直後に呪文を唱えるこの戦法は、必ず一度は相手を防戦に追い込むことが出来る。決闘開始から早々に『盾の呪文』で防がなければならなくなった相手は、攻撃に転じる前に気が挫かれるだろう。杖が一本でも飛んだら、かなり幸先がいい。もし、飛ばなくとも、うまくいけばこれをきっかけに攻め続けられるかもしれない。

 もっとも、この戦法が有効なのは相手が『盾の呪文』で防御することが前提の場合に限られる。

 そのため。

 クルックスとセラフィの並外れた視力と反射神経、そして狩人的思考は勝利への道筋に対し『盾の呪文』で時間を浪費することを良しとしなかった。彼らは、歴史的に無力な盾を信用していないのだ。

 

 それが仇になった。

 

 クルックスとセラフィは同時に避けようとして隣に立つ互いにぶつかった。悪いことはまだ続く。体格の良さで弾かれてしまったクルックスがハリーの放った呪文にあたり、杖を取りこぼした。

 

「あッ。すまない、セラフ──」

 

 通常、杖を失った決闘者は舞台の邪魔にならないところに立っているのが慣例となっている。それに則り、退こうとしたクルックスの胸倉を掴み、セラフィが挑んだ。

 

「そのままだよ、君」

 

「な、何を──!?」

 

 誰よりも早くセラフィの意図を掴んだのは解説席のネフライトだ。

 

「肉の盾の作戦のようですね」

 

「肉の盾」

 

 一人頷くネフライトの隣でフリットウィック先生は、ただ言葉を繰り返しただけだった。

 

「ル、ルール上は大丈夫なのかね?」

 

「ルール上は何の問題もありません。人道的な問題はよく分かりません。しかし、グリフィンドールには思いのほか有効ですね。これは決闘の定石を変えるかも──」

 

「こんな戦術で変わっちゃたまりませんよ!」

 

 フリットウィック先生が驚きのあまり制止もできないでいる。

 その間に舞台は混乱した。

 

「おい、セラフィ、俺達は『きょうだい』だぞ──!」

 

 セラフィにだけ聞こえる声でクルックスは苦言を漏らした。

 

「ネフの依頼を完璧に果たそうと決めただろう。なら黙って盾になりたまえよ」

 

「そ、それは……そう、だが……ぐうぅ……」

 

 クルックスの胸倉を掴んだままセラフィも声を潜めた。

 お互いに納得し合った目的を引き合いに出されるとクルックスは黙らざるを得ない。

『肉の盾』とはよく言ったものだ。

 ハリーは呪文を撃てるが、クルックスを傷つける可能性が頭をよぎり呪文を唱えるのを躊躇した。

 

「──っ──」

 

「ハリー、僕が引き剥がす。その隙に杖を取り上げてくれ。卑怯な手を使う彼らに僕らは絶対に負けちゃいけないんだ」

 

 ハリーは頷き、杖を構えた。

 その光景を見て。

 

「──もういい。やめろ」

 

 解説席のネフライトが呟いた言葉は拡声器を使わないものだったが、常より低い声はセラフィに届いた。

 

「君がそれでよいのなら、僕もそれでいいのだよ」

 

 セラフィが左手で掴んでいたクルックスの服を離した。

 その時。

 

タラントアレグラ 踊れ!

 

 セドリックの呪文が放たれ、クルックスがセラフィを庇った。

 

「ク──」

 

「セラフィ、君はせめて戦ってから負けろ! おうッ!?」

 

 足が勝手に踊り出したクルックスは大きな音を立てて舞台から落下した。そんな彼を見てネフライトが慌てて席を立った。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ

 

プロテゴ! 護れ!

 

 ハリーとセラフィの呪文が激突した。

 セラフィは怯みを見せることなく連続で呪文を使った。

 

グリセオ 滑れ!

 

 ハリーは、その呪文の効果を知らなかったがセラフィの杖先がハリーとセドリックの足下を差していたのを見て咄嗟にジャンプした。

 突然、ハリー達が立っていた舞台が滑り台のように変化した。反応しきれなかったセドリックが後ろ向きに尻もちをついて転び、床までの数メートルを下っていく。

 危機一髪でそれを避けたハリーは、前方のセラフィに杖を向けた。空中に跳んでいたハリーには世界がスローモーションになったように感じた。

 そして。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 カウンターで放たれた呪文はセラフィの杖を弾き飛ばした。杖は、きりきり舞いをして遙か後方に落下した。

 大広間を埋め尽くしたのは、まるで寮対抗杯で優勝した時のような爆発的な喝采だ。なかでもハッフルパフの生徒が見せる歓喜とは凄まじかった。

 

「やった! やったぞ!」

 

「またセドリックとハリーが勝った!」

 

「セドリックが勝った!」

 

 そんな声があちこちから聞こえてきた。

 セドリックが滑り台の下で何とか立ち上がった。腰を打ってしまったのか、ちょっとヨロヨロしていたが顔は紅潮して喜色満面だった。

 

「大丈夫?」

 

「平気さ! よくやった、ハリー!」

 

 礼もそこそこに舞台を降りるとセドリックと握手をした。ハーマイオニーとロンもやって来てハリーに「やった!」と声を掛けた。フレッドとジョージはもっと嬉しそうだった。パーシーは腕を組んで深く頷いていた。

 ハリーは、何となく視線を感じて教職テーブルを見た。

 マクゴナガル先生とダンブルドア校長。それから、いつの間に来たのだろう。ルーピン先生とハッフルパフの寮監、スプラウト先生が座っていてハリーを見ていた。彼らは手元で小さく拍手をしながら、ニッコリと笑いかけた。

 これが決勝戦でも惜しくないとハリーは心の底から思った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 解説席から駆けてきたネフライトに踊り続ける足を止めてもらい、クルックスはようやく立ち上がることが出来た。

 一メートル下の床に落下したとして、いつもであれば体はビクともしないが、今回は頭から落下してしまったので後頭がズキズキと痛みを訴えており、触れると腫れているらしく熱っぽい感じがした。

 

「クルックス、念のため医務室に行った方がいい。単なる打撲だと思うが、私はまだ仕事があるから……。他のトラブルがあった生徒もそうしている」

 

「うん? うーん?」

 

 クルックスは「問題ない」と言いたかったが、物が二重に見えており、彼の言葉に従うべきだという思いが強くなっていた。

 

「頭の調子が悪いのか。うぅ、開きたいが時間がない。──セラフィ、クルックスを医務室へ連れて行ってくれ」

 

 ちょうど杖を拾って戻ってきたセラフィが「分かったよ」とネフライトに伝え、クルックスを支えた。

 

「ああ、クルックス。歩けそう? 僕が抱えてもいいけれど」

 

「肩を貸してくれ。……うぅ」

 

 歩くと視界がぐるぐる回るようで気持ち悪くなった。

 二人は雑踏をかき分けるように大広間を出た。

 

「すまなかった。クルックス」

 

 喧噪から離れ、人の声も薄くなった頃。セラフィが告げた。

 

「ネフの願いを叶えてあげたかったのだけど。さすがの僕も二対一では分が悪くてね。手段を選び間違えてしまったようだ」

 

「謝るほどではない。もし、逆の立場で俺がもう少し冷静なら、同じことをしていたかもしれない。それよりも俺達は防御よりは回避を選ぶ癖があるから、お互いの回避行動についてよく相談し合うべきだった。俺の失態でもある。反省会をしなければな。……それにしても、ああ、また間の悪い存在になるところだった。危ない危ない……」

 

 夏休みにカインハーストと処刑隊の抗争に巻き込まれ、高い勉強代──具体的には命──を払ったばかりだ。あの時は本当に運が悪かったと思う。そして自分の運が悪いと悟ったのならば、それなりの身の振り方がある。たとえばカインハーストの教導を受けているセラフィと一緒に何かに取り組むときは、もっと慎重であるべきなのだとクルックスは自戒した。

 

「また、とは?」

 

 セラフィの質問には、うまく答えられない。

 

「あ、いいや、何でもない。ただ……ふむ……すこしだけ意識が混濁しているようだ。変なことを言ったかもしれないが、気にしないでくれ……」

 

 視界は明瞭になりつつあり、頭のぼんやりも薄らいできたがクルックスは大人しく医務室に行こうと思った。

 

「クルックス」

 

 セラフィは立ち止まった。

 何か、とクルックスが問う前に止めようのない速さで膝裏に腕を通し、セラフィは彼を持ち上げた。

 

「お、い! お、下ろせ……歩ける……!」

 

「ぼんやりしているんだろう。ダメだ。医務室まで連れて行く。大丈夫、落とさないよ。僕は市街からヘムウィックまでレオー様を担いで走ったことがあるんだ。君くらい何てことはない」

 

「俺は元気! 元気になった! 大丈夫だ!」

 

「無理をしないでほしい。ネフから頼まれたことでもある」

 

「……うーん……」

 

 仕方なくクルックスはセラフィの腕のなかで揺られた。彼女が歩き続ける間、懐から時計を取り出した。決闘大会はトーナメント制だ。医務室から行って戻ってくる頃には決勝戦になっているかもしれない。

 自分たちを下したハリーとセドリックが負けていたら嫌だな、とクルックスは考えた。

 





処世術
 ウィーズリー家の実態を知らない人から見ると後世のウィーズリー家は、不死鳥の騎士団として第一戦で戦い、ホグワーツの戦いで戦死者1名を出しつつもほとんどが生還し、英雄と後の魔法大臣と婚姻関係を結ぶことに成功する──そんな計略高い一家に見える、かも、しれません。
 セオドールがついウィーズリー家のことをついつい気になってしまうのは、純血家系的に目障りな存在であると同時に「なぜ、そうもうまく……?」という興味があるのでしょう。


用途
 セラフィは先達から「目的外用途の性能については求めないこと」を予め伝達されています。
 心身の発達が歪であるため実態として適さないことを差し引いても、明言しておくことは彼らにとって重要なことでした。
 すでに女王が存在する場所に別の女性を送り込むのは、無神経すぎる行為だったからです。
 それはそれとして。レオーは鴉に宛がおうと画策したこともありましたが、断念しました。その結果、彼らを師弟や兄妹のような関係に落ち着かせています。その方がレオーも自分の精神が安定すると気付いたので、何も起きなければこのままなのでしょう。


肉の盾
 人質とも言い換えられます。クルックスはセラフィを気遣って「俺もやっていたかもしれない」と言いましたが、実のところ、その発想はありませんでした。彼の敵は、ほとんど獣で人と戦うことを想定していないからです。獣に人質が通用するか。答えは否でしょう。四仔のなかで、この発想に辿り着けるのはレオーの語る、処刑隊とカインハーストの血生臭い寝物語を知るセラフィと人の歴史を学んでいるネフライトの二人だけでした。盾を壊すためには石化させてからボンバーダしないと──!
 鴉への指示をミスったレオーのようにセラフィとクルックスへの要望をミスったネフライトは反省会の材料が増えました。こうして思考課題が増えていく。
 さて。卑劣な対抗に淀まず、ハリーを導こうとしたセドリックが輝く場面でもありました。踊らせて舞台から退場させる引き剥がし方は、『武装解除呪文』をぶち当てて吹っ飛ばす(原作スネイプ先生参照)より穏当な手段でしょう。


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第1回互助拝領機構杯(終結)


忘却
忘れ去ること。
ネフライト・メンシスは四仔のなかで唯一、忘却を知らない。
忘却により時間の経過を測ることは出来ず、誕生してから現在までの記憶は全て関連している。
何もかも必然だ。



 クリスマスも近付く十二月中旬の医務室。

 城のなかでも石造りの部屋であるため、クルックスにはやけに冷え冷えとして感じられた。そのため勢いよく打ち付けた後頭がジンジンと熱を持っているのが理解できた。

 そのことを伝えると校医、マダム・ポンフリーはクルックスの頭の様子を確認し、打撲と軽い脳震盪と診断した。

 

「はい。もう退室してよいですよ」

 

 ツンとする薬を飲んだクルックスの頭に向かい、彼女が杖を一振りすると治った。

 

「頭の具合はどうかな」

 

 セラフィが隣で目を覗き込んだ。

 

「いつになくスッキリしている。はっきり言って最高だ」

 

 クルックスは、かなり頭の調子がよくなっていた。ヤーナムの深夜の体調に等しい感覚だった。

 しかし。

 

「気付けの『頭冴え薬』のせいですよ。少量なので三〇分くらいで効果は切れますからね」

 

「はぃ。……なんだ(ヤク)のせいか……」

 

 マダム・ポンフリーはテキパキと動きながら「退室してよい」と告げた。

 クルックスは退室するなり、背伸びしながら首を回した。

 

「ふむ。元気になったぞ。心配をかけたな」

 

「よかった。では大広間に戻ろう。ええと。僕らが出てから二〇分経っているから……。決勝戦に間に合うかな。終わっているかもしれない」

 

「そうだな。テルミが決闘する様子を見たかった。テルミは俺達と違ってネフの次に成績がよいのだろう? 優等生の戦いというものを見てみたかった」

 

「えっ。ふむ。うん」

 

 セラフィはクルックスが参考にするべき戦いは行われていないと思っていたが、それを言うべきかどうか迷った。案の定、大広間に戻り、彼女とペアを組んでいたジョージの話を聞くと。

 

 ──アハハハ! 踊る? 踊るのね!?

 

 踊らせた相手に合わせてピョンピョン飛び跳ねて遊んでいるうちに、遊びすぎて負けたらしい。

 

「申し訳ない」

 

「なんでハントが謝るんだ」

 

「『きょう──い、いいや、何か、とても、いたたまれなくなって。気にしないでくれ」

 

「…………」

 

 彼女のなけなしの名誉のため、そして助言した真犯人であるセラフィはせめてもの補足を試みた。

 

「余興だ。クルックス。余興だ」

 

「だから?」

 

「余興なのだよ……?」

 

「他人に迷惑を掛ける余興などすべきではない。気分に任せて遊びすぎるのはテルミの悪い癖だ。ノクターン横丁でしっかりと言い聞かせたつもりだったが……。俺は、どうにもテルミを叱りきれないようだ。困る」

 

 クルックスは、顔を顰めた。

 

「……君はときどき反論が難しい正論を言う」

 

「正論とはそういうものだ。でも俺は正論を述べているつもりはない。事実だ」

 

 クルックスはテルミがギリギリやりそうなことだと思いつくと大して怒りも浮かばなかった。とはいえ、呆れてしまう。そして、ペアを組んでいたジョージには申し訳ない。

 

「だが、まだパーフェクト・パーシーとハリーが残っている。どっちが勝ってもいただきだぜ」

 

「パーシーとハリーが? ……ということは、ロンは負けた?」

 

「ああ、残念ながら負けた。ハリーとセドリックにね」

 

 フレッドとジョージは、しかし嬉しそうだ。

 

「これより最終戦、決勝を執り行うのでミスター・ディゴリーとミスター・ポッター、ミスター・ウィーズリー、ミス・グリーングラスは舞台のそでに集合してください」

 

 ネフライトが拡声器で話す内容を聞き、宙に浮かぶトーナメント表を見上げる。

 クルックスが不在の間の試合を見るとハーマイオニーとゴールドスタインのペアはロンとマルフォイのペアに負けたということが分かった。

 

「ハリーとセドリック。やはり強いペアだったのだな。しかし、ロンとマルフォイのペアがハーマイオニー達に勝ったのは驚きだ。いったいどうやって……?」

 

「おっと、それには宇宙の成り立ちから話さなきゃならなくなる」

 

 フレッドの冗談めかした言葉を真に受けてしまったセラフィが「そこまで遡る話にはならないと思う」と言ってしまった。

 

「セラフィ、頼むからしばらく黙っていてくれ。それでどうやって」

 

「ゴールドスタインの呪文を唱えるスピードが遅くなったの」

 

 答えはジニーが教えてくれた。

 

「呪文を噛まないように気を付けていたら、まずマルフォイの呪文が当たって」

 

「ふむふむ……」

 

「それからマルフォイがハーマイオニーに杖を向けたから、ロンの手が滑ってマルフォイに呪文を──」

 

「待て待て」

 

「『マルフォイがハーマイオニーに杖を向けているのを見たら体が勝手に動いた』って。それにハーマイオニーがマルフォイに呪文を当てるのが早かったから結局ロンの呪文は当たらなかったわ」

 

「背後から強襲されたらマルフォイもビックリしただろうな。俺でもビックリする。ハーマイオニーとロンの一騎打ちは?」

 

 双子は口を押さえて笑ったが、ジニーは苦々しい顔をした。

 

「……からかったりしない?」

 

「俺はハーマイオニーを尊敬している。彼女は、グリフィンドールのなかでもパーシーと同じくらい勤勉で、誠実な人だからな」

 

「じゃあ言うけど。……最後の最後で、あがっちゃって。ハーマイオニーが呪文を失敗したの」

 

「ハーマイオニーが? ほう。珍しいこともあるのだな」

 

 クルックスは、二人の間に存在する細やかな情緒を理解していなかった。

 そのため。

 

「知っている顔が杖の先にいると普段の調子も出ないのだろうか。生死を懸けた争いではないとはいえ……躊躇いとは、とても健全な精神の在り方なのかもしれないな」

 

「……。ハーマイオニー達は本番に弱いだけだろう。一回戦でも舌を噛んでいた」

 

 ジニーは、セラフィを見上げた。彼女は、じっと見つめてくるジニーの真意が分からなかった。

 ──スリザリンでも親切だったセラフィが、なぜ犠牲を省みない強硬策に出たのか。

 

「何かな」

 

「勝負を途中で諦めたみたいだから……」

 

「諦めたワケではない。ただ、勝つ必要がなくなりそうになっただけだ」

 

「あんなに勝とうとしたのに?」

 

「僕は、勝つために戦うのではない。いつだって得るために戦うのだ。そのためならば、すこし見境をなくしてしまうようだが……。おや。僕は、いまとてもスリザリンらしいことを言った気がする」

 

 セラフィはそう言って、クルックスと目を合わせた。

 

「せめて事前に相談してほしい。努力する」

 

「ありがとう。機会があれば」

 

「ジニー、いろいろと聞かせてくれてありがとう。──さて、もうこの段階になれば主宰に手伝いは不要だろう。観客席に行こう」

 

 そうして二人は長椅子に向かった。

 その途中ではハリーとすれ違った。目が合う。クルックスは右手の拳を上げて「頑張れ」と告げた。

 

 ──気付いているだろうか。

 

 クルックスは微かに笑っている。

 それを見るとセラフィは、すこしだけ落ち着かない気分になった。チリリ、と心の端が焦げるような感覚がある。何のことはない動作、そして表情であるのに。

 不明な感情を忘れたくなり、セラフィはクルックスの腕を掴んで引いた。

 

「どうした?」

 

「……僕は……。向こうに。空いている席を見つけた。行こう」

 

 セラフィはそう言って人混みを分けて歩いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「どう? 緊張しているか?」

 

 ハリーはセドリックに初戦と同じ声を掛けられた。あの時は、どう答えようか迷った。セドリックに弱いところを見せたくなかったし、頼りないと思われたくなかった。何よりクィディッチで負けている以上、他のどんなことでも負けたくなかった。

 それでも。

 

「すこしね。でも、動けなくなるほどじゃない。集中できていると思う」

 

 今のハリーは素直に話すことが出来た。誠実に接しようとする彼に対し、真摯に向き合わないのはまさに誠実さに欠けると思ったからだ。

 ロンとマルフォイのやりとりを聞いてしまったこともハリーの誠実さを試した。

 ──あいつ、全然僕と話さないんだぜ。作戦ゼロ。きっと負けるよ。

 ぶつくさ言うロンの話を聞いて、ハリーは決心した。ペアと話さなければマルフォイと同じになってしまう。その事実がハリーの意識を変えた。

 

「セドリックは?」

 

「僕は……。僕もすこし緊張している。グリーングラスは、大したことがないだろう。問題はパーシー・ウィーズリーだ。七年生の『首席』ってことをみんなは軽く考えているようだ」

 

 ハリーも軽く考えているうちの一人なのでセドリックの神妙な顔は意外だった。これまでの三試合でセドリックが深刻に悩んだ顔は見たことがなかったのだ。

 

「首席は、えーと、ダンブルドア校長が『お行儀の良い生徒』を選ぶ……とか」

 

「みんなそんなことを考えているんだろう。間違いじゃない。でも、それだけじゃない。選考の基準は学業成績はもちろん、勤勉さ、学生の評判も参考になる。そして何より七年生の代表はホグワーツの代表でもある」

 

 ハリーにとってパーシーとは『フレッドやジョージのようなユーモアがなくてちょっと口うるさいロンの兄で監督生』という印象だったが、他寮の生徒からの評価はこんなに高いものだったのだ。ハリーは衝撃を受けた。それが過ぎ去った後、ロンのことを考えた。彼はあまり言葉にしないが、ときおり嫉妬深い顔をすることがある。それもこれも優秀な兄がいるせいだろう。家族が多いのも大変なのだな、とハリーは他人事に思った。

 ハリーは首を振って、目の前に集中した。

 

「じゃあ、ひょっとして、とても強い?」

 

「ああ」

 

 ──勝てないかもしれない。

 ハリーの胸に初戦と同じ思いがやってきた。ハリーに初めて敗北をもたらしたセドリックがそれを言うと他の誰が言うよりも確かな未来のような気がした。ハッとして杖を握り直す。杖がこんなに細く感じられたのは初めてのことだった。

 手足が遠くにある。長いトンネルの向こうで舞台に昇るように指示する声が聞こえる。ハリーはぼんやりとそれを聞いていた。

 セドリックは、ハリーの肩に手を置いた。

 

「でも、きっと僕らほどじゃない。勝ってきた数は変わらないんだ。自信を持って行こう」

 

 彼は明るく言った。

 ──勝ってきた数は変わらない。

 同じことは今、対峙する彼らにも言える。それでもハリーを励まそうとしてくれた彼に応えたかった。

 舞台に上がると身がビリビリと震えるほどの拍手が起きた。

 

「──いよいよ最終戦、決勝ですが両ペアの調子はいかがでしょう?」

 

「調子はお互い右肩上がりにも見えますね! 難しいことですが、緊張せず、のびのびと戦って欲しいと思いますよ!」

 

 ハリーはチラと教職員用テーブルを見た。

 マクゴナガル先生とスプラウト先生が楽しそうに舞台を見ているし、ルーピン先生は──ハリーはかなり驚いてしまった。どうしていなかったことに気付かなかっただろうか。──ハグリッドと話している。ハリーに気付くと二人は「頑張れ」と言うように軽く右手を挙げた。

 自信と勇気が出てきて、ハリーは背筋を正した。対峙する二人、アストリアはハリーをツンとした澄まし顔で見つめた。パーシーは礼儀正しいが、やや大袈裟な礼をした。

 

「各々ご準備はよろしいか?」

 

 解説者で進行役のネフライトが立ち上がり、両手を広げて二組を窺った。全員が頷きを返したところで彼は拡声器を手に取った。

 

「それでは。決勝戦を始めます! ご照覧あれ! 一、二、三!」

 

「三」のカウントと同時にハリーとセドリックは『武装解除呪文』を唱えたが、それよりパーシーが飛ばした無言呪文の方が早く、二人は初めて開始と同時にほとんど防戦に回った。

 無言呪文の利点をハリーは身に染みて理解した。

 ほんのすこしパーシーの杖が動くだけでそれが単なる杖の移動なのか、あるいは、呪文なのか、その判断をしなければならない。頭で考える時間がないので二人とも反射と持ち前の勘で杖を振るっていた。もしペアがセドリックでなければ、開始十秒で三、四本の杖が飛んでいたことだろう。

 どちらかの集中が途切れたらパーシーひとりに負けてしまう。予感は確実さを伴い、『盾の呪文』の手応えとしてやって来た。

 

「──ハリー、あとは、頼んだぞ」

 

 セドリックが息継ぎの途中でぽつりと言った。

 その時だ。セドリックは半身になり、呪文を受ける面積を最大限に減らし、勝負を懸けた。

 その間、ハリーが聞いたのは、ただ「フッ」という呼気だけだ。

 これまでの決闘でセドリックが一度も使うことのなかった無言呪文に意表を突かれ、パーシーの杖先が乱れた。ハリーは、パーシーの目が素早くセドリックとアストリアの間で左右に動いたのを見た。彼は、セドリックに杖を向けながら身を傾け、パーシーは本来アストリアの杖を飛ばす『武装解除呪文』を受けてしまい、杖を飛ばした。

 グリフィンドールとスリザリンから歓声が上がり、ハッフルパフからは爆発的な声が上がった。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 しかし、『勝った』と思った瞬間が危険なのだ。パーシーの陰になったアストリアが、彼と立ち位置を入れ替わるように素早く杖を向け、カウンターでセドリックの杖を飛ばした。

 解説席でチョコレート板を囓っていたネフライトは、銀紙に食べかけのチョコレートを包み直した。

 

「ん、おやおや、これは──?」

 

「一騎打ち! 一騎打ちです! 決闘の花ですよ!」

 

 今日、最も楽しげなキーキー声が、解説席から上がった

 

 ハリーは杖の先、その向こうに見える一年生のアストリアを見つめた。アストリアは、ハリーの予想に反して、もう様子を窺うことはしていなかった。

 杖を振る。その動きまでハッキリ見える。

 

 彼女は決して弱くない。

 ハリーが一年生の頃よりしっかり呪文を使えている。

 けれど、この『武装解除呪文』に親しんでいた時間はハリーの方がずっと長いのだ。

 彼女が口を開いた瞬間。

 ──今だ。

 そう思うとハリーの口と腕は自然に動いていた。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

「あッ!」

 

 アストリアが息を飲み込む。

 杖が彼女の小さな手を離れていく。

 瞬間、耳をつんざく声に頭の中がいっぱいになった。

 そのなかで。

 

「ミス・グリーングラス」

 

 パーシーが彼女の肩に手を置いた。そして彼女の前を導くように歩いた。

 

「いい決闘だった」

 

「あなたと戦えて良かったよ」

 

 そう言い合って歩み寄ったセドリックとパーシーはお互いに堅く握手した。

 ハリーはアストリアと目が合った。握手をしなければならない。杖を握っていた手は、汗でいっぱいだ。歩きながら慌てて手をズボンに拭いた。

 

「君──」

 

「思ったより強かったわ。想像より、ずっとね」

 

 緊張で赤くなったアストリアが顎を上げてハリーを見上げ、腕を突き出した。

 きっとハリーも同じような顔をしていた。

 

「君も。強かった。一年生の僕より、ずっとね」

 

 ハリーは、ようやく言った。それ以外に何を言えば良いのかさっぱり分からなかった。けれど、アストリアが目を丸くして、もにょもにょと口を動かした。

 照れて、笑っている。

 そう気付いたのは健闘を讃える喝采が、大広間を埋め尽くした後だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 もしも、祝福の言葉に形があったのならば。

 ハリーもセドリックも小山が出来るほどもらった頃。

 落ち着いた呼吸がしたくて大広間の外を出たところで六角形の檻を被った彼と出会った。──彼は、今を待っていたのだ。

 

「貴公とは良い取引が出来ると思っているが……。どうかね」

 

 ハリーは、そう言われて決闘大会の名称にもなっている互助拝領機構杯こと檻型トロフィーが換金できることを思い出した。他方でセドリックは怪訝な顔をした。

 

「なんだって?」

 

「おや。ご存じではない? では、これを」

 

『互助拝領機構』の主宰、ネフライト・メンシスは持っていた紙をセドリックに放った。それはヒラヒラとセドリックの手の中に舞い降りた。

 

「…………」

 

 ハリーもセドリックの読んでいる紙は知っていた。

 

 

 匿名希望の檻頭からの依頼

 人生にチェスのルークが足りていないようだ。

 解決すべくチェスのルークを緊急買い取りする。

 金50ガリオン即金可(グリンゴッツ魔法銀行振込対応可。同額物品引替可。要相談)

 

 

「──賞金なんて絡ませるべきイベントではないと思うけどね」

 

 セドリックは、不快そうに紙を握りつぶした。

 それを見ているだろうにネフライトは顔色を変えなかった。むしろ。

 

「それは万事、恙なく終わったから言えることだ。今回の決闘大会は、正式な決闘クラブを差し置いての開催となった。その提案がなければいったい何人が一見して怪しげな『互助拝領機構』のイベントに参加してくれただろう? いったい何人が見学に来てくれただろうか? ……とはいえ、私は今回の一件で思考を修正した。貴公らの活躍のお陰で次回はこんな動機付けの必要はないだろう。その点には、深く感謝をしている」

 

 彼は一度言葉を切り、催促するように左手を差し出した。

 

「取引するのか。しないのか」

 

 セドリックがハリーを見た。

 

「君は知っていたのか?」

 

「ああ、うん。僕、ホグズミードに行けないんだ。だから、友達にお菓子を買ってきてもらいたくて……。もし、優勝したら、その代金に使おうと……」

 

 ハリーは、視線よりほんのすこし高いところにあるセドリックの目を見ることが出来なかった。彼は軽蔑した顔をしていたら、これまで築いた信頼が全て壊れるような気がした。だが、あるときハリーは顔を上げた。セドリックは驚いた顔をしていた。

 

「でも、僕、忘れてた」

 

 セドリックの向こうに立つネフライトが初めて顔色を変えた。

 

「『忘れる』?」

 

 まるで初めて言葉を知った子供のように。

 単語の発音が怪しいネフライトは言った。

 

「勝つことに必死で忘れていたんだ。優勝トロフィーを受け取った時も思い出さなかった。……だから、僕にとってあまり重要なことじゃなかったみたいだ」

 

 ハリーの言葉は、本当のことだった。そんなことがどうでもよくなるくらいに他の決闘の様子を見るのは楽しかったし、過ぎてしまえば自分の試合も楽しかったように思う。

 セドリックは手の中で重い優勝トロフィーを撫でた。

 

「──いいよ、メンシス。うん。取引しよう」

 

 求めていた反応を得たというのに、ネフライトはもう嬉しそうな顔をしていなかった。

 

「メンシスの名を冠する私は学徒の研鑽を奨励し、かつ有意になるよう努力する。よって運営側に一切の不正はなかったと断言する。ただし、このような形で勝利の証を取り上げる形となったことには謝罪する」

 

 ハリーは、かなり驚いた。

 彼の言うことが真実だとすれば、クルックスとセラフィがペアを組んだことはただの偶然ということになる。

 

「でも……なぜ、こんな回りくどいことを? 買い取るくらいなら何人かの参加者を買収した方が早かっただろう?」

 

「誤解があるようだ。この買い取り行為は『互助拝領機構』のイベントとは何ら関係のない、極めて私的な売買と理解してほしい」

 

「よく分からないが……。でも、君。こんな物がなくても僕らは得るものがあったよ」

 

「それは……光栄だな」

 

 毛ほども思っていない声で彼は言ってセドリックに金貨の詰まった革袋を渡し、代わりに檻型優勝トロフィーを受け取った。

 

「では、私はこれで失礼。来年の参加もお待ちしている」

 

 ネフライトはトロフィーを片手に誰もいない廊下を去って行った。

 誰もいないことを確認して、ハリーはセドリックに声をかけた。

 

「セドリック、あの、ごめんなさい。先に話しておくべきだった。……途中で忘れていたけど」

 

「構わないよ。実は僕もちょっと小耳に挟んでいた。まさか本当だとは思わなかったけどね」

 

 セドリックは革袋のなかを揉んだ。

 ネフライトに数え間違えがなければ五〇ガリオンが入っているだろう。重量は見るからにズッシリしている。

 しかし。

 

「僕はお金が欲しいワケじゃない」

 

 革袋を見ていたハリーは、セドリックを見つめた。

 ──では、どうして取引に応じたのだろう。

 ハリーの疑問に彼は、ほんのすこし嬉しそうに答えた。

 

「ずっと考えていたんだ。トロフィーは半分に出来ないからどうしようって。でもガリオン金貨なら分ける方法もあるだろう? さあ、栄光を山分けしようか」

 

 ──負けた。

 ハリーの頭のなかにポンとそんな言葉が浮かんだ。

 もしもハリーがセドリックの立場なら、どうしていま清々しく笑うことが出来るだろう。ハリーがすっかり忘れていたとはいえ、彼はハリーのことを『金に釣られた卑しいヤツだ』と思っても仕方のない立場だと思う。そして、そんな考えがちょっとでもあれば、こうしてハリーに笑いかけることはしないだろう。

 

「……セドリックと組めてよかったよ」

 

「え?」

 

「優勝したからじゃなくて、こうして、普通に、話すことが出来て嬉しいって意味なんだけど……」

 

 ハリーは、これ以上はうまく言えない。

 セドリックは、ハリーの顔をまじまじと見た。

 それから。

 

「僕も嬉しいよ。……こんなことを言うのは、おかしなことだと思うけど……君は、怖がったり緊張したりしない人だと思っていた。でも違ったからね。何だか、安心した気分だ。うん。よかったよ」

 

 彼は、ハリーの手が緊張で震えているのを見たハーマイオニーと同じように、ニッコリ笑った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

(手に入れてしまえば何のことはない。ただの鉄のトロフィーだ)

 

 ネフライトは買い取った互助拝領機構杯のトロフィーを眺めていた。

 初めて見たときの凶暴で破壊的な衝動は起きなかった。

 

 代わりに空虚さがあった。

 何をしても埋まることのない虚ろだ。

 檻のように肝心なものは通さないのに、大事なものばかりが檻の目をかいくぐって出て行ってしまう。ばかげた空想だ。常ならばそう思って切り捨てる思考が今日ばかりは振り払いきれない。時間が経って冷静になったからだろうか。まさか、そんなハズはない。もし、これが誰かの手に渡ることを考えだけで今も新鮮な怒りとも憎しみとも言えない感情が起こるのだ。

 

 とはいえ、実際にはもう起こりえない仮定だ。

 ──何を苛立つことがある。落ち着くべきだ、ネフライト。

 自分自身の空虚に言い聞かせ、彼はそれを衣嚢にしまいこんだ。

 日常に戻るためタイプライターを叩いていると向かいの席に誰かがやって来た。ルーナ・ラブグッドだ。

 

「デザート食べてきた。あんた、食べないの?」

 

「夜食が来る。それでいい。──今日の互助拝領機構杯決闘大会は楽しかっただろうか?」

 

 今日の出来事を反芻するための言葉であり、彼女の行った提案に対し反応を求めるための問いだった。

 

「楽しかったよ」

 

 ルーナは簡単に答えた。

 

「そうか」

 

 ネフライトは自然に応じた。

 ──私は。

 

「ならば良い試みだったのだろう」

 

 目を伏せてタイプライターで打ち出した文字を眺めるフリをした。

 

(どうして、君に『なぜ』を聞いてしまえないのだろうか?)

 

 ──分かっている。

 ──彼女を理解しきれないことを私自身が、認められないのだ。

 それでも。

 

「運営として幾ばくかの改善の余地があると感じる」

 

 想像していたよりも心は穏やかだ。

 薄く口を開き、小さく息を吐いた。彼と親しい人がいれば、それが彼なりの笑みだと分かるだろう。

 

 ルーナ・ラブグッドの存在とは。

 ネフライトが当初期待した通りのレイブンクローの平均的な生徒ではなかったが、彼女の突飛で想像の付かない『不可解さ』はネフライトにとって不明瞭を受容する必要性を強く意識させた。

 何もかもを解体できると自負していた。覚悟もあった。異常と冒涜の末子には相応しい道だろうと思う。なのに、彼女と話していると『そこにあるだけの不思議』が存在しても「まぁ、いいか」。そう思うことがある。ネフライトは自分の心に発生したこの奇妙な許容範囲に未だ戸惑うことがある。

 

「しかし、全て未来の話だ。……そちらの段取りは、ゆっくりやろう」

 

「そうだね」

 

「ああ、君の依頼は明日には提出できる。互助拝領機構杯決闘大会の詳細と雑誌の表紙用の舞台スケッチだ。朝一で父君にふくろうを送るといい」

 

「──ネフのパパってどんな人?」

 

「どうした、急に」

 

 ネフライトは家族の話をほとんどしない。

 彼と会話が成立する人が少ないという前提を置いても彼は、自分のことを極端に語らない性質だった。人の心の機微に聡いルーナは、自分が嫌う話題をわきまえているように見えていた。そのため彼女の唐突な、しかも私事に踏み込んだ質問にネフライトは少々面食らった。

 

「自分のパパが嫌いなの? 父親の話になると声が低くなるもン」

 

「嫌いではない」

 

 誤解されることは耐えられないため、ネフライトは答えた。

 

「大切な、とても大切な、私の父だ」

 

「じゃあ仲が良くないの?」

 

「『きょうだい』がいる。私より可愛げのある者の方が多い。それでも私が一番優秀だから」

 

 整理されていない言葉を発してしまったことに気付き、ネフライトは「失言」と呟いた。

 

「仲は良い。君の心配することは何もない」

 

「会ってみたいな」

 

「会わないことで充実する人生がある。……忘れることだ」

 

 ネフライトは、父たる狩人のことが大切で好きだったが、『きょうだい』の誰よりも大きな恐れを抱いていた。その『恐れ』とは、恐れ敬う、いわゆる畏敬の念を越えた恐怖を感じてしまうのだ。

 

(しかし、私の前に立った『まね妖怪』はお父様には変わらなかった。私の恐怖は、お父様よりも学派の未来にあるのは……なぜ)

 

 ネフライトは、それから無心に手を動かした。

 もしも、彼がルーナと同じように夜の校庭を眺めていれば、あるいは、気付けただろうか。闇のなか闊歩する黒い犬の存在に。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 一週間後の夕方。

 イギリス某所。

 魔法省にもホグワーツには及ばないものの赤と緑の色が増え、空間全体にクリスマスのムードが漂っていた。省庁内のあちこちで光り輝いているのは温度のない雪だ。賃上げ要求のためここ数日間大雪が降り続いており、早めの連休を取った魔法使いや魔女の席にはこんもりとした山が出来上がっている。その上には何通かの庁内連絡用の紙飛行機が不時着しており、ときおり寒さに身震いするようにそれらはカサカサと音を立てている。

 

 さて。そんな魔法省は就業時間が終了した。

 ぞろぞろと定時で帰って行く魔女や魔法使いの群れに逆行する男性がいる。樫の木で作られた『魔法生物規制管理部』の案内板──それは組木で作られた精巧な火蟹だ──の下の通路を闊歩しているのは、ロンの父親、ウィーズリー氏だ。小脇には一冊のタブロイド判の雑誌を抱えている。

 

「エイモス。──やぁ、いまちょっといいかな」

 

 二人の同僚とコーヒー片手に談笑していた褐色のゴワゴワした顎髭の男性が「やぁやぁ、アーサー!」と気の良い返事をした。彼はセドリックの父、エイモス・ディゴリーだった。

 

「わたしもちょうどアーサーと話したいところだったんだ。──来年のアレ。いよいよ席数の計算が済んだそうでね。ルドビッチ・バグマンがあちこちで『お漏らし』をしている。ああ、もちろん情報をね」

 

「なんだって? 勝負は春だと思っていたが、まさか……」

 

「年始にも情報戦が始まりそうだ。相場はペアチケットで金貨一袋はカタいぞ! しかし穴場は最上階だとか」

 

「最上階? 真っ先になくなりそうな席が、そりゃまたどうして穴場に?」

 

「昨年、国際クィディッチ協会が競技場の規格を改正したらしい。それで今回は天井を作らない設計になっている。つまり──」

 

「雨が降ればびしょ濡れということか。……なるほど。見晴らしは最高だが穴場になるワケだ。来年の天気なんて神秘部の予測も外しがちだし……でも好機なのかもしれないな」

 

「検討の価値は大アリだ。もっとも、まだ争奪戦は始まったばかりだ。雨に当たらない席を先に相談してみてもいいと思うがね。わたしの用件はこのくらいだ。それで、アーサーは? また違法に改造された火を吹くアカギツネが山火事を起こしたとか、マグルが魔法のかかった水玉模様の傘を開いたら大嵐が起きたとか、フランスから輸入された違法トースターがエスカルゴの養殖器になっていたとか……そんな事件絡みかね?」

 

 まだオフィスに留まっていた同僚二人がギクリとして身動きを止めた。もし、厄介事がやって来たのなら彼らは対処する必要がある。それにエイモスがまだいるのに部下の彼らが率先して帰ることは難しいのだ。

 ウィーズリー氏は安心させるように「やや、違うよ」と手を振り、抱えていたタブロイド判の雑誌を見せた。

 

「ぜひ、見たがるんじゃないかと思ってね。──あっ。ひょっとして、見たかね? 今月の『ザ・クィブラー』」

 

「『ザ・クィブラー』? しわしわ角スノーカックの目撃情報でも? 『ザ・クィブラー』を真に受けた読者からの手紙で春先は対応に追われたものだ。もっとも、あれの特徴はどこからどう見てもアフリカに生息する大型魔法生物のエルンペントの角だと全部に返信してやったがね」

 

「しわしわ角スノーカックのことではないさ。あなたの息子、セドリックのことが書いてあってね──」

 

「『ザ・クィブラー』に!? なんてこった!? ──アッ!」

 

 エイモスが慌ててカップを置いたので溢れたコーヒーが、机上の書類を焦げ茶色に染めた。同僚の一人が心配と好奇心のある半々な顔で寄ってきた。もう一人は奥から濡らした布巾を持ってやって来た。

 

「ジョゼフ、ありがとう。うっかり勢いを付けすぎた。……アーサー! セ、セドが載ってるって?」

 

「そのセドリックから聞いてご存じかもしれないが、クリスマス休暇に入る二週間ほど前にホグワーツで決闘大会があったらしくてね。これはその特集号だ。ウチの子が知り合いから仕入れて送ってくれたんだが、あなたも見たがるんじゃないかと──」

 

 アーサーは、コーヒーを片付け終わったエイモスの机に『ザ・クィブラー』を広げた。表紙は、ホグワーツに通っていた生徒ならば何度も見た大広間、そして見慣れない決闘用の舞台が設置されている風景画だ。その絵の上には、可愛げのないブロック体で『ザ・クィブラー12月号~ホグワーツ大決闘大会開催特集!~』と書いている。

 

「ホグワーツだ! おお、懐かしいな!」

 

 ジョゼフと呼ばれた若い部下もウンウンと頷いた。

 

「これまでに見かけた『ザ・クィブラー』のなかで最もまともな表紙だ……」

 

「表紙デザインは生徒の寄稿だと裏表紙に書いてあった。──おっと、本題はこっち。優勝者インタビューの記事だ」

 

 インタビューは写真付きだった。セドリックとハリーが肩を組んで杖を掲げている。そしてカメラの向こうにポーズを決めたかと思うと二人は向き合って固い握手を交わした。

 

「なになに? 互助拝領機構杯決闘大会とは十六チーム、三十二人が争う決闘大会である。セドリック・ディゴリーとハリー・ポッターペアは決勝戦でパーシー・ウィーズリーとアストリア・グリーングラスペアに打ち勝ち、初優勝!?」

 

「エイモスの息子がハリー・ポッターと優勝!? おお、スゴいじゃないか! めでたい!」

 

 同僚とアーサーの目は、エイモスの机の上で辛うじてコーヒーの被害を免れた彼の家族写真を見ていた。精悍な顔付きの青年こそがセドリックだろう。動く写真のなかで両親の間に立ち、はにかんだ笑顔を浮かべている。

 それ以上に嬉しそうに体を揺すり笑ったのはエイモスだ。

 

「ウチの息子……! 本当に自慢でね。わたしにとっては宝物みたいなものさ……! この前のクィディッチでハリー・ポッターを負かしたと思ったら、今度は一緒に優勝だなんて!」

 

「あ、ここ! 先生、フリットウィック先生のインタビューが載ってますよ! 優勝ペアの評価と講評……なになに……。『これまでの成績や授業でも明白でしたが、ミスター・ディゴリーの堅実な杖さばきには多くの生徒が見習うことがあるでしょう。やや守りに入る癖があります。ともすれば防戦一方に追い込まれやすいでしょう。思い切って踏み込んでも負けない実力があるハズです。ミスター・ポッターはムラがありますが、ここぞというときの勇気、そして好機をモノにできる能力は希有なものです。「武装解除呪文」だけでなく他の呪文を使いこなせるようになれば更に手強くなるでしょう。』──おお! 大絶賛じゃあないですか!」

 

「アーサー、この雑誌、譲ってくれないかね? 妻にも見せたくて。今回はどうやら不適切な魔法を掛けられた『ぱふぱふ・パフスケイン』なんて載っていないようだし……」

 

「ああ、構わないよ。きっとまだ残部があるだろう」

 

「ホグワーツか。いいよなぁ。そういえば来年の例のアレの件で『国際魔法協力部』が動いているんでしょう? ダンブルドア校長がしょっちゅう魔法省に出入りしていてバーティ・クラウチとバグマンと話をしているとか──」

 

「公式発表はまだだろう?」

 

「そうですが、是非見に行きたいものですね。──もし、復活したら伝説的なイベントになるでしょう?」

 

 未来のイベントで盛り上がる同僚二人のそばでウィーズリー氏は「さて」と手のひらをすりあわせた。

 

「私はこれで。奥様によろしく」

 

「アーサー、ありがとう。あとでお礼をするとも」 

 

 ウィーズリー氏が立ち去るとエイモスと同僚達は腰を据えて特集ページを読み始めた。

 

 




忘却
忘れ去ること。
ネフライト・メンシスは四仔のなかで唯一、忘却を知らない。
忘却により時間の経過を測ることは出来ず、誕生してから現在までの記憶は全て関連している。
何もかも必然だ。

──遠い未来の君は私と出会った日のことを思い出すかもしれない。
──君が私を忘れることはどうとも思わないのに。
──私にそんな瞬間が訪れないことを思えば不思議と苛立たしい気分になるのだ。

それでも「まぁ、いいか」と受け入れることが出来たのならば。
彼の父はそれを祝福するだろう。


決勝戦
 ここを決勝戦とする──!
 パーシーの首席は、輝く場面があれば、輝く実力があるのではないかと常々筆者は思っています。他寮の生徒で首席を警戒するセドリックは正しい反応だったのでしょう。セドリックとハリーは仲良くなりました。──いいね!


チョコレートむしゃむしゃネフライト
 生まれてこの方約三年分くらいの発語を数時間で行ったので、やや精神的に疲れてきました。また、「お父様、決闘大会でヤーナム勢は全滅しましたが私は元気です」という状況なのでどうやって(テルミ以外の)落ち度の少ない作文をするかも考えています。明日の彼は顔面筋肉痛。特効薬はバタービールだそうです。
 忘却テキストは、彼の繊細で情熱的な一面が書けたので好きな文章になりました。昨年、「手に入らないのならめちゃくちゃにしてやりたい。くらえ、ほうずき」と言っていた人物と同一人物です。「まぁ、いいか」の精神は大事だとSF・ゲールマンの幽霊を見たり見なかったりするピグマリオンも鎮静剤と同じくらい大事だと言っていました。──まぁ、いいか。肩の力が抜ける言葉です。


ザ・クィブラー
 セドリックのパパことエイモス・ディゴリー。愛する息子が魔法界でも信憑性が……その……うん……という雑誌に載ったことで口から胃袋が出るところでした。内容は、何だかまともっぽいインタビュー記事が載っていたので彼らは二重に驚きました。
 大広間スケッチはネフライト。写真はコリン・クリービー。記事作成はネフライトでお送りします。コリン・クリービーのお財布がバイト代で温かくなりました。クルックスに頼んで家にいる弟に送る用のお菓子を買って来てもらうことでしょう。
 ぱふぱふ・パフスケインって何だよ(発狂)


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風聞は歌う

風聞
ほのかに伝え聞き、かすかに聞こえる噂。
一律そして一斉に情報を伝える機会が少ない魔法界において、風聞は多く囁かれる。


しかし、忘れてはいけない。
本当に大切なことは言葉の外にある。
せいぜい踊らされぬことだ。



 

 第一回互助拝領機構杯決闘大会は幕を閉じ、クリスマス休暇までの数週間が始まった。

 

 冬の寒さもシリウス・ブラックの不穏な事件も陰を潜める、明るく楽しい日々だった。こうした日々のなかにいるクルックスは、しばしば父の望んだ平穏を考えた。視界のどこかに笑っている人がいる。それは彼にとって概ね理想的な世界だと考えたからだ。

 クルックスは、行く先々の教室で決闘大会の結果を話している生徒に出会ったし、何人かはハリーやセドリックを見ては興味を惹かれた顔で会話内容に耳を澄ませていた。彼らにとってお互いに関心を抱く出来事となり、楽しく、そして有意な体験となったことに違いない。

 主宰、ネフライト・メンシスの評判は開催前と比べてほんのすこしだけ良くなった。『勉強が出来るだけの頭がおかしい奴』と思われていたが、最近では『勉強が出来て決闘も出来るが、それ以外はおかしい奴』という認識がされているようだった。当の本人は、そんな評判をちっとも気に懸けていないだろうけれど。

 

 

 学期の最後の週末にホグズミード行が許された。

 グリフィンドールにおいてハリー以外の学生は大喜びした。ホグズミードは、クリスマス・ショッピングを済ませるには十分であったし、学期末における自分へのご褒美として大いに歓迎されたのだ。

 ホグズミード行きの土曜日の朝、クルックスはゆっくりと朝食を摂っているセラフィのもとにやって来た。

 

「おはよう、セラフィ」

 

「おはよう、クルックス」

 

 ぎこちない挨拶を交わす。

『おはよう』とは。

 彼らにとってまだ親しみが薄く言い慣れない言葉だった。

 

「これから俺はホグズミードに行くが、何か欲しい物はあるか?」

 

「特にないな。楽しんでくるといい」

 

「ああ。今日の君は急ぎの用事もない。休むといい」

 

「そうだね。お茶会の段取りも考えなければならないし」

 

「お、おお、そう、だな」

 

 セラフィのお茶会の話は出来るだけ避けたいクルックスは、頷きながら素早く後退し、やがてその場を後にした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 数日前、クルックスはふくろう便で初めて手紙を受け取った。

 差出人は、ハニーデュークスだ。

 彼が求めたのは、ハニーデュークスにおいて日頃は取り扱いのない、非魔法族用の『ごく普通の蜂蜜』だった。十月三十一日、ハロウィーンの日に初めてハニーデュークスの店を訪れた際に交渉し、取り寄せてもらえることになった。

 クリスマス前に届いたのは幸いなことだ。

 クルックスは、夏休みにレオーに蜂蜜を送る約束をしたことを忘れてはいなかった。以前、セラフィに話した時は「君からの贈り物ならばとても大切に楽しみ下さるだろう」と言っていた。

 

 狩人の外套を着込み、首には一昨年クリスマス・プレゼントとしてもらったマフラーを巻いてクルックスは、ホグズミード、そしてハニーデュークスにやって来た。

 

「──はいはい、ハントさん。注文の蜂蜜ね。これと、ああ、そうそうヌガーも併せていかが? 新製品よ」

 

「ではそれも付けてくれ。……ふふ」

 

 会計を行うテーブルに置かれた蜂蜜入りの大瓶は、クルックスが片腕で抱えるほどの大瓶だった。一〇キロはあるだろう。自然の甘味は、彼にとっても好ましい味覚の一つだ。甘味の重量は幸福に比例する。自分で消費する分ではないが、思わず顔がにやけてしまった。

 

「んんっ、すまない」

 

 笑っている場合ではないと思い出し、ガリオン金貨を納めている皮の巾着を取り出して支払いを済ませた。

 

「ありがとう。きっと来年も頼むことになるだろう。よろしくお願いする」

 

 店員から快い返事をもらったクルックスは、店の出口に向かった。

 両手で蜂蜜の大瓶を抱える今は、たとえ吸魂鬼の間近を歩いても精神の不調が起きることはないだろうと思えた。

 

(レオー様は喜んで下さるだろうか)

 

 父たる狩人には、一足先に『レイブンクローの髪飾り』を送ったので、クリスマスにはヌガーを贈ろうと思う。

 幸せな空想に耽りながら『異常な味』と書かれた看板の下を通ったところでロンとハーマイオニーを見かけた。挨拶をしようと足を向けたときだ。彼らは何かに熱中しているようだった。

 

「──、──!」

 

 クルックスは、その場で縫い付けられたかのように足を止めた。

 

(いま、ハリーの声が聞こえた)

 

 人混みに紛れる、似た人の声ではない。ハリー・ポッターの声だった。

 クルックスは、よく観察した。端から見ればロンとハーマイオニーが熱心に商品について話し込んでいる様子に見える。だが、よくよく見れば、そこにはちょうど人が一人存在できる空間があった。

 

(透明マントか。……しかし、どうやって。ホグズミードまでの道は全て吸魂鬼が見張っているのでは……? いいや、そもそも、俺が口出しすべきことではないが……)

 

 今日この頃、人々のなかで話題の大きなタネであるシリウス・ブラック脱獄事件においてハリー・ポッターとの因縁は公然の秘密と呼べる状態である。

 そのことを知ったのは、テルミが仕入れてきた噂話だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ある夜に行われた学習会と『きょうだい』会議において。

 

「嗚呼、シリウス・ブラック!」

 

 テルミは、歌うように声を弾ませ、細くしなやかな指を伸ばした。

 

「その男の正体は、ハリー・ポッターの両親に最も近しい人物の一人!」

 

 大袈裟で仰々しく、そして感情的にテルミは続ける。

 小さな劇を見入るようにクルックスとセラフィが彼女を眺める傍ら、ネフライトは「磯臭い演技だ」と愚痴って舌打ちをした。

 

「恐怖を前にした時の友情とは、なんと浅く、脆く、悍ましいことでしょう!? 決して秘密を口外しない限り、破れないハズのポッター夫妻の秘密は、なんとブラック自身の手によってヴォルデモートに渡ってしまったのでした!」

 

「それは大変だ」

 

 セラフィはあっさり言うが、実際に大変な出来事であっただろう。

 ヴォルデモートが何のためにポッター夫妻を付け狙っていたのか知らないが、この情報が夫妻の致命となり、更にはハリーの不運が決定づけられた出来事となったことは想像に難くない。

 

「ヴォルデモートは、ウキウキの足取りでさっそく情報のあったポッター夫妻のお宅へ杖を片手に突撃アバダケダブラ! そしてポッター夫妻をあっさり殺害することに成功し、悪の趨勢は最早とまることなしと思われました。嗚呼、魔法界の未来の明るいことこの上なし!」

 

「でも、ハリーに返り討ちにあったのだろう?」

 

 クルックスの声にテルミはくるりと体の向きを変えた。

 

「──ねぇ、お話のネタを奪わないで下さる?」

 

「むむ、すまない。無粋な真似をしてしまった。続けて欲しい」

 

「ええ。そう、貴方の言うとおり。なぜか結果は返り討ち! 哀れヴォルデモートは滅ぼされ、歴史の闇に沈んだのでありました。ヴォルデモート亡き後、世間は事後処理が始まります。──さぁ、飲めや歌え騒げや楽し、粛正のお時間です」

 

 意味が分からずクルックスはセラフィとそろって顔を顰めた。

 

「『アイツはオレの娘を殺したぞ!』、『いいや、私は操られていただけだ!』──金貨が飛び交い、有罪を無罪に塗り替える! いまや司法は無法と手を組んだ! 家財の全てを質に入れろ! 娘は底値で売り飛ばせ! もう金が出せないヤツの杖を折れ! 死人に口なし、生者は語る! 紙面一覧の死喰い人! 無罪と無知を切に訴え、語る言葉は『実は私も被害者だ!』 透明な無実だけが墓の下!」

 

 テルミは声音を高く低く変え、早口でまくし立てた。

 勢いに呑まれクルックスは固唾を飲んで見つめた。

 

「さぁさぁ、弾劾だ! 指を差される前に、指を差せ! 不都合はもみ消せ、取り消せ、許されざる呪文の味はいかがか! 恥をかかせて貶めろ! 勢い余って殺してしまえ! 裏切り者なら草の根分けて探し出せ! 探し出したら殺してしまえ! 釈明の語彙が尽きた者からアズカバンに放り込めよ! 悪党に裁判をかける慈悲などあるものか! 女はやれんが、吸魂鬼の『キス』がお前を絶頂に連れて逝くぞ!」

 

 狂乱の時代があったのだとクルックスは呆気にとられて小歌を受け止めた。

 

「そんなこんなのお調子で。復讐の大義に限りはなく、無論、ブラックにも捜索の手が伸びました。しかし、そこは栄えある純血ブラック家の長男、狂信的なヴォルデモート信者の彼は、追い詰められたことを悟り、最後の足掻きとばかりに周辺を爆破! 魔法使い一人と十二人の非魔法族の尊い命を奪い、結局、お縄になったのです。そして、十二年後の今、彼は脱獄してきたのでした。彼は『ハリー・ポッターさえ殺せば』、その一念でしょうか。あぁ、狂信者って怖いですね。戸締まりしないと。……そして、現在に至るのです」

 

 嵐のような情報を受け止め、クルックスはそれからしばしば考え込んだ。

 

「ふむ。……たいていのことには対処できるから特に情報収集をしていなかったけれど、いきなり爆殺されるのは困るな」

 

「セラフィ、過信癖はいつか君自身を陥れるぞ。……情報を思考の机上から捨てることは簡単だ。しかし、得るのは難しい。機会があるのならば私達は常に目を向け、耳を澄ますべきだ。だいたい──今さら言うべきことではないが、君のために言うとしよう──私の記憶が正しければ、君は女王様に奏上する役割を持っていた気がするがね?」

 

「魔法界の汚点を話したくない気持ちが……驚くべきことに多少ある。『裏切り者』と言う言葉は、カインハーストにとって敏感な話題を触発してしまうかもしれない。判断が難しい」

 

 ネフライトは「ふーん」と鼻を鳴らした。

 クルックスは皮肉が飛んできたら止めようと考えていたが、意外なことに彼は頷いた。

 

「使用人としては良い気遣いだと思う。敏感な話題は、相手が触れない限り避けた方が無難だろう」

 

「ああ、僕にも痛覚がある」

 

「何の話をしているんだ?」

 

「心遣いと敏感な話題の話は、僕の痛覚と近い場所に存在する」

 

 ネフライトの目が「カインハーストは野蛮」と言っていた。

 実際、口のあたりがもごもごと動いたが、結局、音になって出てくることはなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 物思いから返ってきたクルックスは、気付かなかったフリをすべきかどうか迷った末、気付いたことにした。

 ロンとハーマイオニーに声を掛け、不自然に開いた空間に向かって声を掛けた。

 

「誰にも口外しないが、気付く者はこうして気付くのだ。ならば、気を付けるべきではないのか? 誰よりも君自身が」

 

 ああ、言ってしまった。

 内心がジリジリと焦げ付くような感覚に急かされて、クルックスは彼らの反応を待たずにハニーデュークスを飛び出した。

 ──言えば少々の後悔がつきまとうが、言わずに後悔するよりはマシだろう。

 ハリー・ポッターの安全を天秤にかければ、自分が感じる後悔などたかが知れているのだと彼は何度も言い聞かせた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 白く吹雪く世界は、あっという間に真っ黒な姿を斑に染めてしまった。

 今回ばかりは、ロンも「なに言ってんだ? あいつ」なんてことは言わなかった。誰のために厳重な警備が敷かれているのか彼らはもう知っていたからだ。しばしの沈黙を挟み、彼は鼻の上を掻いた。そして。

 

「あれを見ろよ」

 

『魔法省よりのお達し』と書かれた紙が、ドアの内側に貼り付けてあった。

 内容は、吸魂鬼が毎晩ホグズミードをパトロールするという内容だった。文書の最後の言葉は『メリー・クリスマス!』で締められているが、ホグズミードの住民にとってはこんなに胸の悪くなるプレゼントもないだろう。

 しかし、ハリー達にとって特別な意味を持つものだった。

 

「吸魂鬼がこの村にわんさか集まるんだぜ。ハニーデュークス店の床下に秘密の通路があるからって押し入るなんてできるもんか。夜に来たってハニーデュークスのオーナーは物音に気付くだろう。だってみんな、この店の上に住んでいるんだ!」

 

 反論を考えているハーマイオニーにロンは窓の外を指して見せた。

 

「こんな時にハリーを見つけるのはブラックも大仕事だろうさ」

 

 外は、大雪が吹き荒れている。ハーマイオニーは曖昧に唸って唇を噛んだ。

 もう一押し、とばかりにハリーがマントをするりと脱いで笑いかけた。

 

「僕のこと、言いつける?」

 

「まあ──そんなことしないわよ。──でも、ハリー──」

 

 心配でどうしようもないが、彼女はそれ以上強硬に反対することはしなかった。

 ハーマイオニーが折れたので、ロンは勢いを取り戻した。

 

「いいじゃないか、ハーマイオニー。そろそろクリスマスだぜ。ハリーだって楽しまなきゃ! 賞金だってちょっとはあるんだ」

 

 さっそくハリーの腕を取って『フィフィ・フィズビー』の樽を見に行く二人をハーマイオニーは追いかけた。

 なんとなく振り返った先、猛吹雪のなかトリコーンを被った黒い人影がまだ見えるような気がした。

 

 それから間もなく彼らは、観光がてら暖を取るために立ち寄った『三本の箒』にて、クルックスがテルミから聞いた噂話より少々詳しく正確な話を聞くことになる。それは、テルミならば情報の重要性が低いと判断し他の『きょうだい』に十分に伝えなかった事柄であり、ハリーならば自分の人生の指針に影響を及ぼしかねない事実だった。

 

 ──シリウス・ブラックは、ハリーの父ジェームズ・ポッターの親友だが、夫妻を裏切り、ヴォルデモートに加担した。

 

 ハリーは知った。

『三本の箒』で魔法省大臣、ファッジとマクゴナガル、そしてハグリッドにより語られた、シリウス・ブラックと両親、そしてピーター・ペティグリューの存在を。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「セオドール、ぜひ君に聞きたいことがある。……出来れば、二人きりで」

 

 夕方、ホグズミードから帰って来るなり、こんなことを耳元で囁かれながら「では、そこの空き教室で待っているよ。来てくれるね、貴公」と念押しされて出向かないのは、いっそ不義理というものだろう。

 セオドールは、考えた。

 セラフィは、出来る限り使える駒として信頼関係を築いていかなければならない。そのために、これは必要なことなのだから。

 しかし、頭のどこかでは違うことも考えていて首のあたりがやけに熱かった。

 セラフィに限って、パンジー・パーキンソンがキャアキャアむせぶような色恋沙汰なんて起きようがないし、セオドールは自分の身の上に何事かが起きるとは考えられなかったし、そもそも彼女の言う『自分の設定』的にも矛盾した代物であるからして──ぐだぐだした思考をしつつ、何も整理がつかないうちに足は進み、空き教室は向こうからやって来たと思い違いしてしまうほどにあっさり到着してしまった。

 そこで。

 

「純血主義から見た、シリウス・ブラックが知りたい?」

 

 興味関心の全てが吹っ飛んでしまう話題を投げかけられたのでセオドールは、よろけながら椅子に座った。

 

「大広間で話す事柄ではないこと程度は、僕も理解が出来るのでこっそり空き教室で話そうと思ってね」

 

 セラフィも目線を合わせるために座った。

 ランタンに魔法の炎を閉じ込めて、お行儀良く手記まで開いている。白紙を見やり、セオドールはセラフィに向き直った。

 

「君は純血主義に賛同していなければ興味もないと思っていたが……宗旨替えでもしたのか?」

 

「まさか、僕は女王様一筋だ。先達のことも愛しているけれど」

 

「数秒で設定を矛盾するな。いいや、俺は別に、君の女王様とか先達とかどうでもいいが。……どうして知りたいんだ? 君が知りたがる情報には思えないが?」

 

「そんなことはない。むしろ君に聞くのは遅すぎるくらいだった。決闘大会ですっかり霞んでしまったが、ハロウィーンにシリウス・ブラックが校内をうろうろしていたのは確実な話だ。夜歩きで出会ったことはないが、念のためにもっと情報を仕入れておくべきだと思っている。──学び舎に狂人は必要ない。排除にあたり万全であるべきだと思い直した」

 

「断る」

 

 すぐに言葉が口を突いた理由を説明することは、難しい。

 

「なぜ? 対価が必要なのか?」

 

 必ず聞かれるであろう質問のため、セオドールはテーブルの上で指を組んだ。

 

「シリウス・ブラックの処分は魔法省が行うしホグワーツの守護はダンブルドアが行う。君は夜警らしいが、ここでも夜警することはないだろう」

 

「僕の仕事は場所を選ばない。夜警は、父から託された夜の安寧の祈り。そして、女王様が任じた名誉ある役目だ」

 

「設定の過信にも程がある。シリウス・ブラックがイカれているのは本当だろう。どんな手を使っているか分からないが、侵入してきたこと一つとっても君の手に余るだろう」

 

「…………」

 

 セラフィが黙り込んだ。

 しかし、この沈黙は納得した雰囲気のものではない。

 ランタンの炎に照らされたセラフィの横顔は、薄暗い視界のなかでぼんやりと白く見えた。

 

「大人しくしているんだ。じきに片付く」

 

 言い聞かせるためにセオドールは言った。

 

「…………」

 

 琥珀色の目が、静かに自分を見ていた。

 それは。

 視線の熱心さにも関わらず透明な壁の向こうに存在するかのように温度を感じさせないものだった。

 

「すこし良い心がけだと思う」

 

「なんだと?」

 

 何が彼女の心の琴線に触れたのか分からない。

 それでも『決定的にわかり合えないことが起きた』という実感があった。違和感の正体が知りたくてセオドールは「何が?」と質問を重ねた。

 

「今までの僕は使命で歩いていたが……この学校においては、守りたいものを守っていいことを思い出せた」

 

「は?」

 

「ありがとう。君と話せてよかった。情報は、やはり足で集めることにしよう──」

 

「待て、出歩くなと言っているんだ! どうして分からないんだ?」

 

「守ることは、必ずしも鍵の掛かった部屋にいることではない」

 

 話が通じていない、気がする。

 セオドールは、セラフィが手記を閉じ、ランタンを手に取ったのを見て「待て」と声を掛けた。

 

「寮へ戻って休むといい。夕食が終われば皆戻ってくる。──おやすみ。佳い夢を」

 

 セラフィはランタンの炎を消した。途端に視界は真っ暗になった。

 

「おいっ、待て、先生に言いつけるぞ」

 

 手記を抱えていた腕を取ろうと手を伸ばす。手は宙を掻いた。セオドールは驚いた。まだ、すぐそこにいるハズなのに。もう人の気配がしない。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 深夜の廊下を歩むセラフィは、ずっと考えていた。

 

 ──彼らにとって危険とは、必ずしも自分の頭上に降りかかってくるものではない。

 ──彼らにとって危険とは、大人が対処すべきものである。

 

 人々の間に揺蕩う共通認識とは素晴らしい。

 昨年のバジリスク騒動の時も感じていた疑問が氷解した。

 

 なぜ隣人は怯えるだけで抗おうとしないのか。

 解決の術を探さないのか。原因の排除を実施しないのか。

 

 全ての答えは『彼らは守られるべき子供であり、守る役割を負う大人が存在する』からだ。

 どの寮にとっても危険な不審者が現れて、ようやく得た気付きはセラフィの認識を劇的に変えた。

 

「そうか。ここはずっと昔から、とても幸せな時間に満ちていたのだね」

 

 誰かに、何かに、甘えられることは、幸せだ。

 何もかも委ねて、寄りかかることが出来るのは幸せだ。

 それを許してくれる人がいることが、何よりの幸せだ。

 その幸せを人は愛とも呼ぶだろう。

 

(どうして我が身から遠い幸せばかり綺麗に思えるのだろう)

 

 しかし、セラフィにはその『遠さ』を幸いに思った。

 彼らの幸福な時間を出来る限り大切にしたい、と心から思うのだ。

 ──たいていのことはどうでもいい。

 かつて言った言葉は、今日も変わらない。

 それでも、この日々がずっと続けばいいと思う。

 狩人の技術が彼らの平穏の役に立つのならば幸いだ。女王様も先達もセラフィに学徒であることを望むのならば、その平穏のために仕掛け武器をすこしばかり振るうことを咎めはしないだろう。学舎が血に塗れることも些細な問題だ。

 

 ここは、ホグワーツ。

 幸せの城。

 

 今夜の成果は何もない。それでも徒労だとは思わなかった。つまり、何も問題が起きていない。これはこれで幸せなことだろう。幸せな空間に自分が存在することが、セラフィにはすこし嬉しかった。

 





箸休め回
 いくつか重要そうな情報があった気もしますが、箸休め回です。


テルミの小歌
 風聞と脚色を含んだ内容です。
 せいぜい踊らされぬことだ。


守るよ
 家の中にいて震えて過ごす。そんな時間の過ごし方をセラフィは知らないため、有事があればいつも夜の見回りをしていました。けれど、それは異常な過ごし方であることにようやく気付くことが出来たようです。
「大人しくてしていれば、そのうち大人が片付けるから」と信じて委ねる。それは素敵な信頼の在り方で、理想的な社会の構造で、ひとつの愛の形なのでしょう。
 ──それでも僕は遠慮するよ。
 彼らの在り方を理解したからこそ、セラフィは夜に出掛けました。
 ほんのすこし前のセラフィであれば、出掛ける理由は「弱い彼らの仲間として存在する自分に耐えられなかった」からもしれません。ヤーナムに心を置いてきた彼女が「素敵で幸せな彼らを変えることはしたくなかったから」と思えたことは良い変化でしょう。とはいえ「自らに使われない優しさなど先達が聞けば快く思わないだろうか」とは狩人の言葉です。どこもかしこもまともな大人は希少なのだ……。


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休暇前夜


休暇
公の休み、余暇。
自由な時間をどう過ごすかは自由だ。
ゆえに人は、大切なものにこそ費やすのだろう。



 

「ひどいじゃないか。これまでずっと内緒だったなんて!」

 

 談話室に向かう途中の廊下。

 ロンが双子の兄たちに何事か非難している声が聞こえた。

 ウィーズリーの双子が騒がしいのは今に始まったことではないが、いつもからかわれるばかりのロンが噛みついているのは珍しい。

 クルックスは衣嚢から青い液体の入った小瓶を取り出した。ヤーナムにおいて『青い秘薬』と呼ばれるものだ。一息にグイと飲み干し、痺れるような感覚を堪える。身震いをしながら壁に身を寄せた。

 

「『忍びの地図』のことさ。ハリーにあげるなら僕にくれたってよかったのに!」

 

「ロニー坊やが、いつもお下がりは嫌だって言うからさ」

 

「必要なのはハリーだ。わかるだろ? ちょっとホグズミードに行くくらい構わないだろ。クリスマスだぜ」

 

「ハリーが必要なら僕からハリーに貸したよ。僕に秘密にしていたのにハリーには教えるなんて。弟なのにあんまりじゃないか!」

 

 双子はそろって「ふぅーん」と肩を竦めた。

 ──しょうがないだろ。

 彼らは、そんな顔をしているのだろう。クルックスは、ありありと思い浮かべることが出来る。ロンは二人の答えを待たず、肩を怒らせて談話室へ入っていった。

 これから双子の会話があるのではないかと思い、クルックスはそれからしばらく待っていたが、彼らは会話することなく去って行った。双子同士、話すまでもないことだったのかもしれない。

 

(嫉妬だろうか。それとも別の……? 兄弟は親しい仲であれ心砕くことが多く、大変なのだな……)

 

 クルックスは談話室に戻る気分になれず、薬効が切れるまで散歩しようと思った。

 回廊に飾られた絵画の人物たちは姿の見えない足音に気付く者もいる。彼らは顔を上げて左右を確認したが、足音の主の姿は見えないため、やがて不思議そうにブツブツと言った。

 

(俺は『きょうだい』の差異を妬むことはないが、容姿と性格ゆえにお父様から避けられているテルミなどは思うこともあるのだろうな。解決法……とはいえ、お父様を変えるのは難しいだろうな……)

 

 ならば、ならば、と。

 何となく首を回し考えているとスネイプ先生の研究室まで来てしまった。

 パチンと頭のなかで思考の泡が弾けた。

 

「あ。解決法ならば──そう──煎じれば良いのか」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 深夜。

 明日からはクリスマス休暇が始まる。

 そんな夜の談話室で夜更かしをする学生は、ごく少ない。もし、そんな生徒がいるとしたら帰宅の必要がない学生か、列車を心待ちにしていない学生か、居残る学生に付き合って夜更かしをする付き合いの良い人物に違いなかった。

 いいや、ここにひとつ。例外があった。

 談話室の最も奥まった席で五年生の男女がイチャイチャ──それはどこからどう見ても傍目も憚らないイチャイチャであった──をしている。

『余暇』という存在は、素晴らしい。

 心身のゆとりがあるからこそ人間は他者に寛容になれるのだ。セラフィは、休暇前の人々の挙動を学習している。

 

「アストリアー、まだ終わらないの?」

 

 セラフィの近くにある一人がけのソファーに座り、腕を組んだまま半分眠っていたダフネはカクンと頭を振ったついでに訊ねた。

 

「終わらないのです」

 

 暖炉のそばで必死にペンを走らせているのは彼女の妹、アストリアだ。

 その彼女がいまかかり切りになっているのは──。

 

「互助拝領機構が、そんなに熱心な活動を参加学生に強いているとは知らなかったわ」

 

「強いるとは誤解だ。自主性が何より大切だからね。アストリアが課題として取り上げている『四寮の理想的な生徒像の考察』は、とても興味深いものだ。組分け帽子にインタビューを決行したのも面白い着眼であると思う。なるほど、あの帽子ほど四寮の精神を理解しているモノはない」

 

「ダンブルドア校長が許可を出すとは思わなかったわ。スネイプ先生が取り次いでくれるとも思わなかった」

 

 思いつきを最後まで実行することはないだろうと思っていたダフネは、むにゃむにゃと口を動かした。だが、数十分の仮眠の効果で目は冴えを取り戻しつつあった。

 

「自主性を妨げることはしないのだろう。もっとも、断られたとしてもアストリアは──」

 

「夜警様に馴れ馴れしく呼ばれる筋合いは、あまりないようですけれど?」

 

 アストリアは、ぴしゃりと言った。

 彼女の羊皮紙を覗こうとしていたセラフィは「おやおや」と首を引っ込めた。

 互助拝領機構杯決闘大会以降、アストリアは自分に自信を持つようにしたらしい。

 

「アストリア嬢は、僕にお手厳しい。反面、校長室の合言葉は易しいと聞く。何にせよ、諦めることはしなかっただろう。僕のようなトカゲや蛇もどきとは違う。正真正銘のスリザリンの蛇だからね。獲物を見つけたら一直線だ」

 

「違うわ。ワニの心臓を串焼きにしている人と一緒と思われたくないだけよ」

 

「おや」

 

 アストリアは、やや引き気味の顔で暖炉のそばで作業するセラフィを見ていた。

 

「頑張っている君のために僕は夜食を用意してあげようと思っているのだが、どうか」

 

 衣嚢から取り出した串でワニの心臓を突き刺し、積み上げた本の上に串を置き、更にその本の上に別の本を重ねて肉と火の高さを調整した。その手つきは、妙に慣れている。

 

「これでよいだろう。火の調子からみて、ふむ、じっくり焼いて二十分」

 

「ダフネ姉さん。本当にこの人はダフネ姉さんのお友達なの?」

 

「そのハズなのだけど、最近は自信がなくなってきたわ」

 

「なんだい、我慢が出来ないのかな? 表面を削ぎながら食べていくのもよいだろう」

 

「やよ、そんなシュハスコ」

 

 組分け帽子のインタビューの内容を整理しているアストリアはそう言ったが、香ばしい匂いに目が泳いでいた。しかし、その後にセラフィが言う「いいね。爬虫類の心臓が焼ける匂いがする」とか「肉食性の生き物は草食性の生き物に比べて、美味しくないと聞くがこれはどうだろうね」とか「きちんと血抜きがされているようだ。ところで心臓の袋は三つしかなかった。人間は四つなのに。不思議だね」という感想にそのうち食欲の一切を削ぎ落とされた顔をした。

 

「姉さん、わたしはもう終わりますから」

 

 そう言った彼女はそれから、ぎりぎり二十分もかからない間に自分の走り書きのメモからレポートの草案を終えた。

 

「とっとっと。これでよし。──セラフィ、これ。忘れずにネフライト主宰に渡してね。返信は学校のフクロウを使ってわたしに送るのよ」

 

「承ろう」

 

 下級生の頼み事であっても二つ返事で、しかも見返りなく受け入れるのはスリザリンのなかで彼女しかいないだろうと思われた。

 

「熱心な生徒だとネフが喜ぶだろう」

 

 セラフィは薄く笑み応えた。

 互助拝領機構は、概ね盛況と言えた。皆がそれぞれの興味のあるものを題材に調査や発表のために資料を集めている。一年生や二年生であれば、題材についての本を読み、本それぞれの立場と内容をまとめることが出来れば上出来だと言ったのは互助拝領機構を主宰しているネフライトだ。実際に、一年生や二年生はそうした手法でレポートを作る者もいる。それをヨシとしなかったアストリアは、ネフライトと何度かの相談の上、現在の課題となったと聞く。

 

「切羽詰まっているワケではないでしょう? 休暇に入ってからでもよかったじゃない」

 

「でも、インタビューは今日してきたから今日のうちにまとめないと忘れちゃうわ」

 

「熱心なこと。あっちも熱心ね。何を課題にしているの?」

 

 小難しい顔をしたまま、力尽きたのだろう──寝落ちしていた男子生徒──セオドールが全身を震わせてソファーに座り直した。

 

「は──っ!? 階段から落ちたかと……」

 

「食べるかい?」

 

 セラフィは、ちょうどよい焼き加減になった肉を一口サイズに切り分けて、皿に並べセオドールに差し出した。

 

「ああ、ありがとう。……何の肉?」

 

「臭みがある」と言いかけたセオドールは微笑んだまま答えないセラフィを怪しみ、彼女の後方にいるダフネを見た。

 

「おい、食べちゃったぞ」

 

「ワニの心臓」

 

「な、る、ほどな」

 

「そんなに険しい顔をするほどだろうか。こんなに美味しいのに」

 

 噛みごたえがあるそれをセラフィはムニムニと食べた。

 飲み下すのに時間が掛かっているセオドールに対し、セラフィは対面の席に座った。

 

「ときに心臓は骨髄と等しく神秘が宿る気がする。病んだ臓器は貴重品だが……魔法界はどうか? 心臓について不思議な言い伝えはあるのだろうか?」

 

「心臓? 心臓ねぇ……。んん? 聞いたことは……」

 

「ないのか。心臓を食べると強くなるとかありそうなのに」

 

「父に聞いてみる。そんな魔法はなさそうだが」

 

 セラフィは「食べるかな?」とセオドールに皿をすすめたが「いらないかな」と断られた。

 

「美味しいのに。君は、美食家なのだね」

 

「そういうワケではないが……」

 

「──セオドール、私達は寝るわ。明日、汽車に乗り遅れても知らないわよ。セラフィ、貴女もそろそろ寝なさい。もう明日になってしまうわ」

 

「ああ、寝るとも」

 

 二人姉妹の姿は女子寮へ消え、セオドールも目をこすり荷物をまとめはじめた。

 セラフィは皿を持ったまま、寮を出て行こうとしたのでセオドールは声を掛けた。

 

「どこへいく」

 

「仕事だ。そういえば君は誰かに告げ口をしたのかな。スネイプ先生とは出会わないけれど」

 

「……言っていない。君の弱みを握っておくと後で役に立つかもしれないだろう?」

 

「フフフ、その考えはすこし愉快だ」

 

 セラフィは、衣嚢からトリコーンを取り出し、深く被ると鞄を持って夜の城内へ踏み出した。

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 はぁ。

 物憂げな溜息が小さな口から溢れた。

 

「どうしたの? テルミ」

 

 時刻は深夜に近付いている。

 欠伸をしながら六年生が女子寮へ歩いて行った。もうここには二人しかなかった。

 暖炉のチロチロした残り火を見ていたテルミは、数十分前まで友人達に囲まれ、気の早いクリスマスの挨拶を交わしていた。

 それらが全て終わった後。

 

「クリスマスとは、家族で過ごすのでしょう? スーザンのお家ではどうやって過ごすの?」

 

「どうって。それは……普通に家族で過ごすものよ」

 

 テルミは「それよ!」と言い、火の消えかかった暖炉の前で振り返った。

 

「家族と過ごすって……つまり、どういう感じなのかしら?」

 

「どういう感じって……美味しいものを食べて、一緒に過ごす……みたいな?」

 

 スーザンは、熱心なテルミの質問に困ってしまった。

 家族で過ごす。それは、同じ時間を共有することだ。それ以上のことは何があるだろう。まだ頭を悩ませているスーザンを見て、テルミが眉を寄せた。

 

「とてつもなく幸せってことがわかるわ。困ったわ。それしかわからないわね」

 

「ひょっとして……家族と仲が悪いの? 答えてくれなくてもいいけど」

 

 テルミは一拍の奇妙な沈黙を挟んだ。

 

「わたしは好きですよ。ええ。もちろん。でもお父様はわたしのことが苦手なの。『わたし』というか……小さい子が苦手なのよ。きっと小さくて弱くて可愛らしくて、踏みつぶしてしまいそうで怖いのね」

 

「そんなに巨大な父親……? まあ、半分くらい冗談としても。男の人なら年頃の子供に戸惑うこともあるんじゃない。私もパパのことは……うん……好きだけどママと一緒に料理する方が気楽だし……」

 

「ママ。ママですか。でも、ママはお父様のママですからね。わたしまで甘えるのは気が引けます。」

 

「それは、それは、そう、いや、違うと思う。パパのママは、ママで──えっ?」

 

「とにもかくにも、わたしとお父様は生まれた時からこの調子なのです。そろそろ我慢が出来なくなりそうです。でも嫌われることはしたくないですし……。はぁ」

 

「お手紙とか書いてみたら? ……他人行儀すぎるのかしら……そもそも……あ、ダメね、ダメダメ絶対ダメよ」

 

 スーザンは言ったものの、もしも、自分の父親に手紙を書くとしたら──想像したら恥ずかしくて何も浮かばなくなってしまい、急いで手を振って却下した。

 しかし。

 

「手紙……。何もしないよりはいいかもしれませんね……?」

 

 テルミは、しおしおとした顔で目を天井に向けた。考え事をすると彼女の目は、よく宙に浮かんだ。

 クリスマスで友人がいなくなると途端に彼女は寂しくなってしまうのだろう。それはたとえ、多くのクリスマス・プレゼントが届いたとしてもきっと消せるものではない。

 

「そんな『万策尽きた』って顔しないでよ……。ママに聞いてみようかな」

 

「参考にさせてもらいますね」

 

「あ、あまり期待しないでよ……」

 

 テルミが稀に見せる深刻な表情にスーザンは、ほんのすこし戸惑った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ワニの心臓。これは、とても爬虫類の心臓の味がする。心筋の味わい」

 

 夜の勉強会。それは『必要の部屋』で行われる。

 セラフィはクルックスと夜食のワニの心臓を食べていた。

 

「美味しい」

 

「ああ。かなり好きな部類だ」

 

「生気を感じる」

 

「ああ、分かる。実に分かるぞ。心臓。それは、きっと生命の味。野性味のある味が何とも本能を掻き立てる。俺達の『本能』とは一体何なのかという話題にもなりそうだが……。ああ、理屈なんてどうでもいいな。そんなことよりパンが欲しくなる」

 

「サンドウィッチに? いいかもしれない。今度、テルミに作ってもらおう。僕も手伝うだろう。料理を知っておきたいからね」

 

 二人の会話を半目で聞いていたテルミは、クルックスに「食べるか?」と言われ、差し出された皿を見て「遠慮します」と断った。

 

「ワニの心臓をリクエストされると困ってしまいますね。鶏肉でいかがでしょう。チキン・サンドウィッチということで」

 

 テルミの提案にネフライトも口を挟んだ。

 

「お茶会に出してはどうか。どうせ軽食を兼ねるのだ。食事としても構わないだろう」

 

「そういえば、今年のお茶会はどこで行うのか。諸賢、案はあるか?」

 

 昨年はスプラウト先生が管理するホグワーツの温室の一角を借りて行った。

 

「んー、この部屋でよいのではなくて?」

 

 テルミがくすぐるような声音で提案し、各々を見た。

 反対意見を述べたのはネフライトだ。

 

「学生の数が少ない日に、一見してどこにもいないように消えるのはよろしくない」

 

「どこかの空き教室でもよいだろうね。空気と景観が悪いので『魔法薬学』の教室は向かないだろう。『呪文学』の教室はどうか?」

 

「互助拝領機構の活動ですでに世話になっているのでこれ以上は……。ふむ。昨年のように温室のすみを借りるのはどうだろうか」

 

 昨年と同じ、という提案にまとまりかけた。テルミが両手を合わせて快諾した。

 

「わかりました。スプラウト先生に聞いてみますね」

 

「よろしく頼む。もし、断られたらその時は……。ふむ。この部屋の利用を検討だな」

 

 昨年も許されたのだから、クルックスの考えることにはならないだろう。──常に最悪のことを予想しようとするのは、彼らしいことだった。

 

「ん。美味しかった。さて宿題を始めよう。クリスマス休暇に宿題のことばかり考えたくはない。さぁ、諸賢。充実した休日にしよう」

 




ワニの心臓
 うまい。もう一個。


家族
 テルミにとって家族の話題は『きょうだい』のうち最も敏感な話題です。
 周囲で交わされるクリスマスの予定を聞いては、自分とお父様に置換して「ウフフ」と笑っていますが、想像供給にも限度があります。──猟……は知っている! けどスキーって何!?
 アウトドア、それも狩猟に関係するワードにはやけに詳しいテルミは存在する概念です。


ママ
 仔らを最初に取り上げた人形ちゃんが該当しますが、みんなお父様を気遣ってあまり甘えないようにしています。
 誰しも自称赤ちゃんからママを取り上げるのは……ちょっと、その……あれだし……と考えているようです。



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クリスマス休暇(上)


お茶の葉占い
占いの手法の一種。
飲み干した茶の残り物に魔法族は価値を見出した。
すなわち自らが為したことを占うのだ。



 クリスマス休暇の前日、宿題のレポートに着手したクルックスはそのまま『必要の部屋』の寝袋で短い仮眠をとった。

 夜明けの時刻が近付くとネフライトは早々に起き出し学派の装束に身を包み、昨夜まで使っていたポットを覗いては杖で叩いて温めた。

 

「休暇なのでヤハグルに戻る。その前にお茶を一杯。……ああ、朝食には間に合うように帰ってくるつもりだ。その後は図書館にいるだろう。宿題が終わったら内容を見てあげよう。指示したとおりに書いていけば、そうそうおかしなことにはならないだろうが……一応、な」

 

 彼は出涸らしの薄いお茶を一杯飲むと温かさに身震いした。彼の光に弱い目は眼鏡の奥でショボショボしていたが、ともかく彼はメンシスの檻を片手に『必要の部屋』を出ていった。

 続いて出ていったのはテルミだ。

 

「明日のお茶会の準備がありますので、わたしもそろそろ。ふあふあ~。失礼、欠伸が出ちゃったわ。お父様が気がかりにしている病み人の診察も今日したいところです。お先に失礼しますね」

 

 テルミは、医療教会の黒装束に着替えると眠そうな足取りで出ていった。

 クルックスは、次はセラフィだろうかと眠い目をこすり寝返りをうった。しかし、やがてクルックスは思い出す。セラフィは朝に弱いのだ。

 

「うーん……うーん……カインハーストに帰らないといけないのに……眠い……眠い……」

 

 彼女は寝袋のなかで丸くなっているらしい。

 クルックスも気分は分かるので無理に起こすことはしなかった。

 ネフライトが飲んだお茶の香りが、ゆっくりと時間をかけて部屋に満ちていく。茶の香りとは不思議なものだ。次第にクルックスも目が覚めてきた。

 

「休日の初日だ。カインハーストに帰るのは明日でもいいだろう。異教の祭日は、明日が本番なのだし……」

 

「でも、クルックスが用意してくれた、レオー様への贈り物を……それに明日は満月だ。シモンに会う、時間を作らないと……だから今日、カインハーストに行くよ……」

 

 明日は、満月なのか。

 クルックスは毎週一回の授業『天文学』を思い出した。二年生と三年生は天文のうち星座について学ぶため、授業では月にほとんど注意を払っていなかったのだが、クルックスは満月までの日数を数えていた。休暇前の騒ぎで浮かれてしまい、肝心の日数を忘れていたが、その日数はあと一日までカウントが進んでいたらしい。

 クルックスは気合いを入れて体を起こすとネフライトが置いていったポットを手に取った。幸い人肌の温度でちょうどいい。そのまま出涸らしを更に薄くしたお茶を淹れ、セラフィのそばに持っていった。

 

「ほら、飲むんだ」

 

「同じことを言った鴉羽の騎士様に雪や氷塊を食べさせられたのは、本当に身の凍るような思い出だよ。……グゥ」

 

 セラフィの上体を支えてカップを持たせた。首を傾げたまま眠そうに目を蕩けさせている。

 

「寝るな、寝るな、しっかりしろ」

 

「うん……これ、味が薄いね。そういうお茶なのかな」

 

「三度目か四度目のお茶だな。お茶会で素敵なお茶が出てくることを期待しよう」

 

「そうだね。うん……」

 

 眠気覚ましのハーブティーは、氷より効果があったようだ。セラフィは、カップを空けると寝袋から這い出ていた。

 

「眠いが……大丈夫だ」

 

「白湯ならある。温かいものを飲んで目を覚ますといい」

 

「ありがとう……。……。君、ときどきでも髪を下ろせばいいのに」

 

「え?」

 

 クルックスは、テーブルにカップを置いたままの姿勢で聞き返した。

 

「髪までお父様を真似することはないだろう。寝起きで髪を下ろしている君も素敵だ」

 

「あ、ああ……君にそんなことを言われるとは、何というか意外だ……」

 

 何と返答すべきか分からず、伝えた内心にクルックスは自分自身が戸惑った。

 セラフィはむにゃむにゃと口を動かしながら白湯を一口飲んだ。

 

「意外とは失言だろうね。僕は美と力を尊ぶカインハーストの騎士だ。身なりには気を遣っている。もっとも美とは、必ずしも外見の美しさとは限らない。しかし不思議なことに心の美しさとは、外見や仕草によく現れる。決して不可分ではないのだよ」

 

 クルックスは、寝癖で跳ねる髪を手櫛で後ろになで上げた。

 

「助言と受け取ろう。これはお父様の真似をしているのもあるが、一番は実用だな。トリコーンを被るときに髪が乱れると煩わしい」

 

「実用ならば仕方ない。僕も髪を二つに結んでみないかとレオー様によく勧められるのだが、重心が微妙に変わるとどうにも……」

 

 セラフィが白湯の水面をみて温かい思い出に浸っている間。

 クルックスは、辺りをみてどこからどうみても自分たち二人しかいないことを確認した。そしてセラフィは寝袋にいたときよりも目がしっかり開いていた。

 

「セラフィ、君がいる間に確認しておきたいことがある。俺もお父様に会いに行く予定だ。──シモンさんとは、あと何回会う予定だ?」

 

「……え? ああ、そうだな……」

 

 クルックスは、衝撃を受けた。

 セラフィは考え込んでいるが、その実、クルックスに質問されるまでまったく考えていなかったように見えたからだ。セラフィは、彼と会うのが楽しく思えているのではないだろうか。

 内臓に冷たい手が差し込まれたかのように腹の心地が悪くなった。何が悪いかは分からないが、何かが致命的によくない。そんな直感をした。そして不運なことにクルックスは、この種の勘がよく当たることを短い人生の間で知っていた。

 

「ふむ、今年度中は必要だろう」

 

「俺は今日、お父様に会ったら医療教会の窶しであるシモンさんが戻ってきていることをハッキリと伝えるつもりだ。もっとも、お父様はお気付きかもしれないが……念のため、念のためにな」

 

「……お父様は、シモンを排除するだろうか?」

 

「しないだろう。恐らく敵にさえならなければ。この場合、悪夢を暴こうとしなければ、という意味だが。──彼は、まだ『夢を見る狩人』を追っているのか?」

 

「そのようだ」

 

 クルックスは自分のカップに注いだ白湯を飲みながら、慎重にセラフィを窺った。顔色は、平時よりわずかに暗い。シモンの目的が見えた気がした。

 

「自らの死の原因となった謎を解いてしまいたいのか? それとも、今は彼こそが医療教会の刺客なのか? お父様が話をして白黒つけてしまうのが一番手っ取り早い。でも、ブラドーが殺してしまうのが先か……?」

 

 古狩人が戻ってくる状況は、狩人にとって幸いなこと──らしい。クルックスとて狩人の秘密を分かち合う人が増えればよいと思う。しかし、信条上の理由で敵になった場合、狩人はどうするのだろう。『殺さない』と言い切れないことがクルックスの決断を鈍らせた。

 

「……ダメだ。分からん。お父様に聞いてみよう」

 

「なんて?」

 

「『もし、夢から還った古狩人が敵対した場合、お父様はどうされますか』と」

 

「ほう。……返事は僕も知りたいところだ。しかし、まぁ、どんな返事だとしても僕の大切なものはカインハーストとお父様と君達だ。そのことは知っていてほしい」

 

 セラフィは、クルックスがシモンのことを狩人に伝えることに最後まで反対しなかった。

 奇妙な心細さにつきまとわれ、彼は朝食を待たずして狩人の夢に去った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 狩人の徴たる吊り下げられた逆さまのルーンを思い浮かべ、クルックスは狩人の夢へと還った。

 狩人の夢。そこは、クルックスが生まれたときと何ら変わりのない静かな空間だ。白い花に囲われた小さな庭園に無数の墓碑が立ち並んでいた。

 父たる狩人は不在のように見える。聖杯の儀式を行う祭壇を横目に彼は古工房を目指した。

 

「人形ちゃん、クルックスだ。いま帰った──」

 

 念のため、大きな声を上げて古工房の小屋に入ったクルックスは、そこに人形がいるのを見た。

 セラフィと同じ顔をした、彼女より背が高い人形は彼の足音を聞いて振り返った。

 

「小さな狩人様、お帰りなさいませ」

 

 陶器の体を微かに軋ませ、人形はゆらりゆらりと上体を傾げながら小屋のなかを歩いているようだった。両手に黒くて細長い軟体生物を抱えている。その軟体生物はクルックスの姿を捉えるなり、伸ばしていた触手をキュッと縮めた。

 

「ああ、お父様がいらっしゃるのなら話が早い」

 

 クルックスの認識は、正しい。

 細長く、しかもぬめりけのありそうな地球上に存在し得ない軟体生物こそ「お父様」と慕う狩人の、もう一つの姿である。長い夜の末、遂に夜を明かした者は人間のままではいられなかったのだろう。クルックスにとっては自分の存在を生み出した不思議な存在であり、正直に語るならば、やや恐れていている。人間の姿の狩人の方が好きだった。

 

「人形ちゃん、お父様にお話があるのですが……」

 

「あ。狩人様は、留守、です」

 

 人形が自己主張少なげに言った言葉にクルックスは繰り返してしまった。

 

「る、留守!?」

 

 クルックスは人形の端正な顔と彼女の腕のなかの上位者を交互に見た。

 では、人形の腕に抱かれている軟体生物もとい上位者は何だというのか。ネフライトであれば淡々と問い詰めていただろう。しかし、クルックスは人形の美しい輝きを持つ目が日頃にない動きで左右に彷徨う様子を見た。それを見てしまったら、どうしても問いかけることは出来なかった。

 

「狩人様は、留守、です」

 

 人形は繰り返した。

 

「え……え……?」

 

「これは……ただの……そう……ナメクジ……ナメクジです……」

 

 ──人形ちゃんがそんなに大切そうに抱きしめているのに?

 テルミならそう指摘しただろう。クルックスには、やはりとても出来なかった。

 

「……お、俺は、俺は何も見なかったのでもう一度ここに来る。一分もかからずに来るのでお父様にちゃんとお話しておいてくれ。人形ちゃん、猶予は一分だ。一分だからね?」

 

「はい」

 

 人形は平坦に答えた。クルックスは後退りして小屋を出て、一度ビルゲンワースの自室に現れ、そして再度狩人の夢に現れた。その途中で「ああ、俺は何をしているんだ」という気分になったが、父の行動に理由を求めてはいけないと自分に言い聞かせた。

 そしてやって来た狩人の夢、なるたけゆっくりと階段を登り、古工房の扉を叩くと「いいぞ」という狩人の聞き慣れた声が入室を許可した。

 

「失礼します。……お久しぶりです、お父様」

 

「ああ、クルックス。そうか、もうクリスマス休暇だったのか。うっかりしていた!」

 

 狩人は『ずっとこうしていました』とばかりに書きかけの手記を開いていた。そのためクルックスも『たった今、到着しました』とばかりに振る舞った。少なくとも所作はそうした。顔は取り繕えている自信がなかった。

 

「お父様は、お元気にされて……いたようで」

 

「私はいつでも好調だ。狩人はかくあるべきだからな。さて、学校はどうかな? ん? 今年くらいは何もない平穏な学校生活をしているのだろう」

 

 狩人はクルックスよりも楽しそうに微笑み、クルックスに椅子を勧めた。

 

「概ね順調です。学業は何とか、友人関係も……俺にしては、きっと、うまくいっていると思います。学校は一度、シリウス・ブラックの来訪を受けたようですが実害はなかったそうです」

 

「シリ……ブラ……? ああ、殺人鬼? まだ捕まっていないのか。しかし、なぜホグワーツに?」

 

「話すと長くなります。そのことは後でお話させてください」

 

「おや、君は俺に何か込み入った話があるらしい」

 

「はい。お父様の知るべきことを──」

 

 その時、小屋の奥で人形が狩人を呼ぶ声が聞こえた。

 クルックスは、きっとお茶を淹れる準備をしているのだろうと思い込んでいたが、何かを地面に落としてしまった音が聞こえた。

 

「狩人様、これはどちらに仕舞いますか」

 

「ん? アーッ! 持って来ちゃダメ!」

 

 クルックスは声に惹かれて視線を奥に向けたことを後悔した。目に飛び込んできたのは、ガトリングが両脇に設置された乳母車だった。狩人の手により改造された乳母車のなれの果てとも言えた。

 

「……お父様、お父様の工作を俺は何とも思いませんが、全然何とも思わないですが、カインハーストの納税は大丈夫なんですよね? 滞納した場合、俺がカインハーストに納品されるのを『まさか』とは思いますが、お忘れではないですよね?」

 

「忘れていない。忘れていないぞ。忘れるワケないだろう。だから人形ちゃん、あっち! あっちに仕舞おうね! 車椅子も!」

 

 狩人は手記を開いたまま、席を立ち、小屋の奥へ行ってしまった。待つ間、彼が細々した文字で綴っている手記をつい見ようとしてしまう自分を恥じた。クルックスは頭を振り、衣嚢から自分の手記を取り出した。

 

(お父様には、俺の話と合わせて、シモンさんのことを知っているブラドーからも聴取を促すべきだろう。あちらが秘匿している可能性がある──)

 

 もう何十回と繰り返した話の段取りを再度確認し、シモンの記述を追って手記をめくった。

 セラフィが『満月の日に会う約束をしている』と言ったのでクルックスの手記には満月の日付が書かれていた。そして、その日にあった出来事や課題の内容、締め切りが並ぶ。

 満月の日付を追っているとセラフィの用件とは異なる、けれど同じ内容が書かれていることに気付いた。

 

『ルーピン先生、授業を休む。代理スネイプ先生』

『ルーピン先生、授業を休む。自習のため宿題レポート作成』

『ルーピン先生、授業を休む。自習のため寝る』

 

 約一ヶ月に一度、ルーピン先生が丸一日授業を休み、学校でも見かけない日があることはクルックスも気付いていた。だが、それが──ひょっとしたら規則的なものかもしれないとは考えていなかった。彼は手記の今年の項から探した。

 

「満月の日と一致……して、いる……?」

 

『闇の魔術に対する防衛術』を欠席したルーピン先生の代わりにやって来たスネイプは、課題を出した。その課題には真剣に取り組んだ彼には、もう真実が見えていた。口にするには憚られ、認めるには時が足りない。だが、もう知っている。満月が影響する病があることを。──その病の罹患者は、魔法界に置いて『人狼』と呼ばれることを。

 

 ぐるぐると思考と一緒に体まで揺らいでいる感覚があった。

 なぜか。自分の大切な根幹が、ひどく脅かされている感覚に襲われている。

 言葉にするためには、時間が足りない。幼すぎるのだ。

 

 人狼、人狼、人狼──それは獣だろう。いいや、違う。人狼とは、人間と狼を行き来する存在だと聞く。

 ならばそれは人か、獣か。クルックスは自分の書いたレポートを必死で思い出した。そういえば、脱狼薬なるものがあると聞いた。スネイプ先生が言っていた。もし症状の発現を管理できるのならば、それは人間の病気の範疇としてもよいかもしれない。レポートでは未来の被害を防止するという観点で根絶やしを支持したが、ヤーナムとは違う。ヤーナムにおける罹患者の獣は今のところ不可逆な現象だが、魔法界の人狼は違う。ヤーナムとは違う。満月が終われば獣は人に戻る。ヤーナムとは違う。違う。違う。違う。違うのだ!

 気付くと息が苦しいほどに歯を食いしばっていた。

 

(同じ結果に見える似た症状だというのになぜ不可逆と可逆が、分かれてしまうのだろう? 何が違う? 人心が汚れているからか? ヤーナムが汚物だと? 人の淀みがより深く汚れているとでも?)

 

 どの理由も腹立たしく、認めがたい。正しい回答はこれから先、長い間、誰からも得られないだろうことが分かってしまった。そして、何よりも彼を苦しめたのはルーピンの人柄だった。ルーピンに虫の気配はない。むしろ病んで見える外見を除けば、連盟の見出す『虫』から縁遠い人物だと言えた。彼の人柄が善良であると自信を持って言えるからこそ、対するヤーナムの闇はいっそう際立つものだった。

 

(なぜ。どこから……。起源を。起源! そうだ、起源を知らなければ──)

 

 ヤーナムはその点、獣の病の原因が分かっている。

 実に簡単に言ってしまえば、上位者に由来する血を医療行為として人々に輸血したからだ。

 では、魔法界の人狼はなぜ発生したのだろうか。そこにもヤーナムと同じように上位者の影がちらついているのだろうか。

 

(いいや、そんな分析はネフやテルミに任せておくべきで……ルーピン先生が獣なんて、こんなことあってはならないのに……!)

 

 ネビルが言っていた名誉の負傷者だろうか。それとも生まれつきの……あるいは、あるいは……、

 いてもたってもいられなくなり、クルックスは立ち上がった。しかし一方で、シモンのことを狩人に伝えることは重大なことだった。突然に発生した重要な情報を二つ抱え、彼はその場で部屋を右往左往した。

 

「すまない。片付けに手間取ってしまった。車椅子が幅を取っている。収納箱に入れることも出来ない。格納方法を後で考えなければな。折りたたみとかどうだろう。検討だな。だが今は、さぁ、座りたまえ。お茶を淹れてあげよう。せっかく来たんだ。ビルゲンワースに行く前にゆっくり話をしよう」

 

 狩人が穏やかに笑う。

 クルックスは、どうしてゆっくりしていられるのか分からないくらいに焦っていた。小刻みに体を揺すり、手は一秒とて静止していない。常に曲げて伸ばしてを繰り返した。

 

「お父様、獣の病が管理できるものであれば狩人が狩りをする必要はあるのでしょうか?」

 

「君からその質問を受けるとは。最初にその質問をするのは、ネフだと思っていた。その答えを君は夏休みに見た。そして、俺はここにいる」

 

 狩人は、静かに述べた。

 その静けさにクルックスは耐えきれなかった。

 

「でも……でも獣は汚れています。連盟の使命は、汚物の内に隠れ蠢く虫を踏み潰すことです。俺は、いつでもそうありたいのです」

 

「連盟の長を思い出すことだ。旧市街が存命である状態にデュラさん達が存在する理由は実のところ薄い。連盟にとっては、だが。君が魔法界よりヤーナムの虫潰しを優先する理由と同じだ。管理されている獣がいるとして、野放しにされている獣よりどうして脅威になるだろう」

 

「……っ……」

 

 息を詰まらせたクルックスは、のろのろと椅子に座った。

 

「潔癖だな。俺の鼻は高くてこれ以上高くならないよ。誇らしい」

 

「誇らしい……? いいえ、俺は、ただの、中途半端なヤーナム野郎ではないですか……」

 

 捨て鉢に放った言葉を狩人は目を細めて拾い上げた。

 

「『中途半端なヤーナム野郎』ねえ。なかなかいい台詞だ。『間が悪い』と同じくらい俺はよく使いたい。俺自身にな」

 

「あっいえ、俺はっ、そんなつもりじゃ……」

 

 狩人は『全て分かっている』とでも言うように右手を挙げた。

 

「俺の助言に耳を傾けられるくらい知性があるのだ。何も悲しむべきではない。連盟の使命は、君の心の支えのひとつであるべきなのだ。それのみを信じて狂信に陥ることはないだろう。熱心なのは良いことだが」

 

「連盟の使命は、信じるに値するものです。それは、いつ、いかなる時も、どんな夜でも。しかし、俺はお父様のことも連盟と同じかそれ以上に信じているのです。だから、お父様が『まだ脅威ではない』と言うのであれば俺もそう思いたい……。管理されている脅威を今、狩るべきではないのなら、そう、することにします」

 

「それでいい。尽きぬ使命にも慈悲はある。ならば猶予もあるのだろう。そのうち君自身の答えが得られる時がくる。その時、いつか信じるものを狩りたまえ。……さて、これからは当分の話だ。私達の手足の数は限られている。向けるべきところに目を向け、振るべき場所で仕掛け武器を振るうべきだ。それが出来ていない俺が忙しくしているのを見れば、この言葉の正しさをきっと分かってくれるだろう」

 

 クルックスの目は、つい彼が先ほどまでゴソゴソしていた小屋の奥へと向かった。狩人が咳払いをしたのでクルックスは狩人を見つめた。

 

「ええ、はい、おっしゃるとおりです」

 

「それに今さらデュラさんと諍いになりたくないからな。古狩人だ。君も尊ぶといい」

 

 古狩人という言葉にクルックスは、大切な用事を思い出した。

 

「人狼の件は、お父様のおっしゃるとおりにします。──俺の別件なのですが、ブラドーさんとはお話していますか?」

 

「ブラドー? ああ、週に一度は必ず会っている。彼が何か?」

 

「では彼の獲物が誰なのか。ご存じですね?」

 

 ──ああ、もちろん。

 狩人の自信に満ちた返答を待つクルックスの頭上を──なぜか狩人は凝視していた。

 それから。

 

「…………いや?」

 

 振り絞った声で小さく呟いた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 二人の間に──クルックスにとっては生まれて初めて──重々しく気まずい沈黙が発生した。

 狩人の視線は次第にテーブルの焦げ付きに着地した。電光石火、彼はクルックスを見つめた。

 

「待て待て。俺にその質問をするということは、クルックスはブラドーが追っている人物を知っている、ということだな?」

 

「確証はありません。お父様がいない場において、俺はどちらにも会ったことがありません。そのため『本人確認をしていない』という意味ですが」

 

 頑なに古狩人の名前を言わないクルックスに対し、狩人はハッと息を呑んだ。

 

「ブラドーが追う人物なら心あたりがある。いいや、ブラドーがいる時点でもっと早くに気付いてもよかったのか。ああ、うっかりしていた。──シモンだな?」

 

 クルックスは、一度だけ首肯した。

 

「ああ、シモンが……そうか……そうか。だから君は市街をよく見るようにと俺に助言をして、今はブラドーのことを話したのか。……いやいや、俺が迂闊だったのか。もっと真面目に市街の再探索を行うべきだったな。見慣れた風景だから、きっと見落としてしまったのだろうな。ブラドーが追っているのなら、シモンも一カ所に定住していないだろう。すれ違いになったのか。その可能性もあるな……。情報ありがとう」

 

「それで……処遇は、どうするおつもりなのですか?」

 

「彼の目的次第だ。シモンは、また悪夢を終わらせようとしているのだろうか。争いたくはないが、私の都合もある。まだまだ夢は終わらない。終わらせない。もはや俺のヤーナムだ。さんざん振り回されたんだ。誰にも手出しはさせない」

 

 父の珍しい顔をクルックスは見つめた。縄張り意識にしては、爽やかで穏やかな剣呑だった。けれど問題だとは思わなかった。クルックスが大切に思うヤーナムをクルックス以上に大切に考えている狩人のことが、どうして問題に思えるだろう。

 

「それでも彼が悪夢を終わらせようとする場合は、どう、されるのですか。彼は、お父様を害することになるでしょう」

 

 この質問のためにクルックスが全身を緊張させているのを狩人は悟ったようだ。再びヒラヒラと右手を振り、『案じることはない』と伝えた。

 

「会ったら、話をしてみよう。ヤーナムがより良い状態になるための試行だ。理解してもらう。理解してもらえない場合は、私がブラドーの仕事を邪魔する理由が特になくなるな」

 

「それは……とても、お父様にとって悲しいことではないですか」

 

「そうだな。あんなに優しく、慈悲深い人を手にかけたくはない。狩人を哀れんでくれたのは、あの人だけだったからな」

 

 狩人はしみじみと言い、遠くを見つめた。

 

「……俺は、本当は、皆が……ただ生きていてくれたのなら、それだけでいいのだが……。きっと、そうはいかないのだろうな。あの人は正しく高潔だ。ああ、でも……」

 

 クルックスは狩人の顔が、うっそり綻ぶのを見た。

 

「追われるのも暴かれるのも久しぶりで、何だかゾクゾクする」

 

「お父様、遊ばないでください。シモンさんはきっと真剣ですよ」

 

「分かっている。分かっている」

 

「ホントかなぁ」

 

「ホント、ホント」

 

 軽く笑ってみせた狩人は、クルックスには存在しない奇妙な明るさがあった。

『楽観的』と呼ぶに相応しいそれは、狩人の素の性格に近いものだった。その楽観を何度うち砕かれたのか、クルックスはまだ知らない。しかし、その楽観がなければ気の滅入るようなヤーナムの歴史を血で編み直す作業は、到底なし得ないのだろう。狩人は、前向きだった。そう出来なければ生きていられなかったからだ。

 やがて楽しそうな雰囲気の何割かが感染したのだろう。

 

「お父様」

 

 クルックスも慎ましい微笑みを浮かべた。

 

「学校の話をしてくれ。そのシリウス・ブラックとやらがどうやって脱獄したのか、そろそろ分かった頃だろう。俺も成果を話そうと準備をしていてな」

 

 狩人がテーブルの上に置いてある紙の束をガサガサと探す間にクルックスはお茶を一口飲んだ。

 

「あ、そうだ。『レイブンクローの髪飾り』がありましたね。お父様の瞳ならば見えるものもあるのではないかと俺達はお送りしたワケですが、進捗いかがですか?」

 

「ダメかもだな」

 

「なるぼぶふっ? ダメ……かも? 『ダメかも』とは……なんです?」

 

「俺から最初に聞いておきたいんだが、あれって壊すとマズいものかな?」

 

 クルックスは、薄く口を開いたまま盛大にお茶を溢した。

 

「もう壊したんですか? も、もう?」

 

「いやいや、まだ壊れてないぞ?」

 

「本当ですか?」

 

「ああ。俺が墓碑に全力投球しても壊れなかった。見かけ以上に頑丈だな、あれは。呪いのせいかな」

 

 呪い。

 やっぱりあれは呪われていたのだ。

 クルックスは、自分の陥った不調を思い出した。

 

「お父様は何ともありませんか? 俺は、気分が悪くなりました」

 

「何ともないな。ああ、そうそう。ネフが髪飾りの由来を送ってくれた。……それからずっと『呪い』を掛けた主のあることを考えていた」

 

 呪いを掛けた者のことをヘレナ・レイブンクローは知っていた。

 なぜ知っていたのだろうか。

 最も簡単な推理をしてしまえば、ヘレナが手放した後、秘匿された髪飾りの在処を彼に教えた、ということが考えられた。

 しかし、宝物に呪いを掛けるだろうか。そう考えるとこれは間違っているのだろう。クルックスも考えたことだ。

 

「彼は、英知が必要なかったのだろう」

 

「それは『自分の方が賢いから』?」

 

「伝承のとおり賢くなれる代物ならば、自分に匹敵するかもしれない物を残そうとは思わないだろうな」

 

「賢さを求める人を欺こうとしたのかもしれません。次に被ろうとした人を罠にかけようと」

 

「それは効果的かもしれない。しかし、一方で自らを上回る魔法使いや魔女ならば呪いを解いてしまうかもしれない。その人物が髪飾りを被れば賢さではもう敵わないだろうな」

 

「あ、そうか。そんなことになるくらいならば壊してしまった方が確実ですね。では……ええと……髪飾りは、創設者の遺物です。恐らく魔法族には歴史的な価値がある物です」

 

「それに呪いを掛けてやろう、と思う人の動機は何か?」

 

「はい……だから……ええと……」

 

 クルックスが思いついたのは、二つの理由だ。

 ひとつ、歴史的遺物を穢してやろうという性格の悪いヤツ。

 ふたつ、遺物を冒涜することに快感を覚えるヤツ。

 二つの理由をひとつにまとめた結果。

 

「『見つけた記念に呪ってみた!』ですね?」

 

「君には俺と同じくらい墓暴きの才能がある」

 

 ヤーナムの歴史に詳しければ最大級の侮辱と捉えられる言葉だったが、クルックスは狩人の言葉を素直に受けとめ、照れた。

 

「そんな、いえ、お父様くらいなんて……! 俺は連盟がありますから……才能があるとしても……そんな……」

 

「同士が真面目で俺は鼻が高すぎるよ。──俺も真相は分からないが、いい考えだと思う。つまり彼は『自分のことしか考えていない』ということだからな。ある意味で分かりやすい存在だな」

 

 ふたりはお茶を一口飲んだ。

 カップの縁を指でなぞる狩人は、紅茶の水面を見ていた。

 

「壊すのはきっと簡単だ。けれど出来る限りの情報が欲しい。……髪飾りは上位者が呪ったワケではない。呪ったのも呪われるのも人間。人間の理解力の範囲の呪詛だ。俺達にも理解できるものだろう。何とか話すことができないかと思っている」

 

「話す? 自壊を促すおつもりですか?」

 

「まさか。呪いが最期に何を言い残すのか。そこから知ることのできる人格もあるだろう。……それに向こうも俺に興味があるような気がする。いったい何年放置されていたのか分からないが人肌、いいや、髪恋しくなっている頃だと思わないか」

 

「俺はお父様の髪がなくなるのは嫌ですよ」

 

「髪は、ものの喩えだ。呪いに実体を与えるようなものが必要だ。悪夢……空っぽの肉体……虚……。髪飾りに死体を与えても動かなかった。『生きている』ことが重要なのだ。空っぽの肉体。ヤーナムでも珍しい代物だ。……まぁ、こういうワケで壊すに壊せず収納庫に置いてある」

 

 空っぽの肉体。

 その言葉に思うことがあり、クルックスは椅子の上で佇まいを直した。

 

「そういえばお父様、俺達に魂はあるのですか?」

 

 クルックスは、マズいことを聞いたと直感した。

 なぜなら。

 

「……魂?」

 

 狩人は、まじまじとクルックスを見た。顔から指先まで舐めるように見つめた。

 

「魂があるのか?」

 

「あ、お父様が知らなければないのだと思います。ないとします。はい」

 

「待て待て。どうしたんだ? 魂? 魂!」

 

 キラキラした宝物を見つけたかのように狩人は目を輝かせた。

 

「学徒の方々と一緒に、お、俺の内臓をひっくり返しても見つからないと思いますよ」

 

「『魂はある』──信じることはよいことだ。そうか。それはいい。きっと匂い立つ魂なのだろうな。血の遺志ばかりではすこし寂しい。魂があるのならば、血に塗れていようとそれは素敵だ」

 

「俺は、お父様にもあると思います」

 

「俺にも?」

 

「俺にあるのなら、きっとお父様にもあると思いますから。それにあったら……素敵だと思うのです」

 

「素敵か。……そうだな」

 

 狩人は目を細めて笑った。

 それからは他愛ない話をした。

 ──新しい科目が始まった。授業の宿題が多い。『必要の部屋』という変わった部屋を見つけた。ホグズミードは素晴らしい村だ。

 

「『占い学』は面白そうだな」

 

「お茶の葉を習ったところです。見てみましょうか。ちょうど飲み終えましたようですね。左手でカップを持って三回ほど回して下さい」

 

「こうかな?」

 

 狩人は、くるくると回した。

 

「次は、たしかソーサーの上に伏せて水を切るんですよ」

 

「了解だ」

 

 カチャンと彼は勢いよくカップを伏せた。

 

「何だかスゴい。こんなお手軽な神秘があるなんてワクワクするな」

 

 クルックスは、狩人のニコニコした笑顔につられて思わずニコニコした。

 開いたカップを見て狩人は「茶色のふやけたのがいっぱいあるな」と言ったが、ニコニコは消えることはなかった。

 

「俺が、見てみましょう。これは、お父様は──」

 

 歪んだ十字架が大量に存在した。

 歪んだ十字架。お茶の葉の占いにおいて『試練と苦難が待ち受ける』という意味だ。

 それを正直に伝えてもいいものかどうか迷い、クルックスはたっぷり「うぅ」と唸った後で、お茶の葉の占いの授業の日、シビル・トレローニー先生が彼に伝えた内容と一句違わず同じことを言ってしまった。

 

「お父様は死ぬような目に何度も遭ったと思います。これからも大変なことになりますよ」

 

「なんだって!?」

 

 クリスマス休暇は、まだ始まったばかりだった。





ネフライトは早起き
 使用人生活が染み付いているので規則正しい生活をしています。誰よりも早く起きて暖炉を掃除し、火を入れ、水を汲み、お湯をわかして白湯をダミアーンの寝所に持っていくのが彼のヤーナムでの日常です。ホグワーツではそんなことをする必要がないため、時間ぎりぎりまで寝ています。誰の面倒もみなくてもいい生活は、自堕落を引き起こしつつあります。……どうせ私だけだし……。
 テルミとクルックスは、むにゃむにゃ言いながら周囲の生徒に併せて生活しています。食事は彼らにとって楽しみでもあります。それにしてもクルックスはときどき人相が悪くなりますが。セラフィはしばしば朝食を抜いて生活しています。……ねむ……。


アケチャン
 人形ちゃんの腕に抱かれてあやされていたのかもしれません。──俺は何も見ていないので。見ていないので分かりませんが。
 当初、狩人は「誰か来たら『これはクソザコナメクジで、お父様じゃありません』って言ってくれ」と人形ちゃんに頼んでいたのですがよくよく考えれば人形に「クソザコナメクジ」と言われるのは致命傷だったため、ただのナメクジになりました。バブー!(迫真)
 彼らは重要なことを話すことができました。獣のこと。使命のこと。シモンのこと。髪飾りのこと。戸惑うクルックスに指針を与えるのは、助言者のなせることなのでしょう。たとえそれが『待て』であったとしても


お茶の葉占い
 何一つ安心させることを占うことは出来ませんでした。
 しかし。狩人は思います。──何てこった。でもまあ騒ぐほどでもないか。


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クリスマス休暇(中)


クルックスの蜂蜜
ハニーデュークスから取り寄せた蜂蜜大瓶。
クルックスからセラフィに。そしてカインハーストの先達に渡った。
夏の日の思い出は、今も褪せることなく彼のなかで生きている。
……貴方の一時の歓びになれば、それは俺の幸い。……



 

 眠りは死の感覚と似て、深い眠りに落ちているとクルックスは稀に自分がどこにいるのか分からなくなってしまう。ここはビルゲンワースの学舎なのか。それとも狩人の夢か。あるいはホグワーツなのか。

 目を開いてからしばらく天井を見つめ、今日もホグワーツであることを確認した。ようやく頭のなかにあった状況が現実味を帯びてきた。今は学校にいるのだ。夢を見ていた。その夢では数日の間、青が散る銀灰の宇宙に彷徨っていた気がする。前にも見たことがある夢だった。二年前だ。あの時は、すぐに父たる狩人に見つめられて狩人の夢に引き寄せられてしまった。

 同じ夢を二度見ることはこれまでになかったことだ。いつか夢のことをビルゲンワースの学徒に訊ねてみようと思う。

 

 そんなことを寝起きではしっかりと考えているのに寝間着にしているシャツを着替えて靴下を履き、髪を手櫛で整えている間にすっかり忘れてしまった。人の夢は儚いものであることをクルックスはまだ知らなかった。

 

 忘れたこともあれば、思い出すこともある。

 今日は、クリスマスである。

 階段を降りかけた彼は慌てて自分の寝所に戻った。

 

 ベッドの周りに悪夢の小さな住人、狩人の使者が現れた。

 骸骨か亡者の姿をした彼らだが、クルックスが戻ってきた様子を見て手に手に小さな箱を渡してきた。

 

「お父様からの今年のクリスマス・プレゼント」

 

 小さな箱に納められていたのは赤い宝石だ。もし、完全な円形であったのだとすれば手の平に載せることが出来るほどに大きな宝石だったと思えた。しかし、箱の中に納められた物はどうしようもなく割れている。原型を考えれば、ちょうど四分の一ほどに。

 

「宝石? 砕かれている。なぜお父様が……」

 

 

真っ赤なブローチの四片の一片

 

女物の真っ赤のブローチ

その宝石は、誰か狩人の送ったものだろうか

四片集めれば刻まれた名も見えるだろう

使用により希少な雫の血晶石となり

工房道具があれば、あらゆる武器を強化する

 

 

「どうしてこれが大切なのだろうか……」

 

 クルックスは、まだ分からなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 凍てつく謁見の間には、変わらぬ白い月光と蝋燭の仄かな青を讃えた焔しか光源がないというのに、不思議と視認するには困らない。

 カインハーストに君臨する女王、アンナリーゼに仕える狩人のひとり、巷では『流血鴉』と呼ばれ、一般通行狩人を恐々とさせ終いには死に至らしめる原因は、女王の謁見の間の隅に立ったまま微睡んでいた。

 

 ──女性同士の話は長いぞ。覚悟しろ。

 

 そう言ったのは昨年の先達だ。その助言を我が事として捉えていなかった代償は、直立姿勢の刑である。女王の御前であるから、学校生活のことを子細に報告しているセラフィに対し「早く終われ」と言うことは出来ないし頭を小突くことも出来ない。その上、女王の前でまさか屈伸運動なども出来ない。

 帯刀している仕掛け武器──極東において、それは刀と呼ばれる形状──千景の鍔を微かに持ち上げては、落とす。特徴的な金属音は、セラフィの耳に届いているハズだ。そして「早く終われ」と内心で呪い続けること約六時間。とうとうセラフィは語るべきことを終えたらしい。玉座の手すりに身を預けて聞いていた女王が背筋をただした。

 

「楽しんでいるのだな。良い。……貴公は、肩に力が入りすぎている。ゆるりと楽しむといい。月の香りの狩人もそう望んでいるのだろう」

 

「ええ。はい。お父様はヤーナムの外の得がたい時間だから大切にせよとおっしゃいます。最初は気の進まないことでしたが、こうして女王様に外の様子をご報告出来ることは、とても嬉しく感じています」

 

「外は不穏なこともあるが、概ね人々は生きて、死んでいる。まともな在り方だな。変化は、貴公にとって良いことでもある。……ああ、貴公はよく笑うようになった」

 

「そんな……そう、なんでしょうか……クルックスにも言われました。けれど僕にはあまり自覚がないのです……」

 

 セラフィは、女王を見つめるとき。

 いつも宝石の如き輝きを見せる瞳は、まるでとろけて恍惚としているように見える。生まれた時から生粋の血族よりもアンナリーゼに心酔しているのだ。

 ──常日頃、自分に向けられる目で女王を見つめている。

 鴉は、女王へ視線を移した。アンナリーゼは冷たい鉄仮面の顔を階段下で跪くセラフィに向けたようだった。

 

「フフ……。楽しい話が聞けてよかった。よく見て、学ぶといい。さぁ、もう休みたまえ」

 

「あぁ、女王様……。僕は、まだ御側にいたいのですが……レオー様のことが心配なので、ええ、下がらせていただきます」

 

 深々と頭を下げたセラフィは、肩のマントを翻して立ち上がった。

 

「鴉」

 

 存在を忘れられていると思っていた鴉は答えず、ただ軽く一礼した。

 

「セラフィをよく労うことだ。──そう。貴公も時には休むといい。もうずいぶんと働き詰めだろう? 今年のレオーはビルゲンワースで羽を伸ばしてきた。貴公もどうか」

 

「……前向きに検討させていただきたく」

 

「鴉羽の騎士様がビルゲンワースに? わぁ。僕は、とても嬉しいです」

 

「そうか、そうか。セラフィもよく憩うといい。彼は休むことを知らぬのだよ」

 

 セラフィが、あまり嬉しそうにするのは好ましくなかった。しかし女王の前で「騒ぐな」とは、やはり言えない。また彼女の首を飛ばすのは六時間ほど遅かった。

 能動的に発生する事態をとにかく先送りするため、月の香りの狩人がよく言う『前向きに検討』の言葉の意味をセラフィは知らないのだ。言葉を弾ませて「いつお休みになるのでしょう? 女王様、鴉羽の騎士様にはいつお暇を下さるのでしょうか?」と話すセラフィが呪わしい。

 敗因を確認したところで女王がクスリと小さく笑った。

 

「──その言葉、違えることなく果たしたまえ」

 

 近いうちに休暇を取らなければならないことが確定し、鴉は無言で身を傾けるだけの礼をした。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 鴉が、気怠げな溜息を吐いたのでセラフィは彼を見上げた。

 

「何かありましたか」

 

「煩わしいのだ。何もかも」

 

 膨大な書籍が収められているカインハーストの書庫を二人は歩いていた。セラフィは、鴉の居室にしている近衛騎士長の部屋まで行くつもりだった。彼は、長時間の立ちっぱなしでひどく不機嫌だ。レオーに会いに行く前に彼の機嫌を直しておかなけば、明日に支障があるだろう。

 

「温い血の酒と静かな部屋。それだけあれば私は一時、満ちるのだ。──それ以外は煩わしいことこの上ない」

 

「不摂生ばかりしていては体を壊しますよ」

 

「とうに壊れている。まともな体ならば寝て起きたら三日経っていたなどあり得ないだろう」

 

「そうですね。ビルゲンワースからの処方は?」

 

「四日前に切れた」

 

「僕が取ってきましょうか?」

 

「余計なことをするな」

 

「鴉羽の騎士様、本日はご機嫌ですね」

 

 会話が続くうちは、まだまだ大丈夫だとセラフィは経験則で知っていた。

 彼の機嫌が好転する原因は今のところない。それなのに悪化していないことを考えると何が彼に影響しているか、セラフィは思いついた。

 

「テルミは『お話しすることが楽しい』と言います。自我を得るまで出来なかったことが、今は出来るので楽しいのだと。僕もそう感じることがあります。僕の場合は、レオー様の寝物語を聞いている時ですが。鴉羽の騎士様は僕とお話し出来ていることが、ひょっとして楽しいのですか?」

 

「お前の頭蓋は乾いた土塊のように弾むことを知っているか?」

 

「違うのですか? 残念です。僕は鴉羽の騎士様とお話したりお世話したりするのは、とても楽しいことです」

 

 周囲に漂うカインハーストの元住人──悪霊の麗人たちは、白く濁る薄い霧になり逃げ出したが、セラフィは違った。

 鴉もセラフィに対する威嚇や脅迫が無意味であることを知っている。恐怖を感じない性質は、このような時に互いに好都合だった。

 彼の私室、近衛騎士長の部屋に辿り着くと彼はいよいよカインハーストのよくある天気のような雰囲気になった。つまり、どんよりとして何をしても晴れない憂鬱だ。

 

「鴉羽の騎士様、外套をお預かりします」

 

 いつもならば椅子に座る前にセラフィに渡すのだが、そのまま椅子に座ろうとしたので声を掛けた。

 鴉羽の外套を預かり洋服掛けに掛けている間に、彼は椅子に腰掛けた。背中にはいつにない疲労感がある。

 

「血酒を入れましょうか」

 

「要らない」

 

「分かりました。……うーん……。では、僕は下がりますね」

 

 これ以上の気分の向上は望めないようだ。

 退室を試みたが、呼び止められてしまった。

 

「レオー様の様子が気がかりです。鴉羽の騎士様はお休みになって下さい」

 

「ここに。……月の香りの狩人との約定により、お前に渡す物がある」

 

「お父様の? ……珍しい……いえ、初めてのことですね」

 

 セラフィは鴉の足下に跪き、見上げた。

 手袋に包まれた手のひらに落とされたのは、銀の細鎖に結ばれた指輪だ。

 

「月の香りの狩人が今年は何かを用意しろと女王を通じて手紙を寄越した。異教の祭日には贈り物が必要なのだと」

 

「それで鴉羽の騎士様が僕に……。とっても嬉しいです」

 

「……。貸すだけだ」

 

 この言葉は。

『思いつき』の響きがあるものだったが、セラフィにとって彼の言葉は全て真実であるため、彼女はシュンと眉を下げた。

 

「そうですか。……あぅ……残念です……」

 

 鴉は自らの首を探った。手甲の指先が銀の細鎖を引く。その鎖の先にある物をセラフィは知っていた。鍍金に精緻な対の獅子が描かれたカインの証。女王を守る近衛騎士の証だ。同じ物をレオーも父たる狩人も持っていることだろう。

 

「お前が女王の血を啜り、これを得た時、私に返すのだ」

 

 金色がセラフィの目の前で揺れた。

 手の中の銀色を見つめた。

 

「では……この指輪は、鴉羽の騎士様にとって近衛騎士の証と等価と呼べるほどに大切な物なのですね。一時の物とて僕の手に余る物ではありませんか?」

 

「一度与えた物を引っ込めるなど礼を欠くことはしない」

 

「しかし──」

 

「お前は、私の物だ」

 

 静かな声だった。彼は議論の余地のない、至極当たり前のことを宣言したつもりのようだった。

 何も動く物はなく、セラフィは呼吸さえ止まっていた。

 ──答えなければ。

 口を開いたとき、セラフィは目を伏せていた。

 

「いいえ。僕は、女王様の所有物です」

 

 ──カインハーストの財産、という意味で。

 ──そういう意味では貴方の物でもあるワケですが。

 セラフィの言葉は、これまでに話したどんな言葉よりも小さいものだった。

 

「ぼ……僕は……女王様のために貴方の望む言葉を言えません。言う資格が、能力がないのです。……それでも、この指輪は……とても嬉しいです……本当に……本当に」

 

「…………」

 

 肌が痛かった。沈黙が痛いのか、冷気が痛いのか、セラフィにはよく分からなかった。

 いつまでも顔を伏せていることはできない。意を決して鴉を見上げると彼は、すこし笑っていた。

 何か彼の気分を楽しくさせることがあっただろうか。セラフィは彼のことが、ますます分からなくなった。

 

「鴉羽の騎士様?」

 

「女王のことを好いているな、お前は。愛しいか、あの穢れた石女が」

 

「石女? ……? お言葉の意味が分かりません。けれど、僕は女王様のことが大切です。ええ、愛しているのです。不死という不変が僕を惹きつけて止まないのでしょうか。愛しています。愛しているのに。……けれど、ああ、どうか気を害さないで下さい、鴉羽の騎士様。僕は貴方のことも等しく愛しているのです。優れた貴方を。レオー様のことも──」

 

「もうよい」

 

 飽きた、と言わんばかりに鴉は手を振った。

 セラフィは頭を下げた。

 

「失礼しました。──では、僕はレオー様の工房に行きますね」

 

 鴉は、私室に一人きりになった。

 寒さなど彼には大きな問題ではなかったが、あるとき、何か思い立ったのだろう。立ち上がると鴉羽の外套を負って再び部屋を出た。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「おぉ、セラフィ。可愛い夜警ちゃん。おかえり」

 

 風雪が荒ぶ白い世界を越えて辿り着いたカインハーストの小さな工房では、レオーが待っていた。作業用のズボンにシャツ、ベストを着た休暇中の姿だ。両手を広げたレオーにセラフィは体を押しつけるように抱きついた。

 

「レオー様、ただいま戻りました。ああ、もう体は大丈夫ですか? 痛みは……」

 

「大丈夫、大丈夫。心配かけたな」

 

 レオーは、ぎこちないセラフィの体を抱きしめて、あやすように背中を撫でた。

 その仕草にセラフィは、ずっと心の中にあった心配事が氷解していくような心地だった。

 

「レオー様……ああ、よかった。血族狩りなど、あの男は野蛮な血狂いです。今度会ったら必ず首を刎ねましょう。んん、レオー様……レオー様……」

 

 穢れた血は、熱いのだと聞く。

 それが流れる体もまた熱い。

 凍える道を歩いてきたセラフィにとっては、熱いレオーの体は離れがたい温もりであり、ともすれば安心も相まって眠気を誘うものだった。

 

「おやおや、眠いのか。セラフィが帰ってきたということは休暇だろう? 異邦の祭日とは関係ないが、カインハーストの狩りも今日と明日はお休みだからな。ゆっくりしようじゃあないか。そこのベッド、使っていいからな」

 

「まだ一緒に……ううん……。女王様にお話をしてきましたが……主君の前では、出来る限り情けない姿は語りたくないものです」

 

「ん? ……? ああ、そうか。なにやらたくさんの苦労があったようだな」

 

 喉元まで、さまざまな経験を経た言葉がせり上がった。

 けれど今話してしまうと語りきるまでに朝になってしまいそうだ。彼とは穏やかな時間を過ごしたい。

 

「時間はあるからな。俺も、そうさな、病み上がりで駆けていたが、ぶり返す前にすこし体を休めてもいいだろう」

 

 セラフィの髪を指で絡め、レオーは目を細めた。

 

「二人きりで、ゆっくりしような」

 

「レオー様……ん……」

 

 レオーの皮膚の固い指を握る。

 セラフィは思い出したことがあった。

 

「あ、そうだ。鴉羽の騎士様が外で待っています。お二人がいらっしゃる時にクルックスからの品をお渡ししなければと僕は……」

 

「ワハハハ、冗談! アイツが指くわえて待ってられるワケ──」

 

 レオーは、セラフィの冗談だと思った。

 彼女を女王様のもとへ連れて行った鴉は、長々と話を聞かされて不機嫌でふて腐れているだろう。今頃、氷室の有様の自室に籠もって寝ているハズだ。

 ──一五〇年以上、うんざりするくらい長年連れ添った仲だ。鴉の行動パターンなんて、お見通しなんだよなァ。

 そんなことをぼやきながら外へ続く扉を開けると頭に雪を積もらせた鴉が立っていたのでレオーは声を裏返して叫んだ。

 

「ホワァーッ! ホントにいたァーッ!?」

 

 慌てて締めるが、たいていの場合、速さにおいてレオーは鴉に敵うことがなかった。扉を閉める前に腕と靴が隙間に入り込んだ。

 

「だから僕は言いました」

 

「でもマジでいるとは思わないじゃん! ……お前さぁ……俺とセラフィが一緒にいるのにどうしてここに来るの? 遠慮とか知らないクチ? 俺はお前が何も分からないぜ」

 

「私のいる先にお前がいるだけなのだが?」

 

「哲学やめろ」

 

 頭に積もった雪を落とし、鴉羽をセラフィに渡すと彼は暖炉の一番温かい椅子に腰掛けた。

 

「ったく。仕方ないヤツめ。酒飲んで寝ろ!」

 

 酒瓶を取り出そうとしたレオーをセラフィは制止した。

 

「血酒をお飲みになる前にクルックスからの贈り物をお渡ししますね」

 

「クルックスから? ……ああ、前に話していたな」

 

 レオーは何か思い当たる節があるのか工房作業用の丸椅子に座った。

 セラフィは鴉羽の狩装束と自分の着ていた外套を洋服掛けに吊り下げた。それから、クルックスから受け取っていた蜂蜜の大瓶を置いた。

 

「おお、蜂蜜」

 

「レオー様と鴉羽の騎士様への献上品と聞いています。鴉羽の騎士様、蜂蜜ですよ、蜂蜜。わかりますか?」

 

「知らぬ。……私の時代にはなかった」

 

「あったよ! 石を持って獲物を追っていた時代があったと聞く。その頃からの酒の原料だぞ! ──いいや、待て。なかった? なかったのか。終末のヤーナムには、人間生活なんて終わりきっていたからなかったのか。そうか。性格がアレなだけでなく常識が欠如しているしようのないヤツだと思っていたが……いや悪いこと聞いたな」

 

「でも、とても美味しいと思うので僕は大丈夫だと思います」

 

「セラフィ、発言に気を付けような。ここに蜂蜜の存在を知らない悲しみを背負った男がいるのだ。そういう時は『知っています』という発言は控えるべきなのだ。分かるか? 無益な殺生がひとつ減る。それだけで救われる命があるのだ」

 

「分かりました。言葉は、難しいですね。鴉羽の騎士様、瓶を落とさないで下さいね。落としたら割れてしまいますから」

 

 鴉は、テーブルに置かれた瓶を手に取り膝の上に乗せて焔を透かして見ているようだった。

 レオーはスプーンを投げた。特に視線を動かすことなく、鴉は宙で掴まえた。

 

「食べてみるといい。味が分かるぞ。……しかし、大瓶だな。半分は料理に、もう半分は蜂蜜酒にしてみようか。鍋はないが壺ならある……」

 

「お酒を造るのですか?」

 

 狭い小屋のなか、雑多に収納している戸棚を開けたレオーは途端に頭の上に落ちてきた包みを支えながら「ああ」とくぐもった声を上げた。

 

「造るって言っても大層な仕掛けが必要なものじゃあない。知恵は必要だがね。セラフィ、そこの鍋に雪を摘んでおいで」

 

「鍋に雪を? どれくらいですか」

 

「いっぱい」

 

「『いっぱい』ですね。分かりました」

 

 セラフィはどうして雪が必要なのか分からなかったが、鍋を持って外に出ると踏み固められていない雪を両手で掬って鍋に入れた。小屋に戻ると火にかけるように指示されたので鉄網の上に鍋を置いた。

 

「ああ、水を作るのですね。では次は、蜂蜜と水を混ぜる? それだけで蜂蜜酒になるのですか?」

 

「なるものだ。ただ、寒いからな。酒になるまでには時間がかかるだろう。そういえばクルックスの夜の呼び出しは何の用事だったんだ?」

 

 セラフィは夏休み最終日を思い出した。

 

「そうです、僕は報告を……! 残念ながらレオー様がおっしゃった夜の決闘ではありませんでした」

 

「だろうぜ。何でもない。それで?」

 

「言うなれば『きょうだい』で寝よう会、でした。みんなで同じベッドで寝ました。とても充実していました。また寝たいです」

 

「いいな。挟まりたいな、それ」

 

 鴉が何事か意見を言いたげに噎せたので二人の会話は終了した。

 

「鴉、蜂蜜の味はどうだ?」

 

「青い、花の、香りがする」

 

「お前から叙情的な言葉が出るとは驚きだ」

 

 セラフィは、鍋を見つめる傍ら、暖炉のそばの敷物の上に座った。

 鴉の座る椅子の脚に寄りかかり、ぼんやりと鍋と焔を見つめる。カインハーストの夜は冷える。小屋の端々から冷気が忍び寄ってはセラフィの体を撫でた。

 気が緩む心地よい気分は眠気を誘う。レオーが荷探しをする音を背景に、セラフィは目を閉じた。

 

「セラフィ」

 

 しばらくして鍋が細く短い白い筋を立て始めた頃──時間として一〇分も経っていないと思われた──セラフィは、椅子に寄りかかっていた体を起こして鴉を見上げた。

 

「寝ていたのか、僕は……。何か? あ……みゅ……ッ」

 

 するりと頬を撫でられたと思ったら、口に無遠慮な指が入ってきた。

 

「蜂蜜とは粘度が高いのだな。知らなかった」

 

「も、ぐゥ……」

 

 いつも銃を扱う彼の左手は、今は甘いものだった。甘いからといって、気分がよいものではない。

 舌を弄ばれて、セラフィはつい鴉を睨み上げた。

 カインハーストに従順なセラフィにも不服を思う気持ちは多少ある。たとえば、こういう横暴に晒された時だ。

 

「不満あらば噛んでみろ」

 

 セラフィには絶対に出来ないことを命じるあたり、この先達は自分を手玉にとるのがとても上手だと思う。

 

「むむ……」

 

 セラフィの持ち得た『強すぎる帰属意識』は、カインハーストに対する献身の根幹にあり、時に身を守る力さえ奪うものだった。

 そのため、従容と口を開いた。

 

「──鴉、俺はお前にいちいちセラフィの口に銃口突っ込むな、とか、手を入れるな、とか言わなければならないのか? 品の欠ける行いは自重しろ。セラフィに嫌われるぞ」

 

 レオーが鴉の白い横顔に向かって布巾を投げつけた。それを難なく受けとめた鴉は、ようやくセラフィの口を解放した。

 口を押さえて羞恥に顔を赤らめたセラフィを下に見て鴉は大儀そうに脚を組んだ。

 

「レオー、女王を咎めよ。女王がセラフィを労れと言ったのだからな。──鍋が煮えているぞ」

 

「えっあ、わ、本当だ。レオー様、次はどうすれば……」

 

「テーブルに置いて、自然に冷えるのを待とうな。冷えて水になったら、分けた蜂蜜に入れてかき混ぜる。あとは放っておいて完成だ。数月もあれば飲めるようになるだろうよ」

 

 わかりました。

 そう言いかけたセラフィを遮ったのは、まだ蜂蜜の付いたままのスプーンだった。目を白黒させる彼女の口に押し込んだ鴉が、レオーに訊ねた。

 

「血は入れないのか?」

 

「──こら、セラフィの口にあれこれ突っ込むなってば。入れてもいいが酒の成分が出来てからの方がいいだろうな」

 

 鴉は、セラフィの手首を掴んだ。

 微かに浮かぶ血管を指でなぞり、目を細めた。

 

「当分先か。まだ、青いな」

 

「むぅー」

 

 不満を訴えたセラフィが、スプーンを咥えたままカチャカチャと上下させた。

 

「──噛んでみろ」

 

「それが出来る者は、カインハーストに相応しくないのでしょう。……僕は、どんな時でも貴方に噛みつくほど心憎くは思えないのです」

 

 セラフィはそう言って洗い物の鍋のなかにスプーンを入れた。

 お湯が冷えるまで。鴉の脚に寄りかかり再び目を閉じた。今度は鴉も好きにさせていた。読みさしの本を取り上げて、ときおりセラフィの頭の上に落とす悪戯をする。諫めるレオーが工房の作業をはじめ、カインハーストの時間は更けていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナムのなかで最も陰気な街と言えるヤハグルには、外来の祝日がもたらされていた。

 メンシス学派の第二席、学派を実質的に取り仕切っているダミアーンは、机の上に置かれたグラスを観察した。

 

「シェリー酒です。これはやや辛口のものですが」

 

「面白いね。これがさほど高値でもないのだろう? 当世の流行りはスゴいものだな。大量生産、大量消費。いやはや、社会は想像を絶する進歩速度だ。……昔のヤーナムでは、こうした血の酒以外でも流通していたものだ。今でこそ病み人だけが訪れることが出来るヤーナムだが、医療教会初期の頃はしばしば遊牧民が路地で見られたものだ。──ところで何の祭日だと言ったかね。冬至祭?」

 

「クリスマスです。もっともヤハグルは時の進みが遅いですから、きっと時期外れですね」

 

「たしかにね。クリスマス。聞いたことがある。外の宗教行事だね?」

 

「異教の祭日です。斜に構えて過ごすより、建設的な生活をしたいと思っています。そうですね。無数に存在する燭台を磨くとか」

 

「建設的ね。……ああ、君向きの仕事があるんだ。君が長期休暇で帰ってからと思って先延ばしにしていたんだが、顔合わせをしていくかね。シェリー酒はご馳走様。とても懐かしい気分になれたよ」

 

 席を立つダミアーンの後ろをネフライトは歩いた。

 

「本日は、あまり長居できません」

 

「ああ、分かっているとも。君向きの仕事だが、君に何かをしてもらおうという種類ではなくてね」

 

 古寂びた灰色の石壁に囲まれ、あるいは険しい崖の先にあるこの街は、風通しがよくないのだろう。ヤーナムの陰気さというものは、人相にも現れる。人の気配まばらなヤハグルは、学徒の服を着た人々が書籍片手に議論を交わしている。彼らは顔かたちこそまるで違うというのに檻を被っていなくとも同じ集団であることがハッキリと分かる。

 ダミアーンに連れられやって来たのは、ヤハグルの街の外れにある牢屋だった。

 主な用途として市街から攫ってきた市民を入れておくためのものだが、今はどの牢屋も空だ。その理由は、とある牢屋の個室に空いた大きな穴にある。穴を抜ければ旧市街へ行くことが出来る。即ち脱獄が可能であるために使われなくなっているのだ。

 この様子では人も獣もいないだろう。そんな予想していたが、最も奥まった個室に人の気配がした。

 

「誰を捕えているのですか? 血の聖女?」

 

 ネフライトにランタンに火を入れるように指示したダミアーンが片目を瞑って笑った。

 

「見てのお楽しみだ。──入るよ」

 

 捕えているのならば、そこにいるのは囚人なのだろう。それなのに挨拶をするとはおかしなことだ。

 牢にいたのは一見にして薄汚れた中背の男だった。

 

「やぁ、アンタル。ご機嫌よう」

 

「何が『ご機嫌よう』だ。誰だ、そっちは」

 

「こちらは私の孫。ネフライトだ」

 

「…………」

 

 もちろん、ネフライトにとって初対面の男性である。体つきや手のタコの具合を見るに狩人のようだが、こんな狩人は見たことがない。既知のヤハグルの狩人ではなさそうだ。

 

「どこかで面識があるかもと思ったのだが、その様子ではお互いなさそうだね?」

 

 確認され、ネフライトは頷く。そして手に持っているランタンを掲げ、狩人──アンタルの顔をよく見た。色白で元の顔は悪くなさそうな顔だというのに無精髭があるせいか、だらしない男に見えた。彼は眩しそうにランタンの光とネフライトの顔を見た。

 

「お前、月の香りの……? こんなところで何してる。さっさと獣狩りに戻れ。こっちのヤーナムは相変わらずイカれている……。それも今回は極めつきだ。生者も死者もお構いなしでまぜこぜのあべこべときた。イカれてやがる。本当にイカれてやがる。頭に目玉詰まってんのかよ」

 

 噛みつくように狩人──アンタルは言った。

 彼の言うことは気になるが、なぜここにいるのだろうか。それをダミアーンに問う。

 

「何日前だったかな。ひと月以内の出来事だった気がするが、彼が突然『還って』来てね」

 

 ──学派は、それはもう蜂の巣を突いたような大騒ぎだ。ああ、蜂の巣は知っているかな?

 のんびりとダミアーンは語る。

 

「なんせ、もうずっと前に離反したハズの彼が帰ってきたのだからね。見つかって案の定ボコボコになり、投獄されて今に至る、というワケだ」

 

 ──すると彼は夢から還ってきた古狩人なのだ。

 ネフライトの閃きは、正しいものだった。今はビルゲンワースに存在する学徒、閉じた瞳のコッペリアと同じように。彼はいつかの悪夢から現在のヤーナムに還ってきたのだ。

 だから現在のヤーナムが『イカれて』いることが分かる。そして『生者も死者もお構いなしでまぜこぜのあべこべ』が分かるのだ。するとメンシス学派においてダミアーンの次に悪夢から還ってきた古狩人と言える。言い草を鑑みるに記憶を欠落していないのだろう。

 

「何やら事情通な物言いをしているな、ダミアーン。だいたいお前は私が殺したハズだが、どうしてここにいる?」

 

「ああ、やはり君だったか。薄々そうなんじゃないかと思っていたよ」

 

 どういうことです、と聞けない自分はこんな時に不便なのだとネフライトは思った。

 ダミアーンは自分の死因を知らなかったのだ。──こうして加害者が現れるまでは。

 

「このやりとりで君にはすっかり分かったと思うが……私には、以前自分が死んだ時の記憶がなくてね。なぜなのかずっと考えていたのだが、答え合わせが出来たよ。後ろから頭を杭打ちだね? なるほど頭をかち割られては、死を惜しむ間もなく生にしがみつく間もない。そして、メンシス学派の中枢にいる私を暗殺することが出来るなんてヤハグルに精通した君しかあり得ない」

 

「聖歌隊の間者をそそのかしたが、彼はやる気にならなかったからな。それで? 復讐するつもりか?」

 

「まさか。君はこれから私と手を組むのだよ」

 

「断る! お前と組むなどあり得ない。ヤハグルを貶めたお前達に応えるハズないだろう。また人攫いなんてやらせるつもりなのだろうな──」

 

「私とて君と組むのは気が進まないのだが、仕方ない事情もあるのだよ。それに悪夢を探りたい君の願いにもかなう」

 

 医療者を兼ねる狩人は、市街の狩人よりも悪夢のことを知っている。血の医療のことを知っている。

 しかし、現在ヤーナムに異常を引き起こしているのは悪夢の主たる、月の香りの狩人だ。彼らに辿り着ける望みは薄いだろう。だが彼らがどんな回答を出すのか気になるためネフライトは交渉の行方を見守ることにした。

 

「私はヤハグルを離れられない。このネフライトも時限性だ。現在のヤーナムに起きている異常は、市街にも現れていることだろう。探ることが出来るのは君だけなのだよ」

 

「私が大人しく仕事をするとでも? 楽観主義だな、ダミアーン。メンシス学派にしては珍しくない主義のようだがな?」

 

「その主義ではないと生きられないのが現在でね。君もじきに分かる。さて、君が真面目に働いてくれたのならメンシス学派がヤハグルを去る日も遠くないだろう。時間と人手さえあれば、我々はいつだってビルゲンワースへ行きたいのだ。君に急かされるまでもなく、ね。あの学舎には禁忌とされた書籍がまだ眠っている。何よりあそこには、まだウィレーム学長がいるだろう。異常続きのヤーナムだ。彼が正気になっている可能性もある。時間は憂鬱になるほどある。誰と手を組むべきか、よく考えてみてくれたまえ。──ヤハグルの古狩人」

 

 黙り込んだアンタルにそう語りかけ、彼は去ろうとした。

 

「おい、お前。月の香りのお前だ、陰険眼鏡野郎」

 

「……陰険さではお互いさまだと思いますがね」

 

「メンシス学派に加担する意味が分かってそこにいるのか? 医療教会で一番まともじゃない学派に与する意味が分かっているのか?」

 

「それでも手法は正しいと信じているからこそ学派は学派であり続けているのだと思います。……貴方も一度は手を組んでいた様子。得られたものはなかったようですが、かつては期待を寄せたのではないですか?」

 

 アンタルの右頬が不快そうにピクリと動いた。図星を突かれた顔だ。

 ──さ、お暇しようかな。

 ひと言述べたダミアーンが踵を返した。

 

「あとで食事と血の酒を届けるよ。ろくに拘束もしていないんだ。寛いでくれ」

 

「ならせめてまともな寝具を寄越せ。これ、ダニだらけで酷い目にあったぞ」

 

 ネフライトに投げられたのは、黴臭い毛布だった。触れているだけで体のあちこちが痒くなってくる気がした。

 

「これは狩人達が猟犬の寝床に使っている毛布ですね」

 

「どうりで犬の小便臭いワケだ! 死ねよ、もうー! ばかやろー!」

 

「この野郎」とアンタルが歯茎を剥き出しにして唸る。ダミアーンは「参ったね」と苦笑した。

 ダミアーンの書斎へ戻る途中、彼は「助かったよ」と言った。

 

「しかし、彼がダミアーンさんの意のままに動くとは思えません」

 

「いいや、彼は手伝ってくれるだろう。アンタル君は、元々ヤハグルの狩人なのだよ。ヤハグルの狩人。ヤハグルの原住民と言うべきか。この街並みを見てのとおり、今でこそメンシス学派が主宰する街だが、元は住民がいてね。彼は彼らを守っていた狩人の一人だ」

 

「……住人は、どこに行ったのですか」

 

「市街に逃げたり治験に協力してくれたり……八対三という具合かな。彼も最初は協力してくれていたのだがね。今はあんな具合だ。考え方の違いで袂を別ち、メンシス学派ひいては医療教会から離反した。同志というものは、得がたいものだということがよく分かる出来事だったとも」

 

「そうですね」

 

 礼拝堂に入っていく主宰、ミコラーシュを傍目に二人は薄曇りの空の下を歩いた。

 その時だ。

 ぐらり、と体が揺らいだ。もしも、爆音がなければ目眩だと錯覚したかもしれない。

 

「なにっ!?」

 

「おや──」

 

 ネフライトは銃を抜き、銃弾を装填した。

 

「ダミアーンさん、主宰と避難して下さい! 私は現場を確認して参ります──」

 

 ダミアーンの返事を待たず、ネフライトは駆け出した。

 すぐに角を曲がって見えなくなった背中を見て、ダミアーンは小さく息を吐いた。

 

「頼もしくなってきたじゃないか。ふふっ」

 

 ダミアーンは、ミコラーシュに向けて手を挙げた。気付いた彼は、爆発の原因について推察している。それをウンウンと聞きながら、避難を始めることにする。

 風に紛れて誰かが「先生!」と叫ぶ声が聞こえる。浅黒い肌の狩人は嘆いていることだろう。なぜなら。

 

「アーチボルトすぐ爆発する」

 





いっときの地元帰り
 クルックスの贈り物はさっそく悪用されています。
 他人のものを取り上げることを生き甲斐としている鴉にとってセラフィはさまざまな意味を持つ、大切な存在であるのでしょう。彼が与えた指輪は、婚姻を意味するものではありませんが、セラフィの気を惹きたい気持ちは多少あるようです。「貸すだけ」と言いつつ「一度与えた物を引っ込めるなど礼を欠くことはしない」とは思いつきの言葉の帳消しを試みた結果のようです。ときどき考えなしに話すあたり、テルミに目を付けた鴉は自分と似た存在を敏感に察しているのでしょう。
 もしもクルックスが鴉やレオーのことを「ろくでもない大人だな」と言ったらセラフィは「それでも侮辱は許されないのだよ?」と言って敵対するので言葉の取り扱いは要注意です。愛はたいていのことを見過ごし、見誤らせ、見損じさせるものです。セラフィは大分前からこの手の正論は通じません。愛ってコワい。ピグマリオンもそう言っていました。


メンシス学派万歳と言え!
 ダミアーンはミコラーシュがセーフならたいていのことはセーフなので「メンシス学派万歳と言え!」とは強制しませんでした。賛同してくれなくても協力してくれるのなら殺したことも、まぁ、許すよ。一回二回くらい死んだくらいでギャイギャイ言うほど死んでいないからね。はい、新しい毛布だよ。


離反者アンタル
 離反者アンタルについて、アンタル=ヤマムラ問題は本作では取り扱いません。
 そもそもアンタル=ヤマムラ問題とは?
(そもそも筆者が勝手に問題とか言っているだけなんですが)遠眼鏡でアンタルとヤマムラの顔を見ると分かっていただけると思うのですが、とても似ている──というかまんまです。筆者は内部データ数値までは調べられないので感覚なんですが、そっくりです。一方、解析によると内部データにはアンタルの顔データが別にあるそうなので、このそっくりさん現象はNPCデータ適用を……その……しちゃったのではないかと勝手に思っています。
 要するに、ゲーム上、そっくりさんが二人いることは本作では触れません、という宣言です。でも洗礼名説とか好きです。ヤマムラさん所属先スタンプラリー説くらい好きです。──アンタル仮面様にはお世話になりました。教会杭を持つ度にやっぱり医療教会は最高だぜ、と手のひらクルクルさせました。


アーチボルトすぐ爆発する
 ネフライトに食事をせがみにきていたトニトルスの狩人が隠していた、いつぞやの猫の名前でしょう。なんで爆発するんですかね(素人質問)


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クリスマス休暇(下)


月の御使い
ピグマリオンの信じる上位存在の使者。
人の形ならば、血を定義するより先に、そう扱われるべくでしょう。
血の詳細を知る由もない彼は、そう信じている。



 

 ヤーナムの外の世界がマグルも魔法族もクリスマスに歓喜する頃。

 クィリナス・クィレルが、ビルゲンワースの自室に戻った時、赤と緑に彩られた箱がテーブル上に鎮座していた。

 ただの箱であれば驚かなかった。実際、彼は一瞬の思考停止の後で「ああ、クリスマス……そういうものもありましたね……」と呟きを溢し、お茶を淹れる余裕があった。しかし、次の瞬間、それはガサゴソ、ゴソゾゾと音を立て始めた。

 自分はクリスマス・プレゼントなんてもらう年齢ではないのだし、これは誰かのイタズラだろう。それもヤーナム外の習慣を知る人物によるものだ。

 テーブルの上をよく見れば、クリスマス・カードがあった。出来る限り箱に近付かないように『呼び寄せ呪文』を使ってカードを回収した。

 中身の見たくない贈り物を送りそうな知人は、一人しか心あたりがない。

 

 

クィレル先生、こんにちは!

テルミから素敵なプレゼントです!

喜んでいただけたかしら? そのうち夕食にしましょう!

追伸:名前は『ヴォルデモート』なんていかがかしら?

 

 

 クィレルは「うわっ」と思わず声を出した。彼女は、猫が小ネズミをいたぶるような──可愛い顔に似合わない趣味の悪さを持っているようだ。

 カードの裏に文字がないか、魔法は掛かっていないか、悪戯の有無をチェックしていると突然箱が揺れ、横倒しになった。ついでに謀ったように箱に緩く結ばれていたリボンが落ちる。クリスマス・カラーの箱から転がり出たのは黒と赤が印象的な鳥、七面鳥だった。

 

「ワっ!?」

 

 生きている七面鳥は、箱に閉じ込めたのがクィレルだと非難しているようにしきりに鳴いて羽ばたいた。

 クィレルは、何度も杖を振り、七面鳥を箱に押しやり蓋を閉じた。それからしばらく蓋を開けたり閉めたりしたが、その度に七面鳥が消えることはなかった。夢でも幻でも、もちろん魔法でもなかった。

 

「なんだい? 賑やかだね~! なんだい? なんだい?」

 

 どう始末をつけようかと考えていると騒ぎを聞きつけて学徒、コッペリアがやって来た。

 

「ワァッ……!?」

 

 さらに厄介事が飛び込んできてクィレルは七面鳥入りのプレゼント箱を抱え、事情説明の言葉を考えるのだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスがビルゲンワースへと去った後。

 月の香りの狩人は、ヤーナムの市街へ訪れていた。彼が見ているのは、おおよそ人っ子ひとりいない路地だ。割れた石畳の隙間から雑草が生え、靴裏に感じる歩き心地は、もこもことしており決して良いものではない。

 朝や昼間は、人の往来がある大きな通りも午後に傾きはじめた今、足早に用事を済ませる人が何人かいるだけだ。気の早い家は、もうカーテンを引いて夜に備えている。

 

「ふむ……。やはりダメだな。当てずっぽうでは……」

 

 深く広いヤーナム市街における人探しは、難航している。

 探し人であるシモンが行きそうな場所はオドン教会だが、そこにも姿はなかった。オドン教会の住人である赤いローブを来た盲人──狩人の友人でもある──に聞いても心当たりはないと教えてくれた。

 そうなれば、最も難解で最も聞きたくない相手に話を聞きにいかなければならない。

 狩人の姿は、暗い路地に消えた。

 そして再び現れた時、そこは花咲き乱れる捨てられた工房だった。

 二人住んでいるハズなのにいつもひっそりと静まりかえっている工房からは、話し声が聞こえた。テルミが来ているようだ。

 回れ右したくなる気持ちを堪え、扉をノックした。

 

「ああ、月の香りの狩人さん。こんにちは。ちょうどお茶を淹れたところなのですよ。さぁさ、おかけになって下さい」

 

 出迎えたのは住人のひとり。医療教会の黒、ピグマリオンだった。相変わらず青白く、頬はこけて死にそうな顔をしている。そんな彼は痛々しいほどの笑顔で狩人を招き入れた。

 

「まあ、お父様! いらしたのね? ピグマリオンさん、お菓子も出しましょう! 楽しいお話もしましょう! 座ってくださいな!」

 

 ピグマリオンとお茶の用意をしていたテルミはパタパタと軽快な足取りで狩人のために椅子を引いた。

 

「悪いがテルミ、それはまた今度だ。今日は彼と話がしたくてな。……ピグマリオン、すまないがテルミと一緒に席を外してくれるか?」

 

「ああ、ええ、はい、分かりました。──さぁ、テルミさん。お邪魔になってはいけません」

 

 テルミは眉を下げた。しかし、次の瞬間には「あら残念」と明るく言い、菓子の入った籠とソーサーに乗ったお茶を宙に浮かせて小屋を出て行った。

 さて。

 狩人は、トリコーンを軽く上げてブラドーに挨拶した。彼は見もしなかった。

 

「──シモンのことで話に来た」

 

「ほう?」

 

「会いたいのだが、どこにいるか教えてほしい」

 

「教える義務はない」

 

「『普段とは違うものを見たら、いつでも鐘を鳴らす』という約束を結んでいた気がするが、それはどうなっているのか伺ってもいいだろうか?」

 

「私がシモンを追い始めたのは、その約束を交わす前のことであるから答える義理はないな」

 

 白い獣の皮の下でブラドーは──珍しいことに──愉快そうに笑った。

 

「おっと。……それが真実であれば、してやられたな」

 

 狩人は久しぶりに腹の底が煮える気配を感じていたが、今さら血相を変えるほどではない。 

 

「なるほど。契約書をすみずみまで読まない性質が災いしたらしい。貴公に過失はなさそうだ。俺に起こる不利益を見過ごした点で不誠実と言えそうではあるが」

 

 今さら彼の『誠実さ』に期待してみても事態は好転しない。しかし、言うだけ言ってみよう。そんな気分で狩人は伝えた。とはいえ今回の物事の『筋』はブラドーの方が通っている。そして、彼と現状の関係を続ける以上、獲物について彼から聞き出せることはないだろう。

 

「邪魔をしてしまったな。失礼」

 

「汚物のなかを這いまわるといい。窶しなどそれが似合いだ」

 

「……あ? ……ふむ」

 

 ただの侮辱であれば相応の言葉を考えていたが、ブラドーの声には嘲笑う色が少ない。

 

「英雄しかり。いつの世も目的の崇高さに救われるのは己だけだ。それをあの男は知らぬようだからな」

 

「ああ、なるほど。なるほど。ありがとう」

 

 狩人は、また姿を消した。シモンの居場所について、その言葉がブラドーなりのヒントだと察したからだ。

 ブラドーは大きな手に隠していた割れ鐘を振った。

 不吉な鐘の暗い情念は、窶しを苛むだろう。安全だと思い込んでいる暗渠を捨て去るほどに。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「お父様ったら。てっきりわたしに会いに来たのかと思ったのに」

 

 ピグマリオンは、テルミが狩人に避けられているのを知っているため「絶対にそれはないですよね」と心の中で思ったが、当然言わなかった。テルミの機嫌を損ねるタイミングは、まだほんのすこしだけ先だったからだ。

 テルミは唇を尖らせて「仕方のないお父様」と可愛くムクれて見せる。ピグマリオンが慰めるのを待っているようだった。

 

「お忙しいのでしょう。裏の治安維持とでも言いましょうか。そうでなくとも、狩人さんはお忙しそうです。ええと、さまざまありまして」

 

 ──詳細はいつものお手紙に。

 階段に腰掛けたピグマリオンは膝の上にテルミを乗せていた。彼女にしか聞こえない小さな声でそう付け足した。

 

 テルミが学業のため──ピグマリオンは大いに驚いた──ヤーナムを離れた後、休暇以外では戻らないと聞いて、うちひしがれていたピグマリオンのもとに手紙が届いたのは九月の末だ。古工房の敷地にいつの間にか現れた夜を照らす小さな灯り──彼の便宜上の上司であるブラドーは『使者の灯り』と呼んでいた──のそばに手紙は現れた。

 

 テルミからのピグマリオンに宛てた手紙であり、平日は五日に一度、休日だという週末の二日間は手紙が日に二度もやって来た。これがどんなにピグマリオンの心を慰め、ブラドーの暇つぶしになったか。テルミへの手紙を考える時間は、彼にとって生き甲斐さえ覚えるほどに充実したものだった。

 とはいえ、こうして会話が出来ることは、ピグマリオンにとってとても楽しい。テルミは可愛いし、表情をころころと変える。飽きることは何もなかった。

 

「うー。けれど、まあ、いいでしょう。お父様は、今度一緒にお食事会をすると約束したの。ほかの『きょうだい』と一緒にね」

 

「それは喜ばしいことですね。そういえば『きょうだい』がいらっしゃるのですね。これまで何度かお話を聞いて……ああ、お手紙にもありましたね」

 

 ピグマリオンはポケットのなかにあるテルミからの手紙を取り出せなかったが、内容を思い浮かべた。

 

「たしか、お姉様がいらっしゃるのだとか……」

 

「そうそう。あ、思い出したわ。お父様に会った喜びで忘れていました。ピグマリオンに見せたい物があるの。今年の写真が出来たのよ」

 

「しゃし、しゃしん?」

 

「ええ、写真。それは光を受けると変化する物に光の像を焼き付けた物だとか何とか、うーん、細かい化学的反応の理屈があるらしいのだけど、わたしも詳しくはわからないですね。見てみて。──わたしの弟、とっても可愛いでしょう?」

 

「おとうと?」

 

 ピグマリオンの脳は勢いよく破壊されていた。

 見せられた写真にいるのは、彼女の父たる狩人とそっくりの少年だ。生き写しのような存在だと思う。違うのは背の高さだけだ。少年は写真のなかで控えめに笑っているように見える。

 しかし、テルミの言葉が気になる。彼は、遠近法で誤魔化せないほど彼女より背が高いのだ。

 

「おと……おとうと……? 彼は、あー、兄、ではなく?」

 

「弟よ。わたしの方が立派だもの。弟です。みんな生まれた日が一緒なの。そのなかで、わたしが一番のお姉様です」

 

「な、る、ほど……はい、なるほど……このピグマリオン、完全に理解しました……」

 

 世間が何と言おうとピグマリオンにとってテルミが正しかった。そのため彼女が「カラスは白いわ」と言えば白だったので、彼は納得した。

 

「学校だとセラフィはわたしのお姉様なのだけど」

 

「早くも設定が瓦解しましたよ? もう一度、打ち合わせが必要なのでは?」

 

「学校では便宜上そうなっているだけです。わたしの体は小さいので……。ですが! 本当はわたしがお姉様なのです!」

 

「複雑なご家庭なんですね。おや……?」

 

 セラフィと呼んで彼女が指差した女性は、ピグマリオンにとって見覚えがある顔だ。この工房に初めて踏み入った時にうち捨てられていた人形にそっくりなのだ。その人形は、今は小屋の物置のなかで埃から守るための布を被せ、安置している。

 ピグマリオンは眼鏡に触れて角度を調節すると写真をよく見た。

 

(人形の原型、モデルとなった女性が彼女なのだろうか。いいや、それでは物事の順序がおかしい……?)

 

 彼は白い手袋に包まれた指を唇に当て、細く息を吸い込んだ。

 物置に置いている人形の痛み具合を見るに数ヶ月や数年の経過には見えない。そしてテルミの『生まれた日が一緒』という言が正しいのならば、人形が作られた時点で彼女は存在していないハズである。なんせ写真に写る四仔は──狩人の言葉が全て真実であれば──今から約三年前に突然発生した人間らしき生き物なのだ。

 ピグマリオンが浮かべた多くの疑問をテルミは見逃した。そんなことよりも『きょうだい』のことを話したかったのだ。

 

「クルックスは、連盟員よ。いつもあれこれ心配しちゃって可愛いの」

 

「は、はあ」

 

「セラフィは、カインハーストの騎士様なの」

 

 続いてテルミが指差したのは銀色の長髪を結わえた女性だ。セラフィと呼んだ。人形そっくりの人物。テルミとはもう頭一個分以上背の高さが違う。他の三人に比べると狩装束が古く、金や銀の糸が襟や袖に使われているのが見える。豪奢な装束の印象を受けた。きっと印象の通り、生地は厚手で丈夫なものだろうと思える。

 

(人形とカインハーストに関連が……?)

 

 顔が似ている、というだけでそう考えるのは突飛な発想だろうか。しかし、赤の他人で顔が似ることは、血縁で顔が似ることよりも少ない可能性だ。

 ピグマリオンには『遺伝』や『遺伝子』といった知識はなかったが、市井で「あの家の人は早死にする」と噂される情報を信じる程度には、血により受け継がれるものの存在を知っていた。また、受け継がれるのは病という負荷だけではない。時には優れた容姿が受け継がれることもあるだろう。

 

(人形の原型になった人物はカインハーストの出身者? しかし、何のために……?)

 

 人形を作る理由に心当たりのないピグマリオンの思考は行き詰まり、一旦、中断した。

 

「そして、こちらの檻頭はネフ。ネフライト。見てのとおりメンシス学派ね」

 

「本当に複雑なご家庭なんですね。敵対組織の名前が挙がっていますよ。メンシス学派。市街の人攫い達の元締めでしょう。そんな噂を聞いたことがあります。しかし、カインハーストなんてとんでもない。医療教会の敵、罪の一族ですよ。市街には処刑隊の信奉者、血族狩りもいることです。どうか市街では関わり合いにならないでくださいね。テルミさんに何かあったら私は……とても……耐えられません」

 

「貴方の心配することにはなりませんわ。大丈夫です。わたしは今のところ上層とここ以外には下りませんから。ああ、でも。『きょうだい』がいつかここに訪れるかもしれません。彼らのこと覚えていて下さいね?」

 

「はい。もちろん」

 

 ──ところでテルミさんの『きょうだい』ということは、同じように月の御使い様なのでしょうか?

 ピグマリオンは、頭のどこかがおかしくなりそうな空想を止めた。

 口にクッキーを突きつけられたからだ。

 

「クッキーを焼いてきたので食べてくださいな! クリスマス・プレゼントです!」

 

「クリスマス。それは、たしか異教の祭日ですね。ああ、記憶にあるような、ないような。ああ、そうそう。私からもテルミさんにプレゼントをご用意していたのです」

 

「なぁに?」

 

 テルミが驚いた顔をした。

 いつも手に負えぬものはないとばかりに振る舞う彼女の驚く顔は、この古工房に存在しない栄養のような気がしてピグマリオンは気分が良かった。

 

「こちら贈与契約書です。ブラドー氏に伺って作成したんですよ。生前贈与の契約書」

 

「まあ! 嬉し──えっ。ん? うん? なんて?」

 

 テルミの戸惑いと驚きに満ちた顔を見たかったピグマリオンの好奇心は、大いに満たされた。ブラドーにネチネチとした小言で突かれながら貴重な紙を使って作成した甲斐があったというものだ。たとえ受け取ってもらえなくともクリスマス・プレゼントとしては十分なものだった。

 

「まあ、これは冗談ではない冗談なのですが」

 

 テルミはクスクスとおかしそうに笑い、証書を眺めてからポケットに片付けた。

 

「ありがとう。ときどき面白いことをしますね」

 

「ええ、まあ」

 

 それからピグマリオンはテルミの学校生活についてしばらく耳を傾けた。好きなもの。嫌いなもの。彼女の話は見たものを全て話尽くそうとするほど止まらない。

 それらを全て聞き終えた後で。

 彼は、やはり話さなければならないことであると再確認し、息を整えた。

 

 

「概ね楽しく過ごされているようで何より。そんなテルミさんには、私からいくつかお話をしたいと思いましてね」

 

「なぁに。あらたまって……? どこか痛いのかしら?」

 

「体はいつもどこか痛いので、ええ。私の話は、テルミさんのことですよ」

 

「わたしの? まぁ何かしら?」

 

 ピグマリオンは緊張した心持ちでひとつ呼吸をした。

 

「貴女は──私の、やや正直な感想を述べさせていただくと──残酷で横暴な性質をお持ちです。ヤーナムの外の人々にも同じように接しているのではないかと……私は手紙を見て、そして、お話を聞いては不安を感じているのですよ」

 

「あら。わたしにお説教をするつもり?」

 

 テルミは、気分を害するどころか、おかしそうに笑った。

 その笑みを止めさせるため、ピグマリオンは告げた。

 

「『お説教をするつもり』ではなく、私は説教をしているのです」

 

「えっ?」

 

 テルミは簡単な音の繋がりを発音した。それしか声が出なかった。

 衝撃の度合いで言えば、今年に起きた出来事で最も衝撃を受けていることだろう。目をパチパチと瞬きしてピグマリオンを見つめた。

 

「…………」

 

「貴女のお父様をはじめ、学徒の方々、そして『きょうだい』の誰からも言われていないようなので、せめて私が伝えおこうと思い……思い……思い上がってしまったんですよ……」

 

 ピグマリオンは「心苦しい限りです」と述べた。テルミはまだ驚いた顔をしている。彼女をここまで驚かせることが出来るのは、父たる狩人が彼女の横面を張った時だけだろう。──そんなことは起こり得ない事態だろうけれど。

 やがて衝撃をどうにか消化したらしい。テルミは「むっ」と唇を尖らせた。

 

「……貴方ってときどき思い切ったことをしてしまうわよね。その調子で突っ走って死んでしまわないか心配だわ」

 

「私は貴女以外に失うものがありません。ですから、貴女のためになることならば何もかも惜しみたくないのです。なので、貴女の欠点をちゃんと教えてしまおうと思います」

 

「それが突っ走っているって言っているのですよ。わたしがご忠告をありがたがるとでも?」

 

「良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らう、とは昔人がよく言ったものです」

 

 テルミは苦い顔をして、そっぽを向いた。

 

「ぜひ心して聞いていただきたいものです。──貴女は聡い。心を読むまでもなく、その人にとっての善悪を分かっているのでしょう。……あまり他人を惨く扱うものではありませんよ」

 

「『都合のいい女でいろ』って言ってしまいたいのかしら? ウフフ、惨いのはどちら様?」

 

「貴女は、誰かのために血を流せるほど優しい人だということを私は理解しています。その優しさを万人に配れなど大それたことを言う心算はありません。ただ……私は貴女に他人を惨く扱うことに慣れてほしくないのです。その行いは、いつか自分に返ってくるものですよ」

 

「なんてありがたいお話でしょう! 市街で心をすり減らしていた人が言うと重みが違いますね? わたしがどうなろうと構いません。お父様だって構いはしなかった。それより生きていることは楽しいのですから──」

 

 立ち上がろうとしたテルミの体をピグマリオンは押さえ、再び膝の上に乗せた。

 

「そうして、しまいには自分まで惨く扱ってしまうのでしょう。私は、テルミさんに幸せになってほしいのです。ずっとずっと幸せになってほしいのです。ですから、身の回りにいる人を大切にして下さい。貴女自身のためにも」

 

「つまらないでしょう。そんな『まとも』なんて」

 

「貴女の全ては、お父様に見せても恥ずかしくない行いだと胸を張って言えますか?」

 

 テルミの蒼い瞳が震えた。

 

「……それは……でも、だって、お父様は……」

 

「ご自分がどう振る舞うべきか。テルミさんには分かっているでしょう。気の向くまま遊ぶ貴女は可愛い。けれど、人間関係で許容される個人には限度があります。貴女が誰かを害することはいけないことなんです。これはバレなければいい、という話ではありません。──貴女の品性の問題です」

 

「ひ、品性……?」

 

「貴女は、他愛ない意地悪や悪戯のつもりだとおっしゃるかもしれません。ええ。事実、そうなのでしょう。貴女は大した考えなしに物事を決めすぎる。私の可愛い人。──けれど、それではいけない」

 

 テルミの髪を撫でて、ピグマリオンは言い聞かせた。

 

「自分を傷つかない場所に置くのは貴女にとって正しい行いですが、それは時に相手にとっては卑怯な行いですよ」

 

「卑怯……?」

 

「貴女が誰かを傷つけて、相手がそれを返さなければ、貴女は『許されて、愛されている』と感じるのでしょう。もし、相手が報復すれば、貴女は『傷つけたのだから当然だ』と考える」

 

「へえ。ずいぶん、わたしの知らないわたしを知っているのね?」

 

「ええ。ずっと貴女のことを考えていました。貴女の幸せのことを考えていました。それが私の望みなのです。──月の御使いの貴女、私の願いを叶えて下さいますか?」

 

 ピグマリオンの腕の中で。

 テルミは顔を伏せて、うつむいていた。

 唇を痛いほど噛みしめることを彼は、まだ知らない。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 テルミは『悔しい』という感情を再学習していた。

 

(ああ、悔しい。──悔しい! 悔しい!)

 

 病み人に心の裡を読まれていることが、自分でも見つめないようにしていた澱を直視されたことが、何よりも恥ずかしくて堪らないのだ。

 いったい、いつからだろう。

 

(わたしが、このテルミが、貴方の心を読めないなんて!)

 

 テルミは、ピグマリオンの心の裡が読めなくなっていた。

 愚かしさにも程がある。なんとテルミは、それをたった今、気付いた。

 自分の能力に陰りが出来たワケではない。ならば変化とは、全てピグマリオンの身の上に起きたことだ。

 いったい何が変わってしまったというのだろう。テルミは必死で頭を働かせた。そして思い出す。心あたりは、たったひとつだけだった。

 

 ──私は『役者』だった、ようです。

 ──記憶は相変わらず曖昧なのですが……。

 ──必要な時は『そう』なるのですよ。

 ──もう舞台には二度と戻れないのに。

 ──もう故郷さえ、覚えていないのに。

 ──不思議なものですね。

 ──まだ貴女の役に立つ『役』があるなんて。

 

 ある日、聞き流した言葉をどうしてこれまで軽んじ、侮ることが出来ただろう。

 決まっている。病み人が、医療者に口答えすると想定しなかったからだ。自分自身の病で手一杯の病み人が、他人の幸福を願うなんて思いもしなかったからだ。彼の全てを手に入れたと驕ったからだ。

 その結果。

 彼の言葉は、テルミが自覚を避けていたこと全てを明らかにしてしまった。

 テルミは。

 

(どうしようもなく。誰かのことを愛して、誰かに愛されたい)

 

 彼には、そう願ってやまないテルミの『底』が見えたハズだ。未熟で卑怯で弱い心の根を。

 いまや立場は完全に逆転した。

 

(やっぱり、お父様以外の大人は嫌いだわ)

 

 テルミは冷めた思考を奔らせた。口ではどう取り繕うとも考えていることは同じだ。──どうやって優位に立とうか。どうやって貶めてやろうか。テルミを見た大人が考えそうなことを彼も考えているのだろう。

 ピグマリオンのことは大切だ。ヤーナムに多く存在し、取り立て珍しくもない病み人だ。好きだし愛してもいたが、彼には心ないことを言った気がする。やった気がする。

『大切であること』と『気まぐれに取り扱うこと』は、社会的に最低なことながら、テルミのなかで矛盾する行為ではないのだ。

 それでも。

 ピグマリオンは、そっとテルミの体を戒めていた腕を解いた。

 

「え?」

 

 このまま崖下に放り投げられることまで覚悟していたテルミは、思いがけない行動をとるピグマリオンを見上げた。

 彼は、相変わらず血の気の薄い顔でテルミを見ていた。

 

「何度だって伝えましょう。私は貴女のことが大切です。何よりも大切なのです。だから、私にはどれほどの理不尽や我が儘をおっしゃっていただいても構いません。……月の御使いの貴女、難しいのであれば私は願いを取り下げましょう。でも、せめてご自愛していただけますか?」

 

「貴方……あの……怒っていないの?」

 

「怒るなんて。とんでもない。私が貴女を咎めることは……ふむ……『ありません』と言いたいところですが、私以外の人に迷惑を掛けるのであれば咎めましょう。けれど、私に関することは何も怒っていませんよ」

 

 ざわつくテルミの心を宥めるようにピグマリオンは、手を取り優しく撫でた。引き留めることのない、ただの愛撫だった。

 

「本当?」

 

「意地悪なことを仰ると私は困ります。多少の我が儘は……まあ……『可愛い』で流せるのですよ、私は。きっと貴女のお父様もそうでしょう。大切に想っているのですから」

 

 ピグマリオンが父たる狩人を語る言葉をテルミは嫌った。

 ──わたしの知らない顔を彼には見せるのだ。

 そんな嫉妬をしてしまう自分を自覚することが苦痛だった。

 

「……お父様は貴方のようにわたしを想ってはくれないわ。わたしが死んだって何ともなかったでしょう? ならば、ですから、次は、もう、どうすればいいのか……わたしが分からないのですから」

 

「おや。狩人さんを困らせたくて、頭空っぽで遊んでいたのですか?」

 

「『頭空っぽ』とは失礼ですね。ちゃんと考えていました。その時なりに」

 

「…………」

 

 いまのピグマリオンの顔ならばテルミにも分かる。ホントかなぁ。そんな顔だ。

 ツンと唇を尖らせてテルミは再びそっぽを向いた。

 

「『愛してほしい』なんて言わないわ。ちゃんと……わたしのことを見てほしいだけなの。わたしのことをほんのすこしでいいから考えてほしい。ああ、嘘。息を吐くように嘘を混ぜ込んでしまうの。本当は……本当はね。ときどきでいいから『愛しているよ』って言ってほしい。そうしたら、わたしは安心して息が出来ると思うの」

 

「狩人さんに私から口添えしておきましょうか?」

 

「嫌よ。そんなの嫌! 我が儘で手の掛かる邪魔な仔だと思われたくないの! いいの。放っておいて。──貴方の願いは叶えます。皆に優しい、いい子にしているわ」

 

 捨て鉢にテルミは言った。

 今日はもう、調子の悪い時のクルックスがそうするように寝床で小さく丸くなっていたかった。

 それなのに。

 

「分かりました。口添えしておきます。来年の夏休みの休暇は充実して楽しくなるでしょうね」

 

「貴方は『やめて』って言わないと止まらないのかしら?」

 

「テルミさんの攻撃」

 

 テルミはピグマリオンの胸をポカポカと叩いた。

 

「ああ、咳が出ちゃいますから、お控えになっていただいて。……貴女は嘘を仰ることもあるのでしょう。私なりに気を利かせているのです」

 

「それはねぇ、世間では『余計なお世話』って言うのですよ。……むぅ。でも。はぁ……。どうでもいいです。お好きになさって。貴方の言葉でお父様が動くとは思えません。そんなもので動いたら、今までのことなんか、全部、何の意味も……」

 

「大丈夫ですよ、テルミさん。月の御使いの貴女。……貴女がこんなに好きなのです。きっと狩人さんは応えてくれますよ」

 

 ピグマリオンは、テルミが口を開く気分になるまでいつまでも寄り添ってくれた。

 寂しい思考が「これがお父様だったらよかったのに」と呟く。ピグマリオンの優しさは、こうして誰も幸せにしない。彼は、もっと自分のために願うべきだと思う。もっと自分のことを考えて、もっと自分のために世界を使うべきだと思う。

 そうすれば、そうすれば、そうすれば。

 

(幸せに、なれるのでしょうか?)

 

 生まれてから今まで自分の気の向くままに生きてきたテルミは考える。自分の存在、そのものが信じていた幸せの反証である気がした。

 

「……ピグマリオン、ごめんね。貴方はわたしのことを大切に思ってくれているのに……心配をたくさんかけているわ。わたしが貴方を幸せにするハズだったのに」

 

「貴女の人生が充実するのなら、私など腐葉土になるくらいがちょうど良いのです。お気になさらず」

 

「わかったわ。貴方にもしものことがあったなら花壇の肥やしにしておくわね」

 

「やっぱり嘘です。骨の一欠片くらい空の見えるところにお願いします。シモンさんも『空見えないのやっぱ辛ぇわ』って言っていたので……」

 

 テルミは、いつものように笑った。

 誰に対しても薄く微笑みかけていた顔の内側では、これまでにない価値が生まれようとしていた。

 

「ウフフ、冗談です。お父様のヤーナムでは、死んだままになることの方が少ないのですから心配していません。……でもピグマリオン。あのね。ありがとうね。わたしのこと、考えてくれて……」

 

「貴女のために祈るのが私です。どうか健やかに生きて……生きて下さい。お願いです、月の御使いの貴女」

 

「貴方の願いを叶えましょう。でもときどきは貴方を忘れて遊んでいるかもしれません。まだ幼いのです。……その時は、また叱ってくれますか?」

 

 ピグマリオンはテルミの小さい手を取り、そっと額に寄せた。

 

「貴女が望むのならば、私は果たしてご覧に入れましょう」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 禁域の森の奥、ビルゲンワースの学舎の一室にて。

 七面鳥を入れる檻がようやく見つかり、クィレルは一息ついていた。

 飲みかけのお茶の存在を思い出し、部屋に戻るとテーブルに一枚の手紙が置いてあった。

 クィレルは杖を振って警戒したが、丁寧にたたまれた手紙は爆発することなくテーブルの上に存在した。

 恐る恐る手紙を手に取る。差出人は、やはりテルミだった。

 

 

クィレル先生、こんばんは。

テルミです。朝に浮かれて失礼なクリスマス・カードを送ってしまいました。

ごめんなさい。今は海より深く反省しています。

夏休みにヤーナムに戻りましたら、お詫びのお茶会をさせていただきたいです。

あなたのご迷惑でなければ、ですが。どうかご検討くださいな。

本日は聖夜。異教の信徒ではありますが、あなたの佳い夜を祈っています。

 

 

 クィレルは、手紙を持ったまま学徒のいる部屋へ飛び込んだ。なかでは学徒、コッペリアが本を書架に戻しているところだった。

 

「おっと。慌ててどうしたんだい、クィレル先生。ターキー=チキン君の餌の時間には早いぜ」

 

「こ、これを見て下さい! テルミさん、何か悪いものでも食べたんじゃ……!?」

 

 本を脇に挟み、彼は手紙を受け取った。

 目隠し帽子越しに──クィレルにはどうやって金属を透かして見ているか分からないが──彼は、手紙を確認したようだった。

 

「これは重傷だなぁ。テルミは頭を下げるくらいなら死を選ぶくらい我が儘なんだけど。ハッ。誰かに脅されているのかな。先生、何かした?」

 

「し、して、ないです!」

 

「そう? それじゃあ……テルミの心が、変わったのかな」

 

「心?」

 

「先生はご存じだろう。たくさんの可愛い子供に囲まれていた先生なら」

 

 クィレルは「可愛い子供」の心当たりは数えるほどしかなかったが、コッペリアの言葉を待った。

 

「子供は可能性の塊だ。何かに触れて変わることがあるだろう。誰かと関わって変わることもあるだろう。──テルミにも他の三人に訪れた変化が兆しているのかもしれない」

 

「ああ、なるほど……。それは良いこと、なのでしょうね。きっと良い変化なのだと思いますよ」

 

 クィレルの言葉にコッペリアは答えなかった。

 その代わり。

 

「でも、やっぱり何か悪いもの食べたんじゃない? 誰かの心臓とか」

 

 コッペリアはニヤッと笑った。

 ──ご冗談を。

 そう言いかけたクィレルは、自分が想像していたよりも小さい声が漏れ出したことに驚く。そのため。

 

「ハハハ、冗談。冗談さ、先生。そう緊張しないでくれたまえよ。心臓をどうこうなんて儀式の様式はヤーナムには無いよ。残念なことにね。──いいじゃないか、テルミとのお茶会。楽しいお茶会。素敵なお茶会。時間が止まれば僕も行ってみたいよ。『三月ウサギ』はいないけれど九月七面鳥はいる庭だ。まだ食べ終えていなければ。──フフ、楽しんでおくれ、先生。狩人君も禁じることはしないだろう」

 

 クィレルは、小さく肩を叩かれて学徒の部屋から閉め出された。

 自室に戻る廊下を歩きながら考える。

 四人のうち最も性格の捉えどころのないテルミに何が起きたのだろう。とても気になる。

 

 好奇心は、取り扱いが難しい。特に、このヤーナムでは。

 しかし。

 クィレルは、不安で彷徨っていた視線を廊下の板目に沿って上げた。

 

(もしも、良い変化があったのならば……何であれ見たい)

 

 クィレルは久しぶりに自分の心の中で強く浮かんだ思いに戸惑った。

 久しぶり。ヤーナムに来て初めてのことだった。

 

(ああ、なんてことだろう。まだ。今さらになって……!)

 

 そんな感情を抱いた自分に驚く。

 クィレルは約二年前から突如始まってしまった何も変わらないヤーナムの日常に満足していた。愛すべき停滞は、確実な平穏を彼に約束した。不足はあれど埋め合わせは出来る。人は争わず、競わず、また、比べることがない。

 満足していた。穏やかだった。

 それなのに自分はそれを願っていることを知ってしまった。かつてアルバニアの森へ足を向けた時と同じ願いをまだ抱いていることが分かってしまった。

 

(どうして、私にも何か変化が訪れたらよいのに、なんて考えてしまうのだろう?)

 

 なぜ人間は、ただ生きていることに満足していられないのか。

 クィレルは、そろそろ理解に辿り着こうとしていた。

 




プロフィールが更新されました
名前:テルミ・コーラス=ビルゲンワース
性別:女性
所属:医療教会(聖歌隊所属孤児院)
一人称:わたし
得意武器:仕込み杖、ルドウイークの聖剣、月光
苦手武器:獣狩りの斧、獣肉断ち、回転ノコギリ、寄生虫
趣味:お喋り、料理、採血、お散歩
好きなもの:お父様、家族、病み人
嫌いなもの:退屈、海、動かないもの、星、方角
夢:愛すること/愛されること
まね妖怪:大量の水。深海
みぞの鏡:狩人から愛される自分


ピグマリオンとテルミ
 本話のとおり実のところ相性が良くない二人です。
 テルミが信頼するのは心が透けて見える人だけ。つまり自分が完全に上位存在として有利に振る舞える人/時だけです。
 彼女の存在性は強靱ですが身体的に弱いため、心を開示させる特技は残酷な仕打ちと誹られようと身を守る術でもありました。(それはそうと他人の取り扱いが残酷なのは彼女の性格が悪いところで、クルックスが指摘を逃していた点でもあります)
 そんなテルミに対し、自己暗示をキメている時のピグマリオンは役を被り、本性が見えなくなるため相性のよくない人物です。だからこそ心が見えずとも真摯な彼の声は、彼女に届いたようですが。


クィレル先生、気付いてしまう
 好奇心の取り扱い要注意地帯にいることはご存じなので、悪くはならないでしょう。周囲の人々も『よかれ』と思っていろいろ手助けしてくれるでしょうから、ヨシッ!


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テルミのお茶会(Ⅱ)


お茶会
広く、茶を飲みながら話を交わすのを愉しむ集まり。

狩人の仔ら、特にテルミは人と話すことを好む。
星の徴を得ようとした瞳の系譜は、人界において、よく見える瞳でしかない。
しかし人の顔から心まで見通すことは、彼女にとって本を開くことより容易い。

秘密を持つ者ならば、注意すべきだろう。
最も彼から遠い──それは、本質的なところ、正しき心からも遠いことを指すのだから。
しかし、懇願により微かに生まれた良心は、この在り方を善いものとはしないだろうか。



 クルックスは、日頃より軽い足取りでホグワーツへ帰還した。

 ビルゲンワースの学徒は、いつものとおり研究室にこもっていたようだが来訪を告げる鐘ですぐに現れた。

 九月に学舎を離れた時に比べ、自分はまた背が高くなったらしい。目に見える成長は貴重だ。血の遺志を力の糧にすることとは、根本が異なることだと感じる。

 

(血の遺志で成長することが異常なのだと忘れそうになる。人は、成長する。時間と共に、変化する。……あたりまえのことだが、それがあたりまえではないお父様と話した後では、とても貴重なことに思えるな)

 

 こうした確認作業は、何度やってもよいものだ。クルックスはホグワーツで賑やかな学生が去った後の寝室を眺めた。

 まだ休暇は存在する。

 起きだしてからぼんやりと二年間の思い出に浸かっていたが、階下から大きな声が聞こえた。誰かが叫んだようだ。それは『楽しくて大声が出た』という楽しげな声ではない。

 ちらりとシリウス・ブラックのことを考えたが、耳を澄ましても争う物音は聞こえない。

 足音を立てないように階段を降りるといつもの三人、ハリーとロン、ハーマイオニーが顔を突き合わせていた。いつになく真剣で、ただならない出来事が彼らの身の上に起きているのだと察した。

 階段を数段登り、彼らから見えない場所に立った。

 

「──吸魂鬼がブラックを捕まえるし、アズカバンに連れ戻すわ。それが当然の報いなのよ。だからいま大切なのは、あなたが軽はずみな行動をしちゃいけないってことよ」

 

「ファッジが言ったことを君も聞いただろう! あいつはアズカバンでも平気なんだ! 他の人には刑罰になってもあいつには効かないんだ!」

 

「じゃ、何が言いたいんだい? まさか、ブラックを殺したいとか、そんな?」

 

 突然飛び込んできた剣呑な言葉の群れにクルックスは驚いた。 最悪の言葉が飛んでくることを覚悟した声でロンが訊ねた。

 ハリーは何かを話しかけたのかもしれない。遮るように悲鳴を上げたのはハーマイオニーだ。

 

「バカなこと言わないで! ハリーが誰かを殺したいなんて思うワケないじゃない。そうよね? ハリー」

 

 ハリー・ポッターとシリウス・ブラックに接点があるとはテルミの情報から知っている。夫妻の隠れ家の秘密を持っていたとか、名付け親だとか。しかし、その接点をこれまでハリー自身が知らなかったというのは意外な話だ。クルックスは突然、顎の下が痒くなった。

 さて。この事実からわかることは、隠した者がいるということだ。その隠した意図は、何だろうか。

 

「ああ、そうか。マルフォイは知っているんだ。だから『魔法薬学』のクラスで『僕なら、自分で追い詰める。復讐するんだ』なんて言ったんだ。ブラックはヴォルデモートの手下だった。マルフォイの父親が話したに違いない──」

 

「『例のあの人』って言えよ。頼むから!」

 

 とうとうロンが怒ったように口を挟む。

 

「お願いだから冷静になって!」

 

 ハーマイオニーが懇願した。声は、奇妙に上ずりときおりヒッと息を飲む音が聞こえた。もしかしたら泣いているのかもしれない。

 それからしばらく三人の言い争う声が聞こえた。

 シリウス・ブラックに暗いの感情を募らせるハリーと思い留めさせたいロンとハーマイオニー。

 クルックスは階段に座り石造りの壁を眺めた。らせん状のそこでは、視線を彷徨わせていると次第に天井へ上っていくことを自覚した。彼には、ロンとハーマイオニーの論が正しいように聞こえる。しかし、一方で納得を優先したいハリーの気持ちも分かる。

 

「あなたのご両親は、あなたが怪我することを望んでいらっしゃらないわよ!」

 

『ハリーの両親は、ハリーを生かすために自らを犠牲にした』とは初めて聞く情報のように思う。どのような理屈なのだろうか。いや、どんな理屈にしろ、もしそうなのだとしたらハリーが危険を冒し、みすみす死ぬことはないだろう。

 

「──父さんと母さんが何を望んだかなんて、僕は一生知ることはないんだ!」

 

 これも一つの正当な主張に聞こえる。

 ハリーの両親が、自らの死の間際に『息子よ、自分を殺したコイツを殺せ!』と願わなかったことを誰が立証できるだろう。ハリーが復讐の道を選ぶならば、亡き彼らは仇を取るために挑むことを喜ぶかもしれない。

 

 今のところ三人に存在を悟られていないクルックスが、意見を求められることはないのだが。

 

 もし、クルックスが助言するとすれば「やめておくことだ」と止めてしまうだろう。

 一度しか死ねない人間が、いなくなった人間のために命を使うことはない。まして、いなくなった人間は、ここにいるハリーのために命を使ったのだ。

 異常が常である人間にとって、積み重ねた奇跡の有り難さを認識することは難しい。その難しさをクルックスは身に染みて知っている。未だ正しく『喪失』を理解できない自分が、意見を求めらないことを幸いに思った。また『よかれ』と思って背中を押しても引き留めても、今度は『本当にそれでよかったのか』と思い悩むことになるだろう。

 とはいえ。

 言わないならばそれはそれで、思い悩んでしまうのだが。

 

(『何もしない』は、それはそれで心が苦しいものだ。何もしなければ何も起きないワケではない。なるようになるだけだ。……お父様も、お悩みなのだろうな)

 

 クルックスは考える。──ハリーより先にシリウス・ブラックを見つけることは出来るだろうか。

 もし、見つけたら、その時はどう振る舞うべきだろうか。彼は、その可能性を考えずにはいられなかった。

 

(『取らぬタヌキの皮算用』とはヤマムラさんが言っていたな。タヌキが何なのか分からないが……。そして、連盟の長風に言えば『獣が死ぬ前に虫を数えるな』というヤツだ。……俺が考えても仕方がないことだ。談話室前でばったりブラックに出くわすでもなければな……)

 

 直接手を下しても、下さなくとも、ハリーの気持ちは晴れないだろう。彼への憎しみは、両親への愛の裏返しだ。愛に囚われる場合、一五〇年以上の憎悪を保ち続けることを覚悟しなければならない。

 

 そこまで考えが至ったところでクルックスは、隠した意図が分かった気がした。

 ──ハリーが悩まないように。苦しまないように。真実で傷つくことがないように。

 もし、そんな思いがあったとしたらハリーにとって幸いだろうと思う。

 今も彼は大切に温かい感情によって守られている。その証明になるからだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 テルミは、温室周辺の雪かきを条件に温室の使用許可を得たのだという。

 そのため。

 

「雪かき終わったぞ」

 

「ありがとう、クルックス。わたしの杖は、そういう仕事に向かないから助かります」

 

 クルックスはテルミから仕事を承り、朝食後からセラフィと作業をし続け、途中でセラフィが厨房へ食料を取りに行くため離脱した後、ようやく作業を終えた。

 頭に積もった雪を払い、外套を脱ぎバサバサと振るうと雪の水気を払った。

 

「君の杖は、シカモア、不死鳥の尾羽、ぴったり二〇センチ」

 

「あら、覚えていてくれたのね」

 

「俺はシカモアという木を知らない。そして不死鳥の尾羽の杖を『きょうだい』で持つのは君だけだ。ネフほどではないが、俺もちゃんと覚えている。珍しいからな」

 

 テルミは、クリーム色の明るい杖を手に取る。

 木目は表面の光沢のため、いつも微かに輝いているように見えた。

 

「シカモアの木材は、よく乾き、狂いがなく、重さもやや均等。まっすぐなシカモアの杖は、すこし脆いのが難点。そして『不死鳥の尾羽』を使っているせいか、この杖は気位が高いの。わたしと調子を合わせてくれるよい杖ではあるのだけど、仕事を選り好みする傾向があるの。雪かきなんて任せたら燃えそうね」

 

「燃える? 杖が?」

 

「ええ、そう。誰かに似て、退屈が嫌いなのですよ。オリバンダーさんは『新しい経験や刺激ある仕事を好む杖ですよ』と言っていました」

 

「君は、ハッフルパフ生に選ばれる忍耐力があるが、どうにも気まぐれなところもある。俺は悪癖だと思っているんだが」

 

「へえ、クルックスはわたしのことそう思っていたの。へー、そー、へー」

 

 外套を椅子の背に掛けたクルックスは、目の前に滑るようにやって来たコップを取る。そのためテルミが不機嫌に半目になったことに気付かなかった。

 

「ありがとう。喉が乾いていた。ん、うまい。──新しい経験を求めることは良いことだと思う。狩人は何も恐れるべきではないのだが、よくない方向に転ぶことばかり考えてしまって俺は最近臆病風に吹かれている……」

 

 テルミは、丸く大きな目をパチパチと瞬かせた。

 それからふわりと柔らかく微笑んだ。

 

「まあっ。弱気な貴方は珍しい。お父様と同じで慎重なのは良いことですわ。それに慎重な貴方と気まぐれなわたしと、二人で一緒にいればちょうどいいでしょう?」

 

「……そうかもな……」

 

 乾いた喉を潤しながら、クルックスは考える。作業に集中している時は考えなかったことが頭に次々と浮かんだ。

 

「またお悩みなのね。今度は何の悩み事かしら。尽きませんね」

 

「取り返しのつかないものを失ったとき、人はどうするべきなのか。考えさせられることが、このところ多くある」

 

 ふぅん、とテルミは鼻を鳴らした。

 結局のところ、クルックスはハリー達に何も告げなかった。望まれなかったからだが、そもそも言うべきことがまとまらなかったのだ。

 

「貴方が何もかもに関わることはないでしょう。彼も彼女も自分で選んだことを正しいと信じてやるだけです。だって、彼らはそうしたいのですから」

 

「『そうしたい』? 本当にそうだろうか。状況に選ばされているような時がないか?」

 

「そう見えたとしても目の前にある結果は、いつも小さな選択の積み重ねです。選択の誤りを知っている人は、自らの選択の責任から逃避するために『運命』と言葉を弄することでしょう」

 

「運命……。なぜだろう。そう説明されるとうんざりする響きだな」

 

「ウフフ、真に運命と呼ぶべき存在が魔法界にはあるのかもしれません。それを予め誰かに告げたものを予言と呼びますが、ホグワーツの予言者は……あんまりそれらしくないですね。……さて、それで貴方の悩み事はまたハリー・ポッター? 今頃『復讐するぞー!』とやる気になっているのかしら?」

 

「まさに今、悩んでいるところだな。今日はハグリッドの小屋に行くようだが」

 

「踏みとどまるとよいですね。やってしまうとよいですね」

 

「どっちだ」

 

「フフ、吸魂鬼にうろうろされて不調になっているのはセラフィだけだと思いまして? わたしのイライラもそろそろ限界ですから、もうこの辺でハリーには生きたり死んだりして片を付けて欲しいというのが本音で──あ」

 

「どうした。『あ』って」

 

 テルミは歯がムズムズするような顔をして手を額に当てた。

 

「ああ、もう、わたしったら……。こういう、心あることや心ないことを言わないようにしようと約束したのですよ、ピグマリオンに。……気を抜くとすぐに話してしまうの」

 

「それは俺と君が気の置けない関係だからこそだろう。君が本心から『ハリーが片付けられる』ことを望んでいるとは思わない。性質の悪い冗談の類いと聞き分けている」

 

「聞く者に配慮を求める話者ほど厄介なものはありません。それは聞く者の心をいたずらに惑わしているのですから」

 

「どういう意味か」

 

「聞く者は自分に都合の良い言葉の理解をするでしょう、ということ。占い学の先生のようにね」

 

 クルックスは、その言葉を聞いて父たる狩人に行った『お茶の葉占い』でとても曖昧なことを言ってしまったことを思い出した。

 

「……しかし、その後『でも騒ぐほどでもないかぁ』と気にしていらっしゃらない風だったから……ふむ、まぁいいか……」

 

「何の話かしら?」

 

「お父様への説明を誤ったかもしれない、という話だ」

 

「あら。後で釈明に伺うべきですね。……ええ、それで話を戻すけれど、ハリーはやるだけやるべきでしょう。復讐が出来たらスッキリするわ」

 

「本当か? 本当にスッキリするか?」

 

「すると思うわ。やるだけやれば後悔が少ないでしょうから」

 

「そうだろうか……? 復讐なんて暗い業だ。スッキリなんてあり得ない。スッキリするのは連盟の虫潰し以外ないのに」

 

 クルックスは水を飲み干した。

 薪ストーブの上に置かれた鍋の様子を見て、テルミはまたクスクスと笑った。

 

「彼がどう選択するのか。貴方は、見守る必要があるのかもしれません。自分の選んだことで破滅するでしょう。栄えることでしょう。それも彼の人生です」

 

「心配を煽らないでくれ。何も起きないかもしれない。いやでもな」

 

 テルミはテーブルにカップとソーサーを配しながら、急にテキパキした口調で告げた。

 

「他人の人生にまで責任を負って、やり直しの作り直しなんてお父様のような考えは早すぎます。よって、クルックスが気にすることはありません。この話はお終いです」

 

「それは……そうかもしれないが……」

 

「かもではなく、そうなのです」

 

「そう、うん」

 

 クルックスは、テルミの切り替えの速さについて行けないときがある。ひとまず頷いた。

 

「貴方のお節介な優しさは、今日のお茶会では忘れてほしいものですね」

 

「お、お節介?」

 

「あら? 『でしゃばり』とか『差し出がましい』とか言った方がよかったかしら?」

 

「でしゃっ……さしっ……」

 

 余計なことをしたり、考えていたりする自覚はあるため、クルックスはテルミと見つめ合っていられなくなった。

 

「わ、忘れることにする。君の助言を俺は真摯に受け止めて……受け止めて……うぅ……うぅ……」

 

 お節介。でしゃばり。差し出がましい。

 テルミにこういうことを言われるのは、胸の奥がシクシクと痛んだ。

 

「はい、結構です。では、何か役立つことをしましょう。お茶の淹れ方を教えてあげますね」

 

「お、おお。俺はユリエ様に教えてもらって、すこし知っている」

 

「お茶の種類によって淹れ方がちょっと違うのよ。すこしだけ美味しく飲めるわ。知っておいてもよいでしょう」

 

「ああ、最近は占いも覚えたからな」

 

 テルミは、茶漉しを用意していたがそれを聞いて茶漉しをわきに避けた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「やぁ、待たせてしまったかな」

 

 セラフィとネフライトが厨房からサンドウィッチやスコーンをどっさり持ってやって来た時、温室には柔らかな茶の葉の匂いが広がっていた。

 

「私を顎に使う機会を逃さないな、君は」

 

 ネフライトが嫌そうな顔をしてテーブルにスコーンの入った籠を置いた。

 

「単純な役割分担です。ウフフ、わたしの差配を聞いて、いちいち『テルミは私のことが嫌いだ』や『私への嫌がらせだ』と意識しているの? いっぱいわたしのことを考えていて可愛いですね?」

 

「吐きそうだ。発想が病的。吐瀉物」

 

「ネフ、君はテルミのことが気に食わないのにわざわざ食ってかかる癖がある」

 

 セラフィが、髪に付いてしまった雪を払い除けながら言った。

 

「やられたままが嫌なだけだ」

 

「僕には君から喧嘩を売っているように見えるが、まあ、いつものじゃれ合いなのだろうね。口を挟むのも野暮だったかな。二人とも可愛いね」

 

「吐きそう。発想が血族並。食べる前に戻しそうだ」

 

 ネフライトは、ローブの雪を払うと席に座った。

 テルミは細長い箱を取り出した。赤いリボンが付いている。

 

「貴方のために、ちょっとしたプレゼントを用意していたの」

 

「私に施しをして君に利などないぞ」

 

「どうして親愛に見返りを求めるでしょう。実用的なものですから是非使って下さいね」

 

 彼は仕方なしに箱を受け取った。受け取らなければ話が進みそうにないと見たようだ。

 

「…………」

 

 クルックスとセラフィはネフライトの後ろで箱の中身を見た。

 

「細長い金属棒だな」

 

 クルックスは「見覚えはない」と告げた。

 

「医療器具かな」

 

「拷問器具かも。カインハーストで、こういう棒を見たことがあるよ。使い方はまだ教えてもらっていない」

 

 ニコニコ笑って聞いていたテルミが、一向に回答に辿り着かない三人の言葉を聞いて「違います」と手を振った

 

「ストローですっ! 檻の中でも飲めるようにストローを買ってみました。貴方に使って欲しくて」

 

「食事中はメンシスの檻を外すので要らぬ節介だが、まあ、もらっておいてやろう。君の消費を浪費と呼ばないために」

 

「嬉しいことです」

 

 ネフライトは、プレゼントの箱ごと衣嚢に納めた。

 

「えっ。使わないのか?」

 

「クルックス、そろそろ君は私より豊かな想像力を持っていると気付いてもよい頃だ。──熱い飲み物をストローで飲んだらどうなると思う?」

 

「熱い飲み物を……? ……? あ、火傷するのか……」

 

「自分で気付いてくれて嬉しいものだな。君達も座りたまえ」

 

 クルックスをさりげなく自分の隣の席に促し、ネフライトは自分のソーサーを引き寄せた。

 

「……君の優しいところ、もっと素直に表現すればよいのに。可愛いね」

 

 セラフィは、ネフライトの肩を小さく叩いた。彼は鼻を鳴らして何も応えなかった。

 ──可愛い。

 その言葉の意味をクルックスは、知らない。辞書的な意味は知っている。しかし、覚える感覚のうちどれが可愛いの感情の発露なのか、彼はまだ分からなかった。生活に伴って発生する感情は雑多だ。本来の生き物ならば、成長に伴って快と不快という単純なものから憐憫や哀惜という複雑な感情を経験により学んでいくのだと思う。そういった段階を踏まずに生まれた仔のうち、特に自分は感情の分別に鈍いようだった。

 お茶とお菓子の設置を終えて席に座ったテルミを眺めていると、クルックスは隣に座るネフライトに声を掛けられた。

 

「クルックス、歯を見せてくれ」

 

「何?」

 

「さっきから顎に力が入っている。どこか痛いのかと思っているのだが、違うのか?」

 

「どこも痛くない」

 

「自覚がないだけかもしれない。見せてくれ」

 

 彼は杖を抜き「ルーモス 光よ」と呟いた。心当たりはなかったが、いざ指摘されると顎が疲れているような気がした。

 次に彼が取り出したのは丸い鏡が付いている細長い棒だった。

 

「小さな鏡だな」

 

「これは、歯鏡と言うのだよ」

 

 衣嚢から取り出した小さな箱には、歯科の道具が入っているようだった。

 口を開けてジッとしている間、クルックスはテーブルに広げられた道具を観察した。ピンセット、探針、抜歯鉗子、脱脂綿まで備えている。

 

「ふむ。異常はないようだ。歯も歯茎も異常なし。……君はストレスを感じていると歯を噛みしめる癖があるのかもしれないな」

 

「ん……。気を付ける。この道具の世話にはなりたくない」

 

 クルックスはネフライトの歯科道具を見て言った。彼は、清潔な白い布で歯鏡を包むと箱の中に入れて衣嚢へ納めた。

 

「何か困っていることがあるのか? 悩み事などは?」

 

 ネフライトの言葉に、これまた隣のテルミの視線がチクリと刺さる。けれどハリーの事を考えてはいなかった。直前まで考えていたのは『可愛い』のことだ。

 

「『可愛い』とは、テルミやセラフィはしばしば口にするが……俺は、初めてその言葉を聞いたときから理解に努めてきたのだが……それはつまり『噛みつきたい』?」

 

「私には君の言葉が理解できない」

 

「クルックス、やっぱり悩み事のほかに嫌なことがあったわね? 違うと思うわ。何もないのなら獣性高すぎる発言は控えましょうね? わたし達やここでは構わないけれど、でも社会的に……。ねぇ、セラフィ?」

 

 即座に否定したネフライトとテルミ。これはクルックスの想像の範囲内だ。セラフィもネフライトとテルミに同調することまでクルックスの予想をしていたが、彼女は宙に何かを探す目の動きをしてすぐに答えなかった。

 

「セラフィ?」

 

「え、僕……ぁ、んっ……どうなのだろう……そう、かも、しれない……いえ、僕が『可愛い』に相応しいハズは無いのだけど、でもこの体に恥じるところはひとつもないから……」

 

「何だ何だ、何が始まってしまったと言うんだ。君の言葉も理解できないぞ!」

 

 ネフライトはセラフィとクルックスを交互に見た。

 

「どうしちゃったの? セラフィ」

 

「な──でもない。ぼ、僕と先達の問題だから、今は関係ないんだ。でも『可愛い』で噛みつきたいこともある、かも、しれないと思う」

 

 セラフィがごく自然な動きで右手で首に触れた。休日は高襟シャツとベストを来ているセラフィの首筋は、ほんのわずかしか見えない。この発言でネフライトとテルミはセラフィの身に起きた何かを察したが、埋まっている地雷をわざわざ爆発金槌で殴り付ける趣味はなかったので暗黙のうちに『今は関係ない』ものとした。

 三人に起きる変化を感知できなかったクルックスは、笑顔で手を叩いた。

 

「『噛みつきたい』は、あるだろう? そうだろう、そうだろう、『可愛い』の感情に近い行動だと思っている」

 

「ええと、クルックスはわたしを見て噛みつきたいと思うの?」

 

「心外だ。俺が、君を傷つけることはしない」

 

 この発言にテルミはなぜか唇を尖らせた。

 

「ではお聞きしますが、どんな時に?」

 

「たとえば……猫が──グリフィンドールにはクルックシャンクスという猫がいるのだが──顔を両手でくしゃくしゃ掻いているときだな」

 

 今年の一年生から入学後の数ヶ月間、寮監であるマクゴナガル先生だと勘違いされていた猫ことクルックシャンクスはクルックスにとってヤーナムの外で初めて見る『普通』の生き物だった。もっともクルックシャンクスは彼のことが嫌いだった。彼が入ってくると素早く女子寮に駆け込んでしまう。

 けれど。

 

「欠伸をして陽の当たるところでクゥクゥ寝ているのは、きっと『可愛い』なのだと思った」

 

「──ネフ、診断は?」

 

「一般論として猫のそれは『可愛い』仕草と言えるのではないか? 私はたまたま読んだことのある小説内でそういう描写を見かけたことがあるため、そう判断するだけなのだが……。あ、いいえ? そういえば、内科の診断は君の領分ではないか。怠慢だ。私に聞くなよ」

 

「他は……猫が、ソファーからソファーに飛び移ろうとして失敗して、床に伸びたときだな」

 

「……うーん……」

 

 テルミは、曖昧に小首を傾げた。

 

「猫を見て『噛みつきたい』と感じたときに唾液の量が増えていなければ、君は『可愛い』を感じている、としてもいいのではないか。専門家ではない意見だが」

 

「そんなぁっ、わたしはお父様が生み出した最高に可愛い仔なのに!」

 

 テーブルの下でテルミが袖を引いた。

 

「おや、反論しないのだね?」

 

 面白がるようにセラフィがネフライトに訊ねた。

 

「『最高に可愛い』と自分で言うのはおおよそ品位が試される行為なのだが、お父様のことに言及されると私でも詭弁を作るのに苦労する。君や彼女の容姿が整っているのは、私にも分かるからな。完全な左右対称の顔の造形とは存外少ない。……お父様関連のあれこれに私は出来るだけ関わりたくない」

 

 セラフィとネフライトがボソボソ言い合う話は、二人に聞こえていなかった。

 

「テルミに感じるのは親愛や友愛の感情であって、噛みつきたくなる可愛さではないようだ。俺はそれでよいと思っている」

 

「でも『可愛い』ってときどきでいいから……言ってほしいですね」

 

「俺は君に心ないことを言えない。いいや、誰にも言うべきではないのだろう。……けれど、いつか分かったら君にも伝えたい」

 

「なら、貴方の不理解を許します。……絶対ですよ? いつかちゃんと『可愛い』って言ってね?」

 

「分かった」

 

 テルミは、そっと袖を離した。

 クルックスは、話題を切り替えるように一度手を叩いた。

 

「さて。俺の情動の理解が多少進んだところで本日の主題は、お茶会である。年の暮れでもある。余興だが、ささやかな占いをするにはよいかもしれないと茶の葉で紅茶を作っている。復習にもなるだろう。……とにかく穏やかで楽しい時間を過ごしたい。昨年ほどではないが、シリウス・ブラックのことで落ち着かない出来事が多いからな」

 

 クルックスの一声で、お茶会が始まった。それはサンドウィッチなどの軽食を含む昼食を兼ねたものである。夜にはクリスマス・パーティーが控えているが、構わず量が多かった。クルックスとセラフィが多く食べるからだ。

 ティースタンドに満載されたサンドウィッチやスコーン、クッキーに各々が手を伸ばした。

 

「美味いな。チキン。かなり美味しい」

 

「うん。いいね。僕も好きな味だ。ハーブと塩があれば、たいていのものは食べることが出来そうだ。──お茶のお代わりがほしいな」

 

「占いするのにお茶を継ぎ足して良いのかしら?」

 

「ハァ、ダメだろうな」

 

 スコーンにバターを塗りながらネフライトが低い声で言った。──良いワケないだろう。

 

「でも足しちゃいましょう。占いは、余興ですから」

 

「ありがとう。ところで『占い』というものは、興味深い。茶の葉の占いを僕もしてみたが、滓は人によって鳥にも犬にも見えるだろう。そんなものが占いの学問として成立することは、とても不思議だ。人々は、本当にそれを信じているのだろうか? 授業を受けているとどうにも皆本気で信じているのだろうかと疑わしいことがある」

 

「占いは、偶然の連続性を受けとめるための手段だ。そのため個と世界への付き合い方と言うべきか。理解の仕方と言うべきか。有史以前より人間は、己の知の先を知りたがった。農夫に明日の天気が分かれば、今日の仕事をより良くこなせるだろう?」

 

 ネフライトは、スコーンを食べ終えると紅茶を飲んだ。

 セラフィが再び空いたカップをテルミに渡した。紅茶の継ぎ足し催促ではない。占いを求めているのだ。

 新しいスコーンに手を伸ばしながらネフライトは続けた。

 

「占いを知ったとき、人はいかに言葉と自分のおかれた現実の状況を結びつけるだろうか? 思う強さ。自分に関連することだと思い込む強さが、占いひいては予言の実効性を保証する。そのため不吉な占い結果が出たが『それは私のことではない』と思い忘れた場合、その占いはただの言葉で終わる。囚われてしまえば、それはいつか本当の予言になってしまうのかもしれない。実証不能。試算が必要な実験であるから、これはただの私の推察だが」

 

「興味深いものだね。予言、ヤーナムにもあるのだろうか? 『赤子の赤子、ずっと先の赤子まで』という上位者の言葉がある。これも一種の予言なのだろうか?」

 

「それは、正しく呪いだろう」

 

 口を挟んだのはクルックスだ。ネフライトはスコーンに齧り付くと話を譲り、静かに指を組んで聞いている。

 

「うまく言えないが、呪いも予言も結局は同じことなのかもしれない。呪いとは、ひとつになろうとする力のことだ。言葉によって定めた結果に引き寄せようとする予言も同じ。言葉によって予言を現実という『ひとつ』にしようしている。俺はそう考える」

 

「では、お父様は『呪い』をどうにかしてしまいたいのだから『予言』に抗っているという見方も出来るかもしれませんね」

 

「言葉遊びが好きなお父様だ。事態を悪くしているのならば、呪いでも予言でも構わないのかもしれないな。それで、何が見える?」

 

「茶色いふやけたのがいっぱい。冗談です。うーん。これは……マストですね」

 

 クルックスは、誰の目にも不自然ではないようにサンドウィッチを一口囓り、紅茶のカップを持った。なみなみ注がれた水面を微かに傾ける。水面に映るセラフィは、顔色こそ変えなかったが「ほう」と相槌をうつのに一拍の奇妙な空白があった。

 

「マストという物を思い出すのに時間がかかってしまったよ。突飛なものだ。マストとは? フネの帆柱のことかな?」

 

「それと歪んだ十字架。むむ? 海かフネに関連することで貴女には、試練と苦難があるでしょう、という占いになるのかしら……?」

 

「君の紅茶、さっき継ぎ足しただろう。私ならまともな占いとして取り扱わないね」

 

 ネフライトが小馬鹿にしたように笑う。恐らく、こういう態度が占いに対しては必要なのだ。クルックスは自分に言い聞かせるように何度か頷き、温い紅茶を飲み干した。話題を変える必要があった。

 

「……。僕もそうしようかな。フネやマストのことは、よく分からない。……ああ、夏休みに行った海岸はとても楽しいものだったが、帆船は見かけなかった。いつか動いている帆船を見てみたいものだね。でも帆船とは、今となってはずいぶん時代遅れとなっていると聞いたが」

 

「お茶の葉ならば俺のも見てくれ」

 

「クルックスのは……むぅ……月ですね」

 

「む? それだけ?」

 

「それだけです」

 

「占いの結果は?」

 

「『俺が見守っているので大丈夫!』ということでしょう。お父様への交信、わたしは全然うまくいかないのに」

 

「お父様の頑張り次第で俺はカインハーストに出荷されることになる。見守って下さるのはとてもありがたいが、出荷は避けてほしいので、どちらかといえば血族のお仕事を優先してほしいのだが……」

 

「カインハーストは良いところだよ。クルックス。君は僕の先達を誤解している。カインハーストは良いところだよ」

 

「そ、そうだな。俺もそう思う。思いたい。うん。でもまだ俺には早いんじゃないかと思う。そうだ。君からカインの先達に口添えしてもらえないか?」

 

「君を騎士にするようにだね。任されたとも」

 

「いえ、俺はカインハーストに行きたくないので気が進まないとかそういう話をして欲しいんだが……」

 

「……? 世界で最も素晴らしいカインハーストに招待されるのにどうして気が進まないと言うのか?」

 

 ネフライトは、茶を噎せた。セラフィはほんのすこしネフライトに注目したが、クルックスの咳払いに再び注意を彼に向けた。

 

「連盟員だからな。連盟の活動があるので無理だ。俺がお父様のように両者の活動を頑張れる器用だと思っているのか? 無理だ」

 

「君はもっと技量を高めた方がいい。君の内臓攻撃は力任せで雑だ」

 

「忘れず貯血を崩したら高めておく。君の助言を俺は真摯に受け止めて……受け止めて……ぐぅ……なんだろうな、この屈辱感……」

 

 ともあれ、話はマストから逸れた。占いの内容は気になるが、話題の転換としては十分だろう。

 チョコクッキーを囓り、テルミが「ねぇ」と新しい話題を切り出した。

 

「クルックス、お父様に会ったのでしょう? 例の『髪飾り』はどうしたのかしら」

 

「あ、ああ、興味深いと言って弄くり回していた。壊していない。壊していないぞ」

 

 クルックスは、自分も勘違いしてしまったことだったので二回言った。

 その結果。

 

「壊したの?」

 

「壊したのか」

 

「壊したんだな。お父様に学び得るものがあれば、私はそれでよいのだが」

 

 やっぱり他の三人も狩人に預けた結果『もう壊した』という感想に至ったらしい。

 

「こ、壊していないと言っているだろう。まだ。解明するまでは……。人形ちゃんはあれを『生きている遺志の塊』と言っていた。新鮮な呪いなのだろうな。いつからこの学校にあったのだろう? 『灰色のレディ』、彼女は知らなかったようだ」

 

 クルックスの疑問にテルミはもちろんネフライトも答えを持ち合わせなかった。

 

「ヴォルデモートの正体、トム・リドルのことを考えれば約五十年前から現在までの間と考えられる。トム・リドルが在籍中に置いた説を支持したいところだが……もしも、そうではないと考えると昨年度のバジリスク騒動を引き起こした日記のように外部の協力者ないし髪飾りの呪いを知らない者により持ち込まれた、と考えるのが妥当だろう。もっとも卒業後にホグワーツに訪れた経緯が無ければ、の話だ」

 

「とにかく今年度の夏休みは、お父様の自由研究の結果が聞けるのね。とっても楽しみですね」

 

「あ、あまり期待しない方がいいだろう。虚な生きている肉体の確保が必要だとおっしゃっていたし……。お父様へのプレッシャーになるかもしれない」

 

「内容は二の次です。お父様がわたしに向かって挨拶以上の長い言葉を喋るだけで満足ですから」

 

 それは期待しなさすぎるとも思ったが、微妙な差異を説明できる気分にならなかったので発言を控えた。

 しばらく他愛のない日々の話題が続いた。授業を最も多く取っているネフライトの宿題は毎日多忙であるとか、セラフィは互助拝領機構で話せる人が増えているとか、テルミの交友関係は相変わらず優秀だが一年生とよく間違われるとか。

 

「わたしはだいたいの人と仲良くしていますが、ルーピン先生はとても言葉がお上手ね。いつもするりと逃げられてしまいますわ」

 

「ほう。どうして話を?」

 

「ルーピン先生には、ヤーナムに来ていただきたくて」

 

 テルミが、他愛のない話題にさらりと流し込んだ言葉にクルックスを含む他の二人が緊張しているのが分かった。セラフィは片方の頬を膨らませままスコーンを眺めているし、ネフライトは「ハァ?」と煽り出した。

 

「ええ? ウフフ、皆さん、ご存じでしょう? だって授業で習いましたものね?」

 

「……君が思わせぶりなことを話しているワケではないことの証明に、全て話してくれ」

 

「ひと言で済みますわ。──だって。ルーピン先生は、人狼でしょう?」

 

 テルミが、蒼い瞳を細めて三人を見回した。

 誰も「そんなハズはない」と反論しなかった。

 

「あらあら、皆さん、おわかりのことをわざわざ説明させたのですね? いいえ、いいえ、困りません。共通理解は必要ですから。今年は、ホグワーツでの収穫が多くて嬉しいものです」

 

「人狼だが、先生だ。よって、かの先生はヤーナムとは関わり合いにならない」

 

「そう頑なにならないで、クルックス。強硬手段ばかりが最初で最後の手段のように語ってほしくありません。丁寧に、それはそれはもう丁寧に。お手紙から対面の交渉まで手を尽しています。──だって、とっても気になるでしょう? 人狼は、魔法界においてありふれた存在ではありません。こんなところで出会えるとは思っていませんでした。夏休みに旅行に行く予定がなくなってしまいますね」

 

「俺は、反対だ。スネイプ先生が代理で教鞭を取った時に説明していたが、人狼は薬である程度の自我を保ったまま存在できるのだろう。ならばヤーナムの獣の病と同等に取り扱うべきではない」

 

「テルミに同意することは信条に悖るのだが医療教会関係者の立場としては賛成だ。完全に同じ病状ではない、類似の症例から見えることもあるだろう。──私は夏休み直後、彼の私宅で誘拐を計画していたが君の交渉で済めば私の旅行予定もなくなる。せいぜい励みたまえ」

 

「おい」

 

 クルックスは、テルミとネフライトに反論しかけた。しかし、その前にスコーンをようやく流し込んだセラフィが話し始めた。

 

「僕はどちらでもよい。獣の病についてはどうでもよいからね。ただ、ルーピン先生の授業は面白いのでそれを取り上げられるのは不愉快だ。よって邪魔をする君達を湖に沈めなければならない。そのあたりはどう考えているのかな?」

 

 琥珀色の瞳が鋭い光を宿した。

 心の準備がなければクルックスであっても思わず怯むものだったが、テルミは物怖じしなかった。

 

「はい。湖のイカとまで交友関係を深める必要は特に感じていませんから、ルーピン先生には今年一年は勤めていただくのがよいと考えています。学期末のテストが終わった頃にもう一度、最後の交渉をしてみようと考えています。受け入れていただけたのならば、それで丸く収まります。受け入れられなかった時は、わたしとネフで身柄収奪旅行に行く必要があるでしょうね」

 

「意見は賛否、二対二で割れている。君達が強行した場合、どうなるか分かっているのだろうな?」

 

 クルックスは、どうしてもテルミに「では、やめます」という言葉を言わせたかった。

 魔法界の人物を暗澹のヤーナムに招くのは、望ましい出来事ではない。彼らが生きて帰ればヤーナムの好ましくない情報が溢れるかもしれない。死んで帰らなければ、それはそれで悪評に繋がるかもしれない。父たる狩人の揺籃にして故郷のことを悪く言われる事態を避けたい気持ちは『きょうだい』共通のものだとクルックスは今まで思い込んでいた。しかし、どうやら他の三人にはさして大きな問題ではなかったらしい。

 

「セラフィは中庸を選びました。貴方こそ、一対二で勝てる見込みがあるのかしら?」

 

「意見が分かれるということは俺達が争うということだ。狩人としての能力をもって傷つけ合うということだ。それを分かっているのか?」

 

「ええ、あらゆる手段をもって抗する貴方を排除するでしょう。だって仕方ないわ。『お父様のため』だもの。お父様よりルーピン先生を優先するなんてしないでしょう?」

 

「当然だ。だが時と場合がある。類似の症例の価値ならばルーピン先生でなくともいいだろう。もっと、他の、別の人狼の……」

 

「──見ず知らずの人狼ならばよいの?」

 

 さらりと聞き返された言葉を受けて、クルックスの喉の奥で空気が詰まった。

 

「むっ、いや、違う、俺は、そうではなく、ただヤーナムは他より淀んでいるようだから誰であれ招くのは良くないことだと思っている。いいえ、お父様やユリエ様が汚れているワケがないが……しかし、虫の数はヤーナムが圧倒的に……」

 

「ウフフ。ごめんなさいね、クルックス。貴方がたじたじしているのは見ていて、とても気分がよくていけませんね。──ヤーナムのためになるのに何を躊躇うことがあるでしょう?」

 

 クルックスは、必死で頭を動かしたが『きょうだい』のなかで最も弁が立つテルミとネフライトの二人を納得させられる言葉は出てこなかった。連盟の活動は、連盟員以外には理解を得られないものであることをクルックスは痛感した。

 

「……。学期末テスト後の交渉には、俺も同行する」

 

「ええ、構いません。一緒に行きましょうね? ネフはどうしますか?」

 

「君に任せる。そして、君──セラフィ、『どちらでもよい』は困る。どちらかに意思表示してくれ。君を敵に回したくない。回すのであれば対策を練りたい」

 

「難しいことを言う。どうでもよいことに価値を付けるのは、とても難しい。なんせカインハーストは獣の病に困っていないから」

 

「あ、そう。聞いたのが間違っていた」

 

 ネフライトは息切れのような言葉を投げつけた。短いが辛辣な言葉だった。

 

「まったくお茶会だというのに話題はいつも獣臭くてたまらない。口直しだ」

 

 ネフライトは、テーブルの下に屈み込むとテーブルに瓶を並べた。

 

「これは?」

 

「バタービール。とても美味しい。私は毎日飲みたい。メンシス学派の完全栄養食料の味を改善しようと決心した」

 

「わたしも好き。ふわふわ甘くて美味しいわ。──ねぇ、どうしてわたしが好きだと言うと貴方は嫌な顔をするのかしら?」

 

「心外だ。そんな顔はしていない。私は君が嫌いだが」

 

「まあ。そろそろわたしの気を惹きたくて意地悪しているのだと感じられるようになってきました」

 

 ネフライトが栓抜きを取り出して四本を開けた。

 嬉しそうに受け取ったのはセラフィだ。

 

「僕は、ホグズミードでほとんど飲めなかったのでこれが初めてだよ。バタービール。うん。……。……。美味しいね。でも、すこし血酒入れようか。これでさらに良くなる気がするよ。ああ、物足りなさが改善され──」

 

「しない! タバスコでも入れていろ!」

 

「君達といると、ついヤーナム基準のお話をしてしまう。血酒はカインハーストの食卓において必須だから……皆もそうなのかと……」

 

 セラフィは、しょんぼり肩を落とした。しかし、それも数秒、彼女は背筋を正した。

 

「タバスコ。知っている。それは辛い調味料のことだ。そうそう、辛いものと言えばホグズミードで唐辛子が売っていてね。大陸からの舶来品のようだが、食べると温まるらしい。すこし買ってみたので夏休みにビルゲンワースで調理をしてみようと思う。クィレル先生には先に送ったよ」

 

「わたしもクリスマスなのでクィレル先生に七面鳥を送りました」

 

「ああ、それはいいことだな」

 

 ──俺は菓子を少々。それからポリジュース薬に必要な品々で手に入るものをひとまず。

 そう言いかけたクルックスは、続いたテルミの言葉に困った。

 

「立派に育てて食べて欲しいですね。わたしは近代の『食育』という考え方に感銘を受けたわ……」

 

「えっ。生きている七面鳥を送ったのか? 今度帰ったら二メートル近くになっていても知らないぞ」

 

「餌も一緒に送りましたので大丈夫でしょう。水は井戸の水を使えばよいのです」

 

「クィレル先生、一気に多忙になったな。……まぁ、シメるのは俺がやってもいい」

 

「獣臭い話はやめだと言っただろう……!」

 

 ネフライトが手を叩き、仕切り直した。

 ヤーナムの裏路地で交わされる策謀の雰囲気が霧散すると四人で囲むお茶会は、再び楽しいものになった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クリスマス・ディナーは、昨年までの例に漏れず輝かんばかりの氷の彫像が立ち並び、本物のモミの木に装飾がかけてあった。

 四寮のテーブルは中央の一つのテーブル以外が壁に立てかけられ、居残った二〇名に満たない生徒とダンブルドア校長をはじめ各寮の寮監と諸先生が並び管理人のフィルチも小綺麗に身を整えて座っていた。

 最後にやって来たのは五年生のスリザリン生でテーブルが一つであることに気付くとなぜだかムスッとした顔をした。

 

「メリークリスマス! さぁ、どんどん食べましょうぞ!」

 

 ダンブルドアがクラッカーを鳴らし、にっこり笑いかけながら宴の開始を告げた。

 

「ぐぅ……うまい……うまい……」

 

 クルックスは、七面鳥──もちろん、調理済みである──に飛びつくように食べ始めた。

 奥歯で骨を噛み砕いたところで、ロンがこちらを見てちょっと笑った。

 

「ハッ。去年も『やめろ』と言われていたのだった。は、反省……」

 

 クルックスは、折れた骨をテーブルの皿に置いた。隣の座るネフライトがロースト・ポテトを食べつつ頷いた。

 

「いつ注意しようかと思っていた。思い出してくれて嬉しい」

 

「しかし、抗い難い。それに、ああ、もったいない……」

 

 クルックスは、さっさと口に入れることで解決した。口の中のあちこちに刺さるが、痛みより鳥を一羽丸ごと食べた充実感が勝った。

 

「食べるなと言っているだろうが。悪食だぞ、それは。肉を食べなさい、肉を」

 

「し、しかし、鳥は植物と違って土に埋めても生えてこないのだ。だから全部食べてやるのがいいだろう」

 

「君は無茶苦茶なことを言っていることを自覚してくれ。骨は食べ物ではない」

 

「ぐぅ……」

 

 クルックスは、骨を調理して食べる方法を探そうと思った。

 ネフライトがクルックスへチポラータ・ソーセージを取り分けた皿を渡しながら、耳元で囁いた。

 

「ルーピン先生がいない。満月だからな」

 

「……ああ」

 

 無論、クルックスも気付いていた。

 チポラータ・ソーセージは、ベーコンに巻かれた薄皮の短いソーセージで噛んだ途端、口のなかで弾ける肉汁が魅力的だった。そのため、それが豚肉であることをクルックスは食後に思い出した。

 

 充実の夜。

 クルックスがグリフィンドール談話室の暖炉の前で体を伸ばして寛いでいるとマクゴナガル先生の声が飛び込んできた。

 

「──これが、そうなのですね?」

 

 そう言って先生はハリーとロンの前に立った。彼らはハリーのクリスマス・プレゼントに箒が送られてきたとかでかなり盛り上がっていたのだが、マクゴナガル先生の一声が響くとそれから何も聞こえなくなった。

 何事か気になったクルックスがソファーから身を起こす頃、彼からすこし離れたところでハーマイオニーが座っていた。彼女は本を開くと陰に顔を隠した。

 

 結果として、マクゴナガル先生はハリーへ贈られた箒を持って寮を去った。

 

 ロンが爆発的な勢いでハーマイオニーに食ってかかった。ハーマイオニーも同じように真っ赤になり、本を捨てて立ち上がった。高ぶった感情だけではない。瞳には理知の光があった。そのため彼女は敢然と告げた。

 

「私に考えがあったからよ。──マクゴナガル先生も私と同じご意見だったわ。──その箒は、シリウス・ブラックからハリーに送られたものだわ!」

 

 彼女の言葉をクルックスは驚きをもって受けとめた。

 この時までクルックスは、知らなかったのだ。

 彼らが持っていた箒が宛先不明の何者かから送られたものだとは。そして、彼らが無警戒にそれを受け取って喜んでいたとは。

 だが、頭上で交わされる話を聞いていると「怪しむな」とは無理な話ばかりだった。

 

「ファイアボルトは高級品だろう? それが送られてきて『おかしい』とか『怖い』とか思わなかったのか? 非魔法族で言うと、分かりやすい例では、八頭立六頭曳の船底型の四人乗り馬車とか六頭立四頭曳の船底型割幌の四人乗りとか──」

 

 ハーマイオニーはクルックスを無視した。

 

「ハリー、落ち着いて考えてちょうだい。クリスマス・プレゼントで誰か知らない人から、スポーツカーとか高級腕時計がポンと送られてきたらあなた、どう思う? たぶんクルックスはそういうことを言いたかったのだと思うけど、ねぇ、おかしいでしょ? それと同じことなのよ!?」

 

「あの箒はどこも変じゃなかった! ダイアゴン横丁で見ただろう? 店にあったのと同じだ。ずっと通い詰めたんだ。分かるんだ僕には!」

 

「じゃあ、もっと簡単なことを分かってよ! 今年誰があなたを狙っているのか分かってよ!」

 

 ハーマイオニーの最後の言葉は、涙になっていた。ロンがフンと鼻を鳴らした。それを合図にしたようにハーマイオニーは、ワッと泣き出すと談話室の穴を出ていった。

 クルックスはどう行動すべきか分からず、暖炉のそばに立ったまま灰になっていく薪を見ていた。

 

 ハーマイオニーはそれから新年が明けて学期が始まるまで、ほとんど談話室に寄りつかなかった。

 



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襲来



イヌ科の家畜。
家畜となった歴史は最古であり、最も賢く、人に忠実である。
犬とは、まったくそれでよいのだ。



 年が明け、学期が始まった。

 クリスマス休暇の間、クルックスは何度か図書館へ通う足でハーマイオニーの席を訪れた。

 

「なに? あの人たちに頼まれたの?」

 

 クルックス『あの人たち』という言葉が誰を指すのか分からず、五秒考え込んだ。ハーマイオニーがハリーとロンを他人行儀に──実際、彼らは血縁のない他人ではあるのだが──「あの人」という呼び方をするとは思わなかったのだ。

 

「違うが。図書館は、談話室に比べるとやや寒いだろう」

 

「ええ、人が少なくていいわ」

 

「体を冷やすのは善くないと思って……思って……だな」

 

「課題があるの。マグル学のレポート羊皮紙二巻! ネジの仕組みのレポート……!」

 

 ピリピリした雰囲気のハーマイオニーは、クルックスが何を言っても怒りそうだったので彼はすごすごとセラフィのもとへ帰った。

 クリスマス休暇の課題を片付けた後は、セラフィと『互助拝領機構』のための呪文を練習する時間としていた。『必要の部屋』を使うこともあれば、フリットウィック先生へお願いして『呪文学』の教室を貸してもらうこともあった。今日は『呪文学』の教室だった。

 

「高級箒、ね。僕にはハーマイオニーの主張が正しいように聞こえるが……。けれどハリーの気持ちもすこし分かるよ。フフ、自分の所有物だと思った物が取り上げられるのは、とても不愉快だろうね。分かるよ。だからこそ、その手の行為を楽しみにする人もいるのだ。いえ、僕の先達には二分の一の確率で関係のない話であるのだけど」

 

『呪文学』の教室の床に這いつくばったセラフィがのんびりと言った。

 

「すまない。『くらげ足の呪い』の呪文の反対呪文を調べていなかった。ああ、もう。すこし考え事をすると途端にしくじるのだ、俺は……」

 

「構わないよ。どれくらいで呪いが解けるのか計測してみよう」

 

 脚に力が入らず、くにゃくにゃになったセラフィの体を椅子に引き上げ、クルックスは壁に掛けられた時計の時刻を羊皮紙に書き付けた。

 

「失神呪文の『失神呪文』は三〇分ほどで効果が切れたが、こちらはどうかな」

 

「本当にすまない。俺がやるべきだった」

 

「君は『スラグラス エルクト』、ナメクジげっぷの呪いの実験台になってくれただろう」

 

「うぅ、その話はやめてくれ。連盟の使命に悖る……! 君と一緒でなければ、そしてネフの主宰する『互助拝領機構』のためでなければやらなかったことだ……!」

 

 思い出すと気分が悪くなり、クルックスは身震いした。それをセラフィはおかしそうに見て、微笑んだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 次学期が始まった。

 クリスマス休暇ではハーマイオニーのことを気にかけて何度か話に行ったクルックスだったが、今日の出来事を鑑みるとクリスマス休暇で何を伝えても無駄だったな、と思い直していた。

 グリフィンドールでも大いに話題となったハリーの箒、ファイアボルトがマクゴナガル先生により回収された数週間後の今日。ファイアボルトは複数の先生から「異常なし」の太鼓判を押され、ハリーの手へ返却された。それにより彼らの仲が修復されたと見えたのもつかの間だった。 今度はロンのネズミのペット、スキャバーズが血痕を残して姿を消すという事態が起こり、彼ら三人の友人関係には一月の寒波にも優る寒々さを迎えることになった。

 

(……『口出ししなくてよかった』と思うことがあるとは……人間関係は本当に難しい)

 

 クルックスにとって、ハリーやロン、ハーマイオニーは話す頻度こそ高くないが同じ寮生としてごく普通に会話できる仲である。彼らが仲違いしている状態は見ていて悲しいような、もどかしいような気分になる。これはクルックスだけではない。 彼らのぎくしゃくしている様子を見る他のグリフィンドール生も不思議なことにぎくしゃくし始めるのだ。グリフィンドール全体で見れば、彼らの人間関係はごく小さい。しかし、小さな人間関係が密接した構造体がグリフィンドールを形作っているのだと彼によく感じさせる出来事だった。

 だからといって改善のために何をするべきか分からないので何も出来る状態にないのだが。

 クルックスが慣れない難しいことを考えているうちに夜は更けた。

 

 再びホグワーツを揺るがす大事件が起きたのは、それから約一ヶ月後のグリフィンドール対レイブンクローのクィディッチ戦において大勝した日だった。

 真夜中に近い頃。

 クルックスは、目が覚めた。

 狩人のお下がりである、くたびれたシャツをパジャマとする彼は、浅い眠りのなか、何となく痒い気持ちになって袖で鼻の上を掻いた。ついで頬骨のあたりをゴシゴシと擦る。それからしばらく動かしていなかった口をむにむにと動かした。

 

 ところで。

 ヤーナムの狩人は夜の時間感覚として『夜になってから今は何時間』という考え方をしない。日が暮れ、地平線の先へ沈んだ瞬間から『次の夜明けまであと何時間』を常に考える。

 よって、いまやホグワーツに在住する彼もその伝統的感覚に則り、およそ夜明けまで三時間の見当をつけた。

 暗闇に阻まれて時計の針は見えないが、おおよそ間違ってはいないハズだ。

 だが万が一、あまりに深く寝入ってしまって寝過ごして生活の調子を崩してしまわないように、そして目が覚めてしまったついでに時計を確認しようと枕から頭を上げ、時計を探した。

 彼はすぐに異常に気付いた。

 生徒が使うベッドにはそれぞれカーテンが掛けてある。理由は防音や遮光、視線を避けるためだった。今、そのカーテンは揺れていた。しかもそれだけではない。

 

 視界がぼんやりとオレンジ色に明るい。──寝室の外、階段に取り付けられた炎の光が入ってきているのだ。

 風が、流れている。

 

 クルックスは瞬きを忘れて目を見開き、息を殺して再び枕に頭を置いた。ベッドの外に意識を向けながら、杖とヤーナムの狩人服の場所を確認した。杖は枕の下、仕掛け武器を収納している狩人服は洋箪笥のなかにある。

 ゆっくりうつぶせになり、身構えた。

 流れてくる風のなか、匂いを嗅いだ。──濡れた獣の匂いがする。

 足音は、ひとり分。誰か歩いている。床の軋み具合の音から判断するに体重は大人だ。探るような足音だ。順々にベッドを巡っているようだ。

 

 ──もし、この部屋に特異なものがあるとすればハリー・ポッターだ。

 そう考えるのは、あまりに突飛な発想だろうか。

 円形状に設置された生徒のベッドのうちハリーのベッドは、ちょうどクルックスのベッドがある部屋の正反対にある。

 カーテンが揺れる気配。足音は、そこで一度止まった。

 

 たった今、飛び出すかどうかクルックスは迷った。衣擦れの音は聞こえない。

 

 再び足音は歩き出した。

 同時にクルックスも動き出し、ベッドの上で洋箪笥に近付いた。

 足音は、ロンのベッドのそばで立ち止まった。この時クルックスは、二秒あれば銃が抜ける状態まで来ていた。

 あとはどうやってベッドから下りて洋箪笥に手を伸ばすかだ。

 

 呼気さえ聞き取れるほど集中していたクルックスは、次の瞬間、慎重さをかなぐり捨てて洋箪笥の扉を開いた。

 ハリーのベッドの隣、ロンの眠るベッドのカーテンが裂かれる音が聞こえたからだ。

 クルックスが突然動き出したことは何の問題にもならなくなっていた。

 異変は眠りの国にも訪れたらしい。

 ロンが目覚めるなり、声の限り叫んだ。

 

「ああああああああああああァァァっ! やめてえええええええええぇえぇ!」

 

 彼の絶叫にハリーやネビル、シェーマス、ディーンの全員が起き出し、自分のベッドのカーテンを闇雲に引いた。

 クルックスは洋箪笥から狩人服を引っ張り出し、銃を抜いた。

 

「何事だ?」

 

 半分眠ったようなシェーマスの声が聞こえる。彼は手当たり次第にカーテンを揺らしていた。

 クルックスは、塔の下や上の階でバタンバタンと寝室の扉が開く音と複数人の生徒の足音を聞いた。

 ロンがベッドから出ようとジタバタと手足を動かしている。

 

「動くなっ! こちらは銃を構えている!」

 

 足音に相応しい一人の男が立っていた。右手にナイフを持っている。

 クルックスの言葉は、ただの脅しだ。射線上にはロンがいるし、屋内で撃てば跳弾がどう跳ぶか検討もつかない。

 男はクルックスには一目もよこさず、ロンのベッドを離れ塔の窓を蹴破った。装飾ガラスが高い音を立てて割れ、男は窓の外へ飛び出していった。

 クルックスは銃を咥えると素早く狩人服に腕を通し、靴を履いた。

 寮の塔は、高い。そして、クルックス達の寝室がある階は、非魔法族の建物で言うところの三階か四階相当。地上から約十メートルにあたる。命にかかわる落下距離ギリギリだ。だが、ここから飛び降りたとして打ち所が悪くなければ生存する確率が高いだろう。

 しかしクルックスなら火の手が迫っている等の緊急事態でない限りは飛び降りない高さだ。

 まして今は夜。外は、暗い。受け身を取るタイミングを誤れば、そのまま動けなくなる可能性が高く、運が悪ければ──クルックスは自分の幸運というものをまったく信じていなかった──死んでしまうだろう。夢に還ってしまい、現実のホグワーツで死体が消えるのは好ましい事態ではない。

 

「ブラックだ! ブラック! シリウス・ブラックだ! ナイフを持ってた!」

 

 ロンが恐怖で引き攣った顔をしてハリーやシェーマスに必死に訴えている。

 ──もし、あれが件のシリウス・ブラックならば幸運だ。ここで捕縛できれば、今年度の憂いは断たれたと思って良いだろう。

 クルックスは衣嚢にロープがないことに気付き、自分のベッドのカーテンをナイフで切り裂いた。いくつかの束に割いてそれぞれを固く結びつけた。

 せめて落下を始める距離は地面から五メートル以内の高さに収めたい。

 

「──夢でも見たんじゃないのか?」

 

「──本当だ! ブラックがいたんだ! ほら、カーテンを切られた!」

 

「──ねぇ、なんのはなし?」

 

 ネビルがようやくカーテンの端を見つけて顔を出し、ディーンはランプに光を点した。

 まだ彼らは窓が割られたことに気付いていない。

 窓に一番近いロンのベッドの支柱に切ったカーテンの端を括り付け、クルックスは端を持った。

 

「俺はこれからシリウス・ブラックを追跡する。成果がなければ明け方には戻る。時間がない。誰か、光を空にうってくれ。頼んだぞ」

 

 クルックスは、銃把でさらに窓を割り命綱代わりのカーテンを持つと外に飛び出し、塔の壁に膝をついた。塔のなかではベッドがギシギシと音を立てて揺れているが、構わずクルックスは肩や尻、背中を地面に打ち付けながら着地した。

 衣嚢に手を突っ込み、貫通銃を取り出した。銃を構え、弾を込める。

 

 その時だ。

 雲に隠れていた月が、気まぐれに顔をのぞかせた。

 暗闇に塗りつぶされていた校庭が、にわかに物の輪郭を浮かび上がらせる。

 開けた視界の先、人が走っていた。──シリウス・ブラックだ。

 

「照明!」

 

 クルックスは吠えた。

 間もなくグリフィンドール塔に残る誰かの声が聞こえた。「ルーモス・マキシマ!」の呪文と共に、空に光の弾が放たれる。

 視界は真昼のように明るさを取り戻した。

 クルックスはうつ伏せになり、両腕を立てて銃を構えた。

 スコープなどという便利なものは存在しない。クルックスの銃の腕前とは、二〇メートル以内で静止するならば獣の目玉をも射抜ける程度の平均的な狩人だった。今は目測、三〇メートル。目標は直進している。だが射線上には存在するため、体のどこかには当たるだろう。ヤーナムにおける銃火器のうち最も飛距離があるとされる貫通銃は、五〇メートル程度先の標的にも当たるとされている。

 クルックスは、慎重に角度を調整した。

 

(頭……狙えるが……どうやって入り込んだのか尋問する必要がある。腹も……狙える。的が大きいが、治療できなければ苦しませた挙げ句、失血死させる危険が高い。脚……大腿部に当たらなければ致命傷にはならないだろう)

 

 呪文で発生した光の弾が、かすかに光を陰らせた。呪文が切れてしまう。

 息を止め、三秒。クルックスは、引き金を引いた。

 夜の静寂に銃声が響き、目標が姿勢を崩し倒れた。

 

「命中確認。標的を確認する」

 

 クルックスは、立ち上がり銃を肩に担いだ。

 歩数を数えながら標的を追う。

 呪文で作られた光が途切れ、月も雲に隠れた。再び静かで暗い夜が訪れる。光に慣れていた目が、しばし暗闇に戸惑う。衣嚢から携帯ランタンを取り出し、短く刈られた芝の上を歩く──しかし、近付くにつれてクルックスの頭からは数字が抜け落ちていった。

 目標が倒れたと思しき地点からクルックスは射撃後に一度も目を離さなかった。そして、歩数でおおよその距離を換算するとすでに五〇メートルを越えている。それにも関わらず右を見ても左を見ても、目標だったブラックは地面に倒れていないのだ。

 

「は……?」

 

 ブラックは一度も立ち上がっていない。這いずって逃げた可能性はある。しかし、彼が匍匐前進で十メートル進むまでにクルックスは五〇メートルを歩けるのだ。見落とす可能性もなければ、見つけられない可能性もなかった。

 視界の端で携帯ランタンのオレンジ色の光を反射して何かが光った。

 

「──!」

 

 思わず銃を向ける。

 芝生の上で黒い目をクリクリさせているのは、犬だった。

 

 ──殺すか。

 

 腰のベルトに差した短銃を向けるが、間もなく下ろした。猫をペットとして持ち込むことが可能なのだ。犬も同じなのだろう。

 

「ただの犬だ。見逃してやる。──獣め。あっちへ行け。獣というだけで俺が殺すには十分な理由となるが、ここではそうもいかない。獣でも他人の財産であるようだからな……」

 

 犬は、もぞもぞと動き始めた。行き先には森がある。

 クルックスは、すぐに辺りを歩き始めた。もう一度、三〇メートルから探し直すつもりだった。

 

 もしも。

 クルックスがヤーナム外で一般的な犬の大きさについて知っていれば見逃した犬を不審に思ったかもしれない。だが彼はヤーナムに存在する犬しか知らなかった。 彼にとって全ての犬は、まず大きく、目が赤く、常に狂っており、たまに火を吐く存在だった。

 そのため、たかが小山のような犬が存在したところで驚くべきことではなく、もちろん、脅威ともなり得なかった。

 

「いない……? いないなんてことがあり得るのか? 消えた? いや、俺の弾は命中した……。校内『姿くらまし』は出来ないと聞く。シリウス・ブラックの『とっておき』がこれなのか……? しかし、ここに存在する。存在する。消える。存在する」

 

 クルックスは発砲後、姿勢を崩すブラックを見ている。

 風が吹き、再び校庭を月が照らした。

 見上げた先で、首を傾げた。

 ──どうにも辻褄が合わない。

 存在するモノが跡形もなく消えることについて、クルックスは既知の情報しか持ち得なかった。

 そのため。

 

「まさか──っ!」

 

 かつて思索を求めた彼らと等しく、気付きは唐突に訪れた。

 すなわち、魔法界にあるホグワーツの城にこそまさに上位者がいるのではないか? 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「何の騒ぎです!」

 

 ホグワーツ城、グリフィンドール塔の内部は上から下の大騒ぎだった。

 ようやく騒動が落ち着いたのは寮生のほとんどが起き出して騒いでいることに気付いた、寮監であるマクゴナガル先生が来てからのことだった。

 そこで騒動の発端が『シリウス・ブラックが侵入した』との一報を受けたマクゴナガル先生は、怖い顔を引っ込めた。

 談話室がシーンと静まりかえるなか、ロンは必死で言葉を繰り返した。

 

「僕たちの寝室に! シリウス・ブラックがいたんだ! 僕は見たんだ! 僕のベッドの上にいて、ナイフを持って! ハントが今、追っています──」

 

 マクゴナガル先生は、生徒に退くように指示をして寮の塔の外の窓を見た。ハリーも背伸びをして、窓の外を見た。オレンジ色の小さな光が行ったり来たりしている。

 発砲後、ハリーも誰かが倒れ込むのを見た。そして、今まで立ち上がるのを見ていない。だが、クルックスが「ここにいるぞ!」と叫ぶことはなかったので彼は今も見つけていないのだと思われた。

 マクゴナガル先生は、サッと振り返りロンを真っ直ぐに見た。

 

「いいですか。ウィーズリー、落ち着いて話を聞きなさい。肖像画の穴をどうやって通過できたと言うんです? 合言葉を知らない者を『カドガン卿』は通さないでしょう?」

 

「あの人に聞いてください! あの人が見たかどうか!」

 

 ハリーもロンほどではなかったが気が動転してしまっていて、マクゴナガル先生の当然の指摘を思いつかなかった。他の生徒のほとんどもそうだったらしい。「あ!」と気付きの声を上げたり、コクコクと頷く姿が多数見受けられた。

 マクゴナガル先生は、まだロンを疑わしげに見ていたが肖像画を裏から押して外に出て行った。談話室にいた全員が息を殺して耳を澄ました。

 

 ──カドガン卿、いましがたグリフィンドール塔に男を一人通しましたか?

 ──もちろん通しましたぞ、ご婦人!

 

 談話室の中は全員がハッと息を飲み込み、顔を合わせた。

 

 ──と、通した? あ、合言葉は?

 

 ハリーは、マクゴナガル先生の目が驚愕に見開かれていることが苦もなく想像できた。

 

 ──持っておりましたぞ! ご婦人、一週間分全部持っておりました。小さな紙切れを読み上げておりました!

 

 カドガン卿の誇らしげな声と鎧をガシャガサと揺らす音が、痛いほどの沈黙のなかで高らかに響いた。

 マクゴナガル先生は再び談話室に戻ってきた。そして、驚き、声も身動ぎもできない生徒達の前に立った。それから血の気が引いた顔で訊ねた。

 

「誰ですか? 今週の合言葉を書き出して、その辺に放っておいた底抜けの愚か者は、誰です?」

 

 ハリーの頭には、二人の候補が浮かんでいた。

 カドガン卿の合言葉について覚えられなくて困っていた二人の友人だ。だが、一方は決して手放さない手記に書いていたのをハリーは目撃している。

 ということは。

 咳払いひとつない静けさのなか、『彼』の周りの人が、じりじりと離れていった。

 息を呑み、ようやく震える手を挙げたのは──ああ、やはり。 ハリーは、分かっていた気がした。ミスを冒したのは、ネビル・ロングボトムだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 携帯ランタンと杖を光源に校庭を隅から隅まで探していたクルックスは、深夜に叩き起こされた教師陣と交代するように校舎に戻った。

 樫の門を開いたマクゴナガル先生が、クルックスの名前を呼んだ。

 

「ウィーズリーと部屋の者から、シリウス・ブラックを追ったと聞きました。しかし……」

 

 目だけで暗い校庭を探していたクルックスは、初めてマクゴナガル先生を見た。タータン・チェックの部屋着に頭にはヘア・ネットという姿だった。他の女性教師陣も似たような格好でスプラウト先生は、花柄のパジャマを着て校庭を小走りで駆けていった。温室を見回るのだろう。唯一、平時と同じ格好で現れたのはスネイプ先生だけだった。彼は起きていたのかもしれない。他の先生よりも動きが機敏で活力的に見えた。

 

「ミスター・ハント、報告を」

 

「見失いました。俺が発砲して被弾したように見えたのですが、体がどこにもありません」

 

 背中に貫通銃を背負い、クルックスはホグワーツに存在するかも知れない上位者の存在をどう切り出そうかと惑う。こういう時こそテルミがいてくれたのなら、さらりと話して情報を引き出せるのに彼女は──そんなことを考えていたが、よくよく考えればこの機に乗じて『面白いこと』を引き起こす可能性が高いように思えた。ここにいなくて幸いだったかもしれない。

 

「ルーピン、ブラックが消えたことに何か心当たりはないかな? あー、『闇の魔術に対する防衛術』の教授として、だが」

 

 ルーピン先生は、クルックスと同じように使い古しのシャツを寝間着に着るタイプの人間らしい。よれよれのシャツで腕組みをして、校庭の闇を見つめていた。

 

「周知のことだが『姿くらまし』は出来ない。……。だから『見失った』以外のことが言えそうにないがね。ハントの視力にもよるだろうが」

 

「閃光が消えた直後からの数秒、暗闇に目が慣れていないので見失いました。それでも怪我は負わせたと確信しています」

 

「だが、いないのだな?」

 

「そうです。とても不思議なことです。ヤーナムにいらっしゃった先生ならば、何か心当たりはないでしょうか?」

 

「…………」

 

 偶然、雲間からのぞいた月明かりを受け、逆光となったスネイプの顔を暗く塗り潰した。彼は両手を広げて「無い」と言いたいようだった。

 

「……。では、そのように。あ、そうだ。血の臭いが辿れるかもしれません。もし、追跡の手段があれば試してみることを提案します。クルックス・ハント、報告は以上です。これより学徒に戻ります」

 

「寮生が一カ所に集まっています。監督生の指示に従いなさい。スネイプ先生、ルーピン先生、では分担のとおりに。私は森番を起こして──」

 

 三人は走り出し、散会した。

 クルックスは、貫通銃を衣嚢に格納すると狩人服に両手を突っ込んで空を見上げた。

 雲は再び月を隠してしまった。

 

「『淀み』のカレル文字は、まだ蠢かない。連盟の長、俺はまだどうしようもなく未熟なのです。貴方なら見えるのかもしれませんが……」

 

 情けなさに床を向いて歩いていると不意に考えた。

 ──お父様は、外にも上位者がいると知ったら狩りに出掛けられるのだろうか。

 いつか聞いてみたい質問は、ヤーナムから父が不在になる心細さにも繋がり、これもまたクルックスを惑わせた。

 

 翌日。

 シリウス・ブラック来襲の噂は、全校に広まった。

 



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懊悩


ネズミ
ネズミ科に属する哺乳類の総称。体長5~35センチメートル。
尾は魔法薬の原料になり、肉は食用に向く。
古くから多産の象徴であり、ゆえに短命だ。



 

 ホグワーツ城の警備はいっそう厳しくなった。

 

(二度も侵入を許したのだ。当然だ。そろそろ責任者は責任を問われそうなものだが……。今世紀最大の魔法使いが相手では世論であっても強硬出来ない、ということかな)

 

 こういう時。

 ネフライトは、逆転時計の存在を考えた。逆転時計を持って『必要の部屋』に行き、未来の自分にも過去の自分にも合わないように十時間ほど時間を遡り、ぐっすり眠れたらどんなに気分がいいだろう? しかし、現実はそんな物が手元にないため、ただの使い道のない空想だった。せいぜいネフライトに出来るのは、セラフィが夏休み中に「十日間、二四〇時間活動します」のスローガンで実施していた現実と夢を往復することで肉体を最善の状態に保つことだった。──彼女のように自分の頭を撃ち抜きこそしないものの、そうしたくなる気分は辛いほどに分かった。

 現実と夢を移動すると肉体的疲労がなくなるが、精神的疲労は消えない。そのため集中力の欠如はこうして現れた。

 学校の課題や父たる狩人への調査レポートの作成など、ただでさえやることがたくさんあるというのにクルックスが「ホグワーツ城に上位者がいるかもしれない」なんてネタを持ち込んでくれたので最優先の課題として取り組むことになった。

 

 ──俺が撃ったのに消えた。たしかに命中したのに。

 

 朝食の席でクルックスに事情を説明されたネフライトは、彼が嘘を吐いているとは思わなかった。

 しかし。

 

 ──虫が、虫が、醜い虫がいるに違いないのに……。

 ──虫がいる獣は、どこにもいなかった。

 

 ネフライトは、頭が痛んだ。

 連盟員の──ネフライトはハッキリと断定するが──『頭がおかしい』部分が出てしまったクルックスの証言は、やや信憑性に欠けると考える。

 ネフライトはそんな彼に尋ねた。

 

 ──他に何か見たものは?

 ──俺の脅威となるものは何もない。だが絶対に虫がいたハズで──

 ──その話はしてくれるな。

 ──いやでも虫がいて……。

 ──わかったわかった、はいはい。

 

 ネフライトはクルックスの話を強制的に終わらせた。

 ネフライトは彼の信じる虫の存在を信じていない。父たる狩人も存在すると信じているが──そして否定するつもりはないが──その正体は虫の姿を借りた別の存在だろうと考えている。『存在しないものを在る』と言い張るのは一端の狂人の言動だと説明する役割は、不名誉なだけではなく、病み人に正しい病識を与える事と同じくらいに愚かしいことだ。ネフライトは彼らの信仰について一切の責任を負いたくなかった。 

 

 そろそろ課題以外の作業の一部をテルミに投げたい気分になっているが、彼女はルーピンへの渉外に集中してもらわなければ困る。そして何より上位者が本当にいるとすれば、最初から最後まで自分が関わっていないとネフライト自身が納得できない。そのため、投げたい気分はいつまでも投げたい気分のまま進展は望めない状態だ。

 

『数占い』の教室で、誰もが分厚い参考書を読み耽っている頃。

 ネフライトは、授業の予習に取り組む気分にならない──記憶力に絶対の自信のある彼は授業が始まってから頭の中の教科書を開けば良いと思っている──ため、厚さ五ミリの雑誌をテーブルに置いて、鞄から手紙を出していた。雑誌の極彩色の表紙には、ネコとふくろうが両手を広げ太陽を崇めるポーズをしている。太陽と同じ位置にある金色の文字は流暢に『ザ・クィブラー』と書かれていた。

 

「今日発売なんだよ。パパから二部送られてきたんだ。あんたにもあげる」

 

 そう言われてルーナ押しつけられること毎月。

 ネフライトは、ついに突っ返し、財布を取り出した。

 

「私は施しは受けない。欲しければ自分で買うからな。もっとも払う価値があればの話だ。しかし、君と私の仲だ。君の思考を理解する上で必要という意味だが……それで? いくらかな?」

 

「お金より記事が欲しいかな」

 

「記事を? ほお? 私の記事を?」

 

「あんたの話、もっといろんな人に聞かせたいな。『ヤ』の字の地名とか『メ』の字の学派とか」

 

 これがクリスマス休暇前の話。

 これまで受け取った『ザ・クィブラー』の数だけ記事を書くことを約束したネフライトは、その後、「反響があるんだよ。次回もよろしく」とルーナに請われ、いつの間にか連載記事の一枠をズルズル書き続けることになっていた。

 そして現在。

 ルーナから朝届いたという『ザ・クィブラー』の読者からの感想を受け取っていた。

 

『イギリス魔法社会における未発見集落の可能性』

 

 ネフライトにとっては、かなり挑戦的な小論文となった掲載号の感想だ。

 茶封筒をバリバリ開くと一枚の羊皮紙が出てきた。

 

 ──あなたの危惧していることは、起こりえないことです。全ての魔法使いの村落はイギリス魔法省に登録されており、未成年魔法使いの存在は常に認知されています。これがもうイギリス魔法界において数世紀続く常識です。ところで、前回の『変身術における変身過程時の解剖方法論』は、載せる雑誌を間違えていませんか?

 

 ──非常識な記事です。いったいどうして魔法使いの街が未発見でいられるでしょう。ましてマグルが一緒に住んでいるのであればなおのことです。ところで、前々回の『ふくろうの郵便能力について帰巣本能を改良する交配方法の提案(優生学に則る机上計算)』は載せる雑誌を間違えていませんか?

 

 ──未発見集落が存在する確率は、今年チャンドリー・キャノンズが優勝するくらいにありえない。(私はバンコリー・バンガーズの熱狂的ファンです!)ところで前々々回の『皮膚の厚さ三センチ以内且つモース硬度五以下のドラゴンを効率的に圧殺する方法(理論値を用いた机上計算)』は載せる雑誌を間違っていませんか?

 

 残りの三通も同じようなものだった。開く価値はなかったようだ。

 ネフライトは手紙をたたみ、代わりに今月の『ザ・クィブラー』を開いた。

 その時、『数占い』の教室に嵐のようにやって来た者がいた。ハーマイオニーだ。いつになくギラギラした目をしている。怒っているようだった。

『ザ・クィブラー』の奥付を見ていたネフライトは、ふと顔を上げた。隣で大きな音を立てて教科書の山を置いたハーマイオニーは、怒りながら笑いかけてきた。

 

「マルフォイの横面を張ってやったわ! あと三〇分後! あの悪党、いい気味よ! これから『呪文学』をサボって! さ、さっき『占い学』をやめてきたわ!」

 

「あ、そ、え? ハァ……?」

 

 彼女は極度の疲労状態にあるとネフライトは思った。誰か宥めてくれないかと周囲を見渡すが生徒の誰も目を合わせず、彼らは示し合わせたように数表を見つめ続けていた。

 

「それ!」

 

 ハーマイオニーが突如、叫び出し極彩色の表紙を指差した。

 あまりのヒステリーさに生徒の何人かは驚き、わざわざ背伸びをして彼女の席を見た。もちろん、山積みになった教科書と参考書があるだけだ。ネフライトが彼らに視線を向けると彼らは元通り数表に目を落とす作業に戻った。

 

「『ザ・クィブラー』ってクズよ! みんな知ってるわ! 私の前でそんな本読むなんて! あなた、まだ本を読み足りないっていうの!?」

 

「お、落ち着きたまえよ。君は、いま冷静ではないぞ。医務室に行きたまえ」

 

「『呪文学』をサボったのよ!? 一度も休んだことなかったのに! しかも『元気の出る呪文』の練習だったのよ!? 絶対テストに出るところだわ! もう休めるワケないじゃないっ!」

 

 今にも泣きそうに叫んだ彼女は、長椅子に座ると猛烈な勢いで参考書を整列し直し羊皮紙を広げ、インク壺を置き、羽根ペンを構えた。

 

「ダメだ、休みたまえ。君はとても無理をしている」

 

「無理なんてしてないわ!」

 

 世界には、触れると爆発する卵があると聞く。

 ネフライトは使い道のない空想をやめ、出来るだけ刺激しないように『ザ・クィブラー』を閉じた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 やがてイースター休暇がやって来た。

 学期末の試験はまだ先だったが先生達はどっさり宿題を出した。クルックスは、このところ日課となっている図書館通いのため廊下を歩いた。相変わらずシリウス・ブラックの手がかりはない。深夜の夜警をしているセラフィにも情報はないようだった。

 

 ──おかしなことだね。こうも足跡が見つからないのは……。シリウス・ブラックには『足がない』のかもしれないな。

 ──足がない、とはどういう意味だ。

 ──『文字通り』と『手がかりを残すような未熟な足がない』という意味だよ。

 ──未熟な足……? 足……か……。

 ──僕らの思考は、僕らの想像以上にあまりにも非魔法族的なのかもしれない。相手は魔法使いだ。もっと魔法の使用を前提として発想を飛躍させる必要があるだろう。

 ──けれど杖があるのならナイフ……包丁……を持ってグリフィンドールに押し入りすることはないハズだ。それに彼はハリーのベッドを素通りした。ロンを襲う必要は……。

 ──爆発四散させるより血が見たくなることもあるだろう。僕には、ある。

 

 彼女と交わした会話を思い出しながら、いくつかの課題を抱えて図書館へ向かった。朝食後、すぐにやって来たがそこにはすでにハーマイオニーがいた。

 宿題の合間に『互助拝領機構』で発表する課題に取り組むのは、ちょうどいい息抜きだった。セラフィと約束している明日の予定まで、彼は図書館で宿題をして過ごすつもりだった。この息抜きである『互助拝領機構』もイースター休暇明けには発表会があって今年度の活動には一旦の終わりが来る。『互助拝領機構』が学期の中途半端な時期である、イースター休暇明けに終わってしまうのは、学年末は皆が宿題や試験に向けてとても忙しくなるからだ。

 

「あ、パーシー。互助拝領機構で発表する資料はいかがですか?」

 

 今朝の『日刊予言者新聞』を読んでいた彼は、何だか待ちかねていたように答えた。

 

「もちろん完璧だ。日頃のレポート課題に比べれば、ちょっとした書き物程度だったよ。一年生から七年生まで所属する互助拝領機構においては、分かりやすい例を選んだつもりだ。他国との交易に関連するものでね。イギリスのマグルの場合、輸出相手国はアメリカが一番だが、魔法使いの交易の場合はドイツが一番でね。これにかかる関税の話なんだが──」

 

「じゅ、順調そうで何よりです」

 

 クルックスは、長くなりそうな話の気配を覚えて割り込んだ。

 

「だが、資料があっても発表の時間がたった三分しかないのは遺憾だね。話の冒頭で終わってしまいそうだよ」

 

「要点を絞って説明する力を養う、という目的もあるそうです」

 

「君はどうだい。スリザリンの彼女と一緒にやっているんだろう? セラフィ・ナイトだったか」

 

「ええ。『防衛術の効果を実証する』です。ナメクジを吐いたり、足がくにゃくにゃになったり、まぁいろいろとやっていますよ」

 

「体を張っているな。……生徒同士の決闘なんて、先生達にはいい顔をされないんじゃないか? こっそりやってくれよ」

 

「フリットウィック先生は分かってくれているので大丈夫だと思います。主に『呪文学』の教室を借りています」

 

「おっと。そうだったかい。それなら安心だ。頑張りたまえよ。あ、ペネロピーがいる……!」

 

 パーシーは新聞を慌てて畳むと明るい顔で去って行った。

 彼はNEWT──通称「イモリ」と呼ばれるホグワーツの七年次生徒が受ける試験を控えている身と聞くが、宿題にいちいちあくせくとしていないようだった。

 

「俺も頑張らねばな……」

 

 書架を歩いているとロンに出会った。

 

「珍し……くもないな。最近は。何か探しものか?」

 

「ああ、バックビークの控訴の準備さ」

 

 分厚い本の上で彼は羊皮紙と内容をにらめっこしているようだった。

 

「控訴。それは再審査を上位の裁判所などに願い出ることだな。うまくいくように願っている」

 

「『ヒッポグリフの心理』……この本もダメだな。ああ、うん。ありがとう」

 

 クルックスは、四苦八苦して苦い顔をするロンに訊ねた。

 

「俺は、法に反すると分かっていて提案するのだが……どうしてもバックビークを逃がすことは出来ないのか?」

 

「ハグリッドに言ったよ。でもダメだ。ハグリッドはバックビークがマルフォイを怪我させた責任はないけど、もし、逃がしたら、今度は『バックビークを逃がした責任』を負わないといけなくなる。そしたらハグリッドにとっては最悪さ。アズカバンに逆戻りだ」

 

「……刑死なら、死んだとしても肉も骨も遺る。その点、獣に食い荒らされるよりマシな死に方だと俺は思う」

 

「おいおい、マルフォイが『まとも』だと思っているワケじゃないよな? バックビークが死ぬほど悪いことをしたとは思わないよ。ハグリッドはあらかじめ危ないことを説明していたしね」

 

「それもそうだった。しかし、こうなると法律が誤っているのか? そんなことがあり得るのか……」

 

「法律が間違っているかどうかは分からないけど、自分のバカが原因なのに裁判起こすマルフォイが恥知らずってだけだよ。それから委員会の魔法使いを金で買収したり脅したりするなんて親まで恥知らずだ」

 

「恥知らず。なるほど。自分の『愚かさ』というものは、一般的に隠しておきたいものだが……彼らにとってはそうでもないのかな……それともハグリッドを貶めることに熱を上げているのか……」

 

「貶められるのはバックビークだけどね」

 

「ああ、ハグリッドは『被告人の弁護人』だったな。……では、俺が逃がす、という手もあるか……」

 

「ダメだと思う。絶対ダメ、ダメだよ」

 

「バレないことには自信がある。そういうことならば俺はとても自信に満ちている」

 

「いや、君の自信がどうこうじゃなくて……。ハグリッドがますます管理の責任を問われちゃうだろ」

 

「そ、そうか。これもダメか……。では俺に出来ることはなさそうだ」

 

「気持ちだけ受け取っておくよ。ハグリッドにも伝えておく。……でも、バックビークを逃がすなんて本当にやめてくれよ。アズカバンには君とハグリッドがらくらく入る独房だってありそうだけど」

 

 ロンは、アズカバンの話になると沈鬱な顔になった。たとえ未成年魔法使いが投獄されることはないとしても、口に出すだけで暗く沈むのだった。

 それを見てクルックスは(軽率な真似はすまい)と心に決めた。

 

「アズカバンは嫌なところなのだな。話にはいろいろと聞いている。吸魂鬼が跋扈している、とか。そういえばハリーはルーピン先生と吸魂鬼に対する防衛術を始めたと聞いた。彼らは何をしているか、知っているか? ハリー本人に聞くのは……やや気が引ける」

 

「うん。順調みたいだよ。五年生で受けるOWL、『普通魔法レベル』なんて目じゃない難しさなんだって。『守護霊の呪文』だ」

 

「『守護霊の呪文』、パトローナス・チャーム? 初めて聞いたな……。あっ?」

 

 ネフライトが言っていた吸魂鬼に対抗するための呪文をクルックスはまだ見つけられていなかった。ロンの言う『守護霊の呪文』がまさに対抗の呪文なのだろう。

 名前が分かれば調べることも出来る。クルックスは礼を述べて呪文集の書架へ行き、厚い本を手に取った。

 吸魂鬼が深い闇の生物ならば対抗することは難しい。ならば抗う術も高度な呪文が必要だ。これまで見つからなかったのは、高度な呪文集まで調べていなかったからだ。そのことに気付かなかった自分をクルックスは意外に思った。

 一度気付いてしまえば簡単に思えることでも、最初に気付くことは難しい。

 ネフライトが答えを明示してしまわなかったのは、この体験をさせたかったからだろう。

 

「ロン、これだろう、このエクスペクト・パトローナムという呪文だ」

 

 クルックスは、すぐにロンのいる書架に戻って本を開いた。

 

「ああ、うん、ハリーもそんなことを言っていたよ。吸魂鬼の代わりにまね妖怪で練習しているんだって。興味あるの?」

 

「吸魂鬼に抗うのは手段が限られる。知っておきたいだろう」

 

 しかし、ロンは吸魂鬼について考えるのも嫌だ、という風な顔をした。その顔を見てクルックスは思い出したことがある。つい最近の人間関係において彼はその顔をしなくなったのだ。その理由は。

 

「そういえば、貴公はまたハーマイオニーと話すようになったな。仲直りしたようだ」

 

「ああ、うん、まあ」

 

 ロンは鼻の上を掻いた。

 

「スキャバーズのこと……謝ってくれたからね。それにスキャバーズも年寄りだった。仕方ないことだったって話を付けたよ。パパやママが、今度はふくろうを買ってくれるかもしれない」

 

「そうか。ネズミによい思い出はないが……長いことペットだったんだろう。愛着もあるだろうが、心に整理を付けられたのは幸いだったな」

 

「十二年にもなるかな。ずっと僕が小さい時から一緒で……。でも、ペットより友達を大事にしないといけないって思ったんだ」

 

「そうか。きっと善いことだと信じたいな」

 

 クルックスは、頷いて再び彼と別れ、図書館の司書兼管理人のイルマ・ピンスのもとへ持って行き、本を借りる手続きをした。

 彼は常識に欠けていることもあるが、生まれた時からすでに存在している知識もある。その頭がロンの述べた「十二年」を気にしていた。

 

「……ピンス先生、質問があるのですが。ネズミとは十二年も生きるものですか?」

 

「動物図鑑は、九の棚です。けれど、一般論で言うならば……」

 

 ピンス女史は、椅子に座ったままクルックスを見上げた。その時、三角帽子から長い黒髪が頬に落ちた。それを耳に掛け直し、遠くを見て何かを思い出すような目つきになった。

 

「野生のネズミの寿命はせいぜい一、二年。飼育下ならば三年ですね」

 

「お詳しいのですね」

 

 クルックスの知る知識と違わない答えが返ってきた。

 しかし、何より彼を驚かせたのはピンス女史が答えてくれたことだった。彼女は物思いに耽るように話を続けた。

 

「このところ……二十年ほど……でしょうかね。時代遅れと言われ、ペットとしての人気がないネズミですが、昔はふくろうと同じくらい人気だった時代があったのですよ。尻尾はいくつかの魔法薬の材料として使えます。家庭でも増やしやすい多産の生態系も概ね歓迎されていました。種類によっては、特別な能力があると注目されたこともありましたね。そういうものは、長生きで体が丈夫です。そういったネズミの正体は、たいてい何らかの魔法生物とネズミの掛け合わせだったのですけれど。……十五世代ほど作ったところで、ただのネズミが変異することはないと気付きました。もちろん、作り続けていれば万にひとつ、一匹作れたのかもしれません」

 

「ああ、だからお詳しいのですか。……飼育下で三年ならば、十二年時点では第一世代は死んでいる。そう捉えてよろしいか?」

 

「ええ。五年生存したものが私の最長記録です。小さなネズミがそれくらい生きた例も少ないでしょう。先に言った特別な能力を持っていれば別ですが」

 

「なるほど。教えていただき、ありがとうございます」

 

 クルックスは頭を下げた。

 

「私自身……もう忘れかけていたことです。ずいぶん懐かしい話をしました。あの時は、本に書かれていることが真実だと信じて確かめたかったのですよ。代わりに、本は時に真実ではないことを書いていると知りましたが……」

 

 ピンス女史は、話しすぎた自覚があったのだろう、ハッとしていつも通りの厳格な司書の顔に戻り、図書室のある方向を指差した。

 

「自分の目で見、耳で聞き、手足で学ぶことが大切です。九の棚ですよ」

 

 クルックスは、余計に本を一冊借りた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ──足。ネズミ。能力。犬。ブラック。

 何ら不思議でも何でもない言葉が単調なリズムをもってクルックスの頭のなかをグルグルと回った。

 こういう時にクルックスはしばしば考えた。

 

(俺は、そろそろ自分の能力や性分について認めざるを得ないことがある)

 

 それは、さほど賢くない、ということだ。

 学徒が期待する『賢さ』に数値があるとすれば、遙かに下回る数値を現在進行形で叩きだしているに違いない。

 ほんのすこし不幸なことは、彼には自分の賢さについて『賢くないよな、俺は』という自覚があることだ。

 

 見聞した情報から得られるものが他の三人よりも少なく、考察は浅く、詰めも甘い。

 

 いつも何かを見落とし、忘れ物をしている気分が抜けない。そして事実、見落として忘れているのだろう。

 そんな確信だけが着々と積み上がっている──気がする。こうした『気がする』という曖昧な感覚だけが積み重なっている。生まれてこの方、漠然として不安感が消えたことは一度もない。……もっとも、それさえ忘れていることは多々あるけれど。

 

(俺は、また何か余計なことをしているのか……? いいや、今回は余計なことをしなかったのか……? どっちだ? 何を忘れているんだ? 何か、肝心なことを忘れて、気付いていない気がする……)

 

 クルックスは手記を開き、白紙の項を開いた。

 ずっと前にビルゲンワースの学徒、コッペリアから言われたことだ。

 

 ──僕の可愛い子、君は頭が弱いねえ。

 ──『思考』を使い慣れていない。そんな感じだ。

 ──他の三人は多寡こそあれ『もともと備わっていた』風に見える。

 ──それはそれで思考の癖が強くて大変そうだけどね。

 ──悲観することはないよ。頭の弱い子も可愛いものだ。

 ──何より教え甲斐がある。手取り足取りね。

 ──さぁ、白紙より始めよう!

 ──知識の少ない君に帰納的思考は難しそうだ。

 ──演繹法から始めたほうがよいだろうか。

 

「ええと。たしか……。知っていることを枝葉を伸ばすように広げ、関連を探して、結論を出す、だったな……」

 

 かつてコッペリアから学んだことは、哺乳類と鳥類の分類方法だった。

 クルックスは彼から学ぶまで地上に存在し体毛を持つ生き物が全て哺乳類だと考えており『鳥類』が分類される概念が分からなかった。また、狩人達は皆、ヤーナムにいる珍しくもないカラスのことを総じて「あれは獣」と断じていた。……獣の分類も間違ってはいないが、あくまで『狩人』という仕事上、分類されている存在に過ぎない。

 生まれてからしばらくの間──そして厳密には現在も──クルックスは一般教養としての知識と狩人の知識が混然となっており、どれがどこの常識なのか分からなくなることがあった。

 彼が見落としが多い性質を持っているのは覆せない事実だったが、持ち得た認識のズレも彼がさまざまなものを「異常なし!」として見逃す一因になっていた。

 そんなことをクルックスはうっすらと理解しており、苦しんでいた。

 

「ええと……。まずはネズミの寿命は飼育下の環境で平均三年。最長五年だとピンス女史は言っていた。そしてロンのネズミは十二年、生きていた。……。……。ちょっと待て、いきなりおかしいじゃないか? おかしいよな? おかしいだろう」

 

 クルックスは、小さな声で自問自答した。明らかに『おかしい』事態を知ってしまったような気がするが、魔法界の一部にあるネズミ愛好家の間では「常識よ」なんて言われるかも知れない。そんなことを考えると途端に自信をなくしてしまうのだった。

 必死でロンが持っていたネズミを思い出した。

 

「ただの肥満なネズミだった、ような、気がする。特別な能力を見せたことは俺の記憶ではないが……」

 

 クルックスは振り返って書架を眺めた。書架の隙間からロンの赤毛が見えた。

 

「いや、待て。すぐ人に聞いて解決をしようとするのは俺の悪い癖だ。……だから……ええと……つまり……」

 

 寿命から考えると、ロンのネズミは、常識的なネズミではない。

 この事実を出発点として考える。

 すると『長生きすること』に特化した能力のネズミだったのかもしれない、と思い至った。

 

「そんなこと、あるのだろうか」

 

 常識知らずのため、また行き詰まってしまった。だが、ネズミを育てていたピンス女史の常識の方がより常識的だろう。つまり『長生きネズミ』でなければ、ロンのネズミは異常なネズミだ。

 とはいえ。

 

(何の異常なのかまでは分からないな……)

 

 クルックスは、窓を見た。太陽は傾きつつある。

 時間さえあれば、クルックスは図書室に納められた本をひっくり返して答えを探すことだろう。

 

(時間。時間とは貴重だ)

 

 父たる狩人ほどではないがクルックスは自分の悠長な節を自覚していた。そのため、誰か詳しい人に聞きに行こうと思い立った。誰かに聞くのは悪い癖だが、知らずに足踏みしていたのでは何も始まらない。そして、この疑問は早めに解決した方が良いような気がした。

 

 シリウス・ブラックの来襲が発生したことにより、学校の敷地内であっても城外へ出ることは禁じられていた。

 本を鞄に入れてクルックスは立ち上がる。そして衣嚢から鐘を取り出した。

 鐘を鳴らしながら図書室を出た。目指すは、魔法生物に詳しいハグリッドだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「なるほど。そういう経緯で僕を呼んだのか」

 

 クルックスの疑問をセラフィは受け入れてくれた。彼を何より安心させたのは話を聞いても彼女が「おかしい」とか「間違っている」とか言わなかったことだ。

 

「最近のテルミは『ピグマリオンさんとの約束がある』と言って大人しくしているが、あの性格ではいつまで保つものか。最悪のタイミングで事態を引っかき回しそうだし、ネフはずっと頭が痛そうな顔をしている。相談するとしたら君しかいない」

 

「ありがとう。君の役に立つよう努力する。なんせ君に頼られるのは気分がいい。だから……もう一度、言ってくれないか。『君にしか救えない』とか『君のお陰で生きている』とか『君だけが俺を生かしている』とか」

 

「それほど壮大な話ではなかったハズだが」

 

 二人は『青い秘薬』を飲んで午後二時の校庭を闊歩した。校庭を突っ切り、かぼちゃ畑のあるハグリッドの小屋を目指す。畑にはバックビークがいた。

 

「そういえば、セラフィはマルフォイの裁判のことは知っているな? スリザリンではどう話されているんだ?」

 

「『どう』とは。難しいな。……ドラコは自分のことを被害者だと言っている。野蛮な獣に怪我を負わされた、と」

 

「俺の認識している事実とは異なるようだ。君との認識とも異なるだろう」

 

「ああ。だから言ったとも。『貴公は自分が弱いことを知りながら丸腰で挑む愚を冒した。せめて武装すべきだった』と」

 

「いや、俺は、そういう認識をしているワケではいない。むむ……。それでマルフォイは?」

 

「『何を言っているんだ?』と」

 

「それは、そう言うだろうな」

 

「遺憾だ。僕が助言してあげたというのに」

 

「ああ、うん、そうだな」

 

 クルックスは、内心でセラフィも生活には苦労していそうだと思った。その苦労感が見えないのは、お互いに持ち得た性質の差だろう。

 ハグリッドの小屋に辿り着いた。小屋から伸びる煙突は、薄く煙を吹いている。

 

 クルックスは、鞄から『怪物的な怪物の本』──ハグリッドが教科を教えている『魔法動物飼育学』の教科書だ──を取り出した。表紙には小さな穴が空いている。人の手に噛みついたり、他の本に齧りつきそうになったりするこの教科書を鎮めるためには、背表紙を撫でて落ち着かせる方法があるのだが、彼はホグワーツで『魔法動物飼育学』の授業を受けるまでその方法を知らなかった。そのため、彼は教科書と戦い「どちらが上か」を分からせることで教科書を開くに至った。そんな激闘の経過はさておき。

 

「──ハグリッド先生」

 

 堅く握った拳で扉を叩いた。中の人物は、やや驚いたようだ。扉越しに動揺が伝わってきた。

 誰だ、と低く問いかける声が聞こえた。

 

「警戒心があるのはよいことだ」

 

「セラフィ、ちょっと黙っていてくれ。──グリフィンドールのクルックス・ハントです。先生、レタス食い虫のことで質問があり、参りました。ほんのすこし、お時間いただけませんか?」

 

 扉はパッと開いたが、ハグリッドのコガネムシのような黒い瞳は驚きに満ちていた。

 

「城には鍵が掛かっとったハズだが、おまえさんどうやって来たんだ?」

 

「開いていました。フィルチさんが掛け忘れたんでしょう」

 

 クルックスとセラフィは一階の窓から飛び降りたのだが、この言い訳はかなり信憑性があったらしい。ハグリッドがブツブツとフィルチのことを言いながら、入るように促した。

 ただし。

 

「マクゴナガル先生とスネイプ先生から──嫌というほど聞いたと思うが──今回限りだ。勝手に来ちゃなんねえ。シリウス・ブラックのことがあってから城は吸魂鬼こそ入らねえものの厳戒態勢だ」

 

「次からはふくろう便を出しましょうか。……城のなかで手紙を出すのは、すこし変な感じがしますが」

 

「んにゃ。授業中に聞いてくれりゃそれが一番手っ取り早い。それで? 何が聞きてえんだ?」

 

 クルックスは、小屋の隅で低い鼾をかいて寝ている黒い物体を見つめていた。

 犬だ。授業で何度か見かけたことがあるハグリッドが飼っている、グレートデーン種の大きな黒い犬で『ファング』と言う。

 

「あっ」

 

 シリウス・ブラックの来襲事件において大して重要ではなく、そして脅威でもないため忘れていたことをクルックスは思い出した。

 黒い大きな犬、という共通点が気がかりだった。

 

「──ハグリッド、シリウス・ブラックが来た日にあの犬はどこにいましたか」

 

「そりゃ夜だからここにいたぞ。夜はいっつもここにいる」

 

「そうですか……」

 

「なんだ、おまえさんそんなことを聞きに来たのか」

 

「いえ、俺はレタス食い虫の味についてお伺いに」

 

「……おまえさん、そりゃどうしても俺に聞かなきゃならんことか?」

 

 ハグリッドは、かなりガックリと肩を落とした。

 真面目くさる顔付きでクルックスは臨んだ。

 

「レタス食い虫は、その粘液を魔法薬に使いますが、それ以外の用途では食用になると授業で習いました。図書館で食用としての生育方法の本を読んだのですが……肝心の『長生きさせる方法』が分からなかったので聞きに来たんです。魔法生物飼育においてホグワーツでハグリッド先生の右に出る人はいないでしょう」

 

「……。うちのレタス食い虫が全滅したのは知っちょるか?」

 

「いいえ。最近、姿が見えないので誰かが食べたのかと思っていましたが、全滅していたんですか。それは知りませんでした」

 

「死因はレタスの食い過ぎだ。何事も越えちゃあなんねえ。ほどほどってこったな。あとはほっといても大丈夫なくらい元気だ」

 

 それから、レタス食い虫の講釈が始まった。

 最近ではレタスに多少のナメクジ除去剤が付いていても腹を壊さずに消化できる個体がいるらしい。

 クルックスにとって、かなり興味深いことだったが今は詳しく聞いている余裕はなかった。

 

「なるほど。分かりました。──ああ、話のついでに、もうひとつ。教えていただきたいのですが」

 

「何だ?」

 

「俺の友人のロンのネズミのことで」 

 

 その言葉を聞くとハグリッドは「ウンウン」と頷いた。

 

「ハーマイオニーの猫か。ありゃ猫が猫らしく振る舞ったからっちゅうて──」

 

「いえ、猫が死んだとか殺したとかはどうでもいいんです。……俺は魔法界の常識について詳しくないが、ネズミが十二年も生きるのは異常だと思っています。司書のピンス女史も魔法使いや魔女が飼うネズミの寿命は三年、ペットとして適切な環境でも長くて五年と言っていた」

 

「ネズミ? おまえさん、なんでそんなこと聞く?」

 

「気になると夜も眠れない。それに、出来る限り異常を見過ごしたくない。十二年も生きるネズミがいるとして専門家はどう見るのか。お聞かせいただきたい」

 

 ハグリッドはもじゃもじゃの髭を撫でた。

 

「十二年……? そりゃおかしい。本当に同じネズミか?」

 

「同じネズミ?」

 

「──襲名制という意味ではないかな」

 

 セラフィの言葉は当たらずも遠からずだったようでハグリッドは頷いた。

 

「ネズミみたいにいっぺえ生まれてくると名前を付けるのが面倒だっていう魔法使いや魔女がいる。だから全部同じ名前にしているってな」

 

「……ロンの話では、その線はないようだ。以前はパーシーのネズミだったと聞く」

 

「そうか……」

 

「他の魔法生物との交配させたネズミなら長命になることがあるだろうか?」

 

「うんにゃ魔法生物と掛け合わせたネズミなら、もっとでっかくなるハズだ。それくれえ寿命が長ければ、きっと体は──こんな、こんなだ」

 

 ハグリッドは手を大きく広げた。

 クルックスはヤーナムのネズミを思い出して「うぐぅ」と唸った。ハグリッドの図体で大きく手を広げると約三メートルになる。ヤーナムのネズミ以上の化け物ネズミがいることをクルックスはどうしても喜べなかった。

 考え込むために黙ったクルックスに代わり、セラフィは訊ねた。

 

「魔法生物との掛け合わせ以外で『十二年間も生きるネズミ』がいるとすれば、それは何でしょうか」

 

「俺の知る限りじゃ、それはネズミとは呼ばねぇな。たぶん……ネズミそっくりか、ネズミそっくりに化けた……新種の魔法生物、ネズミそっくりネズミ──」

 

 クルックスにはハグリッドが言った『化けた』という言葉が引っかかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスとセラフィは、ハグリッドに付き添われ夕暮れ前に城に戻ってきた。

 そんな彼らには驚くべきことがいくつかった。

 

「本当に鍵が開いているとはね……」

 

「フィルチさんは忙しいのだろう。今日も隙間という隙間に板を打ち付けていた。そう隙間に……」

 

 クルックスの頭の中には再び単調なリズムで単語が巡る。

 その中に『隙間』という言葉が新しく仲間に加わった。

 図書室までの道を歩きながら二人は情報を整理した。

 

「さて、クルックス。新種の魔法生物という専門家の意見が出てきたが、君は納得していないようだ」

 

「ああ、うん、そうだ、そう、俺は納得していない」

 

「ふむ。君の意志は尊重したい。しかし、これ以上は難しい。なぜなら──」

 

 廊下の角を曲がったところ、誰かにぶつかりそうになった。

 クルックスとその人は、お互いに「おっと」と小さく声を漏らした。

 

「やあ、君達」

 

「あ、ルーピン先生、こんにちは」

 

 彼は軽く手を挙げた。

 その姿に思うことがあり、クルックスは「あの」と引き留めた。

 

「先生、俺のテルミ、あ、いえ、ハッフルパフのテルミ・コーラス=Bが、先生にご迷惑を掛けているのではないですか。彼女と俺は遠い親戚で……すこし行動力が空回ることがある人なんです。……ですから、彼女に何かを提案されていて気が進まないのであれば、断っていただいて結構ですよ。むしろそうした方が身のためというか」

 

「ああ、あとできちんと伝えるよ。けれど興味深い話でもあったね。いまだ魔法界にもマグルにもほとんど伝わっていない秘境がイギリスにあるなんて。スネイプ先生から君達のヤーナムのことをすこし聞いている」

 

「ああっと。それは」

 

 クルックスは、スネイプ先生がどこまで何を話したのか、とても気になった。ルーピン先生からどう聞き出そうかと言葉を選んでいるうちに彼はニコリと笑った。

 

「かの先生は『イギリスで永住したい街百選のうち一位にランクインしている街だ』と言っていたよ」

 

「ふあ? あ、ああ、そうですか。ワハハハ……ハハハ……?」

 

 クルックスは、スネイプ先生がヤーナムに好感を持つ理由に特に心当たりがなかったので大いに困惑した。セラフィを見ると彼女は肩をすくめた。わからない。そうだろうな、と彼も思った。

 

「ミス・コーラスから街に出没する獣のことで苦労しているとも聞いている。君の人狼のレポートが、とても熱が入っていたのはそういう背景があるからなのだろうね」

 

 クルックスは軽く頷きながら『人狼』という言葉に胸がドキリとした。

 ──いざという時、自分はこの人を狩るのだ。

 手足がしっかり動くかどうか、今は自信がなかった。

 

「──クルックス、せっかくだから先生にも聞いてみてはどうだろう?」

 

「え?」

 

「ほら、例のネズミのことだ」

 

 不自然でぎくしゃくとしたクルックスを庇うようにセラフィが話題を変えて、促した。

 意外なことにルーピン先生も興味深そうに訊ねてきた。

 

「ネズミ? ほう。何の話だい?」

 

「あ、ああ……ええと……ロンのネズミが最近、猫に食われて死んだのですが、そのネズミは十二年間も生きたネズミだったんです」

 

「……。珍しいね」

 

「ええ、ハグリッドもピンス女史にも聞きましたが、そこまで長生きのネズミは常識的にあり得ないという返事をもらいました。けれど、あくまで普通の動物と魔法生物の観点からです。おかしなネズミについて『闇の魔術に対する防衛術』の観点からは、どのように正体を推理できるのでしょうか?」

 

 ルーピン先生のこれまでの授業からクルックスが受ける印象とは、彼は素晴らしく真っ当で理路整然とした論を好む人だと感じていた。

 そのため。

 

「──ネズミは行方不明ではなく『死んだ』?」

 

 彼が問いかけたことが、推理の判断材料にならない事実確認であることをクルックスは不思議に思った。

 

「はい。ベッドシーツに血痕があったそうです。俺も死体は見ていませんが、飼い主のロンは死んだと判断したようです。それが……何か?」

 

「いいや、何でもない。けれどもし、ただの『行方不明』であったのなら、そのネズミを一目見てみたくてね。……。話を聞くに私も不思議なネズミだと思う。だが推理は難しい。情報が足りないからね。……もう死んだのだろう? ならば正体はわからずじまいだな」

 

 ルーピン先生は、腕を組んで「ふーむ」と唸った。彼の言葉が異常を解明しようとする全ての障害だった。

 

「ああ、惜しいな。クルックシャンクスに先を越されてしまった……しかし、クルックシャンクスが殺さずにいれば俺はネズミなんぞ気にも掛けなかったのが、何ともな……」

 

「そうだね。──クルックス、これからロンのベッド周りをもう一度、捜索してくるのはどうだろう? ネズミの指一本でも落ちていれば先生の推理が聞けるかもしれない」

 

「そうだな。ああ、もうひとつ。あの時の報告を仕損じておりました」

 

「あの時?」

 

「シリウス・ブラックがグリフィンドール塔に出没した時のことです。俺は追撃を敢行しましたが、シリウス・ブラックを見失いました。その先で犬を見かけました。黒い犬です。噛みついてくる様子がなく、誰かのペットの可能性を考えたので殺さず捜索に戻りました。……あの時は報告を省いてしまいましたが、ここで念のためにご報告を」

 

「……。ああ、ダンブルドア校長には私から伝えておこう。思い出してくれてありがとう」

 

 そうしてルーピン先生は去った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「分からないことばかりだ」

 

 しかし、専門家の意見を聞いてかなりスッキリした気持ちがある。テルミは以前「やるだけやった方がスッキリする」と言ったが、復讐以外おいては正しい意見だったのかもしれない。クルックスは考えを改めた。

 それに脅威ではないため報告していなかった出来事について思い出し、ルーピン先生に報告できたのは善いことだった。何かを忘れかけていたと思っていたが、その一つはあの出来事であったに違いないと確信した。

 

「セラフィ、付き合ってくれてありがとう」

 

「大したことではないよ。それに僕にもすこし分かったことがある。無駄ではなかったよ」

 

「……俺は賢さが足りない……。ぐぅ。何が分かったんだ?」

 

「ルーピン先生はネズミがお嫌いなのかな。ネズミの言葉が出た途端にやや顔が強ばった」

 

「はあ。そうか?」

 

「──君は鴉羽の騎士様と十日ほど親睦を深めた方がいい。視線の動き、歩幅と表情の作り方で気分を察することが出来るようになるよ。それに優れた人と一緒にいるのは勉強になる」

 

「ぐ、ぐぅ」

 

 クルックスは、鉄兜──それはバケツを逆さまにした様である──を被った連盟の長に対し一切必要のない対応能力であることに気付き、自分の弱点に気付いてしまった。

 

「そういうことは、あ、あとで勉強させてもらうとして……。ネズミが嫌いだから何だというんだ?」

 

「そこまでは分からない」

 

「そこが肝心なところだろう」

 

「肝心だからこそ語らないのだろうね。そういえば彼の『まね妖怪』は満月なのだと聞く。──恐怖の対象ではないことは確かだ」

 

 謎ばかりを抱え、やがて二人は大広間へ向かった。

 この謎は。

 彼らが再びヤーナムに辿り着くまで解けることのない課題となり、クルックスの思考力を苛む由縁となるのだが、全て未来の話だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 イースター休暇明けの最初の土曜日を目前にスリザリン寮は、大いに盛り上がっていた。

 それもそのはず明日には、寮対決クィディッチ決勝戦であるスリザリン対グリフィンドールが行われる。スリザリン選手に対する激励にも熱が入った。わざわざスネイプ先生が来て簡潔な応援──「諸君らの健闘を祈る」──を述べるほどだった。

 選手で不安そうな顔をしている者は誰もいない。緊張とプレッシャーをはねのけるように皆が騒いでいた。そのため、穏やかな時間を過ごす者が逆に浮いてしまうものだった。

 

「君は、勝てると思うかな?」

 

「うーん。ハリー・ポッターにはファイアボルトがあるのでしょう? 眼鏡を掛けているけど、彼は目が良い。スニッチを逃したことは、吸魂鬼が出てきた時だけでしょう。……本物の」

 

 セラフィの問いにダフネが付け加えたのは、前回のグリフィンドール対レイブンクロー戦において吸魂鬼の格好をして試合に乱入して返り討ちになった件を思い出したからだろう。思い出したついでにセラフィが思うことはクルックスが言っていた「あれが守護霊の呪文だったのだ」ということだ。

 

「勝ってほしいけれど。勝てないのなら、あまり点差が離れないうちに試合を終了させることが戦略的には勝ちよね。五〇点差が決め手になるわ」

 

「なるほど」

 

 セラフィは、果物を食べながらクルックスから送られた羊皮紙に目を通していた。

 実のところ、彼女はクィディッチへの興味関心は皆無だった。そんなことより『互助拝領機構』で発表する内容のことが大切だった。同じような人物はいる。

 

「セラフィ、興味がないのにダフネ姉さんに無駄な質問するのはやめなさいよ。アストリアだってクィディッチのことは……だけど、わたしはダフネ姉さんの手を煩わせていないのに」

 

 三分間、話し続けるために必要な文字数は九〇〇字だとされている。

 同じテーブルに座るアストリアは原稿の要点の全てを九〇〇字に納めようと何度も書き直していた。ダフネが隣で「うーん、ここ要らないと思うわ」と言う度に「ここは後の説明に対応する部分だから必要だもの」と言うやり取りをセラフィは、すでに五回見た。

 

「クィディッチは魔法族がこぞって熱中する話題と聞いた。興味はないが、負けてもいいと思っているワケではない。勝つために戦うのだ。ならば勝たなければ。……それに僕が今さらマルフォイを応援することはないだろう。もうそろそろノイローゼになっているのではないかな。彼は意外と繊細なところがある」

 

「よく見てるじゃない?」

 

 アストリアが、原稿を持ち上げる。出来具合を見るような目をしているが、セラフィには羊皮紙を向けた先にいるマルフォイを見ているのだと分かっていた。なぜならば。

 

「夜警だからね。妹君はクィディッチに熱心ではないがユニフォームを着たマルフォイのファンだということを、僕はちゃんと知っている」

 

 ダフネは「あら~そうなの~」と至極どうでもよさそうに言ったが、アストリアは羊皮紙をギュッと握りしめて「ま!」と唸った。尻尾を踏まれた猫のようだとダフネは感心した。

 

「憧れは良いことだ。僕も憧れる人がいる。何も恥じることはない」

 

「不思議ね。あなたと同じと考えると途端に不安になるわ」

 

「憧れは人生を充実させてくれる。分かるとも」

 

 セラフィは、髪飾りである鴉羽に触れて深く頷いた。セラフィの反対側のソファーに座る頭が大きく傾いだ。

 

「セオドール、もう寝た方がいい」

 

「ぐぅ……俺は一日に十時間寝ないとダメらしい……」

 

「疲れているだけだ。明日、観戦している間に寝てしまってスニッチを見逃したら悔しいと思う。寝た方がいい」

 

 もそもそ動いてセオドールは、男子寮に帰っていった。

 アストリアもぱたぱたと動き出した。

 

「ア、アストリアも眠くなってきちゃった、かも。ね、寝るわね、お姉様」

 

「眠くても歯を磨いてから寝るのよ」

 

「わかってるわよ……!?」

 

 ダフネは、クスクスと笑った。

 

「アストリアは、同じ年の友達が何人か出来たの。あなたと話して自信も付いてきたみたいだし、良いことだわ」

 

「君達が生きる手助けができるのであれば幸いだ。君達の充実した人生は、僕の喜びでもある」

 

「大袈裟なことを言うのね。いつも」

 

「僕なりに君達のことは大切に思っているのだよ。健康で長生きをする。それに代わる幸せは少ない」

 

「それはそうだけど。話が壮大なのよ。よく聞けば小さいけれど」

 

「僕はその小さな幸せがあれば、それでいい。皆にもそう思ってほしい。しかし、人は向上思考というものがあり、加えて競争の本能もある。……難しいものだね。僕も競う以上は勝ちたいと思う。なので明日は頑張ってほしいものだ」

 

 セラフィは、葡萄を一粒千切って食べた。彼女は、マルフォイを見ていた。誰かと話している間は楽しげにしているが、ふとした瞬間にまるで彼は曇り空のなかにいるように陰が差す。試合には不安がつきまとう。なぜなら、彼は一度もハリーより先にスニッチを取ったことがないからだ。

 ──誰かの不安が想像できるなんて。

 セラフィは、理由もなく笑ってしまった。生まれた時に、こんなことが出来るようになると考えたことがなかった。

 

「どうしたの? ああ、そうそう、明日は応援に行くでしょう?」

 

「僕は遠慮するよ。……。『互助拝領機構』の事前準備で忙しいからね」

 

 セラフィは、羊皮紙をヒラヒラさせた。

 

「まあそう。応援に行かないのはあなただけよ、きっと」

 

「では聞かなかったことにしてくれ。その代わり、僕は葡萄の食べ過ぎで腹を壊す予定だ」

 

「そういうことにしておくわ」

 

「お気遣いありがとう。だが便利に使ってくれ。僕はいつでもそれを望んでいるのだ」

 

「食べるのは、これで終わりにすることね。わたしも、もう寝るわ」

 

 セラフィの手に赤い林檎を押しつけて、ダフネは去った。

 葡萄を食べ終えたが、まだ食べることができる。しかし、手の中の林檎は食べる気が起きなかった。その理由を考えるためセラフィはハンカチで林檎を磨いた。

 アストリアが座っていた、セラフィと対峙する空席に誰かが座った。ドラコ・マルフォイだった。

 

「すこし静かなところで、優勝のスピーチでも考えようかと思ってね」

 

 セラフィが口を開くより先に彼は早口で喧噪から逃れてきた理由を述べた。それから窓の外、広がるホグワーツの湖を見た。暗い硝子にマルフォイの顔がハッキリと映った。

 

「健闘を祈る。誇るべき勝利を目指したまえ。──ポッターから学ぶことがあるだろう」

 

「何を? あんなヤツから何を学ぶことがあるって言うんだ」

 

 鼻で笑ったマルフォイに、セラフィは薄く微笑んだ。

 

「危機への身構えには、目を見張るものがあると聞く。──ただの幸運で、たかが偶然で、バジリスクを殺せるハズないだろう?」

 

 セラフィの言葉にマルフォイはギョッとしたように湖の暗がりから彼女の顔へ目を移した。

 

「彼は、常人には得難い経験をしている。その言動は、繕いようのない咄嗟の行動に現れるものだ。けれど、普段の彼は平凡に見える。君はそれがどうにも許しがたいようだ」

 

「何が言いたいんだ? 僕がアイツを羨ましいと思っているとでも?」

 

 鋭い問いかけがあった。

 セラフィは「まさか」と一笑した。

 

「平凡に見えて得難い経験をしているのは君も同じだ。君は、ご両親に慈しまれ同胞に恵まれた。なんと得難く、素晴らしい体験だろう。──短慮な勝利にこだわることなかれ。自信を持って戦ってほしい。スリザリンが練習に懸ける熱量は、決して彼らに劣るものではない」

 

 セラフィは、磨いていた林檎を彼の顔に投げた。

 出し抜けで投げられた林檎をマルフォイは咄嗟に両手で掴んだ。

 

「調子が良いね。……人は勝つために戦うのだが、負けても得るものがある。蓄積は大切なものだよ。次の勝利のためにね」

 

「そんなものは敗者の言葉だ。──明日、僕は勝つ。スリザリンが優勝する」

 

「その意気だ。明日もその調子で頼むよ。……僕も寝ようかな。君も休んだ方がいい。明日、寝不足でスニッチが見えなかったら辛いだろう」

 

 セラフィは「おやすみね」と告げて女子寮へ歩いた。

 ベッドはほとんどが空だ。先に戻ったダフネは長い髪がくしゃくしゃになってしまわないように三つ編みにしていた。

 

「あら、今晩は早いのね。夜歩きに出るかと思っていたわ」

 

「すこし仮眠を取ろうと思ってね。……みんなのお祭り気分に中てられてしまったのかもしれない」

 

 夜、セラフィのベッドが空であることは珍しいことではない。

 そのため彼女が消灯の時間までにベッドに入ることは、とても珍しいことだった。

 自分の心情の変化を不思議に思いながら着古したシャツを被り、眠りについた。

 




信頼できない語り手
 ネフライトにとってクルックスは(すでに忠告をしているにも関わらず)自分を信頼しすぎるきらいのある『きょうだい』です。そのため彼の発言はほとんど信頼に値すると考えています。しかし、連盟の活動が彼の行動規範に絡むと途端に彼の信頼度は下がります。病み人が真実を話すという性善説によってのみ医療者は正しい治療を行えるように。報告者が幻覚を語っていると適切な判断を下せなくなるからです。犯罪者には虫がいるかもしれない。クルックスのこの思い込みは、ネフライトにとってイライラする想像でした。


ネフライト、雑誌の連載枠を持つ
 気ままに書いています。
 読者はほんのちょっぴり増えたそうです。


クルックス、賢くない
 準備はいいのに詰めが甘く、敵意には敏感なのに足下の罠には気付かない。『脅威ではない』と見なしたものについて認識が弱く、虫に固執すると一気に視野が狭くなり、常識も足りない。欠点をまとめると彼は自分自身を「他の三人に比べて俺は賢くない」と自嘲します。
 自覚したからと言って直すことは難しいため彼の当分の解決方法は──今回、セラフィに頼ったように──誰か隣にいてもらい指針を確認しながら歩くことでした。
 狩人の相棒になりたいと思っているのは、孤独な狩人のためもあるでしょう。けれど、それだけなのかと問われたら彼は何を答えるのか、注目すべきことでもあります。
 狩人の『視界で動くもの全て鏖殺することで安全を確保する精神』を見習うべきなのかもしれません。──外の社会的に生きていけない精神。


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互助拝領機構発表会


守護霊の呪文
パトローナスチャーム。
守護霊は身を守る盾となり、時に言葉を伝える。
しかし、生半可な腕では扱えない。

彼らには、まだ早いのだろう。



 

 クィディッチ競技場において。

 今期最後の試合となるグリフィンドール対スリザリンの戦いが行われていることだろう。

 同時刻。

 クルックスとセラフィは『必要の部屋』で『互助拝領機構』の活動を行っていた。セラフィは椅子に腰掛け、彼が借りてきた本、その一項を熱心に読んでいた。

 

「守護霊の呪文。これがあれば吸魂鬼の影響を免れるのか。……ふむ。夏休みの間にクィレル先生から学びたい。ネフや君はクィレル先生にいろいろと依頼しているようだ。最近では、草を送ったようだね」

 

「草。君は魔法薬の材料で使う植物のことを『草』と言うのをやめたほうがいいぞ。『魔法薬学』でスネイプ先生が何とも言えない顔をしていることがあるからな。……俺の用事は、ポリジュース薬だ」

 

「ポリ……薬……? 何の薬?」

 

「人の姿形を変える薬だ。君は昨年度──いや、もう一昨年になるか──君の姿をしたハーマイオニーを見たと言う。その時に使われた薬だ」

 

「ああ……そういえば、そんなこともあったね」

 

 セラフィは、思い出すように視点を遠くに移した。

 ハリーといつもの三人組はポリジュース薬を使ってスリザリン生に変身し、マルフォイから情報を引き出そうとしたことがあった。

 

「テルミの悩みをほんのすこし軽くしてやろうと思ってな。……それにヤーナムでの試行だ。深刻な問題が発生しても全て夢に出来る。作るのに時間がかかるそうなので手順書と材料を送った。他にも材料が必要なのだが、それは夏休みに入ったらダイアゴン横丁の薬問屋で揃えようと思う」

 

「テルミは君に化けてお父様とお話をするのか。果たして気付かれるかな……?」

 

 セラフィは薄く笑った。

 クルックスは気付かれないと思っている。

 

「お父様が苦手とする『少女の姿』でなければ問題ないのだろう。君とは普通に話をしているのだし……あー……割と」

 

「お父様と挨拶以上の会話なんて数えるほどしか交わしたことはないが、そんな僕はテルミよりマシなのだろうね。僕の場合は、この顔のせいで……いいえ、僕の体に恥ずべきことはないのだけど……」

 

「すまない。不用意なことを言った」

 

「気にしないでくれ。──さて、夏休みのクィレル先生には君からの依頼を頑張ってもらいつつ、僕も相応の謝礼を送って特別授業をしてもらおうかな……」

 

「それには及ばない。俺も学びたい。ネフやテルミも必要だろう。また四人で謝礼を用意しよう。食料でも書籍でも何でもいい。気を病んでしまわない程度の娯楽も必要だな。チェスくらいはヤーナムにもあるが……。ふむ。しかし」

 

 クルックスはセラフィが見ている本を逆さまに覗き込んだ。

 

「難しい魔法なのか?」

 

 もしも、この台詞をネフライトが聞いていたらN.E.W.T、イモリを越えるレベルの呪文の理解についてクルックスを懇々と説教したかもしれない。

 

「指導を受けないと難しいものだろうか。俺は、いま取り組んでも構わない。後回しにする事情があるのか?」

 

「ひとつ、僕はホグズミードに行かないので吸魂鬼と会敵する理由がない。ふたつ、他に取り組むことがある」

 

「俺はそろそろ質問することに劣等感を抱いてしまいそうだ。しかし、訊ねよう。他とは。何かあったか?」

 

「『狩人の戦いに魔法を取り入れるとどうなるか』とは、僕らの自主課題であったろう」

 

 二人で思いついたものの「いつか時間があるときにやろう」と先延ばしになっていた課題をクルックスは思い出した。そして、努力して忘れようとしていた理由についても。

 

「俺は……君と戦うのは訓練であっても気が進まないのだ」

 

「それでは困る。僕と君でどちらが優れているのか、そろそろハッキリさせる必要があるだろう」

 

「俺は必要を感じていない」

 

 セラフィの挑発をかわしつづけてもう三年が経とうとしている。

 あらゆることに執着の薄い彼女にしては熱心な要求だった。

 

「魔法を知り、実験を出来る『狩人』は限られるだろう。使えるものは全て使うのが狩人だ。ヤーナムの狩りに魔法を使うことは検討していないが、聖杯くらいなら問題ないだろう。結果次第ではお父様に嘆願することも視野に入れてもいい」

 

「アメンドーズの巨体に『失神呪文』が効くとは思わないが、試してみる価値はある……? あるか……?」

 

 セラフィは、するりと衣嚢から落葉を取り出した。

 

「待て。真剣は危ない。君を傷つけたくはないのだ。──というワケで。禁じられた森の周辺に落ちていた、いい感じの木の棒を使うぞ」

 

 クルックスは仕舞うように指図すると代わりに部屋の隅に置いていた木の棒をセラフィに二本渡した。

 

「君には鴉羽の騎士様と同じ趣味があったのだね。鴉羽の騎士様もレオー様もいい感じの木の棒を拾って歩くのがお好きだ。市街からカインハーストへの帰り道のことだよ。僕にはよく分からない趣味だが、きっと男の子だね」

 

「『きっと』ではなく見てのとおりの男の子だ。ともあれ、ただの模擬戦なのだ。これでいいだろう。あ、銃の弾は抜いてくれよ。音が響くとマズいからな」

 

「分かった。ヤーナムに戻ったら実戦してもいいだろう?」

 

「だから……俺は君と争いたくないのだ」

 

「僕は君より強いことを証明してしまいたいのだ。いいえ、証明するまでもなく僕の方が強いのだけど」

 

「俺には証明の必要は感じられない。この話は終了だ」

 

「そうか。では仕方ないな。──ステューピファイ! 麻痺せよ!

 

 不意打ちに始まった戦闘をクルックスは意外に思わなかった。セラフィは、もう杖を抜いて暇そうに弄んでいたからだ。そのためクルックスもすぐに応戦した。

 

プロテゴ! 護れ!

 

 呪文同士の結果を見ずに二人は走り出していた。

 互いの間合いをつかむため、数秒ステップと併走を挟む。先に踏みだして仕掛けたのはクルックスだった。仕掛け武器代わりの木刀を振るった。

 

「銃撃ならば二、三喰らったところで止まらないが、魔法は一撃食らったらそれで終わりだな。意識を奪われることは避けたい。──エクスペリアームス 武器よ去れ!

 

 赤い閃光はセラフィに掠りもしなかった。

 

(まったく。カインの騎士らは本当に速い)

 

 瞬きの間にセラフィの姿は、間合いの内側に入っていた。

 ステップの勢いのまま、長い手足に遠心力が乗った重い一撃を躱し位置を入れ替えるように押し切った。

 

「魔法使いと戦うならこうして接近戦に持ち込んで仕留めた方がよさそうだね。ただの魔法使いなら蹴りだけで殺せるのだ」

 

 互いに組み付いた状態でセラフィの飛び膝蹴りがクルックスの顎を掠めた。

 

「──レオー様もそうだったが、君達は近接において惜しげなく足技を使う。俺がもう少しナイフと親しければ切り飛ばせるだろうか。いいや、それより俺も連盟の長から官憲仕込みの徒手格闘を学ぶべきなのだろうか……」

 

 軽いステップで互いの間合いを測っているとセラフィが床に杖を向けた。

 

グリセオ! 滑れ!

 

「なにっ。あっ。また──っ」

 

 床に、まるで油でも流したかのように突然滑らかになったことでクルックスは脚を滑らせた。

 たいていの外傷に耐性のある彼でも不意打ちの痛みには、多少動揺する。たとえば、舌を噛む、とか。

 

「んん、んんんっ!?」

 

 林檎を噛むようなザクリとした嫌な感覚が脳天まで奔り、クルックスは口を押さえた。ついでに床に手をついた彼は脚を止めてしまった。

 

「隙ありだ」

 

 セラフィから銃弾代わりの木の棒が投擲され、クルックスが顔を上げた瞬間、額に命中した。そこで、きりよく模擬戦は終了になった。

 

「ぎぃ……いぃ、い……」

 

 異常な生まれの彼らにも生理的な反応は存在する。

 ひどい苦痛のためボロボロと涙を溢した。

 

「舌を噛んだのか。千切れていなければ問題ないだろう。……見せてごらん」

 

 大丈夫、と伝えきれずクルックスは口を押さえた。

 クルックスのそばにひざまずき、彼の頬に手を添えたセラフィが口を覗き込んだ。

 

「おお、ざっくり噛んだね」

 

「あ、あ、ぐぅ……う……」 

 

「『エピスキー 癒えよ』を試してみようか。──ちょっと待ってね」

 

 痛みのショックは続いている。唾液ではない液体のせいで鼻の奥が血生臭い。クルックスは、口をすすぎたかった。ゴシゴシと涙を拭っていると『必要の部屋』の扉が開いた。

 

「もー、クィディッチの最終戦くらい来たらどうですか? 普通の学生と一分話すと死ぬ病にかかっているネフはともかく。目立つことは避けるべきで──ああああ! セラフィがクルックスとキスしてるっ! 酷いわっ! 独り占めなんて! 最近、二人で一緒にいると思ったのは、そういうことだったのねっ!? イチャイチャしていたんだわっ! イチャイチャしていたんだわっ!」

 

 テルミは扉を閉めるなりピョンピョンはねた。クルックスは彼女なりに地団駄を踏んだつもりだということが分かった。それはそれとしてワケの分からないことを言っていないで舌の怪我を治してほしかった。

 

「あ、テルミ。ちょうどいいところに来た」

 

「ちょ、ちょうどいいっ!? ちょうどいいって何なの!?」

 

「いま舌を噛んでね。出血している。治してほしい」

 

「そんなっ激しいコトを……!?」

 

「事情を話すから、まずは仕事してくれ」

 

 セラフィがクルックスの言いたいことズバリを述べ、テルミの頭をコツコツと小突いた。

 

「あうっ。つつかないで。お姉様ったら酷いわ。本当に。わたしのものを取り上げるなんて。もう。──エピスキー 癒えよ

 

 舌の根まで冷えて暖かくなる奇妙な感覚があり、クルックスは口を閉じた。

 奇妙な感覚が去った後は、痛みも無くなっていた。血混じりの唾液を飲み下すと喉が熱くズキズキと痛んだ。

 

「ありがとう、テルミ。──狩人は脚が要だ。機動力を奪う手段はかなり有効だな。爆発呪文で足場を崩すとか、『変身術』で沼を作るとか」

 

 何の話かとクルックスを見上げたテルミに模擬戦の概要を説明すると彼女は大いに呆れた目をした。

 

「まぁ、困った人達です。ヤーナムでやればよいのに」

 

「試せる時に試しておくべきなのだ。学ぶことは大いにあった」

 

「そうだとしてもです。お口は? もう痛くない? ほかに怪我はありませんか?」

 

「何も問題はない」

 

 クルックスは、ズボンについた埃を払い立ち上がった。

 

「結構です。むぅ。いいですか? ユリエお姉様がおっしゃっていたようにわたし達の体のことは分からないことが多いのですから、血を流すことには慎重にならないといけません。まして、ヤーナムの外では」

 

「あ、うん。そうだな。気を付けていたのだが……」

 

「気を付けるだけではいけませんよ。実行に移すことが大切なのです。わたしのように」

 

「分かった。分かった」

 

 クルックスは、セラフィに「今日はこれでおしまいだ」と目で伝えた。セラフィも「そうすべきだろうね」と肩を竦めた。

 

「お茶を淹れよう。口の中はまだ血塗れだ」

 

 クルックスは、避難させていた棚から水瓶を持って来た。そうして慣れない手つきで準備する間、テルミがクィディッチの最終戦の状況を伝えた。

 

「勝ったのはグリフィンドールです。優勝おめでとう、ですね。ハリー・ポッターのファイアボルト。それは他の追従をゆるさない素晴らしい躍動を魅せました。今頃グリフィンドール塔は大盛況でしょうね」

 

「スリザリンは……どうだったかな」

 

 セラフィの質問は彼女らしからぬ曖昧さだ。もし、クルックスが回答する場合は大いに言葉に迷ったことだろう。

 

「スリザリンは、珍しくラフプレーが少なかったですね。礼儀に反する乱暴なプレーが少なかったせいでしょうか。敗者に見向きしないと思われた観客から、多少の喝采がありました」

 

 クルックスは、にわかに想像できなかった。

 三寮の生徒は、スリザリンにも喝采をしたのだと言う。

 

「……スリザリンは、もう少しだけ取り繕うことを覚えた方がいい。僕らが様式美にしがみつき、礼節を守るように。彼らが手段を選ばないのならば、目的だけは気高く尊い場所に置くべきなのだ。短慮に陥ってはいけない」

 

「難しいことを言うのね」

 

「難しい?」

 

 テルミはクスクスと笑うだけで、難しいことの理由を教えてくれなかった。

 三人分のお茶を淹れるとようやく一息吐いた。

 

「魔法を使う戦闘をしてみて思ったけれど、杖は邪魔だね。かなり集中していなければ呪文は不発になってしまう。呪文を試みる間に三、四発は銃撃できるだろう。もうすこし魔法に習熟すれば違うのかもしれないが」

 

「ええ。六年生で習う無言呪文が出来るようになれば感想も違ったものになりそうですね。知っていますか? 無言呪文。呪文を唱えずに魔法を使うの」

 

「ああ。互助拝領機構杯決闘大会で見たことがあるからな」

 

「全ての魔法を無言呪文で使えるようになるのは高望みでしょう。けれど、いくつかの呪文、たとえば武装解除や盾の呪文を無言呪文で行使できるようになれば、対人戦闘には使えると思います。わたしも今のところは銃の方が実用的だと思っていますが、魔法の方が確実に殺さずに済むので便利に使えますから」

 

「なるほど。殺さず捕まえるのが目的であれば……うーむ……そういう機会がいくつあるかという話にもなりそうだが、こういうことは考えない方がいいのだろうな。魔法により助かることもありそうだ。戦いに使えそうな呪文は今後とも探しておくとしよう。俺は『変身術』を頑張らないといけないことがわかった」

 

「どうして『変身術』なの?」

 

「沼を出したい。こう、ドバァーっと。カッコイイだろう?」

 

 テルミとセラフィは不思議そうな顔をした。

 クルックスとしては獣への足止めにも使えそうなものなので良いアイディアだと考えていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 翌日。

 呪文学の教室で行われた『互助拝領機構』は、カチンコチンに緊張した一年生からお手並み拝見とばかりの六年生まで発表者十人が集まった。他に三人いたのだが、週一回のクラブ活動に参加しなくなった。クィディッチや他のクラブ活動で忙しくしていたようだ。ネフライトは「去る者追わずと言うだろう」と気にした素振りはなかった。

 発表者の他に見聞するだけの生徒が何人か座っている。彼らは、発表者の友人や知人といった生徒だ。発表を見物する分には、問題ないようだ。

 最も楽しそうにしているのは、クラブ活動の顧問であるフリットウィック先生で全員の手元に配られた各員のテーマと主な発表内容が書かれた冊子をウキウキと読んでいて、ときおり隣に座るスリザリンの一年生、アストリアに話しかけている。

 最も悲壮な顔をしているのは、なんとハーマイオニーだ。

 

「クィディッチ前後の騒がしさと授業の課題で忙しくて……。うまくまとめられていないかも」

 

「たった三分だろう。それに週一の進捗発表だと順調そうだったが」

 

 ハーマイオニーは肩を落として羊皮紙の束を整理し始めた。

 午前十時。ネフライトが手にした小さな鐘を鳴らした。

 

「定刻となった。──諸君、クジを引きたまえ。順番が書いてある」

 

 ネフライトがカップに木の棒を入れた物を差し出した。

 共同作業をしていたクルックスとセラフィは代表してセラフィがクジを引いた。

 

「五番だ」

 

 まぁまぁの順番だ。

 共同作業していた生徒はクルックスとセラフィだけではないので、後半にあたる順番だ。それまでの発表を見て、場の雰囲気を掴むことが出来るだろう。

 一番を引いてしまった一年生のハッフルパフ生、オーエン・コールドウェルが身を縮めた。

 

「気にすることはない」

 

 今日も今日とてメンシスの檻の中にいるネフライトは、さらりと言った。

 大いに気にすることだ、と言いたげなオーエンが檻頭を見上げた。

 

「活動の進行を務める私が先だって発表するので、君はまだ座っていていい」

 

 全員が着席したところでネフライトは教壇に立った。そして、ヒョイと杖を振った。白いチョークが踊り、ネフライトの手癖の文字で『未確認魔法生物の捕捉の必要性』が書かれた。

 

「すでに発表者には伝えてあるが、発表の時間は三分。二分三〇秒で一度目の鐘を、二分五〇秒で二度目の鐘を鳴らす。延長は認められない。ゆえに発表者は内容を精査し、理解に易しい言葉で伝えることを目指されたし。発表後は、発表者に対する質疑応答の時間となる。──疑問は、攻撃ではない。……苦しむことはない。気負わずに答えてほしい」

 

 前置きが終了して彼は話し始めた。

 内容を要約すると。

 

 魔法生物を捕捉する意義は、魔法族が持ちうる資源を把握することにある。

 彼らの存在により飛躍する分野があるだろう。まずは道具となり得る資源を把握することだ。そして捕捉できた生物の精密な研究を行うべきだ。ダンブルドア校長がドラゴンの血の十二の使用法を発見したように。

 

「こんなところだな」

 

 メモのためペンを走らせていたクルックスは、隣に座るセラフィに紙を見せた。

 

「何か質問するかな」

 

「うーむ。ハッキリ言って俺がネフに質問するのは気が引けるな。……彼は頭がいいからな。俺など……」

 

「──ハイ!」

 

 質問を受け付けた途端、天井に向かってまっすぐ手を伸ばした生徒がいた。

 

「ラブグッド」

 

 ネフライトが指名した。

 

「良い考えだと思うな。ラックスパートはいるけど、まだ認められていないから。もっといろんな人が知れば耳に気を付けて歩くと思う」

 

「その発言は、同意と受け取った。現在、我々の常識は魔法動物学者で『幻の動物とその生息地』の著者であるニュート・スキャマンダー氏の発見と分類によるものである。かの図書は権威的な本だ。世界的ベストセラーにもなった。だが魔法族は、それで満足をしてはいけない。学究の後進である魔法族は新たな発見を模索し、また、発見は検証されていくべきなのだ。他に質問は? 無し、と見た。以上。発表終わり。──次、登壇したまえ」

 

 ハッフルパフのオーエンは登壇したが「先に発表すればよかった……!」と思っていることだろう。今の彼を突けば、緊張で顔から火が出そうだ。クルックスも同じ気分だった。

 

 緊張による言葉のつまずきはあるものの、発表は概ねトントン拍子で進んだ。

 オーエンの『ファイアボルト登場によるクィディッチ・ワールドカップの展開予想』は、聞く人が聞けば興味深い内容だったのだろう。クルックスとセラフィはクィディッチのことはルールさえ認識が怪しい状態なので、オーエンが熱心に語った箒の加速度がフォーメーションに与える影響と最も利となる世界にあるクィディッチ・チームの予測は、右から左へ聞き流す状態だった。

 発表後、クィディッチに興味の無いネフライトもコメントに苦労をするだろう、とクルックスは我が事のように心配していたが、彼は杖を振ってファイアボルトを図示しながら感想を述べた。

 

「道具を改良することにより、使用者である魔法族に変化が起きることは好ましい変化だ。もっとも、効率を求めることで娯楽としての『楽しみ』を削いでしまわないかどうか心配だ」

 

「心配するのなら、いま約七〇〇ある反則が、さらに、増えることだと思います」

 

 三分間ギリギリで発表を終えた後のオーエンが、息切れしながら答える。ネフライトは、斜め上に視線を向けた。

 

「それもそうだな。審判が見えないところで行われる反則に関する条項が増えるかもしれない。──さて、質問の時間だ。発言者に質問のある者は、挙手!」

 

 ネフライトがパンと乾いた音を立てて手を叩いた。

 これにはパラパラと手が上がった。ネフライトの話に比べれば、今回がクィディッチという魔法族ならば馴染み深い話題だからだろう。一方で、オーエンはこんなに反応があると思わなかったのか不安そうな顔をしてネフライトを見た。

 

「フリットウィック先生、ご発言をどうぞ」

 

「一年生ながら立派な発表だった。そこでちょっとした質問をさせてほしい。──君は来年のクィディッチ・ワールドカップに言及したが、ズバリ勝つのはどこだと思うかね?」

 

 何人かはフリットウィック先生が聞いたことをそのまま質問してしまいたかったようだ。オーエンを見つめる目が増えた。

 

「す、すでに出場が決まっているチームならトランシルバニア……」

 

 実際のところ。

 彼の予想は外れていた。しかし、後にトランシルバニアはイングランドに三九〇対一〇という大差をつけて大勝したので、あながち的外れな予想ではなかった。──とはいえ、全て未来の話だ。

 パラパラという拍手に見送られ、オーエンは降壇した。

 次に登壇したのは、レイブンクローのルーナ・ラブグッドだ。

 砂時計に手を置いたネフライトが、ルーナの準備が出来ても経ってもひっくり返さないので彼女は振り返った。

 

「どうしたの?」

 

「話が脱線しなければ三分で話せるだろう。そういう構成をしている。……しているんだからね?」

 

「大丈夫だよ。心配してくれて嬉しいな」

 

「心外だ。始めたまえ」

 

 ネフライトはひらひら手を振った。クルックスは彼がルーナが話を始めた後、話題がしっかり話すべきことであるのを確認した頃に砂時計をひっくり返したのを見た。それを目撃されていたことに気付いた彼は、けれど何事も無かったかのように目を閉じて発表に耳を傾けていた。

 

(露骨な贔屓をするのだな)

 

 彼の意外な一面を見たような気分になり、クルックスは知らず固まっていた頬が柔らかくなった。セラフィがよく笑うようになったのと同じ変化が彼にも起きていたようだ。それを指摘したらきっとムキになって反論するのだろう。

 クルックスが、互助拝領機構とは全く異なることを考えているのには、ネフライトの珍しい態度以外にも理由がある。

 ルーナの発表テーマは『レイブンクローの失われた髪飾り』のことだ。

 つい先日、一足早いクリスマス・プレゼント代わりに父たる狩人宛てにそれを発送した身としては、余計なことを考えて無関心を装うに越したことはない。隣に座るセラフィは「ヘェ?」とか「フゥン?」と言っているが、白々しいのでただちに止めるべきだとクルックスは思った。

 

「レイブンクロー寮の談話室に立っているレイブンクローの像から身体の比を計算すると寮祖ロウェナ・レイブンクローはだいたい二メートル三〇センチの長身で髪飾りの大きさはだいたい二〇センチだったことが分かった。──発表を終わるよ」

 

 クスクス笑いがさざめきのように起きてルーナの発表は終了した。ネフライトが小さな鐘を構えているところを見ると二分五〇秒ギリギリだったらしい。砂時計をゆっくり逆さまにした甲斐があったことだろう。

 

「失われた髪飾り。宝物に心惹かれる学生は多いのだとか。自分の物でもないのに欲しがるのは度し難い。しかし、大鷲の賢者の智慧は魅力的だ。その智慧で空から大地を見下ろした魔女の秘密は、探れるならば探っておきたいところだ。とはいえ、古今東西、人々は身に余る智慧を欲し、終いには身を滅ぼすのだ。求める者よ、自惚れることなかれ。誰も彼も自分の身には不幸が見舞わないと信じているが、特別など何もないのだ。そう、何も、誰も。──さて。非魔法族で言うところの数学を用いたロウェナ・レイブンクローの身体に迫る研究だった。現代的に言えば、ややスレンダー気味で形の整った頬骨がよく見える顔だったようだな。レイブンクローの像は、かなり本人に近い人相を捉えていると考えてよいだろう。他の寮生はレイブンクローの像を見たことがないのだろう。顔はこのような感じだな」

 

 ネフライトが杖を振ると黒板を滑る数本のチョークがみるみるうちにロウェナ・レイブンクローの顔を描いた。

 

「わたしのスケッチより、よく出来ているね」

 

「褒めても何も出ないぞ。いや、批評が出るか。──質問の時間だ。発言者に質問のある者は、挙手!」

 

「はい」

 

 挙手したのは、クルックスが話したことのないグリフィンドールの五年生の女子生徒だった。

 

「ロウェナ・レイブンクローが二メートル三〇センチだったのは、いくらなんでも、あー、大きすぎるんじゃないかなぁと」

 

「計算で導いた最大値ってことでいいよ。それに大鷲も翼を広げればそれくらいになるからちょうどいいと思う」

 

 質問者は、口をパクパクさせて着席した。

 このまま終わっても良かった会話を拾い上げたのはネフライトだ。

 

「感覚としての『おかしい』を私は否定しない。しかし、『おかしい』だけで議論を進めることは難しい。それは自分の常識を他者へ押しつけることになる可能性がある上、たいてい普通の見識であるからだ。学徒に必要なものは、いつだって常識を打ち破る想定なのだよ。そのため質問をする時は、出来る限り予想される回答を想像してからすべきだろう。──ちなみに大鷲の翼幅は二メートルから二メートル五〇センチであることを補足する。ただし、イギリスには生息していないようだ。恐らく、象徴となったのはイヌワシと思われる。そのイヌワシでも翼幅は一六〇センチから二メートル二〇センチある。私には、どちらの鷲であれ世界を俯瞰する大きな存在として自らを定義していた女性に思える。以上だ」

 

 彼が総括して話題を終わらせた。

 クルックスは彼が言葉の弾みで口を滑らせるのではないかと一時も目が離せなかったが、落ち度は何もなかった。

 次の発表者が登壇する頃。

 観覧者のうち何人かは、発表者よりも発表を受けてネフライトが話すことの方が興味深いと気付いたようだった。

 ワクワクした顔をする生徒を見ているとなぜか手足がむずむずした。そして突然、ネフライトには一年生の時のように虚空に向かってブツブツ独り言を話していてほしい気分になった。彼が評価されるのは喜ばしいことだが、彼を都合良く使おうとする輩が増えるのは好ましいことではない。

 ──考えすぎだろうか?

 クルックスは、深呼吸をして自分を落ち着かせた。発表の順番が近付いてきて緊張しているのかもしれない。何度も読んだ発表資料に目を落とした。

 

(獣の前に立った時でもこんなに緊張しないのに不思議なものだ)

 

 周囲を見ればまだ発表を終えていない学生は、他の生徒の発表を聞くどころではなく資料に目を落としている。つまり、自分と同じだ。目新しく感じた『まとも』さのなかに自分がいる気分になった。

 

「何か面白いことが?」

 

 セラフィがそっと耳に口を寄せて囁いた。

 

「え?」

 

「ふふっ。君もよく笑うようになった。僕とお揃い。──ご機嫌だね」

 

 セラフィを見つめれば、彼女はゆっくりと瞬きをした。クルックスは彼女の長い睫を見た。間近で見るのは二度目だ。日の光に輝くそれは金色の光を得て輝いている。あの日、涙でとろけていた琥珀色の瞳は、眩しいくらいの午前の日差しで宝石のように光っていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、その後の記憶が曖昧だ。

 知らない興奮と感情で不整脈に陥り、高まる緊張で記憶が飛び飛びだった。

 発表はやけに早口になってしまったような気がする。それでも一度目の鐘の音を聞いたので発言すべきことは話したようだ。

 続く質疑応答の挙手は無かった。

 ホッとしたのもつかの間で「質問とは来たら困るが、来なければ寂しいものなのだな」と感じた。矛盾した感想に自分で驚く。

 

「これは質問ではないのだが……確認なのだが……ナメクジを吐いたのはどちらだ?」

 

 ネフライトが事前配布の資料をチラと見て訊ねてきた。

 

「俺だ」

 

「知っていた気がする。それで、気分はどうだった?」

 

「最悪だ。吐き気、食欲不振、体の怠さが半日続く。肉体的外傷を残さない嫌がらせに使える呪文だと身をもって学ばせてもらった」

 

「なるほど。他にもかなり身を張った調査結果があるようだ。理性ある人間ならば、呪いをかけた後の人物の健康まで考えていたいものだな。降壇したまえ」

 

 またパラパラとした拍手が起こり、二人は席に帰ってきた。

 

「とても緊張した。記憶がない」

 

「僕もあがってしまったよ。きちんと原稿を作ってきてよかったね」

 

「事前準備は大事だとお父様も言っていた。準備八割だとか何とか」

 

「ああ、それは大切だ。先達も似たようなことをおっしゃる。武器の手入れと同じようなものだね」

 

 それから二人でハーマイオニーが話す『マグルにおける魔法使いの実在性』という発表内容に耳を傾けた。理解できるかどうかは別の話だった。開始三〇秒でもう非魔法族の常識に置いて行かれた彼らは、悲しみを覚えるほどに十九世紀の存在だったのだ。

 きっちり三分でハーマイオニーの発表は終わり、ネフライトの解説を待った。彼も十九世紀の存在のハズだが、その悲しみを一片も臭わせずに「魔法省の有能さが窺えるところだな」と皮肉なのか本音なのか分からないことを言った。

 

「非魔法族に対し魔法の存在を勘付かせないための忘却術は濫用されるべきではないという考えには同意だな。記憶とは、精密かつ相互なものだ。記憶が消え、整合性が取れたように見えても一時のこと。忘却後の脳みそを経過観察をしているワケではないため、被術者に対する影響は算定し難い。魔法族がいざこざを起こさず、うまく隠れる方が間違いのない、そして人道的なやり方と言えるだろう。だからこそ非魔法族の脳には瞳が必要なのだ。……。話が逸れてしまった。発言者に質問のある者は、挙手!」

 

 一人、また一人と発言を終えていく。時間の経過が感じられる。

 

 メモ帳代わりの手記をめくっていると、ふと学年末が近くなっていることを思い出した。

 学期末の試験が来る。それは、テルミの交渉の日取りが近付いていることを意味する。

 

 クルックスは、文字を指でなぞり音の出ない溜息を吐いて目を閉じた。

 まだ、発表は続いている。もう少しだけただの学生でありたかった。

 





『互助拝領機構』に取り組む二人
 クルックスとセラフィの小さな戦闘です。クルックスはともかくセラフィは『きょうだい』のなかで誰よりも強いことを自負しているため証明を望みました。魔法を交えての戦闘では彼女の勝利となりました。
 決闘大会において、呪文のせいで床でじたばたしていたクルックスはセラフィが例の呪文を使ったことを知らず、今回、反応できませんでした。理解が知識に辿り着き、現実を判断するのに時間がかかってしまうのは次回の反省点であるのでしょう。


発表会!
 すこし書けて楽しかったです。


聖杯で僕と握手!
 地底人は正月休暇も元気!
 教会(黒)装備でルド剣と杭、エヴェリン・松明装備でウロウロしていると思います。
 そんな暇あったら加筆修正しろって? ……そのとおりです。

 今年最後の投稿となりました。ここまでお読みいただきありがとうございます。
 来年も、あと10話ほど投稿する予定です。お楽しみいただければ幸いですよ!


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医療教会の2人組(上)


ピーター・ペティグリュー
ハリー・ポッターにまつわる悲劇の英雄のひとり。
秘密を守り、狂人の手に掛かり死に至った。
遺った指一本さえ勲章に値する。
──そう言われていた。今日、これまでは。



 クィディッチにおいてグリフィンドールが優勝したことは、グリフィンドールにとって多大な幸福をもたらすものだった。

 そも寮同士の対抗意識が希薄で試合も観戦していないクルックスにとっては実感のわかないものであったが、グリフィンドール寮全体が活気づき、ニコニコ笑っている人が多い塔内は居心地の良いものだった。

 やや気の早い総括をすれば今年度はシリウス・ブラックの件さえなければ、とても充実した学校生活を送ったと思う。

 充実感の一角を担うのは『闇の魔術に対する防衛術』だ。

 ──ようやくまともな先生が来た。

 クルックスも覚えるその実感は、多くの生徒と共通していた。

 

 やがて六月、学年末試験の日がやって来た。

 

(『呪文学』はネフの言うとおり『元気の出る呪文』が出たな。ちゃんとやっておいてよかった。『変身術』は──ウミガメとリクガメの違いが理解できなかったが──最終的に甲羅を持つ四本足の生き物に変わったので落第点にはならないだろう。『魔法薬』は全て手順通りにやったのでスネイプ先生の説明が誤っていなければおかしな効能になっていないだろう。……でも俺が作った魔法薬はネビルのものより量が多くなっていた。いいや、ネビルが少ないのか……? 謎が増えたが後ほど再現してみよう。『魔法生物飼育学』は放置安定だ。『天文学』も書けないものはなかったので、まあまあ大丈夫だろう。『魔法史』も大丈夫だろう。ネフが俺のために作ってくれた『メンシス式・魔法史レベル別問題集』を念入りにやった。テストでは滞りなく解答を書くことが出来た。だからやはり問題はないのだ)

 

『闇の魔術に対する防衛術』は過去二年間でこれまで受けたことがない実技を中心とした試験内容となった。もしも、マグルのスポーツに親しければ「障害物競走のようだ」という感想を抱いたことだろう。

 水魔のグリンデローが入った大きな水溜まり──『プール』と言うらしい──を渡り、赤帽のレッドキャップが潜んでいる穴だらけの地面を飛び越え、道に迷わせようと誘う『おいでおいで妖怪(ヒンキーパンク)の沼地を越え、最後に『まね妖怪』が閉じ込められている大きなトランクに乗り込んだ。

 そこでクルックスは『まね妖怪』と対峙した。

 

「なぜ連盟の長から君に変わったのか。あの時は分からなかったが、今なら……すこし分かる。俺の記憶とお父様の記憶が混ざってうまく読み取れなかったのだな。お父様だってほんのすこしは誰かに見放されるのは恐いのだろう」

 

 ──ねぇ、お父さん。あの人、月の花の匂いがするわ。お花畑から来たの?

 

 少女の形をした恐怖は、そう言った。

 

「ああ、そうだ。俺は月のお花畑から来たのだ。リディクラス ばかばかしい

 

 少女は足下に突然現れた蛇に驚いて「ぴゃっ」と飛び跳ねた。

 その姿は、ほんのすこし面白い。クルックスは笑った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 太陽は夏に向かおうとしていた。

 晴天に恵まれ、東から青い夏の空気が運ばれる朗らかな日だ。頭の中までポカポカと温かくなりそうな日差しの下、全てのテストが終わった生徒たちは思い思いに休日を過ごし、あるいはホグズミードへ遊びに出掛けている頃。

 

「──ああ、クルックス。早かったのですね」

 

 テルミが黒い法衣に銀の聖布を翻し、ウィンプルを肩に掛け、待ち合わせの廊下に現れた。

 クルックスもまたヤーナムの狩装束に身を包み、小脇にトリコーンを挟んで待っていた。

 

「まあ、な」

 

 ホグワーツでの日常を壊しかねない事情に手を加えようとしている。

 こんなことになるのは故郷に蔓延する奇病のせいだと憎悪の片鱗を抱く一方、その因果で生まれた生命だ。全てを憎悪することも出来ない。奇妙な憂鬱に苛まれるクルックスをどう見たのかテルミが隣にやって来た。

 

「お父様によく似た貴方。お父様のようにお悩みの貴方。心配しないでください。何もかも、そう悪くはしませんわ」

 

「狩人が『悪くしない』ために夜を駆け、その結果が現在のヤーナムだということを君はもっと真剣に考えるべきだと思う。お父様でさえ現状維持がようようの状態だ。だから……なぁ、やめないか。どうせルーピン先生は頷かない。ヤーナムに人狼病を解決する手法があるワケではないのだ。そもそもヤーナムは魔法界にとって非存在を疑われている。与太話だと思われるのがオチだろう」

 

「ああ、その心配をしていたのですね。大丈夫ですよ」

 

「な、何が?」

 

 思いつく限りの難点を挙げた心算のクルックスは、テルミがあっけらかんと言う態度が分からなかった。

 

「その辺りの事情は説明済みで解決済みです。ルーピン先生はスネイプ先生に話を聞いてヤーナムのことをご存じです」

 

「それで?」

 

 聞きたいような。聞きたくないような。

 クルックスが重い口を開いたのは、テルミが何をやろうとしているか出来る限り予想しておきたいからだ。

 

「ご興味を持たれたようですが、答えは保留と。今日はお預けになっていた回答を聞きに行くのですよ。スネイプ先生は、ルーピン先生に熱心にヤーナムへ行くことを勧めていたようですが」

 

「あの二人は仲が良いのか悪いのか分からないな」

 

「ウフフ、どちらでも構いませんわ。さ、テストも終わったことです。人狼さんには首輪を付けてヤーナムまで引きずって帰りましょう」

 

「そんなことを言うな」

 

 クルックスは食いしばった歯から声を絞り出した。

 

「ユリエお姉様は喜びますよ? 新鮮な検体ですもの」

 

「ユ、ユリエ様のことを引き合いに出すな。この話はしたくない。……全てルーピン先生、本人の意志の問題だ」

 

 クルックスは『まとも』な考えの持ち主ならば、ヤーナムに近寄らないと信じている。授業を通して、もっとも獣と遠い彼が頷くとは思えなかった。そのためクルックスの主な心配事とはテルミとネフライトの思惑をどう阻止すべきか。その一点にかかっていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

『忍びの地図』という魔法のかかった羊皮紙の存在について。

 クルックスとテルミは、まだその名を知らない。

 しかし、それが『闇の魔術に対する防衛術』のテーブルの上で夕暮れの日差しに照らされた時。

 彼らは、古ぼけた羊皮紙の上で小さな虫が動いているのだと見間違えた。

 虫を払ってやろうと教壇の羊皮紙に近寄った時、彼らはそれが地図であることを知った。

 折りたたまれた羊皮紙の中央で動く文字は『ハリー・ポッター』と書かれていることが分かる。それからロンとハーマイオニーの名前も見つけた。しかし、分からない名前がある。ロンとほとんど重なるように書かれている名前だ。

 

「ピーター・ペティグリュー? チョロチョロ動いているコイツは何者だ? 生徒か?」

 

「いいえ、生徒の名前ではないわ。違うわ。だって、これは……え……そんな……」

 

 テルミは、その人物のことを知っているのだ。

 説明してくれるだろう。そんな期待をして彼女を見つめていたがポソポソと「でも……死んで……いえ……違うの……」と呟いている。

 

「テルミ? どうした?」

 

「地図に間違いがあるみたい。だって死んだ人だもの」

 

「ハリーとロン、ハーマイオニーが追っている。彼らの進行方向上にいる。視認出来ていると考えるべきだ。驚くべき技術の地図だ。これがあれば……。──テルミ! シリウス・ブラックがいる! ここは……校庭のどこだ?」

 

「シリウス・ブラック……ピーター・ペティグリュー……ああ、どうやら風聞は所詮、風聞だったってことかしら」

 

「どういう意味だ?」

 

「シリウス・ブラックとピーター・ペティグリューがグルではない限り、生きていることについてお互いに都合が悪いハズです」

 

「人間関係は複雑怪奇。吸魂鬼より先にシリウス・ブラックを捕まえよう!」

 

「……。いいえ、後回しにしましょう。ルーピン先生の接触の方が先よ。ルーピン先生は地図のどこに──待って」

 

 その時、テルミが頭を教室の扉に向けた。その手はさりげなく衣嚢の秘薬を探り、一口飲んだことにクルックスは気付かなかった。ただ二人は息をひそめ、姿勢を低く保った。

 短いノックの後で応えがないにも関わらず、扉が開いた。

 床に這うクルックスは、テルミの姿が見えなくなったことに気付いた。『青い秘薬』で姿を消したのだ。

 足音が近付いてくる。歩幅から推察するに大人だ。クルックスは長テーブルに隠れているが一般成人であれば背伸びをすれば見えてしまうだろう。立ち上がり正体を明かすことも検討に入れ始めた頃、唇に濡れた瓶の口が当たった。

 テルミの意図を察し口を開けたが、鼻を抓まれ喉の奥まで瓶を突っ込まれた。微かに「んぶっ」と声を上げた。

 来訪者、セブルス・スネイプはその声を聞きつけ、クルックスが姿を消した辺りを見つめたがその先には水魔の水槽があった。水面は波打ち、ゴポゴポと音を立て、水魔は首を絞めようと恐ろしげに水かきのついた指を曲げ伸ばししていた。

 

 クルックスは、脳が痺れる感覚をやり過ごし長テーブルから頭を上げた。

 

 片手でゴブレットを持って来たスネイプは教室を一瞥し、異音は水魔であると誤認した。そして、ルーピンがいないことを察したようだった。

 ツカツカ歩いてきてゴブレットを教授用のテーブルへ置く。そこでクルックスやテルミが見たように彼も地図に気付いた。

 古びた羊皮紙を見た彼は、目を大きく見開いた。

 そして。

 

「シリウス・ブラック!」

 

 いつも土気色の横顔が驚愕に彩られ、わずかに赤らむのが見えた。

 育ちすぎたコウモリよりもマントを広げ、スネイプは慌ただしく部屋を出て行った。

 一口分の『青い秘薬』の効果は、二人が再び教授用のテーブルに近寄って地図を確認している間に途切れた。

 二人の顔に浮かぶのは同じ困惑だ。

 

「シリウス・ブラックの捕獲は先生に任せた方がいいだろう。ヤーナムから生きて帰れるほどの先生だ。たかが犯罪者、遅れは取るまい。……ルーピン先生は校庭だ。テルミ。……テルミ?」

 

「んー……?」

 

 テルミはスネイプが置いていったゴブレットを手に取っていた。

 今にも口に含みそうなほどゴブレットを傾けるためクルックスは目が離せなかった。

 

「何をしている」

 

「これは……薬のようですね。トリカブトの匂いがします。ネフの言っていたトリカブト系脱狼薬かしら?」

 

『脱狼薬』という言葉はクルックスにとって聞き慣れないものだが、テルミやネフライトは異なる感想があるのだろう。望もうと望むまいと人間と狼を行き来する人狼は特異な存在だ。彼らが調べなかったハズがない。クルックスは思う。──俺でさえ存在を知ってからは書籍をあたったのだ。彼らは諳んじることができたとして何ら不思議はなかった。

 

「何が問題なんだ? ルーピン先生が薬を飲むのはおかしなことではないだろう。むしろこれまで問題にならなかったことを肯定するものだ」

 

「ええ。けれど薬を飲むべきルーピン先生が見当たらないのは『ちょっとした』問題かもしれないわね」

 

 いつも笑みを絶やさない彼女は、真顔でゴブレットを掲げた。

 常とは異なることの多くは異常である。

 クルックスは確認のため訊ねた。

 

「一応、聞くのだが……飲まないとどうなる?」

 

「人としての自我がない狼になりますねえ」

 

 クルックスは太陽と地平線を見て日没までの時間を測った。

 

「二時間だ。それまでにルーピン先生に会い、薬を飲ませれば問題ない。そうだな?」

 

「ええ、そう。そうです……。間に合うかしら」

 

「間に合わせよう。ルーピン先生は地図のどこにいる?」

 

 二人で地図をくまなく探し、間もなく『暴れ柳』に向かう通路を歩いているのを見つけた。

 

「よし、行くぞ」

 

「……。人手は多い方がいいわ。ネフに応援を頼むわ。よろしくて?」

 

「ああ、急いでくれ」

 

「お父様の使者たち、これ、ネフに見せてくださいね。絶対ですよ」

 

 テルミは走り書きの手記を呼び出した使者たちに渡し、テーブルのゴブレットを手に取った。

 二人は夕暮れの廊下を走った。

 

「あとはルーピン先生にそれを飲ませるだけだ」

 

 暴れ柳。

 それは校庭に植えられた凶暴な動く柳なのだが、クルックスにとって馴染みはない。

 よって地図の先、描かれていない暴れ柳から続く道が何のためにどこへ繋がるものなのか。彼は解し得なかった。

 ただ分かるのはその先の道にハリー達とシリウス・ブラック、そしてルーピンがいることだけだ。

 

 シリウス・ブラック。

 今年は、彼の存在があちこちにちらつく。彼に狙われたハリー達と助けに行った格好のルーピンは、まだ生きているだろうか。経験豊かな『闇の魔術に対する防衛術』の先生であるルーピンが間に合えば、何とか、という具合だろうか。それにシリウス・ブラックは杖を持っていない。杖を持っていない魔法使いは、素手の狩人よりも脅威度は低いだろう。そう期待して二人は廊下を越え、校庭に飛び出した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 目まぐるしく状況は変わっている。

 ハリーは何が何だか分からなくなりそうな目の前の現状に必死だった。

 バックビークの処刑を前にハグリッドを一人にしておけないと思って向かった先の森番小屋では、死んだハズのスキャバーズがいた。そして、死神犬グリムが現れ、スキャバーズを握ったロンごと暴れ柳に引きずっていった。

 

 今。

 

 暴れ柳の地下から続く道の先は、ホグズミードにあるイギリスいち怖い幽霊屋敷と名高い『叫びの屋敷』に繋がっていた。

 黒い大きな犬に連れ去られたロンを追って、そこに辿り着き、そして、その二階で恐れで強ばった顔の彼を見つけた。

 

「犬じゃない。ハリー、罠だよ。あいつが犬なんだ……! あいつは『動物もどき』なんだ……!」

 

 ロンは、ハリーの肩越しに何かを見つめ、指差して恐怖した。

 その男は二人の入ってきたドアの影の中で静かに佇み、ドアを閉じた。

 ハリーとハーマイオニーは振り返り、息を呑んだ。

 シリウス・ブラック。

 犯罪者のマグショットで見た時よりも、彼は痩せ、ひどく血の気が失せている。だが暗く落ち窪んだ眼窩の奥で瞳だけは、ぎらぎらと奇妙な熱と光を放っているようだった。

 ハリーとハーマイオニーが杖をあげたが、ブラックの方が早かった。素早く唱えた「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」でハリーとハーマイオニーの杖は飛んでいった。

 

「君なら友を助けにくると思った。君の父親もわたしのためにそうしたに違いない。君は勇敢だ……」

 

 かすれてしゃがれた声は、彼が長らく声を出していなかったのではないかとハリーに思わせた。

 しかし、そんなことはどうでもよくなった。自分の父親と母親が死んだ原因のひとつが、目の前の男なのだ。

 ──杖が欲しい。

 傷つけて、殺すために。ハリーは初めて杖を必要とした。

 拳を強く握ったハリーを見て、ハーマイオニーが腕をきつく握った。

 

「待て! ハリーを殺したいのなら、僕たちも殺すことになるぞ……っ!」

 

 ロンが激怒し立ち上がったが、脚の痛みで顔を白くして物陰によろめいた。ロンの手の中でスキャバーズがますますキーキーと声を上げた。

 

「座っていろ。怪我が酷くなるぞ。……今夜はただ一人を殺す」

 

「──ッ!」

 

 ブラックがニヤリと笑った、その瞬間、ハリーはブラックに殴りかかった。ブラックは、痩せているが背丈はある。そして何よりハリーにはない杖を持っている。だが構わなかったハリーは殴りかかり、痩せた頬げたを殴りつけた。

 ブラックは、恐らくこんな強硬で愚かな真似をハリーがするまいと思っていたのだろう。杖を上げ遅れ、二人はもつれるように床に転がった。

 痩せた胸を跨ぎ、杖を奪ったハリーはブラックの顔に杖を突きつけた。

 

「ハリー、わたしを殺すのか?」

 

「おまえは僕の両親を殺した」

 

「否定はしない。しかし、君が全てを知ったら──」

 

「僕の両親をヴォルデモートに売った。それだけ知ればたくさんだ!」

 

 ブラックは命乞いするだろうとハリーは思った。しかし、次に呟いた「聞いてくれ」という声には、懇願より純粋な緊迫があった。

 

「聞かないと、君は後悔する。君には……わかっていないんだ」

 

 いったい何がわかっていないと言うのだろう。

 ──両親をヴォルデモートに売ったこと? その動機? 両親に最も信頼されていたこと? それとも、母親がどんな言葉でヴォルデモートに命乞いしたか?

 何もかもが言い訳のように聞こえてハリーは杖を持つ手が怒りで震えた。

 その時だ。

 誰かが廊下を駆け上がってくる音が聞こえた。

 

 いったい誰が、いいや、誰であれ、これが最後のチャンスだ。吸魂鬼ではない。自分の手で、両親の仇を取るんだ。

 決意はあった。覚悟もあった。しかし、人の気配にもがくブラックに杖を向けたまま、ドアを蹴破られるまでハリーは呪文を唱えることができなかった。

 ドアが勢いよく開いた。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ!

 

 誰かの呪文でハリーの杖は宙を舞った。

 今年度ですっかり聞き慣れてしまった声だ。ハリーは振り返った。

 まさか。

 ハリーは目を見開いた。

 蒼白な顔で飛び込んできたのは、ルーピン先生だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「……ネフ?」

 

 夕日が沈みかけている。

 微かに他我の境界を浮かび上がらせるオレンジ色の光が消えれば、夜が来る。

 夕暮れの彼方からやって来たネフライトは、二人へ右手を挙げて「やあ」と告げた。

 返事をしたのはテルミだけだった。

 

「参加してくれて嬉しいわ。ルーピン先生のことで貴方の意見を──」

 

 クルックスは歩み寄りかけた脚を止めた。

 ネフライトの緑色の瞳は、いつになく真剣な光を宿していたからだ。それは殺気に近いものだ。

 

「おおよそ事情は把握した。夏休み中に旅行をしようと思っていたのだが、問題が発生したのであれば幸いだ。手間が省けるからな」

 

「あら。策があるのね?」

 

「なかったらここに来ていない。君と無策のまま手を組むなんてごめんだからな」

 

 クルックスは、自分の隣を通り過ぎていくテルミの手を握ろうかどうか迷った。

 引き留めることを迷い、結局握らなかったのは二人を信じていたいからだ。想像を裏切ってほしいからだ。

 

「話を聞かせて欲しい。穏当な案なのだろうな」

 

「クルックス、君はときに面白いことを言う。──もはや礼節が必要だろうか?」

 

 想像は現実のものとなるだろう。

 クルックスは、駆けてテルミの手を掴んだ。

 

「わっ。クルックス、どうしたの?」

 

「下がれ。下がってくれ。──ネフ、お願いだ。互いの信頼を損なう発言を控えてくれ」

 

 ヤーナムにおいて狂信とは、常に輝くものだった。

 クルックスもその片鱗を知っている。

 かつて見た光とは違うが、似た熱狂をネフライトは抱えているようだった。

 彼は常に見られない鷹揚とした仕草で地面の土を踏んで平らにした。

 

「二人の想定していた交渉の必要はない。薬は不要になった。──シリウス・ブラックが現れたことによるイレギュラーならば乗りこなして見せよう。ルーピン先生には、このまま獣となり行方不明となってもらう予定だ」

 

「……? 何を言っている……? 何を言っているんだ、ネフ」

 

「狼人間の存在は、我々にとって貴重な知見だ。あれはヤーナムに資するべきものだ。その顔は何だね? 物覚えが悪いな。ビルゲンワースの学徒、コッペリア風に言えば『手術台の栄誉を賜す』というものだ。髪の一本、骨の一片、髄の一滴、血の遺志に至る全てをヤーナムの進歩のために差し出してもらう」

 

 ヤーナムの獣の病の進展のために人狼が欲しいのだ。

 クルックスは、叫んだ。

 

「ま、巻き込むつもりか!? ルーピン先生は『先生』だ! 獣ではない! ……たしかに患っているが、それはヤーナムの病とは違うだろう! 不可逆な変態ではない! 狩人は必要な状態ではないとお父様も理解をして……。貴公、血迷ったか!? いったいどこが同じ症状だと言い張るつもりだ!」

 

「同じとは言えまい。だが類似症例として比較する必要がある。『不可逆と可逆の差異はどこにあるか』という観点において我々が知るべきことは多くあるハズだ」

 

「何にせよ、君の一存で決められる話ではないのだ。独断は昨年度のバジリスク騒動で懲りたのではないか?」

 

 ネフライトは軽く両手を広げ、肩を竦めた。

 

「事後報告すればそれでよい。まさか君、ヤーナムに利することだというのにお父様が私を咎め立てると思っているのか?」

 

「お父様のお心を分かった心算になるなよ。お父様はヤーナムの外の人々を招くことをお望みではないのだ」

 

「それが何か? 結局は大望に適うのだ。お父様の、学徒の、ヤーナムの病み人全ての救いの階だ。これ以上の会話は不要。君らしくない言い訳を並べるためだけに留まっているのならば、口を慎み、去りたまえ。ここから先は医療者の仕事だ。人狼を獣ではないと言い張るのであれば、連盟員の仕事はここにはない。寮に帰れ。帰るんだ」

 

 ネフライトとの言い争いにクルックスは勝てない。

 奥歯を噛みしめてそれを実感していると隣でテルミが揺れた。

 

「テルミ! ネフを説得してくれ、このままでは──」

 

「クルックス、ごめんなさいね」

 

 テルミはゴブレットの薬を放り投げた。

 この姿をクルックスは以前見たことがある。夏休みの休暇で海へ行ったときだ。飲み干したジュースの空き缶をゴミ箱に投げ捨てた軽々さで彼女は今、ルーピンの薬を放り投げた。

 

「馬鹿な真似を──!」

 

 クルックスは駆け出した。

 ゴブレットが落ちる寸前にヘッドスライディングを試みたが、クルックスの指先はゴブレットの冷たい金属を掠めただけだった。

 薬は森の湿った土の上にぶち撒かれた。

 高学年ならば魔法でどうにかなる事象なのかもしれない。だが、クルックスにはどうしようもなかった。歯噛みして地面に拳を叩き付ける。そして立ち上がった。 

 

「ぐぅぅ……! テルミ、自分が何をしているか分かっているのか!? ああ!?」

 

「怒らないでくださいね? 今回ばかりは、ネフが正しいと思っただけですよ。新しい試行として狼人間を招くことがあってもよいでしょう。それにこのままでは先生は狼人間だと露呈するわ。知っているかしら? 魔法族の社会で狼人間は生きていけないのですって。爪弾きの除け者よ。いつかバレて失職するのなら、今夜ヤーナムに来るのは悪い選択ではないと思うの。説明は後からすれば大丈夫でしょう」

 

「本気で言っているのか? 本当に本当にヤーナムのためになると思っているのか?」

 

「もし、違ったら『ヤーナムのためにならない』とわかるだけです。いったいわたし達に何の不利があるでしょう?」

 

「でも、しかし、先生は先生だ。到底許されるべきではない。巻き込むべきではない! 彼は、まだ、ただの人間だ。人間だろう。俺達がそうであるように。ああ、違いない。どうしてだ。なぜ分からないんだ?」

 

「クルックス。病は人を選ばない。ならば、どうして機運を選んでくれるというのか。君はリーマス・ルーピンを知りすぎたな。──私は君に警告する。退け、瞳を閉じよ。枝葉の隣人、同胞よ、君を傷つけることを私達は望まない」

 

「ならば武器を取れ、ネフライト。──俺は君達を止めなければならない。お父様は……いいや、お父様は結果さえあれば君達を咎めないのかもしれないが……」

 

 クルックスは両手を見下ろした。

 父たる狩人のことを引き合いに出されると頷きたい気分になる。

 しかし、それではいけない時もある。まさに今、こういう時だ。

 

「……分かっているのなら私達が争う余地はないハズだ」

 

「それでもルーピン先生は善い先生だ。ヤーナムとは関わってほしくない。ヤーナムの夜は深く、血に塗れている。彼が虫に近付く全ての可能性を排する。──俺は連盟員、クルックス。連盟の使命により彼方の同士に報うだろう。ゆえに、俺は君達と戦えるのだ」

 

 クルックスは衣嚢から回転ノコギリを取り出し、構えた。

 テルミはクルックスの手をふり解くと距離を取るようにステップした。

 

「あらあら。クルックスは、わたし達よりルーピン先生のほうが大切なのかしら? 困った人ね?」

 

 チクリと針で胸を刺す痛みがあった。

 クルックスは、できるだけ感情を込めずに伝えた。

 

「俺は、君とそういう話をしたくはない。淀まない生命の尊厳は守られるべきだ。連盟員の立場により敵対する。連盟員のお父様ならば、俺をご理解くださるだろう」

 

「ああ、連盟。連盟ね……。お、お、愚かしい。君はバカなのに賢い私の命令に従うことに何の異論があるのだね……?」

 

「えっ?」

 

 ネフライトの率直な言葉は、この期に及んでクルックスに聞き間違いの空想を引き起こした。

 呆れた顔で彼は溜息を吐いた。

 

「君は残念ながら頭があまりよろしくない。失言。『あまり』ではない。『かなり』だったな。なのにどうして自分の発想は私より優れていると思うのか」

 

「俺が賢くないなんて君に言われなくとも分かっている! 本当に残念なことだ、ネフ。俺は発想の優劣ではなく、貴賤ではなく、いつも虫の在処について話をしていたいのだ。……君は連盟を侮辱したな。もはや糞袋の汚名を免れないぞ」

 

「ハハハ……ハハ……ハ……」

 

 ネフライトは、どうでもよさそうに小さく嗤った。

 その後で形相を変えて叫んだ。言葉ではない。クルックスの不理解を嘆く悲痛な叫びだった。

 心の奥底から感情を爆発させたネフライトをこの時クルックスは初めて見た。

 

「こ──の連盟の狗がッ! 自分で考える頭と言葉を持て! 卑怯者! 卑怯者! 卑怯者! 『俺のために死ね』と言え! 私のために!」

 

「何を言っているか理解に苦しむぞ! このッ、メンシス学派の気狂いが! お父様の差配は誤っていたと申し上げよう!」

 

「では私は君の過ちを証明してみようか! 君の頭を開いてな! 必要なのは手術ではない、早急に脳を洗浄してやる! 『淀み』のカレルは悪食の獣喰らいが見た幻想だったのだ! 肉体は正直だ! ならば君の病巣も誠実なのだろうよ!」

 

 左手で寄生虫を掲げた。ネフライトの頭上に暗黒宇宙が広がり、隕石が降り注ぐ。

 眩い光と闇の中でテルミが青い秘薬を呷るのが見えた。クルックスの目からテルミの姿は間もなく見えなくなった。

 だが、剣が宙を切る音は聞こえる。

 首を狙った一閃を躱し、掴むように左手を伸ばした。

 

「あら? 見えているの? 狙いがいいわね」

 

 撃鉄を起こす音が耳に届き、クルックスは素早く樹木の裏側に飛び込んだ。

 啓蒙の低いクルックスにとって今のテルミの姿は目をこらせば見えるが、すこしでも集中が途切れると途端に見えなくなってしまうものだった。枯れ葉の踏む音が聞こえ、クルックスは走り出した。その背をネフライトの弓剣から放たれた銀の矢が追った。

 

(二対一は……さすがに……!)

 

 事前に準備していたかのような絶妙な攻守の連携を見せる二人を前に、クルックスが手加減できる余裕はほとんどない。

 敵対を宣言したというのに矛盾した感情だが、クルックスの頭の中は獣と対峙する時ほどの冴えはなかった。むしろ鈍く、考え事がまとまらなかった。だが過去に投げかけられた疑念が、たった一つ、ようやく解けた。市街の狩人と敵対しているカインハーストの騎士、レオーが言ったことだ。

 

 ──こんなご時世のヤーナムでは、獣狩りより狩人狩りの能力の方が重要だ。

 

 なぜ、そんなものが必要となるのか。ビルゲンワースで過ごしていた、あの時のクルックスには分からなかった。しかし、こうして樹の裏に隠れ銃弾をやり過ごし、血を流して理解した。

 クルックスが我を通すために争わなければならないのは『きょうだい』だ。

 古狩人は賢明だった。力は必要なのだ。意見が相容れなくなった時、こうして争う時のために。

 

「テルミを先に無力化して──ダメだ──ネフの射撃の精度は高い──先にネフを潰さないと──」

 

 クルックスは、知っている。

 ネフライトが退けないのはヤーナムのためだ。テルミが退けないのは愛すべきお父様のためだ。自分が退けないのは連盟の誓いのためだ。

 信じるものが劣ることは、決してない。

 

「彼方、血塗れの同士よ、照覧あれ……!」

 

 反転。

 クルックスは、攻撃に転じた。

 脚を狙ったテルミの剣を飛び越え、ネフライトが放つ銀の矢を紙一重で避けた。素早く弓を変形させ左手は杖を抜いた。

 

「いいぞいいぞ、来いっ! ──テルミ、背後から首を断て! 銀の皿に乗せてやろう! 望むまま口付けろ!」

 

「残念だな、その皿に乗るのは君の首だ!」

 

 回転ノコギリを真っ正面から受け止めるなどという愚をネフライトは当然犯さなかった。

 指揮するように左手の杖がヒュッと宙を掻いた。

 肌を刺す殺気をクルックスは感じ取り、横っ飛びに跳ねた。

 咄嗟に振るった回転ノコギリが火花を散らす。何かを弾いた。光り輝く軌跡を見れば毒メスが飛んでいくところだった。

 

「単純な魔法だが、それゆえに簡単だ」

 

 毒メスは次々と現れた。

 地面に散らばる枯れ葉の下、光を反射しない樹木の裏、そして昨夜降った雨が梢から滴るように──毒を滴らせたナイフが、クルックスの頭上の梢から落ちた。

 首にひやりと冷たい感覚が奔る。次いで熱さ。思わず「あ……ッ」と声を上げかけた時には、狩人の服ごと首の皮膚が裂かれていた。致命的な出血や中毒症状には至らないが、場所が場所だけに彼は微かに動揺する。

 それを見逃す狩人がいるハズがなかった。

 

 発砲と同時に踏み込んだテルミがルドウイークの聖剣を変形させ、大剣とした。

 全体重を乗せてテルミが刃を振り下ろした。

 柄で何とか受け止めたが、脚を止められたのはマズい。ネフライトが距離を詰めてくれば対応が間に合わない。

 

「アハッ。素敵! クルックス、素敵よ! 素敵! 好き好き大好き!」

 

「君と! そういう話を! 俺は! したくないのだ!」

 

 力尽くで押し返し、回転蹴りで首を狙うがテルミはヒラリと避けた。しかも聖剣を手放し、置き去りに後退することを躊躇わなかった。牽制の毒メスを宙でたたき落としたクルックスは、テルミが笑っているのを一瞬だけ見た。青い秘薬の効果で彼女の姿はすぐにかき消えてしまった。

 

「──わたし、貴方に恋をしているの!」

 

 熱烈な告白にクルックスは銃撃で応えた。見当違いの場所へ撃ってしまったらしい。思いがけず後方から『彼方への呼びかけ』が降り注ぐ。テルミが握る寄生虫が引き起こした宇宙暗黒への接続が、小規模な爆発を呼んだのだ。

 

「俺に挑むとは命知らずだ、テルミ──」

 

 傷一つ作ることなく軽いステップで小隕石を避けたクルックスは、回転ノコギリの鎚を分離させた。鎚は、出血を強いる武器ではない。単純にものを壊す道具だ。テルミの体ならば手足に当たれば折ることができるし、胴体であれば場所によって致命になるだろう。

 

「もはや火傷では済まないぞ。それにピグマリオンさんとの約束を破ることになる」

 

「ああ、嫌。ピグマリオン……大切で愛していますが、今は彼のことは言わないで下さい。お父様と『きょうだい』のことは別の話です。──別の話とします」

 

「別の話だと思っているのは君だけだぞ」

 

 クルックスは薄暗くなった林に視線を移す。ネフライトは狙いにくい。特に今日は攻撃の範囲が広い。ならば弱い方から片付けたい。標的のテルミを見つけるため目をこらした彼は、一歩踏み出した。

 その時だ。

 脚を何かに掴まれた。──そう感じた時には、遅かった。

 

 ネフライトが仕掛け、クルックスが誘導されたそれは獣を捕らえる原始的な罠の一つ。

 一般的にスネアトラップと呼ばれる罠だ。

 罠には殺気がない。存在する装置でしかないからだ。

 クルックスは殺気を感じ取れるが、無機物から作為を感じることは出来なかった。

 

「あ──」

 

 夏休みに脚の自由を失った市街での失態が頭を過ぎる。最近ではセラフィの呪文にハマり、脚を滑らせたことだ。

 片脚が釣り上げられ、すぐさま回転ノコギリを縄に向けるが、ネフライトとテルミの方が早かった。平衡を失った瞬間を狙い済まし、二本の杖がクルックスに向けられた。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ

 

 回転ノコギリと獣狩りの銃が両手から飛び立つ。

 次の武器を取り出す隙は与えられなかった。

 

インカーセラス! 縛れ

 

 杖先から飛び出した縄が体にまとわりつく。デタラメな縛り方だが、有効だった。

 朽ちた葉と土のなかに倒れたクルックスは、二人を見上げた。

 

「ふぅ……や、やったぞ。数は正義だ。おっと。失言。信念が勝ったと言おう。信念、大事だな、信念。あと医療教会の権威。これも重要だ」

 

「つまり医療教会の勝利ということね。ええ、初めてにしては十分な成果よね」

 

 すっかり息が上がっているネフライトの隣で、テルミが剣や銃を仕舞いながら言う。

 クルックスは地べたに這いずり二人を見上げることしか出来なかった。縛り方は雑だが、身動きがままならない。

 

「離せ! ネフ! テルミ!」

 

 ネフライトとテルミは、クルックスの言葉を無視した。

 ──動けない。

 クルックスが自身に訪れた敗北を悟ったのは、単純に身体を拘束されたからだった。

 腕や足が動かない状態では、できることが少ない。これは昨年のヤーナムで過ごした夏休みで強く感じたことだった。

 

「単純な罠だ。神秘も魔法も関係ない。ただの古典的な罠。人の殺意や作為に敏感な君だからこそ、よく利いたな」

 

 ネフライトは肩で息を切らしていたが、ほとんど傷がない状態でクルックスを見上げた。

 テルミとつばぜり合いになった時に距離を詰めてこなかった理由が罠の設置だったのだろう。毒メスの誘導で行動を制限させ、罠を踏ませる。誘導のまま罠に掛かってしまったと気付いたときはこうして遅い。クルックスは喚いた。

 

「っ……! 離せ、ネフ……! やめろ、考え直せ!」

 

「ネフ、可哀想よ」

 

 テルミがクルックスのそばにやって来て膝をついた。

 首の動かせる限界まで曲げてテルミを見た。

 

「テルミ、ネフを説得──」

 

「地面に置いておくだけで体はずいぶん冷えてしまうのよ。湖も近いのだし」

 

「では樹に吊しておく。それでよいだろう」

 

 ネフライトが何事か呪文を唱えて杖を振った。

 

「まぁ、縛り首かしら。縊死って苦しかったわ。殺さずとも手足を縛っておけばよいでしょう?」

 

「……私は最初からそのつもりだったが……。君、クルックスに首を吊らせる心算だったのか?」

 

「そ、そういうワケじゃないわ。でも縛り首同盟を作りたいのは本当ね」

 

「私が聞かなかったことにできないのは残念だ。──狩人には相応しい格好だな、クルックス」

 

 逆さに吊り下げられたクルックスは両手の縄だけでも解けないかと動かしたが、手首が擦れて傷つくだけだった。

 

「ネフ、考え直せ。今ならただの秘密にできる。これ以上の強硬は、しくじるぞ。必ず、しくじるぞ」

 

「今は理解できなくてもいい。成果が出れば、君は考えを改めるだろう。あと重要なことだが、私はしくじりはしない。君もルーピンも悪いようにはしない。後で迎えに来る。テルミ、行くぞ」

 

「ああ、待って。クルックスを捕まえるなんて滅多にないことですし……。見て、こんなに可愛い!」

 

「ハァ?」

 

 理解しかねるとネフライトは眉を寄せ、わざわざ振り返った。

 テルミはクルックスの頭を胸に抱いた。

 

「いつもの貴方は素敵だけど、動けない貴方はとっても可愛いわ」

 

「冗談はやめろ。──君より弱い俺に何の価値がある」

 

 苦々しく言ったクルックスにテルミは表情を無くした。

 次の瞬間、テルミの左手に握られたガラシャの鉄塊は、寸分の狂いなく彼の顎を破壊した。彼は自分の体の中でバリッという音を聞いた。骨が砕ける音だった。

 

「テ、テルミっ!? 何をするんだ!」

 

 そばで成り行きを眺めていたネフライトは、突然のテルミの暴挙に泡を食って飛びついた。

 すぐさまテルミの両手を握ってクルックスとの間に割り込んだ。

 

「クルックスをガラシャで殴るなど! 傷つけない約束だったろう!」

 

「クルックスがわたしを傷つけるのは許すのね! 悲しい! 素敵! 残酷ね! 貴方だってこうしたかったクセに!」

 

「黙りたまえっ! 侮辱は、許されない!」

 

「冷酷な人! わたしが貴方を傷つけるのは許すのね!」

 

「黙れと言っているだろうが!」

 

 二人が取っ組み合った。

 ネフライトがガラシャの鉄塊を取り上げることができたのは技量でも何でもなく、ただの体格の有利だった。

 

「やめてくれ……! イレギュラー! イレギュラー! イレギュラー! もう、たくさんだ……っ! 私は頭が痛い! もうずっと、ずっと前から頭が痛いんだからっ!」

 

 ガラシャの鉄塊は、枯れ葉のなかに紛れて見えなくなった。

 テルミの小さな体は、触れれば爆発する火炎瓶のようにどんな刺激でも感情を破裂させてしまいそうだった。ネフライトもそれが分かっているのだろう。距離を取って吐き捨てた。

 

「私達が争うのは、無駄だ! 時間の、無駄だ。無駄! 君は、君のやるべきことをやれ! ルーピン先生の足跡を探すんだ!」

 

 ネフライトが息を切らし、テルミに命じた。

 クルックスはテルミとネフライトの仲は決裂してしまったのだと思った。だが、予想外のことが起きた。

 テルミはネフライトに逆らわなかった。目を赤くしたまま、仕込み杖を右手に持ち、彼女は森のどこかへ消えていった。

 

「うー……ぐー……んー……」

 

 声を出そうと試みるが、顎を動かすと激痛が脳天まで駆け上がった。

 ネフライトが杖灯りを点すと患部にそっと触れた。

 

「落ち着いてくれ。慌てなくていい。ただの骨折だ。痛みは……酷いだろうな。麻酔をしようか?」

 

 クルックスは首を横に振った。体ごと揺れた。幹が軋む。

 麻酔は体の感覚が鈍くなるので苦手だ。

 

「そうか。……私も行く。……テルミのことを恨んでくれるな。君の言葉は過ぎた、いや、足りなかったのだ」

 

 去り際にネフライトは、再び杖を振った。

 クルックスの体は地上二メートル近く吊り下げられ、地上からは見えなくなってしまった。

 

「そこで大人しくしていたまえ。後で迎えに来る。……死んでいなければな」

 

 ネフライトは杖灯りを消すと姿も消した。

 目でいくら追おうにも濃くなる闇の中では足音が遠く聞こえるだけだった。

 




医療教会の2人組
 プリキュアではありませんが、同じくらい厄介でしょう。
 ちょっと距離を取ると彼方を連発してくるんだ。
 それでもクルックスを捕えたのは変哲のないロープでした。罠に嵌めるのは対人戦の心得があるメンシス学派ならではなのかもしれません。カインハーストは殺してなんぼなので熱心に捕えることはしないのです。


人間と獣
 クルックスは以前、人狼は絶滅すべきだと思っていましたが、今では変わったようです。
 ヤーナムの獣の病と比べて『不可逆ではないから』が主な理由のようです。


ガラシャパンチ神秘99
 クルックスの顎を粉砕しました。


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医療教会の2人組(中)


月への嘆願
秘儀と呼ぶべくもない、ヤーナムを揺籃とする月の上位者への叫び。
人は、自らを救えない。
骨身に沁みるほどに悟った人々は、やがて憐れみを懇望する。
もはや祈る余蘊さえない。



「なんてことなの! 先生は、先生は──その人とグルなんだわ!」

 

「グルではないよ。ハーマイオニー、落ち着いて」

 

「私、誰にも言わなかったのに! 先生のために、私、隠していたのに! 先生は狼人間なのよ! だから満月の時は授業を休んでいたの! ブラックが城に入る手引きをしていたのよ! この人もあなたの死を願っているんだわ!」

 

 ハーマイオニーが叫んだ。

 

「いつもの君らしくないね、ハーマイオニー。三問中一問しか合っていない。私はシリウスが城に入る手引きはしていないし、もちろんハリーの死を願ってなんかいない……。しかし、私が狼人間であることは否定しない」

 

 ハリーの頭は怒りと憎悪で焼き付きそうだったが、ハーマイオニーほどショックで精神を打ちのめされていなかったし、ロンほど嫌悪で顔を歪ませていなかった。

 

「いつ頃から気付いていたのかね?」

 

「ずーっと前から。スネイプ先生のレポートを書いた時から」

 

「スネイプ先生がお喜びだろう。私の症状が何を意味するのか、誰かに気付いて欲しいと思って、あの宿題を出したんだ。月の満ち欠け図を見て、私の病気と一致することに気付いたんだね? それとも『まね妖怪』が私の前で月に変身するのを見て気付いたのかね?」

 

「両方よ」

 

「ハーマイオニー、君は私が今までに出会った、君と同年齢の魔女の誰よりも賢いね」

 

「違うわ。私がもう少し賢かったらみんなにあなたのことを話していたわ!」

 

「しかし、もうみんな知っていることだ。少なくとも先生方は知っている」

 

「ダンブルドアは狼人間と知っていて雇ったっていうのか? 正気かよ」

 

「先生のなかにもそういう意見があった。ダンブルドアは私が信用できる者だと何人かの先生を説得するのにずいぶんご苦労なさった」

 

「そして、ダンブルドアは間違っていたんだ!」

 

 ハリーは爆発したように叫んだ。

 

「先生はずっとこいつの手引きをしていたんだ!」

 

 ハリーはブラックを指差した。

 ルーピン先生は辛抱強く、繰り返した。

 

「私はシリウスの手引きはしていない。ワケを話させてくれれば、説明するよ。ほら」

 

 ルーピン先生はそう言って取り上げていた杖を三人のそれぞれの持ち主に放り投げた。

 それから、彼は自分の杖をベルトに挟み込んだ。

 

「君達には武器がある。そして私は丸腰だ。聞いてくれるかい?」

 

 三人は顔を見合わせた。それぞれが「罠だろうか?」と思っているのが分かった。

 

「先生がブラックの助けをしていないのなら、どうしてこいつがここにいるってわかったんだ?」

 

「地図だよ。『忍びの地図』だ。事務所で調べていたんだ」

 

「使い方を知っているの? あなたが?」

 

 ハリーが疑わしげにたずねた。『忍びの地図』は「われ、ここに誓う。われ、よからぬことを企む者なり」という言葉を伝えなくては、ただの古びた大きな羊皮紙に過ぎない。そして、これは口伝だ。『闇の魔術に対する防衛術』は、羊皮紙にかけた魔法を破れるのだろうか。

 

「もちろん、使い方は知っているよ。私もそれを書いた一人だ。名前はムーニーだよ。──学生時代、友人は私のことをそういう名で呼んだ。そんなことより、私は今日の夕方、『忍びの地図』をしっかり見張っていたんだ。三人が城をこっそり抜け出して、ヒッポグリフの処刑前にハグリッドを訪ねるのではないかと思ったからだ。思ったとおりだった。そうだね?」

 

 三人から否定の声はあがらない。事実だったからだ。

 話を急ぐようにルーピンは手を振った

 

「私は君たちが校庭を横切り、ハグリッドの小屋に入るのを見ていた。二〇分後、君達はハグリッドのところを離れ、城に戻り始めた。しかし、今度は君達のほかに誰かが一緒だった」

 

「え? 違う、僕たちだけだった」

 

 二人も「そうだ」と言った。

 しかし、ルーピンは「四人だ」と言った。

 

「『忍びの地図』がおかしくなったかと思った。──あいつがどうして君達と一緒なんだ?」

 

「誰も一緒じゃなかった。地図が間違っているんだ!」

 

「地図に間違いはない。間違えないんだよ、ハリー。地図を誤魔化すことはできない。たとえ君が透明マントを被っていても『忍びの地図』には君の名前が現れる」

 

「でも……」

 

 呟いたハーマイオニーの目が、ロンの握るスキャバーズに移った。ハリーも見た。ハグリッドの小屋から加わったものと言えば、それは──。

 

「ネズミを見せてくれないか?」

 

「なんだよ? スキャバーズに何の関係が……」

 

「大ありだ。頼む。見せてくれないか?」

 

「僕のネズミがいったい何の関係があるって言うんだ?」

 

「それはネズミじゃない」

 

 突然、シリウス・ブラックの声が割り込んだ。

 彼はネズミから目を離さず、クルックシャンクスも毛を逆立てた。

 

「どういうこと──こいつはもちろんネズミだよ──」

 

「いや、ネズミじゃない。こいつは魔法使いだ」

 

 ルーピン先生が言った。

 

「『動物もどき』だ」

 

 ブラックが言った。

 

「名前は、ピーター・ペティグリュー」

 

 直後のことだ。

 執拗にネズミを殺そうとするブラックを制止して、ルーピン先生は声を張り上げた。

 

「待ってくれ! そういうやり方をしてはダメだ──みんなに分かってもらわねば、説明しなければいけない!」

 

「あとで説明すればいい!」

 

「みんな──すべてを──知る──権利が、あるんだ! ロンはあいつをペットにしていたんだ! 私にもまだわかっていない部分がある! それにハリーだ! シリウス、君はハリーに真実を話す義務がある!」

 

「わたしは待った! 十二年も! アズカバンで!」

 

 悲痛な叫びが、ハリーの頭を冷やした。

 誰も何も言わなかった。

 

「せ、せ、先生」

 

 沈黙を破ったのはハーマイオニーだった。

 授業中にするように挙手をしてルーピン先生が顔を向けるのを待っていた。彼は促した。

 

 ハーマイオニーは、最大限の論理的な思考を用いてルーピン先生に回答を求めた。

 たとえば。

 

「ピーター・ペティグリューが『動物もどき』のハズがありません」

 

 マクゴナガル先生の授業で『動物もどき』の勉強をした。

『動物もどき』は、調べられる。なぜならば、『動物もどき』は魔法省が厳密に管理しているからだ。

 たとえば今世紀の『動物もどき』は七人しか存在しない。そして、彼らが何の動物に変身するのか、その身体的な特徴が細かに記録されている登録簿が存在する。

 

「登録簿にはマクゴナガル先生の名前が書いてありました。でもそこにピーター・ペティグリューの名前は、ありませんでした」

 

 ハリーは、まじまじとハーマイオニーを見た。彼女より真面目に真摯に宿題に取り組んでいる生徒はいないだろう。ルーピン先生の言葉は正しい。ハーマイオニーはハリーとしても今までに出会った同年齢の魔女の誰よりも賢い人だと心の底から尊敬した。

 

「またしても正解だ。ハーマイオニー。でも、魔法省は、ダンブルドア校長は、未登録の『動物もどき』が三匹、ホグワーツを徘徊していることを知らなかったのだ」

 

「未登録……!?」

 

「話をしよう。さほど昔のことではない話だ。シリウス、君も手伝ってくれ。……長い話にはしない。だが、みんなに必要な──」

 

 ルーピン先生の言葉が途切れた。

 彼の背後、ベッドルームのドアが独りでに開いた。五人が一斉にドアを見つめ、最も近くにいたルーピンがドアのほうに進み、階段の踊り場を見た。

 

「誰もいない」

 

「ここは呪われているんだ!」

 

 ロンがヒステリックに大声をあげた。

 

「いいや、違う。『叫びの屋敷』は決して呪われてはいなかった。けれど『呪われている』とか『世界一怖い幽霊屋敷である』とか、そういった噂は都合が良かった。だから煽られた。もしかしたら、君達はホグズミードの住人から『実際に叫びを聞いたことがある』と聞いたことがあるかもしれないね。……村人がかつて聞いた叫びや吠え声は、私の出した声だ」

 

 ルーピン先生は、話しはじめた。

 

 全ては彼の幼少の頃から始まる。

「無慈悲で、邪悪で、殺されて当然の存在」だと魔法界の誰もが心の底で思っていることを人狼の前で訴えた魔法使いの父は、報復を受けた。しかし、傷ついたのは彼ではなかった。報復の牙は、彼が愛する唯一の息子に向けられた。

 彼を噛んだのはフェンリール・グレイバックという人狼だ。人狼に噛まれた者は、人狼となる。そうして幼少の頃、ルーピンは人狼になったのだ。魔法使いの父とマグルの母と共に転々と暮らしを変え、すこしでも噂が立つとすぐさま次の場所へ引っ越した。それを何度も繰り返し、父母も子も疲弊した。

 学校に入ることなど到底認められないと誰もが思い、ルーピンでさえ諦めていた。

 だが、彼だけは違った。

 

「リーマスに何があったかは知っている。フェンリール・グレイバックは、そのことを得意げに言いふらしておるのでな」

 

 ホグワーツの校長となっていたダンブルドア。

 変身の時期に人狼を置いておくために必要な対策は全て講じているとも言った。

 そして彼は、ルーピンが十一歳の誕生日を迎えた日、ホグワーツへの入学許可証を渡したのだ。

 

「この叫びの屋敷までのトンネルは、私が使うために作られた。一ヶ月に一度、私は城からこっそり連れ出され変身するためにここに連れてこられた。『暴れ柳』は知っているね。あれは、このトンネルを生徒の好奇から守るために植えられた。私が入学したから植えられた、と言った方が正しいね」

 

 そして、満月の日。ここで変身した。苦痛に満ちたことだ。

 獲物の人間から引き離され、代わりに自分を噛み、引っ掻き、吠えた。

 ホグズミードの村人は、それはそれは荒々しい霊だと恐れた。ダンブルドア校長は、その噂を煽った。

 時が経て、もうずいぶん前からこの屋敷は静かになったというのに村人は近付かない。

 

 変身することだけを除けば、人生であんなに幸せだった時期はない。

 やがて、友ができた。

 

「君のお父さんだよ、ハリー。ジェームズだ。そして、シリウス。それから……ピーター・ペティグリュー」

 

 ──最後は友と『思っていた』だが……。

 小さく言葉を添え、ルーピンは鼻の上を掻いた。

 それから。

 

「だが月に一度、私が姿を消すことに気付かないハズはない。私の正体を知ったら、途端に見捨てるのではないかと、それが怖かったんだ。だから、いろいろと言い訳をしたものだ。母親が病気で見舞いに帰らなければならなかった、とか。だが、やがて彼らは、ハーマイオニー、君と同じ……本当のことに辿り着いた」

 

 ルーピンの予想を裏切り、三人は見捨てはしなかった。

 

「それどころか、私のためにあることをしてくれた。おかげで変身は辛いものでなくなったばかりではなく、生涯で最高の時になった。三人とも『動物もどき』になってくれたんだ」

 

 ジェームズも、そうだ。

 ハリーが訊ねたそうにしている顔を見て、ルーピン先生は告げた。

 

「どうすれば『動物もどき』になれるのか。三人はほぼ三年の時間を費やしてやっとやり方が分かった。君のお父さんもシリウスも学校一賢い学生だった。それが幸いした。──なにしろ、『動物もどき』変身はまかり間違うと、とんでもないことになる。当時も今も、もし露呈すればアズカバンの禁錮刑は免れないだろう」

 

 とにかく『動物もどき』は危険なのだ。

 飛ぶことを好み、人であった記憶を忘れて本当の動物になってしまった魔法使いや魔女のなんと多いことか。

 一般的な人間の寿命より短命になった、なんて失敗は幸運なものだ。悲惨な失敗事例には事欠かない魔法だ。目も当てられない半人半獣のおぞましい姿になって生きるしかなくなった人は大勢いる。

 それだけ魅力的なのだ。

 なぜかって? 『動物もどき』が犯罪に関わると、きわめて有利なことは想像ができるだろう。

 

 ハリーは、そう言ったルーピンの目がロンの握るスキャバーズに移ったことを見た。

 

「ピーターだけはさんざん手伝ってもらわなければならなかったが……五年生になって、やっと、三人はやり遂げた。それぞれが意のままに特定の動物に変身できるようになった」

 

「でも……それがどうしてあなたを救うことになったの?」

 

 ハーマイオニーが不思議そうに訊ねた。

 

「人間だと私と一緒にいられない。だから動物として私に付き合ってくれた。狼人間は人間にとって危険なだけだからね。動物に対する攻撃性は、人間ほど高くない。……先生にここに連れてこられた私を追って、三人はやって来た。ピーターは一番小さかったから『暴れ柳』の攻撃をかいくぐって木を硬直させる節に触ってね。そして、私と一緒になった。友達の影響で、私は以前ほど危険ではなくなった。」

 

 三人が変身できるようになったことでワクワクする可能性が開けた。

『叫びの屋敷』を抜け出して校庭やホグズミードを歩き回るようになった。

 

「私達ほど校庭やホグズミードの隅々まで詳しく知っていた学生はいないだろうね。こうして私達が『忍びの地図』を作り上げ、それぞれのニックネームで『忍びの地図』にサインした。シリウスはパッドフッド、ピーターはワームテール、ジェームズはプロングズ」

 

「とっても危険だわ! 暗い中を狼人間と走り回るなんて! もし狼人間がみんなをうまく撒いて、誰かに噛みついていたらどうなったの?」

 

「それを思うと今でもぞっとする。あわや、ということがあった。何回もね。……あとになってみんなで笑い話にしたものだ。若かったし、浅はかだった。自分たちの才能に酔っていたんだ」

 

 ハリーは、ルーピンの気持ちが何となく分かるような気がした。

 他の人が持っていない変身能力を持ち、他の生徒が知らない秘密の抜け道を全て知っていて、学校での成績も優秀な生徒。

 もしも、自分がそんな立場だったとしたら自分の才能に自惚れないワケがないと思ったからだ。

 

「ダンブルドアの信頼を裏切っているという罪悪感を、私はときおり感じていた。……もし、他の校長であったのなら私が入学することは許さなかっただろう。私と周囲の人々の両方の安全のためにダンブルドアが定めたルールを、まさか私が破っているとは夢にも思わなかっただろう。加えて三人の学友を非合法の『動物もどき』にしてしまったこともダンブルドアは知らない……。この一年、私はシリウスが『動物もどき』だとダンブルドアに告げるべきかどうか迷い、結局、告げはしなかった。……私が臆病者だからだ。学生時代に、ダンブルドアの信頼を裏切っていたと認めることになる。……ダンブルドアの信頼が、私にはすべてだったのに」

 

 ルーピン先生の声は、悲痛で自己嫌悪の響きがあった。

 ハリーには、まだ分からない。

 彼の語り始めた話が、どこに辿り着くのか。その好奇に負けて、怒りや憎悪が色褪せていくことを惜しいとは思わなかった。

 誰もが彼の話を聞き入っていた。

 だからこそ。

 何も存在しない場所で物音が鳴ったことに気付かなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、樹木に吊り下がっていた。完全に太陽は地平線の向こう側に沈み、周囲は完全な闇が支配している。

 もし、月の香りの狩人が彼の姿を見る機会があれば「最も狩人らしい姿だ」と皮肉げに笑っていたかもしれない。

 吊り下げている足の縄に手が届けば、綱が切れるだろう。そう思い、腹に力を入れて体を曲げ続けているが、手は届かず、力尽きてぶら下がることを三十回繰り返した。お腹の奥がシクシクと痛い。『筋肉痛』というものをクルックスは生まれて初めて感じていた。

 

(ダメだ。届かん。腹筋、鍛えるか。血の遺志を筋力に費やせば増えるのか……)

 

 痛みのせいで思考が散漫になりつつある。

 触れる空気は夏が近く寒いほどだというのに汗が止まらない。

 ──独りでは無理だ。

 独力での脱出は無理だと悟るのに三十分もかかってしまった。

 

(誰か……誰か、誰でもいい、誰か来てくれ。狼人間だからという理由で、意志を無視されることは善い行いではないのに……ネフもテルミも何を焦っているんだ……?)

 

 自らを戒める縄を軋ませることだけが今の彼に許されていた。

 遠くから獣の吠え声が聞こえる。狼だろうか。それとも犬だろうか。あるいは人狼だろうか。

 ネフライトやテルミと関わりのないことだけを祈った。

 

(何も出来ない……ああ、ああ、俺は、ここでいったい何をしているんだ……)

 

 何が間違っていたのか。

 クルックスには、どこから正すべきなのか分からなかった。

 狼人間だと知ってしまった時点でヤーナムの月の香りの狩人の仔としての接触は免れなかった。

 

(かつてのお父様も無力に苛まれていたのだろうか。誰か誰か、と祈ることがあったのだろうか。それから、どうしたのだろうか。……狼人間はヤーナムでは手に入らない。これが獣の病を解明する糸口の一つになるのならば、俺が悪なのか? ダメだ……やめよう……善悪など、俺には分からない。分かる者など本当にいるのだろうか。誰がどうやって判断するのだろうか……)

 

 無力感が、体の力を奪っていくようだった。

 涙が出る。痛みによるものなのか、心の問題なのか分からなかった。

 頭に血が上るせいで時間が分からなくなってきた。時間はいやに長く感じられた。

 

 やがて。

 微かに。

 枯れ葉が踏みつけられる音が聞こえた。

 求めて止まない心が聞かせる幻だろうか。

 赤く暗い視界に月光に輝くものを見つめた。

 

 結わえた長い髪を銀の翼のように靡かせ、現れた狩人がいる。

 カインハーストのマントを翻したセラフィだった。

 

「お父様によく似た君。僕に親しい枝の君。香しい月の血に誘われて獣が集まってしまうよ。君は知らないだろうか。君の血は、お父様の匂いがするのだ。僕でさえ胸ときめく、不思議な香りなのだよ」

 

 セラフィは、クルックスを見上げた。

 待ち焦がれた助けが来たというのにクルックスは、なぜか声ひとつ上げられなくなっていた。

 

「夕食の席に君達がいなかったからね。僕はまた出遅れたのかな。君が罠に引っかかるとは……足下の注意が疎かになっているのではないかな。……。クルックス? 出遅れたことに怒っているのか? 何か話してくれ」

 

「え……あ、い……」

 

 喉から声を出し、クルックスは顎が壊れていることを伝えようとした。そして、ネフライトとテルミのことも。

 だが、多くは伝わらなかった。

 

「何を言っているか分からないな。でも、動かないでくれ。縄を切るよ」

 

 セラフィはカインハーストの長銃、エヴェリンをクルックスを縛る縄に向けた。間もなく甲高い特徴的な銃声が響き、幹とクルックスを結ぶ縄は衝撃で焼き切れた。

 一時間ぶりに地面に落ちたクルックスは、ひどい頭痛にしばらく動けなかった。その間、セラフィはクルックスを抱き起こし、手を戒めていた縄を解いた。

 

「しかし、君が遅れを取るとは。連盟員も不意を突く攻撃には弱いらしい。……ん? 君、顎を壊されたのか。どうりで叫べないハズだ」

 

 クルックスに念のための輸血液を差し込んだ後でセラフィは、瞳を覗き込んだ。

 

「それで……敵は誰?」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 過去の真実を証明する方法は、少ない。

 たとえ証明が出来たとして、納得が出来ることは稀だ。

 スネイプの乱入をハリーとロン、ハーマイオニーが退けた後。

 先生を攻撃したことでいっそう怯えた顔をしたハーマイオニーの隣で、ロンが痛みに顔を顰めた。

 

「……話は、わかったよ。スキャバーズなんかに手を下すために、わざわざアズカバンを脱獄したって。でも、でも、おかしいだろ? ペティグリューがネズミに変身できたとしても、ネズミなんて何百万といるだろう? どうしてアズカバンに閉じこめられていたのに、このスキャバーズが自分の探しているネズミかどうか、わかるって言うんだい」

 

「そうだともシリウス。まともな疑問だよ」

 

 ルーピンは、不可解そうに眉根を寄せた。

 

「ファッジだ」

 

 コーネリウス・ファッジ。

 現在の魔法大臣の名前に全員がブラックを見た。

 そして彼は骨とシミの浮いた手をローブに突っ込み、クシャクシャになった日刊予言者新聞を取り出した。

 ハリーも知っている記事だった。

 一年前の夏に新聞に載ったウィーズリー一家の写真だ。

 

「去年、アズカバンの視察に来た時、ファッジがくれた新聞だ」

 

 温かい茶の匂いを漂わせ、小脇に新聞を挟み、ファッジは守護霊に守られてアズカバンの視察に訪れた。

 

「一目見てわかった。……ピーターが映っている。あいつが変身するのを何度見たと思う? そして写真の説明には、ホグワーツに戻ると書いてあった。ハリーのいるホグワーツへと」

 

 ルーピンの目が、ブラックとスキャバーズを交互に見た。そして。

 

「何たることだ。こいつの前脚……」

 

「それがどうしたって言うんだい?」

 

「指が一本ない」

 

 ルーピンの言葉を聞いたハリーは、頭の中で誰かが電球にスイッチを入れたかのように閃いた。

『三本の箒』でファッジとマクゴナガル先生達の話を盗み聞いた時のことだ。

 ──マーリン勲章、勲一等。それに箱に入った──。

 

「指一本が母親に贈られた」

 

 彼らは言った。

 ──それが残った体の欠けらのなかで一番大きいものだった。

 けれど、ペティグリューは爆殺されたという。指一本が残るにはどうすればよいか。

 その答えはルーピンが言った。

 

「なんと単純明快……なんと小賢しい……あいつは自分で切ったのか?」

 

 そしてピーター・ペティグリューは実行した。

 道行く衆目に向かってブラックこそがポッター夫妻を裏切ったと叫んだ。そして変身する直前に、指を切り落とし、周囲を吹き飛ばし皆殺しにした。

 

 ブラックの話したことを真実だとすれば、ネズミが弱っていることも説明できそうな気がした。

 ロンはまだハーマイオニーの愛猫のクルックシャンクスが恐いから弱っているのだと強硬に主張していたが、ハリーもハーマイオニーもそれは事実ではないことを知っていた。

 去年、ロンと再会して三人でペットショップに行く以前からスキャバーズは弱っていた。あの時は、「エジプトの水があわなかった」というロンの言葉を気に留めることもなかったが、体調が悪いのはエジプトから帰ってきて以来ずっとだ。シリウス・ブラック脱獄の報道を聞いてから、ずっとだ。

 

「なぜピーターは自分が死んだと見せかけたんだ? おまえが僕の両親を殺したように、自分も殺そうとしていると気付いたからじゃないのか!?」

 

「ハリー、わからないのか? 私達はずっとシリウスが君のご両親を裏切ったと思っていた。ピーターがシリウスを追いつめたと思っていた。しかし、真実は逆だった。ピーターが君のご両親を裏切ったんだ!」

 

「ああ、わたしが殺したも同然だ。最後の最後になって、ジェームズとリリーに、ピーターを守人にするよう勧めたのはわたしだ。ピーターに代えるように勧めた。あいつらはわたしを追うだろう。時間が稼げるハズだった。……二人が死んだ夜、わたしはピーターが無事かどうか確かめに行くことにしていた。ところが、ピーターの隠れ家はもぬけの殻だ。不吉な予感がして、すぐに二人の所へ向かった。そして、家が壊され、二人が死んでいるのを見た時、わたしは悟った。……ピーターが何をしたのかを。わたしが何をしてしまったのかを」

 

 後悔と失意に打ちのめされた顔でブラックは顔を両手で覆った。

 ルーピンが毅然と言った。

 

「話はもう十分だ。これから何が起こったのか完全に証明する。──もし本当のネズミだったら、これで傷つくことはない」

 

「ロン、お願いだ。スキャバーズを渡して」

 

 ハリーの懇願と何を言っても手を引きそうにない大人二人の話、そして彼自身、真実を知りたい気持ちがスキャバーズをルーピンに手渡した。

 ブラックは床に落ちていたスネイプの杖を拾い上げた。

 

「一緒にやるか?」

 

「ああ、友よ」

 

 過去の真実を証明する方法は、少ない。

 しかし、時に。

 証明できた真実は、どんな言葉よりも速やかに、他者に真実を悟らせるものだった。

 

 叫びの屋敷の一室を青白い光が満たした。

 スキャバーズが宙に浮き、一瞬だけ静止した。

 ネズミの身がよじれ、人間の手足が生えてきた。毛は落ち、尻尾がみるみるうちに体に吸い込まれていった。

 次の瞬間、一人の小柄な男が──ネズミらしい仕草で──両手を体の前でそろえて立っていた。

 元は明るい茶色であったであろう髪はまばらに色褪せ、頭頂に大きな禿げがあった。もとの体型からして、やや小太りであったのかもしれない。やけにダボついた服が、男のみすぼらしさに拍車をかけている。尖った鼻や小さな目には、スキャバーズの面影があった。

 

 呆気にとられる三人とかつて見慣れた変身を久しぶりに見た二人に向かい、男はハァハァと浅く息をして、小刻みに震える右手を挙げて挨拶した。

 

「や、やぁ……友よ……なつかしの友よ……」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「こんばんは」

 

 もしも、ここが学校の廊下であったのならば相応しい挨拶だったかもしれない。

 だが、暴れ柳を出た先、夜の校庭で聞こえてよい挨拶ではなかった。

 

 声に頼る必要なく、彼を知る人は挨拶の主が誰なのか分かった。

 六角形の檻だと見分けるためには、ほんのすこし降り注ぐ学校からの光があれば、それだけで十分だった。闇のなかにその特徴的なシルエットが浮かび上がる。檻の頂点は鈍く錆色に光っていた。

 

「挨拶は良い。──実に人間らしい礼節の現れ方だと感じる」

 

 この言葉を、かつてハリーは聞いたことがある。

 夏休みのはじまり。同級生によく似た、彼の父親が話していた言葉だ。

 あの時、大人の奇妙なこだわりに感じた言葉が、今は嘲りの色を乗せていた。

 

 ネフライト・メンシス。

 緑色の瞳が夜闇に光って見えるのはおかしな檻を被っているせいだろう。

 

「どうして君がここにいるんだ」

 

 ハリーは、シリウスを庇って前に出た。

 ネフライトは興味なさげにハリーの背後を見た。痛みに悲鳴を上げているロン、そして小男のピーター、その彼に杖を向けているのはルーピン、そしてハーマイオニーは小刻みに震えていた。

 ハーマイオニーの猫、クルックシャンクスに「シャー」と足下で鳴かれたネフライトは、灯りのともる杖先で学校を指した。

 

「君はさっさと寮に帰るといい。私はルーピン先生と『お話』をしたいだけだ」

 

 ネフライトは、意外なことにシリウスがいることを認めながらも頓着しなかった。

 魔法界のごく普通の人々ならば、金切り声で「シリウス・ブラック!」と叫んだことだろう。なんせ彼はここ一年ですっかり名の知れた極悪犯罪者で『お尋ね者』なのだ。

 脅威を認識していないことが、ハリーには何より恐ろしく感じられた。だが、納得もいく。怪しげな所帯に向かって第一声に「こんばんは」と挨拶する人物だったからだ。

 

「君は……。どうして……?」

 

 ハリーは言うべきことを迷った。どうしてここにいるのか分からないが、彼には是非とも何も見なかったことにして黙っていてほしい。

 宙に浮かび、だらんと力の入らない体のスネイプを見た時にようやくネフライトは、顔を顰めたようだった。

 

「ハリー・ポッター」

 

 おおよそ蔑む以外の感情らしきものが窺えない声に、初めて温度が感じられた。

 

「シリウス・ブラックに関する出来事とは、世間一般で話されている以上に複雑で、けれど君にとって悪いものばかりではなかったらしい。これは幸いなことなのだろうな」

 

 ネフライトは、杖を持っていた。

 その杖先を誰もが緊張して追った。ゼイゼイと喘ぐピーターの息づかいだけが後方でうるさかった。

 

 幸い。──そうだ。

 ハリーは『叫びの屋敷』から暴れ柳までの道中、シリウスと話したことを思い出した。

 シリウスとルーピンは、スキャバーズことピーターをさっさと殺そうと主張した。もしも、両親の仇討ちだけが目的であればハリーも賛成したことだろう。だが、問題があった。ピーターが裏切りを証言しない限り、シリウスの罪とされている──実際には冤罪なのだが──それが晴れないのだ。親友であったハリーの父、ジェームズならば謂れなき罪の不名誉を受けたシリウスの汚名を晴らそうとするだろう。ハリーは、そう考えた。

 また、ピーターを生かすことで、ハリーにとって思わぬ可能性が拓けた。

 

 ──もし、君が新しい家族が欲しいと言うのなら……。いいや、言ってみただけだ。おじさんやおばさんが大切だろう。家族だ。その気持ちは、よくわかるつもりだ。しかし……まあ……考えてくれないか……別の家族がほしいと思うなら……。むろん、君はそんなことは望まないだろうと思うが……。

 

 遠慮がちなシリウスの提案をハリーは喜んで受け入れた。

 ダーズリーの家を離れることができるのなら、ハリーは大賛成だった。

 

「この先の幸福まで祈りたいものだ。……君を憂う彼のためにも」

 

 やがて、光の灯るネフライトの杖先は校庭の向こう、きびきびした動作でホグワーツ城を差した。

 

「シリウス・ブラックを連れて行くのなら道中はくれぐれも気を付けることだ。吸魂鬼がうろうろしている。誰かタレコミをしたのだろうかね。そこで寝ている先生か……? いいや、私にはどうでもいいことだが」

 

 三度「君は」と言いかけたハリーの言葉をルーピン先生が止めた。

 

「君は私と話したいんだろう。だが、後にしてくれないか。今夜、十二年前の誤りが正されようとしているんだ。一人だけではない。失われた人生を、ふたつ取り戻すことが出来る」

 

「待てない。私の都合がある。そして、あなたの都合も。──だって先生は今日、薬をお飲みではないでしょう?」

 

 ハリーは、ルーピン先生の顔が白くなったのを見た。そして、ハーマイオニーが苦しげに息を詰まらせた声を聞いた。

 ルーピン先生の顔は、血の気が引いた白ではない。

 横顔が薄く光を帯びる。

 誰もがルーピン先生を見た。そして、彼の背後を見た。雲が切れている。まるでスポットライトに照らし出されたようだ。一行に月光が降り注いだ。

 

「──正直なところ私は驚いた。まだ、あなたが人間の姿であることに。時間? 月の満ち欠け? あるいは体温? 厳密な条件があるのか? 要調査。だからこそ私は『さっさと寮に帰るといい』と言ったのだ、ハリー・ポッター」

 

 月の光を浴びた途端、ルーピン先生は硬直し手が震え、杖を草むらに取り落とした。

 監視役がいなくなったのを見逃さず、ワームテールがルーピン先生の杖に飛びついた。

 

エクスペリアームス! 武器よ去れ

 

 ハリーの呪文は、ワームテールが持ち上げた杖を吹き飛ばした。だが、もはやワームテールは何も恐れていないようだった。

 ニヤニヤと嬉しそうに笑い、小男の体はみるみるうちに小さく萎んだ。服が重力に逆らわず地面に崩れ落ちていく。

 ハリーの父親と同じく、この男は『動物もどき』であり──ネズミに変身したのだ。目をこらすと毛の禿げた尻尾が草むらに隠れるところだった。尻尾が草に擦れるシュルシュルという音が微かに聞こえる。

 

「待て……!」

 

 ハリーの両親を裏切り、真の『秘密の守人』である役目を放棄したのはワームテールだ。

 その事実さえ明るみになれば、シリウスの冤罪も晴れる。

 ──彼は、自分の人生を取り戻すのだ!

 ハーマイオニが、ワームテールを追いかけようとするハリーの腕を掴んだ。

 

「あいつが……! 離して! 両親の仇なんだ! ハーマイオニー!」

 

「ダメよ! 先生が今夜薬を飲んでいないのなら、危険よ!」

 

 ほんの一時。

 人狼であるルーピン先生が、薬を飲んでいない事実を忘れてしまったのは、未だハリーが人狼の何たるかを知らないからだった。

 恐ろしい唸り声が聞こえた。誰の何の声なのか。月明かりは残酷に照らし出した。ルーピン先生の背が丸まり、そして盛り上がる。彼の着ていた、みすぼらしいローブは、ついに役目を終えた。毛むくじゃらの腕が振るわれると、かぎ爪が体にまとわりつく服を裂いた。ルーピン先生は、人狼に変身したのだ。

 

「ハリー、友達を連れて逃げろ! 早く!」

 

 シリウスが片手を上げて、ハリーとハーマイオニーに指示した。

 ──助けを呼ばなければ。

 頭の中はそれでいっぱいだった。歩けないロンの両腕を抱え、二人は立ち上がった。

 ルーピン先生がこの様子では話がままならない。それに、使える手は一本だって欲しかった。ハリーがネフライトの姿を見ると彼は緩やかな口調で人狼に歩み寄っていた。

 

「ルーピン先生、おはようございます。こんにちは。こんばんは。ご機嫌よう。よいお天気ですね?」

 

「あいつ、頭がおかしいんじゃないか……!」

 

 ロンが痛みで涙しながら言った言葉は、この場のほとんどの人の心情を代弁した。

 いつ襲ってくるかも分からない人狼に向かって彼は、ほんの二メートルのところで足を止めた。

 

「おおよそ日常生活で交わされる言葉は、最も記憶に残る言葉でもある。顕著な反応は見られない。クルックスは残念に思うだろう。つまり『知性を感じられない』という意味だが。──インセンディオ! 燃えよ

 

 ネフライトの杖から人狼に対し、視界が真っ赤に染まるほどの炎が放たれた。

 シリウスの姿が見えない。

 炎から逃れようと地面を転がる人狼に大きな黒い塊が飛びかかっていった。ハリーの父親と同じく、彼は『動物もどき』であり犬に変身したのだ。

 人狼はむちゃくちゃにかぎ爪を振り回し、小さくなった炎をまといながらネフライトに突っ込んだ。噛みつかれると思い、ハリーは咄嗟に「アッ」と声を上げた。ネフライトは細長い棒を取り出していた。長柄の先には、四角錐が結びつけてある。形状的にはツルハシのようだった。

 長い柄に組み付いた人狼の脇腹を黒い犬が思い切り齧り付いた。人狼は炎と犬の猛攻に耐えかねてとび退り、真夜中の校庭を走り出した。

 

「獣の相手は狩人の役目だ。早く城へ戻りたまえよ、君達」

 

 そう言い残してネフライトの姿も暗闇に消えていった。

 

「──シリウス、あいつが逃げた。ペティグリューが変身した!」

 

 言ってしまってから、ハリーは黒い犬の歩き方がおかしいことに気付いた。怪我をしているのだ。だが彼は止まらず、足音を響かせて校庭を走り去った。間もなく、足音も消えた。

 ハリーは、辺りを見回した。ハーマイオニーは必死で現状をすこしでも良い方向へ変えようと知恵を絞っているようだった。骨折しているロンは、痛みと驚きでショック状態だ。そしてスネイプは、相変わらず気を失ったまま宙に浮いている。ハリーは、膝を折ってロンを地面に下ろした。

 

「ロン、スネイプを起こして、学校に行くんだ。そして、誰か話の分かる人に──ダンブルドアに伝えて。メンシスがルーピンを追っている。人狼はここには来ないだろう。……たぶん」

 

「君はどうするのさ」

 

「僕はペティグリューを──」

 

 その時、キャンキャンと苦痛を訴える犬の鳴き声が聞こえてきた。遠くない。

 ハリーは、ロンと見つめ合った。自分の顔がひどく強ばっていると分かっていた。

 

「あー、僕は大丈夫……たぶん……」

 

 ロンが気弱な顔で呟き、頷いた。ハリーの背を押すように。

 

「ロン、城で会おう。──シリウス!」

 

 ハリーは、駆け出した。ハーマイオニーも続いた。

 甲高い鳴き声を追いかけた。

 全力で走りながら、ひやりと肌に感じる寒気の意味をハリーは忘れていた。

 かつてあれほど恐怖したものを、なぜ忘れることが出来たのだろう。

 真っ黒な原因を目にした瞬間に遅れてやって来た疑問は、いつまでも渦巻いていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 狩人は、どんな深い森のなかであろうと獣の匂いを追うことが出来る。

 それは普段、獣を追う狩人ではないネフライトであっても可能だった。

 

(火傷を負わせた。……弱らせてから捕獲を)

 

 今は獣の匂いに加え、獣の毛皮が焦げた匂いを追うことが出来る。

 狼人間の存在は貴重だ。

 ビルゲンワースの学徒に「ヤーナムの外で遊んでいる」と小言を言われずに済む。そして、メンシス学派に提供すれば学派が躍進する多少の手がかりになるだろう。

 

 人狼に対する魔法界の差別は知っている。

 殺したとしても重い罪にはならないだろう。ならば、彼が行方知れずとなったとして構う者が、いるものか。

 それに露見させるつもりもない。

 

「唯一偉大なる彼方のお父様、このネフライト・メンシスにご期待あれっ!」

 

 月に手を伸ばし、笑う。

 体はどこまでも軽かった。

 

「フッフッフ、誰にも私を止められないっ! 止められはしないのだ!」

 

 ネフライトの言葉は上ずって途切れた。

 樹木で遮られていた視界が切れた窪地に現れた魔法生物にネフライトは思考が停止した。

 

 もしも、クルックスならば「なんだ通りすがりのヒッポグリフか」と素通りしたかもしれない。

 だが、ネフライトは抱いた疑問を解消せずにはいられない性質だった。

 

「──ヒッポグリフ! クルックスはたしか処刑されると言っていた。別のヒッポグリフか……いいや、あの毛並みには見覚えがある……逃げ出したのか」

 

 ならば、次の疑問が現れる。

 

(虜囚として鎖に繋がれているヒッポグリフがどうやって逃げ出すというのだ。ハグリッドの管理不十分か。いいや、そんなことをすればダンブルドア校長の責任も問われる。裁判に関わりのない別の誰か──関わりのない生徒──!)

 

 ネフライトは、この暗い校庭の森にハリー達とは別の人物がいることを確信した。

 

「飛ばして逃がすでもなく、まだ手元に置いている──と見るべきか。利があるのは誰? テルミの手記にあったシリウス・ブラック? まさか……」

 

 ヒッポグリフはネフライトを見つめ、尊大そうな目で見つめた。お辞儀をするのを待っているような目つきだった。

 ここで争いになるのは避けたい。ネフライトは、全力で走り抜けた。ヒッポグリフ──バックビークは前脚で踏みつけていた蝙蝠をバリバリと食べているため追ってこなかった。

 臭いを辿る、道なき道の先。

 彼の視界に現れた人物を、ほんの一瞬、父たる狩人の姿に見間違えた。

 

「お、と……!」

 

 頭の奥がガンガンと痛みを訴えている。

 額が熱い。ありえないことが起きた現実に頭の中身が茹だった。

 

「──ッ! クルックス!? なぜ!? ここに……! どうして……!」

 

 言葉を紡ぐ間、ネフライトは吊したハズのクルックスが現れた理由に思い至った。

 

「あ……? ああっ? ああああああぁッ!? セラフィっ!? セラフィがいるな! セラフィが来たんだな!?」

 

「…………」

 

「あ、あ、あ、あの気狂い女ぁぁあっ! ろくなことをしない! どうでもいいとのたまうなら、すっこんでいろ、血狂い! すっとこどっこいが! あぁ、どこ、どこだ……どこに……っ! どこにいる……!?」

 

 ネフライトは、周囲を見渡し吠えた。

 彼が獣を追うために臭いに強く頼る理由。

 四仔のうち最も父を恐れ、けれど祈る理由のひとつ。

 

 

 彼は、四仔のなかで。

 最も夜目が利かないのだ。

 

 

 ネフライトは自分は変えようのないほどに、どうしようもなく、夜が恐ろしかった。何も見えず、触れることの出来ない暗闇が恐ろしかった。

 夢に生まれ、夜に生きるべき狩人が闇を恐れ、取り乱すなど滑稽だ。

 最も『きょうだい』に見せたくない姿を晒してしまっていることが、何より彼の心を追い詰めた。

 

「どこだ! どこに──!? 君に阻まれてなるものかっ! お前に阻まれてなるものかっ! テルミは何をやっている! ちゃんと私を助けろテルミ! ……いや、忘れろ! テルミに援助を請うなど私は混乱している! 私は混乱している!? 冷静になるんだネフライト!」

 

 もしもクルックスの口がきけたのならば「落ち着け、ネフ。君は数で俺に勝った。今度は俺が数で勝る。負けを認めて引き下がれ、俺にしたことはちょっとした喧嘩の範疇で済ませるとして、どうか」とでも言っただろうが、現在、すこしの動きで激痛がはしる状態のため何も言えなかった。

 

 ネフライトは、頭の中で彼我の戦力差を計算した。

 もしも、事情が許せば退くだろう。

 クルックスでさえ力押しをされたら、かなり苦戦するというのに加えてセラフィを相手取るなど思考を放棄したくなる状況だ。

 日頃、狩人の狩人である血の狩人を相手にするのは、まともであればしない。……そう、まともであれば。

 

「だが、なんとくだらないことかっ!」

 

 ネフライトは吐き捨てて、教会の杭を握りしめた。

 

「構わない! どこからでもかかってこい! お父様への忠誠を今ここに示してみせよう! ──月よ、私にご期待あれっ!」

 

 彼は、月へ祈った。

 

「──フフッ、お父様は僕らに特別甘くていらっしゃる。果たして何の諍いか、きっとご存じではないのに。君が力を欲するので、ほんの一時、こうして微笑を傾けてくださるのだ」

 

「そこかっ!」

 

 ネフライトの連装銃が火を噴いた。

 それはセラフィの緋色のマントをチラと掠めたが、緋色のマントは、夜の暗がりに容易く溶けてしまう。ネフライトは再び見失った。

 

「ああ、今のは惜しかった。射程を過信してはいけないよ。一歩踏み込んで撃つことを意識しないといけない。そして威嚇射撃は有効ではない。なぜなら装填の時間は殺し合いにおいて無駄であるから」

 

 背後に聞こえた声にネフライトは全ての行動が一拍遅れ、袖に仕込んだ毒メスは宙を斬った。

 

「後ろにいた、真後ろにいたのに──!」

 

 緋色のマントの赤い残像だけが焼き付くようだった。

 

 だが、セラフィの言ったとおり、かの月は祈りを聞き届けた。

 今は『月への嘆願』と呼ばれる。

 秘儀とも呼ぶべくもない、ただの祈りだ。しかし、応える上位者はいる。そして、使用者は一時、カレル文字を刻まなくとも力を得るのだ。

 

 闇の中から刺すようなセラフィの視線と射線を感じる。

 それでもネフライトは仕掛け武器を取った。

 

 成すならば、全力で。

 何も惜しむつもりはなかったからだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 トリコーンで遮られることないクルックスの顔が、月の光で照らされた。

 

(君は……知っているだろうか)

 

 彼の銀灰の瞳は、闇夜に微かに光ることを。

 父たる狩人に似た、あの──ネフライトにとっては──恐ろしい瞳と等しく。

 けれど狩人のものとは異なり、彼のそれは他者を見て優しく細められることを、ネフライトはずっと前から知っていた。

 

 至近距離。

 

 互いに攻撃はできるが、回避はできない距離。

 

「君は、なぜ、私を理解してくれない」

 

 何を問いかけようとネフライトが欲しい言葉は、彼から出てこない。

 槌を構え、そこに踏み入ったクルックスに向かい、ネフライトは引き金を引いた。

 連装銃の発砲音は、静かな夜空に空しく響く。

 それから間もなく、残響は二刀により切り裂かれた。

 





通りすがりのヒッポグリフ
 処刑された獣が、なんでここにいるんですかね(すっとぼけ)
 ネフライトは城への出入りが制限されている生徒よりシリウス・ブラックの仕業だと考えたようです。


ネフライトとセラフィ
 彼女について、つい本音が溢れたネフライト。思わずテルミに助けを求めてしまうほどの混乱に陥りました。どうでもいいと言うくせに最悪な時ばかり、しゃしゃり出てくる。無視できるほど弱くないのが何より目障りで厄介で……憧れるのでしょう。それはそうとお父様に一番期待を寄せられていると思っているネフライトはキレました──血狂い! すっとこどっこい!


暗闇で目が利かない
 ネフライトは暗闇での視力が他の『きょうだい』に比べて著しく低く、それは初めてホグワーツに来た時に舟から陸に上がるのにクルックスの手を借りる程でした。(あの時は重心が違うからだと言い訳をしましたが)彼のヤーナムでの休日や楽しみが『燭台を綺麗に磨くこと』であるのは他者から「ささやかも過ぎる」と言われますが、彼にとって数少ない、心からの安心に繋がる趣味です。
 恐怖が存在しないため誰よりも暗闇に親しんでいるセラフィに比べるとどうしても動きが何拍も遅く、併せて射撃の精度が低いことは夜の地上でも地底でも致命を招きかねない短所です。
 四仔のうち最も弱いのはテルミ。最も狩人に向いていないのはネフライト。狩人しか出来ないのはクルックス。狩人しか出来ないと思い込んでいるのはセラフィ。四仔の今後の活躍に期待です。


月への嘆願
「助けてお父様」と叫ぶと時差のない月が微笑みかけてくれます。テルミの血ィかわクッキーよりちょっぴり弱い程度のステータス向上が望めますが、後ほど狩人に対し説明と反省会する必要(テルミを特例とする)があり、何より彼との信用関係に罅を入れかねない行為なので仔らは知識はあっても使いません。ネフライトが今回、奥の手に使用を踏み切ったのは二対一の状況をひっくり返す魂胆であること、そして、自分の行いに絶対的な自信があるためです。

 嘆願の台詞は個人それぞれ異なり、状況によって言葉に多少の差異があります。気が向けば四仔以外でも微笑んでくれるかもしれません。
テルミ「月へ祈りなさい」
ネフライト「月よ、このネフライトにご期待あれ」
セラフィ「女王様の月、僕に微笑んで」
クルックス「ヤーナムの月、陰ることなし」


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医療教会の2人組(下)


工房のネジ
仕掛け武器に使われるネジ。
仕掛け武器の可動部に使われている。



 

 初めて父たる狩人と言葉を交わした記憶をネフライトは、よく覚えている。

 

「修理をしているのかと思えば。……これはこれは、興味深い」

 

 狩人の夢の工房。

 ネフライトは、整備の油で顔が汚れることも厭わず熱心に行っていた作業を中断した。

 狩人はネフライトの作業台に散らばる仕掛け武器──だったものを眺めた。

 

「よくバラしたものだ」

 

 可動部は全て単独の部品に解体されていた。装飾部に至るまでの、全てが。

 

「はい。月の香りの狩人様、または助言者様、あるいは、この夢の主。──失礼。私はあなたに対する適切な呼称が分かりません」

 

「何でも構わない。しかし、こんなことをしたのは君が初めてだ」

 

 布が敷かれた床に広がるのは医療教会の仕掛け武器シリーズ、作業台には火薬庫の仕掛け武器シリーズが並んでいた。いま解体に取りかかっているのは回転ノコギリだ。

 

「私は、これらがどうやって動いているのか気になっています。だから、ですから、こう……」

 

 ネフライトは『怒られるかもしれない』と思い、身を縮こまらせ、持っていた工具を手の中でくるくる回した。だが杞憂のようで狩人は興味深そうに作業台を見つめるだけだった。

 

「感心、感心。機構も壊れていないようだ。君は手先が器用だな」

 

「ハァ。そうかもしれません。──ああ、そうだ。お願いしたいことがあるのです」

 

「ん? 何か」

 

 いくつかのネジを取り上げて比べていた狩人が、ネフライトのために腰を屈めた。

 

「我々の中身がどうなっているか知りたいので、他の三匹のうちどれかをこのようにしてもよいですか?」

 

 かつて火薬庫達が命を賭して秘め、ヤーナムの闇に葬られた回転駆動の秘密は、いま窓から差し込む白銀の月光によって残酷に照らされている。

 綺麗に解体した回転ノコギリを指差したネフライトに狩人は「ああ」と返事ではない声を漏らした。

 

「できれば同性が好ましい。だからクルックスを私にお貸しいただけませんか。開いたら閉じて、お返しします」

 

 月の香りの狩人と同じ顔をした少年の存在は、ネフライトにとって生まれながらの特別だった。この時は、まだ言葉を交わしたことはなかったが、存在の特異性は理解していた。──それについて彼が無関心であることが許しがたく、怒りを抱いてしまうほどに。

 狩人は驚いたふうに目を細めた。

 

「なるほど。君は中身が気になる性質なのだな。そうか。ヤーナムにおいてそれは命取りではあるが、直裁とは手っ取り早く確実な手段でもある。よい選択かもしれない。……さて。君の願いは、俺が返事すべきものではない。クルックスに直接依頼したまえ。けれど開かずとも分かることはある。それを理解してからでも遅くはないだろう」

 

 ネフライトの小さな頭に手を乗せ三度ほど頭を撫でた後、手の甲でも頬を撫でた。

 

「彼らは、それぞれ素晴らしい仔だ。君にとっても素晴らしい存在になるだろう。彼らにとっての君がそうであるように」

 

 言外の却下と受け取り、ネフライトはそれから興味を失ったように振る舞った。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 たとえ同じ枝葉の隣人であっても興味を持てなかった彼は、狩人の言葉でようやく他の三人について考え、よく見るようになった。

 彼らを知れば知るほどいつか『開きたい』願いは増したが、その行いの前後で彼らがネフライトに抱く感情は変化してしまうことが予想できた。自分でも意外に思ったことだが、日を経るごとにその変化を厭うようになった。

 

 ──私は、彼らに嫌われたくないのだ。

 

 機会があれば何でも費やせる自分が、いまだ誰にも依頼しないのは彼らに抱く愛着のせいである。そう認めざるをえない。

 

「君が見下すそれに、いつかすくわれるのではないかと僕は案じているのだ」

 

 夏休みに海で言ったセラフィの言葉が思い出される。

 

 ──ああ、君は正しい。

 最高のタイミングで、それは私の手元を最悪に狂わせた。

 なぜなら。

 まさにそのせいで窮地に陥り、終いには死を願うほどの苦痛を招いてしまったのだから。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、口の中に広がる森の土の味を知覚して目を覚ました。

 体には、かなり激しい戦闘をした後のような熱がある。敵を打ちのめしたいという欲と心を律する規範の意識が、互いを食い合った直後のような高ぶりだ。

 いったい何をしていたのか、痛みのせいで思い出すことが出来ない。唯一、覚えているのは鈍い銀色の銃口と火花の炸裂だ。

 

(あ? ああ……思い出してきたぞ……)

 

 側頭をかすめた銃弾は、クルックスの意識をしばし暗転させるには十分な威力を持っていた。

 しかし。

 

(なぜ……?)

 

 地面に頭を寄せると温度の低い土と風が、体の熱を奪っていく。

 記憶が正しければ、クルックスとネフライトはお互いに殺意をもって戦闘に及んだ。どちらが死んでもおかしくない争いだった。クルックスは全力で挑んだ。ネフライトも死に物狂いだっただろう。そして、先に殺意が命に届いたのはネフライトの方だった。銃弾を決して避けることの出来ない距離は、銃弾を決して外さない距離でもある。そこで引き金が引かれるのを見たというのに、クルックスの体にはどこにも穴が空いていなかった。テルミに壊された顎以外の怪我はないようだった。

 

(もし、外れたのだとしたら……)

 

 至近距離は『外さない距離』であって『外せない距離』ではない。

 クルックスにはもう分からなくなってしまったが、きっとネフライトは銃口を逸らしたのだろう。それ以外に体に穴が空いていない理由は、とても考えられないからだ。

 身を起こそうとすると銃弾がかすめた側の耳の中は、ひどい耳鳴りがあった。

 全ての音が遠く、天地は斜めで世界がぐらつく。

 安静が必要だと再び目を閉じようとしたとき、林の向こう側から悲鳴が聞こえた。

 クルックスの意識は、泥のように沈み込んでいた微睡みから覚醒した。

 

「わ、私達は『きょうだい』だぞ! 分かっているのかっ!? セラフィ! 同じ枝葉の隣人を──や、や、ぁ、やめ、やめろ。やめろ……やめ──ッ!」

 

 次の瞬間。暗い森に響いた絶叫は、自分を下したハズのネフライトのものだった。

 立ち上がり、よろけ、木々に掴まりながらクルックスは起伏のある地形を乗り越えた。

 

「やぁ」

 

 場違いに朗らかな挨拶で迎えたのはセラフィだ。ネフライトの得物である教会の杭を持っている。

 彼女の編み上げブーツの下で正常ではない呼吸をしているのはネフライトだった。引きつけを起こしたようにときおり背中が震え、辛うじて息をしている。クルックスに気付くと涙と涎を拭うこともせず、苦しげに顔を歪めたまま彼は地面を掻いた。彼は何度もそうしていたのだろう。指はとうに泥に汚れ、爪は割れて血が滲んでいた。

 

「クルック、ス……クルックス……た、たすけ……」

 

「いけない、ネフ。殺すつもりだった彼に縋るなんて恥だと思わないのか? 死んでも濯がれない恥だ。君は頭がよいハズなのに愚かなことをするのだね」

 

 教会の杭が振るわれた。クルックスはひどい頭痛と耳鳴りで反応が遅れた。空気を切る音、そして再び悲鳴。ネフライトが「ぎッ!」という声を上げた。

 杭の先端は錐状だが、杭頭は平面だ。

 杭頭で打ったのはネフライトの膝だ。こちらは、さらに正常ではなかった。

 

「君の得意な勉強の時間だ。君がいい子になるまで続けよう。大丈夫だよ。僕は最後まで君に付き合おう」

 

 セラフィが杭頭を落とした先は、通常曲がるべきではない方向へ折れた脚だった。

 クルックスは唸りセラフィに向かって止めるように手を振った。

 

「何か。……喋れないというのはこういう時に不便だ。けれど君のことだ。『やめろ』と言っているのだろうね」

 

 クルックスは身振り手振りで肯定した。

 

「僕は見逃してもよい。世の中のたいていのことがどうでもよいのだからね。けれど彼は、またやるだろう。ここで躾けておくのは君のためでもある。どうせ全ての艱難辛苦は、お父様か君が飲み干すことになるのだ。君にとって悪い話ではないと思う。そして、彼にとっては善い話だと思う」

 

 足掻くネフライトの頭蓋を潰しかねない圧でセラフィは脚に力を込めた。

 

「見よ、瞳や啓蒙、智恵の何するものぞ。いま僕を止める力があるものか。よく感じろ、よく覚えろ、記憶せよ。忘れることなかれ。痛みのなかに真実はある。そこで唯一、理解の暁光は現れるのだ」

 

 長い髪に遮られ、彼女の顔は見えない。

 何かに取り憑かれたようにセラフィは言う。

 実際のところ。

 これは彼女の言葉ではないのだろう。

 

「…………」

 

 彼女の語る先達の言葉は、彼らの真実なのか、セラフィに吹き込むために作った狂言なのか。クルックスは判断ができなかった。する必要もないのだろう。……恐らく、当分は。

 首を横に振り、クルックスはネフライトのそばにしゃがみ込んだ。そして、彼女の編み上げブーツを叩く。長い脚を退けた。「世の中のたいていのことがどうでもよい」と言った彼女の言葉に嘘はない。だからこそ、クルックスが望めばこうしてすぐに退いてくれるのだ。

 

「君は損な人だ。いずれ愛で破滅してしまうのではないかと……僕はレオー様を案じるように、君のことも深く案じているのだよ」

 

 喉の奥でクルックスは低く唸った。礼を告げたつもりだった。

 啜り泣くネフライトを慎重に抱え上げ、樹木を背に座らせた。それから衣嚢に入っていたハンカチーフで彼の顔を拭う。その間、ネフライトは意識朦朧でぐったりとしていた。だが、膝の骨折──実態は粉砕状態のようだった──の患部を確認していると彼の意識は浮上した。

 

「私はっ……間違ってなど、いない、からな……!」

 

 歯を食いしばり絞り出した声はセラフィにも聞こえたことだろう。

 クルックスは泥と血に汚れたネフライトの指を弱く握った。

 

「君だって分かっているんだろう。お父様の方法では、悪夢をもってしてヤーナムは手詰まりだ。どの団体も組織も現状を打破する成果が上がらない。いいや、誰も諦めはしないだろうが。それでも『外の神秘を取り入れる』。そういう方法だって検討されるべきだ。停滞を打破するために……だから、私と君は争った。君は、私を止める理由を持たなかったからだ。君が現状の継続を望むから……!」

 

 声は嗄れ、疲れきった声だった。ネフライトのこんな声は聞いたことがない。

 セラフィが苦痛により切り開いたネフライトの心の柔いところは、彼が常日頃に抱えている本音なのだろう。クルックスが考えていたよりも真摯に、そして真剣に、誠実に彼はヤーナムのことを憂いていたのだと痛いほど知ってしまった。

 だからこそ、疑問が起きた。

 

『なぜ俺を撃たなかった』

 

 無力に広げられた手にクルックスは文字を書いた。

 するとネフライトは、まるで深い眠りから覚めたように、大きく目を見開いて虚空を見つめた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 初めて笑った時の記憶をネフライトは、よく覚えている。

 

「俺もネフの真似をしていつも使っているノコギリ鉈を整備ついでに解体してみたんだが、なんと! ひとつネジが余った! ハッハッハ!」

 

 父たる狩人が、あまりに愉快に無邪気に嬉しそうに笑ったのでそれにつられて彼も笑った。

 生まれて初めて彼は笑った。

 同時に、彼は危惧を覚えたのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ものは。ひとは。

 解体して、それきりではないのだ。

 減ることもある。

 変わってしまうのだ。

 それは、もう、どうしようもなく。

 手の施せないまま。

 何が足りなくて何が変わってしまったのか。

 何もかも、分からないままに。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスは、宙に伸ばされたネフライトの手を取った。

 腕は絶望的なまでに短く、遙か暗澹の地に届かない。

 

「あぁ、お父様。私のお父様。私はネジが……ひとつ、足りなくなるのが……怖かったのです……っ」

 

 メンシス学派の祈りがそうであるように。

 彼が声を届ける相手も間違っていた。

 ネフライトは、クルックスを父たる狩人だと誤認しているようだった。痛みによる意識の混濁は続いている。

 彼は休むべきだった。

 怪我を忘れたように立ち上がろうとする体をクルックスは押さえつけた。片手で十分な抵抗だった。

 

「私が、最も新しい悪夢の主をお支えする幹になります。……責は全て私に。呪いは全て私に。ですから……ですから……」

 

 握られた手は、微かに握り返した。

 

「他の三人が自由に振る舞うことを、どうかお許しください……。彼らは弱く、幼いのです。だから私は……このネフライト……必ず、貴方のお役に……」

 

 考えすぎた頭に堪えきれず、彼は樹に頭を預けた。

 虚ろに開いた目には、銀灰の夜空と星々が映っていた。

 

「彼らに夜明けを……。あぁ、我らの夢の主……ヤーナムの夜は彼らに暗すぎるのです……」

 

 力尽き落ちた手を重ね、クルックスは被っていたトリコーンを外した。

 ネフライトは完全に意識を失ってしまった。痛みによる失神だった。

 

 思いがけず知ってしまったネフライトの心をクルックスはどう受け止めてよいのか分からなかった。

 かつてテルミは言った。人には向きと不向きがあるのだと。

 その果てに三人の誰よりも智恵を蓄積できる彼は、彼にしか出来ないことを拝領したかったのだ。

 しかし。

 

「彼は賢いのに愚かなことを考えている。彼の献身を感謝する『きょうだい』はいない。君も僕もテルミも。お父様のことを厭う仔はいないのだから」

 

「…………」

 

 セラフィの言葉は、他者が聞けば誤解を招きかないほど『あけすけ』で、しかも真実だった。

 クルックスが驚いたのはネフライトが『きょうだい』に向ける感情の大きさであって、彼の願いではなかった。

 狩人が、いずれ夜明けを迎えるため父の事業に携われることは幸いだ。

 その過程がいかな苦難であろうと、望んだ夜明けがどんな悪夢であろうと、後悔する予定はないのだから。『きょうだい』は同じ気持ちだろう。

 だからこそ、セラフィは不可解に首を傾げる。

 

「……愛おしいものだね。彼がこんなに僕らのことを案じているとは知らなかった」

 

 この言葉には頷くことができた。

 セラフィが微かに笑う気配がした。

 カインハーストの紋章が刻まれた外套を外し、ネフライトに被せた。夜が来た。森は冷えるだろう。

 

「皆、ヤーナムを案じている。形は違えど愛している。こうした思想の違いが諍いを呼ぶのだ。だから僕らに罪はないのだろう」

 

 罪と罰に関わる難しい話を、たった今からしたくはなかった。

 クルックスは、唯一感情表現のできる手を振り、その時になって初めて霧が出てきたことに気付いた。

 

「霧……湖かな。視界不良は狩りの天敵だ。硝煙の香りも追えない。だが、テルミも同じ条件だ。彼女にルーピン先生が見つけられるとは思わないな」

 

「…………」

 

 クルックスもそう思う。

 校内とはいえ森のなか、たった一匹のルーピンを見つけることがテルミに出来るだろうか。

 可能性は低い。

 けれど、だからこそ。

 クルックスは、正面を指差した。

 

「行くのか。いいだろう。付き合おう。僕らはどうも間が悪いらしいから、『まさか』の事態にはいつも備えるべきなのだろうね」

 

 そして二人の姿は、夜霧のなかに消えていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

(ああ、楽しいっ!)

 

 少女の手には余る銀の連装銃を片手にテルミは森のなかをスキップしていた。

 夜の気配は気分が高揚する。

 鳥が鳴き、獣が唸り、いまは狼男がひそむ森であろうと高揚は止めどなく、テルミの心をくすぐった。

 

「お父様、ご覧になって! わたしを見て! ご存じかしら!? ビックリかしら!? わたし、いま、生きているの!」

 

 小川を飛び越え、何に憚ることなく歌う。

 この森のなかでたった一匹のルーピンを見つけることは一般的に困難だ。

 だからこそ、標が必要だ。

 

 

 O Meiteli, liebs Meiteli, wo hesch au dis Haerz ?

 ──おぉ、メイテリ、愛するメイテリよ、貴公の心は何処にあるのか?

 

 “Es ist mir huett abhande cho, i gspuere no de Schmaerz.

 ──今日なくしてしまったの! まだ胸が痛むのよ。

 

 Si hend pfifelet, hand truemmelet und’s Schwyzerfaehndli gshwaenkt,

 ──兵隊は口笛を吹き、夢を見て、太鼓を鳴らしていたわ。

 

 do ha-n-is der erste Freud im Traengtrommpeter gschaenkt.”

 ──わたしはラッパ手に初めての歓びをあげたのよ。

 

  Di-ri-ril-lel-lal-lal-la

 ──ディ・リ・リル・ル・ル・ル・ル!

 

 

 おかしいくらいに声は裏返ってしまい、まるでファルセットだ。

 テルミは振り返った。彼女の耳はどんな些細な音も聞き逃さなかった。

 

「──ご覧になって。そこにアルプスの山麓が見えるようね?」

 

 薄い霧の向こうから現れたのは、父と同じトリコーンを被るセラフィだった。

 

「僕には可愛い君が見えるよ。もっともやろうとしていることは、あまり可愛いことではないようだ。僕の妹君」

 

「あら。小生意気にお姉様を気取る心算なのね? お説教かしら。最近はわたしにお説教したがる人が多いわ。フフ、聖職者に説教なんておかしいですね?」

 

「そうかな。聖職者は医療者なのだから誰かの話に耳を傾けるべき機会は多いだろう。君は話せなくする方が好みのようだが」

 

「ウフフ、クルックスがあまりに可愛いことを言うのだもの。二度聞いたら自分が止められなくなりそうですから仕方ないことでした」

 

 テルミは気まぐれに握っていた仕込み杖を宙に振った。幾枚もの刃が雲間からのぞく光を弾いた。

 

「君を見逃すワケにはいかない。これから君は大人しくハッフルパフの寮に帰る。そして寝る。全てが丸く収まるのだ。どうか? ネフは対価を払った。君は?」

 

「ならばわたしは愛を差し出しましょう!」

 

 歌うようにテルミは言う。そして手を広げ、楽しそうに彼女は微笑んだ。

 

「お父様がわたし達を愛するように、わたしも人間を愛するのです。人間は弱くて、幼いわ。だからすぐに死なないように、支えてあげましょう。きちんと守ってあげましょう。清潔にしましょう。そして、愛してあげましょう。人間は、ほんのちょっとの情があれば救われるのですから、その『ほんのちょっとの情』をあげたり、あげなかったりしましょう」

 

「僕はどうでもいいけれど。さては君、人間を滅ぼしたいのかな?」

 

「まさか。──わたしは常々思うの。クルックスは、ヤーナムとヤーナムの外の違いに苦しんでいるわ。辿った歴史が違うとはいえ差異は激しく悲しいものです。けれど、ただひとつ。ヤーナムと外界の隔たりを取り除く方法があります。──さぁ、再び血の医療を広めましょう! お父様の夢を世界に広めましょう! 名付けて、全世界ヤーナム化計画!」

 

「なるほど滅ぼしたいようだね」

 

 顎が壊されていなければクルックスも遠慮なく「は?」と言い放ったことだろう。しかし、口を動かすともれなく激痛がはしるため、彼はテルミの意見に対し不服従を示すため顔を顰めるのがやっとだった。

 セラフィはテルミの話がどこに辿り着くのか見守っていたが、もう見切りを付けたようだった。落葉を分離する大きな音が響いた。

 

「滅ぼすことも交流の一つだ。不可逆的で無益で実に非効率的な悪手だろうが」

 

「いいえ。お父様が定義する『幸せ』を広めたいだけです。絶対的で偉大なお父様の庇護下で服従することだけが、新しい人間の幸せなのです。わたしは血で酩酊する愚を繰り返さない。今度は、お父様の血で全てを興しましょう。ここを新しいトゥメル=イルにしましょう。ここを新しいローランにしましょう。ついでにイズと僻墓をほんのり添えて。それから、新しいヤーナムを降誕させましょう。全ての人々を病み人に再誕させ、かつてのお父様と同じにしましょう。瞳が足りないのならば与えましょう。そして幼年期の先へ。全ての人間は、唯一偉大なお父様からの拝領によってのみ次の階梯へ昇る価値を得るのです。皆で夜明けを迎えるために。──貴方達も一口、協賛いかが? 『きょうだい』は特別です。わたしの愛と献身に掛け値はありませんわ」

 

 テルミは手を差し出した。

 白い手袋に包まれた小さな手だった。

 

 テルミの言葉に嘘はない。心の底から本当にそれが真実だと信じているのだろう。

 テルミを知るホグワーツの人々は彼女を「優しい」と言う。彼らは正しい。テルミは優しい。なぜなら、テルミは『彼らは無知で瞳は蒙昧で、世界は最初から最後まで全部が悪い』と思っている。だからこそ彼らに寄り添う彼らに彼女は優しい。哀れんでいるから、底を失った優しさを与えることが出来るのだ。

 

 しかし。それでも。

 クルックスは、あの朝、彼女の震える手を握り眠ったことも覚えていた。

 

「言いたいことはそれで全てかな。昨年度話したことを今こそ実現しよう。──僕は三〇秒で君を湖に沈めるよ」

 

「あら。ご理解いただけないのね? 悲しいわ」

 

「……カインハーストの騎士が、医療教会の繁栄を泣いて喜ぶと思ったのかい」

 

「そういえばそうでした! うっかりしていました!」

 

 テルミは、悪戯っぽく唇に手を当てた。

 

「──貴女は敗者の女王に跪いて、わたしが勝者の枝にいることをときどき忘れそうになりますね?」

 

「血を吐いて歌うがいい、テルミ。君はネフより教育が必要のようだ。……?」

 

 獰猛に突き刺さる殺意をテルミも感じ取ったことだろう。

 それでも笑っていられるのは、夢を見る狩人であり『死んだことがなかったことになる』という月の加護があるからだ。

 

 ──我々が争うことは全くの無益だ。

 

 かつてクルックスは言った。

 この言葉は、正しいと信じたい。

 クルックスは、セラフィを制した。

 争えば、勝てるだろう。テルミが『きょうだい』のなかで最も弱いことは周知の事実である。クルックスも当然そのことを知っていた。

 だが、それだけなのだ。

 ネフライトと戦って分かったことだが、力で負かしただけでは意味がない。

 考えは混じり合わず、互いの理解もない。

 もしも、痛みが懲罰として機能するならば痛みの先には、永続的な死が保証されていなければならない。

 だが、狩人が厭うべき死から仔らは限りなく遠ざけられている。また、セラフィが推奨する痛みによる理解は獣の調教と同じ、ただの抑制だ。

 

 古狩人の言葉にも多少の誤りはあるものだ。『きょうだい』の間の諍いは、力によって解決できるものではなかった。

 その結論に辿り着き、クルックスは獣狩りの斧と散弾銃を手放した。武装を解除したことを意味する。

 

「君──」

 

 動くな、と視線で伝えた。

 クルックスは、セラフィの射線上を歩いた。

 

「あら、最初はクルックス? 素手なんて! わたしを甘く見すぎではないかしら? ……なに。なぁに?」

 

 寄生虫を取り出したテルミが不快そうに口の端を歪めたが、クルックスに敵意がないことに気付き、眉をひそめた。

 

「な、なに……?」

 

 ひと言も言葉を話す必要はなかった。

 日は遠くの地平線に消え、いまは自分の掌を見るのがやっとの暗闇が三人を取り囲んでいる。

 たった一歩。恐れたテルミは後退りした。

 彼女が自分の失態に気付き、取り繕う暇はなかった。

 

 クルックスは、テルミの小さな体を抱きしめた。

 彼女が、ほんのすこしも身動ぎできないように抱きしめた。

 昨年度校長室を出た後でテルミがそうしてくれたように。

 居心地悪そうにもぞもぞとテルミはしばらく動いていたが、やがてぱったりと動きを止めてしまった。

 

「ああ、もう。顎を壊したのは失敗でした。貴方が何か言ってくれたのなら、わたしは千の言葉を弄して反論するでしょう。貴方が怒ってくれたなら、わたしは万の言葉をもって褒め殺してあげたのに。失敗です。本当に失敗でした。わたしは夜に使えない才能で満ちている。だって、こんなに……貴方が何を言いたいのか分かってしまうもの……」

 

 クルックスがいま『やめてほしい』と思っていることは、テルミに正確に伝わった。ささやかな抵抗のつもりなのか、それとも甘えているのか、テルミはぐりぐりと頭を押しつけた。

 

「けれど、どうしてもダメ? ネフも言っていたでしょう。狼人間は考察に値するわ。ユリエ様やコッペリア様も喜ぶと思うし……」

 

「…………」

 

 クルックスとて希少性は理解している。狼人間と出会えることは、そう多くない。

 しかし、クルックスは彼の中に間違っても虫を見出したくないのだ。

 首を横に振り、テルミに向かって瞬きをした。

 

「……ふぅん。ああそうですか。最初から私と争う気はないのですね。敵ではないと……」

 

 ──同じ夜明けを目指しているのに、違う手段を取ったというだけで傷つけたくない。ネフには悪いことをしたと思う。

 喉の奥で低く唸った。声を出すのは、やはり痛い。

 

「わたしにも、悪いことをしているわ」

 

 テルミは傷ついた顔をした。

 なぜそんな顔をするのかクルックスには分からなかった。

 彼女のように人の心が読めたらよいのに。こんな時は強く思った。

 

「残酷な人。お父様に似ているわ。……とても残酷。わたしを小さな子供のまま、大人にしてくれないの。けれど許します。貴方だから許すわ。ええ。わたしの恋しい人。クルックス、ねぇ、最もお父様に似ている枝葉の貴方にだけ……」

 

 腕を解くと彼女は最後にクルックスの手の甲にそっと唇を触れさせた。

 そばに歩いてきたセラフィは銃をしまう。ついでとばかりに軽く握った拳を縦に振り落とした。それはコツンとテルミの頭に落ちた。

 

「セ、んフィっ」

 

「諦めたかい。全世界ヤーナム化計画とやらは」

 

「今度はクルックスの見えないところでこっそりやります。ネフと一時共闘する理屈も見つかりましたし、次回はうまくやるでしょう」

 

「ああ、頑張るといい」

 

 クルックスは、セラフィが「すわ心変わりしたのか」と咄嗟に腰のベルトに手を伸ばしたが、武器を地面に放ったままだったことに気付き、背中を向けて拾いにいくかどうか迷った。

 

「ルーピン先生の件は……ともかく。僕は全てに反対しているワケではないのだよ。ただ突拍子もないことをしてほしくないだけだ」

 

「では、医療教会魔法界支部の設立は、三年後くらいにはじめましょうか。──こういう言い方ならばよろしくて?」

 

「できれば工程表も欲しいな。血の医療が栄えるということは『悪夢が増える』ということだ。お父様の生息域が増えると思えば悪い案ではないと思う。どうだろう、クルックス」

 

 どうもこうもクルックスは大反対だ。

『虫が少ないように見える』魔法界に『虫が多いようにみえる』ヤーナムの風土病の元凶を放流しようという行為は、連盟員として当然許容できない。連盟員としての父もそう考えるだろう。ならば強硬に反対しなければならなかった。

 

「クルックスも大賛成だそうだ」

 

「あらあらっ、ウフフ、忙しくなっちゃうわ」

 

 人の心を知らないセラフィが真逆の意見を代弁したのでテルミが失笑した。

 そうして彼女はしばらく笑っていたが、ある時、風が吹いた。

 誰よりも耳がよいテルミの耳には、小さな枯れ木が砕ける音が届いていた。

 

 振り返る先の木々の隙間には、狼よりも長い手足が見えた。

 風下で獣の臭いが届かなかった。音もなく近寄ってきたなら、気付かなかっただろう。

 小枝が体の重みで砕ける音でようやくテルミだけが気付いた。

 

「あ──まって──」

 

「何か?」

 

「今、そこに……あの樹の裏に……ルーピン先生がいる……と思う」

 

 テルミが指差した先へクルックスが素早く二人の前に立った。

 脚のベルトからスローイングナイフを抜き出し、二人を指差し、次にとある方向を指した。

 

「テルミ、行こう」

 

「で、でもクルックスを置いてはいけないわ。怪我が……」

 

「ネフのほうが重傷だ。そして君は方向音痴で一人ではネフの場所に辿り着けない。いざとなればクルックスは自分の頭を撃ち抜けばいい」

 

「それではダメなのよ。いえ、クルックスが死なないのは分かっているけれど、そうではなくて。ハリー・ポッター達がこの森にいるのを見かけたわ。彼らが危険だわ」

 

「おお、ポッター。どこでもいるのだな。さては遍在する概念に成り果てたか。──クルックス、作戦変更だ。ネフを避難させたら僕は戻ってくる。それまで足止めだ。どうせそうするつもりなんだろう?」

 

 クルックスは頷いた。

 セラフィは地面に放られたままだった獣狩りの斧を拾い上げ、柄を伸ばしたものをクルックスに握らせた。

 

「行くぞ」

 

「クルックス、噛まれちゃダメよ。……お父様に似た貴方の血に混ざり物が入るなんて嫌だもの……」

 

 喉の奥で低く唸ってクルックスは「杞憂だ」と伝えた。

 セラフィがテルミの手を取って、反対側へ駆けていく。

 

 油断なくクルックスは、太い樹木の裏側を意識した。

 狼人間が獣とも人間とも言えない仕草をして、こちらを窺っている気配がした。

 

 獣との争いにおいて後手に回るのは賢明ではない。

 そのため先に手を出したのはクルックスだった。

 

 投擲したナイフは狼人間の鼻先を危うく掠めた。

 敏感な鼻を攻撃されたことが分かったらしい。狼人間が鼻息を荒く、攻撃的になるのが分かった。

 長柄に伸展した斧を両手で持ち、クルックスは狼人間が飛びかってくることに備えた。

 

 そんな時、森の虚ろに獣の遠吠えが聞こえた。

 

「……っ……」

 

 狼人間は、チラとクルックスを見て、それから二度と振り返らず背を向けて森の霧のなかに消えた。

 

(待て!)

 

 追いかけたが、森のなか平坦ではない地面で四つ脚の獣に勝てるほど人間の脚力は優れていない。

 毛皮が焦げた臭いは森林の香りと湖の水気を含んだ霧に溶けていく。間もなくクルックスは、狼人間を見失った。

 

「ぐぅ……」

 

 ──探すことは難しい。

 これは狼人間はもちろん、ハリー・ポッター達の捜索も困難だ。

 

(霧が……)

 

 このままではセラフィとテルミに合流することさえ困難になりつつある。

 クルックスは斧を握ったまましばらく立ち尽くしていたが、そのうち踵を返した。

 

(これ以上は、何も追えまい。……俺の手には余る事態となってしまった)

 

 しかし、父たる狩人ならば駆けただろうか。

 その思いが一瞬だけ足を止めた。

 

(ネフとテルミの暴走を止められた。今は、それだけを成果とすべきだ。狼人間の脅威は本人とダンブルドア校長の責任だ。そして、深夜に冒険するハリー達は自己責任と監督不行き届きというものだろう。……虫がいないのであれば、今の俺が追うべき獣はいない。ならば負うべき責もない。そう……そのハズだ)

 

 クルックスは、わずかに頭を振り撤退を決意した。

 結果として、彼の常識的判断は正解だった。

 間もなくシリウス・ブラックの存在を察した吸魂鬼の大群が森と湖に溢れた。

 彼らの処刑に巻き込まれていたら、事態は更に深刻になっていただろう。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「クルックス?」

 

 霧による視界不良のなかクルックスの気配に最も早く気付いたのは周囲の警戒にあたっていたセラフィだった。

 テルミに介抱されるネフライトの折れた脚は、腫れていたがひとまず異常な角度は治っていた。ただ、荒療治をしたのかもしれない。ネフライトは妙に汗をかいて苦しげな呼吸をしている。意識はまだ戻っていないようだ。

 

「どうした? 見失ったのか? ならば仕方ないな。──テルミ、ネフを連れて撤退する」

 

「待って。ここまですればよいでしょう。ふたりは先に帰ってください。……輸血液では骨折まですぐに治せませんから、ネフが自分で歩けるようになるまでわたしはここにいます。彼には杖が必要ですからね」

 

「夢に送ればいいだろう」

 

「……誰が介錯しても嫌な気分になるので却下です。それにネフはセラフィと違い、夢から這い出て来るのに時間がかかるのです」

 

「ならば城に帰るのは一人だ。クルックス、先に帰って医務室に行った方がいい。二人は僕が見張っていよう」

 

 テルミはネフライトの頭を膝の上にのせて柔らかく微笑んだ。

 

「杞憂ですわ。この視界ですからね。ネフにもここまで読んだ先の策はないわ。また、この脚では追えないでしょう。……彼が起きた時に貴女がいるのは過ぎた罰になります。だから、お二人は先に帰って……ね?」

 

 この状況で二人を残していくことに不安がある。

 だがセラフィは「いいだろう」と告げた。

 問い詰めるようにクルックスはセラフィへ視線を投げかけた。

 

「二人は反省が必要だ。……僕なら、そっとしておいてもらいたいからね」

 

 セラフィはテルミに手を振り帰路についた。

 クルックスは彼女の背を数秒見つめていたが、すぐにテルミとネフライトのそばに膝をついた。

 

「……クルックスもいいのよ。痛かったでしょう。輸血液は肉や血を治すことができますが、骨はすぐに治りませんから。早く治してもらってね」

 

 ネフライトはお腹の上で手を組んで休んでいる。

 彼の手に触れかけて、手を引っ込めた。

 先に行く、と心の中で呟いてクルックスも背を向けた。

 彼らの足音が聞こえなくなった後で。

 

「──ごめんね、クルックス、セラフィ」

 

 テルミは、ネフライトの頭を膝の上から退けた。セラフィから与えられた外套を羽織らせ朽ちていく葉と湿った土の上に置かれた彼は微かに身動ぎした。

 

「ネフは厳密な人だから……ううん。違うわね。貴方はいつも何事にも真摯だわ。昨年度、『報われたいワケではない』と言ったけれど……わたしは貴方が報われないのなら、とても悲しい。愛にさえ見返りは必要だわ。血を流すことならば、尚のことね」

 

 だからこそ。

 

「わたし達が最初に願った成果をあげることはできないでしょう。けれど、貴方が尽くしたようにわたしも尽くさなければ天秤はいつまでも傾いたまま。……クルックスやセラフィに挑むのは貴方にとって恐ろしいことでした」

 

 狩人同士の争いを避けることは、尊い行いだ。

 血に酔っているワケでもないのに争うなど無益なことだ。ましてそれが『きょうだい』の間のことならば。

 実際、テルミやセラフィ、クルックスは無駄な血を流さずに済んだ。

 去った二人に告げたことに嘘はない。

 だが一方でネフライトの献身に応えなければ彼からの信頼を失うことだろう。

 彼にもセラフィやクルックスと戦わずに済ませることができたハズだ。実際にクルックスを行動不能にしたのは争いを疎んだからだ。だが、彼は争った。どのような経緯で戦闘が行われたのか分からないが、ネフライトは最後の最後で武器を取った。彼の最も厭う手段を選んだ。──お父様のために。

 

「わたしだけは、貴方の献身に応えなければなりませんね」

 

 汗の浮かぶ額に口づけを落とし、テルミは「好きよ、貴方。ええ、本当に。愛しているわ」と囁いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナムの四仔が出身地と生誕理由に相応しい血の応酬を繰り広げている間。

 ハリー・ポッターと仲間達、先生、そして脱獄囚を取り巻く状況は変化し続けていた。

 

 長年、ハリー・ポッターの父母を裏切ったと思われていた狂気の大量殺人鬼にして最新の脱獄囚であるシリウス・ブラックは、親友である彼が死んだ今でさえ彼に忠実な親友であり続けており、同じく父母から信頼を寄せられていたピーター・ペティグリューこそが真の裏切り者であったという真実は、ハリーの精神に重大なダメージを与えた。

 そのうえ。

 シリウスが控えめに提案した、ささやかな未来の計画はハリーにとって夜明けとハロウィーンとクリスマスが一緒になってやって来たような高揚感をもたらしていた。シリウスという父の親友だという『新しい家族』は魅力的だったし、ダーズリーのところに戻らない選択があるなんて考えたことがなかったからだ。もっとも、この幸福な想像は数十分しか保たなかった。

 

(ピーターが逃げたっ……!)

 

 冤罪と認められたシリウスと過ごす未来がぶち壊されただけでもう頭がいっぱいなのに、そのうえ真の仇の一人と言うべきピーター・ペティグリューは非合法の『動物もどき』であり、再び姿をくらましたのだ。──ロンのペットとして長年親しんだであろう──鼠の姿になって。

 

 ピーターを追うことは難しい。

 いくつか要因がある。

 まず鼠となったピーターが向かったのは、人では近付くのが躊躇われる森が近くにあること、霧が出てきて視界が悪いこと。今日が満月であり、ルーピンが狼人間であったこと。だが、何よりの困難は、吸魂鬼がシリウスの存在を嗅ぎつけたように群がってきたことだ。

 狼人間に変身してどこかへ行ってしまったルーピンは、もはやハリー達にはどうしようもなかった。ピーターは逃げていった。ロンは城に辿り着いただろうか。シリウスとルーピンを追いかけてやって来たスネイプも失神状態だ。

 頼れる人は誰もいない。動けるのは最早ハリーとハーマイオニーだけだった。

 だからせめて。

 遠くから犬のキャンキャンという悲鳴が聞こえたとき、ハリーとハーマイオニーは気まぐれな雲が月を隠してしまった暗闇のなか、目配せをして駆けた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「平和だ」

 

 とてもそうは思えない事態が続く本日。最も縁遠い言葉を聞いたクルックスは隣を歩くセラフィを見た。皮肉だろうか。しかし、彼女に蔑む色はない。彼よりまたほんのすこし背が高くなった彼女はわずかに彼のために身を傾げた。

 杖の灯りを点し、セラフィはクルックスを先導した。

 

「ネフとテルミのこと、恨んでいるか」

 

「…………」

 

 クルックスは首を横に振った。

 

「優しい君。……君は以前、優しさによって滅びる価値があると言った。けれど君がいなくなったら僕は悲しい。……樹に吊り下がっている君を見た時に思ったんだ。優しさなんていらないから生きてくれないか。情さえなければ君はネフとテルミに負けることはなかっただろう」

 

「…………」

 

 ──無理を言うな。

 クルックスは「それは叶えられない」と手を振った。

 

「お父様の気持ちが……僕はすこし分かる気がする。生きているのならば、それでよいだろう、とね。死んでいるよりずっと──」

 

 セラフィは不意に言葉を切り、足を止めた。

 ──どうした?

 足を止めると途端に寒さが身を襲った。

 

(『寒さ』……?)

 

 太陽は沈んだが、季節は夏に向かいつつある。

 空は、ほとんど晴れていた。

 冷気の原因は何なのか。

 

「吸魂鬼」

 

 セラフィがポツリと言い、左手に握る落葉の短刀を自らの首に当てた。

 

「クルックス、すまないが自力で帰ってくれ。介錯が必要ならば僕がやる」

 

「……!」

 

 クルックスはセラフィの腕を掴んだ。

 

「僕に恐怖はないが……! でも……吸魂鬼はダメだ。とてもとってもダメだ! 君に弱い僕の姿を見せたくない。お願いだ。死なせて……死なせて……!」

 

 クルックスがセラフィを止めることが出来たのは、筋力の差だった。今にも自らの首に刃を突き立てようとするセラフィを制して「待て」と手で伝えた。吸魂鬼は存在し、漂っている。だが、近付いてこないのだ。存在は認識しているようで彼が彼女を引っ張って左右に動くと吸魂鬼のボロボロのローブに包まれた頭部がつられるように動いた。

 

「……?」

 

 セラフィが落ち着きを取り戻した。

 

「……よく分からないが好機だ。シリウス・ブラック以外を狙わないよう命令を守っているのだろうか。行こう、クルックス」

 

「…………」

 

 二人は城に向かって全力で走り、クルックスは振り返った。吸魂鬼は追ってこなかった。

 

「ぅ、ぁ……あ……」

 

 クルックスは呻いた。痛みではない。いいや、ある意味で痛みだった。胸が痛かった。

 

(──俺達に魂はないのかもしれない)

 

 クルックスは、もしも、この考えが真実だとすれば吸魂鬼の動きが説明できるような気がした。『守護霊の呪文』について詳しく書いていた本では、呪文が有効な存在についても記載があった。レシフォールド──肉食の魔法生物だ──と吸魂鬼が上げられ、後者には生態が書いてあった。

 吸魂鬼に目玉はない。シリウス・ブラックの人相を見分けて襲っているワケではないのだ。 

 

(俺達は……いったい……)

 

 クルックスは考える。

 ──上位者の生きている肉片から誕生した動く血の遺志だとでも言うのだろうか。

 その答えはいつまでも知りたくないと思えた。

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「吸魂鬼……!」

 

 それもすごい数だ。目視で確認できる限り、ざっと百体はいる。

 ハリー達を取り囲み、渦を巻いて周囲を彷徨い、獲物が冷気と精神の衰弱を起こし、動けなくなるのを待っているのだ。

 テルミは方向音痴だったが、ネフライトの休息地と自分が歩いてきた歩数と城の場所は分かる。

 だからネフライトが眠っている場所を振り返った。

 

 ──吸魂鬼は命令に忠実だろうか。

 ──許可されている獲物は、シリウス・ブラックだけ。

 ──同じ場所にいるハリーとハーマイオニーをあれらは見逃すだろうか。

 

 仕込み杖を握りしめ、テルミは備えた。物理攻撃はまったく有効ではない。吸魂鬼を傷つけるよりも、近寄ることで受ける精神汚染のほうが酷いのだ。もし、吸魂鬼と争えば立ち上がれなくなる可能性のほうが高い。

 シリウス・ブラックはともかく、ハリーとハーマイオニーは助けたい。もし、死んでしまったり吸魂鬼に魂を吸い取られでもしたらクルックスが悲しむだろう。

 策を練ろうと木々の影に隠れ、そっと湖畔を迂回して吸魂鬼達の背後に回り込もうとしたその時。

 人の声が聞こえた。

 頭上の遙か上でザアザアと音を立てて揺れる広葉樹のさざめきや湖の畔で絶望に喘ぐシリウス・ブラックの叫びでは紛れない、聞き慣れた人の声だった。

 

「どうなっているの? 森の中はヤーナムの連中が銃撃戦の殺し合いをしているし! 魔法使いなら魔法を使う方が絶対にいいのに──!」

 

「分からないよ! でも、まだバックビークが目撃されただけで何も問題はないと思う。それより父さんがそろそろ来るんだ!」

 

「恐ろしいわ……。きっと、いまボガートがいたら……わたしの前でも吸魂鬼に変身するでしょうね……」

 

「大丈夫。もうすぐだ、父さんが現れて、僕を──」

 

 ハリーとシリウス、そしてハーマイオニーが苦しむ湖の畔、その反対の岸辺に現れたのはハリーとハーマイオニーだった。

 テルミは、湖畔を振り返った。

 視線の先には、気絶して倒れ込むハーマイオニーと薄くぼんやりした守護霊さえも出せなくなったハリーがいる。

 テルミは、前を向いた。

 視線の先には、息を飲み込むハーマイオニーと期待に溢れた顔をしているハリーがいて──ハリーは顔を強ばらせた。

 テルミは、混乱した。

 

「えっ──まさか──いえ、でも、そんなっ、あなた達は、あそこに──」

 

 同じ時間に同時に存在する可能性について。

 解決できる存在をテルミは既知の存在しか知らなかった。

 そのため彼女は空を見上げた。

 

「ああっ!? やっぱりそうなのね!? やはり魔法界には、魔法界の上位者が根付いて──」

 

ペトリフィカス・トタルス!  石になれ

 

「いうッ!?」

 

 最も狩人の才能に恵まれなかった事実は、この瞬間に発露した。

 辛うじて上げた右手の仕込み杖を握ったまま、テルミは岸辺にバッタリ倒れた。

 

「どうしよう、私、ついにやっちゃったわ! 見られた!」

 

「ハーマイオニー、落ち着いて。吸魂鬼のせいでパニックになって錯乱していたことにしよう。それにテルミがここにいることがバレるのは彼女自身、好ましくないことだと思うし──こんなことはどうだっていい! そこに、父さんがもうすぐ……!」

 

 そこまでがテルミに聞き取れたことだった。

 冷えた地面の感覚が最後に残り、次に起きた時は二人のハリーもハーマイオニーも、それどころか吸魂鬼まで姿をなくしていた。不可解なことに死体のひとつとして落ちていない。凍てついていた湖は解け、木々の影がゆらゆらと水面に映っていた。

 

「いたた、た……」

 

 固まったままだったせいか節々が痛みを訴えたが、ネフライトのことを思い出し、テルミはよろけながら走った。岸辺に来るまでに振り返りながら、城までの方向を確認し歩数を数えていたので、辿り着くまでにはさほど時間はかからなかった。

 それに。

 ネフライトはすでに起きていて光源として杖に灯りを点していた。

 

「ぎ……ぐぅ……」

 

 杖に口を咥え、震える手で輸血液に注射針を打ったが、押し子をうまく引き抜けないでいるようだった。見れば右手は親指と人差し指が動いていない。

 テルミは普段物怖じしない性格だが、今ばかりは何と声を掛けるべきか迷った。

 彼女の手にはなにもない。それはつまり、何も果たせずここにいるワケで──ネフライトの献身に応えることもできず、彼にとっては文字通りの骨折り損と言ってしまえる状況だったからだ。

 

 狩人は、後手に回るべきではない。

 クルックスの心がけはこのような時にでも幸いなもので、テルミが知らないのは不幸な出来事だった。

 

 人の気配に遅れて気付いたネフライトが振り返る。

 拭う余裕のない唾液が顎のあたりでテラテラと怪しく光っていた。

 彼は実に嫌そうな顔をしてコルクから注射器を抜くことを諦め、瓶を地面に置き、杖を口から外した。

 

「……君、こんな時ばかり惨めな顔をするものではない。いつものように笑いたまえよ。ハハハ……」

 

 ネフライトは袖で顎や口元を拭った。

 言葉の割に覇気のない声は弱々しく、痛みが続いていることを露わにした。

 

「でも、わたし、何も出来なかったわ。ネフには痛い思いばかりさせてしまったし、クルックスもセラフィも呆れてしまったでしょうね……」

 

「君に愛想を尽かすなど今さらのことだ。そんなことより早く輸血してくれないか。いくつか指を折られていてね……」

 

「ああ、ごめんなさいね。すぐに。……指は、クルックスに?」

 

「セラフィだ。まったく……穢れた血族、貴族どもめ……セラフィに無駄なことばかり吹き込む。痛みは真実で理解の暁光だと……馬鹿馬鹿しい限りだ……セラフィはいよいよ狂気めいてきたぞ……」

 

「まぁ」

 

 いつもならばもうすこし遠回しの罵倒をするネフライトが直接的な言葉しか使えないあたり、思考に割く集中力を著しく欠いているようだった。

 テルミは本当であれば今すぐに二人のハリーとハーマイオニーについて報告したかったが、ネフライトの治療を優先した。

 

「入れますね。力を抜いていてください」

 

「……自分がされる側になることは、慣れない、な……」

 

 通常であれば戦闘中なので無造作な筋肉注射を行うが、今日は『普通』である血管への注射を行った。

 慎重に針を進め、押し子をゆっくり押し込んだ。

 

「……テルミ、そう泣きそうな顔をするな。私まで調子が狂う……」

 

「どうしてクルックスとセラフィと争ったの? わたしを呼ぶ手だってあったハズです。鐘を使えば、わたしはここに辿り着けたのに」

 

「別に。君に遠慮したワケではない。勝算があった。魔法があれば多少の手数で圧し負けることはないと──」

 

「嘘でしょう? 貴方は負けると分かっていて仕掛けた」

 

 疲れ切ったネフライトの緑色の瞳は、闇の中で虚ろに輝いて見えた。

 

「君には使えない才能ばかり溢れているな。人の嘘が見えるのか? 嫌な瞳だな。……勝算があったのは本当だ。ゼロで仕掛けるなどバカのすることだ」

 

「では、なぜ?」

 

「ヤーナムを憂う私の気持ちは君たちに劣らない……なんて。知らしめてやりたいと思った。それだけだ」

 

 嘘ではないけれど、本当でもない。中途半端な真実だとテルミには分かった。

 けれど、心の内を深く暴くのは善い行いではなかった。

 テルミは目を閉じて「うん。わかりました」と告げた。

 

「君が無事なのは幸いだ。私がこうも動けなくなったからな。君まで動けなくなっていたらと思うと自害も視野にいれなければならなかった」

 

「ええ……そう」

 

「……調子が狂う。君こそ武器を取るべきだった。なぜ戦わなかった?」

 

 理由は、たくさん浮かぶ。

 どれもが言い訳として使えそうだと思うと口を開く気力がなくなってしまった。

 

「当ててやろう。怖じ気づいたのだろう。お父様と同じ顔のクルックスと戦うのは、怖かったのだ」

 

「違いますっ! クルックスが『やめて』って言ったから、わたし、あの人のためでもあったのに──」

 

 ──ああ、言ってしまった。

 ネフライトの言葉は挑発だとテルミには、きちんと分かっていた。

 乗ってしまった後で気付いても遅い。ネフライトは軽蔑しただろう。

 恐る恐る注射器から腕を辿り顔を見ると彼は予想に反し、穏やかな顔をしていた。

 

「『彼の顎は君が壊したハズだ』と言うのは野暮なことだな。……人の願いを叶えるのは君の性だ。お父様から最も遠い可能性の君。君に断りきれるとは思わない。まして彼が願うのだ。君は叶えるだろう」

 

「ネフ……ごめんね。送った手記でわたしから提案したのに。わたしが梯子を下ろして、天秤を傾けてしまったわ」

 

「……君を恨むことなどしない。お互い『敵が悪かった』だけだ。二人が相手でなければ、こうはならなかった。次回は二人が敵に回らないよう気を付けるとしよう」

 

「……変なの。ネフが優しいわ」

 

「ちょっと考えれば分かるだろう。もはや結果に至った今、ここでお互いの非を責め合って何になる。傷の舐め合いの方がマシだ」

 

「嘘でも『君が好きだからね』と言ってくれたら嬉しかったわ」

 

「私が君に奉仕する理由は特に見当たらない。だが、君は私への義理を果たしてくれたようだ。さっきから何か言いたげな顔をしているが、何か見たのか?」

 

「上位者がね、いるみたい」

 

「ハァイ、ヘェアッ!? ど、どこで見たっ!? どうやって!?」

 

「ハリーとハーマイオニーが、二人いたの! 絶対おかしいわ! 知らない間に魔法界の悪夢の生地が溶け出していたのかもしれない──」

 

「あー、そう。ハァ~ッ……ハァ~ア……」

 

 今日最大の疲労を感じさせる溜息を吐いた。

 しかも『これから無知で蒙昧の輩にどうやって説明しようかなぁ』と困り果てた吐息だった。

 

「な、なぁに。……なによ?」

 

「説明が……面倒くさい……。しかも上位者は全然関係のない話だからなぁ……」

 

「えっ。それじゃわたしが見たのは……何……?」

 

「ただのハリー・ポッターとグレンジャーだろう。過去か未来か。知らないが」

 

「貴方は患者なのだから! 医療者に! 分かるように言いなさいっ!」

 

 テルミが力強く注射を進めたので、ネフライトは溜息を吐いてもいられなくなった。

 

「えっ。痛いッ!? なっ!? この、ばかっ! 注射器を押し込むなっ! このっ! やーめーろーっ!」

 

「うるさい! ネフが悪いの! わたしを怒らせるネフが悪いの! ちゃんとお話しないネフが悪いんだから!」

 

「だからって──ウワアアアアっ! 内出血してるっ!? へたくそ! 聖歌隊のクセにへたくそ!」

 

「ちょうどいいわ! この調子で瀉血しましょう! ね! 瀉血! 瀉血はだいたい全ての問題を解決に至らせるってブラドーおじさまもおっしゃっていたもの!」

 

「瀉血なんて時代錯誤だ! ヤーナムで時代錯誤ということは、無茶苦茶という意味だぞ! うわっ、やめろ!」

 

 不自由に抵抗するネフライトに跨がり、テルミは彼の襟首を掴んだ。

 ローブの背中を霧で湿った土で汚しネフライトはテルミを見上げた。

 ──雨だろうか。

 頬に落ちた雫をネフライトは拭えなかった。

 

「……わたし、真剣だったのに。貴方に報いたかったのに。……戦う前に、負けちゃった。狩人なのに。わたしだって……遠くてもお父様の、仔なのに……」

 

 懸命に殺していたハズの感情は、ささいな弾みで殺しきれずに膨らみ、それが雫となってネフライトの頬を濡らした。

 

「……ごめんね……ごめんね……ネフ、ずっと、痛かったのにね……」

 

 言葉は、無力だった。

 ネフライトは、折れた指でただテルミの涙を拭った。

 表情も言葉も何も作れなかった。経験がないことは出来ないのだ。参照すべき比較対象さえ分からない。

 

(こんな時。クルックスならば、何を言うだろうか)

 

 余ってしまった思考の端で、使い途のない空想をした。

 

(きっと涙を止めて……いつもの調子を取り戻せるのだろうな)

 

 クルックスほど他者の心情に理解がないことは欠点かもしれないとネフライトは思い始めた。

 ──それさえあれば私でもテルミの涙を止めることができただろうに。

 ネフライトが語るのは、たいていの場合、ただの事実だった。

 

「二人で共謀し、二人で挑み、二人で敗れた。……私達には、これだけでいいだろう」

 

 テルミが泣きじゃくる声が大きくなった。

 言葉は、無力だ。

 正解なのか不正解なのか、ネフライトには何も分からなかった。

 




プロフィールが更新されました
名前 ネフライト・メンシス
性別 男性
所属 医療教会(メンシス学派)
一人称 私
得意武器 教会の杭、慈悲の刃、弓剣、仕込み杖
苦手武器 獣狩りの斧、獣肉断ち、回転ノコギリ、寄生虫
趣味 読書、聖杯文字の整理と分析、裁縫、掃除
好きなもの 家族、学派、知識、タイプライター
嫌いなもの 夜、暗闇、人混み、人間関係
夢 人間が獣性を克つすること
まね妖怪 ミコラーシュの遺体
みぞの鏡 ヤーナムの幸福な人々


ネフライトと狩人
 クルックスほどではありませんが、彼とはしばしば言葉を交わしています。手紙はもちろん、対面での報告は狩人の思惑を知る機会でもあるため、欠かさず行っています。とはいえ、狩人はそうした仔らの『仕事』を抜きにもっとネフライトの好きなことや楽しいことについて話したいと考えています。そんな話題を振ったこともありますがネフライトは「私のことはお気遣いなく」と話を断ってしまいました。これはクルックスとネフライトの『違い』でしょう。──乳母車……? 何のことです?


魂、とは?
 魂なんて高尚なものはない。生ける上位者の肉片から生まれた動く血の遺志なのでは?と思いついたクルックス。
 自分の正体は、まだ知りたくない気分です。


ネフライトとテルミ
 そのうち、きっと反省会をするのだと思います。上位者は関係無ないし。『動物もどき』か。ハァ~ア。


ところで口からダークソウルの人間性が出ているシリウスのイラストが1枚くらいあるんじゃないかと探し回りましたが見当たりませんでした。
ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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報い


セラフィの速達
父たる月の香りの狩人に対し使者を介し送られた手紙。
封蝋の手間も惜しんだらしく、簡易な封筒に包まれている。
血で書かれた文字が狩人を急かした。
……至急開封されたし……



 計画は全て頓挫した。

 

 主にセラフィによって瓦解させられたのは非常に腹立たしいことだったが、ネフライトは克服した。

 反省すべき点を天上にきらめく星の数ほどに思い浮かべ、次回はもっとうまくやろうと心に誓った。

 特に今回の敗因。

 その最大の原因はハッキリしている。

 

「いろいろあったが、まず君と組んだことが間違いだった。はじめの一歩が間違っているのだから、その先も間違えることは当然のことだったな。君との謀は、どうにも失敗する星のようだ」

 

 ネフライトはへし折られた右足の痛みを堪えていた。

 骨折した脚の代わりを務めるのはテルミだ。

 森を駆け回った頬には傷を作り、黒い法衣は血と土に塗れている。

 しかし、そんな厄日と言える今日であっても今の彼女は、笑顔を曇らせることを知らないようだ。

『泣いてスッキリした』と言わんばかりの彼女の顔を見るとネフライトは心配しすぎた自分が損している気分になった。

 

「同じ日に生まれたクセに貴公ったら失敬なことを言うのね。もう一本の脚も折ってほしいのかしら?」

 

「勝手にしろ……。それにしてもクルックスが敵に回るとは思わなかった。話せばもっと分かるヤツだと思ったが、獣をかばい立てするなど、あグゥぅ……! 足を踏むんじゃないッ! 折れてるんだぞッ!」

 

「ごめんなさい。暗くて狭いからぶつかってしまったわ。脚はそのうち治します。クルックスったら強情なのだから困ってしまうわ。でも、そういうところがお父様そっくりね?」

 

「ああ? ああ……そうだな……」

 

 ネフライトはテルミがどこに向かっているか分からなかったが、知らないと言うのが業腹であり、怪我をした自分を連れて行きたいところがあるようなので好きにさせていた。

 

「さて。ネフには、もう一仕事してもらいます」

 

「……内容による。君のすることだ。当然、役に立つが碌でもないことだろうな。念のために言うが……現実問題として私の体力はもう限界だ。計算外のセラフィまで相手にするハメになったのだからね……」

 

「ちょっとした気分転換です」

 

 テルミが底抜けに明るく言った。

 天文台の塔。その周辺には観測用に別塔があった。

 屋上にあたる胸壁まで二人は昇ってきた。

 

 不思議なことに森と湖を徘徊していた吸魂鬼の姿は消えている。

 見上げれば月は丸く、特別に大きく見える。

 視界は良好。

 やがて遠くからヒッポグリフの嘶きが聞こえてきた。

「ははぁ」とネフライトは呟いた。

 

「私に射手を務めろと言いたいらしい。いいだろう。最後の仕事だ。これにて君との協定の一切を終了する。……当分、君の顔は見たくない」

 

「あら、寂しいことを言わないでくださる? わたしと貴方。聖歌隊とメンシス学派が揃えば最強布陣だと思っていましたのに」

 

「我々は全ての動機の根本である『ヤーナムのため』でさえ想いと手法が違うのだから、結局のところ、交わることはないのだよ」

 

「寂しいことを言うのね。悲しいことを言うのね。わたしと貴方、なぜ違うのかしら? どうして違うのかしら?」

 

「お父様が望んだからだ。我々の夢の主は、今とは違う未来を見ていたいのだろう。悪夢を広げるのも悪夢を深めるのもそのためだ。可能性を宇宙悪夢の数的に描くための試行だ。私は君と違って幸いだ。君とは違うものを見つめることができる。今さらヤーナムで、今頃ホグワーツで、同じモノを作り出して何の利益になるのかね」

 

「それでも……わたしは寂しくて悲しくて、どうしても寒いのです。ネフライト。わたし達、最初は同じ存在だったのに。貴方の気持ちを分かってしまうことが悲しいわ。人の顔を見れば、心が読めるように見えてしまうの。貴方の感情もそう。貴方の煮える嫉妬、茹だる敵意、ふとした瞬間に息を吹き返す善性に。そして、貴方が本当はわたし達のことを大切に想って……愛していること。わたし、知りたくないの。暴きたくないの。大切にしたいの。見えてしまったら、どうしても欲しくなってしまって、月にだって手を伸ばしてしまうものですから」

 

 自分の心を言い当てられるのは、いつもならば不愉快だ。

 それを言ってしまえなかったのは、彼女が自分と等しく果てしない夢を見ていると知ったからだ。

 脚代わりに縋っていた手を握り返し、ネフライトはテルミの頬に付いた泥を指で拭った。

 

「青ざめた月に憧れるといい。手を伸ばし溺れるがいい。月を愛する君。君の人生は、君のものだ。私も私の夢を見る。私達のこれは……今回は失敗したが……いつかきっとヤーナムの役に立つ試行だった。これからも変わらない。私達の人生は、素晴らしい人生となるだろう。一夜の夢のごとくな」

 

「応援してくれるのね。ありがとう。ネフ。わたし、クルックスほどではないけれどお父様と似て意固地な貴方のこと気に入っていますよ。メンシス学派でなければ『大好き!』と言いたいところなのだけど」

 

「ではずーっと私は『お気に入り』どまりのワケだ。……それでも微妙な気分だがね。こういうことはクルックスやセラフィと一緒にやればいい」

 

「喜んでいるのにそんなことを言ってはいけないわ。自分にだけは正直でいてくださいね」

 

 気付けの輸血液を腕に差し込んだ後でネフライトは、注射器を収納した。

 そして、衣嚢から弓剣を取り出し変形させた。

 

「……真面目に狙うし出来れば中てるつもりだが、それにしても的が遠い。きっと、しくじるぞ」

 

「構いません。私達は清く正しい生徒なのですから」

 

「ん?」

 

 痛みのせいで普段の思考の速さを失しているネフライトが真意を問いただした。

 

「この一射で『我々は獣を追っていたのではなく大量殺人犯のシリウス・ブラックを狙っていたのです』と言えるのですから構いませんわ。さぁ、射っちゃってー!」

 

「さすが聖歌隊。建前だけは立派だな」

 

 弓は半月を描き、金属の弦が軋み、緩んだ。

 放たれた銀の矢は流星の輝きを得てヒッポグリフに跨がる人影の頭上を飛び越えていった。

 

「見えたかな?」

 

「ええ。きっと。ああ、気分爽快ですね」

 

 声は、きっと届かない。

 ──けれど、気が済んだから。満足した。

 そう言いたげに彼女は振り返り微笑む。

 あまりにやり遂げた顔をしているものだから。

 

「ハァ、頑張ったのは私だぞ。クルックスとセラフィを相手取ったんだ。労ってくれないか」

 

エピスキー 癒えよ これでどうかしら」

 

 骨折した脚が発熱したと思いきや、次の瞬間には凍てつくように冷えた。

 痛みはない。

 つま先で床板を叩くと健全な足音が返ってきた。

 

「……。これを言ったのがクルックスであったら、君はもうちょっと違う対応をした気がする」

 

「あら。ギュッとしてほしいのかしら? 一緒のベッドで寝たいの? それとも、その先まで?」

 

「戯れ言を。突き落とすぞ」

 

「……貴方ってフクザツよね。特別扱いされたいクセに、いざそう扱うと怒るの。けれど面白いから許してあげます。感謝してくださいね?」

 

「何をどう感謝せよと言うんだ。まったく……君といると疲れる……。そして組んだのはやはり間違いだった。再確認おわり。帰る」

 

「そうね。もっと丁寧な根回しをすべきでした。クルックスには嘘でも『お父様の認可を取った』とか言っておかないと連盟の使命を理由に対立してしまうわ。これはちょっぴり反省。次回に活かしましょうね」

 

「反省会は後日だ。みっちりやろう。帰るぞ。──テルミ」

 

 ネフライトは、階段を一歩降りたところで立ち止まり、振り返って右手を差し出した。

 

「ありがとう。エスコートしてくれるのかしら?」

 

「ハァ? どうしてメンシス学派が聖歌隊に親切すると思ったんだ? ……君のさっきの魔法で、骨はだいたい治ったらしい。でも振動が妙に響く。罅があるのかもしれない。だから、その、手を! 貸せと! 言っているんだ!」

 

「いま言ったことなのに何度も言ったことみたく言うのやめてください。貴方だって、ほら、わたしのご機嫌で突き落とされたくないでしょう──などと普段では言うところですが負け犬同士吼えても仕方がありません。特別に許します。さぁ、行きましょう」

 

 テルミは手だけではなく、肩を貸した。

 支えを受けて歩きながら、しみじみとネフライトは言った。

 

「負け犬……ぐぅぅ、惨めだ……君と一緒なんて、ますます惨めだ……」

 

「我が身の哀れさを極めたいの? 本当に突き落とすわよ」

 

「今だってそうだ! もしも、クルックスだったら違うことを言っただろう!」

 

「本当にフクザツなのね、貴方の精神構造は……。ちょっと可哀想な生き物に見えてきました。とりあえず四方八方を妬まないでください」

 

 歯を食いしばるネフライトを支え、テルミは溜め息を吐いた。

 二人は、昇ってきた時と同じように肩を並べて緩い螺旋階段を降っていった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 時間を巻き戻す、とは。

 マクゴナガルが念を押し、ダンブルドアが諭したように危険を伴うものだった。

 しかし、その危険を冒すだけの価値はあり、見返りは大きかった。

 なぜならハリーは、いま心から『これでシリウスは助かる』と思えたのだから。

 

「ハリー、ハーマイオニー!」

 

 彼らが医務室に戻るとロンが驚いた顔で二人を見つめた。

 

 ロンから見れば、たったいま、ダンブルドアから何事かの助言を受けた二人が姿を消したのだ。

 それを見届けたダンブルドアが小さく頷いてから医務室の外へ出て行く。ロンが背中に問いかけた「先生、ハリー達に何を……?」という言葉には「彼らがやり遂げたあとで話してくれるじゃろう」と答えてくれた。

 それでも意味がサッパリ分からなかったが、さらにワケが分からないことが起きた。

 ダンブルドアが鍵をかけ扉を閉めようとした、その時だ。

 廊下の向こうから全力で駆けてくる足音が聞こえた。それらはハリーとハーマイオニーだった。

 

「どういうこと!? 君達、だって、さっきまでそこに……!」

 

「話せばうんと長くなるよ。それに」

 

 事務所の扉がパッと開き、ご機嫌斜めのマダム・ポンフリーが現れた。

 

「校長先生がお帰りになった音が聞こえてましたけれど? これで、わたくしの患者さんの面倒を看させていただけるんでしょうね?」

 

 巨大チョコレート板と小さなハンマーを持ったマダム・ポンフリーは目を吊り上げて、ハリーとハーマイオニーにベッドに入るよう指示をした。

 ロンは「あとで」と声もなく伝えて、寝返りをうった。

 二人が黙々とチョコレートを囓っていると遠くの上階から怒り狂う誰かの唸り声が聞こえた。

 

「何かしら……?」

 

 ハリーとハーマイオニーだけが、誰の声なのか分かっているようだった。

 声の輪郭がハッキリしてきた。いまやすぐそこまで来ている。スネイプのヒステリックな吠え声が、医務室の扉を貫通した。そんな錯覚を得る頃、とうとう医務室の扉が猛烈な勢いで開いた。

 

「ああ、こら、スネイプ──」

 

 制止を試みるファッジの隣でスネイプは顔を真っ赤にして怒り狂っていた。

 

「白状しろ、ポッター! いったい何をした!」

 

「スネイプ先生! 場所をわきまえていただかないと──!」

 

 呆気にとられるロンには、そして呆気にとられたフリをするハリーとハーマイオニーには、スネイプを押しとどめるマダム・ポンフリーが初めて頼もしく見えた。

 

「こいつらがヤツの逃亡に手を貸した! わかっているぞ! 私には! わかるのだ! 私には特別な知恵が──!」

 

「スネイプ、まあまあ、無茶を言うな。ドアには鍵がかかっていたじゃあないか。ダンブルドアがかけた鍵だぞ? いまみたとおり……」

 

「閣下はポッターをご存じない! これまでもそうだ! 問題ばかり起こす! こいつが、やったんだ!」

 

 怒り狂うスネイプを見てショックを受けたファッジは放心してしまい、口をポカンと開いた。

 ちょうどその頃、ダンブルドアが静かに前に進み出た。

 

「もう充分じゃろう、セブルス。自分が何を言っているのか、考えてみるがよい」

 

「しかし──」

 

「マダム・ポンフリー、この子達はベッドを離れたかね?」

 

「もちろん、離れてませんわ」

 

「校長先生が出てらしてから、わたくし、ずっとこの子達と一緒におりました!」

 

「ほーれ、セブルス、聞いてのとおりじゃ。この子達が同時に二カ所に存在することができるというのなら別じゃが。……これ以上、二人を煩わすのは、何の意味もないと思うがの」

 

「…………っ」

 

 小さな歯噛みはいったい誰のものだったか。

 スネイプは、その場に棒立ちになり、ファッジとダンブルドアを睨みつける。やがて病室から去って行った。

 

「──あの男、どうも精神不安定じゃないかね?」

 

 嵐のように去ったスネイプを親指で指し、ファッジはダンブルドアに訊ねた。

 

「いいや、不安定なのではない。ただ、事実にひどく失望して、打ちのめされておるだけじゃ」

 

「ああ、打ちのめされたのはあの男だけではない。『日刊予言者新聞』はお祭り騒ぎだろう! ようやくブラックを追いつめたが、ヤツはまたしても指の間からこぼれ落ちていきおった! あとはヒッポグリフの逃亡の話が漏れればネタには事欠かない、いや、十分だ! 私も魔法省も物笑いの種になる! しかし……さてと……もう行かなければ。省のほうにも知らせないと……」

 

「ほう。吸魂鬼は学校から引き上げてくれるのじゃろうな?」

 

「ああ、そのとおり。連中は出て行かねばならん。罪のない子供に『キス』を執行しようとするとは、夢にもだ! 今夜にもアズカバンに送り返すよう指示をしよう。……今後の校門は、そうだな、ドラゴンに護らせてはどうかね? ダンブルドア」

 

「おぉ、ハグリッドが喜ぶ事じゃろう」

 

 ダンブルドアは、チラッとハリーとハーマイオニーを見て笑いかけた。

 疲れた顔をしたファッジと機嫌が良さそうなダンブルドアが医務室を出て行くとマダム・ポンフリーが今度こそ鍵をかけた。

 

「さぁ、もう誰もいませんよ。寝なさい!」

 

 マダム・ポンフリーの号令で三人はベッドで横になった。

 できれば、夢を見ないほど深く眠りたかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ハリー、ロン、ハーマイオニーは翌日の昼には退院した。

 入れ違いのようにやって来た人物に真っ先に声をかけたのはハーマイオニーだった。

 

「あなた──どこか怪我を?」

 

 顔を顰めながら階段を昇ってきたのは、ネフライト・メンシスだ。

 三人の姿を認めると彼はますます渋い顔をした。

 しかし。

 ハーマイオニーの質問に答えず、彼は背筋をスッとただして彼らを見上げた。

 

「逆転時計。実にうまく使ったじゃないか。ヒッポグリフの奪取とシリウス・ブラックの脱走。見事だ。この私が『もうすこし愚かであったなら』と考えずにはいられない出来事だった」

 

「どうして、首席のあなたが逆転時計を持っていないのか。私、分かったわ」

 

「……ほう。何か?」

 

「あなた達は、手段を選ばなさすぎるから。森で銃撃戦をしていたのを見かけたわ」

 

「……。失敬なことを言う。君たちの規範が、私達には狭すぎるのだよ」

 

「だからこそ、逆転時計なんて危険なものや倫理を踏み外しそうなことには、あなたから近付かないようにしているんでしょう?」

 

「買い被り過ぎだ。君たちの命なんて、ホグワーツの秩序なんて、魔法界の未来なんて、私にはどうだっていいのだから。誤解答。残念だな。的外れだ」

 

「じゃあ、そういうことでいいわよ」

 

 彼は舌打ちをした。

 それから呆れて、忌々しいという顔でハーマイオニーを見た。

 おおよそ、見つめた先にいる彼女とは対照的な表情であったことがハリーにとって印象的だった。

 

「まぁいい。夜が明けてしまえば私も一介の生徒だ。これからも『仲良く』していただけたら幸いだよ。……君たちはいつも問題の渦中にいる。そんな星らしい」

 

 ネフライトは、階段を昇るとそれから一瞥もせずに医務室へ入っていった。 

 ロンは肩をすくめた。

 

「ハーマイオニー、よろしく。僕は『仲良く』できそうにないからね」

 

 ハリーも「僕も」と同意した。

 

「故郷の『病気を治すため』って言っていたでしょう。手段を選ばないだけで、それは、それだけは……悪いものではないと思うんだけど……」

 

「だからって人狼を捕まえようとするヤツは『まとも』じゃないだろう。いくら勉強ができて」

 

 ハーマイオニーがムッと口を尖らせるのを見たロンは、すこしだけ怯んだがキッパリと「優秀でもさ」と言った。

 

「……ルーピン先生には悪いけど、本当に良い先生だと思うけど、やっぱり人狼は危険だったよ。それを捕まえようとするあの人達もね」

 

 ハリーは否定ができずにロンを見て、校庭を見た。

 夏に向かう風を受けて森は大きな黒い生き物のように靡いていた。

 そして、思い出した。

 

「ルーピン先生! いま、どこにいるだろう!?」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ルーピンの部屋に向かったハリーは、部屋の扉が開いているのを見た。

 この時点で既に嫌な予感がした。

 

 ──先生、お辞めになるなんて。残念ですわ。

 ──私は辞めた身だ。もう先生ではない。そして君の依頼にも応えられないよ。

 ──わたしはそう思いません。『先生をお辞めになった今こそ』が好機だと伺ったワケですから。可哀想な先生。どうですか? 日給でも月給でも年給でも望むだけ求めるままに、お約束いたしますわ。ぜひ、我が故郷に。ヤーナムに。

 ──残念だが、私の返事は変わらないよ。

 ──そうですか。困りましたね。とっても困りましたが……わたしも反省いたしましたから、手を変えましょう。一辺倒なんて芸のないことはいたしません。先生のご事情もあるのでしょうし、今はお片付けの最中のよう……。ええ。お忙しいところ、失礼いたしました。また、お会い出来る日を楽しみにしていますわ。お困りの時は、ぜひわたくし、テルミへご連絡ください。

 

 声は、すぐそばにあった。

 ハリーは、中途半端に開け放たれた扉の裏側に飛び込んだ。

 

「……」

 

 すっかり聞き慣れてしまったクスクス笑いと共にテルミ・コーラス=Bがルーピンの部屋を出ていった。

 そして、ハリーは廊下を曲がるまで見届けた。

 

「ルーピン先生!」

 

「やあ、ハリー。君がやってくるのが見えたよ」

 

「さっき声が……お辞めになるって」

 

「ああ、事実だよ。本当だ」

 

 ルーピンは、ハリーが思わず開けっ放しにしてしまったドアを閉じた。

 それから彼が語ったことは、ほんのすこし考えれば分かることばかりだった。

 

 ──ダンブルドアは、昨日の一件について何とか理由を付けてくれた。たとえば『私が君たちの命を救おうとしていたのだ』とかね。ファッジはそれで納得した。けれど、アー、セブルスはそれでプッツンとキレたようでね。思うにシリウスに逃げられて、マーリン勲章をもらい損ねたのが痛手だったのだろう。それで今朝の食事の席で彼は私が狼人間だと『うっかり』漏らしてしまった。

 それでもハリーは信じがたいことを受け止められず、叫んだ。

 

「たったそれだけでお辞めになるなんて! 僕、先生が狼人間でも気にしません……!」

 

「明日の今頃は親たちからふくろう便が届きはじめるだろう。──ハリー、誰も自分の子供が狼人間に教えを受けることなんて望まないんだよ。昨夜のことがあって、私もその通りだと思う。誰か君たちを噛んでいたかもしれない。……こんなことは二度と起こってはならない」

 

「先生は、今までで最高の『闇の魔術に対する防衛術』の先生です!」

 

「……。ハリー、校長先生が今朝、私に話してくれたよ。昨夜、ずいぶん多くの命を救ったそうだね」

 

 請われるままにハリーは話した。

 頭の中ではどうやってルーピンを説得しようか、あれこれと考え続けていた。

 守護霊の話に至ったとき。

 ルーピンは優しく微笑んだ。

 

「そうだ。君のお父さんはいつも牡鹿に変身した。君の推測どおりだ。だから私達は『プロングズ』と呼んでいたんだよ」

 

 それから「昨夜『叫びの屋敷』から、これを持って来た」と言ったルーピンから透明マントと忍びの地図をハリーは受け取った。

 

「私はもう、君の先生でもない。だからこれを君に返しても別に後ろめたい気持ちはない。私には何の役に立たないものだ。ジェームズだったら、自分の息子がこの城を抜け出す秘密の通路を一つも知らずに過ごしたなんてことになったら、大いに失望しただろう。これは間違いなく言える」

 

「先生……」

 

 ハリーは、まだ説得の言葉を続けたかった。

 二人の会話の終了が近付いた。誰かが扉をノックしたのだ。

 

「リーマス、そろそろ馬車が来るじゃろう」

 

「校長、ありがとうございます」

 

 残り数冊になった本をスーツケースに押し込み、空になった水魔の水槽を取り上げた。

 

「それじゃ、ハリー。さよなら。短い間だったが、君の先生になれて嬉しかったよ。またいつかきっと会える。……校長、門までお見送りいただかなくて結構です。一人で来たんです。一人で大丈夫ですよ……」

 

 ダンブルドアは青くキラキラ光る眼でルーピンを見つめた。

 それから一通の手紙を渡し、握手を交わした。

 

 足早に立ち去る彼の背中を二人は、ただ見送った。

 今日のルーピンはいっそうみすぼらしく見えた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ルーピンは、廊下で一度だけ立ち止まった。

 校庭の暴れ柳が見える、この場所でかつてダンブルドアと交わした言葉を思い出していた。

 ルーピンが在籍していた頃、一年に一度、ダンブルドアは自分の様子を知りたがった。特別な配慮が必要な生徒に対する一種のカウンセリングでもあったのだろう。

 一年生の時。

 

「──リーマス、学校はどうだね?」

 

 これに、ルーピンは「とても楽しいです」と答えた。この時は、まだ誰にも狼人間だと知られていなかった。心から楽しいと思えた。

 同じ問いは、二年生の時にも受けた。やはり「とても楽しい」と答えた。だが、親友のジェームズ──ハリーの父親だ──とシリウス、そしてピーターは、もうルーピンが人狼であると知っていた。このことを言うべきかどうかルーピンは迷い、迷い、結局、告げることはしなかった。三年生の時も四年生の時も同じように答えた。

 五年生の時にルーピンは再び大いに迷った。

 ジェームズ達は、もう『動物もどき』として人間と動物に自由に変身することが出来るようになっていた。しかも、人狼となった自分と一緒に夜の校庭やホグズミードを徘徊して遊んでいるのだ。ダンブルドアが設けた安全対策を自分自身が破っていることを告げるとしたら、もうこの時しかないだろう。

 だが、結局、ルーピンは伝えなかった。

 理由はいくらでも思いつく。ダンブルドアを裏切っていると自分の口から伝えるのは恐ろしかった。非合法の『動物もどき』となった三人が罰せられるのではないかと恐ろしかった。何より学校に通えなくなり友人達と会えなくなるのが恐ろしかった。両親を失望させるのは恐ろしかった。

 自分の心の弱さゆえに、多くの誤りを起こしてしまったものだと思う。

 

「それでも……とても楽しい時間でした。とても大切な時間でした。……輝くような思い出でした」

 

 消えかけの吐息のような声でルーピンは古き日のダンブルドアがいた場所に伝えた。

 正しくなくとも誤っていても、あの時に大切だと思えたことは間違いではなかった。

 その思いがルーピンの脚をゆっくりと動かしていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 門を越えると馬車が待っていた。

 黒い立派な鬣を持つ馬であり、しかも二頭立てだ。

 

 ──ダンブルドアに気を遣われてしまった。

 

 一刻も早く学校を去りたいルーピンの内情を察していたようだ。

 急ぎの馬車を用立ててくれるとは思わず、自然とうつむきがちになった。

 

「よろしくお願いします」

 

 馬の手綱を握る御者は、古風なアルスターを着込み、雨も降っていないのに厚手のケープコートを着込んでいた。

 こちらに気付いたのか、彼は先に広がる暗い道を見ていた顔をこちらに向けた。

 眼光の鋭い男であり、顔には痛々しい火傷の痕があった。

 

「──来たな。お前が『先生』か?」

 

「辞職しましたよ。今朝一番でね」

 

「かーっ。朝一とは、スキャンダラスなことだぜ。お貴族様でもないのに。方々、世知辛いご時世だな?」

 

「ええ、まったく……なんとも生きにくいことですよ」

 

 軋みを上げるタラップを上り、トランクを引き上げて客室に詰め込んだ。

 御者は手伝う素振りなく独り言を言っていた。

 

「あれもこれもご時世。ご時世なのかな? ままならない。変わらないな。ククッ。とはいえだ。これも新しい人生の門出というヤツだ。知っているぞ。行き先がどこであれ、その先に幸があることを信じて歩いていきたいものだな?」

 

「ええ……。よいしょっと……いいですよ、出してください」

 

「ん。いいだろう。しっかりつかまっていろよ」

 

 ピシリと鞭がしなり、馬体を打った。

 ふたつ。嘶きを上げて二頭の馬は歩き出した。

 

 馬車は揺れる。

 ガタゴトと通路の歪みの分だけ揺れる馬車のなかでルーピンはダンブルドアから受け取った手紙を開いていた。

 

 内容は、ほとんどが予想どおりのものだ。

 

 教職を引き受けたことについて、あらためての謝辞。

 昨夜のことは全てダンブルドアの胸のうちに秘めておくという約束。

 

 それらが書かれたものが一枚目。紙の厚みで二枚目があることに気付いた。

 礼儀として一枚目だけで十分であり、他に書くべきことはないだろうと思えた。

 不思議に思いながら二枚目を見て、目を疑った。

 

 ──ヤーナムについて。

 

 その書き出しから始める文章は。

 テルミからヤーナムに請われていることを知っている内容だった。また、結論として『ヤーナムに行ってはどうか』という内容だった。

 

 ──無論、強要するものではない。

 

 前置きは、強く大きい文字で書かれていた。

 

 

  彼の地へ至る道のりは、決して平坦なものではなく、魔法界とは異なる辛苦があるじゃろう。

  我々が過去に見た、大いなる闇は失せたように見える。

  しかし。

  だからこそ、我々は多くのことを知っておく必要がある。

  多くの未来へ備えるために。

  リーマス・J・ルーピン。君の幸運を祈っておる。

 

 

 特徴的な細長い文字で綴られた最後は、ダンブルドアの署名で終わっていた。

 封筒には、まだ何かが入っていた。

 

 ホグズミードからキングスクロス駅行きの切符だ。

 それから、手に触れたものにルーピンは思わず「なぜ」と呟いた。

 封筒にあった厚みのほとんどは、クィリナス・クィレルの手記だった。

 

 手記の内容を見ることはできなかった。

 手に取った瞬間。馬車が激しい縦揺れをしたからだ。

 まるで車輪が外れたかのような衝撃に襲われ、持っていた封筒から切符がこぼれ落ちた。

 

「何が……!」

 

 馬車が往くのはホグズミード村の端である。久しく雨も降っていない。

 鬱蒼とした林の道を歩くのだから、どんな腕の悪い御者であれ、よほどのことがなければ脱輪など起こさないはずだ。

 思わず取り付けられた小窓を開けて外を見れば、吹雪が舞い込んだ。

 

 飛び込んできた光景に目を疑った。

 季節は夏である。

 けれど、頬に触れるこれは、小窓の隙間から入り込むこれは、どう見ても雪だった。

 

「──切符を落としたようだ」

 

 もっと信じがたいことがあった。

 何者かが、馬車のなかにいた。

 ルーピンは振り返り、素早く杖を抜いた。

 枯れた羽を模したトリコーンを被り、マスクで顔を隠す男は、突きつけられた杖を気に留めることはなかった。

 

「どうぞ。切符だ」

 

 彼は杖の代わりに拾い上げた切符をルーピンに差し出していた。

 

「あなたは誰だ? 何者だ」

 

「申し遅れた。私は狩人。いまや月の香りの狩人と呼ばれている。ヤーナムの狩人だ。テルミがずいぶん貴公のご厄介になってしまったらしい」

 

 狩人。ヤーナム。テルミ。

 いくつかの単語でルーピンは、杖をおろしかけたが手放しはしなかった。

 

「──どうしてここに? この馬車はどこに向かっている?」

 

「質問に答えよう。まず一つ目の質問の答えは、これは縁あって使わせてもらっている馬車であり、一時的に私の所有物であると言える。そして、二つ目。貴公が望むならば、どこへでも行ける。……切符を、どうぞ」

 

 ルーピンは、切符を受け取った。

 対面に座った『月の香りの狩人』と名乗る男は、銀灰色の目を細めた。

 

「この度はテルミとネフが強硬な手段を取ってしまったらしい。私の監督不行き届き、というモノだ。まずは謝罪を。申し訳ないことをした」

 

「『なぜ』と質問させてもらえるだろうか。──いったい私に何の用事なのか」

 

「彼らの故郷、私のヤーナムは病が蔓延している。古い呪いだ。古い報いだ。それらが巡り巡って今を冒し、未来を奪う──そんな状態にある。私達はそれをどうにかしてしまいたいのだ」

 

「『どうにか』とは? 呪いだと言うのならば、それなりの原因があるハズだ。コーラス=Bにも言ったことだが、私には、関係がないだろう?」

 

「『関係がない』貴公が、あまりに私達の抱える問題に近しい病を持っているのだから気になって仕方がないのだ。望まない形であれ人と獣を行き来する貴公から、私達が学ぶことは多くあるのではないか。皆、期待している。そして、私はそれに応えずにはいられない性質でもある」

 

「…………」

 

 彼が次に差し出された手には、何もない。

 握手を求められているのだと気付いた。

 しかし、濃く漂う血の香りが、ルーピンの行動を阻んだ。

 

「……あなた方の病とは?」

 

「人々が獣に変じる風土病だ。ただの獣ではない。人は皆、獣だが……その本性を望まない形で引き出されてしまうとでも言おうか……」

 

 狩人は、さらに手を伸ばした。

 

「我々と貴公らは本当に違うモノなのか? 我々の神秘の差異は果たしてどこまで存在の『根』を分けるものか? 私は知らなければならない。──ご協力願えないだろうか?」

 

 ルーピンは、手の中でダンブルドアの手紙を握りしめた。

 好機だと思った。

 ──かつて受けた恩を返すとしたら今ではないか。

 友人を失いたくないばかりに温情に仇を返し続けた、あの時の報いをするならば、これは相応しいのではないか。

 その思いが、ルーピンの手を動かした。

 

「いくつか条件があるが……それでも、よろしいならば」

 

 握手は交わされた。

 そして、手記を渡した。

 狩人は、嬉しそうにその手記を眺めた。

 

「ありがとう。この手記、実はずっと気にかけていた。写しが取られているかもしれないが、まぁ、細かなことは気にすまい」

 

 皮の手袋越しであっても、彼の硬くガッシリとした感触はよく分かった。

 握手は、緩く解かれた。それから彼は言った。

 

「さて、ヤーナムは貴公を歓迎するだろう。貴公も正しく、そして幸運なのだから」

 

 馬車は走る。

 吹雪を越えると暗闇になった。

 どこまでも、どこまでも。

 気の遠くなるほど暗い道を走り続けた。

 





報い
 新しいこと古いこと。善いこと悪いこと。本作で言うところの「天秤が吊り合う」とか「辻褄が合う」というものです。
 本作は(ご覧のとおり、というか何というか)かっちりすっきりの勧善懲悪の作品の趣ではありませんが、相応の収束はあります。ヤーナム勢は死による勝ち逃げが滅多なことでは成し遂げられない状態にあるため、特にもです。何はともあれどんな時でも襟は正しておきたいものです。


ルーピン先生の傷
 映画だとすっかりカットされている部分ですが「ダンブルドアの信頼がわたしにとってはすべてだったのに(略)」の言葉がある原作からはルーピンからダンブルドアに対する深い感謝と信頼が見て取れます。原作において戦争中は地下で狼人間のコミュニティの調査をしていたらしいルーピンですが、本作時間軸のまだヴォルデモート卿が復活する兆しのない今でも、信頼に応えるために危険と分かっている任務を受託する──そういう道もあるのでしょう。


ヤーナム特急便
 そこにあるならば、どこにでもいける馬車。
 1年生時のネフの交信のおかげで場所の特定は出来ていました。
 了解も得たし──ヨシッ!
 ヤーナム目的達成帰還RTAはスネイプ先生でしたが、長期滞在のプロであるクィレル先生もいるので大丈夫でしょう。


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失墜


足音
歩く時の足の音

果たして天使の足音とは何であったか。
何も思い出せない忘却は病み人の至福だった。
微睡みの中、彼はそれを聞いた。



 

 朝食時間の大広間は、いつも通りのざわざわとした人の声に加え、今日は浅慮な好奇心がチラついていた。

 彼らの向ける視線の先は、教員の長テーブルの空席だ。

 

「やっぱりルーピン先生、来ないわ」

 

「本当? お辞めになるのかな」

 

「狼人間がいられるワケないだろ」

 

「どうやってダンブルドアを騙していたんだか」

 

「騙すなんて! ルーピン先生は良い先生だわ。これまでの先生に比べればずっと……」

 

「そりゃ良い先生だったとも。ふわふわした毛皮を持っていなきゃね!」

 

 擁護する声あり。非難する声あり。差別する声あり。聞こえてくる限りの意見はさまざまだ。

 クルックスの気分を最も落ち込ませたのは瞬く間にリーマス・ルーピンの人物評が『素晴らしい先生』から『病を持った男』に変じてしまったことだった。

 伝統に根付いた差別とは、それが発覚した瞬間から常識的に振る舞うものだということをクルックスは知らなかった。

 昨日まで慕っていた人が、どのような人柄であったかどうかなど彼らには最早関係ないようだ。意識の変わり様は、常識を知らない者から見ると戸惑いを覚えてしまうほどに冷たく、酷薄なものに見えた。

 しかし、クルックスに彼らを責めることは出来ない。

 ヤーナムで虫を宿した獣や獣となった人々を狩っていた自分も彼らからは同じように見えるのだろう。そう分かったからだ。せめて違うのは、クルックスには連盟の誓いがあり、彼らには無いということだけだ。

 ──慰めになるのか、ならないのか。

 ──救いにはなっているが。

 クルックスは、味のしないオートミールを食べ終わり、席を立った。

 試験が終わった後の緩みきった空気の中では、何をしようという気持ちも起きず、木陰のベンチに座ってゆっくり休んでいたかった。

 制服のローブに腕を通すのもあと数回だ。

 ふと足下を見ると足首が見えた。この一年間で気付かないうちにまた身長が伸びたようだ。

 そんな思いを抱えて大広間を出ようとしているとテルミに出くわした。同じハッフルパフ寮生のハンナ・アボットと一緒に歩いているところだった。

 

「あ」

 

 口を丸く開けて声を出した後、テルミはクルックスに背を向けて走り去ってしまった。

 

「おい、待て!」

 

 逃げられると追いたくなってしまうのは狩人の習性だった。

 クルックスが全力で追跡したが、テルミはしばしば不必要に角を曲がり、あるいは動く階段を駆使し善戦した。

 

「追いかけっこか。僕も手伝おうか」

 

「必要になったら呼ぶ」

 

 道中、現れたセラフィがのんびりと二人を眺めた。

 クルックスがテルミに追いついたのは、四階の廊下だった。

 かつて賢者の石が隠されていた部屋の近くであり、今は静まりかえって誰もいなかった。並んでいる銀の甲冑だけが二人の登場に驚き、カシャンと音を立てた。

 

「捕まえたぞ。なぜ逃げるんだ」

 

「だって……うー……わたしのこと、嫌いになったでしょう……?」

 

 背中を向けているテルミがピクッと肩を動かした。

 クルックスは、ネフライトとテルミの共謀の夜以来、顔を合わせて話をしたことがなかった。食事のおりに視線を感じることはあったが、クルックスがテルミを見つめれば、彼女はすぐに誰かと話しているフリをするのだ。

 一方のネフライトは事の翌朝に「おはよう。昨日は勉強になった、実に、ねえ?」と含みたっぷりの挨拶をしてきたことに比べれば、主犯格の性格の違いを考えさせられた。

 

「俺が君を嫌うことはない。ネフにも言えることだが、君なりにヤーナムとお父様を思っての行動だったのだろう。お互い手段を違えただけだ。憎しみも怒りも悲しみも、俺達の間に必要ない」

 

 ゆっくりとテルミは振り返った。

 唇をツンと尖らせて曖昧に「うぅ」と呻いていた。

 

「必要なのは、ほんのちょっぴりの情、なのだろう。親愛なる君」

 

 テルミがほんのりと顔を赤くするのが見えた。

 慣れない言葉も使ってみるものだとクルックスは思う。

 

「わたしの情は、貴方に迷惑をかけてしまうわ」

 

「君は俺の経験を自戒すべきだったな。俺達は──お父様がそうであるように──どうしても巡り合わせが良くないのだから『よかれ』と思って何かすることは、慎重に、そして、できるだけ控えた方がよいのだと」

 

「……わかっていました。けれどお父様と貴方がそう言うのは、悲しいことです。だから『それでも』を言いたくなってなってしまったの……。結果はネフと貴方に悪いことをしてしまっただけで終わりましたが……。最初の動機の一つでもあったのですよ」

 

 彼女のささやかな反発は、クルックスにとって驚きで、すこし嬉しいものだった。

 父たる狩人と共にやめられない『よかれ』を抱え続けているのは、『きょうだい』では自分だけだと思っていたからだ。

 

「強くなりたいものだな。『間の悪さ』などという偶然に左右されないように」

 

「ええ。そうですね。……『君より弱い俺に価値はない』と言った貴方の言葉の意味を……わたしは分かっていたわ」

 

「俺は、君の心まで守っていたいのだ。──そんなことを言うつもりだった」

 

「でも、あの時は聞きたくありませんでした」

 

 テルミには次に話すこともきっとお見通しなのだろう。

 クルックスは、痒くもない頬を掻いた。

 

「そうか。では口を慎もう。でも……また俺と話をしてくれないか。君と話せない時間は少々苦痛になりつつある。まさに今日なんだが……」

 

「考えておきます。心配かけてごめんなさいね。いいえ、こう言うべきなのでしょう。……ありがとうね」

 

「礼を言うべきはこちらだ。俺はいつも言葉が……むぅ……足りないようだからな。ところで今日の予定は──」

 

 クルックスが目を離した一瞬のことだった。

 鼻先を懐かしい月の香りが漂う。

 袋小路に追い込んだハズのテルミの姿はどこにも見当たらなかった。

 後方から足音が聞こえた。

 動く階段を昇ってやった来たのはセラフィだった。

 

「おや。逃げられたのか」

 

「いいや、捕まえたが……もうすこしだけ時間が必要だったようだ」

 

「そう。ところでクルックス、テルミに何か言われなかったかな。顎を壊される前後の話だが」

 

「特に何ということは……。ああ、恋をしているとか何とか……」

 

「へぇ。そうか。君はもうすこしだけレオー様と親睦を深めるべきだった」

 

「何だと」

 

 なぜカインハーストの古狩人であるレオーの話が出てくるのかクルックスには分からなかった。けれどセラフィには確信があるらしい。

 確信を得たセラフィの表情は、奇妙にもテルミと似通っていた。彼女達の顔かたちは、整っている以外に共通点らしいものがないというのに。

 クルックスは自分の感想を不思議に思い、まじまじとセラフィを見た。自分の顔を見つめられることが嫌いなセラフィはすぐに顔を背けたが、目を見て分かった。テルミがお父様を語る時に浮かべる熱っぽい目だ。カインハーストの先達を語る時、彼女の琥珀色の瞳には同種の苛烈な感情が輝くようだった。

 

「はぁ。恋がどうとかそういう話か? 俺は『可愛い』だって分からないんだぞ。お父様だって恋は知らないだろう。ならば俺も知らないものだ」

 

「だから親睦を深めて見聞を広めておくべきだったのだよ。……もっとも聞いたところで分からないだろうがね」

 

「ほう。君は知っているのか」

 

 セラフィは、クルックスのそばに来てローブの袖をつまんだ。

 

「こうして引き留めるのが恋で──」

 

 つまんだ袖を手放し、彼女は軽く手を振った。

 

「──見送るのが愛なのだとレオー様はおっしゃった」

 

「なるほど。では、俺は見送ったことになるのか?」

 

 セラフィはクルックスの問いについて正誤を答えなかった。答えられなかったのかもしれない。

 ただ、彼女には関連する思い出があるのだろう。微かに嬉しそうな気配があった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ここは、ヤーナム。

 早朝。

 谷間に存在する医療教会の捨てられた古工房には、微かな日差しが差し込んでいた。

 

「は……?」

 

 屋外に椅子を出し、月光浴をしていた青年が目を覚ました。息苦しさと常に抱える疲労のため、いつの間にか眠ってしまっていた医療教会の黒服、ピグマリオンは朝の光に目を焼かれながら椅子に座り直した。

 それから欠伸をして、立ち上がる。

 体は夜のうちに冷え切っていたが、それが今日は不思議に心地よかった。

 日課となった散歩として箱庭のような古工房の周辺を歩き回っていると軽やかな足取りが聞こえた。

 それは誰のものなのか。ピグマリオンはもう知っている。

 

「おはようございます、月の御使いさま。朝にいらっしゃるとは……。いえ、お目にかかり光栄ですが……」

 

 駆ける足音ならば、その顔は喜色に彩られたものであるだろう。そんな予想は外れた。

 テルミに関する全ての予想は外れる傾向にあることをいよいよピグマリオンは認めざるをえない状況だった。

 

 出会ったときと同じように。

 テルミはそこにいた。

 違うのは、見慣れないローブ──学校とやらの制服なのだろう──と表情だ。ほんのすこし彼女は寂しげだ。

 まるで夜に恐い夢を見たかのように所在なさげにうろつく目が、風でそよぐ花々を見ていた。

 

「おはようございます。テルミさん」

 

「ん」

 

「珍しいですね。こんな朝早くに……。何事かあったのですか?」

 

「ええ。ほんのすこし。わたし……恋をしていると思ったのだけど」

 

 誰かに伝えたいほど価値ある言葉でもないが、独りで呟くには重すぎる価値の言葉がテルミから溢れた。

 祈るように体の前に組まれた指は、珍しく手袋を外していて白くなるほど握っているのが見えた。

 ピグマリオンはただならぬ雰囲気を察し、彼女の前に跪いた。

 

「わたしは……ただ……愛していただけみたい」

 

 ピグマリオンが差し出した手にテルミは一瞥もしなかった。

 それでも構わなかった。

 ピグマリオンはテルミの祈りに手を重ねた。

 

「貴女のお心が温かいものであれば私も幸せなのです。愛。誰かを心から愛するとは、善い心がけではないでしょうか?」

 

「……ピグマリオン。わたしはね。恋をね。してみたかったの。でもね。気付かないうちに、もう愛してしまったみたい……」

 

「恋など、傷は膿んで腐り病むだけです。望むならば、傷を癒やす愛が欲しい。貴女に真実の愛があるならば素晴らしい。太陽が必ず昇ると同じくらいに素晴らしいことです。……それではいけませんか?」

 

 世界で最も美しいものに囁くように彼は訊ねた。

 

「心を痛くして欲しかったの。心を苦しくして欲しかったの。二度と消えない傷が欲しかったの。体の傷なんて痛みなんて、消えてしまうから。わたしだけの傷が欲しかったの……」

 

 声は、かすれ震え、濡れていた。

 ピグマリオンは、彼女の震えを止めることも頬を落ちる雫を拭うことも出来なかった。

 

「望む傷はいつか見つかるでしょう。この病み人にさえ得たのです。どうして貴女に見つからないことがありましょう。だから月の御使いさま、いつものように笑っていただけませんか」

 

 初めてテルミはピグマリオンを見た。

 彼は願った。

 

「私は貴女の笑みを作ることさえ、他ならぬ貴女に縋らなければ望めないのです。──さぁ、笑って。いつか私が応えられなくなっても、笑っていただけませんか」

 

「……。ありがとう、ピグマリオン。……貴方はいい子ね。わたしの扱い方をよく知っているわ。いい子、いい子。お父様になれなかったお父様、貴方のことも好きよ」

 

「お慕いしております。私の月の御使いさま。……いえ、今は『テルミさん』でしょうね」

 

「ええ。貴方の意志が願う限り、そばにいますよ。さぁ、祈りましょうか」

 

 朝の白い日差しの下、静かな祈祷の時間が訪れる。

 

 

 

 テルミは自分のことながらクルックスへの執着が、どこからどこまで本気だったのか分からない。

 言葉に惑わされてはいけなかった。なんせ自分は、勝負を有利に進めるためならばどんな心ない言葉でも弄んでしまえるのだ。

 だが、この朝を迎えてしまってからというもの、自分が稀な感情を取り落とした感覚に苛まれた。

 

 ベッドに戻ることは考えられず、独りでいることに堪えかねてここに来た。

 

 振り返って考えてみると、ひょっとしたら、あれが噂に聞く「恋」なのかもしれない、と思ってしまっただけ。

 自覚のないまま得て、自覚ないまま終わってしまった恋に墓標はなく、傷も、それがあったことを示すものは何もない。

 すっかり通り過ぎてしまった人の手を今さら掴めばよかった、と後悔するような情緒だ。

 そもそも、これを恋と呼ぶべきだろうか。テルミには分からない。

 そのため、ほんのすこし深い思考に沈むと心弱い自分が「気の迷いよ」と囁く。

 

 何も分からない自分が悔しかった。 

 いつから恋は愛になってしまったのか。

 しまいには何に対し、何を祈っているのか分からなくなってしまいテルミは祈る手を解いた。

 

 

 

 噛みしめた唇を見て、ピグマリオンは言った。

 

「……テルミさん。ここでは誰も見咎めません。私も忘れることでしょう。なんせ物覚えがよくありませんので」

 

「でも」

 

 テルミの蒼い瞳は、空を探した。

 彼女がどうして不安に思うのかピグマリオンは知っていた。

 だから手を伸ばした。

 

「ほら、月はお隠れになりましたよ」

 

 ピグマリオンの白い長手袋に包まれた手がテルミの目を覆った。

 

「月を騙るなんて……いけない人ね……」

 

「罰ならば後ほど貴女の心のままに。……テルミさん。たとえ私が笑みを願っても貴女が泣きたいときは、どうか泣いてください。貴女が私に全てを許してくださったように。貴女は……貴女は……時に月の御使いさまではないことを、私は分別しています。小さな可愛いテルミさん。たまには、いいえ、しばしば、いいえ、いつでも私は貴女にそう振る舞ってほしいのです。貴女が幸せであれば、私はそれだけで幸せなのですから」

 

 分からないという感情の不明は、ひどく痛くて、苦しくて、心を薄く裂いていくように切ないものだった。

 ピグマリオンの冷たい体が、わずかに温まるまでテルミは彼の肩口に頭を寄せて泣いた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 テルミが小さな鼻を、くすん、くすん、と鳴らすことをやめるまで、三十分の時間を要した。  

 ピグマリオンは墓碑に腰掛けて膝の上に乗せたテルミを宥めて過ごした。

 彼の腰と首と──あらゆる関節が悲鳴を上げていたが、些細な出来事だった。

 

「ん、ん、んぅ……。いつまでも……泣いてはいられませんね。貴方の願いと助言は……まぁ……概ね正しいものでした。もうすこし他人に優しくすることを心がけることを頑張りたいと思います」

 

「もうちょっと積極的に頑張っていただいても構いませんよ。何ですか。『優しくすることを心がけることを頑張る』とは」

 

「いきなり行動に移すのは難しいので、せめて気持ちだけは頑張ろうと努力しているのですよ。それから『きょうだい』のことも……『きょうだい』だからと甘えてはいけませんね。わたしの欲しいものは誰かを傷つけてしまうと手に入りにくいもののようです。そのことが分かっただけでも収穫としなければ……ああ、そうそう。お父様への釈明をきちんと考えないと……」

 

「私からも言葉を添えておきましょう。明日、月の香りの狩人様がいらっしゃる予定です。むむむっ」

 

「本当? しつこくならない程度にしてね。お父様から邪魔な仔扱いされるのは嫌よ」

 

 テルミが赤くなってしまった目でピグマリオンを見上げた。

 場違いにニヨニヨした顔になりそうだった彼は、口の中を噛みしめた。

 

「むぐ、気を付けまふ」

 

「……また来ますね、ピグマリオン」

 

「いつまでもお待ちしております。しかし今は、どうぞお戻りください。学校では、まだ学ぶことが多くあるのでしょう」

 

「わからないわ。どうなのかしら。楽しいけれど……」

 

「ならば善いことです。生きていることは楽しいことであると貴女が示し続けてください。……私のごとき病み人でも疑いようのないほどに」

 

 テルミは、ピグマリオンの願いを叶えた。

 

「ありがとう。──今度は『おかえり』って言ってね。わたしの可愛い人」

 

 淡い日差しのなか金色の髪をキラキラと輝かせ、テルミは笑顔のまま姿を消した。

 彼女の影が消えた後で。

 

「それが貴女の願いならば……私は……何でも……何度だって見送りますとも……」

 

 ぜいぜいと細い呼吸を繰り返し、ピグマリオンはそれから数日間、伏せった。

 夢が眠り、目覚めるまであと数ヶ月。

 彼は、例年のごとく病んだ体を持て余すようになっていた。

 




失墜
 辞書的には『無駄に使い減らすこと』の意があります。クルックスへの挑発程度で「恋をしている」と言ってしまったことをテルミは今さらになって落ち込んでいるようです。ひょっとしたら、本当に、そう感じていたのかもしれない、なんて。


君より弱い俺に何の価値がある
 訳:君を守れない俺には価値がない。
 テルミには彼の言いたい言葉が分かっていました。そして、その後に続くであろう「君の心まで守っていたい」という言葉もおおよそ察していました。だからこそ、耐えがたくなってしまったようです。
 彼女はいつでも彼が守らなければならないと感じる『弱い存在』に甘んじるつもりはないからです。


恋と愛の話
 きっと寝物語で聞いたことの受け売りなのでしょう。セラフィにしては、あまりに情緒を解した言動です。どことなく幸せそうな雰囲気はこの話をした彼が幸せな顔をしていたからなのかもしれません。この話をした彼は袖を引く側だったのか見送る側だったのかは気になるところです。


テルミとピグマリオン
 ピグマリオンがテルミに優しく親しいのは、愛情ゆえです。彼の人間性の温かさはテルミに意外な効果をもたらしつつあります。テルミはただ従順で幸せな病み人が作れたらそれでよかったのですが、思いがけずそれ以上のものを作り出してしまったことは、彼女が他の『きょうだい』の誰よりも幸運に恵まれているからなのでしょう。
 自分でも扱いかねる複雑な心は、学校の友人に対し話すには抵抗があります。彼らには、いつも元気で可愛い自分の姿を見せていたいからです。また自分の心という他人にはどうしようもない問題を相談して「面倒くさい人」と思われたくない気持ちもあります。
 テルミを取り巻く複雑な人間関係については4年生の話になりそうです。


残り更新が少なくなって参りました。
 もうちょっとだけお付き合いいただければ幸いです。


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プラットホームにて


汽笛
蒸気を噴出することで音を鳴らす仕組み。

待つ者も乗る者もそれが鳴るのを待っている。





 三度目の学期末は、あっけなく閉じようとしていた。

 

 学期の最後の日に、試験の結果が発表された。

 翌日。

 荷物の整理をしたハリーは明日からの二ヶ月の夏休みが明けるまで戻ってこない寝室を眺めた。

 もうロンとクルックスしか残っていない場所だった。そのうちロンは重い鞄を引きずって階段をドシンドシン音を立てて下がって行った。

 クルックスは、自分の使っている洋箪笥を三度も開けたり閉めたりして忘れ物がないことを確認していた。

 

「クルックス、ちょっと待って」

 

 ハリーは、古くさい外套を腕に抱えた友人を呼び止めた。

 

「何か」

 

「……この前の満月の日、君も校庭にいた?」

 

「ああ。ルーピン先生に用事があった。結局、会うことは出来なかったが……。それが何か?」

 

「お願いがある。つまり『黙っていて欲しい』とか『狩らないで欲しい』って話なんだけど」

 

 クルックスは、人差し指を唇に当てて「静かに」と合図した。

 ハリーは言いたい言葉が次から次に浮かび、じれったい気分になっていた。

 周囲に音がしないことを確かめたのだろう。彼はハリーに対し、一歩、歩を進め小声で言った。

 

「それはシリウス・ブラックのことか? ……ネフから聞いている。『動物もどき』だったとな。先に君の懸念を消したい。俺達は吹聴するつもりはない。狩る予定もな。……彼と君の関係は、どうやら世間で騒がれているほど厄介なものではなかったようだ」

 

 ハリーは、ネフライトが彼にここまで情報共有していたことに驚いた。

 クルックスは、穏やかな顔をしていた。ハリーはそれが彼の幸福を願っている顔だとは分からなかった。

 一転。

 輪郭のある声で彼は続けた。

 

「──夏休みの間、俺達は基本的にヤーナムから出ない。彼に会うことはないだろう。とはいえ、気を付ける。犬であれ獣は獣。見ていて気分の良いものではない。機会があれば、そして誰かの財産でなければ狩ってしまいたいものだからな」

 

「頼むよ。本当に。……僕の名付け親なんだ」

 

「大人は大切な先達だ。俺も知っている。それは、とても得難い存在だ。大事にするといい」

 

 ──言われなくても分かっている。

 そんな顔をクルックスは見て笑った。

 

「そうだろうな。失礼。テルミから言われたのだが、俺はどうもお節介なのだという。気に触ったらすまないな」

 

「そんなことないよ」

 

 テルミの人物評価は正しいとハリーは思ったが、素振りにも出さずそう言って彼を励ました。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「ネフ!」

 

 ネフライトは、ホームをぼんやり歩いていた時に呼び止められた。

 列車に荷物を載せる生徒で盛り上がるホームの雑踏は見ていて頭が痛くなる情報量だというのになぜか目が離せず、頭痛を求めているような気さえした。

 

「何かな。ラブグッド」

 

「これ、手紙。返信してね」

 

 薄緑色の封筒を受け取ったネフライトは、昨年呼び止められた時も同じような話をことを思い出していた。そのため。

 

「むむ。宿題か?」

 

「ううん。宿題はいいんだ」

 

「いや、よくはないだろう」

 

「夏休みに家に遊びに来てよ。編集長、お父さんが会いたがっているンだ。ワールド・カップもあるし」

 

「ワールド・カップ? ああ、クィディッチワールド・カップのことか。私は人が多いところは好かない……。君の父君である編集長と話をすることは興味深いが、ワールド・カップは──」

 

「じゃあね。頼んだよ」

 

「ちょ、待て! 頼まれないぞっ!」

 

 ルーナは、ふら~と歩いて行ってしまった。

 ネフライトは、受け取ってしまった手紙を持ってしばし戸惑う。この一年でルーナは、お願いすればたいてい約束を守ってもらえるという事実──彼に言わせれば『誤った認識』──を得たようだ。

 

「あぁ、どうしようか。ヤハグルを離れるワケには……」

 

 ホームに背中を向けて封筒の中身を確認する。

 訪問してもよい日取りについて書いてあった。ワールド・カップの日程と予定席まで書いてある。

 

「ぐぅ……」

 

「行けばいいだろう」

 

「ヒッ、キャアッ!」

 

 ネフライトは素っ頓狂な声を上げた。

 振り返ればセラフィが背伸びをして手紙を見ていた。

 

「盗み見など、し、失礼なっ! どういう教育を受けているんだ!?」

 

「スカートを下着ごと脱がされた女子生徒でも出さない悲鳴で叫ばないでくれ。悩んでいるようだから解決してあげようと思ってね。行けばいいだろう。きっと彼女も喜ぶ。君もヤーナムの外を知るべきだ」

 

「それは……そう、だが……しかし、使用人の私が学派を離れるワケには……。むむ。君、それは……?」

 

 ネフライトは、セラフィが広げた手の先。彼女は青い封筒を持っていることに気付いた。封蝋として何らかの紋章が押されていたのだろう。今は破られているが、蝋の跡が見えた。

 

「ドラコからもらった。ドラコ・マルフォイ。パーティーの招待状だと書いてあった。『純血パーティー』だそうだよ」

 

「魔法族に王族も貴族もいないハズだが、敢えて言わせてもらおうかな。──お貴族様かよ」

 

「『純血』ではない僕が──ああ、でも。ある意味で最も純血と言えるかもしれないが──参加するのはすこし面白い趣向だと思ってね。前向きに検討している。一人だと寂しいからテルミを連れて行こうかと」

 

「構わないが、ボロを出してくれるなよ」

 

 ネフライトは眼鏡のブリッジに触れてから、彼女を見た。

 

「僕のような明らかな『非純血』まで招くのだ。純血お貴族様はボロさえ使いこなす気なのかもしれない。蛇の打算力には期待をしている」

 

「……フン。誰も君を使いこなせるものか。刃物とは使い手を選ぶようだ。他人の慣れないメスでは手を切るなんて話もあるものでね」

 

「気を付けるとしよう。……ところで君、列車で帰るのかな?」

 

「先に帰る。学徒に会う前にお父様に会いたいからな」

 

「分かった。僕はクルックスと魔女鍋スポンジケーキを買ってから帰る。お父様はあれがすっかりお気に入りになったようだから」

 

 セラフィは封筒をしまうと列車に乗り込む人々の雑踏に消えていく。その背中をネフライトは未練がましい目で見送った。

 

「くぅ……勝者とは嫌味なほどに余裕だな。嫌味のつもりがないのが、なおのこと嫌味らしい。恨めしい。実に恨めしい。ああ、いけない。いけない。ネフライト。お前はこんなことを考えている場合ではないのだ。切り替えていこう。何事も切り替えが大切だ」

 

 そうは言いつつもネフライトの思考は、電気のスイッチを切り替えるように変わることはない。──気付くとセラフィのことを考えてしまうのだ。

 

「敗者とはこのように惨めなのだ。惨め。おぉ、惨め。……嘆くことさえ憚れ、恨む言葉すら取り上げられる。弱者であるために。テルミ、君が私の情緒の一端を理解することがあるだろうかね? 最もお父様から遠い君」

 

 気落ちしたように頭を振り、彼はホームを歩く。

 やがて誰にも気を留められることなくネフライトは姿を消した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 狩人の夢、その工房にて。

 父たる狩人と二人きりで話をしたいと望んだのは、ネフライトだ。

 彼にとって学徒に聞かせたくない話は多くあり、父たる狩人だけに話したい気持ちが多分にある。自らの失敗を早く許されたい、という下心もあったが、そんな思惑は見透かされているようだ。席を勧め、茶を淹れた狩人は気楽そうに笑った。

 

「おや。君は俺と話すことに気が引けているようだ」

 

「腰は引けているかもしれません。しかし、気持ちまで引いているつもりはありません。はい、お父様。私は元気なので」

 

「そうか。ところで学舎に行かず、ここに来たということは……また事前報告があるのだろう。聞かせてくれ。手紙より、感情が分かりやすい。顔を合わせて話すのは好きだ」

 

 ネフライトが語るのは、たいての場合、事実だ。

 一年間の報告のうち特に学期末に起きた事件の報告を終えた時、狩人の目はしばらく宙を泳いでいた。恐らく宇宙悪夢的思索をしているのだろう。当分は戻ってこないと見当を付けたネフライトは、ふう、とひとつ息を吐き、お茶を飲んだ。眠気覚ましのハーブティーは妙に青臭い。

 

「待て? クルックスと争った?」

 

「えっ。はい。そうです。……持ち得た信条ゆえに」

 

「そ、そう。そうなんだ。ああ、ふむふむ、なるほどなるほど?」

 

 ネフライトは不思議なものを見た。狩人は「納得した!」という風に頷こうとしているが、動揺が見て取れる。

 

「それについて何か?」

 

「セラフィから件の速達について受けていた」

 

「ああ、そうだったのですか。珍しいですね」

 

「クルックスとの争いについては書いていなかったな。ちなみに聞くんだが……大したことない質問なんだが……クルックスの主張は?」

 

「『虫がいるヤーナムにルーピン先生を近付けさせたくない』でしょうか」

 

「あー」

 

 狩人は右斜め上に視線を飛ばした。──彼ならそう言うよね。

 

「素手で血に触れなければ、そう滅多なことは起きない。そして満月が危険だというのならそれも遠ざけよう。まぁ元々、完全な満月は湖の下で秘匿しているから新しい方策をしたワケではないが……。先生の話を聞くのは俺が楽しいし、個人教授は君達の糧になるだろう。人狼のことで当事者から詳しい話が出来るのは何よりも得難い経験だ」

 

「おっしゃるとおりです」

 

 ネフライトは「それみたことか」と心の裡でクルックスに言い放った。狩人がヤーナムの利となる存在を放っておくワケがなかったのだ。

 

「クルックスの考えは甘いものだとお父様はお考えになるのですか」

 

「まさか。まず獣を狩らずに済むのなら、それは善いことだ。彼は俺と同じように物事が上手く転ぶことに慣れていないから、発生する危険を最大限に考えて行動しようとする。間違いなく善いことだ」

 

「お父様とクルックスは連盟の同士でありますが、危険に対する見方について差があるように思います。そこについてはいかがお考えなのでしょう」

 

「そこは単純な能力、つまり『出来ること』と『出来ないこと』の差だ。あるいは『やりたいこと』と『やりたくないこと』の差だな。クルックスは万一にも自分が人狼を狩る事態になるのを恐れたのだろう。正しい恐怖だ。……ルーピン先生は、彼にとっても善い先生だったのだな」

 

「善い……。まぁ……一般的にはそう言えるかもしれません」

 

 ネフライトの苦い顔を見て狩人はお茶を飲んだ。

 

「魔法界において薬という叡智は彼らの獣性を抑える一助になっているようだ。うっかり飲み忘れたのはいただけないが人間なのだ。忘れることもあるだろう。……それが君には赦しがたいようだな」

 

「ええ、まあ。彼の授業は好ましいものでした。テルミをなだめすかして学期末試験終了後に捕獲作戦を実施する程度には……いいえ……隙がなければ私だって彼をわざわざ捕らえようとは……」

 

 何だかんだと理由を付けて『きょうだい』を腑分けしてしまわないようにルーピンも逃がしていたかもしれない。その程度にはネフライトにも情があった。そのため彼の声は尻すぼみになり消えていった。

 

「フフ。物事はどうにもうまく立ちゆかないものだ。間の悪い話だな」

 

「『間の悪い』? ハァ。クルックスは、しばしばその言葉を使いますが、全ては必然ではないですか。間の悪い、という言葉は運命に左右されている言葉です」

 

「とはいえだ。物事というものは、誰かが悪いことになれば人間関係がうまくいかなくなる。折り合いを付ける言葉として必要なのだ。『誰も悪くない。ただ運が悪い』とな」

 

「……そう理解します」

 

「そんなものだ。君も学舎へ行きたまえ。君とテルミが急いたことを俺は咎めない」

 

「また咎めないのですか」

 

「ああ、全て終わった話だからな。それに君達を咎めるのは俺もクルックスを思えば……いろいろと都合が悪い状況になっている」

 

「理解しました。ビルゲンワースに戻ります。お父様もあまり遅れすぎないように。遅れたらテルミを送りますよ」

 

「ああ、キングス・クロス駅に行ってから行く。学徒にそう伝えておいてくれ」

 

 ネフライトは狩人の顔に普段にはない焦りのような色を見つけていたが、彼から話さないうちは聞かないほうが良いのだと深入りはしなかった。

 

「……ああ、最後に」

 

 狩人は、工房を出ようとするネフライトを引き留めた。

 

「君はクルックス……それからセラフィと話をして折り合いをつけたまえ。『きょうだい』の間に禍根が残るのは好ましくない」

 

「彼らはもう理解しています。問題ないと思いますが」

 

「では一緒に眠れるな?」

 

 思いがけない言葉に「あぐっ」と呻き、ネフライトは戸惑った。

 

「昨年の夏休み最終日に皆で寝ただろう? あの日のクルックスはポカポカで充実した顔をしていた。仲直りの印に親睦を深めるといい」

 

「そ、そんなことしなくても我々の仲は良好……です……とても」

 

「せめて俺の目を見て言おうな。では、ネフには諸々の段取りを命じよう。頑張ってくれたまえよ」

 

「承りました……」

 

 のろのろと動き続け、やがて彼は夢を去って行った。

 ネフライトはクルックスならば言いくるめる自信があったが、セラフィの扱いを真剣に考えなければならない時期に来ていることをいよいよ認めざるを得なかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ハリーは、明るい気持ちでホグワーツ特急から降りた。恐らくこれまでで最も明るい帰宅となることだろう。

 道中、名付け親のシリウスからふくろう便が来たのだ。

 それには彼の無事を伝える話とホグズミード行の許可を与える言葉が書いてあった。ついでにファイアボルトを送ったのもシリウスだったらしい。それにはハーマイオニーが「わたしの言ったとおりでしょ!」と推理の正解を大いに喜び、ハリーとロンに向かって勝ち誇った顔をした。

 明るくした要因は他にもある。ロンが提案したクィディッチワールド・カップにかこつけてウィーズリー家に夏休みの半分もの間、宿泊できるかもしれない。その予想は彼を明るくした。

 キングス・クロス駅のプラットホームに降り立ったハリーは、いくつか離れた場所に影のように立っている黒ずくめの人に見覚えがあった。

 

「ロン、ハーマイオニー。あの人」

 

 荷物の確認をするように動きながらハリーは二人にその人を指し示した。

 

「誰?」

 

 ハーマイオニーが小さい声で二人に尋ねた。

 

「クルックスのお父さん。うちに夏休みに手紙を受け取りに来たんだ」

 

「まぁ。でもお若い、ような……?」

 

 まさか、この会話が聞こえたのだろうか。

 上品そうなトップハットを被った当の本人、ハント氏がツカツカと歩いてきた。

 

「ご機嫌よう。君は。たぶん。ハリー・ポッター?」

 

 隣でロンが「ぷっ」と吹き出した。

 ハリーにとって。

 まったく自慢ではなく、むしろ遠慮願いたいことだったが、魔法界において彼は超がつくほど有名人だった。

 その人物に対して「たぶん」なんて言葉を付けて訊ねたのは、彼が最初の人物だろう。冗談なら別だが目の前の彼に揶揄する意図はなさそうで、ロンの反応を見て「あれ。間違っちゃったかな?」と呟き、不安そうにした。

 

「夏休みにフォーテスキューでお会いしたハリー・ポッターです」

 

「ああ、よかった。そうだろうと思った。おや。前に会ったときより背が伸びたようだ。健やかに育っているな。素晴らしい。そして、君はロン・ウィーズリー。今年の夏休みもポストの役目をお願いする。今年は何度か伺うことになりそうだ。何でも楽しげな催しがあるとか何とか。うんうん。娯楽があることは良いことだ。私も参考にしたい。そして、君は」

 

「ハーマイオニー・グレンジャーです」

 

 ハーマイオニーはいつもより早口で言った。

 ハント氏は手にしたステッキでトップハットのつばを持ち上げた。

 

「ああ、クルックスとネフから聞いたことがある名前だ。とても優秀で素晴らしい魔女だとね。そう。君のことは彼らからよく聞いたよ。ネフが誰かを褒めるのは初めてのことだ」

 

「それは、とっても嬉しいです」

 

 ハーマイオニーの声は緊張と喜びに弾んだ。ハリーはハーマイオニーが今年度はいくつかの教科でネフライトに勝ったのだろうと思った。

 ハント氏はクルックスによく似た銀灰の瞳でハーマイオニーを見つめた。

 

「彼に競い合える人物がいることを私は嬉しく思う。今年はネフが主宰する『互助拝領機構』にも参加してくれたのだと聞いた。あの子に付き合ってくれてありがとう。この調子で外のことにも興味を持ってくれるといいのだが……」

 

「今日も馬車で来たんですか?」

 

 ロンの話を聞くと彼は郵便を受け取りにオッタリー・セント・キャッチポールに馬車で来たのだという。

 ハリーは『漏れ鍋』の外に馬車を駐車している様子を想像した。それと同じようにキングス・クロス駅の駐車場に馬車があったら、帰宅する生徒が籠に入れたふくろうを持ち歩いているよりも目立つだろうと思った。

 ハント氏は、質問に気恥ずかしそうに答えた。

 

「答えは『いいえ』だ。馬車は運賃が……高くてね。うむ。今日は徒歩で来たとも」

 

「魔法使いって馬車もお使いになるんですか?」

 

「他の魔法使いのことは分からないな。私達は……あー……ちょっぴり特殊だからね。けれど行き先が分かっていれば使える手段なので私にとっては便利なのだよ」

 

 その時、ロンを呼ぶ声があった。

 振り返ればウィーズリー氏と夫人が笑顔で手を振っていた。

 

「おぉ、これはこれは」

 

 ハント氏はトップハットを持ち上げて挨拶した。

 

「さぁ、諸君。引き留めて悪かったね。これからも私のこども達と仲良くしてくれると嬉しい。……よい夏休みを!」

 

 彼との話は、いくつか疑問が生まれるものだった。

 けれど、いつしかハリーはそれを忘れていった。

 

「ああ、ハリー!」

 

 ウィーズリー夫人がハリーを「お帰りなさい」と抱きしめた時、何だか鼻先がツンとした。

 それだけで些細な疑問など霧散してしまったのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「今年は……学徒の方々はいないようだ。良かったような。寂しいような」

 

 列車がホームプラットに入った頃から窓に顔を押しつけるように外を見ていたクルックスはそう言った。

 テルミはそんな彼を見上げた。

 

「いいや、気にすることはない。魔女鍋スポンジケーキも買ったことだ。帰ろう。ネフが叱られてしおしおになっているかもしれない」

 

「お父様がわたし達を叱るなんて想像できないわ。それに意外とケロリとしているかもしれません。だってわたしと同じで悪いことをしたと思っていないのですから」

 

「でも、僕らに負けたことには落ち込んでいたようだね」

 

 荷物を肩に掛けたセラフィはうっすらと笑った。

 

「やめないか。勝敗など。俺達にあるべきではないのだ」

 

 クルックスが父たる狩人そっくりの顔で咎める。

 これにはセラフィも口を噤み、テルミを見ては「気にするかい」と訊ねた。

 

「まさか。小さな小さなことだもの。気にしないわ」

 

 セラフィが何かを言いかけたその時だ。

 

「あ。お父様だ」

 

「セラフィ、つまらない冗談はやめてくれ。灯りはホームの外だ。帰るぞ」

 

 クルックスは、振り返ることもしなかったがテルミは素早く彼の外套を引っ張った。

 

「もう。お父様がいるワケないだろう。だってあの人は乳母車がなくても目立つんだから」

 

「乳母車?」

 

「何でもない! 何でもないぞ!」

 

 クルックスは車窓を覗き込んだ。

 彼が見逃してしまったのは単純なことで、真紅のホグワーツ特急がもうもうと吐き出す蒸気に黒い姿が見えなくなってしまっていたのだ。蒸気の切れ間に見慣れた顔の紳士がいた。

 

「わ。……本当にいた……」

 

 三人は汽車を飛び出すとホームを先頭車両に向かって歩いた。

 狩人は、ちょうど特急列車を降りた魔女と話しているようだった。三人は狩人の視界に入らない場所で足を止めた。彼が話している魔女のことは、三人ともよく知っている。生徒から「車両販売の魔女」とか「ワゴンのおばあさん」と呼ばれている魔女だった。

 

「貴女のような存在がいるとは。この鉄馬車は『すこし』狭いのではないですか?」

 

 狩人は魔女のためにやや身を屈めて目線を合わせて話をしていた。

 テルミは父がこうして誰かに対して丁寧に話す言葉を初めて聞いた。

 

「いやいや。私はここでいいのさ。このホグワーツ特急が出来たとき──オッタライン・ギャンボル校長が直々にこの仕事をくれてね。以来、私はこの仕事を気に入っている」

 

「そうですか。俺も似たようなものだ。俺の場合、誰から受けた仕事というワケではないが同じように気に入っている」

 

「そりゃいいことだ。仕事ってのは、やっぱりこういうモンじゃなきゃならないねぇ……」

 

 狩人と魔女は驚くべきことに親しそうに話をしている。柔らかい雰囲気なのに近寄りがたかった。

 

「ギャンボル校長は私に仕事をくれた。けれど『辞めたかったらいつでも辞めていい。貴女は私と同じだ。本当に自由なのだよ』とも言ってくれた。優しい人でね。校長を退任した後も老いて歩けなくなるまで何度も会いに来てくれた。私を任命したという責任感が強かったから来ていただけかもしれないけど……。どうしても嬉しくてねぇ。ずっとずっと嬉しくてねぇ。あの時のことを思うと、私は、何もかもちっとも苦じゃないのさ」

 

「それは素晴らしいことだ」

 

 テルミは耳が良い。四仔のなかで最も戦闘の才に恵まれなかった自分には、どんな声でも覚え、聞き分け、感情を読み取る能力があった。それなのに狩人の声音がどんな顔で伝えたものなのか分からなかった。

 

「お話をありがとう、貴女。……やはり時おり這い出ると良いことがあるようだ」

 

「あなたはずいぶん遠くから来たのねぇ。もうずっとずっとずっとあなたのような人は見ていない」

 

「うーん。そうか。貴女のようなモノがいるのなら珍しいことでもないのかと思ったが、そうでもないのだな。悲しいことだ。それとも喜ばしいことなのだろうか?」

 

「わからなくなっちゃったねぇ」

 

「わからなくなっちゃったかぁ。それはそれでよいのかもしれないな。答えは自分で探すとしよう。ありがとう。貴女に夜明けを……。いいえ、貴女は俺が祈るべき夜明けを迎えているようだ。どうかこれからも幸せでありますように。暗澹たる地より祈っている。名前の無い貴女」

 

「あなたもね。仕事は、ほどほどにするんだよ。あなたも私も、きっと自由なんだから」

 

 記録する限り最悪の夜を越えた狩人は返事をせず、ただ、手を振り、トップハットを軽く上げてお別れをした。

 振り返った先。

 テルミはクルックスとセラフィの陰にヒュッと隠れた。隠れる意味はほとんどないが、なんとなく父は自分に今の姿を見られたくないのではないかと思ったのだ。この種の勘はよく当たることをテルミは悲しいほどに知っていた。

 

「おっと。──君達、おかえり。出迎えに来たつもりだったのに、ついうろうろしてしまった。すまない」

 

 狩人が落ち込んだ顔をする前に答えるのは、いつもクルックスだ。

 

「いいえ。お父様もいろいろなものを見て、知るべきです。……とても大切なお話をしていたのでしょう。お父様なら、俺達が見るよりずっといろいろなものが見えるのでしょう。それが善いものであれば俺達も嬉しいのです」

 

「そうか……気を遣わせてばかりですまないな」

 

 狩人は首を回しながら蒸気の白い煙の向こうに消えていくお菓子カートの魔女を見送った。

 

「今の魔女のおばあさんは、どういった存在なのですか?」

 

「さあ。俺もハッキリとしたことは分からないな」

 

 狩人は右手で顎の下を撫でながら言った。

 

「今は人間ではないことは確かだな」

 

「では……上位者?」

 

 セラフィは予め周囲に気を配り、言葉を低めた。

 

「さて、それもどうだろう。生き物として『まとも』ではない。分かるのはそれだけだ。しかし、見てのとおり。俺ほど性質の悪い感じではなさそうだな。列車で大暴れとか途中下車とか。そんなことをしなければ敵にはならない気がする。怪物に、成り上がったか。成り下がったか。いいや、これはただの言葉遊びだな」

 

 狩人はクルックスから魔女鍋スポンジケーキを受け取った。

 

「ギャンボル校長。彼女が言っていたな。どこかで見た名前だと思っていたが思い出したぞ。『ホグワーツの歴史』に書いてあった。歴代校長の一人で、このホグワーツ特急を作った女性校長だ。一八二七年のことだ」

 

「まぁ。お若い」

 

 テルミがセラフィの陰からヒョイと顔を出すと狩人は「オウ」と海獣のように小さく吠えて身を縮めた。

 

「お、お、おかえり、テルミ。すまないな。いつもこんな感じで……」

 

「いいえ。何も気にしませんわ。お父様がお出迎えしてくれるなんて思いませんでしたから、とっても嬉しい!」

 

「う、うん」

 

 狩人はジリジリとテルミから遠ざかるように離れ、終いにはホームに転落しかけた。

 

「お父様……!」

 

 間一髪のところで狩人の腕を掴んだクルックスが、狩人をホームに引き戻した。

 

「おぉ、すこし驚いたぞ。クルックス、筋力に振りすぎてないか?」

 

「この日のための筋力だったかもしれません」

 

「フフ。面白いことを言う。いいな。今度、俺も使ってみよう。──さて。ネフが待っている。では帰ろうか」

 

 狩人は、そう言ってニッコリ笑った。

 ホグワーツ特急があるべき場所へ帰っていく。

 緩くピストンが動き始め、もうもうとした蒸気を吹き出す頃、彼らの姿も消えた。

 





毎年恒例行事
 報告会は反省会にもなりかねないものでしたが狩人のリスク管理的には大丈夫の範疇だったので特に問題になりませんでした。
 それよりクルックスと争った? そっかぁ……そっかぁ……。
 仔らの間で激しく争った、という事実を今さら知る狩人。仔らの間で何とか折り合いを付けて収めた件を掘り返して生き返らせたようなものなので間の悪い状況は続きそうです。


カートのおばあさん
 戦闘力については『呪いの子』で見ることが出来るぞ!
 ……もう全部この人だけでいいんじゃないかな。
 長い仕事をしている者同士、思うところがあったのでしょう。
 個人的には、ずっとずっとずっと仕事を続けている存在が本当は自由で、今は好きで仕事をしているだけ、という展開が嬉しいな、と思います。



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悶絶


客人
客としてやって来る人。
ヤーナムには、ごく少ない。
ヤーナムを訪れる多くの人は、輸血により記憶が曖昧になるからだ。
いったいヤーナムの外に誰がいただろうか。
まして、客として招くとは。



 ここはヤーナム。学舎、ビルゲンワース。

 大講堂に集った狩人と仔ら、そしてクィレルに向かい、口火を切ったのは学徒、コッペリアだった。

 

「超常の出自。不死に近い肉体。上位者との縁。ヤーナムの誰もが得難いものを全て、しかも深く、その身に宿しながら、やっていることが内ゲバ! 内ゲバ! 内ゲバ! もー! 何だってんだよ、もー! もー!」

 

 クルックスは、帰着早々にしていきなり分からない言葉をぶつけられてしまい戸惑った。

 困ってしまい、先に学舎に戻っていたネフライトに解説を求めると彼は目の前の一九〇センチ近い大の大人が床を転がる様子を見たくないのだろう。目を閉じて眉を寄せていた。

 

「君の聞きたいことは分かる。『内ゲバ』とは要するに『仲間割れ』や『暴力闘争』の意味だ。我々には当てはまらないものだがね」

 

「それは、しかし……」

 

 では、ホグワーツにおいてルーピンの処遇で争ったことは何だと言うのか。

 クルックスが訊ねることを待たず、ネフライトは告げた。

 

「我々はお互いに説得をしていただけだ。ときどき仕掛け武器が『ちょっと』出たかもしれないが、概ね言葉による交渉を行っていた。そうだな?」

 

「それは……うーむ……『ちょっと』の感覚は人によるからな……俺には判断が出来ない……。でも君が言うからにはやっぱりそうなんだろう」

 

「そうそう」

 

 ネフライトの言うことは今回に限り、詭弁と言えそうだったが、クルックスはネフライトの言うことはたいてい正しいと思っているため彼の判断を尊重した結果、自分の判断を後回しにした。

 その間、コッペリアは危うく目隠し帽子を落としそうになるまで床をポカポカと叩いていた。

 

「限りなく不死の領域に近く、限りなく上位者の胎内に存在する君達が! もー! なんで内ゲバしちゃうかなぁ!? どうして仲良く出来ないんだい?」

 

「お言葉ですが、ネフもテルミもそれぞれの主張に基づくヤーナムに資するものと信じて行っていたことです。俺もそう。決定的かつ不可逆的な内ゲバとやらではなかったと思います」

 

「そりゃあそうだろう。死んでも死にきれない君達を殺すのは君達同士でも大変なことだ。むしろ同じ枝葉の存在だからこそ出来ないのかもね。だから、だからこそ、君達が争うのは本当に不毛なんだよ。これはヤーナム市街の各陣営の狩人達の比ではない。お互いの不理解のために殺し合いする段階は、もう二〇〇年以上前に終わったんだ。君達には協調の精神を持って、次の段階の人間として生きて欲しいのに。──どうして内ゲバしちゃったかなぁッ!?」

 

「コッペリア様は内ゲバという言葉が使いたいだけでしょう。それと、わざわざ明言するほどでもないと思っていたので言いませんでしたが──学徒が私に命令するな」

 

「ネフ!?」

 

 突然の発言にクルックスは驚いて彼を見た。

 ネフライトは緑色の瞳を細め、不快そうに言った。

 

「私は学徒の駒ではない。自分で考え、自分で行動し、責を負う。そして全ての裁定はお父様にある。……お父様、私とテルミから釈明することはありません。敗者でありますから。どうぞ存分にお咎め下さい」

 

 狩人は椅子に腰掛けたまま彼らの一連のやりとりを見ていたが、自分が話しかけられたことで何かを話さなければならないことに気付いたようだった。

 コッペリアに比べると彼に浮かぶ感情は薄い。つまりはいつもと変わらない顔だった。

 

「咎めることは何もない。ヤーナムのことを慮ってくれたのだろう。ありがとう。優しいな、君達も。咎められるべきは俺だろう。俺が悠々自適な赤ちゃん生活に──」

 

「アーッ! 難聴かなぁッ!? 配慮、配慮が足りない言葉が聞こえた気がするぜ!?」

 

 コッペリアが今日一番の声で叫んだ。

 狩人は、咳払いをした。

 

「えー、聖杯探索に一生懸命、勤しんでいたせいで君達に要らぬ諍いを生んでしまった。停滞を疎んじてのことだろうな。先の見えない獣狩りと神秘の探求。ネフの気が滅入るのも無理はない」

 

「いえ、私は……そんな……べ、別にお父様のためを思って行ったワケではありませんので、思い違いなさらないようにしていただければ……」

 

「じゃあ何のためなのさ?」

 

 コッペリアが椅子に座り直して足を組んだ。

 ネフライトはスッと背筋を正した。

 

「獣の病を解明するためです。他の地域の類似症例を得て啓ける知見もあるでしょう。かつて獣の病に冒された地、ローランの先例さえ我々には曖昧な知見に留まります。ならば今こそ魔法界という新しい切り口が必要です。現状の方法では手詰まりに思えますから。──しかし、クルックスの説得のお陰で浅慮な行動を慎むことが出来ました。頭を下げてお願いされたら感謝をしてやってもいいと思っています」

 

「ん? 頭を下げるのは俺? おかしくないか? おかしいだろう?」

 

 クルックスは異を唱えてみたがネフライトに「何を言っているんだ?」と言いたげな顔をされたので自信がなくなってきた。ネフライトに続けとばかりにテルミが挙手した。

 

「はーい、テルミもー、とてもー、はんせー、してまーすかもでーす」

 

「してないだろうが」

 

 噛みついてみたもののやはり「何を言っているのかしら」という顔をされてしまいクルックスは困った。そんな彼の隣でセラフィが「分かるよ」と言ったが絶対に何も分かっていないと彼は何度目かの確信を得た。

 

「ふむ。君達にはいつも心配をかけてすまないと思っている。クルックスに市街を留守にし過ぎるのはよくないとも忠告されたことだ。そう。俺は宇宙とか深海とか考えすぎて大事にするべきものが疎かになっていたのかもしれない。そのため、今回からは俺も積極的に動くことにした。たとえば件のルーピン先生だ」

 

 クルックスは言いようのない嫌な予感がした。

 予感の原因は何なのか。それを探して辺りを見回したが何も無い。

 ──気のせいだろう。

 そう思い込む努力をして四仔は学徒に勧められた椅子に座った。

 代わりに狩人が立ち上がった。

 

「『彼』の話を聞いたとき、会って話をしてみたいと思った。獣の病に関わらずな。人間と獣を行き来する存在に君達は、まだ出会ったことがない。彼の話は聞くだけでも貴重な知見となるだろう。そう思ったのでちょっとした交渉と説得でお越しいただくことになった。──あらためてご紹介しよう。ルーピン先生だ」

 

 パッと扉が開き、ここ一年ですっかり見慣れてしまった姿が現れた。くたびれたローブ。白髪交じりの鳶色の髪。傷のある顔。紛れもない。ホグワーツに存在したルーピンだった。

 

「やぁ、みんな。久しぶりだね」

 

 その姿を認めた瞬間。クルックスは自分でもワケが分からないことを叫び、立ち上がって隣に座っていたネフライトの胸ぐらを掴み上げた。

 

「ネフッ! 君は──君というヤツは──こンの、ネフライトォーッ!」

 

「ヒッ!? な、なに!? なんだ、なんだっていうんだ!?」

 

 揺さぶられ眼鏡を床に落としたネフライトが緑色の瞳で見上げてきた。白を切る心算だろうか。首を絞める勢いで首を揺らした。

 

「もはや決着が付いた話だろう! どうして! こんなことを! なんでルーピン先生が──!」

 

「私には関係のない件だ! 離せっ!」

 

「ならばテルミかッ!?」

 

 ネフライトを捨て、テルミに掴みかかろうと迫った先。

 

「僕だよ」

 

 涼やかな声がクルックスの理性を無理やりに引き戻した。熱かった頭から急に血の気が引いた。ようやく出てきた言葉は「あ?」という間抜けなものだった。

 

「ルーピン先生のことをお父様に伝えたのは僕だよ。お父様が興味を持たれるだろうかと思って」

 

「そ、それが、それだけで……? き、君は自分が何をしたか分かっているのか? いいや、違う、違う、君がこんなことをするハズがない……! 君が……そんな。君を、テルミが唆したのだろう!?」

 

 クルックスの怒鳴り声にセラフィは肩をすくめ、テルミは「まあ破廉恥な」という目で彼を見上げた。

 

「わたしがお父様に縋りつくワケないでしょう。見誤らないで下さる? 信仰と陳情は違うものです」

 

「そんな──」

 

 ヤーナムにルーピン先生がいる現実が受け入れられず、クルックスは立ち尽くした。

 その時だ。

 

「──いいねぇ。少年の甘い、甘ぁい声が聞こえたぜ。もっと聞かせておくれよ。黄昏の夜の淵。温い酒があれば、さらに佳い」

 

 聞いたことのある声にクルックスは再び目を扉に向けた。

 現れたのは──ああ、やはり、クルックスは胸がジリジリと焦げるような喜びと困惑に陥った。アルスターを着込み、厚手のケープコートを腕に抱えたレオーが扉に寄りかかって立っていた。彼はつい「こんな時に」と口の中で呟いた。

 

「ご機嫌よう。学徒、月の仔ら、それから異邦の魔法使いとやら。──カインハーストのレオー様だぜ。一年ぶりだ。久しぶりだな」

 

「わぁ、レオー様! いらっしゃっていたのですね! 僕は会えて嬉しいです!」

 

「休暇でもないし来たくなかったがね。それに、ここは暑いからな。でも女王様が『御者やれ』って言うもんだから仕方なくさァ」

 

 彼は抱きついてきたセラフィをあやしながら片手で乗馬用の鞭を弄んでいた。それからクルックスを見て「よぅ」と気さくな挨拶をした。昨年、自分を殺したとは思えない気安さだ。そのため彼と出会った時に何を言うべきか考えていた思考は、全て無意味になった。

 

「レ、レオー様……」

 

「まさか学校のセンセーがやって来るとは思わなかったって面だな。──文句なら早めに狩人に言った方がいいぜ。俺はてっきり織り込み済みかと思っていたが、いやはや、パパの考えることは分からないものだな?」

 

 レオーの言葉にハッとした。そうだ。文句、文句を言うべきなのだ。少なくとも善い行いではないと伝えなければならない。

 そのことを思い出しクルックスは口を開きかけた。

 

「ああ、クルックスは外から人を招くのに不安があるようだな。そうか。事前に話をしていなかった。驚かせてすまない。だが、いつか役に立つことだ。予防策は学徒と相談して万全に整えた。問題は少ない。よって彼には当分ここにいてもらう。詳細は後ほどだ」

 

「は、はぃ……」

 

 狩人がそう言うので、クルックスは頷いた。

 内心は何も納得していなかったが、狩人の決定を今さら覆すのは不可能だと頭のどこかが悟っていた。

 

「す、すみません……大声を出して……俺は……あ、頭を……冷やしてきます……」

 

 椅子に座る気分になれず、クルックスはふらふらと外を目指して歩き出した。

 どこよりも心のより所にすべきヤーナムに帰ってきたというのに性質の悪い悪夢を見ているような気分になった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

(頭がどうにかなってしまいそうだ)

 

 怒り。悲しみ。困惑。驚き。

 色とりどりさまざまな感情がクルックスをいちいち揺さぶり、ほんの数秒も落ち着いていられない気分にさせた。

 

(お父様は何を考えているのだ)

 

 そんなものは決まっている。ヤーナムのことだ。

 彼の揺籃にして大切に思っている街のことだ。そして獣の病のことだ。

 

(連盟員として俺は間違っていないハズなのに。どうして……どうして……お父様は……)

 

 自室に戻る気分になれず、廊下を長く歩き続けるほどの気力さえない。そのため彼が辿り着いたのは、学舎二階の月見台だった。

 既に言葉を失った学長、ウィレームが安楽椅子に座って存在するだけの屋上は微かに椅子を軋ませる音が聞こえるだけの異様なまでの静けさがあった。

 クルックスは湖に突き出した月見台に座った。

 

 足音が聞こえた。

 それが狩人のものだとクルックスは、分かっていた。彼が最初に言葉を話し、それに納得してしまわないようにクルックスから話しかけた。

 

「お父様……どうして……。俺は……魔法界の人々をヤーナムに招くのは善くないことだと思うのです。淀み、虫がいるヤーナムに……虫の少ない魔法界にいる彼らを招くなど……」

 

 ──賛同しかねます。

 顔を合わせずに伝える無礼を今だけは許して欲しかった。

 クルックスの背中に狩人は決まったことを伝えた。

 

「そう言うと思っていた。ルーピン先生は学舎にいれば問題ないだろう。そして彼が滞在するのは一年と決めている」

 

「外からの人が……ヤーナムに来ること、そもそもが俺は嫌なのです」

 

「ほう。ほほう」

 

 狩人は歩いてきて身を屈め、クルックスを見つめた。

 逆さまに現れた父の顔をクルックスは見つめ、目を逸らした。何もかも見透かしてしまいそうな宇宙の色の瞳は今は見つめていたいものではなかった。だって。

 

「驚いたな。君は『恥ずかしい』のか」

 

 目を見るまでもなく彼には分かっていたのだろう。

 クルックスは目を閉じた。

 

「もっと虫を殺し、綺麗にした後のヤーナムであれば……俺は取り乱すことはしませんでした。ヤーナムが危険な土地だということを俺はここ三年で理解しました。魔法界は夜に出歩いても背中を刺される危険は、ごく少ないのです……」

 

「しかし、時間は有限だ。セラフィに話を聞いた時に彼とは今のうちに話しておくべきだと思ったのだ。……クルックス、彼らの時間は私達ほど永いものではない。狩人ならば機は逃さないことだ」

 

「……お父様、それは……その言葉は……ここ数年、あるいは数十年の間にルーピン先生が死ぬということですか?」

 

 目を開いたとき。狩人は背を伸ばしてクルックスの視界からいなくなっていた。彼は振り返ることもできた。だが、どうしても振り返る勇気が持てなかった。狩人が確信的な顔を、目を、していたらこれからルーピンにどんな顔をすればよいか分からなくなることをクルックスは恐れた。

 

「……。ヤーナムの外からやって来た人の人生は、俺には分からない。私は君や学徒が期待するほど万能ではないのだ。そもそも上位者が万能だったらお好みの赤子を見出していただろう」

 

「あっ。ごめんなさい……お父様……」

 

 彼は決して口にしないが。

 人から寄せられる期待に彼は倦んでいるようだった。クルックスは何となく彼のそうした嫌気を知っていた。ヤーナムに蔓延る神への祈りが、ひょっとして彼にも届いているのかもしれない。

 

「現在のヤーナムは……お父様でも不本意な形なのだと俺は思っています。だから……その……俺は、もうすこしお父様の望むようなヤーナムになってから、という意味で……あの……」

 

「君は大切な俺の息子だ。気にしないさ。それに今回は俺の好奇心が勝ってしまって手際が悪かった。すまない。もっと話をしていればよかった。それに説明も疎かだった。……俺はやるべきことがしばしば前後してしまうようだ。いろいろと考え事をしていてね。たとえば、これ」

 

 クルックスは振り返った。

 いつもと変わらない狩人が懐から取り出したのは、誰かの手帳のようだ。

 

「全てはこれから始まった」

 

 ──ヤーナム。

 ──その名は、現在、わずかな書籍の中に数行存在するのみである。

 この書き出しから始まった手記をクルックスは受け取った。

 

「これは手記。そしていまや導きとなった」

 

「手記が導き? どういう意味ですか?」

 

「言葉にするのは難しいことだ。けれど、君の理解のためにちょっとした例え話をしてみようか。──『ヤーナムは存在しない』。そう考える者がいったい何人ヤーナムに辿り着けるだろう」

 

 クルックスは彼の話を聞いて、頭に閃いた考えがあった。

 

「まさか……。カインハーストの馬車と同じ理屈なのですか?」

 

『そこにある』と信じるから辿り着ける。

 病も幸運も結果を左右する一要因に過ぎない。

 狩人はそう言いたいのだろうか。しかし。

 

「でも、でも、その理屈は……完全ではないでしょう? 連盟の長は、かつて都の官憲であり、獣を追ってヤーナムに辿り着いた官憲隊の唯一の生き残りだと聞きます。彼らはヤーナムがあることを知っていたのでしょうか?」

 

「必要なのは言葉ではない。敵が、獣が、そこに『在る』ことを知っていれば、それだけでいいのだ。なぜ私がヤーナムの物を外に出したくないか。分かってくれただろうか」

 

 釈然としない気持ちが体の中で渦を巻いているが、具体的な言葉にならないためクルックスはひとまず頷いた。

 

「ええ、はい。……これの持ち主はクィレル先生? これは元々ヤーナムにあったものではないのに」

 

「筆まめな旅行者は、ちょっと困る存在だな」

 

「お父様の推察が正しいとすると本心のところ、俺達を外に出したくなかったのではないですか?」

 

「いいや、後悔はしていない。今後も『好きに遊んでおいで』と俺は背中を押すだろう。なぜならヤーナムに訪れる人の流れは細く、けれど途切れることはない。君達に触れて多少の訪問者が増えたところで何も変わらない。具体的には、彼らがヤーナムの神秘を探らなければ問題はないのだ。せいぜい観光していくといい。治安が最悪らしいので『出来るものならば』という前置きが必要な環境になっているが」

 

「……分かりました。これは……」

 

「君が持っていてほしい」

 

「倉庫に入れておきます。それでもいいですか?」

 

「構わない。いつか使い時があるだろう。──ヤーナムを必要とする人がいたら、渡しなさい」

 

 クルックスは、言葉を作るために息を飲み込んだ。

 ──未来に、そんな人がいるのですか?

 言いたい。クルックスにはどうすることもできないほど遠く、不透明な先の時間のことを訊ねてしまいたい。だが、声を出すことはやはり出来なかった。そのことを訊ねて、答えを聞いて、その時に手記を正しく渡すことが出来るとして、果たして、善い行いだろうか。すこしでも考えてしまったからだ。

 

「神秘の知恵は人には過ぎたものだ。だが、狼人間のことを知って思ったのだ。異なる神秘の根を持つ彼らならば、もしや、とね?」

 

「魔法族がヤーナムの神秘を扱えるとは思いません」

 

 クルックスは断言した。そうだと思っていたいのは、もしも、彼らがヤーナムの神秘を扱えてしまえば、ヤーナムの秀でた点──医療者たる狩人が積み上げた神秘の知識──が大きく失われるからだ。

 クルックスの焦りを見透かして狩人は小さく笑った。

 

「フフ、君はヤーナムが劣ることを認めたくないのだな。そういう気持ちを抱くと言うことは、ヤーナムに愛着を持ってくれているということだろうか。そうであれば、とても嬉しい」

 

「お父様のヤーナムを俺が大切に思うのは当然のことです。──魔法族の脳に瞳を与えるつもりですか? コッペリア様にそうしたように」

 

 ──いつも頭痛に苦しんでいるのに。

 クルックスは伏せた言葉を知ってか知らず。狩人は静かな顔をして手を伸ばし、クルックスの髪を梳いた。

 

「それもよい試行かもしれない。求める限り与えてみようか……」

 

 狩人は簡単に言うが、自分たちのやることなすことが善いことに転ぶことが少ないことを今年度で嫌というほど知ってしまったクルックスは、やはりすぐに答えることが出来なかった。

 

「かつて上位者に届いたメンシスの願いが歪んだように、きっと望みの形では叶えられない。それでも望むのならば呪いと腐臭に満ちた祝福を得るだろう。『必ず滅ぶ』なんて呪いをひっくり返すのは上位者であっても大事だ。それが人間の身に起ころうものなら、さて、どうなるものか。けれど望む者はいるかもしれない。滅んでこそ見える景色もあるだろう。比較は大事だ。新しい思索のきっかけになるかもしれないな」

 

「お父様は魔法界を食い物にするおつもりですか? それは善い行いではないと思います」

 

「そう荒ぶるな。戦争をふっかけようという話ではない。食い散らかすこともない。神秘に(まみ)えることを望む者がいれば、という話だ。コッペリアに瞳を与えたのもそう。ヤーナムを続けているのもそう。不可能と思われることに挑み、可能の領域を増やすことは人間の営みだ。その時に私と出会う者がいるかもしれない。ただの自然だ」

 

「自然?」

 

「ここに私がいて、そこに君がいる。それと同じくらいの自然で、ヤーナムが神の墓地の上に立つ事と同じくらいの自然だ」

 

「自然……」

 

「しかし、俺が人の心を失っていないのは神秘の探求者にとって不幸なことだろうな。誰が最初に訪れるだろうか。どうやって訪れるだろうか。目的は何だろうか。とてもワクワクしている」

 

「お父様!」

 

「ハハハ。──冗談ではないが、冗談にはしない。軽率なことはしないとも。君達から嫌われるのは嫌な気分になるからな」

 

 クルックスの髪をたどり、耳を指で擦った後で狩人は微笑んだ。

 

「本当は……訊ねるのが恐ろしい質問なのですが……」

 

「ん?」

 

「お父様は人間の味方、なのですよね?」

 

「当然! 俺はヤーナムの味方だ。──さぁ、行こう! 『一年間お疲れさま会』の準備を手伝わなければ。今年は血の酒は禁止だ。我慢できるだろうか?」

 

「もちろんです」

 

 クルックスは月見台を訪れる風に誘われ、一度だけ湖を振り返った。

 ビルゲンワースの学徒、コッペリアが話してくれたことがある。

 かつて獣狩りの夜にて月の香りの狩人は、言葉を失った学長ウィレームから何事か指示を受け、湖に飛び込んだのだという。彼の行動力はクルックスの想像を絶することがある。

 

 その行動力の化身に対し、今年度のさまざまな出来事は結果として『けしかけた』と言えるのではないか。

 

(違う……! 断じて、俺は、そんなつもりはなかった。全て善いことだと思って果たしたのに! そうあるように努力したのに!)

 

 それなのに。

 ──誰かを陥れる落とし穴ばかり作っていないだろうか。

 恐ろしい空想ばかりが浮かび、しかも現実は凄惨な死の幻想を拭いきれない。

 

 失意と絶望を乗り越えた先に得た狩人の楽観をクルックスの認知が共有できないことは、二人にとって不幸な出来事だった。

 そのため彼は今さらながら過去が恐ろしく、未来が想像もつかないことに気付き、愕然とした。

 



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始動


始動
始まり、動くこと
古い街でも新しく始まることがある



 

「どうして、あなたがここにいるんだ?」

 

 この言葉を聞いたとき。

 クィリナス・クィレルの頭に浮かんだことは三つあった。

 ひとつ。

 このリーマス・ルーピンは前々任者クィリナス・クィレルの辿った末路を知っている。

 ふたつ。

 このリーマス・ルーピンは狼男だが、ヤーナムへは治療のためにやって来たのではない。

 みっつ。

 このリーマス・ルーピンは狼男だが、正義漢のようである。

 

「さ、私にもさっぱり──」

 

 一歩一歩、後退る。長い廊下の果ては遠い。クィレルは次第に腰が引けてきた。

 

「ダンブルドアは、あなたが『死んだ』と言った」

 

「ワァ……。私もっ、死んだと思ってましたよ……」

 

「幸いなことにダンブルドアが間違えることは少ない。その彼が死んだと言ったのだから、あなたが死んだとする証拠もたくさんあったのだろう。──もう一度答えて欲しい。どうして、あなたがここにいるんだ?」

 

 四つ目の発見だ。

 このリーマス・ルーピンは、ダンブルドアの手先である。

 この発見は正しいと思われた。

 

 ルーピンがやって来る直前、やけに嬉しそうな狩人がクィレルの前に現れた。

 ──これは先生の手記だろう?

 ──俺が貰ってもいいだろうか?

 ──先生には新しい手記を用意する。

 ──どうだろう。どうだろうか。先生?

 クィレルは狩人が熱心に言い募ることが珍しく見えた。その熱意に応じて手記をそのまま狩人に与えることにした。しかし、どうして彼が自分の手記を、それもヤーナムに初めて来た時に持っていた手記を持っていたのか不思議に思っていたのだ。自分の手記は、ハリー・ポッターに敗れた時と同じ場所、すなわちホグワーツ城の教授室にあったハズだ。そして、自分が死んだ後は『例のあの人』と戦った英雄のひとり、そしてホグワーツ城の主と言える人物が回収したことだろう。

 理由は、こうして現れた。

 人が獣になる奇病が蔓延るヤーナムにとって。狼人間という存在は目新しく身近な存在で魅力的に映ったに違いない。そんな人物が社会的立場として責を負うホグワーツの教師になれるだろうか。通常は否である。だが唯一、その常識をひっくり返せる人物がいる。そして、その人物はクィレルの手記を回収した人物と等しい。

 

「あなたは、ダ、ダンブルドアのためにここに、き、来たのですね……?」

 

 ダンブルドアがどうしてヤーナムにこだわるのか。クィレルは分からない。今世紀屈指の賢人の考えなど『例のあの人』の頭の中と同じくらい分からない方が良いのだ。

 だが、今。

 ヤーナムですっかり慣れきった思考停止に陥るのはマズい事態だということ程度は分かった。

 

「質問しているのは私ですよ。クィリナス・クィレル」

 

 ルーピンは静かだが今にも杖を抜きかねない圧力があった。

 クィレルは両手を振った。

 

「し、知らない。本当に知らないっ。答えられることも何もない! 狩人さんに聞いて、く、くださいっ! い、いいえ、や、やっぱり、き聞かない方がいいでしょうね……」

 

 死んだ人間が歩いていれば──そして、それを知る人間がいれば──こんなことになることをあの狩人は忘れていたのだろう。

 彼とこども達や学徒とのやり取りを傍で聞いたクィレルが、これまで出来る限り考えないようにしていたことをたった今、確信した。

 

(なんて迂闊な人なんだ!)

 

 それから、もうひとつ。何よりも厄介なことは、不可解で底の知れない人物なのにとことん迂遠で注意力が足りない狩人の意向が──クィレルにはまったく不可解なことに──彼を取り巻く人物たちには重要視されていることだ。

 クィレルはルーピンに向き直った。

 

「い、今すぐ帰った方がいい。本当に。こ、これは脅しではない。本当に。一年と言わず今すぐ帰った方がいい」

 

 この時。クィレルの頭には、狩人と交わした言葉が思い出されていた。

 ──ああ、そうそう。

 ──ヤーナムの時間の流れが外と『ちょっと』変わっているという話。

 ──ルーピン先生には伝えて欲しくないものだ。

 ──いやなに。後ろ暗いことなど俺の影ほどしかないが……。

 ──『ちょっと』の感覚は人によるだろう?

 ──だから頼むよ。

 クィレルは、あの時「はい」と即答した。

 

「どうしてなのか聞いても?」

 

「こ、この土地は呪われています……! ダンブルドアは私が死んだと言った。だが私は生きている。ほ、ほら! おかしいことが、わ、わかるでしょう!」

 

 遠くで誰かの足音が聞こえた。クィレルはすぐそばのドアノブに飛びつき、部屋に入った。

 そこは数ある講堂の一つだった。

 ルーピンも講堂に入り、扉を閉めて鍵を掛けた。そして振り返り腕を組んで厳しい顔をした。

 

「何を隠している? まさかヴォルデモートがここにいるのか?」

 

「そ、その名前はやめて下さい……! 私は、私は、もう、ずっと後悔しているんだ……!」

 

「後悔だって?」

 

 クィレルは拳を握り、開いた。あの日、砕けた手はここにあった。

 あの子、ハリー・ポッターに触れることも叶わず、焼け、爛れ、膨れ、砕けていく体を見た時に死ぬほどの後悔をした。

 

「死の間際に『勇気を振り絞って、闇の帝王を、ヴォルデモートを拒むべきだった』と……」

 

「あなたに対し、私が言うべきことではないのかもしれない。言ってよいことでもないかもしれない。だが、敢えて言わせてもらおう。あなたは身勝手だ! ハリーを殺そうとしたのに、あなたが後悔しているのは自分の命だ! もしも、ヴォルデモートが賢者の石を手にしていたら? 闇の時代の到来だ! どれほどの人を危険に晒したと思っている!?」

 

 彼の言葉は、あまりに耳に痛い。

 ハリー・ポッター少年には申し訳ないことをしたと今でも思っている。

 だが、それを彼に咎められるのは、ただの立場の違いだ。自分はヴォルデモートと出会い間違いを犯し、彼の身の上にそれが起きなかっただけだ。クィレルはそう考える。だから声を裏返しながら吠えた。

 

「私を責めることの出来る、あ、あなたは幸運だ! 一度も間違いのない、さぞ素晴らしい人生を歩んできたのだろうな!? つ、ついでに石でも投げるといい!」

 

「この……!」

 

 廊下を走る足音が聞こえて二人は廊下を見た。

 

「せんせー、クィーレルーせんせー、ごはんですよー。歓迎会でもありますけれど。あら? お花を摘みに行っているのかしら?」

 

 二人は息を殺した。そして廊下のテルミが去るまで待った。

 その頃になると二人とも互いに噛みつきそうな雰囲気は霧散し、気分は平静に戻っていた。

 お互いに疲れたように椅子に座った。

 二人分空いた席に座ったルーピンは、クィレルに問いかけた。

 

「あなたは『死んでいた』と語る。ならば……まさか……」

 

 その先の言葉をクィレルは知っている。

 自分自身に何度も問いかけたものだ。

 

「ヤーナムでは、死者が蘇る?」

 

 どんな魔法であっても、それは出来ないとされる。

 それは最早、魔法という技術の領域ではない。正しく『神秘』の領域だ。

 クィレルは頭を横に振った。

 

「そ、そういう生と死の領域の研究は、きっと魔法省の神秘部がかかり切りになっていることでしょう。……ヤーナムのことは、本当に、わ、分からない。私は、か、彼らのことを何も探らないことで生かされているようなものだ。ここで生きるのなら、あなたもそうした方がいい。か、彼らは簡単に我々を殺せる。そうしないのは私達が狩人さんの客だからだ」

 

 事実、ヤーナムを探ろうとした現役ホグワーツの教師は、危うく死にかける目に合ったことをクィレルは学徒の雑談から知っている。

 そのことを聞いたルーピンは納得した。

 

「スネイプは、ヤーナムを『永住を考えるほど刺激的かつ魅力的な街だ』と語った。なるほど。まだまだ私を殺してしまいたいらしい……」

 

「と、とにかく、私はずっと『例のあの人』に与したことを後悔していて……迷惑を掛けた人々には……も、申し訳ないと……思っている……」

 

「ならば、ここに留まる理由は?」

 

「こ、ここにあなたが来て、驚いた理由と同じです。驚くでしょう。死んだと思われていた人間がうろうろしていたら。十年も経てば……皆さんの記憶も薄れて……私はそっくりさん程度で済むでしょう。いいえ、それでも人里に住むつもりはありませんが……。あと七年ほど留まる予定です」

 

「もっと短くて済むように私からダンブルドアに話を付けよう」

 

「そんなっ!」

 

 クィレルは思わず悲鳴を上げた。

 彼が黙っていさえすればヤーナムでの平穏は過ぎていくのだ。平穏を壊さないで欲しい。そう請うたクィレルの隣で彼は立ち上がった。

 

「本当に申し訳ないと思っているのなら、もう二度とヴォルデモートに──しっかりしてくれ!」

 

 反射的に身が震えてしまったクィレルを叱咤したルーピンは目に光があった。

 

「──関わりたくないと思うなら、あなたはヴォルデモートを滅ぼそうとしているダンブルドアの側につくべきではないですか? 知っていることを話すべきだ。それがあなたの責任というものでは?」

 

「せ……責任……?」

 

「死んだのは、あなた個人の失敗でしょう。……けれど生きているのならば、次に誰かが同じ失敗をしないように防ごうとは思わなかったんですか? あなたも『闇の魔術に対する防衛術』の先生だった。マグル学の先生でもあった。教壇に立っていたあなたは若者を教え導く存在だった。あなたも私も、もう二度と教壇には立てない身でしょう。けれど、まだ未来ある人々のために出来ることはある」

 

 彼を直視することが耐えがたくなりクィレルは床に目を落とした。

 

「……私は、あなたとは違う。私は、あ、あなたのように勇敢ではない。責任を取ることも出来ない。生き恥を晒してこうして無害に生きるのが精一杯だ。未来ある人々のために? そ、そのためにヤーナムに来たのなら、あなたはとんだ愚か者だ。こ、ここは、違う。他の土地とはまったく違う。違うのに」

 

「ダンブルドアは、誰も見捨てない」

 

 ──そうだろう。

 クィレルは口の中を血が出るほどに噛んだ。

 ──知っている。知っていた。

 どれだけ知識を食んでも、どれだけ見識を深めようと、遠く及ばないことはヴォルデモートと遭遇する以前、もうとっくの昔に悟っていた。だからこそ自分は、あの賢者の太陽の如き眩しさ、平等さ、そして、偉大さに耐えきれなかったのだ。

 ──ああ。この人は、自分に期待していないのだ。

 彼と対面して、そう感じた日に自分は心のどこかがポッキリと折れたのだ。

 

 ヴォルデモートに唆された。これは事実だ。

 だが、それだけだっただろうか。

 クィレルは自分を振り返る。

 偉大な権威の膝元で宝物をかすめ取ることには緊張感と恐怖があった。けれど、同時にあの賢者を驚かせ、脅かすことに歓喜していた自分もいた。

 ──見よ! お前があの日、歯牙にも掛けなかった凡才が誰にも出来なかったことを果たしてみせたぞ!

 そう言い、誇ることを一度でも思い描かなかったか。そう問われたら、きっと頷くことは出来ない。

 

「彼は私のような狼人間でさえ救ってみせた。あなたは信じるべきだ。そして報いるべきだ。かつて、あなたを信じて生徒を託したダンブルドアのために。あなたを慕った生徒のためにも」

 

「……ダンブルドアが私を任命したのは、他に人がいなかったからだ」

 

「ああ、そうかもしれない」

 

「……誰も私のことを慕う生徒なんていない。マグル学の教授だった時からそうだった」

 

「ああ、そうかもしれない」

 

「そ、それでも報いるべきだろうか……?」

 

「なおさら報いるべきだ。──他の誰でもない。あなた自身のために」

 

 クィレルは黙った。

 やがて。

 

「考える時間を……下さい」

 

「迷う時間ならたっぷりあったでしょう」

 

 クィレルはルーピンを見上げた。驚くべきことに彼の目に蔑みはなかった。

 

「……ダンブルドアへ宛てる言葉まで考えては、いませんでした」

 

 ルーピンは、その言葉を聞いて微笑んだ。

 結果、彼らは『一年間お疲れさま会』に大遅刻した。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「──クルックス、レオー様が学舎の前で待っているよ」

 

 テーブルに全員分のカトラリーを並べていたクルックスは、セラフィにそう言われて仕事から目を離した。

 

「なに?」

 

 クルックスは、レオーが学舎に長居しないだろうと思っていた。彼は女王からの仕事でこの学舎に来たのだと言っていたし、ルーピンを輸送する仕事が終わった今、彼はもうすでに学舎を出てしまったのだと思い込んでいたのだ。

 

「『なに?』も何もないよ。レオー様がクルックスに頼みたいことがあると言っていた。君のために学舎に留まっている。時間がない。早く行ってくれ」

 

「お、おお……?」

 

 クルックスはセラフィに仕事を渡すと安定しない足取りで食堂を出た。

 レオーと言えば。

 三年生までの夏休みでクルックスの首を刎ねたことがある。

 これにはセラフィが先達である彼らに予定を告げず休業していた『うっかり』だとか。レオーが鴉に対する曖昧な命令をしてしまったゆえの誤りだとか。運悪くカインハーストの宿年の敵である処刑隊の狩人に出くわしてしまったとか。さまざまな要因が言い訳として機能する。

 最終的に手を下したのはレオーだが、もとを辿れば連絡を怠ったセラフィが悪く、現場ではどう考えても刺すべき場面ではないのにクルックスに致命傷を与えた鴉も悪い。しかし、クルックスは誰が悪いということを決めないことにしていた。考えると頭がぐちゃぐちゃになるということは大きな要因であるが、何よりクルックスは誰も恨みたくなかったのだ。夏休みに彼と過ごした日々は短いが充実している、温かい時間だった。

 心の整理がつかないまま、学舎の外に出た。

 ツンと煙草の匂いが鼻先をくすぐった。煙の源を探せば、馬車のそばでレオーが紙煙草を吹かしていた。

 

「来たか。──クルックス。元気にしていたか?」

 

「え、ええと、俺は……元気です。ずっと……」

 

「そうか。それは重畳。──来いよ」

 

 会話には気を遣う。

 こちらから『すみません』はないだろうし、向こうも『申し訳ない』とは思っていないような気がしたからだ。

 ぎこちなくクルックスはレオーのそばに立った。

 

「また背が伸びたな。うんうん。成長することはよいことだ。……そうそう。あの時は助かった」

 

「……?」

 

「処刑隊の狩人のことだ。お前の首と俺の左腕と肋骨数本と引き替えに奴の右腕を落とせた。昨年の狩りは例年以上。つまりは『上々』だ」

 

 ヒヤリ。

 全身に冷たい氷を押し当てられたように肌の感覚がおかしくなった。

 クルックスは、レオーを必死に見つめた。薄く笑う彼は本当に感謝をしているようだった。裂傷の少ない左手がクルックスの頭と頬を撫でる。落ち着かない気分になり、声を上げた。

 

「あの……俺は」

 

 自分は果たして何を言おうとしたのか。クルックス自身、よく分からない。

 

「カインハーストの狩りに巻き込んで悪かったな。やはり市街は野蛮でダメだ。──だがお前は大切だ。愛しているぜ」

 

 煙草の煙をフッとクルックスに吹き付けたレオーは気楽そうに笑った。

 

「煙いです。……レオー様、あまり無理をなさらないで下さい」

 

「怪我はとっくに治った。お前達の言う、何だったか、異教の祭日の頃には──」

 

「そうではないです。……貴方は、とても無理をしているように見えます」

 

 クルックスがそう思ったことについて。

 決定的な何かが見えたワケではない。だが彼には以前学舎に訪れた時には無かった、焦りのような感情があった。

 

「正論を言うな。逆上するぞ。前にも言っただろうが」

 

 彼は長々と白い息を吐いた。

 自分を落ち着かせるような呼吸だ。

 

「俺は、これしか生き方を知らないのだ。市街の邪魔者が少ない年は貴重だからな。急ぎもすれば、焦りもする。昨年の夢は再び巡ったが、今は夏。あと四時間で日が暮れる。夜は狩りの時間だ。ただし──」

 

 初めてレオーの薄い青の瞳に、躊躇が浮かんだ。

 その躊躇いは『引け目』のようだった。

 

「今年の夢が巡ったら……お前があんまり俺のことを心配するから、すこし休むとしよう。ひとつ、お前の願いを叶えるのも、まぁ、悪いことではあるまい。……ぐうう」

 

 レオーは短くなった煙草を地面に落としてもみ消した。

 それを眺めていた目がクルックスを向いたとき、彼の方が耐えきれなくなったようだ。

 

「クルックス。もうちょっと何か、こう、あるだろう? 『ある』と言え。『テメー、俺をぶっ殺しやがって!』とか『レオー様、嫌いっ!』とかさァ!」

 

 一度はクルックスも考えたことだ。しかし。

 

「俺はセラフィもレオー様も、ついでに鴉羽の騎士も、恨みたくないのです。貴方が優しい人だということを知っていますから。あの件は不幸な事故ということで俺は納得しているのです。お手紙のとおりに。だからレオー様もあまり気にしないでいただけると嬉しいです。……また一緒に学舎で過ごしたい、ですから」

 

「よし分かった。次の休暇は全部クルックスに使ってやる。お前も連盟活動そっちのけで来るんだ。分かったな?」

 

「は、はい……!」

 

「こんなことで喜ぶな。まったくもう」

 

 無造作にレオーはクルックスの体を引き寄せると抱きしめた。

 突然のことに驚いたが、そういえばこんな人だった。一年ほど前の思い出した記憶がクルックスの胸をじんわり温かくした。

 

「……都合が良いったらありゃしないんだ、若い奴は。だから早死にする。可哀想に……可哀想に、なァ……」

 

「そうならないように導くのも先達の勤めだと思います」

 

「言うねぇ。耳が痛くて心が裂けてしまいそうだ。……いい子だな。さて、これで心置きなく帰れる」

 

「……あ」

 

 クルックスは手紙のことを思い出した。

 レオーに宛てた手紙のことだ。

 お茶会のことも気になっていた。

 しかし、口に出すには場違いな気がして言葉にするのに迷う。そのうち二人は数十秒間見つめ合った。

 

「『あ』って何だ。『あ』って?」

 

「い、いえ。何でも無いです……」

 

 レオーは、うんざりした顔をした。

 

「なぁ……心置きなく帰れなくなるからそういうのやめてほしい。本当に。死に際にそういうの思い出して死ぬとかよくあることだし、お貴族様のプライド的に耐えきれないから。ほらほら、さっさと言え。それともなにか。カインハーストで話を聞いたって構わないんだぜ、俺は」

 

 レオーはそう言って馬車を指した。

 馬車を曳く馬が急かすように前脚で地面を蹴った。

 カインハーストに行きたくない、というより鴉に会いたくないクルックスは、白状することにした。そして「手紙のこと……」と小さい声で伝えた。

 

「手紙? ああ、セラフィが持って来た手紙のことか?」

 

「……今年は……ほんのすこしだけ、お恨み言を言いたい気分になったこともありました。どうして鴉羽に追伸を見せたのですか。お茶会のことです。俺は……レオー様とセラフィだけでよかったのに」

 

「追伸? ん? うん?」

 

「えっ? え? エッ?」

 

 レオーは『何のこと?』とは言わなかったが、その顔には隠しようのない戸惑いがあった。

 クルックスは、まさかのことを思いついた。

 ひょっとして。

 

「レオー様は……追伸を……ご存じない!?」

 

「あの封筒、二通入っていたの? ええぇ……。追伸は、み、見てないぞ。一応、釈明するとだな。処刑隊の狩人とやり合って体ボロボロだったところに持ち込まれた手紙だったから、封筒の内容確認をしっかりしなかった、かも、しれない……。いや、すまん。本当に。それで、追伸には何を書いていたんだ? お茶会がどうとか?」

 

「次回の休暇にレオー様とセラフィと一緒にお茶会をしたいという話です。なぜか鴉羽が内容を知っていましたけど」

 

「鴉めェ。他人の手紙を見るなんて……。お行儀悪いことしちゃダメって言わなかったかな、俺。うん。言ってなかったかもしれない」

 

 レオーは「悪いなァ」と言いながら、クルックスの機嫌を伺うように頬を撫でた。

 気恥ずかしくなり、クルックスは学舎を見た。誰もいない。

 

「ん……。レ、レオー様がご覧になっていないということであれば、それはそれで……。こうして今伝えることが出来ましたからいいんです。この問題はこれからが本題です。セラフィから聞いた話によると、なぜか俺と鴉羽とセラフィでお茶会をすることになっているんですが……その……気まずいというか。はっきり言うと俺の気が進まないというか。対応にすごく困るというか……。なので、と、とにかくレオー様のお力添えで『話をなかった』ことにしていただけないでしょうか?」

 

「うーん? まあ、気まずいという気持ちはよーく分かる。『話をなかった』ことにするのは簡単だが……どうせ鴉は休暇で学舎に来るから、お茶会はここでやってしまった方がいい。彼がセラフィにそのことを話したということは、彼の頭のなかではもう決定事項ということだ。目先のお茶会がなくなってもいつか必ずやるぞ」

 

「ぐ、ぐぅ……」

 

 頭のどこかで想像していた返答にクルックスは唸るしか出来なかった。お茶会をするとして、せめてレオーがいてくれたら安心できるのだが、騎士の二人が同時に休暇を取ることはカインハーストの防衛上の問題があるため出来ないだろう。

 落ち込み続けるクルックスをどう見たのか。彼は励ますように言った。

 

「不安な気持ちもよく分かる。セラフィに学舎待機を命じておこう。学徒も加わるだろう。それにお前から狩人にも参加するように頼めば断りはしないだろう。頭数が揃えられる学舎がよい。下手に予定を変更したら、お前はいつかカインハーストで鴉と一対一でお茶会することになりかねん。それはそれでよい経験になるだろうが……」

 

「学舎で場を整えることにします。ご助言ありがとうございます」

 

 クルックスの言葉は決まった。学舎で鴉を迎え撃とう。──そもそも戦闘ではないのにお茶会には緊張感がある。

 

「ああ、それがよさそうだ。あいや。ホント悪いことをした。俺に宛てた手紙でこんなことになるなんてな。二度とこんなことにならないようにお前も一度カインハーストに来るといい。『使者の灯り』を点しに来てはどうだ? 片道なら送ってやれるぜ」

 

「それは、いずれ、相応しい時に伺います」

 

 先送りの言葉ばかり上手くなっていないだろうか。

 レオーに伝えた言葉に自分自身が不安になる。彼もその不安を見抜いているようだった。

 

「ククク、まぁそれもよいだろう。よかろう、よかろう。よかろうて。カインハーストの納税義務を果たせるよう、せいぜい狩人の尻を叩くことだ。俺としては滞納してもらった方がありがたいがね」

 

「お父様は昨年いたく反省したようなので大丈夫でしょう。たぶん」

 

「そこは大丈夫だって言い切ってほしいぜ。今年の狩人は鴉と何やら取引したみたいだ。さぁて、取引内容はキチンと聞いていたかな? 隣で聞いていた俺は十一とかいう話を聞いた気がするが、気のせいだったかね」

 

「ト、イ、チ? トイチ?」

 

十一(トイチ)。異邦の経済概念でなァ。この仕掛け武器『千景』やセラフィの使う『落葉』と一緒に昔々ヤーナムの外から輸入されたものだ。十日で一割を利息として計上するという内容だったと記憶するが、はてさて?」

 

 レオーは、カラカラと笑った。彼は指摘されるまで契約書の二枚目を見せないというちょっとした悪徳を披露したことがある。そんな彼にとって同僚が法外な利息を吹っかけた話を聞き逃すのは朝飯前だったことだろう。なんせカインハーストの利益になる話だ。

 

「お父様と、か、鴉との取引とは──」

 

「夏休みに馬車を使っただろう? 契約関係の整備は鴉の担当だからな。うんうん。ここだけの話、彼は頭の調子が良いときは意外と書類仕事が出来るスゴいヤツなのだ」

 

「……ま、まさか、いくらなんでもお父様が、そんな法外な取引に手を出すとは、そこまで、あの、アレだとは……」

 

「そうか? あの狩人は日付の感覚がどうにも怪しいからなァ? ほーお? 青ざめてる。……いいよな、若いって。だからこそ愛せる。愛せるなァ……」

 

 さりげなくクルックスの腰に腕を回したレオーは、馬車をチラリと見た。

 

「クルックス、ところで俺の後ろにちょうどいい密室があるんだが……どう思う?」

 

「密室……?」

 

 彼の言う『密室』が、馬車のことを指すと分かったが、それにしても『どう思う』とは何だろうか。クルックスは彼が何を言いたいのか分からなかった。

 

「ええ……その……俺は……」

 

「つまりだ。学校の話が聞きたい。どうだ。俺と二人でお話をするというのは」

 

「ああ、それは……いえ、今日はダメです。学舎にはセラフィが……それに俺は『一年間お疲れさま会』の準備の最中に抜け出してきただけですから──」

 

「それはむしろ燃える展開。俄然やる気が出てきたぜ。……なぁ、堅いこと言わずにさァ。人助けだと思って」

 

 油断した隙に利き手である右手を取られた。指同士が絡み合う。体が密着しているせいでジタバタもできない。

 

「く、くすぐったいです……。レオー様、今日はこれから用事が……平時であれば、人助けするのはやぶさかではありませんが……」

 

「埋め合わせをしたいのだ、俺は。……俺とてお前を傷つけたくはなかった。本当だ。本当のことだぞ?」

 

「それは重々承知しています。俺は全然気にしてませんから……!」

 

 ──重い。

 クルックスは感じた。感情が重い。彼も気に病んでいたんだな、ということはよく分かった。それは言葉ではない。瞳の奥に黒々とある狂気がそう語っていた。

 熱い掌が気になり、クルックスも集中力を乱した。その時だ。

 

「あ」

 

 聞きたくなかった声が聞こえた。クルックスは振り返る。セラフィがいた。

 

「あひっ! ひどいっ!」

 

 クルックスは初めてセラフィが慌てふためく様子を見た。ぎこちなく歩いてやってくる。

 

「セラフィっ!? いや、ちょっと待って、これは、とにかく、違う、違うのだ──」

 

 自分でも何を言い訳しようとしているのかよく分からないクルックスは、とりあえずレオーから離れようと頑張ったが、カインハーストの恵体は動じなかった。

 

「クルックス……君は、ぼ、ぼ、僕がいるのに先達まで……!」

 

「違う違う! えっ何だ!? 何て言った!? 何が起きたんだ!?」

 

「──しらばっくれるのは善くないことだ。鴉羽の騎士様に言いつけてしまおうか。クルックスがよくない目でレオー様を見てる……」

 

「誤解だ! よくない目って何だ!?」

 

「まあまあ、セラフィ。そう逸るな。クルックスはな、こう見えて甘えたい盛りなのだ」

 

 話をややこしくしている張本人であるレオーは、クルックスをつかまえて離さなかった。むしろ引き寄せて抱きしめた。

 

「いつも『きょうだい』のことを考えて頑張っているからな。誰かが労うことを必要だろう。狩人がそれをしては贔屓になる。だから俺がこうして甘やかしているというワケだ。分かったな?」

 

「僕は状況を理解しました。しかし、レオー様のご温情に甘える恥知らずが『きょうだい』にいるとは悲しいです」

 

「恥知らずではない。こどもはこんなものでいいのさ。セラフィ、お前もこうして甘えてもよいのに」

 

 レオーがパッとクルックスを手放した。

 

「んっ。だ、だめです。……鴉羽の騎士様が、ご機嫌を損ねますから」

 

「じゃあアイツの休暇中は俺とカインハーストでゆっくりしような?」

 

「それは……ぁ……お、お望みであれば、僕はいつでもそのように……」

 

「よしよし。可愛がってやろうな。──さァて、名残惜しいが長居し過ぎた。そろそろ行くかね。ああ、狩人によろしく。愛してるぜ」

 

 そう言ってレオーは学舎を去って行った。

 残されて気まずいのはクルックスとセラフィだ。

 

「あの、セラフィ……本当に勘違いしないでほしいんだが……」

 

 セラフィは、照れの残るほんのり赤い顔でクルックスを見つめた。漂う色の気配に彼は、なんと声を掛けるべきか分からなくなった。

 

「レオー様は特別に君を気に入っているんだろう。わかるよ。僕も君のことが、とても大切だからね。僕が君を想うようにレオー様も同じように想って下さるのだ。順位を付けるなんていけないことだと分かっているのだけど……。でも、僕は君のことが好きだよ」

 

「……レオー様を想う気持ちなら俺は君に敵わないだろうな。ありがとう」

 

 クルックスは右手を差し出した。何も諍いなどないことの証明に握手を求めた。

 いつかと同じようにセラフィはクルックスの手を取らなかった。代わりに。

 

「おわっ」

 

 両手を広げてクルックスのことを抱きしめた。

 クルックスより背の高いセラフィは覗き込むようにクルックスを見た。

 

「君のことが大切なのだよ、僕は。……しかし、それとヤーナムに資することが両立できないのは本当に残念なことだ」

 

「それは……そうだな。けれどお父様にもお考えがあるのだろう。君とお父様を信じたい」

 

 セラフィの背中を撫で、安心させるようにポンポンと叩いた。

 

「ねぇ、レオー様に……」

 

「あの方は俺がフラフラしているように見えて心配されたようだ。杞憂にしてみせよう」

 

 早口で告げたことにセラフィは興味を示さなかった。

 代わりに。

 

「僕は君のことを心配していない。君は……最後には自分で自分を救ってしまいそうだから。僕が話したいのは、そのことではなく。昨年の夏休みに君が医療教会の射手の情報を持ち込んだ時のことだ。どうして夜なのに市街を離れたのか不思議に思っていた。君は……」

 

 セラフィの細い指がクルックスの首を撫でた。死が夢となった為、傷跡は存在しないが彼女が言いたいことは察した。彼女はずいぶん前から自分とレオーの会話を聞いていたようだ。

 

「ああ。まあ。不幸な行き違いがあっただけだ」

 

「どうして僕にそう伝えてくれなかったのか。傷ついた君を一人にしたくなかったのに。レオー様には話せて僕に話せないことが?」

 

 怒ったようにセラフィは言う。

 セラフィの手を握り、クルックスは答えた。

 

「君の悩み事とレオー様から依頼されたことに応えたかった。どちらも急ぎの件だったからな。……もう大丈夫だ」

 

「隠さないで。僕も君の秘密を預かりたい」

 

「君に預かって欲しい秘密ができたら話すとしよう」

 

 セラフィはクルックスを見つめ、ゆっくりと体を離した。

 

「……待とう。君のために」

 

「ありがとう。優しい君。俺も君が大切だ」

 

 生きる限り、秘密は生まれる。その秘密こそが、自分と他者を隔てる壁だからだ。

 けれど、その様は秘密を全て身の内に隠してしまった父たる狩人の姿とも重なる。

 心の底に思っていることを洗いざらい話したとして解決に繋がらないならば黙っていよう。無用な心配事を彼女にもたらすだけだから。クルックスは考える。──父も同じことを考えているのだろうか。

 セラフィと並んで歩き、彼は思った。

 ──けれど、まあ。今日だけは。

 

「宴会だ。血酒はないけど乱痴気騒ぎが待っているよ」

 

「素面なのになぁ」

 

 彼は狩人がそうしているように問題を全て先送りにすることを決めた。

 

「でも家族はそういうものなのだと聞いたよ」

 

「そうか。ならいいか」

 

 隣で足取りを弾ませるセラフィを見ているとクルックスも幸せな気分になる。

 

「家族。家族か」

 

 実感の少ない、ふわふわとした頼りない言葉だ。

 セラフィもそう感じているのだろう。

 

「僕らは『きょうだい』で家族だからね」

 

「お父様のことをお父様と呼んでいるのに『家族』とは、何だか遠い言葉に感じる」

 

「僕らとお父様は根本が違うものだから、だろうか? でも温かくて好きだよ。家族。君と僕は家族だ」

 

「そうだな。家族。いい言葉だ」

 

 繋がりを示す言葉ならば、いくらあってもいい。

 それが温かいものであれば、尚更のことだった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 ヤーナムの夜。闇にひそむのは獣ばかりではない。

 闇に紛れる暗い狩人装束に身を包み市街を歩くのは隠し街、ヤハグルの狩人だ。

 

「お仕事の一発目が『おつかい』とはな。まったくふざけてやがる。──おい。場所は分かっているんだな?」

 

 乱暴に問いかけたのは、アンタルと呼ばれるヤハグルの古狩人だった。

 

「ああ。診療所だ」

 

「どこのどれだ。診療所なんて市街に星の数ほどあるだろうよ」

 

「そんなにはない。ダミアーンのメモによると、ヨ、ヨゼフ、いや、ヨセフ? ん、あぁ、ヨセフカ、診療所って書いてあるな」

 

「ヨセフカ? ああ、梯子の近くにある診療所だな。なかの医療者には会ったことはないが。男か? 女か?」

 

「いつも出てくるのは男だな。車椅子に乗った血の医療者だ。だがいつも奥に誰かいる気配がするから他にも医者がいるんだろう」

 

「……へぇ。手厚いことで」

 

『教会の杭』と呼ばれる長柄と四角錐を結びつけた仕掛け武器を肩に担ぎ、彼らは夜を駆けた。

 幸い獣には出くわさなかった。それどころか狩人の気配さえ少ない。

 何度か梯子を昇降した先、彼らの目にはヨセフカ診療所が見えていた。

 

「すんなりと、だな。いーや、銃撃戦を期待していたワケじゃあないが、妙だ。拍子抜けだ」

 

「市街の狩人と教会の黒共はカインハーストの血狂い共に狩られたんじゃないか? どうやら今年は相当に跋扈しているらしいからな」

 

 幸いなことに使用場面はなかった仕掛け武器、トニトルスを撫でながら狩人が言った。彼は腰のベルトに銃を差し、周囲を警戒しながら扉を素早く叩いた。

 風が吹いた。不気味なほど静かな夜のせいで診療所の奥に広がる庭にある樹木が、風に負けて軋みを上げる音がいやに大きく聞こえた。

 アンタルだけは、まだ銃を構えていた。

 

「あーあ、うへェ、コワー。市街の狩人なんて辞めて正解さ。カインの狩人どもは隠し街までは来ない。どこから来ているのか知らないが、やっぱ往来が大変だからかなぁ……」

 

「そうかもな。──おい。銃を仕舞うなよ」 

 

「ここまで来れば大丈夫だって。市街のど真ん中でドンパチやるほどあっちもイカれてないだろ」

 

「市街が静まりかえるほど狩人を狩ったのに? 穢れてパッパラパーのイカれ加減なんて分かるものかよ」

 

 二人は額を押し付け合いながらノックを繰り返す。周囲を警戒しつつもグダグダと話した。しばらく経つと診療所の中に灯りが見えた。

 

「おっせーぞ……外で待たせんじゃねえよ。恐いだろうが……」

 

 アンタルは、愚痴をこぼした狩人の肩を叩いた。それは言葉を諫めるためではない。

 

「シッ。……おい、待て。血の医療者って車椅子に乗っているんだよな?」

 

 小さな声でアンタルは訊ねた。

 

「さっきもそう言っただろ。なんだ? 牢屋でボケたか? 介護は先生で間に合っているんだ。ブチ殺すぞ? おぉん?」

 

「口が悪すぎるだろ。違う違う。ほら、灯りを見ろ。……車椅子の動きじゃない」

 

 トニトルスの狩人は、まだ疑わしげにアンタルを睨んでいたが、やがて磨り硝子の向こうでゆらゆら動く灯りを見つけてベルトに挟んだ銃を抜いた。そして、指で耳を差した。続いて金属の兜のなかで伝えて来た。──靴音がする。

 ふたりは音を立てずに扉に嵌められた硝子から身を離した。

 

「──いま開けるわ」

 

 屋内から聞こえたのは、若そうな女の声だ。

 怪訝な顔で二人は見合わせた。その時。ガシャン、と大きな音が聞こえた。扉の鍵が開いたのだ。そしてコツコツという足音が遠ざかっていく。

 これまでの経験と違うことが起きた。そう感じて踏み込むのに躊躇うトニトルスの狩人に「待て」と手振りで示し、アンタルは扉を開き、踏み入った。

 

「私が学派の遣いだ」

 

 アンタルは、後ろ手に銃を握ったまま言った。

 扉と距離を取り立っていたのは白い装束を着た女性医療者だった。

 金色の髪を左目に垂らし、頭の後ろで軽く結っている。薄く引いた紅がゆっくりと弧を描いていた。

 アンタルが記憶する限り。

 ヤーナムの女性は──街がそうであるように──いつもどこか陰鬱として『不満と陰口を活力として何とか生きている』と言える状態の生き物だったが、この女性はそういう種類の女性とは違う雰囲気があった。

 ──雰囲気。そう、雰囲気が違う。

 ぼんやりとした感想の正体を見極めるため、アンタルはさらに一歩進んだ。

 

「手紙を預かっている。内容を読め。そして返信を。受け取ったら帰る」

 

「そちらのテーブルに置いて下さい」

 

 医療者の白手袋に包まれた指がテーブルを差す。

 医療者から目を離さず、アンタルは手紙を置いた。

 彼女はますます笑みを深めた。

 

「何だ」

 

「──待っていたわ。ずっと待っていたわ。『いつも』ではない何かを。『いつも』ではない人を。貴方は狩人? それとも人攫い?」

 

「私はヤハグルの狩人だ。妙なことを言うな。──お前もイカれか?」

 

 アンタルは銃をチラつかせて訊ねる。

 医療者は、気にした素振りなくテーブルから手紙を拾い上げた。

 その目は、まだアンタルを追っていた。

 

「いつもの人攫いは『テーブルに置いて』と言っても私に手渡しをするけれど……貴方は違うのね。いつかこんな夜が来ることを夢に見て待っていたわ。私はヨセフカ。本物のヨセフカよ」

 

「本物? ほう。じゃあ偽物もいるのか?」

 

「それは赤い月の夜までとっておきましょう。──二〇〇年ぶりの初めまして、ご機嫌よう。貴方の名前を聞かせてほしいわ」

 

「アンタルだ。離反者、アンタル。最後にはそう呼ばれた」

 

「離反者? ウフフ、とっても素敵だわ。異端者と離反者。お似合いね」

 

「イカれた女と一緒なんて願い下げだ。……あ? 待て。待てよ……に、二〇〇年? まさか、お前──」

 

 アンタルは鉄兜のなかで目をみはった。

 ──いったい今がいつなのか。

 ずっと気になっていた年数が、それも思いもしなかった年数を聞いてしまったことが彼の動きを止めた。

 医療者の白い両手は、花が咲くように開いた。

 

「ヤーナム市街へようこそ。まるで現実のおかしな悪夢に囚われてから貴方が初めての訪問者よ」

 

 外にトニトルスの狩人を待たせていることも忘れ、アンタルは呟いた。

 

「悪夢……?」

 

 ──世界には、なんと皮肉なことがあるのだろう。

 

「悪夢が……ここが……もう……?」

 

 よろめく。

 アンタルは周囲を見渡した。

 静寂が支配する診療所。

 血の臭い。薬の臭い。

 何もかも記憶にある現実のヤーナムなのに。

 

「まだ……悪夢なのか……?」

 

 悪夢より這い出てきた古狩人は、事実に体の力が奪われ、冷たい床板に膝をついた。

 

 ──学派は何をやっている。

 ──悪夢?

 ──悪夢ならあるじゃないか。

 ──ずっとずっとここにあったじゃあないか。

 ──とびきり奇怪で、とびきり狂ったヤーナムが!

 

 考えてハッとする。

 そして、アンタルはメンシス学派を頼りにする思考をしてしまった自分を恥じた。

 

 彼らは、まだ十分な瞳を得ていないから分からないのだ。

 悪夢は、もう現実の形をしているということに。

 

「──信じる証拠は」

 

 鋭く問いかける。

 医療者、ヨセフカは告げた。

 

「あと二ヶ月以内に悪夢が眠り、そして、目覚めるわ。分かる? 悪夢は死に、悪夢が生まれ変わるの」

 

「分からん。何が起きる?」

 

「不可逆事象が可逆になるわ。狩人なら、そうね、身近な例では死んだことが『なかった』ことになるわ。──まるで夢を見ていたかのように」

 

「…………」

 

 心当たりがある現象だ。ダミアーンと自分の身の上は、これで説明できる。

 

「な、なぜ、こんなことが起きている!?」

 

 一つの疑問の解決は、複数の疑問を引き起こした。思いつく限り、訊ねた。

 

「怒鳴っても意味はないわ。貴方に拷問が無意味なように、私にも脅迫は無意味だもの。だから情報を交換しましょう。その方が建設的だわ。だから答えましょう。──といっても私も大したことは分かっていないのだけど。『なぜ、こんなことが起きている』のか。──それが今回の悪夢の主の趣味なのでしょう」

 

「ふざけてるのか?」

 

「それは悪夢の主に言ってほしいわ。この二〇〇年とすこし。夜が来るわ。けれど同じ数の朝もやって来る。そうしてほとんど変わり映えのしない一年が続いている」

 

「いま『ほとんど』と言ったな? 変わることがあるのか?」

 

「ええ。今日、貴方が訪れた。この悪夢は時間が進むのを嫌がるのに過去の死人が歩くのは気にならないみたい」

 

「古狩人を集めて何をさせようっていうんだ」

 

「ウフフ。狩人がやることは決まっているでしょう?」

 

 愚問に気付き、アンタルは「ああ」と気まずくなって鉄兜の檻を掻いた。

 

 狩人がいるのだ。

 ならば。

 獣狩りの夜は終わらない。

 





残り2話となりました
 最終的にヤーナム編は42話となりました。
 あと、ほんのちょっとだけお楽しみいただければ幸いです。


ご感想お待ちしています(交信ポーズ)


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最も新しき獣狩りの夜(ヤーナム市街ー大聖堂)


止まり木
鳥が羽を休めるために備えられたもの。
いかな鳥も飛び続けてはいられない。
休息を得、羽根を休める場所は必要だった。
どんなに血に塗れていようとも。



 

 獣の声が少なくなった市街では風の音ばかりがうるさい。

 ヤーナム市街で果たすことはもう数える程しかなかった。

 

 ヤーナムのほぼ中央に位置する大聖堂。階段を登った先では狩人狩りの鴉羽が装束を自らの血で汚していた。

 この先の大聖堂に誰がいるか。狩人は繰り返す夜で知っていた。

 

「──俺がやります。アイリーンさんは休んでいて下さい」

 

 両手で輸血液を握らせると狩人は大聖堂へ向かった。

 

 大聖堂。

 血を滴らせた千景を構え、銃を握る敵対者がいた。

 

「鴉羽は死んだか?」

 

「まだ生きている。腕の悪い鴉だな」

 

 狩人狩りの狩人、アイリーンは重傷だが輸血液があれば死にはしないだろう。そして、彼に目立った外傷はない。手加減する余裕があったようだ。

 敵対者、遙か先の過去において『カインハーストの流血鴉』と呼ばれ、市街の狩人の死の原因となる狩人は千景を持ち上げ、月の光に照らした。

 

「なぜ鴉羽が来ない?」

 

 まったく滑稽な想像で、記憶も定かではない自分が考えるのは不思議なことに思えることだったが──彼の平坦な声音は、まるで拗ねた子供のように聞こえた。

 

「ひょっとしたらお前が体を削いだから動けないのかもしれないな」

 

「ああ。あの鴉羽はいつもそう。脆い。老いた鴉はあのように醜いのだ。実に救い難いな?」

 

「囀るなよ。あの人はこの夜にあって正しいのだろう。慈悲の心をお前は知らないらしい」

 

 鴉は嗤った。見下し、蔑み、呪っても余りある悪意が刃を濡らした。

 

「慈悲とは、雨の如く平等に降り注ぐものであるハズだ。だが、あの女は救う者を選ぶ。屍肉喰らいのカラスと同じ。傲慢で卑しい女だ……」

 

「お前は慈悲が欲しかったのか? アイリーンがお前を殺さなかった理由はひとつ。単純なことだ。──お前は慈悲を施すに値しなかったのだろう」

 

 互いに同時に発砲した銃弾は命中した。

 狩人の深く被ったトリコーンは弾け飛び、流血鴉の兜の曲面が甲高い金属音を立てて裂けた。

 

 流血鴉と月の香りの狩人の闘争は、数十分近くの間続いた。互いの肉を削ぎ、骨を砕き、輸血液の生きる力を頼りに殺し合う。それは凄惨極まる狩人の狩りだった。だが、いかなる争いにおいてもいつか決着が着く。

 勝敗がついたのは一瞬の出来事だった。

 流血鴉の千景が狩人の額を浅く斬りつけた。時を同じく狩人の左手に握られた銃が外套越しに流血鴉の左腕を抉る。体勢を崩した一瞬を逃さず、狩人の手刀がすでに切り裂かれていた流血鴉の腹部に潜り込む、一瞬の出来事で内臓を引き出した。そして体当たりで床に押し倒し、二人は浅い血の池を転がった。

 

「──お前は誰だ?」

 

 まだ抵抗を試みる流血鴉の右手をしっかりと押さえ、狩人は問いかけた。割れた兜から薄青の鋭い眼光が見つめ返していた。その瞳孔は驚くほど──そして、もうこの街では稀な『正常』を保っていた。流血鴉──彼は血に酔っていないのだ。

 

「お前は誰だ? クク、フフフ……。お前は誰だ?」

 

 悪戯好きな子供のように鸚鵡返しに訊ねる鴉の声は血で湿り、かすれていた。

 

「聞いているのは俺だ。お前は、誰だ?」

 

 絶命間近の呼吸が流血鴉の胸を上下させていた。微かな身動き。その呼吸さえ彼の命を縮めている。折れた骨が肺を貫き、腹部の出血は留まるところを知らず、冷ややかな石床に温い血を広げていた。

 

 ──もしも、彼にとって死が慈悲だとするのなら。

 

 今まさに死に見えんとするまでの短い時間が彼を変えたのだろうか。

 鴉が小さくかすれた声で答えた。

 

「止まる枝から堕ち、もはや巣に帰ることもない。……私は鴉。今の私は……ただの鴉なのだ」

 

 途切れそうになる呼吸を見守る狩人は、彼がいつの間にか千景を手放していることに気付いた。

 

「お前は何だ?」

 

 鴉が訊ねた。

 いつか見た時と同じカインハーストの湖と同じ青が見つめ返していた。

 

「俺は……」

 

 狩人は自分の名前を知っている。招待状に書いてあったから知っている。

 だが、書かれた名前をヤーナムに来てから一度も舌に乗せたことがなかった。馴染まないのだ。

 だからこそ、他者に呼ばれる名を答えた。

 

「俺は狩人。今の俺は……ただの狩人だ」

 

「狩人……夢の……新しい、月の香りの、狩人……お前は……私の枝ではない……慈悲ではない……アイリーン、あぁ、アイリーン……どこだ、どこだ……なぜ来ない……?」

 

 ──アイリーンが来ないのは、お前が殺し損ねたからだろう。

 そんなことを言っても何もかもが手遅れで、もう彼には聞こえていない。

 

「……あぁ……どこに……どこに……私の、止り木……」

 

 薄い手甲に包まれた指が床に五本の赤い線を引く。

 それきり彼は動かなくなった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 陰惨な狩りの末。

 遙か湖を越え、凍てつく玉座に辿り着いた狩人は、鉄仮面の女性の姿を見据えた。

 カインハーストの女王、アンナリーゼ。

 処刑隊の長、ローゲリウスにより幽閉の憂き目──当然とも言える──にある彼女は一対の玉座の片方に大儀そうに腰掛け、手すりに腕を預けていた。

 

「跪きたまえ」

 

「ご機嫌麗しゅう。血の女王。──以前、女王様は俺に『血族は二人』とおっしゃった気がするが、本当のところ血族は三人だったのでは? あの鴉は血族ではないのですか?」

 

 狩人はそう言って白銀の髪束を女王に差し出した。

 

「……それは」

 

「覚えがありますか?」

 

 女王は両手を伸ばし、跪く狩人から銀糸を受け取った。

 

「ああ、貴公。鴉を狩ったのか」

 

「お咎め、えーと、さ、され……? さ、され、なさる?」

 

 適切な言葉遣いが分からず、狩人は首を傾げた。

 

「……。いいや、咎めまい。貴公の質問に答えよう。あれは血族だった。そして去った。『私はもう戻らぬ』と言い遺してな。あの男は夜に心を落としてきたのだろう。私に跪いた後もずっと自らの止り木を探していたが……私は応えることはできなかった。ゆえに血族は今や二人ばかりだ。虜囚の私。狩人の貴公。そう。二人。何も間違えてはいないな」

 

「ああ、それならば納得だ。女王様が数を間違えたのかと思っていたが……そういうことならば。その遺髪は女王様のお好きなように。不要であれば俺が処分しますが」

 

「よい。手慰みにしよう」

 

「…………」

 

 女王はたおやかな指使いで遺髪をくるくると指に巻き付けて遊んでいた。鴉の髪は長かった。首から切っても優に三〇センチはあるのだから長い夜の暇潰しにはよいのかもしれない。

 狩人は咳払いをした。

 

「ああ、貴公、ひょっとして『穢れ』を?」

 

「いいえ、違います。女王様に俺は結婚の申し込みをしたいのです」

 

「……! 驚いた。貴公、まさかそのために鴉を……?」

 

 鉄仮面に包まれたアンナリーゼの顔色は分からない。だが声色は、いつもの無気力的な静けさを失っていた。

 

「いいえ、違います。鴉を殺したのは狩人狩りへの義理のためです。申し訳ない。まったく別件の話だと先に前置きすべきでした。ご容赦を。我が女王」

 

 狩人は懐から小さな箱に収められた指輪を差し出した。

 

「では仕切り直して。話は変わりますが、女王様。俺と婚約しませんか? 俺と血の誓約を交わし、血の赤子をその手に──」

 

「貴公は、私を愛してはいないだろう?」

 

 切れ味のよいナイフが飛んできたかのかと思うほどに鋭い言葉だった。

 女王の反応はあまりにも『まとも』だ。そのため狩人はまったく想定していなかった。

 息が喉に詰まり、指輪を持ったまま固まった。

 

「お、俺は女王様のことが好きだと思います。きっと愛せると思っています。それではいけませんか?」

 

「貴公の『まとも』は、程度が低すぎる。会話が出来る女性としばらく話していないから私を求めているのではないか? もう市街には赤い月が昇ったことだろう。正気の者が少ないと以前話していたな?」

 

「い、いいえ! 決して、そんなことは……! 女王様は、お日柄もよく……いやこれ何か違う、ええと、ええと……あ! 血も魅力的です!」

 

「フフ、体が目当てなのか? 貴公」

 

 月に照らされ白く輝いて見えるなだらかな肩が、妙に艶めかしい。

 狩人は狼狽した。

 

「おおうっ!? 何を言っているんだ、俺は……! そうではなく、そうではなくて……女王様、どうか意地悪しないで下さい……。貴女はもう十分に待った。もうそろそろ自ら動いてもよい頃合いではありませんか。俺と共に永い夜を一緒に歩き出しませんか?」

 

「……ほう」

 

 アンナリーゼは興味深そうに言って続きを促した。

 

「好意はいずれ愛になるでしょう。……それに今宵、計画通りに処刑隊の彼へ招待状を渡します。計画に参加して下さる貴女のご温情に対し、俺は形あるもので報いたいのです」

 

「貴公、月の香りの狩人。……全ては永い夜のこと。そして古くからの因習による害なのだ。貴公が何もかもに報いる必要はないのだよ」

 

 呼吸の度に肺に突き刺さる冷たい空気が、ほんのわずか和らぐ。そう錯覚するほどに柔らかくアンナリーゼは告げた。

 

「そもそも処刑隊とカインハーストの縁は我々の問題だ。貴公が招待状を渡したとしてもそれは変わらない。いつか起こりうることを貴公が起こすだけなのだ。……全てに責を負うことはない。報いるための婚姻ならば、私はそれを受け取れない」

 

 ──余計なことを言ってしまった。

 狩人は、そんな感情をおくびにも出さないように「アンナリーゼ様、アンナリーゼ様」と縋ってみた。どんな獣も神秘の人々も最後には下してきた自分が、ただ一人の女性にたじたじしている状況はもどかしい。そして傍目があれば滑稽だと嗤うことだろう。

 

「きっと未来で俺は女王様を愛せると思います。永い夜で共に歩める者にこそ特別な証を送りたいのです。そ、それでも……?」

 

「特別な証などなくとも私は貴公に穢れた血を与えた。……これ以上の首輪が必要かな、貴公?」

 

「お、お、ぉ……」

 

 殺し文句に戸惑う。言葉に困ってしまい、笑った。どうしようもなく困ると笑ってしまうのは彼の癖だ。

 ──敗北だ。

 狩人は深々と頭を下げて婚姻の指輪を懐にしまいこんだ。

 

「で、でもアンナリーゼ様、どうか気が変わりましたら──」

 

「考えておくとしよう」

 

 見苦しく言い募った結果、気のない返事をいただいた。

 女王の間の寒さが骨身に沁みる。

 

 最も新しき獣狩りの夜は、最後の周回でもある。

 誰を狩ろうと──たとえ赤い月が昇っていたとしても──夜は、まだ終わっていなかった。

 




流血鴉
 本作の鴉羽の騎士様こと流血鴉は、生前に女王様と(少なくとも一度は)面会した経緯があります。彼らの会話もいつか書きたいものです。


ローゲリウス師
Q 鴉が面会する際に女王様の間の前にいるローゲリウスがいると思いますが、それはどうしたんですか?
A 鴉が倒しました。本作のローゲリウス師は周回時にリポップする仕様です。


手慰み
 遺髪は現代非魔法族の間では、すっかり絶えそうな文化ですが、カインハーストにはまだあるのでしょう。消費してしまう血よりも永く遺る髪は贈り物として栄えました。


残り1話となりました
 明日の更新で3年生分の投稿を完了いたします。※完結ではありません。


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寝る子


睡眠
目を閉じ、休息のため眠ること。
そこで夢を見ることもあるだろう。
労りと平和のなかで。
静かな夢を。



 

 ヤーナムの夜。学舎、ビルゲンワース。

 学徒が集う教室には長テーブルが置かれ、思い思いの食事を摂っていた。ほとんどの皿が空になった頃。

 ルーピンが語った少年から青年までの話を無我夢中になって聞いていた狩人は、最後まで聞き終わると顔を覆った。

 

「泣かせる話だ。人狼の自分のために苦労して『動物もどき』となってくれた友人……。裏切った男を罰するために脱獄してきた親友……。名付け親を救った子……。ううぅ……人間の善性ってやはり信じるに値するのでは……?」

 

 狩人は「感動した」と心から言っているようにクルックスには見えていたが、学徒は冷淡だった。

 

「──でも他人の秘密を暴こうとする奴は死んで当然だよね」

 

「それは墓暴きの系譜に存在する俺達を殺す言葉なのでやめてくれ、コッペリア。あと君も大きな声で言えない言葉だろう」

 

「──では他人の秘密を勝手に明かそうとする奴は殺されて当然よね」

 

「それは俺の動機全般に刺さる言葉なのでやめてくれ、ユリエ」

 

「──殺すのは私だったので、やはり当然とは言えませんね」

 

 ルーピンが、ごもっともなことを言った。

 彼が話したのは、ルーピンと学友がなぜスネイプと仲が悪いのかという理由だった。

 頭のなかで登場人物を整理しながら考える。

 まず始まりは学生時代のルーピンが月に一度、姿を消す秘密を探ろうとしたスネイプだ。彼をそそのかし、人狼の変身中という危険な状況に陥れたシリウス。スネイプを救うため駆けたハリーの父、ジェームズ。

 

 クルックスの心情としては、狩人の言う歴史的事情もあるためコッペリアほど同情心の無いことは──恥の概念があるため──口に出して言えないが、やはり他人の秘密を暴こうとする人が悪いと思う。しかし、同じくらい他人を危険な目に合わせるために扇動するのは悪いことだとも思う。そして、法を無視していることを知りながら『動物もどき』となったことも、知りながら見過ごしたことも、ダンブルドアに報告しなかったことも悪いことだろう。

 どれがどれくらい悪いかは、比べることができない。それぞれ別の問題だからだ。

 幸い、悩めるクルックスを気がかりにする人はいなかった。

 コッペリアが「そうねぇ」と笑った。

 

「『動物もどき』。望んで人間と獣を行き来するなんて信じられないなぁ。動物になることについて忌避感がないのだね。とても意外だ」

 

 クルックスは、コッペリアの言葉に頷きかけたが、狩人が力強く「いいや」と言った。

 

「目的のために何でも使うという姿勢は、よくあることだ。俺達でも。なぁ、クルックス?」

 

「はい。必要とあれば……そうですね、使うでしょう」

 

 答えながら彼は、ホグワーツでネフライトとテルミと争った時に『獣の咆哮』──使用者の周囲で人を吹き飛ばすヤーナム狩人の秘儀──を使っていれば、すこしは善戦できただろうか、と物思いに耽った。

 狩人とコッペリアは、まだ議論を交わしていたがユリエが「狩人君」と声を掛けた。狩人は懐中時計を開き、時刻を確認した。

 

「ああ、お話に聞き入ってしまったらこんな時間になってしまった。……さて。ルーピン先生、人狼病を患っていることで苦労がたくさんあったことだろう。ここでは出来る限り快適に過ごせるように努力する」

 

「……ええ。ありがとうございます」

 

 ルーピンはテルミの勧めるワイン──これは魔法界産のワイン──を固辞した。

 

「関連してクィレル先生にはネフと一緒にいくつかの仕事を頼むことになるだろう。クルックス、セラフィとテルミも薬問屋への用事を頼むことになる」

 

 ネフライトの隣に座っているクィレルは、了解を告げて小さく頷いた。

 それだけではなかった。

 クィレルが、飲みかけていたワインのグラスを置いた。

 

「あ、あの。か、狩人さん、私……お話したいことが……」

 

「何かな。そうそう他に足りない物があれば調達しよう。主にクルックスが──」

 

「私は、ホ、ホ、ホグワーツに行く必要が……あ、あります」

 

 沈黙が発生した。

 クルックスは、突然の要求に目を瞬かせてクィレルを見た。同時にテルミとネフライトが素早く互いに視線を交わし彼とは逆方向、狩人の様子をうかがった。セラフィはフォークでカボチャの塊を突いていた。

 

「……唐突だな、先生。何か急を要することが?」

 

 狩人の目が細められた。クルックスには彼がクィレルを見ているのか、ルーピンを見ているのか分からなかった。だがクルックスの勘は、彼がルーピンを見つめていると告げていた。

 

「よ、善きことを成すために」

 

「今さら?」

 

 狩人は問う。不思議な声音だった。テルミに似ている、人をくすぐって試すような話し方だ。クルックスは、狩人からこうして問いかけられた経験はない。

 

(こんな問いかけ方をされては、どんなに正しく善いことだと信じていてもくじけてしまいそうだな)

 

 クルックスの見るところクィレルは、心が強くない。人間として彼は標準か標準よりほんのすこし劣るだろう。それはヤーナムで生きていく中で大切だ。恐怖を恐怖のまま感じ続ける注意力はいくらあっても足りない。 狩人がテーブルに腕を置き、クィレルを見つめた。

 

「先生はヤーナムに十年いると俺と約束をした。五〇年を値切っただろう? 期間については『ご納得している』と思っていた。……履行を迫っておいて言いにくいことだが……俺はたまに意図せずうっかりと約束を破ってしまうことがある。俺との約束は、まぁいい。他方で、私と交わした約束は契約だ。お互い不幸にならないためにもそれは守られなければならない。契約は絶対だ」

 

 言葉は静かだったが、内容は穏やかではない。

 ネフライトは狩人と学徒を静観しているが、テルミはクィレルに話しかけたそうにテーブルに前のめりになっていた。

 

「契約は守った方がいいと思うな。脅したくないけれど反故されたら何が起きるか。僕らも未知数だ。……でも敢えて破るって考えもあるよね?」

 

「その危険を冒す必要はないでしょう、コッペリア。危険の度合いさえ分からないものをいたずらに試すのは善い行いではない。──クィレル先生、すこし気が急いた意見だと思います。考え直せとは言いません。けれど、他に手段がないか探してみましょう。何かの事実を伝えたいのなら手紙という方法も検討されるべきだと思います」

 

「……それは」

 

 クィレルが言いかける。

 

「そもそも、先生はどうして気が変わりましたの?」

 

 テルミが最も気がかりなことを、そしてヤーナムの人々にとってはわかりきっていることを質問した。

 回答を待つことを狩人は許さなかった。

 

「さぁ、こどもたち。これからは大人の時間だ。君達は休みたまえ」

 

「分かりました。それでは、先に休みます。おやすみなさい」

 

「はぁい。おやすみ~。皆、いい子で寝るんだよ」

 

 クルックスが立ち上がると他の三人の『きょうだい』も立ち上がり口々に挨拶を述べた。

 扉を閉める直前、彼は隙間からルーピンを振り返った。

 表情は食事を始める前より、わずかに柔らかい。

 

(善いこと……悪いこと……。俺にはまだどうしようもなく分からないのだ)

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 クルックスが狩人装束を脱ぎ、寝間着にしている古いシャツ──それは父たる狩人のお下がりだ──に袖を通す頃、自室の扉を叩く音があった。

 

「私だ」

 

「ネフ? ああ、入って構わないぞ」

 

 彼は、やや緊張した顔で部屋に入って来て、部屋の中をぐるりと見た。彼には壁に外套とトリコーンが吊され、小さな丸テーブルに手作りの写真立てが置かれているのが見えただろう。

 

「君の部屋は物が少ないな。書架も無いとは。本は置かないのか?」

 

「ああ、物陰を作りたくないからな。それに寝室は、ただ寝るための部屋にしておきたい」

 

「君にもこだわりがあるのだな」

 

「それは、そりゃ、君ほどではないがすこしは……」

 

 ネフライトの部屋は、他の誰の部屋よりも多くの物が収納されていた。

 本は勿論、クルックスには用途が分からない魔法道具や医療器具が所狭しと並んでいるのを彼は知っている。ネフライトは道具や機械を集めては分解して組み立て直すことを仕事の一部だと思っているようだった。

 そういう話をしたいのだろうか。そう思い彼に席を勧めたが、断られた。

 

「別件だ。今晩は、お父様からの命令で私達は一カ所で休むことになっている。着替えを持って昨年と同じ部屋に来てくれ」

 

「お父様が? 了解だ。ああ、二分待ってくれ。これからテルミとセラフィのところにも行くのだろう。俺も一緒に行く」

 

 ネフライトは怪訝な顔をした。

 

「私は一人でも構わない。先に行ってくれ」

 

「そうは言ってもセラフィと二人きりになりたくないだろう。」

 

 寝間着に着替えるとクルックスは、ネフライトと一緒に部屋を出た。

 

「まぁ、方向は途中まで一緒だからな」

 

「それからテルミにあまりクィレル先生を責めるなと言っておきたい。お父様に意見するのは、彼にとって勇気の要ることだっただろう」

 

「ルーピン先生が、そそのかしたのだろう。クィレル先生は穏やかな隠者生活をする予定だったのに」

 

「ヴォルデモートに与した罪を雪ぎたいのだろう。償う機会があれば、人はそうするべきではないだろうか」

 

「……ルーピン先生の肩を持つのだな、君は」

 

 ネフライトは、どこか咎めるような目をした。

 

「そういうワケではない。何が善いことか分からないが多い。だからせめて善いことだと信じて生きていたいだろう。クィレル先生は隠者になりきれるほど諦めていなかったようだ。善いことだと思いたい……」

 

「善悪という天秤は他人と違うことが明白に分からず、軽重が著しい。私を下した君とセラフィが、結局は道を違えたように。……そんな考えにいちいち囚われるな。君が辛いぞ。何が正しいかなんて本当は誰にも分からないんだ」

 

 テルミの部屋に着いた。

 ノックをしようとしたネフライトが扉で手を止めた。

 人の声が聞こえた。

 

 ──ここはどうか。

 ──ぁっ……ふっ……。

 ──ここは?

 ──んぐっ……ぐぐぐ……。

 ──ここは。

 ──う、ふふっ。く、くすぐったいっ。

 

 セラフィとテルミのひそひそとした声が聞こえた。

 ──何をしているのだろうか。

 クルックスが扉に寄ったところ、顔を真っ赤にしたネフライトが呟いた。

 

「これは悪。絶対的な間違い。邪悪」

 

「前言撤回が早いぞ」

 

「だが、こんな、こんなっ、ふ、ふしだらな……不道徳的イチャイチャ……」

 

 ──不道徳的イチャイチャとは何だ?

 よっぽど訊ねたかったがネフライトを追い込むと大変なことになるのは今回の一件で学習したので、やめた。

 

「──セラフィ、テルミ、入ってもいいか?」

 

 クルックスがノックすると部屋の中で息を呑む音が聞こえた。恐らくテルミだ。

 

「──構わないよ」

 

 セラフィの声を信じてクルックスはノブに手を掛けたが、ネフライトは腕を掴んだ。

 

「や、やめよう、クルックス、大人しく私と一緒に寝よう、そうしよう」

 

「命令は、四人一緒なのだろう。お父様に結果報告できないぞ」

 

「部屋にぬいぐるみを置いてきた。名前はテルミとセラフィだ」

 

「ネフ……。君の手先の器用さは他のところに使うべきだと思う」

 

 その時、ドアノブが動いた。

 

「──君達、入らないのか」

 

 扉を開くと誰かの古着のシャツ──恐らく彼女の先達だ──を来たセラフィが立っていた。

 

「今夜はお父様の命令で四人一緒に寝ることになっている。寝間着に着替えたようなので部屋を移動して欲しい」

 

「ああ、去年の夏休み最終日に使った部屋か。──テルミ、灯りを持って。移動しよう」

 

 クルックスが部屋の中を覗くとテルミがベッドの端に腰掛けていた。食事をしていた時と同じ服装だったが、顔は、すこしだけ紅い。

 

「テルミとは何を?」

 

「ああ、すこし。僕の興味関心に付き合ってもらっていた」

 

 セラフィの興味関心とは何だろうか。

 訊ねると彼女はクルックスの腕を取った。

 

「人の感覚は、個々によって異なるものらしい。僕とテルミではどれくらい違うのか気になっていて──」

 

「いつも自分が先達からされていることを試してみようと? そういうことは『きょうだい』にするものではないぞ。いくら親しい間柄でもな」

 

「──ネフ」

 

 事実かもしれないが、いま指摘することは好ましくなかった。

 二人の間で「まあまあ」となだめたが、セラフィは取り合わなかった。

 

「失礼なことを言うものではないよ」

 

 ランタンに炎を入れたテルミが現れた。

 

「……ふぅ。すこしビックリしましたが、たまにはいいでしょう」

 

「よくない。不道徳だ」

 

「極端ですね。……けれど、ええ、わかります。こういうことは小さく幼く生まれて、自分の力の限界と痛みのなかで知っていくものですが……わたし達は違いますから」

 

 テルミがブラウスの袖ボタンを外し、腕をめくって見せた。くっきりと浮かび上がった手の形が分かるほど赤くなっている。

 

「僕の先達は、ヤーナムのなかでも随一の素晴らしい肉体をお持ちだ。けれど、その基準はやや強すぎるのかもしれない。そう思ったんだ。『きょうだい』に対してだけでも……僕はクルックスみたいに……優しくなりたいと思っている」

 

「突然どうした? 君らしくないんじゃあないか」

 

 ネフライトが刺々しく訊ねた。クルックスは再び「ネフ」と制した。セラフィはやはり気にしていないようだった。

 

「自分でも変化に戸惑っている。ヤーナムの外から来た人が増えたから、だろうか。僕が招いたことなのに。不思議だ。……今日ばかりは、ひとりで眠るなんて考えられなかった」

 

 セラフィはテルミを抱き寄せると持ち上げて腕に抱えた。

 

「よく分からない。僕に恐怖は存在しないが……不安は感じる」

 

「はぁい、よしよし。今日は、もう寝るだけです。不安なことなどありませんよ、セラフィ。それにみんなで一緒に眠る夜なら、素晴らしい夢が見られるでしょう」

 

 テルミはセラフィをあやすように語りかけた。

 

「……貴女は、いつもと違うものがあると心を不調にし易いのでしょうね」

 

「それがどうして優しくすることに繋がるんだ?」

 

 質問したのはクルックスだ。テルミは歩き出したセラフィに抱かれ、お腹の上に置いたランタンの炎を見ていた。

 

「心許せる人と一緒にいると安心するでしょう? 優しい気持ちになれるでしょう? その結果、優しくなれるし、優しくしたくなるの」

 

 テルミの言葉は、いまいちクルックスにピンと閃かないものだったが、セラフィが平穏を求めていることは理解した。ネフライトを見ると言い争う気分ではなくなったのか、いつもの調子に戻っていた。

 

「あ、テルミは触り心地がいい」

 

「……セラフィ」

 

「すごく触り心地がいい」

 

 セラフィが思いついた言葉にネフライトが大きく舌打ちをした。彼は普段、こうした品の無いことはしないのだが。

 四人の寝室に到着するとセラフィがテルミを床に下ろした。

 

「一緒に寝るのは夏休み最終日だけだと思って素敵な下着を仕入れていないわ。ごめんねぇ、クルックス」

 

「えっお、俺?」

 

 クルックスは想定外の謝罪を受けてしまい「気にしていないぞ?」とよく分からない返答をした。

 

「そもそも下着で寝るな。何か着ろ。洗濯の手間があるんだ……。セラフィでさえシャツを着ているんだぞ」

 

「これは鴉羽の騎士様からもらったんだ。まだ仄かにあの御仁の匂いが──」

 

「洗え! ばかばか!」

 

 ネフライトがギョッとした顔でセラフィを見た。彼女はすぐに「冗談に決まっているだろう」と言ったが、彼は信用しなかったようだ。

 

「インモラル・ハザードの気配がする。一刻も早く脳を洗浄しないと……。けれど今日は後回しだな。諸賢、クジを引いてくれ」

 

「クジ? 何の?」

 

「ベッドに寝る順番だ」

 

 一足先に服を脱ぎ、下着姿でベッドに飛び込んだテルミが「えー!?」と声を上げた。

 

「わたし、クルックスとセラフィの間がいい!」

 

「僕はどこでもいいけれどクルックスの隣がいいな。『必要の部屋』で寝たときはグッスリ眠れたし」

 

「なにそれ」

 

 テルミがいつも浮かべているニコニコとした顔を不意に消した。

 

「宿題を片付けた後、帰るのが面倒だったのでそのまま寝ただけだ」

 

「朝帰りだったね。怪しまれなかった?」

 

「何も問題はない」

 

 テルミが「大いに問題あり!」と唱えようとしたところ、ネフライトが手を叩いて注意を引いた。

 

「話を聞け。──近年の主流は機会均等及び男女平等ということなのでクジを作成した。皆、引いてくれ」

 

 そうして彼が取り出したのは木製の筒だった。蓋を外すとポンと軽い音がして開くと木の棒が四本入っていた。クルックスとセラフィ、そしてテルミが引く間。ネフライトは背中を向けていた。

 

「俺は一だ。端だな」

 

「僕は四。端だね」

 

「わたしは三ね。ネフとセラフィの間!」

 

「分かった。それぞれ筒に木の棒を戻して閉じてくれ」

 

「君は引かないのか? 消去法で二ということは分かっているが」

 

「私がクジを見るとどの木の棒に何の数字が書いてあるか覚えてしまう。公平性を保つためにも私はクジを直視しないことにしている。このクジもクィレル先生に作ってもらったものだ」

 

 なるほど。

 クルックスは元通り木製の筒に戻し、振り返ったネフライトに渡した。

 

「──さて、公平なクジの結果、寝る場所が決まった。さあさあ、寝たまえ」

 

「ネフが楽しそう。寝るだけなのに」

 

 テルミが隣にセラフィを招きながら言った。

 

「そうとも。寝るのは私の数少ない楽しみだからな。残念ながら希望通りといかなかったテルミとセラフィには特別にこれを拝領してやろう」

 

 そう言って彼はテーブルの上に置いてあったぬいぐるみをセラフィとテルミに渡した。

 ぬいぐるみ。──それは。

 

「私が作製した『上位者ぬいぐるみ』の第一弾、『イカ君』だ」

 

「イカ君」

 

 長い胴体に細い足が五本くらい生えている。恐らく父たる狩人の上位者の姿を模したのだろう。抱きしめ心地の良さそうな生地が使われている。

 

「わぁ! お父様のぬいぐるみなのね! ありがとう、ネフ」

 

「もっと感謝しろ、と言いたいところだが、やめておこう。…………癖になりそうだ」

 

「僕、壊しそう」

 

「壊しても構わない。綿が出るだけだ。出たら直してやろう。テルミをつつき回すより、これから始めることだ」

 

「うーん。……いいのかもね」

 

 二人は、イカ君ぬいぐるみを傍らに置いてクスクスとした話をしている。

 その光景を見ているとクルックスは初めて眠気がやって来たことに気付いた。

 

 横たわるとすぐに眠ってしまいそうでベッドに腰掛けたまま、ネフライトが洋服箪笥に服を入れるのを見ていた。

 

「何だ、クルックスも欲しいのか?」

 

 視線に気付いたネフライトにそう問われた。欲しいかどうかは分からない。持っていたことがないからだ。

 

「期待してくれ。第二弾はスゴいぞ。『脳みそ君』とか『ほおずきちゃん』とか『六角柱檻君』とか」

 

「俺もイカ君ぬいぐるみがいい。お父様の姿だし……」

 

「そうか。無理強いはすまい」

 

 クルックスは、ネフライトが横になると一緒に横になった。

 深く呼吸をする。いよいよ抗い難い眠気がやって来た。

 しかし、眠ってしまう前に伝えるべきことがあった。

 

「今日はすまなかった。ルーピン先生のこと……疑ってしまって」

 

「構わない。逆の立場であれば私も君を問い詰めたことだろう。お互い立場が違っただけだ」

 

「すまなかった。許してくれて、ありがとう」

 

「……だから、君は、私にいちいちそんなことを言う必要は無いのだよ。これまでも、これからも」

 

「そうかもな。……でも、いつでも言いたい。言えなくなることが、あるかもしれない」

 

 ぼんやりした薄暗がりの視界のなかでネフライトが口を歪める様子が見えた。

 ──そんなこと、あるものか。

 きっとそんなことを言いたいのだろう。ヤーナムでは、たしかに彼の言いたいように言えなくなることは少ないだろう。自分たちは、最も死から遠ざけられている。けれど、ヤーナムの外では注意深く振る舞わなければならない。死とは一般的に覆らない現象であるようだから。

 そんな時に、言えなくなることもあるだろう。クルックスは、そう告げたかったが彼のことだ。きっと推測が及んでいるだろう。こういう時にこそ、彼の理知は頼もしいと思う。

 

「何度でも伝えたい。……俺は、君が大切に思うように家族を信じているからな」

 

「ね、寝てくれ、もう。私は寝るぞ」

 

 薄い毛布を掛けてネフライトが背中を向けた。間もなく、寝返りをうちクルックスと向き直った。

 

「う、ん……?」

 

「暗くて見えないが、何となく、テルミと目が合った気がした。腹が立つのであっちは見たくない」

 

 クルックスは、笑った。

 意識が眠りと覚醒の狭間を揺蕩う、わずかな時間ではあったが。

 

 

 市街では獣狩りと警戒の哨戒が今日も続けられているだろう。

 今日だけは彼らに任せ、彼も眠りたかった。

 平穏な眠りの価値を、そして『きょうだい』で過ごす時間の稀少さを再確認するために。

 




寝る子
 睡眠は、彼らがありのままの姿(こども)でいられる数少ない時間でもあります。


3年生まで章/3年生章が終了いたしました
 3年生に関わる全63話の投稿が完了し、執筆ストックは現在0となりました。
 たくさんのご感想、評価をいただき恐縮です。内容は全て目を通させていただいております。今後、ご感想の返信を行っていく予定です。
 また、誤字脱字の訂正をはじめ、誤っている知識の訂正、ご指摘ありがとうございました。
 資料確認のため一部まだ修正できていないところがありますが、確認次第、修正していきたいと思います。
 長らくお付き合いいただき、ありがとうございます。


次回予告(1)
 現時点で(ほぼ)決まっていることについてお知らせします。
●これまで主舞台がヤーナムと魔法界。あるいは時系列に則り学校開始で章を分けていましたが、4年生は「4年生まで(ヤーナム)章」、「4年生まで(魔法界)章」、「4年生章」の3部での構成となります。※言葉は少々変更になるかもしれません。
●4年生まで(ヤーナム)章は、最短か長い話にならないと思います。3年生まで章並の長さにはならない予定です。なぜかというと夏休みにヤーナムから出て活動することが多くなるからです。そのため「4年生まで(魔法界)章」のウェイトが大きくなる予定です。
●書きためる作業に戻るため、しばらく投稿できなくなる予定です。最新情報は、
 筆者のTwitter(ノノギギ騎士団@活動中):https://twitter.com/NONOGIGInights
 上記を追っていただくのが最も楽だと思います。作品に関わる事柄、小説執筆全体に関わるあれこれをコメントしています。また進捗がまとめて確認できるように進捗ノート(https://shinchoku.net/users/NONOGIGInights)の利用をはじめました。ほとんど毎日進捗状況が分かるように通知しております。※同様の内容をTwitterでも報告しています。
●3年生まで章/3年生章ではしばしば進捗伺いいただきありがとうございます。


次回予告(2)
 3年生において、ほとんど出番のなかったシリウスは4年生まで章で登場する予定です。
(彼の動向について気がかりなコメントがいくつか見受けられましたので念のため)
●4年生まで(ヤーナム)章

【挿絵表示】

●4年生まで(魔法界)章

【挿絵表示】

●4年生章

【挿絵表示】



本作の今後の展開について(1)
Q アズカバンで1年以上投稿なかったじゃん? これから大丈夫なの?
A 最終話付近(大きな山場を迎える最終盤内の数話)の構想が固まっているので筆者の体感的には「まぁ大丈夫かな、たぶん」と思っております。最大の問題はその最終展開に辿り着くまでにこの調子だとリアル時間4年~6年くらい。話数にして恐らく+100話~300話(ガバ計算)かかってしまうことです。まあ、ELDENRINGのDLC(きっと来るハズ)とかAC6に心奪われつつコツコツ書いていくだけなのですが……。上記の進捗ノートなどで筆者のケツをR1とかR2とかで叩いていただければ幸いです。


本作の今後の展開について(2)
●ファンタスティック・ビースト(映画)の進捗により今後の物語が変化することを予定してプロットを作成しております。しかし、グリンデルバルドとダンブルドアの完全決着までは映像化され……され……もごもご……ですが、ひとまず現在出ている三作品を題材にした物語展開を目指しています。そのため、今後、タグが追加される予定です。
●特にヤーナム側なのですが登場人物が多くなっております。今後「お楽しみいただく際の補助になれば幸い」の思いから、後ほど紹介ページを作成する予定です。Privatterの全体公開になると思います。そのリンクを作品内のあとがき等に張る予定です。


ご感想お待ちしています!
 恐らくまた1年以上更新することができない状態になると思います。
 キリのいいところです。ぜひ、ご感想をお待ちしております(交信ポーズ)
 匿名の感想、マシュマロもあるよ!「見せられないよぉ!」な感想はこっちでよろしくお願いします↓
 https://marshmallow-qa.com/nonogiginights?utm_medium=url_text&utm_source=promotion)



ファンアートをいただきました!
3年生の制服姿の四仔イラストです! 感謝!

【挿絵表示】



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